東照宮御実紀 / 徳川実紀

東照宮御実紀 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10
東照宮御実紀附録 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12巻13巻14巻15巻16巻17巻18巻19巻20巻21巻22巻23巻24巻25
台徳院殿御実紀 / 巻1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12巻13巻14巻15巻16巻17巻18巻19巻20巻21巻22巻23巻24巻25巻26巻27巻28巻29巻30巻31巻32巻33巻34巻35巻36巻37巻38巻39巻40巻41巻42巻43巻44巻45巻46巻47巻48巻49巻50巻51巻52巻53巻54巻55巻56巻57巻58巻59巻60
台徳院殿御実紀附録 / 巻1巻2巻3巻4巻5
 

雑学の世界・補考   

東照宮御実紀 / 徳川実紀

世系・弘治二年から慶長十年四月まで(1556-1609) 
巻一
かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」
後に神霊をあがめて六宮権現といつぎ祭られ。旧邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と号す。経基王の御子八人。満仲。満政。満季。満實。満快。満生。満重。満頼といふ。長子満仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歴任し。春宮帯刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬権頭。蔵人頭。摂津。越前。伊予。美濃。武蔵。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上総の介に累暹し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造営し。剃髪して多田新発智満慶と称す。満仲の子六人。頼光。頼親。源賢。頼信。頼平。頼範といふ。第四の子頼信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。従四位上。伊勢。美濃。河内。甲斐。信濃。相模。下野。伊予等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬権頭。冷泉院の判官代。鎮守府将軍に補任し。内の昇殿をゆるさる。河内国壷井の通法寺にをさめ。今に祀典絶ず。頼信の子頼義。河内。伊豆。甲斐。信濃。武蔵。下野。陸奥。出羽。相模。伊予等の守。常陸上野介を歴て。左近将監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎮守府将軍になり。正四位下に叙し。内院の昇殿をゆるされしが。鎮守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勤世にいちじるし。頼義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石清水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太郎とは称せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば、東国の武者贄をとりて御家人と称するもの少からず。正四位下。左衛門尉。左馬頭。左近将監。治部兵部の少輔。武蔵。相模。陸奥。出羽。下野。河内。伊予等の守を経て鎮守府の将軍たり。弱冠のむかし父頼義にしたがひ奥に下り。九年の苦戦に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のごとし。また東奥の任にありて清原家衡。武衡をせめふせて其武威いよ/\かゞやけり。』
義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は従五位下。帯刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の別庄に幽居し。薙髪して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。李邦とて三人あり。」
長子義重に新田の庄を譲り。次子義康に足利の庄をゆずられける。新田足利の両流に分るゝ其本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて上西と号し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國浄海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸国の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫頼朝。伊豆国蛭小島より旗あげして。諸国の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故に。その招に応ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎮守府将軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義李。経義。義光。義佐といふ。』
四郎義李は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大将家入洛の時も騎馬の随兵たり。後に髪きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の郷徳川の邑に住せられしより。其子孫徳川世良田を称する事とはなりぬ。」
義李の子三人。頼氏。頼有。頼成といふ。長子頼氏。始は世良田孫四郎といふ。鎌倉将軍頼嗣并に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。従卯五位下三河守に叙任す。世良田長楽寺に寺領寄附の文書を蔵せり。頼氏の子経氏。教氏。有氏とす。(大系図には経氏を江田三郎満氏とす)」二子教氏は世良田次郎とも。又三河次郎とも称し。又徳川を称し。後に静眞と号す。(此二世三河守に任じ三河次郎と称せられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徴とすべし。豈奇遇ならずや)」
教氏の子を家時とす。世良田又次郎また孫太郎とも称し。父に先だちてうせらる。(長楽寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき)」
家時の子を満義とす。世良田弥次郎また孫四郎ともいふ。新田左中将義貞に属し。南朝に仕へて忠勤を励みしが。義貞うせられし後。一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田徳川の間に隠れ住む。後に宗満と号す。(世には此満義を太平記にのせし江田三郎光義とす。又教氏の弟三郎有氏の子江田弾正行氏を光義の事なりともいふ。何れ是なりや)」
満義の子二人。政義。義秋といふ。(大系図第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。徳川系図。新田松平譜。大成記等にのする所も前説のごとくなれば今これにしたがふ。三家考に満義の子義周。その子義時。其子政義とす。諸説と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記。大成記にその伝詳にのせず。波合記といへるものには。政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして。波合にて討死されたりと見ゆ。徳川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永徳の頃新田一門波合にて皆討死せられしに。新田義宗の子相模守義陸の討もらされ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州霊山にて旗挙ありし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ)」政義の子を修理亮親李といふ。親季の子を左京亮有親とす。」
有親の子を三郎親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の党類を捜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故郷をさすらへ出られ。(大成記に上杉禅秀が方人せられしゆへ捜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ。世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大将と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村党皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一乱より捜索厳なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の例見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に来りたまひ。称名寺御寄寓の間。これを寺内に葬られしとて。其墳今も称名寺に存す)時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大濱の称名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間に。有親はうせ給ひしかばその寺に葬り。後に松樹院殿とをくりぬ。」
又此國酒井村といへるに。五郎左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄只人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。徳太郎忠廣(又小五郎親清とも伝ふ。これ今の世の酒井が家の祖なりといふ)といふ。さて五郎左衛門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太郎左衛門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いかなる故にか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあわせて家をゆづらんとこふこと頻なり。」
親氏もとより大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆずり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその譲をうけて松平太郎左衛門となのられけるが。松平酒井両家ともに。きはめて家富財ゆたかなりしほどに。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近郷の旧家古族はいふに及ばず。少しも豪俊の聞えある者は子とし聟とし。ちなみをむすばれしほどに。近郷のものども君父のごとくしたしみなつかざるはなし。」
親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後。吾つら/\世の有様をみるに。元弘建武に皇統南北に別れてより天下一日もしづかならず。まして応仁以来長禄寛正の今にいたりて。足利将軍家政柄を失はれし後海内一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絶へ。万民塗炭のくるしみをうくる事今日より甚しきはなし。吾また清和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し。空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ。武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のごとくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち。身に叶へる勤労をいたすべしとうけがひしかば。兼て慈恵を蒙りたる近郷のもの共。招かざるに集まり来しほどに。まづ近郷に威をたくましうする者の方へ押寄せて。降参する者をば味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大略はその威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける)卒去有りて松平郷高月院に葬り。芳樹院殿と諡せり。」
親氏の子を泰親とす(一説御弟なりといふ)その跡をつぎて是も太郎左衛門と称せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ強を伐て貧を恵み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。」
その頃洞院中納言實熈といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども。応仁より後は、争乱の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠国に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし)泰親この卿の冗淪をあわれみ懇に扶助せられ。すでに帰洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感じ。帰京の後公武に請ひて。泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と称せらる。」
この時岩津岡崎に両城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平郷をゆづり。松平太郎左衛門と称す。(今三河の郷士松平太郎左衛門が祖なり)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とおくらる。信光家継て岩津岡崎の両城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよ/\其一門は國中に滋蔓し。ます/\近國近郷其威望かくれなく。國人帰降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり)二男は右京亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釈門に入りて安穏寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信家が祖)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壱岐守正朝。志摩守重成等この孫なりしが。此筋いまは絶えたり)六男八郎左衛門光英。七男弥三郎元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今図書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠候は深溝の統なり)八男次郎右衛門光親。(能見の松平といふ。次郎右衛門光福。河内守親良等の祖なり)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郎親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絶て今松平伊豆守信祝この筋とす)此外は其名つまびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す)岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。」
二男親忠その跡をつがる。子九人。太郎親長は岩津を領せられ。二男源太郎乗元(後加賀守)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乗元等の祖)三男次郎長親をもて家督とさだめらる。四男弥八郎親房。(後玄蕃助)五男は釋氏に帰し。超誉と号し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ)七男左馬助長家。(安祥と称す)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乗清。(瀧脇の松平といふ。監物乗道。丹後守信徳等が祖)」
明応二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次郎。寺部城主鈴木日向守。挙母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへるに。親忠一門家兵を引率し井田の郷に出張し。わづかに百四十余の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十余級を討とらる。この後は西三河の國人大半は帰降し。勢いかめしく聞えける。この合戦に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡鴨田といへる地に大樹寺を創建せらる。後に家を三子長親に譲り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)長親ゆづりを受て出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郎三郎信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ)三男は内膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖)四男甚太郎義春。(東條の松平といふ)五男彦四郎利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寶等が祖)長親また慈愛ふかく武勇も卓絶なりしかば。衆よくなびきしたがふ。」
この頃今川修理大夫氏親駿遠両國を領し。三河も過半はその旗下に属しけるが。近来西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれば今川を去て長親にしたがはむとする様なるを見て大に驚き。其所属北條新九郎入道早雲を将とし、萬余の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太郎親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討って出。岩津の後詰して早雲が大軍を追ひ払はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壮の齢にてかざりをおろし道閲と号し。長子信忠に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連歌をたのしみ。八十あまりの寿をたもち。曾孫廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて棹舟院殿といへり。信忠家をつがれし後。蔵人また右京と称せらる。」
子三人。長子は次郎三郎清康君。二男は蔵人信孝。(三木の松平といふ)」
三男は十郎康孝。(鵜殿の松平といふ)」 
信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やう/\そむきけるほどに。譜代の郎党にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば。信忠其機を察せられ。何事も残り多き齢ながら。僅十三になり給ふ清康に世をゆづり。頭おろし春夢と号し。大濱の称名寺に閑居ありしが。四十に一二余りしほどにて。享禄四年七月廿四日父道閲入道に先立てうせられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。」
その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」
岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」
享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかまけて。兄弟をはじめ主従悉く討死す。かくて清康君は直に吉田川の上の瀬ををし渡し。吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及ばず落ち行けば。清康君その城に入て人馬のいきを休め。一両日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戸田弾正少弼憲光大におそれ。これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒をすすめ奉る。清康君は此勢に乗じ。近辺の城々にをしよせ/\せめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次郎貞成。設楽の設楽禎三郎貞重。西郷の西郷新太郎信貞。二連木の戸田丹波守宣光。田峰野田の菅沼新八郎定則。その外山家。三方。築手。長間。西郷の輩風を望みて帰降す。享禄二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎。野呂(一に科野につくる)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。」
天文二年廣瀬の三宅。寺部の鈴木等と戦て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を追払はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ。隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して。織田信秀が弟孫三郎信光。美濃の國士数十人かたらひ清康君へ志をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。清康君もとより望所の幸なりと。一萬余の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ発向し給はむと。まづ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拝謁し。やがて信秀を清州より引出さんと。謀をめぐらし近郷を放火せらる。しかるに叔父内膳正信定もとよりはらぐろきものなりしが。いつしか志を変じ織田がたに内通し。安祥の虚をうかがひ。本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。清康君も酒井大久保などいへる旧臣等の諌にしたがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。」
その頃阿倍大蔵定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。(森山崩れ) 此者織田に内通するとの流説陣中に粉々たり。定吉大におどろき其子弥七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外の騒動す。清康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ。木戸を閉よ取外すなと指揮し給へる御声を聞て。かの弥七は父大蔵唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。清康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付けたり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者共も。たゞあきれはてたるより外の事なし。扈従に植村新六郎とて十六歳の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづし。あやまたず弥七を切ふせたり。衆人この時にいたり。かの大蔵をとらへ糾問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ冤罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の弥七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聴人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閲入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虚に乗じ。追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく帰国せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を涙に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ伝へしは此時の事なりとぞ。」
清康君はじめには昌安入道が息女(春姫と申せしなり)をむかへ。北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近郷の郷士青木筑後守貞景が女をもて北方となさる。此腹に贈大納言広忠卿生れさせ給ふ。是東照宮の御父なり。此北方は御産後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河内左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郎秀成にはかりあはせたまひ。むかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河内氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。清康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。清康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離別の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ)」
かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立帰り。其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。善徳院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。随念寺記に菅生丸山に御火葬して。其地に御塚ありしゆへ。烈祖永禄四年随念寺をその地に造営し給ふと見え。又大林寺の記には。はじめの北方春姫。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。清康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて。三所に葬りたるものなるべし)この君時に廿五歳。さしも軍謀武略世にすぐれ。かしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。」
三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚嘆して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。かの大蔵が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なく/\仰せけるは。弥七が大罪全く狂気のいたす所なれば。父大蔵が罪にあらず。大蔵は旧にかはらず忠勤をつくすべしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく。深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし。御家人をの/\かしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歳にならせたまふ。御弟二人。御妹一人あり。その一人は源次郎信康。その次は釈門に入て。後に大樹寺の住職となり成誉と号す。御妹ははじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。」
さて天文五年二月のはじめ。織田信秀は清康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虚なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田郷にをいて敵をむかへて決戦し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林。植村。高力などいへる究竟のともがら四十人余戦没す。」かの内膳信定は清康君の御時より叛心をいだき。織田方へ内通しけるが。清康御事ありし後。また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なく。今は信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましき振舞多きを見て。かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戸城主東條右兵衛督持廣は清康君の御妹聟なれば。定吉幼主を持廣にたのみ。しばし神戸にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたわり。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。二郎三郎廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病没し。其子上野介義安は父の志を背き織田方に内通し。廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろき。また廣忠卿をともなひ神戸を逃出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り。その身駿河に行て。今川治部大輔義元をたのみ。廣忠卿御帰国の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郎兵衛忠次も。兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父蔵人信孝。十郎康孝。その外林。大原。成瀬。八國。大久保党等これに応じ。若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は廣忠卿を帰國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓。をのが旗下に属せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。廣忠卿に陪従せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に属にたる東條の城主吉良左兵衛佐義郷を攻しめ義郷も討死す。信定これを聞おどろき。若君を國に入しめじと様々心がまへせしかど。譜第の御家人一致して。天文六年五月朔日終に廣忠卿を岡崎に迎へ奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感状今林肥後守忠英が家に存せり)信定も今は力をよばず。又老父入道にたよりて廣忠卿へ降参し。いく程なく病没せり。この後岡崎には蔵人信孝。十郎三郎康孝両叔父を後見とし。大蔵定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。」
清康君後の北方(華陽院殿御事なり)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(伝通院御事なり)。定吉はじめ酒井。石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無疆の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞまし/\ける。その程の奇瑞さま/\世につたふる所多し。(北方鳳来寺峰の薬師に御祈願ありて。七日満願の夜薬師十二神将の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御縁起にも記されしこと多し)石川安芸守清兼蝦蟇目をなし。酒井雅楽助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。」
こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き。織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に内通する信元が縁に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歳なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば。金田。阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り来りたりと聞ば。定めて憤りて一々切り捨らるゝか。又は髪を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ縁盡て兄のもとにかへさるゝとも。竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては。後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし。御暇は申けれど。猶心ならねば。片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混甲二三十人出来たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ帰りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姉君は形原の紀伊守家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が縁につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り帰したりしに。信元大に怒りて。送りのもの一人も残さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名将の母君ほどまし/\て。いみじき御思慮かなと。世にも聞伝へて感歎せぬはなかりけり。」
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人。女君三人あはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出て人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多劫姫と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一郎忠吉にあはせ給ひ。其後また保科弾正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に。正光に降嫁ありし烈祖の御妹は。伝通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり)その次は市場殿とて。荒川甲斐守頼持(又義虎)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姫と申。長澤の源七郎康忠に嫁したまひき。」
廣忠卿にはこの後。田原の城主戸田弾正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郎信乗が子兵庫の頭親良といへるも。實はこの卿の御子なりしともつたへたり。十四年弥生のころ御家人岩松八弥何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ逃いでたり。(隣国より頼まれて刺客となりしといふ)御かたはらの者どもおどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六郎外のかたより来ながら。おもはず八弥を伐はたす。この植村さきに清康君事ありし時は阿倍弥七を即座に伐とめ。今度また八弥をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即座に誅しける冥加の武士と。感じうらやまぬ者ぞなかりける。」このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ。是に内応する徒もすくなからず。こゝに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立せし功により。その威権肩をならぶる者なかりしかば。縦恣のふるまひ多かりしを。大蔵定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が驕逸そのまゝにすてをかれば。むかしの内膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。より/\に廣忠卿をもいさめたり。
十六年正月頃卿御病悩にわたらせ給へば。御名代として信孝が三木の領地を没入しければ。信孝帰りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を没入せられしぞ。これは定めて吾をにくしと思ふ大蔵等が讒訴のいたす處ならむとて。様々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずして。これも織田方に内応の志を抱きけり。」
此ほど道閲入道殿もうせ給へば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三郎五郎信廣をこめ置。淺理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛門忠倫。上野に酒井将監忠尚を置て椅角の勢を張れば。もとの信定が子内膳清定。山中の権兵衛等もこれに応じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に乱れてあけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人なりしが。偽て忠倫に降参し。したしみよつて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば。岡崎がたは大に悦び。織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと。用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども。衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひければ。竹千代君わづかに六歳にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七郎数正。天野三之助康景。上田萬五郎元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七郎忠正。江原孫三郎利全等すべて廿八人。雑兵五十余人。阿部甚五郎正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として。御輿に同じくのせてつかはさる。」
こゝに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り中さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光は其子五郎政直とこゝろをあわせ。御供の人々をいつはりたばかり。船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀悦び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ。我かたに降参あるべし。もし又その事かなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に対面したまひ。愚息が事は織田がたへ質子に送るにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戸田婚姻のよしみを忘れ。中途にして奪とりて尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は。霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」
今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江并に東三河の勢をさしむけ。三州小豆坂にて織田勢と合戦し。織田方終に引き返す。蔵人信孝織田方へ内通すといへども。三左衛門忠倫うたれし後は。同志のともがら衰落するを憤り。みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ。権兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し。岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戦の用意専らにすといへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。」
其中に廣忠卿には去年以来御心地例ならずまし/\しが。日にそひおもらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歳にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松応寺の旧記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび。今川へ加勢を請たまふ最中。廣忠卿逝去まし/\けるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御帰依ありし法蔵教翁和尚と内話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。能見の原に内葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり、松応寺是なりといふ)慈光院殿とをくり。又瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。大納言ををくられ大樹寺殿と号したふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬余騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を残し。その外二三の丸まで攻おとし。今川がたの総将雪斎和尚がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病没し。長子信長家継しが。もとより勇鋭の大将なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窮困すると聞て。是をすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが。安祥既に陥ると聞て引返せんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長も悦て約を定め。十一月十日三河の西野笠寺まで。竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八郎忠俊などいへる岡崎譜代のつはもの出迎へ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。」
君は天文十六年六歳にて。尾州の擒とならせられ。八歳にしてことしはじめて御帰國あれば。御家人はいふまでもなし。岡崎近郷の土民までも君の御帰國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿府より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歳まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に。廣忠卿うせ給ひ竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまり。とても独立すべきにあらず。織田方に降参せんといふもあり。又は今川は舊好の與國なれば。今川は従はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて。郡議一決せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人数をさしむけ。城を勤番させければ。岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。此説是なるに似たり)
 
東照宮御實紀卷一
かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文コ天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後にC和天皇と稱し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿。常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と號せらる。親王の御子二人おはす。經基經主といふ。經基王はC和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と稱し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊豫。但馬。美濃。武藏。下野。信濃等を歷任し。太宰大貳。左衛門權佐。式部少輔。內藏頭等を累任せられ。鎭守府の將軍に補し。正四位上に叙せらる。これぞ後の世にいふ源氏の武者のはじめなりける。後に神靈をあがめて六宮權現といつぎ祭られ。舊邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と號す。經基王の御子八人。滿仲。滿政。滿季。滿實。滿快。滿生。滿重。滿ョといふ。長子滿仲朝臣。朱雀。村上。冷泉。圓融。花山。一條の五朝に歷仕し。春宮帶刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大輔。左馬權頭。藏人頭。攝津。越前。伊豫。美濃。武藏。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上總の介に累遷し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造營し。剃髮して多田新發知滿慶と稱す。滿仲の子六人。ョ光。ョ親。源。賢ョ信。ョ平。ョ範といふ。第四の子ョ信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。從四位上。伊勢。美濃。河內。甲斐。信濃。相摸。下野。伊豫等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬權頭。冷泉院の判官代。鎭守府將軍に補任し。內の昇殿をゆるさる。河內國壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕ず。ョ信の子ョ義。河內。伊豆。甲斐。信濃。武藏。下野。陸奥。出羽。相摸。伊豫等の守。常陸上野介を歷て。左近將監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎭守府將軍になり。正四位下に叙し內院の昇殿をゆるされしが。鎭守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勳世にいちじるし。ョ義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石C水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太カとは稱せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば。東國の武者贄をとりて御家人と稱するもの少からず。正四位下。左衞門尉。左馬頭。左近將監。治部兵部の少輔。武藏。相摸。陸奥。出羽。下野。河內。伊豫等の守を經て鎭守府の將軍たり。弱冠のむかし父ョ義にしたがひ奥に下り。九年の苦戰に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のことし。また東奥の任にありてC原家衡武衡をせめふせて其武威いよいよかゞやけり。義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は從五位下。帶刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の别莊に幽居し。薙髮して荒加賀入道と稱しける。その子義重。義康。季邦とて三人あり。長子義重に新田の庄を讓り。次子義康に足利の庄をゆづられける。新田足利の兩流に分るゝは本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて新田太カとなのり。叙爵して大炊助に任じ。後入道して上西と號し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國凈海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸國の源氏蜂起するに及びて。義家朝臣の曾孫ョ朝。伊豆國蛭小島より旗あげして諸國の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故にその招に應ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎭守府將軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。義兼。義範。義季。經義。義光。義佐といふ。四カ義季は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大入道と號す。新田庄世良田のクコ川の邑に住せられしより。其子孫コ川世良田を稱する事とはなりぬ。義季の子三人。ョ氏。ョ有。ョ成といふ。長子ョ氏。始は世良田孫四カといふ。鎌倉將軍ョ嗣幷に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。從五位下三河守に叙任す。世良田長樂寺に寺領寄附の文書を藏せり。ョ氏の子經氏。教氏。有氏とす。(大系圖には經氏を江田三カ滿氏とす。)二子教氏は世良田次カとも又三河次カとも稱し。またコ川を稱し。後に靜眞と號す。(此二世三河守に任じ三河次カと稱ぜられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徵とすぺし。豈奇遇ならずや。)教氏の子を家時とす。世良田又次カまた孫太カとも稱し父に先だちてうせらる。(長樂寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき。)家時の子を滿義とす。世良田彌次カまた孫四カともいふ。新田左中將義貞に屬し。南朝に仕へて忠勤を勵みしが。義貞うせられし後一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田コ川の間に隱れ住む。後に宗滿と號す。(世には此滿義を太平記にのせし江田三カ光義とす。又教氏の弟三カ有氏の子江田彈正行氏を光義の事なりともいふ。いづれ是なりや。)滿義の子二人。政義。義秋といふ。(大系圖第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。コ川系圖。新田松平譜。大成記等にのする所も前說のことくなれば今これにしたがふ。三家考に滿義の子義周。その子義時。其子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず。)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記大成記にその傳詳にのせず。波合記といへるものには。政義南朝の尹良親王((後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり。))の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして波合にて討死されたりと見ゆ。コ川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永コの頃新田一門波合にて皆討死せられしに。
新田義宗の子相摸守義陸の討もらされ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州靈山にて旗擧ありし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑なく見ゆ。)政義の子を修理亮親季といふ。親季の子を左京亮有親とす。有親の子を三カ親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の黨類を搜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故クをさすらへ出られ。(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ搜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大將と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村黨皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一亂より搜索嚴なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に來りたまひ。稱名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて。其墳今も稱名寺に存す。)時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大Mの稱名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間に。有親はうせ給ひしかば。その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。又此國酒井村といへるに。五カ左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄唯人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。コ太カ忠廣(又小五カ親Cともつたふ。これ今の世の酒井が家の祖なり。)といふ。さて五カ左衞門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太カ左衞門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いかなるゆへにか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあはせて家をゆづらんとこふこと頻なり。親氏もとより大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆづり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその讓をうけて松平太カ左衛門となのられけるが。松平酒井兩家ともにきはめて家富財ゆたかなりし程に。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近クの舊家古族はいふに及ばず。少しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみをむすばれしほどに。近クのものども君父のことくしたしみなつかざるはなし。親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後。吾つらつら世の有樣をみるに。元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして應仁以來長祿ェ正の今にいたりて。足利將軍家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絕萬民塗炭のくるしみをうくること今日より甚しきはなし。吾またC和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のことくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち身に叶へる勤勞をいたすべしとうけがひしかば。兼て慈惠を蒙りたる近クのもの共。招かざるに集まり來しほどに。まづ近クに威をたくまじうする者の方へ押寄せて。降參する者をば味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大畧はその威望に服しける。(當家發祥その源はこの時よりと知られける。)卒去有りて松平ク高月院に葬り。芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりといふ。)その跡をつぎて是も太カ左衛門と稱せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ强を伐て貧を惠み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。その頃洞院中納言實熙といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熙三河に左遷ありしよし傳ふるといへども。應仁より後は都爭亂の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠國に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の沉淪をあはれみ懇に扶助せられ。すでに歸洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感じ。歸京の後公武に請ひて泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と稱せらる。この時岩津岡崎に兩城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはその子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平クをゆづり。松平太カ左衛門と稱す。(今三河のク士松平太カ左衛門が祖なり。)二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り。良祥院殿とをくらる。信光家繼て岩津岡崎の兩城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよいよ其一門は國中に滋蔓し。ますます近國近ク其威望かくれなく。國人歸降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり。)二男は右京亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釋門に入りて安穩寺昌龍と號す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信豪が祖。)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが。此筋今は絕えたり。)六男八カ左衛門光英。七男彌三カ元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今圖書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり。)八男次カ右衛門光親。(能見の松平といふ。次カ右衛門光福。河內守親良等の祖なり。)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七カ親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす。)此外は其名つまびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す。(岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その跡をつがる。子九人。太カ親長は岩津を領せられ。二男源次カ乘元(後加賀守。)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乘完等の祖。)三男次カ長親をもて家督と定めらる。四男彌八カ親房。(後玄蕃助。)五男は釋氏に歸し超譽と號し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ。)七男左馬助長家。(安祥と稱す。)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乘C。(瀧脇の松平といふ。監物乘道。丹後守信コ等が祖。)明應二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次カ。寺部城主鈴木日向守。擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせけるに。親忠一門家兵を引率し井田のクに出張し。わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十餘級を討とらる。この後は西三河の國人大半は歸降し勢いかめしく聞えける。この合戰に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡骸鴨田といへる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に讓り入道して西忠と號せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる。)長親ゆづりを受て出雲守と稱し安祥に住せらる。子五人。長子を次カ三カ信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ。)三男は內膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖。)四男甚太カ義春。(東條の松平といふ。)五男彥四カ利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寳等が祖。)長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば。衆よくなびきしたがふ。この頃今川修理大夫氏親駿遠兩國を領し。三河も過半はその旗下に屬しけるが。近來西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれぱ今川を去て長親にしたがはむとする樣なるを見て大に驚き。其所屬北條新九カ入道早雲を將とし一萬餘の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太カ親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討つて出。岩津の後詰して早雲が大軍を迫ひ拂はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壯の齡にてかざりをおろし道閱と號し。長子忠信に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連歌をたのしみ。八十あまりの壽をたもち。曾孫廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿といへり。信忠家をつがれし後藏人また右京と稱せらる。子三人。長子は次カ三カC康君。二男は藏人信孝。(三木の松平といふ。)三男は十カ三カ康孝。(鵜殿の松平といふ。)信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やうやうそむきけるほどに。譜代のカ黨にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば。信忠其機を察せられ。何事も殘り多き齡ながら。僅十三になり給ふC康に世をゆづり。頭おろし春夢と號し大Mの稱名寺に閑居ありしが。四十に一二餘りしほどにて享祿四年七月廿四日父道閱入道に先立てうせられしかば。これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。その太カC康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歲にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず萬にいみじくわたらせ給へば。御內外樣のともがらもこの君成長ましまさば。終に中國に旗擧し給ふぺしと末ョ母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたゝび來りて旗下に屬するやから少からず。岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。C康君十四歲にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五カ忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻拔かれ。猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもてC康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば。これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再此城本家に歸せしなり。)世には安祥の三カ殿と稱しその武威を恐れける。享祿二年五月の頃三河はみな御手に屬しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統せられんとの御志にて。牧野傳藏信成が吉田の城を乘とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかけまけて。兄弟をはじめ主從悉く討死す。かくてC康君は直に吉田川の上のPををし渡し吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば。C康君その城に入て人馬のいきを休め。一兩日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戶田彈正少弼憲光大におそれ。これも忽に降參す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒すすめ奉る。C康君は此勢に乘じ近邊の城々にをしよせよせせめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次カ貞成。設樂の設樂神三カ貞重。西クの西ク新太カ信貞。二連木の戶田丹波守宜光。田峰野田の菅沼新八カ定則。その外山家。三方。築手。長間。西郡の輩風を望みて歸降す。享祿二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎野呂(一に科野につくる。)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。天文二年廣Pの三宅寺部の鈴木等と戰て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を迫拂はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三カ信光。美濃の國士數十人かたらひC康君へ志をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。C康君もとより望所の幸なりと。一萬餘の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ發向し給はむと。まづ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拜謁し。やがて信秀をC洲より引出さんと。謀をめぐらし近クを放火せらる。しかるに叔父內膳正信定もとよりはらくろきものなりしが。いつしか志を變し織田がたに內通し。安祥の虛をうかがひ本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。C康君も酒井大久保などいへる舊臣等の諫にしだがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。その頃阿倍大藏定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。此者織田に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大におどろき其子彌七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。我もし不慮に誅を蒙るとも。汝はいかにもして世にながらへ。父が寃をすゝぐべしとなくなく庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外騷動す。C康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ。木戶を閉よ取迯すなと指揮し給へる御聲を聞て。かの彌七は父大藏唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。C康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付たり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者其も。だゞあきれはてたるより外の事なし。扈從に植村新六カとて十六歲の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切ふせたり。衆人この時にいたりかの大藏をとらへ糺問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聽人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閱入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虛に乘じ追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく歸國せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を淚に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ傳へしは此時の事なりとぞ。C康君はじめには昌安入道が息女(春姬と申せしなり。)をむかへ北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近クのク士木築後守貞景が女をもて北方となさる。此腹に贈大納言廣忠卿生れさせ給ふ。是東照宮の御父なり。此北方は御產後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河內左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七カ秀成にはかりあはせたまひむかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河內氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。C康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。C康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ。)かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立歸り。其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。善コ院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。隨念寺記に菅生丸山に御火葬して。其地に御塚ありしゆへ。烈祖永祿四年隨念寺をその地に造營し給ふと見え。又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。C康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて。三所に葬りたるものなるべし。)この君時に廿五歲。さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚歎して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。かの大藏が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なくなく仰せけるは。彌七が大罪全く狂氣のいたす所なれば。父大藏が罪にあらず。大藏は舊にかはらず忠勤をつくすぺしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし。御家人をのをのかしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歲にならせたまふ。御弟二人御妹一人あり。その一人は源次カ信康。その次は釋門に入て後に大樹寺の住職となり成譽と號す。御妹ハはじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。さて天文五年二月のはじめ。織田信秀はC康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虛なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千の人數をして三河に發向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田クにをいて敵をむかへて决戰し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林植村高力などいへる究竟のともがら四十人餘戰沒す。かの內膳信定はC康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが。C康御事ありし後また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。今は幼君の後見となり。岡崎の政務を專らにし。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なくいまは信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましきふるまひ多きを見て。かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戶城主東條右兵衛督持廣はC康君の御妹聟なれば。定吉幼主を持廣にョみしばし神戶にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたはり。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。二カ三カ廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病沒し。其子上野介義安は父の志を背き織田方に內通し。廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろきまた廣忠卿をともなひ神戶を迯出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り。その身駿河に行て今川治部大輔義元をたのみ。廣忠卿御歸國の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四カ兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父藏人信孝。十カ康孝。その外林。大原。成P。八國。大久保黨等これに應じ。若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は廣忠卿を歸國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓をのが旗下に屬せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。廣忠卿に陪從せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に屬したる東條の城主吉良左兵衛佐義クを攻しめ義クも討死す。信定これを聞おどろき。若君を國に入しめじと樣々心がまへせしかど。普第の御家人一致して天文六年五月朔日終に廣忠卿を岡崎に迎へ入奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感狀今林肥後守忠英が家に存せり。)信定も今は力をよばず又老父入道にたよりて廣忠卿へ降參しいく程なく病沒せり。この後岡崎には藏人信孝。十カ三カ康孝兩叔父を後見とし。大藏定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。C康君後の北方(華陽院殿御事なり。)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり。(傳通院殿御事なり。)定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳來寺峰の藥師に御祈願ありて。七日滿願の夜藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御緣起にも記されし事多し。)石川安藝守C兼蟇目をなし。酒井雅樂助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名參らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今川方を背き織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に內通する信元が緣に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歲なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さてその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り來りたりと聞ば。定めて憤りて一々切りて捨らるゝか。又は髮を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。左もあらんにはわらはこそ緣盡て兄のもとにかへさるゝとも。竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし御暇は申けれど。猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに。はたして刈屋より混甲二三十人出來たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ歸りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰ければ。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姊君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが。家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに。我又水野が緣につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り歸したりしに。信元大に怒りて送りのもの一人も殘さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名將の母君ほどましまして。いみじき御思慮かなと世にも聞傳へて感歎せぬはなかりけり。廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多刧姬と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一カ忠吉にあはせ給ひ。其後また保科彈正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に正光に降嫁ありし烈祖の御妹は。傳通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり。)その次は市塲殿とて荒川甲斐守ョ持(又義虎。)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姬と申。長澤の源七カ康忠に嫁したまひき。廣忠卿にはこの後田原の城主戶田彈正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三カ信乘が子兵庫の頭親良といへるも。桑谷の右京大夫忠政といへるも。內藤豐前守信成といへるも。實はこの卿の御子なりしともつたへたり。十四年彌生のころ御家人岩松八彌何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり。(隣國よりョまれて刺客となりしといふ。)御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六カ外のかたより來ながら。おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ。共にからぼりの中におちいり。終に組敷て八彌を伐はたす。この植村さきにC康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ。今度また八彌をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と。感じうらやまぬ者ぞなかりける。このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井將監忠尙等をはじめ。是に內應する徒もすくなからず。こゝに又藏人信孝は廣忠卿を翼立せし功により。その威權肩をならぶる者なかりしかば。縱恣のふるまひ多かりしを。大藏定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が矯逸そのまゝにすてをかれば。むかしの內膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。よりよりに廣忠卿をもいさめたり。十六年正月頃卿御病惱にわたらせ給へば。御名代として信孝を今川がもとへ歲首の御使に赴かしめ。其跡にて信孝が三木の領地を沒入しければ。信孝歸りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を沒入せられしぞ。これは定て吾をにくしと思ふ大藏等が讒訴のいたす處ならむとて樣々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずしてこれも織田方に內應の志を抱きけり。此ほど道閱入道殿もうせ給へば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三カ五カ信廣をこめ置。渡理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛門忠倫。上野に酒井將監忠尙を置て掎角の勢を張れば。もとの信定が子內膳C定。山中の權兵衛等もこれに應じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に亂れてあけても暮ても互の爭戰やむ時なし。この時筧平三カ重忠は岡崎の御家人なりしが僞て忠倫に降參し。したしみつよて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば。岡崎がたは大にスび織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひけれは。竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七カ數正。天野三之助康景。上田萬五カ元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七カ忠正。江原孫三カ利全等すべて廿八人。雜兵五十餘人。阿部甚五カ正宣が子コ千代(伊豫守正勝なり。)六歲なりしをあそびの友として御輿に同じくのせてつかはさる。こゝに田原の戶田彈正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光ハ其子五カ政直とこゝろをあはせ。御供の人々をいつはりたばかり船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀スび大方ならず。熱田の加藤圖書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ我かたに降參あるべし。もし又そのことかなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に對面し給ひ。愚息が事は織田がたへ質子にをくるにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戶田婚姻のよしみをわすれ。中途にして奪取て尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の舊好を變ずべからず。愚息が一命は霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめ置て。勤番きびしく付置しとぞ。今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江幷に東三河の勢をさしむけ。三州小豆坂にて織田勢と合戰し。織田方終に引き返す。藏人信孝織田方へ內通すといへども。三左衞門忠倫うたれし後は同志のともがら衰落するを憤り。みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ。權兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戰の用意專らにすといへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。其中に廣忠卿には去年以來御心地例ならずましまししが。日にそひおもらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歲にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松應寺の舊記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび今川へ加勢を請たまふ最中。廣忠卿逝去ましましけるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御歸依ありし法藏寺教翁和尙と內話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。能見の原に內葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬禮を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造營あり。松應寺是なりといふ。)慈光院殿とをくり又瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。大納言ををくられ大樹寺殿と號したまふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬餘騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を殘しその外二三の丸まで攻おとし。今川がたの總將雪齋和尙がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家繼しが。もとより勇銳の大將なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窘困すると聞て。是をすくはんため尾州を發し鳴海まで出陣せしが。安祥旣に陷ると聞て引返さんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長もスて約を定め十一月十日三河の西野笠寺まで竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八カ忠俊などいへる岡崎普代のつはもの出むかへ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。君は天文十六年六歲にて尾州の擒とならせられ。八歲にしてことしはじめて御歸國あれば。御家人はいふまでもなし岡崎近クの土民までも君の御歸國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少將宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿河より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり。御家人等をも每度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に。廣忠卿うせ給ひ竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまりとても獨立すべきにあらず。織田方に降參せんといふもあり。又は今川は舊好の與國なれば。今川に從はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人數をさし向城を勤番させければ。岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に屬したりと見ゆ。此說是なるに似たり。) 
 
巻二

 

竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義廣に作る)理髪し奉る。義元一字をまいらせ。二郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。」二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城将奥平久兵衛貞直よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井。大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らしむ。織田上総介信長これを聞。柴田修理亮勝家を将として攻させるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。君義元にむかはせ給ひ。それがし齢すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣でず。願はくは一度故郷に帰り。祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事をもいとなみ。故郷にのこせし古老の家人へも対面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。君御悦なゝめならず。いそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ。御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに。君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請へければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ。さて/\分別あつき少年かなと感じけるとぞ。」爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ。岡崎にて賦税の事を司りしが。忍び/\〃に粮米金銭を庫中にたくわへ置。こたび君御帰國ありて。譜第の人々対面し奉り。よろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覧にそなへ。今よりのち我君良士をあまた召抱へたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候なりと申ければ。君御涙を催され。その志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し。年頃諸方の交戦に我家人をかりたてゝ。譜第の家人どもこれがために討死する者多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御涙をながし。なきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも。御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま。御祖父清康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。」翌年の春にいたり駿府へかへらせたまひぬ。御名を蔵人元康とあらためたまふ。これ御祖父清康君の英武を慕はせられての事とぞ聞えける。」弘治も四年にて改元あり永禄となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歳十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸将をめされ御指導ありしは。敵この一城にかぎるねからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断べしとて。城下を放火し引とり給ふ。酒井雅楽助正親。石川安芸守清兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらんと落涙してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御旧領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ。腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣瀬。挙母。伊保等の城をせめ。石が瀬にて水野下野守信元と戦給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざるはなし。」此頃岡崎の老臣等駿府に行て。元康既に人となり帰城するからには。駿府より置れし城代其外人数をば引取給ひ。旧領かへしたまはりなむやと請けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を査検して旧領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣どももせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。」二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三郎信康君と称したまへるは是なり。」此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を強くし國をとますの謀をめぐらし。美濃。伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近辺所々に砦をまうけ兵をとめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり。直に中国へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり。軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歳にまし/\けるが。かひ/\〃しくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ。難なく小荷駄を城内へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名誉のことに申ならはしける。(大高送粮の事異説区々なり。その一説尤審なり。其ゆへは信長。寺部。挙母。廣瀬の三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津。丸根両城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津。丸根両城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へば。鷲津。丸根の両城は寺部を救はむ用意する其ひまに。
難なく軍粮を大高城へ運送したまふといふ。此説是なるがごとし)此後も義元の指揮によって寺部。梅津。廣瀬等の城々を攻給ひ。又駿府へ帰らせ給ふ。」あくれば三年義元用意既にとゝのひしかば。駿遠三の軍四万余を引具し尾州表へ発行す。君もその先隊におはし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。鵜殿にかへて君をして是を守らせ。その身は桶狭間に着陣し。陣中酒宴を催し勝ほこりたる。その夜信長暴雨に乗じ。急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城等は。義元討死と聞て取るものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歳の御時より駿府に質とせられ。他の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永禄三年五月廿三日。十七年をへて誠に御帰國ありしかば。國中士民悦ぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及び。また三浦。飯尾。岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩皆逃去ければ。難なく御帰城ありしとなり)」君の御母北方は岡崎より刈屋へ帰らせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひしが。君は三の御年別れ給ひし後は御対面も絶はてし故。とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて。懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に属し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれば。何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。君やがてその館にましまして御母子御対面まし/\。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に二人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豊後守康俊。隠岐守定勝といふ三人なり。」信長は義元を討取て後は。君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。挙母。梅津の敵とたゝかひ。拂楚坂。石瀬。鳥屋根。東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上総介氏真は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ佞言をのみ用ひ。むなしく月日を送るをみて。信長は君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏真終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長も悦なゝめならず。かくて君清洲へ渡らせたまへば。信長もあつくもてなし。是より両旗をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。君は旗下に属したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ信長御旗下に参る。これは永禄四年なり。」東條の吉良義昭今はまたく御敵となり。しば/\〃味方の兵と戦ひてやまざりしが。其弟荒川甲斐守頼持。兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅楽助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降参す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太郎長照を生どる。長照は今川氏真近きゆかりなれば。氏真これを愁る事甚しき様なりと聞て。石川伯耆守数正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。」君ことし御名を家康とあらため給ふ。(永禄四年十月の御書に元康とあそさばされ。五年八月一日の御書には家康とみゆ)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り。所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井。牛窪辺の新塞に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。譜第の御家人等これにくみするもの少からず。國中騒擾せしかば。君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。」このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川頼持。松平三蔵信次。松平監物家次。松平七郎昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏真より小原肥前守鎮実をこめ置て岡崎の虚をうかがへば。是にそなへられんがため。岡崎よりも喜見寺。糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏真吉田を救はむがため。二萬の軍をもてこの寨をせめかこむ。君かくと聞召。三千の人数にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。敵の人数は味方に十倍し。その上後詰を防がむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮まし/\てしかるべしと諌けれど。君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ来ると聞て救はざらんには。信も義もなきといふものなり。
萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして。一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿まし/\。翌朝信俊を召し具せられ。将卒一人も毀傷なく。敵勢を追立々々難なく岡崎城へ帰らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豊臣太閤のもとに烈祖をはじめ諸将会集有し時。誰にかありけん古老のもの烈祖に対し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。烈祖否々それも若気の所為なりと宣ひ。微笑しまし/\けると伝へき)」小原鎮実も吉田の城をひらき。田原。御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。実飯。八名。設楽。渥美等の郡みな御手に属しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。」八年には牛窪の牧野。野田の菅沼。西郷。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏真が柔弱をうとみ。今川方を去て當家に帰順しければ。今は三河の國一円に平均せしにより。本多作左衛門重次。高力左近清長。天野三郎兵衛康景の三人に國務并に訴訟裁断の奉行を命ぜらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は温順にして慈愛ふかく。天野は寛厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしかば。その頃三河の土俗ども。仏高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謡歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは。剛柔たがひにすくひ。寛と猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時既に感称せしとぞ)」九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と称せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚礼行はる。」十一年正月十一日君又左京大夫をかけ給ふ。」このごろ京都には三好左京大夫義継并にその陪臣松永弾正忠久秀反逆して。将軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また乱逆兵馬の巷となる。将軍御弟南都一乗院門主覚慶。織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝに及び。信長よりのたのみをもて當家よりも松平(藤井)勘四郎信一近江の箕作の城攻に抜群の働きして。敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと称美し。着したる道服を脱て當座の賞とせられしとぞ。」かの今川氏真は日にそひ家人どもにもうとまれ。背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまでもなし。氏真が領する國郡を侵し奪はんとす。氏真いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ逃かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんには。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。まず當家に使進らせ。大井川を限り。遠州は御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江の國を切したがへたまはぬとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郎定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に属し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてはそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば。御みずから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人数も走りかゝる様をみて。信友かなはじと思ひ。信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川を限り。遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には當家を侵し。遠州をも併呑せむ為。信友遠州へ出張して遠州の人数をつのり。國士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな偽謀のいたすところなり)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏真をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。君はかの使に対し。我幼より今川義元に後見せられし旧好いかで忘るべき。それゆへに氏真をたすけて義元のを報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏真侫臣の讒を信じ。我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては。幸小田原の北條は氏真叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏真を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏真を北條が許へ送らしめられける。北條。今川両家のもの共もこれを見て。げに徳川殿は情ある大将かなと感じたり。」かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。その身は大久保。松井等と同じく遊軍にそなへ。本多。榊原等は御旗下を守護す。」大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。この五月御領境を御順視あるべしとて。五六百人の少数にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三郎兵衛昌景といへるもの行すぎがてに。御供人といさかひし出し。
それを便りに御道をさへぎり留めむとす。御勢いかにもすくなきが故。いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乗じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より本多平八郎忠勝一番に小返しゝて追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五郎左衛門康高等追々に返し来りて突戦すれば。山縣も終に勝がたくや思ひけむ。草々駿州へ逃入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絶し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その実は父を追て家をうばひ。姪を倒し國をかすむ。天倫たへ人道既に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず。罪を山縣に帰して蟄居せしむといへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。君にはさすがに今川が旧好をおぼし召。氏真が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ。氏真を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この経営いまだとゝのはざる間に。信玄入道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ来り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招き。その城ふたゝび奪ひ取る。氏真は兎角かひ/\〃しく力をあはする家人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝ浜松に来り。當家の食客となりて終りける。」是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされ浜松の城と名付らる。永禄十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規模宏置近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆずりすませ給ふ。」ことし弥生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵を望まれしかば。君にも遠江。三河の勢一萬余騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。
やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるる所に。信長のいもと聟近江の浅井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ逃帰る。木下藤吉郎秀吉にわづか七百余の勢をつけてのこされたり。秀吉は君の御陣に来り。しか/\〃のよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ。秀吉既に危く見えければ。最前秀吉が頼むといひしを捨てゆかむに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者共と御下知ありて。御みづから真先に進み鉄砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ。しばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。」
かくて信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また三千余兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の横山の城へはをさへを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郎景紀を将とし一萬五千余騎着陣し。六月廿八日姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉にむかへば君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のままに。大軍のかたにむかはんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一萬五千余騎君の御勢にうつてかゝれば。浅井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい声あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれども遂にかなはず。北國に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものいよ/\騒ぎ乱れて。旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの様を御覧ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郎忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引堤て浅井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる浅井勢も徳川勢に横をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。浅井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またく徳川殿の武威による所なりとて。今日大功不レ可 勝言 也。先代無 比倫 。後世誰争レ雄。可レ謂 當家家綱紀。武門棟梁 也との感書にそへて。長光の刀その外さま/\〃の重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて。御一代大戦の一なり)この後も佐々木承禎入道朝倉。浅井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豊後守康重。松井左近忠次に二千余の兵を率してすくはしめたまふ。」此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫呉に彷佛たるの聞え高き古つわものあり。今川氏真が謀にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道悦なゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたる徳川殿の好通を得るこそ。謙信が身の悦これに過るはなれとて。左近忠次まで書状を進らせ謝しけるが。是より御音問絶せず。」この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二郎三郎信康となのらせたまふ。」二年正月五日君は従五位上にのぼり給ひ。十一日侍従に任ぜらる。」三年閏三月金谷。大井川辺御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合体ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天竜川を境とし両国を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてて手を出す事なし。入道こそ前に秋山。山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり。」信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しば/\〃三河。遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千余騎。入道みづから四萬五千余の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良。飯田などいへる城々せめ落し浜松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび。當時その右にいづる者なし。當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちのましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目永禄のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を浜松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ)その時敵ははや城近く押よせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。君聞召。かならず城門を閉る事あるねからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも。我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の内外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ。御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寝ありしが。御高鼾の声闌外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の御家人突て出で追払ふ。其の夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。
穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陥りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戦とて大戦の二なり)また武田が家の侍大将馬場美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道と徳川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戦にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の國をまたく徳川殿にまひらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中国。九國までも手にたつ人なく。やがて六十余州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。」元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよ/\軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郎定盈城兵に代りて城を開渡すに及んて。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて。定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻の時入道鉄砲の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかなくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取まわすものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますその寛仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口真似をせしとぞ。」此弥生頃信康君御甲冑はじめ有て。松平次郎右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も逃うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目度たしとて御帰城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大将にて遠江國天方。三河の國可久輪。鳳来寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。」二年正月五日君正五位下にうつり給ふ。三月八日次郎君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。」信玄が子の四郎勝頼血気の勇者なりければ。父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝頼徳川織田両家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八郎長善(また氏信)駿河の鸚鵡栖にて一萬貫の地を與へむとこしらへて降参せしめ。引つゞき浜松をせめんとしなしば遠州へはたらき。九月には二萬余の軍勢にて天竜川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝頼も謀ありと見て引返す。」三年二月頃御鷹がりの道にて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏真奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太郎といふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが。井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。」その頃長篠の城は奥平九八郎に賜はりて是を守りけるに、勝頼は當家の御家人大賀弥四郎といへる者等を密にかたらひ。岡崎を乗とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ます/\いかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二萬余騎にて取かこむ事急なりとへども。九八郎よくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。両家の勢都合七萬二千にて五月十八日君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極楽寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巣山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきる夜にまぎれて廣瀬川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ焼立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八郎城兵を具して切て出。前後より掩り立れば。武田勢は散々になりて。信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山。君が伏床。久間山等の敵の寨ども悉くなすべしとて君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち塁を気築き柵を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄砲数千挺を打立しむ。血気の勝頼夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七郎右衛門忠世、治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は當家は主戦織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に柵より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上総貞政。小山田兵衛信茂。典厩信豊。馬場美濃信房。その外眞山。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわり/\柵を破らんと烈戦するといへども。両家の鉄砲きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき様もなく。さん/\〃に破られて。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。内藤。土屋。真田。望月。小山田。小幡などいへるもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬場は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝頼は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂弾正昌信(父虎綱)海津の城を守りてありしが。勝頼血気の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。
武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討死せしかば。是より甲州の武威は大に劣りしとぞ。この日両家に討取首一萬三千余級。その中にも七千は當家にて討取られしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郎君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝頼も大に驚き。帰國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八郎六町にもたらざる掻揚にこもり。数萬の大軍にかこまれながら。終に一度の不覚なく後詰を待ち得て勝軍せしは。古今稀なる大功なりと信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八郎はじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には定昌と書しといふ)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝頼磔にかけし事なれば。こたび第一の姫君を(亀姫と申)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さま/\〃饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを那長篠の戦とて大戦の三とするなり)」かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしに。この城々も力おとし。あるは逃さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往来の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家号并に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寛永系図にはこの御家号たまはりしは。永禄六年東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや)君はこの勢に乗じ。引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝頼城々責とらるゝと聞て。ふたゝび兵をつのり小山の後巻すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郎君あながちに乞はせたまひてみつから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乗上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては。勝頼十萬騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝頼が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諌にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七郎右衛門忠世に給ふ。」四年正月廿日浜松の城にて。甲冑の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし)」此弥生勝頼また遠州へ発向す。横須賀は高天神の押として大須賀五郎左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。君浜松より後巻したまへば。今度も高坂が強て諌め勝頼も引かへしけるが。瀧坂。鹽買坂辺に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍糧運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ榛原郡相良に新城を築かせ。糧をこめて甲州へかへる。是より先謙信入道酒井忠次に書簡を送り。君と謀を合せて勝頼を攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるる時。天野宮内右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を逃出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を労したまはんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ逃去る。かくて後も勝頼はしば/\〃遠州にはたらきて。浜松を襲はんとする事しば/\〃なりしといへども。さしてし出したる事もなし。」信長卿はことし大納言より内大臣に昇られ兵威ます/\盛なり。五年十二月十日君も四位の加階まし/\。その廿九日右近衛の権少将に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭将軍を戴し。三好。松永を降参せしめ。佐々木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。強傲専肆かぎりなく。跋扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用するといへども。その実は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の浅井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姉川の戦おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相模の北條は関東北國割拠中最第一の豪傑なるよし聞て。この三國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時徳川家興國の第一にて。織田氏の頼む所は徳川家なり。故に先徳川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を挙んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠せんとす。是三方原の大戦おこるゆへんなり。勝頼が時にいたりまた義昭より。
北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるる。その使は真木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝頼がしば/\〃三遠を襲はんとする所にて。長篠大戦のおこるゆへんなり。義昭つひに本意を逐ず。後に藝州へ下り毛利をたのまる。これ豊臣氏中國征伐のおこる所也。しかれば姉川。三方原。長篠の三大戦は。當家において尤険難危急なりといへども。その実は足利義昭の詐術におこり。朝倉。武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院将軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て後。また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。萬古不易の良法として國を建し余習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこと豈天ならずや)
 
東照宮御實紀卷二 / 弘治二年に始り天正五年に終る
竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。關口刑部少輔親永(一本義廣に作る。)理髮し奉る。義元一字をまいらせ。二カ三カ元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城將奥平久兵衛貞直よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らしむ。織田上總介信長これを聞。柴田修理亮勝家を將として攻させけるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。君義元にむかはせ給ひ。それがし齡すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣です。願はくば一度故クに歸り祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事をもいとなみ。故クにのこせし古老の家人へも對面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。君御スなゝめならずいそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに。君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請べければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ。さてさて分别あつき少年かなと感じけるとぞ。爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ岡崎にて賦稅の事を司りしが。忍び忍びに粮米金錢を庫中にたくわへ置。こたび君御歸國ありて。普第の人々對面し奉りよろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覽にそなへ。今よりのち我君良士をあまためしかゝへたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候なりと申ければ。君御淚を催されその志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し年頃諸方の交戰に我家人をかりたてゝ。普第の家人どもこれがために討死する者多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御淚をながしなきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま。御祖父C康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。翌年の春にいたり駿府へかへらせ給ひぬ。御名を藏人元康とあらためたまふ。これ御祖父C康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。弘治も四年にて改元あり永祿となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歲十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸將をめされ御指揮ありしは。敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を斷べしとて城下を放火し引とり給ふ。酒井雅樂助正親石川安藝守C兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戰塲に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大將の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名將にかならせたまふらんと落淚してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御舊領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣P擧母伊保等の城をせめ。石がPにて水野下野守信元と戰給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざるはなし。此頃岡崎の老臣等駿府に行て。元康旣に人となり歸城するからには。駿府より置れし城代其外人數をば引取給ひ。舊領かへしたまはりなむやと請けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を查撿して舊領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣どもゝせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三カ信康君と稱したまへるは是なり。此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を强くし國をとますの謀をめぐらし。美濃伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近邊所々に砦をまうけ兵をこめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり直に中國へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歲にましましけるが。かひがひしくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城內へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名譽のことに申ならはしける。(大高送粮の事異說區々なり。その一說尤審なり。其ゆへは信長寺部擧母廣Pの三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津丸根兩城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津丸根兩城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へば。鷲津丸根の兩城は寺部を救わむ用意する其ひまに。難なく軍粮をば大高城へ運送したまふといふ。此說是なるがごとし。)此後も義元の指揮によつて寺部梅津廣P等の城々を攻給ひ。又駿府へ歸らせ給ふ。あくれば三年義元用意旣にとゝのひしかば。駿遠三の軍四萬餘を引具し尾州表へ發行す。君もその先隊におはし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。
鵜殿にかへて君をして是を守らせ。其身は桶峽間に着陣し陣中酒宴を催し勝ほこりたるその夜。信長暴雨に乘じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番等は。義元討死と聞て取ものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歲の御時より駿府に質とせられ。他の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永祿三年五月廿三日。十七年をへて誠に御歸國ありしかば。國中士民スぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及びまた三浦飯尾岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩みな逃去ければ。難なく御歸城ありしとなり。)君の御母北方は岡崎より刈屋へかへらせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひしが。君は三の御年别れ給ひし後は御對面も絕はてし故。とし頃戀したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に屬し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれば何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。君やがてその館にましまして御母子御對面ましまし。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に三人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豐前守康俊。隱岐守定勝といふ三人なり。信長は義元を討取て後は。君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。擧母梅津の敵とたゝかひ拂楚坂石P鳥屋根東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ侫言をのみ用ひ。空なしく月日を送るをみて。信長は君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏眞終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長もスなゝめならず。かくて君C洲へ渡らせたまへば信長もあつくもてなし。是より兩旗をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。君は旗下に屬したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ。信長御旗下に參るべしと盟約をなして後。あつく饗應まいらせて歸し奉る。これは永祿四年なり。東條の吉良義昭今はまたく御歒となり。しばしば味方の兵と戰てやまざりしが。其弟荒川甲斐守ョ持兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅樂助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降參す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太カ長照を生どる。長照は今川氏眞近きゆかりなれば。氏眞これを愁る事甚しき樣なりと聞て。石川伯耆守數正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな數正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。君ことし御名を家康とあらため給ふ。(永祿四年十月の御書に元康とあそさばされ。五年八月廿一日の御書には家康とみゆ。)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井牛窪邊の新寨に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向專修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。普第の御家人等これにくみするもの少からず。國中騷擾せしかば。君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ歸順しければ。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川ョ持。松平三藏信次。松平監物家次。松平七カ昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏眞より小原肥前守鎭實をこめ置て岡崎の虛をうかゞへば。是にそなへられんがため。岡崎よりも喜見寺糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏眞吉田を救はむがため二万の軍をもてこの寨をせめかこむ。君かくと聞召三千の人數にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。歒の人數は味方に十倍し。その上後詰を防がせむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諫けれど。君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ來ると聞て救はそらんには。信も義もなきといふものなり。萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし。翌朝信俊を召し具せられ。將卒一人も毁傷なく敵勢を追立々々難なく岡崎城へ歸らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豐臣大閣のもとに烈祖をはじめ諸將會集有し時。誰にかありけん古老のもの烈祖に對し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。烈祖否々それも若氣の所爲なりと宣ひ。微笑しましましけると傳へき。)小原鎭實も吉田の城をひらき。田原御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。室飯。八名。設樂。渥美等の郡みな御手に屬しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。八年には牛窪の牧野。野田の菅沼。西ク。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏眞が柔弱をうとみ。今川方を去て當家に歸順しければ。今は三河の國一圓に平均せしにより。本多作左衛門重次。高力左近C長。天野三カ兵衛康景の三人に國務幷に訟訴裁斷の奉行を命せらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は溫順にして慈愛ふかく。天野はェ厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしに。國務裁斷にのぞみ萬に正しく果敢明斷なりしかば。その頃三河の土俗ども。佛高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謠歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは。剛柔たがひにすくひェと猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時旣に感稱せしとぞ。)九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と稱せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚禮行はる。十一年正月十一日君又左京大夫をかけ給ふ。このごろ京都には三好左京大夫義繼幷にその陪臣松永彈正忠久秀反逆して。將軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また亂逆兵馬の巷となる。將軍御弟南都一乘院門主覺慶織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝにおよび。信長よりのたのみをもて當家よりも松平(藤井。)勘四カ信一を將として御加勢さし向給ひしに。信一近江の箕作の城攻に拔群の働きして敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと稱美し。着したる道服を脫て當座の賞とせられしとぞ。かの今川氏眞は日にそひ家人どもにもうとまれ背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまでもなし。氏眞が領する國郡を侵し奪はんとす。氏眞いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ迯かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんにハ。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。まづ當家に使進らせ。大井川を限り遠州ハ御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江の國を切したがへたまはむとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八カ定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に屬し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてハそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば御みづから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人數も走りかゝる樣をみて。信友かなはじと思ひ信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川を限り遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には當家を侵し遠州をも併呑せむ爲。信友遠州へ出張して遠州の人數をつのり國士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな僞謀のいたすところなり。)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏眞をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。君はかの使に對し。我幼より今川義元に後見せられし舊好いかで忘るべき。それゆへに氏眞をたすけて義元の讎を報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏眞侫臣の讒を信じ我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故。止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては。幸小田原の北條は氏眞叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏眞を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏眞を北條が許へ送らしめられける。北條今川兩家のもの共もこれを見て。げにコ川殿は情ある大將かなと感じたり。かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河一國歸順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次石川家成二人を左右の旗頭として是に屬せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の數正にゆづり。その身は大久保松井等と同じく遊軍にそなへ。本多榊原等は御旗下を守護す。大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。この五月御領境を御巡視あるべしとて。五六百人の少勢にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三カ兵衛昌景といへるもの行すぎがてに御供人といさかひし出し。それをたよりに御道をさへぎり留むとす。御勢いかにもすくなきが故いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乘じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より本多平八カ忠勝一番に小返しゝて。追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五カ左衛門康高等追々に返し來りて突戰すれば。山縣も終に勝がたくやおもひけむ。早々駿州へ迯入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絕し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その實は父を追て家をうばひ姪を倒し國をかすむ。天倫たへ人道旣に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず。)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず罪を山縣に歸して蟄居せしむといへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。君にはさすがに今川が舊好をおぼし召。氏眞が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ氏眞を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この經營いまだとゝのはざる間に信玄入道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ來り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招きその城ふたゝび奪ひ取る。氏眞は兎角かひがひしく力をあはする家人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝM松に來り。當家の食客となりて終りける。是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされM松の城と名付らる。永祿十三年に號またあらたまりて元龜と稱す。M松の城規摸宏麗近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ。ことし彌生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵を望まれしかば。君にも遠江三河の勢一萬餘騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるゝ所に。信玄のいもと聟近江の淺井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ迯歸る。木下藤吉カ秀吉にわづか七百餘の勢をつけてのこされたり。秀吉は君の御陣に來りしかじかのよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉旣に危く見えければ。㝡前秀吉がョむといひしを捨て行むに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知有て。御みづから眞先にすゝみ鐵砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひしばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ來り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。かくて信長は淺井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先淺井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御みづから三千餘兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の山の城へはをさへを殘し小谷の城下を放火す。淺井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三カ景紀を將として一万五千餘騎着陣し。六月廿八日姉川にて戰あり。はじめ信長は朝倉にむかへば君には淺井とたゝかひ給へとありしが。曉にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は淺井をうつべし。コ川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のまゝに。大軍のかたにむかわんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一萬五千餘騎君の御勢にうつてかゝれば。淺井が手のもの八千餘騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北國に名をしられたる眞柄十カ左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。淺井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよいよさはぎ亂て旗本もいろめきだちぬ。君はるかにこの樣を御覽ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八カ忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引提て淺井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる淺井勢もコ川勢にをうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。淺井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またくコ川殿の武威による所なりとて。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世誰爭雄。可謂當家綱紀。武門棟梁也との感書にそへて。長光の刀その外さまざまの重器を進らせらる。(これを姉川の戰とて御一代大戰の一なり。)この後も佐々木承禎入道朝倉淺井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豐後守康重。松井左近忠次に二千餘の兵を率してすくはしめたまふ。此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫吳に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏眞が媒にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道スなゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたるコ川殿の好通を得るこそ。謙信が身のスこれに過るはなけれとて。左近忠次まで書狀を進らせ謝しけるが。是より御音問絕せず。この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二カ三カ信康となのらせたまふ。二年正月五日君は從五位上にのぼり給ひ。十一日侍從に任ぜらる。三年閏三月金谷大井川邊御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合躰ありといふを聞大に患ひ。しからばはやくコ川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天龍川を境とし兩國を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を變じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてゝ手を出す事なし。入道こそ前に秋山山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり。信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しはじは三河遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千餘騎。入道みづから四万五千餘の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良飯田などいへる城々せめ落しM松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび當時その右にいづる者なし。當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇氣さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば。夏目次カ左衞門吉信が討死するそのひまに。からうじてM松に歸りいらせ給ふ。(夏目永祿のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬をM松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)その時敵ははや城近くをしよせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。君聞召かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々歸る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の內外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寢ありしが。御高鼾の聲閫外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の御家人突て出で追拂ふ。其夜大久保七カ右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。穴山梅雪が陣に鐵砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陷りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきはM松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戰とて大戰の二なり。)また武田が家の侍大將馬塲美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道とコ川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戰にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。M松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の國をまたくコ川殿にまいらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中國九國までも手にたつ人なく。やがて六十餘州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。元龜も三年に天正とあらたまる。信玄はいよいよ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八カ定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび歸ることを得たり。この城攻の時入道鉄炮の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取進すものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死はスばずおしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますそのェ仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口眞似をせしとぞ。此彌生頃信康君御甲胄はじめ有て。松平次カ右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も迯うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目出たしとて御歸城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大將にて遠江國天方。三河の國可久輪。鳳來寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城々一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。二年正月五日君正五位下にうつり給ふ。二月八日次カ君生れたふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。信玄が子の四カ勝ョ血氣の勇者なりければ。父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝ョコ川織田兩家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八カ長善(また氏信。)駿河の鸚鵡栖にて一万貫の地をあたへむとこしらへて降參せしめ。引つゞきM松を責むとしばしば遠州へはたらき。九月には二万餘の軍勢にて天龍川まで出張す。こなたもM松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝ョも謀ありと見て引返す。三年二月頃御鷹がりの道にてて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覽ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏眞奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太カといふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。そのころ長篠の城は奥平九八カに賜はりて是を守りけるに。勝ョは當家の御家人大賀彌四カといへる者等を密にかたらひ。岡崎を乘とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ますますいかりやむときなく。長篠城をとりかへさんと二万餘騎にて取かこむ事急なりとへども。九八カよくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをたすけて。兩家の勢都合七万二千にて五月十八日君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極樂寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶の巢山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきりたる夜にまぎれて廣P川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ燒立しに。長篠城よりも城門を押開き。九八カ城兵を具して切て出前後より捲り立れば。武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ども悉く攻おとされたり。信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち壘を築き栅を二重三重にかまへ。老練の輩をして鉄炮數千挺を打立しむ。血氣の勝ョ夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七カ右衞門忠世。治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は當家は主戰織田方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に栅より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上總貞政。小山田兵衛信茂。典廐信豐。馬塲美濃信房。その外眞田。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわりわり栅を破らんと烈戰するといへども。兩家の鐵炮きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき樣もなくさんざんにやぶられで。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。內藤。土屋。眞田。望月。小山田。小幡など云るもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬塲は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝ョは落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂彈正昌信(又虎綱。)海津の城を守りてありしが。勝ョ血氣の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。武田が家にて老功の家人どもこの戰に數を盡して討死せしかば。是より甲州の武威は大におとりしとぞ。この日兩家に討取首一万三千餘級。その中にも七千は當家にて討取れしなり。又味方の戰死は兩家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三カ君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝ョも大に驚き。歸國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出來り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八カ六町にもたらざる搔揚にこもり。數万の大軍にかこまれながら。終に一度の不覺なく後詰を待ちゑて勝軍せしは。古今稀なる大功なりと。信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八カはじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家傳には定昌と書しといふ。)君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを。勝ョ磔にかけし事なれば。こたび第一の姬君を(龜姬と申。)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ歸陣あり。君は岐阜におはしまして信長援助の勞を謝したまふ。信長さまざま饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを長篠の戰とて大戰の三とするなり。)かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしにこの城々も力おとし。あるは迯さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往來の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家號幷に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。ェ永系圖にはこの人御家號たまはりしは。永祿六年東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや。)君はこの勢に乘じ引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝ョ城々責とらるゝと聞て。ふたたび兵をつのり小山の後卷すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三カ君あながちに乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乘上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝ョ十万騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝ョが勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諫にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七カ右衛門忠世に給ふ。四年正月廿日M松の城にて。甲胄の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし。)此彌生勝ョまた遠州へ發向す。須賀は高天神の押として大須賀五カ左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。君M松より後卷したまへば。今度も高坂が强て諫めョ勝も引かへしけるが。瀧坂鹽買坂邊に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へかへる。是より先上杉謙信入道酒井忠次に書簡を送り。君と謀を合せて勝ョを攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるゝ時。天野宮內右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を迯出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を勞したまわんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ迯去る。かくて後も勝ョはしばしば遠州にはたらきて。M松を襲はんとする事しばしばなりしといへども。さしてし出したる事もなし。信長卿はことし大納言より內大臣に昇られ兵威ますます盛なり。五年十二月十日君も四位の加階ましまし。その廿九日右近衛の權少將に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭將軍を翊戴し。三好松永を降參せしめ。佐々木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。强傲專肆かぎりなく䟦扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用するといへども。その實は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の淺井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姊川の戰おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相摸の北條は關東北國割據中最第一の豪傑なるよし聞て。この三國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時コ川家與國の第一にて。織田氏のョむ所はコ川家なり。故に先コ川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を擧んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠せんとす。是三方原の大戰おこるゆへんなり。勝ョが時にいたりまた義昭より。北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるゝ。その使は眞木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝ョがしばしば三遠を襲はんとする所にて。長篠大戰のおこるゆへんなり。義昭ついに本意を遂ず。後に藝州へ下り毛利をたのまる。これ豐臣氏中國征伐のおこる所之。しかれば姊川三方原長篠の三大戰は。當家において尤險難危急なりといへども。その實は足利義昭の詐謀におこり。朝倉武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院將軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て後また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。万古不易の良法として國を建し餘習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこと豈天ならずや。) 
 
巻三

 

天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城将菅沼新八郎定盈よりかくと注進す。君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豊後守廣孝はし/\と仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は。門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ。俄に打立射立。敵の陣伍乱るゝ様を見すまして門より打て出で。一散して軽く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへば。まづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき処にも橋をかけてこそあるべきに。懸来りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名誉聞書、酒井家旧蔵聞書)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとり/\〃いひ伝へしを聞しまし。御家人等に仰ありしは。もしこの事実ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄は如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がごとくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ様に心得べきなり。すべて隣国に強将ある時は。自国にもよろづ油断なく心を用ゆるゆへ。おのずから国政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣をはゞかる心あるにより。かへりてわが国安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振抜の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝか悦ぶ事にてなしと仰あり。是より御分国の者共いづれも御詞を学びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。」又ある時。人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戦にはいつも粉骨を尽せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常々仰ありしなり。孟子に敵国外患なきものは国必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。」上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さて/\残多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は関東の弓矢柱なくなりしとて。はら/\と涙を落せしといふ。謙信も信玄と常々争闘せしはさるものにて。天下の為に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同様の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話、武辺咄聞書、萬千代記)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとするに。野伏ども出て御道を支れば。大久保七郎右衛門忠世殿して。三蔵山といふところまで引上られ。しばし後陣の来るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太郎が股を鐵砲に打ぬかれて来る。君御馬をくだり善太郎に載しめんとす。善太郎勿体なしとてあながちに辞し奉る。七郎右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝も同じく手負て退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に与へ乗しめんとす。久勝己が如き者は何人死したりとも何事かあらん。もし大将討るゝならばゆゝしき大事なり。弓矢八幡照覧あれ。われは乗まじといふ。忠世乗度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて児玉甚右衛門。久勝をかゝへて馬にのせ引取ぬ。君このよし聞しめし。強将の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感浅からず。この時光明山の住僧高継といへるが御路の案内し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高継勝栗を進ければ。一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語、武徳大成記、落穂集、光明山書上)
按に。杉浦が家譜には。久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへ。みづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎討とり。それが馬に乗て還りしかば。御感状をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。台徳院殿切腹仰付られぬ。君後にこのよし聞しめし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀弥四郎といへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し。算数にもよく鍛錬し。物ごとに心きゝたる者なれば。会計租税の職に試みられしによく御用に立しかば。次第に登庸せられて。三河奥群廿余村の代官を命ぜられ。其身浜松に居ながら折々は岡崎にも参り。信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも弥四郎なくては叶はぬといふ程になり。専らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の挙動ども少からず。御家人の内旧功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも内には憎み怨ぬ者もなかりしかど。両殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが悪事を訐発する者もなし。かゝる所に近藤何がし戦功有て采地賜はるべきにより。弥四郎が許に行て議しけるに。弥四郎いふ。御辺がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよ/\精仕して。我にな疎略せそといへば。近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしか/\〃のよし述て。某いかに窮困すればとて。あの弥四郎に追従して。地を賜はらん様なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のごとくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出て御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聴に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは弥四郎が取なしに非るはいふまでもなし。汝さきに岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今に忘れはせじと宣へば。近藤感涙袖をうるほして御前をしりぞきぬ。其後又ひそかに近藤をめして。弥四郎が事つばらに問せ給へば。近藤承り。彼元より腹あしき者にて種々の悪行あれども。当時両殿の寵遇を蒙るゆへいづれも願望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の悪事どもかぞへ立て言上し。なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれにはいはざりしと仰ければ。さむ候。この事かねて相議しけれども。彼かねて両君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしといふ。よて弥四郎をばめ因て獄につなぎ。その家財を籍収せしむるにおよび。弥四郎が甲斐国と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度弥四郎が親友小谷甚左衛門。倉地平左衛門。山田八蔵等弥四郎と一味し勝頼の出馬をすゝめ。勝頼設楽郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。弥四郎徳川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ三郎殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠両国の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからば徳川殿も浜松におはし。かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝頼刃に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝頼この書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に悪徒の内山田八蔵返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顕に及びしなり。よて弥四郎が妻子五人を念志原にて磔にかけ。弥四郎は馬の三頭の方へ顔をむけ鞍に縛り。浜松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし様を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋め。竹鋸にて往来の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衛門は渡邊半蔵守綱めし捕むとて向ひしが。遁出て天竜川を游ぎこし二股の城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彦兵衛勝長。大岡孫右衛門助次。その子傅藏清勝。三人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて禄千石を賜はり。返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々弥四郎が事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。弥四郎ひとり勤めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても慎しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢、東遷基業、御遺訓、今村大岡山田家譜)
長篠の前竹廣村の弾正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる様を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびすくひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまり。つと立て舞けるが。兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散してけり。さて本多。榊原等をめし軍議せしむるに。いづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。君むかしは信玄なり。今は勝頼なるぞ。さまで心を労するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよ/\勇気百倍しけるとぞ。(東武談叢)
おなじ戦の前信長が許におはしけるに。稲葉一鉄入道。此度徳川殿の催促によりて兵を出ることもあらばいかゞせむといふ。君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今両年打続き同じ月日に。甲州にて萬部讀経を執行へり。二には去年このかた彼国の者共多く我方に参仕す。三には穴山梅雪入道縁辺の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰ければ。信長稲葉に向ひ出せるとていたくいましめらる。」其後御陣に帰らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戦もし難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の内。一人は信康を守護して本国に帰るべし。鬮もて定めよと仰あれば。三人何とも御請申さでありしかば。御気色損じけるを見て康政居進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に従ひて立ち帰らん事は。上意に従ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなく。やゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ三郎殿を招かせられさきの旨仰られしかば。信康君。年若き某一人岡崎に帰りたりとも何の益か侍らん。それよりは父君こそ御帰城有て領国を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せんと宣ひて。中々聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはせしませしが。戦に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられしは。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戦に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覚書、古老夜話)
この戦に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされば。内藤四郎左衛門正成かきの渋帷子きしまゝにて出むかひ。御指図かうぶりて軍すべき家康にてなし。某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。徳川殿には末々の者までたゞ人ならずとて感歎ありしなり。」又戦に及んで甲軍の様を御覧じ。今日の戦味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人数を布散して多勢の様に見するは。衆を頼むの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊国物語、前橋旧蔵聞書)
国の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。別にかはれるふしはなけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも荀且のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛強に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と両手十萬ばかり。勝頼はわづか二萬程なり。こなたは柵を三重にゆひけるに。勝頼何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若共折瀧澤川の渡を前に当て対陣せば。わが両手多勢といへども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の強かりしは。全く入道が時より。三軍の調練よく届きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝頼常に血気にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戦にわざと柵をふり。優もてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諌言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲をもてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。たとへば家臣の内に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのずからその風余人にもをし移り。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君は。かゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめ。はじめて本心を得せしむるなり。汝いかゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨将軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上げしに。台徳院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傅へて烱鑑にせめとて。御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの由を申上しに。将軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御慎篤の御性質をいと御賞嘆ありしとど。(藤堂文書)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八郎定昌をめし出され。定昌若年といひ。数日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御感斜ならず。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見参をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人毎春謁見を給はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の内。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高辺等の地若干下され。姉川の役に信長より進らせし大般若長若の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姫君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ参り信長に謁見せしに。信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勲功武士の模範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乗らしめ。そが上にもさま/\〃引出物せられしなり。(貞享書上)
甲州士の内にも山縣三郎兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に応ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が内の山縣は大なる兎缺なり。かの魂精の抜出て當家譜第の本多が子に生まれ来りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。台徳院殿の御伽にめし加へらる。後年石川数正が京都へ立去し後。當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附属せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん様にもり立べしと仰付られぬ。此らをもても山縣をば厚く御感賞まし/\ける事はかりしるべきにぞ。(落穂集)
大天龍の迫合に近藤傅四郎某手負ひて。渡邊半蔵守綱を見かけ。汝我を助けよといへば。半蔵己が取たる首を投げすてゝ傅四郎を負ひ。三里ばかり引退きける由聞せ給ひ。味方一人討るければ数千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半蔵とよぶべしと仰られしなり。」またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける内に島田意伯もありけるが。仰に。意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが。この騒擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御強記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雑談、武功雑記)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひ/\〃しく申上れば御けしき大方ならず。よて松平の御称号御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乗らしむ。こは周武王が殷紂王を牧野にて攻亡せし故事おぼしいでゝ。勝頼を殷紂に比し。康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傅へしはまことにや。(貞享書上、落穂集)
天正三年八月光明山。諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝頼は過し長篠大敗の後。甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二萬の大兵をもて後詰し。先陣すでに岡部。藤枝までに進み来る。この時御人数を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。信康君をめし。是まで敵にむかふ様にして引取りしが。この後は敵わが軍後にあり。おことは若年にしていまだ戦陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよと宣へば。信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。かたみに御辞譲ある所へ酒井忠次馳来り。只今急遽なり。両殿はともあれ。某はまづ引返さむとて御先に引退ば。君も忠次につぎて兵を収めらる。其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿にてしづ/\〃と引せ給ふ。君はこの様土台にて御覧じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝頼十萬の兵もて攻来るとも。打破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武徳編年集成) 
遠州二股の城とれし時本多平八郎忠勝は供奉し。内藤四郎左衛門正成はその比足痛により従ふ事かなはず浜松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへされ。浜松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。殿の御帰城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成関輪を固うしてあけず。忠勝自らかへり来て門をたゝきよばはれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に。誰なれば殿の御還などいつはるぞ。かしがまし。そこのかすば打ち殺さんとて。鉄砲に火縄はさみて指麾すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて君還らせ給ひて。四郎左我が帰たるはと宣へば。正成御声とは聞つれど尚いぶかしくや思ひけん。狭間より挑燈を出し。たしかに尊顔を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵ありとも抜とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(砕玉話)
天正六年三月武田勝頼遠州へ出張せし時。大須賀五郎左衛門康高が甥弥吉御軍令にそむき。勝頼が旗本へ打といり高名せしかば。以の外怒らせ給ふ。弥吉恐れて本多平八郎忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事も寛仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはか御宥怒なかりき。(柏崎物語)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後は。また謙信ほど弓箭をとりまはす者は今の世にはなかりしに。これもまたはかなくなりぬ。かく年を追て名誉の弓取打続き死し絶る事。世の為いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。君の御英名をしたひ。はるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。當家に力を合せ。甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。」又水谷正村入道播(元字は虫篇)龍斎といひしは。下野の結城が幕下にて。東国に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならではああ。共に関東を切平げんものあらじと思ひ。石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を関東へ進められんには。その主晴朝を勧めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の国々よりもはやうより御風采をしたひ。帰属の心を抱くもの数多有しといへり。(落穂集、貞享書上)
武田勝頼大軍を率ゐ遠州横須賀まで打て出て浜辺に陣どり。君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鉄砲迫合あり。信康君鈴木長兵衛某一人めしつれ。敵陣近く乗よせ。其様見そなはして。いそぎ戦をはじめ給へと仰上られしかば。君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戦をはじめば勝事有べからず。この後とてもおなじ様にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるゝも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。三郎が弓箭の指図は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話別集)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世両人も。御ふるまひのあら/\しき事ども。条件にしるして御覧に入ければ。三郎がかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諌を納し上にて。尚聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。両人さ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諌良など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば。君今の世に比千。伍子胥が如き忠臣なければ。諌を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三郎君御生害あり。はるか年経て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三郎今にあらばかく天下の事に心を労すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰ければ。忠次何ともいひ得ず。ひれふして在しとか。又幸若の舞御覧ありし時。両人にも見せしめられしに。満仲の曲に。をのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覧じて。両人に向はせ給ひ。其事となく御落涙し給ひ。両人あの舞はと仰られしかば両人大に恐怖せり。又或時三郎殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は満仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また関原の役にあさとく御旗を勝山に進めれし時も。さて/\年老て骨の折るゝ事かな。倅が居たらば是程にはあるまじと独言の様に仰られしとか。唐国にも漢の武帝が。衛太子の事有し後に望子の台を築き。朝夕にその方ざまを望み見て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間の何の嫌疑もあはしまさず。たゞ少年勇邁の気すゝどくおはしませしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御挙動の在しも。軍国の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの両人織田家の奸計に陥り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歳の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武辺雑談、東武談叢、寛元聞書)
三郎殿二股にて御生害ありし時。検使として渡邊半蔵守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人帰りきて。三郎殿終に臨み御遺托有し事共なく/\言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し内に。本多忠勝。榊原康政の両人は。こらへかねて声を上て泣き出だせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。君聞し召し。さてあやしき事もあるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて。小刀もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半蔵は三郎殿自裁の様見参りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雑話の折に。半蔵は兼て剛強の者なるが。さすが主の子の首討には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り傅へてひそかに思ふやうは。半蔵が仕兼しを。この山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものうくやなりけん。當家を立去り高野山に入て。遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語)
七年駿河国持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き様を見せ。城兵の引入とき附入にし。烈しく戦て攻取られしとぞ。この時城将三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせんと思ひ。一色に與しを君御覧じ。いや/\兵部が首は竹右衛門が討取しなり。余人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せらる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしば/\〃なりしとぞ。(三河物語、貞享書上)
高天神の城中より。幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みより。たかだちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城将の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感涙を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃関東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等取そへて大夫に引たり。」かくて明日の戦に城兵皆いさぎよく戦て討死す。殊さら茜きし武者は天晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとり/\〃御覧に備へし内に。顔の様十六七ばかりと見ゆるが薄粧し。歯くろめ髪なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君其眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの内に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。黒眼明らかにみえば男なれと宣へば。笄もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部が最愛の小姓に時田鶴千代といふ者にて。討死の様もいと優にやさしかりしとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乗する様を遥に御覧じ。俄に御先手へ仰傅へられしは、只今に城中より真先かけて乗出る武者あるべし。かまへて支へ止むべからず。若強ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乗廻して制せしめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍横田甚五郎尹松なるが。落城のよしを本国に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て當家に参り。処々の御陣に供奉し。度々戦功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり、(落穂集、家譜、明良洪範)
天正八年七月の比浜松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。数萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならず。御みづから社頭へまし/\しばし御奉弊ありし後。扇子をもてうち払ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡を清め汚穢なからん様にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松とぞ申ける。(柏崎物語)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ/\引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例の怒を発し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども悉く打砕き水中に棄てけり。君大に咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。」又馬場美濃守氏勝が娘さる所に隠れ居るよし聞しめし。鳥居彦右衛門元忠に命じて捜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隠れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひより。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彦右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高声にて御咲あり。其頃元忠同国黒駒にをいて北条が兵と戦ひ。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話、東遷基業、鳥居家譜)
按に一説には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峰法寺口にて働きし趣を御糺しありしが。相違の事ありて召放されぬ。元より武功の者なれば。鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聴に入る者ありし時。彦右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に。元忠が女子馬場美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬場が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武辺の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに。鏃をゆるく箆を強くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後々まで傷ましめんが為なりと申ば。武田が法はさもあれ。わが方にてさる事なせそ。敵なりとも盗賊いましむるとは異なり。当座に射中て働事かなはず。味方に利あればたれり。かゝる慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を強く鏃のぬけざらん様にすべしと仰せられき。(武功実録)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成瀬吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大蔵左衛門某也。また甲州人もて沙汰聞の役とせられ。専ら国中の動静を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ国を治るに国人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は。小石と沙と土の入雑りてわけかぬるを。水にて動し洗へば。土流れて小石あらはるなり。見えざれば洗はん様もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とりてもくるしからじと仰けり。」又信玄以来の諸士の忠否を正し給ひ。武功の誉ある者は其證状を奉らしめ。新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。あるは旧地削らるゝもあり。」又武田代々の香火院恵林寺は右府が為に焼れしを。形のごとく再建せしめ。歴世の霊牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝頼自殺の地にも供養のため一宇を荊創せられ。かくとり/\〃邱(元字は丘でなく血)典を施されしかば。国人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の一条。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが為に。かれに附属せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし様にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよ/\勉励せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に来り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政両人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に参たりといへば。忠次さて/\御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勧めたてまつりて直政に附しめし也。さるを聞分ずして率爾の挙動もあらば。殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功実録)
此巻は武田信玄と御合戦よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐国御手に入しまでの事をしるす。  
 
東照宮御實紀卷三 / 天正六年にはじまり十六年に終る
天正六年武田四カ勝ョはしきりに遠三兩州を侵掠せんとしてしばしば勢を出せば。M松よりも武田がかゝへたる駿州田中の城をせめたまはんとて彌生の頃御出馬あり。井伊萬千代直政ことし十八歲初陣なりしが。眞先かけて手勢を下知する擧動。天晴敵味方の耳目を驚かす。其外小山の城責。國安川須賀等の戰いつはつべしとも見えざる處に。越後の上杉謙信此月十三日四十九歲にて世をさりぬ。これより先に入道は小田原の北條氏康の子の三カ景虎と。姪の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人國をあらそふ事たえず。景勝心ときおのこなれば。勝ョが寵臣長坂跡部といへる者をかたらひ。こがね二千兩づゝを贈り。勝ョが妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に屬すべし。先は當座の謝儀として上野一國にこがね一万兩そへて進らすべし。いかにも加勢し給はるべしと申送れば。利にふける勝ョ主從速に應じ。終に景虎を伐亡して景勝父謙信の家をつぐ。勝ョもとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心まよひ。氏政が弟の三カを亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り。いかにしてかこの怨を報ぜんと思ひ。やがて當家にちなみ進らせ織田家へもよしみをむすぶ。七年の卯月七日にM松の城にしては三カ君生れたまふ。御名を長丸君と名づけたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし台コ院殿太政大臣の御事なり。御母君は西クの局と申。さしつづき翌年この腹にまた四カ君生れ給ふ。是薩摩中將忠吉卿とぞ申き。勝ョは當家北條と隣好をむすび給ふと聞て大におどろき。さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて。さまざま謀畧をめぐらしける事ありし中に。築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝ョが詐謀にやかゝりたまひけん。よからぬことありて八月二十九日小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。(野中三五カ重政といへる士に。築山殿討て進るべしと命ぜられしかば。やむ事を得ず討進らせて。M松へ立かへりかくと聞え上しに。女の事なればはからひ方も有べきを。心をさなくも討取しかと仰せければ。重政大におそれ是より蟄居したりとその家傳に見ゆ。これによればふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂助直吉とも。又は岡本平右衛門石川太カ右衛門の兩人なりとしるせし書もあれど。そはあやまりなるべし。)信康君もこれに連座せられて。九月十五日二俣の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御傅なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろきM松へはせ參り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よらかぬ御行狀あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが首をめさるべく候と申けるに。君聞しめして。三カが武田にかたらはれ謀反すといふを實とは思はぬなり。去ながら我今亂世にあたり勍敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには。我家亡んこと明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家國亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎て三カがたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三カ終にのがるべき事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御淚にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覺えず。なくなく御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。當時の情躰ははかりしるべきなり。また三カ君御勘當ありしはじめ。大久保忠世に預けられしも。深き思召有ての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が滿仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替らしめしさまの舞を御覽じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ說あり。いかゞ。誠なりやしらず。)かゝることどもにはかなく年もくれて。八年正月五日には從上の四位し給ふ。武田がたの城々は次第におちいり。彌生にいたり遂に高天神の城も責落さる。この城小笠原與八カ長善が武田へ降りし後。八年をへてふたゝび當家にかへる。その間大須賀康高須賀の寨に有て日々夜々に攻たゝかひ。久世。坂部。渥美などいへる屬士ども身命をすてゝ苦戰しければ。こたび數年の勞を慰せられ。をのをの采邑にかへりしばし人馬を休ましめらる。十年信濃國福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼふれたる中ながら勝ョのふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案內せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中將信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の國へ迯歸る。君の御勢は二月十八日M松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。國中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとよりェ仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降參のもの等は。しろしめす國內の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち惠み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝ョをうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地藏堂に參り君に對面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝ョは梅雪典廐逍遙軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。
その子太カ信勝と共にうたれたり。君の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪あないし先鋒の諸將富士の麓八代郡文殊堂市川口よりをし入たり。こゝに成P吉右衛門正一といへるは。さきに當家を退し時甲州にありしかば。武州士どもとしたしかりしゆへ。今度仰をうけてかの輩を募り招きければ。もとより御仁愛は隣國までも及びし故。折井米倉などいへるもの一番に歸順せり。信忠卿古府へ着陣せられければ。君もその所におはしまして對面したまひ。又諏訪へおもむき給ふ。右府は十四日波合にて勝ョ父子の首を實撿せらる。その時汝が父信玄は每度我等に難題をいひかけこまらせたり。首に成てなり共上洛したしといひしと聞しが。汝父が志をつぎて上洛せよ。我も跡よりのぼるべしと罵られ。頓て其首共を市川口の御陣へをくり見せ給ふ。君は勝ョの首を白木の臺にのせ上段に直され。厚く禮をほどこし給ひ。今日かゝる姿にて對面せんとはおもひよらざりしを。若氣にて數代の家國を失はれし事の笑止さよとて御淚をうかめ給へば。甲斐の國人どもかくと聞傳て。はやこの君ならずばとなづきしたひ奉る。信長は武田の舊臣ども上下のわかちなく。一々さがし出して誅せらる。君はかの者共生殘りて餓死せんもいとおしき事とあはれみ給ひ。甲信の間に名を得たる者をば。悉く駿遠の地にまねきはごくませられ。又勝ョ父子はじめその最期まで附從ひつる男女のなきがら共。田野の草村に算を亂して鳥獸の啄にまかせたるを。武田が世々の菩提所惠林寺も。織田家をはゞかりてとりおさめんともせず。君さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の廣嚴院といふ山寺の僧に仰せて。その屍ども懇に葬らしめ。其所に一寺をいとなみ天童山景コ院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。十九日には右府父子軍功の諸將士に勸賞行はるゝとて。コ川殿今度神速に駿州の城々責取給ふ。その功輕からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田殿に對し。今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いまM松に寓居すれば。駿河を氏眞にあたへかの家再興せしめんかと仰けれぱ。信長きかれ。何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば。我にかへしたまへとて氣色以の外なれば。やむ事を得ず御みづからの御領となされしといふ。)梅雪入道も君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永くコ川殿の旗下たるべしとて屬せらる。さて右府國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは君しろしめす所なるがゆへに。其道すがらの大石をのけ。大木をきりはらひ。道橋をおさめられ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへコ川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛ありしとぞ。(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)卯月のはじめに右府は八代郡姥口より富士の根方を分いられ。阿難迦葉坂をへて上野が原井出のク邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大將家狩倉の古跡などまでたづね。大宮の旅舘にわたらせられしかば。君こゝに侍迎へて饗し給ふ。道道の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇指。龍馬三疋進らせらる。日をへて富士安部川をわたり田中の城に泊られ。また大井川天龍川を越てM松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。M松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごとくその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。五月君右府の居城近江の安土にわたらせたまへば。穴山梅雪もしたがひ奉る。右府おもたゞしき設ありて幸若の舞申樂など催し饗せられ。みづからの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。右府やがて京へのぼらるれば。君にも京堺邊まで遊覽あるべしとて。長谷川竹丸(後に藤五カ秀一といふ。)といへる扈從を案內にそへられ。京にては茶屋といへるが家(茶屋四カ次カ。本氏は中島といふ。世々豪富之。)を御旗舘となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。君は先立て都にのぼらせ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが。今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり右府父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて。御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。又六月二日の早朝かさねて本多平八カ忠勝を御使として。今日御歸洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。君も引つゞき堺浦を打立給へば。忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河內の交野枚方邊まで至りし所に。都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て。追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが。忠勝が側に馬打よせて。世ははやこれまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため參候といへば。忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを。君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。
御道の案內に參りし竹丸を近くめし。我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。君年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ。織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば。君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざるコ川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案內をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案內させ。茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河內の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市よりあないにとて吉川といふ者を進らせ。三日には木津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鑓さしのべて柴舟二艘引よせ。主從を渡して後鑓の鐏をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て。今夜長尾村八幡山に泊り給ひ。四日石原村にかゝり給へは。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ。白江村。老中村。江野口をへて吳服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。五日には服部山口などいへる地士ども御道しるべして。宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ。御供の人々いかゞせんと思ひなやみし所。川中に白幣の立たるをみて。天照大神の道びかせ給ふなりといひながら。榊原小平太康政馬をのりこめば思ひの外淺Pなり。其時酒井忠次小舟一艘尋出し君を渡し奉る。やがて江州P田の山岡兄弟迎へ進らせ。此所より信樂までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども。山岡服部御供に候すれば。山賊一揆もおかす事なく信樂につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ。高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり。音聞峠より山岡兄弟も辭し奉る。去年信長伊賀國を攻られし時。地士どもは皆殺たるべしと令せられしにより。伊賀人多く三遠の御領に迯來りしを。君あつくめぐませ給ひしかば。こたび其親族ども此御恩にむくひ奉らんとて。柘植村の者二三百人。江州甲賀の地士等百餘人御道のあないに參り。上柘植より三里半鹿伏所とて。山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ。六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。其地の商人角屋といへるが舟をもて。主從この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大Mにつかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす。)八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。駿遠の諸將を催促せられ。十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一說に熱田とす。)まで御進發ありし所に。十九日羽柴築前守秀吉が使來り申送られしは。秀吉織田殿の命をうけて中國征伐にむかひ。備前因幡の國人を降附し。備中の國冠河屋の城を責落し。高松の城を水責にし。彌進んで毛利が勢と决戰せんとする所に。輝元より備中備後伯耆三國を避渡し。織田殿と講和せんと申送る。此事いまだ决せざるに。都よりして賊臣光秀叛逆して織田殿御父子を弑する注進を聞とひとしく。其よし少しもかくさず毛利が方へ申送り。忽に和をむすび。毛利より旗三十流鐵砲五百挺かりうけ。そのうへ輝元が人質とつて引かへし。十一日攝州尼崎に着陣し。三七信孝。丹羽五カ左衛門長秀等と牒し合せ。十三日山崎の一戰に切勝て。光秀天罰のがれがたく終に誅に服したり。其餘殘黨ことごとく誅伐をとげ候へば。御上洛に及び候はぬよしなり。君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へかへらせ給ふ。然るに右府の家人共は國々にありて。こたびの亂におどろきあはて守る所をすてのぼりければ諸國まな乱れたちぬ。これよりさき右府甲斐の國を河尻肥後守鎭吉に賜はりし時。君近國にましませば萬にたのみまゐらするよし申されしにより。
こたびも君は木多百助忠俊を河尻がもとにつかはされ。此頃のさはぎに其國中もみだるべし。何事もへだてず百助にはかりあふべし。もしまた急に上洛せんとならば。信州路には一揆蜂起の聞もあり。百助に道しるべさせ我領內よりのぼるべしと懇に仰下されしを。河尻疑念深きおのこにて。こは謀をもて我をうしなはせ給ふならんとをしはかり。百助に酒のませもてなすさまして。其夜たばかりて百助をうちころし。其身はいそぎ國人にも隱れて。家兵を引具し甲州を迯出んとす。甲州の者等もとより君の御コをかしこみなつく事なれば。君の御使を伐しとて國人大に怒り。追かけて河尻主從をみな討とりぬ。君は彌武田の舊臣等民間にかくれすむ者を尋召出あるべしと。柏坂峠に旗を立てまねきたまへば。田をはじめこれに應ずる者忽に千餘人に及べり。小田原の北條新九カ氏直は甲州の一揆共をかたらひ。其國を侵掠せんと五万の大軍を引つれ。信州海野口より甲州に向へば。君もM松を打立給ひ同じく甲州にのぞませ給ふに。其國人等粮米薪を献じ御迎に出る者道もさりあへず。古府に陣をすへられたり。これよりさき信濃の諏訪をせめよとてつかはされたる酒井。大久保。本多。大須賀。石川。岡部等。氏直が後詰すと聞えしかば。一先引かへせとて乙骨が原まで引とる所に。氏直勢案の外ちかく追來りしかば。こなたは謀を設け勢を七隊にわかち。敵の大軍嵩にかゝりて先を遮らんとすれば。七隊一度に立歸り旗を立て蹈こたへ。敵進み兼るとみれば鐵砲をかけながら引退きする程に。敵みだりに追事あたはず。敵は五万にあまる大軍。味方は三千の人數にて七里が敵間を引つけ。手を負もの一人もなく引取しは。むかしも今もたぐひまれなる退口とて世いたく稱讃す。(是を乙骨退口と稱す。)氏直若御子に着陣すれば君も古府をたゝせ給ひ。淺生原へおはしまして對陣し給へども。氏直方は御備のきびしきを恐れて手も出さねば。君は新府にうつらせ給ふ。これより數旬の間五万にあまる大軍と。八千不足の御人數にて對陣ましまし。帷幄の外へも出給はずゆるゆるとして。かれより和議をむすばせ引取給ふ。天晴不思議の名將かなと世に感ぜぬ者ぞなかりける。北條美濃守氏規は君今川がもとにおはしたる時よりの御よしみありければ。氏規はかりて上州をば一圓に北條へ渡され。甲信兩國は御領とさだめられ。又姬君一所を氏直に賜はりなんことを約し。永く兩家の御したしみをむすび。神無月廿九日氏直勢を駿府に引とれば。君もM松へ御馬を納め給ひ。大久保忠世には佐久郡。鳥居元忠には郡內を給はり。其外軍功の輩に新恩加恩をほどこされ。民をなで窮をすくはせ給へば。織田家の暴政を苦しみし甲信の民ども。萬歲をとなへて歡抃す。十一年五月石川數正を京に御使して。築前守秀吉のもとへ初花といへる茶壺ををくらせ給ふ。秀吉よりも使もて不動國行の刀を進らす。七月姬君(督姬といふ。)小田原へ送らせ給ひ御婚禮とゝのハせらる。又九月十三日に五カ君生れ給ふ。後に武田万千代丸と申せしは是なり。十月には勅使M松へ參向ありて。正下の四位に加階し給ひ右近衛權中將に進ませらる。この頃は國境を沙汰し給はんがため甲州におはしけるに。其事告まいらすれば。十二月四日M松へかへらせ給ひ勅使を饗應せられ猿樂など催され。勅使には引出物かずがずにてめでたく歸洛せしめらる。十二年二月廿七日三位の昇階し給ひ參議をかけ給ふ。秀吉は亡主右府の讐敵光秀を忽に伐亡せしより威名海內にかゞやけば。陽には右府の嫡孫三法師丸を輔佐し。軍國の政務を沙汰するが如しといへども。實は自四海を統一せんとの志專らなれば。三七信孝を亡し。柴田佐久間などいふ織田家の古老どもを伐平らげ。瀧川佐々などいへるやからも降參させ。北國旣に平均す。北畠中將信雄闇柔といへども。さすが故右府の御子ゆへ舊臣どもみな心をよすれば。先この人を傾けて天下の大業を急にせばやと思ひ立。信雄の家の長どもをあつくもてなしけるにぞ。信雄忽に秀吉の姦計に陷り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかりて家長三人までを誅したり。秀吉終に其計を得て。信雄讒を信じ良臣を誅したりといふを名として信雄を伐亡さんとし。國々の諸大將をかたらひけるに。織田家の舊臣どもゝ時の勢になびきて信雄の方には參らず。秀吉のかたうどする者のみなり。君にも秀吉使進らせてこたび我方に御加勢あらんには。美濃尾張兩國を進らすべしと申まいらせけれど。君は右府よりの盟約變じがたしとて其使をばかへさる。信雄此時は伊勢尾張を領してC州の城にありしが。舊臣等もみなそむき秀吉のかたうどすると聞大におどろき。いそぎM松に使してすくひをこはれける。君は右府の舊好あれば。いかで見はなち給ふべきとて。彌生七日M松をいでます。小田原の氏政表裏のおのこいさゝか守りおこたるべからずとて。御領國のうち甲州は鳥居元忠。平岩親吉。又上杉景勝が押には大久保忠世。駿相の堺長窪の城には牧野右馬允康成。興國寺は天野康景。三牧橋は松平康親。深澤は三宅正次。田中は高力C長に各つはものをそへて守らせられ君は一万五千餘騎にて七月十三日C洲へ御着陣あり。信雄も信長以來の舊好を捨給はず。これまで御出馬ありしを厚くかしこみ淚ながして謝せらる。さて落合村といふ所に屯し給ひけるが。榊原康政が申旨にまかせ後には小牧山に御陣をすへらる。こゝに池田勝入入道といへるは。右府恩顧の下より人となりしが。これも時勢にひかれて秀吉のかたうどし。先尾張の國犬山の城を攻とり。聟の森武藏守長一とともに樂田羽Kに打出で。在々所々を燒立たり。味方には榊原。奥平。酒井。大須賀の輩つきづきに打出で森が勢にはせかゝり。先輕卒を進ませ鐵砲を打かくる。其中にも奥平が勢無二無三に羽K村の小川ををしわたる。森は鬼武藏とよばれし血氣の猛將。それが軍師にそへられたる尾藤なにがしも。都邊の敵をのみあしらひたるてだてを三河武士にをしあて。川をわたさば討てかゝらんとゆるゆる待しに。奥平が三千餘騎會釋もなく突てかゝる。
あとより酒井。榊原。丹羽幷松平又七カ家信等つゞいてをし渡り地煙り立て鑓をいるれば。何かは以てたまるべき。家信時に十六歲。野呂助右衛門といへる剛のものを伐取たり。稻葉一鐵入道はかねて森と牒し合せ段の下に屯し。老波血河に湛ふと高聲にとなへゐたる所に。金扇の御馬印遙にみゆれば。コ川殿出馬ありしといふ程こそあれ。敵はみな色めき立て。終にかなはず引て犬山へかへる。秀吉は此敗軍を聞て大に怒り。十二万餘の大軍を具して大坂を出馬し。犬山城につき樂田にうつり。二重堀などいへる要害をかまへて小牧山に對陣す。これは長篠の戰に右府武田が勢を鏖にせられし故智を用ひしなり。君小牧山より此備を御覽じ。秀吉は我を勝ョと同じ樣に思ふと見えたりとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。卯月六日池田勝入。森長一。堀久太カ秀政に三好孫七カ秀次を總手の大將とし。二万餘騎の兵をわけて樂田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありとしりて。みかたのうしろにまはり三河の空虛をうたんとのはからひなり。君は兼て篠木のク民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原幷に水野惣兵衛忠重。本多彥次カ康重。丹羽勘助氏次。岡部彌次カ長盛などいへる名にあふものらに。甲州穴山勢をそへすべて四千餘の人數にて。敵にしらせじと轡を卷て龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ。此城の守將は本多豐後守廣孝とて康重が父なり。兼てことよさせ給ひしかば。所々に人をしのばせ置。敵龍泉寺を出るをみて小牧の御陣へも注進し。大須賀。榊原。水野。岡部等とはかり夜ぶかく小幡より出立ぬ。君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりは小牧山を打立せ給ばへ。信雄も御跡にしたがふ。敵は九日の朝池田父子先陣して。先丹羽次カ助氏重がこもりし諸和村岩崎の城を攻落しもの始よしと大にスび。浮宇原といふ所にて首實撿し。二陣の堀は一里をへだて愛知郡檜が根に陣し。惣大將秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次が陣こはいかにとあはてふためき。秀次の軍師とョみし穗富の某をはじめ。名あるつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり。味方勝にのり追行所に。二陣の堀が勢かくと見るより旗をすゝめてかけあはせ。火花をちらし烈しく戰ふ。先手にありし池田森も惣大將秀次敗走すときゝ是を救はんと引かへす。君は小牧山より三十餘町勝川兜塚といふ所にて御甲胄をめさる。これ當家の御甲胄勝川と名付らるゝ事のもとなり。(椎形溜塗の御兜K糸威の御鎧。)御湯漬を聞召ほどに夜は明はなる。こゝに先手の人々はや首取てかへり。御覽ぜさせ奉る者も少からず。十人の鐵炮頭井伊万千代直政が二千餘兵を先とし。御旗下には小姓の輩幷甲州侍のみ供奉し。直政が勢は富士の根の切通しより進めば。君も其跡より田の中をすぐに引つゞきかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑいゑいとかけ聲して堀が備に競ひかゝる。池田森が人數は山際より扇の御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて。すはコ川殿みづから來り給ふといふより。上下しどろにみだれ色めき立しに。直政が手の者下知してかけたつれば。森武藏守長一まづうたれ。池田勝入もみだるゝ勢をたて直さんと下知しけるが。永井傳八カ直勝につきふせられ首をとらる。其子紀伊守之助も安藤彥兵衛直次に討る。この手の大將池田父子森三人とも討れしかば。戰はんとする者もなくひたくづれにくづれたり。味方追討して首をとる事一万三千餘級なり。秀吉は樂田の本陣にて長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八万餘人を十六段になして押出す。小牧山にのこされし諸將の中にも。本多忠勝かくと聞て。殿の御勢立直さゞる間に。京勢大軍新手を以て押かゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳行て討死せんといへば。石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し。忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南をはせ行ば。京勢は大軍にて川の北をゝし進む。忠勝我こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば。其間には殿も御人數を立直さるべしとて。秀吉の旗本へ鐵砲打せて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし。さてさて不敵の者も有ものかな。誰かかの者見知たるやととへば。稻葉一鐵侍りしが。鹿の角の前立物に白き引廻しは。先年姉川にて見覺えたるコ川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉淚をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主從を終には味方となし被官に屬せんと思へば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其擧動を感ずる事かぎりなし。長久手にては君味方の者ども勝に乘じ長追すなと令ぜられ。信雄と共に軍をかへされんとする所に。忠勝馳付て見參せしかば。よろこばせ給ふ事なゝめならず。直に忠勝に御あとうたせ給ふ。其頃はや千生瓢簞の馬印龍泉寺の上の山へをし出すを君御覽じて。先手の物頭三人までうたせて。筑前さぞせいたであらふとほゝゑませながら。小幡の要害へ御馬を納めらる。秀吉息まきて龍泉寺までをしよせたれども。御勢は皆引とりたる跡なれば。大に腹だちおどりあがりおどりあがり。いそぎ小幡へかけよせんとたけりけるを。かの家人稻葉蒲生等日はやくれかゝりぬと諫めければ。せん方なく柏井に陣どり。翌朝は拂曉に小幡へ攻かゝらん心がまへせしに。君其機を察し給ひ。勝は重ねぬ者ぞとて信雄と共に夜中に小幡を立出給ひ。小牧山に御歸陣ありしかば。秀吉が兼て出し置たる斥候の者どもかくと注進す。秀吉掌を打て長く歎息し。誰かコ川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大將あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。これも夜明ぬ先に。十二万の軍勢をくり引に樂田へ班軍せり。
(これを長湫の大戰といひて大戰の第四とす。案ずるに此一戰京方は四月六日の朝勝入出軍。同日晝森出軍。一日へだてゝ秀次と堀出軍。先手とは三里をへだてたり。君には三河迄敵を入たゝせゆるゆる岡崎へをし詰て戰はしめば勝といへども。小牧の本陣遠ければ覺束なし。小牧山近邊にて兵を交へば秀吉速に後詰すべし。されば戰塲は長湫の外にはなしと定められ。御先手より四里へだてゝ旗本勢を押出し給ふ。これは上方勢は大軍。御先手は小勢なり。味方初度は勝て後度は敗るべし。上方勢利を得ば勝に乘じ長追して足を亂るべし。其亂れし所へ井伊が勢と旗本勢五千の人數にて討てかゝらんに。味方勝ざる事はあるべからずと神算旣に定め給ひ。御先手とは四里へだてゝ御馬をすゝめたまひしなり。)この後秀吉さまざまと手だてをかへて戰つれども。事ゆくべくも見えざれば。心中また謀を考へ出し。信雄をすかしこしらへて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば君もM松へかへらせ給ひ。やがて石川數正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。秀吉今は從三位の大納言にのぼり。武威ますます肩をならぶる者なし。M松へ使を進らせて。信雄旣に和平に及ぶうへは。秀吉コ川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ。君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。又信雄につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれコ川殿御曹司のうち一人を申受て子となし一家の好をむすばゝ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二カ君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。其頃秀吉卿は正二位內大臣にのぼり。あまつさへ關白の宣下あり。天兒屋根の尊の御末ならでこの職にのぼらるゝ古今ためしなき事とて。人みなめざましきまで思ひあざみたり。關白いよいよ和平の事を申進らせらるゝといへども。いまだ打とけたる御いらへもましまさねば。十三年の冬重ねてM松へ使まいらす。君この頃泊狩にわたらせ給ひければ。關白の使御狩塲へ參り對面し奉る。君鷹を臂にし犬をひき給ひながら。我織田殿おはせし時旣に上洛し。名所舊蹟もことごとく見たりしかば。今さら都戀しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿天下のためとてとり申されしゆへ。秀吉の子にまいらせたり。今は我が子にあらざれば對面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻下らむ時は。我も美濃路のあたりに出むかへ。この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰ながら。又鳥立もとめて立出たまふ。かの使かへりて斯と申せば。關白重て信雄とはかられ。君の北方先に御事ありし後。いまだまことの臺にそなはらせ給ふ方も聞えず。秀吉が妹を進らせばやと懇に申こはる。淺野彌兵衛長政などよくこしらへで終に御緣結ばるべきに定まりしかば。M松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも關白のあながちに忠勝が名をさしてよびのぼせられしなり。四月十日かの妹君聚樂のたちを首途し給ひ。おなじ廿一日M松へつかせたまふ。先榊原康政がもとにて御衣裳をとゝのへられて後入輿し給ふ。御輿渡は淺野長政。御輿請取は酒井河內守重忠にて。其夜の式はいふもさらなり。廿二日御ところあらはしなど。なべて關白より沙汰し給ふをもて。萬に美麗をつくされしさまいはむかたなし。これ後に南明院殿と申せしは此御事なり。此後は關白彌君の御上洛をひたすらすゝめ申されしが。遂にこしらへわびて母大政所を岡崎まで下し進らすべきに定まりぬ。君は宗徒の御家人をあつめられ。關白其母を人質にして招かるゝに。今はさのみいなまんもあまりに心なきに似たり。汝等思ふ所はいかにと問せ給ふ。酒井忠次等の宿老共は。秀吉心中未だはかりがたし。かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻下る共。京家の手際は姉川長湫にて見すかしたればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思召とまらせ給へと諫め奉る。(さきに眞田安房守昌幸がそむきしを誅せられんとて御勢をむけられし時。眞田は秀吉に內々降參せし事ゆへ。秀吉越後の上杉景勝をして眞田を援けて御勢を拒がせ。又當家の舊臣石川數正は十万石を餌として味方に引付たり。されば上杉と謀をあはせ新降の眞田小笠原を先手とし。數正降參の上はコ川家の軍法は皆しるべければ。是を軍師とし三遠に攻下らんとの計畧ありと世上專ら風說すれば。普第の御家人等は秀吉をうたがひしもことはりなり。)君聞召。汝等諫る所尤以て神妙といふべし。然りといへども本朝四海の亂旣に百餘年に及べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸くしづかならんとするに及び。我又秀吉と牟盾に及ばゝ。東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤いたましき事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を殞さんは。何ぼうゆゝしき事ならずやと仰せらるれば。忠次等の老臣等。さほとまで思召定められたらんにハ。臣等また何をか申上べきとて退きぬ。是終に天下の父母とならせ給ふべき御コは。天下万民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらはれたりと。天下後世に於て尤感仰し奉る事になん。旣に御上洛あるべしと御いらへましましければ。關白よろこばるゝ事斜ならず。其神無月四日關白執奏ありて君を權中納言にあげ給ふ。やがてM松を打立せ給ひ。同じ廿五日御入洛あれば。其夜關白ひそかに御旅舘をとはせられ。長篠の戰の後十二年にて對面せらるゝとてス大方ならず。さて君の御耳に口よせさゝやかれしは。黃門兼てしり給ふごとく。秀吉今官位人臣を極め兵威四海を席卷するといへども。もと松下なにがしが草履とりて跟隨せし奴僕とは誰かしらざらむ。やうやう織田殿に見立られ武士の交りを得たる身なれば。天下の諸侯陽に畏服するが如しといへども。心より實に歸順する者なし。今被官となりし者どもゝもとは同僚傍輩なれば。實の主君とは思はず。
願くば近日表立しく對面進らせむ時に。其御心して給はるべし。秀吉に天下をとらせらるゝも失はしめらるゝも卿の御心一にあり。此事ョみ奉りたくかく上洛をばすゝめ進らせたりとて。御脊をたゝかれければ。君聞召。旣に御妹にそひまいらせ。又かく上洛いたせし上は。ともかくも御ためあしくははからひ候まじと答給へば。關白彌よろこばる。やがて大坂にわたらせ給ひ。いかめしき作法どもにて御太刀御馬こがね百牧進らせられ。いたく敬屈してぬかづかせ給ふを見聞して。中國筑紫の諸大名まで。大政所を人質として上洛し給ふコ川殿猶かくの如し。我々いかでか秀吉を輕蔑する事を得んとて。これより國々の大名關白を尊敬日比に十倍せしとぞ。關白よろこびに堪ずさまざまもてなして。そのかみ秀吉越前金が崎にて討死すべかりしを。卿の御情にて虎口をのがれ。今この身となれり。此御恩いつの世にかはわするべき。神かけて弟秀長に存かへ申べき心はなしなど巧言をつくされ。供奉の人々にもかづけものこちたく行はれ。十一月五日には君を正三位にすゝめられ。都を出たゝせられ岡崎にかへらせ給ひければ。大政所をも都にかへさる。この御送りには井伊直政ぞまいりける。これも關白のことさらの仰にてつかはされし事なれば。直政をもあつくもてなしてかへさる。都には此ほど御位ゆづりあり(正親町院御讓位。後陽成院御即位。)關白は內大臣より太政大臣にのぼり。氏をも豐臣と賜はる。君はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。M松には元龜二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒うせけるを新に經營せられ。五ケ國(駿遠三甲信。)の本府と定められ御在城ましましたるなり。十五年には關白九州を討おさめられむとて。畿內近國の軍勢筑紫に發向す。當家よりも本多豐後守廣孝軍中の御とぶらひとしてつかはさる。折ふし關白の軍勢秋月が巖石の城に攻寄し時なりしに。廣孝馳加て高名せしかば。關白もコ川殿の家人に獵の利ざる者なしといたく感ぜられしとぞ。扨島津義久も戰まけて降參せしかば。關白も歸洛し給ふ。君これをほがせ給ふとて都へのぼらせ給ひしに。八月八日從二位權大納言にうつらせ給ふ。此程駿府にても長丸君加冠し給ひ從五位下藏人頭に叙任せられ。關白一字を進らせられ秀忠となのらせ給ひ。その日又侍從に任じ給ふ。この師走の廿八日には君また左近衛大將をかけて。左馬寮の御監に補せられ給ふ。是は鎌倉室町このかた將軍家のほか此職に補せられず。いとありがたきためしなるぺし。十六年には關白聚樂の亭に行幸なし奉るとて。よの中花やきにぎはしき事いふもおろかなり。君もやがてのぼらせたまふ。今は上達部にて鳳輦の供奉し給ひ。聚樂にて日をかさねかずがずの御遊ども催さる。御歌は御製をはじめ親王だち上達部殿上人いとあまたなるが中に。君も松の葉每にすべらぎの千代の榮をちぎりことぶかせ給ふ。發聲披講などとりどり近き世にはめづらしくめでたき事多し。此時君は大和大納言秀長ならびに秀次秀家の中納言と共に。內の仰ごとによてC花の上首につかせ給ふ。又行幸に先立て井伊直政。大澤基宥は侍從に任ぜられ。其外爵ゆるされし御家人どもあまたあり。 
 
巻四

 

天正十年五月織田殿の勧めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覧終り。既に御帰洛あらんとせしに。茶屋四郎次郎清延たゞ一騎来り。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り。忠勝四郎次郎とゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に帰り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ。半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川数正。榊原康政等にむかひ。若年のものの申事ながら。君御帰京有て無益の死を遂られんよりは。速に本国にかへらせ給ひ。御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ。山賊野伏の為に討れんよりはと思ひ帰洛せんとはいひつれ。誰か三州への案内知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺の郷導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し。故主の恩に報じなん。これより河内山城をへて江州伊賀路へかからせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひ/\〃しく御受申せば。君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案内させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河内路へて山城に至り。宇治川にて河の瀬知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その辺にいつき祭る呉服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立て郷導し奉れば。郷人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信楽に至らせ給へば。土人木戸を閉て往来を止めたり。此地の代官多羅尾四郎光俊はこれも秀一が旧知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戸をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を御加護の為とて献る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ごとに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞清廣はじめ。かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案内し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大浜の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を。常に用ゆる椀に盛て献る。菜はなきかとのたまへば蜷の塩辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大浜に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ。明る日岡崎へ御帰城まし/\ける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の涙を催せしとぞ。(武道雑談、永日記、貞享書上、酒井家旧蔵聞書、続武家閑談)
この御危難の折御道しるべして勲功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四郎兵衛長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣実父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉り。これより供奉して江州の光綱が家へ案内し奉り。伊賀路の一揆ども追払ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。」又山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都将軍家に勤仕す。弟の対馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共逆党に背き。勢田の橋を焼断て追兵を支へ。御駕を迎へ賊徒を追払ひつつ。伊賀の闇峠まで供奉せり。」又伊賀の侍柘植三之丞清廣といひしは。これよりさき天正九年三河に参謁して。伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に属せんとす。願くは御書をたまはる事かたし。たゞ元の如く本領を守るべし。もし當家に従はんとならば御領国に遷るべしとなり。その後伊賀の者猶織田家の命に従はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隠て時節を窺ふ所に此度の事起りしかば。清廣をのが一族伝兵衛。甚八郎宗吉。山口勘助。山中覚兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三郎茂濃。和田八郎定教。武島大炊茂秀等を勤め。みな人質出して郷導し。鹿伏兎越の険難をへて伊勢まで御供す。後年関原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に参りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直参となり。鹿伏兎越まで供奉に半途より帰国せし二百人のものどもは。服部半蔵正成に属せられ。伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。専ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附属する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直参となり。その以下は諸隊に配せられて与力同心となされしもありしなり。(諸家譜、武徳編年集成、伊賀者由来書)
武田亡びてのち織田右府駿河国をば當家へ進らせ。甲斐国をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたにもまめに受引給ひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎮吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ甲州人の皆當家に従ひ。鎮吉に服するもの少きは。全く當家の御所為なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。国人にはひたすら心置しゆへ。国人もいよ/\心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近将監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召。その旧友なれば本多百助信俊をつかはされ。万事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには。此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案内せしめ。わが領内を経て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎮吉いよ/\疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞伝へて甲人一揆を起し鎮吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれば。彼が謀議の為にもと思ひ百助をつかはせしに。かゝる無道人にあひて。御泪数行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給へとすゝめしに。それは川尻が二の舞にて。家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき様もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ。その間をうかゞひ。北条氏政父子責入よしとり/\〃風聞し。国人も北条が民にならんは念なし。當家より御旗をむけられなば皆々打かたらひ。時日をうつさず甲州一国を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ。国人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを専らとせられ。いさゝか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話)
甲斐の若御子にて数月の間北条氏直と御対陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北条が領とし。甲信二国は當家の御分国とせられ。且督姫のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野辺山の陣を払て退かんとするに及び。平沢の朝日山に砦を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と旧好あるをもて。こたび彼が強ちにこひ申にまかせ盟約を定め。且婚家たらん事をもゆるしぬ。さるにわが領国の内に城築く事不当の至なれ。この上は有無の一戦を決すべしと仰有て。朝比奈弥太郎泰成もてこの由北条が方へ仰つかはさる。此とき敵は平沢より信濃路へ引払はんとする所に。當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北条が答遅々せば直に打てかゝらん形勢したれば大に恐れ。早々人質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさま/\〃謝し報りければ聞しめしとどけられ。こなたよりも人質をつかはされ。両陣互に引払ひしとなん。(落穂集。武徳編年集成)
この対陣のとき。味方の内誰なりとも。鉄砲打かけて敵陣の様試みよと仰有しに。いづれも遅々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足軽めしぐし鉄砲持せてはせいで。その子彦助正吉は父が指物を相図として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覧じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ。御杖もて二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど。武道のうきやかなる様かな。彦助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを献りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小田原の北条が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだい/\〃と見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。浜松には稀なると見えたり。こゝにはあまたあり進らせんとて。だい/\〃を長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて献りけり。君小田原のものどもこの葉をあぢはひもせず。たゞだい/\〃とのみ思ひとりて。かゝるなめげの挙動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家国の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰られしとなり。(東武談叢)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覧じ。哀むべrし次郎助一定討死しつらんとのたまふ。こは丹羽次郎助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が為に戦て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬり黒糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人数押の声ゑいとう/\といふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊萬千代直政が赤揃一隊をやりすぎて。行伍の乱れしを御覧じ。あれとゞめよ。足並乱して備を崩すことがあるものか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。直政山を越て人数を押むといふに。広瀬。三科の両人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳来り。かかる事は若大将の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。君は竹山へ御上有し所へ。内藤四郎左衛門正成還来て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝりたまふべきやみだりの事ないひそと制す。主水いかに弥八。御辺は座敷の上の御伽噺や。会計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり。今日は御大将の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。君も咲はせたまひながら。さあ出んとて金の扇の御馬験を押立て進ませ給へば。敵は是をみて。さてこそ徳川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武蔵守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする内に鉄砲に中て死しければ。これを御覧じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立ていよ/\敗走する所に。永井傅八郎直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語、東遷基業)
池田。森の両将既に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳来り。龍泉寺の上の山に金の瓢箪の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戦難儀なるべきに。早く其機を察し引上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。君ははるかにかの馬印を御覧じて。
筑前頼み切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。榊原康政進み出で。仰のごとくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機会なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半蔵守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御帰陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を点じて居し所へ敗軍の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の辺にて軍の状を尋られしに。徳川殿は既に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をうち。さて/\花も実もあり。もちにても網にてもとられぬ名将かな。日本広しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後来長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が方寸にありといはれしとか。(渡邊図書小牧長久手記、落穂集)
按に一説に。このとき酒井忠次。秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の緒をしむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て残党全からずと申せば。唯今こそよき図なりといふ内に。敵はや柵を附たれば。明日は秀吉に降参したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を両様にいひ傅へしなり。
本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川数正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。既に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋に出て拝謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よく/\御見限ありしと申上れば。君われ身を二つに分たる心地して汝を小牧に残し置しゆへ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ。小幡に入らせたまひなり。(柏崎物語) 
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の様を伺しめしに。昼の程長途を馳来りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討かけて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いや/\とのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豊後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を触られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひしに。小牧へ御馬を入られしかば。誰も/\おもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日浜松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは。秀吉をうち得んと思ひてか。またはたゞ戦にかたせんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへなりと聞えあげしかば。われもさは思いし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。昼の戦に池田。森の両人を討しさへ。一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話別集)
按に菅沼藤蔵定政が譜には。既に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の様伺はしめしに。今にも襲ひ来らんよしいふ。よて藤蔵定政をめして。彼等がいぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬいで飯くひ居たり。今来らん様にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勧め奉れば。我もさこそは思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空塁なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。この戦に平松金次郎は。茜の羽織に十文字の鑓をもち。一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見参に入しかば御感あり。追討の時は鎌もて草を薙ぐが如しといへば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。」又大脇七兵衛は金次郎と同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次郎一番なりと仰ける所へ。七兵衛つとまいり。某も其場に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ様の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の様にて。汝がいふ所の如く是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしとなり。」又高井助次郎実重といひしは。其父蔵人実広今川の家臣なるが。桶狭間の戦に討死し。助次郎も亦氏真につかへ終始節を改めず。この戦に諸人いづれも高名したるに。助次郎一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏真の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戦に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしかば。助次郎は思ひよらず面目を施しける。」小笠原清十郎元忠は兼て弓篭手をこのみてさしけるを御覧有て。弓篭手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働のならざるものぞといましめたまひが。この戦に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され。左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしちなり。」又成瀬小吉正成このとき十七歳なりしが。敵陣に蒐入て首一取来て御目にかくれば。その勇を称せられ。唯今旗本の人数少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩れかゝる様をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成葉武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さず。君この躰を御覧じ。士の討死すべきはここなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを励しつゝ奮戦し。又首を得てかへりぬ。のちに正成が戦功を賞せられ。汝の働は宿将老師にもまされりとて。根来の騎士五十人を附属せられしとぞ。(感状記)
玉虫忠兵衛といひしは。甲州の城意庵が弟にて。信玄謙信に歴事し。後に當家に参りこの役にも供奉し。御行軍のさま拝覧して有しが。君忠兵衛にむかはせ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。君の御軍略は甲斐。越後にはおとらせたまふとも。御勇気の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末頼もしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上総介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりとて。御いかりあれて追放され。玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雑記、古士談話、大坂覚書)
初鹿野傅右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同国に入らせたまひしとき。傅右衛門さま/\〃走廻りて勲功有しかば召抱へられんとせしに。己が旧知の四百貫に。実父駿河が遺領二百五中貫の地を共に書入て。證状となして捧げしかば。兄弟後及第弥平次郎両人。傅右衛門が一人して父が遺領とらん様なしといひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の旧知のみをたまひければ。傅右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の内には。親兄弟の者を結び入てしるし出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかり賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人御前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん様もなしとて。さきに賜りし御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音吐てゐたり。このよし岩間大蔵左衛門聞付て。もとより傅右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世々武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其禄収公せらるゝとなり。かくて傅右衛門旧知にも離れ。流浪の身となりて宥しが。此度の戦にひそかに御陣に従ひ。三宅弥次兵衛正次と同じく敵の首取て。内藤四郎左衛門正成に就て披露をたのみけれども。御咎蒙りし者ゆへ。はばかりて聞え上ず。其折君はるかに御覧じ付られ。傅右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへす/\〃仰ければ。傅右衛門かしこさのあまり涙ながして拝伏す。其時弥次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傅右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。弥次兵衛も直実なるものよと。これも御賞誉を蒙りしなり。」小幡藤五郎昌忠は甲斐の小幡豊後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北条と御対陣のとき。平原宮内といふ者北条に志を通じけるよし露顕し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮内を切とむ。宮内倒ざまに払ふ刀に昌忠左の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のまじらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辞するに及ばずとて。もとのごとくめしつかはれたり。さてこの日の戦に昌忠敵の首二切て御覧にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて捧げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後近臣にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずといふをしらしめんとて。家人のとりしをば別に見せしめしならん。とかく甲州人には油断がならぬと仰られしとぞ。」又水野太郎作正重は己が隊下の同心。銃もて森武蔵守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて。正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覧じ。御馬廻に命じ。同じくかけ破らしむ。軍終てのち。今日の戦大久保忠佐こそ。先登して大功を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乗下せしは某なり。御ことは其折渡邊弥之助光と同じく久下に控られたり。余人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御辺は数度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御辺に似合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見届たりと申す。君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。」又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに。守綱鑓を落しければ。孫之丞敵の中けかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武蔵坊弁慶にもまされり。今より氏を武蔵と改むべしと仰有て。あらためしなりとぞ。(岩淵夜話別集、落穂集、家譜)
小牧対陣の折當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの宥しに。秀吉折しも碁を打て居られしが。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのごとく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどならば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戦ふなと仰られ。荷中に及び両陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝりたまはざりしといふに。君その折家臣どもは皆軍せよと勧めつれど。某は小牧より勢をこなたに引付て討むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戦はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良将のよく軍機を熟察有しは。期せずして符を合するごとくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戦話)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり柵をつくるを御覧じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝頼を待うけしに。勝頼血気の少年ゆへ陣をみだして切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ図に引付。鉄砲にて打すくめ。労せずして勝を得しなり。今秀吉その故智を用ひ柵などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝頼と同じたぐひの対手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穂集)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州清州におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ触しめらる。尊通といへる右筆その状をかきて御覧に入しに。可2出馬1とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可2出馬1とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機運なりとて。かきかへしめられしとぞ。」同じ城責のとき瀧川が内に。瀧川長兵衛といふ名ある者を捕へ来りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。當家の兵鋒日数重ねても撓むことあるまじと思ひ。城兵をのづから退屈すべしと思しめしてなり。」酒井忠次はこの城直に攻潰すべしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。君には城攻を忘れ給ふかろさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動静を伺はしむるに。此度一益秀吉に頼まれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞給ひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとてその旨仰つかはされ。且城将前田與十郎を切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のごとく一益をゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び。追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふとはゞ。秀吉方のものども思ひの外にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉。一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領内越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておはします。この後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく。湯まきめしながら御出馬あり。従ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。残卒はいまだ上り終らざる内に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書、小早川式部物語、老人雑話)
佐々内蔵助成政越路の雪をふみ分つゝ。さら/\越などいふ険難の地を歴て。ひそかに浜松へ来て。まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよ/\心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし。はる/\〃参着せしを労せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の旧好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政旧主の為に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの序に。君を信玄に比し。己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は己に秀吉と和せし上なれば成政が言に従はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降参せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次郎正長めして仰有しは。佐々は頗る人傑なり。かゝる者には知人になりて。その様見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおのこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇気にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ、(柏崎物語)
真田安房守昌幸。上田。戸石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。真田は信玄の小脇差といわれしほどの古兵にてあれば。さだめてかの城鵜も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の為に討れたれば。此度弔ひ合戦すべきなど思ひまうけしもしるばからず。彼がごとき小身ものに。五ヶ国をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科。蘆田などに扱せよと仰けれども。老臣強て申請により。大久保。鳥居などの人々に。二萬ばかりそへてつかはされしが。果して真田が為に散々打まけて還りしかば。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部弥次郎長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し。真田が様を見せよと命有て。長盛丸子に於て真田と戦ひしに。打勝て真田上田に引退しかば。ことに長鵜盛が戦功を御賞誉有しとなり。(御名誉聞書)
三河草創よりこのかた。大小の戦幾度といふ事をしらざれども。別に當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに従ひ機に応じて御指麾有しのみなり。長久手の後豊臣秀吉たばかりて。當家普第の旧臣石川伯耆守数正をすかし出し。数正上方に参ければ。當家にて酒井忠次とこの数正の両人は第一の股肱にて。人々柱礎のごとく思ひしものゝ。敵がたに参りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。盲に目のぬけしなどいふ譬のごとく。重ねて敵と戦はん事難かるべしと誰も案じ煩ふに。君にはいさゝか御心を悩し給ふ様も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめて浜松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直参のものをはじめ。直政に附属せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。様々採有し上にて尚又取捨したまひ。當家の御軍法一時に武田が規護(元字は矢篇)に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰広く伝へしめられたり。(岩淵夜話別集)
此巻は伊賀路の御危難より。長久手御合戦の後までの事をしるす。 
 
東照宮御實紀卷四 / 天正十七年に始り慶長八年に終る
豐臣關白軍威ますます盛にして。しらぬひや筑紫のはてまでも伐平らげ。島津義久も降參しければ。今は六十餘州のうちに東國の北條ばかりぞ猶從ハず。是により使を立て召けれどもさうなくうけひかず。(是より先に君北條と御和平有し時。甲信兩國は君の御領とせられ。上州をば悉く北條が領とすべしと約せられたり。然るに上州の內沼田は。眞田昌幸が領なればとて北條へ渡さず。よて北條より其旨君にうたへしかば。君眞田に沼田を北條へ渡すべし。其代地は别に賜ハるべしと仰下さるゝと雖。昌幸胸中甚奇險にてこれに從はざるのみにあらず。終に當家を去て豐臣家へ歸降せり。さるゆへに眞田が命に應ぜざる罪を討せられんとて。御勢を沼田にむけらるれば。秀吉ひそかに越後の上杉に命じ。眞田をたすけて御勢を拒ましむ。今度北條を關白より召によりて北條使を登せ。眞田が所領を引渡すべしと仰下されんには。氏政父子快く上洛せんと申により。今度は關白よりの命にて眞田も止事を得ず沼田を北條に渡す。然りといへ共其うち奈胡桃の地は眞田代々の葬地なればとて。是は眞田が方に殘したり。然るを程なく北條又眞田が留守の家人を追出し其地を奪ふ。眞田又是を憤り其旨を關白に訴へなげく。關白是に於て北條が反覆常なしと怒らる。これ終に關白東征の名を得る所。ひとり北條が代々關東を押領して。天朝に朝聘せざる罪を以てするのみにあらざるなり。)氏直今は姬君にそひまいらせしたしき御中なりければ。君もさまざまにこしらへて上洛を進め給ひしかども。氏直が父氏政はをのれ代々關東をうち從へ。一族廣く家とみゆたかなれぱ。世におそろしき者なしとのみ思ふいなかうどにて人の諫めをも用ひず。とかくして天正も十八年になりぬ。去年の程より關白は北條討るべしとて。兵粮の用意軍勢の催促など。いかめしく國々に觸わたさるれば。君も都にのぼらせたまひ。軍議どもおはしまして歸らせたまひしが。此春は若君(台廟の御事。)を都にのぼせ。關白にはじめて對面せさせたまふ。關白よろこび懇にもてなされ。この殿あまりにいはけなくわたらせ給ふを。久しく都にとゞめ參らせば。父亞相さぞうしろめたくおぼさるべしとて。直政を始め從者等に數々のかづけものしてかへさる。君は關白こたび若君を速にかへされしは。程なく關東へ軍を出されんに。我領內の城々をかりたまはむとの下心なるべし。其心せよと司々に仰下され。城々の修理加へ道橋おごそかにかまへ給ふ。やがて關白。こたび小田原を征せんとき君の城々をかし給はむ事を。みづからの消息もてこはせらる。君もとよりその御心がまへなれば。とみに其こひにまかせ給ふ。御家人等はいかでかうまでは。兼てよりはかりしらせ給ふらんと。いぶかしく思ひあざみたりとぞ。かくて彌生朔日關白內へ參り給ひ。年頃絕し例を引出し節刀など賜はりて二日都を立出給ふ。其勢は廿二万餘騎とぞ聞えける。君は如月十日駿河を出ます。御勢二万五千餘騎。あらかじめ軍令十三條仰下さる。(君御出陣に軍令を仰くだされしは。小田原と關原と二度のみなり。)教令最嚴なれば軍旅往來の道の煩もなく。御先手ははや由比倉澤邊へ着陣す。關白は十一日に三河の吉田川ををし渡らんとありし時。このわたし塲の奉行せし伊奈といふ男。この程日數へし長雨に川水いたく水かさそひてうづまきながるれば。軍勢をわたされんことかなふべからず。今しばし此所にとまらせらるべうもやと聞えあぐる。關白軍法に。前に川あらん時雨降て渡らざれ。は後に渡る事を得ずといへり。何かくるしかるべき必渡りなむと仰けるに。伊奈眼に角をたて。こは殿下の仰とも覺えず。雨をいとはず川を渡すは小軍の事なり。大軍暴漲を犯し川を渡らんとすれば。人馬沈溺少かるべからず。敵この風說を聞んに。十人を百人百人を千人と云つたへ。敵の心には勇をそへ。味方には臆をまねくものに候はんかといふ。關白手を拍て。亞相の家には賤吏といへども。皆軍旅の智識多しと感じ給ふ事大方ならず。其諫を用ひこゝに三日滯留ありて。十九日に駿府につかせらる。關白家に石田三成といふ功者あり。かれ讒謟面諛の奸臣にて。當時天下の諸侯諸士かれが舌頭にかゝりて。身をも國をも失ふものあげてかぞふべからず。かれ此地に到りコ川殿北條とはむすぼゝれたる中なればその心中はかりがたし。御心用ひなくてはかなふべからずと申けるにぞ。關白忽に疑を生じ駿府に入かね給ひけるが。淺野長政大谷吉繼等とかくこしらへて。關白も疑とけ城にいらる。廿七日には沼津につかれ。廿八日諸大將をともなひ敵地の要害を見巡り給ひ君をむかへて攻城の事をとひはかられ。やがて先北條が手のもの籠置たる山中の城を責落し。韮山の城をせめかこみ。時の間に箱根山を馳通り小田原の城に押つめらる。是よりさき伊豆の戶倉。泉頭。獅子M等の城々攻ざるに皆迯落て小田原へ籠る。城中にもさすが八州に名をしられたるおぼえの者共悉くあつまり。兵粮軍勢多くこめ置て堅固に守りければ。たやすくはおとさるべうも見えざりしが。君の御勢井伊直政眞先かけて宮城の口篠曲輪等を責破る。其上君の御計ひによて。北國は上杉景勝。前田利家等を大將とし。眞田小笠原等の諸軍勢上野國より攻入。松枝。深谷。本庄。安中。武藏の松山。川越。鉢形。三山等の城々を攻下し。御家人本多。鳥居。酒井等の勢は上州和田。板鼻。三倉。布川。藤岡等の城々を攻ぬき。上方勢と共に合して上總下總の廳南。廳北。伊南。伊北を始め四十八ケ所の城々皆責下し。武藏江戶。岩槻。忍。八王子等の城々も皆落す。それのみならず小田原にも松田某などいへる腹心の輩。寄手に內通するものも多ければ。いまは孤城守りがたく防戰の手だてをうしなひ。氏政氏直父子はじめ一族家人等皆降をこふをもて。氏政にははらきらせ。氏直をば助けて宗徒の家人をそへ高野山にをしこめぬ。さすが氏直は君の御むこなれば關白もさのみからくももてなされず。後には大坂によびよせ。西國にて一國をあたへんとありしが。
不幸にして氏直痘を病てうせければ北條の正統はこゝに絕ぬ。さて關白ハ諸將の軍功を論じ勸賞行ハる。駿河亞相軍謀密策。今度關東平均の大勳此右に出るものなければとて。北條が領せし八州の國々悉く君の御領に定めらる。(秀吉今度北條を攻亡し。その所領ことごとく君に進らせられし事は。快活大度の擧動に似たりといへども。其實は當家年頃の御コに心腹せし駿遠三甲信の五國を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆへは關東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇都宮。那須。常陸に佐竹等あれば。八州の內御領となるはわづかに四州なり。かの駿遠三甲信の五ケ國は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば加藤遠江守光泰を置。後に淺野彈正少弼長政を置。東海道要樞のC須に秀次。吉田に池田。M松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山內。駿府に中村を置。是等は皆秀吉服心の者共を要地にすえ置て。關八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず。又關東は年久しく北條に歸服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案內にて一揆を征せんには必敗べきなり。其敗に乘じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。されば御家人等は御國換ありとの風說を聞て大に驚き騷しを。君聞召。汝等さのみ心を勞する事勿れ。我たとひ舊領をはなれ。奥の國にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけるとぞ。果して八州の地御領に歸して後。彌我國勢强大に及び。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて爭ふべきにあらざりけり。)又御舊領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召よせ。關東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御發輿ありて。八月朔日江戶城にうつらせ給ひ。萬歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。抑此城といふは。むかし鎌倉の管領上杉修理大夫定政第一の謀臣太田左衛門持資入道道灌が康。正二年繩張し長祿元年成功せしが。文明十八年道灌うせて後は。管領より城代を置て守らせしに。大永四年小田原の北條のために攻とられ。此後は北條より遠山左衛門佐景政して守らせたり。然るに此度御勢共其城せめとらんとてむかひし時。遠山眞田などいへる者共忽に降參して此城を進らす。よて戶田三カ右衛門忠次にうけ取しめられしなり。げにも道灌さる文武の老練にて取立し城ゆへ。この頃まではいまだ規摸狹少なりしかども。四神相應最上の城地なりといふもことはりにこそ。かくてみうちの人々も駿府より俄に引うつる。七月の始にこのことはじまり。八月より九月はじめ迄に。五ケ國の御家人大小引拂ひたるよし關白も聞給ひ。いつにはじめぬ亞相の下知の神速さよと感にたへられざりしとぞ。やがて井伊。榊原。本多。酒井。大久保等をはじめ。當家に名ある輩みなしる所多く賜はりけり。關白は此ついでに奥の國いではの境までも打おさめんとて。先江戶におはしけるに。此城いまだ狹隘にて關白の宿らせ給ふべき寢殿もなければ。北郭平川口の法恩寺といへるを旅舘となされてさまざま饗せらる。關白會津K川の城までおはしけるに。伊達南部等の國人どもはとく小田原の御陣にまいりしたがひぬれば。なべて背く者もなく。其長月ばかりに歸洛せらる。十九年には奥の大崎葛西の地に一揆蜂起する聞え有により。關白再び出馬せらるべしと聞えければ。君も是をたすけ給はむとて。下總の古河までいたらせ給へば。一揆みな落うせて平らぎぬと聞ゆ。よてまづ御馬を江戶に納め給ふ。此事に座して伊達政宗重く罪蒙るべかりしをも。君とかくこしらへて政宗ゆるされ國にかへる。夏の末より其一揆又蜂起すれば。京よりは秀次を大將にて軍勢せめ下る。秋の始又君も御馬を出され。九戶などいへる城を攻落さる。この中に君は岩手山に新城をきつがせられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を收公せられ。葛西大崎の地にうつさるべきをあらかじめはかりしり給へば。その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。關白は朝鮮を討んとの思ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆづられ。其身は太閤と稱せられ。渡海の沙汰專らなれば。君も文祿元年二月に。東國諸大名の惣大將として江戶を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ。(秀吉足利氏衰亂の餘をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が强悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうやく一統し万民やゝ寢食を安んぜむとするに及ひ。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる說々あれども。實は此人百戰百勝の雄畧ありといへども。垂拱無爲の化を致すコなく。兵を窮め武を黷し。終に我邦百万の生靈をして異賊の矢刄になやませ。其はてハ富强の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して國力を虛耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ國亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め身後の虛名を求めんとして。終には身に益なく國に害を殘すもの少からず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)此いくさにひまなきほどに。年の矢は射るが如くに馳て文祿も四年に移りぬ。關白秀次ゆづりをうけしより万思ふまゝのふるまひ多かりしかば。人望にそむく事少からざりしに。太閤また秀ョとて齡の末に生れ出し思ひ子あれば。いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひなやまれける。其ひまを得て石田等の讒臣蠅の間言かさなりしかば。秀次終に失はる。この事に座して伊達。細川。淺野。最上などいへるもの等罪得べかりしをも。君よく大閤をときさとし給ひて平らにおさまりしかば。
此輩あつくかしこみ。いづれの時にかをのが命にかへても此御恩報ひ奉らんとぞはかりける。慶長元年五月八日には君內大臣にのぼらせ給ひ正二位にあがらせられ。御內に侍從二人諸大夫十八人までに及べり。十一日御任槐の御拜賀に御參內。牛車御隨身など召具せらる。三年五月五日大閤俄に心地惱ましと聞えしかば。京坂伏見さはがしき事物にも似ず。其身にも此病終におこたるまじく思はれければ。幼子秀ョの事をのみ思ひわづらはされ。さまざまの掟共さだめ沙汰せらる。まづは諸大名互に和らぎむつましからざれば。幼主のためあしかるべしとて。伏見の城に人々をよびあつめ。其事を石田等の奉行人して令しけるに。もとより恨をふくむやから互に和平する事をいなみつれども。君その所におはしさとし給へば。人々御威コにおそれすみやかにかしこまり申たるにぞ。太閤ますます君の御威コを感ぜられ。君を始め前田。毛利。上杉等の人々をまねき。ちかごとたて起證文かゝしめし中にも。君の御誓書はその身の棺中に納め葬るべしなど申をかる。初秋のころは其病いささかひまありとて君を病の牀にまねかれ。秀吉が命も今は旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に亂れぬべし。是を押しづめ給はむ人は。內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事ことごとく內府にゆづり進すべし。我子秀ョ成長の後天下兵馬の權をも執るべくは。いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに。君も御落淚ましまして。我淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲の後も秀ョ君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の爲に遺教をほどこさるべし。我に於ては决して此重任にあたりがたしと。再三辭退ましまし退き給へば。太閤ハいよいよ心を安ぜず。石田。搏c。長束などいへる腹心の近臣に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に讓られしは。堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣子劉禪を諸葛亮に託して。輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ。天下の兵權をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田搏cが詞にまどひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりとさる人の申置しが。今案ずるに此說是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說にまよひ前心をひるがへしたるにはあらず。烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が沒期の詐謀に陷り給ハざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且元に密諭せしは。我家亡びざらん樣にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたゝかひ。我かの兩國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十万の軍勢。一人も生て歸らん事思ひもよらず。もし希有にして歸る事を得たり共。彼國より此年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後誰有てか本朝の動きなからん樣にはかる者のあるべき。此事をよくはからんは。江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人彌本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ聖主も其勳を賞し給ひ。萬民も其コになづき其威におそれ。天下はをのづからかの家に歸しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀ョを輔佐して天下をとらんとはかり。此人と合戰を結ばゞ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絕ざらん事を思はば。相かまへて此人によくしたがひつかへて。秀ョが事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我家の絕ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふにこれも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し所にて。その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などには此沙汰なく。小臣の兩人に申置れたると見ゆるなり。)太閤兵馬の權をゆづり進らせむとありしをかたく辭し給ふにより。しからば秀ョ幼稚のほどは。天下大小の政務は君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀ョ保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主はたゞ此君なりと四民なびきしたがふ。石田三成始大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず。いかにもしてかたぶけ奉らん事を。內々をのがじゝはからひける。君は朝鮮に罷りたる十万の軍勢。つつがなく歸朝せん事を御心なやましく思ひはかり給ひしに。これも思召のまゝに事とゝのひ。軍勢ことなくみな歸り參る。其時島津父子が退陣の働すぐれたりとて義弘祿加へられ。その子忠恒をば四位にのぼせらる。奉行等は秀ョ幼稚の間。私に賞罰行はれん事いかゞなりとさへぎり申たれども。賞罰の沙汰なくしていかで政道を正すべきとて。かく仰定られしかば。奉行等ましてふづくみ憤る事やらむかたなし。とかく此君秀ョと同じ所におはしませばこそ。世の人望も歸するに似たれ。秀ョを大坂へ迎へとりなば。をのづから君の御威權も薄らぐべしと謀り。秀ョの生母をはじめ女房達をたばかり。四年睦月には秀ョを大坂へむかへとる。君も其御送りとして伏見より大坂へわたらせ給へば。其夜石田小西等密議し。明朝御歸路を襲ひ伐てうしなひ奉らんとす。されども井伊直政大勢を引具し。鐵砲に火繩かけて御迎に參りければ。大坂方の者共は案にたがひ手をむなしくしぬ。
かくて奉行等益姦謀をめぐらすに。今天下人望の歸する所。江戶內府と加賀亞相の上に出るものなし。しかれば兩雄を鬪はしめ其虛に乘じはからふにしかじとて。先毛利。浮田。上杉等の人々にはかり。利家にさまざま君の御事を讒訴す。其中にも君故大閤の遺令に違はせ給ふ事ありとて。利家等より使立て其旨を申進らせしむ。こゝに於て双方牟楯おこり。兵戰近きにあらんと京伏見騷動大かたならず。兼て志を通じ奉る池田輝政。福島正則。K田。有馬。藤堂等は日夜に御舘に參り。大坂よりもし押よする者あらんには。御味方して一戰せんと申たり。君には今何故にさる事のあるべき。各かくてあらば世の騷ぎを引出す事あるべし。唯とく歸り給へとぞ宣ひける。(前田コ善院この頃ひそかに人に語りしは。弓矢の挌樣々あるものなり。此頃の騷動に。信長ならばはやく岐阜へ引取給ふべし。秀吉公ならば三千か五千の人數にて直に切て出らるべし。それにあの內府公はさらにこの騷動を心にもかけ給はず。每日碁を圍て更に餘念も見え給はず。さてさて弓矢の挌の違し事よと感ぜしとぞ。)此頃は井伊。本多。榊原。石川。平岩の五人を隊將として御家人五隊に分ち。一組づゝ交代し京の御舘に勤番せしが。此春は榊原康政當番にて上洛するとて熱田邊まで來かかり。此騷動を聞とひとしく。汗馬にむちうち唯一騎にてはせのぼる。跡より追々馳のぼるもの七百餘人。康政膳所に來るとき直政が伏見より出せし飛脚に逢て。大坂よりはいまだ寄來る者もなしと聞先安堵し膳所に陣取。秀ョの仰と披露し勢多矢橋邊に新關を置三日が間往來をとゞむ。諸國にても此騷動を聞て。家々家人どもいそぎ來るとて。此關にとゞめらるゝもの幾千萬か數しらず。康政三日の未の時ばかりに關の戶をしひらけば。群集したる旅人雲霞のごとく京伏見に馳入る。康政其身小具足きて馬印押立。眞先に伏見へ馳參ず。京伏見には此形勢をみて。關東より內府の軍勢數限りなく入洛せしと風說すれば。石田はじめ奉行等これを聞。茫然としてたゞあきれたるばかりなり。其中に細川越中守忠興は利家の聟なれば。此事利家のため尤以て然るべからずと其子利長を諭し。堀尾。中村。生駒のやからとはかり。中に立て双方の平らぎを行ひける。やがて利家病をたすけ伏見にまかり御對面し。向島の御舘に引遷らせ給はゞ。彼地は要害もしかるべき所なり。不慮の變にそなへ給へなどすゝめ進らせ。心へだてずかたらひて歸る。君もやがて利家の大坂の舘におはしまし。先日利家が重病をつとめて伏見までまかりたるを謝し給ふ。利家二なくスび病をつとめて饗し奉り。我心地終に生べくも思はれねば。利長利政の二子が身の行末をョみ進らす。此夜は藤堂高虎が家にとまらせ給ふ。石田は同志のやからを會し藤堂が家をおそはんとせしが。これもとかくして其事もとげず。次の日伏見にかへらせ給ひ。やがて向島に引うつらせ給へば。福島。加藤。淺野。K田。蜂須賀。藤堂をはじめ。伏見にありあふ輩皆まうのぼり。武具馬具酒肴等とりどり奉り賀し參らす。大坂の奉行はさらなり毛利浮田などいへる者等も。日ごとに向島に參り御旨をこひ奉る。其うへこのぼどかの利家もうせければ。齒爵ともに君の上こすものもなく。御威望はありしにまされり。ここに又福島。池田。兩加藤。細川。淺野。K田等の七將は朝鮮にある事七年。その間粉骨碎身して苦辛せし戰功を。故大閤勸賞のうすかりしは。全く三成が讒による所なれば。今三成に其怨を報ぜんといかりひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置所をしらず。浮田。上杉。佐竹等はかねて三成としたしかりしかば。今この危急をすくハんには。內府の御旨を伺ひ御あはれみをこはざる事を得じとはかり。佐竹義宣深夜に三成を女輿にのせて伏見に參り。ひたすら御なさけをこひ奉る。そのほど福島加藤等の諸將は。三成とりのがさじと跡より追來る。されども君かひがひしく請がひ給ひ。七將の輩をもとかくさとし給ひ。三成をば職掌を削りて佐和山に蟄居せしめらるゝとて。佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる。(三成が大閤沒後に及び。烈祖を害し奉らんと謀りし事。いくたびとなく。當家の害となる三成に過たるものなければ。今度七將の輩三成を誅し怨を報ぜんとするこそ幸なれ。只今三成が年來の罪を糺明してこれを誅し。ながく禍をのぞき給ふべけれと。御家人等諫め奉りしかども。さらにさるみけしきも見え給はず。本多佐渡守正信は帷幄の謀臣なり。正信深夜御寢所に參り。さて殿は治部が事を如何思召やと申す。君聞召。其儀を兎や角やと思案してゐるぞと仰ければ。正信承り。御思慮遊ばし候とあればそれにてもはや安心せり。又何事をか申べきとて直に退出せりとぞ。これ等君臣の御擧動殆ど凡智のしる所にあらざるが如し。)三成佐和山へ蟄居せし後は。三成同意の輩は大に力を失ひ。御家人に阿諛して奔走す。長束搏cなどの奉行人等は毛利。宇喜多。上杉の三老に議し。內府天下の萬機を沙汰し給ふ事なれば。向島の御舘におはしまさんより。伏見の本丸を御住居になさせ給はんかと聞え奉る。君は我向島にすまゐするも利家のすゝめによれば。今三老幷に奉行中のすゝめならんには。ともかくも其指揮にまかすべしと仰られ。閏三月十三日伏見の本丸にうつらせ給へば。前田コ善院はからひて。大手をはじめ諸門の鎰ことごとく井伊直政に引渡す。これより後は伏見はひたすら御居城となりて。御家人等諸城門を警衛す。今は世のなかもことなくおだやかなれば。朝鮮在陣このかた勞をいこひ人馬の疲をも養はんため。諸大名各就封して國務をも沙汰すべきにやと仰下されしかば。浮田。毛利。上杉。前田等の諸大名をはじめ。生駒。中村。堀尾。幷に加藤C正。細川忠興等を思ひ思ひに暇賜はり歸國すれば。長束などいへる奉行共も。其しる所へ立かへらんとす。重陽には久しく秀ョ母子御對面なければ。大坂へ渡らせ給ひぬ。長束搏cひそかに淺野長政がはからひにて。土方大野などいへるを刺客として。
君大坂にいらせ給はむ時。害し奉らんと用意するよし告げ奉る。よて本多正信等。明日大坂城へ入らせたまふ事しかるべからずといさめ奉るといへども。井伊直政。榊原康政。本多忠勝等。かくては臆するに似たれば。たゞ其心がまへして御入城候はんにはしかじと申にしたがはせ給ひ。重陽には大坂城へいらせ給ひ。秀ョ母子へ御對面あり。井伊。本多。榊原等はをして寢殿まで進んで御側をはなれねば。城中には手を出すものもなくして。平らかに御旅舘に歸らせ給ひぬ。されどこなたもその御心づかひせられ。伏見の御人數を召ける。御留守に秀康卿おはしけるが。此城は我かくてあれば何の心づかひかあらん。番頭物頭までも其局を明て。片時もはやく大坂の御旅舘に馳參るべしと指揮し給ふ。此時卿の下知勢配りの樣聞召。君も吾には生れまさりたりとて。かつ感じかつスばせ給ふ事なゝめならざりしとぞ。今度君を害せんと謀りし首謀は。加賀中納言利長。淺野長政と謀を合せて。土方大野の兩人を刺客に命じたる事なれば。是等が罪をたゞされ後來をこらしめ給はずばかなふまじと奉行等聞え上しに。此事ひろくあらはに罪をたゞさむには。世のさはぎともなり。秀ョのためしかるべき事ならずと仰られ。まづ長政は所領に蟄居せしめ。大野土方はそれぞれにめしあづけらる。(是實は石田三成と長束搏c等がはかりて。利長長政を陷れて失はんとす。實は利長長政等は當家に親しみあれば。當家親眤の徒を離間せんと計りし事いちじるければ。わざと其罪をかろくとりなさせ給ひしものなるべし。)かくて奉行共にこの頃諸大名多く歸國し諸有司も數少き中に。日々伏見に行かよはんもさまたげ多ければ。我いまより大坂の西丸に住居して。萬機を沙汰せんはいかにと仰らる。長束搏c等もとよりいなみ奉るべきにあらず。このまゝ大坂に御住居ましまして。萬に沙汰し給はむ事。天下の大幸この上なしと御請し。俄に故大閤心いれて搆造せられたる西丸に。ことにことを添て修理を加へ迎へ奉れば。在大坂の大小名も日々西城にまうのぼり御けしきをとるにぞ。いよいよ天下の主とは見えさせ給ふ。かくて淺野。土方等それぞれに御かうじ蒙りしうへは。利長がこと捨をかるべからずとありて。ほどなく加賀國へ打て下らせ給ふべしと聞ゆれば。丹羽五カ左衛門長重こひ出で御先手を奉はる。このこと世中ゆすりみちて言のゝしるにぞ。細川忠興はじめ故利家此かた彼家にしたしみ深き諸大名より。利長のもとへ此旨をつげやるにぞ。利長大におどろき。山といふ家司をのぼせ。さらに思ひよらざる旨かへすべす陳謝し。其母芳春院を質に進らせけるにぞ事なく平らぎぬ。(是江戶へ諸大名の證人を進らせたる起本なり。)明れば慶長五年正月元日。大坂の西丸におはしまし。諸大名太刀折紙をもて歲首を賀したてまつる。秀ョの近習馬廻の諸士も。組々を分て五日迄拜賀に參る。其にぎはひにるものもなし。睦月の中旬に至り在大坂の大小名をめし饗せられ。四座の猿樂を催さる。貴賤袖をつらね參りつどふ。御威光故太閤の在世にことならず。石田三成佐和山蟄居の前より。上杉佐竹等と深くはかりかはし。時を得て上杉佐竹と牒し合せ。東國に謀反の色をあらはさんには。內府みづからこれを征せられんとて。打て下られん事必定なり。其時三成大坂へ馳參し秀ョ仰せと稱し。毛利浮田をはじめ西國諸大名をかたらひあつめ西より軍をすゝめ。內府を中途にさしはさみ討奉らんには。勝利疑なしと謀を決しける。景勝が家司直江山城守兼續これもさるふるつはものにて。三成と謀を合せたがひに其事をくはだてしが。今は時こそよけれと景勝をすすめ。領內砦々を取立て壘を高くし溝を深くし。舊領越後下野邊のク民をすゝめ。一揆を起させ騷動せしむれば。近國の領主代官大に驚き上杉叛逆の由。大坂へ注進櫛の齒を引が如し。上杉就封の後期をこえて上坂せざるゆへなれば。世のさはぎをしづめんため景勝はやく上坂すべしと。御使を下され召どもまいらざるのみならず。豐國寺の兌長老して。直江が許へ消息してその情を試給ひしに。兼續が返簡傲慢無禮をきはめしかば。今は御みづから征し給はでかなふべからずと仰下さる。大坂の奉行等は。幼君の代始にこは思ひよらぬ事なり。もし景勝實に叛逆するにもせよ。一二の大名をさしむけられんに何の恐れか候べき。御親征あらんは勿躰なしと留め奉る。(大坂の奉行等はみな上杉石田の黨類なれば。御親征を遲引して。其中には景勝が防禦の備を全からしめんとするものなり。)されど東征の英慮旣に決し給へば。いかでこれ等のことばになづみ給はむ。六月のはじめにハ西丸にあまたの大小名めしあはせられ。軍議旣に定まれば。十六日に大坂には佐野肥後守政信を御留守とせられ。大軍を召具し御出馬ありて。其夜は伏見の城にとゞまらせ給ふ。此城は鳥居彥右衛門元忠。松平主殿頭家忠。內藤彌次右衛門家長。松平五左衛門近正をとゞめて守らせらる。(君此時。當城へ殘し留る人數不足にて。汝等苦勞なりと仰ければ。元忠承り。某は左は思ひ候はず。天下無事ならんには。當城守護せん事某と五左衛門兩人にて事たり候べし。もし世に變ありて敵大軍を以て當城をかこまん時は。近國に後詰する味方はなし。とても城に火をかけ討死するの外は候はねば。御人數多く當城に殘し給はむ事。詮なしと申けるとぞ。)十八日伏見を首途し給へば。池田。福島。細川をはじめ。上方大名は都合五万餘の勢にて大坂を打立。追々奥へぞ下りける。兼てより軍令嚴重なりければ。農は耕し商は鬻ぎて敢て生產を失はず。行旅は避るに及ばず。万民スびかぎりなし。大津の城に立よらせ給へば。京極宰相高次晝飯奉る。今夜は石部の御旅舘にとまらせらる。長束正家水口に就封してありしが石部に參り。明朝ハ水口に立よらせ給ふべし。饗奉るべきよし申てかへる。其夜思召旨ありとて戌の刻俄に石部を立せ給ひ。長束へも去がたき事出來ていそがせ給へば。こたびは立よらせ給はず。御かへさに立よらせ給ふべしと。
御使して仰遣はさるれば。正家大におどろき御跡を追て十九日の晝土山の御休らひ所に參り。御名殘をおしみたてまつれば。御感のよしにて御刀賜はり。正家拜謝してかへる。(石田三成此時はいまだ佐和山に有しに。其謀臣島左近今夜佐和山より急に水口の御旅舘へ夜討をかけんといふ。三成聞てそれにも及ばす。兼て長束に牒し合せ置たれば。長束今夜水口にて謀を行ふべしといふ。左近天狗も鳶と化せば蛛網にかゝるたとへあり。今夜の期を過すべからずと是非に三成をすゝめ。三千人にて蘆浦觀音寺邊より大船廿餘艘に取のり。子刻に水口まできて見れば。はや打立給ふ御跡なりしゆへあきれはてゝ歸りしといふ。烈祖の三成をあしらひ給ふ事。三歲の小兒を弄ぶに異ならず。小人小黠もとより量をしらざるを見るべし。)此道すがら鎌倉の八幡宮にまうで給ひ。右大將家此かた世々の古跡を尋給ひ。江島の辨天金澤の稱名寺などとはせられ。七月二日江戶の城に入せ給ふ。(陪從せし上方大名は。海道を直に江戶へ着陣すべしと命ぜられ。鎌倉御遊覽には御家人のみ召具せらる。)程なく上方大名御跡より進發の輩も。やがて江戶へ着陣しければ。悉く二丸に召て大饗行はる。十九日中納言殿先江戶を御進發ましまし。榊原康政先鋒として下野の宇都宮に御着陣あり。御先手の諸大名。十三日より十五日までの間に。太田原邊まで着陣すべしと定められ。君は廿一日に御馬を出され。廿四日。小山に御陣をすゑらる。これは鎌倉右大將佐竹追討の佳例によられしとぞ聞えける。佐竹今度も會津もよりの事なれば。御先手にさされながら打立樣も見えざれば。重て御使を立られ御催促ありけれど。たやすくいらへも聞えず。然れば上杉に一味せしに疑なしとて。まづ那須一黨ならびに水谷。皆川。太田原等のやからには。そのをさへを命ぜらる。然るに池鯉鮒の宿にて。大坂の家人加賀井彌八カといへるもの。爭論して水野和泉守忠重を討。彌八カまた堀尾吉晴がためにうたれしが。吉晴も深手負しよし聞ゆ。(是は大谷吉隆がすゝめにより。三成ひそかに彌八カに命じ。秀ョより存問の使と稱し江戶へ下し。君御對面の席にて刺奉れとの事にて。彌八カを江戶へ下しける。然るに君いかで斯る詐謀に陷り給ふべき。御對面なければ彌八カむなしく歸るとて。道にて堀尾をあざむき忠重に會し。酒宴の席にて忠重を害し。堀尾をも討んとして其身伐れしなり。又三成は大谷吉隆。安國寺惠瓊等とはかり大坂へ馳參り。秀ョの仰なりとて諸國へ軍令をふれまはし。毛利宇喜田をはじめ小西。立花。島津等。すべて九國中國の大名小名雲霞のごとくよびあつめ。まづ伏見の城を攻落し。鳥居元忠以下を討取たるよし。追々小山の御陣に注進來れば。御供の人々おどろく事かぎりなし。君は諸將を御本陣にめしあつめられ。井伊直政。本多忠勝兩人もて上方逆徒蜂起の事を告られ。諸將妻子はみな大坂に置たる事なれば。うしろめたく案じわづらはれん事ことはりなり。速にこの陣中を引はらひ大坂へのぼられ。浮田石田等と一味せられん事更に恨とは思はず。我等が領內にをいて旅宿人馬の事はさゝはりなからん樣令し置たれば。心置なくのぼらるべしと仰下さる。諸將愕然として敢て一語を出す者もなかりし中に。福島正則すゝみ出。我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。內府の御ため身命を抛て御味方仕べしといへば。K田。淺野。細川。池田等はいふまでもなく。一座の諸將みな御味方に一决し。更に二心なき旨を申す。君も其座に出まし。諸將の義心を御感淺からず。さては彌會津に攻入て景勝を蹈潰し。其後上方へ進發すべきか。又は景勝をば捨置てまづ上方へ發行すべきかと議せらる。諸將みな上杉は枝葉なり。浮田石田等は根本なり。會津をすてゝ上方御征伐をいそがるべきにやと申ければ。彌上方御進發に决せらる。(これは前夜に秀康卿に議せられし時。卿いちはやく上方逆徒御征伐を進められしかば。旣に御治定ありし所なり。)しかればC洲吉田兩城は。敵地に近きをもて正則輝政先陣あるべし。引つゞき先手はC洲に着陣し。我父子出馬を待るべしと仰あれば。正則我居城C洲をさゝげ進らせ置ば。御家人に守らせ給ふべし。十万の軍資は兼て備置たりと申。山內對馬守一豐も。我も居城懸川をさゝげ置ば御旗本勢をこめをかれ。後陣を御心安く御進發あるべきなりと申にぞ。東海道に城もちし輩は。皆異口同音におなじ樣にぞ聞えあぐる。又秀康卿は是非上方の御先手奉はりたしと仰けれど。上杉は謙信以來こゝろにくきものなれば。汝が外これを押ふる者あらざればとて御跡にとゞめられ。秀康卿を總督にて伊達。堀。最上。蒲生。相馬。里見。那須黨を上杉のをさへにとゞめ給ひ。福島池田等の諸將に井伊本多を御眼代として差し添られ。七月廿六七日に野州を打立。各證人を江戶城にとゞめをき。八月朔日二日に江戶をたつ。君は小山御陣にて軍令ことごとく定られ。八月五日江戶へ歸らせ給ふべしと有しに。この頃の霖雨にて栗橋の舟橋をし流したりと聞召。是は會津征伐に諸軍往來のたよりよからんため設る所なり。今は用なしと宣ひ。乙女岸より御船にめし西葛西へ着せられ。七日に江戶へ歸らせ給ふ。かくて明日にも上方御進發あるべしと聞えければ。御供にされし御家人は。番所より直に發足すべき用意して。草鞋路錢を腰に付てつとめ。玄關前塀重門內には鎗立の栅木をまうけ虎皮の長柄をかざり。書院の床には御馬印をたてならべ。唯今にも御出馬あるべく見えながらいまだ御出馬もなし。御先手の諸將C洲に着陣して日數をふれば。御眼代にまかりたる直政忠勝兩人も。いかにせんかと思ひわづらふほどに。江戶より先手諸將の慰勞の御使とて村越茂助直吉をつかはされしが。折ふし風の御こゝ地にてしばし御出馬に及ばれざる旨のよしを傳ふ。加藤左馬助嘉明心さときものにて。我輩かくてむなしく內府の出馬のみ待べきにあらず。
いざ一戰して忠義をあらはすべしとかたりあひ。各手分して中納言秀信の岐阜の城をせめかこむ。城中にも百々木造などいへる古つはものありて。謀を設けふせぐといへ共。大軍大手搦手より攻入にぞ。遂には攻やぶられ秀信も降參す。さすが右府の嫡孫なればとて助命せられ。後に高野山に閑居ありてほどなくうせらる。先手諸將は直に大垣城に對し赤坂に陣とれば。井伊本多より此事江戶へ聞え上ぐ。よて御感淺からず各御書を賜ひ賞せらる。やがて九月朔日君江戶城を御出馬あり。此時石川日向守家成。今日は西塞とて兵書に重き禁忌とす。御出馬は御延引あらむにやといさめ申。君聞召西が塞ゆへ我東よりゆきて是を開くなりと仰られながら。御馬をすすめ給へば。衆人みな凡慮の及ぶ所ならずと感じ奉らぬ者なし。かくて櫻田までならせ給ふ所へ。岐阜より首桶到着せし注進あれば。搶緕尠蜻Oに置べしと命じ給ひて。芝神明の社にならせられ。拜殿にて其首共實撿し給ひ。搶緕宸ヨいらせられ住持存應先導して本堂へならせられ。ほどなく立出給ひ。直に御乘物にめされ。今夜は神奈川の驛にやどらせられ。こゝより又御書をC洲の諸將に賜はり御出馬を告らる。十一日熱田までわたらせられし時。藤堂和泉守高虎御迎に參り拜謁して御先にかへる。(高虎小山御陣所より暇賜はり御先へまかる時。今度先陣に打てのぼる諸將は。みなこれ豐臣家恩顧の者共なり。一旦の義により御味方に參るといへども。その實は心中はかりがたし。高虎が催し奉らざるほどは。かまへて江戶を御出馬あるべからずと密に聞え上しが。先手諸將岐阜城をせめぬくを見て。はや御馬をすゝめ給ふべしと申上しなり。十四日には赤坂へ御着陣あるべしと聞えしかば。かしこに在陣の諸將。手廻の人數ばかり召具し。呂久川の邊まで來り拜謁す。各この程の軍功を賞せられ。明日は八幡にかけ是非合戰を始むべしと仰られ。その日午刻赤坂につかせ給ひ。直政忠勝等兼て經營して待奉りし岡山の御本陣へいらせらる。此岡山といへるは。天武天皇白鳳のむかし大友皇子と御軍ありしとき。勝軍を奏せし行宮の地にて。今度又君御本陣となされ。昔は天皇此地に於て百王一系の帝業を中興せられ。今は君ここにして千載不朽の洪圖を開かせ給ふ。いとありがたきためしなるべし。逆徒は浮田石田をはじめ。かねてより大垣の城にありて赤坂の諸將と對陣し。打てやかゝらん待やたゝかはむと軍議に日を送りける。さるにても內府このほどは上杉と合戰最中ならん。上杉が吉左右いつか來らんとそらだのめしてある程に。內府御着陣ありと見え白旗若干見えたりといふもあり。軍勢雲霞の如くかさみたりといふもありて。城中狼狽なゝめならず。浮田石田等。しからば是を試んとて。浮田が家司明石掃部。石田が謀臣島左近等に人數をそへて。株P川邊に出して刈田せしむ。此邊中村。有馬。田中等が陣所に近かりかば。これ等の陣所よりこれを蹴ちらさんと人數を出し。株P川の堤上にて散々に戰ひける。御本陣より御覽じ。あの人數引あぐべしと命ぜられ。井伊直政承り。双方火花をちらし混戰する中へ乘入采配を打ふりふり。三家の人數を引まとひ物分れしたる擧動。敵も味方も聲を擧て稱美せり。大垣城中には浮田石田が先手明石島等歸り來り。內府御着陣ありし事疑なし。且急に合戰とりむすばるべき形勢なりと申せば。扨は城外南宮山に備へたる毛利宰相秀元。松尾山に備へたる金吾中納言秀秋が陣甚心元なし。この城へ敵より押の人數をさしむけざる先に諸將出城し。毛利金吾に力をそへずしてはかなふまじと軍議を決し。夜中大垣城を出で關原に陣をとる。(島津義弘この時弟中書豐久を使とし。今夜關原に出陣する事良謀とは思はれず。それより今夜中に內府岡山の本陣を襲伐んには義弘先陣すべし。浮田石田の兩將其時出馬せられ。無二無三に內府の先手へ切懸侯はん樣に下知し給へと申送りしかど。三成は茫然として是に答ふる事あたはず。島左近すすみ出で。夜討などは小勢を以て大軍を討に利ある事にて。大軍より小勢にむかひ夜討を仕懸る事は古今なき事なり。今度は天下分目の大合戰なれば。明日平塲にて一戰せむに。味方勝利は更に疑なき事に候と申ければ。其詞に諸將同意して。義弘が計は用ひざりしといへり。又一書に。浮田秀家は大垣城に在て寄手を引付戰て時日を送り。毛利輝元立花等が後詰を待て。前後より敵を討破るにしかじといふ。大谷吉隆も。浮田殿の詞は敵を大事に取ての事なれば尤然るべし。野が原に打出。一擧して敵を破らんとするは心元なしといひけれども。三成かたく前議を守りて變ぜざれば。秀家も三成が議を破る事あたはず。終に三成が議に决せりとも見ゆ。)明れば九月十五日。敵味方廿万に近き大軍關原野が原に陣取て。旗の手東西にひるがへり汗馬南北にはせちがひ。かけつかへしつほこさきよりほのほを出してたゝかひしが。上方の勢は軍將の指揮も思ひ思ひにてはかばかしからず。剛なる味方の將卒にきり立られ。其上思ひもよらず兼て味方に內通せし金吾秀秋をはじめ裏切の輩さへ若干いできにければ。敵方にョみ切たる大谷。平塚。戶田等をはじめ宗徒のもの共悉くうたれ。浮田。石田。小西等もすて鞭打て伊吹山に逃いり。島津も切ぬけ。其外思ひ思ひに落てゆけば。味方の諸軍いさみ進て首をとる事三万五千二百七十餘級。味方も討死するもの三千餘ありしかど。軍將は一人も討れざりしかば君御ス大方ならず。(大道寺內藏助が物語とてかたり傳へしは。凡關原の戰といふは。日本國が東西に别れ。双方廿万に及ぶ大軍一所に寄集り。辰の刻に軍始り。未の上刻には勝負の片付たる合戰なり。かゝる大戰は前代未聞の事にて。諸手打込の軍なれば作法次第といふ事もなく。我がちにかゝり敵を切崩したる事にて。追留などと云事もなく四方八方へ敵を追行たれば。中々脇ひらを見る樣な事ならずと見えたり。是目擊の說尤實とすべし。)君は今朝より茶縮緬の御頭巾をめされしが。
旣に敵皆敗走するに及び。御本陣にて床机に御腰かけられ勝て胄の獅しめよといふ事有とて。はじめて御兜をぞめされける。此時御先手の諸將ことごとく參陣して御勝利を賀し奉る。岡江雪御傍にて。まことに名將の御武コとは申ながら。日本國が二に分れたる大合戰なる所。ただ一日のうちに凶徒ことごとく追ちらされ。我々に至るまでも夜の明たらん心地す。あはれ御凱歌を行はるべきかと聞え上ければ。君聞召いかにもことはりなり。去ながら各はじめ諸將の妻子證人として大坂にあれば。心中を察して我又甚心ぐるし。もはや三日が間には我大坂へ攻のぼり。諸將へ妻子を引渡し安心せしめ。其上にて勝閧の規式をば行ふべしと仰ければ。これを承傳ふる大小名士卒厠役にいたるまで。げに仁君かなと感歎せざる者なかりしとぞ。十七日には諸勢三成が居城佐和山へ押よせ不日に攻落し。大垣に殘りし敵も皆降人に出ければ。君は十九日御陣を草津にうつし給へば。こゝに勅使參向ありて。今度おもはざるに天下兵革起り。四海鼎のごとく沸を以て叡慮をなやまさるゝ所。內府神速にはせのぼり。一戰に數万の凶徒を討亡す事。古今未曾有の武功といふべし。彌天下大平の政を沙汰せらるべしとの詔を傳へられ。公卿殿上人寺社商工等までも。思ひ思ひに御本陣に參賀するさま。簞食壺漿して王師をむかふる御威コ四海にかゞやけり。中納言殿には宇津宮より直に中山道にかゝりのぼらせ給ふ御道にて。信州上田の城を攻給ひしに。眞田昌幸かたく防て從はざれば。こゝに押の兵を殘し御道をいそがせ給ひ。この頃山道より大軍を引つれ御着陣。加賀黃門利長も北國を平らげ參着しければ。彌大坂城へいそがせ給ふ。これより先大坂城にては西丸に御留守せし御家人を追出し。毛利輝元入かはりて秀ョの後見と號し萬事を沙汰し。搏c長盛ハ秀ョを守護して本丸にありしが。輝元かねてより家司吉川が歸欵する上は。輝元一議にも及ばず城を出で木津の别業に蟄居し。搏cも降參して罪なき旨を陳謝す。今は秀ョ母子も薄氷をふむ心地する所。草津の御陣より御使ありて。今度の逆謀みな浮田石田等の姦臣等。私のはからひにて。幼稚の秀ョ元來あづかりしらるべきにあらざれば。更に御不審に及ばれざるよし仰つかはさるれば。母子ハいふまでもなく。城中男女初めて蘇生せし心地しス事かぎりなし。この後は秀ョ母子身上は御はからひにもるべからず。何事も御仁恕を希のみのよし使もて謝し奉る。君は廿七日大坂城にいらせ給へば。また勅使ありて御入城を賀せられ。京堺畿內の土人まで雲霞のごとく來賀し奉る。石田。小西。安國寺等は生擒られ誅せられ。其餘凶徒の城城。あるは降參し或は攻おとされ。中國九國にてはK田如水入道。加藤C正と志をあはせて。凶徒の城々せめ平らげて參着し。東國は上杉景勝が臣直江兼續等をして最上に攻入らしめしに。伊達政宗も最上を援けて戰しが。これも關原上方勢敗績すと聞て。兼續兵をまとめて引かへす。よて君大坂に於て今度の賞罰を沙汰せられしが。まさしく御敵となりし上杉。佐竹。島津等の人々さへ其願のまゝに罪をゆるされ。眞田昌幸なども。其子伊豆守信之が。軍功にかへて父が首つがん事を願ひければ。これもその願のまゝに聞召入られ。あるは本領安堵しまたは所領をけづられ。首討るべきものも多く助命せられ。萬ェ宥の御沙汰のみにて。世を安くおさめ給ひしェ仁といひ。大度といひ。かけて申もなかなかなり。又闕國も多かりしかば。御味方せし人々にわかち賜ふ。越前國は秀康卿。尾張國は忠吉朝臣。加賀能登越中三國は前田利長。安藝備後ハ福島正則。播磨は池田輝政。紀伊は淺野幸長。筑前はK田長政。筑後は田中吉政。備前美作は金吾秀秋。出雲隱岐は堀尾吉晴。豐前幷に豐後杵築は細川忠興。土佐は山內一豐。伯耆は中村忠一。若狹は京極高次。丹波は京極高知。伊豫松山は加藤嘉明。同國今張は藤堂高虎。因幡は池田長吉。飛彈は金森法印。猶あまたあり。此中にも足利學校の住職三要に仰ごとありて。貞觀政要。孔子家語。武經七書等を校正して梓にのぼせらる。戰國攻爭間もなく文學をさたし給ふ。是又ありがたき御事なり。明る六年二月には井伊直政。本多忠勝。奥平信昌。石川康昌等をはじめ。功臣の輩に祿あまたくはへ。江勢濃三遠駿上等の城々をわかち給ふ。其彌生中納言殿大納言にのぼり給ひ。御參內の日忠吉朝臣も侍從に任ぜらる。六月には膳所崎の城を築て戶田左門一西におらしめ。七月には蒲生飛彈守秀行に會津を給ふ。これ秀行が父宰相の舊領なりしが。今までは上杉の領せし所なり。九月には內院の御料。公卿殿上人の采邑を查定したまひ。板倉四カ左衛門勝重。加藤喜左衛門正次を京都にをいて大小の沙汰せしめ。其冬江戶に歸らせ給ひ。奥平家昌に宇都宮十萬石を給ふ。七年正月六日には君從一位にのぼらせ給へばやがて御上洛あり。大坂にも渡らせらる。五月御參內院參し給ひ。女院御所にて猿樂を催され。主上も御覽にわたらせらる。此八月御生母大方殿うせ給ふ。さる艱難の中にうき年月をすごさせ給ひしが。今かゝる御光にあはせ給ひ天下の孝養をうけ給ひ。古も稀なる齡に五とせまでかさねて。安らかに終をとらせ給ふいとかしこし。十一月には御五男武田万千代丸信吉のかた。下總國佐倉より常陸の水戶に移させ給ひ此月又都にのぼり萬機を沙汰せられ。明る八年正月には御九男五カ太丸を甲斐國に封ぜられ。池田輝政に備前一國を加へ給ひ。森忠政に美作國を賜ひ。御七男上總介忠輝朝臣は下總國櫻井より信濃國川中島に轉封せらる。すべて治世安民の御沙汰ならざるはなし。  
 
巻五

 

慶長八年二月に始り四月に終る 齢六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大将軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中弁光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勧修寺宰相光豊卿勅使として巳一点に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帯なり。雲客以上は城中玄関にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陰陽頭久脩御身固をつまふまつりて後。紅の御直垂めして午刻南殿に出給ふ。今日参仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。勅使にまづ御対面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事弁みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磐折して御昇進と唱ふる事二声。一揖して退く。次に広橋。勧修寺両卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事参仕の弁等は第三の間に左右に別れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近将監中原職忠征夷大将軍の宣旨を乱箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧て進む。大沢少将基宥請取て御前に奉る。御拝戴有て宣旨は御座の右に置。基宥乱箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裏入て基宥に授く。基宥是を持出て官務に授く。官務拝戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持参し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入る。直勝砂金一裏を入れ。基宥これを持出て大外記に授く。大外記拝戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隋身兵杖の宣旨大外記持出。次に淳和奨学両院別当の宣旨官務持いづる。其度ごとに乱箱に砂金一裏づゝ入て賜はる。次に職事弁等座を立。次に上卿勅使太刀折紙もて拝謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出て。三の間長押の内にて拝し。大外記以下は太刀を三の間の内に置て廣庇にて拝し。官務。出納。少外記。史も同じ。次に陣の官人。召使等太刀は献ぜず。廣縁にて拝して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(寛政重脩譜には。忠永此時未だ酒井の家に有て主水と稱すとあり)役送し。兼勝卿に金百両。御紋鞍置馬一疋。光豊卿に金五十両。鞍馬一疋遣はされてのち奥に入御あり。次に参仕の官人。召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下ありしなり。幕府に勅使を遣はされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大将家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に勅使を迎へ。三浦次郎義澄。比企左衛門尉能員。和田三郎宗實。郎従十人甲冑よろひて参りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拝受せられしこそ此儀の権輿とはすべけれ。足利家代々此職をうけつがれしかど。等持院。寳筐院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典礼儀注を講ぜらるるに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも応仁よりこのかたは。幕府また乱逆のちまたとなりぬれば。礼儀の沙汰もなし。こたびの儀は其絶たるをつぎ廃れしをおこされ。鎌倉。室町の儀注を斟酌して。一代の典礼をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記并に勧修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略にして漏脱多し。ひとり出納職忠記最詳なれば。今は職忠の記に従がひてこれをしるし。宣下記。勧修寺記。西洞院記の中にもはゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は當家典礼の権輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たび/\沿革ありて。いまにいたりて全く大備せしといふべし)つぎに勅使上卿を始め奉行職事弁を饗せられ。三寳院門跡羲演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町将軍家代々宣下のとき。出座して饗応の席に連る例なりしをもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。満済准后の鹿苑院将軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざるはなし。其中には室町家の実子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。かゝる大礼にあづかりし事と見えたり。此外にも室町家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この出座ありし義演准后といふも。霊陽院の猶子なりしとぞ)」この日越前中将秀康朝臣を従三位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による)」又板倉四郎右衛門勝重は京所司代たるにより。豊臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人を附属せらる。」又本郷治部少輔信富はその家代々室町将軍家につかへ。将軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利将軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝将軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狭の國本郷の所領を没落し。後に霊陽院義昭将軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(藩翰譜備考日勧修寺記。西洞院記。中原記。続通鑑。家忠日記。家譜。寛政重脩譜)」
○十三日秋元茂兵衛泰朝従五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅楽頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。寿七十八。此親正が先は参議房前に出で。数世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家号とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。
親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豊臣家に属ししば/\〃軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戸の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穂にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に転封せられその國鶴羽浦に住し。また丸亀の城にうつり。このとし堀尾帯刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豊臣家三中老の一人に定めらる。是より先従五位下して雅楽頭と称す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。文禄四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にひしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島。加藤等とおなじく海道を発向し。関原の戦にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に従ひ。家卒を出して丹後國田辺の城責に与力せしかば。関原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石余を賜ひ。丸亀を改めて高松の城にうつりすむ。親正はなまじゐに田辺の城責に人数を出しければ。其罪を恐れ高野山に逃のぼり薙髪して謝し奉りける。されど一正既に軍忠を著はし勧賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御ゆるしを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取りしとぞ。(家譜。藩翰譜備考。寛政重脩譜)
○十四日公卿殿上人伏見城に上り将軍宣下を賀し奉る。(西洞院記)
○十五日島津少将忠恒が使の家司拝謁して帰国の略賜はる。(天元実記)
○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するが如くにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一昼夜に日月蝕す。尤珍事とて喧噪す。(当代記)
○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純并に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次并に中坊飛騨守秀祐これをつとむ。大内よりは勅使として勧修寺右大弁光豊卿。広橋右中弁總光参向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて。蘭奢待をはじめ。紅沈香。麝香。人参。綾羅。錦繍。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。その外屏風。楽衣等五十の唐櫃に納め。千歳近く収蔵して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘蔵し給ふ所なり。足利将軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づつ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられしかば。當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫内朽損漏湿して古物の破壊せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純。長安等を監せしめ。定次。秀祐等奉行し。勅使参向して勅封をひらき。寳物を他所にうつし庫内を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を収貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。勅使ふたゝび参向ありて寳物を庫内に収め勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記)
○二十七日三河國鳳来寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壊す。天狗の所為なりと流言す。又山中宗徒死亡する者多し。(当代記)
◎是月井伊萬千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。」上杉中納言景勝卿江戸に参観す。櫻田に於て宅地を賜ふ。」又諸國の大名より各丁夫をめして。江戸の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに属する者三人。松平下野守忠吉朝臣を上首としてこれに属するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに属するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに属する者三人。本多中務大輔忠勝を上首としてこれに属する者四人。蒲生藤三郎秀湯行に属する者一人。伊達越前守政宗に属する者一人。生駒讃岐守一正に属する者十八人。細川越中守忠興に属する者十人。黒田甲斐守長政に属する者三人。加藤主計頭清正に属する者三人。(以上所属の徒詳ならず)浅野紀伊守幸長に属するものは。池田少将輝政。堀尾信濃守忠晴。蜂須賀長門守至鎮。山内対馬守一豊。加藤左馬允家盛。有馬玄蕃頭豊氏。中川修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(浅野家の書上による)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。」又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拝謁して。舊主直勝磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彦根村の金亀山は。湖水を帯て其要害磯山に勝るべしと命ぜられし上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歳なるが。父直政が器量によく似て雄略すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ来れと仰あり。守勝かしこみ悦ぶ事斜ならず。速にともなひ見参せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものの用に立べきものぞ。直に江戸へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰を蒙る。」又牧野傅蔵成里入道一楽ははじめ豊臣関白秀次につかへ。関白事ありて後石田三成に属し。関原の戦に石田が味方にて備しが。石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引具し。
大敵の中を切抜て池田輝政が備に来りしかば。輝政これを播州にともなひ帰り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに。その傅蔵は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戸に奉仕せしむため。酒井雅楽頭忠世にともなひ江戸へ参るべしと命じたれば。傅蔵も同じく江戸へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘気蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一楽は此後還俗して傅蔵と改む。」又松浦式部卿法印鎮信は壱岐隆信とて時に十一歳なるをともなひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎮信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。鎮信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。」又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇賜はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三郎左衛門安宗入道宗庵に賜はり。下総の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。」森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に転封せられたるをもて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稲荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。」又第十の御子長福丸のかた今年二歳にならせ給ふ。諏訪部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覚書。寛永系図。寛政重脩譜。家忠日記)
○三月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍従雅宣。勧修寺宰相光豊卿等参賀あり。この日水野孫助信光死して其子孫助信秀つぐ。(勧修寺記。寛永系図)
○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。」鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ参謁しければ。帰路諸驛の御朱印を下さる。(寛永系図。八幡古文書)
○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。(舜舊記)
○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(寛政重修譜)
○十一日永井右近大夫直勝を勧修寺宰相光豊卿のもとに御使して。御直慮の事を議せらる。よて叡聞に達する所。直廬は内廷に設るをもて規模とする事なれば。長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの内旨を。光豊卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく参りて両卿よりつたふ。(勧修寺記。貞享書上) 
○廿一日伏見城より御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚落の御館を二條に引うつさる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり)傅奏其外月卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拝謁す。廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿に御懇詞を加へらる。」この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築く事こふまゝに許されしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勧修寺記。作州記)
○廿三日小出遠江守秀家卒す。其弟五郎助三尹を世継として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豊臣太閤の外叔母なれば。豊臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家に仕へ。従五位下に叙し遠江守と稱し庇蔭料千石を授けらる。慶長五年上杉御征伐の時父秀政は老病に臥ければ。秀家に従兵三百人を加へて御供に侍はしめ。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大旆をかへされたるに秀家も御供す。関原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歳にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一萬石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて萬石以下の輩には傅をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその来歴を詳にせざることを得ず)」此日神龍院梵舜二條御所に出て御気色を伺ふ。(寛政重修譜。舊舜記)
○廿四日黒田甲斐守長政江戸より上洛し。二條の御所へまうのぼり拝謁す。
○廿五日将軍宣下御拝賀として御参内あり。其行列。一番は雑色十二人。切子棒鉄棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(これは御進献の品なり)下部これをもつ。公人朝夕十人左右に別れ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。朧(正しくは有扁に龍)二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭緤(正しくは革扁)をもつ。朧二人。笠持一人。長刀持一人。四番隋身。左山上彌四郎政次。島田清左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四郎正盛。渡邊半蔵重綱。鵜殿善六郎重長。横田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帯剣。弓箭をもつ。朧二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸太夫。風折直垂。太刀小刀を帯す。(これは帯刀のつとめにあたる)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狭守近次。戸田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。内藤出雲守某。七番御車。(糸毛なり)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御剣をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成瀬小吉正成。安藤彦兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豊島主膳信満。林藤四郎吉忠。高木善三郎守次。朝比奈彌太郎泰重。石川半三郎某。都築彌左衛門為政。右は米津清右衛門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。横田甚右衛門尹松。日下部五郎八宗好。長谷川久五郎某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊蔵忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九郎左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛騨守忠政。松平玄蕃頭家清。本多豊後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帯し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。朧二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相忠興。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人従ふ。遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直次は路次行列の事を沙汰す。禁廷唐門に公卿出迎られ。昵近衆は直に従ひて長橋にいらせらる。御降車の時勧修寺右大弁宰相光豊卿御簾をかゝげ。四條左少将基宥御剣をとり。長橋の局もて御直廬代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拝賀あり。主上も殊に龍顔うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海大平の基を開く事。ひとへに将軍の武徳によると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拝謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。主上へ銀千枚。并に新大典侍の局へ三十枚。権典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局。大乳人へ三十枚づゝ。新内侍の局へ廿枚。伊よの局へ十枚。おこや。おまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。師の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。此時池田三左衛門輝政。福嶋左衛門大夫正則は少将に陞り。加藤主計頭清正。黒田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎮。山内対馬守一豊。井伊右近大夫直勝ともに従四位下に叙し。清正は肥後守。長政は筑前守。
一豊は土佐守。忠氏は出雲守と改む。従五位下に叙する者十七人。板倉四郎右衛門勝重は伊賀守。松平次郎右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狭守。三好久三郎可正は越後守。三好助三郎長直は備中守。佐々木藤九郎高和は民部少輔。松平長四郎正綱は右衛門佐。松平文四郎重成は志摩守。近藤七郎太郎政成は信濃守。加藤孫次郎明成は式部少輔。石川宗十郎忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三郎勝政は豊前守。内藤四郎左衛門正成は右京進。松前甚五郎盛廣は若狭守。相良四郎次郎長毎は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直次は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五郎作忠泰従五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豊後守にあらたむ。(将軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年録。續通鑑。寛永系圖。西洞院記。舜舊記。武徳大成記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。気譜。藩翰譜備考。寛政重修譜)
○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拝賀のため参内す。(将軍宣下記)
○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條関白兼孝公。一條前関白左大臣内基公。二條前左大臣昭實公。近衛左大臣信尹公。鷹司左大将信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に参向ありて今度の宣下を賀せらる。摂家親王は上段。其以下は下段にて御対面あり。」この日江戸にて内藤修理亮清成。青山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其他の代官并に領主を怨望して其地を逃去る時は。代官領主より其事を注進するとも。みだりに還住せしむべからず。逃散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣郷の賦税をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を。目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近郷の賦税に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事厳禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事を得ざる時は此限りにあらず。代官并に奉行所に再三目安をさゝぐるといへども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及ばず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事厳禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(将軍宣下記。制法留)
○廿八日禁中方々の女房より。将軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり。(西洞院記)
○二十九日諸門跡二條御所へ参賀せらる。」江戸に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひし故とぞ。(西洞院記。慶長年録。慶長見聞書)
◎是月細川幽斎法印玄旨は足利家代々に仕へければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有識のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽斎につきて武家法令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽斎足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傅禮式三巻をえらびて献ず。」又曾我又左衛門尚祐といへるが。これを足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故実に精熟せしかば。これより先めして御内書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰譜。明良洪範)
◎是春関西の諸大名は次第を追て江戸へ参り大納言殿に拝謁し。守家の御刀。眞長の御脇差をたまふ。時に五歳なり。」この頃江戸彌大都会となりて。諸國の人幅輳し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戯場を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ。其歌舞をもてはやす事風習となりけるに。大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其厳格に感ぜしとぞ。(創業記。寛永系圖。當代記。慶長見聞書)
○四月朔日日蝕することあり。(節蝕記)
○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(寛永系圖)
○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)
○五日二條御所にて猿楽催さる。(舜舊記)
○七日猿楽催さるゝ事五日におなじ。この時進藤権右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。この両人そのわざ堪能なればとて観世召具してまかり。権右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに観世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歳にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記、傅記)
○十日智積院に御朱印をたまふ。其文にいふ。学業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舎并に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせば。寺中を追放つべしとなり。(武家厳制録)
○十三日石野新蔵廣光死して其子新蔵廣次つぐ。廣光は長篠の戦に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具し。此年頃忍城を勤番せり。(寛政重修譜)
○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拝謁し。三光双覧抄の事御尋問あり。(舜舊記)
○十六日二條より伏見城へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)
○十七日伏見城にて将軍宣下御祝の猿楽催さる。」
けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子権左衛門政勝家をつぐ。(當代記、慶長年録、寛政重修譜)
○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代并に酒樽をさゝげ将軍宣下を賀し奉る。(當代記、慶長年録)
○廿二日豊臣大納言秀頼卿正二位内大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勘修寺宰相光豊卿大坂へ参向あり。秀頼卿には此時十一歳なり。江戸よりは青山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる。(西洞院記、家譜、當代記)
○廿八日御妹矢田姫君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七郎康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歳にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて。三河國法蔵寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る)」この日藤澤の清浄光寺遊行伏見に参り拝謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。(家譜、西洞院記、當代記、慶長見聞書)
◎是月池田少将輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戸に参り物多く奉る。大納言殿御感浅からず。酒井雅楽頭忠世を御使せられ。滞留の料として粮米を下され。こと更営中に召て御みづから御茶を賜ひ。辭見に及びて御刀及び虚堂墨跡。并に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され。帰國の時は大久保加賀守忠常。安藤対馬守重信をして箱根の関までをくらせ給ふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は帰路又伏見に参り拝謝して。藤松ことし五歳なり。成長するまでの間は兄新蔵利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(寛永系圖、寛政重修譜)
◎この春江戸に参観せし関左の諸大名辭見して伏見に参る。」又長崎の地は天主教の淵薮なればとて。天正十六年豊臣家の頃は。鍋島飛騨守某といへる者に所管せしめられ。文禄元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原為信入道一庵をその地の奉行に仰付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の権輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる、これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年禄。長崎記) 
 
