東照宮御実紀 / 徳川実紀

東照宮御実紀 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10
東照宮御実紀附録 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12巻13巻14巻15巻16巻17巻18巻19巻20巻21巻22巻23巻24巻25
台徳院殿御実紀 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12巻13巻14巻15巻16巻17巻18巻19巻20巻21巻22巻23巻24巻25巻26巻27巻28巻29巻30巻31巻32巻33巻34巻35巻36巻37巻38巻39巻40巻41巻42巻43巻44巻45巻46巻47巻48巻49巻50巻51巻52巻53巻54巻55巻56巻57巻58巻59巻60
台徳院殿御実紀附録 / 巻1巻2巻3巻4巻5
 

雑学の世界・補考   

東照宮御実紀 / 徳川実紀

世系・弘治二年から慶長十年四月まで(1556-1609) 
巻一
かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」
後に神霊をあがめて六宮権現といつぎ祭られ。旧邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と号す。経基王の御子八人。満仲。満政。満季。満實。満快。満生。満重。満頼といふ。長子満仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歴任し。春宮帯刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬権頭。蔵人頭。摂津。越前。伊予。美濃。武蔵。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上総の介に累暹し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造営し。剃髪して多田新発智満慶と称す。満仲の子六人。頼光。頼親。源賢。頼信。頼平。頼範といふ。第四の子頼信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。従四位上。伊勢。美濃。河内。甲斐。信濃。相模。下野。伊予等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬権頭。冷泉院の判官代。鎮守府将軍に補任し。内の昇殿をゆるさる。河内国壷井の通法寺にをさめ。今に祀典絶ず。頼信の子頼義。河内。伊豆。甲斐。信濃。武蔵。下野。陸奥。出羽。相模。伊予等の守。常陸上野介を歴て。左近将監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎮守府将軍になり。正四位下に叙し。内院の昇殿をゆるされしが。鎮守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勤世にいちじるし。頼義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石清水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太郎とは称せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば、東国の武者贄をとりて御家人と称するもの少からず。正四位下。左衛門尉。左馬頭。左近将監。治部兵部の少輔。武蔵。相模。陸奥。出羽。下野。河内。伊予等の守を経て鎮守府の将軍たり。弱冠のむかし父頼義にしたがひ奥に下り。九年の苦戦に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のごとし。また東奥の任にありて清原家衡。武衡をせめふせて其武威いよ/\かゞやけり。』
義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は従五位下。帯刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の別庄に幽居し。薙髪して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。李邦とて三人あり。」
長子義重に新田の庄を譲り。次子義康に足利の庄をゆずられける。新田足利の両流に分るゝ其本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて上西と号し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國浄海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸国の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫頼朝。伊豆国蛭小島より旗あげして。諸国の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故に。その招に応ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎮守府将軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義李。経義。義光。義佐といふ。』
四郎義李は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大将家入洛の時も騎馬の随兵たり。後に髪きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の郷徳川の邑に住せられしより。其子孫徳川世良田を称する事とはなりぬ。」
義李の子三人。頼氏。頼有。頼成といふ。長子頼氏。始は世良田孫四郎といふ。鎌倉将軍頼嗣并に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。従卯五位下三河守に叙任す。世良田長楽寺に寺領寄附の文書を蔵せり。頼氏の子経氏。教氏。有氏とす。(大系図には経氏を江田三郎満氏とす)」二子教氏は世良田次郎とも。又三河次郎とも称し。又徳川を称し。後に静眞と号す。(此二世三河守に任じ三河次郎と称せられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徴とすべし。豈奇遇ならずや)」
教氏の子を家時とす。世良田又次郎また孫太郎とも称し。父に先だちてうせらる。(長楽寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき)」
家時の子を満義とす。世良田弥次郎また孫四郎ともいふ。新田左中将義貞に属し。南朝に仕へて忠勤を励みしが。義貞うせられし後。一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田徳川の間に隠れ住む。後に宗満と号す。(世には此満義を太平記にのせし江田三郎光義とす。又教氏の弟三郎有氏の子江田弾正行氏を光義の事なりともいふ。何れ是なりや)」
満義の子二人。政義。義秋といふ。(大系図第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。徳川系図。新田松平譜。大成記等にのする所も前説のごとくなれば今これにしたがふ。三家考に満義の子義周。その子義時。其子政義とす。諸説と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記。大成記にその伝詳にのせず。波合記といへるものには。政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして。波合にて討死されたりと見ゆ。徳川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永徳の頃新田一門波合にて皆討死せられしに。新田義宗の子相模守義陸の討もらされ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州霊山にて旗挙ありし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ)」政義の子を修理亮親李といふ。親季の子を左京亮有親とす。」
有親の子を三郎親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の党類を捜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故郷をさすらへ出られ。(大成記に上杉禅秀が方人せられしゆへ捜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ。世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大将と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村党皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一乱より捜索厳なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の例見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に来りたまひ。称名寺御寄寓の間。これを寺内に葬られしとて。其墳今も称名寺に存す)時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大濱の称名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間に。有親はうせ給ひしかばその寺に葬り。後に松樹院殿とをくりぬ。」
又此國酒井村といへるに。五郎左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄只人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。徳太郎忠廣(又小五郎親清とも伝ふ。これ今の世の酒井が家の祖なりといふ)といふ。さて五郎左衛門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太郎左衛門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いかなる故にか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあわせて家をゆづらんとこふこと頻なり。」
親氏もとより大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆずり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその譲をうけて松平太郎左衛門となのられけるが。松平酒井両家ともに。きはめて家富財ゆたかなりしほどに。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近郷の旧家古族はいふに及ばず。少しも豪俊の聞えある者は子とし聟とし。ちなみをむすばれしほどに。近郷のものども君父のごとくしたしみなつかざるはなし。」
親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後。吾つら/\世の有様をみるに。元弘建武に皇統南北に別れてより天下一日もしづかならず。まして応仁以来長禄寛正の今にいたりて。足利将軍家政柄を失はれし後海内一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絶へ。万民塗炭のくるしみをうくる事今日より甚しきはなし。吾また清和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し。空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ。武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のごとくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち。身に叶へる勤労をいたすべしとうけがひしかば。兼て慈恵を蒙りたる近郷のもの共。招かざるに集まり来しほどに。まづ近郷に威をたくましうする者の方へ押寄せて。降参する者をば味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大略はその威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける)卒去有りて松平郷高月院に葬り。芳樹院殿と諡せり。」
親氏の子を泰親とす(一説御弟なりといふ)その跡をつぎて是も太郎左衛門と称せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ強を伐て貧を恵み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。」
その頃洞院中納言實熈といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども。応仁より後は、争乱の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠国に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし)泰親この卿の冗淪をあわれみ懇に扶助せられ。すでに帰洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感じ。帰京の後公武に請ひて。泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と称せらる。」
この時岩津岡崎に両城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平郷をゆづり。松平太郎左衛門と称す。(今三河の郷士松平太郎左衛門が祖なり)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とおくらる。信光家継て岩津岡崎の両城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよ/\其一門は國中に滋蔓し。ます/\近國近郷其威望かくれなく。國人帰降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり)二男は右京亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釈門に入りて安穏寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信家が祖)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壱岐守正朝。志摩守重成等この孫なりしが。此筋いまは絶えたり)六男八郎左衛門光英。七男弥三郎元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今図書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠候は深溝の統なり)八男次郎右衛門光親。(能見の松平といふ。次郎右衛門光福。河内守親良等の祖なり)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郎親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絶て今松平伊豆守信祝この筋とす)此外は其名つまびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す)岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。」
二男親忠その跡をつがる。子九人。太郎親長は岩津を領せられ。二男源太郎乗元(後加賀守)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乗元等の祖)三男次郎長親をもて家督とさだめらる。四男弥八郎親房。(後玄蕃助)五男は釋氏に帰し。超誉と号し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ)七男左馬助長家。(安祥と称す)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乗清。(瀧脇の松平といふ。監物乗道。丹後守信徳等が祖)」
明応二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次郎。寺部城主鈴木日向守。挙母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへるに。親忠一門家兵を引率し井田の郷に出張し。わづかに百四十余の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十余級を討とらる。この後は西三河の國人大半は帰降し。勢いかめしく聞えける。この合戦に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡鴨田といへる地に大樹寺を創建せらる。後に家を三子長親に譲り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)長親ゆづりを受て出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郎三郎信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ)三男は内膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖)四男甚太郎義春。(東條の松平といふ)五男彦四郎利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寶等が祖)長親また慈愛ふかく武勇も卓絶なりしかば。衆よくなびきしたがふ。」
この頃今川修理大夫氏親駿遠両國を領し。三河も過半はその旗下に属しけるが。近来西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれば今川を去て長親にしたがはむとする様なるを見て大に驚き。其所属北條新九郎入道早雲を将とし、萬余の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太郎親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討って出。岩津の後詰して早雲が大軍を追ひ払はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壮の齢にてかざりをおろし道閲と号し。長子信忠に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連歌をたのしみ。八十あまりの寿をたもち。曾孫廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて棹舟院殿といへり。信忠家をつがれし後。蔵人また右京と称せらる。」
子三人。長子は次郎三郎清康君。二男は蔵人信孝。(三木の松平といふ)」
三男は十郎康孝。(鵜殿の松平といふ)」 
信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やう/\そむきけるほどに。譜代の郎党にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば。信忠其機を察せられ。何事も残り多き齢ながら。僅十三になり給ふ清康に世をゆづり。頭おろし春夢と号し。大濱の称名寺に閑居ありしが。四十に一二余りしほどにて。享禄四年七月廿四日父道閲入道に先立てうせられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。」
その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」
岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」
享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかまけて。兄弟をはじめ主従悉く討死す。かくて清康君は直に吉田川の上の瀬ををし渡し。吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及ばず落ち行けば。清康君その城に入て人馬のいきを休め。一両日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戸田弾正少弼憲光大におそれ。これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒をすすめ奉る。清康君は此勢に乗じ。近辺の城々にをしよせ/\せめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次郎貞成。設楽の設楽禎三郎貞重。西郷の西郷新太郎信貞。二連木の戸田丹波守宣光。田峰野田の菅沼新八郎定則。その外山家。三方。築手。長間。西郷の輩風を望みて帰降す。享禄二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎。野呂(一に科野につくる)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。」
天文二年廣瀬の三宅。寺部の鈴木等と戦て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を追払はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ。隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して。織田信秀が弟孫三郎信光。美濃の國士数十人かたらひ清康君へ志をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。清康君もとより望所の幸なりと。一萬余の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ発向し給はむと。まづ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拝謁し。やがて信秀を清州より引出さんと。謀をめぐらし近郷を放火せらる。しかるに叔父内膳正信定もとよりはらぐろきものなりしが。いつしか志を変じ織田がたに内通し。安祥の虚をうかがひ。本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。清康君も酒井大久保などいへる旧臣等の諌にしたがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。」
その頃阿倍大蔵定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。(森山崩れ) 此者織田に内通するとの流説陣中に粉々たり。定吉大におどろき其子弥七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外の騒動す。清康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ。木戸を閉よ取外すなと指揮し給へる御声を聞て。かの弥七は父大蔵唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。清康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付けたり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者共も。たゞあきれはてたるより外の事なし。扈従に植村新六郎とて十六歳の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづし。あやまたず弥七を切ふせたり。衆人この時にいたり。かの大蔵をとらへ糾問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ冤罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の弥七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聴人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閲入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虚に乗じ。追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく帰国せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を涙に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ伝へしは此時の事なりとぞ。」
清康君はじめには昌安入道が息女(春姫と申せしなり)をむかへ。北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近郷の郷士青木筑後守貞景が女をもて北方となさる。此腹に贈大納言広忠卿生れさせ給ふ。是東照宮の御父なり。此北方は御産後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河内左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郎秀成にはかりあはせたまひ。むかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河内氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。清康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。清康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離別の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ)」
かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立帰り。其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。善徳院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。随念寺記に菅生丸山に御火葬して。其地に御塚ありしゆへ。烈祖永禄四年随念寺をその地に造営し給ふと見え。又大林寺の記には。はじめの北方春姫。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。清康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて。三所に葬りたるものなるべし)この君時に廿五歳。さしも軍謀武略世にすぐれ。かしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。」
三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚嘆して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。かの大蔵が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なく/\仰せけるは。弥七が大罪全く狂気のいたす所なれば。父大蔵が罪にあらず。大蔵は旧にかはらず忠勤をつくすべしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく。深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし。御家人をの/\かしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歳にならせたまふ。御弟二人。御妹一人あり。その一人は源次郎信康。その次は釈門に入て。後に大樹寺の住職となり成誉と号す。御妹ははじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。」
さて天文五年二月のはじめ。織田信秀は清康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虚なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田郷にをいて敵をむかへて決戦し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林。植村。高力などいへる究竟のともがら四十人余戦没す。」かの内膳信定は清康君の御時より叛心をいだき。織田方へ内通しけるが。清康御事ありし後。また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なく。今は信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましき振舞多きを見て。かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戸城主東條右兵衛督持廣は清康君の御妹聟なれば。定吉幼主を持廣にたのみ。しばし神戸にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたわり。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。二郎三郎廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病没し。其子上野介義安は父の志を背き織田方に内通し。廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろき。また廣忠卿をともなひ神戸を逃出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り。その身駿河に行て。今川治部大輔義元をたのみ。廣忠卿御帰国の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郎兵衛忠次も。兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父蔵人信孝。十郎康孝。その外林。大原。成瀬。八國。大久保党等これに応じ。若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は廣忠卿を帰國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓。をのが旗下に属せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。廣忠卿に陪従せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に属にたる東條の城主吉良左兵衛佐義郷を攻しめ義郷も討死す。信定これを聞おどろき。若君を國に入しめじと様々心がまへせしかど。譜第の御家人一致して。天文六年五月朔日終に廣忠卿を岡崎に迎へ奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感状今林肥後守忠英が家に存せり)信定も今は力をよばず。又老父入道にたよりて廣忠卿へ降参し。いく程なく病没せり。この後岡崎には蔵人信孝。十郎三郎康孝両叔父を後見とし。大蔵定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。」
清康君後の北方(華陽院殿御事なり)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(伝通院御事なり)。定吉はじめ酒井。石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無疆の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞまし/\ける。その程の奇瑞さま/\世につたふる所多し。(北方鳳来寺峰の薬師に御祈願ありて。七日満願の夜薬師十二神将の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御縁起にも記されしこと多し)石川安芸守清兼蝦蟇目をなし。酒井雅楽助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。」
こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き。織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に内通する信元が縁に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歳なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば。金田。阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り来りたりと聞ば。定めて憤りて一々切り捨らるゝか。又は髪を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ縁盡て兄のもとにかへさるゝとも。竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては。後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし。御暇は申けれど。猶心ならねば。片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混甲二三十人出来たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ帰りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姉君は形原の紀伊守家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が縁につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り帰したりしに。信元大に怒りて。送りのもの一人も残さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名将の母君ほどまし/\て。いみじき御思慮かなと。世にも聞伝へて感歎せぬはなかりけり。」
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人。女君三人あはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出て人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多劫姫と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一郎忠吉にあはせ給ひ。其後また保科弾正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に。正光に降嫁ありし烈祖の御妹は。伝通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり)その次は市場殿とて。荒川甲斐守頼持(又義虎)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姫と申。長澤の源七郎康忠に嫁したまひき。」
廣忠卿にはこの後。田原の城主戸田弾正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郎信乗が子兵庫の頭親良といへるも。實はこの卿の御子なりしともつたへたり。十四年弥生のころ御家人岩松八弥何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ逃いでたり。(隣国より頼まれて刺客となりしといふ)御かたはらの者どもおどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六郎外のかたより来ながら。おもはず八弥を伐はたす。この植村さきに清康君事ありし時は阿倍弥七を即座に伐とめ。今度また八弥をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即座に誅しける冥加の武士と。感じうらやまぬ者ぞなかりける。」このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ。是に内応する徒もすくなからず。こゝに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立せし功により。その威権肩をならぶる者なかりしかば。縦恣のふるまひ多かりしを。大蔵定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が驕逸そのまゝにすてをかれば。むかしの内膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。より/\に廣忠卿をもいさめたり。
十六年正月頃卿御病悩にわたらせ給へば。御名代として信孝が三木の領地を没入しければ。信孝帰りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を没入せられしぞ。これは定めて吾をにくしと思ふ大蔵等が讒訴のいたす處ならむとて。様々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずして。これも織田方に内応の志を抱きけり。」
此ほど道閲入道殿もうせ給へば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三郎五郎信廣をこめ置。淺理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛門忠倫。上野に酒井将監忠尚を置て椅角の勢を張れば。もとの信定が子内膳清定。山中の権兵衛等もこれに応じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に乱れてあけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人なりしが。偽て忠倫に降参し。したしみよつて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば。岡崎がたは大に悦び。織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと。用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども。衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひければ。竹千代君わづかに六歳にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七郎数正。天野三之助康景。上田萬五郎元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七郎忠正。江原孫三郎利全等すべて廿八人。雑兵五十余人。阿部甚五郎正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として。御輿に同じくのせてつかはさる。」
こゝに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り中さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光は其子五郎政直とこゝろをあわせ。御供の人々をいつはりたばかり。船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀悦び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ。我かたに降参あるべし。もし又その事かなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に対面したまひ。愚息が事は織田がたへ質子に送るにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戸田婚姻のよしみを忘れ。中途にして奪とりて尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は。霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」
今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江并に東三河の勢をさしむけ。三州小豆坂にて織田勢と合戦し。織田方終に引き返す。蔵人信孝織田方へ内通すといへども。三左衛門忠倫うたれし後は。同志のともがら衰落するを憤り。みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ。権兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し。岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戦の用意専らにすといへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。」
其中に廣忠卿には去年以来御心地例ならずまし/\しが。日にそひおもらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歳にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松応寺の旧記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび。今川へ加勢を請たまふ最中。廣忠卿逝去まし/\けるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御帰依ありし法蔵教翁和尚と内話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。能見の原に内葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり、松応寺是なりといふ)慈光院殿とをくり。又瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。大納言ををくられ大樹寺殿と号したふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬余騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を残し。その外二三の丸まで攻おとし。今川がたの総将雪斎和尚がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病没し。長子信長家継しが。もとより勇鋭の大将なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窮困すると聞て。是をすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが。安祥既に陥ると聞て引返せんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長も悦て約を定め。十一月十日三河の西野笠寺まで。竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八郎忠俊などいへる岡崎譜代のつはもの出迎へ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。」
君は天文十六年六歳にて。尾州の擒とならせられ。八歳にしてことしはじめて御帰國あれば。御家人はいふまでもなし。岡崎近郷の土民までも君の御帰國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿府より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歳まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に。廣忠卿うせ給ひ竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまり。とても独立すべきにあらず。織田方に降参せんといふもあり。又は今川は舊好の與國なれば。今川は従はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて。郡議一決せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人数をさしむけ。城を勤番させければ。岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。此説是なるに似たり)
東照宮御實紀卷一
かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文コ天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後にC和天皇と稱し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿。常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と號せらる。親王の御子二人おはす。經基經主といふ。經基王はC和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と稱し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊豫。但馬。美濃。武藏。下野。信濃等を歷任し。太宰大貳。左衛門權佐。式部少輔。內藏頭等を累任せられ。鎭守府の將軍に補し。正四位上に叙せらる。これぞ後の世にいふ源氏の武者のはじめなりける。後に神靈をあがめて六宮權現といつぎ祭られ。舊邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と號す。經基王の御子八人。滿仲。滿政。滿季。滿實。滿快。滿生。滿重。滿ョといふ。長子滿仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歷仕し。春宮帶刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬權頭。藏人頭。攝津。越前。伊豫。美濃。武藏。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上總の介に累遷し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造營し。剃髮して多田新發知滿慶と稱す。滿仲の子六人。ョ光。ョ親。源。賢ョ信。ョ平。ョ範といふ。第四の子ョ信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。從四位上。伊勢。美濃。河內。甲斐。信濃。相摸。下野。伊豫等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬權頭。冷泉院の判官代。鎭守府將軍に補任し。內の昇殿をゆるさる。河內國壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕ず。ョ信の子ョ義。河內。伊豆。甲斐。信濃。武藏。下野。陸奥。出羽。相摸。伊豫等の守。常陸上野介を歷て。左近將監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎭守府將軍になり。正四位下に叙し內院の昇殿をゆるされしが。鎭守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勳世にいちじるし。ョ義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石C水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太カとは稱せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば。東國の武者贄をとりて御家人と稱するもの少からず。正四位下。左衞門尉。左馬頭。左近將監。治部兵部の少輔。武藏。相摸。陸奥。出羽。下野。河內。伊豫等の守を經て鎭守府の將軍たり。弱冠のむかし父ョ義にしたがひ奥に下り。九年の苦戰に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のことし。また東奥の任にありてC原家衡武衡をせめふせて其武威いよいよかゞやけり。義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は從五位下。帶刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の别莊に幽居し。薙髮して荒加賀入道と稱しける。その子義重。義康。季邦とて三人あり。長子義重に新田の庄を讓り。次子義康に足利の庄をゆづられける。新田足利の兩流に分るゝは本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて新田太カとなのり。叙爵して大炊助に任じ。後入道して上西と號し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國凈海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸國の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫ョ朝。伊豆國蛭小島より旗あげして諸國の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故にその招に應ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎭守府將軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義季。經義。義光。義佐といふ。四カ義季は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大入道と號す。新田庄世良田のクコ川の邑に住せられしより。其子孫コ川世良田を稱する事とはなりぬ。義季の子三人。ョ氏。ョ有。ョ成といふ。長子ョ氏。始は世良田孫四カといふ。鎌倉將軍ョ嗣幷に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。從五位下三河守に叙任す。世良田長樂寺に寺領寄附の文書を藏せり。ョ氏の子經氏。教氏。有氏とす。(大系圖には經氏を江田三カ滿氏とす。)二子教氏は世良田次カとも又三河次カとも稱し。またコ川を稱し。後に靜眞と號す。(此二世三河守に任じ三河次カと稱ぜられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徵とすぺし。豈奇遇ならずや。)教氏の子を家時とす。世良田又次カまた孫太カとも稱し父に先だちてうせらる。(長樂寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき。)家時の子を滿義とす。世良田彌次カまた孫四カともいふ。新田左中將義貞に屬し。南朝に仕へて忠勤を勵みしが。義貞うせられし後一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田コ川の間に隱れ住む。後に宗滿と號す。(世には此滿義を太平記にのせし江田三カ光義とす。又教氏の弟三カ有氏の子江田彈正行氏を光義の事なりともいふ。いづれ是なりや。)滿義の子二人。政義。義秋といふ。(大系圖第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。コ川系圖。新田松平譜。大成記等にのする所も前說のことくなれば今これにしたがふ。三家考に滿義の子義周。その子義時。其子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず。)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記大成記にその傳詳にのせず。波合記といへるものには。政義南朝の尹良親王((後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり。))の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして波合にて討死されたりと見ゆ。コ川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永コの頃新田一門波合にて皆討死せられしに。
新田義宗の子相摸守義陸の討もらされ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州靈山にて旗擧ありし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑なく見ゆ。)政義の子を修理亮親季といふ。親季の子を左京亮有親とす。有親の子を三カ親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の黨類を搜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故クをさすらへ出られ。(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ搜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大將と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村黨皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一亂より搜索嚴なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に來りたまひ。稱名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて。其墳今も稱名寺に存す。)時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大Mの稱名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間に。有親はうせ給ひしかば。その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。又此國酒井村といへるに。五カ左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄唯人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。コ太カ忠廣(又小五カ親Cともつたふ。これ今の世の酒井が家の祖なり。)といふ。さて五カ左衞門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太カ左衞門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いかなるゆへにか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあはせて家をゆづらんとこふこと頻なり。親氏もとより大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆづり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその讓をうけて松平太カ左衛門となのられけるが。松平酒井兩家ともにきはめて家富財ゆたかなりし程に。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近クの舊家古族はいふに及ばず。少しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみをむすばれしほどに。近クのものども君父のことくしたしみなつかざるはなし。親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後。吾つらつら世の有樣をみるに。元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして應仁以來長祿ェ正の今にいたりて。足利將軍家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絕萬民塗炭のくるしみをうくること今日より甚しきはなし。吾またC和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のことくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち身に叶へる勤勞をいたすべしとうけがひしかば。兼て慈惠を蒙りたる近クのもの共。招かざるに集まり來しほどに。まづ近クに威をたくまじうする者の方へ押寄せて。降參する者をば味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大畧はその威望に服しける。(當家發祥その源はこの時よりと知られける。)卒去有りて松平ク高月院に葬り。芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりといふ。)その跡をつぎて是も太カ左衛門と稱せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ强を伐て貧を惠み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。その頃洞院中納言實熙といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熙三河に左遷ありしよし傳ふるといへども。應仁より後は都爭亂の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠國に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の沉淪をあはれみ懇に扶助せられ。すでに歸洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感じ。歸京の後公武に請ひて泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と稱せらる。この時岩津岡崎に兩城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平クをゆづり。松平太カ左衛門と稱す。(今三河のク士松平太カ左衛門が祖なり。)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とをくらる。信光家繼て岩津岡崎の兩城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよいよ其一門は國中に滋蔓し。ますます近國近ク其威望かくれなく。國人歸降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり。)二男は右京亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釋門に入りて安穩寺昌龍と號す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信豪が祖。)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが。此筋今は絕えたり。)六男八カ左衛門光英。七男彌三カ元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今圖書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり。)八男次カ右衛門光親。(能見の松平といふ。次カ右衛門光福。河內守親良等の祖なり。)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七カ親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす。)此外は其名つまびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す。(岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その跡をつがる。子九人。太カ親長は岩津を領せられ。二男源次カ乘元(後加賀守。)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乘完等の祖。)三男次カ長親をもて家督と定めらる。四男彌八カ親房。(後玄蕃助。)五男は釋氏に歸し超譽と號し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ。)七男左馬助長家。(安祥と稱す。)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乘C。(瀧脇の松平といふ。監物乘道。丹後守信コ等が祖。)明應二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次カ。寺部城主鈴木日向守。擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせけるに。親忠一門家兵を引率し井田のクに出張し。わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十餘級を討とらる。この後は西三河の國人大半は歸降し勢いかめしく聞えける。この合戰に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡骸鴨田といへる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に讓り入道して西忠と號せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる。)長親ゆづりを受て出雲守と稱し安祥に住せらる。子五人。長子を次カ三カ信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ。)三男は內膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖。)四男甚太カ義春。(東條の松平といふ。)五男彥四カ利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寳等が祖。)長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば。衆よくなびきしたがふ。この頃今川修理大夫氏親駿遠兩國を領し。三河も過半はその旗下に屬しけるが。近來西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれぱ今川を去て長親にしたがはむとする樣なるを見て大に驚き。其所屬北條新九カ入道早雲を將とし一萬餘の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太カ親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討つて出。岩津の後詰して早雲が大軍を迫ひ拂はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壯の齡にてかざりをおろし道閱と號し。長子忠信に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連歌をたのしみ。八十あまりの壽をたもち。曾孫廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿といへり。信忠家をつがれし後藏人また右京と稱せらる。子三人。長子は次カ三カC康君。二男は藏人信孝。(三木の松平といふ。)三男は十カ三カ康孝。(鵜殿の松平といふ。)信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やうやうそむきけるほどに。譜代のカ黨にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば。信忠其機を察せられ。何事も殘り多き齡ながら。僅十三になり給ふC康に世をゆづり。頭おろし春夢と號し大Mの稱名寺に閑居ありしが。四十に一二餘りしほどにて享祿四年七月廿四日父道閱入道に先立てうせられしかば。これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。その太カC康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歲にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず萬にいみじくわたらせ給へば。御內外樣のともがらもこの君成長ましまさば。終に中國に旗擧し給ふぺしと末ョ母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたゝび來りて旗下に屬するやから少からず。岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。C康君十四歲にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五カ忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻拔かれ。猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもてC康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば。これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再此城本家に歸せしなり。)世には安祥の三カ殿と稱しその武威を恐れける。享祿二年五月の頃三河はみな御手に屬しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統せられんとの御志にて。牧野傳藏信成が吉田の城を乘とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかけまけて。兄弟をはじめ主從悉く討死す。かくてC康君は直に吉田川の上のPををし渡し吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば。C康君その城に入て人馬のいきを休め。一兩日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戶田彈正少弼憲光大におそれ。これも忽に降參す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒すすめ奉る。C康君は此勢に乘じ近邊の城々にをしよせよせせめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次カ貞成。設樂の設樂神三カ貞重。西クの西ク新太カ信貞。二連木の戶田丹波守宜光。田峰野田の菅沼新八カ定則。その外山家。三方。築手。長間。西郡の輩風を望みて歸降す。享祿二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎野呂(一に科野につくる。)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。天文二年廣Pの三宅寺部の鈴木等と戰て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を迫拂はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三カ信光。美濃の國士數十人かたらひC康君へ志をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。C康君もとより望所の幸なりと。一萬餘の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ發向し給はむと。まづ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拜謁し。やがて信秀をC洲より引出さんと。謀をめぐらし近クを放火せらる。しかるに叔父內膳正信定もとよりはらくろきものなりしが。いつしか志を變し織田がたに內通し。安祥の虛をうかがひ本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。C康君も酒井大久保などいへる舊臣等の諫にしだがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。その頃阿倍大藏定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。此者織田に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大におどろき其子彌七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。我もし不慮に誅を蒙るとも。汝はいかにもして世にながらへ。父が寃をすゝぐべしとなくなく庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外騷動す。C康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ。木戶を閉よ取迯すなと指揮し給へる御聲を聞て。かの彌七は父大藏唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。C康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付たり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者其も。だゞあきれはてたるより外の事なし。扈從に植村新六カとて十六歲の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切ふせたり。衆人この時にいたりかの大藏をとらへ糺問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聽人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閱入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虛に乘じ追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく歸國せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を淚に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ傳へしは此時の事なりとぞ。C康君はじめには昌安入道が息女(春姬と申せしなり。)をむかへ北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近クのク士木築後守貞景が女をもて北方となさる。此腹に贈大納言廣忠卿生れさせ給ふ。是東照宮の御父なり。此北方は御產後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河內左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七カ秀成にはかりあはせたまひむかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河內氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。C康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。C康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ。)かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立歸り。其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。善コ院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。隨念寺記に菅生丸山に御火葬して。其地に御塚ありしゆへ。烈祖永祿四年隨念寺をその地に造營し給ふと見え。又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。C康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて。三所に葬りたるものなるべし。)この君時に廿五歲。さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚歎して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。かの大藏が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なくなく仰せけるは。彌七が大罪全く狂氣のいたす所なれば。父大藏が罪にあらず。大藏は舊にかはらず忠勤をつくすぺしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし。御家人をのをのかしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歲にならせたまふ。御弟二人御妹一人あり。その一人は源次カ信康。その次は釋門に入て後に大樹寺の住職となり成譽と號す。御妹ハはじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。さて天文五年二月のはじめ。織田信秀はC康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虛なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千の人數をして三河に發向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田クにをいて敵をむかへて决戰し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林植村高力などいへる究竟のともがら四十人餘戰沒す。かの內膳信定はC康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが。C康御事ありし後また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。今は幼君の後見となり。岡崎の政務を專らにし。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なくいまは信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましきふるまひ多きを見て。かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戶城主東條右兵衛督持廣はC康君の御妹聟なれば。定吉幼主を持廣にョみしばし神戶にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたはり。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。二カ三カ廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病沒し。其子上野介義安は父の志を背き織田方に內通し。廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろきまた廣忠卿をともなひ神戶を迯出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り。その身駿河に行て今川治部大輔義元をたのみ。廣忠卿御歸國の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四カ兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父藏人信孝。十カ康孝。その外林。大原。成P。八國。大久保黨等これに應じ。若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は廣忠卿を歸國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓をのが旗下に屬せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。廣忠卿に陪從せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に屬したる東條の城主吉良左兵衛佐義クを攻しめ義クも討死す。信定これを聞おどろき。若君を國に入しめじと樣々心がまへせしかど。普第の御家人一致して天文六年五月朔日終に廣忠卿を岡崎に迎へ入奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感狀今林肥後守忠英が家に存せり。)信定も今は力をよばず又老父入道にたよりて廣忠卿へ降參しいく程なく病沒せり。この後岡崎には藏人信孝。十カ三カ康孝兩叔父を後見とし。大藏定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。C康君後の北方(華陽院殿御事なり。)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり。(傳通院殿御事なり。)定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳來寺峰の藥師に御祈願ありて。七日滿願の夜藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御緣起にも記されし事多し。)石川安藝守C兼蟇目をなし。酒井雅樂助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名參らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に內通する信元が緣に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歲なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り來りたりと聞ば。定めて憤りて一々切りて捨らるゝか。又は髮を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ緣盡て兄のもとにかへさるゝとも。竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし御暇は申けれど。猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混甲二三十人出來たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ歸りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姊君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが。家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が緣につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り歸したりしに。信元大に怒りて送りのもの一人も殘さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名將の母君ほどましまして。いみじき御思慮かなと世にも聞傳へて感歎せぬはなかりけり。廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多刧姬と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一カ忠吉にあはせ給ひ。其後また保科彈正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に正光に降嫁ありし烈祖の御妹は。傳通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり。)その次は市塲殿とて荒川甲斐守ョ持(又義虎。)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姬と申。長澤の源七カ康忠に嫁したまひき。廣忠卿にはこの後田原の城主戶田彈正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三カ信乘が子兵庫の頭親良といへるも。桑谷の右京大夫忠政といへるも。內藤豐前守信成といへるも。實はこの卿の御子なりしともつたへたり。十四年彌生のころ御家人岩松八彌何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり。(隣國よりョまれて刺客となりしといふ。)御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六カ外のかたより來ながら。おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ。共にからぼりの中におちいり。終に組敷て八彌を伐はたす。この植村さきにC康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ。今度また八彌をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と。感じうらやまぬ者ぞなかりける。このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井將監忠尙等をはじめ。是に內應する徒もすくなからず。こゝに又藏人信孝は廣忠卿を翼立せし功により。その威權肩をならぶる者なかりしかば。縱恣のふるまひ多かりしを。大藏定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が矯逸そのまゝにすてをかれば。むかしの內膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。よりよりに廣忠卿をもいさめたり。十六年正月頃卿御病惱にわたらせ給へば。御名代として信孝を今川がもとへ歲首の御使に赴かしめ。其跡にて信孝が三木の領地を沒入しければ。信孝歸りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を沒入せられしぞ。これは定て吾をにくしと思ふ大藏等が讒訴のいたす處ならむとて樣々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずしてこれも織田方に內應の志を抱きけり。此ほど道閱入道殿もうせ給へば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三カ五カ信廣をこめ置。渡理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛門忠倫。上野に酒井將監忠尙を置て掎角の勢を張れば。もとの信定が子內膳C定。山中の權兵衛等もこれに應じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に亂れてあけても暮ても互の爭戰やむ時なし。この時筧平三カ重忠は岡崎の御家人なりしが僞て忠倫に降參し。したしみつよて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば。岡崎がたは大にスび織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひけれは。竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七カ數正。天野三之助康景。上田萬五カ元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七カ忠正。江原孫三カ利全等すべて廿八人。雜兵五十餘人。阿部甚五カ正宣が子コ千代(伊豫守正勝なり。)六歲なりしをあそびの友として御輿に同じくのせてつかはさる。こゝに田原の戶田彈正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光ハ其子五カ政直とこゝろをあはせ。御供の人々をいつはりたばかり船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀スび大方ならず。熱田の加藤圖書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ我かたに降參あるべし。もし又そのことかなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に對面し給ひ。愚息が事は織田がたへ質子にをくるにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戶田婚姻のよしみをわすれ。中途にして奪取て尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の舊好を變ずべからず。愚息が一命は霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめ置て。勤番きびしく付置しとぞ。今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江幷に東三河の勢をさしむけ。三州小豆坂にて織田勢と合戰し。織田方終に引き返す。藏人信孝織田方へ內通すといへども。三左衞門忠倫うたれし後は同志のともがら衰落するを憤り。みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ。權兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戰の用意專らにすといへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。其中に廣忠卿には去年以來御心地例ならずましまししが。日にそひおもらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歲にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松應寺の舊記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび今川へ加勢を請たまふ最中。廣忠卿逝去ましましけるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御歸依ありし法藏寺教翁和尙と內話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。能見の原に內葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬禮を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造營あり。松應寺是なりといふ。)慈光院殿とをくり又瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。大納言ををくられ大樹寺殿と號したまふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬餘騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を殘しその外二三の丸まで攻おとし。今川がたの總將雪齋和尙がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家繼しが。もとより勇銳の大將なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窘困すると聞て。是をすくはんため尾州を發し鳴海まで出陣せしが。安祥旣に陷ると聞て引返さんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長もスて約を定め十一月十日三河の西野笠寺まで竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八カ忠俊などいへる岡崎普代のつはもの出むかへ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。君は天文十六年六歲にて尾州の擒とならせられ。八歲にしてことしはじめて御歸國あれば。御家人はいふまでもなし岡崎近クの土民までも君の御歸國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少將宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿河より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり。御家人等をも每度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に。廣忠卿うせ給ひ竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまりとても獨立すべきにあらず。織田方に降參せんといふもあり。又は今川は舊好の與國なれば。今川に從はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人數をさし向城を勤番させければ。岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に屬したりと見ゆ。此說是なるに似たり。) 
 
巻二

 

竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義廣に作る)理髪し奉る。義元一字をまいらせ。二郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。」二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城将奥平久兵衛貞直よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井。大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らしむ。織田上総介信長これを聞。柴田修理亮勝家を将として攻させるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。君義元にむかはせ給ひ。それがし齢すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣でず。願はくは一度故郷に帰り。祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事をもいとなみ。故郷にのこせし古老の家人へも対面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。君御悦なゝめならず。いそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ。御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに。君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請へければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ。さて/\分別あつき少年かなと感じけるとぞ。」爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ。岡崎にて賦税の事を司りしが。忍び/\〃に粮米金銭を庫中にたくわへ置。こたび君御帰國ありて。譜第の人々対面し奉り。よろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覧にそなへ。今よりのち我君良士をあまた召抱へたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候なりと申ければ。君御涙を催され。その志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し。年頃諸方の交戦に我家人をかりたてゝ。譜第の家人どもこれがために討死する者多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御涙をながし。なきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも。御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま。御祖父清康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。」翌年の春にいたり駿府へかへらせたまひぬ。御名を蔵人元康とあらためたまふ。これ御祖父清康君の英武を慕はせられての事とぞ聞えける。」弘治も四年にて改元あり永禄となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歳十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸将をめされ御指導ありしは。敵この一城にかぎるねからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断べしとて。城下を放火し引とり給ふ。酒井雅楽助正親。石川安芸守清兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらんと落涙してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御旧領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ。腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣瀬。挙母。伊保等の城をせめ。石が瀬にて水野下野守信元と戦給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざるはなし。」此頃岡崎の老臣等駿府に行て。元康既に人となり帰城するからには。駿府より置れし城代其外人数をば引取給ひ。旧領かへしたまはりなむやと請けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を査検して旧領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣どももせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。」二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三郎信康君と称したまへるは是なり。」此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を強くし國をとますの謀をめぐらし。美濃。伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近辺所々に砦をまうけ兵をとめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり。直に中国へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり。軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歳にまし/\けるが。かひ/\〃しくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ。難なく小荷駄を城内へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名誉のことに申ならはしける。(大高送粮の事異説区々なり。その一説尤審なり。其ゆへは信長。寺部。挙母。廣瀬の三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津。丸根両城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津。丸根両城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へば。鷲津。丸根の両城は寺部を救はむ用意する其ひまに。
難なく軍粮を大高城へ運送したまふといふ。此説是なるがごとし)此後も義元の指揮によって寺部。梅津。廣瀬等の城々を攻給ひ。又駿府へ帰らせ給ふ。」あくれば三年義元用意既にとゝのひしかば。駿遠三の軍四万余を引具し尾州表へ発行す。君もその先隊におはし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。鵜殿にかへて君をして是を守らせ。その身は桶狭間に着陣し。陣中酒宴を催し勝ほこりたる。その夜信長暴雨に乗じ。急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城等は。義元討死と聞て取るものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歳の御時より駿府に質とせられ。他の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永禄三年五月廿三日。十七年をへて誠に御帰國ありしかば。國中士民悦ぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及び。また三浦。飯尾。岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩皆逃去ければ。難なく御帰城ありしとなり)」君の御母北方は岡崎より刈屋へ帰らせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひしが。君は三の御年別れ給ひし後は御対面も絶はてし故。とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて。懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に属し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれば。何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。君やがてその館にましまして御母子御対面まし/\。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に二人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豊後守康俊。隠岐守定勝といふ三人なり。」信長は義元を討取て後は。君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。挙母。梅津の敵とたゝかひ。拂楚坂。石瀬。鳥屋根。東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上総介氏真は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ佞言をのみ用ひ。むなしく月日を送るをみて。信長は君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏真終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長も悦なゝめならず。かくて君清洲へ渡らせたまへば。信長もあつくもてなし。是より両旗をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。君は旗下に属したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ信長御旗下に参る。これは永禄四年なり。」東條の吉良義昭今はまたく御敵となり。しば/\〃味方の兵と戦ひてやまざりしが。其弟荒川甲斐守頼持。兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅楽助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降参す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太郎長照を生どる。長照は今川氏真近きゆかりなれば。氏真これを愁る事甚しき様なりと聞て。石川伯耆守数正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。」君ことし御名を家康とあらため給ふ。(永禄四年十月の御書に元康とあそさばされ。五年八月一日の御書には家康とみゆ)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り。所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井。牛窪辺の新塞に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。譜第の御家人等これにくみするもの少からず。國中騒擾せしかば。君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。」このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川頼持。松平三蔵信次。松平監物家次。松平七郎昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏真より小原肥前守鎮実をこめ置て岡崎の虚をうかがへば。是にそなへられんがため。岡崎よりも喜見寺。糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏真吉田を救はむがため。二萬の軍をもてこの寨をせめかこむ。君かくと聞召。三千の人数にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。敵の人数は味方に十倍し。その上後詰を防がむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮まし/\てしかるべしと諌けれど。君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ来ると聞て救はざらんには。信も義もなきといふものなり。
萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして。一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿まし/\。翌朝信俊を召し具せられ。将卒一人も毀傷なく。敵勢を追立々々難なく岡崎城へ帰らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豊臣太閤のもとに烈祖をはじめ諸将会集有し時。誰にかありけん古老のもの烈祖に対し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。烈祖否々それも若気の所為なりと宣ひ。微笑しまし/\けると伝へき)」小原鎮実も吉田の城をひらき。田原。御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。実飯。八名。設楽。渥美等の郡みな御手に属しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。」八年には牛窪の牧野。野田の菅沼。西郷。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏真が柔弱をうとみ。今川方を去て當家に帰順しければ。今は三河の國一円に平均せしにより。本多作左衛門重次。高力左近清長。天野三郎兵衛康景の三人に國務并に訴訟裁断の奉行を命ぜらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は温順にして慈愛ふかく。天野は寛厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしかば。その頃三河の土俗ども。仏高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謡歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは。剛柔たがひにすくひ。寛と猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時既に感称せしとぞ)」九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と称せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚礼行はる。」十一年正月十一日君又左京大夫をかけ給ふ。」このごろ京都には三好左京大夫義継并にその陪臣松永弾正忠久秀反逆して。将軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また乱逆兵馬の巷となる。将軍御弟南都一乗院門主覚慶。織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝに及び。信長よりのたのみをもて當家よりも松平(藤井)勘四郎信一近江の箕作の城攻に抜群の働きして。敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと称美し。着したる道服を脱て當座の賞とせられしとぞ。」かの今川氏真は日にそひ家人どもにもうとまれ。背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまでもなし。氏真が領する國郡を侵し奪はんとす。氏真いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ逃かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんには。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。まず當家に使進らせ。大井川を限り。遠州は御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江の國を切したがへたまはぬとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郎定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に属し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてはそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば。御みずから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人数も走りかゝる様をみて。信友かなはじと思ひ。信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川を限り。遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には當家を侵し。遠州をも併呑せむ為。信友遠州へ出張して遠州の人数をつのり。國士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな偽謀のいたすところなり)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏真をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。君はかの使に対し。我幼より今川義元に後見せられし旧好いかで忘るべき。それゆへに氏真をたすけて義元のを報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏真侫臣の讒を信じ。我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては。幸小田原の北條は氏真叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏真を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏真を北條が許へ送らしめられける。北條。今川両家のもの共もこれを見て。げに徳川殿は情ある大将かなと感じたり。」かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。その身は大久保。松井等と同じく遊軍にそなへ。本多。榊原等は御旗下を守護す。」大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。この五月御領境を御順視あるべしとて。五六百人の少数にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三郎兵衛昌景といへるもの行すぎがてに。御供人といさかひし出し。
それを便りに御道をさへぎり留めむとす。御勢いかにもすくなきが故。いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乗じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より本多平八郎忠勝一番に小返しゝて追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五郎左衛門康高等追々に返し来りて突戦すれば。山縣も終に勝がたくや思ひけむ。草々駿州へ逃入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絶し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その実は父を追て家をうばひ。姪を倒し國をかすむ。天倫たへ人道既に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず。罪を山縣に帰して蟄居せしむといへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。君にはさすがに今川が旧好をおぼし召。氏真が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ。氏真を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この経営いまだとゝのはざる間に。信玄入道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ来り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招き。その城ふたゝび奪ひ取る。氏真は兎角かひ/\〃しく力をあはする家人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝ浜松に来り。當家の食客となりて終りける。」是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされ浜松の城と名付らる。永禄十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規模宏置近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆずりすませ給ふ。」ことし弥生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵を望まれしかば。君にも遠江。三河の勢一萬余騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。
やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるる所に。信長のいもと聟近江の浅井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ逃帰る。木下藤吉郎秀吉にわづか七百余の勢をつけてのこされたり。秀吉は君の御陣に来り。しか/\〃のよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ。秀吉既に危く見えければ。最前秀吉が頼むといひしを捨てゆかむに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者共と御下知ありて。御みづから真先に進み鉄砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ。しばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。」
かくて信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また三千余兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の横山の城へはをさへを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郎景紀を将とし一萬五千余騎着陣し。六月廿八日姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉にむかへば君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のままに。大軍のかたにむかはんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一萬五千余騎君の御勢にうつてかゝれば。浅井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい声あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれども遂にかなはず。北國に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものいよ/\騒ぎ乱れて。旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの様を御覧ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郎忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引堤て浅井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる浅井勢も徳川勢に横をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。浅井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またく徳川殿の武威による所なりとて。今日大功不レ可 勝言 也。先代無 比倫 。後世誰争レ雄。可レ謂 當家家綱紀。武門棟梁 也との感書にそへて。長光の刀その外さま/\〃の重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて。御一代大戦の一なり)この後も佐々木承禎入道朝倉。浅井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豊後守康重。松井左近忠次に二千余の兵を率してすくはしめたまふ。」此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫呉に彷佛たるの聞え高き古つわものあり。今川氏真が謀にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道悦なゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたる徳川殿の好通を得るこそ。謙信が身の悦これに過るはなれとて。左近忠次まで書状を進らせ謝しけるが。是より御音問絶せず。」この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二郎三郎信康となのらせたまふ。」二年正月五日君は従五位上にのぼり給ひ。十一日侍従に任ぜらる。」三年閏三月金谷。大井川辺御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合体ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天竜川を境とし両国を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてて手を出す事なし。入道こそ前に秋山。山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり。」信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しば/\〃三河。遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千余騎。入道みづから四萬五千余の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良。飯田などいへる城々せめ落し浜松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび。當時その右にいづる者なし。當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちのましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目永禄のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を浜松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ)その時敵ははや城近く押よせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。君聞召。かならず城門を閉る事あるねからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも。我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の内外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ。御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寝ありしが。御高鼾の声闌外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の御家人突て出で追払ふ。其の夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。
穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陥りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戦とて大戦の二なり)また武田が家の侍大将馬場美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道と徳川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戦にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の國をまたく徳川殿にまひらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中国。九國までも手にたつ人なく。やがて六十余州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。」元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよ/\軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵に代りて城を開渡すに及んて。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて。定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかなくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取まわすものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますその寛仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口真似をせしとぞ。」此弥生頃信康君御甲冑はじめ有て。松平次郎右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も逃うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目度たしとて御帰城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大将にて遠江國天方。三河の國可久輪。鳳来寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。」二年正月五日君正五位下にうつり給ふ。三月八日次郎君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。」信玄が子の四郎勝頼血気の勇者なりければ。父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝頼徳川織田両家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八郎長善(また氏信)駿河の鸚鵡栖にて一萬貫の地を與へむとこしらへて降参せしめ。引つゞき浜松をせめんとしなしば遠州へはたらき。九月には二萬余の軍勢にて天竜川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝頼も謀ありと見て引返す。」三年二月頃御鷹がりの道にて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏真奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太郎といふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが。井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。」その頃長篠の城は奥平九八郎に賜はりて是を守りけるに、勝頼は當家の御家人大賀弥四郎といへる者等を密にかたらひ。岡崎を乗とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ます/\いかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二萬余騎にて取かこむ事急なりとへども。九八郎よくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。両家の勢都合七萬二千にて五月十八日君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極楽寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巣山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきる夜にまぎれて廣瀬川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ焼立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八郎城兵を具して切て出。前後より掩り立れば。武田勢は散々になりて。信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山。君が伏床。久間山等の敵の寨ども悉くなすべしとて君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち塁を気築き柵を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄砲数千挺を打立しむ。血気の勝頼夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七郎右衛門忠世、治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は當家は主戦織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に柵より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上総貞政。小山田兵衛信茂。典厩信豊。馬場美濃信房。その外眞山。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわり/\柵を破らんと烈戦するといへども。両家の鉄砲きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき様もなく。さん/\〃に破られて。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。内藤。土屋。真田。望月。小山田。小幡などいへるもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬場は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝頼は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂弾正昌信(父虎綱)海津の城を守りてありしが。勝頼血気の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。
武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討死せしかば。是より甲州の武威は大に劣りしとぞ。この日両家に討取首一萬三千余級。その中にも七千は當家にて討取られしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郎君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝頼も大に驚き。帰國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八郎六町にもたらざる掻揚にこもり。数萬の大軍にかこまれながら。終に一度の不覚なく後詰を待ち得て勝軍せしは。古今稀なる大功なりと信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八郎はじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には定昌と書しといふ)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝頼磔にかけし事なれば。こたび第一の姫君を(亀姫と申)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さま/\〃饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを那長篠の戦とて大戦の三とするなり)」かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしに。この城々も力おとし。あるは逃さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往来の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家号并に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寛永系図にはこの御家号たまはりしは。永禄六年東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや)君はこの勢に乗じ。引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝頼城々責とらるゝと聞て。ふたゝび兵をつのり小山の後巻すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郎君あながちに乞はせたまひてみつから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乗上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては。勝頼十萬騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝頼が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諌にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七郎右衛門忠世に給ふ。」四年正月廿日浜松の城にて。甲冑の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし)」此弥生勝頼また遠州へ発向す。横須賀は高天神の押として大須賀五郎左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。君浜松より後巻したまへば。今度も高坂が強て諌め勝頼も引かへしけるが。瀧坂。鹽買坂辺に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍糧運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ榛原郡相良に新城を築かせ。糧をこめて甲州へかへる。是より先謙信入道酒井忠次に書簡を送り。君と謀を合せて勝頼を攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるる時。天野宮内右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を逃出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を労したまはんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ逃去る。かくて後も勝頼はしば/\〃遠州にはたらきて。浜松を襲はんとする事しば/\〃なりしといへども。さしてし出したる事もなし。」信長卿はことし大納言より内大臣に昇られ兵威ます/\盛なり。五年十二月十日君も四位の加階まし/\。その廿九日右近衛の権少将に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭将軍を戴し。三好。松永を降参せしめ。佐々木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。強傲専肆かぎりなく。跋扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用するといへども。その実は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の浅井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姉川の戦おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相模の北條は関東北國割拠中最第一の豪傑なるよし聞て。この三國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時徳川家興國の第一にて。織田氏の頼む所は徳川家なり。故に先徳川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を挙んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠せんとす。是三方原の大戦おこるゆへんなり。勝頼が時にいたりまた義昭より。
北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるる。その使は真木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝頼がしば/\〃三遠を襲はんとする所にて。長篠大戦のおこるゆへんなり。義昭つひに本意を逐ず。後に藝州へ下り毛利をたのまる。これ豊臣氏中國征伐のおこる所也。しかれば姉川。三方原。長篠の三大戦は。當家において尤険難危急なりといへども。その実は足利義昭の詐術におこり。朝倉。武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院将軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て後。また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。萬古不易の良法として國を建し余習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこと豈天ならずや)
東照宮御實紀卷二 / 弘治二年に始り天正五年に終る
竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。關口刑部少輔親永(一本義廣に作る。)理髮し奉る。義元一字をまいらせ。二カ三カ元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城將奥平久兵衛貞直よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らしむ。織田上總介信長これを聞。柴田修理亮勝家を將として攻させけるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。君義元にむかはせ給ひ。それがし齡すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣です。願はくば一度故クに歸り祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事をもいとなみ。故クにのこせし古老の家人へも對面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。君御スなゝめならずいそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに。君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請べければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ。さてさて分别あつき少年かなと感じけるとぞ。爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ岡崎にて賦稅の事を司りしが。忍び忍びに粮米金錢を庫中にたくわへ置。こたび君御歸國ありて。普第の人々對面し奉りよろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覽にそなへ。今よりのち我君良士をあまためしかゝへたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候なりと申ければ。君御淚を催されその志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し年頃諸方の交戰に我家人をかりたてゝ。普第の家人どもこれがために討死する者多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御淚をながしなきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま。御祖父C康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。翌年の春にいたり駿府へかへらせ給ひぬ。御名を藏人元康とあらためたまふ。これ御祖父C康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。弘治も四年にて改元あり永祿となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歲十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸將をめされ御指揮ありしは。敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を斷べしとて城下を放火し引とり給ふ。酒井雅樂助正親石川安藝守C兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戰塲に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大將の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名將にかならせたまふらんと落淚してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御舊領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣P擧母伊保等の城をせめ。石がPにて水野下野守信元と戰給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざるはなし。此頃岡崎の老臣等駿府に行て。元康旣に人となり歸城するからには。駿府より置れし城代其外人數をば引取給ひ。舊領かへしたまはりなむやと請けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を查撿して舊領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣どもゝせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三カ信康君と稱したまへるは是なり。此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を强くし國をとますの謀をめぐらし。美濃伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近邊所々に砦をまうけ兵をこめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり直に中國へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歲にましましけるが。かひがひしくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城內へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名譽のことに申ならはしける。(大高送粮の事異說區々なり。その一說尤審なり。其ゆへは信長寺部擧母廣Pの三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津丸根兩城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津丸根兩城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へば。鷲津丸根の兩城は寺部を救わむ用意する其ひまに。難なく軍粮をば大高城へ運送したまふといふ。此說是なるがごとし。)此後も義元の指揮によつて寺部梅津廣P等の城々を攻給ひ。又駿府へ歸らせ給ふ。あくれば三年義元用意旣にとゝのひしかば。駿遠三の軍四萬餘を引具し尾州表へ發行す。君もその先隊におはし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。
鵜殿にかへて君をして是を守らせ。其身は桶峽間に着陣し陣中酒宴を催し勝ほこりたるその夜。信長暴雨に乘じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番等は。義元討死と聞て取ものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歲の御時より駿府に質とせられ。他の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永祿三年五月廿三日。十七年をへて誠に御歸國ありしかば。國中士民スぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及びまた三浦飯尾岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩みな逃去ければ。難なく御歸城ありしとなり。)君の御母北方は岡崎より刈屋へかへらせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひしが。君は三の御年别れ給ひし後は御對面も絕はてし故。とし頃戀したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に屬し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれば何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。君やがてその館にましまして御母子御對面ましまし。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に三人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豐前守康俊。隱岐守定勝といふ三人なり。信長は義元を討取て後は。君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。擧母梅津の敵とたゝかひ拂楚坂石P鳥屋根東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ侫言をのみ用ひ。空なしく月日を送るをみて。信長は君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏眞終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長もスなゝめならず。かくて君C洲へ渡らせたまへば信長もあつくもてなし。是より兩旗をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。君は旗下に屬したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ。信長御旗下に參るべしと盟約をなして後。あつく饗應まいらせて歸し奉る。これは永祿四年なり。東條の吉良義昭今はまたく御歒となり。しばしば味方の兵と戰てやまざりしが。其弟荒川甲斐守ョ持兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅樂助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降參す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太カ長照を生どる。長照は今川氏眞近きゆかりなれば。氏眞これを愁る事甚しき樣なりと聞て。石川伯耆守數正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな數正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。君ことし御名を家康とあらため給ふ。(永祿四年十月の御書に元康とあそさばされ。五年八月廿一日の御書には家康とみゆ。)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井牛窪邊の新寨に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向專修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。普第の御家人等これにくみするもの少からず。國中騷擾せしかば。君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ歸順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川ョ持。松平三藏信次。松平監物家次。松平七カ昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏眞より小原肥前守鎭實をこめ置て岡崎の虛をうかゞへば。是にそなへられんがため。岡崎よりも喜見寺糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏眞吉田を救はむがため二万の軍をもてこの寨をせめかこむ。君かくと聞召三千の人數にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。歒の人數は味方に十倍し。その上後詰を防がせむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諫けれど。君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ來ると聞て救はそらんには。信も義もなきといふものなり。萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし。翌朝信俊を召し具せられ。將卒一人も毁傷なく敵勢を追立々々難なく岡崎城へ歸らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豐臣大閣のもとに烈祖をはじめ諸將會集有し時。誰にかありけん古老のもの烈祖に對し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。烈祖否々それも若氣の所爲なりと宣ひ。微笑しましましけると傳へき。)小原鎭實も吉田の城をひらき。田原御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。室飯。八名。設樂。渥美等の郡みな御手に屬しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。八年には牛窪の牧野。野田の菅沼。西ク。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏眞が柔弱をうとみ。今川方を去て當家に歸順しければ。今は三河の國一圓に平均せしにより。本多作左衛門重次。高力左近C長。天野三カ兵衛康景の三人に國務幷に訟訴裁斷の奉行を命せらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は溫順にして慈愛ふかく。天野はェ厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしに。國務裁斷にのぞみ萬に正しく果敢明斷なりしかば。その頃三河の土俗ども。佛高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謠歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは。剛柔たがひにすくひェと猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時旣に感稱せしとぞ。)九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と稱せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚禮行はる。十一年正月十一日君又左京大夫をかけ給ふ。このごろ京都には三好左京大夫義繼幷にその陪臣松永彈正忠久秀反逆して。將軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また亂逆兵馬の巷となる。將軍御弟南都一乘院門主覺慶織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝにおよび。信長よりのたのみをもて當家よりも松平(藤井。)勘四カ信一を將として御加勢さし向給ひしに。信一近江の箕作の城攻に拔群の働きして敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと稱美し。着したる道服を脫て當座の賞とせられしとぞ。かの今川氏眞は日にそひ家人どもにもうとまれ背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまでもなし。氏眞が領する國郡を侵し奪はんとす。氏眞いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ迯かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんにハ。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。まづ當家に使進らせ。大井川を限り遠州ハ御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江の國を切したがへたまはむとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八カ定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に屬し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてハそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば御みづから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人數も走りかゝる樣をみて。信友かなはじと思ひ信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川を限り遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には當家を侵し遠州をも併呑せむ爲。信友遠州へ出張して遠州の人數をつのり國士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな僞謀のいたすところなり。)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏眞をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。君はかの使に對し。我幼より今川義元に後見せられし舊好いかで忘るべき。それゆへに氏眞をたすけて義元の讎を報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏眞侫臣の讒を信じ我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故。止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては。幸小田原の北條は氏眞叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏眞を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏眞を北條が許へ送らしめられける。北條今川兩家のもの共もこれを見て。げにコ川殿は情ある大將かなと感じたり。かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河一國歸順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次石川家成二人を左右の旗頭として是に屬せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の數正にゆづり。その身は大久保松井等と同じく遊軍にそなへ。本多榊原等は御旗下を守護す。大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。この五月御領境を御巡視あるべしとて。五六百人の少勢にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三カ兵衛昌景といへるもの行すぎがてに御供人といさかひし出し。それをたよりに御道をさへぎり留むとす。御勢いかにもすくなきが故いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乘じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より本多平八カ忠勝一番に小返しゝて。追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五カ左衛門康高等追々に返し來りて突戰すれば。山縣も終に勝がたくやおもひけむ。早々駿州へ迯入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絕し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その實は父を追て家をうばひ姪を倒し國をかすむ。天倫たへ人道旣に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず。)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず罪を山縣に歸して蟄居せしむといへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。君にはさすがに今川が舊好をおぼし召。氏眞が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ氏眞を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この經營いまだとゝのはざる間に信玄入道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ來り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招きその城ふたゝび奪ひ取る。氏眞は兎角かひがひしく力をあはする家人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝM松に來り。當家の食客となりて終りける。是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされM松の城と名付らる。永祿十三年に號またあらたまりて元龜と稱す。M松の城規摸宏麗近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ。ことし彌生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵を望まれしかば。君にも遠江三河の勢一萬餘騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるゝ所に。信玄のいもと聟近江の淺井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ迯歸る。木下藤吉カ秀吉にわづか七百餘の勢をつけてのこされたり。秀吉は君の御陣に來りしかじかのよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉旣に危く見えければ。㝡前秀吉がョむといひしを捨て行むに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知有て。御みづから眞先にすゝみ鐵砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひしばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ來り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。かくて信長は淺井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先淺井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御みづから三千餘兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の山の城へはをさへを殘し小谷の城下を放火す。淺井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三カ景紀を將として一万五千餘騎着陣し。六月廿八日姉川にて戰あり。はじめ信長は朝倉にむかへば君には淺井とたゝかひ給へとありしが。曉にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は淺井をうつべし。コ川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のまゝに。大軍のかたにむかわんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一萬五千餘騎君の御勢にうつてかゝれば。淺井が手のもの八千餘騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北國に名をしられたる眞柄十カ左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。淺井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよいよさはぎ亂て旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの樣を御覽ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八カ忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引提て淺井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる淺井勢もコ川勢にをうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。淺井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またくコ川殿の武威による所なりとて。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世誰爭雄。可謂當家綱紀。武門棟梁也との感書にそへて。長光の刀その外さまざまの重器を進らせらる。(これを姉川の戰とて御一代大戰の一なり。)この後も佐々木承禎入道朝倉淺井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豐後守康重。松井左近忠次に二千餘の兵を率してすくはしめたまふ。此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫吳に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏眞が媒にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道スなゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたるコ川殿の好通を得るこそ。謙信が身のスこれに過るはなけれとて。左近忠次まで書狀を進らせ謝しけるが。是より御音問絕せず。この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二カ三カ信康となのらせたまふ。二年正月五日君は從五位上にのぼり給ひ。十一日侍從に任ぜらる。三年閏三月金谷大井川邊御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合躰ありといふを聞大に患ひ。しからばはやくコ川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天龍川を境とし兩國を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を變じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてゝ手を出す事なし。入道こそ前に秋山山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり。信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しはじは三河遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千餘騎。入道みづから四万五千餘の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良飯田などいへる城々せめ落しM松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび當時その右にいづる者なし。當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇氣さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば。夏目次カ左衞門吉信が討死するそのひまに。からうじてM松に歸りいらせ給ふ。(夏目永祿のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬をM松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)その時敵ははや城近くをしよせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。君聞召かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々歸る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の內外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寢ありしが。御高鼾の聲閫外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の御家人突て出で追拂ふ。其夜大久保七カ右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。穴山梅雪が陣に鐵砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陷りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきはM松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戰とて大戰の二なり。)また武田が家の侍大將馬塲美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道とコ川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戰にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。M松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の國をまたくコ川殿にまいらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中國九國までも手にたつ人なく。やがて六十餘州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。元龜も三年に天正とあらたまる。信玄はいよいよ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八カ定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび歸ることを得たり。この城攻の時入道鉄炮の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取進すものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死はスばずおしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますそのェ仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口眞似をせしとぞ。此彌生頃信康君御甲胄はじめ有て。松平次カ右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も迯うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目出たしとて御歸城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大將にて遠江國天方。三河の國可久輪。鳳來寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城々一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。二年正月五日君正五位下にうつり給ふ。二月八日次カ君生れたふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。信玄が子の四カ勝ョ血氣の勇者なりければ。父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝ョコ川織田兩家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八カ長善(また氏信。)駿河の鸚鵡栖にて一万貫の地をあたへむとこしらへて降參せしめ。引つゞきM松を責むとしばしば遠州へはたらき。九月には二万餘の軍勢にて天龍川まで出張す。こなたもM松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝ョも謀ありと見て引返す。三年二月頃御鷹がりの道にてて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覽ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏眞奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太カといふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。そのころ長篠の城は奥平九八カに賜はりて是を守りけるに。勝ョは當家の御家人大賀彌四カといへる者等を密にかたらひ。岡崎を乘とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ますますいかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二万餘騎にて取かこむ事急なりとへども。九八カよくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。兩家の勢都合七万二千にて五月十八日君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極樂寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巢山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきりたる夜にまぎれて廣P川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ燒立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八カ城兵を具して切て出前後より捲り立れば。武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ども悉く攻おとされたり。信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち壘を築き栅を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄炮數千挺を打立しむ。血氣の勝ョ夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七カ右衞門忠世。治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は當家は主戰織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に栅より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上總貞政。小山田兵衛信茂。典廐信豐。馬塲美濃信房。その外眞田。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわりわり栅を破らんと烈戰するといへども。兩家の鐵炮きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき樣もなくさんざんにやぶられで。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。內藤。土屋。眞田。望月。小山田。小幡など云るもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬塲は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝ョは落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂彈正昌信(又虎綱。)海津の城を守りてありしが。勝ョ血氣の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。武田が家にて老功の家人どもこの戰に數を盡して討死せしかば。是より甲州の武威は大におとりしとぞ。この日兩家に討取首一万三千餘級。その中にも七千は當家にて討取れしなり。又味方の戰死は兩家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三カ君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝ョも大に驚き。歸國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出來り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八カ六町にもたらざる搔揚にこもり。數万の大軍にかこまれながら。終に一度の不覺なく後詰を待ちゑて勝軍せしは。古今稀なる大功なりと。信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八カはじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家傳には定昌と書しといふ。)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝ョ磔にかけし事なれば。こたび第一の姬君を(龜姬と申。)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ歸陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の勞を謝したまふ。信長さまざま饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを長篠の戰とて大戰の三とするなり。)かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしにこの城々も力おとし。あるは迯さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往來の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家號幷に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。ェ永系圖にはこの人御家號たまはりしは。永祿六年東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや。)君はこの勢に乘じ引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝ョ城々責とらるゝと聞て。ふたたび兵をつのり小山の後卷すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三カ君あながちに乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乘上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝ョ十万騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝ョが勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諫にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七カ右衛門忠世に給ふ。四年正月廿日M松の城にて。甲胄の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし。)此彌生勝ョまた遠州へ發向す。須賀は高天神の押として大須賀五カ左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。君M松より後卷したまへば。今度も高坂が强て諫めョ勝も引かへしけるが。瀧坂鹽買坂邊に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へかへる。是より先上杉謙信入道酒井忠次に書簡を送り。君と謀を合せて勝ョを攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるゝ時。天野宮內右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を迯出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を勞したまわんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ迯去る。かくて後も勝ョはしばしば遠州にはたらきて。M松を襲はんとする事しばしばなりしといへども。さしてし出したる事もなし。信長卿はことし大納言より內大臣に昇られ兵威ますます盛なり。五年十二月十日君も四位の加階ましまし。その廿九日右近衛の權少將に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭將軍を翊戴し。三好松永を降參せしめ。佐々木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。强傲專肆かぎりなく䟦扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用するといへども。その實は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の淺井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姊川の戰おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相摸の北條は關東北國割據中最第一の豪傑なるよし聞て。この三國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時コ川家與國の第一にて。織田氏のョむ所はコ川家なり。故に先コ川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を擧んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠せんとす。是三方原の大戰おこるゆへんなり。勝ョが時にいたりまた義昭より。北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるゝ。その使は眞木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝ョがしばしば三遠を襲はんとする所にて。長篠大戰のおこるゆへんなり。義昭ついに本意を遂ず。後に藝州へ下り毛利をたのまる。これ豐臣氏中國征伐のおこる所之。しかれば姊川三方原長篠の三大戰は。當家において尤險難危急なりといへども。その實は足利義昭の詐謀におこり。朝倉武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院將軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て後また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。万古不易の良法として國を建し餘習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこと豈天ならずや。) 
 
巻三

 

天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城将菅沼新八郎定盈よりかくと注進す。君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豊後守廣孝はし/\と仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は。門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ。俄に打立射立。敵の陣伍乱るゝ様を見すまして門より打て出で。一散して軽く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへば。まづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき処にも橋をかけてこそあるべきに。懸来りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名誉聞書、酒井家旧蔵聞書)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとり/\〃いひ伝へしを聞しまし。御家人等に仰ありしは。もしこの事実ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄は如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がごとくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ様に心得べきなり。すべて隣国に強将ある時は。自国にもよろづ油断なく心を用ゆるゆへ。おのずから国政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣をはゞかる心あるにより。かへりてわが国安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振抜の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝか悦ぶ事にてなしと仰あり。是より御分国の者共いづれも御詞を学びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。」又ある時。人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戦にはいつも粉骨を尽せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常々仰ありしなり。孟子に敵国外患なきものは国必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。」上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さて/\残多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は関東の弓矢柱なくなりしとて。はら/\と涙を落せしといふ。謙信も信玄と常々争闘せしはさるものにて。天下の為に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同様の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話、武辺咄聞書、萬千代記)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとするに。野伏ども出て御道を支れば。大久保七郎右衛門忠世殿して。三蔵山といふところまで引上られ。しばし後陣の来るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太郎が股を鐵砲に打ぬかれて来る。君御馬をくだり善太郎に載しめんとす。善太郎勿体なしとてあながちに辞し奉る。七郎右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝も同じく手負て退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に与へ乗しめんとす。久勝己が如き者は何人死したりとも何事かあらん。もし大将討るゝならばゆゝしき大事なり。弓矢八幡照覧あれ。われは乗まじといふ。忠世乗度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて児玉甚右衛門。久勝をかゝへて馬にのせ引取ぬ。君このよし聞しめし。強将の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感浅からず。この時光明山の住僧高継といへるが御路の案内し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高継勝栗を進ければ。一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語、武徳大成記、落穂集、光明山書上)
按に。杉浦が家譜には。久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへ。みづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎討とり。それが馬に乗て還りしかば。御感状をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。台徳院殿切腹仰付られぬ。君後にこのよし聞しめし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀弥四郎といへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し。算数にもよく鍛錬し。物ごとに心きゝたる者なれば。会計租税の職に試みられしによく御用に立しかば。次第に登庸せられて。三河奥群廿余村の代官を命ぜられ。其身浜松に居ながら折々は岡崎にも参り。信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも弥四郎なくては叶はぬといふ程になり。専らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の挙動ども少からず。御家人の内旧功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも内には憎み怨ぬ者もなかりしかど。両殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが悪事を訐発する者もなし。かゝる所に近藤何がし戦功有て采地賜はるべきにより。弥四郎が許に行て議しけるに。弥四郎いふ。御辺がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよ/\精仕して。我にな疎略せそといへば。近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしか/\〃のよし述て。某いかに窮困すればとて。あの弥四郎に追従して。地を賜はらん様なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のごとくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出て御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聴に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは弥四郎が取なしに非るはいふまでもなし。汝さきに岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今に忘れはせじと宣へば。近藤感涙袖をうるほして御前をしりぞきぬ。其後又ひそかに近藤をめして。弥四郎が事つばらに問せ給へば。近藤承り。彼元より腹あしき者にて種々の悪行あれども。当時両殿の寵遇を蒙るゆへいづれも願望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の悪事どもかぞへ立て言上し。なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれにはいはざりしと仰ければ。さむ候。この事かねて相議しけれども。彼かねて両君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしといふ。よて弥四郎をばめ因て獄につなぎ。その家財を籍収せしむるにおよび。弥四郎が甲斐国と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度弥四郎が親友小谷甚左衛門。倉地平左衛門。山田八蔵等弥四郎と一味し勝頼の出馬をすゝめ。勝頼設楽郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。弥四郎徳川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ三郎殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠両国の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからば徳川殿も浜松におはし。かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝頼刃に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝頼この書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に悪徒の内山田八蔵返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顕に及びしなり。よて弥四郎が妻子五人を念志原にて磔にかけ。弥四郎は馬の三頭の方へ顔をむけ鞍に縛り。浜松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし様を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋め。竹鋸にて往来の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衛門は渡邊半蔵守綱めし捕むとて向ひしが。遁出て天竜川を游ぎこし二股の城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彦兵衛勝長。大岡孫右衛門助次。その子傅藏清勝。三人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて禄千石を賜はり。返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々弥四郎が事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。弥四郎ひとり勤めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても慎しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢、東遷基業、御遺訓、今村大岡山田家譜)
長篠の前竹廣村の弾正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる様を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびすくひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまり。つと立て舞けるが。兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散してけり。さて本多。榊原等をめし軍議せしむるに。いづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。君むかしは信玄なり。今は勝頼なるぞ。さまで心を労するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよ/\勇気百倍しけるとぞ。(東武談叢)
おなじ戦の前信長が許におはしけるに。稲葉一鉄入道。此度徳川殿の催促によりて兵を出ることもあらばいかゞせむといふ。君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今両年打続き同じ月日に。甲州にて萬部讀経を執行へり。二には去年このかた彼国の者共多く我方に参仕す。三には穴山梅雪入道縁辺の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰ければ。信長稲葉に向ひ出せるとていたくいましめらる。」其後御陣に帰らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戦もし難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の内。一人は信康を守護して本国に帰るべし。鬮もて定めよと仰あれば。三人何とも御請申さでありしかば。御気色損じけるを見て康政居進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に従ひて立ち帰らん事は。上意に従ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなく。やゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ三郎殿を招かせられさきの旨仰られしかば。信康君。年若き某一人岡崎に帰りたりとも何の益か侍らん。それよりは父君こそ御帰城有て領国を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せんと宣ひて。中々聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはせしませしが。戦に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられしは。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戦に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覚書、古老夜話)
この戦に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされば。内藤四郎左衛門正成かきの渋帷子きしまゝにて出むかひ。御指図かうぶりて軍すべき家康にてなし。某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。徳川殿には末々の者までたゞ人ならずとて感歎ありしなり。」又戦に及んで甲軍の様を御覧じ。今日の戦味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人数を布散して多勢の様に見するは。衆を頼むの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊国物語、前橋旧蔵聞書)
国の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。別にかはれるふしはなけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも荀且のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛強に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と両手十萬ばかり。勝頼はわづか二萬程なり。こなたは柵を三重にゆひけるに。勝頼何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若共折瀧澤川の渡を前に当て対陣せば。わが両手多勢といへども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の強かりしは。全く入道が時より。三軍の調練よく届きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝頼常に血気にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戦にわざと柵をふり。優もてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諌言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲をもてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。たとへば家臣の内に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのずからその風余人にもをし移り。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君は。かゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめ。はじめて本心を得せしむるなり。汝いかゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨将軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上げしに。台徳院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傅へて烱鑑にせめとて。御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの由を申上しに。将軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御慎篤の御性質をいと御賞嘆ありしとど。(藤堂文書)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八郎定昌をめし出され。定昌若年といひ。数日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御感斜ならず。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見参をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人毎春謁見を給はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の内。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高辺等の地若干下され。姉川の役に信長より進らせし大般若長若の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姫君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ参り信長に謁見せしに。信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勲功武士の模範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乗らしめ。そが上にもさま/\〃引出物せられしなり。(貞享書上)
甲州士の内にも山縣三郎兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に応ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が内の山縣は大なる兎缺なり。かの魂精の抜出て當家譜第の本多が子に生まれ来りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。台徳院殿の御伽にめし加へらる。後年石川数正が京都へ立去し後。當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附属せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん様にもり立べしと仰付られぬ。此らをもても山縣をば厚く御感賞まし/\ける事はかりしるべきにぞ。(落穂集)
大天龍の迫合に近藤傅四郎某手負ひて。渡邊半蔵守綱を見かけ。汝我を助けよといへば。半蔵己が取たる首を投げすてゝ傅四郎を負ひ。三里ばかり引退きける由聞せ給ひ。味方一人討るければ数千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半蔵とよぶべしと仰られしなり。」またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける内に島田意伯もありけるが。仰に。意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが。この騒擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御強記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雑談、武功雑記)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひ/\〃しく申上れば御けしき大方ならず。よて松平の御称号御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乗らしむ。こは周武王が殷紂王を牧野にて攻亡せし故事おぼしいでゝ。勝頼を殷紂に比し。康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傅へしはまことにや。(貞享書上、落穂集)
天正三年八月光明山。諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝頼は過し長篠大敗の後。甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二萬の大兵をもて後詰し。先陣すでに岡部。藤枝までに進み来る。この時御人数を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。信康君をめし。是まで敵にむかふ様にして引取りしが。この後は敵わが軍後にあり。おことは若年にしていまだ戦陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよと宣へば。信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。かたみに御辞譲ある所へ酒井忠次馳来り。只今急遽なり。両殿はともあれ。某はまづ引返さむとて御先に引退ば。君も忠次につぎて兵を収めらる。其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿にてしづ/\〃と引せ給ふ。君はこの様土台にて御覧じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝頼十萬の兵もて攻来るとも。打破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武徳編年集成) 
遠州二股の城とれし時本多平八郎忠勝は供奉し。内藤四郎左衛門正成はその比足痛により従ふ事かなはず浜松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへされ。浜松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。殿の御帰城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成関輪を固うしてあけず。忠勝自らかへり来て門をたゝきよばはれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に。誰なれば殿の御還などいつはるぞ。かしがまし。そこのかすば打ち殺さんとて。鉄砲に火縄はさみて指麾すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて君還らせ給ひて。四郎左我が帰たるはと宣へば。正成御声とは聞つれど尚いぶかしくや思ひけん。狭間より挑燈を出し。たしかに尊顔を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵ありとも抜とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(砕玉話)
天正六年三月武田勝頼遠州へ出張せし時。大須賀五郎左衛門康高が甥弥吉御軍令にそむき。勝頼が旗本へ打といり高名せしかば。以の外怒らせ給ふ。弥吉恐れて本多平八郎忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事も寛仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはか御宥怒なかりき。(柏崎物語)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後は。また謙信ほど弓箭をとりまはす者は今の世にはなかりしに。これもまたはかなくなりぬ。かく年を追て名誉の弓取打続き死し絶る事。世の為いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。君の御英名をしたひ。はるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。當家に力を合せ。甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。」又水谷正村入道播(元字は虫篇)龍斎といひしは。下野の結城が幕下にて。東国に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならではああ。共に関東を切平げんものあらじと思ひ。石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を関東へ進められんには。その主晴朝を勧めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の国々よりもはやうより御風采をしたひ。帰属の心を抱くもの数多有しといへり。(落穂集、貞享書上)
武田勝頼大軍を率ゐ遠州横須賀まで打て出て浜辺に陣どり。君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鉄砲迫合あり。信康君鈴木長兵衛某一人めしつれ。敵陣近く乗よせ。其様見そなはして。いそぎ戦をはじめ給へと仰上られしかば。君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戦をはじめば勝事有べからず。この後とてもおなじ様にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるゝも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。三郎が弓箭の指図は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話別集)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世両人も。御ふるまひのあら/\しき事ども。条件にしるして御覧に入ければ。三郎がかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諌を納し上にて。尚聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。両人さ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諌良など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば。君今の世に比千。伍子胥が如き忠臣なければ。諌を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三郎君御生害あり。はるか年経て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三郎今にあらばかく天下の事に心を労すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰ければ。忠次何ともいひ得ず。ひれふして在しとか。又幸若の舞御覧ありし時。両人にも見せしめられしに。満仲の曲に。をのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覧じて。両人に向はせ給ひ。其事となく御落涙し給ひ。両人あの舞はと仰られしかば両人大に恐怖せり。又或時三郎殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は満仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また関原の役にあさとく御旗を勝山に進めれし時も。さて/\年老て骨の折るゝ事かな。倅が居たらば是程にはあるまじと独言の様に仰られしとか。唐国にも漢の武帝が。衛太子の事有し後に望子の台を築き。朝夕にその方ざまを望み見て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間の何の嫌疑もあはしまさず。たゞ少年勇邁の気すゝどくおはしませしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御挙動の在しも。軍国の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの両人織田家の奸計に陥り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歳の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武辺雑談、東武談叢、寛元聞書)
三郎殿二股にて御生害ありし時。検使として渡邊半蔵守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人帰りきて。三郎殿終に臨み御遺托有し事共なく/\言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し内に。本多忠勝。榊原康政の両人は。こらへかねて声を上て泣き出だせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。君聞し召し。さてあやしき事もあるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて。小刀もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半蔵は三郎殿自裁の様見参りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雑話の折に。半蔵は兼て剛強の者なるが。さすが主の子の首討には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り傅へてひそかに思ふやうは。半蔵が仕兼しを。この山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものうくやなりけん。當家を立去り高野山に入て。遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語)
七年駿河国持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き様を見せ。城兵の引入とき附入にし。烈しく戦て攻取られしとぞ。この時城将三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせんと思ひ。一色に與しを君御覧じ。いや/\兵部が首は竹右衛門が討取しなり。余人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せらる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしば/\〃なりしとぞ。(三河物語、貞享書上)
高天神の城中より。幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みより。たかだちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城将の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感涙を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃関東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等取そへて大夫に引たり。」かくて明日の戦に城兵皆いさぎよく戦て討死す。殊さら茜きし武者は天晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとり/\〃御覧に備へし内に。顔の様十六七ばかりと見ゆるが薄粧し。歯くろめ髪なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君其眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの内に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。黒眼明らかにみえば男なれと宣へば。笄もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部が最愛の小姓に時田鶴千代といふ者にて。討死の様もいと優にやさしかりしとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乗する様を遥に御覧じ。俄に御先手へ仰傅へられしは、只今に城中より真先かけて乗出る武者あるべし。かまへて支へ止むべからず。若強ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乗廻して制せしめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍横田甚五郎尹松なるが。落城のよしを本国に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て當家に参り。処々の御陣に供奉し。度々戦功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり、(落穂集、家譜、明良洪範)
天正八年七月の比浜松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。数萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならず。御みづから社頭へまし/\しばし御奉弊ありし後。扇子をもてうち払ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡を清め汚穢なからん様にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松とぞ申ける。(柏崎物語)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ/\引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例の怒を発し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども悉く打砕き水中に棄てけり。君大に咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。」又馬場美濃守氏勝が娘さる所に隠れ居るよし聞しめし。鳥居彦右衛門元忠に命じて捜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隠れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひより。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彦右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高声にて御咲あり。其頃元忠同国黒駒にをいて北条が兵と戦ひ。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話、東遷基業、鳥居家譜)
按に一説には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峰法寺口にて働きし趣を御糺しありしが。相違の事ありて召放されぬ。元より武功の者なれば。鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聴に入る者ありし時。彦右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に。元忠が女子馬場美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬場が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武辺の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに。鏃をゆるく箆を強くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後々まで傷ましめんが為なりと申ば。武田が法はさもあれ。わが方にてさる事なせそ。敵なりとも盗賊いましむるとは異なり。当座に射中て働事かなはず。味方に利あればたれり。かゝる慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を強く鏃のぬけざらん様にすべしと仰せられき。(武功実録)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成瀬吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大蔵左衛門某也。また甲州人もて沙汰聞の役とせられ。専ら国中の動静を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ国を治るに国人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は。小石と沙と土の入雑りてわけかぬるを。水にて動し洗へば。土流れて小石あらはるなり。見えざれば洗はん様もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とりてもくるしからじと仰けり。」又信玄以来の諸士の忠否を正し給ひ。武功の誉ある者は其證状を奉らしめ。新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。あるは旧地削らるゝもあり。」又武田代々の香火院恵林寺は右府が為に焼れしを。形のごとく再建せしめ。歴世の霊牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝頼自殺の地にも供養のため一宇を荊創せられ。かくとり/\〃邱(元字は丘でなく血)典を施されしかば。国人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の一条。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが為に。かれに附属せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし様にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよ/\勉励せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に来り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政両人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に参たりといへば。忠次さて/\御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勧めたてまつりて直政に附しめし也。さるを聞分ずして率爾の挙動もあらば。殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功実録)
此巻は武田信玄と御合戦よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐国御手に入しまでの事をしるす。  
東照宮御實紀卷三 / 天正六年にはじまり十六年に終る
天正六年武田四カ勝ョはしきりに遠三兩州を侵掠せんとしてしばしば勢を出せば。M松よりも武田がかゝへたる駿州田中の城をせめたまはんとて彌生の頃御出馬あり。井伊萬千代直政ことし十八歲初陣なりしが。眞先かけて手勢を下知する擧動。天晴敵味方の耳目を驚かす。其外小山の城責。國安川須賀等の戰いつはつべしとも見えざる處に。越後の上杉謙信此月十三日四十九歲にて世をさりぬ。これより先に入道は小田原の北條氏康の子の三カ景虎と。姪の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人國をあらそふ事たえず。景勝心ときおのこなれば。勝ョが寵臣長坂跡部といへる者をかたらひ。こがね二千兩づゝを贈り。勝ョが妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に屬すべし。先は當座の謝儀として上野一國にこがね一万兩そへて進らすべし。いかにも加勢し給はるべしと申送れば。利にふける勝ョ主從速に應じ。終に景虎を伐亡して景勝父謙信の家をつぐ。勝ョもとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心まよひ。氏政が弟の三カを亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り。いかにしてかこの怨を報ぜんと思ひ。やがて當家にちなみ進らせ織田家へもよしみをむすぶ。七年の卯月七日にM松の城にしては三カ君生れたまふ。御名を長丸君と名づけたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし台コ院殿太政大臣の御事なり。御母君は西クの局と申。さしつづき翌年この腹にまた四カ君生れ給ふ。是薩摩中將忠吉卿とぞ申き。勝ョは當家北條と隣好をむすび給ふと聞て大におどろき。さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて。さまざま謀畧をめぐらしける事ありし中に。築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝ョが詐謀にやかゝりたまひけん。よからぬことありて八月二十九日小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。(野中三五カ重政といへる士に。築山殿討て進るべしと命ぜられしかば。やむ事を得ず討進らせて。M松へ立かへりかくと聞え上しに。女の事なればはからひ方も有べきを。心をさなくも討取しかと仰せければ。重政大におそれ是より蟄居したりとその家傳に見ゆ。これによればふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂助直吉とも。又は岡本平右衛門石川太カ右衛門の兩人なりとしるせし書もあれど。そはあやまりなるべし。)信康君もこれに連座せられて。九月十五日二俣の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御傅なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろきM松へはせ參り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よらかぬ御行狀あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが首をめさるべく候と申けるに。君聞しめして。三カが武田にかたらはれ謀反すといふを實とは思はぬなり。去ながら我今亂世にあたり勍敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには。我家亡んこと明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家國亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎て三カがたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三カ終にのがるべき事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御淚にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覺えず。なくなく御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。當時の情躰ははかりしるべきなり。また三カ君御勘當ありしはじめ。大久保忠世に預けられしも。深き思召有ての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が滿仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替らしめしさまの舞を御覽じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ說あり。いかゞ。誠なりやしらず。)かゝることどもにはかなく年もくれて。八年正月五日には從上の四位し給ふ。武田がたの城々は次第におちいり。彌生にいたり遂に高天神の城も責落さる。この城小笠原與八カ長善が武田へ降りし後。八年をへてふたゝび當家にかへる。その間大須賀康高須賀の寨に有て日々夜々に攻たゝかひ。久世。坂部。渥美などいへる屬士ども身命をすてゝ苦戰しければ。こたび數年の勞を慰せられ。をのをの采邑にかへりしばし人馬を休ましめらる。十年信濃國福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼふれたる中ながら勝ョのふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案內せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中將信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の國へ迯歸る。君の御勢は二月十八日M松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。國中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとよりェ仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降參のもの等は。しろしめす國內の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち惠み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝ョをうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地藏堂に參り君に對面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝ョは梅雪典廐逍遙軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。
その子太カ信勝と共にうたれたり。君の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪あないし先鋒の諸將富士の麓八代郡文殊堂市川口よりをし入たり。こゝに成P吉右衛門正一といへるは。さきに當家を退し時甲州にありしかば。武州士どもとしたしかりしゆへ。今度仰をうけてかの輩を募り招きければ。もとより御仁愛は隣國までも及びし故。折井米倉などいへるもの一番に歸順せり。信忠卿古府へ着陣せられければ。君もその所におはしまして對面したまひ。又諏訪へおもむき給ふ。右府は十四日波合にて勝ョ父子の首を實撿せらる。その時汝が父信玄は每度我等に難題をいひかけこまらせたり。首に成てなり共上洛したしといひしと聞しが。汝父が志をつぎて上洛せよ。我も跡よりのぼるべしと罵られ。頓て其首共を市川口の御陣へをくり見せ給ふ。君は勝ョの首を白木の臺にのせ上段に直され。厚く禮をほどこし給ひ。今日かゝる姿にて對面せんとはおもひよらざりしを。若氣にて數代の家國を失はれし事の笑止さよとて御淚をうかめ給へば。甲斐の國人どもかくと聞傳て。はやこの君ならずばとなづきしたひ奉る。信長は武田の舊臣ども上下のわかちなく。一々さがし出して誅せらる。君はかの者共生殘りて餓死せんもいとおしき事とあはれみ給ひ。甲信の間に名を得たる者をば。悉く駿遠の地にまねきはごくませられ。又勝ョ父子はじめその最期まで附從ひつる男女のなきがら共。田野の草村に算を亂して鳥獸の啄にまかせたるを。武田が世々の菩提所惠林寺も。織田家をはゞかりてとりおさめんともせず。君さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の廣嚴院といふ山寺の僧に仰せて。その屍ども懇に葬らしめ。其所に一寺をいとなみ天童山景コ院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。十九日には右府父子軍功の諸將士に勸賞行はるゝとて。コ川殿今度神速に駿州の城々責取給ふ。その功輕からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田殿に對し。今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いまM松に寓居すれば。駿河を氏眞にあたへかの家再興せしめんかと仰けれぱ。信長きかれ。何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば。我にかへしたまへとて氣色以の外なれば。やむ事を得ず御みづからの御領となされしといふ。)梅雪入道も君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永くコ川殿の旗下たるべしとて屬せらる。さて右府國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは君しろしめす所なるがゆへに。其道すがらの大石をのけ。大木をきりはらひ。道橋をおさめられ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへコ川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛ありしとぞ。(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)卯月のはじめに右府は八代郡姥口より富士の根方を分いられ。阿難迦葉坂をへて上野が原井出のク邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大將家狩倉の古跡などまでたづね。大宮の旅舘にわたらせられしかば。君こゝに侍迎へて饗し給ふ。道道の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇指。龍馬三疋進らせらる。日をへて富士安部川をわたり田中の城に泊られ。また大井川天龍川を越てM松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。M松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごとくその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。五月君右府の居城近江の安土にわたらせたまへば。穴山梅雪もしたがひ奉る。右府おもたゞしき設ありて幸若の舞申樂など催し饗せられ。みづからの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。右府やがて京へのぼらるれば。君にも京堺邊まで遊覽あるべしとて。長谷川竹丸(後に藤五カ秀一といふ。)といへる扈從を案內にそへられ。京にては茶屋といへるが家(茶屋四カ次カ。本氏は中島といふ。世々豪富之。)を御旗舘となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。君は先立て都にのぼらせ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが。今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり右府父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて。御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。又六月二日の早朝かさねて本多平八カ忠勝を御使として。今日御歸洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。君も引つゞき堺浦を打立給へば。忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河內の交野枚方邊まで至りし所に。都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て。追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが。忠勝が側に馬打よせて。世ははやこれまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため參候といへば。忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを。君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。
御道の案內に參りし竹丸を近くめし。我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。君年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ。織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば。君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざるコ川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案內をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案內させ。茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河內の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市よりあないにとて吉川といふ者を進らせ。三日には木津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鑓さしのべて柴舟二艘引よせ。主從を渡して後鑓の鐏をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て。今夜長尾村八幡山に泊り給ひ。四日石原村にかゝり給へは。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ。白江村。老中村。江野口をへて吳服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。五日には服部山口などいへる地士ども御道しるべして。宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ。御供の人々いかゞせんと思ひなやみし所。川中に白幣の立たるをみて。天照大神の道びかせ給ふなりといひながら。榊原小平太康政馬をのりこめば思ひの外淺Pなり。其時酒井忠次小舟一艘尋出し君を渡し奉る。やがて江州P田の山岡兄弟迎へ進らせ。此所より信樂までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども。山岡服部御供に候すれば。山賊一揆もおかす事なく信樂につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ。高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり。音聞峠より山岡兄弟も辭し奉る。去年信長伊賀國を攻られし時。地士どもは皆殺たるべしと令せられしにより。伊賀人多く三遠の御領に迯來りしを。君あつくめぐませ給ひしかば。こたび其親族ども此御恩にむくひ奉らんとて。柘植村の者二三百人。江州甲賀の地士等百餘人御道のあないに參り。上柘植より三里半鹿伏所とて。山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ。六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。其地の商人角屋といへるが舟をもて。主從この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大Mにつかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす。)八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。駿遠の諸將を催促せられ。十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一說に熱田とす。)まで御進發ありし所に。十九日羽柴築前守秀吉が使來り申送られしは。秀吉織田殿の命をうけて中國征伐にむかひ。備前因幡の國人を降附し。備中の國冠河屋の城を責落し。高松の城を水責にし。彌進んで毛利が勢と决戰せんとする所に。輝元より備中備後伯耆三國を避渡し。織田殿と講和せんと申送る。此事いまだ决せざるに。都よりして賊臣光秀叛逆して織田殿御父子を弑する注進を聞とひとしく。其よし少しもかくさず毛利が方へ申送り。忽に和をむすび。毛利より旗三十流鐵砲五百挺かりうけ。そのうへ輝元が人質とつて引かへし。十一日攝州尼崎に着陣し。三七信孝。丹羽五カ左衛門長秀等と牒し合せ。十三日山崎の一戰に切勝て。光秀天罰のがれがたく終に誅に服したり。其餘殘黨ことごとく誅伐をとげ候へば。御上洛に及び候はぬよしなり。君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へかへらせ給ふ。然るに右府の家人共は國々にありて。こたびの亂におどろきあはて守る所をすてのぼりければ諸國まな乱れたちぬ。これよりさき右府甲斐の國を河尻肥後守鎭吉に賜はりし時。君近國にましませば萬にたのみまゐらするよし申されしにより。
こたびも君は木多百助忠俊を河尻がもとにつかはされ。此頃のさはぎに其國中もみだるべし。何事もへだてず百助にはかりあふべし。もしまた急に上洛せんとならば。信州路には一揆蜂起の聞もあり。百助に道しるべさせ我領內よりのぼるべしと懇に仰下されしを。河尻疑念深きおのこにて。こは謀をもて我をうしなはせ給ふならんとをしはかり。百助に酒のませもてなすさまして。其夜たばかりて百助をうちころし。其身はいそぎ國人にも隱れて。家兵を引具し甲州を迯出んとす。甲州の者等もとより君の御コをかしこみなつく事なれば。君の御使を伐しとて國人大に怒り。追かけて河尻主從をみな討とりぬ。君は彌武田の舊臣等民間にかくれすむ者を尋召出あるべしと。柏坂峠に旗を立てまねきたまへば。田をはじめこれに應ずる者忽に千餘人に及べり。小田原の北條新九カ氏直は甲州の一揆共をかたらひ。其國を侵掠せんと五万の大軍を引つれ。信州海野口より甲州に向へば。君もM松を打立給ひ同じく甲州にのぞませ給ふに。其國人等粮米薪を献じ御迎に出る者道もさりあへず。古府に陣をすへられたり。これよりさき信濃の諏訪をせめよとてつかはされたる酒井。大久保。本多。大須賀。石川。岡部等。氏直が後詰すと聞えしかば。一先引かへせとて乙骨が原まで引とる所に。氏直勢案の外ちかく追來りしかば。こなたは謀を設け勢を七隊にわかち。敵の大軍嵩にかゝりて先を遮らんとすれば。七隊一度に立歸り旗を立て蹈こたへ。敵進み兼るとみれば鐵砲をかけながら引退きする程に。敵みだりに追事あたはず。敵は五万にあまる大軍。味方は三千の人數にて七里が敵間を引つけ。手を負もの一人もなく引取しは。むかしも今もたぐひまれなる退口とて世いたく稱讃す。(是を乙骨退口と稱す。)氏直若御子に着陣すれば君も古府をたゝせ給ひ。淺生原へおはしまして對陣し給へども。氏直方は御備のきびしきを恐れて手も出さねば。君は新府にうつらせ給ふ。これより數旬の間五万にあまる大軍と。八千不足の御人數にて對陣ましまし。帷幄の外へも出給はずゆるゆるとして。かれより和議をむすばせ引取給ふ。天晴不思議の名將かなと世に感ぜぬ者ぞなかりける。北條美濃守氏規は君今川がもとにおはしたる時よりの御よしみありければ。氏規はかりて上州をば一圓に北條へ渡され。甲信兩國は御領とさだめられ。又姬君一所を氏直に賜はりなんことを約し。永く兩家の御したしみをむすび。神無月廿九日氏直勢を駿府に引とれば。君もM松へ御馬を納め給ひ。大久保忠世には佐久郡。鳥居元忠には郡內を給はり。其外軍功の輩に新恩加恩をほどこされ。民をなで窮をすくはせ給へば。織田家の暴政を苦しみし甲信の民ども。萬歲をとなへて歡抃す。十一年五月石川數正を京に御使して。築前守秀吉のもとへ初花といへる茶壺ををくらせ給ふ。秀吉よりも使もて不動國行の刀を進らす。七月姬君(督姬といふ。)小田原へ送らせ給ひ御婚禮とゝのハせらる。又九月十三日に五カ君生れ給ふ。後に武田万千代丸と申せしは是なり。十月には勅使M松へ參向ありて。正下の四位に加階し給ひ右近衛權中將に進ませらる。この頃は國境を沙汰し給はんがため甲州におはしけるに。其事告まいらすれば。十二月四日M松へかへらせ給ひ勅使を饗應せられ猿樂など催され。勅使には引出物かずがずにてめでたく歸洛せしめらる。十二年二月廿七日三位の昇階し給ひ參議をかけ給ふ。秀吉は亡主右府の讐敵光秀を忽に伐亡せしより威名海內にかゞやけば。陽には右府の嫡孫三法師丸を輔佐し。軍國の政務を沙汰するが如しといへども。實は自四海を統一せんとの志專らなれば。三七信孝を亡し。柴田佐久間などいふ織田家の古老どもを伐平らげ。瀧川佐々などいへるやからも降參させ。北國旣に平均す。北畠中將信雄闇柔といへども。さすが故右府の御子ゆへ舊臣どもみな心をよすれば。先この人を傾けて天下の大業を急にせばやと思ひ立。信雄の家の長どもをあつくもてなしけるにぞ。信雄忽に秀吉の姦計に陷り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかりて家長三人までを誅したり。秀吉終に其計を得て。信雄讒を信じ良臣を誅したりといふを名として信雄を伐亡さんとし。國々の諸大將をかたらひけるに。織田家の舊臣どもゝ時の勢になびきて信雄の方には參らず。秀吉のかたうどする者のみなり。君にも秀吉使進らせてこたび我方に御加勢あらんには。美濃尾張兩國を進らすべしと申まいらせけれど。君は右府よりの盟約變じがたしとて其使をばかへさる。信雄此時は伊勢尾張を領してC州の城にありしが。舊臣等もみなそむき秀吉のかたうどすると聞大におどろき。いそぎM松に使してすくひをこはれける。君は右府の舊好あれば。いかで見はなち給ふべきとて。彌生七日M松をいでます。小田原の氏政表裏のおのこいさゝか守りおこたるべからずとて。御領國のうち甲州は鳥居元忠。平岩親吉。又上杉景勝が押には大久保忠世。駿相の堺長窪の城には牧野右馬允康成。興國寺は天野康景。三牧橋は松平康親。深澤は三宅正次。田中は高力C長に各つはものをそへて守らせられ君は一万五千餘騎にて七月十三日C洲へ御着陣あり。信雄も信長以來の舊好を捨給はず。これまで御出馬ありしを厚くかしこみ淚ながして謝せらる。さて落合村といふ所に屯し給ひけるが。榊原康政が申旨にまかせ後には小牧山に御陣をすへらる。こゝに池田勝入入道といへるは。右府恩顧の下より人となりしが。これも時勢にひかれて秀吉のかたうどし。先尾張の國犬山の城を攻とり。聟の森武藏守長一とともに樂田羽Kに打出で。在々所々を燒立たり。味方には榊原。奥平。酒井。大須賀の輩つきづきに打出で森が勢にはせかゝり。先輕卒を進ませ鐵砲を打かくる。其中にも奥平が勢無二無三に羽K村の小川ををしわたる。森は鬼武藏とよばれし血氣の猛將。それが軍師にそへられたる尾藤なにがしも。都邊の敵をのみあしらひたるてだてを三河武士にをしあて。川をわたさば討てかゝらんとゆるゆる待しに。奥平が三千餘騎會釋もなく突てかゝる。
あとより酒井。榊原。丹羽幷松平又七カ家信等つゞいてをし渡り地煙り立て鑓をいるれば。何かは以てたまるべき。家信時に十六歲。野呂助右衛門といへる剛のものを伐取たり。稻葉一鐵入道はかねて森と牒し合せ段の下に屯し。老波血河に湛ふと高聲にとなへゐたる所に。金扇の御馬印遙にみゆれば。コ川殿出馬ありしといふ程こそあれ。敵はみな色めき立て。終にかなはず引て犬山へかへる。秀吉は此敗軍を聞て大に怒り。十二万餘の大軍を具して大坂を出馬し。犬山城につき樂田にうつり。二重堀などいへる要害をかまへて小牧山に對陣す。これは長篠の戰に右府武田が勢を鏖にせられし故智を用ひしなり。君小牧山より此備を御覽じ。秀吉は我を勝ョと同じ樣に思ふと見えたりとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。卯月六日池田勝入。森長一。堀久太カ秀政に三好孫七カ秀次を總手の大將とし。二万餘騎の兵をわけて樂田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありとしりて。みかたのうしろにまはり三河の空虛をうたんとのはからひなり。君は兼て篠木のク民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原幷に水野惣兵衛忠重。本多彥次カ康重。丹羽勘助氏次。岡部彌次カ長盛などいへる名にあふものらに。甲州穴山勢をそへすべて四千餘の人數にて。敵にしらせじと轡を卷て龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ。此城の守將は本多豐後守廣孝とて康重が父なり。兼てことよさせ給ひしかば。所々に人をしのばせ置。敵龍泉寺を出るをみて小牧の御陣へも注進し。大須賀。榊原。水野。岡部等とはかり夜ぶかく小幡より出立ぬ。君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりは小牧山を打立せ給ばへ。信雄も御跡にしたがふ。敵は九日の朝池田父子先陣して。先丹羽次カ助氏重がこもりし諸和村岩崎の城を攻落しもの始よしと大にスび。浮宇原といふ所にて首實撿し。二陣の堀は一里をへだて愛知郡檜が根に陣し。惣大將秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次が陣こはいかにとあはてふためき。秀次の軍師とョみし穗富の某をはじめ。名あるつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり。味方勝にのり追行所に。二陣の堀が勢かくと見るより旗をすゝめてかけあはせ。火花をちらし烈しく戰ふ。先手にありし池田森も惣大將秀次敗走すときゝ是を救はんと引かへす。君は小牧山より三十餘町勝川兜塚といふ所にて御甲胄をめさる。これ當家の御甲胄勝川と名付らるゝ事のもとなり。(椎形溜塗の御兜K糸威の御鎧。)御湯漬を聞召ほどに夜は明はなる。こゝに先手の人々はや首取てかへり。御覽ぜさせ奉る者も少からず。十人の鐵炮頭井伊万千代直政が二千餘兵を先とし。御旗下には小姓の輩幷甲州侍のみ供奉し。直政が勢は富士の根の切通しより進めば。君も其跡より田の中をすぐに引つゞきかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑいゑいとかけ聲して堀が備に競ひかゝる。池田森が人數は山際より扇の御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて。すはコ川殿みづから來り給ふといふより。上下しどろにみだれ色めき立しに。直政が手の者下知してかけたつれば。森武藏守長一まづうたれ。池田勝入もみだるゝ勢をたて直さんと下知しけるが。永井傳八カ直勝につきふせられ首をとらる。其子紀伊守之助も安藤彥兵衛直次に討る。この手の大將池田父子森三人とも討れしかば。戰はんとする者もなくひたくづれにくづれたり。味方追討して首をとる事一万三千餘級なり。秀吉は樂田の本陣にて長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八万餘人を十六段になして押出す。小牧山にのこされし諸將の中にも。本多忠勝かくと聞て。殿の御勢立直さゞる間に。京勢大軍新手を以て押かゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳行て討死せんといへば。石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し。忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南をはせ行ば。京勢は大軍にて川の北をゝし進む。忠勝我こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば。其間には殿も御人數を立直さるべしとて。秀吉の旗本へ鐵砲打せて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし。さてさて不敵の者も有ものかな。誰かかの者見知たるやととへば。稻葉一鐵侍りしが。鹿の角の前立物に白き引廻しは。先年姉川にて見覺えたるコ川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉淚をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主從を終には味方となし被官に屬せんと思へば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其擧動を感ずる事かぎりなし。長久手にては君味方の者ども勝に乘じ長追すなと令ぜられ。信雄と共に軍をかへされんとする所に。忠勝馳付て見參せしかば。よろこばせ給ふ事なゝめならず。直に忠勝に御あとうたせ給ふ。其頃はや千生瓢簞の馬印龍泉寺の上の山へをし出すを君御覽じて。先手の物頭三人までうたせて。筑前さぞせいたであらふとほゝゑませながら。小幡の要害へ御馬を納めらる。秀吉息まきて龍泉寺までをしよせたれども。御勢は皆引とりたる跡なれば。大に腹だちおどりあがりおどりあがり。いそぎ小幡へかけよせんとたけりけるを。かの家人稻葉蒲生等日はやくれかゝりぬと諫めければ。せん方なく柏井に陣どり。翌朝は拂曉に小幡へ攻かゝらん心がまへせしに。君其機を察し給ひ。勝は重ねぬ者ぞとて信雄と共に夜中に小幡を立出給ひ。小牧山に御歸陣ありしかば。秀吉が兼て出し置たる斥候の者どもかくと注進す。秀吉掌を打て長く歎息し。誰かコ川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大將あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。これも夜明ぬ先に。十二万の軍勢をくり引に樂田へ班軍せり。
(これを長湫の大戰といひて大戰の第四とす。案ずるに此一戰京方は四月六日の朝勝入出軍。同日晝森出軍。一日へだてゝ秀次と堀出軍。先手とは三里をへだてたり。君には三河迄敵を入たゝせゆるゆる岡崎へをし詰て戰はしめば勝といへども。小牧の本陣遠ければ覺束なし。小牧山近邊にて兵を交へば秀吉速に後詰すべし。されば戰塲は長湫の外にはなしと定められ。御先手より四里へだてゝ旗本勢を押出し給ふ。これは上方勢は大軍。御先手は小勢なり。味方初度は勝て後度は敗るべし。上方勢利を得ば勝に乘じ長追して足を亂るべし。其亂れし所へ井伊が勢と旗本勢五千の人數にて討てかゝらんに。味方勝ざる事はあるべからずと神算旣に定め給ひ。御先手とは四里へだてゝ御馬をすゝめたまひしなり。)この後秀吉さまざまと手だてをかへて戰つれども。事ゆくべくも見えざれば。心中また謀を考へ出し。信雄をすかしこしらへて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば君もM松へかへらせ給ひ。やがて石川數正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。秀吉今は從三位の大納言にのぼり。武威ますます肩をならぶる者なし。M松へ使を進らせて。信雄旣に和平に及ぶうへは。秀吉コ川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ。君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。又信雄につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれコ川殿御曹司のうち一人を申受て子となし一家の好をむすばゝ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二カ君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。其頃秀吉卿は正二位內大臣にのぼり。あまつさへ關白の宣下あり。天兒屋根の尊の御末ならでこの職にのぼらるゝ古今ためしなき事とて。人みなめざましきまで思ひあざみたり。關白いよいよ和平の事を申進らせらるゝといへども。いまだ打とけたる御いらへもましまさねば。十三年の冬重ねてM松へ使まいらす。君この頃泊狩にわたらせ給ひければ。關白の使御狩塲へ參り對面し奉る。君鷹を臂にし犬をひき給ひながら。我織田殿おはせし時旣に上洛し。名所舊蹟もことごとく見たりしかば。今さら都戀しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿天下のためとてとり申されしゆへ。秀吉の子にまいらせたり。今は我が子にあらざれば對面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻下らむ時は。我も美濃路のあたりに出むかへ。この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰ながら。又鳥立もとめて立出たまふ。かの使かへりて斯と申せば。關白重て信雄とはかられ。君の北方先に御事ありし後。いまだまことの臺にそなはらせ給ふ方も聞えず。秀吉が妹を進らせばやと懇に申こはる。淺野彌兵衛長政などよくこしらへで終に御緣結ばるべきに定まりしかば。M松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも關白のあながちに忠勝が名をさしてよびのぼせられしなり。四月十日かの妹君聚樂のたちを首途し給ひ。おなじ廿一日M松へつかせたまふ。先榊原康政がもとにて御衣裳をとゝのへられて後入輿し給ふ。御輿渡は淺野長政。御輿請取は酒井河內守重忠にて。其夜の式はいふもさらなり。廿二日御ところあらはしなど。なべて關白より沙汰し給ふをもて。萬に美麗をつくされしさまいはむかたなし。これ後に南明院殿と申せしは此御事なり。此後は關白彌君の御上洛をひたすらすゝめ申されしが。遂にこしらへわびて母大政所を岡崎まで下し進らすべきに定まりぬ。君は宗徒の御家人をあつめられ。關白其母を人質にして招かるゝに。今はさのみいなまんもあまりに心なきに似たり。汝等思ふ所はいかにと問せ給ふ。酒井忠次等の宿老共は。秀吉心中未だはかりがたし。かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻下る共。京家の手際は姉川長湫にて見すかしたればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思召とまらせ給へと諫め奉る。(さきに眞田安房守昌幸がそむきしを誅せられんとて御勢をむけられし時。眞田は秀吉に內々降參せし事ゆへ。秀吉越後の上杉景勝をして眞田を援けて御勢を拒がせ。又當家の舊臣石川數正は十万石を餌として味方に引付たり。されば上杉と謀をあはせ新降の眞田小笠原を先手とし。數正降參の上はコ川家の軍法は皆しるべければ。是を軍師とし三遠に攻下らんとの計畧ありと世上專ら風說すれば。普第の御家人等は秀吉をうたがひしもことはりなり。)君聞召。汝等諫る所尤以て神妙といふべし。然りといへども本朝四海の亂旣に百餘年に及べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸くしづかならんとするに及び。我又秀吉と牟盾に及ばゝ。東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤いたましき事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を殞さんは。何ぼうゆゝしき事ならずやと仰せらるれば。忠次等の老臣等。さほとまで思召定められたらんにハ。臣等また何をか申上べきとて退きぬ。是終に天下の父母とならせ給ふべき御コは。天下万民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらはれたりと。天下後世に於て尤感仰し奉る事になん。旣に御上洛あるべしと御いらへましましければ。關白よろこばるゝ事斜ならず。其神無月四日關白執奏ありて君を權中納言にあげ給ふ。やがてM松を打立せ給ひ。同じ廿五日御入洛あれば。其夜關白ひそかに御旅舘をとはせられ。長篠の戰の後十二年にて對面せらるゝとてス大方ならず。さて君の御耳に口よせさゝやかれしは。黃門兼てしり給ふごとく。秀吉今官位人臣を極め兵威四海を席卷するといへども。もと松下なにがしが草履とりて跟隨せし奴僕とは誰かしらざらむ。やうやう織田殿に見立られ武士の交りを得たる身なれば。天下の諸侯陽に畏服するが如しといへども。心より實に歸順する者なし。今被官となりし者どもゝもとは同僚傍輩なれば。實の主君とは思はず。
願くば近日表立しく對面進らせむ時に。其御心して給はるべし。秀吉に天下をとらせらるゝも失はしめらるゝも卿の御心一にあり。此事ョみ奉りたくかく上洛をばすゝめ進らせたりとて。御脊をたゝかれければ。君聞召。旣に御妹にそひまいらせ。又かく上洛いたせし上は。ともかくも御ためあしくははからひ候まじと答給へば。關白彌よろこばる。やがて大坂にわたらせ給ひ。いかめしき作法どもにて御太刀御馬こがね百牧進らせられ。いたく敬屈してぬかづかせ給ふを見聞して。中國筑紫の諸大名まで。大政所を人質として上洛し給ふコ川殿猶かくの如し。我々いかでか秀吉を輕蔑する事を得んとて。これより國々の大名關白を尊敬日比に十倍せしとぞ。關白よろこびに堪ずさまざまもてなして。そのかみ秀吉越前金が崎にて討死すべかりしを。卿の御情にて虎口をのがれ。今この身となれり。此御恩いつの世にかはわするべき。神かけて弟秀長に存かへ申べき心はなしなど巧言をつくされ。供奉の人々にもかづけものこちたく行はれ。十一月五日には君を正三位にすゝめられ。都を出たゝせられ岡崎にかへらせ給ひければ。大政所をも都にかへさる。この御送りには井伊直政ぞまいりける。これも關白のことさらの仰にてつかはされし事なれば。直政をもあつくもてなしてかへさる。都には此ほど御位ゆづりあり(正親町院御讓位。後陽成院御即位。)關白は內大臣より太政大臣にのぼり。氏をも豐臣と賜はる。君はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。M松には元龜二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒うせけるを新に經營せられ。五ケ國(駿遠三甲信。)の本府と定められ御在城ましましたるなり。十五年には關白九州を討おさめられむとて。畿內近國の軍勢筑紫に發向す。當家よりも本多豐後守廣孝軍中の御とぶらひとしてつかはさる。折ふし關白の軍勢秋月が巖石の城に攻寄し時なりしに。廣孝馳加て高名せしかば。關白もコ川殿の家人に獵の利ざる者なしといたく感ぜられしとぞ。扨島津義久も戰まけて降參せしかば。關白も歸洛し給ふ。君これをほがせ給ふとて都へのぼらせ給ひしに。八月八日從二位權大納言にうつらせ給ふ。此程駿府にても長丸君加冠し給ひ從五位下藏人頭に叙任せられ。關白一字を進らせられ秀忠となのらせ給ひ。その日又侍從に任じ給ふ。この師走の廿八日には君また左近衛大將をかけて。左馬寮の御監に補せられ給ふ。是は鎌倉室町このかた將軍家のほか此職に補せられず。いとありがたきためしなるぺし。十六年には關白聚樂の亭に行幸なし奉るとて。よの中花やきにぎはしき事いふもおろかなり。君もやがてのぼらせたまふ。今は上達部にて鳳輦の供奉し給ひ。聚樂にて日をかさねかずがずの御遊ども催さる。御歌は御製をはじめ親王だち上達部殿上人いとあまたなるが中に。君も松の葉每にすべらぎの千代の榮をちぎりことぶかせ給ふ。發聲披講などとりどり近き世にはめづらしくめでたき事多し。此時君は大和大納言秀長ならびに秀次秀家の中納言と共に。內の仰ごとによてC花の上首につかせ給ふ。又行幸に先立て井伊直政。大澤基宥は侍從に任ぜられ。其外爵ゆるされし御家人どもあまたあり。 
 
巻四

 