東照宮御實記卷五 / 慶長八年二月に始り四月に終る御齡六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大將軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は廣橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中辨光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勸修寺宰相光豐卿勅使として已一點に伏見城に參向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帶なり。雲客以上は城中玄關にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陽陰頭久脩御身固をつかふまつりて後。紅の御直埀めして午刻南殿に出給ふ。今日參仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。勅使にまづ御對面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事辨みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磬折して御昇進と唱ふる事二聲。一揖して退く。次に廣橋勸修寺兩卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事參仕の辨等は第三の間に左右に别れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近將監中原職忠征夷大將軍の宣旨を亂箱に入て。小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧てすゝむ。大澤少將基宥請取て御前に奉る。御拜戴有て宣旨は御座の右に置。基宥亂箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裹入て基宥に授く。基宥是を持出で官務にさづく。官務拜戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持參し。基宥受取て御前に奉り。箱は基宥とりて奥に入。直勝砂金一裹を入れ。基宥これを持出で大外記に授け。大外記拜戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隨身兵仗の宣旨大外記持出。次に淳和弉學兩院别當の宣旨官務持いづる。其度ごとに亂箱に砂金一裹づゝ入て賜はる。次に職事辨等座を立。次に上卿勅使太刀折紙もて拜謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出で。三の間長押の內にて拜し。大外記以下は太刀を三間の內に置て廣庇にて拜し。官務出納少外記史も同じ。次に陣の官人召使等太刀は献ぜず。廣緣にて拜して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹後守忠永(ェ政重脩譜には忠永此時未だ酒井の家に在て主水と稱すとあり。)役送し。兼勝卿に金百兩。御紋鞍置馬一疋。光豐卿に金五十兩。鞍馬一疋遣はされて後奥に入御あり。次に參仕の官人召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤原忠文等は禁中に召宣下有しなり。幕府に勅使をつかはされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大將家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に勅使をむかへ。三浦次カ義澄。比企左衛門尉能員。和田三カ宗實。カ從十人甲胄よろひて參りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拜受せられしこそ此儀の權輿とはすべけれ。足利家代々此職をうけつがれしかど。等持院。寳篋院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典禮儀注を講ぜらるゝに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも應仁よりこのかたは。幕府また亂逆のちまたとなりぬれば。禮義の沙汰もなし。こたびの儀は其絕たるをつぎ廢れしをおこされ。鎌倉室町の儀注を斟酌して。一代の典禮をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記幷に勸修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略にして漏脫多し。ひとり出納職忠記詳なれば。今は職忠の記にしたがひてこれをしるし。宣下記。勸修寺記。西洞院記の中にもほゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は當家典禮の權輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たびだび沿革ありて。今にいたりて全く大備せしといふべし。)次に勅使上卿をはじめ奉行職事辨を饗せられ。三寳院門跡義演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町將軍家代々宣下のとき。出座して饗應の席に連る例なりしをもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。滿濟准后の鹿苑院將軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざるはなし。其中には室町家の實子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。斯る大禮にあづかりし事と見えたり。この外にも室町家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この日出座ありし義演准后といふも。靈陽院の猶子なりしとぞ。)この日越前中將秀康朝臣を從三位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による。)又板倉四カ右衛門勝重は京所司代たるにより。豐臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人を附屬せらる。又本ク治部少輔信富はその家代々室町將軍家につかへ。將軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利將軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝將軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狹の國本クの所領を沒落し。後に靈陽院義昭將軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(將軍宣下記。勸參寺記。西洞院記。中原記。續通鑑。家忠日記。家譜。ェ政重修譜。)
○十三日秋元茂兵衛泰朝從五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅樂頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。壽七十八。この親正が先は參議房前に出で。數世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家號とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。是親正が父なり。親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豐臣家に属ししばしば軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戶の城主とせられ三萬石を領し。又播磨國赤穗にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に轉封せられその國鶴羽浦に住し。また丸龜の城にうつり。このとし堀尾帶刀吉晴。中村式部少輔一氏と共に豐臣家三中老の一人に定めらる。是より先從五位下して雅樂頭と稱す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。
文祿四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にふしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島加藤等とおなじく海道を發向し。美濃國岐阜ク戶等の軍に武功をはげまし。關原の戰にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に從ひ。家卒を出して丹後國田邊の城責に與力せしかば。關原御凱旋の後一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石餘を給ひ。丸龜を改めて高松の城にうつりすむ、親正はなまじゐに田邊の城責に人數を出しければ。其罪を恐れ高野山に迯のぼり薙髮して謝し奉りける。されど一正旣に軍忠を著はし勸賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御免しを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正にはごくまれけふ終りを取しとぞ。(家譜。藩翰譜備考。ェ政重修譜。)
○十四日公卿殿上人伏見城に上り將軍宣下を賀し奉る。(西洞院記。)
○十五日島津少將忠恒が使の家司拜謁して歸國の暇たまはる。(天元實記。)
○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するがごとくにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一晝夜に日月蝕す尤珍事とて喧噪す。(當代記。)
○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純幷に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次幷に中坊飛驒守秀祐これをつとむ。大內よりは勅使として勸修寺右大辨光豐卿。廣橋右中辨總光參向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて。蘭奢待をはじめ紅沈香。麝香。人參。綾羅綿繡。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。其外屏風。樂衣等五十の唐櫃納め。千歲近く收藏して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘藏し給ふ所なり。足利將軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づゝ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられしかば。當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫內朽損漏濕して古物の破壤せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純長安等を監せしめ。定次秀祐等奉行し。勅使參向して勅封をひらき。寳物を他所にうつし庫內を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を收貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。勅使ふたゝび參向ありて寳物を庫內に收め勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記。)
○二十七日三河國鳳來寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壤す。天狗の所爲なりと流言す。又山中衆徒死亡する者多し。(當代記。)
是月井伊万千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。上杉中納言景勝卿江戶に參覲す。櫻田に於て宅地をたまふ。又諸國の大名より各丁夫をめして。江戶の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに屬する者三人。松平下野守忠吉朝臣を上首としてこれに屬するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに屬するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに屬する者三人。本多中務大輔忠勝を上首としてこれに屬する者四人。蒲生藤三カ秀行に屬するもの一人。伊達越前守政宗に屬する者一人。生駒讃岐守一正に屬する者十八人。細川越中守忠興に屬する者十人。K田甲斐守長政に屬する者三人。加藤主計頭C正に屬する者三人。(以上所屬の徒詳ならず。)淺野紀伊守幸長に屬するものは。池田少將輝政。堀尾信濃守忠晴。峰須賀長門守至鎭。山內對馬守一豐。加藤左馬助嘉明。中村一學忠一。池田備中守長吉。山崎左馬允家盛。有馬玄蕃頭豐氏。中川修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(淺野家の書上による。)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拜謁して。舊主直政磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彥根村の金龜山は。湖水を帶て其要害磯山に勝るべしと聞え上しに御けしきにかなひ。さらばその金龜山に城築くべしと命ぜられし上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歲なるが。父直政が器量によく似て雄畧すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ來れと仰あり。守勝かしこみスぶ事斜ならず。速にともなひ見參せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものゝ用に立べきものぞ。直に江戶へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰を蒙る。又牧野傳藏成里入道一樂ははじめ豐臣關白秀次につかへ。關白事ありて後石田三成に屬し。關原の戰に石田が味方にて備しが。石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引ぐし。大敵の中を切拔て池田輝政が備に來りしかば。輝政これを播州にともなひ歸り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに。その傳藏は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戶に奉仕せしめむため。酒井雅樂頭忠世にともなひ江戶へ參るべしと命じたれば。傳藏も同じく江戶へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘氣蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一樂は此後還俗して傳藏と改む。又松浦式部卿法印鎭信は孫壹岐隆信とて時に十一歲なるをともなひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎭信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。
鎭信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇給はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三カ左衛門安宗入道宗庵に給はり。下總の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に轉封せられたるをもて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稻荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。又第十の御子長福丸のかた今年二歲にならせ給ふ。訪諏部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覺書。ェ永系圖。ェ政重修譜。家忠日記。)
○三月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍從雅宣。勸修寺宰相光豐卿等參賀あり。この日水野孫助信光死してその子孫助つぐ。(勸修寺記。ェ永系圖。)
○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ參謁しければ。歸路諸驛の御朱印を下さる。(ェ永系圖。八幡古文書。)
○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(ェ政重修譜。)
○十一日永井右近大夫直勝を勸修寺宰相光豐卿のもとに御使して。御直廬の事を議せらる。よて叡聞に達する所。直廬は內廷に設るをもて規摸とする事なれば。長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの內旨を。光豐卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく參りて兩卿よりつたふ。(勸修寺記。貞享書上。)
○廿一日伏見城より御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚樂の御舘を二條に引遷さる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり。)傳奏その外月卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拜謁す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿に御懇詞を加へらる。この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築事こふまゝにゆるされしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勸修寺記。作州記。)
○廿三日小出遠江守秀家卒す。其弟五カ助三尹を世繼として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豐臣大閤の外叔母なれば。豐臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家につかへ從五位下に叙し遠江守と稱し庇䕃料千石を授らる。慶長五年上杉御征伐のとき父秀政は老病に臥ければ。秀家に從兵三百人を加へて御供に侍はしめ。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大斾をかへされたるに。秀家も御供す。關原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歲にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一万石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて万石以下の輩には傳をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその來歷を詳にせざることを得ず。)此日神龍院梵舜二條御所に出で御氣色を伺ふ。(ェ政重修譜。舜舊記。)
○廿四日K田甲斐守長政江戶より上洛し。二條の御所へまうのぼり拜謁す。
○廿五日將軍宣下御拜賀として御參內あり。其行列。一番は雜色十二人。切子棒鐵棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(是は御進献の品なり。)下部是をもつ。公人朝夕十人左右にわかれ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。龓二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭鞢をもつ。龓二人。笠持一人。長刀持一人。草履取一人。敷革持一人。四番隨身。左山上彌四カ政次。島田C左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四カ正盛。渡邊半藏重綱。鵜殿善六カ重長。田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帶劔。弓箭をもつ。龓二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸大夫。風折直垂。太刀小刀を帶す。(これは帶刀のつとめにあたる。)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狹守近次。戶田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。內藤右京進正成。秋元但馬守泰朝。松平右衛門佐正綱。松平出雲守某。七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舍人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御劔をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成P小吉正成。安藤彥兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豐島主膳信滿。林藤四カ吉忠。高木善三カ守次。朝比奈彌太カ泰重。石川半三カ某。都筑彌左衛門爲政。右は米津C右衞門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。田甚右衛門尹松。日下部五カ八宗好。長谷川久五カ某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊藏忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九カ左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛驒守忠政。松平玄蕃頭家C。本多豐後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帶し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豐前宰相忠興。若狹宰相高次。播磨少將輝政。安藝少將正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人從ふ。
遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直友は路次行列の事を汰沙す。禁廷唐門に公卿出迎られ。眤近衆は直に從ひて長橋にいらせらる。御降車の時勸修寺右大辨宰相光豐卿御簾をかゝげ。四條左少將隆昌御沓を奉り。大澤少將基宥御劔をとり。長橋の局もて御直盧代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拜賀あり。主上も殊に龍顏うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海太平の基を開く事。ひとへに將軍の武コによると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拜謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。主上へ銀千枚。幷に小袖親王へ百枚。女院へ二百枚。幷に小袖。女御へ百枚。幷に新大典侍の局へ三十枚。權典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局大乳人へ三十枚づゝ。新內侍の局へ廿枚。伊よの局へ十枚。おこやおまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。帥の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。この時池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則は少將にのぼり。加藤主計頭C正。K田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎭。山內對馬守一豐。井伊右近大夫直勝ともに從四位下に叙し。C正は肥後守。長政は筑前守。一豐は土佐守。忠氏は出雲守と改む。從五位下に叙する者十七人。板倉四カ右衛門勝重は伊賀守。松平次カ右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狹守。三好久三カ可正は越後守。三好助三カ長直は備中守。佐々木藤九カ高和は民部少輔。松平長四カ正綱は右衛門佐。松平文三カ重成は志摩守。近藤七カ太カ政成は信濃守。加藤孫次カ明成は式部少輔。石川宗十カ忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三カ勝政は豐前守。內藤四カ左衛門正成は右京進。松前甚五カ盛廣は若狹守。相良四カ次カ長每は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直友は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五カ作忠泰從五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豐後守にあらたむ。(將軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年錄。續通鑑。ェ永系圖。西洞院記。舜舊記。武コ大成記。成功記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。家譜。藩翰譜備考。ェ政重修譜。)
○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拜賀のため參內す。(將軍宣下記。)
○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條關白兼孝公。一條前關白左大臣內基公。二條前左大臣昭實公。近衞左大臣信尹公。鷹司左大將信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に參向ありて今度の宣下を賀せらる。攝家親王は上段。其以下は下段にて御對面あり。この日江戶にて內藤修理亮C成。山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其地の代官幷に領主を怨望して其地を迯去る時は。代官領主より其事を注進するとも。みだりに還住せしむべからず。迯散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣クの賦稅をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近クの賦稅に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事嚴禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事を得ざる時はこの限りにあらず。代官幷に奉行所に再三目安をさゝぐると雖ども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及はず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事嚴禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(將軍宣下記。制法留。)
○廿八日禁中方々の女房より。將軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり。(西洞院記。)
○二十九日諸門跡二條御所へ參賀せらる。江戶に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひしゆへとぞ。(西洞院記。慶長年錄。慶長見聞書。)
◎是月細川幽齋法印玄旨は足利家代々につかへければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有職のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽齋につきて武家法令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽齋足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傳禮式三卷をえらびて獻ず。又曾我又左衛門尙祐といへるが。これも足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故實に精熟せしかば。これより先めして御內書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰譜。明良洪範。)
◎是春關西の諸大名は次第を追て江戶へ參り大納言殿に拜謁す。伊達越前守政宗が子虎菊伏見より江戶に參り大納言殿に拜謁し。守家の御刀。眞長の御脇差をたまふ。時に五歲なり。この頃江戶彌大都會となりて。諸國の人輻湊し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戱塲を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ其歌舞をもてはやす事風習となりけるに。大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其嚴格に感ぜしとぞ。(創業記。ェ永系圖。當代記。慶長見聞書。)
○四月朔日日蝕することあり。(節蝕記。)
○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(ェ永系圖。)
○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○五日二條御所にて猿樂催さる。(舜舊記。)
○七日猿樂催さるゝ事五日におなじ。この時進藤權右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。
この兩人そのわざ堪能なればとて觀世召具してまかり。權右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに觀世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歲にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記。傳記。)
○十日智積院に御朱印をたまふ。其文にいふ。學業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舍幷に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせは。寺中を追放つべしとなり。(武家嚴制錄。)
○十三日石野新藏廣光死して其子新藏廣次づく。廣光は長篠の戰に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具し。此年頃忍城を勤番せり。(ェ政重修譜。)
○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拜謁し。三光双覽抄の事御尋問あり。(舜舊記。)
○十六日二條より伏見城へかへらせ給ふ。(御年譜。西洞院記。)
○十七日伏見城にて將軍宣下御祝の猿樂催さる。けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子權左衛門政勝家をつぐ。(當代記。慶長年錄。ェ政重修譜。)
○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代幷に酒樽をさゝげ將軍宣下を賀し奉る。(當代記。慶長年錄。)
○廿二日豐臣大納言秀ョ卿正二位內大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿大坂へ參向あり。秀ョ卿には此時十一歲なり。江戶よりは山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる。(西洞院記。家譜。當代記。)
○廿八日御妹田姬君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七カ康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歲にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて。三河國法藏寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る。)この日藤澤のC淨光寺遊行伏見に參り拜謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。(家譜。西洞院記。當代記。慶長見聞書。)
◎是月池田少將輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戶に參り物多く奉る。大納言殿御感淺からず。酒井雅樂頭忠世を御使せられ。滯留の料として粮米を下され。こと更營中に召て御みづから御茶を給ひ。辭見に及びて御刀及虛堂墨跡。幷に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され。歸國の時は大久保加賀守忠常。安藤對馬守重信をして箱根の關までをくらせたまふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は歸路又伏見に參り拜謝して。藤松ことし五歲なり。成長するまでの間は兄新藏利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
◎この春江戶に參覲せし關左の諸大名辭見して伏見に參る。又長崎の地は天主教の淵藪なればとて。天正十六年豐臣家の頃は。鍋島飛驒守某といへる者に所管せしめられ。文祿元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原爲信入道一庵をその地の奉行に仰付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の權輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる。これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年錄。長崎記。)  
 
巻六

 

慶長八年五月に始り九月に終る
五月四日小笠原越中廣朝死してその子権之丞某家つがしめらる。(寛政重修譜)
○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死するもの多し。(當代記)
○七日下野國烏山城主成田新十郎重長。父左衛門長忠に先立て卒す。(断家譜)
○十九日大内より廣橋大納言兼勝卿。勧修寺宰相光豊卿御使として薫袋五十進らせらる。」この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁し。神祇道并に日本記の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記)
◎是月もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姫君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年老たりとて辞退し山林に世をさけて。ことし七十五歳終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめられしなり。」佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。」毛利黄門輝元入道宗瑞江戸に参り大納言殿に拝謁す。(寛永系圖、寛政重修譜)
○六月二日瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進する使に逢てかへり来り。其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更抜擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(寛永系圖、寛政重修譜)
○六日武田五郎信吉君(御五男)の老臣等より藤澤の道場へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門内にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては厳科に處すべしとなり。其連署の老臣は帯金刑部助君松。河方織部永養。近藤傅次郎吉久。宮崎理兵衛三楽。馬場八左衛門忠時。萬澤主税助君基といふ。(鎌倉古文書)
○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衛正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各々別に采邑賜はりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ。(寛政重修譜)
○十一日戸澤九郎五郎政盛始て就封の暇賜はり時服を下さる。(寛政重修譜)
○十五日長福丸の方伏見城にて髪置の式行はる。(紀藩古書)
○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四郎兵衛重次家をつぐ。(寛政重修譜)
○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る。(舜舊記)
○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覧にならせらる。(西洞院記)
(志那は大津の湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絶ざる所といふ)(近江輿地誌)
◎是月大納言殿の北方(崇源院殿の御事)御長女千姫君をともなひ御上洛あるべしとて。その御首途に先青山常陸介忠成が許へわたらせられしかば。大納言殿にも同じくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干もの賜はり。終日御遊ども数をつくされて帰らせ給ふ。北方。姫君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明て帰らせ給ひぬ。やがて江戸をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御対面あり。これは姫君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いちけなき姫君一人を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びて。さしそひのぼらせ給ひしとぞ。(寛政重修譜、家譜、家忠日記、渓心院文)
○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜、西洞院記)
○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拝謁す。(舜舊記)
○六日一條前関白内基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拝謁せられ。御宴ありて御物語数刻に及ぶ。(西洞院記)
○七日観世宗雪江戸にまかりしかば。この日江城にて猿楽催さる。(當代記)
○八日大坂より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿楽催され饗応せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姫君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記)
○十日神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ。(舜舊記)
○十二日又おなじ。(舜舊記)
○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歳。父が家つぎて直に拝謁せしめらる。(寛永系圖)
○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ(御年譜、家忠日記)
○廿四日連歌師里村紹叱没す。歳は六十五。紹巴が死せしのちは。新治筑波の道にをいて海内の宗匠と仰がれ。柳営年々の御會にも必召れし所なり。(寛永系圖)
○廿五日諸大夫以上の輩登営して拝謁す。」近江國膳所の城主戸田左門一西今年六十二歳なりしが。居城の櫓にのぼり顛墜して頓死せりとぞ。(重修譜は寛永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたがひ。重修譜の説はとらず)其子采女正氏鐵に遺領三萬石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝頼と御合戦のとき。敵将廣瀬郷左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豊が陣をつき破る。長篠の戦には酒井忠次等と共に鳶巣山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し。敵追来るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣場を嶮点し。十八年小田原御陣には。青山虎之助定義とおなじくすゝみ戦て功あり。関東にうつらせ給ふ時。武蔵國鯨井にて五千石の采邑をたまはり。
慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に大納言殿御前において聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし従五位下に叙し。近江國大津の城主になされ。二萬五千石加へられ三萬石たまはり。そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年(寛永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり)大津の城は山口近くして要害の地にあらずとて。新に同國膳所崎に城くづかしめて。一西これが主たらしめられ4しなりとぞ。(西洞院記、當代記、寛政重修譜、藩翰譜)(家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず)
○廿七日将軍塚鳴動すること二声。(西洞院記)
○廿八日千姫君(時に七歳)この日内大臣秀頼公の大坂城に御入輿あり。伏見より御船にて大坂にいたらせたまふ。御供船数千艘引つゞく。この間十里ばかり両岸の堤上。東方は辻堅として関西の諸大名とり/\〃警衛し。西岸は加賀中納言利長卿の人数のみ戒厳専ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島辺を警衛す。こと更黒田甲斐守長政は弓鉄砲の者三百人づゝ出して戒厳し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に槌鍬もたせ出し。御船に先立て水路の厳石をうがち游滓を通じ。御船の渋滞なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぼらせたまふ。大坂城にては大久保相模守忠隣御輿を渡し。浅野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄関までに畳をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。将軍家は専ら倹素をこのみ華麗を悪みたまへば。さる結構ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姫君に附られ執事役命ぜらる。」此頃大坂にては。今度姫君御入輿ありてはます/\将軍家より秀頼公を輔導せられ。後見聞え給に。四海いよいよ静謐たるべしといへども。将軍家の威徳年を追て盛大になり。ことに将軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はこと/\〃く一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戸に出し置て其身年々参観す。これをおもふに天下は終に徳川家の天下となりぬ。さりながら故太閤数年来恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豊臣家に対して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと会議して。故太閤恩顧の大小名を城中に会集し。今より後秀頼公に対し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ血誓せしむ。この事は福嶋左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豊臣氏滅亡の兆とぞしられける。」此日信濃國郡代朝日寿永近路死して。其子十三郎近次家つぎ後に大番になる。(創業記、家忠日記、西洞院記、寛政重修譜、武徳偏年集成)
○廿九日山城國常在光寺の事により相国寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の内にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(国師日記)
◎是月大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませ給ふ。これを初姫君と申しまいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姫君ひとり落陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば。江戸にかへらせ給ふもいかゞなりとて。いまだ伏見にまし/\ながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尼のもとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狭守忠高にそはせたまひしはこの姫君なり。」このころ佐渡の国人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田佐太郎は切腹し。会沢主税は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九郎左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を検視せしめらる。(家忠日記、渓心院文、佐渡國記)
○八月朔日たのもも御祝として。大内へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名もうのぼり当日を賀し奉る。」石見國の土人安原傅兵衛おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鉱を捜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして掘らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を掘出て上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傅兵衛は一間四面の洲濱に銀性の石を。蓬莱のかたちに積あげ車にて引てささぐ。ことに御感ありて参謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて称歎せざるものなし。(御湯殿上日記、銀山記)
(世につたふる所傅兵衛(一に田兵衛に作る)備中早島の産なりしが。年頃銀山を捜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同国清水寺の観音に参籠して祈請丹誠を凝しける。七日にみつる夜不思議の霊夢を蒙り。鏈を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て。其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて掘はじめしに。銀の出ることおびたゞしく。年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸国の者あつまり来り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都会となり。傅兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覧にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の府庫に納る税銀は。車をもて引事を佳例に傅へたりとぞ)(銀山記)
○二日大内より御たのむの御返しとて物進らせらる。」
この日三河国寶飯郡豊川村辨財天祠の別当三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河国寶飯郡馬場村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭礼等怠慢すべからずとなり。(御湯殿上日記、可睡斎書上)
○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傅兵衛が積年銀鉱のことに心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰下さる。(銀山記)
○五日遠山民部少輔利景に美濃国志那土岐両郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまはる。」安原備中改称を謝し奉り伏見へもうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落涙におよぶ。(貞享書上、銀山記)
○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戸中納言頼房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上総の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環斎が女なりしを。入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官蔭山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後には勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼と聞えしなり。」この日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。(家忠日記、以貴小傅、舜舊記)
○十一日堀田若狭守一継より千姫君婚礼を賀し進らせければ。大納言殿より一継に御書をたまふ。(古文書)
○十四日下総国関宿城主松平因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子にて。はじめ三郎太郎と称す。母は伝通院殿なり。永禄三年五月十八日(重修譜は寛永系図により三月につくる。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ)久松が尾張国智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御対面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見参せしめられしかば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三郎太郎。源三郎。長福三人みな松平の御家号をゆるされ。三郎太郎御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河国西郡の城を父俊勝にたまはりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城をあづかる。元亀三年三方が原の役には。其身苦戦し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐国に御進発の時従ひ奉りて駿河国沼津の城を守り。又尾張国床奈部の城を攻落し。長久手の役には床奈部の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも従ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をうけて北條が累代の家人武功の者を捜索しいぇ家臣とす。是年下総国関宿の城主になされ二萬石をたまふ。十九年陸奥国九戸の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて。下野国小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二萬石を加へて四萬石になされ。是年叙爵して因幡守と称す。
慶長五年関原の役にはとゞまりて江戸城を警衛し。七年伝通院殿の御ためにとて関宿の地に仏宇をいとなみて光岳と号す。ことしけふ五十二歳にて卒せしなり。」又御弟三郎五郎家元卒せらる。これは大樹寺御湯殿女房の腹にまうけ給へる御子なりしが。十三歳の時より足なへて行歩かなはせられず。外殿にも出まさずして。けふ卒せらる。五十六歳なりし。法号を正元院といへりとぞ。(寛永系図、寛政重修譜、大樹寺記、薨日記)(此人の葬地も詳ならず。又法号も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず)
○十八日三河国大濱の長田八右衛門白吉死す。寿八十四。其子喜六郎忠勝はこれよりさき別に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが。天正十年六月和泉国堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢国白子に着御あり。白吉が大濱の宅におゐて饗し奉りしとぞ。」この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上、寛政重修譜、舜舊記)
○廿日三河国額田郡妙心寺寶飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀬間村にて七石五斗。遠江国長上郡神立神明に蒲郷にて三百六十石。豊田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡応賀寺に中郷にて三十八石。清源院に中郷にて十七石。各社領寺領を寄附したまふ。(寛文御朱印帳)
○廿一日遠江国府八幡宮に同国豊田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(寛政重修譜)
○廿二日三河国碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(寛文御朱印帳)
○廿四日美濃衆高木権右衛門貞利死して。その子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇蔭料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(寛政重修譜)
○廿六日三河国額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。寶飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。革井寺に牛窪郷中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。厚み郡常光寺に堀切郷にて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印を賜ふ。(寛文御朱印帳)
(世につたふる所。西明寺はもと最明寺と書たり。この日住僧御前にめして。最明寺は。ことさらの霊跡といひ。鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境内悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊弥陀仏は。こと更その由緒をもしろしめしたれば。この後西明に改むべしと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり)(寺傅)
○廿七日島津少将忠恒薩摩国より。宇喜多前中納言秀家。其子八郎秀親に。桂太郎兵衛并に正興寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に処せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するのみならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を減じ遠流に定められ。先駿河国に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は関原にて大敗せしかば。伊吹山に逃入しかども。従卒みな逃失てせんかたなく。やう/\と饑喝を忍び薩摩国へ落くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられしに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主従別れ/\にかくれ忍びて行衛をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隠る所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を賜ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘蔵せし鳥飼国次の脇差いかがなりけむかと御尋ありしに。正次関原の辺にて捜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。徳山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きが故に。己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記、家忠日記、貞享書上、宇喜多記、寛政重修譜)
(正次がこと浮田家記。落穂集。東遷基葉。坂板卜斎覚書等の説大同小異なるがゆへ。今は寛永系図。重修譜によりて其大略を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑給はりしを慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑給はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せず)
○廿八日三河国加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方広寺に井伊郷奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石。遠江国周知郡一宮に一宮郷にて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(寛文御朱印帳)
○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超誉住職せられし地なり。かつ當家代々の御宗門浄土宗の本山なればなるべし。(舜舊記)
◎是月伊達越前守政宗江戸より暇賜はり就封し。去年新築したる仙台の城にうつる。よて鷹并金若干を賜はる。」又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乗に賜はる。しかりといへども一乗幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相模守忠隣。青山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上、寛永系図)
○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記)
○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河国久能山に下らしむ。彌死罪を減ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上)
○三日豊後国臼杵城主稲葉右京亮貞通卒しければ。長子彦六典通に遺領五萬六千石をつがしむ。この貞通は故伊予守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしば/\〃軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豊臣家に属し。太閤の軍にしたがひ又戦功少からす。天正十五年の冬従五位下侍従に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長五年の秋大坂の奉行等が催促に隋ひ。我身は犬山の城を守りしが関東に通じ。東軍尾張国にいたると聞て。井伊直政。本多忠勝がもとに使立て御味方に参るべきよし申す。八月廿日かくともしらで遠藤。金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通かねて関東の御味方に参りたり。されども猶合戦の勝負を決せられんとにやといはせければ。金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞えければ。貞通既に御味方に参るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代伝領の地なれば。下し給ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には別に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五萬六千石を領し。この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歳は五十八とぞ。」この日また松平長四郎正永初見す。(寛政重修譜、家譜)
○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は。足利左馬頭義氏が二男左馬頭義継。三河国吉良の庄を領せしより吉良と号す。その十一代の孫左兵衛佐成高武蔵国世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と号す。成高が子左兵衛督頼康。其妻は北條左京大夫氏綱が女也。その子氏朝に至るまで北條に従がひてありしが。北條亡びてのち上総国生実に逃る。関東やがて當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戸へうつらせ給ひし時。氏朝江戸に参りはじめて見参す。その子源六郎頼久に上総国長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(寛政重修譜)
○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢両宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは応仁このかた四方兵か革の中なりしゆへ。伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開基清順尼。豊臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家厳制録、続通鑑)
○十一日武田五郎信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ満千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と称す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ。天正十八年下総の小金にて三萬石給はり。文禄元年同国佐倉の城主になされ四萬石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こもりおはしけるが。慶長七年十一月常陸国水戸に転封せられ十五萬石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。浄鑑院と法号して水戸城内の心光寺に納めらる。(延宝七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地にひきうつされ。向山に於て浄鑑院をいとなみ香火院とせらる)世つぎなければ封地は収公せらる。よて伏見江戸に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゝふ。」又三河国額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河国額田郡妙大寺村の内。寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り。先規の如く寄附せられ。竹木諸役免許せらる。仏事勤行懈怠あるべからずとなり、」又同国渥美郡興福寺にも。吉田郷のうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院は清康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり)」此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜、家忠日記、藩翰譜、慶長年録、寺伝、寛永系図)
○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(寛政重修譜)
○十九日遠江国敷智郡普済寺に浜松寺島村にて七十石。大通院に浜松庄院内門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田郷にて三十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。浜名郡金剛寺に中郷にて五十石。蔵法寺に白須賀村にて十三石。豊田郡宝珠寺に岡田郷にて三十二石九斗餘。幡豆郡法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡斎書上)
○廿一日遠江国榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡斎書上)
○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(寛永系図)
○廿五日三河国宝飯郡上善寺に牛窪村にて廿石。遠江国豊田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡最福寺に原谷村にて廿五石餘。青林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。仙名郡海江寺に掘越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に苫野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豊田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲斎に野辺村にて十五石。玖延寺に二俣郷珂蔵村にて二十石。増参寺に向坂村にて十三石。学圓寺大宝寺に高岡惣領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野辺村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寛文御朱印帳)
(世に伝ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虚空蔵菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに天下を平均し。萬民水火の苦を救はせ給ひなば。当村一圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住持高継にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ出よと仰下されしとぞ。よて高継この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるし賜はりしかば。此後上善寺と改めしとぞ)(貞享書上、牛窪記)」此日後藤長八郎忠直死して子清三郎吉勝つぐ。(寛政重修譜)
○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)
◎是月一尾小兵衛通春はじめて拝謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎮入道宗麟が女なり。通春久我を称せしがこれより一尾と改む。」又武田五郎信吉君に仕へたる松平加賀右衛門康次。成瀬吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。」又江戸芝浦内藤六衛門忠政が宅地を転じて。其地の高邱に愛宕権現の祠を構造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河に帰らせ給ふとて。大和路より宇治信楽にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四郎右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に伝へし愛宕権現の本地仏将軍地蔵の霊像を献ず。こは鎌倉右大将家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戦場にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御帰路守護のためこの霊像を献じ進らすべしと申ければ。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に来れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造営せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(寛永系図、寛政重修譜、多羅尾家譜、林鍾談)
◎是秋大河内善兵衛政綱帰り参り再び御家人となる。慶長四年末子平次郎政信が縁者大久保庄右衛門某を切害し。信濃国へ逃去しをもて。政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去してありけるに。伏見より御免を蒙り今度帰参せしとぞ。」又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の礼をとり。左国弘の御脇差を賜ふ。時に三歳なり。」五島淡路守玄雅が子孫次郎盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根来右京進盛重が子小左次盛正。杉原勝左衛門政行が養子善衛門勝政はじめて奉仕す。(時に十四歳)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持参る良刀と引かへ盗去る事度々なりしを。中山雅楽助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(寛政重修譜、寛永系図、貞享書上) 
 
東照宮御實紀卷六 / 慶長八年五月に始り九月に終る
○五月四日小笠原越中廣朝死して其子權之亟某家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死する者多し。(當代記。)
○七日下野國烏山城主成田新十カ重長。父左衛門尉長忠に先立て卒す。(斷家譜。)
○十九日大內より廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿御使として梠ワ五十進らせらる。この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁し。神祇道幷に日本紀の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記。)
◎是月もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姬君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年老たりとて辭退し山林に世をさけて。ことし七十五歲終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめられしなり。佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。毛利黃門輝元入道宗瑞江戶に參り大納言殿に拜謁す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○六月二日瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進する使に逢て。かへり來り其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更拔擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○六日武田五カ信吉君(御五男。)の老臣等より藤澤の道塲へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門內にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては嚴科に處すべしとなり。其連署の老臣は帶金刑部助君松。河方織部永養。近藤傳次カ吉久。宮崎理兵衛三樂。馬塲八右衞門忠時。万澤主稅助君基といふ。(鎌倉古文書。)
○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衞正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各别に采邑たまはりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ(ェ政重修譜。)
○十一日戶澤九カ五カ政盛始て就封の暇たまはり時服を下さる。(ェ政重修譜。)
○十五日長福丸の方伏見城にて髮置の式行なはる。(紀藩古書。)
○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四カ兵衛重次家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る。(舊舜記。)
○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覽にならせらる。(西洞院記。志那は大津より湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絕ざる所といふ。近江輿地誌。)
◎是月大納言殿の北方(崇源院殿の御事。)御長女千姬君をともなひ御上洛あるべしとて。其御首途に先山常陸介忠成が許へわれしかば。大納言殿にもおなじくならせられ。忠成にも茶入丸壺硯屏など若干ものたまはり。終日御遊ども數をつくされてかへらせ給ふ。北方姬君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明てかへらせ給ひぬ。やがて江戶をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御對面ありければ。姬君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いとけなき姬君一人を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びてさしそひのぼらせ給ひしとぞ。(ェ政重修譜。家譜。家忠日記。溪心院文。)
○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜。西洞院記。)
○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○六日一條前關白內基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拜謁せられ。御宴ありて御物語數刻に及ぶ。(西洞院記。)
○七日觀世宗雪江戶にまかりしかば。この日江城にて猿樂催さる。(當代記。)
○八日大阪より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿樂催され饗應せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姬君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記。)
○十日神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ。(舜舊記。)
○十二日又おなじ。(舜舊記。)
○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歲。父が家つぎて直に拜謁せしめらる。(ェ永系圖。)
○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ。(御年譜。家忠日記。)
○廿四日連歌師里村紹叱沒す。歲は六十五。紹巴が死せしのちは。新治筑波の道にをいて海內の宗匠と仰がれ。柳營年々の御會にも必召れし所なり。(ェ永系圖。)
○廿五日諸大夫以上の輩登營して拜謁す。近江國膳所の城主戶田左門一西今年六十二歲なりしが。居城の櫓にのぼり顚墜して頓死せりとぞ。(重修譜はェ永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたがひ。重修譜の說はとらず。)其子采女正氏鐵に遺領三万石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝ョと御合戰のとき。敵將廣Pク左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豐が陣をつき破る。長篠の戰には酒井忠次等と共に鳶巢山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し。敵追來るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣塲を撿點し。十八年小田原御陣には。山虎之助定義とおなじくすゝみ戰て功あり。關東にうつらせ給ふ時。武藏國鯨井にて五千石の采邑をたまわり。慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に大納言殿御前にをゐて聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし從五位下に叙し近江國大津の城主になされ。二万五千石加へられ三万石たまわり。そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年(ェ永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり。)大津の城は山口近くして要宮の地にあらずとて。新に同國膳所崎に城きづかしめて。
一西これが主たらしめられしなりとぞ(西洞院記。當代記。ェ政重修譜。藩翰譜。家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず。)
○廿七日將軍塚鳴動すること二聲。(西洞院記。)
○廿八日千姬君(時に七歲。)この日內大臣秀ョ公大阪城に御入輿あり。伏見より御船にて大阪にいたらせ給ふ。御供船數千艘引つゞく。この間十里ばかり兩岸の堤上。東方は辻堅として關西の諸大名とりどり警衛し。西岸は加賀中納言利長卿の人數のみ戒嚴專ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島邊を警衛す。こと更K田甲斐守長政は弓鐵炮のもの三百人づゝ出して戒嚴し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に耜鍬もたせて出し。御船に先立て水路の巖石をうがち游滓を通じ。御船の澁滯なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぽらせたまふ。大坂城にては大久保相摸守忠隣御輿を渡し。淺野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄關までに疊をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。將軍家は專ら儉素をこのみ華麗を惡みたまへば。さる結搆ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姬君に附られ執事役命ぜらる。此頃大坂にては。今度姬君御入輿ありてはますます將軍家より秀ョ公を輔導せられ。後見聞え給ひ。四海いよいよ靜謚たるべしといへども。將軍家の威コ年を追て盛大になり。ことに將軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戶に出し置て其身年々參覲す。これをおもふに天下は終にコ川家の天下となりぬ。さりながら故大閤數年來恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豐臣家に對して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと會議して。故大閤恩顧の大小名を城中に會集し。今より後秀ョ公に對し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ。血誓せしむ。この事は福島左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豐臣氏滅亡の兆とぞしられける。此日信濃國郡代朝日壽永近路死して。其子十三カ近次家つぎ後に大番になる。(創業記。家忠日記。西洞院記。ェ政重修譜。武コ編年集成。)
○廿九日山城國常在光寺の事により相國寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の內にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(國師日記。)
◎是月大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませたまふ。これを初姬君と申まいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姬君ひとり洛陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば江戶にかへらせ給ふもいかゞなりとて。いまだ伏見にましましながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尻のもとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狹守忠高にそはせたまひしは此姬君なり。このころ佐渡の國人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田佐太カは切腹し。合澤主稅は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九カ左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を撿視せしめらる。(家忠日記。溪心院文。佐渡國記。)
○八月朔日たのもの御祝として。大內へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名まうのぼり當日を賀し奉る。石見國の土人安原傳兵衞おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鑛を搜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして堀らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を堀出て上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傳兵衛は一間四面の洲Mに銀性の石を。蓬萊のかたちに積あげ車にて引てさゝぐ。ことに御感ありて參謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて稱歎せざるものなし。(御陽殿上日記。銀山記。世につたふる所傳兵衛((一に田兵衛に作る。))備中早島の產なりしが。年頃銀山を搜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同國C水寺の觀音に參籠して祈請丹誠をこらしける。七日にみつる夜不思議の異夢を蒙り。鍵を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて堀はじめしに。銀の出ることおびたゞしく年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸國の者あつまり來り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都會となり。傳兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覽にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の府庫に納る稅銀は。車をもて引事を佳例に傳へたりとぞ。銀山記)
○二日大內より御たのむの御返しとて物進らせらる。この日三河國室飯郡豐川村辨財天祠の别當三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河國室飯郡馬塲村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭禮等怠慢すべからずとなり。(御湯殿上日記。可睡齋書上。)
○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傳兵衛が積年銀鑛の事に心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰下さる。(銀山記。)
○五日遠山民部少輔利景に美濃國志那土岐兩郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまわる。安原備中改稱を謝し奉り伏見へまうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落淚におよぶ。(貞享書上。銀山記。)
○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戶中納言ョ房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上總の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環齋が女なりしを。
入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官䕃山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後に勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼ときこえしなり。この日神龍院梵舜伏見城へうのぼる。(家忠日記。以貴小傳。舜舊記。)
○十一日堀田若狹守一繼より千姬君婚禮を賀し進らせければ。大納言殿より一繼に御書をたまふ。(古文書。)
○十四日下總國關宿城松平主因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子にて。はじめ三カ太カと稱す。母は傳通院殿なり。永祿三年五月十八日(重修譜はェ永系圖により三月に作る。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ。)久松が尾張國智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御對面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見參せしめられしかば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三カ太カ。源三カ。長福三人みな松平の御家號をゆるされ。三カ太カ御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河國西郡の城を父俊勝にたまわりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城をあづかる。元龜三年三方が原の役には。其身苦戰し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐國に御進發の時從ひ奉りて駿河國沼津の城を守り。又尾張國床奈郡の城を攻落し。長久手の役には床奈郡の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも從ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をうけて北條が累代の家人武功の者を搜索して家臣とす。是年下總國關宿の城主になされ二万石をたまふ。十九年陸奥國九戶の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて。下野國小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二万石を加へて四万石になされ。是年叙爵して因幡守と稱す。慶長五年關原の役にはとゞまりて江戶城を警衛し。七年傳通院殿の御ためにとて關宿の地に佛宇をいとなみて充岳と號す。ことしけふ五十二歲にて卒せしなり。又御弟三カ五カ家元卒せらる。これは大樹寺殿御湯殿女房の腹にまけ給へる御子なりしが。十三歲の時より足なへて行歩かなわせられず。外殿にも出まさずしてけふ卒せらる。五十六歲なりし。法號を正元院といへりとぞ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。大樹寺記。薨日記。此人の葬地も詳ならず。又法號も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず。)
○十八日三河國大Mの長田八右衛門白吉死す。壽八十四。其子喜六カ忠勝はこれより先别に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが。天正十年六月和泉國堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢國白子に着御あり。此時兄平右衛門重元と共に船を催して迎へ奉り。白吉が大Mの宅におゐて饗し奉りしとぞ。この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上。ェ政重修譜。舜舊記。)
○廿日三河國額田郡妙心寺室飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄P間村にて七石五斗。遠江國長上郡神立神明に蒲クにて三百六十石。豐田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡應賀寺に中クにて三十八石。C源院に中クにて十七石。各社領寺領を寄附したまふ。(ェ文御朱印帳。)
○廿一日遠江國府八幡宮に同國豐田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(ェ政重修譜。)
○廿二日三河國碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(ェ文御朱印帳。)
○廿四日美濃衆高木權右衛門貞利死して。其子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇䕃料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(ェ政重修譜。)
○廿六日三河國額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。室飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。華井寺に牛窪ク中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。渥美郡常光寺に堀切クにて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印をたまふ。(ェ文御朱印帳。世につたふる所。西明寺はもと㝡明寺と書たり。この日住僧御前にめして。㝡明寺はことさらの靈跡といひ。鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境內悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊彌陀佛は。こと更その由獅もしろしめしたれば。この後西明に改むべしと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり。寺傳。)
○廿七日島津少將忠恒薩摩國より。宇喜多前中納言秀家。其子八カ秀親に。桂太カ兵衛幷に正與寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に處せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するのみならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を减じ遠流に定められ。先駿河國に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は關原にて大敗せしかば。伊吹山に迯入しかども。從卒みな迯失てせんかたなく。やうやうと饑餲を忍び薩摩國へ落くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられしに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主從わかれかれにかくれ忍で行衞をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隱る所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を給ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘藏せし鵜飼國次の脇差いかゞなりけむかと御尋ありしに。正次關原の邊にて搜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。コ山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。
先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きがゆへに。己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記。家忠日記。貞享書上。宇喜多記。ェ政重修譜。正次がこと浮田家記。落穗集。東遷基葉。板坂卜齋覺書等の說大同小異なるがゆへ。今はェ永系圖。重修譜によりて其大畧を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑賜はりしを慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑賜はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せず。)
○廿八日三河國加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方廣寺に井伊ク奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石。遠江國周知郡一宮に一宮クにて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(ェ文御朱印帳。)
○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超譽住職せられし地なり。かつ當家代々の御宗門淨土宗の本山なればなるべし。(舜舊記。)
◎是月伊達越前守政宗江戶より暇給はり就封し。去年新築したる仙臺の城にうつる。よて鷹幷金若干を賜はる。又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乘に賜はる。しかりといへども一乘幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上。ェ永系圖。)
○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記。)
○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河國久能山に下らしむ。彌死罪を减ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上。)
○三日豐後國臼杵城主稻葉右京亮貞通卒しければ。長子彥六典通に遺領五万六千石をつがしむ。この貞通は故伊豫守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしばしば軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豐臣家に屬し。太閤の軍にしたがひ又戰功少からず。天正十五年の冬從五位下侍從に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長五年の秋大坂の奉行等が催促に隨ひ。我身は犬山の城を守りしが關東に通じ。東軍尾張國にいたると聞て。井伊直政本多忠勝がもとに使立て御味方に參るべきよし申す。八月廿日かくともしらで遠藤金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通かねて關東の御味方に參りたり。されども猶合戰の勝負を决せられんとにやといはせければ。遠藤金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞えければ。貞通旣に御味方に參るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代傳領の地なれば。下し賜ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には别に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五万六千石を領し。この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歲は五十八とぞ。この日また松平長四カ正永初見す。(ェ政重修譜。家譜。)
○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は足利左馬頭義氏が二男左馬頭義繼三河國吉良の庄を領せしより吉良と號す。その十一代の孫左兵衛佐成高武藏國世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と號す。成高が子左兵衛督ョ康。其妻は北條左京大夫氏綱が女之。その子氏朝にいたるまで北條にしたがひてありしが。北條亡びてのち上總國生實に迯る。關東やがて當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戶へうつらせ給ひし時。氏朝江戶に參り初て見參す。その子源太カョ久に上總國長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(ェ政重修譜。)
○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢兩宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは應仁このかた四方兵革の中なりし故。伊勢兩宮荒廢きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開基C順尼。豐臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家嚴制錄。續通鑑。)
○十一日武田五カ信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ萬千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と稱す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ。天正十八年下總の小金にて三万石たまはり。文祿元年同國佐倉の城主になされ四万石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こもりおはしけるが。慶長七年十一月常陸國水戶に轉封せられ十五万石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。淨鑑院と法號して水戶城內の心光寺に納めらる。(延寳七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地に引うつされ。向山に於て淨鑑院をいとなみ香火院とせらる。)世つぎなければ封地は收公せらる。よて伏見江戶に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゞふ。又三河國額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河國額田郡妙大寺村の內。寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り先規のことく寄附せられ。竹木諸役免許せらる。佛事勤行懈怠あるべからずとなり。又同國渥美郡興福寺にも。吉田クのうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院はC康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり。)此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜。家忠日記。藩翰譜。康長年錄。寺傳。ェ永系圖。)
○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(ェ政重修譜。)
○十九日遠江國敷智郡普濟寺にM松寺島村にて七十石。大通院にM松庄院內門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田クにて三十石。龍秀院には有玉村にて二十五石六斗餘。
甘露寺には万解村にて二十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。M名郡金剛寺に中クにて五十石。藏法寺に白須賀村にて十三石。豐田郡寳珠寺に岡田クにて三十二九斗餘。三河國渥美郡龍根寺に吉田村にて二十五石餘。幡豆郡法光寺に法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡齋書上。)
○廿一日遠江國榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡齋書上。)
○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(ェ永系圖。)
○廿五日三河國室飯郡上谷寺に牛窪村にて廿石。遠江國豐田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡㝡福寺に原谷村にて廿五石餘。林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十七石。長福寺に原谷村にて十四石。旭搦宸ノ原谷村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。山名郡海江寺に堀越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に笘野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豐田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲齋に野邊村にて十五石。玖延寺に二俣ク珂藏村にて二十石。撕メ寺に向坂村にて十三石。學圓寺大寳寺に高岡捴領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野邊村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(ェ文御朱印帳。世に傳ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虗空藏菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに天下を平均し。萬民水火の苦をすくはせたまひなば。當村圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住僧高繼にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ出よと仰下されしとぞ。よて高繼この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるしたまはりしかば。此後上善寺と改めしとぞ。貞享書上。牛窪記。)この日後藤長八カ忠直死して子C三カ吉勝つぐ。(ェ政重修譜)
○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)
◎是月一尾小兵衛通春始て拜謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎭入道宗麟が女なり。通春久我を稱せしがこれより一尾と改む。又武田五カ信吉君につかへたる松平加賀右衛門康次。成P吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。又江戶芝浦內藤六衛門忠政が宅地を轉じて。其地の高邸に愛宕權現の祠を搆造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河にかへらせ給ふとて。大和路より宇治信樂にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四カ右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に傳へし愛宕權現の本地佛將軍地藏の靈像を献ず。こは鎌倉右大將家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戰塲にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御歸路守護のためこの靈像を献じ進らすべしと申ければ。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に來れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造營せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(ェ水系圖。ェ政重修譜。多羅尾家譜。圓福寺記。林鍾談。)
◎是秋大河內喜兵衛政綱歸り參り再び御家人となる。慶長四年末子平次カ政信が緣者大久保庄右衛門某を切害し。信濃國へ迯去しをもて。政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去して有けるに。伏見より御免を蒙り今度歸參せしとぞ。又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の禮をとり。左國弘の御脇差を賜ふ。時に三歲なり。五島淡路守玄雅が子孫次カ盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根來右京進盛重が子小左次盛正。杉原四カ兵衛長氏が子四カ正永(于時八歲。)初見し奉る。松田勝左衛門政行が養子善衛門勝政初て奉仕す。(時に十四歲。)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持參る良刀と引かへ盜去る事度々なりしを。中山雅樂助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。貞享書上。) 
 
巻七

 

聚楽の亭にて申楽興行ありしに。あつじの関白をはじめ織田常真。有楽などもみなつき/\〃かなで。殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。君は舟弁慶の義経に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節々にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義経とも見えずとて諸人どよみ咲ひしとぞ。」後に関白此事を聞れて。常真がごとく家国をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといひべし。徳川殿は雑技に心を用ひられざるゆへ。当時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。」又秀吉夜話の折近臣等。徳川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帯しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さま/\〃にて。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。関白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武辺衆にすぐれ国郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをかしこしとは申べけれといふ。其時関白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上関八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝれば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談会稿、岩渕夜話)
按に醍醐花見の折。関白が近侍の輩君の御事いひ出て咲ひ種にせしを聞かれ。家康が芸は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一は武略衆にすぐれ。第二は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大芸なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。徳川殿はなにがよければ。いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ様の事をさま/\〃に伝へしなり。
文禄元年正月二日聚楽の邸にて謡初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亜相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥なれば。ゆく/\は養子にして家継せんと思へば第一座に定めしなりとて聴入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。君その様御覧じ。利家しばしまたれよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の旧臣もみな帰服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むといふも。旧義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左担するにもあらず。かゝらば秀信をば別に奥方にて。拝礼盃酌の儀をすませられ。表様にては秀次を一座につけ給はゞ。人心事体に於て両ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允当の御処置に感じ。仰のごとくせられて謡初の式事故なく遂行はれしとぞ。(武辺咄聞書)
関白あるとき君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を会集せし時。わが宝とする所のものは虚堂の墨跡。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるゝ宝は何々ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。君ひとり黙しておじゃしければ。徳川殿には何の宝をか持せらるゝといへば。君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舎に生立ぬれば。何もめづらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入れも。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て。第一の宝とは存ずるなりと宣へば。関白いさゝか恥らふさまにて。かゝる宝はわれもほしきものなりといはれしとぞ。」また秀吉ある時君に尋進らせしは。応仁このかた乱れはてたる世の中をおほかた伐従へつれど。いまだ諸大名己がじゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。君おほよそ萬の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の当る所はなべて人の従ふものなりと御答ありしとぞ。(寛元聞書。武野燭談)
細川忠興入道三斎が。年老て後大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしといへば。いかなることゝのたまふに。いつの年にか有けん。豊臣殿下の前にて。東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の道に於て。一度も不覚を取しことなしと広言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感服してあり。其時君ひとり御けしきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば。一座の者みな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。関白何ともいはず座を立て内に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は実に一時の戯言にて侍れば。徳川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いや/\武道の事はいかに殿下なりとも。そのまゝすて置べきにあらず。今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして関白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる様なれば。いづれも安堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉。君の御様を試みむとて。わざとかゝる広言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて関白のたのみがたき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる御実意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下の英雄は只御辺とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ様の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得ざるにぞ。(紳書)
関白伏見にて。古今の名将の上の事をとり/\〃評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義経。楠正成などこそ誠の名将とこそいふべけれといへば。関白。正成は戦の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諌の聴れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義経は梶原が姦悪をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからず。むかしはしらず今の世にては。家康に過たる名将はあらじといはれしとぞ。」また関白諸大将の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざされしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御覧じ分られ候にやといへば。関白別にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金装の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賎より起り数度の武功をかさねて大国の主ろなりし人なれば。いにしへを忘れずして革柄を用ゆるならん。輝元は数奇人なればこと様の装せし品其差料ならむ。江戸の亜相は器宇寛大にして。刀剣の制作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみ/\の品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺、常山紀談)
伏見にて太閤。君をはじめ前田利家。蒲生氏郷等を饗せられ。それより聚楽にて遊讌し。かへさに君の御亭に立よられんとあれば。君はかねてその御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守斎といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。君はとく聚楽よりまかで給ひ。茶をとりよせて御覧あるにわづかなかり残りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守斎申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。献物は美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々爪隼人政尚。殿下は只今にも渡御ならん。遅々しては間に逢ふまじ。最初の残茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人。汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下来臨ありて。茶を進るに及ばずして帰られんともせむかたなし。人の飲あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしからずとて。いたくいましめられしとぞ。(砕玉話)
豊臣秀長。織田信雄など。おなじく聚楽の亭にて夜中に遊讌ありし時。蝋燭の心はねしに。君は何げなくおはせしが。秀長は驚き座をたちし様を御覧じ微笑に給ふ。秀長己が性劣をわらはせらるゝかとおもひ。いかれる顔して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。君御辺や某などは。一大事のあらん時は殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心ひてなるべきか。まだ若年におはせば。さる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあげつろふ様にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らいてやみしとぞ。(岩淵夜話)
太閤が伽の者に。曾呂利伴内といふいと口ときおのこあり。折々は君の御館へも参り御談伴に候したるが。或時伴内。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大黒天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大黒はその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を弁ずる事ならざるをもて。大黒は袋を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれ。かりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福禄を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大黒の極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬがでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。おさゝかさはるものなからしめむが為に。常にはかぶりつめてあるぞ。是ぞ大黒の極意よと宣へば。伴内も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤の座にありて此事いひ出しに。太閤今の世にもわた持のいき大黒があるをしりたるかと尋らる。伴内心得ざるよし申す。太閤いき大黒とは徳川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(霊岩夜話)
山名禅高聚楽にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禅高にむかはせられ。御辺の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。禅高是は故の光源院将軍(義輝)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねし故かく打切ぬといへば。よくも旧を忘れぬ朴実の人かなとおぼして。わきて御懇遇ありしば/\御館にも伺公せり。」或日禅高の申は。朽木卜斎はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜斎が粗忽は皆人のしる所なり。御辺の粗忽は卜斎に超たりと我は思ふと宣へば。禅高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜斎は粗忽ながらも祖先已来料し来りし朽木谷を今にたもてり。御辺が祖は六十六州の内にて十一ヶ国を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さるをみうしなひはて。今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禅高はさまで羞赧の色もなく。げに尊旨の通りにて侍れ。某今は六分一ののぞみもなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。」又天正十六年の比君御上京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禅高も供奉せり。禅高三松へ応接の様あまり慇懃に過しかば。還御の後禅高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへども。其祖は足利の支族なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで数ヶ国の太守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に対してかく厚礼をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を尽し。重く家国を振起すべしと仰ければ。禅高も殊にかしこしと思へりとか。(霊岩夜話、山名譜)
聚楽にて談伴のともがらあまた太閤の前に侍してよも山の物語せしに。一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞てわれもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。徳川殿しばし待せ給へ。余の人々はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じぐしたり。太閤われらが親なるものは。誰もしらるゝごとくきはめていやしの者なりしが。某を子に持れたり。某は親に劣りて子に事を缺よといはれしとぞ。(霊岩夜話)
浮田黄門が許にて秀吉はじめ申楽見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。君先立て下立せ給ひ。秀吉が履も直し給へば。秀吉手をもて君の御肩ををさへ。徳川殿にわが履を直さする事よといはれしとぞ。(老人雑話) 
奥の九戸に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍装のとゝのひ次第出陣し。蒲生。浅野に力をそへ。九戸の軍事を相計るべしと命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は当家の執権なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。されにて事弁ぜざらん時にこそ直政をつかはされば。事体におゐても允当ならんと申す。君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北条氏直などがかかる事をばすれ。いかにとなれば。事のはじめに軽き者を遣はし。埒があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さしむる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。」後年筒井伊賀守定次罪ありて所領収公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平摂津守忠政始め数人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戸にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事体に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話)
内府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたび既に任槐の上は。御調度などもなみ/\の品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を製して進らせられければ。かしこきよす謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるがよきかと仰らる。正信先年小笠原與八郎が御方に参りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して頗る大身なりしが。当家に参りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一国を己が物にせんと思ひて帰降せしをとくに察し給ひし故。姉川の役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戦をせしめられしなり。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし様して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたびも豊臣家の待遇に乗て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戦せしと同じ例なりと。正信がおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊国物語)
関白秀次違乱の前江戸へ下向し給ふにのぞみ。台徳院殿及び大久保大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に当て。太閤父子の間にかならず争隙起るべし。さらむには太閤が方に参るべしと仰ければ。台徳院殿は謹で御請し給ひ。忠隣は当今の静謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え在て。台徳院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんと謀りしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき様にあつかひて太閤が方へいれ奉りし故。何の御恙もましまさで。太閤も珠によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未来を察知し給ひしゆへ。かゝる不慮の変をも免かれ給ひしなり。」秀次の変有し後御上洛ありしに。太閤待迎へられ御手を取て。此度の大事徳川殿上洛を待付て処置せんと思ひしが。遅々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付ぬといへば。君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。関白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さるをかくはかなき事になされしはおしき事ならずや。殿下いま春秋已にたけ。御子秀頼ぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる変事の出来んに。関白かくしても世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此語は世の中の事みな徳川殿にまかするといはれしとぞ。(寛元聞書)
江城におはしませし時。豊臣家の使来りて朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。ただ黙然としておはしぬ。本多正信折しも御前に侍しけるが。君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし。人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ(常山紀談)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は内藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫直勝。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戌らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上、卜斎記)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は当家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の内意にて。当家の次は義宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あらば家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に従ひ奉る。太閤石田三成もて。徳川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝとなり。君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。その代に政宗を後陣に押せつるなり。そも/\去年奥の岩出山佐沼の城経営の折。政宗若年といひかつ遠国者にて。何事もうい/\しければ。万事につきて家康が指諭を頼むと有し故。こたびも家康が後に引付。過誤なからしめん様にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せし如く当家の次に政宗と定められぬ。政宗君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の装いかにも異様なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の装するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上)
名護屋に赴かせ給ふとて。安芸の広島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣潟上弥兵衛。河村三蔵。横田大学の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。君楼上より大声を発せられ横田大学と呼せらる。大学仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大学かしこまり二人をやり過し。己れ一人楼に上りて謁し奉る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先後を論ずるときく。いらざることなり。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諌をいれよと宣ふ。大学速に立かへり直江にかくと申ければ。兼続も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざまの事はいましめ諭されしゆへ。御徳に懐き従ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雑記)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戦の様はか/\〃しからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戦いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ゐて彼国にをし渡り。利家氏郷を左右の大将とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事は徳川殿かくておはせば安心しと有ければ。利家。氏郷等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時君にはかに御けしき損じ。利家氏郷にむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ。軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覚の名を取らず。今異域の戦起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸将の跡に残とゞなつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連。殿下の御先奉じるべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。関白大にいかり。おほよそ日本国中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも残る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひ放てば。一座何となくしらけて見えしに。浅野弾正少弼長政進み出て。徳川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中国西国の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北国奥方の人衆を召具して渡海あらば。国中いよ/\人少に成なん。その隙を伺ひ異域より責来るか。また国中に一揆起らんに。徳川殿一人の凝りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡海あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の様あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。関白いよ/\いかられ。やあ弾正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。弾正いささか恐るゝけしきなく。抑応仁このかた数百年乱れはてたる世の中。いま漸く静謐に帰し。万民太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく国財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申譬のごとく。今朝鮮をとらむとせらるゝ内に。いかなる騒乱のいできて。日本を他国の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさざりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りとは申侍れといへば。関白事の理非はともあれ。主に無礼をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常真。前田利家などおしふさがり。弾正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ぬば。君。徳永。有馬の両法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事済けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話別集、天元実記)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉帰洛あるべしとするに及び。君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病体心許なければしばらく帰京する所なり。朝鮮の事は徳川殿にまかせ置ば。いか様の事出来るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はる/\〃浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつもてさるべく決せられよと有て。浅野弾正長政はじめ在陣の諸将をよびよせ。只今大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。大納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に帰洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよ/\当家へ心を傾けし者出来しとぞ。(清正記)
名護屋陣中にて当家の御陣所の前に清水涌出て。外の陣所よりも人々来て是を汲ば。番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人来りて強りに汲取しかば。番人制すれども聴ず。かへりて悪言などいひ出しにより。闘諍に及び。おひ/\侍分の者いでゝ両方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝。榊原康政二人出て制す。忠勝は渋手拭にて鉢巻し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。漸にしづまりぬ。君にははじめよりこの様見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日当陣の見廻として。はる/\〃秀忠より使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ労したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元実記)
此巻は豊臣家聚楽の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。 
 
東照宮御實紀卷七 / 慶長八年十月に始り十二月に終る
○十月朔日鎌倉鶴岡八幡上宮造替あるにより遷座あり。造替の奉行は彥坂小刑部元正これをつとむ。この日蝕す。(御造營記。節季蝕記。)
○二日河村與惣右衛門某。木村惣右衛門勝正に淀川過書船支配の御朱印を下さる。其文にいふ。大坂傳法尼崎山城川伏見上下する所の過書船。公役として年中銀二百枚課せしむべし。官用の船は例のごとく。川筋折々船替すべし。武家船は課銀をとるべからず。商物を積載するに於ては嚴に查撿を加ふべし。木材の如きは直に武家の邸內へ收めしむべし。木材商へ渡さしむべからず。二十石積の船課は銀五百貫目納むべし。船に大小ありといへども銀課は二十石積の船に准じて收むべし。鹽藏の魚物課稅も上に同じ。下り船の米は二割をとり收むべし。新過書三十一人船一艘づゝのすべし。かく定めらるゝ後。船持商人に對して非義を申かくるに於ては。嚴に命ぜらるべしとなり。(家譜。木村傳記。)
○三日山岡道阿彌景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに。兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太カ景本とて。今年八歲なるをともなひ出て。初見の禮をとらしめ養子とせん事を聞えあぐる。よて景本に吉光の御脇差を給ふ。此御脇差は甲斐の武田が累世の秘藏とせし物なりとぞ。又景友に伏見成山寺の二王門幷に多寳塔を下され。三井寺に寄進せしめられしとぞ。(ェ永系圖。家忠日記。續武家閑談。)
○四日神龍院梵舜伏見にまいり木練の柿を献ず。伊勢兩宮幷に大甞會の事を御垂問あり。この日澁谷文右衛門重次を長福丸の方へつけらる。(舜舊記。)
○五日安南國より書簡幷に方物をまいらせて。去年方物を獻ぜしとき。御答禮として甲胄以下の器械をつかはされしを謝し奉る。よて金地院崇傳に御返簡を製せしめられ。御答禮として長刀十柄をゝくらせ給ふ。(異國日記。)
○九日津輕右京大夫爲信伏見にのぼり拜謁して御氣色伺ひ奉る。此日尾崎勘兵衛成吉伏見城の守衛にありて死しければ。其子勘兵衛正友家つがしめらる。又相摸國馬入の渡より大磯平塚の間氷降る。其大さ日輪の如し。隣國にはすべてこの事なし。(西洞院記。當代記。ェ政重修譜。)
○十五日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見にまうのぼり拜謁し。兼見卿は綾衣。梵舜は筆を献ず。(舜舊記。)
○十六日右大臣の御辭表を捧げ給ふ。(公卿補任。)
○十八日伏見城を御首途ありて江戶に還らせたまふ。五カ太丸とて今年五歲なるをともなはせ給ふ。かねては永原までわたらせ給はんとの御事なりしが。長福丸とて二歲になり給ふ御子。あながちに御跡をしたはせ給へば。これもふりすて給ひがたく。にはかに其用意つくらせ給ひしかば。時うつりてこよひは膳所にやどらせ給ふ。今朝島津右馬頭以久初見し。日向國佐土原城三萬石を給ふ。龍伯入道幷に少將忠恒が請奉るによれり。又大番三浦庄右衛門直次に采邑二百石下さる。粟屋市右衛門吉秋死して子市右衛門忠時つぐ。(創業記。西洞院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十九日龜山にやどらせ給ふ。
○廿日名古屋にやどり給ふ。この日土屋市之亟勝正。岡野平兵衛房恒の二人仰を蒙りて近江國中を巡視す。(ェ政重修譜。)
○廿一日岡崎につかせ給ふ。
○廿二日吉田。
○廿三日M松城にとまらせ給ふ時。松平左馬允忠ョに吉光の御脇差を下さる。(ェ永系圖。)
○廿四日中泉につかせらる。
○廿五日懸川にやどらせ給ふ。この日立花左近將監宗茂江戶高田の寳祥寺(一說に淺草寺中日恩院といふ。)に閑居せるをめして。陸奥國棚倉にて一萬石を賜ふ。宗茂は庚子の亂に大坂の催促に隨ひ。軍勢を引具し伏見の城をせめやぶり。勢田の橋をかため大津の城を責落しけるが。關原の味方敗績すと聞て本國に引返しをのが城に楯こもり。鍋島が軍勢押寄ると聞て。家人等を出し散々に防ぎ戰ふ。かゝる所にK田如水入道。加藤肥後守C正馳來て双方をなだめしかば。宗茂は居城をC正に渡しけり。如水C正等こと更に歎き申ければ。其罪をなだめられ領國をば悉く收公せられき。宗茂はこの後C正に養はれ。肥後國高Pといふ所に閑居しける間。C正が奔走大方ならず。翌年の春にいたり宗茂暇ある身なれば。此ほど都近き邊の名所古跡をも遊覽せまほしと請しに。C正もことはりと聞て。又旅の用意をもねもごろにあつかひて都へのぼせたり。宗茂は都をはじめ南都和泉の堺までも心しづかに一覽し。三年がほど山水の間に優遊しけるが。しきりに江戶のかたゆかしく覺えければ江戶の方にまかり。戶塚の驛より本多佐渡守正信に消息してことのよし告たりしかば。正信まづ高田の寳祥寺まで來るべしといふ。宗茂其詞にしたがひかの寺に着て旅のつかれをやすめける。大納言殿もとより宗茂が勇有て義を守る志をふるくしろめしたれば。正信より土井大炊頭利勝もて伏見にて其よし聞えあげしめられ。忽に御ゆるしありてかく新恩に浴せしとぞ。(ェ政重修譜。藩翰譜。立齋聞書。久米川覺書。一說に大納言殿よりは三萬石賜はり。書院番頭を命ぜらるべきにやと伺はせ給ひしに。宗茂は老鍊の宿將なれば。所領は少しともいづ方にてもさるべき所を撰び城を授けよと。伏見より御下知ありけるといへり。ェ永系圖に。宗茂居城をC正にわたし速に江戶に至り。其翌年奥州にて二萬五千五百石給はりしとあるは大なる誤なり。又國恩錄に。慶長十一年正月二日とするも誤なり。)又松平隼人佐由重三河國松平クにありて卒す。壽八十一。こは永祿三年七月廿五日三河國刈屋の軍に深手負て。世のつとめかなひがたく。舊領の地に年頃籠居してけふ終をとりたるなり。その子太カ左衛門尙榮は庚子の亂後江戶に參り奉仕し。慶長十八年にいたり舊領松平クを賜はりて采邑二百五十石になる。(ェ政重修譜。)
○廿六日田中にとまらせ給ふ。加藤太カ左衛門成之死して子源太カ良勝つぐ。この成之もはじめ源太カと稱し織田家につかへ。後に當家にめし出されつねに近侍し。庚子の役に每度御先手に御使し。思召のままにことはからひて御感にあづかりしが。
今年伏見にあり五十二歲にて死せしなり。其子良勝わづかに十歲なりしかば。去年たまはりし加恩五百石は收公せらる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○廿七日田中にやどらせらる。
○廿八日駿府。
○廿九日三島。
○晦日小田原
◎是月柬埔寨國王より書簡並に獅角八。鹿皮三百枚。孔雀一隻をまいらせ。其國叛人を征討する事あるをもて戎器を請ふ。よて金地院崇傳をして其御返簡をつくらしめ。其請にまかせて太刀廿把を贈らせられ。本邦の刀銳利他國に比倫なし。もし懇望するに於ては望にまかせらるべしと仰つかはさる。又菅谷左衛門太夫範政。上總のうちにてたまはりし采邑千石に加へて。舊領常陸の筑波郡にて五千石を給ふ。この範政は代々常陸小田城主小田讃岐守氏治入道天庵につかへ。天庵太田三樂のために小田の城を奪はれし時。範政别に喜多餘の城を築て天庵を居らしめしに。梶原美濃守景國又その城を攻落す。範政三日が間にその城を攻て。梶原を追落し其城をとりかへし。小田原北條亡びて後同國高津村に蟄居せしを。範政年ごろ其主のために忠功を立し事を聞召。文祿元年當家に召て采邑給はりしに。今度御前にめしいでゝ先の軍功を御直に聞召。其軍畧を御感ありてかく加恩せられしとぞ。又松平與右衛門C政死す。壽九十六。その子右近C次つぐ。又宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣江戶へ參覲せらる。この時秀康卿は越前より出られて中山道にかゝり。上野國碓水峠を越えらるゝとて川の關を過らるゝ時。關の番人等卿の供人の中に鐵炮を備られたるを見とがめてこれをさゝへたり。卿聞給ひ從者をして。これは番人等が秀康なる事をしらずして遮るなるべし。秀康なればくるしからぬほどに。そこ開て通すべしといはせられけるに。番人共聞て。たとひ秀康卿にもあれ何人にもあれ。公より鐵炮查撿すべしとて置れたる關を。通すべきにあらずと罵りければ。卿大に怒り給ひ。天下の關所に於て秀康に無禮ふるまふは天下を輕蔑するものなり。其まゝに捨置べからず。悉く打殺せとありければ。番人ども肝を消し早々迯走て江戶にまいりこのよし訴へしに。大納言殿聞召。(諸書これを烈祖とす。しかれども此時烈祖は御道中なれば。江戶にうたへしを聞召たるは台コ公なり。今は大三河志に從て台コ公とす。)番人ども秀康卿を抑留せんとせしは人をしらざるなり。卿にうち殺されず死を免れしは番人共の大幸といふべしとて笑はせ給ひ。别に仰せ出さるゝ事もなし。(これ台コ公友愛の情あつく。殊さら秀康卿御庶兄の事ゆへ。最御優待他に殊なる一端なるべし。さりながらその時勢今を以て論ずべからず。世に越前の家は制外なりといふはこの時よりの事とす。)又淺野紀伊守幸長。加藤肥後守C正も參覲す。幸長が女を五カ太丸のかたに御配偶あるべし。C正が女を長福丸の方に御婚儀むすばれん事を約し下されしも此頃の事とぞ聞えける。(異國日記。ェ政重修譜。ェ永系圖。御年譜。蓬古城記。C正記。世に傳ふる所。C正が江戶の宅地は外櫻田辨慶堀今井伊が邸の地なり。外門前にかしの木を植ならべし故かしの木坂とよべるといへり。事跡合考。)また毛利黃門輝元入道宗瑞は伏見より暇給はり歸國し。この後は周防國山口に莵裘の地いとなみうつりすみしとぞ。(ェ政重修譜。)
○十一月朔日藤澤にやどらせ給ふ。
○二日神奈川につかせらる。
○三日江戶城に還御なり。(この還御を續通鑑武コ編年には冬とのみあり。日記摘要には十二月とす。十二月とするは誤なり。今十月十八日伏見御首途より日を推してみるに。今日還御ならざることを得ず。よりて推考してこゝにしるす。)
○五日目付松平加賀右衛門康次三河にて四百六十石餘をたまふ。(ェ政重修譜。)
○七日大納言殿右近衛大將をかけ給ひ右馬寮御監を兼給ふ。この日長福丸の方を常陸國水戶の城主になされ廿万石に封ぜらる。(御年譜。武家補任。創業記。翌年五万石加へられ廿五万石にせられし之。)
○九日烏丸左中辨光廣江戶にまいるとて洛を發す。(創業記。本月七日台コ院殿右大將御兼任ありしゆへ。其宣旨持參せしなるべしといへども。是を受給ひし事諸書に見えず。今しばらく光廣參向をしるして後の證とす。西洞院記。)
○十一日松平久助忠直死す。こは長澤の松平兵庫頭一宗が次男次カ兵衛親昌が孫にて上野介康忠が聟なり。(この事妙心寺記。長澤系圖。武コ編年にのみ見えてさだかならず。)松平隱岐守定勝長子遠江守定友遠江國懸川城に於て卒す。年十九。(妙心寺記。ェ政重修譜。)
○十六日安房國館山城主里見左馬頭義康卒しければ。その子梅鶴丸(後に忠義。)に遺領十二万二千石を襲しめらる。この義康其先は義家朝臣の三男足利式部大輔義國の嫡男新田大炊助義重の二男里見太カ義俊が十代刑部少輔義實が後なり。義實が父刑部少輔家基は結城中務大輔氏朝と共に。鎌倉管領左馬頭持氏の子春王丸安王丸を下野國結城の館に迎へ取て。上方の勢と戰はんとせしに。其城落て家基も討れしかば。義實家人を具し小舟に取のり安房國に落行しが。後に國人共を討平げ白Mの城をかまへ住し。其子刑部少輔成義が時上總國をも討したがへ。これより上總安房兩國を合せ領せり。成義が子上總介義通うせし時其子太カ義豐わづかに五歲なりしかば。弟左衛門督實堯に國をゆづる。義豐成人に及びても實堯これをかへさず。よて義豐怒て叔父實堯を稻村の城にて討とりぬ。實堯が子安房守義堯また軍起して義豐を討亡し。終に安房上總兩國を押領し。御弓の左馬頭義明の味方となりてしばしば小田原の北條と戰ひ。武藏相摸下總の地をもこゝかしこうちしたがふ。其子左馬頭義弘の子安房守義ョはこの義康が父なり。父につぎ岡本の城にありて。是も北條と國をあらそひ戰やまず。天正十八年豐臣關白北條追伐に下向ありし時その味方しければ。從四位下の侍從に叙任せしめ羽柴の家號をゆるされ。後に館山に城築てうつる。庚子の亂に大斾にしたがひ奥にむかはんとせしに。上方の逆徒蜂起し引かへし打てのぼらせ給へば。
義康等は少將秀康朝臣の麾下に屬し上杉佐竹等と戰はんとす。然るに關原の一戰逆徒悉く敗績して上杉佐竹も降人に出ければ。義康には常陸國鹿島の郡を割て三万石下し給はる。ことし三十一歲にて卒せしなり。(里見記。里見家記といへる書には。豐臣太閤より小田原へ參陣せしを賞せられ。上總の三浦四十餘クを賜はりしを。關原の時病と稱し出軍せざりしゆへ四十餘クの地を收公せられ。わづかに鹿島の地にて三万石たまはりしゆへ。里見の君臣臍を嚙て悔恨すとあり。いづれか是なるや。)
○十八日松前志摩守慶廣參覲す。在府の料とて月俸百口給ふ。此後永例となる。(ェ政重修譜。)
○廿五日榊原式部大輔康政御上洛の供奉及び在京の料として。近江國野洲栗太蒲生三郡の內に於て五千石を賜ふ。又元重の御刀及ひ國綱の鎗二柄を下さる。(ェ政重修譜。)
◎是月丹羽五カ右衛門長重召出されて。常陸國古渡に於て一万石の地を賜ふ。長重は庚子の亂に加賀國松任の城にこもりて出陣せず。前田中納言利長卿近國の叛徒を討平げんがため出軍して。長重にも軍を出さん事をすすむるといへども。催促に應ぜず。遂に合戰に及びしかば。關原平均の後賞罸をたゞされし時所領を沒入せられしに。長重はこの後カ從兩三人を伴ひ江戶に來り。品川邊に閑居して異心なきをあらはしけり。右大將殿もとより長重とは懇に御したしみありければ。しばしば長重が事なげかせ給ひしによりかく召出されたり。又長重が弟左近長次も兄と同じく品川に閑居しけるが。これも召れて右大將殿へ初見し奉る。(ェ政重修譜。芝泉岳寺舊記に。長重兄弟が閑居したる寺中田田中內匠某家をかりて。從者は十三人なりしといふ。)
○十二月二日右大將殿河越へ放鷹のためならせらる。(當代記。慶長年錄。)
○三日淺間山鳴動する事三四度に及ぶ。其音三河美濃兩國の間に聞ゆといふ。
○廿日山岡備前守景友入道道阿彌卒す。こは故美作守景之が四男。はじめ僧となり邏慶と稱し。三井寺の光淨院に住す。天正元年二月靈陽院義昭將軍いつしか織田右府の威權を忌て。武田信玄淺井長政等と通じて是を討んとはかられし時。邏慶も足利家の命を奉じて石山堅田邊に要害をかまへ立こもるといへども。織田の大勢に攻られしかば城兵勢盡て城をのがれさる。これより邏慶還俗して八カ左衛門景友とあらため。織田家につかへ備前守と稱しける。十年右府本能寺にて事有し時。景友膳所にて勢多の船ををしとめ。明智光秀をして渡る事を得ざらしむ。光秀ほろびて後豐臣家につかへ。入道して道阿彌と號し所々の戰塲にしたがひ。恩遇を蒙り宮內卿法印になされける。太閤うせられて後大坂の奉行等が當家を傾けまいらせんとはかりしこと度々なりしに。入道いつも無二の御味方として御館をぞ守りける。慶長五年奥の會津にむかはせ給ひしに御供し。弟源太景光入道甫庵は伏見城を守りて。上方の軍おこりし時城中にて討死せり。又下野國小山の御陣にて御供の諸將をあつめ軍議ありしにも。入道幷に岡江雪二人をして仰をつたへしめらる。人々皆御味方して先陣うつてのぼるべきに决しければ。入道は福島掃部頭正ョが加勢として伊勢國長島城に立こもり。原田隱岐守胤房と戰ふ。しかるに關原の戰味方勝利して凶徒みな敗走すときゝ。入道手の者引具し城を出て川船にとりのり大鳥居にさしかゝる時。長束大藏少輔正家が敗走して來るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百餘切て又桑名城にをしよせ。氏家內膳正行廣兄弟を降參せしめ。又神戶龜山水口等の城を請取て大津に參りしかば。兩御所入道がふるまひを感じ給ふ事斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫與力十人同心百人をあづけられ。近江國にて九千石の地をたまはり。其內四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。ことしその家にわたらせ給ひし時吉光の短刀を給はる。齡六十四にしてけふうせぬる之。姪主計頭景以が子新太カ景本を養子とすといへども。景本いまだ幼稚なれば仰によりて景以その遺跡を相續し。甲賀組の與力同心をあづけらる。このとき景以にこれまでたまはりたる三千石は收公せらる。(ェ政重修。景友萬石に列せずといへども。創業の功臣なれば傳をこゝに出す。)
○廿三日此夜大雪。京にては三條曇華院火災あり。(當代記。)
○廿八日太田原出雲守暾Cに百石加へられて千五百石になさる。(ェ政重修譜。)
◎是月阿部勘左衛門宗重を右大將殿の御方に付らる。朝倉右京進政元。弟七左衛門景吉共に拜謁し鶴千代の方に付らる。(ェ政重修譜には月日を記さず。今は當代記年錄による。)又右大將殿土方河內守雄久が外櫻田の邸へならせ給ひ鞍馬を下さる。(ェ政重修譜。)
◎是年京極宰相高次が子熊丸。(時に八歲。)小笠原安藝信元が子孫三信重。眞野金右衛門重家が子惣右衛門勝重。駒井次カ左衛門昌長子長五カ昌保。大久保喜六カ忠豐三子六右衛門忠尙。角倉了以光好子與一玄之。織田家に仕し島彌左衛門一正。(後に使番となり千五百六十石賜ふ。)金吾黃門に仕へし林丹波正利。武田につかへしP名左衛門貞國はじめて拜謁す。正利にはやがて舊領にひとしく采邑たまはるべしとて元采邑二千石賜ひ。貞國にも二百石賜ふ。京の外科醫奈須與三重恒が子二カ四カ重貞。織田家に屬せし內藤喜右衛門政長は右大將殿に初見す。牧野成里入道一樂は仰によりて江戶に參り右大將殿に初見し。束髮して傳藏と改め。この時めされたる長の御袴を賜ひ采邑三千石賜ふ。板倉伊賀守勝重三子主水重昌。長谷川波右衛門重吉弟左兵衛藤廣。天野伊豆重次二子にて故麥右衛門正景の養子たりし麥右衛門重勝。武島大炊助茂幸が子七大夫茂成。黃門秀秋に仕し矢橋嘉兵衛忠重。川勝主水正秀氏が弟太カ兵衛重氏はじめて仕へ奉り。忠重は采邑五百石。近江國矢橋村舊宅の地をも給ひ詰衆に加はる。牧野傳藏成里が二子五六成純。石原小市カ安長子小大夫安正。長田喜兵衛吉正養子十大夫重政。飯塚兵部少輔綱重二子半次カ忠重。
(時に十二歲。)渡邊忠右衛門守綱三子忠四カ成綱。織田家に仕し中村四カ兵衛長次。安藤三カ右衛門定正子忠五カ定武。多喜六藏資元が子十右衛門資勝は右大將殿御方に召出され。重政は納戶番。忠重は小姓となる。長次には二百石賜ふ。先に本多中務大輔忠勝に附屬せられし都筑彌左衛門爲政。彼家を去て信濃國松本に閑居してありしをめされ。是を右大將殿に附られ采邑六千石賜ひ。其子惣左衛門言成は越前家に附らる。天正の頃故有て當家を退去したる武島大炊助茂幸三子與四カ茂貞。再び御家人になされ采邑二百石下さる。又大久保石見守長安に佐渡の奉行をかねしめられ。山口勘兵衛直友。柘植三之丞C廣。伏見城定番命ぜられ。長野內藏助友秀伊勢の山田奉行仰付られ。長谷川左兵衛藤廣長崎奉行になり。小堀新助正次備前國の制法を沙汰せしめらる。土方河內守雄久二子鍋雄重(時に九歲。)右大將殿小姓になる。三浦長門守爲春は長福丸の方補導の臣とせられ。封地水戶に赴く。山伯耆守忠俊百人組の頭となり五千石たまはり。騎士廿五人歩卒百人をあづかる。久永源兵衛重勝は右大將殿御方に附られ。五百五十石加恩ありて五千二百石になされ。騎士十人同心五十人をあづかり。先手弓頭となる。二千石は騎士同心の給地にたまはりしとぞ。三井左衛門佐吉正は歩行頭となる。千村平右衛門良重は信濃國にて一万石。遠江の國中にて鐚錢千四十貫餘の地を所管とし。榑木の事をも沙汰せしめらる。木與兵衛信安は甲斐國武川の本領を給り。かの地に住居して五カ太丸のかたにつけらる。其外成P內匠正則。津金修理亮胤久をはじめ武川津金の輩子弟等廿人。幷鷹師西村仁兵衛某。倉林四兵衛昌知を同じくつけらる。大久保甚右衛門忠長が子牛之助長重は書院番に加へられ。多田八右衛門正吉が子三八カ正長。大久保三カ右衛門忠政三子三カ右衛門忠重。遠山四兵衛直吉子新次カ景綱。武田家に仕し今川平右衛門貞國は大番にいり。忠利は三百石。貞國は二百石下さる。鳥居久五カ成次は叙爵して土佐守と稱し。內藤三左衛門信成は豐前守と稱し。小出万助三尹は大隅守と稱し。同助九カ吉親は信濃守と稱し。池田彌右衛門重信は備後守と稱す。津金勘兵衛久C武藏國鉢形の采邑を改めて甲斐國の舊領を賜ふ。(稅額詳ならず。)山寺甚左衛門信光も舊領三百九十石賜ふ。みな武川津金の地之。米倉加左衛門滿繼甲斐の舊領に復し甲府城の勤番を勤む。大岡兵藏忠吉は相摸國にて百六十石餘を給ふ。金森兵部卿法印素玄五畿內に於て放鷹の地を賜ふ。又池田備後守重成の子備後守重信。永見新右衛門勝定が子權右衛門重成。渡邊彌之助光の子彌之助勝は父死して家つぎ。勝には父の原職を命ぜられ足輕をあづけられ。夏目万千代某は死して子なき故に采邑を收公せらる。池田備中守長吉は伏見城の修築を奉はり。松平又八カ忠利。吉田兵部少輔重勝。遠藤左馬助慶隆は近江國彥根の城新築の事を奉はり。慶隆は美濃國加納の城をも築かしめられ。吉川藏人廣家は御許蒙りて周防國山に城を築く。細川越中守忠興は江戶運送廻船の事をつかうまつらしめらる。角倉了以光好仰を蒙りて安南國に船を渡して通商す。又有馬玄蕃頭豐氏が子生れしかぱ吉法師丸と名を賜はり。其家司吉田掃部助に御刀を賜ふ。是は御養女連姬の御方の所生なるが故なるべし。山村甚兵衛良勝は父三カ左衛門良侯の遺跡を去年つがしめられしにより。父の遺物茶壺を献ず。又松平(中村。)伯耆守忠一は封地伯耆國岡山の城にありて。家の老田內膳村詮を誅す。忠一ことし僅に十五歲。身の行ひ强暴なりし故內膳直諫の詞を盡せしを憤りて。饗宴に事よせ自ら是を斬る。內膳きられて其所を走り出るを。近臣近藤吉右衛門馳むかひて打とゞむ。內膳が召具したる小童これを見て。主の刀をぬいて忠一に切てかゝる。天野宗葉をしへだて。其童をば安井C次カ道家長右衛門切てすつ。內膳が子主馬助かくと聞て父が居城飯山にたてこもる。忠一が家人これに組するもの少からず。忠一大に怒て軍勢をさしむけ飯山の城を責かこむ。こゝに於て隣國までも騷動大かたならず堀尾山城守忠晴出雲隱岐の軍勢を出し忠一を助く。城中にこもる所の兵柳生五カ左衛門(但馬守宗矩が弟なり。)をはじめ。一人も命いきんと思ふものなく防戰すれば。寄手討るゝもの數をしらず。其後柳生をはじめ城兵も次第に討れければ。主馬助城に火をかけ主從ことごとく腹切て死す。此事江戶に聞えければ大に御氣色損じ。忠一が寵臣安井。近藤。天野。道家四人をめして子細を尋とはせ給ふ。忠一いまだ幼弱之。たとひひが事はかるとも。それを諫めざるのみならず。主の惡を迎合してふるまふ事以の外なりといからせ給ひ。安井。天野。道家三人は忽に誅せらる。(道家は先に姬君に附られし人なり。)近藤一人は助られもとのごとくつかへしめらる。これは近藤はじめ忠一が內膳を誅する密議を聞て忠一を諫しに。忠一さらに聞入ず。さては幼弱の人のみづから大剛の兵誅せられんこと危しと思ひ。ひそかに長刀携て奥の間に忍びゐて。終に內膳を討とめしふるまひ。にげなからざればなり。又伊丹長作重好は小栗次カ光宗を討果して逐電し。K田筑前守長政にあづけられし石尾越後守治一は御ゆるしを蒙り。又三河國大林寺に百石の御朱印を下さる。又白銀町の日輪寺を淺草に引うつさる。又京中市街の市人を十人づゝ黨を定められ。その黨中に一人も惡行の者あらんときは。同組のもの悉く同罪たるべしと令ぜらる。これは京伏見この頃盜賊行の聞えあるにより鞠治せられんがためなり。又京の處士林又三カ信勝洛中に於て朱註の論語を講ず。聽衆雲のごとくあつまる。こゝに於てC家の博士舟橋外記秀賢等大に猜忌して。凡本朝にして經典を講說する事。勅許あらざれは縉紳の流といへども講ずべからず。まして凡下の處士かゝるふるまひ尤奇怪なり。速に其罪を糺明あるべきなりと奏しければ。禁廷よりこのことを議せられしに。
御所聞召て。聖道は人倫を明らかならしむるためなれば。ひろく講說せしむべきことなり。これをさまたげんとするもの尤狹隘といふべし。彌ゆるして講說せしむべしと仰らる。これより信勝はゞからず洛中に於て程朱の說を主張して經書を講讀す。これ本朝にて程朱の學を講ずる濫觴なりとぞ。(貞享書上。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。佐渡記。大業廣記。蓬左記。斷家譜。藩翰譜備考。慶長見聞錄。落穗集。由誌早B町年寄書上。當代記。烈祖成績。東鑑。) 
 
巻八

 

慶長元年七月十二日地おびたヾしくゆりて。伏見城の楼閣悉く破損す。君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御対面ありてその無異を賀せられ。かつ速に内の御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大変にて陪従の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。徳川殿ともに参らせ給へ。その従士をかり申さめと有て。当家の陪従ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の辺おもく堪がたし。徳川殿の従臣の内に持せ給れとあれば。君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。とかうする内にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁来たれば。太閤輿に乗れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心には。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懐に入し鳥を殺す様なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひしが。折悪しく隔たりしゆへ。間にあはでいと残りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小気者なればなり。小気者よ/\と笑ひながら輿に乗られしかば。忠勝何ともいはずたヾ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。続武家閑談)
ある時数寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶杓をとりあつめもてこよと仰付られ。そが内にて瀬田掃部が削りし杓六七本。筒に入て在しをとり出され御手づから節の所より一つ/\〃に折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部。豊臣家の内意を受て。蒲生氏郷を鳩殺せし聞えありしかば。彼の所為をいたくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元実記)
大坂の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。君のまうのぼり給ふ道筋なれば。浅野弾正三成にむかひ。只今内府の通らせらるゝに。さるなめげの様してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顔して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後に聞しめし。さて/\あやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。」この長政は豊臣家にはゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。殊に御仁恵をかしこみ奉り。後に大坂の奉行等が異図企し時故有て武州に蟄居し。其末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年釆女正長重十二歳にて江戸に参りたれば。御けしき斜ならず。同五年より台徳院殿につけしめられ。野州真岡にて二萬石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家清が娘は御姪女なるを。養せられ長重に配せられ御待遇浅からず。おほよそ上方の大名の子弟当家に奉仕する事は。長重をもて権輿とするにぞ。」又長政常に寵眷浅からず。君つれ/\〃の折ふし長政を召出して共に碁を囲み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる挙動有しを。君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひけり。長政が身まかりしのち。しばしが程碁を囲み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと哀なる御事になん。(寛元聞書、貞享書上、大三河志)
慶長三年正月二日とみの事にて石清水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御夢想の事おはしませしゆへなりといへり。」同じ夜関東にても御家人米津清右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をば継ける
これは其ころ豊臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆくに。当家は関東におはして。日にそひ御威徳のそひまさらせ給ふにより。天意人望の合応する所より。かかる瑞徴もおはしませしならん。(天元実記)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納涼しておはしけるに。廚所より出入する下部の様を御覧じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさま/\〃の物を懐にし。又は袂の内に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行届かざるゆへなりとてむづからせ給へば。正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。君聞しめし。下人が盗竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そも/\そのかみ岡崎におはしませし程の御事は申までも候はず。浜松にうつらせ給ひても。御分国広大に成せ給ひしとはいへども。廚所のもの鰹節一本盗む事もならざりき。さるに当時関八州の太守にならせ給ひ。海内第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。国々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせらるゝをもて。かゝる盗人も出来れ。これぞ御家の栄へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御台所と河の瀬は。いつもどむ/\となるがよいと申ごとくにて候と申せば。君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(霊岩夜話)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志ある者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを検出してとがむrつもまた同じ様の心なれ。其儘毀裂して捨よと仰付られしが。此後は果して絶てせざりしとなり。(三河之物語)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壷一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる為にとて厨膳をたまひ。棋。象棋。双六の盤などまで遣はされ。随分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壷二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番人等を慰労せられ。残の壷ども御覧じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せられし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壺を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこそ参るべきに。たゞ使にのみ渡してよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈実におはしまして行届かせられしゆへ。いづれも心用ひて。あへて句(正しくは草冠)旦の事はなさゞりしちぞ。(紀伊國物語)
豊臣太閤既に大漸に及び。君と加賀亜相利家を其病床に招き。我病日にそひてあつしくのみなりまされば。とても世に在むとも思はれず。年比内府と共に心力を合せて。あらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六歳にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。我なからむ後は天下大小の事はみな内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す/\〃申されけれど。君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と。遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記) 
太閤の遺命により。浅野長政。石田三成の両人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々帰帆せしむべしと命ぜらる。」その日の夕方仰残されしむねあれば。高虎かさねて参謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡には留守の家老のみ在と申上しかば。君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹あるを察せられ。追々抜擢せられし程有て。万事敏捷なる者なり。汝等聞置て後学にせよと仰れしとぞ。」かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島津兵庫頭義弘泗川の戦に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に怒れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆帰帆せむと注進有ければ。高虎がしばし名護屋に在て渡海に及ばず。その年十一月に本朝の軍勢残らず博多へ着岸す。」こたび島津が勲功莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀頼公御代始の事なれば。外々三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て従はず。よて五奉行の人々その事申上れば。君の仰らるゝは。今秀頼幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪ある者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれば。前田徳善院は愚僧も仰のごとく存しなり。その後薩摩大隅両国の中にて。島津に一萬石まし給はりしとぞ。(天元実記、寛永系図)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮説区々にして人心おだやかならず。其比加賀亜相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亜相が心はわれよくしれり。さる反復の者にてはなし。まして彼すでに病をつとめてわが方に来りしを。我遅々してゆかざらんには。かへりて世の浮説しずまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亜相もかく降臨ましませしを世に嬉しげにおもひ。病あつくして衣装を正すこともかなわず。されば上下をば側におきて見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す/\〃いひ出しかば。君にも其様を御覧じて。哀におぼし召御涙を浮められ。家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく遷御なりぬ。亜相より家人と徳山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮説もいつしか静まりて。人心も何となく落居しなり。」ある伝には。利家その子利勝をよびて。今日内府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗応の設共みなしつるといふ。さて還御の後重ねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白匁を取出し。さきに吾汝に問しとき。汝さるべき答をせば。われ病中ながらも内府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず内府の掌握に帰すべし。されど汝等が事はよく/\頼み置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠ることなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戸田左門覚書、公程閑暇雑書)
大坂の大老奉行等より安国寺惠瓊長老。生駒雅楽頭親正。中村式部少輔一氏君には故太閤の遺命に背かれ。妄に諸大名と縁を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のごとく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。君聞しめして。我故殿下の終に臨み。幼主の事をかへす/\〃遺托ありしゆへ。日夜心力を尽してその為よからんことをはかる所なり。さるに方々近比は何事も我に議し合されず。別人の様に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたち。それがしも世にそしりを免かれなん。然るに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穏当の所為とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し関東へ下り。代りには武蔵守をよび昇せて当地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指図給はるべしと宣ひ。又安国寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身として。たが命を受てみだりに三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ様もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠瓊は面の色をかへ。わな/\ふるひ出せしとぞ。」同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺と伺公せしに。折しも物具取出されて御覧有しかば。この具足は故殿下の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して検点するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に当りてたれか内府公に対し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊国物語、天元実記、落穂集)
向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よと命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ礫をもて打おどろかし給ひしとか。」後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる悪徒どもの。焼草つみ置て焼立ることもあるものなれば。よく/\警しめねばかなはぬものなりと仰られき。」向島の本邸に還らせられ。おほよそ一夜の内に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈従の者も親しきかぎり三人か五人に過ず。余はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前橋聞書、卜斎記)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備厳重なり。御門を明て御長柄鉄炮など修理す。新庄駿河守直頼伺公して。かゝる時はいかなる急変あらんも測り難し。御門を閉しめ給へといふ。君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄関にて用意するがよしと宣へば。直頼も盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ。(落穂集)
ある日向島の御館へ。加藤。細川の人々伺公して武辺の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと上意也。定政君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せしなどゝかぞへ立て。つぎ/\物語せしかば。君の御武功はおのづから言をまたずして顕はれしとぞ。いかにも御称誉の様。よく其体を得しと人々感じて。かく武功のものおほく持せらるれば。終末にこの君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土産)
細川越中守忠興は兼て当家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が奸計にくみし。彼等の内議を聞出して一々言上す。ある日長束大蔵大輔政家忠興にむかひ。今宵内府が館を襲はむと群議已に一決せり。御辺も力を合されよといふ。忠興云。内府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戦をしかけなば。いかに利を得むやといつて従はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御館に参りて。しか/\〃の由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つれ。もしさらむにはわが館に火をかけ。東北の広地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武徳大成記)
おなじころ伏見の御館浅まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六条門跡を御頼在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずば京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど。とり/\〃議しけるに。君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。家康は敵を恐れて落たりなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の様もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方のものもあへて手を下す事もならざりしとなり。」この時井伊兵部少輔直政。関東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも在ん。もし不虞の変あらんにも。此人数にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。」徳善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを内府はいさゝか御動転なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき様して沈静持重しておはせしは。なか/\名将にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊国物語、三河之物語)
加藤主計頭清正。同左馬助嘉明。浅野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。黒田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戦にいづれも千辛萬苦して軍忠を励み。武名を異域にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。帰陣の後太閤へさま/\〃讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人会議して三成を打果し。旧怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騒擾に及び。三成も窘窮してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義気あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に来り。向島の御館に参りてさま/\〃歎訴し奉れば。君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾まし/\。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰下されしは。当時秀頼幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尚更なるべし。三成が旧悪はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。当地へまで逃来りし上は。おの/\の宿意もまづ達せしなれば。これまでに致され。此上は穏便の所置あらむことこそあらまほしけれとの御諚なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳来り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて従服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そも/\三成当家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし。救済せしめたまふ御事。さりとは寛容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元実記)
後年駿河におはしまして。今の世に律儀の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律儀なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の内に佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大坂にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶持してわが方へ来り。さま/\〃こひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ横目を付置。万一違変あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍装して在しとなり。これは誠の律儀人といふべけれ。関原の時は何れへもつかず。国に蟄し両端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に属し忠勤を抽んでむには。本領はそのまゝに遣し置べきに残りおほきことなり。とかく律儀はよけれども。あまり律儀すぎたるといふは。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有しとか。(駿河土産)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豊臣太閤の命により肥前名護屋赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事をあはれませ給ひ。さま/\〃申たまひ。入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家臣伊集院源次郎忠真日向庄内の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄内の地図を御覧に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易。人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば。俄に責落さむとせば。かへりて士卒あまた損ぜん。日を曠して糧の尽るをまたば。おのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の異なれば。血気にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を傷はざらむ様にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(寛永系図)
慶長四年九月重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異図あるよし群議まち/\なれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。桜の門迄おはしませしは比。門衛の者。扈従のものおほしとてとがむれども聞入ず。増田右衛門尉長盛。長束大蔵大輔正家出迎て案内し奉る。井伊。本多等の十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄関に伺公す。かくて奥方に通らせ給ひ。秀頼母子に対面したまひ。御盃ども出て。とり/\〃御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其様儼然たれば。城中にもかねての相図相違して。敢て異議に及ばず還らせ給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舎者共にも見せ度と在て。酒井與七郎忠利をもて。御供の者悉く召よばれて見せしめられ。内玄関より静にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへども。いさゝか御平常にかはらせ給はず。人なき地をゆくがごとく御處置ありて。鎮静をもて騒擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるるにぞ。(慶長見聞書)
此巻は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騒擾の事どもをしるす。 
 
東照宮御實紀卷八 / 慶長九年正月に始り六月に終る御齡六十三
慶長九年甲辰正月元旦右大將殿新正を賀し給ひ。次に在府の諸大名諸士江戶城に登り慶賀し奉る。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○二日昨夜より大雪。八日に至る。(慶長見聞書。)
○七日若菜を祝はせ給ふ。この夜追儺。(慶長年錄。)
○八日立春。
○十日足利學校主僧寒松貞觀政要の訓譯を献ず。御氣色にかなひ酒井備後守忠利。戶田藤五カ重宗をもて寒松に時服金を給ふ。柴田七九カ康長燒火間番頭命ぜらる。けふより京淀川の堤修築せしめらる。板倉伊賀守勝重これを監す。大坂城よりも片桐市正且元をしてこれに@ましむ。(慶長見聞書。當代記。慶長年錄。ェ永系圖。舜舊記。)
○十三日天滿茨木屋又左衛門。尼崎又左衛門。安南國渡海通商の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十四日京富森堤を修築せしむ。板倉伊賀守勝重これを監視す。(西洞院記。)
○十五日松平(蒲生。)飛驒守秀行に召あづけられたる新庄駿河守直ョ。其子越前守直定と共に府にめされて兩御所に拜謁す。この父子庚子の亂に石田三成が催促に應じ。伊賀國上野城に立籠りたるをもて。關原御凱旋ののち秀行に召あづけられ。陸奥の會津に閑居せしめらるゝといへども。反徒にくみせしは其本志にあらざる事聞召とゞけらるゝによてこたび召出され。常陸下野の內にて所領三万三百石給ひ。常陸國麻生に住せしめられ。此後はよりより御談伴に候し。諸家へならせ給ふ時もしばしばめされて陪侍せしめらる。(ェ永系圖。家譜。)
○廿日具足御祝例のことし。連歌興行又同じ。立こすや霞を松の若みどり。(三益。)雨そゝぐ夜のあけぼのゝ春。(右大將殿。)月にふく風の高こちしづまりて。(紹之。慶長見聞書。)
○廿五日榊原九右衛門正吉死す。其子大番組頭八兵衛正成家をつぐ。この正吉は永錄三年五月。尾張國丸根城の戰に鎗を合せしを始とし。廣Pの城責。一向專修の亂。姉川長篠等の戰にいつも供奉して戰功をはげみしものなり。齡詳ならず。(ェ政重修譜。)
○廿七日松前志摩守慶廣に蝦夷交易の制三章を授らる。其文にいふ。諸國より松前の地に出入する者。慶廣に其旨告ずして夷人と交易せば曲事たるべし。慶廣に告ずしてみだりに渡海して。夷人と通商する者あらば。速に府にうたへ出べし。夷人は何方に往來するとも心まかせたるべし。夷人に非義を申かくべからず。これに違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(家譜。令條記。)
◎是月松平三カ四カ定綱江戶に參り拜謁す。仰により右大將殿につかへしめらる。その時本多佐渡守正信に命ぜられ。定綱その器に應じ登庸せらるべしとて。先下總國山川の地五千石たまふ。故の武田七カ信吉君の家司万澤主稅助君基。馬塲八左衛門忠時。宮崎理兵衛三樂。近藤傳次カ吉久。河方織部永養。帶金刑部助君松士籍を削らる。この輩は穴山陸奥守信君入道梅雪以來の舊臣どもなりしが。信吉君年若くおはしければ。封內賦稅の事などほしゐまゝにはからひ私慾を專にせしとて。穗坂常陸介某。有泉大學某。芦澤伊賀守某。佐野兵左衛門某等うたへ出しかば。營中にめして双方對決せしめられしに。万澤等語塞がりしかばかく命ぜられしなり。又筒井伊賀守定次參覲し新年を賀し奉る。(ェ永系圖。貞享書上。慶長年錄。筒井家記。)
○二月四日右大將殿の命として。諸國街道一里每に堠塚(世に一里塚といふ。)を築かしめられ。街道の左右に松を植しめらる。東海中山兩道は永井彌右衛門白元。本多左大夫光重。東山道は山本新五左衛門重成。米津C右衛門正勝奉行し。町年寄樽屋藤左衛門。奈良屋市右衛門も之に屬してその事をつとめ。大久保石見守長安之を惣督し。其外公料は代官私領は領主沙汰し。五月に至て成功す。(家忠日記。當代記。慶長年錄。ェ永系圖。津輕志。町年寄由誌早B大三河志。落穗集。世に傳ふる所は。昔より諸國の里數定制ありといへども。國々に異同多かりしが。近世織田右府領國の內に堠塚を築き。三十六町を以て一里とさだむ。豐臣太閤諸國を撿地せしめ三十六町にさだめ。一里每に堠塚をきつがしむ。此時又改て江戶日本橋を道程の始に定め。七道に堠を築かれしとぞ。其時大久保石見守に。堠樹にはよい木を用ひよと仰ありしを。長安承り誤りて榎木を植しがいまにのにれりとぞ。落穗集。武コ編年集成。)
○六日山常陸介忠成。內藤修理亮C成。大久保石見守長安。長谷川七左衛門長綱。伊奈備前守忠次奉りて。長吏(非人の長なり。)彈左衛門に江戶小田原の傳馬下知狀をさづく。其文にいふ。江戶より小田原まで。驛馬一疋を立べし。これは鹿毛皮白皮に製せしめられんためなれば。滯る事あるべからずと之。(由誌早B)
○十日深夜怪音四方に鳴動する事五六度。(其音はじめはどんどん後ばたばたとす。)何の怪たるを知らず。(當代記。)
○十五日榊原式部大輔康政が二子伊豫守忠長卒す。歲廿。兄國千代忠政は外祖大須賀五カ左衛門康高が家をつぎし故に。忠長嗣子となり御一字を給はり。叙爵して伊豫守と稱しけるが。けふ卒しければ康政は三男小十カ康勝をもて嗣子と定む。(ェ永系圖。)
○十六日上杉中納言景勝北方うせぬ。これは武田晴信が女にて菊姬といひしなり。(慶長日記。)
○廿八日大和國布施領主桑山修理大夫一晴伏見に於て卒す。子なければ弟久八一直に遺領一万三千二十石餘を襲しむ。この一晴は故の大納言秀長につかへたる九カ五カ一重が子にて。はじめ豐臣家につかへ朝鮮の軍に彼國にをし渡り。番手の船を打破り勇戰し。慶長元年五月十一日叙爵して修理大夫と稱し。五年祖父治部卿法印重晴と同じく關東の御味方し。紀伊國和歌山城を守り。又叔父左近大夫貞晴と共に新宮の城をせむ。城將堀內安房守氏善降を乞て大野に迯れしかば。かの地平均し。此年封を襲て和歌山二万石を領し。叔父伊賀守元晴に一万石を分ちあたへ。六年和歌山を轉じ大和國葛下郡布施にうつり。けふ三十歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿九日相摸國戶塚(富塚ともしるせり。)の土人等彥坂小刑部元成にうたへしは。
戶塚の村年頃驛馬の事つかうまつりしを。今度藤澤程谷の兩驛よりこれをはぶき。宿驛の列にあづからしめず。よて戶塚一村生產を失へば。よろしく藤澤程谷の兩驛に曉諭せられ。古來のごとく戶塚の一驛を立給はん事を希ふとの事なり。(案に此後上裁ありて。藤澤程谷の間に又戶塚の一驛を置事ゆるされしなるべし。)又小堀新助正次卒しければ。その子作助政一をして遺領一万二千四百六十石餘を襲しめ。二千石を次男次左衛門正行に分ちあたへ。父が例のことく備中の國務をつかさどり松山の城をあづけらる。此正次は故勘解由左衛門正房が子にて。はじめ近江の淺井家に屬し。後に豐臣太閤につかへて大和大納言秀長に附屬せられ。大和和泉紀伊三國の郡代となる。其後高野山御詣のとき。御路すがらの事を沙汰せしにより御かへりみを蒙り。秀長卒しその子中納言秀俊も世を早うせしかば。再び豐臣家につかへ五千石を領しけるが。慶長五年上杉御追討の供奉し下野の小山にいたる。此時より常に麾下に屬し。九月關原の役にもしたがひしかば。その十二月舊領を賜ひ。備中國の內にて一万石加へられ。すべて一万四千四百六十石餘を領し。備中の國務をつかさどり松山の城を守り。また板倉伊賀守勝重。大久保石見守長安とおなじく五畿七道の事を相議し連署して。六年伏見城作事の奉行し。七年近江國撿地の事をつかさどり。八年備前國に赴き制法を沙汰し。ことし江戶に參るとて二月十九日相摸國藤澤の驛にをいて卒しぬ。歲は六十五なり。(鎌倉古文書。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是月相摸國中原に放鷹し給ひ。高木主水助C秀入道性順が海老名の隱宅に立よらせ給ひ。鷹の取し雁を下したまふ。また遠江國中泉に傳馬の御朱印を給ふ。この頃關東邊の神祠佛宇修造せらる。また久松多左衛門定次召出され近侍す。(高木源廣錄。遠州古文書。創業記。ェ政重修譜。)
○三月朔日御上洛あるべしとて江戶城を御發輿あり。五カ太丸長福丸兩公子をともなはせ給ひ。御道すがら伊豆國熱海の溫泉にゆあみし給ふとて。七日御滯留ましまし。此間御みづから御獨吟の連歌をあそばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村の雲にわかるゝ鴈啼て。つきづき百韻に滿しめ給ふ。こゝに陸奥國仙臺に猪苗代兼如といへるは。其父兼載とて宗祇法師が高足の弟子にて名高き連歌の宗匠なり。仙臺少將政宗また風月のすき者にて。これを聘召して其國につかへしが。兼如其子にて今箕裘をつぎ當時堪能の聞えありしかば。兼如にこの御連哥を見せしめ給ひ批評を命ぜられ。後にこの賞として兼如に金一枚を賜ふ。(熱海御滯留の間。何日より何日に至りしといふ事は詳ならす。)又吉川藏人廣家病臥のさま聞しめされ。東條式部卿法印して。この地溫泉の湯五桶を廣家がもとへ搬送せしめらる。(御年譜。創業記。家忠日記。武コ編年集成。貞享書上。大三河志。由誌早B)
○二日松前志摩守慶廣に兼光の御脇差幷に時服五領を給ふ。又武川の輩に加恩あり。小尾監物祐光に百石。柳澤兵部丞信俊に百廿石。伊藤三右衛門重次に百十八石八斗。曲淵庄左衛門正吉に八十石。曾根孫作某に五十六石四斗二升。曾𨾛民部定政に八十六石。折井九カ三カ次吉に六十石。折井長次カ次正に九十石。曾𨾛新藏定Cに百十石。有泉忠藏政信に五十石。山高宮內信直に七十五石。木與兵衞信安に八十石。木C左衛門信正に二十石。馬塲右衛門尉信成に百石。折井市左衞門次忠に二百石給ふ。この餘百六石七斗八升は次忠にあづけらる。(家譜。貞享書上。ェ政重修譜。)
○五日小栗庄右衛門正勝に采邑五百五十石。忍城番天野彥右衛門忠重にもおなじく五百五十石給はる。(ェ政重修譜。)
○十五日下總國相馬郡コ万寺に。市川卿に於て二十石の御朱印を下さる。又武藏國足立郡大宮の社に。高鼻村落合村にて合三百石の御朱印を下さる。(ェ文御朱印帳。)
○十九日益田傳次カ某に采邑三百三十石賜はる。この父外記某は三方が原の戰に御馬前にて討死せしが。其頃傳次カ幼年なりし故此度本領を賜ふ。御朱印の券書に外家の苗字をしるされしゆへ。この後益田を改め柘植と稱す。今紀邸につかふ。又駿河國龍泉寺に寺領二十石よせ給ふ。これは右大將殿御生母寳臺院のかた御墳墓の地なるが故なり。後に龍泉寺を改めて寳臺院と號す。又相摸國鎌倉郡天王の社に五貫文の地をよせられ。常陸國東條の庄興祥寺に廿石の地をよせられ。寺中山林竹木諸役免許の御印書を下さる。(貞享書上。日記。ェ文御朱印帳。慶長日記。)
○廿日致仕K田勘解由次官孝高入道如水卒す。齡六十九。此孝高は父を美濃守識隆といふ。小寺藤兵衛政識に屬し。その苗字をあたへて小寺を稱せしめしが。政識死して子なかりしかば識隆その兵卒をしたがふ。播磨國姬路において孝高うまれしに。幼より弓馬の道に達したるのみにあらず。敷島の大和歌を嗜みける。十七歲より常に戰塲にのぞみ。眞先かけて功名をあらはす事なみなみならず。天正元年織田右府上洛のとき。孝高も都にのぼり謁見す。右府たのもしき者に思はれ。吾中國を征伐せん時は心汝を以て先手に用ひんと約せらる。其後羽柴筑前守秀吉右府の命を蒙て中國へ伐て下るとき。孝高使を出しこれをむかふ。秀吉スなゝめならず兄弟の契りをむすぶ。八年秀吉别所長治が三木の城を攻落し。こゝを居城とせんとありし時。孝高姬路は國の中央にして。ことに船路のたよりよければとてその城をゆづり。其身は國府山城に退去す。秀吉いよいよその志の私なきを感ぜられ。始て一万石をさづけらる。十年毛利を攻られしとき。孝高がはからふ事ども少からず。しかるに京にて右府逆臣明智光秀がために弑せられし告あるにより。秀吉毛利と和睦し京都へ打てのぼられしに。孝高。毛利宇喜多が旗數十流かりうけて秀吉の先隊にすゝみ。光秀誅に伏す。十一年秀吉柴田勝家と中たがひ矛楯に及びしにも。孝高又秀吉の味方して先登せしかば。千石を加へられ近江國山崎城にうつり。長曾我部を征せられし時には軍監として四國に發行し。
阿波讃岐の城々を攻落し。筑紫の軍にしたがひ豐後日向をへて薩摩國に攻入しにより。其軍功を賞せられ豐前の六郡をさきあたへられ。十六年五月從五位下に叙し勘解由次官と稱す。孝高が豐臣家のために忠ある事かくのごとしといへども。秀吉これに大官大國をあたへられざりしは。孝高が勇略終に人の下風に立べからざるを察して忌れしものなり。孝高また其意をしりければ。はやく所領を長子吉兵衛長政にゆづり。その身は猶太閤に近侍し軍事をたすく。このとき入道して如水と號す。このゝち小田原の軍にしたがひ。朝鮮に渡海し軍勢を督しける。慶長三年太閤薨ぜられし後。かの家の奉行等やゝもすれば烈祖をかたぶけ奉らんとせしに。孝高かねて御恩遇の厚をかしこみしかば。常に家臣を具して伏見の御館を守護し。福島加藤等をすゝめ御味方となし。五年上杉御追討のため奥に下らせ給ふに及んで。長政は御供にしたがひ。入道は所領中津にありしに。石田三成謀叛し上方またみだるゝと聞て。隣國の敵いまた蜂起せざる先にこれをうち從へて。關東の忠勤に備へんと豐後にいたり。敵の要害ども見めぐりて中津川にかへる。この頃大友義統が三成にくみし。細川忠興が木付の城をせめかこむ。孝高は速に中津を發し同國竹中源助重利を味方に屬し。兵を分ちて木付の城をすくはせしに。此兵ども石垣原にて大友が兵と大に戰て。名あるものども數多討とる。其後如水着陣して義統を生擒し。又垣見和泉守一直が富來の城。熊谷內藏允直陣が安喜等の城々攻落し。九州半は旣になびきしたがふ。かくて豐前にかへるとて居城に立よりもせず。香春が嶽小倉城等を攻ぬき。筑後に入て久留米の城柳川の城を請とり。九州の城々皆平らぎ法制を定め。これより薩摩國に攻入んとせしに。關原旣に御凱旋ありければ。御書を給はりて其大功を御感淺からず。又薩摩國に攻入事はしばらくこれをとゞめらる。長政は關原の軍功を賞せられて筑前國をたまふ。六年如水今度九州平均の功莫大なれば。官位封國望のまゝに賜はるべき旨仰ありしかど。入道齡旣に傾たり。長政旣に大國を賜はりし上は。かしこに隱遁して老を養はまほし。この外更に所願なきよし申て致仕し。けふ終をとりしなり。(ェ政重修譜。致仕の人はその致仕の日に終身の事業をしるすといへども。如水當家の御ために忠勤せしはみな致仕後の事なれば。今别例をもて卒去の日にその傳をしるさゞる事を得ず。又世に傳ふる所は。この入道死に臨み其子長政に遺言せしは。汝は吾に生れまされし事五條あり。其一は吾は織田豐臣の二代につかへ。三度其旨にたがひ閉居せり。汝はコ川家父子の意に應じ終に一度の過失なし。第二には吾は生涯所領十二萬石に過ぎず。汝は五十萬石の大身になりたり。第三に我は手をおろしたる武功なし。汝は自身の高名七八度に及ぶ。第四に吾は思念をこらしたろ事なし。汝常に思念深し。第五我男子は汝一人なり。汝は男子三人あり。この五條皆汝が父に生れまさりし所なり。たゞ老父汝にましたる事二條あり。その一は我死ときかんに。我召つかふ者はいふまでもなし。汝が家士をしなべて愁傷し。力を落さゞる者あるべからず。汝が死たる時はかく愁傷するものあるべからず。これ臣を見る事平生我に及ばざるがゆへなり。次に吾は當時博徒の隨一なり。是汝が及ばざる所なり。關原の時東西の軍勝敗决せざる事百日に及ばゞ。我西國より切て登り。勝相撲に入て天下を併呑すべし。其時は一子の汝までも一局に打入むと思ひしなり。その一塲に臨み妻や子も顧みず。この大博奕は汝が及ぶ所にあらず。又これは汝にとらする形見の品なりとて。紫の袱子につゝみし物をさづく。長政開きみるに草履一隻木履一隻と溜ぬりの飯笥なり。其時入道又。死生を一塲に定むる大合戰に思慮も分别もなるべからず。草履木履かたがたはかけねば大合戰なるべからず。汝才智あまりありて何事も深念深慮すれば大功はなし得べからず。又飯笥は兵粮を蓄ふ事忘るべからず。いかにも無用の浮費をはぶき兵粮用意怠るべからず。この外思ひ置事なしといひながら瞑目におよびしとぞ。(慶長見聞書。)
○廿一日竹內喜右衛門信重死してその子八藏信次つぐ。(ェ政重修譜。)
○廿二日和泉國岸和田城主小出播磨守秀政卒す。その子大和守吉政に遺領三万石を襲て岸和田にうつりすましめられ。吉政がこれまで領せし但馬國出石城六万石を。其子右京大夫吉英にゆづらしめらる。秀政が長子遠江守秀家は去年卒せしかば。その子大隅守三尹に八千石を分ち給はり。舊領を合せ一万石になさる。この秀政は代々尾張國中村にすめる五カ左衛門正重が子なり。豐臣家につかへ太閤の姑にそひしゆかりをもて。諱の字をさづけ秀政となのらしめらる。後に當家にしたがひ。けふ六十五歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿五日越前宰相秀康卿の四子北の庄にて生る。五カ八となづく。後に大和守直基といふ是なり。又依田肥前守信守死して子源太カ信政つぐ。(貞享書上。ェ政重修譜。)
○廿九日快晴。伏見の城に着せ給ふ。畿內西北國よりこれに先立て都にのぼりたる諸大名追分まで出てむかへ奉る。時に鑓二柄。長刀一柄。狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乘輿のあとより騎馬のもの十人ばかり從へすぐる者あり。諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが。あとより來る下部にとへば。將軍家にわたらせ給ふといふに大に驚き。伏見邊にて追付しかば御輿をとゞめられ。各これまではるばる迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。御簡易御眞率の事と驚歎せざるものなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれかれにのりつれ。思ひ思ひに物がたりし。其中には手拍子打て小歌をうたひ。片手綱にてさゝへの酒をのみながらまいりたる事なりしとぞ。この日酉刻頃より夕陽の邊白雲飛揚する事數しらず。去年二月十五日。この正月元旦にもかくの如くなりしとぞ。(御年譜。西洞院記。板坂扑齋覺書。當代記。)
◎是月K田筑前守長政。父如水入道遺物とて備前長光の刀幷に茶入木の丸を献じ。右大將殿に東鑑一部をさゝぐ。
こは小田原の北條左京大夫氏政。豐臣太閤との講和の事はからふとて。如水かの城中へまかりし時氏政の贈りし所にて。今御文庫に現存せり。山作十カ成次めし出され小姓となる。又松平庄右衛門昌利が子傳市カ昌吉召出され右大將殿に付らる。武藏國足立郡氷川大明神へ三百石の地を寄附せらる。其中の百石は天正十九年より寄附せられし所なりとぞ。又三條曇華院を大坂の秀ョより造營せしめらる。又この頃膳所が崎へ伊勢の御神飛來らせ給ふとて。詣る男女雲霞の如し。(ェ政重修譜。ェ永系圖。ェ文御朱印帳。當代記。)
○四月朔日この日日蝕す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿伏見城へ參向せられ御對面あり。やがて京へわたらせ給ひて。上達部殿上人には御對面ましますべしと仰いださる。(西洞院記。)
○五日伏見大坂にありし諸大名。みな伏見城にまうのぼり歲首を賀し奉り。各時服かつげらる。近藤織部佐重勝が遺領一万石をその子信濃守政成に賜ふ。この重勝は織田家の臣間見仙千代につかへし彌五右衛門重クが子にて。重勝も間見が家人たりしが。間見天正六年伊丹の城にて討死せしとき。右府もとより重勝が武名をしられしかば。召て堀久太カ秀政に屬せらる。秀政卒して後その二男美作守親良に屬し。慶長三年豐臣家堀が所領を越前より越後にうつさるゝに及んで。重勝には親良が封地の內にて别に一万石を分ちあたへらる。其後重勝養子七カ太カ政成を携て大坂に參り。はじめて拜謁しける時。其先祖の事をとはせ給ふに。たゞ尾張國にすめる九十カといふものゝ孫に候へども。稚くて父にわかれ候へばくはしき事はしらざるよし聞え上しに。汝が祖父は尾張國高圃の城を守り當家に忠ありしものなり。汝が子を召出さるべしとの仰を蒙りしかば。政成を奉りし時に。政成十三歲。小姓に召出されぬ。重勝は京にすみてこの正月廿四日うせぬ。年は五十二なりとぞ。(創業記。當代記。ェ政重修譜。)
○六日昨日におなじ。諸大夫以上時服かつげらるゝもの。昨今すべて九十八人なり。(舜舊記。當代記。)
○十日神龍院梵舜まうのぼり春日八幡宇都宮等の事跡を御垂問あり。この日松前志摩守慶廣に鷹幷驛馬の券をたまふ。(舜舊記。家譜。)
○十一日市人西野與三に占城國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十二日代官長谷川七左衛門長綱卒す。其子久五カ某といふ。(ェ政重修譜。此家絕しゆへ家つぎし事詳ならず。)
○十四日昵近の公卿伏見城に參向して拜謁あり。(西洞院記。)
○十八日松前志摩守慶廣滯府の料として月俸二百口給ふ。(家譜。)
○廿日越前宰相秀康卿江戶へ參り。右大將殿御氣色伺むため發程あり。雨のために遲引し廿九日にC洲までおはしぬ。右大將殿あらかじめ目付の輩に令せられ。諸驛の道路茶亭等洒掃おごそかにせしめ。又鷹師等を途中に出迎へしめ心まかせに鷹狩せしめ。江戶へつかせらるゝ時は右大將殿御みづから品川の宿までむかへさせたまひ。直にともなひ給ひて二丸にやどらせられ。僕從の類は大手門前大久保相摸守忠隣が家にやどらせられ。卿滯留の間は市に本城にめして饗宴を開かれ。實に家人の禮をとらせ給ひ友干の情をつくさせ給ふ。衆みな感ぜざるものなかりしとぞ。又南部信濃守利直が家人北尾張に右大將殿御自書ならびに縮布三十反下さる。これは奥の馬度々御廐に引れし事をつかうまつりしによれり。この後櫻庭兵助にも同じ事により。御自書幷に鞍鐙をたまふ。(越前年譜。落穗集。貞享書上。)
○廿一日淺野紀伊守幸長が家にならせ給ふ。(御年譜。)
○廿三日關東大風雨洪水。(當代記。)
○廿五日下野國板橋領主松平五左衛門一生卒しければ。その子松千代成重に所領一万石をつがしめらる。この一生は故五左衛門正近が子にて。天正十三年十一月十六日M松にをいてはじめて見え奉る。(時に十六歲。)慶長五年父近正伏見城にて忠死せしかば。其遺領をつぎ上野國三藏に住す。ほどなく上野國の所領を下野國板橋にうつされ。加恩ありて一万石を領す。七年佐竹右京大夫義宣が封地を移さるゝにより。五月八日松平周防守康重。由良信濃守貞繁。菅沼與五カ某。藤田能登守信吉等と共に水戶の城を勤番す。佐竹が舊臣車丹波等一揆をおこし。城をうかゞひし時。密に忍び入らんとせしを。一生が番所にて見とがめていけどり。其懷をさぐりて一揆の廻文を得たり。この夜一揆は三丸の八幡小路までよせ來るといへども。一生かねて其心して防しかば一揆利を失て退く。翌日一生城番の人々と同じく謀り。丹波をはじめ酋賊ことごとくとらへ。江戶へうたへ誅戮せしめたり。今年三十五歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○廿七日內藤修理亮C成。山常陸介忠成。伊奈備前守忠次相摸國藤澤の里正をめして戶塚驛訴論の事を裁斷す。(古文書)
◎是月島津少將忠恒薩摩國を發して上洛せり。(ェ政重修譜。)
○五月朔日右大將殿御使(此御使の名つたはらず。)筑前國博多へつかはされ。K田筑前守長政が父如水入道が死をとはせられ御自書をたまはり。香銀二百枚下さる。(家譜。)
○二日神龍院梵舜伏見城にのぼる。御尋問により豐國明神臨時祭の事を聞え上る。(舜舊記。)
○三日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重より長崎舶來の白糸の事を令す。唐船着津の時かねて定めらるゝ所の父老等會議し糸價を定むべし。その價いまだ定まらざる間は。諸商長崎のみなとへ入事をゆるさず。糸價治定の後は心まかせに商買すべしとなり。これは先に長崎へ唐船入津せし時。白糸若干つみのせ來りしに。これを買とる者なければ旣につみ歸らんとせしとき。京堺の商人來り費をいとはず。其糸をことごとく買とり。その翌年もまた若干のせ來りしにも。京堺の商人あまさず買取しかば。其賞として此後白糸はみな京堺のもの幷に長崎の土人買取て後。その餘の諸物は諸國の商人買とるべしとて。其制は糸百丸は京商。百丸は長崎商と定め。堺商は百廿丸と定めらる。これ先につみ來りたる糸多くは堺商買とりし故とぞ聞えし。この時より糸割符の者十人と定めらる。諸國の商人輻湊する時。これを頭領するものなければ。
混亂する事多きが故なり。又松平飛驒守忠政江戶へ參覲す。(京監拔書。當代記。)
○七日下野守忠吉朝臣。攝津國有馬の溫泉に浴せんがためC洲を發程あり。(創業記。)
○十三日程谷驛に驛馬の事を命ぜらる。(古文書。)
○十六日三河國賀茂郡長興寺の住職を義超に命ぜられ御朱印をたまふ。また神龍院梵舜伏見城にまうのぼり。僧承兌幷に水無P宰相親具入道一齋も拜謁す。吉田二位兼治にC心圓を賜ふ。(古文書。舜舊記。)
○十八日吉田二位兼治に御判物を給ふ其文に曰。豐國明神社家の事。左兵衛佐旣に吉田院を相續すれば。當社の事は先令の如く慶鶴丸に。二位の弟神龍院梵舜教導して何事も令すべし。明神御倉代官等の事異議すべらず。社中役人社頭以下の事社法の古例をみだるべからず。社務進止永く相違あるべからずとなり。(舜舊記。)
○十九日吉田慶鶴丸神龍院梵舜伏見城へのぼり。昨日御判物たまはりしを謝して。慶鶴丸より單物十太刀馬代を献じ。梵舜より錫鉢二。權少輔某より扇十柄献じ。豐國大明神臨時祭一番は狩衣三十騎。二番は田樂廿人。三番は上下京の市人造花笠鋒。四番申樂たるべき旨建白す。(舜舊記。)
○廿八日松前志摩守慶廣從五位下に叙し伊豆守とあらたむ。(家譜。慶廣今までは叙爵せずして私に志摩守と稱せし之。)
◎是月先に右大將殿より命ぜられたる諸國堠塚ことごとく成功す。コ永式部卿法印壽昌が二子式部昌成召出されて近侍せしめらる。山藤藏幸成は御勘氣を蒙る。佛カ機工渡邊三カ太カに豐後國葛城村にて采邑百石たまはり。御名の一字を御みづから給ふ。この後御用器械にもみな康の字を銘とするといふ。(家忠日記。ェ永系圖。貞享書上。)
○六月朔日江戶城修築はじめあり。(創業記。當代記。)
○二日福島左衛門大夫正則右大將殿御けしきをうかゞはんとて封地を發程す。(當代記。)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり豐國大明神臨時祭の事建白す。(舜舊記。)
○六日近江國彥根に新城築かるゝによて。役夫粮米運漕の事を板倉伊賀守勝重。日下部兵衛門定好。成P吉右衛門正一連署して。菅沼伊賀守定重をよび三河の代官松平C藏親家入道(一に親宅に作る。)幷東意等につたふ。この構造奉行は犬塚平右衞門忠次。山本新五衞門重成なり。また伊丹宗味へ呂宋渡海の御朱印を下さる。(古文書。御朱印帳。)
○十日伏見城より二條へわたらせ給ふ。昵近の月卿雲客御道にむかへ奉る。(西洞院記。御年譜幷に伊達家貞享書上に。今日右大將家御入洛としるせしは誤なり。台コ院殿この時は江戶にましませしなり。)
○十二日片桐市正且元。山內土佐守一豐。神龍院梵舜。二條にまうのぼり豐國社臨時祭の事を議せらる。(舜舊記。)
○十三日松前伊豆守慶廣御參內の時供奉すべしと命ぜらる。(家譜。)
○十五日神龍院梵舜まうのぼる。この日六ク彈正道行卒す。其子兵庫頭政乘は是より先に。常陸國府中に於て一万石をたまはりて别に家を立たり。(舜舊記。ェ政重修譜。)
○十六日御參內あるべしとて嘉定の式を止めらる。然るに雨ふりしかば御參內ものべらる。江戶にしては山田次カ大夫正久が子彥右衛門正C。初めて右大將殿にまみえ奉り小姓となる。(西洞院記。ェ永系圖。)
○十七日聊暑氣におかされましまして御藥の事あり。(創記業。當代記。)
○十八日御不豫によて御參內をのべ給ふ。(西洞院記。)
○廿日相良左兵衛佐長每老母を證人として江戶へ參らするにより。驛路人馬の御朱印を給ふ。これ西國大名の江戶へ證人を參らする權輿なりとぞ。(ェ永系圖。)
○廿二日御平快により御參內。御直垂にて御輿にめさる。月卿雲客ことごとくまいり唐門の前にて迎奉る。內にて御三献。女院の御方にて二献。長橋の局にて一献あり。この日叙爵十六人。松平又八カ忠利は主殿頭。松平勘四カ信吉は安房守。水野三左衛門分長は備後守。水野新右衛門長勝は石見守。安藤五左衛門重信は對馬守。三淵彌四カ光行は伯耆守。三好爲三一任は因幡守。三好新右衛門房一は丹後守。佐々喜三カ長成は信濃守。森宗兵衞可政は對馬守。能勢總右衛門ョ次は伊豫守。東條某長ョは伊豆守。西尾某教次は信濃守。遠藤左馬助慶隆は但馬守。分部龍之助光信は左京亮。佐久間將監實勝は伊豫守と稱す。(西洞院記。ェ永系圖。續武家補任。貞享書上。)
○廿三日攝家はじめ大臣公卿殿上人ことごとく二條城に參向して拜謁あり。參議以上太刀目錄をさゝぐ。此日堀尾帶刀可晴從四位下にのぼせらる。安藤次右衛門正次常陸國水戶の監使にさされ暇給ふ。下野國宇都宮明神の社御造營の事仰出さる。よて山常陸介忠成。內藤修理亮C成。伊奈備前守忠次連署して材木の事を令す。大河內金兵衛秀綱は造營の奉行す。(西洞院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。古文書。慶長五年關原の逆徒御征伐の時。當社に御奉幣ありしにより。同七年社領を揄チせられ。今年社を御造營有し之。)
○廿四日二條城にて猿樂を催し給ひ。故豐臣太閤北政所高臺院のかたをまねき饗せらる。(西洞院記。)
○廿五日相國寺にならせられ僧承兌に五色五十給ふ。この日坪內惣兵衛家定に與力十騎あづけらる。(舜舊記。ェ政重修譜。)
○廿七日承兌が學舍へならせ給ふ。圍棋の御遊あり。今日暑甚し。黃昏雷雨。(西洞院記。)
○廿八日松前伊豆守慶廣歸國の暇を給ふ。(家譜。)
◎是月大旱。攝津國昆陽池の鯉鮒等多く死す。島津少將忠恒仰により陸奥守と稱す。又近衛左大臣信尹公病臥のよし聞しめして御藥をくり給ふ。又相良左兵衛佐長每が老母證人として江戶に參りければ。月俸五十口たまひ。長每にも備前の實長の御刀をたまふ。(當代記。ェ政重修譜。西洞院記。貞享書上。) 
 
巻九

 

慶長九年七月に始り十二月に終る
七月朔日二条城より伏見城に遷御あり。」井伊右近大夫直勝が近江国佐和山城を彦根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛騨。越前。伊賀。伊勢。若狭七か国の人数をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狭守高次等に仰せて人数を出さしめらる。山城宮内少輔忠久。佐久間河内守政実。犬塚平右衛門忠次をして奉行せしめられ。城中要害規晝はこと/\〃く面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記、当代記、舜旧記、井伊略傅、木股日記、貞享書上、寛永系図、家譜)
○五日平野孫左衛門呂宋国渡海の御朱印。高瀬屋新蔵に信州渡海の御朱印を下さる。」福嶋左衛門大夫正則江戸を発程して上洛す。」此日大雨。近江国佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毀傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳、当代記)
○十一日片桐市正且元伏見に参る。」右大将殿より小澤瀬兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の労を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。」又吉田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す。(舜旧記、家譜、武徳偏年集成)(重修譜には駿府にての事とするは誤なり)
○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上并に越前家譜に。両御所渡御ありしとするは誤れり。此時台徳院殿は江戸におはしましけるなり)御饗応ありて後相撲を御覧にそなへ給ふ。相撲数番の後。越前の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順礼と角力す。これをけふの関相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士。腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順礼は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべき者とも見えざりしが。やゝいどみあひしに。やがて嵐は順礼をとつて大庭に投付しかば。一座声をたてゝ褒美する。其声鳴もやまず。嵐勝ほこり。広言はなつて傍のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たまへば。一言も出されざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて遷御ありしが。後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。」この日江戸にしては巳刻前右大将殿の北方御産平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歓喜大方ならず。御蟇目は酒井河内守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系図による)このほど鎌倉八幡宮御造営の折からなれば。神慮感応のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歳なりしを召出され。若君に附られ小姓になさる。又稲葉内匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ)かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子斎藤内蔵助利三が女にて。利三山崎の戦に討死せし後。母は稲葉重通入道一鉄が娘なりしかば。母子ともに一鉄がもとにやしなはれてありしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戸の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。」又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜、貞享書上、落穂集、慶長年録、慶長見聞書、寛永系図、柳営婦女伝、藩翰譜、寛政重修譜)
○十八日致仕故伊勢国長島の城主菅沼織部正定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじめ今川氏真に属しけるが。永禄四年當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈并に田峰の小法師設楽西郷等は。多くの敵の中より出で當家に属し奉る。其九月氏真大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戦しければ。寄手より和議を乞しにより城をわたし。高城といふ所に砦を築き移る。氏真またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年正月より岡崎の城にて御謡初の席につらなりしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乗じて野田の城をせめとり。再び旧地に復す。七月廿六日今川勢西郷の城を攻取しに。孫六郎清員その難をのがれて野田に来る。定盈もとより従弟のちなみあれば其旨聞え上。西郷の旧地に城を築て清員に住せしむ。今川又三河国一宮の砦を攻るのとき。定盈清員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戦功をあらはし。十一年遠江国いまだ帰順せざるをもて。定盈謀を献じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵を進めて浜松の城にむかふ。城兵同士軍して戦死せしかば。浜松の城をも乗とり。いよ/\進んで敵数人をうちとり。十二年正月久野城主久能三郎左衛門宗能が一族等。今川氏真に内応する者多かりしかば。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川。堀江等の城攻に軍功を励み。元亀元年六月姉川の戦には定盈病臥せしかば。家人を出して戦はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峰。長篠。作手のともがら多く武田に属せし時も。其使を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐ。さま/\〃の術を尽し城の水の手をとり切しかば。
定盈一人自殺し城兵を救はん事を約して定盈出城せしを。信玄生捕て。城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に応ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて。互に相かへて定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戦に破壊多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝頼大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諌しかば。城を出で野田瀬をこえ西郷まで退く。勝頼また山県昌景をして西郷をせめしむ。定盈西郷清員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戦には。定盈案内者として鳶巣砦が伏見の城を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめやぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の国にいらせ給ふとき。定盈が謀にて諏訪安芸守頼忠を帰順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戦に軍忠をあらはし。十月より小幡の城を守り。関東に入らせ給ふのち野田をあらため。下野国阿保にて一萬石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚子の乱には別の仰を蒙り江戸の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢国長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歳にて卒せしなり。(寛永系図、寛政重修譜)
○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり団扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜旧記)
○廿一日江戸より安藤次右衛門正次御使として伏見にのぼり。若君誕生の事を告奉る。殊更御喜悦有て若君の御小字を竹千代君と進らせ給ふ。」又下野守忠吉朝臣は此程伏見にありて心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張の清洲にかへらる。」又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿楽を催さる。(寛永系図、国朝大業廣記、創業記、当代記)
○廿二日腰物奉行野々山新兵衛頼兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。」此廿二三日三河国鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に会集して騒擾甚し。(寛政重修譜、当代記)
○廿三日江戸城にて若君七夜の御祝あり。上総介忠輝朝臣。設楽甚三郎貞代。松平伊豆守信一。西郷新太郎康員。松平右馬允忠頼。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠実。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀筵に伺候せしめらる、水野清六郎義忠が二子清吉郎光綱。稲葉内匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され若君に仕へしめらる。(貞享書上、寛永系図)(長綱が姉は大姥とて台徳院殿の御乳母也)。
○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拝謁し奉る。(舜旧記)
○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四郎信綱召出され。若君につけられ月俸三口給はる。時に九歳。」この年六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(寛永系図、当代記)
○廿六日菅沼信濃守定氏卒しければ。其子新三郎定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にて清康君の御代よりつかへ奉り。永禄のはじめより元亀天正の頃しば/\〃軍功をはげみ。けふ八十四歳にてうせぬるなり。(寛政重修譜)
◎この月伏見城修築ありて西国諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手縄手の石垣を修築せり。(貞享書上)(寛政重修譜には慶長七年六月とす)
○八月三日三河国目代松平清蔵親家入道念誓が子清蔵親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出で長澤松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三郎君に仕へしが。此君若くしてあら/\しき御振舞ありしを諌かね。職を辞し入道して念誓と号し籠居せしを。浜松の城におはせし頃召出され。御茶園の事など命ぜられ。入道が珍蔵せし初花の茶壷を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることをも許され。三河一国の賦税をつかさどらせられしが。齢つもりて七十一歳にてけふ没せしとぞ。(寛政重修譜、由緒書)(此子孫三河国額田郡土呂郷にすみて松平甚助と称す)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豊国明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。」又出雲国松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歳なるに。原封二十四萬石をつがしめられしが。猶いとけなければ。祖父帯刀先生可晴をして国政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。右大将殿御名の一字給はり国俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年右大将殿にしたがひ下野国宇都の宮にいたる。此時御所には同国小山に御着陣ある所。石田三成等反逆の色をあらはすのよし告来りければめされて軍議あり。山内対馬守一豊。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らんやととふ。忠氏答て。我は居城浜松を明て捧奉るべきの間。御人数を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。既にして会津には押の勢をのこされて上方御進発に事決するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸将と共に小山を発し。八月十四日尾張国清洲の城に着陣す。廿二日諸将岐阜城をせむ。忠氏は池田。浅野。山内の人々と共に上の瀬河田の渡に向ふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し一柳大監物直盛と共に敵の後に廻りて攻けるが故に敵敗走す。
忠氏が手に討取所の首二百廿七級なり。廿三日諸将瑞龍寺山の城をせむ。忠氏郷土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戸に言上するの所。廿九日御感状下さる。このとし出雲隠岐両国に封ぜられ二十四萬石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宋十郎忠總に嫁す。このとき右大将殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日従四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歳にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。」此日酉刻より大風。諸国損害多し。(舜旧記、寛政重修譜、当代記)
○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(当代記)
○六日舟本弥七郎へ安南国渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳)
○八日江戸にて若君三七夜の御祝あり。著座の輩浜松城の旧例を用らる。(慶長見聞書)
○十日大久保石見守長安佐渡国よりかへり参りて。かの国銀山豊穣のよし聞えければ。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(当代記)(これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その国より砂銀わづかに出けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を産せしを。御料に帰して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の真主に帰する所。是等においてもしるべきなり。(佐渡記)
○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜)
○十三日細屋喜斎に安南国渡海の御朱印を下さる。」この日雨により豊国の社臨時祭を延らる。(御朱印帳、舜旧記)
○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。」この日京には豊国の社臨時祭あり。豊臣太閤七年周忌の故とぞ。一番弊帛。左右に榊。狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人。浄衣風折。二番豊国の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豊国の大鳥居より清閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田楽三十人。四番猿楽四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸。左兵衛佐兼治仕ふまつる。猿楽二番終る時大坂より使あり。豊国大門前にて猿楽一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(当代記、舜旧記)
○十五日相模国鎌倉鶴岡八幡宮造営成功により遷宮あり。この奉行は彦坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛の折から。御参ありて御造営の事仰出されしとぞ)(造営記)」京には豊国社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づゝ。次に大仏殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜旧記)
○十六日片桐正市且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし。(舜旧記)
○十七日高城源次郎胤則死す。こは北條が麾下にして下総国小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召加へられしに病にふし。いまだつかへまつるに及ばずして没せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出されしなり。(寛永系図、寛政重修譜)
○十八日唐商安当仁に呂宋国渡海の御朱印を授らる。」三枝勘解由守昌。下総国香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱印帳、寛政重修譜)
○廿三日大島雲八光義卒す。寿九十七歳。遺領一萬八千石余を分て。長子次右衛門光成に七千五百石余。二子茂兵衛光政に四千七百十石余。三子久左衛門光俊に三千二百五十石余。四子八兵衛光朝に二千五百五十余石を給ふ。没前の願によてなり。此光義。父を左近将監光宗といふ。新田の庶流にて遠祖蔵人義継が時美濃国に住し大島を称す。光義幼くて父はわかれ。国人と領地をあらそひ合戦する事絶ず。しば/\〃武功をあらはし射芸の名世に高し。後に織田右府に属しいよ/\軍功をはげみ。元亀元年姉川の戦に先がけし。天正元年近江の国にて越前の兵と戦ひ。長篠の戦にも功あり。やがて豊臣家に属し。慶長三年二月豊臣家より与力同心の給地を合せて一萬千二百石を賜ふ。庚子の乱には小山の御供に従ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て関原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石余になさる。光義生涯戦に臨む事五十三度。感状を得る事四十一通。今度病に臥しても。しば/\〃御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(寛政重修譜)
○廿五日商人與右衛門に暹羅国渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳)
○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより。長子與一郎忠隆。二子與五郎興秋には家ゆずらず。兼て質子として江戸に参らせ置たる内記忠利を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨両御所より御書を賜ひ。また岡田太郎右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも帰国して看侍すべき旨御ゆるしあり。」安南国へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて一文字の御刀。鎌倉広次の御脇差をつかはさる。」又末次次平蔵に安南国渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田辺屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與右衛門に大泥国渡海の御朱印。平戸助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜、異国日記、御朱印帳)
○廿八日佐竹右京大夫義宣。去年より新築したる出羽国久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(寛政重修譜)
○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。」この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千両たまはる。(舜旧記)
○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守頼勝。譏の為に金吾家を出て処士となりてありしを召出され。美濃国にて一萬石賜ふ。」故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中国にて采邑五千石賜ふ。」また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(寛政重修譜、寛永系図)
◎是月瀧川久助一乗幼稚なるがゆへに。一族三九郎一積とて。中村一学忠一が家人なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乗わづかに二歳にて今の采邑領せんは。其はゞかり少からざれば。名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乗齢十五歳に至るまでは三九郎一積二千石の地を領し。二百五十石は一乗并にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。」又安藤三郎右衛門定正死して子忠五郎定武家継て今年初見す。」又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。」又江戸築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の数は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田宰相輝政。福嶋左衛門大夫正則。加藤肥後守清正。毛利藤七郎秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。黒田筑前守長政。浅野紀伊守幸長。鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山内土佐守一豊。脇坂中務少輔安治。寺沢志摩守廣高。松浦式部卿法印鎮信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆守重利。稲葉彦六郎典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稲葉蔵人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津清右衛門正勝。成瀬小吉正一。戸田三郎右衛門尊次。并に尼崎文次郎なり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸国に課せて大材を伐出さしむ。諸国より運送せし材木を積置所。今の佐久間町河岸なりとぞ。」岡野融成入道江雪斎の孫権左衛門英明を携て伏見にのぼり拝謁す。英明時に五歳なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戸にまかり右大将殿に仕うまつるべしと命ぜられしが。後に紀伊家に属せらる。(寛永系図、寛政重修譜、覚書、町書上)
○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆数柄を献ず。(舜旧記)
○十日近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辞見し奉る。西洞院少納言時直薫物を献ず。(西洞院記)
○十一日商人栄任に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。并に平戸伝助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。」又陸奥守忠恒には暹羅国渡海の御朱印を下さる。」窪田與四郎にしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○十三日岡田太郎右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。右大将殿よりも。其家司松井佐渡に御書を賜ふ。(貞享書上)
○十四日伏見城をいでゝ江戸におもむかせ給ふによて。五郎太丸。長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井参議雅庸御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ。かつ伝通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ。(西洞院記、当代記、慶長見聞書)
○九月十日堀尾山城守忠氏が遺物とて。国次の脇差并に素眼の筆蹟を其父帯刀可晴より献じければ。右大将殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる。(貞享書上)
○十四日井上半右衛門清秀没しぬ。この清秀はもとの阿部大蔵定吉が遺子にて。大須賀五郎左衛門康高が手に属し軍功をはげみしが。その子太左衛門重成は越前家に属せしめられ。三子半九郎正就は右大将殿御方につけられしが。後に次第に登庸せられ。井上主計頭とて執政たりしは是なり。」又杉浦弥一浪親正死して其子彦左衛門親勝つぐ。(寛永系図、寛政重修譜)
○廿日飛鳥井参議雅庸卿江戸へ参る。」この日勝矢甚五兵衛利政死し其子長七郎政次つぐ。(西洞院記、武徳編年集成)(利政が死日を寛永系図。寛政重修譜に記さず。今は編年によりこゝに収む)
○廿三日代官彦坂小刑部元成より相模国戸塚の農民に貢税の制を令す。(古文書)
○廿九日永田弥左衛門重直死して其子四郎次郎重乗家をつぎ。三子四郎三郎直時ことし初見の礼をとり召出さる。(寛政重修譜)
◎この月伊奈備前守忠次。谷全阿弥正次より武蔵国足立郡氷川の社人へ。こたび神領を三百石に定めらるれば。後にくはへられし二百石の内百石は造営料とし。百石を以て小禰宜三人巫女二人を置。その他は例のごとく配分すべしと令す。(古文書)
◎此秋木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ。(当代記)
○十月五日中値喜四郎正重死して。其子喜四郎正勝家をつがしめらる。(寛政重修譜)
○十日伊達越前守政宗江戸へ参る。(貞享書上)
○十五日逸見小四郎左衛門義次が二子勝兵衛忠助。右大将に初見し奉る。(寛永系図)
○十六日右大将殿忍辺に御放鷹あり。(当代記)
○廿四日右大将殿忍より蕨浦和辺に鷹狩し給ふ。(当代記)
○廿九日普請奉行伏屋左衛門佐為長死して其子新助為次家つがしめらる。(寛政重修譜)
○十一月二日彦坂小刑部元成より戸塚の駅に。藤沢。神奈川と同じく駅馬のことつかうまつるべしと令す。(古文書)
○三日武蔵国法性寺に新郷にて十五石。正覚寺に持田村にて三十石。長久寺に長野村にて三十石。浄泉寺に下河上村にて廿石。真観寺に小見郷にて十石。常光院に上中條村にて三十石。幡羅郡熊谷寺に熊谷の郷にて三十石。一乗院に上の村にて三十石。目沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野国勢多郡養林寺に大胡郷にて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる。(寛文御朱印帳)
○七日鷹師吉田弥右衛門正直に采邑百六十石余を賜h。(寛政重修譜)
○八日竹千代君山王の社に御詣初あり。青山伯耆守忠俊。内藤若狭守清次。水野勘八郎重家。川村善次郎重久。(寛政重修譜には慶長十三年とす)大草治左衛門公継。内藤甚十郎忠重等御伝役命ぜられ供奉す。御かへさに青山常陸介忠成がもとへ立よらせたまふ。(慶長見聞書)
○十日右大将殿御放鷹はてゝ浦和辺より江城へかへらせ給ふ。(当代記)
○十日飛鳥井宰相雅庸卿江戸を辞し帰洛す。(西洞院記)
○廿一日前夜大雪。この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以t珍事とす。(当代記)
○廿四日宰相秀康卿の五子越前国北庄にて誕生あり。後に但馬守直良といふ是なり。(貞享書上)
○廿六日堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿七日松浦式部卿法印鎮信に迦知安渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿九日大雨。(当代記)
◎是月三宅惣右衛門康貞武蔵国深谷より三河国挙母に転封し。五千石を加へて一萬石になさる。」毛利中納言輝元入道宗瑞長門国萩の城を新築せしが。成功して山口よりうつり住む。(寛政重修譜)
○十二月三日山田次郎大夫正久死して。其子小姓彦左衛門正清家をつぐ。(寛永系図)
○六日江戸城にて猿楽を催し給ふ。(当代記)
○十五日駿河国西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる。(寛文御朱印帳)
○十六日大黒屋助左衛門に大泥国渡海の御朱印を下さる。」今夜遠江国舞坂辺高波打あげ。橋本辺の民家八十ばかり波と共に海に引入られ。人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。其時伊勢の海辺は数町干潟となり。魚貝あまた其跡に残りしをみて。漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに。又高波俄に打上て漁人等皆沈没せり。伊豆の海辺みなこの禍にかゝりし中にも。八丈島にては民家悉く海に沈み。五十余人溺死し。田圃過半は損亡し。上総国小田喜はこと更涛声つよく。人馬数百死亡し七村みな流失す。摂津国兵庫辺は更にこの害なしとぞ。(御朱印帳、当代記、崇福寺古文書)
○十八日六条二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印。檜皮屋孫兵衛に大泥国渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳)
○廿日酒井宮内大輔家次下総の国碓氷を転じ上野国高崎城主とせられ。二萬石加へて五萬石になさる。(寛政重修譜)
○廿八日松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝より。戸塚駅の民に賦税の券をさづく。」又曾雌民部定政死して子帯刀定行つぐ。(古文書、寛政重修譜)
◎是月長福丸君に常陸国水戸五萬石を加へられ三河国中を検地せしめらる。」伊奈兵蔵忠公召出され竹千代君につかへしめられ小姓となる。(時に八歳)又青山藤蔵幸成御勘気をゆるさる。(紀伊系図、龍海院記、寛政重修譜、寛永系図)
◎是冬右大将殿土方河内守雄久がもとにならせられ。来国光の御脇差を賜はり。下総国田子にて五千石加へられ一萬五千石になさる。(寛永系図、貞享書上)
◎是年加賀大納言利家卿の五男孫八郎利孝。菅沼新八郎定盈三子左近定芳は両御所に謁し奉る。」赤沢貞経入道丹斎。(此時赤沢を称し。後に改て小笠原と称し。台徳院殿の御代に廩米五百俵下されたり)能勢摂津守頼次二子小十郎頼隆。大森半七郎好長。角南新五郎重義。并に其二子主馬重勝。沼間兵右衛門清許。由比庄左衛門宗政。(後に百俵をたまふ)同弟與五左衛門安義。仙石越前守秀久が七子右近久隆。(此年直に右大将殿小姓となる)山下弥蔵義勝子弥蔵周勝。小長谷市兵衛時友が子四郎右衛門時元。稲富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尚。船越左衛門尉景直二子三郎四郎永景初見し奉り。直家は鳥銃の秘術を両御所へ伝奉り。後に右大将殿に仕ふ。」高井助兵衛貞重子市右衛門貞清。(小姓組にいり後大番になる)宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利。(此年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず)原田清次郎維利。(入道して宗馭と号し。茶道具の格に召出され現米七十石賜ふ)小長谷加兵衛時次右大将殿に初見し。伊達庄兵衛房次。永井右近大夫直勝二子伝十郎直清。渡邊吉兵衛定。(始は村瀬と称す)斎藤左源太利政。市橋左京長政。上杉源四郎長員。(後畠山を称す)林藤左衛門勝正。加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置たる横山右近興知は(時に十二歳)右大将殿に奉仕す。」使番米津勘兵衛由政江戸町奉行となり。采邑五千石を給ひ。島田兵四郎利正使番となり。大番朝倉藤十郎宣正。三雲新左衛門成長は其組頭となり。宣正采邑二百石を加へられ四百石になり。成長は千石を加へて千五百石となり。河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九郎康長は火の番の組頭となり。角南主馬重勝。高井市右衛門貞清は小姓組にいり。小長谷加兵衛時次は大番にいり。中島大蔵盛直が二子長四郎盛利。(時に十一歳)船越三郎四郎永系。(時に八歳)能勢小十郎頼隆共に小姓となり。頼隆は采邑千石賜ひ。間宮若狭守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歳)も近侍せしめられ。菅沼左近定芳御手水番となり。松平清蔵親重は父念誓親家が原職を命ぜられ。入道して念誓と改め。三河の代官たり。
伊沢源右衛門政信は右大将殿の小姓となり。中山猪右衛門勝政。都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり。政武は廩米二百俵を給ひ。安西甚兵衛元真焼火間に候せしめらる。(寛政重修譜には今年召出され。十二年焼火間番とあり)又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に属し。城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。」秋田東太郎実季は貝塚青松寺辺新築の助役す。」松平主殿頭忠利三河国矢作川浚利をつとむ。大岡伝蔵清勝伏見城の番を命ぜらる。渡邊六蔵公綱。若林善九郎某は長福丸君の方に附らる。又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め。那須太郎資晴大膳大夫と称し(ほどなく修理大夫になる)亀井新十郎政矩右兵衛佐と称す。政矩は本多上野介正純。成瀬小吉正成を以て昵近の勤をこふ。」松前甚平次忠廣は右大将殿につかへんことを願て江戸にまゐる。」永井伝八郎尚政常陸国貝原塚にて采邑千石賜はり。渡邊忠七郎忠綱は父忠右衛門重綱が所領一萬四千石を分て三千石賜はり右大将殿に仕ふ。安藤彦四郎重能。佐久間新十郎信実は父が所領の外二百七十石余。入戸野又兵衛門宗は本領を賜ひ。大番杉浦忠太郎親俊は三百石を賜ふ。」服部石見守正就は御勘気を蒙りて岳父松平隠岐守定勝にあづけらる。」上総介忠輝朝臣始て信濃国川中島に就封せらる。」また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請といへども御ゆるしなく。両御所よりしば/\〃御使せられ病をとはせらる。よて忠勝は悉く其家政をば長子美濃守忠政にゆづりて世事にあづからず。」牧野右馬允康政も衰老をもて勤仕を辞し。何事も其子新次郎忠成をして摂せしむ。これより先康成が女をもて御猶子となされ。福嶋左衛門大夫正則に降嫁せらる。大番横山弥七郎一吉が二子半左衛門一政。代官下山弥八郎正次が子平右衛門重次。并に小姓加藤茂左衛門正茂が子伝兵衛正信。皆父死して家をつぐ。」又右大将殿水谷伊勢守勝俊がもとにならせられ。勝俊御茶を献ず。」また長曾我部土佐守元親が伏見の旧邸を松平隠岐守定行に賜ひ。又仰により島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。其上に島津は久しき名家なれば。婚礼の儀式も厳重なるべしとて。一位の局その外女房数十人をしてその儀をとり行はせられ。又村越茂助直吉。日下部兵右衛門定好をして其事を監せしめらる。」又金森兵部卿法印素玄狩場にて鶴とる事をゆるされ。蒼鷹一連。黄鷹二連賜ふ。次の日其鷹もて鶴をとりて奉る。」山内土佐守一豊に四聖坊の茶入を賜ふ。」又埼玉郡増林村の御離館を越谷駅にうつされ。浜野藤右衛門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」また京の知恩院を御造営あり。其荘厳天下無双と称す。」また中村一学忠一参観するといへども。去年家臣横田内膳を誅し国内を騒がしける事により。江戸に入事をゆるされず。よて品川駅に於て籠居せしが。日数へて後召を蒙り登営して拝謁す。」又朝鮮の僧松雲。孫文或。金孝舜対馬に来る。これは宗対馬守義智江戸に参観せし時。さきに豊臣太閤朝鮮を伐しより。両国の通信永く断たり。しかりといへども當家に於てはかの国に於て更に恨とする事なし。彼隣好を結ばんとならば。其請所をゆるすべし。我よりあながちに請べきにはあらず。汝よく此旨をもて朝鮮国王に諭すべしと仰ありしかば。義智帰国し。朝鮮に使をたてゝ其御旨をさとすといへども。朝鮮王半信半疑して更に決せず。こたび三僧を使し日本の和儀其実ならんには。江戸伏見に至り両御所に拝謁して。我国の情実を聞えあぐべし。もしさなからんには速に帰国すべしとて来らしめしなり。義智は其家司柳川豊前調信を江戸に参らせて其よしを告奉る。然るに明春は両御所共に御上洛あるべければ。義智調信はかの三僧を伴ひ。都にのぼり其期を待奉るべしと仰下さる。よて義智は三僧を具して都にのぼり。板倉伊賀守勝重にはかりて。大徳寺を旅館として三僧を饗し。御上洛の時をぞ待にける。」又近江国蒲生郡佐々木の神社は。少彦名命を一座とし仁徳。宇多の両天皇。敦実親王をもて配祀したる社にて。佐々木家代々の尊崇する所なりしが。天正の比佐々木六角承禎入道が観音寺の城没落せし後。社頭荒廃きはまり。祭田もみな烏有となりぬ。然るに庚子の乱に御祈願の事ありて。御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが。今年又社前に鰐口を寄附せらる。」又江戸市谷久宝山萬昌院。(今牛込にうつる)品川専光寺。(今浅草六軒町)赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺。(今浅草六軒町)神田東福寺(今麻布本村)に寺地をたまふ。」又関東の国々永楽銭を通貨とし鐚銭を用ひず。今より後は鐚四銭をもて永楽一銭にあてゝ通用すべしと令せらる。」又長崎の湊に於て始て訳官を設らる。この時帰化の明人馮六といふ者よく国言に習へるをもて。はじめてこの役を命ぜられしとぞ。」又藤堂和泉守高虎猶子宮内少輔高吉が家士亡命し。加藤左馬助嘉明が弟内記忠明が采邑伊予の松山の下邑林村といふに潜居せしをもて。高吉討手を差むけてこれを討はたさしめしより事起り。その地を騒擾せしむ。よて高虎より其事を訴へしかば御けしきよからず。高吉は京都へ迯のぼり。薙髪して東福寺に閑居す。(寛永系図、寛政重修譜、貞享書上、家譜、松平由緒書、信府記、家忠日記、浜野書上、創業記、当代記、家忠日記追加、慶長日記、近江輿地志、大三河志、長崎実録、高名記) 
 
東照宮御實紀卷九 / 慶長九年七月に始り十二月に終る
○七月朔日二條城より伏見城に還御あり。井伊右近大夫直勝が近江國佐和山城を彥根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛驒。越前。伊賀。伊勢。若狹。七か國の人數をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狹守高次等に仰せて人數を出さしめらる。山城宮內少輔忠久。佐久間河內守政實。犬塚平右衛門忠次して奉行せしめられ。城中要害規畫はことごとく面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記。當代記。舜舊記。井伊畧傳。木股日記。貞享書上。ェ永系圖。家譜。)
○五日平野孫左衛門呂宋國渡海の御朱印。高P屋新藏に信州渡海の御朱印を下さる。福島左衛門太夫正則江戶を發程して上洛す。此日大雨。近江國佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毁傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳。當代記。)
○十一日片桐市正且元伏見に參る。右大將殿より小澤P兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の勞を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。又吉田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男左兵衛佐兼治に分たしめらる。柘植平右衛門正俊が二子宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す。(舜舊記。家譜。武コ編年集成。重修譜には駿府にての事とするは誤なり。)
○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上幷に越前家譜に。兩御所渡御ありしとするは誤れり。此時台コ院殿は江戶におはしましけるなり。)御饗應ありて後相撲を御覽にそなへ給ふ。相撲數番の後越前の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順禮と角力す。これをけふの關相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順禮は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべきものとも見えざりしが。やゝいどみあひしにやがて嵐は順禮をとつて大庭に投付しかば。一座聲をたてゝ褒美する。其聲鳴もやまず。嵐勝ほこり廣言はなつて傍若無人の躰。諸有司御前なりとて制すれば。いよいよ倨倣のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たまへば。一言も出されざるに嵐忽に畏縮して退く。衆人卿の威風を感ぜざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて還御ありしが。後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。この日江戶にしては巳刻前右大將殿の北方御產平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歎喜大方ならず。御蟇目は酒井河內守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系圖による。)このほど鎌倉八幡宮御造營の折からなれば。神慮感應のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歲なりしを召出され。若君に附られ小姓になさる。又稻葉內匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ。)かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子齋藤內藏助利三が女にて。利三山崎の戰に討死せし後。母は稻葉重通入道一銕が娘なりしかば。母子ともに一銕がもとにやしなはれてありしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戶の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜。貞享書上。落穗集。慶長年錄。慶長見聞書。ェ永系圖。柳營婦女傳。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○十八日致仕故伊勢國長島の城主菅沼織部正定盈卒す。其子は志摩守定仍なり。此定盈は故織部正定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじあ今川氏眞に屬しけるが。永祿四年當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈幷に田峯の小法師設樂西ク等は。多くの敵の中より出で當家に屬し奉る。其九月氏眞大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戰しければ。寄手より和議を乞しにより。城をわたし高城といふ所に砦を築き移る。氏眞またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年正月より岡崎の城にて御謠初の席につらならしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乘じて野田の城をせめとり。再び舊地に復す。七月廿六日今川勢西クの城を攻取しに。孫六カC員その難をのがれて野田に來る。定盈もとより從弟のちなみあれば。其旨聞え上西クの舊地に城を築てC員に住せしむ。今川又三河國一宮の砦を攻るのとき。定盈C員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戰功をあらはし。十一年遠江國いまだ歸順せざるをもて定盈謀を獻じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵をすゝめてM松の城にむかふ。城兵同士軍して戰死せしかぱ。M松の城をも乘とり。いよいよすゝんで敵數人をうちとり。十二年正月久野城主三カ左衛門宗能が一族等。今川氏眞に內應する者多かりしかぱ。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川堀江等の城攻に軍功を勵み。元龜元年六月姉川の戰には。定盈病臥せしかば家人を出して戰はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峯。長篠。作手のともがら多く武田に屬せし時も。其使を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐさまざまの術を盡し城の水の手をとり切しかば。定盈一人自殺し城兵を救はんことを約して定盈出城せしを。信玄生捕て城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に應ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて互に相かへて。
定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戰に破壞多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝ョ大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諫しかば。城を出で野田Pをこえ西クまで退く。勝ョまた山縣昌景をして西クをせめしむ。定盈西クC員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戰には。定盈案內者として鳶巢砦が伏戶の敵を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめやぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の國にいらせ給ふとき。定盈が謀にて諏訪安藝守ョ忠を歸順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戰に軍忠をあらはし。十月より小幡の城を守り。關東にいらせ給ふのち野田をあらたあ。下野國阿保にて一万石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚子の亂には别の仰を蒙り江戶の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢國長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり團扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜舊記。)
○廿一日江戶より安藤次右衛門正次御使として伏見にのぼり。若君誕生の事を告奉る。殊更御喜ス有て若君の御小字を竹千代君と進らせ給ふ。又下野守忠吉朝臣は此程伏見にありて心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張のC洲にかへらる。又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿樂を催さる。(ェ永系圖。國朝大業廣記。創業記。當代記。)
○廿二日腰物奉行野々山新兵衛ョ兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。此廿二三日三河國鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に會集して騷擾甚し。(ェ政重修譜。當代記。)
○廿三日江戶城にて若君七夜の御祝あり。上總介忠輝朝臣。設樂甚三カ貞代。松平伊豆守信一。西ク新太カ庸員。松平右馬允忠ョ。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠實。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀莚に伺候せしめらる。水野C六カ義忠が二子C吉カ光綱。稻葉內匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され若君に仕へしめらる。(貞享書上。ェ永系圖。長綱が姉は大姥とて台コ院の御乳母之。)
○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拜謁し奉る。(舜舊記。)
○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四カ信綱召出され。若君につけられ月俸三口給はる。時に九歲。このとし六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(ェ永系圖。當代記。)
○廿六日菅沼信濃守定氏卒しければ。其子新三カ定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にてC康君の御代よりつかへ奉り。永祿のはじめより元龜天正の頃しばしば軍功をはげみ。けふ八十四歲にてうせぬるなり。(ェ政重修譜。)
◎この月伏見城修築ありて西國諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手繩手の石垣を修築せり。(貞享書上。ェ政重修譜には慶長七年六月とす。)
○八月三日三河國目代松平C藏親家入道念誓が子C藏親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出て長澤松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三カ君に仕へしが。わかくしてあらあらしき御ふるまひありしを諫かね。職を辭し入道して念誓と號し籠居せしを。M松の城におはせし頃召出され御茶園の事など命ぜられ。入道が珍藏せし初花の茶壺を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることをも許され。三河一國の賦稅をつかさどらせられしが。齡つもりて七十一歲にてけふ沒せしとぞ。(ェ政重修譜。由誌早B此子孫三河國額田郡土呂クにすみて松平甚助と稱す。)
○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豐國明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。又出雲國松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歲なるに。原封二十四万石をつがしめられしが猶いとけなければ。祖父帶刀先生可晴をして國政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。右大將殿御名の一字給はり國俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父と志をおなじくして。當家に忠節をつくし。五年右大將殿にしたがひ下野國宇都の宮にいたる。此時御所には同國小山に御着陣ある所。石田三成等反逆の色をあらはすのよし告來りければめされて軍議あり。山內對馬守一豐。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らんやととふ。忠氏答て。我は居城M松を明て捧奉るべきの間。御人數を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。旣にして會津には押の勢をのこされて上方御進發に事决するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸將と共に小山を發し。八月十四日尾張國C洲の城に着陣す。廿二日諸將岐阜城をせむ。忠氏は池田。淺野。山內の人々と共に上のP河田の渡にむかふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し。一柳直盛と共に敵の後にまはりて攻けるが故に敵敗走す。忠氏が手に討取所の首二百廿七級なり。廿三日諸將瑞龍寺山の城をせむ。忠氏ク土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戶に言上するの所。廿九日御感狀を下さる。このとし出雲隱岐兩國に封ぜられ二十四万石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宗十カ忠總に嫁す。このとき右大將殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日從四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歲にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。此日酉刻より大風。諸國損害多し。(舜舊記。ェ政重修譜。當代記。)
○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(當代記。)
○六日舟本彌七カへ安南國渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳。)
○八日江戶にて若君三七夜の御祝あり。
著座の輩M松城の舊例を用らる。(慶長見聞書。)
○十日大久保石見守長安佐渡國よりかへり參りて。かの國銀山豐饒のよし聞えければ。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(當代記。これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その國より砂銀わづかに出けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を產せしを。御料に歸して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の眞主に歸する所。是等においてもしるべきなり。佐渡記。)
○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜。)
○十三日細屋喜齋に安南國渡海の御朱印を下さる。この日雨により豐國の社臨時祭を延らる。(御朱印帳。舜舊記。)
○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。この日京には豐國の社臨時祭あり。豐臣太閤七年周忌の故とぞ。一番幣帛左右に榊狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人淨衣風折。二番豐國の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豐國の大鳥居よりC閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田樂三十人。四番猿樂四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸左兵衛佐兼治つかうまつる。猿樂二番終る時大坂より使あり。豐國大門前にて猿樂一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(當代記。舜舊記。)
○十五日相摸國鎌倉鶴岡八幡宮造營成功により遷宮あり。この奉行は彥坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛のをりから。御參ありて御造營の事仰出されしとぞ。造營記。)京には豐國社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づつ。次に大佛殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜舊記。)
○十六日片桐市正且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし。(舜舊記。)
○十七日高城源次カ胤則死す。こは北條が麾下にして下總國小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召加へられしに。病にふしいまだつかへまつるに及ばずして沒せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出されしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十八日唐商安當仁に呂宋國渡海の御朱印を授らる。三枝勘解由守昌。下總國香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱印帳。ェ政重修譜。)
○廿三日大島雲八光義卒す。壽九十七歲。遺領一萬八千石餘を分て。長子次右衛門光成に七千五百石餘。二子茂兵衛光政に四千七百十石餘。三子久左衛門光俊に三千二百五十石餘。四子八兵衛光朝に二千五百五十石餘を給ふ。沒前の願によてなり。此光義。父を左近將監光宗といふ。新田の庶流にて遠祖藏人義繼が時美濃國に住し大島を稱す。光義幼くて父にわかれ國人と地領をあらそひ合戰する事絕ず。しばしば武功をあらはし射藝の名世に高し。後に織田右府に屬しいよいよ軍功をはげみ。元龜元年姉川の戰に先がけし。天正元年近江の國にて越前の兵と戰ひ。長篠の戰にも功あり。やがて豐臣家に屬し。慶長三年二月豐臣家より與力同心の給地を合せて一万千二百石を給ふ。庚子の亂には小山の御供に從ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て關原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石餘になさる。光義生涯戰にのぞむ事五十三度。感狀を得る事四十一通。今度病に臥してもしばしば御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(ェ政重修譜。)
○廿五日商人與右衛門に暹羅國渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)
○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより長子與一カ忠隆。二子與五カ興秋には家ゆづらず。兼て質子として江戶に參らせ置たる內記忠則を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨兩御所より御書を賜ひ。また岡田太カ右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも歸國して看侍すべき旨御ゆるしあり。安南國へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて一文字の御刀。鎌倉廣次の御脇差をつかはさる。又末次平藏に安南國渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田邊屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與右衛門に大泥國渡海の御朱印。平戶助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜。異國日記。御朱印帳。)
○廿八日佐竹右京大夫義宣。去年より新築したる出羽國久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(ェ政重修譜。)
○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千兩たまはる。(舜舊記。)
○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守ョ勝。讒のために金吾家を出で處士となりてありしを召出され。美濃國にて一萬石賜ふ。故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中國にて采邑五千石賜ふ。また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是月瀧川久助一乘幼雅なるがゆへに。一族三九カ一積とて中村一學忠一が家人なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乘わづかに二歲にて今の采邑領せんは。そのはばかり少からざれば。名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乘齡十五歲に至るまでは三九カ一積二千石の地を領し。二百五十石は一乘幷にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。又安藤三カ右衛門定正死して子忠五カ定武家繼て今年初見す。又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。又江戶築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。
其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の數は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田宰相輝政。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守C正。毛利藤七カ秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。K田筑前守長政。淺野紀伊守幸長。鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山內土佐守一豐。脇坂中務少輔安治。寺澤志摩守廣高。松浦式部卿法印鎭信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆守重利。稻葉彥六典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稻葉藏人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津C右衛門正勝。成P小吉正一。戶田三カ右衛門尊次。幷に尼崎文次カなり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸國に課せて大材を伐出さしむ。諸國より運送せし材木を積置所。今の佐久間町河岸なりとぞ。岡野融成入道江雪齋の孫權左衛門英明を携て伏見にのぼり拜謁す。英明時に五歲なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戶にまかり右大將殿につかうまつるべしと命ぜられしが後に紀伊家に屬せらる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。覺書。町書上。)
○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆數柄を獻ず。(舜舊記。)
○十日近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辭見し奉る。西洞院少納言時直桾ィを獻ず。(西洞院記。)
○十一日商人榮任に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。幷に平戶傳助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。又陸奥守忠恒には暹羅國渡海の御朱印を下さる。窪田與四カにしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十三日岡田太カ右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。右大將殿よりも。其家司松井佐渡に御書を給ふ。(貞享書上。)
○十四日伏見城をいでゝ江戶におもむかせ給ふによて。五カ太丸長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井參議雅庸卿御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ。かつ傳通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ。(西洞院記。當代記。慶長見聞書。)
○九月十日堀尾山城守忠氏が遺物とて。國次の脇指幷に素眼の筆蹟を其父帶刀可晴より献じければ。右大將殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる。(貞享書上。)
○十四日井上半右衛門C秀沒しぬ。このC秀はもとの阿倍大藏定吉が遺子にて。大須賀五カ左衛門康高が手に屬し軍功をはげみしが。その子太左衛門重成は越前家に屬せしめられ。三子半九カ正就は右大將殿御方につけられしが。後に次第に登庸せられ井上主計頭とて執政たりしは是なり。又杉浦彌一カ親正死して其子彥左衛門親勝つぐ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿日飛鳥井參議雅庸卿江戶へ參る。この日勝矢甚五兵衛利政死し其子長七カ政次つぐ。(西洞院記。武コ編年集成。利政が死日をェ永系圖。ェ政重修譜に記さず。今は編年によりてこゝに收む。)
○廿三日代官彥坂小刑部元成より相摸國戶塚の農民に貢稅の制を令す。(古文書。)
○廿九日永田彌左衛門重直死して其子四カ次カ重乘家をつぎ。三子四カ三カ直時ことし初見の禮をとり召出さる。(ェ政重修譜。)
◎この月伊奈備前守忠次。谷全阿彌正次より武藏國足立郡氷川の社人へ。こたび神領を三百石に定めらるれば。後にくはへられし二百石の內百石は造營料とし。百石を以て小禰宜三人巫女二人を置。その他は例のごとく配分すべしと令す。(古文書。)
◎此秋木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ。(當代記。)
○十月五日中根喜四カ正重死して。其子喜四カ正勝家をつがしめらる。(ェ政重修譜。)
○十日伊達越前守政宗江戶へ參る(貞享書上。)
○十五日逸見小四カ左衛門義次が二子勝兵衛忠助。右大將に初見し奉る。(ェ永系圖。)
○十六日右大將殿忍邊に御放鷹あり。(當代記。)
○廿四日右大將殿忍より蕨浦和邊に鷹狩し給ふ。(當代記。)
○廿九日普請奉行伏屋左衛門佐爲長死して其子新助爲次家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○十一月二日彥坂小刑部元成より戶塚の驛に。藤澤神奈川と同じく驛馬のことつかうまつるべしと令す。(古文書。)
○三日武藏國法性寺に新クにて十五石。正覺寺に持田村にて三十石。長久寺に長野村にて三十石。淨泉寺に下河上村にて廿石。眞觀寺に小見クにて十石。常光院に上中條村にて三十石。幡羅郡熊谷寺に熊谷のクにて三十石。一乘院に上の村にて三十石。日沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野國勢多郡養林寺に大胡クにて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる。(ェ文御朱印帳。)
○七日鷹師吉田彌右衛門正直に采邑百六十石餘を賜ふ。(ェ政重修譜。)
○八日竹千代君山王の社に御詣始あり。山伯耆守忠俊。內藤若狹守C次。水野勘八カ重家。川村善次カ重久。(ェ政重修譜には慶長十三年とす。)大草治左衛門公繼。內藤甚十カ忠重等御傅役命ぜられ供奉す。御かへさに山常陸介忠成がもとへ立よらせたまふ。(慶長見聞書。)
○十日右大將殿御放鷹はてゝ浦和邊より江城へかへらせ給ふ。(當代記。)
○十日飛鳥井宰相雅庸卿江戶を辭して歸洛す。(西洞院記。)
○廿一日前夜大雪。この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以て珍事とす。(當代記。)
○廿四日宰相秀康卿の五子越前國北庄にて誕生あり。後に但馬守直良といふ是なり。(貞享書上。)
○廿六日堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿七日松浦式部卿法印鎭信に迦知安渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿九日大雨。(當代記。)
◎是月三宅惣右衛門康貞武藏國深谷より三河國擧母に轉封し。五千石を加へて一萬石になさる。毛利中納言輝元入道宗瑞長門國萩の城を新築せしが。成功して山口よりうつり住む。(ェ政重修譜。)
○十二月三日山田次カ大夫正久死して。其子小姓彥左衛門正C家をつぐ。(ェ永系圖。)
○六日江戶城にて猿樂を催し給ふ。(當代記。)
○十五日駿河國西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる。(ェ文御朱印帳。)
○十六日大K屋助左衛門に大泥國渡海の御朱印を下さる。今夜遠江國舞坂邊高波打あげ。橋本邊の民家八十ばかり波と共に海に引入られ人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。其時伊勢の海Mは數町干潟となり。魚貝あまた其跡に殘りしをみて。漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに。又高波俄に打上て漁人等皆沉沒せり。伊豆の海邊みなこの禍にかゝりし中にも。八丈島にては民家悉く海に沈み。五十餘人溺死し田圃過半は損亡し。上總國小田喜はこと更濤聲つよく。人馬數百死亡し七村みな流失す。攝津國兵庫邊は更にこの害なしとぞ。(御朱印帳。當代記。崇福寺古文書。)
○十八日六條二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印。檜皮屋孫兵衛に大泥國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿日酒井宮內大輔家次下總の國碓氷を轉し上野國高崎城主とせられ。二萬石加へて五萬石になさる。(ェ政重修譜。)
○廿八日松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝より。戶塚驛の民に賦稅の券をさづく。又曾雌民部定政死して子帶刀定行つぐ。(古文書。ェ政重修譜。)
◎是月長福丸君に常陸國水戶萬石を加へられ廿五萬石になさる。米津C右衛門正勝に命ぜられ三河國中を撿地せしめらる。伊奈兵藏忠公召出され竹千代君につかへしめられ小姓となる。(時に八歲。)又山藤藏幸成御勘氣をゆるさる。(紀伊系圖。龍海院記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
◎是冬右大將殿土方河內守雄久がもとにならせられ。來國光の御脇差を賜はり。下總國田子にて五千石加へられ一萬五千石になさる。(ェ永系圖。貞享書上。)
◎是年加賀大納言利家卿の五男孫八カ利孝。菅沼新八カ定盈三子左近定芳は兩御所に謁し奉る。赤澤貞經入道丹齋。(此時赤澤を稱し後に改て小笠原と稱し。台コ院殿の御代に廩米五百俵下されたり。)能勢攝津守ョ次二子小十カョ隆。大森半七カ好長。角南新五カ重義。幷に其二子主馬重勝。沼間兵右衛門C許。由比庄左衛門宗政。(後に百俵をたまふ。)同弟與五左衛門安義。仙石越前守秀久が七子右近久隆。(此年直に右大將殿小姓となる。)山下彌藏義勝子彌藏周勝。小長谷市兵衛時友が子四カ右衛門時元。稻富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尙。船越左衛門尉景直二子三カ四カ永景初見し奉り。直家は鳥銃の秘術を兩御所へ傳奉り。後に右大將殿に仕ふ。高井助兵衛貞重子市右衛門貞C。(小姓組にいり後大番になる。)宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利。(此年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず。)原田C次カ維利。(入道して宗馭と號し。茶道頭の格に召出され現米七十石賜ふ。)小長谷加兵衛時次右大將殿に初見し。伊達庄兵衛房次。永井右近大夫直勝二子傳十カ直C。渡邊吉兵衛定。(始は村Pと稱す。)齋藤左源太利政。市橋左京長政。上杉源四カ長員。(後畠山を稱す。)林藤左衛門勝正。加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置たる山右近興知は(時に十二歲)右大將殿に奉仕す。使番米津勘兵衛由政江戶町奉行となり。采邑五千石を給ひ。島田兵四カ利正使番となり。大番朝倉藤十カ宣正。三雲新左衛門成長は其組頭となり。宣正采邑二百石を加へられ四百石になり。成長は千石を加へて千五百石となり。河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九カ康長は火の番の組頭となり。角南主馬重勝。高井市右衛門貞Cは小姓組にいり。小長谷加兵衛時次は大番にいり。中島大藏盛直が二子長四カ盛利。(時に十一歲。)船越三カ四カ永系。(時に八歲。)能勢小十カョ隆共に小姓となり。ョ隆は采邑千石賜ひ。間宮若狹守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歲。)も近侍せしめられ。菅沼左近定芳御手水番となり。松平C歲親重は父念誓親宅が原職を命ぜられ。入道して念誓と改め。三河の代官たり。伊澤源右衛門政信は右大將殿の小姓となり。中山猪右衛門勝政。都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり。政武は廩米二百俵を賜ひ。安西甚兵衛元眞燒火間に候せしめらる。(ェ政重修譜には今年召出され。十二年燒火間番とあり。)又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に屬し。城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。秋田東太カ實季は貝塚松寺邊新築の助役す。松平主殿頭忠利三河國矢作川浚利をつとむ。大岡傳藏C勝伏見城の番を命ぜらる。渡邊六藏公綱若林善九カ某は長福丸君の方に附らる。又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め。那須太カ資晴大膳大夫と稱し。(ほどなく修理大夫になる。)龜井新十カ政矩右兵衛佐と稱す。政矩は本多上野介正純。成P小吉正成を以て眤近の勤をこふ。松前甚平次忠廣は右大將殿につかへん事を願て江戶に參る。永井傳八カ尙政常陸國貝原塚にて采邑千石賜はり。渡邊忠七カ忠綱は父忠右衛門重綱が所領一萬四千石を分て三千石賜はり右大將殿に仕ふ。安藤彥四カ重能。佐久間新十カ信實は千石づゝ。井關猪兵衛親義二百二十石。山高孫兵衛親重は父が所領の外二百七十石餘。入戶野又兵衞門宗は本領を賜ひ。大番杉浦忠太カ親俊は三百石を賜ふ。服部石見守正就は御勘氣を蒙りて岳父松平隱岐守定勝にあづけらる。上總介忠輝朝臣始て信濃國川中島に就封せらる。また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請といへども御ゆるしなく。兩御所よりしばしば御使せられ病をとはせらる。よて忠勝は悉く其家政をば長子美濃守忠政にゆづりて世事にあづからず。牧野右馬允康成も衰老をもて勤仕を辭し。何事も其子新次カ忠成をして攝せしむ。これより先康成が女をもて御猶子となされ。福島左衞門大夫正則に降嫁せらる。大番山彌七カ一吉が二子半左衛門一政。代官下山彌八カ正次が子平右衛門重次。幷に小姓加藤茂左衛門正茂が子傳兵衛正信。皆父死して家をつぐ。又右大將殿水谷伊勢守勝俊がもとにならせられ。勝俊御茶を献ず。また長曾我部土佐守元親が伏見の舊邸を松平隱岐守定行に賜ひ。又仰により島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。
其上に島津は久しき名家なれば。婚禮の儀式も嚴重なるべしとて。一位の局その外女房數十人をしてその儀をとり行はせられ。又村越茂助直吉日下部兵右衛門定好をして其事を監せしめらる。又金森兵部卿法印素玄狩塲にて鶴とる事をゆるされ。蒼鷹一連黃鷹二連賜ふ。次の日其鷹もて鶴をとりて奉る。山內土佐守一豐に四聖坊の茶入を賜ふ。又埼玉郡摎ム村の御離館を越谷驛にうつされ。M野藤右衛門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明曆三年の災後江戶城にうつされかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり。)また京の知恩院を御造營あり。其莊嚴天下無双と稱す。また中村一學忠一參覲するといへども。去年家臣田內膳を誅し國內を騷がしける事により。江戶に入事をゆるされず。よて品川驛に於て籠居せしが。日數へて後召を蒙り登營して拜謁す。又朝鮮の僧松雲孫文ケ金孝舜對馬に來る。これは宗對馬守義智江戶に參覲せし時。さきに豐臣太閤朝鮮を伐しより。兩國の通信永く斷たり。しかりといへども當家に於てはかの國に於て更に恨とする事なし。彼隣好をむすばんとならば。其請所をゆるすべし。我よりあながちに請べきにはあらず。汝よく此旨をもて朝鮮國王に諭すべしと仰ありしかば。義智歸國し朝鮮に使をたてゝ其御旨をさとすといへども。朝鮮王半信半疑して更に决せず。こたび三僧を使し日本の和儀其實ならんには。江戶伏見に至り兩御所に拜謁して。我國の情實を聞えあぐべし。もしさなからんには速に歸國すべしとて來らしめしなり。義智は其家司柳川豐前調信を江戶に參らせてそのよしを告奉る。然るに明春は兩御所共に御上洛あるべければ。義智調信はかの三僧を伴ひ。都にのぼり其期を待奉るべしと仰下さる。よて義智は三僧を具して都にのぼり。板倉伊賀守勝重にはかりて大コ寺を旅館として三僧を饗し。御上洛の時をぞ待にける。又近江國蒲生郡佐々木の神社は。少彥名命を一座とし仁コ宇多の兩天皇。敦實親王をもて配祀したる社にて。佐々木家代々の尊崇する所なりしが。天正の比佐々木六角承禎入道が觀音寺の城沒落せし後。社頭荒廢きはまり祭田もみな烏有となりぬ。しかるに庚子の亂に御祈願の事ありて。御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが。今年又社前に鰐口を寄附せらる。又江戶市谷久寳山萬昌院。(今牛込にうつる。)品川專光寺。(今淺草六軒町。)赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺(今淺草六軒町。)神田東福寺(今麻布本村。)に寺地をたまふ。又關東の國々永樂錢を通貨とし鐚錢を用ひず。今より後は鐚四錢をもて永樂一錢にあてゝ通用すべしと令せらる。又長崎の湊に於て始て譯官を設らる。この時歸化の明人馮六といふ者よく國言に習へるをもて。はじめてこの役を命ぜられしとぞ。又藤堂和泉守高虎猶子宮內少輔高吉が家士亡命し。加藤左馬助嘉明が弟內記忠明が采邑伊豫の松山の下邑林村といふに潜居せしをもて。高吉討手を差むけてこれを討はたさしめしより事起り。その地を騷擾せしむ。よて高虎より其事を訴へしかば御けしきよからず。高吉は京都へ迯のぼり薙髮して東福寺に閑居す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。貞享書上。家譜。松平由誌早B信府記。家忠日記。M野書上。創業記。當代記。家忠日記追加。落穗集。慶長日記。近江輿地志。大三河志。長崎實錄。高名記。) 
 
巻十

 

慶長十年正月に始る 御齢六十四
慶長十年乙巳正月元日江戸城に於て右大将殿御対面歳首を賀し給ふ。其他群臣年始を賀し奉る事例の如し。(御年譜、創業記、家忠日記)
○二日松平下総守忠明はじめて謡曲始の列に加はる。(家譜)
○三日こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。其文にいふ。喧嘩争論厳に停禁せらる。親族知音たるをもて荷擔せしめなば。罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば帰府の後其沙汰あるべし。道中鹵簿の行列はあらかじめ示さるゝ令条の如く。次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮にまかすべし。押買狼藉すべからず。渡船場に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もし此令に違犯するものは厳科に処せらるべしとなり。」この日尼崎又二郎に大泥国渡海の御朱印を下さる。(令条記、御朱印帳)
○九日御上洛のため江城を御発興あり。しかるに痳をなやませ給ひしかば。数日内藤豊前守信成が駿府城に御延滞まします。長福丸方も陪せらる。」稲毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより。役夫の御黒印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ。(御年譜、創業記、寛政重修譜)
○十一日天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召出されて。右大将殿につけられて焼火間番を命ぜらる。」この日島津三位法印龍伯より唐墨二笏。折敷二十献じければ。御内書を賜ふ。(寛永系図、寛政重修譜)
○十三日駿府に於て大草久右衛門長栄召出され采邑三百石下さる。」栗生吉兵衛茂栄先に御勘気を蒙り籠居せしが。これも御ゆるしありて新に采邑三百石下さる。」三上太郎右衛門某も召され采邑千石給ひ。山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ。(家譜)
○十五日安藤彦兵衛直次武蔵近江の新墾田を合せて二千三十石余を加賜せられ。合せて一萬三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝の給料として四千五十五石六斗余を加賜せらる(寛政重修譜)
○廿日多田三八郎昌綱死して。其子次郎右衛門昌繁幼稚なるが故に。加恩三百石の地は収公せられ。先々のごとく甲州武川の輩と同じく給事せしめらる。(貞享書上、寛政重修譜)
◎是月本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に。下野国榎本に於て所領一萬石給ふ。」間宮左衛門信盛に。采邑の御朱印に茶壷をそへて下さる。」京醫今大路道三親清江戸に参る。(寛政重修譜)
○二月朔日駿河国安倍郡の海野弥兵衛某に采邑の御朱印を給ふ。井出志摩守正次がうけたまはる所なり。(由緒書)
○三日松平長四郎信綱に月俸を加へて五口を賜はる。(寛政重修譜)
○五日御なやみ常に復らせ給ひ。この日駿府を打立せ給ふ。(御年譜、創業記)
○九日青山常陸介忠成。内藤修理亮清成。伊奈備前守忠次連署して浅草東光院に寺料の替地を下さる。(由緒書)
○十日中根傅七郎正成采邑二百石加へられ四百石になさる。(寛政重修譜)
○十一日松平内記清定死す。其子内記清信は寛永十二年に至り召出さる。(寛政重修譜)
○十二日大番組頭鎮目市左衛門惟明が二子藤兵衛惟忠召出され大番に加へらる。(寛政重修譜)
○十三日昨今霜威厳酷にして草木多く涸枯る。」此夜上京下京火あり。(当代記)
○十五日右大将殿御上洛あるにより。榊原式部大輔康政。佐野修理大夫信吉。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長等は先駆としてけふ江戸を発程す。」此日美濃部鹿之助茂廣死して子市郎左衛門茂忠家をつぐ。(創業記、武徳扁年集成、寛政重修譜)
○十六日伊達越前守政宗御上洛供奉の為江戸を発程す。(貞享書上、武徳編年集成)
○十七日堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戸を発す。尼孝蔵主は御上洛を迎へ奉るとて途中まで参る。(武徳編年集成)
○十八日大駕此日水口にいらせ給ふ。右大将殿は江戸御発輿あるべしと兼て令せられしが。大雨により御延滞あり。」此日平岩主計頭親吉。小笠原信濃守秀政。諏訪因幡守頼永。保科肥後守正光。鳥居左京亮忠政発程す。(武徳編年集成、創業記、当代記)
○十九日伏見城へ着せ給ふ。」江戸よりは右大将殿先駆として米澤中納言景勝発馬す。(創業記、武徳編年集成)
○廿日高倉宰相永孝卿。飛鳥井少将雅賢。烏丸右大弁光廣等伏見城にまうのぼり謁見す。」江戸よりは蒲生飛騨守秀行発程す。」駿州の海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重に本多佐渡守正信より。今度右大将殿御上洛の時其地に於て拝謁し。采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す。(西洞院記、武徳編年集成、由緒書)
○廿一日神龍院梵舜等伏見城にのぼり御気色うかゞひ奉る。いさゝか御なやみあるにより拝謁せずして退く。江戸よりはこの日本多出雲守忠朝。真田伊豆守信之。北條左衛門大夫氏勝。松下右兵衛尉重綱発途す。(舜旧記、武徳編年集成)
○廿二日大久保相模守忠隣。同加賀守忠常。皆川志摩守隆庸。本多大学忠純。高力左近忠房等江戸を発す。(武徳編年集成)
○廿三日酒井右兵衛大夫忠世。水野市正忠胤。浅野采女長重。鍋島加賀守直茂。田中隼人正。(後に忠政となのる)市橋小兵衛某等江戸を出る。(武徳編年集成)
○廿四日右大将江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。其奉行は三枝土佐守昌吉。森川金右衛門氏信。屋代越中守秀正。服部中保正。加藤勘右衛門正次。細井金兵衛勝久。次に弓三百挺。其奉行久永源兵衛重勝。青木五右衛門高頼。佐橋甚兵衛吉久。倉橋内匠助政勝。次に豹皮鞘の鎗二百本。近藤平右衛門秀用。都築弥左衛門為政。次に召替の御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。
引馬龍(元字は有篇)者上に同じ。猩々緋黒羅紗にてつゝみし御持筒五十挺。御持弓三十挺。挟箱二十荷。長刀二振。持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帯す。次に御持鎗五柄。持夫上に同じ。次に騎馬。供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉。小姓の輩は青山図書助成重。安藤対馬守重信これを属す。次に使番。次に大番士。其次は土屋民部少輔忠直。高木善次郎正次。次に柴田七九郎康長。安部弥一郎信盛。内藤新五郎忠俊。牧野九右衛門信成。内藤若狭守清次。上杉源四郎長貞。土方河内守雄久。藤堂内匠助正高。溝口孫左衛門善勝。西尾隼人某。戸川宗十郎某。須賀摂津守勝政。神谷弥五郎清次。秋山平左衛門昌秀。下曾根三右衛門信正。跡部民部良保。駒井孫三郎親直。柴田三左衛門勝重。阿部備中守吉親。牧野傅蔵成純。真田左馬助信勝。永田四郎三郎直時。木造左馬助某。青山常陸介忠成。水野隼人正忠清。堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若党。馬乗奉行。歩行士。小者。次に永田善左衛門重利。永井弥右衛門白元。次に御馬廻。鉄砲奉行朝倉藤十郎宣正。また供奉の輩みづからの器械鳥銃千挺。弓五百挺。鑓千柄。長刀百挺。挟箱三百なり。今夜神奈川の駅にやどらせ給ふ。(武徳編年集成、御年譜)
○廿五日後騎の輩江城を進発す。酒井宮内大輔家次。牧野駿河守忠成。内藤左馬助政長。小笠原左衛門佐信之。次に松平上総介忠輝朝臣。松平周防守康重。次に最上出羽守義光。次に佐竹右京大夫義宣。次に南部信濃守利直。次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも。甲信の輩は木曽路をのぼり大津にて諸勢をそろへしむ。凡道中前後十六日の間人馬陸続して透間なし。この夜右大将殿藤沢の駅にやどり給ふ。夜に入て軽雷あり。(御年譜、当代記)
○廿六日小田原につかせ給ふ。」本多佐渡守正信より。海野弥兵衛某。朝倉六兵衛在重をして諸国の材木を巡察せしめらるゝ旨を駿遠信甲の輩にふれ渡さる。(御年譜、由緒書)
○廿七日三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滞し給ふ。(御年譜)
○廿九日右大将殿供奉の先駆はけふ入洛す。(大三河志)
◎是月三河の郡士松平久大夫政豊。御上洛のとき御途中にてはじめて拝謁し。召出さるべき旨仰を蒙る。」松下善十郎之勝采邑五百石賜はる。」石谷十右衛門政信右大将殿に附けらる。(家譜、寛政重修譜、寛永系図)
○三月朔日右大将殿三島駅に御滞座あり。(御年譜)
○二日右大将殿三島を御発輿ありて蒲原にいらせ給ふ。」この日野辺傅十郎正久死してその子助左衛門当経つぐ。(御年譜、寛永系図)
○四日右大将殿藤枝につかせ給ふ。」神龍院梵舜は伏見にのぼり拝謁し杉原十帖扇子を献ず。(御年譜、舜旧記)
○五日右大将殿懸川にやどらせ給ふ。(御年譜)
○六日松平左馬允忠頼が浜松の城によぎらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(寛永系図)
○七日けふも浜松に滞留し給ふ。(御年譜)
○八日吉田につかせ給ふ。」伊達越前守政宗はけふ大津に着せり。(御年譜、貞享書上)
○九日右大将殿岡崎につかせらる。(御年譜)
○十日下野守忠吉朝臣の清洲の城にいらせ給ひ。こゝに御滞留あり。(御年譜)
○十一日清洲城にて忠吉朝臣右大将を饗せられ猿楽を催さる。(御年譜)
○十二日伏見城にて囲棋の御遊あり。神龍院梵舜まいる。」右大将殿けふも清洲城に御滞留あり。(舜旧記。御年譜)
○十三日右大将大垣に着せ給ふ。(御年譜)
○十四日井伊右近大夫直勝が彦根城に入らせ給ふ。(寛政重修譜)
○十五日永原にいたらせ給ふ。青山藤蔵幸成配膳の役を命ぜらる。(御年譜、寛永系図)
○十七日戸田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ。こゝに三日御滞留ありて。後騎の輩到着を待せ給ふ。(御年譜、家譜)
○十八日春日明神薪能の事により。五師并に奈良の父老六人を伏見に於て対決せしめらるゝ所。父老等専恣の挙動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。寿閑といへるは八旬を越たる大老なれば。しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。」この日島津陸奥守忠恒伏見にのぼり拝謁し。御刀二口賜ふ。」又先手頭佐橋甚兵衛吉久死して。その子治郎左衛門吉次つがしめらる。(春日記録、寛政重修譜、家譜)(吉久始は乱之助といふ。射芸に達し。元亀元年姉川の戦に朝倉勢のむらがり進みしを射払て。敵を追しりぞけしよりして。三方が原。長篠。田中。長久手の戦毎に射芸をあらはさずといふことなく。関原の戦にのぞみ。今の御所に付られ。今の職奉はり。伏見にありて死す。五十九歳なり。此人右大将殿に射芸をつたへ奉りしとぞ)(寛永系図)
○廿一日右大将殿膳所崎の城を出まし。これより前後鹵簿をとゝのへられ。粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行装綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御卯迎にまいるもの道もさりあへず。都鄙近國にこの御行装をおがみ奉らんと。路傍に蹲踞する者雲霞のごとくあつまりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ。この御行装を御覧じ給ふ。(西洞院記、舜旧記、家忠日記)
○廿三日諸大名伏見城にのぼり拝謁す。(貞享書上)
○廿六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拝謁す。」二条御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十郎久吉つぎ。父の原職を命ぜらる。(舜旧記、由緒書)
○廿七日神龍院梵舜まうのぼり拝謁す。慶鶴丸。権少副并社家等太刀折紙を献ず。神主。祝。禰宜等の次第。并日本紀の事ども御垂問あり。(舜旧記)
○廿八日斎藤新五郎利次死す。蔭料千石を御書院番左源太利政に賜h。(寛政重修譜)
○廿九日右大将殿御参内あり。国々の大名こと/\〃く供奉す。これは去年右近衛の大将かけ給ひし御拝賀とぞ聞えける。先伏見より二条にわたらせられ。施薬院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遺戸をへ給ひ。
鬼間にやすらひ給ふ。御帳台の前を御座とし。上段の北に親王の御座を設けられ。下段に大将殿わたらせ給ふ。主上臨御まし/\。天酌にて御三献まいる。其後国々の諸大名四位以上御盃を下さる。大将殿より御太刀。御馬。綿三百把。銀二百枚まいらせ給ひ。親王へ綿二百把。銀百枚。女御へ綿百把。銀百枚。女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ。女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。国々の諸大名よりは太刀馬代をささぐ。事はてゝ伏見へかへらせ給ふ。(御年譜、西洞院記)
◎是月島津少将忠恒伏見に参観す。」右大将殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬。其子兵部少輔宣綱に黒鹿毛馬をたまひ。又竹腰源太郎正好初見し奉りし時。虎皮鞍覆せし馬一疋たまはり。騎法を学ぶべしと仰下さる。」又細川越中守忠興。その二子長岡與五郎興秋を質子として江戸へ進らせしに。興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて従弟長岡平左衛門を江戸へ進らす。」又この春通商のため呂宋。東京。暹羅に渡海せし船一艘もかへり来らず。あるは風涛の変にあひ沈溺せしといひ。あるは異域にて賊殺せられしともいふ。其踪迹さだかならず。」又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。此頃いまだ世にしる者少かりしに。武家の記録是よりふるきはなし。尤考証となすべきものなりとの盛慮とぞ。(家譜、寛政重修譜、当代記)
○四月五日右大将殿。金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る。(慶長年録)
○七日御みづからの御齢も六十あまり。四年の春をかさね給ひ。右大将殿もやゝをよすげ給へば。大将軍の重職を御譲りまし/\。今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて。こたび御上洛まし/\けるより。この日御辞表を奉らせ給ふ。」けふ。関五郎左衛門吉兼死して。其子傅兵衛吉直つぐ。(御年譜、創業記、家譜)
○八日伏見より御入洛あり。」細川越中守忠興が子内記忠利は従五位下。最上出羽守義光が子駿河守家親は従四位下に叙し。共に侍従に任ず。(舜旧記、家譜、寛政重修譜)
○十日御参内あり。これは御辞表の事内にも聞召入られしを謝し給ひしなるべし。(創業記、家忠日記)
○十二日大坂の豊臣内大臣秀頼公を右大臣にあげらる。(家忠日記)
○十三日神龍院梵舜當家の御系図を考定し。二条に参りて進覧す。(舜旧記)
○十五日御譲任の事内にもことはりと聞召入られ。御素志の事ども思召まゝに御治定ありければ。伏見にかへらせたまふ。(御年譜、創業記)
○十六日勅使広橋権大納言兼勝卿。勧修寺権中納言光豊卿等二条城に参向あり。右大将殿に征夷大将軍を授られ。正二位内大臣にあげ給ひ。淳和奨学両院別当。源氏長者とせられ。牛車にて宮中出入の御ゆるしまで。御父君にかはる事ましまさず。御所は此時より大御所と称し奉り。しばし伏見の城にゐましけるが。おなじ九月十五日伏見を出まし。十月廿八日江戸に還御なる。」同十一年三月十五日また江戸をいでまして。四月七日都にいらせ給ひ。伏見または二条にわたらせられ。十一月四日江戸にかへらせ給ふ。」十二年五月朝鮮国よりはじめて使を参らす。豊臣太閤文禄の遠伐より隣好もたえはてしを當家世を治め給ふによて。いにし恨もとけて。遠を懐くるの御徳をしたひ奉るとぞ聞えし。」この正月より駿府の城を経営せられ菟裘に定め給ひ。七月三日駿府にうつらせられ永く御所となさる。この後はしば/\〃駿府より江戸にも往来し給ひ。御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。将軍また御孝心世にすぐれまし/\。何事も御庭訓を露たがへ給はず。瑣末の事といへども。御旨をこはせ給はず御一人の思召もてうけばり行はせ給ふ事はましまさず。御みづから駿府におもむかせたまひ。または御使をまいらせられ。御ゆづりをうけさせられし後も。たゞ子たるの職を拱し守りておはしければ。大御所御隠退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ。むつまじく萬機をはかりあはせ給ふ。かゝるためしなむ昔も今も又あるべくも覚えず。」十四年春のころ島津陸奥守家久御ゆるしをこひて琉球国をせめふせ。中山王尚寧をはじめ其一族等多く生取。駿府江戸に引つれてまいりしかば。中山王はさらなり。その国人はゆるして国にかへされ。琉球国をばながく島津が家につけらる。」大坂の右府秀頼は。庚子の乱に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば。その時秀頼をも誅せられ。永く天下の禍根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども。秀頼いまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の旧好もすてがたしとて。寛仁の御沙汰にして。秀頼母子の命を助け給ふのみならず。そのまゝ大坂の城におかれ。河内。摂津を領せしめられ。今は御孫姫君にさへあはせ給へば。秀頼もあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど。母。賊臣等がゆへなき讒言を信じ。良臣を遠ざけ無頼のあふれものをあつめ。天下逋逃の薮となりしかば。諸国の注進櫛の歯を引が如し。今は思ひの外の事とみけしきよからず。十九年十月十一日駿府を出て大坂へ御動座ありしかば。将軍にも同じ廿三日江戸を御出馬あり。凡五畿七道の軍兵数十萬騎。雲霞の如くはせあつまり大坂の城をとりかこむ。城かたもはじめのほどこそあれ次第に心よはりて。和順の事をこひまいらせしにぞ。堀築地をやぶりて事たいらぎしに。いくほどもなくあくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二条の城につかせ給へば。
将軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日両御旗を難波にすゝめられ。六日七日の合戦に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀頼母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に凱旋あり。」ことし七月七日公家の法制十七条。武家の法令十三条を定められ。天下後世の亀鑑と定めまし/\。将軍は其十九日都をいでゝ八月四日江戸にかへらせ給ひ。大御所にはその日御出京ありて廿四日駿府に還御あり。」翌年の正月廿一日大御所駿河の田中に鷹狩せさせ給ひしに。その夜はからずも御心ち例ならず悩ませ給ひ。急ぎ駿府に帰らせ給ふ。聊かをこたらせ給ふ様なりしかど。はかばかしくもおはしまさず。江戸にもかくと聞召おどろき給ひ。御みづから急ぎ駿府にならせ給ひ。萬にあつかはせ給へば。九重の内にても延命の御修法など行はれ巻数まいらせらる。されば諸社諸寺の御祈は更なり。天下に名あるくすしども召集め御薬の事議せしめらる。内には猶も撥乱反正の大勲にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ。今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され。三月廿七日太政大臣にすゝめ給ふ。この頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも。猶天恩のかたじけなさを畏み給ふあまり。御いたはりをしゐておもたゞしく勅使を迎へさせ給ひ。紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寝にをいてかんさらせ給ふ。御齢七十に五あまらせ給ひき。将軍外様をはじめ。凡四海のうちに有としあるものなげき悲しまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。」あくる三年二月廿一日内より東照大権現の勅号まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて霊柩を下野国日光山にうつし奉り。四月十六日御鎮座ありて十七日御祭礼行はる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮号宣下せられ東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月より始めて例弊使参向今に絶せず。」仰すめるものはのぼりて天となり。にごれるものは下りて地となりしより此かた。御裳濯川のながれかれせず天津日継の御位うごきなき中に。清和天皇幼くて御位つがせ給ひしよりこのかた。外戚の家政柄を世々にせられしかば。藤氏の権海内を傾くるにいたりしが。鳥羽の上皇昇天の後。棣萼の御爭出来しより。その権源平の武家にうつりぬ。しかるに鎌倉右大将(頼朝)一たび伊豆の孤島より義旗をあげられ。平氏の武家は一門こぞりて寿永の春の花とちりはてゝ。終にわたつ海のそこのもくづとしづみにしのちは。天下たゞ武家の沙汰に帰しぬ。右大将家の後三代にしてたえしかば。陪臣北條義時がはからひにて。都よりあるは藤氏の庶子を請て主となし。あるは親王を申下して君と仰ぎ。をのれ国命を専らにしたるに。元弘。建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと。新田。足利の武力をかりて叡慮のまゝに北條を誅し。中興の業はなし給ひつれど。皇統又南北にわかれ。終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されど是も尊氏詐謀奸智をもて。上をあざむき衆をたばかりて。そのもと正しからざれば。下又これにならひ。足利氏十五世をふるが間。骨肉相残し父子兄弟互にあらそひ。強は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして応仁より此かた四海瓦のごとく解け。逆徒蜂のごとくおこりて天倫の道たえ。萬民塗炭のくるしみを受る事こゝに百年にあまりぬ。織田右府(信長)勇鋭にして義昭将軍を翼載するかとすれば忽にこれを放逐し。その身も又賊臣のために弑せられ。豊臣太閤の雄略なる。其身草間より出て旧主の讐を伐て遂に宇内を一統せしも。驕逸奢侈にふけり遠征を事とし萬民の疾苦をかへりみず。其余威二世につたふるに及ばず。此時にあたり維獄より神をくだし真主こゝにあれまし。寛仁大度の御徳そなはらせ給ひ。武はよく乱にかち。文はよく治を致し。終に海内百有余年の逆浪をしづめ。天下大一統の成功をとげ給ふ。しかれば足利氏以来の暗主奸臣はいふまでもなし。織田氏の強暴豊臣氏の傲慢なる。ともにみな淵のために魚をかり。薮のために雀を逐ふたぐひにて。真主の為に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば萬世無彊の基をひらき給ひし功徳。なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの関のはゞかりあることながら。朝政武断に帰せし後。一人として実に尭舜の道をたふとみ。聖賢のあとをまなばれし主ある事をきかず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ。沐雨櫛風の労をかさね嶮岨艱難をなめつくし給ひし千辛萬苦の御中にて。はじめて世を治め天下を平らかにせんは。聖人の道の外にあらざる事をしろしめし。惺窩。道春などいへる一時の儒生をめしあつめられ。大学。論語ならびに貞観政要などよませて聞しめし。其外承兌。崇傅。天海などいへる碩学どもを召て内外の諸紀傅を聞せ給ひ。駿府におはしまして後も。道春に四書六経をよび武経七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ。関原御凱旋の後はことさら御心を萬機にゆだねられ。国やすく民ゆたかならむ事をのみ思召。天下後世のために業をはじめ統をたれ。大経大法を大成し給ひ。聖子神孫いやつぎ/\〃に太平無彊の大統をつたへ給ふ。其精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光は。こまもろこしの外までもあまねくてらしまし。武蔵野の露の恵は。敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。
千早振神の御徳御いさほし。凡髪をいたゞき歯をふくむたぐひ。たれかこれをかしこみもかしこみ。をそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや。(御年譜、宮号宣下記) 
 
東照宮御實記卷十 / 慶長十年正月に始り四月に終る御齡六十四
慶長十年乙巳正月元日江戶城に於て右大將殿御對面歲首を賀し給ふ。其他群臣年始を賀し奉る事例の如し。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○二日松平下總守忠明はじめて謠曲の始列に加はる。(家譜。)
○三日こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。其文にいふ。喧嘩爭論嚴に停禁せらる。親族知音たるをもて荷擔せしめなば。罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば歸府の後其沙汰あるべし。道中鹵簿の行列はあらかじめ示さるゝ令條の如く。次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮にまかすべし。押買狼藉すべからず。渡船塲に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もし此令に違犯するものは嚴科に處せらるべしとなり。この日尼崎又二カに大泥國渡海の御朱印を下さる。(令條記。御朱印帳。)
○九日御上洛のため江城を御發輿あり。しかるに痳をなやませ給ひしかば。數日內藤豐前守信成が駿府城に御延滯まします。長福丸方も陪せらる。稻毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより。役夫の御K印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ。(御年譜。創業記。ェ政重修譜。)
○十一日天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召出されて。右大將殿につけられて燒火間番を命ぜらる。この日島津三位法印龍伯より唐墨二笏折敷二十献じければ。御內書を賜ふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十三日駿府に於て大草久右衛門長榮召出され采邑三百石下さる。栗生吉兵衛茂榮先に御勘氣を蒙り籠居せしが。これも御ゆるしありて新に采邑三百石下さる。三上太カ右衛門某も召出され采邑千石給ひ。山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ。(家譜。)
○十五日安藤彥兵衛直次武藏近江の新墾田を合せて二千三十石餘を加賜せられ。合せて一萬三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝寄騎の給料として四千五十五石六斗餘を加賜せらる。(ェ政重修譜。)
○廿日多田三八カ昌綱死して。其子次カ右衛門昌繁幼稚なるが故に。加恩三百石の地は收公せられ。先々のごとく甲州武川の輩と同じく給事せしめらる。(貞享書上。ェ政重修譜。)
◎是月本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に。下野國榎本に於て所領一萬石賜ふ。間宮左衛門信盛に。采邑の御朱印に茶壺をそへて下さる。京醫今大路道三親C江戶に參る。(ェ政重修譜。)
○二月朔日駿河國安倍郡の海野彌兵衛某に采邑の御朱印をたまふ。井出志摩守正次がうけたまはる所なり。(由誌早B)
○三日松平長四カ信綱に月俸を加へて五口を賜はる。(ェ政重修譜。)
○五日御なやみ常にかへらせ給ひ。この日駿府をうちたゝせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○九日山常陸介忠成。內藤修理亮C成。伊奈備前守忠次連署して淺草東光院に寺料の替地を下さる。(由誌早B)
○十日中根傳七カ正成采邑二百石加へられ四百石になさる。(ェ政重修譜。)
○十一日松平內記C定死す。其子內記C信はェ永十二年に至り召出さる。(ェ政重修譜。)
○十二日大番組頭鎭目市左衞門惟明が二子藤兵衛惟忠召出され大番に加へらる。(ェ政重修譜。)
○十三日昨今霜威嚴酷にして草木多く凅枯る。此夜上京下京火あり。(當代記)。
○十五日右大將殿御上洛あるにより。榊原式部大輔康政。佐野修理大夫信吉。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長等は先驅としてけふ江戶を發程す。此日美濃部鹿之助茂廣死して子市カ左衛門茂忠家をつぐ。(創業記。武コ編年集成。ェ政重修譜)。
○十六日伊達越前守政宗御上洛供奉のため江戶を發程す。(貞享書上。武コ編年集成。)
○十七日堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戶を發す。尼孝藏主は御上洛をむかへ奉るとて途中まで參る。(武コ編年集成。)
○十八日大駕此日水口にいらせ給ふ。右大將殿は江戶御發輿あるべしとかねて令せられしが。大雨により御延滯あり。この日平岩主計頭親吉。小笠原信濃守秀政。諏訪因幡守ョ永。保科肥後守正光。鳥居左京亮忠政發程す。(武コ編年集成。創業記。當代記。)
○十九日伏見城へ着せ給ふ。江戶よりは右大將殿先驅として米澤中納言景勝發馬す。(創業記。武コ編年集成。)
○廿日高倉宰相永孝卿。飛鳥井少將雅賢。烏丸右大辨光廣等伏見城にまうのぼり謁見す。江戶よりは蒲生飛彈守秀行發程す。駿州の海野彌兵衛某。朝倉六兵衛在重に。本多佐渡守正信より今度右大將殿御上洛の時。其地に於て拜謁し采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す。(西洞院記。武コ編年集成。由誌早B)
○廿一日神龍院梵舜等伏見城にのぼり御けしきうかゞひ奉る。いささか御なやみあるにより拜謁せずして退く。江戶よりはこの日本多出雲守忠朝。眞田伊豆守信之。北條左衛門大夫氏勝。松下右兵衛尉重綱發途す。(舜舊記。武コ編年集成。)
○廿二日大久保相摸守忠隣。同加賀守忠常。皆川志摩守隆庸。本多大學忠純。高力左近忠房等江戶を發す。(武コ編年集大。)
○廿三日酒井右兵衛大夫忠世。水野市正忠胤。淺野采女長重。淺野內膳氏重。鍋島加賀守直茂。田中隼人正。(後に忠政となのる。)市橋小兵衛某等江戶を出る。(武コ編年集成。)
○廿四日右大將殿江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。其奉行は三枝土佐守昌吉。森川金右衛門氏信。屋代越中守秀正。服部中保正。加藤勘右衛門正次。細井金兵衛勝久。次に弓三百挺。其奉行久永源兵衛重勝。木五右衛門高ョ。佐橋甚兵衛吉久。倉橋內匠助政勝。次に豹皮鞘の鑓二百本。近藤平右衛門秀用。都筑彌左衛門爲政。次に召替の御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。引馬龓者上に同じ。猩々緋K羅紗にてつゝみし御持筒五十挺。御持弓三十挺。挾箱二十荷。長刀二振。持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帶す。次に御持鑓五柄。持夫上に同じ。次に騎馬。供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉。小姓の輩は山圖書助成重。安藤對馬守重信これを屬す。次に使番。次に大番士。其次は土屋民部少輔忠直。高木善次カ正次。次に柴田七九カ康長。安部彌一カ信盛。內藤新五カ忠俊。
牧野九右衛門信成。內藤若狹守C次。上杉源四カ長貞。土方河內守雄久。藤堂內匠助正高。溝口孫左衛門善勝。西尾隼人某。戶川宗十カ某。須賀攝津守勝政。神谷彌五カC次。秋山平左衛門昌秀。下曾根三右衛門信正。跡部民部良保。駒井孫三カ親直。柴田三左衛門勝重。阿部備中守正次。山名平吉某。津田正藏某。脇坂主水正安信。小出信濃守吉親。牧野傳藏吉純。眞田左馬助信勝。永田四カ三カ直時。木造左馬助某。山常陸介忠成。水野隼人正忠C。堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若黨馬乘奉行。歩行士小者。次に永田善左衛門重利。永井彌右衛門白元。次に御馬廻。鐵炮奉行石川八左衛門重次。永田勝左衛門重眞。弓奉行本多百助信勝。小澤P兵衛忠重。鑓長刀奉行山田十大夫重利。挾箱奉行朝倉藤十カ宣正。また供奉の輩みづからの器械鳥銃千挺。弓五百挺。鑓千柄。長刀百振。挾箱三百なり。今夜神奈川の驛にやどらせたまふ。(武コ編年集成。御年譜。)
○廿五日後騎の輩江城を進發す。酒井宮內大輔家次。牧野駿河守忠成。內藤左馬助政長。小笠原左衛門佐信之。次に松平上總介忠輝朝臣。次に松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。松平孫六カ康長。松平周防守康重。次に最上出羽守義光。次に佐竹右京大夫義宣。次に南部信濃守利直。次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも。甲信の輩は木曾路をのぼり大津にて諸勢をそろへしむ。凡道中前後十六日の間人馬陸續して透間なし。この夜右大將殿藤澤の驛にやどり給ふ。夜に入て輕雷あり。(御年譜。當代記。)
○廿六日小田原につかせ給ふ。本多佐渡守正信より。海野彌兵衛某朝倉六兵衛在重をして諸國の材木を巡察せしめらるゝ旨を。駿遠信甲の輩にふれ渡さる。(御年譜。由誌早B)
○廿七日三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滯し給ふ。(御年譜。)
○廿九日右大將殿供奉の先驅はけふ入洛す。(大三河志。)
◎是月三河の郡士松平久大夫政豐。御上洛のとき御途中にてはじめて拜謁し。召出さるべき旨仰を蒙る。松下善十カ之勝采邑五百石賜はる。石谷十右衛門政信右大將殿に附けらる。(家譜。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○三月朔日右大將殿三島驛に御滯座あり。(御年譜。)
○二日右大將殿三島を御發輿ありて蒲原にいらせ給ふ。(御年譜。)
○三日駿府にとゞまらせ給ふ。この日野邊傳十カ正久死してその子助左衛門當經つぐ(御年譜。ェ永系圖。)
○四日右大將殿藤枝につかせ給ふ。神龍院梵舜は伏見にのぼり拜謁し杉原十帖扇子を献ず。(御年譜。舜舊記。)
○五日右大將殿懸川にやどらせ給ふ。(御年譜。)
○六日松平左馬允忠ョがM松の城によぎらせ給ひこゝに御滯留あり。(ェ永系圖。)
○七日けふもM松に滯留し給ふ。(御年譜。)
○八日吉田につかせ給ふ。伊達越前守政宗はけふ大津に着せり。(御年譜。貞享書上。)
○九日右大將殿岡崎につかせらる。(御年譜。)
○十日下野守忠吉朝臣のC洲の城にいらせ給ひこゝに御滯留あり。(御年譜。)
○十一日C洲城にて忠吉朝臣右大將を饗せられ猿樂を催さる。(御年譜。)
○十二日伏見城にて園棋の御遊あり。神龍院梵舜まいる。右大將殿けふもC洲城に御滯留あり。(舜舊記。御年譜。)
○十三日右大將殿太垣に着せ給ふ。(御年譜。)
○十四日井伊右近大夫直勝が彥根の城に入らせ給ふ。(ェ政重修譜。)
○十五日雨により彥根城に御滯留あり。(御年譜。)
○十六日永原にいたらせ給ふ。山藤藏幸成配膳の役を命ぜらる。(御年譜。ェ永系圖。)
○十七日戶田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ。こゝに三日御滯留ありて。後騎の輩到着を待せ給ふ。(御年譜。家譜。)
○十八日春日明神薪能の事により。五師幷に奈良の父老六人を伏見に於て對决せしめらるゝ所。父老等專恣の擧動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。壽閑といへるは八旬を越たる大老なれば。しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。この日島津陸奥守忠恒伏見にのぼり拜謁し。御刀二口賜ふ。又先手頭佐橋甚兵衞吉久死して。その子治カ左衛門吉次つかしめらる。(春日記錄。ェ政重修譜。家譜。吉久始は亂之助といふ。射藝に達し。元龜元年姉川の戰に朝倉勢のむらがり進みしを射拂て。敵を追しりぞけしよりして。三方が原長篠田中長久手の戰每に射藝をあらはさずとふことなく。關原の戰にのぞみ今の御所に付られ。今の職奉はり。伏見にありて死す。五十九歲なり。此人右大將殿に射藝をつたへ奉りしとぞ。ェ永系圖。)
○廿一日右大將殿膳所崎の城を出まし。これより前後鹵簿をとゝのへられ。粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行裝綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御迎にまいるもの道もさりあへず。都鄙近國にこの御行裝をおがみ奉らんと。路傍に蹲踞する者雲霞のごとくあつまりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ。この御行裝を御覽じ給ふ。(西洞院記。舜舊記。家忠日記。)
○廿三日諸大名伏見城にのぼり拜謁す。(貞享書上。)
○廿六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す。二條御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十カ久吉つぎ。父の原職を命ぜらる。(舜舊記。由誌早B)
○廿七日神龍院梵舜まうのぼり拜謁す。慶鶴丸權少副幷社家等太刀折紙を献ず。神主祝禰宜等の次第幷日本紀の事ども御垂問あり。(舜舊記。)
○廿八日齋藤新五カ利次死す。䕃料千石を御書院番左源太利政に賜ふ。(ェ政重修譜。)
○廿九日右大將殿御參內あり。國々の大名ことごとく供奉す。これは去年右近衛の大將かけ給ひし御拜賀とぞ聞えける。先伏見より二條にわたらせられ。施藥院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遣戶をへ給ひ鬼間にやすらひ給ふ。御帳臺の前を御座とし。上段の北に親王の御座を設けられ。下段に大將殿わたらせ給ふ。主上臨御ましまし天酌にて御三献まいる。其後國々の諸大名四位以上御盃を下さる。大將殿より御太刀。御馬。綿三百把。銀二百枚まいらせ給ひ。親王へ綿二百把。銀百枚。女御へ綿百把。銀百枚。女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ。女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。
國々の諸大名よりは太刀馬代をさゝぐ。事はてゝ伏見へかへらせ給ふ。(御年譜。西洞院記。)
◎是月島津少將忠恒伏見に參覲す。右大將殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬。其子兵部少輔宣綱にK鹿毛馬をたまひ。又竹腰源太カ正好初見し奉りし時。虎皮鞍覆せし馬一疋たまはり。騎法を學ぶべしと仰下さる。又細川越中守忠興。その二子長岡與五カ興秋を質子として江戶へ進らせしに。興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて從弟長岡平左衛門を江戶へ進らす。又この春通商のため呂宋東京暹羅に渡海せし船一艘もかへり來らす。あるは風濤の變にあひ沈溺せしといひ。あるは異域にて賊殺せられしともいふ。其踪迹さだかならず。又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。此頃いまだ世にしる者少かりしに。武家の記錄是よりふるきはなし。尤考證となすべき者なりとの盛慮とぞ。(家譜。ェ政重修譜。當代記。)
○四月五日右大將殿。金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る。(慶長年錄。)
○七日御みづからの御齡も六十あまり。四年の春をかさね給ひ。右大將殿もやゝをよすげ給へば。大將軍の重職を御讓りましまし。今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて。こたび御上洛ましましけるより。この日御辭表を奉らせ給ふ。けふ關五カ左衛門吉兼死して其子傳兵衛吉直つぐ。(御年譜。創業記。家譜。)
○八日伏見より御入洛あり。細川越中守忠興が子內記忠利は從五位下。最上出羽守義光が子駿河守家親は從四位下に叙し。共に侍從に任ず。(舜舊記。家譜。ェ政重修譜。)
○十日御參內あり。これは御辭表の事內にも聞召入られしを謝し給ひしなるべし。(創業記。家忠日記。)
○十二日大坂の豐臣內大臣秀ョ公を右大臣にあげらる。(家忠日記。)
○十三日神龍院梵舜當家の御系圖を考定し。二條にまいりて進覽す。(舜舊記。)
○十五日御讓任の事內にもことはりと聞召入られ。御素志の事ども思召まゝに御治定ありければ。伏見にかへらせたまふ。(御年譜。創業記。)
○十六日勅使廣橋權大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿等二條城に參向あり。右大將殿に征夷大將軍を授られ。正二位內大臣にあげ給ひ。淳和弉學兩院别當源氏長者とせられ。牛車にて宮中出入の御ゆるしまで。御父君にかわる事ましまさず。御所は此時より大御所と稱し奉り。しばし伏見の城にゐましけるが。おなじ九月十五日伏見を出まし。十月廿八日江戶に還御なる。同十一年三月十五日また江戶をいでまして四月七日都にいらせ給ひ。伏見または二條にわたらせられ。十一月四日江戶にかへらせ給ふ。十二年五月朝鮮國よりはじめて使を參らす。豐臣太閤文祿の遠伐より隣好もたえはてしを當家世を治め給ふによて。いにし恨もとけて。遠を懷くるの御コをしたひ奉るとぞ聞えし。この正月より駿府の城を經營せられ莵裘に定め給ひ。七月三日駿府にうつらせられ永く御所となさる。この後はしばしば駿府より江戶にも往來し給ひ。御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。將軍また御孝心世にすぐれましまし。何事も御庭訓を露たがへ給はず。瑣末の事といへども御旨をこはせ給はず。御一人の思召もてうけばり行はせ給ふ事はましまさず。御みづから駿府におもむかせ給ひ。または御使をまいらせられ。御ゆづりをうけさせられし後も。たゞ子たるの職を共し守りておはしければ。大御所御隱退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ。むつまじく萬機をはかりあわせ給ふ。かゝるためしなむ昔も今も又あるべくも覺えず。十四年春のころ島津陸奥守家久御ゆるしをこひて琉球國をせめふせ。中山王尙寧をはじめ其一族等多く生取。駿府江戶に引つれてまいりしかば。中山王はさらなり。その國人はゆるして國にかへされ。琉球國をばながく島津が家につけらる。大坂の右府秀ョは。庚子の亂に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば。その時秀ョをも誅せられ。永く天下の亂根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣いさめ奉りしかども。秀ョいまだ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の舊好もすてがたしとェ仁の御沙汰にして。秀ョ母子の命を助け給ふのみならず。そのまゝ大坂の城におかれ河內攝津を領せしめられ。今は御孫姬君にさへあはせ給へば。秀ョもあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど。囂母賊臣等がゆへなき讒言を信じ。良臣を遠ざけ無ョのあふれものをあつめ。天下逋逃の藪となりしかば。諸國の注進櫛の齒を引が如し。今は思ひの外の事とみけしきよからず。十九年十月十一日駿府を出て大坂へ御動座ありしかば。將軍にも同じ廿三日江戶を御出馬あり。凡五畿七道の軍兵數十萬騎雲霞の如くはせあつまり大坂の城をとりかこむ。城かたもはじめのほどこそあれ次第に心よはりて。和順の事をこひまいらせしにぞ。堀築地をやぶりて事たいらぎしに。いくほどもなくあくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二條の城につかせ給へば。將軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日兩御旗を難波にすゝめられ。六日七日の合戰に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀ョ母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に御凱旋あり。ことし七月七日公家の法制十七條。武家の法令十三條を定められ。天下後世の龜鑑と定めましまし。將軍は其十九日都をいでゝ八月四日江戶にかへらせ給ひ。大御所にはその日御出京ありて廿四日駿府に還御あり。翌年の正月廿一日大御所駿河の田中に鷹狩せさせ給ひしに。その夜はからずも御心ち例ならずなやませ給ひ。いそぎ駿府にかへらせ給ふ。いさゝかをこたらせ給ふ樣なりしかど。はかばかしくもおはしまさず。江戶にもかくと聞召おどろき給ひ。御みづからいそぎ駿府にならせ給ひ萬にあつかはせ給へば。九重の內にても延命の御修法など行はれ卷數まいらせらる。されば諸社諸寺の御いのりは更なり。天下に名あるくすしども召あつめ御藥の事議せしめらる。
內には猶も撥亂反正の大勳にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ。今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され。三月廿七日太政大臣にすゝめ給ふ。此頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも。猶天恩のかたじけなさをかしこみ給ふあまり。御いたはりをしゐておもたゞしく勅使をむかへさせ給ひ。紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寢にをいてかんさらせ給ふ。御齡七十に五あまらせ給ひき。將軍御なげきはいふまでもなし。公達一門の方々御內外樣をはじめ。凡四海のうらに有としあるものなげきかなしまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。あくる三年二月廿一日內より東照大權現の勅號まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて靈柩を下野國日光山にうつし奉り。四月十六日御鎭座ありて十七日御祭禮行はる。此時都よりも。宣命使奉幣使などいしいし山に參らる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮號宣下せられ東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月よりはじめて例幣使參向今に絕せず。抑すめるものはのぼりて天となり。にごれるものは下りて地となりしより此かた。御裳濯川のながれかれせず天津日繼の御位うごきなき中に。C和天皇幼くて御位つがせ給ひしよりこのかた。外戚の家政柄を世々にせられしかば。藤氏の權海內を傾るにいたりしが。鳥羽の上皇昇天の後棣蕚の御爭出來しより。その權源氏の武家にうつりぬ。しかるに鎌倉大將(ョ朝。)一たび伊豆の孤島より義旗をあげられ。平氏の武家は一門こぞりて壽永の春の花とちりはてゝ。終にわたつ海のそこのもくづとしづみにしのちは。天下たゞ武家の沙汰に歸しぬ。右大將家の後三代にしてたえしかば陪臣北條義時がはからひにて。都よりあるは藤氏の庶子を請て主となし。あるは親王を申下して君と仰ぎ。をのれ國命を專らにしたるに。元弘建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと。新田足利の武力をかりて叡慮のまゝに北條を誅し。中興の業はなし給ひつれど。皇統又南北にわかれ終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されどこれも尊氏詐謀奸智をもて上をあざむき衆をたばかりて。そのもと正しからざれば。下又これにならひ足利氏十五世をふるが間。骨肉相殘し父子兄弟互にあらそひ。强は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして應仁より此かた四海瓦のごとく解け。逆徒蜂のごとくおこりて。天倫の道たえ萬民塗炭のくるしみを受る事こゝに百年にあまりぬ。織田右府(信長。)勇銳にして義昭將軍を翼戴するかとすれば忽にこれを放逐し。その身も又賊臣のために弑せられ。豐臣太閤の雄略なる其身草間より出て舊主の讐を伐て遂に宇內を一統せしも。驕逸奢侈にふけり遠征をことゝし萬民の疾苦をかへりみず。其餘威二世につたふるに及ばず。此時にあたり維嶽より神をくだし眞主こゝにあれまし。ェ仁大度の御コそなはらせ給ひ。武はよく亂にかち文はよく治を致し。終に海內百有餘年の逆浪をしづめ。天下大一統の成功をとげ給ふ。しかれば足利氏以來の暗主奸臣はいふまでもなし。織田氏の强暴豐臣氏の傲慢なる。ともにみな淵のために魚をかり藪のために雀を逐ふたぐひにて。眞主の爲に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば萬世無彊の基をひらき給ひし功コ。なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの關のはゞかりあることながら。朝政武斷に歸せし後。一人として實に堯舜の道をたふとみ。聖賢のあとをまなばれし主ある事をきかず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ。沐雨櫛風の勞をかさね險阻艱難をなめつくし給ひし千辛萬苦の御中にて。はじめて世を治め天下を平らかにせんは。聖人の道の外にあらざる事をしろしめし。惺窩道春などいへる一時の儒生をめしあつめられ。大學論語ならびに貞觀政要などよませて聞しめし。其外承兌。崇傳。天海などいへる碩學どもを召て內外の諸紀傳を聞せ給ひ。駿府におはしまして後も。道春に四書六經をよび武經七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ。關原御凱旋の後はことさら御心を萬機にゆだねられ。國やすく民ゆたかならむ事をのみ思召。天下後世のために業をはじめ統をたれ。大經大法を大成し給ひ。聖子神孫いやつぎづぎに太平無彊の大統をつたへ給ふ。其精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光はこまもろこしの外までもあまねくてらしまし。武藏野の露の惠は敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。千早振神の御コ御いさほし。凡髮をいたゞき齒をふくむたぐひ。たれかこれをかしこみもかしこみをそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや。(御年譜。宮號宣下記。) 
 
東照宮御実紀附録

 

卷一 
かけまくもかしこき東照神君。應仁よりこのかた蠭のごと亂れ瓜のごと分れし百有餘年の大亂を打平げ。久堅の天ながく。荒がねの地かぎりなき洪業を開かせ給ひし御事蹟は。つばらに本編にかきしるし奉りぬ。御嘉言御善行のこときに至りては。悉く本編に載べくもあらざれば。今諸書に散見する所の。疑はしきをさり正しかるべきをつみとりて。藻鹽草かきあつめ本編の末に附し奉るにこそ。抑まだ御幼穉の御程よりあやしくさとくおはしまして。なみなみの兒童の及ぶ所にあらざる事はいふべくもあらず。八歲にならせられし時。尾張の織田信秀が爲に囚れ。同國名古屋の天王坊といふにおはしませし時。熱田の神官御徒然を慰め奉らんとて。K鶇といへる小鳥のよく諸鳥の音を似するを獻じければ。近侍等いとめづらしきものにおもひめで興じけり。君御覽じて。かれが珍禽を奉りし心えはさる事なれども。おぼしめす旨あれば返しくださるべしと聞え給へば。神官思ひの外の事にて持歸りぬ。その後近侍にむかはせられ。この鳥はかならず。己が音のおとりたるをもて。他鳥の音をまねびてその無能をおほふなるべし。おほよそ諸鳥皆天然の音あり。黃鳥は杜鵑の語を學ばず。雲雀は鶴の聲を擬せず。をのがじゝ本音もて人にも賞せらるれ。人も亦かくのことし。生質巧智にして萬事に能あるものは。かならず遠大の器量なき者ぞ。かゝる外邊のみかざりて眞能のなきものは。鳥獸といへども大將の翫には備ふまじきなりと宣へば。承りしものども。まだいとけなくわたらせたまひ。ひろく物の心もしろしめさぬ御程にて。かゝることおもひ至らせ給ふは。行末いかなる賢明の主にならせ給はんと。あやしきまでに感じ奉りぬ。後に聞ば。K鶇ははたして本音のなき鳥なりとぞ。後年に至り豐臣太閤の諸將を評せられしにも。今川氏眞織田信雄など。華奢風流の事はよくなし得たれど武門の器にともし。コ川殿は何ひとつ技藝のすぐれし事は聞えざれども。將に將たる器量を備へられしと感ぜられし事あり。いかにも御幼稚の御ほどより。衆人に殊なる御本性におはしましたるならむと。今さら膽仰せらるゝ事になん。(故老諸談。道齋聞書。)
五月五月兒童の戱とて。隊を分ち石もて打あふを。俚語にいんぢうちといふは。石打といふ詞のよこなまりしにて。ふるくより兒戱とせしは。全く戰國爭鬪の風童部にもをしうつりしなるべし。君はいまだいとけなくて駿河の今川がもとにおはしける時。石打見そなはさんとて。近侍の者の肩に負れ阿部河原に出ませしに。一隊は三百人あまり。一隊は百四五十ばかりなり。人々みな多勢の方により來て見んとす。君われは小勢の方にゆかむ。小勢の方の人は自ら志を一决して恐怖の念なく。隊伍もいとよく整ふものぞと仰せければ。かの侍。この君何をしろしめしてさは仰せらるゝぞといぶかしく思ひしが。程なく打合はじまりしに。多勢の方一さゝへもせず敗走し。見物の者もそが方にゆきしは。人なだれにおしすくめられ。からうじて迯ちりぬ。この事聞き傳へし者ども。御年の程にも似つかはしからぬ御聰明の御事かなと。感じ奉らぬはなかりしとぞ。(故老諸談。太平夜談抄。)
按に大勢の方は農民なり。微勢の方は武士なり。微勢の方かならず勝むと仰られしが。果して其ごとくなりしといふ說もあり。
天文廿年正月元日今川が舘におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座して拜賀す。君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人の子ならんといふに。松平C康が孫なりといふ者あれど信ずる者なし。其時君御座をたちて緣先に立せられ。なにげなく便溺し給ふに。自若として羞怎のさまおはしまさず。これにより衆人驚嘆せしとぞ。(紀年錄。)
駿府におはしませし頃。一日大祥寺といふ禪刹へ成せられしに。鷄廿羽ばかりかひ置きしを御覽じ。住僧にこの鳥一羽われにあたへぬかと宣へば。住僧皆なりとも獻らん。菜圃を啄みあらせども。をのれと生育いたし候へば。先そのまゝに飼置きぬと申せば。咲はせられながら。この法師は鷄卵くふ事はしらぬかと仰られ。後に駿河御領國となりし時。かの住僧殊勝の者なりとて。めして寺領御寄附ありしとなり。(君臣言行錄。)
鳥居伊賀守忠吉はC康廣忠の二君につかへ奉り。君の駿河にわたらせ給ひし時。今川がはからひにて松平次カ左衛門重吉と共に御本國にとゞまり。賦稅の事を奉行せしめられしかば。忠吉が子彥右衛門元忠をば。君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが。君は十歲彥右衛門は十三歲なり。斯る折から殊にスばせ給ひ。朝夕したしみかたらひ給ふ。そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと。彥右衛門に教へ諭し給ひけるが。据方よからずとていからせ給ひ。椽より下に突き落し給ひければ。御側にありあふ者ども。忠吉が忠誠を盡すあまり。己が愛子までをまいらするに。いかでかく情なくはもてなさせたまひそと諫め奉りしを。忠吉は後にこのこと傳へききて。なみなみの君ならんには。御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに。いさゝかその懸念おはしまさで。御心の儘に愚息をいましめ給ふ。御資性の濶大なるいと尊とし。この儘に生立せ給はゞ。行末いかなる名將賢主にならせ給ひなん。それがし犬馬の齡すでに傾き餘命いくばくもなし。御行末を見つがん事かたし。彥右衛門汝は末永くつかへ奉り。萬につけてをろそかにな思ひそとて。かへりてが己子のもとへは嚴しく申送りしとぞ。人みな忠吉が忠貞にして私なきを感じけり。(鳥居家譜。)
按に。鳥居が家譜には。伊賀守忠吉駿府に附そひつかふまつりし樣にしるせしは誤にちかし。忠吉はこの頃岡崎に殘りて御領の事奉行してありしなり。
尾張におはしませし頃。織田の家士河野藤右衛門氏吉ことにいたはり奉り。常に百舌鳥山雀などさまざまの小鳥ども獻じ御心を慰めければ。御手づから葵に桐の紋ぼりたる目貫をたまひ。後々もその厚意を忘れ給はで。關原の後にめし出して御身近くめしつかはれぬ。またおなじ頃鷹狩に出給ふに。鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ。そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ。三河の悴にはあきはてたりといふをきこしめしけるが。年經て後高天神落城して孕石生擒に成て出ければ。彼わが尾張に在し時。我をあきはてたりと申たる者なればいとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよとて。遂に自殺せしめられしなり。(東武談叢。三河の物語。)
弘治二年正月十五日御年十五。駿河國にて御首服加へ給ふ。今川義元加冠し。關口刑部少輔親永理髮し奉る。其年尾州の織田信長三河の城々を侵掠するよし聞えければ。君義元にむかはせられ。それがし齡已に十五にみちぬれど。いまだ本國祖先の墳墓を拜せず。哀願くはしばしの暇賜はり故クにかへり。亡親の法養をもいとなみ。かつは家人等にも對面せまほしと仰ければ。義元も御孝志の深厚なるに感じ。仰の儘にゆるし聞えぬ。君大によろこばせ給ひ。いそぎ三河へ御返ありて。御祖先の御追善どもくさぐさ執行れ。御家人等もこぞりてスぶ事大方ならず。岡崎にわたらせ給ひても。本丸には今川より付置し山田新右衛門など城代としてありけるに。君岡崎はわが祖先以來の舊城といへども。それがしいまだ年少の事なれば。これ迄のことく本城には今川家より附置かれし山田新右衛門をその儘すゑ置れ。それがしは二丸に在て。よろづ新右衛門が意見をも受くべきなりと仰せ遣はされしかば。義元大に感じ。朝比奈などいふ家長にむかひ。この人若年に似合はぬ思慮の深き事よ。行末氏眞が爲には上なき方人なりとて喜びけるとなん。(岩淵夜話别集。)
弘治二年柳原兵部といへる者良馬を獻る。無双の駿蹄にして名を嵐鹿毛といふ。是を誓願寺の住僧泰翁もて室町將軍家へ進らせらる。光源院殿感ス斜ならず。手翰及び短刀を贈らる。是ぞ當家より柳營へ通信ありし權與なり。(武コ大成記。)
按に。其頃京都將軍駿馬をもとめ給ひ。織田家へも命ぜられけれども。とかくさるべき馬も奉られざるよしを聞召。元三河の國大林寺の住僧泰翁。今は京の誓願寺の住職して。常に室町殿へも懇にまいりつかうまつるよし聞召してやありけん。其泰翁をしてまいらせられしなり。其時將軍家よりくだされし手書は今も秘府につたへたり。(この泰翁縉紳家にもひろく交り。知音多かりしかば。此後彌公家堂上の人々へも媒介せし功をもて。後に三河國岡崎の城下に寺地を賜ひ。泰翁院誓願寺を建たるなり。世俗傳ふる所の三河記等に。この嵐鹿毛を進らせられし事を。今川義元が執せし事のごとく傳へしは。全く誤傳としるべし。)
今度早道馬事。內々所望由申候處。對松平藏人佐被申遣。馬一疋(嵐鹿毛。)則差上段。ス喜此事候。殊更無比類働驚目候。尾州織田上總介方へ雖所望候。于今無到來候處。如此儀别而神妙候。此由可被申越事肝要候。尙松阿可申也。
三月廿八日書判
誓願寺泰翁
駿河におはしけるころ。今川がはからひにて御家人阿部大藏定吉。石川右近某の二人に岡崎の留守させ。烏居伊賀守忠吉。松平次カ右衛門重吉二人は御領の事を奉行させ。賦稅はみな義元押領せし間。忠吉ひとり辛苦して年比米錢どもあまた貯へ。かねて軍儲に備置きしが。御歸城ありしをまちつけて忠吉よろこびにたえず。御手を引て藏ども開て御覽にそなへ申けるは。それがし多年今川の人々にかくしてかくものせしは。我君はやく御歸國ありて御出馬あらば。御家人をもはごくませ給ひ。軍用にも御事欠まじき爲にかくは備置きぬ。それがし八旬の殘喘もて朝夕神佛にねぎこしかひありて。今かく生前に再び尊顏を拜み奉ることは。生涯の大幸何ぞこれに過ぎむやと。老眼に泪をうけて申ければ。君にも年比の忠志。かつ資財までを用意せしを感じおぼしめし。さまざま懇に仰なぐさめ給ふ。この時忠吉錢を十貫づゝ束ねて竪に積み置きしを指して。かく積置ば何程かさねても損ることなし。世人のする如くにつめばわるゝものなりと聞え奉りしかば。後々までも此事思召し出され。錢をつむにはいつもその如くなされて。こは伊賀が教しなりと常々仰せられしとぞ。(鳥居家譜。)
岡崎に還らせ給ひし比にや。一日放鷹にならせ給ひけるに。折しも早苗とる頃なるが。御家人近藤何がし農民の內に交り早苗を挿て在しが。君の出ませしを見て。わざと田土もて面を汚し知られ奉らぬ樣したれど。とくに御見とめありて。かれは近藤にてはなきか。こゝへよべと仰あれば。近藤もやむことを得ず面を洗ひ。田畔に掛置し腰刀をさし。身には澁帷子の破れしに繩を手繈にかけ。おぢおぢはひ出し樣目も當られぬ樣なり。そのときわれ所領ともしければ。汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず。汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば。かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に從ふ習なれば。今の內は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて。世を渡るこそ肝要なれ。憂患に生れて安樂に死すといふ古語もあれば。末長くこの心持うしなふな。いさゝか耻るに及ばずと仰有て御泪ぐませ給へば。近藤はいふもさらなり。供奉の者どもいづれも袖をうるほし。盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。(岩淵夜話别集。)
永祿二年今川義元大兵を起し。尾張の織田信長を攻亡し。上方に打つて上らんとて。國境所々にまづ新砦を搆へ。大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ。織田方にはこれを支むため大高に對城をかまへ。丹家の城は水野帶刀。山口海老丞。柘植玄蕃。善照寺の城は佐久間左京。中島の城は梶川平左衛門。鷲津の城は飯尾近江守。同隱岐守。丸根の城は佐久間大學をこめ置防禦の備をなし。其外寺部擧母廣Pの三城をも取立。大高の通路を遮りければ。城中糧食乏しくしてほとんど艱困に及ぶ。義元いかにもして城中に糧を送らむとおもひ。家のおとなどをも集め評議したれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなかりしに。君纔に十八歲にましましけるが。かひがひしくも此事うけ引せ給ひ。其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立せ給ひ。松平左馬介親俊。酒井與四カ正親。石川與七カ數正先鋒奉はり。大高。丸根。鷲津等の諸城を打こえ。はるか隔りし寺部の城に攻かゝらしめ。御みづからは精兵八百ばかりに輜重千二百駄を用意して。大高のこなた二十餘町ばかりにひかへ給ふ。先手寺部に押よせ木戶を破り火を放ち。そが光に乘じてさつと引上。また梅坪にをしよせおなじさまにせめ戰ひ。二三の丸まで押入銃聲おびたゞしく聞えければ。丸根鷲津の城兵等大高をばすて置。みな寺部梅坪の援兵に打て出。諸城ともに人少きよし細作かへりきて聞えあげしかば。時こそ至れと急に兵を進めて。難なく粮を城中に送らせ給ひけり。君にはおもふ樣に仕すまして御人數をあつめて引上給ふ。鷲津丸根の城兵かへりきてたばかられしを悔れどもかひなし。はじめ岡崎をうち立せられし時。酒井石川等の老臣等あながちに御出馬を止めけるが。さらに聞入たまはず。御歸城ありし後。老臣等いかにしてこの奇功を奏せられしと伺ひけるに咲はせ給ひ。たゞ大高に兵糧を入むとのみ思へば。丸根鷲津その外の城兵ども。みな大高にはせあつまりてさまたげむとすべし。ゆへに兩城に押よせ敵兵をたばかり出し。そが虛に乘じて粮を入れしなり。近きを捨て遠を攻るは兵法の常にして。あながち奇とするにたらずと仰られしかば。いづれもみな感嘆し。今の御弱齡にてかく軍略に通ぜられしは。天晴末ョしき御事かなとかしこまざる者なし。これ今の世までも大高兵粮入といひて。第一の御若年の御美譽にもてはやし奉る事にぞ。(武邊咄聞書。)
大高の城に兵粮を入給ひし後。今川義元より。西三河は御舊領なれば御心のまゝに切取給へとあつて。寺部。梅坪。廣P。擧母。伊保等の御手勢もて攻取給ひ。勳功ある者共に分ち給ふ。御家の人々もはじめて。御武略のすぐれ。あやしうおゝしくおはしますこと。御祖父の君(C康君。)。に似させ給ひしとて一同感スし奉り。今川義元も大高の奇功を稱して。龍馬の種が龍馬を生むとは。この君の御事ならんとてめで奉りてとぞ。(武コ大成記)
今川義元今度尾州表發向するに及び。君をば鵜殿にかへて大高城を守らせしに。義元はからずも桶峽間に於て織田信長が爲に討れし時。君にはその沙汰聞し召つれど虛實いまださたかならず。かゝる所に御母方の御おぢなりし水野下野守信元より。淺井六之助道忠してそのよし告奉りしは。義元旣に討れぬ。今川が持の城々皆明退たり。君にもはやく其城を捨て御本國へかへらせ給へと申す。御家人等も同じ樣に勸め奉る。君聞しめし。野州外家の親ありといへども。當時織田方に屬する上はその言信じ難し。もしそのいふ所の實ならざらんには。故なくして當城を明退き人に後指さゝれんは。武門の耻辱是にすぎず。道忠をば捕へ置て味方の一信を待べしと仰ありて。今までは二丸におはせしを俄に本丸に移らせ給ひ。ひとへに守禦の備をなし給ふ。しばしゝて岡崎の城守りたる鳥居忠吉が方より。事の樣詳に聞えあげ。且今川より岡崎の城守らせし者共も引退よしなれば。さらば此城引はらへと仰在て。道忠を饗導となされ。宵の間は道たどだどし。月待出て引取と命ぜらる。諸人は一刻もはやく引んと思ふに。いと悠然として忩忙の樣見え給はず。時刻にもなれば道忠に松火を持しめ御先に進ましむ。古兵のいひしごとく。夜中に敵國ををしゆくにはその習あり。騎馬を十町ばかり先に立て。歩行立には松火を持しめずと仰ありて。艱阻の所每に道忠松火を振べしと定められ。上下卅人ばかりの士卒を隨へ。切所に一人づつ殘して後れ來る者にしらしめ。路々一揆共を追はらひつゝ池鯉鮒に出まして。遂に恙なく岡崎の城に還らせ給ひしなり。今川の人々この事承り傳へて。己が身に引くらべて恥かしき事に思ひ。織田信長も。信義あつく末たのもしき大將なりと稱し奉りけり。この歲御年十九にならせ給ひしとぞ。(東遷基業。落穗集。岩淵夜話别集。)
岡崎に還らせ給ひ。さきに今川より番衛せしめし者共駿河にかへらしむるに臨み。彼等を御前近くめされ。汝等かへり氏眞に申べきは。こたびの凶變おなじく驚き思召所なり。さりながら信長いま大利を得て。將驕り卒怠るのときなれば。其不意を伐ば味方勝利うたがひなし。一日もはやく兵を進められんには。それがしも手勢引連さび矢の一筋も射て。故吏部の舊恩に報ぜんとおもふ。よくよくこの旨氏眞はじめ諸老臣に申通よと仰けり。しかるに氏眞もとより天資闇弱にして。父が仇むくひん志もなく。たゞ平常のことく佛事作善にのみ日を暮。又三浦右衛門抔いふ姦臣を寵任し。普第の老臣を踈遠にしければ。上下離畔して國政も日にそひて頽敗す。其後も出軍の事度々仰勸られしかども。氏眞酒宴亂舞にのみ耽りて何の心付もなし。このほど信長よりは。しばしば水野信元をもて講和を請ばしかば。氏眞父の吊合戰は孝子の至情より起れば。急遽に出て其機を失はぬを肝要とすべきを。かく日月經てもその沙汰に及ばざれば。わが義元への志も是までなりとて。これより織田家と講和の議は起りしなり。(東武談叢。落穗集。)
水野信元が織田家に申すゝむるにより。尾張より瀧川左近將監一益もて。石川與七カ數正が許に和議の事いひ送りしかば。老臣等めして此事いかゞせむと議せらる。酒井忠次云く。當家只今の微勢もて織田今川兩家の間に自立せむ事かたし。氏眞元より闇弱にして酒色に耽り。父の仇むくひん志もなければ。其滅亡遠からじ。信長は當時並なき英傑にして威名次第に遠近に及ぶ。信長と事を共にし給はゞ。行末當家の御爲是に過たる事は候まじ。かなたより和議を乞こそ幸なれ。速に御承引あれと云。その時また御家人どもいづれも申けるは。當家もとより今川の一族被官といふにもあらず。たゞ世々の舊好により年頃その助援を受るに似たりといへども。君いまだ御幼年にて駿府におはせし程。御領國の賦稅はみな義元が方に收め。戰あるに及んではいつも御家人をもて先鋒とし。そが死亡をもかへり見ず。いと刻薄なる處置は尤怨ありて恩なしと申べしと申者多かりしに。君も戰に臨むで一命を隕すは。元より士たるものゝ常なれば何ぞかなしむに足む。たゞわが身かの國に人質とせられてのち。普第の者をしてあへなくかれが爲に討死せしめしこといくばくぞや。これぞわが終身の遺憾なれと仰られて。御泪をうかべられしかは。諸人もみな士を愛する御志の至りふかきを感じて。いづれも袖をうるほしけり。かくて御盟約定りければ。尾州C洲におはして信長に面會し給ひ。今より後互に力を戮せ心を同うして。天下を一統せむよし誓文に載られ。誓書をば讀終りし上にて灰に燒て神水となし。兩家歃飮し給ひ永く隣好を結ばせ給ひしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。)
尾州へおはしましける時。信長も御道すがらの橋梁修理加へ。さまざま御まうけせらる。C洲の城へ渡御あれば。御行裝を拜まんとてかの國の者等城門の邊に立つどひていとかしがまし。此時本多平八カ忠勝は年わづか十四にて供奉せり。御馬前に御長刀もちて供奉しながら。三河の家康が兩國の好を結れんが爲に來られしに。汝等何とてなめげなる擧動するぞと大聲にて罵りければ。皆その猛勢に恐れて忽に靜謐せりとぞ。かくて信長は二丸までいで迎へ先立して本丸へ入れ奉る時。植村新六カ家政御刀かゝげて御後に從ひしを。信長の家人咎めて。何者なればこゝまで闌入せしといふ。家政我はコ川が內に植村新六といふ者なり。主の刀を持てまかるをば何故に咎らるゝぞといへば。信長きかれ。新六參たるか。これはかくれなき勇士なり。汝等妄りに不禮なせそとて。やがて盟約の議畢りてのちさまざま饗し奉り。新六をもその座へ呼出し。今日はじめて汝が勇氣をみしに。むかしの鴻門の會の樊噌にもこえたりとていたく賞美せらる。この新六が父新六某はC康君を害し奉りし阿部彌七をうちとり。そののち岩松八彌が岡崎殿に鎗付しを即座に打とめ。一身二度の忠節を顯しけるが。今の家政も幼年より數度の戰功をはげみ忠勤怠りなければ。後年その世々の勳功を賞せられ。御家號をも賜はるべきなれども。植村が氏稱は他國にも聞え當家の眉目にもなれば御家號は賜はらず。たゞ御名の一字を賜りて家政とめされ。御軍扇幷に一文字の御刀賜ひ。直參の徒三十騎を付させられしとぞ。(武コ大成記。貞享書上。)
今川氏眞織田家と講和ありしよし傳へ聞て大にいかり。使を岡崎へ參らせ。今度舊約を變ぜられ尾張と和睦せらるゝ由なれば。駿府に留置れし北方。及び御息をも害しまいらせし上にて。御領國へ出馬してその事糺明せんといひ送りければ。その使を御前にめし出されて仰有しは。我年比故吏部の厚恩を受し事大方ならず。今何ぞこれを忘却せんや。されども尾張は隣國にして且强敵なれば。當分講和の躰にもてなさでは軍謀とゝのひ難きゆへ。まげてその意に從ひしのみ。實の和議にあらず。いつにても氏眞父の仇をむくひんため尾張へ出張あらんには。兼ても度々申せし如く先陣うけたまはり。錆矢一筋射懸申べきは相違あるまじと仰られしかば。氏眞も心とけてしばしが程出軍の儀にも及ばざりしとなり。(武コ大成記。落穗集。)
此卷は。御幼穉の御時より織田家と御講和ありしまでの事をしるす。 
卷二  

 

一向亂のとき正月三日小豆坂の戰に。大見藤六は前夜まで御前に伺公し。明日の御軍議をきゝすまして賊徒に馳加はりしかば。君近臣にむかひて。明日はゆゝしき大事なれ。藤六さだめてこなたの計略を賊徒にもらしつらん。汝等よくよく戰を勵むべし。我もし討死せば藤六が首切て我に手向よ。これぞ二世までの忠功なれと仰けり。かくて明日藤六と石川新七兩人眞先かけて攻きたり。新七は水野惣兵衙忠重が爲に突伏らる。藤六には水野太カ作正重打むかひ。汝のがすまじとて打むとす。藤六弓引て。せがれめよらば一矢に射とめむとまち搆へたるをもかへりみず。正重鑓提て間近く進むに。流矢來て藤六が腕にたてば。弓矢を捨太刀拔んとする所へ正重鑓付しが。札堅くして徹らす。藤六拔はなちて正重が胄を切けるにこれも切得ず。よて太カ作も鑓すて刀にて切り合ひ。終に藤六を切倒しければ。倒れながらせがれ無念なりとて念佛唱るところを。其首打落す。かくて二人討れければ賊徒みな敗走す。正重藤六が首を御前へもち參りしかば。藤六をば汝が討たるか。汝が一代の忠功なれと御稱譽あり。又針崎を責られし時。御手鑓もて渡邊半之丞を突たまひしに薄手にて逃行所を。石川十カ右衛門渡邊が前に立て君にむかひて突かゝる。其時內藤四カ左衛門正成はまだ甚一カと云ひし比なるが。御側より弓引て二人を射る。二人とも射殺されければ賊徒直に敗走す。正成は渡邊には甥なれども。大義親を顧みず射倒せしとて御感斜ならず。其比織田殿諸家にてすぐれし武勇の者の名を記し。自ら點かけて置れしに。この正成も若年ながら點かゝりし者なりとぞ。(貞享書上。)
正月十一日上和田の戰に賊徒多勢にて攻來り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから單騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に與すといへども。正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陷るとも何かいとはんとて。鋒を倒にして賊徒の陣に向て戰死す。この日御胄の內に銃丸二とゞまりけるが。御鎧かたければ裡かゝず。戰はててのち石川家成に命ぜられ。重治が屍を求め出して御手をかけられいたく嘆惜し給ひ。上和田に葬らしめ厚く追善をいとなまれしとなん。又この日柴田七九カ重政己が名を矢に彫て射たりしが。その矢に中り死するもの數十人。賊徒その精兵に感じ。重政が放ちし矢六十三すぢをとりあつめて御陣に送りしかば君御覽じて。御賞譽のあまり御諱の字賜ひ康政とめされ。六十三の文字を旗の紋とし。名をも矢の數にならひ七九カとめされしなり。(東遷基業。岡崎記。貞享書上。)
正月二日より十一日まで日每に數度の戰あり。御自も太刀擊し給ふこと度々なり。後年伏見にて加藤主計頭C正が謁見せし折。よも山の物語ありて。佐々成政が豐臣太閤の爲に肥後國收公せられ。C正小西兩人に分ち賜はりし時。國中一揆起りしを。C正が武功にて速に打平げし事を仰出され。一揆の魁首木山彈正を討取しを。C正いつも名譽におもひほこりかにいひ出ることなれど。われもむかし領內に一揆おこりて日ごとに苦戰度々なりきとて。新野何がしといふ者をめし出し。彼等も弓もて我に近づき旣に射むとせしとき。われににらまれ弓を捨て遁たるを。汝は今に覺えたるかと仰られしかば。C正これをうけたまはりて。己が武功はいふにも足らぬ事とおもひ。且感じ且耻て御前を退きけるとぞ。(續明良洪範。)
門徒等歸降の折約定ありしは。昔よりの門徒は御ゆるしあり。その身一代門徒に歸依せしは罪に處せられんとなり。しかるにあまたの人の內に。昔よりの門徒も咎め仰付られんとありしに。これは昔よりの門徒なりと申上しかば。むかしとは伊弉諾伊弉冊の尊のことと思召されぬ。親鸞は近き世のことなりとて科に處せられしもあり。又戶田三カ右衛門忠次は佐崎の本證寺にありと聞しめし。たはけめ。彼は元來淨土門にて一向門徒にもあらざるを。呼と有て召出されしに。忠次人に語りしは。殿の召るゝゆへ出ぬ。全く臆して狹間をくゞりしにあらずとて。さて三日の內にこの砦をせめ落さむと申す。いかなる計略か有とはせたまへば。道塲の下水の樋の口廣し。これより人をいれて燒立るほどならば即座に落んといふ。よて大久保七カ右衛門忠世に命ぜられ。忠次をク導としかの砦を攻しめ。遂に是を陷る。この時忠次奮戰して鐵砲に中りて疵蒙りしかば。御感あつて國光の御脇差をたまひけるとぞ。(古人物語。武コ編年集成。)
一亂おさまりて歸降の者とりどり見え奉りける內に。小栗又一忠政御前に出ければ。君忠政が胸元を捕へ給ひ。汝此後宗門を改むべきや。さなからんには只今一刀にさし殺さんとて御指添をぬかせ給へば。忠政いさゝか驚遽の樣なく。御手討にならんとても改宗はなり難しと申せば。汝が樣なる者は殺さんも無益なりとて突放し給ふ。忠政かさねて。只今こそ法華に改め候はんといふ。君聞しめし。手刄に逢ても改宗はならぬといふ詞の下より。又法華にならんとは何事ぞと咎め給へば。忠政士たる者が御手討になるがおそろしとて改宗すべき哉。たゞ一命を御助あるといふ上命のかしこさを謝し奉らん爲に。法華にならんとは申けるといへば。君もおぼえず御咲ありけるとなり。又天野三カ兵衛康景もおなじ門徒なりしが。此度淨土に改宗して戰功を盡し。馬塲小平太といへる大剛の賊徒を討取しかば。御感有て阿彌陀の木像をたまはるといへり。(續明良洪範。天野譜。)
按に一說には。此事石川又四カが事とせり。又四カ一向亂の後信長に隨ひ。其後またたちかへり御鷹狩の御道筋にて見え奉りしに。又四カが胸取て引よせ御膝の下に組しかれ。汝淨土に改宗はすまじき哉と宣へは。いかにも成がたしと申す。よて衝放給ひて汝は普第の者にてはなきかと仰らる。又四カやがて起揚り容を改め。仰のごとく淨土に改むべし。さきのことく御膝下に組しかれては。いかに主君にても御受は申上難しとあれば。咲はせられしとなり。(池田正印覺書。)
永祿六年三月今川方の設樂郡一宮の城を攻取られ。本多百助信俊に五百ばかりの勢をそへて守らしむ。七年に至り今川氏眞大軍を率ひ。武田信虎に八千を分ちて援路を遮らしめ。一万二千の兵をもて一宮を十重廿重に責圍めば。防戰ほとんど艱危に及ぶよし聞しめし。援兵を出し給はんとす。この時御勢はわづか二千にすぎず。老臣等いさめて云く。氏眞暗弱なりといへども義元以來舊功の者猶おほし。其上虎狼と呼るゝ信虎に遊軍を分て援路を支ゆればゆゝしき大事なり。よくよく御思案あれといふ。君聞しめして。おほよそ侍たる者は信義の二を忘るべからず。敵城を攻取しのみにてそのまゝ明置は。ともかうもあれ。旣に家臣に命じて守らしむる上からは。その急あるに臨み救ふべきは元より期したることなり。さるを敵が多勢なり。計略が勝れしなどいふを恐れて。家臣の戰死するをよそに見て救はざるべきや。主の大事は被官がすくひ。被官が危急は主の助る常の事なり。もしこたびの軍難義に及び討死せば。これ何がし運命の盡る所なれ。いまはたゞ敵の多少にも計略の善否にもかゝはらず。ひらに進めよと打立せ給へば。諸卒も皆盛意のかしこきに感じ奉り。勇み進んで今川の大軍を何ともおもはず。信虎の備を傍に見なし。たゞちに一宮の城際に押付給へば。百助もよろこびに堪ず城門を開て迎へ入奉る。この時今川勢は御備の嚴整なるにおそれたゞ茫然としてありけるが。やがてこゝろ付。信虎が勢をまとめ一同に責かゝらんとひしめく處に。君にははや御入城ありて御湯漬めし上られ。此所に一宿し給ひ人馬の勞を休められ。翌朝本多をめしぐし給ひ城を出ませば。敵は案に相違し。あれあれといふ內に。御備は眞丸に成て引退く。百助が手勢五百たゞちに信虎が備を突き崩すこと度々なり。とかうして酒井左衛門尉忠次。石川伯耆守數正。牧野右馬允康成御迎に參り。段々に備をたて敵の襲路を斷ければ。今川勢迫うつ事叶はず。御勢は一人も毁傷なく御歸陣あり。これ一宮の後詰とて後々まで御武功の一端にもてはやし奉る事なり。右馬允康成己が領邑牛窪にかへり。一族をあつめて君の御武略は兼て承及びし事ながら。此度の御手段を見てはじめて其實なる事をしれり。かゝる大將の太刀かげをョみ奉りてぞ。行々功をもたて名をもほどこせ。これぞ一家繁榮の基なれといひしとか。はるか年經てのち御上洛の時山岡道阿彌この事いひ出で。その頃より武道に志ある者は。みな御名譽のよし傳稱せしと申上しかは。そはわが若年のほどのことにて若氣の至なりと仰有て。微笑したまひしとなり。(岩淵夜話别集。)
永祿七年五月野田牛窪の城攻られしに。峰屋半之丞貞次鐵砲に中りその疵愈ずして死す。その妻男子なければ女子をともなひク里に引籠りてあり。後にその邊に鷹狩せさせたまひし折。御鷹それてかの宅地にいる。御供の人々走り入て鷹を据上しに。かの寡婦これをとがめ。人々は何とて寡婦の家に案內もなくて闌入せらるゝぞと高聲にのゝしる。君は何者の後家なるかと御尋あれは。貞次が妻なりと申す。貞次に男子はなきやと御尋により。六歲になる女子たゞ一人ありと申上れば。いと哀とおぼしけるにやその女に貞次が舊領をたまひ。鳥居源一カをもて婿とし貞次が家繼しめられしとぞ。(家譜。)
同年十一月武田信玄御英名をしたひ。家人下條彈正して酒井左衛門尉忠次に書簡を贈り。この後は兩家慇懃を通ずべきよしをのぶ。其書の表に啐啄の二字をしるせり。人々いかなる故を詳にせず。其頃伊勢の僧江南和尙といへるがたまたま岡崎を過て東國に赴かむとするにより。石川日向守家成この字義をとひしかば。鳥の卵殼を破るにその時節あり。早ければ水になり遲ければ腐るといふ意なりと答へけるよし御聽に達し。すべて萬事に時を失はざるをもて肝要とす。主將たらん者は殊更此意を失ふまじと宣ひしなり。後に又柴山小兵衛正員をめし。鷹をかふにもよく夜据をなし。時節を伺ふて鳥を捉事は。昔聞し啐啄の意なりと仰られしとぞ。(武コ編年集成。)
今川氏眞當家を攻むとて信玄へしかじかせんといひ送りければ。信玄もその計略の調はざるを知て。心中にはおかしと思ひながら暫同意の體にもてなし。心安くおもはれよなどよき程に答て。さて當家へは下條彈正を進らせそのよしつばらに告奉り。いさゝか御心なやまさるゝまでもなし。もし氏眞出馬せばかへりてともにうち亡しなんと申上げしかは。君宣ひしは信玄は酸刻の人かな。されどかくせずばはかゆくまじと仰られぬ。また氏眞が駿河を出亡せし後に信玄と御和議有て。誓紙の文に川をかぎりて兩國の分界とせむとかき定られしは。大井川の事にてありけり。しかるを入道が心中には。當家いまだ御若年におはしませば。今川義元が扱ひ奉りし折のことくせむと思ひあなづり。三河の里民の人質などをとりしゆへ。こなたより咎め給へば。誓紙に川切としるせしは天龍川切なりといふ。こゝにて大にいからせ給ひ。天龍川はわが城溝のこときものなり。何ゆへに天龍切といふべきや。かゝる權譎のやからは行末たのまれずと仰有て遂に隣交を絕れしなり。(武邊咄聞書。古人物語。)
永祿十一年三月遠州の城々攻取給はんとて。尾藤彥四カ等が籠りし堀川の城を責らる。先陣は松平勘四カ信一。榊原小平太康政なり。康政己が配下の士にむかひ。われ若年なるをかゝる寵任を蒙り一隊の主將となり。その上御諱の字をさへ賜はりし御恩の深高なること山海にも比し難し。明日の戰にはかならず一番乘して盛意にむくひんとて。其日のつとめてより紺地に無の字の指物さし。笹切といふ鎌鎗を提げ一番に城にせめ入り。散々戰て深手二ケ所負しを。家人等肩に負ひなを進みて城に附いり。遂にその城を乘取れり。班軍の後やがて康政が營にならせたまひ疵を御覽あり。深手にてとても生べしとも思しめさねば。なからむ後の事つゞまず申置と仰ければ。康政もかしこみて。此度その配下の伊奈中島の兩人忠戰衆にすぐれしかば。兩人に御恩賞あるべき之。此外には思置こと侍らずと申せば。即ち二人を御前へめし御感狀を授らる。その後康政が疵思ひの外に平愈して見え奉りしに。御けしき斜ならずさまざま慰勞の御詞を加へられしとぞ。(武コ編年集成。家譜。)
永祿十二年これより先松平の御稱號を止められ。コ川の舊氏を用ひ給ひしかども。舊冬此よしはじめて京都將軍家(義昭。)
へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ。去冬十二月九日勅許ありて。この正月三日將軍家より口宣案にそへて御內書御太刀を贈らる。(武コ編年集成。)
改年之吉兆珍重々々。更不有休期候抑
コ川之儀遂執奏候處。
勅許候。然者口宣案幷女房奉書申調
指下之申候。尤目出度候。仍太刀一腰進上候。
誠表祝儀計候。萬々可申通候也。
正月三日義昭
コ川三河守殿
今川氏眞が籠りし遠州掛川の城を攻られし時。城將日根野備中が甥同彌吉手痛く戰ひしに。御旗下の水野太カ作正重渡り合ひて。彌吉が首取て立上らんとせし所に。敵又弓をもて正重が腰を射ければ。深手ながら引取けるを聞し召。丸山C林といへる外科醫をめして。正重の疵太切なればいかにもして平愈せん樣に療養せよと仰あり。C林もかしこきことに思ひ。殊更心用ひて治療せしゆへ。日頃へて恙なく平快せしなり。又後年甲斐若御子にて北條と御對陣の折。久世三四カ廣宣北條が內野中六右衞門といふ者を打取し時。面に疵蒙りしかば。御手づから藥を付させ給ひ。是もC林に療治仰付られ。三四カが鼻の落ぬやうにと命ぜられしとぞ。これらみな士を愛し給ふ御心の一端を伺ひしるべきなり。(續武家閑談。柏崎物語。)
織田信長越前金が崎手筒山の兩城を攻落し。旣に朝倉が居城へ押寄むとせし所に。江洲の淺井父子心變りして朝倉と牒し合せ。信長を前後より挾み伐むとするよし注進あり。信長大に狼狽せられ。木下藤吉カ秀吉をとゞめ後殿とし。速に旌を返さんとせられしが。此の時急遽にして君にそのよし告奉るにも及ばず。いそぎ軍伍も定めず引上からうじて朽木谷へかかり危急をまぬかれけり。君には御微勢なれどもよく隊伍をとゝのへ。秀吉が苦戰する時每度これを援て敵を追ちらし。いさゝか道路の妨なく若狹路にかゝりて御歸陣ありしなり。御歸京の上信長に御面會ありしとき。秀吉もかへり。來て。此度はコ川殿の御援助によて十死をまぬがれ。一生を得たりと披露しければ。信長も君に向ひいたく禮謝せられしとなり。後年長久手の役終り御上京ありし時。秀吉君御在洛の間厨料進らせんとて。先年金崎退口の時をのれコ川殿に助られ。江州守山にて川田といふ地士を呼出されク導とせられしゆへ。われ恙なく歸京する事を得しは。全くコ川殿の御智略による所なりとて。守山にて三萬石の地を進らせしとぞ。(落穗集。武コ大成記。御和談記。)
姉川の役に織田家の援兵として三千の勢を引ゐて馳せ上らせ給ひ信長に御對面あり。信長申さるゝは。軍期近きによて諸手の備は皆定め訖ぬ。君にはたゞ戰のよはからん方を援給へとなり。君はるばる援兵として打上りしかひもなく。打込の軍せんは永き弓矢の瑕瑾なり。さらんには速に本國に引き返さむにしくべからずと宣へば。信長さらば淺井はわが當の敵なれば。朝倉が方にむかはせ給はんや。朝倉大勢なればたれにてもわが旗下のものを加へ參すべしといふ。公それがし小國にて小勢をつかひなれて侍れば。大勢を指揮せん事思ひもよらず。又心もしらざらむ人と打語らはんもむづかし。朝倉何萬騎なりともそれがしが手勢ばかりにて打破り見參に入べけれと仰ければ。信長さりながら北國の大勢を御勢にのみに任せたらんには。信長又天下嘲のをまぬかるべからず。物の用には立侍らずとも。一二人にても召具せらるべしといへば。さらば稻葉伊豫守良通をかし給はるべきやと宣ふ。稻葉は小身にて勢も持候はぬ者なれども。御望にまかせ參らすべしと有て。伊豫守千にも過ぬ人數を引ゐて御勢に馳加はる。かくて明日に成ぬれば。御勢姉川を打こして朝倉が一萬五千の大軍にかけ合せしばし戰ひ給ひしが。遂に敵勢を切崩し給へは。かの伊豫守も後陣に控へしのみにて手を下すにも及ばず。織田家の備ははじめ江州勢の爲に切靡けられ。旣に負色に成りしを。御勢の朝倉に切勝し餘勇をふるひ。又淺井が陣に合より切て懸らせ給へば。織田勢もこれに力を得て備を立直し。遂に勝利を得たり。戰畢りて後信長いたく御武略を賞し。備前長光の刀を進らせけり。この役に織田家の寸兵をかり給ひて北國の大軍を切り崩し。又淺井をも追なびけ給ひしは類なき御事なりとて。日本國中に感ぜぬものはなかりしとぞ。(藩翰譜。落穗集。常山紀談。)
按に一說に。前日の軍議にては君は淺井。信長は朝倉にむかふべしと定められしを。その日の曉に至り信長より俄に毛利新介秀詮を使として。よべの軍議はかく定めつれど。淺井はわが當の敵なれば信長むかひ侍るべし。君には朝倉に向はせ給へと申送られしとき。酒井忠次わが軍列すでに定まりしを。今更かへんとせば列伍亂るべし。此事はいなみ給ひて然るべしといふ。君淺井は小勢朝倉は大軍なり。大軍の方へむかふといふは勇士の本意なれ。とかう織田殿の命にこそまかすべけれと。急に御陣を立直して朝倉が方に向はせられしとぞ。
稻葉伊豫守良通ははじめより後陣にひかへ居て本意なく思ふ處に。織田家の先陣淺井が爲に切靡けられし樣を御覽じ良通にむかひ給ひ。我が兵すでに敵を切崩しつれば。御邊こゝにありても詮なし。いま織田殿の戰危く見ゆれば援けむとおもふなり。こゝは御邊が先陣すべき所なりと宣へば。伊豫守も承り直に筋違に川をうち渡し。淺井が陣へ打てかゝる。君又御先手の面々へ命ぜられしは。汝等今朝よりの戰にあまたゝび奮鬪しさぞ疲れたらん。その儘に折敷て休息すべし。こたびは旗本の備もて切勝んと仰有て。稻葉に續き敵陣へ打かゝり給ひ。遂に難なく淺井を追崩し給ひしなり。(落穗集。)
この軍議の時君軍はの手にて勝利のあるものなりと宣ひしを。池田庄三カ信輝もその席にありしが。何ゆへに敵を二の手まで越させ申すべきやとほこらしげにいふを。君聞し召し。さはあり度ものなれと。さらぬ樣にて御座を立せられしが。戰に及んで信輝淺井が先鋒の爲に散々切崩され。酒井忠次が備へ崩れかゝれば。忠次おことは昨日の廣言にも似ぬ樣かなといひながら。長刀の鐏もて信輝が馬の三途を打しかば。馬おどろきて落馬しぬ。其頃の人々。庄三カは忠次が爲に落打されしなど。誤り傳へしことも有しとか。(落穗集。)
この戰に先陣うけたまはりし酒井左衛門尉忠次。小笠原與八カ長忠。菅沼新八カ定盈等川を打渡せしに。向の岸高くして上りかねしを見て。二の手に備へし榊原小平太康政ゑい聲上て。先陣をうちこして先に進まんとす。酒井が兵後れてはかなはじと思ひ。競ひかゝりて遂に前岸に上り得て勝ことを得たり。君後に榊原が二陣の仕方後來の摸範とすべし。二の手はかくあらまほしと仰られけり。又戰のはじめ朝倉の先鋒かち誇りしには目をかけ給はず。長澤藤藏某を斥候に遣はされ。直に敵の二三の陣の間やゝすきたる所に。合より打てかゝらせ給へば。敵勢裡崩して。惣敗軍となりしなり。信長より授け奉りし感狀の文に。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世誰爭雄。十樊噲百張良といへども。日を同うして語るべからずなど。御雄略のほどを賞嘆して進らせしとぞ。(常山紀談。碎玉話。)
小栗又一忠政はじめは庄次カといひしが。此戰の時年わづか十六歲なり。敵兵一人御側近く伺ひよるを見て。御物の信國の鎗取てわたりあふ內に。御勢どもあつまり來て遂に敵をうち取ぬ。君庄次カが年若けれど心きゝたるを賞せられ。今日の功一番鎗にも越たりとてその鎗をたまはりけり。その後も度々の御陣に一番鎗を入しかば。又一かと仰有て名を又一と改めしとぞ。又大塚甚三カ某は敵と鎗を合せしに己が鎗折れければ。敵の鎗取てその敵突伏を御覽じ。又ない働を仕たるぞ。又內又內と仰ありて。これもこれより又內と改稱す。大久保荒之助忠直も敵の鎗取て奮戰せしかば。荒が事を仕たると仰られて。金の御團扇を賜ひしより荒之助と改稱す。榊原隼之助忠政は敵の首取て御覽に備へしに。折しも御馬副の人なければ忠政に侍ふべしと有て。御手綱の七寸に取付て居たり。忠政只今御方の常に御惠蒙る者どもの。敗走する樣の見ぐるしさよ。かゝる時は誰か奮戰して御恩に報ひ奉らんかと述懷しつれば。尤と聞しめし。後に遠州M名にて七十貫の地をたまはりしとなり。(諸家譜。柏崎物語。續武家閑談。)
元龜二年四月武田信玄御領國に攻來るよしきこえ。M松より吉田城に御座あり。信玄の先鋒山縣三カ兵衛昌景多勢引つれ攻來る。君三の曲輪の櫓に扇の御馬幟立て。敵陣の樣つくづく御覽あり。酒井左衛門尉忠次が打て出でむといふを制し給ひ。敵陣の樣を見るに城を責むとにあらず。我をおびき出し彼の松原にて伏兵もて討むとするならん。よく見よ今にかなたより武功の者を出して戰を挑むべし。こなたよりも一騎當千の者を出して。鑓ばかり合せしめよと宣ひしが。果して敵方より廣Pク右衛門。三枝傳右衛門。孕石源右衛門など土橋まで進み來りしかば。城中よりも酒井左衛門尉忠次。戶田左門一西。津土左衛門時隆等打ていで。互に詞をかはして渡り合しが。やがで彼方より引取しなり。此時御推察のことく山縣が備の後には。馬塲美濃守。內藤修理亮。小幡。眞田等あまた備をかくし。御みづから打て出給はゞ。信玄は御油の宿の方より吉田の西口にかゝり。吉田を攻拔べき手術なりけるとなり。山縣勢の跡には足輕の樣に見せて人數を少しづゝ殘し置しは。甲州言葉にてかゝりかんといふものにて。敵を誘よせ諸所にかんを起して喰留ん手術なりと忠次に仰付られしが。後年廣Pク右衛門御前へ出しとき。此事かたり出給ひしかば。ク右衛門その時甲州の計略全く御明察に少しも違はざりしとて驚感し奉りけるとぞ。(御名譽聞書。)
同年夏秋の頃武田の大兵三遠の邊境を侵掠するにより。信長使をM松に進らせ。早くM松を去て岡崎へ退かせたまへといふ。君時宜にしたがはんと御答有て。後に侍臣に仰られしは。此M松を引ほどならぱ我弓矢を踏折て。武夫の道をやめんものをとて笑はせられしとぞ。其後老臣等。こたびは大事の戰なれば尾張へ御加勢を乞れんといふ。君我いかに微運に成たりとも。人の力をかりて軍せんは本意にあらずとて聞せ給はず。老臣かさねて。信長よりは度々援助をこはるゝに。こなたよりは是まで一度もこはせられず。隣國相助べきはもとよりの事なれば。こたび仰遣はされしとてわが國の恥辱といふにもあらずと强ちに勸め奉り。味方が原の役に至りやうやく尾張より援兵を進らせしなり。(柏崎物語。)
見付の退口に大久保勘七忠正は一言坂にて鐵砲を打損じけるゆへ。わづかの間にてなどかく打損ぜしと尋給へば。勘七平常の通に打ぬと申上ければ。上意にそは見付より走り來り。氣息のあしさに打損ぜしなり。かゝる時は加樣にうつものなりとつばらに御教諭ありしかば。いづれも感歎せしなり。又この日本多平八カ忠勝度々奮戰して敵を追拂ひ。君にも難なくM松へ御歸城あり。御途中より成P吉右衛門正一もて忠勝が許へ仰下されしは。今日の働日頃の平八にあらず。たゞ八幡大菩薩の出現ありて。味方を加護し給ひしと思召すよし御感賞ありしとぞ。甲州人がからのかしらに本多平八といふ狂句をかきて。見付の臺へ立しもこの時の事なり。(柏崎物語。)
按に伊賀路御危難の時にも。忠勝が事を八幡菩薩の出現せしとて賞せられし事あり。さる武功の者ゆへ度々おなじ御賞詞賜はりしなるべし。
元龜三年十二月武田信玄かさぬて大兵を率ひてM松近く攻來る。人心恟々として穩ならず。この時鳥居四カ左衛門忠次斥候うけたまはりはせ還りて。敵大勢にて行伍の樣もまた嚴整なればたやすく戰をはじむべからず。早々御先手を引還させ給へ。もしまた一戰を遂られんならば。わが軍列をとゝのへ鐵炮迫合に時を移し。敵の堀田邊まで打出むを待て戰をはじめば。万が一御勝利もあらんか。これも全勝の道にはあらずと申す。君聞し召御氣色あしく。信玄なればとて鬼神にもあらず。又大軍なればとておそるゝにもたらず。汝平生は大剛のものなるが。今日何とて臆したるやと仰らるれば。忠次君常は持重に過させ給ふが。今日は何とて血氣にはやらせ給ふぞ。心得ぬ御事なれ。只今に某が申せ事を思ひ當らせ給ふべしとて御前を退しが。御家人に向ては。今日の戰かならず御勝利なるべし。をのをの進むで忠戰せよと言捨て。みづからは敵軍にはせ入て討死す。渡邊半藏守綱も斥候に出しが立ち歸り。今日の戰はあやうからんと申上れば。いよいよ御けしきあしきにより。御側に候ひし大久保治右衛門忠佐。柴田七五カ康忠はせ出むとするを。守綱制してゆるさず。君たとへば人あつてわが城內を踏通らんに咎めであるべきや。いかに武田が猛勢なればとて。城下を蹂躝してをしゆくを。居ながら傍觀すべき理なし。弓箭の恥辱これに過じ。後日に至り彼は敵に枕上を蹈越れしに。起もあがらで在し臆病者よと。世にも人にも嘲られんこそ後代までの恥辱なれ。勝敗は天にあり。とにもかくにも戰をせではあるべからずと仰ければ。いづれも此御詞に勵され。勇氣奮决して遂に兵を進られしとぞ。(東遷基叢。)
この軍旣に敗れ殆ど危急に及ぱせ給ふ時。夏目次カ左衛門吉信は兼てM松城を留守せしが。いそぎ手勢引具し御前に馳參じて御歸城を勸め奉る。君われかゝる負軍し何の面目ありて引返すべきや。且敵わが軍後を競へば兵を返さん事もかたし。たゞ此所にて討死せんと宣ひて聞入給はねば。吉信御馬の口取し畔柳助九カ武重にむかひ。我は君に代りて討死すべし。汝は速に御供して歸城せよといつて。自ら廿五騎を打從へ十文字の鎗取て。かしこくも御名をとなへ追來る敵と渡り合ひ。おもふ樣に戰ひて打死す。この間に武重は御馬の口取て引かへさんとするに。御鐙踏立て二三度蹴させ給へども武重いさゝか動かず。强て御馬を引立M松の方へ引返す。敵猶も追かけ來れば松井左近忠次戰疲れて林の中に息ついで居しがにはかに走りいでゝ。御着脊長の朱色に成て敵の目に付はとて。己が鎧を着せかへ奉り己れ御鎧を給はり。又己が馬をも奉り。みづから松井忠次と名乘て敵を二三度追崩す。武重はからうじて供奉しM松に歸りて御門明けよといふに。番兵たやすくうけがはねば。殿の御供して助九カが歸たるぞとよばわるを聞て。はじめて御門を明て入れ奉る。即ち助九カに命じて城外を巡視せしめ。御腰にざゝせられし扇を助九カに賜ひしが。折しも雨にうるほひて扇の紙と骨の離れしをもて。後に助九カが家の紋となしける。忠次もはじめ林中より出でしとき蔦の葉の胄の上に附きたるを御覽じて。汝が今日の功莫大なり。この後は蔦の葉をもて家のしるしとし後裔に傳へよと命ぜられ。今に家の紋となしぬ。はるか年經て後夏目吉信の二子をめし出して。我その時危難をまぬかれいま天下一統の業をなせしも。全く汝が父の忠節によれりと御淚をうかべて仰せられしとぞ。(貞享書上。大三河志。)
この戰に夏日が外にも忠戰を抽でゝ御感にあづかりし者少からず。水野太カ作正重は敵の追來るに度々取つてかへし。敵を追はらひ難なく御歸城あり。君の仰に。一日七度の鎗といふことは聞傳へたれど。今日の太カ作が働にはいかで及ぶべきとて御賞詞あり。天野三カ兵衛康景は胄付の首提て御後に附隨ひ。內藤四カ左衛門正成もおなじく從ひ來りしが。敵の弓を持しもの御側ちかくよりくるを見て。正成汝は何者なりと咎むれば。康景後よりその弓を踏落すゆへ敵にげはしる。又孕石忠彌といふ者御馬の尾を捉へて引とゞめむとす。君御刀もて馬尾を切拂はれ忠彌が倒るゝところへ。松井左近忠次馳來り忠彌を討とむ。小笠原次右衛門定信は山縣昌景が手に打むかひ。能敵討て黃の四半の先へ茜の吹貫出し指物に。首とり添て御覽に備しかば。御感なゝめならず。かゝるところへその父信倫戰死せしよし告げ來りしかば。直に引返し戰塲に馳むかふ。折しも敵三人して父の首をあらそふ所へ行あひ。二人をば即座にうちとり一人に手負せ。父がしるしを得てかへりぬ。おほよそ軍中にて父が仇をその座に打得し事。天の冥助にかなひしといふべしとて重て御感あり。細井喜三カ勝宗も御跡打て戰死せしが。その家僕木梨新兵衛疵七ケ所負ながら。主の仇打て勝宗が首をもとり返し。御前に出ければ。御褒詞をくはへられ錢一貫文下され。汝K馬に乘て功を建てたれば。このゝちはKと氏を改むべしと仰あり。勝宗は嗣子なければ遺跡を弟の喜八カ勝久に繼しめらる。大久保新十カ忠隣若年なるが馬に離れてさまよふ樣御覽じて。かれ救へと宣ふときに。小栗忠藏久次折しも敵の馬奪ひ得て乘來しが。此御詞承るとひとしく馬より飛下りて新十カを扶けのせて。己が身は股に鑓疵負ひながら少しも屈せず引退く。野中三五カ重政も御馬に添て引退くところに。甲州侍長何がし七八騎にて御先に塞がるを。君長め長めとのゝしらせ給ふ。重政即ち長を馬より突落し首をとる。こは近年まで小姓勤めし者なるが。御家を出で信玄へ仕へしなり。御歸城の後三五カに御盃下され信國の御刀を引る。盃に三日月を蒔繪にしたれば。向後此を吉例として三日月をもて紋とせしめらる。又御危急なりし時鈴木久三カ御麾賜りて討死せんと申す。君汝一人を討せてわが落ち延むこと本意にあらずとて聞せたまはず。久三カはしたゝかなるものなれば大に怒りて眼を見はり。さてさて愚なる事を宣ふものかなとて。强て御麾を奪取りて只一人引き返し奮戰す。御歸城の後あはれむべし久三定めて戰死しつらんと宣ふ所へ。久三カつと歸りきて御前へ出ければ。殊に御けしきうるはしく。汝よく切り拔しと仰ければ。久三カ思ひしよりも手に立ざる敵の樣に侍るはとさらぬ顏して座し居たり。櫻井庄之助勝次はM松の玄默口を守て居しが。朱鞘の大小さしたる敵の手負て引き退くを誰も追者なかりしが。勝次是をみて走り出でそが首を取。外にも一級とりて還りしかば。大御に御感有りて。汝が七本のねぢ馬連の指物は重くて便よからず。茜の四半を指物にせよと仰有て。この後改めしとぞ。(武功實錄。家譜。柏崎物語。貞享書上。東遷基業。東武談叢。)
M松に歸らせ給ひし時。けふの大敗にて城中の者ども御安否もしらざれば。大手より還御あらばさだめて驚恠しつらんとおぼしめし。わざと城溝邊を乘廻し惣懸口より入せ給ふ。植村正勝天野康景に命じて大手を守らしめ。鳥居元忠に玄默口を守らしめ。且命ぜられしは。城門は明置て後れ來るものを入るべし。その上敵近よるとも門の明しを見ば疑ひて遲疑すべし。門外四五ケ所に燎火を燒かしめよ。さてさて埓もなき軍して殘念なりと仰有て。久野といふ侍女が供せし湯漬を三度かへてめし上られ。御枕引よせ高鼾にて打ふさせ給ふ。左右の者は今日の大敗に一同人心ちもなきに。少しも驚かせ給ふことなし。かゝる所に高木九助廣正。信玄が近臣大隈入遣といふ容貌魁偉の者を討取りて來る。その首御覽じて。城中の人こゝろおだやかならざれば。汝はこの首を太刀につらぬき。信玄を討取しといはゞ。汝が勇敢は元より衆の知所なれば。たれも眞と思ひ心おちつくべしとありしかば。廣正仰のまゝに。今日敵の大將信玄をば高木廣正が討とりたりと。大音あげて城中を呼りめぐりしかぱ。人々さてはとはじめて安意せしとぞ。暮がけに甲州の馬塲信房。山縣昌景城下までせめ來たりしが。御門の明しを見て昌景は。城兵よくよく狼狽せしと見えて門とづるいとまなしと見ゆ。速に攻入むといふ。信房これを制して。コ川殿は海道一とよばるゝほどの名將なれば。いかなる計策あらんも計りがたし。卒爾の事なせそとて遲々する內に。烏居元忠。渡邊守綱打ていでければ。二人恐怖して引返しけり。その後目をさましたまひ。信玄はさだめて引返しつらんと仰ありしが。その夜味方犀が崖の敵の陣におしよせ鐵炮打かけしかば。武田勢大に狼狽し。さすがの信玄勝ても恐るべき敵なりとて。軍をまとめて引きとりしとぞ。(前橋聞書。四戰記聞。大三河志。)
甲斐の馬塲美濃守信房後日に信玄にかたりしは。こたびの戰に三河勢末々まで决戰せざる者はなし。その死骸を見るに。此にむかひしは皆俯伏し。M松の方にむかひしは仰倒せり。いづれも戰死せしにて一人も遁走せしはなしと思はるとて大に感歎しけり。すべてこの時御家人あまた戰死し殘少になりければ。君御淚をうかめられ。われ小國にてかく家人を打せては。この後戰せんこと難しと仰られ。戰死の者の子孫は年の長幼を論ぜずめし出して家繼しめられしとぞ。中根喜藏利重は戰の最中に北條より武田が援軍としてむかはせし近藤出羽助實と鎗を合せ。御馬前にて戰死す。しかるに利重子なかりしかば家絕んとするをあはれませ給ひ。その女子松平九カ兵衛正俊が妻となりて生し子。天正十二年京より還御のとき。岡崎の松原に母と共にありしを御覽じ。利重が外孫なりとてめし出され。中根喜藏とめさる。時に三歲なり。いとありがたき御事なり。(武コ大成記。武功實錄。家譜。)
石川善助といへるはわづか三十貫ばかりとりし御家人なり。一とせ當家を立さり加州へゆきて三百貫の地に在付しが。こたびの御敗軍をきゝ彼地を去て立かへり。此度上方よりめし抱へられしものどもは。みな戰を恐れ遁げ散ぬと承ぬ。上方の弱兵ども何の御用にか立候はん。某身不肖には候へ共。御先度を見屆ん爲立還りぬ。哀れ願くは一旦の罪は御ゆるし蒙らんといふ。君汝がなきとてわが事欠べきやと宣ひしが。實はその質直なるを喜ばせ給ひ。元のごとくめしつかはれしとぞ。(明良洪範。)
此卷は一向門徒の亂より。味方原御軍までの間の事をしるす。 
卷三 

 

天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城將菅沼新八カ定盈よりかくと注進す。君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豐後守廣孝はしばしと仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ俄に打立射立。敵の陣伍亂るゝ樣を見すまして門より打て出で。一散して輕く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへばまづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき處にも橋をかけてこそあるべきに。懸來りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名譽聞書。酒井家舊藏聞書。)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとりどりいひ傳へしを聞しめし。御家人等に仰ありしは。もしこの事實ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がことくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ樣に心得べきなり。すべて鄰國に强將ある時は。自國にもよろづ油斷なく心を用ゆるゆへ。おのづから國政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣國をはばかる心あるにより。かへりてわが國安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振拔の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝかスぶ事にてなしと仰あり。是より御分國の者共いづれも御詞を學びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。又ある時人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戰にはいつも紛骨を盡せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常常仰ありしなり。孟子に敵國外患なきものは國必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さてさて殘多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は關東の弓矢柱なくなりしとて。はらはらと淚を落せしといふ。謙信も信玄と常々爭鬪せしはさるものにて。天下の爲に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同樣の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話。武邊咄聞書。萬千代記。)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとするに。野伏ども出て御道を支れば。大久保七カ右衛門忠世殿して。三藏山といふところまで引上られ。しばし後陣の來るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太カが股を鐵炮に打ぬかれて來る。君御馬をくだり善太カに乘しめんとす。善太カ勿躰なしとてあながちに辭し奉る。七カ右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝も同じく手負退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に與へ乘しめんとす。久勝己が如きものは何人死したりとも何事かあらん。もし大將討るゝならばゆゝしき大事なり。弓矢八幡照覽あれわれは乘まじといふ。忠世乘度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて兒玉甚右衞門。久勝をかゝへて馬にのせ引取ぬ。君このよし聞しめし。强將の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感淺からず。この時光明山の住僧高繼といへるが御路の案內し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高繼勝栗を進ければ一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語。武コ大成記。落穗集。光明山書上。)
按に杉浦が家譜には久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへみづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎討とりそれが馬に乘て還りしかば。御感狀をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。台コ院殿切腹仰付られぬ。君後にこのよし聞めし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀彌四カといへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し算數にもよく鍛鍊し。物ごとに心きゝたる者なれば。會計租稅の職に試みられしによく御用に立しかば。次第に登庸せられて三河奥郡廿餘村の代官を命ぜられ。其身M松に居ながら折々は岡崎にも參り。信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも彌四カなくては叶はぬといふ程になり。專らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の擧動ども少からず。御家人の內舊功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも內には憎み怨ぬ者もなかりしかど。兩殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが惡事を訐發する者もなし。かゝる所に近藤何がし戰功有て采地賜はるべきにより。彌四カが許に行て議しけるに。彌四カいふ。御邊がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよいよ精仕して我にな疎略せそといへば。近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしかじかのよし述て。某いかに窮困すればとて。あの彌四カに追從して地を賜はらん樣なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のことくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出で御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聽に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは彌四カが取なしに非るはいふまでもなし。汝嚮に岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今にわすれはせじと宣へば。近藤感淚袖をうるほして御前をしりぞきぬ。其後又ひそかに近藤をめして。彌四カが事つばらに問せ給へば。近藤承り彼元より腹あしき者にて種々の惡行あれども。當時兩殿の寵遇を蒙るゆへいづれも顧望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の惡事どもかぞへ立て言上し。なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれにはいはざりしと仰ければ。さむ候この事かねて相議しけれども。彼かねて兩君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしとおもひ。今まで遲々せしは臣等が怠り謝し奉るに詞なしといふ。よて彌四カをばめし囚て獄につなぎ。その家財を籍收せしむるにをよび。彌四カが甲斐國と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度彌四カが親友小谷甚左衞門。倉地平左衛門。山田八藏等彌四カと一味し勝ョの出馬をすゝめ。勝ョ設樂郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。彌四カコ川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ三カ殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠兩國の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからばコ川殿もM松におはし。かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝ョ刄に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝ョこの書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に惡徒の內山田八藏返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顯に及びしなり。よて彌四カが妻子五人を念志原にて磔にかけ。彌四カは馬の三頭の方へ顏をむけ鞍に縳り。M松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし樣を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋め。竹鋸にて往來の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衞門は渡邊半藏守綱めし捕むとて行向ひしが。遁出て天龍川を游ぎこし二股の城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彥兵衞勝長。大岡孫右衛門助次。その子傳藏C勝。兩人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて。祿千石を賜はり返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々彌四カが事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。彌四カひとり勸めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても愼しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢。東遷基業。御遺訓。今村大岡山田家譜。)
長篠の前竹廣村の彈正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる樣を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびすくひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまりつと立て舞けるが。兼ての絕技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散してけり。さて本多榊原等をめし軍議せしむるにいづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。君むかしは信玄なり今は勝ョなるぞ。さまで心を勞するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよいよ勇氣百倍しけるとぞ。(東武談叢。)
おなじ戰の前信長が許におはしけるに。稻葉一鐵入道。此度コ川殿の催促によりて兵を出し給へども。もし信玄死せりと僞りて不意に打て出ることもあらばいかゞせむといふ。君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今兩年打續き同じ月日に。甲州にて万部讀經を執行へり。二には去年このかた彼國の者共多く我方に參仕す。三には穴山梅雪入道緣邊の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰けれは。信長稻葉に向ひ。汝何を知りてかようなき事をいひ出せるとていたくいましめらる。其後御陣に歸らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戰もし難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の內一人は。信康を守護して本國に歸るべし。鬮もて定めよと仰あれば。三人何とも御請申さでありしかば。御氣色損じけるを見て康政進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に從ひて立ち歸らん事は。上意に從ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなくやゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ三カ殿を招かせられさきの旨仰られしかば。信康君。年若き某一人岡崎に歸りたりとも何の益か侍らん。それよりは父君こそ御歸城有て領國を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せんと宣ひて。中中聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはしませしが。戰に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられしは。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戰に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覺書。古老夜話。)
この戰に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされしかば。內藤四カ左衛門正成かきの澁帷子きしまゝにて出むかひ。御指圖かうぶりて軍すべき家康にてなし。某等も又家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。コ川殿には末々の者までただ人ならずとて感歎ありしなり。又戰に及んで甲軍の樣を御覽じ。今日の戰味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人數を布散して多勢の樣に見するは。衆をョむの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊國物語。前橋舊藏聞書。)
國の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。别にかはれるふしはなけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも苟旦のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛强に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と兩手十万ばかり。勝ョはわづか二万程なり。こなたは栅を三重にゆひけるに。勝ョ何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若其折瀧澤川の渡を前に當て對陣せば。わが兩手多勢といへども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の强かりしは。全く入道が時より。三軍の調練よく屆きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記。)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝ョ常に血氣にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戰にわざと栅をふり優にもてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諫言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲をもてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。譬へば家臣の內に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのづからその風餘人にもをしうつり。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君はかゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめはじめて本心を得せしむるなり。汝いかゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨將軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上けしに。台コ院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傳へて炯鑑にせめとて御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの由を申上しに。將軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御愼篤の御性質をいと御賞嘆ありしとぞ。(藤堂文書。)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八カ定昌をめし出され。定昌若年といひ數日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御感斜ならす。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見參をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人每春謁見を給はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の內。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高邊等の地若干下され。姉川の役に信長より進らせし大般若長光の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姬君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ參り信長に謁見せしに。信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勳功武士の摸範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乘らしめ。そが上にもさまざま引出物せられしなり。(貞享書上。)
甲州士の內にも山縣三カ兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に應ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が內の山縣は大なる兎缼なり。かの魂精の拔出て當家普第の本多が子に生まれ來りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。台コ院殿の御伽にめし加へらる。後年石川數正が京都へ立去し後。當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附屬せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん樣にもり立べし仰付られぬ。これらをもても山縣をば厚く御感賞ましましける事はかりしるべきにぞ。(落穗集。)
大天龍の迫合に近藤傳四カ某手負ひて。渡邊半藏守綱を見かけ汝我を助けよといへば。半藏己が取たる首を投げすてゝ傳四カを負ひ。三里ばかり引退きける由聞せ給ひ。味方一人討るれば數千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半藏とよぶべしと仰られしなり。またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける內に島田意伯もありけるが。仰に意伯が馬もかしこにあるはと仰せられしが。この騷擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御强記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雜談。武功雜記。)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひがひしく申上れば御けしき大方ならず。よて松平の御稱號御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乘らしむ。こは周武王が股紂王を牧野にて攻亡せし故事おばしいでゝ。勝ョを殷紂に比し康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傳へしはまことにや。(貞享書上。落穗集。)
天正三年八月光明山諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝ョは過し長篠大敗の後甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二万の大兵もて後詰し。先陣すでに岡部藤枝までに進み來る。この時御人數を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。信康君をめし。是まで敵にむかふ樣にして引取りしが。この後は敵わが軍後にあり。おことは若年にしていまだ戰陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよとの給へば。信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。かたみに御辭讓ある所へ酒井忠次馳來り。只今急遽なり。兩殿はともあれ某はまづ引返さむとて御先に引退ば。君も忠次につぎて兵を收めらる。其時信康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿してしづじづと引せ給ふ。君はこの樣土臺にて御覽じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝ョ十万の兵もて攻來るとも打破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武コ編年集成。)
遠州二股の城攻られし時本多平八カ忠勝は供奉し。內藤四カ左衛門正成はその比足痛により從ふ事かなはずM松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへされM松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。殿の御歸城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成關鑰を固うしてあけず。忠勝自らかへり來て門をたゝきよばゝれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に誰なれば殿の御還などいつはるぞ。かしがましそこのかすば打ち殺さんとて。鐵炮に火繩はさみて指麾すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて君還らせ給ひて。四カ左我が歸たるはと宣へば。正成御聲とは聞つれど尙いぶかしくや思ひけん。狹間より挑燈を出したしかに尊顏を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵ありとも拔とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(碎玉話。)
天正六年三月武田勝ョ遠州へ出張せし時。大須賀五カ左衛門康高が甥彌吉御軍令にそむき。勝ョが旗本へ打ちいり高名せしかば以の外怒らせ給ふ。彌吉恐れて本多平八カ忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事もェ仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはかく御宥恕なかりき。(柏崎物語。)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後はまた謙信ほど弓箭とりまはす者は今の世にはなかりしに。これもまたはかなくなりぬ。かく年を追て名譽の弓箭取打續き死し絕る事。世の爲いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。君の御英名をしたひはるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。當家に力を合せ甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。又水谷正村入道蟠龍齋といひしは。下野の結城が幕下にて東國に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならでは。共に關東を切平げんものあらじと思ひ。石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を關東へ進められんには。その主晴朝を勸めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の國々よりもはやうより御風采をしたひ。歸屬の心を抱くもの數多有しといへり。(落穗集。貞享書上。)
武田勝ョ大軍を率ゐ遠州須賀まで打て出でM邊に陣どり。君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鐵炮迫合あり。信康君鈴木長兵衞某一人めしつれ。敵陣近く乘よせ。其樣見そなはして。いそぎ戰をはじめ給へと仰上られしかば。君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戰をはじめば勝事有べからず。この後とてもおなじ樣にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるるも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。三カが弓箭の指圖は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話别集。)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世兩人も。御ふるまひのあらあらしき事ども。條件にしるして御覽に入ければ。三カがかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諫を納し上にて。尙聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。兩人さむ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諫言など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はずと申せば。君今の世に比干伍子胥が如き忠臣なければ。諫を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三カ君御生害ありはるか年經て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三カ今にあらばかく天下の事に心を勞すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるやと仰ければ。忠次何ともいひ得ずひれふして在しとか。又幸若の舞御覽ありし時兩人にも見せしめられしに。滿仲の曲にをのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覽じて。兩人にむかはせ給ひ其事となく御落淚し給ひ。兩人あの舞はと仰られしかば兩人大に恐怖せり。又或時三カ殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は滿仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また關原の役にあさとく御旗を勝山に進められし時も。さてさて年老て骨の折るゝ事かな。悴が居たらば是程にはあるまじと獨言の樣に仰られしとか。唐國にも漢の武帝が衛太子の事有し後に。望子の臺を築き朝夕にその方ざまを望み見て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間に何の嫌疑もおはしまさず。たゞ少年勇邁の氣すすとくおはしませしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御擧動の在しも。軍國の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの兩人織田家の奸計に陷り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歲の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武邊雜談。東武談叢。ェ元聞書。)
三カ殿二股にて御生害ありし時。撿使として渡邊半藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三カ殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも淚流して居し內に。本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七がC康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の內に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半藏は三カ殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雜話の折に。半藏は兼て剛强の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り傳へてひそかに思ふやうは。半藏が仕兼しをこの山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものうくやなりけん。當家を立去り高野山に入て遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語。)
七年駿河國持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き樣を見せ。城兵の引入とき附入にし。烈しく戰て攻取られしとぞ。この時城將三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせんと思ひ一色に與しを君御覽じ。いやいや兵部が首は竹右衛門が討取しなり。餘人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せらる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしばしばなりしとぞ。(三河物語。貞享書上。)
高天神の城責られし時。城中より幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みよりたかたちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城將の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感淚を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃關東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等とりそへて大夫に引たり。かくて明日の戰に城兵皆いさぎよく戰て討死す。殊さら茜きし武者は晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとりどり御覽に備へし內に。顏の樣十六七ばかりと見ゆるが。薄粧し齒くろめ髮なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君その眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの內に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。K眼明らかにみえば男なれと宣へば。筓もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部最愛の小性に時田鶴千代といふ者にて。討死の樣いと優にやさしかりとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乘する樣をはるかに御覽じ。俄に御先手へ仰傳へられしは。只今に城中より眞先かけて乘出る武者あるべし。かまへて支へとゞむべからず。若强ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乘廻して制せしめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍田甚五カ尹松なるが。落城のよしを本國に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て當家に參り。處々の御陣に供奉し度々戰功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり。(落穗集。家譜。明良洪範。)
天正八年七月の比M松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。數萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならす。御みづから社頭へましまししばし御奉幣ありし後。扇子をもてうち拂ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡をCめ汚穢なからん樣にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松とぞ申ける。(拍崎物語。)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ一つ引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例の怒を發し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども悉く打碎き水中に棄てけり。君大に打ち咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。又馬塲美濃守氏勝が娘さる所に隱れ居るよし聞しめし。鳥居彥右衛門元忠に命じて搜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隱れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひより。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彥右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高聲にて御咲あり。其頃元忠同國K駒にをいて北條が兵と戰ひ。敵の首あまた討とりしを賞せられ郡內を賜はりけり。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。鳥居家譜。)
按に一說には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峯法寺口にて働せし趣を御糺しありしが。相違の事ありて召放されぬ。元より武功の者なれば鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聽に入る者ありし時。彥右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に元忠が女子馬塲美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬塲が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武邊の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに鏃をゆるく箆を强くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後後まで痛ましめんが爲なりと申ば。武田が法はさもあれわが方にてさる事なせそ。敵なりとも盜賊いましむるとは異なり。當座に射中て働事かなはず味方に利あればたれり。かゝる慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を强く鏃のぬけざらん樣にすべしと仰せられき。(武功實錄。)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成P吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大藏左衛門某之。また甲州人もて沙汰聞の役とせられ。專ら國中の動靜を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ國を治るに國人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は小石と沙と土の入雜りてわけかぬるを。水にて動し洗へば土流れて小石あらはるゝなり。見えざれば洗はん樣もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とりてもくるしからじと仰けり。又信玄以來の諸士の忠否を正し給ひ。武功の譽ある者は其證狀を奉らしめ新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。あるは舊地削らるゝもあり。又武田代々の香火院惠林寺は右府が爲に燒れしを。形のごとく再建せしめ。歷世の靈牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝ョ自殺の地にも供養のため一宇を刱創せられ。かくとりどり䘏典を施されしかば。國人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵夜話。)
甲斐の一條。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが爲に。かれに附屬せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年なれども臆せし樣にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよいよ勉勵せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に來り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政兩人に付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に參たりといへば。忠次さてさて御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勸めたてまつりて直政に附しめし之。さるを聞分ずして卒爾の擧動もあらば。殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功實錄。)
此卷は武田信玄と御合戰よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐國御手に入しまでの事をしるす。) 
卷四 

 

天正十年五月織田殿の勸めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覽終り。旣に御歸洛あらんとせしに。茶屋四カ次カC延たゞ一騎馳來り。飯森の邊にて本多平八カ忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし樣つばらに語り。忠勝四カ次カとゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に歸り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川數正。榊原康政等にむかひ。若年のものゝ申事ながら。君御歸京有て無益の死を遂られんよりは。速に本國にかへらせ給ひ御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ山賊野伏の爲に討れんよりはと思ひ。歸洛せんとはいひつれ。誰か三州への案內知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺のク導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し故主の恩に報じなん。これより河內山城をへて江州伊賀路へかゝらせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひがひしく御受申せば。君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案內させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河內路へて山城に至り。宇治川にて河のP知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その邊にいつき祭る吳服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立てク導し奉れば。ク人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信樂に至らせ給へば。土人木戶を閉て往來を止めたり。此地の代官多羅尾四カ光俊はこれも秀一が舊知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戶をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地藏の像を御加護の爲とて獻る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる。)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ことに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞C廣はじめ。かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案內し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大Mの浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麥米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て獻る。菜はなきかとのたまへば蜷の鹽辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大Mに着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎へ御歸城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ數日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ。(武道雜談。永日記。貞享書上。酒井家舊藏聞書。續武家閑談。)
この御危難の折御道しるべして勳功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四カ兵衛光綱が三男にて。山城の宇治田原の城主山口勘助長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣實父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉り。これより供奉して江州の光綱が家へ案內し奉り。伊賀路の一揆ども追拂ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。又山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都將軍家に勤仕す。弟の對馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共。逆黨に背きP田の橋を燒斷て追兵を支へ。御駕を迎へ賊徒を追拂ひつゝ。伊賀の闇峠まで供奉せり。又伊賀の侍柘植三之丞C廣といひしは。これよりまた天正九年三河に參謁して。伊賀のもの共皆織田家をそむき。當家に屬せんとす。願くは御書をたまはらんと申上しに。當家織田家と交深けれは御書をたまはる事かたし。たゞ元のことく本領を守るべし。もし當家に從はんとならば御領國に迁るべしと之。その後伊賀の者猶織田家の命に從はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隱て時節を伺ふ所に此度の事起りしかば。C廣をのが一族傳兵衛甚八カ宗吉。山口勘助。山中覺兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三カ茂濃。和田八カ定教。武島大炊茂秀等を勸め。みな人質出してク導し。鹿伏兎越の險難をへて伊勢まで御供す。後年關原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に參りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直參となり。鹿伏兎越まで供奉し半途より歸國せし二百人のものどもは。服部半藏正成に屬せられ。伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。專ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附屬する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直參となり。その以下は諸隊に配せられて。與力同心となされしもありしなり。(諸家譜。武コ編年集成。伊賀者由來書。)
武田亡びてのち織田右府駿河國をば當家へ進らせ。甲斐國をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたにもまめに受引たまひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎭吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ甲州人の皆當家に從ひ。鎭吉に服するもの少きは。全く當家の御所爲なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。國人にはひたすら心置しゆへ。國人もいよいよ心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近將監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思召。その舊友なれば本多百助信俊をつかはされ。萬事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案內せしめわが領內を經て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎭吉いよいよ疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞傳へて甲人一揆を起し鎭吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれは。彼が謀議の爲にもと思ひ百助をつかはせしに。かゝる無道人にあひておしき侍をあへなく殺さしめし事の口おしさよとて。泪數行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給へとすすめしに。それは川尻が二の舞にて。家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき樣もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ。その間をうかがひ北條氏政父子責入よしとりどり風聞し。國人も北條が民にならんは念なし。當家より御旗をむけられなば皆々打かたらひ。時日をうつさず甲州一國を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ國人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを專らとせられ。いささか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話。)
甲斐の若御子にて數月の間北條氏直と御對陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北條が領とし。甲信二國は當家の御分國とせられ。且督姬のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野邊山の陣を拂て退かんとするに及ぴ。平澤の朝日山に砦を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と舊好あるをもて。こたび彼が强ちにこひ申にまかせ。盟約を定め且姻家たらん事をもゆるしぬ。さるにわが領國の內に城築く事不當の至なれ。この上は有無の一戰を决すべしと仰有て。朝比奈彌太カ泰成もてこの由北條が方へ仰つかはさる。このとき敵は平澤より信濃路引拂はんとする所に。當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北條が答遲々せば直に打てかゝらん形勢したれば。大に恐れ早々人質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさまざま謝し奉りければ聞しめしとゞけられ。こなたよりも人質をつかはされ。兩陣互に引拂ひしとなん。(落穗集。武コ編年集成。)
この對陣のとき味かたの內誰なりとも。鐵炮打かけて敵陣の樣試みよと仰有しに。いづれも遲々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足輕めしぐし鐵炮持せてはせいで。その子彥助正吉は父が指物を相圖として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覽じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ御杖もて二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど武道のうきやかなる樣かな。彥助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜。)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを獻りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小田原の北條が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだいだいと見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。M松には稀なると見えたり。こゝにはあまたあり進らせんとて。だいだいを長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて獻りけり。君小田原のものどもこの菓をあぢはひもせず。たゞだいだいとのみ思ひとりて。かゝるなめげの擧動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家國の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰られしとなり。(東武談叢。)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覽じ。哀むべし次カ助一定討死しつらんとのたまふ。こは丹羽次カ助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が爲に戰て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こはめでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬりK糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人數押の聲ゑいとうとうといふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊万千代直政が赤備一隊をやりすぎて。行伍の亂れしを御覽じ。あれとゞめよ足並亂して備を崩すことがあるものか。木股はおらぬかC左衛門は居ぬか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。直政山を越て人數を押むといふに。廣P三科の兩人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳來り。かゝる事は若大將の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。君は竹山へ御上有し所へ。內藤四カ左衛門正成還來て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝりたまふべきや。みだりの事ないひそと制す。主水いかに彌八。御邊は座敷の上の御伽噺や。會計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり。今日は御大將の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。君も咲はせたまひながらさあ出んとて。金の扇の御馬驗を押立て進ませ給へば。敵は是をみて。さてこそコ川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武藏守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする內に鐵炮に中て死しければ。これを御覽じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立ていよいよ敗走する所に。永井傳八カ直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語。東迁基業。)
池田森の兩將旣に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳來り。龍泉寺の上の山に金の瓢簞の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戰難儀なるべきに。早く其機を察し引上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。君ははるかにかの馬印を御覽じて。筑前ョみ切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。榊原康政進み出で。仰のことくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機會なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半藏守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御歸陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を點じて居し所へ敗軍の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の邊にて軍の狀を尋られしに。コ川殿は旣に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をうち。さてさて花も實もあり。もちにても網にてもとられぬ名將かな。日本廣しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後來長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が方寸にありといはれしとか。(渡邊圖書小牧長久手記。落穗集。)
按に一說に。このとき酒井忠次秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の獅しむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て殘黨全からずと申せば。唯今こそよき圖なりといふ內に。敵はや栅を附たれば。明日は秀吉に降參したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を兩樣にいひ傳へしなり。
本多平八カ忠勝は小牧山に殘り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川數正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。旣に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋に出て拜謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よくよく御見限ありしと申上れば。君われ身を二つに分たる心地して。汝を小牧に殘し置しゆへ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ小幡に入らせたまひしなり。(柏崎物語。)
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の樣を伺しめしに。晝の程長途を馳來りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討かけて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いやいやとのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豐後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を觸られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひしに。小牧へ御馬を入られしかば。誰も誰もおもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日M松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは秀吉をうち得んと思ひてか。またはたゞ戰にかたんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへなりと聞えあげしかば。われもさは思ひし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。晝の戰に池田森の兩人を討しさへ。一人にてもよかりしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話别集。)
按に菅沼藤藏定政が譜には。旣に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の樣伺はしめしに。今にも襲ひ來らんよしいふ。よて藤藏定政をめして。彼等がいふ所いぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬひで飯くひ居たり。今來らん樣にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勸め奉れば。我もさこそは思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空壘なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。
この戰に平松金次カは。茜の羽織に十文字の鑓をもち一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見參に入しかば御感あり。追討の時はも鎌て草を薙ぐが如しといへば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。又大脇七兵衛は金次カと同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次カ一番なりと仰ける所へ。七兵衛つとまいり。某も其塲に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ樣の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の樣にて。汝がいふ所のことく是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしと之。又高井助次カ實重といひしは。其父藏人實廣今川の家臣なるが。桶狹間の戰に討死し。助次カも亦氏眞につかへ終始節を改めず。この戰に諸人いづれも高名したるに。助次カ一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏眞の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戰に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしかば。助次カは思ひよらず面目を施しける。小笠原C十カ元忠は兼て弓籠手をこのみてさしけるを御覽有て。弓籠手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働のならざるものぞといましめたまひしが。この戰に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしとなり。又成P小吉正成このとき十七歲なりしが。敵陣に蒐入て首一取來て御目にかくれば。その勇を稱せられ。唯今旗本の人數少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩れかゝる樣をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成柴武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さず。君この躰を御覽じ。士の討死すべきはこゝなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを勵しつゝ奮戰し。又首を得てかへりぬ。のちに正成が戰功を賞せられ。汝の働は宿將老帥にもまされりとて。根來の騎士五十人を附屬せられしとぞ。(感狀記。)
玉虫忠兵衞といひしは。甲州の城意庵が弟にて信玄謙信に歷事し。後に當家に參りこの役にも供奉し。御行軍のさま拜覽して有しが。君忠兵衛にむかはせ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。君の御軍略は甲斐越後にはおとらせたまふとも。御勇氣の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末ョもしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上總介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりしとて。御いかりありて追放され。玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雜記。古士談話。大坂覺書。)
初鹿野傳右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同國に入らせたまひしとき。傳右衛門さまざま走廻りて勳功有しかば召抱へられんとせしに。己が舊知の四百貫に。實父駿河が遺領二百五十貫の地を共に書入て。證狀となして捧げしかば。兄。丹後及弟彌平次カ兩人。傳右衛門が一人して父が遺領とらん樣なしといひ爭ひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の舊知のみをたまひければ。傳右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の內には。親兄弟の者を結び入てしるし出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかりは賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人の前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん樣もなしとて。さきに賜りし御朱印のうち二か所に墨をぬり。この御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音吐てゐたり。このよし岩間大藏左衛門聞付て。もとより傳右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世世武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其祿收公せらるゝとなり。かくて傳右衛門舊知にも離れ。流浪の身となりて有しが。此度の戰にひそかに御陣に從ひ。三宅彌次兵衛正次と同じく敵の首取て。內藤四カ左衛門正成に就て披露をたのみけれども。御咎蒙りし者ゆへはゞかりて聞え上ず。其折君はるかに御覽じ付られ。傳右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへすべす仰けれは。傳右衛門かしこさのあまり淚ながして拜伏す。其時彌次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傳右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。彌次兵衛も直實なるものよと。これも御賞譽を蒙りしなり。小幡藤五カ昌忠は甲斐の小幡豐後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北條と御對陣のとき。平原宮內といふ者北條に志を通じけるよし露顯し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮內を切とむ。宮內倒ざまに拂ふ刀に昌忠右の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のまじらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辭するに及ばずとて。もとのことくめしつかはれたり。さてこの日の戰に昌忠敵の首二切て御覽にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて棒げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずといふをしらしめんとて。家人のとりしをば别に見せしめしならん。とかく甲州人には油斷がならぬと仰られしとぞ。又水野太カ作正重は己が隊下の同心。銃もて森武藏守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覽じ。御馬廻に命じ同じくかけ破らしむ。軍終てのち今日の戰大久保忠佐こそ。先登して大切を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乘下せしは某なり。御ことは其折渡邊彌之助光と同じく久下に控られたり。餘人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御邊は數度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御邊に似合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見屆たりと申す。君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに守綱鑓を落しければ。孫之丞敵の中へかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武藏坊辨慶にもまされり。今より氏を武藏と改むべしと仰有て。あらためしなりとぞ。(岩淵夜話列集。落穗集。家譜。)
小牧對陣の折當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの有しに。秀吉折しも碁を打て居られしが。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのことく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどならば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戰ふなと仰られ。日中に及び兩陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝりたまはざりしといふに。君その折家臣どもは皆軍せよと勸めつれど。何がしは小牧より勢をこなたに引付むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戰はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良將のよく軍機を熟察有しは。期せずして符を合することくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戰話。)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり栅をつくるを御覽じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝ョを待うけしに。勝ョ血氣の少年ゆへ陣をみだりて切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ圖に引付鐵炮にて打すくめ。勞せずして勝を得しなり。今秀吉その故智を用ひ栅などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝ョと同じたぐひの對手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穗集。)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州C洲におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ觸しめらる。尊通といへる右筆その狀をかきて御覽に入しに。可出馬とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可出馬とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機速なりとて。かきかへしめられしとぞ。同じ城責のとき瀧川が內に。瀧川長兵衛といふ名ある者を捕へ來りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。當家の兵鋒日數重ねても撓むことあるまじと思ひ。城兵をのらかづ退屈すべしと思しめしてなり。酒井忠次はこの城直に攻潰べしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。君には城攻を忘れ給ふかとさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動靜を伺はしむるに。此度一益秀吉にョまれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞たまひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとてその旨仰つかはされ。且城將前田與十カを切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のことく一益をゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふといはゞ。秀吉方のものども思ひの外にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領內越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておはします。この後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく湯まきめしながら御出馬あり。從ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。殘卒はいまだ上り終らざる內に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書。小早川式部物語。老人雜話。)
佐々內藏助成政越路の雪をふみ分つゝ。さらさら越などいふ險難の地を歷て。ひそかにM松へ來て。まづ君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよいよ心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし。はるばる參着せしを勞せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の舊好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政舊主の爲に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの序に。君を信玄に比し己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて。京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は已に秀吉と和せし上なれば成政が言に從はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降參せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次カ正長めして仰有しは。佐々は頗る人傑なり。かかる者には知人になりて。その樣見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇氣にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ。(柏崎物語。)
眞田安房守昌幸。上田。戶石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。眞田は信玄の小脇差といはれしほどの古兵にてあれば。さだめてかの城々も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の爲に討れたれば。此度吊ひ合戰すべきなど思ひまうけしもしるべからず。彼がことき小身ものに。五ケ國をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科芦田などに扱せよと仰けれども。老臣强て申請により大久保鳥居などの人々に。二万ばかりそへてつかはされしが。果して眞田が爲に散々打まけて還りしがは。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部彌次カ長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し眞田が樣を見せよと命有て。長盛丸子に於て眞田と戰ひしに。打勝て眞田上田に引退しかば。ことに長盛が戰功を御賞譽有しとなり。(御名譽聞書。)
三河草創よりこのかた。大小の戰幾度といふ事をしらざれども。别に當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに從ひ機に應じて御指麾有しのみなり。長久手の後豐臣秀吉たばかりて。當家普第の舊臣石川伯耆守數正をすかし出し。數正上方に參ければ。當家にて酒井忠次とこの數正の兩人は第一の股肱にて。人々柱礎のことく思ひしものゝ。敵がたに參りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。蝱に目のぬけしなどいふ譬のことく。重ねて敵と戰はん事難かるべしと誰も案じ煩ふに。君にはいさゝか御心を惱し給ふ樣も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍。及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめてM松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直參のものをはじめ。直政に附屬せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。樣々採摭有し上にて尙又取捨したまひ。當家の御軍法一時に武田が規矱に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰廣く傳へしめられたり。(岩淵夜話别集。)
此卷は伊賀路の御危難より。長久手御合戰の後までの事をしるす。 
卷五

 

長久手の戰に上方勢おもひの外に敗績しければ。秀吉いまはひたぶるに當家と和議を結ばんとおもひ。まづ織田信雄と講和し信雄をかたらひて。御長子お義丸殿を秀吉養ひまいらする事となり。元服させ三河守秀康と名乘せかしづき給。されどもこなたにはいまだうちとけさせ給ふ御さまにもおはしまさねば。秀吉度々使をまいらせしうへ。猶又土方下總守雄久をしてかさねて慇懃を通じ。近きほどに御上洛ありて。秀吉御父子にも御對面あらまほしく。かつは都方の名所ども御遊覽もあらせられば。御心をも慰め給ふべうもやと懇に申をくられしかば。君聞しめし。われ今何事の有て秀吉にあふべき。秀康が事は秀吉が子に進らせしうへはわが子にあらず。親の秀吉にさへ用なきに。何の用ありて其子の秀康にあふ事を求めんや。織田殿世におはせしほど都にも上り。名所舊跡みな遊覽しつれば。今さら見まほしとも思はず。このごろはたゞ分國にありて朝夕鷹を臂にし。犬引て野くれ山くれかりくらす。これに過たる樂なし。さりながらもし秀吉己が兵威をもて。あながちに我を上せんとはからはゞ。われも又其心得あり。つゝまず申せとのたまへば。雄久大に恐れ。これ秀吉が命ぜられしにてはなし。全く某一人の私意もて。御氣色とりしまでなりといひすてゝ。いそぎ京へ迯のぼりしとぞ。(岩淵夜話别集。)
其後秀吉妹の朝日の姬君もて御臺所に進らせ。そのうへにも母の大政所をも岡崎へ下して。御上洛をすゝめたてまつれば。今はあながちに辭せんもあまり心なきに似たり。いかゞせんと議せらる。酒井左衛門尉忠次等の老臣申けるは。秀吉が心中いまだはかりがたし。御上りあらん事よしとも存ぜず。万一彼怒を發し大軍をもて責下るとも。上方勢の手並は長久手にて見透したれば恐るゝに足らずとて。皆御上洛を止めたてまつる。君聞しめし。汝等がいふ所理なきにあらず。さりながらよく考へみよ。本朝應仁よりこのかた大亂うちつゞき。四海の民一日として安きことを得ず。今天下漸靜謐ならんとするに及んで。我又秀吉と干戈を交へば。騷亂いよいよやむ時なくして。人民これが爲に命を喪ふ者多からん。豈いたましからずや。さればわが一命もて天下万民の命にかゝり。上洛せんと思ふなりと仰ければ。忠次等もさまで思召定め給ひし御事ならば。臣等又何事をか申上べきとて退きぬ。此御詞承りしもの。末終に天下の父母とならせ給ふべき御コは。この御一言にあらはれたりと評したてまつりける。殷湯王が百姓過あらば朕一人にあり。萬方罪あらば罪わが身にありといはれしも。同じ樣の御事と伺はるゝにぞ。さて都へ出立せ給ふにのぞみ。御留守奉る者に仰置れしは。もし我都方にて事有ときかば。大政所御臺所も速に京にかへしまいらすべし。この人にはもとより大事にあづかりしにもあらず。又家康は婦人を下手人にとりしなど人に嘲られんは。なからん後までの恥辱なれば。かまへてわるびれたる擧動すなと。かへすべすのたまひ置れしとぞ。(逸話。)
御上洛ありて茶屋四カ次カC延が家もて御旅館となさる。秀吉よりは使もて御上京を賀せしめ。夜に入ひそかに微行して來られ。年久しくて對面しこゝらの𣡸懷皆散じぬ。扨此度コ川殿をはるばるこゝまで迎へまいらせしは。秀吉をして天下の主たらしめん事をたのみ進らするよしいはる。君聞しめされ御身正しく天下の主とならせ給ひながら。何とてかくは宣ふぞ。秀吉いやさることの候ぞ。秀吉今位人臣を極め勢天下をなびかすといへども。其はじめ松下が草履取し奴僕たりしを。織田殿に取立られし事は誰かこれを知らざらん。かゝれば天下の諸大名陽には敬服すといへども。內心にはあなづり思ふもの少からず。あはれ願くは明日對面せんに。その御心がまへしてたまはるべし。秀吉をして天下一統の功を全うせしめ給はん事。コ川殿の御心一つにありとありければ。君今はたむすぼれたる御中となり。かく上洛さへつかふまつるうへには。何事も御爲あしうは存ぜず。ともかうもよきにはからふべけれとうけひかせ給ひ。さて明日大坂城にわたらせ給ひ。諸大名群集の中にて太刀馬どもさゝげられ。敷居隔てゝいかめしきさまにけいめいしてもてなさせ給ひしかば。秀吉よろこびに堪ずさまざま饗したてまつり。物どもあまた進らせけり。これよりして天下の大小名。殿下の人質出して迎へられしコ川殿すらかく關白を敬禮せらる。われわれいかで輕爾にすべきとて。いよいよ尊崇する事前日に十倍せしとか。(玉拾集。)
御上洛の折大和大納言秀長朝の御膳たてまつるとて迎へたてまつりしとき。秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織の紅梅の裏つけ。襟と袖には赤地に唐草の繡したるを着したり。秀吉がたゝれし後にて秀長と淺野彈正長政とひそかに申上しは。彼陣羽織を御所望あるべしと申。君某今までかゝる事人にいひし事なしといなみ給へば。二人これは殿下物具の上に着せらる陣羽織なれば。こたび御和議有しからはあながちに御所望ありて。この後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へば。關白もいかばかり喜スならんと申す。君もうなづかせ給ひ。秀長の饗席旣に終り秀吉と共に坂城に上らせらる。このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。コ川殿を明日本國に還すなりとて。又君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脫し給へといへば。秀長長政御側によりきて脫す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拜受を願ふなり。家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脫て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報のものよといはる。この日諸大名の陪從多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。コ川殿御聞候へ。この所よりわづかC水へゆくにも。人數の三万か二万と申されしとぞ。次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。家康が一言にて四國中國の者を鎭服せしめん爲なり。次に近所へゆくにも二万か三万といひしは。兵威をもて我をおどさんとてなり。例の秀吉が權詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四國中國はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ傳へて。關白の兵威の盛なるを稱しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に來り我にむかひ三度まで拜禮す。その事しりし秀長。淺野長政。加々瓜某。茶屋四カ次カ四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し拔て事をはかる人には。中々力押にはなりがたし。よくよく時節を待て工夫あるべしと仰ありしとぞ。(續武家閑談。)
北條氏直へ姬君住つかせ給ひしより四年になれども。いまだかの父子に對面し給はず。こたび氏政父子伊豆の三島まで詣るよし聞しめし及ばれ。御使もて會面せまほしき旨仰つかはされしに。氏政が方にも。さこそ存ずれ。但黃P川を越てこなたへわたらせ給ふやうあらまほしとの事なり。このとき酒井忠次等うけたまはりて。氏政がかくうつけたる答のまゝに。川をこして渡御ましまさば。世の人。コ川殿は北條が旗下になりたりなどいひ傳へば。當家の名折此上なし。ひらに思召止らせ給へと諫めたり。君名位の前後を爭ふは詮なき事之。さきに信玄謙信の兩人和議を結ばんとて。犀川を隔でゝ會面せしとき。謙信ははやりがなる性質ゆへ。信玄よりさきに下馬せしを。信玄はいまだ下馬せずして應接せしかば。謙信大に怒り其塲より鐵炮打出して合戰に及び。又十五年が間爭戰やむときなし。其ひまに織田殿は上方に切て上り大國の主となり。我も織田に力を合せて一方に自立する事を得たり。この入道等とく和融して軍したらば。織田殿も我も一支も成がたきを。いらぬ爭ひに年月を過したる中に。他人をして大功を立しめし事のうたてさよ。今氏政實心もて我に接するからは。我何ぞ其下にたつ事をいとはむ。天下一統の後にて。上につくとも下に立とも其おりに議すべけれ。今の位爭は無用なりとて。遂に時日を定め三島におはして氏政父子に御對面ましませり。そのとき氏政父子は上座に着れ。一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す。君は氏政より下に着せられ酒井忠次。井伊直政。榊原康政ばかり陪座す。一通り献酬終りし後美濃守氏規進み出て。御宴進まさるうちに上方の軍議をなされんかといふ。君上方の事はとくに定め置つれば今さら議するに及ばず。けふの對面はかたみにうちとけて。こゝらの宿念をもはらし。且はこの後無事ならん爲なり。まづ兩國の堺なる沼津の城をはじめ。城々みなとりこぼちて堺界なしにせんと思へば。もし上方に事あらば。我手勢五万のうち三万をひきゐて切て上らば何條事かあらん。又奥方に出馬し給ふ事もあらば。某先手うけたまはりて切靡け申さんに三年は過さまじ。とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば。氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ。よろこぶ事限りなし。かくて酒宴も闌になりて。君自然居士の曲舞をかなで給ひ。黃帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば。松田大道寺等同音に。コ川殿は當家の臣下になり給ひぬとはやしたつれば。氏政もゑつぼに入てきゝ居たり。酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ。川いづれの邊にて候と舞出たれば。氏政太刀を忠次に引る。忠次又おしいたゞき小田原の老臣等にむかひ。我等は加樣なる結搆の海老をすくひあてゝ候と高らかにいひけり。忠次が歌のうちに鎌倉くだりといふ詞の有しを。小田原の山角上野介いまはしくやおもひけん。たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上りと舞留ける。大道寺いひけるは。酒井殿は鎌倉下りなれば。山角は熱田の宮まで切り上り候ととりなして。主方も客人もをのをの興に入たり。氏政ゑひすゝみて君の御膝へよりかゝり。御指添をぬき取て。京兆には若かりしほどより。海道一の弓取とよばれし人なり。その刀を居ながら㧞とりし氏政は大功なれと戱れける。此とき松田尾張守。コ川殿にははや當家の臣下におはしませば。何の嫌忌かおはしまさんといふ。この日北條が御もてなし實に善美をつくせり。宴はてゝ後歸らせ給ふ。北條より山角紀伊守して御見送の役を勸めしむ。御かへさの道すがら沼津の外郭の塀及ひ櫓をみな毁撒せしめ。本丸ばかりを御旅館の設に殘され紀伊守に見せしめ。こたび親會せし上は封境の險も無用なればかく取こぼちたり。この旨氏政父子によく傳へらるべしと仰含められしゆへ。小田原にもうしろやすくなり。いよいよ當家を慕ひ隣交をこたらざりき。かゝりしかば世には。コ川殿は小田原と結緣ありし上に。今度の會盟またいかなる事を議し給ふもはかりがたし。そのうへ軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞えければ。豐臣家の上下。さきに彼方に降附せし石川數正が事を。古曆古箒と名付て用なきものゝ樣におもひあざけりけるとなん。(駿河土產。校合雜記。)
小田原よりかへらせ給ひし後。本多正信にむかはせられ。北條も世が末に成たり。やがて亡ぶべし。松田と陸奥守と二人の樣にて知れりと宣ひしが。果して後に敗亡のさま。松田の反覆はいふ迄もなし。陸奥守氏輝も氏政なくば氏直を輕祝して。その國政をほしいまゝにせんかとの。御推考にたがはざりしとぞ。(紀伊國物語。)
天正十八年の春長丸君を都に下せ給ひ。はじめて秀吉に見參せしめらる。秀吉大によろこび君の御手をひき。後閣につれゆきさまざまもてなされ。大政所みづから御ぐしをゆひ直し御衣裝をも改めかへ。金作の太刀はかしめ。重ねて表方に誘はれ。御供せし井伊直政等にむかひ。大納言殿には幸人にてよき男子あまたもたれしな。長丸いとをとなしやかにてよき生立なり。たゞ髮の結樣より衣服の裝みな田舍びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。いはけなき子を遠き所に置れ。亞相もさぞ心ぐるしく侍遠に思ふらめ。とく供奉してかへれとて。直政はじめ人々にもとりどりかづけものしてかへされしなり。君には此度小田原征討の事起りしにより。長丸君を質子の御下心にて上せ給ひしに。秀吉速●●へされしはやがて出馬あらんときに。我領內の城々をからんとての謀略ならんと御先見ましましければ。本多正信を召ていづれもその用意せよと仰ありて。三河より東の城々修理加へられ。道橋をも修理加へられたるが。三日ばかりありて京より秀吉みづからの書翰もて。城々からん事を請れしかば。いづれも機を見給ふ事の速なる。神明不思議なりと感じたてまつりしとぞ。(東遷基業。)
東征の軍議ありて秀吉關東の輿地の圖を出して。君と共に撿視してありし折。眞田安房守昌幸もその末席にありしを。秀吉安房もこゝにきて圖をみよ。此度汝に中山道の先鋒をいひ付るぞといはる。昌幸はコ川殿とおなじく秀吉の待遇ありしを。世にかしこき事に思へり。秀吉また别に昌幸をよび。家康が許にゆきて禮謝し間をよくせよ。長きにはまかるゝものぞといはれ。富田左近を昌幸にそへて。御旅館に參らせまみえしむ。君もとより昌幸の反覆を憎ませ給へども。秀吉が紹介なればいなみ給ひがたく。よきほどに應接してかへされぬ。後に左近をめして。安房が事は過つればせんかたなし。このうへは石川伯耆守などを。同じ樣に連來らざるやうにョむと仰られしとぞ。(老人雜話。)
東征の前かた甲州の士小宮山又七昌吉小長柄奉行を仰付らる。又七は年若けれども。その兄內膳友信主の勝ョが先途を見とゞけて討死せし心ざま。あつぱれ忠誠の者と思召る。內膳子なきがゆへ昌吉をもてその遺跡をつがしめ。かゝる重役をも仰付られしなり。全く兄が忠義を賞しての事なれば。昌吉よくこの旨心得て。此度の命を己が功勞と思ふべからずと御教諭ありしかば。昌吉はいふまでもなし。諸人みな。忠義の士は死後まで旌表の典を蒙る事と。かしこまさるはなかりしなり。(東遷基業。)
秀吉旣に駿河の三枚橋まで下られしよし聞えければ。榊原本多の人々。こたび秀吉たまさかの下向なれば。こなたの御領中に於ても。殊更の御もてなしなくてはかなふまじと申す。君われもとくよりさは思ひつれど。外におもふ旨あればまづ捨置なりとて。その後ひそかに彼等を召れ。われ秀吉の樣をみるに。己が才畧もて一世を籠絡せんとする人なれば。我又これに對して才智だてをして。智謀ある人とみられむはかへりてあしきなり。とかう物事にこゝろづかで。たゞ篤實一ぺんの人と思はれんこそよけれと宣ひて。御饗待の樣も並々の事にて别に耳目を驚かすまでの事はなかりしとぞ。(老士物語。)
秀吉駿府の御城に宿られし時。御みづからもおりたちて御あつかひあり。城中どよみにぎはしきおりふし。本多作右衛門重次は。これよりさき御用の事ありて遠境にまかりしが。今日還り來り旅裝のまゝにてその所へつと入來て。にがごがき顏して大音あげ。殿々とよびたてまつり。さてさて殿は愚なる事せさせ給ふものかな。おほよそ國の主たるものが。己が居城あけて人にかす理のあるべきや。さる御心にては。人が女房衆をからんといはゞかし給ふべきかなど。思ふまゝの事いひはなちて己が宿にかへりぬ。君もあまりの事に何のうつけをいふぞと仰られ。後に京の人々にむかひ。かれは本多作左といふて。家康が父祖の代より今に至るまでまめにつかへ。あまたゞひ武功もあるものなるが。もとより田舍武士にてたゞあらげなくおこなるふるまひのみして。心のまゝの事をいひもし行ひもし。人をば虫とも思はぬものなり。されど今日の事といひ。人々の前をもかへりみず。あのことき無禮をふるまふやつなれば。家康とさしむかひしおりは。いかに心ぐるしからざらん。各くみはかりたまふべしと宣へば。人々その作左こそ上方にも承及たる勇士なれ。かゝる勇士持せらるゝは。實に御家の重寳とこそ申べけれと。一同感じけるとぞ。(岩淵夜話。落穗集。)
秀吉沼津まで着れしかば。君は織田信雄とおなじく。浮島が原の邊まで出まして。待むかへ給ふところへ。秀吉が前驅餌差鷹飼ともうちつれて通るうちに。稻富喜藏といへるは君かねてしろしめすものなるが御前を平伏して。過ぎがてに。殿下もやがて來らせ給はん。いと異樣なる御行裝なり。見給へといひさしてゆく。そのおり甲斐の曲淵庄左衛門御供に候せしが。三尺餘の朱鞘の大刀に大鍔かけてさしたるを御覽じ。御みづからの御佩刀とさしかへ給ふ。かくするうちに秀吉が馬旣にちかづきぬ。そのさま金の唐冠の兜に緋をどしの鎧を着。緋純子の袖なし羽織に紅金襴のくゝり袴。作髭をし。金の大熨斗付の太刀二振はき。金の土俵のうつぼに征矢二筋さしておひ。金の瓔珞の馬鎧かけたる駮の馬に乘られしが。君と信雄の立せらるゝを見て。俄に馬より下り慰勞の詞をのべ。かの團扇もて君の御刀の柄をおさへ。近頃よき御物ずきかなとほゝゑみながら。いざ同じく參らんと連立て數町ばかりおはせしが。諸大名追々出迎へたてまつれば。殿下はもはや御馬にめさるべしと聞え給へば。秀吉さらば軍中に禮なしとかきく。御ゆるし蒙らんとて又馬にうちのりぬ。外々の大名へはみな馬上より聲かけて通らしとぞ。(天元實記。武家閑談。)
按に一說に。このとき秀吉馬より下り太刀の柄に手をかけ。信雄。家康逆心ありときく。立上られよ一太刀まいらんといふ。信雄は面あかめて何ともいふことならず。君は秀吉が左右の者にむかはせられ。殿下の軍始に御太刀に手をかけ給ふことのめでたさよ。いづれもほぎたてまつれと高聲に仰ければ。秀吉又といふ詞なく。重ねて馬に打乘て過行ぬ。そのとき見しもの。君のいささか動し給はざる御樣に感じけり。又小田原の陣中に。君と信雄と秀吉が陣におはして還らせ給ふとき。秀吉十文字の鎗の穗をはづし。御名を呼かけて追かくれば。君右に持せ給ひし御刀を左にもちかへ。立ておはしければ。秀吉大に笑ひ鎗を持かへ。鐏のかたを君にむけたてまつり。これは年比己が秘藏せし品なれば。今日參らするとてなげ出されしかば。君おもひよらざる賜物とおしいたゞかせ給ひて。持歸り給ひしとぞ。信雄ははじめ秀吉が追かけしさまみてうち驚き。君にもかまはず早々急ぎにげ出ぬ。これよりいよいよ秀吉が爲に見限られしとぞ。是も同日の談にて。姦雄の人を試むるに泰然としていさゝか變動の態見えさせ給はざる御識度いとたふとし。
三月十八日秀吉三枚橋の邊巡視終りて長窪に至り。諸將をつどへて此度の軍議をせらる。秀吉コ川殿にはかねて海道一の弓取とうけたまはる。こたびの計略いかゞしてよからん。指導あれかしとありしに。君聞しめし。北條が家はその祖早雲入道已來。國富み兵强くして武功の者少からず。今度殿下の御征討を承り。定めて主に代り打て出で防戰すべきに。これまで一人も兵をまじへざるは。はや殿下の御軍威を恐るゝとみえたり。此後とても出ることはあるまじ。さらば惣軍を二手に分け。一手は韮山一手は山中を攻んに。何ほど臆したる敵なりとも。己が城攻らるゝに救はざる者はよもあるまじ。そのとき殘る一手をもて戰ひなば然るべうもや候はんかと宣ふ。秀吉大に感じ。さらば北條が後詰をばコ川殿にまかせたてまつらんといはる。君いかにも奉りなん。先年甲信の堺にて北條と七月より十一月まで對陣せし事のありしに。十が九は勝利を得侍りぬ。されども此度は敵地の戰といひ。かれ又無双の險要に據れば。いかなる計策せんもはかりがたし。万一仕損じなば二の手の勝利は殿下をたのみ奉ると宣ふ。秀吉高らかにうち笑ひて。二の手は秀吉いかにもうけたまはるべし。コ川殿を一番に進ませ秀吉二の手をつめば。日本國中はいふに及はず。高麗大明まで攻入る共。恐るゝに足らずとて大によろこばる。重ねて秀吉。兩城を攻るに敵もし出合ざらんときはいかんと問はる。君そのときは兩城のうち一城を攻落し。其勢をゆるめず某手勢をひきゐ。山中の古路をへて酒勾早川へ押出して陣を取しき。關東の城々より小田原への通路をたつべし。殿下は惣勢をひきゐて小田原へ押詰給へと宣へば。秀吉酒勾筋に敵城はなしやと問はる。君鷹の巢。足ネ。新庄の三城あり。秀吉その城々をもいかゞし給ふといへば。この城々は必明退べし。先年武田信玄二万の兵もて。小田原近邊まで攻入しときもこの城々落失たり。まして此度の兵威を望み一支もなく落行なん。秀吉もし逃ざるときはいかゞといへば。君それこそ某が望むところなれ。速に手勢もて攻落すべし。先年對陣のおりも五六百の家人もて築井の城をせめ。彼がうちに名を得し內藤周防を討取。關本の城に押寄大道寺を追落せし事もあり。彼が弓箭のほどはかねて知たれば。いさゝか恐るゝに足らずと事もなげに申させ給へば。秀吉はじめ滿座の大小名。いづれも御智算の周遍して。殘る所なきを感じたてまつりける。秀吉その夜は沼津にかへられ。重ねて地圖を取出し諸將と評議し。いよいよ君の御指圖にしたがひける。このときK田勘解由孝高も秀吉が供して。君の御陣にも折々伺公し軍法の物語せしが。こたびの城攻始より終に至るまで。いさゝか君のはからせ給ひしに違はねば。或人にいひしは。コ川殿は頂の上より爪の端まで。弓箭の金言にて束ねし名將なれ。殿下も軍議となれば。コ川殿の口を待て後に發兵せらるるなりといひしとぞ。(讀武家閑談。)
織田信雄ひそかに君に勸めまいらせしは。こたび秀吉の下向こそ幸の事なれ。北條と諜し合せ前後より挾み討ばかならず志を得んといふ。君秀吉我を信じてこそ。わが領內をも心ゆるして通行すれ。いがて反覆の事して信義を失はんやと仰らる。またこの陣に關白わづか十四五騎ばかりにて居られしときをみて。井伊直政唯今こそ秀吉を討べき時なりと。ひそかにさゝやきけれど。君かれこたび我をたのもしきものにおもひて來りしを。籠のうちの鳥を殺さんやうなるむごき事はせぬものぞ。天下をしるはをのづから運命のありて。人力の致すところにあらずと仰ければ。直政もえうなき事いひ出しと思ひ。面赤めてありしとぞ。(明良洪範。ェ元聞書。)
山中旣に落城せし晚方。戶田左門一西御本陣に參り。今日の一番乘は中村式部が內に渡邊勘兵衞といふ者のよしなれども。實は某と山虎之助某と兩人折よく參り合せ。一番に乘入りしにまがひなし。上方の黃母衣の者も見とゞけて候へば。この旨仰立られよと申す。榊原康政取次てこのよし聞え上しかば。君聞しめし。我婿の氏直が城をわが手勢もて取たりとても。さのみ出かしたる事にてもなし。汝等が勳功はわれさへ聞置ばすむことなり。虎之助にもいひ傳へて。重ねてこの事いふまじとの上意なれば。左門も口を閉て。その折の事問ものあれば。塲狹き所ゆへしかとわきまへずとのみいひはなちて居たり。虎之助は大にふづくみ。用なきむだ骨をもて勘兵衛が手ネにせしも。あまりわが殿のおとなし過しゆへといひふらしけるを。御聽に入るゝものありしに。山がさいはゞそのまゝいはせて置と宣ひ。前に御咎もなかりき。その後關東御移のとき。左門に武州鯨井にて五千石たまはりしは。此ときの賞に宛行はれしなりとぞ。(天元實記。)
按に家譜には虎之助このとき討死せしとみえたれば。本文に記す所は别人なるも知るべからず。凡家譜と記錄と異同のあるは。家譜をもて正しとすれども。强ち記錄の說みなあやまれりともいふべからず。
小田原長陣の事ゆへ米價踊貴してやまざれば。いかゞして此價を低くせんといふ。君何ほども高くかへと上意なれば。そのことくせしに。小田原は米價高し持ゆきてうれとて。海陸より我先にと競ひ集り。俄に米價低くなりしとか。また伊奈熊藏忠政御前へ出しとき。此度去年より御領中の米豆貯ふべき命ありしゆへ。重ねて用意し沼津まで運輸し置ぬ。この地に來りて承れば。山中の價も江尻沼津と同じ樣なり。さればはるばる運費をかけんよりはと存じ。この地の米を買求めぬ。かほど合點のゆかぬ儀は侍らずと申す。君こは長束大藏政家がする事なれ。大藏はさして武功はなきが。万事に才幹あるものゆへ。秀吉が意にかなひ追々拔擧せられ一城の主にも成たれ。惣じて國の主たるものが常に物事節儉にして浮費を省くは。事あるにのぞみ用度の不足なからしめんが爲なり。さるを常に儉約にして。事あるにも慳恡ならば。金銀米錢は何の用をかすべき。土石にも劣りたるものなれ。汝そが職にありながら。かゝる事に合點の至らぬといふは。我も又合點がゆかずと仰られしとぞ。(古人物語。天元實記。)
宮城野口。竹浦口を攻られしとき。かねて先鋒は當家二陣は秀次と定められしに。秀次うちこして前に進まんとす。よて村越茂助直吉をもて秀次が方へ仰つかはされしは。秀次先陣うたれん事年若き御心にはさもあるべし。いと神妙の御事なり。わが陣頭を開て通すべし。家康もその餘勇を求めて。勝利を得んと思ふなり。たゞし敵は地戰。味方は客戰にして地の利にくらし。そのうへ今日日暮に及んで。山下に陣取は兵法のいむ所なり。今夜はまづこの所に屯し。明朝先陣打ればしからんかと仰つかはされしかば。秀次且感じ且恥て。其夜は箱根山の半腹に陣取。終に夜篝を燒ひて夜をあかしけるとぞ。(天正記。)
井伊直政酒勾川のかたにむかひしに。森を後にして陣せよと命ぜられしに。河原に陣どりしを御覽じて大に御氣色損じ。敵城近く備を立るには樹陰を後にして。敵に勢の多少を見透されざるをもて主とす。さるを味方の足數までみゆる所に備ふるは。以の外なりと仰ければ。直政さきに御諚有しゆへそが通りに備を立しなりと申せば。御馬上にて小刀をぬかせ給ひ。御腰物にてうちならしたまひ。此かねの罸を蒙る法もあれ。わがいひしはかしこにはあらざるものをと仰られ。小刀をうち折てすて給ひしとぞ。又その邊を巡視ありて酒勾川の端に下らせ給ひ。海ばたより城內を俯視してかへらせ給ふとき。供奉の者城際を通るを見給ひ。敵もし城より打ていでゝ味方討死もせば。敵に勢を添べし。又逃去らんも見ぐるし。汝等はしれた事をするものかな。城の巡視は城際より乘廻し。より見るこそ作法なれと宣ひしとぞ。又諏訪の原御本陣とせられ。內藤四カ左衛門正成。高本主水助C秀。渡邊忠右衛門守綱。筧助大夫正重。渡邊半藏重綱を殘し給ひ。汝等はこゝに陣取れとて。御みづからは年若き者五六騎召具して巡視に出給ひ。還御の後內藤等の陣取の樣見そなはし。汝等年比軍陣になれし者なれば。少しは心得つらんと思ひしに。などかくふつゝかなる樣よと。散々に御叱りありて陣取をかへしめ給ふ。かゝる圍城のうちよりは白晝には打て出ぬものなり。夜討より外の術なし。夜討も城よりは出ずしてことゞころに隱れ居て。我陣の後よりうちかゝり。輕くかけ破りて城に引入んとするものなり。されば其心得して城際の陣取は。裏を表のごとくにとるものなりと仰られしとぞ。(三河之物語。)
笹郭を御巡視ありし後。大久保治右衛門忠佐。高木主水助C秀に命ぜられ。本陣の小屋をかけしめられしに。城にむかひし所を厚く後を薄くかくるを御覽じて。敵は虎口より出べし。堀越には出ぬものなり。ゆへに後の方を厚くとるが古法なりと宣ひて改めしめられたりとぞ。又同じ曲輪を攻られんと議せられしとき。其邊に橋を渡して距闉の樣なるもの有。井伊直政をめして橋が橋がとばかり仰あり。直政さまざま思ひをめぐらし。橋下の水の淺深を試みよとの盛慮ならんとおもひ。橋下に杖を立て水痕の及ぶ所を驗として御覽に侍へしかば。とかうの仰もなく又はしがじがとばかり宣ふ。かさねて直政其所に久しくたゝずみ撿祝するに。橋桁殊更撓みけるを見て心づき。急ぎ馳かへりかくと申あぐ。君聞しめし。さればその事よと仰らる。おほよそはじめ命ありしより。直政が思ひ得しまでは。四十八時ばかりへしとぞ。さて直政に屬せられし甲塚の廣P美濃。三科筑前は老功の者なれば。この郭攻む樣直政かれとはからへと宣ひ。直政相議せしに二人うけたまはり。御家人の子弟の年若きかぎりすぐり出て攻手にあてられば。子弟の出戰すときかば。その父兄等己が子弟等に功名を立させんと思ひ。われもれもと出來りてをのづから多勢になるべし。万一仕損ずるとも子弟の事なれば。させる恥辱にあらずと申すにより。そのごとく命ぜられしかば。果して大勢あつまり來て攻かかり。かの橋邊に至りしとき。諸勢いさゝかあやぶみためらひしに。直政はこゝなりと思ひ。この橋危しとてつゞきの郭をとらであるべきやとて。みづから橋詰まで進み銃取て放つに。火藥强かりしかば筒裂て指を損ず。されどもいさゝかひるまず曳聲あげて進みより。遂に曲輪を乘取けり。君の神算妙諭はいふまでもなし。直政もよく御詞の旨をふかく思ひ久しく考へてあだにせざりしゆへ。かゝる奇功をも奏すれとて人々感じけるとぞ。(東武實錄。前橋聞書。)
長陣の間にさまざまの流言ども出きて。君と信雄と北條に同意有て諸陣を燒拂ひ。城よりも同時に討て出るなど。根もなき事紛起してやまず。秀吉小早河左衞門督隆景のすゝめにしたがひ。みづから君の御陣を巡視すとて。伊達染の小袖に緋純子の羽織を着。脇差ばかりさし。刀をば從者に持せ。信雄。隆景。其外陪從の者も皆脇差ばかりさし。高聲に雜談しつつ御本陣に參られ。午の皷うつ比より夜中まで宴樂あり。其後又信雄が陣へも君と隆景と秀吉にしたがひておはし。また重ねて君と信雄とを秀吉の本陣に招請せられ。晝のほどは申樂行はれ。夜に入り酒宴まうけ小唄おどりとりどりにて。夜一よ遊びくらして曉にかへらせ給ひ。この後諸陣にもかたみに行かひして會宴まうけ。人心漸穩になりければ。浮說もいつとなくやみしなり。これ北條はまさしく君の御ゆかりにおはしませば。かゝる雜說も出來しゆへに。君ひそかに秀吉と仰合され。かくははからわれしとぞ。このときの小唄とて後にまで傳へしは。人かひ舟は沖をこぐとても。うらうら身をしづかにこげ。我等を忍ばゞ思案して。高いまどからすなをまけ。雨が降といふて出逢はん。(落穗集。)
松平石見守康安はこの役に大番頭奉りて供奉しけるが。あるとき君城中にむかひ。御みづから矢を放ち遠近を試み給ふに。侍臣等城中まで御矢入りつと申せば。城までは程遠し。弓勢のをよばん樣なしと宣ひ。康安をめし。汝は聞及びし精兵なり。試みよと仰あり。康安射しに多くは土居にて落ぬ。數矢のうちにたゞ一筋城墻を貫きしがあり。よて左右の者に仰けるは。康安が弓勢すらかくのことし。さるを汝等わが矢城中に入しといふは。全く諂諛のいたす所なり。かまへてかゝることは申さぬものぞといましめ給ひしとぞ。また本目權左衛門義正はもと松平氏なりしが。箱根山中の案內したてまつり高名ありしかば。汝は侍の眼なり。この後は氏を本目と改むべしと仰有て。これより本目に改めかへしといふ。(家譜。)
甲相の境なる三搏サといふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せしめ。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)
小田原落城のころ二子山の下たいらに御本陣をすへられ。小高き所をかたどり。かたへに御鎧櫃を置。その上に板二枚を渡し御寢所とす。夜中御傍に大河原源五右衛門といへる十五六ばかりの小姓ふしてありけるが。惣陣の騷がしきを聞付て。俄にはね起てひしめけば。かの板にあたりいよいよ驚き。御寢なりしを起したてまつりこのよし申上しに。汝は若年にてものに馴ざるゆへ。かくそらおどるきするなれ。敵が夜討すれば必弓銃の音するものなり。こは味方の鬪諍するか。あるは馬を取放せしならん。さはぐ事なかれとて。いさゝかおどろき給ふさまはおはしまさゞりしとぞ。(武家閑談。)
北條ほろびて後人々に仰られしは。武田信玄は近代の良將なりしが。己が父の信虎を追出せし餘殃子にむくひて。勝ョさしもの猛將たりしが運傾くに至り。普第恩顧の者まで離畔してはかなく亡びしは。天道その親愛の恩義なきを憎み給ふゆへとしらる。小田原は百日ばかりの圍城に。松田尾張が外は反逆のもの一人もなし。氏直が高野に赴きしときも。命をすてゝも從はんと願ふもの多かりき。これ早雲已來貽謀のたゞしくして。諸士みな節義を守りしがゆへなりと仰られしとなん。
此卷は豐臣家と御和睦より。小田原征代までのことをしるす。 
卷六 

 

小田原いまだ落城せざる前かた。君と信雄と共に秀吉が笠掛山の新營におはしけるとき。秀吉この山の端に城中のよく見ゆる所あり。いざおなじくゆきて見んとて立出給ひ。やゝしばらく城のかたを見わたしながら軍議どもせられしに。秀吉いはく。この城落去せば城中の家作ども。そのまゝコ川殿に明渡して進らせんに。殿は此所に住せらるべきやいかにと問はる。君の御答に。後日はしらず。さしあたりては此城に住せんより外なしと宣ふ。秀吉聞れ。それは甚よからず。この所は東國の咽喉にて樞要の地なれば。家臣のうち軍略に達せし者に守らせ。御身はこれより東の方江戶といふ所あり。地圖もて撿するにいと形勝の地なり。その所を本城と定められんこそよけれ。やがて當地の事はてば秀吉奥州まで征伐せんと思ふなり。そのおり江戶の城に立より。かさねて議し申さんといはれき。かゝれは御轉封の事も江戶に御居城の事も。此陣中より旣に內々定議ありて。落城の後に至り秀吉より申出せしなり。さて御轉封仰出されしはじめには。こたびも北條がときのごとく。小田原に住せ給ふや。又は武家の先蹤を追て鎌倉に定居あらんかなどとりどり議しけるうちに。江戶に定まりければ。いづれも驚嘆せしとなり。そのとき秀吉。大久保七カ右衛門忠世をめして。汝はコ川家の股肱なれば。此城に箱根山をそへてコ川殿よりたまはるべしといはれし。これぞ大久保が家にて代々この城守る事の權輿なり。秀吉陽には當家の爲に重任をえらぶ樣に見ゆれど。實は東西變あらんときの事を思ひ。何となく忠世に私恩を施されしものなり。本多忠勝に佐藤忠信の胄たまひしと同日の所爲なりとしらる。(天元實記。大業廣記。落穗集。)
天正十八年七月小田原の城落去しければ。この度の勸賞に北條が領せし關東八州をもて。當家の駿遠三甲信の五國にかへ進らするよし關白申定られしとき。君御迁移の事を御いそぎ有て。同じ八月朔日にははや江戶の城に移らせ給ひ。又下々に至りては八九兩月のころおほかた引迁りすみければ。大坂へ御使つかはされ。五ケ國引渡さんと有しかば。秀吉大に驚かれ淺野長政にむかひ。三遠甲信の四國はいそがば此頃にも引移るべけれ。駿河は其居城なり。それを引拂といふも。速なるも限ある事なれ。いかでかくは辨ぜしならん。すべてコ川殿のふるまひ凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ。(大業廣記。)
小田原落城の前にさまざまの雜說ありて。北條がほろびし後は。當家の舊地を轉じて。奥の五十四郡にうつしかへらるゝなどいふ說もあり。井伊本多の人々。もしさる事もあらば。僻遠の地にかゞまりて重ねて兵威を天下にふるふことかなふまじとてひそかに歎息す。君聞しめし。もしわが舊領に百万石も揄チせば奥州にてもよし。收納の善否にもよらず。人數あまためしかゝへて三万を國に殘し。五万をひきひて上方へ切て上らんに。我旗先をさゝへん者は。今の天下にはあるましと仰られしとぞ。(續武家閑談。)
御遷移のころ榊原康政をめして。この城內に鎭守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎭守の神にもあらん。御覽あれとて康政ク導してその所に至らせ給ふ。小き坂の上に梅樹數株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと直に御拜禮ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ當城に鎭守の社なくば。坂本の山王を勸請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも當城うごきなくして。御家運の榮えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城壘開柘せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半藏門外に移し。明曆の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ。當家歷朝の產神とせられ。菅神の祠は平河門外にうつせしを。又麴町に引うつして舊跡を存せらる。今の平河天神これなり。(大業廣記。)
江戶城はさきざき北條がとき城代たりし遠山が家居。本丸より二三丸まで古屋殘れり。多くはこけらぶきはなく。みな日光そぎ飛州そぎなどいふものもてふけり。中にも厨所の邊は萱茨にていとすゝけたり。玄關の階板は幅廣き舟板を三枚ならべて階とし。その餘はみな土間なり。本多正信見てあまり見苦し。外は捨置せ給ふともこの所は御造營あるべし。諸大名の使者なども見るべきに。いかにも失躰なりと申上れば。君いはれざるりつばだてをいふとて御笑ひありて。そのまゝになし置れ。まづ本城と二丸の間にある乾濠を埋られ。その上は大小の御家人の知行割をいそぎ給ひ。榊原康政もて惣督とし。山藤藏忠成。伊奈熊藏忠政二人これを奉り。微錄の者ほど御城ちかきあたりにて給はり。一夜へだつるほどの地は授くまじと令せられ。また一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ。誠に御いそぎ故大かた一人一村かぎり。また隣村つゞきにて下されけり。この事終りし後御家人へ仰渡されしは。此度給はりし銘々が采邑に。手輕く陣屋を作り妻子を置。その身ばかり御城へ通勤すべしとて。别に城下には小屋をかけ。その身と僕從輿馬のみをさし置れしなり。路程遠きものは城下の市屋を僦居して日をかさね在府し。當直にあたればまうのぼり番簿に名をしるし置て。又一兩月采邑に歸住し。すべて簡易の事なりき。その後都下繁榮にしたがひおのおの宅地給はり。みづからの力もて家屋いとなむ事と成しなり。(落穗集。君臣言行錄。)
はじめて江戶城に入せられし時。御行裝を遙拜せんとて老若男女所せきまで御道のかたはらに並居たり。そのころ搶緕帚i名院とて。今の龍の口の邊にありけるが。住持存應和尙も衆人と同じく寺門に出て物み居たり。君御覽じ近臣して。かの僧は何といふと御尋なり。存應つゝしんで。寺は淨土宗にて搶緕宸ニいひ。貧道は存應と申候よし申す。それは感應。(大樹寺の住持。)の弟子の存應にてあてあるかと宣へば。さん候と申す。よて御馬を下り寺に入らせ給ひ御茶など聞しめし。明日又參らんと宣ひて明朝渡御あり。存應思ひよらざる事にて。寺のうち馳めぐりて御もてなし。齋飯すゝめたてまつる。君御氣色よく當家の宗門は代々淨土にて。三河にては大樹寺をもて香火院としつれど。當地にてはいまだ定れる寺なし。幸この寺同宗の事なれば。當寺をもて菩提所とせんと思ふ。よろづ供養の事和尙にョむなりと仰ければ。存應も世にかしこき事に思ひ感淚袖をうるほしける。さて師壇の御契約はこの時に定まり。のちに寺を今の芝浦に引移され。慶長十年はじめて堂塔刱建ありて。一宗の本山として代々の大道塲となされしなり。(啓運錄。事跡合考。)
按に一說に。いまだ小田原におはしませしとき。兼て江戶にて御祈願所になるべき天台宗の寺と。御菩提所になるべき淨土宗の寺を。えらぶべきよし命ぜられて搜索ありしに。淨土にては傳通院。搶緕宸フ二刹のみ。そがうち傳通院は窮僻の地なり。搶緕宸ヘ勝地にてかつ江城に近ければ搶緕宸菩提所にせられ。御祈願所は淺草の觀音堂しかるべしと申により。かの二寺の僧を小田原にめして謁見せしめ。そのよし命ぜられ。寺內に建べき制札を下されしともいへり。(落穗集。)
豐臣關白より。此度の御轉封により井伊。本多。榊原の三臣へはわきて加封あるべきに。各何程賜はらんやと有しに。十万石づゝとおぼしけれとも。十万とのたまはゞ關白その上に摯浮ケよといはれんは必定なりと思召。わざと六万石づゝ給はらんと仰つかはされしに。案のごとくそれにてはあまり少し。十万石づゝ給はれと指諭ありしかばそのことくに下されき。又領邑を渡すに繩をつめず。打出すやうにして割淚すべしと仰付られしが。これも關白より同じ樣の事申をくられしとぞ。(紀伊國物語。)
たんはんといふ者いと滑稽に巧なりしが。常に近侍して親幸を蒙りけり。江戶に御移ありしころ。あるとき黃金一枚持出給ひて。汝ほしくば中にてとれと。御戱れながら投給ひしに。たんはんあやまたす中にて取り。又二枚これもほしくばとらせんとありて投給ひしに。又中にて取れり。この外にも御手に持せられしをもたまはらんとねぎしに。いやいやとの仰にて御座を立せらる。本多正信御側より。たんはん追懸たてまつれとそゝのかす。たんはん殿樣御しはき事とて御後に從ひたてまつれば。上にも急ぎ後閤に入らせらるゝを。いよいよ追懸たてまつり。殿は戰塲にてもかく御後を人に見せさせ給ふやといひて。御諚口まで參り。ゑいゑいおうと高聲に凱歌をとなへて。もとのかたへひきかへせしとなり。このたんはんは下野の宇都宮が氏族にて。氏は失ひしが名をは大和といひて。一城の主たるものゝはてなるが。常々談伴に候して御かへりみ深く。後々は腰刀もはかず。たゞ遁世者のごとくにてありしとなり。(靈岩夜話。)
御舊領のうちにて。甲斐の國の轉ぜしをばことに御心とゞめさせ給ひ。常々その事を仰出されしなり。さればにや江戶にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて新に五百人ばかりめしかゝへられ。小祿の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武藏と甲斐の境界なれば。もし事あらんときには。かれらに小佛口を拒しめ給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡內に往來し。絹帛の類をはじめ彼國の產物を中買し。江戶に持出賣ひさぐをもて常の業とせしめしなり。(落穗集。)
關東にて名門舊族の。時世かはりて沉淪せしものどもをあまためし出され御扶助あり。宮原勘五カ義熙といふは古河御所晴氏が弟左馬頭憲ェが子にて。下總宮原に住せしをめし出され采地千石下され。のちに高家に列す。由良信濃守國繁は新田左中將義貞の後胤にて。代々上野金山の城主たりしが。小田原の戰の後太閤より所領召放されて流浪せしを。名家なればめし出て常陸にて采地給ひ。是も後に高家となさる。一色宮內大輔義直はもと足利家の支族にて。世々鎌倉古河の幕下に仕へし家筋をもて。めして武州幸手にて五千石餘の地を給はる。江戶太カ高政といひしは。江戶重繼より以來東國の舊家なるが。長尾但馬守顯長が家臣と成てありしを。江戶を稱するは憚ありとて。母方の氏を冐して小野と改め。御家人にめし加へらる。難波田因幡守憲次は關東管領上杉が幕下に彈正憲重といひて。武州松山の戰に歌よみて名高きものゝ末なれば。同じく召出され。また北條が家臣間宮豐前守康俊は。山中の城にて戰死せしかば。忠臣の後なればとてその子惣七カ元重はじめ。一族まで御家人となさる。太田新六カ重正は道灌入道が末裔たるをもてめし出され采地をたまひ。その姊のわづか十三歲になるも同じく御側ちかくめしつかはれ。名を梶とめさる。關原の役より茶臼山の御陣營の地を勝山と改め給ひしとき。汝が名も勝と稱すべしと仰られ改めしなり。この女後々御かへりみふかく姬君一所まうけしが。早世ましましければ水戶ョ房卿の御母代となされ。後に英勝院尼と聞えしは是なり。河田伯耆守泰親といふはもと上杉謙信に屬し武功の者なるが。後に北條にしたがひ上野國利根郡のうちにて三千貫の地を領せしが。北條ほろびて後戰死のものゝ首帳御覽ありしに。泰親が名なければ。定めて當地に居るべしとて。井伊直政に命じて尋ねしむ。泰親はさきに松枝の戰に深手負て。旣に死せんとするよし直政聞え上しかば。かねて聞をよびし忠實の者なれば。死せざらん前にみるべければ。籃輿にのせて連來れとの仰によて。板扉にかきのせて御前にすへ置ば。泰親が側近くよらせられ。いと御愁悼の御さまにて。此疵平愈せば不動山の城主とし。普第の大名に凖ずべし。それまで心のまゝに養生せよと仰ありて。當分の費用にとて月俸百口下されけるが。遂にはかなくなりしかば。その子の助兵衛政親未だ六歲なるを直政が家に養はしめ。年長ずるに及んで父の跡つがしめられしとぞ。(諸家譜。)
北條家の侍どもあまた召出されし內に。下總の臼井が子に吉丸。上總の東金の城主酒井が子に金三カ政成。兩人とも舊家たるをもてめし出され。後年伏見の城造營終て巡視せられしとき。吉丸御はかし持て從ひ奉りしが。とみの事にて履はく事ならねば。跣にて炎天の折から栗石の上にかゞみ居たり。金三カこれを見かねて履持ゆきて吉丸にはかせけり。その後同僚のものども。いかにも親友なればとて衆人みる前にて。同僚に履はかすることやあるべきと口々にいひ立れば。目付の者もすて置がたくて御聽に入しに。君にもかねて聞しめし及ばれ。金三カをめして御糺有しに。金三カそれがし唯今吉丸と同じ列に侍れども。そのはじめをいばゝ彼は主家にて侍れば。そが熱石の上にたゞずむを見るにしのびず。草履はかせしまでにて。深きゆへよしあるにも侍らずと申せば。仰に金三カ若年ながら舊主を思ひ本をわすれざるは。武士の道にかなひ神妙の事なり。その心ならば家康が恩をも恩とおもふべし。末ョもしき侍かなと御賞美ありて加恩たまはりけり。これより士風やうやく敦厚になり。一日たりとも頭役と仰ぎてその指揮受し者に對しては。後日に我身顯官にへ上りても。會見の折からさきの重役の人には。必禮義を慇懃にせし事となりしとぞ。(岩淵夜話。)
北條が比は法令惰弛なれば。八州のうらに博戱盛に行はれ。僧俗男女のわいためなく。みなおしはれて行ふことなり。かねて御舊領におはしませしときより。この事嚴斷せられしをもて。御遷徒あると直に。板倉四カ左衛門勝重もてきと嚴令を出され。博戱するものは見及びしまゝ追捕して死刑に行はる。ある日淺草の邊御狩のおり。博徒五人が首を梟木にかけしを御覽じ。罪人梟首するは衆人に見せてこらしめん爲なれば。五人一座の科ならば。某の月日何の地にて犯せしといふ事を札にかきて。人多くつどふ所にいくつも建置べしと命ぜられ。後には十人一座に捕得しは。十箇所にて誅戮し各所にかけしとぞ。かくおごそかに御沙汰せしゆへ。一兩年過て八州のうちにこの戱行ふもの絕果たりとぞ。(君臣言行錄。)
小田原の城に氏康柱といふあり。そのかみ北條氏康がときに。荒川何某といふ者逆意企し聞えありて。氏康衆中に於て手刄せしに。その太刀の鋒書院の柱に切込しを。後々まで大切にし蓋をかけ置て。見んとこふものあれば明て見せしめ。後に叛逆の者の懲戒にせしめん爲殘し置しなり。當家となりて小田原をば大久保七カ右衛門忠世にたまはり。忠世が子忠隣に至り。君御上京のおり小田原にやどらせ給ひ。忠隣めして。かの柱を供奉の人々に見せよと上意ありしに。忠隣うけたまはり。その柱の立し書院いと荒廢し。柱根も朽果ぬれば。近比立直せしにより柱も取すて侍りぬ。但むかしより玄關にかけ來りし鈴木大學が弓といふものは。唯今ももとの所に置ぬと申せば。聞し召れ。北條家は早雲氏綱が代には。豆相兩國のみ領せしを。氏康に至り次第に國を伐ひろげて。遂に東八箇國を全領せしなり。そのうへ氏康いまだ若年のころ。武州川越の夜軍にわづか八千の兵もて。上杉が八万三千の大敵を切崩し。武名を天下にかゞやかせし事。近き世にはめづらしき英傑といふべし。その名を負し柱なれば。朽たりとも根をつぎても殘し置ば。末々までみる人々武道の勵にもなるべきに。なぞゆへなくは取すてしぞ。心なき擧動なり。大學が弓などは折ても捨べきものをと宣へば。忠隣大に恐れ入て。惣身に汗し御前をまかでしとぞ。(岩淵夜話。)
三州大沼に住せる處士木村九カ左衛門定元は。此度遷徙の御供し。その子三右衛門吉Cは妻子引つれ。一番に江戶に馳參りければ。土井甚三カ利勝このよし言上す。君吉晴が年比住なれし地を離れ。速に馳參りしを賞せられ。御氣色斜ならず。旅裝のまゝにて出よと宣へば。吉晴革の立付はき。亂髮のまゝにてまみえたてまつる。かねて酒好むよし聞しめされ御前にて數盃下され。吉晴ゑひすゝみてこゝちよきさま御覽じ。伊奈熊藏忠政をめし。三右衛門は酒ずきなれば。よき地えらみて酒のまむ料につかはせと仰ありて。やがて相州高座郡のうちにて菖蒲澤村百名の地をたまはりしが。今にその邊にてこの領邑の事を酒手知行といふとぞ。(家譜。)
樽屋藤左衛門といふは水野右衛門大夫忠政が七男彌大夫忠ョが子なり。はじめは彌吉康忠といふ。長篠の役に酒樽をたてまつりしかば。織田右府に贈られしに。右府大によろこび樽とよばれしより氏を樽と改め。遠州町々の支配を命ぜられしが。こたび御遷移よにり。又江戶市街の事をつかさどらしめ。神田玉川水道の事をも奉り。東國の升の事つかさどらしむ。この外奈良屋市右衛門。喜多村喜右衛門といへるも同じく御舊領より引移り。樽屋と共に市中幷に水道の事を奉る。守隨兵三カといふは甲州にて秤をうりひざぐものなるが。これも御遷移をうけたまはり傳へて速に江戶に來り。多門傳八カ信Cをたのみ。井伊直政もて八州の權衡奉らん事願ひしかば。はるばる甲斐の國より馳參り神妙におぼしめせば。願ひのまゝ御ゆるしありて御朱印を下されけり。又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは。その祖大久保藤五カ忠行は左衛門五カ忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり。一向亂のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば。己が在所に引籠りてありしが。もとより菓子作る事を好み折々己が製せし餅をたてまつりけるが。御口にかなひしとて每度もとめ給ひしが。これもこたび御供に從ひ新知三百石たまひ。そが餅を駿河餅といひて時世うつりて後は。いとめづらかなるものとせり。これより後そが家世々この職奉る事とはなりしなり。(家譜。武家嚴秘錄。御用達町人來由。)
蒲生飛驒守氏ク太閤より會津の地たまはり。はじめて就封せし道すがら。江戶へたちより謁したてまつり。かねても親しくせさせ給ひければ。こなたにも殊に御喜スにてさまざま御饗應あり。こたび大國の主になられはじめての入部なれば。何がな馬の餞せんと思ふ。何にても望まれよど仰ければ。氏クもかしこみたてまつり。何某おもはざる大身になりて何も事欠ぐ事は候はねども。殊更の仰なれば一しほ請申事あり。唯今是へ出たりし色Kき老人の。朱鞘の大脇差さしたるは何と申者にて候か。いとめづらかなる士と見受たり。これを家人に申給て此度の入部の晴にせまく存ずるなりと申せば。君聞しめしいとやすき所望ながら。これは御望にまかせがたし。彼は曲淵勝左衛門吉景とて若年の比武田がおとなの板垣信形が草履取にて。その子の彌次カにつかへいと賤しき者なり。信玄讒を信じて彌次カを誅せしかは。信玄を主の仇なりとて度々伺ひけるほどの。不歒の思慮もなき者なれば。かの國に居ん事もかなはず。家康がもとににげ來り。今は見らるゝ如く老衰して何の用にも立ず。さるをまいらせてもかへりて當家の耻辱なれば。此義はゆるさるべしと宣へば。氏ク思慮なきにも老衰にもよらざれども。今の仰承れば深く御心かけてめしつかはるゝとみえたり。强ちに申請んもいかゞなり。此うへはせめて知人になりて。昔物語にても承り度と申すにより。御前へめし出て信玄勝ョ二代の間。合戰の事どもとりどり語り出て聞しめし。氏クもいと興に入けるとぞ。(岩淵夜話别集。)
御迁の後はじめて御上洛ありしに。蒲生氏クも會津の就封を謝せんため。同じく上京して御參會の折から。會津城經營の樣を尋給ふ。氏クいはく。會津の城は芦名家以來芝土居にて有しを。こたび石垣に築直しぬ。そもそも殿下今不肖の某をもて大國の重鎭となし。そくばくの地下し給ひし上は。せめて居城にても見苦からぬ程になし置んとて。國々の城地のさまを參見せしに。毛利輝元が安藝の廣島の規摸某が胸にかなへば。會津も是にならひて作出んと存ずる旨申上しに。すべて城の大小とその主の身分の大小にかなふがよし。本丸はじめ二三の曲輪は塀櫓迄。心を用ひて作出んはいふまでもなし。その外の曲輪一二の門舛形も同じく心を用ふべし。外郭の塀などは時にのぞみてもたやすくかくる事なるべし。無事のときは土居石垣ばかりにて置たるがよし。廣島のごとく外郭の塀までかくるには及ぶまし。松永彈正久秀が和州志貴の城に多門櫓といふもの二三の曲輪內に建置しは。居城の便などにはよきものなりと仰られしを。氏クつぶさに承りて感嘆し。その後歸國しかねての經營のさまをかへ。仰のごとく惣郭の塀をばかけず多門櫓たてんとせしが。いまだ竣功に及ばずして氏ク病にかかり身まかりぬ。よて後々に至りても會津城の三の丸に。塀櫓なきはこのゆへなりとぞ。(落穗集。)
この卷は關東へ移らせ給ひしおりの事をしるす。 
卷七 