天正十年五月織田殿の勧めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覧終り。既に御帰洛あらんとせしに。茶屋四郎次郎清延たゞ一騎来り。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り。忠勝四郎次郎とゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に帰り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ。半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川数正。榊原康政等にむかひ。若年のものの申事ながら。君御帰京有て無益の死を遂られんよりは。速に本国にかへらせ給ひ。御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ。山賊野伏の為に討れんよりはと思ひ帰洛せんとはいひつれ。誰か三州への案内知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺の郷導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し。故主の恩に報じなん。これより河内山城をへて江州伊賀路へかからせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひ/\〃しく御受申せば。君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案内させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河内路へて山城に至り。宇治川にて河の瀬知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その辺にいつき祭る呉服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立て郷導し奉れば。郷人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信楽に至らせ給へば。土人木戸を閉て往来を止めたり。此地の代官多羅尾四郎光俊はこれも秀一が旧知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戸をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を御加護の為とて献る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ごとに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞清廣はじめ。かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案内し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大浜の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を。常に用ゆる椀に盛て献る。菜はなきかとのたまへば蜷の塩辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大浜に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ。明る日岡崎へ御帰城まし/\ける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の涙を催せしとぞ。(武道雑談、永日記、貞享書上、酒井家旧蔵聞書、続武家閑談)
この御危難の折御道しるべして勲功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四郎兵衛長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣実父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉り。これより供奉して江州の光綱が家へ案内し奉り。伊賀路の一揆ども追払ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。」又山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都将軍家に勤仕す。弟の対馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共逆党に背き。勢田の橋を焼断て追兵を支へ。御駕を迎へ賊徒を追払ひつつ。伊賀の闇峠まで供奉せり。」又伊賀の侍柘植三之丞清廣といひしは。これよりさき天正九年三河に参謁して。伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に属せんとす。願くは御書をたまはる事かたし。たゞ元の如く本領を守るべし。もし當家に従はんとならば御領国に遷るべしとなり。その後伊賀の者猶織田家の命に従はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隠て時節を窺ふ所に此度の事起りしかば。清廣をのが一族伝兵衛。甚八郎宗吉。山口勘助。山中覚兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三郎茂濃。和田八郎定教。武島大炊茂秀等を勤め。みな人質出して郷導し。鹿伏兎越の険難をへて伊勢まで御供す。後年関原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に参りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直参となり。鹿伏兎越まで供奉に半途より帰国せし二百人のものどもは。服部半蔵正成に属せられ。伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。専ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附属する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直参となり。その以下は諸隊に配せられて与力同心となされしもありしなり。(諸家譜、武徳編年集成、伊賀者由来書)
武田亡びてのち織田右府駿河国をば當家へ進らせ。甲斐国をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたにもまめに受引給ひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎮吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ甲州人の皆當家に従ひ。鎮吉に服するもの少きは。全く當家の御所為なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。国人にはひたすら心置しゆへ。国人もいよ/\心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近将監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召。その旧友なれば本多百助信俊をつかはされ。万事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには。此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案内せしめ。わが領内を経て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎮吉いよ/\疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞伝へて甲人一揆を起し鎮吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれば。彼が謀議の為にもと思ひ百助をつかはせしに。かゝる無道人にあひて。御泪数行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給へとすゝめしに。それは川尻が二の舞にて。家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき様もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ。その間をうかゞひ。北条氏政父子責入よしとり/\〃風聞し。国人も北条が民にならんは念なし。當家より御旗をむけられなば皆々打かたらひ。時日をうつさず甲州一国を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ。国人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを専らとせられ。いさゝか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の若御子にて数月の間北条氏直と御対陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北条が領とし。甲信二国は當家の御分国とせられ。且督姫のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野辺山の陣を払て退かんとするに及び。平沢の朝日山に砦を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と旧好あるをもて。こたび彼が強ちにこひ申にまかせ盟約を定め。且婚家たらん事をもゆるしぬ。さるにわが領国の内に城築く事不当の至なれ。この上は有無の一戦を決すべしと仰有て。朝比奈弥太郎泰成もてこの由北条が方へ仰つかはさる。此とき敵は平沢より信濃路へ引払はんとする所に。當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北条が答遅々せば直に打てかゝらん形勢したれば大に恐れ。早々人質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさま/\〃謝し報りければ聞しめしとどけられ。こなたよりも人質をつかはされ。両陣互に引払ひしとなん。(落穂集。武徳編年集成)
この対陣のとき。味方の内誰なりとも。鉄砲打かけて敵陣の様試みよと仰有しに。いづれも遅々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足軽めしぐし鉄砲持せてはせいで。その子彦助正吉は父が指物を相図として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覧じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ。御杖もて二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど。武道のうきやかなる様かな。彦助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを献りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小田原の北条が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだい/\〃と見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。浜松には稀なると見えたり。こゝにはあまたあり進らせんとて。だい/\〃を長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて献りけり。君小田原のものどもこの葉をあぢはひもせず。たゞだい/\〃とのみ思ひとりて。かゝるなめげの挙動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家国の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰られしとなり。(東武談叢)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覧じ。哀むべrし次郎助一定討死しつらんとのたまふ。こは丹羽次郎助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が為に戦て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬり黒糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人数押の声ゑいとう/\といふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊萬千代直政が赤揃一隊をやりすぎて。行伍の乱れしを御覧じ。あれとゞめよ。足並乱して備を崩すことがあるものか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。直政山を越て人数を押むといふに。広瀬。三科の両人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳来り。かかる事は若大将の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。君は竹山へ御上有し所へ。内藤四郎左衛門正成還来て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝりたまふべきやみだりの事ないひそと制す。主水いかに弥八。御辺は座敷の上の御伽噺や。会計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり。今日は御大将の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。君も咲はせたまひながら。さあ出んとて金の扇の御馬験を押立て進ませ給へば。敵は是をみて。さてこそ徳川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武蔵守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする内に鉄砲に中て死しければ。これを御覧じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立ていよ/\敗走する所に。永井傅八郎直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語、東遷基業)
池田。森の両将既に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳来り。龍泉寺の上の山に金の瓢箪の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戦難儀なるべきに。早く其機を察し引上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。君ははるかにかの馬印を御覧じて。
筑前頼み切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。榊原康政進み出で。仰のごとくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機会なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半蔵守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御帰陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を点じて居し所へ敗軍の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の辺にて軍の状を尋られしに。徳川殿は既に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をうち。さて/\花も実もあり。もちにても網にてもとられぬ名将かな。日本広しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後来長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が方寸にありといはれしとか。(渡邊図書小牧長久手記、落穂集)
按に一説に。このとき酒井忠次。秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の緒をしむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て残党全からずと申せば。唯今こそよき図なりといふ内に。敵はや柵を附たれば。明日は秀吉に降参したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を両様にいひ傅へしなり。
本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川数正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。既に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋に出て拝謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よく/\御見限ありしと申上れば。君われ身を二つに分たる心地して汝を小牧に残し置しゆへ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ。小幡に入らせたまひなり。(柏崎物語) 
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の様を伺しめしに。昼の程長途を馳来りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討かけて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いや/\とのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豊後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を触られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひしに。小牧へ御馬を入られしかば。誰も/\おもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日浜松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは。秀吉をうち得んと思ひてか。またはたゞ戦にかたせんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへなりと聞えあげしかば。われもさは思いし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。昼の戦に池田。森の両人を討しさへ。一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話別集)
按に菅沼藤蔵定政が譜には。既に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の様伺はしめしに。今にも襲ひ来らんよしいふ。よて藤蔵定政をめして。彼等がいぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬいで飯くひ居たり。今来らん様にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勧め奉れば。我もさこそは思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空塁なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。この戦に平松金次郎は。茜の羽織に十文字の鑓をもち。一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見参に入しかば御感あり。追討の時は鎌もて草を薙ぐが如しといへば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。」又大脇七兵衛は金次郎と同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次郎一番なりと仰ける所へ。七兵衛つとまいり。某も其場に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ様の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の様にて。汝がいふ所の如く是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしとなり。」又高井助次郎実重といひしは。其父蔵人実広今川の家臣なるが。桶狭間の戦に討死し。助次郎も亦氏真につかへ終始節を改めず。この戦に諸人いづれも高名したるに。助次郎一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏真の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戦に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしかば。助次郎は思ひよらず面目を施しける。」小笠原清十郎元忠は兼て弓篭手をこのみてさしけるを御覧有て。弓篭手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働のならざるものぞといましめたまひが。この戦に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され。左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしちなり。」又成瀬小吉正成このとき十七歳なりしが。敵陣に蒐入て首一取来て御目にかくれば。その勇を称せられ。唯今旗本の人数少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩れかゝる様をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成葉武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さず。君この躰を御覧じ。士の討死すべきはここなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを励しつゝ奮戦し。又首を得てかへりぬ。のちに正成が戦功を賞せられ。汝の働は宿将老師にもまされりとて。根来の騎士五十人を附属せられしとぞ。(感状記)
玉虫忠兵衛といひしは。甲州の城意庵が弟にて。信玄謙信に歴事し。後に當家に参りこの役にも供奉し。御行軍のさま拝覧して有しが。君忠兵衛にむかはせ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。君の御軍略は甲斐。越後にはおとらせたまふとも。御勇気の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末頼もしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上総介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりとて。御いかりあれて追放され。玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雑記、古士談話、大坂覚書)
初鹿野傅右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同国に入らせたまひしとき。傅右衛門さま/\〃走廻りて勲功有しかば召抱へられんとせしに。己が旧知の四百貫に。実父駿河が遺領二百五中貫の地を共に書入て。證状となして捧げしかば。兄弟後及第弥平次郎両人。傅右衛門が一人して父が遺領とらん様なしといひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の旧知のみをたまひければ。傅右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の内には。親兄弟の者を結び入てしるし出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかり賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人御前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん様もなしとて。さきに賜りし御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音吐てゐたり。このよし岩間大蔵左衛門聞付て。もとより傅右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世々武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其禄収公せらるゝとなり。かくて傅右衛門旧知にも離れ。流浪の身となりて宥しが。此度の戦にひそかに御陣に従ひ。三宅弥次兵衛正次と同じく敵の首取て。内藤四郎左衛門正成に就て披露をたのみけれども。御咎蒙りし者ゆへ。はばかりて聞え上ず。其折君はるかに御覧じ付られ。傅右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへす/\〃仰ければ。傅右衛門かしこさのあまり涙ながして拝伏す。其時弥次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傅右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。弥次兵衛も直実なるものよと。これも御賞誉を蒙りしなり。」小幡藤五郎昌忠は甲斐の小幡豊後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北条と御対陣のとき。平原宮内といふ者北条に志を通じけるよし露顕し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮内を切とむ。宮内倒ざまに払ふ刀に昌忠左の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のまじらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辞するに及ばずとて。もとのごとくめしつかはれたり。さてこの日の戦に昌忠敵の首二切て御覧にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて捧げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後近臣にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずといふをしらしめんとて。家人のとりしをば別に見せしめしならん。とかく甲州人には油断がならぬと仰られしとぞ。」又水野太郎作正重は己が隊下の同心。銃もて森武蔵守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて。正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覧じ。御馬廻に命じ。同じくかけ破らしむ。軍終てのち。今日の戦大久保忠佐こそ。先登して大功を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乗下せしは某なり。御ことは其折渡邊弥之助光と同じく久下に控られたり。余人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御辺は数度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御辺に似合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見届たりと申す。君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。」又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに。守綱鑓を落しければ。孫之丞敵の中けかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武蔵坊弁慶にもまされり。今より氏を武蔵と改むべしと仰有て。あらためしなりとぞ。(岩淵夜話別集、落穂集、家譜)
小牧対陣の折當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの宥しに。秀吉折しも碁を打て居られしが。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのごとく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどならば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戦ふなと仰られ。荷中に及び両陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝりたまはざりしといふに。君その折家臣どもは皆軍せよと勧めつれど。某は小牧より勢をこなたに引付て討むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戦はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良将のよく軍機を熟察有しは。期せずして符を合するごとくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戦話)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり柵をつくるを御覧じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝頼を待うけしに。勝頼血気の少年ゆへ陣をみだして切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ図に引付。鉄砲にて打すくめ。労せずして勝を得しなり。今秀吉その故智を用ひ柵などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝頼と同じたぐひの対手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穂集)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州清州におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ触しめらる。尊通といへる右筆その状をかきて御覧に入しに。可2出馬1とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可2出馬1とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機運なりとて。かきかへしめられしとぞ。」同じ城責のとき瀧川が内に。瀧川長兵衛といふ名ある者を捕へ来りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。當家の兵鋒日数重ねても撓むことあるまじと思ひ。城兵をのづから退屈すべしと思しめしてなり。」酒井忠次はこの城直に攻潰すべしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。君には城攻を忘れ給ふかろさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動静を伺はしむるに。此度一益秀吉に頼まれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞給ひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとてその旨仰つかはされ。且城将前田與十郎を切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のごとく一益をゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び。追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふとはゞ。秀吉方のものども思ひの外にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉。一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領内越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておはします。この後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく。湯まきめしながら御出馬あり。従ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。残卒はいまだ上り終らざる内に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書、小早川式部物語、老人雑話)
佐々内蔵助成政越路の雪をふみ分つゝ。さら/\越などいふ険難の地を歴て。ひそかに浜松へ来て。まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよ/\心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし。はる/\〃参着せしを労せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の旧好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政旧主の為に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの序に。君を信玄に比し。己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は己に秀吉と和せし上なれば成政が言に従はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降参せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次郎正長めして仰有しは。佐々は頗る人傑なり。かゝる者には知人になりて。その様見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおのこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇気にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ、(柏崎物語)
真田安房守昌幸。上田。戸石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。真田は信玄の小脇差といわれしほどの古兵にてあれば。さだめてかの城鵜も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の為に討れたれば。此度弔ひ合戦すべきなど思ひまうけしもしるばからず。彼がごとき小身ものに。五ヶ国をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科。蘆田などに扱せよと仰けれども。老臣強て申請により。大久保。鳥居などの人々に。二萬ばかりそへてつかはされしが。果して真田が為に散々打まけて還りしかば。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部弥次郎長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し。真田が様を見せよと命有て。長盛丸子に於て真田と戦ひしに。打勝て真田上田に引退しかば。ことに長鵜盛が戦功を御賞誉有しとなり。(御名誉聞書)
三河草創よりこのかた。大小の戦幾度といふ事をしらざれども。別に當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに従ひ機に応じて御指麾有しのみなり。長久手の後豊臣秀吉たばかりて。當家普第の旧臣石川伯耆守数正をすかし出し。数正上方に参ければ。當家にて酒井忠次とこの数正の両人は第一の股肱にて。人々柱礎のごとく思ひしものゝ。敵がたに参りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。盲に目のぬけしなどいふ譬のごとく。重ねて敵と戦はん事難かるべしと誰も案じ煩ふに。君にはいさゝか御心を悩し給ふ様も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめて浜松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直参のものをはじめ。直政に附属せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。様々採有し上にて尚又取捨したまひ。當家の御軍法一時に武田が規護(元字は矢篇)に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰広く伝へしめられたり。(岩淵夜話別集)
此巻は伊賀路の御危難より。長久手御合戦の後までの事をしるす。 
東照宮御實紀卷四 / 天正十七年に始り慶長八年に終る
豐臣關白軍威ますます盛にして。しらぬひや筑紫のはてまでも伐平らげ。島津義久も降參しければ。今は六十餘州のうちに東國の北條ばかりぞ猶從ハず。是により使を立て召けれどもさうなくうけひかず。(是より先に君北條と御和平有し時。甲信兩國は君の御領とせられ。上州をば悉く北條が領とすべしと約せられたり。然るに上州の內沼田は。眞田昌幸が領なればとて北條へ渡さず。よて北條より其旨君にうたへしかば。君眞田に沼田を北條へ渡すべし。其代地は别に賜ハるべしと仰下さるゝと雖。昌幸胸中甚奇險にてこれに從はざるのみにあらず。終に當家を去て豐臣家へ歸降せり。さるゆへに眞田が命に應ぜざる罪を討せられんとて。御勢を沼田にむけらるれば。秀吉ひそかに越後の上杉に命じ。眞田をたすけて御勢を拒ましむ。今度北條を關白より召によりて北條使を登せ。眞田が所領を引渡すべしと仰下されんには。氏政父子快く上洛せんと申により。今度は關白よりの命にて眞田も止事を得ず沼田を北條に渡す。然りといへ共其うち奈胡桃の地は眞田代々の葬地なればとて。是は眞田が方に殘したり。然るを程なく北條又眞田が留守の家人を追出し其地を奪ふ。眞田又是を憤り其旨を關白に訴へなげく。關白是に於て北條が反覆常なしと怒らる。これ終に關白東征の名を得る所。ひとり北條が代々關東を押領して。天朝に朝聘せざる罪を以てするのみにあらざるなり。)氏直今は姬君にそひまいらせしたしき御中なりければ。君もさまざまにこしらへて上洛を進め給ひしかども。氏直が父氏政はをのれ代々關東をうち從へ。一族廣く家とみゆたかなれぱ。世におそろしき者なしとのみ思ふいなかうどにて人の諫めをも用ひず。とかくして天正も十八年になりぬ。去年の程より關白は北條討るべしとて。兵粮の用意軍勢の催促など。いかめしく國々に觸わたさるれば。君も都にのぼらせたまひ。軍議どもおはしまして歸らせたまひしが。此春は若君(台廟の御事。)を都にのぼせ。關白にはじめて對面せさせたまふ。關白よろこび懇にもてなされ。この殿あまりにいはけなくわたらせ給ふを。久しく都にとゞめ參らせば。父亞相さぞうしろめたくおぼさるべしとて。直政を始め從者等に數々のかづけものしてかへさる。君は關白こたび若君を速にかへされしは。程なく關東へ軍を出されんに。我領內の城々をかりたまはむとの下心なるべし。其心せよと司々に仰下され。城々の修理加へ道橋おごそかにかまへ給ふ。やがて關白。こたび小田原を征せんとき君の城々をかし給はむ事を。みづからの消息もてこはせらる。君もとよりその御心がまへなれば。とみに其こひにまかせ給ふ。御家人等はいかでかうまでは。兼てよりはかりしらせ給ふらんと。いぶかしく思ひあざみたりとぞ。かくて彌生朔日關白內へ參り給ひ。年頃絕し例を引出し節刀など賜はりて二日都を立出給ふ。其勢は廿二万餘騎とぞ聞えける。君は如月十日駿河を出ます。御勢二万五千餘騎。あらかじめ軍令十三條仰下さる。(君御出陣に軍令を仰くだされしは。小田原と關原と二度のみなり。)教令最嚴なれば軍旅往來の道の煩もなく。御先手ははや由比倉澤邊へ着陣す。關白は十一日に三河の吉田川ををし渡らんとありし時。このわたし塲の奉行せし伊奈といふ男。この程日數へし長雨に川水いたく水かさそひてうづまきながるれば。軍勢をわたされんことかなふべからず。今しばし此所にとまらせらるべうもやと聞えあぐる。關白軍法に。前に川あらん時雨降て渡らざれ。は後に渡る事を得ずといへり。何かくるしかるべき必渡りなむと仰けるに。伊奈眼に角をたて。こは殿下の仰とも覺えず。雨をいとはず川を渡すは小軍の事なり。大軍暴漲を犯し川を渡らんとすれば。人馬沈溺少かるべからず。敵この風說を聞んに。十人を百人百人を千人と云つたへ。敵の心には勇をそへ。味方には臆をまねくものに候はんかといふ。關白手を拍て。亞相の家には賤吏といへども。皆軍旅の智識多しと感じ給ふ事大方ならず。其諫を用ひこゝに三日滯留ありて。十九日に駿府につかせらる。關白家に石田三成といふ功者あり。かれ讒謟面諛の奸臣にて。當時天下の諸侯諸士かれが舌頭にかゝりて。身をも國をも失ふものあげてかぞふべからず。かれ此地に到りコ川殿北條とはむすぼゝれたる中なればその心中はかりがたし。御心用ひなくてはかなふべからずと申けるにぞ。關白忽に疑を生じ駿府に入かね給ひけるが。淺野長政大谷吉繼等とかくこしらへて。關白も疑とけ城にいらる。廿七日には沼津につかれ。廿八日諸大將をともなひ敵地の要害を見巡り給ひ君をむかへて攻城の事をとひはかられ。やがて先北條が手のもの籠置たる山中の城を責落し。韮山の城をせめかこみ。時の間に箱根山を馳通り小田原の城に押つめらる。是よりさき伊豆の戶倉。泉頭。獅子M等の城々攻ざるに皆迯落て小田原へ籠る。城中にもさすが八州に名をしられたるおぼえの者共悉くあつまり。兵粮軍勢多くこめ置て堅固に守りければ。たやすくはおとさるべうも見えざりしが。君の御勢井伊直政眞先かけて宮城の口篠曲輪等を責破る。其上君の御計ひによて。北國は上杉景勝。前田利家等を大將とし。眞田小笠原等の諸軍勢上野國より攻入。松枝。深谷。本庄。安中。武藏の松山。川越。鉢形。三山等の城々を攻下し。御家人本多。鳥居。酒井等の勢は上州和田。板鼻。三倉。布川。藤岡等の城々を攻ぬき。上方勢と共に合して上總下總の廳南。廳北。伊南。伊北を始め四十八ケ所の城々皆責下し。武藏江戶。岩槻。忍。八王子等の城々も皆落す。それのみならず小田原にも松田某などいへる腹心の輩。寄手に內通するものも多ければ。いまは孤城守りがたく防戰の手だてをうしなひ。氏政氏直父子はじめ一族家人等皆降をこふをもて。氏政にははらきらせ。氏直をば助けて宗徒の家人をそへ高野山にをしこめぬ。さすが氏直は君の御むこなれば關白もさのみからくももてなされず。後には大坂によびよせ。西國にて一國をあたへんとありしが。
不幸にして氏直痘を病てうせければ北條の正統はこゝに絕ぬ。さて關白ハ諸將の軍功を論じ勸賞行ハる。駿河亞相軍謀密策。今度關東平均の大勳此右に出るものなければとて。北條が領せし八州の國々悉く君の御領に定めらる。(秀吉今度北條を攻亡し。その所領ことごとく君に進らせられし事は。快活大度の擧動に似たりといへども。其實は當家年頃の御コに心腹せし駿遠三甲信の五國を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆへは關東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇都宮。那須。常陸に佐竹等あれば。八州の內御領となるはわづかに四州なり。かの駿遠三甲信の五ケ國は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば加藤遠江守光泰を置。後に淺野彈正少弼長政を置。東海道要樞のC須に秀次。吉田に池田。M松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山內。駿府に中村を置。是等は皆秀吉服心の者共を要地にすえ置て。關八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず。又關東は年久しく北條に歸服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案內にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乘じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。されば御家人等は御國換ありとの風說を聞て大に驚き騷しを。君聞召。汝等さのみ心を勞する事勿れ。我たとひ舊領をはなれ。奥の國にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけるとぞ。果して八州の地御領に歸して後。彌我國勢强大に及び。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて爭ふべきにあらざりけり。)又御舊領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召よせ。關東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御發輿ありて。八月朔日江戶城にうつらせ給ひ。萬歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。抑此城といふは。むかし鎌倉の管領上杉修理大夫定政第一の謀臣太田左衛門持資入道道灌が康。正二年繩張し長祿元年成功せしが。文明十八年道灌うせて後は。管領より城代を置て守らせしに。大永四年小田原の北條のために攻とられ。此後は北條より遠山左衛門佐景政して守らせたり。然るに此度御勢共其城せめとらんとてむかひし時。遠山眞田などいへる者共忽に降參して此城を進らす。よて戶田三カ右衛門忠次にうけ取しめられしなり。げにも道灌さる文武の老練にて取立し城ゆへ。この頃まではいまだ規摸狹少なりしかども。四神相應最上の城地なりといふもことはりにこそ。かくてみうちの人々も駿府より俄に引うつる。七月の始にこのことはじまり。八月より九月はじめ迄に。五ケ國の御家人大小引拂ひたるよし關白も聞給ひ。いつにはじめぬ亞相の下知の神速さよと感にたへられざりしとぞ。やがて井伊。榊原。本多。酒井。大久保等をはじめ。當家に名ある輩みなしる所多く賜はりけり。關白は此ついでに奥の國いではの境までも打おさめんとて。先江戶におはしけるに。此城いまだ狹隘にて關白の宿らせ給ふべき寢殿もなければ。北郭平川口の法恩寺といへるを旅舘となされてさまざま饗せらる。關白會津K川の城までおはしけるに。伊達南部等の國人どもはとく小田原の御陣にまいりしたがひぬれば。なべて背く者もなく。其長月ばかりに歸洛せらる。十九年には奥の大崎葛西の地に一揆蜂起する聞え有により。關白再び出馬せらるべしと聞えければ。君も是をたすけ給はむとて。下總の古河までいたらせ給へば。一揆みな落うせて平らぎぬと聞ゆ。よてまづ御馬を江戶に納め給ふ。此事に座して伊達政宗重く罪蒙るべかりしをも。君とかくこしらへて政宗ゆるされ國にかへる。夏の末より其一揆又蜂起すれば。京よりは秀次を大將にて軍勢せめ下る。秋の始又君も御馬を出され。九戶などいへる城を攻落さる。この中に君は岩手山に新城をきつがせられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を收公せられ。葛西大崎の地にうつさるべきをあらかじめはかりしり給へば。その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。關白は朝鮮を討んとの思ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆづられ。其身は太閤と稱せられ。渡海の沙汰專らなれば。君も文祿元年二月に。東國諸大名の惣大將として江戶を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ。(秀吉足利氏衰亂の餘をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が强悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうやく一統し万民やゝ寢食を安んぜむとするに及ひ。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる說々あれども。實は此人百戰百勝の雄畧ありといへども。垂拱無爲の化を致すコなく。兵を窮め武を黷し。終に我邦百万の生靈をして異賊の矢刄になやませ。其はてハ富强の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して國力を虛耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ國亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め身後の虛名を求めんとして。終には身に益なく國に害を殘すもの少からず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)此いくさにひまなきほどに。年の矢は射るが如くに馳て文祿も四年に移りぬ。關白秀次ゆづりをうけしより万思ふまゝのふるまひ多かりしかば。人望にそむく事少からざりしに。太閤また秀ョとて齡の末に生れ出し思ひ子あれば。いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひなやまれける。其ひまを得て石田等の讒臣蠅の間言かさなりしかば。秀次終に失はる。この事に座して伊達。細川。淺野。最上などいへるもの等罪得べかりしをも。君よく大閤をときさとし給ひて平らにおさまりしかば。
此輩あつくかしこみ。いづれの時にかをのが命にかへても此御恩報ひ奉らんとぞはかりける。慶長元年五月八日には君內大臣にのぼらせ給ひ正二位にあがらせられ。御內に侍從二人諸大夫十八人までに及べり。十一日御任槐の御拜賀に御參內。牛車御隨身など召具せらる。三年五月五日大閤俄に心地惱ましと聞えしかば。京坂伏見さはがしき事物にも似ず。其身にも此病終におこたるまじく思はれければ。幼子秀ョの事をのみ思ひわづらはされ。さまざまの掟共さだめ沙汰せらる。まづは諸大名互に和らぎむつましからざれば。幼主のためあしかるべしとて。伏見の城に人々をよびあつめ。其事を石田等の奉行人して令しけるに。もとより恨をふくむやから互に和平する事をいなみつれども。君その所におはしさとし給へば。人々御威コにおそれすみやかにかしこまり申たるにぞ。太閤ますます君の御威コを感ぜられ。君を始め前田。毛利。上杉等の人々をまねき。ちかごとたて起證文かゝしめし中にも。君の御誓書はその身の棺中に納め葬るべしなど申をかる。初秋のころは其病いささかひまありとて君を病の牀にまねかれ。秀吉が命も今は旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に亂れぬべし。是を押しづめ給はむ人は。內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事ことごとく內府にゆづり進すべし。我子秀ョ成長の後天下兵馬の權をも執るべくは。いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに。君も御落淚ましまして。我淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲の後も秀ョ君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の爲に遺教をほどこさるべし。我に於ては决して此重任にあたりがたしと。再三辭退ましまし退き給へば。太閤ハいよいよ心を安ぜず。石田。搏c。長束などいへる腹心の近臣に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に讓られしは。堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣子劉禪を諸葛亮に託して。輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ。天下の兵權をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田搏cが詞にまどひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりとさる人の申置しが。今案ずるに此說是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說にまよひ前心をひるがへしたるにはあらず。烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が沒期の詐謀に陷り給ハざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且元に密諭せしは。我家亡びざらん樣にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたゝかひ。我かの兩國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十万の軍勢。一人も生て歸らん事思ひもよらず。もし希有にして歸る事を得たり共。彼國より此年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後誰有てか本朝の動きなからん樣にはかる者のあるべき。此事をよくはからんは。江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人彌本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ聖主も其勳を賞し給ひ。萬民も其コになづき其威におそれ。天下はをのづからかの家に歸しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀ョを輔佐して天下をとらんとはかり。此人と合戰を結ばゞ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絕ざらん事を思はば。相かまへて此人によくしたがひつかへて。秀ョが事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我家の絕ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふにこれも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し所にて。その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などには此沙汰なく。小臣の兩人に申置れたると見ゆるなり。)太閤兵馬の權をゆづり進らせむとありしをかたく辭し給ふにより。しからば秀ョ幼稚のほどは。天下大小の政務は君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀ョ保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主はたゞ此君なりと四民なびきしたがふ。石田三成始大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず。いかにもしてかたぶけ奉らん事を。內々をのがじゝはからひける。君は朝鮮に罷りたる十万の軍勢。つつがなく歸朝せん事を御心なやましく思ひはかり給ひしに。これも思召のまゝに事とゝのひ。軍勢ことなくみな歸り參る。其時島津父子が退陣の働すぐれたりとて義弘祿加へられ。その子忠恒をば四位にのぼせらる。奉行等は秀ョ幼稚の間。私に賞罰行はれん事いかゞなりとさへぎり申たれども。賞罰の沙汰なくしていかで政道を正すべきとて。かく仰定られしかば。奉行等ましてふづくみ憤る事やらむかたなし。とかく此君秀ョと同じ所におはしませばこそ。世の人望も歸するに似たれ。秀ョを大坂へ迎へとりなば。をのづから君の御威權も薄らぐべしと謀り。秀ョの生母をはじめ女房達をたばかり。四年睦月には秀ョを大坂へむかへとる。君も其御送りとして伏見より大坂へわたらせ給へば。其夜石田小西等密議し。明朝御歸路を襲ひ伐てうしなひ奉らんとす。されども井伊直政大勢を引具し。鐵砲に火繩かけて御迎に參りければ。大坂方の者共は案にたがひ手をむなしくしぬ。
かくて奉行等益姦謀をめぐらすに。今天下人望の歸する所。江戶內府と加賀亞相の上に出るものなし。しかれば兩雄を鬪はしめ其虛に乘じはからふにしかじとて。先毛利。浮田。上杉等の人々にはかり。利家にさまざま君の御事を讒訴す。其中にも君故大閤の遺令に違はせ給ふ事ありとて。利家等より使立て其旨を申進らせしむ。こゝに於て双方牟楯おこり。兵戰近きにあらんと京伏見騷動大かたならず。兼て志を通じ奉る池田輝政。福島正則。K田。有馬。藤堂等は日夜に御舘に參り。大坂よりもし押よする者あらんには。御味方して一戰せんと申たり。君には今何故にさる事のあるべき。各かくてあらば世の騷ぎを引出す事あるべし。唯とく歸り給へとぞ宣ひける。(前田コ善院この頃ひそかに人に語りしは。弓矢の挌樣々あるものなり。此頃の騷動に。信長ならばはやく岐阜へ引取給ふべし。秀吉公ならば三千か五千の人數にて直に切て出らるべし。それにあの內府公はさらにこの騷動を心にもかけ給はず。每日碁を圍て更に餘念も見え給はず。さてさて弓矢の挌の違し事よと感ぜしとぞ。)此頃は井伊。本多。榊原。石川。平岩の五人を隊將として御家人五隊に分ち。一組づゝ交代し京の御舘に勤番せしが。此春は榊原康政當番にて上洛するとて熱田邊まで來かかり。此騷動を聞とひとしく。汗馬にむちうち唯一騎にてはせのぼる。跡より追々馳のぼるもの七百餘人。康政膳所に來るとき直政が伏見より出せし飛脚に逢て。大坂よりはいまだ寄來る者もなしと聞先安堵し膳所に陣取。秀ョの仰と披露し勢多矢橋邊に新關を置三日が間往來をとゞむ。諸國にても此騷動を聞て。家々家人どもいそぎ來るとて。此關にとゞめらるゝもの幾千萬か數しらず。康政三日の未の時ばかりに關の戶をしひらけば。群集したる旅人雲霞のごとく京伏見に馳入る。康政其身小具足きて馬印押立。眞先に伏見へ馳參ず。京伏見には此形勢をみて。關東より內府の軍勢數限りなく入洛せしと風說すれば。石田はじめ奉行等これを聞。茫然としてたゞあきれたるばかりなり。其中に細川越中守忠興は利家の聟なれば。此事利家のため尤以て然るべからずと其子利長を諭し。堀尾。中村。生駒のやからとはかり。中に立て双方の平らぎを行ひける。やがて利家病をたすけ伏見にまかり御對面し。向島の御舘に引遷らせ給はゞ。彼地は要害もしかるべき所なり。不慮の變にそなへ給へなどすゝめ進らせ。心へだてずかたらひて歸る。君もやがて利家の大坂の舘におはしまし。先日利家が重病をつとめて伏見までまかりたるを謝し給ふ。利家二なくスび病をつとめて饗し奉り。我心地終に生べくも思はれねば。利長利政の二子が身の行末をョみ進らす。此夜は藤堂高虎が家にとまらせ給ふ。石田は同志のやからを會し藤堂が家をおそはんとせしが。これもとかくして其事もとげず。次の日伏見にかへらせ給ひ。やがて向島に引うつらせ給へば。福島。加藤。淺野。K田。蜂須賀。藤堂をはじめ。伏見にありあふ輩皆まうのぼり。武具馬具酒肴等とりどり奉り賀し參らす。大坂の奉行はさらなり毛利浮田などいへる者等も。日ごとに向島に參り御旨をこひ奉る。其うへこのぼどかの利家もうせければ。齒爵ともに君の上こすものもなく。御威望はありしにまされり。ここに又福島。池田。兩加藤。細川。淺野。K田等の七將は朝鮮にある事七年。その間粉骨碎身して苦辛せし戰功を。故大閤勸賞のうすかりしは。全く三成が讒による所なれば。今三成に其怨を報ぜんといかりひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置所をしらず。浮田。上杉。佐竹等はかねて三成としたしかりしかば。今この危急をすくハんには。內府の御旨を伺ひ御あはれみをこはざる事を得じとはかり。佐竹義宣深夜に三成を女輿にのせて伏見に參り。ひたすら御なさけをこひ奉る。そのほど福島加藤等の諸將は。三成とりのがさじと跡より追來る。されども君かひがひしく請がひ給ひ。七將の輩をもとかくさとし給ひ。三成をば職掌を削りて佐和山に蟄居せしめらるゝとて。佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる。(三成が大閤沒後に及び。烈祖を害し奉らんと謀りし事。いくたびとなく。當家の害となる三成に過たるものなければ。今度七將の輩三成を誅し怨を報ぜんとするこそ幸なれ。只今三成が年來の罪を糺明してこれを誅し。ながく禍をのぞき給ふべけれと。御家人等諫め奉りしかども。さらにさるみけしきも見え給はず。本多佐渡守正信は帷幄の謀臣なり。正信深夜御寢所に參り。さて殿は治部が事を如何思召やと申す。君聞召。其儀を兎や角やと思案してゐるぞと仰ければ。正信承り。御思慮遊ばし候とあればそれにてもはや安心せり。又何事をか申べきとて直に退出せりとぞ。これ等君臣の御擧動殆ど凡智のしる所にあらざるが如し。)三成佐和山へ蟄居せし後は。三成同意の輩は大に力を失ひ。御家人に阿諛して奔走す。長束搏cなどの奉行人等は毛利。宇喜多。上杉の三老に議し。內府天下の萬機を沙汰し給ふ事なれば。向島の御舘におはしまさんより。伏見の本丸を御住居になさせ給はんかと聞え奉る。君は我向島にすまゐするも利家のすゝめによれば。今三老幷に奉行中のすゝめならんには。ともかくも其指揮にまかすべしと仰られ。閏三月十三日伏見の本丸にうつらせ給へば。前田コ善院はからひて。大手をはじめ諸門の鎰ことごとく井伊直政に引渡す。これより後は伏見はひたすら御居城となりて。御家人等諸城門を警衛す。今は世のなかもことなくおだやかなれば。朝鮮在陣このかた勞をいこひ人馬の疲をも養はんため。諸大名各就封して國務をも沙汰すべきにやと仰下されしかば。浮田。毛利。上杉。前田等の諸大名をはじめ。生駒。中村。堀尾。幷に加藤C正。細川忠興等を思ひ思ひに暇賜はり歸國すれば。長束などいへる奉行共も。其しる所へ立かへらんとす。重陽には久しく秀ョ母子御對面なければ。大坂へ渡らせ給ひぬ。長束搏cひそかに淺野長政がはからひにて。土方大野などいへるを刺客として。
君大坂にいらせ給はむ時。害し奉らんと用意するよし告げ奉る。よて本多正信等。明日大坂城へ入らせたまふ事しかるべからずといさめ奉るといへども。井伊直政。榊原康政。本多忠勝等。かくては臆するに似たれば。たゞ其心がまへして御入城候はんにはしかじと申にしたがはせ給ひ。重陽には大坂城へいらせ給ひ。秀ョ母子へ御對面あり。井伊。本多。榊原等はをして寢殿まで進んで御側をはなれねば。城中には手を出すものもなくして。平らかに御旅舘に歸らせ給ひぬ。されどこなたもその御心づかひせられ。伏見の御人數を召ける。御留守に秀康卿おはしけるが。此城は我かくてあれば何の心づかひかあらん。番頭物頭までも其局を明て。片時もはやく大坂の御旅舘に馳參るべしと指揮し給ふ。此時卿の下知勢配りの樣聞召。君も吾には生れまさりたりとて。かつ感じかつスばせ給ふ事なゝめならざりしとぞ。今度君を害せんと謀りし首謀は。加賀中納言利長。淺野長政と謀を合せて。土方大野の兩人を刺客に命じたる事なれば。是等が罪をたゞされ後來をこらしめ給はずばかなふまじと奉行等聞え上しに。此事ひろくあらはに罪をたゞさむには。世のさはぎともなり。秀ョのためしかるべき事ならずと仰られ。まづ長政は所領に蟄居せしめ。大野土方はそれぞれにめしあづけらる。(是實は石田三成と長束搏c等がはかりて。利長長政を陷れて失はんとす。實は利長長政等は當家に親しみあれば。當家親眤の徒を離間せんと計りし事いちじるければ。わざと其罪をかろくとりなさせ給ひしものなるべし。)かくて奉行共にこの頃諸大名多く歸國し諸有司も數少き中に。日々伏見に行かよはんもさまたげ多ければ。我いまより大坂の西丸に住居して。萬機を沙汰せんはいかにと仰らる。長束搏c等もとよりいなみ奉るべきにあらず。このまゝ大坂に御住居ましまして。萬に沙汰し給はむ事。天下の大幸この上なしと御請し。俄に故大閤心いれて搆造せられたる西丸に。ことにことを添て修理を加へ迎へ奉れば。在大坂の大小名も日々西城にまうのぼり御けしきをとるにぞ。いよいよ天下の主とは見えさせ給ふ。かくて淺野。土方等それぞれに御かうじ蒙りしうへは。利長がこと捨をかるべからずとありて。ほどなく加賀國へ打て下らせ給ふべしと聞ゆれば。丹羽五カ左衛門長重こひ出で御先手を奉はる。このこと世中ゆすりみちて言のゝしるにぞ。細川忠興はじめ故利家此かた彼家にしたしみ深き諸大名より。利長のもとへ此旨をつげやるにぞ。利長大におどろき。山といふ家司をのぼせ。さらに思ひよらざる旨かへすべす陳謝し。其母芳春院を質に進らせけるにぞ事なく平らぎぬ。(是江戶へ諸大名の證人を進らせたる起本なり。)明れば慶長五年正月元日。大坂の西丸におはしまし。諸大名太刀折紙をもて歲首を賀したてまつる。秀ョの近習馬廻の諸士も。組々を分て五日迄拜賀に參る。其にぎはひにるものもなし。睦月の中旬に至り在大坂の大小名をめし饗せられ。四座の猿樂を催さる。貴賤袖をつらね參りつどふ。御威光故太閤の在世にことならず。石田三成佐和山蟄居の前より。上杉佐竹等と深くはかりかはし。時を得て上杉佐竹と牒し合せ。東國に謀反の色をあらはさんには。內府みづからこれを征せられんとて。打て下られん事必定なり。其時三成大坂へ馳參し秀ョ仰せと稱し。毛利浮田をはじめ西國諸大名をかたらひあつめ西より軍をすゝめ。內府を中途にさしはさみ討奉らんには。勝利疑なしと謀を決しける。景勝が家司直江山城守兼續これもさるふるつはものにて。三成と謀を合せたがひに其事をくはだてしが。今は時こそよけれと景勝をすすめ。領內砦々を取立て壘を高くし溝を深くし。舊領越後下野邊のク民をすゝめ。一揆を起させ騷動せしむれば。近國の領主代官大に驚き上杉叛逆の由。大坂へ注進櫛の齒を引が如し。上杉就封の後期をこえて上坂せざるゆへなれば。世のさはぎをしづめんため景勝はやく上坂すべしと。御使を下され召どもまいらざるのみならず。豐國寺の兌長老して。直江が許へ消息してその情を試給ひしに。兼續が返簡傲慢無禮をきはめしかば。今は御みづから征し給はでかなふべからずと仰下さる。大坂の奉行等は。幼君の代始にこは思ひよらぬ事なり。もし景勝實に叛逆するにもせよ。一二の大名をさしむけられんに何の恐れか候べき。御親征あらんは勿躰なしと留め奉る。(大坂の奉行等はみな上杉石田の黨類なれば。御親征を遲引して。其中には景勝が防禦の備を全からしめんとするものなり。)されど東征の英慮旣に決し給へば。いかでこれ等のことばになづみ給はむ。六月のはじめにハ西丸にあまたの大小名めしあはせられ。軍議旣に定まれば。十六日に大坂には佐野肥後守政信を御留守とせられ。大軍を召具し御出馬ありて。其夜は伏見の城にとゞまらせ給ふ。此城は鳥居彥右衛門元忠。松平主殿頭家忠。內藤彌次右衛門家長。松平五左衛門近正をとゞめて守らせらる。(君此時。當城へ殘し留る人數不足にて。汝等苦勞なりと仰ければ。元忠承り。某は左は思ひ候はず。天下無事ならんには。當城守護せん事某と五左衛門兩人にて事たり候べし。もし世に變ありて敵大軍を以て當城をかこまん時は。近國に後詰する味方はなし。とても城に火をかけ討死するの外は候はねば。御人數多く當城に殘し給はむ事。詮なしと申けるとぞ。)十八日伏見を首途し給へば。池田。福島。細川をはじめ。上方大名は都合五万餘の勢にて大坂を打立。追々奥へぞ下りける。兼てより軍令嚴重なりければ。農は耕し商は鬻ぎて敢て生產を失はず。行旅は避るに及ばず。万民スびかぎりなし。大津の城に立よらせ給へば。京極宰相高次晝飯奉る。今夜は石部の御旅舘にとまらせらる。長束正家水口に就封してありしが石部に參り。明朝ハ水口に立よらせ給ふべし。饗奉るべきよし申てかへる。其夜思召旨ありとて戌の刻俄に石部を立せ給ひ。長束へも去がたき事出來ていそがせ給へば。こたびは立よらせ給はず。御かへさに立よらせ給ふべしと。
御使して仰遣はさるれば。正家大におどろき御跡を追て十九日の晝土山の御休らひ所に參り。御名殘をおしみたてまつれば。御感のよしにて御刀賜はり。正家拜謝してかへる。(石田三成此時はいまだ佐和山に有しに。其謀臣島左近今夜佐和山より急に水口の御旅舘へ夜討をかけんといふ。三成聞てそれにも及ばす。兼て長束に牒し合せ置たれば。長束今夜水口にて謀を行ふべしといふ。左近天狗も鳶と化せば蛛網にかゝるたとへあり。今夜の期を過すべからずと是非に三成をすゝめ。三千人にて蘆浦觀音寺邊より大船廿餘艘に取のり。子刻に水口まできて見れば。はや打立給ふ御跡なりしゆへあきれはてゝ歸りしといふ。烈祖の三成をあしらひ給ふ事。三歲の小兒を弄ぶに異ならず。小人小黠もとより量をしらざるを見るべし。)此道すがら鎌倉の八幡宮にまうで給ひ。右大將家此かた世々の古跡を尋給ひ。江島の辨天金澤の稱名寺などとはせられ。七月二日江戶の城に入せ給ふ。(陪從せし上方大名は。海道を直に江戶へ着陣すべしと命ぜられ。鎌倉御遊覽には御家人のみ召具せらる。)程なく上方大名御跡より進發の輩も。やがて江戶へ着陣しければ。悉く二丸に召て大饗行はる。十九日中納言殿先江戶を御進發ましまし。榊原康政先鋒として下野の宇都宮に御着陣あり。御先手の諸大名。十三日より十五日までの間に。太田原邊まで着陣すべしと定められ。君は廿一日に御馬を出され。廿四日。小山に御陣をすゑらる。これは鎌倉右大將佐竹追討の佳例によられしとぞ聞えける。佐竹今度も會津もよりの事なれば。御先手にさされながら打立樣も見えざれば。重て御使を立られ御催促ありけれど。たやすくいらへも聞えず。然れば上杉に一味せしに疑なしとて。まづ那須一黨ならびに水谷。皆川。太田原等のやからには。そのをさへを命ぜらる。然るに池鯉鮒の宿にて。大坂の家人加賀井彌八カといへるもの。爭論して水野和泉守忠重を討。彌八カまた堀尾吉晴がためにうたれしが。吉晴も深手負しよし聞ゆ。(是は大谷吉隆がすゝめにより。三成ひそかに彌八カに命じ。秀ョより存問の使と稱し江戶へ下し。君御對面の席にて刺奉れとの事にて。彌八カを江戶へ下しける。然るに君いかで斯る詐謀に陷り給ふべき。御對面なければ彌八カむなしく歸るとて。道にて堀尾をあざむき忠重に會し。酒宴の席にて忠重を害し。堀尾をも討んとして其身伐れしなり。又三成は大谷吉隆。安國寺惠瓊等とはかり大坂へ馳參り。秀ョの仰なりとて諸國へ軍令をふれまはし。毛利宇喜田をはじめ小西。立花。島津等。すべて九國中國の大名小名雲霞のごとくよびあつめ。まづ伏見の城を攻落し。鳥居元忠以下を討取たるよし。追々小山の御陣に注進來れば。御供の人々おどろく事かぎりなし。君は諸將を御本陣にめしあつめられ。井伊直政。本多忠勝兩人もて上方逆徒蜂起の事を告られ。諸將妻子はみな大坂に置たる事なれば。うしろめたく案じわづらはれん事ことはりなり。速にこの陣中を引はらひ大坂へのぼられ。浮田石田等と一味せられん事更に恨とは思はず。我等が領內にをいて旅宿人馬の事はさゝはりなからん樣令し置たれば。心置なくのぼらるべしと仰下さる。諸將愕然として敢て一語を出す者もなかりし中に。福島正則すゝみ出。我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。內府の御ため身命を抛て御味方仕べしといへば。K田。淺野。細川。池田等はいふまでもなく。一座の諸將みな御味方に一决し。更に二心なき旨を申す。君も其座に出まし。諸將の義心を御感淺からず。さては彌會津に攻入て景勝を蹈潰し。其後上方へ進發すべきか。又は景勝をば捨置てまづ上方へ發行すべきかと議せらる。諸將みな上杉は枝葉なり。浮田石田等は根本なり。會津をすてゝ上方御征伐をいそがるべきにやと申ければ。彌上方御進發に决せらる。(これは前夜に秀康卿に議せられし時。卿いちはやく上方逆徒御征伐を進められしかば。旣に御治定ありし所なり。)しかればC洲吉田兩城は。敵地に近きをもて正則輝政先陣あるべし。引つゞき先手はC洲に着陣し。我父子出馬を待るべしと仰あれば。正則我居城C洲をさゝげ進らせ置ば。御家人に守らせ給ふべし。十万の軍資は兼て備置たりと申。山內對馬守一豐も。我も居城懸川をさゝげ置ば御旗本勢をこめをかれ。後陣を御心安く御進發あるべきなりと申にぞ。東海道に城もちし輩は。皆異口同音におなじ樣にぞ聞えあぐる。又秀康卿は是非上方の御先手奉はりたしと仰けれど。上杉は謙信以來こゝろにくきものなれば。汝が外これを押ふる者あらざればとて御跡にとゞめられ。秀康卿を總督にて伊達。堀。最上。蒲生。相馬。里見。那須黨を上杉のをさへにとゞめ給ひ。福島池田等の諸將に井伊本多を御眼代として差し添られ。七月廿六七日に野州を打立。各證人を江戶城にとゞめをき。八月朔日二日に江戶をたつ。君は小山御陣にて軍令ことごとく定られ。八月五日江戶へ歸らせ給ふべしと有しに。この頃の霖雨にて栗橋の舟橋をし流したりと聞召。是は會津征伐に諸軍往來のたよりよからんため設る所なり。今は用なしと宣ひ。乙女岸より御船にめし西葛西へ着せられ。七日に江戶へ歸らせ給ふ。かくて明日にも上方御進發あるべしと聞えければ。御供にされし御家人は。番所より直に發足すべき用意して。草鞋路錢を腰に付てつとめ。玄關前塀重門內には鎗立の栅木をまうけ虎皮の長柄をかざり。書院の床には御馬印をたてならべ。唯今にも御出馬あるべく見えながらいまだ御出馬もなし。御先手の諸將C洲に着陣して日數をふれば。御眼代にまかりたる直政忠勝兩人も。いかにせんかと思ひわづらふほどに。江戶より先手諸將の慰勞の御使とて村越茂助直吉をつかはされしが。折ふし風の御こゝ地にてしばし御出馬に及ばれざる旨のよしを傳ふ。加藤左馬助嘉明心さときものにて。我輩かくてむなしく內府の出馬のみ待べきにあらず。
いざ一戰して忠義をあらはすべしとかたりあひ。各手分して中納言秀信の岐阜の城をせめかこむ。城中にも百々木造などいへる古つはものありて。謀を設けふせぐといへ共。大軍大手搦手より攻入にぞ。遂には攻やぶられ秀信も降參す。さすが右府の嫡孫なればとて助命せられ。後に高野山に閑居ありてほどなくうせらる。先手諸將は直に大垣城に對し赤坂に陣とれば。井伊本多より此事江戶へ聞え上ぐ。よて御感淺からず各御書を賜ひ賞せらる。やがて九月朔日君江戶城を御出馬あり。此時石川日向守家成。今日は西塞とて兵書に重き禁忌とす。御出馬は御延引あらむにやといさめ申。君聞召西が塞ゆへ我東よりゆきて是を開くなりと仰られながら。御馬をすすめ給へば。衆人みな凡慮の及ぶ所ならずと感じ奉らぬ者なし。かくて櫻田までならせ給ふ所へ。岐阜より首桶到着せし注進あれば。搶緕尠蜻Oに置べしと命じ給ひて。芝神明の社にならせられ。拜殿にて其首共實撿し給ひ。搶緕宸ヨいらせられ住持存應先導して本堂へならせられ。ほどなく立出給ひ。直に御乘物にめされ。今夜は神奈川の驛にやどらせられ。こゝより又御書をC洲の諸將に賜はり御出馬を告らる。十一日熱田までわたらせられし時。藤堂和泉守高虎御迎に參り拜謁して御先にかへる。(高虎小山御陣所より暇賜はり御先へまかる時。今度先陣に打てのぼる諸將は。みなこれ豐臣家恩顧の者共なり。一旦の義により御味方に參るといへども。その實は心中はかりがたし。高虎が催し奉らざるほどは。かまへて江戶を御出馬あるべからずと密に聞え上しが。先手諸將岐阜城をせめぬくを見て。はや御馬をすゝめ給ふべしと申上しなり。十四日には赤坂へ御着陣あるべしと聞えしかば。かしこに在陣の諸將。手廻の人數ばかり召具し。呂久川の邊まで來り拜謁す。各この程の軍功を賞せられ。明日は八幡にかけ是非合戰を始むべしと仰られ。その日午刻赤坂につかせ給ひ。直政忠勝等兼て經營して待奉りし岡山の御本陣へいらせらる。此岡山といへるは。天武天皇白鳳のむかし大友皇子と御軍ありしとき。勝軍を奏せし行宮の地にて。今度又君御本陣となされ。昔は天皇此地に於て百王一系の帝業を中興せられ。今は君ここにして千載不朽の洪圖を開かせ給ふ。いとありがたきためしなるべし。逆徒は浮田石田をはじめ。かねてより大垣の城にありて赤坂の諸將と對陣し。打てやかゝらん待やたゝかはむと軍議に日を送りける。さるにても內府このほどは上杉と合戰最中ならん。上杉が吉左右いつか來らんとそらだのめしてある程に。內府御着陣ありと見え白旗若干見えたりといふもあり。軍勢雲霞の如くかさみたりといふもありて。城中狼狽なゝめならず。浮田石田等。しからば是を試んとて。浮田が家司明石掃部。石田が謀臣島左近等に人數をそへて。株P川邊に出して刈田せしむ。此邊中村。有馬。田中等が陣所に近かりかば。これ等の陣所よりこれを蹴ちらさんと人數を出し。株P川の堤上にて散々に戰ひける。御本陣より御覽じ。あの人數引あぐべしと命ぜられ。井伊直政承り。双方火花をちらし混戰する中へ乘入采配を打ふりふり。三家の人數を引まとひ物分れしたる擧動。敵も味方も聲を擧て稱美せり。大垣城中には浮田石田が先手明石島等歸り來り。內府御着陣ありし事疑なし。且急に合戰とりむすばるべき形勢なりと申せば。扨は城外南宮山に備へたる毛利宰相秀元。松尾山に備へたる金吾中納言秀秋が陣甚心元なし。この城へ敵より押の人數をさしむけざる先に諸將出城し。毛利金吾に力をそへずしてはかなふまじと軍議を決し。夜中大垣城を出で關原に陣をとる。(島津義弘この時弟中書豐久を使とし。今夜關原に出陣する事良謀とは思はれず。それより今夜中に內府岡山の本陣を襲伐んには義弘先陣すべし。浮田石田の兩將其時出馬せられ。無二無三に內府の先手へ切懸侯はん樣に下知し給へと申送りしかど。三成は茫然として是に答ふる事あたはず。島左近すすみ出で。夜討などは小勢を以て大軍を討に利ある事にて。大軍より小勢にむかひ夜討を仕懸る事は古今なき事なり。今度は天下分目の大合戰なれば。明日平塲にて一戰せむに。味方勝利は更に疑なき事に候と申ければ。其詞に諸將同意して。義弘が計は用ひざりしといへり。又一書に。浮田秀家は大垣城に在て寄手を引付戰て時日を送り。毛利輝元立花等が後詰を待て。前後より敵を討破るにしかじといふ。大谷吉隆も。浮田殿の詞は敵を大事に取ての事なれば尤然るべし。野が原に打出。一擧して敵を破らんとするは心元なしといひけれども。三成かたく前議を守りて變ぜざれば。秀家も三成が議を破る事あたはず。終に三成が議に决せりとも見ゆ。)明れば九月十五日。敵味方廿万に近き大軍關原野が原に陣取て。旗の手東西にひるがへり汗馬南北にはせちがひ。かけつかへしつほこさきよりほのほを出してたゝかひしが。上方の勢は軍將の指揮も思ひ思ひにてはかばかしからず。剛なる味方の將卒にきり立られ。其上思ひもよらず兼て味方に內通せし金吾秀秋をはじめ裏切の輩さへ若干いできにければ。敵方にョみ切たる大谷。平塚。戶田等をはじめ宗徒のもの共悉くうたれ。浮田。石田。小西等もすて鞭打て伊吹山に逃いり。島津も切ぬけ。其外思ひ思ひに落てゆけば。味方の諸軍いさみ進て首をとる事三万五千二百七十餘級。味方も討死するもの三千餘ありしかど。軍將は一人も討れざりしかば君御ス大方ならず。(大道寺內藏助が物語とてかたり傳へしは。凡關原の戰といふは。日本國が東西に别れ。双方廿万に及ぶ大軍一所に寄集り。辰の刻に軍始り。未の上刻には勝負の片付たる合戰なり。かゝる大戰は前代未聞の事にて。諸手打込の軍なれば作法次第といふ事もなく。我がちにかゝり敵を切崩したる事にて。追留などと云事もなく四方八方へ敵を追行たれば。中々脇ひらを見る樣な事ならずと見えたり。是目擊の說尤實とすべし。)君は今朝より茶縮緬の御頭巾をめされしが。
旣に敵皆敗走するに及び。御本陣にて床机に御腰かけられ勝て胄の獅しめよといふ事有とて。はじめて御兜をぞめされける。此時御先手の諸將ことごとく參陣して御勝利を賀し奉る。岡江雪御傍にて。まことに名將の御武コとは申ながら。日本國が二に分れたる大合戰なる所。ただ一日のうちに凶徒ことごとく追ちらされ。我々に至るまでも夜の明たらん心地す。あはれ御凱歌を行はるべきかと聞え上ければ。君聞召いかにもことはりなり。去ながら各はじめ諸將の妻子證人として大坂にあれば。心中を察して我又甚心ぐるし。もはや三日が間には我大坂へ攻のぼり。諸將へ妻子を引渡し安心せしめ。其上にて勝閧の規式をば行ふべしと仰ければ。これを承傳ふる大小名士卒厠役にいたるまで。げに仁君かなと感歎せざる者なかりしとぞ。十七日には諸勢三成が居城佐和山へ押よせ不日に攻落し。大垣に殘りし敵も皆降人に出ければ。君は十九日御陣を草津にうつし給へば。こゝに勅使參向ありて。今度おもはざるに天下兵革起り。四海鼎のごとく沸を以て叡慮をなやまさるゝ所。內府神速にはせのぼり。一戰に數万の凶徒を討亡す事。古今未曾有の武功といふべし。彌天下大平の政を沙汰せらるべしとの詔を傳へられ。公卿殿上人寺社商工等までも。思ひ思ひに御本陣に參賀するさま。簞食壺漿して王師をむかふる御威コ四海にかゞやけり。中納言殿には宇津宮より直に中山道にかゝりのぼらせ給ふ御道にて。信州上田の城を攻給ひしに。眞田昌幸かたく防て從はざれば。こゝに押の兵を殘し御道をいそがせ給ひ。この頃山道より大軍を引つれ御着陣。加賀黃門利長も北國を平らげ參着しければ。彌大坂城へいそがせ給ふ。これより先大坂城にては西丸に御留守せし御家人を追出し。毛利輝元入かはりて秀ョの後見と號し萬事を沙汰し。搏c長盛ハ秀ョを守護して本丸にありしが。輝元かねてより家司吉川が歸欵する上は。輝元一議にも及ばず城を出で木津の别業に蟄居し。搏cも降參して罪なき旨を陳謝す。今は秀ョ母子も薄氷をふむ心地する所。草津の御陣より御使ありて。今度の逆謀みな浮田石田等の姦臣等。私のはからひにて。幼稚の秀ョ元來あづかりしらるべきにあらざれば。更に御不審に及ばれざるよし仰つかはさるれば。母子ハいふまでもなく。城中男女初めて蘇生せし心地しス事かぎりなし。この後は秀ョ母子身上は御はからひにもるべからず。何事も御仁恕を希のみのよし使もて謝し奉る。君は廿七日大坂城にいらせ給へば。また勅使ありて御入城を賀せられ。京堺畿內の土人まで雲霞のごとく來賀し奉る。石田。小西。安國寺等は生擒られ誅せられ。其餘凶徒の城城。あるは降參し或は攻おとされ。中國九國にてはK田如水入道。加藤C正と志をあはせて。凶徒の城々せめ平らげて參着し。東國は上杉景勝が臣直江兼續等をして最上に攻入らしめしに。伊達政宗も最上を援けて戰しが。これも關原上方勢敗績すと聞て。兼續兵をまとめて引かへす。よて君大坂に於て今度の賞罰を沙汰せられしが。まさしく御敵となりし上杉。佐竹。島津等の人々さへ其願のまゝに罪をゆるされ。眞田昌幸なども。其子伊豆守信之が。軍功にかへて父が首つがん事を願ひければ。これもその願のまゝに聞召入られ。あるは本領安堵しまたは所領をけづられ。首討るべきものも多く助命せられ。萬ェ宥の御沙汰のみにて。世を安くおさめ給ひしェ仁といひ。大度といひ。かけて申もなかなかなり。又闕國も多かりしかば。御味方せし人々にわかち賜ふ。越前國は秀康卿。尾張國は忠吉朝臣。加賀能登越中三國は前田利長。安藝備後ハ福島正則。播磨は池田輝政。紀伊は淺野幸長。筑前はK田長政。筑後は田中吉政。備前美作は金吾秀秋。出雲隱岐は堀尾吉晴。豐前幷に豐後杵築は細川忠興。土佐は山內一豐。伯耆は中村忠一。若狹は京極高次。丹波は京極高知。伊豫松山は加藤嘉明。同國今張は藤堂高虎。因幡は池田長吉。飛彈は金森法印。猶あまたあり。此中にも足利學校の住職三要に仰ごとありて。貞觀政要。孔子家語。武經七書等を校正して梓にのぼせらる。戰國攻爭間もなく文學をさたし給ふ。是又ありがたき御事なり。明る六年二月には井伊直政。本多忠勝。奥平信昌。石川康昌等をはじめ。功臣の輩に祿あまたくはへ。江勢濃三遠駿上等の城々をわかち給ふ。其彌生中納言殿大納言にのぼり給ひ。御參內の日忠吉朝臣も侍從に任ぜらる。六月には膳所崎の城を築て戶田左門一西におらしめ。七月には蒲生飛彈守秀行に會津を給ふ。これ秀行が父宰相の舊領なりしが。今までは上杉の領せし所なり。九月には內院の御料。公卿殿上人の采邑を查定したまひ。板倉四カ左衛門勝重。加藤喜左衛門正次を京都にをいて大小の沙汰せしめ。其冬江戶に歸らせ給ひ。奥平家昌に宇都宮十萬石を給ふ。七年正月六日には君從一位にのぼらせ給へばやがて御上洛あり。大坂にも渡らせらる。五月御參內院參し給ひ。女院御所にて猿樂を催され。主上も御覽にわたらせらる。此八月御生母大方殿うせ給ふ。さる艱難の中にうき年月をすごさせ給ひしが。今かゝる御光にあはせ給ひ天下の孝養をうけ給ひ。古も稀なる齡に五とせまでかさねて。安らかに終をとらせ給ふいとかしこし。十一月には御五男武田万千代丸信吉のかた。下總國佐倉より常陸の水戶に移させ給ひ此月又都にのぼり萬機を沙汰せられ。明る八年正月には御九男五カ太丸を甲斐國に封ぜられ。池田輝政に備前一國を加へ給ひ。森忠政に美作國を賜ひ。御七男上總介忠輝朝臣は下總國櫻井より信濃國川中島に轉封せらる。すべて治世安民の御沙汰ならざるはなし。  
 
巻五

 

慶長八年二月に始り四月に終る 齢六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大将軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中弁光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勧修寺宰相光豊卿勅使として巳一点に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帯なり。雲客以上は城中玄関にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陰陽頭久脩御身固をつまふまつりて後。紅の御直垂めして午刻南殿に出給ふ。今日参仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。勅使にまづ御対面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事弁みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磐折して御昇進と唱ふる事二声。一揖して退く。次に広橋。勧修寺両卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事参仕の弁等は第三の間に左右に別れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近将監中原職忠征夷大将軍の宣旨を乱箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧て進む。大沢少将基宥請取て御前に奉る。御拝戴有て宣旨は御座の右に置。基宥乱箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裏入て基宥に授く。基宥是を持出て官務に授く。官務拝戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持参し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入る。直勝砂金一裏を入れ。基宥これを持出て大外記に授く。大外記拝戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隋身兵杖の宣旨大外記持出。次に淳和奨学両院別当の宣旨官務持いづる。其度ごとに乱箱に砂金一裏づゝ入て賜はる。次に職事弁等座を立。次に上卿勅使太刀折紙もて拝謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出て。三の間長押の内にて拝し。大外記以下は太刀を三の間の内に置て廣庇にて拝し。官務。出納。少外記。史も同じ。次に陣の官人。召使等太刀は献ぜず。廣縁にて拝して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(寛政重脩譜には。忠永此時未だ酒井の家に有て主水と稱すとあり)役送し。兼勝卿に金百両。御紋鞍置馬一疋。光豊卿に金五十両。鞍馬一疋遣はされてのち奥に入御あり。次に参仕の官人。召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下ありしなり。幕府に勅使を遣はされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大将家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に勅使を迎へ。三浦次郎義澄。比企左衛門尉能員。和田三郎宗實。郎従十人甲冑よろひて参りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拝受せられしこそ此儀の権輿とはすべけれ。足利家代々此職をうけつがれしかど。等持院。寳筐院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典礼儀注を講ぜらるるに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも応仁よりこのかたは。幕府また乱逆のちまたとなりぬれば。礼儀の沙汰もなし。こたびの儀は其絶たるをつぎ廃れしをおこされ。鎌倉。室町の儀注を斟酌して。一代の典礼をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記并に勧修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略にして漏脱多し。ひとり出納職忠記最詳なれば。今は職忠の記に従がひてこれをしるし。宣下記。勧修寺記。西洞院記の中にもはゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は當家典礼の権輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たび/\沿革ありて。いまにいたりて全く大備せしといふべし)つぎに勅使上卿を始め奉行職事弁を饗せられ。三寳院門跡羲演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町将軍家代々宣下のとき。出座して饗応の席に連る例なりしをもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。満済准后の鹿苑院将軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざるはなし。其中には室町家の実子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。かゝる大礼にあづかりし事と見えたり。此外にも室町家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この出座ありし義演准后といふも。霊陽院の猶子なりしとぞ)」この日越前中将秀康朝臣を従三位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による)」又板倉四郎右衛門勝重は京所司代たるにより。豊臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人を附属せらる。」又本郷治部少輔信富はその家代々室町将軍家につかへ。将軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利将軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝将軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狭の國本郷の所領を没落し。後に霊陽院義昭将軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(藩翰譜備考日勧修寺記。西洞院記。中原記。続通鑑。家忠日記。家譜。寛政重脩譜)」
○十三日秋元茂兵衛泰朝従五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅楽頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。寿七十八。此親正が先は参議房前に出で。数世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家号とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。
親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豊臣家に属ししば/\〃軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戸の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穂にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に転封せられその國鶴羽浦に住し。また丸亀の城にうつり。このとし堀尾帯刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豊臣家三中老の一人に定めらる。是より先従五位下して雅楽頭と称す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。文禄四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にひしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島。加藤等とおなじく海道を発向し。関原の戦にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に従ひ。家卒を出して丹後國田辺の城責に与力せしかば。関原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石余を賜ひ。丸亀を改めて高松の城にうつりすむ。親正はなまじゐに田辺の城責に人数を出しければ。其罪を恐れ高野山に逃のぼり薙髪して謝し奉りける。されど一正既に軍忠を著はし勧賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御ゆるしを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取りしとぞ。(家譜。藩翰譜備考。寛政重脩譜)
○十四日公卿殿上人伏見城に上り将軍宣下を賀し奉る。(西洞院記)
○十五日島津少将忠恒が使の家司拝謁して帰国の略賜はる。(天元実記)
○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するが如くにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一昼夜に日月蝕す。尤珍事とて喧噪す。(当代記)
○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純并に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次并に中坊飛騨守秀祐これをつとむ。大内よりは勅使として勧修寺右大弁光豊卿。広橋右中弁總光参向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて。蘭奢待をはじめ。紅沈香。麝香。人参。綾羅。錦繍。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。その外屏風。楽衣等五十の唐櫃に納め。千歳近く収蔵して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘蔵し給ふ所なり。足利将軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づつ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられしかば。當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫内朽損漏湿して古物の破壊せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純。長安等を監せしめ。定次。秀祐等奉行し。勅使参向して勅封をひらき。寳物を他所にうつし庫内を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を収貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。勅使ふたゝび参向ありて寳物を庫内に収め勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記)
○二十七日三河國鳳来寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壊す。天狗の所為なりと流言す。又山中宗徒死亡する者多し。(当代記)
◎是月井伊萬千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。」上杉中納言景勝卿江戸に参観す。櫻田に於て宅地を賜ふ。」又諸國の大名より各丁夫をめして。江戸の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに属する者三人。松平下野守忠吉朝臣を上首としてこれに属するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに属するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに属する者三人。本多中務大輔忠勝を上首としてこれに属する者四人。蒲生藤三郎秀湯行に属する者一人。伊達越前守政宗に属する者一人。生駒讃岐守一正に属する者十八人。細川越中守忠興に属する者十人。黒田甲斐守長政に属する者三人。加藤主計頭清正に属する者三人。(以上所属の徒詳ならず)浅野紀伊守幸長に属するものは。池田少将輝政。堀尾信濃守忠晴。蜂須賀長門守至鎮。山内対馬守一豊。加藤左馬允家盛。有馬玄蕃頭豊氏。中川修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(浅野家の書上による)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。」又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拝謁して。舊主直勝磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彦根村の金亀山は。湖水を帯て其要害磯山に勝るべしと命ぜられし上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歳なるが。父直政が器量によく似て雄略すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ来れと仰あり。守勝かしこみ悦ぶ事斜ならず。速にともなひ見参せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものの用に立べきものぞ。直に江戸へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰を蒙る。」又牧野傅蔵成里入道一楽ははじめ豊臣関白秀次につかへ。関白事ありて後石田三成に属し。関原の戦に石田が味方にて備しが。石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引具し。
大敵の中を切抜て池田輝政が備に来りしかば。輝政これを播州にともなひ帰り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに。その傅蔵は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戸に奉仕せしむため。酒井雅楽頭忠世にともなひ江戸へ参るべしと命じたれば。傅蔵も同じく江戸へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘気蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一楽は此後還俗して傅蔵と改む。」又松浦式部卿法印鎮信は壱岐隆信とて時に十一歳なるをともなひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎮信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。鎮信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。」又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇賜はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三郎左衛門安宗入道宗庵に賜はり。下総の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。」森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に転封せられたるをもて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稲荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。」又第十の御子長福丸のかた今年二歳にならせ給ふ。諏訪部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覚書。寛永系図。寛政重脩譜。家忠日記)
○三月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍従雅宣。勧修寺宰相光豊卿等参賀あり。この日水野孫助信光死して其子孫助信秀つぐ。(勧修寺記。寛永系図)
○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。」鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ参謁しければ。帰路諸驛の御朱印を下さる。(寛永系図。八幡古文書)
○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。(舜舊記)
○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(寛政重修譜)
○十一日永井右近大夫直勝を勧修寺宰相光豊卿のもとに御使して。御直慮の事を議せらる。よて叡聞に達する所。直廬は内廷に設るをもて規模とする事なれば。長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの内旨を。光豊卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく参りて両卿よりつたふ。(勧修寺記。貞享書上) 
○廿一日伏見城より御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚落の御館を二條に引うつさる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり)傅奏其外月卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拝謁す。廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿に御懇詞を加へらる。」この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築く事こふまゝに許されしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勧修寺記。作州記)
○廿三日小出遠江守秀家卒す。其弟五郎助三尹を世継として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豊臣太閤の外叔母なれば。豊臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家に仕へ。従五位下に叙し遠江守と稱し庇蔭料千石を授けらる。慶長五年上杉御征伐の時父秀政は老病に臥ければ。秀家に従兵三百人を加へて御供に侍はしめ。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大旆をかへされたるに秀家も御供す。関原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歳にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一萬石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて萬石以下の輩には傅をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその来歴を詳にせざることを得ず)」此日神龍院梵舜二條御所に出て御気色を伺ふ。(寛政重修譜。舊舜記)
○廿四日黒田甲斐守長政江戸より上洛し。二條の御所へまうのぼり拝謁す。
○廿五日将軍宣下御拝賀として御参内あり。其行列。一番は雑色十二人。切子棒鉄棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(これは御進献の品なり)下部これをもつ。公人朝夕十人左右に別れ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。朧(正しくは有扁に龍)二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭緤(正しくは革扁)をもつ。朧二人。笠持一人。長刀持一人。四番隋身。左山上彌四郎政次。島田清左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四郎正盛。渡邊半蔵重綱。鵜殿善六郎重長。横田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帯剣。弓箭をもつ。朧二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸太夫。風折直垂。太刀小刀を帯す。(これは帯刀のつとめにあたる)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狭守近次。戸田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。内藤出雲守某。七番御車。(糸毛なり)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御剣をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成瀬小吉正成。安藤彦兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豊島主膳信満。林藤四郎吉忠。高木善三郎守次。朝比奈彌太郎泰重。石川半三郎某。都築彌左衛門為政。右は米津清右衛門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。横田甚右衛門尹松。日下部五郎八宗好。長谷川久五郎某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊蔵忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九郎左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛騨守忠政。松平玄蕃頭家清。本多豊後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帯し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相忠興。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人従ふ。遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直次は路次行列の事を沙汰す。禁廷唐門に公卿出迎られ。昵近衆は直に従ひて長橋にいらせらる。御降車の時勧修寺右大弁宰相光豊卿御簾をかゝげ。四條左少将基宥御剣をとり。長橋の局もて御直廬代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拝賀あり。主上も殊に龍顔うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海大平の基を開く事。ひとへに将軍の武徳によると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拝謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。主上へ銀千枚。并に新大典侍の局へ三十枚。権典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局。大乳人へ三十枚づゝ。新内侍の局へ廿枚。伊よの局へ十枚。おこや。おまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。師の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。此時池田三左衛門輝政。福嶋左衛門大夫正則は少将に陞り。加藤主計頭清正。黒田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎮。山内対馬守一豊。井伊右近大夫直勝ともに従四位下に叙し。清正は肥後守。長政は筑前守。
一豊は土佐守。忠氏は出雲守と改む。従五位下に叙する者十七人。板倉四郎右衛門勝重は伊賀守。松平次郎右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狭守。三好久三郎可正は越後守。三好助三郎長直は備中守。佐々木藤九郎高和は民部少輔。松平長四郎正綱は右衛門佐。松平文四郎重成は志摩守。近藤七郎太郎政成は信濃守。加藤孫次郎明成は式部少輔。石川宗十郎忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三郎勝政は豊前守。内藤四郎左衛門正成は右京進。松前甚五郎盛廣は若狭守。相良四郎次郎長毎は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直次は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五郎作忠泰従五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豊後守にあらたむ。(将軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年録。續通鑑。寛永系圖。西洞院記。舜舊記。武徳大成記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。気譜。藩翰譜備考。寛政重修譜)
○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拝賀のため参内す。(将軍宣下記)
○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條関白兼孝公。一條前関白左大臣内基公。二條前左大臣昭實公。近衛左大臣信尹公。鷹司左大将信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に参向ありて今度の宣下を賀せらる。摂家親王は上段。其以下は下段にて御対面あり。」この日江戸にて内藤修理亮清成。青山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其他の代官并に領主を怨望して其地を逃去る時は。代官領主より其事を注進するとも。みだりに還住せしむべからず。逃散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣郷の賦税をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を。目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近郷の賦税に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事厳禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事を得ざる時は此限りにあらず。代官并に奉行所に再三目安をさゝぐるといへども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及ばず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事厳禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(将軍宣下記。制法留)
○廿八日禁中方々の女房より。将軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり。(西洞院記)
○二十九日諸門跡二條御所へ参賀せらる。」江戸に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひし故とぞ。(西洞院記。慶長年録。慶長見聞書)
◎是月細川幽斎法印玄旨は足利家代々に仕へければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有識のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽斎につきて武家法令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽斎足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傅禮式三巻をえらびて献ず。」又曾我又左衛門尚祐といへるが。これを足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故実に精熟せしかば。これより先めして御内書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰譜。明良洪範)
◎是春関西の諸大名は次第を追て江戸へ参り大納言殿に拝謁し。守家の御刀。眞長の御脇差をたまふ。時に五歳なり。」この頃江戸彌大都会となりて。諸國の人幅輳し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戯場を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ。其歌舞をもてはやす事風習となりけるに。大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其厳格に感ぜしとぞ。(創業記。寛永系圖。當代記。慶長見聞書)
○四月朔日日蝕することあり。(節蝕記)
○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(寛永系圖)
○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)
○五日二條御所にて猿楽催さる。(舜舊記)
○七日猿楽催さるゝ事五日におなじ。この時進藤権右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。この両人そのわざ堪能なればとて観世召具してまかり。権右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに観世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歳にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記、傅記)
○十日智積院に御朱印をたまふ。其文にいふ。学業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舎并に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせば。寺中を追放つべしとなり。(武家厳制録)
○十三日石野新蔵廣光死して其子新蔵廣次つぐ。廣光は長篠の戦に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具し。此年頃忍城を勤番せり。(寛政重修譜)
○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拝謁し。三光双覧抄の事御尋問あり。(舜舊記)
○十六日二條より伏見城へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)
○十七日伏見城にて将軍宣下御祝の猿楽催さる。」
けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子権左衛門政勝家をつぐ。(當代記、慶長年録、寛政重修譜)
○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代并に酒樽をさゝげ将軍宣下を賀し奉る。(當代記、慶長年録)
○廿二日豊臣大納言秀頼卿正二位内大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勘修寺宰相光豊卿大坂へ参向あり。秀頼卿には此時十一歳なり。江戸よりは青山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる。(西洞院記、家譜、當代記)
○廿八日御妹矢田姫君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七郎康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歳にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて。三河國法蔵寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る)」この日藤澤の清浄光寺遊行伏見に参り拝謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。(家譜、西洞院記、當代記、慶長見聞書)
◎是月池田少将輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戸に参り物多く奉る。大納言殿御感浅からず。酒井雅楽頭忠世を御使せられ。滞留の料として粮米を下され。こと更営中に召て御みづから御茶を賜ひ。辭見に及びて御刀及び虚堂墨跡。并に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され。帰國の時は大久保加賀守忠常。安藤対馬守重信をして箱根の関までをくらせ給ふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は帰路又伏見に参り拝謝して。藤松ことし五歳なり。成長するまでの間は兄新蔵利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(寛永系圖、寛政重修譜)
◎この春江戸に参観せし関左の諸大名辭見して伏見に参る。」又長崎の地は天主教の淵薮なればとて。天正十六年豊臣家の頃は。鍋島飛騨守某といへる者に所管せしめられ。文禄元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原為信入道一庵をその地の奉行に仰付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の権輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる、これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年禄。長崎記) 
東照宮御實記卷五 / 慶長八年二月に始り四月に終る御齡六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大將軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は廣橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中辨光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勸修寺宰相光豐卿勅使として已一點に伏見城に參向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帶なり。雲客以上は城中玄關にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陽陰頭久脩御身固をつかふまつりて後。紅の御直埀めして午刻南殿に出給ふ。今日參仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。勅使にまづ御對面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事辨みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磬折して御昇進と唱ふる事二聲。一揖して退く。次に廣橋勸修寺兩卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事參仕の辨等は第三の間に左右に别れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近將監中原職忠征夷大將軍の宣旨を亂箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧てすゝむ。大澤少將基宥請取て御前に奉る。御拜戴有て宣旨は御座の右に置。基宥亂箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裹入て基宥に授く。基宥是を持出で官務にさづく。官務拜戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持參し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入。直勝砂金一裹を入れ。基宥これを持出で大外記に授け。大外記拜戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隨身兵仗の宣旨大外記持出。次に淳和弉學兩院别當の宣旨官務持いづる。其度ごとに亂箱に砂金一裹づゝ入て賜はる。次に職事辨等座を立。次に上卿勅使太刀折紙もて拜謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出で。三の間長押の內にて拜し。大外記以下は太刀を三間の內に置て廣庇にて拜し。官務出納少外記史も同じ。次に陣の官人召使等太刀は献ぜず。廣緣にて拜して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(ェ政重脩譜には忠永此時未だ酒井の家に在て主水と稱すとあり。)役送し。兼勝卿に金百兩。御紋鞍置馬一疋。光豐卿に金五十兩。鞍馬一疋遣はされて後奥に入御あり。次に參仕の官人召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下有しなり。幕府に勅使をつかはされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大將家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に勅使をむかへ。三浦次カ義澄。比企左衛門尉能員。和田三カ宗實。カ從十人甲胄よろひて參りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拜受せられしこそ此儀の權輿とはすべけれ。足利家代々此職をうけつがれしかど。等持院。寳篋院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典禮儀注を講ぜらるゝに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも應仁よりこのかたは。幕府また亂逆のちまたとなりぬれば。禮義の沙汰もなし。こたびの儀は其絕たるをつぎ廢れしをおこされ。鎌倉室町の儀注を斟酌して。一代の典禮をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記幷に勸修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略にして漏脫多し。ひとり出納職忠記詳なれば。今は職忠の記にしたがひてこれをしるし。宣下記。勸修寺記。西洞院記の中にもほゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は當家典禮の權輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たびだび沿革ありて。今にいたりて全く大備せしといふべし。)次に勅使上卿をはじめ奉行職事辨を饗せられ。三寳院門跡義演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町將軍家代々宣下のとき。出座して饗應の席に連る例なりしをもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。滿濟准后の鹿苑院將軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざるはなし。其中には室町家の實子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。斯る大禮にあづかりし事と見えたり。この外にも室町家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この日出座ありし義演准后といふも。靈陽院の猶子なりしとぞ。)この日越前中將秀康朝臣を從三位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による。)又板倉四カ右衛門勝重は京所司代たるにより。豐臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人を附屬せらる。又本ク治部少輔信富はその家代々室町將軍家につかへ。將軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利將軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝將軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狹の國本クの所領を沒落し。後に靈陽院義昭將軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(將軍宣下記。勸參寺記。西洞院記。中原記。續通鑑。家忠日記。家譜。ェ政重修譜。)
○十三日秋元茂兵衛泰朝從五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅樂頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。壽七十八。この親正が先は參議房前に出で。數世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家號とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豐臣家に属ししばしば軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戶の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穗にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に轉封せられその國鶴羽浦に住し。また丸龜の城にうつり。このとし堀尾帶刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豐臣家三中老の一人に定めらる。是より先從五位下して雅樂頭と稱す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。
文祿四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にふしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島加藤等とおなじく海道を發向し。美濃國岐阜ク戶等の軍に武功をはげまし。關原の戰にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に從ひ。家卒を出して丹後國田邊の城責に與力せしかば。關原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石餘を給ひ。丸龜を改めて高松の城にうつりすむ、親正はなまじゐに田邊の城責に人數を出しければ。其罪を恐れ高野山に迯のぼり薙髮して謝し奉りける。されど一正旣に軍忠を著はし勸賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御免しを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取しとぞ。(家譜。藩翰譜備考。ェ政重修譜。)
○十四日公卿殿上人伏見城に上り將軍宣下を賀し奉る。(西洞院記。)
○十五日島津少將忠恒が使の家司拜謁して歸國の暇たまはる。(天元實記。)
○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するがごとくにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一晝夜に日月蝕す尤珍事とて喧噪す。(當代記。)
○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純幷に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次幷に中坊飛驒守秀祐これをつとむ。大內よりは勅使として勸修寺右大辨光豐卿。廣橋右中辨總光參向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて。蘭奢待をはじめ紅沈香。麝香。人參。綾羅綿繡。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。其外屏風。樂衣等五十の唐櫃納め。千歲近く收藏して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘藏し給ふ所なり。足利將軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づゝ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられしかば。當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫內朽損漏濕して古物の破壤せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純長安等を監せしめ。定次秀祐等奉行し。勅使參向して勅封をひらき。寳物を他所にうつし庫內を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を收貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。勅使ふたゝび參向ありて寳物を庫內に收め勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記。)
○二十七日三河國鳳來寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壤す。天狗の所爲なりと流言す。又山中衆徒死亡する者多し。(當代記。)
是月井伊万千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。上杉中納言景勝卿江戶に參覲す。櫻田に於て宅地をたまふ。又諸國の大名より各丁夫をめして。江戶の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに屬する者三人。松平下野守忠吉朝臣を上首としてこれに屬するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに屬するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに屬する者三人。本多中務大輔忠勝を上首としてこれに屬する者四人。蒲生藤三カ秀行に屬するもの一人。伊達越前守政宗に屬する者一人。生駒讃岐守一正に屬する者十八人。細川越中守忠興に屬する者十人。K田甲斐守長政に屬する者三人。加藤主計頭C正に屬する者三人。(以上所屬の徒詳ならず。)淺野紀伊守幸長に屬するものは。池田少將輝政。堀尾信濃守忠晴。峰須賀長門守至鎭。山內對馬守一豐。加藤左馬助嘉明。中村一學忠一。池田備中守長吉。山崎左馬允家盛。有馬玄蕃頭豐氏。中川修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(淺野家の書上による。)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拜謁して。舊主直政磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彥根村の金龜山は。湖水を帶て其要害磯山に勝るべしと聞え上しに御けしきにかなひ。さらばその金龜山に城築くべしと命ぜられし上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歲なるが。父直政が器量によく似て雄畧すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ來れと仰あり。守勝かしこみスぶ事斜ならず。速にともなひ見參せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものゝ用に立べきものぞ。直に江戶へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰を蒙る。又牧野傳藏成里入道一樂ははじめ豐臣關白秀次につかへ。關白事ありて後石田三成に屬し。關原の戰に石田が味方にて備しが。石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引ぐし。大敵の中を切拔て池田輝政が備に來りしかば。輝政これを播州にともなひ歸り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに。その傳藏は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戶に奉仕せしめむため。酒井雅樂頭忠世にともなひ江戶へ參るべしと命じたれば。傳藏も同じく江戶へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘氣蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一樂は此後還俗して傳藏と改む。又松浦式部卿法印鎭信は孫壹岐隆信とて時に十一歲なるをともなひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎭信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。
鎭信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇給はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三カ左衛門安宗入道宗庵に給はり。下總の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に轉封せられたるをもて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稻荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。又第十の御子長福丸のかた今年二歲にならせ給ふ。訪諏部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覺書。ェ永系圖。ェ政重修譜。家忠日記。)
○三月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍從雅宣。勸修寺宰相光豐卿等參賀あり。この日水野孫助信光死してその子孫助つぐ。(勸修寺記。ェ永系圖。)
○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ參謁しければ。歸路諸驛の御朱印を下さる。(ェ永系圖。八幡古文書。)
○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(ェ政重修譜。)
○十一日永井右近大夫直勝を勸修寺宰相光豐卿のもとに御使して。御直廬の事を議せらる。よて叡聞に達する所。直廬は內廷に設るをもて規摸とする事なれば。長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの內旨を。光豐卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく參りて兩卿よりつたふ。(勸修寺記。貞享書上。)
○廿一日伏見城より御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚樂の御舘を二條に引遷さる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり。)傳奏その外月卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拜謁す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿に御懇詞を加へらる。この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築事こふまゝにゆるされしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勸修寺記。作州記。)
○廿三日小出遠江守秀家卒す。其弟五カ助三尹を世繼として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豐臣大閤の外叔母なれば。豐臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家につかへ從五位下に叙し遠江守と稱し庇䕃料千石を授らる。慶長五年上杉御征伐のとき父秀政は老病に臥ければ。秀家に從兵三百人を加へて御供に侍はしめ。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大斾をかへされたるに。秀家も御供す。關原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歲にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一万石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて万石以下の輩には傳をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその來歷を詳にせざることを得ず。)此日神龍院梵舜二條御所に出で御氣色を伺ふ。(ェ政重修譜。舜舊記。)
○廿四日K田甲斐守長政江戶より上洛し。二條の御所へまうのぼり拜謁す。
○廿五日將軍宣下御拜賀として御參內あり。其行列。一番は雜色十二人。切子棒鐵棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(是は御進献の品なり。)下部是をもつ。公人朝夕十人左右にわかれ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。龓二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭鞢をもつ。龓二人。笠持一人。長刀持一人。草履取一人。敷革持一人。四番隨身。左山上彌四カ政次。島田C左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四カ正盛。渡邊半藏重綱。鵜殿善六カ重長。田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帶劔。弓箭をもつ。龓二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸大夫。風折直垂。太刀小刀を帶す。(これは帶刀のつとめにあたる。)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狹守近次。戶田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。內藤右京進正成。秋元但馬守泰朝。松平右衛門佐正綱。松平出雲守某。七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舍人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御劔をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成P小吉正成。安藤彥兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豐島主膳信滿。林藤四カ吉忠。高木善三カ守次。朝比奈彌太カ泰重。石川半三カ某。都筑彌左衛門爲政。右は米津C右衞門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。田甚右衛門尹松。日下部五カ八宗好。長谷川久五カ某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊藏忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九カ左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛驒守忠政。松平玄蕃頭家C。本多豐後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帶し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豐前宰相忠興。若狹宰相高次。播磨少將輝政。安藝少將正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人從ふ。
遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直友は路次行列の事を汰沙す。禁廷唐門に公卿出迎られ。眤近衆は直に從ひて長橋にいらせらる。御降車の時勸修寺右大辨宰相光豐卿御簾をかゝげ。四條左少將隆昌御沓を奉り。大澤少將基宥御劔をとり。長橋の局もて御直盧代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拜賀あり。主上も殊に龍顏うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海太平の基を開く事。ひとへに將軍の武コによると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拜謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。主上へ銀千枚。幷に小袖親王へ百枚。女院へ二百枚。幷に小袖。女御へ百枚。幷に新大典侍の局へ三十枚。權典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局大乳人へ三十枚づゝ。新內侍の局へ廿枚。伊よの局へ十枚。おこやおまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。帥の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。この時池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則は少將にのぼり。加藤主計頭C正。K田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎭。山內對馬守一豐。井伊右近大夫直勝ともに從四位下に叙し。C正は肥後守。長政は筑前守。一豐は土佐守。忠氏は出雲守と改む。從五位下に叙する者十七人。板倉四カ右衛門勝重は伊賀守。松平次カ右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狹守。三好久三カ可正は越後守。三好助三カ長直は備中守。佐々木藤九カ高和は民部少輔。松平長四カ正綱は右衛門佐。松平文三カ重成は志摩守。近藤七カ太カ政成は信濃守。加藤孫次カ明成は式部少輔。石川宗十カ忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三カ勝政は豐前守。內藤四カ左衛門正成は右京進。松前甚五カ盛廣は若狹守。相良四カ次カ長每は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直友は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五カ作忠泰從五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豐後守にあらたむ。(將軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年錄。續通鑑。ェ永系圖。西洞院記。舜舊記。武コ大成記。成功記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。家譜。藩翰譜備考。ェ政重修譜。)
○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拜賀のため參內す。(將軍宣下記。)
○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條關白兼孝公。一條前關白左大臣內基公。二條前左大臣昭實公。近衞左大臣信尹公。鷹司左大將信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に參向ありて今度の宣下を賀せらる。攝家親王は上段。其以下は下段にて御對面あり。この日江戶にて內藤修理亮C成。山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其地の代官幷に領主を怨望して其地を迯去る時は。代官領主より其事を注進するとも。みだりに還住せしむべからず。迯散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣クの賦稅をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近クの賦稅に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事嚴禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事を得ざる時はこの限りにあらず。代官幷に奉行所に再三目安をさゝぐると雖ども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及はず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事嚴禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(將軍宣下記。制法留。)
○廿八日禁中方々の女房より。將軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり。(西洞院記。)
○二十九日諸門跡二條御所へ參賀せらる。江戶に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひしゆへとぞ。(西洞院記。慶長年錄。慶長見聞書。)
◎是月細川幽齋法印玄旨は足利家代々につかへければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有職のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽齋につきて武家法令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽齋足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傳禮式三卷をえらびて獻ず。又曾我又左衛門尙祐といへるが。これも足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故實に精熟せしかば。これより先めして御內書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰譜。明良洪範。)
◎是春關西の諸大名は次第を追て江戶へ參り大納言殿に拜謁す。伊達越前守政宗が子虎菊伏見より江戶に參り大納言殿に拜謁し。守家の御刀。眞長の御脇差をたまふ。時に五歲なり。この頃江戶彌大都會となりて。諸國の人輻湊し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戱塲を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ其歌舞をもてはやす事風習となりけるに。大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其嚴格に感ぜしとぞ。(創業記。ェ永系圖。當代記。慶長見聞書。)
○四月朔日日蝕することあり。(節蝕記。)
○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(ェ永系圖。)
○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○五日二條御所にて猿樂催さる。(舜舊記。)
○七日猿樂催さるゝ事五日におなじ。この時進藤權右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。
この兩人そのわざ堪能なればとて觀世召具してまかり。權右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに觀世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歲にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記。傳記。)
○十日智積院に御朱印をたまふ。其文にいふ。學業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舍幷に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせは。寺中を追放つべしとなり。(武家嚴制錄。)
○十三日石野新藏廣光死して其子新藏廣次づく。廣光は長篠の戰に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具し。此年頃忍城を勤番せり。(ェ政重修譜。)
○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拜謁し。三光双覽抄の事御尋問あり。(舜舊記。)
○十六日二條より伏見城へかへらせ給ふ。(御年譜。西洞院記。)
○十七日伏見城にて將軍宣下御祝の猿樂催さる。けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子權左衛門政勝家をつぐ。(當代記。慶長年錄。ェ政重修譜。)
○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代幷に酒樽をさゝげ將軍宣下を賀し奉る。(當代記。慶長年錄。)
○廿二日豐臣大納言秀ョ卿正二位內大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿大坂へ參向あり。秀ョ卿には此時十一歲なり。江戶よりは山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる。(西洞院記。家譜。當代記。)
○廿八日御妹田姬君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七カ康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歲にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて。三河國法藏寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る。)この日藤澤のC淨光寺遊行伏見に參り拜謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。(家譜。西洞院記。當代記。慶長見聞書。)
◎是月池田少將輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戶に參り物多く奉る。大納言殿御感淺からず。酒井雅樂頭忠世を御使せられ。滯留の料として粮米を下され。こと更營中に召て御みづから御茶を給ひ。辭見に及びて御刀及虛堂墨跡。幷に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され。歸國の時は大久保加賀守忠常。安藤對馬守重信をして箱根の關までをくらせたまふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は歸路又伏見に參り拜謝して。藤松ことし五歲なり。成長するまでの間は兄新藏利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
◎この春江戶に參覲せし關左の諸大名辭見して伏見に參る。又長崎の地は天主教の淵藪なればとて。天正十六年豐臣家の頃は。鍋島飛驒守某といへる者に所管せしめられ。文祿元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原爲信入道一庵をその地の奉行に仰付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の權輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる。これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年錄。長崎記。)  
 
巻六

 

慶長八年五月に始り九月に終る
五月四日小笠原越中廣朝死してその子権之丞某家つがしめらる。(寛政重修譜)
○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死するもの多し。(當代記)
○七日下野國烏山城主成田新十郎重長。父左衛門長忠に先立て卒す。(断家譜)
○十九日大内より廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿御使として薫袋五十進らせらる。」この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁し。神祇道并に日本記の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記)
◎是月もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姫君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年老たりとて辞退し山林に世をさけて。ことし七十五歳終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめられしなり。」佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。」毛利黄門輝元入道宗瑞江戸に参り大納言殿に拝謁す。(寛永系圖、寛政重修譜)
○六月二日瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進する使に逢てかへり来り。其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更抜擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(寛永系圖、寛政重修譜)
○六日武田五郎信吉君(御五男)の老臣等より藤澤の道場へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門内にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては厳科に處すべしとなり。其連署の老臣は帯金刑部助君松。河方織部永養。近藤傅次郎吉久。宮崎理兵衛三楽。馬場八左衛門忠時。萬澤主税助君基といふ。(鎌倉古文書)
○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衛正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各々別に采邑賜はりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ。(寛政重修譜)
○十一日戸澤九郎五郎政盛始て就封の暇賜はり時服を下さる。(寛政重修譜)
○十五日長福丸の方伏見城にて髪置の式行はる。(紀藩古書)
○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四郎兵衛重次家をつぐ。(寛政重修譜)
○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る。(舜舊記)
○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覧にならせらる。(西洞院記)
(志那は大津の湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絶ざる所といふ)(近江輿地誌)
◎是月大納言殿の北方(崇源院殿の御事)御長女千姫君をともなひ御上洛あるべしとて。その御首途に先青山常陸介忠成が許へわたらせられしかば。大納言殿にも同じくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干もの賜はり。終日御遊ども数をつくされて帰らせ給ふ。北方。姫君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明て帰らせ給ひぬ。やがて江戸をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御対面あり。これは姫君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いちけなき姫君一人を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びて。さしそひのぼらせ給ひしとぞ。(寛政重修譜、家譜、家忠日記、渓心院文)
○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜、西洞院記)
○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)
○六日一條前関白内基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拝謁せられ。御宴ありて御物語数刻に及ぶ。(西洞院記)
○七日観世宗雪江戸にまかりしかば。この日江城にて猿楽催さる。(當代記)
○八日大坂より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿楽催され饗応せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姫君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記)
○十日神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ。(舜舊記)
○十二日又おなじ。(舜舊記)
○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歳。父が家つぎて直に拝謁せしめらる。(寛永系圖)
○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ(御年譜、家忠日記)
○廿四日連歌師里村紹叱没す。歳は六十五。紹巴が死せしのちは。新治筑波の道にをいて海内の宗匠と仰がれ。柳営年々の御會にも必召れし所なり。(寛永系圖)
○廿五日諸大夫以上の輩登営して拝謁す。」近江國膳所の城主戸田左門一西今年六十二歳なりしが。居城の櫓にのぼり顛墜して頓死せりとぞ。(重修譜は寛永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたがひ。重修譜の説はとらず)其子采女正氏鐵に遺領三萬石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝頼と御合戦のとき。敵将廣瀬郷左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豊が陣をつき破る。長篠の戦には酒井忠次等と共に鳶巣山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し。敵追来るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣場を嶮点し。十八年小田原御陣には。青山虎之助定義とおなじくすゝみ戦て功あり。関東にうつらせ給ふ時。武蔵國鯨井にて五千石の采邑をたまはり。
慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に大納言殿御前において聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし従五位下に叙し。近江國大津の城主になされ。二萬五千石加へられ三萬石たまはり。そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年(寛永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり)大津の城は山口近くして要害の地にあらずとて。新に同國膳所崎に城くづかしめて。一西これが主たらしめられ4しなりとぞ。(西洞院記、當代記、寛政重修譜、藩翰譜)(家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず)
○廿七日将軍塚鳴動すること二声。(西洞院記)
○廿八日千姫君(時に七歳)この日内大臣秀頼公の大坂城に御入輿あり。伏見より御船にて大坂にいたらせたまふ。御供船数千艘引つゞく。この間十里ばかり両岸の堤上。東方は辻堅として関西の諸大名とり/\〃警衛し。西岸は加賀中納言利長卿の人数のみ戒厳専ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島辺を警衛す。こと更黒田甲斐守長政は弓鉄砲の者三百人づゝ出して戒厳し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に槌鍬もたせ出し。御船に先立て水路の厳石をうがち游滓を通じ。御船の渋滞なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぼらせたまふ。大坂城にては大久保相模守忠隣御輿を渡し。浅野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄関までに畳をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。将軍家は専ら倹素をこのみ華麗を悪みたまへば。さる結構ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姫君に附られ執事役命ぜらる。」此頃大坂にては。今度姫君御入輿ありてはます/\将軍家より秀頼公を輔導せられ。後見聞え給に。四海いよいよ静謐たるべしといへども。将軍家の威徳年を追て盛大になり。ことに将軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はこと/\〃く一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戸に出し置て其身年々参観す。これをおもふに天下は終に徳川家の天下となりぬ。さりながら故太閤数年来恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豊臣家に対して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと会議して。故太閤恩顧の大小名を城中に会集し。今より後秀頼公に対し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ血誓せしむ。この事は福嶋左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豊臣氏滅亡の兆とぞしられける。」此日信濃國郡代朝日寿永近路死して。其子十三郎近次家つぎ後に大番になる。(創業記、家忠日記、西洞院記、寛政重修譜、武徳偏年集成)
○廿九日山城國常在光寺の事により相国寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の内にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(国師日記)
◎是月大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませ給ふ。これを初姫君と申しまいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姫君ひとり落陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば。江戸にかへらせ給ふもいかゞなりとて。いまだ伏見にまし/\ながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尼のもとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狭守忠高にそはせたまひしはこの姫君なり。」このころ佐渡の国人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田佐太郎は切腹し。会沢主税は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九郎左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を検視せしめらる。(家忠日記、渓心院文、佐渡國記)
○八月朔日たのもも御祝として。大内へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名もうのぼり当日を賀し奉る。」石見國の土人安原傅兵衛おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鉱を捜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして掘らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を掘出て上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傅兵衛は一間四面の洲濱に銀性の石を。蓬莱のかたちに積あげ車にて引てささぐ。ことに御感ありて参謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて称歎せざるものなし。(御湯殿上日記、銀山記)
(世につたふる所傅兵衛(一に田兵衛に作る)備中早島の産なりしが。年頃銀山を捜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同国清水寺の観音に参籠して祈請丹誠を凝しける。七日にみつる夜不思議の霊夢を蒙り。鏈を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て。其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて掘はじめしに。銀の出ることおびたゞしく。年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸国の者あつまり来り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都会となり。傅兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覧にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の府庫に納る税銀は。車をもて引事を佳例に傅へたりとぞ)(銀山記)
○二日大内より御たのむの御返しとて物進らせらる。」
この日三河国寶飯郡豊川村辨財天祠の別当三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河国寶飯郡馬場村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭礼等怠慢すべからずとなり。(御湯殿上日記、可睡斎書上)
○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傅兵衛が積年銀鉱のことに心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰下さる。(銀山記)
○五日遠山民部少輔利景に美濃国志那土岐両郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまはる。」安原備中改称を謝し奉り伏見へもうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落涙におよぶ。(貞享書上、銀山記)
○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戸中納言頼房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上総の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環斎が女なりしを。入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官蔭山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後には勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼と聞えしなり。」この日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。(家忠日記、以貴小傅、舜舊記)
○十一日堀田若狭守一継より千姫君婚礼を賀し進らせければ。大納言殿より一継に御書をたまふ。(古文書)
○十四日下総国関宿城主松平因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子にて。はじめ三郎太郎と称す。母は伝通院殿なり。永禄三年五月十八日(重修譜は寛永系図により三月につくる。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ)久松が尾張国智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御対面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見参せしめられしかば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三郎太郎。源三郎。長福三人みな松平の御家号をゆるされ。三郎太郎御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河国西郡の城を父俊勝にたまはりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城をあづかる。元亀三年三方が原の役には。其身苦戦し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐国に御進発の時従ひ奉りて駿河国沼津の城を守り。又尾張国床奈部の城を攻落し。長久手の役には床奈部の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも従ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をうけて北條が累代の家人武功の者を捜索しいぇ家臣とす。是年下総国関宿の城主になされ二萬石をたまふ。十九年陸奥国九戸の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて。下野国小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二萬石を加へて四萬石になされ。是年叙爵して因幡守と称す。
慶長五年関原の役にはとゞまりて江戸城を警衛し。七年伝通院殿の御ためにとて関宿の地に仏宇をいとなみて光岳と号す。ことしけふ五十二歳にて卒せしなり。」又御弟三郎五郎家元卒せらる。これは大樹寺御湯殿女房の腹にまうけ給へる御子なりしが。十三歳の時より足なへて行歩かなはせられず。外殿にも出まさずして。けふ卒せらる。五十六歳なりし。法号を正元院といへりとぞ。(寛永系図、寛政重修譜、大樹寺記、薨日記)(此人の葬地も詳ならず。又法号も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず)
○十八日三河国大濱の長田八右衛門白吉死す。寿八十四。其子喜六郎忠勝はこれよりさき別に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが。天正十年六月和泉国堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢国白子に着御あり。白吉が大濱の宅におゐて饗し奉りしとぞ。」この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上、寛政重修譜、舜舊記)
○廿日三河国額田郡妙心寺寶飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀬間村にて七石五斗。遠江国長上郡神立神明に蒲郷にて三百六十石。豊田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡応賀寺に中郷にて三十八石。清源院に中郷にて十七石。各社領寺領を寄附したまふ。(寛文御朱印帳)
○廿一日遠江国府八幡宮に同国豊田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(寛政重修譜)
○廿二日三河国碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(寛文御朱印帳)
○廿四日美濃衆高木権右衛門貞利死して。その子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇蔭料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(寛政重修譜)
○廿六日三河国額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。寶飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。革井寺に牛窪郷中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。厚み郡常光寺に堀切郷にて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印を賜ふ。(寛文御朱印帳)
(世につたふる所。西明寺はもと最明寺と書たり。この日住僧御前にめして。最明寺は。ことさらの霊跡といひ。鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境内悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊弥陀仏は。こと更その由緒をもしろしめしたれば。この後西明に改むべしと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり)(寺傅)
○廿七日島津少将忠恒薩摩国より。宇喜多前中納言秀家。其子八郎秀親に。桂太郎兵衛并に正興寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に処せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するのみならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を減じ遠流に定められ。先駿河国に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は関原にて大敗せしかば。伊吹山に逃入しかども。従卒みな逃失てせんかたなく。やう/\と饑喝を忍び薩摩国へ落くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられしに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主従別れ/\にかくれ忍びて行衛をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隠る所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を賜ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘蔵せし鳥飼国次の脇差いかがなりけむかと御尋ありしに。正次関原の辺にて捜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。徳山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きが故に。己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記、家忠日記、貞享書上、宇喜多記、寛政重修譜)
(正次がこと浮田家記。落穂集。東遷基葉。坂板卜斎覚書等の説大同小異なるがゆへ。今は寛永系図。重修譜によりて其大略を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑給はりしを慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑給はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せず)
○廿八日三河国加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方広寺に井伊郷奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石。遠江国周知郡一宮に一宮郷にて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(寛文御朱印帳)
○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超誉住職せられし地なり。かつ當家代々の御宗門浄土宗の本山なればなるべし。(舜舊記)
◎是月伊達越前守政宗江戸より暇賜はり就封し。去年新築したる仙台の城にうつる。よて鷹并金若干を賜はる。」又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乗に賜はる。しかりといへども一乗幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相模守忠隣。青山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上、寛永系図)
○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記)
○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河国久能山に下らしむ。彌死罪を減ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上)
○三日豊後国臼杵城主稲葉右京亮貞通卒しければ。長子彦六典通に遺領五萬六千石をつがしむ。この貞通は故伊予守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしば/\〃軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豊臣家に属し。太閤の軍にしたがひ又戦功少からす。天正十五年の冬従五位下侍従に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長五年の秋大坂の奉行等が催促に隋ひ。我身は犬山の城を守りしが関東に通じ。東軍尾張国にいたると聞て。井伊直政。本多忠勝がもとに使立て御味方に参るべきよし申す。八月廿日かくともしらで遠藤。金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通かねて関東の御味方に参りたり。されども猶合戦の勝負を決せられんとにやといはせければ。金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞えければ。貞通既に御味方に参るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代伝領の地なれば。下し給ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には別に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五萬六千石を領し。この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歳は五十八とぞ。」この日また松平長四郎正永初見す。(寛政重修譜、家譜)
○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は。足利左馬頭義氏が二男左馬頭義継。三河国吉良の庄を領せしより吉良と号す。その十一代の孫左兵衛佐成高武蔵国世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と号す。成高が子左兵衛督頼康。其妻は北條左京大夫氏綱が女也。その子氏朝に至るまで北條に従がひてありしが。北條亡びてのち上総国生実に逃る。関東やがて當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戸へうつらせ給ひし時。氏朝江戸に参りはじめて見参す。その子源六郎頼久に上総国長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(寛政重修譜)
○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢両宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは応仁このかた四方兵か革の中なりしゆへ。伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開基清順尼。豊臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家厳制録、続通鑑)
○十一日武田五郎信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ満千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と称す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ。天正十八年下総の小金にて三萬石給はり。文禄元年同国佐倉の城主になされ四萬石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こもりおはしけるが。慶長七年十一月常陸国水戸に転封せられ十五萬石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。浄鑑院と法号して水戸城内の心光寺に納めらる。(延宝七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地にひきうつされ。向山に於て浄鑑院をいとなみ香火院とせらる)世つぎなければ封地は収公せらる。よて伏見江戸に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゝふ。」又三河国額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河国額田郡妙大寺村の内。寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り。先規の如く寄附せられ。竹木諸役免許せらる。仏事勤行懈怠あるべからずとなり、」又同国渥美郡興福寺にも。吉田郷のうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院は清康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり)」此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜、家忠日記、藩翰譜、慶長年録、寺伝、寛永系図)
○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(寛政重修譜)
○十九日遠江国敷智郡普済寺に浜松寺島村にて七十石。大通院に浜松庄院内門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田郷にて三十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。浜名郡金剛寺に中郷にて五十石。蔵法寺に白須賀村にて十三石。豊田郡宝珠寺に岡田郷にて三十二石九斗餘。幡豆郡法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡斎書上)
○廿一日遠江国榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡斎書上)
○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(寛永系図)
○廿五日三河国宝飯郡上善寺に牛窪村にて廿石。遠江国豊田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡最福寺に原谷村にて廿五石餘。青林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。仙名郡海江寺に掘越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に苫野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豊田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲斎に野辺村にて十五石。玖延寺に二俣郷珂蔵村にて二十石。増参寺に向坂村にて十三石。学圓寺大宝寺に高岡惣領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野辺村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寛文御朱印帳)
(世に伝ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虚空蔵菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに天下を平均し。萬民水火の苦を救はせ給ひなば。当村一圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住持高継にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ出よと仰下されしとぞ。よて高継この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるし賜はりしかば。此後上善寺と改めしとぞ)(貞享書上、牛窪記)」此日後藤長八郎忠直死して子清三郎吉勝つぐ。(寛政重修譜)
○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)
◎是月一尾小兵衛通春はじめて拝謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎮入道宗麟が女なり。通春久我を称せしがこれより一尾と改む。」又武田五郎信吉君に仕へたる松平加賀右衛門康次。成瀬吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。」又江戸芝浦内藤六衛門忠政が宅地を転じて。其地の高邱に愛宕権現の祠を構造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河に帰らせ給ふとて。大和路より宇治信楽にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四郎右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に伝へし愛宕権現の本地仏将軍地蔵の霊像を献ず。こは鎌倉右大将家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戦場にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御帰路守護のためこの霊像を献じ進らすべしと申ければ。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に来れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造営せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(寛永系図、寛政重修譜、多羅尾家譜、林鍾談)
◎是秋大河内善兵衛政綱帰り参り再び御家人となる。慶長四年末子平次郎政信が縁者大久保庄右衛門某を切害し。信濃国へ逃去しをもて。政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去してありけるに。伏見より御免を蒙り今度帰参せしとぞ。」又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の礼をとり。左国弘の御脇差を賜ふ。時に三歳なり。」五島淡路守玄雅が子孫次郎盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根来右京進盛重が子小左次盛正。杉原勝左衛門政行が養子善衛門勝政はじめて奉仕す。(時に十四歳)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持参る良刀と引かへ盗去る事度々なりしを。中山雅楽助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(寛政重修譜、寛永系図、貞享書上) 
東照宮御實紀卷六 / 慶長八年五月に始り九月に終る
○五月四日小笠原越中廣朝死して其子權之亟某家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死する者多し。(當代記。)
○七日下野國烏山城主成田新十カ重長。父左衛門尉長忠に先立て卒す。(斷家譜。)
○十九日大內より廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿御使として梠ワ五十進らせらる。この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁し。神祇道幷に日本紀の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記。)
◎是月もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姬君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年老たりとて辭退し山林に世をさけて。ことし七十五歲終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめられしなり。佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。毛利黃門輝元入道宗瑞江戶に參り大納言殿に拜謁す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○六月二日瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進する使に逢て。かへり來り其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更拔擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○六日武田五カ信吉君(御五男。)の老臣等より藤澤の道塲へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門內にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては嚴科に處すべしとなり。其連署の老臣は帶金刑部助君松。河方織部永養。近藤傳次カ吉久。宮崎理兵衛三樂。馬塲八右衞門忠時。万澤主稅助君基といふ。(鎌倉古文書。)
○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衞正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各别に采邑たまはりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ(ェ政重修譜。)
○十一日戶澤九カ五カ政盛始て就封の暇たまはり時服を下さる。(ェ政重修譜。)
○十五日長福丸の方伏見城にて髮置の式行なはる。(紀藩古書。)
○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四カ兵衛重次家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る。(舊舜記。)
○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覽にならせらる。(西洞院記。志那は大津より湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絕ざる所といふ。近江輿地誌。)
◎是月大納言殿の北方(崇源院殿の御事。)御長女千姬君をともなひ御上洛あるべしとて。其御首途に先山常陸介忠成が許へわれしかば。大納言殿にもおなじくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干ものたまはり。終日御遊ども數をつくされてかへらせ給ふ。北方姬君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明てかへらせ給ひぬ。やがて江戶をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御對面ありければ。姬君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いとけなき姬君一人を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びてさしそひのぼらせ給ひしとぞ。(ェ政重修譜。家譜。家忠日記。溪心院文。)
○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜。西洞院記。)
○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○六日一條前關白內基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拜謁せられ。御宴ありて御物語數刻に及ぶ。(西洞院記。)
○七日觀世宗雪江戶にまかりしかば。この日江城にて猿樂催さる。(當代記。)
○八日大阪より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿樂催され饗應せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姬君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記。)
○十日神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ。(舜舊記。)
○十二日又おなじ。(舜舊記。)
○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歲。父が家つぎて直に拜謁せしめらる。(ェ永系圖。)
○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ。(御年譜。家忠日記。)
○廿四日連歌師里村紹叱沒す。歲は六十五。紹巴が死せしのちは。新治筑波の道にをいて海內の宗匠と仰がれ。柳營年々の御會にも必召れし所なり。(ェ永系圖。)
○廿五日諸大夫以上の輩登營して拜謁す。近江國膳所の城主戶田左門一西今年六十二歲なりしが。居城の櫓にのぼり顚墜して頓死せりとぞ。(重修譜はェ永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたがひ。重修譜の說はとらず。)其子采女正氏鐵に遺領三万石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝ョと御合戰のとき。敵將廣Pク左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豐が陣をつき破る。長篠の戰には酒井忠次等と共に鳶巢山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し。敵追來るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣塲を撿點し。十八年小田原御陣には。山虎之助定義とおなじくすゝみ戰て功あり。關東にうつらせ給ふ時。武藏國鯨井にて五千石の采邑をたまわり。慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に大納言殿御前にをゐて聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし從五位下に叙し近江國大津の城主になされ。二万五千石加へられ三万石たまわり。そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年(ェ永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり。)大津の城は山口近くして要宮の地にあらずとて。新に同國膳所崎に城きづかしめて。
一西これが主たらしめられしなりとぞ(西洞院記。當代記。ェ政重修譜。藩翰譜。家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず。)
○廿七日將軍塚鳴動すること二聲。(西洞院記。)
○廿八日千姬君(時に七歲。)この日內大臣秀ョ公大阪城に御入輿あり。伏見より御船にて大阪にいたらせ給ふ。御供船數千艘引つゞく。この間十里ばかり兩岸の堤上。東方は辻堅として關西の諸大名とりどり警衛し。西岸は加賀中納言利長卿の人數のみ戒嚴專ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島邊を警衛す。こと更K田甲斐守長政は弓鐵炮のもの三百人づゝ出して戒嚴し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に耜鍬もたせて出し。御船に先立て水路の巖石をうがち游滓を通じ。御船の澁滯なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぽらせたまふ。大坂城にては大久保相摸守忠隣御輿を渡し。淺野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄關までに疊をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。將軍家は專ら儉素をこのみ華麗を惡みたまへば。さる結搆ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姬君に附られ執事役命ぜらる。此頃大坂にては。今度姬君御入輿ありてはますます將軍家より秀ョ公を輔導せられ。後見聞え給ひ。四海いよいよ靜謚たるべしといへども。將軍家の威コ年を追て盛大になり。ことに將軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戶に出し置て其身年々參覲す。これをおもふに天下は終にコ川家の天下となりぬ。さりながら故大閤數年來恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豐臣家に對して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと會議して。故大閤恩顧の大小名を城中に會集し。今より後秀ョ公に對し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ。血誓せしむ。この事は福島左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豐臣氏滅亡の兆とぞしられける。此日信濃國郡代朝日壽永近路死して。其子十三カ近次家つぎ後に大番になる。(創業記。家忠日記。西洞院記。ェ政重修譜。武コ編年集成。)
○廿九日山城國常在光寺の事により相國寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の內にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(國師日記。)
◎是月大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませたまふ。これを初姬君と申まいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姬君ひとり洛陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば江戶にかへらせ給ふもいかゞなりとて。いまだ伏見にましましながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尻のもとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狹守忠高にそはせたまひしは此姬君なり。このころ佐渡の國人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田佐太カは切腹し。合澤主稅は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九カ左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を撿視せしめらる。(家忠日記。溪心院文。佐渡國記。)
○八月朔日たのもの御祝として。大內へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名まうのぼり當日を賀し奉る。石見國の土人安原傳兵衞おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鑛を搜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして堀らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を堀出て上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傳兵衛は一間四面の洲Mに銀性の石を。蓬萊のかたちに積あげ車にて引てさゝぐ。ことに御感ありて參謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて稱歎せざるものなし。(御陽殿上日記。銀山記。世につたふる所傳兵衛((一に田兵衛に作る。))備中早島の產なりしが。年頃銀山を搜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同國C水寺の觀音に參籠して祈請丹誠をこらしける。七日にみつる夜不思議の異夢を蒙り。鍵を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて堀はじめしに。銀の出ることおびたゞしく年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸國の者あつまり來り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都會となり。傳兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覽にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の府庫に納る稅銀は。車をもて引事を佳例に傳へたりとぞ。銀山記)
○二日大內より御たのむの御返しとて物進らせらる。この日三河國室飯郡豐川村辨財天祠の别當三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河國室飯郡馬塲村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭禮等怠慢すべからずとなり。(御湯殿上日記。可睡齋書上。)
○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傳兵衛が積年銀鑛の事に心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰下さる。(銀山記。)
○五日遠山民部少輔利景に美濃國志那土岐兩郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまわる。安原備中改稱を謝し奉り伏見へまうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落淚におよぶ。(貞享書上。銀山記。)
○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戶中納言ョ房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上總の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環齋が女なりしを。
入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官䕃山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後に勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼ときこえしなり。この日神龍院梵舜伏見城へうのぼる。(家忠日記。以貴小傳。舜舊記。)
○十一日堀田若狹守一繼より千姬君婚禮を賀し進らせければ。大納言殿より一繼に御書をたまふ。(古文書。)
○十四日下總國關宿城松平主因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子にて。はじめ三カ太カと稱す。母は傳通院殿なり。永祿三年五月十八日(重修譜はェ永系圖により三月に作る。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ。)久松が尾張國智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御對面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見參せしめられしかば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三カ太カ。源三カ。長福三人みな松平の御家號をゆるされ。三カ太カ御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河國西郡の城を父俊勝にたまわりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城をあづかる。元龜三年三方が原の役には。其身苦戰し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐國に御進發の時從ひ奉りて駿河國沼津の城を守り。又尾張國床奈郡の城を攻落し。長久手の役には床奈郡の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも從ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をうけて北條が累代の家人武功の者を搜索して家臣とす。是年下總國關宿の城主になされ二万石をたまふ。十九年陸奥國九戶の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて。下野國小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二万石を加へて四万石になされ。是年叙爵して因幡守と稱す。慶長五年關原の役にはとゞまりて江戶城を警衛し。七年傳通院殿の御ためにとて關宿の地に佛宇をいとなみて充岳と號す。ことしけふ五十二歲にて卒せしなり。又御弟三カ五カ家元卒せらる。これは大樹寺殿御湯殿女房の腹にまけ給へる御子なりしが。十三歲の時より足なへて行歩かなわせられず。外殿にも出まさずしてけふ卒せらる。五十六歲なりし。法號を正元院といへりとぞ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。大樹寺記。薨日記。此人の葬地も詳ならず。又法號も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず。)
○十八日三河國大Mの長田八右衛門白吉死す。壽八十四。其子喜六カ忠勝はこれより先别に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが。天正十年六月和泉國堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢國白子に着御あり。此時兄平右衛門重元と共に船を催して迎へ奉り。白吉が大Mの宅におゐて饗し奉りしとぞ。この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上。ェ政重修譜。舜舊記。)
○廿日三河國額田郡妙心寺室飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄P間村にて七石五斗。遠江國長上郡神立神明に蒲クにて三百六十石。豐田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡應賀寺に中クにて三十八石。C源院に中クにて十七石。各社領寺領を寄附したまふ。(ェ文御朱印帳。)
○廿一日遠江國府八幡宮に同國豐田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(ェ政重修譜。)
○廿二日三河國碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(ェ文御朱印帳。)
○廿四日美濃衆高木權右衛門貞利死して。其子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇䕃料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(ェ政重修譜。)
○廿六日三河國額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。室飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。華井寺に牛窪ク中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。渥美郡常光寺に堀切クにて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印をたまふ。(ェ文御朱印帳。世につたふる所。西明寺はもと㝡明寺と書たり。この日住僧御前にめして。㝡明寺はことさらの靈跡といひ。鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境內悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊彌陀佛は。こと更その由獅もしろしめしたれば。この後西明に改むべしと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり。寺傳。)
○廿七日島津少將忠恒薩摩國より。宇喜多前中納言秀家。其子八カ秀親に。桂太カ兵衛幷に正與寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に處せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するのみならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を减じ遠流に定められ。先駿河國に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は關原にて大敗せしかば。伊吹山に迯入しかども。從卒みな迯失てせんかたなく。やうやうと饑餲を忍び薩摩國へ落くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられしに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主從わかれかれにかくれ忍で行衞をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隱る所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を給ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘藏せし鵜飼國次の脇差いかゞなりけむかと御尋ありしに。正次關原の邊にて搜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。コ山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。
先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きがゆへに。己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記。家忠日記。貞享書上。宇喜多記。ェ政重修譜。正次がこと浮田家記。落穗集。東遷基葉。板坂卜齋覺書等の說大同小異なるがゆへ。今はェ永系圖。重修譜によりて其大畧を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑賜はりしを慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑賜はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せず。)
○廿八日三河國加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方廣寺に井伊ク奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石。遠江國周知郡一宮に一宮クにて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(ェ文御朱印帳。)
○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超譽住職せられし地なり。かつ當家代々の御宗門淨土宗の本山なればなるべし。(舜舊記。)
◎是月伊達越前守政宗江戶より暇給はり就封し。去年新築したる仙臺の城にうつる。よて鷹幷金若干を賜はる。又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乘に賜はる。しかりといへども一乘幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上。ェ永系圖。)
○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記。)
○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河國久能山に下らしむ。彌死罪を减ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上。)
○三日豐後國臼杵城主稻葉右京亮貞通卒しければ。長子彥六典通に遺領五万六千石をつがしむ。この貞通は故伊豫守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしばしば軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豐臣家に屬し。太閤の軍にしたがひ又戰功少からず。天正十五年の冬從五位下侍從に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長五年の秋大坂の奉行等が催促に隨ひ。我身は犬山の城を守りしが關東に通じ。東軍尾張國にいたると聞て。井伊直政本多忠勝がもとに使立て御味方に參るべきよし申す。八月廿日かくともしらで遠藤金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通かねて關東の御味方に參りたり。されども猶合戰の勝負を决せられんとにやといはせければ。遠藤金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞えければ。貞通旣に御味方に參るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代傳領の地なれば。下し賜ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には别に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五万六千石を領し。この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歲は五十八とぞ。この日また松平長四カ正永初見す。(ェ政重修譜。家譜。)
○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は足利左馬頭義氏が二男左馬頭義繼三河國吉良の庄を領せしより吉良と號す。その十一代の孫左兵衛佐成高武藏國世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と號す。成高が子左兵衛督ョ康。其妻は北條左京大夫氏綱が女之。その子氏朝にいたるまで北條にしたがひてありしが。北條亡びてのち上總國生實に迯る。關東やがて當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戶へうつらせ給ひし時。氏朝江戶に參り初て見參す。その子源太カョ久に上總國長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(ェ政重修譜。)
○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢兩宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは應仁このかた四方兵革の中なりし故。伊勢兩宮荒廢きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開基C順尼。豐臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家嚴制錄。續通鑑。)
○十一日武田五カ信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ萬千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と稱す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ。天正十八年下總の小金にて三万石たまはり。文祿元年同國佐倉の城主になされ四万石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こもりおはしけるが。慶長七年十一月常陸國水戶に轉封せられ十五万石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。淨鑑院と法號して水戶城內の心光寺に納めらる。(延寳七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地に引うつされ。向山に於て淨鑑院をいとなみ香火院とせらる。)世つぎなければ封地は收公せらる。よて伏見江戶に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゞふ。又三河國額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河國額田郡妙大寺村の內。寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り先規のことく寄附せられ。竹木諸役免許せらる。佛事勤行懈怠あるべからずとなり。又同國渥美郡興福寺にも。吉田クのうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院はC康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり。)此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜。家忠日記。藩翰譜。康長年錄。寺傳。ェ永系圖。)
○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(ェ政重修譜。)
○十九日遠江國敷智郡普濟寺にM松寺島村にて七十石。大通院にM松庄院內門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田クにて三十石。龍秀院には有玉村にて二十五石六斗餘。
甘露寺には万解村にて二十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。M名郡金剛寺に中クにて五十石。藏法寺に白須賀村にて十三石。豐田郡寳珠寺に岡田クにて三十二九斗餘。三河國渥美郡龍根寺に吉田村にて二十五石餘。幡豆郡法光寺に法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡齋書上。)
○廿一日遠江國榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡齋書上。)
○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(ェ永系圖。)
○廿五日三河國室飯郡上谷寺に牛窪村にて廿石。遠江國豐田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡㝡福寺に原谷村にて廿五石餘。林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十七石。長福寺に原谷村にて十四石。旭搦宸ノ原谷村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。山名郡海江寺に堀越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に笘野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豐田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲齋に野邊村にて十五石。玖延寺に二俣ク珂藏村にて二十石。撕メ寺に向坂村にて十三石。學圓寺大寳寺に高岡捴領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野邊村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(ェ文御朱印帳。世に傳ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虗空藏菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに天下を平均し。萬民水火の苦をすくはせたまひなば。當村圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住僧高繼にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ出よと仰下されしとぞ。よて高繼この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるしたまはりしかば。此後上善寺と改めしとぞ。貞享書上。牛窪記。)この日後藤長八カ忠直死して子C三カ吉勝つぐ。(ェ政重修譜)
○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)
◎是月一尾小兵衛通春始て拜謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎭入道宗麟が女なり。通春久我を稱せしがこれより一尾と改む。又武田五カ信吉君につかへたる松平加賀右衛門康次。成P吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。又江戶芝浦內藤六衛門忠政が宅地を轉じて。其地の高邸に愛宕權現の祠を搆造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河にかへらせ給ふとて。大和路より宇治信樂にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四カ右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に傳へし愛宕權現の本地佛將軍地藏の靈像を献ず。こは鎌倉右大將家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戰塲にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御歸路守護のためこの靈像を献じ進らすべしと申ければ。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に來れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造營せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(ェ水系圖。ェ政重修譜。多羅尾家譜。圓福寺記。林鍾談。)
◎是秋大河內喜兵衛政綱歸り參り再び御家人となる。慶長四年末子平次カ政信が緣者大久保庄右衛門某を切害し。信濃國へ迯去しをもて。政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去して有けるに。伏見より御免を蒙り今度歸參せしとぞ。又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の禮をとり。左國弘の御脇差を賜ふ。時に三歲なり。五島淡路守玄雅が子孫次カ盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根來右京進盛重が子小左次盛正。杉原四カ兵衛長氏が子四カ正永(于時八歲。)初見し奉る。松田勝左衛門政行が養子善衛門勝政初て奉仕す。(時に十四歲。)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持參る良刀と引かへ盜去る事度々なりしを。中山雅樂助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。貞享書上。) 
 
巻七

 