 

聚樂の亭にて申樂興行ありしに。あるじの關白をはじめ織田常眞。有樂などもみなつきづきかなで。殊に常眞は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。君は舟辨慶の義經に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節節にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義經とも見えずとて諸人どよみ咲ひしとぞ。後に關白此事を聞れて。常眞がごとく家國をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといふべし。コ川殿は雜技に心を用ひられざるゆへ。當時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。又秀吉夜話の折近臣等。コ川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帶しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さまざまにて。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。關白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武邊衆にすぐれ國郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをかしこしとは申べけれといふ。其時關白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上關八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝれば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談會稿。岩淵夜話。)
案に醍醐花見の折。關白が近侍の輩君の御事いひ出てわらひ種にせしを聞かれ。家康が藝は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一も武略衆にすぐれ。第二は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大藝なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。コ川殿はなにがよければ。いつも殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ樣の事をさまざまに傳へしなり。
文祿元年正月二日聚樂の邸にて謠初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亞相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥にして。ゆくゆくは養子にして家繼せんと思へば第一座に定めしなりとて聽入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。君その樣御覽じ。利家しばしまたれよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の舊臣もみな歸服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むといふも。舊義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左袒するにもあらず。かゝらば秀信をば别に奥方にて。拜禮盃酌の議をすませられ。表樣にては秀次を一座につけ給はゞ。人心事躰に於て兩ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允當の御處置に感じ。仰のことくせられて謠初の式事故なく遂行はれしとぞ。(武邊咄聞書。)
關白あるとき君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を會集せし時。わが寳とする所のものは虛堂の墨蹟。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるゝ寳は何何ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。君ひとり默しておはしければ。コ川殿には何の寳をか持せらるゝといへば。君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舍に生立ぬれば。何もめづらかなる書畵調度を蓄へし事も候はず。さりながら某がためには水火の中に入ても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て。第一の寳とは存ずるなりと宣へば。關白いささか恥らふさまにて。かゝる寳はわれもほしきものなりといはれしとぞ。また秀吉ある時君に尋進らせしは。應仁このかた亂れはてたる世の中をおほかた伐從へつれど。いまだ諸大名己がじゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。君おほよそ万の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の當る所はなべて人の從ふものなりと御答ありしとぞ。(ェ元聞書。武野燭談。)
細川忠興入道三齋が。年老て後大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしといへば。いかなることとのたまふに。いつの年にか有けん。豐臣殿下の前にて。東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の道に於て。一度も不覺を取しことなしと廣言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感稱してあり。其時君ひとり御けしきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて宣へば。一座のものみな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。關白何ともいはず座を立て內に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は實に一時の戱言にて侍れば。コ川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いやいや武道の事はいかに殿下なりとも。そのまますて置べきにあらず。今日より殿下の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして關白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる樣なれば。いづれも案堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉君の御樣を試みむとて。わざとかかる廣言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて關白のたのみがたなき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる。御實意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下の英雄は只御邊とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ樣の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得ざるにぞ。(伸書。)
關白伏見にて。古今の名將の上の事をとりどり評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義經。楠正成なとこそ誠の名將とこそいふべけれといへば。關白。正成は戰の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諫の聽れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義經は梶原が姦惡をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからす。むかしはしらず今の世にては。家康に過たる名將はあらじといはれしとぞ。また關白諸大將の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざゝれしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御覽じ分られ候にやといへば。關白别にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金裝の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賤より起り數度の武功をかさねて。大國の主となりし人なれば。いにしへを忘れずして革ネを用ゆるならん。輝元は數奇人なればこと樣の裝せし品其差料ならむ。江戶の亞相は器宇ェ大にして。刀劍の製作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみなみの品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺。常山紀談。)
伏見にて太閤。君をはじめ前田利家。蒲生氏ク等を饗せられ。それより聚樂にて遊讌し。かへさに君の御亭に立よられんとあれば。君はかねてその御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守齋といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。君はとく聚樂よりまかで給ひ。茶をとりよせて御覽あるにわづかばかり殘りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守齋申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。監物も美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々瓜隼人政尙。殿下は只今にも渡御ならん。遲々しては間に逢ふまじ。㝡初の殘茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下來臨ありて。茶を進るに及ばすして歸られんともせむかたなし。人の飮あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしからずとて。いたくいましめられしとぞ。(碎玉話。)
豐臣秀長。織田信雄など。おなしぐ聚樂の亭にて夜中に游讌ありし時。蠟燭の心はねしに。君は何げなくおはせしが。秀長はおどろき座をたちし樣を御覽じ微笑し給ふ。秀長己が怯劣をわらはせらるゝかとおもひいるれる顏して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。君御邊や某などは一大事のあらん時は。殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心用ひてなるべきか。まだ若年におはせばさる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあげつろふ樣にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らひてやみしとぞ。(岩淵夜話。)
太閤が伽の者に曾呂利伴內といふいと口ときおのこあり。折折は君の御舘へも參り御談伴に候したるが。或とき伴內。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大K天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大Kはその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を辨ずる事ならざるをもて。大Kは袋をもちそが口を左の手にて括り。無用の事には財を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれかりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福祿を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大Kの極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬかでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。いさゝかさはるものなからしめむが爲に。常にはかぶりつめてあるぞ。是そ大Kの極意よと宣へば。伴內も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤のに座ありて此事いひ出して。太閤今の世にもわた持のいき大Kがあるをしりたるかと尋らる。伴內心得ざるよし申す。太閤いき大Kとはコ川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
山名禪高聚樂にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禪高にむかはせられ。御邊の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。是は故の光源院將軍。(義輝。)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねしゆへかく打切ぬといへば。よくも舊を忘れぬ朴實の人かなとおぼしてわきて御懇遇ありしばしば御館にも伺公せり。ある日禪高の申は。朽木卜齋はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜齋が粗忽は皆人のしる所なり。御邊の粗忽は卜齋に超たりと我は思ふと宣へば。禪高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜齋は粗忽ながらも祖先已來領し來りし朽木谷を今にたもてり。御邊が祖は六十六州の內にて十一ケ國を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さるをみなうしなひはて今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禪高はさまで羞赧の色もなく。げに尊旨の通りにて侍れ。何がし今は六分一の望もなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。又天正十六年の比君御上京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禪高も供奉せり。禪高三松へ應接の樣あまり慇懃に過しかば。還御の後禪高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへども。其祖は足利の支旅なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで數ケ國の大守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に對してかく厚禮をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を盡し。重く家國を振起すべしと仰ければ。禪高も殊にかしこしと思へりとか。(靈巖夜話。山名譜。)
聚樂にて談伴のともがらあまた。太閤の前に侍してよも山の物語せしに一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞てわれもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。コ川殿しばし待せ給へ。余の人々はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じくしたり。太閤われらが親なるものは。しらるゝごとくきはめていやしの者なりしが某を子に持れたり。某は親に劣りて子に事を欠よといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
浮田黃門が許にて秀吉はじめ申樂見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。君先立て下立せ給ひ。秀吉が履が直したまへば。秀吉手をもて君の御肩ををさへ。コ川殿にわが展を直させる事よといはれしとぞ。(老人雜話。)
奥の九戶に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍裝のとゝのひ次第出陣し。蒲生淺野に力をそへ九戶の軍事を相計るべしと命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は當家の執權なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。それにて事辨ぜざらん時にこそ直政をつかはされば。事躰におゐても允當ならんと申す。君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北條氏直などがかゝる事をばすれ。いかにとなれば事のはじめに輕き者を遣はし。埓があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さしむる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。後年筒井伊賀守定次罪ありて所領收公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政始め數人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戶にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事のはじめにおごそかにせし事を今さら手輕くせんも。事躰に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話。)
內府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたびすでに任槐の上は。御調度などもなみなみの品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を製して進らせられければ。かしこきよし謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるがよきかと仰らる。正信先年小笠原與八カが御方に參りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに。君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江の城飼郡を領して頗る大身なりしが。當家に參りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一國を己が物にせんと思ひて歸降せしをとくに察し給ひしゆへ。姊川の役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戰をせしめられし之。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし樣して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたびも豐臣家の待遇に乘て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戰せしと同じ例なりと。正信かおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊國物語。)
關白秀次違亂の前江戶へ下向し給にのぞみ。台コ院殿及び大久保治部大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に當て。太閤父子の間にかならず爭隙起るべし。さらむには太閤が方に參るべしと仰ければ。台コ院殿は謹で御承し給ひ。忠隣は當今の靜謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え在て。台コ院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんとはかりしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき樣にあつかひて太閤が方へいれ奉りし故。何の御恙もましまさで太閤も殊によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未來を察知し給ひしゆへ。かゝる不虞の變をも免かれ給ひしなり。秀次の變有し後御上洛ありしに。太閤待迎ひられ御手を取て。此度の大事コ川殿上洛を待付て處置せんと思ひしが。遲々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付ぬといへば。君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。關白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さるをかくはかなき事になされしは。おしき事ならずや。殿下いま春秋己にたけ。御子秀ョぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる變事の出來んに。關白かくしても世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此後も世の中の事みなコ川殿にまかするといはれしとぞ。(ェ元聞書。)
江城におはしませし時豐臣家の使來りて。朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。たゞ默然としておはぬ。本多正信折しも御前に侍しけるが。君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ。(常山紀談。)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は內藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫尙政。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戍らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上。卜齋記。)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は當家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の內意にて。當家の次は義宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あらば家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に從ひ奉る。太閤石田三成もて。コ川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝとなり。君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。ぞの代に政宗を後陣に押せつるなり。そもそも去年奥の岩出山佐沼の城經營の折。政宗若年といひかつ遠國者にて。何事もういういしければ。万事につきて家康が指諭をョむと有し故。こたびも家康が後に引付。過誤なからしめん樣にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せし如く當家の次に政宗と定められぬ。政宗君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の裝いかにも異樣なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の裝するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上。)
名護屋に赴かせ給ふとて。安藝の廣島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣瀉上彌兵衛。河村三藏。田大學の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。君樓上より大聲を發せられ田大學と呼せらる。大學仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大學かしこまり二人をやりし過し。己れ一人樓に上りて謁し奉る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先從を論ずるときく。いらざること之。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諫をいれよと宣ふ。大學速に立かへり直江にかくと申ければ。兼續も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざまの事はいましめ諭されしゆへ。御コに懷き從ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雜記。)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戰の樣はかばかしからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戰いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづから三十万の大軍を率ひて彼國にをし渡り。利家氏クを左右の大將とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の事はコ川殿かくておはせば心安しと有ければ。利家氏ク等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時君にはかに御けしき損じ。利家氏クにむかはせられ。それがし弓馬の家に生れ軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覺の名を取らず。今異城の戰起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸將の跡に殘とゞまつて。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連殿下の御先奉るべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。關白大にいかり。おほよそ日本國中において。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも殘る事なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひはなてば。一座何となくしらけて見えしに。淺野彈正少弼長政進み出て。コ川殿の仰こそげに尤と思ひ候へ。此度の役に中國西國の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北國奥方の人衆を召具して渡海あらば。國中いよいよ人少に成なん。その隙を伺ひ異城より責來るか。また國中に一揆起らんに。コ川殿一人殘りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡御あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の樣あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。關白いよいよいかられ。やあ彈正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。彈正いさゝか恐るゝけしきなく。抑應仁このかた數百年亂れはてたる世の中。いま漸く靜謐に歸し。萬民太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく國財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう龜が人にとらるゝと申譬のことく。今朝鮮をとらむとせらるゝ內に。いかなる騷亂のいできて。日本を他國の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りしとは申侍れといへば。關白事の理非はともあれ。主に無禮をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常眞前田利家などおしふさがり。彈正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ねば。君コ永有馬の兩法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事濟けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話别集。天元實記。)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉歸洛あるべしとするに及び。君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病躰心許なければしばらく歸京する所なり。朝鮮の事はコ川殿にまかせ置ば。いか樣の事出來るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はるばる浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつもてさるべく决せられよと有て。淺野彈正長政はじめ在陣の諸將をよびよせ。只今大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。大納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に歸洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよいよ當家へ心を傾けし者出來しとぞ。(C正記。)
名護屋陣中にて當家の御陣所の前にC水涌出て。外の陣所よりも人々來て是を汲ば。小屋を建番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人來りて强ちに汲取しかば。番人制すれども聽ず。かへりて惡言などいひ出しにより鬪諍に及び。おいおい侍分の者いでゝ兩方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝榊原康政二人出て制す。忠勝は澁手拭にて鉢卷し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。漸にしづまりぬ。君にははじめよりこの樣見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日當陣の見廻として。はるばる秀忠より使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ勞したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元實記。)
此卷は豐臣家聚樂の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。 
卷八 

 

慶長元年七月十二日地おびたゞしくゆりて。伏見城の樓閣悉く破損す。君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御對面ありてその無異を賀せられ。かつ速に內の御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大變にて陪從の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。コ川殿ともに參らせ給へ。その從士をかり申さめと有て。當家の陪從ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の邊おもく堪がたし。コ川殿の從臣の內に持せ給れとあれば。君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。とかうする內にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁來たれば。太閤輿に乘れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心には。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懷に入し鳥を殺す樣なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひしが。打惡しく隔たりしゆへ。間にあはでいと殘りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小氣者なれば之。小氣者よ者よと笑ひながら輿に乘られしかば。忠勝何ともいはずたゞ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。續武家閑談。)
ある時數寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶𣏐をとりあつめもてこよと仰付られ。そが內にてP田掃部が削りし𣏐六七本。筒に入て在しをとり出され。御手づから節の所より一つ一つに折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部豐臣家の內意を受て。蒲生氏クを鴆殺せし聞えありしかば。彼の所爲をいたくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元實記。)
大阪の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。君のまうのぼり給ふ道筋なれば。淺野彈正三成にむかひ。只今內府の通らせらるゝに。さるなめげの樣してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顏して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後に聞しめし。さてさてあやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。この長政は豐臣家にはゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。誠に御仁惠をかしこみ奉り。後に大坂奉行等が異圖企し時故有て武州に蟄居し。その末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年采女正長重十二歲にて江戶に參りたれば。御けしき斜ならず。同五年より台コ院殿につけしめられ。野州眞岡にて二万石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家Cが娘は御姪女なるを。養せられて長重に配せられ御待遇淺からず。おほよそ上方の大名の子弟當家に奉仕する事は。長重をもて權輿とするにぞ。又長政常に寵眷淺からず。君つれづれの折ふし長政を召出して共に碁を圍み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる擧動有しを。君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひたり。長政が身まかりしのち。しばしが程碁を圍み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと哀なる御事になん。(ェ元聞書。貞享書上。大三河志。)
慶長三年正月二日とみの事にて石C水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御愛想の事おはしませしゆへなりといへり。同じ夜關東にても御家人米津C右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をは繼ける
これは其頃豐臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆへに。當家は關東におはして。日にそひ御威コのそひまさらせ給ふにより。天意人望の合應する所より。かゝる瑞徵もおはしませしならん。(天元實記。)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納凉しておはしけるに。厨所より出入する下部の樣を御覽じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさまざまの物を懷にし。又は袂の內に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行屆かざるゆへなりとてむづからせ給へば。正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。君聞しめし。下人が盜竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そもそもそのかみ岡崎におはしませし程の御事は申までは候もず。M松にうつらせ給ひても。御分國廣大に成せ給ひしとはいへども。厨所のもの鰹節一本盜む事もならざりき。さるに當時關八州の太守にならせ給ひ。海內第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。國々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせらるゝをもて。かゝる盜人も出來れ。これぞ御家の榮へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御臺所と河のPは。いつもどむどむとなるがよいと申ごとくにて候と申せば。君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(靈岩夜話。)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志ある者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを撿出してとがむるもまた同じ樣の心なれ。其儘毁裂して捨よと仰付られしが。此後は果して絕てせざりしと之。(三河の物語。)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壺一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる爲にとて厨膳をたまひ。棋象棋双六の盤などまで遣はされ。隨分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壺二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番人等を慰勞せられ。殘の壺ども御覽じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せられし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壷を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこそ參るべきに。たゞ使にのみ渡しでよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈實におはしまして行屆かせられしゆへ。いづれも心用ひてあへて苟旦の事はなさゞりしとぞ。(紀伊國物語。)
豐臣太閤旣に大漸に及び。君と加賀亞相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比內府と共に心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀ョが十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後は天下大小の事はみな內府に讓れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す返す申されけれど。君あながちに御辭退あれば。太閤さらば秀ョが成立までは。君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は內府にョみ置つれば心やすし。秀ョ輔導の事に至りては。偏に亞相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も淚ながして拜謝し。太閤の前を退きし後に。君利家に向はせられ。殿下は秀ョが事のみ御心にかゝると見えたり。我と御邊と遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓狀を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし樣なりとぞ。(天元實記。)
太閤の遺命により。淺野長政。石田三成の兩人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り諸勢早々歸帆せしむべしと命ぜらる。その日の夕方仰殘されしむねあれば。高虎かさねて參謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡には留守の家老のみ在と申上しかば。君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹あるを察せられ。追々拔擢せられし程有て。萬事敏捷なる者なり。汝等聞置て後學にせよと仰れしとぞ。かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島津兵庫頭義弘泗川の戰に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に恐れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆歸帆せむと注進有ければ。高虎はしばし名護屋に在て渡海に及ばず。その年十一月に本朝の軍勢殘らず博多へ着岸す。二たび島津が勳切莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀ョ公御代始の事なれば。外々の三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て從はず。よて五奉行の人々その事申上れば。君の仰らるゝは。今秀ョ幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪ある者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれは。前田コ善院は愚僧も仰のことく存ずるといひ。搏c長盛は太閤おはせばこたびの加恩は十万石の內にてはあるまじといふにより。三成一人面あかめて在しなり。その後薩摩大隅兩國の中にて。島津に一万石まし給はりしとぞ。(天元實記。ェ永系圖)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮說區々にして人心おだやかならず。其比加賀亞相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亞相が心はわれよくしれり。さる反覆の者にてはなし。まして彼すでに病をつとめてわが方に來りしを。我遲々してゆかざらんには。かへりて世の浮說しづまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亞相もかく降臨ましませしを世に嬉しげにおもひ。病あつしくて衣裝を正すこともかなはず。されば上下をば側に置て見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す返すいひ出しかば。君にも其樣を御覽じて。哀におぼし召御淚をうかめられ。家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく還御なりぬ。亞相より家人コ山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮說もいつしか靜まりて。人心も何となく落居しなり。ある傳には。利家その子利勝をよびて。今日內府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗應の設共みなしつるといふ。さて還御の後かさねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白刄を取出し。さきに吾汝に問しとき汝さるべき答をせば。われ病中ながらも內府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず內府の掌握に歸すべし。されど汝等が事はよくよくョみ置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠ることなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戶田左門覺書。公程閑暇雜書。)
大坂の大老奉行等より安國寺惠瓊長老。生駒雅樂頭親正。中村式部少輔一氏。堀尾帶刀吉晴等を使として御舘に進らせ。近比君には故太閤の遺命に背かれ。妄に諸大名と緣を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のことく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。君聞しめして。我故殿下の終にのぞみ。幼主の事をかへすべす遺托ありしゆへ。日夜心力を盡してその爲よからんことをはかる所なり。さるに方方近比は何事も我に議し合されず。别人の樣に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたちそれがしも世にそしりを免かれなん。しかるに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穩當の所爲とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し關東へ下り。代りには武藏守をよび昇せて當地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指圖給はるべしと宣ひ。又安國寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身としてたが命を受て。みだりに三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ樣もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠瓊は面の色をかへ。わなわなふるひ出せしとぞ。同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺として伺公せしに。折しも物具取出されて御覽有しかば。この具足は故殿下の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して撿點するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に當りてたれか內府公に對し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊國物語。天元實記。落穗集。)
向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よと命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ。礫をもて打おどろかし給ひしとか。後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる惡徒どもの。燒草つみ置て燒立ることもあるものなれば。よくよく警しめねばかなはぬものなりと仰られき。向島の本邸におはしまして。古城の營築せしめ給ふ比。夜中など俄に路次口裏門などよりしのびて川岸まで出たまひ。江戶町といふ所にある小M與三カが家より御船にめして。向島の堤にのぼらせたまひ。向島におはするかと思へば。又俄に本邸に還らせられ。おほよそ一夜の內に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈從の者も親しきかぎり三人か五人に過ず。餘はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前橋聞書。卜齋記。)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備嚴重なり。御門を明て御長柄鐵炮など修理す。新庄駿河守直ョ伺公して。かゝる時はいかなる急變あらんも側り難し。御門を閉しめ給へといふ。君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄關にて用意するがよしと宣へば。直ョも盛旨の豁大なるに恐服せしとぞ。(落穗集。)
ある日向島の御舘へ。加藤細川の人々伺公して武邊の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと上意之。定政君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せしなどゝかぞへ立て。つぎつぎ物語せしかば。君の御武功はおのづから言をまたずして顯はれしとぞ。いかにも御稱譽の樣。よく其躰を得しと人々感じて。かく武功のものおほく持せらるれば。終末にこの君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土產。)
細川越中守忠興は兼て當家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が姦計にくみし。彼等の內議を聞出して一々言上す。ある日長束大藏大輔政家忠興にむかひ。今宵內府が舘を襲はむと群議已に一决せり。御邊も力を合されよといふ。忠興云。內府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戰をしかけなば。いかに利を得むやといつて從はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御舘に參りて。しかじかの由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つれ。もしさらむにはわが舘に火をかけ。東北の廣地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武コ大成記。)
おなじころ伏見の御舘淺まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六條門跡を御ョ在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずは京極宰相高次が大津の城に御動座あるべきかなど。とりどり議しけるに。君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。家康は敵を恐れて落たりなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の樣もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方のものもあへて手を下す事もならざりしとなり。この時井伊兵部少輔直政。關東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも在ん。もし不虞の變あらんにも。此人數にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。コ善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを內府はいさゝか御動轉なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき樣して沈靜持重しておはせしは。なかなか名將にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊國物語。三河之物語。)
加藤主計頭C正。同左馬助嘉明。淺野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。K田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戰にいづれも千辛萬苦して軍忠を勵み。武名を異城にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。歸陣の後太閤へさまざま讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人會議して三成を打果し。舊怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騷擾に及び。三成も窘窮してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義氣あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に來り。向島の御舘に參りてさまざま歎訴し奉れば。君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾ましまし。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰下されしは。當時秀ョ幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尙更なるべし。三成が舊惡はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。當地へまで逃來りし上は。おのおのの宿意もまづ達せしなればこれまでに致され。此上は穩便の所置あらむことこそあらまほしけれとの御錠なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳來り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて從服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そもそも三成當家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし救濟せしめたまふ御事。さりとはェ容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元實記。)
後年駿河におはしまして。今の世に律義の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律義なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の內に佐竹義宣が外は見たる事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大阪にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶持してわが方へ來り。さまざまこひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ目を付置。万一違變あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍裝して在しとなり。これは誠の律義人といふべけれ。關原の時は何れへもつかず國に蟄し兩端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に屬し忠勤を抽んでむには。本領はそのまゝに遣し置べきに殘りおほきことなり。とかく律義はよけれども。あまり律義すぎたるといふには。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有しとか。(駿河土產。)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豐臣太閤の命により肥前名護屋に赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事をあはれませ給ひ。さまざま申たまひ入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家臣伊集院源次カ忠眞日向庄內の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄內の地圖を御覽に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば俄に責落さむとせば。かへりて士卒あまた損ぜん。日を曠して糧の盡るをまたばおのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の事なれば血氣にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を傷はざらむ樣にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(ェ永系圖。)
慶長四年九月九日重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異圖あるよし群議まちまちなれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじめ宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。櫻の門迄おはしませし比。門衛の者扈從のものおほしとてとがむれども聞入ず。搏c右衛門尉長盛。長束大藏大輔正家出迎て案內し奉る。井伊本多等十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄關に伺公す。かくて奥方に通らせたまひ。秀ョ母子に對面したまひ。御盃ども出てとりどり御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其樣儼然たれば。城中にもかねての相圖相違して。敢て異議に及ばず還らせ給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舍者共にも見せ度と在て。酒井與七カ忠利をもて御供の者悉く召よばれて見せしめられ。內玄關より靜にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへどもいさゝか御平常にかはらせ給はず。人なき地をゆくがことく御處置ありて。鎭靜をもて騷擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるゝにぞ。(慶長見聞書。)
此卷は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騷擾の事どもをしるす。 
卷九 

 

慶長五年會津の上杉御追討の儀仰出されしころ。大坂の奉行人等いづれも。連署をもて御出馬を止め奉りけるは。近年東國打續き凶饑にして兵食もともしく。其上雪天にもさしかゝらば諸軍艱困すべし。當月はまづ思ひ止らせ給へといへども聽せ給はず。加藤主計頭C正も山岡道阿彌に就て諫め奉る條件には。第一當時かしこくも內府の重任を御身に負せ給ひながら御親征に出立せ給ふは。あまり輕忽の御擧動と世の人思ふべし。第二には今の御老躰にて。長途の御旅行いとゆゆしき御大事なり。第三には御出陣ありし御跡にて。奉行人等景勝といひ合せ。東西より一時におこりなば。御進退頗る難義なるべし。さらむよりは細川。福島。K田。池田。藤堂等の人々に征討の事仰付られ。それにてもいまだ御心危くおぼしめさば。伊達政宗。最上義光。堀久太カなどそへ給はゞ。いとたやすく軍功を奏すべし。御親征はとゞまらせ給へとなり。君聞しめし。C正が申所はさる事ながら。われ弓馬の家に生れ若年より戰塲をもて家としぬるに。近年かゝる重任をうけ軍旅の事みな忘れ果ぬ。幸こたびの征討は老後の思ひ出なればいさましくおもふなり。東西に敵起りたるとも何程の事かあらん。心安く思はるべし。C正には軍略智勇天下にその倫なし。こたび伏見に在て禁闕を守護せしめたくは思へども。筑紫邊の事心許なくおもへば。いそぎ歸國あつて其用意せられよと仰下されしかば。C正それがしも諸將と共に。東國の御先鋒奉はらんとこひ奉れども御ゆるしなし。遂に暇給はりて肥後國に下向しけるとぞ。(明良洪範。)
上杉御追討に立せ給はんとて。大坂の西丸にて諸人謁見し奉りしに。渡邊半藏守綱をめし。南蠻より舶來せし鳩胸の鎧に椎形の胄を賜ひ。汝年比忠勤を盡せしにより。殊更の思召もてこれを賜れば。この鎧着し一しほ若やきて。こたびの御先仕れと有て。附属の足輕五十人まして百人になされ。御供命ぜられしとぞ。(貞享書上。)
會津御追伐として下らせ給ふとて旣に大坂を打立せたまひ。伏見の城に御とまりありけるも。六月十七日の夜のことにて。鳥居彥右衛門元忠御前にいでゝ何事やらん聞えあげゝる。後に今度當城の留守人數少にて。汝等一しほ苦勞ならんと仰有けるに。彥右衛門申上けるは。恐ながら今度會津御進發は大切の御事なれば。御人數一騎も多く召連られてこそ然るべけれ。內藤彌次右衛門家長。松平主殿助家忠も御供命ぜられ。當城は本丸をそれがし守り。外郭を松平五左衛門近正に守らしめ給はば兩人にて事たるべしと申せば。そはいかゞと仰ありければ。元忠重て申けるは。今度御進發の御跡にて今日のことく平穩ならんには。それがしに近正兩人にて事たるべし。もし又世の變出來り大軍にとりかこまるゝに於ては。近國に後詰せん味方はなし。たとへ此上五倍七倍の御人數を殘し置せ給ふとも落城せんは疑なし。されば御用に立べき御人數を無益に留守させ。戰死せしめむこと勿躰なく存ずる故。かくは申上なりと申ければ。其後はとかうの仰もなく。其かみ駿河の今川のもとに人質として宮が崎におはしましける時。君は御十一元忠は十三にて。艱苦を共になし給ひし事など仰出され。御物語に夜もふけたれば。明日は定て早く御進發有べし。短夜に候へばはや御寢遊ばされ候へと申ながら。先も申上し如く會津表御進發のあとにて。上方筋别儀もなく候はゞかさねて見參すべし。もし又世の變も候はんには。これぞ今生の御暇乞にこそ候べけれとて。御前をまからんとせしが。老人長座して立兼し躰を見そなはし。小姓に命じ手を引て退座せしめ給ひしが。其跡にて近臣等御側へ出て見奉れば。しきりに御袖にて御泪をのごはせおはしましけるとなり。(落穗集。)
案に關原軍記に。元忠は御落泪ましましけるを見て井伊直政にむかひ。我君は御齡やうやうたけ給ひ御心臆し給ふにや。御少壯より駿遠三の合戰に險阻艱難を盡させ給ひ。今天下分めの御大事にいたり。御家人の身命をおしむべき時にあらず。それを我々が命を捨む事をいたましく思召は何事ぞや。われわれ如きが五百か千の命を捨む事。何のいたましき事あらんと大にのゝしりたりとしるしぬ。さる事もありしにや。
伏見を御立有て京極宰相高次が大津の居城に立よらせ給ひ。高次晝の御膳を獻ず。高次が內室。(崇源院殿御姉。)松の丸殿に始めて御對面あり。又高次が家人K田伊豫。佐々加賀。多賀越中。瀧野圖書。山田三左衛門。同大炊。赤尾伊豆。安養寺聞齋。今井掃部。岡村新兵衞等をめし出され夫々名謁し奉る。其內に淺見藤兵衛といふ名は兼て聞召しらせ給ひ。かれはしづが嶽にてはなきやと宣へば。高次仰の如く以前柴田が方に仕へ候と申す。君かれがことは年頃聞及びし者之。高次には元より士を愛せらるゝ故名ある者多く持れ。末ョもしき事かなとのたまへば。かの家のカ等ども承り傳へて。我等が事までかく御心にとめらるゝは。かしこき御事なりと思ひ。後に東西軍起りて高次籠城せし折も。諸人一しほ勇氣を勵ましけり。わづかの御一言にても。人心を興起し給ふ御事いとたうとし。(落穗集。)
大津を立せられて江州石部に宿らせ給ふ。水口の城主長束大藏大輔政家父子御旅館まで出迎へ。明日己が城中に於て御茶を獻るべし。願くは御駕を停め給へと申す。君其志の程を謝せられ。御腰物を賜ひて政家をかへさる。其夜戌の刻ばかり密に告者のありて。俄に石部を御立ありて。水口をばまだ曉深く過させ給ひ。御跡より渡邊半藏守綱を御使として水口に遣はされ。兼ては其居城に立よらせ給はんあらましなりしが。とみの事出來ていそぎ出立せ給ひぬ。いと殘りおほくおぼしめすよし仰せ遣はさる。政家大に驚き即ち守綱とともに追付奉り。井伊直政もていさゝか别心なきよしを聞え上しかば。御輿の側にめしてねもごろの仰あり。たゞ急事によて違約に及びしなり。いさゝか心にかくる事あるべからず御歸陣の折は必立よらせ給ひ。目出度御茶をもこはせ給ふべしなどねもごろに宣へば。政家もかしこみて犬山まで送り奉りしなり。この折しも石田三成は同國佐和山にありて。政家と牒し合せさまざま思ひまうけし事どもありしが。かく意表に出て神速に通御ありしゆへ。彼等が姦計はみな齟齬せしとなり。この時御供のものいづれも刀の下獅ノ火をくゝり付て通れと命ぜられしが。水口の土人是を見て。關東勢の鐵炮の數は。さてさておびたゞしき事よとて皆驚懼せしとぞ。(關原大成。武コ安民記。武功雜記。)
此度下らせ給ふ比の事なりしが。ある夜近臣等御側に伺公して御物語ありしに。此頃世上にて當家のうはさ何と申ぞと仰られしかば。米澤C右衛門正勝さらに正躰なしと申候。そのゆへは世にしるごとく。東西に敵をうけておはします事なれば。大坂の奉行等が人質を取かため諸大名も引付給ひ。伏見の城にもおほくの御人數をこめられ候上にて。會津の御進發あるべきを。さる事もましまさでたゞ御進發をいそがせ給ふは。さらに御正躰は候はぬと申ものと我等も存奉ると。さもにがにがしく御顏を犯し。思召にさはれかしと申上けれども。さらにかはらせ給ふ御氣しきもなかりしとぞ。また東征の御道すがら軍事にはいさゝかも御心をとめさせられず。朝夕たゞ鷹の手當のみを事とし給ふ。本多忠勝かくては當家の破滅近きにありと申せば。いやとよわが此ごろうつけたる樣に見ゆるは。かくせでかなはざればなり。まてまて今に汝等もよき事あらむと仰られしが。果して仰のごとく符合せしこそありがたけれ。(永日記。酒井家舊記。)
駿府の城過させ給ふに。城主中村式郡少輔一氏はこの頃膈を煩ひてあれば。此度東征の御供にも供奉かなはざるよし申て在城しける故。村越茂助直吉をもて一氏が病躰を尋たまふ。一氏しきりに御立寄をこひ奉れば城內に入せたまひ。城代田內膳が宅にて晝の御膳を奉る。一氏は歩行もかなはざれば人に負れながら。やうやう御前へいざり出て見え奉る。はじめのほどは一氏が病を申立て。御供を辭し申かと疑はせ給ひしが。此躰を見そなはして實にも哀とおぼしめし。一氏が手を取せ給ひ。かくまでの事とは露しろしめさず。今さらおどろき思召よし懇の上意ありて御淚をそゝぎ給ふ。一氏もなみだながし。この年頃御隣國をかためて每度失儀に及びしは。全く主命のもだしがたき所本意にあらず。こたび病あつしきにより御供にもるゝ事。老後の口おしさ是に過ず。愚息一學いまだ幼稚なれば。舍弟彥右衛門一榮を御供に奉るよし申。なからむまでの事をョみ奉る。今迄國境をかため抗衡の力をつくせしは。各其主のためにする所。いさゝか御こゝろにかけさせ給はず。一學が事は我かくてあらんほどは。心安かるべしとの仰を蒙り。そが家臣新村加兵衛。大藪新八カ。小倉忠右衛門三人を御家人になし申たきよしねぎければ御ゆるしあり。後に三人とも江州蒲生郡にて采地を賜ふ。かくて一氏には備前長光の御刀を下され。それより三枚橋の城にて一榮夕の御膳を奉り。一氏が病躰とても出陣はかなふべからず。汝兄が陣代勤むべしとて信國の御刀を給ひ。これより供奉に列せしとぞ。(關原大成。東武談叢。)
本願寺の光佐が。先妻の腹に設けし嫡子を光壽といふ。後妻の生し次子を光照といへり。光佐が死せし後豐臣太閤その後妻が美婦の譽たかきを聞及ばれ。めしよせて寵眷せられたるより。光照をもて光佐が嗣とし本願寺を繼しめ。光壽をば早く隱居せしめ。眞常院とて子院の住職となさしむ。光壽も我身犯せる罪もあらで面目をうしなひしを。君にも兼てさるまじき事とおぼしめしたり。さるに此度の戰の前に及び。光壽京を出て關東へ赴き金川の御旅舘にて見え奉り。愚僧が門徒の者ども美濃近江の間にあまた候へば。此度彼等に一揆をおこさせ。御味方をなさしめんと申せば。君その心ばへは奇特に思召せども。一揆の事はまづ無用にいたされ。御僧は是より江戶におもむきて滯留せらるゝとも。又は上方へかへらるゝとも。心まかせにせらるべしと仰られたり。其頃K田長政もまた一向門徒をして。上方に蜂起せしめむと勸め奉りしに。われ賊徒を誅するに。何とて法師の力をからんやとて聞せ給はず。其後慶長七年光壽が事不便に思召。特更の御執奏にて光壽を門跡になぞらへ。别に東六條に伽藍を營建して。一刹を開かしめ給ひしかば。光壽は彌陀如來の弘慈も是には過じと。世にかしこき事と思ひ。これより此宗東西兩派に别るゝ事とはなりしなり。(岩淵夜話。)
下野國小山の驛に御陣をすへられ。景勝追討の御計略をめぐらさるゝ所に。伏見を守りし鳥居彥右衛門元忠が許より注進しけるは。近日石田治部少輔三成其居城佐和山を出て大坂に赴き。同意の諸大名をかたらひあつめ。偏に當家を傾け參らせん結搆とおぼえたり。さだめて近日此城に責寄るべし。城中の御家人みな志を一致にして。堅固に拒ぎ守れば御心安かるべしとなり。君聞しめし驚き給ひ急に御使をもて。こたび從行の諸將を御本陣にめしよばれ。井伊本多の兩人もてかの注進狀を見せしめ給ひ。三成事昨年以來の恥辱を雪がむとて。異圖を企て諸大名をかたらふと見たり。景勝も定めて同意ならん。この事彼が心中より出しはいふまでもなけれど。秀ョが爲とある上は各も其命に背かむ事かたし。ましていづれもの人質大坂にあれば。それをすてゝ家康にくみせられん事。我ながら心ぐるしく思ふなり。抑軍國の習にて。けふは味方と見えしもあすは敵とならんことめづらしからず。されば今人々大坂にかへられんとも。家康などか怨を挾むべき。速に是より引かへして大坂へ赴るべし。路次の煩いさゝかあるべからすと。辭をつくして仰らる。そのとき何れもとかうの御答もせざる內に。福島左衛門大夫正則一人進み出。內府の仰はさる事なれども。此度の事全く三成が計より出て。天下を亂さんとするにまがひなし。人々はいかにもあれ。正則に於ては內府の御味方して。かの凶徒を誅戮せんと有ければ。K田甲斐守長政傍より。左衛門大夫が申さるゝ如く。某等も今更凶徒に與せん所存かつて候はず。たゞ存亡を。御當家とともにすべしと申ければ。其外一座の面々いづれもこの人々のことく。御籏下に從ひ奉らんよし各誓書を奉りけり。此事のはじめひそかに長政を御陣にめして。御密議あらむとせしに。長政とくに正則が陣所にゆきて。さまざまいひこしらへてのち。御陣に參りかくと申上ければ。御けしき殊にうるはしく。長政が忠誠にしてかつ才略あるを感賞し給ひけり。かゝれは會議の時に及び正則一番に御請申し。その外の人々もみな御味方に屬せしなり。(關原大成。藩翰譜。)
上方の軍議已に一决しければ。景勝が押には結城三河守秀康主を殘さるべしとおぼして。松平玄蕃允家C御使として。その旨仰遣はされしに。秀康主大にいかられ。上方の戰を打捨て此表に殘りとゞまらん事思ひもよらず。たとひ父君の仰なりとも。此儀には從ひ奉りがたしとて。御家臣梶原美濃守。原隼人兩人を玄蓄允にさしそへて御本陣に參らせ給ひ。上方出陣の事御願あり。君かの兩人をめし。三河守が年若き心にはさこそ思はれんも理なれ。御直に仰聞らるべき旨あれば。いそぎ御本陣に參らせ給へとあつて。來らせ給へば。御對面の上にて仰けるは。此度上方の敵は何十万騎ありとも。みな烏合の勢にて何程の事かあらん。抑上杉が家は謙信入道より已來。弓矢取て天下に並ぶものなし。景勝又幼弱の昔より軍の中に生長して武名遠近にいちゞるし。今かれに向てたやすく軍せむ者あるべからず。さるをおことがかたきにとらんは。此うへなきめいぼくならずや。その上此度上方へむかふ人々。又はその家人の人質みな江戶にとゞめつれば。もし關東の守かたからずば。諸人の心もおのづから堅からずして勇氣振ふべからず。彼是につけてもおことこの地にとゞめずしては。かなはざるなりと宣へば。守殿も終に領承し給ひければ。君も世に嬉しき御樣にて御淚をながしたまひ。御みづから御きせなが一領取出したまひ。扨此鎧は家康がまだ若かりし頃より身に附て。一度も不覺を取たる覺へなし。父が佳例になぞらへ。今度奥方の大將承て。名を天下に揚たまへとて進らせ給へば。守殿も心とけて御心地よく御受したまひしとぞ。このとき本多佐渡守正信守殿の御側にすゝみより。よくも殿は御受申させ給ひたり。大殿をして一統の功を立させ給ふも。此御うけの御一言にて定まりぬ。天晴內府の御子にてましますぞとて。御膝をたゝき立てスびしとぞ。さて後に守殿にも軍の機要を仰示されしは。景勝もし打て上るとも。宇都宮の邊にて支給ふな。やり過して利根川をこしたりときゝなば。諸勢一度に押出しその跡をつけしたはゞ。敵かならず取て還すべし。其時諸勢を下知して。一戰に雌雄を决し給へと仰られしとぞ。(武コ大成記。藩翰譜。)
津田小平次秀政はじめ織田豐臣兩家につかへ。この時君の御供して小山まで來りしが。上方の注進を聞せたまひ御けしきよからず。御側に伺公せし者も何といはむ樣もなくて在しに。秀政進み出て。やがて上方の逆徒を誅伐し。安國寺が調度を沒收せられんに。かれが珍藏せる肩衝の茶入を賜はらば。是をもて朝夕茶事を專らにし。大平を樂まんといひ出しにより。御けしき直り。いかにも汝が願をかなへてとらせんと仰られしが。後御勝利に屬しければ。兼て御ゆるしのごとく。かの茶入をば秀政に下されしとぞ。(家譜。)
小山の御道すがら近臣に向て。われ麾を忘れたり。あれなる竹林に入て。串になるべき小竹を伐てこよと命ぜらるれば切て奉りしに。帖紙をとり出給ひ。御鞍の前輪に當て切裂給ひ。竹にゆひ付て二振三振うちふり給ひ。景勝を切靡けんはこれにて足ぬべしと仰られ。後にまた還御のとき彼竹林を見そなはし。上方の敵を破らんは麾も無用なりとて打すて給ひけり。其折東西に大敵起りしかば。人心何となく恐れはゞかる樣なれば。かゝること仰られて人心を鎭壓したまひしなるべし。(常山紀談。)
小山より還御の折洪水にて。利根川の舟橋推流しければ。代官等かけ直さむかと伺ひしに。舟橋は全く會津に向により。諸軍の便よからしめん爲にかけしなり。上方へむかふには無用なれば改架に及ばずと仰有て。小山と古河の間にある乙女川岸より御舟にめされ。西葛西につかせられ。江戶へ御歸城ありしかば。人々その迅速なるに感じ奉りしとぞ。(士談會稿。落穗集。)
花房助兵衛職之といひしは。はじめ浮田黃門に仕へしが。かの家臣等が訴論の事により佐竹義宣に預られ。此度佐竹が方をのがれ出て御陣に參りければ。君こたび義宣石田にくみし打て出べきやと問せ給ふ。職之承り。義宣はきはめて持重の人なれば。切て出る事あるべからすと申す。さらば義宣かならず出まじといふ誓狀を書て奉れと宣へば。職之承り。父子の間といへども人心は計りがたし。この儀は御ゆるし蒙らんとて書て進らせず。君近臣にむかはせられ。助兵衛は兼て聞及びし高名の者なるが。將器にあらずと仰けるを。一座にありあふ者。何ゆへかゝる事仰らるゝかとあやしみ思ひけり。其後職之生涯落魄して終りぬ。後に人に語りしは。かの誓狀を奉れと仰せられしは。全く三軍の心を安からしめむためなれば。書て奉りし後にもし佐竹が打て出たりとも。何か苦しからん。さるを我心おさなくて。あまりかたくなにいなみて。誓書を奉らざりしこそ今さら遺憾なれ。名將の一言半句もおろそかには承るまじき事なりといひて。いとくひ思ふさまなりしとぞ。(忠士C談。)
案にこの職之後に大阪の役まで生ながらへ。松平左衛門督忠繼が手に屬し。肩輿に乘て出て拜せしかば御けしきよく。さすが平日武邊をふむゆへ。老かゞまりても出陣せしは。大剛の者といふべしと御感あり。またその子の池上本門寺に喝食と成て居しを召出され。榊原康政が一族に准へ。榊原左衛門職直とて台コ院殿につけらる。一旦御けしきに違けれども。其武功をば忘れたまはざるゆへなり。
伏見の籠城に佐野肥後守忠成は。兼て後閤の女房だち阿茶の局などあづかり奉りて本丸に在しが。大阪の奉行等より申むねありしかば。かの人々を伴ひて城を出。大和路へて相知れる者の方にあづけ置。引返して鳥居內藤等とおなじく討死す。此よし聞しめして。彼わが命をうけて女どもを預りたれば。それを守護してともかくも時宜に應じてよきに從ふべきを。いかなれば己が預かりし者をば人手に渡し。そが任にもあらざる籠城して戰死せしは。忠が忠に立ずおしき事なりと仰られけり。かゝるゆへにや死後にその祿三千石を收公せられ。子の主馬成職に俸米五百俵賜りけるとぞ。(續明良洪範。家譜)。
小山より江戶へ還御あると直に。上方へ御出馬あらんと一同思ひ居たりしに。御陣觸有し上にて廿日あまり御滯留なり。されどその間御家人へ命ぜられしは。何時によらず俄に御出陣あるべきも計らざれば。いづれも懈怠なく相守。御城の宿直に當りし節は。番所より直に御供せむ心組して上直せよと。その頭々よりいひ渡せしゆへ。いづれも草鞋路錢まで腰に付て宿直にいで。又二三日づゝ隔て番士を頭の宅へよびよせ。御供の用意油斷なき樣にいましめとなり。其折は御玄關の前塀重門の內には新に鎗立を作らしめ。虎の皮の御長ネ鑓を立ならべ。御書院の床の上には御馬印を立置れ。即時にも御出陣あるべき樣にて在しとなり。(落穗集)。
御出陣の前かた搶緕尅カ應和尙御前にいでゝ。この度御出馬により御領內の寺社にて。怨敵退散の御祈禱命ぜられんかと伺ひしに。いづれの寺社がよけむと仰らる。鎌倉の八幡宮こそ第一なれと申す。此神はわが若年の頃より朝夕祈念すれば。今改めて祈禱に及ばず。幸ひ靈武の神なれば常陸の鹿島大明神佛にては兼ての祈願寺に申付たれば。淺草の觀世音しかるべしとて。兩所へわきて祈誠懇丹を抽づべきよし。宮司别當等へ仰下されぬ。こは鎌倉右幕下平家追討の節の舊躅を遵行せられしなりとぞ。さて九月朔日より祈禱興行し一七日滿願により。兩所より使もて符籙を奉りけるが。十四日の夕方に岡山の御陣までもて參りしに。その日は中村右馬の手の迫合にて御陣混擾しければ。明日奉らむとてひかへしが。十五日は早朝よりの大戰にてその暇なし。十六日の晚方藤川の臺の御陣へ參りて捧ければ。御けしき大方ならず。已に御勝利の上は兩人とも馳歸り。この後は怨敵退散の祈を止め。天下安全の精誠をぬきむづべしと仰下されしとぞ。(天元實記。落穗集。)
先鋒の諸將海道打て馳上る內に。K田長政には仰聞らるべき事のあれば立歸るべしと。奥平藤兵衛貞治もて仰遣はされ。藤澤のこなた厚木といふ所にて。藤兵衛追つき其由申せば。長政引返し其夜御前に出しに。福島左衛門が心なを計り難しと宣へば。長政承り。かれ元より石田治部と不和なれば。更に御疑あるべからず。もし别心も候はんには長政いかにも異見を加へ御敵にはなし申まじ。其上にも聞ざらむには。それがし彼とさし違へんのみ。ともかうも正則が事に長政にまかせ給へと申せば。御けしきうるはしくて。長久手の戰にめされし齒朶の御胄に。鞍置る馬を長政に賜はりけりとぞ。(校合雜記。)
岐阜の城攻の撿點として。安藤治右藤門定次を遣はされ。戰訖て定次江戶へ參り。上方の諸將岐阜を攻落し。合渡の戰にも打克しと申上しかば。合渡より呂久川までの間に討れし敵の死骸は。いづれの方へむかひて在しと尋給ふ。みな大垣の方に向て臥したりといふを聞せられ。さては味方追討せしに疑なしと仰られて。御けしきうるはしかりしとなり。(古事談。)
此卷は會津御追討に下らせたまひ。下野小山より江戶に還御ありしまでの事をしるす。 
卷十 

 

上方の逆徒御誅伐の御出陣九月朔日と仰出されしに。石川日向守家成朔日は西塞なれば。日をあらため給はんかと聞え上たりしに。西方ふさがらばわれゆきて是を開かん。何のはゞかる事かあらむとて御出馬ありし之。この春奉りし年筮を占せられしに。習坎の初六を得させられしとか。其時前後に大敵を受けたまひし姿は。坎卦の爻の辭に云重險に陷とも申すべけれども。よく恐戒おはしませしゆへ。終に凶を轉じて吉になされしならん。(武コ大成記。武邊咄聞書。)
江戶を御首途の日外櫻田の御門にいたらせられしころ。濃州岐阜より井伊本多の呈書來り。去る廿五日石田治部が手の者を福島正則が家人うちとりしとて。その首級入し桶品川まで到來せしよし注進あり。搶緕宸フ門前にさし置べきよし命ぜられ。やがて御發駕あり。その比芝神明の社はいと小祠にて。本祠の前にわづかの拜殿あり。それへ渡御なりてかの首ども御覽じ。御門出の吉兆なりとて御けしき斜ならず。また搶緕宸ヨ立よらせ給へば住持の存應迎ひ入奉り。本堂にて御拜あり。しばし御やすらひありて程なく立せられしぞ。(武コ大成記。大業廣記。)
此度の御出陣いとしのびやかにおはしまして。御旗もしぼらせ御籏印御馬印も目に立ぬ程にせられ。三島に着せらるゝと。御馬印は熱田へもてゆけと仰せて。奉行人もそはでたゞ御小人ばかりにて御先へまかり立。大垣に着御ありて後はじめて旗幟などをし立て。いとおごそかに見えければ。上方勢はじめて目を驚かせしとぞ。(聞見集。卜齋記。)
岐阜に御着陣ありしとき厚見郡西庄村龜甲山立政寺の住持。大なる柹を献りけれぱ殊にめでさせたまひ。はや大垣が手に入たるはと仰られて。その柹をまきちらして近臣等に賜りければ。いづれもあらそひて給はりしとぞ。(天元實記。)
御進發の御道すがらさる僧をめして。汝今度の戰は勝敗いかにあらんと問せられしに。此僧答けるは。果して御負軍なるべしと申す。そのゆへいかにとなれば。大敵をたゞ一時に挫べしとの思召御表にあらはれ候。かくてはかならず御勝利あるべからずと申す。扨は何と思案してよかるべきにやと仰らるれば。願くは天下安泰に伐治め。萬民塗炭の苦を免かれしめ。諸寺諸社の頽廢せしをも興隆せむと。大悲の御兜に忍辱の御鎧をめされ。たゞ天地神明のために逆賊を征討せしめむ思召にさへましませば。御勝利疑あるべからずと御請せしかば。これ至極の理なりと感ぜさせ給ひ。この僧を戰塲にめしぐせられ。敵味方の戰死の者どもを。ねむごろにとむらはしめられしとぞ。(新著聞集。)
按に新著聞集に。關原の御道にて旅僧に行あひ給ひ。この說を尤と聞召軍陣にめし具せられしが。この僧後に搶緕宸フ觀智國師といふよししるせしは誤なり。源譽はこの時すでに搶緕宸フ住職し。また關原御出陣に寺社祈禱の事など勸め奉りし事もあれば。その時の事誤傳せしなり。
水野六左衛門勝成は井伊本多の指揮によて。曾根村にありて大垣の敵の鎭壓としてありしが。岐阜に御着あるを承り諸將とおなじく待迎へ奉る。君勝成にむかはせられ。曾根は險要の地ときく。諸手の人夫をもて兩三日のうちに。古城を改築せむ事なるべきやと尋給へば。勝成何ほど大勢にても中々五六日にはなりがたしと申す。さらば汝はこれまでのことく曾根にかへり備へよと宣ふ。勝成某はじめ御出陣まで曾根にあらむと中書兵部の兩人に約しつれば。いま御着のうへは御旗下に候ひて。戰功をはげまさんといふ。君汝などは外々の者とかはり。とにかく我等の事第一におもふべきを。己が一箇の功をのみ立むと思ふは。汝には似つかはしからざる事かなと警め給ひしかば。勝成理に服してまた曾根に引返せしとぞ。また坂崎出羽守成政戰の前かた御前にて。此度は某精力をつくして戰功を抽むよし申上しかば懇の御謝詞あり。近臣等出羽がしれたる事申すに。あまり御優待に過たる御答かなといへば。あの樣なる者には此樣にいふて置がよしと仰られしとか。(落穗集。武功實錄。)
九月十三日岐阜につかせ給ひ。翌朝御出立ありて御陣押の樣を敵に見せまじとて。大垣の方をよきて長柄川呂久川を渡りこし西の保山をへて。赤坂の後なる虛空藏山と南禪寺山との間なる余池越を通らせ給ふとき。諸大名御途中まで出迎ひて謁し奉る。この時御輿のうちより南宮山につゞきし敵のさまを御覽じ。御輿の傾く程御頭を出され。御またゝきもなく見めぐらしておはせしに。柳生又右衛門宗矩近よりて。此度御上意めでたし。いづれもこれにさぶらふと申せばはじめて御心づかれ。おのおの太儀に思しめさる。明日は早々戰を始むべし。かならず勝利ならむと宣ひしとなん。この時本多忠勝御輿によりて。筑前中納言秀秋御味方せむとK田長政をもて申出。すでに人質も取かはしぬと申す。何と秀秋が返忠するとか。さらば戰はすでにかちたりと高らかに仰ければ。諸人これを承りてよろこび勇むことかぎりなし。戰に及びて小西助右衛門正重。(家譜助兵衛或は助大夫とす。)西尾伊兵衛正義兩人を秀秋が備へし松尾山につかはされ。かの陣の體をうかゞはしめしにかへり來て。秀秋いかにも裏切すべき樣なりと高聲に申上ければ。その時は。かゝる事はひそかにいふべきものなれ。もしさなからむには。諸軍の氣をくるゝものなりと仰ありしとなり。(K田家譜。前橋聞書。古人物語。)
十四日大垣城中よりこなたの御出陣の樣を伺はしめんとて。浮田石田の家人ばら株P川を渡りて刈田をすれば。中村一學忠一が手の者出合てこれを追退け。川を渡りこす樣を御覽じ。あれ川切にをひとめはせずしてと仰らるゝうちに。果して又敵に追返されければ近臣にむかはせ給ひ。我等がいはぬ事か。あれを見候へとのたまひ。井伊兵部少輔直政。本多內記忠朝に仰付られ。諸勢を引上させ給ひしとなり。この迫合に有馬玄蕃頭豐氏が家人稻次右近。敵方山監物に組伏られし所を。右近が若黨監物を引倒して己が主に監物が首をとらせける。かゝる所にまた何者か來りてその若黨の首切てにげ去りぬ。後に御糺しあれば堀尾信濃守忠氏が家人の由なり。またく味方伐の事ゆへ右近その旨訴出しに聞召。何をいふぞかゝる打込の軍にはさる事もあるものぞ。その儘にてすて置と仰けり。同じ時敵方に白しなへの指物させし者。幾度となく後殿して引き退きし樣いかにも殊勝に見えければ。あの白しなへが武者振を見よと度々仰られしとぞ。これは石田がうちに林半助といひしものなりとぞ。(天元實記。)
戰の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か麓か山かといふを。山は山麓は麓といふべしと仰出され。又總軍の左の肩に角取紙を付られ。味方打なき樣にすべしと命ぜられしとぞ。(落穗集。)
十四日の夕方右筆關左馬之助をめして。明日軍果し後に關東へ遣はさるべき御書各狀三通に。江戶留守の者への連狀一通を認むべしと仰付られ。十六日藤川の御陣にて昨日の書狀はと宣へば。左馬之助かねてしたゝめ置しを御覽に備ふ。あて所は三河守秀康主。伊達政宗。最上義光へ一通づゝ。江戶の御留守は本城新城ともに連名に認むべしとありて一通殘りければ。左馬之助こは佐竹義宣が方へ遣はされんかと伺へば。いづかたへもつかぬものをと仰らる。左馬之助いづれへもつかずば猶更つかはさるゝがよけむと申す。いやいやとの仰にて。さて汝この狀をかきしに今十五日と書きしはさる事なれど。巳の刻とまで前方より時刻をはかりてかきしは。いかなるゆへかと問はしめらるれば。左馬之助敵は大軍味方は小勢なれば。巳の刻より午の刻まてにかたせ給はずはかならず御負なるべし。さらば御書も不用なりとおもひて。かくはしるし侍りぬといへば。御笑ありしとなり。この左馬之助元來善書のみにあらず。その才覺も御意にかなひければ。四百石賜はりて右筆の組頭のごとくにてありしが。後にまた加恩ありて使番になされしとぞ。(靈岩夜話。)
十四日の晚かたK田長政より。家臣毛屋主水をもて言上の旨あり。御前へめし出し御物語あり。敵は何ばかりあらむと問せ給ふ。主水御陣の緣のはしによりながら。某が見し所にては二三萬もあらむかとおもはるゝと申す。そはおもひの外の小勢かな。外々の者は十萬もあらむといふに。汝一人かく見つもりしはいかにとあれば。仰のことく總勢は十萬餘もあらむなれども。實に敵を持し者はわづか二三萬にすぎじといふ。こは金吾毛利の人々。かねて御味方に參らむといふを內々傳へ聞てかく申せしゆへ。君にも思召當らせ給へば殊に御けしきにて。御前にありし饅頭の折を主水に賜ふ。主水戴き御緣に腰をかけながら。饅頭を悉くくひつくしてまかでしなり。跡にて御側のものに。かれが本氏を尋置べきにと宣へば。毛屋主水と申す。いやとよ彼が毛屋を氏とせしは。越前の地名にてその本氏にあらず。毛屋にて軍功ありしゆへ。地名をもて氏とせしなりと仰せらる。末々の陪臣までの事をいかにして御心にとゞめられしとて。御强記の程を感じ奉れり。またこの日の夜半ばかり福島正則より祖父江法齋を使に參らせ。敵勢こよひの中に大垣を出て。牧田海道をへて關原表へをし出す樣に見え候。此方にも明日早天に戰をしかけ敵を切崩し候はむ。早々御馬を進め給へとなり。よて法齋をめし出し。正則が勸むることく御出馬あるべき旨仰聞られ。御湯漬めし上られ御用意をなさる。往年長久手にて三好秀次を切くづし給ひしこと語りいで給ひ。このたびも彼の大勢をどつと追崩してと仰られながら御馬にめさる。御胄はと申せば。いやいやとの仰にて。茶縮緬のほうろく頭巾をめして御出陣ありしなり。この時御手水をめし御陣の緣へ出おはしまして。近臣等をめし呼れ。敵の陣どりし山々の篝火を指し給ひ。あれを見よおびたゞしき事にてはなきか。夜あけばかの敵どもを蹈ちらさむ。汝等も父や祖父のつらにくそをぬるなと仰ければ。いづれも御前を退き。只今の上意を承りては血首を提て御覽に入るゝか。さなくば我々が首を敵にとらるゝか二つの外はなしと。いよいよ奮勵して勇氣百倍せしとぞ。(落穗集。)
十五日の朝勝山より關原へ御陣をすゝめらるゝとき。さてさて年がよりて骨の折る事よ。悴が居たらばこれほどにはあるまじ。內藤四カ左がこねば斥候に遣るべき者もなし。渥美源吾は居たらむよべとの上意にて。源吾勝吉まいりければ。敵の樣見てこよと命ぜられしが。やがて馳かへり。今日の御軍かならず御勝利ならむ。早く御旗をすゝめ給へと申。先手のかたに鐵炮の音聞ゆるやと問せ給へば。誰もいまだ御答せざりしに。年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戰はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鐵炮の聞えしが。今やみつれば。さだめて鎗合になりしならむと申す。さらば閧の聲をあげよと命ぜらるれば。いかにも恰好の時節なれと申す。その折御身をもたげいさゝか飛せられ。御輕捷の樣を近臣にしめし給へば。いづれもその御擧動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと惡言はくを。とがめもし給はでほほゑませ給ひておはせしとぞ。又辰刻ばかりに本多三彌正重御陣に參り。敵合遠し今少し御陣をすゝめ給へといふを聞せられ。口脇の黃なるほどにていはれざる事をと宣へば。三彌御次に退き。なんぼう口脇は黃なるにもせよ。遠さは遠しといひて居りしとなり。又朝のほど霧深くして鐵炮の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乘廻しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四カ右衛門某あやまりて。君の御馬へ己が馬を乘かけしかばいからせ給ひ。御はかし引拔て切はらはせ給ふ。四カ右衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで。御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英氣を發し給ふまでにて。後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語。落穗集。卜齋記。)
米津C右衛門正勝敵の首取來て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねてC右衛門と中あしければ。汝がしらみ首とるならば。我は胄附の首取てみせむといふて先陣へ馳ゆく。C右衞門はかの首を御覽に入しかば。使番つとむる者は先手の樣を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて胄付の首とり來てC右衛門に。これ見よ汝になるほどの事が我になるまじきかといひて。その首をば路傍の谷川に捨てけり。また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。戰のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへりしに。匠作これへと仰にてその功を慰勞せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れざりしが。後にきけば浮田が家に高知七カ左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者としらば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて兩度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穗集。明良洪範。)
この日辰刻に軍はじまり。午の刻におよびてもいまだ勝敗分れす。やゝもすれば味方追靡けらるゝ樣なり。金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うちうち聞えしがいまだその樣も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に來り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に變じしきりに御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鐵炮を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめしつれ山の麓より鐵炮うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へ下せしとぞ。(天元實記。)
この日の戰未刻ばかり全く御勝利に屬しければ。藤川の臺に御本陣をすへられ。御頭巾を脫せられて裏白といふ一枚張の御兜をめし。竹を柄にして美濃紙にて張し麾を持しめ兜の獅しめ給ひ。勝て兜の獅しむるとはこの時の事なりと仰られ。首實撿の式を行はる。諸將も追々御陣に馳參り。首級をさゝけて御覽に備へ御勝利を賀し奉る。一番にK田甲斐守長政御前に參りければ。御床机をはなれ長政が傍によらせられ。今日の勝利は偏に御邊が日比の精忠による所なり。何をもてその功に報ゆべき。わが子孫の末々までK田が家に對し粗略あるまじとて。長政が手を取ていたゞかせ給ひ。これは當座の引出物なりとてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にささせ給ふ。本多中務大輔は御前にありて諸將への御詞を傳ふ。福島左衛門大夫正則進謁せしかば。今日の大功左衛門大夫をはじめ。その外の者どもいづれも其働目をおどかしぬと申せば。正則忠勝が人數扱の樣げに比類なしといへば。忠勝おもひの外の弱敵にて候といふ。君中務は今にはじめぬ事よと上意あり。やがて下野守忠吉朝臣は手を負れ。布もて肘をつゝみ襟にかけて出で給ふ樣を御覽じて。下野は手負ひたるかと宣へば。朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる。井伊兵部少輔直政も鐵炮疵を蒙り靱に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ參り忠吉朝臣の勳功の樣を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと稱譽し奉れば。そは上手の鷹匠がしゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏藥を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政かしこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。其次に本多內記忠朝大太刀血にそみて。鎺元五六寸ばかり鞘にいらざるをさして御前に出るをみそなはして。忠朝若年なれども武勇のほど父祖に愧ずと宣ふ。織田源五カ入道有樂は石田が家臣蒲生備中が首を提げ來りしかば。有樂高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。入道が子河內守長孝も戶田武藏守重政が胄の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覽あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の樣して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の當家にさゝはる事をしり。御家の爲にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を拔きてその鎗を散々に切折りしとぞ。金吾秀秋は參陣遲々しければ。村越茂助直吉を遣はされてめし呼る。秀秋長臣二十人ばかりをしたがへて參り芝居に跪てあり。君御床机より下らせ給ひ。かねて懇誠を通ぜられしうへに。また今日の大功神妙の至なりと宣ふ。秀秋かたじけなき由を申し。明日佐和山討手の大將を望みこふによて御ゆるしあり。この時金吾が見參せし樣を見て。後日に福島正則がK田長政に語りしは。こたび內府勝利を得られしといへども。いまだ將軍にならせられしにもあらず。さるに秀秋黃門の身として芝の上に跪き手を束ねし樣は。いかにも笑止にてはなきかといへば。長政さればよ鷹と雉子の出合とおもへばすむ事よと笑ひながらいふ。正則こは御邊が贔負のいひ樣なれ。鷲と雉子ほども違はむかといひて笑てやみしとぞ。(武コ安明記。明良洪範。天元實記。)
十五日の申刻より大雨降出し。車軸を流すことくなれば。飯を炊く事ならず。御本陣より御使番馳まはり諸陣に觸しめられしは。かゝる時は飢にせまり生米を食ふものなり。されば腹中を損ずべし。米をよくよく水にひたし置。戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば。いづれも尊意のいたらぬくまなく。ゆきとどかせらるゝを感じ奉れり。さるに不破の河水溢れ出て戰死の尸骸を押流し水の色血にそみしかば。浸せし米もみな朱色に變ぜしとぞ。(落穗集。)
朽木河內守元綱はこの日の夜に入り。細川忠興にたより御本陣に伺公し。元綱一旦敵方にくみせし罪は遁るゝ所なしといへども。脇坂中務少輔安治が陣に屬し御味方の色をあらはしたり。あはれ御ゆるし蒙りて後日の忠功をはげまさしめむといふ。君聞召。其方などの如き小身者は。草の靡きといふものにて深く責るに及ばず。本領安堵これまでの如しと仰ければ。元綱も盛慮のェ洪なるに感じ。淚落して御前をまかでしとなん。(東遷基業。)
金吾秀秋等佐和山の城責しとき。城中に籠りし津田喜太カC幽といへるものは元御家人たりしをもて。船越五カ左衛門景直に命じC幽を城外へ呼出し。三成すでに敗北しぬ。城中の者ども速に城を明て歸降すべし。C幽は一度御家にも召使はれしものなれば。厚く恩賞あらむとなり。C幽某すでに身を城將に委するからは。これにそむかんこと本意にあらす。仰はかしこけれどしたがひ奉ること叶はずと申切て城にかへり。三成が弟木工頭一成に告。一成いかゞせむと議すれば。C幽三成にはコ川殿に敵對し給へども。君をばさまであしともおぼさず。いま三成と君の妻子を助けられば。撿使をうけて腹切給はんか。さらずば力の及ばむだけ防戰して討死せられんか。此二の外なしといふ。一成さらば最初の議にしたがはむとて。明日城を渡し奉らむにより。村越茂助を撿使に給はれといひ出しが。其うちに城中に違心の徒ありて本丸に火を放ち。寄手俄に責入しかば。一成はC幽に後事を托して自殺す。C幽は脇坂中務少輔安治が家人村P忠兵衛と戰ひ。忠兵衛を捕へ是を證として同僚十一人と同じくその塲を切ぬけ。御陣にまいりそのよし申上れば。汝そのかみわが家人たりといへども。近日の擧動かくこそあるべけれとて。C幽父子をめし出し。同僚十一人は大坂におもむき秀ョにつかへしめよとありて。大坂にて佐和山防戰の功をもてをのをの祿仕を得たり。C幽は後に尾張義直卿に屬せしめらる。一とせC洲御通行の折平岩親吉をめして。C幽はもと尾張の產にして。且二心なく誠實の者なれば。何事ぞあらむには一方の任をうちまかせても。あやうき事なしと仰られしかば。C幽も感淚をながし終身御詞のかしこきを人々に物語けるとなん。(家譜。)
この卷は關原御發向より御勝利の後までの事をしるす。 
卷十一 

 

關原の役に中納言殿は木曾路をへて。九月十三日大津の宿に御着あり。其日は御不豫とて御對面なし。あくる十四日御快然のよしにて。中納言殿はじめ奉り供奉の者までみな謁見す。中納言殿此度御遲參により。大事の戰に合せ給はざるよし謝し奉らせ給ふ。君の仰に。さきに參陣の期限申つかはせし使のもの。違言なきにしもあらざるべし。あながち心を勞せらるゝに及ばず。およそ此度のごとき大戰は圍碁と同じ樣のものなれ。樞要の石だにとり得ば。對手の方に何ばかり目を持し石ありともそが用にたゝぬものぞ。こたびの一戰にだにうちかたば。眞田がごときの小身は何ほど城を持固めたりとも。遂には聞おぢして城を明て降參せんより外なし。此度供奉せし者の中に。かゝる事議せし者はなきかと尋給へば。中納言殿戶田左門一西こそ上田表にてかゝる事申出せしとて。つばらに仰上させ給へば。供奉の人々の方を御覽じ左門と召されしに。一西聞得ざりしかば。中納言殿御高聲にてめし呼る。一西おどろきて御前へ出しに。御菓子を兩の御手にてすくはせ給ひて下され。汝は小身にて口がきかれざるな。やがて口のきかるゝ樣にしてとらせむと宣へば。一西あまりのかしこさにいまだ御請もせざるうちに。中納言殿御側より御懇の仰を蒙り。かたじけなきよし御執謝あり。これまで一西は武州鯨井にて五千石下されしが。明くる慶長六年江州膳所の城をあづけ給ひ三万石になされしなり。その時本多正信をめして。こたび膳所の城新築ありしが。この所王城に近くして樞要の地なり。誰に守しめむと問せたまへば。正信しばし思案して。戶田左門一西こそ武勇もすぐれ且天性誠實なれば。これに過たるはあらじと申せしにより一西に定まりしとぞ。(天元實記。明良洪範。)
加賀中納言利長は北國を切したがへ大津の御陣へ馳參り。土方勘兵衛雄久と共に謁し奉る。君御けしき斜ならでその功勞を賞せらる。利長。此度丹羽宰相長重はじめ逆徒にくみせしといへども。先非をくひ某に就て降謝をこひ奉るうちに。關原の戰すでに御勝利に屬しぬれば。今更忠功を勵むべき便なし。あはれ願くは一旦の科をば御ゆるしありて。後効を勤めしめむといへば。御邊が請るゝ所は何事も申すまゝたるべけれど。この事においてはかなひがたし。抑宰相が亡父長秀死期の樣武士の本意にあらずとて。故太閤のいかり大方ならず。すでにその所領をも沒收せられむとありしに。われ長秀とかねがね親好あるをもて不便に思ひ。かれこれといひなだめて本領安堵せしのみならず。長重また官位までも昇進せしはみなわが舊恩ならずや。さるを忘却して賊徒にくみし。剩御邊と干戈に及びし事死刑にも處すべき者なりと宣へば。利長なほまたさまざま言を盡して陳謝し。中納言殿も御傍より御解說ありしかばからうじて御ゆるしあり。利長のかくまでこはるれば。まげて長重が一命をばゆるしつかはすにより。小松の城を明て利長に引渡し。何地へなりとも立退べしとて。雄久をもて長重が方へ仰遣さる。利長また越前北の庄の城主木紀伊守一矩も同じく御ゆるし蒙らむとこひ奉れば。かゝる族は外々にもあるべし。城だに明退ば一命をばゆるし遣すべしと仰られしとなり。(天元實記。)
石田治部少輔三成。大谷刑部少輔吉隆二人が行衛しれざれば。田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる。この時三成はなみなみの者にあらざれば。けふ落人となりても明日は又いかなる企せむもはかりがたし。しかるを田中一人に搜捕せしめらるゝはいかなることにかと私議するものあり。いくほどなくて吉政石田を捕へ出て進らせぬ。その時の仰に。田中はかねて治部と中がよかりしゆへ。いさゝか嫌疑なきにしもあらざりしが。此度の功によてわが疑ははれたりと仰ければ。諸人はじめて盛慮の深遠なるを感じ。もし此度吉政石田をとらへ得ざらむには。その身いかにあやうかりなむといひ合りしとぞ。(武功雜記。)
石田三成をとらへ來りし時その狀をたづね給へば。三成關原の戰敗て後伊吹山に逃入り草津の驛に出しが。天運のつくる所にて。折しも腹病を煩ひ出し。詮方なくて身を樵夫にやつし獘衣を着し。腰に鎌を挾みかくれ居りし處を捕たりといふ。御前伺公の徒。かゝる大逆を企る者が。死をおしむことのうたてさよと口々にいへば。聞召て。おほよそ人は身を全してこそ何事も遂るものなれ。大望をおもひたつ身にては一日の命も大事なり。末練といふにあらず。早く衣類をあたへ食事なども喰るゝ樣にして進めよ。もし病氣ならば醫者にも見せしめ。よく扶助してよろづ不自由ならざらむ樣にはからへとて。父の仇なれば鳥居彥右衛門元忠が子久五カ成次にあづけらる。成次仰のごとくねむごろにいたはりしゆへ。さすがの三成も淚流してその厚意を感ず。數日へて成次見え奉り尊意の辱きを謝し。且亡父元忠が一命を奉りしは全く君の御爲なれば。あへて三成が所爲とも思ひ侍らず。元より私の遺恨あるべきにあらず。さりながら三成は天下の御敵なれば。餘人にめしあづけられむかと申上けしに。御感ありて。本多上野介正純に預けられしとぞ。(岩淵夜話。鳥居家譜。)
十九日御上京の御道すがら。何者ともしれずKき具足を着。鹿毛の馬に乘り。金のさいづちの指物さして御路の先を行者あり。其あはひ十町ばかりもへだてり。供奉の者は心付ず。さだめて大名の使番にてもあらむかといふ。君にははるかに御覽じとめられ。あらためよと宣ひて速に物色せしに。敵方の落人なれば。成敗せよとありて路傍にて切捨にせしとなり。(明良洪範。)
浮田黃門秀家は戰負て後伊吹山へにげ入り。家人進藤三左衞門正次といふ者たゞ一人附從へり。正次秀家にいふやうは。日ごろ君が御身に附られし烏飼國次の脇差は衆人の知る所なれば。これを某にたまはらば。某コ川殿に參りはからはん樣あり。御身はいかにもこの地を遁れ薩摩がたへ下り給へとすゝめて。正次かの脇差もて本多忠勝が陣に參り。某主の秀家を手にかけその死骸をば深くうづめ。差料の烏飼國次の脇差を持參したりと申せば。忠勝何ゆへ撿使をうけずして。ひそかに秀家が尸をうづめしといへば。正次厚恩の主なればたとひ手にかくるとも。いかで其首敵に渡し梟木にかけむや。抑此脇差は秀家が常に愛して身をもはなさゞりしことは。內府公にも知しめせば。御覽にいれ給はれといふ。忠勝これを御覽に入れしにまがふべくもあらず。かれ秀家を害せずばよも當家に降ることはあるまじとて御家人に召加へらる。其頃人人。主を害して己が功にせむとす。後にはいかなる御誅伐にあはむもはかりがたしと咡きけり。さて秀家は虎口をまぬかれ。からうじて薩摩へ下りけるが。後にそのよし聞え。かの國に仰ごと下り秀家をめしよばる。よて正次が前言の齟齬せし事を糺明に及びしに。正次承り。いかにもはじめは秀家を遁さしめむとて詐言を申せしなり。主の爲にこの身を失はむは元より期したる所なれば。この上はいかなる重科にも處し給はれといふ。この旨聞召。己が一命をすてゝ主をすくはむとせしは。あつばれ忠義の者かなと御賞詞ありて。ありし月俸をそのまゝ賜はりたり。秀家が八丈島へ遠流せられし後も舊恩を忘れず。しばしば海舶の便に米金を送るよし聞えしかば。これも御感にあづかり采邑五百石賜はりしとなん。(武家閑談。ェ永系圖。)
按ずるに家譜には。初正次秀家に從ふこと三日にして。その後は行衛を知らずといひ。又仰により關原の邊にゆき國次の刀を求め出て獻り。後に秀家薩州にあると聞えてめしよせられ。正次が事を御糺しあれば。かれ秀家にしたがふこと五十日あまりなりといふ。しかるを三日といひしは。全く主のためをおもひ詐言をいひてその期を延せしは。げに忠臣といふべしとて御感ありしとなり。おほかた本文とおなじ樣にして。いさゝか異なり。こゝに附記して一說に備ふるのみ。
大津の城巡視ありしに山岡道阿彌御供にありて。此度京極高次上方の大敵を引うけ。數日の防戰感ずるに堪へたり。たゞ一日を持かゝへずして明退しは。近頃殘多き事なりと申せば。何と仰らるゝ旨もなく。たゞ奥平九八が長篠籠城の折は此樣の事にてはなし。戰終て後見たりしに。壁は土をふり落して籠の如く。戶板は鉛丸にうちぬかれて障子の如くなるを。莚疊をたてかさねなどして持こらへたるはと御物語ありしとなり。(太平雜話。)
本多佐渡守正信中納言殿の御供して。二條の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。妙心寺のうち壽性院が弟子になりて。すでに幼年より釋徒にも成てある事なればゆるし給はれとかの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば。正信承りそれは早く御許あるべし。三成は當家へ對し奉りてはよき奉公せし者なれば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあらむと申す。君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄意にかかる事企てずは御勝にもならず。當家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は當家への大忠臣と存ずれといへばほほゑませ給ひ。おかくずもいへばいはるゝものとの御戱言ありしとぞ。(靈岩夜話。)
按ずるに此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には濟院和尙といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。
關原の役すでに終て大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉の人々をめし。我男子あまたもてるが。いづれにか家國を讓るべき。汝等おもふ所をつゝまず申せとの仰なり。正信は三河守殿こそ元よりの御長子といひ。智略武勇も兼備はり給へば。此殿こそまさしく監國にそなはらせ給ふべげれと申す。直政は下野守忠吉卿然るべしといひてやまず。其外もまちまちにして一决せず。忠隣一人爭亂の時にあたりてこそ武勇をもて主とすれ。天下を平治し給はんには。文コにあらでは大業守成の功を保ち給はんことかたし。中納言殿には第一御孝心深く。謙遜恭儉の御コを御身に負せられ。文武ともに兼ね備らせたまへば。天意人望の歸する所このうへにあるべしとも思はれずと申し。其日はそのまゝ何とも御沙汰なくして各退去せしめられしが。一兩日過て先の人々をめし。忠隣が申す所吾が意にかなへりとて。遂に御議定ありしとかいひ傳へし。抑中納言殿年頃儲位におはし。御官途も外々の公達より進ませ給ひ。すでに關東へ御遷ありし時。諸臣及寺社等へなし下されし御書は。皆中納言殿の御署狀なれば。儲位の定まらせ給ひしはいふまでもなく。その比より旣に御位をも讓らせ給はむ尊慮にてありしなれば。この時に臨みかゝる異議おはしまさんにもあらねど。關原御凱旋天下一統のはじめなれば。なほ群臣人望の歸する所をこゝろみ給ひしものなるべしと。恐察し奉る事なれ。(武コ大成記。烈祖成績。)
この戰終て後しばし大坂の西丸におはしまし。井伊。本多。榊原の人々して此度諸將の勤怠を糺し。忠否を明にせしめ。天下の機務を議せしめられ。本多上野介正純して訴訟のことを司らしむ。又この人々を中納言殿御方に進らせ。此度の闕國もて有功の者に宛行むとす。さるにてもまづ御居城をばいづくに定め給はむか。江戶をもてその所となされむかと御意見を訪はしめたまふ。中納言殿御答には。某年若くして何のわきまへか候べき。天下を經理せむにさりぬべき所をもて御居城と定め給ふべきか。しかればいづれも盛慮にまかせらるべしとなり。よて遂に江戶をもて御本城となし。秀ョをば大坂に居らしめ攝津河內の兩國を授けられぬ。其比老臣等申上るには。こたび逆徒等秀ョが名を借て大亂を起せしも。全く坂城の險要をたのめばなり。このまゝさし置れば。後々とても同じ姦計おもひ立もの。出來むもはかりがたしと申せば。君秀ョ元より幼穉にして何事をかしらむ。さるを今當城を追のけて他所に引うつさば。天下において利ありとも。われ何ぞこれをなすにしのびむやとてきかせ給はず。片桐市正且元をもて秀ョが輔導たらしむ。かくてぞみなその公平仁慈の御處置に感服して。天下一同安心せしとぞ。(武コ大成記。)
福島左衛門大夫正則は此度の大功により。安藝備後の兩國を賜はり。はじめて襲封を謝し謁見せし時。家長三人も謁をゆるさる。第一備後神邊の城主福島丹波は。片足なへて進退思ふ樣ならず。第二同國三好の城主尾關石見は兎缺なり。第三同國本條の城主長尾隼人は一眼なり。(一說隼人は長みじかく耳遠く。左手きかずといへり。)いづれも片輪なれば御側に侍せし者思はずに咲出ぬ。謁見終りて後御けしきあしく。汝等かの三人の不成なるを見て咲たるな。凡人はいつの時いかなる働して片輪にならむもはかりがたし。かの三人は武勇の譽たかき者どもなれば。正則が家にても追々に家長にまで取立られ。家康が目通にも出るとあるは。なんじやう榮耀の事ならずや。されば汝等が悴心には彼等にあやかり度と思ふべきなり。さるまことの心付なきゆへ咲も出るなれ。惣じて武士は生れ付ぬ片輪になるものよと覺悟をきはめねば。武功はなし得ざるものなれ。我心には彼等をば。汝ごとき若者には煎じても飮せたく思ふなりと御教諭ありしかば。人々何事に付けても尊諭のかたじけなきことゝかたみに感じ思へりとぞ。(岩淵夜話。校合雜記。)
土方勘兵衛雄久。大野修理亮治長の兩人も本領安堵を命ぜらる。この兩人は先年大坂の奉行等が內意をうけて君を害し奉らむとはかりし者どもなれば。此度そが一命をたすけらるゝだにあるを。本領安堵とはあまりェ典に過たると申者ありしに。いやとよかの兩人奉行の指揮をうけて。家康をだに害せば。秀ョが爲にならんと一すぢに思ひこみしは。我に對しての敵なれど。秀ョがために忠臣といふべし。まして今度修理は淺野幸長に屬して岐阜の城をも攻め。又關原の戰にはわが本陣に伺公して。石田が備へ矢の一すぢも射かけ度と幸長もてこひ出。敵方に名あるものをうちとり頗忠勤を抽でぬ。雄久も小山より我使を奉りて北國に赴き。前田利長と共に諸事を相議し。わが爲に馳廻り一かどの微功なきにあらず。古人の舊惡を思はずとこそいひしに。ましてかの兩人の所爲秀ョが爲を思ひしなれば。舊惡といふにもあらず。かたがたその功を賞すべきことなりと仰られき。漢の高祖が丁公を誅して雍齒を賞せし故事よりも。なほェ宥の御所爲ははるかにまさらせ給ふと。人みな仰服し奉りしなり。(岩淵夜話。)
淺野左京大大幸長は此度の戰功によて。甲斐の國を轉じて紀伊國三十七万石に封ぜらる。就封のゝち後藤庄三カ光次暇給はりて。熊野祠へ參詣して還り謁せし時。汝は熊野のかへさは幸長が許へも尋ねしや。幸長何をもて汝をもてなせしと問はせ給へば。さむ候幸長紀伊河と申す所へ舟行せし供に參り。網引し魚など捕なぐさめ申し候。又山狩鷹狩に出し折も參りしが。これはいと目ざましき見物にて候ひき。それにつきたゞ某が思慮の及ばぬ事の候。はじめの度は雉子山鳥あるはむじなの獲物多かりしかば。さだめて歡喜ならむと思ひしに。其日はさむざむ腹立て。勢子奉行はじめすべて役懸の者みな勘事に逢ぬ。次の度は何の獲物もなければ。さだめて不興ならむと存ぜしに。おもひの外心地よげにて。諸役人殊に出精せしとて。慰勞の餘それぞれに賜物とらせぬ。これぞ今に考へ得ぬ事にて侍れと申ければ聞召。汝等が思慮には及ばぬ筈なり。幸長が所爲は眞の鷹山にて。物數の多少による事にてなしと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長五年二月廿八日今上(後陽成院。)第二の皇子政仁(後水尾院。)親王宣下あり。御母は近衛信尹公の女之。帝かねて御寵愛ましまして御位をゆづり給はむとおぼす。しかるに是よりさき中山大納言親綱卿の女の腹に生れさせたまひし第一の皇子良仁(後仁和寺覺深法親王。)を。親綱コ善院法印玄以と相議し。豐臣太閤にこひて菊亭右府晴季公もて奏聞し。先立て親王宣下ありしにより。ひきこして政仁を坊に立給はむこともはゞかり思召けるが。このころに至りその事內々仰せ進らせられ。御內慮をはからせ給ひしに。君もかねて良仁を親王にせられし事よしとも思召ざれば。御答の趣には。子を知るは父にしくはなしといふは古今の通議にて侍れ。臣もまた男子多くもてり。何れをもて嗣子とせむも臣が思ふ所にありて。他人の議すべきにあらざれば。朝家においても一二の皇子いづれをもて皇嗣に定め給はむも。みな叡慮にこそまかせらるべけれ。但し第二の皇子は槐門のよせ重くおはしませば。坊に居給はん事しからむかと御奏聞ありしにより。天感なゝめならずして。遂にその議に决せられしとぞ。(武コ大成記。)
關原の御一戰に上方の凶徒すでに天誅に伏し。四海一統して當家の御威コを仰ざる者なし。然るに年へてもいまだ將軍宣下の御沙汰なければ。內よりも御けしき給はり。諸大名の中よりもよりよりいひ出しものもありしとか。其比藤堂和泉守高虎。金地院崇傳侍話の折から何となくこの事いひ出。世にははや將軍宣下の慶賀聞えあげむなどいふよし申しければ。君聞かせ給ひ。さる方の事はいそがぬ事ぞ。只今さし當りては天下の制度をたて。萬民を撫育して安泰ならしめむこそ急務なれ。まして諸大名どもゝ國替所替等にて。いづれも多事なるに。我一人己が私をはかるにいとまあらむやとて。御心にもかけ給はぬ御樣なれば。兩人御謙コの厚きに恐感して退きしとなん。(落穗集追加。)
慶長六年十月伏見を御立ありて。あくる十三日江州佐和山に着御あり。城主井伊兵部少輔直政は頭役の者ども引つれ。中門番所に出てまちむかへ奉る。御輿ちかくなればいづれも平伏してあるに。足輕の中に一人首をもたげて。何事やらん聞えあげたり。通御の後直政が頭役の者糺聞せしに。その足輕すゝみ出て。御糺までも候はず某にて候。年久しく見え奉らざれば。久々にて御目に懸るといひしのみなりと申す。頭役いよいよ驚愕し。これ全く狂人の所爲なれ。いかゞせむとて同僚と相議してある所へ。本丸より中門の番頭よびに來れば。さはこのことならむと思ひ。そのものゝ腰刀もぎとり番人附て警めよといひ捨て馳ゆきしに。直政さきに通御の折から。上へ向ひ。御久敷と申上げし者のあるを承らずやといへば。さん候。しかじかのよしにてその者いましめ置きぬといふ。直政いやさる事にあらず。その者に知行あたへよとの上意なれば。新知百石申付るなり。番ゆるして家に歸らしめよとあれば。番頭は思ひの外にてまづ安心し。立ち返りてその事申渡す。直政かさねて御前へ出でしに。かの足輕には何ほど知行とらせしと御尋あれば。百石遣はしぬといふ。君御頭をかゝせられ。よくよく役にたゝぬやつならむと仰られしとぞ。この足輕は直政がいまだ年若くて御小性勤め。寵眷ふかゝりしころ。御庭ちかき邊に直政が家居作らしめ折々渡御ありし時。この者も直政に給事して御前へも出でしゆへ。上にも御見覺ありてこたびその舊故をおぼしめし出て。かくは仰下されしなり。(天元實記。)
慶長六年十二月關西の諸大名に課して京二條を營築せしむ。その折城溝の狹きにより二間堀廣げしむ。池田三左衛門輝政。加藤左馬助嘉明等は今少し廣くせむと申上げしに。いやこれにてたれり。もし世變出來てこの城せめ圍るゝとも。しばしがほどはもちかゝゆべし。そのうちには近畿の城々より後詰も來り。とかうするうちには江戶より大勢はせ上るべし。さらばせばきと思ふがよし。萬一敵にせめとられし時。味方より取返さむにも便よし。功力をついやすに及ばずと仰られぬ。又ある時の仰に。堀は幅をせばくほり。下には鎗を振廻さるゝほどにするがよし。又城の方をなぞへにむかひを急にすべし。水のある堀もせばくて船の自由にならぬほどがよし。寄手へ鐵炮のちかくあたるもよし。江戶の西丸の外堀は廣くほり過ぎたりとて。其ころ御不興なりしとかいひ傳へし。(古人物語。)
二條にて御物語の次。當時天下には加藤肥後守C正に及ぶ者はあるまじと宣ふを。折しも本多佐渡守正信空眠して居しが目を見開き。殿は誰が事をほめ給ふかといへば。加藤肥後がことよと宣ふ。そは太閤が時に虎之助といひし小悴が事かと申せば。肥後が事を知らぬ者やあると仰せらる。正信某年老いて物忘れすることのうたてさよ。されど殿は信玄謙信始め數多の名人の上を御覽じつくされし御目にて。加藤などのことほめ給ふはいかにぞや。さるにても加藤が爲には上なき名譽なれといへば。肥後が事はわれよくしれり。當時西國のことまかせ置ぬれば心安けれども。かれには一つの疵あればひたぶるにたのみがたしと宣ふ。正信何事にて侍るかと申せば。物にあやうきこゝろあり。今少し心落付ば實に立幷ぶものはあるまじと宣ふ。正信上意の如くあやうきこゝろありて。剛氣に過しは大なる疵なれ。武田勝ョもかゝる癖ありしゆへ。遂には國をも失ひしなれ。おしむべしべしといふ。折しも末座に京の商人など陪して承り居しが。後にC正に告げ知らせければ。C正さては君には我を心あやうきものとおぼすよと心付て。これより物ごと愼密にして持重になりしとなり。後年正信が子上野介正純この事を父にとひければ。正信こは實にC正をほめ給ふにあらず。そのころ當家草創の比なれば。彼もし鎭西の人々にすゝめて。秀ョに與黨せしむるならばゆゝしき大事なれ。彼のあやうき心なくばと仰せられし御一言を承りしより。彼何となくおもりかになりて。生涯過誤なくて果てしなり。これ君の御智略の深遠にして。凡慮のはかり知るべきにあらず。それをたゞそのこととのみ思ひて我にとふは。汝が智慮の淺きとやいはむ。その心にては天下の機務をとる事がなるものか。よくよく工夫せよと諭しけるとぞ。又正信後にはC正としたしくなりしに。ある時正信內意をうけてC正に諷諭せし事三箇條あり。第一は當時西國の諸大名みな浪華に着岸すると直に。駿河江戶に參覲する事なるに。C正はいつも大坂に數日とゞまり。秀ョの起居を候してのち東國へ參覲す。それにも及ぶまじ。第二は近頃諸大名參覲の折。從兵も昔よりは减少せしに。C正は以前にかはらず多勢を召具するは目立ちていかゞなり。第三には當時C正が樣に面に鬚多く生し置くものなし。謁見の折など異樣に見ゆれば。これを剃落さればいかにとなり。C正きゝて。この三條御邊の詞をまつにも及ばず。某もかねて心づき。世の譏評にもならむかと思ひつるが。さりとて又改めかぬる事どもなり。御邊も知らるゝ如く某はじめは故大閤の拔擢によて肥後半國を賜り。當家になりて小西が舊領をまし賜はり。一國の主となりしは。當家の御恩はいふまでもなけれど。そのかみ舊恩うけし太閤の御子のおはす所を。よそに見て空しく通らむは武士の本意にあらざれは。今さらこの事やめがたし。次に參覲の陪從を减ぜば。費用も省き家臣もよろこぶべき事なれども。西國の大名常は在國して。御用の折のみ召るゝならばともありなむ。近頃のごとく交代して參覲するからは。何ぞ臨時に御用仰付られむもはかり難し。さらむには領國遙に隔たりて。國許の人めしよばんに急遽には來らず。すこしなりとも當地に有合ものどもにて御用を辨ぜむ爲に。餘人よりは多くめしつるゝなれば。これまた减じがたし。三つには頰鬚すり落さば我もさぞ心すゞしくなりなむと思へども。年若きよりこの鬚に頰當をし甲の獅しむるに。その心地よさいふばかりなし。今かゝる御治世に出逢ても。心地よさの忘れがたさに。思ひ切て剃り落しがたし。御邊が懇志もていはるゝ事を。一條も承引ぬとありてはいかゞなれど。今も申すごとくなればよく聞き分けて。あしからず思はれよといひしかば。正信思ひの外にてその旨言上せしに。C正がいひごとかとばかりにて咲はせられしとなん。(駿河土產。)
慶長十年台コ殿より淺野彈正少弼長政に。常州眞壁にて四万石。江州愛知川にて五千石下されけるを。長政あながちに辭し奉れば。長政を召して。此度の賜地を辭するは汝が一代の不思案なり。嫡子紀伊守こそ大國を賜てあれども。右兵衛采女の兩人もあるにいらざる謙退ぶりかな。將軍よりくるゝとあらば。なに程も貰ひ置て。子孫の爲にせよと上意ありしによて。其明日御請を申上しとなり。(天元實記。)
この卷は關原御勝利の後慶長十年ごろまでの事をしるす。 
卷十二 

 

慶長十年四月征夷の職御與奪ありて將軍家は江戶におはしまし。君には駿府の古城を御修理ありて御居城とせられ大御所と稱し奉る。その頃皆朱玳瑁の鎗は。殊さら武功の者ならでは持しめまじきよし仰出されしに。此度修理奉る細川越中守忠興が丁塲のうちに。皆朱の鎗持せしもの。菖蒲皮の立付をはきて。下吏三十人ばかりめしつれて指揮するものあり。目付の輩みとがめてその名をとふに。細川がうちに澤村大學なりと答ふ。よてその事聞えあげしに。その澤村は若き折は才八といひて。小牧の役に太閤二重堀に砦をかまへ。あまた人を籠置しに。われ長久手の戰にうち勝ちしかば。太閤も二重堀たもつ事ならで退かむとしけれども。もしわが小牧より追討む事ををそれ。みづから數万の兵もて塚といふ所にそなへ。二重堀を明けのくを。織田信雄追うちして彼軍敗北せし時。細川越中一人後殿して信雄が軍と戰ふ。その時この澤村一番に鎗を合せしをわれまのあたり見及たり。かゝる剛勇の者に皆朱玳瑁の鎗は持しめむがためにこそ。なみなみの者には禁ずべしと令じたるなりとの仰により。大學は大に面目を施し。かしこさ身にあまり感泣せしとぞ。(天元實記。)
御隱退の前かた將軍家へ仰進らせられしは。小身の旗士へはわきて目をかけてめしつかはるべき事なり。同じ大名といふうちにも。三河以來の譜代より拔擢せられ万石につらなりし者は。當家と興亡を共にすれども。外樣國持の輩にいたりては。各そが家を大事と思ふからは。時にしたがひ勢につき。たゞ家名の長く存せむことをもて主とするは古今の常態なれば。これまたふかくせむるにたらずと宣ひしとぞ。(駿河土產。)
駿府へ移らせ給ひし年の十月江戶へおはして。これまで江戶の西城に貯へ置れし黃金三万枚。銀子一万三千貫目をそのまま將軍家へ進らせらる。その時江戶の老臣へ仰ありしは。これは御身の奉養にもちひ給はず。天下の物と思召て此うへにも積貯へ給ふべし。平常の國費は年每の入額もて辨じ。成だけ浮費を省き金貨を多く貯へ給ふべし。かく貯へ給へといふは何のためなれば。第一は軍國の費用に備へ。第二は不虞の大災にて。御居城はじめ城下の士民まで燒亡にあひて艱困せむに。これを賑救あらむがため。第三は日本國中に守護地頭を建置て。万民飢渴せざらん設はあるなれど。またいかなる凶荒打續てそが力も及ばざる時には。上より守護地頭に力をそへて。それぞれに頒布して救荒の政を施されむがためなり。これぞ天下の主たる者の本意なれ。かゝるをもて當年の入額何程餘分ありとも。あだに心得てさまで功績なき者に。みだりに新地與る事あるべからず。將軍にはいまだ年若き事なれば。このゝち男子いくばく出生あらむもしれず。これまでわが末子にとらせし祿額もあれば。將軍の子達もこれに准じ。五万七万ばかり遣はしては國體においていかゞなり。故に天下の祿額のかねて减ぜぬ樣にいたし置事經國の第一なり。その旨よく心得て。將軍にも申上よと仰せられしとぞ。(駿河土產。)
これも御隱退の前かた。江戶より本多佐渡守正信御用奉て駿河へまかりし時正信に仰られしは。我若年の時は軍務繁多にして學問するいとまなし。よて生涯不學にして今此老齡に及べり。さりながら老子がいひし詞なりと人に聞置しは。足る事を知て足る者は常に足るといふ詞と。仇をば恩をもて報ずるといふ二語は。若きほどより常に心にとめて受用せしなり。將軍にはわれと違ひかねがね學問もせらるゝ事なれば。さだめて聖賢の格言どもあまた心得てあるべければ。この語のみをもちひられよといふにはあらざれども。汝等が心得までにいひ置なりと宣へば。正信感銘して江戶にかへりそのよし申上げしかば。將軍家直に御硯をめして。御みづから右の二語を記し給ひ。御座右に糊して置せ給ひしとぞ。其後また金地院崇傳に命じ。この語を大書せしめて平常の御座所にかけ置れて常々御覽あり。その御親筆はゆへありて內田平左衛門正世が所持せしを。大猷院殿聞し召てその子信濃守正信に仰下されて。御取よせありて御床にかけられ。麻の上下めして御拜覽ありしとぞ。(駿河土產。)
江戶老臣のうち誰にてかありけん。江戶より御使奉りて駿河へまかりしに。御前近く召れ。汝は將軍の心に叶ひてつかはるゝと見えて。此度も使に越されしな。おほよそ主の心にかなふはいとかたき事なるに。かくめみせよきはかしこき事なり。かゝるに付ても汝が心懸また第一なり。すべて大小の諸臣をして將軍へおもひつかしむるも。又怨をふくましむるも。みな汝等が心ひとつにある事なり。第一主人の氣に入り威權の歸するにしたがひて。驕奢の心いつとなく出來る者なれば。わが身の尊くなるにしたがひ。いよいよ愼謹にして物ごと粗略にすべからず。また人を推薦するにもいさゝか私意なく。その人品の邪正をたしかに見定めて。性質良忠にして奉行頭人にもなるべき器あらば。我と中あしくとも私隙をすてゝこれを登庸すべし。第二は重役のくせにてをのれ一人して万事を沙汰し。人には何もいはせぬ樣にしたく思ふ心の出來るものなり。この心あらば何程聰明にして才幹ありとも甚害あるものなり。これを物にたとへば。舁夫の駕輿をかくに。其長同じ程の者が二人あるうへに。また添肩の者がありてこそ。長途險所をもかき行なれ。いかに剛力なりとも一人して輿かくことはかなはず。その身の長短つり合ねばあやうき事なり。天下國家を治るは上もなき重荷なれば。その重荷を持こらへて落さゞらんために。數多の諸役人を建設け。それぞれの位祿をも與へ置なり。さるををのれ一人して主の對手になりて擔當せむと思ふは。大なる心得違なれ。舁夫に添肩のあるがごとく。よき老臣あまたあつまり。奉行頭人もそれぞれ任にかなひ。何事も思ふ所をつゝまずうち明て相議し。殊さら善とおもふ事をとりもちひば。万民も歸服し天下長久の基なれ。すべて和漢とも世々の名臣といはるゝものは。一己の功を建むとのみ思はず。賢哲を撰み材能をすゝめて。主の資とするをもて第一の急務とす。汝等常々この旨同僚と相議し。輔導のたすけあらむ樣に心がけよと仰られしとぞ。(駿河土產。)
駿河にて宰相ョ宣卿の邸へ渡御あるべき御あらましなりしころ。土井大炊頭利勝はいまだ御側近くつとめしころなりけるが。此度の事により彼邸にまかりて。安藤帶刀直次が諸事指揮する樣見習へと仰付られ。利勝日每に彼方にゆきて見しに。諸役人帶刀が前へ出て。このことはいかゞせむと議するに。己が意にかなふことは領承し。かはざる時はいやあしゝとばかりいひて何の指揮もせず。よてその者同僚と重議せしうへにて出てうかゞふに。又意にかなはざれば幾度もかくのことし。終に允當を得て後許容することなり。利勝おもふに人の物をとふにあしとばかりいはむより。直にかくせよと指揮あらばそのこと速に辨ぜむといふ。直次某犬馬の齡すでにたけて。このうへは死なむのみなり。かく諸役人を遇するは。若き殿に人物を作りなして進らするなり。我指揮をうけてさへすればすむとのみおもへば。人々何事にも思慮を用ひず。万事未熟にてよき人物は出來ものなりといひしをきゝて。利勝大に感じ。こゝが君の見習へと仰られし所ならむと心付。後々機務を司るに及びて。下僚より議する事あるとき。わが意に應ぜざれば。そはさる事なれどもまた何とか仕方もあるべきか。同僚に相議してかさねていひ出られよ。同僚にて辨ぜずば親族または家臣とも商量して申されよとありて。いよいよ評議をかさねて理にかなへば。いかにも尤之。その通にてよしといひしとぞ。これも君の御教諭によりて。利勝後に天下の良佐となりけることゝ人々感歎せり。(古諺記。)
何役にや欠員ありし時土井大炊頭利勝をめして。何がしは人物性行いかにと御尋あり。利勝承り。その者は常に臣が方に出入せざれば。人物の善惡聞え上がたしと申す。君聞し召し御けしき損じ。なべて諸旗本の善惡を知らぬといはゞわが非理なれ。いまとふ所の者はさのみ人にしられまじき程の身分の者にてもなし。さるをしらずといふてすむ事か。汝等は家人の善惡を常に見定めて。わが用ひん時にいひ聞かするが主役なれば。いづれにもしらずといふ事を得ず。汝をかゝる心かけの淺露なる者と知らで。年若ながらも用にも立むと思ひて。老職に登庸せしはかへすべすもわが過誤なれ。よくよくかうがへて見よ。惣じて武邊の心懸ふかく志操あるものは。上役に追從せぬものぞ。されば重役の許に出入せざる者のうちに。かへりて眞の人物はあるなれ。そが中にて人材を撰ぶこそ忠節の第一なれ。いま雜庫のうちに名高き刀劍埋れてありときかば。たれもほり出しわれにしめしよろこばせんと思ふべし。刀劍は何ばかりの名作といへども治國の用にたゝず。我常にいふ所の寳の中の寳といふは。人材にしくはなしといふ語を空耳にきくゆへ。かゝる卒爾の對をもすれ。汝等が方へ朝夕立入りして相知れるものばかり出身するならば。諸人の心立次第にあしく。みな阿諛謟侫の風になりはてん。おほよそ家國の體は人の一身の如し。人身の元氣衰ればかならず死するごとく。大名の家にても人々耻を知り義を守るは一藩の元氣なり。諸人の義氣うすくなり。鼻はまがりても息さへ出ばとおもふ樣になりゆき。主の恩をかしこしともおもはず。たゞ眼前をよくとりかざり。互に觀望するをもて巧智とし。人心次第に澆漓して家法の頽敗するにいたりては。遂に亡滅の基引出すなり。汝が只今の失言はさしゆるすといへども。この後はきとつゝしみていさか粗忽のことなく。わが命をよくよく遵守せよと誡め給ひしとなり。(岩淵夜話。)
一とせ尾張國御通行の時。薩摩守忠吉朝臣に御所望ありて。その國の鍛工のきたひし小刀剃刀の類を供奉の面々へ下されけり。その時朝臣むかしよりこのかた御武邊の御物語うけたまはり度よしを仰上られければ。古きはなしをきゝ度とある心懸ならばよしと宣ひしのみにて。别におはなしはなかりしとぞ。(駿河土產。)
慶長十一年江戶の城改築ありしとき。藤堂和泉守高虎をめして。泉州老練の事なればよく參議し。思ふ所つゝまず申さるべしとありて。指圖を出され高虎と共に御覽じ。この所はかくかしこはかうよとて。御みづから朱墨もて引直したまひ。おほよそ城取といふものは。あながち人の才智もて作り得るものにあらず。その地勢に應じ自然と出來るものなりと上意ありて。その圖定まりて後將軍家にも見せ奉れと仰ありて御覽に入れしに。つばらに御覽じ。申樣もなき經營の御規摸かなと御感賞あり。その後諸大名に課して經營をはじめられ。竣功の後殊更に高虎が勞をねぎらはれ。加恩の地二万石賜はりしとぞ。(藤堂文書。家譜。)
慶長十二年三月薩摩守忠吉朝臣江戶にて病卒ありし時。近臣稻垣將監。石川主馬。中川C九カなど追腹切しと聞しめし殊に御けしきあしく。江戶の老臣共は何とて制せざるぞ。制してもきかずば。將軍へも申しおごそかに咎申付べきにと上意ありて。かさねて仰けるは。おほよそ殉死は昔よりある事なれどいとえうなき事なり。それほど主を大切に思はゞ。己が身を全うし後嗣につかへ忠義をつくし。萬一の事あるにのぞみ一命をなげうたむこそ誠の忠節なれ。何にもならぬ追腹きるは犬死といふものなり。畢竟は主のうつけにてかねて禁じ置ざるゆへなりと宣ふ。このよし江戶へも聞え。その閏四月越前黃門秀康卿北の庄にて卒去ありしとき。將軍家よりかの家長等へ御書をたまはり。第一殉死をとゞめられ。駿府よりも同じ旨仰下さる。その大略は。黃門卒去あられしにより。殉死のものあらむと聞召及ばれぬ。一旦の死はやすく後嗣を守立て節をつくすはかたし。北の庄は北國樞要の地にして國家鎭禦の第一なれば。黃門へ忠義をつくさむと思ふものは。一命を全して後命をまつべし。ゆめゆめ無益の死を遂べからず。もし此旨違背においては子孫までも絕さるべしと仰下されしなり。この御書いまだ彼地に到着せざる前かた。永見右衛門。土屋左馬助などいふ黃門の近臣死せしのみにて。その餘は殉ぜしものなかりき。かくかねがね嚴禁ありしゆへ。君大喪の折も台コ院殿御事の時も一人も殉死はなかりしなり。(駿河土產。慶長見聞書。貞享書上。)
薩摩守殿卒せられし時君は伊豆の三島におはしけるが。江戶より土井大炊頭利勝御使してかくと聞え上しに。さこそ御痛悼おはしまさむかと思ひけるに。頃日の病體にてはさもありなむと仰ありて。例のことく鶴の𦎟作れ鷹野にも出むとて。さして御悲歎の樣にもおはしまさず。天海僧正にがにがしき事と思ひながち御前に出て。薩摩殿の御事によてさぞ御歎おはしまさむかと思ひつるに。かゝる御けしきにては愚僧までも安心なりと申す。君又われはたゞ將軍の親弟を失ひて哀戚あらむかと。是のみ心にかゝると仰られしなり。秀康卿卒去のときはかへりて御愁傷申ばかりなし。こは薩摩殿はかねてより病體さはやき給ふまじと思召定めらしれゆへ。大事に及びてもさまで御哀痛もなく。秀康卿元來御長子といひ。且度々軍陣の御用にも立せられ。今はまた北國におはして常にとほどほしくのみましませしうへに。薩摩殿卒後いまだいくほどなく。さしつゞきこの卿もうせたまひしゆへ。とりあつめ一しほ御愁悼深かりしならむと人々思ひはかりしとなむ。(池田正印覺書。駿河記。)
秀康卿の病中にかねて。佐の局とて君にもしろしめしたる女房を駿河に進らせられ。秀康こたび重病にかゝりとても世にあらむものとも思ひ侍らねば。うちうちこのよし仰進らせるゝなり。君聞召驚かせ給ひ。わが子多き中にも秀康は長子といひ。殊更勇烈にして度々軍功もありしものなり。さるをたゞ越前一國のみあたへ置ては本意ならず。此度の病平愈せばその祝儀として。近江下野のうちにて二十五万石ましあたへ百万石になし下されむ。汝とく越前にかへりこの旨申聞て。慰めよと仰ありて。御書付を下されければ。局は夜を日についでいそぎ立かへりしが。三河の岡崎にて卿の告をきゝ。又駿河に引かへし御前へ出しに。君にはこの折棋を圍みておはせしが。聞せ給ふと御愁悼の樣かぎりなし。局はかの御書付を取出して。こは大切の御書なれば返し奉るとて上れば。女ながらも心きゝたる者よとて受取せ給ひしとぞ。かの藩士等は內々この事きゝ傳へて。いらぬ女の利發だてよといひけるとか。(天元實記。貞享書上。)
慶長十三年十二月武州河越に御鷹狩あり。その頃新庄越前守直ョは剃髮して宮內卿法印とて御供せしが。直ョに仰ありしは。近ごろ下總國の海上に一人の隱者ありときく。いと淳直の者にして華飾なく財利をむさぼらず。常に一瓢を軒にかけ里民の贈與をまちて食とす。もし瓢中むなしきときはあながち求ることなし。氏姓をきくにたゞ三好家の者とのみいらふ。直ョが父藏人直昌は先年攝津江口の戰に討死す。其始末かれ定めてしりつらん。汝ゆきてとひ來るべしと仰ありしかば。直ョかの海上にゆき隱士の家求めいでしに。七十あまりの老僧法華經を讀誦して居たり。名は惣歸居士といふ。直ョ其庵に入りて對面し。四方山の物語きゝし序にかの江口のこといひ出て。新庄といふ人の討死の樣及び其家人の首級實撿せし事などかたる。直ョもおもはず淚をうかべ。その新庄といふ人こそわがなき父直昌が事なれ。さて又御邊が姓名は何といはるゝかと問ひしに。隱士もいと驚歎の樣にて何とも名乘らず。直ョまたその時。金の采配取て三軍を指揮せし武者ありときゝしは。誰が事なりといへば。これぞ某が事なれとばかりにて終に姓名をかたらざられば。直ョ辭して河越にかへりその旨申上しに。君も甚御感ありしとぞ。(ェ永系圖。)
駿府にて淨土法華の宗論起りて旣に對决に及ばむとす。まづ法華僧を御前へめして。汝明日の對决にかちなばゆゝしき眉目なれ。さて負たる淨土僧をばいかゞすべきやとたづね給ふ。僧申すは。かの首刎られその宗を絕し給はゞ。かさねて宗論起りて上裁を勞する事もあるまじきなりと申す。また淨土僧をめして同じ樣の事とはせ給ふに何とも御請申さず。しひてとひ給へば。宗論の起るも各の祖師を尊信するゆへなり。彼等が負候とてあながち御咎にも及ぶまじ。そのまゝにさし置れてよからむといへば。御けしきかはり。我かく切問するに汝實情を白さぬかとなほなほ責問給へば。さらば宗論に負しは其宗の耻辱なれば。三衣を脫せしめたまはんのみといふ。こゝにおひて御けしき直り。かの僧神妙に思召御膳を下されまかでぬ。後に近臣に明日の論にはいづれがかたむと汝等は思ふと上意なれば。いづれも决しがたしと申す。仰に必淨土かちなむ。いかむとなれば日蓮僧は淨土にかたばその首を刎よとは。そが邪念より起りて釋コに似つかはしからぬいひ言なり。淨土は三衣を脫せむのみといふ。これ出家相應の答なり。故に淨土かたむと思ふなりと宣ひしが。果して明日宗論はじまりしに淨土の方かちぬ。人々御明察にして御詞の露違はぬに感じ奉りぬ。この後はいたく宗論を禁ぜられしとぞ。(校合雜記。)
蜂須賀家政入道蓬庵が駿城にまうのぼりしとき。さいつころ秀ョ公のけしきうかゞはむため坂城に參りしに。大野修理亮治長密に申けるは。入道には故太閤の厚恩うけられし事は。今において忘却はあるべからず。此のちとても万事たのみ進らするよし物語候ひき。かゝる事入道のみ聞置てもいかゞなれば。內々聞え上ると申ければ俄に御けしけ損じ。入道には年老てしれたる事いはるゝな。先年關原のときわれ殊更に仁典もて秀ョの一命をたすけ置のみならず。攝河兩國もて封邑とし安樂にすごさしむるに。何の不足かあらむ。さるを入道が口よりかゝることいひ出てよきものかと仰らるれば。蓬庵もかしこまり入て御前をまかでぬ。こは浪華の騷亂の前方の事にて。さる御下心ありて宣ひしなりとぞ。(駿河土產。)
駿府の不明の御門は小十人の徒更番して守ることなり。ある日村越茂助直吉他所へ御使に參り。日暮に及び御門に至れば旣に御門は閉たり。村越茂助なるが御使はてゝたゞいま歸れり。御門を明られよといふ。番の者期限後れたれば明ることかなはずといひしらふ所へ。安藤彥兵衛直次も通りかゝり。こは茂助に紛れなし。ひらに明て通されよといふ。小十人云。方々は重き御役をもつとめられながらさることいひてよきものか。この御門はかねて日暮の後は人を通すまじとの御定なれば。誰にも通す事はかなはずとて終に明ざりけり。このよし聞しめして。この日當番の小十人兩人へは加恩たまはり。常々よく御門を固守するとて賞せられ。後に二人とも紀伊家に附屬せられしとなり。(駿河土產。)
常に鎌倉右幕下の政治の樣御心にやかなひけむ。その事蹟共かれこれ評論ありし事多し。ョ朝石橋山の戰にうちまけ朽木の中にひそまり居しを梶原景時がたすけしとき。景時ちかごと立て。君もし後日天下の主になり給はゞ。景時を執權職にせられよといひしをョ朝うけがはれぬ。さりながら若惡事もあらむには刑戮に處すべしといはれしは。かゝる艱困の中といへども。大將たらむ人の體面をうしなはざりしは。實に將軍の器といふべし。又ョ朝が七騎落の時。先例あしゝとて一人の供奉を减じたるはいかなる故ぞ。かゝる時は一人にて多きがよきにと仰らる。またョ朝陰晴をよく見さだむる者をめし呼て。浮島が原に出て天氣を見定しむ。その者天氣は見なれし所にては分りやすく。さなき所にてはしれがたしといひしとか。こはいと尤の事なりと仰らる。またョ朝姪が小島に潜居の時家僕にかたられしは。われもし本意とげて天下の兵權を掌に握ることもあらば。かならず汝に恩祿とらせむといはれしを。その者あざ咲て居けり。後にョ朝將軍職になられてあまねく恩賞行はれしとき。その者の沙汰には及ばざりき。よてその者むかしの事いひ出しに。汝はむかしわが詞をを咲ひしをわすれしにやといはる。其者いや某わすれは候はず。さりながらよくかうがへて見たまへ。そのかみよりうき年月さまでたのもしく思ひ奉らぬ主君に。今まで附そひ進らせし某を。はじめより此君に仕へて功名をも立むとおもひし人々にくらべては。某がかたかへりて忠義に候はずやといひしかば。ョ朝も理に屈してその者に厚恩を施されしとか。こは其者の詞いと尤なれと仰せられけり。また夜話の折御談伴等申すは。ョ朝は古より名將といひ傳れども。平家追討にさゝれし三河守範ョ。伊豫守義經二人の弟はすぐれて軍功もあるを。後に誅戮せしは少恩の至ならずやと申せば。君外々の者どもはいかゞ思ふと宣へば。いづれ同意のよしを申す。その時それは世にいふ判官びいきとて。老嫗兒女など常に茶談にする事にてとるにたらず。すべて天下を治むるものは。己が職をゆづるべき嫡子の外。庶子の分には别に異禮を施すことなし。其親族たるをもて國郡の主になし置といへども。これを遇するにいたりては外外の大名とかはれることなし。よてその兄弟たるものも身をつゝしみ上を敬し。萬事を篤實にせばよし。もし兄弟の親をたのみにし無道の擧動するを。親族なればとて見のがしては外樣の示にならざるなり。親族のわいだめなく理非を分明に行ふこそ。天下の主たらむ者の本意なれ。驕奢無道ならば配流に處。もし反逆の企もあらむには死刑に行はねばならぬなり。すべて天下の主の心と大名の心とは大にかはるものなり。さる大體をわきまへずしてョ朝を非議するは。これまた老嫗兒女と同日の所見なれと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長十五年諸大名に命じ尾州名古屋の城を改築せしむ。そのころ福島左衛門大夫正則。池田三左衛門輝政にむかひいひけるは。近年江戶駿河兩城の經營ありて。諸大名みなこれがために疲弊せり。されどいづれも天下府城の事なれば誰も勞せりともおぼえざるなり。この名古屋は末々の公達の居城なるを。これまで我等に營築せしめらるゝはあまりの事なり。御邊は幸大御所の御ちなみもあれば。諸人のためにこの旨言上せられよといふ。輝政は何とも答へざりしが。加藤C正大にいかり正則にむかひ。御邊は卒爾なる事いはるゝものかな。經營をいとはるゝならば人に議するまでもなし。はやく自國に馳せかへり兵を起さるべし。さる事もなりがたくば台命に違ひて。えうなきこといひ給ひそといたくいましめければ。正則も面あかめて居たり。後にこのこと聞せ給ひ輝政をめして。諸大名度々の經營に難義すときゝぬ。さらばいづれも本國に馳かへり城地を固くし。人衆を集めてわが討手のいたるをまつべしと仰れば。いづれも大に恐怖しすみやかに人夫をかりあつめ。夜を日に繼て經營をはじめ土地をならし。二十万の人夫もて西海南海の大石を伊勢三河の大船もて運致し。石壘をきづき城溝をほりいくばくもなくして竣功せしとぞ。(武コ大成記。) 
卷十三 

 

一年駿府より江戶へ渡らせ給ひしに。將軍家はじめ奉り竹千代君及び國千代の方もまちむかへたまひ。大奥へいらせられて御臺所も御對面あり。御座に着せられし時。竹千代殿これへれへと御手をとりて上段にのぼらせたまへば。國千代の方もおなじくのぼり給はむとし給ふに。しゝ勿體なし。國はそれにとて下段に着せしめられ。御菓子進められし時もまづ竹千代殿へ進らせ。次に國へも遣せと仰せらる。後に御臺所にむかはせ給ひ。嫡子と庶子とのけぢめはよく幼き時よりさだめ置てならはさゞればかなはぬものなり。行すへ國が堅固に生立ば竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ。今よりその心掟し給へ。これ國がためなりと仰られ。また將軍家の方を御覽じ。竹千代はよくもよくもあの人のおさな生立に似たれば。一しほわが愛孫なれと宣へば。將軍家も盛慮のかしこさを謝し進らせられ。御臺所は何と仰らるゝ旨もなく。たゞ面あかめておはせしとか。そのころ御臺所には殊さら國千代の方をいとをしみふかくましましければ。內々にては何事も竹千代君より御權つよく。近侍の者または女房などもおほく國千代の方にあつまり。えうせずは引こして儲位にも居給はむかなど流言どもありしが。この日の御もてなし格别なりしより。いづれもはじめて嫡庶の分おはしますことを知り。人々のつかふまつりざまもあらたまりて。國本いよいようごきなく定らせ給ひしとぞ。(落穗集。武コ編年集成。)
江戶より駿河に參謁せし者ありしに。この比將軍には機務の暇には。何を業となし給ふと問はせらる。そのもの常々武道の御穿鑿のみなりと申上れば。將軍軍法の事聞れむとならば榊原式部こそよけれ。かれはおほくの人の中に。多人數使ふ事心得し者なり。よくよく彼に尋ねらるべし。一人一箇の武勇は穿鑿ありとも。何の益かあらむと仰られしとぞ。(ェ永系圖。)
ある年の正月江戶より歲首の賀使として。酒井左衛門尉家次を駿府へつかはさる。家次見參の所折烏帽子の下に綿帽子かぶりしが。いかゞしけむ烏帽子脫て綿帽子あらはれしかば御けしきあしく。本多佐渡などは老年といひ。且もとよりおどけたる者なれば。綿帽子かぶる事もあれ。左衛門等が若年にてそのまねする事やはある。我等が方は隱退の事なればともかうもあれ。江戶にて諸大名列見の席などにて。かゝるなめげなる裝しては。將軍へ對してそのはゞかり少からずとて。いたくむづからせ給しかば。折ふし阿茶の局御側にありて。昨夜左衛門風引て今朝の見參かなふまじといひこせしが。初春のことにもあればつとめても拜賀に出よ。そゞろさむくば衣服をかさね。綿帽子きても苦しかるまじと申つかはしけるゆへなるべし。全くわらはが所爲にて。左衞門が心づからなせしには侍らずと御けしきとりしかば。やがて御心とけて。さる事にてもありつらむと仰あれば。左衛門はからうじて御前をまかでしとなり。(續明良洪範。)
駿河の阿部川に遊女の住る市街あり。府城にちかきをもて旗下の少年ども。動もすれば花柳にふけり。遊惰にのみなりゆくをもて町奉行彥坂九兵衛光正遊女町を二三里遠き所へ引うつさむと申す。君九兵衛をめして。今まで城下に住る市人をこと所にうつさばいかにとの給へば。さありては市人買賣の度を失ひ艱困すべしと申す。さらば阿部川の遊女もうり物にてはなきか。さるを遠地にうつさば阿部川の者たづきなりがたからむ。これまでのことくさし置との上意なり。かくてかの地次第に繁榮するにしたがひ。旗下のものはをのづから遊宴に長じ。窮困するよし聞えければ。その年の秋にいたり光正をめし。此頃市中の躍の聲城中にも聞えていと賑はし。我も見まほしと思ふなり。衣裝など新に調るに及ばず。常のまゝにて躍をせさせよと仰下されしかば。駿河の市街を三に分ち。躍子はやし方まで城中に入て思ふさまに歌舞し。赤飯酒などたまひ三箇夜興行ありしなり。そのゝち阿部川の躍はいかにと尋ね給へば。遊女町ゆへ除きぬと申す。君年寄りては男子のむくつけき躍ばかりてには興にもならず。女子の躍見たく思ふなりと宣ひて。俄に阿部川の町へ仰ごと下りて。遊女の中にも名あるものは。そが名をしるして奉れとありて。銘々こゝをはれと用意し。その夜にもなればとりどり御覽ありて後。高名の遊女どもをは板緣のうへにめし上られ。一人づゝその名を御尋あり。暇給はるときは御次にて菓子賜ひ。同朋福阿彌もてひそかに仰傳へられしは。此後とても俄に銘々が名さして召よばるゝ事もあるべければ。いづれもかねて心得置くべしとなり。かくて遊冶の輩このよし聞傳へて。遊女のうちいづれか上の御目留りになりて召れむもしれず。御尋の時いかなる事申上むもはかりがたしとはゞかり恐れて。少しも身分あるものは。この後花街に通ふことはやみしとなり。(駿河土產。)
駿河にて宿直にあたりし番士等夜半過るまで所々遊行し。辻相撲など見物してかへるに。一人づゝ殘りて番することなり。ある夜ふと表方へ渡御ありしに。例の如く一人殘り居しを御覽じ。如何にしてみなみな宿直を明しぞ。そのうへ餘人はみな出しに汝一人殘り居て何かせむ。臆病ならずばうつけものなるべしとのゝしらせたまへば。この後は一二人殘らむとする者なくみな遊行とゞめしとぞ。又城中にて年少の番士等うちよりて座敷相撲とりし所へ。ふとならせければ。いづれも平伏してあり。その時。このゝち相撲をとらば疊を裡返にしてとれ。福阿彌が見付たらば。疊の緣が損ぜむとて腹立べしと仰られ。别にとがめもし給はざりき。後に番領等この事聞傳へ。おごそかに禁ぜしめしとぞ。(駿河土產。續武家閑談。)
按ずるに慶長十二年正月廿九日相州中原へ御止宿ありしが。夜行殿にありしところの御茶器盜賊のために紛失す。よてその夜當番の者御科を蒙る。これは番衆その夜辻相撲見物に出て知らざるなりと。慶長聞書にも見えたり。當時かゝる事つねづねありしとみえたり。
御上洛ありて二條城におはしませしころ落書する者おほし。所司代板倉伊賀守勝重これを搜索せむといふ。君そのまま捨置べし。そもそもいかなること書しぞ。みそなはさむとあれは。御所柹にたにざく樣のものつけしをもち出て御覽にそなふ。
御所柹はひとり熟して落にけり木の下に居て拾ふ秀ョ
御覽じて。このうへとても落書禁斷すべからず。はしたなき事ながらわがみて心得になることもあれば。そのまゝにせよ。幾度も御覽あらむと仰られしぞ。(古人物語。)
慶長十年九月廣橋亞相兼勝卿。勸修寺黃門光豐卿。兩傳奏より。春日若宮兩社の木千折れたり。抑神本のかるゝはむかしより國家の大事。兵亂の兆といひ傳ふるよし申さる。君兩社ともに刱建より以來。あまたの星霜を重ねしとなれば。古木の折まじきにもあらず。あながち恠異とするにたらず。將軍家へ申して修植を願ふべしと仰付られしとぞ。(天元實記。)
あるとき本多佐渡守正信に仰られしは。われ將軍家へ厚恩をつねに施し置せらるゝと宣へば。正信天下を御讓ありしはこのうへなき御恩なりと申せば。いや家を子に讓るはめづらしき事にもなしと宣ふ。こは君の御代に何事もむづかしげになし行ひたまはゞ。後にかへりて將軍家の御ェ容をよろこび。いよいよしたしみ奉る者あらむかとの御下心なりしとぞ。K田孝高入道如水が死期ちかくなりて。その臣下に種々の難題いひかけてくるしめしは。其子の長政をわがなき跡にて。よくおもはしめむとての所爲なりといひしと。おなじ樣の御心用かと思はるゝにぞ。又はかなき事にもさる上意ありしは。いづれの時にか御舟遊ありしに。天野五カ大夫をめし鯉の調理命ぜられしに。鯉躍て海に入むとせし所を。魚箸もておさへて調しければ。いづれも其技の絕妙なるをほめあへり。上意に五カ大夫のたわけものめと宣へば。本多正信何ゆへかく仰らるゝかとうかゞひしに。その身一代は名人の名をとれ。子孫にいたりてさるものなからむには。かへりて子孫をして父に劣れりといはしめむ。誰も子孫をおもはぬ者はあらじと仰られしとぞ。(古人物語。)
慶長十七年三月將軍家江戶より駿河へ參らせ給ひし時。さまざま御もてなしありて御茶進らせ給れし後。投頭巾の御茶入を贈らせらる。これは茶人の名を得し珠光といへるが。はじめてみておぼえず頭巾を落せしより名を得し。天下第一の名器なりとか。其比御談伴の徒將軍家も殊更かしこみおぼしめし給ふよし申上しかば。汝等も將軍にねだりて投頭巾の茶によばれよとて。殊の外御けしきよくて御はなしありしは。人の子をほしがるも。早く家をゆづりあたへその所行を見さだめ。安心して殘の齡を過むがためなり。さりながら家をゆづるは容易ならず。子の才器にもより年の程もあるものなり。そのうへには時勢人心をとくとかうがへてゆづり渡すべきなり。家の重器などにいたりては。家つがせざる前かたにも追々にゆづり渡し子に安心さするもよし。おほよそ世の習にて家ゆづるとなれば。何によらず一時に子にさづけ。己が身一つになりて隱所に引籠るを本意とし。人もこれを見て心いさぎよき事とてほむるなり。または秘藏の器をば隱居して後も持かゝへ。折々子に分ちあたへて。その心をとる親もあり。抑わが若かりしほどより。世の父子の樣を見もしきゝもするに。はじめはかたみに慈孝深かりしも。隱家家督の後にいたり。いつとなく不和になりしためし少からず。こは父子の情愛においてはもとよりかはる事はなけれども。人々年たけて後はとかく成長の子を煩はしく思ふと。又子たる者の老たる親を大切とおもはざるより。互に隙出來て他人にも不和に見ゆるなれ。さる折は親の方より道具のひとつとつもゆづりあたへば。子も心落居て他人の嫌疑も散ずべし。子をして不幸の名をとらせぬ樣にせむこそ。親の本意なれと上意あれば。いづれも皆感歎してうけたまはる所に。またかさねて仰ありしは。隱居して後實に子と中あしくなり。わが子へさまざま艱苦をかけ隱居に似合ぬ奢侈をこのみ物數寄をし。莫大の費用を子に遺し。後には世のまじらひもならざるごとく貧困になりゆく例少からず。父に不利なるは子の仕樣のよからぬゆへとはいひながら。よくその本をたゞさば親の過誤なれ。古語に子をしるは親にしくはなしといへば。親としてわが子の善惡を見しらざるは大なる怠なれ。わが怠なりともすでに家を讓り渡せしうへは。わが心にかなはぬ事なりとも。おほかたはまづ忍むで居てさまざま教戒諷諭して。ながく家を治めさせむ樣にはかるべきなり。四民ともに家繼せむ子は。よくよくその才器を見さだめてこそ讓るべけれ。これ人々己が祖先へ對して第一の孝道なれ。殊さら國郡の主たらん者。いかにわが子不便なればとて。任にかなはぬものに家をゆづらば。家臣をはじめ國民までも禍を蒙り。後には敗亡にいたるなり。たとひ嫡子たりとも不孝にして任にかなはずばこれを廢し。庶子のうちか一族のうちを擇みて家督とすべし。この所においていさゝか疑惑なく斷然として行ふを。國主の本意といふぞかしと仰られしとなむ。(岩淵夜話。)
最上出羽守義光はやうより心を當家にかたぶけ。出羽よりはるばる書信を通じ。織田豐臣の兩家へも當家を紹介して歸順せしなり。其後京伏見にて危疑の間も。人より先に御館に伺公して守護し奉り。關原の役には御味方して上杉景勝と戰ひ。忠勤なみなみならざりしかば。君にもいとたのもしきものにおぼしたり。この義光年老て後慶長十七年のころひさしく病にかゝり。起居も自由ならねば再び見え奉らではてむは本意なしと思ひ。出羽よりはるばる病をつとめ駿府に參謁す。かねてこのよし聞召ければ。本多上野介正純に仰付られ途中に出迎へしめ。御玄關まで乘輿をゆるされ。進謁の時も御座近くめしよばれ。つぶさに病躰をとはせたまひ。御手づから御藥下され。早く封地にかへり心のまゝに療養すべし。かへさに江戶にも立より將軍にも拜謁せよと懇の仰ありしかば。義光も淚ながしてかしこみ奉て退でし後に。御使もて夜の物布帛かずがず下され。やがて江戶に參り台コ院殿にも見參し奉りしかば。おなじさまに御優待ありて。賜物かずがずかづけ給ひ。且義光が長子家親今在府の間。年來の國役三が一を免除せしめ給ふ旨仰下され義光感恩に堪ず。かくて歸國の後十九年正月遂に身まかりしとぞ。(武コ大成記。ェ永系圖。)
藤堂和泉守高虎も太閤在世の時より。當家に心をかたぶけ進らせ。殊に關原の前後には忠勤をつくせし事大方ならず。かかりしかばこなたにもその精忠を察せられ。御家人と同じ樣に御心やすくおぼしめし。何事も議し合されしなり。御老後には常にめして御談伴とせらる。その頃高虎も齡旣にかたぶきて兩眼うとければ。御前わたりに侍らむ事恐れありとて辭し奉りしに。土井大炊頭利勝もて。君御晚年にならせられ。和泉と昔物語せさせ給はねば。いとつれづれにおぼしめせば。目のうときはくるしからず。これまでのことくにまうのぼるべし。且行歩もおもふ樣なるまじければ。御座所の御次まで乘輿をゆるされ。渡殿の屈曲せし所々もみな直道に作りかへしめられ。そが便よからむ樣に搆へられしよし仰下されしよし仰下されしかば。高虎も御寵遇の懇到なるに感じて。老の淚をそそぎつゝかさねてまうのぼりて。御談伴に候せしとなん。(藤堂文書。)
夏月の比駿城にて天俄にかきくもり。神おびたゞしくなり出し折。御前に伺公せし御談伴の徒へ仰けるは。何事にも用心のなきことはなし。地震など急遽に起るものなれども。かねて營造の樣によりてその難をのがるゝ事もあり。雷ばかりは何地へ落るといふ定もなく。直に落るもにおつるもあればふせぐべき術なし。さりながら用心のなきにはあらず。人々いかにおもふと宣へば。各上意のごとくこれのみふせぐべき術は候はずと申上ぐれば。さらば我教てきかせむ。大名などの家居廣く住なすものはいふに及ばず。小家にすむものも。今日のごとき迅雷にあへば。夫婦兄弟それぞれ間をへだてゝ居るこそ第一の用心なれ。そのゆへは誰なりとも運命にて雷にうたれむに。その身一人うたれむは詮方なし。もし雷のはげしきをおそれ。家內一所につどひ居る所へ落たらば。一家種絕しになるなり。先年京の市人雷のとき狹き家のうちへ一族のこらずこもり。戶障子を立廻し。火をたき香など燒て居る所へ雷落て座中おほかたうち殺され。殘るものも皆片輪になりしなり。恐るべき事ならずや。さるを此者はかねて隱惡ありしゆへ。天罰にあたりしとも又は前世の宿業なりとも人々いひしは。いとおろかなるいひ言なれ。雷に何の取捨があるものかとて御笑ありしとぞ。その比尾紀水御三人の公達のかしづき等をめして。この後雷のはげしき時は。方々を一所に置奉るなと仰付られしとなり。(駿河土產。岩淵夜話。)
甲斐の土屋惣藏昌恒が子は。昌恒が主の勝ョがために討死せし後。故ありて駿河國C見寺にありしを。一とせ駿河より江戶へ入らせられしとき。C見寺へ立寄らせられ。御硯箱めせしに。この子硯箱持いでゝ奉れば。墨すれと上意にて御側にさし置れ。囃子の番組など書しるしたまひ。出立せ給ふにのぞみ。このをさなきものは誰が子なりやと御尋あれば。寺僧これは御敵なりし者の子なれば憚なきにあらず。さりとて今はつゝむべきにも侍らず。甲斐の土屋惣藏が子なりと申上れば。そは忠臣の子なりわれにくれよと宣ひ。御召替の御輿にのらしめて召連られ。江城の御玄關まで成せられしに。台コ院殿出で迎へ給ふ所へ。御みづからこの童子の手を引て。これは此度道中にて思はずほり出せし懷中脇差なり。忠臣の種なれば隨分に秘藏し給へとてさづけらる。台コ院殿童子の袖をとらしめて。盛意をかしこみ謝し給ふ。これより御側に近侍し寵眷淺からず。後に民部少輔忠直とていと才幹ある者になりしなり。又江城にて御鷹狩のかへさ。牧野傳藏成里大手門の番にあたりて平伏してあり。そのころのならひにて成里が三男の五六をも携へて。同じくありしを御覽じ付られ。御前ちかくめし。五六が年齡御尋ありて。年比よりいと長大にて行々壯勇の士ともなるべき相見えたり。今より將軍に近事して忠勤を勵むべしと仰ありて。成里をば伊豫守に任ぜしめ。五六に傳藏が名を讓らしめられしとぞ。(武コ編年集成。)
慶長十八年正月池田三左衛門輝政身まかりぬ。その生前に常常愛宕の神を信仰せしが。いまだ卒せざる前かた庭鳥の死せしが。一雙庭上に落てありしをいまいましく思ひしが。程なく卒しけるよし聞召て。死たる事の不便さよ。すべて愛宕などいのりて天下がとれるものにてなしと上意ありし。この人も風雲の機に乘じては。いかなる志ありけむもはかりがたしと思召ての御詞ならむと。時の人々評しけるとなむ。(古人物語。)
越前少將忠直朝臣讒人の言を信じ。其臣布施m馬を誅せしとき。表口よりは本多伊豆守富正。數寄屋口よりは永見伊右衛門。臺所口よりは永井道存を討手に遣せしといふを聞せられ。その道存とは何者ぞ。餘の兩人とおなじくかゝる所へ出べきものかと宣へば。本多上野介正純こは永井善右衛門が事にて候と申上れば御けしきあしく。善右衛門が事か。そは親の秀康が心にかなはで立退し者を。その其子の使ふ事やあるべき。他所に口を糊する所はなきか。親が見限りし者を子として養ふ理なし。わが生前に彼がつらをばふたゝび見まじと宣ひしゆへ。忠直朝臣が方にてもそのまゝさし置れがたく。逼塞命ぜられしとなり。(武功實錄。)
尾紀兩家へ家老一人づゝ附させられむとて。松平周防守康重。永井右近大夫直勝兩人內々御けしき給りしに。兩人あながち辭し申ければ。其後は外々の者へも仰付られず。折しも御持病起らせ給ひて。常の樣にもましまさゞれば。安藤帶刀直次。成P隼人正正成兩人うち寄りて議せしは。こたび大御所には兩家のかしづきの事をおぼしなやみてましますと見えたり。何をつとむるも上への忠節なれば。兩人とも志を决して御請申さむとて。われわれ不肖には候へども。此度の役にめしつかはれむとならば。仰にしたがひ奉るべしと申せば殊に御けしきよく。兩人の申所神妙におぼし召すとて。隼人正を尾張。帶刀を紀伊に附させられ。本城の御用もこれまでのことく仰付らるべしとなり。中山備前守信吉も水戶へ附させられしなり。(駿河土產。)
按ずるに家譜によれば。成P安藤が兩藩のかしづきとなりしは。共に慶長十五年にして。中山が事は十二年なり。中山に御附命ぜられし時に。諸事成P安藤と同じ樣に心得べしとの命ありしなれば。安藤成Pもそれより以前かねて兩家の事心得てありしとみえたり。
以上の二卷は駿府におはしませし折の事どもをししす。 
卷十四 

 

慶長十九年十月朔日駿城にて。觀世左近に猿樂仰付られ。ョ宣ョ房の兩公達もかなでたまふべしとて。その御催なりしが。折しも前夜より雨ふりいで。當朝にいたりてもいまだやまず。かかる所に京の所司代板倉伊賀守勝重が許より急遞來りて。大坂違亂のよし注進す。其時君は後閣に渡らせ給ひければ。本多上野介正純阿荼の局をもてかの書を御覽に備ふ。即ち正純を後閣にめして國々への廻狀を調せしむ。駿河より京までの國々の城主は。支度次第打て上るべし。藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝。松平下總守忠明は。東寺より鳥羽の間に備て非常を戒しむべし。松平隱岐守定勝は伏見を守るべしとなり。この時成P隼人正正成は。尾州へ往てあらざれば。正純と安藤帶刀直次と。兩判の御教書なり。松平右衛門大夫正綱は兼てこの日の御能の事承りてありしがいまだこの事知らざれば。はや雨も晴たり。御能はじめさせ給はんかと伺ひしに。近日出陣するものが。能など見て居らるゝものかとの上意なり。これによて上下はじめて浪花違亂の事を知しとなり。(天元實記。)
十月十一日駿河の田中に至らせ給ひ。天龍川の浮梁落成しつれば。彥坂九兵衛光正そのよし申上。御駕はまだ渡らせ給はざる間は。行人を禁ぜんと聞えければ。上意におほよそ舟梁かくるは。往還の便よからしめんが爲なり。わが渡らずとて行人を禁ずべき事か。但し大勢一時に渡らば。橋の損ずることもあらん。一騎づゝ通すべしと仰付られしとぞ。(東遷基業。)
御若年より。軍陣あらんとする前かたには。いつも御はかし取出さしめ。帶せられて御覽ある常の事なり。此度も例のごとく御太刀取出さしめて帶し給ひ。われ年老てこのまゝ席上にて打果むは。殘多き事と思ひしが。この事起りしは本意の至なり。速に馳上り敵どもを打果し。老後の思ひ出にせんと上意有て御太刀を拔せられ。御牀の上へ躍上らせ給ひければ。その御樣見奉りし者。御英氣の老てもさかりにおはしますに感服して。たれもれも勇氣いやませしとぞ。(慶長見聞書。)
十一月五日甲山の邊にて。數萬の蛙集りて南北に分れ。くひあふ事半時ばかりなれと聞しめし。蛙軍はめづらしからぬ事ながら。天寒には土中に蟄居してあるべきを。かく身躰を動かして戰ふは。奇異の事なれと仰らる。又新宗村に生し芦は片葉なりといふを聞しめし及ばれ。刈よせて御覽あるに。果して片葉なれば。松平右衛門督忠繼。この邊の芦は芦にあらで荻なりといへば。汝は難波の芦は伊勢のM荻といふことはしらずやと仰られしとぞ。(東武雜錄。明良洪範。)
十一月十二日二條の御城にて。高野の僧侶の論義を聞しめされし半に。佐竹右京大夫義宣が參着のよし言上する者ありしに。論義の折から何を申ぞとて咎められ。論義はてゝ後其僧どもねぎらはれ。こたび大事の戰に打立ば。先是迄にて聞さしつ。かへさにいとまあらば。再びきかむと仰られて後に。佐竹よべとて義宣に御逢ありしが。その御樣平常のごとく。いさゝか遽忙の躰ましまさゞりき。このよし大坂にも語り傳へて。大御所御老年ながら。御大度の日比にかはらせ給はず。かくてはこたびの軍。城がたはかばかしき事はあるまじとて。心あるものはひそかに歎息せりとぞ。(武コ編年集成。)
此度將軍家より軍令を草せしめて。本多上野介正純もて御覽に入給ひし時。將軍にはいかさまこの通にてよからむ。われは年若き程より。いつの戰にも軍令出せし事なし。いかにとなれば。定めし法の通にしてもしかなはざる時は。咎る事もならず。又軍法に違ひてよき事ありとも。それをほめては法が立ぬゆへ。時宜にまかせて事をすませしなりと仰なり。又關原の役には御旗御長ネの立所。及び使番目付等の備所つばらに定め給ひしゆへ。此度も先年のごとく仕らんかと。正純二條城にて伺ひ奉りしに。汝は天下分目の戰と。秀ョを成敗すると同じ樣に心得しや。今度わが旗本の陣法がいるものか。たゞ平押にをしよせて攻べし。味方の者ども居たき所に勝手に居よと仰られしとなん。(駿河土產。)
十一月十六日南部を御立有て大坂へ赴かせ給ふに。本多正純。供奉の者に甲胄きせんかと伺ひしに。先年關原の役に。市人金六といふ者が甲胄きしを。村越茂助直吉見て。市人の分として兵具をまとふは不當の事なり。きと咎め申付んといひ出しを。まづすて置て其樣を見よといひしが。果して一兩日經て。路傍の松の枝に具足一領懸りたりといひ出たり。よく尋れば金六が着せしなり。よて彼をよび出して尋しに。走り廻りに不便なるのみならず。骨節もいたみて堪がたければ脫棄たりといふ。かゝるためしもあれば。今南部より大坂迄路程いまだ隔たりしに。早く具足きせば。三軍いよいよ疲勞せん。しばし待候へと仰られ。その夜は法隆寺に宿らせ給ひ。明日十七日御出立の時。こゝよりは兵具をきせよと仰付られ。金地院崇傳。林道春。與庵法師も人並に鎧きて御前へ出しかば。我等が麾下には三人の法師武者が有とて御咲有しとぞ。
案に幸若大夫が家傳には。君常に幸若歌曲をすかせられ。この御陣にも大夫をめし連られしが。この三人の圓頂の徒が物具せしを御覽じて。幸若曲の堀河夜討に。我等が手に三人の法師武者があるといふをふとおぼしめし合されて。此御詞は仰出されしなりといへり。さもあるべし。
十九日茶臼山に御陣をすへられ。古兵の徒召出し。此度合戰の意見を宿老して御尋有て。君には障子隔てゝきこしめす。其時山名禪高上座にひらき居て申けるは。兩御所は仙波より御出馬あつて。備前島に攻かゝり給はゞ忽ち落城すべしと。事もなげにいひ出ぬ。君はほゝゑみておはせしが。明る年落城の後に此事仰出され。去年禪高が城責の事議せしは。城の中に人なしと思ふ責方之其責樣にては城によするとひとしく。上なる者は鴟口などもて城墻をかけ倒さんと思ひ。中なる者はたゞ聲を立て噪くべし。下なる者はその騷擾に紛れ逃むとのみ思ふべし。さる時は城は落ずして。死亡のみ多からん。白鳥は觜圓かにして。人を啄くものにあらざれども。是を捕へんに一人は咮。二人は兩翼。一人は胴と。四人もかゝらでは捕る事かなはず。まして思慮もなく城を責ていかで落べきや。禪高が責方こそいとおもしろけれとて御咲有しとぞ。(武功雜記。)
諸口御巡視あらんとて。たゞ御一騎城の堀際まで乘廻し給ふ。いづれも馳出て供奉せんとするに。本多佐渡守正信制しとゞむ。君は御素肌に。鷹の羽散したるはな色の御羽織をめし。鹿毛の馬にめして城溝の邊に立せ給へば。城中より打出す鉛丸雨のごとく來るに。いさゝか恐れたまふ御けしきなく。加賀越前の丁塲まで巡視あつて。住吉の御陣へ還御あり。この時の事にや。鉛丸しきりに飛來れば。正信この所に御長居は恐れ多し。早く避させ給へといふに。聽せ給はず。かゝる所へ初鹿野傳右衛門信昌。田甚右衛門尹松の兩人進み出て。殿には元より鐵炮のはげしき所をすかせ給へば。こゝより船塲の陣には。大筒を仕かけてあれば。ちと御覽ずべし。いざ御供申さんとて。御馬の口をその方ざまへ引向て。即ち船塲へおはしけり。こゝは蜂須賀が持口にて。城より間數遠ければ。鉛丸の來ることまれなり。大將が巡視に出て。鉛丸が恐ろしとて引返さば。三軍の示にならず。さすがかの兩人は甲州者程ありて。軍陣の法に鍊熟せし事よとて。殊に御賞譽ありしなり。(大坂覺書。感狀記。)
伊達政宗。佐竹義宣。上杉景勝の三人。御氣色伺のため住吉の御陣へ參り謁し奉りし時。政宗は猩々緋の袖なし羽織に。白熊もて菊とぢつけ。朱鞘の差添に白銀の打鮫。紅の腕ぬき付しを帶す。義宣はKき羽織に五本骨の扇をつけたり。景勝はKきとら織の羽織に。蹙金にて芦に白鷺をぬひ付。赤き紐をつけたり。三人まかでしのち仰ありしは。景勝は律義なれど。奢侈なる人を使ふと見えたり。それらが仕業にていらぬ裝飾せしなり。近比笑止なる事かなと宣ひしとぞ。(駿河土產。)
廿五日茶臼山へ御陣がへあり。諸大名も參謁し還御の折。將軍家より進らせられし。K粕毛の馬を引出てめされんとす。其時城の方にむかひて馬嘶ければ。敵方にむかひていぼふ馬は。まれなるものなりとて。御けしき大かたならず。藤堂和泉守高虎承り。このこといと御吉兆なりと申上。さて地道一二へんめすに。諸大名いづれもうづくまり居て拜み奉る。仰にわれ若かりし程は。馬上にて鷹をも使ひ。鷹の捉りし鳥を馬上にてとりし事もありしが。今は馬ばかりも乘かぬるぞ。老といふものほどはかなきものはなけれと宣へば。いづれも御年よられても御意氣のいよいよ御勇壯におはしますとて。感驚しけるとぞ。(天元實記。)
伊達政宗茶臼山の御陣へ參り御物語の序に。かゝる騷擾の折は人心計りがたければ。朝夕の供御などもよくよく御心付らればよからんと申上しに。尤の事と聞し召し。是より供御きこしめすに。御にとりの役立置れ。後々までも三河以來譜第の者もて。その役にあてらるゝ事となりぬ。(雜話筆記。)
案に御にとり役とは。今の世の御膳奉行の事なり。ェ永ェ文の頃まではかく唱へしなり。今も食物の試するを。おにをするといふは古言なるべし。
鴫野の戰に。上杉景勝敵の大軍を打破り勝利を得たり。軍監にさゝれし小栗又一忠政住吉の御陣へ參り。戰の次第を申あげて御次に退き。けふの戰に敵を追討べきよき鹽合の有しゆへ。景勝へすゝめしに日暮たりとて聞ず。あまり殘おほければ。直江にも人衆をかせ。われ追付むといひつれども。是も同じ樣の答して事ゆかず。さてさて殘念の事かなといふを聞付給ひ。御次に出給ひ。やあ又一。汝が身分にて景勝などが軍せん樣を非議するはいらざる事なり。たはけめときびしく咎め給ひしかば。忠政も平伏して恐れ居しとぞ。その後兩御所鴫野口御巡視ありし時。上杉が陣を通御あるとひとしく。陣中より城へむかつて炮炮を打かけ。景勝は陣頭に出てぬかづき居たり。其折先日の戰に。汝が家人まで粉骨を盡せりとて。慰勞の御詞を加へ給へば。景勝承り。童いさかいにて。别に骨折と申までの事にも候はずと申せば。供奉の輩もみな感嘆す。此度景勝が家人軍功の者へ御感狀を下さるゝに。いづれも御前にて封のまま給て退きしが。ひとり杉原常陸介は封を開き拜見し。御文段殘る所なくかたじけなきよし申。此度御賞詞蒙るも。全く故輝虎入道が武邊のあたゝまり殘りて。景勝が弓矢の家風にて候へと申て退きたれば。御氣しき斜ならず。汝はいくつになると御尋あれば。本年七十二なるを七十五と申上る。君聞召し。我より二年のこのかみにて。今度の大功をたてたれば。われも二三年の內はまだョ母しきぞ。汝が白髮の老武者が。萠黃の鎧に金作の太刀金襴の羽織着し出立は。むかしの實盛が鎧直垂の姿思ひ出さる。此度の功は實盛には遙に揩黷閧ニ。御褒詞ありしとぞ。(大坂覺書。武邊咄聞書。)
御陣中にて小栗又一忠政。佐久間河內守政實。山本新五左衛門正成三人會合せし時。忠政正成にむかひ。御使番の內に諸大名の陣にゆきて。竹束より外へ顏を出す事もならざるものありて。諸陣の咲種になるときゝぬ。同僚の恥辱にあらずやといへば。佐久間は聞ぬふりして居しが。正成は兼て又一と親しきゆへ。御邊は例の頭に口の明たる樣に人のことないひそ。此時にあたりたが命をおしむべきといへば。忠政汝が事をいふにあらず臆病人の事を評するなれ。臆病の覺えある者は。をのづから知るらんと高聲に成てのゝしれば。折しも本多佐渡守正信。上野介正純父子。西尾丹後守忠永御前に侍せしが。その騷を聞付て。正純御次へ走りいでゝ尋ぬるに。しかじかの由なれば。正純笑て三人の前へ來り。いづれも古兵の人々が。武邊の吟味せらるゝはさる事なれ。かくてこそ若年の者も自ら武道に精が入るべけれ。かゝる詮議は何程もあらまほしけれとて。その後三人とも御前へ召出され御酒下され。寒天の折から老人わきて太儀に思召により。諸番の中より若き者一人づゝ擇み出し。使番になさるべければ。汝等よく心得て教諭すべし。さりながら五の字の指物は。こたびの新役にはゆるされざるむね命ぜられしなり。又城兵の下町を自燒せしとき。高麗橋を燒たりとも。さなきとも風說定らざれば。忠政をめし。汝往てよく見定め來るべしと仰付られしにより。忠政即ち馳ゆきかへりきて。橋は殘りたりと申す。君城兵この橋燒たらば。城中の者ほし殺にしてくれんと思ひしに。今迄使番のものたれも見屆ざりしと宣へば。忠政いづれも臆病にて。城近くよらば銃丸に中らむことを恐れ。遠くよりおぢおぢ見て返りしゆへと申上て御前を退きぬ。後に近臣にむかはせられ。又一があの大口にては。中あしきもことはりなりとて咲はせられしとなん。(駿府土產。)
板倉伊賀守勝重に命ぜられ。こたび從行の諸軍三十万の人衆へ。日每に千五百石づゝ粮米を給ひ。遠國の者へは一倍をまし下され。また銀をも下さるとて。加賀仙臺などへは將軍家より三百枚。君より二百枚。合て五百枚。森美作守忠政の列には二百枚に百枚合て三百枚なり。其頃俸米賜る者人員をまして俸米を受とるものありて。上を欺の罪少からざれば。きと糺察せんと聞え上しに。節儉も時にこそよれ。城中へ寄手の多勢のしるゝは俸米による事なれば。何程もおほくあたへんこそよけれと仰られぬ。又御上京の折勢田の橋の左右に埓を結しめ。諸軍水へ陷らざらん樣にせしめし事有しも。味方の多勢を敵にしらしめんが爲の御處置なりしとぞ。(大坂覺書。老人雜話。古人物語。武コ編年集成。)
城兵天滿口を自燒せし時。其口の大將松平武藏守利隆はじめ進み入むとせしに。城和泉昌茂堅く制してゆるさゞれば。諸軍もやむ事を得ず思ひとゞまりぬ。後にこの事聞せられ。諸將は何とて攻入べき所に軍進まざりしと宣へば。城和泉守があながちに制し止めしゆへなりと申す。よて和泉をめし。汝を天滿の軍監に遣はせしは。若者どもの軍令に違ひ拔懸せんを制せしめんが爲なり。さるを一ぺんにこゝろえて軍機を失ひ。天滿を乘とらざりし事。さりとは其任にかなはずとて。俄に林道春信勝をめし出て。七書のうち大將軍中に在ては。君命も受ざるところありといふ文段を講ぜしめて。聞かしめたまひ。汝は是を知らぬかといたくいましめられ。御凱旋の後改易せられしとぞ。(大坂覺書。家譜。)
十二月二日茶臼山へ上らせ給ひ城中のさま御覽あり。折しも喜多見長五カ某蜜柑を臺にのせて持いで。永井右近大夫直勝も杖にすがりて御跡より上る。君その杖を取せられ。城の方を指揮し給ひ。蜜柑を三つばかり取せられ。御口にて皮をくひ割給ひ。その臺は將軍家へとあれば奉りしに。將軍家は一顆取て御懷にいれて座し給ふ。やがて本多佐渡守正信も從ひ來て。杖により城中を見積る樣なり。この時君竹把の外へ出させ給へば。直勝正純はじめ使番の人々御前に立塞るを。そこのけと仰られて。なを進み出させ給ふとき。銃丸きびしく飛來て。島彌右衛門一正が鎧の草摺に中る。後また大丸しばしば來れども。さらに恐怖のさま見え給はず。しづかに御覽畢りて還らせ給ひぬ。其時城中にて後藤又兵衛基次諸卒にむかひ。あのことき天運に叶はせられし名將をば。鐵炮にては打ぬものぞとて。制しとゞめしといへり。(武功實錄。)
二日の早天に諸軍御下知によりて城近く陣を進めしに。井伊掃部頭直孝は陣をかふるとひとしく。城へむかひ惣鐵炮をはなしかくるにより。城兵も驚き寄手も色めき立て。しばしが程はしづまらず。將軍家聞しめし。直孝此度兄が陣代としてあるからは。わきて物ごと謹愼にすべきを。かくほこりかの擧動しては。大御所の思召所もいかゞ之。切腹仰付られんもはかり難し。本多佐渡守正信に。汝いぞき住吉の御陣へ參りよきに御氣しきとれ。直孝が家長一兩人腹切せ申べきかと伺へと仰らるれば。正信御陣に參りしに。君御覽じて。佐渡は何の用有て來りたるぞ。定めて今朝の直孝が陣替に鐵炮打し事ならん。かれは兵部が子程ありて。陣替に一聲敵をおどろかして鹽を付たり。感ずるに堪たりと宣へば。正信打わらひ。その事にて候へ。御父子とてかほどまで御心の合せらるゝ事もあるかな。將軍家も直孝を御感スのあまり。某に參つてほぎ言申せとて。遣はされしなりと申せは。いよいよ御氣しきよくて。將軍もさ思はれしな。さてさて滿足の事よと仰られぬ。正信立返りこのよし申上ぐれば。將軍家も思ひの外にスおぼしめし。直孝をめして御賞美あり。又直孝が眞田が丸責しとき。家臣木俣右京一番に攻かゝり。手疵蒙りけるよし將軍家きこしめし。右京は掃部が家長としてありながら。若輩者のごとく一箇の功を立むとおもひし事。その任にかなはず。かゝる事捨置ては外樣の徒の示にもならざれば。おごそかに御沙汰あらんと御諚ありしを聞せられ。安藤帶刀直次もて仰進らせられしは。右京が軍令に違ひし罪はさる事なれども。衆に先立て命を抛むとせし志は。まだ成難き事なれば。まづ聞しめされぬさまになし置るゝがよしと仰進らせられしかば。將軍家もまげて尊慮に從はせ給ひしとぞ。(落穗集。大坂覺書。明良洪範。)
今橋筋御巡視の時。本多正信進み出て。將軍家にも御巡視あるべきかと伺ひしに。我は年若きより干戈の間に人となりて。いまだ陣中に安座したるおぼえなし。將軍の事はその心次第なれと仰ければ。正信おどろき。早々岡山の御陣へかく注進し奉れば。將軍家もいそぎ御巡視に出させ給ひしとぞ。(大坂覺書。)
天滿大和の川々の水を。せき落さむとの尊慮にて。中井大和が御前にて御酒下され。例のことく沉醉し大言どもいひ放つに。御戱の樣に。大和この川筋にてよきさかなあまた求めて衆を饗せんと思ふが。網ばかりにてはかなばじ。いかゞせんとあれば。大和承り。いとやすき御事なり。大和川の邊殊に魚おほし。人夫の一万も侍らば水せきとめて悉く取得んと申す。その折は一時の戱談のごとくにて終りしが。やがて又大和をめし。ひそかに毛利長門守秀就。福島備後守正勝が人夫一万五千を出さしむれば。汝さきにいひしごとく川水をせき落し。魚求めよと仰付らる。大和かしこまり速に虎落を作り。土苞を仕立。島飼村の邊にて堰とめしかば。天滿川東堀久寳寺橋の邊一時に干瀉となり。城方にて新に作り出し外郭。惣責あらば忽に落べき樣に見えしとぞ。(武コ編年集成。)
十二月廿九日仙波と惣郭の橋ども城兵みな自燒して。今橋と高麗橋とのみ殘りしを。石川主殿頭忠總これを燒せじとて。高麗橋の詰にて鐵炮放して防守せしが。城方よりも同じく銃丸烈しく打かけ。忠總が士卒疵蒙る者あまたなれば。使番小栗又一忠政馳來て注進し奉る。永井右近大夫直勝も御前に在て。阿波勢近邊なれば。忠總に力を合せ橋を救はしめんといへば御けしき損じ。其方共はあまりに軍法を知らぬぞ。此橋はこなたより燒度思ひつるに。もし燒なば心得ぬ者は城責なしと思ひあやまらんかとて捨置しなり。城中より燒落すこそ幸なれ。すて置べし。惣責の時橋の一筋が便になるものかと。御怒のあまりに。御側にありし長刀とらせられ立せ給へば。忠政も直勝も恐入て御前を逃去ぬ。後に又敵此橋より夜討せんも計り難し。怠りなく守れと命ぜられゝが。四五日過て塙團右衛門直之此口より阿波陣へ夜討をしかけゝるとなり。(慶長見聞書。)
城將塙團右衛門直之が蜂須賀阿波守至鎭が手へ夜討せし時。至鎭が家人稻田九カ兵衛生年十五歲にて大功ありしかば御感狀を下さる。其ころ近臣へ仰ありしは。子に名をつくるも心得の有べき事なり。九カ兵衛はわづか十五なるを。いらぬおとならしき名を付しはさんざんの事なり。何丸とか何若とか付ば。今度の働もわきて奇特に聞ゆべきに。おしき事なり。人々もかねて心得置べき事と仰諭されしとぞ。(天元實記。)
東西和議旣にとゝのひ。城中より木村長門守重成誓書取かはしの御使に參りし時。御前近く召れ。汝は常陸が子とかや。いかにもおもざしは父に似て。天晴大將の器見えたり。むかし關白秀次北野の松梅院にて茶の會催せし折。われも常陸に面會せしを今さらの樣に思ひ出れ。常陸は智勇とも兼備はりし者なるが。石田が讒によてはかなき死を遂しはいと惜むべし。されど汝が仇とする石田小西等の姦人どもは。關原の戰にわれみな打亡せしぞ。此後もかまへてうとくな思ひそと仰ければ。重成も御詞のかしこさにおぼえず淚ながせしとぞ。又御和議とゝのひし後大野修理亮治長。織田有樂入道と共に茶臼山へ參て賀し奉りし折。本多上野介正純をめし。修理事はわれ若年者とのみ思ひしに。こたび城の主將として諸軍を指揮せしさま。武勇はいふに及ばず。秀ョへ對しての忠節のこる所なし。汝も修理にあやかれとて修理が肩衣を御所望あつて。正純へ着せしめたまひければ。修理は冥加にかなひしとて。感泪をそそぎて御前をまかで。有樂は御次にて衆人にむかひ。此度御和議とゝのひいとめでたし。この後は入道も太平の思化に浴し。生涯を樂み送らむとて。茶を點ずるまねして還りしとなん。(大坂覺書。)
片桐市正且元が家人城方一揆の爲にかこまれ。旣に危急に及び尼が崎の城へ援兵をこひしに。城番奉りし松平武藏守利隆が家人とも。敵か味方かと不番して救援せざりしかば。片桐が手の者みな討れぬ。此事御氣しきにかなはず。御和睦の後利隆が家人を二條へめして御糺あり。家人伴大膳といへるもの御答申せしは。尼が崎は樞要の地にて侍れば。常々怠りなく警衛せし處へ。片桐が家人のよしにて救援を申こしつれど。たやすく城を明て打出べきにも侍らず。且片桐この比こそ御味方に參りたれ。元より大坂の股肱なれば。いかなる異圖あるべきもしらず。もしこの城欺きて付入にせられんには。御家の儀は申迄もなし。池田が家の緩怠これにすぐべからずと。かたく思ひはかりて。城戶をとざし人衆を出し侍らずと申せば。上意に。今となりてはとかう遁辭を設くれども。眞こと味方の死亡を眼前見ながら救ざりしは。全く利隆が兼々家人の命令とどかざるゆへなりとて。御座を起せ給へば。大膳猶も御後に附そひ。御情なき仰をも蒙るものかな。たとひ利隆は姬君の所生にましまさずとも。これも御外孫とは思しめさずや。今何がしが謝し奉らざらんには。いつのよにかこの汚名をそゝがんと。淚を流して申せば。君もその忠烈なるを愍ませ給ひもはや聞分しぞ。武藏にもよくいひきけて安心させよと宣へば。大膳もかしこさのあまり。合掌して御前をまかでしが。後に侍臣に向はせられ。かの親も大膳といひて。長久手の戰に利隆が祖父の勝入討れしかば。父の輝政怒に堪ず馬引返し討死せんとせしに。大膳その時は馬の口取奴なりしが。輝政が馬の首堅くとらへて放たず。遂に輝政を引立て退き。後々主人をして祖先の祀をつがしめ。今大國の主となせしも。全く大膳が功による所なり。その子ほどありて。今の大膳も主の爲には身命をも抛むとの覺悟にてわが前に出で。かゝる大事をもいひほどきたれ。武藏はよき人持かなとて。御賞嘆ましませしとなん。(岩淵夜話别集。)
案に大膳がこの事を。利隆が弟左衛門督忠繼神崎川を渡せしに利隆は渡らず。又野田福島の役に忠繼を救はざる事御不審により。大膳御前に出て具に申ひらきし時の事ともいへり。
豐臣太閤はじめて城作り出られし比。前田蒲生等の人々をあつめ。こたびの新城は實に金城湯池ともいふべし。たとひ何万の大兵もて攻るとも。たはやすく落ることはあらじ。人々いかゞ思はるゝといはるれば。いづれも仰のごとしと申す。太閤又この城攻むには二つの術あり。大軍にて年月かさねて圍守し。城中の粮食の盡るをまつか。さらずば一旦和をいれ。隍を埋め塀を毁ち。かさねて責れば落べしといはる。その折君も侍座し給ひ。太閤が自讃を聞しめ給ひしとか。こたびの戰に及び將軍家は必らず惣責にして落さむと三度まで仰進らせけれ共。君われ度々城責せし事あるが。敵により地によりて責方もまた同じからず。たゞ天時の至るを待せ給へと仰られてゆるし給はず。日ことに金堀をあつめ雲梯を作らせ。また大炮を城中へうち入れなどせしめて。城中の者の心膽を恐怖せしめし上にて。遂に御和議とりむすばれしゆへ。その議速にととのひけり。かくて惣郭を毁ち隍地を埋しめしゆへ。再びの戰には。かゝる險城をわづか三日ばかりが程に攻落されしなり。これは太閤の言を御用ありしといふにはなけれど。年比軍略に練熟したまひ自然とかの詞にも暗合せしなるべし。(ェ元聞書。武功雜記。)
この卷は大坂冬の御陣の事どもをしるす。 
卷十五 

 

夏の御陣に旣に御上洛あつて。今度の事を京にてはいかゞ評論するかと御尋あれば。日向半兵衛正成いづれも關東は御大勢といひ。旗下の者もみな御譜代重恩の人々なり。大坂がたは諸浪人共が城中の金銀の多きをめにかけてあつまりしなれば。竹流しの金多くとり得たらば逃去むのみ。いかで軍のなるべきと。京童までもかく申候といへば。俄に御氣色損じ。汝何をしりてさる事をいふぞ。卒爾の至り推參之と宣へば。半兵衛も赤面して御前を立しが。しばらくして又めし出されければ。此度は御手刄にも逢んかとおもひ定めて。をそれそれながらやうやうと進み出しに。うち笑はせ給ひ。汝がさきにいひし所はさる事なれども。軍機に暗きゆへものゝいひやうをしらず。城中の浪人ばら竹流しの金取て立退んといふは。誰もしりたる事ながら。もし城中に聞えて。そが逃去らぬ爲に諸人の人質などとらんときは。城兵必死に成て防戰强かるべし。こなたの爲にはいかほども歒の落行がよければ。この後とてもかゝる事みだりに人にいふなと口堅め給ひしは。そのかみ鳶の巢の城攻のとき。信長が酒井忠次をいましめ給ひしと同じさまの御事にて。誰も御思慮の周密なるを感じたてまつりしとなり。(翁物語。)
御出陣の前かた。昨今兩年の御出陣によて諸士一統窮困すれば。何とか御惠賜もあらまほしと。本多上野介正純より阿茶の局へ內議にをよびければ。局も心得てあるとき局笹粽を三方にのせて御前へ持出。去年の御出馬事故なくすませられ。そのうへ近日尾張殿の御婚儀もあり。かれにつけこれにつけ目出度御事なり。かゝれば此度の御出陣に付ても。御供一統へ何ぞ賜物あらんかと申上しに。俄に御氣色損じ。諸人へ物たまはらむは上にも元より思召あたる所なれども。この比下されば。歒を恐るゝゆへかねて諸士の心を取んため。恩惠を施せしなど人口あらんもはかりがたし。もし金銀なくて出陣の支度が調はぬ困窮ものは。心まかせにとゞまるべし。家康一人馳むかつて軍すべし。むかしより度々の軍に。あながち士卒の力をたのまず。みな一人の軍略もて勝利を得し事なれば。今更故なくみだりに恩惠施さんにあらずとて。以の外の御樣なれぱ。局もおもなくて。たゞめでたしだしとばかりいひて。御前をまかでしとなん。(村越覺書。)
城中の落人を捕へ來りしに。御前へめし出て。さまざま城中のさまを御尋問あり。このごろ城中の米價は何ほどするぞ。又矢狹間一間に足輕何人。塀一間に士何人。其外の遊兵は何程。米廩の數はいくつあるなど。追々に詰問せしめ。その答へし所を目錄にしるさしめてこれを會計せしめ。又城中にて餅をひさぐやと問せ給へば。いかにも賣候といふにより。餅にする白紛と小豆の價を尋ね給ひ。さて土をもて餅の形大中小三樣に作らしめ。かたきとゆるきかげんをわかち。この中いづれのごとくなりと問せ給へば。ゆるき方を指し是程なりと申す。さては城中には米も小豆も少きとみえたりとて。その者の髮をそり落して城に放ち入しむ。其者城中に逃かへり。諸人にしかじかのよし語りてきかすれば。後藤又兵衛基次。大野修理亮治長等。大御所の餅の詮議は今はじめて聞たり。とにかく何をきくもなるまひぞとて舌を振ひしとぞ。かゝれば城兵は。君の御思慮の深きに恐れ。いまだ戰ざる前方に。はや心膽をうしなひしとぞ。(翁物語。)
此度の役に將軍家御遲參なりとて。大にむづからせ給ひ。老年の我さへすでに打て上りしに。將軍は何とて遲々せらるゝと仰ありしよし聞しめし。將軍家も殊に御急にて箱根よりは先鋒を打越して進ませ給ひ。御供方は鳥の毛をも馬上にてひくほどの事なり。さて伏見に着御ありて。本多上野介正純もてそのよし仰上給ひしかば。またむづからせ給ひ。大將軍かく弓矢の道にうとくてはなるまじ。たとひわが腹立ときくとも。大軍をひきひながら長途を急ぎのぼりては。惣軍みな疲勞して戰の用に立まじ。さるを一騎がけに馳上られしは。いと輕忽の至なりと。いよいよ御氣色あしかりしとぞ。(小早川式部物語。駿河土產。)
案ずるに冬の御陣に。將軍家駿河のC水に至らせ給ひしとき。京より御使來りて。もし大坂より兵を畿內に出さば。君の御一手もて戰を始められんと仰進らせられしかば。將軍家俄に御道を急がせ給ひけるが。三州岡崎に至らせられしとき。又御內書到着し。あまり御急ぎにては士卒艱困すべければ。少しく御思慮を加へられよと仰越せ給ひしよし。駿府政事錄等にみえたり。これ等の事をかくことごとしく傳へしものならんかとおもはる。
將軍家は四月廿一日伏見に着せられ。その日二條へ渡御ありて御對面の折から。君には來る廿八日に御出馬あるべしと仰出されしかば。將軍家城和泉昌茂を御使として。北國奥羽の勢の上るを待せられ。五七日過て御出陣あらせられんかと聞え上給ふ。君こたび城兵。寄手の着到を待合せて戰はん心なれば。遠國の者が來るをまつまでもなし。見兵もて戰はんとて聞せ給はず。よて將軍家かさねて二條に渡らせられ。御みづから諫め給へば。昨日和泉にも申せしごとく。野合の戰は勢の多少によらず。かつ我老年にをよび。是を限りの戰なれば。先陣はわれ打むと仰らる。將軍家の仰に。今度の戰の事は家々の記錄にもしるし。後世にも傳はるべきに。老年の父君を先立たてまつり。己後陣を打しとありては。天下後世に對しいかゞ侍らん。是非某先陣うけたまはらんと宣ひし所に。本多正信進み出て。御父子の御中にさる事あげつらひ給ふもいかゞなり。古法によらせらるべしといふ。古法はいかにと御尋あれば。正信がうけ賜りしは。味方少しにても敵地に近くあるを先陣と定む。將軍家旣に伏見におはしませば。元よりの御先手にましますと申せば。佐渡はおもひの外の古法しりかなとて御笑あり。これによて將軍家御先にさだまりぬ。其後本多上野介正純御軍儲を伺ひしに。何事も五日分と定め。供奉の者も腰兵粮ばかりにて。小荷駄に及ぶべからず。白米三升。鰹節十。鹽鯛一枚に味噌香の物を少し持しむべしと仰付られしを。例の大御所樣の御功者だてを仰らるゝかな。去年も百日ばかりかゝりしものをとさゝやきしが。果して三日にて落城せしかば。御成算のいさゝか違はざるとて。人みな感服しけるとなん。(武邊雜談。武邊咄聞書。)
其比島津はじめ西國の者。ひそかに大坂の援兵として海路をのぼるよし。浮說とりどりなれば。使番をめされ。大坂と木津と堺の間に。船がゝりする所はなきか。見て參れとの仰なり。使番かしこまりて立むとするに。汝が見樣はいかにと仰らる。心得ずと申せば。心得ぬものが直に行むとせしは何事ぞ。凡船をつなぐ所は見樣のあるものなり。なみなみのMには船がゝりはならぬものにて。あるは入江あるは入川などに懸るものなれ。陸より五間と漕出しては追付事かなはず。故にたゞのMにはつなぐ事も乘事もならぬものなれ。さる心得なくて何を標凖にしてゆかんとはいひしぞと宣ひ。さてその使番かへりきて。仰のごとく見侍りしに。船かくべき所はなしといひければ。されば西國より海路をのぼる者ありとも。船がゝりすべき所なければ心安しと仰けり。このとき將軍家の使番もりしが。木津と仰られしをあやまりて。大和の木津にゆきしが。遲くかへりしかば殊に御氣色あしく。若年の者の見習にもならんかとおもひてつかはせしに。何ゆへ遲かりつるとていたく御咎ありしとぞ。又七日の戰に將軍家より御使進らせられ。只今城中の大軍みな押出したれば。御旗を進められよと申上しかば。城中の者殘らず出たりとも。わづか七万ばかりなり。さるを大軍といふ樣なるふつゝかにて。將軍の使番がなるものかと。いたくとがめられしとなり。(翁物語。言行錄。)
先陣城近く押寄べしとありて追々兵を進む。兩御所は伏見城の舟入の櫓に渡御ありて其樣御覽ず。そのとき井伊掃部頭直孝が旗奉行孕石豐後。廣P左馬助二人。城下にて幟旗をふせて通れば。直孝般若野宮內といふ家人もて。兩御所の御覽ぜらるゝに何とて旗をふせしや。早く建よといへど。兩人申は。旗の事は奉行に任せらるべしとてきかず。直孝また馬塲藤左衛門して。是非建よと下知すれど二人きゝいれず。御城を打こし肥後橋を過。御城をすでに跡に見なす比に成て。はじめて旗を立ぬ。こは主將の渡御ある城へ。旗をむくる事をはゞかりてかくせしなり。君御感ありて。將軍家へむかはせ給ひ。當城へ旗先のすゝむことをはゞかり。今になりて押立しは。さすが直孝がもとには。信玄の家風になれし古兵多ければ。軍陣の作法心得し事かなとて御歎賞有しと之。(村越覺書。)
若江の戰に木村長門守重成が先侍。鐵炮にて堤をかゝへければ。藤堂和泉守高虎其手の軍監久貝因幡守正俊。高木九助正次兩人もて御本陣に申すは。兩陣の間に堤あり。味方小勢にて取兼れば。早く二の手を進め給へといふを聞せられ。御氣色かはり。和泉ほどのものが。かゝる思慮なき事いふやうやある。歒が堤を取たらばとらせて置べし。堤をたよりに軍するは。和泉守に似合ぬ事かなと宣ふ所へ。井伊直孝が手より小栗又一忠政馳來り。たゞ今掃部が兵歒と戰ひはじめしが。中に堤のあるを味方にとり得ば。勝利ならんと掃部が年寄共は申す。いかゞせんかと伺へば。いかさま堤を取し方然るべしと仰らる。同事にかく御答のかはれば。いづれも御思慮の測りしり難き事とおもひあへり。又矢尾口にて渡邊勘兵衛に。歒の長曾我部盛親と挑合しとき。高虎白身御本陣へはせ來り。早く御馬を寄られよと申上る所へ。田甚右衛門尹松馬上より大音あげ。御馬をよせよといふは何者ぞ。たゞ御先手の若者共に拂はせよとののしれば。高虎も又といふこともなくて。己が陣に引返しぬ。後に畠山山城入道入庵をめし。關東の者はみな武畧に馴しとはいへども。今の一言あるべきとも思はずと仰ければ。入庵うけたまはり。田ならでは今の爲方はなるまじ。天晴の一言かなと歎美しけるとなん。(大坂覺書。)
五月六日の夕方本多上野介正純御前に出て。明夕の厨所何くに設けむかと伺ひしに。茶臼山と仰あり。正純茶臼山はいまだ味方の取敷たる所もなければ。あやしみながら仰のまゝにいひ付しが。七日の夜は果して茶臼山を御陣屋とせられしゆへ。いづれも御先見の明晣なるに感じたり。又君の御供方と將軍家の供奉人と。平野にて先を爭ふよし田甚右衛門尹松申上ぐれば。君わが從者將軍を恐るゝかと問せ給ふ。尹松心得て仰のごとしといふ。さらばわが人數は平野を右に見て押し。將軍の人數は平野を左にみて押べしと御下知ありしかば。俄に行伍整然としてみだれざりしとぞ。又七日の戰の前に。松平石見守康安。松平大隅守重勝。水野備後守分長等が一所に屯せしを御覽ありて。松平傳三カ某をつかはされ。一隊づゝ間を二十間ほど隔てゝ備ふべし。大將打て出れば陣中亂るゝものなり。一隊づゝ丸く成ておりしけば。みだれざるものなりと仰られしとぞ。(永日記。翁物語。村越覺書。)
六日の戰終りし後將軍家よりは佐久間河內守政實。君よりは田甚右衛門尹松を御使として。井伊掃部頭直孝が陣へつかはされ。今日の樣を問しめらる。政實かへり來て。掃部今日の戰に打勝といへども。名あるものあまた討せ。明日の御先手つとめん事かなひ申まじといふ。君には掃部今日は出かしたとばかりの仰にて。政實が詞を聞しめさぬ御樣なり。やがて尹松かへりきて。定めて政實が申上つらんなれども。掃部今日大利を得て死傷多く候へども。いさゝかひるむけしきなく。又も明日の戰を心がけ。惣軍いさましく見え候と申す。君さこそ有つらめとて。御氣色なゝめならず。尹松重ねて申は。只今申せしことく掃部勇氣さかんには候へども。今日の戰に手の者あまた打せ。武具も損じ馬も多く疵付たれば。あの躰にては明日の御手おぼつかなし。されどたゞ先陣を操かへよとばかり仰付られては承引いたすまじ。上より强てかへしめ給へと申せば。いよいよ御氣色よく。さらば明日の先陣は松平筑前守利常。本多出雲守忠朝に申付よとて。仰のごとくかへしめられしとなん。(大坂覺書。)
七日の朝御鎧はめさず。すそぐゝりの袴に茶色の羽織を着給ふ。藤堂和泉守高虎參謁して。何とて御具足をめし給はぬかと申せば。あの秀ョの若年ものを成敗するに。何とて具足の用あるものぞと上意なり。高虎まかでし後に。松平右衛門大夫正綱が御前に候ひしに。和泉事は上方者ゆへ。心の底を見せまじとてさきの答はしつれ。まことは年寄て下腹がふくれしゆへ。物の具しては馬の上下も叶はぬゆへ着ざるなり。何事も年よりては。若きときとは大にかはるものなりと仰られしぞ。(駿河土產。永日記。)
常々の仰に。武を嗜むものは戰塲に赴くからは。かねて討死と心がけて。齒の白きものは黃色にならぬ樣にし。髮にも香を燒こむべしと仰ありしをうけたまはり。此度供奉せしもの。いづれも香木少しづゝ懷にせしが香爐なけれぱ。五月七日にも香燒こめしものは一人もなし。又輕きものも着料の具足を作るに。胴小手其外は粗末にし。兜には念入べし。討死のとき兜は首と同じく敵の手へ渡るものなれば。隨分心用ひたるがよしと仰らる。又木村長門守重成が首御覽に入しとき。香燒こめしとみえて。匂ひくゆりかゝりしかば。あの若者にたかざる事を教べしと仰られ。又髮はなでつけにてありしかば。さすがの長門も何ゆへ月代はそらざりし。なでつけは首に成て一段見をとりするものなりと仰られき。又河野權右衛門通重が得たりし首御覽に入しが。これも新に髮をそり香をとめたり。武士の最期はかくあるべしと宣ひ。たが首かと御尋なれば。內藤監物と申す。これは城中の物頭勤むるものなりしかば。この首目利にたがひて堀出しなりとて。御笑ありしとぞ。(駿河土產。前橋聞書。武コ編年集成。)
久寳寺通御のとき。天王寺邊に閧の聲聞えければ。尾張殿の人數を堺へ下して。茶臼山の敵を追拂はしめふと令せらる。御本陣へは永井右近大夫直勝もて仰傳へられしは。旗下の人々馬より下り。西にむき一面に鎗を持。折敷てあるべしとて。御旗御馬印はふせさせ給ひしとぞ。又天王寺口より城中へにげ入る者多ければ。追とめんといふものありしに。其まゝ捨置べし。かゝるものによき武士はなきなり。雜人どもを多く入城せしめば。城中いよいよ混擾して制馭する事あたはじ。何程にげ入も苦しからずとて捨置せ給ひしとなり。(ェ元聞書。)
御本陣に間者入しといふ說おこりしとき。御障子を開かれ御大聲にて。わが家人等を見しらぬ事やあるとて。伺公の者の顏を一々御覽ありしとか。また將軍家の御陣にも同じ事いひ出しに。御刀取て御次へ出まし。間者ありときゝぬ。誰ならんと上意ありしかば。浮說はをのづからやみしとなむ。(前橋聞書。)
尾張殿の御勢遲々せしを怒らせ給ひ。隼人めの腰拔め。なぜに兵衛をすゝめて早く參らぬぞ。はやく來ん樣に申せと。使番の者に仰付らる。使番誰にてかありけん尾張家の陣にゆき。仰のごとく申ければ。成P隼人正正成うけたまはり。大御所の左樣に仰られしな。その大御所もむかし武田信玄が爲には。度々御腰が拔させられしとのゝしりたり。後に隼人御本陣に參り。正成身不肖に候へども。尾張殿の後見うけたまはりて。一藩の指揮するものを。腰拔などゝ仰られしをそのまゝにうけたまはり置ては。この後諸士の指揮がなり申さず候ゆへに。かしこくも思ひのまゝの事申放せしなり。幾重にも御とがめ蒙らんといへば。聞しめして。そは使番事に馴れざるゆへなり。いつとても武道に疵のつく事は。聞のがしにはすまじきなりと仰られしとか。(大坂覺書。)
越前少將忠直朝臣六日の戰に。軍の手に合ざりしと聞しめし大に怒らせ給ひ。かの家老共を御本陣へめし。今日井伊藤堂が苦戰せしを。汝等は晝寢して知らざるか。兩陣の後を押つめば城は乘とるべきに。大將は若年なり。汝等はみな日本一の臆病人ゆへせむかたもなしと。散々にのゝしらせ給へば。家老ども何と申上む樣もなく御前をまかでゝ。朝臣にその旨申せしかば。朝臣且恥ぢかつ怒られ。明日の戰には我をはじめとして。鋒鏑に血をそゝぎ城下に尸を晒さんと。血眼に成て下知せられ。七日のつとめてより諸軍にさきだちて軍を進め。眞田幸村が備を打破り。一番に城に乘入しかば御感斜ならず。朝臣御本陣に參謁せられしかば。朝臣の手をとらせ給ひ。今日の一番功名ありてこそげにわが孫なれとて。いたく御賞譽あり。又二條の城へ諸大名羣參しときも朝臣をめし。汝が父秀康世にありしほど忠孝をつくし。汝またこたび諸軍にすぐれて軍忠を勵む。これにより感狀を授けんと思へども。家門の中ゆへ其儀に及ばず。わが本統のあらんかぎりは。越前の家又絕る事あるまじとて。當座の御引出物として初花の御茶入をたまはり。將軍家よりも貞宗の御差添たまはりしかば。朝臣も感恩の至を謝せられ。前度の恥辱をすゝがれけり。凡浪花の役に越前家の武功。天下に幷ぶものなかりしとなり。(武コ編年集成。)
越後少將忠輝朝臣は軍期に後れ。戰終りて後御本陣に參られしとき。本多上野介正純御前にまかり。只今忠輝朝臣參上のよし申といへども。外ざまを御覽じて何の御詞もなし。正純よて朝臣を御前近く進ましむれば。上總介今日は何として居たるとばかり仰られ。堺の方に落人のみゆれば。花井主水して追捕へしめよと宣ふ。正純うけたまはり。朝臣にはまづ陣所へ御歸りありて。火の事いましめ給へと申せば。朝臣は面あかめて御前をまかでられしとぞ。この朝臣は大國を領し給ひながら。大事の戰期を失はれ。諸人の思ふ所もいかゞとおぼして。御憤斜ならざりしとなむ。(武コ編年集成。)
本多出雲守忠朝は中務大輔忠勝が次子にて。武勇といひ門地といひ。君にもかねてやむごとなきものにおぼしめしけり。一年駿城火災ありし後。忠朝より所領の蠟燭千挺獻りしを。いと見事なりとてめでさせ給ひしが。その後御用ありて其燭ともされしに。光明さまでなかりしかば御氣色損じ。千挺が百挺なりとも。光の明らかなるを吟味するこそ眞實の心なれ。この蠟は出雲が人となりに似て。外邊のみかざれりと宣へば。このよし忠朝うけたまはり傳へて。心うき事におもひたりしに。また去年の戰に玉造口にむかひ。泥沼のありて馬蹄の懸引よからずと申せしに。忠勝に似ぬ臆せし事よと仰ありしをも心にとめて。こたびは是非討死と思ひ定む。小笠原兵部大輔秀政は忠朝の兄の忠政と同じく。岡崎三カ君の姬君に相すみて。かたみにしたしき中なれば。六日の夜秀政忠朝が陣所に來り。けふ藤田能登守信吉が爲に制せられて。軍に合ざりしは遺憾なれ。明日ははれなる戰して汚名をすゝがむといひしかば。忠朝もかねて御けしき蒙りし事どもいひ出て。夜更るまで語りあひて别れけるが。七日の戰には果して兩人ともに。思ふまゝの戰して遂に討死しけるこそあはれなれ。(武事記談。武コ編年集成。)
榊原遠江守康勝は若年なれば。藤田能登守信吉もてその手の軍監とせらる。七日の戰に康勝が責口の前に潦池あれば。信吉が指揮にて池を前にして備を立。康勝が家老伊藤忠兵衛。このまゝにては敵にあふ事かなはずとて。池をうちこして陣取しかば。信吉何とてわが軍令を用ひざる。かくては遠州の進退もいかゞあらん。早々元のごとくせよといへど。忠兵衛きかず。戰はじまると直に敵と渡合。首數七十あまり切て御本陣にたてまつる。君には諸手より追々獲物獻るに。榊原が手の注進なければ。心許なくおぼしめし。遠江は何としたる事ぞ。鷹の鳶を生たるかと度々上意ありしに。こゝにいたり諸手よりも殊更多く首數たてまつりければ。はじめて御心よき御樣にて。鷹が鷹を生しと宣ひけり。忠兵衛は二度めの戰に遂に戰死し。其子宮內もよき武者討て功名しぬ。戰終りて後いくばくならで康勝病死し。江戶にてその折の御吟味ありしに。藤田信吉申は。某は池をうちこして軍を張出さしめしに。忠兵衛下知して又引入しなど。あらぬ事どもいひ出しかば。宮內大に怒り。かれが僞詐を具に申わけせしかば。信吉遂に罪に伏して改易せられしなり。(君臣言行錄。)
落城の朝御旗御長柄をば。住吉の邊に立置べしと命ぜられ。御みづからは住吉と城との間のくれ林のかげに。山輿にめしておはしまし。松平右衛門大夫正綱をめして仰けるは。城中のものはわが旗幟をみて。わが住吉にあると思ふべし。味方旣に勝たれば。此上は身を大事にするこそ。第一なれとて御笑あり。かゝる所へ安藤帶刀直次馳來り。御勝利の樣申あげ。御茶弁當に附副し坊主にむかひ。直次渴にたへず。何にても一抔のませよといふ。坊主只今上樣の御茶碗より外に。進らせん飮器なしといふ。直次上の御器なりとも。たまはりし跡にてすすぎたらばよからん。ひらに飮せよといふ。とかうするうちに聞しめしつけ。帶刀が喉の乾くといふになぜのませぬぞ。かゝるとき上下の隔があるものか。うつけめとしからせ給ひ。速に飮しめ給ひしとなり。さて其後茶臼山へむかつて靜に押せ給ふ所へ。庚申堂の邊にて本多上野介正純が家人と。松平右衛門大夫正綱が家人と爭論起り。鐵炮打合しを歒かと心得て。御先手の者立かへり鎗取んとひゝめくにより。四五百人ばかり御馬前になだれかゝる。君かゝるときに長道具がいるものか。たゞ太刀打にせよと制し給へども聞入ず。追々後陣に崩れかゝり。永井右近大夫直勝が備をはじめ。尾紀の御勢も色めき立てしづまらず。君はいさゝか常にかはらせ給はず。御馬を立ておはします所に。小栗忠左衞門正忠御先備より馳來り。そらくづれにて候と申せば。さてさてあやかしどもがうろたへて。そらくづれしつる事のうたてさよとて。殊に御憤怒の御樣なりしが。やがて御陣定りしかば。茶臼山へすゝみのぼらせたまひしなり。(大坂覺書。駿河土產。)
茶臼山に御陣をすへておはします所へ。諸大將追々參謁して。賀詞聞え上たてまつる。畠山山城入道入庵進み出て。何事も思召のまゝなりと申上れば。入庵が手を取せ給ひ。又勝たるはとの仰なり。こは關原の御勝利を思召出ての御事なりとぞ。やがて尾張駿河の兩宰相參らせ給ひ御對面あり。ョ宣卿には。今日の御先手奉はらざるゆへ合戰にあはず。殘念の至なりとて。しきりに御淚にむせび給へば。松平右衛門大夫正綱御側に在て。常陸殿にはまだ御若年におはしませば。この後幾度もかゝる事に逢せ給ふべし。さまで御歎に及ぶまじと慰めたてまつれば。ョ宣卿御氣色かはり。右衛門をはたと睨ませ給ひ。やあ右衛門。常陸が十四の年がまたあるべきかと宣へば。君御感スの御樣にて。常陸。只今の一言こそ今日の手にあはれしよりも名譽なれと仰らるれば。陪座の諸大名いづれも感歎やまざりしとぞ。又本多佐渡守正信が馬に打乘て御陣へ上り來るを御覽じ。坂まで上れと仰あるに。おんでもない事と申て。御前ぢかく騎て參れば。藤堂和泉守高虎。佐州早かりしといへば。正信高虎にむかひ。何がしが今日の武者振はいかにと笑ひながらいふ。正信が其日の出立は。とろめむの羽織に裏付の袴を着。五位の太刀はきしとぞ。かゝる所に城中に火もえ出て。K煙と成て上るを御覽じ。小出大和守吉英をめされ。あれをみよと宣へば。吉英城の方を熟視して兩手をつき。さてさて笑止の御事なりといへば。汝が身に取て只今の申ぶりこそ殊勝なれと宣ふ。こは吉英は豐臣家の舊恩うけしものゆへ。そのむかしを忘れざるとて。是より御かへりみ深かりしなり。又俄に夏目を呼べとの仰なり。これは次カ左衛門吉信が三子長右衛門信次が事なり。小身の事ゆへ旗馬印もなければ。いづくに居るもしられず。使番諸所に馳廻りからうじて尋出し。御前へ連來れば。むかし汝が父味方が原の戰に。われにかはりて一命を抛しは。忠節のものなりと仰給へば。信次おもひもよらざる御賞詞をかうぶり。感淚をながして伏居たり。かゝる御勝利に付ても。舊功の者の事をおぼし出て御詞をたまふは。小出が豐臣家の舊恩わすれざるを賞せられしと一つ御心より出て。たれだれも御仁厚の至り深くおはしますを。感ぜぬものはなかりき。(天元實記。古人物語。)
本多唐之助忠光は中務大輔忠勝には孫。美濃守忠政が三男なり。此度の役に御供願ひしかども。若年(十四歲。)なるをもてゆるされず。强ちにこひたてまつりて供奉し。此日の戰に敵の首切て御陣に參りしかば。汝若年にてかゝる高名せしは。あつぱれ大將の器なり。今日よりは昔の勇將の名になぞらへて。改稱せよと上意ありしかば。さらば弁慶と稱せんとこひしに。弁慶がごときは匹夫の勇なり。鎭西八カ爲朝か能登守教經などこそ膂力㧞羣にして。その名千載に高し。これにあやかり能登と稱し。忠字は汝が家の通稱なれば。これにかなふ文字撰び遣はせとて。林道春信勝めしてそのよし仰付らる。道春かしこまりて。たゞ忠義とつくるこそよけれと申上しかば。すなはち能登守忠義とめされけるとぞ。(武コ編年集成。)
敵の首級とりどり御覽に備へしに。炎暑の折から損じたるも多かるべし。もはやもて參るに及ばず。されど眞田が首と御宿越前が首は御覽あるべしとて。眞田が首を忠直朝臣の家臣西尾仁左衛門もて參り實撿に入る。左衛門をば兼て見知せ給はざれば。それは向齒かけてあるかと御尋にて。口をひらきみしに果して欠たり。仁左衛門へ勝負はいかにと尋給へば。仁左衛門とかうの御答に及ばず。たゞ俯伏して居たり。能首取たるはと仰にて。後に近臣に勝負はなかりしと宣ふ。次に又越前家の野本右近御宿が首を御覽に入しかば。さてさて御宿めは年の寄たる事かなとて。これも勝負はいかにと仰らる。右進さん候。越前事天王寺表よりたゞ一騎來り。茜の羽織着し。若黨二人よび何やらんいひ付て。二人とも後の方へ走りゆきぬ。某が近寄を見付て。鎗取て馬より下る所へ。走りかゝり鎗付しに。重ねて手向もいたさゞれば。其まゝうち取ぬといふ。汝はよき功名を遂しと仰ありて。後に御宿が若き折ならば。あの者などに首とらるゝ事にてはなきにと仰られしとぞ。(天元實記。)
落城後秀ョ母子は芦田曲輪に籠り。姬君御出城ありて。母子助命の事を。本多佐渡守正信もてこひたてまつられしに。御姬が願とあらばそれにまかすべし。秀ョ母子をたすけ置たればとて。なでう事かあらむ。汝岡山へゆき將軍にも申てみ候へとの仰にて。正信岡山に參りそのよし申上れば。將軍家は御氣色以の外にて。何のいはれざる事をいはずとも。なぜ秀ョと一所にはてざるぞと宣へば。正信うけたまはり。ともかうも大御所の思召に任せらるべしと申て。姬君の方へも參りかくと申し。扨八日の朝にいたり、兩御所御參會ありてしばし御密談あり。諸人のうけたまはる所にて。將軍家にむかはせられ。必秀ョをば助命し給へ。こゝが將軍の分别所なりと宣へば。將軍家仰はさる事なれども。數度の叛逆此上はもはやたすけ難しと宣へば。老人のかくまでいふを聞れねば。このうへは力なし。心にまかせ給へとて。いと御不興の御樣にて御座を立せられしが。ほどなく井伊が備より芦田曲輪へ鐵炮打かけしかば。秀ョはじめ悉生害ありしよし聞えし。(天元實記。翁物語。)
秀ョ生害の後ひそかに城中を御巡視ありて。御歸京あらむとて。かゝる大戰の後は必大雨降出るものなりとて。御路をいそがせらる。其比晴天にておもひもよらざりしが。守口邊より空かきくもり。枚方の南よりは大雨車軸を流し。雨皮なければ御輿を下させ給ひ。簑をめして御馬にて打せらる。下鳥羽の邊にて日暮れ雨もやみければ。夜亥刻ばかりに二條城に着御あり。板倉內膳正重昌一騎御先に立て。御門をたゝきけれども。此比の事にてみだりに明ざれば。重昌父の伊賀守勝重が手の者かためたる裏の御門より入れたてまつりしとなり。(大坂覺書。古人物語。)
大坂落城のよし聞えしかば。京の東山にある豐國明神の社前へ。いづくよりか香資銀あまた備へけるよしにて。所司代板倉伊賀守勝重手の者つかはし點撿せしめしに相違なければ。そのよし御聞に入る。仰におほよそ人の世にありしほど。智仁勇の三コ備はりしものならでは。死後に神にいつき祭らるゝ事はなきはずなりとて。太閤の影像は束帶をとり圓頂になし。社頭も撒毁し除地とすべしと仰付られしが。北の政所より。崩れ次第になし給はれと。あながちに願はれしゆへ。ねがひのごとく御ゆるしありしとなり。(駿河土產。)
二條にて諸大名拜謁の折。伊達政宗この度大軍のうち。一人も異慮のものなかりしは。威コの至なりと申せば。かゝる勝利の後は。歒方みな死したれば。さる者ありとも知れざるなりと宣ふ。政宗いかにも尊旨のごとく。某が家臣のうちにも逆徒に內通せし者ありけんもしれず。このうへはなを心付侍らむと御受申す。又勳功の人々へ御詞たまはりしに。松平伊豫守忠昌末座に居しが立あがりて。松平伊豫守これに罷在候と高らかに呼はりければ。御覽ありて。汝若年にてみづから高名せしは。拔群の働なりと御賞詞あり。忠昌は故黃門の二子にて。こたび越前家の先手に進み。城方念流左大夫といふ剛の者を討取しなり。(天元實記。武功實錄。)
七日の戰に今村傳四カ正長一番鎗して。歒陣に馳入り血戰せしに。乘る所の馬鐵炮に中り歩立に成しを見て。山伯耆守忠俊が隊下近藤忠右衛門。己が馬を正長にさづくれば。正長これに乘て歒陣に入り首取てかへしりが。又その馬も乘放しければ。再びかけ入て終に其馬求め出し。歒の首一級にそへて近藤にかへしぬ。その年の十二月正長を御前にめし。當日の戰功を賞せられ。むかし梶原景時が二度の蒐は。其子の源太景季を助けんがためなり。汝が二度のかけは近藤が馬を取かへさむとてなり。義のあたる所梶原にまさる事遠し。げに一騎當千の勇なりとて。めさられし胴服を脫て下され。其後又千石の加恩賜はりしとぞ。此戰に正長が携へし鎗は。味方が原の役に。夏目次カ左衛門吉信が君の御身代として討死せしとき用ひしを。吉信が子長右衛門信次は。正長が伯母聟のちなみをもて。正長が行末の忠功。なき父にあやかれしとて正長に贈りしなり。さるに此度かゝるはれなる働して。その鎗に恥ぬ程の武名をあらはせしとて。感ぜぬものなかりしとぞ。(武コ編年集成。家譜。)
久米C吉といひしが父の新四カ吉Cは。岡崎三カ君に附られしに。君御事ありし後世をうきものに思ひなし。引こもりて身まかりぬ。このC吉は天性氣ばやなる者にて御氣色にかなひ。後に名を武兵衛と改む。大坂夏の御陣に使番奉り。七日の戰には五の字の指物さし。少し小高き所に打上り。軍の樣見物して居たり。後に御陣崩のとき逃たりし者御穿鑿ありしに。C吉が事あやしみいふ者ありしに。たとへ旗本惣崩に成とも。このC吉にをいては逃るものにてはなしと上意ありしとなり。(勇士一言集。)
大坂落城の後二條城にて仰けるは。むかし櫻井庄之助勝次といひし者ありて。三河以來度々戰功をあらはしたり。卒せしときにはいと哀惜の餘落淚せしなり。其子は本多忠勝に屬してありしが。この七八年ばかりいづれに居る事を知らず。誰ぞしりたる者はなきかと御尋なり。本多美濃守忠政その者かねて臣が家にありしが。ゆへありて今日は田中筑後守忠政がもとにまかりぬと。うけたまはるよし申上る。よて忠政に召連來るべしと仰て。其後駿府に參り謁せしに。汝が父は每度戰功をあらはし。忠勝が病氣の折はいつもかはりて軍卒を指揮せしに。いと氣幅ある武士にて。今に存命ならば並々の者の及ぶ所にあらじと宣ふ。庄之助勝成いと幼くして父にわかれ。何事も心得侍らざるに。只今の御詞にてなき父の遺事迄御賞譽を蒙り。追慕の心いよいよたへがたしと申す。君永井信濃守尙政を田中が許につかはされ。是まで數年勝成を扶助せし事を賞せられ。勝成をば召出され。後に書院番になされしなり。(貞享書上。)
小笠原兵部大輔秀政。其子信濃守忠脩。大學頭忠政三人。天王寺の戰に手痛き働して。秀政忠脩は討死し。大學は深手負しかば。施藥院宗伯。山岡五カ作景長もて御問訊あり。二人の忠死をあはれませ給ひ。はた忠政が疵平愈せんやうに手當せしめらる。その閏六月廿六日二條にて舞樂興行ありて諸大名に見せしめらる。折しも忠政疵いまだ全く愈されば遲參せしに。舞樂の刻限をしばし御見合ありて。忠政まうのぼりしを待せらる。やがて忠政まうのぼり御前へ出しかば。加藤左馬助嘉明等の諸將の侍座せしところにて。御みづから忠政が疵を御撿視ありて。これはわが鬼孫にて侍る。父の兵部兄の信濃も討死し。この者も深手負ていまだ全く愈ざれば。かく遲參せしなりと仰られ。忠政が御前をまかでゝ。拜覽所へまかるとひとしく。舞藥はじめよと仰傳へられしとなん。(貞享書上。)
この卷は大坂夏の御陣の事どもをしるす。 
卷十六 