聚楽の亭にて申楽興行ありしに。あつじの関白をはじめ織田常真。有楽などもみなつき/\〃かなで。殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。君は舟弁慶の義経に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節々にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義経とも見えずとて諸人どよみ咲ひしとぞ。」後に関白此事を聞れて。常真がごとく家国をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといひべし。徳川殿は雑技に心を用ひられざるゆへ。当時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。」又秀吉夜話の折近臣等。徳川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帯しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さま/\〃にて。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。関白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武辺衆にすぐれ国郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをかしこしとは申べけれといふ。其時関白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上関八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝれば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談会稿、岩渕夜話)
按に醍醐花見の折。関白が近侍の輩君の御事いひ出て咲ひ種にせしを聞かれ。家康が芸は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一は武略衆にすぐれ。第二は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大芸なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。徳川殿はなにがよければ。いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ様の事をさま/\〃に伝へしなり。
文禄元年正月二日聚楽の邸にて謡初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亜相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥なれば。ゆく/\は養子にして家継せんと思へば第一座に定めしなりとて聴入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。君その様御覧じ。利家しばしまたれよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の旧臣もみな帰服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むといふも。旧義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左担するにもあらず。かゝらば秀信をば別に奥方にて。拝礼盃酌の儀をすませられ。表様にては秀次を一座につけ給はゞ。人心事体に於て両ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允当の御処置に感じ。仰のごとくせられて謡初の式事故なく遂行はれしとぞ。(武辺咄聞書)
関白あるとき君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を会集せし時。わが宝とする所のものは虚堂の墨跡。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるゝ宝は何々ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。君ひとり黙しておじゃしければ。徳川殿には何の宝をか持せらるゝといへば。君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舎に生立ぬれば。何もめづらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入れも。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て。第一の宝とは存ずるなりと宣へば。関白いさゝか恥らふさまにて。かゝる宝はわれもほしきものなりといはれしとぞ。」また秀吉ある時君に尋進らせしは。応仁このかた乱れはてたる世の中をおほかた伐従へつれど。いまだ諸大名己がじゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。君おほよそ萬の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の当る所はなべて人の従ふものなりと御答ありしとぞ。(寛元聞書。武野燭談)
細川忠興入道三斎が。年老て後大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしといへば。いかなることゝのたまふに。いつの年にか有けん。豊臣殿下の前にて。東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の道に於て。一度も不覚を取しことなしと広言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感服してあり。其時君ひとり御けしきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば。一座の者みな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。関白何ともいはず座を立て内に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は実に一時の戯言にて侍れば。徳川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いや/\武道の事はいかに殿下なりとも。そのまゝすて置べきにあらず。今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして関白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる様なれば。いづれも安堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉。君の御様を試みむとて。わざとかゝる広言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて関白のたのみがたき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる御実意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下の英雄は只御辺とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ様の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得ざるにぞ。(紳書)
関白伏見にて。古今の名将の上の事をとり/\〃評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義経。楠正成などこそ誠の名将とこそいふべけれといへば。関白。正成は戦の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諌の聴れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義経は梶原が姦悪をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからず。むかしはしらず今の世にては。家康に過たる名将はあらじといはれしとぞ。」また関白諸大将の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざされしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御覧じ分られ候にやといへば。関白別にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金装の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賎より起り数度の武功をかさねて大国の主ろなりし人なれば。いにしへを忘れずして革柄を用ゆるならん。輝元は数奇人なればこと様の装せし品其差料ならむ。江戸の亜相は器宇寛大にして。刀剣の制作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみ/\の品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺、常山紀談)
伏見にて太閤。君をはじめ前田利家。蒲生氏郷等を饗せられ。それより聚楽にて遊讌し。かへさに君の御亭に立よられんとあれば。君はかねてその御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守斎といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。君はとく聚楽よりまかで給ひ。茶をとりよせて御覧あるにわづかなかり残りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守斎申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。献物は美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々爪隼人政尚。殿下は只今にも渡御ならん。遅々しては間に逢ふまじ。最初の残茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人。汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下来臨ありて。茶を進るに及ばずして帰られんともせむかたなし。人の飲あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしからずとて。いたくいましめられしとぞ。(砕玉話)
豊臣秀長。織田信雄など。おなじく聚楽の亭にて夜中に遊讌ありし時。蝋燭の心はねしに。君は何げなくおはせしが。秀長は驚き座をたちし様を御覧じ微笑に給ふ。秀長己が性劣をわらはせらるゝかとおもひ。いかれる顔して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。君御辺や某などは。一大事のあらん時は殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心ひてなるべきか。まだ若年におはせば。さる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあげつろふ様にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らいてやみしとぞ。(岩淵夜話)
太閤が伽の者に。曾呂利伴内といふいと口ときおのこあり。折々は君の御館へも参り御談伴に候したるが。或時伴内。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大黒天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大黒はその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を弁ずる事ならざるをもて。大黒は袋を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれ。かりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福禄を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大黒の極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬがでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。おさゝかさはるものなからしめむが為に。常にはかぶりつめてあるぞ。是ぞ大黒の極意よと宣へば。伴内も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤の座にありて此事いひ出しに。太閤今の世にもわた持のいき大黒があるをしりたるかと尋らる。伴内心得ざるよし申す。太閤いき大黒とは徳川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(霊岩夜話)
山名禅高聚楽にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禅高にむかはせられ。御辺の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。禅高是は故の光源院将軍(義輝)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねし故かく打切ぬといへば。よくも旧を忘れぬ朴実の人かなとおぼして。わきて御懇遇ありしば/\御館にも伺公せり。」或日禅高の申は。朽木卜斎はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜斎が粗忽は皆人のしる所なり。御辺の粗忽は卜斎に超たりと我は思ふと宣へば。禅高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜斎は粗忽ながらも祖先已来料し来りし朽木谷を今にたもてり。御辺が祖は六十六州の内にて十一ヶ国を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さるをみうしなひはて。今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禅高はさまで羞赧の色もなく。げに尊旨の通りにて侍れ。某今は六分一ののぞみもなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。」又天正十六年の比君御上京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禅高も供奉せり。禅高三松へ応接の様あまり慇懃に過しかば。還御の後禅高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへども。其祖は足利の支族なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで数ヶ国の太守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に対してかく厚礼をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を尽し。重く家国を振起すべしと仰ければ。禅高も殊にかしこしと思へりとか。(霊岩夜話、山名譜)
聚楽にて談伴のともがらあまた太閤の前に侍してよも山の物語せしに。一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞てわれもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。徳川殿しばし待せ給へ。余の人々はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じぐしたり。太閤われらが親なるものは。誰もしらるゝごとくきはめていやしの者なりしが。某を子に持れたり。某は親に劣りて子に事を缺よといはれしとぞ。(霊岩夜話)
浮田黄門が許にて秀吉はじめ申楽見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。君先立て下立せ給ひ。秀吉が履も直し給へば。秀吉手をもて君の御肩ををさへ。徳川殿にわが履を直さする事よといはれしとぞ。(老人雑話) 
奥の九戸に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍装のとゝのひ次第出陣し。蒲生。浅野に力をそへ。九戸の軍事を相計るべしと命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は当家の執権なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。されにて事弁ぜざらん時にこそ直政をつかはされば。事体におゐても允当ならんと申す。君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北条氏直などがかかる事をばすれ。いかにとなれば。事のはじめに軽き者を遣はし。埒があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さしむる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。」後年筒井伊賀守定次罪ありて所領収公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平摂津守忠政始め数人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戸にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事体に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話)
内府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたび既に任槐の上は。御調度などもなみ/\の品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を製して進らせられければ。かしこきよす謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるがよきかと仰らる。正信先年小笠原與八郎が御方に参りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して頗る大身なりしが。当家に参りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一国を己が物にせんと思ひて帰降せしをとくに察し給ひし故。姉川の役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戦をせしめられしなり。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし様して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたびも豊臣家の待遇に乗て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戦せしと同じ例なりと。正信がおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊国物語)
関白秀次違乱の前江戸へ下向し給ふにのぞみ。台徳院殿及び大久保大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に当て。太閤父子の間にかならず争隙起るべし。さらむには太閤が方に参るべしと仰ければ。台徳院殿は謹で御請し給ひ。忠隣は当今の静謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え在て。台徳院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんと謀りしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき様にあつかひて太閤が方へいれ奉りし故。何の御恙もましまさで。太閤も珠によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未来を察知し給ひしゆへ。かゝる不慮の変をも免かれ給ひしなり。」秀次の変有し後御上洛ありしに。太閤待迎へられ御手を取て。此度の大事徳川殿上洛を待付て処置せんと思ひしが。遅々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付ぬといへば。君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。関白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さるをかくはかなき事になされしはおしき事ならずや。殿下いま春秋已にたけ。御子秀頼ぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる変事の出来んに。関白かくしても世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此語は世の中の事みな徳川殿にまかするといはれしとぞ。(寛元聞書)
江城におはしませし時。豊臣家の使来りて朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。ただ黙然としておはしぬ。本多正信折しも御前に侍しけるが。君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし。人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ(常山紀談)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は内藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫直勝。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戌らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上、卜斎記)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は当家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の内意にて。当家の次は義宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あらば家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に従ひ奉る。太閤石田三成もて。徳川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝとなり。君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。その代に政宗を後陣に押せつるなり。そも/\去年奥の岩出山佐沼の城経営の折。政宗若年といひかつ遠国者にて。何事もうい/\しければ。万事につきて家康が指諭を頼むと有し故。こたびも家康が後に引付。過誤なからしめん様にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せし如く当家の次に政宗と定められぬ。政宗君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の装いかにも異様なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の装するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上)
名護屋に赴かせ給ふとて。安芸の広島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣潟上弥兵衛。河村三蔵。横田大学の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。君楼上より大声を発せられ横田大学と呼せらる。大学仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大学かしこまり二人をやり過し。己れ一人楼に上りて謁し奉る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先後を論ずるときく。いらざることなり。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諌をいれよと宣ふ。大学速に立かへり直江にかくと申ければ。兼続も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざまの事はいましめ諭されしゆへ。御徳に懐き従ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雑記)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戦の様はか/\〃しからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戦いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ゐて彼国にをし渡り。利家氏郷を左右の大将とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事は徳川殿かくておはせば安心しと有ければ。利家。氏郷等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時君にはかに御けしき損じ。利家氏郷にむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ。軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覚の名を取らず。今異域の戦起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸将の跡に残とゞなつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連。殿下の御先奉じるべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。関白大にいかり。おほよそ日本国中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも残る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひ放てば。一座何となくしらけて見えしに。浅野弾正少弼長政進み出て。徳川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中国西国の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北国奥方の人衆を召具して渡海あらば。国中いよ/\人少に成なん。その隙を伺ひ異域より責来るか。また国中に一揆起らんに。徳川殿一人の凝りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡海あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の様あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。関白いよ/\いかられ。やあ弾正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。弾正いささか恐るゝけしきなく。抑応仁このかた数百年乱れはてたる世の中。いま漸く静謐に帰し。万民太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく国財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申譬のごとく。今朝鮮をとらむとせらるゝ内に。いかなる騒乱のいできて。日本を他国の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさざりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りとは申侍れといへば。関白事の理非はともあれ。主に無礼をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常真。前田利家などおしふさがり。弾正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ぬば。君。徳永。有馬の両法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事済けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話別集、天元実記)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉帰洛あるべしとするに及び。君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病体心許なければしばらく帰京する所なり。朝鮮の事は徳川殿にまかせ置ば。いか様の事出来るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はる/\〃浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつもてさるべく決せられよと有て。浅野弾正長政はじめ在陣の諸将をよびよせ。只今大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。大納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に帰洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよ/\当家へ心を傾けし者出来しとぞ。(清正記)
名護屋陣中にて当家の御陣所の前に清水涌出て。外の陣所よりも人々来て是を汲ば。番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人来りて強りに汲取しかば。番人制すれども聴ず。かへりて悪言などいひ出しにより。闘諍に及び。おひ/\侍分の者いでゝ両方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝。榊原康政二人出て制す。忠勝は渋手拭にて鉢巻し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。漸にしづまりぬ。君にははじめよりこの様見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日当陣の見廻として。はる/\〃秀忠より使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ労したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元実記)
此巻は豊臣家聚楽の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。 
東照宮御實紀卷七 / 慶長八年十月に始り十二月に終る
○十月朔日鎌倉鶴岡八幡上宮造替あるにより遷座あり。造替の奉行は彥坂小刑部元正これをつとむ。この日蝕す。(御造營記。節季蝕記。)
○二日河村與惣右衛門某。木村惣右衛門勝正に淀川過書船支配の御朱印を下さる。其文にいふ。大坂傳法尼崎山城川伏見上下する所の過書船。公役として年中銀二百枚課せしむべし。官用の船は例のごとく。川筋折々船替すべし。武家船は課銀をとるべからず。商物を積載するに於ては嚴に查撿を加ふべし。木材の如きは直に武家の邸內へ收めしむべし。木材商へ渡さしむべからず。二十石積の船課は銀五百貫目納むべし。船に大小ありといへども銀課は二十石積の船に准じて收むべし。鹽藏の魚物課稅も上に同じ。下り船の米は二割をとり收むべし。新過書三十一人船一艘づゝのすべし。かく定めらるゝ後。船持商人に對して非義を申かくるに於ては。嚴に命ぜらるべしとなり。(家譜。木村傳記。)
○三日山岡道阿彌景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに。兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太カ景本とて。今年八歲なるをともなひ出て。初見の禮をとらしめ養子とせん事を聞えあぐる。よて景本に吉光の御脇差を給ふ。此御脇差は甲斐の武田が累世の秘藏とせし物なりとぞ。又景友に伏見成山寺の二王門幷に多寳塔を下され。三井寺に寄進せしめられしとぞ。(ェ永系圖。家忠日記。續武家閑談。)
○四日神龍院梵舜伏見にまいり木練の柿を献ず。伊勢兩宮幷に大甞會の事を御垂問あり。この日澁谷文右衛門重次を長福丸の方へつけらる。(舜舊記。)
○五日安南國より書簡幷に方物をまいらせて。去年方物を獻ぜしとき。御答禮として甲胄以下の器械をつかはされしを謝し奉る。よて金地院崇傳に御返簡を製せしめられ。御答禮として長刀十柄をゝくらせ給ふ。(異國日記。)
○九日津輕右京大夫爲信伏見にのぼり拜謁して御氣色伺ひ奉る。此日尾崎勘兵衛成吉伏見城の守衛にありて死しければ。其子勘兵衛正友家つがしめらる。又相摸國馬入の渡より大磯平塚の間氷降る。其大さ日輪の如し。隣國にはすべてこの事なし。(西洞院記。當代記。ェ政重修譜。)
○十五日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見にまうのぼり拜謁し。兼見卿は綾衣。梵舜は筆を献ず。(舜舊記。)
○十六日右大臣の御辭表を捧げ給ふ。(公卿補任。)
○十八日伏見城を御首途ありて江戶に還らせたまふ。五カ太丸とて今年五歲なるをともなはせ給ふ。かねては永原までわたらせ給はんとの御事なりしが。長福丸とて二歲になり給ふ御子。あながちに御跡をしたはせ給へば。これもふりすて給ひがたく。にはかに其用意つくらせ給ひしかば。時うつりてこよひは膳所にやどらせ給ふ。今朝島津右馬頭以久初見し。日向國佐土原城三萬石を給ふ。龍伯入道幷に少將忠恒が請奉るによれり。又大番三浦庄右衛門直次に采邑二百石下さる。粟屋市右衛門吉秋死して子市右衛門忠時つぐ。(創業記。西洞院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十九日龜山にやどらせ給ふ。
○廿日名古屋にやどり給ふ。この日土屋市之亟勝正。岡野平兵衛房恒の二人仰を蒙りて近江國中を巡視す。(ェ政重修譜。)
○廿一日岡崎につかせ給ふ。
○廿二日吉田。
○廿三日M松城にとまらせ給ふ時。松平左馬允忠ョに吉光の御脇差を下さる。(ェ永系圖。)
○廿四日中泉につかせらる。
○廿五日懸川にやどらせ給ふ。この日立花左近將監宗茂江戶高田の寳祥寺(一說に淺草寺中日恩院といふ。)に閑居せるをめして。陸奥國棚倉にて一萬石を賜ふ。宗茂は庚子の亂に大坂の催促に隨ひ。軍勢を引具し伏見の城をせめやぶり。勢田の橋をかため大津の城を責落しけるが。關原の味方敗績すと聞て本國に引返しをのが城に楯こもり。鍋島が軍勢押寄ると聞て。家人等を出し散々に防ぎ戰ふ。かゝる所にK田如水入道。加藤肥後守C正馳來て双方をなだめしかば。宗茂は居城をC正に渡しけり。如水C正等こと更に歎き申ければ。其罪をなだめられ領國をば悉く收公せられき。宗茂はこの後C正に養はれ。肥後國高Pといふ所に閑居しける間。C正が奔走大方ならず。翌年の春にいたり宗茂暇ある身なれば。此ほど都近き邊の名所古跡をも遊覽せまほしと請しに。C正もことはりと聞て。又旅の用意をもねもごろにあつかひて都へのぼせたり。宗茂は都をはじめ南都和泉の堺までも心しづかに一覽し。三年がほど山水の間に優遊しけるが。しきりに江戶のかたゆかしく覺えければ江戶の方にまかり。戶塚の驛より本多佐渡守正信に消息してことのよし告たりしかば。正信まづ高田の寳祥寺まで來るべしといふ。宗茂其詞にしたがひかの寺に着て旅のつかれをやすめける。大納言殿もとより宗茂が勇有て義を守る志をふるくしろめしたれば。正信より土井大炊頭利勝もて伏見にて其よし聞えあげしめられ。忽に御ゆるしありてかく新恩に浴せしとぞ。(ェ政重修譜。藩翰譜。立齋聞書。久米川覺書。一說に大納言殿よりは三萬石賜はり。書院番頭を命ぜらるべきにやと伺はせ給ひしに。宗茂は老鍊の宿將なれば。所領は少しともいづ方にてもさるべき所を撰び城を授けよと。伏見より御下知ありけるといへり。ェ永系圖に。宗茂居城をC正にわたし速に江戶に至り。其翌年奥州にて二萬五千五百石給はりしとあるは大なる誤なり。又國恩錄に。慶長十一年正月二日とするも誤なり。)又松平隼人佐由重三河國松平クにありて卒す。壽八十一。こは永祿三年七月廿五日三河國刈屋の軍に深手負て。世のつとめかなひがたく。舊領の地に年頃籠居してけふ終をとりたるなり。その子太カ左衛門尙榮は庚子の亂後江戶に參り奉仕し。慶長十八年にいたり舊領松平クを賜はりて采邑二百五十石になる。(ェ政重修譜。)
○廿六日田中にとまらせ給ふ。加藤太カ左衛門成之死して子源太カ良勝つぐ。この成之もはじめ源太カと稱し織田家につかへ。後に當家にめし出されつねに近侍し。庚子の役に每度御先手に御使し。思召のままにことはからひて御感にあづかりしが。
今年伏見にあり五十二歲にて死せしなり。其子良勝わづかに十歲なりしかば。去年たまはりし加恩五百石は收公せらる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○廿七日田中にやどらせらる。
○廿八日駿府。
○廿九日三島。
○晦日小田原
◎是月柬埔寨國王より書簡並に獅角八。鹿皮三百枚。孔雀一隻をまいらせ。其國叛人を征討する事あるをもて戎器を請ふ。よて金地院崇傳をして其御返簡をつくらしめ。其請にまかせて太刀廿把を贈らせられ。本邦の刀銳利他國に比倫なし。もし懇望するに於ては望にまかせらるべしと仰つかはさる。又菅谷左衛門太夫範政。上總のうちにてたまはりし采邑千石に加へて。舊領常陸の筑波郡にて五千石を給ふ。この範政は代々常陸小田城主小田讃岐守氏治入道天庵につかへ。天庵太田三樂のために小田の城を奪はれし時。範政别に喜多餘の城を築て天庵を居らしめしに。梶原美濃守景國又その城を攻落す。範政三日が間にその城を攻て。梶原を追落し其城をとりかへし。小田原北條亡びて後同國高津村に蟄居せしを。範政年ごろ其主のために忠功を立し事を聞召。文祿元年當家に召て采邑給はりしに。今度御前にめしいでゝ先の軍功を御直に聞召。其軍畧を御感ありてかく加恩せられしとぞ。又松平與右衛門C政死す。壽九十六。その子右近C次つぐ。又宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣江戶へ參覲せらる。この時秀康卿は越前より出られて中山道にかゝり。上野國碓水峠を越えらるゝとて川の關を過らるゝ時。關の番人等卿の供人の中に鐵炮を備られたるを見とがめてこれをさゝへたり。卿聞給ひ從者をして。これは番人等が秀康なる事をしらずして遮るなるべし。秀康なればくるしからぬほどに。そこ開て通すべしといはせられけるに。番人共聞て。たとひ秀康卿にもあれ何人にもあれ。公より鐵炮查撿すべしとて置れたる關を。通すべきにあらずと罵りければ。卿大に怒り給ひ。天下の關所に於て秀康に無禮ふるまふは天下を輕蔑するものなり。其まゝに捨置べからず。悉く打殺せとありければ。番人ども肝を消し早々迯走て江戶にまいりこのよし訴へしに。大納言殿聞召。(諸書これを烈祖とす。しかれども此時烈祖は御道中なれば。江戶にうたへしを聞召たるは台コ公なり。今は大三河志に從て台コ公とす。)番人ども秀康卿を抑留せんとせしは人をしらざるなり。卿にうち殺されず死を免れしは番人共の大幸といふべしとて笑はせ給ひ。别に仰せ出さるゝ事もなし。(これ台コ公友愛の情あつく。殊さら秀康卿御庶兄の事ゆへ。最御優待他に殊なる一端なるべし。さりながらその時勢今を以て論ずべからず。世に越前の家は制外なりといふはこの時よりの事とす。)又淺野紀伊守幸長。加藤肥後守C正も參覲す。幸長が女を五カ太丸のかたに御配偶あるべし。C正が女を長福丸の方に御婚儀むすばれん事を約し下されしも此頃の事とぞ聞えける。(異國日記。ェ政重修譜。ェ永系圖。御年譜。蓬古城記。C正記。世に傳ふる所。C正が江戶の宅地は外櫻田辨慶堀今井伊が邸の地なり。外門前にかしの木を植ならべし故かしの木坂とよべるといへり。事跡合考。)また毛利黃門輝元入道宗瑞は伏見より暇給はり歸國し。この後は周防國山口に莵裘の地いとなみうつりすみしとぞ。(ェ政重修譜。)
○十一月朔日藤澤にやどらせ給ふ。
○二日神奈川につかせらる。
○三日江戶城に還御なり。(この還御を續通鑑武コ編年には冬とのみあり。日記摘要には十二月とす。十二月とするは誤なり。今十月十八日伏見御首途より日を推してみるに。今日還御ならざることを得ず。よりて推考してこゝにしるす。)
○五日目付松平加賀右衛門康次三河にて四百六十石餘をたまふ。(ェ政重修譜。)
○七日大納言殿右近衛大將をかけ給ひ右馬寮御監を兼給ふ。この日長福丸の方を常陸國水戶の城主になされ廿万石に封ぜらる。(御年譜。武家補任。創業記。翌年五万石加へられ廿五万石にせられし之。)
○九日烏丸左中辨光廣江戶にまいるとて洛を發す。(創業記。本月七日台コ院殿右大將御兼任ありしゆへ。其宣旨持參せしなるべしといへども。是を受給ひし事諸書に見えず。今しばらく光廣參向をしるして後の證とす。西洞院記。)
○十一日松平久助忠直死す。こは長澤の松平兵庫頭一宗が次男次カ兵衛親昌が孫にて上野介康忠が聟なり。(この事妙心寺記。長澤系圖。武コ編年にのみ見えてさだかならず。)松平隱岐守定勝長子遠江守定友遠江國懸川城に於て卒す。年十九。(妙心寺記。ェ政重修譜。)
○十六日安房國館山城主里見左馬頭義康卒しければ。その子梅鶴丸(後に忠義。)に遺領十二万二千石を襲しめらる。この義康其先は義家朝臣の三男足利式部大輔義國の嫡男新田大炊助義重の二男里見太カ義俊が十代刑部少輔義實が後なり。義實が父刑部少輔家基は結城中務大輔氏朝と共に。鎌倉管領左馬頭持氏の子春王丸安王丸を下野國結城の館に迎へ取て。上方の勢と戰はんとせしに。其城落て家基も討れしかば。義實家人を具し小舟に取のり安房國に落行しが。後に國人共を討平げ白Mの城をかまへ住し。其子刑部少輔成義が時上總國をも討したがへ。これより上總安房兩國を合せ領せり。成義が子上總介義通うせし時其子太カ義豐わづかに五歲なりしかば。弟左衛門督實堯に國をゆづる。義豐成人に及びても實堯これをかへさず。よて義豐怒て叔父實堯を稻村の城にて討とりぬ。實堯が子安房守義堯また軍起して義豐を討亡し。終に安房上總兩國を押領し。御弓の左馬頭義明の味方となりてしばしば小田原の北條と戰ひ。武藏相摸下總の地をもこゝかしこうちしたがふ。其子左馬頭義弘の子安房守義ョはこの義康が父なり。父につぎ岡本の城にありて。是も北條と國をあらそひ戰やまず。天正十八年豐臣關白北條追伐に下向ありし時その味方しければ。從四位下の侍從に叙任せしめ羽柴の家號をゆるされ。後に館山に城築てうつる。庚子の亂に大斾にしたがひ奥にむかはんとせしに。上方の逆徒蜂起し引かへし打てのぼらせ給へば。
義康等は少將秀康朝臣の麾下に屬し上杉佐竹等と戰はんとす。然るに關原の一戰逆徒悉く敗績して上杉佐竹も降人に出ければ。義康には常陸國鹿島の郡を割て三万石下し給はる。ことし三十一歲にて卒せしなり。(里見記。里見家記といへる書には。豐臣太閤より小田原へ參陣せしを賞せられ。上總の三浦四十餘クを賜はりしを。關原の時病と稱し出軍せざりしゆへ四十餘クの地を收公せられ。わづかに鹿島の地にて三万石たまはりしゆへ。里見の君臣臍を嚙て悔恨すとあり。いづれか是なるや。)
○十八日松前志摩守慶廣參覲す。在府の料とて月俸百口給ふ。此後永例となる。(ェ政重修譜。)
○廿五日榊原式部大輔康政御上洛の供奉及び在京の料として。近江國野洲栗太蒲生三郡の內に於て五千石を賜ふ。又元重の御刀及ひ國綱の鎗二柄を下さる。(ェ政重修譜。)
◎是月丹羽五カ右衛門長重召出されて。常陸國古渡に於て一万石の地を賜ふ。長重は庚子の亂に加賀國松任の城にこもりて出陣せず。前田中納言利長卿近國の叛徒を討平げんがため出軍して。長重にも軍を出さん事をすすむるといへども。催促に應ぜず。遂に合戰に及びしかば。關原平均の後賞罸をたゞされし時所領を沒入せられしに。長重はこの後カ從兩三人を伴ひ江戶に來り。品川邊に閑居して異心なきをあらはしけり。右大將殿もとより長重とは懇に御したしみありければ。しばしば長重が事なげかせ給ひしによりかく召出されたり。又長重が弟左近長次も兄と同じく品川に閑居しけるが。これも召れて右大將殿へ初見し奉る。(ェ政重修譜。芝泉岳寺舊記に。長重兄弟が閑居したる寺中田田中內匠某家をかりて。從者は十三人なりしといふ。)
○十二月二日右大將殿河越へ放鷹のためならせらる。(當代記。慶長年錄。)
○三日淺間山鳴動する事三四度に及ぶ。其音三河美濃兩國の間に聞ゆといふ。
○廿日山岡備前守景友入道道阿彌卒す。こは故美作守景之が四男。はじめ僧となり邏慶と稱し。三井寺の光淨院に住す。天正元年二月靈陽院義昭將軍いつしか織田右府の威權を忌て。武田信玄淺井長政等と通じて是を討んとはかられし時。邏慶も足利家の命を奉じて石山堅田邊に要害をかまへ立こもるといへども。織田の大勢に攻られしかば城兵勢盡て城をのがれさる。これより邏慶還俗して八カ左衛門景友とあらため。織田家につかへ備前守と稱しける。十年右府本能寺にて事有し時。景友膳所にて勢多の船ををしとめ。明智光秀をして渡る事を得ざらしむ。光秀ほろびて後豐臣家につかへ。入道して道阿彌と號し所々の戰塲にしたがひ。恩遇を蒙り宮內卿法印になされける。太閤うせられて後大坂の奉行等が當家を傾けまいらせんとはかりしこと度々なりしに。入道いつも無二の御味方として御館をぞ守りける。慶長五年奥の會津にむかはせ給ひしに御供し。弟源太景光入道甫庵は伏見城を守りて。上方の軍おこりし時城中にて討死せり。又下野國小山の御陣にて御供の諸將をあつめ軍議ありしにも。入道幷に岡江雪二人をして仰をつたへしめらる。人々皆御味方して先陣うつてのぼるべきに决しければ。入道は福島掃部頭正ョが加勢として伊勢國長島城に立こもり。原田隱岐守胤房と戰ふ。しかるに關原の戰味方勝利して凶徒みな敗走すときゝ。入道手の者引具し城を出て川船にとりのり大鳥居にさしかゝる時。長束大藏少輔正家が敗走して來るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百餘切て又桑名城にをしよせ。氏家內膳正行廣兄弟を降參せしめ。又神戶龜山水口等の城を請取て大津に參りしかば。兩御所入道がふるまひを感じ給ふ事斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫與力十人同心百人をあづけられ。近江國にて九千石の地をたまはり。其內四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。ことしその家にわたらせ給ひし時吉光の短刀を給はる。齡六十四にしてけふうせぬる之。姪主計頭景以が子新太カ景本を養子とすといへども。景本いまだ幼稚なれば仰によりて景以その遺跡を相續し。甲賀組の與力同心をあづけらる。このとき景以にこれまでたまはりたる三千石は收公せらる。(ェ政重修。景友萬石に列せずといへども。創業の功臣なれば傳をこゝに出す。)
○廿三日此夜大雪。京にては三條曇華院火災あり。(當代記。)
○廿八日太田原出雲守暾Cに百石加へられて千五百石になさる。(ェ政重修譜。)
◎是月阿部勘左衛門宗重を右大將殿の御方に付らる。朝倉右京進政元。弟七左衛門景吉共に拜謁し鶴千代の方に付らる。(ェ政重修譜には月日を記さず。今は當代記年錄による。)又右大將殿土方河內守雄久が外櫻田の邸へならせ給ひ鞍馬を下さる。(ェ政重修譜。)
◎是年京極宰相高次が子熊丸。(時に八歲。)小笠原安藝信元が子孫三信重。眞野金右衛門重家が子惣右衛門勝重。駒井次カ左衛門昌長子長五カ昌保。大久保喜六カ忠豐三子六右衛門忠尙。角倉了以光好子與一玄之。織田家に仕し島彌左衛門一正。(後に使番となり千五百六十石賜ふ。)金吾黃門に仕へし林丹波正利。武田につかへしP名左衛門貞國はじめて拜謁す。正利にはやがて舊領にひとしく采邑たまはるべしとて元采邑二千石賜ひ。貞國にも二百石賜ふ。京の外科醫奈須與三重恒が子二カ四カ重貞。織田家に屬せし內藤喜右衛門政長は右大將殿に初見す。牧野成里入道一樂は仰によりて江戶に參り右大將殿に初見し。束髮して傳藏と改め。この時めされたる長の御袴を賜ひ采邑三千石賜ふ。板倉伊賀守勝重三子主水重昌。長谷川波右衛門重吉弟左兵衛藤廣。天野伊豆重次二子にて故麥右衛門正景の養子たりし麥右衛門重勝。武島大炊助茂幸が子七大夫茂成。黃門秀秋に仕し矢橋嘉兵衛忠重。川勝主水正秀氏が弟太カ兵衛重氏はじめて仕へ奉り。忠重は采邑五百石。近江國矢橋村舊宅の地をも給ひ詰衆に加はる。牧野傳藏成里が二子五六成純。石原小市カ安長子小大夫安正。長田喜兵衛吉正養子十大夫重政。飯塚兵部少輔綱重二子半次カ忠重。
(時に十二歲。)渡邊忠右衛門守綱三子忠四カ成綱。織田家に仕し中村四カ兵衛長次。安藤三カ右衛門定正子忠五カ定武。多喜六藏資元が子十右衛門資勝は右大將殿御方に召出され。重政は納戶番。忠重は小姓となる。長次には二百石賜ふ。先に本多中務大輔忠勝に附屬せられし都筑彌左衛門爲政。彼家を去て信濃國松本に閑居してありしをめされ。是を右大將殿に附られ采邑六千石賜ひ。其子惣左衛門言成は越前家に附らる。天正の頃故有て當家を退去したる武島大炊助茂幸三子與四カ茂貞。再び御家人になされ采邑二百石下さる。又大久保石見守長安に佐渡の奉行をかねしめられ。山口勘兵衛直友。柘植三之丞C廣。伏見城定番命ぜられ。長野內藏助友秀伊勢の山田奉行仰付られ。長谷川左兵衛藤廣長崎奉行になり。小堀新助正次備前國の制法を沙汰せしめらる。土方河內守雄久二子鍋雄重(時に九歲。)右大將殿小姓になる。三浦長門守爲春は長福丸の方補導の臣とせられ。封地水戶に赴く。山伯耆守忠俊百人組の頭となり五千石たまはり。騎士廿五人歩卒百人をあづかる。久永源兵衛重勝は右大將殿御方に附られ。五百五十石加恩ありて五千二百石になされ。騎士十人同心五十人をあづかり。先手弓頭となる。二千石は騎士同心の給地にたまはりしとぞ。三井左衛門佐吉正は歩行頭となる。千村平右衛門良重は信濃國にて一万石。遠江の國中にて鐚錢千四十貫餘の地を所管とし。榑木の事をも沙汰せしめらる。木與兵衛信安は甲斐國武川の本領を給り。かの地に住居して五カ太丸のかたにつけらる。其外成P內匠正則。津金修理亮胤久をはじめ武川津金の輩子弟等廿人。幷鷹師西村仁兵衛某。倉林四兵衛昌知を同じくつけらる。大久保甚右衛門忠長が子牛之助長重は書院番に加へられ。多田八右衛門正吉が子三八カ正長。大久保三カ右衛門忠政三子三カ右衛門忠重。遠山四兵衛直吉子新次カ景綱。武田家に仕し今川平右衛門貞國は大番にいり。忠利は三百石。貞國は二百石下さる。鳥居久五カ成次は叙爵して土佐守と稱し。內藤三左衛門信成は豐前守と稱し。小出万助三尹は大隅守と稱し。同助九カ吉親は信濃守と稱し。池田彌右衛門重信は備後守と稱す。津金勘兵衛久C武藏國鉢形の采邑を改めて甲斐國の舊領を賜ふ。(稅額詳ならず。)山寺甚左衛門信光も舊領三百九十石賜ふ。みな武川津金の地之。米倉加左衛門滿繼甲斐の舊領に復し甲府城の勤番を勤む。大岡兵藏忠吉は相摸國にて百六十石餘を給ふ。金森兵部卿法印素玄五畿內に於て放鷹の地を賜ふ。又池田備後守重成の子備後守重信。永見新右衛門勝定が子權右衛門重成。渡邊彌之助光の子彌之助勝は父死して家つぎ。勝には父の原職を命ぜられ足輕をあづけられ。夏目万千代某は死して子なき故に采邑を收公せらる。池田備中守長吉は伏見城の修築を奉はり。松平又八カ忠利。吉田兵部少輔重勝。遠藤左馬助慶隆は近江國彥根の城新築の事を奉はり。慶隆は美濃國加納の城をも築かしめられ。吉川藏人廣家は御許蒙りて周防國山に城を築く。細川越中守忠興は江戶運送廻船の事をつかうまつらしめらる。角倉了以光好仰を蒙りて安南國に船を渡して通商す。又有馬玄蕃頭豐氏が子生れしかぱ吉法師丸と名を賜はり。其家司吉田掃部助に御刀を賜ふ。是は御養女連姬の御方の所生なるが故なるべし。山村甚兵衛良勝は父三カ左衛門良侯の遺跡を去年つがしめられしにより。父の遺物茶壺を献ず。又松平(中村。)伯耆守忠一は封地伯耆國岡山の城にありて。家の老田內膳村詮を誅す。忠一ことし僅に十五歲。身の行ひ强暴なりし故內膳直諫の詞を盡せしを憤りて。饗宴に事よせ自ら是を斬る。內膳きられて其所を走り出るを。近臣近藤吉右衛門馳むかひて打とゞむ。內膳が召具したる小童これを見て。主の刀をぬいて忠一に切てかゝる。天野宗葉をしへだて。其童をば安井C次カ道家長右衛門切てすつ。內膳が子主馬助かくと聞て父が居城飯山にたてこもる。忠一が家人これに組するもの少からず。忠一大に怒て軍勢をさしむけ飯山の城を責かこむ。こゝに於て隣國までも騷動大かたならず堀尾山城守忠晴出雲隱岐の軍勢を出し忠一を助く。城中にこもる所の兵柳生五カ左衛門(但馬守宗矩が弟なり。)をはじめ。一人も命いきんと思ふものなく防戰すれば。寄手討るゝもの數をしらず。其後柳生をはじめ城兵も次第に討れければ。主馬助城に火をかけ主從ことごとく腹切て死す。此事江戶に聞えければ大に御氣色損じ。忠一が寵臣安井。近藤。天野。道家四人をめして子細を尋とはせ給ふ。忠一いまだ幼弱之。たとひひが事はかるとも。それを諫めざるのみならず。主の惡を迎合してふるまふ事以の外なりといからせ給ひ。安井。天野。道家三人は忽に誅せらる。(道家は先に姬君に附られし人なり。)近藤一人は助られもとのごとくつかへしめらる。これは近藤はじめ忠一が內膳を誅する密議を聞て忠一を諫しに。忠一さらに聞入ず。さては幼弱の人のみづから大剛の兵誅せられんこと危しと思ひ。ひそかに長刀携て奥の間に忍びゐて。終に內膳を討とめしふるまひ。にげなからざればなり。又伊丹長作重好は小栗次カ光宗を討果して逐電し。K田筑前守長政にあづけられし石尾越後守治一は御ゆるしを蒙り。又三河國大林寺に百石の御朱印を下さる。又白銀町の日輪寺を淺草に引うつさる。又京中市街の市人を十人づゝ黨を定められ。その黨中に一人も惡行の者あらんときは。同組のもの悉く同罪たるべしと令ぜらる。これは京伏見この頃盜賊行の聞えあるにより鞠治せられんがためなり。又京の處士林又三カ信勝洛中に於て朱註の論語を講ず。聽衆雲のごとくあつまる。こゝに於てC家の博士舟橋外記秀賢等大に猜忌して。凡本朝にして經典を講說する事。勅許あらざれは縉紳の流といへども講ずべからず。まして凡下の處士かゝるふるまひ尤奇怪なり。速に其罪を糺明あるべきなりと奏しければ。禁廷よりこのことを議せられしに。
御所聞召て。聖道は人倫を明らかならしむるためなれば。ひろく講說せしむべきことなり。これをさまたげんとするもの尤狹隘といふべし。彌ゆるして講說せしむべしと仰らる。これより信勝はゞからず洛中に於て程朱の說を主張して經書を講讀す。これ本朝にて程朱の學を講ずる濫觴なりとぞ。(貞享書上。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。佐渡記。大業廣記。蓬左記。斷家譜。藩翰譜備考。慶長見聞錄。落穗集。由誌早B町年寄書上。當代記。烈祖成績。東鑑。) 
 
巻八

 

慶長元年七月十二日地おびたヾしくゆりて。伏見城の楼閣悉く破損す。君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御対面ありてその無異を賀せられ。かつ速に内の御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大変にて陪従の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。徳川殿ともに参らせ給へ。その従士をかり申さめと有て。当家の陪従ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の辺おもく堪がたし。徳川殿の従臣の内に持せ給れとあれば。君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。とかうする内にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁来たれば。太閤輿に乗れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心には。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懐に入し鳥を殺す様なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひしが。折悪しく隔たりしゆへ。間にあはでいと残りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小気者なればなり。小気者よ/\と笑ひながら輿に乗られしかば。忠勝何ともいはずたヾ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。続武家閑談)
ある時数寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶杓をとりあつめもてこよと仰付られ。そが内にて瀬田掃部が削りし杓六七本。筒に入て在しをとり出され御手づから節の所より一つ/\〃に折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部。豊臣家の内意を受て。蒲生氏郷を鳩殺せし聞えありしかば。彼の所為をいたくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元実記)
大坂の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。君のまうのぼり給ふ道筋なれば。浅野弾正三成にむかひ。只今内府の通らせらるゝに。さるなめげの様してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顔して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後に聞しめし。さて/\あやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。」この長政は豊臣家にはゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。殊に御仁恵をかしこみ奉り。後に大坂の奉行等が異図企し時故有て武州に蟄居し。其末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年釆女正長重十二歳にて江戸に参りたれば。御けしき斜ならず。同五年より台徳院殿につけしめられ。野州真岡にて二萬石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家清が娘は御姪女なるを。養せられ長重に配せられ御待遇浅からず。おほよそ上方の大名の子弟当家に奉仕する事は。長重をもて権輿とするにぞ。」又長政常に寵眷浅からず。君つれ/\〃の折ふし長政を召出して共に碁を囲み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる挙動有しを。君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひけり。長政が身まかりしのち。しばしが程碁を囲み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと哀なる御事になん。(寛元聞書、貞享書上、大三河志)
慶長三年正月二日とみの事にて石清水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御夢想の事おはしませしゆへなりといへり。」同じ夜関東にても御家人米津清右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をば継ける
これは其ころ豊臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆくに。当家は関東におはして。日にそひ御威徳のそひまさらせ給ふにより。天意人望の合応する所より。かかる瑞徴もおはしませしならん。(天元実記)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納涼しておはしけるに。廚所より出入する下部の様を御覧じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさま/\〃の物を懐にし。又は袂の内に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行届かざるゆへなりとてむづからせ給へば。正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。君聞しめし。下人が盗竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そも/\そのかみ岡崎におはしませし程の御事は申までも候はず。浜松にうつらせ給ひても。御分国広大に成せ給ひしとはいへども。廚所のもの鰹節一本盗む事もならざりき。さるに当時関八州の太守にならせ給ひ。海内第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。国々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせらるゝをもて。かゝる盗人も出来れ。これぞ御家の栄へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御台所と河の瀬は。いつもどむ/\となるがよいと申ごとくにて候と申せば。君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(霊岩夜話)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志ある者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを検出してとがむrつもまた同じ様の心なれ。其儘毀裂して捨よと仰付られしが。此後は果して絶てせざりしとなり。(三河之物語)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壷一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる為にとて厨膳をたまひ。棋。象棋。双六の盤などまで遣はされ。随分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壷二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番人等を慰労せられ。残の壷ども御覧じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せられし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壺を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこそ参るべきに。たゞ使にのみ渡してよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈実におはしまして行届かせられしゆへ。いづれも心用ひて。あへて句(正しくは草冠)旦の事はなさゞりしちぞ。(紀伊國物語)
豊臣太閤既に大漸に及び。君と加賀亜相利家を其病床に招き。我病日にそひてあつしくのみなりまされば。とても世に在むとも思はれず。年比内府と共に心力を合せて。あらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六歳にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。我なからむ後は天下大小の事はみな内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す/\〃申されけれど。君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と。遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記) 
太閤の遺命により。浅野長政。石田三成の両人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々帰帆せしむべしと命ぜらる。」その日の夕方仰残されしむねあれば。高虎かさねて参謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡には留守の家老のみ在と申上しかば。君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹あるを察せられ。追々抜擢せられし程有て。万事敏捷なる者なり。汝等聞置て後学にせよと仰れしとぞ。」かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島津兵庫頭義弘泗川の戦に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に怒れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆帰帆せむと注進有ければ。高虎がしばし名護屋に在て渡海に及ばず。その年十一月に本朝の軍勢残らず博多へ着岸す。」こたび島津が勲功莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀頼公御代始の事なれば。外々三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て従はず。よて五奉行の人々その事申上れば。君の仰らるゝは。今秀頼幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪ある者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれば。前田徳善院は愚僧も仰のごとく存しなり。その後薩摩大隅両国の中にて。島津に一萬石まし給はりしとぞ。(天元実記、寛永系図)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮説区々にして人心おだやかならず。其比加賀亜相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亜相が心はわれよくしれり。さる反復の者にてはなし。まして彼すでに病をつとめてわが方に来りしを。我遅々してゆかざらんには。かへりて世の浮説しずまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亜相もかく降臨ましませしを世に嬉しげにおもひ。病あつくして衣装を正すこともかなわず。されば上下をば側におきて見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す/\〃いひ出しかば。君にも其様を御覧じて。哀におぼし召御涙を浮められ。家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく遷御なりぬ。亜相より家人と徳山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮説もいつしか静まりて。人心も何となく落居しなり。」ある伝には。利家その子利勝をよびて。今日内府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗応の設共みなしつるといふ。さて還御の後重ねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白匁を取出し。さきに吾汝に問しとき。汝さるべき答をせば。われ病中ながらも内府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず内府の掌握に帰すべし。されど汝等が事はよく/\頼み置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠ることなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戸田左門覚書、公程閑暇雑書)
大坂の大老奉行等より安国寺惠瓊長老。生駒雅楽頭親正。中村式部少輔一氏君には故太閤の遺命に背かれ。妄に諸大名と縁を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のごとく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。君聞しめして。我故殿下の終に臨み。幼主の事をかへす/\〃遺托ありしゆへ。日夜心力を尽してその為よからんことをはかる所なり。さるに方々近比は何事も我に議し合されず。別人の様に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたち。それがしも世にそしりを免かれなん。然るに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穏当の所為とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し関東へ下り。代りには武蔵守をよび昇せて当地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指図給はるべしと宣ひ。又安国寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身として。たが命を受てみだりに三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ様もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠瓊は面の色をかへ。わな/\ふるひ出せしとぞ。」同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺と伺公せしに。折しも物具取出されて御覧有しかば。この具足は故殿下の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して検点するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に当りてたれか内府公に対し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊国物語、天元実記、落穂集)
向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よと命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ礫をもて打おどろかし給ひしとか。」後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる悪徒どもの。焼草つみ置て焼立ることもあるものなれば。よく/\警しめねばかなはぬものなりと仰られき。」向島の本邸に還らせられ。おほよそ一夜の内に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈従の者も親しきかぎり三人か五人に過ず。余はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前橋聞書、卜斎記)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備厳重なり。御門を明て御長柄鉄炮など修理す。新庄駿河守直頼伺公して。かゝる時はいかなる急変あらんも測り難し。御門を閉しめ給へといふ。君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄関にて用意するがよしと宣へば。直頼も盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ。(落穂集)
ある日向島の御館へ。加藤。細川の人々伺公して武辺の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと上意也。定政君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せしなどゝかぞへ立て。つぎ/\物語せしかば。君の御武功はおのづから言をまたずして顕はれしとぞ。いかにも御称誉の様。よく其体を得しと人々感じて。かく武功のものおほく持せらるれば。終末にこの君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土産)
細川越中守忠興は兼て当家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が奸計にくみし。彼等の内議を聞出して一々言上す。ある日長束大蔵大輔政家忠興にむかひ。今宵内府が館を襲はむと群議已に一決せり。御辺も力を合されよといふ。忠興云。内府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戦をしかけなば。いかに利を得むやといつて従はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御館に参りて。しか/\〃の由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つれ。もしさらむにはわが館に火をかけ。東北の広地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武徳大成記)
おなじころ伏見の御館浅まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六条門跡を御頼在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずば京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど。とり/\〃議しけるに。君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。家康は敵を恐れて落たりなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の様もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方のものもあへて手を下す事もならざりしとなり。」この時井伊兵部少輔直政。関東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも在ん。もし不虞の変あらんにも。此人数にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。」徳善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを内府はいさゝか御動転なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき様して沈静持重しておはせしは。なか/\名将にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊国物語、三河之物語)
加藤主計頭清正。同左馬助嘉明。浅野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。黒田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戦にいづれも千辛萬苦して軍忠を励み。武名を異域にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。帰陣の後太閤へさま/\〃讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人会議して三成を打果し。旧怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騒擾に及び。三成も窘窮してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義気あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に来り。向島の御館に参りてさま/\〃歎訴し奉れば。君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾まし/\。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰下されしは。当時秀頼幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尚更なるべし。三成が旧悪はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。当地へまで逃来りし上は。おの/\の宿意もまづ達せしなれば。これまでに致され。此上は穏便の所置あらむことこそあらまほしけれとの御諚なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳来り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて従服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そも/\三成当家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし。救済せしめたまふ御事。さりとは寛容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元実記)
後年駿河におはしまして。今の世に律儀の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律儀なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の内に佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大坂にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶持してわが方へ来り。さま/\〃こひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ横目を付置。万一違変あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍装して在しとなり。これは誠の律儀人といふべけれ。関原の時は何れへもつかず。国に蟄し両端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に属し忠勤を抽んでむには。本領はそのまゝに遣し置べきに残りおほきことなり。とかく律儀はよけれども。あまり律儀すぎたるといふは。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有しとか。(駿河土産)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豊臣太閤の命により肥前名護屋赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事をあはれませ給ひ。さま/\〃申たまひ。入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家臣伊集院源次郎忠真日向庄内の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄内の地図を御覧に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易。人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば。俄に責落さむとせば。かへりて士卒あまた損ぜん。日を曠して糧の尽るをまたば。おのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の異なれば。血気にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を傷はざらむ様にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(寛永系図)
慶長四年九月重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異図あるよし群議まち/\なれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。桜の門迄おはしませしは比。門衛の者。扈従のものおほしとてとがむれども聞入ず。増田右衛門尉長盛。長束大蔵大輔正家出迎て案内し奉る。井伊。本多等の十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄関に伺公す。かくて奥方に通らせ給ひ。秀頼母子に対面したまひ。御盃ども出て。とり/\〃御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其様儼然たれば。城中にもかねての相図相違して。敢て異議に及ばず還らせ給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舎者共にも見せ度と在て。酒井與七郎忠利をもて。御供の者悉く召よばれて見せしめられ。内玄関より静にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへども。いさゝか御平常にかはらせ給はず。人なき地をゆくがごとく御處置ありて。鎮静をもて騒擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるるにぞ。(慶長見聞書)
此巻は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騒擾の事どもをしるす。 
東照宮御實紀卷八 / 慶長九年正月に始り六月に終る御齡六十三
慶長九年甲辰正月元旦右大將殿新正を賀し給ひ。次に在府の諸大名諸士江戶城に登り慶賀し奉る。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○二日昨夜より大雪。八日に至る。(慶長見聞書。)
○七日若菜を祝はせ給ふ。この夜追儺。(慶長年錄。)
○八日立春。
○十日足利學校主僧寒松貞觀政要の訓譯を献ず。御氣色にかなひ酒井備後守忠利。戶田藤五カ重宗をもて寒松に時服金を給ふ。柴田七九カ康長燒火間番頭命ぜらる。けふより京淀川の堤修築せしめらる。板倉伊賀守勝重これを監す。大坂城よりも片桐市正且元をしてこれに@ましむ。(慶長見聞書。當代記。慶長年錄。ェ永系圖。舜舊記。)
○十三日天滿茨木屋又左衛門。尼崎又左衛門。安南國渡海通商の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十四日京富森堤を修築せしむ。板倉伊賀守勝重これを監視す。(西洞院記。)
○十五日松平(蒲生。)飛驒守秀行に召あづけられたる新庄駿河守直ョ。其子越前守直定と共に府にめされて兩御所に拜謁す。この父子庚子の亂に石田三成が催促に應じ。伊賀國上野城に立籠りたるをもて。關原御凱旋ののち秀行に召あづけられ。陸奥の會津に閑居せしめらるゝといへども。反徒にくみせしは其本志にあらざる事聞召とゞけらるゝによてこたび召出され。常陸下野の內にて所領三万三百石給ひ。常陸國麻生に住せしめられ。此後はよりより御談伴に候し。諸家へならせ給ふ時もしばしばめされて陪侍せしめらる。(ェ永系圖。家譜。)
○廿日具足御祝例のことし。連歌興行又同じ。立こすや霞を松の若みどり。(三益。)雨そゝぐ夜のあけぼのゝ春。(右大將殿。)月にふく風の高こちしづまりて。(紹之。慶長見聞書。)
○廿五日榊原九右衛門正吉死す。其子大番組頭八兵衛正成家をつぐ。この正吉は永錄三年五月。尾張國丸根城の戰に鎗を合せしを始とし。廣Pの城責。一向專修の亂。姉川長篠等の戰にいつも供奉して戰功をはげみしものなり。齡詳ならず。(ェ政重修譜。)
○廿七日松前志摩守慶廣に蝦夷交易の制三章を授らる。其文にいふ。諸國より松前の地に出入する者。慶廣に其旨告ずして夷人と交易せば曲事たるべし。慶廣に告ずしてみだりに渡海して。夷人と通商する者あらば。速に府にうたへ出べし。夷人は何方に往來するとも心まかせたるべし。夷人に非義を申かくべからず。これに違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(家譜。令條記。)
◎是月松平三カ四カ定綱江戶に參り拜謁す。仰により右大將殿につかへしめらる。その時本多佐渡守正信に命ぜられ。定綱その器に應じ登庸せらるべしとて。先下總國山川の地五千石たまふ。故の武田七カ信吉君の家司万澤主稅助君基。馬塲八左衛門忠時。宮崎理兵衛三樂。近藤傳次カ吉久。河方織部永養。帶金刑部助君松士籍を削らる。この輩は穴山陸奥守信君入道梅雪以來の舊臣どもなりしが。信吉君年若くおはしければ。封內賦稅の事などほしゐまゝにはからひ私慾を專にせしとて。穗坂常陸介某。有泉大學某。芦澤伊賀守某。佐野兵左衛門某等うたへ出しかば。營中にめして双方對決せしめられしに。万澤等語塞がりしかばかく命ぜられしなり。又筒井伊賀守定次參覲し新年を賀し奉る。(ェ永系圖。貞享書上。慶長年錄。筒井家記。)
○二月四日右大將殿の命として。諸國街道一里每に堠塚(世に一里塚といふ。)を築かしめられ。街道の左右に松を植しめらる。東海中山兩道は永井彌右衛門白元。本多左大夫光重。東山道は山本新五左衛門重成。米津C右衛門正勝奉行し。町年寄樽屋藤左衛門。奈良屋市右衛門も之に屬してその事をつとめ。大久保石見守長安之を惣督し。其外公料は代官私領は領主沙汰し。五月に至て成功す。(家忠日記。當代記。慶長年錄。ェ永系圖。津輕志。町年寄由誌早B大三河志。落穗集。世に傳ふる所は。昔より諸國の里數定制ありといへども。國々に異同多かりしが。近世織田右府領國の內に堠塚を築き。三十六町を以て一里とさだむ。豐臣太閤諸國を撿地せしめ三十六町にさだめ。一里每に堠塚をきつがしむ。此時又改て江戶日本橋を道程の始に定め。七道に堠を築かれしとぞ。其時大久保石見守に。堠樹にはよい木を用ひよと仰ありしを。長安承り誤りて榎木を植しがいまにのにれりとぞ。落穗集。武コ編年集成。)
○六日山常陸介忠成。內藤修理亮C成。大久保石見守長安。長谷川七左衛門長綱。伊奈備前守忠次奉りて。長吏(非人の長なり。)彈左衛門に江戶小田原の傳馬下知狀をさづく。其文にいふ。江戶より小田原まで。驛馬一疋を立べし。これは鹿毛皮白皮に製せしめられんためなれば。滯る事あるべからずと之。(由誌早B)
○十日深夜怪音四方に鳴動する事五六度。(其音はじめはどんどん後ばたばたとす。)何の怪たるを知らず。(當代記。)
○十五日榊原式部大輔康政が二子伊豫守忠長卒す。歲廿。兄國千代忠政は外祖大須賀五カ左衛門康高が家をつぎし故に。忠長嗣子となり御一字を給はり。叙爵して伊豫守と稱しけるが。けふ卒しければ康政は三男小十カ康勝をもて嗣子と定む。(ェ永系圖。)
○十六日上杉中納言景勝北方うせぬ。これは武田晴信が女にて菊姬といひしなり。(慶長日記。)
○廿八日大和國布施領主桑山修理大夫一晴伏見に於て卒す。子なければ弟久八一直に遺領一万三千二十石餘を襲しむ。この一晴は故の大納言秀長につかへたる九カ五カ一重が子にて。はじめ豐臣家につかへ朝鮮の軍に彼國にをし渡り。番手の船を打破り勇戰し。慶長元年五月十一日叙爵して修理大夫と稱し。五年祖父治部卿法印重晴と同じく關東の御味方し。紀伊國和歌山城を守り。又叔父左近大夫貞晴と共に新宮の城をせむ。城將堀內安房守氏善降を乞て大野に迯れしかば。かの地平均し。此年封を襲て和歌山二万石を領し。叔父伊賀守元晴に一万石を分ちあたへ。六年和歌山を轉じ大和國葛下郡布施にうつり。けふ三十歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿九日相摸國戶塚(富塚ともしるせり。)の土人等彥坂小刑部元成にうたへしは。
戶塚の村年頃驛馬の事つかうまつりしを。今度藤澤程谷の兩驛よりこれをはぶき。宿驛の列にあづからしめず。よて戶塚一村生產を失へば。よろしく藤澤程谷の兩驛に曉諭せられ。古來のごとく戶塚の一驛を立給はん事を希ふとの事なり。(案に此後上裁ありて。藤澤程谷の間に又戶塚の一驛を置事ゆるされしなるべし。)又小堀新助正次卒しければ。その子作助政一をして遺領一万二千四百六十石餘を襲しめ。二千石を次男次左衛門正行に分ちあたへ。父が例のことく備中の國務をつかさどり松山の城をあづけらる。此正次は故勘解由左衛門正房が子にて。はじめ近江の淺井家に屬し。後に豐臣太閤につかへて大和大納言秀長に附屬せられ。大和和泉紀伊三國の郡代となる。其後高野山御詣のとき。御路すがらの事を沙汰せしにより御かへりみを蒙り。秀長卒しその子中納言秀俊も世を早うせしかば。再び豐臣家につかへ五千石を領しけるが。慶長五年上杉御追討の供奉し下野の小山にいたる。此時より常に麾下に屬し。九月關原の役にもしたがひしかば。その十二月舊領を賜ひ。備中國の內にて一万石加へられ。すべて一万四千四百六十石餘を領し。備中の國務をつかさどり松山の城を守り。また板倉伊賀守勝重。大久保石見守長安とおなじく五畿七道の事を相議し連署して。六年伏見城作事の奉行し。七年近江國撿地の事をつかさどり。八年備前國に赴き制法を沙汰し。ことし江戶に參るとて二月十九日相摸國藤澤の驛にをいて卒しぬ。歲は六十五なり。(鎌倉古文書。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是月相摸國中原に放鷹し給ひ。高木主水助C秀入道性順が海老名の隱宅に立よらせ給ひ。鷹の取し雁を下したまふ。また遠江國中泉に傳馬の御朱印を給ふ。この頃關東邊の神祠佛宇修造せらる。また久松多左衛門定次召出され近侍す。(高木源廣錄。遠州古文書。創業記。ェ政重修譜。)
○三月朔日御上洛あるべしとて江戶城を御發輿あり。五カ太丸長福丸兩公子をともなはせ給ひ。御道すがら伊豆國熱海の溫泉にゆあみし給ふとて。七日御滯留ましまし。此間御みづから御獨吟の連歌をあそばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村の雲にわかるゝ鴈啼て。つきづき百韻に滿しめ給ふ。こゝに陸奥國仙臺に猪苗代兼如といへるは。其父兼載とて宗祇法師が高足の弟子にて名高き連歌の宗匠なり。仙臺少將政宗また風月のすき者にて。これを聘召して其國につかへしが。兼如其子にて今箕裘をつぎ當時堪能の聞えありしかば。兼如にこの御連哥を見せしめ給ひ批評を命ぜられ。後にこの賞として兼如に金一枚を賜ふ。(熱海御滯留の間。何日より何日に至りしといふ事は詳ならす。)又吉川藏人廣家病臥のさま聞しめされ。東條式部卿法印して。この地溫泉の湯五桶を廣家がもとへ搬送せしめらる。(御年譜。創業記。家忠日記。武コ編年集成。貞享書上。大三河志。由誌早B)
○二日松前志摩守慶廣に兼光の御脇差幷に時服五領を給ふ。又武川の輩に加恩あり。小尾監物祐光に百石。柳澤兵部丞信俊に百廿石。伊藤三右衛門重次に百十八石八斗。曲淵庄左衛門正吉に八十石。曾根孫作某に五十六石四斗二升。曾𨾛民部定政に八十六石。折井九カ三カ次吉に六十石。折井長次カ次正に九十石。曾𨾛新藏定Cに百十石。有泉忠藏政信に五十石。山高宮內信直に七十五石。木與兵衞信安に八十石。木C左衛門信正に二十石。馬塲右衛門尉信成に百石。折井市左衞門次忠に二百石給ふ。この餘百六石七斗八升は次忠にあづけらる。(家譜。貞享書上。ェ政重修譜。)
○五日小栗庄右衛門正勝に采邑五百五十石。忍城番天野彥右衛門忠重にもおなじく五百五十石給はる。(ェ政重修譜。)
○十五日下總國相馬郡コ万寺に。市川卿に於て二十石の御朱印を下さる。又武藏國足立郡大宮の社に。高鼻村落合村にて合三百石の御朱印を下さる。(ェ文御朱印帳。)
○十九日益田傳次カ某に采邑三百三十石賜はる。この父外記某は三方が原の戰に御馬前にて討死せしが。其頃傳次カ幼年なりし故此度本領を賜ふ。御朱印の券書に外家の苗字をしるされしゆへ。この後益田を改め柘植と稱す。今紀邸につかふ。又駿河國龍泉寺に寺領二十石よせ給ふ。これは右大將殿御生母寳臺院のかた御墳墓の地なるが故なり。後に龍泉寺を改めて寳臺院と號す。又相摸國鎌倉郡天王の社に五貫文の地をよせられ。常陸國東條の庄興祥寺に廿石の地をよせられ。寺中山林竹木諸役免許の御印書を下さる。(貞享書上。日記。ェ文御朱印帳。慶長日記。)
○廿日致仕K田勘解由次官孝高入道如水卒す。齡六十九。此孝高は父を美濃守識隆といふ。小寺藤兵衛政識に屬し。その苗字をあたへて小寺を稱せしめしが。政識死して子なかりしかば識隆その兵卒をしたがふ。播磨國姬路において孝高うまれしに。幼より弓馬の道に達したるのみにあらず。敷島の大和歌を嗜みける。十七歲より常に戰塲にのぞみ。眞先かけて功名をあらはす事なみなみならず。天正元年織田右府上洛のとき。孝高も都にのぼり謁見す。右府たのもしき者に思はれ。吾中國を征伐せん時は心汝を以て先手に用ひんと約せらる。其後羽柴筑前守秀吉右府の命を蒙て中國へ伐て下るとき。孝高使を出しこれをむかふ。秀吉スなゝめならず兄弟の契りをむすぶ。八年秀吉别所長治が三木の城を攻落し。こゝを居城とせんとありし時。孝高姬路は國の中央にして。ことに船路のたよりよければとてその城をゆづり。其身は國府山城に退去す。秀吉いよいよその志の私なきを感ぜられ。始て一万石をさづけらる。十年毛利を攻られしとき。孝高がはからふ事ども少からず。しかるに京にて右府逆臣明智光秀がために弑せられし告あるにより。秀吉毛利と和睦し京都へ打てのぼられしに。孝高。毛利宇喜多が旗數十流かりうけて秀吉の先隊にすゝみ。光秀誅に伏す。十一年秀吉柴田勝家と中たがひ矛楯に及びしにも。孝高又秀吉の味方して先登せしかば。千石を加へられ近江國山崎城にうつり。長曾我部を征せられし時には軍監として四國に發行し。
阿波讃岐の城々を攻落し。筑紫の軍にしたがひ豐後日向をへて薩摩國に攻入しにより。其軍功を賞せられ豐前の六郡をさきあたへられ。十六年五月從五位下に叙し勘解由次官と稱す。孝高が豐臣家のために忠ある事かくのごとしといへども。秀吉これに大官大國をあたへられざりしは。孝高が勇略終に人の下風に立べからざるを察して忌れしものなり。孝高また其意をしりければ。はやく所領を長子吉兵衛長政にゆづり。その身は猶太閤に近侍し軍事をたすく。このとき入道して如水と號す。このゝち小田原の軍にしたがひ。朝鮮に渡海し軍勢を督しける。慶長三年太閤薨ぜられし後。かの家の奉行等やゝもすれば烈祖をかたぶけ奉らんとせしに。孝高かねて御恩遇の厚をかしこみしかば。常に家臣を具して伏見の御館を守護し。福島加藤等をすゝめ御味方となし。五年上杉御追討のため奥に下らせ給ふに及んで。長政は御供にしたがひ。入道は所領中津にありしに。石田三成謀叛し上方またみだるゝと聞て。隣國の敵いまた蜂起せざる先にこれをうち從へて。關東の忠勤に備へんと豐後にいたり。敵の要害ども見めぐりて中津川にかへる。この頃大友義統が三成にくみし。細川忠興が木付の城をせめかこむ。孝高は速に中津を發し同國竹中源助重利を味方に屬し。兵を分ちて木付の城をすくはせしに。此兵ども石垣原にて大友が兵と大に戰て。名あるものども數多討とる。其後如水着陣して義統を生擒し。又垣見和泉守一直が富來の城。熊谷內藏允直陣が安喜等の城々攻落し。九州半は旣になびきしたがふ。かくて豐前にかへるとて居城に立よりもせず。香春が嶽小倉城等を攻ぬき。筑後に入て久留米の城柳川の城を請とり。九州の城々皆平らぎ法制を定め。これより薩摩國に攻入んとせしに。關原旣に御凱旋ありければ。御書を給はりて其大功を御感淺からず。又薩摩國に攻入事はしばらくこれをとゞめらる。長政は關原の軍功を賞せられて筑前國をたまふ。六年如水今度九州平均の功莫大なれば。官位封國望のまゝに賜はるべき旨仰ありしかど。入道齡旣に傾たり。長政旣に大國を賜はりし上は。かしこに隱遁して老を養はまほし。この外更に所願なきよし申て致仕し。けふ終をとりしなり。(ェ政重修譜。致仕の人はその致仕の日に終身の事業をしるすといへども。如水當家の御ために忠勤せしはみな致仕後の事なれば。今别例をもて卒去の日にその傳をしるさゞる事を得ず。又世に傳ふる所は。この入道死に臨み其子長政に遺言せしは。汝は吾に生れまされし事五條あり。其一は吾は織田豐臣の二代につかへ。三度其旨にたがひ閉居せり。汝はコ川家父子の意に應じ終に一度の過失なし。第二には吾は生涯所領十二萬石に過ぎず。汝は五十萬石の大身になりたり。第三に我は手をおろしたる武功なし。汝は自身の高名七八度に及ぶ。第四に吾は思念をこらしたろ事なし。汝常に思念深し。第五我男子は汝一人なり。汝は男子三人あり。この五條皆汝が父に生れまさりし所なり。たゞ老父汝にましたる事二條あり。その一は我死ときかんに。我召つかふ者はいふまでもなし。汝が家士をしなべて愁傷し。力を落さゞる者あるべからず。汝が死たる時はかく愁傷するものあるべからず。これ臣を見る事平生我に及ばざるがゆへなり。次に吾は當時博徒の隨一なり。是汝が及ばざる所なり。關原の時東西の軍勝敗决せざる事百日に及ばゞ。我西國より切て登り。勝相撲に入て天下を併呑すべし。其時は一子の汝までも一局に打入むと思ひしなり。その一塲に臨み妻や子も顧みず。この大博奕は汝が及ぶ所にあらず。又これは汝にとらする形見の品なりとて。紫の袱子につゝみし物をさづく。長政開きみるに草履一隻木履一隻と溜ぬりの飯笥なり。其時入道又。死生を一塲に定むる大合戰に思慮も分别もなるべからず。草履木履かたがたはかけねば大合戰なるべからず。汝才智あまりありて何事も深念深慮すれば大功はなし得べからず。又飯笥は兵粮を蓄ふ事忘るべからず。いかにも無用の浮費をはぶき兵粮用意怠るべからず。この外思ひ置事なしといひながら瞑目におよびしとぞ。(慶長見聞書。)
○廿一日竹內喜右衛門信重死してその子八藏信次つぐ。(ェ政重修譜。)
○廿二日和泉國岸和田城主小出播磨守秀政卒す。その子大和守吉政に遺領三万石を襲て岸和田にうつりすましめられ。吉政がこれまで領せし但馬國出石城六万石を。其子右京大夫吉英にゆづらしめらる。秀政が長子遠江守秀家は去年卒せしかば。その子大隅守三尹に八千石を分ち給はり。舊領を合せ一万石になさる。この秀政は代々尾張國中村にすめる五カ左衛門正重が子なり。豐臣家につかへ太閤の姑にそひしゆかりをもて。諱の字をさづけ秀政となのらしめらる。後に當家にしたがひ。けふ六十五歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿五日越前宰相秀康卿の四子北の庄にて生る。五カ八となづく。後に大和守直基といふ是なり。又依田肥前守信守死して子源太カ信政つぐ。(貞享書上。ェ政重修譜。)
○廿九日快晴。伏見の城に着せ給ふ。畿內西北國よりこれに先立て都にのぼりたる諸大名追分まで出てむかへ奉る。時に鑓二柄。長刀一柄。狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乘輿のあとより騎馬のもの十人ばかり從へすぐる者あり。諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが。あとより來る下部にとへば。將軍家にわたらせ給ふといふに大に驚き。伏見邊にて追付しかば御輿をとゞめられ。各これまではるばる迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。御簡易御眞率の事と驚歎せざるものなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれかれにのりつれ。思ひ思ひに物がたりし。其中には手拍子打て小歌をうたひ。片手綱にてさゝへの酒をのみながらまいりたる事なりしとぞ。この日酉刻頃より夕陽の邊白雲飛揚する事數しらず。去年二月十五日。この正月元旦にもかくの如くなりしとぞ。(御年譜。西洞院記。板坂扑齋覺書。當代記。)
◎是月K田筑前守長政。父如水入道遺物とて備前長光の刀幷に茶入木の丸を献じ。右大將殿に東鑑一部をさゝぐ。
こは小田原の北條左京大夫氏政。豐臣太閤との講和の事はからふとて。如水かの城中へまかりし時氏政の贈りし所にて。今御文庫に現存せり。山作十カ成次めし出され小姓となる。又松平庄右衛門昌利が子傳市カ昌吉召出され右大將殿に付らる。武藏國足立郡氷川大明神へ三百石の地を寄附せらる。其中の百石は天正十九年より寄附せられし所なりとぞ。又三條曇華院を大坂の秀ョより造營せしめらる。又この頃膳所が崎へ伊勢の御神飛來らせ給ふとて。詣る男女雲霞の如し。(ェ政重修譜。ェ永系圖。ェ文御朱印帳。當代記。)
○四月朔日この日日蝕す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿伏見城へ參向せられ御對面あり。やがて京へわたらせ給ひて。上達部殿上人には御對面ましますべしと仰いださる。(西洞院記。)
○五日伏見大坂にありし諸大名。みな伏見城にまうのぼり歲首を賀し奉り。各時服かつげらる。近藤織部佐重勝が遺領一万石をその子信濃守政成に賜ふ。この重勝は織田家の臣間見仙千代につかへし彌五右衛門重クが子にて。重勝も間見が家人たりしが。間見天正六年伊丹の城にて討死せしとき。右府もとより重勝が武名をしられしかば。召て堀久太カ秀政に屬せらる。秀政卒して後その二男美作守親良に屬し。慶長三年豐臣家堀が所領を越前より越後にうつさるゝに及んで。重勝には親良が封地の內にて别に一万石を分ちあたへらる。其後重勝養子七カ太カ政成を携て大坂に參り。はじめて拜謁しける時。其先祖の事をとはせ給ふに。たゞ尾張國にすめる九十カといふものゝ孫に候へども。稚くて父にわかれ候へばくはしき事はしらざるよし聞え上しに。汝が祖父は尾張國高圃の城を守り當家に忠ありしものなり。汝が子を召出さるべしとの仰を蒙りしかば。政成を奉りし時に。政成十三歲。小姓に召出されぬ。重勝は京にすみてこの正月廿四日うせぬ。年は五十二なりとぞ。(創業記。當代記。ェ政重修譜。)
○六日昨日におなじ。諸大夫以上時服かつげらるゝもの。昨今すべて九十八人なり。(舜舊記。當代記。)
○十日神龍院梵舜まうのぼり春日八幡宇都宮等の事跡を御垂問あり。この日松前志摩守慶廣に鷹幷驛馬の券をたまふ。(舜舊記。家譜。)
○十一日市人西野與三に占城國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十二日代官長谷川七左衛門長綱卒す。其子久五カ某といふ。(ェ政重修譜。此家絕しゆへ家つぎし事詳ならず。)
○十四日昵近の公卿伏見城に參向して拜謁あり。(西洞院記。)
○十八日松前志摩守慶廣滯府の料として月俸二百口給ふ。(家譜。)
○廿日越前宰相秀康卿江戶へ參り。右大將殿御氣色伺むため發程あり。雨のために遲引し廿九日にC洲までおはしぬ。右大將殿あらかじめ目付の輩に令せられ。諸驛の道路茶亭等洒掃おごそかにせしめ。又鷹師等を途中に出迎へしめ心まかせに鷹狩せしめ。江戶へつかせらるゝ時は右大將殿御みづから品川の宿までむかへさせたまひ。直にともなひ給ひて二丸にやどらせられ。僕從の類は大手門前大久保相摸守忠隣が家にやどらせられ。卿滯留の間は市に本城にめして饗宴を開かれ。實に家人の禮をとらせ給ひ友干の情をつくさせ給ふ。衆みな感ぜざるものなかりしとぞ。又南部信濃守利直が家人北尾張に右大將殿御自書ならびに縮布三十反下さる。これは奥の馬度々御廐に引れし事をつかうまつりしによれり。この後櫻庭兵助にも同じ事により。御自書幷に鞍鐙をたまふ。(越前年譜。落穗集。貞享書上。)
○廿一日淺野紀伊守幸長が家にならせ給ふ。(御年譜。)
○廿三日關東大風雨洪水。(當代記。)
○廿五日下野國板橋領主松平五左衛門一生卒しければ。その子松千代成重に所領一万石をつがしめらる。この一生は故五左衛門正近が子にて。天正十三年十一月十六日M松にをいてはじめて見え奉る。(時に十六歲。)慶長五年父近正伏見城にて忠死せしかば。其遺領をつぎ上野國三藏に住す。ほどなく上野國の所領を下野國板橋にうつされ。加恩ありて一万石を領す。七年佐竹右京大夫義宣が封地を移さるゝにより。五月八日松平周防守康重。由良信濃守貞繁。菅沼與五カ某。藤田能登守信吉等と共に水戶の城を勤番す。佐竹が舊臣車丹波等一揆をおこし。城をうかゞひし時。密に忍び入らんとせしを。一生が番所にて見とがめていけどり。其懷をさぐりて一揆の廻文を得たり。この夜一揆は三丸の八幡小路までよせ來るといへども。一生かねて其心して防しかば一揆利を失て退く。翌日一生城番の人々と同じく謀り。丹波をはじめ酋賊ことごとくとらへ。江戶へうたへ誅戮せしめたり。今年三十五歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿七日內藤修理亮C成。山常陸介忠成。伊奈備前守忠次相摸國藤澤の里正をめして戶塚驛訴論の事を裁斷す。(古文書)
◎是月島津少將忠恒薩摩國を發して上洛せり。(ェ政重修譜。)
○五月朔日右大將殿御使(此御使の名つたはらず。)筑前國博多へつかはされ。K田筑前守長政が父如水入道が死をとはせられ御自書をたまはり。香銀二百枚下さる。(家譜。)
○二日神龍院梵舜伏見城にのぼる。御尋問により豐國明神臨時祭の事を聞え上る。(舜舊記。)
○三日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重より長崎舶來の白糸の事を令す。唐船着津の時かねて定めらるゝ所の父老等會議し糸價を定むべし。その價いまだ定まらざる間は。諸商長崎のみなとへ入事をゆるさず。糸價治定の後は心まかせに商買すべしとなり。これは先に長崎へ唐船入津せし時。白糸若干つみのせ來りしに。これを買とる者なければ旣につみ歸らんとせしとき。京堺の商人來り費をいとはず。其糸をことごとく買とり。その翌年もまた若干のせ來りしにも。京堺の商人あまさず買取しかば。其賞として此後白糸はみな京堺のもの幷に長崎の土人買取て後。その餘の諸物は諸國の商人買とるべしとて。其制は糸百丸は京商。百丸は長崎商と定め。堺商は百廿丸と定めらる。これ先につみ來りたる糸多くは堺商買とりし故とぞ聞えし。この時より糸割符の者十人と定めらる。諸國の商人輻湊する時。これを頭領するものなければ。
混亂する事多きが故なり。又松平飛驒守忠政江戶へ參覲す。(京監拔書。當代記。)
○七日下野守忠吉朝臣。攝津國有馬の溫泉に浴せんがためC洲を發程あり。(創業記。)
○十三日程谷驛に驛馬の事を命ぜらる。(古文書。)
○十六日三河國賀茂郡長興寺の住職を義超に命ぜられ御朱印をたまふ。また神龍院梵舜伏見城にまうのぼり。僧承兌幷に水無P宰相親具入道一齋も拜謁す。吉田二位兼治にC心圓を賜ふ。(古文書。舜舊記。)
○十八日吉田二位兼治に御判物を給ふ其文に曰。豐國明神社家の事。左兵衛佐旣に吉田院を相續すれば。當社の事は先令の如く慶鶴丸に。二位の弟神龍院梵舜教導して何事も令すべし。明神御倉代官等の事異議すべらず。社中役人社頭以下の事社法の古例をみだるべからず。社務進止永く相違あるべからずとなり。(舜舊記。)
○十九日吉田慶鶴丸神龍院梵舜伏見城へのぼり。昨日御判物たまはりしを謝して。慶鶴丸より單物十太刀馬代を献じ。梵舜より錫鉢二。權少輔某より扇十柄献じ。豐國大明神臨時祭一番は狩衣三十騎。二番は田樂廿人。三番は上下京の市人造花笠鋒。四番申樂たるべき旨建白す。(舜舊記。)
○廿八日松前志摩守慶廣從五位下に叙し伊豆守とあらたむ。(家譜。慶廣今までは叙爵せずして私に志摩守と稱せし之。)
◎是月先に右大將殿より命ぜられたる諸國堠塚ことごとく成功す。コ永式部卿法印壽昌が二子式部昌成召出されて近侍せしめらる。山藤藏幸成は御勘氣を蒙る。佛カ機工渡邊三カ太カに豐後國葛城村にて采邑百石たまはり。御名の一字を御みづから給ふ。この後御用器械にもみな康の字を銘とするといふ。(家忠日記。ェ永系圖。貞享書上。)
○六月朔日江戶城修築はじめあり。(創業記。當代記。)
○二日福島左衛門大夫正則右大將殿御けしきをうかゞはんとて封地を發程す。(當代記。)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり豐國大明神臨時祭の事建白す。(舜舊記。)
○六日近江國彥根に新城築かるゝによて。役夫粮米運漕の事を板倉伊賀守勝重。日下部兵衛門定好。成P吉右衛門正一連署して。菅沼伊賀守定重をよび三河の代官松平C藏親家入道(一に親宅に作る。)幷東意等につたふ。この構造奉行は犬塚平右衞門忠次。山本新五衞門重成なり。また伊丹宗味へ呂宋渡海の御朱印を下さる。(古文書。御朱印帳。)
○十日伏見城より二條へわたらせ給ふ。昵近の月卿雲客御道にむかへ奉る。(西洞院記。御年譜幷に伊達家貞享書上に。今日右大將家御入洛としるせしは誤なり。台コ院殿この時は江戶にましませしなり。)
○十二日片桐市正且元。山內土佐守一豐。神龍院梵舜。二條にまうのぼり豐國社臨時祭の事を議せらる。(舜舊記。)
○十三日松前伊豆守慶廣御參內の時供奉すべしと命ぜらる。(家譜。)
○十五日神龍院梵舜まうのぼる。この日六ク彈正道行卒す。其子兵庫頭政乘は是より先に。常陸國府中に於て一万石をたまはりて别に家を立たり。(舜舊記。ェ政重修譜。)
○十六日御參內あるべしとて嘉定の式を止めらる。然るに雨ふりしかば御參內ものべらる。江戶にしては山田次カ大夫正久が子彥右衛門正C。初めて右大將殿にまみえ奉り小姓となる。(西洞院記。ェ永系圖。)
○十七日聊暑氣におかされましまして御藥の事あり。(創記業。當代記。)
○十八日御不豫によて御參內をのべ給ふ。(西洞院記。)
○廿日相良左兵衛佐長每老母を證人として江戶へ參らするにより。驛路人馬の御朱印を給ふ。これ西國大名の江戶へ證人を參らする權輿なりとぞ。(ェ永系圖。)
○廿二日御平快により御參內。御直垂にて御輿にめさる。月卿雲客ことごとくまいり唐門の前にて迎奉る。內にて御三献。女院の御方にて二献。長橋の局にて一献あり。この日叙爵十六人。松平又八カ忠利は主殿頭。松平勘四カ信吉は安房守。水野三左衛門分長は備後守。水野新右衛門長勝は石見守。安藤五左衛門重信は對馬守。三淵彌四カ光行は伯耆守。三好爲三一任は因幡守。三好新右衛門房一は丹後守。佐々喜三カ長成は信濃守。森宗兵衞可政は對馬守。能勢總右衛門ョ次は伊豫守。東條某長ョは伊豆守。西尾某教次は信濃守。遠藤左馬助慶隆は但馬守。分部龍之助光信は左京亮。佐久間將監實勝は伊豫守と稱す。(西洞院記。ェ永系圖。續武家補任。貞享書上。)
○廿三日攝家はじめ大臣公卿殿上人ことごとく二條城に參向して拜謁あり。參議以上太刀目錄をさゝぐ。此日堀尾帶刀可晴從四位下にのぼせらる。安藤次右衛門正次常陸國水戶の監使にさされ暇給ふ。下野國宇都宮明神の社御造營の事仰出さる。よて山常陸介忠成。內藤修理亮C成。伊奈備前守忠次連署して材木の事を令す。大河內金兵衛秀綱は造營の奉行す。(西洞院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。古文書。慶長五年關原の逆徒御征伐の時。當社に御奉幣ありしにより。同七年社領を揄チせられ。今年社を御造營有し之。)
○廿四日二條城にて猿樂を催し給ひ。故豐臣太閤北政所高臺院のかたをまねき饗せらる。(西洞院記。)
○廿五日相國寺にならせられ僧承兌に五色五十給ふ。この日坪內惣兵衛家定に與力十騎あづけらる。(舜舊記。ェ政重修譜。)
○廿七日承兌が學舍へならせ給ふ。圍棋の御遊あり。今日暑甚し。黃昏雷雨。(西洞院記。)
○廿八日松前伊豆守慶廣歸國の暇を給ふ。(家譜。)
◎是月大旱。攝津國昆陽池の鯉鮒等多く死す。島津少將忠恒仰により陸奥守と稱す。又近衛左大臣信尹公病臥のよし聞しめして御藥をくり給ふ。又相良左兵衛佐長每が老母證人として江戶に參りければ。月俸五十口たまひ。長每にも備前の實長の御刀をたまふ。(當代記。ェ政重修譜。西洞院記。貞享書上。) 
 
巻九

 

慶長九年七月に始り十二月に終る
七月朔日二条城より伏見城に遷御あり。」井伊右近大夫直勝が近江国佐和山城を彦根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛騨。越前。伊賀。伊勢。若狭七か国の人数をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狭守高次等に仰せて人数を出さしめらる。山城宮内少輔忠久。佐久間河内守政実。犬塚平右衛門忠次をして奉行せしめられ。城中要害規晝はこと/\〃く面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記、当代記、舜旧記、井伊略傅、木股日記、貞享書上、寛永系図、家譜)
○五日平野孫左衛門呂宋国渡海の御朱印。高瀬屋新蔵に信州渡海の御朱印を下さる。」福嶋左衛門大夫正則江戸を発程して上洛す。」此日大雨。近江国佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毀傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳、当代記)
○十一日片桐市正且元伏見に参る。」右大将殿より小澤瀬兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の労を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。」又吉田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す。(舜旧記、家譜、武徳偏年集成)(重修譜には駿府にての事とするは誤なり)
○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上并に越前家譜に。両御所渡御ありしとするは誤れり。此時台徳院殿は江戸におはしましけるなり)御饗応ありて後相撲を御覧にそなへ給ふ。相撲数番の後。越前の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順礼と角力す。これをけふの関相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士。腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順礼は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべき者とも見えざりしが。やゝいどみあひしに。やがて嵐は順礼をとつて大庭に投付しかば。一座声をたてゝ褒美する。其声鳴もやまず。嵐勝ほこり。広言はなつて傍のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たまへば。一言も出されざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて遷御ありしが。後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。」この日江戸にしては巳刻前右大将殿の北方御産平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歓喜大方ならず。御蟇目は酒井河内守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系図による)このほど鎌倉八幡宮御造営の折からなれば。神慮感応のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歳なりしを召出され。若君に附られ小姓になさる。又稲葉内匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ)かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子斎藤内蔵助利三が女にて。利三山崎の戦に討死せし後。母は稲葉重通入道一鉄が娘なりしかば。母子ともに一鉄がもとにやしなはれてありしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戸の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。」又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜、貞享書上、落穂集、慶長年録、慶長見聞書、寛永系図、柳営婦女伝、藩翰譜、寛政重修譜)
○十八日致仕故伊勢国長島の城主菅沼織部正定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじめ今川氏真に属しけるが。永禄四年當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈并に田峰の小法師設楽西郷等は。多くの敵の中より出で當家に属し奉る。其九月氏真大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戦しければ。寄手より和議を乞しにより城をわたし。高城といふ所に砦を築き移る。氏真またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年正月より岡崎の城にて御謡初の席につらなりしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乗じて野田の城をせめとり。再び旧地に復す。七月廿六日今川勢西郷の城を攻取しに。孫六郎清員その難をのがれて野田に来る。定盈もとより従弟のちなみあれば其旨聞え上。西郷の旧地に城を築て清員に住せしむ。今川又三河国一宮の砦を攻るのとき。定盈清員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戦功をあらはし。十一年遠江国いまだ帰順せざるをもて。定盈謀を献じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵を進めて浜松の城にむかふ。城兵同士軍して戦死せしかば。浜松の城をも乗とり。いよ/\進んで敵数人をうちとり。十二年正月久野城主久能三郎左衛門宗能が一族等。今川氏真に内応する者多かりしかば。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川。堀江等の城攻に軍功を励み。元亀元年六月姉川の戦には定盈病臥せしかば。家人を出して戦はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峰。長篠。作手のともがら多く武田に属せし時も。其使を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐ。さま/\〃の術を尽し城の水の手をとり切しかば。
定盈一人自殺し城兵を救はん事を約して定盈出城せしを。信玄生捕て。城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に応ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて。互に相かへて定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戦に破壊多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝頼大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諌しかば。城を出で野田瀬をこえ西郷まで退く。勝頼また山県昌景をして西郷をせめしむ。定盈西郷清員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戦には。定盈案内者として鳶巣砦が伏見の城を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめやぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の国にいらせ給ふとき。定盈が謀にて諏訪安芸守頼忠を帰順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戦に軍忠をあらはし。十月より小幡の城を守り。関東に入らせ給ふのち野田をあらため。下野国阿保にて一萬石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚子の乱には別の仰を蒙り江戸の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢国長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歳にて卒せしなり。(寛永系図、寛政重修譜)
○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり団扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜旧記)
○廿一日江戸より安藤次右衛門正次御使として伏見にのぼり。若君誕生の事を告奉る。殊更御喜悦有て若君の御小字を竹千代君と進らせ給ふ。」又下野守忠吉朝臣は此程伏見にありて心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張の清洲にかへらる。」又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿楽を催さる。(寛永系図、国朝大業廣記、創業記、当代記)
○廿二日腰物奉行野々山新兵衛頼兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。」此廿二三日三河国鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に会集して騒擾甚し。(寛政重修譜、当代記)
○廿三日江戸城にて若君七夜の御祝あり。上総介忠輝朝臣。設楽甚三郎貞代。松平伊豆守信一。西郷新太郎康員。松平右馬允忠頼。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠実。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀筵に伺候せしめらる、水野清六郎義忠が二子清吉郎光綱。稲葉内匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され若君に仕へしめらる。(貞享書上、寛永系図)(長綱が姉は大姥とて台徳院殿の御乳母也)。
○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拝謁し奉る。(舜旧記)
○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四郎信綱召出され。若君につけられ月俸三口給はる。時に九歳。」この年六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(寛永系図、当代記)
○廿六日菅沼信濃守定氏卒しければ。其子新三郎定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にて清康君の御代よりつかへ奉り。永禄のはじめより元亀天正の頃しば/\〃軍功をはげみ。けふ八十四歳にてうせぬるなり。(寛政重修譜)
◎この月伏見城修築ありて西国諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手縄手の石垣を修築せり。(貞享書上)(寛政重修譜には慶長七年六月とす)
○八月三日三河国目代松平清蔵親家入道念誓が子清蔵親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出で長澤松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三郎君に仕へしが。此君若くしてあら/\しき御振舞ありしを諌かね。職を辞し入道して念誓と号し籠居せしを。浜松の城におはせし頃召出され。御茶園の事など命ぜられ。入道が珍蔵せし初花の茶壷を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることをも許され。三河一国の賦税をつかさどらせられしが。齢つもりて七十一歳にてけふ没せしとぞ。(寛政重修譜、由緒書)(此子孫三河国額田郡土呂郷にすみて松平甚助と称す)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豊国明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。」又出雲国松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歳なるに。原封二十四萬石をつがしめられしが。猶いとけなければ。祖父帯刀先生可晴をして国政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。右大将殿御名の一字給はり国俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年右大将殿にしたがひ下野国宇都の宮にいたる。此時御所には同国小山に御着陣ある所。石田三成等反逆の色をあらはすのよし告来りければめされて軍議あり。山内対馬守一豊。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らんやととふ。忠氏答て。我は居城浜松を明て捧奉るべきの間。御人数を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。既にして会津には押の勢をのこされて上方御進発に事決するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸将と共に小山を発し。八月十四日尾張国清洲の城に着陣す。廿二日諸将岐阜城をせむ。忠氏は池田。浅野。山内の人々と共に上の瀬河田の渡に向ふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し一柳大監物直盛と共に敵の後に廻りて攻けるが故に敵敗走す。
忠氏が手に討取所の首二百廿七級なり。廿三日諸将瑞龍寺山の城をせむ。忠氏郷土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戸に言上するの所。廿九日御感状下さる。このとし出雲隠岐両国に封ぜられ二十四萬石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宋十郎忠總に嫁す。このとき右大将殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日従四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歳にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。」此日酉刻より大風。諸国損害多し。(舜旧記、寛政重修譜、当代記)
○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(当代記)
○六日舟本弥七郎へ安南国渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳)
○八日江戸にて若君三七夜の御祝あり。著座の輩浜松城の旧例を用らる。(慶長見聞書)
○十日大久保石見守長安佐渡国よりかへり参りて。かの国銀山豊穣のよし聞えければ。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(当代記)(これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その国より砂銀わづかに出けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を産せしを。御料に帰して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の真主に帰する所。是等においてもしるべきなり。(佐渡記)
○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜)
○十三日細屋喜斎に安南国渡海の御朱印を下さる。」この日雨により豊国の社臨時祭を延らる。(御朱印帳、舜旧記)
○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。」この日京には豊国の社臨時祭あり。豊臣太閤七年周忌の故とぞ。一番弊帛。左右に榊。狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人。浄衣風折。二番豊国の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豊国の大鳥居より清閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田楽三十人。四番猿楽四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸。左兵衛佐兼治仕ふまつる。猿楽二番終る時大坂より使あり。豊国大門前にて猿楽一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(当代記、舜旧記)
○十五日相模国鎌倉鶴岡八幡宮造営成功により遷宮あり。この奉行は彦坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛の折から。御参ありて御造営の事仰出されしとぞ)(造営記)」京には豊国社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づゝ。次に大仏殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜旧記)
○十六日片桐正市且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし。(舜旧記)
○十七日高城源次郎胤則死す。こは北條が麾下にして下総国小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召加へられしに病にふし。いまだつかへまつるに及ばずして没せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出されしなり。(寛永系図、寛政重修譜)
○十八日唐商安当仁に呂宋国渡海の御朱印を授らる。」三枝勘解由守昌。下総国香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱印帳、寛政重修譜)
○廿三日大島雲八光義卒す。寿九十七歳。遺領一萬八千石余を分て。長子次右衛門光成に七千五百石余。二子茂兵衛光政に四千七百十石余。三子久左衛門光俊に三千二百五十石余。四子八兵衛光朝に二千五百五十余石を給ふ。没前の願によてなり。此光義。父を左近将監光宗といふ。新田の庶流にて遠祖蔵人義継が時美濃国に住し大島を称す。光義幼くて父はわかれ。国人と領地をあらそひ合戦する事絶ず。しば/\〃武功をあらはし射芸の名世に高し。後に織田右府に属しいよ/\軍功をはげみ。元亀元年姉川の戦に先がけし。天正元年近江の国にて越前の兵と戦ひ。長篠の戦にも功あり。やがて豊臣家に属し。慶長三年二月豊臣家より与力同心の給地を合せて一萬千二百石を賜ふ。庚子の乱には小山の御供に従ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て関原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石余になさる。光義生涯戦に臨む事五十三度。感状を得る事四十一通。今度病に臥しても。しば/\〃御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(寛政重修譜)
○廿五日商人與右衛門に暹羅国渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳)
○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより。長子與一郎忠隆。二子與五郎興秋には家ゆずらず。兼て質子として江戸に参らせ置たる内記忠利を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨両御所より御書を賜ひ。また岡田太郎右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも帰国して看侍すべき旨御ゆるしあり。」安南国へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて一文字の御刀。鎌倉広次の御脇差をつかはさる。」又末次次平蔵に安南国渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田辺屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與右衛門に大泥国渡海の御朱印。平戸助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜、異国日記、御朱印帳)
○廿八日佐竹右京大夫義宣。去年より新築したる出羽国久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(寛政重修譜)
○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。」この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千両たまはる。(舜旧記)
○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守頼勝。譏の為に金吾家を出て処士となりてありしを召出され。美濃国にて一萬石賜ふ。」故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中国にて采邑五千石賜ふ。」また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(寛政重修譜、寛永系図)
◎是月瀧川久助一乗幼稚なるがゆへに。一族三九郎一積とて。中村一学忠一が家人なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乗わづかに二歳にて今の采邑領せんは。其はゞかり少からざれば。名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乗齢十五歳に至るまでは三九郎一積二千石の地を領し。二百五十石は一乗并にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。」又安藤三郎右衛門定正死して子忠五郎定武家継て今年初見す。」又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。」又江戸築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の数は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田宰相輝政。福嶋左衛門大夫正則。加藤肥後守清正。毛利藤七郎秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。黒田筑前守長政。浅野紀伊守幸長。鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山内土佐守一豊。脇坂中務少輔安治。寺沢志摩守廣高。松浦式部卿法印鎮信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆守重利。稲葉彦六郎典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稲葉蔵人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津清右衛門正勝。成瀬小吉正一。戸田三郎右衛門尊次。并に尼崎文次郎なり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸国に課せて大材を伐出さしむ。諸国より運送せし材木を積置所。今の佐久間町河岸なりとぞ。」岡野融成入道江雪斎の孫権左衛門英明を携て伏見にのぼり拝謁す。英明時に五歳なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戸にまかり右大将殿に仕うまつるべしと命ぜられしが。後に紀伊家に属せらる。(寛永系図、寛政重修譜、覚書、町書上)
○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆数柄を献ず。(舜旧記)
○十日近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辞見し奉る。西洞院少納言時直薫物を献ず。(西洞院記)
○十一日商人栄任に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。并に平戸伝助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。」又陸奥守忠恒には暹羅国渡海の御朱印を下さる。」窪田與四郎にしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○十三日岡田太郎右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。右大将殿よりも。其家司松井佐渡に御書を賜ふ。(貞享書上)
○十四日伏見城をいでゝ江戸におもむかせ給ふによて。五郎太丸。長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井参議雅庸御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ。かつ伝通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ。(西洞院記、当代記、慶長見聞書)
○九月十日堀尾山城守忠氏が遺物とて。国次の脇差并に素眼の筆蹟を其父帯刀可晴より献じければ。右大将殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる。(貞享書上)
○十四日井上半右衛門清秀没しぬ。この清秀はもとの阿部大蔵定吉が遺子にて。大須賀五郎左衛門康高が手に属し軍功をはげみしが。その子太左衛門重成は越前家に属せしめられ。三子半九郎正就は右大将殿御方につけられしが。後に次第に登庸せられ。井上主計頭とて執政たりしは是なり。」又杉浦弥一浪親正死して其子彦左衛門親勝つぐ。(寛永系図、寛政重修譜)
○廿日飛鳥井参議雅庸卿江戸へ参る。」この日勝矢甚五兵衛利政死し其子長七郎政次つぐ。(西洞院記、武徳編年集成)(利政が死日を寛永系図。寛政重修譜に記さず。今は編年によりこゝに収む)
○廿三日代官彦坂小刑部元成より相模国戸塚の農民に貢税の制を令す。(古文書)
○廿九日永田弥左衛門重直死して其子四郎次郎重乗家をつぎ。三子四郎三郎直時ことし初見の礼をとり召出さる。(寛政重修譜)
◎この月伊奈備前守忠次。谷全阿弥正次より武蔵国足立郡氷川の社人へ。こたび神領を三百石に定めらるれば。後にくはへられし二百石の内百石は造営料とし。百石を以て小禰宜三人巫女二人を置。その他は例のごとく配分すべしと令す。(古文書)
◎此秋木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ。(当代記)
○十月五日中値喜四郎正重死して。其子喜四郎正勝家をつがしめらる。(寛政重修譜)
○十日伊達越前守政宗江戸へ参る。(貞享書上)
○十五日逸見小四郎左衛門義次が二子勝兵衛忠助。右大将に初見し奉る。(寛永系図)
○十六日右大将殿忍辺に御放鷹あり。(当代記)
○廿四日右大将殿忍より蕨浦和辺に鷹狩し給ふ。(当代記)
○廿九日普請奉行伏屋左衛門佐為長死して其子新助為次家つがしめらる。(寛政重修譜)
○十一月二日彦坂小刑部元成より戸塚の駅に。藤沢。神奈川と同じく駅馬のことつかうまつるべしと令す。(古文書)
○三日武蔵国法性寺に新郷にて十五石。正覚寺に持田村にて三十石。長久寺に長野村にて三十石。浄泉寺に下河上村にて廿石。真観寺に小見郷にて十石。常光院に上中條村にて三十石。幡羅郡熊谷寺に熊谷の郷にて三十石。一乗院に上の村にて三十石。目沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野国勢多郡養林寺に大胡郷にて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる。(寛文御朱印帳)
○七日鷹師吉田弥右衛門正直に采邑百六十石余を賜h。(寛政重修譜)
○八日竹千代君山王の社に御詣初あり。青山伯耆守忠俊。内藤若狭守清次。水野勘八郎重家。川村善次郎重久。(寛政重修譜には慶長十三年とす)大草治左衛門公継。内藤甚十郎忠重等御伝役命ぜられ供奉す。御かへさに青山常陸介忠成がもとへ立よらせたまふ。(慶長見聞書)
○十日右大将殿御放鷹はてゝ浦和辺より江城へかへらせ給ふ。(当代記)
○十日飛鳥井宰相雅庸卿江戸を辞し帰洛す。(西洞院記)
○廿一日前夜大雪。この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以t珍事とす。(当代記)
○廿四日宰相秀康卿の五子越前国北庄にて誕生あり。後に但馬守直良といふ是なり。(貞享書上)
○廿六日堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿七日松浦式部卿法印鎮信に迦知安渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿九日大雨。(当代記)
◎是月三宅惣右衛門康貞武蔵国深谷より三河国挙母に転封し。五千石を加へて一萬石になさる。」毛利中納言輝元入道宗瑞長門国萩の城を新築せしが。成功して山口よりうつり住む。(寛政重修譜)
○十二月三日山田次郎大夫正久死して。其子小姓彦左衛門正清家をつぐ。(寛永系図)
○六日江戸城にて猿楽を催し給ふ。(当代記)
○十五日駿河国西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる。(寛文御朱印帳)
○十六日大黒屋助左衛門に大泥国渡海の御朱印を下さる。」今夜遠江国舞坂辺高波打あげ。橋本辺の民家八十ばかり波と共に海に引入られ。人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。其時伊勢の海辺は数町干潟となり。魚貝あまた其跡に残りしをみて。漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに。又高波俄に打上て漁人等皆沈没せり。伊豆の海辺みなこの禍にかゝりし中にも。八丈島にては民家悉く海に沈み。五十余人溺死し。田圃過半は損亡し。上総国小田喜はこと更涛声つよく。人馬数百死亡し七村みな流失す。摂津国兵庫辺は更にこの害なしとぞ。(御朱印帳、当代記、崇福寺古文書)
○十八日六条二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印。檜皮屋孫兵衛に大泥国渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿日酒井宮内大輔家次下総の国碓氷を転じ上野国高崎城主とせられ。二萬石加へて五萬石になさる。(寛政重修譜)
○廿八日松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝より。戸塚駅の民に賦税の券をさづく。」又曾雌民部定政死して子帯刀定行つぐ。(古文書、寛政重修譜)
◎是月長福丸君に常陸国水戸五萬石を加へられ三河国中を検地せしめらる。」伊奈兵蔵忠公召出され竹千代君につかへしめられ小姓となる。(時に八歳)又青山藤蔵幸成御勘気をゆるさる。(紀伊系図、龍海院記、寛政重修譜、寛永系図)
◎是冬右大将殿土方河内守雄久がもとにならせられ。来国光の御脇差を賜はり。下総国田子にて五千石加へられ一萬五千石になさる。(寛永系図、貞享書上)
◎是年加賀大納言利家卿の五男孫八郎利孝。菅沼新八郎定盈三子左近定芳は両御所に謁し奉る。」赤沢貞経入道丹斎。(此時赤沢を称し。後に改て小笠原と称し。台徳院殿の御代に廩米五百俵下されたり)能勢摂津守頼次二子小十郎頼隆。大森半七郎好長。角南新五郎重義。并に其二子主馬重勝。沼間兵右衛門清許。由比庄左衛門宗政。(後に百俵をたまふ)同弟與五左衛門安義。仙石越前守秀久が七子右近久隆。(此年直に右大将殿小姓となる)山下弥蔵義勝子弥蔵周勝。小長谷市兵衛時友が子四郎右衛門時元。稲富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尚。船越左衛門尉景直二子三郎四郎永景初見し奉り。直家は鳥銃の秘術を両御所へ伝奉り。後に右大将殿に仕ふ。」高井助兵衛貞重子市右衛門貞清。(小姓組にいり後大番になる)宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利。(此年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず)原田清次郎維利。(入道して宗馭と号し。茶道具の格に召出され現米七十石賜ふ)小長谷加兵衛時次右大将殿に初見し。伊達庄兵衛房次。永井右近大夫直勝二子伝十郎直清。渡邊吉兵衛定。(始は村瀬と称す)斎藤左源太利政。市橋左京長政。上杉源四郎長員。(後畠山を称す)林藤左衛門勝正。加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置たる横山右近興知は(時に十二歳)右大将殿に奉仕す。」使番米津勘兵衛由政江戸町奉行となり。采邑五千石を給ひ。島田兵四郎利正使番となり。大番朝倉藤十郎宣正。三雲新左衛門成長は其組頭となり。宣正采邑二百石を加へられ四百石になり。成長は千石を加へて千五百石となり。河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九郎康長は火の番の組頭となり。角南主馬重勝。高井市右衛門貞清は小姓組にいり。小長谷加兵衛時次は大番にいり。中島大蔵盛直が二子長四郎盛利。(時に十一歳)船越三郎四郎永系。(時に八歳)能勢小十郎頼隆共に小姓となり。頼隆は采邑千石賜ひ。間宮若狭守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歳)も近侍せしめられ。菅沼左近定芳御手水番となり。松平清蔵親重は父念誓親家が原職を命ぜられ。入道して念誓と改め。三河の代官たり。
伊沢源右衛門政信は右大将殿の小姓となり。中山猪右衛門勝政。都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり。政武は廩米二百俵を給ひ。安西甚兵衛元真焼火間に候せしめらる。(寛政重修譜には今年召出され。十二年焼火間番とあり)又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に属し。城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。」秋田東太郎実季は貝塚青松寺辺新築の助役す。」松平主殿頭忠利三河国矢作川浚利をつとむ。大岡伝蔵清勝伏見城の番を命ぜらる。渡邊六蔵公綱。若林善九郎某は長福丸君の方に附らる。又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め。那須太郎資晴大膳大夫と称し(ほどなく修理大夫になる)亀井新十郎政矩右兵衛佐と称す。政矩は本多上野介正純。成瀬小吉正成を以て昵近の勤をこふ。」松前甚平次忠廣は右大将殿につかへんことを願て江戸にまゐる。」永井伝八郎尚政常陸国貝原塚にて采邑千石賜はり。渡邊忠七郎忠綱は父忠右衛門重綱が所領一萬四千石を分て三千石賜はり右大将殿に仕ふ。安藤彦四郎重能。佐久間新十郎信実は父が所領の外二百七十石余。入戸野又兵衛門宗は本領を賜ひ。大番杉浦忠太郎親俊は三百石を賜ふ。」服部石見守正就は御勘気を蒙りて岳父松平隠岐守定勝にあづけらる。」上総介忠輝朝臣始て信濃国川中島に就封せらる。」また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請といへども御ゆるしなく。両御所よりしば/\〃御使せられ病をとはせらる。よて忠勝は悉く其家政をば長子美濃守忠政にゆづりて世事にあづからず。」牧野右馬允康政も衰老をもて勤仕を辞し。何事も其子新次郎忠成をして摂せしむ。これより先康成が女をもて御猶子となされ。福嶋左衛門大夫正則に降嫁せらる。大番横山弥七郎一吉が二子半左衛門一政。代官下山弥八郎正次が子平右衛門重次。并に小姓加藤茂左衛門正茂が子伝兵衛正信。皆父死して家をつぐ。」又右大将殿水谷伊勢守勝俊がもとにならせられ。勝俊御茶を献ず。」また長曾我部土佐守元親が伏見の旧邸を松平隠岐守定行に賜ひ。又仰により島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。其上に島津は久しき名家なれば。婚礼の儀式も厳重なるべしとて。一位の局その外女房数十人をしてその儀をとり行はせられ。又村越茂助直吉。日下部兵右衛門定好をして其事を監せしめらる。」又金森兵部卿法印素玄狩場にて鶴とる事をゆるされ。蒼鷹一連。黄鷹二連賜ふ。次の日其鷹もて鶴をとりて奉る。」山内土佐守一豊に四聖坊の茶入を賜ふ。」又埼玉郡増林村の御離館を越谷駅にうつされ。浜野藤右衛門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」また京の知恩院を御造営あり。其荘厳天下無双と称す。」また中村一学忠一参観するといへども。去年家臣横田内膳を誅し国内を騒がしける事により。江戸に入事をゆるされず。よて品川駅に於て籠居せしが。日数へて後召を蒙り登営して拝謁す。」又朝鮮の僧松雲。孫文或。金孝舜対馬に来る。これは宗対馬守義智江戸に参観せし時。さきに豊臣太閤朝鮮を伐しより。両国の通信永く断たり。しかりといへども當家に於てはかの国に於て更に恨とする事なし。彼隣好を結ばんとならば。其請所をゆるすべし。我よりあながちに請べきにはあらず。汝よく此旨をもて朝鮮国王に諭すべしと仰ありしかば。義智帰国し。朝鮮に使をたてゝ其御旨をさとすといへども。朝鮮王半信半疑して更に決せず。こたび三僧を使し日本の和儀其実ならんには。江戸伏見に至り両御所に拝謁して。我国の情実を聞えあぐべし。もしさなからんには速に帰国すべしとて来らしめしなり。義智は其家司柳川豊前調信を江戸に参らせて其よしを告奉る。然るに明春は両御所共に御上洛あるべければ。義智調信はかの三僧を伴ひ。都にのぼり其期を待奉るべしと仰下さる。よて義智は三僧を具して都にのぼり。板倉伊賀守勝重にはかりて。大徳寺を旅館として三僧を饗し。御上洛の時をぞ待にける。」又近江国蒲生郡佐々木の神社は。少彦名命を一座とし仁徳。宇多の両天皇。敦実親王をもて配祀したる社にて。佐々木家代々の尊崇する所なりしが。天正の比佐々木六角承禎入道が観音寺の城没落せし後。社頭荒廃きはまり。祭田もみな烏有となりぬ。然るに庚子の乱に御祈願の事ありて。御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが。今年又社前に鰐口を寄附せらる。」又江戸市谷久宝山萬昌院。(今牛込にうつる)品川専光寺。(今浅草六軒町)赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺。(今浅草六軒町)神田東福寺(今麻布本村)に寺地をたまふ。」又関東の国々永楽銭を通貨とし鐚銭を用ひず。今より後は鐚四銭をもて永楽一銭にあてゝ通用すべしと令せらる。」又長崎の湊に於て始て訳官を設らる。この時帰化の明人馮六といふ者よく国言に習へるをもて。はじめてこの役を命ぜられしとぞ。」又藤堂和泉守高虎猶子宮内少輔高吉が家士亡命し。加藤左馬助嘉明が弟内記忠明が采邑伊予の松山の下邑林村といふに潜居せしをもて。高吉討手を差むけてこれを討はたさしめしより事起り。その地を騒擾せしむ。よて高虎より其事を訴へしかば御けしきよからず。高吉は京都へ迯のぼり。薙髪して東福寺に閑居す。(寛永系図、寛政重修譜、貞享書上、家譜、松平由緒書、信府記、家忠日記、浜野書上、創業記、当代記、家忠日記追加、慶長日記、近江輿地志、大三河志、長崎実録、高名記) 
東照宮御實紀卷九 / 慶長九年七月に始り十二月に終る
○七月朔日二條城より伏見城に還御あり。井伊右近大夫直勝が近江國佐和山城を彥根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛驒。越前。伊賀。伊勢。若狹。七か國の人數をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狹守高次等に仰せて人數を出さしめらる。山城宮內少輔忠久。佐久間河內守政實。犬塚平右衛門忠次して奉行せしめられ。城中要害規畫はことごとく面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記。當代記。舜舊記。井伊畧傳。木股日記。貞享書上。ェ永系圖。家譜。)
○五日平野孫左衛門呂宋國渡海の御朱印。高P屋新藏に信州渡海の御朱印を下さる。福島左衛門太夫正則江戶を發程して上洛す。此日大雨。近江國佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毁傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳。當代記。)
○十一日片桐市正且元伏見に參る。右大將殿より小澤P兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の勞を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。又吉田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男左兵衛佐兼治に分たしめらる。柘植平右衛門正俊が二子宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す。(舜舊記。家譜。武コ編年集成。重修譜には駿府にての事とするは誤なり。)
○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上幷に越前家譜に。兩御所渡御ありしとするは誤れり。此時台コ院殿は江戶におはしましけるなり。)御饗應ありて後相撲を御覽にそなへ給ふ。相撲數番の後越前の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順禮と角力す。これをけふの關相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順禮は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべきものとも見えざりしが。やゝいどみあひしにやがて嵐は順禮をとつて大庭に投付しかば。一座聲をたてゝ褒美する。其聲鳴もやまず。嵐勝ほこり廣言はなつて傍若無人の躰。諸有司御前なりとて制すれば。いよいよ倨倣のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たまへば。一言も出されざるに嵐忽に畏縮して退く。衆人卿の威風を感ぜざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて還御ありしが。後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。この日江戶にしては巳刻前右大將殿の北方御產平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歎喜大方ならず。御蟇目は酒井河內守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系圖による。)このほど鎌倉八幡宮御造營の折からなれば。神慮感應のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歲なりしを召出され。若君に附られ小姓になさる。又稻葉內匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ。)かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子齋藤內藏助利三が女にて。利三山崎の戰に討死せし後。母は稻葉重通入道一銕が娘なりしかば。母子ともに一銕がもとにやしなはれてありしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戶の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜。貞享書上。落穗集。慶長年錄。慶長見聞書。ェ永系圖。柳營婦女傳。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○十八日致仕故伊勢國長島の城主菅沼織部正定盈卒す。其子は志摩守定仍なり。此定盈は故織部正定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじあ今川氏眞に屬しけるが。永祿四年當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈幷に田峯の小法師設樂西ク等は。多くの敵の中より出で當家に屬し奉る。其九月氏眞大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戰しければ。寄手より和議を乞しにより。城をわたし高城といふ所に砦を築き移る。氏眞またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年正月より岡崎の城にて御謠初の席につらならしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乘じて野田の城をせめとり。再び舊地に復す。七月廿六日今川勢西クの城を攻取しに。孫六カC員その難をのがれて野田に來る。定盈もとより從弟のちなみあれば。其旨聞え上西クの舊地に城を築てC員に住せしむ。今川又三河國一宮の砦を攻るのとき。定盈C員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戰功をあらはし。十一年遠江國いまだ歸順せざるをもて定盈謀を獻じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵をすゝめてM松の城にむかふ。城兵同士軍して戰死せしかぱ。M松の城をも乘とり。いよいよすゝんで敵數人をうちとり。十二年正月久野城主三カ左衛門宗能が一族等。今川氏眞に內應する者多かりしかぱ。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川堀江等の城攻に軍功を勵み。元龜元年六月姉川の戰には。定盈病臥せしかば家人を出して戰はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峯。長篠。作手のともがら多く武田に屬せし時も。其使を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐさまざまの術を盡し城の水の手をとり切しかば。定盈一人自殺し城兵を救はんことを約して定盈出城せしを。信玄生捕て城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に應ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて互に相かへて。
定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戰に破壞多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝ョ大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諫しかば。城を出で野田Pをこえ西クまで退く。勝ョまた山縣昌景をして西クをせめしむ。定盈西クC員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戰には。定盈案內者として鳶巢砦が伏戶の敵を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめやぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の國にいらせ給ふとき。定盈が謀にて諏訪安藝守ョ忠を歸順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戰に軍忠をあらはし。十月より小幡の城を守り。關東にいらせ給ふのち野田をあらたあ。下野國阿保にて一万石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚子の亂には别の仰を蒙り江戶の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢國長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり團扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜舊記。)
○廿一日江戶より安藤次右衛門正次御使として伏見にのぼり。若君誕生の事を告奉る。殊更御喜ス有て若君の御小字を竹千代君と進らせ給ふ。又下野守忠吉朝臣は此程伏見にありて心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張のC洲にかへらる。又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿樂を催さる。(ェ永系圖。國朝大業廣記。創業記。當代記。)
○廿二日腰物奉行野々山新兵衛ョ兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。此廿二三日三河國鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に會集して騷擾甚し。(ェ政重修譜。當代記。)
○廿三日江戶城にて若君七夜の御祝あり。上總介忠輝朝臣。設樂甚三カ貞代。松平伊豆守信一。西ク新太カ庸員。松平右馬允忠ョ。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠實。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀莚に伺候せしめらる。水野C六カ義忠が二子C吉カ光綱。稻葉內匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され若君に仕へしめらる。(貞享書上。ェ永系圖。長綱が姉は大姥とて台コ院の御乳母之。)
○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拜謁し奉る。(舜舊記。)
○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四カ信綱召出され。若君につけられ月俸三口給はる。時に九歲。このとし六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(ェ永系圖。當代記。)
○廿六日菅沼信濃守定氏卒しければ。其子新三カ定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にてC康君の御代よりつかへ奉り。永祿のはじめより元龜天正の頃しばしば軍功をはげみ。けふ八十四歲にてうせぬるなり。(ェ政重修譜。)
◎この月伏見城修築ありて西國諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手繩手の石垣を修築せり。(貞享書上。ェ政重修譜には慶長七年六月とす。)
○八月三日三河國目代松平C藏親家入道念誓が子C藏親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出て長澤松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三カ君に仕へしが。わかくしてあらあらしき御ふるまひありしを諫かね。職を辭し入道して念誓と號し籠居せしを。M松の城におはせし頃召出され御茶園の事など命ぜられ。入道が珍藏せし初花の茶壺を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることをも許され。三河一國の賦稅をつかさどらせられしが。齡つもりて七十一歲にてけふ沒せしとぞ。(ェ政重修譜。由誌早B此子孫三河國額田郡土呂クにすみて松平甚助と稱す。)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豐國明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。又出雲國松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歲なるに。原封二十四万石をつがしめられしが猶いとけなければ。祖父帶刀先生可晴をして國政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。右大將殿御名の一字給はり國俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年右大將殿にしたがひ下野國宇都の宮にいたる。此時御所には同國小山に御着陣ある所。石田三成等反逆の色をあらはすのよし告來りければめされて軍議あり。山內對馬守一豐。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らんやととふ。忠氏答て。我は居城M松を明て捧奉るべきの間。御人數を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。旣にして會津には押の勢をのこされて上方御進發に事决するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸將と共に小山を發し。八月十四日尾張國C洲の城に着陣す。廿二日諸將岐阜城をせむ。忠氏は池田。淺野。山內の人々と共に上のP河田の渡にむかふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し。一柳直盛と共に敵の後にまはりて攻けるが故に敵敗走す。忠氏が手に討取所の首二百廿七級なり。廿三日諸將瑞龍寺山の城をせむ。忠氏ク土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戶に言上するの所。廿九日御感狀を下さる。このとし出雲隱岐兩國に封ぜられ二十四万石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宗十カ忠總に嫁す。このとき右大將殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日從四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歲にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。此日酉刻より大風。諸國損害多し。(舜舊記。ェ政重修譜。當代記。)
○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(當代記。)
○六日舟本彌七カへ安南國渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳。)
○八日江戶にて若君三七夜の御祝あり。
著座の輩M松城の舊例を用らる。(慶長見聞書。)
○十日大久保石見守長安佐渡國よりかへり參りて。かの國銀山豐饒のよし聞えければ。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(當代記。これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その國より砂銀わづかに出けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を產せしを。御料に歸して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の眞主に歸する所。是等においてもしるべきなり。佐渡記。)
○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜。)
○十三日細屋喜齋に安南國渡海の御朱印を下さる。この日雨により豐國の社臨時祭を延らる。(御朱印帳。舜舊記。)
○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。この日京には豐國の社臨時祭あり。豐臣太閤七年周忌の故とぞ。一番幣帛左右に榊狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人淨衣風折。二番豐國の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豐國の大鳥居よりC閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田樂三十人。四番猿樂四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸左兵衛佐兼治つかうまつる。猿樂二番終る時大坂より使あり。豐國大門前にて猿樂一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(當代記。舜舊記。)
○十五日相摸國鎌倉鶴岡八幡宮造營成功により遷宮あり。この奉行は彥坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛のをりから。御參ありて御造營の事仰出されしとぞ。造營記。)京には豐國社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づつ。次に大佛殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜舊記。)
○十六日片桐市正且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし。(舜舊記。)
○十七日高城源次カ胤則死す。こは北條が麾下にして下總國小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召加へられしに。病にふしいまだつかへまつるに及ばずして沒せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出されしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十八日唐商安當仁に呂宋國渡海の御朱印を授らる。三枝勘解由守昌。下總國香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱印帳。ェ政重修譜。)
○廿三日大島雲八光義卒す。壽九十七歲。遺領一萬八千石餘を分て。長子次右衛門光成に七千五百石餘。二子茂兵衛光政に四千七百十石餘。三子久左衛門光俊に三千二百五十石餘。四子八兵衛光朝に二千五百五十石餘を給ふ。沒前の願によてなり。此光義。父を左近將監光宗といふ。新田の庶流にて遠祖藏人義繼が時美濃國に住し大島を稱す。光義幼くて父にわかれ國人と地領をあらそひ合戰する事絕ず。しばしば武功をあらはし射藝の名世に高し。後に織田右府に屬しいよいよ軍功をはげみ。元龜元年姉川の戰に先がけし。天正元年近江の國にて越前の兵と戰ひ。長篠の戰にも功あり。やがて豐臣家に屬し。慶長三年二月豐臣家より與力同心の給地を合せて一万千二百石を給ふ。庚子の亂には小山の御供に從ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て關原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石餘になさる。光義生涯戰にのぞむ事五十三度。感狀を得る事四十一通。今度病に臥してもしばしば御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(ェ政重修譜。)
○廿五日商人與右衛門に暹羅國渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)
○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより長子與一カ忠隆。二子與五カ興秋には家ゆづらず。兼て質子として江戶に參らせ置たる內記忠則を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨兩御所より御書を賜ひ。また岡田太カ右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも歸國して看侍すべき旨御ゆるしあり。安南國へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて一文字の御刀。鎌倉廣次の御脇差をつかはさる。又末次平藏に安南國渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田邊屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與右衛門に大泥國渡海の御朱印。平戶助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜。異國日記。御朱印帳。)
○廿八日佐竹右京大夫義宣。去年より新築したる出羽國久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(ェ政重修譜。)
○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千兩たまはる。(舜舊記。)
○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守ョ勝。讒のために金吾家を出で處士となりてありしを召出され。美濃國にて一萬石賜ふ。故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中國にて采邑五千石賜ふ。また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是月瀧川久助一乘幼雅なるがゆへに。一族三九カ一積とて中村一學忠一が家人なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乘わづかに二歲にて今の采邑領せんは。そのはばかり少からざれば。名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乘齡十五歲に至るまでは三九カ一積二千石の地を領し。二百五十石は一乘幷にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。又安藤三カ右衛門定正死して子忠五カ定武家繼て今年初見す。又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。又江戶築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。
其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の數は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田宰相輝政。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守C正。毛利藤七カ秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。K田筑前守長政。淺野紀伊守幸長。鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山內土佐守一豐。脇坂中務少輔安治。寺澤志摩守廣高。松浦式部卿法印鎭信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆守重利。稻葉彥六典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稻葉藏人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津C右衛門正勝。成P小吉正一。戶田三カ右衛門尊次。幷に尼崎文次カなり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸國に課せて大材を伐出さしむ。諸國より運送せし材木を積置所。今の佐久間町河岸なりとぞ。岡野融成入道江雪齋の孫權左衛門英明を携て伏見にのぼり拜謁す。英明時に五歲なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戶にまかり右大將殿につかうまつるべしと命ぜられしが後に紀伊家に屬せらる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。覺書。町書上。)
○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆數柄を獻ず。(舜舊記。)
○十日近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辭見し奉る。西洞院少納言時直桾ィを獻ず。(西洞院記。)
○十一日商人榮任に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。幷に平戶傳助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。又陸奥守忠恒には暹羅國渡海の御朱印を下さる。窪田與四カにしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十三日岡田太カ右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。右大將殿よりも。其家司松井佐渡に御書を給ふ。(貞享書上。)
○十四日伏見城をいでゝ江戶におもむかせ給ふによて。五カ太丸長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井參議雅庸卿御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ。かつ傳通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ。(西洞院記。當代記。慶長見聞書。)
○九月十日堀尾山城守忠氏が遺物とて。國次の脇指幷に素眼の筆蹟を其父帶刀可晴より献じければ。右大將殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる。(貞享書上。)
○十四日井上半右衛門C秀沒しぬ。このC秀はもとの阿倍大藏定吉が遺子にて。大須賀五カ左衛門康高が手に屬し軍功をはげみしが。その子太左衛門重成は越前家に屬せしめられ。三子半九カ正就は右大將殿御方につけられしが。後に次第に登庸せられ井上主計頭とて執政たりしは是なり。又杉浦彌一カ親正死して其子彥左衛門親勝つぐ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿日飛鳥井參議雅庸卿江戶へ參る。この日勝矢甚五兵衛利政死し其子長七カ政次つぐ。(西洞院記。武コ編年集成。利政が死日をェ永系圖。ェ政重修譜に記さず。今は編年によりてこゝに收む。)
○廿三日代官彥坂小刑部元成より相摸國戶塚の農民に貢稅の制を令す。(古文書。)
○廿九日永田彌左衛門重直死して其子四カ次カ重乘家をつぎ。三子四カ三カ直時ことし初見の禮をとり召出さる。(ェ政重修譜。)
◎この月伊奈備前守忠次。谷全阿彌正次より武藏國足立郡氷川の社人へ。こたび神領を三百石に定めらるれば。後にくはへられし二百石の內百石は造營料とし。百石を以て小禰宜三人巫女二人を置。その他は例のごとく配分すべしと令す。(古文書。)
◎此秋木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ。(當代記。)
○十月五日中根喜四カ正重死して。其子喜四カ正勝家をつがしめらる。(ェ政重修譜。)
○十日伊達越前守政宗江戶へ參る(貞享書上。)
○十五日逸見小四カ左衛門義次が二子勝兵衛忠助。右大將に初見し奉る。(ェ永系圖。)
○十六日右大將殿忍邊に御放鷹あり。(當代記。)
○廿四日右大將殿忍より蕨浦和邊に鷹狩し給ふ。(當代記。)
○廿九日普請奉行伏屋左衛門佐爲長死して其子新助爲次家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○十一月二日彥坂小刑部元成より戶塚の驛に。藤澤神奈川と同じく驛馬のことつかうまつるべしと令す。(古文書。)
○三日武藏國法性寺に新クにて十五石。正覺寺に持田村にて三十石。長久寺に長野村にて三十石。淨泉寺に下河上村にて廿石。眞觀寺に小見クにて十石。常光院に上中條村にて三十石。幡羅郡熊谷寺に熊谷のクにて三十石。一乘院に上の村にて三十石。日沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野國勢多郡養林寺に大胡クにて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる。(ェ文御朱印帳。)
○七日鷹師吉田彌右衛門正直に采邑百六十石餘を賜ふ。(ェ政重修譜。)
○八日竹千代君山王の社に御詣始あり。山伯耆守忠俊。內藤若狹守C次。水野勘八カ重家。川村善次カ重久。(ェ政重修譜には慶長十三年とす。)大草治左衛門公繼。內藤甚十カ忠重等御傅役命ぜられ供奉す。御かへさに山常陸介忠成がもとへ立よらせたまふ。(慶長見聞書。)
○十日右大將殿御放鷹はてゝ浦和邊より江城へかへらせ給ふ。(當代記。)
○十日飛鳥井宰相雅庸卿江戶を辭して歸洛す。(西洞院記。)
○廿一日前夜大雪。この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以て珍事とす。(當代記。)
○廿四日宰相秀康卿の五子越前國北庄にて誕生あり。後に但馬守直良といふ是なり。(貞享書上。)
○廿六日堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿七日松浦式部卿法印鎭信に迦知安渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿九日大雨。(當代記。)
◎是月三宅惣右衛門康貞武藏國深谷より三河國擧母に轉封し。五千石を加へて一萬石になさる。毛利中納言輝元入道宗瑞長門國萩の城を新築せしが。成功して山口よりうつり住む。(ェ政重修譜。)
○十二月三日山田次カ大夫正久死して。其子小姓彥左衛門正C家をつぐ。(ェ永系圖。)
○六日江戶城にて猿樂を催し給ふ。(當代記。)
○十五日駿河國西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる。(ェ文御朱印帳。)
○十六日大K屋助左衛門に大泥國渡海の御朱印を下さる。今夜遠江國舞坂邊高波打あげ。橋本邊の民家八十ばかり波と共に海に引入られ人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。其時伊勢の海Mは數町干潟となり。魚貝あまた其跡に殘りしをみて。漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに。又高波俄に打上て漁人等皆沉沒せり。伊豆の海邊みなこの禍にかゝりし中にも。八丈島にては民家悉く海に沈み。五十餘人溺死し田圃過半は損亡し。上總國小田喜はこと更濤聲つよく。人馬數百死亡し七村みな流失す。攝津國兵庫邊は更にこの害なしとぞ。(御朱印帳。當代記。崇福寺古文書。)
○十八日六條二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印。檜皮屋孫兵衛に大泥國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿日酒井宮內大輔家次下總の國碓氷を轉し上野國高崎城主とせられ。二萬石加へて五萬石になさる。(ェ政重修譜。)
○廿八日松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝より。戶塚驛の民に賦稅の券をさづく。又曾雌民部定政死して子帶刀定行つぐ。(古文書。ェ政重修譜。)
◎是月長福丸君に常陸國水戶萬石を加へられ廿五萬石になさる。米津C右衛門正勝に命ぜられ三河國中を撿地せしめらる。伊奈兵藏忠公召出され竹千代君につかへしめられ小姓となる。(時に八歲。)又山藤藏幸成御勘氣をゆるさる。(紀伊系圖。龍海院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是冬右大將殿土方河內守雄久がもとにならせられ。來國光の御脇差を賜はり。下總國田子にて五千石加へられ一萬五千石になさる。(ェ永系圖。貞享書上。)
◎是年加賀大納言利家卿の五男孫八カ利孝。菅沼新八カ定盈三子左近定芳は兩御所に謁し奉る。赤澤貞經入道丹齋。(此時赤澤を稱し後に改て小笠原と稱し。台コ院殿の御代に廩米五百俵下されたり。)能勢攝津守ョ次二子小十カョ隆。大森半七カ好長。角南新五カ重義。幷に其二子主馬重勝。沼間兵右衛門C許。由比庄左衛門宗政。(後に百俵をたまふ。)同弟與五左衛門安義。仙石越前守秀久が七子右近久隆。(此年直に右大將殿小姓となる。)山下彌藏義勝子彌藏周勝。小長谷市兵衛時友が子四カ右衛門時元。稻富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尙。船越左衛門尉景直二子三カ四カ永景初見し奉り。直家は鳥銃の秘術を兩御所へ傳奉り。後に右大將殿に仕ふ。高井助兵衛貞重子市右衛門貞C。(小姓組にいり後大番になる。)宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利。(此年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず。)原田C次カ維利。(入道して宗馭と號し。茶道頭の格に召出され現米七十石賜ふ。)小長谷加兵衛時次右大將殿に初見し。伊達庄兵衛房次。永井右近大夫直勝二子傳十カ直C。渡邊吉兵衛定。(始は村Pと稱す。)齋藤左源太利政。市橋左京長政。上杉源四カ長員。(後畠山を稱す。)林藤左衛門勝正。加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置たる山右近興知は(時に十二歲)右大將殿に奉仕す。使番米津勘兵衛由政江戶町奉行となり。采邑五千石を給ひ。島田兵四カ利正使番となり。大番朝倉藤十カ宣正。三雲新左衛門成長は其組頭となり。宣正采邑二百石を加へられ四百石になり。成長は千石を加へて千五百石となり。河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九カ康長は火の番の組頭となり。角南主馬重勝。高井市右衛門貞Cは小姓組にいり。小長谷加兵衛時次は大番にいり。中島大藏盛直が二子長四カ盛利。(時に十一歲。)船越三カ四カ永系。(時に八歲。)能勢小十カョ隆共に小姓となり。ョ隆は采邑千石賜ひ。間宮若狹守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歲。)も近侍せしめられ。菅沼左近定芳御手水番となり。松平C歲親重は父念誓親宅が原職を命ぜられ。入道して念誓と改め。三河の代官たり。伊澤源右衛門政信は右大將殿の小姓となり。中山猪右衛門勝政。都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり。政武は廩米二百俵を賜ひ。安西甚兵衛元眞燒火間に候せしめらる。(ェ政重修譜には今年召出され。十二年燒火間番とあり。)又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に屬し。城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。秋田東太カ實季は貝塚松寺邊新築の助役す。松平主殿頭忠利三河國矢作川浚利をつとむ。大岡傳藏C勝伏見城の番を命ぜらる。渡邊六藏公綱若林善九カ某は長福丸君の方に附らる。又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め。那須太カ資晴大膳大夫と稱し。(ほどなく修理大夫になる。)龜井新十カ政矩右兵衛佐と稱す。政矩は本多上野介正純。成P小吉正成を以て眤近の勤をこふ。松前甚平次忠廣は右大將殿につかへん事を願て江戶に參る。永井傳八カ尙政常陸國貝原塚にて采邑千石賜はり。渡邊忠七カ忠綱は父忠右衛門重綱が所領一萬四千石を分て三千石賜はり右大將殿に仕ふ。安藤彥四カ重能。佐久間新十カ信實は千石づゝ。井關猪兵衛親義二百二十石。山高孫兵衛親重は父が所領の外二百七十石餘。入戶野又兵衞門宗は本領を賜ひ。大番杉浦忠太カ親俊は三百石を賜ふ。服部石見守正就は御勘氣を蒙りて岳父松平隱岐守定勝にあづけらる。上總介忠輝朝臣始て信濃國川中島に就封せらる。また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請といへども御ゆるしなく。兩御所よりしばしば御使せられ病をとはせらる。よて忠勝は悉く其家政をば長子美濃守忠政にゆづりて世事にあづからず。牧野右馬允康成も衰老をもて勤仕を辭し。何事も其子新次カ忠成をして攝せしむ。これより先康成が女をもて御猶子となされ。福島左衞門大夫正則に降嫁せらる。大番山彌七カ一吉が二子半左衛門一政。代官下山彌八カ正次が子平右衛門重次。幷に小姓加藤茂左衛門正茂が子傳兵衛正信。皆父死して家をつぐ。又右大將殿水谷伊勢守勝俊がもとにならせられ。勝俊御茶を献ず。また長曾我部土佐守元親が伏見の舊邸を松平隱岐守定行に賜ひ。又仰により島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。
其上に島津は久しき名家なれば。婚禮の儀式も嚴重なるべしとて。一位の局その外女房數十人をしてその儀をとり行はせられ。又村越茂助直吉日下部兵右衛門定好をして其事を監せしめらる。又金森兵部卿法印素玄狩塲にて鶴とる事をゆるされ。蒼鷹一連黃鷹二連賜ふ。次の日其鷹もて鶴をとりて奉る。山內土佐守一豐に四聖坊の茶入を賜ふ。又埼玉郡摎ム村の御離館を越谷驛にうつされ。M野藤右衛門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明曆三年の災後江戶城にうつされかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり。)また京の知恩院を御造營あり。其莊嚴天下無双と稱す。また中村一學忠一參覲するといへども。去年家臣田內膳を誅し國內を騷がしける事により。江戶に入事をゆるされず。よて品川驛に於て籠居せしが。日數へて後召を蒙り登營して拜謁す。又朝鮮の僧松雲孫文ケ金孝舜對馬に來る。これは宗對馬守義智江戶に參覲せし時。さきに豐臣太閤朝鮮を伐しより。兩國の通信永く斷たり。しかりといへども當家に於てはかの國に於て更に恨とする事なし。彼隣好をむすばんとならば。其請所をゆるすべし。我よりあながちに請べきにはあらず。汝よく此旨をもて朝鮮國王に諭すべしと仰ありしかば。義智歸國し朝鮮に使をたてゝ其御旨をさとすといへども。朝鮮王半信半疑して更に决せず。こたび三僧を使し日本の和儀其實ならんには。江戶伏見に至り兩御所に拜謁して。我國の情實を聞えあぐべし。もしさなからんには速に歸國すべしとて來らしめしなり。義智は其家司柳川豐前調信を江戶に參らせてそのよしを告奉る。然るに明春は兩御所共に御上洛あるべければ。義智調信はかの三僧を伴ひ。都にのぼり其期を待奉るべしと仰下さる。よて義智は三僧を具して都にのぼり。板倉伊賀守勝重にはかりて大コ寺を旅館として三僧を饗し。御上洛の時をぞ待にける。又近江國蒲生郡佐々木の神社は。少彥名命を一座とし仁コ宇多の兩天皇。敦實親王をもて配祀したる社にて。佐々木家代々の尊崇する所なりしが。天正の比佐々木六角承禎入道が觀音寺の城沒落せし後。社頭荒廢きはまり祭田もみな烏有となりぬ。しかるに庚子の亂に御祈願の事ありて。御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが。今年又社前に鰐口を寄附せらる。又江戶市谷久寳山萬昌院。(今牛込にうつる。)品川專光寺。(今淺草六軒町。)赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺(今淺草六軒町。)神田東福寺(今麻布本村。)に寺地をたまふ。又關東の國々永樂錢を通貨とし鐚錢を用ひず。今より後は鐚四錢をもて永樂一錢にあてゝ通用すべしと令せらる。又長崎の湊に於て始て譯官を設らる。この時歸化の明人馮六といふ者よく國言に習へるをもて。はじめてこの役を命ぜられしとぞ。又藤堂和泉守高虎猶子宮內少輔高吉が家士亡命し。加藤左馬助嘉明が弟內記忠明が采邑伊豫の松山の下邑林村といふに潜居せしをもて。高吉討手を差むけてこれを討はたさしめしより事起り。その地を騷擾せしむ。よて高虎より其事を訴へしかば御けしきよからず。高吉は京都へ迯のぼり薙髮して東福寺に閑居す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。貞享書上。家譜。松平由誌早B信府記。家忠日記。M野書上。創業記。當代記。家忠日記追加。落穗集。慶長日記。近江輿地志。大三河志。長崎實錄。高名記。) 
 
巻十

 

慶長十年正月に始る 御齢六十四
慶長十年乙巳正月元日江戸城に於て右大将殿御対面歳首を賀し給ふ。其他群臣年始を賀し奉る事例の如し。(御年譜、創業記、家忠日記)
○二日松平下総守忠明はじめて謡曲始の列に加はる。(家譜)
○三日こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。其文にいふ。喧嘩争論厳に停禁せらる。親族知音たるをもて荷擔せしめなば。罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば帰府の後其沙汰あるべし。道中鹵簿の行列はあらかじめ示さるゝ令条の如く。次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮にまかすべし。押買狼藉すべからず。渡船場に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もし此令に違犯するものは厳科に処せらるべしとなり。」この日尼崎又二郎に大泥国渡海の御朱印を下さる。(令条記、御朱印帳)
○九日御上洛のため江城を御発興あり。しかるに痳をなやませ給ひしかば。数日内藤豊前守信成が駿府城に御延滞まします。長福丸方も陪せらる。」稲毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより。役夫の御黒印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ。(御年譜、創業記、寛政重修譜)
○十一日天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召出されて。右大将殿につけられて焼火間番を命ぜらる。」この日島津三位法印龍伯より唐墨二笏。折敷二十献じければ。御内書を賜ふ。(寛永系図、寛政重修譜)
○十三日駿府に於て大草久右衛門長栄召出され采邑三百石下さる。」栗生吉兵衛茂栄先に御勘気を蒙り籠居せしが。これも御ゆるしありて新に采邑三百石下さる。」三上太郎右衛門某も召され采邑千石給ひ。山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ。(家譜)
○十五日安藤彦兵衛直次武蔵近江の新墾田を合せて二千三十石余を加賜せられ。合せて一萬三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝の給料として四千五十五石六斗余を加賜せらる(寛政重修譜)
○廿日多田三八郎昌綱死して。其子次郎右衛門昌繁幼稚なるが故に。加恩三百石の地は収公せられ。先々のごとく甲州武川の輩と同じく給事せしめらる。(貞享書上、寛政重修譜)
◎是月本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に。下野国榎本に於て所領一萬石給ふ。」間宮左衛門信盛に。采邑の御朱印に茶壷をそへて下さる。」京醫今大路道三親清江戸に参る。(寛政重修譜)
○二月朔日駿河国安倍郡の海野弥兵衛某に采邑の御朱印を給ふ。井出志摩守正次がうけたまはる所なり。(由緒書)
○三日松平長四郎信綱に月俸を加へて五口を賜はる。(寛政重修譜)
○五日御なやみ常に復らせ給ひ。この日駿府を打立せ給ふ。(御年譜、創業記)
○九日青山常陸介忠成。内藤修理亮清成。伊奈備前守忠次連署して浅草東光院に寺料の替地を下さる。(由緒書)
○十日中根傅七郎正成采邑二百石加へられ四百石になさる。(寛政重修譜)
○十一日松平内記清定死す。其子内記清信は寛永十二年に至り召出さる。(寛政重修譜)
○十二日大番組頭鎮目市左衛門惟明が二子藤兵衛惟忠召出され大番に加へらる。(寛政重修譜)
○十三日昨今霜威厳酷にして草木多く涸枯る。」此夜上京下京火あり。(当代記)
○十五日右大将殿御上洛あるにより。榊原式部大輔康政。佐野修理大夫信吉。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長等は先駆としてけふ江戸を発程す。」此日美濃部鹿之助茂廣死して子市郎左衛門茂忠家をつぐ。(創業記、武徳扁年集成、寛政重修譜)
○十六日伊達越前守政宗御上洛供奉の為江戸を発程す。(貞享書上、武徳編年集成)
○十七日堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戸を発す。尼孝蔵主は御上洛を迎へ奉るとて途中まで参る。(武徳編年集成)
○十八日大駕此日水口にいらせ給ふ。右大将殿は江戸御発輿あるべしと兼て令せられしが。大雨により御延滞あり。」此日平岩主計頭親吉。小笠原信濃守秀政。諏訪因幡守頼永。保科肥後守正光。鳥居左京亮忠政発程す。(武徳編年集成、創業記、当代記)
○十九日伏見城へ着せ給ふ。」江戸よりは右大将殿先駆として米澤中納言景勝発馬す。(創業記、武徳編年集成)
○廿日高倉宰相永孝卿。飛鳥井少将雅賢。烏丸右大弁光廣等伏見城にまうのぼり謁見す。」江戸よりは蒲生飛騨守秀行発程す。」駿州の海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重に本多佐渡守正信より。今度右大将殿御上洛の時其地に於て拝謁し。采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す。(西洞院記、武徳編年集成、由緒書)
○廿一日神龍院梵舜等伏見城にのぼり御気色うかゞひ奉る。いさゝか御なやみあるにより拝謁せずして退く。江戸よりはこの日本多出雲守忠朝。真田伊豆守信之。北條左衛門大夫氏勝。松下右兵衛尉重綱発途す。(舜旧記、武徳編年集成)
○廿二日大久保相模守忠隣。同加賀守忠常。皆川志摩守隆庸。本多大学忠純。高力左近忠房等江戸を発す。(武徳編年集成)
○廿三日酒井右兵衛大夫忠世。水野市正忠胤。浅野采女長重。鍋島加賀守直茂。田中隼人正。(後に忠政となのる)市橋小兵衛某等江戸を出る。(武徳編年集成)
○廿四日右大将江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。其奉行は三枝土佐守昌吉。森川金右衛門氏信。屋代越中守秀正。服部中保正。加藤勘右衛門正次。細井金兵衛勝久。次に弓三百挺。其奉行久永源兵衛重勝。青木五右衛門高頼。佐橋甚兵衛吉久。倉橋内匠助政勝。次に豹皮鞘の鎗二百本。近藤平右衛門秀用。都築弥左衛門為政。次に召替の御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。
引馬龍(元字は有篇)者上に同じ。猩々緋黒羅紗にてつゝみし御持筒五十挺。御持弓三十挺。挟箱二十荷。長刀二振。持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帯す。次に御持鎗五柄。持夫上に同じ。次に騎馬。供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉。小姓の輩は青山図書助成重。安藤対馬守重信これを属す。次に使番。次に大番士。其次は土屋民部少輔忠直。高木善次郎正次。次に柴田七九郎康長。安部弥一郎信盛。内藤新五郎忠俊。牧野九右衛門信成。内藤若狭守清次。上杉源四郎長貞。土方河内守雄久。藤堂内匠助正高。溝口孫左衛門善勝。西尾隼人某。戸川宗十郎某。須賀摂津守勝政。神谷弥五郎清次。秋山平左衛門昌秀。下曾根三右衛門信正。跡部民部良保。駒井孫三郎親直。柴田三左衛門勝重。阿部備中守吉親。牧野傅蔵成純。真田左馬助信勝。永田四郎三郎直時。木造左馬助某。青山常陸介忠成。水野隼人正忠清。堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若党。馬乗奉行。歩行士。小者。次に永田善左衛門重利。永井弥右衛門白元。次に御馬廻。鉄砲奉行朝倉藤十郎宣正。また供奉の輩みづからの器械鳥銃千挺。弓五百挺。鑓千柄。長刀百挺。挟箱三百なり。今夜神奈川の駅にやどらせ給ふ。(武徳編年集成、御年譜)
○廿五日後騎の輩江城を進発す。酒井宮内大輔家次。牧野駿河守忠成。内藤左馬助政長。小笠原左衛門佐信之。次に松平上総介忠輝朝臣。松平周防守康重。次に最上出羽守義光。次に佐竹右京大夫義宣。次に南部信濃守利直。次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも。甲信の輩は木曽路をのぼり大津にて諸勢をそろへしむ。凡道中前後十六日の間人馬陸続して透間なし。この夜右大将殿藤沢の駅にやどり給ふ。夜に入て軽雷あり。(御年譜、当代記)
○廿六日小田原につかせ給ふ。」本多佐渡守正信より。海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重をして諸国の材木を巡察せしめらるゝ旨を駿遠信甲の輩にふれ渡さる。(御年譜、由緒書)
○廿七日三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滞し給ふ。(御年譜)
○廿九日右大将殿供奉の先駆はけふ入洛す。(大三河志)
◎是月三河の郡士松平久大夫政豊。御上洛のとき御途中にてはじめて拝謁し。召出さるべき旨仰を蒙る。」松下善十郎之勝采邑五百石賜はる。」石谷十右衛門政信右大将殿に附けらる。(家譜、寛政重修譜、寛永系図)
○三月朔日右大将殿三島駅に御滞座あり。(御年譜)
○二日右大将殿三島を御発輿ありて蒲原にいらせ給ふ。」この日野辺傅十郎正久死してその子助左衛門当経つぐ。(御年譜、寛永系図)
○四日右大将殿藤枝につかせ給ふ。」神龍院梵舜は伏見にのぼり拝謁し杉原十帖扇子を献ず。(御年譜、舜旧記)
○五日右大将殿懸川にやどらせ給ふ。(御年譜)
○六日松平左馬允忠頼が浜松の城によぎらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(寛永系図)
○七日けふも浜松に滞留し給ふ。(御年譜)
○八日吉田につかせ給ふ。」伊達越前守政宗はけふ大津に着せり。(御年譜、貞享書上)
○九日右大将殿岡崎につかせらる。(御年譜)
○十日下野守忠吉朝臣の清洲の城にいらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(御年譜)
○十一日清洲城にて忠吉朝臣右大将を饗せられ猿楽を催さる。(御年譜)
○十二日伏見城にて囲棋の御遊あり。神龍院梵舜まいる。」右大将殿けふも清洲城に御滞留あり。(舜旧記。御年譜)
○十三日右大将大垣に着せ給ふ。(御年譜)
○十四日井伊右近大夫直勝が彦根城に入らせ給ふ。(寛政重修譜)
○十五日永原にいたらせ給ふ。青山藤蔵幸成配膳の役を命ぜらる。(御年譜、寛永系図)
○十七日戸田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ。こゝに三日御滞留ありて。後騎の輩到着を待せ給ふ。(御年譜、家譜)
○十八日春日明神薪能の事により。五師并に奈良の父老六人を伏見に於て対決せしめらるゝ所。父老等専恣の挙動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。寿閑といへるは八旬を越たる大老なれば。しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。」この日島津陸奥守忠恒伏見にのぼり拝謁し。御刀二口賜ふ。」又先手頭佐橋甚兵衛吉久死して。その子治郎左衛門吉次つがしめらる。(春日記録、寛政重修譜、家譜)(吉久始は乱之助といふ。射芸に達し。元亀元年姉川の戦に朝倉勢のむらがり進みしを射払て。敵を追しりぞけしよりして。三方が原。長篠。田中。長久手の戦毎に射芸をあらはさずといふことなく。関原の戦にのぞみ。今の御所に付られ。今の職奉はり。伏見にありて死す。五十九歳なり。此人右大将殿に射芸をつたへ奉りしとぞ)(寛永系図)
○廿一日右大将殿膳所崎の城を出まし。これより前後鹵簿をとゝのへられ。粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行装綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御卯迎にまいるもの道もさりあへず。都鄙近國にこの御行装をおがみ奉らんと。路傍に蹲踞する者雲霞のごとくあつまりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ。この御行装を御覧じ給ふ。(西洞院記、舜旧記、家忠日記)
○廿三日諸大名伏見城にのぼり拝謁す。(貞享書上)
○廿六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。」二条御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十郎久吉つぎ。父の原職を命ぜらる。(舜旧記、由緒書)
○廿七日神龍院梵舜まうのぼり拝謁す。慶鶴丸。権少副并社家等太刀折紙を献ず。神主。祝。禰宜等の次第。并日本紀の事ども御垂問あり。(舜旧記)
○廿八日斎藤新五郎利次死す。蔭料千石を御書院番左源太利政に賜h。(寛政重修譜)
○廿九日右大将殿御参内あり。国々の大名こと/\〃く供奉す。これは去年右近衛の大将かけ給ひし御拝賀とぞ聞えける。先伏見より二条にわたらせられ。施薬院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遺戸をへ給ひ。
鬼間にやすらひ給ふ。御帳台の前を御座とし。上段の北に親王の御座を設けられ。下段に大将殿わたらせ給ふ。主上臨御まし/\。天酌にて御三献まいる。其後国々の諸大名四位以上御盃を下さる。大将殿より御太刀。御馬。綿三百把。銀二百枚まいらせ給ひ。親王へ綿二百把。銀百枚。女御へ綿百把。銀百枚。女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ。女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。国々の諸大名よりは太刀馬代をささぐ。事はてゝ伏見へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)
◎是月島津少将忠恒伏見に参観す。」右大将殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬。其子兵部少輔宣綱に黒鹿毛馬をたまひ。又竹腰源太郎正好初見し奉りし時。虎皮鞍覆せし馬一疋たまはり。騎法を学ぶべしと仰下さる。」又細川越中守忠興。その二子長岡與五郎興秋を質子として江戸へ進らせしに。興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて従弟長岡平左衛門を江戸へ進らす。」又この春通商のため呂宋。東京。暹羅に渡海せし船一艘もかへり来らず。あるは風涛の変にあひ沈溺せしといひ。あるは異域にて賊殺せられしともいふ。其踪迹さだかならず。」又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。此頃いまだ世にしる者少かりしに。武家の記録是よりふるきはなし。尤考証となすべきものなりとの盛慮とぞ。(家譜、寛政重修譜、当代記)
○四月五日右大将殿。金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る。(慶長年録)
○七日御みづからの御齢も六十あまり。四年の春をかさね給ひ。右大将殿もやゝをよすげ給へば。大将軍の重職を御譲りまし/\。今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて。こたび御上洛まし/\けるより。この日御辞表を奉らせ給ふ。」けふ。関五郎左衛門吉兼死して。其子傅兵衛吉直つぐ。(御年譜、創業記、家譜)
○八日伏見より御入洛あり。」細川越中守忠興が子内記忠利は従五位下。最上出羽守義光が子駿河守家親は従四位下に叙し。共に侍従に任ず。(舜旧記、家譜、寛政重修譜)
○十日御参内あり。これは御辞表の事内にも聞召入られしを謝し給ひしなるべし。(創業記、家忠日記)
○十二日大坂の豊臣内大臣秀頼公を右大臣にあげらる。(家忠日記)
○十三日神龍院梵舜當家の御系図を考定し。二条に参りて進覧す。(舜旧記)
○十五日御譲任の事内にもことはりと聞召入られ。御素志の事ども思召まゝに御治定ありければ。伏見にかへらせたまふ。(御年譜、創業記)
○十六日勅使広橋権大納言兼勝卿。勧修寺権中納言光豊卿等二条城に参向あり。右大将殿に征夷大将軍を授られ。正二位内大臣にあげ給ひ。淳和奨学両院別当。源氏長者とせられ。牛車にて宮中出入の御ゆるしまで。御父君にかはる事ましまさず。御所は此時より大御所と称し奉り。しばし伏見の城にゐましけるが。おなじ九月十五日伏見を出まし。十月廿八日江戸に還御なる。」同十一年三月十五日また江戸をいでまして。四月七日都にいらせ給ひ。伏見または二条にわたらせられ。十一月四日江戸にかへらせ給ふ。」十二年五月朝鮮国よりはじめて使を参らす。豊臣太閤文禄の遠伐より隣好もたえはてしを當家世を治め給ふによて。いにし恨もとけて。遠を懐くるの御徳をしたひ奉るとぞ聞えし。」この正月より駿府の城を経営せられ菟裘に定め給ひ。七月三日駿府にうつらせられ永く御所となさる。この後はしば/\〃駿府より江戸にも往来し給ひ。御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。将軍また御孝心世にすぐれまし/\。何事も御庭訓を露たがへ給はず。瑣末の事といへども。御旨をこはせ給はず御一人の思召もてうけばり行はせ給ふ事はましまさず。御みづから駿府におもむかせたまひ。または御使をまいらせられ。御ゆづりをうけさせられし後も。たゞ子たるの職を拱し守りておはしければ。大御所御隠退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ。むつまじく萬機をはかりあはせ給ふ。かゝるためしなむ昔も今も又あるべくも覚えず。」十四年春のころ島津陸奥守家久御ゆるしをこひて琉球国をせめふせ。中山王尚寧をはじめ其一族等多く生取。駿府江戸に引つれてまいりしかば。中山王はさらなり。その国人はゆるして国にかへされ。琉球国をばながく島津が家につけらる。」大坂の右府秀頼は。庚子の乱に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば。その時秀頼をも誅せられ。永く天下の禍根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども。秀頼いまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の旧好もすてがたしとて。寛仁の御沙汰にして。秀頼母子の命を助け給ふのみならず。そのまゝ大坂の城におかれ。河内。摂津を領せしめられ。今は御孫姫君にさへあはせ給へば。秀頼もあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど。母。賊臣等がゆへなき讒言を信じ。良臣を遠ざけ無頼のあふれものをあつめ。天下逋逃の薮となりしかば。諸国の注進櫛の歯を引が如し。今は思ひの外の事とみけしきよからず。十九年十月十一日駿府を出て大坂へ御動座ありしかば。将軍にも同じ廿三日江戸を御出馬あり。凡五畿七道の軍兵数十萬騎。雲霞の如くはせあつまり大坂の城をとりかこむ。城かたもはじめのほどこそあれ次第に心よはりて。和順の事をこひまいらせしにぞ。堀築地をやぶりて事たいらぎしに。いくほどもなくあくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二条の城につかせ給へば。
将軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日両御旗を難波にすゝめられ。六日七日の合戦に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀頼母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に凱旋あり。」ことし七月七日公家の法制十七条。武家の法令十三条を定められ。天下後世の亀鑑と定めまし/\。将軍は其十九日都をいでゝ八月四日江戸にかへらせ給ひ。大御所にはその日御出京ありて廿四日駿府に還御あり。」翌年の正月廿一日大御所駿河の田中に鷹狩せさせ給ひしに。その夜はからずも御心ち例ならず悩ませ給ひ。急ぎ駿府に帰らせ給ふ。聊かをこたらせ給ふ様なりしかど。はかばかしくもおはしまさず。江戸にもかくと聞召おどろき給ひ。御みづから急ぎ駿府にならせ給ひ。萬にあつかはせ給へば。九重の内にても延命の御修法など行はれ巻数まいらせらる。されば諸社諸寺の御祈は更なり。天下に名あるくすしども召集め御薬の事議せしめらる。内には猶も撥乱反正の大勲にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ。今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され。三月廿七日太政大臣にすゝめ給ふ。この頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも。猶天恩のかたじけなさを畏み給ふあまり。御いたはりをしゐておもたゞしく勅使を迎へさせ給ひ。紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寝にをいてかんさらせ給ふ。御齢七十に五あまらせ給ひき。将軍外様をはじめ。凡四海のうちに有としあるものなげき悲しまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。」あくる三年二月廿一日内より東照大権現の勅号まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて霊柩を下野国日光山にうつし奉り。四月十六日御鎮座ありて十七日御祭礼行はる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮号宣下せられ東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月より始めて例弊使参向今に絶せず。」仰すめるものはのぼりて天となり。にごれるものは下りて地となりしより此かた。御裳濯川のながれかれせず天津日継の御位うごきなき中に。清和天皇幼くて御位つがせ給ひしよりこのかた。外戚の家政柄を世々にせられしかば。藤氏の権海内を傾くるにいたりしが。鳥羽の上皇昇天の後。棣萼の御爭出来しより。その権源平の武家にうつりぬ。しかるに鎌倉右大将(頼朝)一たび伊豆の孤島より義旗をあげられ。平氏の武家は一門こぞりて寿永の春の花とちりはてゝ。終にわたつ海のそこのもくづとしづみにしのちは。天下たゞ武家の沙汰に帰しぬ。右大将家の後三代にしてたえしかば。陪臣北條義時がはからひにて。都よりあるは藤氏の庶子を請て主となし。あるは親王を申下して君と仰ぎ。をのれ国命を専らにしたるに。元弘。建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと。新田。足利の武力をかりて叡慮のまゝに北條を誅し。中興の業はなし給ひつれど。皇統又南北にわかれ。終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されど是も尊氏詐謀奸智をもて。上をあざむき衆をたばかりて。そのもと正しからざれば。下又これにならひ。足利氏十五世をふるが間。骨肉相残し父子兄弟互にあらそひ。強は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして応仁より此かた四海瓦のごとく解け。逆徒蜂のごとくおこりて天倫の道たえ。萬民塗炭のくるしみを受る事こゝに百年にあまりぬ。織田右府(信長)勇鋭にして義昭将軍を翼載するかとすれば忽にこれを放逐し。その身も又賊臣のために弑せられ。豊臣太閤の雄略なる。其身草間より出て旧主の讐を伐て遂に宇内を一統せしも。驕逸奢侈にふけり遠征を事とし萬民の疾苦をかへりみず。其余威二世につたふるに及ばず。此時にあたり維獄より神をくだし真主こゝにあれまし。寛仁大度の御徳そなはらせ給ひ。武はよく乱にかち。文はよく治を致し。終に海内百有余年の逆浪をしづめ。天下大一統の成功をとげ給ふ。しかれば足利氏以来の暗主奸臣はいふまでもなし。織田氏の強暴豊臣氏の傲慢なる。ともにみな淵のために魚をかり。薮のために雀を逐ふたぐひにて。真主の為に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば萬世無彊の基をひらき給ひし功徳。なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの関のはゞかりあることながら。朝政武断に帰せし後。一人として実に尭舜の道をたふとみ。聖賢のあとをまなばれし主ある事をきかず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ。沐雨櫛風の労をかさね嶮岨艱難をなめつくし給ひし千辛萬苦の御中にて。はじめて世を治め天下を平らかにせんは。聖人の道の外にあらざる事をしろしめし。惺窩。道春などいへる一時の儒生をめしあつめられ。大学。論語ならびに貞観政要などよませて聞しめし。其外承兌。崇傅。天海などいへる碩学どもを召て内外の諸紀傅を聞せ給ひ。駿府におはしまして後も。道春に四書六経をよび武経七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ。関原御凱旋の後はことさら御心を萬機にゆだねられ。国やすく民ゆたかならむ事をのみ思召。天下後世のために業をはじめ統をたれ。大経大法を大成し給ひ。聖子神孫いやつぎ/\〃に太平無彊の大統をつたへ給ふ。其精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光は。こまもろこしの外までもあまねくてらしまし。武蔵野の露の恵は。敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。
千早振神の御徳御いさほし。凡髪をいたゞき歯をふくむたぐひ。たれかこれをかしこみもかしこみ。をそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや。(御年譜、宮号宣下記) 
東照宮御實記卷十 / 慶長十年正月に始り四月に終る御齡六十四
慶長十年乙巳正月元日江戶城に於て右大將殿御對面歲首を賀し給ふ。其他群臣年始を賀し奉る事例の如し。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○二日松平下總守忠明はじめて謠曲の始列に加はる。(家譜。)
○三日こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。其文にいふ。喧嘩爭論嚴に停禁せらる。親族知音たるをもて荷擔せしめなば。罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば歸府の後其沙汰あるべし。道中鹵簿の行列はあらかじめ示さるゝ令條の如く。次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮にまかすべし。押買狼藉すべからず。渡船塲に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もし此令に違犯するものは嚴科に處せらるべしとなり。この日尼崎又二カに大泥國渡海の御朱印を下さる。(令條記。御朱印帳。)
○九日御上洛のため江城を御發輿あり。しかるに痳をなやませ給ひしかば。數日內藤豐前守信成が駿府城に御延滯まします。長福丸方も陪せらる。稻毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより。役夫の御K印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ。(御年譜。創業記。ェ政重修譜。)
○十一日天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召出されて。右大將殿につけられて燒火間番を命ぜらる。この日島津三位法印龍伯より唐墨二笏折敷二十献じければ。御內書を賜ふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十三日駿府に於て大草久右衛門長榮召出され采邑三百石下さる。栗生吉兵衛茂榮先に御勘氣を蒙り籠居せしが。これも御ゆるしありて新に采邑三百石下さる。三上太カ右衛門某も召出され采邑千石給ひ。山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ。(家譜。)
○十五日安藤彥兵衛直次武藏近江の新墾田を合せて二千三十石餘を加賜せられ。合せて一萬三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝寄騎の給料として四千五十五石六斗餘を加賜せらる。(ェ政重修譜。)
○廿日多田三八カ昌綱死して。其子次カ右衛門昌繁幼稚なるが故に。加恩三百石の地は收公せられ。先々のごとく甲州武川の輩と同じく給事せしめらる。(貞享書上。ェ政重修譜。)
◎是月本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に。下野國榎本に於て所領一萬石賜ふ。間宮左衛門信盛に。采邑の御朱印に茶壺をそへて下さる。京醫今大路道三親C江戶に參る。(ェ政重修譜。)
○二月朔日駿河國安倍郡の海野彌兵衛某に采邑の御朱印をたまふ。井出志摩守正次がうけたまはる所なり。(由誌早B)
○三日松平長四カ信綱に月俸を加へて五口を賜はる。(ェ政重修譜。)
○五日御なやみ常にかへらせ給ひ。この日駿府をうちたゝせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○九日山常陸介忠成。內藤修理亮C成。伊奈備前守忠次連署して淺草東光院に寺料の替地を下さる。(由誌早B)
○十日中根傳七カ正成采邑二百石加へられ四百石になさる。(ェ政重修譜。)
○十一日松平內記C定死す。其子內記C信はェ永十二年に至り召出さる。(ェ政重修譜。)
○十二日大番組頭鎭目市左衞門惟明が二子藤兵衛惟忠召出され大番に加へらる。(ェ政重修譜。)
○十三日昨今霜威嚴酷にして草木多く凅枯る。此夜上京下京火あり。(當代記)。
○十五日右大將殿御上洛あるにより。榊原式部大輔康政。佐野修理大夫信吉。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長等は先驅としてけふ江戶を發程す。此日美濃部鹿之助茂廣死して子市カ左衛門茂忠家をつぐ。(創業記。武コ編年集成。ェ政重修譜)。
○十六日伊達越前守政宗御上洛供奉のため江戶を發程す。(貞享書上。武コ編年集成。)
○十七日堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戶を發す。尼孝藏主は御上洛をむかへ奉るとて途中まで參る。(武コ編年集成。)
○十八日大駕此日水口にいらせ給ふ。右大將殿は江戶御發輿あるべしとかねて令せられしが。大雨により御延滯あり。この日平岩主計頭親吉。小笠原信濃守秀政。諏訪因幡守ョ永。保科肥後守正光。鳥居左京亮忠政發程す。(武コ編年集成。創業記。當代記。)
○十九日伏見城へ着せ給ふ。江戶よりは右大將殿先驅として米澤中納言景勝發馬す。(創業記。武コ編年集成。)
○廿日高倉宰相永孝卿。飛鳥井少將雅賢。烏丸右大辨光廣等伏見城にまうのぼり謁見す。江戶よりは蒲生飛彈守秀行發程す。駿州の海野彌兵衛某。朝倉六兵衛在重に。本多佐渡守正信より今度右大將殿御上洛の時。其地に於て拜謁し采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す。(西洞院記。武コ編年集成。由誌早B)
○廿一日神龍院梵舜等伏見城にのぼり御けしきうかゞひ奉る。いささか御なやみあるにより拜謁せずして退く。江戶よりはこの日本多出雲守忠朝。眞田伊豆守信之。北條左衛門大夫氏勝。松下右兵衛尉重綱發途す。(舜舊記。武コ編年集成。)
○廿二日大久保相摸守忠隣。同加賀守忠常。皆川志摩守隆庸。本多大學忠純。高力左近忠房等江戶を發す。(武コ編年集大。)
○廿三日酒井右兵衛大夫忠世。水野市正忠胤。淺野采女長重。淺野內膳氏重。鍋島加賀守直茂。田中隼人正。(後に忠政となのる。)市橋小兵衛某等江戶を出る。(武コ編年集成。)
○廿四日右大將殿江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。其奉行は三枝土佐守昌吉。森川金右衛門氏信。屋代越中守秀正。服部中保正。加藤勘右衛門正次。細井金兵衛勝久。次に弓三百挺。其奉行久永源兵衛重勝。木五右衛門高ョ。佐橋甚兵衛吉久。倉橋內匠助政勝。次に豹皮鞘の鑓二百本。近藤平右衛門秀用。都筑彌左衛門爲政。次に召替の御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。引馬龓者上に同じ。猩々緋K羅紗にてつゝみし御持筒五十挺。御持弓三十挺。挾箱二十荷。長刀二振。持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帶す。次に御持鑓五柄。持夫上に同じ。次に騎馬。供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉。小姓の輩は山圖書助成重。安藤對馬守重信これを屬す。次に使番。次に大番士。其次は土屋民部少輔忠直。高木善次カ正次。次に柴田七九カ康長。安部彌一カ信盛。內藤新五カ忠俊。
牧野九右衛門信成。內藤若狹守C次。上杉源四カ長貞。土方河內守雄久。藤堂內匠助正高。溝口孫左衛門善勝。西尾隼人某。戶川宗十カ某。須賀攝津守勝政。神谷彌五カC次。秋山平左衛門昌秀。下曾根三右衛門信正。跡部民部良保。駒井孫三カ親直。柴田三左衛門勝重。阿部備中守正次。山名平吉某。津田正藏某。脇坂主水正安信。小出信濃守吉親。牧野傳藏吉純。眞田左馬助信勝。永田四カ三カ直時。木造左馬助某。山常陸介忠成。水野隼人正忠C。堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若黨馬乘奉行。歩行士小者。次に永田善左衛門重利。永井彌右衛門白元。次に御馬廻。鐵炮奉行石川八左衛門重次。永田勝左衛門重眞。弓奉行本多百助信勝。小澤P兵衛忠重。鑓長刀奉行山田十大夫重利。挾箱奉行朝倉藤十カ宣正。また供奉の輩みづからの器械鳥銃千挺。弓五百挺。鑓千柄。長刀百振。挾箱三百なり。今夜神奈川の驛にやどらせたまふ。(武コ編年集成。御年譜。)
○廿五日後騎の輩江城を進發す。酒井宮內大輔家次。牧野駿河守忠成。內藤左馬助政長。小笠原左衛門佐信之。次に松平上總介忠輝朝臣。次に松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。松平孫六カ康長。松平周防守康重。次に最上出羽守義光。次に佐竹右京大夫義宣。次に南部信濃守利直。次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも。甲信の輩は木曾路をのぼり大津にて諸勢をそろへしむ。凡道中前後十六日の間人馬陸續して透間なし。この夜右大將殿藤澤の驛にやどり給ふ。夜に入て輕雷あり。(御年譜。當代記。)
○廿六日小田原につかせ給ふ。本多佐渡守正信より。海野彌兵衛某朝倉六兵衛在重をして諸國の材木を巡察せしめらるゝ旨を。駿遠信甲の輩にふれ渡さる。(御年譜。由誌早B)
○廿七日三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滯し給ふ。(御年譜。)
○廿九日右大將殿供奉の先驅はけふ入洛す。(大三河志。)
◎是月三河の郡士松平久大夫政豐。御上洛のとき御途中にてはじめて拜謁し。召出さるべき旨仰を蒙る。松下善十カ之勝采邑五百石賜はる。石谷十右衛門政信右大將殿に附けらる。(家譜。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○三月朔日右大將殿三島驛に御滯座あり。(御年譜。)
○二日右大將殿三島を御發輿ありて蒲原にいらせ給ふ。(御年譜。)
○三日駿府にとゞまらせ給ふ。この日野邊傳十カ正久死してその子助左衛門當經つぐ(御年譜。ェ永系圖。)
○四日右大將殿藤枝につかせ給ふ。神龍院梵舜は伏見にのぼり拜謁し杉原十帖扇子を献ず。(御年譜。舜舊記。)
○五日右大將殿懸川にやどらせ給ふ。(御年譜。)
○六日松平左馬允忠ョがM松の城によぎらせ給ひこゝに御滯留あり。(ェ永系圖。)
○七日けふもM松に滯留し給ふ。(御年譜。)
○八日吉田につかせ給ふ。伊達越前守政宗はけふ大津に着せり。(御年譜。貞享書上。)
○九日右大將殿岡崎につかせらる。(御年譜。)
○十日下野守忠吉朝臣のC洲の城にいらせ給ひこゝに御滯留あり。(御年譜。)
○十一日C洲城にて忠吉朝臣右大將を饗せられ猿樂を催さる。(御年譜。)
○十二日伏見城にて園棋の御遊あり。神龍院梵舜まいる。右大將殿けふもC洲城に御滯留あり。(舜舊記。御年譜。)
○十三日右大將殿太垣に着せ給ふ。(御年譜。)
○十四日井伊右近大夫直勝が彥根の城に入らせ給ふ。(ェ政重修譜。)
○十五日雨により彥根城に御滯留あり。(御年譜。)
○十六日永原にいたらせ給ふ。山藤藏幸成配膳の役を命ぜらる。(御年譜。ェ永系圖。)
○十七日戶田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ。こゝに三日御滯留ありて。後騎の輩到着を待せ給ふ。(御年譜。家譜。)
○十八日春日明神薪能の事により。五師幷に奈良の父老六人を伏見に於て對决せしめらるゝ所。父老等專恣の擧動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。壽閑といへるは八旬を越たる大老なれば。しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。この日島津陸奥守忠恒伏見にのぼり拜謁し。御刀二口賜ふ。又先手頭佐橋甚兵衞吉久死して。その子治カ左衛門吉次つかしめらる。(春日記錄。ェ政重修譜。家譜。吉久始は亂之助といふ。射藝に達し。元龜元年姉川の戰に朝倉勢のむらがり進みしを射拂て。敵を追しりぞけしよりして。三方が原長篠田中長久手の戰每に射藝をあらはさずとふことなく。關原の戰にのぞみ今の御所に付られ。今の職奉はり。伏見にありて死す。五十九歲なり。此人右大將殿に射藝をつたへ奉りしとぞ。ェ永系圖。)
○廿一日右大將殿膳所崎の城を出まし。これより前後鹵簿をとゝのへられ。粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行裝綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御迎にまいるもの道もさりあへず。都鄙近國にこの御行裝をおがみ奉らんと。路傍に蹲踞する者雲霞のごとくあつまりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ。この御行裝を御覽じ給ふ。(西洞院記。舜舊記。家忠日記。)
○廿三日諸大名伏見城にのぼり拜謁す。(貞享書上。)
○廿六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す。二條御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十カ久吉つぎ。父の原職を命ぜらる。(舜舊記。由誌早B)
○廿七日神龍院梵舜まうのぼり拜謁す。慶鶴丸權少副幷社家等太刀折紙を献ず。神主祝禰宜等の次第幷日本紀の事ども御垂問あり。(舜舊記。)
○廿八日齋藤新五カ利次死す。䕃料千石を御書院番左源太利政に賜ふ。(ェ政重修譜。)
○廿九日右大將殿御參內あり。國々の大名ことごとく供奉す。これは去年右近衛の大將かけ給ひし御拜賀とぞ聞えける。先伏見より二條にわたらせられ。施藥院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遣戶をへ給ひ鬼間にやすらひ給ふ。御帳臺の前を御座とし。上段の北に親王の御座を設けられ。下段に大將殿わたらせ給ふ。主上臨御ましまし天酌にて御三献まいる。其後國々の諸大名四位以上御盃を下さる。大將殿より御太刀。御馬。綿三百把。銀二百枚まいらせ給ひ。親王へ綿二百把。銀百枚。女御へ綿百把。銀百枚。女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ。女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。
國々の諸大名よりは太刀馬代をさゝぐ。事はてゝ伏見へかへらせ給ふ。(御年譜。西洞院記。)
◎是月島津少將忠恒伏見に參覲す。右大將殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬。其子兵部少輔宣綱にK鹿毛馬をたまひ。又竹腰源太カ正好初見し奉りし時。虎皮鞍覆せし馬一疋たまはり。騎法を學ぶべしと仰下さる。又細川越中守忠興。その二子長岡與五カ興秋を質子として江戶へ進らせしに。興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて從弟長岡平左衛門を江戶へ進らす。又この春通商のため呂宋東京暹羅に渡海せし船一艘もかへり來らす。あるは風濤の變にあひ沈溺せしといひ。あるは異域にて賊殺せられしともいふ。其踪迹さだかならず。又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。此頃いまだ世にしる者少かりしに。武家の記錄是よりふるきはなし。尤考證となすべき者なりとの盛慮とぞ。(家譜。ェ政重修譜。當代記。)
○四月五日右大將殿。金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る。(慶長年錄。)
○七日御みづからの御齡も六十あまり。四年の春をかさね給ひ。右大將殿もやゝをよすげ給へば。大將軍の重職を御讓りましまし。今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて。こたび御上洛ましましけるより。この日御辭表を奉らせ給ふ。けふ關五カ左衛門吉兼死して其子傳兵衛吉直つぐ。(御年譜。創業記。家譜。)
○八日伏見より御入洛あり。細川越中守忠興が子內記忠利は從五位下。最上出羽守義光が子駿河守家親は從四位下に叙し。共に侍從に任ず。(舜舊記。家譜。ェ政重修譜。)
○十日御參內あり。これは御辭表の事內にも聞召入られしを謝し給ひしなるべし。(創業記。家忠日記。)
○十二日大坂の豐臣內大臣秀ョ公を右大臣にあげらる。(家忠日記。)
○十三日神龍院梵舜當家の御系圖を考定し。二條にまいりて進覽す。(舜舊記。)
○十五日御讓任の事內にもことはりと聞召入られ。御素志の事ども思召まゝに御治定ありければ。伏見にかへらせたまふ。(御年譜。創業記。)
○十六日勅使廣橋權大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿等二條城に參向あり。右大將殿に征夷大將軍を授られ。正二位內大臣にあげ給ひ。淳和弉學兩院别當源氏長者とせられ。牛車にて宮中出入の御ゆるしまで。御父君にかわる事ましまさず。御所は此時より大御所と稱し奉り。しばし伏見の城にゐましけるが。おなじ九月十五日伏見を出まし。十月廿八日江戶に還御なる。同十一年三月十五日また江戶をいでまして四月七日都にいらせ給ひ。伏見または二條にわたらせられ。十一月四日江戶にかへらせ給ふ。十二年五月朝鮮國よりはじめて使を參らす。豐臣太閤文祿の遠伐より隣好もたえはてしを當家世を治め給ふによて。いにし恨もとけて。遠を懷くるの御コをしたひ奉るとぞ聞えし。この正月より駿府の城を經營せられ莵裘に定め給ひ。七月三日駿府にうつらせられ永く御所となさる。この後はしばしば駿府より江戶にも往來し給ひ。御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。將軍また御孝心世にすぐれましまし。何事も御庭訓を露たがへ給はず。瑣末の事といへども御旨をこはせ給はず。御一人の思召もてうけばり行はせ給ふ事はましまさず。御みづから駿府におもむかせ給ひ。または御使をまいらせられ。御ゆづりをうけさせられし後も。たゞ子たるの職を共し守りておはしければ。大御所御隱退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ。むつまじく萬機をはかりあわせ給ふ。かゝるためしなむ昔も今も又あるべくも覺えず。十四年春のころ島津陸奥守家久御ゆるしをこひて琉球國をせめふせ。中山王尙寧をはじめ其一族等多く生取。駿府江戶に引つれてまいりしかば。中山王はさらなり。その國人はゆるして國にかへされ。琉球國をばながく島津が家につけらる。大坂の右府秀ョは。庚子の亂に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば。その時秀ョをも誅せられ。永く天下の亂根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども。秀ョいまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の舊好もすてがたしとェ仁の御沙汰にして。秀ョ母子の命を助け給ふのみならず。そのまゝ大坂の城におかれ河內攝津を領せしめられ。今は御孫姬君にさへあはせ給へば。秀ョもあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど。囂母賊臣等がゆへなき讒言を信じ。良臣を遠ざけ無ョのあふれものをあつめ。天下逋逃の藪となりしかば。諸國の注進櫛の齒を引が如し。今は思ひの外の事とみけしきよからず。十九年十月十一日駿府を出て大坂へ御動座ありしかば。將軍にも同じ廿三日江戶を御出馬あり。凡五畿七道の軍兵數十萬騎雲霞の如くはせあつまり大坂の城をとりかこむ。城かたもはじめのほどこそあれ次第に心よはりて。和順の事をこひまいらせしにぞ。堀築地をやぶりて事たいらぎしに。いくほどもなくあくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二條の城につかせ給へば。將軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日兩御旗を難波にすゝめられ。六日七日の合戰に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀ョ母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に御凱旋あり。ことし七月七日公家の法制十七條。武家の法令十三條を定められ。天下後世の龜鑑と定めましまし。將軍は其十九日都をいでゝ八月四日江戶にかへらせ給ひ。大御所にはその日御出京ありて廿四日駿府に還御あり。翌年の正月廿一日大御所駿河の田中に鷹狩せさせ給ひしに。その夜はからずも御心ち例ならずなやませ給ひ。いそぎ駿府にかへらせ給ふ。いさゝかをこたらせ給ふ樣なりしかど。はかばかしくもおはしまさず。江戶にもかくと聞召おどろき給ひ。御みづからいそぎ駿府にならせ給ひ萬にあつかはせ給へば。九重の內にても延命の御修法など行はれ卷數まいらせらる。されば諸社諸寺の御いのりは更なり。天下に名あるくすしども召あつめ御藥の事議せしめらる。
內には猶も撥亂反正の大勳にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ。今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され。三月廿七日太政大臣にすゝめ給ふ。此頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも。猶天恩のかたじけなさをかしこみ給ふあまり。御いたはりをしゐておもたゞしく勅使をむかへさせ給ひ。紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寢にをいてかんさらせ給ふ。御齡七十に五あまらせ給ひき。將軍御なげきはいふまでもなし。公達一門の方々御內外樣をはじめ。凡四海のうらに有としあるものなげきかなしまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。あくる三年二月廿一日內より東照大權現の勅號まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて靈柩を下野國日光山にうつし奉り。四月十六日御鎭座ありて十七日御祭禮行はる。此時都よりも。宣命使奉幣使などいしいし山に參らる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮號宣下せられ東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月よりはじめて例幣使參向今に絕せず。抑すめるものはのぼりて天となり。にごれるものは下りて地となりしより此かた。御裳濯川のながれかれせず天津日繼の御位うごきなき中に。C和天皇幼くて御位つがせ給ひしよりこのかた。外戚の家政柄を世々にせられしかば。藤氏の權海內を傾るにいたりしが。鳥羽の上皇昇天の後棣蕚の御爭出來しより。その權源氏の武家にうつりぬ。しかるに鎌倉大將(ョ朝。)一たび伊豆の孤島より義旗をあげられ。平氏の武家は一門こぞりて壽永の春の花とちりはてゝ。終にわたつ海のそこのもくづとしづみにしのちは。天下たゞ武家の沙汰に歸しぬ。右大將家の後三代にしてたえしかば陪臣北條義時がはからひにて。都よりあるは藤氏の庶子を請て主となし。あるは親王を申下して君と仰ぎ。をのれ國命を專らにしたるに。元弘建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと。新田足利の武力をかりて叡慮のまゝに北條を誅し。中興の業はなし給ひつれど。皇統又南北にわかれ終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されどこれも尊氏詐謀奸智をもて上をあざむき衆をたばかりて。そのもと正しからざれば。下又これにならひ足利氏十五世をふるが間。骨肉相殘し父子兄弟互にあらそひ。强は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして應仁より此かた四海瓦のごとく解け。逆徒蜂のごとくおこりて。天倫の道たえ萬民塗炭のくるしみを受る事こゝに百年にあまりぬ。織田右府(信長。)勇銳にして義昭將軍を翼戴するかとすれば忽にこれを放逐し。その身も又賊臣のために弑せられ。豐臣太閤の雄略なる其身草間より出て舊主の讐を伐て遂に宇內を一統せしも。驕逸奢侈にふけり遠征をことゝし萬民の疾苦をかへりみず。其餘威二世につたふるに及ばず。此時にあたり維嶽より神をくだし眞主こゝにあれまし。ェ仁大度の御コそなはらせ給ひ。武はよく亂にかち文はよく治を致し。終に海內百有餘年の逆浪をしづめ。天下大一統の成功をとげ給ふ。しかれば足利氏以來の暗主奸臣はいふまでもなし。織田氏の强暴豐臣氏の傲慢なる。ともにみな淵のために魚をかり藪のために雀を逐ふたぐひにて。眞主の爲に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば萬世無彊の基をひらき給ひし功コ。なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの關のはゞかりあることながら。朝政武斷に歸せし後。一人として實に堯舜の道をたふとみ。聖賢のあとをまなばれし主ある事をきかず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ。沐雨櫛風の勞をかさね險阻艱難をなめつくし給ひし千辛萬苦の御中にて。はじめて世を治め天下を平らかにせんは。聖人の道の外にあらざる事をしろしめし。惺窩道春などいへる一時の儒生をめしあつめられ。大學論語ならびに貞觀政要などよませて聞しめし。其外承兌。崇傳。天海などいへる碩學どもを召て內外の諸紀傳を聞せ給ひ。駿府におはしまして後も。道春に四書六經をよび武經七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ。關原御凱旋の後はことさら御心を萬機にゆだねられ。國やすく民ゆたかならむ事をのみ思召。天下後世のために業をはじめ統をたれ。大經大法を大成し給ひ。聖子神孫いやつぎづぎに太平無彊の大統をつたへ給ふ。其精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光はこまもろこしの外までもあまねくてらしまし。武藏野の露の惠は敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。千早振神の御コ御いさほし。凡髮をいたゞき齒をふくむたぐひ。たれかこれをかしこみもかしこみをそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや。(御年譜。宮號宣下記。) 
 
東照宮御実紀附録

 

卷一 
かけまくもかしこき東照神君。應仁よりこのかた蠭のごと亂れ瓜のごと分れし百有餘年の大亂を打平げ。久堅の天ながく。荒がねの地かぎりなき洪業を開かせ給ひし御事蹟は。つばらに本編にかきしるし奉りぬ。御嘉言御善行のこときに至りては。悉く本編に載べくもあらざれば。今諸書に散見する所の。疑はしきをさり正しかるべきをつみとりて。藻鹽草かきあつめ本編の末に附し奉るにこそ。抑まだ御幼穉の御程よりあやしくさとくおはしまして。なみなみの兒童の及ぶ所にあらざる事はいふべくもあらず。八歲にならせられし時。尾張の織田信秀が爲に囚れ。同國名古屋の天王坊といふにおはしませし時。熱田の神官御徒然を慰め奉らんとて。K鶇といへる小鳥のよく諸鳥の音を似するを獻じければ。近侍等いとめづらしきものにおもひめで興じけり。君御覽じて。かれが珍禽を奉りし心えはさる事なれども。おぼしめす旨あれば返しくださるべしと聞え給へば。神官思ひの外の事にて持歸りぬ。その後近侍にむかはせられ。この鳥はかならず。己が音のおとりたるをもて。他鳥の音をまねびてその無能をおほふなるべし。おほよそ諸鳥皆天然の音あり。黃鳥は杜鵑の語を學ばず。雲雀は鶴の聲を擬せず。をのがじゝ本音もて人にも賞せらるれ。人も亦かくのことし。生質巧智にして萬事に能あるものは。かならず遠大の器量なき者ぞ。かゝる外邊のみかざりて眞能のなきものは。鳥獸といへども大將の翫には備ふまじきなりと宣へば。承りしものども。まだいとけなくわたらせたまひ。ひろく物の心もしろしめさぬ御程にて。かゝることおもひ至らせ給ふは。行末いかなる賢明の主にならせ給はんと。あやしきまでに感じ奉りぬ。後に聞ば。K鶇ははたして本音のなき鳥なりとぞ。後年に至り豐臣太閤の諸將を評せられしにも。今川氏眞織田信雄など。華奢風流の事はよくなし得たれど武門の器にともし。コ川殿は何ひとつ技藝のすぐれし事は聞えざれども。將に將たる器量を備へられしと感ぜられし事あり。いかにも御幼稚の御ほどより。衆人に殊なる御本性におはしましたるならむと。今さら膽仰せらるゝ事になん。(故老諸談。道齋聞書。)
五月五月兒童の戱とて。隊を分ち石もて打あふを。俚語にいんぢうちといふは。石打といふ詞のよこなまりしにて。ふるくより兒戱とせしは。全く戰國爭鬪の風童部にもをしうつりしなるべし。君はいまだいとけなくて駿河の今川がもとにおはしける時。石打見そなはさんとて。近侍の者の肩に負れ阿部河原に出ませしに。一隊は三百人あまり。一隊は百四五十ばかりなり。人々みな多勢の方により來て見んとす。君われは小勢の方にゆかむ。小勢の方の人は自ら志を一决して恐怖の念なく。隊伍もいとよく整ふものぞと仰せければ。かの侍。この君何をしろしめしてさは仰せらるゝぞといぶかしく思ひしが。程なく打合はじまりしに。多勢の方一さゝへもせず敗走し。見物の者もそが方にゆきしは。人なだれにおしすくめられ。からうじて迯ちりぬ。この事聞き傳へし者ども。御年の程にも似つかはしからぬ御聰明の御事かなと。感じ奉らぬはなかりしとぞ。(故老諸談。太平夜談抄。)
按に大勢の方は農民なり。微勢の方は武士なり。微勢の方かならず勝むと仰られしが。果して其ごとくなりしといふ說もあり。
天文廿年正月元日今川が舘におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座して拜賀す。君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人の子ならんといふに。松平C康が孫なりといふ者あれど信ずる者なし。其時君御座をたちて緣先に立せられ。なにげなく便溺し給ふに。自若として羞怎のさまおはしまさず。これにより衆人驚嘆せしとぞ。(紀年錄。)
駿府におはしませし頃。一日大祥寺といふ禪刹へ成せられしに。鷄廿羽ばかりかひ置きしを御覽じ。住僧にこの鳥一羽われにあたへぬかと宣へば。住僧皆なりとも獻らん。菜圃を啄みあらせども。をのれと生育いたし候へば。先そのまゝに飼置きぬと申せば。咲はせられながら。この法師は鷄卵くふ事はしらぬかと仰られ。後に駿河御領國となりし時。かの住僧殊勝の者なりとて。めして寺領御寄附ありしとなり。(君臣言行錄。)
鳥居伊賀守忠吉はC康廣忠の二君につかへ奉り。君の駿河にわたらせ給ひし時。今川がはからひにて松平次カ左衛門重吉と共に御本國にとゞまり。賦稅の事を奉行せしめられしかば。忠吉が子彥右衛門元忠をば。君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが。君は十歲彥右衛門は十三歲なり。斯る折から殊にスばせ給ひ。朝夕したしみかたらひ給ふ。そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと。彥右衛門に教へ諭し給ひけるが。据方よからずとていからせ給ひ。椽より下に突き落し給ひければ。御側にありあふ者ども。忠吉が忠誠を盡すあまり。己が愛子までをまいらするに。いかでかく情なくはもてなさせたまひそと諫め奉りしを。忠吉は後にこのこと傳へききて。なみなみの君ならんには。御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに。いさゝかその懸念おはしまさで。御心の儘に愚息をいましめ給ふ。御資性の濶大なるいと尊とし。この儘に生立せ給はゞ。行末いかなる名將賢主にならせ給ひなん。それがし犬馬の齡すでに傾き餘命いくばくもなし。御行末を見つがん事かたし。彥右衛門汝は末永くつかへ奉り。萬につけてをろそかにな思ひそとて。かへりてが己子のもとへは嚴しく申送りしとぞ。人みな忠吉が忠貞にして私なきを感じけり。(鳥居家譜。)
按に。鳥居が家譜には。伊賀守忠吉駿府に附そひつかふまつりし樣にしるせしは誤にちかし。忠吉はこの頃岡崎に殘りて御領の事奉行してありしなり。
尾張におはしませし頃。織田の家士河野藤右衛門氏吉ことにいたはり奉り。常に百舌鳥山雀などさまざまの小鳥ども獻じ御心を慰めければ。御手づから葵に桐の紋ぼりたる目貫をたまひ。後々もその厚意を忘れ給はで。關原の後にめし出して御身近くめしつかはれぬ。またおなじ頃鷹狩に出給ふに。鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ。そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ。三河の悴にはあきはてたりといふをきこしめしけるが。年經て後高天神落城して孕石生擒に成て出ければ。彼わが尾張に在し時。我をあきはてたりと申たる者なればいとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよとて。遂に自殺せしめられしなり。(東武談叢。三河の物語。)
弘治二年正月十五日御年十五。駿河國にて御首服加へ給ふ。今川義元加冠し。關口刑部少輔親永理髮し奉る。其年尾州の織田信長三河の城々を侵掠するよし聞えければ。君義元にむかはせられ。それがし齡已に十五にみちぬれど。いまだ本國祖先の墳墓を拜せず。哀願くはしばしの暇賜はり故クにかへり。亡親の法養をもいとなみ。かつは家人等にも對面せまほしと仰ければ。義元も御孝志の深厚なるに感じ。仰の儘にゆるし聞えぬ。君大によろこばせ給ひ。いそぎ三河へ御返ありて。御祖先の御追善どもくさぐさ執行れ。御家人等もこぞりてスぶ事大方ならず。岡崎にわたらせ給ひても。本丸には今川より付置し山田新右衛門など城代としてありけるに。君岡崎はわが祖先以來の舊城といへども。それがしいまだ年少の事なれば。これ迄のことく本城には今川家より附置かれし山田新右衛門をその儘すゑ置れ。それがしは二丸に在て。よろづ新右衛門が意見をも受くべきなりと仰せ遣はされしかば。義元大に感じ。朝比奈などいふ家長にむかひ。この人若年に似合はぬ思慮の深き事よ。行末氏眞が爲には上なき方人なりとて喜びけるとなん。(岩淵夜話别集。)
弘治二年柳原兵部といへる者良馬を獻る。無双の駿蹄にして名を嵐鹿毛といふ。是を誓願寺の住僧泰翁もて室町將軍家へ進らせらる。光源院殿感ス斜ならず。手翰及び短刀を贈らる。是ぞ當家より柳營へ通信ありし權與なり。(武コ大成記。)
按に。其頃京都將軍駿馬をもとめ給ひ。織田家へも命ぜられけれども。とかくさるべき馬も奉られざるよしを聞召。元三河の國大林寺の住僧泰翁。今は京の誓願寺の住職して。常に室町殿へも懇にまいりつかうまつるよし聞召してやありけん。其泰翁をしてまいらせられしなり。其時將軍家よりくだされし手書は今も秘府につたへたり。(この泰翁縉紳家にもひろく交り。知音多かりしかば。此後彌公家堂上の人々へも媒介せし功をもて。後に三河國岡崎の城下に寺地を賜ひ。泰翁院誓願寺を建たるなり。世俗傳ふる所の三河記等に。この嵐鹿毛を進らせられし事を。今川義元が執せし事のごとく傳へしは。全く誤傳としるべし。)
今度早道馬事。內々所望由申候處。對松平藏人佐被申遣。馬一疋(嵐鹿毛。)則差上段。ス喜此事候。殊更無比類働驚目候。尾州織田上總介方へ雖所望候。于今無到來候處。如此儀别而神妙候。此由可被申越事肝要候。尙松阿可申也。
三月廿八日書判
誓願寺泰翁
駿河におはしけるころ。今川がはからひにて御家人阿部大藏定吉。石川右近某の二人に岡崎の留守させ。烏居伊賀守忠吉。松平次カ右衛門重吉二人は御領の事を奉行させ。賦稅はみな義元押領せし間。忠吉ひとり辛苦して年比米錢どもあまた貯へ。かねて軍儲に備置きしが。御歸城ありしをまちつけて忠吉よろこびにたえず。御手を引て藏ども開て御覽にそなへ申けるは。それがし多年今川の人々にかくしてかくものせしは。我君はやく御歸國ありて御出馬あらば。御家人をもはごくませ給ひ。軍用にも御事欠まじき爲にかくは備置きぬ。それがし八旬の殘喘もて朝夕神佛にねぎこしかひありて。今かく生前に再び尊顏を拜み奉ることは。生涯の大幸何ぞこれに過ぎむやと。老眼に泪をうけて申ければ。君にも年比の忠志。かつ資財までを用意せしを感じおぼしめし。さまざま懇に仰なぐさめ給ふ。この時忠吉錢を十貫づゝ束ねて竪に積み置きしを指して。かく積置ば何程かさねても損ることなし。世人のする如くにつめばわるゝものなりと聞え奉りしかば。後々までも此事思召し出され。錢をつむにはいつもその如くなされて。こは伊賀が教しなりと常々仰せられしとぞ。(鳥居家譜。)
岡崎に還らせ給ひし比にや。一日放鷹にならせ給ひけるに。折しも早苗とる頃なるが。御家人近藤何がし農民の內に交り早苗を挿て在しが。君の出ませしを見て。わざと田土もて面を汚し知られ奉らぬ樣したれど。とくに御見とめありて。かれは近藤にてはなきか。こゝへよべと仰あれば。近藤もやむことを得ず面を洗ひ。田畔に掛置し腰刀をさし。身には澁帷子の破れしに繩を手繈にかけ。おぢおぢはひ出し樣目も當られぬ樣なり。そのときわれ所領ともしければ。汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず。汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば。かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に從ふ習なれば。今の內は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて。世を渡るこそ肝要なれ。憂患に生れて安樂に死すといふ古語もあれば。末長くこの心持うしなふな。いさゝか耻るに及ばずと仰有て御泪ぐませ給へば。近藤はいふもさらなり。供奉の者どもいづれも袖をうるほし。盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。(岩淵夜話别集。)
永祿二年今川義元大兵を起し。尾張の織田信長を攻亡し。上方に打つて上らんとて。國境所々にまづ新砦を搆へ。大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ。織田方にはこれを支むため大高に對城をかまへ。丹家の城は水野帶刀。山口海老丞。柘植玄蕃。善照寺の城は佐久間左京。中島の城は梶川平左衛門。鷲津の城は飯尾近江守。同隱岐守。丸根の城は佐久間大學をこめ置防禦の備をなし。其外寺部擧母廣Pの三城をも取立。大高の通路を遮りければ。城中糧食乏しくしてほとんど艱困に及ぶ。義元いかにもして城中に糧を送らむとおもひ。家のおとなどをも集め評議したれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなかりしに。君纔に十八歲にましましけるが。かひがひしくも此事うけ引せ給ひ。其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立せ給ひ。松平左馬介親俊。酒井與四カ正親。石川與七カ數正先鋒奉はり。大高。丸根。鷲津等の諸城を打こえ。はるか隔りし寺部の城に攻かゝらしめ。御みづからは精兵八百ばかりに輜重千二百駄を用意して。大高のこなた二十餘町ばかりにひかへ給ふ。先手寺部に押よせ木戶を破り火を放ち。そが光に乘じてさつと引上。また梅坪にをしよせおなじさまにせめ戰ひ。二三の丸まで押入銃聲おびたゞしく聞えければ。丸根鷲津の城兵等大高をばすて置。みな寺部梅坪の援兵に打て出。諸城ともに人少きよし細作かへりきて聞えあげしかば。時こそ至れと急に兵を進めて。難なく粮を城中に送らせ給ひけり。君にはおもふ樣に仕すまして御人數をあつめて引上給ふ。鷲津丸根の城兵かへりきてたばかられしを悔れどもかひなし。はじめ岡崎をうち立せられし時。酒井石川等の老臣等あながちに御出馬を止めけるが。さらに聞入たまはず。御歸城ありし後。老臣等いかにしてこの奇功を奏せられしと伺ひけるに咲はせ給ひ。たゞ大高に兵糧を入むとのみ思へば。丸根鷲津その外の城兵ども。みな大高にはせあつまりてさまたげむとすべし。ゆへに兩城に押よせ敵兵をたばかり出し。そが虛に乘じて粮を入れしなり。近きを捨て遠を攻るは兵法の常にして。あながち奇とするにたらずと仰られしかば。いづれもみな感嘆し。今の御弱齡にてかく軍略に通ぜられしは。天晴末ョしき御事かなとかしこまざる者なし。これ今の世までも大高兵粮入といひて。第一の御若年の御美譽にもてはやし奉る事にぞ。(武邊咄聞書。)
大高の城に兵粮を入給ひし後。今川義元より。西三河は御舊領なれば御心のまゝに切取給へとあつて。寺部。梅坪。廣P。擧母。伊保等の御手勢もて攻取給ひ。勳功ある者共に分ち給ふ。御家の人々もはじめて。御武略のすぐれ。あやしうおゝしくおはしますこと。御祖父の君(C康君。)。に似させ給ひしとて一同感スし奉り。今川義元も大高の奇功を稱して。龍馬の種が龍馬を生むとは。この君の御事ならんとてめで奉りてとぞ。(武コ大成記)
今川義元今度尾州表發向するに及び。君をば鵜殿にかへて大高城を守らせしに。義元はからずも桶峽間に於て織田信長が爲に討れし時。君にはその沙汰聞し召つれど虛實いまださたかならず。かゝる所に御母方の御おぢなりし水野下野守信元より。淺井六之助道忠してそのよし告奉りしは。義元旣に討れぬ。今川が持の城々皆明退たり。君にもはやく其城を捨て御本國へかへらせ給へと申す。御家人等も同じ樣に勸め奉る。君聞しめし。野州外家の親ありといへども。當時織田方に屬する上はその言信じ難し。もしそのいふ所の實ならざらんには。故なくして當城を明退き人に後指さゝれんは。武門の耻辱是にすぎず。道忠をば捕へ置て味方の一信を待べしと仰ありて。今までは二丸におはせしを俄に本丸に移らせ給ひ。ひとへに守禦の備をなし給ふ。しばしゝて岡崎の城守りたる鳥居忠吉が方より。事の樣詳に聞えあげ。且今川より岡崎の城守らせし者共も引退よしなれば。さらば此城引はらへと仰在て。道忠を饗導となされ。宵の間は道たどだどし。月待出て引取と命ぜらる。諸人は一刻もはやく引んと思ふに。いと悠然として忩忙の樣見え給はず。時刻にもなれば道忠に松火を持しめ御先に進ましむ。古兵のいひしごとく。夜中に敵國ををしゆくにはその習あり。騎馬を十町ばかり先に立て。歩行立には松火を持しめずと仰ありて。艱阻の所每に道忠松火を振べしと定められ。上下卅人ばかりの士卒を隨へ。切所に一人づつ殘して後れ來る者にしらしめ。路々一揆共を追はらひつゝ池鯉鮒に出まして。遂に恙なく岡崎の城に還らせ給ひしなり。今川の人々この事承り傳へて。己が身に引くらべて恥かしき事に思ひ。織田信長も。信義あつく末たのもしき大將なりと稱し奉りけり。この歲御年十九にならせ給ひしとぞ。(東遷基業。落穗集。岩淵夜話别集。)
岡崎に還らせ給ひ。さきに今川より番衛せしめし者共駿河にかへらしむるに臨み。彼等を御前近くめされ。汝等かへり氏眞に申べきは。こたびの凶變おなじく驚き思召所なり。さりながら信長いま大利を得て。將驕り卒怠るのときなれば。其不意を伐ば味方勝利うたがひなし。一日もはやく兵を進められんには。それがしも手勢引連さび矢の一筋も射て。故吏部の舊恩に報ぜんとおもふ。よくよくこの旨氏眞はじめ諸老臣に申通よと仰けり。しかるに氏眞もとより天資闇弱にして。父が仇むくひん志もなく。たゞ平常のことく佛事作善にのみ日を暮。又三浦右衛門抔いふ姦臣を寵任し。普第の老臣を踈遠にしければ。上下離畔して國政も日にそひて頽敗す。其後も出軍の事度々仰勸られしかども。氏眞酒宴亂舞にのみ耽りて何の心付もなし。このほど信長よりは。しばしば水野信元をもて講和を請ばしかば。氏眞父の吊合戰は孝子の至情より起れば。急遽に出て其機を失はぬを肝要とすべきを。かく日月經てもその沙汰に及ばざれば。わが義元への志も是までなりとて。これより織田家と講和の議は起りしなり。(東武談叢。落穗集。)
水野信元が織田家に申すゝむるにより。尾張より瀧川左近將監一益もて。石川與七カ數正が許に和議の事いひ送りしかば。老臣等めして此事いかゞせむと議せらる。酒井忠次云く。當家只今の微勢もて織田今川兩家の間に自立せむ事かたし。氏眞元より闇弱にして酒色に耽り。父の仇むくひん志もなければ。其滅亡遠からじ。信長は當時並なき英傑にして威名次第に遠近に及ぶ。信長と事を共にし給はゞ。行末當家の御爲是に過たる事は候まじ。かなたより和議を乞こそ幸なれ。速に御承引あれと云。その時また御家人どもいづれも申けるは。當家もとより今川の一族被官といふにもあらず。たゞ世々の舊好により年頃その助援を受るに似たりといへども。君いまだ御幼年にて駿府におはせし程。御領國の賦稅はみな義元が方に收め。戰あるに及んではいつも御家人をもて先鋒とし。そが死亡をもかへり見ず。いと刻薄なる處置は尤怨ありて恩なしと申べしと申者多かりしに。君も戰に臨むで一命を隕すは。元より士たるものゝ常なれば何ぞかなしむに足む。たゞわが身かの國に人質とせられてのち。普第の者をしてあへなくかれが爲に討死せしめしこといくばくぞや。これぞわが終身の遺憾なれと仰られて。御泪をうかべられしかは。諸人もみな士を愛する御志の至りふかきを感じて。いづれも袖をうるほしけり。かくて御盟約定りければ。尾州C洲におはして信長に面會し給ひ。今より後互に力を戮せ心を同うして。天下を一統せむよし誓文に載られ。誓書をば讀終りし上にて灰に燒て神水となし。兩家歃飮し給ひ永く隣好を結ばせ給ひしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。)
尾州へおはしましける時。信長も御道すがらの橋梁修理加へ。さまざま御まうけせらる。C洲の城へ渡御あれば。御行裝を拜まんとてかの國の者等城門の邊に立つどひていとかしがまし。此時本多平八カ忠勝は年わづか十四にて供奉せり。御馬前に御長刀もちて供奉しながら。三河の家康が兩國の好を結れんが爲に來られしに。汝等何とてなめげなる擧動するぞと大聲にて罵りければ。皆その猛勢に恐れて忽に靜謐せりとぞ。かくて信長は二丸までいで迎へ先立して本丸へ入れ奉る時。植村新六カ家政御刀かゝげて御後に從ひしを。信長の家人咎めて。何者なればこゝまで闌入せしといふ。家政我はコ川が內に植村新六といふ者なり。主の刀を持てまかるをば何故に咎らるゝぞといへば。信長きかれ。新六參たるか。これはかくれなき勇士なり。汝等妄りに不禮なせそとて。やがて盟約の議畢りてのちさまざま饗し奉り。新六をもその座へ呼出し。今日はじめて汝が勇氣をみしに。むかしの鴻門の會の樊噌にもこえたりとていたく賞美せらる。この新六が父新六某はC康君を害し奉りし阿部彌七をうちとり。そののち岩松八彌が岡崎殿に鎗付しを即座に打とめ。一身二度の忠節を顯しけるが。今の家政も幼年より數度の戰功をはげみ忠勤怠りなければ。後年その世々の勳功を賞せられ。御家號をも賜はるべきなれども。植村が氏稱は他國にも聞え當家の眉目にもなれば御家號は賜はらず。たゞ御名の一字を賜りて家政とめされ。御軍扇幷に一文字の御刀賜ひ。直參の徒三十騎を付させられしとぞ。(武コ大成記。貞享書上。)
今川氏眞織田家と講和ありしよし傳へ聞て大にいかり。使を岡崎へ參らせ。今度舊約を變ぜられ尾張と和睦せらるゝ由なれば。駿府に留置れし北方。及び御息をも害しまいらせし上にて。御領國へ出馬してその事糺明せんといひ送りければ。その使を御前にめし出されて仰有しは。我年比故吏部の厚恩を受し事大方ならず。今何ぞこれを忘却せんや。されども尾張は隣國にして且强敵なれば。當分講和の躰にもてなさでは軍謀とゝのひ難きゆへ。まげてその意に從ひしのみ。實の和議にあらず。いつにても氏眞父の仇をむくひんため尾張へ出張あらんには。兼ても度々申せし如く先陣うけたまはり。錆矢一筋射懸申べきは相違あるまじと仰られしかば。氏眞も心とけてしばしが程出軍の儀にも及ばざりしとなり。(武コ大成記。落穗集。)
此卷は。御幼穉の御時より織田家と御講和ありしまでの事をしるす。 
卷二  

 

一向亂のとき正月三日小豆坂の戰に。大見藤六は前夜まで御前に伺公し。明日の御軍議をきゝすまして賊徒に馳加はりしかば。君近臣にむかひて。明日はゆゝしき大事なれ。藤六さだめてこなたの計略を賊徒にもらしつらん。汝等よくよく戰を勵むべし。我もし討死せば藤六が首切て我に手向よ。これぞ二世までの忠功なれと仰けり。かくて明日藤六と石川新七兩人眞先かけて攻きたり。新七は水野惣兵衙忠重が爲に突伏らる。藤六には水野太カ作正重打むかひ。汝のがすまじとて打むとす。藤六弓引て。せがれめよらば一矢に射とめむとまち搆へたるをもかへりみず。正重鑓提て間近く進むに。流矢來て藤六が腕にたてば。弓矢を捨太刀拔んとする所へ正重鑓付しが。札堅くして徹らす。藤六拔はなちて正重が胄を切けるにこれも切得ず。よて太カ作も鑓すて刀にて切り合ひ。終に藤六を切倒しければ。倒れながらせがれ無念なりとて念佛唱るところを。其首打落す。かくて二人討れければ賊徒みな敗走す。正重藤六が首を御前へもち參りしかば。藤六をば汝が討たるか。汝が一代の忠功なれと御稱譽あり。又針崎を責られし時。御手鑓もて渡邊半之丞を突たまひしに薄手にて逃行所を。石川十カ右衛門渡邊が前に立て君にむかひて突かゝる。其時內藤四カ左衛門正成はまだ甚一カと云ひし比なるが。御側より弓引て二人を射る。二人とも射殺されければ賊徒直に敗走す。正成は渡邊には甥なれども。大義親を顧みず射倒せしとて御感斜ならず。其比織田殿諸家にてすぐれし武勇の者の名を記し。自ら點かけて置れしに。この正成も若年ながら點かゝりし者なりとぞ。(貞享書上。)
正月十一日上和田の戰に賊徒多勢にて攻來り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから單騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に與すといへども。正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陷るとも何かいとはんとて。鋒を倒にして賊徒の陣に向て戰死す。この日御胄の內に銃丸二とゞまりけるが。御鎧かたければ裡かゝず。戰はててのち石川家成に命ぜられ。重治が屍を求め出して御手をかけられいたく嘆惜し給ひ。上和田に葬らしめ厚く追善をいとなまれしとなん。又この日柴田七九カ重政己が名を矢に彫て射たりしが。その矢に中り死するもの數十人。賊徒その精兵に感じ。重政が放ちし矢六十三すぢをとりあつめて御陣に送りしかば君御覽じて。御賞譽のあまり御諱の字賜ひ康政とめされ。六十三の文字を旗の紋とし。名をも矢の數にならひ七九カとめされしなり。(東遷基業。岡崎記。貞享書上。)
正月二日より十一日まで日每に數度の戰あり。御自も太刀擊し給ふこと度々なり。後年伏見にて加藤主計頭C正が謁見せし折。よも山の物語ありて。佐々成政が豐臣太閤の爲に肥後國收公せられ。C正小西兩人に分ち賜はりし時。國中一揆起りしを。C正が武功にて速に打平げし事を仰出され。一揆の魁首木山彈正を討取しを。C正いつも名譽におもひほこりかにいひ出ることなれど。われもむかし領內に一揆おこりて日ごとに苦戰度々なりきとて。新野何がしといふ者をめし出し。彼等も弓もて我に近づき旣に射むとせしとき。われににらまれ弓を捨て遁たるを。汝は今に覺えたるかと仰られしかば。C正これをうけたまはりて。己が武功はいふにも足らぬ事とおもひ。且感じ且耻て御前を退きけるとぞ。(續明良洪範。)
門徒等歸降の折約定ありしは。昔よりの門徒は御ゆるしあり。その身一代門徒に歸依せしは罪に處せられんとなり。しかるにあまたの人の內に。昔よりの門徒も咎め仰付られんとありしに。これは昔よりの門徒なりと申上しかば。むかしとは伊弉諾伊弉冊の尊のことと思召されぬ。親鸞は近き世のことなりとて科に處せられしもあり。又戶田三カ右衛門忠次は佐崎の本證寺にありと聞しめし。たはけめ。彼は元來淨土門にて一向門徒にもあらざるを。呼と有て召出されしに。忠次人に語りしは。殿の召るゝゆへ出ぬ。全く臆して狹間をくゞりしにあらずとて。さて三日の內にこの砦をせめ落さむと申す。いかなる計略か有とはせたまへば。道塲の下水の樋の口廣し。これより人をいれて燒立るほどならば即座に落んといふ。よて大久保七カ右衛門忠世に命ぜられ。忠次をク導としかの砦を攻しめ。遂に是を陷る。この時忠次奮戰して鐵砲に中りて疵蒙りしかば。御感あつて國光の御脇差をたまひけるとぞ。(古人物語。武コ編年集成。)
一亂おさまりて歸降の者とりどり見え奉りける內に。小栗又一忠政御前に出ければ。君忠政が胸元を捕へ給ひ。汝此後宗門を改むべきや。さなからんには只今一刀にさし殺さんとて御指添をぬかせ給へば。忠政いさゝか驚遽の樣なく。御手討にならんとても改宗はなり難しと申せば。汝が樣なる者は殺さんも無益なりとて突放し給ふ。忠政かさねて。只今こそ法華に改め候はんといふ。君聞しめし。手刄に逢ても改宗はならぬといふ詞の下より。又法華にならんとは何事ぞと咎め給へば。忠政士たる者が御手討になるがおそろしとて改宗すべき哉。たゞ一命を御助あるといふ上命のかしこさを謝し奉らん爲に。法華にならんとは申けるといへば。君もおぼえず御咲ありけるとなり。又天野三カ兵衛康景もおなじ門徒なりしが。此度淨土に改宗して戰功を盡し。馬塲小平太といへる大剛の賊徒を討取しかば。御感有て阿彌陀の木像をたまはるといへり。(續明良洪範。天野譜。)
按に一說には。此事石川又四カが事とせり。又四カ一向亂の後信長に隨ひ。其後またたちかへり御鷹狩の御道筋にて見え奉りしに。又四カが胸取て引よせ御膝の下に組しかれ。汝淨土に改宗はすまじき哉と宣へは。いかにも成がたしと申す。よて衝放給ひて汝は普第の者にてはなきかと仰らる。又四カやがて起揚り容を改め。仰のごとく淨土に改むべし。さきのことく御膝下に組しかれては。いかに主君にても御受は申上難しとあれば。咲はせられしとなり。(池田正印覺書。)
永祿六年三月今川方の設樂郡一宮の城を攻取られ。本多百助信俊に五百ばかりの勢をそへて守らしむ。七年に至り今川氏眞大軍を率ひ。武田信虎に八千を分ちて援路を遮らしめ。一万二千の兵をもて一宮を十重廿重に責圍めば。防戰ほとんど艱危に及ぶよし聞しめし。援兵を出し給はんとす。この時御勢はわづか二千にすぎず。老臣等いさめて云く。氏眞暗弱なりといへども義元以來舊功の者猶おほし。其上虎狼と呼るゝ信虎に遊軍を分て援路を支ゆればゆゝしき大事なり。よくよく御思案あれといふ。君聞しめして。おほよそ侍たる者は信義の二を忘るべからず。敵城を攻取しのみにてそのまゝ明置は。ともかうもあれ。旣に家臣に命じて守らしむる上からは。その急あるに臨み救ふべきは元より期したることなり。さるを敵が多勢なり。計略が勝れしなどいふを恐れて。家臣の戰死するをよそに見て救はざるべきや。主の大事は被官がすくひ。被官が危急は主の助る常の事なり。もしこたびの軍難義に及び討死せば。これ何がし運命の盡る所なれ。いまはたゞ敵の多少にも計略の善否にもかゝはらず。ひらに進めよと打立せ給へば。諸卒も皆盛意のかしこきに感じ奉り。勇み進んで今川の大軍を何ともおもはず。信虎の備を傍に見なし。たゞちに一宮の城際に押付給へば。百助もよろこびに堪ず城門を開て迎へ入奉る。この時今川勢は御備の嚴整なるにおそれたゞ茫然としてありけるが。やがてこゝろ付。信虎が勢をまとめ一同に責かゝらんとひしめく處に。君にははや御入城ありて御湯漬めし上られ。此所に一宿し給ひ人馬の勞を休められ。翌朝本多をめしぐし給ひ城を出ませば。敵は案に相違し。あれあれといふ內に。御備は眞丸に成て引退く。百助が手勢五百たゞちに信虎が備を突き崩すこと度々なり。とかうして酒井左衛門尉忠次。石川伯耆守數正。牧野右馬允康成御迎に參り。段々に備をたて敵の襲路を斷ければ。今川勢迫うつ事叶はず。御勢は一人も毁傷なく御歸陣あり。これ一宮の後詰とて後々まで御武功の一端にもてはやし奉る事なり。右馬允康成己が領邑牛窪にかへり。一族をあつめて君の御武略は兼て承及びし事ながら。此度の御手段を見てはじめて其實なる事をしれり。かゝる大將の太刀かげをョみ奉りてぞ。行々功をもたて名をもほどこせ。これぞ一家繁榮の基なれといひしとか。はるか年經てのち御上洛の時山岡道阿彌この事いひ出で。その頃より武道に志ある者は。みな御名譽のよし傳稱せしと申上しかは。そはわが若年のほどのことにて若氣の至なりと仰有て。微笑したまひしとなり。(岩淵夜話别集。)
永祿七年五月野田牛窪の城攻られしに。峰屋半之丞貞次鐵砲に中りその疵愈ずして死す。その妻男子なければ女子をともなひク里に引籠りてあり。後にその邊に鷹狩せさせたまひし折。御鷹それてかの宅地にいる。御供の人々走り入て鷹を据上しに。かの寡婦これをとがめ。人々は何とて寡婦の家に案內もなくて闌入せらるゝぞと高聲にのゝしる。君は何者の後家なるかと御尋あれは。貞次が妻なりと申す。貞次に男子はなきやと御尋により。六歲になる女子たゞ一人ありと申上れば。いと哀とおぼしけるにやその女に貞次が舊領をたまひ。鳥居源一カをもて婿とし貞次が家繼しめられしとぞ。(家譜。)
同年十一月武田信玄御英名をしたひ。家人下條彈正して酒井左衛門尉忠次に書簡を贈り。この後は兩家慇懃を通ずべきよしをのぶ。其書の表に啐啄の二字をしるせり。人々いかなる故を詳にせず。其頃伊勢の僧江南和尙といへるがたまたま岡崎を過て東國に赴かむとするにより。石川日向守家成この字義をとひしかば。鳥の卵殼を破るにその時節あり。早ければ水になり遲ければ腐るといふ意なりと答へけるよし御聽に達し。すべて萬事に時を失はざるをもて肝要とす。主將たらん者は殊更此意を失ふまじと宣ひしなり。後に又柴山小兵衛正員をめし。鷹をかふにもよく夜据をなし。時節を伺ふて鳥を捉事は。昔聞し啐啄の意なりと仰られしとぞ。(武コ編年集成。)
今川氏眞當家を攻むとて信玄へしかじかせんといひ送りければ。信玄もその計略の調はざるを知て。心中にはおかしと思ひながら暫同意の體にもてなし。心安くおもはれよなどよき程に答て。さて當家へは下條彈正を進らせそのよしつばらに告奉り。いさゝか御心なやまさるゝまでもなし。もし氏眞出馬せばかへりてともにうち亡しなんと申上げしかは。君宣ひしは信玄は酸刻の人かな。されどかくせずばはかゆくまじと仰られぬ。また氏眞が駿河を出亡せし後に信玄と御和議有て。誓紙の文に川をかぎりて兩國の分界とせむとかき定られしは。大井川の事にてありけり。しかるを入道が心中には。當家いまだ御若年におはしませば。今川義元が扱ひ奉りし折のことくせむと思ひあなづり。三河の里民の人質などをとりしゆへ。こなたより咎め給へば。誓紙に川切としるせしは天龍川切なりといふ。こゝにて大にいからせ給ひ。天龍川はわが城溝のこときものなり。何ゆへに天龍切といふべきや。かゝる權譎のやからは行末たのまれずと仰有て遂に隣交を絕れしなり。(武邊咄聞書。古人物語。)
永祿十一年三月遠州の城々攻取給はんとて。尾藤彥四カ等が籠りし堀川の城を責らる。先陣は松平勘四カ信一。榊原小平太康政なり。康政己が配下の士にむかひ。われ若年なるをかゝる寵任を蒙り一隊の主將となり。その上御諱の字をさへ賜はりし御恩の深高なること山海にも比し難し。明日の戰にはかならず一番乘して盛意にむくひんとて。其日のつとめてより紺地に無の字の指物さし。笹切といふ鎌鎗を提げ一番に城にせめ入り。散々戰て深手二ケ所負しを。家人等肩に負ひなを進みて城に附いり。遂にその城を乘取れり。班軍の後やがて康政が營にならせたまひ疵を御覽あり。深手にてとても生べしとも思しめさねば。なからむ後の事つゞまず申置と仰ければ。康政もかしこみて。此度その配下の伊奈中島の兩人忠戰衆にすぐれしかば。兩人に御恩賞あるべき之。此外には思置こと侍らずと申せば。即ち二人を御前へめし御感狀を授らる。その後康政が疵思ひの外に平愈して見え奉りしに。御けしき斜ならずさまざま慰勞の御詞を加へられしとぞ。(武コ編年集成。家譜。)
永祿十二年これより先松平の御稱號を止められ。コ川の舊氏を用ひ給ひしかども。舊冬此よしはじめて京都將軍家(義昭。)
へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ。去冬十二月九日勅許ありて。この正月三日將軍家より口宣案にそへて御內書御太刀を贈らる。(武コ編年集成。)
改年之吉兆珍重々々。更不有休期候抑
コ川之儀遂執奏候處。
勅許候。然者口宣案幷女房奉書申調
指下之申候。尤目出度候。仍太刀一腰進上候。
誠表祝儀計候。萬々可申通候也。
正月三日義昭
コ川三河守殿
今川氏眞が籠りし遠州掛川の城を攻られし時。城將日根野備中が甥同彌吉手痛く戰ひしに。御旗下の水野太カ作正重渡り合ひて。彌吉が首取て立上らんとせし所に。敵又弓をもて正重が腰を射ければ。深手ながら引取けるを聞し召。丸山C林といへる外科醫をめして。正重の疵太切なればいかにもして平愈せん樣に療養せよと仰あり。C林もかしこきことに思ひ。殊更心用ひて治療せしゆへ。日頃へて恙なく平快せしなり。又後年甲斐若御子にて北條と御對陣の折。久世三四カ廣宣北條が內野中六右衞門といふ者を打取し時。面に疵蒙りしかば。御手づから藥を付させ給ひ。是もC林に療治仰付られ。三四カが鼻の落ぬやうにと命ぜられしとぞ。これらみな士を愛し給ふ御心の一端を伺ひしるべきなり。(續武家閑談。柏崎物語。)
織田信長越前金が崎手筒山の兩城を攻落し。旣に朝倉が居城へ押寄むとせし所に。江洲の淺井父子心變りして朝倉と牒し合せ。信長を前後より挾み伐むとするよし注進あり。信長大に狼狽せられ。木下藤吉カ秀吉をとゞめ後殿とし。速に旌を返さんとせられしが。此の時急遽にして君にそのよし告奉るにも及ばず。いそぎ軍伍も定めず引上からうじて朽木谷へかかり危急をまぬかれけり。君には御微勢なれどもよく隊伍をとゝのへ。秀吉が苦戰する時每度これを援て敵を追ちらし。いさゝか道路の妨なく若狹路にかゝりて御歸陣ありしなり。御歸京の上信長に御面會ありしとき。秀吉もかへり。來て。此度はコ川殿の御援助によて十死をまぬがれ。一生を得たりと披露しければ。信長も君に向ひいたく禮謝せられしとなり。後年長久手の役終り御上京ありし時。秀吉君御在洛の間厨料進らせんとて。先年金崎退口の時をのれコ川殿に助られ。江州守山にて川田といふ地士を呼出されク導とせられしゆへ。われ恙なく歸京する事を得しは。全くコ川殿の御智略による所なりとて。守山にて三萬石の地を進らせしとぞ。(落穗集。武コ大成記。御和談記。)
姉川の役に織田家の援兵として三千の勢を引ゐて馳せ上らせ給ひ信長に御對面あり。信長申さるゝは。軍期近きによて諸手の備は皆定め訖ぬ。君にはたゞ戰のよはからん方を援給へとなり。君はるばる援兵として打上りしかひもなく。打込の軍せんは永き弓矢の瑕瑾なり。さらんには速に本國に引き返さむにしくべからずと宣へば。信長さらば淺井はわが當の敵なれば。朝倉が方にむかはせ給はんや。朝倉大勢なればたれにてもわが旗下のものを加へ參すべしといふ。公それがし小國にて小勢をつかひなれて侍れば。大勢を指揮せん事思ひもよらず。又心もしらざらむ人と打語らはんもむづかし。朝倉何萬騎なりともそれがしが手勢ばかりにて打破り見參に入べけれと仰ければ。信長さりながら北國の大勢を御勢にのみに任せたらんには。信長又天下嘲のをまぬかるべからず。物の用には立侍らずとも。一二人にても召具せらるべしといへば。さらば稻葉伊豫守良通をかし給はるべきやと宣ふ。稻葉は小身にて勢も持候はぬ者なれども。御望にまかせ參らすべしと有て。伊豫守千にも過ぬ人數を引ゐて御勢に馳加はる。かくて明日に成ぬれば。御勢姉川を打こして朝倉が一萬五千の大軍にかけ合せしばし戰ひ給ひしが。遂に敵勢を切崩し給へは。かの伊豫守も後陣に控へしのみにて手を下すにも及ばず。織田家の備ははじめ江州勢の爲に切靡けられ。旣に負色に成りしを。御勢の朝倉に切勝し餘勇をふるひ。又淺井が陣に合より切て懸らせ給へば。織田勢もこれに力を得て備を立直し。遂に勝利を得たり。戰畢りて後信長いたく御武略を賞し。備前長光の刀を進らせけり。この役に織田家の寸兵をかり給ひて北國の大軍を切り崩し。又淺井をも追なびけ給ひしは類なき御事なりとて。日本國中に感ぜぬものはなかりしとぞ。(藩翰譜。落穗集。常山紀談。)
按に一說に。前日の軍議にては君は淺井。信長は朝倉にむかふべしと定められしを。その日の曉に至り信長より俄に毛利新介秀詮を使として。よべの軍議はかく定めつれど。淺井はわが當の敵なれば信長むかひ侍るべし。君には朝倉に向はせ給へと申送られしとき。酒井忠次わが軍列すでに定まりしを。今更かへんとせば列伍亂るべし。此事はいなみ給ひて然るべしといふ。君淺井は小勢朝倉は大軍なり。大軍の方へむかふといふは勇士の本意なれ。とかう織田殿の命にこそまかすべけれと。急に御陣を立直して朝倉が方に向はせられしとぞ。
稻葉伊豫守良通ははじめより後陣にひかへ居て本意なく思ふ處に。織田家の先陣淺井が爲に切靡けられし樣を御覽じ良通にむかひ給ひ。我が兵すでに敵を切崩しつれば。御邊こゝにありても詮なし。いま織田殿の戰危く見ゆれば援けむとおもふなり。こゝは御邊が先陣すべき所なりと宣へば。伊豫守も承り直に筋違に川をうち渡し。淺井が陣へ打てかゝる。君又御先手の面々へ命ぜられしは。汝等今朝よりの戰にあまたゝび奮鬪しさぞ疲れたらん。その儘に折敷て休息すべし。こたびは旗本の備もて切勝んと仰有て。稻葉に續き敵陣へ打かゝり給ひ。遂に難なく淺井を追崩し給ひしなり。(落穗集。)
この軍議の時君軍はの手にて勝利のあるものなりと宣ひしを。池田庄三カ信輝もその席にありしが。何ゆへに敵を二の手まで越させ申すべきやとほこらしげにいふを。君聞し召し。さはあり度ものなれと。さらぬ樣にて御座を立せられしが。戰に及んで信輝淺井が先鋒の爲に散々切崩され。酒井忠次が備へ崩れかゝれば。忠次おことは昨日の廣言にも似ぬ樣かなといひながら。長刀の鐏もて信輝が馬の三途を打しかば。馬おどろきて落馬しぬ。其頃の人々。庄三カは忠次が爲に落打されしなど。誤り傳へしことも有しとか。(落穗集。)
この戰に先陣うけたまはりし酒井左衛門尉忠次。小笠原與八カ長忠。菅沼新八カ定盈等川を打渡せしに。向の岸高くして上りかねしを見て。二の手に備へし榊原小平太康政ゑい聲上て。先陣をうちこして先に進まんとす。酒井が兵後れてはかなはじと思ひ。競ひかゝりて遂に前岸に上り得て勝ことを得たり。君後に榊原が二陣の仕方後來の摸範とすべし。二の手はかくあらまほしと仰られけり。又戰のはじめ朝倉の先鋒かち誇りしには目をかけ給はず。長澤藤藏某を斥候に遣はされ。直に敵の二三の陣の間やゝすきたる所に。合より打てかゝらせ給へば。敵勢裡崩して。惣敗軍となりしなり。信長より授け奉りし感狀の文に。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世誰爭雄。十樊噲百張良といへども。日を同うして語るべからずなど。御雄略のほどを賞嘆して進らせしとぞ。(常山紀談。碎玉話。)
小栗又一忠政はじめは庄次カといひしが。此戰の時年わづか十六歲なり。敵兵一人御側近く伺ひよるを見て。御物の信國の鎗取てわたりあふ內に。御勢どもあつまり來て遂に敵をうち取ぬ。君庄次カが年若けれど心きゝたるを賞せられ。今日の功一番鎗にも越たりとてその鎗をたまはりけり。その後も度々の御陣に一番鎗を入しかば。又一かと仰有て名を又一と改めしとぞ。又大塚甚三カ某は敵と鎗を合せしに己が鎗折れければ。敵の鎗取てその敵突伏を御覽じ。又ない働を仕たるぞ。又內又內と仰ありて。これもこれより又內と改稱す。大久保荒之助忠直も敵の鎗取て奮戰せしかば。荒が事を仕たると仰られて。金の御團扇を賜ひしより荒之助と改稱す。榊原隼之助忠政は敵の首取て御覽に備へしに。折しも御馬副の人なければ忠政に侍ふべしと有て。御手綱の七寸に取付て居たり。忠政只今御方の常に御惠蒙る者どもの。敗走する樣の見ぐるしさよ。かゝる時は誰か奮戰して御恩に報ひ奉らんかと述懷しつれば。尤と聞しめし。後に遠州M名にて七十貫の地をたまはりしとなり。(諸家譜。柏崎物語。續武家閑談。)
元龜二年四月武田信玄御領國に攻來るよしきこえ。M松より吉田城に御座あり。信玄の先鋒山縣三カ兵衛昌景多勢引つれ攻來る。君三の曲輪の櫓に扇の御馬幟立て。敵陣の樣つくづく御覽あり。酒井左衛門尉忠次が打て出でむといふを制し給ひ。敵陣の樣を見るに城を責むとにあらず。我をおびき出し彼の松原にて伏兵もて討むとするならん。よく見よ今にかなたより武功の者を出して戰を挑むべし。こなたよりも一騎當千の者を出して。鑓ばかり合せしめよと宣ひしが。果して敵方より廣Pク右衛門。三枝傳右衛門。孕石源右衛門など土橋まで進み來りしかば。城中よりも酒井左衛門尉忠次。戶田左門一西。津土左衛門時隆等打ていで。互に詞をかはして渡り合しが。やがで彼方より引取しなり。此時御推察のことく山縣が備の後には。馬塲美濃守。內藤修理亮。小幡。眞田等あまた備をかくし。御みづから打て出給はゞ。信玄は御油の宿の方より吉田の西口にかゝり。吉田を攻拔べき手術なりけるとなり。山縣勢の跡には足輕の樣に見せて人數を少しづゝ殘し置しは。甲州言葉にてかゝりかんといふものにて。敵を誘よせ諸所にかんを起して喰留ん手術なりと忠次に仰付られしが。後年廣Pク右衛門御前へ出しとき。此事かたり出給ひしかば。ク右衛門その時甲州の計略全く御明察に少しも違はざりしとて驚感し奉りけるとぞ。(御名譽聞書。)
同年夏秋の頃武田の大兵三遠の邊境を侵掠するにより。信長使をM松に進らせ。早くM松を去て岡崎へ退かせたまへといふ。君時宜にしたがはんと御答有て。後に侍臣に仰られしは。此M松を引ほどならぱ我弓矢を踏折て。武夫の道をやめんものをとて笑はせられしとぞ。其後老臣等。こたびは大事の戰なれば尾張へ御加勢を乞れんといふ。君我いかに微運に成たりとも。人の力をかりて軍せんは本意にあらずとて聞せ給はず。老臣かさねて。信長よりは度々援助をこはるゝに。こなたよりは是まで一度もこはせられず。隣國相助べきはもとよりの事なれば。こたび仰遣はされしとてわが國の恥辱といふにもあらずと强ちに勸め奉り。味方が原の役に至りやうやく尾張より援兵を進らせしなり。(柏崎物語。)
見付の退口に大久保勘七忠正は一言坂にて鐵砲を打損じけるゆへ。わづかの間にてなどかく打損ぜしと尋給へば。勘七平常の通に打ぬと申上ければ。上意にそは見付より走り來り。氣息のあしさに打損ぜしなり。かゝる時は加樣にうつものなりとつばらに御教諭ありしかば。いづれも感歎せしなり。又この日本多平八カ忠勝度々奮戰して敵を追拂ひ。君にも難なくM松へ御歸城あり。御途中より成P吉右衛門正一もて忠勝が許へ仰下されしは。今日の働日頃の平八にあらず。たゞ八幡大菩薩の出現ありて。味方を加護し給ひしと思召すよし御感賞ありしとぞ。甲州人がからのかしらに本多平八といふ狂句をかきて。見付の臺へ立しもこの時の事なり。(柏崎物語。)
按に伊賀路御危難の時にも。忠勝が事を八幡菩薩の出現せしとて賞せられし事あり。さる武功の者ゆへ度々おなじ御賞詞賜はりしなるべし。
元龜三年十二月武田信玄かさぬて大兵を率ひてM松近く攻來る。人心恟々として穩ならず。この時鳥居四カ左衛門忠次斥候うけたまはりはせ還りて。敵大勢にて行伍の樣もまた嚴整なればたやすく戰をはじむべからず。早々御先手を引還させ給へ。もしまた一戰を遂られんならば。わが軍列をとゝのへ鐵炮迫合に時を移し。敵の堀田邊まで打出むを待て戰をはじめば。万が一御勝利もあらんか。これも全勝の道にはあらずと申す。君聞し召御氣色あしく。信玄なればとて鬼神にもあらず。又大軍なればとておそるゝにもたらず。汝平生は大剛のものなるが。今日何とて臆したるやと仰らるれば。忠次君常は持重に過させ給ふが。今日は何とて血氣にはやらせ給ふぞ。心得ぬ御事なれ。只今に某が申せ事を思ひ當らせ給ふべしとて御前を退しが。御家人に向ては。今日の戰かならず御勝利なるべし。をのをの進むで忠戰せよと言捨て。みづからは敵軍にはせ入て討死す。渡邊半藏守綱も斥候に出しが立ち歸り。今日の戰はあやうからんと申上れば。いよいよ御けしきあしきにより。御側に候ひし大久保治右衛門忠佐。柴田七五カ康忠はせ出むとするを。守綱制してゆるさず。君たとへば人あつてわが城內を踏通らんに咎めであるべきや。いかに武田が猛勢なればとて。城下を蹂躝してをしゆくを。居ながら傍觀すべき理なし。弓箭の恥辱これに過じ。後日に至り彼は敵に枕上を蹈越れしに。起もあがらで在し臆病者よと。世にも人にも嘲られんこそ後代までの恥辱なれ。勝敗は天にあり。とにもかくにも戰をせではあるべからずと仰ければ。いづれも此御詞に勵され。勇氣奮决して遂に兵を進られしとぞ。(東遷基叢。)
この軍旣に敗れ殆ど危急に及ぱせ給ふ時。夏目次カ左衛門吉信は兼てM松城を留守せしが。いそぎ手勢引具し御前に馳參じて御歸城を勸め奉る。君われかゝる負軍し何の面目ありて引返すべきや。且敵わが軍後を競へば兵を返さん事もかたし。たゞ此所にて討死せんと宣ひて聞入給はねば。吉信御馬の口取し畔柳助九カ武重にむかひ。我は君に代りて討死すべし。汝は速に御供して歸城せよといつて。自ら廿五騎を打從へ十文字の鎗取て。かしこくも御名をとなへ追來る敵と渡り合ひ。おもふ樣に戰ひて打死す。この間に武重は御馬の口取て引かへさんとするに。御鐙踏立て二三度蹴させ給へども武重いさゝか動かず。强て御馬を引立M松の方へ引返す。敵猶も追かけ來れば松井左近忠次戰疲れて林の中に息ついで居しがにはかに走りいでゝ。御着脊長の朱色に成て敵の目に付はとて。己が鎧を着せかへ奉り己れ御鎧を給はり。又己が馬をも奉り。みづから松井忠次と名乘て敵を二三度追崩す。武重はからうじて供奉しM松に歸りて御門明けよといふに。番兵たやすくうけがはねば。殿の御供して助九カが歸たるぞとよばわるを聞て。はじめて御門を明て入れ奉る。即ち助九カに命じて城外を巡視せしめ。御腰にざゝせられし扇を助九カに賜ひしが。折しも雨にうるほひて扇の紙と骨の離れしをもて。後に助九カが家の紋となしける。忠次もはじめ林中より出でしとき蔦の葉の胄の上に附きたるを御覽じて。汝が今日の功莫大なり。この後は蔦の葉をもて家のしるしとし後裔に傳へよと命ぜられ。今に家の紋となしぬ。はるか年經て後夏目吉信の二子をめし出して。我その時危難をまぬかれいま天下一統の業をなせしも。全く汝が父の忠節によれりと御淚をうかべて仰せられしとぞ。(貞享書上。大三河志。)
この戰に夏日が外にも忠戰を抽でゝ御感にあづかりし者少からず。水野太カ作正重は敵の追來るに度々取つてかへし。敵を追はらひ難なく御歸城あり。君の仰に。一日七度の鎗といふことは聞傳へたれど。今日の太カ作が働にはいかで及ぶべきとて御賞詞あり。天野三カ兵衛康景は胄付の首提て御後に附隨ひ。內藤四カ左衛門正成もおなじく從ひ來りしが。敵の弓を持しもの御側ちかくよりくるを見て。正成汝は何者なりと咎むれば。康景後よりその弓を踏落すゆへ敵にげはしる。又孕石忠彌といふ者御馬の尾を捉へて引とゞめむとす。君御刀もて馬尾を切拂はれ忠彌が倒るゝところへ。松井左近忠次馳來り忠彌を討とむ。小笠原次右衛門定信は山縣昌景が手に打むかひ。能敵討て黃の四半の先へ茜の吹貫出し指物に。首とり添て御覽に備しかば。御感なゝめならず。かゝるところへその父信倫戰死せしよし告げ來りしかば。直に引返し戰塲に馳むかふ。折しも敵三人して父の首をあらそふ所へ行あひ。二人をば即座にうちとり一人に手負せ。父がしるしを得てかへりぬ。おほよそ軍中にて父が仇をその座に打得し事。天の冥助にかなひしといふべしとて重て御感あり。細井喜三カ勝宗も御跡打て戰死せしが。その家僕木梨新兵衛疵七ケ所負ながら。主の仇打て勝宗が首をもとり返し。御前に出ければ。御褒詞をくはへられ錢一貫文下され。汝K馬に乘て功を建てたれば。このゝちはKと氏を改むべしと仰あり。勝宗は嗣子なければ遺跡を弟の喜八カ勝久に繼しめらる。大久保新十カ忠隣若年なるが馬に離れてさまよふ樣御覽じて。かれ救へと宣ふときに。小栗忠藏久次折しも敵の馬奪ひ得て乘來しが。此御詞承るとひとしく馬より飛下りて新十カを扶けのせて。己が身は股に鑓疵負ひながら少しも屈せず引退く。野中三五カ重政も御馬に添て引退くところに。甲州侍長何がし七八騎にて御先に塞がるを。君長め長めとのゝしらせ給ふ。重政即ち長を馬より突落し首をとる。こは近年まで小姓勤めし者なるが。御家を出で信玄へ仕へしなり。御歸城の後三五カに御盃下され信國の御刀を引る。盃に三日月を蒔繪にしたれば。向後此を吉例として三日月をもて紋とせしめらる。又御危急なりし時鈴木久三カ御麾賜りて討死せんと申す。君汝一人を討せてわが落ち延むこと本意にあらずとて聞せたまはず。久三カはしたゝかなるものなれば大に怒りて眼を見はり。さてさて愚なる事を宣ふものかなとて。强て御麾を奪取りて只一人引き返し奮戰す。御歸城の後あはれむべし久三定めて戰死しつらんと宣ふ所へ。久三カつと歸りきて御前へ出ければ。殊に御けしきうるはしく。汝よく切り拔しと仰ければ。久三カ思ひしよりも手に立ざる敵の樣に侍るはとさらぬ顏して座し居たり。櫻井庄之助勝次はM松の玄默口を守て居しが。朱鞘の大小さしたる敵の手負て引き退くを誰も追者なかりしが。勝次是をみて走り出でそが首を取。外にも一級とりて還りしかば。大御に御感有りて。汝が七本のねぢ馬連の指物は重くて便よからず。茜の四半を指物にせよと仰有て。この後改めしとぞ。(武功實錄。家譜。柏崎物語。貞享書上。東遷基業。東武談叢。)
M松に歸らせ給ひし時。けふの大敗にて城中の者ども御安否もしらざれば。大手より還御あらばさだめて驚恠しつらんとおぼしめし。わざと城溝邊を乘廻し惣懸口より入せ給ふ。植村正勝天野康景に命じて大手を守らしめ。鳥居元忠に玄默口を守らしめ。且命ぜられしは。城門は明置て後れ來るものを入るべし。その上敵近よるとも門の明しを見ば疑ひて遲疑すべし。門外四五ケ所に燎火を燒かしめよ。さてさて埓もなき軍して殘念なりと仰有て。久野といふ侍女が供せし湯漬を三度かへてめし上られ。御枕引よせ高鼾にて打ふさせ給ふ。左右の者は今日の大敗に一同人心ちもなきに。少しも驚かせ給ふことなし。かゝる所に高木九助廣正。信玄が近臣大隈入遣といふ容貌魁偉の者を討取りて來る。その首御覽じて。城中の人こゝろおだやかならざれば。汝はこの首を太刀につらぬき。信玄を討取しといはゞ。汝が勇敢は元より衆の知所なれば。たれも眞と思ひ心おちつくべしとありしかば。廣正仰のまゝに。今日敵の大將信玄をば高木廣正が討とりたりと。大音あげて城中を呼りめぐりしかぱ。人々さてはとはじめて安意せしとぞ。暮がけに甲州の馬塲信房。山縣昌景城下までせめ來たりしが。御門の明しを見て昌景は。城兵よくよく狼狽せしと見えて門とづるいとまなしと見ゆ。速に攻入むといふ。信房これを制して。コ川殿は海道一とよばるゝほどの名將なれば。いかなる計策あらんも計りがたし。卒爾の事なせそとて遲々する內に。烏居元忠。渡邊守綱打ていでければ。二人恐怖して引返しけり。その後目をさましたまひ。信玄はさだめて引返しつらんと仰ありしが。その夜味方犀が崖の敵の陣におしよせ鐵炮打かけしかば。武田勢大に狼狽し。さすがの信玄勝ても恐るべき敵なりとて。軍をまとめて引きとりしとぞ。(前橋聞書。四戰記聞。大三河志。)
甲斐の馬塲美濃守信房後日に信玄にかたりしは。こたびの戰に三河勢末々まで决戰せざる者はなし。その死骸を見るに。此にむかひしは皆俯伏し。M松の方にむかひしは仰倒せり。いづれも戰死せしにて一人も遁走せしはなしと思はるとて大に感歎しけり。すべてこの時御家人あまた戰死し殘少になりければ。君御淚をうかめられ。われ小國にてかく家人を打せては。この後戰せんこと難しと仰られ。戰死の者の子孫は年の長幼を論ぜずめし出して家繼しめられしとぞ。中根喜藏利重は戰の最中に北條より武田が援軍としてむかはせし近藤出羽助實と鎗を合せ。御馬前にて戰死す。しかるに利重子なかりしかば家絕んとするをあはれませ給ひ。その女子松平九カ兵衛正俊が妻となりて生し子。天正十二年京より還御のとき。岡崎の松原に母と共にありしを御覽じ。利重が外孫なりとてめし出され。中根喜藏とめさる。時に三歲なり。いとありがたき御事なり。(武コ大成記。武功實錄。家譜。)
石川善助といへるはわづか三十貫ばかりとりし御家人なり。一とせ當家を立さり加州へゆきて三百貫の地に在付しが。こたびの御敗軍をきゝ彼地を去て立かへり。此度上方よりめし抱へられしものどもは。みな戰を恐れ遁げ散ぬと承ぬ。上方の弱兵ども何の御用にか立候はん。某身不肖には候へ共。御先度を見屆ん爲立還りぬ。哀れ願くは一旦の罪は御ゆるし蒙らんといふ。君汝がなきとてわが事欠べきやと宣ひしが。實はその質直なるを喜ばせ給ひ。元のごとくめしつかはれしとぞ。(明良洪範。)
此卷は一向門徒の亂より。味方原御軍までの間の事をしるす。 
卷三 

 

天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城將菅沼新八カ定盈よりかくと注進す。君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豐後守廣孝はしばしと仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ俄に打立射立。敵の陣伍亂るゝ樣を見すまして門より打て出で。一散して輕く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへばまづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき處にも橋をかけてこそあるべきに。懸來りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名譽聞書。酒井家舊藏聞書。)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとりどりいひ傳へしを聞しめし。御家人等に仰ありしは。もしこの事實ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がことくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ樣に心得べきなり。すべて鄰國に强將ある時は。自國にもよろづ油斷なく心を用ゆるゆへ。おのづから國政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣國をはばかる心あるにより。かへりてわが國安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振拔の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝかスぶ事にてなしと仰あり。是より御分國の者共いづれも御詞を學びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。又ある時人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戰にはいつも紛骨を盡せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常常仰ありしなり。孟子に敵國外患なきものは國必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さてさて殘多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は關東の弓矢柱なくなりしとて。はらはらと淚を落せしといふ。謙信も信玄と常々爭鬪せしはさるものにて。天下の爲に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同樣の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話。武邊咄聞書。萬千代記。)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとするに。野伏ども出て御道を支れば。大久保七カ右衛門忠世殿して。三藏山といふところまで引上られ。しばし後陣の來るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太カが股を鐵炮に打ぬかれて來る。君御馬をくだり善太カに乘しめんとす。善太カ勿躰なしとてあながちに辭し奉る。七カ右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝も同じく手負退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に與へ乘しめんとす。久勝己が如きものは何人死したりとも何事かあらん。もし大將討るゝならばゆゝしき大事なり。弓矢八幡照覽あれわれは乘まじといふ。忠世乘度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて兒玉甚右衞門。久勝をかゝへて馬にのせ引取ぬ。君このよし聞しめし。强將の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感淺からず。この時光明山の住僧高繼といへるが御路の案內し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高繼勝栗を進ければ一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語。武コ大成記。落穗集。光明山書上。)
按に杉浦が家譜には久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへみづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎討とりそれが馬に乘て還りしかば。御感狀をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。台コ院殿切腹仰付られぬ。君後にこのよし聞めし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀彌四カといへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し算數にもよく鍛鍊し。物ごとに心きゝたる者なれば。會計租稅の職に試みられしによく御用に立しかば。次第に登庸せられて三河奥郡廿餘村の代官を命ぜられ。其身M松に居ながら折々は岡崎にも參り。信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも彌四カなくては叶はぬといふ程になり。專らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の擧動ども少からず。御家人の內舊功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも內には憎み怨ぬ者もなかりしかど。兩殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが惡事を訐發する者もなし。かゝる所に近藤何がし戰功有て采地賜はるべきにより。彌四カが許に行て議しけるに。彌四カいふ。御邊がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよいよ精仕して我にな疎略せそといへば。近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしかじかのよし述て。某いかに窮困すればとて。あの彌四カに追從して地を賜はらん樣なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のことくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出で御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聽に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは彌四カが取なしに非るはいふまでもなし。汝嚮に岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今にわすれはせじと宣へば。近藤感淚袖をうるほして御前をしりぞきぬ。其後又ひそかに近藤をめして。彌四カが事つばらに問せ給へば。近藤承り彼元より腹あしき者にて種々の惡行あれども。當時兩殿の寵遇を蒙るゆへいづれも顧望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の惡事どもかぞへ立て言上し。なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれにはいはざりしと仰ければ。さむ候この事かねて相議しけれども。彼かねて兩君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしとおもひ。今まで遲々せしは臣等が怠り謝し奉るに詞なしといふ。よて彌四カをばめし囚て獄につなぎ。その家財を籍收せしむるにをよび。彌四カが甲斐國と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度彌四カが親友小谷甚左衞門。倉地平左衛門。山田八藏等彌四カと一味し勝ョの出馬をすゝめ。勝ョ設樂郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。彌四カコ川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ三カ殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠兩國の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからばコ川殿もM松におはし。かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝ョ刄に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝ョこの書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に惡徒の內山田八藏返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顯に及びしなり。よて彌四カが妻子五人を念志原にて磔にかけ。彌四カは馬の三頭の方へ顏をむけ鞍に縳り。M松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし樣を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋め。竹鋸にて往來の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衞門は渡邊半藏守綱めし捕むとて行向ひしが。遁出て天龍川を游ぎこし二股の城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彥兵衞勝長。大岡孫右衛門助次。その子傳藏C勝。兩人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて。祿千石を賜はり返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々彌四カが事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。彌四カひとり勸めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても愼しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢。東遷基業。御遺訓。今村大岡山田家譜。)
長篠の前竹廣村の彈正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる樣を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびすくひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまりつと立て舞けるが。兼ての絕技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散してけり。さて本多榊原等をめし軍議せしむるにいづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。君むかしは信玄なり今は勝ョなるぞ。さまで心を勞するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよいよ勇氣百倍しけるとぞ。(東武談叢。)
おなじ戰の前信長が許におはしけるに。稻葉一鐵入道。此度コ川殿の催促によりて兵を出し給へども。もし信玄死せりと僞りて不意に打て出ることもあらばいかゞせむといふ。君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今兩年打續き同じ月日に。甲州にて万部讀經を執行へり。二には去年このかた彼國の者共多く我方に參仕す。三には穴山梅雪入道緣邊の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰けれは。信長稻葉に向ひ。汝何を知りてかようなき事をいひ出せるとていたくいましめらる。其後御陣に歸らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戰もし難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の內一人は。信康を守護して本國に歸るべし。鬮もて定めよと仰あれば。三人何とも御請申さでありしかば。御氣色損じけるを見て康政進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に從ひて立ち歸らん事は。上意に從ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなくやゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ三カ殿を招かせられさきの旨仰られしかば。信康君。年若き某一人岡崎に歸りたりとも何の益か侍らん。それよりは父君こそ御歸城有て領國を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せんと宣ひて。中中聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはしませしが。戰に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられしは。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戰に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覺書。古老夜話。)
この戰に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされしかば。內藤四カ左衛門正成かきの澁帷子きしまゝにて出むかひ。御指圖かうぶりて軍すべき家康にてなし。某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。コ川殿には末々の者までただ人ならずとて感歎ありしなり。又戰に及んで甲軍の樣を御覽じ。今日の戰味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人數を布散して多勢の樣に見するは。衆をョむの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊國物語。前橋舊藏聞書。)
國の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。别にかはれるふしはなけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも苟旦のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛强に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と兩手十万ばかり。勝ョはわづか二万程なり。こなたは栅を三重にゆひけるに。勝ョ何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若其折瀧澤川の渡を前に當て對陣せば。わが兩手多勢といへども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の强かりしは。全く入道が時より。三軍の調練よく屆きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記。)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝ョ常に血氣にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戰にわざと栅をふり優にもてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諫言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲をもてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。譬へば家臣の內に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのづからその風餘人にもをしうつり。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君はかゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめはじめて本心を得せしむるなり。汝いかゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨將軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上けしに。台コ院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傳へて炯鑑にせめとて御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの由を申上しに。將軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御愼篤の御性質をいと御賞嘆ありしとぞ。(藤堂文書。)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八カ定昌をめし出され。定昌若年といひ數日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御感斜ならす。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見參をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人每春謁見を給はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の內。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高邊等の地若干下され。姉川の役に信長より進らせし大般若長光の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姬君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ參り信長に謁見せしに。信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勳功武士の摸範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乘らしめ。そが上にもさまざま引出物せられしなり。(貞享書上。)
甲州士の內にも山縣三カ兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に應ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が內の山縣は大なる兎缼なり。かの魂精の拔出て當家普第の本多が子に生まれ來りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。台コ院殿の御伽にめし加へらる。後年石川數正が京都へ立去し後。當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附屬せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん樣にもり立べし仰付られぬ。これらをもても山縣をば厚く御感賞ましましける事はかりしるべきにぞ。(落穗集。)
大天龍の迫合に近藤傳四カ某手負ひて。渡邊半藏守綱を見かけ汝我を助けよといへば。半藏己が取たる首を投げすてゝ傳四カを負ひ。三里ばかり引退きける由聞せ給ひ。味方一人討るれば數千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半藏とよぶべしと仰られしなり。またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける內に島田意伯もありけるが。仰に意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが。この騷擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御强記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雜談。武功雜記。)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひがひしく申上れば御けしき大方ならず。よて松平の御稱號御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乘らしむ。こは周武王が股紂王を牧野にて攻亡せし故事おばしいでゝ。勝ョを殷紂に比し康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傳へしはまことにや。(貞享書上。落穗集。)
天正三年八月光明山諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝ョは過し長篠大敗の後甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二万の大兵もて後詰し。先陣すでに岡部藤枝までに進み來る。この時御人數を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。信康君をめし。是まで敵にむかふ樣にして引取りしが。この後は敵わが軍後にあり。おことは若年にしていまだ戰陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよとの給へば。信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。かたみに御辭讓ある所へ酒井忠次馳來り。只今急遽なり。兩殿はともあれ某はまづ引返さむとて御先に引退ば。君も忠次につぎて兵を收めらる。其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿してしづじづと引せ給ふ。君はこの樣土臺にて御覽じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝ョ十万の兵もて攻來るとも打破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武コ編年集成。)
遠州二股の城攻られし時本多平八カ忠勝は供奉し。內藤四カ左衛門正成はその比足痛により從ふ事かなはずM松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへされM松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。殿の御歸城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成關鑰を固うしてあけず。忠勝自らかへり來て門をたゝきよばゝれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に誰なれば殿の御還などいつはるぞ。かしがましそこのかすば打ち殺さんとて。鐵炮に火繩はさみて指麾すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて君還らせ給ひて。四カ左我が歸たるはと宣へば。正成御聲とは聞つれど尙いぶかしくや思ひけん。狹間より挑燈を出したしかに尊顏を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵ありとも拔とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(碎玉話。)
天正六年三月武田勝ョ遠州へ出張せし時。大須賀五カ左衛門康高が甥彌吉御軍令にそむき。勝ョが旗本へ打ちいり高名せしかば以の外怒らせ給ふ。彌吉恐れて本多平八カ忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事もェ仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはかく御宥恕なかりき。(柏崎物語。)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後はまた謙信ほど弓箭とりまはす者は今の世にはなかりしに。これもまたはかなくなりぬ。かく年を追て名譽の弓箭取打續き死し絕る事。世の爲いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。君の御英名をしたひはるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。當家に力を合せ甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。又水谷正村入道蟠龍齋といひしは。下野の結城が幕下にて東國に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならでは。共に關東を切平げんものあらじと思ひ。石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を關東へ進められんには。その主晴朝を勸めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の國々よりもはやうより御風采をしたひ。歸屬の心を抱くもの數多有しといへり。(落穗集。貞享書上。)
武田勝ョ大軍を率ゐ遠州須賀まで打て出でM邊に陣どり。君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鐵炮迫合あり。信康君鈴木長兵衞某一人めしつれ。敵陣近く乘よせ。其樣見そなはして。いそぎ戰をはじめ給へと仰上られしかば。君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戰をはじめば勝事有べからず。この後とてもおなじ樣にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるるも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。三カが弓箭の指圖は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話别集。)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世兩人も。御ふるまひのあらあらしき事ども。條件にしるして御覽に入ければ。三カがかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諫を納し上にて。尙聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。兩人さむ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諫言など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば。君今の世に比干伍子胥が如き忠臣なければ。諫を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三カ君御生害ありはるか年經て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三カ今にあらばかく天下の事に心を勞すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰ければ。忠次何ともいひ得ずひれふして在しとか。又幸若の舞御覽ありし時兩人にも見せしめられしに。滿仲の曲にをのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覽じて。兩人にむかはせ給ひ其事となく御落淚し給ひ。兩人あの舞はと仰られしかば兩人大に恐怖せり。又或時三カ殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は滿仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また關原の役にあさとく御旗を勝山に進められし時も。さてさて年老て骨の折るゝ事かな。悴が居たらば是程にはあるまじと獨言の樣に仰られしとか。唐國にも漢の武帝が衛太子の事有し後に。望子の臺を築き朝夕にその方ざまを望み見て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間に何の嫌疑もおはしまさず。たゞ少年勇邁の氣すすとくおはしませしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御擧動の在しも。軍國の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの兩人織田家の奸計に陷り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歲の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武邊雜談。東武談叢。ェ元聞書。)
三カ殿二股にて御生害ありし時。撿使として渡邊半藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三カ殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも淚流して居し內に。本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七がC康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の內に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半藏は三カ殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雜話の折に。半藏は兼て剛强の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り傳へてひそかに思ふやうは。半藏が仕兼しをこの山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものうくやなりけん。當家を立去り高野山に入て遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語。)
七年駿河國持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き樣を見せ。城兵の引入とき附入にし。烈しく戰て攻取られしとぞ。この時城將三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせんと思ひ一色に與しを君御覽じ。いやいや兵部が首は竹右衛門が討取しなり。餘人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せらる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしばしばなりしとぞ。(三河物語。貞享書上。)
高天神の城責られし時。城中より幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みよりたかたちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城將の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感淚を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃關東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等とりそへて大夫に引たり。かくて明日の戰に城兵皆いさぎよく戰て討死す。殊さら茜きし武者は晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとりどり御覽に備へし內に。顏の樣十六七ばかりと見ゆるが。薄粧し齒くろめ髮なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君その眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの內に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。K眼明らかにみえば男なれと宣へば。筓もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部最愛の小性に時田鶴千代といふ者にて。討死の樣いと優にやさしかりとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乘する樣をはるかに御覽じ。俄に御先手へ仰傳へられしは。只今に城中より眞先かけて乘出る武者あるべし。かまへて支へとゞむべからず。若强ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乘廻して制せしめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍田甚五カ尹松なるが。落城のよしを本國に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て當家に參り。處々の御陣に供奉し度々戰功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり。(落穗集。家譜。明良洪範。)
天正八年七月の比M松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。數萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならす。御みづから社頭へましまししばし御奉幣ありし後。扇子をもてうち拂ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡をCめ汚穢なからん樣にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松とぞ申ける。(拍崎物語。)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ一つ引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例の怒を發し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども悉く打碎き水中に棄てけり。君大に打ち咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。又馬塲美濃守氏勝が娘さる所に隱れ居るよし聞しめし。鳥居彥右衛門元忠に命じて搜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隱れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひより。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彥右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高聲にて御咲あり。其頃元忠同國K駒にをいて北條が兵と戰ひ。敵の首あまた討とりしを賞せられ郡內を賜はりけり。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。鳥居家譜。)
按に一說には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峯法寺口にて働せし趣を御糺しありしが。相違の事ありて召放されぬ。元より武功の者なれば鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聽に入る者ありし時。彥右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に元忠が女子馬塲美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬塲が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武邊の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに鏃をゆるく箆を强くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後後まで痛ましめんが爲なりと申ば。武田が法はさもあれわが方にてさる事なせそ。敵なりとも盜賊いましむるとは異なり。當座に射中て働事かなはず味方に利あればたれり。かゝる慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を强く鏃のぬけざらん樣にすべしと仰せられき。(武功實錄。)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成P吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大藏左衛門某之。また甲州人もて沙汰聞の役とせられ。專ら國中の動靜を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ國を治るに國人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は小石と沙と土の入雜りてわけかぬるを。水にて動し洗へば土流れて小石あらはるゝなり。見えざれば洗はん樣もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とりてもくるしからじと仰けり。又信玄以來の諸士の忠否を正し給ひ。武功の譽ある者は其證狀を奉らしめ新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。あるは舊地削らるゝもあり。又武田代々の香火院惠林寺は右府が爲に燒れしを。形のごとく再建せしめ。歷世の靈牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝ョ自殺の地にも供養のため一宇を刱創せられ。かくとりどり䘏典を施されしかば。國人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵夜話。)
甲斐の一條。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが爲に。かれに附屬せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし樣にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよいよ勉勵せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に來り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政兩人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に參たりといへば。忠次さてさて御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勸めたてまつりて直政に附しめし之。さるを聞分ずして卒爾の擧動もあらば。殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功實錄。)
此卷は武田信玄と御合戰よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐國御手に入しまでの事をしるす。) 
卷四 

 

天正十年五月織田殿の勸めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覽終り。旣に御歸洛あらんとせしに。茶屋四カ次カC延たゞ一騎馳來り。飯森の邊にて本多平八カ忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし樣つばらに語り。忠勝四カ次カとゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に歸り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川數正。榊原康政等にむかひ。若年のものゝ申事ながら。君御歸京有て無益の死を遂られんよりは。速に本國にかへらせ給ひ御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ山賊野伏の爲に討れんよりはと思ひ。歸洛せんとはいひつれ。誰か三州への案內知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺のク導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し故主の恩に報じなん。これより河內山城をへて江州伊賀路へかゝらせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひがひしく御受申せば。君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案內させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河內路へて山城に至り。宇治川にて河のP知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その邊にいつき祭る吳服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立てク導し奉れば。ク人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信樂に至らせ給へば。土人木戶を閉て往來を止めたり。此地の代官多羅尾四カ光俊はこれも秀一が舊知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戶をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地藏の像を御加護の爲とて獻る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる。)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ことに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞C廣はじめ。かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案內し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大Mの浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麥米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て獻る。菜はなきかとのたまへば蜷の鹽辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大Mに着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎へ御歸城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ數日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ。(武道雜談。永日記。貞享書上。酒井家舊藏聞書。續武家閑談。)
この御危難の折御道しるべして勳功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四カ兵衛光綱が三男にて。山城の宇治田原の城主山口勘助長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣實父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉り。これより供奉して江州の光綱が家へ案內し奉り。伊賀路の一揆ども追拂ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。又山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都將軍家に勤仕す。弟の對馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共。逆黨に背きP田の橋を燒斷て追兵を支へ。御駕を迎へ賊徒を追拂ひつゝ。伊賀の闇峠まで供奉せり。又伊賀の侍柘植三之丞C廣といひしは。これよりまた天正九年三河に參謁して。伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に屬せんとす。願くは御書をたまはらんと申上しに。當家織田家と交深けれは御書をたまはる事かたし。たゞ元のことく本領を守るべし。もし當家に從はんとならば御領國に迁るべしと之。その後伊賀の者猶織田家の命に從はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隱て時節を伺ふ所に此度の事起りしかば。C廣をのが一族傳兵衛甚八カ宗吉。山口勘助。山中覺兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三カ茂濃。和田八カ定教。武島大炊茂秀等を勸め。みな人質出してク導し。鹿伏兎越の險難をへて伊勢まで御供す。後年關原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に參りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直參となり。鹿伏兎越まで供奉し半途より歸國せし二百人のものどもは。服部半藏正成に屬せられ。伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。專ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附屬する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直參となり。その以下は諸隊に配せられて。與力同心となされしもありしなり。(諸家譜。武コ編年集成。伊賀者由來書。)
武田亡びてのち織田右府駿河國をば當家へ進らせ。甲斐國をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたにもまめに受引たまひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎭吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ甲州人の皆當家に從ひ。鎭吉に服するもの少きは。全く當家の御所爲なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。國人にはひたすら心置しゆへ。國人もいよいよ心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近將監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召。その舊友なれば本多百助信俊をつかはされ。萬事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案內せしめわが領內を經て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎭吉いよいよ疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞傳へて甲人一揆を起し鎭吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれは。彼が謀議の爲にもと思ひ百助をつかはせしに。かゝる無道人にあひておしき侍をあへなく殺さしめし事の口おしさよとて。泪數行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給へとすすめしに。それは川尻が二の舞にて。家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき樣もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ。その間をうかがひ北條氏政父子責入よしとりどり風聞し。國人も北條が民にならんは念なし。當家より御旗をむけられなば皆々打かたらひ。時日をうつさず甲州一國を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ國人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを專らとせられ。いささか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話。)
甲斐の若御子にて數月の間北條氏直と御對陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北條が領とし。甲信二國は當家の御分國とせられ。且督姬のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野邊山の陣を拂て退かんとするに及ぴ。平澤の朝日山に砦を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と舊好あるをもて。こたび彼が强ちにこひ申にまかせ。盟約を定め且姻家たらん事をもゆるしぬ。さるにわが領國の內に城築く事不當の至なれ。この上は有無の一戰を决すべしと仰有て。朝比奈彌太カ泰成もてこの由北條が方へ仰つかはさる。このとき敵は平澤より信濃路引拂はんとする所に。當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北條が答遲々せば直に打てかゝらん形勢したれば。大に恐れ早々人質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさまざま謝し奉りければ聞しめしとゞけられ。こなたよりも人質をつかはされ。兩陣互に引拂ひしとなん。(落穗集。武コ編年集成。)
この對陣のとき味かたの內誰なりとも。鐵炮打かけて敵陣の樣試みよと仰有しに。いづれも遲々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足輕めしぐし鐵炮持せてはせいで。その子彥助正吉は父が指物を相圖として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覽じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ御杖もて二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど武道のうきやかなる樣かな。彥助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜。)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを獻りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小田原の北條が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだいだいと見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。M松には稀なると見えたり。こゝにはあまたあり進らせんとて。だいだいを長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて獻りけり。君小田原のものどもこの菓をあぢはひもせず。たゞだいだいとのみ思ひとりて。かゝるなめげの擧動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家國の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰られしとなり。(東武談叢。)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覽じ。哀むべし次カ助一定討死しつらんとのたまふ。こは丹羽次カ助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が爲に戰て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬりK糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人數押の聲ゑいとうとうといふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊万千代直政が赤備一隊をやりすぎて。行伍の亂れしを御覽じ。あれとゞめよ足並亂して備を崩すことがあるものか。木股はおらぬかC左衛門は居ぬか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。直政山を越て人數を押むといふに。廣P三科の兩人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳來り。かゝる事は若大將の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。君は竹山へ御上有し所へ。內藤四カ左衛門正成還來て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝりたまふべきや。みだりの事ないひそと制す。主水いかに彌八。御邊は座敷の上の御伽噺や。會計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり。今日は御大將の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。君も咲はせたまひながらさあ出んとて。金の扇の御馬驗を押立て進ませ給へば。敵は是をみて。さてこそコ川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武藏守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする內に鐵炮に中て死しければ。これを御覽じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立ていよいよ敗走する所に。永井傳八カ直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語。東迁基業。)
池田森の兩將旣に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳來り。龍泉寺の上の山に金の瓢簞の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戰難儀なるべきに。早く其機を察し引上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。君ははるかにかの馬印を御覽じて。筑前ョみ切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。榊原康政進み出で。仰のことくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機會なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半藏守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御歸陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を點じて居し所へ敗軍の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の邊にて軍の狀を尋られしに。コ川殿は旣に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をうち。さてさて花も實もあり。もちにても網にてもとられぬ名將かな。日本廣しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後來長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が方寸にありといはれしとか。(渡邊圖書小牧長久手記。落穗集。)
按に一說に。このとき酒井忠次秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の獅しむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て殘黨全からずと申せば。唯今こそよき圖なりといふ內に。敵はや栅を附たれば。明日は秀吉に降參したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を兩樣にいひ傳へしなり。
本多平八カ忠勝は小牧山に殘り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川數正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。旣に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋に出て拜謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よくよく御見限ありしと申上れば。君われ身を二つに分たる心地して。汝を小牧に殘し置しゆへ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ小幡に入らせたまひしなり。(柏崎物語。)
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の樣を伺しめしに。晝の程長途を馳來りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討かけて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いやいやとのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豐後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を觸られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひしに。小牧へ御馬を入られしかば。誰も誰もおもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日M松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは秀吉をうち得んと思ひてか。またはたゞ戰にかたんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへなりと聞えあげしかば。われもさは思ひし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。晝の戰に池田森の兩人を討しさへ。一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話别集。)
按に菅沼藤藏定政が譜には。旣に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の樣伺はしめしに。今にも襲ひ來らんよしいふ。よて藤藏定政をめして。彼等がいふ所いぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬひで飯くひ居たり。今來らん樣にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勸め奉れば。我もさこそは思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空壘なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。
この戰に平松金次カは。茜の羽織に十文字の鑓をもち一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見參に入しかば御感あり。追討の時はも鎌て草を薙ぐが如しといへば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。又大脇七兵衛は金次カと同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次カ一番なりと仰ける所へ。七兵衛つとまいり。某も其塲に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ樣の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の樣にて。汝がいふ所のことく是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしと之。又高井助次カ實重といひしは。其父藏人實廣今川の家臣なるが。桶狹間の戰に討死し。助次カも亦氏眞につかへ終始節を改めず。この戰に諸人いづれも高名したるに。助次カ一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏眞の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戰に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしかば。助次カは思ひよらず面目を施しける。小笠原C十カ元忠は兼て弓籠手をこのみてさしけるを御覽有て。弓籠手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働のならざるものぞといましめたまひしが。この戰に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしとなり。又成P小吉正成このとき十七歲なりしが。敵陣に蒐入て首一取來て御目にかくれば。その勇を稱せられ。唯今旗本の人數少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩れかゝる樣をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成柴武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さず。君この躰を御覽じ。士の討死すべきはこゝなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを勵しつゝ奮戰し。又首を得てかへりぬ。のちに正成が戰功を賞せられ。汝の働は宿將老帥にもまされりとて。根來の騎士五十人を附屬せられしとぞ。(感狀記。)
玉虫忠兵衞といひしは。甲州の城意庵が弟にて信玄謙信に歷事し。後に當家に參りこの役にも供奉し。御行軍のさま拜覽して有しが。君忠兵衛にむかはせ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。君の御軍略は甲斐越後にはおとらせたまふとも。御勇氣の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末ョもしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上總介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりしとて。御いかりありて追放され。玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雜記。古士談話。大坂覺書。)
初鹿野傳右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同國に入らせたまひしとき。傳右衛門さまざま走廻りて勳功有しかば召抱へられんとせしに。己が舊知の四百貫に。實父駿河が遺領二百五十貫の地を共に書入て。證狀となして捧げしかば。兄。丹後及弟彌平次カ兩人。傳右衛門が一人して父が遺領とらん樣なしといひ爭ひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の舊知のみをたまひければ。傳右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の內には。親兄弟の者を結び入てしるし出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかりは賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人の前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん樣もなしとて。さきに賜りし御朱印のうち二か所に墨をぬり。この御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音吐てゐたり。このよし岩間大藏左衛門聞付て。もとより傳右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世世武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其祿收公せらるゝとなり。かくて傳右衛門舊知にも離れ。流浪の身となりて有しが。此度の戰にひそかに御陣に從ひ。三宅彌次兵衛正次と同じく敵の首取て。內藤四カ左衛門正成に就て披露をたのみけれども。御咎蒙りし者ゆへはゞかりて聞え上ず。其折君はるかに御覽じ付られ。傳右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへすべす仰けれは。傳右衛門かしこさのあまり淚ながして拜伏す。其時彌次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傳右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。彌次兵衛も直實なるものよと。これも御賞譽を蒙りしなり。小幡藤五カ昌忠は甲斐の小幡豐後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北條と御對陣のとき。平原宮內といふ者北條に志を通じけるよし露顯し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮內を切とむ。宮內倒ざまに拂ふ刀に昌忠右の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のまじらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辭するに及ばずとて。もとのことくめしつかはれたり。さてこの日の戰に昌忠敵の首二切て御覽にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて棒げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずといふをしらしめんとて。家人のとりしをば别に見せしめしならん。とかく甲州人には油斷がならぬと仰られしとぞ。又水野太カ作正重は己が隊下の同心。銃もて森武藏守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覽じ。御馬廻に命じ同じくかけ破らしむ。軍終てのち今日の戰大久保忠佐こそ。先登して大切を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乘下せしは某なり。御ことは其折渡邊彌之助光と同じく久下に控られたり。餘人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御邊は數度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御邊に似合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見屆たりと申す。君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに守綱鑓を落しければ。孫之丞敵の中へかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武藏坊辨慶にもまされり。今より氏を武藏と改むべしと仰有て。あらためしなりとぞ。(岩淵夜話列集。落穗集。家譜。)
小牧對陣の折當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの有しに。秀吉折しも碁を打て居られしが。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのことく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどならば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戰ふなと仰られ。日中に及び兩陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝりたまはざりしといふに。君その折家臣どもは皆軍せよと勸めつれど。何がしは小牧より勢をこなたに引付むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戰はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良將のよく軍機を熟察有しは。期せずして符を合することくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戰話。)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり栅をつくるを御覽じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝ョを待うけしに。勝ョ血氣の少年ゆへ陣をみだりて切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ圖に引付鐵炮にて打すくめ。勞せずして勝を得しなり。今秀吉その故智を用ひ栅などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝ョと同じたぐひの對手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穗集。)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州C洲におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ觸しめらる。尊通といへる右筆その狀をかきて御覽に入しに。可出馬とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可出馬とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機速なりとて。かきかへしめられしとぞ。同じ城責のとき瀧川が內に。瀧川長兵衛といふ名ある者を捕へ來りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。當家の兵鋒日數重ねても撓むことあるまじと思ひ。城兵をのらかづ退屈すべしと思しめしてなり。酒井忠次はこの城直に攻潰べしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。君には城攻を忘れ給ふかとさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動靜を伺はしむるに。此度一益秀吉にョまれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞たまひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとてその旨仰つかはされ。且城將前田與十カを切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のことく一益をゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふといはゞ。秀吉方のものども思ひの外にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領內越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておはします。この後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく湯まきめしながら御出馬あり。從ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。殘卒はいまだ上り終らざる內に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書。小早川式部物語。老人雜話。)
佐々內藏助成政越路の雪をふみ分つゝ。さらさら越などいふ險難の地を歷て。ひそかにM松へ來て。まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよいよ心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし。はるばる參着せしを勞せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の舊好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政舊主の爲に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの序に。君を信玄に比し己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて。京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は已に秀吉と和せし上なれば成政が言に從はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降參せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次カ正長めして仰有しは。佐々は頗る人傑なり。かかる者には知人になりて。その樣見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇氣にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ。(柏崎物語。)
眞田安房守昌幸。上田。戶石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。眞田は信玄の小脇差といはれしほどの古兵にてあれば。さだめてかの城々も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の爲に討れたれば。此度吊ひ合戰すべきなど思ひまうけしもしるべからず。彼がことき小身ものに。五ケ國をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科芦田などに扱せよと仰けれども。老臣强て申請により大久保鳥居などの人々に。二万ばかりそへてつかはされしが。果して眞田が爲に散々打まけて還りしがは。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部彌次カ長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し眞田が樣を見せよと命有て。長盛丸子に於て眞田と戰ひしに。打勝て眞田上田に引退しかば。ことに長盛が戰功を御賞譽有しとなり。(御名譽聞書。)
三河草創よりこのかた。大小の戰幾度といふ事をしらざれども。别に當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに從ひ機に應じて御指麾有しのみなり。長久手の後豐臣秀吉たばかりて。當家普第の舊臣石川伯耆守數正をすかし出し。數正上方に參ければ。當家にて酒井忠次とこの數正の兩人は第一の股肱にて。人々柱礎のことく思ひしものゝ。敵がたに參りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。蝱に目のぬけしなどいふ譬のことく。重ねて敵と戰はん事難かるべしと誰も案じ煩ふに。君にはいさゝか御心を惱し給ふ樣も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍。及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめてM松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直參のものをはじめ。直政に附屬せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。樣々採摭有し上にて尙又取捨したまひ。當家の御軍法一時に武田が規矱に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰廣く傳へしめられたり。(岩淵夜話别集。)
此卷は伊賀路の御危難より。長久手御合戰の後までの事をしるす。 
卷五

 