 

浪花の役旣に畢り。御參內等も事ゆへなく濟せられ。兩御所江戶駿河に還御あらむとするにをよび。將軍家より宿老もて伺はせ給ふ事ありて。二條城へ伺公せしに御前へ召出され。是迄は思召旨もありつれば。將軍家より天下大小の機務御參議あるごとに。御意見をも仰遣されしが。此後は何事も將軍家の尊慮にまかせらるべし。かさねて駿府へ御諮詢あるに及ばず。たとひ御商量あるとも。御答に及ぶまじ。よくよくこのむね申上よと仰られぬ。この後は万機のことみな江戶にて决せられてのち。其うへ駿河へ告進らせられしとなり。(駿河土產。)
慶長廿年七月朔日台コ院殿二條に渡御ありて申樂興行あり。君にも御覽ぜられ。公武ともに拜觀をゆるさる。兼ては九番行はるべき定めなりしが。比丘貞の狂言御けしきにかなはで七番にて終り。その明日また上意ありしは。昨日今春大夫が八島をかなでしに。平家はふね源氏は陸といふ所にて。御前のかたをさして平家に誓へしは。僻事なりとてむづからせ給ひ。また大皷打ものが。御前にて太皷の紐をしめ直せしも無禮なりとて。その日の申樂どもおほく御勘事蒙りしとぞ。(駿府政事錄。)
伊勢神官戶部大夫といふは。豐臣家先代より祈禱の事奉る御師なり。一とせの戰に秀ョが內意をうけて。兩御所を咒詛し奉るよし聞えて。伊勢の事奉はる日向半兵衛正成。中野內藏允訊鞠せしに。まがふ所もなければ。罪案を决して駿府へ伺ひひしに。そは奉行人の心得違なり。秀ョが運を開かむとて丹誠をこらせしは。御師には似つかはしき事なり。草々獄屋を出し沒入せし器財も悉く返しつかはせと仰付られしとぞ。(駿河土產。)
豐臣太閤の時より厨所の下吏つとめて。後にその頭までになり上りし大角與左衛門といふその。五月七日落城の前に逆心し下人にいひ付厨所に火を放ち。それより延燒して滿城みな灰燼となり終に落城せられり。その後與左衛門これを勤功にし。當家へ奉仕を望みしが幾程なく病にかゝりてうせぬ。君この始末聞しめし。彼は去年和談の折も。秀ョが母儀の使として茶臼山にも來りしものなり。下臣のならひとは云ながら。太閤以來厚恩をも蒙りし者の。恩をしらずといふべし。にくきやつかな。生ていれば刑戮に行はむものをと仰られしとぞ。戶部大夫をはゆるされ。與左衛門をばにくませ給ひし公正の御心掟いとかしこし。(駿河土產。)
大坂に籠りし諸浪人共みな御ゆるしなれば。心まかせに誰家なりとも仕官すべし。諸家にても召抱へん事も苦しからざる旨令せられしかば。艸菴に隱れて時節を伺ひしものども。感恩のェ大なるに感じ。それぞれ舊功をいひ立て俸祿にあり付しとなり。又落城の後赤座內膳永成。伊藤丹後守長次。岩佐右近正壽をはじめ。秀ョの小性十餘人ばかり京の妙心寺に迯入て。海山和尙をもて。撿使をたまはらば腹切むと申上しかば。大閤以來譜代の者どもが。秀ョの先途を見屆し上にて。腹切むといふは本望なり。今度罪する所の者は。大野修理などの首謀のものか。あるは先年關原の役に一旦その命を扶けしものか。又はこたび籠城せしは重科なればゆるすべららず。その外はなべて御ゆるしあれば。心まかせに何方へなりとも立退べしとあれば。みな仁恩をかしこみ。己がじゝあかれ行しとなり。又搏c右衛門尉長盛は關原の時高力左近大夫忠房に預られて。武州岩槻に在しが。其子兵大夫は此度冬の役には。將軍家の御陣に從ひ奉り。寄手の勝しときゝては顏色やましめ。城兵の利ありと聞ば喜スのさま顯れしが。このよし御聽に入しかば。それは舊主をわすれぬ神妙の心ざしなり。さすが搏cが子ほど有と仰られて何の御咎もなし。夏の陣には城中にはせ入り。長曾我部宮內少輔盛親が手に屬し。五月五日藤堂が陣に向て晴なる戰して討死しければ。今は父の長盛もかくて在らんはいかゞなりとて。遂に切腹命ぜられしなり。(明良洪範。駿河土產。)
大坂より京の二條に還御ありし頃。御物語の次に。本多上野介正純。木村長門守重成が事を稱歎し。かれもし七日迄生てあらむには。かならず秀ョを勸めて出城せしむべしといふに。とかうの御荅なし。正純また松平武藏守利隆がことをほめ聞ゆれば。利隆は金吾秀秋に似たりと仰らる。正純秀秋に似たりと宣ふは。逆意のきざしにてもあるかとおぼしめしての事かと思ひ。利隆には篤實なるものなりと申せば。五十萬石も領するものは。わが父子にも目をかくるほどの親愛の情がなくては。叶はぬと仰られしとなり。(古人物語。)
御年若き程より。近臣の過誤か又は思はざる失言などは咎め給ふ事もましまさす。かゝれば誰々もつかへ樣いとやすらかにてありしなり。されども武道にかけたる事。または事の首尾とゝのはずして虛飾を加ふるものは。いたく咎め給ひしなり。浪花の役畢りて後二條城に於て。城將御宿勘兵衛が事跡をよく知りたりといふ同國の者を御前へめして御尋あれば。そのもの御宿が事のみならず。下總國鴻臺の戰にをのが高名せしなどいふ事。ゆくりもなくいひ出しに。しばし御思案の樣にて。汝は永祿それの年に生れしといへば。鴻臺の戰の時は北條氏康は五十歲の前後。氏政は廿六七ばかりの事なれば。汝はそのころわづか四五歲ばかりなり。何として軍に出べきぞ。かゝるかけあはぬ事いふものか。そこ退けと仰ありしが。重ねて見上奉る事もならざる程の御顏色にておはしませしとぞ。此のちもかゝる虛詐をいふもの家人の內にあらば。その風諸人へをしうつりて。風俗をみだす基なり。おごそかに咎め申付んと宣ひけるが。幾程なくてかくれ給ひしかば。御咎にも及ばざりしとぞ。何といひしものにや姓名は傳はらず。(岩淵夜話。)
近臣等大坂の事語り出しに。五月六日若江の戰に。井伊掃部頭直孝が家人三人して歒を相打にせしといふ。直孝撿察せしに。兩人の相打に極り。一人は言葉たがひしとて咎めしといふを聞せられ。いづれもよく承れ。すべて何事も余地のあるをもてよしとす。あまりに切詰しはよからず。わきて武邊のことは猶更なり。むかし織山右府いまだ微弱のときいづれの戰にか。佐佐內藏助成政。前田又右衛門利家兩人して歒一人を突ふせしに。成政利家にむかひ其首とられよといふ。利家われは歒を突倒せしまでなり。はじめに鎗つけしは御邊なれば。御邊こそ首とられよとかたみにゆづり合し所へ。柴田修理亮勝家はしり來て。さまで辭退の首ならば我給はらんとて首をあげて。をのをのも來られよといひつゝ。三人打つれ右府の前へ來り。そのよしいへば。右府大に感賞せられしとか。此三人などは武邊に余地がありて。いとゆうなる事と仰られき。(駿河土產。)
浪花より還らせ給ひ。駿城にて夜詰のとき仰けるは。われ若年より兵馬のうちに人となりて。學問する暇なかりしかば。年老てもかたのごとく不學なり。されどたゞ一句の要文をおぼへて。是を朝夕に心にとめて。天下一統の大業をもなしつれ。聖賢の語か又は佛語なるもしらず。汝等あてゝ見よと宣へば。少し文字の心をある者は。是か彼かなどをしあてに伺ひ奉れどもあたらず。今はたれも思ひくしたるに。汝等がいふ所はみな經典の要文と聞ゆ。我元より不學にして。此語何に出しといふことはしらざれども。あだに報ずるに恩を以てすといふ一句の要文なり。これを常々胸中に忘れずして何事もこの意もて處置せしなり。汝等に相傳すればおろかにな思ひそと。咲ひ給ひながら仰られしとぞ。(岩淵夜話。)
駿府にて近臣へ宣ひしは。厚恩をうけし舊主又は主の子などへ。無道の擧動するものは。一時は時の權勢にて無事なれども。子孫に至りてかならずその報應あるものぞ。むかし織田三七信孝が勢州の內海にて自裁せし時。むかしより主をうつ海の野間なればむくひをまてや羽柴筑前といふ辭世よみしと聞たるが。今度大坂にて秀ョが自殺せしは八日なれども。豐臣家の滅亡は七日なり。野間の內海にて信孝が切腹せしも五月七日なり。何と天道報應の理おそろしきものにはなきかと仰られしとぞ。(駿河土產。)
元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四カ次カ京より參謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の邊にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に薤をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原內記C久より能Mの鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ樣に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへしまたなやましくおはしてはかばかしくもうすらぎたまはず。君にはとくにその御心を决定せしめられしにや。近臣には兼て御身後の事ども仰られしなり。將軍家もかくと聞しめし驚かせ給ひ。急ぎ江戶より駿河へ成らせられ。さまざま御あつかひあり。ひそかに朝夕近侍の輩をめし出して。大御所もし御身後の事など仰らるゝとも。汝等かまへて御心の餘事にうつらせ給はん樣にいひ慰め奉り。少しも御心のやすまらんこそ肝要なれと仰せらるれば。人々奉はり。仰迄もなくいづれも鷹狩申樂など。常々すかせたまふ事ども聞え上れども。さらに聞しめし入ず。たゞ御後の事のみ語らせ給ふといふ。天海僧正もその座に在て。和漢ともに非常の英主は。あらかじめ死期を决定して。身後のことかねがね遺托せらるゝものなり。愚僧も先頃より御側に侍して。かしこき上意ども奉はりしなり。此たびはとても御平快あるべしともおぼえずと申せば。將軍家もたゞ御淚にむせびておはします。かくて彌生の末つかた。與安法印をめして御藥一帖調ぜしめ。本多上野介正純手づから煎じて進らするに。めし上らるゝ間もなく。盥盤をとりよせてみな吐し給ひぬ。將軍家へむかはせられ。こたびわれ獲麟の期すでに到り。天年こゝにきはまる。豈草根木皮のよくとゞむる所ならんや。よてはじめより服藥せまじと思ひつるに。あながちに仰進らせらるれば。つとめて服用しつるにかく詮なし。もはやきこしめすまじと仰られて。此後は絕て御藥きこしめさず。又女房等も御側にさし置せ給はず。あつしく成まさらせ給ひても。外樣の大名をめし出て。わが命旦夕に逼るといへども。將軍かくておはせば天下の事心やすし。されどももし將軍の政道その理にかなはず。億兆の民艱困することもあらんには。誰にてもその任にかはらるべし。天下は一人の天下にあらず。天下の天下なりと聞けば。たとひ他人天下の政務をとりたりとも。四海安穩にして万民その仁恩を蒙らば。これ元より家康が本意にして。いさゝか憾みおもふ事なし。われ死せばいづれも先歸國して。將軍の指揮に從ひ江戶に參覲すべしとて。それぞれ御遺物賜る。殊に松平筑前守利常。島津薩摩守家久。松平陸奥守政宗三人をば御病床近くめして。をのをの御刀下され。この後北國筋に騷亂あらんには筑前守。西國は薩摩守。奥方は陸奥守にまかせ給へば。いづれも各國を鎭撫して。天下の靜謐を心がくべしとのたまひ。細川越中守忠興も同じ仰を蒙りければ。いづれもみな感泣してまかでぬ。又義直。ョ宣。ョ房の三公達をめして。將軍家へむかはせたまひ。かの人々はいまだいはけなきほどなれば。のちのちも友愛の情を加へてうとくな思ひたまひそ。また公達へは。おことだちわがなからむのちは。將軍を天とも父とも思ひいやまひて。いさゝかその命にたがふ事なかれと宣へば。方々もふし沈ておはします。又成P隼人正正成。安藤帶刀直次をめして。汝等よく義直ョ宣を輔導して。後々も將軍へ對して二心あらしむべからずとおほせ付られ。又松倉豐後守重政。堀丹後守直寄。市橋總守長勝。桑山左衛門佐一晴。别所孫三カ友治を召て。將軍家へ。この五人のものども常々まめに奉仕するのみならず。去夏大坂の大和口にても晴なる働きしつれば。この後も御心にとめてめしつかはるべしとて加恩賜ひ。また殊に友治を指し給ひ。かれは小身なれども。やさしき詞をつかひゆくゆく用立べきものなりとのたまへば别所もかしこさの餘りに。大聲あげて泣出しとなん。(駿河土產續武家閑談。東迁基業。)
三月の初がた越後少將忠輝朝臣の生母阿茶の局を御病牀にめして仰けるは。忠輝には天資猛烈なれば。大坂の戰にも一かど諸人にすぐれ。天下の耳目を驚かす程の戰功も有んかとおもひしに。思ひの外戰期に後れて。敵の旗色も見ずやみけるは緩怠の至りなれ。われ父子の間といへども。嫌疑なきにあらず。ましく將軍の心中いかゞ思はれんもしれず。その上我にも告ずして罪なき長坂血鎗が弟を誅せし事。無道の至なりとて御氣しきことにあしければ。局はとかうの答にも及ばず。このよしひそかに越後に申送りしかば。少將大に驚かれ。いそぎ發途して駿府へ參られ。宿老もて御氣しき伺はれしに。以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御對面も叶はざれば。少將せんかたなく御城下の禪寺に寓居して。御病のひまを伺ひて。謝し奉られんとする內に薨御ありしかば。また江戶に下られ。搶緕宸フ觀智國師もて。將軍家へ歎訴せられしかども。すでに先公御大漸の前かたにも。御對面なかりし程の御事にて暴惡重疊しつれば。其儘大國を預けらるべきにあらずとて。遂に越後信濃を收公ありて。遠流に處せられしなり。御父子の情愛はさるべけれども。少將かく無道にして國禁を侵すに至れば。今はの際に臨み給ひても。いさゝか私愛に引れ給はず。天下後世の爲を思しめして。かく嚴獅ノ御處置ありしは。かしこみてもあまりある御事にぞ。(校合雜記)
御病床にて將軍家と。その比の大名の人となりをとりどり御評論有しに。加藤左馬助嘉明は三河の產にて。性質篤實にして。太閤世にありし程より當家に志を通じ。いさゝか粗略なければ。永く愛憐を加へらるべし。されど少しの事も心にとめて。不足におもふくせあれば。こゝは兼て心得置せ給へと仰らる。將軍家嘉明は小量なれば。異慮はあるまじきやと伺はせ給へば。いやとよ。小量なりとてあなづりたまふな。譬へば踊などをみるに。おさなき者たりとも音頭をとるもの節族よくてうきたつ程上手なれば。老たるものもおもしろさに。己をわすれて踊出るものなり。亂世のならひて。一方の將となるべき者あれば。當人は異心なけれども。傍より打よりて取立るものなれば。心ゆるし給ふなと仰らる。又四月十四日のころにや。福島左衛門大夫正則をめして襲封の暇給ひ。名物のお茶入下され。先年汝が事を將軍へいひそすものありて。年久しく江戶に滯留せしめしなり。こたびわれ汝が異心なきよしを。將軍へつぶさにいひほどきつれば。心安く歸國し。兩三年も在國すべしと宣へば。正則は淚にむせび何の御請もなしえす。またかくはいへども。もしこの後將軍に對し遺憾あらば。速に兵をおこさん共心まかせたるべしと宣へば。正則も大聲揚てたゞ泣になきけるとぞ。後に本多正純を召て。正則は何といひしと尋給へば。正純太閤の世に在し時より。當家へ對しいさゝか二心なりしを。唯今の上意はあまり情なき御事と申ぬといへば。最早それにてざつとすみたり。その一言聞む爲なりと仰られしとぞ。(續武家閑談。)
土井大炊頭利勝も將軍家の供奉して駿府へまかりしを。度々御病床近くめし出て。仰事どもありし內に。近ごろ軍伍の次第は。鐵炮をもて先とし。次に弓。次に騎馬なり。これは定制とすべからず。この後は弓銃を首とし。騎馬是につぎ。鎗隊またこれにつぎ。あるは右備としあるは左備とし。機應じて定むべし。鎗には别に奉行人を立置て。その指揮にしたがはしむべし。わがなからん後は。將軍家へこのむね申上よと仰られしとて。神さらせ給ひしのち利勝なくなく聞え上しとなり。また堀丹波守直寄をめして。かれが浪花の軍功及び平常の武略を賞せられ。わがなからん後にもし兵亂出んには。將軍家の先陣は藤堂和泉守高虎奉るべし。井伊掃部頭直孝は二陣たるべし。汝は兩陣の間に遊軍とし。機に應じて勝を制すべしと御遺命ありしかば。直寄感咽して御前をまかでしとぞ。(東武談叢。土井譜。紀年錄。貞享書上。)
御病中侍養のものゝ內にも。とりわき秋元但馬守泰朝。板倉內膳正重昌。松平右衛門大夫正綱。榊原內記C久は。御心やすくめしつかはれしなり。ある日內膳正重昌をめし。御身後の事共かづがづ仰置れし內に。わがなからん後には。將軍家さだめてわが廟所をおごそかに營建あるべし。そは無用の事なり。子孫の末までも始祖の廟にまさらぬ樣にせしめん所を思ひて。わが廟はかろく作り出べしとなり。神さらせ給ひし後に重昌此事申上しかば。將軍家聞しめし。先公の御身にとりては。御謙コの至りと申奉るべけれども。我等が追孝の志にては。あまり菲儉に過べからず。おほかた莊嚴といはむ程に作り出べしとて。最初の御廟は出來せしはり。其後崇源院殿の靈牌所造營に及んで。駿河亞相專らうけばりつかうまつられて。おごそかに出來せしをもて。台コ院殿の薨ぜられし時には。また靈廟を靈牌所よりまさらん程に作り出よとありて。追々莊嚴になりゆき。この二所に比すれば。日光山の御廟いかにも御儉素に過たりとて。大猷院殿の御時新建とはなく。御修理の躰にて若干の御費用もて後の御宮は出來せしとか。是より廟貌儼然として。天下にその比類なきほどになりしなり。(駿河土產。)
薨御の前三四日ばかりの事にや。大坂の役に上總介忠輝朝臣が事仰出されし次に。村P左馬助重治。城織部昌茂に。われむかし信長の變ありて信樂越せしに。大和口の樣見置たり。かしこに山あり。こゝには野陣とるべき所ありしなど宣ふに。いささか違ふ事なかりしなり。年久しき間の事を。御危篤の際までいさゝか御遺忘なかりしとて。みな驚嘆せしとなん。(永日記。)
四月十六日納戶番都築久大夫景忠をめし。常に御秘愛ありし。三池の御刀をとり出さしめ。町奉行彥坂九兵衛光正に授けられ。死刑に定まりしものあらば此刀にて試みよ。もしさるものなくば。試るに及ばずと命ぜらる。光正久大夫と共に刑塲にゆき。やがてかへりきて。仰のごとく罪人をためしつるに。心地よく土壇まで切込しと申上れば。枕刀にかへ置とのたまひ。二振三振打ふり給ひ。劍威もて子孫の末までも鎭護せんと宣ひ。榊原內記C久に。のちに久能山に收むべしと仰付らる。十七日すでに大漸に及ばせられんとせしとき。本多上野介正純めして。將軍家早々渡らせ給へと仰られしが。またそれに及ばずとの上意にて。わがなからん後も。武道の事いさゝか忘れさせ給ふなと申上べしと宣ふを御一期とせられ。C久が膝を枕としてかくれさせ給ひしとぞ。此C久は榊原七カ右衛門C正が三男にて。はやうより近侍し奉り寵眷淺からず。御病中も日夜侍養して。さまざま御遺托どもあり。われはてなば遺骸は久能山に藏むべし。廟地はしかじかすべし。汝は末永くこの地を守りて。我に奉事する事生前にかはることなかれなど仰置れ。また東國の方はおほかた普第のものなれば。異圖あるべしとも覺えず。西國のかたは心許なく思へば。我像をば西向に立置べしと仰置れ。かの三池の刀も。鋒を西へむけて立置れしとなり。(續武家閑談。榊原譜。坂上池院日記。明良洪範。)
此卷は大坂落城の後より。薨御までの御事をしるす。 
卷十七 

 

すべて御コ義の深厚におはしませしかば。御祖先をいやまひ御親族をむつび給ひしはいふもさらなり。古き筋目を重じ。故舊を捨させ給はず。又人の危難をも御身にかへて。救はせ給ひし事も度々おはしき。幼くましませしとき今川義元が計ひにて尾張の國より還らせ給ひ。陽には懇にうしろみ進らする樣にて。實は三河の御所領を押領し。駿河より城代幷代官をすえおき。岡崎の御家人をばをのが軍の先手に用ひて。鋒鏑を犯さしめしかば。討死せしものも多かりき。されど君は猶信義を失ひ給はず。義元のために大高城に軍糧を運びいれ。又その孤城を守り。義元尾張の桶狹間にて。討死ありし後も。其子上總介氏眞がために。父の吊軍せられば。われも年比のよしみを思へば先陣に進み。織田信長に矢の一筋をも射かけんものをと。度々すゝめ給ひしかども。氏眞闇弱にして奸臣の諛言をのみ用ひ。更に軍を出さんともせざりしかば。かくては氏眞謀を合すべき人ならずと御心を决せられ。信長がすゝめにより。終に今川の鄰好を絕て。信長と御和睦ありしなり。されどもその後氏眞舅の武田信玄が爲に國を奪はれ。遠江國掛川の城に逃こもりしが。こゝにても當家の軍威にあたりかねて。城を開て小田原へ退去す。其ときも當家よりは。松平紀伊守家忠をして海路を護送せしめられしかば。今川の士は申すに及ばず。北條の者どもまでもこれを見て。コ川殿は情ある大將かなと感じたるもことはりなり。駿河國御手に入しおりも。氏眞舊領なれば半國をわかち授られんとせしに。信長怒られ。さるいらぬ國ならば。信長給はらんといはれしをもて。やむ事を得ずその意にまかせられぬ。その後氏眞は小田原をもまたすみうかれ。京攝の間に徘徊し。終には又當家にたより。M松にまいり寄食しければ。きくもの氏眞が義をも恥をもしらぬ鐵面皮と爪彈して。笑はぬものなかりしが。猶父義元の舊好を思しめし。氏眞が不幸をあはれませ給ひ。始終御扶持ありて。後には厨料五百石賜ひて老を養はせられ。其孫刑部大輔直房。二男新六カ高久。みな御家人としてめしつかはる。(今高家に今川品川といふはこの末なり。)かく御信義厚く沙汰し給ひける程に。いつも御上洛の度每に尾張國桶狹間をすぎさせ給ふとき。義元が墳墓の前にては御輿を下らせ給ふ。御供の輩いづれも其御厚義を感じて。淚落さぬはなかりし。また氏眞が寓客となりしとき。常に御座近く參りけるにも。むかしをわすれ給はで。禮遇の厚くましましけるとて。見るものみな感じたてまつれり。(三河記。古老物語。前橋聞書。)
大高御出陣の御道すがら。久松佐渡守俊勝が阿古居の館に通らせ給ひ年を經て御母堂(傳通院殿。)に御對面あり。俊勝もはじめて謁見す。君もいはきなき御程にて。御母公に别れさせ給ひ。こゝらの年月をかさねて。ふたゝび御親會ありしかば。おほえす悲喜の御泪にむせび給ふ。御母公俊勝が許にて設られし異父同母の御弟三人をも進見せしめらる。君我兄弟少ければ。此人々ゆくゆくョ母しくもおぼし召とて。松平の御稱號を許され。三州一統せばこの弟共を招きよせて。ともに軍功を建むと仰らる。御母公この三人の中にも長福は今年生れて。襁褓の中より見え奉る事の嬉しさよと宣ふ。俊勝も種々御もてなしゝて物獻る。又俊勝が家臣平野久藏。竹內久六の兩人もめし出して御詞をたまふ。これはいまだ熱田におはしませしほど。阿古居よりわづか一日の路程なれば。御母堂つねづね君の御起居を問せられ。御衣よりはじめ菓子の類に至るまで進らせられしに。いつもこの兩人御使奉はり。後駿府にうつらせ給ひしにも。同じ樣に御使つとめければ。今はた舊故をおぼしめし出てかく御懇問ありしなり。(貞享書上。)
桶狹間にて今川義元討れし後。君には御本國に還らせ給ひても。直に岡崎城へ入せ給はず。御人數を大樹寺に留めらるる事三日なり。これよりさき義元は。其臣三浦飯尾岡部などに岡崎を守らせ。いまだ當家へかへしたてまつらん心にはあらざりしかば。今義元死せりとて。これを僥倖として御入城あらば。信義に欠たりと思召て。かく御滯留ありしなり。さて岡崎城守りし今川方の者どもは。義元の敗亡を聞て城を明て立退くよし聞しめし。人の捨るものならば拾へと仰られ。やがて御入城ましましけるとなり。(武コ大成記。)
永祿五年西の郡攻取れし頃。刈屋へたちよらせられ。かさねて御母公(傳通院殿。)に御對面おはしまし。水野右衛門大夫忠政も拜謁し奉る。その時岡崎殿(贈大納言廣忠卿。)の靈牌を拜し。御淚にむせびたまひぬ。御母公の御願によて。一寺を刱建ありて尊牌を安置し給ひ。五十貫の地を寄附せられ。尊牌の裡に御みづから御筆を染られ。この牌永世崇尊し奉るべき旨しるし置せ給ひぬ。人々御孝思の篤きを感じ奉りけるとぞ。(忠政遺狀。)
三河にて一向門徒等旣に歸降し奉り。そのうちにて巨魁たるもの百人ばかり岡崎にめし呼はれ。御直に仰けるは。汝等こたび宗門にくみし譜代の主に敵せしは。大逆無道といへども。よく考へみれば。高きもいやしきもこの世はかりの世にて來ん世は長し。ゆへにわれらをかりの主人。彌陀はながき世の主と思ひなせし汝等がこゝろさもあるべし。よていづれも御ゆるしあるからは。我にをいていさゝかも舊怨をおもはず。汝等もまた是迄のごとく本心に立かへり。少しも心隔てず忠勤を勵むべし。この旨末々まであまねくいひしらせ。いづれも安心せんやうにいたすべしと仰諭されしかば。かの者どもかしこさのあまり。感淚にたへずして御前をまてしとなん。(落穗集。)
夏目次カ左衛門吉信も。同じ宗門にて一族多きものなれば。額田郡野羽といふ所に要害をかまへ。深溝の松平主殿助伊忠と常に戰ひけり。ある日伊忠吉信が隙をうかゞひ俄に押寄ければ。吉信うち負て針崎の寺中に遁入り。藏のうちに籠けるを。伊忠きびしくとりかこみ。其旨岡崎に注進し。御下知を待て罪に行はむとす。君伊忠が忠勤を賞せられ。且吉信が藏に遁入しを誅せんは。籠のうちの鳥を殺すに同じ。そのまゝ助命せしむべしと仰あれば。伊忠あまり御ェ容に過し事とは思へども。旣に仰出されしうへはいかにともしがたく。圍を解て引かへしぬ。吉信は思ひの外に命を助かり。かしこみ思ふ事かぎりなし。岡崎のかたをふしおがみ。かゝる御恩愛の深き主君にむかひ。弓をひきたてまつりし事は。いかなる心にやありけむ。今さら悔てもかひなき事と淚を流し。これよりしては日每にをのが家の持佛堂に入り佛にむかひ。あはれ今より後はいかにもして主君の御用に立て。この身を果し給へと高聲によばはる常の事なり。後年味方が原御難戰のとき。速に一命を抛て忠死を遂しは。全くこのおりの御厚恩にむくひたてまつりしなり。(落穗集。)
矢矧の橋洪水にて押流したれば。架搆の事命ぜられしに。老臣等この架搆費用の莫大なるはいふまでもなし。御城下にかゝる大河のあるは究竟の天コにて。隣國より攻來るにも橋なきをもて便よしとす。此度流失せしこそ幸の事なれ。この後は船渡しに命ぜらるべきにやと。各議し侍るよし申上しかば。君聞しめし。抑この橋の事は。代々の書籍にもしるし謠曲にも入て本朝に名高き橋なり。さるをわが代に當りて橋をかへて渡にせば。海道の旅行艱困するのみならず。何がしは歒を怯れ費用をいとひて橋をやめしなど。天下後世あざけられんは。國主の恥辱とやいはむ。まして地險をたのむは人にも時にもよる事なれ。古人もいひしごとく。國の治亂は人和にありて地險にあらず。險をたのむで歒を防がんは本を知らざるの論なり。たゞ片時もはやく改架せよと命ぜられしかば。いづれも尊旨の恢豁にして。利濟の念ふかくおはしますを感じたてまつれり。(岩淵夜話。常山紀談。)
酒井雅樂助正親は家長の職にありて。年ごろ夙夜の忠勤なみなみならず。天正四年六月病にかゝり。旣に危篤のよし聞しめし。御みづからその家にならせられ。御手づから御藥たまひ心に思ひ置事あらばつゝまず申せと仰ありしかば。正親仰のかしこさを謝し。嫡子與四那。(後河內守重忠。)次男與七カ。(後備後守忠利。)兩人を御前へよび出し正親申は。某世に望なし。この二人の者ども行末ながく御惠を蒙りて忠勤を勵み。そが材器によりてさるべくめしつかはれん事のみ。願ひたてまつるといふ。君もその誠忠を感じ給ひ。平岩七之助親吉もて病床に付置れ撫保せしめ。又近臣もて度々病躰を御懇問ありしかば。正親死に至るまでも御恩遇の厚きをかしこみたてまつりけるとなん。(家譜。)
武田信玄より容儀うるはしき小姓をえらみて。ひそかに御領國に遣しけるを召抱られ。御身近くめしつかはる。ある日御酒宴過てうちふさせ給ひしが。日每にK本尊の拜をなされしを此日わすれ給ひしとて。起上りて佛前に念誦しておはしけるを。このもの御寢ありしとおもひ。腰刀引ぬきて御衾の上に乘かゝり突立しを。即座にめしとらへしめ。ありしまゝに自首せよと宣ひて。その狀具に聞しめし。汝若年ながら主の爲に一命を抛て我を害せんとす。その志奇特なり。あながち咎るに及ばずと仰られて。甲州へはなちかへされしとなり。いとェ宥の御事なるにぞ。(ェ永聞書。)
天正十三年正月の比。織田信長より使をもて。江州の淺井長政はわが近姻といへども。異心を狹むの日久しければ。其事いまだあらはれざるにさきだつて。これを誅せむと思ふなり。さらむには援兵の事ョみまいらするよし申をくらる。こなたよりも酒井左衛門尉忠次。本多百助信俊兩人もて御答ありしは。長政さしあり隱謀の聞えあるにもあらず。又改心あらんもはかりがたし。まづそのまゝになし置れんこそ。平穩の御はからひと存ずれ。万一異心あらはれ叛狀明白ならんには。速に御勢を向られ誅伐し給ふべし。某もそのときは御使蒙るまでもなし。手勢引具し急ぎ馳上るべしとあれば。信長も御答のェ宥にして理あるに服し兩使を返し。出軍の事をばまづ思ひとゞめしとなり。(東武談叢。)
或時信長のもとにおはせしに。信長君にむかひ。かしこに侍る人は松永彈正久秀といひて。人のなしがたき事を。三度までなしとげしものなり。第一は己が主の三好義長にすゝめて。共に光源院將軍を襲ひ殺したり。第二には將軍を弑せし上にて主の三好をも滅し。第三には南都の大佛を燒失せり。これ大膽不敵の所爲にて。並々のものゝ及ぶ所にあらず。よく御見知あれかしと事もなげにいはれしかば。久秀は赧顏して何といふ事もならず。惣身に汗を流しひれふして居たり。君やをら御座立せられ。久秀が側により居給ひ。御邊の事はかねても承り及びしが。かたみに遠路隔てゝ是まで面會もせざりき。此後は心やすく申承らんと仰ありて。御歸殿の後に老臣等が御前に出しおり。この事を仰出され。其時久秀が樣いかにも笑止に覺えき。かれが惡行はいふまでもなし。されど先ごろ信長金崎を引取れしとき前後に大敵をうけ。いかにも危急なれば。江州の朽木にかゝりて歸らんとせらる。朽木は佐々木が領邑にて同じく淺井が與黨なれば。いかゞせんと心をなやます所に。久秀みづから朽木が方に赴き。種々たばかりてかれを味方に引付し上に。證人までもとり出て立かへり。そのよし信長に申せば。信長も疑念を散じ朽木にかゝりて還られしなり。もし此事の實正ならばと仰られしのみにて。末の御詞はなかりしとなり。盛慮には。久秀織田家に於て勳功のなきにしもあらざるを。信長その功勞を何とも思はず。舊惡を衆人の前にて訐發せらるるは。大將たらん人の厚誼にはかなへりともおぼしめさざりしなるべし。(落穗集。)
味方が原の役に御領內農民ども。甲兵の爲に侵掠せられ。居處を失ひてM松の城下にあつまり來りしが。それもまた燒拂はれゆへ。たゞ道の傍にひれふして泣かなしむさまを御覽じ。われゆへに農民までをかく艱苦に及ばしむる事のうたてさよとて。御淚を流し給へば。御供の者も覺えず袖をうるほせしとぞ。又このとき犀が崕へ落て死せし敵の兵士その數をしらず。後にかの亡靈夜ごとに聲を發して泣さけぶこゑ夥し。よて僧徒に仰せて冥魂を吊慰し給はんとて。七月十三日より十五日まで。種々の絹もて張し器をつくり。念佛踊をもよほし。盆燈籠と名づけて三日が間祭奠せしめ給ひしかば。その聲程なくやみけるとなり。(武者物語。武邊雜談。)
武田勝ョ甲斐の天目山にて自殺し。其首織田右府の實撿に入れしとき。右府聲あらげて。汝が父の入道世にありしほどは。我に對して種々の非禮をなせしむくひ。今汝が身にせまり。かかる躰に成たる事のうたてさよ。汝が父一度上洛せんの望ありしかば。汝が首を京にのぼせ梟首すべし。我も跡よりのぼるべきぞ。又近臣にむかひ。汝等もよく此首を見よ。何と心地のよき事にてはなきかと大に罵る。さて又此首を當家の御陣に進らせしかば君には床机より下り給ひ。首を三方の上に載せ上段にすへ一禮を施し給ひ。かゝるさまにて見參せんとはかけても思ひよらざりき。偏に御身の若氣の至りにて。血氣の勇にほこり。老臣の異見を用ひざる過によれりと仰られしとぞ。又武田代々の菩提所惠林寺は織田家を恐れ。勝ョ主從の尸をもとり納めざりしを。當家の御沙汰として。中山の廣岩院に命じて厚く葬らしめ。新に一寺を營み天童山景コ院と號し供養田をも寄せ給ふ。これらの事ども見聞し。公の御コ義の深厚におはしますを感じ。織田家の臣下はその主の粗暴を恐れ。何となくあやうげに思ひしとか。この後八十日ばかりありて。右府本能寺の變はありしなり。(岩淵夜話。)
依田右衛門佐信蕃はじめ武田が旗下に屬し。信州田中城を守り年比防戰したるが。勝ョほろびて後やうやく城を當家に明渡し。御旗下に屬せんとす。かゝる所に織田右府より使もて信蕃を招かる。信蕃おもふに。我今織田家に從はゞ。コ川殿の恩命に背くに似たり。又したがはざらんには。右府怒つてコ川殿に害をなさん。先一旦織田家に從ひ。其後心ながくコ川殿に參らむと思ふ所に。またこなたより御使進て。こたび右府僞りて甲信の諸士を招き。ゆくものは必害せらる。かまへてゆく事なかれ。ひそかに我陣に來れとの御書をたまはりければ。信蕃いそぎ山路をへて。市川の御陣に馳參じてまみえたてまつる。君の仰に。汝われと兵をかまへしことおほよそ十年ばかり。汝が武勇はかねて知る所なり。武田家衰るに及んで。汝一人孤城に據り義を守りて操を改めず。敵ながらも感ずるに堪たり。今汝にあひてわが年頃の宿意をはたせり。さりながら右府汝をにくむ事甚し。我方に隱れ居と聞ば。さがし出し殺戮せられん事は必定なり。早く身を山林にかくし時節を待べしと仰なり。信蕃盛意のかしこきに感じ。これよりして鍛工の姿に身をやつし。遠州二股の奥に引籠る。そのおりも御家人をそへてク導せらる。後に織田殿事ありし後。信蕃當家に參り軍忠をつくし。天正十一年二月信州岩城の城責に。兄弟三人ともに鐵炮に中り討死しければ。殊に御悼惜ありて。信蕃が兩兒を召て御稱號御諱字たまはり。兄を源十カ康國。弟を新六カ康貞とて。父が遺領にまして十万石賜はりしとぞ。又信長武田の遺臣武名あるものは。みな搜出して死刑に行はんとせしかば。君不便におぼしめし。三枝土佐守虎吉をば駿河の藤枝東雲寺に隱れしめ。武川の諸士は遠州桐山に蟄居せしめ。岡崎次カ右衛門正綱渡邊囚獄守等も。それぞれ御扶持ありしかば。甲信の者共みな御仁惠をかしこみ。御領國にひそまり居て。時節をまつもの多かりしとなり。(家譜。常山紀談。武コ編年集成。)
羽柴筑前守秀吉旣に主の仇明智日向守光秀を誅戮し。武名天下にかくれなし。織田信雄は主家の事なれば。表に崇敬するさまなれどうちにはこれをも傾覆せばやと計策をめぐらし。信雄が家の長たる津川玄蕃をはじめ。三人の老臣共を反間もて誅戮せしめ。やがて信雄姦臣を信じ。故老の良臣を誅したりといふを名とし。尾張に兵をすゝめんとするよし聞えて。信雄大に恐れ。故右府の舊恩ある人々へ援兵を乞ふといへども。時世に從ふ習にて。誰も秀吉の威勢に恐れ。信雄に同意する者一人もなし。かくてまた使を當家に進らせ。今ははやコ川殿ならでは。外にョみまいらせんかたなし。あはれ願くは右府の舊好をおぼしめしすて給はで。こたびの危急を救はせ給へ。信雄が進退このときに極まれりと。うちかへしョみたてまつれば。君にもいとあはれとおぼしめし。秀吉今威望猛熾なりといへども。そのはじめは松下が奴隷たりしを。右府の㧞擢によりて今の身とはなれるなり。さるを其舊恩を忘れ。正しき舊主の子孫を傾けんとはかるは。恩にそむき義に違ふといふべし又右府の恩顧にあづかりしものどもの。今更信雄を見はなし秀吉に荷擔するは。時にしたがふ習とはいひながら。信義なき族なり。われ右府の世におはせしほどは。かたみにいひかはせし事もあれば。今其孤子の窮困するを見てすくはざらんは。武士の本意にあらずと宣ひて。かの使に向はせ給ひ。使命の趣具に承屆ぬ。いつにても秀吉が寄來ると聞えば。速に手勢引連御味方に參るべし。某さへ御味方に參らんには。秀吉大軍といへどもさらに恐るゝにたらず。いさゝか御心を勞し給ふなと復命ありしかば。信雄はさらなり其家の子カ等ども迄。世にかしこくたのもしき事に思ひけるとぞ。(落穗集。)
伊達政宗九戶一揆の事により。豐臣太閤の勘事を蒙り。京にめし上せられ。奥の舊領を轉じて。伊豫の國へ所替命ぜられしかば。政宗はじめその家人等までいづれも當惑したゞ茫然としてありしが。政宗きとおもひかへし。家人伊達上野に今一人をそへて。當家へ參らせ。政宗此度殿下の嚴譴を蒙り家の存亡たゞ此時に極れり。あはれ願くは洪慈の御はからひありて。ともかうもよきに救はせ給へといへり。おりしも霜月ばかりの事なるに。朝のほどいと寒し。君は火閤によりかゝらせ給ひながら。兩使を御前へめし出て。汝等いまだ朝餉たうべざるべし。まづ粗飯を給よと宣へば。左右の者兩使を引つれ。御次にて給はらむとするを。いやそれにて相伴せよとありて上の御膳をすへ。兩使にも供したり。御飯はかねてひえざらん爲に火閤の上に置れしを。近臣とりて御椀に盛て進らす。その時汝等が飯は冷たらん。これを與へよとて。同じ飯を賜はる。君が御膳にのせし菜は。粕漬の魚ばかりにていと儉素の御事なり。御膳過て茶をたまひ。兩使辭してまかでんとするに臨み。御高聲にて。汝が主の越前といふおのこは。打むかひては荒げなく猛くも見ゆれど。實は腰のぬけて後のきかぬゆへ。かかる事に狼狽すれ。四國へゆきて海魚の餌にならむか。又はここにて切死せんか。よく分别して見よといへとのたまへば。兩使かしこみて。また此後殿下より責督あらむときの答詞までを。つばらに承りとゞけてまかで。仰の趣を政宗に傳ふ。政宗もこゝろ得し樣にてその用意し。關白の使の來るを待居たり。とかうする內に使者來りぬ。この日は前日とかはり。政宗が旅館の前に弓銃をもち。鎗長刀をたへし者ども羣り出入しつつ。今にも打て出むさまなり。政宗一人は腰刀も帶せず。使をむかへ入て上座に請じ。淚をはらはらとおしながし。殿下の仰とあれば首刎られんもいなむべきにあらず。さるに領國をかへたまはるとあるは。此うへの御惠なれば速に御受も申べきを。たゞ家の子カ等どもは。田舍そだちのあくたれ武士にて。公法をも辨へず。數代の舊地に離れ。しらぬ國にさまよひゆかむよりは。こゝにていさぎよく腹切て。一人も殘らず死んこそ。武士の本意なれと申て。何某にも自害をすゝめ申せば。かれこれといひこしらへつれど。田舍育のならひにて。とにかく聞入侍らず。上使に對してかゝる狼籍の樣するもはゞかりある事なれ。某が御勘事蒙るにより。家人等迄某が下知を用ひず。こはそもいかゞし侍らんといふにより。上使も何となくそらおそろしき心地すれば。いそぎ馳還りてかくと申す。このとき君はとく太閤の方にわたりおはしたるが。政宗一人が事ならば。某かの旅館に馳むかつて攻潰しなん。今かれがめしつれし者千ばかりもあらん。いづれも偏固にして上命をうけがはず。ましてその國中の者ども。たゞには國を明て渡すまじ。それを取鎭むべき術ましまさば。ともかうも上意のまゝなれ。もし又かの家人が歎訴する所を不便におぼしなば。此度はまづまげて御ゆるし蒙るべきにやと宣ひしかば。太閤しばし思案せられ。政宗が事はコ川殿のはからひのまゝたるべしとて。國替の事はとゞめられ。日を經て勘事もゆりしかば。政宗天に仰ぎ地にふして。再生の御恩をかしこみしとなん。(老談一言記。)
細川越中守忠興內々にて。關白秀次より黃金かり請し事在しが。秀次生害ありてのち。その事司る者。かの金速にかへされば契券を破りすてむ。もし遲々せば奉行人に訴へむとせめはたれば。忠興もこの事太閤に聞えなば。いかなる罪蒙らんもはかりがたし。さりとて大金を俄に償はん事もかたし。とやせん角やせんとおもひ煩ひて。家臣共あつめて議しけるに。家老松井佐渡。それがしはコ川家の御內なる本多佐渡守正信と年ごろ親しければ。彼によりコ川殿をョみ進らせん。コ川殿はさるたのもしき人にておはせば。人の危急を見ながら。よも見捨たまふ事はあるまじといふ。忠興われもとより內府と親しからねは。ョむべき便なし。汝よきにはからへといふ。松井本多がもとに來りしかじかのよしいふ。君聞しめし松井を御前へめされ。人を屏けてつぶさに御尋あり。正信して唐櫃二合とりよせ明させらる。一合に黃金百枚づゝ入たり。其櫃に題せし年號をみよと仰らる。いづれも二十一年ばかり前かたにて。まだ三河におはしませし折の事なり。君松井に宣ふは。おほよそ金銀はその營轄するものあれば。みだりに用ゆる事を得ず。去ゆへにこの金も年久しく貯置て。かゝる用に充る事を得たり。わが年比の志もこゝに於てあらはれし事の嬉しさよとて松井にたまはせけり。松井よろこびにたへず。かゝるかしこき事こそ候はね。旣に亡むとする家の。ふたたび存する事を得しも。全く御恩による所之。細川家の候はんかぎり。いかで當家の御恩を忘れたてまつるべき。速に本國にいひ下し。ほどなく返納したてまつらんと申す。君いやいや。この事もし世にもれ聞えなば。兩家のためあしからん。かゝればこそ人にもしらせず其方へ授くるなれ。ゆめゆめ返納に及ばずと仰あれば。佐渡はいよいよかしこまり。速に忠興に仰事傳へむとて御前をまかづ。其後程へて忠興御館に參りて謁見し正信を呼出し。君にむかひて申けるは。さきに家人に仰下されし盛慮の旨。つゝしんでうけたまはりぬ。たゞ今御家に於て何事のおはしますべきに候はねど。万一御異變のあらんには。必忠興一命を抛ても御情にむくひたてまつらん。去ながら忠興今までも親しう伺公せざるものゝ俄に參らんは。人の見聞ん所もあれば。かへりて本意とげん事もかなふまじ。これよりは前々のごとく疎々しく候べけれとてまかでぬ。後に關原の役に當家隨一の御味方して。上方の大軍を切靡けしも。全くこのおりの盛恩に報ひたてまつりしなりとぞ。(常山紀談。)
金吾秀秋朝鮮の惣督としてかの地に押渡り。蔚山の後卷してはれなる戰し。武名を異域にあらはせり。しかるを石田三成太閤へあしざまにいひなせしゆへ。秀秋歸朝のゝち太閤けしきよからず。秀秋の此度の擧動輕忽にして。大將たらむ者のさまならずといはれて恩典にも及ばず。秀秋大にいかり。太閤の前にて旣に石田を打果さんとせしかば。君もその座におはしておしとゞめ給ひ。その後太閤より尼孝藏主もて。秀秋がこたびの失躰によて。領國筑前を轉じて。越前にうつさるべしとの事なり。秀秋いよいよいかりに堪ず。我が首刎られんとも。國かへられんおぼえなしといふ。君又秀秋をなだめられ。仰の趣謹で承りぬと申させ給ひ。さて秀秋にこの事われにまかせられよ。よきに計ひ申さんとありて。秀秋が家長の杉原山口等をめし呼れ。まづ家人少しにても越前へ下されよとてさし下さしめ。君にはこれより日ごとに太閤の方へおはして。何と仰出さるゝ旨もなし。太閤もあやしみて。いかでコ川殿にはかく日每に見え給ふぞとのたまへば。秀秋が事あまりにいたはしうおぼえつれば。その事ねぎ申さん爲に參るなりと宣ひ。其後も又おなじ樣に參らせたまふ。太閤も後には心とけて。さまで思はるゝならば。彼が事內府の計ひにまかせん。かれ伴ひて參られよとあれは。大によろこばせ給ひ。やがて秀秋と打つれて參らせ給へば。太閤もこゝろよくたいめ有て。秀秋が朝鮮の軍功を賞せられ。さまざま賜物あり。こなたへも引出ものせらる。秀秋まかでし後家人長崎伊豆守を使に參らせ。此度秀秋が面目またく御芳志によるところなり。この御恩いつの世にかわするべき。報じまいらせんときこそあるべけれと申せしが。果して後關原の役に東國の御味方し。上方勢の後より切てかゝりしは。このときの御恩に報はんとの本意なりしとぞ。(藩翰譜。)
關原御出陣の前かた。江府の城におはしまして。いつよりも御氣色よく。午の刻ばかり御料理の間に出御ありて。鶴の料理を仰付られ。鍋をかけ火など燒て。御前には板坂卜齋。同朋金阿彌等侍りて。上にも爐の邊に座せらる。其折誰にかありけむ。細書の狀一通を持參りて御覽に備へしが。片はし見そなはすといなや。西の空をつくづくとうちまもり給ひ。はらはらと御泪を流し給ふ。こは去朔日伏見落城の注進なりしとか。その御樣を見上し者ども。いづれも御前にたまりかね。御次の間へ走り出しとなり。(板坂卜齋記。)
關原の戰旣に御勝利に屬し。諸將とりどり謁賀したてまつるとき。岡江雪入道唯今こそ夜の明たる心地し侍れ。勝凱を執行はせ給はんかと申上しに。今從軍の諸大將の妻子。みな歒方にとらはれ大坂にあり。いづれもさぞ心許なく思ふらめ。われも又その事を心ぐるしく思ふなり。三日のうちには大坂までおしつけ。いづれもの人質を引わたし。そのうへにて凱歌は行ふべけれと仰らる。此ときいまだ誰々も妻子の事などおもひ出すものなかりしに。此御詞うけたまはりて。いづれも盛慮のほど心肝に銘して。有がたく思ひけるとなん。後年浪花の役にも凱歌をば奏せさせ給はざりしなり。(天元實記。榊原日記。)
慶長十年八月駿河の今泉邊御鷹狩の折。夏目次カ左衛門吉信が子長右衛門信次。御道筋にうづくまり居しを御覽じ。その名を問はせ給ひければ。吉信が子なりと答へ奉る。其夜本多佐渡守正信をめして。吉信が子に片目しゐし者ありやと尋給ふ。正信承り。長右衛門と申が。さきに銃の捻拔て眼を損じ旣に死すべかりしが。からうじて助り。今隻眼にて侍ると申上。そは先ごろM松にて人を害し立退し者なり。その罪重しといへども年月旣に立ぬ。かつ忠臣の子なればめし還せと仰ありて。再び御家人となさる。後信次をめし。汝外に兄弟はあるかと尋給へば。弟杢右衛門吉次今加藤肥後守C正に仕ふと申す。仰に。汝等は何程不肖なりとも。わが見捨べき筋目の者にあらぬが。いづれも心ざまあしくて人と鬪諍を仕出し。をのれと當家を立去り諸所を流浪し。さだめて年比賤しの業してありつらむ。この後よく心付よとていましめ給ひ。やがて吉次もめし出され。台コ院殿に附屬せしめられしとぞ。(ェ永系圖。)
慶長十三年內裏にて花山院少將忠長。飛鳥井少將雅賢。猪熊侍從教利。及び牙醫兼保備中守等少年の輩。後宮の官女を誘出し。遊會淫樂の擧動ありしよし聞えければ。備中守をめし捕へて糺向ありしに。つぶさに首告せしかば。主上逆鱗斜ならず。所司代板倉伊賀守勝重に仰て。嚴に刑を加へよと勅諚あり。勝重この旨駿府に伺ひしに。江戶へも御參議ありしうへにて。勝重もて內裡へ奏せられしは。おほよそ古より朝家の內亂そのためし少からず。刑典に處せられし先規もまなさまざまなり。こたびの事は朝廷格外の御仁愛もて。ェ裕の御所置もあらば。この後人々恥おもふの心出來て。おのづから不良のふるまひやみなんかとありしかば。叡慮にもいと理と聞しめし。この族死罪一等を减じ。三人の官女は伊豆の島々へ流し。忠良は津輕。飛鳥井は隱岐の島へ流し。松木侍從ョ國。大炊御門少將宗澄の二人は硫黃が島。難波少將宗勝は伊豆國へ配せられ。猪熊はその濫行の魁首にして。備中守は宮門守るものなれば赦しがたしとて。二人のみ死刑に行はれしとぞ。(武コ大成記。)
慶長十四年二月紅葉山下にをいて。四座の申樂に御免ありて。勸進能興行せしめられしに。ならせられて御覽あり。諸大名はじめ御家人まても。みな棧敷かまへて見せしめらる。將軍家より棧敷の圖を御覽に入れしに。水谷皆川兩家の姓名いかがしてかもれしぞ。この兩家はわが三遠にありしほどより慇懃を通じ。譜代の舊臣にも准べきものなるにと宣ふ。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠鄰御前にありて申すは。このごろ水谷皆川は笠間城の番衛奉りてかの地にあれば。除きしならんと。君およそ武士は名をおしむならひなるに。かの兩家も此度の見物にもれなばいかに遺憾ならん。二人さゝはる事あらば。其家臣ばかりも召寄て。棧敷あたへて見せしめよ。後々の證にもなる事ぞとありて。兩家の家長をめされて。見物せしめ給ひしかば。兩家ともよく舊家の筋目をおぼし出て。そが門地を失はしめざらん盛慮のほどを感じけるとぞ。(ェ永系圖。)
慶長十六年三月勅使駿河に參向して。相國宣下及び菊桐の御紋勅許あるべき旨を傳へらる。君相國をば御辭退ありて。其代りに御曩祖新田大炊助義重朝臣に鎭守府將軍。御父岡崎次カ三カ廣忠君に贈大納言の事申請れしかば。內にも御孝志の至ふかくおはしますを。叡感ましまして。即ち勅許あり。又菊桐の御紋の事は。かしこくおぼしめせども。抑源家新田足利の兩流にわかれてより。其門流かはるばる兵權をあらそふところに後醍醐天皇の御宇にあたり。足利尊氏旣に菊桐の御紋勅許ありて。かの一流これを用ひ來れり。今當家は新田の末裔もて。足利の先蹤を追てこれを賜らん事。あながち䂓摸ともおもひ侍らざれば。これは御ゆるし蒙らんとてうけさせ給はず。その月御上洛ありて。御贈官位を謝したてまつり給ひ。同年十一月搶緕宸フ觀智國師をよび土井大炊頭利勝成P隼人正正成を上州新田につかはされ。義重朝臣の舊蹟を尋訪せしめ一寺を刱建し。義重山大光院と號し。寺領若干を寄られ。御贈官の綸旨を寺に納めらる。又三河の岡崎にも新に松應寺を御造營ありて寺領御寄附あり。明れば十七年正月駿河より三河へおはし。まづ大樹寺に詣させ給ひ。御祖先はじめ御一族までの廟所を巡視し給ひ。碑石の年月を經て苔に埋れしをば。御みづから爪もて剝せられて御覽じ給ひ。其後松應寺に御詣ありて新廟を物し給ひ。住僧に銀など下され。れもごろに御作善あり。かくとりどり追遠の典を執行はれしかば。天下なべて御孝思の至り深きに感じ。人々己が祖先をもをろそかにせず。をのづから風俗も淳厚に歸せしとなり。(武コ大成記。駿府政事錄。)
大坂の冬の役に御和議とゝのひし後。伊達陸奥守政宗。藤堂和泉守高虎等の諸將。本多上野介正純もて申上しは。今度の御和議末ながくつゞかんものとも思ひ侍らず。幸今城溝旣に破壞しつれば。惣勢もて一時に攻落されんこそしかるべけれと。建白せしを聞しめし。をのをの申す所その理なきにあらざれども。おほよそ不義無道を行ふものは。終に天誅を蒙らずといふことなし。近くは織田右府が將軍義昭を廢し。武田信玄が父の信虎を追出せし類。その罰子孫にむくひて。家門みな衰廢せり。われ先年右府の舊好をおもひ。信雄を援けて長湫にて秀吉と戰ひ。一戰に秀吉がたのみ切たる三將を討取しかば。秀吉も終には母妹を質とし和をあつかふに至り。やうやうと我も講和せしことはをのをのしる所なり。其後太閤に和順し西征東伐諸所の戰に心力を盡し。秀ョをも厚く後見せしを。石田治部少輔三成をのが姦智にてそねみねたみ。秀ョが名をかりて罪なき我を滅せんと謀りしかども。天道是を惡みて。關原の一戰にかの凶徒みな誅に伏しぬ。そのころ秀ョをも誅戮せよと。勸めしものあまたなりしが。われその幼弱なるをあはれみ。一命をゆるし置のみならず。三ケ國まで授け官位をも昇進せしめしは。わが莫大の洪恩といふべし。しかるに是を忘却して。我へ對し逆亂に及びしは不義の至りなり。去ながら今一旦の迷誤を悛めて和議をこへば。まづそのまゝに宥置なり。もし此上かさねて無道の擧動ありて干戈を起さば。これいよいよ天誅を招くなれば。その折はやむ事を得ぬ事なり。先此度は和議旣にとゝのひしものを。俄に約を變じて不意をうたんは。わが本意にあらずとて。用ひさせ給はざりしとぞ。(東遷基業。)
慶長二十年閏六月。喜連川左兵衛督ョ氏上京して謁し奉りまかでんとする時。御座を起せられて御送禮あり。これは室町將軍家の支族にて。鎌倉幕府の末裔なれば。その筋目を重ぜられての御事なり。台コ院殿御時より後は御送禮の儀停められしとぞ。(駿府政事錄。)
山名中務大輔豐國入道禪高は。その祖は贈鎭守府將軍義重朝臣の長男伊豆守義範。はじめて山名を稱し。足利家の初には伊豆守時氏。右衛門督時熙など軍功有て數か國を兼領し。ことさら持豐入道宗全が時に至り。普光院將軍の仇たりし赤松滿祐入道を討取。武名いよいよ天下に並ぶ者なく。遂に應仁の大亂をも引出したり。その後數代へてやゝ衰微し。豐國の時にはわづか因幡但馬を領しけり。天正六年のころ毛利輝元がために攻られ。家人離畔せし折しも羽柴秀吉織田殿の命をうけ。播磨但馬の國にきり隨へ。進で豐國が住る因幡鳥取の城攻圍しに。豐國かはざる事を知て。秀吉に城を明渡して。攝津の國多田の邊に蟄居す。十四年君御上洛ありしとき。御旅館に伺公して初見し御懇遇を蒙り。この後筑紫の御陣にしたがひたてまつる。あるとき禪高に仰けるは。汝が祖の伊豆守義範は當家の祖コ川四カ義季主と同じく。義重朝臣の御子なれば。今數十世の後といへども一家のちなみ淺からず。この後は汝われに眤近せよ。我も又をろかにはおもはじとありて。御優待なみなみならず。關原大坂前後の役にも供奉し。殊に駿府におはしては。日野唯心。水無P一齋などゝ同じく。常にまうのぼりて御談伴に候し。御禮遇の樣も日野。水無P。冷泉等の堂上と同じに。懇の御もてなしなりしは。是も全くその名家たるをおぼしめしての御事なり。舊領なればとて但馬國のうちにて領邑六千石賜はりけり。後に台コ院殿にも御眷顧を蒙り。ェ永のはじめにみまかりぬ。(家譜。)
元和年三月相國宣下ありしとき。勅使駿府へ參向あり。御饗應のおり。一色佐兵衛範勝に勅使の配膳つとむべき旨仰付らる。永井右近大夫直勝申上しは。範勝いまだ叙爵せざれば。外の諸大夫侍從徒と列を同じて。此役奉らんはいかがとふ。君一色は足利家の一族にして。その名家たる事はみな人のしる所なり。されば官位なくとも。この役つとむるとあらば猶更面目の事なり。何の障りかあらんとて。素襖着て配膳つとめしる。後にェ永六年に至り。將軍家この御詞をおぼしめし出され。範勝爵ゆりて式部少輔に任ぜしなり。(ェ永系圖。)
駿府の御庭へ。阿部河の水をせき入よとの仰に。旣に水道の標を立置り。其後御鷹狩の道すがらこれを御覽ぜしに。水道になるべき所に小寺あり。寺內を堀割て水を通すといふを聞給ひ。寺をこぼち水をひくは以の外の事なりと宣へば。扈從のもの。この地を上しめ别に代地たまはらば。何の障かあらんと申す。君いやとよ。池に水を引入るゝはわが一人の觀に備ふるまでなり。わが心目を慰めんとて。舊來の寺院をこぼち人の墳墓などあばかん事は。あるまじき事なり。寺をよけて水かくることがならばかけてもよし。さなくば停よと仰られて。遂に水ひく事はやめ給ひしとなり。(岩淵夜話。)
駿河にてある淨土の僧申上しは。佛道もそのはじめは釋迦の一法に出しが。末流となりてはをのがじゝ諸宗に分れたり。これを學ぶものゝ。もとは一法なれば。何れを習ふも同じ事と思ひ取て。諸宗のわいためなく博雜に學ぶは。いとよからぬ事なり。わが念佛宗にては誠に嫌ふよしを申す。君これを聞せられ。佛道にもかぎらず万の技藝の道も。たゞ一筋におもひ入て學ばねば。なりがたきものなり。おほよそ後世を願ふにも。其身の高下によりて異なり。己が一身ばかり後世を願ふは。その歸依する所の宗門にて。得道すべきなり。天下國家の主としては。人をすてゝをのればかり成佛せむとおもふべきにあらず。天下万民をして悉皆成佛せしめんとおもふ大願を立ねばかなはず。古今の宗門はさまざまに分れたるを。上たる人それぞれの宗を立置て銘々の宗によて普く引導化度せしむるをもて。天下を治る上の大願といふべきなりと宣へば。かの僧も盛慮のェ宏にして。弘濟の大コおはします事よとて。一かたならず感じたてまつりしとぞ。(東武談叢。)
見性院と聞えしは。武田信玄入道が女にて。穴山梅雪信君が妻なりしが。武田亡び穴山も又宇治にてうたれし後。第五の御子万千代丸のかたは。生母秋山越前守虎康が女なれば。さるちなみをもて穴山が家人等は。みな万千代丸の方に附られ。武田の家號を稱せしめられしほどに。見性院をも江戶に招きはごくませ給ひ。田安門內の比丘尼町といふに住しめられしが。この尼まうのぼりまみえたてまつるときは。いつも上段より下らせ給ひ。厚く禮遇し給ひける。これも信玄が女なるゆへなるべしとみな人申侍りき。(以貴小傳。武邊咄聞書。)
此卷はすべて御コ義にあづかりし筋の事をしるす。 
卷十八 

 

おほよそ人をめしつかはるゝに。よくその人の性質才能をしろしめし分られ。それぞれに御擢任ありしかば。或は卒伍より登用せられて。方面の將帥を奉りしもあり。本は賤吏よりあげられて。經國の良佐となりしもあり。夫より下の一官一職にありて。功效を顯はせし類は。あげてかぞふるにいとまあらず。又其心術は正しからざれども。才幹ありて用立べきものも捨させたまはず。大賀彌四カ。大久保石見守長安がごときも。はじめよりよしともおぼしめさねども。たゞその租稅財貨の事に練達して。經濟の用にたつべしとの尊慮にて任用ありしかども。後々威福を弄し驕奢を極るに至りては。忽に誅戮を加へられ。いさゝか姑息の念おはしまさゞりしは。是又英明果敢の御所爲と申たてまつるべきにぞ。或ときの仰に。家人を遣ふに。人の心をつかふと能をつかふと二の心得あり。資情篤實にして主を大切におもひ。同僚と交りてもいさゝか我意なく。すべてまめになだらかにて。そがうへにも智能あらば。是は第一等の良臣なり。殊更に恩眷を加へ。下位にあらば不次に抽んで擧て國政をも沙汰せしめんに。いさゝか危き事あるべからず。又心術はさまでたしかならぬ者も。何事ぞ一かどすぐれて用立べき所あるものは。これも又捨ずして登用すべきなり。この二品を見わけて。棄才なからしめん事肝要なりと仰られき。又人の善惡を察するに。やゝもすれば己が好みにひかれ。わがよしと思ふ方をよしと見るものなり。人には其長所のあれば。己が心を捨て。たゞ人の長所をとれと仰られし事もあり。又あまたの家人の善惡を。いかで一人して見知る事のなるべき。己高位にのみいかめしくかまへて。下々と意氣相接らざれば。下よりは何事も申出兼るものなり。とにかく顏色を和らげ辭氣を卑くして。下々よりしたしみよりつくやうにすべしと宣ひしは。唐太宗。百官の事を奏するもの。恐懼して擧惜を失ふことあるを見給ひ。これより常に吾顏色を假して諫諍をきゝ。政教の得失をしらんとすとあるに。よくも似させ給へるかなと。伺ひしられていと尊し。(武野燭談。三河物語。岩淵夜話别集。)
本多豐後守廣孝が御直にうかゞひしとて人に語りしは。凡人君たらむものは。其心をェ大にして。鎖細の事にはかゝはるまじき事なり。水至てCければ魚住ず。人至て察なれば親しまずといひし古語のごとくなれば。人を使ふにも其長所を取て。あしき所は捨置べし。すべて天地の間に生としいけるもの。さまざまにして。牛馬のごとく人の用をなすものあれば。虎狼のごとく害をなすものもあり。藥草もあれば毒草もあり。その中につきてよきを用ゆるは勿論なれども。又時としてはあしきを用ゆる事もあり。あながちに捨べからず。武田信玄。上杉謙信など。わが疑心よりして同族を害せしためし多し。物ごとに疑忌の深きは。もとより其胸中の狹隘なるより起れり。抑先代(岡崎殿御事。)病がちにおはせしかば。わが國勢何となく衰微し。一族はじめ譜代の舊臣も。うちうち他國に心を通じ。兩端をいだくものおほかりき。さるを我代になり天運にかなひて國勢漸强大に成しかば。かの者どもみなまつろひきて忠功を勵みしかば。我もまた旣往の事をいさゝか心に挾まず。實心もて撫使せしゆへ。その中には股肱心膂となりし輩もあまたありき。さきにもし信玄謙信等がごとく。舊怨を含むで一々に疑ふならば。かく大業をなす事は得べからず。虎狼も牛馬の用をなし。毒草も良藥となりしは。みなわが心ひとつにあり。胸中狹隘なれば疑忌の心生じ。疑忌の心生ずれば。多くの人使ひ得がたしと仰られしとなん。殷湯王が賢に任じて疑はず。また後漢の光武が。赤心をひらきて人の腹中に置などいひしと。同一の御氣象なるべし。(故老諸談。)
永祿八年三河國大半御手に屬しければ。はじめて奉行職を置れ。國政を沙汰せしめらる。本多作左衛門重次。高力與左衛門C長。天野三カ兵衛康景三人をもて其任に充らる。此時御國中の士人等。佛高刀鬼作左とらへむなしの天野三カ兵衛とぞうたひける。三人の中にも。C長は溫順にて慈愛深く。康景はェ厚にて思慮ふかし。ひとり重次はおそろしげなる男の。己がいひたき事をばありのまゝにうちいひ。いかにも思慮あるべき人とも覺えず。かゝる職務に堪べき者にあらずと誰も皆思ひしかど。心正しく直にして。しかも民を使ふに惠みありて。うつたへをきゝわかつこと明らかなりしかば。いづれも人材をつかはせ給ふ事の明亮なるに。感服したてまつりき。(藩翰譜。)
天正十二年二月三位の昇階し參議をかけ給ふ。そのころ高木主水正正次を使番とし。筧助大夫正重を旗奉行になされんとありしに。本多佐渡守正信うけたまはり。主水は祿多ければ旗奉行。助大夫は小身なれば使番になさしめてよからんといふを聞しめし。正信に似合ざるいひ事かな。たとへば同じ役勤るもの二人あらんに。一人をつかはして歒を防がしむるに。小身にては軍用とゞくまじとおもはる。大身の者をつかはさんか。それも小身のもの其任にかなふとおもはゞ。上より人馬をましあたへてもこれをつかはすべし。同僚とてもかくのごとし。まして役を命ずるに。大身ゆへ旗奉行小祿ゆへ使番と定めんは。これ祿をえらぶにして人材をえらぶにあらず。助大夫は使番の器なり。主水は旗奉行の器なるゆへに。かくは命ぜんと思ふなり。もし助大夫が祿少にして其任奉る事かなはずば。祿秩を加へんのみなり。祿の多少によて人を進退するは。鄙吝の所爲に出て選擧の本意にあらず。又かねて精勤なるものに加恩とらせんとて。それより大祿の役に轉ぜしむるも又非なり。何役にもあれ。精勤してよくその任にかなはゞ。元の役を轉せずして加恩とらすべし。むかしより任にさへかなへば。帝堯の。舜のごときいやしの民に。天下をゆづられし例もあり。とにかく人材をえらぶに。祿の多少を見る事あるべからずと仰られしかば。正信凡慮の及ぶところならずと。ふかく敬服せしとなり。(東遷基業。)
小牧より岡崎に御勢を入られしとき。C洲をば酒井左衛門尉忠次。小牧をば榊原小平太康政に守らしむ。康政小勢にして大軍を引受ることなれば。汝一人心得ても詮なし。カ等にもよくよくいひ聞せ。得心せしうへにて返事せよと仰らる。康政退きカ等に仰の旨申聞しに。いかにも御請あるべし。秀吉大軍にて責來らば。思ふさまに防戰し。かなはずば討死せんのみと申せば。康政このよし申上るに御氣色斜ならず。かねて勇烈の者どもを汝に附置しゆへ。さこそ有べけれと宣ふ。是まで小牧はかりに取立られしゆへ。城搆もみな板塀にてありしを。康政岡崎より白土とりよせ白くぬりあげしかば。眞の粉墻のごとくにみえたり。其後秀吉このさま見て。わが大軍を引うけあの小勢にて防がむとは。天晴不歒の剛のものよ。コ川にはよくも壯士のある事よといはれしとか。又石川伯耆守數正が岡崎を退去せし後。この城誰に守らせんと老臣に議せらる。本多佐渡守正信いふ。己が妻子を殺しても。この城と生死をともにせんもの然るべしと申す。しからば本多作左衛門重次に過たるはあらじと宣ふ。即重次をめし。岡崎は上方より手遣第一の城なれば。もし秀吉がよせ來らんには。先こゝに防戰すべしとて。御家人あまた屬せらる。重次かしこまり。當家代々の御居城なるを。人多き中に重次にあづけらるゝとあるは。身にとりての面目何事かこれに過ん。しからば身命を抛て。いかにも堅固に守りたてまつらんと。かひがひしく御受す。君御感の餘。重次老年といひもし防戰に及ばゞ。万に一つ生理はあるまじとおぼしめしあはれませ給ひ。後嗣のためとて其子仙千代をめし出され。御前にて首服加へしめ。丹下成重とめさる。よて重次も堅固にせしとぞ。後に秀吉と御和睦ありて。大政所岡崎へ下られしとき。井伊直政と同じく其警衛命ぜらる。かねては大政所到着あるとひとしく。御上京あらん定めなりしが。重次諫ていふ。京にては御所方宮仕の女房等が年老たる者少からず。いかなる老婆を僞りて。大政所となして下されけんもはかりがたし。もとよりこなたに見知たるものなければ。何によりて是を見定候はん。こゝは大切の御ことなれといふ。君もよくこそ心付たれとてやゝ御猶豫あり。大政所下向の後四五日過て。M松より御臺所をわたしまいらせられしに。大政所は御臺所の御輿の戶を明くをまちかねて。御臺所に抱付給ひ。しきりに淚ながし給ひしをみて。人々はじめて疑念を散じ。其後御上京ありしとぞ。(落穗集。柏崎物語。貞享書上。)
當家には武功のものあまためしつかはれしゆへ。そのころ御領內にて里民の春引歌にも。コ川殿はよひ人持よ。服部半藏は鬼半藏。渡邊半藏は鎗半藏。渥美源吾は首取源吾とぞうたひけるこの人々その勇烈の事蹟は。あまたものにみえたればこゝにはしるさず。(三河之物語。)
石川伯耆守數正が上方に降附せし後。御國中の城主の面々人質をたてまつる事ありしに。本多豐後守康重も二男次カ八紀貞を進らせしに。康重事はその祖先このかた忠誠を竭し。世々二心なければ。今さら質入たてまつるに及ばず。御心安くおぼしめさるゝよし傳へられしかば。康重その身ばかりならず。御賞詞の家祖までにをよびしを。いとかしこみたてまつりけるとぞ。(本多越前守物語。)
關東にうつらせ給ふはじめ。鎌倉八幡宮は神領千石を寄附せらる。もとは八千石なるに。こたびかく减ぜられしかば。神主大に歎き。重ねて訴出けれど御採用なし。よて神主上京し豐臣關白へ訴へ。關白よりこのよし江戶に申進らせらる。其とき村越茂助直吉をもてその御使にさゝる。直吉辭見の折めされし獺虎の御羽織をぬぎて下さる。直吉仰の旨うけたまはりて速に上京し。たまはりし羽織に立付着せしまゝにて。關白の前へ出んとす。其さまあまりに鄙野なりとてとゞむるものあれば。市井の典舖にて麻の上下をかりて着し。神主と同じく關白が前にいづ。社人まづこの社の草創よりこのかた。源家世々の崇敬ありし先蹤ども。つばらにいひつゞくるに。直吉は口をあきて心もとめぬさまして聞居たり。秀吉直吉にむかはれ。汝かれがいふ所を聞しやととはる。直吉今一通りうけたまはらんと有て。同じ事を二度ものがたらせし上にて。さてさて尊き事どもにて侍るかな。さりながらこの直吉をはじめ。家康が譜代の者ども。三河以來年比の戰に。今日は討死せんか明日は鋒に血をそゝがんかと。朝夕苦辛して漸僅の祿に有付しなり。さるに此度關東へうつりいまだいくほどもなきに。社人等空手にして千石の神領受しは。家康あまりうつけたる沙汰かなと。某などは覺え侍るといへば。秀吉大に笑はれ。いかにも直吉がいふ所こそことはりなれ。家康もさる心ありて汝を使にこされしならん。われやがて對面の折からよきにはからはんとて。兩人をば其まゝかへされしとぞ。(兵家茶話。)
豐臣關白伊達政宗が奥州會津の領地沒收せし後。會津は奥の重鎭なれば。控御の人材をえらばんとて。みづからおもひよりし者の名をかきしるし。コ川殿にも心にかなひしものをしるして見せられよとて。かたみにひらき見しに。秀吉が札には第一堀左衛門。第二蒲生飛驒守とあり君の御札には氏ク第一。左衛門第二と記されたり。秀吉掌を打て。さてさて名將の思慮は不思議にも符合するものかな。一二はかはれども。その人物の暗合せし事よ。そもそもいかなる心もてかくは見定められしと問はる。君まづ殿下の尊慮うけたまはらんと宣ふ。秀吉奥州の人は情の强き者なれば。左衛門がごとき人ならでは。鎭壓すべき事かなふまじ。よて左衛門を一番にしるしたりといふ。君某愚意には奥人の崛强なるを。左衛門がごとき猛烈の人に治めしめば。諺にいふ茶碗と茶碗の出合といふごとく。いづれかたへの碎けずしてはあるべからず。氏クの武略はいふに及ばず。文學にも志深く。和歌茶道をも辨へ。性質溫和なるに。かゝる風流の好みもあれば。崛强の奥人を治めしむるには。いとよきつり合ならんと思ひつれば。第一にしるしぬと仰ければ。秀吉聞れ。いかにもよき所に心付れしとて。遂に氏クに極られしとなん。(大業廣記。)
江戶御居城ありて後。駿遠三甲信にて代官奉りし者どもはみな役免され。伊奈熊藏忠政一人もて八州を保轄せしめむとありしに。本多佐渡守正信申けるは。是迄五箇國にても代官あまた設られしに。今は八州の大守に成らせ給ひて。忠政一人に仰付られんはいかゞ侍るべき。忠政何程才幹あり共。いかで八州の繁務を。一人して沙汰する事を得んやといへども。聞も入給はず。忠政に誓詞せしめらる。其前文は正信かき候へと仰らる。正信硯引寄。文段をいかにと伺へば。㝡初の一條に。先關八州を己の物のごとく大切に致すべしとなり。其次の文は。支配下々の者を使ふに。依怙仕るまじとなり。正信仰のまゝ書つらね。第三條はと伺ひしに。もはやそれにてよしと仰ければ。正信筆を閣きしとなり。これまで代官奉りし者。こたびの御國替ごとに。御急ぎによりいづれも江戶に參り。御家人の所領割渡などするに。其身心力をつくして勤る者もあり。又諸事を下吏にのみうち任せて。己は怠慢なるもありて。勤勞さまざまなれど。别に褒貶の御沙汰もなくなべて役義免されしなり。後に舊役に復せしもあり。ながくゆるされしもありしとなり。(落穗集。靈岩夜話。)
太閤大坂の千貫櫓にて。當家の人々の馬揃を見物せらる。いづれもこゝをはれと。良馬をえらび馬具をかざりて出立たり。數多き中にKの馬の。紅の韁かけて乘たりしは何者なりと尋らるれば。成P小吉といふ者のよし御答あり。そは何程知行取せ給ふぞと問る。君千石つかはし置たりと宣へば。太閤かれはほしき武者振なり。我ならば五万石はとらせむものをとて所望せらる。君小吉をめしてそのよし仰らるれば。小吉うけたまはり。こは御情なき御諚にも候ものかな。年頃心力をつくし。御爲には一命をもたてまつらんとおもひつるに。今かくかなたに遣されんならば。腹切らんより外なしと。思ひ切たる躰にて泪をはらはらと流す。君重ねて。其方豐臣の招きに從はゞ五万石の身分と成る。且家康が爲にも便よし。まげてしたがへと御詞を盡されしかども。中々うけひきたてまつるべきけしきなし。君も詮方なく思して。有のまゝに申させ給へば。太閤聞れ。いかにも彼の樣にてはさもあるべし。內府にはよき人あまた持れ。曹オき事なり。隨分御心よせあつくめしつかはれよといはれたり。君御歸舘の後小吉をめし出され。其方が存意のまゝを申つれば。太閤心次第にせよとてゆるされたり。抑新參の者ならば。さまで厚き心だてにはあるまじきに。年頃つかへしほどありて。他家の富貴を望まず。眞心に我に從ふ事。さりとは神妙の至なりと御褒詞あり。又中納言殿へもこの旨仰聞られ。後々とも彼者懇にめしつかはれよと。仰進らせられしとなん。(靈岩夜話。)
伏見におはしましけるころ。大坂の奉行等ひそかに御館を襲ひたてまつらむとの企專らにて。今日は取かくるか明日は詰よするかなど。世の風說とりどりなれば。かねてより御コ威になづき從ふK田。加藤。淺野等は。日夜御館に詰て。もし御大事に及はゞ。御味方つかまつらんとひしめきける比。何方より來りたりともしらず。圓頂のものゝふ小者一人に鎗を持せ。暮六時頃より明六時頃まで。御門脇の駒寄邊にありて。夜明れば立かへる事一夜もかくることなし。御家人等これを見て。誰も見知たる者なかりしかば。其よし聞えあげしかば。それこそ水野藤十カなるべければ。此後又來りたらば呼入べし。對面せんと仰あり。其夕方例のごとくかの者來りしかば。かゝる仰ありしぞと告しに。かの者かしこまり候とて御門內に入る。直に御前にめして御對面あり。汝が父和泉へはこなたより申つかはすべければ。汝は三河へ下り候へと仰あり。其後父の和泉守へもことのよし仰下さる。かく仰あるうへは。父もとこう申べきにあらざれば。藤十カは父の所領三河刈屋へ下り。父子の間も和順しけるとなり。この藤十カ勝成は壯年のとき。あらあらしきふるまひ多く。父の教訓にももどりけるより。父子の間もこゝろよからずして。遂に刈屋を立退き都にのぼり。六左衞門と改め。肥後の佐々成政また小西行長。加藤C正。K田長政等の家家につかへしが。とにかく勇にほこり思ふまゝの擧動のみせしかば。こゝをも立退。三村紀伊守とて三千石ばかりを領せし毛利が被官のもとにて。十八石の祿をうけて口を糊せしが。今度伏見にて當家御大事に及ぶべき風說をきくとそのまゝ。三村が家を暇こひて上京し。餘所ながら夜々御門際までまいり。警衞せんとせしなり。御家人等見て誰ともしらざるを聞しめし。これ必藤十カなるべしと御心付せられし事。凡慮の及ぶべきにあらず。もとより此ころ當家より立退し者も。藤十カのみに限らざるを。よくよく其心根をしろしめし分られしうへならでは。いかで其名をかくさゝせらるべき。人君たらん上には。人をしるを第一の事と。古人も申傳へ侍りしは。かゝる類にやあるべき。此後和泉守へいろいろと仰らるゝ旨ありて父子の中も和らぎ。奥の軍に供奉せし跡にて。和泉守不慮に討れしかば。勝成仰を蒙りて刈屋にまかり先陣に馳加り。美濃國曾根大柿の城々責落し。遂に家つぎて從五位下日向守になり。あまたの所領をぞたまはりたる。(小早川式部物語。家譜。)
小山の驛にて。台コ院殿は本曾路を御登りあるべきに定まりしかば。榊原康政。大久保忠隣。本多正信の三人を御前にめし。此度汝等をして中納言に扈從せしむ。中納言いまだ年若き事なれば。偏に汝等三人心を合せ力を共にし。萬事越度なく執行ふべし。かの漢の高祖の三傑とおなじ樣におぼしめせば。いづれも其心して。盛慮にかなはんほど相勵むべしと御懇諭ありしなり。三人のかしこみたてまつりしはいふまでもなし。よく智仁勇の三將を御えらびありしとて。きくものみな感歎せしとぞ。(大業廣記。)
關原の役に上方の御先手奉りて馳上りし諸將。御出馬遲々なるにより。いかなるゆへかといぶかり思ふところに。八月十二日村越茂助直吉を以て。上方への御使命せられ。數通の御書をさづけられ。かつ御口上をも仰含らる。直吉明日十三日首途し。廿日に三州池鯉鮒に着す。先陣の軍監奉りし井伊本多の兩人。こたび直吉が御使として上るをきゝ。柳生又右衛門宗矩してまち迎へしめ。あらかじめ御使の旨を問しむ。直吉聞て。先陣の諸將へ下されし御書を持參せしのみ之といふ。宗矩御口狀はなきかと問ふ。直吉いかにも御口狀も仰含られたり。そは何と仰られしといふ。直吉御みづから誰々に申せとありしを。いかに御邊が我と懇親なればとて。たやすく申すべきやとて。宗矩と共にC洲に至る。中書兵部の兩人出迎ければ。直吉兩人への御口狀の趣を申述けるは。速に御出馬あるべきのところ。しばし御風氣にておはしませば。とみに御出馬成難し。其表の事さるべく兩人相議してはからふべしとなり。諸將へ御口狀の趣も大方かくのごとしといふ。兩人驚愕して。かくては諸將の心變ぜんもはかり難し。このまゝに申されなば。君の御爲あしからん。明日諸將列席のときは辭をかへられ。內府いさゝか風氣に侵され。思ひの外に出陣遲々せり。さりながら近日のうちには出馬して。敵を一時に切崩さん。この事申さん爲に。直吉を差越せ給ひしと申さるべし。この詞ゆめゆめ違へ給ふなと。くれぐれ口かためしかば。直吉君の御爲とあるからは。いかにもかたがたの指揮に從ふべしとありて。其日諸將會合の席へ直吉進み出て御書をとり出し各へ授け。又御口狀を述ていはく。いづれも數日の在陣苦勞に思召所なり。內府出馬油斷なしといへども。この程風氣によてしばらく出馬なりがたし。かたがた兵部中務に申合され。さるべく下知給はれと。仰のまゝにいひければ。兩人手に汗を握りこはいかにせむと思ひ。諸將も御出馬なりがたしとあるを聞て興をさまし。何といふものもなし。かゝる所に加藤左馬助嘉明一人進み出て諸將にむかひ。これはいと尤の御口狀なり。我等只今內府の御味方はすれども。もとは故太閤恩顧の者共なれば。內府の御疑心あるまじきもしるべからず。此度御味方に參りたるしるしをあらはしなば速に御出馬あるべし。かゝる心付もなくうかうかとして日をかさね。御出馬をまち居しは何事ぞといへば。福島左衞門大夫正則も手を拍て。御邊が推察のごとく此辨へもなかりしは。近比愚なる事どもかなとて。一座のものはじめて夢のさめたるごとくなり。この後諸將を會議して。岐阜城攻の議は起りしなり。後日に井伊本多の兩人直吉にむかひ。今となりては御邊がありのまゝに御口狀を述られしこそ。かへりての幸なれといへば。直吉さきに各方の指揮の如くせんとおもひつるが。又つらつらおもひかへせば。智慮才能のいる御用ならば。别人に仰付らるべきを。この直吉が才も能もなき者に。大事の御使を命ぜられしは。御口狀を眞直にいへとの御事ならんと思ひかへして。ありのまゝに申たりといひしとかや。直吉が使命を守りて。人言に泥まざりしはいふ迄もなし。君の人を使はせらるゝに。よく其任を得させられし御事と。感ぜぬものはなかりけり。(關原大成。)
土方河內守雄久は大坂にて異圖ありしよし聞えて。常陸國へ配流されしが。關原のときかへされ。北國の御使奉はり。その後中納言殿の御咄衆となさる。或人かれは君を害せんとはかりしものなるを。御ゆるしあるのみならず。若君に附られ御懇にもてなし給ふは。あまり御ェ容の事なりと。もどきいふのありしを聞せ給ひて。彼はもとよりよく大事を見聞して。國家の用にもたつものなり。秀忠よくねもごろにせられば。行末いかはかりの用に立むもはかりがたし。舊怨によてその長所をばすつまじきものなりと宣ひしかば。人々むかしの斬袪射鈎のためしに思ひなぞらへて。御大量にして且御鑒識の明なるを感じたてまつりけり。(關原聞書。)
慶長六年大久保治右衛門忠佐をめして。彼が年頃の勳功を賞せられ。二万石御加恩ありて。駿河國沼津の城を預けらる。其とき渡邊忠右衛門守綱御次に在て。治右衛門は幸運のものかな。武功があるとて恩賞まはりしぞ。そのかみ我に逢てくそをたれしと高聲にのゝしるを聞せられ。治右衛門に仰けるは。かの兄弟一向亂の折宗門にくみし我に敵せしとき。弓二張に鐵炮鎗と七人にて汝に向ひしに。汝がいひしは。相手がけの勝負ならは。太刀打すべけれども。えうなく多人にむかつて犬死はせぬぞといつて汝が引退しを。われよく覺え居たり。只今その事いひ出ると見えたり。あの樣なる狂者は捨置べしと仰けるとぞ。(ェ元聞書。家譜。)
いつの御陣かありけん。坂部三十カ廣勝。久世三四カ廣宣の兩人を斥候に遣されしに。三十カは仰うけたまはると。いと勇める氣色にて御前を立しが。三四カは顏色替り。何となく心おもげにてやうやう立出しかば。伺公の近臣笑ひ出しものもありしに。三十は元來勇敢の生れなれば。敵を何とも思はず。三四は武邊の心がけ厚く。軍陣に打立からは生て還るまじとおもふゆへ。そのさまうき立ぬなり。今にみよ三四が三十よりは二三町も先へ乘こみて。見てかへるべしと仰けるが。はたして三四は三十より四町ばかり奥までゆき。よくよく敵陣のさま見切てかへり。そのよし申上しとぞ。(武邊咄聞書。)
惣じて譜代の者は世祿をたのみ。勤振りに精の入らぬものなり。他家より今參の者は。主の心にかなはんと日夜に工夫し。一しほ勵み勤むれども。元より主の心には。譜代の者ほどしたしくおもはざれば。遂には又こなたを立出て他家へゆけども。又思ふ樣ならで立かへりなどするに。こたびはいよいよ元の如にはあらぬなり。たゞ譜代のもの。心いれてつかへんこそ。主の心にョ母しく思ふべけれ。何とて今參におもひかへむや。譜代の者よくよく此旨心得て。精いるべしと仰けると。阿部備中守正次御直にうけたまはりしとて。人に語りしとなり。(三河之物語。)
あるとき將軍家へ仰進らせられしは。長夜の折から藤堂和泉守高虎など。故老の輩めし出て。ふる物語聞しめせとありて。高虎はじめて伺公せしに。將軍家の御尋に。先治國の要道とするは何事ならんとあれば。高虎某元より不學にして。聖賢の道など學びし事も侍らねば。何をおこがましく申上べき。されども殊更の仰事なれば。まづ心のかぎり申て見侍らん。大道にかなふかかなはざるは聞分させ給へ。凡治亂の代。ともに人を見分ること第一にて候へ。人の才能さまざまにて。大軍を指揮してその節度にかなふもの。また一隊の將としてよく隊下を驅使するもの。又物頭など奉りて弓銃の士を使令し。軍機を失はざる者。あるは才能はさしてなけれども。性質篤實にして己が職分を守り。時に臨み一命をも抛つべきもの。あるは年比廢墮せし國政を振起して賞罰正しく。國中の士民迄これに倚ョして安意せんほどの者。或は一郡一クの進退せむもの。又は才幹ありて繁職に劇務を弁じ。土木匠作の奉行などにても。國家の損費かけずして。其事成し遂るもの。此外にもさまざまの人物を御覽じ分られて。其人々にかなひたる職掌を仰付られなば。百司みなよく任にかなひて。天下國家をのづから治るべきなり。其次の心得は。何事も疑心おはしまさぬこそ第一なれ。上として下を疑ひ。下又上を疑へば。上下の心何となく離畔して。はてには上一人にならせたまふものなり。かゝる隙に乘じて讒侫の徒あまた出來て。さらでだに相疑ふ間をいひそこなへば。善人君子これがために不慮の禍を受るか。又山林に逃隱るゝにも至れり。古今とにも讒人の爲に國家の亡滅せしためし少からず。よくよく思召わけ給へと申せば。將軍家聞しめして。御感大方ならず。侍座の者どもいづれも感歎し。儒者共が經書講ずるを聞たらんよりは。いと親切にうけたまはりぬと申す。その明日君高虎をめし。夜べは將軍へ何事をか侍話せしと尋給へば。しかじかのよし申上。折しも天海僧正。金地院崇傳が御側に侍せしに向はせられ。和尙達は今の高虎の詞を聞れしや。佛家の事はしらず。當家にをいて。和泉が申せしごとくの嘉言は此上なし。すべて人を見知ることのかなはざるは。全く己が智の明らかならざるゆへ。才智ある者をめしつかふ事のならずして。えうなきものとのみ國政を議するなれ。されば智ある者は身を引て。次第に忠勤を勵むものなく成行なり。又上下相疑ふより。讒人の起るといふも。まづ人を疑ふも我心に信のすくなきゆへ。人をわがことくおもひとりて。每事みだりに疑念を生ずるなり。こゝを讒人のよき付所として。さまざま巧言をもてK白をいひ亂す。讒人の習ひにて。わが事は人にいはせ。人の上は己がいひとり。かたみに相すゝめて。惡類次第に多くなり。大亂にも至るなりと宣へば。兩僧うけたまはり。さてさてかしこき仰をもうけたまはるものかな。高虎が詞も只今御一言によて。殊更羽翼をそへ侍りぬと申す。又仰に。忠臣をばなるたけェ容に禮遇すべし。わが身命を抛ても。君の爲をせむと思ふものなどの小過とがむれば。たゆみて善にすゝまざるものなり。すべて諛言をきゝ入ず。誠意をもて下々をめしつかへば。臣下もまた一しほ精をいれて。忠勤を盡すべしと仰られしとぞ。(藤堂文書。)
あるとき本多。大久保。平岩などの人々御前にめし。燒火をあそばして昔今の合戰の物語かたり合せ給ふ序に。凡食物の中にうまきといふは何ならん。をのをの申て見候へと仰らる。をのがじゝたしむものゝ事いひ出て一决せず。おかちの局もこのとき御側にありて。茶を煎じて人々に進め。諸人のとりどりいひあらがふを聞て。えみ顏して居しを御覽じ。かちは何を知りて笑ふや。もし思ひよりし事もあらば。いひてみよと宣ふ。人々も上言なり。局が論うけたまはらんとそゝのかせば。申てみ侍らん。凡物のうまきものは。鹽にこしたるはあらじ。いかほどよき調理なりとも。鹽なくば味とゝのひ難し。又万民一日も鹽なくば。口腹を養ふ事あたはずといへば。諸人いづれも手を拍て驚歎し。いかさまと感じあへり。さらば天下にまづきものは何ならんと宣へば。こたびは人々口をひらくまでもなしとて局にゆづれば。局又申は。まづきものも鹽に過たるは候まじ。いかばかりうまきものも。鹽味過れば食ふに堪ず。本味を失ふなりと申せば。御前をはじめ伺公の人々。いづれも局が聰明に感じ。これ男子ならば一方の大將奉りて。大軍をも驅使すべきに。おしき事かなとさゝやきけり。君またかちがこの語につきて。わが思ひあたりし事あり。凡天下國家を治るものの。人の用ひ方によりて。興りもし亡びもすれ。その差别をよくわきまふべきなり。たとひ善人たりとも。あまりに用ひすぐれば。かへりて害を生ずるなり。惡人を退くるにも。其道を得ざれば思ひよらぬ禍を引出すものなり。こは全く庖人の味をとゝのふるとおなじき道理なり。又善事なりとて一偏にのみ固滯すれば。譬へば万病圓は効能ある藥なれども。醫者にも議せずたゞこれのみ服して。病を治せんとするが如し。又國家の政道明らかなれば。惡事もをのづから善事となり。己正しからざれば爲事みなあしざまに成行なり。今川義元。信長を亡さむとして己がうたれ。信濃の村上。諏訪。小笠原など武田を討むとして。わが累代相傳の地を奪はれし類。かぞふるにいとまあらず。武道に暗きものは。兵法は亂世に用るものと心得て。治世にはたゞ華美風流を宗として亡滅するにいたるは。是又農夫の春耕さずして。秋の豐穰を求るがごとしと仰られしなり。(故老諸談。)
成P瀧之助とて。御側近く勤めたる者ありしが。一日この瀧之助は人といひあらがふことはなかりしやと御尋ありしが。二三日過て果して人と口論をし。相手を討て立退しと聞しめし。さだめてその折はめて口にてありつらんと宣へば。仰のごとしと申上。元來かれはめて口にてはなりしと上意なり。いかなる御思慮ありて。とくしろしめしけるにかと。人々あやしみたてまつりしとなん。(紀伊ョ宣卿物語。)
服部中保政といひしは天性質實の者なり。あるときの仰に。中は神妙のものなり。生理にうときかと思へば家產をよくし。上戶らしくみえて下戶なり。其外もよき所ありと仰られき。又才智のあらはれてきらきらしきものは好ませ給はず。榊原甚五兵衛といひしは。頗才幹はありしかども。其心表裏あるものなりしかば。はじめは御氣色にかなひしが。終に御前遠くなりしとぞ。(聞見集。紀伊ョ宣卿物語。)
成P隼人正正成。安藤帶刀直次。中山備前守信吉の三人を三家の方々へ附させられ。輔導の臣とせらる。まづ正成を義直卿へ附させ給ひしときには。正成がこれまでの武功才能を。しなじなかぞへたて給ひ。かゝるゆへもて輔導の職に進らせらるるとなり。信吉と村P左馬助重治を。ョ房卿へ進らせ給ひしとき。兩人がはじめよりの事ども仰聞られてつかはされ。ョ宣卿へ直次を附給ひしには。帶刀は何一ついひ立む事なし。いかにとなれば。この者人物よりはじめ。武功才能兼備はりてあれば。殊更とうでゝいひ立べき事なしと仰られしが。後々この藩にありて輔弻の志をつくし。しばしば直諫をいれ。卿をして英明の主とかしづき立しも。全く御明鑑による所なりとて。人々感服したてまつりけり(。續武家。閑談額波集。)
浪花の役に井伊掃部頭直孝をめし。その兄右近大夫直勝多病なれば。直孝こたび陣代勤むべき旨命ぜらる。直孝仰はかしこけれど。家人に相議して後御受申上んとて家にかへり。カ等よび出して。今日かゝる仰蒙りしが。汝等にとひはかりてわが下知に從ふならば御受せん。さらずば辭したてまつらんと思ふなりといへば。家人等いかで御下知に背き申べきといふを聞て。はじめて御受せしなり。さて御上洛の後二條城に着たまひ。直孝をめして。伏見の城番は渡邊山城守に命じたれば。汝は手の者引具し大坂へむかふべしと仰付らる。直孝うけたまはり。某身に覺えある事に候へば。とかう望申べきこともあらん。若年にしていまだ軍旅の事にならひ申さゞれば。ねぎ申べき樣なしと申て御前を退きし後。安藤帶刀直次をめし。只今直孝が身をためさゞるにより。思ふ所申兼るといひしは。定めて先陣奉らんとの心得ならんと思ふと宣へば。直次いかにも仰のごとくにて候はん。さらば直孝よべとありて。此度藤堂和泉守高虎と同じく御先手仰付らるれば。いかにも一しほ軍忠をぬきんで。盛慮にかなはんほど。心付をつくすべしと仰ければ。直孝も面目をほどこし御前をまかでしとか。果して後に大功を立名譽を一世に施し。父の直政にも劣らずともてはやされしは。是も御明審の至なりと。かしこみたてまつりけり。(續武家閑談。常山紀談。)
松平下總守忠明が家人に奥平金彌といふがありしを。かねてしろしめしけるが。浪華の役に。こたび忠明が手にて戰あらば。金彌第一の功名すべしと仰られしが。大和口の戰に忠明が手に討取し首どもさゝげしに。果して金彌一番首とありしかば。さてこそわがいひしごとくなれと御感賞ありしとぞ。その時金彌は七十餘なりしなり。(幸島若狹大坂物語。)
すべて人を使ふに心得べき事あり。たとへば一つの木を二つに切分て。一つは眼鼻もなき佛の形を作れば。をろかなるものは何か利益あらむかと思ひて尊むなり。一つはおもしろく運動する操戱の偶人を作れば。たゞもてあそびとするのみにて尊まず。實は佛の形よりは人の用をなすなり。冠に作るも沓ににつくるも。同じく用をなせども。物には貴賤の别あるなり。これをもて見そこなひ給ひそ。天下の主たる者の眼目の付所はこゝにあり。金銀は寳といへども。飢を救ふに雜穀の用をもなさず。人も又かくの如し。返す返す捨まじきは人々の材能之と。將軍家へ仰をくらせられしとなん。(太平將士美談。)
高師直が驕奢によて。尊氏に恨なきものも疎くなり。石田三成が姦侫によて。太閤へ舊恩の人も心を離せしなり。人を使ふはよくよく愼むむべきなりと仰られけり。(武野燭談。)
人はたゞ實意の深きものこそ。万事に念入るものなり。實意薄ければをのづから過誤あるなり。心だに誠實ならば。外ざまの越度はゆるし置べしと仰けり。かゝる御心もて人々をめしつかはれしかども。世の心得ぬものはさまざまにおもひ誤り。安藤帶刀直次が沉默なるをみては。言葉すくなきが御心にかなふかと思ひ。成P隼人正正成を見ては。戱譃などいふものを好ませらるゝと思ひ。物事あらげなく木訥なるを見ては。本多作左衛門重次。米津C右衛門正勝の輩御前よしと思ひ。酒を飮過し大言吐を見ては。大工頭の中井大和が寵遇をかうぶりしなど思ひとりしは。みな盛慮の深遠をわきまへざればなり。(故老諸談。)
此卷はよく人々の善惡を御審鑑ありて。それぞれ御任使ありし事をしるす。 
卷十九 

 

明主は短を思ひてますますよく。暗主は短を護して益愚なりと。古人の詞にも申置しごとく。人主短を護し諫を拒ぐときは。臣僚口を杜ぎ阿順するをつとめとす。これ國家滅亡のはじとすべし。我君にはよく人言を納させ給ひ。いさゝかの事にても惡しとだに御心づけば。忽に改めて善にしたがひ給ひし御事は。實に流るゝがごとしなどいひしごとくにて。少しも回護の念などおはしまさゞりき。三河にて一向亂のとき。かの宗門にくみせしものども。やゝ本心にたちかへり。歸降せんと思ふものども出來て。蜂屋半之丞貞次もて大久保右衛門忠佐。同新八カ康忠にたより。某はじめいづれも累世厚恩の主君にむかひ。何の御怨ありて弓をひき鋒を交へん心はなかりしに。菅沼定顯があまり情なき處置。かつは酒井正親が偏頗の所爲より。やむ事を得ずしてかゝる叛逆の名を蒙りし事。今さら悔てもかひなき事ながら。此後は土呂針崎野寺の三寺を前々のごとくに建置れ。宗門の徒もそのまゝ御ゆるし蒙らば。いづれもかしこみ奉らんといふ。大久保もこれ容易ならざる事とは思ひつれど。岡崎へ參り御氣色とりしに。歸參の事は聞しめしとゞけられぬ。但し寺々をば撒毁し。逆徒の分もその罪の輕重を正して。それぞれに御沙汰あらんとの仰なり。兩人も此上何と申上べき樣もなくてありしに。忠佐等が叔父忠俊入道常玄すゝみ出。尊慮はさる事ながら。夫にては事速に平ぎがたし。たゞかれらが申こふまゝに御ゆるしあつて。一日も早く他國へ御勢をむけられ。御國勢の强大にならん事を希ふ所なり。是こそ今日の急務なれ。入道が親族も日比の戰に一命を隕すもの少からず。全く上の御爲なりとおもへば。いさゝか悔る事なし。まげて某が一族等の褒賜にかへられ。彼等が申所御ゆるしあれと申上れば。老人がかくまでいさむるを。むげに聞入ざらんも情なきに似たり。こたびの事老人にめんじてゆるすなり。汝等よきにはからへと仰なり。常玄また旣に門徒等が申所ゆるさせ給ふからは。彼等を御先手として上野の城を責しめ。吉良荒川をうち滅し。西三河を平らげ給へと申せば。これも理と聞しめして。かたのごとく御沙汰ありて。不日に歸降の事とゝのひしかば。門徒の輩御仁恩の厚きをかしこみたてまつる事大方ならざりしとなん。(落穗集。大久保譜。)
いまだ岡崎の城におはしましけるに。御賓客あらむ時の御もてなしのためにとて。長三尺ばかりの鯉を三頭。御池にかひおかせられしを。鈴木久三カといへる者。ひそかに其鯉一頭とりて御くり屋のものにあつらへ調理させ。しかのみならず其頃織田殿より進らせられたる南部諸白の樽を開て。同僚うちより酒宴せしを。同僚等酒も鯉も上より給はりて。饗する事よと心得て。各よろこびあひて沉醉しまかでたり。其後御池の鯉一頭うせたりと御覽じ付させ給ひて。預りの坊主をめして聞せらるれば。久三カさる事して。我々もその饗に預りたりと申たるにより。聞しめし驚かせ給ひ。御くり屋のものをたゞされしに。まがふべくもなかりしかば。大に御けしき損じ。久三カを御成敗あるべしとて。長刀の鞘をはづし廣緣につとたち給ひ久三カを召けるに。久三カ少しも臆せず。露地口より出て三十間ばかりも進み出しを御覽ぜられ。久三不屆もの。成敗するぞと御詞かけさせらるれば。久三カはをのれが脇差を取て五六間あとへ投すて。大の眼に角をたてゝ。恐入たる申事には候へども。魚鳥のために人命をかへらるゝといふ事はあるべきか。左樣の御心にては。天下に御旗を立給はん事は思ひもよらず。さらばとて思召まゝにあそばされ候へと。諸肌ぬぎて御側に近くすゝみよる。其躰思ひ切てみえけるに。御長刀をからりと投すて給ひ。汝が一命ゆるすぞとて奥へ入らせ給ひしが。やがて久三カを常のおましにめし出て。汝が申所ことはりと聞しめされたり。よくこそ申たれ。汝が忠節の志滿足せり。それによりさきに鷹塲にて鳥をとり。城溝にて魚を網せしものをとらへをき。近日には刑に行ふべしとめしこめ置しが。汝が今の詞に感じこれもゆるすぞと仰ければ。久三カも思ひの外なる事とかへりて恐れいり。卑賤の身をもて。恐れをもかへりみず聞えあげし不禮をもとがめ給はず。却て愚言を用ひさせ給ふ事たぐひなく有難し。これ全くゆくゆく天下をも御掌握あるべき。ェ仁大度の御器量あらはれ給ひぬとて感淚袖を沾し。しばしは其座を退く事を得ざりしとなり。はるか年經て後。台コ院殿太田何がしに。五百石の恩祿下されんとの仰ありしを。いかなる故にや御折紙を擲返しまかでしかば。大にいからせ給ひ。死刑にも處せられんとて。井上河內守正就もて駿河へ伺はせ給ひしに聞しめして。これは天下長久の基なり。凡賞罰の當らざるは衆怨の歸する所なり。太田が無禮と知りつゝかかる擧動せしは。己が身を抛て將軍を諫るの下心ならん。主の怒を侵して君を正し救はんとするは忠臣なり。ほめてつかはすべし。將軍もかゝる事まで我に問示さるゝは。機務に心をつくさるゝといふべし。君臣共に其職に怠らざれば。長久の基とこそ覺ゆれ。これにつきそのかみわれ岡崎にありしとき。鈴木久三カが無禮を怒り誅せんとせしに。かれがいさめによりて。わがあやまちを改めし事のありしとて。この事語り出給ひ。今太田にも千石ましたまひて。そが志にむくはれよと仰せて。正就にも御刀賜ひ使節の勞を慰せらる。正就江戶にかへりて其旨申上しかば。台コ院殿も御庭訓のかしこさを感じ給ひ。太田に祿千石給ひ。正就には汝によりて承順の道を知り。かつ賞罰の正しきをもわきまへたりとて。是も御太刀を下されしとなん。とりどりたぐひなき御美事なるにぞ。(常山紀談。岩淵夜話别集。)
M松の城にましませし時。ある夜外樣の士三人御前にめして。仰蒙る事ありて退出し。その中に一人とゞまりて懷より一封の書を取出して。みづから封をきりて奉れば。何ぞと仰られしに。これは某年ごろ諫まいらせんと存ずる所を書連ね置しが。今日よき折からなれば奉る之と申。殊に御心地よげにて。それにて讀候へと仰らる。一條よみ終る度事に。申所ことはりにこそと仰ありて。十餘條をよみはてゝ後。思ふ事申出んは此度に限るべからず。此後ももし諫めんとおもふ事は憚あるべからず。汝が志のほど神妙の至りなりと。感じ仰下されしかば。彼者スびかぎりなく。拜謝してまかでぬ。そのとき御傍に本多佐渡守正信侍しけるが。唯今の申條いかにや聞しと仰ありしに。正信承り彼が申所の如きは。事皆鎖細にして國家の大勢にあらず。君などの用ひさせ給はん事は。一條もなくおぼへ候と申上しかば。御手をふらせ給ひ。いやいや是はかれが智を竭しておもひはかりし所なり。其身智の足らざるはいかにせん。彼年頃時を得て。我をいさめんと思ひし心こそ有難けれ。すべて世の人。自らその身の過をしる事。いとかたきわざなれ。あやまちと知りなば。たれかあやまつべき。よしと思ひて心のままにふるまふ所に。あやまちは有なり。品いやしき人は親族朋友など。それぞれしたしくなりては。かたみに諫あらそふ事あればあやまちとしりて改る事あり。これいやしきが一の益也。尊貴のものは一族も交うとく朋友とするものなし。朝夕眼前に伺候する者は。皆家人ばかりなれば。いかにして主のこころにたがはざらんことをのみむねとし。主の道を匡し救はんとおもふ者あらんや。たとへたまさか身を捨ていさめんと思ふものあるも。其あやまち大なる事をこそ申さめ。少しの事ならんにはまづそのまゝにして申さぬものなり。凡少しなるが積りてこそ大なる過になれ。その過旣に大なるにいたりては。いかに悔ともおよびなき事に至るものなり。それを我聞ほどの事。みな耳に逆ふ事なければ。一生我にあやまちありといふ事しらですぐる。これ位高き者の第一の損なり。古より家を亡し國を失ふたぐひ。皆諫を聞く事なくて我過失をしらざるがいたす所にあらずや。此事を思ふに。たとへいかなるひがことならんにも。我を諫るとあるはみな忠言とこそ思ふべけれと仰ければ。正信もげに人君の大度ありがたき御心かなと感服し。老後に至りても常にその子弟にむかひ。この事を語り出て淚をながす事しきりなりしとぞ。(逸話。藩翰譜。常山紀談。)
天正十三年三月のころ御背に癰を發し給ひけるを。小姓共に命じ蛤の貝もて挾み。膿血をしぼらせ給ひけるより大にとがめ給ひ。いよいよ脹出て御なやみ重らせ給ひ。手をつくる事もならず。かくては御みづからも御快ならせらるまじきと思召けるにや。老臣共をして內々後の事ども仰含られしかば。近國にもこの事聞傳へ。はや御大漸に及ばせ給ふなどいふ風說專らなり。このとき本多作左衛門重次御前に參り。それがし先に腫物なやみし時。糟屋政則入道長閑といふが治療にて快くなり候へば。長閑に診はしめられば然るべしと申す。君にはさらに聞召入れざるを見て。重次例の暴怒を發し。殿にはさてもてもむざとしたる療治めされて犬死をし給ふ事よ。御こゝろづからとは申ながら。惜き御命ならずや。十が九は御こころよくならせらるまじと醫者共も申せば。今は何をか申上るに及ばず。此作左衛門御先を仕るべし。年老ても御跡へさかりての御供は仕るまじ。さらば今生の御暇乞を唯今申上とて。泪をながし御前を立ければ。君にもおどろかせ給ひ。近習の徒へあれとゞめ候へとて。汝は狂氣せしにや。我等病重しといへども。いまだ死したるにてもなし。たとひわれ死したりとも。後々の事こそ大事なれ。汝が如き故老のものども生ながらへてこそ。子孫をも輔導し家國の事をも沙汰すべけれ。先腹切て何の益かあらん。きと思ひとまるべしと仰ければ。重次怒る眼に泪を含みながら。おしかへして申けるは。いやそれは人にもよる事なれ。重次もまだ年の二十も三十もわかくば。殿の如き分别もなき御方の御供仕らんは益なく候へども。はや六十近く。若き時より度々の戰塲に御供し。片目は切つぶされ。手の指もきりもがれ。足もちんばに成候へば。世の人のかたわといふ事は。みな某が身一つにとりあつめたる身なり。しかるを殿の御情ばかりにて。御內外樣の者どもゝ人がましくあしらふなれ。只今にも殿の御他界もましまさば。他人までもなし。御緣者の北條殿をはじめ。御國を伺ふものあまた成べし。年もさかりの殿に後れ力の落たる所へ勁敵を引受て。何のはかばかしき事のなるべきや。されば御家の滅亡は眼前なり。重次つれなき命ながらへて。あれこそはコ川家には古老と呼れし本多作左衛門よ。何のたのみありて。路頭に乞食してさまよふよと。後指さゝれては。生たるかひもなく候。近比迄も武田が家にて諸人に尊敬せられし淺利といへる男も。主に後れて當家に參りしが。本多平八が組下となり。匂坂黨などより遙かに末座にありて。へつらふ躰世にあはれにもいたましくもみえて候。これも他人の上とは存ぜず。旣に某が身にせまり候と。淚を流して諫めまいらせしかば。君聞しめして。汝がいふ所いかにもことはりなり。わが腫物は汝にまかするぞと仰ければ。重次大によろこび。長閑を具して參り藥をつけまいらせし上にて。双六の筒の如き大きさの灸をすへ給ふべしと申せば。重次みづから灸持出てすへ。內藥をも進めまいらせしに。たちまちその効あらはれて。夜半ばかりに御腫物吹きり。膿血おびたゞしく流れ出て。御心地もさはやかせ給ひ。日を追て御平愈ましましければ。重次あまりのかしこさに。男泣にぞなきけるとぞ。はじめ御惱のよし世上に聞えたるとき。上杉景勝が家人共は。今の世に謙信信玄卒して後。天下の將器はコ川殿のみにまします。然るに今この人うせ給はゞ。天下弓矢の道はながく絕果べしと歎きしよし後に聞しめされ。謙信信玄は數年弓矢を爭ひ勁敵たりしが。信玄の死を聞て謙信甚これをおしめりと聞たり。かの家は今に謙信の遺風存せりとて。御稱嘆ましましけるとぞ。(岩淵夜話别集。紀伊國物語。紀州根來由誌早B碎玉話。)
本多佐渡守正信は帷幄の謀臣たり。君また正信を見給ふ事朋友のごとくにて。台コ院殿には長者をもて優待せさせ給ふ。正信常に君をよびたてまつりて大殿といひ。台コ院殿をば若殿と稱したてまつる。軍國の機務に至りては。そのはかる所言葉多からず。わづか一二言にて極めてよく諷諭に長ぜり。慶長四年大坂にて福島。兩加藤。淺野。K田等の七人の大名。石田三成をうらむ事ありて。これを討果さんとせしとき。君よく人々を御教諭ありしにより事なく平ぎぬ。其ときは伏見の御館におはしましけるに。正信御前に參りけるが。夜はまだ亥の刻の半ばかりなり。君にははや御殿ごもれり。正信うちしはぶきして御前に參り。今夜はなど早く御寢ならせ給ふぞと申す。君聞しめし。正信には只今何事のありて參りたると仰られしかば。正信别の事にても候はず。石田三成が事いかゞに思召かと存候之と申ければ。今もその事を思案してあるぞと仰らる。正信さては心やすくなりて候。此事御思案あらんならば。正信何事をか申べきと。つと立てまかりたり。君にも又宣ふ旨もなし。其時土井大炊頭利勝など御側にありて承りきと。後に石谷將監貞Cに語りし之。又石川丈山が物語に。正信は上の仰らるゝ事。我心に得ざる時は打眠てのみ居て申旨もなし。又宣ふ所よしと思へる時は。ほめ參らする事かぎりなし。われ御傍につかふまつりし事多年なりしが。正信と事を謀らせ給ふと見えし事は。纔に二度ならでは見ず。世の人のことはかるとは。やうかはりて珍らかなり。一度は君正信が座せし所を通らせ給ひしが立留らせ給ひ。三言四こと密に仰らるゝ事ありしに。正信大にほめ參らせよく候く候と申せし。今一度は大坂の軍起り。程なく御和睦ありて後京に入せ給ひ。何がしを召て。汝大坂に行向ひ將軍に申せ。我等はいづれの日駿河へかへらんと。おもふなりと仰られ。正信が方を御覽じ。佐渡はいかに思ふと仰られしに。例のうち眠て申むねなし。君大聲にて。やあ佐渡と仰られし時例の眼開てまづものをば申さで。右の手さしあげ指をかがめ。物かぞふると見えしが。大殿よ殿よ幾年の前に。伏見にて正信が申せし事をばわすれ給ふなと申せしかば。君しばらく案じ出させ給ふ御氣色にて。御使の仰蒙りし人に。まづけふは御使をばまいらせまじきなりと仰ありて。內に入らせ給ひしとぞ。この二事を見侍りき。それを今の世に。正信やゝもすれば古をひき今を證とし。理義を分て毫末に入るやうに傳へしは。みな後々より附會せし說にて。とるに足らざる事ならんかと心あるものいひけり。(藩翰譜。)
一說に。正信が石田が事をもて諫めまいらせしは。諸大名治部を討亡し候はゞ。其後は當家を傾けんとはかるべき間。治部をば助けて佐和山へ蟄居仰付らるべしと。謀をさづけたてまつりしといふ。又君は治部を討果すべしと仰られしに。正信治部の樣なるもの助け置給ひても。天下はをのづから御手に入べしとすゝめしとしるす說も見ゆれど。こはみな後人の推考して傳ふる所にて。本文にしるせしこそ。よくその實を得たりとは申べけれ。(永日記。備前老人物語。)
江戶へうつらせ給ひしころ。角田河邊へ鷹狩せさせられしに。北條が比より江戶に住居せし處士何某。御路の傍に進み出て。己が意見かきし申文をさゝげたり。これを御覽ありて何とも宣はず。されど御前を憚らざるとて。囚人の事つかさどる石出帶刀が屋敷のうちにいましめ置。日數へて後そのものいかゞせしと尋ね給ひしに。しかじかのよし申上れば。かれ刑法を犯せしといふにもあらざるを。ながく囚獄せしむるは不便の事なり。速に放ち出すべし。かれわが治法の北條が時と變りてよからぬよし。數箇條書つらねたれ共。一條として用ゆるに足らざれば。申文もたゞそのまゝに捨置しなり。何ぞ一條もその中に用ゆべぎ事あらば。ほめてつかはさんと思ひしに。えうなき事のみ書たるとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。(落穗集。)
大坂の役に大和の國のくらがり峠を越させ給ひしに。古よりくらがり峠を越て。合戰に勝たる例なしと申者ある由聞しめし。其峠際迄おはしまし。俄に御路をかへて田間の畦道をおさせ給ひけるとぞ。いさゝかの事にも。人の申詞をばよく用ひさせ給ひき(。諸士軍談。)
駿城にて御談伴の徒に仰ありけるは。凡主人の惡をしりて諫をいるゝ家人は。戰塲にて一番鎗を突たよりも。はるかに揩スる忠節なり。その故は。敵にむかひて武功をあらそふは。身命をいとひてはならぬ事なり。然れども勝敗は時運による事なれば。死地に入て生を得る事もあり。人をうち取か其身討死するもみな天命也。たとひ討死して首をとられ。骸を原野にさらすといふとも。主君にも深くおしまれ。武名をば世にも人にもしらる。もし又討勝て敵の首をとれば。武名をあらはすのみならず。君には深く感ぜられ。恩賞を子孫に及ぼし。世の光榮を殘す事なれば。戰塲にての働は勝も負もさのみ損とすることなし。主君の擧動あしきと心得。これを諫めんとするときは。十に九は身をも家をも失ふのみならず。禍は子孫に及ぶ。主君暴逆淫逸の行ありとも。これをその身にはいかにも善事とおもひてふるまへば。主の心に應ぜず。かゝる主はもとより諫をもいれんとする家臣をば常に親まず。たとへにも良藥口に苦く忠言耳にさからうといひて。諫言を疎遠にして親まざる故に。阿諛侫辨をもて主の惡を迎合する姦臣時を得て。忠良の臣はおのれが妨とならむと思ひ。時にふれて纔をかまへ。あし樣にとりなすをもて。主もいよいよ忠良の臣を遇ずる事うすく。遂には辱をあたふるにいたる。其時はいかなる者も。主を怨み世をうらみて。身を全くして退かむ事をはかり。病に托して職を辭し。致仕して國の存亡をよそに見るもの。十に八九はこの類多し。その中にかくては君のため國の爲。然るべからずとおもひさだめ。身命を抛て强諫するに至れば。はては主憤りて手刄に及ぶか。籠居せしむるか。その身のみならず。妻子一族までも艱苦にせまるに至る。こゝをもてみれば。戰塲にての一番鎗はやすく。主に諫をいるゝはかたきをしるべしと仰られたりとぞ。(岩淵夜話别集。)
駿河にて度々火災有し時。とかく人々心怠り火をいましめざるより。かく度々の災あれば。此後あやまちても火を出したる者は。切腹せしむべしと觸渡さんと。本多佐渡守正信へ仰らる。正信畏りて退出し。翌朝まう登り御前へ出て。何とも申上る詞もなし。その時正信をめして。昨日仰付られし事はよく觸渡したるやと問せ給ふ時。正信其事にて候。某昨日退出しよくよく思案をめぐらし候に。もし火をあやまつものは。必ず切腹せしむべきよし命ぜられんに。此後井伊兵部などが宅より失火候はんに。切腹命ぜらるべからず。かるき御家人ども火を出す時は切腹させ。兵部等はゆるされんとありては。法度たち申まじく候へば。かやうの事は下に命ずべきにあらず。昨日旣に心付候へども。歸宅して思案致し候へば。ますます此事は諫めとゞめ進らせんと决し候ゆへ。夜の明るを待かね唯今罷出候と申ければ。いかにも汝が申所こそ道理なれと仰ありて。こと更御感淺からざりしとなん。(兵用拾話。)
駿府にて若き女房達よりこぞりて。あの常慶坊ほど情なくにくき者はなしと口々にそしり居たりしを。つとさし覗かせたまひ。年たけし女房をめし。若き女共は何ゆへに。常慶をにくさげにそしるぞと仰られしかば。かの女房聞へ上るは。されば外の事にても候はず。御厨より日々送りこし候淺漬の香物。あまりに鹽辛くて。老若ども給かね候へば。今少し鹽をかろく漬候やういたしたしと。御厨方へ申送るといへども。常慶さらに其詞を用ひず。今に鹽からく漬候ゆへ。朝夕に給り候ものたべかね候て。常慶をそしり候と申ければ。そは女共の憤るも理りなり。常慶にそのむね命ずべきなりと仰られしが。やがて外殿に出給ひ常慶をめして。厨所にて朝夕用ゆる味噌香物。鹽から過て女房等食し兼るよし聞ゆれば。此後は今少し鹽をかろくいたし候へと仰られしかば。常慶つゝしんで承り。そのまゝ御傍にすゝみより何かひそかにさゝやきしに。御笑ましましとかくの仰もなし。常慶は退き出ぬ。御側にまかりし人々此樣を見あやしがりて。只今は何事をひそかに申上て。上にも御笑ひありしにやと問ければ。常慶さればその事に候。各方も聞給ひしごとく淺漬大根の鹽をかるく仕候へとの仰に候。今のごとく鹽辛く漬させ候てさへ。朝夕の用おびたゞしきものを。女房達の好みのごとく鹽加减いたし候はゞ。何ほどの費用に及ぶべきもはかりがたし。女房達の申詞など聞しめさぬ樣にわたらせ給ふこそ。然るべけれと申上しなりと答へしとぞ。此常慶といふ者。本氏は松下にて藏主安綱と稱し。はじめM松の二諦坊の住職にてありしが。天性賦稅の事に精しければ。駿府租稅の事を司り。御厨の事をも沙汰し。年久しくつかへたる老人にて。今も松下といへる御家人は此坊が後胤なり。(駿河土產。岩淵夜話别集。家譜。)
此卷はよく人言を御採用ありし事どもをしるす。 
卷二十 

 

御幼年の御時より御本國をはなれ。駿河尾張の國々に寄寓し給ひ。凡世間の辛苦艱困の事ども。つぶさに甞盡し給ひ。あくまで人情世態にも御通達ありしかば。すべて天地の間に生ずる所のもの。一物として容易ならざる理を知しめされければ。後々までも專ら儉素をもて主とし。浮費を省き實功をつとめられ。御身の御奉養はさらなり。御家人までも常々是をもて御教諭有しかば。いづれも皆其御風儀をまなび。京侍のごとく華奢風流の習氣はなく。いと質實にてありしとか。抑周家儉素の風尙をもて。八百の長祚を開きしをはじめとして。後々和漢ともに創業の主は。必儉素質扑をもて國をも興し。天下をもおさめたれ。泰平やゝ久しくして。子孫生れながら富貴の中に人となり。祖宗の艱苦をわすれはてゝ。己が驕奢につのるより。はてには世々の大業をも失ふ之。そのかみ蒲生氏クに問ひし者ありしは。今の世豐臣殿下なからん後は。誰か天下の主にはならんかとありしかば。氏ク答ていはく。コ川殿は名望世に高くおはせど。天性鄙吝にして。天下の主たるべき器にあらず。この後天下は前田利家に歸せんといひしとか。されば氏ク元來織田豐臣兩家の奢豪を見習ひて。天下の主はかゝるものとのみおもひあやまりて。わが君の御儉素こそ。すなはち天運の屬するところなるを知らざりしは。氏クさしもの人傑なりしかども時世の流弊になづみて。その思惟の及ばざりしこそうたてけれ。(碎玉話。)
君いまだ三河におはしませしとき。夏天にはいづれも麥飯を供せしが。あるとき近臣の扱にて飯器の底に精粲を入れ。上にいさゝか麥をのせてたてまつりしかば御けしきあしく。汝等はわが心をしらざるな。わが吝恡にして麥を食ふと思ふか。今天下戰爭の世となりて。上も下も寢食を安むずることなし。さるにわれ一人安飽を求めんや。たゞ一身の用度を省きて。軍國の費に充むとす。あに下民を煩して口腹の欲を專にせんや。返す返すもわが心しらぬものどもかなと仰ければ。いづれも恐悚して御前をまかでしとか。此供御進めし者は。御身の用度を省かれて。下民の爲にせらるゝといふかしこき尊慮には心づかで。ひたぶる儉嗇におはしませば。時としては甘脆をすゝめて。御口腹をなぐさめたてまつらむとおもひしは。かの氏クと同じ樣の心とはかりしらるゝになん。(碎玉話。)
三河にて御家人に仰渡されしは。家人等の妻を迎ふるに。よく木綿を織得べき女を求めよ。御出陣の後には。俸米十分にたまはる事ならねば。かゝるもの織出て家產にあてよとありしは。人々よくつゞまやかにして。生理のともしからざらん爲をおぼしめしての御事なり。(武功雜記。)
いつの年にか霜月ばかりの事なるに。織田右府より桃子一籠進らせけり。近臣等めづらしとてとりどり取てはやしたるに。君は御覽ぜしのみにて何とも宣はず。諸人いぶかしと思ひ居たりしがやがて仰られしは。此菓子珍らしからぬにてはなけれども。信長と我とは國の大小異なれば。好む所も又同じき事をえず。わがこときものは珍物をこのむとなれば害有て益なし。まづ菓實の常に異なるを好めば。國中の良田畝に無益の物を植て民力をつからすべし。珍禽奇獸を好めば。山林河海に無用の金銀を費さむ。奇巧の器財を好まば。いらぬ翫物に志を喪ふのみならず。軍國の用度耗うして。士卒を養育する事不足すべし。すべて心あらん者は。奇品珍物は好むまじき之。されど右府がごとき大身の上はともかうもあれ。我は何より急事があるとて御笑ありて。其桃實は人々に分ち與へられぬ。武田信玄このよし傳へ聞て。家康は大望があるゆへ。養生を主として時ならぬものは食はぬと見えたりといひしとか。この入道などがくねくねしくひがみたる心もて。正大光明の神慮をおしはかりたてまつりたらむには。かく思ひあやまるも理なり。(故老談話。)
豐臣家と御和睦ありて後。京より還らせ給ひ。一日寒風の朝御羽織を求められしに。近藤縫殿助用可が子上方にて關白の進らせし。紅梅に鶴の丸縫し羽織をたてまつりしかば。御顏をしはめられ。時世に隨ふならひなれば。上方にては着したれ。本國にあらんときかゝる華麗の物用ひて。わが家法を亂るべきやとて。その羽織を投すて給ひしとなん。(明良洪範。)
江戶より伏見へ上らせらるゝに。鹵簿のさまもいと御質素にて鎗二本。長刀一振。弓一張。挾箱二。御先に馬ひかせ給ふ事もなく。走衆もわづか三十人ばかり之。又同城におはして下々の者へは俸米あまた下され。千石より以下の者は必しも馬をかふに及はず。人も多く抱置に及ばず。小身の分は町屋をかりて住しめ給ひしなり。かく何事も儉率におはしましけれども。事としては。若干の金銀頒下せらるゝに。いさゝか吝恡のさまましまさず。又伏見城の燒し後殿屋なければ。舊材どもを取集め。荒屋一宇造建ありしを。上方の者は盛慮の儉素を宗とせらるゝをはしらで。たゞうちより例のコ川殿の吝嗇さよとて。笑ひぐさにせしとぞ。(聞見集。板坂卜齋記。)
藤森の御邸なる御廐損ぜしかば。加々瓜隼人正政尙改造せむと申すを聞しめし。雨もらばもる所ばかりを改葺せよ。壁が崩れしならばくづればかりを補へ。その餘は手をつくるに及ばずと仰付らる。隼人うけたまはり。只今上方の大名の廐を見るに。夏は蚊𢅥を下げ。冬は馬に蒲團を着せ。愛養すること大方ならず。しかるに當家の御廐には。戶口に藁莚をかけて飼置るるも。あまりの御事なり。少し御心を用ひ給はんにやと聞え上しかば。武士が馬をかふは馳驅の用にあてんが爲なり。外觀をかざるに及ばず。わが藁莚にてかひ置馬と。諸家にて蚊𢅥蒲團にて養ふ馬と。事あるに臨むでは。いづれがよく險阻をしのぎ急流を渡り。烈寒大暑をもいとはず馳走せんとおもふや。汝等馬をかふにも。上方風の奢侈にならふことなかれと。きと警しめ給ひしとぞ。
關原の役に御膳部仕立る所は。御本陣より三十間ばかりわきの芝山之。其所に細き竹を渡し澁紙一枚をおほひとし。鍋二つ。水汲小桶三つ。煎藥鑵一つ。三人前の行厨一つまうけ。厨人二人。あらし子五人。日に照れて居たり。おほかた三千石ほどの人の野陣はりし躰にも過ず。戰終りて後佐和山の南なみといふ村の東の山に(大谷刑部の陣屋の跡。即ち藤川の臺之。)御陣をうつさる。かこかなる小屋を藁葺にし。垣もみな藁にてゆひ入口に戶もたてず。そが脇に窓中連子あり。佐和山の町より疊を取寄てしかしめ。疊の足らぬ所は藁を敷たり。小屋の外の芝生に疊三十帖しきならべ。そがうへに拜謁の人々つどひて出入しつゝ。草履は人々の後に置番衛の者もなし。まして兵器鳥銃の類一切かざり置事なし。御本陣近きあたりは。旗下の者ども宿れば。其外は三四十町も隔てし所に。おもひもひにやどりぬ。惣じて御供の分はみな佐和山領の里民の家に宿し。野陣はりし者は一人もなかりしとぞ。(板坂卜齋記。)
江戶御遷のはじめ。御玄關の階は船板にてあまり見苦しければ。本多佐渡守正信改作らん申せしに。いらぬりつばだてをするとて聞せ給はず。其後府城造營ありしにも。目につくばかりの金具はなかりし。台コ院殿和田倉邊の櫓のはふに。金の金具用ひ給ひしよし駿河に聞えければ。俄に一夜のうちに毁撒せしめ給ひしとか。駿城御修理ありしときも。本丸のまはりは板塀かけられしが。二丸にある老臣等の邸宅などは。垣を結竹渡して置せ給へば。あまりに失躰なりとおもひ。己が自力もて板塀にかけかへむと伺ひしに。いらぬ事之。其まゝになし置との上意にて。後々までも竹垣にて置しとなん。(聞見集。)
慶長九年三月御上京により伏見へ着御とて。在京の大小名大津追分まで出て迎へたてまつる。折しも雨いさゝか降出しかば。人々かしここゝの樹陰に立やすらひてあり。とかうするうちに鎗二本。長刀一。挾箱二。徒の者二十餘人したがひ。御輿は雨皮にて包み。馬上十騎ばかりうつて供奉す。いづれも本多上野介正純が御先に着せしならんと思ひ居しに。よくよくきけば大御所なりといふに驚きて。諸人いそぎ伏見の町口にて迫付たてまつり。御けしきうかゞへば。御輿を止められ。是迄はるばる迎へ出られしとて。慰勞の御詞を加へらる。こゝにをいて諸大名いづれも。鹵簿の御儉素なるに感驚しけり。又江戶へ還御の折も。御跡に騎馬の者百騎。あるは七八十騎ばかりしたがひ。少し御後に引下りては。みな扇拍子にて小唄をうたひ。酒あれば馬𣏐にてくみてのみ。又は酒器のまゝ飮もあり。そのうちに上戶あれば一盃飮せんとて。をのをの先後に乘廻して尋廻る。成P隼人正正成など御供するときは。いつもかくのごとくなりしとぞ。三島に着御ありて明日箱根通御のときは。輜重にあづかる下部は夜中に發足し。騎馬の者も御先へ通りこし。箱根にては御膳にあづかる者扈從二人。あらかじめ待迎へたてまつり。三島には殘る者一騎もなし。又江戶より首途し給ふときも同じ樣なり。御隱居曲輪邊にては。馬上七八十騎ばかりなり。芝。品川。河崎の出口には。かねて三人五人づゝ路の傍に出て拜謁し。沓替の爲とてこれより直に馬上にて供奉せしなり。いと眞率の御事にて。别に目付押などいふ者もなかりしとぞ。(板坂卜齋記。)
鷹狩に成せられ。夜に入て行殿に宿らせ給ふに。御ましに蠟燭一臺。鷹を夜据する所に一臺たて。その外はみな油火ばかり用ひしめらる。あるとき成P隼人正正成。松平右衛門大夫正綱兩人。とみの御用にて連署の狀かくとて。坊主へ蠟のともしさして。わづか二三寸ばかり殘りしをこひ得て。これをひかりにかき終りぬ。兩人座を起し跡へ目付役見廻り。殘燭のあるを見て坊主よび出し。上樣の御覽ぜば御とがめあらん。何とてけさぬとことごとしくのゝしれば。坊主こは隼人殿。右衛門殿の。しかじかせられし之といへば。そのうちに兩人心付て立かへり。我等が忘れたるなり。汝等などそのまゝにけさで置しぞとて。又々坊主を叱りけるとぞ。これらの事につきて。常々儉素の令おごそかなりしははかりしるべし。(聞見集。)
ある者便器に蒔繪せしを獻ぜし事ありしに。殊に怒らせ給ひ。かゝる穢らはしき器に奇工をつくさば。常用の調度いかゞすべきとて。近臣に命じ速に打碎きすてしめられしとぞ。(膾餘雜錄。)
おかちの局。ある折白き御小袖のあかつきしを。侍女どもに命じて洗せつるに。いづれも手指を損し血など流れいで。いとからき事におもふ。さばかり多き御衣の事なれば。この後はあらはで新らしきをのみめさせらればいかゞと伺ひしに。汝などの愚なる婦人のしるべき道理ならねど。語りて聞せむ出てうけたまはれとて。侍女どもあまためしあつめ給ひ。われ常に天道を恐るゝをもて第一の愼とす。天道は第一に奢侈を惡むなり。汝等はわが財用は駿河ばかりにあるを見て。多きと思ふやと宣へば。いづれもさむ候と申す。わが寳藏は當地に限らず。京。大坂。江戶にも金銀布帛の類充滿してあれば。日每に新衣を調したりとて。何の足らはぬ事かあらんなれども。かく多く貯置は時として天下の人へ施さんか。はた後世子孫の末々まで積置て。國用の不足なからしめんが爲に。かく一衣をもあだにはせぬぞと宣ひければ。いづれも女ながらも盛諭のかしこさに。神佛など拜禮するごとく合掌して伺ひしとぞ。又夏の御帷子も汗付ばすゝがせよとの上意にてすゝぎ置たれど。必しも一領ことに着御あるにもあらざりしとなり。(天野逸話。駿河土產。)
駿城の後閤にて足袋箱二作り置しめ。一つには新しきを入れ。一つには沙土などに汚れしを入置給ふ。その箱の充滿せるを聞しめせば御前に取よせ。さまでよごれざるを二三足ばかり元の箱に殘し置れ。その餘はとり捨て。末々の女房どもに分ちたまはり。すべてことごとく取捨よと仰られし事はなかりき。又男子の下帶には。木綿の白きより淺黃に染たるがよしと仰られしをうけたまはり。上樣はいつ下帶の事まで習はせ給ひしとて。その比後閤にて。うちより一塲の談柄にしけるとなん。(古老物語。)
上の儉素におはしますをしらで。世には吝恡に過てたゞ貨寳をのみ收縮し給ふと評したてまつると聞しめし。上府に金銀の集るときは世間に少ければ。人みな金銀を大切に思ふゆへ。諸物の價もをのづから低下する理なり。金銀世に多ければ物價たとくなりて。世人艱困するよし松平右衛門大夫正綱に仰られき。又駿河に御座の時。米價の踊貴すると聞しめせば。速に御廩を發て賣渡さしめ。低下のときには官金もて購求して御廩に納めらる。かゝりしかば米價をのづから平均して。姦利を射る者なかりしとぞ。これも世の心得ぬものは。よく綜理のとどかせらるゝをしらで。上樣にはよくあきなひをあそばさるゝといひしとか。(天野逸話。前橋聞書。)
板坂卜齋侍座せしとき。壺に入りし人參を賜はらんとて。兩の御手もて下されたるに。御違栅に奉書の紙ありしをみて。一枚給りて是につゝまんとせしに。それは大名どもへ書狀を遣すに用ゆるなり。えうなき事に遣ふものならず。人參は良藥にて汝等なくてかなはぬものなればとらするなり。奉書は一枚と思ふべからず。大なる費なり。羽織脫てこよとの上意にて羽織に受給て。奉書をば元のごとく御棚に返し置しとぞ。卜齋も年比御側にありしが。このときほど面に汗して。迷惑せし事はなかりしとぞ。後々人に語りしとなん。
駿府にて近臣のうちに。身分に副ざるほどの美麗の小袖着せしものありしを見咎め給ひ。わが側にあるものゝかゝる衣裝しなば。其風をのづから外々にもおしうつり。奢侈の源をひらくなり。以ての外の事なりとありて。その者は門とざゝしめて御勘事蒙りしとか。すべて儉素ならでは國家はおさまらぬものなり。上たるものが奢侈につのれば。をのづから下々の年貢課役かさみてひたと困窮し。はてには武備も全うする事を得ず。されど又世の人儉約を心得違て。なさでかなはぬ事をもなぬさ迄儉約と思ひて。義理を欠に至るは大なる誤なりと仰られき。これは儉約と吝嗇とのけぢめをわけて御教諭ありしいとかしこし。(續功物語。)
大坂夏の御陣に茶臼山に御陣替あり。大工頭中井大和かねて用意して。切組置たる小屋を持せ來り取立むとす。本多上野介正純かほど廣くては御意にかなふまじといひて伺ひしに。九尺粱二間にすべし。六疊より廣きは無用なりと宣へば。大和俄に切つめて仰のごとくにして建たり。六疊を上下二間に分ち。中をば布交の幕もてへだてとせしゆへ。速に出來せしなり。そがうへの三疊を御ましとし。諸大名の參謁するときは。下の三疊に出まして御逢ありしとぞ。六疊の御陣屋とて。其比世にいひ傳へて。御素扑の樣を誦したてまつりしとなん。又正純二條城にて。此度の御軍儲は何程用意せんと伺ひしに。惣軍腰兵粮ばかりにてよし。白米三升。鰹節十。鹽鯛一枚に香の物少し持しめて足れりと仰られしとぞ。(武邊咄聞書。落穗集。)
いづれの御陣にも器財はじめ帷幕など。あらかじめ持しめらるゝ事なし。同朋全阿彌もし御用もあらんかとて。上にはしらせたてまつらで。ひそかになくてかなはぬものはもたらし。幕串なども藁につゝみ馬に負せて從ひたてまつりき。ゆへに其世には御幕の奉行といふ役も。别には立置れざりしなり。(板坂卜齋記。)
この卷は万事御儉素におはしませし事をしるす。 
卷廿一 

 

織田豐臣の兩家は。いづれも草昧より起りて。數百年僣亂の國國を切なびけ。ほゞ四海統一の功をなせしは。近世の英豪と云べし。されども元より天性殘暴にして。權謀機變をもてむねとせし故。治世安民の規摸にいたりては。いさゝか見るに足らす。ひとりわが君には御武略の千古に卓越し給ふのみならず。天授の英明にて聖經の大旨を御心に御自得ましまし。よく經國の大躰を弁へ。治平の要道に通達し給ひて。萬機を執行はれしかば。天が下四海のうち一民としてその御コ化にうるほはざる者なく。大統連綿として千歲動きなき御事は。武功文略かね備へ給ひしと申奉るべきにぞ。ある時の仰に。大國を治るは小鮮を烹るが如しといひしは。いと尤なる言なれ。おほよそ國家を治るに。あまり鎖細に渡れば。かへりてその弊あるものなれと宣ひたるとか。こはよくも李老の眞意を御領會ありて。かの大舜の。元首叢脞なるかな。股肱おこたるやと。いはれし聖語にも叶ひて。いふたうとく伺はるゝにぞ。(武功雜記。)
一日奉行人等が御前に侍せし時。訴訟はいかに裁斷するがよきと宣ひしに。いづれもろくなる樣に裁斷するをもて。よろしきかと心得侍るよし聞え上しかば。さる事にてはなし。道理に於てかたせ度とおもふ方にかたするがよし。父子の訴ならば父に勝せ度は勿論なり。理非にかゝはらず父を勝せ。君臣の訴ならば君にかたするがよきと仰けり。又訟を聽に理非明白にすべきはいふまでもなけれど。刑典に引當て相違なからむやうになし給へと。將軍家へ御教諭あそばされしとなり。(前橋聞書。武功雜記。)
法制を立るには峻急なるがよけれ。たとへば火のもえあがるが如くなるはよろしく。水の靜に湛ゆるがごときはあしきなり。烈㷔の中は人々恐れてむかひ近づかねば。燒死するものなし。靜湛の流は淺深の程をわきまえず。心易くおもひあなづりて溺死する者あり。何事もはじめはおごそかに令して。後にやうやくゆるやかにせば。下々おそれ愼んで公法を侵さねば。をのづから刑法にかゝる者なし。はじめをゆるやかにして。後々程おごそかにすれば。おもひの外に殺すまじき者を。誅する事も出來るものなりと宣ひしとか。こは古語に法を建るは嚴なるがよし。三人の限も越べからざるが如しといひ。また令を慢にして期を致すは。人をそこなふなりといふ語にも。いとよく似通ひし御辭とおもひ合せらるゝにぞ。(三河の物語。)
萬石より上の者はたとひ罪科ありとも。先は死刑に處せずして配流せしむべし。家嗣せん事はたとひ半歲の小兒たりとも血統あらば。その家を相續せしむべし。證人はとるべからず。永くとり置ば。親眤の情はなれて益なきものなりと仰られき。(武功雜記。)
近世の將帥の事共御評論ありし時。今川義元は臨濟寺の雪齋和尙と相議して。國政を執行ひしゆへ。家老の威權なし。さるゆへに雪齋死せし後は國政とゝのはず。關東の千葉邦胤はわづか五六萬石ばかりの地を領し。その家臣の原は二十萬石程。原が臣の高木は三四十萬程を領せしとか。かく主人の權が次第に下におしうつりて。下が上に過しゆへ國またおさまらず。よくその大小輕重をわきまへて。國政をおこなふべきなり。又足利將軍義政。武田勝ョ。齋藤義龍など。父祖の政道を非に見て。己が一心のまゝに新法を建行ひしゆへ。遂に家國の滅亡にいたれり。およそ大小とも祖先の舊法を變亂するものはかならず災禍あるもの之と宣ひけり。かゝる御心ゆへ。君には元より御祖宗の舊章を崇敬ましまして。妄に改め給ふことましまさず。改めずしてかなはざることはいふまでもなし。おほかたの事は改めてよしと思ひても。御祖宗へ對せられ御不孝に當れば。まづそのまゝになし置るゝとなり。さればにや甲斐の國へ入せ給ひし時は。信玄以來の法度をかへ給はず。たゞ租稅のみ前時より少しくとれと仰ありて。ェ宥の御沙汰なりしかば。國人も一同にス服し奉り。關東へ移らせ給ひては。同じく北條が舊典をそのまゝ用ひ給ひ。萬事なだらかにめやすく御處置ありしかば。人心をのづから早く安むじけるとなり。古人の政は人心を得るにあり。人心を失へば忽に亂る。おびやかすに威を以てすべかず。諭すに辨を以てすべからずといへるも。かゝる所を申けるなるべし。(故老諸談。武野燭談。)
土井大炊頭利勝駿府へ御使に參りしとき。ある夜御前にめし。さまざま御物語ありし序に。此頃も關東筋にて新田を開く哉と御尋なり。利勝さむ候。よき塲所を見立て絕ず開墾すると申上れば。新田二三万石も出來たらばいかゞと宣ふ。利勝それは永世の御益なりと申す。また古田二三万石荒蕪せばいかにと仰ければ。利勝是は大なる損失なりといふ。こゝにをいて君咲はせ給ひ。汝等は新田の出來るを喜び。古田の廢するをば何ともおもはぬかと宣へば。利勝さる事には侍らず。古田をば荒蕪せしめず。新田も古田の妨にならぬ樣にして。開墾いたすなりと申上れば。かさねて汝等老職をも奉てあれば。官事に心用ゆるは勿論なれども。人には心得違なしといふべからず。さる時は誰によらず聞のがし見のがしにして捨置ことならず。その過誤の輕重によりて。あるは役義をめし放し。あるは遠慮閉門せしめではかなはざるなり。かゝる時にそのもの先非をくひ善道にうつらば。舊惡をすてゝまた本のごとくめしつかふべし。もし又改革もせず本の不良のまゝにてすて置ば。それに取せ置たる領地は。みな古田の永荒といふものなりと宣へは。利勝思ひもよらぬかしこき仰こと承りしとて。江戶へかへりその旨申上しかば。將軍家も殊に御感あり。其後江戶にして二三万石ばかりの普代大名一人。番頭一人。其外にも不良の擧動ありて御咎仰付られ。别にそが子弟に舊知給はりし事ありしは。この尊旨のおもむきを遵行せられしならむと。人々かしこみけるとぞ。(駿河土產。)
三河守秀康卿結城の家繼れしとき。治國の要道を御指揮ありしとて傳へしは。まづ結城の家は舊家の事なれば。よく其家法を守られ萬事舊臣と相議し。上は下を疑はず下は上へ忠誠を盡し。かたみに一躰の思ひをなすべし。大臣にあはるゝ時は。よく禮容を厚うし威儀を正しうせらるべし。己が行儀正しければ。下々をのづから正しくなる道理なり。朔望には臣下をよび立て國務を議し。いつも家康に對せらるゝ如く心を持るべし。目付の者はたゞ家中の善惡を糺察するのみならず。自身より士民までの目付とおもはれよ。又國の機事を家長目付の徒と議するに。人をはらひて深密にすべきは勿論なり。さるを奸臣の習にて。主人を誘き家長目付の密議を聞出し。下々にもらすは。いづれ近臣の中に內通する者ありとしるべし。すべて主の過誤又は家政の不正を諫るものは忠臣なり。たゞ主の心にのみかなはん事を希ふは。不忠の者としるべし。下より上にむかひては。ものごと云にくきものなるを。いさゝかはゞからずいひ出るは。その者局量なくては出來ぬ事なり。これ等につきて臣下の賢否邪正を辨别せらるべし。こたび彼方へ召連らるゝ近臣も。かの家從來のものとわけ隔てなく。同じ樣にめしつかはれよ。さて又仁道もて賞罰を沙汰せられん事肝要之。有功を賞し有罪を罰して。善道に赴かしめてこそ仁道の本意なれ。されど人を賞するにしなじなあり。忠勤の者。又は軍功ある者。又は才能あるものと。その所々をかねがねよく鑒察して。濫賞なからむ樣にするは眞の賞典之。人を罰するにも親族又は寵臣たり共。公法を犯さば見のがさずして。かならずそれぞれ罰を加ふべし。賞罰は國を治る釘くさびの樣なるもの之。とにかく人言を納れ私見を捨る事。家門長久の基なれとくりかへし仰られし後。また卿の輔佐の臣をめし出し。かく仰諭されしからは。其方どもいづれも心を合せ和合して。一家の表鑑ともならん樣に心懸よとさとされしとなん。(明良洪範。)
關原の軍はてゝいまだ幾程もなきに。細川藤孝入道玄旨が京の東山に隱れ居るよし聞召及ばれ。永井右近大夫直勝に仰付られ。其旨につきて前代柳營の事ども御尋あり。この入道が家は世々足利將軍家の管領として。舊規を存するのみならず。入道また和歌の譽世にたかく。故實の事も兼て鍊熟したれば。御答の趣をつぶさに書に記し。室町家式と題して三卷の書を奉りぬ。また本多美作守信富といへるは。義輝義昭の二代につかへ。足利家亡し後本國若狹に引籠りて在しを。織田右府にめし出され。その後慶長八年三月將軍宣下の御拜賀として御參內有し時。信富世々の柳營に仕へて。かゝる舊儀心得てあるべければとて奏者の役仰付られ。御參內の供奉の列にくはへられ。當日の議注を拜觀せしめらる。また曾我又左衞門古祐も前代史官の家なればとて。これもめしいだされて。將軍家の書禮式どもを商量し給ひ。蜷川新右衛門親長も。その祖親元以來伊勢伊勢守が被官にて。足利家の舊典を心得たればとて御家人にめし加へられ。彼是もて御一代の制度を建しめられしなり。かく騷亂の中よりはやう前代の舊章まで御搜索ありて。武家の規法これによらでかなはぬといふことを知しめし。とかく參攷損益し給ひて。萬世不刊の大典を創設有しは。かの織田右府豐臣太閤が。たゞ武威につのり萬事苟旦にして。公武のけぢめもなかりしとは。日を同じうして論ふべきにあらず。實に千古の御卓見と申奉るべき御事なり。(武野燭談。家譜。羅山文集。)
慶長四年京にて。日蓮宗の支派に不受不施の徒ありしが。在家と爭論の事により上裁を仰ぎし時。折しも豐臣家の奉行等人少なれば。彼僧どもを坂城の西丸にめしよせられて御直裁あり。さきに大佛供養の折その徒出席をいなみ施物をも受ず。また豐臣殿下薨ぜられし時。納經の沙汰にも及ばず。かゝる不法のふるまひせし上に。あまさへ配分の施物をも受ざるは。國恩をかしこしとおもはず。公法を蔑如にする罪輕からず。かゝる輩寺院に住せしめば。すべて僧中の風規にもかゝはるとて。遠流に處せられしとぞ。(落穗集。)
慶長十五年閏二月堀越後守忠俊が家老堀監物直次と。弟丹後守直寄と訴論の事起り。上裁を仰ぐに至る。よて兩人を駿城へめし。諸大名も列席せし上にて御親决あり。直寄申上しは。監物國に在て諸事奸曲をふるまふのみならず。淨土法華兩派の僧徒をあつめて宗論をせしめ。己れ是を裁斷して。淨土僧十人を誅せし旨申す。君障子を隔て聞しめしおはせしが。此事御耳に入とひとしく御自ら障子を開き給ひ。殊に御けしきあしくて。其宗論の曲直は誰が聞定めしと問給へば。監物承り。文學ある者に命じて是を裁判せしめ。非分の方を仕置申付ぬと申せば。仰に宗論といふは天下の大禁なり。さるに公法を犯し妄りにこれをなさしめ。あまさへ己が私意もて决斷し。僧徒を刑殺せし事沙汰の限りなり。この一事もてその餘の暴虐ばおして知べきなり。此上何事も聞し召及ばずとて。御障子たてて入御あり。監物は㝡上出羽守義光に預られ。主の越後守忠俊は家國鎭撫する事あたはず。家臣をして騷擾せしむるに至るとて領國收公せられ。岩城へ配流せしめ。直寄は罪なしといへども。舊知五万石を召上られ。信州にて三万石給ひ。普代に准ぜしめられしとぞ。(天元實記。)
江戶の米廩に納めらるゝ所の米員あまりおほくて。をのづから欠米出來し。且は諸國よりの運費も莫大なれば。米廩の數を减ぜられば何ばかりの御益ならんと勘定頭より申出しに。殊の外御けしきあしくて。廩數多ければ欠米多くて益にならぬといふことは我元より是を知れり。さりながらよく考へ見よ。もし事變ありて國々の米當地へ運輸する事あたはざるか。又は水旱の災ありて都下の米價踊貴せば。當地に輻湊する五万の人民みな飢に苦むべし。さらむ時のためをおもひてこそ。無用としりながらも常々多く貯置しむるなり。なみなみの勘定役など勤る者はともかくもあれ。汝等頭ともなりて天下の會計をも掌る者が。さる淺薄の心得にしてかなふべきかとて。いたくいましめたまひしとなり。(駿河土產。)
駿河の島田の代官奉る何がし。稅米ののりめの出目を私するとて。百姓ども目安捧て訴出しかば。俄に米廩の口をとぢ。後の方の壁を切あけ。米貳參俵取出さしめ毛氈敷。その上にてはからせて撿覈し給ひしに。百姓どもの申如くにて有しかば。代官には腹切しめられしとぞ。(聞見集。)
慶長七年十二月京本山の大佛燒失しぬ。是は其はじめ豐臣太閤土もて製造せられしが。一年の大震にて破裂せしかば。信濃の善光寺の如來を迎へて安置せしかば。太閤の薨後に大政所淀殿の計ひにて。如來をば本國に返し。此度は鑄工に命じて銅像にせむとて。鑄範を作り熱銅をその中に注ぎしに。下地の材より火もえ出で。屋宇までも一時に灰燼となりぬ。其後淀殿より江戶の御臺所(崇源院殿。)の御方へ內々仰越れしは。大佛は故殿下の營建せられし所なるが。かく不虞の變に逢ぬれば。今更秀ョ一人の力もて改造せむ事難し。願くは關東より御助援ありて重建せば。殿下の遺志も空しからず。いとめでたかるべしとのことなれば。御臺所より本多佐渡守正信もて伺れしに。淀殿は婦人の儀なり。將軍はいまだ年若き事なればふかき思慮もおはすまじ。汝は年頃老職をも勤めながら。かゝるえうなき事を我所まで持來て議すべきや。沙汰の限なりと仰らるれば。正信は大に當惑してありしに。かさねて仰らるゝは。汝きかずや南都の大佛はかしこくも。聖武帝の勅願にて刱建有しを。平重衡が兵火にて燒失せし後は。俊乘坊西行法師の二僧。相ともに募緣して重建せしとか。勅願所といへどもョ朝より再建の沙汰はなかりしなり。まして京の大佛は太閤の物數奇にて建られしなれば。今秀ョが自力もて重建せんはともかうもあれ。將軍より力をそへらるべき理なし。すべて日本國中の神社佛閣いくばくといふ數を知らず。そが緣故をいひ立るごとに取あげて。一々に修理を加へ遣さんには。天下の費用もいかでこれをつくのはんや。是には勘考のあるべき事ぞ。まして大小の寺社ともに新建とあるはかならず無用の事なり。この旨よくよく將軍にも申し。同列共とも議し置べしと仰られしなり。又ある時山岡道阿彌。前波半入などの御談伴御前に侍せし折から。天下の主たる者は後世まで名の殘ることをすべきなり。豐臣太閤は京の大佛を建立ありし故。今に其名が殘り候と申せば聞しめして。太閤などはさる事をこのみてせられたり。家康はたゞ。天下安泰に治め。數代の後も紀綱風俗頽敗せざらん事を。常々思案して居るぞ。これ大佛を數躰建立せんにはまさらずやと仰ければ。かの二人經國貽謀の盛慮深遠なるに仰感し。さるにてもえうなき事をいひ出せしとて。面あかめて退しとなり。(駿河土產。岩淵夜話。)
板倉伊賀守勝重京より參謁せし時。京の事どもつばらにとはせ給ひ。其方ほどあしき者は有まじ。いかむとなれば一人を助けて。千人を殺すやうなる仕法じやとて。御咲有しとなり。(永日記。)
治亂は天氣とおなじ樣なるものなり。晴かゝりし時は少し。降かとすれども晴るゝなり。降かゝりしときは晴かとみえても遂に雨になるなり。世の治らんとする時は。亂るゝ如くにてもいつとなくおさまり。亂れんとする時は。しばし治る樣にても。はてには亂るゝものなりと仰ありしなり。(駿河土產。)
金貨もそのかみはたゞ大判金又は砂金のみを通用して。いと不便の事なり。豐臣家の頃は國々よりすねがね。ここし金。はづし金等さまざまの雜金を京にのぼせ。銀と引かゆる事にて。兌換するもの。これを查撿するに。いとまなきを苦しめり。そのころ關東にては金見役といふを設られ。後世の一兩判の如き大さを。K判にして通行せられき。はじめ八州の主とならせられしとき。京の彫工後藤の族に。庄三カ光次といふをめし下し給ひしが。このもの元より聰明にして才幹ある者なれば。御側ぢかくめし使はれ寵眷なみなみならず。ある時光次に仰られしは。われもし天下一統せんには。汝がのぞみ何にてもかなへてとらせんと有しかば。光次某世に望みなし。たゞ今世に通行する所の黃金重大にして不便なれば。これを四分にして新鑄せしめば。何ばかりの國益ならんと申上しかば。尊意にかなひ。御一統ありて後小判金を作り出さしめ。慶長十年又光次が建議によて小判金を四分にして。壹歩判を鑄造ありしかば。天下いよいよその輕便を觀て。今二百餘年の後までも通貨とゞこほる事なし。又銀も往古は諸國の銀礦よりほり出せしを。灰吹にせしまゝにて通行せしかど。定價もなければ世人なべて交易に艱困す。慶長六年六月大津の代官末吉勘兵衛利方建言せしは。銀價定らざるよりして。諸物の價もまたひとしからず。今よりは官府にてその制を定め給へと申すにより。新に銀座を設られ利方もてその頭役となし。後藤庄三カ光次とおなじくこれを管轄せしめ。新に銀の品位を定め。丁銀小粒銀を鑄出して通行せしめ。これまで世上にある所の灰吹銀。潰銀。及礦穴より堀出せしもの。みな座に持來り新銀と兌換して。いよいよさかんに鑄鎔ありしかば。是よりして天下の物價もをのづから一定し。金銀の通行いさゝか障礙なく。萬民皆御仁政の貨幣の上までに及ぼし。いたらぬ隈なき膏澤のほど。かしこみ奉りけるとなん。(反古撰。聞見集。御用達町人由誌早Bェ永系圖。銀座始末。)
路程の里數も。織田右府の時より三十六町をもて一里と定め。一里ごとに堠を築しめて表識せられしを。豐臣家にても彌遵行有しが。君關東へ移らせ給ひし後。同じく一里每に堠を築き。その上に榎の木を植しめ給ふ。(このとき松の木植んと申上しに。餘の木を植よと仰せしを承り違ひて。榎の木をうへしといふ。)又その頃駄賃錢の定額なくて。行旅艱困するよし聞えたれば。衆に議せしめて一里十六文。その餘官道ならぬ所は。まし加へて賃錢定りしとぞ。一駄は四十貫目。乘懸は兩荷二十貫目。乘主は十八貫。合せて四十貫。米一石も四十貫なりしとぞ。(聞見集。)
河渠運輸の事にも御心を用ひられしと見えて。その頃京に住せし角倉了以光好。その子與市カ玄コは。家代々豪富にして水利に熟せしよし聞し召およばれ。慶長十年春の頃光好に命じて。丹波の世木庄殿田村より。保津をへて大井河に至るまでの水路。岩石おほくして通船なり難ければ。光好父子に命じ新に水路を堀通さしめ。八月に至て成功し。近境大にその利をえたり。又十二年光好仰を奉はり。駿河の富士河を堀ひろげ高P船を通じ。同國岩淵より甲州に運漕し。國民をして便利を得せしむ。同年又信濃國諏訪より遠江の掛塚までを浚治して。天龍川の通船をして便よからしむ。十九年かさねて富士川の游塞せしを通ぜしむ。光好父子かく度々河功の勞を積しうへに。浪花の役にも城湟の水をきり落せしをもて。近江の代官命ぜられ。京の河原町ならびに淀川過書船の支配し。今に至り代々その職奉はる事とはなれり。(家譜。武コ編年集成。)
朝鮮はあがりての代には全く我屬國にして。條約を奉じ貢船を納る事なりしが。中古以來本邦騷亂打續き。國の中だに政令の及ばざる事となりしかば。まして異域不廷の罪など問ふにいとまあらず。はたかの國もさまざま變革し。三韓合して新羅の王氏一統の世となり。王氏の末に季世珪といへるが出て今の朝鮮を開き。かたみに亂離打しきりしより。いつとなく兩國疎濶にして。たゞ對馬の宗が家はわづかの海底を隔てしゆへ。絕ず隣舶の往來は有し之。足利家の頃折々かの使臣の來聘せし事有しかども。舊來の躰をうしなひて。隣國偶敵の樣に成ゆきしなり。しかるに文祿年中に至り。豐臣太閤諸將に命じ大軍を起し。かの國に打入り王城まで責とり。前後七年が間兵革うち連なりて。國中悉に侵掠されしかば。かの國にてわが邦を怨むこと骨髓に撒しぬ。慶長六年宗對馬守義智はじめて謁見せし時。朝鮮はむかしより通交絕ざりしを。豐臣太閤ゆへなくして干戈を動かし。怨を異域に搆へしより。かの者どもわが國を讐敵に思ひ。多年の隣交も絕はつることゝなりし。さりとは殘暴の擧動。此儘になし置ては國躰に於てもしかるべからず。汝この旨よくよく心得てかの國に申通じ。重て通交のならん樣に計ふべし。さりながら万一不當の返詞どもして敵對せんならば。速に兵を出し征討すべしと仰下されしかば。義智かしこまり歸國して。家人に命じかの國へ三度までいひ遣せしに。更に受引ざるのみならず。使人をも止めてかへさず。義智さまざまに思ひなやみ上意を伺ひ。先年の戰にかの國より擒り來りし朝鮮の者數百人。及薩州に捕はれし金光といふかの國王の一族をもかへし遣しけるに。金光歸國して。豐臣家滅亡し當家今一統し給ひ。泰平のコ化遍く海內に行はるゝよし。つばらに語り聞せしゆへ。そが國王はじめて心とけて承服し。まづわが國の樣伺見んとて。慶長十年僧松雲孫武ケといふ者二人を渡海せしめ。伏見にて謁見す。本多佐渡守正信。鹿苑院承兌もて。修好の事仰下され。また十年の冬かの國王へ御書をなし下さる。さきの二人歸國してこなたの樣を申けるにや。十二年かの國の使呂祐吉慶暹丁好ェの三使はじめて來聘し。江戶駿河にて參謁して國王の書翰献物を奉れり。こなたにてもおもたゞしくもてなされ。さまざま御饗應の上御返翰を授られ。三使にも引出物あまた給ひて。その勞をねぎらはれしが。使臣も御コ意の深厚なるに感じ奉ること大方ならず。是よりして信使の往來代々に絕ず。今にいたりても御代始には。必ず賀使來りて。兩國聘聞の禮を行はれて海內にしめさるゝは。全く當時の神慮もてとかう御指諭有しによる所なり。(貞享書上。殊號事略。)
琉球はその國にて傳へし所は。開國の始に天孫氏といへるが有て。數世相傳して尙氏に至るといひ。異朝にて隋の時に朱ェといふをしてかの國を責しめ。男女五百人を虜にしてかへりしといふが。ものに見えしはじめにて。その後唐宋元の代々を經て。明朝洪武の時に至り。あらためて貢使を奉り封爵を受しより。その國代々のはじめには。異朝の册封使を迎ふる事となりぬ。我國にてはその上保元の後。鎭西八カ爲朝を伊豆の大島へ配流せられしに。爲朝勇武をふるひ近き島々を畏服し。遂にかの國に押渡りその國人どもを切靡かす。其頃はかの天孫氏の末旣に衰しかば。國中みな爲朝に降服す。爲朝その王族の女をめとりて子をうむ。これ今の始祖とする舜天と聞えしは。全く爲朝の子なり。これより世々尙氏とす。はるかとし經て後。足利殿の代となり。永享の頃普光院將軍。(義教。)その弟大覺寺の義昭僧正を討むとせられしに。義昭しのびて國々を逃隱れ。からうじて薩摩がたまでたどり行しが。この由京に聞え。將軍家よりその時の島津薩摩守忠國に。僧正を討て出すべきよし仰下されしかば。忠國家人に命じ。日向の櫛間といふ所に隱れ居しを討て。その首京に進らせしかば。この勸賞として琉球國を。忠國に賜るよしの御教書をなし下されぬ。是ぞ島津が家にて琉球を進退するの濫觴なり。豐臣太閤の時に至り琉球より使臣を進らせて。天下一統せしを賀し。かつ年ごとに薩摩と互市の事をはじめしが。幾程もなく明國より互市を禁ぜしかば。是より薩摩と通信を行し事。およそ十餘年に及べり。然るに當家の御代となりても。なを一の賀使をも進らせざれば。修理大夫義久より比由申遣せしに。有無の答にも及ばず。かくては人數を差むけ。かれが不廷の罪を正すべしとの御ゆるしを蒙り。慶長十四年三月義久家人八千ばかりを兵艦に取のせ。彼國に押渡し。大島コ島などいふ島々を切とり。那覇といふ所に着岸し。數日の戰に打勝て遂に王城に攻入しかば。彼國人敵すること能はず。中山王尙寧はじめ三司官みな降參す。その五月義久より注進に及び。やがて尙寧をめしつれ駿府江戶へ參觀すべしと聞えしか。ば御けしき斜ならず。義久が功を賞せられ。駿府より琉球國永く薩摩に附庸せらるゝ由の御書をなし下さる。十五年七月家久尙寧を引具して駿府に參謁す。君烏帽子直衣めして引見せしむ。尙寧よりそが國產さまざま捧げて。不廷のつみを謝し奉る。よて申樂せしめて家久をよび尙寧を饗せらる。その後江戶へもまいり同じ樣に謝し奉りしかば。又御饗待ありて。こたび尙寧が一旦の罪はゆるされ。琉球は元よりの領國なれば。他人をして國勢を執行しむべきに非ず。尙寧はやく歸國して先祀を奉じ。國政を沙汰すべし。また義久には永く琉球の貢稅を納れ。監使をかの地に渡し政令を播すべし。且此度捕來りし琉人は。みなかへし遣すべしとの御沙汰なり。義久も尙寧も御仁恩の深厚なるをかしこむ事大方ならず。やがて義久尙寧を引具して歸國し。仰のまゝにはからひしかば。南海の風波重ねて起る事なく穩におさまり。是より琉球代々島津が附庸となり。こなたの御代始め。はたかれが襲封には。かならず慶賀謝恩の使を進らせ。方物を献る事となりぬ。かく朝鮮も琉球も。とりどり盛意のまゝにまつろひしたがふ事。全く御盛コの海外異域までに及ぶ所なりと。天下みな仰ぎ尊まざる者はなかりしなり。(駿府政事錄。中山傳信錄。琉球事畧。武コ編年集成。)
室町家の頃には海舶の明國へ往來するに。かならず勘合の印ありて。彼是ともに是を左驗として互市する事なりしが。天文の頃よりその事やみしかば。當今も勘合有べしと仰有て。慶長十五年の頃明舶の來りし時。本多上野介正純に仰付られ。林道春信勝にその由書翰にかゝしめ。今日本正に治平して。朝鮮は來聘し琉球は臣附し安南。交趾。占城。暹羅。呂宋。其他西洋南海の國々みな入貢す。かゝれば明國にも前規の如く。勘合もて通商せられんよし。かの福建の總督陣子貞といふ者に。來舶に付て仰遣されしが。いかなるゆへや返簡も奉らでやみにき。こはかの國邊海の地先年倭寇の爲に侵掠せられしを恐れて。書信をさへ通ぜざりしにや有けむ。されど南京商舶は年々に崎嶴に來り。交易すをことゝはなりぬ。又十六年の頃明人駿府に來謁せしとき。長谷川左兵衛藤廣に仰付られ。この後外國の船いづれの地へ來るとも。悉く長崎へ送りて查撿せしむべしと定られしなり。(駿府記。武コ編年集成。)
天主教はそのはじめ大西洋邏瑪の地に起り。漸く西蕃の國々にひろごり。明の隆慶万曆の頃に。西洋の人利碼竇といへるが有て明國に渡り。漢字をよみならひ。漢文もて蕃語を飜譯して。さまざまの邪書を編輯して世に施せしかば。心なき明人ども多くこれが爲に誑惑せられ。年を追て邪教を奉ずる者おほくなりしとか。我國にては天文の頃に當り。豐後の大友義鎭入道宗麟。鎭西の大藩にしてしかも封內豐饒なりしかば。諸蕃の商舶幅湊して互市する折から。海舶の中に邪教を奉ずる伴天連のり來り。いつしか邪教を勸め。これを信ずる者には貿易の利潤を厚くせしにより。歸依するもの多く。宗麟も深く是を信じ。府內の丹生島といふ所に一宇を建立し。元より封內にある所の寺はみな毁撒し經論を焚滅し。ひとへに邪教をのみ尊崇せしかば。鎭西はいふに及ばず中國畿內にもやゝ及べり。天正の初攝州の荒木攝津守村重。織田右府に叛きし時。村重が家長高山右近友祥かねて邪教を信ずるよし右府聞およばれ。ある伴天連をして右近に利害を說しめしに。遂に右近をして右府が味方に屬せしめしかば。右府其伴天連の功を賞せられ。江州安土の城下に道塲を開かしめ。公然として邪教を唱へしにより邪徒時を得ていよいよさかんに行はれしなり。當家草創のはじめには。軍國多事にしていまだこれらの事に及ぶ暇あらず。慶長十六年八月はじめて。將軍家より。耶蘇は夷狄の邪法なるをもて。嚴禁せらるゝよし令せられ。十七年二月駿河にて岡本大八といへる者。罪有て獄に繫れしが。有馬修理大夫晴信が陰事を訐發するにより。二人を對决せしめしに。二人共邪徒に定まりしかば。大八は死刑に行はれ。晴信は領國肥前有馬の地を收公せられ。甲斐の郡內に配せられ。重ねて自殺せしめらる。また所司代板倉伊賀守勝重は歸京して。畿內に有所の邪教の道塲を悉く毁撒すべし。長崎奉行長谷川左兵衛藤廣は長崎にゆき。其地の邪徒を查撿すべしと命ぜられ。旗下の士は五人づゝ隊をわかち。互に查撿すべしと命ぜられしかば。これにより旗下の士原主水は出奔し。榊原加兵衛は蟄居せしめ。小笠原松之丞は放逐せらる。其四月有馬晴信が子は。はじめより父の邪教を奉ずるにしたがはざればとて。新に日向縣の地四万石給はり。父が舊領有馬に下り邪徒搜索すべしと命ぜらる。又南禪寺の崇傳長老に命じ。佛法と邪法との差别を文にかかしめ。邪法を改めて佛法に歸せしめ給はんとて。遍く世に施し示され。西洋より來りし徒は。みな查撿して本國に送りかへさしむ。さきに右府に歸せし高山右近は。この頃薙髮し南坊といひて。松平筑前守利常に屬し二万石領して有しが。改宗すべき由仰下されしといへども肯はざれば。同藩の內藤飛驒守如安とゝもに。一族悉く天港に放流せらるゝにより。捕へ出すべしと利常の許に仰くださる。これよりさき伴天連耶揚子といひしが。その徒の中にひとり反忠して。邪徒はたゞ宗門を弘むるのみに非ず。國家を傾けん爲なりと訴へ出しによりこれは賞せられ。西城の下にて宅地賜りて住せしむ。(今のやよす河岸その住せし所をもて名とす。)十九年三月利常より高山內藤の一類を京へ送り。細川忠興より加々山隼人佐等の邪徒百七十人。めし取て獄に繫ぐよし。板倉伊賀守勝重より駿府へ注進せしかば。山口駿河守直友。間宮權左衛門伊治御使して上京し。高山等の巨魁は長崎へ遣はし西洋へ流し。殘黨七十餘人は奥州津輕へ謫配せしむべしと命ぜらる。又泉州堺の地は邪徒多きよし聞し召。驛書もて山口間宮の兩人にかの地をも撿覈し。かつさきに有馬直純命を蒙り。紀州より日州へ就封せんとするに。僕徒多く邪徒にしてゆく事叶はざるよし聞しめせば。堺の事はてば肥前にゆき。その黨を誅戮すべしと仰付らる。おなじ七月板倉勝重より。邪徒千人召捕て獄につなぐよし注進す。八月山口駿河守直友歸謁して。肥前の邪徒悉く誅戮し。長崎に在し道塲も悉く破却せし山言上す。九月駿府にて邪徒C安といへるもの。獄中にて門衛の者二人に邪教を勸し事露顯し。C安が十指を切額に烙印おして追放たる。十月長谷川藤廣より。高山內藤等旣に天港に流し。松浦肥前守隆信が家人もて。長崎有馬邊の邪徒家々を查撿し。その畫像を證とし信仰の者は逮捕し。さまでなき者は證狀出さしめて。佛法に改めしめしよし注進す。かく御心を勞し給ひて嚴重に制禁せられしかど。多年の惡習一時に改むる事を得ず。大猷院殿御代に至り。島原の賊徒またこれをもて愚民を欺惑し。騷亂を引出せしかど。それよりいよいよ制令をおごそかにせられ。查驗至らぬ隈なかりしにより。遂にその根株をつくし枝葉をかりて。永く邪教の害を除れしなり。(駿府政事錄。大友記。武コ編年集成。)
此卷は御政事にあづかりし筋のことをしるす。 
卷廿二 

 

君御若年の程より軍陣の間に人と成せ給ひ。櫛風沐雨の勞をかさね。大小の戰ひ幾度といふ事を知らざれば。讀書講文の暇などおはしますべきにあらず。またく馬上をもて天下を得給ひし事。もとより生知神聖の御性質なれば。馬上をもて治むべからざるの道理を。とくより御會得ましまして。常に聖賢の道を御尊信ありて。おほよそ天下國家を治め。人の人たる道を行はんとならば。此外に道あるべからずと英斷有て。御治世のはじめよりしばしば文道の御世話共ありけるゆへ。其比世上にて好文の主にて。文雅風流の筋にふけらせ給ふ樣に思ひあやまりしも少からず。すでに島津義久入道龍伯などもわざわざ詩歌の會を催し。大駕を迎へ奉りし事有しが。實はさるえうなき浮華の事は御好更にましまさず。常に四子の書。史記。漢書。貞觀政要等をくり返し返し侍講せしめられ。また六韜三畧。和書にては延喜式。東鑑。建武式目などをいつも御覽ぜられ。藤原惺窩林道春信勝等はいふまでもなし。南禪寺の三長老。東福寺の哲長老。C原極搶G賢。水無P中將親留。足利學校三要。鹿苑院兌長老。天海僧正など侍座の折から。常の御物語にも文武周公の事はいふもさらなり。漢の高祖のェ仁大度。唐の太宗の虛懷納諫の事ども仰出され。さては太公望。張良。韓信。魏徵。房玄齡等が。己をすてゝ國家に忠をつくしたる言行どもを御賞譽あり。本朝の武將にては。鎌倉右大將家の事を絕ず語らせ給ひしとぞ。いづれにも章句文字の末をすてゝ。已をおさめ人を治る經國の要道に。御心ゆだねられし御事は。實に帝王の學と申奉るべき事にこそ。(卜齋記。駿府記。)
ある時の仰に。われ儒生をして經籍を讀しめて聞に。おほよそ天下の主たらんものは。四書の理に通ぜねばかなはぬ事なり。もし全部しる事かなはずば。よくよく孟子の一書を味ひ知るべきなりと仰られしとぞ。(本多忠勝聞書。)
人倫の道明かならざるより。をのづから世も亂れ國も治らずして騷亂やむ時なし。この道理をさとししらんとならば。書籍より外にはなし。書籍を刊行して世に傳へんは。仁政の第一なりと仰有て。これより諸書刊行の事を御沙汰有しなり。(武野燭談。)
藤原惺窩といへるは。名肅字斂夫とて。下冷泉宰相爲紀の子なり。播磨國細河の領邑に生れ。幼時より好學の志篤く。人となるに及び博く群書に通じ。一代の博識にして當時その右に出るものなし。抑本邦上世より。代々の博士たゞ漢唐の注疏をのみ用ひて經籍を講說し。又は詩賦文章の末技をもて專門とするやから多かりしに。惺窩に至りはじめて宋の濓洛諸儒の說を尊信し。躬行實踐をもて主とし。遍く教導せしより。世の人やうやく宋學の醇正にして。世道に益あることを知るに至れり。君にもはやうその名を聞しめし及ばれ。文祿二年江戶にめしよばれ。御前にて貞觀政要を侍講せしめて御聽聞あり。一年ばかり有て歸京す。後慶長五年かさねて伏見にて拜謁し。漢書及び呂東萊が十七史詳節をよみて御聽に入れ。御家人の徒も是に從ひて學習するものまゝあり。おなじ十九年林道春信勝。後藤庄三カ光次と共に相議して。京師に學校を刱建して。世人を教育せんことを建白せしに御ゆるし蒙り。旣にその地を撿定す。將軍家この教師には道春を仰付られん御內意なりしが。道春堅く辭し奉りて惺窩を勸めしが。その內に浪花の亂起りてやみぬ。また戶田左門氏鐵老臣等と議して。惺窩を登庸せられんとありしに。折しも惺窩病にかゝり身まかりぬ。いとおしむべき事になん。(惺窩行狀。)
慶長の比林道春信勝。二條の城にめして始て拜謁せし時。席上にC原極搶G賢はじめ。僧徒には承兌元浩などいへる。當時博識と聞えし耆宿どもあまた侍座し。御閑話ありける折から。後漢の光武帝は前漢の高祖より幾世の孫なりやと問せられしに。耆宿等さらに記臆せしものなくて。答へ奉ることを得ざりしに。道春末席より進み出て。光武は高祖九世の孫に候事後漢書の本紀に見え侍ると申す。さらば返魂香の事は何書に出たると問せ給へば。これも各答へ奉る事さだかならず。道春又返魂香の事は史漢などの正史には見えず。白氏文集李夫人の樂府。及東坡詩注に。武帝この香を焚て李夫人の魂を喚來すよし記し侍ると申す。又屈原が愛せし蘭は。いづれを申ぞとゝはせ給へば。蘭の種類さまざま多く候へ共。屈原が愛せしは。朱文公の注に澤蘭なりと見え候と申す。すべて御尋に應じて答へ奉る事響の聲に應ずるが如くなりしかば。御左右をかへりみ給ひ。年若き者のよくも博く見覺えたる事ぞとて御感淺からず。年經て駿府に御隱退の後は。道春殊さら朝夕顧問に備はり。經籍性悝の義理を講明し。和漢史傳の故事どもを御談論有て。夜ことの御伽とせらる。又は醫官と共に醫藥の事を研究し。老僧碩學と佛論を討論せしめ給ふ事もあり。又は東鑑盛衰記等を校正仰付られし事どもゝ有しなり。一年神龍院梵舜御前にまかりしに。日本紀の舒明皇極の紀をよむべきよし仰られしかど。梵舜よみ得ざりしにより。道春に命ぜられしかば。道春忽に流水のことく。いさゝかとゞこふることなくよみて御聽に備ふ。梵舜には其家學とする書をなどよみ得ざるやとゝはせ給ひしに。神代の卷には訓點ありてよみやすけれど。人皇の紀は訓點なければ。よみ解がたきよし申上しとぞ。(羅山行狀。)
一年京都にて道春諸生をあつめ。新注の論語を講說せしかば。聽衆四方より集りて門前市をなす。C原極搶G賢禁中へ奏しけるは。我朝いにしへより經書を講ずるは。勅許なくてはつかふまつらざる事なり。しかるに道春私に閭巷に講帷を下し。且漢唐の注疏に遵はず。宋儒の新說を用ゆる事。その罪かろからざるよしなれば。朝議もまちまちにして一定せず。武家の御旨をうかゞはれしに。君聞しめして。聖人の道は即ち人の學ばずしてかなはざる道なり。古注新注は各其好に應じて。博く世上に教諭すべき事なり。これをさへぎりさゝへむとするは。全く秀賢が褊狹心より猜忌するものなり。尤拙陋といふべしとの御旨なりしかば。其訴も遂に行はれずしてやみしとなり。(羅山行狀。)
下野足利の學校は。小野篁が創建より以來。千餘年の星霜をへて。年久しき舊跡なれば。上古より傳來の典籍どもあまた收貯せしが。關白秀次東奥へ下向のとき立よられしに。そのとき寮主元浩關白の意に應じ。陪從して京に參りしに。學校の古書舊物どもあまたもたらせのぼりしことを聞しめして。御けしきよからず。その後秀次太閤の旨にそむき。罪蒙りて高野山に赴かれしかば。元浩も遠く謫せられしとき。城氏月齋をして元浩を責問したまひ。古來より傳へし四幅の聖像。五經注疏をはじめ。種々の舊物をめしのぼせて。もとのごとく學校に返し附せらる。その後三要といへる僧また學寮の主宰たりしが。此僧すこぶる博學の聞え有しかば。慶長六年九月伏見に學舍をいとなまれ。緇素どもに志しある者をして。入學せしめられんとて。三要を召て教授の職に命ぜらる。三要一院を建立したるに。二百石の地をよせ給ひ。かねて都鄙寺院の訴訟をも聽聞せしめたる。又去年の冬より貞觀政要。孔子家語。武經七書等を。海內にひるくほどこされんとの盛慮にて。十万餘の活字を新に彫刻せしめ。三要に給はりて刷印せしめらる。三要がために建られしは。今の東山一乘寺村圓光寺なり。ゆへにかの十万の活字は。今もその寺に收貯し。君の靈廟をも建立して。如在の祭奠今に怠らずどぞ聞えし。三要常に御側に侍して典籍の事を奉り。恩眷を蒙り。采邑百石を賜り。關原の役には白絹に朱の丸をゑがき。其中に御筆もて學の一字をかゝしめ。指物に給はりて供奉す。御陣中に有ても日時の旺相吉凶等を考へ奉りたり。伏見駿河へも常に陪從し。旅行の時は朱苻驛馬を下され。參謁辭見の度々恩賜の品々數ふるにいとまあらず。後に足利の學校をも御再建有て。聖廟ならびに寺院まで莊嚴舊に倍せりとぞ。慶長の比孟子注七册。孟子古注二册。續資治通鑑綱目十三冊。貞觀政要八册。六韜三畧三冊。柳文二冊。韓文正宗二冊。唐詩正聲四冊。古注蒙求一册。長恨歌一册。禪儀外文二册を御寄附有しなり。又三要が後に住せし寒松も。貞觀政要の訓點して奉りしかば。其時は金時服等をたまひその勞を賞せられしとぞ。(足利學校舊記。足利學校藏書目錄。羅山紀行。慶元記。慶長見聞書。足利學校由來。)
應仁よりこのかた百餘年騷亂打つゞき。天下の書籍ことごとく散佚せしを御歎きありて。遍く古書を購求せしめらる。この時諸家より獻りしものまた少からず。菊亭右府晴季公よりは。金澤文庫に藏せし律令を獻ぜらる。こは武州金澤に在しを。關白秀次召取て藏せられ。後に菊亭に贈られしを今又獻ぜしなり。日野前大納言輝資入道唯心は。おなじ古寫本の侍中群要抄。及故實鈔。飛鳥井中納言雅庸卿はその家の系圖。又歌道宗匠の日記。新歌仙冷泉中納言爲滿卿は大比叡歌合を獻ず。伊豆の般若院快運は續日本紀を獻ぜしに。闕卷有しかば。五山の僧徒して補寫せしめらる。金地院崇傳長老は甲州身延山に有し本朝文粹二部を取出して獻りしに。第一の卷闕たりしを。道春京師にて探得て補寫し。全備せしかば御感心有り。又相國寺艮西堂は左氏傳二十册。齊民要術十卷を奉り。圓光寺閑室が遺物として。その寺より黃氏日鈔三十册を獻じ。神龍院梵舜は武家御傳。皇代記。源氏系圖等を搜索して獻る。この梵舜といへるは元吉田家より出て。豐國大明神の奉祠なりしが。其比博識の聞えありしかば。常にめして顧問に備へられ。異書搜索の事を奉り。金銀布帛給りし事度々なり。また慶長十四年島津陸奥守家久琉球國を征伐せし時。大島コ島を攻る由注進有しかば。この島の事をその比博洽の聞えある公卿殿上人。また儒者等をめして御尋問有しかども。さだかにしる者なかりしに。九州の禪僧玄蘇といへる者より。八島の記といふ書を獻じて。さだかにしろしめしけるとぞ。(駿府記。慶長見聞錄案紙。)
慶長七年江戶城內にはじめて御文庫を創建せられ。金澤文庫に傳へし古書どもをもあまためして收貯せられ。田村安栖長頥をして。足利學校寒松をめして文庫の目錄を編聚せしめられ。その六月寒松に銀時服を賜はりたり。(慶長見聞錄。)
院の御所をはじめ。公卿の家々に傳ふる所の本邦の古記錄を。遍く新寫せしめ給はんとの盛慮にて。內々院へも聞えあげ給ひ。公卿へもその旨仰下され。五山僧徒の內にて能書の者を撰ばしめ。卯刻より酉刻まで。日每に京の南禪寺にあつまりて書寫せしめられ。林道春信勝。金地院崇傳これを惣督す。この時御寫に成し書籍は。舊事記。古事記。日本後記。續日本後記。文コ實錄。三代實錄。國史。類聚國史。律令。弘仁格。同式。貞觀格。同式。延喜格。同式。新式。類聚三代格。百練鈔。江家次第。新儀式。北山鈔。西宮鈔。令義解。政事要略。柱下類林。法曹類林。本朝月令。新撰姓氏錄。除目鈔。江談鈔。會分類聚。古語拾遺。李部王記。明月記。西宮記。山槐記。類聚三代格。釋日本紀。名法要集。神皇系圖。本朝續文粹。菅家文集等なり。これ等の書藉其比までは。家々にひめ置のみにて。世の人書名をだに記すものなかりしが。この時新寫有しにより。公武の規法もこれ等に根據し撰定せられ。後々には世上にもうつし傳へ。今の世に至りても國書をよむもの。本邦古今の治亂盛衰を考へ。制度典章の沿革せし樣を伺ひ知る便を得しは。全く當時好文の御餘澤による所なり。かしこみてもなをあまりある御事にぞ。(駿府記。)
群書治要。大藏一覽も。道春。崇傳に仰下されて。銅製の活字もて刊行せしめられ。元和元年六月竣功によて御覽に備へしが文字鮮明なりとて御稱美あり。この書三家はじめ國々へ賜り。諸家ともに闕べからざる書なれば二百餘部を刷印して。一部ごとに朱章をおして諸寺へ頒ち下されしとぞ。我邦にて書藉刊行の事。佛典などはふるくよりたまさかに雕刻せしことも有しかど。なべて群書を刊行せしめられしは。この時を創始とするにぞ。(駿府記。)
五十川了菴は。名は春昌。一には宗知といひ。又春意とあらたむ。慶長七年了菴私に太平記を梓行して。世上にひろめしこと聞しめして。御文庫の東鑑をかし給ひ雕刻せしむ。この東鑑は小田原の北條が藏本なりしを。小田原の戰ありし時。K田孝高入道如水城內に御使せし日。氏政これをねぎらひ引出物にせしを。如水より獻ぜしなり。いと罕遘の書にして。原本今なを楓山御文庫に現存せり。(了菴碑銘。鵞峯文集。)
慶長十六年九月西域より世界の圖の屏風舶來せしかば。駿府へ進らせられしに。御覽ありて。後藤庄三カ光次。長谷川左兵衛藤廣を御前にめして。萬國の事ども御尋問ありて討論せらしなり。凡そのころ異域の事は左兵衛藤廣。貨財の事は庄三カ光次。はた寺社の事は金地院崇傳奉りて。沙汰する常の事なりき。(駿府記。)
日野前大納言輝資入道唯心。舟橋式部少輔秀賢。圓光寺閑室。金地院崇傳等御談伴として每度伺公する比は。和漢古今の事跡。又は京都寺社の事ども。御ものがたり絕ずおはしけり。其比冷泉中納言爲滿卿江戶へまかり拜謁ありしかへさ。駿府へまかり見え奉りし時。御藏の定家卿自筆の歌書を見せ給ひ。歌道の御物語あり。また其後中納言その秘本なりとて。卅六人の哥を一人ごとに十首つゞゑらみ。定家卿のみづからかゝれしをもちいでゝ御覽にそなへ。爲家卿自筆の假名遣等も御覽ぜさせらる。そのころ江戶より土井大炊頭利勝御使として。定家卿眞蹟の伊勢物語を進らせらる。これは後土御門院の御物なりしを。能登の畠山義統入道へたまはり。後に三好修理大夫長慶につたへ。三好亡びて後和泉の堺の商人の藏となりしを。細川玄旨法印購求して秘藏せしが。後に下野守忠吉朝臣懇望して其藏となされ。朝臣うせられてのち。江戶の御物とはなりしなり。こは殊さら御感ありて。日野。冷泉。飛鳥井等の人々をはじめ。公武の徒にも見せしめたまふ。又山崎宗鑑が書し廿一代集。尊應准后飛鳥井榮雅兩人が奥書せし定家卿眞蹟の古今集。逍遙院。稱名院兩筆の三代集及び伊勢物語。又高野大師眞蹟の般若心經。佐理行成の眞蹟なども。同じくめづらかなるもの之とて。例の人々に見せしめたまひしと之。(駿府記。)
飛鳥井中納言雅庸卿駿府へ參りしとき。俄に源氏物語を講談すべしとのことにて。御茶室にて進講あり。後に又この卿より。源語の內にて秘說とする所三箇の大事を御相傳あり。又大坂の戰畢て後。中院中納言通勝卿を二條の御城にめし。數寄屋にて源氏物語箒木の卷を講ぜしめて御聽聞あり。侍女どもにも聞しめらる。又高野の撿挍法性院政遍といへる老僧謁見せし時。林道春信勝もて。徒然草にのする所の招魂の事を尋ね給ひしに。政遍申は。密宗にて招魂の法行ひて加持する事は侍れど。喚子鳥の鳴時に修法する事は心得ず。たゞ魂をよぶといふにより。かゝる事いひ出しならんと申ば。道春そのよし申ああげけるとぞ。(駿府記。)
慶長十六年十一月十八日御鷹狩ありて。藤澤の驛にやどらせ給ひし時。搶緕專ム譽の弟子玄惠。鎌倉莊嚴院の住僧等謁見し。御談話に侍しけるに。鎌倉右大將家このかた三代の事跡。北條九代の間の事ども御尋ありければ。詳に答へ奉り。またその寺に保曆間記といへる書を藏せり。保元より曆應にいたるまでの治亂興亡をほゞ見るにたれるものなりと聞えあげしかば。それを御覽ぜらるべしとありて。同じ十九日中原の御旅館へもちいでゝ直によましめ。鎌倉の舊事ども終夜御ものがたりおはしけるとなん。(駿府記。)
詞藝の末までもすてさせ給はず。各其業を勵まし給はんの盛意なりしかば。慶長十九年三月の比。五山の僧徒參向せしとき。かれら常に文字を嗜よしなれば。文章を試らるべしとの御事にて。林道春等是を沙汰し。論語の中より爲政以コ。譬如北辰居其所而衆星共之といへる題をたまはりしかば。やがてこの文章を作り出で御覽に備ふ。その日又席上にて。寳樹多華菓。衆生所遊樂を。頌文の題としてつゞり出し文どもを御覽ぜし時。いづれも今まさに天下靜謐して。北辰の其所にあるが如く。動きなき御代は萬々年もかぎりあるべかからずなどいへる趣なりしを御覽じ給ひ。是は十分ならざる書かたなり。北辰の動かずして萬民これをむかふがごとく。コをもて天下を治るといへるそのコは。いか樣にして身に得るものならむといふ趣をこそ。しるすべけれと仰られしとぞ。又江戶にてもこの輩に試文を作らしめ。駿府へ進覽せしめらる。そは君子コ風也。小人コ草也。草加之風則偃をもて策文の題とし。是法住法位世間相常住をもて。頌文の題とせられしとぞ。(駿府記。)
ある時伏見城にて冷泉黃門爲滿卿へ。人丸が傳たしかに聞召れたしと仰有しに。黃門こは神秘の事にて。つばらには聞え奉りがたしと申。その時道春も侍座せしが。萬葉集に四人の人丸あり。そが中に和哥の堪能なるは。柹本の人丸なりと御答申上しかば。黃門はたゞ何ともいはで有しとか。後に道春この事を友人松永貞コに語りしかば。貞コそは卒爾の事なり。人丸が事は歌道の上にて。いとおもおもしくする事にて。御邊などがからまなびの格と。おなじやうに心得まじきなりといひしとか。又古今集の內の三箇の秘事を。御たづね有しに。道春つばらに御答申せしが。後に黃門がこの秘事傳へ奉りしと。全く符合せしかば。道春が博識に感ぜられしなり。(駿府政事錄。)
慶長十七年三月駿府にて林道春信勝侍座の折ふし。中庸に。道はそれ行はるべからずといふは。いかにして行れぬぞと御尋あり。道春道の行れざるには侍らず。たゞ孔子の比の人君みな暗愚にして。行ふことの能はざるなりと申す。さらば中といふはいかにと問給へば。おほよそ中と申すは一定し難き事にて。一尺の中は一丈の中に非ず。一國の中は天下の中に非るが如く。その物その事によて。をのをの恰好の道理あるを中とは申せ。かゝれば中と申は。即ち理と申も同じ樣の事なりといふ。又中といふも權といふもみな善惡あり。殷湯王周の武王が臣をもて君を討しは。その跡あしきに似たれども。その心は善なり。古人の逆に取て順に守るといふに當れり。されば善にもなく惡にもなきを。中の至極とやいはんと宣へば。道春某が懸意は尊旨とはいと異なり。その中といふは全く善にして。いさゝか惡所のなきを中と申す。ゆへに善を善とし惡を惡として。取捨するも中なり。是非を考へ邪正を分つもまた中なり。湯武の天命に應じ人心に順ひて桀紂を伐しも。はじめより己が身の爲にせむの心なく。たゞ天下の爲に暴惡を除て。萬民を救はんの本意なれば。いさゝかも惡とは申べからず。漢の王莽。魏の曹操等が如きは。人の家國を奪ひ。己れ一身の驕奢を專らにせむとのみ思へば。これ奸賊にして湯武とは天地の違なり。又逆に取て順に守るといふは。權謀術數の徒の申所にして。聖人のいはれし權道とは。いたく違へる事なり。是等の事みな經典の上に記し侍れば。よくよく御覽ありて。邪說の爲に御疑惑おはしまさゞらむこそ肝要なれ。すべて古今聖賢の懇に教へ置し言葉は。たゞ理の一字にはすぎ侍らずと申上しかば。其說の醇正にしてかつ明晣なるを感じ給ふ。又萬書統宗といふ書を道春に見せしめ。袁天綱が十將々訣。李淳風が六寅占。及び擲錢の占掌裡の算などの事尋給ひ。又論語の一貫の章。あるは廐焚の章の不字を。否の字となしてよまばいかに。當時明國にて天下を治る道は明かなりやなど。さまざま御尋每に。道春いつもつばらに御答申上て。御感にあづかりし事度々之。(羅山行狀。)
元和元年八月御上洛のかへさ。水口の驛にとゞまらせ給ひ。折しも雨ふりいでゝ。三日ばかり御滯留ましまし。夜深るまで道春を御前にめして。論語學而の篇を講說せしめて聽せらる。御みづからも能竭其力能致其身といふ所をよましめ。能といふ字によて心付べきなり。たれも君親のために己が力をつくさぬものはなけれども。いかゞするがよきあしきと。わがこゝろもて分别取捨するをもて。肝要とすと仰ありしかば。道春も趙苞が故事を引て御答せしが。後々までこのこといひ出て。かしこさのあまりすゞろに袖をぬらしけるとなん。(丙辰紀行。)
駿府へ江戶より御使として。成P豐後守正武まかりしに。そのかへさにつけて。周禮七册。晋書五十册。戰國策三册。楚辭三册。准南子二册。家禮儀節四册。玉海八十册。陶靖節集二册。李白集十五册。陸宣公集四冊。續杜偶得十五册。樊川集四册。二程全書五十六册。朱子大全六十二册。朱子語類七十四册。(一册欠。)
大學衍義十五册。唐書衍義三册。東萊博議十册。南軒集十册。文山集十五册。紫陽文集十冊。唐音十册。文章辨體廿二册。文章正宗十三册。牧隱集六册。湖隱集八册。自警編五册。皇華集五册。理學類編二册をまいらせらる。駿府にては林道春與安法印宗哲これを沙汰し。江戶にては林永喜閑齋これを掌さどる。また慶長十九年四月本草綱目一部を江戶に送らせられし事あり。是は江戶の御收藏になきをもてなり。神さらせ給ひし後。道春兼て預り奉りし駿府の御本をいかゞせむと。土井大炊頭利勝もて江戶に伺ひしかば。將軍家われ己に天下の讓りを受し上は何をか望まむ。書籍はみな三家の方々へ分ち遣すべしと仰有て。道春さるべく配賦して。尾紀水の家臣へ引渡し。その內にて尤罕遘のものをばとり置て。後に江戶の御文庫に納めけるとぞ。又本邦の記錄は兼て三通を御寫有て。一部は內裡。一部は江戶。一部は駿府に置べしとの命ありしかば。これも駿河に在しをば。江戶の御文庫に納めたり。今楓山に寳藏せらるゝ所のもの是なり。(駿府記。丙辰紀行。)
醫藥本草の事などにも。御心よせさせたまへり。京都より施藥院宗伯まかりしに。常に御前にめして。與安法印等と物產の事ども御尋問あり。またあるとき光明朱を求められしに。いづれも下品なれば。吉田意安宗恂が父は明國へ渡海しつれば。意安父が持來りし朱を獻りしに御心にかなひ。さすが名家なり。かゝるものまでたくはへたりと御賞譽あり。この後は海舶にこれを證として購求せらる。又意安に紫雪を製してたてまつらしむ。意安和劑局方に據りて調じて獻りしかば。是も御けしきにかなひ。是より衆醫みなこの製に倣ひて作ることなり。ある時南舶より薄き石の一尺ばかりにして。側柏の如くなるを獻る。其形木賊柏葉の連りしは似たれば。めづらしと思して衆醫に問せ給へども知者なし。意安こは瑪瑙の花なるべしと御答せしが。後に本草綱目を撿點せしに。果して申所の如くにて在しとぞ。また海舶より珊瑚の枝を獻りしに。その頃はいまだ世にまれなるものなればたれも見馴ず。よてその形を圖して衆醫に名を問しめしに。いづれも御答するものなし。意安これはかならず珊瑚の枝ならんとて。出典と蜑人の海底に入てこれを採樣など。委しく書て奉りしかば。その該博なるに感じ給ひ。一枝を分ちて下されしとぞ。この意安はたゞ醫學に長ぜしのみならず。經義も藤原惺窩に從ひて學び。家學の事につきては。さまざま著述など有しものなり。(駿府記。ェ永系圖。)
建部傳內賢文といひしは。蓮院尊鎭法親王の門に入て能書の聞あり。その子の傳內昌興も父を繼て入木の道に達せしかば。慶長元年伏見にてめし出され右筆とせられ。采邑五百石賜ひ。常は近侍して筆翰の事奉り。薩摩守忠吉朝臣はじめ公達の方々へ。筆道をつたへまいらせければ。これよりして御家流と唱へしとぞ。(家譜。)
詩歌などの末枝は。元より御好もおはしまさねば。殊さらに作り出給ふべくもあらず。されど折にふれ時によりて。御詠吟ありしを。後々よりくり返し諷詠し奉ればさながら御文思の一端をしるに足れり。よてふるくより書にもしるし。口碑にも傳へしものどもをかきあつめて。御文事のすゑに附し奉ることになん。
御幼年の比三河國法藏寺におはして。御臨書ありし時。渡唐の天神の賛をあそばされしとて。今もその寺に傳へしは。
一年にたけ高くなる竹の子の千代を重ねん君か操は
天正十六年四月十五日主上(後水尾院。)豐臣大閤の聚樂邸に行幸ありしとき。君も內のおとゞにて和歌の御會に列ならせたまひ。人々とおなじく寄松祝といふ事をよませ給ひける。
みどり立松の葉ことに此君のちとせの數を契てそ見る
同じとき四月廿日によま給ひしは。
幾千世の限りあらじな我君の光りをうつす大和もろこし
文祿三年二月廿九日豐臣太閤吉野山の花見ありて。歌會催されしに。君もその席に列し給ひて。御詠出ありし五首。
はなのねがひ
待かぬる花も色香をあらはして咲や吉野の春雨の空
花をちらさぬ風
咲花をちらさしと思ふみよしのは心あるへき春の山風
瀧の上の花
花のいろ春より後も忘れめや水上遠き瀧のしら糸
神のまへのはな
としとしの花の砌の吉野山うら山しくもすめる神垣
はなのいはひ
君か世は千年の春も吉野山花にちきりは限りあらしな
駿河國阿部郡福田寺といへるは時宗にて。藤澤のC淨光寺の末寺之。一年御放鷹の折から。この寺に休らはせ給ひ。その前の山々の名を問せ給ひしに。後藤庄三カ光次御供に在て。東の方に見ゆるは八幡山C水愛宕山など申上ければ。その樣京の丸山に似たりと仰られしかば。この後光次京より丸山の寺僧養コ軒をよび下し。一寺を建立し名をも丸山と稱しぬ。その明年關原の亂により。再びこの寺に立よらせたまひし時。ながれの井といふがわき出るを御覽じて。
松高き丸山寺のなかれの井いく千代すめる秋のよの月
かくなんあそばしけるが。これより寺をも秋月山福田寺と號し。御詠筆も今に寺に寳藏するとなん。(後藤由歯錄。)
慶長二年正月御眼疾により。遠州秋葉東照山平福寺に御願書をこめられしにそへ給ひし御詠。
明らかに東を照す御ひかりちかひをわれに讓り給へや
關原の役に高野聖方惣代常住光院御陣に參謁せしとき。色紙に御筆をそめられて下されし御詠。
旅なれば雲の上なる山越て袖の下にそ月をやとせる
いつの頃にか。八幡の社に詣でゝよませ給ひけるとて傳へしは。
武士の道のまもりをたつか弓八幡の神に世を祈かな
櫻が岡といふ所にてよませ給ひけるとて。江戶小日向服部坂龍興寺に藏する所の短冊の御詠。
つひにゆく道をは唯も知なから去年の櫻にいろを待つる
御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。三河國碧海郡野畑村民高橋武右衛門が先祖に賜はりしとて所藏せしは。
天か下心にかゝる雲もなく月を手にとる十五夜のそら
人材を教育し給はんの盛慮にて。よましめたまひしとて傳へしは。
人おほし人の中にも人そなき人となせ人人となれ人
御辭世の御歌なりとて傳へし二首。
嬉しやと二度さめて一眠りうき世の夢は曉のそら
先にゆき跡に殘るもおなしことつれて行ぬを别とそおもふ
京におはしましける頃。北野の松原に渡御ありし時。誹䛛躰の御詠。
松の木はものゝ奉行にさも似たり曲らぬやうて曲り社すれ
三河にてある戰の折。本多忠勝はじめわづか七騎にて。大樹寺に入せたまひしに。敵また襲來りしかば。納所の僧祖洞といへる大力なるが。施餓鬼の布はたを竹竿に付て出しが。旗の乳木に礙はりて切けるを御覽じて。御戱に。
切むすふ太刀の下こそ地獄なれ懸れや懸れさきは極樂
とあそばし。祖洞が働にて御危難をまぬかれ給ひ。岡崎へ還御有しとなん。(寺傳。杉浦氏藏。新撰和歌現今集。和歌勳功集。松平太カ左衛門家傳。道齋聞書。前橋聞書。三州本間覺書。)
小牧の戰に粱田彌二九カといへる御家人軍忠を竭せしかば。御感狀の內に御狂詠をそへて下され。且月山の御刀を賜はる。その御書は。
はらひ切三尺五寸月山の刀。日頃その元望の由。只今萬千代申。つたへきく異國のこわうていは。ひげをきりはいにやく。我朝の源公は。次信に大夫Kを引給。次信にまさらん忠をや。いかでか義經に豈おとらむや。とくにきかではらだち候。則遣候也。
さきがけて火花をちらす武士は鬼九カとや人はいはまし(貞享書上。)
文祿三年豐臣大閤母公の三周忌辰によて高野登山あり。公卿には近衞龍山公はじめ。武家には君をはじめ奉り。あまた陪從せられ。法莚畢りて後百韻の連歌興行ありて。發句は太閤これを題せられ。紹巴が。
さらに夕は秋の凉しさ
といふ前句に附給ひしは。
露をたゝ一むらさめの名殘にて
この時大コ院にて菅神の像を畵かしめ。扇面に御詩作をあそばし。足利學校三要が和し奉りし詩も傳へたれど。何れも闕脫してよみ兼ればこゝには載奉らず。(高野大コ院記錄。)
慶長九年三月豆州熱海に湯あみ給ひしとき。御獨唫の連歌を。仙臺政宗が家臣猪苗代兼如に見せしめ給ひ。兼如が點して奉りける內の御句とて。つたへけるは。
春の夜の夢さへ浪の枕かな
曙ちかくかすむえの舟
ひとむらの雲にわかるゝ雁啼て
おなじ十九年八月十二日山名禪高を御前にめして。兩吟連歌あそばしける表八句に。
いらさらむ空にそみはや秋の月
といふ能阿彌が古句を御轉用ありて。いと御けしきよかりしとなん。(諸家感狀錄。駿府記。)
いづれの御出陣の折にか。鈴木長兵衛重次が家の前を通らせ給ひし時。重次己が園中の柿を籠にして奉りければ。御けしきうるはしくて。今戰に臨みて獻る所の柿正に熟してその色日のごとし。これ武威の赫然として。軍に勝べき瑞徵なり。又その味をもていはゞ。三河武士の剛澁の氣象あり。これ敵の首級を得べき兆。この實を奉りしは。大軍の救援を得しよりもまされり。名けてこしぶとこそいふべけれとて御戱に。
ほくひをもかきとる秋の㝡中かな
とあぞはしけるに。本多平八カ忠勝が御供にありしが。武勇あくまですぐれしのみならず。心もゆうなりしにや。
かまやり取てむかふ月影
と附奉りしかは。君をはじめ奉り。供奉の輩までみな興に入て。勇氣百倍せしとぞ。(鈴木家譜。)
此卷は御文事にあづかりし事をしるす。 
卷廿三 

 

御軍略の古今に勝れ給ひしは。今さらにとりわきて申出んもかしこし。つぎては武技の御好あつくましまして。刀鎗弓馬をはじめ鳥銃水泳のすゑずゑの技までも。みなその精蘊を極め給へり。まづ御若年の程より七旬にあまらせ給ふまで。日每にかならず御馬にめし。鳥銃は三發。御弓も的あるは卷藁をあそばし給ふ事。日課のごとくにていさゝか怠らせ給はず。その御精力のほどなみなみの者の企およぶ處に非ざりしと。紀伊亞相ョ宣卿常に御膝下におはして見聞し給ひしさまを。後に人にかたらせ給ひしとなむ。(紀君言行錄。)
二條の城にて申樂御覽ありて御入興ありし時。とみの御用ありとて板倉周防守重宗を召て。何やらん仰付らるゝ旨あり。後に重宗にうけたまはりし者ありしに。この比時節よければ。旗竿になる竹を切れとの命なりしとぞ。かゝる御遊興の內にも。しばしも御武備を忘れ給はざりし盛慮の程こそかしこけれ。(武功雜記。)
姉川の戰に奥平九八カ信昌敵二騎切て。その首實撿に備へしかば。御感の餘り。汝若年の小腕もて奇功を奏せし事よと宣へば。信昌うけたまはり。凡戰鬪の道は劔法の巧拙にありて筋力の强弱によらずと申せば。汝は誰に劔法を學びしと御尋あり。信昌奥山流を學びしと申す。さらば汝が家臣急加齋にならひしならん。我若かりし頃その流を學びしが。近頃軍務のいとまなさに久しく怠りぬ。こたび歸陣のうへは必ず彼をめして對面せんと仰らる。この急加齋といへるは。奥平貞久の四男にて孫次カ公重と稱し。甲斐の上泉伊勢守秀綱が門に入て神影流の劔法を學びその奥義を極め。三河國奥山明神の社に參籠して。夢中に秘傳の太刀をさづかり。これより奥山流と唱へけるとぞ。先にしばしば岡崎にめして御演習ありしが。この後天正十年十月信昌もてめされ。重ねて學ばしめ給ひ。御誓書をなし下され御家人に召くはへらるべしとの御書をも給ひしなり。また三河にて有馬大膳時貞といひしは。新當流の劍法に達せし由聞せられ。これもめしてその奥義を傳はらせ給ひ。江の御刀下され采地をたまはりしが。後に大膳死して嫡流絕ければ。庶孫豐前秋重をもて家繼しめ。紀伊家に附屬せられしなり。(奥平譜。貞享書上。)
神子上典膳ははじめ安房の里見が家臣たりしが。伊藤一刀齋といへる者に就て劍法を學び。すこぶる壺奥を極め。後諸國を經歷して江戶にきたりしかば。召てその術御覽ありけるが。御けしきにかなはざりしかば。おのづから門人もいつとなく離散しぬ。その頃御城下にさる修驗者あり。人を害して己が家に閉こもる。この者日頃大剛の聞え有ば。誰もおそれて近よる者なし。町奉行何がし典膳が名を聞およびて呼につかはせしに。典膳おりしもわらはやみにてたれこめてありしかども。いなむべきにあらずとて强めて出立。修驗が門前にゆきて己が名をよばゝりしかば。修驗もこれ究竟の相手とおもひ切て出て戰ひしに。典膳やゝ切なびけられ。次第に後の方へ退き。おもはず小溝の內へ踏いり。仰のけざまに倒れける所を修驗得たりとおがみ打にうちけるが。典膳は倒れながら拂ひきりにその諸腕を打落し。起上て遂に仕留たり。流石典膳なりとて譽る者もあり。または敵に切立られ蹶きし上に薄手も負。からうじて彼を仕とめしは天幸之。劍法を業とするものに似合ずとそしる者もあり。このよし君聞し召。何ほど達人なりともづまづく事も。薄手負事もなしといふべからず。劍法はたゞ當座の修業の上を評するのみなり。先に我彼が術を見し時はあまり奇異にして。妖法かまたは天狗などが慿たるかと思ひしに。こたび溝へ落入しによりて我疑念も散じ。はじめて正法の劍法なる事をしれりとて。台コ院殿へ附屬せしめて。劍術の御相手を勤め。後に神子上をあらため。外家の小野氏を冐して次カ右衛門忠明といひ。其名一時に高かりしが。今も子孫その業を傳へたり。(老士語錄。家譜。)
案ずるに忠明が召出されしは。家譜によれば關原以前なりけるを。老士語錄には駿河にて修驗者を討とめし後の事とし。大に齟齬せり。忠明上命をかうぶり武州膝折にて惡徒を誅せし事あれば。これらを誤傳せしにや。本文はしばらく江戶にてのこととせり。
疋田豐後といへる擊劍の名を得し者を召て。その秘决ども御尋ありし後。人に語らせれしは。彼はなる程名手なれども。この技の人によりているといらぬけぢめを辨へず。天下の主たるもの。または大名などは。必しも自ら手を下して人をきるにおよばず。もし敵に出逢て危急の時は。その塲をさければ。家人ら馳あつまりて敵を打べきなり。さるゆへに貴人は相手がけの事はいらぬなり。かく大躰を辨まふるをもて。第一の要とすべき之と仰けり。又台コ院殿の劍法を學ばせらるゝを聞し召。大將はみづから人を斬におよばず。危難のときさけん樣を心得らるべし。人を斬に何ぞ大將の手を勞せんやと仰られき。かゝる御心用にや。御一生の間あまたゝびの御合戰に。一度も御手づから人を切らしめられしことはなかりしと申傳へたり。(三河物語。君臣言行錄。)
關東に入らせ給ひし時。江戶に小熊何がし。渡邊何がしといふ二人の劍法を教ゆるものあり。その門流ふたつにわかれて互に相競ふ事なり。ある日台コ院殿を伴はせ給ひ。二人の術を大橋の上にて御覽あり。小熊は長袴。渡邊は赤き帷子きて。兩人ともに木太刀をせいがんに持て打合。橋の上を追つかへしつするほどに。小熊やゝ勝色になり。渡邊を橋欄におし付。そが足とつて川中へ投落せしかば。渡邊は水を多くのみ。からうじて岸に上ることを得たり。人々小熊の捷妙をほめぬものはなかりき。(聞見集。)
御放鷹のおり伏見彥大夫某が三尺五寸の大太刀に。二尺三寸の差添を十文字にさし違ひ。山路を走廻ること平地のこどし。君御覽じ。汝が剛勇比類なし。その太刀拔て見せよと宣ひしかば。彥大夫直に㧞放して二振三ふり打ふりしに。太刀風りんりんとしていとすさまじ。仰に。汝は尺の延たる刀の利を知るかとあれば。たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて。外に心得候はずと申せば。いやとよ寸の延たる刀は。鎗にあてゝ用ひんが爲なり。向後わすれまじと教へ給ひし也。(感狀記。)
伏見の城にて人々。鎗の長短によりて利不利ある事を論ぜしに。この論は數度鎗を合せたる者こそしりつらんとて。酒井作右衛門重勝を召出て御尋ありしに。重勝鎗は長きをもて利となすは。いにしへより定めしが如しと申上しかば。君理りと聞し召その論は定まりしとぞ。(ェ永系圖。)
御馬の預り諏訪部惣右衛門定吉に仰られしは。主の馬を騎試みむには心得のあるべき也。兼てその鞍がまへ手綱の捌樣を始め。すべて平常の騎樣をよくかうがへて。騎試むべしと仰られしを。大澤右京大夫基胤がうけたまはりて人に語りしとなり。この諏訪部といふは。はじめ小田原の北條に仕へ。北條亡て後御家人に召出され。兼て八條流の騎法に堪能なりしかば。仰を承り公達の方々へ騎法を指導し。その子孫代々箕裘をつぎ。そに御家人に列し御廐の别當奉る事となりしなり。(前橋聞書。家譜。)
御老年にならせられては更なり。御年若きころも馬のあゆみ兼る所々にては。必らず下りて歩行に成らせられしなり。ある時。近臣へむかはせ給ひ。我道途の險所にて馬より下るは大坪流の一傳之。惣てあやうしとおもふ前にては乘ぬものなり。さりながち乘替の馬など引する程の身分の者はいふに及ばず。たゞ壹疋の馬をたのみにするものは。成丈馬蹄をかばふがよし。乘はのるとのみ心得て。少しも馬をいたはるこゝろなく。みだりに乘あるけば遂には馬蹄を損じ。要用のときにかへりて乘事あたはざるものなり。能く心得よと教へ諭されしとなり。(駿河土產。)
君には兼て海道一二の健騎にておはしますとて。その頃世にかくれなく申傳へけり。小田原陣の折丹羽宰相長重。長谷川藤五カ秀一。堀久太カ秀政の三人。秀吉が先陣打て御金越より小田原に押よせんとて。小高き所より谷際を見下して在し折しも。こなたの御陣押なればみなうち寄て。海道一の馬のりが乘ざま見むとてたゞずみ居たり。谷河二條ながれ細き橋かけたる所に。御人數行かゝると。みな馬にて渡る事叶はず。下馬し歩行になりて越たり。君にも橋詰までおはすと。同じく馬を下り給ひ。御馬をば橋より上の方廿間ばかりの所を。口とりの舍人四五人して引すぎ。君は歩行の者に負れ給ひながら橋を過給ひぬ。かの三人の士卒どもははじめより。目を注していかゞし給ふと思ひ居たりしに。この御さまを見て。これが海道一の乘ざまかとて咲はぬ者なし。流石三將はさてさてかくまでの御功者とはおもはざりき。實に海道一の馬乘とはこの事なるべし。馬上の功者は危き事はせぬものぞとて。大に感じけるとなむ。(紀君言行錄。)
御秘愛の駿馬ありしが。或時これを試み給はんとて。重荷おはせて富士山に昇せ給ふに。すこしも疲るゝ事なければ。富士の道芝と名づけられて御愛養あり。されどこの馬强悍にして。誰もよく馭するものなし。村上三左衛門吉正といふはもと金吾秀秋に仕て後に御家人となりしが。兼て精騎の名あればめして乘しむるに。難なくのりしづめしかば。御感ありて。則この馬を吉正に預け飼しむ。吉正後にこれを御廐に返し奉りしとき。御鞍轡等を給ひその勞を賞せられけるとなん。(家譜。)
駿府にて炎暑のおりから。人々馬を阿部川にひてし時。かゝる歩渡のなる川は。まづ馬を水中に渡しいれ。むかひの岸に引上てひたすべきなり。さすれば馬も自然と川をわたしおぼえて。後日の用をなすものなりと仰られしとぞ。(前橋聞書。)
遠州市野村の富民に市野惣大夫といへるもの。天性馬をこのみ馬の鑒定に達せしと聞し召。御馬ども預けられ近江の代官たらしむ。慶長十六年拜謁せし折。御廐别當諏訪部惣右衛門定吉を召出し。ともに牧塲にて馬を養たつる樣をかたらしめて聞せ給ひ。御氣しきうるはしかりしとぞ。(駿府記。古老物語拔萃。)
吉田出雲といへるは。近江の佐々木が家にて弓法に精練の者なり。そが弟子に石戶藤左衛門といへるが師傳を得て。後に名を竹林と改め三井寺に在しを。駿河にめしよばれ旗下のものへ相傳せしめ。竹林派とて一時さかんに行はれ。追々その術に精しきものども出來し。中にも佐竹源大夫。內藤儀左衛門の兩人は殊更出藍の名を得たり。後に竹林をば尾張家へ附られ。紀藩へは佐竹。水戶へは內藤を遣はされ。このよし江戶へ仰進らせられ。かつ將軍家の御座所へは何わざにてもおのづから天下の名人があつまり來るものなれば。江戶へは别には進らせられずとなり。(駿河土產。)
M松におはしませし時。櫓の上に鶴の居しを御覽じ。これよりあはひなに程あらんと近臣に尋給へば。五六十間と申す。さらば常の小筒にてはをよぶまじ。稻富外記が製せし長筒もて參れとてとりよせ給ひ。しばらくねらひを付て放し給へば。あやまたず鶴の胴中にあたりぬ。後に近臣等その筒取てためしけるに。廿人ばかりのうちに。十分にため得しものは一人もなかりき。これにて人々はじめて。御力量のほどを測りしりけるとぞ。また慶長十六年八月淺間山に御狩ありて。鐵炮をうたせらるゝに。みな的の中心にあたりぬ。近臣等はいづれもあたる事を得ず。又鳶三羽をつゞけ打にうち給へば。二羽は地に落。一羽は足をうち切て飛去しなり。いづれも御術の精妙なるに感じ奉る。又十八年十月葛西の邊御放鷹の折。御みづから銃もて鶴一雙。鴻三羽。鴈四羽。鴨九羽うち得給ひし事もありしなり。(武コ大成記。靈岩夜話。武コ編年集成。)
見附の退口に大久保勘七カ忠正一人とつてかへし。追來る敵を鐵炮にて打むとせしに。纔か一二間の塲にて打損じけるを御覽じ。何としてうちはづせしとのたまへば。さん候。都筑藤一が弓を持て傍にありしをたのみにして。おもひの外に打損ぜしと申す。藤一は勘七が立とゞまり。鐵炮うつを力にして。おのれも立とまりしといふ。勘七が兄次右衛門忠佐側より藤一にむかひ。御邊さまで御前をつくろふに及ばず。御邊があらずば。勘七いかでひとり立とまることを得んや。先に君の弓がけをはづし給ふを見て。われもゆがけを脫せしといへば。藤一申は次右さるにてはなし。坂の下にて汝が弓がけはづせしゆへ。我も心づきて脫せしなりと。とりどりあらがふ樣を見そなはして大に咲はせ給ひ。かゝるえうなき事あげつらふに及ばず。勘七汝は見附の臺より敵に追れ來て。息のきれたるゆへに。鐵炮の中程に手をかけ。火皿の下を執て放せしならんと尋給へば。仰のごとしと申す。さればよ引息にては筒先が上り。出る息にては筒先が下るものなり。これ呼吸のおさまらざるゆへにて。汝が臆したるにあらず。この後もさらんときには。兩手もて引金の下執てうつべきなり。何ほど息あらくとも。筒先のくるはざるものなり。能々心得置べしと御教諭ありしとぞ。(三河物語。)
合戰に臨ませ給ひはじめの程は采もて指揮し給へども。戰ひ烈しきにおよんでは。御拳もて鞍の前輪をたゝかせられ。かゝれゝれと御下知あり。はてには御指のふしぶしより血ながれ出るを。戰ひ畢て後御藥附させ給ひても。いまだ痊給はざるうちに。又かくのことくなれば。後々に御指の中ぶし四つながらたこになり。御年よらせらるゝに及むでは。御指こはゞりて御屈伸もやすらかにおはせざりしとぞ。(岩淵别集。常山紀談。)
今どきの軍の指麾するもの。おほかた胡床に腰かけ采を手にし。をのれは手をも下さず。たゞ詞ばかりの下知にて軍に勝むとおもふはひが事なり。惣て一軍の將たるもの。士卒のぼんのくぼばかり見て居ては。勝るゝものにてなしと仰られき。又軍陣は勇氣を主としてきほひかゝるがよし。勝敗はその時の運次第とおもふべし。かならず勝んと期しても勝れず。あながちに期せずして勝事もあり。あまり思慮に過るはかへりて損なりと仰られし。(武功雜記。駿河土產。)
戰陣に臨むでは一番鎗二番鑓などゝ。ことごとしくいひ立ぬものなり。その樣に次第のあるものにてなし。はじまるかとおもへば。ばたばたとらちあくものなり。また戰塲にて物具落せしを。怯劣のためしにいひなせども。高名だにとげば何か苦しからん。たとへば敵の首とる時に。傍より我持鑓とられたればとて。とゞめむやうなし。又味方の退口には。敵の死首にてもとりたるが手がら之と仰られき。(駿河土產。武功雜記。)
おほよそ軍陣の間の事は。纎細の事までもしろし召たり。或時軍中にて馬に糠袋をつくるに。豆を糠に交へしはよからず。豆を煑て乾かし藁を細にきり。和らかにして付るがよし。豆ばかりざつとほしていれ。又藁をいれたるもよし。こは炎天の頃は豆をゆでゝもさまさゞれば腐れやすし。また荒糠かひし馬を强く乘ば。馬の臟腑を損ずるものなれば。藁を細に切て入よと仰られしなり。(翁物語。)
物の具のうるはしきは益なし。重きもまたおなじ。井伊兵部は力量も勝れしゆへ。常々重き物の具したれども。手負し事度々なりき。本多中務はさして重き物は着ざりしが。薄手かきし事もなし。人々おのれが力に應じ。働きよきこそよけれ。下人などは薄き鐵の笠きしがよし。時としては飯をも焚く事なるべしと仰らる。鐵笠は甲州にて下人にきせしめ。上方にはなかりしを。丹波龜山の城主小野木縫殿助重勝が。はじめて足輕より下つかたの者に着せしめしなり。故に其頃は小野木とよべりとか。(常山紀談。)
御若年より水泳をこのませられ。年ごと夏月には岡崎近邊の川に出まして常に游泳し給ひ。御家人までもこの技に達せざるものなし。公達の方々にもみな折立てこの事習はせられしなり。後々に至り大猷院殿にも。城溝にて御水泳ありし事度々なりしは。全く御祖風を受つがせられてなり。慶長十五年七月駿河のP名河に漁獵のとき。御みづから游泳し給ふよしものに見えたり。こは御年六十に九ばかりあまらせ給ふ時の事なり。御强健のさまおもひ知べし。(御年譜。聞見集。)
御軍陣の際别に御持料の御鎗とて定まれるはなし。御長刀一本に十文字の鎗一柄なり。大和大納言秀長が細金の具足三百領に。中卷せし野太刀百振進らせしかば。甲州士にその具足を着せしめ。野太刀を持しめられしとぞ。又姉川の戰ひの前日織田右府鑓一柄持出て。これは鎭西八カ爲朝が鏃なり。コ川殿には正しく源家の正統におはせば。その舊物を進らするなり。明日の戰にはかならず切勝せ給はんと言れし。これぞ今に持せらるゝ投鞘の御鑓の中身なりとぞ。(武邊雜談。落穗集。)
關原の戰ひに細川越中守忠興。たゞ一騎馬をはやめて御本陣さして馳參るに。山鳥の尾の胄に銀の天衝の指物さしたるが。その飛颺するさま。たゞ雲井はるかにまふ鶴のごとくに見へしかば。御感ありて。忠興が物數奇またたぐひなしと仰有て。かの指もの御所望にて。台コ院殿へ進らせられしとぞ。(武家閑談。)
陣羽織に白鷗を繡にし。頭を馬手の方にせしを御覽じ。これは逃鷗なり。すべて武具に付る紋がらは。弓手かゞりに附べきものなりと仰られしとぞ。(三河物語。)
御旗はそのかみ右京亮親忠主井田野合戰の時。大樹寺の開祖勢譽上人が作りて送らせし厭離穢土欣求淨土と書し。白き四半五幅の旗を。むかしよりの御佳例にて用ひらる。(これは筑紫陣の時も用ひ給ひ。また大阪夏の御陣にも。御吉例とて箱に納めて御輿の傍に持しめられしとぞ。)その後七本の白旗一幅に。長さ一丈八尺にして葵の丸を三つKく附。まねぎも白きを用ひらる。永祿六年の比牧野半右衛門康成が。金の扇のさし物御意にかなひ。御所望ありて御馬印になされ。熊毛にてへりをとりて用ひられ。御旗の葵も下の方に附し葵二つを除かしむ。其後慶長五年奥の景勝御追討の時より。御旗を無紋になされ。有紋のかたをば台コ院殿へゆづらせ給ふ。大喪の後に至り白き御旗のまねぎばかりに御紋を付られ。紫綾もて乳とせられしとなり。(武邊雜談。)
案ずるに厭欣の御旗は諸說さまざまにて。親忠君の御ときより用ひはじめたまひしといひ。またC康君御事ありし後。織田信秀が三州へ亂入せしに。大樹寺の登譽上人是を用ひて防戰し勝利を得しかば。御嘉例にも後々用ひらるゝともいひ。また大高城御退去のとき。大樹寺の鎭譽が書て奉りしといひ。あるひは一向亂の時彼門徒にまがはざらんため。淨土宗の旗はこの句を書てかゝげしともいへり。いづれにも古くより御用ひ有しなり。いま日光山の御神寳にこの御旗を藏めらるゝといへり。(舊考餘錄。)
御使番の用ゆる五の字のさし物は。小田原陣のとき服部半藏正成。K地の四半に五の字を白くそめ出せしが御目にとまり。以來御使役の指物に用ひらるべければ獻るべしとて。これより使番奉る者の內にても。殊に老功の徒に用ひしめられしなり。(貞享書上。)
浪花の役に白き御袷に茶色の御羽織をめし。編笠を戴かせられ。御草鞋を付られ。御胄は胄立に建置れ。御采は持せ給はざりしに。石川主殿頭忠總が美濃の國士丸毛三カ兵衛といふ故實心得し者のこと葉にしたがひ。竹切て獻りしを御用ありしとなり。また御旗竿の損ぜしにより。改造せんと申上れば。無用にせよ。竿になる程の竹は何地にも有べし。旗さへ見ゆればよきものなりと仰られしとぞ。(武事記談。ェ元聞書。)
刀は中砥にしたるがよし。能きるゝものなり。また夜中などひからすにもよし。又刀の柄鮫は大粒なるよりは。小粒なるを漆にぬり。柄をば樫木にてかきいれ。小き目貫打たるが定用にもよしと仰られしとなり。(三河物語。中泉老人物語。)
藤堂高虎が御談話に侍る折から仰られしは。天下の主たりとても。常々練熟せでかなはざるは騎馬と水泳なり。この二つは人して代らしむる事のならぬわざなり。またあきなひとする事二つあり。米と馬となり。米穀は天下一日もかぐべからず。馬もたゞ飼殺すべきにあらず。よく國用にあてゝ駈使すべきなり。また刀劍の審鑑もしらで叶はざるなり。常に身を離さゞるものなるに。新身古身のけぢめもしらず。金味も分らずして帶せりとても何かせん。このむね折をもて將軍へも申されよと宣ひしかば。高虎かしこまりて夜話の折申上しに。將軍家も御感ありて。この二技は御演習あり。また本阿彌をも召出て。絕ず御差料の寳刀ども數多かりし中にも。宗三左文字と名付しは。織田右府が桶挾間にて今川義元を討し時。義元がはきてありしなり。長さ貳尺六寸あり。菖蒲正宗と號せしも。野中何がしといふ微賤の者の獻りしにて二尺三寸あり。この二振は殊に御祕愛にて。替鞘をあまた作らせ置て。御身さらず帶しめしなり。關原のときは菖蒲。大坂には宗三をはかせられしとか。また三池の御刀も御重器にて。元和二年薨御の前かた。都筑久大夫景忠に命じ罪人をためさしめて。御遺言にて久能の御宮に納め置れしなり。また本庄正宗といふは。上杉謙信が家臣本庄越前守繁長が差料なりしが。繁長窮して賣物にせし時御手に入て御重愛あり。後に紀伊ョ宣卿に進せられしを。また彼家より献られ。今に御寳藏として。歷世迁移の御ときにはまづこの御刀を進らせらるゝ事にて。三種の神器うけわたさるゝごとく。いとおもたゞしき御先規になりしなり。(藤堂文書。武功雜記。坂上池院日記。武林叢話。)
三河にて牧野半右衞門康成。商人のもとより刀をうらんとて見せしを御覽に入しかば。つくづく御覺じ。こはよく切るべきものなり。買置べしと上意にて。半右衛門購求し置たり。その後御刀のためし仰付られし折から。この刀もこゝろみさすべしとの命にてこゝろみしに。果してよく切れしかば。半右衛門兼ての御審鑑露たがはず。土壇まで切入しとて感じ奉る旨聞え上しに。御けしき斜ならず。御ためし奉はりしものもかへり來て。先にためさんとせし時。半右衛門目を塞ぎ。哀れこの刀御目利のごとくきれよかしと念願せしと申上しかば。君御咲ありて。さらば其刀目眠刀と名付よと仰ありてかく名付。世々に寳藏しけり。こは保昌五カ貞吉が作なりしとか。又天正の頃御鷹野の折から。油を賣もの御路を遮り不禮のさましたれば。彼打とめよとて御佩刀を近臣西尾小左衛門吉次に授け給ひしかば。吉次直に追かけて切しに。しばしがほどはあゆみ行て。兩斷に成て倒れしかば。その御刀を油賣と名付て祕愛せられしが。後に吉次にたまはりぬ。また向井兵庫頭正綱小田原の役に。敵の大將鈴木彈次カといふ者の首取て實撿に備へしに。頥より下齒をかけて斬落せしかば。御感のあまり其刀をめして御覽じ。後にまた召れしに。故有て人に渡し置て御うけ申かねしと聞し召。二百俵をもて購求し。やがて正綱に返し下されしとぞ。(家譜。)
渡邊三カ太カといふは。元豐後の大友が家人なるが。大友の命にて入唐し。石火箭の製作をよび放し樣をならひ心得て歸國しけるが。大友亡て後は三カ太カも流落し宗覺と改名し。同國府內の城主早川主馬が方に寓居してありしを。主馬よりかの石火箭を御覽に入しかば。こは軍用にかくべからざるものなりとて。宗覺父子を召出され。度々御用を仰付られ。殊に大坂冬の役には。駿府へめし石火箭調して奉り。夏の役にも供奉し。落城の後城中にて燒し銅鐵の類を。ひとつに吹まとめて奉り。後年に至り領邑を賜はり。世々この御用奉る事となりぬ。(貞享書上。)
この卷はすべて御武備の事を記す。 
卷廿四 

 

なべてえうなき御遊戱は。このませ給はざりしが。時としては申樂を御覽じ。あるは圍碁將棋などもて。御消閑にもてあそばれし事もありしかど。ふかく御心とめられしにもあらず。たゞ鷹つかふことばかりは御天性すかせられ。御若年より御年よらせらるゝまで。いさゝかもいとまある折は。かならず出立せ給ふことなり。旣に長久手の戰ひ畢り。豐臣秀吉が許より土方下總守雄久等を使として。御上京の事を勸め進らせしに。三河の吉良の邊に狩せさせ給ひしが彼等を召出。御手に据られし鷹を指し給ひながら。われ此頃は鷹つかふをもて。明暮のたのしみとす。都方は織田殿のすゝめにて一覽せしかば。今はた見まくもおもはず。さりながら秀吉あながちに我をのぼせむとて。軍勢さしむけんには。この鷹一据もて蹴ちらさんものをと仰られしかば。雄久等大に恐れて京へ逃歸りしとか。また奥の景勝御追討の時御路すがら軍議をば後にせられ。たゞ鷹のことばかりに御心とめられしさまなれば。本多中務大輔忠勝あまりの御事なりと申せば。いやとよわがかくたはれたる樣するは。汝等をしてよき幸得させむがためなりと仰られき。また常に人に御物語ありしは。おほよそ鷹狩は遊娛の爲のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦。土風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ。風寒炎暑をもいとはず奔走するにより。をのづから病など起ることなし。その上朝とく起出れば宿食を消化して。朝飯の味も一しほ心よくおぼえ。夜中となれば終日の倦疲によて快寢するゆへ。閨房にもをのづから遠ざかるなり。これぞ第一の攝生にて。なまなまの持藥用ひたらんより。はるかにまされりとの仰なり。されば御好の深くおはしませしは。元より遊畋に耽らせたまふにもあらず。一つには御攝生のため。一つには下民の艱苦をも近く見そなはし。山野を奔駈し身躰を勞動して。兼て軍務を調練し給はんとの盛慮にて。かの晋の陶侃といへるが。甓を運びしためしおもひ出ていとかしこし。(中泉古老諸談。)
御鷹野のさきざきへは。いつも女房共召連られ。そが內にて上揩セちしは輿にのり。その餘はいづれも乘懸馬に。茜染の蒲團しきてのり。市女笠の下にふくめんして供奉する事なり。いつの頃にや例の泊狩に出立せたまはんとて。本多上野介正純諸事奉りて指令しけるが。ひそかに伺ひ奉りしは。いつも御狩塲へ女中を馬にのせて召つれらるゝ事なるが。今泰平の折から。御前ぢかく侍ふ女房共が。馬上にて顏面をあらはすも。あまり失躰なれば。この後はなべて乘輿せしめんと申す。君聞しめして。汝が申所理なり。されど人々その分の高下によりて。行所の事また異なり。小身なれば諸事手輕にするは勿論なれども。時としては鄭重にする事もあり。大身はをのづから重大なれど。また輕便にしてかなふ事もあり。これはその時宜に應じてかはるなり。一樣には心得まじきぞ。おほよそ鷹狩は。たゞ鳥獸を多くむさぼらん爲のみならず。無事の時なりとて。上下共に身を安佚に取ては。手足たゆみておのづから急遽の用に立ぬものなり。されば鹿狩鷹狩などして。上も下も身をならし。乘物をすてゝ歩立になり。山坂を凌ぎ水流をかちわたりし。さまざま勞動して身躰を堅固にするなれ。かつは家人等剛弱の樣をかうがへ見るにも便なり。家人もまた奔走駈馳するによりて。歩行達者になりて物の用に立なり。かゝれば大名の狩するは軍法調練の爲なり。但し軍中に婦人を携へざれども。狩は遊娛を兼たれば使令のたよりよからしめむ爲に。婦人を召つるゝなり。元より乘輿の者は馬にのり。騎馬の者は歩行になるならひなれば。輿にのるべき女の馬に乘て供するは相當の事なり。大身も手輕にしてすむとはかゝることぞ。汝重役をも奉はりながら。その分别がなくてはかなはぬぞとて。ねもごろに御教諭あそばせしとなん。(岩淵夜話别集。落穗集追加。)
御狩の度ごとにあらかじめ厨所を定められ。御着あれば常に燒食を召上られ。また時によりてはさきざきの民家に入せたまひ。芊など煮さしめてめし上られ。饑にあてられしとぞ。いと眞率の御事どもなりき。(ェ元聞書。)
慶長四年十一月の頃大坂におはして。世の中もやゝ靜かなれば。搏c右衛門尉長盛めして。我若年より鷹狩をもて樂とす。近年は故國を離れ當地に滯留して。何の暇もなきまゝ鷹の据樣だにわすれたり。此頃世も穩なれば郊外に出て鷹試み。少しはこゝろをも慰めむと思ふ。されど此折から鷹の一聯だになし。其もとさるべく計はんにやと仰あれば。長盛うけたまはり奉り。いと易き御事之。よきに計ひ申さんとて。太閤在世の時鷹の事司りし佐々淡路守搏c若狹守に命じ。鷹師どもよび集め。よろづむかしの如く用意し。供奉には御心易きかぎりの織田有樂。細川幽齋。有馬。金森。木の三法印。山岡道阿彌。岡江雪。前波半入。御家人には井伊兵部少輔直政。榊原式部大輔康政。酒井內記忠重。同與七カ忠利など御輿の後にしたがひ。終日狩くらしたまひ。其夜は攝州茨木に宿らせられければ。當地の代官川尻肥前守宗久御膳を奉り。明る六日に還御なり。佐々搏cへは御使もて銀時服たまひ。鷹師どもへは關東絹銀。大飼餌ざしの類は銀あるは鵞眼をこぢたてくだされしかば。いづれも盛旨をかしこみ。いつもの內府公の吝さにはひきかへたり。兎角凡慮の及ばぬことと驚歎して誦譽し奉り。御威望のそはせ給ひし事大方ならざりしとなん。(落穗集。)
慶長十七年正月三河の吉良の邊に御狩ありて。御みづからとらせられし鶴を。仙洞へ進らせられ。廣橋勸修寺の兩傳奏へもつかはさる。同月また御鷹の鶴を內に進らせ給ふ。これぞ後々御拳の鶴を京へ驛進せらるゝ恒例とはなりしなり。(駿府政事錄。)
おなじ年二月三日遠州堺川二上山にて御鹿狩あり。勢子五六千人弓銃もて駈立らる。唐犬六七十疋を放たしむ。この時銃技に名を得し者あまた召つれられしかば。猪二三十ばかり御得物あり。また天正の頃三河の吉良に狩せさせたまひし時。手負し野猪御前近くはしり來りしに。旗下の士春田半兵衛將吉馳出て組とめしかば。御けしきのあまり。これより汝が名を猪之助と改むべしと仰付らる。常に御狩にならせらるゝに。鏃をぬかせられ。又は根矢ならばあたらぬやうになさしめしとぞ。御仁心の一端うかゞひしるべし。(駿府政事錄。家譜。天野逸話。)
ある時曉ふかく狩に出立せられしが。いかなる思召にや十町ばかり成せられて俄に還御ありしに。御城門閉たれば。明よと仰けれ共。番兵どもあやしみてとみにあけず。火をともし尊顏をしかと拜してのち門開きしかば。人々無禮の所爲なりといひしが。かへりてよく其職をまもり心を用ゆるとて。衣服など給はり褒せられしとぞ。(續武家閑談。)
いづれの地かほど遠き取に御狩ありしに。折しも雪降出て供奉の輩のぬれそぼつさま御覽じ。御輿の戶を明られ。いとおかしの景色かなと宣ひて。御自らもぬれそひ行殿に着せ給ふにも。御身にかゝりし雪拂はんともし給はず。いそぎ粥煑よとて煑はじめ給ひ少しめし上られて。殘りはみな御供のものに給ひ。これたべてあたゝまれと仰ければ。いづれも御仁意のかしこさに挾\の思ひをなしけるとなむ。(天野逸話。)
一とせ駿河より江戶へわたらせ給ひ。武相の間御狩ありしに。御塲の內にもちなは張てありしを御覽じ。こは誰がせしことと御糺あれば。山常陸介忠成。內藤修理亮正成兩人が申ゆるせしゆへなりと申せば。にはかに御けしき損じ。誰なりとも我留塲にて。かゝる曲事せしめしこと奇怪なれ。將軍はしりたまはぬかと宣へば。此よし江戶に聞え。將軍家も驚せか給ひ。兩人を誅せられむと思召ども。かれ等いとけなきより。御側近くめしつかはれ。今さら誅せられんにも忍びたまはねば。駿河へ還御の後。阿茶の局もて御けしきとらせ給ひしかども。何の御答もましまさず。かくてはいかゞせんとおぼし召。本多佐渡守正信を御使につかはさる。正信駿府に參り謁見して。こたび若殿には山內藤の兩人を誅して。御怒を休められんと宣ふ。正信などもかく老年に及び。彼等がことくいさゝかの過誤にて。御誅戮に逢んもはかりがたし。此後は江戶の仕を返し奉り。こなたに參りて餘命をつながんと存るよし申せば。御心とけ給ひ。將軍には左樣まで心かけらるゝや。さらば兩人の罪ゆるさるべしと仰有て。しばし門とざして籠らしめ。其職をばゆるさしめしとぞ。(武家閑談。)
世治りて後御狩に出立せ給ふに。明日は何時に御出がよきといふを。いつも天海僧正に問しめらるゝ事なるが。和尙常に巳刻がよしと申。後に御不審に思して。刻限の吉凶も日によりてかはるべきに。御坊は例巳の刻がよしといふはいかなるゆへぞ。天海承り。さればにて候。御軍陣の時ならば。日時の吉凶方位の向背によりて時刻の遲速も侍れ。只今四海一統して何の御心配もおはしまさず。この時に乘じて鷹を臂にしたまひ。郊外に出て御遊興あるに。時刻の早ければ。供奉の輩曉深くより起出て。寒夜ならば風霜にあたり。夏なれば短夜にくるしみ。いとからくも思ひ侍れば。いつも巳刻と申上るは。御時宜を見はからひての事なりと申上しかば。君にも和尙の心用こそ。理なれと仰けるとぞ。(及聞祕錄。)
丹澤七右衛門正忠といひしは。武田が家人なりしが。關東へうつらせたまふころより當家に參り。元より鷹の事に精しければ。いつも御供にめし加へらる。ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案內よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。はたして路絕たれば咲はせ給ひながら。丹澤かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。また鳥の有無を見せにつかはされしにかへり來て見えずと申。やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹澤いかに汝には見えぬかと宣へば。先にはなかりしがたゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまたまた咎め給ふ。還御のゝち。今日は日ひとひ丹澤とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。後に其日ならせられし道路の經營の事仰出されしに。代官等いづれの地かと伺へば。先日丹澤とあらがひし所よと仰られしにて。速に分りたりしとぞ。かく御遊行の折の事も。よく御心にとめられ。誰はいつの時いづれにて酒のみし。膳給はりしなどゝおぼしいでゝ仰られし事つねづねおはしましき。(校合雜記。家譜。)
大井河の邊に萬年三左衛門重ョといへる。頗る富豪のものあり。五月ばかりの頃御狩の折。重ョが農民に命じ田代をかくさまを御覽じ。御戱に彼が馬把ことごとく取あげ鼻あかせんと宣ひ。御供に命じみなうばひとらしむ。重ョことゝもせず。又外の竹把とり出て元の如くにかゝしむ。君は小高き所におはして御覽じ興ぜさせたまひ。逸物の萬年かなと仰られ。のちに其邊の代官とせらる。(此子孫正コの頃まで代々遠州の代官たり。今は江戶に參りて子孫御家人たり。)又中泉より朝とく加茂村の邊に成せられしに。平野三カ右衛門重定といへる豪農が家の棟に。庭鳥あまた上りて鳴呌ぶ樣を御覽じ。何者なるぞと問せ給へば。平野三カ右衛門と申す。いと賑はしき躰かなと仰ありて。これも代官命ぜらる。此重定元は美濃の國の者なるが。永祿の頃當家へ參り加茂村に住せしなり。又中原の行殿預り奉りし大石重左衛門某は殊に御けしきにかなひ。御狩の折常に重左重左と召せられ。ねもごろの仰蒙る事常々有しとぞ。(中原古老物語。家譜。)
安信といへる明國の人歸化してありしをめして。唐船の事どもつばらに問聞しめ。日本の船と戰は。鷹に鶴とらする心ならでは勝事を得まじ。まづ千町程の田に鶴が多くむれ居るを。逸物の鷹千据放つとも。つかふ者拙くては捉事ならず。巧者の鷹逐ならば。あらかじめ寄を作り肉あてして。天氣の陰晴と風の向背とを見定めしうへ。鷹の氣合を考へて放てば。一据にても鶴を捉事うたがひなし。何ばかり俊鷹なりとも。己が力のみにては鶴のごとき大鳥をとる事は叶はず。唐船は鶴のごとく日本の船は鷹のごとし。日本の人何ほど剛なりとも。計策なくては唐人を制する事を得んやと仰らる。こは鷹の使ひやうもて。軍機にたとへたまひし御詞なれど。常々鷹の事に御練熟ありし程うかゞひしるべし。(君臣言行錄。)
暮春の頃御狩ありて。田野の樣を御覽じ。供奉の者へ。今年の麥は豐饒と見えたり。汝等しりたるかと宣ふ。各も心得ざるむね申。おほよそ麥穗の左の方へなびきしはあしく。右の方へ靡きしはよし。そがうへに幼きものどもの。顏色つやつやとしたるは。母の食物多くて乳のよく出るゆへなり。また去年の芊を土中に貯へ置て未だ堀いださゞるも。常糧の足しゆへなりと仰けれは。供奉の輩かゝる農事の纎細なるまで。知しめしける事よと感歎しけるとなり。(名將名言記。)
鷹匠鳥見の輩が威福をはりて。農民を騷擾せしむるよし訴出しに御咲有て。隨分威を張がよし。かれ等さへかゝれば。其上つかたの官長は猶さらの事とおぢ恐れて。異心を抱く者なし。百姓の氣まゝなるは一搔をおこす基なり。さればとて鷹匠鳥見はた代官等が。非法の擧動するを捨置ば。百姓の難儀になれば。難儀にならぬほどにして氣まゝをさせぬが。百姓共への慈悲なりと仰られき。(校合雜記。)
甲州士に淺利兵庫といひしは。鷹の療治に達せしとて召出さる。或時常に愛養せらるゝ鷹の血筋出たり。捨置ばこの鳥落なんと申により。其筋取しめられしが。後に聞しめせば。鷹の眼中に臙脂もてすぢ引置て。己が功にせしなりとぞ。其折我あまり鷹ずきゆへ。はじめて人にたばかられしと仰られき。この者生質僞詐多きものにて。甲斐の一條が孀婦を。三宅彌次兵衛正次が妻に媒介せし時に。君の迎へさせ給ふといつはりし事露顯し。當家を逃出て蒲生氏クが方にゆき。コ川殿我鷹の祕藥を相傳せよと有しをいなみしにより。誅戮せられんといふをおそれて迯來りしなど。あらぬ僞をいふ由傳へ聞しめ。大にいからせ給ひ。氏クが許に仰下され。召捕て誅せられしとぞ。(紀伊國物語。)
金森五カ八長近入道に。畿內にて鷹塲を下され。明る年謁見せしに。汝鷹塲にて鶴とりしやと尋給へば。入道鶴とる事は未だ御ゆるし蒙らねば。たゞ鴈鴨のみとり侍ると申せば。さらば鶴とらん爲にとて。鶴捉の蒼鷹一聯。黃鷹二聯を下されしかば。入道も盛慮のかしこきを謝し奉り。其後この鷹もて鶴を捉て献りしかば。御けしきうるはしかりしとぞ。(ェ永系圖。)
大阪夏の役に伊達政宗手勢引具し打てのぼり。相摸の中原にいたり鷹つかひしに。この所は御留塲にて大岡何がし守りたるが鑓提て出來り政宗にむかひ。某があづかりし所を。かく狼籍せられては。大御所へ對し奉りて申分立ず。我首取て御覽に入られ。某が緩怠にあらざるよし申されよとのゝしれば。政宗も當惑し。全く我心得ざるゆへ。斯る粗忽に及びしなり。ひらにゆるされよ。大御所の御前は。政宗よきに申上むといひて别れけるが。上京の後此よし申上て謝し奉れば。君御咲ありて。さもありなん。かれは安祥以來の舊臣にて。世々武功もありていと剛直のものなり。惣て三河の者は主命を大切にし。まもる所强きものなりと宣へば。政宗うけたまはり。御家人は末々までもよきもの多く侍りぬとて殊に感賞しけるとぞ。またある時上の御留塲と。政宗に下されし鷹塲と相隣りてありしに。政宗一日獲物少かりしかば。ひそかに御留塲に入て。鶴など狩得て興に入し折しも。君の俄にならせらるるを見て大におそれ。鷹などかくして迯たりしが。君もまた御馬を早めて。乾濠のうちに入せ給ひぬ。其後政宗まうのぼり謁せし時。先日汝が鷹塲に入て鳥とりしが。汝が來るを見てからぼりの內に隱れたりと宣へば。政宗うけたまはり。さん候か。その日は何がしもひそかに御留塲を犯せしが。君のならせられしゆへ。俄に竹林の中ににげ入ぬと申せば。いや其時汝が竹林にてわれを伺ひ見るかと思ひ。猶さらいきまきて迯たるなり。かくかたみに相しりたらば。さまでいそぐにも及ぶまじものをとて。どつと御咲あれば。伺公の面々もたまりかねて同く咲出しとぞ。(武コ編年集成。明語集。)
慶長十八年十月の頃にや。戶田浦和の邊御狩の時。今泉村といふ所へならせられしに。かこかなる菴室あり。何といふと聞せ給へば。住僧片田舍にて别に名も候はぬよし申上。折ふし庵室の軒端に。菜を十連ばかり編て。日にかけほしたるを御覽じ。さらば干菜山十連寺と號すべしと仰ありて。寺領十六石餘寄附せられしとか。御即興のいと捷妙なる。いふばかりなくおかし。(寺傳。)
駒木根何がしは御狩の事奉りて怠りなく勤れば。常に御けしきにかなひ。一年C水に御狩あらむとて。とく出立せたまはんとするに。また夜深ければ何時なりとたづね給ふ折しも。駒木根出來れば。汝は何とてかく早くは參りしと宣ふ。駒木根申は。殿この二年ばかり御暇ましまさで。鷹野にも出たまはざりしかば。定めて今日は早く出立せ給はんと存て。いそぎ參りしなり。やがて夜も明なん。とくとく出ませと申せば。御けしきよく出立せ給ふ。其折駒木根御はかせ持て。御右の方に附そひ參れば。腰物はいつも主人の左の方に持べし。急事あらんときに便よしと御教諭ありしとぞ。(紀伊國物語。)
御在世のときさばかり鷹を愛せられしをもて。元和三年四月靈柩を久能より日光へ移し奉り。はじめて御祭祀行はれし時。行列の內に鷹の造物十二据を二行に立。御生前に御手にならされし鷹二聯を。鷹師二人して据しめ。御宮の前に至る時これを放しむ。今にいたりても造物の鷹を。御祭儀に列せらるゝは。此時の例を追せられてなり。又大猷院殿ェ永十四年戶澤右京亮政盛が領邑よりとりし逸物の鷹をまいらせしが。御けしきにかなひ。年頃御狩の度ことに用ひさせ給ひしを。慶安元年四月御祭禮のとき。是を御宮の前に放たしめて在天の靈に備へ給ふ。又ェ永十九年十一月丹頂鶴をとりし鷹を。戶田久助貞吉もて日光山へ献られし事もあり。これより先十一年搶緕宸フ安國殿御造營ありし時。御殿の內の障壁にことごとく鷹を畵かしめ。御門にも鷲を縷ばめ。鷹の門と名付らる。かくとりどり世に御はしませしほどの御好嗜を追せられて。代々御孝思を盡されし御事かしこしと申もおろかなれ。(元ェ日記。羅山文集。君臣言行錄。人見私記。)
此卷は御鹿狩御鷹野等の事をしるす。 
卷廿五 

 

紀伊亞相ョ宣卿いまだ幼弱におはせしとき。川狩に召具せられ。此川馬にのせて渡らせよと。かしづきの者に仰有て。手綱持しめ口とり付そひてわたしけるに。卿幼き心にもいと危しとおぼせしさま見えければ。人々前後をかゝへて渡し進らせしを御覽じ。臆したることかな。たゞ手放して渡せと宣ひぬ。後にまたいざなはれて出ませしに。小川のある所にて。あれ飛越よと宣へば。卿先の事恥しとや思ひ給ひけん。仰のまゝに飛れしが。とび損じて水中に落入給ひしかども。兼て水底に網を敷て置しめられしゆへ。落らるゝとひとしく。近臣等引上進らせしなり。かく御幼稚の時より武邊の事もて御教育ありしは。いともかしこかりし御事と。卿の年たけてのち人に語らせたまひしとなむ。(校合雜記。)
越前黃門秀康卿ある時腫物煩はれ。久しく見えたまはざりしかば。上にもいかゞと心許なくおぼしわたり。日頃ありてやうやく癒てまうのぼられしかば。待遠におぼし召さまざま御もてなしの設どもあり。いまだ御對面なき間に近臣を召。秀康が腫物全くいえしや。汝等見たるかと宣へば。御平愈には候へども。いまだ餘痛のおはすと見えて。御面に膏藥張せ給へりと申せば。俄に御氣しきかはり。越前の家老よべとて召出。けふは久々の對面なれは。申樂など申付つるが。おもふ旨あれば逢ざるなりと仰ければ。家老ども大に恐れそのよし卿に申す。卿もいかなる故をしらず。强ちに申請れむもいかゞと思はれ。其日はまづまかでられ。のちに度々御けしきとられしに。秀康こたびの腫物にて。面躰の見苦しといふ事は我元より聞置ぬ。さるに過し日のさまかくさんとて張藥せしとか。旣に癒たらば藥附るに及ばじ。たゞ外見をよくせんとてかくものせしは。秀康に似つかはしからぬことなり。すべて外貌を飾るは。公家か市人のすることなれ。武士は何程形が醜しとていとふに及ばず。病によりては目の拔出るも。口のゆがみ手足の指落るもさまざまなり。いさゝか耻べきにあらず。秀康我子として一方の大將をも奉はる者が。鼻の醜きを耻て張藥せしとありては。人々の聞思はむ處もいかゞなり。さらでだに上の好む所は。下是を學ぶならひなれば。秀康が此さまを其家人ども見ならひて。一藩みな虛飾の風をなさば。いといとひが事なり。かゝる故もて先日は對面給はらぬなり。よくよく申聞よと諭されしかば。卿もはじめて心付給ひ。盛諭のかしこきを感ぜられ。さまざま謝し申されしによて。御心とけて重ねて許謁ありし日は。ことさらの御饗待にて。引出物などもあまた賜はりしとぞ。(君臣言行錄。)
金森長近入道が。領所より鮭をわらづとにして献りしを。其子出雲守重ョあまり失儀なりと思ひ。竹簀もてつゝみかへて献りぬ。これを御覽じ重ョに。汝が父の許よりかゝる樣にておこせしかと宣へば。重ョわらづとにせしが。あまりに見ぐるしければつゝみかへたりと申す。さこそあらめ。汝が父の入道などは。さるえうなき形作るものにてなし。すべてこれのみならず。親のせし事はもどらぬものぞ。よくよく心得べしとさとさしめ給ひしとなん。(野翁物語。)
いつの頃にや。申樂ありて諸大名に拜覽命ぜられ。其家人までも見る事をゆるされ。芝居に並ゐて見いたりつるに。笠用ひよと命あれど。かうぶらざるものあり。こは上杉景勝が家人ならむとて尋られしかば。はたして上杉が手のものなり。よて殊さらの仰にて用ひしめしとか。その折三人片輪の狂言ある定なりしが。伊達政宗拜覽の列にありしかば。これを停められしなり。政宗一眼しゐしをもて咲止におぼしめされてなるべし。また政宗に御手前の茶下されし時。釜の葢いたく熱せしを。知しめさでとらせられしに。ゆげかゝりしかば思はずに御手を引せられしを見て。政宗ふと咲ひ出ぬ。やがて又釜の葢のいよいよ熱せしを御手にとらしめ。しばらく持しめて。陸奥釜のゆげなどに。手を引事にてなしと仰けるとかや。(ェ元聞書。永日記。)
常に燒火を好ませられしをもて。皆川山城守廣照より。京のK木のごとくに。榎の木をもて作りて献りければ。いと御けしきに叶ひ。後々は御好にて奉る事なり。さるをうけたまはり傳へて。佐竹右京大夫義宣より。皆川が奉りしよりは一きは見事につくり立て。料理鍋をさへ添て獻りければ。思ひの外に御けしきあしく。御次に捨置れて後々御覽もなし。これを御好のよしを佐竹が方へひそかにいひやりし者ありと。おぼし召ての事ならんと人々いひあへり。すべて御前わたり勤るものゝ。諸大名へ內意通ずる事をば。殊に嫌はせたまひしとて。本多上野介正純が人に語りきとぞ。(古老諸談。)
豐臣太閤あるとき。東國にては本多忠勝。西國にては立花宗茂。この二人は當今無雙の勇士にて。天下の干城ともいふべしとて。二人を引合されしにより。二人懇にいひかはし常々會合せり。宗茂は忠勝が己れより年長じて。軍事にも老練すればとて。いつも忠勝に就て武邊の物語ども聞り。一日忠勝がいひしは。我等主人には年若きより。何事に附てもはきとせし事申さざる故。忠勝など常に心えなくのみおもひ渡りしが。近頃となりてはじめて思ひあたりしなり。惣て上より下を見るに。下ざまの事はよく分るものにて候へ。其分るに乘じて下々をせめつかへば。下々の者は頭の出べき樣なし。かゝれは主人には若年より。是等の所をくみはかられ。なるたけ下の者をェ容にあしらはれし事と見えたり。忠勝も折々此事をもて江戶の黃門へ語り聞せ。若年の主の警戒とする之と申せば。宗茂も思ひの外にかしこき事承はりしとて。いたく感歎しけるとなん。(明良洪範。)
ある時片田舍の物語に。小僧三か條といふ事のあるが。をのをのは聞たるかと。侍座のものへ仰られしに。いまだ承り侍らざるよし申上れば。さらば語りて聞せん。さる山寺の住僧近き邊の村人の子をたのまれ。小僧として召つかひたり。一日小僧寺を遁れ出て。父母の許に來て申やうは。兼て教へられし如く。出家の素意遂んと思ひつるに。あまりに師のからきめ見せらるゝに。たえられずしてかへりきぬといふ。父母そは何事ととへば。小僧外の事はさて置。さしあたりて堪難き事の三か條侍る之。第一は師の坊髮をそりならへといひて剃しむるに。元より手馴ぬ事なれば。剃刀の先いさゝかにても頭にさはりて血など出れば。手荒き剃樣なりとて。ことごとしく勘事にあひ。第二には味噌すれとてするに。すり樣あしゝとて朝夕うちたゝかれ。第三は厠にゆけば。何しにゆくとてせめはたる。日每にかくのごとくなれば。いかで一生堪らるべき。身命もつゞきがたしとて。泣ぬばかりにいひ立れば。父母大にいかり。さるにてにも法師に似ぬ。あまりなさけなきしかたさよといひて。いそぎかの山寺にゆき。兼てもョみ進らせし小僧の事。しかじかのよしなれば。いまはせむかたなし。父母のかたに引取て百姓にいたすべし。いとまたまはれといきまきていへば。師の坊聞て。出家といふ者は。さらでだに難行苦行を重ねゝば。得道はならぬもの之。御邊が如く。小僧の申事ばかりを信とおもひ。呼かへさむなどいはるゝ樣の淺き心にては。小僧も出家はなるまじ。寺にありて詮なし。返し申さむ。されど外々の擅越の聞處もあれば。一とほりは小僧が詞の違を申てしらせん。抑味噌のすりやうがあしゝと申は。味噌はすりこぎにてするは。いふまでもなきを。かれは子の裡もてつぶしぶしすれば。さはすまじきにと度々教へ聞ゆるにとかく用ひず。これ見たまへとて。厨下より折損ぜし子二三本とり出て見せしむ。また厠へゆくをとゞめしといふは。わぬしもしらるゝ如く。年每代官巡視の折は。いつも當寺に寄宿せらるゝにより。そが爲に客殿の邊に新に厠を作り。愚僧はじめこれに入事はせざるに。小僧一人己が領して朝夕かよへば。さなせそといへど聞入ず。又髮をそるは。僧の戒業と同樣の事にて。せでかなはざるゆへ。かねて剃ならはせんと思ひ。愚僧が頭をかしてそらしむるに。この程はをのが頭をも剃得るほどに手馴しかば。さきに愚僧が頭をそらしむれば。わざとおこたりてかくの如くになしつとて頭巾脫て見すれば。頭の內あまた切はづり。血留などいく所にもつけたり。此始末聞てかの父はじめておどろき。我子の愛に引れて師の坊が懇切をおろそかに思ひしは。近頃恥しけれとて。さまざまいひこしらへてかへりしとか。これは賤しの農家の爐談なれ共。國家の大事にもたとへつべし。おほよそ家國の主として。あまたの家人を召つかふに。此心得あるこそ第一なれ。人の詞を聞にかたよりてのみ聞ば。かく理に違ふ事あるものなりと仰られき。むかし唐太宗が。明君と暗君とのけざめはいかにと臣下にとはれしに。魏徵が。かたよりて聽は暗く。普く聞は明かなりと對へせしも。全く此教諭にひとしき事と。うかゞひしらるゝになん。(駿河土產。)
前波半入御談伴にて。四方山の物がたり聞え上しとき。ある田舍の庄屋が瞽者に平家を語らせ。一村の者に聞せんと思ひ。その旨を村中に觸しめしに。里民ども聞あやまりて。平家汁をふるまふと聞。一村うちより。こは珍事こそ出くれ。平家といふものいかゞして食んかと議す。一人いはく。何がしの老人こそ。かゝる表立しき作法は心得てあんなれ。ゆきてとひ見んとてたづねゆきしに。老人常は我事を老ぼれたりとて。かずまへ給はざれど。この事は心得てこそあれ。この汁啜らむものは。新しき椀を用意して喰ふならひなれとおしゆ。いづれもされば年のろうほどあれとて。新らしき椀を懷に入て。庄屋が許にあつまり。今に汁をすゝむるかと人々待煩ふ處に。思ひの外に瞽者一人出きて。ながながと平家をかたり。かたりさして後何を供する樣もなければ。みなのぞみをうしなひて歸りぬるとぞ。かゝ抵語の話もあるものかなと咲ひながら申せば。君には聞し召終て。俄かに宿老の人々を御前にめし。半入に。只今の話今度かれらにかたりて聞せよとありて。またおなじ物語せしうへにて。さて何事もすゑになりてはかく違ふものなれ。汝等が我命を下々へいひ傳ふるに。よく同僚と商議し。人々異議なきやうにすべし。さらずは汝等がつたへあやまると。下々の聞違ふとよりして。毫釐の事も千里の違ひに至るなり。これには心得あるべき事と御教諭有しとぞ。(古人物語。)
武州忍の城におはせしとき。伊奈備前守忠次に栗の實さづけてまかしむ。備前御前をまかでゝ。この栗めし上らんには。何程の御長壽ならんとさゝやきしが。年經て後に終に其栗實をなして供御になりしかば。備前いかにも盛慮の遠大にして。近利を求め給はざるを感じ奉り。此事につきて。むかし八九十ばかりの老人が木を植るを見て。側に居し人いつの用にか立むとあざけりしを。老人聞て汝が如くたはけたる人を。我父や祖父に持しゆへ。一生木に事を闕よといひしとか。すべてよきと思ふ事は。老てもなしをくべき之と人々に語りき。(聞見集。)
本多三彌正重は其のみ一向門徒たりしをもて。當家を立さり瀧川一益。前田利家。蒲生氏ク等に歷事す。氏クが許にありし時。ある日氏ク己が着せし胄に。銃痕の二三つあるを取出て正重に見せければ。正重見て。さてもこの人の武邊の程はしれたり。コ川殿などはかゝるいさゝかなる事。人にむきてほこらしげにいはるゝ事なし。よし領知たまはらずとも。なつかしき御方につかへ進らせんとて。慶長元年のころまた當家に立かへりしなり。(前橋聞書。家譜。)
菅沼藤藏定政はもと美濃國主土岐兵部大輔定明が遺子なりしを。定明その臣齋藤道三がために弑せられしのち三河に來り。母方叔父菅沼常陸介がもとに養はれ。十四の歲より御身近く召つかはれ。三河寺部の城責の時。御手づから鎧を着せしめ。貞宗の御刀賜ひ。先登し敵の首切て初陣の功を顯はす。あるとき定政御側にありて假寢し夢中に。定仙が事をいひ出せしが。時に定仙は甲府にあり。明の日仰に。汝外舅をおもふ事切なりと見えたり。さぞ對面せまほしくおもふらめ。いとまとらすべければ。心まかせにかしこにゆけと宣へば。定政御前をまかで朋友に語りしは。常々外舅の事を思ひしゆへ。夢中ながらも敵國にゆかんといひしは。今さら耻辱この上なし。腹切てこれまでの御恩にむくひ奉らんとて。すでに脇差に手をかけしを。朋友おしとゞめ。御前に出てそのよし申上しかば。定政をめし出され。先に仰られし事はみな一時の戱れなり。かならず心にとむる事なかれ。もとのごとくつかへ奉れと宣へば。定政かたじけなしと謝し奉り。朋友にむかひて。今日死せざるは恩命のかしこきゆへなり。後日戰塲にのぞみ。人に先だちて討死するか。または衆人にすぐれて。勇名を顯さんかとちかひしが。其後御軍陣の度ごとに。あまたゞひ武功を立しかば。いづれもその詞の空しからぬを感じ。君も御けしきのあまり。長光の御刀を賜ひけり。後次第に登庸せられ萬石に列し本氏土岐に復し。叙爵して山城守と稱せしなり。(ェ永系圖。)
牧野半右衛門康成さる高價の茶壺求め得しよし太閤聞及ばれ。半右衛門が身分として。かゝる重器を求しはいらざる事なり。罸金出せとて金一枚を上納せしめらる。君聞し召て御咲あり。後にかの家にて其壺を。科錢の壺と名付て珍藏せしとぞ。(貞享書上。)
牧野傳藏成里は十六歲にて。父の讐を討て當家を立退き。久留米侍從秀一また關白秀次につかへ。後に池田三右衛門輝政が所に寓居し。剃髮して一樂齋といふ。輝政が所領播州にありて。輝政により歸參の事をこひけるに。年月へても其沙汰なければ。ある時播州より伏見に參り。輝政にむかひ。させもが露も年ふりしなどほのめかせば。輝政いまださりぬべき折を得ず。成里は先歸國すべし。我又計はん樣もあれといひなぐさめて。其のち御夜話に侍する者に。此後折をもて。成里が事いひ出たまはれとたのみ置しが。ある夜三遠におはしませし時の御物語になりしかば。いつよりも御けしきよく御座を進められ。牧野傳藏と板倉四カ左衛門が緣故ある事にをよびければ。傳藏いまもながらへて有よし申上れば。君には何ともおぼし召ぬ御樣なれば。何れも堅唾を呑て居たり。この時輝政も御次の襖際に侍し仰を承りながら。このうへは加恩の地に引かへても。傳藏がこと執し申むとおもふ所に。江戶の者よべと宣ふにより。鵜殿兵庫重長が侍ると申せば。兵庫を江戶につかはして。こゝほどにて勇士一人ほり出したれば。進らすると申せと仰ありしかば。輝政喜びにたえず御次よりはしり出て。上意かしこきよし謝し奉れば。成里は大剛のもの之。ながらへ居て喜び思召よし仰らるれば。輝政近日召つれてまみえ奉らむと申せば。我逢までもなし。江戶につかはし將軍家にまみえしめよ。幸ひ明日は酒井忠世が井伊直政具して江戶に參れば。それと同道せよとありて。輝政御前をまかでむとするに。近藤石見守秀用が一族の何がし輝政が袖を引て。秀用が事もこの席に御ゆるしねぎたまはれといふ。輝政牧野が事だにからうじて御ゆるし蒙りぬ。いかでしらぬ秀用が進退。わが力のをよぶ所にあらずといなめば。かの者今日ほど御けしきのよき事はまたとあるまじ。ひらに御執たまはれとあれば。輝政かさねて御前へ出て申上しに。速に恩免をかうぶりければ。輝政はいふまでもなし。秀用スぶ事大方ならず。かくて成里は江戶に參り。還俗して舊名に復し。三千石の新地たまはり。のちに叙爵して伊豫守と稱しけり。(家譜。武コ編年集成。)
伏見彥大夫某いつも大太刀さし。奇偉の裝して供奉せしを見て。松平甚兵衛信直もおなじ樣の裝して出立しが。信直は御ちなみある者なれば。君御覽じて。汝は門地あるものなれば。威儀行裝も分に應じて。かるがるしきさますべからず。今日の樣は鎗持か馬の口取にひとしくていといやしく見ゆ。大將の儀容にあらず。をのれと卑賤に似するはよからぬ事なりと。おごそかに警しめ給ひけり。また武藤平三カ某といふが御放鷹の折。その頃は流行の曝元結にて髮ゆひしを御覽じ。御輿近く召。汝が髮を見せよとて。汝が祖父の掃部はあまたゝび武功も有て用立し者之。汝がやうなる髮の結樣はせざりき。祖父に似ぬたはけものかなと御しかりあり。これより旗下のものの髮のゆひやうむかしの風になり。元結を五卷より多くまかず。太き元結にていてふにゆひしとなり。(武邊雜談。感狀記。)
內藤何がしとていと猾狹の生質のものあり。いつも人の言葉を咎め。やゝもすれば鬪諍にをよぶ事度々なり。あるときめして。惣て人はさまざまの事をいふものなれば。多きうちには我こゝろにさはる事もあるべし。さるを一々心にとめて咎むるはよからぬ事なり。よくかうがへ見よ。戰にのぞみて明日は敵の內にて何がしといふ剛のものを討とらんとおもふこゝろを。汝が常に人の詞とがむる心に引かへて見たらば。えうなき詞咎めする暇は。あるまじきにと仰られしとぞ。(君臣言行錄。)
松平九カ右衛門重忠は御在世の程。みづから御像を彫刻して。年頃己が家にすへ奉るよし聞し召めして御覽あり。我なからん後にはこれを拜すべしと宣ひて。返しくだされしが。後に重忠卒し。子の與十カ忠Cも身まかり家たえしにより。次子九カ右衛門忠利が家に傳へしを。後に目白の養國寺に安置し奉りしとぞ。(家譜。)
箱根山御通行の折。長岡利助といへるが供奉しながら。少し御跡へ下り山中にて水のみしを御覽じ付られ。利助めは不孝なやつかな。かれが父は兄の仇打て手負しが。水を呑しゆへ俄にうせぬ。それをわすれて今水を飮は。なき父の事を思はぬふたしなみの至なり。おほよそ水を度々のめば。息がきるゝものよとて。其後は御前あしくなりしとなり。又天野何がしといひしは。元よりいひがひなき者なるが。かれは長久手の役に。主君を思ひ顏に見せて。にげうせしとて御咲ひありしとぞ。(駿河土產。)
ある時近臣の內に發狂せしものありて。御前にて同僚を切かけしに。徒手にて立むかひ。額に疵うけながら捕おさへたり。上意にけなげなるふるまひなれど。白刄もちしものに徒手にてむかふは危き事なり。かゝる者をほめつかはせば。後にあやまりて死するもの多からんとて。賞典にはをよばざりき。大猷院殿鷹狩の折。徒士の水に飛入て。鷹の鴈とらへしを賞せられざりしも。かゝる尊意を追せ給ひてならむ。(武備睫。)
酒井左衛門尉忠次の娘姿色すぐれし由聞て。牧野右馬允康成が己が妻にせんと思ひ。風のたよりもて忠次がもとへいひやりけるに。右馬允元來大膽のおのこなれば。忠次が心には。右馬允時の機變に乘じては。逆叛の志あらむもはかりがたしと思ひ。かゝる穩ならぬものに。最愛の娘をあたへんは心ならずとて。其事いなみしよし御聽に入しかば。牧野がごとき才幹あるものに汝が娘をつかはし。後にかれを引付て家臣となしなば。一方の助力ともなりなんと仰ありしかば。忠次も心を决して。つゐに緣邊をむすびしとぞ。(武功實錄。)
上田兵庫元俊は岡崎殿(廣忠卿御事。)につかへ奉り。三州明大寺の戰に松平藏人信孝を討とり忠功をあらはしたり。後年君元俊をめし。信孝織田方にくみせしといへども。實は我大伯父之。其孤女一人あるが。我常にかなしきものに思へば。汝これを迎へて妻とせんやと宣へば。元俊あながちにいなみ奉れば。汝は當家の譜代にて。ことに石川C兼が外孫なれば。門地といひ信孝が女に相そひて相當なり。彼女に三州八角村を與へ。汝に配偶せしむれば辭すべからずとの仰にて。遂に迎取て妻とせしとぞ。又戶田三カ右衛門忠次小M民部景隆と常々中あしく。やゝもすれば民部が事あしざまにいひなす。民部は九鬼大隅寺嘉隆が婿なり。九鬼關原の役に御敵戰せしかば。民部もこれに同意せりと。忠次いひかたむけむとす。君も咲止におぼしめせしが。其後民部が妻身まかりてひとり住なるに。幸ひ忠次に年頃の娘ありと聞し召。これを相そはしめて。和合せしめんとおぼし。ある時忠次に。われ汝によき婿とらせんと思ふはいかにとのたまへば。忠次かしこきよし謝し奉る。さらばわが媒するからは。わが定めん掟そむくまじとの誓狀を出せとて。かゝしめし上にて。小M民部が妻うせたれば。彼に住つかせよとの仰なり。忠次こは迷惑の事とおもへども。口かためられしうへは。違背し奉るべきにあらで。かたのごとくに婚儀をとゝのへたり。其後忠次民部にむかひ。兼て御邊が事をあしざまに申上しこともありしが。今かく離れぬ中とならむとしらば。あしきをもよきにとりなし申さんものをと。いと悔思ふさまなり。さるにてもかゝる私どちの事まで御心にかけられ。よく和順せしめたまはんとの盛慮こそ。かしこしとも申ばかりなしとて。かたみに感淚をそゝぎしとなむ。(ェ元聞書。)
下總の千葉が家にて諸人夜中にうちより面をつゝみ。そが家の執ネ始め奉行頭人等が。依怙する樣を誹議して。かたみに高聲に咲ふを。千葉咲といふよし御物語あり。これはかの家も末世にをよび國政おとろへ。いづれも愛憎を旨とし。贈賂盛りに行れしゆへ。下々にくみてかゝる眞似して。上役の者を誹議せしを。執政が警戒にもなれかしとおぼして語らせ給ひしなり。(駿河土產。)
あるときわらはやみにておはしけるに。さまざま治療せしめても。效驗ましまさず。この病おとすに妙を得しといふものありてめされしに。そのもの御ましの屏風の陰にたちて。さあ參るぞるぞといへば。何をするにかと咲はせられしが。やがて丸くくけし帶を。蛇の樣にしてなげ出たり。君にはおかしくおぼしめせしのみにて。いさゝか動したまはねば。御病もまた落ざりしとか。かれいやしの農民などの。病おとしなれし術もて。神聖の英主に對し。奇功を奏せんとせしこゝろのほどこそおかしけれ。慶長五年七月ばかり瘧疾わづらはせ給ひし事あり。これは其折の御事なるべし。(古老夜話。武コ編年集成。)
放鷹の御道筋へ。老たる嫗のいとけなき子の手を引て啼居たるがあり。あやしと覺しめし尋給へば。此邊に住者なるが。夜べあやまちて火を出せしにより。所の代官より。火をいましめざる科によて。住所を追はらはれしが。何地へゆかん心當もなければ。かなしさにたえでかくさまよふと申す。君聞召憐ませ給ひ。住所をたしかにしるさしめ。御供のものに命じ。兩人具して代官のもとにゆき。我いひしとて申べきは。たれもをのが家を燒たくてやく者はあらじ。もし火をあやまちしものが。他國へ追やらはるべきならば。家康も近き頃兩度まで城中より失火せしぞ。我をばいづくへつかはすべきや。さてもこの兩人は幸人なれ。我目にふれしゆへあはれとも思はるれ。元の如く家つくりてつかはすべしと仰付られしとぞ。(駿河土產。)
古人のいひし。金は火をもてころゝみ。人は言をもて試むといひし如く。人々の思慮の淺深は。其言語にてしらるゝものなれば。一言にてもかりそめにはいひ出まじきぞ。惣て僞にても。實らしく語れば僞がましからず。實にても珍らしきことは。僞がましく聞ゆるものなり。よて人は實らしき虛言はいふとも。僞がましき實事は語るべかずと仰られき。(名將名言記。靈岩夜語。)
武士の智慮才能あるはもとよりよけれども。なくてもことは欠ぬなり。たゞひたぶるに實直なれば。智能を待に及ばず。武士として義理に欠たるは。打物の刄がきれしごとしと仰られぬ。(中泉古老物語。)
人質をとるも。あまり久しくとり置ば。後には親子夫婦の親愛もはなれてかへりて詮なし。元より主へつかへ忠義を專ら主と心にかくるものは。親子にも思ひかゆるものなり。故に常々よくしたしませ置。時にのぞんで質にとれば。情愛にひかれてすて兼るものなり。されども質のみをョむべからず。わが義あるをもて。人の不義なるをうたば。石をもてかいこをうつが如しと仰られき。(駿河土產。)
朝夕の煙立る事はかすかにても。馬物の具きらびやかにし。人も多くもたらむこそ。よき侍の覺悟なれ。又世の諺に。武士の武士くさきと。味噌のみそくさきは。用ひられぬものといふは。公家か市人などのいひ染し事ならん。隨分武士は武士くさく味噌は味噌くさきがよし。武士は公家くさくても。出家くさくても。農商くさくてもならず。味噌がなまぐさく。こけくさくてもならず。たゞ本來の味噌くさきがよきなりと仰られき。(武野燭談。本多忠勝聞書。)
佛理をも深く御歸依ありて。いまだ三河におはしませし時より。御出陣の前には。いつも大樹寺へ渡御なりて。御祖先の靈牌を拜せられ。僧ども召出て法問聞し召れ。又關原御首途の日も。搶緕宸ノやすらはせ給ひ。法問聞しめせしとか。後に駿府にうつらせ給ひては。機務の御暇には搶緕宸フ源譽を召て。しはしば法義をたづね給ひ。または呑龍廓山了的などいふ淨門の龍象にも法問せしめて聞し召。また仙波の天海僧正を召て。天台の論義御聽聞あり。また曹洞の僧徒に法問せしめ。慶長十年の頃には天海僧正に命じ。叡山の老僧正覺院始。數人召呼れて論義あり。高野の學侶大樂院。多聞院。菴室院等にも眞言の論義せしめられ。興福寺の惣持院。喜多院。阿彌陀寺にも法家の論義をせしめ。また智積院。觀誠坊。長存坊。圓福寺等をして眞言の論義行はしめ。東大寺のC凉院。大喜院等には華嚴の論義せしめ給ふ。其度ごとに金銀衣服等かづけられ。または寺領をもまし下されしかば。諸宗の法師どもいづれも御仁恩をしたひ。優曇花のあらはれ出しをまちつけし心地せしとなん。(駿府政事錄。)
天海僧正はもとは奥の會津蘆名が支族にして。いとけなきより釋門に入て諸刹を經歷して。名僧智識に就て廣く參禪の功をつみ。後に叡山に上りて東塔南光坊に住し。慶長十五年はじめて駿府にめされて。法問を御聽に備へ。また其說所の山王一實の神道といふこと盛慮に叶ひ。これより眷注あさからず。常に左右に侍して顧問にあづかり。そが申所の事。一事として用ひられずといふことなし。御大漸に及ばせられし時にも。和尙を御病床にめし。我數百年の大亂を伐平らげ。四海一統の功をなし。齡まだ七旬にあまれり。天下の事一つとして欠る事なし。此へは御坊が神道の奥義により。いよいよ子孫の繁榮を祈る事なり。つたへ聞むかし大織冠鎌足は。攝州阿威に葬り。一年過て和州淡峰に遷葬せしとか。我なからん後にはこの例になぞらへ。遺骸をばまづ駿河の久能山に葬り。三年の後野州日光山にうつすべしと御遺命ありしかば。和尙もなくなく御請申し。神さらせたまひし後本多正純等と相議し。將軍家へ御遺托の旨を申上しかば。台コ院殿の思召にて。其翌年日光山にうつし進らせしも。皆天海の專らうけひきつかふまつりし所なり。後に台コ院殿。大猷院殿の御代となりても。御待遇ますます淺からず。大僧正に叙し。昆沙門堂の勅號をさづけられ。遂に日光東叡の兩山を開き。叡山に合して三山と稱するにいたれり。ェ永廿年十月に迁化せしなり。(慈眼大師傳。明良洪範。)
酒は元氣を引立るものなれども。遊行の折など量を過せば。かならず爭鬪など仕出すものなり愼むべし。軍陣か鷹野には。下戶も一盃のめば。勇氣いでゝ一しほ精のいるものなり。されど小盃にて永々とのむは。何か祝言の席めきてよはし。上戶の茶碗などにて。すはすはと一息に飮たらんこそ見ても心地よしと仰られぬ。また夜中に挑灯持て。行來するをば咎められ。己がかたをば人に見られて。人の方はかへりて見えず。損多きものなりと宣ふ。されば有馬則ョ入道が伏見向島の御邸に參り。夜更て歸りしときも。挑灯をばけさしめて送らしめしなり。(中泉古老物語。前橋聞書。)
御茶室の露地の手水鉢を。つくばひて遣はるゝほどになされしに。本多上野介正純今世の數奇人は。手水を立ながらつかふと申せば。御氣しき損じ。我露地にてはたとひ將軍たりとも立ながら手水つかはれんや。まして外々の者もやと仰られしなり。(紀伊國物語。)
文武の道御教導ありしはいふもさらなり。小技曲藝の末までも棄させ給はず。四座の大夫あるは狂言師なども。工妙の名を得しものはことごとく召て其業せしめて御覽あり。本願寺の內に下間少進といへるも。申樂に達せしとて召よばれし事も數々あり。もとより申樂をこのませたまひ。駿城にては月ごと度々興行ありしことも。御みづからの娛觀にのみにし給はず。公達を饗せらるゝか。さらずば諸大名御家人等を。慰勞せらる爲に催されしゆへ。いつも諸人に陪觀せしめられしなり。この外も越前に幸若大夫。または平家かたる琵琶法師。あるは圍棋所本因坊算師。將棊よくする宗桂などに至るまで。すこしも名高きものはめして御覽あり。かゝりしかば其頃道々のわざつかふまつるものも。みな家業を勵みつとめて。いさゝか怠らざりしゆへ。一時工妙の徒多く出來しとなり。(駿府政事錄。)
惣じて大名を始め。うるはしき衣裝し。輿にのりて往來するは。公家めきていとよはく見ゆるものなり。五十歲より前かたの者は。帛木綿なども地太なるを着し。草鞋をつけ馬にのるか。又は歩行するが。ゆゝしく見ゆるものなりと仰られき。(中泉古老物語。)
此卷は御言行の中にて。年月たしかならず。事類もまた完らざるを取あつめて卷末にしるし奉るにぞ。 
 
台徳院殿御実紀

 

卷一 / 慶長十年四月に始り六月に終る御齡二十七 
台コ院殿御諱は秀忠。東照宮第三の御子。御母は西ク氏。愛の方と聞えし。後に從一位を贈られ。寳臺院殿と申。(御年譜。創業記。家忠日記。武コ大成記。列祖成績。寳臺院殿實は戶塚氏にて。五カ大夫忠春といふものゝ女なりしを。外祖西ク禪正左衛門正勝が子左衛門尉C員養ひて子とし。宮仕にまいらせしかば。西クの局と稱せられしなり。以貴小傳。)天正七年四月七日公を遠江國敷知郡M松の城にてうみまいらせらる。公御幼名を長麿どのと聞え奉る。このとき土井甚三カ利勝が七歲なりしを。近侍の臣に付らる。(利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし。)十一年正月元日三河。遠江。駿河。甲斐。信濃五州の國士等。M松城にまうのぼり。新正を賀し奉りし時。御父君と共に拜賀をうけ給ふ。(天正七年御兄岡崎三カ信康君御事ありし後。次の御兄秀康卿は豐臣家の養子とならせられしかば。今年に至るまでいまだ世子を定め給ふ事見えず。この時より世子に立せ給ひしかと推考せらる。)十三年山藤七カ忠成。內藤彌三カC成をもて。はじめて傅相の職に置る。(家忠日記にはC成が名なし。)十五年八月八日從五位下に叙し給ひ。十六年正月五日正五位下にのぼらせらる。十八年正月三日駿府を發して。はじめて京におもむかせ給ふ。これは豐臣關白秀吉公御ゆかりとならせ給ひて後。公にはいまだ御對面ましまさざる故なるべし。この時御年十二にならせ給ふ。井伊兵部少輔直政。酒井右兵衛大夫忠世。內藤彌三カC成。山藤七カ忠成供奉す。その十三日都に入らせ給ふ。關白よりは長束大藏大輔正家をして迎へらる。十五日聚樂城にのぼり御對面あり。關白スなゝめならず。𡰱孝藏主して後閤にいざなはれ。大政所みづから御髮をもゆひあらため。御衣御はかせまでも新なるを進らせ。關白より名の一字をさづけて秀忠君と稱しまいらせられ。みづから御手を引て外殿に出られ。直政等を近くめして。大納言にはよき子をもたれ。年のほどよりもおとなしく。さぞよろこばるべし。田舍風をかへて都ぶりに改め返すなり。大納言にもさぞ待かねらるべきに。いぞき歸國あるべしとて。直政。忠世。C成。忠成等にも。金衣服あまたかづけものせられて。各暇給はり公を供奉し。十七日京を出て二十五日駿府の府にかへらせ給ひぬ。二月廿四日御甲胄始あり。此頃關白は小田原の北條を征せんがため。關西の大軍を引卒し。三月には相摸の國まで攻下り。廿九日には湯本堂にて諸將を集め。酒宴をひらき軍議ありける時。御父君にむかはれ。秀忠を呼てこの大軍をみせらるべしとありければ。やがてこのところに招かせ給ふ。大久保新十カ忠常時に十一歲。一人御供してまいる。その時關白みづから甲胄をとり出し公にきせまいらせ。我武運にあやかり給へとて。御背をなでられしとぞ。十二月廿九日從四位下侍從にすゝみ給ふ。此時酒井右兵衛大夫忠世をもて補佐の臣となさる。十九年十月左近衛權少將として武藏守と稱し給ふ。十一月八日都におはして。參議をかけ右近衛權中將にならせたまひ。十二月十七日江戶の城にかへらせ給ふ。文祿元年朝鮮征伐の事おこりて。御父君にもこの二月二日江戶をいでまし。肥前名護屋の陣におもむかせ給ふ。公には榊原式部大輔康政。酒井河內守重忠。本多彥次カ康重等をしたがへ。江戶の城を留守したまふ。その八月京にては豐臣家の大政所うせられしかかば。八月十五日御吊のために都にのぼらせらる。九月九日從三位にのぼり權中納言に任じ給ふ。十月二日御歸城あり。二年正月御父君いまだ名護屋にわたらせ給ひければ。公かはりて關東八州の國士等歲首の賀をうけ給ひ。その閏九月二日御上洛あり。これは太閤のかたに。このほど男子生れられしを賀せらるゝがためなり。此年大久保相摸守忠隣傅相に加へらる。三年忠隣が子新十カに首服加へしめ。御名の一字を給はり忠常となのり。又西ク孫九カにもおなじくたまはり。忠員となのらせらる。これ御家人等に公の御一字を賜はる始とぞ聞えし。四年には御父子とも聚樂の第にとゞまりましけるが。御父君には五月にいたり。江戶にかへらせ給ひ。公は猶京の邸宅を留守し給ふ程に。太閤と關白秀次と。父子のなかに事おこりしかば。秀次さしあたりたる害をのがれんために。公を劫し質とせんとはかり。朝とく使まいらせ。朝餉參らすべしとて迎へしに。相摸守忠隣その謀を察しければ。甚三カ利勝をはじめ五六人に御供せしめ。忍びやかに伏見の御館にわたらせ給ふ。この時利勝がすゝめによりて。竹田路にはかゝらず大路をへてつゝがなく伏見におはしまし。太閤のもとに渡らせ給ひしかば。太閤大方ならず喜て。眞に新田殿の子之と稱賛せられしとぞ。こは御父君都を出たゝせ給ふ御門出のとき。ひそかに公を召て。我東にまかりたらんあとにて。かならず殿下と秀次の間に事起るべし。その時おことにはかまへて。太閤の御方にまいらるべきよし。仰をかれしが故とぞ。九月十七日太閤のはからひにて。故淺井備前守長政の季女をかしづき公にまいらせ。北方と定められ御婚禮行はる。(贈從一位崇源院殿。)此姉君二人あり。一人は太閤の思ひ者となりて。世には淀殿といふ。その次は京極宰相高次の妻となりて。後に常高院といふ。その末はこの北方なり。後に大御臺所と申奉りしはこの御方なり。(大御臺所を太閤養女として。公を御聟に定められしともいふ。)慶長元年四月十一日伏見の城にて。北方の御腹にはじめて姬君(千姬。)を設け給ふ。二年公東にまして。武藏の稻毛に狩し給ふ御路より。痘瘡をなやみ給ひしが。程なく愈給ひて。三年八月太閤病重きよし聞召。その十九日いそぎ京にのぼらせらる。このほど豐臣家の奉行等うちうちはからふ旨ありて。京伏見甚物さはがしかりしかば。御父君の仰にて。公はその夜俄に伏見をいでゝ。九月二日江戶にかへらせ給ふ。五年會津中納言景勝謀反の聞えありければ。御父君これを征伐し給はんがため。
東西の大軍を引具し。打てくだらせ給はんとて。先公をば白川口の惣大將と定らる。御父君には五月十六日大坂を打立給ひ。廿六日駿河の沼津にいたらせ給へば。公よりは御迎として。相摸守忠鄰。本多佐渡守正信を御使せらる。七月十九日御父君に先立て江戶を御出馬あり。惣軍六万九千三百六十人とぞ聞えし。下野宇都宮に陣どらせ給ふ。廿四日御父君は小山に陣し給ひし所。大坂にて石田治部少輔三成が。幼主秀ョをさしはさみ。關西の諸大名に牒し合せ。伏見を攻圍む事急なるよし注進ありしかば。俄に公を宇都宮より小山の御營にまねき給ひ。從軍の諸將を會集し。今より直に會津へをし入給はんか。または一先上方へ引返し。大坂蜂起の賊徒を誅せらるべきにやと問せられしに。上方の賊徒を誅せらるべきに定まり。會津の押へには三河守秀康卿をとゞめられんとて。公に仰せて宇都宮を秀康卿にゆづりわたさせ給ふ。このとき上方蜂起の事を聞召。いかにも御憂悶の御けしきにわたらせられ。御庶兄秀康卿には。こと更笑をふくみ。よろこばしげに見え給ひ。御同母弟の下野守忠吉朝臣には。いかにも勇氣するどく御出馬をいそぎ給ひければ。時の人々。三河守殿には此一亂に乘じて。我こそ家をつぎ天下に旗を立んとの御心。下野殿には此度こそ初陣の高名して。世にも人にも我武功をしらしめんとの氣象あらはれ。公にはもし監國の甲斐なからんかとの。御思慮なるべしと評しけると聞えしかど。實は此時御憂悶の御思念。ふかく見えさせ給ひしこそ。終に繼躰守父の良主に定まり給ふ御瑞相にはわたらせ給ひけめ。八月朔日には御先手の諸將はや關西に發向す。この頃越後國またみだれしに。堀丹後守直寄賊を伐て功ありければ。御父子より御書を給はり褒し給ふ。廿四日公には東山道を打てのぼり給はんとの事にて。榊原式部大輔康政を先手として。惣軍三万八百餘人宇都宮を打立給へば。三河守秀康卿馬にてはるばる送らせ給ひしが。御互に馬上にて御密語ありて手を分ち給ふ。其ことはしる者なし。九月朔日には信濃國小諸につかせらる。眞田安房守昌幸は石田が方人なりければ。上田の城に立籠り。御道をさまたげんとす。よて御使して。天命の歸する所をさとし給ふこと再度に及びしかども。昌幸あへてしたがはず。さらば上田を先攻落して。御上洛あるべしと軍議一决して。六日の早旦に御馬を染屋まですゝめらる。しかるに昌幸謀をまうけて防ぎ。御味方利あらず。翌日かさねて攻られんとありしに。本多佐渡守正信頻りに御父君の戰期におくれ給はんかと諫めてやまざりしかば。この所には森右近大夫忠政。仙石越前守秀久等を押にとゞめ置て。十日に和田峠をうちこえ給ふ。このとき式部大輔康政前驅し。本多豐後守康重後殿をつとむ。これより先御父君ははや美濃の赤坂に陣し給ひ。公の來り給ふをまたせられ。山本新五左衛門重成。大久保助左衛門忠益を御使とし。關原の戰期をつげ給ふといへ共。此程秋霖日をかさね。諸方の溪水みなぎり。從駕の諸軍木曾川をわたりかね。留滯する事三日なり。公には十七日信濃の妻籠にて。此御使にあはせ給ひ。大におどろかせられ。晝夜道をはやめ草津までつかせ給ひしが。その時はや關が原の合戰は。味方凱歌をとなふる最中なれば。いそぎ御父君の御本陣にわたらせ給ひしかども。御父君思召旨やありけむ。御不豫なりとて御對面なければ。公をはじめ從駕の將卒。恐れ思ふことかぎりなし。康政が申旨ありて御父君御心とけ。廿日大津にて御對面ましましければ。君臣ス限りなし。(一說には本多上野介正純が神祖を諫て。若殿の關原の戰期におくれ給ひしは。全く若殿の御過にはあらず。父佐渡守がしわざなれば。佐渡を罪し給ふべしと申けるも。この時の事とぞ聞えける。)公には直に大津を出て伏見に赴き給ひ。廿四日伏見におはしつく。廿六日御父君にも同じくわたらせ給ひ。御物語どもありて。廿七日御父君は大坂の西城にいらせられ。公は二丸に入給ひ。廿八日同じく敕使をむかへ給ふ。十月五日毛利中納言輝元大坂木津の别莊を出て。本國安藝に迯かへらんとする聞えありしかば。公追かけてうたせ給はんと。十六日御出馬の由聞て。輝元大におどろき。井伊兵部少輔直政につきてさまざまに陳謝しければ。御ゆるし蒙りて御出馬をとゞめらる。このころ御父君いかゞ思召けるにや。大久保相摸守忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉等の老臣をめし。我今男子三人もてり。いづれにか我家國をゆづるべき。卿等が思ふ所をつゝまず申べしとありけるに。正信は三河守殿。武勇絕倫智謀淵深にして。しかも御長子なれば。これこそ御世つぎには定まらせ給ふべけれと申。直政。忠勝。親吉等も各申旨區々にして定まらず。忠隣ひとり。亂を治め敵に勝は。武勇を先とすといへども。天下を平治し給はんとならば。文コにあらずしては基業をたもち給はん事かたし。三人の御子みなこれ聖子にわたらせ給へば。御武勇武藝の短長は論ずべきにあらず。中納言殿はもとより謙遜の御志ふかく。御孝心又あつし。そのうへ文コ智勇を兼備ましまし。久しく御家嫡に備はり給ひ。位望また御兄弟にこえて。天意人望の歸する所なり。いかで繼體守文の主に定め給はざるべきと申。御父君とかくの仰もなかりしが。一二日をへて又六人の老臣をめして。相摸申所我意にかなへり。家督すでに定まりぬと仰ければ。各慶賀して退きぬとぞ。(今案ずるに。此公世子に定まり給ひし事は。明文なしといへ共。M松城にて國士の拜賀を受給ひしに始り。御位階もまた御兄弟の並にこえ給へば。今忠隣が議を待て定給ふべきにあらず。神祖もとより。公の仁孝恭謙の御コすぐれ給ふをもて。守文の主と定め給ひしはいと明らかなり。しかるに當時諸老臣をめして。かく議せられしものは。國本を動搖し給ふべきにあらず。たゞ人心の向背を試て。宗廟社稷の大計を定め給ひしものなるべし。)十一月十六日また大坂をいでゝ。伏見城にかへらせ給ひ。十八日御參內あり。
十三日御父君より井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。柳原式部大輔康政。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣を御使として。今度關原の凱旋天下旣に定りぬ。戰功の諸將に州郡を分ち給はることをいそがるべきや。まづ根本在城の地を定めらるべきにや。二者いづれを先とせんか。御存慮を仰進らせらるべきとのことを。仰遣かはされしかば。不肖の身いかでかゝる大事を定むべき。とにもかくにも神算を仰ぎ奉り。みづからは御庭訓をもて。永く守城の功をたもつべきなりと御答ありければ。御父君御けしきうるはしく。終に江戶をもて定鼎の地たるべしと仰出さる。六年正月御父子とも大坂の西城にましまし。大小の政事を沙汰し給ふ。三月三日豐臣中納言秀ョ大坂城の西城に。御父子を迎へ奉り。申樂を設け饗し奉らる。かへらせ給ひて後秀ョ西城二丸にまかりて。御父子の御來臨を謝せらる。廿四日公には大坂二丸を出て伏見に移り給ふ。廿七日公ならびに秀ョ。ともに大納言にのぼり給ふ。(一說に廿八日につくる。)廿九日公御參內ありて拜賀し給ふ。御同母弟下野守忠吉朝臣も。この日從四位下侍從に叙任したまふ。九月晦日公第二姬君。(珠君。)を加賀中納言利長の弟猿千代利常。(後中納言。)に嫁し給ふ。此月公伏見を出て江戶の城にかへらせ給ふ。七年正月十九日關東にて。二十万石を割て公の御厨料にあて給ふ。その二月十五日水野隼人正忠Cを公の御家人になさる。八年二月十二日御父君伏見の城にましまして。征夷大將軍の宣旨を蒙らせ給ふ。その七月廿八日公第一の姬君。(千姬。)大坂に送らせ給ひて。內大臣秀ョの北方に定まり給ふ。其十一月七日。公右近衞大將をかねて。右馬寮御監になり給ふ。九年二月四日公の仰として東海東山北陸の三道に一里塚を築かしめらる。この七月十七日北方また御產ありて若君生れ給ふ。これ大猷院殿の御事なり。十年二月御父君はとくより都にまします。公は江戶より御上洛あるべしとて。その行列をとゝのへ給ふこと。例よりは嚴重なり。これは大將かけ給ひはじめて御上洛たるが故なるべし。上杉伊達佐竹最上をはじめ。外樣譜第の諸大名あまたしたがひ奉る。公は廿四日御發輿。廿八日三島驛につかせ給ひ。雨により三日とゞまり給ひて。三月十日またC洲にとゞまり給ひ。城主忠吉朝臣饗し奉られ申樂あり。十七日より三日膳所にとゞまり給ひ。後陣の輩をまたせられ。廿一日伏見の城に入給ふ。このほど都鄙の男女街衢にみちてその御行裝を拜し奉る。これより先朝鮮の孫文ケ等宗對馬守義智にしたがひ都に來り。隣交を修めんとす。よて右大將殿御入洛の御行裝をおがましむべしとのことにて。都にとどめ置れしかば。韓人もけふ道に拜伏しておがみ奉れり。廿九日には內へ參らせ給ひ。大將の御拜賀あり。四月朔日御父君やゝ御齡もたけ給へば。征夷の重職御與奪の事をしきりに奏し給ふ。內にもことはりと聞召けるにや。七日御心のままたるべき旨仰進らせらる。御父君かねての御本意の事なれば。御よろこび大方ならず。十日には御參內ありて謝し聞えあげらる。(御九族記。創業記。家忠日記。武コ大成記。烈祖成績。古人物語。)
慶長十年四月十六日。この日天氣快晴。二條の城に勅使廣橋權大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿。宣命使西洞院少納言時直參向あり。參仕辨は小河坊城右中辨俊昌。告使は康總幷押小路大外記師生。壬生官務孝亮宣旨を持參し。公征夷大將軍に補せられ。正二位內大臣にのぼらせられ。淳和弉學兩院别當氏の長者として。牛車をゆり隨身兵仗をたまはらせ給ふ。御齡二十七にぞならせ給ふ。この日御父君も伏見より二條の城にわたり給ふ。けふより御父君をば。大御所と稱し奉る。公篤恭謙遜の御コ備らせ給ひ。御孝心たぐひなくおはしましければ。御代ゆづらせ給ひし後も。萬の事どもみな大御所の御教をうけとはせ給ひ。いさゝかも御心にまかせ給ふ事はなかりしとぞ。この日御庶兄參議三河守秀康卿は權中納言にのぼり。御弟下野守忠吉朝臣は從三位左近衛中將にのぼり。上總介忠輝朝臣は從四位下右近衛少將にのぼられ。池田新藏利隆は從四位下の侍從にのぼり。右衛門督に改む。その外從五位下に叙せらるゝもの若干なり。榊原小十カ康勝は遠江守。松平三カ四カ定綱は越中守。大久保右京教隆は亮となり。大久保主膳幸信は正となり。高力左近忠房は大夫。永井傳八カ尙政は信濃守。山藤藏幸成は雅樂助。高木善次カ正次は主水正。秋田東太カ實季は城介。松平善四カ正朝は壹岐守。板倉又右衛門重宗は周防守。板倉宇右衛門重昌は內膳正。織田莊藏長政は丹後守。松平孫六カ康長は丹波守。羽柴帶刀正利は壹岐守。內藤全一カ忠興は帶刀。柴田七九カ康長は筑後守。土井甚三カ利勝は大炊頭。渡邊久左衛門茂は山城守。(重脩譜にはこの月廿六日としるすといへども。廿四日諸大夫行列の中に名あるをもて。この日を是とす。)松平右京康親は筑後守。溝口孫左衛門善勝は伊豆守。保科甚四カ正貞は彈正忠。森川長十カ重俊は內膳正。水野監物忠元は大監物。牧野九右衛門信成は豐前守。井伊弁之助直孝は掃部助。渡邊庄兵衛勝は筑後守。鳥居久五カ成次は土佐守。牧野新次カ忠成は駿河守。諏訪小太カョ水は因幡守。コ山則秀入道秀現は三位法印になる。(舜舊記。創業記。慶長見聞書。慶長日記。武家補任。家忠日記。家譜。慶長日記追加。ェ政重脩譜。ェ永系圖。この人々の叙任。諸書月日の異同多しといへども。こゝに出して其大躰を概見せしむ。)
○十七日公伏見城より上洛し給ふ。山內土佐守一豐は弟修理亮康豐の子國松を養ひて子とす。大御所松平隱岐守定勝の女子を養ひとらせ給ひ。御子として國松に嫁せしめらる。よて粧田千石をよせ給ふ。(創業記。當代記。ェ政重脩譜。)
○十九日山內土佐守一豐その子を引つれ伏見にまうのぼり。兩御所に拜謁し謝し奉る。大御所より備前光忠の御刀來國光の御脇差。御所より則重の御刀。新藤五國光の御脇差をたまはり。父土佐守一豐にも則重の御刀をたまふ。(ェ政重脩譜。)
○廿二日伏見より御上洛あり。初鹿野傳右衛門昌久子傳四カ信吉を。御弟五カ太君につけられ。采邑三百石たまふ。(舜舊記。家譜。)
○廿四日酒井右兵衛大夫忠世在京の料とて。近江の栗太野洲日野三郡の內にて采邑五千石加へらる。渡邊山城守茂大番頭になる。この日御所は二條の城にわたらせ給ふ。豐國社務萩原慶鶴丸兼從太刀折紙もて拜賀す。神龍院梵舜も同じく拜し奉る。又小姓宮崎金三カ泰隣死し。弟千勝泰勝家をつぎて今年初見す。(ェ永系圖。ェ政重脩譜。舜舊記。家譜。)
○廿六日御所御拜賀の參內し給ふ。御車之。其行列一番雜色十二人警を唱へ棒をもつ。二番左右に御物荷。次に長持四人。次に公人朝夕人。次に御長刀。同朋權阿彌。傘持侍十人從ふ。三番先行左は板倉伊賀守勝重。右は山常陸介忠成。各先に長刀小者六人。侍二人。後に傘持一人。侍十五人從ふ。四番隨身十二人。左は牟禮ク右衛門勝成。內藤右衛門某。柳原隼之助忠勝。川口長三カ近次。高木九兵衛正次。神戶石見守某。右は島田兵四カ利正。山善四カ重長。成PC吉正武。岩P吉左衛門氏興。大久保與一カ忠辰。森川金右衛門氏信。各先に左右に小者十人づゝ。口付五人づゝ從ふ。五番白丁十二人。六番諸大夫歩行にて左右にたつ。左蜂須賀阿波守至鎭。松平越中守定綱。山伯耆守忠俊。佐野修理大夫信吉。大久保右京亮教隆。高力左近大夫忠房。石川玄蕃允康長。內藤帶刀忠興。有馬玄蕃頭豐氏。九鬼長門守守隆。佐藤駿河守堅忠。中川修理大夫秀成。瀧川豐前守忠征。佐々淡路守某。稻葉藏人道通。津田長門守高勝。毛利伊勢守高政。三好丹後守房一。寺澤志摩守廣高。富田信濃守知信。水野河內守守信。脇坂淡路守安元。土方丹後守雄氏。生駒左近將監正俊。桑山伊賀守元晴。水野市正忠胤。脇坂主水正安信。土屋民部少輔忠直。鍋島和泉守忠茂。諏訪因幡守ョ水。柴田筑後守康長。溝口伊豆守善勝。烏居土佐守成次。羽柴壹岐守正利。堀淡路守直重。森川內膳正重俊。土方河內守雄久。牧野豐前守信成。西尾因幡守吉定。渡邊山城守茂。大久保加賀守忠常。右は淺野采女正長重。柳原遠江守康勝。阿部備中守正次。仙石越前守秀久。山雅樂助幸成。小出信濃守吉親。眞田伊豆守信幸。大久保主膳正幸信。加藤左馬助嘉明。池田備中守長吉。山崎左馬允家盛。古田兵部少輔重勝。戶川肥後守達安。山城宮內少輔忠久。佐々信濃守長成。金森出雲守可重。竹中伊豆守重利。三好因幡守一任。佐久間河內守政實。渡邊筑後守勝。藤堂佐渡守高虎。コ永左馬助昌重。能勢伊豫守ョ次。本多常陸介某。本多大學助忠純。田中隼人正忠政。內藤若狹守C次。新庄越前守直定。古田大膳大夫重治。北條左衛門大夫氏勝。永井信濃守尙政。高木主水正正次。津田丹後守某。堀伊賀守利重。日下部伊豫守某。松下右兵衛尉重綱。水野隼人正忠C。板倉周防守重宗。土井大炊頭利勝。井伊掃頭助直孝。次に御長刀。次に布衣の侍四人。左安藤次右衛門正次。小澤P兵衛忠重。右に倉橋內匠助政勝。久永源兵衞重勝。次に御車。牛二疋。牛飼二人。龓八人。白丁五人。榻持一人。布衣侍左右八人。
左は松平勘助信房。安藤與十カ正次。本多百助信勝。松平助十カ正勝。服部中保正。右は服部與十カ政光。渡邊半四カ宗綱。小粟庄二カ政信。次に御傘。次に布衣侍十六人。左は村越內膳某。神尾五兵衛守世。島田庄五カ利氏。河村善次カ重久。久貝忠三カ正俊。小栗甚六カ某。䕃山佐助貞廣。內藤久五カ直政。右は山口小平次重克。興津久七カ某。今村彥兵衛重長。中根喜八カ正時。長谷川讃岐正吉。山岡五カ作景長。三宅半七カ重勝。天野左兵衞康勝。各烏帽子着の侍一人づゝ具す。次に酒井宮內大輔家次御劔を奉る。傘持一人。小者十八人具す。七番騎馬の諸大夫。左小笠原信濃守秀政。松平丹波守康長。小笠原左衛門佐信之。本多出雲守忠朝。牧野駿河守忠成。內藤左馬助政長。大久保相摸守忠隣。榊原式部大輔康政。右は松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。松平周防守康重。本多伊勢守康紀。皆川志摩守廣照。鳥居左京亮忠政。平岩主計頭親吉。酒井右兵衞大夫忠世。各前に長刀一柄。小者六人。烏帽子着侍六人。後に侍十五人を具す。次に上杉中納言景勝卿。毛利宰相秀元。京極宰相高次。伊達越前守政宗。島津陸奥守忠恒。福島左衛門大夫正則。松平上總介忠輝朝臣。佐竹右京大夫義宣。最上出羽守義光。堀左衛門督秀治。蒲生飛驒守秀行。(家忠日記。慶長記こゝに前田筑前守利常を加ふとはへども。利常加冠叙任。重脩譜藩翰譜備考等に五月に見ゆるが故に除く。)塗輿にのり。召具の侍小者上に同じ。别に諸大夫布衣の侍。幷に敷革持を加ふ。御進謁の時。主上に銀千枚。儲君へ百枚。女院へ二百枚。女御へ百枚進らせられ。長橋の局以下の女房へ百枚かづけられ。其餘の作法は。慶長八年二月今の大御所御拜賀の時にかはらず。(創業記。當代記。家忠日記。烈祖成績。武コ編年集成。世に傳ふる所は。この時關東より供奉の大名小名。冠服の用意なく大に思ひなやむもの多かりしなかに。伊達政宗がごとき大名すら裝束をもたらさず。山圖書助成重をもてうちうちきこえ上て。神祖より着御の御袍をたまひ。その日やうやう供奉をつとめしとぞ。當時質素のさまをもひやるべし。大三河志。)此日松浦式部卿法印鎭信に。西洋渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)
○廿七日公卿二城に參向して。御昇進を賀せらる。この日夕かけて伏見城へ還御なる。(烈祖成績。創業記。)
○廿八日公の姬君御祈願の事有て。春日の社に御參ありて。御衣一襲。米五十石奉納し給ふ。(春日記錄。)
○廿九日御家人赤井市カ兵衛忠家死す。其子豐後守忠泰家つぎ二千石を領し。弟六兵衛公雄に忠泰が䕃料千石を給ふ。この忠家は丹波の產にて。織田右府豐臣關白に歷事し。大御所伏見向島に御座のとき。參謁して御家人に加はり。采邑千石賜はりしが。關原の戰に供奉し。頗る戰功有て。又千石加へたまひしなり。(家譜。)
◎この月よりして。土井大炊頭利勝と安部彌一カ信盛と二人。かはるばる二條城の唐門を警衛命ぜらる。又前田中納言利長卿。子猿千代利常と共に伏見に來謁し。金五千枚。加賀絹五百端。時服百領献じ。大御所には金三千枚。加賀絹三百端。時服五十領を奉り。兩御所より御刀をたまひしとぞ。けふ有賀式部種政死して。その子半三カ種次家をつぐ。またしばしば雷風雨有て。駿遠洪水みなぎり島田驛の民舍を押流す。この時より島田の地は川となり民舍を東にうつさる。(家譜。創業記。烈祖成績。ェ政重脩譜。當代記。慶長年錄。)
○五月朔日將軍宣下の賀儀として。諸大名二條城へまうのぼる。(烈祖成績伏見城につくる。)外樣のともがら銀時服を献じ。普第の衆よりは太刀幷に馬代銅三百疋を獻ず。この日五島淡路守盛利に。西洋渡海の御朱印をたまふ。(創業記。家忠日記。御朱印帳。)
○三日將軍宣下の賀儀として。伏見の城にて申樂催さる。四座の申樂群參す。內外の諸大名まうのぼりて饗せらる。大御所ははるかに。月見の櫓にのぼらせたまひてこれを御覽ぜられ。申樂の可否をたゞされければ。申樂等ことごとく恐悕せしとぞ。此日廣橋大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿も伏見にのぼり饗せられて。をのをの金五十枚。時服三十領つかはさる。また有馬修理大夫晴信へ。西洋ならびに柬埔寨へ渡海の御朱印をたまふ。(烈祖成績。慶長日記。慶長見聞錄。大三河志。御朱印帳。)
○四日けふも伏見の城にて猿樂あり。觀世金春等これをつとむ。昨日まうのぼらざる諸大名。けふ登營して饗せらる。(慶長日記。)
○五日又おなじ。大御所けふも月見櫓にて遠く御覽あり。此程兩御所の厮隷等二三十人。左右に分れ鬪爭し殺傷あまたなり。これ江戶より私の遺恨ありての事とぞ聞えし。(當代記。慶長年錄。慶長見聞錄。)
○六日この四月春日の論講屋にて。寺僧二人殺害せし者あり。これを搜索せらるゝがために所々に高札を建らる。もしかの賊をうたへ出るものあらんには。同類たりとも其罪をゆるし。賞金三十枚下さるべしとなり。(春日記錄。)
○八日大御所より大阪の右府秀ョ公久しく御對面なければ。出京ありて伏見にて謁見せらるべきむね。うちうち高臺院(故太閤秀吉政所。)をもて大坂へ仰つかはされしに。秀ョの生母大虞院(世に淀殿と稱せし是なり。)これをきゝ。以の外いきどをり。ゆめゆめあるまじきことなり。もし秀ョ上洛をすゝめらるゝに於ては。秀ョ母子とも大坂にて自殺すべきよしをこたふ。これは故太閤恩顧の輩秀ョ上洛あらば。不慮の變あるべきなりなどゝ。うちうち告し者ありし故なり。よて京洛の農商等この事を聞及び。すは京攝の間に戰爭おこらん事近きにありとて。老たるをたすけ幼きをたづさへ。家財を山林に持運び。騷動なゝめならず。この日岐阜黃門秀信卿高野山にて卒す。此卿は右大臣信長公には孫。三位中將信忠卿の長子。はじめ豐臣太閤秀吉公いまだ筑前守たりし日。主の敵明智光秀を討伐してのち。この卿を擁して軍國の政を令せられしが。其身關白に任じ。天下の兵權を掌握するに及びて。
卿をば尾州岐阜の城を授け。正三位の中納言に任じける。しかるに關原の役に逆臣石田に黨して籠城せしかば。關東勢に攻おとされ降人となりぬ。されど右府の舊好を思召され。猶助命ありて高野山に蟄居せしめられしなり。(當代記。慶長日記。藩翰譜。)
○十一日御名代として上總介忠輝朝臣大坂に赴き。右府秀ョ公に謁見せらる。秀ョ公スなゝめならず。これは近日に江戶へかへらせ給ふ事を。告させ給ふとぞ聞えし。この日こたび御上洛の供奉したる前田中納言利長卿。上杉中納言景勝卿をはじめ。關東北國の諸大名。さきだちて歸國の暇を給ふ。是よりさき中納言利長卿の子猿千代利常首服加へ。從四位下侍從に拜任し。御家號を賜はり松平筑前守と稱す。大御所より長光の御刀。光包の御脇差をたまはり。御所より長光の御刀。吉光の御脇差をたまひしとぞ。(利常の元服。慶長日記には四月八日とす。其外みな五月とす。今重脩譜幷に藩翰譜備考にしたがひこゝに出す。)又商人浦井宗普に呂宋國渡海の御朱印を下さる。(烈祖成績。創業記。大三河志。武コ編年集成。ェ永系圖。御朱印帳。)
○十二日林三官に西洋渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)
○十五日關東御下向のため伏見御發輿あり。甚雨により繕所崎にとゞまり給ふ。(創業記。當代記。)
○十六日水口驛にやどらせ給ふ。此日有馬修理大夫晴信に柬埔寨幷に西洋渡海の御朱印を下さる。此頃諸國洪水の聞えあり。(當代記。御朱印帳。)
○十七日龜山に御とまりあり。(當代記。)
○十八日桑名にやどらせらる。(當代記。)
○十九日けふも桑名にやどらせらる。又僧梵舜伏見へまうのぼり大御所に拜謁す。(當代記。舜舊記。)
○廿日C洲に御止宿あり。(當代記。)
○廿三日雨により。けふまでC洲にわたらせ給ひ。中將忠吉卿饗奉り申樂を催さる。(當代記。)
○廿四日雨晴ければC洲を出たゝせ給ふ。(當代記。)
○廿六日C洲にて御家人六人。その家僕を中將忠吉卿の家士甲賀左馬助といへるもの打擲せしを憤り。六人の輩左馬助が津島よりの歸路を待切てかゝり。左馬助を打はたし。その從者四人奴一人をも切てすて。六人の中一人も深手負たり。かくても迯去ず。土人等かけあつまりければ。六人は民家にこもり腹切て死す。六人の姓名はつたへざればしるさず。このころ江戶にても。近習の人の奴と越前中納言秀康卿の足輕等と。遺恨ありとて双方黨をむすび。二三十人鬪死すといふ。(當代記。武コ編年集成。)
○廿七日松平出羽守忠政が遠州須賀の城に駕を拄給ひ。忠政に駿馬をたまふ。其外銀時服をもくださる。(ェ永系圖。)
○廿八日芝山小兵衛正員死す。遺跡三百石二子小兵衛正親にたまひ。正親が䕃料を合て八百石となる。この頃富田信濃守知信と姻族坂崎對馬守直盛と確執に及ぶ。そのゆへは知信が妻は對馬守直盛が姉なり。直盛ちかく召つかふ小童を罪ありとてうたせしに。直盛が家人に浮田左門といふものあり。かねてかの小童と知音をむすびしかば。童が仇をむくひんとて。童をうちし者をうちて。坂崎が家を立さりしが。直盛が父安心入道このもの遂にうたるべきをあはれみ。文かきてさづけ。聟の富田が家にをくりやりてかくまはしむ。直盛かくときゝ。速に左門をかへしたまふべきよし使もていひ送る。知信が妻もふかくこれをなげきしかば。知信はかのもの今は逐電して家にあらずとこたへ。實はふかく隱し置ける故とぞ聞えし。これ十八年にいたり富田が家亡びぬることのもとゝはなりぬるなり。(家譜。ェ政重脩譜。創業記。當代記。藩翰譜。)
◎此月甚雷二三度。烈風ことにさむかりしとぞ。又池田宰相輝政卿の伏見の亭にならせ給ふ。御茶を奉る。太刀幷に銀を下され。妻にも金時服をかづけらる。慶長見聞書。ェ永系圖。)
○六月四日江戶城にかへらせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○六日長田理助吉久死して。其子理兵衛吉廣家をつぐ。この吉久も小田原幷に奥州の御陣に供奉せしものなり。(ェ永系圖。家譜。)
○十一日吉田の僧梵舜伏見にまうのぼり拜謁す。その自注せる謠抄十册を獻ず。外題は近衛龍山公の書とぞ。(舜舊記。此書今御文庫に存す。)
○十五日坂崎對馬守直盛伏見城にのぼり大御所に謁し。富田信濃守知信が不義を訴ふ。江戶に訴て上裁を仰ぐべしと仰下されければ。いそぎ發足して江戶に赴く。これ直盛は知信を討果さむとて。みづから勢州安濃津の城へ赴しに。知信は城にあらず。よて出會せし家司を强て召ぐし訴へ出けるとぞ。(創業記。當代記。)
○廿日吉田の梵舜伏見城にのぼり大御所に謁し奉る。神祇道服忌のことをとはせたまひ。梵舜が答ふる所審なりとて御感を蒙る。(舜舊記。)
○廿二日花房越後守正幸卒す。壽八十二。此正幸は志摩守正成が父にて故宇喜多中納言秀家の老臣たり。そのむかし秀家の父直家の時より。大內尼子浦上等と合戰の度ごとに。勇功をあらはしけるが。播州室津小豆島にをいて。數多の海賊襲ひ來りしに。正幸大雁股の矢にて賊の魁首を射殺す。賊等大に恐れ只その弓勢を感じ。のちに正幸が名を雕付し矢を返し送る。しかのみならずやさしき情ありて。細川玄旨法印にしたがひ敷島の道をも學び。高砂の古松の根を得て文臺につくり。大御所に獻ぜしが。今も水府に傳へられしとぞ聞えし。其子正成宇喜多の家を去て。當家につかへ奉るに及て。正幸は猶其家に閑居して終りしなり。(ェ永系圖。家譜。)
○廿八日加賀能登越中三國領主前田中納言利長卿致仕して。その子松平筑前守利常原封を襲しめらる。此卿は故贈從一位大納言利家卿の長男にて。織田右大臣信長公の聟たり。わかゝりし時より志津が嶽。石動。末森等をはじめとし。筑紫關東の戰に至るまで。父卿と共に終に不覺の名をとらず。豐臣關白より越中國三郡をたまひ。羽柴の家號をあたへられ。從四位下侍從に叙任し。肥前守とぞ稱しける。天正十七年四月少將にすゝみ。文祿四年中將に轉じ。慶長二年九月廿八日參議して。三年四月廿日從三位に昇階し中納言に任ず。太閤薨ぜられしとき。秀ョの傅たるべきむね遺言あり。
父の卿は四年閏二月三日卒せしかば。その所領越中國及び加賀國二郡八十一万石を領し。能登國は弟能登守利政ぞ領しける。此年八月廿八日利長は入部の爲加賀國に赴し後。石田治部少輔三成が謀にて。利長謀反のよし風聞し。すでに討手向ふべしと聞えしかば。利長大にいかり討手をまつてたゝかはんとす。されども家の老臣等よくいさめて。老母ならびに家臣等が質人を關東へまいらせ。あやまりなきむねをあらはしければ。をのづから世のうたがひもとけぬ。五年大御所奥の會津を征伐の事仰出されしにより。利長も北國の大將として。うちたゝんとせしに。上方また軍起りければ。大聖寺の城をせめ落し。小松の城下に戰て。金澤の城に引かへし。また關原の戰にも北國より打てのぼり。九月廿日大津の驛にて見參し奉る。このとき御ゆるし蒙りて。弟猿千代利常を家子とし。しかのみならず御所の姬君を降したまはるべしと仰下さる。弟利政はこたびの軍に參らざれば。かの所領は沒收せられ。利長勳功の賞として能登國に加賀の能美江沼二郡そへてくだしたまはり。またく加賀能登越中三國の主となる。けふ致仕して十九年五月廿日越中國高岡の城にて卒す。五十三歲。正二位權大納言を贈られしとぞ。(ェ永系圖。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。世に傳ふる所は。秀ョの母堂大虞院より。此ほど利長のもとへひそかに消息を贈らる。そのむねは。利長父のときより故太閤の恩惠をうけしこと山海よりもふかし。豐臣家の大事近きにあるべし。秀ョのョませたまはん事。よもいなみ給ふべからず。あらかじめ心得給はるへきよしなり。利長これをみて大に驚き。老父利家生涯大坂に昵近し。國にかへらずして終をとる。これ故太閤の恩に報ゆる所なり。吾又關原の一戰に。右府に對して疎略の覺なし。今關東の恩に浴して三國の領主たり。兩御所に忠をつくし。この恩にむくひんの志他なし。そのうへ今四海昇平に屬し。四民やや安堵の思ひをなすとき。豐臣家に於てョませたまはんとの御事とは何事にや。もし貨財等の事ならんには。國力をつくし進らせて舊恩に報ゆべければ。早々仰たまはるべしと答ける。また利長家臣本多安房守政重を使とし。此旨大御所に訴ければ。大御所御感斜ならず。かくて利長かく煩はしき世にすまん事心うしとて。利常に家國をゆづり。其身能登國を養老の地とし二十萬石を領し。此村の茶人平野藤四カ短刀黃金三百枚を献じ。致仕せりとぞ聞えし。大三河志。)又朝鮮人三人來着す。兩國和平の事を議するためとぞ聞えける。この日久旱雨を得て。萬民よろこぶことかぎりなし。又この春呂宋暹羅に渡海の商船一艘も歸り來らず。海上風濤の變にあへるにや。さだかならず。このころ內裏にては。先皇の御爲に八講行はれんとて。南都北嶺の僧綱凡僧群參せし所。經始のことを競望してやまず。學コ拔群の者此事つかふまつるべしと宣下ありければ。山徒大に憤りて皆歸山し。その旨を伏見城にうつたふ。大御所聞召。こたび宣下の旨をもて。永く式法とすべきよし。嚴に令せられたりとぞ。(慶長年錄。當代記。)
◎この月伏見は雨ふり洛中は雨なし。
◎このとし去年のごとく旱して。攝州昆陽の池水あせ魚多く死す。(慶長見聞錄。) 
卷二 / 慶長十年七月に始り十二月に終る 

 

○七月朔日大雨。山內土佐守一豐が養子國松康豐。從五位下對馬守に叙任す。島津陸奥守忠恒に安南。鍋島加賀守直茂に西洋渡船の御朱印を給ふ。(慶長日記。ェ政重脩譜。御朱印帳。)
○二日又甚雨。ことし旱すといへども。三州一國は糓を損せず。(當代記。藤長日記。)
○三日山雅樂助幸成に御書をたまはり大藏少輔に改む。この日島津陸奥守忠恒へ西洋渡海の御朱印を給ふ。(家譜。御朱印帳。)
○五日伏見には諸大名に命ぜられ。本丸を修理せしめたまふ。よてけふより大御所西城にうつりすませ給ふ。(御年譜。創業記。家忠日記。烈祖成績。)
○七日使番安藤次右衛門正次。伏見城本丸修理の監使に命ぜられて發程す。
◎此日申樂催さる。觀世是を勤む。(ェ永系圖。慶長日記。)
○八日申樂きのふのごとし。
○九日けふは丹波猿樂日吉梅若八大夫三人召に應じてこれをつとむ。夕より雨ふりて。曉におよぶ。(慶長日記。當代記。)
○十一日南部信濃守利直家士櫻庭兵助鞍鐙各二具下さる。これ累年其國より引るゝ御馬の事。つかふまつるが故とぞ。酒井右兵衛大夫忠世仰を傳ふ。(貞享書上。慶長年錄。)
○十九日大友左兵衛督義統入道宗巖配所常州にて卒去す。四十八歲。この人大友家の正統左衛門督義鎭入道宗麟が長子にて。世々九州の探題たるべき身ながら。豐臣太閤の時朝鮮の軍にをこたりしとて。本領を沒入せられ蟄居せし後。其子宗五カ義乘は當家の御恩に浴するを忘れ。逆賊石田に徒黨し。西海に下り亂をおこし。又伐負て配流せり。義乘は三千三百石給はり高家に列す。(慶長日記。家譜。この孫右門督義親に至り。早世にして世つぎなければこの流は絕たり。いまの大友氏は義乘が弟右京正照が裔之。
○廿日美濃。尾張。伊勢。三河。遠江洪水。所々の堤坊崩るゝよし聞ゆ。されども京關東は水害なかりしとぞ。春田半兵衛將吉死。七十三歲。將吉はじめ與八カまた猪之助といふ。岡崎三カ君につかへて。天正三年五月廿一日三州長篠有見原の戰に。三番鑓して褒賞を得しより後。大御所につかへて。長久手の戰には岩が崎の城へ御使しけるが。はや落城して城主丹羽次カ助が首を敵兵取てさらむとするを追かけ。其首取返し御感を蒙り。又十三年吉良の御狩に供奉し。手負たる猪のたけり來りしを組留しかば。御感のあまり猪之助といふ名をたまふ。其外戰功かぞふるにいとまあらず。其子長兵衛久次。二子猪之助吉久皆是より先に召出さる。(當代記。ェ永系圖。家譜。)
○廿一日大御所伏見より京に出まし。二條の城に御滯留あり。これは伏見の本丸修理あるが故とぞ。(舜舊記には十八日とす。)又京の處士林又三カ信勝が博學强識當時比すべきものなきよし。大御所かねて聞召ければ。この日永井右近大夫直勝をして俄にめさる。信勝二條城にまうのぼり。はじめて拜謁し奉る。(信勝初見の事。御年譜には十年とのみしるし日をしるさず。武コ編年集成にこの日にかく。いましばらくこれに從ふ。)ときに極暾C原秀賢相國寺の承兌元佶などいひて。そのころ耆宿と聞えしともがら。皆左右に侍し奉る。大御所後漢の光武帝は。高祖よりの世系いかにととはせたまふ所。三人の耆宿等答る事あたはず。よて信勝に問せ給ふところ。御聲に應じて九世の孫たるよし答へ奉る。反魂香幷に蘭草の種類を問せたまふに。答へ奉る事響の聲に應ずるがごとし。時に信勝わづかに廿三歲なり。大御所その敏聰を稱讃し給ふ事大方ならず。洛下傳へて美談とす。これより信勝寵遇日を追てふかし。(創業記。慶長日記。御年譜。家譜。)
○廿三日三河國碧海郡米津村の地をうがち。矢作川の下流を通ぜしめらる。本國所領の輩百石に二人。農民は百斛に一人を課せしめらる。これ大御所の仰によりてなり。(創業記。當代記。)
○廿七日神龍梵舜二條城にまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○廿九日大御所知恩院へ渡御あり。(舜舊記。)
◎この月仙臺宰相政宗。最上出羽守義光みな就封の暇賜はり。江戶より各歸國す。(貞享書上。家譜。)
○八月三日大御所二條城にいまして。梵舜を召見せらる。(舜舊記。)
○五日大御所相國寺にならせたまひ。僧承兌見え奉る。よて吉田二位兼見卿樽一荷献じ。梵舜も素麵を献ず。(舜舊記。)
○六日けふも大御所豐光院にならせられ。梵舜を召て大甞會の典故。東京の圖等を御垂問あり。(舜舊記。)
○十日關東大水。京邊は其害にかゝらず。この日伏見の城中法制を仰下さる。城中無狀のふるまひをなし。禮を失ふ輩見あたりなば。其由その者にことはりて聞え上べし。殿中一所に會合し。高聲に雜談するものあらば。同じくことはりて聞え上べし。御前近き所にて高聲の輩あらば。これもことはるべし。御膳役送の輩怠慢せば聞え上べし。此輩當直の時は必長袴用意すべし。將碁。棊。諷灑打。扇切。相撲等の遊戱するものあらば聞えあぐべし。御內書をはじめ。すべて右筆等のものかく所へ立よるべからず。仰なくして硯を借用ゆべからず。もしかゝるふるまひするやからを。そのまゝすて置時は。右筆等も曲事たるべし。諸大名着座の席へ塵芥をすつ置べからず。すべで殿中灑掃以下心いるべし。厠の外へみだりに尿すべからず。この條目令せらるゝ後違犯の輩あらば。嚴に聞え上べし。かくし置てもれ聞ゆる時は。同朋權阿彌の罪たるべしと之。(慶長日記。當代記。御年譜附尾。)
○十三日梵舜二條城にのぼり。大御所に謁見し奉る。(舜舊記。)
○十七日大御所梵舜を召て伊豆三島明神。氣比。平野。梅宮等神名を垂問したまふ。(舜舊記。)
○廿日けふも梵舜まうのぼる。(舜舊記。)
○廿一日快晴なり。大御所二條城より伏見へ還御なる。(舜舊記。)
○廿八日有馬修理大夫晴信に占城渡海の御朱印を給ふ。舟本彌七カへも安南渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿九日梵舜伏見城にのぼり謁し奉る。(舜舊記。)
◎この月大御所軍陣の令約を仰下さる。喧嘩爭論停禁せらるゝ處。もし違犯の徒あらば。是非をとはず双方罪せらるべきなり。
もしくは同僚の義を思ひ。あるは知音の好をもて與黨する時は。本人よりも重く罪せらるべし。隱し置て後日に露顯せば。其主曲事たるべし。先陣の輩へことはらずして斥候をいださば。曲事たるべし。先手をこえて高名するとも。旣に軍法を背くうへは曲事たるべし。ゆへなく他の備に混入するものあらば。本人の武具馬具共に奪取べし。しかして後其主申旨あらば。其主もおなじく曲事たるべし。さりぬべき事あらば。其備にことはりて通るべし。人數押の時脇道すべからず。若脇道する者あらば罪せらるべし。諸事共に奉行の指揮違背すべからず。臨期の御使は誰たりとも其旨違背すべからず。持鎗は軍役の外たり。長柄をもたずそれのみ持べからず。もし長柄の外に持しむる時は。其主の馬前に一本備ふべし。陣中にて馬をとり放つべからず。小荷駄押の事は軍勢混入すべからざる旨嚴に令すべし。若みだりに混入する者は罪せらるべし。押買等狼藉なすべからず。違犯の徒は罪せらるべし。渡船の事一年かぎりに渡るべし。夫馬以下もこれに同じ。他備に混ずる事は一切停禁す。軍役の外人數多く備るをもて奉公とすれば。いかほども召具すべし。武具馬具以下怠らず用意し何時たりとも速に出陣の心搆すべしとなり。(令條記。)
○九月朔日安南にからせすに呂宋渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)
○三日角倉了以光好に東京渡海の御朱印たまはり。田那邊屋又左衛門平野孫右衛門に呂宋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○四日梵舜伏見城にのぼり扇三十柄献ず。(舜舊記。)
○八日御所近日關東へかへらせ給ふよし聞えければ。吉田二位兼見卿大鷹繚。梵舜は錫鉢を献ず。(舜舊記。)
○十日皮屋助右衛門東京渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)
○十三日呂宋國王へ御返簡をゝくらせらる。その請にまかせて商船每年四艘づつ渡海をゆるされ。前に鞍皆具幷に鑓十柄つかはさる。またあんたうにんからせすへ西洋渡海の御朱印を下され。窪田與四カみけるに密西耶渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十五日快晴なり。大御所關東へ赴かせ給はんとて。伏見を御發輿有て。五カ太丸長福丸兩君をも伴ひ給ふ。此夜永原に泊給ふ。龜井右兵衛佐政矩はこたび御下向供奉の列にかへらる。これ政矩が年頃懇願するによてなり。松平加賀右衛門康次。成P吉平久次に。伏見城留守を命ぜられ。御朱印を賜ふ。城中各所勤番を查撿し。怠者あらば嚴に聞え上べしとなり。又越智右馬允吉長子彌三右衛門吉廣召出され。大御所に仕奉る。和田傳右衛門惟長召出され。采邑五百九十石餘をたまふ。(創業記。當代記。ェ永系圖。萬世家譜。)
○十六日大御所佐和山につかせられ。二日御滯留あり。雨ふるによりてなり。(御年譜。家忠日記。)
○十七日江戶にて野々山新兵衛兼綱。はじめて御所を拜し奉る。(ェ永系圖。)
○十八日船本彌七カに柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十九日大御所赤坂に至らせ給ふ。この日柬埔寨國王に御返簡をつかはさる。その請にまかせ通商をゆるされ。そのうへ佩刀二口をくらせらる。(御年譜。家忠日記。異國日記。)
○廿日岐阜につかせ給ふ。(御年譜。家忠日記。)
○廿一日大御所稻葉山に狩し給ふ。鹿を得らるゝ事五十五頭。(家忠日記。當代記。慶長見聞錄には七十七頭につくる。)
○廿二日加納の城によぎり給ひ。營築のさまを御覽ぜられ。みけしきうるはしくして。C洲の城へ渡らせ給ふ。
○廿三日下野守忠吉卿のもとにて大御所を饗せられ。相撲を御覽に備へらる。本ク美作守信富卒す。其子勝三カョ泰慶長四年八月死せしとき。嫡孫五右衛門一本病者たれば。次孫虎王丸勝吉父が遺跡千石をたまはりたれば。信富が遺領はたまはらず。この信富は若狹國本クに世々しるよしゝて。代々足利家の近臣たり。信富光源院義輝將軍につかへ。奏者番として將軍家の禮式に精熟せり。のち織田家に屬し。又大御所に仕奉る。もとよりその人となりをしろしめされければ。將軍宣下のとき信富を伏見に召て。汝は世々室町將軍家の禮法にあづかりしものなれば。よくその典故を辨たるべし。今より我家に於て奏者の事をつかさどるべしと面命有て。伏見の城邊に宅地を賜はり。衰老の事なればとて。永井右近大夫直勝に扶助せしめられしが。七十五歲にて終をとれり。(家忠日記。家譜。按ずるにこの人當家にて奏者の職を置れしはじめなるべし。又永井右近大夫直勝これよりさき仰を蒙り。細川幽齋法印の閑居にまかり。足利家營中の典故幷に文書の式法を學ぶ事。其家傳にみえたり。今又信富につけ置れしをもつて考れば。當家創業のとき定められし禮式は。此人の功多しとみゆ。)
○廿五日岡崎へつかせ給ふ。こゝにとゞまりたまふ事四日。酒井五カ助忠知に廩米五百俵賜はり。小姓を命ぜらる。時に十三歲。(御年譜。當代記。家譜。)
○廿八日長升四カ右衛門に柬埔寨渡海の御朱印を給ふ。(御朱印帳。)
◎是月庄田三大夫安信。孫小右衛門安照。親見彥左衛門正勝子彌三カ正盛初見し奉る。又諸大名封邑幷に諸寺社領の稅額查撿の惣奉行を西尾隱岐守吉次に命ぜられ。津田小平次秀政。牧助右衛門長勝。犬塚平右衛門忠次これにそひたり。又安南國王へ御返簡ををくらせられ。長刀二柄太刀一把つかはさる。(ェ永系圖。紀年錄。)
○十月朔日大御所遠州中泉につかせ給ふ。こゝに十五日までとゞまらせ給ひ所々田獵せらる。其折ふし掛川の城に立よらせ給ひければ。城主松平隱岐守定勝子弟等をひきつれて拜謁す。大御所その樣を御覽じ。子弟等よく成長し國家の藩屏とするにたれり。島津忠恒。淺野長政等皆當家に緣をむすばん事を懇望す。忠恒が女子を汝が嫡男河內守定行に婚姻をむすび。長政が女子を汝が二男越中守定綱にめあはすべしと仰をかうぶる。(御年譜。創業記。當代記。貞享書上。)
○九日故小田原北條の醫田村安栖長頥御家人に列しけるがけふ死す。
其子安栖長有此十二月家つぎ初見す。(家譜。)
○十二日柬埔寨國王に鳥銃二十二挺ををくらせらる。(御朱印帳。)
○十五日中泉を發輿し給ふ。(創業記。當代記。)
○十七日駿州田中に至りたまひ。こゝにとゞまらせたまふこと四日。御所には江戶より川越に狩し給ふ。(當代記。榮松錄。)
○廿二日駿府につかせたまふ。(御年譜。家忠日記。)
○廿三日C水にわたり給ふ。
○廿四日三島にとゞまり給ふ。
○廿五日小田原に着御あり。
○廿六日藤澤にいたらせらる。
○廿七日神奈川につかせ給ふ。
○廿八日江戶の城に入給ふ
◎この月下野守忠吉卿腫物なやませたまふ。又石谷十右衛門政勝めし出され大番に入らる。戶田藤右衛門政次も初見して御家人に加へらる。また柬埔寨國王書簡を進らせ。虎皮蜂蠟以下の方物を献ず。御返簡をつかはされ。太刀脇差ををくらせらる。(當代記。ェ永系圖。異國日記。)
○十一月六日原彌二右衛門に東埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十日致仕松平備後守C宗卒す。其所領は子玄蕃頭家C天正十年より襲封す。このC宗は和泉入道殿の長子右京亮守家より五代備後守C善が子にて。はじめ今川家の方人小原肥前守鎭吉がこもりし三河の吉田城をせめしより。永祿十一年今川氏眞が遠州掛川の城にありし時。これをせめてしばしばたゝかひ。三方原の戰畢て同國堀江の加勢に赴き。天正三年長篠の戰には酒井左衛門尉忠次に屬し。鳶巢山の要害を燒て勝利を得。のち又武田勢の押として。須賀口を守りし功により。釜田御厨の地を加へたまふ。九年高天神の城責に首級を得。甲斐の武田亡びしとき。宗徒の人々ともに彼國に入て。北條左衛門大夫氏勝とK駒に戰て打破る。十年長子玄蕃頭家Cに竹谷の領所をゆづり。その身は别に二千貫の地を領し。與力五十人を屬せらる。尾州長久手の軍には。駿州興國寺の城をまもり。十二年石川日向守家成とおなじく掛川の城を守り。又鹽井原の城を守て武田の勢と戰ふ。これ等の賞として遠江國にて所領たまはる。(上張菅谷龜甲等の邑なり。)小田原の軍には吉原を守る。致仕せしのち。十九年奥州御陣には。ふたゝび出て江戶西城を守り。けふ六十八歲にて卒す。(ェ永系圖。ェ政重脩藩。藩翰譜。)
○十一日矢部九カ兵衛利忠死して。のちに其子藤九カ忠政家をつぐ。この利忠ははじめ小田原の北條につかへしが。北條亡びてのち御家人に加へられ。野口をあらためて矢部と稱す。(ェ永系圖。家譜には慶長十一年死すとあり。)
○十三日土佐國高知城主山內土佐守一豐が子對馬守康豐に。原封二十萬二千六百石をつがせらる。康豐父の遺物師匠坊の釜入を献ず。この一豐は鎭守府將軍秀ク朝臣十代の孫山內首藤刑部亟義通が後胤。但馬守盛豐が三男なり。父兄は尾張國上の織田家につかへて。弘治三年岩倉の合戰に討死す。一豐幼て父兄にはなれ。ひとゝなりて織田豐臣家につかへしばしば加恩有て。天正十三年若狹國高Mの城主となり。其年又近江國長Mの城にうつり對馬守と名のり。十八年遠江國掛川の城にうつる。この時五萬石領し。後一萬八千石の地を加恩あり。慶長五年の秋大御所會津を征したまはんとて。御進發有しとき。一豐は先陣に在て下野國宇都宮にいたる。かゝるとき上がた又軍おこりぬと聞えしかば。從軍の諸將。妻子は皆大坂にとゞめ置きたれば。周章なゝめならず。一豐が妻さるさかしき婦人なれば。さるべき家士をくだしで。上方の樣くはしく告たり。かくて小山宇都宮にありあふ諸將を御本陣にめして。その心々をたづねたまひしとき。福島左衛門大夫正則は最初に御味方たるべきよし聞えあげたり。一豐引つゞき進み出。それがしが城海邊にあり。速に御勢をもて守らせらるべし。年頃たくはへ置し兵粮も乏しからず。次には一豐がカ等等の妻子從類は。ことごとく吉田の城に參らすべし。人質のため召置るべし。一豐は先陣に隨て軍つかふまつるべしと申せしかば。滿座の人々一つらに是に同意して。大計旣に定まりぬ。大御所大にスばせ給ひ。やがてそのむねにまかせらる。一豐先陣の人々と共に馳上て。關原の軍にその功莫大なりしかば。このとし土佐一國をたまはり。土佐守とは名のらしめらる。入部の謝聞え上んとまうぼりしとき。大御所所領の稅額をとはせ給ひしに。凡二十萬二千六百石とこたへ奉りければ。大におどろかせ給ひ。さては思ひしよりも小國なり。長曾我部が故太閤の臨駕の待まうけし有樣。百万石ばかりにおもひしかば。賜ひしものをと仰けるに。一豐感淚に堪ず。かたじけなきことにおもひける。八年三月廿五日從四位下にのぼせられ。此九月廿日卒す。齡六十なりとぞ。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重脩譜。)
○十五日芠萊渡海の御朱印を大坂藥商甚右衛門へくださる。(御朱印帳。)
○十七日大御所御放鷹のため。川越忍邊にわたらせ給ふ。忍城番內藤忠兵衛正次は二十四孝の間にて拜謁す。このころ御狩塲にて蹲踞するものあり。その名をとはせ給ふ。夏目次カ右衛門吉信が子なりとこたへたてまつる。其夜本多佐渡守正信が御前に侍ひつるに。吉信が子に片目なるものありやととはせ給ふ。正信うけたまはり。いかにもさる事の候。長右衛門信次と申たるものゝ候ひしが。鐵炮の捻扱にふれにて眼をやぶる。外科丸山某が療治して。命はつゝがなかりしとおぼへ候と申あげしかば。さてはM松の城中にて人をうちて立退し男なるべし。その罪輕からずといへども。父吉信が忠節いまにをいてわすれず。そのものゝ罪も年月ふる事なれば。ゆるすべしと仰ありて召かへされ。御家人に加へらる。この信次大坂の役には諸道具押をつとむるといふ。(家忠日記。當代記。家譜。ェ永系圖。)
○廿五日御所けふ江戶より鴻巢にわたらせ給ふ。こゝに十二月廿日ごろまでましまして。日每に遊獵し給ふ。この日筑波山神領の御朱印を給ふ。常陸國筑波郡筑波ク五百石は。
供僧别當所納たるべし。宮中山林竹木等免許せらるゝうへ。この旨を守て國家安全の懇請を抽べきとの御事なり。(創業記。令條記。)
◎この月天野佐五兵衛門正長初見したてまつり大番に入る。正長鷹つかふ事を鍛練せしかば。のちに請て御手鷹師となる。豐臣家に仕し堀因幡守秀信實父新庄駿河守直ョ。去年御勘氣ゆりければ。秀信もめされてこのほど江戶に參り。御所に拜謁す。このころ柬埔寨國王書簡をたてまつり。鳥銃ならびに孔雀彩羽等を献ず。よつて御返簡をつかはさる。又下旬より信濃國淺間山燒ること甚しく。翌年の正月にいたるまでたえず。(ェ永系圖。家譜。異國日記。慶長見聞書。)
○十二月二日はじめて江城書院の番士四組を置る。山伯耆守忠俊。(ェ永系圖には十五年とす。)水野隼人正忠C。內藤若狹守C次。松平越中守定綱其番所になさる。伯耆守忠俊は奏者の事をもかねしめるる。京六條の仁兵衛に。大泥國渡海の御來印を下さる。豆葉屋四カ左衛門。大K屋長左衛門に柬埔寨。渡海の御朱印を下され。長崎喜安へ西洋渡海の御朱印下さる。
◎此日服部石見守正就改易の罪に處せらる。こは近日江戶市井にて不慮に殺害せらるゝもの多し。たれの所爲たるをしらず。よて高札をたて賞金をかけて。その賊を搜索せしめらる。しかるにそのころ伊奈熊藏忠次が從者。使にまかるとて市中を通しを。正就白晝に切すてたり。よて正就を查撿ある處。人違のよし申といへども。其陳狀あきらかならず。さては近日みだりに路人を殺害したるも。正就が所爲ならんと世人沙汰しけり。これは正就が父石見守正成が時より。本國伊賀を出て三河に來りつかへ奉る。正成はじめ半藏といひし時より夙夜の勞怠らず。御先手にありて數度の高名し。世には鬼半藏とよばれたる勇士なり。父子二代共に同心二百人をあづかり。采邑三千石を領す。しかるに所屬の同心はもと伊賀の國士どもにて。正就も同等の者なれども。正就は父の時より忠勤し。戰功多きをもて登庸せられ。今その官長たり。同心等はさきに織田右府本能寺にて事ありし時。大御所堺の津より大和路をへ。伊賀路にかゝりかへらせ給ふとき。ク導したる國士どもなり。正就もしその本をおもふときには。ク黨の故舊どもなれば。いかに今官長なればとても。からくあたるべきにあらず。慈愛を加ふべきを。さはせず奴僕にひとしくかりつかひ。家作營造のとき壁ぬり材を切事までを課役し。其命にしたがはぬ者には俸米ををさへてさづけず。よて二百人の同心ども大にいかり。徒黨して奉行所へ目安をさゝげ。弓銃を用意し近所の寺院へ立こもる。よて查撿を加へらるゝ處。正就が非道かくれなければ。同心二百人正就が所屬をはなれ。足輕大將大久保甚右衛門忠直。久永源兵衛重勝。服部中保正。加藤勘右衛門正次等に分附せらる。されども正就が訴ふる旨により。その首謀の同心十人は死刑に處せらるゝ處。迯去しものありしが。妻子を質とし搜索せられしかば。みづからうたへ出て腹切しものもあり。其中に二人はいまだ出ず。市中にかくれあるよし聞て。正就これを切てすてんと待ゐたるに。彼者正就が門前を通りければ。正就大にスび飛で出。追かけて後より切たをしけるに。いかゞ見あやまちけむ。彼者にはあらで熊藏忠次が使者なりしかば。陳謝するに詞なく。かく罪蒙りしとぞ。(家譜。武コ編年集成。御朱印帳。慶長日記。慶長見聞書。)
○八日土井大炊頭利勝島田兵四カ利正を御使として。龜井右兵衛佐政矩が家にのぞみ。政矩に近侍を命ぜらるゝむねを傳へしめらる。これは政矩去年本多上野介正純成P隼人正正成につきて。大御所に願ひしは。政矩年頃外樣の列にさぶらふ事本意ならねば。左右に近侍せん事をこひ奉るよしなり。よて大御所よりそのむね仰つかはさるる故とぞ聞えし。(ェ永系圖。)
○十日下野守忠吉卿急病にて危篤なりしが。漸くに蘇息せらる。瀧野爲伯定一藥にてとみに平快し給ひける賞に。大御所より銀百枚たまはり。法印にのぼらしめらる。(慶長日記。家譜。)
○十二日內藤右京進正成死して其子圖書助忠俊家をつぎ。七千石の內二千石を弟掃部助忠成に頒つ。(家譜。)
○十五日南海風濤甚しく。八丈島の邊に大山涌出せりとぞ。(御年譜。當代記。)
○廿一日昨夜より大雪連日に及ぶ。中にも北國はさらにもいはず。近江の國深さ八尺にをよぶといふ。(當代記。)
○廿六日大御所忍川越より江戶城にかへらせたまふ。山常陸介忠成五子天方主馬助通直采邑五百石たまふ。この日伏見城下有馬玄蕃頭豐氏邸より失火し。諸大名邸宅千餘ならびに立賣町等燒亡す。(御年譜當。代記。ェ永系圖。)
◎この月安部彌一カ信盛書院番命ぜらる。(ェ政重脩譜。)
◎此年柳原式部大輔康政の女を養ひとらせたまひ。池田右衛門督利隆に降嫁せらる。其時山常陸介忠成は輿渡の役となり。土井大炊頭利勝は貝桶の役を勤む。安藤對馬守重信。鵜殿兵庫頭。(石見氏長といふこの人なるべし。)伊丹喜之助康勝供奉す。池田が家には淺野彈正大弼長政。其子左京大夫幸長。K田甲斐守長政。加藤肥後守C正。蜂須賀阿波守至鎭。加藤左馬助嘉明待迎へ奉る。此事により利隆へ江の御刀。左文字の御脇差。馬二疋を賜ふ。又松平隱岐守定勝四子長十カ定實は大御所掛川城に渡御の時初見し。仰により後大奥にて養育せらる。又宗對馬守義智朝鮮國和平の儀つかさどり。信使來聘有しを褒せられ。肥前國に於て二千八百石加恩あり。かつ邊域居住の故もて。三年に一度づゝ參覲すべしと命ぜらる。朝倉藤十カ宣正使番仰付られ。二百石加賜有て千石になさる。久貝忠三カ正俊徒頭となり。高木九兵衛正次。高木九助正綱。徒頭川村善次カ重久は布衣の侍に加へらる。毉員曲直P養安院正琳は仰により江戶に伺候せしめらる。由良新六カ貞繁。松平加賀右衛門康次は伏見西城勤番命ぜらる。本多縫殿助康俊二子C三カ忠相七歲。
本多三彌左衛門正重子源十カ正貫十三歲。伊東右馬允政世三子虎之助政勝十歲。中山勘解由照守子助六直定七歲初見し奉る。長井又五カ吉正子五右衛門吉次。城和泉守景茂二子玉虫助大夫重茂。小笠原丹齋貞經子源次カ經治も同じ。毛利家に仕し柳澤監物元政子左太カ元吉は八歲。山田勘左衛門正次。山源助正勝子甚左衞門正次。朝比奈左近宗利子勘右衛門良明七歲。戶田右門氏鐵子新次カ氏信は大御所に初見し奉る。良明は小姓になる。大久保甚左衛門忠直子荒之助忠當。小澤P兵衛忠重子牛右衛門忠秋。金吾秀秋に仕へし堀田勘左衛門正吉は。召出され書院番にいり。依田肥前守信守二子平左衛門政勝。幸田五左衛門繼治子七兵衛友治。小林傳四カ吉勝三子十兵衛重忠。豐臣家に仕へし小林田兵衛元長は召出され大番となり。庄與左衛門直能子C助直重は小十人に入番し。佐々與左衛門定次は鷹師となる。山口但馬守重政二子島之助重長。村P左馬助重治子C藏重次。三枝彥兵衛守吉子宗四カ守憲。伴五兵衛重盛子作平重正。小笠原彥三カ長行養子與左衛門貞利。中根吉四カ正勝。洛の醫南倉專益正休等も今年より奉仕す。一柳監物直盛が二男禪門直家七歲。兩御所に拜謁し。質子として江戶に住しければ。月俸八十口をたまふ。後美作守たりしはこれなり。もとの金吾黃門秀秋の老臣平岡石見守ョ勝召出され。濃州の中にて一萬石の地を封ぜらる。雀部新六重良八百石。神野八カ兵衛忠泰二百五十石たまはり。竹腰小傳次正信は五千石下され。駿府郭內井伊兵部少輔直政が舊宅の地に居住すべしと命ぜられ。兵器調度までたまふ。山下彌藏周勝には月俸をたまふ。藤川庄次カ重勝百五十石加へられ。四百五十二石一斗になる。駒井宮內昌長は信州松代在番命ぜられ。駒井右京親直。跡部民部良保に加へらる。また下野國K羽の領主大關左衛門督資搨v仕し。甥彌平治政揩ノ所領二萬石つがしめらる。この資揩ェ家は武藏七黨のその一にして丹治氏なり。同國大關村に住せしより家號とす。肥前守C高より十四代の孫右衛門佐高揩ェ三子にして。兄土佐守晴掾B結城右衛門佐義親の養子となり。二子美作守C摯モフ家つぎしが。子なくして卒せしかば。晴揩アれよりさき結城の家を去り處士となり。志を豐臣太閤に通ぜしかば。太閤より舊領一萬三千石たまはり忠勤を盡せしが。病にかゝりて致仕し。その子彌平治政摎c稚たれば資摯浮つぎ。慶長五年上杉御追討のとき小山の御陣へ參り。政揩證人として江戶にまいらせ。岡部內膳正長盛。水谷伊勢守勝俊。服部一カ右衛門保英を加勢として。籠城の用意とゝのひたり。此忠勤を感じ給ひ。下野陸奥兩國の內にて加恩たま。ひすべて二萬石領しけるが。政揩竅Tひととなるにより。家ゆづりて致仕し。十二年四月朔日三十二歲にて卒せしとぞ。大河內又次カ正勝死して其子長四カ忠次つぎ。新見市右衛門政成死してその子市右衛門政勝は。文祿二年より别に仕へ奉る。酒井權介實明死して其子權介實重つぎ。氏井孫右衛門吉正死してその子甚五兵衛吉勝つぎ。中岡兵部玄利致仕して甥治部元利もて家をつがしめらる。また御所山常陸介忠成が邱に渡御ありて。忠成點茶をたてまつりければ。小藏の葉茶壺を賜ふ。角倉了以光好は命を奉じ丹波國世木庄殿田村より。保津を經て大井川にいたるまでの水路をつくり漕運を通ず。また後藤庄三カ光次に仰せて壹歩金を造らせらる。これかねて光次が建議する所とぞ聞えし。又豐臣右大臣秀ョ公京相國寺に法華堂を造立し。寺領壹萬五千石を寄附せらるとぞ。又蠻船はじめて烟草をのせ來る。京人その種をうへて。專らその烟を吸ふ事風尙となり。天下にあまねし。この事益少く多損きをもて。令をくだし禁ぜらる。(ェ永系圖。家忠日記。烈祖成績。家譜。ェ政重脩譜。大三河志。紀年錄。武コ編年集成。慶長年錄。) 
卷三 / 慶長十一年正月に始り六月に終る御齡二十八 

 

慶長十一年丙午正月元日群臣江城にまうのぼり。歲首の拜謁し奉る。今朝大御所の御かたにならせられ慶賀したまふ。この日大雪。日ねもすやまず。(創業記。家忠日記。御年譜。當代記。)
○二日追儺の式行はる。大御所御かたにて謠曲あり。去年よりして伊豆國銀山金銀多くいでゝ佐渡國にをとらず。代官彥坂小刑部元成をかへて。大久保石見守長安にその地を勾當せしめらる。元成は贓罪をたゞされ改易せられ。長子二子共に家に押こめらる。(國恩錄。榮松錄當。代記。)
○三日立春謠曲始あり。大久保久六カ忠高死して。その子新右衛門忠重家をつぐ。(榮松錄。家譜。)
○四日朝鮮國和平をこふにより。文祿の役に俘囚とせし彼國人を今年歸國せしむべきよし仰下さる。(慶長見聞錄。)
○七日三浦助右衛門儀持死して。その子助八カ久儀家をつぐ。(ェ永系圖。)
○九日宮崎筑波泰景死す。長子半兵衛泰重父に先立てうせ。其子庄次カ重次其跡をつぎしかば。こたび泰景が采邑は公に收めらる。泰景は武田信玄勝ョ二世につかへ。天正十六年より御家人となり。小田原陣をはじめ所々に供奉し。けふ八十四歲にて終をとれり。(家譜。ェ政重脩譜。)
○十二日去冬より今日まで。風雪連日やまず。寒風殊に甚し。(當代記。)
○十五日風ことに烈し。(當代記。)
○十九日江戶城修築を仰出さる。池田右衛門督利隆。其弟藤松丸。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守C正。加藤右馬助嘉明。K田筑前守長政。細川內記忠利。京極若狹守忠高。同丹後守高知。淺野但馬守長晟。山內對馬守康豐。有馬玄蕃頭豐氏。鍋島信濃守勝茂。森右近大夫忠政。寺澤志摩守廣高にその事を仰付らる。脇坂淡路守安元。小出大和守吉政。古田兵部少輔重勝。保科肥後守正光。最上出羽守義光もおなじ。義光には御內書をたまひ。本多百助信勝はおなじ惣堀奉行目付を仰付らる。(武コ編年集成。ェ永系圖。)
○廿日田中筑後守吉政が二子主膳吉信。このほど物に狂ふさまにて。近習の家人を手討にする事百十三人にをよびしが。けふ侍童を討んとして。かへつてそれがために害をうけしとぞ。(創業記。當代記。坂上池院日記。)
○廿五日惣奉行職內藤修理亮C成。山常陸介忠成罪蒙り職奪はれ籠居す。此ごろ江戶にては本多佐渡守正信にC成忠成二人を加へて。關東惣奉行の職とせられ。大小の政事をさたし。その權最重し。しかるにこのほど大御所武藏下總邊所々にわたらせたまひ。鷹狩りしたまふ。江戶の御所よりは嚴にその所々に令して。大御所の狩塲にて鳥獸とる事を禁ぜらる。あるとき大御所御狩にならせたまふ地に。わなむすび黏繩ひきてありしを御覽じ。御けしきよからず。こは誰がしわざぞと問ひ給ふ。農民等內藤山兩奉行のゆるしを蒙りて。かくのごとしと申ければ。さてはそのこと將軍にはしりたまはぬにやと。以の外の御けしきなり。御所このよし聞し召て大におどろかせたまひ。內藤山の二人誅せらるべきよしを。阿茶の局につき伺はせたまふ。局もよく心得て二人がことをさまざまに申けれども。大御所さらに仰せ出さるゝ旨もあらざれば。御所はいよいよおそれたまひ。佐渡守正信をめしてひそかにかたらはせ給ふ。正信うけ給はり。御所御孝心ふかくましますがゆへにこそ。天下の御ゆづりをもうけつがせ給ひつれ。たとひいかなる事のありとも。大殿の御こゝろにそむかせ給ふべきにあらず。內藤山旣に大殿の御けしきにたがへるからには。誅せられむ事いふにやおよぶべき。しかしそれがし存る旨の候へば。一まづ參りて御けしきうかゞひ侍らんとて御前を退き。正信は大御所御狩の塲に參り。さてもおそろしきことの候。江戶の御所には內藤山が事。大殿の御憤りふかきよし聞し召。速に兩人を誅せらるべきにさだまりぬ。兩人が事もあはれむべしといへども。さしあたり正信が身老年に及び。江戶の奉行職を勤。大小の機務をさたせんには。大殿の御けしきにたがふ事あるまじとも申がたし。さればこの後かならず誅せられん事疑なし。哀れ大殿の御かたはらに召かへされ。首をつぎ申たしと申ければ。御けしき忽にとけ。將軍さほどまで兩人が事いからせ給ふにやとて阿茶の局を召。二人が命失はん事しかるべからず。この旨いそぎ申をくるべしと仰ありしかば。局よりいそぎそのよし聞えあぐ。江戶の御所には大によろこばせたまひ。兩人誅をまぬかれしとぞ。(創業記。當代記。藩翰譜。今按るに。正信が碑文にもこのことをのせ。正信が諷諭に長ぜしを稱譽し。先輩も正信を譽るもの多し。されども神祖兩人をいからせたまふ事は。黏繩かけし事をいからせ給ふにはあらず。兩人關東惣奉行の職にありて權威あるまゝに。御狩の地をもはばからず。農民にゆるしてかゝるふるまひさせし。その志をいかり給ひしなるべし。正信また兩人が罪死にあたらざる事をしらば。彼等積年忠勤の。功勞小事をもつて誅せらるべきにあらざる道理をこそ聞えあぐべきに。諷諭の趣意疑ふべき事あり。此後大坂の戰おこらんとするにのぞみ。大久保忠隣が罪蒙りしも。正信が其權を妬みしより。おこるをもつて照しみれば。今山內藤も正信と同僚たるゆへ。その權を妬むこゝろより。かゝる時に乘じて兩人を陷れたるにあらずとはいひがたし。)藤堂佐渡守高虎の子大助高次六歲。江戶に參りて拜謁し奉り。大學助と名乘べきよし仰下され。兼光の御刀國光の御脇差をたまふ。大御所にはさきに伏見の城にて拜謁せしが。こたびも拜謁し御みづから則重の御わきさしを下さる。これより先父高虎は仰をもまたずして妻子を江戶にうつりすましむ。大御所はなはだ其忠志を感じたまへりとぞ。(ェ永系圖。家忠日記。)
◎此月中旬より。江戶府內市中所々火災あり。其外京は吉田奈良の手盖。江州上坂本。
野洲武佐。三河の吉田。赤坂。遠州の白須賀。橋本。上野の館林等。その他邊鄙所々火災多し。また野州宇都宮山にては。旗のことき氣あらはれ。奥平大膳大夫家昌居城にては。旗竿の上に鳩の子十二うまれしが。羽翼成てとびさりぬ。また家昌が江戶の邸內庭上に生首あらはる。また島津兵庫頭義弘は呂宋國に書簡ををくり。通交の道をひらかんとすとぞ聞えし。(慶長日記。當代記。)
○二月朔日日蝕す。(當代記。)
○二日小笠原兵部大輔秀政が長子幸松丸。(十三歲。)次男春松丸。(十一歲。)ともに御前にめして元服せしめられ。御名一字たまはり。叙爵しで幸松丸は信濃守忠脩。春松丸は大學頭忠政となのる。この二人の母は岡崎三カ君の御女にして。まさしく大御所の御外孫なり。(ェ永系圖。)
○四日淺野彈正大弼長政に。隱栖の料とて常州眞壁にて五万石たまふ。長政去年より妻子を携て江戶に住し。常にまうのぼり。あるは御茶給はり。あるは御宴に侍する事しばしばにて。その賜邸に臨駕も數度に及ぴ。其たびだびの若干の賜物あり。兩御所の寵遇尤あつかりしとぞ。(ェ永系圖。慶長日記。ェ政重脩譜。世に傳ふる所は。長政を召れて。御所より眞壁五萬石たまふ事仰出されしとき。長政は長子紀伊守幸長。今紀伊一國を封ぜられてある事なれば。をのれかさねて多くの所領たまはらん事。いかゞ恐ある事と思ひ。御請申上ざりしに。大御所後にこの事聞召。長政をめして。其方今度眞壁の城地辭退するよし聞及ぶ。これこそその方生涯の不覺といふものなれ。長子紀伊守こそ國主なれ庶子右兵衛采女兩人をば何とせんと思ふにや。將軍の賜はらんとあるこそ幸なれ。何ほどももらひため末子どもにゆづるべしと仰ありければ。長政かしこみて御請せりとぞ。異本落穗集)
○五日小笠原信濃秀守政が請をゆるされて。兵部大輔と改め稱す。(家譜。)
○十二日一色次カ照直死す。子なかりしかば采地七千百六十石餘のうち。致仕せし父宮內義直に本領五千百六十石餘をたまひ。家つがすべき子養べしと仰下され。義直が隱栖の料千石。および照直にたまひし新恩二千石は收めらる。(家譜。ェ政重脩譜。)
○廿七日烈風。南方にあたりあやしきK雲たなびく。(當代記。)
◎この月江戶城修築の事により。兼て仰を承りたる西國大名參府して。をのをの家士に命じ。人數若干伊豆の國につかはし石材をとらしめ。三千餘艘にのせて江戶に運送す。石垣七百間。高十二間。あるひは十三間の料なり。この價百人持の石は銀二十枚。ころた石一箱金三兩にさだめしとぞ。關東の諸大名は去年御上洛の供奉したるにより。この課役をゆるされ。供奉せざりしともがらは。千石一人の定制をもて。人夫を出さしめらる。(當代記。)
○三月朔日快晴。江城經營をはじめらる。藤堂和泉守高虎仰を奉りて。本城二三丸を經營し。佐久間河內守正實其奉行す。これは當家定鼎の地となさるゝより。五方の諸侯朝聘するに。城郭狹くしてその禮を行ふ事を得ざれば。こたび廣くなしたまはんとてなり。(坂上池院日記。御年譜。家忠日記。武コ編年集成。世に傳ふる所。神祖高虎に改築の繩張を仰付らるゝとき。本丸最狹くして便よからねば。あらためて廣むべしとありしに。高虎答へけるは。本丸廣きに過れば籠城のとき利少し。二三丸は今より少し廣くて然るべしと申て。その申旨にしたがはれしとぞ。慶長見聞錄には七日江戶御城普請はじめとあり。慶長日記。)
○二日江馬與右衛門一成死して。その子三彌秀成つぐ。(ェ政重脩譜。)
○三日越前中納言秀康卿の長子長松丸。御前に召て首服加へられ。御名一字賜り從四位下右近衛權少將に叙任じ。三河守忠直朝臣と稱せらる。此日京極宰相高次の子熊麿忠高。從五位下侍從に叙任し。若狹守と稱す。伊達越前守政宗に常州信太筑波河內三郡のうち。龍が崎にて芻牧の地一万石を賜ふ。(慶長日記。貞享書上。)
○四日大に氷雨ふりて大雷す。(當代記。)
○十二日代官伊藤保兵衛助次に。賦稅皆納の御書をたまふ。(先祖書。)
○十三日大御所御上洛の事かねて仰さだめられしかど。雨によりて延滯したまふ。(御年譜。創業記。當代記。)
○十五日大御所江戶を發輿まします。相摸國鎌倉の土人井をうがちしに。銀茶釜銀壺を堀得しかば。御道にいでゝさゝげ奉る。關東のことなれば。江戶の御所にさゝぐべしと仰出され。江戶へ持參りて奉る。この日神奈川にとまり給ふ。(慶長年錄。御年譜。創業記。當代記。)
○十六日藤澤につかせたまふ。(御年譜。)
○十七日小田原にやどらせらる。(御年譜。)
○十八日三島に至り給ふ。(御年譜。)
○十九日C水にわたらせらる。(御年譜。)
○廿日駿府にとゞまらせ給ふ。この城內藤豐前守信成が守る所なり。明年はこの城にわたらせ給ひ。御莬裘の地となさるべければ。まづ修築を命ぜらるべしとて。城內を親巡し給ふ。猿樂觀世金春の兩人。子弟等あまた引具し江戶へ參らむとて。御道にて大御所に謁し奉る。江城經營中なれば。汝等まかり下らん事無用なりとて。歸クすべしと仰出され。彼等各望を失て歸途につく。(御年譜。烈祖成績。武コ編年集成。當代記。)
○廿五日駿府を發して田中に着せらる。此日駿府城造營の奉行川勝主水正秀氏に。御書をたまひ其勞を慰せらる。また同じ事により。此年御所よりも御書をたまふ。(御年譜。當代記。創業記。ェ政重脩譜。)
○廿六日中泉に着たまふ。(御年譜。)
○廿七日雨にて御滯留あり。(御年譜。)
○廿八日昨今兩日大雨。天龍川橋落て往還自由ならず。よて猶中泉にとゞまらせ給ふ。(慶長年譜。)
○廿九日雨ふるといへども。御輿をうながされ。岡崎へ至り給ふ。(御年譜。)
◎此月阿倍善大夫重眞召かへされ拜謁をゆるさる。父四カ兵衛忠政當家を退て勢州へまかりたる時。重眞はしばらく蒲生飛驒守氏クにつかへて奥州にあり。
九戶の陣に火矢を一揆原の城に射こみて高名す。又氏クのカ從等數百人黨をむすび會津を立退しとき。氏クの命をうけてその張本人を射殺したり。かく射藝に達したるのみならず。世々忠勤の子孫たるをもて。ふたゝび召に應じたりしとぞ。(ェ永系圖。)
◎此春大內仙洞狹隘にして。朝儀とゝのひがたき由聞召。諸大名に課せて。月卿雲客の邸宅を外へ引うつし。禁裡仙洞の地境を恢弘せしむる事。東北各壹町餘とぞ聞えし。この頃關東雨ふらず。麥壠みな枯稿す。(大三河志。當代記。)
○四月朔日大御所名古屋に着御あり。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○二日岐阜に至りたまふ。(御年譜。)
○三日赤坂につかせらる。(御年譜。)
○四日彥根こわたらせらる。井伊右近大夫直勝が家士松下志摩拜謁して。天國作の御脇差御紋の羽織をたまはる。久旱けふ雨を得たり。駿州以西の諸國は麥よくみのる。(御年譜。家譜。當代記。)
○五日永原につかせ給ふ。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○六日御入洛ありて。伏見城にいたらせたまふ。(三藐院記。舜舊記。)
○八日赤井刑部少輔幸家死す。其子藤右衛門幸長はさきに信州上田の戰に討死す。孫七カ兵衛善幸後に召出さる。(ェ永系圖。)
○九日神龍院梵舜伏見城にのぼり大御所に謁し奉る。(舜舊記。)
○十日また同じ。江城にては。細川內記忠利けふより人夫を出し石垣を築きはじむ。御所みづから親巡したまひ忠利拜謁す。(舜舊記。家譜。)
○十一日江戶城天守第二重の樓櫓經營のことを。伊達越前守政宗に仰付らる。その請によてなり。(武コ編年集成。)
○十九日柳生但馬守宗巖卒す。壽八十歲。この宗巖は菅丞相の末にして。遠祖大膳亮永家よりこのかた。小柳生の庄の地頭として。代々春日の社領を沙汰しける。宗巖は松永彈正忠久秀と共に。三好修理大夫長慶にしたがひ。そのゝち織田家につかへしが。のちに身わづらはしくなり。入道して柳生の庄に引こもる。文祿三年其子又右衛門宗矩と共に拜し。御麾下に候し。慶長五年秋大御所奥の上杉御追討のため御下向のとき。宗矩御供にしたがひ奉る。石田逆謀により上がたへ引かへし。打てのぼらせたまふに及んで。宗矩をめし。汝いそぎ本國にかへり。父に告て國人を催し。軍おこすべきよし仰下され。宗巖にも御書をたまふ。關原の戰終りてのち。宗矩に本領二千石をたまはりしかば。宗巖故のごとく柳生に閑居せり。この宗巖上泉武藏守秀綱(長野信濃守業正が被官上州箕輪に住す。)より劔法をつたへ。その妙を得しかば。大御所よりしばしばめされて劔法を言上せしが。けふ終りをとれり。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重脩譜。)
○廿日神龍院梵舜伏見城にのぼり。大御所に拜謁しもの奉る。(舜舊記。)
○廿八日大御所御參內。直に伏見へ御歸城あり。此日伏見城石垣修築の事を。万石以下のともがらに課せらる。万石以上のともがらは。明年駿府の城修築を課せらるべきによりこの役は除かる。(御年譜。創業記。當代記。)
○廿九日大御所の仰により。武經七書を梓にのぼせ。海內に廣行せしめらる。(武コ編年集成。)
◎この月細川內記忠利侍從にのぼせらる。コ山秀現法印則秀が子五兵衛直政初見す。(家譜には十年の事とす。)內藤豐前守信成駿府を轉じて。江州長Mの舊城をたまひ。城廓修造の料として銀五千枚を下され。美濃飛驒近江の役夫をして營築せしめらる。そのとき汝にこの地を給ふ事は。上方筋警衛。かつ北越より京攝の要路たれば。それを監せしめられん爲なりと仰下さる。京相國寺に山門を建立せしめらる。こは金吾中納言秀秋卒去有しとき。蓄米二万石を池田宰相輝政あづかりたるゆへに。その米を施入してこの用にあてらるゝ處なり。また榊原式部大輔康政居城上州舘林にて腫物なやむよし聞えければ。江戶より酒井右兵衛大夫忠世。土井大炊頭利勝をつかはされ看侍せしめたまひ。また醫員延壽院玄朔道三親C子父子。其外內外科どもをして治療せしめられ。其上井上半九カ正就。朝倉藤十カ宣正。高木九兵衛正勝。大久保與一カ忠益。神尾五兵衛守世。弓削多源七カ昌吉等。日夜奔走してその病をとはしめらる。大御所よりも村越茂助直吉を御使してとはせらる。(家忠日記。ェ永系圖。ェ政重脩譜。創業記。當代記。家譜。慶長日記。)
○五月二日神龍院梵舜伏見城にのぼり。大御所に拜謁す。この日より暴風連日。(舜舊記。當代記。)
○五日脇坂淡路守安元江戶城普請を助けしにより。大御所より御書を給ふ。(ェ政重脩譜。)
○六日大久保甚右衛門忠長死してその子甚九カ忠重繼て。相摸守忠隣に屬し小田原に住す。忠長は平右衛門忠員が七子にて。はじめ僧となりて。三州和田村妙國寺のうちに一宇をたてゝ閑居せしを。大御所御覽じて召出され。岡崎三カ君につかへたてまつる。三カ君御事ありし後は。兄七カ右衛門忠世と共に二股城を守り。後に兄弟中違ひて御旗本にまいり仕へ奉りしが。天正十八年小田原陣のとき。伊奈熊藏忠次に命じて忠世と和談せしめられ。再忠世に屬して小田原城下八幡山に住し。五十三歲にてけふうせぬるなり。(家譜。)
○七日京極若狹守忠高從四位下にのぼる。(武家補任。藩翰譜備考系圖にはェ永三年とす。)
○九日神龍院梵舜伏見城にのぼりて。大御所に拜謁す。(舜舊記。)
○十日小姓兼歩行頭松平若狹守近次改易せらる。こは關原の前に伏見城にて戰死をとげたる五左衛門近正が二子なりしが。このころ甲州士西山といふ者闇夜にうたれたる事あり。その賊さだかならず。近次がしわざかとうたがはる。そのうへ宮仕する女房と密通の聞えあるゆへとぞ。(創業記。慶長年錄。)
○十一日神龍院梵舜伏見城にのぼる。(舜舊記。)
○十三日井伊右近大夫直勝從四位下に叙し。兵部少輔と改稱す。この日伏見城邊怪異さまざまあり。古き祠より挑燈のことき光物いでゝ飛行し。豐後橋の邊に落る。
また加藤肥後守C正の邸中よりも。行燈のごとき光物飛いで。洛中にても光物飛行す。その音車のごとし。都人呼て破車といふ。先年も二度かかる怪物あり。いづれも凶兆といへり。(家譜。當代記。)
○十四日上野國舘林城主榊原式部大輔康政卒す。五十九歲。嫡男出羽守忠政は外祖大須賀五カ左衛門康高が世繼となりしかば。三男遠江守康勝をして原封十万石を襲しめらる。此康政は仁木右京大夫義長の後胤。伊勢國壹志郡の住人七カ右衛門C長が子七カ右衛門長政が二男にて小平太といふ。永祿三年十三歲にして初見し。この年より近侍し奉り。同じ六年上野城の戰に高名し。そのゝち首服くはへしとき。御名の一字賜はり康政とめされ。一方の大將をうけたまはる。おなじ十一年三河堀川の城攻より。遠州の天方。犬居。光明。高天神。長篠。近江の姉川。駿河田中等の戰に勇をふるひ。功をあらはさずといふ事なし。天正十年甲斐國にて北條と戰ひ。十二年長湫の戰に先陣し。前田蟹江の城をせめ破り。十月御陣を班されし後。小牧山に留り守り上方の押へたり。豐臣關白の妹君御ゆかりさだまり給ひしとき。關白の召によりて都にのぼる。關白みづからその旅舘におはして。康政が手をとりて。かくコ川殿としたしくなりぬ。康政等がことき勇士あまた候事。秀吉がス之とおほせ。翌日の見參にも引出物多く給はり。妹君下向したまひし時も。康政が家に立よらせらる。其年十月御上洛の御供して。十一月九日從五位下に叙し式部大輔と稱す。當家の御家人叙任のはじめなり。十八年小田原の陣はてゝ。上野國舘林の城を賜はり十万石を領す。文祿元年正月二日より。今の御所につけらる。慶長四年正月豐臣家の奉行人等ひそかに軍兵を催し。伏見の御舘を襲はんとせし時も。康政東國よりのぼる道にてかくときゝ。よくはからひて近江の勢多に新關をかまへ。旅人をとゞむる事三日にして關をひらく。諸國よりあつまりたる旅人たゞ一時にはせ入しを。江戶より多勢のはせ付しとおもひ。大坂の輩大に氣をくれして。その事終にはたさず。康政がはからひ奇特なりとて御感なゝめならず。五年上杉を征伐あらんとて。打て下らせ給ひし時には。御所の先陣うけたまはりて下る。上方逆徒蜂起のよし聞えて。御所山道をうつてのぼらせたまふに。眞田安房守昌幸御道をさへぎり。籠城してさまたげんとす。本多佐渡守正信が申旨をきかれ。間道をへてのぼらせたまふ。康政は眞田が謀何ほどの事かあらん。若打出なば蹴散し其城ふみやぶつてくれん物をとて。をのが手勢ばかりにて眞田が城にせまりをし通るに。眞田あへてとゞめんともせず。關原の戰終て後近江の草津にて。大御所思召旨やありけん。しばらく御父子御對面なかりしに。康政深夜にひとり大御所の御陣に參り諫進らせしに。御心とけて速に御對面おはしければ。御所の御スなゝめならず。御みづから御筆をそめられ。康政が此度の忠志當家あらん限りは。子々孫々に至る迄も忘るゝ事あるまじと遊ばされけるとぞ聞えける。井伊直政本多忠勝もこれをきゝ。わどのこたび身をすてゝいさめあらそひしにより。御父子の御中たいらかにわたらせたまふ事。凡天下の大功なり。いかなる戰塲の勳にもまさるべしと。申稱してやまざりしとぞ。かく當家三老のその一にて。元勳の宿將なりしが。こたび大病と聞召。老臣をつかはし。醫官をはせ療養を加へしめ。日々に御使あつてとはせ給へども。遂に卒しぬと聞えしかば。御所御なげき淺からず。阿部備中守正次御使して賻たまふ事多し。伏見にもこのこと聞し召おどろかせ給ひ。村上彥太カ吉勝を吊使として下されしとぞ。此日また伏見城にては。西郡の局頓に逝去せらる。これは三州西郡の城主鵜殿三カ長持の女なり。(長持を以貴小傳藤助長忠とあり。)第二の姬君普宇の御方をうめり。こははじめ北條左京大夫氏直の北方になりたまひ。氏直うせてのち豐臣太閤の媒にて。池田宰相輝政に嫁したまひぬ。局この日うせられしかば。京の本禪寺に葬りて蓮葉院とをくらる。(ェ永系圖。藩翰譜。慶長日記。以貴小傳。)
○廿二日水野石見守長勝より矢を獻ず。(家譜。)
○廿五日大風雨。京邊は廿年此かたの洪水といふ。江戶城修築のため。豆州より運送の石をつみのせたる鍋島信濃守勝茂船百廿艘。加藤左馬助嘉明が船四十六艘。K田筑前守長政が船三十艘くつがへり破損す。其外三艘五艘枚擧するにいとまあらず。關東この水害にかゝり麻大に損ず。(當代記。慶長年錄。)
○廿六日越後國春日山城主堀左衛門督秀治卒す。その子吉五カに原封四十五万石を襲せらる。この秀治は利仁將軍八代の孫權大夫季高が末孫左衛門督秀政が長男なり。父の秀政織田豐臣の世にありて。智謀勇畧拔羣なりしかば。越前の國北の庄をたまはり。四位の侍從に叙任ず。秀治父につぎ四位の侍從に叙任し。慶長三年四月二日越後國をたまひ今の城に住す。五年の秋上杉を討たせたまはんとありし時。北陸道より奥に攻入べきよし仰を蒙りしが。上方蜂起したれば東海東山二手にわかれて攻のぼらせ給ふによつて。秀治は奥にむかふにおよばず。越後に有て上杉勢をふせぎ。國中ことごとく平ぎしにより。兩御所より御感狀をたまはる。十年四月御上洛の供奉しけふ卒す。年三十一とぞ。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿七日松田勝右衛門政行沒しければ。その子三カ兵衛勝政に家つがしめられ。遺領二千石の內千石をたまふ。この政行は始め前田コ善院玄以法印の被官たりしが。關東の戰畢てのち。その十月加藤喜左衛門正次を以てめしいださる。政行コ善院の被官にて。京洛の風俗地理を詳に知るゆへ。喜左衛門正次に副て所司代の事を攝行すべしと仰付られしとぞ。(家譜。)
◎この月江戶城の石垣溝渠成功せり。此ころのことにや。福島左衛門大夫正則が婢亡命して。池田宰相の藩中にかくれゐたるを。
福島が家僕見しりて。厨におしいりてその婢をとらふ。池田が家の奴等。こは狼藉なりといかりあつまりて福島が家士をからめとる。正則これをきゝて。江戶築城の事によりては。是にあづかるともがら。家人奴僕にても爭論を禁ぜられ。違犯の徒は死罪たるべきにさだめらる。よて封境を出る日その事奴僕等までも嚴に命じをきぬ。しかるにかゝるひがごと引出したる罪輕からずとて。池田が家へ使をたてゝ。その婢と僕を家に引もどして首をきる。さてこの事は我婢僕よりこと起り。池田が家の僕等は罪なければ。必とがめらるべからずといひ送りしとぞ。正則とにかくに暴の所行多かりしが。この一事甚謙遜のふるまひなりと諸人稱美せり。(當代記。慶長年錄。)
○六月朔日江戶にて。御所の二カ君生れ給ふ。(柳營譜畧には三月七日。御九族記に五月七日。御系畧。三松錄。慶長見聞書には六月朔日。歷世表に十二月とす。いまその多にしたがひてこゝに收む。慶長日記と慶元記に十三年とするは。またくあやまりなればとらず。)御臺所の御腹なり。のちに國松君と稱せらるゝはこれなり。よて諸大名樽肴を江城に献じ賀し奉る。この日地震兩度。(御系圖。慶長見聞書。當代記。)
○二日神龍院梵舜伏見城にのぼりて。大御所に謁し奉る。(舜舊記。)
○三日常陸國下舘城主水谷伊勢守勝俊卒しければ。のちにその子彌太カ勝隆して遺領三万二千石をつがしむ。この勝俊は伊勢守治持が二男出羽入道幡龍齋正村が弟なり。入道が女子は結城左衛門督晴朝が室にして。家つぐべき男子なければ。弟を養て子とせしなり。晴朝に屬して戰功多し。豐臣關白天下を掌握ありしより本領を安堵し。右京大夫伊勢守と稱し。天正のはじめより大御所に歸順し。しばしば使節をさゝげ物を獻ず。十八年關東にいらせたまふときも。御先にまいり案內し奉る。關原のときは仰によりて皆川廣照とゝもに。野州に陣どりて佐竹を押ふ。天下定まりてのち水谷。多賀谷。山川岩上等は。もとより結城家の四天王とよばれたるものどもなればとて。中納言秀康卿につけられ。越前の國にうつらんとしけるが。美濃國河戶の渡りよりめしかへされ。御家人に加へられふたゝび本領を安堵し給ふ。齡六十五歲にて卒せしなり。(家譜。ェ永系圖。藩翰譜。)
○四日これよりさき駿府の城改築の事。この七月朔日よりことはじめあるべしと。美濃。尾張。飛驒。遠江。三河の諸大名に仰下されしが。この日またあらためて。明年正月より經營はじむべしと仰下さる。(創業記。當代記。)
○七日上林久コ久茂死して其子六カ勝永つぎ。父の職命ぜらる。この久コが先祖は代々足利家につかへ。久コが父加賀守久重は。豐臣關白より宇治の代官に命ぜられ。はじめて茶園をあづかる。これよりさき織田殿京本能寺にて事ありし時。大御所和泉の堺より俄にかへらせたまふとき。久茂は家僕近隣のやからを催し。赤布を引さき袖印に付て。百人計木津川の邊より御道の案內し奉り。宇治田原へいでゝ多羅尾がもとにて御膳を奉らしむ。これをはじとめして豐臣關白の時となりても。御上洛あれば常に近侍して。懇の御氣しきを蒙り。久茂が家にもならせられ。御茶獻りし事もしばしばなり。加恩百石たまひて四百九十石になさる。關原の時も石田がもとより討手をさしむけしが。關原戰終て後かの討手にむかひし田邊惣兵衛を伐て奉りしかば。御鎗御鞍等を給ひ褒せられ。其外たまふ處の茶具等若干なり。入道して久コと號し。六十五歲にてけふ終をとる。入道が母は佐々木六角右京大夫入道承禎が女にて妙秀尼といふ。茶を製する事巧なりしかば。大御所しばしばそれが茶を召る。いまも祖母昔と名づけし茶は。この老母の遺法なりといふ。(家譜。)
○十日江戶城修築成功せしかば。これにあづかりし諸大名皆就封のいとまたまふ。猶一萬石に大石二づつ課して獻ぜしめらる。池田宰相輝政に御刀幷に馬をたまはり。池田備中守長吉備前三カ國宗の御脇差。ならびに馬を賜ふ。細川內記忠利も馬をくださる。(創業記。ェ永系圖。家譜。)
○十一日大番頭水野備後守分長。所領を三河國新城にうつされ。加賜ありて一萬石となる。今迄は九千八百二十石を領せしなり。(ェ政重脩譜。家譜には十八日とあり。)
○十二日高橋掃部入道に密西耶渡海の御朱印をくだされ。後藤宗印に芠萊渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)
○十三日神龍院梵舜伏見城にのぼり。大御所にみえ奉る。(舜舊記。)
○十六日伊勢國松坂城主古田兵部少輔重勝卒す。その子希代丸重恒六歲の幼稚なれば。弟大膳大夫重治に封地を治めしめらる。此重勝が父は左衛門重利とて。豐臣關白いまだ羽柴筑前守と申さるときその侍大將となり。播磨國三木の城にて討死す。重勝關白につかへて。伊勢國松坂の城を領し三萬五千石になさる。關原のはじめに會津の御陣にしたがひ奥にむかひければ。をのが城には家人助左衛門をとゞめてまもらしむ。上方みだれ石田治部少輔三成使をたてゝ。松坂の城を取んとせしかど。助左衛門これにしたがはず。其間に重勝はせのぼり。をのれは城に有て兵士を分て安濃津にさしむけ。富田信濃守知信を助く。大坂よりは鍋島信濃守勝茂一萬餘兵を引具して。松坂の城を攻かこむといへどもたやすく落されず。關原の軍畢りてのち。この恩賞として二萬石加へられて。五萬五千石を領しけふ卒す。時に四十七歲なり。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○十七日島津陸奥守忠恒に御一字をたまはり。家久とあらたむ。(武家補任。)
○十八日渡邊備後守金銀山探索の事を命ぜらる。(萬世家譜。)
○十九日大河內又次カ正勝死して。その子長四カ忠次家つがしめらる。(ェ永系圖。重脩譜には十年に係て月日を記さず。いま家譜による。)
○廿日神龍院梵舜伏見城にのぼり。大御所に謁し奉る。(舜舊記。)
○廿九日神龍院梵舜伏見城にのぼり。大御所に謁し奉る。(舜舊記。)
○晦日飯河新右衛門盛之死して。その子藤次カ盛政家をつぐ。(家譜。)
◎此月江戶城修築成功していとま給はりし諸大名。皆伏見にまいり大御所に謁し奉る。加藤肥後守C正は同伴の諸大名にすゝめて。大石あるは百貳百。あるは五十三十づゝ獻ぜしむ。さきに一萬石に二づゝの制をもて。さゝぐべしと仰出されし故なりとぞ。菅沼もとの織部正定盈五子翁助吉?七歲にして召出され。近習に召つかはる。川井作兵衛政忠は始め駿河の今川につかへ。また甲州の武田につかふ。その父丹波某は大御所そのむかし今川がもとにおはしましけるとき。しろしめしけるものなればとて。柴田七五カ康忠執申により拜謁し。此月駿府に召出され五百俵賜はり。伊豆銀山奉行仰付られ。同心五十人つけらる。其子善兵衛政善(家譜彌五助正岑に作る。)同じく召出され大番にいる。此頃長崎をはじめ。紀州薩州ならびに三浦にも蠻船着岸す。(創業記。ェ永系圖。家譜。ェ政重脩譜。慶長見聞錄。) 
卷四 / 慶長十一年七月に始り十二月に終る 