長久手の戰に上方勢おもひの外に敗績しければ。秀吉いまはひたぶるに當家と和議を結ばんとおもひ。まづ織田信雄と講和し信雄をかたらひて。御長子お義丸殿を秀吉養ひまいらする事となり。元服させ三河守秀康と名乘せかしづき給。されどもこなたにはいまだうちとけさせ給ふ御さまにもおはしまさねば。秀吉度々使をまいらせしうへ。猶又土方下總守雄久をしてかさねて慇懃を通じ。近きほどに御上洛ありて。秀吉御父子にも御對面あらまほしく。かつは都方の名所ども御遊覽もあらせられば。御心をも慰め給ふべうもやと懇に申をくられしかば。君聞しめし。われ今何事の有て秀吉にあふべき。秀康が事は秀吉が子に進らせしうへはわが子にあらず。親の秀吉にさへ用なきに。何の用ありて其子の秀康にあふ事を求めんや。織田殿世におはせしほど都にも上り。名所舊跡みな遊覽しつれば。今さら見まほしとも思はず。このごろはたゞ分國にありて朝夕鷹を臂にし。犬引て野くれ山くれかりくらす。これに過たる樂なし。さりながらもし秀吉己が兵威をもて。あながちに我を上せんとはからはゞ。われも又其心得あり。つゝまず申せとのたまへば。雄久大に恐れ。これ秀吉が命ぜられしにてはなし。全く某一人の私意もて。御氣色とりしまでなりといひすてゝ。いそぎ京へ迯のぼりしとぞ。(岩淵夜話别集。)
其後秀吉妹の朝日の姬君もて御臺所に進らせ。そのうへにも母の大政所をも岡崎へ下して。御上洛をすゝめたてまつれば。今はあながちに辭せんもあまり心なきに似たり。いかゞせんと議せらる。酒井左衛門尉忠次等の老臣申けるは。秀吉が心中いまだはかりがたし。御上りあらん事よしとも存ぜず。万一彼怒を發し大軍をもて責下るとも。上方勢の手並は長久手にて見透したれば恐るゝに足らずとて。皆御上洛を止めたてまつる。君聞しめし。汝等がいふ所理なきにあらず。さりながらよく考へみよ。本朝應仁よりこのかた大亂うちつゞき。四海の民一日として安きことを得ず。今天下漸靜謐ならんとするに及んで。我又秀吉と干戈を交へば。騷亂いよいよやむ時なくして。人民これが爲に命を喪ふ者多からん。豈いたましからずや。さればわが一命もて天下万民の命にかゝり。上洛せんと思ふなりと仰ければ。忠次等もさまで思召定め給ひし御事ならば。臣等又何事をか申上べきとて退きぬ。此御詞承りしもの。末終に天下の父母とならせ給ふべき御コは。この御一言にあらはれたりと評したてまつりける。殷湯王が百姓過あらば朕一人にあり。萬方罪あらば罪わが身にありといはれしも。同じ樣の御事と伺はるゝにぞ。さて都へ出立せ給ふにのぞみ。御留守奉る者に仰置れしは。もし我都方にて事有ときかば。大政所御臺所も速に京にかへしまいらすべし。この人にはもとより大事にあづかりしにもあらず。又家康は婦人を下手人にとりしなど人に嘲られんは。なからん後までの恥辱なれば。かまへてわるびれたる擧動すなと。かへすべすのたまひ置れしとぞ。(逸話。)
御上洛ありて茶屋四カ次カC延が家もて御旅館となさる。秀吉よりは使もて御上京を賀せしめ。夜に入ひそかに微行して來られ。年久しくて對面しこゝらの𣡸懷皆散じぬ。扨此度コ川殿をはるばるこゝまで迎へまいらせしは。秀吉をして天下の主たらしめん事をたのみ進らするよしいはる。君聞しめされ御身正しく天下の主とならせ給ひながら。何とてかくは宣ふぞ。秀吉いやさることの候ぞ。秀吉今位人臣を極め勢天下をなびかすといへども。其はじめ松下が草履取し奴僕たりしを。織田殿に取立られし事は誰かこれを知らざらん。かゝれば天下の諸大名陽には敬服すといへども。內心にはあなづり思ふもの少からず。あはれ願くは明日對面せんに。その御心がまへしてたまはるべし。秀吉をして天下一統の功を全うせしめ給はん事。コ川殿の御心一つにありとありければ。君今はたむすぼれたる御中となり。かく上洛さへつかふまつるうへには。何事も御爲あしうは存ぜず。ともかうもよきにはからふべけれとうけひかせ給ひ。さて明日大坂城にわたらせ給ひ。諸大名群集の中にて太刀馬どもさゝげられ。敷居隔てゝいかめしきさまにけいめいしてもてなさせ給ひしかば。秀吉よろこびに堪ずさまざま饗したてまつり。物どもあまた進らせけり。これよりして天下の大小名。殿下の人質出して迎へられしコ川殿すらかく關白を敬禮せらる。われわれいかで輕爾にすべきとて。いよいよ尊崇する事前日に十倍せしとか。(玉拾集。)
御上洛の折大和大納言秀長朝の御膳たてまつるとて迎へたてまつりしとき。秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織の紅梅の裏つけ。襟と袖には赤地に唐草の繡したるを着したり。秀吉がたゝれし後にて秀長と淺野彈正長政とひそかに申上しは。彼陣羽織を御所望あるべしと申。君某今までかゝる事人にいひし事なしといなみ給へば。二人これは殿下物具の上に着せらる陣羽織なれば。こたび御和議有しからはあながちに御所望ありて。この後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へば。關白もいかばかり喜スならんと申す。君もうなづかせ給ひ。秀長の饗席旣に終り秀吉と共に坂城に上らせらる。このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。コ川殿を明日本國に還すなりとて。又君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脫し給へといへば。秀長長政御側によりきて脫す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拜受を願ふなり。家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脫て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報のものよといはる。この日諸大名の陪從多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。コ川殿御聞候へ。この所よりわづかC水へゆくにも。人數の三万か二万と申されしとぞ。次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。家康が一言にて四國中國の者を鎭服せしめん爲なり。次に近所へゆくにも二万か三万といひしは。兵威をもて我をおどさんとてなり。例の秀吉が權詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四國中國はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ傳へて。關白の兵威の盛なるを稱しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に來り我にむかひ三度まで拜禮す。その事しりし秀長。淺野長政。加々瓜某。茶屋四カ次カ四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し拔て事をはかる人には。中々力押にはなりがたし。よくよく時節を待て工夫あるべしと仰ありしとぞ。(續武家閑談。)
北條氏直へ姬君住つかせ給ひしより四年になれども。いまだかの父子に對面し給はず。こたび氏政父子伊豆の三島まで詣るよし聞しめし及ばれ。御使もて會面せまほしき旨仰つかはされしに。氏政が方にも。さこそ存ずれ。但黃P川を越てこなたへわたらせ給ふやうあらまほしとの事なり。このとき酒井忠次等うけたまはりて。氏政がかくうつけたる答のまゝに。川をこして渡御ましまさば。世の人。コ川殿は北條が旗下になりたりなどいひ傳へば。當家の名折此上なし。ひらに思召止らせ給へと諫めたり。君名位の前後を爭ふは詮なき事之。さきに信玄謙信の兩人和議を結ばんとて。犀川を隔でゝ會面せしとき。謙信ははやりがなる性質ゆへ。信玄よりさきに下馬せしを。信玄はいまだ下馬せずして應接せしかば。謙信大に怒り其塲より鐵炮打出して合戰に及び。又十五年が間爭戰やむときなし。其ひまに織田殿は上方に切て上り大國の主となり。我も織田に力を合せて一方に自立する事を得たり。この入道等とく和融して軍したらば。織田殿も我も一支も成がたきを。いらぬ爭ひに年月を過したる中に。他人をして大功を立しめし事のうたてさよ。今氏政實心もて我に接するからは。我何ぞ其下にたつ事をいとはむ。天下一統の後にて。上につくとも下に立とも其おりに議すべけれ。今の位爭は無用なりとて。遂に時日を定め三島におはして氏政父子に御對面ましませり。そのとき氏政父子は上座に着れ。一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す。君は氏政より下に着せられ酒井忠次。井伊直政。榊原康政ばかり陪座す。一通り献酬終りし後美濃守氏規進み出て。御宴進まさるうちに上方の軍議をなされんかといふ。君上方の事はとくに定め置つれば今さら議するに及ばず。けふの對面はかたみにうちとけて。こゝらの宿念をもはらし。且はこの後無事ならん爲なり。まづ兩國の堺なる沼津の城をはじめ。城々みなとりこぼちて堺界なしにせんと思へば。もし上方に事あらば。我手勢五万のうち三万をひきゐて切て上らば何條事かあらん。又奥方に出馬し給ふ事もあらば。某先手うけたまはりて切靡け申さんに三年は過さまじ。とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば。氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ。よろこぶ事限りなし。かくて酒宴も闌になりて。君自然居士の曲舞をかなで給ひ。黃帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば。松田大道寺等同音に。コ川殿は當家の臣下になり給ひぬとはやしたつれば。氏政もゑつぼに入てきゝ居たり。酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ。川いづれの邊にて候と舞出たれば。氏政太刀を忠次に引る。忠次又おしいたゞき小田原の老臣等にむかひ。我等は加樣なる結搆の海老をすくひあてゝ候と高らかにいひけり。忠次が歌のうちに鎌倉くだりといふ詞の有しを。小田原の山角上野介いまはしくやおもひけん。たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上りと舞留ける。大道寺いひけるは。酒井殿は鎌倉下りなれば。山角は熱田の宮まで切り上り候ととりなして。主方も客人もをのをの興に入たり。氏政ゑひすゝみて君の御膝へよりかゝり。御指添をぬき取て。京兆には若かりしほどより。海道一の弓取とよばれし人なり。その刀を居ながら㧞とりし氏政は大功なれと戱れける。此とき松田尾張守。コ川殿にははや當家の臣下におはしませば。何の嫌忌かおはしまさんといふ。この日北條が御もてなし實に善美をつくせり。宴はてゝ後歸らせ給ふ。北條より山角紀伊守して御見送の役を勸めしむ。御かへさの道すがら沼津の外郭の塀及ひ櫓をみな毁撒せしめ。本丸ばかりを御旅館の設に殘され紀伊守に見せしめ。こたび親會せし上は封境の險も無用なればかく取こぼちたり。この旨氏政父子によく傳へらるべしと仰含められしゆへ。小田原にもうしろやすくなり。いよいよ當家を慕ひ隣交をこたらざりき。かゝりしかば世には。コ川殿は小田原と結緣ありし上に。今度の會盟またいかなる事を議し給ふもはかりがたし。そのうへ軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞えければ。豐臣家の上下。さきに彼方に降附せし石川數正が事を。古曆古箒と名付て用なきものゝ樣におもひあざけりけるとなん。(駿河土產。校合雜記。)
小田原よりかへらせ給ひし後。本多正信にむかはせられ。北條も世が末に成たり。やがて亡ぶべし。松田と陸奥守と二人の樣にて知れりと宣ひしが。果して後に敗亡のさま。松田の反覆はいふ迄もなし。陸奥守氏輝も氏政なくば氏直を輕祝して。その國政をほしいまゝにせんかとの。御推考にたがはざりしとぞ。(紀伊國物語。)
天正十八年の春長丸君を都に下せ給ひ。はじめて秀吉に見參せしめらる。秀吉大によろこび君の御手をひき。後閣につれゆきさまざまもてなされ。大政所みづから御ぐしをゆひ直し御衣裝をも改めかへ。金作の太刀はかしめ。重ねて表方に誘はれ。御供せし井伊直政等にむかひ。大納言殿には幸人にてよき男子あまたもたれしな。長丸いとをとなしやかにてよき生立なり。たゞ髮の結樣より衣服の裝みな田舍びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。いはけなき子を遠き所に置れ。亞相もさぞ心ぐるしく侍遠に思ふらめ。とく供奉してかへれとて。直政はじめ人々にもとりどりかづけものしてかへされしなり。君には此度小田原征討の事起りしにより。長丸君を質子の御下心にて上せ給ひしに。秀吉速●●へされしはやがて出馬あらんときに。我領內の城々をからんとての謀略ならんと御先見ましましければ。本多正信を召ていづれもその用意せよと仰ありて。三河より東の城々修理加へられ。道橋をも修理加へられたるが。三日ばかりありて京より秀吉みづからの書翰もて。城々からん事を請れしかば。いづれも機を見給ふ事の速なる。神明不思議なりと感じたてまつりしとぞ。(東遷基業。)
東征の軍議ありて秀吉關東の輿地の圖を出して。君と共に撿視してありし折。眞田安房守昌幸もその末席にありしを。秀吉安房もこゝにきて圖をみよ。此度汝に中山道の先鋒をいひ付るぞといはる。昌幸はコ川殿とおなじく秀吉の待遇ありしを。世にかしこき事に思へり。秀吉また别に昌幸をよび。家康が許にゆきて禮謝し間をよくせよ。長きにはまかるゝものぞといはれ。富田左近を昌幸にそへて。御旅館に參らせまみえしむ。君もとより昌幸の反覆を憎ませ給へども。秀吉が紹介なればいなみ給ひがたく。よきほどに應接してかへされぬ。後に左近をめして。安房が事は過つればせんかたなし。このうへは石川伯耆守などを。同じ樣に連來らざるやうにョむと仰られしとぞ。(老人雜話。)
東征の前かた甲州の士小宮山又七昌吉小長柄奉行を仰付らる。又七は年若けれども。その兄內膳友信主の勝ョが先途を見とゞけて討死せし心ざま。あつぱれ忠誠の者と思召る。內膳子なきがゆへ昌吉をもてその遺跡をつがしめ。かゝる重役をも仰付られしなり。全く兄が忠義を賞しての事なれば。昌吉よくこの旨心得て。此度の命を己が功勞と思ふべからずと御教諭ありしかば。昌吉はいふまでもなし。諸人みな。忠義の士は死後まで旌表の典を蒙る事と。かしこまさるはなかりしなり。(東遷基業。)
秀吉旣に駿河の三枚橋まで下られしよし聞えければ。榊原本多の人々。こたび秀吉たまさかの下向なれば。こなたの御領中に於ても。殊更の御もてなしなくてはかなふまじと申す。君われもとくよりさは思ひつれど。外におもふ旨あればまづ捨置なりとて。その後ひそかに彼等を召れ。われ秀吉の樣をみるに。己が才畧もて一世を籠絡せんとする人なれば。我又これに對して才智だてをして。智謀ある人とみられむはかへりてあしきなり。とかう物事にこゝろづかで。たゞ篤實一ぺんの人と思はれんこそよけれと宣ひて。御饗待の樣も並々の事にて别に耳目を驚かすまでの事はなかりしとぞ。(老士物語。)
秀吉駿府の御城に宿られし時。御みづからもおりたちて御あつかひあり。城中どよみにぎはしきおりふし。本多作右衛門重次は。これよりさき御用の事ありて遠境にまかりしが。今日還り來り旅裝のまゝにてその所へつと入來て。にがごがき顏して大音あげ。殿々とよびたてまつり。さてさて殿は愚なる事せさせ給ふものかな。おほよそ國の主たるものが。己が居城あけて人にかす理のあるべきや。さる御心にては。人が女房衆をからんといはゞかし給ふべきかなど。思ふまゝの事いひはなちて己が宿にかへりぬ。君もあまりの事に何のうつけをいふぞと仰られ。後に京の人々にむかひ。かれは本多作左といふて。家康が父祖の代より今に至るまでまめにつかへ。あまたゞひ武功もあるものなるが。もとより田舍武士にてたゞあらげなくおこなるふるまひのみして。心のまゝの事をいひもし行ひもし。人をば虫とも思はぬものなり。されど今日の事といひ。人々の前をもかへりみず。あのことき無禮をふるまふやつなれば。家康とさしむかひしおりは。いかに心ぐるしからざらん。各くみはかりたまふべしと宣へば。人々その作左こそ上方にも承及たる勇士なれ。かゝる勇士持せらるゝは。實に御家の重寳とこそ申べけれと。一同感じけるとぞ。(岩淵夜話。落穗集。)
秀吉沼津まで着れしかば。君は織田信雄とおなじく。浮島が原の邊まで出まして。待むかへ給ふところへ。秀吉が前驅餌差鷹飼ともうちつれて通るうちに。稻富喜藏といへるは君かねてしろしめすものなるが御前を平伏して。過ぎがてに。殿下もやがて來らせ給はん。いと異樣なる御行裝なり。見給へといひさしてゆく。そのおり甲斐の曲淵庄左衛門御供に候せしが。三尺餘の朱鞘の大刀に大鍔かけてさしたるを御覽じ。御みづからの御佩刀とさしかへ給ふ。かくするうちに秀吉が馬旣にちかづきぬ。そのさま金の唐冠の兜に緋をどしの鎧を着。緋純子の袖なし羽織に紅金襴のくゝり袴。作髭をし。金の大熨斗付の太刀二振はき。金の土俵のうつぼに征矢二筋さしておひ。金の瓔珞の馬鎧かけたる駮の馬に乘られしが。君と信雄の立せらるゝを見て。俄に馬より下り慰勞の詞をのべ。かの團扇もて君の御刀の柄をおさへ。近頃よき御物ずきかなとほゝゑみながら。いざ同じく參らんと連立て數町ばかりおはせしが。諸大名追々出迎へたてまつれば。殿下はもはや御馬にめさるべしと聞え給へば。秀吉さらば軍中に禮なしとかきく。御ゆるし蒙らんとて又馬にうちのりぬ。外々の大名へはみな馬上より聲かけて通らしとぞ。(天元實記。武家閑談。)
按に一說に。このとき秀吉馬より下り太刀の柄に手をかけ。信雄。家康逆心ありときく。立上られよ一太刀まいらんといふ。信雄は面あかめて何ともいふことならず。君は秀吉が左右の者にむかはせられ。殿下の軍始に御太刀に手をかけ給ふことのめでたさよ。いづれもほぎたてまつれと高聲に仰ければ。秀吉又といふ詞なく。重ねて馬に打乘て過行ぬ。そのとき見しもの。君のいささか動し給はざる御樣に感じけり。又小田原の陣中に。君と信雄と秀吉が陣におはして還らせ給ふとき。秀吉十文字の鎗の穗をはづし。御名を呼かけて追かくれば。君右に持せ給ひし御刀を左にもちかへ。立ておはしければ。秀吉大に笑ひ鎗を持かへ。鐏のかたを君にむけたてまつり。これは年比己が秘藏せし品なれば。今日參らするとてなげ出されしかば。君おもひよらざる賜物とおしいたゞかせ給ひて。持歸り給ひしとぞ。信雄ははじめ秀吉が追かけしさまみてうち驚き。君にもかまはず早々急ぎにげ出ぬ。これよりいよいよ秀吉が爲に見限られしとぞ。是も同日の談にて。姦雄の人を試むるに泰然としていさゝか變動の態見えさせ給はざる御識度いとたふとし。
三月十八日秀吉三枚橋の邊巡視終りて長窪に至り。諸將をつどへて此度の軍議をせらる。秀吉コ川殿にはかねて海道一の弓取とうけたまはる。こたびの計略いかゞしてよからん。指導あれかしとありしに。君聞しめし。北條が家はその祖早雲入道已來。國富み兵强くして武功の者少からず。今度殿下の御征討を承り。定めて主に代り打て出で防戰すべきに。これまで一人も兵をまじへざるは。はや殿下の御軍威を恐るゝとみえたり。此後とても出ることはあるまじ。さらば惣軍を二手に分け。一手は韮山一手は山中を攻んに。何ほど臆したる敵なりとも。己が城攻らるゝに救はざる者はよもあるまじ。そのとき殘る一手をもて戰ひなば然るべうもや候はんかと宣ふ。秀吉大に感じ。さらば北條が後詰をばコ川殿にまかせたてまつらんといはる。君いかにも奉りなん。先年甲信の堺にて北條と七月より十一月まで對陣せし事のありしに。十が九は勝利を得侍りぬ。されども此度は敵地の戰といひ。かれ又無双の險要に據れば。いかなる計策せんもはかりがたし。万一仕損じなば二の手の勝利は殿下をたのみ奉ると宣ふ。秀吉高らかにうち笑ひて。二の手は秀吉いかにもうけたまはるべし。コ川殿を一番に進ませ秀吉二の手をつめば。日本國中はいふに及はず。高麗大明まで攻入る共。恐るゝに足らずとて大によろこばる。重ねて秀吉。兩城を攻るに敵もし出合ざらんときはいかんと問はる。君そのときは兩城のうち一城を攻落し。其勢をゆるめず某手勢をひきゐ。山中の古路をへて酒勾早川へ押出して陣を取しき。關東の城々より小田原への通路をたつべし。殿下は惣勢をひきゐて小田原へ押詰給へと宣へば。秀吉酒勾筋に敵城はなしやと問はる。君鷹の巢。足ネ。新庄の三城あり。秀吉その城々をもいかゞし給ふといへば。この城々は必明退べし。先年武田信玄二万の兵もて。小田原近邊まで攻入しときもこの城々落失たり。まして此度の兵威を望み一支もなく落行なん。秀吉もし逃ざるときはいかゞといへば。君それこそ某が望むところなれ。速に手勢もて攻落すべし。先年對陣のおりも五六百の家人もて築井の城をせめ。彼がうちに名を得し內藤周防を討取。關本の城に押寄大道寺を追落せし事もあり。彼が弓箭のほどはかねて知たれば。いさゝか恐るゝに足らずと事もなげに申させ給へば。秀吉はじめ滿座の大小名。いづれも御智算の周遍して。殘る所なきを感じたてまつりける。秀吉その夜は沼津にかへられ。重ねて地圖を取出し諸將と評議し。いよいよ君の御指圖にしたがひける。このときK田勘解由孝高も秀吉が供して。君の御陣にも折々伺公し軍法の物語せしが。こたびの城攻始より終に至るまで。いさゝか君のはからせ給ひしに違はねば。或人にいひしは。コ川殿は頂の上より爪の端まで。弓箭の金言にて束ねし名將なれ。殿下も軍議となれば。コ川殿の口を待て後に發兵せらるるなりといひしとぞ。(讀武家閑談。)
織田信雄ひそかに君に勸めまいらせしは。こたび秀吉の下向こそ幸の事なれ。北條と諜し合せ前後より挾み討ばかならず志を得んといふ。君秀吉我を信じてこそ。わが領內をも心ゆるして通行すれ。いがて反覆の事して信義を失はんやと仰らる。またこの陣に關白わづか十四五騎ばかりにて居られしときをみて。井伊直政唯今こそ秀吉を討べき時なりと。ひそかにさゝやきけれど。君かれこたび我をたのもしきものにおもひて來りしを。籠のうちの鳥を殺さんやうなるむごき事はせぬものぞ。天下をしるはをのづから運命のありて。人力の致すところにあらずと仰ければ。直政もえうなき事いひ出しと思ひ。面赤めてありしとぞ。(明良洪範。ェ元聞書。)
山中旣に落城せし晚方。戶田左門一西御本陣に參り。今日の一番乘は中村式部が內に渡邊勘兵衞といふ者のよしなれども。實は某と山虎之助某と兩人折よく參り合せ。一番に乘入りしにまがひなし。上方の黃母衣の者も見とゞけて候へば。この旨仰立られよと申す。榊原康政取次てこのよし聞え上しかば。君聞しめし。我婿の氏直が城をわが手勢もて取たりとても。さのみ出かしたる事にてもなし。汝等が勳功はわれさへ聞置ばすむことなり。虎之助にもいひ傳へて。重ねてこの事いふまじとの上意なれば。左門も口を閉て。その折の事問ものあれば。塲狹き所ゆへしかとわきまへずとのみいひはなちて居たり。虎之助は大にふづくみ。用なきむだ骨をもて勘兵衛が手ネにせしも。あまりわが殿のおとなし過しゆへといひふらしけるを。御聽に入るゝものありしに。山がさいはゞそのまゝいはせて置と宣ひ。前に御咎もなかりき。その後關東御移のとき。左門に武州鯨井にて五千石たまはりしは。此ときの賞に宛行はれしなりとぞ。(天元實記。)
按に家譜には虎之助このとき討死せしとみえたれば。本文に記す所は别人なるも知るべからず。凡家譜と記錄と異同のあるは。家譜をもて正しとすれども。强ち記錄の說みなあやまれりともいふべからず。
小田原長陣の事ゆへ米價踊貴してやまざれば。いかゞして此價を低くせんといふ。君何ほども高くかへと上意なれば。そのことくせしに。小田原は米價高し持ゆきてうれとて。海陸より我先にと競ひ集り。俄に米價低くなりしとか。また伊奈熊藏忠政御前へ出しとき。此度去年より御領中の米豆貯ふべき命ありしゆへ。重ねて用意し沼津まで運輸し置ぬ。この地に來りて承れば。山中の價も江尻沼津と同じ樣なり。さればはるばる運費をかけんよりはと存じ。この地の米を買求めぬ。かほど合點のゆかぬ儀は侍らずと申す。君こは長束大藏政家がする事なれ。大藏はさして武功はなきが。万事に才幹あるものゆへ。秀吉が意にかなひ追々拔擧せられ一城の主にも成たれ。惣じて國の主たるものが常に物事節儉にして浮費を省くは。事あるにのぞみ用度の不足なからしめんが爲なり。さるを常に儉約にして。事あるにも慳恡ならば。金銀米錢は何の用をかすべき。土石にも劣りたるものなれ。汝そが職にありながら。かゝる事に合點の至らぬといふは。我も又合點がゆかずと仰られしとぞ。(古人物語。天元實記。)
宮城野口。竹浦口を攻られしとき。かねて先鋒は當家二陣は秀次と定められしに。秀次うちこして前に進まんとす。よて村越茂助直吉をもて秀次が方へ仰つかはされしは。秀次先陣うたれん事年若き御心にはさもあるべし。いと神妙の御事なり。わが陣頭を開て通すべし。家康もその餘勇を求めて。勝利を得んと思ふなり。たゞし敵は地戰。味方は客戰にして地の利にくらし。そのうへ今日日暮に及んで。山下に陣取は兵法のいむ所なり。今夜はまづこの所に屯し。明朝先陣打ればしからんかと仰つかはされしかば。秀次且感じ且恥て。其夜は箱根山の半腹に陣取。終に夜篝を燒ひて夜をあかしけるとぞ。(天正記。)
井伊直政酒勾川のかたにむかひしに。森を後にして陣せよと命ぜられしに。河原に陣どりしを御覽じて大に御氣色損じ。敵城近く備を立るには樹陰を後にして。敵に勢の多少を見透されざるをもて主とす。さるを味方の足數までみゆる所に備ふるは。以の外なりと仰ければ。直政さきに御諚有しゆへそが通りに備を立しなりと申せば。御馬上にて小刀をぬかせ給ひ。御腰物にてうちならしたまひ。此かねの罸を蒙る法もあれ。わがいひしはかしこにはあらざるものをと仰られ。小刀をうち折てすて給ひしとぞ。又その邊を巡視ありて酒勾川の端に下らせ給ひ。海ばたより城內を俯視してかへらせ給ふとき。供奉の者城際を通るを見給ひ。敵もし城より打ていでゝ味方討死もせば。敵に勢を添べし。又逃去らんも見ぐるし。汝等はしれた事をするものかな。城の巡視は城際より乘廻し。より見るこそ作法なれと宣ひしとぞ。又諏訪の原御本陣とせられ。內藤四カ左衛門正成。高本主水助C秀。渡邊忠右衛門守綱。筧助大夫正重。渡邊半藏重綱を殘し給ひ。汝等はこゝに陣取れとて。御みづからは年若き者五六騎召具して巡視に出給ひ。還御の後內藤等の陣取の樣見そなはし。汝等年比軍陣になれし者なれば。少しは心得つらんと思ひしに。などかくふつゝかなる樣よと。散々に御叱りありて陣取をかへしめ給ふ。かゝる圍城のうちよりは白晝には打て出ぬものなり。夜討より外の術なし。夜討も城よりは出ずしてことゞころに隱れ居て。我陣の後よりうちかゝり。輕くかけ破りて城に引入んとするものなり。されば其心得して城際の陣取は。裏を表のごとくにとるものなりと仰られしとぞ。(三河之物語。)
笹郭を御巡視ありし後。大久保治右衛門忠佐。高木主水助C秀に命ぜられ。本陣の小屋をかけしめられしに。城にむかひし所を厚く後を薄くかくるを御覽じて。敵は虎口より出べし。堀越には出ぬものなり。ゆへに後の方を厚くとるが古法なりと宣ひて改めしめられたりとぞ。又同じ曲輪を攻られんと議せられしとき。其邊に橋を渡して距闉の樣なるもの有。井伊直政をめして橋が橋がとばかり仰あり。直政さまざま思ひをめぐらし。橋下の水の淺深を試みよとの盛慮ならんとおもひ。橋下に杖を立て水痕の及ぶ所を驗として御覽に侍へしかば。とかうの仰もなく又はしがじがとばかり宣ふ。かさねて直政其所に久しくたゝずみ撿祝するに。橋桁殊更撓みけるを見て心づき。急ぎ馳かへりかくと申あぐ。君聞しめし。さればその事よと仰らる。おほよそはじめ命ありしより。直政が思ひ得しまでは。四十八時ばかりへしとぞ。さて直政に屬せられし甲塚の廣P美濃。三科筑前は老功の者なれば。この郭攻む樣直政かれとはからへと宣ひ。直政相議せしに二人うけたまはり。御家人の子弟の年若きかぎりすぐり出て攻手にあてられば。子弟の出戰すときかば。その父兄等己が子弟等に功名を立させんと思ひ。われもれもと出來りてをのづから多勢になるべし。万一仕損ずるとも子弟の事なれば。させる恥辱にあらずと申すにより。そのごとく命ぜられしかば。果して大勢あつまり來て攻かかり。かの橋邊に至りしとき。諸勢いさゝかあやぶみためらひしに。直政はこゝなりと思ひ。この橋危しとてつゞきの郭をとらであるべきやとて。みづから橋詰まで進み銃取て放つに。火藥强かりしかば筒裂て指を損ず。されどもいさゝかひるまず曳聲あげて進みより。遂に曲輪を乘取けり。君の神算妙諭はいふまでもなし。直政もよく御詞の旨をふかく思ひ久しく考へてあだにせざりしゆへ。かゝる奇功をも奏すれとて人々感じけるとぞ。(東武實錄。前橋聞書。)
長陣の間にさまざまの流言ども出きて。君と信雄と北條に同意有て諸陣を燒拂ひ。城よりも同時に討て出るなど。根もなき事紛起してやまず。秀吉小早河左衞門督隆景のすゝめにしたがひ。みづから君の御陣を巡視すとて。伊達染の小袖に緋純子の羽織を着。脇差ばかりさし。刀をば從者に持せ。信雄。隆景。其外陪從の者も皆脇差ばかりさし。高聲に雜談しつつ御本陣に參られ。午の皷うつ比より夜中まで宴樂あり。其後又信雄が陣へも君と隆景と秀吉にしたがひておはし。また重ねて君と信雄とを秀吉の本陣に招請せられ。晝のほどは申樂行はれ。夜に入り酒宴まうけ小唄おどりとりどりにて。夜一よ遊びくらして曉にかへらせ給ひ。この後諸陣にもかたみに行かひして會宴まうけ。人心漸穩になりければ。浮說もいつとなくやみしなり。これ北條はまさしく君の御ゆかりにおはしませば。かゝる雜說も出來しゆへに。君ひそかに秀吉と仰合され。かくははからわれしとぞ。このときの小唄とて後にまで傳へしは。人かひ舟は沖をこぐとても。うらうら身をしづかにこげ。我等を忍ばゞ思案して。高いまどからすなをまけ。雨が降といふて出逢はん。(落穗集。)
松平石見守康安はこの役に大番頭奉りて供奉しけるが。あるとき君城中にむかひ。御みづから矢を放ち遠近を試み給ふに。侍臣等城中まで御矢入りつと申せば。城までは程遠し。弓勢のをよばん樣なしと宣ひ。康安をめし。汝は聞及びし精兵なり。試みよと仰あり。康安射しに多くは土居にて落ぬ。數矢のうちにたゞ一筋城墻を貫きしがあり。よて左右の者に仰けるは。康安が弓勢すらかくのことし。さるを汝等わが矢城中に入しといふは。全く諂諛のいたす所なり。かまへてかゝることは申さぬものぞといましめ給ひしとぞ。また本目權左衛門義正はもと松平氏なりしが。箱根山中の案內したてまつり高名ありしかば。汝は侍の眼なり。この後は氏を本目と改むべしと仰有て。これより本目に改めかへしといふ。(家譜。)
甲相の境なる三搏サといふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せしめ。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)
小田原落城のころ二子山の下たいらに御本陣をすへられ。小高き所をかたどり。かたへに御鎧櫃を置。その上に板二枚を渡し御寢所とす。夜中御傍に大河原源五右衛門といへる十五六ばかりの小姓ふしてありけるが。惣陣の騷がしきを聞付て。俄にはね起てひしめけば。かの板にあたりいよいよ驚き。御寢なりしを起したてまつりこのよし申上しに。汝は若年にてものに馴ざるゆへ。かくそらおどるきするなれ。敵が夜討すれば必弓銃の音するものなり。こは味方の鬪諍するか。あるは馬を取放せしならん。さはぐ事なかれとて。いさゝかおどろき給ふさまはおはしまさゞりしとぞ。(武家閑談。)
北條ほろびて後人々に仰られしは。武田信玄は近代の良將なりしが。己が父の信虎を追出せし餘殃子にむくひて。勝ョさしもの猛將たりしが運傾くに至り。普第恩顧の者まで離畔してはかなく亡びしは。天道その親愛の恩義なきを憎み給ふゆへとしらる。小田原は百日ばかりの圍城に。松田尾張が外は反逆のもの一人もなし。氏直が高野に赴きしときも。命をすてゝも從はんと願ふもの多かりき。これ早雲已來貽謀のたゞしくして。諸士みな節義を守りしがゆへなりと仰られしとなん。
此卷は豐臣家と御和睦より。小田原征代までのことをしるす。 
卷六 

 

小田原いまだ落城せざる前かた。君と信雄と共に秀吉が笠掛山の新營におはしけるとき。秀吉この山の端に城中のよく見ゆる所あり。いざおなじくゆきて見んとて立出給ひ。やゝしばらく城のかたを見わたしながら軍議どもせられしに。秀吉いはく。この城落去せば城中の家作ども。そのまゝコ川殿に明渡して進らせんに。殿は此所に住せらるべきやいかにと問はる。君の御答に。後日はしらず。さしあたりては此城に住せんより外なしと宣ふ。秀吉聞れ。それは甚よからず。この所は東國の咽喉にて樞要の地なれば。家臣のうち軍略に達せし者に守らせ。御身はこれより東の方江戶といふ所あり。地圖もて撿するにいと形勝の地なり。その所を本城と定められんこそよけれ。やがて當地の事はてば秀吉奥州まで征伐せんと思ふなり。そのおり江戶の城に立より。かさねて議し申さんといはれき。かゝれは御轉封の事も江戶に御居城の事も。此陣中より旣に內々定議ありて。落城の後に至り秀吉より申出せしなり。さて御轉封仰出されしはじめには。こたびも北條がときのごとく。小田原に住せ給ふや。又は武家の先蹤を追て鎌倉に定居あらんかなどとりどり議しけるうちに。江戶に定まりければ。いづれも驚嘆せしとなり。そのとき秀吉。大久保七カ右衛門忠世をめして。汝はコ川家の股肱なれば。此城に箱根山をそへてコ川殿よりたまはるべしといはれし。これぞ大久保が家にて代々この城守る事の權輿なり。秀吉陽には當家の爲に重任をえらぶ樣に見ゆれど。實は東西變あらんときの事を思ひ。何となく忠世に私恩を施されしものなり。本多忠勝に佐藤忠信の胄たまひしと同日の所爲なりとしらる。(天元實記。大業廣記。落穗集。)
天正十八年七月小田原の城落去しければ。この度の勸賞に北條が領せし關東八州をもて。當家の駿遠三甲信の五國にかへ進らするよし關白申定られしとき。君御迁移の事を御いそぎ有て。同じ八月朔日にははや江戶の城に移らせ給ひ。又下々に至りては八九兩月のころおほかた引迁りすみければ。大坂へ御使つかはされ。五ケ國引渡さんと有しかば。秀吉大に驚かれ淺野長政にむかひ。三遠甲信の四國はいそがば此頃にも引移るべけれ。駿河は其居城なり。それを引拂といふも。速なるも限ある事なれ。いかでかくは辨ぜしならん。すべてコ川殿のふるまひ凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ。(大業廣記。)
小田原落城の前にさまざまの雜說ありて。北條がほろびし後は。當家の舊地を轉じて。奥の五十四郡にうつしかへらるゝなどいふ說もあり。井伊本多の人々。もしさる事もあらば。僻遠の地にかゞまりて重ねて兵威を天下にふるふことかなふまじとてひそかに歎息す。君聞しめし。もしわが舊領に百万石も揄チせば奥州にてもよし。收納の善否にもよらず。人數あまためしかゝへて三万を國に殘し。五万をひきひて上方へ切て上らんに。我旗先をさゝへん者は。今の天下にはあるましと仰られしとぞ。(續武家閑談。)
御遷移のころ榊原康政をめして。この城內に鎭守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎭守の神にもあらん。御覽あれとて康政ク導してその所に至らせ給ふ。小き坂の上に梅樹數株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと直に御拜禮ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ當城に鎭守の社なくば。坂本の山王を勸請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも當城うごきなくして。御家運の榮えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城壘開柘せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半藏門外に移し。明曆の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ。當家歷朝の產神とせられ。菅神の祠は平河門外にうつせしを。又麴町に引うつして舊跡を存せらる。今の平河天神これなり。(大業廣記。)
江戶城はさきざき北條がとき城代たりし遠山が家居。本丸より二三丸まで古屋殘れり。多くはこけらぶきはなく。みな日光そぎ飛州そぎなどいふものもてふけり。中にも厨所の邊は萱茨にていとすゝけたり。玄關の階板は幅廣き舟板を三枚ならべて階とし。その餘はみな土間なり。本多正信見てあまり見苦し。外は捨置せ給ふともこの所は御造營あるべし。諸大名の使者なども見るべきに。いかにも失躰なりと申上れば。君いはれざるりつばだてをいふとて御笑ひありて。そのまゝになし置れ。まづ本城と二丸の間にある乾濠を埋られ。その上は大小の御家人の知行割をいそぎ給ひ。榊原康政もて惣督とし。山藤藏忠成。伊奈熊藏忠政二人これを奉り。微錄の者ほど御城ちかきあたりにて給はり。一夜へだつるほどの地は授くまじと令せられ。また一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ。誠に御いそぎ故大かた一人一村かぎり。また隣村つゞきにて下されけり。この事終りし後御家人へ仰渡されしは。此度給はりし銘々が采邑に。手輕く陣屋を作り妻子を置。その身ばかり御城へ通勤すべしとて。别に城下には小屋をかけ。その身と僕從輿馬のみをさし置れしなり。路程遠きものは城下の市屋を僦居して日をかさね在府し。當直にあたればまうのぼり番簿に名をしるし置て。又一兩月采邑に歸住し。すべて簡易の事なりき。その後都下繁榮にしたがひおのおの宅地給はり。みづからの力もて家屋いとなむ事と成しなり。(落穗集。君臣言行錄。)
はじめて江戶城に入せられし時。御行裝を遙拜せんとて老若男女所せきまで御道のかたはらに並居たり。そのころ搶緕帚i名院とて。今の龍の口の邊にありけるが。住持存應和尙も衆人と同じく寺門に出て物み居たり。君御覽じ近臣して。かの僧は何といふと御尋なり。存應つゝしんで。寺は淨土宗にて搶緕宸ニいひ。貧道は存應と申候よし申す。それは感應。(大樹寺の住持。)の弟子の存應にてあてあるかと宣へば。さん候と申す。よて御馬を下り寺に入らせ給ひ御茶など聞しめし。明日又參らんと宣ひて明朝渡御あり。存應思ひよらざる事にて。寺のうち馳めぐりて御もてなし。齋飯すゝめたてまつる。君御氣色よく當家の宗門は代々淨土にて。三河にては大樹寺をもて香火院としつれど。當地にてはいまだ定れる寺なし。幸この寺同宗の事なれば。當寺をもて菩提所とせんと思ふ。よろづ供養の事和尙にョむなりと仰ければ。存應も世にかしこき事に思ひ感淚袖をうるほしける。さて師壇の御契約はこの時に定まり。のちに寺を今の芝浦に引移され。慶長十年はじめて堂塔刱建ありて。一宗の本山として代々の大道塲となされしなり。(啓運錄。事跡合考。)
按に一說に。いまだ小田原におはしませしとき。兼て江戶にて御祈願所になるべき天台宗の寺と。御菩提所になるべき淨土宗の寺を。えらぶべきよし命ぜられて搜索ありしに。淨土にては傳通院。搶緕宸フ二刹のみ。そがうち傳通院は窮僻の地なり。搶緕宸ヘ勝地にてかつ江城に近ければ搶緕宸菩提所にせられ。御祈願所は淺草の觀音堂しかるべしと申により。かの二寺の僧を小田原にめして謁見せしめ。そのよし命ぜられ。寺內に建べき制札を下されしともいへり。(落穗集。)
豐臣關白より。此度の御轉封により井伊。本多。榊原の三臣へはわきて加封あるべきに。各何程賜はらんやと有しに。十万石づゝとおぼしけれとも。十万とのたまはゞ關白その上に摯浮ケよといはれんは必定なりと思召。わざと六万石づゝ給はらんと仰つかはされしに。案のごとくそれにてはあまり少し。十万石づゝ給はれと指諭ありしかばそのことくに下されき。又領邑を渡すに繩をつめず。打出すやうにして割淚すべしと仰付られしが。これも關白より同じ樣の事申をくられしとぞ。(紀伊國物語。)
たんはんといふ者いと滑稽に巧なりしが。常に近侍して親幸を蒙りけり。江戶に御移ありしころ。あるとき黃金一枚持出給ひて。汝ほしくば中にてとれと。御戱れながら投給ひしに。たんはんあやまたす中にて取り。又二枚これもほしくばとらせんとありて投給ひしに。又中にて取れり。この外にも御手に持せられしをもたまはらんとねぎしに。いやいやとの仰にて御座を立せらる。本多正信御側より。たんはん追懸たてまつれとそゝのかす。たんはん殿樣御しはき事とて御後に從ひたてまつれば。上にも急ぎ後閤に入らせらるゝを。いよいよ追懸たてまつり。殿は戰塲にてもかく御後を人に見せさせ給ふやといひて。御諚口まで參り。ゑいゑいおうと高聲に凱歌をとなへて。もとのかたへひきかへせしとなり。このたんはんは下野の宇都宮が氏族にて。氏は失ひしが名をは大和といひて。一城の主たるものゝはてなるが。常々談伴に候して御かへりみ深く。後々は腰刀もはかず。たゞ遁世者のごとくにてありしとなり。(靈岩夜話。)
御舊領のうちにて。甲斐の國の轉ぜしをばことに御心とゞめさせ給ひ。常々その事を仰出されしなり。さればにや江戶にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて新に五百人ばかりめしかゝへられ。小祿の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武藏と甲斐の境界なれば。もし事あらんときには。かれらに小佛口を拒しめ給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡內に往來し。絹帛の類をはじめ彼國の產物を中買し。江戶に持出賣ひさぐをもて常の業とせしめしなり。(落穗集。)
關東にて名門舊族の。時世かはりて沉淪せしものどもをあまためし出され御扶助あり。宮原勘五カ義熙といふは古河御所晴氏が弟左馬頭憲ェが子にて。下總宮原に住せしをめし出され采地千石下され。のちに高家に列す。由良信濃守國繁は新田左中將義貞の後胤にて。代々上野金山の城主たりしが。小田原の戰の後太閤より所領召放されて流浪せしを。名家なればめし出て常陸にて采地給ひ。是も後に高家となさる。一色宮內大輔義直はもと足利家の支族にて。世々鎌倉古河の幕下に仕へし家筋をもて。めして武州幸手にて五千石餘の地を給はる。江戶太カ高政といひしは。江戶重繼より以來東國の舊家なるが。長尾但馬守顯長が家臣と成てありしを。江戶を稱するは憚ありとて。母方の氏を冐して小野と改め。御家人にめし加へらる。難波田因幡守憲次は關東管領上杉が幕下に彈正憲重といひて。武州松山の戰に歌よみて名高きものゝ末なれば。同じく召出され。また北條が家臣間宮豐前守康俊は。山中の城にて戰死せしかば。忠臣の後なればとてその子惣七カ元重はじめ。一族まで御家人となさる。太田新六カ重正は道灌入道が末裔たるをもてめし出され采地をたまひ。その姊のわづか十三歲になるも同じく御側ちかくめしつかはれ。名を梶とめさる。關原の役より茶臼山の御陣營の地を勝山と改め給ひしとき。汝が名も勝と稱すべしと仰られ改めしなり。この女後々御かへりみふかく姬君一所まうけしが。早世ましましければ水戶ョ房卿の御母代となされ。後に英勝院尼と聞えしは是なり。河田伯耆守泰親といふはもと上杉謙信に屬し武功の者なるが。後に北條にしたがひ上野國利根郡のうちにて三千貫の地を領せしが。北條ほろびて後戰死のものゝ首帳御覽ありしに。泰親が名なければ。定めて當地に居るべしとて。井伊直政に命じて尋ねしむ。泰親はさきに松枝の戰に深手負て。旣に死せんとするよし直政聞え上しかば。かねて聞をよびし忠實の者なれば。死せざらん前にみるべければ。籃輿にのせて連來れとの仰によて。板扉にかきのせて御前にすへ置ば。泰親が側近くよらせられ。いと御愁悼の御さまにて。此疵平愈せば不動山の城主とし。普第の大名に凖ずべし。それまで心のまゝに養生せよと仰ありて。當分の費用にとて月俸百口下されけるが。遂にはかなくなりしかば。その子の助兵衛政親未だ六歲なるを直政が家に養はしめ。年長ずるに及んで父の跡つがしめられしとぞ。(諸家譜。)
北條家の侍どもあまた召出されし內に。下總の臼井が子に吉丸。上總の東金の城主酒井が子に金三カ政成。兩人とも舊家たるをもてめし出され。後年伏見の城造營終て巡視せられしとき。吉丸御はかし持て從ひ奉りしが。とみの事にて履はく事ならねば。跣にて炎天の折から栗石の上にかゞみ居たり。金三カこれを見かねて履持ゆきて吉丸にはかせけり。その後同僚のものども。いかにも親友なればとて衆人みる前にて。同僚に履はかすることやあるべきと口々にいひ立れば。目付の者もすて置がたくて御聽に入しに。君にもかねて聞しめし及ばれ。金三カをめして御糺有しに。金三カそれがし唯今吉丸と同じ列に侍れども。そのはじめをいばゝ彼は主家にて侍れば。そが熱石の上にたゞずむを見るにしのびず。草履はかせしまでにて。深きゆへよしあるにも侍らずと申せば。仰に金三カ若年ながら舊主を思ひ本をわすれざるは。武士の道にかなひ神妙の事なり。その心ならば家康が恩をも恩とおもふべし。末ョもしき侍かなと御賞美ありて加恩たまはりけり。これより士風やうやく敦厚になり。一日たりとも頭役と仰ぎてその指揮受し者に對しては。後日に我身顯官にへ上りても。會見の折からさきの重役の人には。必禮義を慇懃にせし事となりしとぞ。(岩淵夜話。)
北條が比は法令惰弛なれば。八州のうらに博戱盛に行はれ。僧俗男女のわいためなく。みなおしはれて行ふことなり。かねて御舊領におはしませしときより。この事嚴斷せられしをもて。御遷徒あると直に。板倉四カ左衛門勝重もてきと嚴令を出され。博戱するものは見及びしまゝ追捕して死刑に行はる。ある日淺草の邊御狩のおり。博徒五人が首を梟木にかけしを御覽じ。罪人梟首するは衆人に見せてこらしめん爲なれば。五人一座の科ならば。某の月日何の地にて犯せしといふ事を札にかきて。人多くつどふ所にいくつも建置べしと命ぜられ。後には十人一座に捕得しは。十箇所にて誅戮し各所にかけしとぞ。かくおごそかに御沙汰せしゆへ。一兩年過て八州のうちにこの戱行ふもの絕果たりとぞ。(君臣言行錄。)
小田原の城に氏康柱といふあり。そのかみ北條氏康がときに。荒川何某といふ者逆意企し聞えありて。氏康衆中に於て手刄せしに。その太刀の鋒書院の柱に切込しを。後々まで大切にし蓋をかけ置て。見んとこふものあれば明て見せしめ。後に叛逆の者の懲戒にせしめん爲殘し置しなり。當家となりて小田原をば大久保七カ右衛門忠世にたまはり。忠世が子忠隣に至り。君御上京のおり小田原にやどらせ給ひ。忠隣めして。かの柱を供奉の人々に見せよと上意ありしに。忠隣うけたまはり。その柱の立し書院いと荒廢し。柱根も朽果ぬれば。近比立直せしにより柱も取すて侍りぬ。但むかしより玄關にかけ來りし鈴木大學が弓といふものは。唯今ももとの所に置ぬと申せば。聞し召れ。北條家は早雲氏綱が代には。豆相兩國のみ領せしを。氏康に至り次第に國を伐ひろげて。遂に東八箇國を全領せしなり。そのうへ氏康いまだ若年のころ。武州川越の夜軍にわづか八千の兵もて。上杉が八万三千の大敵を切崩し。武名を天下にかゞやかせし事。近き世にはめづらしき英傑といふべし。その名を負し柱なれば。朽たりとも根をつぎても殘し置ば。末々までみる人々武道の勵にもなるべきに。なぞゆへなくは取すてしぞ。心なき擧動なり。大學が弓などは折ても捨べきものをと宣へば。忠隣大に恐れ入て。惣身に汗し御前をまかでしとぞ。(岩淵夜話。)
三州大沼に住せる處士木村九カ左衛門定元は。此度遷徙の御供し。その子三右衛門吉Cは妻子引つれ。一番に江戶に馳參りければ。土井甚三カ利勝このよし言上す。君吉晴が年比住なれし地を離れ。速に馳參りしを賞せられ。御氣色斜ならず。旅裝のまゝにて出よと宣へば。吉晴革の立付はき。亂髮のまゝにてまみえたてまつる。かねて酒好むよし聞しめされ御前にて數盃下され。吉晴ゑひすゝみてこゝちよきさま御覽じ。伊奈熊藏忠政をめし。三右衛門は酒ずきなれば。よき地えらみて酒のまむ料につかはせと仰ありて。やがて相州高座郡のうちにて菖蒲澤村百名の地をたまはりしが。今にその邊にてこの領邑の事を酒手知行といふとぞ。(家譜。)
樽屋藤左衛門といふは水野右衛門大夫忠政が七男彌大夫忠ョが子なり。はじめは彌吉康忠といふ。長篠の役に酒樽をたてまつりしかば。織田右府に贈られしに。右府大によろこび樽とよばれしより氏を樽と改め。遠州町々の支配を命ぜられしが。こたび御遷移よにり。又江戶市街の事をつかさどらしめ。神田玉川水道の事をも奉り。東國の升の事つかさどらしむ。この外奈良屋市右衛門。喜多村喜右衛門といへるも同じく御舊領より引移り。樽屋と共に市中幷に水道の事を奉る。守隨兵三カといふは甲州にて秤をうりひざぐものなるが。これも御遷移をうけたまはり傳へて速に江戶に來り。多門傳八カ信Cをたのみ。井伊直政もて八州の權衡奉らん事願ひしかば。はるばる甲斐の國より馳參り神妙におぼしめせば。願ひのまゝ御ゆるしありて御朱印を下されけり。又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは。その祖大久保藤五カ忠行は左衛門五カ忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり。一向亂のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば。己が在所に引籠りてありしが。もとより菓子作る事を好み折々己が製せし餅をたてまつりけるが。御口にかなひしとて每度もとめ給ひしが。これもこたび御供に從ひ新知三百石たまひ。そが餅を駿河餅といひて時世うつりて後は。いとめづらかなるものとせり。これより後そが家世々この職奉る事とはなりしなり。(家譜。武家嚴秘錄。御用達町人來由。)
蒲生飛驒守氏ク太閤より會津の地たまはり。はじめて就封せし道すがら。江戶へたちより謁したてまつり。かねても親しくせさせ給ひければ。こなたにも殊に御喜スにてさまざま御饗應あり。こたび大國の主になられはじめての入部なれば。何がな馬の餞せんと思ふ。何にても望まれよど仰ければ。氏クもかしこみたてまつり。何某おもはざる大身になりて何も事欠ぐ事は候はねども。殊更の仰なれば一しほ請申事あり。唯今是へ出たりし色Kき老人の。朱鞘の大脇差さしたるは何と申者にて候か。いとめづらかなる士と見受たり。これを家人に申給て此度の入部の晴にせまく存ずるなりと申せば。君聞しめしいとやすき所望ながら。これは御望にまかせがたし。彼は曲淵勝左衛門吉景とて若年の比武田がおとなの板垣信形が草履取にて。その子の彌次カにつかへいと賤しき者なり。信玄讒を信じて彌次カを誅せしかは。信玄を主の仇なりとて度々伺ひけるほどの。不歒の思慮もなき者なれば。かの國に居ん事もかなはず。家康がもとににげ來り。今は見らるゝ如く老衰して何の用にも立ず。さるをまいらせてもかへりて當家の耻辱なれば。此義はゆるさるべしと宣へば。氏ク思慮なきにも老衰にもよらざれども。今の仰承れば深く御心かけてめしつかはるゝとみえたり。强ちに申請んもいかゞなり。此うへはせめて知人になりて。昔物語にても承り度と申すにより。御前へめし出て信玄勝ョ二代の間。合戰の事どもとりどり語り出て聞しめし。氏クもいと興に入けるとぞ。(岩淵夜話别集。)
御迁の後はじめて御上洛ありしに。蒲生氏クも會津の就封を謝せんため。同じく上京して御參會の折から。會津城經營の樣を尋給ふ。氏クいはく。會津の城は芦名家以來芝土居にて有しを。こたび石垣に築直しぬ。そもそも殿下今不肖の某をもて大國の重鎭となし。そくばくの地下し給ひし上は。せめて居城にても見苦からぬ程になし置んとて。國々の城地のさまを參見せしに。毛利輝元が安藝の廣島の規摸某が胸にかなへば。會津も是にならひて作出んと存ずる旨申上しに。すべて城の大小とその主の身分の大小にかなふがよし。本丸はじめ二三の曲輪は塀櫓迄。心を用ひて作出んはいふまでもなし。その外の曲輪一二の門舛形も同じく心を用ふべし。外郭の塀などは時にのぞみてもたやすくかくる事なるべし。無事のときは土居石垣ばかりにて置たるがよし。廣島のごとく外郭の塀までかくるには及ぶまし。松永彈正久秀が和州志貴の城に多門櫓といふもの二三の曲輪內に建置しは。居城の便などにはよきものなりと仰られしを。氏クつぶさに承りて感嘆し。その後歸國しかねての經營のさまをかへ。仰のごとく惣郭の塀をばかけず多門櫓たてんとせしが。いまだ竣功に及ばずして氏ク病にかかり身まかりぬ。よて後々に至りても會津城の三の丸に。塀櫓なきはこのゆへなりとぞ。(落穗集。)
この卷は關東へ移らせ給ひしおりの事をしるす。 
卷七 

 

聚樂の亭にて申樂興行ありしに。あるじの關白をはじめ織田常眞。有樂などもみなつきづきかなで。殊に常眞は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。君は舟辨慶の義經に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節節にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義經とも見えずとて諸人どよみ咲ひしとぞ。後に關白此事を聞れて。常眞がごとく家國をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといふべし。コ川殿は雜技に心を用ひられざるゆへ。當時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。又秀吉夜話の折近臣等。コ川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帶しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さまざまにて。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。關白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武邊衆にすぐれ國郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをかしこしとは申べけれといふ。其時關白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上關八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝれば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談會稿。岩淵夜話。)
案に醍醐花見の折。關白が近侍の輩君の御事いひ出てわらひ種にせしを聞かれ。家康が藝は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一も武略衆にすぐれ。第二は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大藝なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。コ川殿はなにがよければ。いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ樣の事をさまざまに傳へしなり。
文祿元年正月二日聚樂の邸にて謠初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亞相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥にして。ゆくゆくは養子にして家繼せんと思へば第一座に定めしなりとて聽入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。君その樣御覽じ。利家しばしまたれよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の舊臣もみな歸服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むといふも。舊義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左袒するにもあらず。かゝらば秀信をば别に奥方にて。拜禮盃酌の議をすませられ。表樣にては秀次を一座につけ給はゞ。人心事躰に於て兩ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允當の御處置に感じ。仰のことくせられて謠初の式事故なく遂行はれしとぞ。(武邊咄聞書。)
關白あるとき君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を會集せし時。わが寳とする所のものは虛堂の墨蹟。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるゝ寳は何何ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。君ひとり默しておはしければ。コ川殿には何の寳をか持せらるゝといへば。君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舍に生立ぬれば。何もめづらかなる書畵調度を蓄へし事も候はず。さりながら某がためには水火の中に入ても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て。第一の寳とは存ずるなりと宣へば。關白いささか恥らふさまにて。かゝる寳はわれもほしきものなりといはれしとぞ。また秀吉ある時君に尋進らせしは。應仁このかた亂れはてたる世の中をおほかた伐從へつれど。いまだ諸大名己がじゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。君おほよそ万の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の當る所はなべて人の從ふものなりと御答ありしとぞ。(ェ元聞書。武野燭談。)
細川忠興入道三齋が。年老て後大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしといへば。いかなることとのたまふに。いつの年にか有けん。豐臣殿下の前にて。東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の道に於て。一度も不覺を取しことなしと廣言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感稱してあり。其時君ひとり御けしきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば。一座のものみな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。關白何ともいはず座を立て內に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は實に一時の戱言にて侍れば。コ川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いやいや武道の事はいかに殿下なりとも。そのまますて置べきにあらず。今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして關白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる樣なれば。いづれも案堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉君の御樣を試みむとて。わざとかかる廣言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて關白のたのみがたなき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる。御實意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下の英雄は只御邊とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ樣の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得ざるにぞ。(伸書。)
關白伏見にて。古今の名將の上の事をとりどり評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義經。楠正成なとこそ誠の名將とこそいふべけれといへば。關白。正成は戰の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諫の聽れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義經は梶原が姦惡をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからす。むかしはしらず今の世にては。家康に過たる名將はあらじといはれしとぞ。また關白諸大將の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざゝれしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御覽じ分られ候にやといへば。關白别にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金裝の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賤より起り數度の武功をかさねて。大國の主となりし人なれば。いにしへを忘れずして革ネを用ゆるならん。輝元は數奇人なればこと樣の裝せし品其差料ならむ。江戶の亞相は器宇ェ大にして。刀劍の製作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみなみの品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺。常山紀談。)
伏見にて太閤。君をはじめ前田利家。蒲生氏ク等を饗せられ。それより聚樂にて遊讌し。かへさに君の御亭に立よられんとあれば。君はかねてその御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守齋といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。君はとく聚樂よりまかで給ひ。茶をとりよせて御覽あるにわづかばかり殘りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守齋申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。監物も美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々瓜隼人政尙。殿下は只今にも渡御ならん。遲々しては間に逢ふまじ。㝡初の殘茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下來臨ありて。茶を進るに及ばすして歸られんともせむかたなし。人の飮あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしからずとて。いたくいましめられしとぞ。(碎玉話。)
豐臣秀長。織田信雄など。おなしぐ聚樂の亭にて夜中に游讌ありし時。蠟燭の心はねしに。君は何げなくおはせしが。秀長はおどろき座をたちし樣を御覽じ微笑し給ふ。秀長己が怯劣をわらはせらるゝかとおもひいるれる顏して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。君御邊や某などは一大事のあらん時は。殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心用ひてなるべきか。まだ若年におはせばさる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあげつろふ樣にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らひてやみしとぞ。(岩淵夜話。)
太閤が伽の者に曾呂利伴內といふいと口ときおのこあり。折折は君の御舘へも參り御談伴に候したるが。或とき伴內。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大K天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大Kはその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を辨ずる事ならざるをもて。大Kは袋をもちそが口を左の手にて括り。無用の事には財を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれかりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福祿を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大Kの極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬかでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。いさゝかさはるものなからしめむが爲に。常にはかぶりつめてあるぞ。是そ大Kの極意よと宣へば。伴內も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤のに座ありて此事いひ出して。太閤今の世にもわた持のいき大Kがあるをしりたるかと尋らる。伴內心得ざるよし申す。太閤いき大Kとはコ川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
山名禪高聚樂にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禪高にむかはせられ。御邊の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。是は故の光源院將軍。(義輝。)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねしゆへかく打切ぬといへば。よくも舊を忘れぬ朴實の人かなとおぼしてわきて御懇遇ありしばしば御館にも伺公せり。ある日禪高の申は。朽木卜齋はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜齋が粗忽は皆人のしる所なり。御邊の粗忽は卜齋に超たりと我は思ふと宣へば。禪高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜齋は粗忽ながらも祖先已來領し來りし朽木谷を今にたもてり。御邊が祖は六十六州の內にて十一ケ國を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さるをみなうしなひはて今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禪高はさまで羞赧の色もなく。げに尊旨の通りにて侍れ。何がし今は六分一の望もなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。又天正十六年の比君御上京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禪高も供奉せり。禪高三松へ應接の樣あまり慇懃に過しかば。還御の後禪高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへども。其祖は足利の支旅なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで數ケ國の大守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に對してかく厚禮をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を盡し。重く家國を振起すべしと仰ければ。禪高も殊にかしこしと思へりとか。(靈巖夜話。山名譜。)
聚樂にて談伴のともがらあまた。太閤の前に侍してよも山の物語せしに一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞てわれもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。コ川殿しばし待せ給へ。余の人々はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じくしたり。太閤われらが親なるものは。しらるゝごとくきはめていやしの者なりしが某を子に持れたり。某は親に劣りて子に事を欠よといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
浮田黃門が許にて秀吉はじめ申樂見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。君先立て下立せ給ひ。秀吉が履が直したまへば。秀吉手をもて君の御肩ををさへ。コ川殿にわが展を直させる事よといはれしとぞ。(老人雜話。)
奥の九戶に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍裝のとゝのひ次第出陣し。蒲生淺野に力をそへ九戶の軍事を相計るべしと命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は當家の執權なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。それにて事辨ぜざらん時にこそ直政をつかはされば。事躰におゐても允當ならんと申す。君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北條氏直などがかゝる事をばすれ。いかにとなれば事のはじめに輕き者を遣はし。埓があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さしむる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。後年筒井伊賀守定次罪ありて所領收公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政始め數人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戶にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事のはじめにおごそかにせし事を今さら手輕くせんも。事躰に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話。)
內府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたびすでに任槐の上は。御調度などもなみなみの品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を製して進らせられければ。かしこきよし謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるがよきかと仰らる。正信先年小笠原與八カが御方に參りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに。君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して頗る大身なりしが。當家に參りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一國を己が物にせんと思ひて歸降せしをとくに察し給ひしゆへ。姊川の役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戰をせしめられし之。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし樣して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたびも豐臣家の待遇に乘て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戰せしと同じ例なりと。正信かおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊國物語。)
關白秀次違亂の前江戶へ下向し給にのぞみ。台コ院殿及び大久保治部大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に當て。太閤父子の間にかならず爭隙起るべし。さらむには太閤が方に參るべしと仰ければ。台コ院殿は謹で御承し給ひ。忠隣は當今の靜謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え在て。台コ院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんとはかりしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき樣にあつかひて太閤が方へいれ奉りし故。何の御恙もましまさで太閤も殊によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未來を察知し給ひしゆへ。かゝる不虞の變をも免かれ給ひしなり。秀次の變有し後御上洛ありしに。太閤待迎ひられ御手を取て。此度の大事コ川殿上洛を待付て處置せんと思ひしが。遲々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付ぬといへば。君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。關白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さるをかくはかなき事になされしは。おしき事ならずや。殿下いま春秋己にたけ。御子秀ョぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる變事の出來んに。關白かくしても世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此後も世の中の事みなコ川殿にまかするといはれしとぞ。(ェ元聞書。)
江城におはしませし時豐臣家の使來りて。朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。たゞ默然としておはぬ。本多正信折しも御前に侍しけるが。君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ。(常山紀談。)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は內藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫尙政。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戍らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上。卜齋記。)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は當家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の內意にて。當家の次は義宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あらば家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に從ひ奉る。太閤石田三成もて。コ川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝとなり。君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。ぞの代に政宗を後陣に押せつるなり。そもそも去年奥の岩出山佐沼の城經營の折。政宗若年といひかつ遠國者にて。何事もういういしければ。万事につきて家康が指諭をョむと有し故。こたびも家康が後に引付。過誤なからしめん樣にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せし如く當家の次に政宗と定められぬ。政宗君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の裝いかにも異樣なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の裝するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上。)
名護屋に赴かせ給ふとて。安藝の廣島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣瀉上彌兵衛。河村三藏。田大學の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。君樓上より大聲を發せられ田大學と呼せらる。大學仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大學かしこまり二人をやりし過し。己れ一人樓に上りて謁し奉る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先從を論ずるときく。いらざること之。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諫をいれよと宣ふ。大學速に立かへり直江にかくと申ければ。兼續も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざまの事はいましめ諭されしゆへ。御コに懷き從ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雜記。)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戰の樣はかばかしからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戰いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ひて彼國にをし渡り。利家氏クを左右の大將とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事はコ川殿かくておはせば心安しと有ければ。利家氏ク等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時君にはかに御けしき損じ。利家氏クにむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覺の名を取らず。今異城の戰起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸將の跡に殘とゞまつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連殿下の御先奉るべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。關白大にいかり。おほよそ日本國中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも殘る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひはなてば。一座何となくしらけて見えしに。淺野彈正少弼長政進み出て。コ川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中國西國の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北國奥方の人衆を召具して渡海あらば。國中いよいよ人少に成なん。その隙を伺ひ異城より責來るか。また國中に一揆起らんに。コ川殿一人殘りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡御あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の樣あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。關白いよいよいかられ。やあ彈正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。彈正いさゝか恐るゝけしきなく。抑應仁このかた數百年亂れはてたる世の中。いま漸く靜謐に歸し。萬民太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく國財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう龜が人にとらるゝと申譬のことく。今朝鮮をとらむとせらるゝ內に。いかなる騷亂のいできて。日本を他國の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りしとは申侍れといへば。關白事の理非はともあれ。主に無禮をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常眞前田利家などおしふさがり。彈正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ねば。君コ永有馬の兩法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事濟けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話别集。天元實記。)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉歸洛あるべしとするに及び。君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病躰心許なければしばらく歸京する所なり。朝鮮の事はコ川殿にまかせ置ば。いか樣の事出來るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はるばる浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつもてさるべく决せられよと有て。淺野彈正長政はじめ在陣の諸將をよびよせ。只今大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。大納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に歸洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよいよ當家へ心を傾けし者出來しとぞ。(C正記。)
名護屋陣中にて當家の御陣所の前にC水涌出て。外の陣所よりも人々來て是を汲ば。小屋を建番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人來りて强ちに汲取しかば。番人制すれども聽ず。かへりて惡言などいひ出しにより鬪諍に及び。おいおい侍分の者いでゝ兩方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝榊原康政二人出て制す。忠勝は澁手拭にて鉢卷し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。漸にしづまりぬ。君にははじめよりこの樣見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日當陣の見廻として。はるばる秀忠より使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ勞したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元實記。)
此卷は豐臣家聚樂の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。 
卷八 

 

慶長元年七月十二日地おびたゞしくゆりて。伏見城の樓閣悉く破損す。君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御對面ありてその無異を賀せられ。かつ速に內の御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大變にて陪從の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。コ川殿ともに參らせ給へ。その從士をかり申さめと有て。當家の陪從ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の邊おもく堪がたし。コ川殿の從臣の內に持せ給れとあれば。君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。とかうする內にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁來たれば。太閤輿に乘れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心には。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懷に入し鳥を殺す樣なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひしが。打惡しく隔たりしゆへ。間にあはでいと殘りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小氣者なれば之。小氣者よ者よと笑ひながら輿に乘られしかば。忠勝何ともいはずたゞ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。續武家閑談。)
ある時數寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶𣏐をとりあつめもてこよと仰付られ。そが內にてP田掃部が削りし𣏐六七本。筒に入て在しをとり出され。御手づから節の所より一つ一つに折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部豐臣家の內意を受て。蒲生氏クを鴆殺せし聞えありしかば。彼の所爲をいたくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元實記。)
大阪の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。君のまうのぼり給ふ道筋なれば。淺野彈正三成にむかひ。只今內府の通らせらるゝに。さるなめげの樣してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顏して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後に聞しめし。さてさてあやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。この長政は豐臣家にはゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。誠に御仁惠をかしこみ奉り。後に大坂奉行等が異圖企し時故有て武州に蟄居し。その末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年采女正長重十二歲にて江戶に參りたれば。御けしき斜ならず。同五年より台コ院殿につけしめられ。野州眞岡にて二万石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家Cが娘は御姪女なるを。養せられて長重に配せられ御待遇淺からず。おほよそ上方の大名の子弟當家に奉仕する事は。長重をもて權輿とするにぞ。又長政常に寵眷淺からず。君つれづれの折ふし長政を召出して共に碁を圍み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる擧動有しを。君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひたり。長政が身まかりしのち。しばしが程碁を圍み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと哀なる御事になん。(ェ元聞書。貞享書上。大三河志。)
慶長三年正月二日とみの事にて石C水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御愛想の事おはしませしゆへなりといへり。同じ夜關東にても御家人米津C右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をは繼ける
これは其頃豐臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆへに。當家は關東におはして。日にそひ御威コのそひまさらせ給ふにより。天意人望の合應する所より。かゝる瑞徵もおはしませしならん。(天元實記。)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納凉しておはしけるに。厨所より出入する下部の樣を御覽じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさまざまの物を懷にし。又は袂の內に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行屆かざるゆへなりとてむづからせ給へば。正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。君聞しめし。下人が盜竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そもそもそのかみ岡崎におはしませし程の御事は申までは候もず。M松にうつらせ給ひても。御分國廣大に成せ給ひしとはいへども。厨所のもの鰹節一本盜む事もならざりき。さるに當時關八州の太守にならせ給ひ。海內第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。國々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせらるゝをもて。かゝる盜人も出來れ。これぞ御家の榮へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御臺所と河のPは。いつもどむどむとなるがよいと申ごとくにて候と申せば。君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(靈岩夜話。)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志ある者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを撿出してとがむるもまた同じ樣の心なれ。其儘毁裂して捨よと仰付られしが。此後は果して絕てせざりしと之。(三河の物語。)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壺一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる爲にとて厨膳をたまひ。棋象棋双六の盤などまで遣はされ。隨分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壺二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番人等を慰勞せられ。殘の壺ども御覽じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せられし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壷を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこそ參るべきに。たゞ使にのみ渡しでよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈實におはしまして行屆かせられしゆへ。いづれも心用ひてあへて苟旦の事はなさゞりしとぞ。(紀伊國物語。)
豐臣太閤旣に大漸に及び。君と加賀亞相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比內府と共に心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀ョが十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後は天下大小の事はみな內府に讓れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す返す申されけれど。君あながちに御辭退あれば。太閤さらば秀ョが成立までは。君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は內府にョみ置つれば心やすし。秀ョ輔導の事に至りては。偏に亞相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も淚ながして拜謝し。太閤の前を退きし後に。君利家に向はせられ。殿下は秀ョが事のみ御心にかゝると見えたり。我と御邊と遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓狀を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし樣なりとぞ。(天元實記。)
太閤の遺命により。淺野長政。石田三成の兩人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々歸帆せしむべしと命ぜらる。その日の夕方仰殘されしむねあれば。高虎かさねて參謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡には留守の家老のみ在と申上しかば。君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹あるを察せられ。追々拔擢せられし程有て。萬事敏捷なる者なり。汝等聞置て後學にせよと仰れしとぞ。かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島津兵庫頭義弘泗川の戰に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に恐れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆歸帆せむと注進有ければ。高虎はしばし名護屋に在て渡海に及ばず。その年十一月に本朝の軍勢殘らず博多へ着岸す。二たび島津が勳切莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀ョ公御代始の事なれば。外々の三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て從はず。よて五奉行の人々その事申上れば。君の仰らるゝは。今秀ョ幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪ある者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれは。前田コ善院は愚僧も仰のことく存ずるといひ。搏c長盛は太閤おはせばこたびの加恩は十万石の內にてはあるまじといふにより。三成一人面あかめて在しなり。その後薩摩大隅兩國の中にて。島津に一万石まし給はりしとぞ。(天元實記。ェ永系圖)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮說區々にして人心おだやかならず。其比加賀亞相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亞相が心はわれよくしれり。さる反覆の者にてはなし。まして彼すでに病をつとめてわが方に來りしを。我遲々してゆかざらんには。かへりて世の浮說しづまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亞相もかく降臨ましませしを世に嬉しげにおもひ。病あつしくて衣裝を正すこともかなはず。されば上下をば側に置て見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す返すいひ出しかば。君にも其樣を御覽じて。哀におぼし召御淚をうかめられ。家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく還御なりぬ。亞相より家人コ山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮說もいつしか靜まりて。人心も何となく落居しなり。ある傳には。利家その子利勝をよびて。今日內府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗應の設共みなしつるといふ。さて還御の後かさねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白刄を取出し。さきに吾汝に問しとき汝さるべき答をせば。われ病中ながらも內府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず內府の掌握に歸すべし。されど汝等が事はよくよくョみ置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠ることなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戶田左門覺書。公程閑暇雜書。)
大坂の大老奉行等より安國寺惠瓊長老。生駒雅樂頭親正。中村式部少輔一氏。堀尾帶刀吉晴等を使として御舘に進らせ。近比君には故太閤の遺命に背かれ。妄に諸大名と緣を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のことく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。君聞しめして。我故殿下の終にのぞみ。幼主の事をかへすべす遺托ありしゆへ。日夜心力を盡してその爲よからんことをはかる所なり。さるに方方近比は何事も我に議し合されず。别人の樣に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたちそれがしも世にそしりを免かれなん。しかるに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穩當の所爲とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し關東へ下り。代りには武藏守をよび昇せて當地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指圖給はるべしと宣ひ。又安國寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身としてたが命を受て。みだりに三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ樣もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠瓊は面の色をかへ。わなわなふるひ出せしとぞ。同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺として伺公せしに。折しも物具取出されて御覽有しかば。この具足は故殿下の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して撿點するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に當りてたれか內府公に對し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊國物語。天元實記。落穗集。)
向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よと命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ。礫をもて打おどろかし給ひしとか。後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる惡徒どもの。燒草つみ置て燒立ることもあるものなれば。よくよく警しめねばかなはぬものなりと仰られき。向島の本邸におはしまして。古城の營築せしめ給ふ比。夜中など俄に路次口裏門などよりしのびて川岸まで出たまひ。江戶町といふ所にある小M與三カが家より御船にめして。向島の堤にのぼらせたまひ。向島におはするかと思へば。又俄に本邸に還らせられ。おほよそ一夜の內に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈從の者も親しきかぎり三人か五人に過ず。餘はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前橋聞書。卜齋記。)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備嚴重なり。御門を明て御長柄鐵炮など修理す。新庄駿河守直ョ伺公して。かゝる時はいかなる急變あらんも側り難し。御門を閉しめ給へといふ。君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄關にて用意するがよしと宣へば。直ョも盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ。(落穗集。)
ある日向島の御舘へ。加藤細川の人々伺公して武邊の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと上意之。定政君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せしなどゝかぞへ立て。つぎつぎ物語せしかば。君の御武功はおのづから言をまたずして顯はれしとぞ。いかにも御稱譽の樣。よく其躰を得しと人々感じて。かく武功のものおほく持せらるれば。終末にこの君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土產。)
細川越中守忠興は兼て當家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が姦計にくみし。彼等の內議を聞出して一々言上す。ある日長束大藏大輔政家忠興にむかひ。今宵內府が舘を襲はむと群議已に一决せり。御邊も力を合されよといふ。忠興云。內府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戰をしかけなば。いかに利を得むやといつて從はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御舘に參りて。しかじかの由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つれ。もしさらむにはわが舘に火をかけ。東北の廣地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武コ大成記。)
おなじころ伏見の御舘淺まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六條門跡を御ョ在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずは京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど。とりどり議しけるに。君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。家康は敵を恐れて落たりなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の樣もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方のものもあへて手を下す事もならざりしとなり。この時井伊兵部少輔直政。關東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも在ん。もし不虞の變あらんにも。此人數にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。コ善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを內府はいさゝか御動轉なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき樣して沈靜持重しておはせしは。なかなか名將にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊國物語。三河之物語。)
加藤主計頭C正。同左馬助嘉明。淺野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。K田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戰にいづれも千辛萬苦して軍忠を勵み。武名を異城にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。歸陣の後太閤へさまざま讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人會議して三成を打果し。舊怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騷擾に及び。三成も窘窮してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義氣あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に來り。向島の御舘に參りてさまざま歎訴し奉れば。君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾ましまし。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰下されしは。當時秀ョ幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尙更なるべし。三成が舊惡はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。當地へまで逃來りし上は。おのおのの宿意もまづ達せしなればこれまでに致され。此上は穩便の所置あらむことこそあらまほしけれとの御錠なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳來り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて從服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そもそも三成當家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし救濟せしめたまふ御事。さりとはェ容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元實記。)
後年駿河におはしまして。今の世に律義の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律義なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の內に佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大阪にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶持してわが方へ來り。さまざまこひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ目を付置。万一違變あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍裝して在しとなり。これは誠の律義人といふべけれ。關原の時は何れへもつかず國に蟄し兩端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に屬し忠勤を抽んでむには。本領はそのまゝに遣し置べきに殘りおほきことなり。とかく律義はよけれども。あまり律義すぎたるといふには。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有しとか。(駿河土產。)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豐臣太閤の命により肥前名護屋に赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事をあはれませ給ひ。さまざま申たまひ入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家臣伊集院源次カ忠眞日向庄內の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄內の地圖を御覽に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば俄に責落さむとせば。かへりて士卒あまた損ぜん。日を曠して糧の盡るをまたばおのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の事なれば血氣にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を傷はざらむ樣にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(ェ永系圖。)
慶長四年九月九日重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異圖あるよし群議まちまちなれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。櫻の門迄おはしませし比。門衛の者扈從のものおほしとてとがむれども聞入ず。搏c右衛門尉長盛。長束大藏大輔正家出迎て案內し奉る。井伊本多等十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄關に伺公す。かくて奥方に通らせたまひ。秀ョ母子に對面したまひ。御盃ども出てとりどり御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其樣儼然たれば。城中にもかねての相圖相違して。敢て異議に及ばず還らせ給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舍者共にも見せ度と在て。酒井與七カ忠利をもて御供の者悉く召よばれて見せしめられ。內玄關より靜にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへどもいさゝか御平常にかはらせ給はず。人なき地をゆくがことく御處置ありて。鎭靜をもて騷擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるゝにぞ。(慶長見聞書。)
此卷は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騷擾の事どもをしるす。 
卷九 

 

慶長五年會津の上杉御追討の儀仰出されしころ。大坂の奉行人等いづれも。連署をもて御出馬を止め奉りけるは。近年東國打續き凶饑にして兵食もともしく。其上雪天にもさしかゝらば諸軍艱困すべし。當月はまづ思ひ止らせ給へといへども聽せ給はず。加藤主計頭C正も山岡道阿彌に就て諫め奉る條件には。第一當時かしこくも內府の重任を御身に負せ給ひながら御親征に出立せ給ふは。あまり輕忽の御擧動と世の人思ふべし。第二には今の御老躰にて。長途の御旅行いとゆゆしき御大事なり。第三には御出陣ありし御跡にて。奉行人等景勝といひ合せ。東西より一時におこりなば。御進退頗る難義なるべし。さらむよりは細川。福島。K田。池田。藤堂等の人々に征討の事仰付られ。それにてもいまだ御心危くおぼしめさば。伊達政宗。最上義光。堀久太カなどそへ給はゞ。いとたやすく軍功を奏すべし。御親征はとゞまらせ給へとなり。君聞しめし。C正が申所はさる事ながら。われ弓馬の家に生れ若年より戰塲をもて家としぬるに。近年かゝる重任をうけ軍旅の事みな忘れ果ぬ。幸こたびの征討は老後の思ひ出なればいさましくおもふなり。東西に敵起りたるとも何程の事かあらん。心安く思はるべし。C正には軍略智勇天下にその倫なし。こたび伏見に在て禁闕を守護せしめたくは思へども。筑紫邊の事心許なくおもへば。いそぎ歸國あつて其用意せられよと仰下されしかば。C正それがしも諸將と共に。東國の御先鋒奉はらんとこひ奉れども御ゆるしなし。遂に暇給はりて肥後國に下向しけるとぞ。(明良洪範。)
上杉御追討に立せ給はんとて。大坂の西丸にて諸人謁見し奉りしに。渡邊半藏守綱をめし。南蠻より舶來せし鳩胸の鎧に椎形の胄を賜ひ。汝年比忠勤を盡せしにより。殊更の思召もてこれを賜れば。この鎧着し一しほ若やきて。こたびの御先仕れと有て。附属の足輕五十人まして百人になされ。御供命ぜられしとぞ。(貞享書上。)
會津御追伐として下らせ給ふとて旣に大坂を打立せたまひ。伏見の城に御とまりありけるも。六月十七日の夜のことにて。鳥居彥右衛門元忠御前にいでゝ何事やらん聞えあげゝる。後に今度當城の留守人數少にて。汝等一しほ苦勞ならんと仰有けるに。彥右衛門申上けるは。恐ながら今度會津御進發は大切の御事なれば。御人數一騎も多く召連られてこそ然るべけれ。內藤彌次右衛門家長。松平主殿助家忠も御供命ぜられ。當城は本丸をそれがし守り。外郭を松平五左衛門近正に守らしめ給はば兩人にて事たるべしと申せば。そはいかゞと仰ありければ。元忠重て申けるは。今度御進發の御跡にて今日のことく平穩ならんには。それがしに近正兩人にて事たるべし。もし又世の變出來り大軍にとりかこまるゝに於ては。近國に後詰せん味方はなし。たとへ此上五倍七倍の御人數を殘し置せ給ふとも落城せんは疑なし。されば御用に立べき御人數を無益に留守させ。戰死せしめむこと勿躰なく存ずる故。かくは申上なりと申ければ。其後はとかうの仰もなく。其かみ駿河の今川のもとに人質として宮が崎におはしましける時。君は御十一元忠は十三にて。艱苦を共になし給ひし事など仰出され。御物語に夜もふけたれば。明日は定て早く御進發有べし。短夜に候へばはや御寢遊ばされ候へと申ながら。先も申上し如く會津表御進發のあとにて。上方筋别儀もなく候はゞかさねて見參すべし。もし又世の變も候はんには。これぞ今生の御暇乞にこそ候べけれとて。御前をまからんとせしが。老人長座して立兼し躰を見そなはし。小姓に命じ手を引て退座せしめ給ひしが。其跡にて近臣等御側へ出て見奉れば。しきりに御袖にて御泪をのごはせおはしましけるとなり。(落穗集。)
案に關原軍記に。元忠は御落泪ましましけるを見て井伊直政にむかひ。我君は御齡やうやうたけ給ひ御心臆し給ふにや。御少壯より駿遠三の合戰に險阻艱難を盡させ給ひ。今天下分めの御大事にいたり。御家人の身命をおしむべき時にあらず。それを我々が命を捨む事をいたましく思召は何事ぞや。われわれ如きが五百か千の命を捨む事。何のいたましき事あらんと大にのゝしりたりとしるしぬ。さる事もありしにや。
伏見を御立有て京極宰相高次が大津の居城に立よらせ給ひ。高次晝の御膳を獻ず。高次が內室。(崇源院殿御姉。)松の丸殿に始めて御對面あり。又高次が家人K田伊豫。佐々加賀。多賀越中。瀧野圖書。山田三左衛門。同大炊。赤尾伊豆。安養寺聞齋。今井掃部。岡村新兵衞等をめし出され夫々名謁し奉る。其內に淺見藤兵衛といふ名は兼て聞召しらせ給ひ。かれはしづが嶽にてはなきやと宣へば。高次仰の如く以前柴田が方に仕へ候と申す。君かれがことは年頃聞及びし者之。高次には元より士を愛せらるゝ故名ある者多く持れ。末ョもしき事かなとのたまへば。かの家のカ等ども承り傳へて。我等が事までかく御心にとめらるゝは。かしこき御事なりと思ひ。後に東西軍起りて高次籠城せし折も。諸人一しほ勇氣を勵ましけり。わづかの御一言にても。人心を興起し給ふ御事いとたうとし。(落穗集。)
大津を立せられて江州石部に宿らせ給ふ。水口の城主長束大藏大輔政家父子御旅館まで出迎へ。明日己が城中に於て御茶を獻るべし。願くは御駕を停め給へと申す。君其志の程を謝せられ。御腰物を賜ひて政家をかへさる。其夜戌の刻ばかり密に告者のありて。俄に石部を御立ありて。水口をばまだ曉深く過させ給ひ。御跡より渡邊半藏守綱を御使として水口に遣はされ。兼ては其居城に立よらせ給はんあらましなりしが。とみの事出來ていそぎ出立せ給ひぬ。いと殘りおほくおぼしめすよし仰せ遣はさる。政家大に驚き即ち守綱とともに追付奉り。井伊直政もていさゝか别心なきよしを聞え上しかば。御輿の側にめしてねもごろの仰あり。たゞ急事によて違約に及びしなり。いさゝか心にかくる事あるべからず御歸陣の折は必立よらせ給ひ。目出度御茶をもこはせ給ふべしなどねもごろに宣へば。政家もかしこみて犬山まで送り奉りしなり。この折しも石田三成は同國佐和山にありて。政家と牒し合せさまざま思ひまうけし事どもありしが。かく意表に出て神速に通御ありしゆへ。彼等が姦計はみな齟齬せしとなり。この時御供のものいづれも刀の下獅ノ火をくゝり付て通れと命ぜられしが。水口の土人是を見て。關東勢の鐵炮の數は。さてさておびたゞしき事よとて皆驚懼せしとぞ。(關原大成。武コ安民記。武功雜記。)
此度下らせ給ふ比の事なりしが。ある夜近臣等御側に伺公して御物語ありしに。此頃世上にて當家のうはさ何と申ぞと仰られしかば。米澤C右衛門正勝さらに正躰なしと申候。そのゆへは世にしるごとく。東西に敵をうけておはします事なれば。大坂の奉行等が人質を取かため諸大名も引付給ひ。伏見の城にもおほくの御人數をこめられ候上にて。會津の御進發あるべきを。さる事もましまさでたゞ御進發をいそがせ給ふは。さらに御正躰は候はぬと申ものと我等も存奉ると。さもにがにがしく御顏を犯し。思召にさはれかしと申上けれども。さらにかはらせ給ふ御氣しきもなかりしとぞ。また東征の御道すがら軍事にはいさゝかも御心をとめさせられず。朝夕たゞ鷹の手當のみを事とし給ふ。本多忠勝かくては當家の破滅近きにありと申せば。いやとよわが此ごろうつけたる樣に見ゆるは。かくせでかなはざればなり。まてまて今に汝等もよき事あらむと仰られしが。果して仰のごとく符合せしこそありがたけれ。(永日記。酒井家舊記。)
駿府の城過させ給ふに。城主中村式郡少輔一氏はこの頃膈を煩ひてあれば。此度東征の御供にも供奉かなはざるよし申て在城しける故。村越茂助直吉をもて一氏が病躰を尋たまふ。一氏しきりに御立寄をこひ奉れば城內に入せたまひ。城代田內膳が宅にて晝の御膳を奉る。一氏は歩行もかなはざれば人に負れながら。やうやう御前へいざり出て見え奉る。はじめのほどは一氏が病を申立て。御供を辭し申かと疑はせ給ひしが。此躰を見そなはして實にも哀とおぼしめし。一氏が手を取せ給ひ。かくまでの事とは露しろしめさず。今さらおどろき思召よし懇の上意ありて御淚をそゝぎ給ふ。一氏もなみだながし。この年頃御隣國をかためて每度失儀に及びしは。全く主命のもだしがたき所本意にあらず。こたび病あつしきにより御供にもるゝ事。老後の口おしさ是に過ず。愚息一學いまだ幼稚なれば。舍弟彥右衛門一榮を御供に奉るよし申。なからむまでの事をョみ奉る。今迄國境をかため抗衡の力をつくせしは。各其主のためにする所。いさゝか御こゝろにかけさせ給はず。一學が事は我かくてあらんほどは。心安かるべしとの仰を蒙り。そが家臣新村加兵衛。大藪新八カ。小倉忠右衛門三人を御家人になし申たきよしねぎければ御ゆるしあり。後に三人とも江州蒲生郡にて采地を賜ふ。かくて一氏には備前長光の御刀を下され。それより三枚橋の城にて一榮夕の御膳を奉り。一氏が病躰とても出陣はかなふべからず。汝兄が陣代勤むべしとて信國の御刀を給ひ。これより供奉に列せしとぞ。(關原大成。東武談叢。)
本願寺の光佐が。先妻の腹に設けし嫡子を光壽といふ。後妻の生し次子を光照といへり。光佐が死せし後豐臣太閤その後妻が美婦の譽たかきを聞及ばれ。めしよせて寵眷せられたるより。光照をもて光佐が嗣とし本願寺を繼しめ。光壽をば早く隱居せしめ。眞常院とて子院の住職となさしむ。光壽も我身犯せる罪もあらで面目をうしなひしを。君にも兼てさるまじき事とおぼしめしたり。さるに此度の戰の前に及び。光壽京を出て關東へ赴き金川の御旅舘にて見え奉り。愚僧が門徒の者ども美濃近江の間にあまた候へば。此度彼等に一揆をおこさせ。御味方をなさしめんと申せば。君その心ばへは奇特に思召せども。一揆の事はまづ無用にいたされ。御僧は是より江戶におもむきて滯留せらるゝとも。又は上方へかへらるゝとも。心まかせにせらるべしと仰られたり。其頃K田長政もまた一向門徒をして。上方に蜂起せしめむと勸め奉りしに。われ賊徒を誅するに。何とて法師の力をからんやとて聞せ給はず。其後慶長七年光壽が事不便に思召。特更の御執奏にて光壽を門跡になぞらへ。别に東六條に伽藍を營建して。一刹を開かしめ給ひしかば。光壽は彌陀如來の弘慈も是には過じと。世にかしこき事と思ひ。これより此宗東西兩派に别るゝ事とはなりしなり。(岩淵夜話。)
下野國小山の驛に御陣をすへられ。景勝追討の御計略をめぐらさるゝ所に。伏見を守りし鳥居彥右衛門元忠が許より注進しけるは。近日石田治部少輔三成其居城佐和山を出て大坂に赴き。同意の諸大名をかたらひあつめ。偏に當家を傾け參らせん結搆とおぼえたり。さだめて近日此城に責寄るべし。城中の御家人みな志を一致にして。堅固に拒ぎ守れば御心安かるべしとなり。君聞しめし驚き給ひ急に御使をもて。こたび從行の諸將を御本陣にめしよばれ。井伊本多の兩人もてかの注進狀を見せしめ給ひ。三成事昨年以來の恥辱を雪がむとて。異圖を企て諸大名をかたらふと見たり。景勝も定めて同意ならん。この事彼が心中より出しはいふまでもなけれど。秀ョが爲とある上は各も其命に背かむ事かたし。ましていづれもの人質大坂にあれば。それをすてゝ家康にくみせられん事。我ながら心ぐるしく思ふなり。抑軍國の習にて。けふは味方と見えしもあすは敵とならんことめづらしからず。されば今人々大坂にかへられんとも。家康などか怨を挾むべき。速に是より引かへして大坂へ赴るべし。路次の煩いさゝかあるべからすと。辭をつくして仰らる。そのとき何れもとかうの御答もせざる內に。福島左衛門大夫正則一人進み出。內府の仰はさる事なれども。此度の事全く三成が計より出て。天下を亂さんとするにまがひなし。人々はいかにもあれ。正則に於ては內府の御味方して。かの凶徒を誅戮せんと有ければ。K田甲斐守長政傍より。左衛門大夫が申さるゝ如く。某等も今更凶徒に與せん所存かつて候はず。たゞ存亡を。御當家とともにすべしと申ければ。其外一座の面々いづれもこの人々のことく。御籏下に從ひ奉らんよし各誓書を奉りけり。此事のはじめひそかに長政を御陣にめして。御密議あらむとせしに。長政とくに正則が陣所にゆきて。さまざまいひこしらへてのち。御陣に參りかくと申上ければ。御けしき殊にうるはしく。長政が忠誠にしてかつ才略あるを感賞し給ひけり。かゝれは會議の時に及び正則一番に御請申し。その外の人々もみな御味方に屬せしなり。(關原大成。藩翰譜。)
上方の軍議已に一决しければ。景勝が押には結城三河守秀康主を殘さるべしとおぼして。松平玄蕃允家C御使として。その旨仰遣はされしに。秀康主大にいかられ。上方の戰を打捨て此表に殘りとゞまらん事思ひもよらず。たとひ父君の仰なりとも。此儀には從ひ奉りがたしとて。御家臣梶原美濃守。原隼人兩人を玄蓄允にさしそへて御本陣に參らせ給ひ。上方出陣の事御願あり。君かの兩人をめし。三河守が年若き心にはさこそ思はれんも理なれ。御直に仰聞らるべき旨あれば。いそぎ御本陣に參らせ給へとあつて。來らせ給へば。御對面の上にて仰けるは。此度上方の敵は何十万騎ありとも。みな烏合の勢にて何程の事かあらん。抑上杉が家は謙信入道より已來。弓矢取て天下に並ぶものなし。景勝又幼弱の昔より軍の中に生長して武名遠近にいちゞるし。今かれに向てたやすく軍せむ者あるべからず。さるをおことがかたきにとらんは。此うへなきめいぼくならずや。その上此度上方へむかふ人々。又はその家人の人質みな江戶にとゞめつれば。もし關東の守かたからずば。諸人の心もおのづから堅からずして勇氣振ふべからず。彼是につけてもおことこの地にとゞめずしては。かなはざるなりと宣へば。守殿も終に領承し給ひければ。君も世に嬉しき御樣にて御淚をながしたまひ。御みづから御きせなが一領取出したまひ。扨此鎧は家康がまだ若かりし頃より身に附て。一度も不覺を取たる覺へなし。父が佳例になぞらへ。今度奥方の大將承て。名を天下に揚たまへとて進らせ給へば。守殿も心とけて御心地よく御受したまひしとぞ。このとき本多佐渡守正信守殿の御側にすゝみより。よくも殿は御受申させ給ひたり。大殿をして一統の功を立させ給ふも。此御うけの御一言にて定まりぬ。天晴內府の御子にてましますぞとて。御膝をたゝき立てスびしとぞ。さて後に守殿にも軍の機要を仰示されしは。景勝もし打て上るとも。宇都宮の邊にて支給ふな。やり過して利根川をこしたりときゝなば。諸勢一度に押出しその跡をつけしたはゞ。敵かならず取て還すべし。其時諸勢を下知して。一戰に雌雄を决し給へと仰られしとぞ。(武コ大成記。藩翰譜。)
津田小平次秀政はじめ織田豐臣兩家につかへ。この時君の御供して小山まで來りしが。上方の注進を聞せたまひ御けしきよからず。御側に伺公せし者も何といはむ樣もなくて在しに。秀政進み出て。やがて上方の逆徒を誅伐し。安國寺が調度を沒收せられんに。かれが珍藏せる肩衝の茶入を賜はらば。是をもて朝夕茶事を專らにし。大平を樂まんといひ出しにより。御けしき直り。いかにも汝が願をかなへてとらせんと仰られしが。後御勝利に屬しければ。兼て御ゆるしのごとく。かの茶入をば秀政に下されしとぞ。(家譜。)
小山の御道すがら近臣に向て。われ麾を忘れたり。あれなる竹林に入て。串になるべき小竹を伐てこよと命ぜらるれば切て奉りしに。帖紙をとり出給ひ。御鞍の前輪に當て切裂給ひ。竹にゆひ付て二振三振うちふり給ひ。景勝を切靡けんはこれにて足ぬべしと仰られ。後にまた還御のとき彼竹林を見そなはし。上方の敵を破らんは麾も無用なりとて打すて給ひけり。其折東西に大敵起りしかば。人心何となく恐れはゞかる樣なれば。かゝること仰られて人心を鎭壓したまひしなるべし。(常山紀談。)
小山より還御の折洪水にて。利根川の舟橋推流しければ。代官等かけ直さむかと伺ひしに。舟橋は全く會津に向により。諸軍の便よからしめん爲にかけしなり。上方へむかふには無用なれば改架に及ばずと仰有て。小山と古河の間にある乙女川岸より御舟にめされ。西葛西につかせられ。江戶へ御歸城ありしかば。人々その迅速なるに感じ奉りしとぞ。(士談會稿。落穗集。)
花房助兵衛職之といひしは。はじめ浮田黃門に仕へしが。かの家臣等が訴論の事により佐竹義宣に預られ。此度佐竹が方をのがれ出て御陣に參りければ。君こたび義宣石田にくみし打て出べきやと問せ給ふ。職之承り。義宣はきはめて持重の人なれば。切て出る事あるべからすと申す。さらば義宣かならず出まじといふ誓狀を書て奉れと宣へば。職之承り。父子の間といへども人心は計りがたし。この儀は御ゆるし蒙らんとて書て進らせず。君近臣にむかはせられ。助兵衛は兼て聞及びし高名の者なるが。將器にあらずと仰けるを。一座にありあふ者。何ゆへかゝる事仰らるゝかとあやしみ思ひけり。其後職之生涯落魄して終りぬ。後に人に語りしは。かの誓狀を奉れと仰せられしは。全く三軍の心を安からしめむためなれば。書て奉りし後にもし佐竹が打て出たりとも。何か苦しからん。さるを我心おさなくて。あまりかたくなにいなみて。誓書を奉らざりしこそ今さら遺憾なれ。名將の一言半句もおろそかには承るまじき事なりといひて。いとくひ思ふさまなりしとぞ。(忠士C談。)
案にこの職之後に大阪の役まで生ながらへ。松平左衛門督忠繼が手に屬し。肩輿に乘て出て拜せしかば御けしきよく。さすが平日武邊をふむゆへ。老かゞまりても出陣せしは。大剛の者といふべしと御感あり。またその子の池上本門寺に喝食と成て居しを召出され。榊原康政が一族に准へ。榊原左衛門職直とて台コ院殿につけらる。一旦御けしきに違けれども。其武功をば忘れたまはざるゆへなり。
伏見の籠城に佐野肥後守忠成は。兼て後閤の女房だち阿茶の局などあづかり奉りて本丸に在しが。大阪の奉行等より申むねありしかば。かの人々を伴ひて城を出。大和路へて相知れる者の方にあづけ置。引返して鳥居內藤等とおなじく討死す。此よし聞しめして。彼わが命をうけて女どもを預りたれば。それを守護してともかくも時宜に應じてよきに從ふべきを。いかなれば己が預かりし者をば人手に渡し。そが任にもあらざる籠城して戰死せしは。忠が忠に立ずおしき事なりと仰られけり。かゝるゆへにや死後にその祿三千石を收公せられ。子の主馬成職に俸米五百俵賜りけるとぞ。(續明良洪範。家譜)。
小山より江戶へ還御あると直に。上方へ御出馬あらんと一同思ひ居たりしに。御陣觸有し上にて廿日あまり御滯留なり。されどその間御家人へ命ぜられしは。何時によらず俄に御出陣あるべきも計らざれば。いづれも懈怠なく相守。御城の宿直に當りし節は。番所より直に御供せむ心組して上直せよと。その頭々よりいひ渡せしゆへ。いづれも草鞋路錢まで腰に付て宿直にいで。又二三日づゝ隔て番士を頭の宅へよびよせ。御供の用意油斷なき樣にいましめとなり。其折は御玄關の前塀重門の內には新に鎗立を作らしめ。虎の皮の御長ネ鑓を立ならべ。御書院の床の上には御馬印を立置れ。即時にも御出陣あるべき樣にて在しとなり。(落穗集)。
御出陣の前かた搶緕尅カ應和尙御前にいでゝ。この度御出馬により御領內の寺社にて。怨敵退散の御祈禱命ぜられんかと伺ひしに。いづれの寺社がよけむと仰らる。鎌倉の八幡宮こそ第一なれと申す。此神はわが若年の頃より朝夕祈念すれば。今改めて祈禱に及ばず。幸ひ靈武の神なれば常陸の鹿島大明神佛にては兼ての祈願寺に申付たれば。淺草の觀世音しかるべしとて。兩所へわきて祈誠懇丹を抽づべきよし。宮司别當等へ仰下されぬ。こは鎌倉右幕下平家追討の節の舊躅を遵行せられしなりとぞ。さて九月朔日より祈禱興行し一七日滿願により。兩所より使もて符籙を奉りけるが。十四日の夕方に岡山の御陣までもて參りしに。その日は中村右馬の手の迫合にて御陣混擾しければ。明日奉らむとてひかへしが。十五日は早朝よりの大戰にてその暇なし。十六日の晚方藤川の臺の御陣へ參りて捧ければ。御けしき大方ならず。已に御勝利の上は兩人とも馳歸り。この後は怨敵退散の祈を止め。天下安全の精誠をぬきむづべしと仰下されしとぞ。(天元實記。落穗集。)
先鋒の諸將海道打て馳上る內に。K田長政には仰聞らるべき事のあれば立歸るべしと。奥平藤兵衛貞治もて仰遣はされ。藤澤のこなた厚木といふ所にて。藤兵衛追つき其由申せば。長政引返し其夜御前に出しに。福島左衛門が心なを計り難しと宣へば。長政承り。かれ元より石田治部と不和なれば。更に御疑あるべからず。もし别心も候はんには長政いかにも異見を加へ御敵にはなし申まじ。其上にも聞ざらむには。それがし彼とさし違へんのみ。ともかうも正則が事に長政にまかせ給へと申せば。御けしきうるはしくて。長久手の戰にめされし齒朶の御胄に。鞍置る馬を長政に賜はりけりとぞ。(校合雜記。)
岐阜の城攻の撿點として。安藤治右藤門定次を遣はされ。戰訖て定次江戶へ參り。上方の諸將岐阜を攻落し。合渡の戰にも打克しと申上しかば。合渡より呂久川までの間に討れし敵の死骸は。いづれの方へむかひて在しと尋給ふ。みな大垣の方に向て臥したりといふを聞せられ。さては味方追討せしに疑なしと仰られて。御けしきうるはしかりしとなり。(古事談。)
此卷は會津御追討に下らせたまひ。下野小山より江戶に還御ありしまでの事をしるす。 
卷十 

 

上方の逆徒御誅伐の御出陣九月朔日と仰出されしに。石川日向守家成朔日は西塞なれば。日をあらため給はんかと聞え上たりしに。西方ふさがらばわれゆきて是を開かん。何のはゞかる事かあらむとて御出馬ありし之。この春奉りし年筮を占せられしに。習坎の初六を得させられしとか。其時前後に大敵を受けたまひし姿は。坎卦の爻の辭に云重險に陷とも申すべけれども。よく恐戒おはしませしゆへ。終に凶を轉じて吉になされしならん。(武コ大成記。武邊咄聞書。)
江戶を御首途の日外櫻田の御門にいたらせられしころ。濃州岐阜より井伊本多の呈書來り。去る廿五日石田治部が手の者を福島正則が家人うちとりしとて。その首級入し桶品川まで到來せしよし注進あり。搶緕宸フ門前にさし置べきよし命ぜられ。やがて御發駕あり。その比芝神明の社はいと小祠にて。本祠の前にわづかの拜殿あり。それへ渡御なりてかの首ども御覽じ。御門出の吉兆なりとて御けしき斜ならず。また搶緕宸ヨ立よらせ給へば住持の存應迎ひ入奉り。本堂にて御拜あり。しばし御やすらひありて程なく立せられしぞ。(武コ大成記。大業廣記。)
此度の御出陣いとしのびやかにおはしまして。御旗もしぼらせ御籏印御馬印も目に立ぬ程にせられ。三島に着せらるゝと。御馬印は熱田へもてゆけと仰せて。奉行人もそはでたゞ御小人ばかりにて御先へまかり立。大垣に着御ありて後はじめて旗幟などをし立て。いとおごそかに見えければ。上方勢はじめて目を驚かせしとぞ。(聞見集。卜齋記。)
岐阜に御着陣ありしとき厚見郡西庄村龜甲山立政寺の住持。大なる柹を献りけれぱ殊にめでさせたまひ。はや大垣が手に入たるはと仰られて。その柹をまきちらして近臣等に賜りければ。いづれもあらそひて給はりしとぞ。(天元實記。)
御進發の御道すがらさる僧をめして。汝今度の戰は勝敗いかにあらんと問せられしに。此僧答けるは。果して御負軍なるべしと申す。そのゆへいかにとなれば。大敵をたゞ一時に挫べしとの思召御表にあらはれ候。かくてはかならず御勝利あるべからずと申す。扨は何と思案してよかるべきにやと仰らるれば。願くは天下安泰に伐治め。萬民塗炭の苦を免かれしめ。諸寺諸社の頽廢せしをも興隆せむと。大悲の御兜に忍辱の御鎧をめされ。たゞ天地神明のために逆賊を征討せしめむ思召にさへましませば。御勝利疑あるべからずと御請せしかば。これ至極の理なりと感ぜさせ給ひ。この僧を戰塲にめしぐせられ。敵味方の戰死の者どもを。ねむごろにとむらはしめられしとぞ。(新著聞集。)
按に新著聞集に。關原の御道にて旅僧に行あひ給ひ。この說を尤と聞召軍陣にめし具せられしが。この僧後に搶緕宸フ觀智國師といふよししるせしは誤なり。源譽はこの時すでに搶緕宸フ住職し。また關原御出陣に寺社祈禱の事など勸め奉りし事もあれば。その時の事誤傳せしなり。
水野六左衛門勝成は井伊本多の指揮によて。曾根村にありて大垣の敵の鎭壓としてありしが。岐阜に御着あるを承り諸將とおなじく待迎へ奉る。君勝成にむかはせられ。曾根は險要の地ときく。諸手の人夫をもて兩三日のうちに。古城を改築せむ事なるべきやと尋給へば。勝成何ほど大勢にても中々五六日にはなりがたしと申す。さらば汝はこれまでのことく曾根にかへり備へよと宣ふ。勝成某はじめ御出陣まで曾根にあらむと中書兵部の兩人に約しつれば。いま御着のうへは御旗下に候ひて。戰功をはげまさんといふ。君汝などは外々の者とかはり。とにかく我等の事第一におもふべきを。己が一箇の功をのみ立むと思ふは。汝には似つかはしからざる事かなと警め給ひしかば。勝成理に服してまた曾根に引返せしとぞ。また坂崎出羽守成政戰の前かた御前にて。此度は某精力をつくして戰功を抽むよし申上しかば懇の御謝詞あり。近臣等出羽がしれたる事申すに。あまり御優待に過たる御答かなといへば。あの樣なる者には此樣にいふて置がよしと仰られしとか。(落穗集。武功實錄。)
九月十三日岐阜につかせ給ひ。翌朝御出立ありて御陣押の樣を敵に見せまじとて。大垣の方をよきて長柄川呂久川を渡りこし西の保山をへて。赤坂の後なる虛空藏山と南禪寺山との間なる余池越を通らせ給ふとき。諸大名御途中まで出迎ひて謁し奉る。この時御輿のうちより南宮山につゞきし敵のさまを御覽じ。御輿の傾く程御頭を出され。御またゝきもなく見めぐらしておはせしに。柳生又右衛門宗矩近よりて。此度御上意めでたし。いづれもこれにさぶらふと申せばはじめて御心づかれ。おのおの太儀に思しめさる。明日は早々戰を始むべし。かならず勝利ならむと宣ひしとなん。この時本多忠勝御輿によりて。筑前中納言秀秋御味方せむとK田長政をもて申出。すでに人質も取かはしぬと申す。何と秀秋が返忠するとか。さらば戰はすでにかちたりと高らかに仰ければ。諸人これを承りてよろこび勇むことかぎりなし。戰に及びて小西助右衛門正重。(家譜助兵衛或は助大夫とす。)西尾伊兵衛正義兩人を秀秋が備へし松尾山につかはされ。かの陣の體をうかゞはしめしにかへり來て。秀秋いかにも裏切すべき樣なりと高聲に申上ければ。その時は。かゝる事はひそかにいふべきものなれ。もしさなからむには。諸軍の氣をくるゝものなりと仰ありしとなり。(K田家譜。前橋聞書。古人物語。)
十四日大垣城中よりこなたの御出陣の樣を伺はしめんとて。浮田石田の家人ばら株P川を渡りて刈田をすれば。中村一學忠一が手の者出合てこれを追退け。川を渡りこす樣を御覽じ。あれ川切にをひとめはせずしてと仰らるゝうちに。果して又敵に追返されければ近臣にむかはせ給ひ。我等がいはぬ事か。あれを見候へとのたまひ。井伊兵部少輔直政。本多內記忠朝に仰付られ。諸勢を引上させ給ひしとなり。この迫合に有馬玄蕃頭豐氏が家人稻次右近。敵方山監物に組伏られし所を。右近が若黨監物を引倒して己が主に監物が首をとらせける。かゝる所にまた何者か來りてその若黨の首切てにげ去りぬ。後に御糺しあれば堀尾信濃守忠氏が家人の由なり。またく味方伐の事ゆへ右近その旨訴出しに聞召。何をいふぞかゝる打込の軍にはさる事もあるものぞ。その儘にてすて置と仰けり。同じ時敵方に白しなへの指物させし者。幾度となく後殿して引き退きし樣いかにも殊勝に見えければ。あの白しなへが武者振を見よと度々仰られしとぞ。これは石田がうちに林半助といひしものなりとぞ。(天元實記。)
戰の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か麓か山かといふを。山は山麓は麓といふべしと仰出され。又總軍の左の肩に角取紙を付られ。味方打なき樣にすべしと命ぜられしとぞ。(落穗集。)
十四日の夕方右筆關左馬之助をめして。明日軍果し後に關東へ遣はさるべき御書各狀三通に。江戶留守の者への連狀一通を認むべしと仰付られ。十六日藤川の御陣にて昨日の書狀はと宣へば。左馬之助かねてしたゝめ置しを御覽に備ふ。あて所は三河守秀康主。伊達政宗。最上義光へ一通づゝ。江戶の御留守は本城新城ともに連名に認むべしとありて一通殘りければ。左馬之助こは佐竹義宣が方へ遣はされんかと伺へば。いづかたへもつかぬものをと仰らる。左馬之助いづれへもつかずば猶更つかはさるゝがよけむと申す。いやいやとの仰にて。さて汝この狀をかきしに今十五日と書きしはさる事なれど。巳の刻とまで前方より時刻をはかりてかきしは。いかなるゆへかと問はしめらるれば。左馬之助敵は大軍味方は小勢なれば。巳の刻より午の刻まてにかたせ給はずはかならず御負なるべし。さらば御書も不用なりとおもひて。かくはしるし侍りぬといへば。御笑ありしとなり。この左馬之助元來善書のみにあらず。その才覺も御意にかなひければ。四百石賜はりて右筆の組頭のごとくにてありしが。後にまた加恩ありて使番になされしとぞ。(靈岩夜話。)
十四日の晚かたK田長政より。家臣毛屋主水をもて言上の旨あり。御前へめし出し御物語あり。敵は何ばかりあらむと問せ給ふ。主水御陣の緣のはしによりながら。某が見し所にては二三萬もあらむかとおもはるゝと申す。そはおもひの外の小勢かな。外々の者は十萬もあらむといふに。汝一人かく見つもりしはいかにとあれば。仰のことく總勢は十萬餘もあらむなれども。實に敵を持し者はわづか二三萬にすぎじといふ。こは金吾毛利の人々。かねて御味方に參らむといふを內々傳へ聞てかく申せしゆへ。君にも思召當らせ給へば殊に御けしきにて。御前にありし饅頭の折を主水に賜ふ。主水戴き御緣に腰をかけながら。饅頭を悉くくひつくしてまかでしなり。跡にて御側のものに。かれが本氏を尋置べきにと宣へば。毛屋主水と申す。いやとよ彼が毛屋を氏とせしは。越前の地名にてその本氏にあらず。毛屋にて軍功ありしゆへ。地名をもて氏とせしなりと仰せらる。末々の陪臣までの事をいかにして御心にとゞめられしとて。御强記の程を感じ奉れり。またこの日の夜半ばかり福島正則より祖父江法齋を使に參らせ。敵勢こよひの中に大垣を出て。牧田海道をへて關原表へをし出す樣に見え候。此方にも明日早天に戰をしかけ敵を切崩し候はむ。早々御馬を進め給へとなり。よて法齋をめし出し。正則が勸むることく御出馬あるべき旨仰聞られ。御湯漬めし上られ御用意をなさる。往年長久手にて三好秀次を切くづし給ひしこと語りいで給ひ。このたびも彼の大勢をどつと追崩してと仰られながら御馬にめさる。御胄はと申せば。いやいやとの仰にて。茶縮緬のほうろく頭巾をめして御出陣ありしなり。この時御手水をめし御陣の緣へ出おはしまして。近臣等をめし呼れ。敵の陣どりし山々の篝火を指し給ひ。あれを見よおびたゞしき事にてはなきか。夜あけばかの敵どもを蹈ちらさむ。汝等も父や祖父のつらにくそをぬるなと仰ければ。いづれも御前を退き。只今の上意を承りては血首を提て御覽に入るゝか。さなくば我々が首を敵にとらるゝか二つの外はなしと。いよいよ奮勵して勇氣百倍せしとぞ。(落穗集。)
十五日の朝勝山より關原へ御陣をすゝめらるゝとき。さてさて年がよりて骨の折る事よ。悴が居たらばこれほどにはあるまじ。內藤四カ左がこねば斥候に遣るべき者もなし。渥美源吾は居たらむよべとの上意にて。源吾勝吉まいりければ。敵の樣見てこよと命ぜられしが。やがて馳かへり。今日の御軍かならず御勝利ならむ。早く御旗をすゝめ給へと申。先手のかたに鐵炮の音聞ゆるやと問せ給へば。誰もいまだ御答せざりしに。年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戰はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鐵炮の聞えしが。今やみつれば。さだめて鎗合になりしならむと申す。さらば閧の聲をあげよと命ぜらるれば。いかにも恰好の時節なれと申す。その折御身をもたげいさゝか飛せられ。御輕捷の樣を近臣にしめし給へば。いづれもその御擧動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと惡言はくを。とがめもし給はでほほゑませ給ひておはせしとぞ。又辰刻ばかりに本多三彌正重御陣に參り。敵合遠し今少し御陣をすゝめ給へといふを聞せられ。口脇の黃なるほどにていはれざる事をと宣へば。三彌御次に退き。なんぼう口脇は黃なるにもせよ。遠さは遠しといひて居りしとなり。又朝のほど霧深くして鐵炮の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乘廻しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四カ右衛門某あやまりて。君の御馬へ己が馬を乘かけしかばいからせ給ひ。御はかし引拔て切はらはせ給ふ。四カ右衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで。御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英氣を發し給ふまでにて。後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語。落穗集。卜齋記。)
米津C右衛門正勝敵の首取來て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねてC右衛門と中あしければ。汝がしらみ首とるならば。我は胄附の首取てみせむといふて先陣へ馳ゆく。C右衞門はかの首を御覽に入しかば。使番つとむる者は先手の樣を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて胄付の首とり來てC右衛門に。これ見よ汝になるほどの事が我になるまじきかといひて。その首をば路傍の谷川に捨てけり。また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。戰のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへりしに。匠作これへと仰にてその功を慰勞せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れざりしが。後にきけば浮田が家に高知七カ左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者としらば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて兩度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穗集。明良洪範。)
この日辰刻に軍はじまり。午の刻におよびてもいまだ勝敗分れす。やゝもすれば味方追靡けらるゝ樣なり。金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うちうち聞えしがいまだその樣も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に來り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に變じしきりに御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鐵炮を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめしつれ山の麓より鐵炮うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へ下せしとぞ。(天元實記。)
この日の戰未刻ばかり全く御勝利に屬しければ。藤川の臺に御本陣をすへられ。御頭巾を脫せられて裏白といふ一枚張の御兜をめし。竹を柄にして美濃紙にて張し麾を持しめ兜の獅しめ給ひ。勝て兜の獅しむるとはこの時の事なりと仰られ。首實撿の式を行はる。諸將も追々御陣に馳參り。首級をさゝけて御覽に備へ御勝利を賀し奉る。一番にK田甲斐守長政御前に參りければ。御床机をはなれ長政が傍によらせられ。今日の勝利は偏に御邊が日比の精忠による所なり。何をもてその功に報ゆべき。わが子孫の末々までK田が家に對し粗略あるまじとて。長政が手を取ていたゞかせ給ひ。これは當座の引出物なりとてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にささせ給ふ。本多中務大輔は御前にありて諸將への御詞を傳ふ。福島左衛門大夫正則進謁せしかば。今日の大功左衛門大夫をはじめ。その外の者どもいづれも其働目をおどかしぬと申せば。正則忠勝が人數扱の樣げに比類なしといへば。忠勝おもひの外の弱敵にて候といふ。君中務は今にはじめぬ事よと上意あり。やがて下野守忠吉朝臣は手を負れ。布もて肘をつゝみ襟にかけて出で給ふ樣を御覽じて。下野は手負ひたるかと宣へば。朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる。井伊兵部少輔直政も鐵炮疵を蒙り靱に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ參り忠吉朝臣の勳功の樣を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと稱譽し奉れば。そは上手の鷹匠がしゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏藥を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政かしこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。其次に本多內記忠朝大太刀血にそみて。鎺元五六寸ばかり鞘にいらざるをさして御前に出るをみそなはして。忠朝若年なれども武勇のほど父祖に愧ずと宣ふ。織田源五カ入道有樂は石田が家臣蒲生備中が首を提げ來りしかば。有樂高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。入道が子河內守長孝も戶田武藏守重政が胄の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覽あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の樣して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の當家にさゝはる事をしり。御家の爲にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を拔きてその鎗を散々に切折りしとぞ。金吾秀秋は參陣遲々しければ。村越茂助直吉を遣はされてめし呼る。秀秋長臣二十人ばかりをしたがへて參り芝居に跪てあり。君御床机より下らせ給ひ。かねて懇誠を通ぜられしうへに。また今日の大功神妙の至なりと宣ふ。秀秋かたじけなき由を申し。明日佐和山討手の大將を望みこふによて御ゆるしあり。この時金吾が見參せし樣を見て。後日に福島正則がK田長政に語りしは。こたび內府勝利を得られしといへども。いまだ將軍にならせられしにもあらず。さるに秀秋黃門の身として芝の上に跪き手を束ねし樣は。いかにも笑止にてはなきかといへば。長政さればよ鷹と雉子の出合とおもへばすむ事よと笑ひながらいふ。正則こは御邊が贔負のいひ樣なれ。鷲と雉子ほども違はむかといひて笑てやみしとぞ。(武コ安明記。明良洪範。天元實記。)
十五日の申刻より大雨降出し。車軸を流すことくなれば。飯を炊く事ならず。御本陣より御使番馳まはり諸陣に觸しめられしは。かゝる時は飢にせまり生米を食ふものなり。されば腹中を損ずべし。米をよくよく水にひたし置。戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば。いづれも尊意のいたらぬくまなく。ゆきとどかせらるゝを感じ奉れり。さるに不破の河水溢れ出て戰死の尸骸を押流し水の色血にそみしかば。浸せし米もみな朱色に變ぜしとぞ。(落穗集。)
朽木河內守元綱はこの日の夜に入り。細川忠興にたより御本陣に伺公し。元綱一旦敵方にくみせし罪は遁るゝ所なしといへども。脇坂中務少輔安治が陣に屬し御味方の色をあらはしたり。あはれ御ゆるし蒙りて後日の忠功をはげまさしめむといふ。君聞召。其方などの如き小身者は。草の靡きといふものにて深く責るに及ばず。本領安堵これまでの如しと仰ければ。元綱も盛慮のェ洪なるに感じ。淚落して御前をまかでしとなん。(東遷基業。)
金吾秀秋等佐和山の城責しとき。城中に籠りし津田喜太カC幽といへるものは元御家人たりしをもて。船越五カ左衛門景直に命じC幽を城外へ呼出し。三成すでに敗北しぬ。城中の者ども速に城を明て歸降すべし。C幽は一度御家にも召使はれしものなれば。厚く恩賞あらむとなり。C幽某すでに身を城將に委するからは。これにそむかんこと本意にあらす。仰はかしこけれどしたがひ奉ること叶はずと申切て城にかへり。三成が弟木工頭一成に告。一成いかゞせむと議すれば。C幽三成にはコ川殿に敵對し給へども。君をばさまであしともおぼさず。いま三成と君の妻子を助けられば。撿使をうけて腹切給はんか。さらずば力の及ばむだけ防戰して討死せられんか。此二の外なしといふ。一成さらば最初の議にしたがはむとて。明日城を渡し奉らむにより。村越茂助を撿使に給はれといひ出しが。其うちに城中に違心の徒ありて本丸に火を放ち。寄手俄に責入しかば。一成はC幽に後事を托して自殺す。C幽は脇坂中務少輔安治が家人村P忠兵衛と戰ひ。忠兵衛を捕へ是を證として同僚十一人と同じくその塲を切ぬけ。御陣にまいりそのよし申上れば。汝そのかみわが家人たりといへども。近日の擧動かくこそあるべけれとて。C幽父子をめし出し。同僚十一人は大坂におもむき秀ョにつかへしめよとありて。大坂にて佐和山防戰の功をもてをのをの祿仕を得たり。C幽は後に尾張義直卿に屬せしめらる。一とせC洲御通行の折平岩親吉をめして。C幽はもと尾張の產にして。且二心なく誠實の者なれば。何事ぞあらむには一方の任をうちまかせても。あやうき事なしと仰られしかば。C幽も感淚をながし終身御詞のかしこきを人々に物語けるとなん。(家譜。)
この卷は關原御發向より御勝利の後までの事をしるす。 
卷十一 

 

關原の役に中納言殿は木曾路をへて。九月十三日大津の宿に御着あり。其日は御不豫とて御對面なし。あくる十四日御快然のよしにて。中納言殿はじめ奉り供奉の者までみな謁見す。中納言殿此度御遲參により。大事の戰に合せ給はざるよし謝し奉らせ給ふ。君の仰に。さきに參陣の期限申つかはせし使のもの。違言なきにしもあらざるべし。あながち心を勞せらるゝに及ばず。およそ此度のごとき大戰は圍碁と同じ樣のものなれ。樞要の石だにとり得ば。對手の方に何ばかり目を持し石ありともそが用にたゝぬものぞ。こたびの一戰にだにうちかたば。眞田がごときの小身は何ほど城を持固めたりとも。遂には聞おぢして城を明て降參せんより外なし。此度供奉せし者の中に。かゝる事議せし者はなきかと尋給へば。中納言殿戶田左門一西こそ上田表にてかゝる事申出せしとて。つばらに仰上させ給へば。供奉の人々の方を御覽じ左門と召されしに。一西聞得ざりしかば。中納言殿御高聲にてめし呼る。一西おどろきて御前へ出しに。御菓子を兩の御手にてすくはせ給ひて下され。汝は小身にて口がきかれざるな。やがて口のきかるゝ樣にしてとらせむと宣へば。一西あまりのかしこさにいまだ御請もせざるうちに。中納言殿御側より御懇の仰を蒙り。かたじけなきよし御執謝あり。これまで一西は武州鯨井にて五千石下されしが。明くる慶長六年江州膳所の城をあづけ給ひ三万石になされしなり。その時本多正信をめして。こたび膳所の城新築ありしが。この所王城に近くして樞要の地なり。誰に守しめむと問せたまへば。正信しばし思案して。戶田左門一西こそ武勇もすぐれ且天性誠實なれば。これに過たるはあらじと申せしにより一西に定まりしとぞ。(天元實記。明良洪範。)
加賀中納言利長は北國を切したがへ大津の御陣へ馳參り。土方勘兵衛雄久と共に謁し奉る。君御けしき斜ならでその功勞を賞せらる。利長。此度丹羽宰相長重はじめ逆徒にくみせしといへども。先非をくひ某に就て降謝をこひ奉るうちに。關原の戰すでに御勝利に屬しぬれば。今更忠功を勵むべき便なし。あはれ願くは一旦の科をば御ゆるしありて。後効を勤めしめむといへば。御邊が請るゝ所は何事も申すまゝたるべけれど。この事においてはかなひがたし。抑宰相が亡父長秀死期の樣武士の本意にあらずとて。故太閤のいかり大方ならず。すでにその所領をも沒收せられむとありしに。われ長秀とかねがね親好あるをもて不便に思ひ。かれこれといひなだめて本領安堵せしのみならず。長重また官位までも昇進せしはみなわが舊恩ならずや。さるを忘却して賊徒にくみし。剩御邊と干戈に及びし事死刑にも處すべき者なりと宣へば。利長なほまたさまざま言を盡して陳謝し。中納言殿も御傍より御解說ありしかばからうじて御ゆるしあり。利長のかくまでこはるれば。まげて長重が一命をばゆるしつかはすにより。小松の城を明て利長に引渡し。何地へなりとも立退べしとて。雄久をもて長重が方へ仰遣さる。利長また越前北の庄の城主木紀伊守一矩も同じく御ゆるし蒙らむとこひ奉れば。かゝる族は外々にもあるべし。城だに明退ば一命をばゆるし遣すべしと仰られしとなり。(天元實記。)
石田治部少輔三成。大谷刑部少輔吉隆二人が行衛しれざれば。田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる。この時三成はなみなみの者にあらざれば。けふ落人となりても明日は又いかなる企せむもはかりがたし。しかるを田中一人に搜捕せしめらるゝはいかなることにかと私議するものあり。いくほどなくて吉政石田を捕へ出て進らせぬ。その時の仰に。田中はかねて治部と中がよかりしゆへ。いさゝか嫌疑なきにしもあらざりしが。此度の功によてわが疑ははれたりと仰ければ。諸人はじめて盛慮の深遠なるを感じ。もし此度吉政石田をとらへ得ざらむには。その身いかにあやうかりなむといひ合りしとぞ。(武功雜記。)
石田三成をとらへ來りし時その狀をたづね給へば。三成關原の戰敗て後伊吹山に逃入り草津の驛に出しが。天運のつくる所にて。折しも腹病を煩ひ出し。詮方なくて身を樵夫にやつし獘衣を着し。腰に鎌を挾みかくれ居りし處を捕たりといふ。御前伺公の徒。かゝる大逆を企る者が。死をおしむことのうたてさよと口々にいへば。聞召て。おほよそ人は身を全してこそ何事も遂るものなれ。大望をおもひたつ身にては一日の命も大事なり。末練といふにあらず。早く衣類をあたへ食事なども喰るゝ樣にして進めよ。もし病氣ならば醫者にも見せしめ。よく扶助してよろづ不自由ならざらむ樣にはからへとて。父の仇なれば鳥居彥右衛門元忠が子久五カ成次にあづけらる。成次仰のごとくねむごろにいたはりしゆへ。さすがの三成も淚流してその厚意を感ず。數日へて成次見え奉り尊意の辱きを謝し。且亡父元忠が一命を奉りしは全く君の御爲なれば。あへて三成が所爲とも思ひ侍らず。元より私の遺恨あるべきにあらず。さりながら三成は天下の御敵なれば。餘人にめしあづけられむかと申上けしに。御感ありて。本多上野介正純に預けられしとぞ。(岩淵夜話。鳥居家譜。)
十九日御上京の御道すがら。何者ともしれずKき具足を着。鹿毛の馬に乘り。金のさいづちの指物さして御路の先を行者あり。其あはひ十町ばかりもへだてり。供奉の者は心付ず。さだめて大名の使番にてもあらむかといふ。君にははるかに御覽じとめられ。あらためよと宣ひて速に物色せしに。敵方の落人なれば。成敗せよとありて路傍にて切捨にせしとなり。(明良洪範。)
浮田黃門秀家は戰負て後伊吹山へにげ入り。家人進藤三左衞門正次といふ者たゞ一人附從へり。正次秀家にいふやうは。日ごろ君が御身に附られし烏飼國次の脇差は衆人の知る所なれば。これを某にたまはらば。某コ川殿に參りはからはん樣あり。御身はいかにもこの地を遁れ薩摩がたへ下り給へとすゝめて。正次かの脇差もて本多忠勝が陣に參り。某主の秀家を手にかけその死骸をば深くうづめ。差料の烏飼國次の脇差を持參したりと申せば。忠勝何ゆへ撿使をうけずして。ひそかに秀家が尸をうづめしといへば。正次厚恩の主なればたとひ手にかくるとも。いかで其首敵に渡し梟木にかけむや。抑此脇差は秀家が常に愛して身をもはなさゞりしことは。內府公にも知しめせば。御覽にいれ給はれといふ。忠勝これを御覽に入れしにまがふべくもあらず。かれ秀家を害せずばよも當家に降ることはあるまじとて御家人に召加へらる。其頃人人。主を害して己が功にせむとす。後にはいかなる御誅伐にあはむもはかりがたしと咡きけり。さて秀家は虎口をまぬかれ。からうじて薩摩へ下りけるが。後にそのよし聞え。かの國に仰ごと下り秀家をめしよばる。よて正次が前言の齟齬せし事を糺明に及びしに。正次承り。いかにもはじめは秀家を遁さしめむとて詐言を申せしなり。主の爲にこの身を失はむは元より期したる所なれば。この上はいかなる重科にも處し給はれといふ。この旨聞召。己が一命をすてゝ主をすくはむとせしは。あつばれ忠義の者かなと御賞詞ありて。ありし月俸をそのまゝ賜はりたり。秀家が八丈島へ遠流せられし後も舊恩を忘れず。しばしば海舶の便に米金を送るよし聞えしかば。これも御感にあづかり采邑五百石賜はりしとなん。(武家閑談。ェ永系圖。)
按ずるに家譜には。初正次秀家に從ふこと三日にして。その後は行衛を知らずといひ。又仰により關原の邊にゆき國次の刀を求め出て獻り。後に秀家薩州にあると聞えてめしよせられ。正次が事を御糺しあれば。かれ秀家にしたがふこと五十日あまりなりといふ。しかるを三日といひしは。全く主のためをおもひ詐言をいひてその期を延せしは。げに忠臣といふべしとて御感ありしとなり。おほかた本文とおなじ樣にして。いさゝか異なり。こゝに附記して一說に備ふるのみ。
大津の城巡視ありしに山岡道阿彌御供にありて。此度京極高次上方の大敵を引うけ。數日の防戰感ずるに堪へたり。たゞ一日を持かゝへずして明退しは。近頃殘多き事なりと申せば。何と仰らるゝ旨もなく。たゞ奥平九八が長篠籠城の折は此樣の事にてはなし。戰終て後見たりしに。壁は土をふり落して籠の如く。戶板は鉛丸にうちぬかれて障子の如くなるを。莚疊をたてかさねなどして持こらへたるはと御物語ありしとなり。(太平雜話。)
本多佐渡守正信中納言殿の御供して。二條の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。妙心寺のうち壽性院が弟子になりて。すでに幼年より釋徒にも成てある事なればゆるし給はれとかの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば。正信承りそれは早く御許あるべし。三成は當家へ對し奉りてはよき奉公せし者なれば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあらむと申す。君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄意にかかる事企てずは御勝にもならず。當家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は當家への大忠臣と存ずれといへばほほゑませ給ひ。おかくずもいへばいはるゝものとの御戱言ありしとぞ。(靈岩夜話。)
按ずるに此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には濟院和尙といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。
關原の役すでに終て大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉の人々をめし。我男子あまたもてるが。いづれにか家國を讓るべき。汝等おもふ所をつゝまず申せとの仰なり。正信は三河守殿こそ元よりの御長子といひ。智略武勇も兼備はり給へば。此殿こそまさしく監國にそなはらせ給ふべげれと申す。直政は下野守忠吉卿然るべしといひてやまず。其外もまちまちにして一决せず。忠隣一人爭亂の時にあたりてこそ武勇をもて主とすれ。天下を平治し給はんには。文コにあらでは大業守成の功を保ち給はんことかたし。中納言殿には第一御孝心深く。謙遜恭儉の御コを御身に負せられ。文武ともに兼ね備らせたまへば。天意人望の歸する所このうへにあるべしとも思はれずと申し。其日はそのまゝ何とも御沙汰なくして各退去せしめられしが。一兩日過て先の人々をめし。忠隣が申す所吾が意にかなへりとて。遂に御議定ありしとかいひ傳へし。抑中納言殿年頃儲位におはし。御官途も外々の公達より進ませ給ひ。すでに關東へ御遷ありし時。諸臣及寺社等へなし下されし御書は。皆中納言殿の御署狀なれば。儲位の定まらせ給ひしはいふまでもなく。その比より旣に御位をも讓らせ給はむ尊慮にてありしなれば。この時に臨みかゝる異議おはしまさんにもあらねど。關原御凱旋天下一統のはじめなれば。なほ群臣人望の歸する所をこゝろみ給ひしものなるべしと。恐察し奉る事なれ。(武コ大成記。烈祖成績。)
この戰終て後しばし大坂の西丸におはしまし。井伊。本多。榊原の人々して此度諸將の勤怠を糺し。忠否を明にせしめ。天下の機務を議せしめられ。本多上野介正純して訴訟のことを司らしむ。又この人々を中納言殿御方に進らせ。此度の闕國もて有功の者に宛行むとす。さるにてもまづ御居城をばいづくに定め給はむか。江戶をもてその所となされむかと御意見を訪はしめたまふ。中納言殿御答には。某年若くして何のわきまへか候べき。天下を經理せむにさりぬべき所をもて御居城と定め給ふべきか。しかればいづれも盛慮にまかせらるべしとなり。よて遂に江戶をもて御本城となし。秀ョをば大坂に居らしめ攝津河內の兩國を授けられぬ。其比老臣等申上るには。こたび逆徒等秀ョが名を借て大亂を起せしも。全く坂城の險要をたのめばなり。このまゝさし置れば。後々とても同じ姦計おもひ立もの。出來むもはかりがたしと申せば。君秀ョ元より幼穉にして何事をかしらむ。さるを今當城を追のけて他所に引うつさば。天下において利ありとも。われ何ぞこれをなすにしのびむやとてきかせ給はず。片桐市正且元をもて秀ョが輔導たらしむ。かくてぞみなその公平仁慈の御處置に感服して。天下一同安心せしとぞ。(武コ大成記。)
福島左衛門大夫正則は此度の大功により。安藝備後の兩國を賜はり。はじめて襲封を謝し謁見せし時。家長三人も謁をゆるさる。第一備後神邊の城主福島丹波は。片足なへて進退思ふ樣ならず。第二同國三好の城主尾關石見は兎缺なり。第三同國本條の城主長尾隼人は一眼なり。(一說隼人は長みじかく耳遠く。左手きかずといへり。)いづれも片輪なれば御側に侍せし者思はずに咲出ぬ。謁見終りて後御けしきあしく。汝等かの三人の不成なるを見て咲たるな。凡人はいつの時いかなる働して片輪にならむもはかりがたし。かの三人は武勇の譽たかき者どもなれば。正則が家にても追々に家長にまで取立られ。家康が目通にも出るとあるは。なんじやう榮耀の事ならずや。されば汝等が悴心には彼等にあやかり度と思ふべきなり。さるまことの心付なきゆへ咲も出るなれ。惣じて武士は生れ付ぬ片輪になるものよと覺悟をきはめねば。武功はなし得ざるものなれ。我心には彼等をば。汝ごとき若者には煎じても飮せたく思ふなりと御教諭ありしかば。人々何事に付けても尊諭のかたじけなきことゝかたみに感じ思へりとぞ。(岩淵夜話。校合雜記。)
土方勘兵衛雄久。大野修理亮治長の兩人も本領安堵を命ぜらる。この兩人は先年大坂の奉行等が內意をうけて君を害し奉らむとはかりし者どもなれば。此度そが一命をたすけらるゝだにあるを。本領安堵とはあまりェ典に過たると申者ありしに。いやとよかの兩人奉行の指揮をうけて。家康をだに害せば。秀ョが爲にならんと一すぢに思ひこみしは。我に對しての敵なれど。秀ョがために忠臣といふべし。まして今度修理は淺野幸長に屬して岐阜の城をも攻め。又關原の戰にはわが本陣に伺公して。石田が備へ矢の一すぢも射かけ度と幸長もてこひ出。敵方に名あるものをうちとり頗忠勤を抽でぬ。雄久も小山より我使を奉りて北國に赴き。前田利長と共に諸事を相議し。わが爲に馳廻り一かどの微功なきにあらず。古人の舊惡を思はずとこそいひしに。ましてかの兩人の所爲秀ョが爲を思ひしなれば。舊惡といふにもあらず。かたがたその功を賞すべきことなりと仰られき。漢の高祖が丁公を誅して雍齒を賞せし故事よりも。なほェ宥の御所爲ははるかにまさらせ給ふと。人みな仰服し奉りしなり。(岩淵夜話。)
淺野左京大大幸長は此度の戰功によて。甲斐の國を轉じて紀伊國三十七万石に封ぜらる。就封のゝち後藤庄三カ光次暇給はりて。熊野祠へ參詣して還り謁せし時。汝は熊野のかへさは幸長が許へも尋ねしや。幸長何をもて汝をもてなせしと問はせ給へば。さむ候幸長紀伊河と申す所へ舟行せし供に參り。網引し魚など捕なぐさめ申し候。又山狩鷹狩に出し折も參りしが。これはいと目ざましき見物にて候ひき。それにつきたゞ某が思慮の及ばぬ事の候。はじめの度は雉子山鳥あるはむじなの獲物多かりしかば。さだめて歡喜ならむと思ひしに。其日はさむざむ腹立て。勢子奉行はじめすべて役懸の者みな勘事に逢ぬ。次の度は何の獲物もなければ。さだめて不興ならむと存ぜしに。おもひの外心地よげにて。諸役人殊に出精せしとて。慰勞の餘それぞれに賜物とらせぬ。これぞ今に考へ得ぬ事にて侍れと申ければ聞召。汝等が思慮には及ばぬ筈なり。幸長が所爲は眞の鷹山にて。物數の多少による事にてなしと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長五年二月廿八日今上(後陽成院。)第二の皇子政仁(後水尾院。)親王宣下あり。御母は近衛信尹公の女之。帝かねて御寵愛ましまして御位をゆづり給はむとおぼす。しかるに是よりさき中山大納言親綱卿の女の腹に生れさせたまひし第一の皇子良仁(後仁和寺覺深法親王。)を。親綱コ善院法印玄以と相議し。豐臣太閤にこひて菊亭右府晴季公もて奏聞し。先立て親王宣下ありしにより。ひきこして政仁を坊に立給はむこともはゞかり思召けるが。このころに至りその事內々仰せ進らせられ。御內慮をはからせ給ひしに。君もかねて良仁を親王にせられし事よしとも思召ざれば。御答の趣には。子を知るは父にしくはなしといふは古今の通議にて侍れ。臣もまた男子多くもてり。何れをもて嗣子とせむも臣が思ふ所にありて。他人の議すべきにあらざれば。朝家においても一二の皇子いづれをもて皇嗣に定め給はむも。みな叡慮にこそまかせらるべけれ。但し第二の皇子は槐門のよせ重くおはしませば。坊に居給はん事しからむかと御奏聞ありしにより。天感なゝめならずして。遂にその議に决せられしとぞ。(武コ大成記。)
關原の御一戰に上方の凶徒すでに天誅に伏し。四海一統して當家の御威コを仰ざる者なし。然るに年へてもいまだ將軍宣下の御沙汰なければ。內よりも御けしき給はり。諸大名の中よりもよりよりいひ出しものもありしとか。其比藤堂和泉守高虎。金地院崇傳侍話の折から何となくこの事いひ出。世にははや將軍宣下の慶賀聞えあげむなどいふよし申しければ。君聞かせ給ひ。さる方の事はいそがぬ事ぞ。只今さし當りては天下の制度をたて。萬民を撫育して安泰ならしめむこそ急務なれ。まして諸大名どもゝ國替所替等にて。いづれも多事なるに。我一人己が私をはかるにいとまあらむやとて。御心にもかけ給はぬ御樣なれば。兩人御謙コの厚きに恐感して退きしとなん。(落穗集追加。)
慶長六年十月伏見を御立ありて。あくる十三日江州佐和山に着御あり。城主井伊兵部少輔直政は頭役の者ども引つれ。中門番所に出てまちむかへ奉る。御輿ちかくなればいづれも平伏してあるに。足輕の中に一人首をもたげて。何事やらん聞えあげたり。通御の後直政が頭役の者糺聞せしに。その足輕すゝみ出て。御糺までも候はず某にて候。年久しく見え奉らざれば。久々にて御目に懸るといひしのみなりと申す。頭役いよいよ驚愕し。これ全く狂人の所爲なれ。いかゞせむとて同僚と相議してある所へ。本丸より中門の番頭よびに來れば。さはこのことならむと思ひ。そのものゝ腰刀もぎとり番人附て警めよといひ捨て馳ゆきしに。直政さきに通御の折から。上へ向ひ。御久敷と申上げし者のあるを承らずやといへば。さん候。しかじかのよしにてその者いましめ置きぬといふ。直政いやさる事にあらず。その者に知行あたへよとの上意なれば。新知百石申付るなり。番ゆるして家に歸らしめよとあれば。番頭は思ひの外にてまづ安心し。立ち返りてその事申渡す。直政かさねて御前へ出でしに。かの足輕には何ほど知行とらせしと御尋あれば。百石遣はしぬといふ。君御頭をかゝせられ。よくよく役にたゝぬやつならむと仰られしとぞ。この足輕は直政がいまだ年若くて御小性勤め。寵眷ふかゝりしころ。御庭ちかき邊に直政が家居作らしめ折々渡御ありし時。この者も直政に給事して御前へも出でしゆへ。上にも御見覺ありてこたびその舊故をおぼしめし出て。かくは仰下されしなり。(天元實記。)
慶長六年十二月關西の諸大名に課して京二條を營築せしむ。その折城溝の狹きにより二間堀廣げしむ。池田三左衛門輝政。加藤左馬助嘉明等は今少し廣くせむと申上げしに。いやこれにてたれり。もし世變出來てこの城せめ圍るゝとも。しばしがほどはもちかゝゆべし。そのうちには近畿の城々より後詰も來り。とかうするうちには江戶より大勢はせ上るべし。さらばせばきと思ふがよし。萬一敵にせめとられし時。味方より取返さむにも便よし。功力をついやすに及ばずと仰られぬ。又ある時の仰に。堀は幅をせばくほり。下には鎗を振廻さるゝほどにするがよし。又城の方をなぞへにむかひを急にすべし。水のある堀もせばくて船の自由にならぬほどがよし。寄手へ鐵炮のちかくあたるもよし。江戶の西丸の外堀は廣くほり過ぎたりとて。其ころ御不興なりしとかいひ傳へし。(古人物語。)
二條にて御物語の次。當時天下には加藤肥後守C正に及ぶ者はあるまじと宣ふを。折しも本多佐渡守正信空眠して居しが目を見開き。殿は誰が事をほめ給ふかといへば。加藤肥後がことよと宣ふ。そは太閤が時に虎之助といひし小悴が事かと申せば。肥後が事を知らぬ者やあると仰せらる。正信某年老いて物忘れすることのうたてさよ。されど殿は信玄謙信始め數多の名人の上を御覽じつくされし御目にて。加藤などのことほめ給ふはいかにぞや。さるにても加藤が爲には上なき名譽なれといへば。肥後が事はわれよくしれり。當時西國のことまかせ置ぬれば心安けれども。かれには一つの疵あればひたぶるにたのみがたしと宣ふ。正信何事にて侍るかと申せば。物にあやうきこゝろあり。今少し心落付ば實に立幷ぶものはあるまじと宣ふ。正信上意の如くあやうきこゝろありて。剛氣に過しは大なる疵なれ。武田勝ョもかゝる癖ありしゆへ。遂には國をも失ひしなれ。おしむべしべしといふ。折しも末座に京の商人など陪して承り居しが。後にC正に告げ知らせければ。C正さては君には我を心あやうきものとおぼすよと心付て。これより物ごと愼密にして持重になりしとなり。後年正信が子上野介正純この事を父にとひければ。正信こは實にC正をほめ給ふにあらず。そのころ當家草創の比なれば。彼もし鎭西の人々にすゝめて。秀ョに與黨せしむるならばゆゝしき大事なれ。彼のあやうき心なくばと仰せられし御一言を承りしより。彼何となくおもりかになりて。生涯過誤なくて果てしなり。これ君の御智略の深遠にして。凡慮のはかり知るべきにあらず。それをたゞそのこととのみ思ひて我にとふは。汝が智慮の淺きとやいはむ。その心にては天下の機務をとる事がなるものか。よくよく工夫せよと諭しけるとぞ。又正信後にはC正としたしくなりしに。ある時正信內意をうけてC正に諷諭せし事三箇條あり。第一は當時西國の諸大名みな浪華に着岸すると直に。駿河江戶に參覲する事なるに。C正はいつも大坂に數日とゞまり。秀ョの起居を候してのち東國へ參覲す。それにも及ぶまじ。第二は近頃諸大名參覲の折。從兵も昔よりは减少せしに。C正は以前にかはらず多勢を召具するは目立ちていかゞなり。第三には當時C正が樣に面に鬚多く生し置くものなし。謁見の折など異樣に見ゆれば。これを剃落さればいかにとなり。C正きゝて。この三條御邊の詞をまつにも及ばず。某もかねて心づき。世の譏評にもならむかと思ひつるが。さりとて又改めかぬる事どもなり。御邊も知らるゝ如く某はじめは故大閤の拔擢によて肥後半國を賜り。當家になりて小西が舊領をまし賜はり。一國の主となりしは。當家の御恩はいふまでもなけれど。そのかみ舊恩うけし太閤の御子のおはす所を。よそに見て空しく通らむは武士の本意にあらざれは。今さらこの事やめがたし。次に參覲の陪從を减ぜば。費用も省き家臣もよろこぶべき事なれども。西國の大名常は在國して。御用の折のみ召るゝならばともありなむ。近頃のごとく交代して參覲するからは。何ぞ臨時に御用仰付られむもはかり難し。さらむには領國遙に隔たりて。國許の人めしよばんに急遽には來らず。すこしなりとも當地に有合ものどもにて御用を辨ぜむ爲に。餘人よりは多くめしつるゝなれば。これまた减じがたし。三つには頰鬚すり落さば我もさぞ心すゞしくなりなむと思へども。年若きよりこの鬚に頰當をし甲の獅しむるに。その心地よさいふばかりなし。今かゝる御治世に出逢ても。心地よさの忘れがたさに。思ひ切て剃り落しがたし。御邊が懇志もていはるゝ事を。一條も承引ぬとありてはいかゞなれど。今も申すごとくなればよく聞き分けて。あしからず思はれよといひしかば。正信思ひの外にてその旨言上せしに。C正がいひごとかとばかりにて咲はせられしとなん。(駿河土產。)
慶長十年台コ殿より淺野彈正少弼長政に。常州眞壁にて四万石。江州愛知川にて五千石下されけるを。長政あながちに辭し奉れば。長政を召して。此度の賜地を辭するは汝が一代の不思案なり。嫡子紀伊守こそ大國を賜てあれども。右兵衛采女の兩人もあるにいらざる謙退ぶりかな。將軍よりくるゝとあらば。なに程も貰ひ置て。子孫の爲にせよと上意ありしによて。其明日御請を申上しとなり。(天元實記。)
この卷は關原御勝利の後慶長十年ごろまでの事をしるす。 
卷十二 

 

慶長十年四月征夷の職御與奪ありて將軍家は江戶におはしまし。君には駿府の古城を御修理ありて御居城とせられ大御所と稱し奉る。その頃皆朱玳瑁の鎗は。殊さら武功の者ならでは持しめまじきよし仰出されしに。此度修理奉る細川越中守忠興が丁塲のうちに。皆朱の鎗持せしもの。菖蒲皮の立付をはきて。下吏三十人ばかりめしつれて指揮するものあり。目付の輩みとがめてその名をとふに。細川がうちに澤村大學なりと答ふ。よてその事聞えあげしに。その澤村は若き折は才八といひて。小牧の役に太閤二重堀に砦をかまへ。あまた人を籠置しに。われ長久手の戰にうち勝ちしかば。太閤も二重堀たもつ事ならで退かむとしけれども。もしわが小牧より追討む事ををそれ。みづから數万の兵もて塚といふ所にそなへ。二重堀を明けのくを。織田信雄追うちして彼軍敗北せし時。細川越中一人後殿して信雄が軍と戰ふ。その時この澤村一番に鎗を合せしをわれまのあたり見及たり。かゝる剛勇の者に皆朱玳瑁の鎗は持しめむがためにこそ。なみなみの者には禁ずべしと令じたるなりとの仰により。大學は大に面目を施し。かしこさ身にあまり感泣せしとぞ。(天元實記。)
御隱退の前かた將軍家へ仰進らせられしは。小身の旗士へはわきて目をかけてめしつかはるべき事なり。同じ大名といふうちにも。三河以來の譜代より拔擢せられ万石につらなりし者は。當家と興亡を共にすれども。外樣國持の輩にいたりては。各そが家を大事と思ふからは。時にしたがひ勢につき。たゞ家名の長く存せむことをもて主とするは古今の常態なれば。これまたふかくせむるにたらずと宣ひしとぞ。(駿河土產。)
駿府へ移らせ給ひし年の十月江戶へおはして。これまで江戶の西城に貯へ置れし黃金三万枚。銀子一万三千貫目をそのまま將軍家へ進らせらる。その時江戶の老臣へ仰ありしは。これは御身の奉養にもちひ給はず。天下の物と思召て此うへにも積貯へ給ふべし。平常の國費は年每の入額もて辨じ。成だけ浮費を省き金貨を多く貯へ給ふべし。かく貯へ給へといふは何のためなれば。第一は軍國の費用に備へ。第二は不虞の大災にて。御居城はじめ城下の士民まで燒亡にあひて艱困せむに。これを賑救あらむがため。第三は日本國中に守護地頭を建置て。万民飢渴せざらん設はあるなれど。またいかなる凶荒打續てそが力も及ばざる時には。上より守護地頭に力をそへて。それぞれに頒布して救荒の政を施されむがためなり。これぞ天下の主たる者の本意なれ。かゝるをもて當年の入額何程餘分ありとも。あだに心得てさまで功績なき者に。みだりに新地與る事あるべからず。將軍にはいまだ年若き事なれば。このゝち男子いくばく出生あらむもしれず。これまでわが末子にとらせし祿額もあれば。將軍の子達もこれに准じ。五万七万ばかり遣はしては國體においていかゞなり。故に天下の祿額のかねて减ぜぬ樣にいたし置事經國の第一なり。その旨よく心得て。將軍にも申上よと仰せられしとぞ。(駿河土產。)
これも御隱退の前かた。江戶より本多佐渡守正信御用奉て駿河へまかりし時正信に仰られしは。我若年の時は軍務繁多にして學問するいとまなし。よて生涯不學にして今此老齡に及べり。さりながら老子がいひし詞なりと人に聞置しは。足る事を知て足る者は常に足るといふ詞と。仇をば恩をもて報ずるといふ二語は。若きほどより常に心にとめて受用せしなり。將軍にはわれと違ひかねがね學問もせらるゝ事なれば。さだめて聖賢の格言どもあまた心得てあるべければ。この語のみをもちひられよといふにはあらざれども。汝等が心得までにいひ置なりと宣へば。正信感銘して江戶にかへりそのよし申上げしかば。將軍家直に御硯をめして。御みづから右の二語を記し給ひ。御座右に糊して置せ給ひしとぞ。其後また金地院崇傳に命じ。この語を大書せしめて平常の御座所にかけ置れて常々御覽あり。その御親筆はゆへありて內田平左衛門正世が所持せしを。大猷院殿聞し召てその子信濃守正信に仰下されて。御取よせありて御床にかけられ。麻の上下めして御拜覽ありしとぞ。(駿河土產。)
江戶老臣のうち誰にてかありけん。江戶より御使奉りて駿河へまかりしに。御前近く召れ。汝は將軍の心に叶ひてつかはるゝと見えて。此度も使に越されしな。おほよそ主の心にかなふはいとかたき事なるに。かくめみせよきはかしこき事なり。かゝるに付ても汝が心懸また第一なり。すべて大小の諸臣をして將軍へおもひつかしむるも。又怨をふくましむるも。みな汝等が心ひとつにある事なり。第一主人の氣に入り威權の歸するにしたがひて。驕奢の心いつとなく出來る者なれば。わが身の尊くなるにしたがひ。いよいよ愼謹にして物ごと粗略にすべからず。また人を推薦するにもいさゝか私意なく。その人品の邪正をたしかに見定めて。性質良忠にして奉行頭人にもなるべき器あらば。我と中あしくとも私隙をすてゝこれを登庸すべし。第二は重役のくせにてをのれ一人して万事を沙汰し。人には何もいはせぬ樣にしたく思ふ心の出來るものなり。この心あらば何程聰明にして才幹ありとも甚害あるものなり。これを物にたとへば。舁夫の駕輿をかくに。其長同じ程の者が二人あるうへに。また添肩の者がありてこそ。長途險所をもかき行なれ。いかに剛力なりとも一人して輿かくことはかなはず。その身の長短つり合ねばあやうき事なり。天下國家を治るは上もなき重荷なれば。その重荷を持こらへて落さゞらんために。數多の諸役人を建設け。それぞれの位祿をも與へ置なり。さるををのれ一人して主の對手になりて擔當せむと思ふは。大なる心得違なれ。舁夫に添肩のあるがごとく。よき老臣あまたあつまり。奉行頭人もそれぞれ任にかなひ。何事も思ふ所をつゝまずうち明て相議し。殊さら善とおもふ事をとりもちひば。万民も歸服し天下長久の基なれ。すべて和漢とも世々の名臣といはるゝものは。一己の功を建むとのみ思はず。賢哲を撰み材能をすゝめて。主の資とするをもて第一の急務とす。汝等常々この旨同僚と相議し。輔導のたすけあらむ樣に心がけよと仰られしとぞ。(駿河土產。)
駿河にて宰相ョ宣卿の邸へ渡御あるべき御あらましなりしころ。土井大炊頭利勝はいまだ御側近くつとめしころなりけるが。此度の事により彼邸にまかりて。安藤帶刀直次が諸事指揮する樣見習へと仰付られ。利勝日每に彼方にゆきて見しに。諸役人帶刀が前へ出て。このことはいかゞせむと議するに。己が意にかなふことは領承し。かはざる時はいやあしゝとばかりいひて何の指揮もせず。よてその者同僚と重議せしうへにて出てうかゞふに。又意にかなはざれば幾度もかくのことし。終に允當を得て後許容することなり。利勝おもふに人の物をとふにあしとばかりいはむより。直にかくせよと指揮あらばそのこと速に辨ぜむといふ。直次某犬馬の齡すでにたけて。このうへは死なむのみなり。かく諸役人を遇するは。若き殿に人物を作りなして進らするなり。我指揮をうけてさへすればすむとのみおもへば。人々何事にも思慮を用ひず。万事未熟にてよき人物は出來ものなりといひしをきゝて。利勝大に感じ。こゝが君の見習へと仰られし所ならむと心付。後々機務を司るに及びて。下僚より議する事あるとき。わが意に應ぜざれば。そはさる事なれどもまた何とか仕方もあるべきか。同僚に相議してかさねていひ出られよ。同僚にて辨ぜずば親族または家臣とも商量して申されよとありて。いよいよ評議をかさねて理にかなへば。いかにも尤之。その通にてよしといひしとぞ。これも君の御教諭によりて。利勝後に天下の良佐となりけることゝ人々感歎せり。(古諺記。)
何役にや欠員ありし時土井大炊頭利勝をめして。何がしは人物性行いかにと御尋あり。利勝承り。その者は常に臣が方に出入せざれば。人物の善惡聞え上がたしと申す。君聞し召し御けしき損じ。なべて諸旗本の善惡を知らぬといはゞわが非理なれ。いまとふ所の者はさのみ人にしられまじき程の身分の者にてもなし。さるをしらずといふてすむ事か。汝等は家人の善惡を常に見定めて。わが用ひん時にいひ聞かするが主役なれば。いづれにもしらずといふ事を得ず。汝をかゝる心かけの淺露なる者と知らで。年若ながらも用にも立むと思ひて。老職に登庸せしはかへすべすもわが過誤なれ。よくよくかうがへて見よ。惣じて武邊の心懸ふかく志操あるものは。上役に追從せぬものぞ。されば重役の許に出入せざる者のうちに。かへりて眞の人物はあるなれ。そが中にて人材を撰ぶこそ忠節の第一なれ。いま雜庫のうちに名高き刀劍埋れてありときかば。たれもほり出しわれにしめしよろこばせんと思ふべし。刀劍は何ばかりの名作といへども治國の用にたゝず。我常にいふ所の寳の中の寳といふは。人材にしくはなしといふ語を空耳にきくゆへ。かゝる卒爾の對をもすれ。汝等が方へ朝夕立入りして相知れるものばかり出身するならば。諸人の心立次第にあしく。みな阿諛謟侫の風になりはてん。おほよそ家國の體は人の一身の如し。人身の元氣衰ればかならず死するごとく。大名の家にても人々耻を知り義を守るは一藩の元氣なり。諸人の義氣うすくなり。鼻はまがりても息さへ出ばとおもふ樣になりゆき。主の恩をかしこしともおもはず。たゞ眼前をよくとりかざり。互に觀望するをもて巧智とし。人心次第に澆漓して家法の頽敗するにいたりては。遂に亡滅の基引出すなり。汝が只今の失言はさしゆるすといへども。この後はきとつゝしみていさか粗忽のことなく。わが命をよくよく遵守せよと誡め給ひしとなり。(岩淵夜話。)
一とせ尾張國御通行の時。薩摩守忠吉朝臣に御所望ありて。その國の鍛工のきたひし小刀剃刀の類を供奉の面々へ下されけり。その時朝臣むかしよりこのかた御武邊の御物語うけたまはり度よしを仰上られければ。古きはなしをきゝ度とある心懸ならばよしと宣ひしのみにて。别におはなしはなかりしとぞ。(駿河土產。)
慶長十一年江戶の城改築ありしとき。藤堂和泉守高虎をめして。泉州老練の事なればよく參議し。思ふ所つゝまず申さるべしとありて。指圖を出され高虎と共に御覽じ。この所はかくかしこはかうよとて。御みづから朱墨もて引直したまひ。おほよそ城取といふものは。あながち人の才智もて作り得るものにあらず。その地勢に應じ自然と出來るものなりと上意ありて。その圖定まりて後將軍家にも見せ奉れと仰ありて御覽に入れしに。つばらに御覽じ。申樣もなき經營の御規摸かなと御感賞あり。その後諸大名に課して經營をはじめられ。竣功の後殊更に高虎が勞をねぎらはれ。加恩の地二万石賜はりしとぞ。(藤堂文書。家譜。)
慶長十二年三月薩摩守忠吉朝臣江戶にて病卒ありし時。近臣稻垣將監。石川主馬。中川C九カなど追腹切しと聞しめし殊に御けしきあしく。江戶の老臣共は何とて制せざるぞ。制してもきかずば。將軍へも申しおごそかに咎申付べきにと上意ありて。かさねて仰けるは。おほよそ殉死は昔よりある事なれどいとえうなき事なり。それほど主を大切に思はゞ。己が身を全うし後嗣につかへ忠義をつくし。萬一の事あるにのぞみ一命をなげうたむこそ誠の忠節なれ。何にもならぬ追腹きるは犬死といふものなり。畢竟は主のうつけにてかねて禁じ置ざるゆへなりと宣ふ。このよし江戶へも聞え。その閏四月越前黃門秀康卿北の庄にて卒去ありしとき。將軍家よりかの家長等へ御書をたまはり。第一殉死をとゞめられ。駿府よりも同じ旨仰下さる。その大略は。黃門卒去あられしにより。殉死のものあらむと聞召及ばれぬ。一旦の死はやすく後嗣を守立て節をつくすはかたし。北の庄は北國樞要の地にして國家鎭禦の第一なれば。黃門へ忠義をつくさむと思ふものは。一命を全して後命をまつべし。ゆめゆめ無益の死を遂べからず。もし此旨違背においては子孫までも絕さるべしと仰下されしなり。この御書いまだ彼地に到着せざる前かた。永見右衛門。土屋左馬助などいふ黃門の近臣死せしのみにて。その餘は殉ぜしものなかりき。かくかねがね嚴禁ありしゆへ。君大喪の折も台コ院殿御事の時も一人も殉死はなかりしなり。(駿河土產。慶長見聞書。貞享書上。)
薩摩守殿卒せられし時君は伊豆の三島におはしけるが。江戶より土井大炊頭利勝御使してかくと聞え上しに。さこそ御痛悼おはしまさむかと思ひけるに。頃日の病體にてはさもありなむと仰ありて。例のことく鶴の𦎟作れ鷹野にも出むとて。さして御悲歎の樣にもおはしまさず。天海僧正にがにがしき事と思ひながち御前に出て。薩摩殿の御事によてさぞ御歎おはしまさむかと思ひつるに。かゝる御けしきにては愚僧までも安心なりと申す。君又われはたゞ將軍の親弟を失ひて哀戚あらむかと。是のみ心にかゝると仰られしなり。秀康卿卒去のときはかへりて御愁傷申ばかりなし。こは薩摩殿はかねてより病體さはやき給ふまじと思召定めらしれゆへ。大事に及びてもさまで御哀痛もなく。秀康卿元來御長子といひ。且度々軍陣の御用にも立せられ。今はまた北國におはして常にとほどほしくのみましませしうへに。薩摩殿卒後いまだいくほどなく。さしつゞきこの卿もうせたまひしゆへ。とりあつめ一しほ御愁悼深かりしならむと人々思ひはかりしとなむ。(池田正印覺書。駿河記。)
秀康卿の病中にかねて。佐の局とて君にもしろしめしたる女房を駿河に進らせられ。秀康こたび重病にかゝりとても世にあらむものとも思ひ侍らねば。うちうちこのよし仰進らせるゝなり。君聞召驚かせ給ひ。わが子多き中にも秀康は長子といひ。殊更勇烈にして度々軍功もありしものなり。さるをたゞ越前一國のみあたへ置ては本意ならず。此度の病平愈せばその祝儀として。近江下野のうちにて二十五万石ましあたへ百万石になし下されむ。汝とく越前にかへりこの旨申聞て。慰めよと仰ありて。御書付を下されければ。局は夜を日についでいそぎ立かへりしが。三河の岡崎にて卿の告をきゝ。又駿河に引かへし御前へ出しに。君にはこの折棋を圍みておはせしが。聞せ給ふと御愁悼の樣かぎりなし。局はかの御書付を取出して。こは大切の御書なれば返し奉るとて上れば。女ながらも心きゝたる者よとて受取せ給ひしとぞ。かの藩士等は內々この事きゝ傳へて。いらぬ女の利發だてよといひけるとか。(天元實記。貞享書上。)
慶長十三年十二月武州河越に御鷹狩あり。その頃新庄越前守直ョは剃髮して宮內卿法印とて御供せしが。直ョに仰ありしは。近ごろ下總國の海上に一人の隱者ありときく。いと淳直の者にして華飾なく財利をむさぼらず。常に一瓢を軒にかけ里民の贈與をまちて食とす。もし瓢中むなしきときはあながち求ることなし。氏姓をきくにたゞ三好家の者とのみいらふ。直ョが父藏人直昌は先年攝津江口の戰に討死す。其始末かれ定めてしりつらん。汝ゆきてとひ來るべしと仰ありしかば。直ョかの海上にゆき隱士の家求めいでしに。七十あまりの老僧法華經を讀誦して居たり。名は惣歸居士といふ。直ョ其庵に入りて對面し。四方山の物語きゝし序にかの江口のこといひ出て。新庄といふ人の討死の樣及び其家人の首級實撿せし事などかたる。直ョもおもはず淚をうかべ。その新庄といふ人こそわがなき父直昌が事なれ。さて又御邊が姓名は何といはるゝかと問ひしに。隱士もいと驚歎の樣にて何とも名乘らず。直ョまたその時。金の采配取て三軍を指揮せし武者ありときゝしは。誰が事なりといへば。これぞ某が事なれとばかりにて終に姓名をかたらざられば。直ョ辭して河越にかへりその旨申上しに。君も甚御感ありしとぞ。(ェ永系圖。)
駿府にて淨土法華の宗論起りて旣に對决に及ばむとす。まづ法華僧を御前へめして。汝明日の對决にかちなばゆゝしき眉目なれ。さて負たる淨土僧をばいかゞすべきやとたづね給ふ。僧申すは。かの首刎られその宗を絕し給はゞ。かさねて宗論起りて上裁を勞する事もあるまじきなりと申す。また淨土僧をめして同じ樣の事とはせ給ふに何とも御請申さず。しひてとひ給へば。宗論の起るも各の祖師を尊信するゆへなり。彼等が負候とてあながち御咎にも及ぶまじ。そのまゝにさし置れてよからむといへば。御けしきかはり。我かく切問するに汝實情を白さぬかとなほなほ責問給へば。さらば宗論に負しは其宗の耻辱なれば。三衣を脫せしめたまはんのみといふ。こゝにおひて御けしき直り。かの僧神妙に思召御膳を下されまかでぬ。後に近臣に明日の論にはいづれがかたむと汝等は思ふと上意なれば。いづれも决しがたしと申す。仰に必淨土かちなむ。いかむとなれば日蓮僧は淨土にかたばその首を刎よとは。そが邪念より起りて釋コに似つかはしからぬいひ言なり。淨土は三衣を脫せむのみといふ。これ出家相應の答なり。故に淨土かたむと思ふなりと宣ひしが。果して明日宗論はじまりしに淨土の方かちぬ。人々御明察にして御詞の露違はぬに感じ奉りぬ。この後はいたく宗論を禁ぜられしとぞ。(校合雜記。)
蜂須賀家政入道蓬庵が駿城にまうのぼりしとき。さいつころ秀ョ公のけしきうかゞはむため坂城に參りしに。大野修理亮治長密に申けるは。入道には故太閤の厚恩うけられし事は。今において忘却はあるべからず。此のちとても万事たのみ進らするよし物語候ひき。かゝる事入道のみ聞置てもいかゞなれば。內々聞え上ると申ければ俄に御けしけ損じ。入道には年老てしれたる事いはるゝな。先年關原のときわれ殊更に仁典もて秀ョの一命をたすけ置のみならず。攝河兩國もて封邑とし安樂にすごさしむるに。何の不足かあらむ。さるを入道が口よりかゝることいひ出てよきものかと仰らるれば。蓬庵もかしこまり入て御前をまかでぬ。こは浪華の騷亂の前方の事にて。さる御下心ありて宣ひしなりとぞ。(駿河土產。)
駿府の不明の御門は小十人の徒更番して守ることなり。ある日村越茂助直吉他所へ御使に參り。日暮に及び御門に至れば旣に御門は閉たり。村越茂助なるが御使はてゝたゞいま歸れり。御門を明られよといふ。番の者期限後れたれば明ることかなはずといひしらふ所へ。安藤彥兵衛直次も通りかゝり。こは茂助に紛れなし。ひらに明て通されよといふ。小十人云。方々は重き御役をもつとめられながらさることいひてよきものか。この御門はかねて日暮の後は人を通すまじとの御定なれば。誰にも通す事はかなはずとて終に明ざりけり。このよし聞しめして。この日當番の小十人兩人へは加恩たまはり。常々よく御門を固守するとて賞せられ。後に二人とも紀伊家に附屬せられしとなり。(駿河土產。)
常に鎌倉右幕下の政治の樣御心にやかなひけむ。その事蹟共かれこれ評論ありし事多し。ョ朝石橋山の戰にうちまけ朽木の中にひそまり居しを梶原景時がたすけしとき。景時ちかごと立て。君もし後日天下の主になり給はゞ。景時を執權職にせられよといひしをョ朝うけがはれぬ。さりながら若惡事もあらむには刑戮に處すべしといはれしは。かゝる艱困の中といへども。大將たらむ人の體面をうしなはざりしは。實に將軍の器といふべし。又ョ朝が七騎落の時。先例あしゝとて一人の供奉を减じたるはいかなる故ぞ。かゝる時は一人にて多きがよきにと仰らる。またョ朝陰晴をよく見さだむる者をめし呼て。浮島が原に出て天氣を見定しむ。その者天氣は見なれし所にては分りやすく。さなき所にてはしれがたしといひしとか。こはいと尤の事なりと仰らる。またョ朝姪が小島に潜居の時家僕にかたられしは。われもし本意とげて天下の兵權を掌に握ることもあらば。かならず汝に恩祿とらせむといはれしを。その者あざ咲て居けり。後にョ朝將軍職になられてあまねく恩賞行はれしとき。その者の沙汰には及ばざりき。よてその者むかしの事いひ出しに。汝はむかしわが詞をを咲ひしをわすれしにやといはる。其者いや某わすれは候はず。さりながらよくかうがへて見たまへ。そのかみよりうき年月さまでたのもしく思ひ奉らぬ主君に。今まで附そひ進らせし某を。はじめより此君に仕へて功名をも立むとおもひし人々にくらべては。某がかたかへりて忠義に候はずやといひしかば。ョ朝も理に屈してその者に厚恩を施されしとか。こは其者の詞いと尤なれと仰せられけり。また夜話の折御談伴等申すは。ョ朝は古より名將といひ傳れども。平家追討にさゝれし三河守範ョ。伊豫守義經二人の弟はすぐれて軍功もあるを。後に誅戮せしは少恩の至ならずやと申せば。君外々の者どもはいかゞ思ふと宣へば。いづれ同意のよしを申す。その時それは世にいふ判官びいきとて。老嫗兒女など常に茶談にする事にてとるにたらず。すべて天下を治むるものは。己が職をゆづるべき嫡子の外。庶子の分には别に異禮を施すことなし。其親族たるをもて國郡の主になし置といへども。これを遇するにいたりては外外の大名とかはれることなし。よてその兄弟たるものも身をつゝしみ上を敬し。萬事を篤實にせばよし。もし兄弟の親をたのみにし無道の擧動するを。親族なればとて見のがしては外樣の示にならざるなり。親族のわいだめなく理非を分明に行ふこそ。天下の主たらむ者の本意なれ。驕奢無道ならば配流に處。もし反逆の企もあらむには死刑に行はねばならぬなり。すべて天下の主の心と大名の心とは大にかはるものなり。さる大體をわきまへずしてョ朝を非議するは。これまた老嫗兒女と同日の所見なれと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長十五年諸大名に命じ尾州名古屋の城を改築せしむ。そのころ福島左衛門大夫正則。池田三左衛門輝政にむかひいひけるは。近年江戶駿河兩城の經營ありて。諸大名みなこれがために疲弊せり。されどいづれも天下府城の事なれば誰も勞せりともおぼえざるなり。この名古屋は末々の公達の居城なるを。これまで我等に營築せしめらるゝはあまりの事なり。御邊は幸大御所の御ちなみもあれば。諸人のためにこの旨言上せられよといふ。輝政は何とも答へざりしが。加藤C正大にいかり正則にむかひ。御邊は卒爾なる事いはるゝものかな。經營をいとはるゝならば人に議するまでもなし。はやく自國に馳せかへり兵を起さるべし。さる事もなりがたくば台命に違ひて。えうなきこといひ給ひそといたくいましめければ。正則も面あかめて居たり。後にこのこと聞せ給ひ輝政をめして。諸大名度々の經營に難義すときゝぬ。さらばいづれも本國に馳かへり城地を固くし。人衆を集めてわが討手のいたるをまつべしと仰れば。いづれも大に恐怖しすみやかに人夫をかりあつめ。夜を日に繼て經營をはじめ土地をならし。二十万の人夫もて西海南海の大石を伊勢三河の大船もて運致し。石壘をきづき城溝をほりいくばくもなくして竣功せしとぞ。(武コ大成記。) 
卷十三 

 

一年駿府より江戶へ渡らせ給ひしに。將軍家はじめ奉り竹千代君及び國千代の方もまちむかへたまひ。大奥へいらせられて御臺所も御對面あり。御座に着せられし時。竹千代殿これへれへと御手をとりて上段にのぼらせたまへば。國千代の方もおなじくのぼり給はむとし給ふに。しゝ勿體なし。國はそれにとて下段に着せしめられ。御菓子進められし時もまづ竹千代殿へ進らせ。次に國へも遣せと仰せらる。後に御臺所にむかはせ給ひ。嫡子と庶子とのけぢめはよく幼き時よりさだめ置てならはさゞればかなはぬものなり。行すへ國が堅固に生立ば竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ。今よりその心掟し給へ。これ國がためなりと仰られ。また將軍家の方を御覽じ。竹千代はよくもよくもあの人のおさな生立に似たれば。一しほわが愛孫なれと宣へば。將軍家も盛慮のかしこさを謝し進らせられ。御臺所は何と仰らるゝ旨もなく。たゞ面あかめておはせしとか。そのころ御臺所には殊さら國千代の方をいとをしみふかくましましければ。內々にては何事も竹千代君より御權つよく。近侍の者または女房などもおほく國千代の方にあつまり。えうせずは引こして儲位にも居給はむかなど流言どもありしが。この日の御もてなし格别なりしより。いづれもはじめて嫡庶の分おはしますことを知り。人々のつかふまつりざまもあらたまりて。國本いよいようごきなく定らせ給ひしとぞ。(落穗集。武コ編年集成。)
江戶より駿河に參謁せし者ありしに。この比將軍には機務の暇には。何を業となし給ふと問はせらる。そのもの常々武道の御穿鑿のみなりと申上れば。將軍軍法の事聞れむとならば榊原式部こそよけれ。かれはおほくの人の中に。多人數使ふ事心得し者なり。よくよく彼に尋ねらるべし。一人一箇の武勇は穿鑿ありとも。何の益かあらむと仰られしとぞ。(ェ永系圖。)
ある年の正月江戶より歲首の賀使として。酒井左衛門尉家次を駿府へつかはさる。家次見參の所折烏帽子の下に綿帽子かぶりしが。いかゞしけむ烏帽子脫て綿帽子あらはれしかば御けしきあしく。本多佐渡などは老年といひ。且もとよりおどけたる者なれば。綿帽子かぶる事もあれ。左衛門等が若年にてそのまねする事やはある。我等が方は隱退の事なればともかうもあれ。江戶にて諸大名列見の席などにて。かゝるなめげなる裝しては。將軍へ對してそのはゞかり少からずとて。いたくむづからせ給しかば。折ふし阿茶の局御側にありて。昨夜左衛門風引て今朝の見參かなふまじといひこせしが。初春のことにもあればつとめても拜賀に出よ。そゞろさむくば衣服をかさね。綿帽子きても苦しかるまじと申つかはしけるゆへなるべし。全くわらはが所爲にて。左衞門が心づからなせしには侍らずと御けしきとりしかば。やがて御心とけて。さる事にてもありつらむと仰あれば。左衛門はからうじて御前をまかでしとなり。(續明良洪範。)
駿河の阿部川に遊女の住る市街あり。府城にちかきをもて旗下の少年ども。動もすれば花柳にふけり。遊惰にのみなりゆくをもて町奉行彥坂九兵衛光正遊女町を二三里遠き所へ引うつさむと申す。君九兵衛をめして。今まで城下に住る市人をこと所にうつさばいかにとの給へば。さありては市人買賣の度を失ひ艱困すべしと申す。さらば阿部川の遊女もうり物にてはなきか。さるを遠地にうつさば阿部川の者たづきなりがたからむ。これまでのことくさし置との上意なり。かくてかの地次第に繁榮するにしたがひ。旗下のものはをのづから遊宴に長じ。窮困するよし聞えければ。その年の秋にいたり光正をめし。此頃市中の躍の聲城中にも聞えていと賑はし。我も見まほしと思ふなり。衣裝など新に調るに及ばず。常のまゝにて躍をせさせよと仰下されしかば。駿河の市街を三に分ち。躍子はやし方まで城中に入て思ふさまに歌舞し。赤飯酒などたまひ三箇夜興行ありしなり。そのゝち阿部川の躍はいかにと尋ね給へば。遊女町ゆへ除きぬと申す。君年寄りては男子のむくつけき躍ばかりてには興にもならず。女子の躍見たく思ふなりと宣ひて。俄に阿部川の町へ仰ごと下りて。遊女の中にも名あるものは。そが名をしるして奉れとありて。銘々こゝをはれと用意し。その夜にもなればとりどり御覽ありて後。高名の遊女どもをは板緣のうへにめし上られ。一人づゝその名を御尋あり。暇給はるときは御次にて菓子賜ひ。同朋福阿彌もてひそかに仰傳へられしは。此後とても俄に銘々が名さして召よばるゝ事もあるべければ。いづれもかねて心得置くべしとなり。かくて遊冶の輩このよし聞傳へて。遊女のうちいづれか上の御目留りになりて召れむもしれず。御尋の時いかなる事申上むもはかりがたしとはゞかり恐れて。少しも身分あるものは。この後花街に通ふことはやみしとなり。(駿河土產。)
駿河にて宿直にあたりし番士等夜半過るまで所々遊行し。辻相撲など見物してかへるに。一人づゝ殘りて番することなり。ある夜ふと表方へ渡御ありしに。例の如く一人殘り居しを御覽じ。如何にしてみなみな宿直を明しぞ。そのうへ餘人はみな出しに汝一人殘り居て何かせむ。臆病ならずばうつけものなるべしとのゝしらせたまへば。この後は一二人殘らむとする者なくみな遊行とゞめしとぞ。又城中にて年少の番士等うちよりて座敷相撲とりし所へ。ふとならせければ。いづれも平伏してあり。その時。このゝち相撲をとらば疊を裡返にしてとれ。福阿彌が見付たらば。疊の緣が損ぜむとて腹立べしと仰られ。别にとがめもし給はざりき。後に番領等この事聞傳へ。おごそかに禁ぜしめしとぞ。(駿河土產。續武家閑談。)
按ずるに慶長十二年正月廿九日相州中原へ御止宿ありしが。夜行殿にありしところの御茶器盜賊のために紛失す。よてその夜當番の者御科を蒙る。これは番衆その夜辻相撲見物に出て知らざるなりと。慶長聞書にも見えたり。當時かゝる事つねづねありしとみえたり。
御上洛ありて二條城におはしませしころ落書する者おほし。所司代板倉伊賀守勝重これを搜索せむといふ。君そのまま捨置べし。そもそもいかなること書しぞ。みそなはさむとあれは。御所柹にたにざく樣のものつけしをもち出て御覽にそなふ。
御所柹はひとり熟して落にけり木の下に居て拾ふ秀ョ
御覽じて。このうへとても落書禁斷すべからず。はしたなき事ながらわがみて心得になることもあれば。そのまゝにせよ。幾度も御覽あらむと仰られしぞ。(古人物語。)
慶長十年九月廣橋亞相兼勝卿。勸修寺黃門光豐卿。兩傳奏より。春日若宮兩社の木千折れたり。抑神本のかるゝはむかしより國家の大事。兵亂の兆といひ傳ふるよし申さる。君兩社ともに刱建より以來。あまたの星霜を重ねしとなれば。古木の折まじきにもあらず。あながち恠異とするにたらず。將軍家へ申して修植を願ふべしと仰付られしとぞ。(天元實記。)
あるとき本多佐渡守正信に仰られしは。われ將軍家へ厚恩をつねに施し置せらるゝと宣へば。正信天下を御讓ありしはこのうへなき御恩なりと申せば。いや家を子に讓るはめづらしき事にもなしと宣ふ。こは君の御代に何事もむづかしげになし行ひたまはゞ。後にかへりて將軍家の御ェ容をよろこび。いよいよしたしみ奉る者あらむかとの御下心なりしとぞ。K田孝高入道如水が死期ちかくなりて。その臣下に種々の難題いひかけてくるしめしは。其子の長政をわがなき跡にて。よくおもはしめむとての所爲なりといひしと。おなじ樣の御心用かと思はるゝにぞ。又はかなき事にもさる上意ありしは。いづれの時にか御舟遊ありしに。天野五カ大夫をめし鯉の調理命ぜられしに。鯉躍て海に入むとせし所を。魚箸もておさへて調しければ。いづれも其技の絕妙なるをほめあへり。上意に五カ大夫のたわけものめと宣へば。本多正信何ゆへかく仰らるゝかとうかゞひしに。その身一代は名人の名をとれ。子孫にいたりてさるものなからむには。かへりて子孫をして父に劣れりといはしめむ。誰も子孫をおもはぬ者はあらじと仰られしとぞ。(古人物語。)
慶長十七年三月將軍家江戶より駿河へ參らせ給ひし時。さまざま御もてなしありて御茶進らせ給れし後。投頭巾の御茶入を贈らせらる。これは茶人の名を得し珠光といへるが。はじめてみておぼえず頭巾を落せしより名を得し。天下第一の名器なりとか。其比御談伴の徒將軍家も殊更かしこみおぼしめし給ふよし申上しかば。汝等も將軍にねだりて投頭巾の茶によばれよとて。殊の外御けしきよくて御はなしありしは。人の子をほしがるも。早く家をゆづりあたへその所行を見さだめ。安心して殘の齡を過むがためなり。さりながら家をゆづるは容易ならず。子の才器にもより年の程もあるものなり。そのうへには時勢人心をとくとかうがへてゆづり渡すべきなり。家の重器などにいたりては。家つがせざる前かたにも追々にゆづり渡し子に安心さするもよし。おほよそ世の習にて家ゆづるとなれば。何によらず一時に子にさづけ。己が身一つになりて隱所に引籠るを本意とし。人もこれを見て心いさぎよき事とてほむるなり。または秘藏の器をば隱居して後も持かゝへ。折々子に分ちあたへて。その心をとる親もあり。抑わが若かりしほどより。世の父子の樣を見もしきゝもするに。はじめはかたみに慈孝深かりしも。隱家家督の後にいたり。いつとなく不和になりしためし少からず。こは父子の情愛においてはもとよりかはる事はなけれども。人々年たけて後はとかく成長の子を煩はしく思ふと。又子たる者の老たる親を大切とおもはざるより。互に隙出來て他人にも不和に見ゆるなれ。さる折は親の方より道具のひとつとつもゆづりあたへば。子も心落居て他人の嫌疑も散ずべし。子をして不幸の名をとらせぬ樣にせむこそ。親の本意なれと上意あれば。いづれも皆感歎してうけたまはる所に。またかさねて仰ありしは。隱居して後實に子と中あしくなり。わが子へさまざま艱苦をかけ隱居に似合ぬ奢侈をこのみ物數寄をし。莫大の費用を子に遺し。後には世のまじらひもならざるごとく貧困になりゆく例少からず。父に不利なるは子の仕樣のよからぬゆへとはいひながら。よくその本をたゞさば親の過誤なれ。古語に子をしるは親にしくはなしといへば。親としてわが子の善惡を見しらざるは大なる怠なれ。わが怠なりともすでに家を讓り渡せしうへは。わが心にかなはぬ事なりとも。おほかたはまづ忍むで居てさまざま教戒諷諭して。ながく家を治めさせむ樣にはかるべきなり。四民ともに家繼せむ子は。よくよくその才器を見さだめてこそ讓るべけれ。これ人々己が祖先へ對して第一の孝道なれ。殊さら國郡の主たらん者。いかにわが子不便なればとて。任にかなはぬものに家をゆづらば。家臣をはじめ國民までも禍を蒙り。後には敗亡にいたるなり。たとひ嫡子たりとも不孝にして任にかなはずばこれを廢し。庶子のうちか一族のうちを擇みて家督とすべし。この所においていさゝか疑惑なく斷然として行ふを。國主の本意といふぞかしと仰られしとなむ。(岩淵夜話。)
最上出羽守義光はやうより心を當家にかたぶけ。出羽よりはるばる書信を通じ。織田豐臣の兩家へも當家を紹介して歸順せしなり。其後京伏見にて危疑の間も。人より先に御館に伺公して守護し奉り。關原の役には御味方して上杉景勝と戰ひ。忠勤なみなみならざりしかば。君にもいとたのもしきものにおぼしたり。この義光年老て後慶長十七年のころひさしく病にかゝり。起居も自由ならねば再び見え奉らではてむは本意なしと思ひ。出羽よりはるばる病をつとめ駿府に參謁す。かねてこのよし聞召ければ。本多上野介正純に仰付られ途中に出迎へしめ。御玄關まで乘輿をゆるされ。進謁の時も御座近くめしよばれ。つぶさに病躰をとはせたまひ。御手づから御藥下され。早く封地にかへり心のまゝに療養すべし。かへさに江戶にも立より將軍にも拜謁せよと懇の仰ありしかば。義光も淚ながしてかしこみ奉て退でし後に。御使もて夜の物布帛かずがず下され。やがて江戶に參り台コ院殿にも見參し奉りしかば。おなじさまに御優待ありて。賜物かずがずかづけ給ひ。且義光が長子家親今在府の間。年來の國役三が一を免除せしめ給ふ旨仰下され義光感恩に堪ず。かくて歸國の後十九年正月遂に身まかりしとぞ。(武コ大成記。ェ永系圖。)
藤堂和泉守高虎も太閤在世の時より。當家に心をかたぶけ進らせ。殊に關原の前後には忠勤をつくせし事大方ならず。かかりしかばこなたにもその精忠を察せられ。御家人と同じ樣に御心やすくおぼしめし。何事も議し合されしなり。御老後には常にめして御談伴とせらる。その頃高虎も齡旣にかたぶきて兩眼うとければ。御前わたりに侍らむ事恐れありとて辭し奉りしに。土井大炊頭利勝もて。君御晚年にならせられ。和泉と昔物語せさせ給はねば。いとつれづれにおぼしめせば。目のうときはくるしからず。これまでのことくにまうのぼるべし。且行歩もおもふ樣なるまじければ。御座所の御次まで乘輿をゆるされ。渡殿の屈曲せし所々もみな直道に作りかへしめられ。そが便よからむ樣に搆へられしよし仰下されしよし仰下されしかば。高虎も御寵遇の懇到なるに感じて。老の淚をそそぎつゝかさねてまうのぼりて。御談伴に候せしとなん。(藤堂文書。)
夏月の比駿城にて天俄にかきくもり。神おびたゞしくなり出し折。御前に伺公せし御談伴の徒へ仰けるは。何事にも用心のなきことはなし。地震など急遽に起るものなれども。かねて營造の樣によりてその難をのがるゝ事もあり。雷ばかりは何地へ落るといふ定もなく。直に落るもにおつるもあればふせぐべき術なし。さりながら用心のなきにはあらず。人々いかにおもふと宣へば。各上意のごとくこれのみふせぐべき術は候はずと申上ぐれば。さらば我教てきかせむ。大名などの家居廣く住なすものはいふに及ばず。小家にすむものも。今日のごとき迅雷にあへば。夫婦兄弟それぞれ間をへだてゝ居るこそ第一の用心なれ。そのゆへは誰なりとも運命にて雷にうたれむに。その身一人うたれむは詮方なし。もし雷のはげしきをおそれ。家內一所につどひ居る所へ落たらば。一家種絕しになるなり。先年京の市人雷のとき狹き家のうちへ一族のこらずこもり。戶障子を立廻し。火をたき香など燒て居る所へ雷落て座中おほかたうち殺され。殘るものも皆片輪になりしなり。恐るべき事ならずや。さるを此者はかねて隱惡ありしゆへ。天罰にあたりしとも又は前世の宿業なりとも人々いひしは。いとおろかなるいひ言なれ。雷に何の取捨があるものかとて御笑ありしとぞ。その比尾紀水御三人の公達のかしづき等をめして。この後雷のはげしき時は。方々を一所に置奉るなと仰付られしとなり。(駿河土產。岩淵夜話。)
甲斐の土屋惣藏昌恒が子は。昌恒が主の勝ョがために討死せし後。故ありて駿河國C見寺にありしを。一とせ駿河より江戶へ入らせられしとき。C見寺へ立寄らせられ。御硯箱めせしに。この子硯箱持いでゝ奉れば。墨すれと上意にて御側にさし置れ。囃子の番組など書しるしたまひ。出立せ給ふにのぞみ。このをさなきものは誰が子なりやと御尋あれば。寺僧これは御敵なりし者の子なれば憚なきにあらず。さりとて今はつゝむべきにも侍らず。甲斐の土屋惣藏が子なりと申上れば。そは忠臣の子なりわれにくれよと宣ひ。御召替の御輿にのらしめて召連られ。江城の御玄關まで成せられしに。台コ院殿出で迎へ給ふ所へ。御みづからこの童子の手を引て。これは此度道中にて思はずほり出せし懷中脇差なり。忠臣の種なれば隨分に秘藏し給へとてさづけらる。台コ院殿童子の袖をとらしめて。盛意をかしこみ謝し給ふ。これより御側に近侍し寵眷淺からず。後に民部少輔忠直とていと才幹ある者になりしなり。又江城にて御鷹狩のかへさ。牧野傳藏成里大手門の番にあたりて平伏してあり。そのころのならひにて成里が三男の五六をも携へて。同じくありしを御覽じ付られ。御前ちかくめし。五六が年齡御尋ありて。年比よりいと長大にて行々壯勇の士ともなるべき相見えたり。今より將軍に近事して忠勤を勵むべしと仰ありて。成里をば伊豫守に任ぜしめ。五六に傳藏が名を讓らしめられしとぞ。(武コ編年集成。)
慶長十八年正月池田三左衛門輝政身まかりぬ。その生前に常常愛宕の神を信仰せしが。いまだ卒せざる前かた庭鳥の死せしが。一雙庭上に落てありしをいまいましく思ひしが。程なく卒しけるよし聞召て。死たる事の不便さよ。すべて愛宕などいのりて天下がとれるものにてなしと上意ありし。この人も風雲の機に乘じては。いかなる志ありけむもはかりがたしと思召ての御詞ならむと。時の人々評しけるとなむ。(古人物語。)
越前少將忠直朝臣讒人の言を信じ。其臣布施m馬を誅せしとき。表口よりは本多伊豆守富正。數寄屋口よりは永見伊右衛門。臺所口よりは永井道存を討手に遣せしといふを聞せられ。その道存とは何者ぞ。餘の兩人とおなじくかゝる所へ出べきものかと宣へば。本多上野介正純こは永井善右衛門が事にて候と申上れば御けしきあしく。善右衛門が事か。そは親の秀康が心にかなはで立退し者を。その其子の使ふ事やあるべき。他所に口を糊する所はなきか。親が見限りし者を子として養ふ理なし。わが生前に彼がつらをばふたゝび見まじと宣ひしゆへ。忠直朝臣が方にてもそのまゝさし置れがたく。逼塞命ぜられしとなり。(武功實錄。)
尾紀兩家へ家老一人づゝ附させられむとて。松平周防守康重。永井右近大夫直勝兩人內々御けしき給りしに。兩人あながち辭し申ければ。其後は外々の者へも仰付られず。折しも御持病起らせ給ひて。常の樣にもましまさゞれば。安藤帶刀直次。成P隼人正正成兩人うち寄りて議せしは。こたび大御所には兩家のかしづきの事をおぼしなやみてましますと見えたり。何をつとむるも上への忠節なれば。兩人とも志を决して御請申さむとて。われわれ不肖には候へども。此度の役にめしつかはれむとならば。仰にしたがひ奉るべしと申せば殊に御けしきよく。兩人の申所神妙におぼし召すとて。隼人正を尾張。帶刀を紀伊に附させられ。本城の御用もこれまでのことく仰付らるべしとなり。中山備前守信吉も水戶へ附させられしなり。(駿河土產。)
按ずるに家譜によれば。成P安藤が兩藩のかしづきとなりしは。共に慶長十五年にして。中山が事は十二年なり。中山に御附命ぜられし時に。諸事成P安藤と同じ樣に心得べしとの命ありしなれば。安藤成Pもそれより以前かねて兩家の事心得てありしとみえたり。
以上の二卷は駿府におはしませし折の事どもをししす。 
卷十四 

 

慶長十九年十月朔日駿城にて。觀世左近に猿樂仰付られ。ョ宣ョ房の兩公達もかなでたまふべしとて。その御催なりしが。折しも前夜より雨ふりいで。當朝にいたりてもいまだやまず。かかる所に京の所司代板倉伊賀守勝重が許より急遞來りて。大坂違亂のよし注進す。其時君は後閣に渡らせ給ひければ。本多上野介正純阿荼の局をもてかの書を御覽に備ふ。即ち正純を後閣にめして國々への廻狀を調せしむ。駿河より京までの國々の城主は。支度次第打て上るべし。藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝。松平下總守忠明は。東寺より鳥羽の間に備て非常を戒しむべし。松平隱岐守定勝は伏見を守るべしとなり。この時成P隼人正正成は。尾州へ往てあらざれば。正純と安藤帶刀直次と。兩判の御教書なり。松平右衛門大夫正綱は兼てこの日の御能の事承りてありしがいまだこの事知らざれば。はや雨も晴たり。御能はじめさせ給はんかと伺ひしに。近日出陣するものが。能など見て居らるゝものかとの上意なり。これによて上下はじめて浪花違亂の事を知しとなり。(天元實記。)
十月十一日駿河の田中に至らせ給ひ。天龍川の浮梁落成しつれば。彥坂九兵衛光正そのよし申上。御駕はまだ渡らせ給はざる間は。行人を禁ぜんと聞えければ。上意におほよそ舟梁かくるは。往還の便よからしめんが爲なり。わが渡らずとて行人を禁ずべき事か。但し大勢一時に渡らば。橋の損ずることもあらん。一騎づゝ通すべしと仰付られしとぞ。(東遷基業。)
御若年より。軍陣あらんとする前かたには。いつも御はかし取出さしめ。帶せられて御覽ある常の事なり。此度も例のごとく御太刀取出さしめて帶し給ひ。われ年老てこのまゝ席上にて打果むは。殘多き事と思ひしが。この事起りしは本意の至なり。速に馳上り敵どもを打果し。老後の思ひ出にせんと上意有て御太刀を拔せられ。御牀の上へ躍上らせ給ひければ。その御樣見奉りし者。御英氣の老てもさかりにおはしますに感服して。たれもれも勇氣いやませしとぞ。(慶長見聞書。)
十一月五日甲山の邊にて。數萬の蛙集りて南北に分れ。くひあふ事半時ばかりなれと聞しめし。蛙軍はめづらしからぬ事ながら。天寒には土中に蟄居してあるべきを。かく身躰を動かして戰ふは。奇異の事なれと仰らる。又新宗村に生し芦は片葉なりといふを聞しめし及ばれ。刈よせて御覽あるに。果して片葉なれば。松平右衛門督忠繼。この邊の芦は芦にあらで荻なりといへば。汝は難波の芦は伊勢のM荻といふことはしらずやと仰られしとぞ。(東武雜錄。明良洪範。)
十一月十二日二條の御城にて。高野の僧侶の論義を聞しめされし半に。佐竹右京大夫義宣が參着のよし言上する者ありしに。論義の折から何を申ぞとて咎められ。論義はてゝ後其僧どもねぎらはれ。こたび大事の戰に打立ば。先是迄にて聞さしつ。かへさにいとまあらば。再びきかむと仰られて後に。佐竹よべとて義宣に御逢ありしが。その御樣平常のごとく。いさゝか遽忙の躰ましまさゞりき。このよし大坂にも語り傳へて。大御所御老年ながら。御大度の日比にかはらせ給はず。かくてはこたびの軍。城がたはかばかしき事はあるまじとて。心あるものはひそかに歎息せりとぞ。(武コ編年集成。)
此度將軍家より軍令を草せしめて。本多上野介正純もて御覽に入給ひし時。將軍にはいかさまこの通にてよからむ。われは年若き程より。いつの戰にも軍令出せし事なし。いかにとなれば。定めし法の通にしてもしかなはざる時は。咎る事もならず。又軍法に違ひてよき事ありとも。それをほめては法が立ぬゆへ。時宜にまかせて事をすませしなりと仰なり。又關原の役には御旗御長ネの立所。及び使番目付等の備所つばらに定め給ひしゆへ。此度も先年のごとく仕らんかと。正純二條城にて伺ひ奉りしに。汝は天下分目の戰と。秀ョを成敗すると同じ樣に心得しや。今度わが旗本の陣法がいるものか。たゞ平押にをしよせて攻べし。味方の者ども居たき所に勝手に居よと仰られしとなん。(駿河土產。)
十一月十六日南部を御立有て大坂へ赴かせ給ふに。本多正純。供奉の者に甲胄きせんかと伺ひしに。先年關原の役に。市人金六といふ者が甲胄きしを。村越茂助直吉見て。市人の分として兵具をまとふは不當の事なり。きと咎め申付んといひ出しを。まづすて置て其樣を見よといひしが。果して一兩日經て。路傍の松の枝に具足一領懸りたりといひ出たり。よく尋れば金六が着せしなり。よて彼をよび出して尋しに。走り廻りに不便なるのみならず。骨節もいたみて堪がたければ脫棄たりといふ。かゝるためしもあれば。今南部より大坂迄路程いまだ隔たりしに。早く具足きせば。三軍いよいよ疲勞せん。しばし待候へと仰られ。その夜は法隆寺に宿らせ給ひ。明日十七日御出立の時。こゝよりは兵具をきせよと仰付られ。金地院崇傳。林道春。與庵法師も人並に鎧きて御前へ出しかば。我等が麾下には三人の法師武者が有とて御咲有しとぞ。
案に幸若大夫が家傳には。君常に幸若歌曲をすかせられ。この御陣にも大夫をめし連られしが。この三人の圓頂の徒が物具せしを御覽じて。幸若曲の堀河夜討に。我等が手に三人の法師武者があるといふをふとおぼしめし合されて。此御詞は仰出されしなりといへり。さもあるべし。
十九日茶臼山に御陣をすへられ。古兵の徒召出し。此度合戰の意見を宿老して御尋有て。君には障子隔てゝきこしめす。其時山名禪高上座にひらき居て申けるは。兩御所は仙波より御出馬あつて。備前島に攻かゝり給はゞ忽ち落城すべしと。事もなげにいひ出ぬ。君はほゝゑみておはせしが。明る年落城の後に此事仰出され。去年禪高が城責の事議せしは。城の中に人なしと思ふ責方之其責樣にては城によするとひとしく。上なる者は鴟口などもて城墻をかけ倒さんと思ひ。中なる者はたゞ聲を立て噪くべし。下なる者はその騷擾に紛れ逃むとのみ思ふべし。さる時は城は落ずして。死亡のみ多からん。白鳥は觜圓かにして。人を啄くものにあらざれども。是を捕へんに一人は咮。二人は兩翼。一人は胴と。四人もかゝらでは捕る事かなはず。まして思慮もなく城を責ていかで落べきや。禪高が責方こそいとおもしろけれとて御咲有しとぞ。(武功雜記。)
諸口御巡視あらんとて。たゞ御一騎城の堀際まで乘廻し給ふ。いづれも馳出て供奉せんとするに。本多佐渡守正信制しとゞむ。君は御素肌に。鷹の羽散したるはな色の御羽織をめし。鹿毛の馬にめして城溝の邊に立せ給へば。城中より打出す鉛丸雨のごとく來るに。いさゝか恐れたまふ御けしきなく。加賀越前の丁塲まで巡視あつて。住吉の御陣へ還御あり。この時の事にや。鉛丸しきりに飛來れば。正信この所に御長居は恐れ多し。早く避させ給へといふに。聽せ給はず。かゝる所へ初鹿野傳右衛門信昌。田甚右衛門尹松の兩人進み出て。殿には元より鐵炮のはげしき所をすかせ給へば。こゝより船塲の陣には。大筒を仕かけてあれば。ちと御覽ずべし。いざ御供申さんとて。御馬の口をその方ざまへ引向て。即ち船塲へおはしけり。こゝは蜂須賀が持口にて。城より間數遠ければ。鉛丸の來ることまれなり。大將が巡視に出て。鉛丸が恐ろしとて引返さば。三軍の示にならず。さすがかの兩人は甲州者程ありて。軍陣の法に鍊熟せし事よとて。殊に御賞譽ありしなり。(大坂覺書。感狀記。)
伊達政宗。佐竹義宣。上杉景勝の三人。御氣色伺のため住吉の御陣へ參り謁し奉りし時。政宗は猩々緋の袖なし羽織に。白熊もて菊とぢつけ。朱鞘の差添に白銀の打鮫。紅の腕ぬき付しを帶す。義宣はKき羽織に五本骨の扇をつけたり。景勝はKきとら織の羽織に。蹙金にて芦に白鷺をぬひ付。赤き紐をつけたり。三人まかでしのち仰ありしは。景勝は律義なれど。奢侈なる人を使ふと見えたり。それらが仕業にていらぬ裝飾せしなり。近比笑止なる事かなと宣ひしとぞ。(駿河土產。)
廿五日茶臼山へ御陣がへあり。諸大名も參謁し還御の折。將軍家より進らせられし。K粕毛の馬を引出てめされんとす。其時城の方にむかひて馬嘶ければ。敵方にむかひていぼふ馬は。まれなるものなりとて。御けしき大かたならず。藤堂和泉守高虎承り。このこといと御吉兆なりと申上。さて地道一二へんめすに。諸大名いづれもうづくまり居て拜み奉る。仰にわれ若かりし程は。馬上にて鷹をも使ひ。鷹の捉りし鳥を馬上にてとりし事もありしが。今は馬ばかりも乘かぬるぞ。老といふものほどはかなきものはなけれと宣へば。いづれも御年よられても御意氣のいよいよ御勇壯におはしますとて。感驚しけるとぞ。(天元實記。)
伊達政宗茶臼山の御陣へ參り御物語の序に。かゝる騷擾の折は人心計りがたければ。朝夕の供御などもよくよく御心付らればよからんと申上しに。尤の事と聞し召し。是より供御きこしめすに。御にとりの役立置れ。後々までも三河以來譜第の者もて。その役にあてらるゝ事となりぬ。(雜話筆記。)
案に御にとり役とは。今の世の御膳奉行の事なり。ェ永ェ文の頃まではかく唱へしなり。今も食物の試するを。おにをするといふは古言なるべし。
鴫野の戰に。上杉景勝敵の大軍を打破り勝利を得たり。軍監にさゝれし小栗又一忠政住吉の御陣へ參り。戰の次第を申あげて御次に退き。けふの戰に敵を追討べきよき鹽合の有しゆへ。景勝へすゝめしに日暮たりとて聞ず。あまり殘おほければ。直江にも人衆をかせ。われ追付むといひつれども。是も同じ樣の答して事ゆかず。さてさて殘念の事かなといふを聞付給ひ。御次に出給ひ。やあ又一。汝が身分にて景勝などが軍せん樣を非議するはいらざる事なり。たはけめときびしく咎め給ひしかば。忠政も平伏して恐れ居しとぞ。その後兩御所鴫野口御巡視ありし時。上杉が陣を通御あるとひとしく。陣中より城へむかつて炮炮を打かけ。景勝は陣頭に出てぬかづき居たり。其折先日の戰に。汝が家人まで粉骨を盡せりとて。慰勞の御詞を加へ給へば。景勝承り。童いさかいにて。别に骨折と申までの事にも候はずと申せば。供奉の輩もみな感嘆す。此度景勝が家人軍功の者へ御感狀を下さるゝに。いづれも御前にて封のまま給て退きしが。ひとり杉原常陸介は封を開き拜見し。御文段殘る所なくかたじけなきよし申。此度御賞詞蒙るも。全く故輝虎入道が武邊のあたゝまり殘りて。景勝が弓矢の家風にて候へと申て退きたれば。御氣しき斜ならず。汝はいくつになると御尋あれば。本年七十二なるを七十五と申上る。君聞召し。我より二年のこのかみにて。今度の大功をたてたれば。われも二三年の內はまだョ母しきぞ。汝が白髮の老武者が。萠黃の鎧に金作の太刀金襴の羽織着し出立は。むかしの實盛が鎧直垂の姿思ひ出さる。此度の功は實盛には遙に揩黷閧ニ。御褒詞ありしとぞ。(大坂覺書。武邊咄聞書。)
御陣中にて小栗又一忠政。佐久間河內守政實。山本新五左衛門正成三人會合せし時。忠政正成にむかひ。御使番の內に諸大名の陣にゆきて。竹束より外へ顏を出す事もならざるものありて。諸陣の咲種になるときゝぬ。同僚の恥辱にあらずやといへば。佐久間は聞ぬふりして居しが。正成は兼て又一と親しきゆへ。御邊は例の頭に口の明たる樣に人のことないひそ。此時にあたりたが命をおしむべきといへば。忠政汝が事をいふにあらず臆病人の事を評するなれ。臆病の覺えある者は。をのづから知るらんと高聲に成てのゝしれば。折しも本多佐渡守正信。上野介正純父子。西尾丹後守忠永御前に侍せしが。その騷を聞付て。正純御次へ走りいでゝ尋ぬるに。しかじかの由なれば。正純笑て三人の前へ來り。いづれも古兵の人々が。武邊の吟味せらるゝはさる事なれ。かくてこそ若年の者も自ら武道に精が入るべけれ。かゝる詮議は何程もあらまほしけれとて。その後三人とも御前へ召出され御酒下され。寒天の折から老人わきて太儀に思召により。諸番の中より若き者一人づゝ擇み出し。使番になさるべければ。汝等よく心得て教諭すべし。さりながら五の字の指物は。こたびの新役にはゆるされざるむね命ぜられしなり。又城兵の下町を自燒せしとき。高麗橋を燒たりとも。さなきとも風說定らざれば。忠政をめし。汝往てよく見定め來るべしと仰付られしにより。忠政即ち馳ゆきかへりきて。橋は殘りたりと申す。君城兵この橋燒たらば。城中の者ほし殺にしてくれんと思ひしに。今迄使番のものたれも見屆ざりしと宣へば。忠政いづれも臆病にて。城近くよらば銃丸に中らむことを恐れ。遠くよりおぢおぢ見て返りしゆへと申上て御前を退きぬ。後に近臣にむかはせられ。又一があの大口にては。中あしきもことはりなりとて咲はせられしとなん。(駿府土產。)
板倉伊賀守勝重に命ぜられ。こたび從行の諸軍三十万の人衆へ。日每に千五百石づゝ粮米を給ひ。遠國の者へは一倍をまし下され。また銀をも下さるとて。加賀仙臺などへは將軍家より三百枚。君より二百枚。合て五百枚。森美作守忠政の列には二百枚に百枚合て三百枚なり。其頃俸米賜る者人員をまして俸米を受とるものありて。上を欺の罪少からざれば。きと糺察せんと聞え上しに。節儉も時にこそよれ。城中へ寄手の多勢のしるゝは俸米による事なれば。何程もおほくあたへんこそよけれと仰られぬ。又御上京の折勢田の橋の左右に埓を結しめ。諸軍水へ陷らざらん樣にせしめし事有しも。味方の多勢を敵にしらしめんが爲の御處置なりしとぞ。(大坂覺書。老人雜話。古人物語。武コ編年集成。)
城兵天滿口を自燒せし時。其口の大將松平武藏守利隆はじめ進み入むとせしに。城和泉昌茂堅く制してゆるさゞれば。諸軍もやむ事を得ず思ひとゞまりぬ。後にこの事聞せられ。諸將は何とて攻入べき所に軍進まざりしと宣へば。城和泉守があながちに制し止めしゆへなりと申す。よて和泉をめし。汝を天滿の軍監に遣はせしは。若者どもの軍令に違ひ拔懸せんを制せしめんが爲なり。さるを一ぺんにこゝろえて軍機を失ひ。天滿を乘とらざりし事。さりとは其任にかなはずとて。俄に林道春信勝をめし出て。七書のうち大將軍中に在ては。君命も受ざるところありといふ文段を講ぜしめて。聞かしめたまひ。汝は是を知らぬかといたくいましめられ。御凱旋の後改易せられしとぞ。(大坂覺書。家譜。)
十二月二日茶臼山へ上らせ給ひ城中のさま御覽あり。折しも喜多見長五カ某蜜柑を臺にのせて持いで。永井右近大夫直勝も杖にすがりて御跡より上る。君その杖を取せられ。城の方を指揮し給ひ。蜜柑を三つばかり取せられ。御口にて皮をくひ割給ひ。その臺は將軍家へとあれば奉りしに。將軍家は一顆取て御懷にいれて座し給ふ。やがて本多佐渡守正信も從ひ來て。杖により城中を見積る樣なり。この時君竹把の外へ出させ給へば。直勝正純はじめ使番の人々御前に立塞るを。そこのけと仰られて。なを進み出させ給ふとき。銃丸きびしく飛來て。島彌右衛門一正が鎧の草摺に中る。後また大丸しばしば來れども。さらに恐怖のさま見え給はず。しづかに御覽畢りて還らせ給ひぬ。其時城中にて後藤又兵衛基次諸卒にむかひ。あのことき天運に叶はせられし名將をば。鐵炮にては打ぬものぞとて。制しとゞめしといへり。(武功實錄。)
二日の早天に諸軍御下知によりて城近く陣を進めしに。井伊掃部頭直孝は陣をかふるとひとしく。城へむかひ惣鐵炮をはなしかくるにより。城兵も驚き寄手も色めき立て。しばしが程はしづまらず。將軍家聞しめし。直孝此度兄が陣代としてあるからは。わきて物ごと謹愼にすべきを。かくほこりかの擧動しては。大御所の思召所もいかゞ之。切腹仰付られんもはかり難し。本多佐渡守正信に。汝いぞき住吉の御陣へ參りよきに御氣しきとれ。直孝が家長一兩人腹切せ申べきかと伺へと仰らるれば。正信御陣に參りしに。君御覽じて。佐渡は何の用有て來りたるぞ。定めて今朝の直孝が陣替に鐵炮打し事ならん。かれは兵部が子程ありて。陣替に一聲敵をおどろかして鹽を付たり。感ずるに堪たりと宣へば。正信打わらひ。その事にて候へ。御父子とてかほどまで御心の合せらるゝ事もあるかな。將軍家も直孝を御感スのあまり。某に參つてほぎ言申せとて。遣はされしなりと申せは。いよいよ御氣しきよくて。將軍もさ思はれしな。さてさて滿足の事よと仰られぬ。正信立返りこのよし申上ぐれば。將軍家も思ひの外にスおぼしめし。直孝をめして御賞美あり。又直孝が眞田が丸責しとき。家臣木俣右京一番に攻かゝり。手疵蒙りけるよし將軍家きこしめし。右京は掃部が家長としてありながら。若輩者のごとく一箇の功を立むとおもひし事。その任にかなはず。かゝる事捨置ては外樣の徒の示にもならざれば。おごそかに御沙汰あらんと御諚ありしを聞せられ。安藤帶刀直次もて仰進らせられしは。右京が軍令に違ひし罪はさる事なれども。衆に先立て命を抛むとせし志は。まだ成難き事なれば。まづ聞しめされぬさまになし置るゝがよしと仰進らせられしかば。將軍家もまげて尊慮に從はせ給ひしとぞ。(落穗集。大坂覺書。明良洪範。)
今橋筋御巡視の時。本多正信進み出て。將軍家にも御巡視あるべきかと伺ひしに。我は年若きより干戈の間に人となりて。いまだ陣中に安座したるおぼえなし。將軍の事はその心次第なれと仰ければ。正信おどろき。早々岡山の御陣へかく注進し奉れば。將軍家もいそぎ御巡視に出させ給ひしとぞ。(大坂覺書。)
天滿大和の川々の水を。せき落さむとの尊慮にて。中井大和が御前にて御酒下され。例のことく沉醉し大言どもいひ放つに。御戱の樣に。大和この川筋にてよきさかなあまた求めて衆を饗せんと思ふが。網ばかりにてはかなばじ。いかゞせんとあれば。大和承り。いとやすき御事なり。大和川の邊殊に魚おほし。人夫の一万も侍らば水せきとめて悉く取得んと申す。その折は一時の戱談のごとくにて終りしが。やがて又大和をめし。ひそかに毛利長門守秀就。福島備後守正勝が人夫一万五千を出さしむれば。汝さきにいひしごとく川水をせき落し。魚求めよと仰付らる。大和かしこまり速に虎落を作り。土苞を仕立。島飼村の邊にて堰とめしかば。天滿川東堀久寳寺橋の邊一時に干瀉となり。城方にて新に作り出し外郭。惣責あらば忽に落べき樣に見えしとぞ。(武コ編年集成。)
十二月廿九日仙波と惣郭の橋ども城兵みな自燒して。今橋と高麗橋とのみ殘りしを。石川主殿頭忠總これを燒せじとて。高麗橋の詰にて鐵炮放して防守せしが。城方よりも同じく銃丸烈しく打かけ。忠總が士卒疵蒙る者あまたなれば。使番小栗又一忠政馳來て注進し奉る。永井右近大夫直勝も御前に在て。阿波勢近邊なれば。忠總に力を合せ橋を救はしめんといへば御けしき損じ。其方共はあまりに軍法を知らぬぞ。此橋はこなたより燒度思ひつるに。もし燒なば心得ぬ者は城責なしと思ひあやまらんかとて捨置しなり。城中より燒落すこそ幸なれ。すて置べし。惣責の時橋の一筋が便になるものかと。御怒のあまりに。御側にありし長刀とらせられ立せ給へば。忠政も直勝も恐入て御前を逃去ぬ。後に又敵此橋より夜討せんも計り難し。怠りなく守れと命ぜられゝが。四五日過て塙團右衛門直之此口より阿波陣へ夜討をしかけゝるとなり。(慶長見聞書。)
城將塙團右衛門直之が蜂須賀阿波守至鎭が手へ夜討せし時。至鎭が家人稻田九カ兵衛生年十五歲にて大功ありしかば御感狀を下さる。其ころ近臣へ仰ありしは。子に名をつくるも心得の有べき事なり。九カ兵衛はわづか十五なるを。いらぬおとならしき名を付しはさんざんの事なり。何丸とか何若とか付ば。今度の働もわきて奇特に聞ゆべきに。おしき事なり。人々もかねて心得置べき事と仰諭されしとぞ。(天元實記。)
東西和議旣にとゝのひ。城中より木村長門守重成誓書取かはしの御使に參りし時。御前近く召れ。汝は常陸が子とかや。いかにもおもざしは父に似て。天晴大將の器見えたり。むかし關白秀次北野の松梅院にて茶の會催せし折。われも常陸に面會せしを今さらの樣に思ひ出れ。常陸は智勇とも兼備はりし者なるが。石田が讒によてはかなき死を遂しはいと惜むべし。されど汝が仇とする石田小西等の姦人どもは。關原の戰にわれみな打亡せしぞ。此後もかまへてうとくな思ひそと仰ければ。重成も御詞のかしこさにおぼえず淚ながせしとぞ。又御和議とゝのひし後大野修理亮治長。織田有樂入道と共に茶臼山へ參て賀し奉りし折。本多上野介正純をめし。修理事はわれ若年者とのみ思ひしに。こたび城の主將として諸軍を指揮せしさま。武勇はいふに及ばず。秀ョへ對しての忠節のこる所なし。汝も修理にあやかれとて修理が肩衣を御所望あつて。正純へ着せしめたまひければ。修理は冥加にかなひしとて。感泪をそそぎて御前をまかで。有樂は御次にて衆人にむかひ。此度御和議とゝのひいとめでたし。この後は入道も太平の思化に浴し。生涯を樂み送らむとて。茶を點ずるまねして還りしとなん。(大坂覺書。)
片桐市正且元が家人城方一揆の爲にかこまれ。旣に危急に及び尼が崎の城へ援兵をこひしに。城番奉りし松平武藏守利隆が家人とも。敵か味方かと不番して救援せざりしかば。片桐が手の者みな討れぬ。此事御氣しきにかなはず。御和睦の後利隆が家人を二條へめして御糺あり。家人伴大膳といへるもの御答申せしは。尼が崎は樞要の地にて侍れば。常々怠りなく警衛せし處へ。片桐が家人のよしにて救援を申こしつれど。たやすく城を明て打出べきにも侍らず。且片桐この比こそ御味方に參りたれ。元より大坂の股肱なれば。いかなる異圖あるべきもしらず。もしこの城欺きて付入にせられんには。御家の儀は申迄もなし。池田が家の緩怠これにすぐべからずと。かたく思ひはかりて。城戶をとざし人衆を出し侍らずと申せば。上意に。今となりてはとかう遁辭を設くれども。眞こと味方の死亡を眼前見ながら救ざりしは。全く利隆が兼々家人の命令とどかざるゆへなりとて。御座を起せ給へば。大膳猶も御後に附そひ。御情なき仰をも蒙るものかな。たとひ利隆は姬君の所生にましまさずとも。これも御外孫とは思しめさずや。今何がしが謝し奉らざらんには。いつのよにかこの汚名をそゝがんと。淚を流して申せば。君もその忠烈なるを愍ませ給ひもはや聞分しぞ。武藏にもよくいひきけて安心させよと宣へば。大膳もかしこさのあまり。合掌して御前をまかでしが。後に侍臣に向はせられ。かの親も大膳といひて。長久手の戰に利隆が祖父の勝入討れしかば。父の輝政怒に堪ず馬引返し討死せんとせしに。大膳その時は馬の口取奴なりしが。輝政が馬の首堅くとらへて放たず。遂に輝政を引立て退き。後々主人をして祖先の祀をつがしめ。今大國の主となせしも。全く大膳が功による所なり。その子ほどありて。今の大膳も主の爲には身命をも抛むとの覺悟にてわが前に出で。かゝる大事をもいひほどきたれ。武藏はよき人持かなとて。御賞嘆ましませしとなん。(岩淵夜話别集。)
案に大膳がこの事を。利隆が弟左衛門督忠繼神崎川を渡せしに利隆は渡らず。又野田福島の役に忠繼を救はざる事御不審により。大膳御前に出て具に申ひらきし時の事ともいへり。
豐臣太閤はじめて城作り出られし比。前田蒲生等の人々をあつめ。こたびの新城は實に金城湯池ともいふべし。たとひ何万の大兵もて攻るとも。たはやすく落ることはあらじ。人々いかゞ思はるゝといはるれば。いづれも仰のごとしと申す。太閤又この城攻むには二つの術あり。大軍にて年月かさねて圍守し。城中の粮食の盡るをまつか。さらずば一旦和をいれ。隍を埋め塀を毁ち。かさねて責れば落べしといはる。その折君も侍座し給ひ。太閤が自讃を聞しめ給ひしとか。こたびの戰に及び將軍家は必らず惣責にして落さむと三度まで仰進らせけれ共。君われ度々城責せし事あるが。敵により地によりて責方もまた同じからず。たゞ天時の至るを待せ給へと仰られてゆるし給はず。日ことに金堀をあつめ雲梯を作らせ。また大炮を城中へうち入れなどせしめて。城中の者の心膽を恐怖せしめし上にて。遂に御和議とりむすばれしゆへ。その議速にととのひけり。かくて惣郭を毁ち隍地を埋しめしゆへ。再びの戰には。かゝる險城をわづか三日ばかりが程に攻落されしなり。これは太閤の言を御用ありしといふにはなけれど。年比軍略に練熟したまひ自然とかの詞にも暗合せしなるべし。(ェ元聞書。武功雜記。)
この卷は大坂冬の御陣の事どもをしるす。 
卷十五 

 

夏の御陣に旣に御上洛あつて。今度の事を京にてはいかゞ評論するかと御尋あれば。日向半兵衛正成いづれも關東は御大勢といひ。旗下の者もみな御譜代重恩の人々なり。大坂がたは諸浪人共が城中の金銀の多きをめにかけてあつまりしなれば。竹流しの金多くとり得たらば逃去むのみ。いかで軍のなるべきと。京童までもかく申候といへば。俄に御氣色損じ。汝何をしりてさる事をいふぞ。卒爾の至り推參之と宣へば。半兵衛も赤面して御前を立しが。しばらくして又めし出されければ。此度は御手刄にも逢んかとおもひ定めて。をそれそれながらやうやうと進み出しに。うち笑はせ給ひ。汝がさきにいひし所はさる事なれども。軍機に暗きゆへものゝいひやうをしらず。城中の浪人ばら竹流しの金取て立退んといふは。誰もしりたる事ながら。もし城中に聞えて。そが逃去らぬ爲に諸人の人質などとらんときは。城兵必死に成て防戰强かるべし。こなたの爲にはいかほども歒の落行がよければ。この後とてもかゝる事みだりに人にいふなと口堅め給ひしは。そのかみ鳶の巢の城攻のとき。信長が酒井忠次をいましめ給ひしと同じさまの御事にて。誰も御思慮の周密なるを感じたてまつりしとなり。(翁物語。)
御出陣の前かた。昨今兩年の御出陣によて諸士一統窮困すれば。何とか御惠賜もあらまほしと。本多上野介正純より阿茶の局へ內議にをよびければ。局も心得てあるとき局笹粽を三方にのせて御前へ持出。去年の御出馬事故なくすませられ。そのうへ近日尾張殿の御婚儀もあり。かれにつけこれにつけ目出度御事なり。かゝれば此度の御出陣に付ても。御供一統へ何ぞ賜物あらんかと申上しに。俄に御氣色損じ。諸人へ物たまはらむは上にも元より思召あたる所なれども。この比下されば。歒を恐るゝゆへかねて諸士の心を取んため。恩惠を施せしなど人口あらんもはかりがたし。もし金銀なくて出陣の支度が調はぬ困窮ものは。心まかせにとゞまるべし。家康一人馳むかつて軍すべし。むかしより度々の軍に。あながち士卒の力をたのまず。みな一人の軍略もて勝利を得し事なれば。今更故なくみだりに恩惠施さんにあらずとて。以の外の御樣なれぱ。局もおもなくて。たゞめでたしだしとばかりいひて。御前をまかでしとなん。(村越覺書。)
城中の落人を捕へ來りしに。御前へめし出て。さまざま城中のさまを御尋問あり。このごろ城中の米價は何ほどするぞ。又矢狹間一間に足輕何人。塀一間に士何人。其外の遊兵は何程。米廩の數はいくつあるなど。追々に詰問せしめ。その答へし所を目錄にしるさしめてこれを會計せしめ。又城中にて餅をひさぐやと問せ給へば。いかにも賣候といふにより。餅にする白紛と小豆の價を尋ね給ひ。さて土をもて餅の形大中小三樣に作らしめ。かたきとゆるきかげんをわかち。この中いづれのごとくなりと問せ給へば。ゆるき方を指し是程なりと申す。さては城中には米も小豆も少きとみえたりとて。その者の髮をそり落して城に放ち入しむ。其者城中に逃かへり。諸人にしかじかのよし語りてきかすれば。後藤又兵衛基次。大野修理亮治長等。大御所の餅の詮議は今はじめて聞たり。とにかく何をきくもなるまひぞとて舌を振ひしとぞ。かゝれば城兵は。君の御思慮の深きに恐れ。いまだ戰ざる前方に。はや心膽をうしなひしとぞ。(翁物語。)
此度の役に將軍家御遲參なりとて。大にむづからせ給ひ。老年の我さへすでに打て上りしに。將軍は何とて遲々せらるゝと仰ありしよし聞しめし。將軍家も殊に御急にて箱根よりは先鋒を打越して進ませ給ひ。御供方は鳥の毛をも馬上にてひくほどの事なり。さて伏見に着御ありて。本多上野介正純もてそのよし仰上給ひしかば。またむづからせ給ひ。大將軍かく弓矢の道にうとくてはなるまじ。たとひわが腹立ときくとも。大軍をひきひながら長途を急ぎのぼりては。惣軍みな疲勞して戰の用に立まじ。さるを一騎がけに馳上られしは。いと輕忽の至なりと。いよいよ御氣色あしかりしとぞ。(小早川式部物語。駿河土產。)
案ずるに冬の御陣に。將軍家駿河のC水に至らせ給ひしとき。京より御使來りて。もし大坂より兵を畿內に出さば。君の御一手もて戰を始められんと仰進らせられしかば。將軍家俄に御道を急がせ給ひけるが。三州岡崎に至らせられしとき。又御內書到着し。あまり御急ぎにては士卒艱困すべければ。少しく御思慮を加へられよと仰越せ給ひしよし。駿府政事錄等にみえたり。これ等の事をかくことごとしく傳へしものならんかとおもはる。
將軍家は四月廿一日伏見に着せられ。その日二條へ渡御ありて御對面の折から。君には來る廿八日に御出馬あるべしと仰出されしかば。將軍家城和泉昌茂を御使として。北國奥羽の勢の上るを待せられ。五七日過て御出陣あらせられんかと聞え上給ふ。君こたび城兵。寄手の着到を待合せて戰はん心なれば。遠國の者が來るをまつまでもなし。見兵もて戰はんとて聞せ給はず。よて將軍家かさねて二條に渡らせられ。御みづから諫め給へば。昨日和泉にも申せしごとく。野合の戰は勢の多少によらず。かつ我老年にをよび。是を限りの戰なれば。先陣はわれ打むと仰らる。將軍家の仰に。今度の戰の事は家々の記錄にもしるし。後世にも傳はるべきに。老年の父君を先立たてまつり。己後陣を打しとありては。天下後世に對しいかゞ侍らん。是非某先陣うけたまはらんと宣ひし所に。本多正信進み出て。御父子の御中にさる事あげつらひ給ふもいかゞなり。古法によらせらるべしといふ。古法はいかにと御尋あれば。正信がうけ賜りしは。味方少しにても敵地に近くあるを先陣と定む。將軍家旣に伏見におはしませば。元よりの御先手にましますと申せば。佐渡はおもひの外の古法しりかなとて御笑あり。これによて將軍家御先にさだまりぬ。其後本多上野介正純御軍儲を伺ひしに。何事も五日分と定め。供奉の者も腰兵粮ばかりにて。小荷駄に及ぶべからず。白米三升。鰹節十。鹽鯛一枚に味噌香の物を少し持しむべしと仰付られしを。例の大御所樣の御功者だてを仰らるゝかな。去年も百日ばかりかゝりしものをとさゝやきしが。果して三日にて落城せしかば。御成算のいさゝか違はざるとて。人みな感服しけるとなん。(武邊雜談。武邊咄聞書。)
其比島津はじめ西國の者。ひそかに大坂の援兵として海路をのぼるよし。浮說とりどりなれば。使番をめされ。大坂と木津と堺の間に。船がゝりする所はなきか。見て參れとの仰なり。使番かしこまりて立むとするに。汝が見樣はいかにと仰らる。心得ずと申せば。心得ぬものが直に行むとせしは何事ぞ。凡船をつなぐ所は見樣のあるものなり。なみなみのMには船がゝりはならぬものにて。あるは入江あるは入川などに懸るものなれ。陸より五間と漕出しては追付事かなはず。故にたゞのMにはつなぐ事も乘事もならぬものなれ。さる心得なくて何を標凖にしてゆかんとはいひしぞと宣ひ。さてその使番かへりきて。仰のごとく見侍りしに。船かくべき所はなしといひければ。されば西國より海路をのぼる者ありとも。船がゝりすべき所なければ心安しと仰けり。このとき將軍家の使番もりしが。木津と仰られしをあやまりて。大和の木津にゆきしが。遲くかへりしかば殊に御氣色あしく。若年の者の見習にもならんかとおもひてつかはせしに。何ゆへ遲かりつるとていたく御咎ありしとぞ。又七日の戰に將軍家より御使進らせられ。只今城中の大軍みな押出したれば。御旗を進められよと申上しかば。城中の者殘らず出たりとも。わづか七万ばかりなり。さるを大軍といふ樣なるふつゝかにて。將軍の使番がなるものかと。いたくとがめられしとなり。(翁物語。言行錄。)
先陣城近く押寄べしとありて追々兵を進む。兩御所は伏見城の舟入の櫓に渡御ありて其樣御覽ず。そのとき井伊掃部頭直孝が旗奉行孕石豐後。廣P左馬助二人。城下にて幟旗をふせて通れば。直孝般若野宮內といふ家人もて。兩御所の御覽ぜらるゝに何とて旗をふせしや。早く建よといへど。兩人申は。旗の事は奉行に任せらるべしとてきかず。直孝また馬塲藤左衛門して。是非建よと下知すれど二人きゝいれず。御城を打こし肥後橋を過。御城をすでに跡に見なす比に成て。はじめて旗を立ぬ。こは主將の渡御ある城へ。旗をむくる事をはゞかりてかくせしなり。君御感ありて。將軍家へむかはせ給ひ。當城へ旗先のすゝむことをはゞかり。今になりて押立しは。さすが直孝がもとには。信玄の家風になれし古兵多ければ。軍陣の作法心得し事かなとて御歎賞有しと之。(村越覺書。)
若江の戰に木村長門守重成が先侍。鐵炮にて堤をかゝへければ。藤堂和泉守高虎其手の軍監久貝因幡守正俊。高木九助正次兩人もて御本陣に申すは。兩陣の間に堤あり。味方小勢にて取兼れば。早く二の手を進め給へといふを聞せられ。御氣色かはり。和泉ほどのものが。かゝる思慮なき事いふやうやある。歒が堤を取たらばとらせて置べし。堤をたよりに軍するは。和泉守に似合ぬ事かなと宣ふ所へ。井伊直孝が手より小栗又一忠政馳來り。たゞ今掃部が兵歒と戰ひはじめしが。中に堤のあるを味方にとり得ば。勝利ならんと掃部が年寄共は申す。いかゞせんかと伺へば。いかさま堤を取し方然るべしと仰らる。同事にかく御答のかはれば。いづれも御思慮の測りしり難き事とおもひあへり。又矢尾口にて渡邊勘兵衛に。歒の長曾我部盛親と挑合しとき。高虎白身御本陣へはせ來り。早く御馬を寄られよと申上る所へ。田甚右衛門尹松馬上より大音あげ。御馬をよせよといふは何者ぞ。たゞ御先手の若者共に拂はせよとののしれば。高虎も又といふこともなくて。己が陣に引返しぬ。後に畠山山城入道入庵をめし。關東の者はみな武畧に馴しとはいへども。今の一言あるべきとも思はずと仰ければ。入庵うけたまはり。田ならでは今の爲方はなるまじ。天晴の一言かなと歎美しけるとなん。(大坂覺書。)
五月六日の夕方本多上野介正純御前に出て。明夕の厨所何くに設けむかと伺ひしに。茶臼山と仰あり。正純茶臼山はいまだ味方の取敷たる所もなければ。あやしみながら仰のまゝにいひ付しが。七日の夜は果して茶臼山を御陣屋とせられしゆへ。いづれも御先見の明晣なるに感じたり。又君の御供方と將軍家の供奉人と。平野にて先を爭ふよし田甚右衛門尹松申上ぐれば。君わが從者將軍を恐るゝかと問せ給ふ。尹松心得て仰のごとしといふ。さらばわが人數は平野を右に見て押し。將軍の人數は平野を左にみて押べしと御下知ありしかば。俄に行伍整然としてみだれざりしとぞ。又七日の戰の前に。松平石見守康安。松平大隅守重勝。水野備後守分長等が一所に屯せしを御覽ありて。松平傳三カ某をつかはされ。一隊づゝ間を二十間ほど隔てゝ備ふべし。大將打て出れば陣中亂るゝものなり。一隊づゝ丸く成ておりしけば。みだれざるものなりと仰られしとぞ。(永日記。翁物語。村越覺書。)
六日の戰終りし後將軍家よりは佐久間河內守政實。君よりは田甚右衛門尹松を御使として。井伊掃部頭直孝が陣へつかはされ。今日の樣を問しめらる。政實かへり來て。掃部今日の戰に打勝といへども。名あるものあまた討せ。明日の御先手つとめん事かなひ申まじといふ。君には掃部今日は出かしたとばかりの仰にて。政實が詞を聞しめさぬ御樣なり。やがて尹松かへりきて。定めて政實が申上つらんなれども。掃部今日大利を得て死傷多く候へども。いさゝかひるむけしきなく。又も明日の戰を心がけ。惣軍いさましく見え候と申す。君さこそ有つらめとて。御氣色なゝめならず。尹松重ねて申は。只今申せしことく掃部勇氣さかんには候へども。今日の戰に手の者あまた打せ。武具も損じ馬も多く疵付たれば。あの躰にては明日の御手おぼつかなし。されどたゞ先陣を操かへよとばかり仰付られては承引いたすまじ。上より强てかへしめ給へと申せば。いよいよ御氣色よく。さらば明日の先陣は松平筑前守利常。本多出雲守忠朝に申付よとて。仰のごとくかへしめられしとなん。(大坂覺書。)
七日の朝御鎧はめさず。すそぐゝりの袴に茶色の羽織を着給ふ。藤堂和泉守高虎參謁して。何とて御具足をめし給はぬかと申せば。あの秀ョの若年ものを成敗するに。何とて具足の用あるものぞと上意なり。高虎まかでし後に。松平右衛門大夫正綱が御前に候ひしに。和泉事は上方者ゆへ。心の底を見せまじとてさきの答はしつれ。まことは年寄て下腹がふくれしゆへ。物の具しては馬の上下も叶はぬゆへ着ざるなり。何事も年よりては。若きときとは大にかはるものなりと仰られしぞ。(駿河土產。永日記。)
常々の仰に。武を嗜むものは戰塲に赴くからは。かねて討死と心がけて。齒の白きものは黃色にならぬ樣にし。髮にも香を燒こむべしと仰ありしをうけたまはり。此度供奉せしもの。いづれも香木少しづゝ懷にせしが香爐なけれぱ。五月七日にも香燒こめしものは一人もなし。又輕きものも着料の具足を作るに。胴小手其外は粗末にし。兜には念入べし。討死のとき兜は首と同じく敵の手へ渡るものなれば。隨分心用ひたるがよしと仰らる。又木村長門守重成が首御覽に入しとき。香燒こめしとみえて。匂ひくゆりかゝりしかば。あの若者にたかざる事を教べしと仰られ。又髮はなでつけにてありしかば。さすがの長門も何ゆへ月代はそらざりし。なでつけは首に成て一段見をとりするものなりと仰られき。又河野權右衛門通重が得たりし首御覽に入しが。これも新に髮をそり香をとめたり。武士の最期はかくあるべしと宣ひ。たが首かと御尋なれば。內藤監物と申す。これは城中の物頭勤むるものなりしかば。この首目利にたがひて堀出しなりとて。御笑ありしとぞ。(駿河土產。前橋聞書。武コ編年集成。)
久寳寺通御のとき。天王寺邊に閧の聲聞えければ。尾張殿の人數を堺へ下して。茶臼山の敵を追拂はしめふと令せらる。御本陣へは永井右近大夫直勝もて仰傳へられしは。旗下の人々馬より下り。西にむき一面に鎗を持。折敷てあるべしとて。御旗御馬印はふせさせ給ひしとぞ。又天王寺口より城中へにげ入る者多ければ。追とめんといふものありしに。其まゝ捨置べし。かゝるものによき武士はなきなり。雜人どもを多く入城せしめば。城中いよいよ混擾して制馭する事あたはじ。何程にげ入も苦しからずとて捨置せ給ひしとなり。(ェ元聞書。)
御本陣に間者入しといふ說おこりしとき。御障子を開かれ御大聲にて。わが家人等を見しらぬ事やあるとて。伺公の者の顏を一々御覽ありしとか。また將軍家の御陣にも同じ事いひ出しに。御刀取て御次へ出まし。間者ありときゝぬ。誰ならんと上意ありしかば。浮說はをのづからやみしとなむ。(前橋聞書。)
尾張殿の御勢遲々せしを怒らせ給ひ。隼人めの腰拔め。なぜに兵衛をすゝめて早く參らぬぞ。はやく來ん樣に申せと。使番の者に仰付らる。使番誰にてかありけん尾張家の陣にゆき。仰のごとく申ければ。成P隼人正正成うけたまはり。大御所の左樣に仰られしな。その大御所もむかし武田信玄が爲には。度々御腰が拔させられしとのゝしりたり。後に隼人御本陣に參り。正成身不肖に候へども。尾張殿の後見うけたまはりて。一藩の指揮するものを。腰拔などゝ仰られしをそのまゝにうけたまはり置ては。この後諸士の指揮がなり申さず候ゆへに。かしこくも思ひのまゝの事申放せしなり。幾重にも御とがめ蒙らんといへば。聞しめして。そは使番事に馴れざるゆへなり。いつとても武道に疵のつく事は。聞のがしにはすまじきなりと仰られしとか。(大坂覺書。)
越前少將忠直朝臣六日の戰に。軍の手に合ざりしと聞しめし大に怒らせ給ひ。かの家老共を御本陣へめし。今日井伊藤堂が苦戰せしを。汝等は晝寢して知らざるか。兩陣の後を押つめば城は乘とるべきに。大將は若年なり。汝等はみな日本一の臆病人ゆへせむかたもなしと。散々にのゝしらせ給へば。家老ども何と申上む樣もなく御前をまかでゝ。朝臣にその旨申せしかば。朝臣且恥ぢかつ怒られ。明日の戰には我をはじめとして。鋒鏑に血をそゝぎ城下に尸を晒さんと。血眼に成て下知せられ。七日のつとめてより諸軍にさきだちて軍を進め。眞田幸村が備を打破り。一番に城に乘入しかば御感斜ならず。朝臣御本陣に參謁せられしかば。朝臣の手をとらせ給ひ。今日の一番功名ありてこそげにわが孫なれとて。いたく御賞譽あり。又二條の城へ諸大名羣參しときも朝臣をめし。汝が父秀康世にありしほど忠孝をつくし。汝またこたび諸軍にすぐれて軍忠を勵む。これにより感狀を授けんと思へども。家門の中ゆへ其儀に及ばず。わが本統のあらんかぎりは。越前の家又絕る事あるまじとて。當座の御引出物として初花の御茶入をたまはり。將軍家よりも貞宗の御差添たまはりしかば。朝臣も感恩の至を謝せられ。前度の恥辱をすゝがれけり。凡浪花の役に越前家の武功。天下に幷ぶものなかりしとなり。(武コ編年集成。)
越後少將忠輝朝臣は軍期に後れ。戰終りて後御本陣に參られしとき。本多上野介正純御前にまかり。只今忠輝朝臣參上のよし申といへども。外ざまを御覽じて何の御詞もなし。正純よて朝臣を御前近く進ましむれば。上總介今日は何として居たるとばかり仰られ。堺の方に落人のみゆれば。花井主水して追捕へしめよと宣ふ。正純うけたまはり。朝臣にはまづ陣所へ御歸りありて。火の事いましめ給へと申せば。朝臣は面あかめて御前をまかでられしとぞ。この朝臣は大國を領し給ひながら。大事の戰期を失はれ。諸人の思ふ所もいかゞとおぼして。御憤斜ならざりしとなむ。(武コ編年集成。)
本多出雲守忠朝は中務大輔忠勝が次子にて。武勇といひ門地といひ。君にもかねてやむごとなきものにおぼしめしけり。一年駿城火災ありし後。忠朝より所領の蠟燭千挺獻りしを。いと見事なりとてめでさせ給ひしが。その後御用ありて其燭ともされしに。光明さまでなかりしかば御氣色損じ。千挺が百挺なりとも。光の明らかなるを吟味するこそ眞實の心なれ。この蠟は出雲が人となりに似て。外邊のみかざれりと宣へば。このよし忠朝うけたまはり傳へて。心うき事におもひたりしに。また去年の戰に玉造口にむかひ。泥沼のありて馬蹄の懸引よからずと申せしに。忠勝に似ぬ臆せし事よと仰ありしをも心にとめて。こたびは是非討死と思ひ定む。小笠原兵部大輔秀政は忠朝の兄の忠政と同じく。岡崎三カ君の姬君に相すみて。かたみにしたしき中なれば。六日の夜秀政忠朝が陣所に來り。けふ藤田能登守信吉が爲に制せられて。軍に合ざりしは遺憾なれ。明日ははれなる戰して汚名をすゝがむといひしかば。忠朝もかねて御けしき蒙りし事どもいひ出て。夜更るまで語りあひて别れけるが。七日の戰には果して兩人ともに。思ふまゝの戰して遂に討死しけるこそあはれなれ。(武事記談。武コ編年集成。)
榊原遠江守康勝は若年なれば。藤田能登守信吉もてその手の軍監とせらる。七日の戰に康勝が責口の前に潦池あれば。信吉が指揮にて池を前にして備を立。康勝が家老伊藤忠兵衛。このまゝにては敵にあふ事かなはずとて。池をうちこして陣取しかば。信吉何とてわが軍令を用ひざる。かくては遠州の進退もいかゞあらん。早々元のごとくせよといへど。忠兵衛きかず。戰はじまると直に敵と渡合。首數七十あまり切て御本陣にたてまつる。君には諸手より追々獲物獻るに。榊原が手の注進なければ。心許なくおぼしめし。遠江は何としたる事ぞ。鷹の鳶を生たるかと度々上意ありしに。こゝにいたり諸手よりも殊更多く首數たてまつりければ。はじめて御心よき御樣にて。鷹が鷹を生しと宣ひけり。忠兵衛は二度めの戰に遂に戰死し。其子宮內もよき武者討て功名しぬ。戰終りて後いくばくならで康勝病死し。江戶にてその折の御吟味ありしに。藤田信吉申は。某は池をうちこして軍を張出さしめしに。忠兵衛下知して又引入しなど。あらぬ事どもいひ出しかば。宮內大に怒り。かれが僞詐を具に申わけせしかば。信吉遂に罪に伏して改易せられしなり。(君臣言行錄。)
落城の朝御旗御長柄をば。住吉の邊に立置べしと命ぜられ。御みづからは住吉と城との間のくれ林のかげに。山輿にめしておはしまし。松平右衛門大夫正綱をめして仰けるは。城中のものはわが旗幟をみて。わが住吉にあると思ふべし。味方旣に勝たれば。此上は身を大事にするこそ。第一なれとて御笑あり。かゝる所へ安藤帶刀直次馳來り。御勝利の樣申あげ。御茶弁當に附副し坊主にむかひ。直次渴にたへず。何にても一抔のませよといふ。坊主只今上樣の御茶碗より外に。進らせん飮器なしといふ。直次上の御器なりとも。たまはりし跡にてすすぎたらばよからん。ひらに飮せよといふ。とかうするうちに聞しめしつけ。帶刀が喉の乾くといふになぜのませぬぞ。かゝるとき上下の隔があるものか。うつけめとしからせ給ひ。速に飮しめ給ひしとなり。さて其後茶臼山へむかつて靜に押せ給ふ所へ。庚申堂の邊にて本多上野介正純が家人と。松平右衛門大夫正綱が家人と爭論起り。鐵炮打合しを歒かと心得て。御先手の者立かへり鎗取んとひゝめくにより。四五百人ばかり御馬前になだれかゝる。君かゝるときに長道具がいるものか。たゞ太刀打にせよと制し給へども聞入ず。追々後陣に崩れかゝり。永井右近大夫直勝が備をはじめ。尾紀の御勢も色めき立てしづまらず。君はいさゝか常にかはらせ給はず。御馬を立ておはします所に。小栗忠左衞門正忠御先備より馳來り。そらくづれにて候と申せば。さてさてあやかしどもがうろたへて。そらくづれしつる事のうたてさよとて。殊に御憤怒の御樣なりしが。やがて御陣定りしかば。茶臼山へすゝみのぼらせたまひしなり。(大坂覺書。駿河土產。)
茶臼山に御陣をすへておはします所へ。諸大將追々參謁して。賀詞聞え上たてまつる。畠山山城入道入庵進み出て。何事も思召のまゝなりと申上れば。入庵が手を取せ給ひ。又勝たるはとの仰なり。こは關原の御勝利を思召出ての御事なりとぞ。やがて尾張駿河の兩宰相參らせ給ひ御對面あり。ョ宣卿には。今日の御先手奉はらざるゆへ合戰にあはず。殘念の至なりとて。しきりに御淚にむせび給へば。松平右衛門大夫正綱御側に在て。常陸殿にはまだ御若年におはしませば。この後幾度もかゝる事に逢せ給ふべし。さまで御歎に及ぶまじと慰めたてまつれば。ョ宣卿御氣色かはり。右衛門をはたと睨ませ給ひ。やあ右衛門。常陸が十四の年がまたあるべきかと宣へば。君御感スの御樣にて。常陸。只今の一言こそ今日の手にあはれしよりも名譽なれと仰らるれば。陪座の諸大名いづれも感歎やまざりしとぞ。又本多佐渡守正信が馬に打乘て御陣へ上り來るを御覽じ。坂まで上れと仰あるに。おんでもない事と申て。御前ぢかく騎て參れば。藤堂和泉守高虎。佐州早かりしといへば。正信高虎にむかひ。何がしが今日の武者振はいかにと笑ひながらいふ。正信が其日の出立は。とろめむの羽織に裏付の袴を着。五位の太刀はきしとぞ。かゝる所に城中に火もえ出て。K煙と成て上るを御覽じ。小出大和守吉英をめされ。あれをみよと宣へば。吉英城の方を熟視して兩手をつき。さてさて笑止の御事なりといへば。汝が身に取て只今の申ぶりこそ殊勝なれと宣ふ。こは吉英は豐臣家の舊恩うけしものゆへ。そのむかしを忘れざるとて。是より御かへりみ深かりしなり。又俄に夏目を呼べとの仰なり。これは次カ左衛門吉信が三子長右衛門信次が事なり。小身の事ゆへ旗馬印もなければ。いづくに居るもしられず。使番諸所に馳廻りからうじて尋出し。御前へ連來れば。むかし汝が父味方が原の戰に。われにかはりて一命を抛しは。忠節のものなりと仰給へば。信次おもひもよらざる御賞詞をかうぶり。感淚をながして伏居たり。かゝる御勝利に付ても。舊功の者の事をおぼし出て御詞をたまふは。小出が豐臣家の舊恩わすれざるを賞せられしと一つ御心より出て。たれだれも御仁厚の至り深くおはしますを。感ぜぬものはなかりき。(天元實記。古人物語。)
本多唐之助忠光は中務大輔忠勝には孫。美濃守忠政が三男なり。此度の役に御供願ひしかども。若年(十四歲。)なるをもてゆるされず。强ちにこひたてまつりて供奉し。此日の戰に敵の首切て御陣に參りしかば。汝若年にてかゝる高名せしは。あつぱれ大將の器なり。今日よりは昔の勇將の名になぞらへて。改稱せよと上意ありしかば。さらば弁慶と稱せんとこひしに。弁慶がごときは匹夫の勇なり。鎭西八カ爲朝か能登守教經などこそ膂力㧞羣にして。その名千載に高し。これにあやかり能登と稱し。忠字は汝が家の通稱なれば。これにかなふ文字撰び遣はせとて。林道春信勝めしてそのよし仰付らる。道春かしこまりて。たゞ忠義とつくるこそよけれと申上しかば。すなはち能登守忠義とめされけるとぞ。(武コ編年集成。)
敵の首級とりどり御覽に備へしに。炎暑の折から損じたるも多かるべし。もはやもて參るに及ばず。されど眞田が首と御宿越前が首は御覽あるべしとて。眞田が首を忠直朝臣の家臣西尾仁左衛門もて參り實撿に入る。左衛門をば兼て見知せ給はざれば。それは向齒かけてあるかと御尋にて。口をひらきみしに果して欠たり。仁左衛門へ勝負はいかにと尋給へば。仁左衛門とかうの御答に及ばず。たゞ俯伏して居たり。能首取たるはと仰にて。後に近臣に勝負はなかりしと宣ふ。次に又越前家の野本右近御宿が首を御覽に入しかば。さてさて御宿めは年の寄たる事かなとて。これも勝負はいかにと仰らる。右進さん候。越前事天王寺表よりたゞ一騎來り。茜の羽織着し。若黨二人よび何やらんいひ付て。二人とも後の方へ走りゆきぬ。某が近寄を見付て。鎗取て馬より下る所へ。走りかゝり鎗付しに。重ねて手向もいたさゞれば。其まゝうち取ぬといふ。汝はよき功名を遂しと仰ありて。後に御宿が若き折ならば。あの者などに首とらるゝ事にてはなきにと仰られしとぞ。(天元實記。)
落城後秀ョ母子は芦田曲輪に籠り。姬君御出城ありて。母子助命の事を。本多佐渡守正信もてこひたてまつられしに。御姬が願とあらばそれにまかすべし。秀ョ母子をたすけ置たればとて。なでう事かあらむ。汝岡山へゆき將軍にも申てみ候へとの仰にて。正信岡山に參りそのよし申上れば。將軍家は御氣色以の外にて。何のいはれざる事をいはずとも。なぜ秀ョと一所にはてざるぞと宣へば。正信うけたまはり。ともかうも大御所の思召に任せらるべしと申て。姬君の方へも參りかくと申し。扨八日の朝にいたり、兩御所御參會ありてしばし御密談あり。諸人のうけたまはる所にて。將軍家にむかはせられ。必秀ョをば助命し給へ。こゝが將軍の分别所なりと宣へば。將軍家仰はさる事なれども。數度の叛逆此上はもはやたすけ難しと宣へば。老人のかくまでいふを聞れねば。このうへは力なし。心にまかせ給へとて。いと御不興の御樣にて御座を立せられしが。ほどなく井伊が備より芦田曲輪へ鐵炮打かけしかば。秀ョはじめ悉生害ありしよし聞えし。(天元實記。翁物語。)
秀ョ生害の後ひそかに城中を御巡視ありて。御歸京あらむとて。かゝる大戰の後は必大雨降出るものなりとて。御路をいそがせらる。其比晴天にておもひもよらざりしが。守口邊より空かきくもり。枚方の南よりは大雨車軸を流し。雨皮なければ御輿を下させ給ひ。簑をめして御馬にて打せらる。下鳥羽の邊にて日暮れ雨もやみければ。夜亥刻ばかりに二條城に着御あり。板倉內膳正重昌一騎御先に立て。御門をたゝきけれども。此比の事にてみだりに明ざれば。重昌父の伊賀守勝重が手の者かためたる裏の御門より入れたてまつりしとなり。(大坂覺書。古人物語。)
大坂落城のよし聞えしかば。京の東山にある豐國明神の社前へ。いづくよりか香資銀あまた備へけるよしにて。所司代板倉伊賀守勝重手の者つかはし點撿せしめしに相違なければ。そのよし御聞に入る。仰におほよそ人の世にありしほど。智仁勇の三コ備はりしものならでは。死後に神にいつき祭らるゝ事はなきはずなりとて。太閤の影像は束帶をとり圓頂になし。社頭も撒毁し除地とすべしと仰付られしが。北の政所より。崩れ次第になし給はれと。あながちに願はれしゆへ。ねがひのごとく御ゆるしありしとなり。(駿河土產。)
二條にて諸大名拜謁の折。伊達政宗この度大軍のうち。一人も異慮のものなかりしは。威コの至なりと申せば。かゝる勝利の後は。歒方みな死したれば。さる者ありとも知れざるなりと宣ふ。政宗いかにも尊旨のごとく。某が家臣のうちにも逆徒に內通せし者ありけんもしれず。このうへはなを心付侍らむと御受申す。又勳功の人々へ御詞たまはりしに。松平伊豫守忠昌末座に居しが立あがりて。松平伊豫守これに罷在候と高らかに呼はりければ。御覽ありて。汝若年にてみづから高名せしは。拔群の働なりと御賞詞あり。忠昌は故黃門の二子にて。こたび越前家の先手に進み。城方念流左大夫といふ剛の者を討取しなり。(天元實記。武功實錄。)
七日の戰に今村傳四カ正長一番鎗して。歒陣に馳入り血戰せしに。乘る所の馬鐵炮に中り歩立に成しを見て。山伯耆守忠俊が隊下近藤忠右衛門。己が馬を正長にさづくれば。正長これに乘て歒陣に入り首取てかへしりが。又その馬も乘放しければ。再びかけ入て終に其馬求め出し。歒の首一級にそへて近藤にかへしぬ。その年の十二月正長を御前にめし。當日の戰功を賞せられ。むかし梶原景時が二度の蒐は。其子の源太景季を助けんがためなり。汝が二度のかけは近藤が馬を取かへさむとてなり。義のあたる所梶原にまさる事遠し。げに一騎當千の勇なりとて。めさられし胴服を脫て下され。其後又千石の加恩賜はりしとぞ。此戰に正長が携へし鎗は。味方が原の役に。夏目次カ左衛門吉信が君の御身代として討死せしとき用ひしを。吉信が子長右衛門信次は。正長が伯母聟のちなみをもて。正長が行末の忠功。なき父にあやかれしとて正長に贈りしなり。さるに此度かゝるはれなる働して。その鎗に恥ぬ程の武名をあらはせしとて。感ぜぬものなかりしとぞ。(武コ編年集成。家譜。)
久米C吉といひしが父の新四カ吉Cは。岡崎三カ君に附られしに。君御事ありし後世をうきものに思ひなし。引こもりて身まかりぬ。このC吉は天性氣ばやなる者にて御氣色にかなひ。後に名を武兵衛と改む。大坂夏の御陣に使番奉り。七日の戰には五の字の指物さし。少し小高き所に打上り。軍の樣見物して居たり。後に御陣崩のとき逃たりし者御穿鑿ありしに。C吉が事あやしみいふ者ありしに。たとへ旗本惣崩に成とも。このC吉にをいては逃るものにてはなしと上意ありしとなり。(勇士一言集。)
大坂落城の後二條城にて仰けるは。むかし櫻井庄之助勝次といひし者ありて。三河以來度々戰功をあらはしたり。卒せしときにはいと哀惜の餘落淚せしなり。其子は本多忠勝に屬してありしが。この七八年ばかりいづれに居る事を知らず。誰ぞしりたる者はなきかと御尋なり。本多美濃守忠政その者かねて臣が家にありしが。ゆへありて今日は田中筑後守忠政がもとにまかりぬと。うけたまはるよし申上る。よて忠政に召連來るべしと仰て。其後駿府に參り謁せしに。汝が父は每度戰功をあらはし。忠勝が病氣の折はいつもかはりて軍卒を指揮せしに。いと氣幅ある武士にて。今に存命ならば並々の者の及ぶ所にあらじと宣ふ。庄之助勝成いと幼くして父にわかれ。何事も心得侍らざるに。只今の御詞にてなき父の遺事迄御賞譽を蒙り。追慕の心いよいよたへがたしと申す。君永井信濃守尙政を田中が許につかはされ。是まで數年勝成を扶助せし事を賞せられ。勝成をば召出され。後に書院番になされしなり。(貞享書上。)
小笠原兵部大輔秀政。其子信濃守忠脩。大學頭忠政三人。天王寺の戰に手痛き働して。秀政忠脩は討死し。大學は深手負しかば。施藥院宗伯。山岡五カ作景長もて御問訊あり。二人の忠死をあはれませ給ひ。はた忠政が疵平愈せんやうに手當せしめらる。その閏六月廿六日二條にて舞樂興行ありて諸大名に見せしめらる。折しも忠政疵いまだ全く愈されば遲參せしに。舞樂の刻限をしばし御見合ありて。忠政まうのぼりしを待せらる。やがて忠政まうのぼり御前へ出しかば。加藤左馬助嘉明等の諸將の侍座せしところにて。御みづから忠政が疵を御撿視ありて。これはわが鬼孫にて侍る。父の兵部兄の信濃も討死し。この者も深手負ていまだ全く愈ざれば。かく遲參せしなりと仰られ。忠政が御前をまかでゝ。拜覽所へまかるとひとしく。舞藥はじめよと仰傳へられしとなん。(貞享書上。)
この卷は大坂夏の御陣の事どもをしるす。 
卷十六 

 