 

○七月二日炎暑殊に甚し。江戶近郊久しく雨降らず。(慶長見聞書。)
○五日織田河內守長孝卒す。こは有樂入道の長子にて。關原のとき父子とも御味方にまいりしかば。長孝别に一萬石を給ひしなり。その子長則家つぎ河內守と稱す。伏見城には神龍院梵舜まうのぼり。大御所に拜謁す。(家譜。藩翰譜。舜舊記。)
○十三日內藤仁兵衛忠政卒す。齡七十五歲。この忠政は甚五左衛門某の四男にして。四カ左衛門正成が弟なり。若年より大御所につかへ數度の軍功あり。永祿六年一向門徒一揆のとき。二心なく軍忠をはげます。此時御使として勢州に赴く。海上にて賊船頻に銕炮をはなつ。忠政みづから銕炮をもて賊首をうち殺す。殘黨大に恐れ船をこぎもどし迯去しかば。恙なく勢州にいたり御使をつとめ。三州にかへりて御感を蒙る。その後忠政いたわる所多かりしかば隱居せしかど。關原へうつらせ給ひし後。時々召て謁し奉り。關原のときには石川日向守家成とゝもに。江戶西城の當番をつとむ。其後大御所駿府にうつらせ給ふべきによりて。忠政も隨ひ奉るべしと仰下されしかば。まづかしこにうつりて。程なく卒せしなり。(ェ永系圖。家譜。)
○十七日菅沼越後守定吉卒して。其子藤十カ定俊此年九月家をつぐ。この定吉は信濃守定氏が子にて。はやくより大御所につかへ奉り。遠州三方が原駿州田中三州長篠尾州長久手以來戰塲にしたがはずといふ事なく。高名する事少からず。天正十八年關東御入國のとき。采邑三千五十石給ひ。文祿元年當家にてはじめて大番頭三隊を置れしに。定吉その一人にえらばれ。肥前名護屋御陣よりかへらせ給ひし後。今の御所に附られ。けふ五十四歲にて卒せしなり。(家譜。)
○十九日伏見城に神龍院梵舜まうのぼりて。大御所に拜謁し山桝眞壺をたまふ。(舜舊記。)
○廿一日船頭堺木屋彌三右衞門に。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿三日下總國佐倉に錢通用のを令下さる。下總國佐倉より東の地に於てしかみ錢通交すべし。但割錢欠錢新錢はえらび取べし。こはその請によて制を定め下さるれば。もし違犯の者は嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。)
○廿六日武州忍城代高木筑後廣正卒す。壽七十一。その子九介正綱家を襲で。父の原職を仰付らる。この廣正父は七カ左衛門重正とて。三州高木に生る。廣正永祿のころより科野。石がP。鳥屋根の城責。一向門徒の一揆御誅伐の御供し。元龜元年姉川の戰に軍功をあらはし。同じ三年三方原の戰には。武田信玄が近習六人剛勇の法師武者を討とり。大隈入道といへる大力の法師と組打しその首をとり。仰をうけて信玄の首伐りたりと唱へ。M松城中の騷擾をしづめしかば御感を蒙り。大隈が面頰を給ふ。天正三年遠州小山陣に軍功を勵し。同九年歩卒二十人をあづかり。十二年長久手合戰に同心を引ゐて敵の首級を得。十八年六百石の加恩をたまはり。歩卒三十人を預り。文祿元年先の采邑をうつされ。加恩ありて二千石給はり。慶長四年廣正が采邑二千石の地。預らるゝ所の歩卒五十人は。長子九介正綱にゆづり。菅沼小大膳定利にかはりて忍城を守り。城邊三千石の地。及びその家人五十人をあづかり。養老の料千六百石をたまふ。のち御前に候して大御所御戰塲の事を聞え上べきむね御懇詞たまはりしが。年老ければ平川口より乘輿してまうのぼる事をゆるされ。けふ卒せしなり。また長崎奉行長谷川波右衛門重吉死す。嗣子なく家絕たり。(ェ永系圖。家譜。ェ政重脩譜。)
○廿七日大御所伏見より二條の城へ渡御なり。此日阿野喜三右衛門へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御年譜。御朱印帳。)
○廿八日大御所二條の城へ渡らせ給ひ。神龍院梵舜をめして。先代帝王陵墓の事を垂問したまふ。(舜舊記。)
○晦日またおなじ。(舜舊記。)
◎この月越前中納言秀康公惣督として禁裏仙洞の宮殿垣墻經營の事始あり。小堀作助政一奉行たり。太田新六カ重正二子新六カ資宗は。七歲にて伏見に參り拜謁す。(大成記。家忠日記。ェ政重脩譜。家譜。ェ永譜には年をしるし月を脫す。しばらく編年に從ふ。)
○八月二日二條城にて大御所申樂御覽あり。(舜舊記。)
○三日又同じ。神龍院梵舜も召れてみせしめらる。(舜舊記。)
○六日大御所相國寺子院豐光院へわたらせたまひ終日御遊あり。此日舟本彌七カへ天南渡海の御朱印。角倉了似へ東京渡海の御朱印を下さる。(舜舊記。御朱印帳。)
○八日神龍院梵舜二條城へまうのぼりて拜謁す。(舜舊記。)
○十一日大御所御參內あり。五カ太丸長福丸兩君も同じくまいらせたまふ。ともに從四位下に叙せられ。五カ太丸君は右兵衛督に任ぜられ。義利朝臣(後義直と改らる。)となのらせ給ふ。長福君は右近衛權少將に任ぜられ。常陸介ョ將朝臣となのらせたまふ。(後にョ宣と改らる。)けふ神龍院梵舜は二條城にまうのぼり謁し奉る。又長崎惣右衛門へ暹羅渡海の御朱印を下さる。(御年譜。創業記。舜舊記。御朱印帳。)
○十二日二條城より伏見城に還御なる。(舜舊記。)
○十五日藤堂佐渡守高虎に江戶城修築繩張の功を褒せられ。備中後月小田兩郡二萬石加封せらる。此時和泉守に改む。(大三河志。これは丹羽五カ左衛門長秀が三男宮內少輔高吉を。豐臣太閤の命により高虎の養子とせしが。高虎實子生るゝに及び。高吉は家臣のごとくなりて終りぬ。其舊領をこたび高虎に合せられたるなり。藩翰譜。慶長日記。)この日林三官へ呂宋渡海の御朱印を下さる。又占城國王へ御書幷に甲胄六領。大刀四把。腰刀一把。脇刀五把贈せられ。其國產の奇楠香を求め給ひ。かつ兩國通交の事を仰つかはさる。こは林三官が呂宋へ赴くにより。其たよりに占城へ仰遣はされしなりとぞ。又有馬修理大夫晴信へ暹羅渡海の御朱印。檜皮屋孫左衛門へ柬埔寨渡海の御朱印。
平野孫左衛門へ呂宋渡海の御朱印を下さる。此日松波但馬守重隆八十二歲にて卒す。その子梶平重正は甲斐の武田に御使をつとめ。あるひは所々の御陣に從ひ奉りし事有しが早世し。二子六藏重次は文祿年中より。兄重正が遺跡を賜はり奉仕す。(御朱印帳。異國日記。紀年錄。ェ永系圖。家譜。)
○十六日春日社修理料として。米二万俵を一乘院門主尊勢大僧正に寄せ給ふ。(武コ編年集成。)
○十七日小河三益死して。其子惣左衛門ョ勝家をつぐ。この三益は勢州の產にて流浪せしが。能書なりしゆへ召出され。今の御所に御手本を奉りしとぞ。(家譜。)
○廿日神龍院梵舜伏見城にまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)
○廿一日大風なり。この日占城渡海の御朱印を林三官へ下さる。(當代記。御朱印帳。)
○廿六日西尾隱岐守吉次卒す。この十月七日に養子丹後守忠永に遺領一万二千石襲せられ。二子小左衛門吉定に忠永が䕃料二千石のうち七百石を分たしめらる。この吉次ははじめ小左衛門と稱す。吉良上總介滿氏が後胤にて。尾張の國に生れ。織田家につかへ三千石を領す。大御所和泉の堺の地御遊覽のとき。織田右府の命をうけて饗應の役となり。六月二日本能寺にて右府事有しのち。御供して伊賀路を踰岡崎に至り。やがて召に應じて御家人になり。所々の御陣に從ひ奉り。天正十八年放鷹のとき油をひさぐ者御先を遮りしかば。彼を討とて御刀を授給ふ。吉次追かけ斬て兩斷とすといへども。二三歩ばかりがほどそのまゝあゆみて倒れしかば。その御刀を油賣と名づけ給ふ。後これを吉次にたまふ。その年九月十日采邑五千石を賜はり。慶長四年十月三日從五位下に叙し隱岐守と稱し。七年七千石を加へられて一万二千石を領し。騎士二十五人を預らる。衰老の後も御伽の列にありてしばしばまうのぼり。けふ七十七歲にて終りをとれり。(ェ永系圖。ェ政重脩譜。藩翰譜。)
○廿七日大御所伏見城より二條城にわたらせ給ふ。神龍院梵舜まうのぼり見え奉る。(御年譜。舜舊記。)
○廿九日夜より大風。美濃。近江。北伊勢。四國。中國。海潮おし入たりとぞ。(當代記。)
◎この月柬埔寨國王より書簡幷に六種の方物を献ず。甲胄二領をつかはさる。また大泥國王より書簡幷に花綾を献じ。我國の商船かしこにわたり侵掠するよしをうたふ。御返簡ををくられかの商船歸朝せば速に其罪を糺し。誅戮を加へらるべしと答たまふ。松前民部大輔慶廣は五年前より。その國要害の地に新城を築く事。凡六年にしてこのころ成功す。よつてその城を福山と名づく。また加藤肥後守C正は熊本の居城に。觀世をめして申樂を張行し。唐織薄板等をはじめ。美服白銀若干を纏頭し。なを其スびにたえずとて大御所へ唐織の衾十献じ奉る。(紀年錄。ェ永系圖。當代記。世に傳ふる所。C正はこのころ伊達政宗が仙臺の城に。團助といふ妓を京より呼よせ歌舞妓をなし。近國群集させしときゝ。當時第一の工夫なりと感心し。申樂等數人を居城にめし國人に見物せしめ。またお國といふ妓を京よりめし。歌舞妓など催しけるといへり。當時外樣の大名等が情實かゝる事と見えぬ。武家閑談。)又大番頭山口但馬守重政今年より。三年が間伏見城番をつとむ。(貞享書上。)
○九月朔日大風雨。琉球國むかしより島津に屬すること久し。しかるに近來貢をはこばず。島津陸奥守家久その家人三員つかはして。そのゆへをたゞすといへども。かれ明國をはゞかりて承服せず。よてそのよしを聞えあげて。征伐せん事をこひしかばゆるし給ふ。(當代記。貞享書上。ェ永系圖。琉球國は家久十代の祖陸奥守忠國が時に。普廣院義教將軍より給はり。嘉吉の頃より附庸たりしといふ。烈祖成績。)
○二日相國寺長老承兌伏見城にのぼり。吉田神宮寺幷に寺領の事を聞えあぐる。(舜舊記。)
○三日神龍院梵舜。足利學校三要。伏見にまうのぼり大御所に拜謁す。(舜舊記。)
○七日三河國額田郡成道山大樹寺を。勅願所に准ぜられ綸旨を給ふ。そのうへ現住暹譽に常紫衣をゆるさる。これ御執奏によりてなり。(大樹寺舊記。)
○十日神龍院梵舜伏見城にのぼりまみえ奉る。(舜舊記。)
○十一日島津陸奥守家久左近衛中將にのぼせらる。長田金平白茂の二子金平白勝めし出さる。(藩翰譜備考。ェ永系圖。)
○十三日片桐市正且元。大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重伏見城にのぼり。豐國社の條約ならびに社頭石燈籠の事を聞えあげ。御ゆるしを蒙る。(舜舊記。)
○十四日豐國社務萩原慶鶴丸。神龍院梵舜ともに伏見城へまうのぼり。大御所へ慶鶴丸より紅梅裏綸子を献じ。梵舜は論語抄五卷。環翠軒抄。(卷數詳ならず。)道白奥書の玉篇五卷を献ず。御けしき大方ならず。僧承兌三要も御側に侍りて。しきりに稱讃せり。(舜舊記。)
○十五日呂宋渡海の御朱印を安當にからせすに下さる。その國の官人へ御書幷に甲胄四領をつかはさる。醫員片山與安宗哲法印にのぼる。(御朱印帳。ェ政重脩譜。)
○十七日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。日吉社勸請の事をとはしめ給ふ。又萩原慶鶴丸元服の作法。堂上の並たるべきよし仰出さる。
◎此日船頭須山へ西洋渡海の御朱印を下さる。(舜舊記。御朱印帳。)
○十九日さきに柬埔寨へ赴きし商船。風濤にへだてられ達する事を得ざるよし聞えければ。かさねてその國王へ御書をつかはされ。かの國上品の奇楠香を求め給ふ。よて金屏風五双をくらせ給ふ。また原彌次右衛門へ天南渡海の御朱印を下さる。さきにその國より沈香廿斤白𥿻五匹を献ぜしとぞ。(異國日記。御朱印帳。)
○廿日國松君けふ宮參し給ふ。このころの事にや。朝鮮の僧惟政(松雲と號す。)來朝して和議をこふ。京本法寺に寓居し。伏見にまうのぼり大御所に拜謁し。先に生擒せられしものをこふ。よりてこの國にとゞまらんと願ふものはとゞめられ。
歸國をねがふものはかへさる。(年錄。紀年錄。)
○廿一日大御所伏見城をいでゝ江戶におもむかせたまふ。かねては十九日御首途あるべしと定られしかど。大雨によてけふに及びしなり。又越前中納言秀康卿には。伏見城留守すべしと命ぜらる。けふ追分に於て保田甚兵衛則宗はじめて大御所に拜謁す。その日水口の御旅館にめし。小堀作助政一をもて本領三千五百石賜はる。これはもと太閤秀吉公の家人なりしが。こたび召出されしなり。又武藤理兵衛安成は搏c右衛門尉長盛が家人にて。今は入道し山城國薪村の酬恩菴に閑居せしを。永井右近大夫直勝。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重をもて。しきりに召れて御家人になさる。これ賦稅の會計にくはしければなり。五百十石餘給はり。後に駿府にめして勘定の事をつかさどらしめらる。この日暹羅國王に御書をつかはされ。上品の奇楠香並精鐵の鳥銃を求め給ふ。よて甲胄三領長大刀十柄つかはさる。また西村隼人に柬埔寨渡海の御朱印を給ふ。(御年譜。創業記。當代記。ェ永系圖。家譜。異國日記。御朱印帳。)
○廿三日江戶城殿閣落成により。御所本城にうつらせ給ふ。諸大名酒樽を献じ賀し奉る。これあらかじめ大御所は伏見にましませば。御所には江戶の本城にうつりすませ給ふべしと。仰進らせられし故とぞ。この日大御所の御十一男鶴千代君常州河內郡下妻五萬石を封ぜらる。時に四歲なり。朝比奈雲齋をして城代たらしむ。(御年譜。創業記。慶長日記。藩翰諳。烈祖成績。)
○廿七日御所江戶より戶田邊に放鷹の御遊あり。(慶長年錄。)
○晦日大御所白須賀にやどらせ給ふ。この日風雨甚し。また近日雪しばしばなり。(創業記。)
◎是月松平兵庫頭親良の子甚三カ行隆召出されて小姓になる。安藤次右衛門正次江戶より御使として駿城に越き。修築の事を監せしめらる。また安南王より書簡を奉り方物をまいらせければ。御返簡つかはされ長刀十柄をくらせ給ふ。今年九月にいたり關東禾稼熟せず凶饑す。(家譜。紀年錄。當代記。慶長見聞書。)
○十月朔日大御所白須賀に滯留したまふ。霖雨によりてなり。この日桑山治部卿法印宗榮卒す。齡八十三。この法印はじめ修理大夫重晴といふ。剃髮して果法院と號す。太閤秀吉公いまだ江州長島の城におはせし時よりしたがひ。柴田修理亮勝家と江北にて戰はれしとき。志津嵩邊の要害を守る。後に大和大納言秀長卿に屬し。但州竹田の城を領し一萬石給はり。また紀州和歌山の城にうつり三萬石を領す。濃州妹尾の城責。紀州山地の戰に功あり。秀次關白のことありし時に。太閤の命をうけて伏見城の大手を警衞す。其勞を褒せられ泉州にて一萬石を加へらる。慶長五年關原の戰には。大御所の御書を給はり。嫡孫修理大夫一晴とおなじく和歌山の城を守る。その年退隱し本領二萬石を一晴にゆづり。一萬石は次子伊賀守元晴に領せしむ。(一說一晴に一萬六干石。元晴に一萬六千石ともいふ。)法印の子九カ五カ一重は先達てうせければ。嫡孫一晴家つぎて後朝鮮の戰に軍功あり。關東のとき父法印と共に御味方しければ。この年一族の所領を大和國に移され。(一晴一萬六千石。元晴二萬六千石。左近貞晴三千石といふ。)九年二月廿八日一晴もまた祖父に先達てうせぬとて。その弟左衛門佐一直家をつぎしなり。これよりさき一晴が卒せし時。遺領配分のこと申おきしかど。法印是を用ひず。沒するにのぞみ養老料一萬六千石の內。六千石は元晴。一萬石は元晴が子又四カC時へゆづるべし。一直は一萬六千石たるべしと申置たり。よて上裁をこひけるに。法印沒前の詞にまかすべしと仰下さる。(武コ編年集成。ェ永系圖。藩翰譜。家譜。)
○六日大御所駿府につかせ給ひ。駿城經營の地を沙汰し給ふ。この城より南にあたり。河野邊といへる地まで恢弘せられ。明年搆造あるべしと仰出さる。(御年譜。創業記。)
○七日內田全阿彌正次(はじめ新六カ。)死して。其二子三カ兵衛貞親家をつぐ。この正次永祿七年初見し眤近を命ぜられ。卅四歲のとき仰により全阿彌と改め同朋となり。尾州小牧陣に高名し。けふ六十歲にて死す。(ェ永系圖。)
○八日今屋宗中へ暹羅渡海の御朱印を下さる。かの國半南土美解留閤古邊果伽羅那加へ御書ならびに甲胄三領。中卷十柄をつかはさる。(御朱印帳。)
○十八日村上文左衛門勝友死す。其子文三カ勝信して家つがせらる。(ェ永系圖。)
○廿六日大御所駿府にとゞまらせ給ふ事廿一日にしてけふ御發輿あり。江戶におもむかせらる。先に駿城を河野邊にうつし給はんとの命有しを。再び改めこれまでのまゝにて。少しく南北の地を恢弘すべしと仰出され。有度。安部。廬原の三郡にわたりて築かせらる。(創業記。當代記。)
◎是月諸國の金堀ども伊豆の金鑛をうがつべきよし。京中に高札を立られければ。諸國より其事をのぞみはせ下るもの雲霞のごとし。又小姓組石谷市右衛門政勝大番に轉ず。菅沼藤十カ定俊は燒火の間番頭となり。矢部藤九カ忠政初見の禮をとる。(當代記。家譜。)
○十一月二日下野守忠吉卿病を養はるゝとて。大久保加賀守忠常が芝浦の邸におはしたるが。今日俄に絕入し給ふ。醫官延壽院道三いそぎまいりて藥をまいらせたれば。少しく快氣を得たまふ。(慶長年錄。)
○四日大御所江戶城に歸りいらせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○六日山常陸介忠成。內藤修理亮C成御勘氣をゆるさるゝといへども。政務にはあづからす。是より先長福君常陸介と稱せらるゝがゆへに。忠成は播磨守に改む。宗對馬守義智使もて聞えあげしは。先に朝鮮國へ兩國和融の御旨を傳へしに。かの王これにしたがひ。明國よりつけ置所の番兵をかへらしめ。
使者をまいらせ聘禮をおさめんとす。その使はや對州までまいりたるよし聞えあぐる。兩御所御感なゝめならず。其使へ兩御所より御刀幷銀を下され。そのうへ朝鮮の聘使には九州にて米千石給ふ。この日江原九カ右衛門信次死して。その子九カ右衛門秀次つぐ。また此夜伊勢の桑名火あり。市廛三百餘軒この災にかゝる。(家譜。創業記。當代記。ェ永系圖。)
○十一日堀吉五カ御前にめして首服加へられ。御名の一字たまはり御家號をゆるされ。從五位下に叙し松平越後守忠俊と改む。(慶長年錄。慶長日記。)
○十二日跡部九カ右衛門昌忠死して。その子九カ右衛門幸次家をつぐ。(ェ永系圖。)
○十五日里見梅鶴丸御前にめして元服せしめられ。御一字たまはり。從四位下に叙せられ安房守忠義と改む。大御所には川越邊へ狩し給へり。(創業記。當代記。御年譜。)
○廿二日コ山二位法印則秀入道秀現卒す。沒前のに願より采邑五千石をわかち。長子五兵衛直政に三千石。女壻九藏英行に二千石を賜ふ。(英行後遁世して踪迹をしらず。采邑收公せらる。)この秀現もとは美濃國人にて五兵衛則秀といふ。織田家につかへしが。志津嶽の戰に緣によりて柴田勝家に方人し。勝家ほろびて後高野山に閑居せしが。前田大納言利家卿にむかへられ加州に至る。慶長五年より御家人に加へられ。もとの采邑五千石給ひ。入道して秀現と稱す。十年四月二位法印に叙せられ。けふ六十三歲にて終りをとりしなり。(家譜。)
○廿八日越後國春日山の城主松平越後守忠俊が曾祖堀太カ左衛門秀重卒す。七十五歲。其子左衛門督秀政は先達て卒し。孫左衛門督秀治も今年うせ。曾孫越後守忠俊その封を襲たり。此秀重世々美濃國に住し。齋藤山城入道道三に屬し一方の大將たり。のちに織田豐臣兩家につかへしばしば戰功あり。一萬石を領し。關原のゝち當家につかへ。曾孫越後守忠俊が封內にて。别に一萬四百石を領しけるが。けふ終りをとりしなり。この日酒井與七カ忠利叙爵して備後守と稱す。(ェ永系圖。家譜。藩翰譜。家忠日記。慶長日記には十二月につくる。系圖には年ありて月日なし。)
○晦日大御所河越よりかへらせ給ふ。此日大番天野佐五右衛門正長鷹を調練する事を得たりしかば。手鷹師に仰付らる。(慶長年錄。家譜。)
○十二月二日御所御放鷹にならせたまふ。古河下妻佐竹舊領邊を巡視あらせられんためとぞ。これ大御所の仰によりてなり。この日里見安房守忠義侍從に任ず。(創業記。當代記。慶長日記。)
○五日藤堂和泉守高虎封地より。江戶城搆造の事によて書簡を奉る。よて御返書たまふ。(ェ政重脩譜。)
○七日田彈へ渡海の御朱印を明人五官に下され。かの國の香材をもとめたまふ。よて其國王へ太刀大脇差ををくらせらる。(御朱印帳。)
○八日國松君の傅役を加藤新太カ某。內藤仁兵衛政吉。天野傳右衛門C宗。大河內金七カ某に仰付らる。(金七いくほどなくて死しければ。小塚右衛門佐某にかへ命ぜらる。)永井主膳某。秋田三平季長。橋本吉平某。伊奈備前守忠政子牛之助忠雪。佐野三四カ某同じく小姓になる。また故豐臣太閤政所の沙汰として。京東山將軍塚の地を引て一寺を建立し高臺寺と號し。太閤夫婦香火院とせられんと經營せられければ。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守C正人夫を出す。寺領五百石寄らる。筒井伊賀守定次が伊賀の上野の城火あり。城下士商の屋舍ことごとく燒失し。城中儲蓄の兵粮みな災にかゝる。また松平周防守康重の家士岡田升右衛門元次は。永祿のころより康重にしたがひ戰功あるをもて。その子內記元勝を御家人にめし出さる。こゝに阿茶局と聞えしは。甲州武田の家人飯田筑後某が女にて。今川の家人神尾孫右衛門忠重に嫁しけるが。忠重死して後當家に宮仕す。心さかしき女なれば。大御所の御けしきにかなひ。長久手以來所々の御陣にも供せられて。萬に出頭せしものなるが。この元勝をその養子になされて神尾を稱す。局の子又兵衛守世が弟となりて。のちに備前守といひしはこれなり。この日永樂錢の通用を停禁せらる。(慶長年錄。慶長日記。ェ永系圖。家譜。)
○廿三日伊勢國長島城主菅沼志摩守定仍第三の弟左近定芳もて原封二万石をつがしむ。この定仍は織部正定盈が長子にて。關原軍のとき父定盈は江戶に留守し。定仍は駿州興國守幷に府中の城をまもり。戰終りてのち濃州岐阜の城を守る。翌年上州阿保より今の地にうつり。父につぎて後多病なれば。療養のため京都に寓居せしが。去年十月廿五日三十歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿四日伊達越前守政宗が女を。上總介忠輝朝臣に婚嫁せしめらる。よてこの事にあづかる政宗が臣十餘輩御前に召て。御刀及び時服をたまふ。(ェ政重脩譜。)
○廿五日那須與一資景爵ゆるされて左京大夫とあらたむ。(ェ永系圖。)
○廿六日小笠原孫惣信重死す。其父安藝信元は御ゆるしを得て。上總富津の采邑に閑居す。(ェ永系圖。)
◎この月伊豆駿河郡代兼駿府町奉行井出甚助正次叙爵して志摩守と稱す。又大御所忍へ御狩にならせ給ひしとき。榊原七カ右衛門C政は。館林に病を養て閑居せしに御使あり。病もし快ば忍までいでゝ。拜謁すべしと仰くだされしかば。參りて見參す。然るに駿州久能は要害の地なれば。汝まかりてこれを守るべしと仰付らる。(ェ永系圖。ェ政重脩譜。家譜。)
◎この年下野守忠吉卿薩摩守と改めらる。遠藤但馬守慶隆子內匠慶勝は從五位下に叙し長門守と改め。中井藤右衛門正次もおなじく叙爵し大和守と改む。牧野內匠頭信成大番頭となり。堀因幡守秀信。大島茂兵衛光政が子左大夫光盛。川口久助宗勝三子茂右衛門宗重。牧助右衛門長勝子又十カ長重は書院番にいり。遠山小右衛門景政子小右衛門景次。
久保平左衛門勝正四子五カ兵衛勝氏。伊東長兵衛弘祐子九カ左衛門祐久大番に入番す。後藤六右衛門正次は納戶番となり百俵たまふ。牧野傳藏成里銕炮同心五十人あづけられ。大手門を警衛せしとき。大御所御狩のついで。その番所の前を過させたまふ事ありしに。成里は十四歲の男子五六といへるを引つれて拜伏せしかば御覽じて。この兒年の程より長大にして勇士の相あり。今よりよく將軍へ忠勤すべし。成里は伊豫守と改め。五六は傳藏となのらせよと仰有しとぞ。成里は三子あり。長子は將監成信とて。池田宰相輝政がもとに客として。後京の東山に隱遁し。生涯風月を樂しみ仕官をもとめず。二子宇右衛門成教は輝政につかふ。五六は末子なりしが。こゝに於て遂にめし出され。のちに父の家つぎて傳藏成純といひしはこれなり。天野孫左衛門久次は常陸介ョ宣朝臣につけられ。あらたに千石給ひ。其家祿三百石はその子源藏重房にたまふ。保田甚兵衛則宗は丹波の篠山に御使す。鳥居彥右衙門元忠の四子左門忠時十五歲。初見して小姓となり。波多野次カ有綱も召出され小姓になる。河合長助良承は鷹役となる。大番頭水野備後守分長。三浦監物重政伏見西城の勤番を命ぜらる。新庄駿河守直ョ四子宮內直房。伊藤喜左衛門景春子喜太カ景俊。山田五カ兵衛直時子甚平勝時。本多三彌左衞門正重子千介正包初見の禮をとる。林又三カ信勝も江戶に參りて。はじめて拜謁す。小林傳四カ吉勝五男左次兵衛重勝。諏訪因幡守ョ水子松千代忠恒。本多飛驒守成重の子作左衛門重能。木伊豆義勝大御所を拜し奉る。義勝が妻はそのかみ御よしみあるものにて。伏見に於て召出され。金時服たまはり月俸を下されしとぞ。(ェ永系圖。ェ政重脩譜ともに年月をのせず。)西尾豐後守光教養子主水正氏教は證人となりて江戶に參り拜謁す。有馬大學豐長六歲なり。兄玄蕃頭豐氏が質として江戶に參り。兩御所に拜謁す。稻富伊賀守直家子喜大夫正直。辻兵助某。田村半兵衛直吉子庄左衛門直久。沼左近昌長子友右衛門正成。豐臣家に仕し河島善貞。K田筑前守長政家臣井上右兵衛庸名召出されてつかへ奉る。岩間勘兵衛正時子九カ左衛門正次。大竹源太カ正吉。織田家につかへし渡邊孫左衛門久勝。大御所の御方にめし出されてつかへ奉る。久勝は采邑千石給ふ。正吉は大番となり現米四十石たまふ。堀美作守親良慶長七年より病により。封地を養子鶴千代に讓り。一万二千石の地を養老の料として伏見に住しが。今年駿府に出て眤近せん事を願ひしかば。大御所の御感を蒙り。その旨江戶に仰進らせられ。親良江戶に來り奉仕し。廩米一万二千俵を賜ひ。養老の料は鶴千代にかへしあたふ。庄田松聲安次に二千石たまふ。川口久助宗勝廩米を采地に改め。五百石加へられ二千五百石になさる。大草源右衛門忠成忍に於て死す。其子與十カ忠守家をつぐ。この忠成三州大草の住人にて。高天神長篠以來。數度の御陣にしたがはずといふことなし。ことし六十歲にてうせぬ。加藤助左衛門景治死してその子長大夫景吉つぎ。門奈半兵衛宗家伏見にて死す。その子三カ右衛門宗次つぎ。伊澤吉兵衛政重致仕し。子源右衛門正信家つぐ。代官萬年七カ右衛門正勝死す。(家譜によれば子七カ右衛門高ョもこの年六月廿一日死といふ。二子彌三カ正ョは召出されて别家となり。嫡孫三左衛門久ョも召出されし年月傳はらざれば。遺跡相續の事詳ならず。)後藤久印正勝死してその子六右衛門正次家をつぐ。久印は駿河處士にて御談伴に召加らる。またこれより先慶長九年に拓植宮之助正勝爭論し。大手門にて其退出を待うけ。花井小源太某その外二人とたゝかひ。小源太をさし殺し二人にも深手負せたり。その罪により切腹せしめらるゝといへども。若年にて勇猛の擧動せしを哀れみ給ひ。その所領五百石を老父拓植平右衞門正俊にたまひ。すべて千四百石を領す。大御所水野對馬守重仲をめして。常陸介ョ宣朝臣やゝひとゝなりたまひぬれば。殊更にたのみ思召むねの御懇旨を蒙る。又このころ伊達越前守政宗がもとにならせ給ふ。數寄屋にて御茶を献ず。政宗に長光の御刀。その子總次カに大原貞守の御刀來國俊の御さしぞへをたまふ。御所藤堂和泉守高虎が第にわたらせ給ひて終日の御遊あり。御刀ならびに銀子御服を賜ふ事あまたあり。
◎今年三冬の間寒氣烈しき事三五日に過ず。その外皆溫暖なり。柑類枯るゝもの多し。(武家補任。家譜。ェ政重脩譜。ェ永系圖。武コ編年集成。貞享書上。當代記。) 
卷五 / 慶長十二年正月に始り六月に終る御齡二十九 

 

慶長十二年丁未正月元日慶會例のごとし。大御所に御對面ありて歲首を賀せらる。水谷彌太カ勝隆小結烏帽子着て拜謁す。坂本宮內貞吉死して子久五郡重安家をつぐ。貞吉が父豐前貞次は甲斐の武田が家人なり。武田ほろびて後父子とも御家人に加はり。貞吉長久手の時御供し。慶長五年眞田陣の時より今の御所につけられけふ死したり。この日大御所第十六の姬君生れ給ふ。後に市姬君と申す。御母は太田新六カ康資入道武庵の女にて勝の局といふ。後に英勝院と號せしはこれなり。常陸介ョ宣朝臣去年より痘瘡をなやまる。(家忠日記。御年譜。家譜。ェ永系圖。創業記。以貴小傳。當代記。)
○二日謠曲はじめ行はる。參仕の輩みな烏帽子上下を着す。近世めづらしき大儀なりといふ。夜に入て雪ふる。大御所はけふより痳を惱み給ふ。(當代記。慶長見聞書。慶長年錄。)
○六日江戶大地震。又大雪。けふより八日にいたる。(慶長日記。當代記。)
○七日去年より觀世金春江戶に參りければ。猿樂命ぜられ御覽あること。今日より九日に至る。市人みな見ることをゆるさる。この日神田下町火あり。よりて芝居に群參の市人等みな退出るとて大に騷擾す。(當代記。慶長年錄。)
○九日觀世金春等の猿樂師等に銀百枚づゝ。その餘の子弟等にも金銀若干かづけられ。連日の勞を褒せらる。(慶長年錄。)
○十日追儺の式行はる。(慶長年錄。)
○十一日立春。ことに暖和なり。大御所このころ痳なやみ給ひしがけふはこと更重く見え給ふ。山善右衛門正長死して。その子善四カ重長家つがしめらる。重長が庇䕃料五百石を合て。二千五百石になる。この正長は三州長篠の戰に高名せしよりして。長久手にも首級を得疵を蒙る。慶長五年歩行頭となりて。六年姬君加州へ御入輿のとき。かしこに供奉して金澤に年月をへたりしが召かへされ。けふ死せしなり。(創業記。當代記。ェ永系圖。)
○十二日京醫佐藤慶南三室大御所の仰により江戶に召る。(家譜。)
○十五日大御所の御なやみ猶愈またはず。(慶長日記。)
○十九日村上文左衛門勝友が子文三カ勝信初見の禮をとる。小俣平右衛門政勝死して。その子平右衛門政貞家をつぐ。(ェ永系圖。)
○廿日江戶大に地震す。この日連歌師里村玄仍某。大御所御祈禱のため連歌を献ず。(其發句。源やけふわかゆてふはるの宿。)薩摩守忠吉卿去年より痘なやまれしが。平愈してC洲より江戶に參覲せらる。(慶長見聞書。武コ編年集成。大三河志には二月六日參着とす。)常陸介ョ宣朝臣酒賜の式行はる。又加藤肥後守C正が江戶へ人質の爲進らせ置たる男子某九歲なりしが。こたび痘わづらひて夭す。(慶長年錄。創業記。當代記。)
○廿五日大御所江戶の城を御所にゆづらせ給ひ。いよいよ莵𦽲の地を駿府にさだめ給ふべしと仰出され。駿府の城郭を廣め。諸士の宅地を分布し給ふべしとて。その經營を越前。美濃。尾張。三河。遠江の諸大名に課せて人夫を出さしめらる。三枝平右衛門昌吉。山本新五左衛門重成。瀧川豐前守忠往。佐久間河內守政實。山城宮內少輔忠久に(三枝。瀧川。佐久間が事。ェ政重脩譜にはみえず。)奉行を命ぜられ。池田宰相輝政。おなじ備中守長吉。加藤左馬助嘉明。松平主殿頭忠利。分部左京亮光信。古田大膳大夫重治。有馬玄蕃頭豐氏。毛利伊勢守高政等此事にあづかる。去年よりして中納言秀康卿。老臣本多伊豆守富正をして。駿城修築の事にあづからしめらる。富正ある日富士山中に分いり材木を伐りとり。正月にいたり沼津までいでゝ。その功を遂てかへり謁し奉る。大御所御感を蒙り。左文字の御刀を賜ふ。(慶長日記。貞享書上。御年譜附尾。)
○廿六日薩摩守忠吉卿登營して御對面あり。大御所近日駿府に赴かせ給ふにより。御事しげくわたらせ給へばけふ御對面なし。卿この日より大久保加賀守忠常芝浦の亭におはしぬ。(慶長見聞書。)
◎是月伊勢國にて漁人鰐鮫を得たり。その丈二十四五尋といふ。この鮫常に鯨を食ふよしなり。(當代記。)
○二月朔日日蝕す。(古曆。)
○三日烈風。けふより五日に及ぶ。(當代記。)
○六日夜半大に地震す。(創業記。)
○七日鍋島加賀守直茂。おなじ信濃守勝茂に西洋渡海の御朱印を給ふ。(御朱印帳。)
○八日伊達越前守政宗櫻田の邸に。大御所臨駕したまふ。政宗いかにもして御心をなぐさめ奉らんと。圍棋の妙手本因坊算砂。林利玄。中村道碩。象棋師大橋宗桂等をめしあつめ御遊を催す。政宗へ長光の御刀。其子虎菊丸へ大原貞守の御刀をたまふ。御饗はてゝ御圍棋のはじまるに及び。烈風砂塵を簾中に吹いるゝ事甚しければ。とみに還御ならせ給ふ。けふ本多佐渡守正信此事を奉行す。(創業記。貞享書上。ェ永系圖。大三河志をはじめ諸書に。この事十一年二月八日にのせしは誤なり。貞享書上によれば。十一年二月は政宗封地にありしかば。江戶の邸にならせらるるゆへなし。貞享書上によりてこゝにおさむ。)
○十二日井伊兵部少輔直勝が藩士西ク勘兵衛。鈴木三カ大夫確執に及び爭論す。こは直勝が父兵部少輔直政うせて後。その藩士等双方にわかれ爭論する事絕ず。一昨年大御所京よりかへらせ給ふとき。この事を聞し召。その張本鈴木石見を追放たれしが。去年も又石見がCPにありしを江戶に召て追放たる。こたびの三カ大夫といふは石見が子なり。(創業記。)
○十三日けふより四日がうち。本城西城の間にて觀世金春勸進能を仰付らる。兩御所も御棧敷を設られ。諸大名にもみな課せて棧敷を設けしめらる。よくそのよしを高札にかきて。日本橋。淺草橋。芝札辻。四谷札辻。神田明神前五所にたて。都鄙の人みな見る事をゆるさる。(創業記。)
世に傳ふる所は。こたび家門幷に普第の諸大名に課せて棧敷をつくらしめられ。その輩みな棧敷に列りてこれを見る所に。いかゞしたりけむ水谷皆川の二人は。この役にもれて棧敷を設けしめられず。大御所此よし聞召。水谷皆川の兩人は。三遠の時より當家に志をはこびしものなれば。普第に准じ懇に思ふ者共なり。こたび普第の大名みな棧敷を設るに。かれ等二人をなどもらしたるやと御不審あり。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣答へて。水谷この頃常州笠間を警衛して江戶に侍らはずと申。大御所また宣ふ。凡そ武門にてはかりそめの事にも名を重んずる習ひなり。今度普第の列にもれなば。かれ等本意なかるべし。たとひその身は江戶にあらずといふとも。棧敷をば設けしめ。家司を名代として見物せしむべしと仰ければ。二人に棧敷をわりわたされしとなり。また今年正月城中にても連日猿樂を催され。今はたかく勸進猿樂をゆるされ。諸大名棧敷を課せられ。都鄙農商男女群參せしめらるゝ。そのゆへいかにとなれば。去年より大御所痳疾久しく愈たまはず。京坂にてはこの事を誤り傳へ。御病危篤にわたらせ給ふとて。街談巷說洶々としてやまず。遠國僻境の雜說猶喧びすしかりし故に。これをしづめ給はむとて。かく催し給ひけるが。はたしてこの猿樂催されて後。都鄙の巷說しづまりぬるとぞ。(ェ永系圖。紀年錄。)薩摩守忠吉卿江戶に於て病再發せらる。又足利學校寒松に命ぜられ東鑑を活板せしめらる。是より先相國守の承兌故足利の三要に命ぜられ校正せしめたまひけるを。こたび廣く世に行はしめられんとてなり。又美濃國にて加納飛驒守某長柄川の邊より異鹿を得る。その角尤大なり。袋角といふものなりとぞ。(當代記。)
○十七日駿府城經營はじめらる。この頃諸大名家士射藝に達せる輩。京東山三十三間堂にてその藝を試むる事絕ず。薩摩守忠吉卿の家士上田角右衛門今年通矢を射て。天下一の名を得たりとぞ。(家忠日記。慶長年錄。)
○十九日松浦法印鎭信へ西洋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿日去冬よりこの二月にいたる頃。朝鮮講和の使來るべしとて。その路々に旅館以下構造せらるゝ所。餘寒はげしく海上風あれて。渡海延滯するよし聞ゆ。また先に勸進能ありし跡に。京より國といふ妓の來りしをもて。歌舞興行をゆるされしかば。諸人群參して遊觀する者堵のごとし。(創業記。當代記。)
○廿四日美濃國コ野の領主平岡石見守ョ勝卒しければ。その子牛右衛門ョ資わづかに三歲なるをして。家つがしめらる。このョ勝は攝州溝杭の產にして。父を對馬守ョ俊といふ。金吾中納言秀秋の家の老なり。大御所御上洛の後しばしば金吾へも御音問をかよはせ給ひしかば。ョ勝も金吾が使に參り常に見參せり。慶長五年の秋東西の軍一時に起る。秀秋は石田三成がすゝめによりて。美濃の松尾山に陣どるといへども。秀秋はじめより無二に東國方に志し。ョ勝またK田勘解由入道如水が聟なりければ。金吾をいさめ入道が男甲斐守長政と謀を通じ必裏切すべきよしを。をのが家士神木C兵衛。齋藤與右衛門を江戶に參らせて申。かさねて弟加賀守資重を質として本國へ進らせ。そのゝち美濃國關原の戰に原の南の丸山邊に陣をはる。金吾裏切して上方の軍をかけやぶりしかば。その勸賞として金吾に備前。備中。美作の三國をたまはる。ョ勝にも金吾より備前の小島にて二萬石の領地をあたふ。いくほどなくョ勝は讒人の詞により流浪せしが。山岡彥阿彌景友大御所の命をつたへて。憚所なく諸國經歷をゆるされ。九年八月晦日いまの地をたまはるべき旨の御朱印を賜ひ。十年拜謁し。これよりして長く歸順してコ野に住し。けふ卒せしなり。とし四十八。(ェ永系圖。家譜。藩翰譜。ェ政重脩譜。)
○廿六日薩摩守忠吉卿病こゝろよく。まうのぼりて拜謁せらる。御所御スなゝめならず。大御所はけふも駿府にうつらせ給はんの御いそぎにより御對面なし。(當代記。世に傳ふる所。大御所この卿病發るはじめより。この病終に全快あるまじく思召ければ。なまじゐに御對面あるまじと思召とらせたまひし所なりといふ。武コ編年集成。)卿退出られし後にはかに危篤に及ばれし由聞えければ。御所大におどろかせ給ひ。いそぎその寓居大久保加賀守忠常が芝浦の亭にならせらる。(當代記。)
○廿八日大御所にも薩摩守忠吉卿病篤のよし聞召。俄にならせ給ふ。大所御連技あまたわたらせ給ふが中にも。この卿は御同腹にて殊更御したしみふかくおはしましければ。御使絡繹として絕ず病躰を尋させ給ふ。(創業記。武コ編年集成。)
○廿九日大御所江城を御發輿ありて駿府に赴かせ給ふ。相州中原にて數日御放鷹し給ふ。この頃御旅館に金の茶釜をはじめ。茶噐類うせてみえず。よてその夜の番士會田勝七某を掛川へ。落合長作道一を田中へ。岡部藤十カ某を沼津に召あづけられて糺察せらる。(創業記。)
◎是月榊原七カ右衛門C政去年の仰によりて。駿州にまかり久能の城を守る。中間頭大刀彌太カ某自殺す。去年伏見に於て中間等へ月俸下されし時に。贓罪ありし所とぞ。(ェ永系圖。慶長年錄。)
○三月朔日越前中納言秀康卿は伏見城留守としておはしけるが。瘡をわづらひこゝろよからず。このよし駿府に申て就封せらる。この頃京所司代板倉伊賀守勝重が官邸に怪異あり。空中より礫を打事事甚し。何の所爲たる事をしらず。(創業記。當代記。)
○三日江城修築のために。關東万石以上は一万石廿坪の定制をもて。粟石を江戶に貢す。上野の中P邊より運漕すといふ。(當代記。)
○四日この夜月のかたち常に異なり。(慶長見聞書。)
○五日尾張國C洲城主三位中將兼薩摩守忠吉卿うせ給ふ。廿八歲なり。この卿は大御所第四の御子。今の御所同胞の御弟にて。童名を福松丸と申。はじめ東條甚太カ宗忠のよづきとならせられ。忠康と稱せらる。後に下野守從五位下になされ。文祿元年二月武藏國忍の城を給はり。十萬石領せらる。慶長五年の秋上杉追討のとき。大御所の大駕にしたがはせ給ひ。下野國にいたり給ふとき。上方の軍起り井伊本多の兩人を軍監として。御先手の諸將打てのぼるにおよび。海道の惣大將としてこれを引具し(この卿海道の惣大將として打てのぼらせたまふこと。加藤左馬助嘉明が家記と。其家人K田が記せし關原記により。藩翰譜にのする所しかり。)攻のぼり。尾張のC洲の城にいたり給ひ。福島池田等を先陣とし。宗徒の大名に井伊本多をつけて。岐阜の城にさしむけ勝軍しつと聞召。卿もはせむかひ給ひ。中納言秀信の降をうけ。城をば味方に守らせらる。關原の戰に及て。井伊兵部少輔直政先陣の人々が軍せむ樣みせ參らすべしとて。御勢をばもとの御陣にとゞめられ。歩武者三百計ぐせられ。直政案內して。福島が陣のわきよりつとはせぬけ。敵の陣に切ていり。時うつるまで戰はせ給ひ。しばらく御馬をやすめらる。かかる所に島津兵庫入道義弘負軍し此所をおちてゆく。直政これを追かくる。卿もつゞきはせ給ふ。島津がカ等松井三カ兵衛と名のつて。卿にはせむかひ打かくる太刀を。弓手の袖にうけとめて松井が馬手のわたかみより切こみ。引組て兩馬の間におちかさなり。とつてをさへてちつともはたらかせず。島澤九兵衛つと參りければ。これ首とれとてうたせらる。其時松井が太刀にて卿右の手の指疵つけ給ひ。御馬旣にはなれぬれば。井伊が侍江坂が馬を參らする。軍終て後松井が首見參に入給へば。大御所御感斜ならず。此年十月七日尾張國をたまはり。C洲の城にうつり住せ給ひ。明ければ六年三月廿八日從四下の侍從にのぼせられ。十年四月十六日從三位に昇階せられ。左近衛權中將に任ぜられ。十一年薩摩守に改られ。御名をも忠吉卿とかへ給ふ。ことし二月江戶に參らせ給ひけるに。同十三日違例以の外にわたられければ。御所ことに聞召驚かせ給ひ。御みづからとはせたまふ。これより先大久保加賀守忠常が家を御旅舘となされ。大御所も忠常がもとにならせ給ひしが。日をへて病おもくならせ給へば。はやく御歸國ありて。治療を加へらるべしとて江戶を出させられ。けふ芝浦にてかくれ給ひぬ。是より先大御所井伊。本多。榊原。大久保等の諸老臣をして。御世嗣の事を議し給ひしとき。井伊直政しきりに此卿の武功を稱讃し。各その思ふ旨を申なかに。大久保相摸守忠隣ひとり。今の御所恭謙の御コを稱しければ。終に守文の主に定まり給ひぬ。この卿をして守文の任を得せしめざるは。忠隣が申旨に起りしところなり。しかるに卿この事をききたまひ。忠隣が建白の議論は天倫の順序といひ。才コの優劣といひ。かたく國本を正し。誠に國家の大計なり。私論にあらず。末たのもしき社稷の臣といふべしとて。これより大久保父子をしたしませ給ふ事大方ならず。江戶にまいらせ給ふ時は。常に大久保が家をのみ旅舘となされたり。この一事をもて。卿のコ量の廣き常人の及ぶ所ならざるをしるべし。御所御連枝多き中にも。ことに御したしみ深く。卿の病中日夜にとはせ給ひ。いさゝかも病怠らせ給へば。御所も御快く御膳もめしあげられ。危篤のよし聞召ば御湯も召上られず。ふししづみなげかせたまひしとぞ。御兄弟友干の御情篤くわたらせ給ふ事。曠世ためしなきほどの御事と。朝野聞傳て感淚をながさざるものなし。卿の北方は井伊直政が女なりしが御子なかりしかば。御あとの絕ぬるはおしむべきのかぎりなり。大御所この日三島驛にやどらせ給ふ。江戶よりは卿の事を告給はむとて。土井大炊頭利勝急に御使の仰を蒙り發程す。井伊兵部少輔直勝が母江戶に參らんとして。居城江州佐和山を發輿せし所。大御所より先上州安中に住しむべしと仰下さる。安中も直勝が所領なる所とぞ。この日末吉勘兵衞利方死して。其子孫四カ吉安家をつぐ。(創業記。當代記。大三河志。烈祖成績。武コ編年集成。藩翰譜。慶長見聞書。家譜。)
○六日薩摩守忠吉卿の家士石川主馬吉信。稻垣將監忠政。中川C九カ某けふ殉死せしとぞ。(當代記。薨日記。一說に五日。一說に正木左京千本掃部といふ名をしるす。又四十八人といふ說もあり。家忠日記追加。)又卿の醫瀧野爲伯某は卿うせ給ひしより。病をとなへ京に閑居す。後召かへされ天樹院御方につけらる。(家譜。)
○七日江戶よりの御使土井大炊頭利勝三島の御旅館に參り。大御所へ薩摩守忠吉卿卒去の事を聞えあぐる。(武コ編年集成。)
○九日昨夜より今朝にいたり風雨ことに烈しく。城上の板塀民家等破損す。この夜駿府興國寺の城主天野三カ兵衛康景。その子對馬守康宗と共に逐電して踪跡しれず。其故いかにといへば。康景この頃居宅いとなまむとて。竹木多く伐取りたくはへ置しに。夜每に盜人ありてこれをとる。よて足輕をつかはしてこれを守らせければ。盜人も大勢黨を催しむらがり來るにより。番のものども禁ずることを得ず。刀ぬきて切立れば。盜人も是に恐れて逃はしる。此盜人共は外ならず同國富士の下野田原といふ所の百姓どもなり。其中には疵蒙りし者もありしかば。天野が足輕どもと口論してかくて疵負ぬとて。代官井出志摩守正次がもとへうたふ。正次是をまことゝし天野が方へ使をたてゝ。御料の民をほしゐまゝに毁傷する罪かろからねば。其足輕が首切てわたさるべしといひ送る。康景かの使にむかひ。康景が番兵ども無勢なるがゆへに。
盜賊一人をだに殺し得ず。わづかに手疵おはせて逃したる條。すこぶる無念の至りなり。康景が畜ふる所の竹木を每夜盜む者のあるゆへ。足輕共に命じて守らせたるなり。いはんやかの盜人は御料の民たる事をしりて。刄傷せしにはあらず。もし御料の民としりぬるとも。ぬすみする者をいましむることのあらざらむや。康景が命じで番させし者を。盜人のために下手人として出さむ事思ひもよらずとこたふ。かくてこのほど大御所駿河におもむかせ給はんとて。三島のほとりをならせ給ふとき。かの疵蒙りしもの御輿近くはしりいで。天野が足輕と口論して刄傷せられぬ。御代官より天野殿のもとへ下手人を乞るゝといへども。天野殿あへて請ひき給はず。かへりて我々を盜人と名づけらる。よろしく御裁斷願ふ所なりと申。よて近臣等をして檢知せらるゝに。その脊に刀のあと五六所あり。これ逃走る所をきられたりといふ。大御所聞召。康景に於て不道の擧動あるべきにあらず。訴ふる民の僞るにもやと思召れ。よくよく御糺明あるべしと仰下され。本多上野介正純に令せらければ。正純たゞちに天野が興國守の城に行。和殿私の儀をたてんとすれば。公の威を損ずるにいたる。かれは土民といへども御料の民なり。足輕は和殿の私人なり。まげて代官へ下手人を出されんことこそあらまほしけれと諫む。康景聞て。直を曲て曲れるに從ふこと本意ならず。康景が足輕卑賤なる奴原といへども。其罪にあらざるを曲て殺さんや。しかりとて我義を守りて。公の威を損せんことは。御政道のさまたげなれば。しかじ我身罪を蒙りていかにもなりなむと答ふ。正純もせん方なく諫かねて立歸りしが。遂にいづこともなく立さりしとぞ。この康景は天野藤內遠景が末孫にて世々三河の住人なり。其父甚右衛門景隆大樹寺殿の御時よりめしつかはれしが。天文十六年八月大御所いまだ御幼稚のとき。今川家に質として駿河に赴かせ給ひしに。康景十一歲にて御供す。田原の戶田彈正少弼康光御道にてこれをうばひ。尾州のあつ田に入まいらせければ。御供の人々みなあきれまどひし中に。康景ひとり心しれるカ黨に文かきて故卿にかへし岡崎につかはし。その樣をば告參らせける。十八年十一月駿河勢安祥の城を責落し。織田三カ五カ信廣を生取。人質がへとして君を駿河へ迎へ參らせし時。康景おなじく從ひ奉る。弘治二年御軍始のときより。小田原陣にいたるまで。その高名かぞふるにいとまあらず。これより先三河一國御手に屬しける時。高力與左衛門C長。本多作左衛門重次と此康景をあはせて。三人奉行職に定られ。大小の事を沙汰せらる。當時民間の諺に。佛高刀鬼作左とちへんなしの天野三カ兵衛といひしも。康景がェと猛との間にありて。僞なく黨なく政の平らかなりしをしるべし。關原の戰には關原にとゞまり守り。慶長六年の春今の城たまはり万石の列に加はりぬ。この康景上にしては公の政を害せず。下にしては私の恩をやぶらず。一人の罪なき者をつみせむ事をいとひ。其身万石の祿をすつる事ものゝ數とせず。其志を遂行ひしも。またありがたき人物といふべき者なり。これより康景に附屬有し遠州士は。みな本多佐渡守正信につけらる。(當代記。武コ大成記。家忠日記。藩翰譜。慶長見聞書。康景は遂に小田原西念寺に隱遁して。慶長十八年二月廿四日卒す。齡七十八歲。其子對馬守康宗左兵衛康勝ェ永五年に至り召出され。三子六右衛門康世もェ永七年に召され。再び御家人に列す。家譜。)
○十一日大御所駿府につかせ給ふ。(一說に十三日につくる。)林又三カ信勝もかしこに參る。此年仰によりて薙髮し道春と號す。(ェ永系圖には日をしるさず。今は大三河志によりてこゝに係く。)時に廿五歲。これより土木の料をたまひ。駿府に宅地をいとなみ又江戶に赴く。駿城經營のため諸國より集りたる人夫のうち。薩摩守忠吉卿の家士等卿のうせ給ふを聞て歸國せず。其役をつかふまつるべしと仰下さる。(御年譜。創業記。大三河志。)
○十七日薩摩守忠吉卿の家司小笠原和泉守吉次が子監物忠重は。幼童たりし時より卿の寵眷を蒙りしが。去年よりいさゝか御けしきにたがひ。奥州松島に蟄居す。しかるに卿のうせ給ひしをきゝ。俄に松島にたち出しが。卿搶緕宸ノ葬らるゝよしをきゝて。この日寺にいたりて殉死す。(當代記。世に傳ふる所は。忠重の父和泉守吉次は。こたび葬埋の事萬に沙汰しけるが。これにあつかる下吏に。殉死の輩も同じく葬るべければ。その棺を四つ設て置べしと令す。下吏聞て殉死のものは三人なり。然るに棺を四設けよとあるはあやまりなるべしとてかくと申せば。和泉守吉次大に腹立て。我等が令することいなむ事のあらんやといへば。下吏せんかたなく棺四を設て。その三には先日切腹せし石川。稻垣。中川三人の骸を收む。その一は空棺にして方丈に置。みな和泉守吉次は老耄せりとて嘲りしに。この日其子監物忠重寺にはせ付。住持存應をョみ勘氣赦免を靈幄につげて。其前にて腹切しかば。この棺に收めて殉死の列に加へたり。忠重が寵童佐々喜藏((一に佐々木C九カまた佐々喜內。))もまたその主のために追腹切て。同じく葬られしとなり。異本落穗集。)また其臣平岩長右衛門親直も近來相州浦賀に閑居せしが。卿の卒去を聞て同じく追腹切て死したり。(家譜。)
○十九日道路の制を令せらる。堤と河邊との間に。牛馬を放ちかふべからず。道の外をみだりに往還すべからず。樹木接木等に差さはるべからず。此令にそむくものは。曲事たるべしとなり。(武家嚴制錄。)
○廿日從三位中將兼薩摩守忠吉卿を三緣山搶緕將に埋葬して。性高院とをくり參らす。その禮尤嚴重なり。
殉死の五人も懇に葬禮をいとなまる。(慶長年錄。一百餘年にして葬地もさだかならざりしを。近年寺中安蓮社の後にその遺跡を尋て。再び御しるしをいとなむ。廟地考。)廿一日宗對馬守義智朝鮮の聘使呂祐吉慶暹丁好ェをひきつれて入洛するよし。駿府へ注進す。(武コ大成記。)
○廿五日駿城修築の爲。畿內。丹波。備中。近江。伊勢。美濃十か國の人夫を召る。五百石に三人の制なり。(一說に五百石に一人といふ。)この人夫先伏見にのぼり。かしこより駿城に送る所の什器長持以下を運送せしむ。去年江戶の城垣修築にあづかりし人々幷に近習の輩はこれを除かる。また故薩摩守忠吉卿よりおなじ修築のため。駿府へ參らせられし家士等は歸國をゆるさる。(當代記。創業記。)
○廿六日雷雨はげし。(當代記。)
○廿七日東美濃邊雹ふり雷鳴す。この雹のために麥麻を損じ翎毛を毁つ。(當代記。)
◎この月觀世今春等の猿樂若干。江戶より駿府に參り拜謁す。金たまふこと差あり。また韓使來聘によりその饗應のため。東海道に居城ある輩は。駿城修築をゆりて就封せしめらる。また伏見城中儲蓄ある所の財寳。器物。布帛。筵席の類までことごとく駿府へ運送せしめらる。(當代記。慶長見聞書。)
○四月朔日久旱雨を得て衆人みなよろこぶ。江戶城經營はじめあり。(一說閏四月一日とす。いま御年譜によりてこゝにおさむ。)關東八州。安房。信濃。奥羽の諸大名これを課せらる。上杉中納言景勝は天守石垣堀浚等の事を奉る。(慶長見聞書。御年譜。創業記。當代記。ェ政重脩譜。)
○二日大風。(當代記。)
○三日江城經營の役夫に。本月よりの月俸を下さる。また江城の天守石垣を搨zせしめらる。去年築きし石垣はその高さ八間。六間は常の石にて二間は切石なり。こたびは二間築きまして十間とし。土居も二間をまし。廣さは二十四間たらしむ。此日伊奈備前守忠次絕入して又蘇生す。(慶長見聞書。慶長年錄。)
○四日雨ふる。(當代記。)
○六日武州足立郡浦和邊大雪。翎毛多く是がために死せり。(慶長見聞書。)
○七日林道春信勝江戶に參り初見し。これより講書を聞しめさるゝ事。十五日の間に黃石公の兵書。漢書張良傳等を講說す。また漢楚興亡の事跡垂問したまふ。やがて大學を講ぜしめられんと仰出さる。(羅山文集。)
○十二日朝鮮信使京着す。その人數四百六人。紫野大コ寺を旅館として所司代より饗應す。(春齋記。)
○十四日けふより韓使へ京尹米を贈る。三使へ一石づゝ。判事へ五斗づゝ。上官三十人三斗づゝ。中官百五十五人一斗五升づゝ。下官二百六人に五升づつ。别に薪炭茶是にそふ。三使は天瑞寺。上々官は總見院。奴僕厮役等は眞殊庵コ善寺にやどる。(春齋記。)
○十五日昨夜より大雨。(當代記。)
○十六日蒲生飛驒守秀行に御家號を給ふ。(續武家閑談。)
○廿三日小姓細井金兵衛勝吉仰をうけて。本クにまかり大岡十大夫某を誅す。其功を賞せられ。十大夫が帶せし刀脇ざしを勝吉に下さる。勝吉時十六歲なり。この十大夫は代官たりしが。代官町にて人を殺害し。妻を引つれ逐電したり。よて勝吉に其妻をたすけ。十大夫のみ討べき旨命ぜられしかば。其跡を追て本ク追分に至り。妻を引のけ十大夫を討留たりとぞ。(ェ永系圖。家譜。)
○廿四日朝鮮人をして京東福守C水寺邊を遊覽せしむ。(舜舊記。)
○廿五日伏見城番戶田又兵コ直ョ死して。其子五カ右衛門直秀に家つがしめらる。この直ョは味方原に働して手を負ひ。加恩を賜はり。關原の戰に斥候をよくして御感を蒙る。齡つもりて七十八歲。けふ死しけるなり。(ェ永系圖。)
○廿七日朝霧ことに深し。(當代記。)
○廿八日雨ふる。この日。御所松平飛驒守秀行がもとへならせられ。御茶を献じて後饗し奉る。(續武家閑談に。兩御所と記すといへども。大御所このとき駿府にましませば。今大三河志等によりて御所のみをしるす。又このころ秀行が家司蒲生源左衛門ク成は宰相氏クが時よりつかへて。つねに干戈の間に忠勤をはげみ。世にも人にもしられたる老武者なりしを。秀行近來新進の家人岡半兵衛重政を寵任し。ク成を忌嫌ひければ。家士等双方に黨を分ちあらそひやまず。關十カ兵衛一利この事をうたへんとすれば。重政これをとゞめてうたへしめず。よてク成が黨の小倉作左衛門行陰。關十カ兵衛一利等をはじめあまた退身す。ク成もこれを憤り。祿を辭して去んとするよし聞えければ。大御所その古老をおしみ給ひ。秀行に命ぜられ。ク成をとゞめて家士の騷擾をしづめしめらる。(續武家閑談。當代記。)
◎この月江州長Mの城。去年より修築せしめられしが落成せしかば。內藤豐前守信成駿府を出て移る。林道春信勝先に駿府より江戶に參り。日每に侍講しけるが。ふたゝび駿府に參り。韓使江戶に參る道にて接遇し。筆語すべしと仰付られいとま給はり。又長崎に赴き京にかへる。このとき長崎にて本草綱目を購求し駿府に献じ奉る。又下旬に大坂災あり。市街多く燒失す。(慶長年錄。家譜。當代記。)
○閏四月二日和州多武峯大織冠の像破裂せしよし注進あり。このころ伏見より駿府へ。金銀五百五十駄を運送す。(舜舊記。當代記。)
○四日伏見城下近習の輩の居宅を毁ちさる。此ころ京伏見邊物騷し。黃昏は往來たゆるに至る。(當代記。)
○六日朝鮮人京を發し江戶に赴く。これは大御所の御さたとして。まづ江戶の御所に拜謁せしむべきためとぞ聞えける。(創業記。當代記。大業廣記。)
○八日越前中納言秀康卿北の庄の城にて逝せらる。三十四歲。この卿は大御所第二の御子。
御母永見氏は家の女房。故ありて三河の產見といふ所にて生れ給ひし後。御父君御子ともかずまへ給はず。本多作左衛門重次養ひ進らせ。御兄岡崎三カ君とりて見參に入れ給ふ。御名をば於義丸と申ける。三カ君御ことありて後には。ョもしき御世繼と見え給ひけるが。天正十二年冬豐臣秀吉公より。御子一人養ひて子とせんと望みこはれければ。やみがたく於義丸の方都にのぼらせらる。秀吉ス大方ならず。元服の儀行はれ從四位下侍從に叙任し。羽柴三河守秀康と名のらせ。河內國にて一万石參らせらる。十三年七月十一日秀吉關白になられし時。卿をも左近衛權少將にのぼせらる。この時十二になりたまふ。十五年の春十四歲にて關白にともなはれ筑紫にわたり。一方の大將にて日向の國を平げ。十六年四月十四日左中將にうつる。十六歲の時伏見の馬塲にて馬をのり給ひしに。關白の廐のあづかり無禮せしとて首打落さる。關白の家人等大に驚きひしめきしを見給ひ。殿下の御家人たらんものが。秀康に無禮をいたすやうやあるとて。はたとにらみ給ふさま。皆人恐れをのゝく。關白このよし聞給ひ。秀康は心剛なるのみにあらず。早業も人にすぐれたりと感ぜらるゝ事なゝめならず。十八年の春下野國結城左衛門督晴朝が請により。晴朝が娘にあはせてその家の嗣子になしまいらせ。おなじ八月六日その家つぎて。十万千石の地を領せらる。文祿のはじめ朝鮮のこと起り。肥前の名護屋に陣せられ。三年結城にかへり。又伏見大坂に御舘かまへてうつりすみ給ふ。太閤薨じて後加藤C正等の諸大名。石田三成をうたんとせしに。大御所の御沙汰として三成職解て己が佐和山の城に籠る。猶路のほど覺束なしとて。卿をしてその城までをくらせらる。同じ九月大御所重陽を賀せられんがため。大坂に赴かせ給ふ時。大坂の奉行等ひそかにはかつて失ひまいらせむとす。此時卿は伏見の御舘におはして。御勢をくばらせ給ひしさまを聞召。大御所あつぱれ三河守は。父には生れまさりたりと御感淺からず。慶長五年の秋上杉御追討として。兩御所野州まで下らせ給ひしに。上方又軍起ると聞えければ。先此所より引返し上方にむかはせ給ふに及び。本多佐渡守正信が申旨にまかせ。卿をめし此所にとゞまり。關東をしづめらるべしと宣ひしに。卿氣色をかへ。秀康いかで御跡に殘り候べき。只何國までも御先をこそかけ候べけれと答給ふ。大御所聞召。上杉は故輝虎入道謙信以來。軍謀戰法に於て肩をならぶる者なし。いま景勝にむかひ軍せんもの。汝が外又あるべしとも覺えず。吾上方へ打てのぼるときは。景勝必定跡をしたひ打て出べし。その時卿一人之にとゞまつて軍したらんは。弓矢取ての面目。何事の孝行か是に過べきと仰ければ。卿喜て仰にしたがひ。宇都宮に陣どり上杉を押へらる。關原の戰畢りければ。此度の勳賞に越前國をたまはり。六十七万石を領せらる。六年五月北庄の城を福井と改む。八年二月十二日從三位參議にのぼり。(貞享書上慶長二年參議とあり。)十年四月十六日正三位中納言にいたり。けふ三十四歲にてうせ給ふ。大御所の仰により京知恩院滿譽を越前にくだし。卿のために一寺を建立し。淨光院とをくり參らせ。その寺をもかく名付らる。(御年譜。ェ永系圖。藩翰譜。貞享書上。御年譜には孝顯寺に葬り孝顯寺殿と申す。其寺曹洞宗なりしかば大御所の仰によりふたゝび淨宗の寺をたてゝ。改葬せられしとぞ。)
○九日越前黃門秀康卿の寵臣土屋左馬助永見右衛門等けふ殉死す。(當代記。世に傳ふる所は。これより先薩摩守忠吉卿逝去のとき。家士殉死するもの多きよし聞召。大御所御けしきよからず。凡その臣たる者主恩をしたはゞ。よく其遺命を守り身を全くして。主の子孫を補佐し忠勤すべきを。殉死して何の益あらんや。それを江戶の年寄ども聞ながら。など禁ぜざるやと仰ければ。こたび秀康卿の逝去を聞とひとしく。殉死する事を禁ずべきよし。兩御所御內書をもて仰下されける。永見土屋の兩人は。其前に追腹切しなるべし。駿河土產。)卿の生母万の方はこの歎にたえず。兩御所の命をもこはずして薙髮し。長勝院と號せらる。後に卿の遺物として大御所に左文字の刀。京極黃門定家卿筆の古今集をさゝげられ。御所に貞宗の刀。五條三位入道筆の伊勢物語を奉られしとぞ。(創業記。慶長見聞書。)
○十八日成P小吉正成從五位下に叙して隼人正と稱す。(家譜。)
○十九日伏見城より金銀八十駄を駿府へ下さる。(當代記。)
○廿二日越前中納言秀康卿長子三河守忠直この時十三歲。近年江戶におはしけるが。父の喪なれば。いそぎけふ越前におもむかる。(創業記。當代記。)
○廿四日越前の家司等へ。大御所御手書を賜はり。藩士の殉死を禁じ給ふ。死は易くして生は難し。汝等ながらへて幼主を補導し。國家を保護すべし。越前は肝要の地なれば。别の沙汰もあるべし。もし黃門の恩を忘れて。さる心がまへあるものあらば。其子孫までも罪せらるべしとの御旨なり。こゝに於て本多伊豆守富正等やむ事を得ず。殉死をおもひとゞまり遂に剃髮せり。この日朝鮮使江戶に到着す。本誓寺をもて旅館とせらる。此夜旅館饗行はれ。翌日より米薪以下を給す。在京の日におなじ。道中旅館の饗は代官の沙汰として。鞍馬は各所の城主より供す。すべて鞍馬百五十。駄馬二百。役夫三百人。かの國人は使三人。上々官二人。中官廿六人。其他都て二百六十九人。この中には文祿の役にかの國に殘りとゞまりし。本邦人もありしとぞ。大鷹五十据もたらしむ。これは諸城主より鷹師をして。江戶まで据下らせたり。(貞享書上。黃門年譜。御年譜。創業記。當代記。慶長見聞書。)
○廿六日右兵衛督義直朝臣時に八歲なるに。甲州の所領を轉じて尾州一國を封ぜらる。故三位中將忠吉卿の封地なり。これに濃州のうち又は信州木曾山をそへて。六十一万九千五百石になさる。平岩主計頭親吉も甲陽六万三千石をかへて尾州に於て犬山城を給はり。十二万三千石に封ぜられ。義直朝臣いまだ幼稚の程は。親吉C洲の城にありて國政を沙汰すべしと仰付らる。(御年譜。武コ大成記。創業記。世に傳ふる所。平岩親吉男子なかりしかば。大御所第七の御子松千代君をたまはり。その子とせられしかど。世を早うしたまひしかば。慶長八年義直朝臣甲斐國給はりたまひしとき。親吉を准父の義にて。甲斐の府中五万石((一說六万石。))領して。その國政を沙汰せしめられ。今度又朝臣尾張にうつらせ給ひしに。親吉も尾州のうちにて城たまはりてうつり。國政を沙汰しける。親吉别に嗣子をばさだめずありしかば。卒して後は犬山にありし親吉の與力士どもは。みな尾州に附屬すといふ。藩翰譜にはこの朝臣を親吉の養子に准ぜられしとはなく。此殿に附られしとのみしるせしなり。武コ編年集成。)
○廿七日故越前中納言秀康卿の五子五カ八直基をもて。結城左衛門督晴朝が家つぐ事と定むべしと仰下さる。晴朝は藤原秀クの後胤にて。結城七カ朝光が十六代の孫。世々下野國結城の地を領し。關東八家のその一なり。晴朝家つがすべき男子なかりしかば。豐臣太閤の仰にて。秀康卿を養ひ世繼とす。秀康卿越前に移らせ給ひし後。晴朝はその國片粕といふ地に閑居す。卿の御子あまたありし中にも。直基生れ給ひしはじめより。晴朝迎へとりて養ひ進らせ。結城の五カ八と號せしめ。片粕の館にひととならせられぬ。晴朝齡傾き卿に後れまいらせ。ふかくなげきけれども。この孫をそだて參らするに。うさをまぎらし明し暮しぬるとぞ。(大三河志。藩翰譜。)
○廿九日松平隱岐守定勝に伏見城代を仰付られ五萬石になさる。遠州掛川の居城は長子河內守定行に與奪せしめ。三萬石を領せしめらる。このころまで伏見城松丸は。普第衆交替して警衛し。治部少輔丸は水野石見守長勝。名古丸は日下部兵右衛門定好。江雪曲輪は成P吉右衛門正一。戶田曲輪は松平豐前守勝政。戶田又兵衛直ョ。帶曲輪は小笠原次右衛門定信。其外大須賀五カ兵衛某。柘植三之丞C廣警衛し。この輩京所司代板倉伊賀守勝重並に米澤C右衛門正勝等とはかりあひて。諸事を沙汰せしが。定勝城代たるに及び。このともがらは皆駿府に赴く。(日下部定好。成P正一が傳によれば。慶長五年のゝち定好正一ともに伏見城留守居となり。のち隱岐守定勝伏見城代となりし時も。尋常の事は二人連判して行ひ。大事に至りては定勝判形を加ふよししるす。實なるにや。伏見町奉行長田喜兵衛吉正。芝山小兵衛正親。淀川船奉行は小笠原越中廣朝之。定勝はこの仰を蒙りてのち。駿府に參り謝し奉りし時。大御所近くめし。伏見は天下の要樞たれば。我居城とすべしといへども。思召むねあるをもて駿府にうつらせ給ひぬ。そがゆへに伏見城には普第舊好の士數輩をこめ置。武具兵粮もあまた儲畜せらる。もし事あらんとき汝に委任すれは。怠らず守護すべしとさとし給ひしとぞ。このとき御服と鎧及び朱の采幣。貝柄の鎗二本。十文字の鎗を拜賜し。伏見近クにて鷹塲をたまふ。もとの三位中將忠吉卿に附屬せられし尾州の諸士等。そのまゝ右兵衛督義直朝臣に屬せしめらる。成P隼人正正成は堺の政所より駿府に召て。政府の老臣に加へられしが。是も義直卿傅役に命ぜらる。然りといへども。尾州には平岩主計頭親吉居住す。正成は駿府にありて朝臣を補導すべしとて。猶駿府の政圍に居ながら。その事を兼しめらる。又忠吉卿の家司小笠原和泉守吉次は關東に召れ。下總佐倉にて二萬八千石を封ぜらる。ことしも旱にて關東は麥みのらず。駿州より西はよく熟す。此年今月まで入貢の蠻船來らず(御年譜。創業記。慶長年錄。ェ永系圖。ェ政重脩譜。武コ編年集成。尾張家傳。藩翰譜。當代記。)
○五月朔日土井大炊頭利勝が姪三浦龜千代正次。(時に九歲。)兩御所に初見して若君に奉仕す。(ェ政重脩譜。)
○二日雨ふる。大久保石見守長安佐渡國銀山の巡察命ぜられかしこに越く。久能の城代榊原七カ右衛門C政卒しければ。その子內記照久に家つがせられ。父の原職を命ぜらる。此C政は七カ右衛門長政が長子にて。弟は式部大輔康政なり。C政そのはじめ岡崎の三カ君に附られしが。三カ君御事有し後は。世をうき事に思ひしにや。病をとなへ弟康政が所領上州館林に閑居すること二十餘年なりしが。慶長十一年に至り。駿府久能は要害の地なれば。これを守るべしとの命を蒙り。廩米五千俵をたまひ。今年二月よりかしこにうつり。けふ六十二歲にてうせぬるなり。(當代記。創業記。ェ永系圖。家譜。)
○六日宗對馬守義智朝鮮信使呂祐吉慶暹丁好ェ等をひきつれてまうのぼる。其王季昭が書簡をば柳川豐前守智永持て。大廣間廣緣に候す。酒井雅樂頭忠世請取て御坐左唐織敷し机上に置。其外の献物鷹五十連。人參二百斤。帽段二百疋白苧布三十匹。白綿布五十疋。K麻布三十疋。花文席二十張。白紙五十卷。皮十張。虎皮三十張。豹皮二十張なり。かの國禮曹參判吳億齡より。本多佐渡守正信にも書簡をゝくり。虎皮三張。白綿布十匹。白苧布十疋。油紙三張。花文席五張。廣緣に置。大廣間上段に繧𦅘二間を設け。其上に錦の茵をしきて御坐となし。御所御直衣(春齋記には御冠御裝束K色とあり。しからば御衣冠たるべし。)にて出御あり。聘使これより先遠侍に伺候す。やがて御使をまちて三使廣緣をすゝみ。中段にまへり拜し奉る。
次に上々官二人下段にまいり拜し。上官二十六人廣緣にて拜し。中官は三十人庭上にて拜し。中門の外へ退く。三使の坐は下段に設く。時に御簾をおろし。御前には四方膳を奉り。三使には金箔たみし足折をもて饗膳をたまふ。饗應の事は本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世奉行す。三使御盃たまひ。つぎに茶菓を饗し。義智その時宜をはりて通事にさゝやけば。三使坐をたち拜謝してたちもとの殿上に伺候す。上官中官下官ふたゝびもとのごとく出拜し退く時。正信。忠隣。忠世。中門の外までをくる時互に相揖す。此日上々官は次の間にて饗給ひ。上官を遠侍にて饗せられしとなり。對馬守義智は緞子五十卷。油布五十端さゝぐ。この日阿部四カ兵衛忠政死す。その長子四カ五カ忠宣は先に戰死し。二子善大夫重忠はのちにめし出され。三子四カ五カ正元は前にめし出され御家人たり。この忠政實は大久保左衛門次カ忠次が二子なり。もとの四カ兵衛定次が女にあはせて子とし家をつがしむ。忠政生れ得て精兵の射手なりしかば。天文十四年三河の安祥C繩手の時をはじめとし。弘治元年蟹江の城責に武功をあらはす。七本鑓のその一人なり。夫よりして永祿天正の間合戰の度々。弓勢をもて敵を恐悕せしめずといふ事なし。そのゝち大久保七カ右衛門忠世と共に。遠州二股城をまもらしめたまひしに。いさゝか思ふ所ありて父子ともに勢州へ退く。天正十二年長久手の戰にふたゝびめして。岡崎城の留守を命ぜられしに。年老たりとてかたく辭す。このとき七カ右衛門忠世をめすといへども。忠世信州にありていまだ來らざれば。辭せどもゆるされず。しかりといへども長久手御勝利ありければ。忠政を召にも及ばず。忠政もその事となく所領に閑居しければ。今の御所かねて。忠政さるふるつはものたりとしろしめされしかば。しばしば召て軍法を尋させ給ひしが。けふ七十八歲にて終をとれり。蓑笠之助正尙入道一樂死す。長子仁藏某は先にうせければ。四子服部平十カ正長に二百五十石たまひ。其祀を奉し蓑笠之助となのらしめらる。(御年譜。創業記。春齋記。ェ政重脩譜。善隣國寳記。武コ大成記。慶長年錄。ェ永系圖。家譜。)
○七日安當仁あほんそに摩利伽渡海の御朱印を下され。大賀九カ左衛門に暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十日京相國寺の長老承兌。さきに江戶に來り寺院修造をこひ奉り。營作料の金を給はりしが。上京する道箱根に於て。其金を從者に奪ひ去らる。(當代記。)
○十一日朝鮮信使にいとまたまはり。其國王季照へ御返簡をゝくらせ給ふ。(御年譜。創業記。この御書は相國寺長老西美が草する所といふ。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世この御返簡を本誓寺へ持參す。三使これをむかへ。上々官つゝしんで御返簡を受取上坐の案上にをく。三使是にむかひ御返簡を拜してのち。御使の老臣を接對す。大三河志。春齋記。)三使に銀二百枚づゝ。長刀五柄づゝ。上々官二人へ銀百枚づゝ。中官二十六人。下官八十四人へ銀五百枚。其下二百十六人鵞眼五百貫下さる。また本多佐渡守正信よりもかの國禮曹參判吳億齡に返簡をゝくり。相國寺長老承兌よりも。かの國僧松雲に書簡を贈り。廣く我國の恩信をのべ。文祿の役彼國人の俘囚せられしもの。その心にしたがひ歸國の願するものは。放ちかへさるゝ旨を達し。承兌よりも重箱六組。錫鉢十。扇百柄をくる。宗對馬守義智にも馬二疋をはじめ若干の賜物有て。信使等を引つれ江戶を發し。駿府に赴くべしと仰付らる。故越前中納言秀康卿の長子三河守忠直朝臣越前福井の城に歸られ。この日父中納言の葬儀を行はる。その作法尤嚴重なり。京より知恩院滿譽を招請して導師とす。布施物若干。衆人耳目をおどろかせりとぞ。(創業記。異國日記。ェ永系圖。當代記。)
○十三日韓使江戶を發す。(春齋記。)
○十四日この夜駿府宮崎町失火す。其火に乘じ賊等家々にをし入財寳を奪ふ。すべてこのころ道路にてみだりに行人を殺害するものあれば。賞金をかけてその賊をつのりもとめしむ。(當代記。)
○十八日多田八右衞門正吉死して。その子三八カ正長つぐ。芦屋善三重勝。同僚布施管兵衛某と爭論し。西城大手門にて互に討果す。よてその家斷たり。(ェ永系圖。家譜。)
○十九日朝鮮の信使等駿府に至りて。C見寺を旅館とす。(御年譜。家忠日記。)
○廿日朝鮮信使駿城にのぼり。大御所に拜謁し奉る。人參六十斤。白苧布三十疋。蜜百斤。蠟百斤を献ず大御所烏帽子直衣(春齋記冠裝束翠色とあり。)をめし。繧𦅘錦の茵につかせ給ひ。その拜をうけたまふ。三使再拜兩段して退く。このとき駿城殿閣經營いまだ全からず。ゆへに上官中官は許さず。やがて本多上野介正純が邸にて饗行はれ。そのとき大澤兵部大輔基宥。永井右近大夫直勝御使にまいりて。三使へ鐙三領。太刀三柄。銀三百枚。上々官二人刀二口。銀百枚。上官二十六人銀二百枚。中官下官鵞眼五百貫給ふ。彼國の俘囚數百人。こたびの聘使に附して歸國せしめらる。かれ等歡抃かぎりなし。聘使即日退く。藤枝驛に宿す。(創業記。當代記。春齋記。)
○廿三日駿城本丸經營始あり。天守臺の基石もけふはじめて置る。この日大番頭水野市正忠胤渡邊山城守茂をして。其隊下の番士を引つれ伏見城を勤番せしめらる。これを三年番といふ。番頭は一年にて交代し。番士は三年にて交代す。八月十二日をもて交代の期たるべしと定らる。山城守茂今年末より上番す。又松平九カ右衛門忠利。杉浦忠左衛門親俊。渡邊與左衛門某等番士にておもむく。
小野麻右衛門高光二十一歲にて。是も山城守茂が隊下にて伏見城番にさゝれしが。この月七日江戶西城下馬邊に於て。人をうちたち退くものあり。高光追かけてこれを討とめ疵を蒙りしかば。御感のうへしばらく。治療のいとまたまはり後日に上番す。(創業記。當代記。慶長年錄。ェ永系圖。)
○廿六日平岩主計頭親吉甲州より尾州犬山城にうつる。しかりといへ共先に右兵衛督義直朝臣幼稚の間は。C洲城に在て國政を沙汰すべしと命ぜられければ。C洲城の北丸にうつりすむ。親吉かく轉封せられし後は。甲府の城は小田切大隅守昌吉。櫻井安藝守信忠本丸を守り。國中の政を沙汰す。又武川津金の士等にも府城を守らしめらる。山高孫兵衛親重。山守甚左衛門信光。木與兵衛信安。入戶野又兵衛門宗。蔦木越前盛次。津金勘兵衛久C等皆その列なり。川勝主水正秀氏駿城營築にあづかりかしこにて死す。その子丹波守廣綱庇䕃料を合せて三千七十三石餘をたまひ。弟小三カ重氏某に五百石わかつ。(家忠日記。當代記。家譜。ェ永系圖。)
○廿九日韓使入洛。(春齋記。)
◎この月島津陸奥守家久が使駿府にまかり滯留する間。海Mに遊び妓を船にのせ酒宴を催し。醉興に乘じたはれたる樣どもせしを。築城のためにあつまりたる諸家の藩士役夫等これをみて大に嘲り笑ふ。島津が使大に憤り。船よりあがりて鬪爭に及ぶ。このとき衆人皆迯去しが。池田宰相の藩士等のこりたゝかひ。つひに島津が使者を生どる。そのゝち彼使者を追放んとするに。使者がいふ。我かゝる恥辱を蒙り生て人に面を合すべからず。たゞ切腹すべし。さては我に敵したるものをも刑せらるべしといひて。奉行所にこふことやまず。よて上裁に及びしかば。彼使者二人と池田の藩士。こたび築城の事にあづかる輩の長一人とを戮せらる。(當代記。)
○六月二日池田右衛門督利隆御家號をたまはり武藏守と改む。このとき長光の御太刀。來國光の御刀。左安吉の御脇差を賜はり。就封のつゐで鎌倉遊覽をゆるされ。鵜殿兵庫助長秀にク導せしめらる。利隆駿府にいたり大御所に謁し。鷹馬を下さる。(ェ政重脩譜。)
○三日去月下旬より大旱。暑氣酷烈。衆庶病を得るもの多し。(當代記。)
○四日俄に凉氣生ず。將棊師等京より駿府にまかり。けふ江戶に至る。(當代記。)
○七日遠藤但馬守慶隆は駿府城造營により。信濃國木曾山に赴き木材をえらび。駿府に至て其事を勤るの處。この日岩P吉右衛門氏興をして御書を給ひ慰勞せらる。(ェ政重脩譜。)
○八日韓使大坂にいたる。(春齋記。)
○十一日韓使大坂を出帆す。(春齋記。)
○十二日夜東海鳴動す。其聲鼓のごとくにして曉に達す。齋藤宗圓政忠死して子金七カ政吉家をつぐ。(羅山文集。家譜。)
○十三日大旱後雨を得て。衆庶喜ス斜ならず。駿城はこの日地震す。この程奈良猿澤の池水渴る。これ凶兆なりといふ。(當代記。)
○十九日逸見左馬助義助子勘右衛門義重初見し奉る。永井新八カ尙政死す。子なくして家斷たり。この後外孫源右衛門正信。常憲院殿三丸に御坐のときめし出され。その祀を奉ぜしめらる。(ェ永系圖。家譜。)
○廿三日吉祥寺元照仰を蒙り。法問結緣の血脈をさゝぐ。これより天下太平の御祈を仰付らる。(由誌早B)
○廿六日松浦鎭信法印その外小西長左衛門。平野孫左衛門へ。呂宋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿九日鈴木左馬之助重春二十三歲にて死す。いまだ男子なければ。所領三千石收公せらる。(家譜。)
◎此月小林傳四カ吉勝五子左次兵衛重勝召出されて大番に入。又京にて大御所の御朱印を贋作して。所司代のもとに持來り人馬を課する者あり。板倉伊賀守勝重が屬吏これを見あらはして。贋造せるもの幷に持來りしものをからめとり誅す。この十三日雨ふりし後は。いよいよ雨ふらず。ふたゝび旱すといふ。(ェ政重脩譜。創業記。慶長見聞書。) 
卷六 / 慶長十二年七月に始り十二月に終る 

 

○七月三日駿府城落成せしかば。大御所移らせ給ふ。この時大御所は御齡六十六にわたらせ給ふ。江戶よりは酒井右兵衛大夫忠世を御使として御移徙を賀せらる。諸大名各賀儀を獻ず。忠世も太刀馬代蠟燭五百挺献ず。忠世仰によりけふより雅樂頭と改む。諏訪部宗右衛門定吉駿府にて御廐の事をつかさどらしむ。これ八條近江守房繁より傳へて。乘馬の事妙を得たればなり。今日池田宰相輝政が播州姬路の城に。立入河內守康善勅使として參向し。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿の兩傳奏より詔をつたへ。包永の御太刀寮の御馬をたまふ。輝政は大御所の御聟として播備兩國主たれば。公武の寵待朝野の威望他に殊なりしゆへとぞ聞えける。(御年譜。創業記。家譜。ェ永系圖。)
○九日大坂の右大臣秀ョ公より大御所御移徙を賀して。來國光の刀金十枚さゝげらる。其奏者は遠山民部少輔利景なり。越前少將忠直朝臣よりも。使もて國安の脇差銀二百枚綿五百把獻ぜらる。(慶長年錄。)
○十二日大和の長谷觀音上棟なり。石川吉兵衛某深津八九カ貞久兼て沙汰する所とぞ。(武コ編年集成。)
○十三日駿州C水より水口谷邊へ。船入の津を開かるべしとて湟をほらしむ。水多くしてその事ならず。疏鑿わづかに一日にしてやみぬ。(創業記。當代記。)
○廿五日西方に彗星あらはる。この頃西の岡妻塚を。(その所を詳にせず。)鑿て古鏃三を得たり。是凶兆なりといふ(當代記。)
○廿六日美濃國大垣城主石川長門守康通卒す。子ありといへども幼稚たるにより。老父日向守家成ふたゝび出て家國の事をつかさどらしめ。家成が養老料五千石外孫大久保內記成堯にゆづらしめらる。(成堯是より石川を稱す。)この康通は日向守家成が子にて。家成は當家普第の宿老安藝守C兼が三男なり。康通高天神の城責に首十六切て獻じ。武田滅し年の秋大久保七カ右衛門忠世と同じく甲斐信濃を打從へ。長久手の戰にしたがひ奉り。小田原の戰に先陣し。天正八年父家成致仕せしかば家をつぎ。從五位下に叙し左衛門大夫と稱し。後長門守に改め。十八年關東にうつらせ給ひし頃は。家成伊豆の梅繩五千石を養老の料に賜ひ。康通には别に上野鳴渡二万石賜ふ。此時近習外樣五組かはるばる勤番し。御上洛の時は一組の隊長となり供奉す。慶長五年關原の戰にはC洲の城を守り。又佐和山の城を攻む。同六年二月今の城賜はり五万石頷し。此日五十四歲にてうせぬるなり。(創業記。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。)
◎是月大井庄兵衛昌次が子長右衛門昌義初見し奉る。又和州多武峯大織冠の像破裂し。血臭甚しきよし注進あり。これ尤天下大凶の兆と聞ゆ。又其邊深山にては夜々攻城野戰の聲す。そのゆへ何たる事をしらず。土人大に恐怖すといふ。(ェ永系圖。當代記。慶長見聞書。)
○八月朔日高木主水正正次大番頭仰付らる。(慶長年錄。慶長見聞書。年錄等に山口但馬守重政。同日に大番頭になるよししるすといへども。重政は十一年に仰付られし事。ェ永系圖幷に貞享書上共に同じ。いまこれに從ふ。)
○四日豐國の社に廣橋大納言兼勝卿勸修寺中納言光豐卿の兩傳奏參向して。勅額をさづけらる。吉田二位兼見卿下陣にて拜受して神前簾上にうつ。其後二位兼見卿祈念し兩傳奏進拜し。大坂よりの代參片桐主膳正貞隆も拜し。惣神巫みな拜す。大坂より兩卿へ銀十枚。袷一。二。帷子二をくられしとぞ。加藤肥後守C正へ西洋渡海の御朱印。堺木屋彌三右衛門へ暹羅渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(舜舊記。御朱印帳。)
○六日大雨。(當代記。)
○七日大水。三宅源助貞勝死して。その子正勝家をつぐ。(家譜。當代記。)
○十二日故中將忠吉卿の北かたは。大御所の御沙汰として。上野國安中にうつされ。その母儀とおなじく住居せしめらる。この母はもとの井伊兵部少輔直政が妻なり。この日金森兵部卿法印長近入道素玄卒しければ。その遺領はのちに二人の息に分たれ。兄出雲守可重に飛驒一國。二男五カ八長光は濃州上有知小倉山城主として二万石餘を分ら給ふ。此とき封地への暇たまはるとて。可重に國次の御刀鷹馬を賜ひ。大御所よりも鷹馬をたまふ。此法印土岐の庶流にて。世々美濃の住人なり。父を金森采女定近といひしとぞ。法印そのはじめ五カ八長近とて織田家に從ひ。こゝかしこの戰に度々高名をあらはし。天正三年八月一方の大將承り。越前の國をうちたいらげ。その賞として大野の郡三が一をたまはりぬ。これよりこのかた北陸の軍に高名せずといふ事なし。三位中將信忠卿甲州に打入給ひしとき。三千人を引つれ甲府にむかふ。此後織田殿本能寺にてことありしとき。長子忠次カ長則十九歲信忠卿の供して。二條の御所にて腹切て死す。長近は北陸道のつはものなれば。柴田勝家に組しけるが。勝家滅びて後羽柴秀吉にしたがひしかば。年ごろの軍功を賞せられ飛驒國をたまはり高山城に住す。これより先入道して兵部卿法印になる。關白秀吉公に近侍し所々の軍にしたがひ戰功を勵す。また今の大御所にもしられまいらせしかば。太閤薨ぜられ大坂の奉行人等。さまざまの隱謀かまへけるにも。常に當家にまいり志をあらはし。上杉御追討にも父子打つれて御供し。上がたの軍おこると聞て。その子出雲守可重は美濃國にむかひて軍し。この入道は大御所に從ひ海道より攻のぼる。戰終てのち今度の恩賞行はれ。濃州上有知幷關河州金田にて二万三千石餘の地を加へ給ひ。すべて六万千石餘になされ。齡つもりて八十四歲。けふ終をとる。(創業記。當代記。ェ永系圖。藩翰譜。)
○十三日小笠原兵部大輔秀政二子大學頭忠政御前にめされ。左文字の御刀を賜ふ。(ェ永系圖。)
○十四日風雨。(當代記。)
○十五日三尾濃の三國洪水。これはこの夏農民旱をうれひ。木曾川の水を田地に引入しが。大風雨を得て加納城溝の水と一になり。河戶川矢橋川どもに押入て。所々堤防崩破し民屋を押流す。駿府の經營多半成功すといへども二丸はいまだならず。凡當城本丸四方百二十間づゝ。其高九間。天守薹十三間。二丸八百五十間。その高七間。本丸內石垣高さ。あるは七間。あるは五間なりとぞ。すべてこの二三年このかた。江戶駿府伏見等をはじめ。城々修築拓闢一日もやむときなし。いかさまにも近年のうち戰爭あるべき爲にやと。下民の巷說洶々たり。此日龜井武藏守玆矩に西洋渡海の御朱印。安當仁からせすにもおなじく下さる。(當代記。創業記。慶長見聞錄。御朱印帳。)
○十八日駿城御移徙を賀せられて。禁廷より御太刀。馬代金二枚。綸子十卷。親王より御太刀馬代金一枚を進らせらる。傳奏廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿小袖二つづ奉らる。江戶御所よりは御太刀。馬代銀千枚。袷三十。帷子十。單物十進らせらる。上總介忠輝朝臣より助重の太刀。馬代銀百枚。かなひき二百把。越後布百疋さゝげらる。藤堂和泉守高虎は銀百枚。本多佐渡守正信金三枚。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝蠟燭五百挺づつ獻ず。其外諸國の大名より賀儀の獻納。若干にして枚擧にいとまあらず。(慶長年錄。)
○廿二日榊原式部大輔康政に附屬せられし竹尾平右衛門俊久死す。其子四カ兵衛俊勝は天正十一年より近侍し。當時御膳番をつとむ。(ェ政重脩譜。家譜。)
○廿六日遠藤但馬守慶隆。駿府城造營の勞を慰せられ。大御所より御書及び御服羽織を賜ふ。南部寳藏院胤榮迁化す。壽八十七。この僧もとは伊賀伊賀守といふ。緇流に入て後も兼て武藝を廢せず。ことさら鎗法は楠正成の臣安間了ョよりの傳を得て。その妙を得しかば。身に法衣をまとひ。手に念珠をくりながら鎗をもたらして往來す。加藤C正。武田勝ョ等もこの僧の鎗法を學べりとぞ。今日もその寺に鎗法をつたへて。其訣を得ざれば住持する事を得ず。世に寳藏院流と稱するものこれなり。(ェ政重脩譜。大業廣記。)
○廿八日安南渡海の御朱印を某彌七カへくだされ。西村隼人へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
◎是月小笠原左衛門佐信之。岡部內膳正長盛を伏見につかはされ。城中の武具器械を撿察せしめらる。これ大御所の仰によりてなり。又伏見番士小尾仁左衛門光重の父監物祐光。江戶に有て病沒しければ。光重官長にうたへ身のいとま給はり。江戶にかへり喪をとり行ひ。喪事の後三十日をへてふたゝび伏見に赴く。(慶長年錄。家譜。)
○九月朔日致仕松波平右衛門(家譜半右衛門。)勝直死しければ。養老の料五百石を二子平右衛門勝吉にたまはる。(ェ政重脩譜。)
○三日藤堂和泉守高虎。江戶城天守臺大手鍮石門經營搆造の事を奉りしにより。大御所より御書をたまふ。(ェ政重脩譜。)
○四日有馬修理大夫晴信に。占城渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○五日此夜洛中光物あらはれ。叡山より南方へ飛行す。同時駿府にも同じく光物あり。その他諸國にもみる者多し。(當代記。)
○六日浦井宗普に西洋渡海の御朱印をたまふ。この日羽柴駿河守高房卒す。こは故龍造寺民部大輔政家の四子にて。はじめは藤八カといふ。天正十八年鍋島加賀守直茂國に當て沙汰するに及び。この高房をやしなひて子とし猶龍造寺を稱せしむ。慶長二年より豐臣家につかへ。羽柴の家號をゆるされ。八年叙爵して駿河守と稱す。大御所の仰によりて江戶に來てつかへしが。けふ二十二歲にて世を早うす。高房が子季明とて一人有しが。のちに訴ける旨有て奥の會津にながされ死しければ。龍造寺が統は永く絕ぬ。(御朱印帳。ェ永系圖。ェ政重脩譜。)
○十日遠州新坂町火あり。(當代記。)
○十一日遠江國須賀城主松平出羽守忠政卒しければ。後に其子國千代して原封六万石襲しめらる。此忠政實は榊原式部康政が長子なり。外祖大須賀五カ左衛門康高がよつぎとなり。いまの御所より御名の一字賜はり。五カ左衛門忠政となのる。天正十八年小田原陣の時。本生父康政に從ひかしこに赴き。四月五日その家人を酒勾口に埋伏せしめ敵兵を追討す。關東へいらせ給ひて後。遠州須賀より上總國久留里の城にうつり三万石を領す。慶長四年四月十七日從五位下に叙し出羽守と稱し。五年關原の戰には。舘林の城を留守すべしと命ぜられしが。舘林をば家士等に守らせ。其身は御駕にしたがひ奉らんことをねがひ。御ゆるしを蒙り。凱旋の後恩賞として遠州にて加恩の地をたまひ。再び須賀城にうつり六万石領し。ことし廿七歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。創業記。藩翰譜。)
○廿日建部內匠頭高光入道壽コ卒す。その子內匠頭光重父と同じく。攝州尼崎の郡代たり。この入道は近江國の住人にて宇多源氏の流なり。織田豐臣の兩家に歷事して。若州または尼崎の事を奉行せり。年老て家をば子光重にゆづりけれど。關原の時大坂の催促にしたがひ。毛利。長曾我部。長束の人々と安濃津の城を攻て。遂に城を攻下しける。天下一統當家に歸せし後。御とがめもなくて本領を安堵せし事は。光重が妻池田宰相輝政の養女なれば。宰相深くなげき申されしゆへなるべし。かくて入道齡つもり七十二歲にてけふ終をとりしなり。(ェ永系圖。藩翰譜。)
◎是月秋山伊兵衛正勝召出され。大番にいりて伏見三年番をつとむ。又豐臣右府秀ョ公北野社を修造せらる。このころ大坂にてしきりに靈社靈地を修造せらるゝ事あり。右府幼稚なればみな生母大虞院の祈願をこむる故あるなるべし。これによりかの母子靈夢祥瑞しばしばなりと。京攝の土人巷說胸々なり。(ェ永系圖。當代記。)
○十月二日龍造寺民部大輔政家卒す。こは山城守隆信が子なり。隆信島津がために討死して後。龍造寺が所領をば家臣鍋島加賀守直茂もはら沙汰しければ。いかにもして父の仇をむくはんとて。豐臣關白へ使を奉り。九州御征伐あらんには政家直茂先陣の仰蒙らん事を望みける。天正十五年關白島津退治の時。政家直茂眞前に馳參り先陣を給る。島津降參せしかば。龍造寺には本領を給ひ。政家いまだ年若し。直茂國務を沙汰すべしと命ぜられ。さて政家は從四位下の侍從に叙任し。十八年三月病で致仕し。其男藤八カ高房幼雅なれば直茂に家讓りふけ五十二歲にて卒せり。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○四日大御所江戶におもむかせ給はんとて。けふ駿城を御發輿あり。伏見より御供せし近習の輩は。暇給はり伏見へまかる。駿府へ還御までの間に。かへり參るべしとなり。この日御所第八の姬君生れ給ふ。御臺所の御腹にて後に御入內あり。後水尾院の中宮にたゝせ給ひしなり。(御年譜。創業記。世に傳ふる所。此姬君生れ給ひしとき。江戶中に異香馥郁たりしといふ。御先祖記。)醫官今大路延壽院道三こたびの御產。ことさら御なやみつよくわたらせ給ひしを。よく治療し奉りたりとて劔製の短刀を給ふ。又毛利藤七カ秀就。有馬玄蕃頭豐氏。駿府城經營に力をつくしければ。速成の功を褒せられ御書をたまふ。有馬修理大夫晴信へ占城渡海の御朱印を下さる。(ェ永系圖。家譜。御朱印帳。)
○六日有馬修理大夫晴信へ柬埔寨渡海の御朱印を下され。浦井宗普へ西洋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○七日星合采女正具泰が女後閤に召出され。こたび生れたまひし姬君に附らる。時に七歲。(外戚傳。世に傳ふる所。この女次第に登庸せられ。姬君入內の時には三位して肥後局と號す。後に江戶にかへり神尾宮內少輔守勝が妻となれりとぞ。)渡邊源次仲綱武州入間郡にて死す。七十九歲。子なくして家絕たり。(ェ永系圖。)
○十四日大御所駿府を出ましてより。中原邊に御鷹狩日數をかさね。この日江戶の西城につかせ給へば。御所兼て西城にならせられむかへ給ふ。大御所駿府より金三万枚。銀一万三千貫目もたらせ給ひ進らせらる。(創業記。世に傳ふる所。大御所江戶より駿城へかへらぜ給ふとき。金十五万枚を御所にゆづらせ給ひ。其後猶又金をあまた進らせ給ひ。天下に主たる身にては。非常の變あるとき下民を賑救し給はん時の料たるべし。敢て私の用に費給ふべからずと仰られしといふは。この時の事にや。駿河土產。)まだ中原にわたらせ給ふ時。梶七カ右衛門某を御使として。相州海老名へつかはされ。高木主水正C秀入道性順をとはせられ。時服幷御鷹の雁を給ふ。入道隱退して其地に閑居するが故なり。(大業廣記。)
○十六日明人五官へ田彈渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十八日大御所西城山里の茶亭に於て。御所をむかへ饗せられ。上杉中納言景勝卿。伊達越前守政宗。佐竹右京大夫義宣伴食し奉る。大御所御みづから御茶を點じ給ふ。この日小笠原兵部大輔秀政の妻痘なやみうせらる。こは岡崎三カ君の御女にて。大御所の御孫なり。暹羅渡海の御朱印を島津陸奥守家久に下さる。(創業記。當代記。御朱印帳。)
○廿日大御所御放鷹として近郊へならせ給ふついでに。松平國千代が母の亭によぎらせ給ふ。この母は松平因幡守康元が女なれば。一かたならぬ御なからひゆへなるべし。時にこの母大須賀家に附屬せられし渥美源五カ正勝。久世三四カ廣宣。坂部三十カ廣勝等。國千代幼稚により國務を專にし非道の擧動して家士不和のよしをうたふ。追て御糺明あるべきよしにて還らせ給ふ。(續武家閑談。)
○廿八月本城の茶亭に大御所をむかへたまひ。茶宴をひらき饗したまふ。(家忠日記。創業記。)
◎この月水野備後守分長子勘四カ元綱江戶に參り仕へ奉る。山角次カ右衛門繁盛死して其子內記直昌家をつぐ。この盛繁は小田原北條の家人にて。氏直に從ひ高野山に有しを後に召出されしなり。また駿城經營成功しければ。諸國の役夫を放ちかへさる。(ェ永系圖。當代記。)
○十一月朔日大御所御放鷹のため。浦和川越忍の邊へわたらせ給ふ。この日丹羽五カ左衛門長重が飯田町の家より失火し。餘燄飛て田安門災にかかる。又さきに勘發せられし御家人七八人改易せらる。(家忠日記。當代記。改易せられし御家人の名をしるさゞればたしかならず。さきに御旅館にて茶器紛失せし時。當直の番士等なりや。)
○十七日服部市カ右衛門保英死し。其子市平元正は文祿年中より近侍し。三子平吉保クも後に召出さる。此保英石見守保長が長子一平保俊が子にて。永祿十年十三の時よりつかへ奉る。姉川。長篠。長久手。蟹江。甲州の戰にみな軍功あり。關原の時には同心百人をひきゐ野州K羽根に陣し。奥州の押たりしが。けふ五十三歲にてうけぬ。(ェ永系圖。)
○十九日大雪。曉に撒す。(當代記。)
○廿七日故駿州の今川上總介氏眞が長子左馬助範以京にて卒す。としは三十八なり。この時父氏眞は猶江戶に寓居す。その子五カ直房後に氏眞の養老料を給ひ高家に列す。(ェ永系圖。)
○晦日この廿日頃より寒氣烈しく。氷雪例年にこへたり。(當代記。)
◎是月故越前中納言秀康卿の次子虎松丸十一歲。召によりて駿府に參り。大御所に拜謁せらる。早く江戶にくだり。將軍に見へ奉るべしとの仰蒙りて汀戶に參られ。御所に拜謁せらる。上總國姉崎の地一万石封ぜらる。酒井左衛門尉家次小五カ忠勝。金森出雲守可重二子(幼名詳ならず。)重次。新庄越前守直定が子新三カ直好初見し奉る。重次は小姓を仰付らる。又戶田三カ右衛門尊次叙爵して土佐守とあらたむ。植村土佐守泰忠は入道して二位法印に叙す。大須賀五カ兵衛某をめして。遠州須賀の城に松平國千代を補佐すべしと命ぜらる。こはもとの五カ左衛門康高が甥にて。さきにめしいだされ二千石賜はり。伏見城の留守居を勤む。安藤帶刀直次にもおなじく大須賀の國政を補導すべきよし命ぜらる。こゝにて久世。渥美。坂部等が職をうばはるといふ。(貞享書上。ェ永系圖。家忠日記。續武家閑談。)
○十二月朔日大雪。(當代記。)
○五日又同じ。陸奥國弘前城主津輕右京大夫爲倍京都にて卒す。其三子越中守信枚して。原封四万七千石つがしめられん事遺書もて願ければ。その請所をゆるさる。これは長子宮內少輔信建は早世し。二子熊信堅江戶にまいり家つがん事を請しかど。父の遺書すでにかくのごとくなるうへは。それにまかせらるへし。熊事は信枚あつく扶助すべしと仰付らる。この爲倍は世々南部の被官として。南部の地に住しけるに。爲信がときに至り。津輕の地を打したがへ弘前の城にすむ。天正十八年豐臣關白小田原の北條征伐にくだられしとき。奥の大名いまだまいらざるさきに。爲信一番に馳參りければ。關白大に感ぜられ本領安堵の御教書を下さる。十九年九戶の賊をうたれんとありしときも。速にはせむかひ攻たゝかひ。朝鮮の軍起し時は名護屋に參り。慶長五年正月廿七日爵ゆるされ右京大夫と稱し。關原のときは東國の先陣に馳加はりて。美濃國大柿の城を攻落す。この後上野國勢多郡にて二千石加賜あり。すべて四万七千石になされ。この日卒す。年五十八。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重脩譜。重脩譜關原の事をのせず。尤疎脫といふべし。)
○十日中山雅樂助信吉を鶴千代の方につけられ。五千石加へて。本領に合せて六千五百石になさる。(ェ政重脩譜。)
○十一日遠州原町に火あり。市店ことごとく燒失す。(當代記。)
○十二日大御所駿城にかへり入らせたまふ。この日伊勢國田丸城主稻葉藏人道通卒す。その子大夫紀通時に五歲。遺領五万石を襲せらる。この道通は伊豫入道一鐵が長男兵庫頭重通が子にて藏人といふ。はじめ關白秀吉公につかへて豐臣の氏をたまひ。伊勢の國岩手の城を領す。太閤薨ぜられて後慶長四年の秋。九鬼大隅守嘉隆と訴論の事ありしに。大御所の御裁斷にて九鬼非據にさだまりしかば。道通はスびたえず。九鬼は大にうらみける。五年の秋道通上杉御追討の御供せしが。仰を蒙る旨ありて道より引返し。をのが岩手の城にとどまり守る。關原の軍おこるに及んで。九鬼は岩手の城を責かこむ。道通は九鬼が兵粮を燒拂んとしてたゝかひ勝軍しぬ。戰畢て後度會郡今の城給はりてうつる。本領は二万五千七百石なりしが。この時四万五千七百石になされしなり。けふ卒す。時に三十八歲。(御年譜。創業記。藩翰譜。ェ永系圖。道通一本に通茂としるせしあり。いまはェ永系圖。藩翰譜にしたがふ。)
○十三日京北野天滿宮遷宮あり。大坂右府秀ョより造進せらるゝ所なり。片桐市正且元攝祭す。(舜舊記。)
○十四日醫員泰壽命院宗巴死しければ。その子コ隣有室して家つがしめらる。この宗巴今大路延壽院道三が弟子にて。國手の名を得しのみならず。國學をも嗜み哥道にも心よせけるにや。徒然草の注犬枕双紙等の著あり。又遠江國原川町ことごとく燒失す。(當代記。慶長年錄。家譜。)
○十五日齋藤金七カ政吉大御所に謁し奉る。(家譜。)
○十八日關東山伏の先達ども入峰の時。天台眞言兩宗の僧侶より。役錢をとり來りしに。近年僧侶これを出さず。又穢多等本院にいたり。葬具を持かへる事なりしに。近來これも僧等おさへて與へざれば。穢多等業を失ふにより。山伏等訴狀をさゝげ上裁を仰ぐ。よて本多佐渡守正信がもとにて双方對决せしむ。谷全阿彌某其席にいでゝ。これをあづかりきく。しかるに武州浦和玉藏院看海辨論する所。確據詳明にて僧家の典故を說破しければ。山伏ども詞屈して遂に山伏の非據となりぬ。看海が辨說明白なるよし聞えあぐ。(慶長見聞書。)
○廿二日丑刻駿城火あり。殿閤一宇ものこらず此災にかゝる。大御所御心地例ならず折ふしわたらせ給ひしかど。本因坊京よりまかりければ。晝は圍棋を御覽じ。夜は早く御床にいらせ給ひ。竹腰小傳次正信御側に看侍せるが。速にかきいだき奉り。御庭へ火をさけたまふ。大番頭松平大隅守重勝大手の門を警衛し。中山雅樂助信吉は後門を守る。これより先大隅守重勝大手門をとぢて出入をゆるさゞれば。焚死のものすくなからず。大御所は大手の方より出給はんと仰けるを。村越茂助直吉大手は衆人群集し雜喧なれば。後門より出ますべしと申。信吉門をひらき燭をはり。歩卒を左右に列し。守備を嚴にし喧擾を禁じ。小傳次正信が家に導き奉り。こゝに其夜をあかし給ふ。かくて信吉は速に後閤にはせかへり。鶴子代君猶襁褓の中におはしけるが。餘燄はや後宮に及びしかば。乳母かきいだきまいらせ。はしり出んとせしかど。四方皆烟にて行方しらず。鷹架のほとりにたゞずみ。
聲をたてゝ泣いたり。信吉この聲をきゝつけ烟の中へとびいり。鶴千代君をばをのれいだきとり。かの乳母には小袖に水をそゝぎ上よりおとひ。手を引てやうやうと逃出たり。信吉危急の所にありて精密の心がまへせりと。大御所感賞し給ふ。後宮の內門常に男子の出入を嚴禁せらるゝといへども。御家人幷に右兵衛督義直朝臣の家士廿一人。かの門をおしやぶり後宮に入て。朝臣の御生母お龜の局をはじめ。女房等あまた扶助し。器財もかれこれおひになひて火をさけしむ。卿の乳母宮內卿の局は。路を失ひ悲歎していたるを。平岩主計頭親吉が家士本多小五カ。米倉小傳次すくひてたづさへさりぬ。義直卿大にかの者等がふるまひをスせ給ひ。大御所にかくと聞えあげたまひしに。かの廿一人が制法を犯す罪を正され。後みな改易せられしとぞ。おかちの局(後に英勝院と聞えし人なり。)多くの人におしもまれ。すでに踏殺さるべかりしを。某とかいひし御家人みつけ。これを救ひ御庭へ引出したすけたり。局ス大方ならずこれもかくと聞えあげしかば。その者よく擧動たりとのみにて。别に仰出さるゝ旨もなかりしが。後に及び。俄なる火事なれば誰々も前後をわきまへず。たゞ御前のさまいかにと思ひ。專一に志して御側にはせ參るべきを。さはなさず奥に入て女房等を引出せしは。臆せるなりとの事にて遠流に處せらる。すべて此火後宮女房の。夜の物置所へ手燭を置しが。其火屋壁の張付にうつり。廣き殿閣へ一時にもえひろごりし事なれば。男も女も內外たゞあきれて。ものにあたりまどひ入亂れて蹂躙せしゆへ。燒死毁傷する者百人にあまりぬ。女孺の事とり行ふこちやといふ女房は。衆人の中にて踏殺さる。かゝる中にも君達姬君をはじめ。さるべき女房はみなつゝがなく立退たり。常々御刀收められし匣二御次の間に置れしが。其中に卅四五ばかり收められし匣はとり出せしかど。七十二いりし匣は重くしてとり出し得ざれば匣を打やぶり。其御刀どもはみな池の中へ投入たり。御文庫寳藏は恙なかりしかども。御座に置れし御寳物ども。一として烏有たらざるはなし。其かみ豐臣太閤より進せられたる白雲の茶壷眞壷。正宗の御脇差。三原の御脇差。獅子の笛等も燒ぬ。折節在駿の大小名われをくれじと。人數引具し城中に馳つき消防せし中に。堀丹後守直寄いちはやく寳藏にはせつき火を打けしたるにより。數の寳物をはじめ若干やけず。又消防の料に直寄兼て造り置たる器ことに。をのが名幷器械いくつといふ事をかきしるし。こゝかしこに捨置たり。この頃いまだ火すくふべき器械たくはへし人もまれなり。直寄がすて置し器とりて消防せしものあまたなれど。今度消防の功ひとへに直寄一人に歸す。大御所も聞召。兼て用意のほど神妙なりとて御感淺からず。(御年譜。創業記。慶長見聞錄。當代記。坂本日記。雜談。中山家譜。烈祖成績。大三川志。藩翰譜。)
○廿三日大御所竹腰小傳次正信が家にまします。(創業記。當代記。)
○廿四日大御所本多上野介正純がもとへうつりたまふ。これより日々城中燒跡を見巡り給ひ。燒し金銀其外龜局の貯金千五百枚。万局五百枚。かちの局三十枚。阿茶局三百枚燒たるをばみな取あつめ。奉行等に命ぜられ久能山につかはし。榊原內記照久にあづけしめらる。これ後に改鑄せしめられん爲とぞ。この日國々の大名等に令せられ。この火災のため御けしきうかゞはんとて。馳參る事を停めらる。よて諸國の大小名の使。奉りもの献ずること日ごとに絡繹たり。また長崎後藤宗印へ暹羅渡海の御朱印を下さる。また山中山城守長俊卒す。その子八藏宗俊は先に伏見にて初見し。駿府に御供して近侍す。この長俊もとは橘內とて近江に生れ。佐々木承禎入道につかへ。又柴田修理亮勝家。丹羽五カ左衛門長秀等に從ひ。後に堀左衛門督秀政がもとへ寓居せしを。豐臣太閤めし出し。爵給はり山城守と稱し。一万石の地を領す。その頃より大御所にも御恩あつく蒙りしかど。關原の時大坂にありしをもて。石田が方人に類しければ。所領をば沒入せらるといへども。别の義をもて洛陽に閑居せしめ。兩御所御上洛の折ふし絕ず召見せられ。もの賜ふ事しばしばなり。卒するとし六十一。(創業記。當代記。慶長見聞書。御年譜。家忠日記。御朱印帳。ェ永系圖。)
○廿七日相國守長老承兌蛻す。此僧頗る文才あり。又言論に長じ雄辨すぐれたるゆへ。洛內外寺院の政事。異國往復のことなどとらしめられ。恩寵ならびなかりしかば。諸人の崇敬大方ならず。よて頗る驕恣にして威福をはりしにや。嘲誹する者も少からざりしとぞ。(舜舊記。慶長見聞書。)
○廿八日松平五カ八直基使もて兩御所へ物献じ。結城の家づきしを謝し奉る。諏訪因幡守ョ水が子松千代御前に召て首服を加へられ。御一字賜はり小太カ忠ョ(忠恒と改む。)と稱す。よて備前一文字の御刀給ひ。烏帽子素襖をかづけらる。(家譜。ェ政重脩譜。)
○廿九日京より工匠雲霞のごとく駿府へ下る。これ駿城火後經營あるべきが爲なり。近年天主教盛に行はれ。駿府にてもその教に入者多く。所々に寺院をいとなみ法をとくもの。神祇を罵り佛法を誹謗し。神社にいばりし佛像を焚き。暴逆いたらざる所なし。ほとんど國をみだらんとする萠蘗。すでに生ずるとしらるれば。大御所聞召。大に御心をなやまし給ふ。(舜舊記。慶長見聞書。慶長年錄。)
◎この月伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衛門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。
こは京洛の富商後藤幷荼屋等が婦女。祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縳り付刀をぬき。若聲立ば伐てすてんとおびやかし。黃昏に皆迯去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。かく命ぜられしとぞ。(慶長見聞書。)
◎この冬大御所遠州中泉に鷹狩し給ふついでに。掛川の城に御駕を枉たまひ。城主松平河內守定行に銀綿子を賜ふ。定行も刀を奉る。そのゝち定行江戶に參り。御前にて宴をたまふ。仙石越前守秀久伴食す。御盃に御刀をそへ給ひ馬をくださる。福島左衞門大夫正則その子刑部少輔正之が近來所行たゞならず。ひとへに狂氣の至す所に似たりとうたへ幽閉せしめしが。正之はこのゝち遂に餓死すといふ。この三冬寒威嚴酷にして。二十年來覺えざる所なり。(ェ永系圖。坂上地院日記。當代記。)
◎此年伊丹喜之助康勝子作十カ勝長。水野對馬守重央子藤次カ重長。松平伊豆守信吉子勘四カ忠國二子興吉カ忠晴。山角次カ右衞門盛繁二子權兵衞吉次。永見新三カ重成初見し奉る。酒依長兵衞昌吉子喜右衞門昌次。花井伊賀定C子勘左衞門定光は駿府にて大御所に初見し奉る。中川修理大夫秀成子C藏久盛はじめて江戶に參り拜謁し。御前にて內膳と名を給ひ。御盃に來國光の御刀をそへてたまはり。駿府にまいり大御所に拜謁しければ。將軍より名を授けたまひし御祝にとて。鬼栗毛といふ馬を給ふ。小笠原兵部大輔秀政三子虎松丸。(時に九歲。)江戶にて御所幷に若君に拜謁す。御ゆかりあるをもて。此後江城後閣にて生長せしめらる。御所の御乳母大姥局の姪岡部豐後守長次子內記吉次十歲にて初見し。局の願により召出され近侍す。酒井河內守重忠子與七カ忠正小姓になる。佐野半四カ政秀二子甚四カ政勝。(時に七歲。)星合采女正具泰三子兵九カ專來(時に四歲。)共に近習に加へらる。眞野勘右衞門正次子庄次カ正重。(時に九歲。)大御所方の小姓になる。稻垣平右衞門長茂三子藤七カ重太(時に十七歲。)花畑番になる。故三位中將忠吉卿の家士别所孫右衞門重家召出され書院番になる。內藤仁兵衞忠政三子甚次カ政吉初見し奉り書院番になる。朝比奈新九カ昌親二子八左衞門昌澄。石川半左衞門正次。小長谷彌右衞門時重二子七カ兵衛時連。山田五カ兵衛直時子甚平勝時。美濃部右馬允某子文左衛門茂重大番になる。安西彌右衛門安勝子甚兵衛元眞燒火間番になる。本多左大夫光重。高井助兵衛貞重。庄田松聲安次は駿府番士八十騎の內たり。稻垣平右衞門長茂子藤助重綱父と共に仰をうけて伏見城を守衛す。加藤善藏成吉子四カ兵衞成次。遠山三カ右衛門景次二子忠兵衛景重。宮太カ左衛門某。三島C左衞門政次子彌八カ政吉。大井民部少輔政吉子新右衞門政景等召出され。美濃部次兵衞茂持子與藤次茂勝。根來右京進盛重子小左次盛正。矢頭又一カ重政子金左衞門重次。長田理助吉廣。味方が原にて討死せし外山小作正成子藤左衞門正勝召出され。大御所につかへ奉る。堀小太カ正善は本多佐渡守正信の請により。同じく初見し御側に勤仕し。現米百石。月俸五口を賜ふ。內藤若狹守C次。酒井備後守忠利。山伯耆守忠俊三人を若君につけられ。傅相の役を命ぜらる。小姓竹腰小傳次正信を右兵衛督義直朝臣につけられ。五千石加へられ。一万石になさる。味境村如意村を所領とせられ。犬山にて事あらん時は。川を背にし喰留べきよし面命を蒙る。永井彌右衛門白元使番となり。使番山善四カ重長持筒頭になる。使番も故のごとし。布施新次カ重直父孫兵衛重次の家つぎて。弓同心をあづけらる。天野甚右衛門繁昌歩卒二十人預る。阿部茂右衛門正勝子勘左衛門宗重は召出され手鷹師になる。安藤帶刀直次は遠州にて五千石加へらる。成P半左衛門正虎四千石賜はり小姓組になる。山下彌藏周勝月俸をあらためて。武州にて采邑を賜ふ。毛利甲斐守秀元諸役免許の仰を蒙り。毛利掃部介廣次も領地水害を蒙り。軍役勤めがたきよしを申ければ。三千石の地諸役免許せられ。その餘は收公せらる。もとの金吾黃門秀秋の老臣稻葉內匠正成めし出され。一万石領せしめらる。富田信濃守知信從四位下に叙す。肥前國佐賀城主鍋島加賀守直茂致仕し。原封三十五万七千石を其子信濃守勝茂につがしめらる。此直茂實は鍋島駿河守C房が子にて。龍造寺山城守隆信につかへ。天文のはじめ豐後國の大友宗麟入道龍造寺が肥前國佐賀の城せめしに。直茂馳向ひしばしば戰かち。大友八カ親貞豐後國より。肥前小城郡今山に陣せしを討て親貞を討取。その他九州所々の戰に武功をあらはし。剛歒をうち敗る事あげてかぞふべからず。天正十八年隆信が子肥前守政家病により致仕するに及び。その子藤八カ高房幼稚なれば。直茂に國を讓りしより。佐賀城にうつり住て三十五万七千石を領し。猶鍋島を稱し。豐臣太閤にしたがひ兩度朝鮮に押渡り。武名を異邦にあらはす。太閤薨ぜられてのち軍をかへし。井伊兵部少輔直政により。始て大御所に無二の忠をつくさん事を建白し。伏見城に御座をうつしたまはん事を申すゝめ奉る。石田三成密謀を企て京都靜ならざりしとき。いまの御所の御臺所を直茂が家にうつし。守護すべきむね仰くだされしかば。かひがひしくうけばり奉り御感を蒙る。慶長五年關原の役にはをのが國に在て。筑後國へ軍を出し。久留米の城を受とり。立花左近將監宗茂がこもれる柳川の城をせめて。敵あまた討しかば。御書を下され褒せらる。
今年致仕してのち元和四年六月三日八十一歲にて終をとれり。加藤善藏成吉死して其子四カ兵衛成次家つぎ。石原四カ右衛門昌明死して其子藤太カ安昌つぎ。渥美與四右衛門貞教死して子與四右衛門某つぐ。又この春おかちの局の腹に生れたまひし市姬君を。伊達越前守政宗が嗣子虎菊丸に降嫁の事仰出され。井伊兵部少輔直勝が妹をもて。政宗が長子伊達兵五カ秀宗に配遇の事仰下さる。又林道春信勝には京にて宅地を下さる。又府內麴町にて隼の坊を分附せらる。(今隼町といふ。この跡なり。)角倉與一光好(。剃髮號了以。)富士川の舟路をひらき。駿州岩淵より甲府に至るまでの運漕を通ず。國人皆これを便なりとす。又仰により信濃國諏訪より遠江國掛塚まで。天龍川通船の事をも勤む。佐久間久右衛門安政。源六カ勝之等は此年より妻子を率て江戶に移住す。九鬼長門守守隆伊勢國鳥羽城に在て。駿府城炎上の告をきゝ。早船三艘をはせて駿府に赴かんとするところ。海上風波あらく遠江國御崎相良の脇島に漂着し。夫より通夜陸地を急ひて駿府に至り。御けしきを伺ひければ。大御所御感有て。鷹及び黃金を恩賜せらる。(ェ政重脩譜。ェ永系圖。家譜。山家譜。貞享書上。烈祖成績。) 
卷七 / 慶長十三年正月に始り六月に終る御齡三十 

 

慶長十三年戊申正月元日歲首の拜賀例の如し。此日日蝕。世人凶兆といふ。水谷彌太カ勝隆爵ゆりて伊勢守と稱す。時に十二歲なりとぞ。(創業記。家忠日記。當代記。ェ永系圖。)
○二日謠曲始例のごとし。松平外記忠實從五位下に叙せられ土佐守とあらたむ。去年駿府の城炎上せしかば。大御所には本多上野介正純がもとにわたらせ給ふ。在駿のともがら大小名みなかりの御所にまいりて。歲首の賀を聞え上奉る。江戶よりは酒井左衛門尉家次御使し賀し給ふ。大坂の豐臣右府は織田左門ョ長を使して賀せらる。(創業記。當代記。ェ永系圖。慶長見聞錄。御年譜。)
○四日伊勢朝熊火あり。わづかに一坊を殘して。その佗ことごとく燒たり。(當代記。)
○八日駿府淺間の社に。後閤女房祈願するとて湯立をなす處。猶火災あるべきよし神託なりとて。女房等狼狽かぎりなし。(當代記。)
○十日京より宗桂をめし下し。本因防算砂と對局せしめらる。(當代記。)
○十一日圓光寺三要に西洋渡海の御朱印を下され。角倉了以光好に安南渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十三日去年より七八十日に及び雨なし。この晚雨ふる。(當代記。)
○十五日去年より松平國千代が家政つかさどらせられし大須賀五カ兵衛某。彼家に附屬せられし渥美源五カ正勝。坂部三十カ廣勝。久世三四カ廣宣等。政權を失ひしを憤り。大須賀家を亡命するによて。此三人終身を禁錮せん事をこへば。其旨にまかせらる。(續武家閑談。)
○十六日雨ふる。(當代記。)
○廿一日松前民部大輔慶廣が子若狹守盛廣卒す。この盛廣慶長元年父民部大輔慶廣と共に。はじめて大御所に拜謁し。六年五月十一日從五位下に叙し若狹守と稱す。父慶廣が叙爵に先だつこと四年なり。八年大御所將軍宣下御參內のとき供奉し。けふ卒す。とし三十七。(ェ永系圖。)
○廿四日昨夜より大雪なり。大御所には駿府より田中へわたらせられ御鷹狩あり。攝津國天王寺龜井の水渴して出ず。衆庶あやしみ巷說區々なり。(當代記。御年譜。)
○廿六日武藏國岩槻城主高力河內守C長卒しければ。その嫡孫左近大夫忠房もて原封二萬石を襲しむ。その子土佐守正長は父に先だちてうせけるがゆへなり。C長が父をば新三安長といふ。天文四年大樹寺殿いとけなくましましける時に。織田備後守信秀八千人を引具し。岡崎を襲ひ來るに。御一族をはじめ防失射んと欲するもの。わづかに八百人には過ざりしが。安長はその父備中守重長と共に。みかたの人々と同じく伊田クに討ていで。眞先かけて父子共に討死す。C長はそのとき六歲にて孤となりしが。生長の後與左衛門といひ。大御所いまだ駿府今川義元のもとにおはしける時よりしたがひ奉り。永祿三年五月大高の合戰よりして。一向宗一揆の時も高名少からず。土呂の善秀寺はC長が本領たりし高力のクと近隣なりしかば。一揆平治の後仰を承りて。かの地の制法を定め。佛像經卷をとりあつめ彼寺にかへせしかば。國民みな呼で佛高力と稱しけり。七年本多天野等と同じく。岡崎の奉行職を奉り。十一年遠州御征伐のとき。久野の城は第一の要害にて。久野三カ左衛門宗能が一族こもりたり。こゝにC長遠州可睡齋の住持は。宗能が歸依僧なるよし兼てしりければ。かの僧につきて宗能をすゝめしにより。宗能味方に屬しければ。當國のともがら多くは御手にしたがひ進らせたり。これひとへにC長がはからひによる所なりとて御感斜ならず。元龜元年姊川の合戰に高名し。三年三方原の戰に鑓疵を蒙る。天正八年九月廿三日遠州馬伏塚の城に。鎌田の地をそへて下し給ひ。十年泉州堺よりかへらせ給ふ時。小荷駄の奉行たり。八月駿河田中の城給はりてうつる。十二年豐臣家に御和睦の御使せしかば。秀吉公スび大方ならず。十四年叙爵させ河內守と改めしめ。豐臣の姓を賜はり。羽柴の氏をなのらせらる。十八年關東にうつらせ給ひし時。今の城にうつり二萬石賜はり。また浦和邊一萬石の地の代官を仰付らる。此とし豐臣關白は小田原の北條を平らげ。直に奥に下向せらるとて。岩槻の城に駕をとゞめられしに。C長よく待儲しければ。關白大に感ぜられ。歸洛の時使して若干の賜物妻子に及ぶ。慶長五年關原の戰には。海道の御供してのぼり。この月けふ卒す。齡七十九なり。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿九日駿府にて酒井雅樂頭忠世に命ぜられ。武藏國八王子の故北條陸奥守氏輝遺臣武功の者十七人を撰び。鶴松君の家人とせられ。中山雅樂助信吉に附屬せらる。このともがらに配分すべきため。常陸國眞壁郡の內にて别に三千五百石を給ふ。かの十七人は山口六カ右衛門。山口九カ左衛門。山口惣兵衛。山口久兵衛。長市右衛門。手市兵衛。岡部大左衞門。若林作兵衞。神田伊兵衛。島村孫右衛門。國分左大夫。國分權兵衛。加治長兵衛。加治忠左衛門。鈴木十左衞門。鈴木長右衛門。久下兵庫といふ。(家譜。ェ政重脩譜。)
◎この月駿府本丸經營をいそがれ。三遠の內掛川。M松。吉田。岡崎の人夫を召あつめ。信濃木曾。紀伊熊野の山々より良材を伐出し。關東の人夫をめして伊豆山の材を採り。ともに駿府に運漕せしむ。關東のともがらはさきに江戶修築にあづかるをもて。駿城の役を除かるゝといへども。去冬不慮の火災により。ふたゝび課せらるゝ所なり。遠三の人夫は去年韓聘饗待のため。駿城の役をゆるされしかば。今度の役に課せらる。よて江戶より安藤對馬守重信を御使として。こたび經營の用に江府儲蓄の材木を用ひ給ふべきよし仰進らせらる。
此材木運漕のため諸國浦々にて。通船を查檢せしめ。兵粮賣買の船は嚴に禁じて。渡海せしむべからずと令せらる。鍋島信濃守勝茂は駿城經營の助役を仰下さる。又諸大名より去冬災にかゝりし。駿城の後閤女房阿茶局等五人へ。金銀衣服若干を贈遺す。(武コ大成記。慶長年錄。慶長見聞錄。創業記。家譜。慶長見聞書。)
○二月三日大田善大夫吉勝死す。其子甚四カ吉正は天正八年より召出されつかへ奉る。吉勝は三河の產なり。父を甚四カ吉房といふ。十八歲よりつかへ奉り。弘治三年小河刈屋のたゝかひに。眞先かけて鑓を合せ。十八町畷にて首級を得。永祿十一年根小屋をやく。それよりして姉川。三方原。長篠。小山。遠目等の戰に高名すくなからかず。晚年三子金兵衛吉矩が許にありて。けふうせぬる之。(ェ永系圖。ェ政重脩譜。)
○四日伊勢の桑名町燒たり。これは去々年このかた。しばしばの災をまぬかれしが。この日遂に燒失す。(當代記。)
○六日雪ふる。(當代記。)
○七日長谷川讃岐守正吉死して。その子久三カ正信つぐ。(家譜。)
○十二日鈴木友之助信光死す。後に子友之助重氏召出さる。信光は永祿年中より仕奉りて。所々の御陣に供奉し。或は伏見城の留守居を勤め。のち病てク里に閑居し。この日死せしなり。(ェ政重脩譜。)
○十三日夕陽常よりも紅なり。彼岸の中日なれば祥端とて下民これを拜するもの群聚す(當代記)
○十四日駿府の本城上棟の式行はる。この日水野對馬守重央を常陸介ョ宣朝臣の傅相とせられ。三千石加恩有て一万石となり。水戶に赴き國政を沙汰す。此時隊下大番士のうち水野三四カ某。平岩助右衛門近吉。岩手九左衛門信政。夏目彌次カ定次。酒井金三カ某。鈴木七右衛門某。油比甚太カ正吉。水野甚三カ某。宮川金八政久。粂吉十カ某。夏目彌十カ某。太田新八某。すべて十二人。及銕炮同心五十人を附屬せられ。番士の采邑六千二百五十石同心給分を給ふ。(創業記。ェ永系圖。ェ政重脩譜。)
○廿日朝比奈惣左衛門嘉勝二千石加恩ありて。采邑三千石をたまふ。三浦長門守爲春に常州にて。二千石加恩給ひ五千石になさる。(家譜。)
○廿七日大坂の右府秀ョ公痘瘡をなやまれしが。難治のよし聞えければ。西國中國の諸大名世上をはゞかり。ひそかにけしきうかゞふ中に。福島左衛門大夫正則のみ速に大坂にはせのぼり。日々左右に看侍すとぞ聞えける。しかるに右府のなやみやゝ快くて。酒湯の式行はる。(創業記。當代記。武コ編年集成。世に傳ふる所。右府のなやみ大事に聞えしかば。諸寺諸社に奉幣祈禱もはら行はる。小野の御神奇特の靈驗ありと巷說せりとぞ。慶長見聞書。)この日松井助大夫宗次死して其子助大夫宗重家をつぐ。(家譜。)
○廿八日此ころたまたま雪ありといへども。わづかにうるほへるのみなりしに。此夜より大雨。衆民歡ぶことかぎりなし。今年春寒深くして桃李花やゝ遲し。(當代記。)
○廿九日夕陽雲にうつり其形二にみゆ。色ことに朱し。(當代記。)
◎是月山圖書助重成に。駿府城經營を監せしめらる。(ェ政重脩譜。)
○三月三日駿城殿閤屋舍ことごとく瓦葺になし。御座所はこと更白鑞を沃せしめらる。伊東修理大夫祐慶。駿城去冬災後の御氣色伺ふとて。大燭臺。中燭臺。手燭各二十づゝ奉る。下曾根三右衞門信正死して。その子三十カ信由家をつぐ。(當代記。慶長年錄。家譜。ェ政重脩譜。)
○四日九州の宮木右京進ョ久燭臺十。會津の藩士町野左近。岡半兵衞蠟燭三箱づゝ。吉倉六兵衞蠟燭二百挺駿府に獻ず。(當代記。)
○五日三緣山にて故三位中將忠吉卿小祥の法會行はる。千僧供養なり。この日松平五左衞門成重大御所に初見す。(慶長見聞錄。ェ政重脩譜。)
○十一日駿府本城落成して。大御所うつらせたまふ。諸大名酒樽を獻ず。此日烈風甚雷暫時してやみたり。(御年譜。武コ大成記。當代記。)
○十七日戶田兵右衞門C勝死して。その子平右衞門勝吉家をつぐ。(ェ永系圖。)
◎この月伊達越前守政宗に御家號を給はり。松平陸奥守とあらためしめらる。(これまでは羽柴をなのりしなり。創業記當代記等また宅間が譜に。十四年とするといへども。今はェ永譜によりてこゝにしるす。榮松錄には今年十二月廿五日とあり。重脩譜には正月の事とす。宅間が譜には伊織忠次奥州に下り。此命を傳ふとあり。)よて來國光の御刀を賜ふ。石川四カ兵衞重久。はじめて仕へ大番に入。林道春信勝が弟永喜信澄京より駿府に參り初見し。仰により江戶にまかり拜謁し奉る。棋師等京より江戶にまいる。其技御覽はてゝ駿府にのぼる。又伏見代官の下吏芹澤新平。此正月その土妓。(小銀と字す。)をうばひ亡命し。妓の舊里肥後の邊境に隱れたるが訴へ出しかば。搦とり駿府に下し獄につながる。(ェ永系圖。藩翰譜備考。斷家譜。當代記。)
○四月四日比叡山正覺院豪圓は緞子杉原。川西塔は杉原末廣。三州小松原寺は杉原末廣。下妻玉泉院は杉原を獻ず。(當代記。)
○五日醫官今大路道三親C法印に叙ず。(ェ永系圖。)
○八日上總の鷹塲に森嚴寺を創立有て。故越前中納言秀康卿小祥の法會をいとなみ給ふ。(慶長見聞書。)
○十日木民部少輔一重緞子の袴。料理鍋。錫切立を獻じ。淺野彈正少弼長政綿百把獻ず。此頃京より碁師利玄駿府にまいりしかば。道石と每日對局せしめらる。三十番にて道石勝を得る事七番なり。(當代記。)
○十四日淺野彈正少弼長政は馬代銀三十枚。小袖四獻じ。其子紀伊守幸長は小袖十。羽織十獻じ。多羅尾久八カ光雅は鷹五連。
池田宰相輝政が臣乾平右衞門は大誌\筋さゝぐ。(當代記。)
○十六日醫官竹田定宣法印に叙す。(ェ永系圖。)
○十八日池田宰相輝政二子藤松十歲。三子勝五カ七歲。御前に召て首服加へられ。藤松は從四位下侍從に叙任し。御家號幷御名の一字給はり。松平左衞門督忠繼と改め。勝五カは從五位下に叙せられ。これも御家號御名の字給はり。松平宮內少輔忠雄とあらたむ。忠繼に正宗の御刀。忠雄にも御刀に御馬そへて給ふ。(ェ永系圖。家譜。)
○廿一日駿府烈風にて民屋傾覆するものあり。尾濃兩州大水。(當代記。)
○廿二日圓光寺三要は杉原幷綾。高野山文殊院勢譽は香蕾散。衆徒中よりは緞子。嚴寺玄仙は緞子。三州岡崎法花寺は杉原扇子を獻ず。(當代記。)
○廿三日子刻光物あり。北より南をさして飛さる。(當代記。)
○廿四日某寺僧玄榮は杉原末廣。艮西堂は緞子。旭西堂瑞藏主白羽二重をさゝぐ。(當代記。)
○廿八日島津陸奥守家久は銀千牧。三位法印義久入道龍伯は緞子五十端。島津攝津守忠績は金襽。京知恩院は厚板五端。その使僧榮傳は錫香箱三十。金斷丸五包さゝぐ。(當代記。)
◎是月大久保石見守長安は銀山檢所の仰を蒙り。去年より佐渡におしわたり。銀鑛を穿つといへども。海水多く鑛中に入て功をなす事を得ず。又奥州南部及び松前邊金山ありとて。佐渡より鑿工等競ひ赴くといへども。松前にては粮乏しきがゆへ飢兆なりとて。領主松前民部大輔慶廣の境に工人をいるゝ事をゆるさず。福島左衛門大夫正則が長子民部少輔正之は。さきに父正則のために幽閉せられ飢死す。その妻は松平因幡守康元が女なれば。大御所には一方ならぬ御ゆかりなり。よてこたびその妻を藝州より。康元が總州關宿の城へ引とらしむ。月半まで雨ふらず。關東麥熟せず。西國はよく熟せしとぞ。東山建仁寺中名高き古藤あり。花のころは都人群遊す。しかるに今年花さかず。都人是をあやしみ凶兆とす。(創業記。當代記。慶長見聞錄。)
○五月朔日毛利中納言輝元入道宗瑞は帷子五。同じ藤七カ秀就。島津陸奥守家久。福島左衛門大夫正則は帷子十づゝ。京極宰相高次。生駒讃岐守一正。松平伯耆守忠一。京極修理大夫高知。森右近大夫忠政。細川內記忠利。佐竹右京大夫義宣。堀尾帶刀吉晴。幷孫三之助。島津左馬頭以久。コ永左馬助昌重。龜井武藏守玆矩。伊東修理大夫祐慶。松平國千代は帷子五づゝ。南部信濃守利直帷子四。寺澤志摩守廣高。金森出雲守可重。木下右衛門大夫延俊。本多出雲守忠朝。九鬼長門守守隆。相馬長門守義胤。相馬大膳亮利胤。眞田伊豆守信之。稻葉彥六典通。宮木右京進ョ久。遠藤但馬守慶隆。福原越中守某。速水甲斐守守之。伊東丹後守長次。堀田圖書助勝嘉。木民部少輔一重。淺田孫一カ某。戶澤九カ五カ政盛。織田上野介信包帷子三づゝ。本多縫殿助康俊。平岡牛右衛門ョ資。桑山伊賀守元晴。桑山又四カC時。成田左衛門尉氏範。由良信濃守貞繁。朽木河內守元綱。其子兵部少輔宣綱。岡部內膳正長盛。那須修理權大夫資晴。本多因幡守俊政。小笠原左衛門佐信之帷子二づゝ。里見安房守義康單物五。上杉中納言景勝。コ永法印壽昌單物三づゝ。西尾豐後守光敷。吉田希代丸重恒。谷出羽守衛友單物二づゝ。直江山城守兼續は帷子二献ず。(案ずる諸大名一統に時服を献ずること。ものに見えたるはこの時をはじめとす。これ三季の賀儀に時服献ずるの權輿にや。)長谷川式部少輔守知は鎭子五十。紫革十枚献じ。曲直P養安院正琳は金盞幷梭゚香廿をさゝげ奉る。この日三州大崎の船手役中島與五カ重好死しければ。その子與五カ重春家つがしめらる。此重好は板倉周防守重宗が異父兄なりとぞ。父與五カ重次は天正四年遠州舞坂湊にて。武田の兵船とたゝかひ討死し。重好は十八年關東にうつらせ給ひし時よりつかへ奉り。慶長五年より大崎海邊船手の事をつとめしとぞ。(當代記。家譜。)
○三日加藤肥後守C正。最上出羽守義光。松平陸奥守政宗は帷子十づゝ。加賀中納言利長卿。松平筑前守利常。蜂須賀阿波守至鎭。佐野修理大夫政綱。水野六右衛門勝成。石川玄蕃頭康長。松平隱岐守定勝。松平左馬允忠ョ。田中筑後守吉政子隼人忠政。一柳監物直盛。片桐主膳正貞隆は帷子五づゝ。生駒藤太カ。藤堂和泉守高虎。立花左近將監宗茂。水谷伊勢守勝隆。堀美作守親良。仙石越前守秀久。小川壹岐守。松平丹波守康長。內藤豐前守信成。松平河內守定行。戶川肥後守達安。市橋下總守長勝。松平甲斐守忠良。松浦式部卿法印鎭信。溝口伯耆守宣勝。分部左京亮光信。酒井河內守重忠。石川肥後守康勝。伊東掃部某は帷子三づゝ。松倉豐後守重政。松平又七カ家信。前田左衛門權佐廣定。高力左近大夫高房。松平玄蕃頭家C。織田民部少輔信重。牧野駿河守忠成は帷子二づゝ。關長門守一政。中川修理大夫秀成は單物三づゝ獻ず。また二條准后昭實公單物三。一乘院門跡尊勢帷子二。三寳院門跡義演准后袷二。三菩提院杉原扇子。常菩提院門跡某匂袋十。高野山無量光院行昌丁子十斤。桑山伊賀守元晴道服二。袴一。桑山與兵衛某帷子十。山中主水某銀十枚。坂本新五カ某羽二重五疋。片山小右衛門某具光布二端。中川半左衛門某鎭子二十。尼崎又次カ某紫革十枚。御藥屋勝七は白布五端さゝげ奉る。(當代記。)
○六日西尾豐後守光教が子信濃守教次卒す。時に二十一歲なり。(ェ永系圖。)
○九日建部內匠頭光重帷子五獻ず。(當代記。)
○十三日中川修理大夫秀成道服五。其子內膳久盛馬代銀五十牧。帷子十。綸子緞子袷十獻じ。高野文殊院勢譽錫切立一双。行人方の僧等高野紙十束さゝぐ。(當代記。)
○十四日悟眞寺杉原扇子を獻ず。またさきに當家を亡命せし小幡勘兵衛景憲江州愛知川にて爭論し。歒手十餘人に切勝て立退く。(當代記。ェ永系圖。この景憲いま處士たりといへども。大坂兩度の陣中大功あり。故にいまその名をこゝにかゝぐ。)
○十五日哥連師里村昌琢景敏法橋に叙す。(ェ政重脩譜。)
○十八日河內國狹山領主北條美濃守氏盛卒す。その子太カ助氏信して。遺領一万石襲しめらる。この氏盛は故美濃守氏規が子にて。小田原沒落の後當家にしたがふ。左京大夫氏直卒しければ。豐臣太閤その祀を奉ぜしめらる。よて太閤名護屋の御陣に陪從し。慶長五年關原のはじめ大駕にしたがひ。上杉追討のとき下野小山にいたり。やがて西尾隱岐守吉次に屬して關原にむかひたり。六年五月十一日從五位下にて美濃守と稱し。けふ三十二歲にて卒しぬ。この日飛鳥井宰相雅庸卿帷子五。枕一。匂袋十獻じ。花房又七カ某帷子三。閑齋帶三筋。龍庵鷹五連。團扇二柄さゝぐ。(ェ永系圖。當代記。)
○廿日所々洪水。(當代記。)
○廿三日生駒讃岐守一正妻子を江戶の邸にうつり住しむるにより。讃岐國公役の半をゆるさる。(ェ政重脩譜。)
○廿四日大坂の右府乳母をして。伊勢太神宮へ參詣せしめ太神樂を執行す。右府母子祈願ありとてなり。(當代記。)
○廿六日宗對馬守義智人參二十斤。柳川豐前調信縮緬二十五端さゝぐ。(當代記。)
○廿九日那須修理權大夫資晴那須紙五束獻ず。(當代記。)
◎是月筒井伊賀守定次急に召れて。伊賀上野より駿府にまかる。これ其被官中坊飛驒守秀祐訴る旨あるによりてなり。またこれよりさき水野六左衛門勝成。京より哥舞妓(出來島隼人と字すといふ。)をひきつれ駿府に下り。其藝をなさしむ。男女群聚して國中をかたぶく。これより先府中舞妓多くつどひ。土人爭論を引立し靜ならざるにより。令して府中の哥舞妓を追放たしめらる。(當代記。創業記。)
○六月朔日深井丹後守某發約五十端。松倉豐後守重政革三十牧。燭臺五。佐久間久六カ勝宗鷹打板。佐久間左兵衞勝年鷹大氏B鷹旋子を獻ず。(當代記。)
○二日權西堂樞ト一。文殊院弟子宮內卿杉原幷綾。南都五師白布十匹。法輪院。不動院重順。無量院舜運墨十挺づゝ。同招提寺墨五挺。同卅三か寺曝布三區。杉原扇子を獻ず。(當代記。)
○八日伊賀國上野城主筒井伊賀守定次所領二十万石收公せられ。其子宮內少輔順定ともに改易せられて。奥の岩城に配流し。鳥居左京亮忠政にあづけらる。定次は大和一國の領主陽舜房順慶が猶子なり。順慶天正十二年長島の戰にむかひ。病にそみてうせぬる頃は。定次いまだ四カと稱したるが。家つぎて大和國を領しぬ。十三年豐臣內大臣秀吉關白宣下ありし日。定次をも侍從に任じ。閏八月伊賀國にうつされ上野の城を領し。伊賀守に改め。慶長五年上杉御追討のとき御供して奥に下る。上方又みだれぬと聞えければ。仰を蒙り御先に本國に馳のぼりし所。居城には留守の兵ども大坂の寄手におそれ。城を渡して退たりときゝ。定次大にいかり直に海道の味方とひとつになり。岐阜の城を責落し。關原の戰にも先がけし。敵の多勢を打破りしかば。戰ひ終て後本領安堵し。再び伊賀の國を領す。然るに此頃は家の老臣等へ對面することもなく。常に田獵をのみ好み。又しばしば大坂にのぼり。定次町の家に有て放蕩淫樂にふけり。侫臣七八人を愛し。大坂の大野道犬等と交り逸遊を旨とす。兼て筒井が被官たりし中坊飛驒守秀祐は。順慶が時より大和にて武功のふる兵なりしが。まして今は慶長七年より召れて。奈良の奉行をも命ぜられし事なれば。其威權を專らにして。當時肩を幷ぶる者なし。筒井が家臣どもこれを妬む徒もすくなからず。定次に讒訴する事絕ず。定次が新進の寵臣に河村與六カ。松浦佐內といへるもの。こと更に秀祐を忌み妬み。桃谷與太左衞門。服部平七カなどいへる力士とはかりあはせ。君命なりと矯めて。秀祐を二丸によびよせ討取んとす。万財太カ。布施小太カなどもとより大和士なれば。秀祐に荷擔しひそかにかくと告しらせたりしかば。秀祐病をとなへ辭して出仕せず。万財布施等と共にをのが家の子五百餘人。ひた甲して逆寄し。河村松浦を討はたさんとひしめく。河村松浦も桃谷服部等としめしあはせて。千餘人二丸にあつまり。防戰の用意す。こゝに於て城下村里の衆民驚て騷擾なゝめならず。やがて中坊より使して。我君に對して不忠の覺えなし。各私の宿意を以てかゝる騷動をひき出したれば。とくおしよせて秀祐が首をみるとも。各が首を見せらるるともせらるべしと申送りければ。松浦河村もこれにやおそれけん。大坂の邸へ急使櫛の齒をひくごとく注進せり。筒井が老臣桃谷與次カ國仲名張の城にありしが。此よし聞ていそぎ秀祐がもとにいたり。懇に諫めて干戈をばしづめたり。定次はこの程大坂の邸にて淫酒にふけり。痲疾をやみしが。この注進におどろきにはかに歸城しければ。河村松浦これを待つけて。秀祐不臣の狀を讒訴す。定次大に怒り。直に出馬して中坊が家を燒亡さんとありしを。年老たる家人どもひたすらにいさめとゞめ。又秀祐をも意見し。定次の詞なりとて國主の留守にありて。干戈を動かさんとする事非禮甚しければ。双方ともに罪をたゞさるべしといへども。秀祐は老父順慶以來の功臣なれば。罪するにしのびず。父子ともしばらく故ク南都に立退くべきかとありければ。秀祐父子不臣の心なしといへども。君讒臣の言を信じ給ふうへは。恨なしといふべからず。しかりといへども今に於て。君臣の禮みだるべきにあらねば。仰にしたがふべしとて。
家子百餘人甲胄を帶し立退き。南都へは行ずして駿府にまいり。定次常に淫酒にふけり田獵を專にし。讒臣をしたしみ國政をみだるよしをうたふ。定次もまたかくと聞ておどろき。秀祐が不臣の擧動多よしをうたふ。駿府に於て双方を召决せらるゝ處。定次養父順慶このかた。豐臣家舊好忘るべからずとはいへども。常にひそかに大坂にまかり秀ョに近侍し。其上酒色に耽り讒侫をしたしみ。國政をみだる事。一々謝するに詞なかりければ。遂に罪せらるゝとぞ聞えし。(御年譜。家忠日記。藩翰譜。筒井家記。世に傳ふる所。中坊秀祐さる功慧の老人なれば。常に駿府に伺公し大久保石見守長安に厚く賄ひ。御家人たらん事を請ふ事久し。長安また奸智ふかきものなれば。秀祐をしたしみその事を周旋せんとす。秀祐元來大和士にて。南都の事情にくはしければ。かの地の訴訟事をば。常に秀祐にはからはしむる事もしばしばあり。秀祐奈良の奉行たらん事をこひねがひ。長安に媚をもとめをのが私財をもて。長安が第邸を改造するとて。其子忠右衛門秀政を駿府に呼よせむとす。定次これを聞大に秀祐を怨みけるより。事おこりしといへり。當代記。)本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝に上野の城請取命ぜちれ。筒井が家士幷に財寳は。心まかせに持退くべしと令せらる。安藤次右衞門正次をして。其郡邑を撿知せしめらる。(慶長見聞錄。烈祖成績。ェ永系圖。藩翰譜。ともに是を十二年の六月とす。誤れるに似たり。今成績によりてこゝに收む。)この日洛中大水。河內攝津邊堤防をこえて水おしいる。濃州より東は水害なし。(當代記。)
○九日古田希代丸重恒が老臣古田六左衞門緞子道服五。秋山左三カ菖蒲革十枚。長野次右衞門鷹鞢十。仙石三左衞門碁石を獻ず。(當代記。)
○十一日藥師寺極樂坊駿府閑能寺。みな束本を獻じ。西大寺高久は杉原に墨そへて獻じ。身延山久遠寺日重は杉原五束獻ず。四月より雨ふりつゞき。關の東西とも洪水の害にかゝる。(當代記。)
○十六日故越前中納言秀康卿の女子を。(毛利家の呈譜には慶長七年六月六日。御所の御養女と定給ひしと云。)毛利中納言入道宗瑞が嗣子藤七カ秀就へ配遇せらるべしとて。けふ福井より江戶に着せらる。(當代記。)
○十七日佐々木利助元次死して。その子左衛門正次家をつぐ。(ェ永系圖。)
○十九日杉若藤右衛門某曝布廿疋さゝぐ。(當代記。)
○廿一日謙庵某單物五。香物一函。半夏二袋。岡田將監善同弓二挺。箙一本。矢筒一。弓立一獻じ。三州大樹寺光明寺束本を獻じ。九鬼長門守守隆單物十金一枚獻ず。(當代記。)
○廿五日本願寺門跡光壽生絹十。銀十枚。坊官下間宮內卿大詞ワ筋。下間少進法印熊障泥三懸。彥山北院杉原五束。扇一本。同山內藏坊三大部二函。大戶壽コ院藥篩二。南禪寺宗最縮緬一卷。同じ長老崇傳。高雄寺眞海束本。近江佐々木神職杉原を棒ぐ。又松平越後守忠俊白布六十卷。堀監物直次銀三十枚。堀對馬守某帷子五。蠟燭二百挺獻ず。狩野右近孝信大詞ワ筋獻ず。(當代記。)
○廿七日けふまで三日南風烈しく。西國は高潮にて泊船多く毁損す。(當代記。)
◎是月丹波國八上の城主前田主膳正茂勝は。コ善院玄以法印の子にて。關原の戰にのぞみ。大坂の催促にしたがひ。丹波但馬の人々と同じく。丹後の國に向て。細川玄旨法印の田邊の城をせめかこむ。關原の戰終て後别の儀を以て。本領を安堵せしめられたり。これは父玄以法印が岐阜黃門秀信卿をいさめて。織田殿の御子孫に於て。たとへ幾代をへさせ給ふとも。コ川殿にむかひ御うしろめたき事候べからず。とにもかくにもコ川殿と共に。安否を同じうせさせ給ふべきなりと。諫めけること明らかなり。又大坂にありて逆徒の密事を告により。石田三成が謀叛の狀にも連署せざりしゆへにや。しかるに茂勝此ほど物にくるふ擧動多くなりて。宗徒の家人を手討し。或は腹切らせ。そのうへ洛中洛外を狂ひめぐる程に。近江の國水口の邊にて。土人のために打擲せられ。人心ちもなく打ふしてゐたるを。家人等やうやく尋もとめ得しかば。伏見の家につれかへり押籠て置たり。よて其所領五万石は收公せられ。堀尾三之助に預らる。また駿府にまかりたる棋師象棋師等其技を御覽はてゝ。暇賜ひ歸洛す。(武コ大成記。藩翰譜。當代記。) 
卷八 / 慶長十三年七月に始り十二月に終る 

 