浪花の役旣に畢り。御參內等も事ゆへなく濟せられ。兩御所江戶駿河に還御あらむとするにをよび。將軍家より宿老もて伺はせ給ふ事ありて。二條城へ伺公せしに御前へ召出され。是迄は思召旨もありつれば。將軍家より天下大小の機務御參議あるごとに。御意見をも仰遣されしが。此後は何事も將軍家の尊慮にまかせらるべし。かさねて駿府へ御諮詢あるに及ばず。たとひ御商量あるとも。御答に及ぶまじ。よくよくこのむね申上よと仰られぬ。この後は万機のことみな江戶にて决せられてのち。其うへ駿河へ告進らせられしとなり。(駿河土產。)
慶長廿年七月朔日台コ院殿二條に渡御ありて申樂興行あり。君にも御覽ぜられ。公武ともに拜觀をゆるさる。兼ては九番行はるべき定めなりしが。比丘貞の狂言御けしきにかなはで七番にて終り。その明日また上意ありしは。昨日今春大夫が八島をかなでしに。平家はふね源氏は陸といふ所にて。御前のかたをさして平家に誓へしは。僻事なりとてむづからせ給ひ。また大皷打ものが。御前にて太皷の紐をしめ直せしも無禮なりとて。その日の申樂どもおほく御勘事蒙りしとぞ。(駿府政事錄。)
伊勢神官戶部大夫といふは。豐臣家先代より祈禱の事奉る御師なり。一とせの戰に秀ョが內意をうけて。兩御所を咒詛し奉るよし聞えて。伊勢の事奉はる日向半兵衛正成。中野內藏允訊鞠せしに。まがふ所もなければ。罪案を决して駿府へ伺ひひしに。そは奉行人の心得違なり。秀ョが運を開かむとて丹誠をこらせしは。御師には似つかはしき事なり。草々獄屋を出し沒入せし器財も悉く返しつかはせと仰付られしとぞ。(駿河土產。)
豐臣太閤の時より厨所の下吏つとめて。後にその頭までになり上りし大角與左衛門といふその。五月七日落城の前に逆心し下人にいひ付厨所に火を放ち。それより延燒して滿城みな灰燼となり終に落城せられり。その後與左衛門これを勤功にし。當家へ奉仕を望みしが幾程なく病にかゝりてうせぬ。君この始末聞しめし。彼は去年和談の折も。秀ョが母儀の使として茶臼山にも來りしものなり。下臣のならひとは云ながら。太閤以來厚恩をも蒙りし者の。恩をしらずといふべし。にくきやつかな。生ていれば刑戮に行はむものをと仰られしとぞ。戶部大夫をはゆるされ。與左衛門をばにくませ給ひし公正の御心掟いとかしこし。(駿河土產。)
大坂に籠りし諸浪人共みな御ゆるしなれば。心まかせに誰家なりとも仕官すべし。諸家にても召抱へん事も苦しからざる旨令せられしかば。艸菴に隱れて時節を伺ひしものども。感恩のェ大なるに感じ。それぞれ舊功をいひ立て俸祿にあり付しとなり。又落城の後赤座內膳永成。伊藤丹後守長次。岩佐右近正壽をはじめ。秀ョの小性十餘人ばかり京の妙心寺に迯入て。海山和尙をもて。撿使をたまはらば腹切むと申上しかば。大閤以來譜代の者どもが。秀ョの先途を見屆し上にて。腹切むといふは本望なり。今度罪する所の者は。大野修理などの首謀のものか。あるは先年關原の役に一旦その命を扶けしものか。又はこたび籠城せしは重科なればゆるすべららず。その外はなべて御ゆるしあれば。心まかせに何方へなりとも立退べしとあれば。みな仁恩をかしこみ。己がじゝあかれ行しとなり。又搏c右衛門尉長盛は關原の時高力左近大夫忠房に預られて。武州岩槻に在しが。其子兵大夫は此度冬の役には。將軍家の御陣に從ひ奉り。寄手の勝しときゝては顏色やましめ。城兵の利ありと聞ば喜スのさま顯れしが。このよし御聽に入しかば。それは舊主をわすれぬ神妙の心ざしなり。さすが搏cが子ほど有と仰られて何の御咎もなし。夏の陣には城中にはせ入り。長曾我部宮內少輔盛親が手に屬し。五月五日藤堂が陣に向て晴なる戰して討死しければ。今は父の長盛もかくて在らんはいかゞなりとて。遂に切腹命ぜられしなり。(明良洪範。駿河土產。)
大坂より京の二條に還御ありし頃。御物語の次に。本多上野介正純。木村長門守重成が事を稱歎し。かれもし七日迄生てあらむには。かならず秀ョを勸めて出城せしむべしといふに。とかうの御荅なし。正純また松平武藏守利隆がことをほめ聞ゆれば。利隆は金吾秀秋に似たりと仰らる。正純秀秋に似たりと宣ふは。逆意のきざしにてもあるかとおぼしめしての事かと思ひ。利隆には篤實なるものなりと申せば。五十萬石も領するものは。わが父子にも目をかくるほどの親愛の情がなくては。叶はぬと仰られしとなり。(古人物語。)
御年若き程より。近臣の過誤か又は思はざる失言などは咎め給ふ事もましまさす。かゝれば誰々もつかへ樣いとやすらかにてありしなり。されども武道にかけたる事。または事の首尾とゝのはずして虛飾を加ふるものは。いたく咎め給ひしなり。浪花の役畢りて後二條城に於て。城將御宿勘兵衛が事跡をよく知りたりといふ同國の者を御前へめして御尋あれば。そのもの御宿が事のみならず。下總國鴻臺の戰にをのが高名せしなどいふ事。ゆくりもなくいひ出しに。しばし御思案の樣にて。汝は永祿それの年に生れしといへば。鴻臺の戰の時は北條氏康は五十歲の前後。氏政は廿六七ばかりの事なれば。汝はそのころわづか四五歲ばかりなり。何として軍に出べきぞ。かゝるかけあはぬ事いふものか。そこ退けと仰ありしが。重ねて見上奉る事もならざる程の御顏色にておはしませしとぞ。此のちもかゝる虛詐をいふもの家人の內にあらば。その風諸人へをしうつりて。風俗をみだす基なり。おごそかに咎め申付んと宣ひけるが。幾程なくてかくれ給ひしかば。御咎にも及ばざりしとぞ。何といひしものにや姓名は傳はらず。(岩淵夜話。)
近臣等大坂の事語り出しに。五月六日若江の戰に。井伊掃部頭直孝が家人三人して歒を相打にせしといふ。直孝撿察せしに。兩人の相打に極り。一人は言葉たがひしとて咎めしといふを聞せられ。いづれもよく承れ。すべて何事も余地のあるをもてよしとす。あまりに切詰しはよからず。わきて武邊のことは猶更なり。むかし織山右府いまだ微弱のときいづれの戰にか。佐佐內藏助成政。前田又右衛門利家兩人して歒一人を突ふせしに。成政利家にむかひ其首とられよといふ。利家われは歒を突倒せしまでなり。はじめに鎗つけしは御邊なれば。御邊こそ首とられよとかたみにゆづり合し所へ。柴田修理亮勝家はしり來て。さまで辭退の首ならば我給はらんとて首をあげて。をのをのも來られよといひつゝ。三人打つれ右府の前へ來り。そのよしいへば。右府大に感賞せられしとか。此三人などは武邊に余地がありて。いとゆうなる事と仰られき。(駿河土產。)
浪花より還らせ給ひ。駿城にて夜詰のとき仰けるは。われ若年より兵馬のうちに人となりて。學問する暇なかりしかば。年老てもかたのごとく不學なり。されどたゞ一句の要文をおぼへて。是を朝夕に心にとめて。天下一統の大業をもなしつれ。聖賢の語か又は佛語なるもしらず。汝等あてゝ見よと宣へば。少し文字の心をある者は。是か彼かなどをしあてに伺ひ奉れどもあたらず。今はたれも思ひくしたるに。汝等がいふ所はみな經典の要文と聞ゆ。我元より不學にして。此語何に出しといふことはしらざれども。あだに報ずるに恩を以てすといふ一句の要文なり。これを常々胸中に忘れずして何事もこの意もて處置せしなり。汝等に相傳すればおろかにな思ひそと。咲ひ給ひながら仰られしとぞ。(岩淵夜話。)
駿府にて近臣へ宣ひしは。厚恩をうけし舊主又は主の子などへ。無道の擧動するものは。一時は時の權勢にて無事なれども。子孫に至りてかならずその報應あるものぞ。むかし織田三七信孝が勢州の內海にて自裁せし時。むかしより主をうつ海の野間なればむくひをまてや羽柴筑前といふ辭世よみしと聞たるが。今度大坂にて秀ョが自殺せしは八日なれども。豐臣家の滅亡は七日なり。野間の內海にて信孝が切腹せしも五月七日なり。何と天道報應の理おそろしきものにはなきかと仰られしとぞ。(駿河土產。)
元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四カ次カ京より參謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の邊にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に薤をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原內記C久より能Mの鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ樣に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへしまたなやましくおはしてはかばかしくもうすらぎたまはず。君にはとくにその御心を决定せしめられしにや。近臣には兼て御身後の事ども仰られしなり。將軍家もかくと聞しめし驚かせ給ひ。急ぎ江戶より駿河へ成らせられ。さまざま御あつかひあり。ひそかに朝夕近侍の輩をめし出して。大御所もし御身後の事など仰らるゝとも。汝等かまへて御心の餘事にうつらせ給はん樣にいひ慰め奉り。少しも御心のやすまらんこそ肝要なれと仰せらるれば。人々奉はり。仰迄もなくいづれも鷹狩申樂など。常々すかせたまふ事ども聞え上れども。さらに聞しめし入ず。たゞ御後の事のみ語らせ給ふといふ。天海僧正もその座に在て。和漢ともに非常の英主は。あらかじめ死期を决定して。身後のことかねがね遺托せらるゝものなり。愚僧も先頃より御側に侍して。かしこき上意ども奉はりしなり。此たびはとても御平快あるべしともおぼえずと申せば。將軍家もたゞ御淚にむせびておはします。かくて彌生の末つかた。與安法印をめして御藥一帖調ぜしめ。本多上野介正純手づから煎じて進らするに。めし上らるゝ間もなく。盥盤をとりよせてみな吐し給ひぬ。將軍家へむかはせられ。こたびわれ獲麟の期すでに到り。天年こゝにきはまる。豈草根木皮のよくとゞむる所ならんや。よてはじめより服藥せまじと思ひつるに。あながちに仰進らせらるれば。つとめて服用しつるにかく詮なし。もはやきこしめすまじと仰られて。此後は絕て御藥きこしめさず。又女房等も御側にさし置せ給はず。あつしく成まさらせ給ひても。外樣の大名をめし出て。わが命旦夕に逼るといへども。將軍かくておはせば天下の事心やすし。されどももし將軍の政道その理にかなはず。億兆の民艱困することもあらんには。誰にてもその任にかはらるべし。天下は一人の天下にあらず。天下の天下なりと聞けば。たとひ他人天下の政務をとりたりとも。四海安穩にして万民その仁恩を蒙らば。これ元より家康が本意にして。いさゝか憾みおもふ事なし。われ死せばいづれも先歸國して。將軍の指揮に從ひ江戶に參覲すべしとて。それぞれ御遺物賜る。殊に松平筑前守利常。島津薩摩守家久。松平陸奥守政宗三人をば御病床近くめして。をのをの御刀下され。この後北國筋に騷亂あらんには筑前守。西國は薩摩守。奥方は陸奥守にまかせ給へば。いづれも各國を鎭撫して。天下の靜謐を心がくべしとのたまひ。細川越中守忠興も同じ仰を蒙りければ。いづれもみな感泣してまかでぬ。又義直。ョ宣。ョ房の三公達をめして。將軍家へむかはせたまひ。かの人々はいまだいはけなきほどなれば。のちのちも友愛の情を加へてうとくな思ひたまひそ。また公達へは。おことだちわがなからむのちは。將軍を天とも父とも思ひいやまひて。いさゝかその命にたがふ事なかれと宣へば。方々もふし沈ておはします。又成P隼人正正成。安藤帶刀直次をめして。汝等よく義直ョ宣を輔導して。後々も將軍へ對して二心あらしむべからずとおほせ付られ。又松倉豐後守重政。堀丹後守直寄。市橋總守長勝。桑山左衛門佐一晴。别所孫三カ友治を召て。將軍家へ。この五人のものども常々まめに奉仕するのみならず。去夏大坂の大和口にても晴なる働きしつれば。この後も御心にとめてめしつかはるべしとて加恩賜ひ。また殊に友治を指し給ひ。かれは小身なれども。やさしき詞をつかひゆくゆく用立べきものなりとのたまへば别所もかしこさの餘りに。大聲あげて泣出しとなん。(駿河土產續武家閑談。東迁基業。)
三月の初がた越後少將忠輝朝臣の生母阿茶の局を御病牀にめして仰けるは。忠輝には天資猛烈なれば。大坂の戰にも一かど諸人にすぐれ。天下の耳目を驚かす程の戰功も有んかとおもひしに。思ひの外戰期に後れて。敵の旗色も見ずやみけるは緩怠の至りなれ。われ父子の間といへども。嫌疑なきにあらず。ましく將軍の心中いかゞ思はれんもしれず。その上我にも告ずして罪なき長坂血鎗が弟を誅せし事。無道の至なりとて御氣しきことにあしければ。局はとかうの答にも及ばず。このよしひそかに越後に申送りしかば。少將大に驚かれ。いそぎ發途して駿府へ參られ。宿老もて御氣しき伺はれしに。以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御對面も叶はざれば。少將せんかたなく御城下の禪寺に寓居して。御病のひまを伺ひて。謝し奉られんとする內に薨御ありしかば。また江戶に下られ。搶緕宸フ觀智國師もて。將軍家へ歎訴せられしかども。すでに先公御大漸の前かたにも。御對面なかりし程の御事にて暴惡重疊しつれば。其儘大國を預けらるべきにあらずとて。遂に越後信濃を收公ありて。遠流に處せられしなり。御父子の情愛はさるべけれども。少將かく無道にして國禁を侵すに至れば。今はの際に臨み給ひても。いさゝか私愛に引れ給はず。天下後世の爲を思しめして。かく嚴獅ノ御處置ありしは。かしこみてもあまりある御事にぞ。(校合雜記)
御病床にて將軍家と。その比の大名の人となりをとりどり御評論有しに。加藤左馬助嘉明は三河の產にて。性質篤實にして。太閤世にありし程より當家に志を通じ。いさゝか粗略なければ。永く愛憐を加へらるべし。されど少しの事も心にとめて。不足におもふくせあれば。こゝは兼て心得置せ給へと仰らる。將軍家嘉明は小量なれば。異慮はあるまじきやと伺はせ給へば。いやとよ。小量なりとてあなづりたまふな。譬へば踊などをみるに。おさなき者たりとも音頭をとるもの節族よくてうきたつ程上手なれば。老たるものもおもしろさに。己をわすれて踊出るものなり。亂世のならひて。一方の將となるべき者あれば。當人は異心なけれども。傍より打よりて取立るものなれば。心ゆるし給ふなと仰らる。又四月十四日のころにや。福島左衛門大夫正則をめして襲封の暇給ひ。名物のお茶入下され。先年汝が事を將軍へいひそすものありて。年久しく江戶に滯留せしめしなり。こたびわれ汝が異心なきよしを。將軍へつぶさにいひほどきつれば。心安く歸國し。兩三年も在國すべしと宣へば。正則は淚にむせび何の御請もなしえす。またかくはいへども。もしこの後將軍に對し遺憾あらば。速に兵をおこさん共心まかせたるべしと宣へば。正則も大聲揚てたゞ泣になきけるとぞ。後に本多正純を召て。正則は何といひしと尋給へば。正純太閤の世に在し時より。當家へ對しいさゝか二心なりしを。唯今の上意はあまり情なき御事と申ぬといへば。最早それにてざつとすみたり。その一言聞む爲なりと仰られしとぞ。(續武家閑談。)
土井大炊頭利勝も將軍家の供奉して駿府へまかりしを。度々御病床近くめし出て。仰事どもありし內に。近ごろ軍伍の次第は。鐵炮をもて先とし。次に弓。次に騎馬なり。これは定制とすべからず。この後は弓銃を首とし。騎馬是につぎ。鎗隊またこれにつぎ。あるは右備としあるは左備とし。機應じて定むべし。鎗には别に奉行人を立置て。その指揮にしたがはしむべし。わがなからん後は。將軍家へこのむね申上よと仰られしとて。神さらせ給ひしのち利勝なくなく聞え上しとなり。また堀丹波守直寄をめして。かれが浪花の軍功及び平常の武略を賞せられ。わがなからん後にもし兵亂出んには。將軍家の先陣は藤堂和泉守高虎奉るべし。井伊掃部頭直孝は二陣たるべし。汝は兩陣の間に遊軍とし。機に應じて勝を制すべしと御遺命ありしかば。直寄感咽して御前をまかでしとぞ。(東武談叢。土井譜。紀年錄。貞享書上。)
御病中侍養のものゝ內にも。とりわき秋元但馬守泰朝。板倉內膳正重昌。松平右衛門大夫正綱。榊原內記C久は。御心やすくめしつかはれしなり。ある日內膳正重昌をめし。御身後の事共かづがづ仰置れし內に。わがなからん後には。將軍家さだめてわが廟所をおごそかに營建あるべし。そは無用の事なり。子孫の末までも始祖の廟にまさらぬ樣にせしめん所を思ひて。わが廟はかろく作り出べしとなり。神さらせ給ひし後に重昌此事申上しかば。將軍家聞しめし。先公の御身にとりては。御謙コの至りと申奉るべけれども。我等が追孝の志にては。あまり菲儉に過べからず。おほかた莊嚴といはむ程に作り出べしとて。最初の御廟は出來せしはり。其後崇源院殿の靈牌所造營に及んで。駿河亞相專らうけばりつかうまつられて。おごそかに出來せしをもて。台コ院殿の薨ぜられし時には。また靈廟を靈牌所よりまさらん程に作り出よとありて。追々莊嚴になりゆき。この二所に比すれば。日光山の御廟いかにも御儉素に過たりとて。大猷院殿の御時新建とはなく。御修理の躰にて若干の御費用もて後の御宮は出來せしとか。是より廟貌儼然として。天下にその比類なきほどになりしなり。(駿河土產。)
薨御の前三四日ばかりの事にや。大坂の役に上總介忠輝朝臣が事仰出されし次に。村P左馬助重治。城織部昌茂に。われむかし信長の變ありて信樂越せしに。大和口の樣見置たり。かしこに山あり。こゝには野陣とるべき所ありしなど宣ふに。いささか違ふ事なかりしなり。年久しき間の事を。御危篤の際までいさゝか御遺忘なかりしとて。みな驚嘆せしとなん。(永日記。)
四月十六日納戶番都築久大夫景忠をめし。常に御秘愛ありし。三池の御刀をとり出さしめ。町奉行彥坂九兵衛光正に授けられ。死刑に定まりしものあらば此刀にて試みよ。もしさるものなくば。試るに及ばずと命ぜらる。光正久大夫と共に刑塲にゆき。やがてかへりきて。仰のごとく罪人をためしつるに。心地よく土壇まで切込しと申上れば。枕刀にかへ置とのたまひ。二振三振打ふり給ひ。劍威もて子孫の末までも鎭護せんと宣ひ。榊原內記C久に。のちに久能山に收むべしと仰付らる。十七日すでに大漸に及ばせられんとせしとき。本多上野介正純めして。將軍家早々渡らせ給へと仰られしが。またそれに及ばずとの上意にて。わがなからん後も。武道の事いさゝか忘れさせ給ふなと申上べしと宣ふを御一期とせられ。C久が膝を枕としてかくれさせ給ひしとぞ。此C久は榊原七カ右衛門C正が三男にて。はやうより近侍し奉り寵眷淺からず。御病中も日夜侍養して。さまざま御遺托どもあり。われはてなば遺骸は久能山に藏むべし。廟地はしかじかすべし。汝は末永くこの地を守りて。我に奉事する事生前にかはることなかれなど仰置れ。また東國の方はおほかた普第のものなれば。異圖あるべしとも覺えず。西國のかたは心許なく思へば。我像をば西向に立置べしと仰置れ。かの三池の刀も。鋒を西へむけて立置れしとなり。(續武家閑談。榊原譜。坂上池院日記。明良洪範。)
此卷は大坂落城の後より。薨御までの御事をしるす。 
卷十七 

 

すべて御コ義の深厚におはしませしかば。御祖先をいやまひ御親族をむつび給ひしはいふもさらなり。古き筋目を重じ。故舊を捨させ給はず。又人の危難をも御身にかへて。救はせ給ひし事も度々おはしき。幼くましませしとき今川義元が計ひにて尾張の國より還らせ給ひ。陽には懇にうしろみ進らする樣にて。實は三河の御所領を押領し。駿河より城代幷代官をすえおき。岡崎の御家人をばをのが軍の先手に用ひて。鋒鏑を犯さしめしかば。討死せしものも多かりき。されど君は猶信義を失ひ給はず。義元のために大高城に軍糧を運びいれ。又その孤城を守り。義元尾張の桶狹間にて。討死ありし後も。其子上總介氏眞がために。父の吊軍せられば。われも年比のよしみを思へば先陣に進み。織田信長に矢の一筋をも射かけんものをと。度々すゝめ給ひしかども。氏眞闇弱にして奸臣の諛言をのみ用ひ。更に軍を出さんともせざりしかば。かくては氏眞謀を合すべき人ならずと御心を决せられ。信長がすゝめにより。終に今川の鄰好を絕て。信長と御和睦ありしなり。されどもその後氏眞舅の武田信玄が爲に國を奪はれ。遠江國掛川の城に逃こもりしが。こゝにても當家の軍威にあたりかねて。城を開て小田原へ退去す。其ときも當家よりは。松平紀伊守家忠をして海路を護送せしめられしかば。今川の士は申すに及ばず。北條の者どもまでもこれを見て。コ川殿は情ある大將かなと感じたるもことはりなり。駿河國御手に入しおりも。氏眞舊領なれば半國をわかち授られんとせしに。信長怒られ。さるいらぬ國ならば。信長給はらんといはれしをもて。やむ事を得ずその意にまかせられぬ。その後氏眞は小田原をもまたすみうかれ。京攝の間に徘徊し。終には又當家にたより。M松にまいり寄食しければ。きくもの氏眞が義をも恥をもしらぬ鐵面皮と爪彈して。笑はぬものなかりしが。猶父義元の舊好を思しめし。氏眞が不幸をあはれませ給ひ。始終御扶持ありて。後には厨料五百石賜ひて老を養はせられ。其孫刑部大輔直房。二男新六カ高久。みな御家人としてめしつかはる。(今高家に今川品川といふはこの末なり。)かく御信義厚く沙汰し給ひける程に。いつも御上洛の度每に尾張國桶狹間をすぎさせ給ふとき。義元が墳墓の前にては御輿を下らせ給ふ。御供の輩いづれも其御厚義を感じて。淚落さぬはなかりし。また氏眞が寓客となりしとき。常に御座近く參りけるにも。むかしをわすれ給はで。禮遇の厚くましましけるとて。見るものみな感じたてまつれり。(三河記。古老物語。前橋聞書。)
大高御出陣の御道すがら。久松佐渡守俊勝が阿古居の館に通らせ給ひ年を經て御母堂(傳通院殿。)に御對面あり。俊勝もはじめて謁見す。君もいはきなき御程にて。御母公に别れさせ給ひ。こゝらの年月をかさねて。ふたゝび御親會ありしかば。おほえす悲喜の御泪にむせび給ふ。御母公俊勝が許にて設られし異父同母の御弟三人をも進見せしめらる。君我兄弟少ければ。此人々ゆくゆくョ母しくもおぼし召とて。松平の御稱號を許され。三州一統せばこの弟共を招きよせて。ともに軍功を建むと仰らる。御母公この三人の中にも長福は今年生れて。襁褓の中より見え奉る事の嬉しさよと宣ふ。俊勝も種々御もてなしゝて物獻る。又俊勝が家臣平野久藏。竹內久六の兩人もめし出して御詞をたまふ。これはいまだ熱田におはしませしほど。阿古居よりわづか一日の路程なれば。御母堂つねづね君の御起居を問せられ。御衣よりはじめ菓子の類に至るまで進らせられしに。いつもこの兩人御使奉はり。後駿府にうつらせ給ひしにも。同じ樣に御使つとめければ。今はた舊故をおぼしめし出てかく御懇問ありしなり。(貞享書上。)
桶狹間にて今川義元討れし後。君には御本國に還らせ給ひても。直に岡崎城へ入せ給はず。御人數を大樹寺に留めらるる事三日なり。これよりさき義元は。其臣三浦飯尾岡部などに岡崎を守らせ。いまだ當家へかへしたてまつらん心にはあらざりしかば。今義元死せりとて。これを僥倖として御入城あらば。信義に欠たりと思召て。かく御滯留ありしなり。さて岡崎城守りし今川方の者どもは。義元の敗亡を聞て城を明て立退くよし聞しめし。人の捨るものならば拾へと仰られ。やがて御入城ましましけるとなり。(武コ大成記。)
永祿五年西の郡攻取れし頃。刈屋へたちよらせられ。かさねて御母公(傳通院殿。)に御對面おはしまし。水野右衛門大夫忠政も拜謁し奉る。その時岡崎殿(贈大納言廣忠卿。)の靈牌を拜し。御淚にむせびたまひぬ。御母公の御願によて。一寺を刱建ありて尊牌を安置し給ひ。五十貫の地を寄附せられ。尊牌の裡に御みづから御筆を染られ。この牌永世崇尊し奉るべき旨しるし置せ給ひぬ。人々御孝思の篤きを感じ奉りけるとぞ。(忠政遺狀。)
三河にて一向門徒等旣に歸降し奉り。そのうちにて巨魁たるもの百人ばかり岡崎にめし呼はれ。御直に仰けるは。汝等こたび宗門にくみし譜代の主に敵せしは。大逆無道といへども。よく考へみれば。高きもいやしきもこの世はかりの世にて來ん世は長し。ゆへにわれらをかりの主人。彌陀はながき世の主と思ひなせし汝等がこゝろさもあるべし。よていづれも御ゆるしあるからは。我にをいていさゝかも舊怨をおもはず。汝等もまた是迄のごとく本心に立かへり。少しも心隔てず忠勤を勵むべし。この旨末々まであまねくいひしらせ。いづれも安心せんやうにいたすべしと仰諭されしかば。かの者どもかしこさのあまり。感淚にたへずして御前をまてしとなん。(落穗集。)
夏目次カ左衛門吉信も。同じ宗門にて一族多きものなれば。額田郡野羽といふ所に要害をかまへ。深溝の松平主殿助伊忠と常に戰ひけり。ある日伊忠吉信が隙をうかゞひ俄に押寄ければ。吉信うち負て針崎の寺中に遁入り。藏のうちに籠けるを。伊忠きびしくとりかこみ。其旨岡崎に注進し。御下知を待て罪に行はむとす。君伊忠が忠勤を賞せられ。且吉信が藏に遁入しを誅せんは。籠のうちの鳥を殺すに同じ。そのまゝ助命せしむべしと仰あれば。伊忠あまり御ェ容に過し事とは思へども。旣に仰出されしうへはいかにともしがたく。圍を解て引かへしぬ。吉信は思ひの外に命を助かり。かしこみ思ふ事かぎりなし。岡崎のかたをふしおがみ。かゝる御恩愛の深き主君にむかひ。弓をひきたてまつりし事は。いかなる心にやありけむ。今さら悔てもかひなき事と淚を流し。これよりしては日每にをのが家の持佛堂に入り佛にむかひ。あはれ今より後はいかにもして主君の御用に立て。この身を果し給へと高聲によばはる常の事なり。後年味方が原御難戰のとき。速に一命を抛て忠死を遂しは。全くこのおりの御厚恩にむくひたてまつりしなり。(落穗集。)
矢矧の橋洪水にて押流したれば。架搆の事命ぜられしに。老臣等この架搆費用の莫大なるはいふまでもなし。御城下にかゝる大河のあるは究竟の天コにて。隣國より攻來るにも橋なきをもて便よしとす。此度流失せしこそ幸の事なれ。この後は船渡しに命ぜらるべきにやと。各議し侍るよし申上しかば。君聞しめし。抑この橋の事は。代々の書籍にもしるし謠曲にも入て本朝に名高き橋なり。さるをわが代に當りて橋をかへて渡にせば。海道の旅行艱困するのみならず。何がしは歒を怯れ費用をいとひて橋をやめしなど。天下後世あざけられんは。國主の恥辱とやいはむ。まして地險をたのむは人にも時にもよる事なれ。古人もいひしごとく。國の治亂は人和にありて地險にあらず。險をたのむで歒を防がんは本を知らざるの論なり。たゞ片時もはやく改架せよと命ぜられしかば。いづれも尊旨の恢豁にして。利濟の念ふかくおはしますを感じたてまつれり。(岩淵夜話。常山紀談。)
酒井雅樂助正親は家長の職にありて。年ごろ夙夜の忠勤なみなみならず。天正四年六月病にかゝり。旣に危篤のよし聞しめし。御みづからその家にならせられ。御手づから御藥たまひ心に思ひ置事あらばつゝまず申せと仰ありしかば。正親仰のかしこさを謝し。嫡子與四那。(後河內守重忠。)次男與七カ。(後備後守忠利。)兩人を御前へよび出し正親申は。某世に望なし。この二人の者ども行末ながく御惠を蒙りて忠勤を勵み。そが材器によりてさるべくめしつかはれん事のみ。願ひたてまつるといふ。君もその誠忠を感じ給ひ。平岩七之助親吉もて病床に付置れ撫保せしめ。又近臣もて度々病躰を御懇問ありしかば。正親死に至るまでも御恩遇の厚きをかしこみたてまつりけるとなん。(家譜。)
武田信玄より容儀うるはしき小姓をえらみて。ひそかに御領國に遣しけるを召抱られ。御身近くめしつかはる。ある日御酒宴過てうちふさせ給ひしが。日每にK本尊の拜をなされしを此日わすれ給ひしとて。起上りて佛前に念誦しておはしけるを。このもの御寢ありしとおもひ。腰刀引ぬきて御衾の上に乘かゝり突立しを。即座にめしとらへしめ。ありしまゝに自首せよと宣ひて。その狀具に聞しめし。汝若年ながら主の爲に一命を抛て我を害せんとす。その志奇特なり。あながち咎るに及ばずと仰られて。甲州へはなちかへされしとなり。いとェ宥の御事なるにぞ。(ェ永聞書。)
天正十三年正月の比。織田信長より使をもて。江州の淺井長政はわが近姻といへども。異心を狹むの日久しければ。其事いまだあらはれざるにさきだつて。これを誅せむと思ふなり。さらむには援兵の事ョみまいらするよし申をくらる。こなたよりも酒井左衛門尉忠次。本多百助信俊兩人もて御答ありしは。長政さしあり隱謀の聞えあるにもあらず。又改心あらんもはかりがたし。まづそのまゝになし置れんこそ。平穩の御はからひと存ずれ。万一異心あらはれ叛狀明白ならんには。速に御勢を向られ誅伐し給ふべし。某もそのときは御使蒙るまでもなし。手勢引具し急ぎ馳上るべしとあれば。信長も御答のェ宥にして理あるに服し兩使を返し。出軍の事をばまづ思ひとゞめしとなり。(東武談叢。)
或時信長のもとにおはせしに。信長君にむかひ。かしこに侍る人は松永彈正久秀といひて。人のなしがたき事を。三度までなしとげしものなり。第一は己が主の三好義長にすゝめて。共に光源院將軍を襲ひ殺したり。第二には將軍を弑せし上にて主の三好をも滅し。第三には南都の大佛を燒失せり。これ大膽不敵の所爲にて。並々のものゝ及ぶ所にあらず。よく御見知あれかしと事もなげにいはれしかば。久秀は赧顏して何といふ事もならず。惣身に汗を流しひれふして居たり。君やをら御座立せられ。久秀が側により居給ひ。御邊の事はかねても承り及びしが。かたみに遠路隔てゝ是まで面會もせざりき。此後は心やすく申承らんと仰ありて。御歸殿の後に老臣等が御前に出しおり。この事を仰出され。其時久秀が樣いかにも笑止に覺えき。かれが惡行はいふまでもなし。されど先ごろ信長金崎を引取れしとき前後に大敵をうけ。いかにも危急なれば。江州の朽木にかゝりて歸らんとせらる。朽木は佐々木が領邑にて同じく淺井が與黨なれば。いかゞせんと心をなやます所に。久秀みづから朽木が方に赴き。種々たばかりてかれを味方に引付し上に。證人までもとり出て立かへり。そのよし信長に申せば。信長も疑念を散じ朽木にかゝりて還られしなり。もし此事の實正ならばと仰られしのみにて。末の御詞はなかりしとなり。盛慮には。久秀織田家に於て勳功のなきにしもあらざるを。信長その功勞を何とも思はず。舊惡を衆人の前にて訐發せらるるは。大將たらん人の厚誼にはかなへりともおぼしめさざりしなるべし。(落穗集。)
味方が原の役に御領內農民ども。甲兵の爲に侵掠せられ。居處を失ひてM松の城下にあつまり來りしが。それもまた燒拂はれゆへ。たゞ道の傍にひれふして泣かなしむさまを御覽じ。われゆへに農民までをかく艱苦に及ばしむる事のうたてさよとて。御淚を流し給へば。御供の者も覺えず袖をうるほせしとぞ。又このとき犀が崕へ落て死せし敵の兵士その數をしらず。後にかの亡靈夜ごとに聲を發して泣さけぶこゑ夥し。よて僧徒に仰せて冥魂を吊慰し給はんとて。七月十三日より十五日まで。種々の絹もて張し器をつくり。念佛踊をもよほし。盆燈籠と名づけて三日が間祭奠せしめ給ひしかば。その聲程なくやみけるとなり。(武者物語。武邊雜談。)
武田勝ョ甲斐の天目山にて自殺し。其首織田右府の實撿に入れしとき。右府聲あらげて。汝が父の入道世にありしほどは。我に對して種々の非禮をなせしむくひ。今汝が身にせまり。かかる躰に成たる事のうたてさよ。汝が父一度上洛せんの望ありしかば。汝が首を京にのぼせ梟首すべし。我も跡よりのぼるべきぞ。又近臣にむかひ。汝等もよく此首を見よ。何と心地のよき事にてはなきかと大に罵る。さて又此首を當家の御陣に進らせしかば君には床机より下り給ひ。首を三方の上に載せ上段にすへ一禮を施し給ひ。かゝるさまにて見參せんとはかけても思ひよらざりき。偏に御身の若氣の至りにて。血氣の勇にほこり。老臣の異見を用ひざる過によれりと仰られしとぞ。又武田代々の菩提所惠林寺は織田家を恐れ。勝ョ主從の尸をもとり納めざりしを。當家の御沙汰として。中山の廣岩院に命じて厚く葬らしめ。新に一寺を營み天童山景コ院と號し供養田をも寄せ給ふ。これらの事ども見聞し。公の御コ義の深厚におはしますを感じ。織田家の臣下はその主の粗暴を恐れ。何となくあやうげに思ひしとか。この後八十日ばかりありて。右府本能寺の變はありしなり。(岩淵夜話。)
依田右衛門佐信蕃はじめ武田が旗下に屬し。信州田中城を守り年比防戰したるが。勝ョほろびて後やうやく城を當家に明渡し。御旗下に屬せんとす。かゝる所に織田右府より使もて信蕃を招かる。信蕃おもふに。我今織田家に從はゞ。コ川殿の恩命に背くに似たり。又したがはざらんには。右府怒つてコ川殿に害をなさん。先一旦織田家に從ひ。其後心ながくコ川殿に參らむと思ふ所に。またこなたより御使進て。こたび右府僞りて甲信の諸士を招き。ゆくものは必害せらる。かまへてゆく事なかれ。ひそかに我陣に來れとの御書をたまはりければ。信蕃いそぎ山路をへて。市川の御陣に馳參じてまみえたてまつる。君の仰に。汝われと兵をかまへしことおほよそ十年ばかり。汝が武勇はかねて知る所なり。武田家衰るに及んで。汝一人孤城に據り義を守りて操を改めず。敵ながらも感ずるに堪たり。今汝にあひてわが年頃の宿意をはたせり。さりながら右府汝をにくむ事甚し。我方に隱れ居と聞ば。さがし出し殺戮せられん事は必定なり。早く身を山林にかくし時節を待べしと仰なり。信蕃盛意のかしこきに感じ。これよりして鍛工の姿に身をやつし。遠州二股の奥に引籠る。そのおりも御家人をそへてク導せらる。後に織田殿事ありし後。信蕃當家に參り軍忠をつくし。天正十一年二月信州岩城の城責に。兄弟三人ともに鐵炮に中り討死しければ。殊に御悼惜ありて。信蕃が兩兒を召て御稱號御諱字たまはり。兄を源十カ康國。弟を新六カ康貞とて。父が遺領にまして十万石賜はりしとぞ。又信長武田の遺臣武名あるものは。みな搜出して死刑に行はんとせしかば。君不便におぼしめし。三枝土佐守虎吉をば駿河の藤枝東雲寺に隱れしめ。武川の諸士は遠州桐山に蟄居せしめ。岡崎次カ右衛門正綱渡邊囚獄守等も。それぞれ御扶持ありしかば。甲信の者共みな御仁惠をかしこみ。御領國にひそまり居て。時節をまつもの多かりしとなり。(家譜。常山紀談。武コ編年集成。)
羽柴筑前守秀吉旣に主の仇明智日向守光秀を誅戮し。武名天下にかくれなし。織田信雄は主家の事なれば。表に崇敬するさまなれどうちにはこれをも傾覆せばやと計策をめぐらし。信雄が家の長たる津川玄蕃をはじめ。三人の老臣共を反間もて誅戮せしめ。やがて信雄姦臣を信じ。故老の良臣を誅したりといふを名とし。尾張に兵をすゝめんとするよし聞えて。信雄大に恐れ。故右府の舊恩ある人々へ援兵を乞ふといへども。時世に從ふ習にて。誰も秀吉の威勢に恐れ。信雄に同意する者一人もなし。かくてまた使を當家に進らせ。今ははやコ川殿ならでは。外にョみまいらせんかたなし。あはれ願くは右府の舊好をおぼしめしすて給はで。こたびの危急を救はせ給へ。信雄が進退このときに極まれりと。うちかへしョみたてまつれば。君にもいとあはれとおぼしめし。秀吉今威望猛熾なりといへども。そのはじめは松下が奴隷たりしを。右府の㧞擢によりて今の身とはなれるなり。さるを其舊恩を忘れ。正しき舊主の子孫を傾けんとはかるは。恩にそむき義に違ふといふべし又右府の恩顧にあづかりしものどもの。今更信雄を見はなし秀吉に荷擔するは。時にしたがふ習とはいひながら。信義なき族なり。われ右府の世におはせしほどは。かたみにいひかはせし事もあれば。今其孤子の窮困するを見てすくはざらんは。武士の本意にあらずと宣ひて。かの使に向はせ給ひ。使命の趣具に承屆ぬ。いつにても秀吉が寄來ると聞えば。速に手勢引連御味方に參るべし。某さへ御味方に參らんには。秀吉大軍といへどもさらに恐るゝにたらず。いさゝか御心を勞し給ふなと復命ありしかば。信雄はさらなり其家の子カ等ども迄。世にかしこくたのもしき事に思ひけるとぞ。(落穗集。)
伊達政宗九戶一揆の事により。豐臣太閤の勘事を蒙り。京にめし上せられ。奥の舊領を轉じて。伊豫の國へ所替命ぜられしかば。政宗はじめその家人等までいづれも當惑したゞ茫然としてありしが。政宗きとおもひかへし。家人伊達上野に今一人をそへて。當家へ參らせ。政宗此度殿下の嚴譴を蒙り家の存亡たゞ此時に極れり。あはれ願くは洪慈の御はからひありて。ともかうもよきに救はせ給へといへり。おりしも霜月ばかりの事なるに。朝のほどいと寒し。君は火閤によりかゝらせ給ひながら。兩使を御前へめし出て。汝等いまだ朝餉たうべざるべし。まづ粗飯を給よと宣へば。左右の者兩使を引つれ。御次にて給はらむとするを。いやそれにて相伴せよとありて上の御膳をすへ。兩使にも供したり。御飯はかねてひえざらん爲に火閤の上に置れしを。近臣とりて御椀に盛て進らす。その時汝等が飯は冷たらん。これを與へよとて。同じ飯を賜はる。君が御膳にのせし菜は。粕漬の魚ばかりにていと儉素の御事なり。御膳過て茶をたまひ。兩使辭してまかでんとするに臨み。御高聲にて。汝が主の越前といふおのこは。打むかひては荒げなく猛くも見ゆれど。實は腰のぬけて後のきかぬゆへ。かかる事に狼狽すれ。四國へゆきて海魚の餌にならむか。又はここにて切死せんか。よく分别して見よといへとのたまへば。兩使かしこみて。また此後殿下より責督あらむときの答詞までを。つばらに承りとゞけてまかで。仰の趣を政宗に傳ふ。政宗もこゝろ得し樣にてその用意し。關白の使の來るを待居たり。とかうする內に使者來りぬ。この日は前日とかはり。政宗が旅館の前に弓銃をもち。鎗長刀をたへし者ども羣り出入しつつ。今にも打て出むさまなり。政宗一人は腰刀も帶せず。使をむかへ入て上座に請じ。淚をはらはらとおしながし。殿下の仰とあれば首刎られんもいなむべきにあらず。さるに領國をかへたまはるとあるは。此うへの御惠なれば速に御受も申べきを。たゞ家の子カ等どもは。田舍そだちのあくたれ武士にて。公法をも辨へず。數代の舊地に離れ。しらぬ國にさまよひゆかむよりは。こゝにていさぎよく腹切て。一人も殘らず死んこそ。武士の本意なれと申て。何某にも自害をすゝめ申せば。かれこれといひこしらへつれど。田舍育のならひにて。とにかく聞入侍らず。上使に對してかゝる狼籍の樣するもはゞかりある事なれ。某が御勘事蒙るにより。家人等迄某が下知を用ひず。こはそもいかゞし侍らんといふにより。上使も何となくそらおそろしき心地すれば。いそぎ馳還りてかくと申す。このとき君はとく太閤の方にわたりおはしたるが。政宗一人が事ならば。某かの旅館に馳むかつて攻潰しなん。今かれがめしつれし者千ばかりもあらん。いづれも偏固にして上命をうけがはず。ましてその國中の者ども。たゞには國を明て渡すまじ。それを取鎭むべき術ましまさば。ともかうも上意のまゝなれ。もし又かの家人が歎訴する所を不便におぼしなば。此度はまづまげて御ゆるし蒙るべきにやと宣ひしかば。太閤しばし思案せられ。政宗が事はコ川殿のはからひのまゝたるべしとて。國替の事はとゞめられ。日を經て勘事もゆりしかば。政宗天に仰ぎ地にふして。再生の御恩をかしこみしとなん。(老談一言記。)
細川越中守忠興內々にて。關白秀次より黃金かり請し事在しが。秀次生害ありてのち。その事司る者。かの金速にかへされば契券を破りすてむ。もし遲々せば奉行人に訴へむとせめはたれば。忠興もこの事太閤に聞えなば。いかなる罪蒙らんもはかりがたし。さりとて大金を俄に償はん事もかたし。とやせん角やせんとおもひ煩ひて。家臣共あつめて議しけるに。家老松井佐渡。それがしはコ川家の御內なる本多佐渡守正信と年ごろ親しければ。彼によりコ川殿をョみ進らせん。コ川殿はさるたのもしき人にておはせば。人の危急を見ながら。よも見捨たまふ事はあるまじといふ。忠興われもとより內府と親しからねは。ョむべき便なし。汝よきにはからへといふ。松井本多がもとに來りしかじかのよしいふ。君聞しめし松井を御前へめされ。人を屏けてつぶさに御尋あり。正信して唐櫃二合とりよせ明させらる。一合に黃金百枚づゝ入たり。其櫃に題せし年號をみよと仰らる。いづれも二十一年ばかり前かたにて。まだ三河におはしませし折の事なり。君松井に宣ふは。おほよそ金銀はその營轄するものあれば。みだりに用ゆる事を得ず。去ゆへにこの金も年久しく貯置て。かゝる用に充る事を得たり。わが年比の志もこゝに於てあらはれし事の嬉しさよとて松井にたまはせけり。松井よろこびにたへず。かゝるかしこき事こそ候はね。旣に亡むとする家の。ふたたび存する事を得しも。全く御恩による所之。細川家の候はんかぎり。いかで當家の御恩を忘れたてまつるべき。速に本國にいひ下し。ほどなく返納したてまつらんと申す。君いやいや。この事もし世にもれ聞えなば。兩家のためあしからん。かゝればこそ人にもしらせず其方へ授くるなれ。ゆめゆめ返納に及ばずと仰あれば。佐渡はいよいよかしこまり。速に忠興に仰事傳へむとて御前をまかづ。其後程へて忠興御館に參りて謁見し正信を呼出し。君にむかひて申けるは。さきに家人に仰下されし盛慮の旨。つゝしんでうけたまはりぬ。たゞ今御家に於て何事のおはしますべきに候はねど。万一御異變のあらんには。必忠興一命を抛ても御情にむくひたてまつらん。去ながら忠興今までも親しう伺公せざるものゝ俄に參らんは。人の見聞ん所もあれば。かへりて本意とげん事もかなふまじ。これよりは前々のごとく疎々しく候べけれとてまかでぬ。後に關原の役に當家隨一の御味方して。上方の大軍を切靡けしも。全くこのおりの盛恩に報ひたてまつりしなりとぞ。(常山紀談。)
金吾秀秋朝鮮の惣督としてかの地に押渡り。蔚山の後卷してはれなる戰し。武名を異域にあらはせり。しかるを石田三成太閤へあしざまにいひなせしゆへ。秀秋歸朝のゝち太閤けしきよからず。秀秋の此度の擧動輕忽にして。大將たらむ者のさまならずといはれて恩典にも及ばず。秀秋大にいかり。太閤の前にて旣に石田を打果さんとせしかば。君もその座におはしておしとゞめ給ひ。その後太閤より尼孝藏主もて。秀秋がこたびの失躰によて。領國筑前を轉じて。越前にうつさるべしとの事なり。秀秋いよいよいかりに堪ず。我が首刎られんとも。國かへられんおぼえなしといふ。君又秀秋をなだめられ。仰の趣謹で承りぬと申させ給ひ。さて秀秋にこの事われにまかせられよ。よきに計ひ申さんとありて。秀秋が家長の杉原山口等をめし呼れ。まづ家人少しにても越前へ下されよとてさし下さしめ。君にはこれより日ごとに太閤の方へおはして。何と仰出さるゝ旨もなし。太閤もあやしみて。いかでコ川殿にはかく日每に見え給ふぞとのたまへば。秀秋が事あまりにいたはしうおぼえつれば。その事ねぎ申さん爲に參るなりと宣ひ。其後も又おなじ樣に參らせたまふ。太閤も後には心とけて。さまで思はるゝならば。彼が事內府の計ひにまかせん。かれ伴ひて參られよとあれは。大によろこばせ給ひ。やがて秀秋と打つれて參らせ給へば。太閤もこゝろよくたいめ有て。秀秋が朝鮮の軍功を賞せられ。さまざま賜物あり。こなたへも引出ものせらる。秀秋まかでし後家人長崎伊豆守を使に參らせ。此度秀秋が面目またく御芳志によるところなり。この御恩いつの世にかわするべき。報じまいらせんときこそあるべけれと申せしが。果して後關原の役に東國の御味方し。上方勢の後より切てかゝりしは。このときの御恩に報はんとの本意なりしとぞ。(藩翰譜。)
關原御出陣の前かた。江府の城におはしまして。いつよりも御氣色よく。午の刻ばかり御料理の間に出御ありて。鶴の料理を仰付られ。鍋をかけ火など燒て。御前には板坂卜齋。同朋金阿彌等侍りて。上にも爐の邊に座せらる。其折誰にかありけむ。細書の狀一通を持參りて御覽に備へしが。片はし見そなはすといなや。西の空をつくづくとうちまもり給ひ。はらはらと御泪を流し給ふ。こは去朔日伏見落城の注進なりしとか。その御樣を見上し者ども。いづれも御前にたまりかね。御次の間へ走り出しとなり。(板坂卜齋記。)
關原の戰旣に御勝利に屬し。諸將とりどり謁賀したてまつるとき。岡江雪入道唯今こそ夜の明たる心地し侍れ。勝凱を執行はせ給はんかと申上しに。今從軍の諸大將の妻子。みな歒方にとらはれ大坂にあり。いづれもさぞ心許なく思ふらめ。われも又その事を心ぐるしく思ふなり。三日のうちには大坂までおしつけ。いづれもの人質を引わたし。そのうへにて凱歌は行ふべけれと仰らる。此ときいまだ誰々も妻子の事などおもひ出すものなかりしに。此御詞うけたまはりて。いづれも盛慮のほど心肝に銘して。有がたく思ひけるとなん。後年浪花の役にも凱歌をば奏せさせ給はざりしなり。(天元實記。榊原日記。)
慶長十年八月駿河の今泉邊御鷹狩の折。夏目次カ左衛門吉信が子長右衛門信次。御道筋にうづくまり居しを御覽じ。その名を問はせ給ひければ。吉信が子なりと答へ奉る。其夜本多佐渡守正信をめして。吉信が子に片目しゐし者ありやと尋給ふ。正信承り。長右衛門と申が。さきに銃の捻拔て眼を損じ旣に死すべかりしが。からうじて助り。今隻眼にて侍ると申上。そは先ごろM松にて人を害し立退し者なり。その罪重しといへども年月旣に立ぬ。かつ忠臣の子なればめし還せと仰ありて。再び御家人となさる。後信次をめし。汝外に兄弟はあるかと尋給へば。弟杢右衛門吉次今加藤肥後守C正に仕ふと申す。仰に。汝等は何程不肖なりとも。わが見捨べき筋目の者にあらぬが。いづれも心ざまあしくて人と鬪諍を仕出し。をのれと當家を立去り諸所を流浪し。さだめて年比賤しの業してありつらむ。この後よく心付よとていましめ給ひ。やがて吉次もめし出され。台コ院殿に附屬せしめられしとぞ。(ェ永系圖。)
慶長十三年內裏にて花山院少將忠長。飛鳥井少將雅賢。猪熊侍從教利。及び牙醫兼保備中守等少年の輩。後宮の官女を誘出し。遊會淫樂の擧動ありしよし聞えければ。備中守をめし捕へて糺向ありしに。つぶさに首告せしかば。主上逆鱗斜ならず。所司代板倉伊賀守勝重に仰て。嚴に刑を加へよと勅諚あり。勝重この旨駿府に伺ひしに。江戶へも御參議ありしうへにて。勝重もて內裡へ奏せられしは。おほよそ古より朝家の內亂そのためし少からず。刑典に處せられし先規もまなさまざまなり。こたびの事は朝廷格外の御仁愛もて。ェ裕の御所置もあらば。この後人々恥おもふの心出來て。おのづから不良のふるまひやみなんかとありしかば。叡慮にもいと理と聞しめし。この族死罪一等を减じ。三人の官女は伊豆の島々へ流し。忠良は津輕。飛鳥井は隱岐の島へ流し。松木侍從ョ國。大炊御門少將宗澄の二人は硫黃が島。難波少將宗勝は伊豆國へ配せられ。猪熊はその濫行の魁首にして。備中守は宮門守るものなれば赦しがたしとて。二人のみ死刑に行はれしとぞ。(武コ大成記。)
慶長十四年二月紅葉山下にをいて。四座の申樂に御免ありて。勸進能興行せしめられしに。ならせられて御覽あり。諸大名はじめ御家人まても。みな棧敷かまへて見せしめらる。將軍家より棧敷の圖を御覽に入れしに。水谷皆川兩家の姓名いかがしてかもれしぞ。この兩家はわが三遠にありしほどより慇懃を通じ。譜代の舊臣にも准べきものなるにと宣ふ。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠鄰御前にありて申すは。このごろ水谷皆川は笠間城の番衛奉りてかの地にあれば。除きしならんと。君およそ武士は名をおしむならひなるに。かの兩家も此度の見物にもれなばいかに遺憾ならん。二人さゝはる事あらば。其家臣ばかりも召寄て。棧敷あたへて見せしめよ。後々の證にもなる事ぞとありて。兩家の家長をめされて。見物せしめ給ひしかば。兩家ともよく舊家の筋目をおぼし出て。そが門地を失はしめざらん盛慮のほどを感じけるとぞ。(ェ永系圖。)
慶長十六年三月勅使駿河に參向して。相國宣下及び菊桐の御紋勅許あるべき旨を傳へらる。君相國をば御辭退ありて。其代りに御曩祖新田大炊助義重朝臣に鎭守府將軍。御父岡崎次カ三カ廣忠君に贈大納言の事申請れしかば。內にも御孝志の至ふかくおはしますを。叡感ましまして。即ち勅許あり。又菊桐の御紋の事は。かしこくおぼしめせども。抑源家新田足利の兩流にわかれてより。其門流かはるばる兵權をあらそふところに後醍醐天皇の御宇にあたり。足利尊氏旣に菊桐の御紋勅許ありて。かの一流これを用ひ來れり。今當家は新田の末裔もて。足利の先蹤を追てこれを賜らん事。あながち䂓摸ともおもひ侍らざれば。これは御ゆるし蒙らんとてうけさせ給はず。その月御上洛ありて。御贈官位を謝したてまつり給ひ。同年十一月搶緕宸フ觀智國師をよび土井大炊頭利勝成P隼人正正成を上州新田につかはされ。義重朝臣の舊蹟を尋訪せしめ一寺を刱建し。義重山大光院と號し。寺領若干を寄られ。御贈官の綸旨を寺に納めらる。又三河の岡崎にも新に松應寺を御造營ありて寺領御寄附あり。明れば十七年正月駿河より三河へおはし。まづ大樹寺に詣させ給ひ。御祖先はじめ御一族までの廟所を巡視し給ひ。碑石の年月を經て苔に埋れしをば。御みづから爪もて剝せられて御覽じ給ひ。其後松應寺に御詣ありて新廟を物し給ひ。住僧に銀など下され。れもごろに御作善あり。かくとりどり追遠の典を執行はれしかば。天下なべて御孝思の至り深きに感じ。人々己が祖先をもをろそかにせず。をのづから風俗も淳厚に歸せしとなり。(武コ大成記。駿府政事錄。)
大坂の冬の役に御和議とゝのひし後。伊達陸奥守政宗。藤堂和泉守高虎等の諸將。本多上野介正純もて申上しは。今度の御和議末ながくつゞかんものとも思ひ侍らず。幸今城溝旣に破壞しつれば。惣勢もて一時に攻落されんこそしかるべけれと。建白せしを聞しめし。をのをの申す所その理なきにあらざれども。おほよそ不義無道を行ふものは。終に天誅を蒙らずといふことなし。近くは織田右府が將軍義昭を廢し。武田信玄が父の信虎を追出せし類。その罰子孫にむくひて。家門みな衰廢せり。われ先年右府の舊好をおもひ。信雄を援けて長湫にて秀吉と戰ひ。一戰に秀吉がたのみ切たる三將を討取しかば。秀吉も終には母妹を質とし和をあつかふに至り。やうやうと我も講和せしことはをのをのしる所なり。其後太閤に和順し西征東伐諸所の戰に心力を盡し。秀ョをも厚く後見せしを。石田治部少輔三成をのが姦智にてそねみねたみ。秀ョが名をかりて罪なき我を滅せんと謀りしかども。天道是を惡みて。關原の一戰にかの凶徒みな誅に伏しぬ。そのころ秀ョをも誅戮せよと。勸めしものあまたなりしが。われその幼弱なるをあはれみ。一命をゆるし置のみならず。三ケ國まで授け官位をも昇進せしめしは。わが莫大の洪恩といふべし。しかるに是を忘却して。我へ對し逆亂に及びしは不義の至りなり。去ながら今一旦の迷誤を悛めて和議をこへば。まづそのまゝに宥置なり。もし此上かさねて無道の擧動ありて干戈を起さば。これいよいよ天誅を招くなれば。その折はやむ事を得ぬ事なり。先此度は和議旣にとゝのひしものを。俄に約を變じて不意をうたんは。わが本意にあらずとて。用ひさせ給はざりしとぞ。(東遷基業。)
慶長二十年閏六月。喜連川左兵衛督ョ氏上京して謁し奉りまかでんとする時。御座を起せられて御送禮あり。これは室町將軍家の支族にて。鎌倉幕府の末裔なれば。その筋目を重ぜられての御事なり。台コ院殿御時より後は御送禮の儀停められしとぞ。(駿府政事錄。)
山名中務大輔豐國入道禪高は。その祖は贈鎭守府將軍義重朝臣の長男伊豆守義範。はじめて山名を稱し。足利家の初には伊豆守時氏。右衛門督時熙など軍功有て數か國を兼領し。ことさら持豐入道宗全が時に至り。普光院將軍の仇たりし赤松滿祐入道を討取。武名いよいよ天下に並ぶ者なく。遂に應仁の大亂をも引出したり。その後數代へてやゝ衰微し。豐國の時にはわづか因幡但馬を領しけり。天正六年のころ毛利輝元がために攻られ。家人離畔せし折しも羽柴秀吉織田殿の命をうけ。播磨但馬の國にきり隨へ。進で豐國が住る因幡鳥取の城攻圍しに。豐國かはざる事を知て。秀吉に城を明渡して。攝津の國多田の邊に蟄居す。十四年君御上洛ありしとき。御旅館に伺公して初見し御懇遇を蒙り。この後筑紫の御陣にしたがひたてまつる。あるとき禪高に仰けるは。汝が祖の伊豆守義範は當家の祖コ川四カ義季主と同じく。義重朝臣の御子なれば。今數十世の後といへども一家のちなみ淺からず。この後は汝われに眤近せよ。我も又をろかにはおもはじとありて。御優待なみなみならず。關原大坂前後の役にも供奉し。殊に駿府におはしては。日野唯心。水無P一齋などゝ同じく。常にまうのぼりて御談伴に候し。御禮遇の樣も日野。水無P。冷泉等の堂上と同じに。懇の御もてなしなりしは。是も全くその名家たるをおぼしめしての御事なり。舊領なればとて但馬國のうちにて領邑六千石賜はりけり。後に台コ院殿にも御眷顧を蒙り。ェ永のはじめにみまかりぬ。(家譜。)
元和年三月相國宣下ありしとき。勅使駿府へ參向あり。御饗應のおり。一色佐兵衛範勝に勅使の配膳つとむべき旨仰付らる。永井右近大夫直勝申上しは。範勝いまだ叙爵せざれば。外の諸大夫侍從徒と列を同じて。此役奉らんはいかがとふ。君一色は足利家の一族にして。その名家たる事はみな人のしる所なり。されば官位なくとも。この役つとむるとあらば猶更面目の事なり。何の障りかあらんとて。素襖着て配膳つとめしる。後にェ永六年に至り。將軍家この御詞をおぼしめし出され。範勝爵ゆりて式部少輔に任ぜしなり。(ェ永系圖。)
駿府の御庭へ。阿部河の水をせき入よとの仰に。旣に水道の標を立置り。其後御鷹狩の道すがらこれを御覽ぜしに。水道になるべき所に小寺あり。寺內を堀割て水を通すといふを聞給ひ。寺をこぼち水をひくは以の外の事なりと宣へば。扈從のもの。この地を上しめ别に代地たまはらば。何の障かあらんと申す。君いやとよ。池に水を引入るゝはわが一人の觀に備ふるまでなり。わが心目を慰めんとて。舊來の寺院をこぼち人の墳墓などあばかん事は。あるまじき事なり。寺をよけて水かくることがならばかけてもよし。さなくば停よと仰られて。遂に水ひく事はやめ給ひしとなり。(岩淵夜話。)
駿河にてある淨土の僧申上しは。佛道もそのはじめは釋迦の一法に出しが。末流となりてはをのがじゝ諸宗に分れたり。これを學ぶものゝ。もとは一法なれば。何れを習ふも同じ事と思ひ取て。諸宗のわいためなく博雜に學ぶは。いとよからぬ事なり。わが念佛宗にては誠に嫌ふよしを申す。君これを聞せられ。佛道にもかぎらず万の技藝の道も。たゞ一筋におもひ入て學ばねば。なりがたきものなり。おほよそ後世を願ふにも。其身の高下によりて異なり。己が一身ばかり後世を願ふは。その歸依する所の宗門にて。得道すべきなり。天下國家の主としては。人をすてゝをのればかり成佛せむとおもふべきにあらず。天下万民をして悉皆成佛せしめんとおもふ大願を立ねばかなはず。古今の宗門はさまざまに分れたるを。上たる人それぞれの宗を立置て銘々の宗によて普く引導化度せしむるをもて。天下を治る上の大願といふべきなりと宣へば。かの僧も盛慮のェ宏にして。弘濟の大コおはします事よとて。一かたならず感じたてまつりしとぞ。(東武談叢。)
見性院と聞えしは。武田信玄入道が女にて。穴山梅雪信君が妻なりしが。武田亡び穴山も又宇治にてうたれし後。第五の御子万千代丸のかたは。生母秋山越前守虎康が女なれば。さるちなみをもて穴山が家人等は。みな万千代丸の方に附られ。武田の家號を稱せしめられしほどに。見性院をも江戶に招きはごくませ給ひ。田安門內の比丘尼町といふに住しめられしが。この尼まうのぼりまみえたてまつるときは。いつも上段より下らせ給ひ。厚く禮遇し給ひける。これも信玄が女なるゆへなるべしとみな人申侍りき。(以貴小傳。武邊咄聞書。)
此卷はすべて御コ義にあづかりし筋の事をしるす。 
卷十八 

 

おほよそ人をめしつかはるゝに。よくその人の性質才能をしろしめし分られ。それぞれに御擢任ありしかば。或は卒伍より登用せられて。方面の將帥を奉りしもあり。本は賤吏よりあげられて。經國の良佐となりしもあり。夫より下の一官一職にありて。功效を顯はせし類は。あげてかぞふるにいとまあらず。又其心術は正しからざれども。才幹ありて用立べきものも捨させたまはず。大賀彌四カ。大久保石見守長安がごときも。はじめよりよしともおぼしめさねども。たゞその租稅財貨の事に練達して。經濟の用にたつべしとの尊慮にて任用ありしかども。後々威福を弄し驕奢を極るに至りては。忽に誅戮を加へられ。いさゝか姑息の念おはしまさゞりしは。是又英明果敢の御所爲と申たてまつるべきにぞ。或ときの仰に。家人を遣ふに。人の心をつかふと能をつかふと二の心得あり。資情篤實にして主を大切におもひ。同僚と交りてもいさゝか我意なく。すべてまめになだらかにて。そがうへにも智能あらば。是は第一等の良臣なり。殊更に恩眷を加へ。下位にあらば不次に抽んで擧て國政をも沙汰せしめんに。いさゝか危き事あるべからず。又心術はさまでたしかならぬ者も。何事ぞ一かどすぐれて用立べき所あるものは。これも又捨ずして登用すべきなり。この二品を見わけて。棄才なからしめん事肝要なりと仰られき。又人の善惡を察するに。やゝもすれば己が好みにひかれ。わがよしと思ふ方をよしと見るものなり。人には其長所のあれば。己が心を捨て。たゞ人の長所をとれと仰られし事もあり。又あまたの家人の善惡を。いかで一人して見知る事のなるべき。己高位にのみいかめしくかまへて。下々と意氣相接らざれば。下よりは何事も申出兼るものなり。とにかく顏色を和らげ辭氣を卑くして。下々よりしたしみよりつくやうにすべしと宣ひしは。唐太宗。百官の事を奏するもの。恐懼して擧惜を失ふことあるを見給ひ。これより常に吾顏色を假して諫諍をきゝ。政教の得失をしらんとすとあるに。よくも似させ給へるかなと。伺ひしられていと尊し。(武野燭談。三河物語。岩淵夜話别集。)
本多豐後守廣孝が御直にうかゞひしとて人に語りしは。凡人君たらむものは。其心をェ大にして。鎖細の事にはかゝはるまじき事なり。水至てCければ魚住ず。人至て察なれば親しまずといひし古語のごとくなれば。人を使ふにも其長所を取て。あしき所は捨置べし。すべて天地の間に生としいけるもの。さまざまにして。牛馬のごとく人の用をなすものあれば。虎狼のごとく害をなすものもあり。藥草もあれば毒草もあり。その中につきてよきを用ゆるは勿論なれども。又時としてはあしきを用ゆる事もあり。あながちに捨べからず。武田信玄。上杉謙信など。わが疑心よりして同族を害せしためし多し。物ごとに疑忌の深きは。もとより其胸中の狹隘なるより起れり。抑先代(岡崎殿御事。)病がちにおはせしかば。わが國勢何となく衰微し。一族はじめ譜代の舊臣も。うちうち他國に心を通じ。兩端をいだくものおほかりき。さるを我代になり天運にかなひて國勢漸强大に成しかば。かの者どもみなまつろひきて忠功を勵みしかば。我もまた旣往の事をいさゝか心に挾まず。實心もて撫使せしゆへ。その中には股肱心膂となりし輩もあまたありき。さきにもし信玄謙信等がごとく。舊怨を含むで一々に疑ふならば。かく大業をなす事は得べからず。虎狼も牛馬の用をなし。毒草も良藥となりしは。みなわが心ひとつにあり。胸中狹隘なれば疑忌の心生じ。疑忌の心生ずれば。多くの人使ひ得がたしと仰られしとなん。殷湯王が賢に任じて疑はず。また後漢の光武が。赤心をひらきて人の腹中に置などいひしと。同一の御氣象なるべし。(故老諸談。)
永祿八年三河國大半御手に屬しければ。はじめて奉行職を置れ。國政を沙汰せしめらる。本多作左衛門重次。高力與左衛門C長。天野三カ兵衛康景三人をもて其任に充らる。此時御國中の士人等。佛高刀鬼作左とらへむなしの天野三カ兵衛とぞうたひける。三人の中にも。C長は溫順にて慈愛深く。康景はェ厚にて思慮ふかし。ひとり重次はおそろしげなる男の。己がいひたき事をばありのまゝにうちいひ。いかにも思慮あるべき人とも覺えず。かゝる職務に堪べき者にあらずと誰も皆思ひしかど。心正しく直にして。しかも民を使ふに惠みありて。うつたへをきゝわかつこと明らかなりしかば。いづれも人材をつかはせ給ふ事の明亮なるに。感服したてまつりき。(藩翰譜。)
天正十二年二月三位の昇階し參議をかけ給ふ。そのころ高木主水正正次を使番とし。筧助大夫正重を旗奉行になされんとありしに。本多佐渡守正信うけたまはり。主水は祿多ければ旗奉行。助大夫は小身なれば使番になさしめてよからんといふを聞しめし。正信に似合ざるいひ事かな。たとへば同じ役勤るもの二人あらんに。一人をつかはして歒を防がしむるに。小身にては軍用とゞくまじとおもはる。大身の者をつかはさんか。それも小身のもの其任にかなふとおもはゞ。上より人馬をましあたへてもこれをつかはすべし。同僚とてもかくのごとし。まして役を命ずるに。大身ゆへ旗奉行小祿ゆへ使番と定めんは。これ祿をえらぶにして人材をえらぶにあらず。助大夫は使番の器なり。主水は旗奉行の器なるゆへに。かくは命ぜんと思ふなり。もし助大夫が祿少にして其任奉る事かなはずば。祿秩を加へんのみなり。祿の多少によて人を進退するは。鄙吝の所爲に出て選擧の本意にあらず。又かねて精勤なるものに加恩とらせんとて。それより大祿の役に轉ぜしむるも又非なり。何役にもあれ。精勤してよくその任にかなはゞ。元の役を轉せずして加恩とらすべし。むかしより任にさへかなへば。帝堯の。舜のごときいやしの民に。天下をゆづられし例もあり。とにかく人材をえらぶに。祿の多少を見る事あるべからずと仰られしかば。正信凡慮の及ぶところならずと。ふかく敬服せしとなり。(東遷基業。)
小牧より岡崎に御勢を入られしとき。C洲をば酒井左衛門尉忠次。小牧をば榊原小平太康政に守らしむ。康政小勢にして大軍を引受ることなれば。汝一人心得ても詮なし。カ等にもよくよくいひ聞せ。得心せしうへにて返事せよと仰らる。康政退きカ等に仰の旨申聞しに。いかにも御請あるべし。秀吉大軍にて責來らば。思ふさまに防戰し。かなはずば討死せんのみと申せば。康政このよし申上るに御氣色斜ならず。かねて勇烈の者どもを汝に附置しゆへ。さこそ有べけれと宣ふ。是まで小牧はかりに取立られしゆへ。城搆もみな板塀にてありしを。康政岡崎より白土とりよせ白くぬりあげしかば。眞の粉墻のごとくにみえたり。其後秀吉このさま見て。わが大軍を引うけあの小勢にて防がむとは。天晴不歒の剛のものよ。コ川にはよくも壯士のある事よといはれしとか。又石川伯耆守數正が岡崎を退去せし後。この城誰に守らせんと老臣に議せらる。本多佐渡守正信いふ。己が妻子を殺しても。この城と生死をともにせんもの然るべしと申す。しからば本多作左衛門重次に過たるはあらじと宣ふ。即重次をめし。岡崎は上方より手遣第一の城なれば。もし秀吉がよせ來らんには。先こゝに防戰すべしとて。御家人あまた屬せらる。重次かしこまり。當家代々の御居城なるを。人多き中に重次にあづけらるゝとあるは。身にとりての面目何事かこれに過ん。しからば身命を抛て。いかにも堅固に守りたてまつらんと。かひがひしく御受す。君御感の餘。重次老年といひもし防戰に及ばゞ。万に一つ生理はあるまじとおぼしめしあはれませ給ひ。後嗣のためとて其子仙千代をめし出され。御前にて首服加へしめ。丹下成重とめさる。よて重次も堅固にせしとぞ。後に秀吉と御和睦ありて。大政所岡崎へ下られしとき。井伊直政と同じく其警衛命ぜらる。かねては大政所到着あるとひとしく。御上京あらん定めなりしが。重次諫ていふ。京にては御所方宮仕の女房等が年老たる者少からず。いかなる老婆を僞りて。大政所となして下されけんもはかりがたし。もとよりこなたに見知たるものなければ。何によりて是を見定候はん。こゝは大切の御ことなれといふ。君もよくこそ心付たれとてやゝ御猶豫あり。大政所下向の後四五日過て。M松より御臺所をわたしまいらせられしに。大政所は御臺所の御輿の戶を明くをまちかねて。御臺所に抱付給ひ。しきりに淚ながし給ひしをみて。人々はじめて疑念を散じ。其後御上京ありしとぞ。(落穗集。柏崎物語。貞享書上。)
當家には武功のものあまためしつかはれしゆへ。そのころ御領內にて里民の春引歌にも。コ川殿はよひ人持よ。服部半藏は鬼半藏。渡邊半藏は鎗半藏。渥美源吾は首取源吾とぞうたひけるこの人々その勇烈の事蹟は。あまたものにみえたればこゝにはしるさず。(三河之物語。)
石川伯耆守數正が上方に降附せし後。御國中の城主の面々人質をたてまつる事ありしに。本多豐後守康重も二男次カ八紀貞を進らせしに。康重事はその祖先このかた忠誠を竭し。世々二心なければ。今さら質入たてまつるに及ばず。御心安くおぼしめさるゝよし傳へられしかば。康重その身ばかりならず。御賞詞の家祖までにをよびしを。いとかしこみたてまつりけるとぞ。(本多越前守物語。)
關東にうつらせ給ふはじめ。鎌倉八幡宮は神領千石を寄附せらる。もとは八千石なるに。こたびかく减ぜられしかば。神主大に歎き。重ねて訴出けれど御採用なし。よて神主上京し豐臣關白へ訴へ。關白よりこのよし江戶に申進らせらる。其とき村越茂助直吉をもてその御使にさゝる。直吉辭見の折めされし獺虎の御羽織をぬぎて下さる。直吉仰の旨うけたまはりて速に上京し。たまはりし羽織に立付着せしまゝにて。關白の前へ出んとす。其さまあまりに鄙野なりとてとゞむるものあれば。市井の典舖にて麻の上下をかりて着し。神主と同じく關白が前にいづ。社人まづこの社の草創よりこのかた。源家世々の崇敬ありし先蹤ども。つばらにいひつゞくるに。直吉は口をあきて心もとめぬさまして聞居たり。秀吉直吉にむかはれ。汝かれがいふ所を聞しやととはる。直吉今一通りうけたまはらんと有て。同じ事を二度ものがたらせし上にて。さてさて尊き事どもにて侍るかな。さりながらこの直吉をはじめ。家康が譜代の者ども。三河以來年比の戰に。今日は討死せんか明日は鋒に血をそゝがんかと。朝夕苦辛して漸僅の祿に有付しなり。さるに此度關東へうつりいまだいくほどもなきに。社人等空手にして千石の神領受しは。家康あまりうつけたる沙汰かなと。某などは覺え侍るといへば。秀吉大に笑はれ。いかにも直吉がいふ所こそことはりなれ。家康もさる心ありて汝を使にこされしならん。われやがて對面の折からよきにはからはんとて。兩人をば其まゝかへされしとぞ。(兵家茶話。)
豐臣關白伊達政宗が奥州會津の領地沒收せし後。會津は奥の重鎭なれば。控御の人材をえらばんとて。みづからおもひよりし者の名をかきしるし。コ川殿にも心にかなひしものをしるして見せられよとて。かたみにひらき見しに。秀吉が札には第一堀左衛門。第二蒲生飛驒守とあり君の御札には氏ク第一。左衛門第二と記されたり。秀吉掌を打て。さてさて名將の思慮は不思議にも符合するものかな。一二はかはれども。その人物の暗合せし事よ。そもそもいかなる心もてかくは見定められしと問はる。君まづ殿下の尊慮うけたまはらんと宣ふ。秀吉奥州の人は情の强き者なれば。左衛門がごとき人ならでは。鎭壓すべき事かなふまじ。よて左衛門を一番にしるしたりといふ。君某愚意には奥人の崛强なるを。左衛門がごとき猛烈の人に治めしめば。諺にいふ茶碗と茶碗の出合といふごとく。いづれかたへの碎けずしてはあるべからず。氏クの武略はいふに及ばず。文學にも志深く。和歌茶道をも辨へ。性質溫和なるに。かゝる風流の好みもあれば。崛强の奥人を治めしむるには。いとよきつり合ならんと思ひつれば。第一にしるしぬと仰ければ。秀吉聞れ。いかにもよき所に心付れしとて。遂に氏クに極られしとなん。(大業廣記。)
江戶御居城ありて後。駿遠三甲信にて代官奉りし者どもはみな役免され。伊奈熊藏忠政一人もて八州を保轄せしめむとありしに。本多佐渡守正信申けるは。是迄五箇國にても代官あまた設られしに。今は八州の大守に成らせ給ひて。忠政一人に仰付られんはいかゞ侍るべき。忠政何程才幹あり共。いかで八州の繁務を。一人して沙汰する事を得んやといへども。聞も入給はず。忠政に誓詞せしめらる。其前文は正信かき候へと仰らる。正信硯引寄。文段をいかにと伺へば。㝡初の一條に。先關八州を己の物のごとく大切に致すべしとなり。其次の文は。支配下々の者を使ふに。依怙仕るまじとなり。正信仰のまゝ書つらね。第三條はと伺ひしに。もはやそれにてよしと仰ければ。正信筆を閣きしとなり。これまで代官奉りし者。こたびの御國替ごとに。御急ぎによりいづれも江戶に參り。御家人の所領割渡などするに。其身心力をつくして勤る者もあり。又諸事を下吏にのみうち任せて。己は怠慢なるもありて。勤勞さまざまなれど。别に褒貶の御沙汰もなくなべて役義免されしなり。後に舊役に復せしもあり。ながくゆるされしもありしとなり。(落穗集。靈岩夜話。)
太閤大坂の千貫櫓にて。當家の人々の馬揃を見物せらる。いづれもこゝをはれと。良馬をえらび馬具をかざりて出立たり。數多き中にKの馬の。紅の韁かけて乘たりしは何者なりと尋らるれば。成P小吉といふ者のよし御答あり。そは何程知行取せ給ふぞと問る。君千石つかはし置たりと宣へば。太閤かれはほしき武者振なり。我ならば五万石はとらせむものをとて所望せらる。君小吉をめしてそのよし仰らるれば。小吉うけたまはり。こは御情なき御諚にも候ものかな。年頃心力をつくし。御爲には一命をもたてまつらんとおもひつるに。今かくかなたに遣されんならば。腹切らんより外なしと。思ひ切たる躰にて泪をはらはらと流す。君重ねて。其方豐臣の招きに從はゞ五万石の身分と成る。且家康が爲にも便よし。まげてしたがへと御詞を盡されしかども。中々うけひきたてまつるべきけしきなし。君も詮方なく思して。有のまゝに申させ給へば。太閤聞れ。いかにも彼の樣にてはさもあるべし。內府にはよき人あまた持れ。曹オき事なり。隨分御心よせあつくめしつかはれよといはれたり。君御歸舘の後小吉をめし出され。其方が存意のまゝを申つれば。太閤心次第にせよとてゆるされたり。抑新參の者ならば。さまで厚き心だてにはあるまじきに。年頃つかへしほどありて。他家の富貴を望まず。眞心に我に從ふ事。さりとは神妙の至なりと御褒詞あり。又中納言殿へもこの旨仰聞られ。後々とも彼者懇にめしつかはれよと。仰進らせられしとなん。(靈岩夜話。)
伏見におはしましけるころ。大坂の奉行等ひそかに御館を襲ひたてまつらむとの企專らにて。今日は取かくるか明日は詰よするかなど。世の風說とりどりなれば。かねてより御コ威になづき從ふK田。加藤。淺野等は。日夜御館に詰て。もし御大事に及はゞ。御味方つかまつらんとひしめきける比。何方より來りたりともしらず。圓頂のものゝふ小者一人に鎗を持せ。暮六時頃より明六時頃まで。御門脇の駒寄邊にありて。夜明れば立かへる事一夜もかくることなし。御家人等これを見て。誰も見知たる者なかりしかば。其よし聞えあげしかば。それこそ水野藤十カなるべければ。此後又來りたらば呼入べし。對面せんと仰あり。其夕方例のごとくかの者來りしかば。かゝる仰ありしぞと告しに。かの者かしこまり候とて御門內に入る。直に御前にめして御對面あり。汝が父和泉へはこなたより申つかはすべければ。汝は三河へ下り候へと仰あり。其後父の和泉守へもことのよし仰下さる。かく仰あるうへは。父もとこう申べきにあらざれば。藤十カは父の所領三河刈屋へ下り。父子の間も和順しけるとなり。この藤十カ勝成は壯年のとき。あらあらしきふるまひ多く。父の教訓にももどりけるより。父子の間もこゝろよからずして。遂に刈屋を立退き都にのぼり。六左衞門と改め。肥後の佐々成政また小西行長。加藤C正。K田長政等の家家につかへしが。とにかく勇にほこり思ふまゝの擧動のみせしかば。こゝをも立退。三村紀伊守とて三千石ばかりを領せし毛利が被官のもとにて。十八石の祿をうけて口を糊せしが。今度伏見にて當家御大事に及ぶべき風說をきくとそのまゝ。三村が家を暇こひて上京し。餘所ながら夜々御門際までまいり。警衞せんとせしなり。御家人等見て誰ともしらざるを聞しめし。これ必藤十カなるべしと御心付せられし事。凡慮の及ぶべきにあらず。もとより此ころ當家より立退し者も。藤十カのみに限らざるを。よくよく其心根をしろしめし分られしうへならでは。いかで其名をかくさゝせらるべき。人君たらん上には。人をしるを第一の事と。古人も申傳へ侍りしは。かゝる類にやあるべき。此後和泉守へいろいろと仰らるゝ旨ありて父子の中も和らぎ。奥の軍に供奉せし跡にて。和泉守不慮に討れしかば。勝成仰を蒙りて刈屋にまかり先陣に馳加り。美濃國曾根大柿の城々責落し。遂に家つぎて從五位下日向守になり。あまたの所領をぞたまはりたる。(小早川式部物語。家譜。)
小山の驛にて。台コ院殿は本曾路を御登りあるべきに定まりしかば。榊原康政。大久保忠隣。本多正信の三人を御前にめし。此度汝等をして中納言に扈從せしむ。中納言いまだ年若き事なれば。偏に汝等三人心を合せ力を共にし。萬事越度なく執行ふべし。かの漢の高祖の三傑とおなじ樣におぼしめせば。いづれも其心して。盛慮にかなはんほど相勵むべしと御懇諭ありしなり。三人のかしこみたてまつりしはいふまでもなし。よく智仁勇の三將を御えらびありしとて。きくものみな感歎せしとぞ。(大業廣記。)
關原の役に上方の御先手奉りて馳上りし諸將。御出馬遲々なるにより。いかなるゆへかといぶかり思ふところに。八月十二日村越茂助直吉を以て。上方への御使命せられ。數通の御書をさづけられ。かつ御口上をも仰含らる。直吉明日十三日首途し。廿日に三州池鯉鮒に着す。先陣の軍監奉りし井伊本多の兩人。こたび直吉が御使として上るをきゝ。柳生又右衛門宗矩してまち迎へしめ。あらかじめ御使の旨を問しむ。直吉聞て。先陣の諸將へ下されし御書を持參せしのみ之といふ。宗矩御口狀はなきかと問ふ。直吉いかにも御口狀も仰含られたり。そは何と仰られしといふ。直吉御みづから誰々に申せとありしを。いかに御邊が我と懇親なればとて。たやすく申すべきやとて。宗矩と共にC洲に至る。中書兵部の兩人出迎ければ。直吉兩人への御口狀の趣を申述けるは。速に御出馬あるべきのところ。しばし御風氣にておはしませば。とみに御出馬成難し。其表の事さるべく兩人相議してはからふべしとなり。諸將へ御口狀の趣も大方かくのごとしといふ。兩人驚愕して。かくては諸將の心變ぜんもはかり難し。このまゝに申されなば。君の御爲あしからん。明日諸將列席のときは辭をかへられ。內府いさゝか風氣に侵され。思ひの外に出陣遲々せり。さりながら近日のうちには出馬して。敵を一時に切崩さん。この事申さん爲に。直吉を差越せ給ひしと申さるべし。この詞ゆめゆめ違へ給ふなと。くれぐれ口かためしかば。直吉君の御爲とあるからは。いかにもかたがたの指揮に從ふべしとありて。其日諸將會合の席へ直吉進み出て御書をとり出し各へ授け。又御口狀を述ていはく。いづれも數日の在陣苦勞に思召所なり。內府出馬油斷なしといへども。この程風氣によてしばらく出馬なりがたし。かたがた兵部中務に申合され。さるべく下知給はれと。仰のまゝにいひければ。兩人手に汗を握りこはいかにせむと思ひ。諸將も御出馬なりがたしとあるを聞て興をさまし。何といふものもなし。かゝる所に加藤左馬助嘉明一人進み出て諸將にむかひ。これはいと尤の御口狀なり。我等只今內府の御味方はすれども。もとは故太閤恩顧の者共なれば。內府の御疑心あるまじきもしるべからず。此度御味方に參りたるしるしをあらはしなば速に御出馬あるべし。かゝる心付もなくうかうかとして日をかさね。御出馬をまち居しは何事ぞといへば。福島左衞門大夫正則も手を拍て。御邊が推察のごとく此辨へもなかりしは。近比愚なる事どもかなとて。一座のものはじめて夢のさめたるごとくなり。この後諸將を會議して。岐阜城攻の議は起りしなり。後日に井伊本多の兩人直吉にむかひ。今となりては御邊がありのまゝに御口狀を述られしこそ。かへりての幸なれといへば。直吉さきに各方の指揮の如くせんとおもひつるが。又つらつらおもひかへせば。智慮才能のいる御用ならば。别人に仰付らるべきを。この直吉が才も能もなき者に。大事の御使を命ぜられしは。御口狀を眞直にいへとの御事ならんと思ひかへして。ありのまゝに申たりといひしとかや。直吉が使命を守りて。人言に泥まざりしはいふ迄もなし。君の人を使はせらるゝに。よく其任を得させられし御事と。感ぜぬものはなかりけり。(關原大成。)
土方河內守雄久は大坂にて異圖ありしよし聞えて。常陸國へ配流されしが。關原のときかへされ。北國の御使奉はり。その後中納言殿の御咄衆となさる。或人かれは君を害せんとはかりしものなるを。御ゆるしあるのみならず。若君に附られ御懇にもてなし給ふは。あまり御ェ容の事なりと。もどきいふのありしを聞せ給ひて。彼はもとよりよく大事を見聞して。國家の用にもたつものなり。秀忠よくねもごろにせられば。行末いかはかりの用に立むもはかりがたし。舊怨によてその長所をばすつまじきものなりと宣ひしかば。人々むかしの斬袪射鈎のためしに思ひなぞらへて。御大量にして且御鑒識の明なるを感じたてまつりけり。(關原聞書。)
慶長六年大久保治右衛門忠佐をめして。彼が年頃の勳功を賞せられ。二万石御加恩ありて。駿河國沼津の城を預けらる。其とき渡邊忠右衛門守綱御次に在て。治右衛門は幸運のものかな。武功があるとて恩賞まはりしぞ。そのかみ我に逢てくそをたれしと高聲にのゝしるを聞せられ。治右衛門に仰けるは。かの兄弟一向亂の折宗門にくみし我に敵せしとき。弓二張に鐵炮鎗と七人にて汝に向ひしに。汝がいひしは。相手がけの勝負ならは。太刀打すべけれども。えうなく多人にむかつて犬死はせぬぞといつて汝が引退しを。われよく覺え居たり。只今その事いひ出ると見えたり。あの樣なる狂者は捨置べしと仰けるとぞ。(ェ元聞書。家譜。)
いつの御陣かありけん。坂部三十カ廣勝。久世三四カ廣宣の兩人を斥候に遣されしに。三十カは仰うけたまはると。いと勇める氣色にて御前を立しが。三四カは顏色替り。何となく心おもげにてやうやう立出しかば。伺公の近臣笑ひ出しものもありしに。三十は元來勇敢の生れなれば。敵を何とも思はず。三四は武邊の心がけ厚く。軍陣に打立からは生て還るまじとおもふゆへ。そのさまうき立ぬなり。今にみよ三四が三十よりは二三町も先へ乘こみて。見てかへるべしと仰けるが。はたして三四は三十より四町ばかり奥までゆき。よくよく敵陣のさま見切てかへり。そのよし申上しとぞ。(武邊咄聞書。)
惣じて譜代の者は世祿をたのみ。勤振りに精の入らぬものなり。他家より今參の者は。主の心にかなはんと日夜に工夫し。一しほ勵み勤むれども。元より主の心には。譜代の者ほどしたしくおもはざれば。遂には又こなたを立出て他家へゆけども。又思ふ樣ならで立かへりなどするに。こたびはいよいよ元の如にはあらぬなり。たゞ譜代のもの。心いれてつかへんこそ。主の心にョ母しく思ふべけれ。何とて今參におもひかへむや。譜代の者よくよく此旨心得て。精いるべしと仰けると。阿部備中守正次御直にうけたまはりしとて。人に語りしとなり。(三河之物語。)
あるとき將軍家へ仰進らせられしは。長夜の折から藤堂和泉守高虎など。故老の輩めし出て。ふる物語聞しめせとありて。高虎はじめて伺公せしに。將軍家の御尋に。先治國の要道とするは何事ならんとあれば。高虎某元より不學にして。聖賢の道など學びし事も侍らねば。何をおこがましく申上べき。されども殊更の仰事なれば。まづ心のかぎり申て見侍らん。大道にかなふかかなはざるは聞分させ給へ。凡治亂の代。ともに人を見分ること第一にて候へ。人の才能さまざまにて。大軍を指揮してその節度にかなふもの。また一隊の將としてよく隊下を驅使するもの。又物頭など奉りて弓銃の士を使令し。軍機を失はざる者。あるは才能はさしてなけれども。性質篤實にして己が職分を守り。時に臨み一命をも抛つべきもの。あるは年比廢墮せし國政を振起して賞罰正しく。國中の士民迄これに倚ョして安意せんほどの者。或は一郡一クの進退せむもの。又は才幹ありて繁職に劇務を弁じ。土木匠作の奉行などにても。國家の損費かけずして。其事成し遂るもの。此外にもさまざまの人物を御覽じ分られて。其人々にかなひたる職掌を仰付られなば。百司みなよく任にかなひて。天下國家をのづから治るべきなり。其次の心得は。何事も疑心おはしまさぬこそ第一なれ。上として下を疑ひ。下又上を疑へば。上下の心何となく離畔して。はてには上一人にならせたまふものなり。かゝる隙に乘じて讒侫の徒あまた出來て。さらでだに相疑ふ間をいひそこなへば。善人君子これがために不慮の禍を受るか。又山林に逃隱るゝにも至れり。古今とにも讒人の爲に國家の亡滅せしためし少からず。よくよく思召わけ給へと申せば。將軍家聞しめして。御感大方ならず。侍座の者どもいづれも感歎し。儒者共が經書講ずるを聞たらんよりは。いと親切にうけたまはりぬと申す。その明日君高虎をめし。夜べは將軍へ何事をか侍話せしと尋給へば。しかじかのよし申上。折しも天海僧正。金地院崇傳が御側に侍せしに向はせられ。和尙達は今の高虎の詞を聞れしや。佛家の事はしらず。當家にをいて。和泉が申せしごとくの嘉言は此上なし。すべて人を見知ることのかなはざるは。全く己が智の明らかならざるゆへ。才智ある者をめしつかふ事のならずして。えうなきものとのみ國政を議するなれ。されば智ある者は身を引て。次第に忠勤を勵むものなく成行なり。又上下相疑ふより。讒人の起るといふも。まづ人を疑ふも我心に信のすくなきゆへ。人をわがことくおもひとりて。每事みだりに疑念を生ずるなり。こゝを讒人のよき付所として。さまざま巧言をもてK白をいひ亂す。讒人の習ひにて。わが事は人にいはせ。人の上は己がいひとり。かたみに相すゝめて。惡類次第に多くなり。大亂にも至るなりと宣へば。兩僧うけたまはり。さてさてかしこき仰をもうけたまはるものかな。高虎が詞も只今御一言によて。殊更羽翼をそへ侍りぬと申す。又仰に。忠臣をばなるたけェ容に禮遇すべし。わが身命を抛ても。君の爲をせむと思ふものなどの小過とがむれば。たゆみて善にすゝまざるものなり。すべて諛言をきゝ入ず。誠意をもて下々をめしつかへば。臣下もまた一しほ精をいれて。忠勤を盡すべしと仰られしとぞ。(藤堂文書。)
あるとき本多。大久保。平岩などの人々御前にめし。燒火をあそばして昔今の合戰の物語かたり合せ給ふ序に。凡食物の中にうまきといふは何ならん。をのをの申て見候へと仰らる。をのがじゝたしむものゝ事いひ出て一决せず。おかちの局もこのとき御側にありて。茶を煎じて人々に進め。諸人のとりどりいひあらがふを聞て。えみ顏して居しを御覽じ。かちは何を知りて笑ふや。もし思ひよりし事もあらば。いひてみよと宣ふ。人々も上言なり。局が論うけたまはらんとそゝのかせば。申てみ侍らん。凡物のうまきものは。鹽にこしたるはあらじ。いかほどよき調理なりとも。鹽なくば味とゝのひ難し。又万民一日も鹽なくば。口腹を養ふ事あたはずといへば。諸人いづれも手を拍て驚歎し。いかさまと感じあへり。さらば天下にまづきものは何ならんと宣へば。こたびは人々口をひらくまでもなしとて局にゆづれば。局又申は。まづきものも鹽に過たるは候まじ。いかばかりうまきものも。鹽味過れば食ふに堪ず。本味を失ふなりと申せば。御前をはじめ伺公の人々。いづれも局が聰明に感じ。これ男子ならば一方の大將奉りて。大軍をも驅使すべきに。おしき事かなとさゝやきけり。君またかちがこの語につきて。わが思ひあたりし事あり。凡天下國家を治るものの。人の用ひ方によりて。興りもし亡びもすれ。その差别をよくわきまふべきなり。たとひ善人たりとも。あまりに用ひすぐれば。かへりて害を生ずるなり。惡人を退くるにも。其道を得ざれば思ひよらぬ禍を引出すものなり。こは全く庖人の味をとゝのふるとおなじき道理なり。又善事なりとて一偏にのみ固滯すれば。譬へば万病圓は効能ある藥なれども。醫者にも議せずたゞこれのみ服して。病を治せんとするが如し。又國家の政道明らかなれば。惡事もをのづから善事となり。己正しからざれば爲事みなあしざまに成行なり。今川義元。信長を亡さむとして己がうたれ。信濃の村上。諏訪。小笠原など武田を討むとして。わが累代相傳の地を奪はれし類。かぞふるにいとまあらず。武道に暗きものは。兵法は亂世に用るものと心得て。治世にはたゞ華美風流を宗として亡滅するにいたるは。是又農夫の春耕さずして。秋の豐穰を求るがごとしと仰られしなり。(故老諸談。)
成P瀧之助とて。御側近く勤めたる者ありしが。一日この瀧之助は人といひあらがふことはなかりしやと御尋ありしが。二三日過て果して人と口論をし。相手を討て立退しと聞しめし。さだめてその折はめて口にてありつらんと宣へば。仰のごとしと申上。元來かれはめて口にてはなりしと上意なり。いかなる御思慮ありて。とくしろしめしけるにかと。人々あやしみたてまつりしとなん。(紀伊ョ宣卿物語。)
服部中保政といひしは天性質實の者なり。あるときの仰に。中は神妙のものなり。生理にうときかと思へば家產をよくし。上戶らしくみえて下戶なり。其外もよき所ありと仰られき。又才智のあらはれてきらきらしきものは好ませ給はず。榊原甚五兵衛といひしは。頗才幹はありしかども。其心表裏あるものなりしかば。はじめは御氣色にかなひしが。終に御前遠くなりしとぞ。(聞見集。紀伊ョ宣卿物語。)
成P隼人正正成。安藤帶刀直次。中山備前守信吉の三人を三家の方々へ附させられ。輔導の臣とせらる。まづ正成を義直卿へ附させ給ひしときには。正成がこれまでの武功才能を。しなじなかぞへたて給ひ。かゝるゆへもて輔導の職に進らせらるるとなり。信吉と村P左馬助重治を。ョ房卿へ進らせ給ひしとき。兩人がはじめよりの事ども仰聞られてつかはされ。ョ宣卿へ直次を附給ひしには。帶刀は何一ついひ立む事なし。いかにとなれば。この者人物よりはじめ。武功才能兼備はりてあれば。殊更とうでゝいひ立べき事なしと仰られしが。後々この藩にありて輔弻の志をつくし。しばしば直諫をいれ。卿をして英明の主とかしづき立しも。全く御明鑑による所なりとて。人々感服したてまつりけり(。續武家。閑談額波集。)
浪花の役に井伊掃部頭直孝をめし。その兄右近大夫直勝多病なれば。直孝こたび陣代勤むべき旨命ぜらる。直孝仰はかしこけれど。家人に相議して後御受申上んとて家にかへり。カ等よび出して。今日かゝる仰蒙りしが。汝等にとひはかりてわが下知に從ふならば御受せん。さらずば辭したてまつらんと思ふなりといへば。家人等いかで御下知に背き申べきといふを聞て。はじめて御受せしなり。さて御上洛の後二條城に着たまひ。直孝をめして。伏見の城番は渡邊山城守に命じたれば。汝は手の者引具し大坂へむかふべしと仰付らる。直孝うけたまはり。某身に覺えある事に候へば。とかう望申べきこともあらん。若年にしていまだ軍旅の事にならひ申さゞれば。ねぎ申べき樣なしと申て御前を退きし後。安藤帶刀直次をめし。只今直孝が身をためさゞるにより。思ふ所申兼るといひしは。定めて先陣奉らんとの心得ならんと思ふと宣へば。直次いかにも仰のごとくにて候はん。さらば直孝よべとありて。此度藤堂和泉守高虎と同じく御先手仰付らるれば。いかにも一しほ軍忠をぬきんで。盛慮にかなはんほど。心付をつくすべしと仰ければ。直孝も面目をほどこし御前をまかでしとか。果して後に大功を立名譽を一世に施し。父の直政にも劣らずともてはやされしは。是も御明審の至なりと。かしこみたてまつりけり。(續武家閑談。常山紀談。)
松平下總守忠明が家人に奥平金彌といふがありしを。かねてしろしめしけるが。浪華の役に。こたび忠明が手にて戰あらば。金彌第一の功名すべしと仰られしが。大和口の戰に忠明が手に討取し首どもさゝげしに。果して金彌一番首とありしかば。さてこそわがいひしごとくなれと御感賞ありしとぞ。その時金彌は七十餘なりしなり。(幸島若狹大坂物語。)
すべて人を使ふに心得べき事あり。たとへば一つの木を二つに切分て。一つは眼鼻もなき佛の形を作れば。をろかなるものは何か利益あらむかと思ひて尊むなり。一つはおもしろく運動する操戱の偶人を作れば。たゞもてあそびとするのみにて尊まず。實は佛の形よりは人の用をなすなり。冠に作るも沓ににつくるも。同じく用をなせども。物には貴賤の别あるなり。これをもて見そこなひ給ひそ。天下の主たる者の眼目の付所はこゝにあり。金銀は寳といへども。飢を救ふに雜穀の用をもなさず。人も又かくの如し。返す返す捨まじきは人々の材能之と。將軍家へ仰をくらせられしとなん。(太平將士美談。)
高師直が驕奢によて。尊氏に恨なきものも疎くなり。石田三成が姦侫によて。太閤へ舊恩の人も心を離せしなり。人を使ふはよくよく愼むむべきなりと仰られけり。(武野燭談。)
人はたゞ實意の深きものこそ。万事に念入るものなり。實意薄ければをのづから過誤あるなり。心だに誠實ならば。外ざまの越度はゆるし置べしと仰けり。かゝる御心もて人々をめしつかはれしかども。世の心得ぬものはさまざまにおもひ誤り。安藤帶刀直次が沉默なるをみては。言葉すくなきが御心にかなふかと思ひ。成P隼人正正成を見ては。戱譃などいふものを好ませらるゝと思ひ。物事あらげなく木訥なるを見ては。本多作左衛門重次。米津C右衛門正勝の輩御前よしと思ひ。酒を飮過し大言吐を見ては。大工頭の中井大和が寵遇をかうぶりしなど思ひとりしは。みな盛慮の深遠をわきまへざればなり。(故老諸談。)
此卷はよく人々の善惡を御審鑑ありて。それぞれ御任使ありし事をしるす。 
卷十九 

 

明主は短を思ひてますますよく。暗主は短を護して益愚なりと。古人の詞にも申置しごとく。人主短を護し諫を拒ぐときは。臣僚口を杜ぎ阿順するをつとめとす。これ國家滅亡のはじとすべし。我君にはよく人言を納させ給ひ。いさゝかの事にても惡しとだに御心づけば。忽に改めて善にしたがひ給ひし御事は。實に流るゝがごとしなどいひしごとくにて。少しも回護の念などおはしまさゞりき。三河にて一向亂のとき。かの宗門にくみせしものども。やゝ本心にたちかへり。歸降せんと思ふものども出來て。蜂屋半之丞貞次もて大久保右衛門忠佐。同新八カ康忠にたより。某はじめいづれも累世厚恩の主君にむかひ。何の御怨ありて弓をひき鋒を交へん心はなかりしに。菅沼定顯があまり情なき處置。かつは酒井正親が偏頗の所爲より。やむ事を得ずしてかゝる叛逆の名を蒙りし事。今さら悔てもかひなき事ながら。此後は土呂針崎野寺の三寺を前々のごとくに建置れ。宗門の徒もそのまゝ御ゆるし蒙らば。いづれもかしこみ奉らんといふ。大久保もこれ容易ならざる事とは思ひつれど。岡崎へ參り御氣色とりしに。歸參の事は聞しめしとゞけられぬ。但し寺々をば撒毁し。逆徒の分もその罪の輕重を正して。それぞれに御沙汰あらんとの仰なり。兩人も此上何と申上べき樣もなくてありしに。忠佐等が叔父忠俊入道常玄すゝみ出。尊慮はさる事ながら。夫にては事速に平ぎがたし。たゞかれらが申こふまゝに御ゆるしあつて。一日も早く他國へ御勢をむけられ。御國勢の强大にならん事を希ふ所なり。是こそ今日の急務なれ。入道が親族も日比の戰に一命を隕すもの少からず。全く上の御爲なりとおもへば。いさゝか悔る事なし。まげて某が一族等の褒賜にかへられ。彼等が申所御ゆるしあれと申上れば。老人がかくまでいさむるを。むげに聞入ざらんも情なきに似たり。こたびの事老人にめんじてゆるすなり。汝等よきにはからへと仰なり。常玄また旣に門徒等が申所ゆるさせ給ふからは。彼等を御先手として上野の城を責しめ。吉良荒川をうち滅し。西三河を平らげ給へと申せば。これも理と聞しめして。かたのごとく御沙汰ありて。不日に歸降の事とゝのひしかば。門徒の輩御仁恩の厚きをかしこみたてまつる事大方ならざりしとなん。(落穗集。大久保譜。)
いまだ岡崎の城におはしましけるに。御賓客あらむ時の御もてなしのためにとて。長三尺ばかりの鯉を三頭。御池にかひおかせられしを。鈴木久三カといへる者。ひそかに其鯉一頭とりて御くり屋のものにあつらへ調理させ。しかのみならず其頃織田殿より進らせられたる南部諸白の樽を開て。同僚うちより酒宴せしを。同僚等酒も鯉も上より給はりて。饗する事よと心得て。各よろこびあひて沉醉しまかでたり。其後御池の鯉一頭うせたりと御覽じ付させ給ひて。預りの坊主をめして聞せらるれば。久三カさる事して。我々もその饗に預りたりと申たるにより。聞しめし驚かせ給ひ。御くり屋のものをたゞされしに。まがふべくもなかりしかば。大に御けしき損じ。久三カを御成敗あるべしとて。長刀の鞘をはづし廣緣につとたち給ひ久三カを召けるに。久三カ少しも臆せず。露地口より出て三十間ばかりも進み出しを御覽ぜられ。久三不屆もの。成敗するぞと御詞かけさせらるれば。久三カはをのれが脇差を取て五六間あとへ投すて。大の眼に角をたてゝ。恐入たる申事には候へども。魚鳥のために人命をかへらるゝといふ事はあるべきか。左樣の御心にては。天下に御旗を立給はん事は思ひもよらず。さらばとて思召まゝにあそばされ候へと。諸肌ぬぎて御側に近くすゝみよる。其躰思ひ切てみえけるに。御長刀をからりと投すて給ひ。汝が一命ゆるすぞとて奥へ入らせ給ひしが。やがて久三カを常のおましにめし出て。汝が申所ことはりと聞しめされたり。よくこそ申たれ。汝が忠節の志滿足せり。それによりさきに鷹塲にて鳥をとり。城溝にて魚を網せしものをとらへをき。近日には刑に行ふべしとめしこめ置しが。汝が今の詞に感じこれもゆるすぞと仰ければ。久三カも思ひの外なる事とかへりて恐れいり。卑賤の身をもて。恐れをもかへりみず聞えあげし不禮をもとがめ給はず。却て愚言を用ひさせ給ふ事たぐひなく有難し。これ全くゆくゆく天下をも御掌握あるべき。ェ仁大度の御器量あらはれ給ひぬとて感淚袖を沾し。しばしは其座を退く事を得ざりしとなり。はるか年經て後。台コ院殿太田何がしに。五百石の恩祿下されんとの仰ありしを。いかなる故にや御折紙を擲返しまかでしかば。大にいからせ給ひ。死刑にも處せられんとて。井上河內守正就もて駿河へ伺はせ給ひしに聞しめして。これは天下長久の基なり。凡賞罰の當らざるは衆怨の歸する所なり。太田が無禮と知りつゝかかる擧動せしは。己が身を抛て將軍を諫るの下心ならん。主の怒を侵して君を正し救はんとするは忠臣なり。ほめてつかはすべし。將軍もかゝる事まで我に問示さるゝは。機務に心をつくさるゝといふべし。君臣共に其職に怠らざれば。長久の基とこそ覺ゆれ。これにつきそのかみわれ岡崎にありしとき。鈴木久三カが無禮を怒り誅せんとせしに。かれがいさめによりて。わがあやまちを改めし事のありしとて。この事語り出給ひ。今太田にも千石ましたまひて。そが志にむくはれよと仰せて。正就にも御刀賜ひ使節の勞を慰せらる。正就江戶にかへりて其旨申上しかば。台コ院殿も御庭訓のかしこさを感じ給ひ。太田に祿千石給ひ。正就には汝によりて承順の道を知り。かつ賞罰の正しきをもわきまへたりとて。是も御太刀を下されしとなん。とりどりたぐひなき御美事なるにぞ。(常山紀談。岩淵夜話别集。)
M松の城にましませし時。ある夜外樣の士三人御前にめして。仰蒙る事ありて退出し。その中に一人とゞまりて懷より一封の書を取出して。みづから封をきりて奉れば。何ぞと仰られしに。これは某年ごろ諫まいらせんと存ずる所を書連ね置しが。今日よき折からなれば奉る之と申。殊に御心地よげにて。それにて讀候へと仰らる。一條よみ終る度事に。申所ことはりにこそと仰ありて。十餘條をよみはてゝ後。思ふ事申出んは此度に限るべからず。此後ももし諫めんとおもふ事は憚あるべからず。汝が志のほど神妙の至りなりと。感じ仰下されしかば。彼者スびかぎりなく。拜謝してまかでぬ。そのとき御傍に本多佐渡守正信侍しけるが。唯今の申條いかにや聞しと仰ありしに。正信承り彼が申所の如きは。事皆鎖細にして國家の大勢にあらず。君などの用ひさせ給はん事は。一條もなくおぼへ候と申上しかば。御手をふらせ給ひ。いやいや是はかれが智を竭しておもひはかりし所なり。其身智の足らざるはいかにせん。彼年頃時を得て。我をいさめんと思ひし心こそ有難けれ。すべて世の人。自らその身の過をしる事。いとかたきわざなれ。あやまちと知りなば。たれかあやまつべき。よしと思ひて心のままにふるまふ所に。あやまちは有なり。品いやしき人は親族朋友など。それぞれしたしくなりては。かたみに諫あらそふ事あればあやまちとしりて改る事あり。これいやしきが一の益也。尊貴のものは一族も交うとく朋友とするものなし。朝夕眼前に伺候する者は。皆家人ばかりなれば。いかにして主のこころにたがはざらんことをのみむねとし。主の道を匡し救はんとおもふ者あらんや。たとへたまさか身を捨ていさめんと思ふものあるも。其あやまち大なる事をこそ申さめ。少しの事ならんにはまづそのまゝにして申さぬものなり。凡少しなるが積りてこそ大なる過になれ。その過旣に大なるにいたりては。いかに悔ともおよびなき事に至るものなり。それを我聞ほどの事。みな耳に逆ふ事なければ。一生我にあやまちありといふ事しらですぐる。これ位高き者の第一の損なり。古より家を亡し國を失ふたぐひ。皆諫を聞く事なくて我過失をしらざるがいたす所にあらずや。此事を思ふに。たとへいかなるひがことならんにも。我を諫るとあるはみな忠言とこそ思ふべけれと仰ければ。正信もげに人君の大度ありがたき御心かなと感服し。老後に至りても常にその子弟にむかひ。この事を語り出て淚をながす事しきりなりしとぞ。(逸話。藩翰譜。常山紀談。)
天正十三年三月のころ御背に癰を發し給ひけるを。小姓共に命じ蛤の貝もて挾み。膿血をしぼらせ給ひけるより大にとがめ給ひ。いよいよ脹出て御なやみ重らせ給ひ。手をつくる事もならず。かくては御みづからも御快ならせらるまじきと思召けるにや。老臣共をして內々後の事ども仰含られしかば。近國にもこの事聞傳へ。はや御大漸に及ばせ給ふなどいふ風說專らなり。このとき本多作左衛門重次御前に參り。それがし先に腫物なやみし時。糟屋政則入道長閑といふが治療にて快くなり候へば。長閑に診はしめられば然るべしと申す。君にはさらに聞召入れざるを見て。重次例の暴怒を發し。殿にはさてもてもむざとしたる療治めされて犬死をし給ふ事よ。御こゝろづからとは申ながら。惜き御命ならずや。十が九は御こころよくならせらるまじと醫者共も申せば。今は何をか申上るに及ばず。此作左衛門御先を仕るべし。年老ても御跡へさかりての御供は仕るまじ。さらば今生の御暇乞を唯今申上とて。泪をながし御前を立ければ。君にもおどろかせ給ひ。近習の徒へあれとゞめ候へとて。汝は狂氣せしにや。我等病重しといへども。いまだ死したるにてもなし。たとひわれ死したりとも。後々の事こそ大事なれ。汝が如き故老のものども生ながらへてこそ。子孫をも輔導し家國の事をも沙汰すべけれ。先腹切て何の益かあらん。きと思ひとまるべしと仰ければ。重次怒る眼に泪を含みながら。おしかへして申けるは。いやそれは人にもよる事なれ。重次もまだ年の二十も三十もわかくば。殿の如き分别もなき御方の御供仕らんは益なく候へども。はや六十近く。若き時より度々の戰塲に御供し。片目は切つぶされ。手の指もきりもがれ。足もちんばに成候へば。世の人のかたわといふ事は。みな某が身一つにとりあつめたる身なり。しかるを殿の御情ばかりにて。御內外樣の者どもゝ人がましくあしらふなれ。只今にも殿の御他界もましまさば。他人までもなし。御緣者の北條殿をはじめ。御國を伺ふものあまた成べし。年もさかりの殿に後れ力の落たる所へ勁敵を引受て。何のはかばかしき事のなるべきや。されば御家の滅亡は眼前なり。重次つれなき命ながらへて。あれこそはコ川家には古老と呼れし本多作左衛門よ。何のたのみありて。路頭に乞食してさまよふよと。後指さゝれては。生たるかひもなく候。近比迄も武田が家にて諸人に尊敬せられし淺利といへる男も。主に後れて當家に參りしが。本多平八が組下となり。匂坂黨などより遙かに末座にありて。へつらふ躰世にあはれにもいたましくもみえて候。これも他人の上とは存ぜず。旣に某が身にせまり候と。淚を流して諫めまいらせしかば。君聞しめして。汝がいふ所いかにもことはりなり。わが腫物は汝にまかするぞと仰ければ。重次大によろこび。長閑を具して參り藥をつけまいらせし上にて。双六の筒の如き大きさの灸をすへ給ふべしと申せば。重次みづから灸持出てすへ。內藥をも進めまいらせしに。たちまちその効あらはれて。夜半ばかりに御腫物吹きり。膿血おびたゞしく流れ出て。御心地もさはやかせ給ひ。日を追て御平愈ましましければ。重次あまりのかしこさに。男泣にぞなきけるとぞ。はじめ御惱のよし世上に聞えたるとき。上杉景勝が家人共は。今の世に謙信信玄卒して後。天下の將器はコ川殿のみにまします。然るに今この人うせ給はゞ。天下弓矢の道はながく絕果べしと歎きしよし後に聞しめされ。謙信信玄は數年弓矢を爭ひ勁敵たりしが。信玄の死を聞て謙信甚これをおしめりと聞たり。かの家は今に謙信の遺風存せりとて。御稱嘆ましましけるとぞ。(岩淵夜話别集。紀伊國物語。紀州根來由誌早B碎玉話。)
本多佐渡守正信は帷幄の謀臣たり。君また正信を見給ふ事朋友のごとくにて。台コ院殿には長者をもて優待せさせ給ふ。正信常に君をよびたてまつりて大殿といひ。台コ院殿をば若殿と稱したてまつる。軍國の機務に至りては。そのはかる所言葉多からず。わづか一二言にて極めてよく諷諭に長ぜり。慶長四年大坂にて福島。兩加藤。淺野。K田等の七人の大名。石田三成をうらむ事ありて。これを討果さんとせしとき。君よく人々を御教諭ありしにより事なく平ぎぬ。其ときは伏見の御館におはしましけるに。正信御前に參りけるが。夜はまだ亥の刻の半ばかりなり。君にははや御殿ごもれり。正信うちしはぶきして御前に參り。今夜はなど早く御寢ならせ給ふぞと申す。君聞しめし。正信には只今何事のありて參りたると仰られしかば。正信别の事にても候はず。石田三成が事いかゞに思召かと存候之と申ければ。今もその事を思案してあるぞと仰らる。正信さては心やすくなりて候。此事御思案あらんならば。正信何事をか申べきと。つと立てまかりたり。君にも又宣ふ旨もなし。其時土井大炊頭利勝など御側にありて承りきと。後に石谷將監貞Cに語りし之。又石川丈山が物語に。正信は上の仰らるゝ事。我心に得ざる時は打眠てのみ居て申旨もなし。又宣ふ所よしと思へる時は。ほめ參らする事かぎりなし。われ御傍につかふまつりし事多年なりしが。正信と事を謀らせ給ふと見えし事は。纔に二度ならでは見ず。世の人のことはかるとは。やうかはりて珍らかなり。一度は君正信が座せし所を通らせ給ひしが立留らせ給ひ。三言四こと密に仰らるゝ事ありしに。正信大にほめ參らせよく候く候と申せし。今一度は大坂の軍起り。程なく御和睦ありて後京に入せ給ひ。何がしを召て。汝大坂に行向ひ將軍に申せ。我等はいづれの日駿河へかへらんと。おもふなりと仰られ。正信が方を御覽じ。佐渡はいかに思ふと仰られしに。例のうち眠て申むねなし。君大聲にて。やあ佐渡と仰られし時例の眼開てまづものをば申さで。右の手さしあげ指をかがめ。物かぞふると見えしが。大殿よ殿よ幾年の前に。伏見にて正信が申せし事をばわすれ給ふなと申せしかば。君しばらく案じ出させ給ふ御氣色にて。御使の仰蒙りし人に。まづけふは御使をばまいらせまじきなりと仰ありて。內に入らせ給ひしとぞ。この二事を見侍りき。それを今の世に。正信やゝもすれば古をひき今を證とし。理義を分て毫末に入るやうに傳へしは。みな後々より附會せし說にて。とるに足らざる事ならんかと心あるものいひけり。(藩翰譜。)
一說に。正信が石田が事をもて諫めまいらせしは。諸大名治部を討亡し候はゞ。其後は當家を傾けんとはかるべき間。治部をば助けて佐和山へ蟄居仰付らるべしと。謀をさづけたてまつりしといふ。又君は治部を討果すべしと仰られしに。正信治部の樣なるもの助け置給ひても。天下はをのづから御手に入べしとすゝめしとしるす說も見ゆれど。こはみな後人の推考して傳ふる所にて。本文にしるせしこそ。よくその實を得たりとは申べけれ。(永日記。備前老人物語。)
江戶へうつらせ給ひしころ。角田河邊へ鷹狩せさせられしに。北條が比より江戶に住居せし處士何某。御路の傍に進み出て。己が意見かきし申文をさゝげたり。これを御覽ありて何とも宣はず。されど御前を憚らざるとて。囚人の事つかさどる石出帶刀が屋敷のうちにいましめ置。日數へて後そのものいかゞせしと尋ね給ひしに。しかじかのよし申上れば。かれ刑法を犯せしといふにもあらざるを。ながく囚獄せしむるは不便の事なり。速に放ち出すべし。かれわが治法の北條が時と變りてよからぬよし。數箇條書つらねたれ共。一條として用ゆるに足らざれば。申文もたゞそのまゝに捨置しなり。何ぞ一條もその中に用ゆべぎ事あらば。ほめてつかはさんと思ひしに。えうなき事のみ書たるとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。(落穗集。)
大坂の役に大和の國のくらがり峠を越させ給ひしに。古よりくらがり峠を越て。合戰に勝たる例なしと申者ある由聞しめし。其峠際迄おはしまし。俄に御路をかへて田間の畦道をおさせ給ひけるとぞ。いさゝかの事にも。人の申詞をばよく用ひさせ給ひき(。諸士軍談。)
駿城にて御談伴の徒に仰ありけるは。凡主人の惡をしりて諫をいるゝ家人は。戰塲にて一番鎗を突たよりも。はるかに揩スる忠節なり。その故は。敵にむかひて武功をあらそふは。身命をいとひてはならぬ事なり。然れども勝敗は時運による事なれば。死地に入て生を得る事もあり。人をうち取か其身討死するもみな天命也。たとひ討死して首をとられ。骸を原野にさらすといふとも。主君にも深くおしまれ。武名をば世にも人にもしらる。もし又討勝て敵の首をとれば。武名をあらはすのみならず。君には深く感ぜられ。恩賞を子孫に及ぼし。世の光榮を殘す事なれば。戰塲にての働は勝も負もさのみ損とすることなし。主君の擧動あしきと心得。これを諫めんとするときは。十に九は身をも家をも失ふのみならず。禍は子孫に及ぶ。主君暴逆淫逸の行ありとも。これをその身にはいかにも善事とおもひてふるまへば。主の心に應ぜず。かゝる主はもとより諫をもいれんとする家臣をば常に親まず。たとへにも良藥口に苦く忠言耳にさからうといひて。諫言を疎遠にして親まざる故に。阿諛侫辨をもて主の惡を迎合する姦臣時を得て。忠良の臣はおのれが妨とならむと思ひ。時にふれて纔をかまへ。あし樣にとりなすをもて。主もいよいよ忠良の臣を遇ずる事うすく。遂には辱をあたふるにいたる。其時はいかなる者も。主を怨み世をうらみて。身を全くして退かむ事をはかり。病に托して職を辭し。致仕して國の存亡をよそに見るもの。十に八九はこの類多し。その中にかくては君のため國の爲。然るべからずとおもひさだめ。身命を抛て强諫するに至れば。はては主憤りて手刄に及ぶか。籠居せしむるか。その身のみならず。妻子一族までも艱苦にせまるに至る。こゝをもてみれば。戰塲にての一番鎗はやすく。主に諫をいるゝはかたきをしるべしと仰られたりとぞ。(岩淵夜話别集。)
駿河にて度々火災有し時。とかく人々心怠り火をいましめざるより。かく度々の災あれば。此後あやまちても火を出したる者は。切腹せしむべしと觸渡さんと。本多佐渡守正信へ仰らる。正信畏りて退出し。翌朝まう登り御前へ出て。何とも申上る詞もなし。その時正信をめして。昨日仰付られし事はよく觸渡したるやと問せ給ふ時。正信其事にて候。某昨日退出しよくよく思案をめぐらし候に。もし火をあやまつものは。必ず切腹せしむべきよし命ぜられんに。此後井伊兵部などが宅より失火候はんに。切腹命ぜらるべからず。かるき御家人ども火を出す時は切腹させ。兵部等はゆるされんとありては。法度たち申まじく候へば。かやうの事は下に命ずべきにあらず。昨日旣に心付候へども。歸宅して思案致し候へば。ますます此事は諫めとゞめ進らせんと决し候ゆへ。夜の明るを待かね唯今罷出候と申ければ。いかにも汝が申所こそ道理なれと仰ありて。こと更御感淺からざりしとなん。(兵用拾話。)
駿府にて若き女房達よりこぞりて。あの常慶坊ほど情なくにくき者はなしと口々にそしり居たりしを。つとさし覗かせたまひ。年たけし女房をめし。若き女共は何ゆへに。常慶をにくさげにそしるぞと仰られしかば。かの女房聞へ上るは。されば外の事にても候はず。御厨より日々送りこし候淺漬の香物。あまりに鹽辛くて。老若ども給かね候へば。今少し鹽をかろく漬候やういたしたしと。御厨方へ申送るといへども。常慶さらに其詞を用ひず。今に鹽からく漬候ゆへ。朝夕に給り候ものたべかね候て。常慶をそしり候と申ければ。そは女共の憤るも理りなり。常慶にそのむね命ずべきなりと仰られしが。やがて外殿に出給ひ常慶をめして。厨所にて朝夕用ゆる味噌香物。鹽から過て女房等食し兼るよし聞ゆれば。此後は今少し鹽をかろくいたし候へと仰られしかば。常慶つゝしんで承り。そのまゝ御傍にすゝみより何かひそかにさゝやきしに。御笑ましましとかくの仰もなし。常慶は退き出ぬ。御側にまかりし人々此樣を見あやしがりて。只今は何事をひそかに申上て。上にも御笑ひありしにやと問ければ。常慶さればその事に候。各方も聞給ひしごとく淺漬大根の鹽をかるく仕候へとの仰に候。今のごとく鹽辛く漬させ候てさへ。朝夕の用おびたゞしきものを。女房達の好みのごとく鹽加减いたし候はゞ。何ほどの費用に及ぶべきもはかりがたし。女房達の申詞など聞しめさぬ樣にわたらせ給ふこそ。然るべけれと申上しなりと答へしとぞ。此常慶といふ者。本氏は松下にて藏主安綱と稱し。はじめM松の二諦坊の住職にてありしが。天性賦稅の事に精しければ。駿府租稅の事を司り。御厨の事をも沙汰し。年久しくつかへたる老人にて。今も松下といへる御家人は此坊が後胤なり。(駿河土產。岩淵夜話别集。家譜。)
此卷はよく人言を御採用ありし事どもをしるす。 
卷二十 

 

御幼年の御時より御本國をはなれ。駿河尾張の國々に寄寓し給ひ。凡世間の辛苦艱困の事ども。つぶさに甞盡し給ひ。あくまで人情世態にも御通達ありしかば。すべて天地の間に生ずる所のもの。一物として容易ならざる理を知しめされければ。後々までも專ら儉素をもて主とし。浮費を省き實功をつとめられ。御身の御奉養はさらなり。御家人までも常々是をもて御教諭有しかば。いづれも皆其御風儀をまなび。京侍のごとく華奢風流の習氣はなく。いと質實にてありしとか。抑周家儉素の風尙をもて。八百の長祚を開きしをはじめとして。後々和漢ともに創業の主は。必儉素質扑をもて國をも興し。天下をもおさめたれ。泰平やゝ久しくして。子孫生れながら富貴の中に人となり。祖宗の艱苦をわすれはてゝ。己が驕奢につのるより。はてには世々の大業をも失ふ之。そのかみ蒲生氏クに問ひし者ありしは。今の世豐臣殿下なからん後は。誰か天下の主にはならんかとありしかば。氏ク答ていはく。コ川殿は名望世に高くおはせど。天性鄙吝にして。天下の主たるべき器にあらず。この後天下は前田利家に歸せんといひしとか。されば氏ク元來織田豐臣兩家の奢豪を見習ひて。天下の主はかゝるものとのみおもひあやまりて。わが君の御儉素こそ。すなはち天運の屬するところなるを知らざりしは。氏クさしもの人傑なりしかども時世の流弊になづみて。その思惟の及ばざりしこそうたてけれ。(碎玉話。)
君いまだ三河におはしませしとき。夏天にはいづれも麥飯を供せしが。あるとき近臣の扱にて飯器の底に精粲を入れ。上にいさゝか麥をのせてたてまつりしかば御けしきあしく。汝等はわが心をしらざるな。わが吝恡にして麥を食ふと思ふか。今天下戰爭の世となりて。上も下も寢食を安むずることなし。さるにわれ一人安飽を求めんや。たゞ一身の用度を省きて。軍國の費に充むとす。あに下民を煩して口腹の欲を專にせんや。返す返すもわが心しらぬものどもかなと仰ければ。いづれも恐悚して御前をまかでしとか。此供御進めし者は。御身の用度を省かれて。下民の爲にせらるゝといふかしこき尊慮には心づかで。ひたぶる儉嗇におはしませば。時としては甘脆をすゝめて。御口腹をなぐさめたてまつらむとおもひしは。かの氏クと同じ樣の心とはかりしらるゝになん。(碎玉話。)
三河にて御家人に仰渡されしは。家人等の妻を迎ふるに。よく木綿を織得べき女を求めよ。御出陣の後には。俸米十分にたまはる事ならねば。かゝるもの織出て家產にあてよとありしは。人々よくつゞまやかにして。生理のともしからざらん爲をおぼしめしての御事なり。(武功雜記。)
いつの年にか霜月ばかりの事なるに。織田右府より桃子一籠進らせけり。近臣等めづらしとてとりどり取てはやしたるに。君は御覽ぜしのみにて何とも宣はず。諸人いぶかしと思ひ居たりしがやがて仰られしは。此菓子珍らしからぬにてはなけれども。信長と我とは國の大小異なれば。好む所も又同じき事をえず。わがこときものは珍物をこのむとなれば害有て益なし。まづ菓實の常に異なるを好めば。國中の良田畝に無益の物を植て民力をつからすべし。珍禽奇獸を好めば。山林河海に無用の金銀を費さむ。奇巧の器財を好まば。いらぬ翫物に志を喪ふのみならず。軍國の用度耗うして。士卒を養育する事不足すべし。すべて心あらん者は。奇品珍物は好むまじき之。されど右府がごとき大身の上はともかうもあれ。我は何より急事があるとて御笑ありて。其桃實は人々に分ち與へられぬ。武田信玄このよし傳へ聞て。家康は大望があるゆへ。養生を主として時ならぬものは食はぬと見えたりといひしとか。この入道などがくねくねしくひがみたる心もて。正大光明の神慮をおしはかりたてまつりたらむには。かく思ひあやまるも理なり。(故老談話。)
豐臣家と御和睦ありて後。京より還らせ給ひ。一日寒風の朝御羽織を求められしに。近藤縫殿助用可が子上方にて關白の進らせし。紅梅に鶴の丸縫し羽織をたてまつりしかば。御顏をしはめられ。時世に隨ふならひなれば。上方にては着したれ。本國にあらんときかゝる華麗の物用ひて。わが家法を亂るべきやとて。その羽織を投すて給ひしとなん。(明良洪範。)
江戶より伏見へ上らせらるゝに。鹵簿のさまもいと御質素にて鎗二本。長刀一振。弓一張。挾箱二。御先に馬ひかせ給ふ事もなく。走衆もわづか三十人ばかり之。又同城におはして下々の者へは俸米あまた下され。千石より以下の者は必しも馬をかふに及はず。人も多く抱置に及ばず。小身の分は町屋をかりて住しめ給ひしなり。かく何事も儉率におはしましけれども。事としては。若干の金銀頒下せらるゝに。いさゝか吝恡のさまましまさず。又伏見城の燒し後殿屋なければ。舊材どもを取集め。荒屋一宇造建ありしを。上方の者は盛慮の儉素を宗とせらるゝをはしらで。たゞうちより例のコ川殿の吝嗇さよとて。笑ひぐさにせしとぞ。(聞見集。板坂卜齋記。)
藤森の御邸なる御廐損ぜしかば。加々瓜隼人正政尙改造せむと申すを聞しめし。雨もらばもる所ばかりを改葺せよ。壁が崩れしならばくづればかりを補へ。その餘は手をつくるに及ばずと仰付らる。隼人うけたまはり。只今上方の大名の廐を見るに。夏は蚊𢅥を下げ。冬は馬に蒲團を着せ。愛養すること大方ならず。しかるに當家の御廐には。戶口に藁莚をかけて飼置るるも。あまりの御事なり。少し御心を用ひ給はんにやと聞え上しかば。武士が馬をかふは馳驅の用にあてんが爲なり。外觀をかざるに及ばず。わが藁莚にてかひ置馬と。諸家にて蚊𢅥蒲團にて養ふ馬と。事あるに臨むでは。いづれがよく險阻をしのぎ急流を渡り。烈寒大暑をもいとはず馳走せんとおもふや。汝等馬をかふにも。上方風の奢侈にならふことなかれと。きと警しめ給ひしとぞ。
關原の役に御膳部仕立る所は。御本陣より三十間ばかりわきの芝山之。其所に細き竹を渡し澁紙一枚をおほひとし。鍋二つ。水汲小桶三つ。煎藥鑵一つ。三人前の行厨一つまうけ。厨人二人。あらし子五人。日に照れて居たり。おほかた三千石ほどの人の野陣はりし躰にも過ず。戰終りて後佐和山の南なみといふ村の東の山に(大谷刑部の陣屋の跡。即ち藤川の臺之。)御陣をうつさる。かこかなる小屋を藁葺にし。垣もみな藁にてゆひ入口に戶もたてず。そが脇に窓中連子あり。佐和山の町より疊を取寄てしかしめ。疊の足らぬ所は藁を敷たり。小屋の外の芝生に疊三十帖しきならべ。そがうへに拜謁の人々つどひて出入しつゝ。草履は人々の後に置番衛の者もなし。まして兵器鳥銃の類一切かざり置事なし。御本陣近きあたりは。旗下の者ども宿れば。其外は三四十町も隔てし所に。おもひもひにやどりぬ。惣じて御供の分はみな佐和山領の里民の家に宿し。野陣はりし者は一人もなかりしとぞ。(板坂卜齋記。)
江戶御遷のはじめ。御玄關の階は船板にてあまり見苦しければ。本多佐渡守正信改作らん申せしに。いらぬりつばだてをするとて聞せ給はず。其後府城造營ありしにも。目につくばかりの金具はなかりし。台コ院殿和田倉邊の櫓のはふに。金の金具用ひ給ひしよし駿河に聞えければ。俄に一夜のうちに毁撒せしめ給ひしとか。駿城御修理ありしときも。本丸のまはりは板塀かけられしが。二丸にある老臣等の邸宅などは。垣を結竹渡して置せ給へば。あまりに失躰なりとおもひ。己が自力もて板塀にかけかへむと伺ひしに。いらぬ事之。其まゝになし置との上意にて。後々までも竹垣にて置しとなん。(聞見集。)
慶長九年三月御上京により伏見へ着御とて。在京の大小名大津追分まで出て迎へたてまつる。折しも雨いさゝか降出しかば。人々かしここゝの樹陰に立やすらひてあり。とかうするうちに鎗二本。長刀一。挾箱二。徒の者二十餘人したがひ。御輿は雨皮にて包み。馬上十騎ばかりうつて供奉す。いづれも本多上野介正純が御先に着せしならんと思ひ居しに。よくよくきけば大御所なりといふに驚きて。諸人いそぎ伏見の町口にて迫付たてまつり。御けしきうかゞへば。御輿を止められ。是迄はるばる迎へ出られしとて。慰勞の御詞を加へらる。こゝにをいて諸大名いづれも。鹵簿の御儉素なるに感驚しけり。又江戶へ還御の折も。御跡に騎馬の者百騎。あるは七八十騎ばかりしたがひ。少し御後に引下りては。みな扇拍子にて小唄をうたひ。酒あれば馬𣏐にてくみてのみ。又は酒器のまゝ飮もあり。そのうちに上戶あれば一盃飮せんとて。をのをの先後に乘廻して尋廻る。成P隼人正正成など御供するときは。いつもかくのごとくなりしとぞ。三島に着御ありて明日箱根通御のときは。輜重にあづかる下部は夜中に發足し。騎馬の者も御先へ通りこし。箱根にては御膳にあづかる者扈從二人。あらかじめ待迎へたてまつり。三島には殘る者一騎もなし。又江戶より首途し給ふときも同じ樣なり。御隱居曲輪邊にては。馬上七八十騎ばかりなり。芝。品川。河崎の出口には。かねて三人五人づゝ路の傍に出て拜謁し。沓替の爲とてこれより直に馬上にて供奉せしなり。いと眞率の御事にて。别に目付押などいふ者もなかりしとぞ。(板坂卜齋記。)
鷹狩に成せられ。夜に入て行殿に宿らせ給ふに。御ましに蠟燭一臺。鷹を夜据する所に一臺たて。その外はみな油火ばかり用ひしめらる。あるとき成P隼人正正成。松平右衛門大夫正綱兩人。とみの御用にて連署の狀かくとて。坊主へ蠟のともしさして。わづか二三寸ばかり殘りしをこひ得て。これをひかりにかき終りぬ。兩人座を起し跡へ目付役見廻り。殘燭のあるを見て坊主よび出し。上樣の御覽ぜば御とがめあらん。何とてけさぬとことごとしくのゝしれば。坊主こは隼人殿。右衛門殿の。しかじかせられし之といへば。そのうちに兩人心付て立かへり。我等が忘れたるなり。汝等などそのまゝにけさで置しぞとて。又々坊主を叱りけるとぞ。これらの事につきて。常々儉素の令おごそかなりしははかりしるべし。(聞見集。)
ある者便器に蒔繪せしを獻ぜし事ありしに。殊に怒らせ給ひ。かゝる穢らはしき器に奇工をつくさば。常用の調度いかゞすべきとて。近臣に命じ速に打碎きすてしめられしとぞ。(膾餘雜錄。)
おかちの局。ある折白き御小袖のあかつきしを。侍女どもに命じて洗せつるに。いづれも手指を損し血など流れいで。いとからき事におもふ。さばかり多き御衣の事なれば。この後はあらはで新らしきをのみめさせらればいかゞと伺ひしに。汝などの愚なる婦人のしるべき道理ならねど。語りて聞せむ出てうけたまはれとて。侍女どもあまためしあつめ給ひ。われ常に天道を恐るゝをもて第一の愼とす。天道は第一に奢侈を惡むなり。汝等はわが財用は駿河ばかりにあるを見て。多きと思ふやと宣へば。いづれもさむ候と申す。わが寳藏は當地に限らず。京。大坂。江戶にも金銀布帛の類充滿してあれば。日每に新衣を調したりとて。何の足らはぬ事かあらんなれども。かく多く貯置は時として天下の人へ施さんか。はた後世子孫の末々まで積置て。國用の不足なからしめんが爲に。かく一衣をもあだにはせぬぞと宣ひければ。いづれも女ながらも盛諭のかしこさに。神佛など拜禮するごとく合掌して伺ひしとぞ。又夏の御帷子も汗付ばすゝがせよとの上意にてすゝぎ置たれど。必しも一領ことに着御あるにもあらざりしとなり。(天野逸話。駿河土產。)
駿城の後閤にて足袋箱二作り置しめ。一つには新しきを入れ。一つには沙土などに汚れしを入置給ふ。その箱の充滿せるを聞しめせば御前に取よせ。さまでよごれざるを二三足ばかり元の箱に殘し置れ。その餘はとり捨て。末々の女房どもに分ちたまはり。すべてことごとく取捨よと仰られし事はなかりき。又男子の下帶には。木綿の白きより淺黃に染たるがよしと仰られしをうけたまはり。上樣はいつ下帶の事まで習はせ給ひしとて。その比後閤にて。うちより一塲の談柄にしけるとなん。(古老物語。)
上の儉素におはしますをしらで。世には吝恡に過てたゞ貨寳をのみ收縮し給ふと評したてまつると聞しめし。上府に金銀の集るときは世間に少ければ。人みな金銀を大切に思ふゆへ。諸物の價もをのづから低下する理なり。金銀世に多ければ物價たとくなりて。世人艱困するよし松平右衛門大夫正綱に仰られき。又駿河に御座の時。米價の踊貴すると聞しめせば。速に御廩を發て賣渡さしめ。低下のときには官金もて購求して御廩に納めらる。かゝりしかば米價をのづから平均して。姦利を射る者なかりしとぞ。これも世の心得ぬものは。よく綜理のとどかせらるゝをしらで。上樣にはよくあきなひをあそばさるゝといひしとか。(天野逸話。前橋聞書。)
板坂卜齋侍座せしとき。壺に入りし人參を賜はらんとて。兩の御手もて下されたるに。御違栅に奉書の紙ありしをみて。一枚給りて是につゝまんとせしに。それは大名どもへ書狀を遣すに用ゆるなり。えうなき事に遣ふものならず。人參は良藥にて汝等なくてかなはぬものなればとらするなり。奉書は一枚と思ふべからず。大なる費なり。羽織脫てこよとの上意にて羽織に受給て。奉書をば元のごとく御棚に返し置しとぞ。卜齋も年比御側にありしが。このときほど面に汗して。迷惑せし事はなかりしとぞ。後々人に語りしとなん。
駿府にて近臣のうちに。身分に副ざるほどの美麗の小袖着せしものありしを見咎め給ひ。わが側にあるものゝかゝる衣裝しなば。其風をのづから外々にもおしうつり。奢侈の源をひらくなり。以ての外の事なりとありて。その者は門とざゝしめて御勘事蒙りしとか。すべて儉素ならでは國家はおさまらぬものなり。上たるものが奢侈につのれば。をのづから下々の年貢課役かさみてひたと困窮し。はてには武備も全うする事を得ず。されど又世の人儉約を心得違て。なさでかなはぬ事をもなぬさ迄儉約と思ひて。義理を欠に至るは大なる誤なりと仰られき。これは儉約と吝嗇とのけぢめをわけて御教諭ありしいとかしこし。(續功物語。)
大坂夏の御陣に茶臼山に御陣替あり。大工頭中井大和かねて用意して。切組置たる小屋を持せ來り取立むとす。本多上野介正純かほど廣くては御意にかなふまじといひて伺ひしに。九尺粱二間にすべし。六疊より廣きは無用なりと宣へば。大和俄に切つめて仰のごとくにして建たり。六疊を上下二間に分ち。中をば布交の幕もてへだてとせしゆへ。速に出來せしなり。そがうへの三疊を御ましとし。諸大名の參謁するときは。下の三疊に出まして御逢ありしとぞ。六疊の御陣屋とて。其比世にいひ傳へて。御素扑の樣を誦したてまつりしとなん。又正純二條城にて。此度の御軍儲は何程用意せんと伺ひしに。惣軍腰兵粮ばかりにてよし。白米三升。鰹節十。鹽鯛一枚に香の物少し持しめて足れりと仰られしとぞ。(武邊咄聞書。落穗集。)
いづれの御陣にも器財はじめ帷幕など。あらかじめ持しめらるゝ事なし。同朋全阿彌もし御用もあらんかとて。上にはしらせたてまつらで。ひそかになくてかなはぬものはもたらし。幕串なども藁につゝみ馬に負せて從ひたてまつりき。ゆへに其世には御幕の奉行といふ役も。别には立置れざりしなり。(板坂卜齋記。)
この卷は万事御儉素におはしませし事をしるす。 
卷廿一 

 

織田豐臣の兩家は。いづれも草昧より起りて。數百年僣亂の國國を切なびけ。ほゞ四海統一の功をなせしは。近世の英豪と云べし。されども元より天性殘暴にして。權謀機變をもてむねとせし故。治世安民の規摸にいたりては。いさゝか見るに足らす。ひとりわが君には御武略の千古に卓越し給ふのみならず。天授の英明にて聖經の大旨を御心に御自得ましまし。よく經國の大躰を弁へ。治平の要道に通達し給ひて。萬機を執行はれしかば。天が下四海のうち一民としてその御コ化にうるほはざる者なく。大統連綿として千歲動きなき御事は。武功文略かね備へ給ひしと申奉るべきにぞ。ある時の仰に。大國を治るは小鮮を烹るが如しといひしは。いと尤なる言なれ。おほよそ國家を治るに。あまり鎖細に渡れば。かへりてその弊あるものなれと宣ひたるとか。こはよくも李老の眞意を御領會ありて。かの大舜の。元首叢脞なるかな。股肱おこたるやと。いはれし聖語にも叶ひて。いふたうとく伺はるゝにぞ。(武功雜記。)
一日奉行人等が御前に侍せし時。訴訟はいかに裁斷するがよきと宣ひしに。いづれもろくなる樣に裁斷するをもて。よろしきかと心得侍るよし聞え上しかば。さる事にてはなし。道理に於てかたせ度とおもふ方にかたするがよし。父子の訴ならば父に勝せ度は勿論なり。理非にかゝはらず父を勝せ。君臣の訴ならば君にかたするがよきと仰けり。又訟を聽に理非明白にすべきはいふまでもなけれど。刑典に引當て相違なからむやうになし給へと。將軍家へ御教諭あそばされしとなり。(前橋聞書。武功雜記。)
法制を立るには峻急なるがよけれ。たとへば火のもえあがるが如くなるはよろしく。水の靜に湛ゆるがごときはあしきなり。烈㷔の中は人々恐れてむかひ近づかねば。燒死するものなし。靜湛の流は淺深の程をわきまえず。心易くおもひあなづりて溺死する者あり。何事もはじめはおごそかに令して。後にやうやくゆるやかにせば。下々おそれ愼んで公法を侵さねば。をのづから刑法にかゝる者なし。はじめをゆるやかにして。後々程おごそかにすれば。おもひの外に殺すまじき者を。誅する事も出來るものなりと宣ひしとか。こは古語に法を建るは嚴なるがよし。三人の限も越べからざるが如しといひ。また令を慢にして期を致すは。人をそこなふなりといふ語にも。いとよく似通ひし御辭とおもひ合せらるゝにぞ。(三河の物語。)
萬石より上の者はたとひ罪科ありとも。先は死刑に處せずして配流せしむべし。家嗣せん事はたとひ半歲の小兒たりとも血統あらば。その家を相續せしむべし。證人はとるべからず。永くとり置ば。親眤の情はなれて益なきものなりと仰られき。(武功雜記。)
近世の將帥の事共御評論ありし時。今川義元は臨濟寺の雪齋和尙と相議して。國政を執行ひしゆへ。家老の威權なし。さるゆへに雪齋死せし後は國政とゝのはず。關東の千葉邦胤はわづか五六萬石ばかりの地を領し。その家臣の原は二十萬石程。原が臣の高木は三四十萬程を領せしとか。かく主人の權が次第に下におしうつりて。下が上に過しゆへ國またおさまらず。よくその大小輕重をわきまへて。國政をおこなふべきなり。又足利將軍義政。武田勝ョ。齋藤義龍など。父祖の政道を非に見て。己が一心のまゝに新法を建行ひしゆへ。遂に家國の滅亡にいたれり。およそ大小とも祖先の舊法を變亂するものはかならず災禍あるもの之と宣ひけり。かゝる御心ゆへ。君には元より御祖宗の舊章を崇敬ましまして。妄に改め給ふことましまさず。改めずしてかなはざることはいふまでもなし。おほかたの事は改めてよしと思ひても。御祖宗へ對せられ御不孝に當れば。まづそのまゝになし置るゝとなり。さればにや甲斐の國へ入せ給ひし時は。信玄以來の法度をかへ給はず。たゞ租稅のみ前時より少しくとれと仰ありて。ェ宥の御沙汰なりしかば。國人も一同にス服し奉り。關東へ移らせ給ひては。同じく北條が舊典をそのまゝ用ひ給ひ。萬事なだらかにめやすく御處置ありしかば。人心をのづから早く安むじけるとなり。古人の政は人心を得るにあり。人心を失へば忽に亂る。おびやかすに威を以てすべかず。諭すに辨を以てすべからずといへるも。かゝる所を申けるなるべし。(故老諸談。武野燭談。)
土井大炊頭利勝駿府へ御使に參りしとき。ある夜御前にめし。さまざま御物語ありし序に。此頃も關東筋にて新田を開く哉と御尋なり。利勝さむ候。よき塲所を見立て絕ず開墾すると申上れば。新田二三万石も出來たらばいかゞと宣ふ。利勝それは永世の御益なりと申す。また古田二三万石荒蕪せばいかにと仰ければ。利勝是は大なる損失なりといふ。こゝにをいて君咲はせ給ひ。汝等は新田の出來るを喜び。古田の廢するをば何ともおもはぬかと宣へば。利勝さる事には侍らず。古田をば荒蕪せしめず。新田も古田の妨にならぬ樣にして。開墾いたすなりと申上れば。かさねて汝等老職をも奉てあれば。官事に心用ゆるは勿論なれども。人には心得違なしといふべからず。さる時は誰によらず聞のがし見のがしにして捨置ことならず。その過誤の輕重によりて。あるは役義をめし放し。あるは遠慮閉門せしめではかなはざるなり。かゝる時にそのもの先非をくひ善道にうつらば。舊惡をすてゝまた本のごとくめしつかふべし。もし又改革もせず本の不良のまゝにてすて置ば。それに取せ置たる領地は。みな古田の永荒といふものなりと宣へは。利勝思ひもよらぬかしこき仰こと承りしとて。江戶へかへりその旨申上しかば。將軍家も殊に御感あり。其後江戶にして二三万石ばかりの普代大名一人。番頭一人。其外にも不良の擧動ありて御咎仰付られ。别にそが子弟に舊知給はりし事ありしは。この尊旨のおもむきを遵行せられしならむと。人々かしこみけるとぞ。(駿河土產。)
三河守秀康卿結城の家繼れしとき。治國の要道を御指揮ありしとて傳へしは。まづ結城の家は舊家の事なれば。よく其家法を守られ萬事舊臣と相議し。上は下を疑はず下は上へ忠誠を盡し。かたみに一躰の思ひをなすべし。大臣にあはるゝ時は。よく禮容を厚うし威儀を正しうせらるべし。己が行儀正しければ。下々をのづから正しくなる道理なり。朔望には臣下をよび立て國務を議し。いつも家康に對せらるゝ如く心を持るべし。目付の者はたゞ家中の善惡を糺察するのみならず。自身より士民までの目付とおもはれよ。又國の機事を家長目付の徒と議するに。人をはらひて深密にすべきは勿論なり。さるを奸臣の習にて。主人を誘き家長目付の密議を聞出し。下々にもらすは。いづれ近臣の中に內通する者ありとしるべし。すべて主の過誤又は家政の不正を諫るものは忠臣なり。たゞ主の心にのみかなはん事を希ふは。不忠の者としるべし。下より上にむかひては。ものごと云にくきものなるを。いさゝかはゞからずいひ出るは。その者局量なくては出來ぬ事なり。これ等につきて臣下の賢否邪正を辨别せらるべし。こたび彼方へ召連らるゝ近臣も。かの家從來のものとわけ隔てなく。同じ樣にめしつかはれよ。さて又仁道もて賞罰を沙汰せられん事肝要之。有功を賞し有罪を罰して。善道に赴かしめてこそ仁道の本意なれ。されど人を賞するにしなじなあり。忠勤の者。又は軍功ある者。又は才能あるものと。その所々をかねがねよく鑒察して。濫賞なからむ樣にするは眞の賞典之。人を罰するにも親族又は寵臣たり共。公法を犯さば見のがさずして。かならずそれぞれ罰を加ふべし。賞罰は國を治る釘くさびの樣なるもの之。とにかく人言を納れ私見を捨る事。家門長久の基なれとくりかへし仰られし後。また卿の輔佐の臣をめし出し。かく仰諭されしからは。其方どもいづれも心を合せ和合して。一家の表鑑ともならん樣に心懸よとさとされしとなん。(明良洪範。)
關原の軍はてゝいまだ幾程もなきに。細川藤孝入道玄旨が京の東山に隱れ居るよし聞召及ばれ。永井右近大夫直勝に仰付られ。其旨につきて前代柳營の事ども御尋あり。この入道が家は世々足利將軍家の管領として。舊規を存するのみならず。入道また和歌の譽世にたかく。故實の事も兼て鍊熟したれば。御答の趣をつぶさに書に記し。室町家式と題して三卷の書を奉りぬ。また本多美作守信富といへるは。義輝義昭の二代につかへ。足利家亡し後本國若狹に引籠りて在しを。織田右府にめし出され。その後慶長八年三月將軍宣下の御拜賀として御參內有し時。信富世々の柳營に仕へて。かゝる舊儀心得てあるべければとて奏者の役仰付られ。御參內の供奉の列にくはへられ。當日の議注を拜觀せしめらる。また曾我又左衞門古祐も前代史官の家なればとて。これもめしいだされて。將軍家の書禮式どもを商量し給ひ。蜷川新右衛門親長も。その祖親元以來伊勢伊勢守が被官にて。足利家の舊典を心得たればとて御家人にめし加へられ。彼是もて御一代の制度を建しめられしなり。かく騷亂の中よりはやう前代の舊章まで御搜索ありて。武家の規法これによらでかなはぬといふことを知しめし。とかく參攷損益し給ひて。萬世不刊の大典を創設有しは。かの織田右府豐臣太閤が。たゞ武威につのり萬事苟旦にして。公武のけぢめもなかりしとは。日を同じうして論ふべきにあらず。實に千古の御卓見と申奉るべき御事なり。(武野燭談。家譜。羅山文集。)
慶長四年京にて。日蓮宗の支派に不受不施の徒ありしが。在家と爭論の事により上裁を仰ぎし時。折しも豐臣家の奉行等人少なれば。彼僧どもを坂城の西丸にめしよせられて御直裁あり。さきに大佛供養の折その徒出席をいなみ施物をも受ず。また豐臣殿下薨ぜられし時。納經の沙汰にも及ばず。かゝる不法のふるまひせし上に。あまさへ配分の施物をも受ざるは。國恩をかしこしとおもはず。公法を蔑如にする罪輕からず。かゝる輩寺院に住せしめば。すべて僧中の風規にもかゝはるとて。遠流に處せられしとぞ。(落穗集。)
慶長十五年閏二月堀越後守忠俊が家老堀監物直次と。弟丹後守直寄と訴論の事起り。上裁を仰ぐに至る。よて兩人を駿城へめし。諸大名も列席せし上にて御親决あり。直寄申上しは。監物國に在て諸事奸曲をふるまふのみならず。淨土法華兩派の僧徒をあつめて宗論をせしめ。己れ是を裁斷して。淨土僧十人を誅せし旨申す。君障子を隔て聞しめしおはせしが。此事御耳に入とひとしく御自ら障子を開き給ひ。殊に御けしきあしくて。其宗論の曲直は誰が聞定めしと問給へば。監物承り。文學ある者に命じて是を裁判せしめ。非分の方を仕置申付ぬと申せば。仰に宗論といふは天下の大禁なり。さるに公法を犯し妄りにこれをなさしめ。あまさへ己が私意もて决斷し。僧徒を刑殺せし事沙汰の限りなり。この一事もてその餘の暴虐ばおして知べきなり。此上何事も聞し召及ばずとて。御障子たてて入御あり。監物は㝡上出羽守義光に預られ。主の越後守忠俊は家國鎭撫する事あたはず。家臣をして騷擾せしむるに至るとて領國收公せられ。岩城へ配流せしめ。直寄は罪なしといへども。舊知五万石を召上られ。信州にて三万石給ひ。普代に准ぜしめられしとぞ。(天元實記。)
江戶の米廩に納めらるゝ所の米員あまりおほくて。をのづから欠米出來し。且は諸國よりの運費も莫大なれば。米廩の數を减ぜられば何ばかりの御益ならんと勘定頭より申出しに。殊の外御けしきあしくて。廩數多ければ欠米多くて益にならぬといふことは我元より是を知れり。さりながらよく考へ見よ。もし事變ありて國々の米當地へ運輸する事あたはざるか。又は水旱の災ありて都下の米價踊貴せば。當地に輻湊する五万の人民みな飢に苦むべし。さらむ時のためをおもひてこそ。無用としりながらも常々多く貯置しむるなり。なみなみの勘定役など勤る者はともかくもあれ。汝等頭ともなりて天下の會計をも掌る者が。さる淺薄の心得にしてかなふべきかとて。いたくいましめたまひしとなり。(駿河土產。)
駿河の島田の代官奉る何がし。稅米ののりめの出目を私するとて。百姓ども目安捧て訴出しかば。俄に米廩の口をとぢ。後の方の壁を切あけ。米貳參俵取出さしめ毛氈敷。その上にてはからせて撿覈し給ひしに。百姓どもの申如くにて有しかば。代官には腹切しめられしとぞ。(聞見集。)
慶長七年十二月京本山の大佛燒失しぬ。是は其はじめ豐臣太閤土もて製造せられしが。一年の大震にて破裂せしかば。信濃の善光寺の如來を迎へて安置せしかば。太閤の薨後に大政所淀殿の計ひにて。如來をば本國に返し。此度は鑄工に命じて銅像にせむとて。鑄範を作り熱銅をその中に注ぎしに。下地の材より火もえ出で。屋宇までも一時に灰燼となりぬ。其後淀殿より江戶の御臺所(崇源院殿。)の御方へ內々仰越れしは。大佛は故殿下の營建せられし所なるが。かく不虞の變に逢ぬれば。今更秀ョ一人の力もて改造せむ事難し。願くは關東より御助援ありて重建せば。殿下の遺志も空しからず。いとめでたかるべしとのことなれば。御臺所より本多佐渡守正信もて伺れしに。淀殿は婦人の儀なり。將軍はいまだ年若き事なればふかき思慮もおはすまじ。汝は年頃老職をも勤めながら。かゝるえうなき事を我所まで持來て議すべきや。沙汰の限なりと仰らるれば。正信は大に當惑してありしに。かさねて仰らるゝは。汝きかずや南都の大佛はかしこくも。聖武帝の勅願にて刱建有しを。平重衡が兵火にて燒失せし後は。俊乘坊西行法師の二僧。相ともに募緣して重建せしとか。勅願所といへどもョ朝より再建の沙汰はなかりしなり。まして京の大佛は太閤の物數奇にて建られしなれば。今秀ョが自力もて重建せんはともかうもあれ。將軍より力をそへらるべき理なし。すべて日本國中の神社佛閣いくばくといふ數を知らず。そが緣故をいひ立るごとに取あげて。一々に修理を加へ遣さんには。天下の費用もいかでこれをつくのはんや。是には勘考のあるべき事ぞ。まして大小の寺社ともに新建とあるはかならず無用の事なり。この旨よくよく將軍にも申し。同列共とも議し置べしと仰られしなり。又ある時山岡道阿彌。前波半入などの御談伴御前に侍せし折から。天下の主たる者は後世まで名の殘ることをすべきなり。豐臣太閤は京の大佛を建立ありし故。今に其名が殘り候と申せば聞しめして。太閤などはさる事をこのみてせられたり。家康はたゞ。天下安泰に治め。數代の後も紀綱風俗頽敗せざらん事を。常々思案して居るぞ。これ大佛を數躰建立せんにはまさらずやと仰ければ。かの二人經國貽謀の盛慮深遠なるに仰感し。さるにてもえうなき事をいひ出せしとて。面あかめて退しとなり。(駿河土產。岩淵夜話。)
板倉伊賀守勝重京より參謁せし時。京の事どもつばらにとはせ給ひ。其方ほどあしき者は有まじ。いかむとなれば一人を助けて。千人を殺すやうなる仕法じやとて。御咲有しとなり。(永日記。)
治亂は天氣とおなじ樣なるものなり。晴かゝりし時は少し。降かとすれども晴るゝなり。降かゝりしときは晴かとみえても遂に雨になるなり。世の治らんとする時は。亂るゝ如くにてもいつとなくおさまり。亂れんとする時は。しばし治る樣にても。はてには亂るゝものなりと仰ありしなり。(駿河土產。)
金貨もそのかみはたゞ大判金又は砂金のみを通用して。いと不便の事なり。豐臣家の頃は國々よりすねがね。ここし金。はづし金等さまざまの雜金を京にのぼせ。銀と引かゆる事にて。兌換するもの。これを查撿するに。いとまなきを苦しめり。そのころ關東にては金見役といふを設られ。後世の一兩判の如き大さを。K判にして通行せられき。はじめ八州の主とならせられしとき。京の彫工後藤の族に。庄三カ光次といふをめし下し給ひしが。このもの元より聰明にして才幹ある者なれば。御側ぢかくめし使はれ寵眷なみなみならず。ある時光次に仰られしは。われもし天下一統せんには。汝がのぞみ何にてもかなへてとらせんと有しかば。光次某世に望みなし。たゞ今世に通行する所の黃金重大にして不便なれば。これを四分にして新鑄せしめば。何ばかりの國益ならんと申上しかば。尊意にかなひ。御一統ありて後小判金を作り出さしめ。慶長十年又光次が建議によて小判金を四分にして。壹歩判を鑄造ありしかば。天下いよいよその輕便を觀て。今二百餘年の後までも通貨とゞこほる事なし。又銀も往古は諸國の銀礦よりほり出せしを。灰吹にせしまゝにて通行せしかど。定價もなければ世人なべて交易に艱困す。慶長六年六月大津の代官末吉勘兵衛利方建言せしは。銀價定らざるよりして。諸物の價もまたひとしからず。今よりは官府にてその制を定め給へと申すにより。新に銀座を設られ利方もてその頭役となし。後藤庄三カ光次とおなじくこれを管轄せしめ。新に銀の品位を定め。丁銀小粒銀を鑄出して通行せしめ。これまで世上にある所の灰吹銀。潰銀。及礦穴より堀出せしもの。みな座に持來り新銀と兌換して。いよいよさかんに鑄鎔ありしかば。是よりして天下の物價もをのづから一定し。金銀の通行いさゝか障礙なく。萬民皆御仁政の貨幣の上までに及ぼし。いたらぬ隈なき膏澤のほど。かしこみ奉りけるとなん。(反古撰。聞見集。御用達町人由誌早Bェ永系圖。銀座始末。)
路程の里數も。織田右府の時より三十六町をもて一里と定め。一里ごとに堠を築しめて表識せられしを。豐臣家にても彌遵行有しが。君關東へ移らせ給ひし後。同じく一里每に堠を築き。その上に榎の木を植しめ給ふ。(このとき松の木植んと申上しに。餘の木を植よと仰せしを承り違ひて。榎の木をうへしといふ。)又その頃駄賃錢の定額なくて。行旅艱困するよし聞えたれば。衆に議せしめて一里十六文。その餘官道ならぬ所は。まし加へて賃錢定りしとぞ。一駄は四十貫目。乘懸は兩荷二十貫目。乘主は十八貫。合せて四十貫。米一石も四十貫なりしとぞ。(聞見集。)
河渠運輸の事にも御心を用ひられしと見えて。その頃京に住せし角倉了以光好。その子與市カ玄コは。家代々豪富にして水利に熟せしよし聞し召およばれ。慶長十年春の頃光好に命じて。丹波の世木庄殿田村より。保津をへて大井河に至るまでの水路。岩石おほくして通船なり難ければ。光好父子に命じ新に水路を堀通さしめ。八月に至て成功し。近境大にその利をえたり。又十二年光好仰を奉はり。駿河の富士河を堀ひろげ高P船を通じ。同國岩淵より甲州に運漕し。國民をして便利を得せしむ。同年又信濃國諏訪より遠江の掛塚までを浚治して。天龍川の通船をして便よからしむ。十九年かさねて富士川の游塞せしを通ぜしむ。光好父子かく度々河功の勞を積しうへに。浪花の役にも城湟の水をきり落せしをもて。近江の代官命ぜられ。京の河原町ならびに淀川過書船の支配し。今に至り代々その職奉はる事とはなれり。(家譜。武コ編年集成。)
朝鮮はあがりての代には全く我屬國にして。條約を奉じ貢船を納る事なりしが。中古以來本邦騷亂打續き。國の中だに政令の及ばざる事となりしかば。まして異域不廷の罪など問ふにいとまあらず。はたかの國もさまざま變革し。三韓合して新羅の王氏一統の世となり。王氏の末に季世珪といへるが出て今の朝鮮を開き。かたみに亂離打しきりしより。いつとなく兩國疎濶にして。たゞ對馬の宗が家はわづかの海底を隔てしゆへ。絕ず隣舶の往來は有し之。足利家の頃折々かの使臣の來聘せし事有しかども。舊來の躰をうしなひて。隣國偶敵の樣に成ゆきしなり。しかるに文祿年中に至り。豐臣太閤諸將に命じ大軍を起し。かの國に打入り王城まで責とり。前後七年が間兵革うち連なりて。國中悉に侵掠されしかば。かの國にてわが邦を怨むこと骨髓に撒しぬ。慶長六年宗對馬守義智はじめて謁見せし時。朝鮮はむかしより通交絕ざりしを。豐臣太閤ゆへなくして干戈を動かし。怨を異域に搆へしより。かの者どもわが國を讐敵に思ひ。多年の隣交も絕はつることゝなりし。さりとは殘暴の擧動。此儘になし置ては國躰に於てもしかるべからず。汝この旨よくよく心得てかの國に申通じ。重て通交のならん樣に計ふべし。さりながら万一不當の返詞どもして敵對せんならば。速に兵を出し征討すべしと仰下されしかば。義智かしこまり歸國して。家人に命じかの國へ三度までいひ遣せしに。更に受引ざるのみならず。使人をも止めてかへさず。義智さまざまに思ひなやみ上意を伺ひ。先年の戰にかの國より擒り來りし朝鮮の者數百人。及薩州に捕はれし金光といふかの國王の一族をもかへし遣しけるに。金光歸國して。豐臣家滅亡し當家今一統し給ひ。泰平のコ化遍く海內に行はるゝよし。つばらに語り聞せしゆへ。そが國王はじめて心とけて承服し。まづわが國の樣伺見んとて。慶長十年僧松雲孫武ケといふ者二人を渡海せしめ。伏見にて謁見す。本多佐渡守正信。鹿苑院承兌もて。修好の事仰下され。また十年の冬かの國王へ御書をなし下さる。さきの二人歸國してこなたの樣を申けるにや。十二年かの國の使呂祐吉慶暹丁好ェの三使はじめて來聘し。江戶駿河にて參謁して國王の書翰献物を奉れり。こなたにてもおもたゞしくもてなされ。さまざま御饗應の上御返翰を授られ。三使にも引出物あまた給ひて。その勞をねぎらはれしが。使臣も御コ意の深厚なるに感じ奉ること大方ならず。是よりして信使の往來代々に絕ず。今にいたりても御代始には。必ず賀使來りて。兩國聘聞の禮を行はれて海內にしめさるゝは。全く當時の神慮もてとかう御指諭有しによる所なり。(貞享書上。殊號事略。)
琉球はその國にて傳へし所は。開國の始に天孫氏といへるが有て。數世相傳して尙氏に至るといひ。異朝にて隋の時に朱ェといふをしてかの國を責しめ。男女五百人を虜にしてかへりしといふが。ものに見えしはじめにて。その後唐宋元の代々を經て。明朝洪武の時に至り。あらためて貢使を奉り封爵を受しより。その國代々のはじめには。異朝の册封使を迎ふる事となりぬ。我國にてはその上保元の後。鎭西八カ爲朝を伊豆の大島へ配流せられしに。爲朝勇武をふるひ近き島々を畏服し。遂にかの國に押渡りその國人どもを切靡かす。其頃はかの天孫氏の末旣に衰しかば。國中みな爲朝に降服す。爲朝その王族の女をめとりて子をうむ。これ今の始祖とする舜天と聞えしは。全く爲朝の子なり。これより世々尙氏とす。はるかとし經て後。足利殿の代となり。永享の頃普光院將軍。(義教。)その弟大覺寺の義昭僧正を討むとせられしに。義昭しのびて國々を逃隱れ。からうじて薩摩がたまでたどり行しが。この由京に聞え。將軍家よりその時の島津薩摩守忠國に。僧正を討て出すべきよし仰下されしかば。忠國家人に命じ。日向の櫛間といふ所に隱れ居しを討て。その首京に進らせしかば。この勸賞として琉球國を。忠國に賜るよしの御教書をなし下されぬ。是ぞ島津が家にて琉球を進退するの濫觴なり。豐臣太閤の時に至り琉球より使臣を進らせて。天下一統せしを賀し。かつ年ごとに薩摩と互市の事をはじめしが。幾程もなく明國より互市を禁ぜしかば。是より薩摩と通信を行し事。およそ十餘年に及べり。然るに當家の御代となりても。なを一の賀使をも進らせざれば。修理大夫義久より比由申遣せしに。有無の答にも及ばず。かくては人數を差むけ。かれが不廷の罪を正すべしとの御ゆるしを蒙り。慶長十四年三月義久家人八千ばかりを兵艦に取のせ。彼國に押渡し。大島コ島などいふ島々を切とり。那覇といふ所に着岸し。數日の戰に打勝て遂に王城に攻入しかば。彼國人敵すること能はず。中山王尙寧はじめ三司官みな降參す。その五月義久より注進に及び。やがて尙寧をめしつれ駿府江戶へ參觀すべしと聞えしか。ば御けしき斜ならず。義久が功を賞せられ。駿府より琉球國永く薩摩に附庸せらるゝ由の御書をなし下さる。十五年七月家久尙寧を引具して駿府に參謁す。君烏帽子直衣めして引見せしむ。尙寧よりそが國產さまざま捧げて。不廷のつみを謝し奉る。よて申樂せしめて家久をよび尙寧を饗せらる。その後江戶へもまいり同じ樣に謝し奉りしかば。又御饗待ありて。こたび尙寧が一旦の罪はゆるされ。琉球は元よりの領國なれば。他人をして國勢を執行しむべきに非ず。尙寧はやく歸國して先祀を奉じ。國政を沙汰すべし。また義久には永く琉球の貢稅を納れ。監使をかの地に渡し政令を播すべし。且此度捕來りし琉人は。みなかへし遣すべしとの御沙汰なり。義久も尙寧も御仁恩の深厚なるをかしこむ事大方ならず。やがて義久尙寧を引具して歸國し。仰のまゝにはからひしかば。南海の風波重ねて起る事なく穩におさまり。是より琉球代々島津が附庸となり。こなたの御代始め。はたかれが襲封には。かならず慶賀謝恩の使を進らせ。方物を献る事となりぬ。かく朝鮮も琉球も。とりどり盛意のまゝにまつろひしたがふ事。全く御盛コの海外異域までに及ぶ所なりと。天下みな仰ぎ尊まざる者はなかりしなり。(駿府政事錄。中山傳信錄。琉球事畧。武コ編年集成。)
室町家の頃には海舶の明國へ往來するに。かならず勘合の印ありて。彼是ともに是を左驗として互市する事なりしが。天文の頃よりその事やみしかば。當今も勘合有べしと仰有て。慶長十五年の頃明舶の來りし時。本多上野介正純に仰付られ。林道春信勝にその由書翰にかゝしめ。今日本正に治平して。朝鮮は來聘し琉球は臣附し安南。交趾。占城。暹羅。呂宋。其他西洋南海の國々みな入貢す。かゝれば明國にも前規の如く。勘合もて通商せられんよし。かの福建の總督陣子貞といふ者に。來舶に付て仰遣されしが。いかなるゆへや返簡も奉らでやみにき。こはかの國邊海の地先年倭寇の爲に侵掠せられしを恐れて。書信をさへ通ぜざりしにや有けむ。されど南京商舶は年々に崎嶴に來り。交易すをことゝはなりぬ。又十六年の頃明人駿府に來謁せしとき。長谷川左兵衛藤廣に仰付られ。この後外國の船いづれの地へ來るとも。悉く長崎へ送りて查撿せしむべしと定られしなり。(駿府記。武コ編年集成。)
天主教はそのはじめ大西洋邏瑪の地に起り。漸く西蕃の國々にひろごり。明の隆慶万曆の頃に。西洋の人利碼竇といへるが有て明國に渡り。漢字をよみならひ。漢文もて蕃語を飜譯して。さまざまの邪書を編輯して世に施せしかば。心なき明人ども多くこれが爲に誑惑せられ。年を追て邪教を奉ずる者おほくなりしとか。我國にては天文の頃に當り。豐後の大友義鎭入道宗麟。鎭西の大藩にしてしかも封內豐饒なりしかば。諸蕃の商舶幅湊して互市する折から。海舶の中に邪教を奉ずる伴天連のり來り。いつしか邪教を勸め。これを信ずる者には貿易の利潤を厚くせしにより。歸依するもの多く。宗麟も深く是を信じ。府內の丹生島といふ所に一宇を建立し。元より封內にある所の寺はみな毁撒し經論を焚滅し。ひとへに邪教をのみ尊崇せしかば。鎭西はいふに及ばず中國畿內にもやゝ及べり。天正の初攝州の荒木攝津守村重。織田右府に叛きし時。村重が家長高山右近友祥かねて邪教を信ずるよし右府聞およばれ。ある伴天連をして右近に利害を說しめしに。遂に右近をして右府が味方に屬せしめしかば。右府其伴天連の功を賞せられ。江州安土の城下に道塲を開かしめ。公然として邪教を唱へしにより邪徒時を得ていよいよさかんに行はれしなり。當家草創のはじめには。軍國多事にしていまだこれらの事に及ぶ暇あらず。慶長十六年八月はじめて。將軍家より。耶蘇は夷狄の邪法なるをもて。嚴禁せらるゝよし令せられ。十七年二月駿河にて岡本大八といへる者。罪有て獄に繫れしが。有馬修理大夫晴信が陰事を訐發するにより。二人を對决せしめしに。二人共邪徒に定まりしかば。大八は死刑に行はれ。晴信は領國肥前有馬の地を收公せられ。甲斐の郡內に配せられ。重ねて自殺せしめらる。また所司代板倉伊賀守勝重は歸京して。畿內に有所の邪教の道塲を悉く毁撒すべし。長崎奉行長谷川左兵衛藤廣は長崎にゆき。其地の邪徒を查撿すべしと命ぜられ。旗下の士は五人づゝ隊をわかち。互に查撿すべしと命ぜられしかば。これにより旗下の士原主水は出奔し。榊原加兵衛は蟄居せしめ。小笠原松之丞は放逐せらる。其四月有馬晴信が子は。はじめより父の邪教を奉ずるにしたがはざればとて。新に日向縣の地四万石給はり。父が舊領有馬に下り邪徒搜索すべしと命ぜらる。又南禪寺の崇傳長老に命じ。佛法と邪法との差别を文にかかしめ。邪法を改めて佛法に歸せしめ給はんとて。遍く世に施し示され。西洋より來りし徒は。みな查撿して本國に送りかへさしむ。さきに右府に歸せし高山右近は。この頃薙髮し南坊といひて。松平筑前守利常に屬し二万石領して有しが。改宗すべき由仰下されしといへども肯はざれば。同藩の內藤飛驒守如安とゝもに。一族悉く天港に放流せらるゝにより。捕へ出すべしと利常の許に仰くださる。これよりさき伴天連耶揚子といひしが。その徒の中にひとり反忠して。邪徒はたゞ宗門を弘むるのみに非ず。國家を傾けん爲なりと訴へ出しによりこれは賞せられ。西城の下にて宅地賜りて住せしむ。(今のやよす河岸その住せし所をもて名とす。)十九年三月利常より高山內藤の一類を京へ送り。細川忠興より加々山隼人佐等の邪徒百七十人。めし取て獄に繫ぐよし。板倉伊賀守勝重より駿府へ注進せしかば。山口駿河守直友。間宮權左衛門伊治御使して上京し。高山等の巨魁は長崎へ遣はし西洋へ流し。殘黨七十餘人は奥州津輕へ謫配せしむべしと命ぜらる。又泉州堺の地は邪徒多きよし聞し召。驛書もて山口間宮の兩人にかの地をも撿覈し。かつさきに有馬直純命を蒙り。紀州より日州へ就封せんとするに。僕徒多く邪徒にしてゆく事叶はざるよし聞しめせば。堺の事はてば肥前にゆき。その黨を誅戮すべしと仰付らる。おなじ七月板倉勝重より。邪徒千人召捕て獄につなぐよし注進す。八月山口駿河守直友歸謁して。肥前の邪徒悉く誅戮し。長崎に在し道塲も悉く破却せし山言上す。九月駿府にて邪徒C安といへるもの。獄中にて門衛の者二人に邪教を勸し事露顯し。C安が十指を切額に烙印おして追放たる。十月長谷川藤廣より。高山內藤等旣に天港に流し。松浦肥前守隆信が家人もて。長崎有馬邊の邪徒家々を查撿し。その畫像を證とし信仰の者は逮捕し。さまでなき者は證狀出さしめて。佛法に改めしめしよし注進す。かく御心を勞し給ひて嚴重に制禁せられしかど。多年の惡習一時に改むる事を得ず。大猷院殿御代に至り。島原の賊徒またこれをもて愚民を欺惑し。騷亂を引出せしかど。それよりいよいよ制令をおごそかにせられ。查驗至らぬ隈なかりしにより。遂にその根株をつくし枝葉をかりて。永く邪教の害を除れしなり。(駿府政事錄。大友記。武コ編年集成。)
此卷は御政事にあづかりし筋のことをしるす。 
卷廿二 

 

君御若年の程より軍陣の間に人と成せ給ひ。櫛風沐雨の勞をかさね。大小の戰ひ幾度といふ事を知らざれば。讀書講文の暇などおはしますべきにあらず。またく馬上をもて天下を得給ひし事。もとより生知神聖の御性質なれば。馬上をもて治むべからざるの道理を。とくより御會得ましまして。常に聖賢の道を御尊信ありて。おほよそ天下國家を治め。人の人たる道を行はんとならば。此外に道あるべからずと英斷有て。御治世のはじめよりしばしば文道の御世話共ありけるゆへ。其比世上にて好文の主にて。文雅風流の筋にふけらせ給ふ樣に思ひあやまりしも少からず。すでに島津義久入道龍伯などもわざわざ詩歌の會を催し。大駕を迎へ奉りし事有しが。實はさるえうなき浮華の事は御好更にましまさず。常に四子の書。史記。漢書。貞觀政要等をくり返し返し侍講せしめられ。また六韜三畧。和書にては延喜式。東鑑。建武式目などをいつも御覽ぜられ。藤原惺窩林道春信勝等はいふまでもなし。南禪寺の三長老。東福寺の哲長老。C原極搶G賢。水無P中將親留。足利學校三要。鹿苑院兌長老。天海僧正など侍座の折から。常の御物語にも文武周公の事はいふもさらなり。漢の高祖のェ仁大度。唐の太宗の虛懷納諫の事ども仰出され。さては太公望。張良。韓信。魏徵。房玄齡等が。己をすてゝ國家に忠をつくしたる言行どもを御賞譽あり。本朝の武將にては。鎌倉右大將家の事を絕ず語らせ給ひしとぞ。いづれにも章句文字の末をすてゝ。已をおさめ人を治る經國の要道に。御心ゆだねられし御事は。實に帝王の學と申奉るべき事にこそ。(卜齋記。駿府記。)
ある時の仰に。われ儒生をして經籍を讀しめて聞に。おほよそ天下の主たらんものは。四書の理に通ぜねばかなはぬ事なり。もし全部しる事かなはずば。よくよく孟子の一書を味ひ知るべきなりと仰られしとぞ。(本多忠勝聞書。)
人倫の道明かならざるより。をのづから世も亂れ國も治らずして騷亂やむ時なし。この道理をさとししらんとならば。書籍より外にはなし。書籍を刊行して世に傳へんは。仁政の第一なりと仰有て。これより諸書刊行の事を御沙汰有しなり。(武野燭談。)
藤原惺窩といへるは。名肅字斂夫とて。下冷泉宰相爲紀の子なり。播磨國細河の領邑に生れ。幼時より好學の志篤く。人となるに及び博く群書に通じ。一代の博識にして當時その右に出るものなし。抑本邦上世より。代々の博士たゞ漢唐の注疏をのみ用ひて經籍を講說し。又は詩賦文章の末技をもて專門とするやから多かりしに。惺窩に至りはじめて宋の濓洛諸儒の說を尊信し。躬行實踐をもて主とし。遍く教導せしより。世の人やうやく宋學の醇正にして。世道に益あることを知るに至れり。君にもはやうその名を聞しめし及ばれ。文祿二年江戶にめしよばれ。御前にて貞觀政要を侍講せしめて御聽聞あり。一年ばかり有て歸京す。後慶長五年かさねて伏見にて拜謁し。漢書及び呂東萊が十七史詳節をよみて御聽に入れ。御家人の徒も是に從ひて學習するものまゝあり。おなじ十九年林道春信勝。後藤庄三カ光次と共に相議して。京師に學校を刱建して。世人を教育せんことを建白せしに御ゆるし蒙り。旣にその地を撿定す。將軍家この教師には道春を仰付られん御內意なりしが。道春堅く辭し奉りて惺窩を勸めしが。その內に浪花の亂起りてやみぬ。また戶田左門氏鐵老臣等と議して。惺窩を登庸せられんとありしに。折しも惺窩病にかゝり身まかりぬ。いとおしむべき事になん。(惺窩行狀。)
慶長の比林道春信勝。二條の城にめして始て拜謁せし時。席上にC原極搶G賢はじめ。僧徒には承兌元浩などいへる。當時博識と聞えし耆宿どもあまた侍座し。御閑話ありける折から。後漢の光武帝は前漢の高祖より幾世の孫なりやと問せられしに。耆宿等さらに記臆せしものなくて。答へ奉ることを得ざりしに。道春末席より進み出て。光武は高祖九世の孫に候事後漢書の本紀に見え侍ると申す。さらば返魂香の事は何書に出たると問せ給へば。これも各答へ奉る事さだかならず。道春又返魂香の事は史漢などの正史には見えず。白氏文集李夫人の樂府。及東坡詩注に。武帝この香を焚て李夫人の魂を喚來すよし記し侍ると申す。又屈原が愛せし蘭は。いづれを申ぞとゝはせ給へば。蘭の種類さまざま多く候へ共。屈原が愛せしは。朱文公の注に澤蘭なりと見え候と申す。すべて御尋に應じて答へ奉る事響の聲に應ずるが如くなりしかば。御左右をかへりみ給ひ。年若き者のよくも博く見覺えたる事ぞとて御感淺からず。年經て駿府に御隱退の後は。道春殊さら朝夕顧問に備はり。經籍性悝の義理を講明し。和漢史傳の故事どもを御談論有て。夜ことの御伽とせらる。又は醫官と共に醫藥の事を研究し。老僧碩學と佛論を討論せしめ給ふ事もあり。又は東鑑盛衰記等を校正仰付られし事どもゝ有しなり。一年神龍院梵舜御前にまかりしに。日本紀の舒明皇極の紀をよむべきよし仰られしかど。梵舜よみ得ざりしにより。道春に命ぜられしかば。道春忽に流水のことく。いさゝかとゞこふることなくよみて御聽に備ふ。梵舜には其家學とする書をなどよみ得ざるやとゝはせ給ひしに。神代の卷には訓點ありてよみやすけれど。人皇の紀は訓點なければ。よみ解がたきよし申上しとぞ。(羅山行狀。)
一年京都にて道春諸生をあつめ。新注の論語を講說せしかば。聽衆四方より集りて門前市をなす。C原極搶G賢禁中へ奏しけるは。我朝いにしへより經書を講ずるは。勅許なくてはつかふまつらざる事なり。しかるに道春私に閭巷に講帷を下し。且漢唐の注疏に遵はず。宋儒の新說を用ゆる事。その罪かろからざるよしなれば。朝議もまちまちにして一定せず。武家の御旨をうかゞはれしに。君聞しめして。聖人の道は即ち人の學ばずしてかなはざる道なり。古注新注は各其好に應じて。博く世上に教諭すべき事なり。これをさへぎりさゝへむとするは。全く秀賢が褊狹心より猜忌するものなり。尤拙陋といふべしとの御旨なりしかば。其訴も遂に行はれずしてやみしとなり。(羅山行狀。)
下野足利の學校は。小野篁が創建より以來。千餘年の星霜をへて。年久しき舊跡なれば。上古より傳來の典籍どもあまた收貯せしが。關白秀次東奥へ下向のとき立よられしに。そのとき寮主元浩關白の意に應じ。陪從して京に參りしに。學校の古書舊物どもあまたもたらせのぼりしことを聞しめして。御けしきよからず。その後秀次太閤の旨にそむき。罪蒙りて高野山に赴かれしかば。元浩も遠く謫せられしとき。城氏月齋をして元浩を責問したまひ。古來より傳へし四幅の聖像。五經注疏をはじめ。種々の舊物をめしのぼせて。もとのごとく學校に返し附せらる。その後三要といへる僧また學寮の主宰たりしが。此僧すこぶる博學の聞え有しかば。慶長六年九月伏見に學舍をいとなまれ。緇素どもに志しある者をして。入學せしめられんとて。三要を召て教授の職に命ぜらる。三要一院を建立したるに。二百石の地をよせ給ひ。かねて都鄙寺院の訴訟をも聽聞せしめたる。又去年の冬より貞觀政要。孔子家語。武經七書等を。海內にひるくほどこされんとの盛慮にて。十万餘の活字を新に彫刻せしめ。三要に給はりて刷印せしめらる。三要がために建られしは。今の東山一乘寺村圓光寺なり。ゆへにかの十万の活字は。今もその寺に收貯し。君の靈廟をも建立して。如在の祭奠今に怠らずどぞ聞えし。三要常に御側に侍して典籍の事を奉り。恩眷を蒙り。采邑百石を賜り。關原の役には白絹に朱の丸をゑがき。其中に御筆もて學の一字をかゝしめ。指物に給はりて供奉す。御陣中に有ても日時の旺相吉凶等を考へ奉りたり。伏見駿河へも常に陪從し。旅行の時は朱苻驛馬を下され。參謁辭見の度々恩賜の品々數ふるにいとまあらず。後に足利の學校をも御再建有て。聖廟ならびに寺院まで莊嚴舊に倍せりとぞ。慶長の比孟子注七册。孟子古注二册。續資治通鑑綱目十三冊。貞觀政要八册。六韜三畧三冊。柳文二冊。韓文正宗二冊。唐詩正聲四冊。古注蒙求一册。長恨歌一册。禪儀外文二册を御寄附有しなり。又三要が後に住せし寒松も。貞觀政要の訓點して奉りしかば。其時は金時服等をたまひその勞を賞せられしとぞ。(足利學校舊記。足利學校藏書目錄。羅山紀行。慶元記。慶長見聞書。足利學校由來。)
應仁よりこのかた百餘年騷亂打つゞき。天下の書籍ことごとく散佚せしを御歎きありて。遍く古書を購求せしめらる。この時諸家より獻りしものまた少からず。菊亭右府晴季公よりは。金澤文庫に藏せし律令を獻ぜらる。こは武州金澤に在しを。關白秀次召取て藏せられ。後に菊亭に贈られしを今又獻ぜしなり。日野前大納言輝資入道唯心は。おなじ古寫本の侍中群要抄。及故實鈔。飛鳥井中納言雅庸卿はその家の系圖。又歌道宗匠の日記。新歌仙冷泉中納言爲滿卿は大比叡歌合を獻ず。伊豆の般若院快運は續日本紀を獻ぜしに。闕卷有しかば。五山の僧徒して補寫せしめらる。金地院崇傳長老は甲州身延山に有し本朝文粹二部を取出して獻りしに。第一の卷闕たりしを。道春京師にて探得て補寫し。全備せしかば御感心有り。又相國寺艮西堂は左氏傳二十册。齊民要術十卷を奉り。圓光寺閑室が遺物として。その寺より黃氏日鈔三十册を獻じ。神龍院梵舜は武家御傳。皇代記。源氏系圖等を搜索して獻る。この梵舜といへるは元吉田家より出て。豐國大明神の奉祠なりしが。其比博識の聞えありしかば。常にめして顧問に備へられ。異書搜索の事を奉り。金銀布帛給りし事度々なり。また慶長十四年島津陸奥守家久琉球國を征伐せし時。大島コ島を攻る由注進有しかば。この島の事をその比博洽の聞えある公卿殿上人。また儒者等をめして御尋問有しかども。さだかにしる者なかりしに。九州の禪僧玄蘇といへる者より。八島の記といふ書を獻じて。さだかにしろしめしけるとぞ。(駿府記。慶長見聞錄案紙。)
慶長七年江戶城內にはじめて御文庫を創建せられ。金澤文庫に傳へし古書どもをもあまためして收貯せられ。田村安栖長頥をして。足利學校寒松をめして文庫の目錄を編聚せしめられ。その六月寒松に銀時服を賜はりたり。(慶長見聞錄。)
院の御所をはじめ。公卿の家々に傳ふる所の本邦の古記錄を。遍く新寫せしめ給はんとの盛慮にて。內々院へも聞えあげ給ひ。公卿へもその旨仰下され。五山僧徒の內にて能書の者を撰ばしめ。卯刻より酉刻まで。日每に京の南禪寺にあつまりて書寫せしめられ。林道春信勝。金地院崇傳これを惣督す。この時御寫に成し書籍は。舊事記。古事記。日本後記。續日本後記。文コ實錄。三代實錄。國史。類聚國史。律令。弘仁格。同式。貞觀格。同式。延喜格。同式。新式。類聚三代格。百練鈔。江家次第。新儀式。北山鈔。西宮鈔。令義解。政事要略。柱下類林。法曹類林。本朝月令。新撰姓氏錄。除目鈔。江談鈔。會分類聚。古語拾遺。李部王記。明月記。西宮記。山槐記。類聚三代格。釋日本紀。名法要集。神皇系圖。本朝續文粹。菅家文集等なり。これ等の書藉其比までは。家々にひめ置のみにて。世の人書名をだに記すものなかりしが。この時新寫有しにより。公武の規法もこれ等に根據し撰定せられ。後々には世上にもうつし傳へ。今の世に至りても國書をよむもの。本邦古今の治亂盛衰を考へ。制度典章の沿革せし樣を伺ひ知る便を得しは。全く當時好文の御餘澤による所なり。かしこみてもなをあまりある御事にぞ。(駿府記。)
群書治要。大藏一覽も。道春。崇傳に仰下されて。銅製の活字もて刊行せしめられ。元和元年六月竣功によて御覽に備へしが文字鮮明なりとて御稱美あり。この書三家はじめ國々へ賜り。諸家ともに闕べからざる書なれば二百餘部を刷印して。一部ごとに朱章をおして諸寺へ頒ち下されしとぞ。我邦にて書藉刊行の事。佛典などはふるくよりたまさかに雕刻せしことも有しかど。なべて群書を刊行せしめられしは。この時を創始とするにぞ。(駿府記。)
五十川了菴は。名は春昌。一には宗知といひ。又春意とあらたむ。慶長七年了菴私に太平記を梓行して。世上にひろめしこと聞しめして。御文庫の東鑑をかし給ひ雕刻せしむ。この東鑑は小田原の北條が藏本なりしを。小田原の戰ありし時。K田孝高入道如水城內に御使せし日。氏政これをねぎらひ引出物にせしを。如水より獻ぜしなり。いと罕遘の書にして。原本今なを楓山御文庫に現存せり。(了菴碑銘。鵞峯文集。)
慶長十六年九月西域より世界の圖の屏風舶來せしかば。駿府へ進らせられしに。御覽ありて。後藤庄三カ光次。長谷川左兵衛藤廣を御前にめして。萬國の事ども御尋問ありて討論せらしなり。凡そのころ異域の事は左兵衛藤廣。貨財の事は庄三カ光次。はた寺社の事は金地院崇傳奉りて。沙汰する常の事なりき。(駿府記。)
日野前大納言輝資入道唯心。舟橋式部少輔秀賢。圓光寺閑室。金地院崇傳等御談伴として每度伺公する比は。和漢古今の事跡。又は京都寺社の事ども。御ものがたり絕ずおはしけり。其比冷泉中納言爲滿卿江戶へまかり拜謁ありしかへさ。駿府へまかり見え奉りし時。御藏の定家卿自筆の歌書を見せ給ひ。歌道の御物語あり。また其後中納言その秘本なりとて。卅六人の哥を一人ごとに十首つゞゑらみ。定家卿のみづからかゝれしをもちいでゝ御覽にそなへ。爲家卿自筆の假名遣等も御覽ぜさせらる。そのころ江戶より土井大炊頭利勝御使として。定家卿眞蹟の伊勢物語を進らせらる。これは後土御門院の御物なりしを。能登の畠山義統入道へたまはり。後に三好修理大夫長慶につたへ。三好亡びて後和泉の堺の商人の藏となりしを。細川玄旨法印購求して秘藏せしが。後に下野守忠吉朝臣懇望して其藏となされ。朝臣うせられてのち。江戶の御物とはなりしなり。こは殊さら御感ありて。日野。冷泉。飛鳥井等の人々をはじめ。公武の徒にも見せしめたまふ。又山崎宗鑑が書し廿一代集。尊應准后飛鳥井榮雅兩人が奥書せし定家卿眞蹟の古今集。逍遙院。稱名院兩筆の三代集及び伊勢物語。又高野大師眞蹟の般若心經。佐理行成の眞蹟なども。同じくめづらかなるもの之とて。例の人々に見せしめたまひしと之。(駿府記。)
飛鳥井中納言雅庸卿駿府へ參りしとき。俄に源氏物語を講談すべしとのことにて。御茶室にて進講あり。後に又この卿より。源語の內にて秘說とする所三箇の大事を御相傳あり。又大坂の戰畢て後。中院中納言通勝卿を二條の御城にめし。數寄屋にて源氏物語箒木の卷を講ぜしめて御聽聞あり。侍女どもにも聞しめらる。又高野の撿挍法性院政遍といへる老僧謁見せし時。林道春信勝もて。徒然草にのする所の招魂の事を尋ね給ひしに。政遍申は。密宗にて招魂の法行ひて加持する事は侍れど。喚子鳥の鳴時に修法する事は心得ず。たゞ魂をよぶといふにより。かゝる事いひ出しならんと申ば。道春そのよし申ああげけるとぞ。(駿府記。)
慶長十六年十一月十八日御鷹狩ありて。藤澤の驛にやどらせ給ひし時。搶緕專ム譽の弟子玄惠。鎌倉莊嚴院の住僧等謁見し。御談話に侍しけるに。鎌倉右大將家このかた三代の事跡。北條九代の間の事ども御尋ありければ。詳に答へ奉り。またその寺に保曆間記といへる書を藏せり。保元より曆應にいたるまでの治亂興亡をほゞ見るにたれるものなりと聞えあげしかば。それを御覽ぜらるべしとありて。同じ十九日中原の御旅館へもちいでゝ直によましめ。鎌倉の舊事ども終夜御ものがたりおはしけるとなん。(駿府記。)
詞藝の末までもすてさせ給はず。各其業を勵まし給はんの盛意なりしかば。慶長十九年三月の比。五山の僧徒參向せしとき。かれら常に文字を嗜よしなれば。文章を試らるべしとの御事にて。林道春等是を沙汰し。論語の中より爲政以コ。譬如北辰居其所而衆星共之といへる題をたまはりしかば。やがてこの文章を作り出で御覽に備ふ。その日又席上にて。寳樹多華菓。衆生所遊樂を。頌文の題としてつゞり出し文どもを御覽ぜし時。いづれも今まさに天下靜謐して。北辰の其所にあるが如く。動きなき御代は萬々年もかぎりあるべかからずなどいへる趣なりしを御覽じ給ひ。是は十分ならざる書かたなり。北辰の動かずして萬民これをむかふがごとく。コをもて天下を治るといへるそのコは。いか樣にして身に得るものならむといふ趣をこそ。しるすべけれと仰られしとぞ。又江戶にてもこの輩に試文を作らしめ。駿府へ進覽せしめらる。そは君子コ風也。小人コ草也。草加之風則偃をもて策文の題とし。是法住法位世間相常住をもて。頌文の題とせられしとぞ。(駿府記。)
ある時伏見城にて冷泉黃門爲滿卿へ。人丸が傳たしかに聞召れたしと仰有しに。黃門こは神秘の事にて。つばらには聞え奉りがたしと申。その時道春も侍座せしが。萬葉集に四人の人丸あり。そが中に和哥の堪能なるは。柹本の人丸なりと御答申上しかば。黃門はたゞ何ともいはで有しとか。後に道春この事を友人松永貞コに語りしかば。貞コそは卒爾の事なり。人丸が事は歌道の上にて。いとおもおもしくする事にて。御邊などがからまなびの格と。おなじやうに心得まじきなりといひしとか。又古今集の內の三箇の秘事を。御たづね有しに。道春つばらに御答申せしが。後に黃門がこの秘事傳へ奉りしと。全く符合せしかば。道春が博識に感ぜられしなり。(駿府政事錄。)
慶長十七年三月駿府にて林道春信勝侍座の折ふし。中庸に。道はそれ行はるべからずといふは。いかにして行れぬぞと御尋あり。道春道の行れざるには侍らず。たゞ孔子の比の人君みな暗愚にして。行ふことの能はざるなりと申す。さらば中といふはいかにと問給へば。おほよそ中と申すは一定し難き事にて。一尺の中は一丈の中に非ず。一國の中は天下の中に非るが如く。その物その事によて。をのをの恰好の道理あるを中とは申せ。かゝれば中と申は。即ち理と申も同じ樣の事なりといふ。又中といふも權といふもみな善惡あり。殷湯王周の武王が臣をもて君を討しは。その跡あしきに似たれども。その心は善なり。古人の逆に取て順に守るといふに當れり。されば善にもなく惡にもなきを。中の至極とやいはんと宣へば。道春某が懸意は尊旨とはいと異なり。その中といふは全く善にして。いさゝか惡所のなきを中と申す。ゆへに善を善とし惡を惡として。取捨するも中なり。是非を考へ邪正を分つもまた中なり。湯武の天命に應じ人心に順ひて桀紂を伐しも。はじめより己が身の爲にせむの心なく。たゞ天下の爲に暴惡を除て。萬民を救はんの本意なれば。いさゝかも惡とは申べからず。漢の王莽。魏の曹操等が如きは。人の家國を奪ひ。己れ一身の驕奢を專らにせむとのみ思へば。これ奸賊にして湯武とは天地の違なり。又逆に取て順に守るといふは。權謀術數の徒の申所にして。聖人のいはれし權道とは。いたく違へる事なり。是等の事みな經典の上に記し侍れば。よくよく御覽ありて。邪說の爲に御疑惑おはしまさゞらむこそ肝要なれ。すべて古今聖賢の懇に教へ置し言葉は。たゞ理の一字にはすぎ侍らずと申上しかば。其說の醇正にしてかつ明晣なるを感じ給ふ。又萬書統宗といふ書を道春に見せしめ。袁天綱が十將々訣。李淳風が六寅占。及び擲錢の占掌裡の算などの事尋給ひ。又論語の一貫の章。あるは廐焚の章の不字を。否の字となしてよまばいかに。當時明國にて天下を治る道は明かなりやなど。さまざま御尋每に。道春いつもつばらに御答申上て。御感にあづかりし事度々之。(羅山行狀。)
元和元年八月御上洛のかへさ。水口の驛にとゞまらせ給ひ。折しも雨ふりいでゝ。三日ばかり御滯留ましまし。夜深るまで道春を御前にめして。論語學而の篇を講說せしめて聽せらる。御みづからも能竭其力能致其身といふ所をよましめ。能といふ字によて心付べきなり。たれも君親のために己が力をつくさぬものはなけれども。いかゞするがよきあしきと。わがこゝろもて分别取捨するをもて。肝要とすと仰ありしかば。道春も趙苞が故事を引て御答せしが。後々までこのこといひ出て。かしこさのあまりすゞろに袖をぬらしけるとなん。(丙辰紀行。)
駿府へ江戶より御使として。成P豐後守正武まかりしに。そのかへさにつけて。周禮七册。晋書五十册。戰國策三册。楚辭三册。准南子二册。家禮儀節四册。玉海八十册。陶靖節集二册。李白集十五册。陸宣公集四冊。續杜偶得十五册。樊川集四册。二程全書五十六册。朱子大全六十二册。朱子語類七十四册。(一册欠。)
大學衍義十五册。唐書衍義三册。東萊博議十册。南軒集十册。文山集十五册。紫陽文集十冊。唐音十册。文章辨體廿二册。文章正宗十三册。牧隱集六册。湖隱集八册。自警編五册。皇華集五册。理學類編二册をまいらせらる。駿府にては林道春與安法印宗哲これを沙汰し。江戶にては林永喜閑齋これを掌さどる。また慶長十九年四月本草綱目一部を江戶に送らせられし事あり。是は江戶の御收藏になきをもてなり。神さらせ給ひし後。道春兼て預り奉りし駿府の御本をいかゞせむと。土井大炊頭利勝もて江戶に伺ひしかば。將軍家われ己に天下の讓りを受し上は何をか望まむ。書籍はみな三家の方々へ分ち遣すべしと仰有て。道春さるべく配賦して。尾紀水の家臣へ引渡し。その內にて尤罕遘のものをばとり置て。後に江戶の御文庫に納めけるとぞ。又本邦の記錄は兼て三通を御寫有て。一部は內裡。一部は江戶。一部は駿府に置べしとの命ありしかば。これも駿河に在しをば。江戶の御文庫に納めたり。今楓山に寳藏せらるゝ所のもの是なり。(駿府記。丙辰紀行。)
醫藥本草の事などにも。御心よせさせたまへり。京都より施藥院宗伯まかりしに。常に御前にめして。與安法印等と物產の事ども御尋問あり。またあるとき光明朱を求められしに。いづれも下品なれば。吉田意安宗恂が父は明國へ渡海しつれば。意安父が持來りし朱を獻りしに御心にかなひ。さすが名家なり。かゝるものまでたくはへたりと御賞譽あり。この後は海舶にこれを證として購求せらる。又意安に紫雪を製してたてまつらしむ。意安和劑局方に據りて調じて獻りしかば。是も御けしきにかなひ。是より衆醫みなこの製に倣ひて作ることなり。ある時南舶より薄き石の一尺ばかりにして。側柏の如くなるを獻る。其形木賊柏葉の連りしは似たれば。めづらしと思して衆醫に問せ給へども知者なし。意安こは瑪瑙の花なるべしと御答せしが。後に本草綱目を撿點せしに。果して申所の如くにて在しとぞ。また海舶より珊瑚の枝を獻りしに。その頃はいまだ世にまれなるものなればたれも見馴ず。よてその形を圖して衆醫に名を問しめしに。いづれも御答するものなし。意安これはかならず珊瑚の枝ならんとて。出典と蜑人の海底に入てこれを採樣など。委しく書て奉りしかば。その該博なるに感じ給ひ。一枝を分ちて下されしとぞ。この意安はたゞ醫學に長ぜしのみならず。經義も藤原惺窩に從ひて學び。家學の事につきては。さまざま著述など有しものなり。(駿府記。ェ永系圖。)
建部傳內賢文といひしは。蓮院尊鎭法親王の門に入て能書の聞あり。その子の傳內昌興も父を繼て入木の道に達せしかば。慶長元年伏見にてめし出され右筆とせられ。采邑五百石賜ひ。常は近侍して筆翰の事奉り。薩摩守忠吉朝臣はじめ公達の方々へ。筆道をつたへまいらせければ。これよりして御家流と唱へしとぞ。(家譜。)
詩歌などの末枝は。元より御好もおはしまさねば。殊さらに作り出給ふべくもあらず。されど折にふれ時によりて。御詠吟ありしを。後々よりくり返し諷詠し奉ればさながら御文思の一端をしるに足れり。よてふるくより書にもしるし。口碑にも傳へしものどもをかきあつめて。御文事のすゑに附し奉ることになん。
御幼年の比三河國法藏寺におはして。御臨書ありし時。渡唐の天神の賛をあそばされしとて。今もその寺に傳へしは。
一年にたけ高くなる竹の子の千代を重ねん君か操は
天正十六年四月十五日主上(後水尾院。)豐臣大閤の聚樂邸に行幸ありしとき。君も內のおとゞにて和歌の御會に列ならせたまひ。人々とおなじく寄松祝といふ事をよませ給ひける。
みどり立松の葉ことに此君のちとせの數を契てそ見る
同じとき四月廿日によま給ひしは。
幾千世の限りあらじな我君の光りをうつす大和もろこし
文祿三年二月廿九日豐臣太閤吉野山の花見ありて。歌會催されしに。君もその席に列し給ひて。御詠出ありし五首。
はなのねがひ
待かぬる花も色香をあらはして咲や吉野の春雨の空
花をちらさぬ風
咲花をちらさしと思ふみよしのは心あるへき春の山風
瀧の上の花
花のいろ春より後も忘れめや水上遠き瀧のしら糸
神のまへのはな
としとしの花の砌の吉野山うら山しくもすめる神垣
はなのいはひ
君か世は千年の春も吉野山花にちきりは限りあらしな
駿河國阿部郡福田寺といへるは時宗にて。藤澤のC淨光寺の末寺之。一年御放鷹の折から。この寺に休らはせ給ひ。その前の山々の名を問せ給ひしに。後藤庄三カ光次御供に在て。東の方に見ゆるは八幡山C水愛宕山など申上ければ。その樣京の丸山に似たりと仰られしかば。この後光次京より丸山の寺僧養コ軒をよび下し。一寺を建立し名をも丸山と稱しぬ。その明年關原の亂により。再びこの寺に立よらせたまひし時。ながれの井といふがわき出るを御覽じて。
松高き丸山寺のなかれの井いく千代すめる秋のよの月
かくなんあそばしけるが。これより寺をも秋月山福田寺と號し。御詠筆も今に寺に寳藏するとなん。(後藤由歯錄。)
慶長二年正月御眼疾により。遠州秋葉東照山平福寺に御願書をこめられしにそへ給ひし御詠。
明らかに東を照す御ひかりちかひをわれに讓り給へや
關原の役に高野聖方惣代常住光院御陣に參謁せしとき。色紙に御筆をそめられて下されし御詠。
旅なれば雲の上なる山越て袖の下にそ月をやとせる
いつの頃にか。八幡の社に詣でゝよませ給ひけるとて傳へしは。
武士の道のまもりをたつか弓八幡の神に世を祈かな
櫻が岡といふ所にてよませ給ひけるとて。江戶小日向服部坂龍興寺に藏する所の短冊の御詠。
つひにゆく道をは唯も知なから去年の櫻にいろを待つる
御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。三河國碧海郡野畑村民高橋武右衛門が先祖に賜はりしとて所藏せしは。
天か下心にかゝる雲もなく月を手にとる十五夜のそら
人材を教育し給はんの盛慮にて。よましめたまひしとて傳へしは。
人おほし人の中にも人そなき人となせ人人となれ人
御辭世の御歌なりとて傳へし二首。
嬉しやと二度さめて一眠りうき世の夢は曉のそら
先にゆき跡に殘るもおなしことつれて行ぬを别とそおもふ
京におはしましける頃。北野の松原に渡御ありし時。誹䛛躰の御詠。
松の木はものゝ奉行にさも似たり曲らぬやうて曲り社すれ
三河にてある戰の折。本多忠勝はじめわづか七騎にて。大樹寺に入せたまひしに。敵また襲來りしかば。納所の僧祖洞といへる大力なるが。施餓鬼の布はたを竹竿に付て出しが。旗の乳木に礙はりて切けるを御覽じて。御戱に。
切むすふ太刀の下こそ地獄なれ懸れや懸れさきは極樂
とあそばし。祖洞が働にて御危難をまぬかれ給ひ。岡崎へ還御有しとなん。(寺傳。杉浦氏藏。新撰和歌現今集。和歌勳功集。松平太カ左衛門家傳。道齋聞書。前橋聞書。三州本間覺書。)
小牧の戰に粱田彌二九カといへる御家人軍忠を竭せしかば。御感狀の內に御狂詠をそへて下され。且月山の御刀を賜はる。その御書は。
はらひ切三尺五寸月山の刀。日頃その元望の由。只今萬千代申。つたへきく異國のこわうていは。ひげをきりはいにやく。我朝の源公は。次信に大夫Kを引給。次信にまさらん忠をや。いかでか義經に豈おとらむや。とくにきかではらだち候。則遣候也。
さきがけて火花をちらす武士は鬼九カとや人はいはまし(貞享書上。)
文祿三年豐臣大閤母公の三周忌辰によて高野登山あり。公卿には近衞龍山公はじめ。武家には君をはじめ奉り。あまた陪從せられ。法莚畢りて後百韻の連歌興行ありて。發句は太閤これを題せられ。紹巴が。
さらに夕は秋の凉しさ
といふ前句に附給ひしは。
露をたゝ一むらさめの名殘にて
この時大コ院にて菅神の像を畵かしめ。扇面に御詩作をあそばし。足利學校三要が和し奉りし詩も傳へたれど。何れも闕脫してよみ兼ればこゝには載奉らず。(高野大コ院記錄。)
慶長九年三月豆州熱海に湯あみ給ひしとき。御獨唫の連歌を。仙臺政宗が家臣猪苗代兼如に見せしめ給ひ。兼如が點して奉りける內の御句とて。つたへけるは。
春の夜の夢さへ浪の枕かな
曙ちかくかすむえの舟
ひとむらの雲にわかるゝ雁啼て
おなじ十九年八月十二日山名禪高を御前にめして。兩吟連歌あそばしける表八句に。
いらさらむ空にそみはや秋の月
といふ能阿彌が古句を御轉用ありて。いと御けしきよかりしとなん。(諸家感狀錄。駿府記。)
いづれの御出陣の折にか。鈴木長兵衛重次が家の前を通らせ給ひし時。重次己が園中の柿を籠にして奉りければ。御けしきうるはしくて。今戰に臨みて獻る所の柿正に熟してその色日のごとし。これ武威の赫然として。軍に勝べき瑞徵なり。又その味をもていはゞ。三河武士の剛澁の氣象あり。これ敵の首級を得べき兆。この實を奉りしは。大軍の救援を得しよりもまされり。名けてこしぶとこそいふべけれとて御戱に。
ほくひをもかきとる秋の㝡中かな
とあぞはしけるに。本多平八カ忠勝が御供にありしが。武勇あくまですぐれしのみならず。心もゆうなりしにや。
かまやり取てむかふ月影
と附奉りしかは。君をはじめ奉り。供奉の輩までみな興に入て。勇氣百倍せしとぞ。(鈴木家譜。)
此卷は御文事にあづかりし事をしるす。 
卷廿三 

 

御軍略の古今に勝れ給ひしは。今さらにとりわきて申出んもかしこし。つぎては武技の御好あつくましまして。刀鎗弓馬をはじめ鳥銃水泳のすゑずゑの技までも。みなその精蘊を極め給へり。まづ御若年の程より七旬にあまらせ給ふまで。日每にかならず御馬にめし。鳥銃は三發。御弓も的あるは卷藁をあそばし給ふ事。日課のごとくにていさゝか怠らせ給はず。その御精力のほどなみなみの者の企およぶ處に非ざりしと。紀伊亞相ョ宣卿常に御膝下におはして見聞し給ひしさまを。後に人にかたらせ給ひしとなむ。(紀君言行錄。)
二條の城にて申樂御覽ありて御入興ありし時。とみの御用ありとて板倉周防守重宗を召て。何やらん仰付らるゝ旨あり。後に重宗にうけたまはりし者ありしに。この比時節よければ。旗竿になる竹を切れとの命なりしとぞ。かゝる御遊興の內にも。しばしも御武備を忘れ給はざりし盛慮の程こそかしこけれ。(武功雜記。)
姉川の戰に奥平九八カ信昌敵二騎切て。その首實撿に備へしかば。御感の餘り。汝若年の小腕もて奇功を奏せし事よと宣へば。信昌うけたまはり。凡戰鬪の道は劔法の巧拙にありて筋力の强弱によらずと申せば。汝は誰に劔法を學びしと御尋あり。信昌奥山流を學びしと申す。さらば汝が家臣急加齋にならひしならん。我若かりし頃その流を學びしが。近頃軍務のいとまなさに久しく怠りぬ。こたび歸陣のうへは必ず彼をめして對面せんと仰らる。この急加齋といへるは。奥平貞久の四男にて孫次カ公重と稱し。甲斐の上泉伊勢守秀綱が門に入て神影流の劔法を學びその奥義を極め。三河國奥山明神の社に參籠して。夢中に秘傳の太刀をさづかり。これより奥山流と唱へけるとぞ。先にしばしば岡崎にめして御演習ありしが。この後天正十年十月信昌もてめされ。重ねて學ばしめ給ひ。御誓書をなし下され御家人に召くはへらるべしとの御書をも給ひしなり。また三河にて有馬大膳時貞といひしは。新當流の劍法に達せし由聞せられ。これもめしてその奥義を傳はらせ給ひ。江の御刀下され采地をたまはりしが。後に大膳死して嫡流絕ければ。庶孫豐前秋重をもて家繼しめ。紀伊家に附屬せられしなり。(奥平譜。貞享書上。)
神子上典膳ははじめ安房の里見が家臣たりしが。伊藤一刀齋といへる者に就て劍法を學び。すこぶる壺奥を極め。後諸國を經歷して江戶にきたりしかば。召てその術御覽ありけるが。御けしきにかなはざりしかば。おのづから門人もいつとなく離散しぬ。その頃御城下にさる修驗者あり。人を害して己が家に閉こもる。この者日頃大剛の聞え有ば。誰もおそれて近よる者なし。町奉行何がし典膳が名を聞およびて呼につかはせしに。典膳おりしもわらはやみにてたれこめてありしかども。いなむべきにあらずとて强めて出立。修驗が門前にゆきて己が名をよばゝりしかば。修驗もこれ究竟の相手とおもひ切て出て戰ひしに。典膳やゝ切なびけられ。次第に後の方へ退き。おもはず小溝の內へ踏いり。仰のけざまに倒れける所を修驗得たりとおがみ打にうちけるが。典膳は倒れながら拂ひきりにその諸腕を打落し。起上て遂に仕留たり。流石典膳なりとて譽る者もあり。または敵に切立られ蹶きし上に薄手も負。からうじて彼を仕とめしは天幸之。劍法を業とするものに似合ずとそしる者もあり。このよし君聞し召。何ほど達人なりともづまづく事も。薄手負事もなしといふべからず。劍法はたゞ當座の修業の上を評するのみなり。先に我彼が術を見し時はあまり奇異にして。妖法かまたは天狗などが慿たるかと思ひしに。こたび溝へ落入しによりて我疑念も散じ。はじめて正法の劍法なる事をしれりとて。台コ院殿へ附屬せしめて。劍術の御相手を勤め。後に神子上をあらため。外家の小野氏を冐して次カ右衛門忠明といひ。其名一時に高かりしが。今も子孫その業を傳へたり。(老士語錄。家譜。)
案ずるに忠明が召出されしは。家譜によれば關原以前なりけるを。老士語錄には駿河にて修驗者を討とめし後の事とし。大に齟齬せり。忠明上命をかうぶり武州膝折にて惡徒を誅せし事あれば。これらを誤傳せしにや。本文はしばらく江戶にてのこととせり。
疋田豐後といへる擊劍の名を得し者を召て。その秘决ども御尋ありし後。人に語らせれしは。彼はなる程名手なれども。この技の人によりているといらぬけぢめを辨へず。天下の主たるもの。または大名などは。必しも自ら手を下して人をきるにおよばず。もし敵に出逢て危急の時は。その塲をさければ。家人ら馳あつまりて敵を打べきなり。さるゆへに貴人は相手がけの事はいらぬなり。かく大躰を辨まふるをもて。第一の要とすべき之と仰けり。又台コ院殿の劍法を學ばせらるゝを聞し召。大將はみづから人を斬におよばず。危難のときさけん樣を心得らるべし。人を斬に何ぞ大將の手を勞せんやと仰られき。かゝる御心用にや。御一生の間あまたゝびの御合戰に。一度も御手づから人を切らしめられしことはなかりしと申傳へたり。(三河物語。君臣言行錄。)
關東に入らせ給ひし時。江戶に小熊何がし。渡邊何がしといふ二人の劍法を教ゆるものあり。その門流ふたつにわかれて互に相競ふ事なり。ある日台コ院殿を伴はせ給ひ。二人の術を大橋の上にて御覽あり。小熊は長袴。渡邊は赤き帷子きて。兩人ともに木太刀をせいがんに持て打合。橋の上を追つかへしつするほどに。小熊やゝ勝色になり。渡邊を橋欄におし付。そが足とつて川中へ投落せしかば。渡邊は水を多くのみ。からうじて岸に上ることを得たり。人々小熊の捷妙をほめぬものはなかりき。(聞見集。)
御放鷹のおり伏見彥大夫某が三尺五寸の大太刀に。二尺三寸の差添を十文字にさし違ひ。山路を走廻ること平地のこどし。君御覽じ。汝が剛勇比類なし。その太刀拔て見せよと宣ひしかば。彥大夫直に㧞放して二振三ふり打ふりしに。太刀風りんりんとしていとすさまじ。仰に。汝は尺の延たる刀の利を知るかとあれば。たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて。外に心得候はずと申せば。いやとよ寸の延たる刀は。鎗にあてゝ用ひんが爲なり。向後わすれまじと教へ給ひし也。(感狀記。)
伏見の城にて人々。鎗の長短によりて利不利ある事を論ぜしに。この論は數度鎗を合せたる者こそしりつらんとて。酒井作右衛門重勝を召出て御尋ありしに。重勝鎗は長きをもて利となすは。いにしへより定めしが如しと申上しかば。君理りと聞し召その論は定まりしとぞ。(ェ永系圖。)
御馬の預り諏訪部惣右衛門定吉に仰られしは。主の馬を騎試みむには心得のあるべき也。兼てその鞍がまへ手綱の捌樣を始め。すべて平常の騎樣をよくかうがへて。騎試むべしと仰られしを。大澤右京大夫基胤がうけたまはりて人に語りしとなり。この諏訪部といふは。はじめ小田原の北條に仕へ。北條亡て後御家人に召出され。兼て八條流の騎法に堪能なりしかば。仰を承り公達の方々へ騎法を指導し。その子孫代々箕裘をつぎ。そに御家人に列し御廐の别當奉る事となりしなり。(前橋聞書。家譜。)
御老年にならせられては更なり。御年若きころも馬のあゆみ兼る所々にては。必らず下りて歩行に成らせられしなり。ある時。近臣へむかはせ給ひ。我道途の險所にて馬より下るは大坪流の一傳之。惣てあやうしとおもふ前にては乘ぬものなり。さりながち乘替の馬など引する程の身分の者はいふに及ばず。たゞ壹疋の馬をたのみにするものは。成丈馬蹄をかばふがよし。乘はのるとのみ心得て。少しも馬をいたはるこゝろなく。みだりに乘あるけば遂には馬蹄を損じ。要用のときにかへりて乘事あたはざるものなり。能く心得よと教へ諭されしとなり。(駿河土產。)
君には兼て海道一二の健騎にておはしますとて。その頃世にかくれなく申傳へけり。小田原陣の折丹羽宰相長重。長谷川藤五カ秀一。堀久太カ秀政の三人。秀吉が先陣打て御金越より小田原に押よせんとて。小高き所より谷際を見下して在し折しも。こなたの御陣押なればみなうち寄て。海道一の馬のりが乘ざま見むとてたゞずみ居たり。谷河二條ながれ細き橋かけたる所に。御人數行かゝると。みな馬にて渡る事叶はず。下馬し歩行になりて越たり。君にも橋詰までおはすと。同じく馬を下り給ひ。御馬をば橋より上の方廿間ばかりの所を。口とりの舍人四五人して引すぎ。君は歩行の者に負れ給ひながら橋を過給ひぬ。かの三人の士卒どもははじめより。目を注していかゞし給ふと思ひ居たりしに。この御さまを見て。これが海道一の乘ざまかとて咲はぬ者なし。流石三將はさてさてかくまでの御功者とはおもはざりき。實に海道一の馬乘とはこの事なるべし。馬上の功者は危き事はせぬものぞとて。大に感じけるとなむ。(紀君言行錄。)
御秘愛の駿馬ありしが。或時これを試み給はんとて。重荷おはせて富士山に昇せ給ふに。すこしも疲るゝ事なければ。富士の道芝と名づけられて御愛養あり。されどこの馬强悍にして。誰もよく馭するものなし。村上三左衛門吉正といふはもと金吾秀秋に仕て後に御家人となりしが。兼て精騎の名あればめして乘しむるに。難なくのりしづめしかば。御感ありて。則この馬を吉正に預け飼しむ。吉正後にこれを御廐に返し奉りしとき。御鞍轡等を給ひその勞を賞せられけるとなん。(家譜。)
駿府にて炎暑のおりから。人々馬を阿部川にひてし時。かゝる歩渡のなる川は。まづ馬を水中に渡しいれ。むかひの岸に引上てひたすべきなり。さすれば馬も自然と川をわたしおぼえて。後日の用をなすものなりと仰られしとぞ。(前橋聞書。)
遠州市野村の富民に市野惣大夫といへるもの。天性馬をこのみ馬の鑒定に達せしと聞し召。御馬ども預けられ近江の代官たらしむ。慶長十六年拜謁せし折。御廐别當諏訪部惣右衛門定吉を召出し。ともに牧塲にて馬を養たつる樣をかたらしめて聞せ給ひ。御氣しきうるはしかりしとぞ。(駿府記。古老物語拔萃。)
吉田出雲といへるは。近江の佐々木が家にて弓法に精練の者なり。そが弟子に石戶藤左衛門といへるが師傳を得て。後に名を竹林と改め三井寺に在しを。駿河にめしよばれ旗下のものへ相傳せしめ。竹林派とて一時さかんに行はれ。追々その術に精しきものども出來し。中にも佐竹源大夫。內藤儀左衛門の兩人は殊更出藍の名を得たり。後に竹林をば尾張家へ附られ。紀藩へは佐竹。水戶へは內藤を遣はされ。このよし江戶へ仰進らせられ。かつ將軍家の御座所へは何わざにてもおのづから天下の名人があつまり來るものなれば。江戶へは别には進らせられずとなり。(駿河土產。)
M松におはしませし時。櫓の上に鶴の居しを御覽じ。これよりあはひなに程あらんと近臣に尋給へば。五六十間と申す。さらば常の小筒にてはをよぶまじ。稻富外記が製せし長筒もて參れとてとりよせ給ひ。しばらくねらひを付て放し給へば。あやまたず鶴の胴中にあたりぬ。後に近臣等その筒取てためしけるに。廿人ばかりのうちに。十分にため得しものは一人もなかりき。これにて人々はじめて。御力量のほどを測りしりけるとぞ。また慶長十六年八月淺間山に御狩ありて。鐵炮をうたせらるゝに。みな的の中心にあたりぬ。近臣等はいづれもあたる事を得ず。又鳶三羽をつゞけ打にうち給へば。二羽は地に落。一羽は足をうち切て飛去しなり。いづれも御術の精妙なるに感じ奉る。又十八年十月葛西の邊御放鷹の折。御みづから銃もて鶴一雙。鴻三羽。鴈四羽。鴨九羽うち得給ひし事もありしなり。(武コ大成記。靈岩夜話。武コ編年集成。)
見附の退口に大久保勘七カ忠正一人とつてかへし。追來る敵を鐵炮にて打むとせしに。纔か一二間の塲にて打損じけるを御覽じ。何としてうちはづせしとのたまへば。さん候。都筑藤一が弓を持て傍にありしをたのみにして。おもひの外に打損ぜしと申す。藤一は勘七が立とゞまり。鐵炮うつを力にして。おのれも立とまりしといふ。勘七が兄次右衛門忠佐側より藤一にむかひ。御邊さまで御前をつくろふに及ばず。御邊があらずば。勘七いかでひとり立とまることを得んや。先に君の弓がけをはづし給ふを見て。われもゆがけを脫せしといへば。藤一申は次右さるにてはなし。坂の下にて汝が弓がけはづせしゆへ。我も心づきて脫せしなりと。とりどりあらがふ樣を見そなはして大に咲はせ給ひ。かゝるえうなき事あげつらふに及ばず。勘七汝は見附の臺より敵に追れ來て。息のきれたるゆへに。鐵炮の中程に手をかけ。火皿の下を執て放せしならんと尋給へば。仰のごとしと申す。さればよ引息にては筒先が上り。出る息にては筒先が下るものなり。これ呼吸のおさまらざるゆへにて。汝が臆したるにあらず。この後もさらんときには。兩手もて引金の下執てうつべきなり。何ほど息あらくとも。筒先のくるはざるものなり。能々心得置べしと御教諭ありしとぞ。(三河物語。)
合戰に臨ませ給ひはじめの程は采もて指揮し給へども。戰ひ烈しきにおよんでは。御拳もて鞍の前輪をたゝかせられ。かゝれゝれと御下知あり。はてには御指のふしぶしより血ながれ出るを。戰ひ畢て後御藥附させ給ひても。いまだ痊給はざるうちに。又かくのことくなれば。後々に御指の中ぶし四つながらたこになり。御年よらせらるゝに及むでは。御指こはゞりて御屈伸もやすらかにおはせざりしとぞ。(岩淵别集。常山紀談。)
今どきの軍の指麾するもの。おほかた胡床に腰かけ采を手にし。をのれは手をも下さず。たゞ詞ばかりの下知にて軍に勝むとおもふはひが事なり。惣て一軍の將たるもの。士卒のぼんのくぼばかり見て居ては。勝るゝものにてなしと仰られき。又軍陣は勇氣を主としてきほひかゝるがよし。勝敗はその時の運次第とおもふべし。かならず勝んと期しても勝れず。あながちに期せずして勝事もあり。あまり思慮に過るはかへりて損なりと仰られし。(武功雜記。駿河土產。)
戰陣に臨むでは一番鎗二番鑓などゝ。ことごとしくいひ立ぬものなり。その樣に次第のあるものにてなし。はじまるかとおもへば。ばたばたとらちあくものなり。また戰塲にて物具落せしを。怯劣のためしにいひなせども。高名だにとげば何か苦しからん。たとへば敵の首とる時に。傍より我持鑓とられたればとて。とゞめむやうなし。又味方の退口には。敵の死首にてもとりたるが手がら之と仰られき。(駿河土產。武功雜記。)
おほよそ軍陣の間の事は。纎細の事までもしろし召たり。或時軍中にて馬に糠袋をつくるに。豆を糠に交へしはよからず。豆を煑て乾かし藁を細にきり。和らかにして付るがよし。豆ばかりざつとほしていれ。又藁をいれたるもよし。こは炎天の頃は豆をゆでゝもさまさゞれば腐れやすし。また荒糠かひし馬を强く乘ば。馬の臟腑を損ずるものなれば。藁を細に切て入よと仰られしなり。(翁物語。)
物の具のうるはしきは益なし。重きもまたおなじ。井伊兵部は力量も勝れしゆへ。常々重き物の具したれども。手負し事度々なりき。本多中務はさして重き物は着ざりしが。薄手かきし事もなし。人々おのれが力に應じ。働きよきこそよけれ。下人などは薄き鐵の笠きしがよし。時としては飯をも焚く事なるべしと仰らる。鐵笠は甲州にて下人にきせしめ。上方にはなかりしを。丹波龜山の城主小野木縫殿助重勝が。はじめて足輕より下つかたの者に着せしめしなり。故に其頃は小野木とよべりとか。(常山紀談。)
御若年より水泳をこのませられ。年ごと夏月には岡崎近邊の川に出まして常に游泳し給ひ。御家人までもこの技に達せざるものなし。公達の方々にもみな折立てこの事習はせられしなり。後々に至り大猷院殿にも。城溝にて御水泳ありし事度々なりしは。全く御祖風を受つがせられてなり。慶長十五年七月駿河のP名河に漁獵のとき。御みづから游泳し給ふよしものに見えたり。こは御年六十に九ばかりあまらせ給ふ時の事なり。御强健のさまおもひ知べし。(御年譜。聞見集。)
御軍陣の際别に御持料の御鎗とて定まれるはなし。御長刀一本に十文字の鎗一柄なり。大和大納言秀長が細金の具足三百領に。中卷せし野太刀百振進らせしかば。甲州士にその具足を着せしめ。野太刀を持しめられしとぞ。又姉川の戰ひの前日織田右府鑓一柄持出て。これは鎭西八カ爲朝が鏃なり。コ川殿には正しく源家の正統におはせば。その舊物を進らするなり。明日の戰にはかならず切勝せ給はんと言れし。これぞ今に持せらるゝ投鞘の御鑓の中身なりとぞ。(武邊雜談。落穗集。)
關原の戰ひに細川越中守忠興。たゞ一騎馬をはやめて御本陣さして馳參るに。山鳥の尾の胄に銀の天衝の指物さしたるが。その飛颺するさま。たゞ雲井はるかにまふ鶴のごとくに見へしかば。御感ありて。忠興が物數奇またたぐひなしと仰有て。かの指もの御所望にて。台コ院殿へ進らせられしとぞ。(武家閑談。)
陣羽織に白鷗を繡にし。頭を馬手の方にせしを御覽じ。これは逃鷗なり。すべて武具に付る紋がらは。弓手かゞりに附べきものなりと仰られしとぞ。(三河物語。)
御旗はそのかみ右京亮親忠主井田野合戰の時。大樹寺の開祖勢譽上人が作りて送らせし厭離穢土欣求淨土と書し。白き四半五幅の旗を。むかしよりの御佳例にて用ひらる。(これは筑紫陣の時も用ひ給ひ。また大阪夏の御陣にも。御吉例とて箱に納めて御輿の傍に持しめられしとぞ。)その後七本の白旗一幅に。長さ一丈八尺にして葵の丸を三つKく附。まねぎも白きを用ひらる。永祿六年の比牧野半右衛門康成が。金の扇のさし物御意にかなひ。御所望ありて御馬印になされ。熊毛にてへりをとりて用ひられ。御旗の葵も下の方に附し葵二つを除かしむ。其後慶長五年奥の景勝御追討の時より。御旗を無紋になされ。有紋のかたをば台コ院殿へゆづらせ給ふ。大喪の後に至り白き御旗のまねぎばかりに御紋を付られ。紫綾もて乳とせられしとなり。(武邊雜談。)
案ずるに厭欣の御旗は諸說さまざまにて。親忠君の御ときより用ひはじめたまひしといひ。またC康君御事ありし後。織田信秀が三州へ亂入せしに。大樹寺の登譽上人是を用ひて防戰し勝利を得しかば。御嘉例にも後々用ひらるゝともいひ。また大高城御退去のとき。大樹寺の鎭譽が書て奉りしといひ。あるひは一向亂の時彼門徒にまがはざらんため。淨土宗の旗はこの句を書てかゝげしともいへり。いづれにも古くより御用ひ有しなり。いま日光山の御神寳にこの御旗を藏めらるゝといへり。(舊考餘錄。)
御使番の用ゆる五の字のさし物は。小田原陣のとき服部半藏正成。K地の四半に五の字を白くそめ出せしが御目にとまり。以來御使役の指物に用ひらるべければ獻るべしとて。これより使番奉る者の內にても。殊に老功の徒に用ひしめられしなり。(貞享書上。)
浪花の役に白き御袷に茶色の御羽織をめし。編笠を戴かせられ。御草鞋を付られ。御胄は胄立に建置れ。御采は持せ給はざりしに。石川主殿頭忠總が美濃の國士丸毛三カ兵衛といふ故實心得し者のこと葉にしたがひ。竹切て獻りしを御用ありしとなり。また御旗竿の損ぜしにより。改造せんと申上れば。無用にせよ。竿になる程の竹は何地にも有べし。旗さへ見ゆればよきものなりと仰られしとぞ。(武事記談。ェ元聞書。)
刀は中砥にしたるがよし。能きるゝものなり。また夜中などひからすにもよし。又刀の柄鮫は大粒なるよりは。小粒なるを漆にぬり。柄をば樫木にてかきいれ。小き目貫打たるが定用にもよしと仰られしとなり。(三河物語。中泉老人物語。)
藤堂高虎が御談話に侍る折から仰られしは。天下の主たりとても。常々練熟せでかなはざるは騎馬と水泳なり。この二つは人して代らしむる事のならぬわざなり。またあきなひとする事二つあり。米と馬となり。米穀は天下一日もかぐべからず。馬もたゞ飼殺すべきにあらず。よく國用にあてゝ駈使すべきなり。また刀劍の審鑑もしらで叶はざるなり。常に身を離さゞるものなるに。新身古身のけぢめもしらず。金味も分らずして帶せりとても何かせん。このむね折をもて將軍へも申されよと宣ひしかば。高虎かしこまりて夜話の折申上しに。將軍家も御感ありて。この二技は御演習あり。また本阿彌をも召出て。絕ず御差料の寳刀ども數多かりし中にも。宗三左文字と名付しは。織田右府が桶挾間にて今川義元を討し時。義元がはきてありしなり。長さ貳尺六寸あり。菖蒲正宗と號せしも。野中何がしといふ微賤の者の獻りしにて二尺三寸あり。この二振は殊に御祕愛にて。替鞘をあまた作らせ置て。御身さらず帶しめしなり。關原のときは菖蒲。大坂には宗三をはかせられしとか。また三池の御刀も御重器にて。元和二年薨御の前かた。都筑久大夫景忠に命じ罪人をためさしめて。御遺言にて久能の御宮に納め置れしなり。また本庄正宗といふは。上杉謙信が家臣本庄越前守繁長が差料なりしが。繁長窮して賣物にせし時御手に入て御重愛あり。後に紀伊ョ宣卿に進せられしを。また彼家より献られ。今に御寳藏として。歷世迁移の御ときにはまづこの御刀を進らせらるゝ事にて。三種の神器うけわたさるゝごとく。いとおもたゞしき御先規になりしなり。(藤堂文書。武功雜記。坂上池院日記。武林叢話。)
三河にて牧野半右衞門康成。商人のもとより刀をうらんとて見せしを御覽に入しかば。つくづく御覺じ。こはよく切るべきものなり。買置べしと上意にて。半右衛門購求し置たり。その後御刀のためし仰付られし折から。この刀もこゝろみさすべしとの命にてこゝろみしに。果してよく切れしかば。半右衛門兼ての御審鑑露たがはず。土壇まで切入しとて感じ奉る旨聞え上しに。御けしき斜ならず。御ためし奉はりしものもかへり來て。先にためさんとせし時。半右衛門目を塞ぎ。哀れこの刀御目利のごとくきれよかしと念願せしと申上しかば。君御咲ありて。さらば其刀目眠刀と名付よと仰ありてかく名付。世々に寳藏しけり。こは保昌五カ貞吉が作なりしとか。又天正の頃御鷹野の折から。油を賣もの御路を遮り不禮のさましたれば。彼打とめよとて御佩刀を近臣西尾小左衛門吉次に授け給ひしかば。吉次直に追かけて切しに。しばしがほどはあゆみ行て。兩斷に成て倒れしかば。その御刀を油賣と名付て祕愛せられしが。後に吉次にたまはりぬ。また向井兵庫頭正綱小田原の役に。敵の大將鈴木彈次カといふ者の首取て實撿に備へしに。頥より下齒をかけて斬落せしかば。御感のあまり其刀をめして御覽じ。後にまた召れしに。故有て人に渡し置て御うけ申かねしと聞し召。二百俵をもて購求し。やがて正綱に返し下されしとぞ。(家譜。)
渡邊三カ太カといふは。元豐後の大友が家人なるが。大友の命にて入唐し。石火箭の製作をよび放し樣をならひ心得て歸國しけるが。大友亡て後は三カ太カも流落し宗覺と改名し。同國府內の城主早川主馬が方に寓居してありしを。主馬よりかの石火箭を御覽に入しかば。こは軍用にかくべからざるものなりとて。宗覺父子を召出され。度々御用を仰付られ。殊に大坂冬の役には。駿府へめし石火箭調して奉り。夏の役にも供奉し。落城の後城中にて燒し銅鐵の類を。ひとつに吹まとめて奉り。後年に至り領邑を賜はり。世々この御用奉る事となりぬ。(貞享書上。)
この卷はすべて御武備の事を記す。 
卷廿四 

 

なべてえうなき御遊戱は。このませ給はざりしが。時としては申樂を御覽じ。あるは圍碁將棋などもて。御消閑にもてあそばれし事もありしかど。ふかく御心とめられしにもあらず。たゞ鷹つかふことばかりは御天性すかせられ。御若年より御年よらせらるゝまで。いさゝかもいとまある折は。かならず出立せ給ふことなり。旣に長久手の戰ひ畢り。豐臣秀吉が許より土方下總守雄久等を使として。御上京の事を勸め進らせしに。三河の吉良の邊に狩せさせ給ひしが彼等を召出。御手に据られし鷹を指し給ひながら。われ此頃は鷹つかふをもて。明暮のたのしみとす。都方は織田殿のすゝめにて一覽せしかば。今はた見まくもおもはず。さりながら秀吉あながちに我をのぼせむとて。軍勢さしむけんには。この鷹一据もて蹴ちらさんものをと仰られしかば。雄久等大に恐れて京へ逃歸りしとか。また奥の景勝御追討の時御路すがら軍議をば後にせられ。たゞ鷹のことばかりに御心とめられしさまなれば。本多中務大輔忠勝あまりの御事なりと申せば。いやとよわがかくたはれたる樣するは。汝等をしてよき幸得させむがためなりと仰られき。また常に人に御物語ありしは。おほよそ鷹狩は遊娛の爲のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦。土風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ。風寒炎暑をもいとはず奔走するにより。をのづから病など起ることなし。その上朝とく起出れば宿食を消化して。朝飯の味も一しほ心よくおぼえ。夜中となれば終日の倦疲によて快寢するゆへ。閨房にもをのづから遠ざかるなり。これぞ第一の攝生にて。なまなまの持藥用ひたらんより。はるかにまされりとの仰なり。されば御好の深くおはしませしは。元より遊畋に耽らせたまふにもあらず。一つには御攝生のため。一つには下民の艱苦をも近く見そなはし。山野を奔駈し身躰を勞動して。兼て軍務を調練し給はんとの盛慮にて。かの晋の陶侃といへるが。甓を運びしためしおもひ出ていとかしこし。(中泉古老諸談。)
御鷹野のさきざきへは。いつも女房共召連られ。そが內にて上揩セちしは輿にのり。その餘はいづれも乘懸馬に。茜染の蒲團しきてのり。市女笠の下にふくめんして供奉する事なり。いつの頃にや例の泊狩に出立せたまはんとて。本多上野介正純諸事奉りて指令しけるが。ひそかに伺ひ奉りしは。いつも御狩塲へ女中を馬にのせて召つれらるゝ事なるが。今泰平の折から。御前ぢかく侍ふ女房共が。馬上にて顏面をあらはすも。あまり失躰なれば。この後はなべて乘輿せしめんと申す。君聞しめして。汝が申所理なり。されど人々その分の高下によりて。行所の事また異なり。小身なれば諸事手輕にするは勿論なれども。時としては鄭重にする事もあり。大身はをのづから重大なれど。また輕便にしてかなふ事もあり。これはその時宜に應じてかはるなり。一樣には心得まじきぞ。おほよそ鷹狩は。たゞ鳥獸を多くむさぼらん爲のみならず。無事の時なりとて。上下共に身を安佚に取ては。手足たゆみておのづから急遽の用に立ぬものなり。されば鹿狩鷹狩などして。上も下も身をならし。乘物をすてゝ歩立になり。山坂を凌ぎ水流をかちわたりし。さまざま勞動して身躰を堅固にするなれ。かつは家人等剛弱の樣をかうがへ見るにも便なり。家人もまた奔走駈馳するによりて。歩行達者になりて物の用に立なり。かゝれば大名の狩するは軍法調練の爲なり。但し軍中に婦人を携へざれども。狩は遊娛を兼たれば使令のたよりよからしめむ爲に。婦人を召つるゝなり。元より乘輿の者は馬にのり。騎馬の者は歩行になるならひなれば。輿にのるべき女の馬に乘て供するは相當の事なり。大身も手輕にしてすむとはかゝることぞ。汝重役をも奉はりながら。その分别がなくてはかなはぬぞとて。ねもごろに御教諭あそばせしとなん。(岩淵夜話别集。落穗集追加。)
御狩の度ごとにあらかじめ厨所を定められ。御着あれば常に燒食を召上られ。また時によりてはさきざきの民家に入せたまひ。芊など煮さしめてめし上られ。饑にあてられしとぞ。いと眞率の御事どもなりき。(ェ元聞書。)
慶長四年十一月の頃大坂におはして。世の中もやゝ靜かなれば。搏c右衛門尉長盛めして。我若年より鷹狩をもて樂とす。近年は故國を離れ當地に滯留して。何の暇もなきまゝ鷹の据樣だにわすれたり。此頃世も穩なれば郊外に出て鷹試み。少しはこゝろをも慰めむと思ふ。されど此折から鷹の一聯だになし。其もとさるべく計はんにやと仰あれば。長盛うけたまはり奉り。いと易き御事之。よきに計ひ申さんとて。太閤在世の時鷹の事司りし佐々淡路守搏c若狹守に命じ。鷹師どもよび集め。よろづむかしの如く用意し。供奉には御心易きかぎりの織田有樂。細川幽齋。有馬。金森。木の三法印。山岡道阿彌。岡江雪。前波半入。御家人には井伊兵部少輔直政。榊原式部大輔康政。酒井內記忠重。同與七カ忠利など御輿の後にしたがひ。終日狩くらしたまひ。其夜は攝州茨木に宿らせられければ。當地の代官川尻肥前守宗久御膳を奉り。明る六日に還御なり。佐々搏cへは御使もて銀時服たまひ。鷹師どもへは關東絹銀。大飼餌ざしの類は銀あるは鵞眼をこぢたてくだされしかば。いづれも盛旨をかしこみ。いつもの內府公の吝さにはひきかへたり。兎角凡慮の及ばぬことと驚歎して誦譽し奉り。御威望のそはせ給ひし事大方ならざりしとなん。(落穗集。)
慶長十七年正月三河の吉良の邊に御狩ありて。御みづからとらせられし鶴を。仙洞へ進らせられ。廣橋勸修寺の兩傳奏へもつかはさる。同月また御鷹の鶴を內に進らせ給ふ。これぞ後々御拳の鶴を京へ驛進せらるゝ恒例とはなりしなり。(駿府政事錄。)
おなじ年二月三日遠州堺川二上山にて御鹿狩あり。勢子五六千人弓銃もて駈立らる。唐犬六七十疋を放たしむ。この時銃技に名を得し者あまた召つれられしかば。猪二三十ばかり御得物あり。また天正の頃三河の吉良に狩せさせたまひし時。手負し野猪御前近くはしり來りしに。旗下の士春田半兵衛將吉馳出て組とめしかば。御けしきのあまり。これより汝が名を猪之助と改むべしと仰付らる。常に御狩にならせらるゝに。鏃をぬかせられ。又は根矢ならばあたらぬやうになさしめしとぞ。御仁心の一端うかゞひしるべし。(駿府政事錄。家譜。天野逸話。)
ある時曉ふかく狩に出立せられしが。いかなる思召にや十町ばかり成せられて俄に還御ありしに。御城門閉たれば。明よと仰けれ共。番兵どもあやしみてとみにあけず。火をともし尊顏をしかと拜してのち門開きしかば。人々無禮の所爲なりといひしが。かへりてよく其職をまもり心を用ゆるとて。衣服など給はり褒せられしとぞ。(續武家閑談。)
いづれの地かほど遠き取に御狩ありしに。折しも雪降出て供奉の輩のぬれそぼつさま御覽じ。御輿の戶を明られ。いとおかしの景色かなと宣ひて。御自らもぬれそひ行殿に着せ給ふにも。御身にかゝりし雪拂はんともし給はず。いそぎ粥煑よとて煑はじめ給ひ少しめし上られて。殘りはみな御供のものに給ひ。これたべてあたゝまれと仰ければ。いづれも御仁意のかしこさに挾\の思ひをなしけるとなむ。(天野逸話。)
一とせ駿河より江戶へわたらせ給ひ。武相の間御狩ありしに。御塲の內にもちなは張てありしを御覽じ。こは誰がせしことと御糺あれば。山常陸介忠成。內藤修理亮正成兩人が申ゆるせしゆへなりと申せば。にはかに御けしき損じ。誰なりとも我留塲にて。かゝる曲事せしめしこと奇怪なれ。將軍はしりたまはぬかと宣へば。此よし江戶に聞え。將軍家も驚せか給ひ。兩人を誅せられむと思召ども。かれ等いとけなきより。御側近くめしつかはれ。今さら誅せられんにも忍びたまはねば。駿河へ還御の後。阿茶の局もて御けしきとらせ給ひしかども。何の御答もましまさず。かくてはいかゞせんとおぼし召。本多佐渡守正信を御使につかはさる。正信駿府に參り謁見して。こたび若殿には山內藤の兩人を誅して。御怒を休められんと宣ふ。正信などもかく老年に及び。彼等がことくいさゝかの過誤にて。御誅戮に逢んもはかりがたし。此後は江戶の仕を返し奉り。こなたに參りて餘命をつながんと存るよし申せば。御心とけ給ひ。將軍には左樣まで心かけらるゝや。さらば兩人の罪ゆるさるべしと仰有て。しばし門とざして籠らしめ。其職をばゆるさしめしとぞ。(武家閑談。)
世治りて後御狩に出立せ給ふに。明日は何時に御出がよきといふを。いつも天海僧正に問しめらるゝ事なるが。和尙常に巳刻がよしと申。後に御不審に思して。刻限の吉凶も日によりてかはるべきに。御坊は例巳の刻がよしといふはいかなるゆへぞ。天海承り。さればにて候。御軍陣の時ならば。日時の吉凶方位の向背によりて時刻の遲速も侍れ。只今四海一統して何の御心配もおはしまさず。この時に乘じて鷹を臂にしたまひ。郊外に出て御遊興あるに。時刻の早ければ。供奉の輩曉深くより起出て。寒夜ならば風霜にあたり。夏なれば短夜にくるしみ。いとからくも思ひ侍れば。いつも巳刻と申上るは。御時宜を見はからひての事なりと申上しかば。君にも和尙の心用こそ。理なれと仰けるとぞ。(及聞祕錄。)
丹澤七右衛門正忠といひしは。武田が家人なりしが。關東へうつらせたまふころより當家に參り。元より鷹の事に精しければ。いつも御供にめし加へらる。ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案內よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。はたして路絕たれば咲はせ給ひながら。丹澤かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。また鳥の有無を見せにつかはされしにかへり來て見えずと申。やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹澤いかに汝には見えぬかと宣へば。先にはなかりしがたゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまたまた咎め給ふ。還御のゝち。今日は日ひとひ丹澤とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。後に其日ならせられし道路の經營の事仰出されしに。代官等いづれの地かと伺へば。先日丹澤とあらがひし所よと仰られしにて。速に分りたりしとぞ。かく御遊行の折の事も。よく御心にとめられ。誰はいつの時いづれにて酒のみし。膳給はりしなどゝおぼしいでゝ仰られし事つねづねおはしましき。(校合雜記。家譜。)
大井河の邊に萬年三左衛門重ョといへる。頗る富豪のものあり。五月ばかりの頃御狩の折。重ョが農民に命じ田代をかくさまを御覽じ。御戱に彼が馬把ことごとく取あげ鼻あかせんと宣ひ。御供に命じみなうばひとらしむ。重ョことゝもせず。又外の竹把とり出て元の如くにかゝしむ。君は小高き所におはして御覽じ興ぜさせたまひ。逸物の萬年かなと仰られ。のちに其邊の代官とせらる。(此子孫正コの頃まで代々遠州の代官たり。今は江戶に參りて子孫御家人たり。)又中泉より朝とく加茂村の邊に成せられしに。平野三カ右衛門重定といへる豪農が家の棟に。庭鳥あまた上りて鳴呌ぶ樣を御覽じ。何者なるぞと問せ給へば。平野三カ右衛門と申す。いと賑はしき躰かなと仰ありて。これも代官命ぜらる。此重定元は美濃の國の者なるが。永祿の頃當家へ參り加茂村に住せしなり。又中原の行殿預り奉りし大石重左衛門某は殊に御けしきにかなひ。御狩の折常に重左重左と召せられ。ねもごろの仰蒙る事常々有しとぞ。(中原古老物語。家譜。)
安信といへる明國の人歸化してありしをめして。唐船の事どもつばらに問聞しめ。日本の船と戰は。鷹に鶴とらする心ならでは勝事を得まじ。まづ千町程の田に鶴が多くむれ居るを。逸物の鷹千据放つとも。つかふ者拙くては捉事ならず。巧者の鷹逐ならば。あらかじめ寄を作り肉あてして。天氣の陰晴と風の向背とを見定めしうへ。鷹の氣合を考へて放てば。一据にても鶴を捉事うたがひなし。何ばかり俊鷹なりとも。己が力のみにては鶴のごとき大鳥をとる事は叶はず。唐船は鶴のごとく日本の船は鷹のごとし。日本の人何ほど剛なりとも。計策なくては唐人を制する事を得んやと仰らる。こは鷹の使ひやうもて。軍機にたとへたまひし御詞なれど。常々鷹の事に御練熟ありし程うかゞひしるべし。(君臣言行錄。)
暮春の頃御狩ありて。田野の樣を御覽じ。供奉の者へ。今年の麥は豐饒と見えたり。汝等しりたるかと宣ふ。各も心得ざるむね申。おほよそ麥穗の左の方へなびきしはあしく。右の方へ靡きしはよし。そがうへに幼きものどもの。顏色つやつやとしたるは。母の食物多くて乳のよく出るゆへなり。また去年の芊を土中に貯へ置て未だ堀いださゞるも。常糧の足しゆへなりと仰けれは。供奉の輩かゝる農事の纎細なるまで。知しめしける事よと感歎しけるとなり。(名將名言記。)
鷹匠鳥見の輩が威福をはりて。農民を騷擾せしむるよし訴出しに御咲有て。隨分威を張がよし。かれ等さへかゝれば。其上つかたの官長は猶さらの事とおぢ恐れて。異心を抱く者なし。百姓の氣まゝなるは一搔をおこす基なり。さればとて鷹匠鳥見はた代官等が。非法の擧動するを捨置ば。百姓の難儀になれば。難儀にならぬほどにして氣まゝをさせぬが。百姓共への慈悲なりと仰られき。(校合雜記。)
甲州士に淺利兵庫といひしは。鷹の療治に達せしとて召出さる。或時常に愛養せらるゝ鷹の血筋出たり。捨置ばこの鳥落なんと申により。其筋取しめられしが。後に聞しめせば。鷹の眼中に臙脂もてすぢ引置て。己が功にせしなりとぞ。其折我あまり鷹ずきゆへ。はじめて人にたばかられしと仰られき。この者生質僞詐多きものにて。甲斐の一條が孀婦を。三宅彌次兵衛正次が妻に媒介せし時に。君の迎へさせ給ふといつはりし事露顯し。當家を逃出て蒲生氏クが方にゆき。コ川殿我鷹の祕藥を相傳せよと有しをいなみしにより。誅戮せられんといふをおそれて迯來りしなど。あらぬ僞をいふ由傳へ聞しめ。大にいからせ給ひ。氏クが許に仰下され。召捕て誅せられしとぞ。(紀伊國物語。)
金森五カ八長近入道に。畿內にて鷹塲を下され。明る年謁見せしに。汝鷹塲にて鶴とりしやと尋給へば。入道鶴とる事は未だ御ゆるし蒙らねば。たゞ鴈鴨のみとり侍ると申せば。さらば鶴とらん爲にとて。鶴捉の蒼鷹一聯。黃鷹二聯を下されしかば。入道も盛慮のかしこきを謝し奉り。其後この鷹もて鶴を捉て献りしかば。御けしきうるはしかりしとぞ。(ェ永系圖。)
大阪夏の役に伊達政宗手勢引具し打てのぼり。相摸の中原にいたり鷹つかひしに。この所は御留塲にて大岡何がし守りたるが鑓提て出來り政宗にむかひ。某があづかりし所を。かく狼籍せられては。大御所へ對し奉りて申分立ず。我首取て御覽に入られ。某が緩怠にあらざるよし申されよとのゝしれば。政宗も當惑し。全く我心得ざるゆへ。斯る粗忽に及びしなり。ひらにゆるされよ。大御所の御前は。政宗よきに申上むといひて别れけるが。上京の後此よし申上て謝し奉れば。君御咲ありて。さもありなん。かれは安祥以來の舊臣にて。世々武功もありていと剛直のものなり。惣て三河の者は主命を大切にし。まもる所强きものなりと宣へば。政宗うけたまはり。御家人は末々までもよきもの多く侍りぬとて殊に感賞しけるとぞ。またある時上の御留塲と。政宗に下されし鷹塲と相隣りてありしに。政宗一日獲物少かりしかば。ひそかに御留塲に入て。鶴など狩得て興に入し折しも。君の俄にならせらるるを見て大におそれ。鷹などかくして迯たりしが。君もまた御馬を早めて。乾濠のうちに入せ給ひぬ。其後政宗まうのぼり謁せし時。先日汝が鷹塲に入て鳥とりしが。汝が來るを見てからぼりの內に隱れたりと宣へば。政宗うけたまはり。さん候か。その日は何がしもひそかに御留塲を犯せしが。君のならせられしゆへ。俄に竹林の中ににげ入ぬと申せば。いや其時汝が竹林にてわれを伺ひ見るかと思ひ。猶さらいきまきて迯たるなり。かくかたみに相しりたらば。さまでいそぐにも及ぶまじものをとて。どつと御咲あれば。伺公の面々もたまりかねて同く咲出しとぞ。(武コ編年集成。明語集。)
慶長十八年十月の頃にや。戶田浦和の邊御狩の時。今泉村といふ所へならせられしに。かこかなる菴室あり。何といふと聞せ給へば。住僧片田舍にて别に名も候はぬよし申上。折ふし庵室の軒端に。菜を十連ばかり編て。日にかけほしたるを御覽じ。さらば干菜山十連寺と號すべしと仰ありて。寺領十六石餘寄附せられしとか。御即興のいと捷妙なる。いふばかりなくおかし。(寺傳。)
駒木根何がしは御狩の事奉りて怠りなく勤れば。常に御けしきにかなひ。一年C水に御狩あらむとて。とく出立せたまはんとするに。また夜深ければ何時なりとたづね給ふ折しも。駒木根出來れば。汝は何とてかく早くは參りしと宣ふ。駒木根申は。殿この二年ばかり御暇ましまさで。鷹野にも出たまはざりしかば。定めて今日は早く出立せ給はんと存て。いそぎ參りしなり。やがて夜も明なん。とくとく出ませと申せば。御けしきよく出立せ給ふ。其折駒木根御はかせ持て。御右の方に附そひ參れば。腰物はいつも主人の左の方に持べし。急事あらんときに便よしと御教諭ありしとぞ。(紀伊國物語。)
御在世のときさばかり鷹を愛せられしをもて。元和三年四月靈柩を久能より日光へ移し奉り。はじめて御祭祀行はれし時。行列の內に鷹の造物十二据を二行に立。御生前に御手にならされし鷹二聯を。鷹師二人して据しめ。御宮の前に至る時これを放しむ。今にいたりても造物の鷹を。御祭儀に列せらるゝは。此時の例を追せられてなり。又大猷院殿ェ永十四年戶澤右京亮政盛が領邑よりとりし逸物の鷹をまいらせしが。御けしきにかなひ。年頃御狩の度ことに用ひさせ給ひしを。慶安元年四月御祭禮のとき。是を御宮の前に放たしめて在天の靈に備へ給ふ。又ェ永十九年十一月丹頂鶴をとりし鷹を。戶田久助貞吉もて日光山へ献られし事もあり。これより先十一年搶緕宸フ安國殿御造營ありし時。御殿の內の障壁にことごとく鷹を畵かしめ。御門にも鷲を縷ばめ。鷹の門と名付らる。かくとりどり世に御はしませしほどの御好嗜を追せられて。代々御孝思を盡されし御事かしこしと申もおろかなれ。(元ェ日記。羅山文集。君臣言行錄。人見私記。)
此卷は御鹿狩御鷹野等の事をしるす。 
卷廿五 

 

紀伊亞相ョ宣卿いまだ幼弱におはせしとき。川狩に召具せられ。此川馬にのせて渡らせよと。かしづきの者に仰有て。手綱持しめ口とり付そひてわたしけるに。卿幼き心にもいと危しとおぼせしさま見えければ。人々前後をかゝへて渡し進らせしを御覽じ。臆したることかな。たゞ手放して渡せと宣ひぬ。後にまたいざなはれて出ませしに。小川のある所にて。あれ飛越よと宣へば。卿先の事恥しとや思ひ給ひけん。仰のまゝに飛れしが。とび損じて水中に落入給ひしかども。兼て水底に網を敷て置しめられしゆへ。落らるゝとひとしく。近臣等引上進らせしなり。かく御幼稚の時より武邊の事もて御教育ありしは。いともかしこかりし御事と。卿の年たけてのち人に語らせたまひしとなむ。(校合雜記。)
越前黃門秀康卿ある時腫物煩はれ。久しく見えたまはざりしかば。上にもいかゞと心許なくおぼしわたり。日頃ありてやうやく癒てまうのぼられしかば。待遠におぼし召さまざま御もてなしの設どもあり。いまだ御對面なき間に近臣を召。秀康が腫物全くいえしや。汝等見たるかと宣へば。御平愈には候へども。いまだ餘痛のおはすと見えて。御面に膏藥張せ給へりと申せば。俄に御氣しきかはり。越前の家老よべとて召出。けふは久々の對面なれは。申樂など申付つるが。おもふ旨あれば逢ざるなりと仰ければ。家老ども大に恐れそのよし卿に申す。卿もいかなる故をしらず。强ちに申請れむもいかゞと思はれ。其日はまづまかでられ。のちに度々御けしきとられしに。秀康こたびの腫物にて。面躰の見苦しといふ事は我元より聞置ぬ。さるに過し日のさまかくさんとて張藥せしとか。旣に癒たらば藥附るに及ばじ。たゞ外見をよくせんとてかくものせしは。秀康に似つかはしからぬことなり。すべて外貌を飾るは。公家か市人のすることなれ。武士は何程形が醜しとていとふに及ばず。病によりては目の拔出るも。口のゆがみ手足の指落るもさまざまなり。いさゝか耻べきにあらず。秀康我子として一方の大將をも奉はる者が。鼻の醜きを耻て張藥せしとありては。人々の聞思はむ處もいかゞなり。さらでだに上の好む所は。下是を學ぶならひなれば。秀康が此さまを其家人ども見ならひて。一藩みな虛飾の風をなさば。いといとひが事なり。かゝる故もて先日は對面給はらぬなり。よくよく申聞よと諭されしかば。卿もはじめて心付給ひ。盛諭のかしこきを感ぜられ。さまざま謝し申されしによて。御心とけて重ねて許謁ありし日は。ことさらの御饗待にて。引出物などもあまた賜はりしとぞ。(君臣言行錄。)
金森長近入道が。領所より鮭をわらづとにして献りしを。其子出雲守重ョあまり失儀なりと思ひ。竹簀もてつゝみかへて献りぬ。これを御覽じ重ョに。汝が父の許よりかゝる樣にておこせしかと宣へば。重ョわらづとにせしが。あまりに見ぐるしければつゝみかへたりと申す。さこそあらめ。汝が父の入道などは。さるえうなき形作るものにてなし。すべてこれのみならず。親のせし事はもどらぬものぞ。よくよく心得べしとさとさしめ給ひしとなん。(野翁物語。)
いつの頃にや。申樂ありて諸大名に拜覽命ぜられ。其家人までも見る事をゆるされ。芝居に並ゐて見いたりつるに。笠用ひよと命あれど。かうぶらざるものあり。こは上杉景勝が家人ならむとて尋られしかば。はたして上杉が手のものなり。よて殊さらの仰にて用ひしめしとか。その折三人片輪の狂言ある定なりしが。伊達政宗拜覽の列にありしかば。これを停められしなり。政宗一眼しゐしをもて咲止におぼしめされてなるべし。また政宗に御手前の茶下されし時。釜の葢いたく熱せしを。知しめさでとらせられしに。ゆげかゝりしかば思はずに御手を引せられしを見て。政宗ふと咲ひ出ぬ。やがて又釜の葢のいよいよ熱せしを御手にとらしめ。しばらく持しめて。陸奥釜のゆげなどに。手を引事にてなしと仰けるとかや。(ェ元聞書。永日記。)
常に燒火を好ませられしをもて。皆川山城守廣照より。京のK木のごとくに。榎の木をもて作りて献りければ。いと御けしきに叶ひ。後々は御好にて奉る事なり。さるをうけたまはり傳へて。佐竹右京大夫義宣より。皆川が奉りしよりは一きは見事につくり立て。料理鍋をさへ添て獻りければ。思ひの外に御けしきあしく。御次に捨置れて後々御覽もなし。これを御好のよしを佐竹が方へひそかにいひやりし者ありと。おぼし召ての事ならんと人々いひあへり。すべて御前わたり勤るものゝ。諸大名へ內意通ずる事をば。殊に嫌はせたまひしとて。本多上野介正純が人に語りきとぞ。(古老諸談。)
豐臣太閤あるとき。東國にては本多忠勝。西國にては立花宗茂。この二人は當今無雙の勇士にて。天下の干城ともいふべしとて。二人を引合されしにより。二人懇にいひかはし常々會合せり。宗茂は忠勝が己れより年長じて。軍事にも老練すればとて。いつも忠勝に就て武邊の物語ども聞り。一日忠勝がいひしは。我等主人には年若きより。何事に附てもはきとせし事申さざる故。忠勝など常に心えなくのみおもひ渡りしが。近頃となりてはじめて思ひあたりしなり。惣て上より下を見るに。下ざまの事はよく分るものにて候へ。其分るに乘じて下々をせめつかへば。下々の者は頭の出べき樣なし。かゝれは主人には若年より。是等の所をくみはかられ。なるたけ下の者をェ容にあしらはれし事と見えたり。忠勝も折々此事をもて江戶の黃門へ語り聞せ。若年の主の警戒とする之と申せば。宗茂も思ひの外にかしこき事承はりしとて。いたく感歎しけるとなん。(明良洪範。)
ある時片田舍の物語に。小僧三か條といふ事のあるが。をのをのは聞たるかと。侍座のものへ仰られしに。いまだ承り侍らざるよし申上れば。さらば語りて聞せん。さる山寺の住僧近き邊の村人の子をたのまれ。小僧として召つかひたり。一日小僧寺を遁れ出て。父母の許に來て申やうは。兼て教へられし如く。出家の素意遂んと思ひつるに。あまりに師のからきめ見せらるゝに。たえられずしてかへりきぬといふ。父母そは何事ととへば。小僧外の事はさて置。さしあたりて堪難き事の三か條侍る之。第一は師の坊髮をそりならへといひて剃しむるに。元より手馴ぬ事なれば。剃刀の先いさゝかにても頭にさはりて血など出れば。手荒き剃樣なりとて。ことごとしく勘事にあひ。第二には味噌すれとてするに。すり樣あしゝとて朝夕うちたゝかれ。第三は厠にゆけば。何しにゆくとてせめはたる。日每にかくのごとくなれば。いかで一生堪らるべき。身命もつゞきがたしとて。泣ぬばかりにいひ立れば。父母大にいかり。さるにてにも法師に似ぬ。あまりなさけなきしかたさよといひて。いそぎかの山寺にゆき。兼てもョみ進らせし小僧の事。しかじかのよしなれば。いまはせむかたなし。父母のかたに引取て百姓にいたすべし。いとまたまはれといきまきていへば。師の坊聞て。出家といふ者は。さらでだに難行苦行を重ねゝば。得道はならぬもの之。御邊が如く。小僧の申事ばかりを信とおもひ。呼かへさむなどいはるゝ樣の淺き心にては。小僧も出家はなるまじ。寺にありて詮なし。返し申さむ。されど外々の擅越の聞處もあれば。一とほりは小僧が詞の違を申てしらせん。抑味噌のすりやうがあしゝと申は。味噌はすりこぎにてするは。いふまでもなきを。かれは子の裡もてつぶしぶしすれば。さはすまじきにと度々教へ聞ゆるにとかく用ひず。これ見たまへとて。厨下より折損ぜし子二三本とり出て見せしむ。また厠へゆくをとゞめしといふは。わぬしもしらるゝ如く。年每代官巡視の折は。いつも當寺に寄宿せらるゝにより。そが爲に客殿の邊に新に厠を作り。愚僧はじめこれに入事はせざるに。小僧一人己が領して朝夕かよへば。さなせそといへど聞入ず。又髮をそるは。僧の戒業と同樣の事にて。せでかなはざるゆへ。かねて剃ならはせんと思ひ。愚僧が頭をかしてそらしむるに。この程はをのが頭をも剃得るほどに手馴しかば。さきに愚僧が頭をそらしむれば。わざとおこたりてかくの如くになしつとて頭巾脫て見すれば。頭の內あまた切はづり。血留などいく所にもつけたり。此始末聞てかの父はじめておどろき。我子の愛に引れて師の坊が懇切をおろそかに思ひしは。近頃恥しけれとて。さまざまいひこしらへてかへりしとか。これは賤しの農家の爐談なれ共。國家の大事にもたとへつべし。おほよそ家國の主として。あまたの家人を召つかふに。此心得あるこそ第一なれ。人の詞を聞にかたよりてのみ聞ば。かく理に違ふ事あるものなりと仰られき。むかし唐太宗が。明君と暗君とのけざめはいかにと臣下にとはれしに。魏徵が。かたよりて聽は暗く。普く聞は明かなりと對へせしも。全く此教諭にひとしき事と。うかゞひしらるゝになん。(駿河土產。)
前波半入御談伴にて。四方山の物がたり聞え上しとき。ある田舍の庄屋が瞽者に平家を語らせ。一村の者に聞せんと思ひ。その旨を村中に觸しめしに。里民ども聞あやまりて。平家汁をふるまふと聞。一村うちより。こは珍事こそ出くれ。平家といふものいかゞして食んかと議す。一人いはく。何がしの老人こそ。かゝる表立しき作法は心得てあんなれ。ゆきてとひ見んとてたづねゆきしに。老人常は我事を老ぼれたりとて。かずまへ給はざれど。この事は心得てこそあれ。この汁啜らむものは。新しき椀を用意して喰ふならひなれとおしゆ。いづれもされば年のろうほどあれとて。新らしき椀を懷に入て。庄屋が許にあつまり。今に汁をすゝむるかと人々待煩ふ處に。思ひの外に瞽者一人出きて。ながながと平家をかたり。かたりさして後何を供する樣もなければ。みなのぞみをうしなひて歸りぬるとぞ。かゝ抵語の話もあるものかなと咲ひながら申せば。君には聞し召終て。俄かに宿老の人々を御前にめし。半入に。只今の話今度かれらにかたりて聞せよとありて。またおなじ物語せしうへにて。さて何事もすゑになりてはかく違ふものなれ。汝等が我命を下々へいひ傳ふるに。よく同僚と商議し。人々異議なきやうにすべし。さらずは汝等がつたへあやまると。下々の聞違ふとよりして。毫釐の事も千里の違ひに至るなり。これには心得あるべき事と御教諭有しとぞ。(古人物語。)
武州忍の城におはせしとき。伊奈備前守忠次に栗の實さづけてまかしむ。備前御前をまかでゝ。この栗めし上らんには。何程の御長壽ならんとさゝやきしが。年經て後に終に其栗實をなして供御になりしかば。備前いかにも盛慮の遠大にして。近利を求め給はざるを感じ奉り。此事につきて。むかし八九十ばかりの老人が木を植るを見て。側に居し人いつの用にか立むとあざけりしを。老人聞て汝が如くたはけたる人を。我父や祖父に持しゆへ。一生木に事を闕よといひしとか。すべてよきと思ふ事は。老てもなしをくべき之と人々に語りき。(聞見集。)
本多三彌正重は其のみ一向門徒たりしをもて。當家を立さり瀧川一益。前田利家。蒲生氏ク等に歷事す。氏クが許にありし時。ある日氏ク己が着せし胄に。銃痕の二三つあるを取出て正重に見せければ。正重見て。さてもこの人の武邊の程はしれたり。コ川殿などはかゝるいさゝかなる事。人にむきてほこらしげにいはるゝ事なし。よし領知たまはらずとも。なつかしき御方につかへ進らせんとて。慶長元年のころまた當家に立かへりしなり。(前橋聞書。家譜。)
菅沼藤藏定政はもと美濃國主土岐兵部大輔定明が遺子なりしを。定明その臣齋藤道三がために弑せられしのち三河に來り。母方叔父菅沼常陸介がもとに養はれ。十四の歲より御身近く召つかはれ。三河寺部の城責の時。御手づから鎧を着せしめ。貞宗の御刀賜ひ。先登し敵の首切て初陣の功を顯はす。あるとき定政御側にありて假寢し夢中に。定仙が事をいひ出せしが。時に定仙は甲府にあり。明の日仰に。汝外舅をおもふ事切なりと見えたり。さぞ對面せまほしくおもふらめ。いとまとらすべければ。心まかせにかしこにゆけと宣へば。定政御前をまかで朋友に語りしは。常々外舅の事を思ひしゆへ。夢中ながらも敵國にゆかんといひしは。今さら耻辱この上なし。腹切てこれまでの御恩にむくひ奉らんとて。すでに脇差に手をかけしを。朋友おしとゞめ。御前に出てそのよし申上しかば。定政をめし出され。先に仰られし事はみな一時の戱れなり。かならず心にとむる事なかれ。もとのごとくつかへ奉れと宣へば。定政かたじけなしと謝し奉り。朋友にむかひて。今日死せざるは恩命のかしこきゆへなり。後日戰塲にのぞみ。人に先だちて討死するか。または衆人にすぐれて。勇名を顯さんかとちかひしが。其後御軍陣の度ごとに。あまたゞひ武功を立しかば。いづれもその詞の空しからぬを感じ。君も御けしきのあまり。長光の御刀を賜ひけり。後次第に登庸せられ萬石に列し本氏土岐に復し。叙爵して山城守と稱せしなり。(ェ永系圖。)
牧野半右衛門康成さる高價の茶壺求め得しよし太閤聞及ばれ。半右衛門が身分として。かゝる重器を求しはいらざる事なり。罸金出せとて金一枚を上納せしめらる。君聞し召て御咲あり。後にかの家にて其壺を。科錢の壺と名付て珍藏せしとぞ。(貞享書上。)
牧野傳藏成里は十六歲にて。父の讐を討て當家を立退き。久留米侍從秀一また關白秀次につかへ。後に池田三右衛門輝政が所に寓居し。剃髮して一樂齋といふ。輝政が所領播州にありて。輝政により歸參の事をこひけるに。年月へても其沙汰なければ。ある時播州より伏見に參り。輝政にむかひ。させもが露も年ふりしなどほのめかせば。輝政いまださりぬべき折を得ず。成里は先歸國すべし。我又計はん樣もあれといひなぐさめて。其のち御夜話に侍する者に。此後折をもて。成里が事いひ出たまはれとたのみ置しが。ある夜三遠におはしませし時の御物語になりしかば。いつよりも御けしきよく御座を進められ。牧野傳藏と板倉四カ左衛門が緣故ある事にをよびければ。傳藏いまもながらへて有よし申上れば。君には何ともおぼし召ぬ御樣なれば。何れも堅唾を呑て居たり。この時輝政も御次の襖際に侍し仰を承りながら。このうへは加恩の地に引かへても。傳藏がこと執し申むとおもふ所に。江戶の者よべと宣ふにより。鵜殿兵庫重長が侍ると申せば。兵庫を江戶につかはして。こゝほどにて勇士一人ほり出したれば。進らすると申せと仰ありしかば。輝政喜びにたえず御次よりはしり出て。上意かしこきよし謝し奉れば。成里は大剛のもの之。ながらへ居て喜び思召よし仰らるれば。輝政近日召つれてまみえ奉らむと申せば。我逢までもなし。江戶につかはし將軍家にまみえしめよ。幸ひ明日は酒井忠世が井伊直政具して江戶に參れば。それと同道せよとありて。輝政御前をまかでむとするに。近藤石見守秀用が一族の何がし輝政が袖を引て。秀用が事もこの席に御ゆるしねぎたまはれといふ。輝政牧野が事だにからうじて御ゆるし蒙りぬ。いかでしらぬ秀用が進退。わが力のをよぶ所にあらずといなめば。かの者今日ほど御けしきのよき事はまたとあるまじ。ひらに御執たまはれとあれば。輝政かさねて御前へ出て申上しに。速に恩免をかうぶりければ。輝政はいふまでもなし。秀用スぶ事大方ならず。かくて成里は江戶に參り。還俗して舊名に復し。三千石の新地たまはり。のちに叙爵して伊豫守と稱しけり。(家譜。武コ編年集成。)
伏見彥大夫某いつも大太刀さし。奇偉の裝して供奉せしを見て。松平甚兵衛信直もおなじ樣の裝して出立しが。信直は御ちなみある者なれば。君御覽じて。汝は門地あるものなれば。威儀行裝も分に應じて。かるがるしきさますべからず。今日の樣は鎗持か馬の口取にひとしくていといやしく見ゆ。大將の儀容にあらず。をのれと卑賤に似するはよからぬ事なりと。おごそかに警しめ給ひけり。また武藤平三カ某といふが御放鷹の折。その頃は流行の曝元結にて髮ゆひしを御覽じ。御輿近く召。汝が髮を見せよとて。汝が祖父の掃部はあまたゝび武功も有て用立し者之。汝がやうなる髮の結樣はせざりき。祖父に似ぬたはけものかなと御しかりあり。これより旗下のものの髮のゆひやうむかしの風になり。元結を五卷より多くまかず。太き元結にていてふにゆひしとなり。(武邊雜談。感狀記。)
內藤何がしとていと猾狹の生質のものあり。いつも人の言葉を咎め。やゝもすれば鬪諍にをよぶ事度々なり。あるときめして。惣て人はさまざまの事をいふものなれば。多きうちには我こゝろにさはる事もあるべし。さるを一々心にとめて咎むるはよからぬ事なり。よくかうがへ見よ。戰にのぞみて明日は敵の內にて何がしといふ剛のものを討とらんとおもふこゝろを。汝が常に人の詞とがむる心に引かへて見たらば。えうなき詞咎めする暇は。あるまじきにと仰られしとぞ。(君臣言行錄。)
松平九カ右衛門重忠は御在世の程