○七月朔日大雨なり。この日江戶よりの御使(姓名傳はらず。)桑名加納佐和山に至り。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝に伊賀上野の城を。筒井伊賀守定次が家臣等より請取べしとの仰をつたふ。(當代記。慶長見聞書。)
○五日本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝。各居城を發程して伊賀におもむく。(慶長見聞書。)
○七日細川內記忠利。船越五カ右衛門景直は帷子五づゝ。藤堂和泉守高虎は帷子三。淺野對馬守某團扇二十五柄。中坊久三カ某は紫皮十枚。多羅尾次カ右衛門光之手燭二を獻ず。(當代記。)
○八日駿河の淺間社にて猿樂あり。これ常陸介ョ宣朝臣興行せらるゝ處とぞ。また伊賀上野城請取のこと奉りたる輩彼地に到着せしよし注進す。(慶長見聞錄。)
○九日大坂の右府秀ョ公より金十枚さゝげらる。關東郡代伊奈備前守忠次紅花五十斤。蠟燭二百挺獻じ。赤座內膳永成紫皮廿張。遠州二諦坊庖丁刀二。小刀二。いせき鞍一口奉る。(當代記。)
○十日本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝。上野の城を請取。忠政は本城。忠勝直勝は二三丸を警固す。(創業記。慶長見聞錄。)
○十三日比叡山延曆寺に寺領の御判をたまふ。近江國志賀郡の內惣計五千石永代寄附せらる。全く寺務たるべしとなり。さきに織田右府叡山を燒亡せしよりこのかた。寺領沒收ありしを。今般新に寄附し給ふ處なり。(令條記。家忠日記。武コ編年集成。)
○十四日呂宋の書簡をよましめて聞召る。圓光寺長老崇傳して御返簡を製せしめらる。甲胄二領長刀五柄遣はさる。(異國日記。)
○十七日毛利藤七カ秀就に。もとの越前中納言秀康卿の息女を婚嫁せしめらる。(家譜。)
○十八日本多出雲守忠朝紅花二百斤獻ず。此日呂宋王より金襴五端。緋緞子三端。繻子五端。猩々緋一丈壹尺。いそばにや酒二壺さゝげ奉り。かぴたん緞子一端。長蠟燭五挺。綸子三端。伴天連手巾三。玻璃器五。るいす縮緬十端。金襴二端。綸子一端奉る。(當代記。)
○廿日關東郡代伊奈備前守忠次。尾張國村邑の撿地を沙汰す。(創業記。當代記。)
○廿二日大坂右府より長光の太刀一振。金二百枚。松平三河守忠直は國安の脇差。綿五百把。銀二百枚。松平下總守忠明蠟燭二百挺。小出播磨守吉政銀五十枚。袷十。小出右京大夫吉英銀三十枚。袷五。惟子五。大詞ワ十筋。小出信濃守吉親袷五。織田左門ョ長曝布五十匹。吉田助右衛門某梭櫚箒三十本。栗原右衛門某森下紙廿帖。大コ院杉原扇子。奈良町中市人曝布廿匹。長左衛門銀五枚。銀座の徒銀廿枚。將棊師道滴大緞子二卷。兩替彌左衛門綸子二端。平野忠五カ大糸原二斤。萬屋市右衛門大白糸二斤。淀次カ右衛門五色糸一斤。道和子丁子五斤。糸屋七カ右衛門せてん二卷。桔梗屋道因紫皮二枚たてまつる。また柬埔寨王より奇楠香一束。同一木。砂糖六桶。蠟四包。象牙二本まいらせ奉る。この日木村右衛門信久死して子久右衛門則綱家をつぐ。(當代記。家譜。)
○廿五日圓光寺崇傳をして。柬埔寨王の書簡をよましむ。この日田邊屋又右衛門へ暹羅渡海の御朱印。堺木屋彌三右衛門へ柬埔寨渡海の御朱印をくださる。(異國日記。御朱印帳。)
○廿六日伊賀國上野へ奉書を下され。井伊兵部少輔直勝は其地を守り。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政は歸國すべしと仰つかはさる。(創業記。)
○廿九日昨日より大雨。水野市正忠胤伏見城在番にせられ發程す。飛鳥井宰相雅庸卿加茂の社人松下某が事を訴ふ。こは鞠道の免許を授くること。飛鳥井家に限るべきよし。織田豐臣兩家の證狀現然たる處。松下近來みだりに門生をあつめ。免許狀をさづくるが故なり。(當代記。慶長見聞錄。創業記。)
◎この月宮上出羽守義光駿府にまいり。御遷徙を賀したてまつる。(家譜。)
○八月朔日中國大水。七十年來ためしなきほどの事にして。京都も水おし入流死のものすくなからず。諸國損害多し。三河より東はこの害少く。播磨はさらに水害なし。(當代記。)
○五日松平右衛門督利隆紫革五枚。關長門守一政銀五十枚。羽織五。袷五。單物五。堀民部直里蠟燭百挺。稻葉彥六典通羽織三。小西七左衛門某綸子十卷。天鵞絨二卷獻ず。(當代記。)
○六日兩御所。飛鳥井宰相雅庸卿へ鞠道の御判物をたまふ。その文にいふ。蹴鞠の事。加茂松下某私に弟子をあつむる事。先例いまだなき所なり。家人の前にて曲足を蹴る事あるべからず。色葛袴。無紋有紋條v。無紋紫皮。閉袴。同沓。紅上香上紫上。金紗一切着すべからざる旨。勅書幷に代々證判明鏡なり。しかるを近年これに背くものは曲事たり。今より後みだりに弟子をあつめ。又曲足をけるたぐひ。違犯の徒は嚴に命ぜらるべしとなり。この日呂宋國の船相州浦賀の湊に着し。書簡幷に方物を獻す。御返簡には。交易のため其國に渡海する我國民等。もし不良の擧動するものは其國法のごとく所置すべしとの御旨なり。また柬埔寨王に御返簡をつかはされ。刀脇差各五づゝ。馬二匹をくらせられ。王舅某にも馬一匹下さる。呂宋王へも御返簡幷に太刀二柄。甲胄二領下さる。(令條記。紀年錄。異國日記。)
○八日比叡山延曆寺の條目を下さる。山門の衆徒勤學せざる者。住坊かなふべからず。たゞし山門再興の時より住山の僧。ならびに坊舍建立の者。菲學といへども住山をゆるすべし。學業をつとむといへども。行狀不良のやからは速に離山せしむべし。顯密の名室においては。學匠をして相續せしむべし。一人にて二三坊を兼住するか。
又は坊を無住にする事あるべからず。住持の外坊領を競望すべからず。坊舍幷に坊領賣買。質券禁斷すべし。衆徒連署して黨をむすび。非議をくはだつるにおいては追放たるべしとなり。此日神龍院梵舜駿府にまいる。(令條記。舜舊記。)
○九日神龍院梵舜駿城にのぼり。大御所に拜謁し奉る。梵舜は論語抄十册。涵星硯一面獻じ。吉田二位兼見卿日本紀一帖を獻ず。多武峯神像破裂の事を議せらる。(舜舊記。)
○十日御所江城を御首途ありて駿府におもむかせたまふ。土屋民部少輔忠直をはじめ供奉の輩若干なり。(御年譜。家譜。)
○十二日神龍院梵舜駿城にまうのぼる。大御所先足利學校三要ともに御前にめして。多武峰祈念の事仰下さる。(舜舊記。)
○十三日大風大雨。(當代記。)
○十四日一昨日よりの大雨にて。所々洪水の聞えあり。本間權三カ範安死して子五カ左衛門季重つぐ。(舜舊記。家譜。)
○十五日東福寺南昌院緞子を獻ず。神龍院梵舜まうのぼる。(當代記。舜舊記。)
○十六日藤堂將監嘉以小袖一襲獻ず。(當代記。)
○十七日梵舜まうのぼる。(舜舊記。)
○十八日御所駿城にいらせたまふ。大御所御よろこびなゝめならず。供奉の輩までみな饗膳をたまふ。御所より長光の御太刀。銀千枚。袷三十。單物十。惟子七進らせられ。上總介忠輝朝臣も助重の太刀。銀百枚。越後布百匹。金引二百把獻ぜらる。この日大久保右京亮教隆蠟燭百挺。大久保主膳正幸信晒十匹。永井信濃守尙政蠟燭百挺。森川金右衛門氏信蠟燭百挺。板倉周防守重宗蠟燭百挺。朽木河內守元綱銀十枚。道服二。小袖三。石河伊豆守貞政塵取二十。川勝信濃守廣綱毛氈五枚。小出播磨守吉政小袖三。遠山勘九カ方景紫草五枚。住吉屋宗外椶櫚箒廿本。堺宗益紅糸一斤。大和玄修麝香三貝。搶緕尅カ應杉原一束。緞子一卷。けいかん那須紙。呑龍は一束一本獻ず。(御年譜。武コ編年集成。當代記。)
○十九日神龍院梵舜。本多佐渡守正信によりて駿城にまうのぼり。御所に拜謁し三重箱を獻じ。吉田二位兼見卿より。惟子二獻ず。(舜舊記。)
○廿日駿城七重の天守上棟あり。大工中井大和正次太刀一振。孔方千貫文。銀子八袋(廿牧づゝこれにいる。)かづけられ。爵給はり守になる。其以下の諸工人皆祿かづけらる。兩御所其地にのぞませたまふ。助役せし島津右馬頭以久に賞譽の御書を給ふ。(創業記。當代記。ェ政重修譜。)
○廿一日神龍院梵舜大御所に拜謁して。淺間社幣帛の事を建言す。(舜舊記。)
○廿二日駿城の二丸にて御所を饗せられ猿樂あり。常陸介ョ宣朝臣猿樂まはしめたまふ。高砂。田村。揚貴妃。船弁慶。銕輪。皇帝六番なり。足利三要。崇傳長老。梵舜等も召れてみせしめらる。(創業記。當代記。舜舊記。)
○廿三日梵舜まうのぼる。本多佐渡守正信より呂宋國に書簡をくる。(舜舊記。異國日記。)
○廿五日駿府本城にして御所を饗せちれ。行平の御太刀をまいらせらる。この日尾張右兵衛督義直朝臣へ。御所より封地の御判物をつかはさる。搶緕尅カ應駿府に參る。大御所に血脉をさづけ奉る。また水野監物忠元蠟燭百挺。井上半九カ正就蠟燭百挺。木刑部卿法印重直天鵞絨二卷。大久保相摸守忠隣蠟燭五百挺。酒井雅樂頭忠世蠟燭三百挺。土井大炊頭利勝蠟燭二百挺。藤堂和泉守高虎銀百枚。本多佐渡守正信太刀。馬代金三枚。松倉豐後守重政塵取十。片桐市正且元金廿枚。綸子三十端。古田織部正重勝袷十。鳥居左門忠ョ綿三十把。戶田備後守重元蠟燭二百挺。高木主水正正次蠟燭二百挺。倉橋內匠助政勝蠟燭二百挺。鵜殿兵庫頭氏長蠟燭百挺。山圖書助成重蠟燭百挺。太田新右衛門信盛大詞ワ筋。安藤彥四カ重能鞢五指。大岸寺杉原一本。扇一本。大見寺も一束壹本獻ず。又駿府阿部川町を娼街として分賦せらる。土人の請によりてなり。(御年譜。當代記。慶長見聞書。)
○廿六日駿城に於て搶緕尅カ應以下。淨宗の僧侶をめしあつめられ。兩御所法問を聞召る。これにあづかる僧侶百三十人計なり。竹中丹後守重門先に尾張國名古屋城搆造の時。信濃國木曾山の材木奉行せしにより。御書及び時服羽織を賜ふ。この日備中國足守領主二位法印木下肥後守入道家定卒す。こは杉原平入道信喜が男にて。故豐臣太閤北政所の兄なり。年若時より豐臣家につかへ。木下の家號賜はり。叙爵して肥後守と稱し。大坂城の留守として播州姬路の城を領し。二万五千石になされしが。慶長六年大御所より所領かへたまはりて備中國にうつり。入道して二位法印に任ず。卒せし年六十六。(此入道羽柴中納言としるせし事見えたり。さらばいつのほど中納言にのぼりしにや。さだかならず。)入道あまたの男子あり。嫡子少將勝俊は若狹の國にて六万二千石を領しける。慶長五年大御所上杉御追討として。關東へ下らせ給ひし跡にて。伏見の城をまもりしが。大坂の奉行等石田が計策にくみし。伏見の城へ打手をむけし時。勝俊は當家の御家人等のみを殘し。其身は都にのぼり政所のかたを守護しければ。關原の戰終りて後所領沒入せられたり。二男宮內少輔利房も若狹國高Mの城を領しけるが。石田が方人なりければ。これも所領は沒入せらる。されど政所のゆかりをもて。死罪の沙汰にはおよばず。三男右衛門大夫延俊。五男金吾中納言秋秀卿は關東の御味方なりしかば新恩を蒙る。四男信濃守俊定。六男出雲守某は世を早うしぬ。さて入道が遺領をば勝俊利房の二人にわかち給ひしを。政所あながちに。勝俊にのみことごとく領せしめ。
利房にはあたへられざりしかば。大御所聞し召御けしきに叶はず。其所領皆收公せられしとぞ。これは慶長十四年のことなりき。(舜舊記。ェ政重修譜。家譜。藩翰譜。)
○廿七日淺間の社にて猿樂あり。兩御所共にならせられ御覽じたまふ。翁。三番叟。加茂。通盛。熊野。鍾馗。千壽。重衝。天鼓。善知鳥。葵上。是界。自然居士。養老。觀世。寳生。金春。金剛等ことごとくつかふまつる。崇傳。三要。梵舜等も陪してみせしめらる。(舜舊記。)
○廿八日この比京より。勅使參向ありて。禁廷より御太刀金二枚。綸子十五卷。親王(後水尾院御事。)より御太刀馬代金一枚まいらせらる。傳奏廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿小袖二づゝ奉られ。中院中納言入道通勝卿は職原抄二卷奉らる。井家攝津守某碁笥。速水右兵衛尉某大氏B立入河內守某鷹掛十指。速水左近大夫某皮。湯淺右近某鞍。高祐法印大氏B相國寺鹿苑院杉原綾幷に文二册。知恩院杉原幷に板物一。西傳寺一束一本を奉る。又有馬玄蕃頭豐氏小袖十。蒔繪長持二。銀百枚。蜂須賀阿波守至鎭唐織夜着三。臺子五飾。銀百枚。生駒讃岐守一正虎皮三枚。猩々緋一。銀百枚。京極宰相高次小袖十。長持十。銀百枚。京極丹後守高知越前綿三百把。銀百枚。堀尾帶刀吉晴小袖廿。銀二百枚。松平伯耆守忠一唐織夜着二。錦蒲團一。(裏緞子。)蒔繪長持三。銀百枚。一柳監物直盛小袖十。銀百枚。脇坂淡路守安元小袖十。銀五十枚。加藤左衛門尉貞泰小袖十。銀三十枚。遠藤但馬守慶隆美濃綿五十把。銀三十枚。西尾豐後守光教越前綿百把。銀三十枚。小川壹岐守某越前綿百把。銀三十枚。杉原伯耆守長房綿五十把。銀二十枚。福島掃部頭高晴小袖十。銀三十枚。谷出羽守衛友小袖五。銀二十枚。木民部少輔一重緞子蒲團三。銀十枚。蒔田左衛門權佐廣定小袖三。銀十枚。宮木右京進ョ久も同じ。伊東丹後守長次道服三。銀十枚。速水甲斐守守之小袖五。銀十枚。堀田圖書助勝嘉小袖五。銀十枚。多賀左近常長單物五。小出大隅守三尹小袖五。神保長三カ相茂小袖三。福島兵部少輔某。高橋右近將監元種。佐藤孫六カ某。福富兵部大夫某小袖二づゝ。石川肥後守康勝足もみせ五。銀十枚。山名伊豫守義熙小袖二。鈴木越中守重愛紫革十枚。織田民部大輔信重夜着三。銀五枚。其臣大堀治部椶櫚箒十。長野次助朝倉山椒を献ず。また水野六左衛門勝成。松平玄蕃頭家C越前綿百把づゝ。松平主殿頭忠利美濃綿五十把。本多豐後守康重美濃綿二百把。本多縫殿助康俊江戶綿百把。丹羽勘助氏信。小里助右衛門光親江戶綿五十把づゝ献じ奉る。又鵙屋宗觀緞子一端さゝぐ。(當代記。)
○廿九日江戶にては傳通院殿七回の法會行はる。松平隱岐守定勝。松平越中守定綱。土井大炊頭利勝その事を奉行す。(慶長見聞書。)
◎この月藤堂和泉守高虎。伊豫國宇和島を轉じて。伊勢の國安濃津其外數郡に。伊賀一國をたまはり。すべて二十二万九百五十石になさる。伊賀は筒井が舊領なり。富田信濃守知信は安濃津より宇和島にうつる。五万石加へて十二万石になる。(知信が轉封を重修譜十二年とするは誤なり。)又松平周防守康重は常陸國笠間を轉じ丹波にうつり。五万石になる。これ前田主膳正茂勝が舊領なり。大御所丹波の國は山陰道の要衝たるをもて。八上の故城ならびに篠山の地圖を御熟覽ありて。藤堂和泉守高虎。松平半次カ重則。玉虫對馬守繁茂。石川八左衞門重次。內藤金左衞門忠C等に命ぜられ。池田宰相輝政。有馬玄蕃頭豐氏はじめ。丹後。丹波。播磨。美作。備前。備中。安藝及び南海道の人夫をめして。篠山に新城を築かしめられ。山上に井をほらしめらる。皆巖石を鑿ちしかば。二年をへて漸く成功したりとぞ。このことにより安藤次右衞門正次監使としてまかる。又西國の諸大名駿府にまいり。御移徙を賀するもの多し。(慶長見聞書。ェ政重修譜。家譜。紀年錄。烈祖成績。創業記。)
○九月朔日勅使廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿駿城にむかへられ。兩御所御對面あり。この日木下右衞門大夫延俊銀五十枚。猩々緋合羽五。虎皮五枚。毛利伊勢守高政銀三十枚。小袖五獻ず。(舜舊記。當代記。)
○二日神龍院梵舜に時服二襲かづけらる。梵舜は拾芥抄六冊。大小鼓二具。杉原扇子を獻じ。吉田二位兼見卿太刀馬代をさゝぐ。(舜舊記。)
○三日御所駿城を御首途あり。江城にかへらせたまはむとて。今夜はC光寺を御旅舘になさる。この寺にそのかみより備へたる等持院將軍(尊氏。)の像を御覽じたまふ。(慶長見聞書。)
○五日駿城にては。こたび參覲の諸大名を饗せられ。常陸介ョ宣朝臣猿樂まひて見せたまふ。樂は高砂。田村。揚貴妃。皇帝。船辨慶なり。天方主馬通直二百五十石加へ給ひ。七百五十石になる。(舜舊記。ェ永系圖。)
○六日神龍院梵舜歸洛のいとまたまはりて。時服一襲。銀五十枚かづけらる。この日松平筑前守利常は長光の太刀。小袖二十枚。銀千枚獻じ。其臣山山城守。奥村伊豫守は小袖五づつ奉る。松平武藏守利隆は一文字の太刀。小袖二十。銀五百枚。綿百把。池田備中守長吉小袖十。銀百枚。山內對馬守忠義小袖二十。銀二百枚。加藤左馬助嘉明綿三百把。銀二百枚。加藤式部少輔明成緞子夜着二。蒲團一。森右近大夫忠政小袖二十。銀百枚。山崎左馬允家盛小袖五。銀五十枚。桑山左衞門佐一直蒲團二。銀二十枚。松平陸奥守政宗小袖十。㝡上出羽守義光。毛利藤七カ秀就。蜂須賀阿波守至鎭。細川內記忠利。生駒讃岐守一正。コ永法印壽昌小袖五づゝ。前田中納言利長卿。加藤肥後守C正。
木下右衞門大夫延俊は小袖四づゝ。上杉中納言景勝卿。京極宰相高次。堀尾帶刀吉晴。堀尾三之助。寺澤志摩守廣高。桑山又四カC晴。里見安房守忠義。島津右馬頭久雄。松平伯耆守忠一。佐竹右京大夫義宣は小袖三づゝ。毛利中納言輝元入道宗瑞。生駒藤三カ某。高橋右近將監元種。コ永左馬助昌重。眞田伊豆守信之。佐野修理大夫信吉。京極丹後守高知。九鬼長門守守隆。有馬玄蕃頭豐氏。谷出羽守衞友。一柳監物直盛。織田上野介信包。堀美作守親良。小川壹岐守某。伊東修理大夫祐慶。稻葉彥六典通。西尾豐後守光教。分部左京亮光信。森右近大夫忠政。市橋下總守長勝。戶澤右京亮政盛。仙石越前守秀久。關長門守一政。池田備中守長吉。遠藤但馬守慶隆。南部信濃守利直。本多因幡守政武。相馬大膳亮利胤。那須修理大夫資晴。松平國千代。酒井河內守重忠。本多出雲守忠朝。松平隱岐守定勝。松平河內守定行。石川肥後守康勝。松平甲斐守忠良。石川玄蕃頭康長。直江山城守兼續。吉田兵左衞門某は小袖二づゝ。久野三カ右衞門宗能は關東綿百把。大島與兵衞某小袖三。餌合木廿づゝ。道標香爐一。畠山左近將監義眞鷹鞢三十。佐々木次カ右衛門某片口五。地藏院一束一本獻ず。此日東條民部卿法印行長死して。其子紀伊守長ョ家をつぐ。行長其始め安房の里見に屬し。其後豐臣家の旗下に有て大坂に住居せしに。駿府へまかり御懇詞を蒙る。後太閤の勘當を受。駿府にまかりしに。老衰せしかば剃髮せしめられ。千石賜はり御談伴に加へられ。六十五歲にてうせぬ。子長ョは書院番を勤む。(舜舊記。當代記。家譜。)
○八日伊賀國上野城勤番松平攝津守忠政に代りて。菅沼左近定芳石川日向守家成が人數を引つれ守る。(創業記。)
○九日前田中納言利長卿光忠の太刀。金百枚。紅羽二重二百端。長持十。毛利藤七カ秀就小袖二十。銀五百枚。松平伯耆守忠一小袖十。杉原越後守某菖蒲皮十枚。織田源五長益入道有樂夜着三。銀五十枚。鞍鐙。織田孫市カ長則小袖十。銀三十枚。㝡上出羽守義光銀百枚。其臣坂上紀伊守㝡上綿五十杷。江州石山世尊院白綾一束一本。祝丹波紫皮。天橋喜入革二枚。法然寺一束一本。行藏坊一束一本獻ず。(當代記。)
○十二日大御所尾州C洲の城に渡らせられ。法令を仰出さるべき御旨なりしが。俄に江戶に赴かせ給ふ。まづ江城にはいらせ給はず。所々鷹狩し給ふ。(慶長年錄。)
○十三日毛利藤七カ秀就御家號を給はり。松平長門守と改む。是よりさき從四位下の侍從たり。(家譜。)
○十五日江府小石川傳通院經營せらる。土井大炊頭利勝。福島織部爲忠奉行す。(慶長年錄。)
○十八日大御所武州の府中に御鷹狩あれば。御所もかしこに渡らせられ御對面あり。(慶長見聞錄。)
○廿日松平丹波守康長が總州古河の城災にかゝる。(當代記。)
○廿一日山門三院羽二重廿匹。神光坊一束一本。遠州可睡齋宋山杉原一束献ず。畔柳助九カ武重廩米百苞。月俸二口くはへられ。所屬同心等の俸米をもしるし奉らしめ。此後乘馬して御旗の者を指揮すべしと命ぜらる。(當代記。家譜。)
○廿二日和州多武峯大織冠像破裂により。祈念の事仰出されしかば。勅使として吉田左兵衛佐兼治。萩原兼從。神龍院梵舜京をいでゝ和州に赴く。(舜舊記。)
○廿三日大御所傳通院に詣給ふ。寺領三百石寄られ。檀林たらしめらる。搶緕宸フ所化廓山住職命ぜられ。所化三百人を附らる。(これまでは住持もさだまらず。搶緕宸ノて兼領せしなり。)此日富田信濃守知信小袖十。銀五十枚献じ。江尻江城坊那須紙一束さゝぐ。(慶長見聞書。當代記。)
○廿四日和州多武峯にて。大織冠像平愈の祈禱。吉田左兵衛兼治。萩原兼從。神龍院梵舜執行。古例のごとし。神像平愈歡喜の聲山中にみちしよし土人流言す。(舜舊記。)
○廿五日松平周防守康重。常州笠間より丹州篠山へ轉封せらるゝが故に。條約を授らる。諸士以上一人も殘らず召具すべし。新抱の小者中間は。新封の地まで召具し。其後はその心にまかすべし。農民この以前に亡命せば曲事たるべし。種借の事は金銀米錢をもて返辨すべし。租稅未進の事はこの後納るにをよばず。夫馬の事度々轉封の例たるべし。先納の賦稅は康重の券にまかすべし。年期賦稅のために役する所の男女。米錢をかへしなば本主に渡すべし。轉封にて領主農民みだりに竹木伐取べからず。領內轉封により空宅となりし地の。圍垣を破るべからずとなり。この日生駒讃岐守一正紫皮二十枚。織田民部大輔信重小袖二。本田若狹守重氏小袖二。餌合十。石川日向守家成毛氈十枚。水江别當一束一本。大山八大坊實雄杉原三束。先八大坊一束五本。C洲正覺寺一束一本。三河源空寺一束一本。隨念寺も同じく献ず。この日多武峰にて法樂の猿樂あり。又上田万五カ元政死して。その子万五カ元勝つぐ。(令條記。當代記。舜舊記。ェ政重修譜。)
○廿八日多武峰祈禱終り。神像平愈のよし京より注進す。(舜舊記。)
○廿九日島津陸奥守家久小袖五。秋月長門守種長小袖二。分部左京亮光信道服五。銀二十枚。金森出雲守可重小袖十。金三十枚。仙養寺。山中寳藏寺。安樂寺。妙眞寺。岩槻淨國寺。前報土寺某一束一本づゝ。不動院。山本坊扇子十本づゝ献ず。(當代記。)
◎是月駿府御移徙を賀してまかりたる諸大名。皆いとまたまはり江戶へ參りて賀し奉る。又御手洗五カ兵衛直重養子左平次昌廣初見し奉る。淺野彈正少弼長政。生駒讃岐守一正家族を江戶にうつす。又尾張國撿地終る。
菅沼左近定芳この月より伊賀上野の城を。松平攝津守忠政にかはりて守りしが。このごろ藤堂和泉守高虎就封するにより。これに城を授てかへる。また駿府にて無ョのもの夜々市中を徘徊し。路人を殺害すること絕ず。よて賞金をかけて其賊をつのりもとめらる。このほど京にては谷出羽守勝友の子某。蜂屋伯耆守某。孫某と喧嘩して。谷は蜂屋を討果し逐電す。(慶長見聞書。ェ永系圖。慶長見聞錄。創業記。當代記。)
○十月二日松平伯耆守忠一綿百把。比叡山南光坊天海一束一本献ず。(當代記。)
○四日御書を吉田左兵衞佐兼治につかはされ。多武峰神像平愈奇特のよし褒せらる。(貞享書上。)
○七日江州菩提院綸子一卷。江戶天コ寺。同本泉寺。大胡。新知恩院。仙林寺。一束一本づゝ献じ。意白は扇子十本。大山寺八大坊那須紙一束づゝ献ず。(當代記。)
○十日コ永左馬助昌重小袖二。銀五十枚献ず。(當代記。)
○十一日稻葉彥六典通道服五。紙子道服五。南部信濃守利直砂金馬代三枚。山石見守某弓掛鞢五十。山左近某大試O筋。寺澤志摩守廣高小袖二銀。五十枚。長床坊一束一本。光明寺金襴三卷献ず。(當代記。)
○十三日服部中保正二子三九カ保俊。三子三八カ保久召出され仕奉る。(ェ政重修譜。)
○十七日林丹波正利死して。其子藤右衞門勝正家をつぐ。この正利は金吾中納言秀秋の家人なりしが。慶長八年はじめて召れて大御所に謁し。采邑二千石たまはり。けふ四十五歲にて死したり。(ェ永系圖。家譜。)
○十九日土岐越前守ョ元死して其子市正持益つぐ。(家譜。)
○廿日內藤修理亮C成卒しければ。その子若狹守C次して家つぎ。䕃料五千石を合。すべく二萬六千石領し。與力足輕をあづかる。此C成實は竹田宗仲といふものゝ子なりしを。仁兵衛忠政養て子とす。C成はじめ彌三カと稱す。忠政が讓りをうけてつかへ奉り。天正八年より山常陸介忠成とおなじく。今の御所の傅相となり。關東にうつらせ給ひしとき。相摸國當麻の地五千石たまひ。文祿三年叙爵して修理亮と稱し。其後本多佐渡守正信と同じく。C成忠成三人關東の奉行職を承り。慶長六年二萬千石になされ。十一年正月C成忠成罪蒙りて職ゆるさる。(十一年の條を合せ見るべし。)其後ゆるされて御臺所方の事をうけたまはりしが。けふ五十四歲にてうせぬるとぞ。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿二日京にて大佛殿手斧はじめあり。大坂より右府秀ョ公のさたとして再興あるによて。片桐市正且元雨森出雲守某奉行す。(慶長日記。)
◎この月京醫坂民部卿法印宗僊駿府に來り拜謁す。大御所本多佐渡守正信に仰せて。江戶に參り近侍せしめらる。坂は世々室町將軍家に近侍せる故なるべし。此後大御所の仰により。家傳の蘇合圓を調合す。また本多上野介正純に命ぜられ。暹羅に書簡幷に甲胄を送らしめ。其國の鳥銃鹽硝をもとめしめらる。新見七右衛門義C死して。其子七右衞門正信家をつぐ。義Cは遠州M松の城にましましけるときより召出され。長久手合戰のとき首級を得たり。小田原關原の御陣にも軍功をはげまし。この月四十三歲にて死せしなり。(ェ永系圖。紀年錄。)
○十一月三日酒井伯耆守康治死して。其子與左衛門重治つぐ。康治は小田原北條の家人なりしが。文祿元年密書を献じ御感を蒙り。御家人に列せしなり。(ェ政重修譜。)
○四日成菩提院に法令をくださる。天下安泰の祈念。長日護摩油斷有べからず。教觀二道を專らとなし。佛法執行すべし。院領はその住職の外競望有べからず。院領の賣買。質券等禁斷すべし。顯密の名室たるが故。學匠をもて相續せしむべし。舊制の旨にまかせ。惡行の徒は速に追放つべし。門前に住居する土人等不良の擧動せは。住僧嚴に沙汰すべしとなり。(令條記。)
○五日奥平美作守信昌官にこひ。私財を捐て京建仁寺中に一宇を建立し。久昌院となづく。(當代記。)
○七日西城にならせられ大御所を饗したまふ。(慶長日記。)
○十二日搶緕尅カ應に代々紫衣をゆるされて。永く勅願所とせらるゝよし綸旨をくださる。この日越中國野々市領主土方河內守雄久卒しければ。遺領一萬五千石を二子鍋之助雄重につがしむ。長子丹後守雄氏は。さきに伊勢近江等の國に於て。别に一萬二千石を給ひしかば。雄重もて遺領をつがしめられしなり。この雄久は源滿仲朝臣の子大和守ョ親七代の孫土方太カ秀治が後胤なり。父彥三カ信治織田右府に屬し美濃國にむかひ土岐が勢と戰ひ討死す。雄久二歲にて父におくれ。ひとゝなりて北畠內府信雄につかへ。十八歲伊賀の戰に高名し。天正十一年從五位下に叙せらる。同十二年の春信雄の命をうけ岡田長門守を誅す。長久手の戰終て信雄と秀吉と中なをりし時。雄久使を奉り事よくとゝのひしかば。尾州犬山の城を授られ四万五千石を領す。慶長四年大坂にて雄久と大野修理治長と刺客に定められ。殿中にて大御所をうしなひ參らせんと謀るよし聞えければ。いかなる罪にかをこなはるべかりしに。ェ仁の御沙汰ありて。雄久は佐竹に。治長は結城にあづけらる。五年東西の軍起に及んで。雄久をゆるされ加質の國に使せらる。雄久と黃門利長とふかきゆかりあることを。しろしめされしが故あり。關東の戰終りて後。雄久は利長とゝもに大津の御陣に參り拜し奉る。このときさるもの。雄久は去年大坂にて。君をうしなひ奉らんとせし罪かろからずと申けるを聞召。雄久私に我を仇とせしにあらず。大坂の奉行等が申ことを誠と思ひ。
秀ョのために忠を致さむと思ひしは。全く思慮のいたらざるがいたす所なり。古人舊怨を思はずとこそ聞ゆれ。雄久今度使せし勞を賞せずしてはあるべからずとて。越中國にて所領一万石を賜ひ。七年正月二日河內守に改め。九年五千石加へ一万五千石になされ。けふ五十六歲にて卒せしなり。(令條記。ェ永系圖。ェ政重修譜。藩翰譜。)
○十五日江城に於て淨土宗搶緕尅カ應の弟子郭然と。法華宗僧日經と宗論せしめらる。高野山遍照光院ョ溪判者たり。搶緕尅カ應。光明寺洞雲。幡隨院智譽。鴻巢勝願寺圓譽等召によりて出座す。大蓮寺了的。大長守原榮。執筆は光嚴寺の專想なり。聽衆は眞言宗大山寺八大坊實雄。大磯地福寺宥譽。天台は川越仙波喜多院運海。同中院實尊。淺草寺安養院良慶。禪宗は富田大中寺良雄。桀岑寺宗圓。松寺麟昌。吉祥寺泉龍。武家には上總介忠輝朝臣をはじめ。松平飛驒守秀行。松平陸奥守政宗。淺野紀伊守幸長。南部信濃守利直。新庄駿河守直ョ。同越前守直定。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠鄰。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。大久保石見守長安列座し。本多上野介正純は奉行たり。大長寺原策是にそふ。米津勘兵衛田政。土屋權右衛門重成等警衞す。日經は其弟子達源。玄廳。玉雄。琳碩。可圓をしたがへ出る。しかるに宗論に及んで日經病を稱し詞を出さゞれば。日經はじめ六僧ともに法衣を奪ひさらる。此後日經等は所々にてこの宗論に大に勝たりと僞り。俗人をあざむきてやまざりしかば。翌年正月七日搦とられ。京都にのぼせ洛中を引わたし。刑に處せられしとぞ。この日山角又兵衛正勝子市右衛門勝重拜謁す。(創業記。當代記。ェ永系圖。)
○十六日松平飛驒守秀行が龍口の亭に渡御あり。大島治右衛門光成死して其子彌三カ光親家をつぐ。光成は織田豐臣當家に歷事し。慶長五年關原陣のときより御家人に加はり。このとし五十歲にてうせぬるなり。(家譜にはこの月六日とす。慶長見聞書。ェ永系圖。
○廿四日小尾監物祐光死す。(重修譜には慶長十二年として月日をしるさず。今は家譜にしたがひこゝにいだす。)其子仁左衛門光重は兼て小納戶を勤しが。御勘發によりて家をつがず。(光重ェ永十二年二月廿六日再び召出さる。家譜。)
◎是月吉辰をえらび。若君御袴着の儀行はれ。其御袴を山伯耆守忠俊が長子伊勢千代に給ふ。伊勢千代時に五歲なり。父と共にまうのぼり謝し奉る。畠山左近將監義眞京よりまかりて御家人に加はる。義眞は能登の畠山修理大夫義則が弟彌五カ義春入道の長子なり。入道五歲のとき質子として。能登國より越後の上杉謙信の方へまかりしを。謙信が一族上條の家つがせ一門に列し。今の中納言景勝卿の婦にあはせぬ。この後に義眞生れしかば。景勝卿より豐臣家へ質子としてまいらせ置たりとぞ。また水野孫助信秀はじめて大御所に謁し奉る。堀小太カ正吉大御所の仰により江戶にまいり。入道して宗傳と改む。齋藤惣右衛門重吉初見したてまつる。(家譜。武コ編年集成。ェ永系圖。)
○十二月二日大御所江城を御發駕ありて。駿府におもむかせたまふ。この日小寒の節にいる。(家忠日記。當代記。)
○六日松平主稅成重叙爵して右近將監と稱す。又山田志賀左衛門正勝死す。其子左吉信勝は松平國丸につかへ。二子惣左衛門直次は蜂須賀が家につかへたり。(信勝が孫甚五左衛門信安がとき召出さる。)正勝は三州の產にて。松平監物家次與一忠正。松平左馬允忠ョ等につかふ。天正十二年長久手の戰に首級四を得たり。一級を一貫づゝにあて永樂錢をたまひ賞せられとしぞ。(家譜。ェ永系圖。)
○八日永樂通寳を停禁せらる。其令にいふ。永樂一貫文鐚錢四貫文に充べし。但し今より後永樂は一切停禁し。通用すべからず。金銀鐚錢もて通交すべし。金一兩に鐚錢四貫文をもて換べし。また鐚錢みだりにつかふべからず。但鉛錢。大われ。形なし。新錢。へいら錢。以上五品の外は滯らず通用すべし。この令違犯するに於ては曲事たるべしとなり。(令條記。これは小田原北條關東八州を押領するとき。天文十九年より高札をたて。關東にては永樂錢のみ通用すべしと令したるより。いつとなく關東は永樂錢のみ。上方は鐚錢のみ通用せしに。當家一統をさせ給ふに及んで。關東にても永樂鐚を取交て通用する事により。永樂一文をもて鐚錢四文五文にかへ用ゆるに至る。農商等その善惡をあらそひやまず。騷擾を引起す事度々に及びしかば。かく停禁せらしとぞ。又この令を十一年の十二月八日なりとす。北條五代記。大三川志。)大御所は江府を出ませしより。御道すがら鷹狩したまひて。鶴六十隻。白鳥一隻。鴈鴫は數かぎらず得たまひ。この日駿城にいらせ給ふ。(御年譜。)
○十日長坂血鎗九カ信宅死す。その子權七カ信吉先達てうせければ。三子權七カ一正かねて跡つぎたり。この信宅は三河以來の御家人にて。掛川。姊川。長篠。長久手等數度の軍功あり。天正十年甲州陣の時は穴山梅雪信君に游說し。信君をして武田勝ョに背き味かたに歸降せしむ。十九年奥州陣のときより。鐵炮頭たり。卒する年六十七。(家譜。)
○十一日木原七カ兵衛吉次死して子兵三カ重義家をつぐ。(家譜。)
○十四日伊東修理大夫祐慶弓懸十指。松倉豐後守重政小袖六献じ奉る。(當代記。)
○十五日先に淨宗蓮宗の僧等宗論せしにより。この日碑文谷。平賀。藻原。眞間。中山。池上の僧等より辭狀をさゝげしめらる。
大久保石見守長安此事を奉行す。(鹽尻。)
○十六日松平陸奥守政宗。島津陸奥守家久小袖十づゝ。松平長門守秀就は小袖六。前田中納言利長卿。田中筑後守吉政。金森五カ八長光。田中隼人忠政小袖五づゝ。加藤肥後守C正。福島左衛門大夫正則。細川內記忠利小袖四づゝ。京極宰相高次。堀尾帶刀吉晴。堀尾三之助。石川玄蕃頭康長。松平伯耆守忠一。京極丹後守高知。寺澤志摩守廣高。水谷伊勢守勝隆。佐竹右京大夫義宣。島津右京亮某。蜂須賀阿波守至鎭。里見安房守忠義。中川修理大夫秀成。小袖三づつ。毛利中納言輝元入道宗瑞。其臣吉川藏人廣家。上杉中納言景勝卿。其臣直江山城守兼續。松平武藏守利隆。松平甲斐守忠良。松平國丸。松平玄蕃頭家C。松平河內守定行。松平左馬允忠ョ。松平丹後守重忠。松平右近將監成重。コ永法印壽昌。コ永左馬助昌重。土屋民部少輔利直。仙石越前守秀久。水野日向守勝成。內藤紀伊守信正。朽木兵部少輔宣綱。牧野駿河守忠成。內藤左馬助政長。本多縫殿助康俊。戶田左門氏銕。池田備中守長吉。岡部內膳正長盛。宗對馬守義知。谷出羽守衛友。九鬼長門守守隆。遠藤但馬守慶隆。戶澤九カ五カ政盛。高橋右近將監元種。佐久間久右衛門安政。本多因幡守政武。木下右衛門大夫延俊。小川壹岐守某。關長門守一政。金森出雲守可重。平岡牛右衛門ョ資。森右近大夫忠政。小堀作助政一。生駒藤三カ某。桑山伊賀守元晴。桑山又四カC晴。松倉豐後守重政。津輕越中守信枚。眞田伊豆守信之。西尾豐後守光教。毛利伊勢守高政。福原越後守某。永島右衛門允某。立花左近將監宗茂。日根野織部正吉明。那須權大夫某。石川肥後守康勝。有馬左近某。一柳監物直盛。織田孫一カ長則。稻葉大夫紀通。北條大之助某。市橋下總守長勝。相馬長門守義胤。稻葉右近大夫方通。稻葉彥六典通。分部左京亮光信。藤懸美作守永勝。小笠原左衛門佐信之。相馬大膳亮利胤。伊東修理大夫祐慶。戶川肥後守達安。相良左兵衛佐長每。龜井武藏守玆矩。稻葉平左衛門某。六ク兵庫頭政乘。南部信濃守利直。蒔田右衛門權佐廣定。成田左衛門尉長忠。久野三カ右衛門宗能。猪子內匠助一時。片桐市正且元。速見甲斐守守之。伊東丹後守長次。木民部少輔一重。宮木右京進ョ久。羽柴刑部卿法印雄利。堀美作守親良。小袖二づゝ。朽木河內守元綱越前綿廿把。木刑部卿法印重直小袖二。荼碗茶一づゝ。島田新十カ某紫皮三枚。毛利掃部某綿廿把。小刀。武藤C兵衛某𩚵ふこ。山岡主計頭景以挾箱三銀十枚。赤井豐後守忠泰大氏B松平三カ兵衛某紫皮。小堀藤三カ某肱突。小倉忠右衛門正次てうき。森左兵衛某緞子。有馬修理大夫晴信繻珍五卷。弓掛鞢十指献じ三カ右衛門唐木綿五端奉る。また南蠻伴天連天鵞絨一卷。綿一卷。鏡一面。唐紙四十五枚。蠻蠟五十挺さゝぐ。(當代記。)
○廿四日吉良上野介義彌侍從にのぼる。松平彌三カ忠實は叙爵して土佐守と改む。(慶長年錄。)
○廿五日山圖書助成重加秩ありて一万石になり。連署を仰付らる。(家譜。)
○廿六日新庄駿河守直ョ入道して宮內卿法印になる。(家譜。)
○廿九日右筆神尾勝左衛門房成死して。その子勝左衛門保重家をつぐ。この房成はもと今川の家人にて。後に武田につかへ。遠州M松にわたらせ給ふころよりして御家人になり。今年七十六にて死せし之。(ェ永系圖。)
◎この月はんやあ國より使を奉りしかば。駿府にめして蕃人拜し奉る。(慶長見聞書。)
◎此冬北條出羽守氏重大御所の仰により。江戶に參りて拜謁す。又三州足助山家の代官三宅辰之助某。妻子共に斬に處せらる。贜罪あるが故とぞ。すべて今年雨多く雪少く和暖なり。(ェ永系圖。慶長見聞書。)
◎是年太田新六カ資宗。佐久間因幡守勝年。櫻井八右衛門正松兼松彌五カ右衛門正直。喜多見半三カ重恒。市岡多右衛門定次。山高三右衛門信俊。山岡十兵衛景次。秩父彥兵衛重能。大久保源三カ忠知。醫員久志本內藏允常亮初見す。源三カ忠知は十六歲にて直に近侍を命ぜらる。宮崎金右衛門時重。井出甚之助正成。竹田法印定宣某大御所を拜し奉る。水野日向守勝成子長吉勝俊仕へ奉り。井上C兵衛政重。秩父彥兵衛重能。桑山內匠貞利。市岡多左衛門定次は書院番になり。櫻井市右衛門信利。太田治カ右衛門助重。加藤金內正吉。多門平兵衛信正は大番に入番し。中根傳三カ正吉召出され奉仕す。山岡與左衛門景孝大御所の小姓組になる。御手洗左平次昌廣大番になる。駒木根長次カ政次。杉原四カ兵衛正永大御所がたへつかへ奉る。南禪寺長老崇傳ことしより駿府に參候す。醫員片山與安宗哲駿府に宅地をたまふ。曲直P養安院正琳。今大路道三親C。半井驢庵成信。施藥院宗伯等。交代して半年づゝ江府に在番す。外科望月崇庵宗慶廩米をくださる。細川紹高全隆父の采邑を下さる。又中川C藏久盛は內膳正と稱し。伊奈熊藏忠政は筑後守。植村新六カ家政は志摩守と稱し。小堀作助政一遠江守と稱し。共に從五位下に叙す。政一は駿城作事奉行を勤めたる故とぞ。井伊掃部助直孝書院番頭になり。采邑五千石たまはり。植村志摩守家政。島田治兵衛利正共に歩行頭になり。島田庄五カ利氏は使番になる。倉地彥左衛門時教は常陸介ョ宣朝臣に付らる。御側小姓鍋島和泉守忠茂は病免して。肥後國蓮池にかへり。兄信濃守勝茂がもとにて病をやしなはしめらる。又このとし伏見城代松平隱岐守定勝には。伏見の邊にて一萬石。
江州志賀高島二郡四萬石。すべて五萬石たまひ。又新封の地へうつる故。その費用として城米二萬石をくださる。小笠原和泉守吉次は下總の佐倉より。常陸の笠間にうつされ。二千石加へて三萬石たまふ。土井大炊頭利勝一萬石加へて二萬石になる。板倉內膳正重昌は遠州中泉にて米千苞たまはり。田付兵庫助景澄五百石下され寄合に列す。水野惣右衛門光康は二百十三石餘下され。大久保源三カ忠知新に三百五十石くださる。また稻生新七カ某死して。その子嘉兵衛重次家をつぎ。布施藤兵衛勝重死して。其子五兵衛正盛家をつぐ。勝重は大樹寺殿このかたの舊臣たり。今年八十八。河村善七カ重信死して。其子善右衛門重勝つぐ。長井C大夫盛實死して。その子C大夫正實のちに家をつぐ。伏見平左衛門長政死して。其子金右衛門長景つぎ。西川仁右衞門貞景死して。其子與左衛門貞重つぎ。魚住內匠義勝死して。其子九左衛門義政つぎ。有田九カ兵衛吉貞死して。其子九カ兵衛吉久つぎ。山村甚兵衛良勝致仕し。子七カ右衛門良安つぐ。又諸大名に課せて大內の石垣を築しめ。各姓名を其石に彫しめらる。池田備中守長吉も其事にあづかる。松平武藏守利隆就封のいとまたまひ。行光の御脇差をたまふ。又小笠原兵部大輔秀政の女を。御所の御養女となされ。細川內記忠利へ降嫁したまふ。大御所三河の邊御鷹狩のついで。本多縫殿助康俊が西尾の城にしばしば渡らせられ。その度々康俊御膳を献ず。このころ高野山學侶方遍照光院某と。蓮花三昧院ョ溪と訴訟の事有て。大御所駿府にめし御みづから聞召る。これはョ溪智惠才學のすぐれたるを。一山嫉妬して騷擾を引おこし。遍照光院某を上首にて。訴論に及びし事さだかなりしかば。某を罪せられ。ョ溪は直に遍照光院の住職せしめられ。駿府に伺候すべしと命ぜらる。池田宰相輝政御ゆるしを蒙り。姬路の城天守を搆へ內郭を弘む。秋月長門守種長駿城經營の助役したりとて。御書たまはりて褒せらる。伊奈備前守忠次下總船橋太神宮造營の奉行を勤む。儒官林道春信勝其弟永喜信澄ともに。駿府にて論語及韜畧等を進講せしめられ。御文庫の管鑰を掌らしめられ。信勝に在住の料三百俵たまふ。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。慶長見聞書。藩翰譜。紀年錄。貞享書上。坂上池院日記。羅山年譜。) 
卷九 / 慶長十四年正月に始り六月に終る御齡三十一 

 

慶長十四年己酉正月元日群臣歲首の拜賀例のごとし。駿城も又同じ。江城より御使もて賀せらる。大坂右府秀ョ公も賀使進らせらる。この日江戶にては品川町火あり。(創業記。家忠日記。御年譜。當代記。)
○二日立春。けふ令せらるゝは。奴婢一年期の定めを停禁せらる。もとより商人の外。仕官をやめ處士となりし者か。または農民臨時にものうりひさぎて。一錢たりともとるべからず。但先々よりさることなし來りたる者は。町奉行米津勘兵衛田政及び土屋權右衛門重成の券をこひうけて其事なすべし。市中に火災あるとき。仕官の族その地にまかるべからず。刄傷せられし者を隱し置べからす。門立すべからす。布帛もて頰をからげ。其外何にても深く面をつゝみ掩ひたる者あらば。見受しまゝに誅すべし。この令違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。)
○四日江城下本町火あり。石川玄蕃頭康長が第其災にかゝる。(當代記。)
○五日大御所第十一の御子鶴千代の方。正五位下左衛門督に叙任せらる。この時七歲なり。(武家補任。御九族記には十五年とし。藩翰譜には十六年とす。今御叙任ある時は。此時よりョ房朝臣と名乘給ひしなるべし。)
○七日大御所尾州C洲にならせ給はんとて。けふ駿城を御發輿あり。御道すがら三遠の間に御鷹狩あるべしとて。今夜田中にとまらせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○十日御所江城を出まし戶田。浦和。大宮邊を狩せさせたまふ。この日下野國足利の代官小林十カ兵衛重勝死して。子十カ左衛門時喬つぐ。(慶長年錄。家譜。)
○十一日大御所遠州中泉の御旅館にいたらせ給ふ。(創業記。家忠日記。國府八幡神職秋鹿某が宅を。天正のはじめM松にわたらせられし時より。御旅館と定められ。秋鹿は久保といふ所にうつる。此地の代官大石十右衛門某御旨にかなひ。折ふしその宅へも渡御なりて。御荼を献ぜしといへり。武コ編年集成。)此日角倉了以光好へ東京渡海の御朱印。平野孫左衛門。小西長左衛門。安當仁からせす等へ呂宋渡海の御朱印。加藤肥後守C正へ交趾渡海の御朱印。又C正及びをりしたんはてんとますへ暹羅渡海の御朱印。明人五官へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十三日大御所十日より中泉御旅館に渡らせらる。けふ御發輿にて道に鷹狩し給ひつゝ。M松につかせ給ふ。(御年譜。創業記。)
○十四日吉田につかせ給ふ。(創業記。)
○十五日吉良に着御。この日御道に十人ばかり群居して。訴狀をさゝぐる者ありしかば。御駕近く召れしに。彼者等太刀をさしながら。御駕の側に走り參らむとせしかば御けしきあしく。其不敬をとがめられ。彼追立よと仰らる。よて御駕近く陪從せし若者ども。成敗せよとの仰なりと承り違ひ。畏り候とて追かけ。一々打とらむとす。旣に一人を打とり。其餘は安西といふ寺に迯入りしかば。多勢を以て寺をとりかこむ。御供の中に日向半兵衛正成といへるはもと甲州士なり。只今寺へ迯入しものゝ中に。山寺といふ者兼て知音なれば。呼出しその子細をたづねけるに。彼是は皆甲州武川の士なり。先年故三位中將忠吉卿へつけられ。其老臣犬山城主小笠原和泉守吉次が所屬たり。然るに忠吉卿うせ給ひ。吉次も關東にて所領かへ給はらんとありしに。吉次は此者ども十二人が采邑をも。其身の所領なりと聞えあげ。其數をあはせてこたびの領地を下されしなり。しかしてこの十二人をもこたび吉次引つれて。轉封の地へうつさんとす。十二人の者はもと御家へめし出され。故羽林へ附られし者なれば。吉次が家僕にあらず。しかるを吉次十二人が采邑をも。其身の所領に合して。こたび封地の御朱印を申下し。其うへに家僕とおなじく引つれて新封の地へうつらんとするが。あまりになげかしければ。其故を直訴せんとて。御駕を待まいらせしなり。僻境の寒士不敬の罪を犯せしは。幾重にも謝し給はるべしと申。日向もかくと聞あはれみ。人々をも制しなだめ。十二人の者どもへは食物などあたへ。其夜御旅舘にて內々其よしを聞えあげしに。さては吉次が無道より起りし事にて。彼等が罪にはあらず。追て御糺明をとげらるべし。さるにても彼等江戶駿府に參り。老臣奉行等へ訴へ。猶ことゆかずば直訴すまじきにもあらず。老臣奉行にも訴へず麁忽に直訴をかまふること。士類の法にそむき。全く農民にひとしきふるまひなりとて。御けしき猶よからず。日向がけふの擧動は寄特なりと。稱詞を加へられしとぞ。この日また江戶市街火あり。(創業記。慶長年錄。當代記。)
○十九日右兵衛督義直朝臣就封のため駿府を發駕せらる。(創業記。當代記。)
○廿日大御所吉良より岡崎につかせ給ふ。この日松平甲斐守忠良が總州關宿城燒亡す。またこの頃中國西國の諸大名等。居城堅固に修築するものあるよし聞召。御けしきにかなはず。(御年譜。創業記。慶長年錄。慶長日記。慶長見聞錄。)
○廿三日江城にては酒井左衛門尉家次が子小五カ。御前にめし首服加へられ。御名の一字賜はり。爵ゆりて宮內大輔忠勝と稱す。右兵衛督義直朝臣は岡崎につかせられ大御所御對面あり。(ェ永系圖。家忠日記。當代記。慶長見聞書。)
○廿五日大御所右兵衛督義直朝臣とゝもに。C洲の城にいたらせたまひ。こゝに數日とゞまらせられ。城郭經營のこと御指揮あり。大坂の豐臣右府よりは。片桐市正且元を使として。義直朝臣へ太刀幷に銀百枚進らせ。
はじめてC洲へ就封し給ひしを賀せらる。此日故薩摩守忠吉卿の舊臣等を義直朝臣に附屬せられ。各其采邑をも改て分ち給ふ。(御年譜。蓬左城記。創業記。慶長見聞錄。當代記。これよりさき平岩主計頭親吉は。義直朝臣御幼稚のほど。C洲城にありて國務を沙汰すべしと命ぜられしにより。朝臣に先達て尾州に赴く。薩摩守忠吉卿の舊臣小笠原和泉守吉次。富永丹波守某。其子雅樂助某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守正廣等は。親吉今度義直朝臣の老臣にて。先達て入城すると聞。親吉の旅舘へ使出してこれを勞ひ。吉次幸に犬山城にあり。立寄て休息あるべし。饗をも設けなんと申送るに。親吉聞て吾は義直朝臣の准父なり。汝等と同格に交るべき身にあらずとて其返事もせず。直にC洲へ入域す。小笠原富永等の舊臣其不禮を憤り。是より親吉と舊臣等確執に及ぶ。かゝりしかば親吉は吉次等の國老ども。多年專恣の擧動を探りて。駿府に訴んとはかるとぞ聞えし。見聞案紙。)
○廿七日美濃伊勢の輩ことごとくC洲へまかり。右兵衛督義直朝臣入城を賀し。あるは銀二十枚。あるは十枚さゝぐ。奥平美作守信昌の妻は大御所の御長女(龜姬若。)なり。本多美濃守忠政の妻は岡崎三カ君の御女なれば。御孫にわたらせらる。この方々大御所C洲におはしますよし聞て。信昌の妻濃州加納よりまかり給ひ。忠政の妻は伊勢の桑名よりまいり給ひ。御對面し給ふ。大御所とりどり饗せられ各金五十枚づゝつかはさる。水野日向守勝成の家人神谷左馬助三正江戶に召れ。大番士に加へらる。(當代記。慶長年錄。見分案紙。ェ永系圖。家傳。)
○廿八日淺野紀伊守幸長C洲にまかり大御所に拜謁し義直朝臣入城を賀し申す。これは幸長が女をもて。朝臣の北方と定めらるべきよし。仰下さるゝがゆへとぞ。これより先C洲城には。大御所ならせるゝが故に。城中灑掃するとて。天守の第一櫓深く鎖して明がたかりしを。あながちにをし開てみれば。柿の衣着て鎗の穗を磨きゐたる者あり。人々あやしみこれをとらへたゞせば。尾三の境にすむ農民なり。ある日山伏の形せしものにいざなはれ。こゝに來りしよしをいふ。盜賊にあらねば罪すべきにもあらずとて幽閉し置けるが。十四五日をへて死けるとぞ。(創業記。慶長年錄。)
◎是月伊勢大神宮この九月遷宮の事を仰出され。米六万俵よせ給ふ。又大坂豐臣右府の沙汰として。京東山大佛再造あり。諸國浦々より良材を運漕し。西國中國四國北國の諸大名この事により。米あるは二万石一万石。あるは三千石五千石づゝ大坂へ送りその費用を助く。造營は片桐市正且元。森出雲守某奉行す。江戶よりも小島久右衞門某。中村彌左衛門某。正村次右衛門某。C水久右衛門某。植木久兵衛某監使にまかり。每日工匠數万人をあつめ。其經費日々に千金にあまるゆへ。太閤儲蓄せられし千枚分銅といふあり。石河三右衛門勝政。饗塲民部某奉行し。後藤コ乘に命じ。この分銅を改鑄す。分銅一を鑄分て金九百五六十枚づゝになせりとぞ。これみなかの搆造の費に充るがためなり。又京七條にて土民三面の子を產す。江戶府內にて金を借すものあり。其さまあやしきよし銀匠等訴るにより獄につながる。(創業記。當代記。摯竚c長日記。武コ編年集成。)
○二月二日京所司代板倉伊賀守勝重に條約を下さる。其文にいふ。所領の治蹟不良なる輩は再三曉諭し。其上にて猶も不良ならん輩あるは聞え上べし。領主轉封して無主の地は其邊の有司うけはりて。あたり近き代官に治めしむべし。ク中の農民山論水論をいひあらそひ。武器を用ひ鬪爭に及はゞ。闔クの民を誅戮すべし。井堰搆造の人夫は其便にしたがひ。闔クの男丁を驅使すべし。賦稅不足の地は先に撿斷せし者に。大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重。米津C右衛門正勝が家士をそへ。水帳もて坪入をなし。不足をばのぞきさり現額をもて定むべしとなり。(令條記。)
○四日大御所右兵衛督義直朝臣をともなはせられ。駿府にかへらせたまはむとて。この日C洲城をいでゝ岡崎にいたらせ給ふ。(創業記。慶長年錄。)
○五日岡崎を出たゝせ給ふ。故薩摩守忠吉卿老臣富永丹波守某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守正廣等御不審のことあれば駿府に參るべしと仰下さる。又美濃尾張兩國去年洪水にて毁壞せし堤防を。修築すべしと令せられ。其他の領主八百名に二人。農民は百名に一人を課せらる。駿府近習の輩は此役を除かる。(慶長年錄。創業記。當代記。)
○十一日大御所右兵衛督義直朝臣と共に駿府にかへらせ給ふ。常州笠間城主小笠原和泉守吉次を駿府に召のぼせらる。是も故薩摩守忠吉卿第一の老臣なる故なるべし。島津陸奥守家久は先年御許を蒙りしより。琉球征討の用意とゝのひしかば。今日家久も山川といふ湊まで出馬し指揮を加へ。樺山美濃守久高。平田太カ右衛門搶@を大將とし。兵船一百餘艘に三千餘の軍兵をのせて。薩州を發し琉球に押渡り。先大島に着してコ島に押寄る。島人千人ばかり防戰せしかど。遂に打勝て三百餘人が首をきり。その餘は皆降人に出しとぞ。(御年譜。創業記。慶長年錄。ェ永系圖。)
○十二日酒井雅樂頭忠世上野國善養寺の地五千石くはへたまひ。一萬五千石になる。(ェ政重修譜。)
○十九日本多上野介正純。大御所の御使として江戶に參る。
これは常陸介朝臣に駿遠三のうちにて。所領進らせらるべしとの御旨とぞ聞えし。又(創業記。當代記常州とあるは誤なり。いまは家譜にしたがひ駿遠三とす。)そのついでに上方大名の質子等。怠らず查撿を加へたまふべしとの御旨をも。傳へ聞えあげしとぞ。江戶にては大番士をはじめ。昵近の御家人等に命ぜられ。馬揃を御覽じ給ひ。馬物具さはやかに駿足多く蓄へし輩には褒物あり。大番近藤惣兵衛吉次には百俵加恩したまふ。(創業記。當代記。家譜。重修譜には加恩の事見えず。はじめより三百俵とす。)
○廿日九州諸大名駿府に參覲し御移徙を祝し歲首の賀聞え上る。これは去年さゝはる事有てまいらざりし輩なり。關東の輩もまた歲首を賀し奉るもの多し。松平陸奥守政宗去年御家號たまはりたるを謝して拜賀し奉り。金百枚。馬二疋。脇差二腰。唐織緞子の夜物十献じ。阿茶の局をはじめ五人の女房だちへも金五枚づゝをくり。諸老臣幷に松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。板倉內膳正重昌。榊原內記照久等へも。銀五十枚づゝをくる。その外贈遺若干なり。(慶長年錄。)
○廿六日本多上野介正純江戶より駿城にかへり參りて。御返答を聞え上る。此日駿河町奉行兼代官井出志摩守正次病なくして頓死す。その子小姓甚之助正成家つがしめらる。(創業記。ェ永系圖。家譜。)
○廿八日京師日蓮宗二十一寺より。先に罪せられし日經に黨せざるよしの。證狀をさゝげしめらる。(當代記。慶長年錄。)
○廿九日この夜奈良の奉行中坊飛驒守秀祐。伏見の家に有て賊の爲に害せらる。そのゆへは秀祐伊賀の筒井が家の老たりしほど。彼家に仕へし中山といふものありしが。筒井家亡びてのち。志摩の九鬼が家に身をよせて居たりしが。舊主滅亡は全く秀祐が讒なりとおもへば。其仇をむくはんとたくみしが。それとはなくて秀祐が家をとひ來りしに。秀祐かゝることとはしらず。故舊の事なればとて家にとゞめ。何げなくかたらひしに。今夜遂に秀祐が寢所に忍びいり秀祐を討て立のき。其上伏見の街頭に高札をたて。我身は筒井家の世臣たり。舊主の仇を報んがため中坊をば討果しぬ。やがて又其子をも斬て後に。我はうたへ出て切腹すべしとしるし置たりとぞ。(當代記。)
◎是月大久保金兵衛忠勝初見す。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○三月朔日K田筑前守長政駿府へ參覲し歲首を賀して銀百枚献じ。また所領筑前は遠國なれば。いまだ御移徙の賀儀聞えあげずとて。别に金三十枚。時服十。唐織夜物一。唐織小衾一。塗籠弓十挺。虎皮靱百献ず。江戶にては去年小笠原兵部大輔秀政第四の女をもて。御所やしなはせ給ひ。細川內記忠利に降嫁し給ふ。これ千代姬と申。岡崎三カ君御女の御腹なり。この日江府を出給ひ豐前國へ赴き給ふ。御供は土井大炊頭利勝。鵜殿兵庫頭氏長伊丹喜之助康勝奉り。大番五十騎供奉せしめらる。この日駿河氷雨ふる。又武州葛西邊雷はげしく鳴震ひ。氷雨ふりて。農家十七八戶破れ。震死するもの多し。總州關宿にては雷杉の木に震す。又信濃の淺間山燒事甚し。慶長元より二三年の間もかくの如し。天下大凶兆と下民妖言洶々たり。(創業記。慶長年錄。家譜。ェ政重修譜。貞享言上。坂上池院日記。)
○四日駿城にてK田筑前守長政。寺澤志摩守廣高をはじめ。九國より參覲の輩を饗せられ。常陸介ョ宣朝臣猿樂舞をなしみせ給ふ。また先日より故薩摩守忠吉卿の舊臣等を。駿府に召て御糺明のことあり。今日富永丹波守某幷に雅樂助某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守正廣。年頃不良の咎により所領沒入せられ。富永父子C洲を追却せしめらる。また忠吉卿うせ給ひし時。殉死しつる小笠原監物忠重が知己の僚友三人。先年C洲を去て播州に赴き。池田宰相の家に寓居せしがこれも誅せらる。(按ずるに平岩主計頭親吉新にC洲の政務をとるにあたりて。先代の舊臣等と睦からざること。先にしるせり。よて舊臣等が短をうたへしものなるべし。)故越前中納言秀康卿の寵臣土屋左馬助昌春は。卿卒せられし時殉死す。その子主殿介忠次家つぎ越前大野の域主として四万石を領せしが。忽に罪蒙て所領沒收せられ。其城は小栗五カ左衛門正高に賜はる。(按ずるに其罪たしからなぬにや。)また故中坊飛驒守秀祐が子左近秀政家つがしめられ。父の原職をつぎ奈良奉行となり。大和近江公料の地を勾當せしめらる。(慶長年錄。創業記。武コ年集成。家譜。ェ政重修譜には月日をしるさず。よりて家譜にしたがひ此日にかく。)
○五日下野日光山座禪院に寺領の御朱印を下さる。寺中宅地幷門前足尾村神主社人宅地等。先規のまゝ相違あるべからず。就中山中たる故土人等。みだりに黨を結ぶ事あらん時には嚴に制止すべし。すべて勤行社役等怠慢すべからずとなり。この日高力左近大夫忠房が武州岩槻の居城燒たり。(此事を十二年とする書多し。今ェ永系圖。藩翰譜。家譜に從ふ。)又渡邊主水久勝。山中八藏宗俊共に采邑千石下さる。(令條記。家譜。)
○六日去月廿日頃より雨多く風はげしかりしが。けふこと更寒さ冬のごとし。里は雨にて山は雪ふる。使番安藤次右衛門正次越後の國郡邑查撿命ぜられまかる。又加藤肥後守C正けふ伏見を出て。駿府江戶に參覲す。(慶長年錄。
ェ永系圖。當代記。)
○九日宮城右京進ョ久死して。其子十二カ豐嗣家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○十二日高野山火あり。寺坊七百餘宇燒失す。(ェ政重修譜。)
○廿三日千代姬君伏見に到らせ給ふ。豐前國よりは細川が家司松井佐渡康之こゝにむかへ奉る。土井大炊頭利勝は御輿を佐渡にわたし。こゝより辭して江戶におもむく。鵜殿兵庫頭氏長。伊丹喜之助康勝は猶豐前まで護送す。此頃前田中納言利長卿。莬裘の地と定めたる越中富山城災ありて。財寳ことごとく烏有となる。たゞし吉光の脇差落柴壺肩衝ばかり此災をまぬかるゝといへり。(家譜。慶長年錄。)
○廿五日雷鳴し。山近きあたりは霰ふる。野州那須宇都宮邊雹降り。鴈鴨等の諸鳥過半傷死す。(當代記。)
○廿六日藤堂和泉守高虎駿府に參覲し。去年伊賀一國に伊勢數郡そへて賜はりしを謝し奉り。銀二百枚。時服五獻ず。此日故の薩摩守忠吉卿第一の老臣たりし小笠原和泉守吉次。罪蒙て下野國笠間の城召上られ。所領三万石沒入せらる。是も富永丹波守某子雅樂助某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守正廣等が連座之。凡て其黨與せし輩はさらなり。其親戚等までもC洲城下を追却せらるゝ者數をしらず。居宅以下皆收公せらる。(說上にみえたり。慶長見聞案紙。)
○廿七日蒔田左兵衛權佐ョ久卒しければ。其子源六カ義祗家つぎ。新恩の地七百石はかへし奉り。原祿千百二十五石たまふ。ョ久の先は足利左馬頭義氏二子左馬四カ義繼の後なり。義繼三州吉良に住し。のち陸奥國にのがれ。夫より六代治部大輔治家が時鎌倉に來る。治家が六代の孫左兵衛督ョ康に至り。相州蒔田に住し蒔田の吉良と稱し。小田原北條に屬す。ョ康が子は左兵衛佐氏朝といふ。ョ久は氏朝の子にて。武州世田か谷にうつる。天正十八年神祖に初見し。十九年采邑千百二十石餘たまひ。慶長五年關原に供奉し。翌年七百石加へたまはり。伏見城全阿彌郭を勤番し。けふ四十二歲にてうせぬるなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿九日藤堂和泉守高虎を駿城にて饗せられ。常陸介ョ宣朝臣の申樂をみせしめたまふ。又故豐太閤の時大坂に勤番せし四座の申樂ども。今よりのちは駿府にまかり。勤仕すべしと仰下さる。このころ大御所いさゝか御なやみあり。御眼もかすませ給ふよし聞ゆ。(當代記。慶長年錄。慶長見聞錄。慶長見聞案紙。)
◎この月村田與右衛門高勝代官となる。又藤堂和泉守高虎はじめ諸家より。質子を奉らん事を聞え上。家司の子弟を江府にまいらす。(家譜。ェ政重修譜。)
○四月朔日島津陸奥守等家久が琉球を征する軍艦。けふ那覇の津に着し中山の兵と戰を接ゆるよし聞ゆ。(ェ永系圖。)
○三日池田宰相輝政妻子をともなひ駿城に參り拜謁し。其子藤松松千代をば江府にまいらしむ。この日島津が軍兵琉球の都城を攻破り。中山王尙寧を生擒せしとぞ。又小栗甚丞吉次死して。其子八十カ吉忠家をつぐ。(創業記。當代記。慶長見聞錄。ェ永系圖。)
○四日松平武藏守利隆の妻。備前岡山にて男子(新太カ光政なり。)誕生あり。此妻は榊原式部大輔康政が女にて。御所養ひとらせ給ひ。利隆にあはせられしなり。よて江戶より牧野豐前守信成を御使として。帷子單物袷銀子ををくられ。其兒に江の御刀信國の御脇差を給ひ。又かの妻にも備中のうちにて。粧田千石をつかはさる。この日未申の交白雲東西にたなびく。其長さはかりなし。此雲東方より消はじむ。天正十一年志津嶽戰の前もかくのごとしといふ。又駿城の前殿庭上に。四肢に指なき者弊衣をまとひ髮をみだし。蛙を食したゞずみゐたり。近習の輩大にあやしみ搦取て誅せんとす。しかるを聞召て。罪すべきにあらずとて追放たる。又三州五油の驛災あり。驛舍ことごとく燒失す。(ェ永系圖。當代記。御年譜。)
○八日夕陽ことに朱くして。朱鞠のごとき雲一むら日の邊をめぐる。風更に烈し。旱兆といふ。(當代記。)
○十一日大御所いさゝか御不豫なりしが。けふはやゝ御快ならせ給ふ。今夜大雨。此日島津が勢琉球をせめ平げ國人皆降參し。其主尙寧を擒にし歸帆せんとするよし聞ゆ。(當代記。慶長年錄。)
○十四日龜井豐前守玆矩に仰せて。松平周防守康重が女を娶らしめらる。此日和州吉野山の隱士堀江治部大輔教賢卒す。こは伊勢國司の一族にて。祖父中納言親泰伊勢國星合の域に住せしかば星合を稱す。父宰相具種は星合大河內の兩城を保ちしが。教賢が子采女正具泰をやしなひ世繼とせしかば。教賢後見して有しが。國司亡びてのち織田信雄聘を厚くして。召事しきりなりしかど。終に固辭して仕へず。吉野山中に閑居して年月を送り。壽八十二にて終をとれり。具泰子孫後に召出され。今御家人に列す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十六日甲斐國代官平岡右衛門道成致仕入道して樵雲と號。其子岡右衛門千道家つぐ。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿四日千代姬御方豐前の中津につかせたまひて。細川內記忠利と合卺の禮行はる。よてこの御かたには。豐後國にて千石粧田をつかはさる。(ェ政重修譜。)
○廿八日池田宰相輝政の長子藤松江府に參り。初見の禮とりて。再び駿府にのぼりければ。けふ駿城にて申樂あり。常陸介ョ宣朝臣を初め。藤松幷に其弟勝五カ松千代みなこれをつかふまつらる。(當代記。慶長年錄。)
○廿九日猿樂あり。金春。觀世。寳生。金剛等つかふまつる。(慶長見聞案紙。)
◎是月宰相輝政の妻は。その生母西ク局日蓮宗を尊奉ありければ。三子松千代日蓮宗たらしむ事をこはる。よて御ゆるし有て其上御家號たまはり。松平左近輝澄と改めしめられ。吉光の御小脇差を下さる。(家譜。)
○五月朔日三井寺領寺務の御朱印を。照高院道澄准后につかはさる。其文にいふ。三井寺領近世寺務たる所。全く相違あるべからず。守護不入たるの上は。みだりに山林竹木を伐とるべからず。殺生を禁斷し坊舍門前寄宿等免除せしむ。あるは修學怠慢の僧。あるは行狀不律の輩は退寺せしむべし。武士カ黨以下の居住を停禁すべし。猶長日懇祈の精誠を抽べしとなり。又修驗道の御朱印を。聖護院門跡興意法親王につかはさる。修驗道のこと古來の法度にまかすべし。愛宕山の事各國山伏に同じければ。結袈裟金地等免許し。諸役以下を課すべし。もし違犯のやからは。嚴制を加ふべしとなり。又駿城にては猿樂あり。(令條記。慶長日記。)
○二日先月より關東西旱す。今日雨を得て衆民大に喜ぶ。この日亦駿城猿樂あり。金春。金剛。寳生。大藏。梅若。日吉等つかふまつる。(當代記。)
○三日松平飛驒守秀行の妻(神祖第三の姬君。振姬君といふ。)駿府にまいらる。此日若狹國小Mの城主京極宰相高次卒しければ。其子若狹守忠高して。原封九万二千百石餘つがしめらる。この高次は宇多天皇の御末近江國住人佐々木源三秀義より四代。京極近江守氏信に十八世の孫長門守高吉が嫡男なり。累代江北の地を領す。高次が姉はじめ若狹の武田孫八カ元明が妻となりしが。元明死してのち豐臣關白秀吉公の寵を蒙り。松丸殿と申す。高次の母また淺井下野守祐政の娘なりければ。一かたならぬゆかりつき。高次いまだ小法師丸といひし時より。關白の覺あさからず。天正十二年近江國田中のクにて。二千五百石與へらる。十三年七月十一日從五位上侍從に叙任し。近江守又若狹守に改む。十四年一倍の加恩あり。十五年七月十四日同國大溝にて加恩あり。一萬石にせられ。十六年四月十四日從四位下にのぼらせられ。十八年小田原陣の後二萬八千石になる。十九年四月十一日大閤朝鮮を征せられんが爲。西の京にて犬追物興行のとき。高次その事司り近江の諸士討手をつとめしむ。文祿二年五月廿三日肥前名護屋にて明使來朝のとき。配膳の役をつとめ。四年大津の城主にせられ。若狹の內をそへて六萬石になさる。この年左少將にすゝむ。また淀殿の妹を妻とせらる。(これ江戶御臺所の御姉にて。常尊院と申せしなり。)慶長元年從三位宰相に叙任す。これより先神祖御上洛のとき。大津城の大破を御覽あり。修理料として銀三十貫目たまふ。四年の春大坂の奉行等よからぬはからひせしころ。伏見の御館はあまりにあさまなりしかば。をのが大津の城に迎へ奉らんと申。大御所御感あさからず。五年の秋石田が叛逆せし時。一旦大坂の催促にしたがひ。北國に發向すといへども。江州東野より馳かへる。大坂近きあたりにては。高次ひとり關東の方人して。大津の城にたて籠る。關東より攻のぼらせたまふほど。今一二日を待得ず城を開て立退ぬ。されば大御所も高次いましばし城をたもちたらんには。近江一國をばたまふべきものなりと。ふかく惜ませ給ひしとぞ。やがて若狹國小M城主にせられ八萬五千石領し。六年江州高島にて七千石加へたまひ。九萬二千百石餘となり。四十七歲にてけふうせぬるなり。(創業記。慶長年錄。ェ政重修譜。ェ永系圖。藩翰譜。)
○五日池田宰相輝政の妻子駿府をいとま給ひ。播磨の姬路にかへらるゝにより。かの妻に金二百枚。銀千枚。綿千把つかはされ。其子藤松へ正宗の御脇差を賜ひ。勝五カ松千代へも御脇差を下さる。此日高力土佐守正長三子虎助長次。叙爵して河內守と稱し。相馬信濃守盛胤とおなじく。上壇給事を仰付らる。(創業記。慶長年錄。)
○八日尾張右兵衛督義直朝臣の亭にて。常陸介ョ宣朝臣を饗せらる。本多上野介正純。松平右衛門佐正綱。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。安藤帶刀直次等これにあづかる。この日番士落合長作某は鬼界島。饗塲勝七某は隱岐の島。岡部藤十カ某は伊豆大島にながさる。一昨年の三月御旅館にて。茶具失ける事に座せしによりてなり。この夜大雨曉にいたる。(慶長年錄。)
○十一日伯耆國米子城主松平伯耆守忠一頓死す。子なくして家絕たり。よて其所領十七萬五千石收公せらる。弓氣多源七カ昌吉。久貝忠三カ正俊。朝比奈源六泰勝撿使に命ぜられ。古田大膳大夫重治。一柳監物直盛をもて。其城を請取勤番せしめらる。此忠一は中村式部少輔一氏が子なり。慶長五年大御所上杉御追討のため。京より下らせ給ひしとき。一氏駿州沼津の城にて。すでに病牀にふしたり。大御所村越茂助直吉を御使にて。彼病をとはせ給ひしとき。其子一學にも長光の御刀賜ひ。六月廿五日彼城にいたらせ給ひしかば。家人田內膳が宅にてさまざまの御まうけし。其身輿にかき乘られてかしこにまいり。一氏重病に侵され。此度の御供にさぶらはぬこそ遺恨に侍れ。愚息いまだ幼なし。弟彥左衛門一榮に軍勢付て參らすべきに候と申詞さへ。誠にくるしげなるありさまにて。さだかには聞えず。こののちいくほどなく卒しければ。一學わづかに十一歲。伯耆一國たまはりしは。全く亡父が志に報ひ給ふ所とぞ聞えける。
やがて今の御所の御前にて首服加へられ。御家號幷に御名の字賜ひ。叙爵させて松平伯耆守忠一と稱す。また大御所松平因幡守康元の女をやしなはせたまひ。忠一が妻となさる。かく厚き御かへりみを蒙りしかど。ことし二十一歲にて卒せしとぞ。(藩翰譜には忠一舊功の老臣田內膳が。常に直諫するをにくみ。饗宴に事よせ城にめして討果す。內膳が子主馬助大に憤り。父が飯山の城に楯籠る。忠一軍勢をさしむけ其城をせむ。近國の騷動大かたならず。主馬助終に防ぎ兼。城に火をかけ腹切て死す。大御所このよし聞召御氣色以の外損じ。姬君に付進せられし道家長右衛門幷に安井C次カ天野宗葉などを召て罪せらる。この後忠一江戶に參覲せしかど。府內にいることをゆるされず。品川の驛に籠居しけるが。日をへて召れ見參し。ぼとなくうせぬるとあり。此說のごとくならむにはこの家絕たるは子なきのみにはあらざるべし。)京極若狹守忠高江戶にありしが。父宰相高次うせければ。いとまたまはり急に就封す。(ェ永系圖。家忠日記。紀年錄。藩翰譜。慶長年錄。)
○十七日御所この日藤堂和泉守高虎が邸にならせ給ふ。高虎駿府より金春を召よせて猿樂を催す。(創業記。)
○十八日藤堂和泉守高虎がもとに。在江戶の諸侯をまねき。饗して猿樂あり。此日渡御ありしを。よろこびのあまりに催す所とぞ聞えし。淺野紀伊守幸長が家人松原內記といふもの。賊(右內といふ小童也とぞ。)のために殺されしを。幸長憤り駿府にうたふ。よてその賊の伯父なりし僧を搦取て獄につながる。又打越左近光隆死して。子左近光久つぐ。(當代記。ェ永系圖。)
○十九日この日より霖雨。(慶長年錄。)
○廿三日生駒讃岐守一正に一國の課役半をゆるさる。去年より其妻子江戶にうつり住がゆへとぞ。(家譜。)
○廿九日琉球征伐にむかひし島津が軍勢。けふ薩州に凱旋せしとぞ聞えし。(慶長年錄。)
○廿七日板倉內膳正重昌。是まで給はりし粟米を改めて采邑たまふ。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿九日大雪。美濃國加納三ケ所に震す。(當代記。)
◎是月和州筒井家の舊臣井戶若狹守覺弘を。江戶にめして拜謁せしめらる。山圖書助重成是を沙汰す。(ェ永系圖。武コ編年集成。)
○六月朔日駿府後閤女房の局より失火す。からうじてうちけしぬ。是に坐せられて。女房二人遠流せられ。その下婢二人焚刑に處せらる。(當代記。)
○二日松平飛驒守秀行の妻。駿府をいでゝ奥に下らる。よて大御所より金二百枚。銀千枚。綿千把つかはし給ふ。(東武實錄。あるは百把につくる。)
○三日岡野越中守融成入道江雪卒す。此江雪は伊豆の產にて北條の支族なり。伊豆の田中を領せしより田中と稱し。小田原北條につかへ板部岡に改め。剃髮して江雪と號す。北條へ御ゆかりむすばせ給ふ時に。かのかたより使命を奉る。十六年氏政よりの使として京に赴く。豐臣關白より北條へ。沼田の城わたされしとき。江雪これを受とる。又北條亡び小田原の城を。關白より當家にあづけらるゝに及んで。江雪見參してわたし奉り。其後關白江雪にむかはれ。汝さきに上洛し氏政が使命を通ず。その時沼田の城をわたさば。北條父子一人は上洛すべしと。かたく約しながら。忽にその詞をひるがへし。父子上洛せざりしは。氏政が僞りか汝が奸計かと責問せられしに。江雪答へけるは。北條父子叛逆の心はさらになし。興亡は天なり。たゞし天下の大軍をひきうけて。日を重ね籠城せしは。面目といふべし。今はたゞ某が首を刎られん事を待のみなりと。詞すゞしく申ける。關白大に感じ。ゆるして近侍せしめらる。此とき又あらためて岡野と稱す。慶長五年には山岡道阿彌影友とおなじく。當家に志をはこび忠義をあらはす。此後影友とゝもに近侍しけるが。けふ伏見にをいてうせぬ。とし七十四。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○四日筑後國久留米城主田中兵部大輔吉政卒。其こひ置しまゝに。四子隼人正某原封三十二万五千石をつがしめ。御名の一字たまはり。筑後守忠政とあらたむ。(この襲封。重修譜には四月とす。今は貞享書上にしたがふ。)長子民部少輔吉次は故ありて籠居するが故とぞ。この吉政本國近江の人にて。世々高島郡田中といへる地に住しければ。田中とは號せしなり。父は惣右衛門重政といふ。吉政早くより豐臣家につかへ。關白秀次公いまだ三好と稱せられたる頃より。その方につけられ五千石賜はりしが。秀次關白養父太閤と中たがひしはじめ。吉政はしばしば關白を諫めしかば。忌遠ざけられしをもて。關白罪蒙られその家人等皆誅せられけるなかに。吉政けつく太閤の御感にあづかり。天正十六年三月十七日叙爵して兵部大輔と稱し。のち筑後守に改め。十八年十月廿日三河國岡崎の城にうつり。五万七千石になさる。其後八万五千七百石を領し。慶長元年七月廿七日一万四千二百石餘加へて十万石になり。太閤より
○十九日宇都野與五カ正成死して。其子作右衛門正信家をつぐ。正成は大樹寺殿このかたつかへたてまつり大御所の御時にいたり。三方原長篠等に供奉し。六十二歲にてうせぬ。(ェ政重修譜。)
○廿二日霖雨やゝはれたり。近國田圃みな凶をつぐ。(當代記。)
○廿五日松平飛驒守秀行の家長蒲生源左衛門ク成は。秀行が淫酒にふけり。
新進の臣長野半兵衛重政を寵任する憤り。其子源三カク喜。聟蒲生彥大夫以下。おほく會津を退く。よて大御所の仰として。ク成が所領四万五千石の內一万石を。玉井數馬定祐にさづけ。長沼の城主とし。一万石を岡越後にさづけ猪苗代城主とし。一万石を蒲生五カ兵衛ク治にさづく。(武コ編年集成。)
◎是月三河國上和田に蟄居し。その產神犬頭明神の社職となりし大久保平大夫忠重子源次カ忠之大番に召出され。廩米二百俵給ひ。腰物持役となる。これは一族相摸守忠隣彥左衛門忠教等がこひ奉るによてなり。此頃京にて荊組皮袴組と號する無ョの徒七十人搦取。その魁首四五人を誅し。其黨類ことごとく追放たる。(家譜。) 
卷十 / 慶長十四年七月に始り九月に終る 

 

○七月五日島津陸奥守家久琉球を征し。其王を生擒せしよし注進するにより。其軍功を賞せられ。家久に御書を給ひ。三位義久入道龍伯幷に兵庫頭義弘入道惟新にも。同じく御書を給ひ褒せらる。(家忠日記。)
○六日伊藤C右衛門正俊死して。その子助藏正重家をつぐ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○七日大御所より島津陸奥守家久に。琉球の軍功を賞せられ。其地を家久に下さる。凡琉球の稅額十二万石餘といふ。また猿樂金春其技をつかふまつりはてゝ。暇給はり駿府におもむく。この日本多上野介正純後藤庄三カ光次沙汰し。崇傳長老に呂宋の御返簡をつくらしめらる。(御年譜。家忠日記。當代記。異國日記。)
○八日土藏番頭小林兵部大輔正忠死して。其子半兵衛正信家をつぐ。(家譜。)
○十一日本多上野介正純御旨を傳へて。崇傳長老に阿蘭の御返簡をつくらしむ。かの國王こたび始て書簡幷に印子盃二。糸三百五十斤。鉛三千斤。象牙二さゝげて。今より後は永く通商せむ事をこふ。よて入船の津を定め。舍舘をも置れん事をこふまゝに。ゆるさるゝ旨をぞしるしける。(異國日記。)
○十二日上田兵庫元俊沒す。其子万五カ元政も父に先立て死しければ。孫万五カ元勝して家つがしめらる。元俊が父はC康君につかへ奉る。母は石川安藝守C兼が女なり。元俊三州明大寺合戰のとき。大樹寺殿の先鋒にて。松平藏人信孝を討とる。此とき金の三本傘の指物をゆるさる。いまの大御所に至り。信孝一旦御敵たりといへども。御從祖叔父たるをもて。其孤女の沈淪を憐みたまひ。元俊に嫁せしめらる。元俊武勇といへども明大寺合戰のとき疵蒙り。行歩わづらはしかりければ。其後軍陣の供奉はかなはず。常に留守してありしが。今年八十一歲にて終をとる。(家譜。)
○十三日本多上野介正純より。島津陸奥守家久がもとへ消息もて。大御所琉球の大功御感賞の旨をつたふ。(島津文書。)
○十四日京都にて當今。(後陽成院。)の御いつくしみを蒙る女房廣橋局。(廣橋大納言兼勝卿女。)唐橋局(中院也。是軒通勝卿女。)をはじめ五人の女房等。猪熊侍從教利。鳥丸左大辨光廣。飛鳥井少將雅賢。難波少將宗勝。大炊御門左中將ョ國。花山院少將忠長。コ大寺少將宣久。松木侍從宗澄。牙醫兼保備後ョ繼等に挑まれてしばしば參會し。酒宴亂行に長しけること露顯し。兼保を拷問せられしに。ことごとく白狀せしかば。逆鱗大方ならず。この輩男女ともに。死刑に處せらるべしとの內旨により。京より板倉伊賀守勝重を駿府に召下して。そのことを議せらる。こゝに及び猪熊侍從教利罪を恐れて逐電す。教利は豐臣太閤のときも淫行の聞えあり。今度も又この徒の魁首なり。この人の妻は前田中納言利長卿の女なり。織田長益入道有樂の子左衞門佐長政。教利を導て亡命せしめければ。これも連座すべしとぞ聞えける。此日織田左京亮信好卒す。こは右府信長公第十の子なりしが。嗣子なければ其家絕ぬ。又ことさらに令して煙草を禁ぜらる。烟を吸とて火をあやまつもの多ければなり。(創業記。當代記。慶長年錄。武コ編年集成。)
○十五日下野國高田專修寺僧正堯眞に御朱印をたまふ。專修寺住職幷に諸國末寺等綸旨にまかせ。先規のごとく進退相違あるべからずとなり。(令條記。)
○十六日諸國大水。美濃遠江兩國は水かさ去年より高き事。三尺ばかりとぞ聞えし。(慶長年錄。)
○十七日大番頭松平丹後守重忠山口但馬守重政に。伏見城在番の條約を授らる。其文にいふ。喧嘩爭論嚴に停禁せらるゝ所。違背のやからは理非をいはず。双方ともに罪せらるべし。あるは親戚あるは知音とて荷擔せば。其罪本人よりも嚴重に處せらるべし。何事たりとも出城すべからず。番士等故ありて出城する時は。番頭兩人にうたへ。其指揮にまかすべし。もし番頭さはる事あらば。組頭にこひて出城すべし。此條令をかたく守るべし。もしゆるし置てみだりなることあらんには。番頭曲事たるべしとなり。又酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。山圖書助重成。連署の令には。城中番士同僚の外地に參會すべからず。番所には常に武器得道具設置べし。戍役の間京地の人一切召置べからす。城中へ諸人出入せしむべからず。戍役の間日簿を嚴に注記すべし。もし饗宴催とも一汁二菜にかぎり。酒は二返たるべし。上下とも市中の浴室におもむくべからず。嚴に火をいましむべし。これ等肝要たれば。いさゝか油斷すべからずとなり。又本城前門は。山口但馬守重政家士に。番頭より人をそへて警衛せしむべし。本城より西城にまかる所の門は。重政人數もて警衛すべし。後門は松平丹波守重忠家士に。勤番與力の輩より人そへて警衛せしむべし。警衛のこと前後をさだめらるれば。五十人の中たとひ病者ありとも。廿五人は門櫓に警衛なさしむべし。晝の更替は二度たるべし。表の番士二人。裏の番士二人不寢の番として。途中にて行あふべし。番頭は番所に夜臥すべし。小笠原左衛門佐信之。稻垣平右衛門長茂警衛せし所は重忠勤番すべし。酒井作右衛門重勝は先規なし來りしまゝに勤番すべし。岡部內膳正長盛警衛せし所は。土岐山城守定義勤番すべし。太皷役坊主の直所。ならびに定番所に無狀の事あらば。前門番の輩過失たるべし。
この條目かたく守るべしとなり。また阿蘭につかはさるゝ御朱印の券をつくらしめらる。その文にいふ。蘭舶來着のとき。何方の湊たりとも。異議あるべからず。今より後此旨を守り往來すべし。いさゝか踈易あるべからずとなり。ちやくすくるうんへんけふらんすひつくゐあふらはむはんてむふろくきうあすへいけへつかはさるゝ所四通なり。又代官K川左京亮正秀死して。子與兵衛正直家をつぐ。(令條記。家忠日記。異國日記。ェ政重修譜。)
○十五日錢貨通用の令を下さる。金一兩をもて永樂錢一貫文に換べし。京錢は四貫文たるべし。鉛錢無形大割新錢へいら錢の外は。えらばず通交すべし。金一兩もて銀五十目にさだむ。この金をもて賦稅幷に物貨ともに用ゆべしとなり。(令條記。)
○廿日阿媽港渡船停禁の御朱印をつかはさる。其文にいふ。吾邦の商船阿媽港にいたること。其國人難澁するよし聞ゆれば。嚴に停禁せしむ。もし此令にそむき着船するときは。其國法のごとく處置すべしとなり。(異國日記。)
○廿五日堺木屋彌三右衛門へ。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○晦日本多豐後守康重が三州岡崎城災あり。火藥收貯の櫓より失火すとぞ聞えし。(創業記。)
◎是月伏見戍役にさゝれし松平丹後守重忠。山口但馬守重政幷に加番土岐山城守定義いとま給はり江戶を發す。又美濃國郡邑を撿地せしめらる。また駿府にては市街に令し。風流躍を催さしめらる。また鳥居又左衛門吉次死して。其子又兵衞吉長家をつぐ。井戶若狹守覺弘新に廩米三千俵たまひ。御家人に加へらる。(慶長年錄。家譜。ェ政重修譜。)
○八月四日さきに故松平伯耆守忠一が伯州米子の城。收公の監使にさゝれたる朝比奈源六泰勝。久貝忠三カ正俊。弓氣多源七カ昌吉に。大久保相摸守忠隣。本多佐渡守正信連署の下知狀をさづく。其文にいふ。寺社人幷に農商に對し。武家の家僕等ひが事ふるまふべからず。みだりに竹木伐取べからず。農民等其國を亡命せば曲事たるべし。地頭代官等非據の沙汰あらんには。御使幷に番頭及び其國の老臣等へうたへ出べし。この條違犯の徒は。嚴科に處すべしとなり。又各所に刈草塲の制を令せらる。先々より入交り刈草せし地を。あるは鍬目を付。あるは境を立。あるは屋敷搆をなし置。草からしめざるものは曲事たるべし。先々の例のごとく。はゞかりなく刈とるべしとなり。この日岡部內膳正長盛。下總國山崎より丹波國龜山にうつり。二万石加恩ありて。舊領に合せて三万二千石になる。(令條記。武家嚴制錄。家忠日記。藩翰譜は六日にかけ。重修譜に八月とし。後に二千石加へ給ひ。三万四千石になるとしるす。)
○九日京畿大風。(當代記。)
○十日大風。江州にては大に禾稼を損ず。美濃尾張三河は。午より亥まで尤はげし。(當代記。)
○十二日江戶より上番の輩。伏見城にいたりしかば。是まで勤番せし水野市正忠胤。渡邊山城守茂はじめ。其番士百人皆交替してかへる。此日菅沼左近定芳が所領伊勢長島洪水なりとぞ。(ェ永系圖。家譜。)
○十六日有馬玄蕃頭豐氏。丹波國篠山城搆にあづかりしを褒せられて御內書を賜ふ。藤堂和泉守高虎は同城經營の時。繩張を改め正し。且搆造の助役せしかば。これも御內書たまはり御感の旨を仰下さる。(貞享書上。)
○十八日東寺に法令の御印書を賜ふ。其文にいふ。東寺高野は相互に學業相續すべし。もし不學の徒其室を汚に於ては。持律の僧をもて引かふべし。觀智院は一宗の勤學所なり。かの經藏に收貯の諸聖教は。他に類本なきがゆへに。尤以て尊重すべし。こたび一卷も欠漏せず其書目を查撿して。副本を繕寫し。高野山巖寺にをくり。其經藏に收貯し修學の資となさしむべし。專ら古跡の學室を再興して。修學專一たるべし。東寺醍醐眞言教相の學室廢絕に及ぶこと。尤以て怠慢といふべし。無學のやから寺領を沙汰することあるべからず。速に修學の興行あるべしとなり。(令條記。)
○廿一日永田庄九カ政次死して。其子傳左衛門重路家をつぐ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿四日先手頭加藤惣市カ正次死して。其子傳吉正信家をつぐ。此正次は惣右衞門正成が子にて。永祿六年三州に於て一向宗一揆の時。小豆坂針崎にて高名せしを始とし。吉田。牛窪。姉川。遠目。長久手等の合戰に軍功をはげまし。齡つもりて七十七。けふ終をとりし之。(ェ永系圖。)
○廿五日龜井武藏守玆矩に。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿七日今年初春より雨多し。正月よりけふに及び。雨ふる日をかぞふるに。百廿日に及べりとぞ。(當代記。)
○廿八日關東眞言宗古義の諸寺に法令を下さる。其文にいふ。一年兩度法談の日嚴に减あるべからず。二季の稽古一季たりとも懈怠すべからず。本寺住山かならず三が年をとぐべし。本寺住山すといへども。學業精勤せざるものには。能化をゆるすべからず。談義の所々に於ては。能化の下知に從ふべし。本寺住山の間其宗の本書あまねく受學すべし。たとひ教相の所學あり共。事相の傳授なきものには。能化をゆるすべからず。常に佛法興隆のため。宗旨如法の行儀を專ら守るべし。古跡の一寺一山に於ては。かならず學匠の能化住せしむべし。
この條々かたく守るべしとなり。また高野山長老に下さるゝ法令の文にいふ。上品の古跡に於ては。學業次第にて相續すべし。兩門中廿所の名室は。碩學の徒相續すべし。當門首の二院は天下の能化所たれば。かならず碩學器量の輩住持たるべし。こは佛法興隆のため。かたく此旨を守るべしとなり。又大山寺别當八大坊へ下さるゝ法令にいふ。前不動より上は。永代C僧潔戒の地たれば。かたく此旨を守るべし。これより先火宅僧幷に山伏及び俗士等住居せしを止て。别當八大坊より改め令し。C僧のみ住しむべし。十二坊の檀越幷に山林諸堂の賽錢等は。一物たりとも相違なく。C僧に進退せしむべし。この令を守り佛法興隆有べしとなり。(令條記。武家嚴制錄。)
◎是月松平越中守定總下總國山川にて一万石加恩ありて。一万五千石になる。又江戶にて大久保治右衛門忠佐宅失火し。內藤若狹守C次この災にかゝり。家寳ことごとく燒夫せり。これより先永樂錢の通用を禁ぜられけるに。このとし駿府江戶賦稅の會計に。永樂錢を用ひらるゝをみて。農商通用をゆりたりとおもひあやまり。衆黎永樂錢を買求るもの多かりしかば。また停廢の事を令せらる。(ェ政重修譜。當代記。慶長年錄。)
○九月朔日大番頭水野市正忠胤が邸に。松平左馬允忠ョをまねき茶宴を催す。隊下の大番士久米左平次某。服部半八某。宇治茶匠八大夫等この會にあづかる。宴畢て圍棋の興を催す。左平治半八と對局するに及び。左馬允忠ョ兼て半八をふかく愛しければ。半八に勝しめんがため。其棋局を見てしきりに助言せしを。左平次心にふづくみ。局終りて後しきりに惡言をはき。半八をのゝしる。半八これを憤り。脇差ひきぬき左平次をきる。左平次も脇差をぬかむとするを。八大夫その中央に飛いり。双方を引わけてみれば。左平次が手に薄手負たりこれにては忍ぶべきにあらずと。左平次また立あがり。半八に切かけんとすれば。一座の人々双方にとりつき押へとめむとす。左平次そのとき左馬允忠ョをつく。忠ョも脇差をぬき左平次をきるとき。大勢かけあつまりつゐに左平次をば討留しが。半八は門外にかけ出。三浦彥八某が從者の馬ひきてむかひに來るを見。その馬に飛のり相州の采邑に立退たり。(慶長年錄。)
○二日遠州代官秋鹿彌太カ直朝死す。其子小姓長四カ朝正家つぎ遠州にかへりすむ。よて庇䕃料四百石を收公せらる。(家譜。)
○九日角南刑部卿法印重義死す。その子主馬重勝父子共に慶長九年よりめし出され。重勝は小姓の番士となる。この重義ははじめ宇喜多黃門につかへ。宇喜多家ほろびてのち御家人に列し。月俸千口たまはり。伏見の松丸を守り。この日死す。年七十二。(ェ政重修譜。)
○十六日もとの伯耆國米子城主松平伯耆守忠一が遺臣等をめして。その罪をたゞされ。家司四人切腹せしめられ。また罪蒙るもの多し。沼間主膳興C。野一色ョ母助重。志村加兵衛資只。小倉安右衛門正能等は。關原の戰功をもてめし出され御家人に列し。興Cは廩米五千俵。助重は采邑二千石賜はる。忠一の妻は松平因幡守康元が女なるを。今の御所やしなひとらせ給ひ。忠一にあはせ給ひしゆへ。これも江城に迎へ給ふ。(按ずるに。中村が臣等罪蒙りし事。忠一子なくして國除かるゝに及び。財寳ども故なく失し事どもあり。その家司等が專恣のさま聞えしなど。しるせしもあれど。藩翰譜にしるせしごとく。忠一世にありしほど。其老臣田內膳を討て。其子主馬助籠城し。國中騷動せし事ありて。それにあづかりし安井。道家。天野などいふものども。上裁をへて誅せられしをみれば。これらの事により御糺明ありて。其罪をたゞされしなるべし。)又丹波國篠山城落成して。其奉行せし使番內藤金左衛門歸謁す。これ去年四月より經營し。二年を經て落成する所なり。大御所其搆造のさま嚴重堅固に過て遲緩せし事。御けしきにかなはず。本多上野介正純大久保石見守長安等これに座して。御けしきを蒙る。京北野天滿宮石鳥居顚倒す。(慶長見聞書。慶長年錄。)
○十八日さきに罪をのがれ京師を出奔せし猪熊侍從教利。この十六日九州にてとらへられ。籠輿にのせてこの日京にいる。(慶長年錄。)
○廿一日伊勢內宮けふ遷宮あり。これを拜せんとて貴賤群聚す。その時社壇鳴動せしよし聞えたり。(御年譜。慶長年錄。)
○廿三日板倉伊賀守勝重駿府を辭して上洛す。これは殿上人等女房達と會飮せし淫行あらはれ。主上逆鱗甚しく。其罪をたゞすべしとの內旨をうけて。勝重駿府にまかり執政の輩と議し。大御所の御旨をうかゞひけるに。大御所禁中むかしよりかゝるたぐひなきにあらず。ひたすらェ宥の御沙汰あり。聖コをほどこし給はゞ。衆人耻をしりて後來を謹むべしと。諫め進らせらるゝ旨。勝重に仰付られて上洛し。うちうち叡聞に達せしめらる。信濃國飯山の城主皆川山城守廣照は。そのはじめ上總介忠輝朝臣を養ひ參らせければ。今も朝臣につけられ。傅相の職にをかれぬ。しかるに朝臣壯年に及ばるゝほど。暴のふるまひのみ多くして。國中の上下なげきくるしむをもて。舊きものどもいさむるといへども用ひられず。廣照ふかくなげき。さまざまと諫めけれど。今はをのれらが力には。御行あらたまらせ給ふべしとも思はれずとて。同僚山田長門守正世。松平讃岐守某とうちつれ。駿府に參て此よしを愁訴す。
朝臣江戶にありてかくと聞給ひ。大におどろき駿府へはせのぼられ。廣照舊功をたのみ。やゝもすれば恣なるふるまひをあらはす。山田等その與黨なりとうたへられければ。その國老幷國奉行進士C三カ等を召て。對决せしめられしに。廣照等忽に罪蒙る。されど廣照は舊功のものなればとて。罪一等をなだめられ流刑に處せらる。松平出羽守C直は國老の中にても。思召旨やありけむ。此對决の座には召れさりしかが。我其職にありて。一人この大事にもるべきにあらずと。推て登營せしを。大御所其座を通らせ給ひながら御覽じて。C直ば誰が召て此座に列りしや。若輩もの何をかしらんとて。追かへせと仰ければ。C直力なく退く。其跡にて廣照等が罪をば决せられしとぞ。C直はこの後閉戶して家に蟄居せしが。ゆるされて出仕せり。(慶長年錄。藩翰譜。世に傳ふる所は。はじめ大御所の御方に召つかはれし小童龜井三九カとて。亂舞堪能の者なり。朝臣には異父同母の御あねむこなりければ。かたがた此技おしへ進らせよとて。朝臣につけさせらる。三九カ双なき朝臣の寵臣にて。後には遠江守と稱し。國家の事一人に委任し。よからぬ事ども多く。國人等歎きしかば。廣照等そのよし駿府にうたふ。大御所聞召。その三九カには。小鼓謠曲をしへよとてつかはしけるが。たがゆるしてふしぎの擧動するにやと怒り給ふ。朝臣の生母阿茶の局大におどろきなげき。義直ョ宣の母君はじめ。そのころ御歸依僧だちをョみ花井が罪まぬかれん事をなげき。朝臣またみづから駿府におはし仰られければ。花井が罪まぬかれしといふはまことにや。藩翰譜。)又酒井備後守忠利駿州田中を轉じて。武州川越をたまはり。一万石加へ二万石を領せしめらる。こは大御所より仰として。江戶城御出馬あらむ時に。常に留守命ぜられんもの。忠利なればその心してめしつかはるべしとありし故とぞ聞えける。これより忠利大留守居役になり。諸家の證人をあづかり。國々關所を掌る。又大澤兵部大輔基宥少將に任ず。高木喜左衛門正綱死して。子大番新助正信家をつぐ。(ェ永系圖。創業記。家譜。)
○廿七日伊勢外宮遷宮あり。この日さきに故木下肥後入道法印家定の遺領二万石を長子少將勝俊。五千石を二子宮內少將利房に分ちたまひ。高臺院のかた守護すべしと命せられしを。高臺院その領地を勝俊一人に領せしめ。利房にあたへられず。よて大御所聞召御けしきあしく。其遺領をば悉く收公せられ。今年の賦稅は京職の方に收めしめらる。この事によて大坂より孝藏主(太閤の時より後閤につかへ。當家の事をあつかひし尼なり。)駿府にめし下さる。この六月九州へ着岸せし蠻船。八月十日の大風に船破れ。波にたゞよひ行方しれざりしが。けふ上總國大野浦に漂着せし注進ありしかば。船主心のまゝに貨物交易すべきよし令し下さる。(御年譜。創業記。慶長年錄。ェ政重修譜。)
○廿九日遠江國M松の城主松平左馬允忠ョ卒す。其子忠重時に七歲幼ければ。所領五万石收公せられ。忠重には翌年七月武州深谷にて。别に八千石をたまひしなり。この忠ョは與次カ忠吉の二男にて。母は大御所の御妹君(多劫姬君。)なり。兄勘四カ信吉は藤井の家をつぐ。忠ョ父の家つぎて。關東にうつらせ給ひし時。武藏の八幡山にて一万石たまひ。關原の戰に岡崎の城を守り。軍終て後尾州犬山の城。濃州金山の城を守り。本領をあはせて二万五千石になる。六年二月遠州M松にうつり。五万石を領しけるに。ことし關原に參り。この朔日水野市正忠胤が宅に宴し。久米左平次が爲にさし殺されたり。年廿八とぞ。(案ずるに水野が宅にて殺されしは。この月朔日なり。しかるにェ永系圖その事をばしるさず。たゞこの卒せしとのみしるしたるは。この日うせぬるよし聞えあげしゆへか。)石川主殿頭忠總M松の城請取にまかる。(ェ永系圖。藩翰譜。慶長年錄。)
◎是月淡路國須本城主脇坂中務少輔安治轉封して。伊豫國大洲の城給ひ。二万石加へて五万三千石餘になさる。淡路をば藤堂和泉守高虎が人數もて守らしめらる。又九鬼長門守守隆に小M民部少輔光隆。向井將監忠勝。久永源兵衛重勝等をそへて。淡路國におもむかしめ。西國諸大名の儲置所の大船を收公せしめらる。これ近ごろ西國の大名等。やゝもすれば城郭を修築し。戰艦多く造る事。御けしきにかなはず。五百石以上の大艦淡路島に送りて籍沒し。駿府江戶に漕送る。其中に一大艦を松平宰相輝政に給ひ。また蜂須賀阿波守至鎭。稻葉彥六典通が大艦一艘づゝを取て。尾張名古屋天守の用材を運漕せしむ。この勞により其船を長門守守隆にたまひしとぞ。又鵜殿兵庫頭氏長を監使として。若州小Mにつかはされ。其政道を查撿せしめらる。これ故京極宰相高次うせて後。其臣熊谷主水等國政を亂る聞えあるによてなり。また戶田采女正一西四子半之丞勝興。眞田安房守昌幸四子左馬助信勝と父兄の武功を論じ。遂に爭鬪し。戶田は眞田を討て逐電せり。また江戶府內道路を修築すべしと關東の輩に課せらる。またこのころ唐船肥前長崎の嶴に着岸すといへども。糸價いまださだまらねば。交易をゆるされず。唐商等長崎に滯留する事十一月に至る。又蠻船に授らるゝ互市の銀。今より後は鎔して南鐐を製造せず。丁銀のまゝわたすべしと令せらる。儒臣林道春信勝駿府に勤仕し。
十一月にいたり暇たまはり歸洛す。又此秋大鷹近年にこえて多かりしかば。大御所御けしき大方ならず。(ェ永系圖。慶長年錄。當代記。烈祖成績。家譜。) 
卷十一 / 慶長十四年十月に始り十二月に終る 

 

○十月二日駿城に茶宴あり。織田長益入道有樂。藤堂和泉守高虎。西尾豐後守光教めされて御茶をたまふ。光教は伯耆米子の城番命ぜられ翌日發程す。又肥前松浦に着せし呂宋の船商等を御覽ぜらる。足利學校寒松。崇傳長老侍座す。この日京にては板倉伊賀守勝重兩傅奏をもて。うちうち大御所の御旨は。主上ェ宥の御政をほどこされなば。今よりのち人每に廉恥の心を生じ。舊染の汚俗を改むべき旨なりと奏せしめらる。よて龍顏ことに和らがせたまひ。各死罪一等を减じ。遠流近流の等級をわかち。沙汰すべしと詔らせたまふ。(創業記。異國日記。武コ編年集成。)
○三日小姓佐野半四カ政秀死して。その子外記政成家をつぎ小姓となる。駿府の鷹師戶田九右衞門吉久父に先立て死す。(ェ永系圖。)
○六日呂宋より金襴三端。繻子七端。繻珍三端。羅紗二端。純子五端。蒲萄酒二壺に書簡そへて奉る。崇傳長老に御返簡を製せしめらる。又别に呂宋船海中難風にあひ何國に漂着すとも。相違有べからざる旨御朱印を遣さる(異國日記)
○七日菅沼左近定芳が所領伊勢の長島洪水によて。大御所米二千石たまふ。(家譜。ェ政重修譜。)
○八日遠江國久野城主久野三カ左衛門宗能入道宗安卒す。長子民部少輔宗朝は先に慶長元年御上洛の御供し。京に於て人を討しかば。所領收公せられ後。宗安に舊領賜はりければ。孫金五カ宗成に其所領を給ひ。家つがしめらる。(宗家爵ゆりて丹波守と稱し。後にョ宣朝臣に附られ世々紀州につかふ。)此入道が父は三カ左衛門忠宗とて。今川家の士なり。尾州桶狹間の戰に討死す。宗能永祿十一年より御味方に屬す。武田信玄より秋山伯耆守光家をして。宗能を味方に招といへども。宗能從はず。よて秋山は宗能が久野の城を攻かこむ。このとき大御所御出馬ありと聞。秋山は人數をひきゐて城をまきおとす。宗能不入斗の御本陣に參り謝し奉り。御感を蒙り本領安堵の御書を給ふ。此年より仰をうけて。遠州天王山の砦をまもり。十二年正月今川氏眞が懸川の城をせめ給ふとき。氏眞より宗能が庶族久野淡路宗益。彈正忠宗政等をかたらひ。宗能を前後に挾みうたんとはかる。宗能是を聞て御本陣にうたへしかば。榊原康政を加勢に給はり。逆意の一族等みな討亡して。其所領悉く給はりぬ。天正元年可久輪の城を攻落し。十二年長久手のときは。久野の居城を守りて海賊をおさへ。十八年關東にうつらせ給ひしとき。下總の佐倉城たまはり一万三千石領し。十九年九戶陣に御供し。後に致仕入道して宗安と號す。慶長元年長子民部少輔宗朝が罪ありて所領收公せらるゝに及び。入道には養老の料千石給はる。五年關原戰終りし後。入道年頃の舊功を思召。舊領の地七千五百石下され。養老料千石を合せて八千五百石になり。けふ八十三歲にてうせぬるなり。大工中井大和守正次加恩五百石賜ひ千石となる。(家忠日記。家譜。ェ政重修譜。)
○十日先に淫行露顯の殿上人女房等。みな死罪一等を减じて流刑に處せらる。其中に猪熊侍從教利は淫亂の最たり。牙醫兼保備後ョ繼は宮門の管鑰をつかさどる身にて。其罪尤重ければ。死刑に處せられ。大炊御門侍從ョ國。松木小將宗澄は硫黃島。花山院少將忠長は松前。飛鳥井少將雅賢は隱岐。難波少將宗勝は伊豆へ流され。女房五人は八丈島へ流され。烏丸左大弁光廣。コ大寺少將實久は其罪輕しとて恩免を蒙る。飛鳥井難波の兄弟は。先駿府にとゞめらる。ときに世には去年大織冠像破裂せしは。この徵なりと巷說せり。主上吉田神祇少輔兼治を多武峯につかはし宣命をよましむ。兼治神前にいたり戰慄して。宣命をよむ事あたはず。ふたゝび五條少納言爲適其選に應じ。登山して舊規のごとくつかふまつり歸洛す。主上叡感有て爲適の位一階を進めらる。大御所よりも褒書をたまひしとぞ。また間宮若狹守綱信卒す。長子民部正重。二子十左衞門ョ次はさきに召出されしが故。三子忠左衞門重信近習をつとめありしかば。父が養老の料五百石をたまふ。この綱信はじめ北條陸奥守氏輝が長臣たり。氏政の命により織田家に使するとて三州によぎり初て拜謁す。關東へいらせたまふのち。召れけれども辭して出ず。よてその子共を御家人に召出され。綱信は請まゝに武州氷取澤にて。養老料五百石下され。七十四歲にてうせぬ。(創業記。當代記。烈祖成績。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。)
○十四日使番小笠原次右衞門定信死して。其子三右衛門正信家をつぎて使番となる。(家譜。ェ政重修譜。)
○十五日猿澤の池水涸る。凶兆といふ。(當代記。)
○十六日大番頭水野市正忠胤切腹せしめらる。是は先月朔日其宅にて。松平左馬允忠ョをはじめ衆客宴して。刄傷するもの多かりしのみにあらず。伏見戍役の間。隊下の番士等京中を行し。不良の擧動せしを查撿とゞかざるが故也。此忠胤は故和泉守忠重が二子にて。慶長五年關東の時曾根の壘を守り。大垣の城を責て功有しかば。三河國內にて一万石賜はり。爵ゆりて市正と稱し大番頭となり。此日死を給ひしかば。其家のぞかる。又番士三浦彥八某は服部半八某にをのが馬をかして逐電せしめ。海保三吉某は兼て大刀を好み。在番中城中をぬけ出て京中を徘徊し。辻相摸を取て豐臣家の奴僕を投殺したるによて。切腹せしめられ。
服部半八某は采邑に隱れゐたるを召捕れ。腹切らせらる。荒尾長五カ某。有賀忠三カ某。世良田小傳次某。小俣伊右衛門某。間宮彥九カ某等も。これに坐し腹きらしめらる。間宮は逐電せしが。妻子を召捕へられしかば。立かへり腹をきる。小斐仁左衛門某在番の間。父江戶にて死せしかば。ひそかにかへりて葬埋をいとなみ。藤方平九カ某。小川左大カ某は其家僕等京の商人を縊殺し。津戶左門某。戶田喜右衛門某。岡部庄七某。駒井孫四カ某。松平九カ左衛門某も。在番中不良の擧動聞えければ改易せらる。(慶長年錄。ェ政重修譜。烈祖成績。)
○廿二日大久保石見守長安が駿府の宅燒亡す。(慶長年錄。)
○廿六日大御所江府におはしまさんとて。御發輿あり。けふ善コ寺にいたらせ給ひ。御鷹狩あり。さきに御氣色蒙りし本多上野介正純。大久保石見守長安。けふ御ゆるしあり。相州土井山に金鑛を得たりと聞えければ。長安をつかはされ撿點せしめらる。(御年譜。創業記。)
○廿七日上總介忠輝朝臣の臣山田長門守正世。松平讃岐守某。此日死刑に處せらる。正世の子因幡某は信州松本に配流せらる。申樂等駿府に勤仕するゆへ。大坂にて是まで充行し俸祿をはなたる。(御年譜。創業記。武コ編年集成。當代記。)
○廿九日美濃國大垣城主石川日向守家成卒す。外孫主殿頭忠總して。原封五万石つがしめらる。嫡孫助十カ忠義は十二歲なるを。關東にめし下さる。後に安房守と稱せしといふ。此家成は當家の元老石川安藝守C兼の二子にて。鎭守府將軍義家朝臣より三代武藏守義基。河內國石川郡を領せしかば石川と稱す。家成わかゝりしよりつかへ奉り。大御所御軍始の日より。大高。鷲津。丸根等の戰をはじめ。一宮。御油。下地。こゝかしこの軍に。從ひ參らせずといふ事なく。高名また數をしらず。一向專修の徒蜂起せしとき。家成御かたに有て御使を奉り。土呂の要害に行むかひ。歒等を降參せしむ。今川氏眞掛川の城にこもりしとき。酒井雅樂助正親と家成につきて降をこひ城をさけわたしければ。家成にその城を給ふ。是より先西三河大かた家成が組にて。每度御先手を勤む。このとき旗頭の役をば甥伯耆守數正にゆづる。酒井左衛門尉忠次と共に。織田殿をたすけ近江國に發向し。佐々木承禎入道と戰て歒を追ちらす。天正元年武田信玄遠州に出張のとき。地士信玄と志を合するもの多し。家成久野三カ左衛門宗能と。まづ可久輪の城を攻て殘る城々みな落失ぬ。家成旣に老ぬれば。長子長門守康通のみ軍にしたがはしむ。關東にうつらせ給ひて後。家成には伊豆國梅繩の城を給ひ。五千石領し。康通には上總國鳴渡の地二万石給はる。關原の時は家成江戶を守る。慶長五年康通美濃の大垣城を給はり五万石領せしが。十二年康通父に先立てうせ。孫助十カ忠義幼ければ。家成ふたゝび出て家國の事をつかふまつりしかば。家成が養老料五千石忠總の弟內記成堯に下され。けふ七十六歲にてうせぬるなり。今年より中國西國北國の諸大名。關東にて春をむかへんとて各參向す。これ駿府の御內旨によりてなり。又鞍馬寺に寺領の御朱印を下さる。門前境內山林地子錢人足等永く免許せしむ。城州野中村三十石餘全く寺納すべしとなり。(創業記。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。當代記。令條記。)
◎是月三淵伯耆守光行新に采邑千石を給ふ。手鷹師細田C藏康政が子加右衛門康次召出され。父の職命ぜらる。また呂宋人に御印牌を下さる。そは濃毘數蠻に渡海のとき。あるは賊船にあひ。あるは颶風にあひ。日本の海岸に漂着せば。何地にてもうたがはず。此牌を示し救をこふべくとなり。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。慶長年錄。)
○十一月三日水野石見守長勝卒して。其養子左門忠貞家をつぐ。この長勝はじめは織田家につかへ。後小田原の北條及び武州鉢形の城主安房守氏邦に屬し。北條亡て後召出され采邑八百石下され。伏見城番幷奏者番を奉り二千石加へ給はり二千八百石になり。慶長九年六月廿二日叙爵して石見守と稱し。けふ七十八歲にてうせぬるなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○五日このほど大御所江戶にならせ給ふとて。御道すがら日をかさね御鷹狩あり。けふやうやく三島につかせ給ひしが。俄に御徵恙あり。こゝより駿府に還御なるとて。其よし安藤帶刀直次して。江戶に仰せ遣さる。(御年譜。家忠日記。)
○七日黃昏に及び江戶の御使として。本多佐渡守正信駿城に參着し。御けしきをうかゞはせ給ひ。御所にも御みづからならせ給ふべきむね。仰進らせらる。大御所かへすべす是をとゞめ給ふ。正信今年七十一。その老使壯年も及はずといふ。(御年譜。創業記。)
○十日福島左衛門大夫正則江戶越年のため。藝州をいでゝけふ大坂に至る。(當代記。慶長年錄。)
○十一日伊藤新九カに暹羅渡海の御朱印を下さる。連日大雪。(御朱印帳。慶長年錄。)
○十二日高木主水助C秀四子善三カ守次死しければ。采邑は收公せられ。其子善七カ守久明年に至り。廩米五百俵給ふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。)
○十四日この夜月の形常に異にて。出沒春が如し。(武コ編年集成。)
○十五日山角市左衛門勝重初て江戶にて拜謁す。(家譜。)
○十六日本多佐渡守正信江府に歸參し。大御所御病躰を聞えあぐる。この日駿城にては尾州C洲城を名古屋に引移し。營築すべしと仰出さんがため。先般助右衛門長勝をして。其地を撿點せしめらる。(業創記。當代記。諸書此日營築の事。長勝其他を撿點につかはされしなり。藩翰譜の說允當なるがゆへ。これに從ふ。)
○十七日高田小次カ直政が子藤五カ安政江戶にて許謁す。ときに十一歲。(ェ永系圖。)
○十九日松前志摩守慶廣江府にまかり。滯留の間月俸百口あて行はる。(家譜。)
○廿一日東寺に法令の御朱印書を下さる。其文にいふ。眞言宗興隆のため東寺。醍醐。高野山の交衆勸學油斷あるべからず。もし修學懈怠するか。又は行狀不律の徒。眞跡の學室を汚するものあらんには。忽ち修學持律の僧をもて。引かへ住持せしむべしとなり。また高野山金剛峯寺に下さるゝ御印書の文にいふ。當山上分の古跡古法のごとく。學業次第相續あるべし。二十か所の名室は最碩學の輩。其器量を撰び住持たらしむべし。學業懈怠して寺領を貪る徒あらば。一山會議の上嚴に其住持を改替せしむべしとなり。(令條記。)
○廿五日福島左衛門大夫正則。今日伏見を出て江戶に參覲す。(當代記。慶長年錄。)
○廿六日大御所御不豫みこゝろよくならせ給ふ。これよりさき三河國御鷹狩のため。碧海郡中島に御旅館を設られんと。近日搆造をいそがせられしが。俄に其ことをとゞめらる。(創業記。當代記。)
◎是月酒井備後守忠利。其子與七カ忠勝を具して江府にまいろ。忠勝に爵給はり讃岐守と改む。大坂につかへし宮城丹波守豐盛大御所に奉仕し。家眷を駿府にうつし住しむ。(家譜。武家補任。ェ永系圖。)
○七日西ク新太カ康員叙爵して出羽守と稱し。先々の例のごとく謠曲始の時着座せしめらる。(ェ永系圖。)
○九日これより先駿城より。占城の奇楠香を召ことありしかど。其頃長崎の奉行長谷川左兵衛藤廣これを得ることを得ず。右馬修理大夫晴信いさゝか是を購求して獻じければ。大御所スばせ給ひ。其後晴信に。占城へ船を渡し。購求すべしと仰下され。銀六十貫目。鎧。金屏風等をも占城へ贈るべしとて下されける。よて晴信數品の奇物とりそろへ船につみこみのせ占城へ贈りて互市せしむ。その船亞媽港に着岸して。占城の風信を待ゐたる間。有馬が船にのりしもの等亞媽港人と爭論して。其土人を打殺したり。こゝにをい土人等大に憤り。七十人ばかりおしよせて。船中のもの一人ものこらず打殺し。財寳みな奪ひ去ぬ。有馬が船に兼て蠻人あんしといふもの。案內のためのせ來りしが。此ものゝみ地理に熟しれけばやうやう其地を迯去り。蠻船にたよりて我國にかへり。ありし樣を訴ふ。晴信大に驚き。いそぎ駿府に參り聞えあげたり。さてはかの國の船我國に來らんとき。其かぴたんを誅すべきよし仰下さる。晴信一人にてその事承らんことをこひ奉る。其時かの國の船長崎に着岸の聞えあり。晴信は其子左衛門佐直純と急ぎ長崎に赴き。長谷川左兵衛藤廣と相はかり。彼船中のかぴたんを呼よせ誅せんとす。しかるに此ごろは所々に天主教の寺院多く。その寺主等は皆蠻人とむつましかりければ。この樣ひそかにかぴたんへ告しむ。よて使し招く事しばしばなりといへども來らず。あまつさへ風をまちて漕去んさまなれば。晴信もあんじわび。心きゝたる家人に命じ彼船に赴き。かぴたんをあざむき刺殺さんとせしかど。彼船には佛カ機を設て。あたりに船を近付ず。今は彼船ともに討とれと。士卒あまた船にのせてこぎ出し。漁船に燒草積ておしながすといへ共。思ふまゝに事ゆかず。井樓船をあまたつくり。彼船に近付鈎を打かけ乘うつらんとすれば。彼蠻人等火藥を投出し。鎗をそろへ防戰す。有馬が先手の人數も。これがために死傷少からず。しかるにその火藥かの帆にやけつき燃上り。蠻船ことごとく火となり。蠻賊三百人ばかり燒死して水中に沈む。舟に載來りし白金二十餘万兩。白糸二十万餘斤。金鏁。金環。繡羅。布帛沈沒す。其中にかろき品は。海上に水みえぬまでうかみたり。晴信これをば左兵衛藤廣に。よきにはからふべきよし示し置。その身は立かへり。直に國をいでゝ十五日に駿府にいたりうたへければ。大御所御感淺からず。また左兵衛藤廣。弟忠兵衛藤繼兄と共に年々長崎に來り互市を監察す。こたびも小船にのり彼船主安仁を討取たりとぞ。また海上にうかみたる糸類は。ことごとく駿府へ收公せられしとなり。長崎天主教寺には。蠻船よりあづけ置たる糸三千斤。小匣の類五千ばかりありしとぞ。(有馬傳記。烈祖成績。慶長年錄。一說には阿媽港の加毘丹眞如盧等。日本人こゝに往來せば。我國互市の障りとなるべしとて。利をもてあざむきみなごろしにせしともみゆ。烈祖成績。)
○十一日石川主殿頭忠總は外祖日向守家成が家つぎ。濃州大垣に就封するに及び。其身弱年なり。從祖叔父大久保權右衛門忠爲は老功の者なれば。彼をともなひ政務の輔導をうけん由こひしに。大御所ことはりと聞召。忠爲をめして。忠總いまだ少年之。其こひにまかせ。付そひて輔導すべしと仰付らる。また松平左馬允忠ョが國除かれし後。遠州M松の舊領狼籍やむときなし。よて水野備後守分長。
水野對馬守重仲をして。M松城につかはされ。かの地を監察せしめらる。この日大雪。(慶長年錄。當代記。)
○十二日常陸介ョ宣朝臣を遠江駿河兩國五十万石に封ぜらる。(家譜には十五年の事とす。)また遠州須賀城主松平國千代。久野金五カ宗成等八人の大名を。朝臣の麾下に所屬せらる。また國千代が幼雅の程は。安藤帶刀直次その國務を沙汰すべしと仰付らる。上野國大胡城主牧野右馬允康成卒しければ。其子駿河守忠成に原封二万石つがしめらる。この康成はそのむかし三河國牛窪の城にありし右馬允成定が子にて。初め新次カといふ。御名の字給はり右馬允康成とあらたむ。父うせて後一族出羽守某と。所領の地をあらそふ事ありしが。水野下野守信元に仰せて。出羽守をば追却せられ。康成に本領安堵せしめらる。長篠の戰に酒井左衛門尉忠次と共に。鳶巢の要害を攻落し。遠州諏訪原の城を守り武田信玄を押ふ。七年持舟の城をせめ。八年田中城のほとりの麥刈らせかへらせ給ふとき。敵城より打ていで御後を襲はんとす。康成とつて返してうちやぶりぬ。天正十年勝ョの押として興國寺の城を守り。また伊豆の柾戶。駿河の長窪を守り。十二年十月その城を給ふ。十六年四月從五位下に叙し。十八年上野國大胡の城給ひ二万石を領す。慶長五年石田が反逆するに及び。康成その子新次カ忠成父子。今の御所に從ひ山道を打てのぼる。八月七日眞田安房守昌幸が兵上田の城より切て出。味方散々にうちなさる。新次カ忠成生年十六歲。手勢引具しまつさきに進み。追來る敵兵を打破り。つゞく味方の軍勢と同じく城に追つめて。旣に城を破らんとす。かゝる所に御本陣より御使馳來。御下知をもまたず城を責ん條。以の外のことと制しとゞめられ。其後も本多佐渡守正信が申沙汰して。このとき城をせめのぼりし大久保牧野二人がカ等を誅すべきよしを令し下さる。忠成これをがへんせず。いかに仰なればとて。高名したらん者を罪しなんに。此後誰あつてはかばかしき軍をもせめ。しかじ所領をすてゝカ等と同じく世を遁れんと。その日に主從逐電す。康成これがために罪蒙り。上野の吾妻に蟄居せしが。九年若君。(大猷院殿。)御誕生の事ありて。康成父子ゆるされ本領を安堵し。康成はけふ五十五歲にて卒せしなり。(藩翰譜。慶長年錄。家譜。創業記。ェ永系圖。)
○十三日寒節にいる。(當代記。)
○十五日島津兵庫頭入道惟新こたび琉球國を賜はりしを謝し。江府に太刀。馬。緞子十卷献じければ。御書を賜ふ。(家忠日記。)
○十六日大番松波五カ右衛門勝安弟市右衛門正俊はじめて見え奉り。大番に入られ采邑三百石たまふ。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿二日松平安房守信吉の子勘四カ與吉カ二人。江府の御前に召て首服加へられ。ともに從五位下に叙せられ。御名の字給はり。勘四カは山城守忠國。與吉カは伊賀守忠晴とあらたむ。忠國に包永の御刀。忠晴に行光の御脇差を給ひ。忠晴は小姓になる。此日また左衛門督ョ房朝臣常陸の水戶の城廿五萬石給ふ。(藩翰譜には。廿八萬石なりといふ。)これまで領せられし下斐をあはせ給ひしなり。又常陸介ョ宣朝臣の老臣水野對馬守重央遠江國M松城給ひ。加恩ありて二萬五千石餘になる。(ェ永系圖。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿六日島津陸奥守家久琉球國を給はりし謝とて。駿府に佛桑花。もり花。硫黃十斤。唐屏風。繻珍十卷を献じければ。大御所書を給ふ。此日江戶にては御所笠原兵部大輔秀政が和田倉の邸へ臨駕し給ひ。秀政に廣光の御脇差並小眞壷を給はり。信濃守忠脩。春松丸忠眞にも賜物數々あり。酒宴舞曲黃昏におよび還御なる。家忠日記。家譜。)
○廿七日山口長次カ重信叙爵して伊豆守とあらたむ。(ェ永系圖。)
○廿八日岡部左京宣勝爵たまひ美濃守と稱す。竹中丹後守重門歲暮を賀して物奉り。御內書を下さる。(ェ永系圖。)
○廿九日叙爵五人。小姓土方鍋之助雄重は掃部頭。森對馬守可政が子次カ兵衛重政は伊豆守。戶澤九カ五カ政盛は右京亮。一柳監物直盛が子入道直重は丹後守。二子禪門直家は美作守と稱す。書院番大久保牛之助長重采邑三百石たまふ。(ェ永系圖。家譜。)
◎是月大御所岩槻のあたり御鷹狩し給ひ。高力攝津守忠房が城に立ちよらせたまふ。忠房がこの城は三月災にかゝり。ことごとく燒しが。いつも御狩の折ふしやどらせ給ふ所になされしかば。忠房夜を日につぎて搆造し御ましとすべき所をもつくり出し。御儲例にかはらず。大御所その用意のほどをおどろかせ給ひ。御感なゝめならず。かへらせ給ひて後忠房が弟河內守長次を御使になされ。白銀二百枚たまはりて賞せらる。(ェ永系圖をはじめ。諸書みな此年にかくるといへども。此冬は關東にならせたまはず。别年の事なるべし。)又コ永式部昌成叙爵して少輔と稱す。美濃三河の諸大名越年のため駿府に參る。(ェ永系圖。慶長年錄。)
◎是年松平紀伊守家信子又七カ康信。北條出羽守氏重。小出甚太カ重堅。本多小平次光次。森川助右衛門長俊。神尾勝左衛門保重。小林長五カ直次。植村庄二カ正相。山上長兵衛忠勝。諏訪部源二カ定矩。溝口新左衛門常勝。本多十藏玄重。玉虫助大夫重茂。鍋島彌平太正茂。(此時四歲。)桑島彌六カ吉宗。佐野外記政成江府にて拜謁し奉る。
安藤對馬守重信養子勝藏重長。一柳監物直盛子丹後守直重。美濃國奉行岡田善右衛門善。同子左京義政。宮城丹波守豐盛の孫十次カ豐嗣。小林長左衛門重成子長五カ直次。代官中西彥助實C子太カ右衛門三C。京醫秦壽命院コ隣共に駿府にいたり。大御所に拜謁す。牧野伊豫守成里が四子織部成常。小出大隅守三尹。水邸の老中山備前守信吉が子內記信政。高木志摩守一吉四子彌右衛門吉次。石谷友之助C正弟十藏貞C。本多九藏秀玄二子五カ左衛門吉里。矢橋喜兵衛忠重が孫五カ左衛門重ョ。佐橋甚兵衛吉次弟源大夫吉金。野口兵左衛門成次。梶川平七カ分勝が子半左衛門分好。伊藤助藏正重。杉原四カ兵衛正永。故筒井家士中西伊豫守元如。幷に其子主水正元吉。故北條家の士御嶽五カ左衛門吉定子長兵衛忠勝は山上とあらため。京醫細川紹高全隆はじめて江府に奉仕し。內記信政半左衛門分好は小姓組にいり。信政は廩米五百俵下され。源大夫吉金は燒火間番となり。十藏貞C大番になる。長坂茶利九カ信次。(みづから故血鎗九カ信宅が子なりと訴出て召出さる。)大御所につかへ奉る。田中筑後守忠政從四位下侍從にのぼせらる。水野六左衛門勝成が子長吉勝俊叙爵して美作守と稱し。久野金五カ宗成は丹渡守と稱し。森川內膳正重俊下野國にて三千石。龜井武藏守玆矩が子豐前守政矩は伯耆國にて五千石。大久保左馬允忠知は三百石。田中小右衛門某は四百石新に采邑を下され。溝口伊豆守善勝は二千石加恩あり七千石となり。使番永井監物白元は二百石加へて五百三十石餘となり。大番組頭荒川長兵衛重世は二百五十石加へて。八百五十石餘になり。諏訪部宗右衛門定吉は三百三十石加恩ありて。八百三十石となり。矢部掃部定Cも采邑加へて。四百四十石となり。土方宇右衛門勝直は月俸を給ふ。桑山又四カC明は御勘發有て。所領一萬石沒入せられ。父伊賀守元晴にたまはり。合て二万六千三百八十石餘になさる。秋元但馬守泰朝駿城にて万石以下の輩を支配せしめらる。水谷伊勢守勝隆常州笠間の勤番を命ぜらる。松平主殿頭忠利駿州持舟。關部。湊の石壘を修築し。分部左京亮光信京知恩院造營の奉行を仰付らる。加藤金左衛門正繼近習につかふまつる。安藤傳十カ定智。町野勘左衛門正朝。江府書院番となり。伏屋新助爲次は駿府にて初見し小姓となり。伊奈備前守忠次五子五左衛門忠雪は國松君に附られ。小林權大夫正吉。杉浦彥左衛門親春は大番にいり。野々山新兵衛兼綱腰物奉行となり。井手藤左衛門正信。鈴木八右衛門隆次。佐野平兵衛正重代官となり。正信正重は廩米二百俵づゝ。隆次は采邑百二十石給はる。三橋藤兵衛盛忠子藤七カ盛次。吉田與助正定鷹師となり。桑島孫六カ吉宗三百石たまひ。馬預となり駒井とあらたむ。竹中貞右衛門重定は右兵衛督義直朝臣に附られ。西山太カ兵衛昌綱。跡部茂右衛門正次は上總介忠輝朝臣に附られ。昌綱が家は其養子長左衛門昌削。正次が家は其子庄五カ重員につがしめられ。御家人たらしめらる。山口駿河守直友は丹波郡代を辭免す。石川九カ兵衛忠吉が子傳七カ忠久。飯田彌兵衛宅重が子源一カ宅次。ともに父死して家つぐ。また戶田采女正氏銕が子新次カ氏信時に十一歲。駿府にめされ所領の事を尋させ給ふ。幼年といへどもそのこたふる所詳明なりければ御褒詞を蒙る。三宅惣右衛門康政は御勘發を蒙り。從弟鳥居左京亮忠政所領奥州岩城に閑居する事十年。竹腰小傳次正信には大御所御手づから持筒三挺下され旅中もたらしむべしと仰を蒙る。又天守に大久保相摸守忠隣をめし。養女を嫁し正信を聟として。ゆくゆく周旋すべしとの面令を蒙る。又五三年このかた書籍を梓に上す事はじめて行はれ。永世の重寳これにすぎずと世人大によろこぶ。また蠻船互市の糸。ならびに板物の類販賣を停禁せらる。よて世上織物の價俄に騰貴して。衆庶大に難困せり。また眞田安房守昌幸は石田の與黨なりければ。所領沒入せられしかど。其子伊豆守信之が孝心に感ぜられ。首を刎らるゝ事をゆりて。高野山の麓久土山に蟄居せしが。ことし六十五歲にて死す。又ことのし京より東の國々五穀みのらず。西國豐饒なり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。斷家譜。家譜。貞享書上。當代記。烈祖成績。) 
卷十二 / 慶長十五年正月に始り四月に終る御齡三十二 

 

慶長十五年庚戌正月元日。江城歲首の朝會例のごとし。駿城慶會又同じ。江府より大久保加賀守忠常歲首の御使として賀したまふ。(御年譜。創業記。)
○二日江城謠曲始の式例のごとく行はる。着座左は松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。松平外記忠實。本多伊勢守康俊。松平主殿頭忠利。右は最上駿河守家親。小笠原兵部大輔秀政。淺野彈正少弼長政。西ク出羽守康員。野駿河守忠成なり。駿城にて豐臣右大臣秀ョ公より。歲首の賀使として伊藤掃部助治明まうのぼる。(慶長年錄。慶長見聞錄。外記書上。御年譜。創業記。)
○六日三州代官鳥山丹波精俊死して。その二子牛之助精明家つぎ父の原職を襲ふ。(斷家譜。)
○八日松前伊豆守慶廣駿府にまいり拜謁し奉る。(家譜。)
○九日大御所駿城より田中へ御狩としてならせられ。これより十四日まで所々かりしたまふ。又尾州名古屋に新城築かるべしと。去年より使番牧助右衛門長勝を監使として經營せしめられしが。いよいよこの二月より不日に搆造すべしと仰付らる。(御年譜。創業記。家忠日記。)
○十一日大御所遠江國相良の邊に狩したまふ。この日角倉了以光好に安南渡海の御朱印。平野孫左衛門長谷川權六へ呂宋渡海の御朱印。大村丹後守喜前家人江島吉左衛門へ暹羅渡海の御朱印。負田木右衛門へ交趾渡海の御朱印をたまふ。(慶長年錄。慶長見聞書。御朱印帳。)
○十三日大御所今夜節分なれば。相良より駿城へかへらせ給ふ。(創業記。當代記。)
○十四日立春。
○十五日有馬修理大夫晴信駿城へ參り拜謁す。大御所晴信が去年蠻舶焚攻の功を褒したまひ。御手づから名刀を給ふ。この日松前伊豆守慶廣その國產の鷹四聯獻ず。(大三川志。家譜。)
○十六日松前伊豆守慶廣就封の暇はり。時服五襲かづけらる。(家譜。)
○十九日大御所田中の邊に狩し給ふ。吉良にて丹鶴を得らる。(創業記。當代記。)
○廿一日大澤兵部大輔基宥大內歲首の御使にさされ暇賜ふ。又都筑市左衛門吉久死しければ。その孫平藏則久八歲家つがしめらる。其養子平右衛門法久多病によてなり。(勸修寺記。ェ永系圖。)
○廿二日本多佐渡守正信仰を奉り。有馬修理大夫晴信蠻舶焚攻の功を褒せられ。大御所御手づから御刀給はりし由を。江戶の御所にも聞召。殊更御感あり。猶嚴旨を守り其地を鎭衛すべしとの御旨をつたふ。去年蠻舶焚燒せし時。海上に浮みし糸數千把は。晴信にくだされ。水底に沈みたる金銀は。長崎奉行長谷川左兵衛藤廣に下さる。蠻人の此國にのぼりたるは。小船にのせて阿媽港へ送り返さる。又龜井武藏守玆矩に暹羅渡海の御朱印を下さる。(大三川志。御朱印帳。)
○廿三日土井大炊頭利勝下總國小見川の所領を轉じて。同國佐倉の地を賜はり。二万二千四百石餘加恩ありて三万二千四百石になさる。(ェ永系圖。武コ編年集成。榮松錄二月十五日とす。家譜閏二月。ェ永系圖は月日をしるさず。今編年による。)
○廿四日大御所田中より中泉に狩し給ふ。(御年譜。)
○廿五日大村丹後守喜前家人江島吉左衛門へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。圍棋の徒去年より江戶に伺候せしが。けふ駿府に參る。(御朱印帳。當代記。)
○廿六日松平又七家信叙爵して紀伊守と稱す。(ェ永系圖。)
◎是月長崎奉行長谷川左兵衛藤廣駿府に召て。去年蠻舶焚燒の事のさままのあたり聞召る。(家譜。)
○二月二日大御所中泉より田中へまいらせ給ふ。この頃日々御道すがら鷹狩せらる。(創業日記。家忠日記。)
○三日大番組頭齋藤久右衛門信吉伏見にて死す。その子久右衛門信正家をつぐ。この信吉は眞田陣のとき。鎗あはせしとて咎蒙りて。上野國吾妻に蟄居し。後めしかへされて大番となり。采邑四百石たまひこの日死せしなり。(家譜。ェ政重修譜。)
○四日駿城に還御なる。この御狩に得たまふ所。鶴三十六。鴈鴨は枚擧にいとまあらず。四年のさき中原の御旅舘にて。金の茶具ぬすみたる賊。こたび搦とらる。よてその夜宿直の番士落合長作某。岡部藤十カ某。會田庄七カ資勝等皆罪ゆるされて出仕す。(御年譜。家忠日記。慶長年錄。)
○五日吉良上野介義彌江戶より。大內歲首の賀使にのぼせらる。大御所このほど遠州の御狩に得たまひし鶴を。大內に進らせ給ふ。(勸修寺記。)
○十三日先手鐵炮頭坪內玄蕃利定死して。その子源太カ家定家をつぎ父の原職を襲ふ。利定が父は玄蕃勝定とて。織田家につかふ。利定天正十八年より。當家に仕へ戰功あり。上總國にて采邑二千石を賜ひ。のち同國の內にを以て。千四百石を男四人にたまはり。すべて三千四百石を領し。關原にも高名し。今年七十二歲にて終をとる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十六日松前伊豆守慶廣江府に參覲しければ。御茶室にめし御みづから御茶を賜ふ。小出大和守吉政。瀧川刑部卿法印雄利入道一路。猪子內匠頭一時伴食す。はてゝ慶廣就封の暇たまひ。時服五銀千兩たまふ。(家譜。)
○十七日片桐市正且元大坂をいでゝ駿府に參る。豐國社臨時祭の事聞え上むがためなり。(舜舊記。)
○十八日大番長井C大夫盛實死す。その子C大夫正實はェ永二年に及び。家つがしめらる。(家譜。)
○廿日御所駿府にわたらせたまはむとて江城を御首途あり。これあらかじめ三河の田原山にて。猪狩し給ふべきよし。駿府より仰進らせらる。よりて霖雨たりといへども。上總介忠輝朝臣をはじめ若干の人數を引具していでます。江戶より駿府へならせたまふによて。供奉の法令を仰下されしは。こたび御供の途中脇道すべからず。市街の路上左右の家に近よらず。何事も隱便に供奉すべし。御旅館へつかせたまふとき。下馬せし所に馬を置路を開き。供奉の人並に器械を通じ其後馬を通すべし。もし奉行の指揮を違犯せしやからは。償銀一枚出さしむべし。供奉の時馬の口をとらせ。幷高談等停禁せらる。これを犯すものは償銀上に同じ。騎馬の中へ乘替の馬を混入すべからず。犯すものはこれ又上に同じ。たゞし上より召を蒙りて參る輩の馬は此限にあらず。馬際の從者は馬取二人。沓持一人。草履持一人たるべし。組頭は歩侍一人召具すべし。此外はかたく停禁すべし。もしこれにそむく徒は償銀上に同じ。御馬の邊へ陪臣入り交るべからず。陪臣の中へ直參混入すべからず。此旨下々奴僕までも。その主より嚴に教諭すべし。もしそむくものあらば。其主より償銀出さしむべし。旅宿の事は奉行の指揮にまかすべし。さきに御上洛のとき。定制を仰出されしごとく。驛舍にては木錢をさづくべしとなり。(創業記。當代記。武コ編年集成。令條記。)
○廿一日ことさら暴雨にて近國水まし。川々渡る事を得ず。池田宰相輝政。淺野紀伊守幸長。加藤左馬助嘉明。有馬玄蕃頭豐氏等の諸大名駿府へ參覲のともがら。これがために路次に滯留す。(當代記。慶長年錄。)
○廿三日大雨やまず。(慶長年錄。)
○廿四日御所には雨を冐して駿城へ入らせ給ふ。松平越後守忠俊が長臣堀監物直次。(一本直Cに作る。)その弟丹後守直寄と確執に及ぶ事あり。(御年記。創業記。世に傳ふる所は。兄弟國柄を掌り權を爭ふ事久し。然るに近日互の家僕等菖蒲切の爭論よりおこりふわとなる。直次弟の事をあしく主の忠俊に讒しける。忠俊今年十一歲。何のわきまへもなく讒を信じ。直寄を放逐せしかば。直寄大に憤り關東にまいり。一封の書をさゝげ直次の惡を訴へ。また駿府にもさゝげしといへり。藩翰譜。)直寄は直重。直之。直忠等の兄弟三人。飯野內膳等と共に江戶に參り。一封の書をさゝげ。直次が惡事をうたへしが。このほど御所駿府へならせ給ふにより。けふ又駿府にまいりうたへ。幸に兩御所の御裁斷を仰ぐ。(大業廣記。)
○廿五日溝口某を京にのぼせ。親王の御けしき伺はせ給ふ。(西洞院記。)
○廿六日瀧川刑部卿法印雄利入道一路卒す。その子壹岐守正利をして家つがしめらる。此法印は伊勢國司北畠宰相晴具卿の三子左中將具政朝臣の二子にて。伊勢の木曾といふ地に住しければ木曾と號す。永錄十二年より織田家につかへ。瀧川左近將監一益が甥なりとて瀧川を稱す。又信雄卿より一字をたまはり。三カ兵衛雄利といふ。信雄卿のかたにては第一のきりものにて。しばしば戰功あり。豐臣太閤にしたがひ羽柴をたまはり。叙爵して下總守と改め。伊勢の神戶城を給はり二萬石を領す。慶長五年關原の戰終りて後。所領沒入せらる。後にゆるされて近侍し。常陸の片野にて二万石たまはり。入道して刑部卿法印に叙し。江戶にまいりて御談伴に加はり。けふ六十八歲にてうせぬるなり。(ェ永系圖。家譜。)
◎この月池田宰相輝政駿城にのぼり拜謁す。そのとき三男宮內少輔忠雄に。淡路の國を給ふべきよし仰下され。輝政にも鷹馬を給はり就封の暇を給ふ。(ェ永系圖。)
○閏二月二日松平越後守忠俊及び其臣堀監物直次。同丹後守直寄。淡路守直重。主計助直之。伊賀守利重等を駿城の本丸に召て。訴論を對决せしめられ兩御所聞し召る。諸老臣陪座す。越後守忠俊一封の書をさゝげ。監物直次が訟をたすく。大御所御側の人をしてこれを讀せ聞召れ。忠俊幼弱の者いかでかゝる事を辨ふべき。これ皆監物が私につくる所明らかなりとて聞召入れられず。さて直次直寄の兩人に對决せしめらる。直次遂に非據にさだまり。直次は出羽の最上に配流せられ。最上出羽守義光にあづけらる。忠俊幼弱にて讒臣にまよひ。邪正を辨へず讒者をたすけんとするをもて。大國を封ずる器にあらずとて。忽に越後の國四十五萬石を奪はれ。奥州岩城に謫せられ。鳥居左京亮忠政にあづけらる。(創業記。家忠日記。藩翰譜。世に傳ふる所。この日大御所には障子をへだてゝこの對决を聞召けるに。直寄は監物國にありて。淨土日蓮の僧徒十餘人をあつめ宗論をなさしめ。淨僧非據なりとて皆誅したるよし申けるを聞たまひ。以の外御けしきそんじ。其宗論は誰が免許し。誰勝敗を評决せしぞ。汝が愚慮を以て宗論を决し。沙門を私に罪する條。驕縱この上あるべからず。この一事にてその他の邪曲しるべしとて。忽に罪に决せられしといふ。藩翰譜。烈祖成績。)
○三日上總介忠輝朝臣越後國を給はり。舊領信州川中島にそへてことに六拾万石に封ぜられ。頸城郡高田の城にすましめ給ふ。越後柴田城主溝口主膳正宣勝。村上の城主村上周防守義明。其外前田玄蕃頭秀敏。(一本津田につくる。)
以下の國士等は皆朝臣に附屬せらる。其臣松平甚兵衛信直は糸魚川の城をあづかり。叙爵して筑後守と稱す。祿万石に及ぶ。松平庄右衛門C直は叙爵して出羽守と稱し。宮川の地五千石下され。山田隼人正世は村松の城をあづかり。花井遠江守某は松代の城を守る。祿二万石たり。松平越後守忠俊が妻は本多美濃守忠政が女なるを。大御所御やしなひありて。配遇し給ひしかば。これを駿府にむかへ給はむとて。御使二人命ぜらる。上總介忠輝朝臣越後へ就封せらるゝ前は。小笠原兵部大輔秀政。石川玄蕃頭康長。眞田伊豆守信之に高田城を警衛すべしと命ぜられ。國中の諸城を請取らしむ。丹波守直寄は罪なしといへども。兄弟訴論により坂戶の城は收公あり。所領二萬石减じ御家人に召出され。新に三萬石給ひ。信州飯山の城主とせらる。(御年譜。家忠日記。慶長見聞錄。武コ編年集成。慶長年錄。天元實記。)
○四日上總介忠輝朝臣越後に封ぜられしかば。就封せらるべきため。まづ駿府を辭して江戶に赴かる。(慶長年錄。)
○八日尾州名古屋の城新築をいそぎ給へば。駿府に參覲せし諸大名。みな暇給はりて尾州に赴く。松平筑前守利常。加藤肥後守C正。池田宰相輝政。K田甲斐守長政。鍋島信濃守勝茂。淺野紀伊守幸長。福島左衛門大夫正則。田中筑後守忠政。細川越中守忠興。山內對馬守康豐。松平長門守秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守至鎭。寺澤志摩守廣高。生駒讃岐守一正。木下右衛門大夫延俊。竹中丹後守重門。金森出雲守可重。毛利伊勢守高政。一柳監物直盛。一柳丹後守直重。稻葉彥六典通等の西國北國のともがら。各人數に家臣をそへ出し。名古屋の地に假舍を設けて群參す。使番佐久間河內守政實。山城宮內少輔忠久。瀧川豐前守忠征。牧助右衛門長勝。村田權右衛門某はその奉行としてまかる。名古屋はそのかみ武衛義統尾州より遠州に出陣し。今川治部大輔義元と雌雄をあらそひしに。武衞戰負て遂に和睦す。義元は弟左馬助氏豐に武衛の妹をあはせ。名古屋の地にすましむ。(今の二丸の地なりといふ。)その後織田信秀の時。又これを攻とる。天正十三年信雄卿尾州を領しけるに。こゝに城を築かんと經營をはじめけれど。砂土深く井水を得ず。上下心スばず中葉にして廢したり。こたびは石壘を築造せらるれば。土地惡きにもかゝはらず。不日に構造をいそがる。これC州の城は地僻にて。東海の樞要とするにたらず。且水害多ければ轉換せらるゝとぞ聞えける。(創業記。當代記。坂上池院日記。ェ永系圖。張州府志。武コ編年集成。世に傳ふる所は。福島。池田。淺野等の諸將は去年丹波笹山城を築く事課せられしかば。名古屋の役をばゆるさるべしとおもひしに。又今年も課せらる。よて加藤。池田。淺野。福島等此頃會集せる折から。福島正則密に輝政にむかひ。近來頻に土木の事盛に興る。江戶駿府は天下の重鎭なればさもあるべし。名古屋は庶子の住居なり。それに我等再三驅使せらるる事。最たえがたき處なり。御身は駿府の愛壻なり。我等が爲に此事を愁訴し給へと申ける。輝政さらに答ふる旨もなし。C正髯をふるひ笑て福島にむかひ。御身など言ばをいだすの卒忽なる。今城築くことの勞に堪ざらむには。速に歸國して謀反せらるべし。もし又謀叛せん事かなはずば。はやく下知にまかせ。工役をいそがるべしと申ければ。たがひに笑ひとなりてその座は散じたり。其後駿府に諸大名參りしとき大御所對面し給ひしついで諸將近年工役に疲れしよし風說す。もししからんには速に歸國し。城を高くし池をふかくし。吾いたらん日を待るべしと御たはむれごとの樣に仰けるに。此人々大に恥恐れ。急に廿萬の人數を董し。不日に城郭成功せしといへり。武コ大成記。烈祖成績。慶長見聞錄。)此日和州高取城主本多因幡守俊政卒す。其子左京政武原封三萬石をつぐ。俊政ははじめ大和大納言秀長卿の臣にて。關原の時より大御所につかへたりとぞ。(烈祖成績。斷家譜。)
○十日御所三河の渥美郡田原に鹿狩し給はんと駿城を出まし。今夜は田中にやどらせ給ふ。大久保相摸守忠隣。山播磨守忠成。內藤織部正正成。土井大炊頭利勝。牧野內匠頭信成。菅沼左近定芳。井伊掃部助直孝。本多出雲守忠朝等をはじめ。供奉行裝尤美麗を盡すといふ。(創業記。當代記。紀年錄。家譜。)
○十三日大御所第五の御女市姬君は。松平陸奥守政宗の二子總次カへ降嫁の事兼て定められしに。けふにはかなる事にてうせ給ふ。わづかに三歲。御生母おかちの局悲歎はさることにて。政宗がなげき大方ならず。やがて駿府城下の華陽院にをくり參らせ。一照院と追謚す。(一說十二日といふ。創業記。當代記。薨日記。)
○十四日御所三州田原に獵し給ふ。桑島孫六カ吉宗鹿を捕へしかば直に給はる。(御年譜。創業記。)
○十五日雨によりて田獵なし。(御年譜。創業記。)
○十六日大久保山藏王山に獵し給ふ。三遠の人數をかり出し勢子とし。數十里をかこむ。群卒凡二万人。呌び呼ぶ聲幷矢をはなち。銃をはなつ音山谷にひゞき雷霆のごとし。この日得らるゝ所の鹿二十餘頭。ならびに猪狐兎あまたなり。
本多中務大輔忠勝去年より引こもりて桑名の城にありしが。けふこゝにまいり拜謁し。御行裝の盛なるを稱し。そのかみ武田信玄が三方原に出張せし軍粧も。かほどまでにはおもはれざりしと申て。老淚をぬぐひたり。(紀年錄。慶長日記。貞享書上。)
○十七日藏王山に田獵し給ふ。鹿二百四十七頭。猪二十二頭かり得給ふ。その中にも阿倍四カ五カ正之は兼て射藝に達しけるが。けふも鹿猪各二頭づゝ射留たり。安藤次右衛門正次大猪を射留弓矢を賜ふ。又鎗にて大猪をつきとむ。其鎗うしろの巖にとほる。岩突といふ名をたまふ。しかる所に永井信濃守尙政が隊下の番士中川八兵衛某。岡部八十カ某と爭鬪に及ぶ。井伊掃部助直孝左備の隊長なりしが。馬に鞭あて速にはせより。大竹の杖をふりあげて双方を押分る。そのひまに中川が從者岡部を討しかば。八兵衛某も死を給ふ。騷動にも狩塲の諸士法令を守り。一人も爭鬪のかたには面をむけし者もなく。隊伍みだれざる事。御所法令のたぐひなきさま誠美觀なりとて。世以て稱讃せりといふ。(御年譜。創業記。ェ永系圖。貞享書上。慶長年錄。慶長見聞書。)
○十八日雨ふりければ御狩なし。勢子の疲を勞はせらる。片桐市正且元は暇給はり。駿府を出て歸坂す。(慶長見聞書。舜舊記。)
○十九日御所の御生母寳臺院殿忌辰によて狩し給はず。(創業記。)
○廿日日留和山に獵せられ。鹿百五十頭。猪三十四頭得給ふ。(御年譜。家忠日記。)
○廿一日雨によて御狩なし。(慶長年錄。)
○廿二日若見山秼山に獵せられ。鹿百六十二頭。猪廿三頭を得給ふ。此夜田原の泉福寺にやどらせ給ふ。(家忠日記。慶長年錄。)
○廿三日多坪馬塲に獵せらる。けふは供奉のともがら。馬歩の勢子弓銃を禁ぜられ。各竹杖を以て狩立しめらる。鹿五十二。猪二得給ふ。其中に牧野內匠頭信成。阿倍四カ五カ正之は别の仰によりて。馬上に弓箭を帶す。信成御前に於て大鹿を射とめ御感を蒙る。この日申刻東西赤雲數條たなびく。(慶長年錄。慶長日記。當代記。)
○廿四日田原を立給ひ。こよひは小松原の東觀音寺を御旅館となさる。(家忠日記。慶長年錄。)
○廿五日伊藤九左衛門正知死して。其子雁助正信つぐ。(家譜。)
○廿七日駿城にかへりいらせ給ふ。(慶長見聞錄。)
○晦日日蝕す。(當代記。慶長年錄。)
◎是月尾州名古屋築城を課せられざる輩池田備中守長吉等の大名に。丹波龜山の城を築かしむ。(ェ永系圖。家忠日記。)
○三月朔日山內對馬守康豐駿府に參覲す。御所御家號御幷に御名の字を賜はり。從四位下に叙せられ。松平土佐守忠義と改む。又淺野彈正少弼長政の二子但馬守長晟に。備中國にて所領二万石(一說二万四千石。又二万五千石。)賜ふ。(ェ永系圖。慶長年錄。世に傳ふる所は。長晟大坂秀ョに仕へ。小姓頭にて三千石領しけるが。今度關東につかへむと願ふをもて。かく所領多まし給ふ。兄紀伊守幸長が女を尾張義直朝臣の北方にさだめさせ給へば。一かたならぬ御ゆかりにより。一族みな恩遇あつくましますなりとぞ。武コ大成記。)これ先に沒入せられし故木下肥後守家定が舊領なり。又小出播磨守吉政二子信濃守吉親上野の內にて。采邑二千石下さる。(武コ大成記。ェ永系圖。)
○二日安藤次右衛門正次伏見城の監使命ぜられいとま給ふ。(ェ永系圖。)
○五日御所駿府を出まし。江戶におもむかせ給ふ。御發輿にのぞみ。大御所御對面ありて。義直ョ宣兩朝臣年なほいとけなし。我なからむ後も。彼等成立のほど懇に訓戒し給ふべしと託し給へば。御所かしこまり申させ給ひ。しきりに御淚袖をうるほされ。御道すがら御與中にても。御眼を拭はせ給ふを見奉り。供奉の輩その御孝心を感じ奉れりとぞ。(創業記。慶長日記。)
○十日尾州名古屋築城の地にて。K田甲斐守長政の藩士。平岩主計頭親吉が家士と爭論し。兩人ともにうちはたす。(慶長年錄。)
○十一日勅使廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿。所司代板倉伊賀守勝重をともなひ。この日京を出て駿府に赴かる。近年御讓位の事思召立せ給ふ故とぞ聞えし。(御年譜。創業記。)
○十八日讃岐國高松城主生駒讃岐守一正卒す。四月に及むでその子左近將監正俊に。原封十七万千八百石餘を襲しめらる。この一正は故雅樂頭親正の長子。はじめ父と共に織田家につかへ。天正五年二月紀伊國雜賀發向のとき出陣して高名し。十九年叙爵して讃岐守と稱し。文祿元年父とおなじく朝鮮にをしわたる。慶長二年蜂須賀脇坂等と共に第七の備にありて。淺野幸長をたすけて奮戰し。また南原の城をぬく。五年大御所上杉御征伐の時從ひ奉りて。下野の小山に着陣す。上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。K田。藤堂。田中等の諸將と共に。御駕に先立て攻のぼり。ク戶の渡にて敵兵を打破り。岐阜落城の事を告奉りしかば。御書をたまひ其功を褒せらる。九月十五日關原の戰に先鋒に有て。多く首級を得たり。六年五月父が本領を給ひ。七年丸龜城をあらためて今の城にうつる。十三年五月廿三日妻子を江戶にうつしすませければ。御感のあまり所領課役の半をのぞかれ。けふ五十六歲にてうせぬ。(家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○十九日駿府にて常陸介ョ宣朝臣猿樂をなしてみせ給ふ。(當代記。)
○廿二日井上周防守之房が子小姓太左衛門庸名叙爵して淡路守とあらたむ。(ェ永系圖。武コ編年集成。)
○廿四日富永甚四カ直則死して。其子甚四カ勝由つぐ。直則が父は山城守政展といふ。小田原北條家臣にて。氏直の諱を給はり直則となのりしが。北條亡びて後天正十九年御家人に加はれり。(ェ永系圖。)
○廿五日中院前中納言通勝入道也足軒卒す。五十三歲。この卿當時に於て博學有職其右に出る者なし。岷江入楚を著はしたる也。足軒素然といふこれなり。(これ皇朝の縉紳にして武家の人たらずといへども。廿五年の間隱遁して。當世に於てひとり文雅風流の柄をとる事久しく。都鄙仰望する所をもて。こゝにかゝげ置なり。)又代官中西彥助實C死す。八十七。其子太カ右衛門三C家をつぐ。(慶長年錄。ェ永系圖。)
○廿八日駿城後閤の女房竊盜の罪に處して誅せらる。(當代記。慶長年錄。中泉御旅館にて金の茶器うせたるも。この女房のしはざなりしとぞ。)
◎是月南部信濃守利直駿府に參覲しければ。しばしば召れて鷹馬の事など御物語あり。又御茶室にめして御茶給はり。道阿彌肩衝の茶入を下され。やがて利直が茶會に赴かまほしとの御旨を蒙る。また丁未の年高野山遍照光院住職をョ溪に命ぜられしより。ョ溪恩寵にほこり一山の寺務を專らにし。すこぶる暴のふるまひ多く。寳性院弟子罪なきを。をのが心に應ぜずとて山中を追却し。また聖方の坊舍昔より棟高きを。ョ溪あながちこれを停禁せむとしければ。寳性院政遍駿府に參り其よしをうたふ。大御所おどろかせ給ひ。雙方對决せしめられしに。ョ溪が驕縱のさままがふべくもなかりしかば。先年さづけられし御印書を召上られ。寳性院政遍に下さる。また江戶櫻田愛宕山圓福寺の本社幣殿樓門以下造營せしめらる。石川六左衛門重勝その奉行たり。(家譜。慶長年錄。大三川志。武コ編年集成。世に傳ふる所は。天正十年織田右府本能寺にて事ありし時。大御所泉の堺より大和路をへてかへらせ給ふ時。江州の多羅尾四カ兵衛光綱が宅にやすらはせ給ふ。其時光綱兼て秘藏して尊信する勝軍地藏の像を獻ず。慶長八年かりにその像を。この地に安置せしめられしが。この時にいたり社壇堂舍莊嚴を加へられしとぞ。)御所江戶に還御の後。田原の御狩に供奉せし妻木權左衛門ョ利花畑番になさる。(家譜。)
○四月二日本多佐渡守正信。酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信して。高野吉野の山僧等に奉書を送り。兩御所の命にそむきし關東の士は。高野。吉野。多武峰。勢州朝熊に住居せしむべし。よて住居するもの姓名を注記して奉るべしとなり。又日光山座禪院。筑波山知足院。足利鑁阿寺。房州C澄守には。關西の士兩御所の御旨にそむきたらん者は。日光。筑波。足利。房州C澄守に住居せしむ。其姓名をしるして聞えあぐべしとなり。又奴僕の法制を仰下さる。侍はいふまでもなし。奴僕までも一年期の定約をもて召抱べからず。つかへをもとむる者。一年期とさだめこふものあらば曲事たるべし。新參の者はこゝろのまゝに堪忍すべし。年中の俸米を請とらば。翌夏までつとめ。其後暇をこふべし。御出陣御上洛の供奉するか。あるは營築にあかづるか。御使命ぜらるゝかのよし。傳聞て暇をこはゞ曲事たるべし。關東中仕官のともがら。陸尺の奴僕一切かゝへをくべからず。もしこの令にそむくものあらんには。償金一枚づゝ出さしむべしとなり。(令條記。)
○五日遠山左衛門安則死して。其子久四カ安次つぐ。又水野左門忠貞養父石見守長勝の遺物を献ず。(家譜。)
○六日松平宮內少輔忠雄駿府にまいり。淡路國を封ぜられしを謝し御脇差を賜ふ。その後江府に赴き謝し奉りければ。御刀御馬を賜はる。(ェ永系圖。)
○七日淺野彈正少弼長政卒す。時に六十五歲。長政は攝津守ョ光朝臣の後胤にて。父は織田家の弓役又右衛門長勝といふ。實は一族安井彌兵衛重繼といへるものゝ子なりしを。長勝養ひて子とせしなり。長勝が妻は木下七カ兵衛家利が女なり。その姉杉原助左衛門が妻となり。女二人設けたるを長勝養ひて。姉は木下藤吉カ秀吉にあはせ。妹は長政にあはせぬ。秀吉羽柴筑前守となのるにをよび。長政は秀吉につけらる。長政秀吉と相聟なりしほどに。その家の事大小となくつかさどる。秀吉天下の權を握り。關白職にのぼるに及び。長政五奉行の上首として。叙爵し彈正少弼と稱し。禁裡仙洞並兩政所の事をつかさどる。これより先近江國勢田の城を領す。(一說始は江州長M坂本の城を領せしともいひ。又ははじめ播州綱干にて三千石。そのゝち宇治槇島にて二萬石。又其後若狹にて九萬三千石領せしともいへり。)十四年秋關白の妹君御緣さだまり給ふ時も。長政御送りにまいる。大御所御上の時も長政饗應の事つかさどり。御旅館に侍り。是より後常に申次を承る。十八年關白小田原の北條討に下られし時。駿河の御城を兼て旅館と定められしかば。やがて御城にいられむとせられし時。石田三成耳語事ありて。關白猶豫せられき。これ當家と北條とは御ゆかりあるによて。三成が讒かまへしなり。其時も長政諫て關白の疑とけぬ。北條亡びて後奥の地撿點の奉行し。又奥の賊をたいらぐ。
これらの功により甲斐國賜りて廿一萬七千石を領す。豐臣家天下の黃金を改鑄ありし時に。長政が家臣此金をいつはりつくりしことあらはるゝにをよび。其罪に連及し長政つみに處せらるべきに定りしに。大御所深く憐ませ給ひ。其罪なきよしをあながちにとり申給ひければ。罪をゆるさる。長政刎らるべき首をつぎし事。偏にコ川殿の御恩なりと。感じおもふ事かぎりなし。文祿二年朝鮮の戰なかばに。太閤みづから渡海せんとて。大御所を日本の留守にたのみたまはんとありしに。大御所御けしき損じ。しゐて朝鮮にをし渡り。先鋒たらんとのたまへど。太閤以のほかのけしきなり。其ときも長政が殿下を直諫して事なく和らぎぬ。(これをその世の人太閤とコ川殿と長政と。三人名人揃の一戱塲とは申ならはしたりとぞ。)太閤薨ぜらるゝの後。石田三成兼て長政と中あしければ。當家に對し長政罪蒙らんやうを計り。終には長政職を去てをのが所領にもすまず。其罪を恐れ武藏の府中に蟄居せり。今の御所かれが罪なきをしろしめし。懇にとはせ給ふ事たえず。石田等が軍おこせしときは。その身今の御所にしたがひ。山道よりのぼる。嫡男左京大夫幸長は關原の軍功によて紀伊國をたまはり。その後長政には養老料五萬五千石下され。妻子みな江戶に呼よせ。常に御所に伺候す。ことし二男右兵衛佐長晟にも。備中國にて所領たまはり。優侍懇遇たぐひなかりしかば。けふ六拾五歲終をとれり。(ェ永系圖。藩翰譜。世に傳ふる所のこときは。大御所常に長政を召て圍棋し給ふ。長政勝負を爭ひしばしば禮を失ふに及ぶといへども。大御所更に御とがめなし。御けしきいよいようるはしく。常に棋伴になさる。長政死するに及び。再び棋をかこみ給はず。世人伯牙斷弦に比して語り傳ふといふ。大三川志。武コ大成記。家忠日記等に。長政が死を慶長十六年とす。今ェ永系圖纂により。暫くここに收む。)
○八日南禪寺の崇傳に。駿府にて寺地をくだされ。中井大和守正次その搆造を仰付らる。費用銀十貫目賜はり。米も五十苞下さる。(國師日記。)
○九日三河國山中日近村邊に石降る事五。その大さ四五寸。(寸は尺の誤りか。)其とき震動雷のごとし。(當代記。慶長年錄。)
○十一日潤雨。萬民歡抃す。(當代記。)
○十五日醫員吉田意安宗恂京の宅にて殁す。歲五十三。其子如見吉皓して家つがしめらる。この宗恂當時博學良醫の名高し。はじめ豐臣關白秀次につかへ。後に當家に參り侍醫法眼にのぼる。蠻船かつて珊瑚枝を献ず。當時これをしるものなし。宗恂よく辨說せしかば。大御所大に感じ給ひその枝を賜はる。一時曹ン賞せざるものなし。妙壽院惺窩に交り經學を講索し。醫は其父宗桂の家學をつぎて。あらはす所素問講義。難經注疏。重編醫經。小學纂本。草運氣圖。樞要圖。漏刻圖等世につたふ。其中にも古今醫案には惺窩序し。名醫傳畧には朝鮮姜沈序を作りたり。後にその子如見吉皓亡父の遺物とて。駿府へ杜民通典奇効良方を献じ。江城へ千金方を獻ず。又家つぎし謝とて。駿城へ純子沈香。江城へ南京織物。若君へ廣東織物。御臺所へ綸子を捧ぐ。(ェ永系圖。)
○十九日駿城にて遠山民部少輔利景七十四歲。鈴木久右衛門伊直六十六。池田備後守重信。水無P入道一齋等(一齋實は高倉永家卿の二男。水無P兼成卿の養子となり。中將親具といふ。後その家を以て一齋と號し。駿府に流寓す。池田は大坂の士なり。鈴木は三州足助の住人なり。)猿樂をまはせ。大御所御なぐさみのため御覽じ給ふ。世俗これをつたへて駿河の下手揃とて。談柄とせしといふ。此輩老年迄此技をたしみつれど。極めての拙技なりしとぞ。(創業記。慶長年錄。)
○廿日高野山金剛峯寺に法制を下さる。その文にいふ。衆徒等諸事先規のごとく沙汰すべし。兩門徒等諸事門首の指揮に從ふべし。門首の指揮理なき事あらば聞え上べし。古跡の院家相續せしむる者は。兩門首會議し學匠をえらび師弟の契約をなし。血脉をつがしめし後に。緇素諸調度を讓與すべし。碩學の徒古風をそむき新義を企べからず。學侶の所領贔負偏頗なく院家相應に配分すべし。兩門徒等疎意せず親睦して萬事はからふべし。この數條嚴に守るべしとなり。また京鹿苑寺に御判物を下さる。其文にいふ。山城北山三百四十石四斗餘。西院九石五斗餘。合せて三百五十石。全く所務たるべし。境內人夫山林竹木等諸事守護不入たるべしとなり。この日崇傳長老に米五十俵給ふ。(令條記。國師日記。)
○廿四日醫員畠山玄昌景吉法橋に叙す。(ェ永系圖。)
○廿八日伯耆國大山寺西樂院に。寺領の御判をくださる。伯耆國大山寺三千石幷に山林境內諸役近世有來りしまゝ。相違あるべからずとなり。(國師日記。)
◎是月松前伊豆守慶廣駿府に參覲す。大御所その國產の膃肭臍を獻ずべしと命ぜらる。(慶長年錄。) 
卷十三 / 慶長十五年五月に始り八月に終る 

 

○五月朔日日蝕。曇りければさだかならず。(當代記。)
○二日日向國佐土原領主島津右馬頭以久は。丹波の篠山城新築の役にさゝれ。かしこに赴くが爲都にのぼりしが。伏見にて病にそみ京にて卒しぬ。よてその子堯秀坊忠興に遺領三万石給ふ。この以久は龍伯入道が叔父右馬頭忠將が子にて。入道にしたがひしばしば戰功をはげみしが。大御所に拜謁せん事をこひ出て家の肩衝を獻ず。世に島津肩衝といふものなり。慶長八年十月十八日所領三万石たまひ。ことし四月九日六十一歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。西洞院記。當代記。)
○三日駿府大風大雨。民屋多く破損す。(當代記。)
○六日松前伊豆守慶廣二子甚平次忠廣爵たまひ。隼人正とあらたむ。(家譜。)
○七日木曾川大水。名古屋築城の運漕の材木多く流れうせぬ。駿府にては申樂梅若。淺間の社頭にて五日の間勸進能を張行す。大御所にもならせられて御覽あり。(慶長年錄。慶長日記。)
○八日蜷川新右衛門親長京にて死す。壽七十八。その子次カ右衛門親滿つぐ。此親長は宮道氏にて。父を新右衛門親世といふ。世々室町將軍家につかへ政所代をつとむ。光源院將軍事ありて後。親世は出羽國に世をさけて死す。親長はゆかりにより。長曾我部が所領土佐國にくだり。年月をおくりしに。元親土佐國收公せらるゝのち。親長は伏見にをいて大御所に拜謁し。勅使饗應の故實ども御尋あり。そののち采邑五百石下され。室町將軍家の禮式。騎射。歩射。連歌等の典故を聞えあげ。御談伴に加へらる。親長後入道して道標と號す。靱を制作して獻ず。これを道標靱とてそのころもてはやされしとぞ。(ェ永系圖。家譜。)
○十一日水野六右衛門勝成叙爵して。日向守と改め稱す。(ェ永系圖。)
○十四日松平陸奥守政宗駿府に參覲す。大御所樋口肩衝といへる茶入をたまふ。(創業記。世に傳ふる所。此茶入一名を山の井といふ。そのゆへは淺くともよしや又くむ人もなし吾にことたふ山の井の水といふ古歌により名付たり。又樋口肩衝といふは。攝州の士樋口石見知秀が獻ぜしゆへとて。ェ永十三丙子年政宗うせぬるとき。その子忠宗より遺物とて。これを大猷院殿に獻じければ。十七年忠宗歸國のとき又賜ひて。永く伊達の重寳となれりとぞ。ェ永系圖。慶長年錄。)政宗江府へ歸りて後。家臣山岡志摩守重政を駿府へのぼせて謝し奉りしとぞ。島津陸奥守家久琉球國王を具して。駿府江戶に參らんとす。よて伏見より江戶にいたるまでの驛路。旅舘。饗應。夫馬等の事。先に韓使來聘の例のごとく仰下されし旨。本多上野介正純奉書を送る。山口駿河守直友は中山王饗應の事命ぜられ馬一疋給ふ。(創業記。貞享書上。家忠日記。家譜。)
○十五日駿府淺間にて梅若申樂をつかふまつる。大御所御覽にならせらる。金地院崇傳。圓光寺閑室陪從し奉る。(慶長年錄。)
○十六日島津陸奥守家久中山王尙寧を引具し。駿江に參るため。けふ封地鹿兒島を發す。(家忠日記。)
○十七日渡邊半兵衛則綱死す。ェ永中に及び姉の子七カ兵衛年綱をもて召出され。其祀を奉ぜしむ。この姉は石川半左衛門忠義が妻なり。この則綱は源藏眞綱が子。はじめ父と共に本多中務大輔忠勝に屬して。小田原岩槻奥州の軍事をつとめ。又美濃守忠政に屬し眞田陣におもむき。父本多家を立のきし後もかの家にとゞまり。四十歲にてけふうせしなり。甲府城代小田切大隅守昌吉死す。其二子新右衛門昌次は文祿の頃よりつかへ奉る。(ェ永系圖。家譜。)
○十八日鷹師長田金平白茂死して。其子金平白勝つぐ。(斷家譜には白茂の死を。元和六年五月十八日とし。白勝を政貫につくる。)この日大雨。西美濃暴漲して堤坊悉くくづる。されど木曾川はあふれす。(ェ永系圖。當代記。)
○十九日細川越中守忠興尾州名古屋築城の事奉りしに。長子內記忠利其地にまかり。心いれて指揮するを褒せられ。御所より御內書を給ふ。この日前田万五カ定勝死して。其養子彌右衛門定俊ェ永三年召出され。小十人となり廩米百俵を拾ふ。(家譜。ェ永系圖。)
○廿日代官長谷川藤右衛門長次死して。子藤右衛門長重家つぎ原職を襲ふ。(家譜。)
○廿一日上杉中納言景勝江戶より駿府に參覲す。(創業記。)
○廿二日大雨。所々洪水。(當代記。)
○廿三日駿城にて上杉中納言景勝。松平陸奥守政宗を饗せられ申樂催さる。常陸介ョ宣朝臣も其事つかふまつらる。翁は觀世K雪人道これをまふ。其子左近は前夜逐電す。(當代記。慶長年錄。世に傳ふる所は。駿府近來梅若を寵遇厚かりしかば。觀世左近大に猜み恨むがゆへなりと風說す。(當代記。)
○廿五日上杉中納言景勝松平陸奥守政宗駿府を辭して江戶に赴く。日野前大納言輝資入道唯心けふ駿府に參着す。(創業記。當代記。國師日記。)
○廿六日駿遠三の三州大水。(當代記。)
○廿八日大內造營あるにより。その舊殿を南禪寺に賜はらんことを。金地院崇傳建言す。(國師日記。その赴は。南禪寺は龜山法皇創業の御舊跡にて。かくれなき朝家の御祈願所たる所。近頃破損零落かぎりなきゆへなり。)
◎是月片桐市正且元長子次カ助孝利駿府に參り大御所に拜謁す。又松前伊豆守慶廣就封ののち。
さきに命ぜられし膃肭臍を駿府に献ず。京の商人朱屋隆成駿府よりの仰をうけて。能比須蠻に渡海し猩々緋以下數品交易して歸國す。かの國にてかさねて渡海なすまじきよし申とぞ聞えし。(新井君美が外國通信事略には。新伊西把彌亞。此かたの人はのびすばんといふとしるし。朱屋は今堺に居住の朱座この子孫なりとあり。)又建部內匠頭光重卒す。其子內匠政長幼ければ。大坂の秀ョ公よりその遺領沒入せられんとの沙汰あり。池田宰相輝政歎申事しきりなりしかば。兩御所より片桐市正且元に仰下され。政長に父の遺領。(尼崎にて七百石といふ。)を襲しめらる。この光重近江宇多源氏の流にて。父壽コ入道はふるつはものなりしかば。織田豐臣の二代につかふ。關原のとき光重大坂の催促にしたがひ。毛利。長曾我部。長束等の人々と共に。富田信濃守知信が勢州安濃津の城を攻落す。されど戰終てのちその罪をとはるゝに及ばず。ことし三十三歲にて卒せしとぞ。(家譜。慶長年錄。當代記。ェ永系圖。藩翰譜。)
○六月二日土旺にいる。このごろ疫行はれ病死のもの多し。(當代記。)
○三日尾州名古屋城石垣をきづく。二丸は松平筑前守利常。天守は加藤肥後守C正。本丸幷外郭は諸大名各分ちきづく。(當代記。)
○十一日鷹師西川仁右衛門貞景死して子與作貞重つぐ。(家譜。)
○十二日霖雨によて木曾川暴漲し。尾州宮田より加賀野井邊堤防大に崩る。この日安南より書簡を奉りければ。金地院崇傳をしてよましめらる。そは本邦の商人の長角倉等。互市のためかの國に至り。歸路風波のために舟やぶれ十三人沈溺す。その弟庄左衛門等百人餘幸に救ひ助けしかば。これをかへし送り。隣好の義をなすべしとの旨なり。この日京にては東山大佛殿再造により。三寳院門跡地祭執行あり。醍醐東寺の衆徒これをつとむ。次に中井大和守正次束帶して所始の式行ふ。見物諸人雲霞のごとし。この日長崎伊豆守元家卒す。その子左太カ元通は旣に見參して御家人たり。元家はじめは瀧川左近將監一益につかへ。天正十年六月本多三彌左衛門正重と共にM松に來り見え奉り。帷子一襲たまはる。後尾州の信雄につかへ。又豐臣家の仰をうけて金吾中納言秀秋につかへ。慶長七年秀秋うせてのち御家人にかはり。伊勢國一志郡のうちにをいて。采邑千六百石餘をたまひ。六十五歲にて元通に家をゆづり。けふ七十三にて終をとる。(當代記。異國日記。舜舊記。ェ永系圖。)
○十三日奥平大膳大夫家昌の女子大御所の御曾孫なり。こたび御所の御養女とせられ。堀尾三之助へ定婚あるにより。江戶へまいりてまうのぼられ御對面し給ひ。饗せられて銀五百枚つかはさる。伊奈備前守忠次卒し其子筑後守忠政つぐ。この忠次は世々の御家人にて。五兵衛忠家が子なり。天正十年六月泉州堺よりかへらせ給ふとき。小栗大六正氏が所屬となり。同十四年十二月駿城にて近習につかふまつる。十八年二月豐臣關白小田原征伐として下向のとき。當家にも駿遠三。其道路舟粱の事を忠次に命ぜらる。關白の大軍三州吉田にのぞまれ。急に軍をすゝめむとせらる。折ふし霖雨烈風なり。忠次これをとどめ。しばらく此所にとゞまらせたまふべくやと申。關白けしき損じ。この行さき大井川富士川等の大河に水かさまさば。大軍すゝみがたし。よて今風雨をおかし急に軍をすゝめんとす。汝何の思慮ありて止るやととがめらる。忠次少しも恐れず。險難をおかして急に軍をすゝむるは。小軍の事なり。四十萬にあまる大軍。大風雨をおかし大河をわたらんに。沈溺する者十人も候はゞ。敵方には數百人溺れたらん樣に聞え候べし。これいまだ戰はざる先に。味方にをいて損多し。戰期いまだせまらず。願くは殿下しばらくこゝに台駕を御とゞめ有て。人馬の勞をやすめたまへ。殿下の武威旣に關東を併呑せり。一日の遲速をもて勝敗にかゝはるべけんやと申ければ。關白大に感ぜられ。コ川殿はよき士つかはる事ぞと仰有。その夜は忠次が詞にまかせ吉田にとまり。猶三日稽留あり。四十萬の大軍みな疲勞をやすめ喜ぶ事かぎりなし。小田原北條亡びて。其倉廩に收る所の粟十萬斛を當家にまいらせらる。忠次これを速に請取たり。かく若干の粮米いかに會計して。速に授與せしぞととひたまひければ。さん候。倉廩に入て每苞商量せば。日數をかさねても猶其功なしがたし。たとひ其數多しとも减ずべきにあらず。不足せりとてますことあるべきならねば。豐臣家の吏と某と會議して。封印のまゝにて請取たりと申ければ。御感淺からず。關白もまたこれをきかれ。我家人多しといへども其才幹忠次が右に出る者なし。我につかへば祿萬石をばあたへなむと仰ける。關東にうつらせ給ふ後。武州小室鴻巢にて一萬石給ひ。八州の賦稅を掌り。市川。松戶川。房川三關を守り。關原の時は小荷駄の奉行し。やがて從五位下に叙し備前守と稱し。甲斐國の事を沙汰し。この日六十一歲にて卒せり。(創業記。慶長年錄。當代記。家譜。ェ政重修譜。)
○十四日神保長三カ相茂丹波龜山城搆造の事にあづかるによて。御所より御書を給ひ其勞を慰し給ふ。この夜月重暈して雲五彩なり。(家譜。當代記。)
○十六日尾張津島祭再興。(當代記。)
○十九日那須修理權大夫資晴卒す。其子與一資景家督たり。資晴が家は法成寺關白道長公の曾孫須藤權守貞信の後胤なり。貞信はじめて下野國那須郡を領せしより。世々那須を稱す。那須與一宗隆兄弟鎌倉右大將家につかへ。與一は判官義經に隨て。元曆二年二月讃岐の八島の戰に扇の的射て。源平兩家に名をあらはす。國々數か所の庄地をたまはりし後。世々關東にあり。弓矢とつての名家たり。資晴はじめ那須太カといふ。先祖累代岩城。白河。佐竹。宇都宮等とたがひに地をあらそひ戰てやまず。資晴が世にあたり近隣に威をふるふ。天正十八年豐臣關白相摸國に發向あり。東國の大名等其本陣に駈集れば。那須が一族家人もおなじく小田原に馳參る。關白小田原の城攻下し。奥へ下らるゝに及び。資晴漸見參せしかば。關白その遲參をいかられ。那須が本領ことごとく彼一族家人にさきあたへ。資晴にはわづかに福原の地をぞたまひける。慶長五年の秋東西一時軍起りしとき。關東の御方として宇都宮の城に人質を進らせ。奥の上杉と戰はんとす。關原の戰終て後七年より。大御所の御方に侍り。所領の地千石を加へ六千石賜ふ。同九年從五位下に叙し大膳太夫と稱し。後あらためて修理大夫と稱し。この日五十四にてうせぬるなり。(家譜。ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿日大御所細川內記忠利が尾州名古屋築城の功を慰せられ御書を給ふ。(家譜。)
○廿四日奥平大膳大夫家昌の女子。江戶をいでゝ駿府に參られ。大御所御對面あり。この日柬埔寨の書簡を圓光寺閑室。金地院崇傳と共によましめらる。かしこより大牙二枝。重七十斤。中牙二枚。重四十斤。蜂蠟三百斤を献ず。(創業記。慶長年錄。異國日記。)
○廿五日大番頭山口但馬守重政伏見城在番の暇を給ふ。奥平大膳大夫家昌の女子に。大御所より銀五百枚つかはさる。(慶長年錄。創業記。)
○廿六日京邊地所點撿せしめらる。板倉伊賀守勝重。中井大和守正次これを沙汰す。(勸修寺記。)
○廿七日山口島之助重長死す。こは但馬守重政の二子にて。十二歲より御所につかへ奉り。けふ十七にてうせしなり。(ェ永系圖。)
○七月朔日大御所納凉のため。駿府P名川に漁を觀給ひ。俄に游泳し給ふ。御齡六十九にわたらせらる。(御年譜。家忠日記。)
○四日中川市右衛門忠重死して。養子與助忠次家をつぐ。(家譜。)
○五日細田助右衛門吉時死して。其二子小兵衛重時つぎ甲州代官たり。(家譜。)
○六日御所御納凉のため。武藏の府中玉河にならせられ。漁せさせて御覽じ給ふ。この日土井大炊頭利勝。山伯耆守忠俊を駿府に御使せられ政務を儀し給ふ。丹波龜山城成功す。天守は藤堂和泉守高虎。兩御所の御爲に搆造して獻ずるよし建言せしかば。御感を蒙る。此頃公料の代官等賦稅の會計を督責せらる。(創業記。當代記。慶長年錄。)
○十三日致仕高木主水助C秀卒す。壽八十五。このC秀多田滿仲朝臣の末にて。父を六カ左衛門宣光といふ。C秀其はじめ善次カとて。水野下野守信元の被官なり。尾張國知多郡諮村に住す。天文十年三河國刈屋の戰に高名し。後に織田備後守信秀に屬し。また信元のもとへ歸り。永祿四年石がPの戰に七か度までさきをかけ。姉川長篠にも功をあらはす。信元織田右府のために殺されし後。其被官等は佐久間右衛門尉信盛に屬せしめらる。天正十年高木九助正廣をもて召れ御家人に列し。十月廿四日祿千石を賜はり。關東にうつらせ給ひし時。武藏上總の內にて五千石の采邑を給ひ。文祿三年其子正次に家ゆづりて。其身は相州東郡海老名に閑居す。その後も御狩のついでC秀が隱居に立よらせられ。時服幷に鴈などたまふ。慶長五年會津陣の時は。御跡をしたひ小山に至り大御所を拜し。又宇都宮に參り御所を拜し。御供せん事をのぞむ。兩御所其年老たるをもていたはらせ給ひ。錦の道服をかづけられ。しゐて家にかへらしめられしが。けふ終をよくす。又三橋權右衛門正重死して。其子權右衛門正信つぐ。(家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。家譜。)
○十九日故松平伯耆守忠一が舊領伯耆國をわかち給ふ。加藤左近大夫貞泰は美濃K野より伯耆の米子に移り。二万石加へて六万石になされ。市橋下總守長勝は美濃の今尾より伯耆の矢橋城にうつり。河內國の領地を合て二万千三百石をたまひ。關長門守一政は伊勢の龜山より伯耆のK坂にうつり。二万石加へて五万石になさる。又搶緕寶Z持存應。普光觀智國師の號を勅許あり。國師號はむかしより禪宗にかぎりし事なるに。淨土宗にたまはる事此時をはじめとす。この宗は當家數代の宗門たるゆへ。大御所殊更御執奏あるによるものとぞ聞えける。(御年譜。慶長年錄。家譜。紀年錄。坂上池院日記。)
○廿日島津陸奥守家久。琉球中山王をぐして京を發し。駿府江戶に赴く。此日阿部備中守正次下野鹿沼にて五千石加恩給ひ。一万五千石になる。(創業記。慶長年錄。ェ永系圖。)
○廿一日畿內大風。田圃損亡若干。民戶破壤もまた少からず。南都春日山の神本六千本顚倒す。應永十二年永正三年の後は。いまだそのためしなしとぞ聞えける。(當代記。)
○廿五日柬埔寨王に御返簡をなさる。本朝の商人等柬埔寨。交趾。占城等の國々へ渡海し。剽掠を業とするものあるよし聞ゆ。これより先その賊等歸國する者は速に誅戮を加ふ。交趾須濃波夷等の地にかくれすみ。風便を待て其地にいたり侵掠するものは。國制にまかせて誅殺あるべしとなり。よて鳥銃三十挺をつかはさる。又木屋彌三左衛門暹羅渡海の御朱印を下さる。(果國日記。御朱印帳。)
○廿七日細川玄蕃頭興元に。下野茂木の庄一万石餘を給ひ。美濃國加納城主松平攝津守忠政に。四万石加へて十万石になされ。松平下總守忠明に勢州龜山の城を下され。舊領三州作手をそへて五万石になさる。立花左近對監宗茂奥州棚倉にて。一万石加恩有て二万石となる。井伊掃部頭直孝は上野白井にて。五千石加へられて一万石になる。故松平左馬允忠ョが國除かれしかば。其子大膳亮忠重あらたに武藏深谷八千石給ふ。(ェ永系圖。創業記。慶長年記。家忠日記。ェ政重修譜。)
○廿九日大久保石見守長安は。去年より撿地の仰蒙り。越後信濃邊を查撿し。此日美濃國岐阜にいたる。(創業記。慶長年錄。)
◎この月おかちの局もて。ョ房朝臣の母代になさる。局は市姬君をうしなひ深くなげきしかば。そのこゝろを慰せられてなり。江府にて西尾藤兵衛政氏拜謁す。また唐商の請により。本朝諸浦諸島着船せば。其所にをいて互市せしむべし。姦謀をいだきこれをさまたぐるものあらば。嚴科に處せらるべしとの御朱書を下さる。(貞享書上。家譜。異國日記。)
○八月朔日大番頭松平丹後守重忠大內に御使し。本日の賀に御馬を進らせらる。(勸修寺記。八朔に在番の大番頭禁中に御使をつとめ。御馬を献ぜらるゝ事。ものにみえたるはこゝを始とす。しかれども實は此以前よりありしなるべし。)
○二日太田新六カ重正うせければ。其二子采女資宗家をつぐ。長子源七カ正重は兼てより左衛門督ョ房朝臣につけられたり。この重正は太田資長入道道灌五世の孫にて。父を康資入道武廣といふ。武廣はじめ小田原の北條にしたがひ。後に北條をそむき安房の里見をたのみ。天正九年十月十二日彼國にてうせたり。重正父沒して一族資正入道三樂とともに常陸の佐竹に屬し。十八年北條ほろびし後當家につかへ奉り。十九年奥の御陣にしたがひ采邑五百石給ひ。文祿三年肥前國名護屋におもむかせ給ひし時は。松平大隅守重勝に屬して江戶の城を守り。關原合戰の時には海道の御供し。けふ五十歲にてうせぬるなり。(ェ永系圖。藩翰譜備考。藩翰譜。此重正が妹は天正十八年より。大御所に宮仕し。才幹ある婦人にて。常に御側の事とり申せしおかちの局といひて。後に英勝院と申せしなり。)
○三日土井大炊頭利勝を駿府につかはされ。政務の得失を議したまふ。大御所紹鷗肩衝と名付し茶入を賜ひ。汝關東に歸りなば。御茶進らすべしと仰下さる。(ェ永系圖には。汝關東にて御側近くつかふまつれば。諸侯を會集する事あるべきぞとで。御茶入を給ふとしるす。しかれども家忠日記等の諸書には。皆本文のごとくあればこれに從ふ。)この日筒井紀伊守政行卒し。その子藤五カ(ェ永系圖。主殿助。)正次家をつぐ。政行實は福住兵衛尉順弘入道宗永が二子なりしが。順慶法印にやしなはれ。伊賀守定次の弟と稱す。遠州M松にましましける時召出され。和州にて五千石給ひ。大御所の御妹市塲の御かたを降嫁せられしが。けふ六十歲にてうせぬるなり。(家忠日記。ェ永系圖。家譜。)
○四日齋藤伊賀守信利死して。その二子次カ右衛門利治家をつぐ。信利そのはじめは越中地尾の城にあり。織田右府につかふ。そのゝち天正十三年遠州M松の城にきたりつかへ奉り。文祿元年二月朔日千石たまはり。けふ五十七歲にて終りしなり。(ェ永系圖。)
○六日島津陸奥守家久駿府に參着す。中山王はいまだ着せず。(御年譜。家忠日記。)
○八日島津陸奥守家久駿城にまうのぼり。大御所に拜謁して太平布五十端。純子五十卷。銀千枚献じ拜し奉る。右兵衛督義直朝臣常陸介ョ宣朝臣に銀百枚。紅糸五十斤づゝ進らせ。おかちの局はじめ五人の女房達へ。銀廿枚。純子十端づゝ贈遺す。この日織田宰相秀雄卒す。この卿は內府信雄入道常眞の第一男なり。越前國大野の城にあり。(五万石を領すといふ。)慶長五年石田三成父入道のもとへ使たてゝ。秀ョの仰と稱し。いそぎもとの御家人を催され。關東の內府をうたせ給ふべし。まづ物の具の料黃金一千枚まいらせらるべし。又尾張國は御本領なれば進らせらるべしなど。種々その心をとりしかば。入道たちまちこれ迷ひ。石田が方人せむとす。秀雄大野の城にありてこれをきゝ。大におどろき使をはせ。たとへいかならんことありとも。當家の族コ川殿に弓ひくことや候べき。あまりにあさましき御はからひに候と諫めければ。入道これもことはりなり。とやせむかくやせんとためらひたるほどに。關原の戰ひ終りければ。秀雄は加賀中納言利長と共に。大津に參陣して拜謁す。されば父入道はなにとなく所領を失ひ。大坂にかくれすみけるが。秀雄には别に所領をたまひけり。しかるにけふ二十八歲にてうせぬ。(御年譜。當代記。ェ永系圖。藩翰譜。)
此後入道が四男兵部大輔信良を關東にめし。上野小幡にて二万石給ひしは。兄の子なきを憐み給ふ故なるべし。)
○十日琉球中山王尙寧駿府に着す。(創業記。當代記。)
○十一日兒島源三正利死して。子源左衛門正重つぎ。采邑三百三十石を給ふ。(家譜。)
○十二日鈴木C右衛門重友三子長左衛門重政召出され大番となる。(家譜。)
○十四日島津陸奥守家久中山王尙寧を引つれ。駿城にまうのぼる。大御所御直衣にて大廣間の上段に出まし。其拜を受給ふ。家久太刀一振。銀千枚献じ。琉球國をたまはりしを謝す。中山王尙寧太刀一口。純子百卷。羅紗二十尋。芭蕉布百卷。太平布二百卷。銀一万兩さゝげ拜し奉る。大御所家久を召て。當家創業の折ふし異國を征伐し。其國王を召具し參覲する事。ためしすくなき大勳功のよし。御感の御ことばを蒙る。(御年譜。家忠日記追加。貞享書上。中山王尙寧が弟某駿府に有て死したりといふ。創業記。)
○十八日島津陸奥守家久幷に中山王尙寧を駿城にめし。饗宴をひらかれ。猿樂をみせしめらる。樂は加茂。八島。鞍馬天狗。源氏供養。老松なり。家久御盃を給ふ時。貞宗の御刀御脇差を下さる。其時常陸介ョ宣朝臣。左衛門督ョ房朝臣も起て舞給ふ。この日搶緕帶V智國師は參內し。國師號の謝恩せしとぞ。(家忠日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。當代記。武コ編年集成。)
○十九日駿城にては島津陸奥守家久及び中山王尙寧暇たまはり江戶に赴く。この日京にては豐國社臨時祭行はる。(家忠日記。紀年錄。舜舊記。)
○廿日細川二位玄旨法印幽齋卒す。此法印名は藤孝。實は三淵伊賀守晴員入道宗桙ェ二子なりしが。細川刑部少輔元有に養はれ。萬松院義晴將軍光源院義輝將軍につかふ。光源院將軍御事ありし時。舍弟一乘院門跡覺慶をひそかにみちびき。春日山を越て近江國におち。覺慶に還俗をすゝめ義昭と申けり。かくてこゝかしこをョまれしが。終に織田信長にたすけられ。義昭上洛して征夷大將軍に任ぜられ。一先室町家恢復せられし始終。藤孝の功にあらざることなし。義昭將軍やがて信長の權勢大功をいみきらはれ。信長をほろぼさんと計られしかば。信長大に憤り。忽に義昭のこもられし宇治槇島淀等の城々攻落す。かくて信長もさすが將軍うしなひまいらするほどの事もなく。河內國若江の城に送り入まいらせ。義昭つゝがなく都をひらかれたり。これしかしながら藤孝が信長にしたがひ。よくこしらへしゆへとぞ聞えける。其後は一子與一カ忠興とゝもに織田家に屬し。軍功を勵しければ。一方の大將とせられ。丹後國をぞたまはりける。織田右府本能寺の事ありし時。一子忠興は明智光秀が婿なる故。攝津は欠國に侍れば忠興に進らすべし。急ぎ父子とも馳來り。力を合せ給ふべしといひ送る。藤孝父子大に怒り。けつく忠興は妻を山深き所にをしこめ。羽柴筑前守秀吉のもとに使たてゝ。ともに心を合せ光秀を誅せんとしめしあはす。ほどなく光秀誅せられしかば。藤孝は織田右府のためにもとゞりきり。入道し玄旨と稱し。幽齋と號す。大閤薨ぜられ大坂の奉行等。當家をかたぶけ奉らんとはからひし時。加賀大納言利家と忠興ゆかりにつき利家を諫め。終にその事たひらぎしかば。其賞として忠興に豐後國杵築の城五萬石下したまふ。慶長五年大御所上杉御追討のため御發向あり。忠興も御跡をしたひ馳下る。此ひまをうかゞひ石田等蜂起せしときも。忠興の妻大坂にありしかば。奉行等城中に迎入て。質とせんとせし時。其催促にしたがはず自害す。此上は細川が城せめ落せと。大坂より丹波但馬の軍勢をさしむく。家の子等はみな忠興にぐして關東にくだりぬ。丹後には入道をはじめ。年老たる者又はいとけなきものどもばかりなれば。はかばかしく軍すべき者少し。されども入道さるふるつはものにて少しもさはがず。宮津の城をすてゝ田邊の城にこもり。敵遲しと待ゐたり。此入道弓矢のわざはさらにもいはず。敷島の大和ことのはの道を年頃ふけりたしみ。古今和哥集の祕訣當時此人につたへたり。我身討死したらんには。天地ひらけはじまりしより此かた。傳へ來りし道の忽に絕んことかなしく思ひ。城にこもるはじめ相傳の書どもとりあつめ大內へ献ず。やがて敵の多勢をしよせ城をかこむ。入道少しもひるまず防ぎ戰ふ。かけまくもかしこき朝廷にては。いにしへ今のことをも。歌の心をもしれる人を忽に失はむ事。尤朝家の御なげきなり。いかにもよきにはからふべきよし。烏丸左中辨光廣を勅使として大坂へ仰下さる。毛利黃門輝元及び奉行等も。勅詔のうへはいなみがたく。寄手の軍中へ使たてゝ軍をとゞむ。されども寄手は入道につよく喰留られ引取事かなはず。よて又三條西參議實條勅使として丹後に下り。入道早く其城をさけわたすべきよし綸旨をつたふ。入道も王命もだしがたく。かしこまつて城をさり高野山にいる。忠興は關原の御先手にありて其功尤すぐれければ。其勸賞に豐前國一圓に賜ふ。入道は京都にいでゝ仁和寺の邊に閑居しけり。このとき天下草創にて。柳營の禮儀いまだ定まらず。入道は世々室町將軍家につかへ。しかも博覽强識當時の有識なり。
大御所兼てよくしろし召ければ。入道に付て前代の事をもとひ。當世の禮をも講ずべけれとて。永井右近大夫直勝を御使として。武家の儀式ことごとくうけつたへさせ給ひたり。されば當家の禮節。此入道の定め申せし事ども最多しといへり。齡つもりて七十七歲。けふ終をよくせしとぞ。此日島津陸奥守家久中山王をともなひ。駿府を發して江戶におもむく。(舜舊記。家譜。ェ永系圖。藩翰譜。家忠日記。)
○廿一日江戶より大內に鴻を驛進し給ふにより。女房の奉書まいる。(勸修寺記。)
○廿二日龜井武藏守玆矩に。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○廿四日常陸介ョ宣朝臣の生母おまんの局。熱海のゆあみにまかられしがけさ歸らる。よてョ宣ョ房の兩朝臣は。夜深く駿城を出でむかへ給ふ。大御所夜中城門を開きたるよし聞召。御けしきよからず。(創業記。當代記。)
○廿五日島津陸奥守家久は。中山王を伴ひ江戶に參着す。駿府より江戶にまいる。しばしば江戶より問勞の御使をつかはさる。(御年譜。家忠日記。)
○廿六日島津陸奥守家久が櫻田の邸へ。御使ありて慰勞せらる。(家忠日記。)
○廿七日島津陸奥守家久がもとへ。御使して米千苞下さる。中山王を伴ひ參府せしが故なり。(家忠日記。ェ永系圖。)
○廿八日島津陸奥守家久中山王尙寧を具して。江城にまうのぼり。家久は長光の太刀。緞子百卷。虎皮十枚。太平布二百疋。蕉布百。燭銀千枚を獻じ。若君へ太刀一振。緞子五十卷。太平布百疋。馬一疋。紅糸百斤獻ず。中山王は太刀一口。純子百卷。蕉布百卷。太平布二百卷さゝげ。若君に太刀一口。純子五十卷。蕉布五十疋。太平布百卷。紅糸百斤をさゝぐ。この日㝡上駿河守家親は。中山王の奏者をつかふまつる。この後も攝家御對面の時は。謁をとるべしと命ぜらる。また山口駿河守直友は中山王途中嚮導を仰付られ馬を賜ふ。(御年譜。貞享書上。ェ永系圖。武コ編年集成。家忠日記。ェ政重修譜。)
○廿九日大覺寺門跡空性法親王寺領の事。京職板倉伊賀守勝重より押へ置べき旨。金地院崇傳。圓光寺閑室よりつたへしめらる。(國師日記。)
◎是月歸化の明人一官が子林奇㭿。はるばる其國をはなれ老父の踪迹をしたひ來り。一官を迎へ歸り養はむ事をこふ。(異國日記。) 
卷十四 / 慶長十五年九月に始り十二月に終る 

 

○九月二日京豐國の社務吉田二位兼見卿七十八歲。頓死の注進あり。(舜舊記。)
○三日島津陸奥守家久をよび中山王を江城にて饗せらる。尙寧世々琉球に王たれば。今よりいそぎその國にかへり。先祀を奉じて本朝の威コを仰ぎ。永くその國を子孫に傳ふべし。家久はその賦稅を收め。その國を鎭撫し。その俘囚ははやくかへしをくるべしとの面命を蒙る。家久謹で命の辱きを拜し。尙寧は再生の恩を感じ。手のまひ足のふむ所を覺えず。拜謝し奉る。(ェ永系圖。家忠日記。)
○五日金地院崇傳に仰下され鎌倉五山の僧幷にC水寺臨濟寺の僧二十餘人集め。京惣持院にて群書治要を繕寫せしめらる。(國師日記。)
○七日島津陸奥守家久を江城茶室に召て御手づから御茶を給ふ。(ェ永系圖。)
○九日駿城にて重陽の賀儀はてゝ後。本因坊等を召て圍棋せしめらる。大和國高取城主本多因幡守政武。本因坊と對局して勝ことを得たり。稻富伊賀守直家入道一夢は。そのかみ細川の家司にて。越中守忠興が妻につきそひ。大坂の邸にありしが。慶長五年忠興は大御所上杉御征伐の供奉し。關東に下りしあとにて。大坂の奉行等諸大名の妻子を。城中にとりこめんとす。忠興が妻これは從はず。家に火をかけて自殺せしかば。家司をはじめ付從ひし男女みな自殺しぬ。そのとき稻富は煙の中を迯出て。かくれゐたりしがば。忠興後に聞て大に憤り。終身を禁錮せり。しかるに稻富鳥銃に精練する事。世にかくれなかりければ。故薩摩守忠吉卿ひそかにC洲にまねき。俸祿をさづけられたり。卿うせ給ひて後も猶C洲にかくれゐたるを。兩御所兼て其精藝を聞召。かれが傳のたえん事をおしませ給ひ。忠興を江城にめし小松內府重盛宋の經山寺佛光へ金送りし時の返簡。幷に京極黃門定家卿眞蹟の和歌等をはじめ。天下に名高き名物かずがず賜ひ。其上にて稻富が罪をゆるすべきよし懇にさとし給へば。忠興もわりなくて御詞に從ひぬ。其後大御所も駿府に召て。其技をたづねとはせ給ひ。江戶の御所にもくはしく其傳を受給ひ。後に其子喜太夫直堅は御家人に召加へられぬ。また古田織部正重就は千利休宗易が貫首弟子にて。點茶の技當時其右に出る者なし。よて江戶にめしてこれも其技をうけさせ給ふ。また安南國王使して沈香の柱十二本。(其一本四人して荷ふべし。)沈粉柱一本。極品沈香十斤。氷糖十壺。象牙二。鸚鵡。孔雀。錦鷂各一。紋𥿻二疋さゝげ。いよいよ通商互市をこひ奉る。近年本邦諸國の金銀鑛開けしかば。本邦の金銀多き事。海外の國々傳へ聞て。みな通商をこふ者多しと聞ゆ。大番貴志彌兵衞正吉死して。其子彌五カ正盛つぐ。觀智國師存應參內はてゝ京を發し。江戶におもむく。(當代記。藩翰譜。慶長日記。武コ編年集成。創業記。ェ永系圖。紀年錄。)
○十一日戶田備後守重元卒して。子半平光正つぐ。この重元父は十カ右衛門重眞といふ。重元始は半平とて三州よりつかへ奉る。天正三年長篠の戰に松平又七家副に屬し。鳶巢の砦を攻て鑓を合す。織田右府遠くこれをみられ。今より鑓半平と申べきなりと稱美せらる。後に十カ右衛門と改め。慶長五年今の御所の供奉して宇都宮に陣し。また上田にも御供し。七年采邑五千石給はり。八年正月從五位下に叙し備後守と稱し。此日六十七にて終る。(家譜。ェ永系圖。)
○十二日島津陸奥守家久中山王をともなひ登營す。(ェ永系圖。)
○十三日中性院空鏡訴へけるは。長谷寺北坊今空坊なり。しばしが程僧玄音を住居せしめ。後はをのが隱退閑居の地となさんとなり。よて金地院圓光寺等に命ぜられ查撿に及びしに。かの玄音申す。北坊は元來律院にて今も主あり。空坊にあらざるよしなり。よて其由獅たゞさるゝ所。空鏡非據に决しければ。玄音いよいよ北院にうつり。その院にもとより住居する喝食を教導し永く律院とし退轉せしむべからざる旨令せらる。(國師日記。)
○十五日逸見市之丞義記初見し奉る。(ェ永系圖。)
○十六日島津陸奥守家久登營して。就封のいとまたまひ饗せられ。加賀貞宗の御刀ならびに御馬を下され。そのうへ櫻田にて宅地をたまふ。中山王を歸國せしめてのちは。かの國に監使を置て。政令をほどこし鎭撫すべしと面命せらる。(御年譜。ェ永系圖。家忠日記。武コ編年集成。)
○廿日島津陸奥守家久中山王を具し。木曾路をへて國に赴く。(ェ永系圖。)
○廿二日京大佛殿柱建あり。(家忠日記。)
○廿八日越後國新發田城主溝口伯耆守秀勝卒しければ。遺領五万石を嫡子主膳正宣勝につがしめられ。二子伊豆守善勝に一万二千石をわかち。善勝去年たまひし二千石を合せて一万四千石になる。その家の傳ふる所によれば。父死後兄弟祿をゆづりてうけず。よて上裁をへてかくはさだめ下されしとぞ。)此秀勝はもとの彥左衛門勝政が子にて。尾張國人逸見又太カ義重が胤たり。秀勝小字竹丸とて。丹波五カ左衛門長秀につかへ。やがて織田右府に直參して。逸見駿河守某が跡をつぎ。若狹國高Mの城たまはり。かの國の目代をつとむ。天正十一年志津が嶽の戰終りてのち。
羽柴秀吉にしたがひ。加賀國大聖寺の城たまはり四万四千石になり。十四年從五位下に叙し伯耆守と稱し。豐臣太閤より諱字をたまはり秀勝と稱し。慶長三年越後新發田の城にうつり。一万六千石加へられて。すべて六万二千石領し。五年關原の戰には關東の御味方としてをのが城を守り。國中に賊徒蜂起せしをことごとく打平ぐ。十年御上洛の供奉し。けふ六十三歲にて卒せしなり。又西教寺と僧周廣と訴論し。周廣は死し西教寺申所理りなりとて。拜謁せしめられ上洛せしに。又榮運眞宗の二僧周廣の遺志をつぎ。西教寺の事をうたへ出しが。二僧非據にさだまり追放せらる。又高野山無量壽院行呂憚スす。多聞院をして其跡を續しめむ事。寳性院政遍幷に無量壽院門中の諸僧連署してこひ奉る。よて其旨にまかせらるゝよし。金地院崇傳圓光寺閑室してつたへらる。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。國師日記。)
○廿九日土井大炊頭利勝江戶より御使して駿府にいたる。今より後上方代官所の賦稅を查撿し。江戶に納めしむべきよし。大御所より仰出さる。(創業記。當代記。)
◎是月大御所より傳奏もて。主上へ奏問し給へる表文にいふ。親王(後水尾院。)御元服の事。先に內旨のごとく嚴に行はるべし。親王の宮殿搆造遲緩せられん事然るべからず。速に造營あるべきなり。やがて御讓位ましますべければ。それよりさき朝政いさゝかも怠らせたまふべからず。親王見習はせ給ふべければ。その御心ましまさん事。恐れ思へども肝要にましますべし。さきにも封事もて奏せし如く。老臣遠國にさぶらへば。万事五攝家の輩ふかく啓沃の心もちひて。女院より諫奏せん樣に。詔らせ給ふべきなりとぞ。又五攝家の人々にも御書進らせらる。そは先に封事もて內々奏しぬる愚言叡聞に達し。ことはりと聞召れたる旨仰下されたれば。今より後攝祿の諸大臣よろしく思慮の及ぶかぎり。つゝまず女院もて諫奏し奉り給ふべし。さなきに於ては此後愚意申通ずまじとなり。又松前隼人正忠廣に。采邑千石新にたまふ。佐藤勘右衛門堅忠千石たまひ。爵ゆりて駿河守と稱し。井戶若狹守覺弘廩米を改て。采邑三千四十石餘を下され。其子左馬助良弘弟忠右衛門治秀。新右衛門直弘も江戶に參り拜謁す。(國師日記。貞享書上。家譜。)
○十月二日金地院崇傳に米百苞給ふ。(國師日記。)
○三日土井大炊頭利勝駿府よりかへる。金地院崇傳京にて寺領下さるべきよし仰出さる。(當代記。國師日記。)
○五日松平攝津守忠政駿府より江戶に歸り謁し奉る。新封の御K印をたまはり。明朝就封すべしと面命ありて。御馬を下さる。(創業記。當代記。)
○六日大久保相摸守忠隣がもとへならせ給ひ。御茶事あり。(家忠日記。武コ編年集成。家譜。)
○八日阿蘭人駿城にまうのぼり方物をさゝぐ。さきに御書簡を賜はり。通商の御ゆるし蒙りしをかしこみ謝し奉る。その上書簡には。ほるとがる常に日本に渡海し阿蘭をあしざまに讒するよし傳聞たり。これ蘭人先に渡海しける時。特更眷注を蒙り渥恩に浴せしをみて。ほるとがる大におどろき妬て。頻りに讒をかまふるものなり。かまへて御採用あるべからざる旨をぞ書たりける。又豐國社務吉田二位兼見うせぬる後。其後つがむ事は神龍院梵舜が心にまかすべきよし。金地院崇傳。圓光寺閑室して仰下さる。又建仁寺中西來院の僧普光定惠二人。駿府にいたり訴詔して上裁を仰ぐ。崇傳閑室をして和解せしめらる。(異國日記。國師日記。)
○九日駿城の御厨所より火おこり。阿茶の局のすめる方の廊にうつる。また其餘燄二丸にをよび。屋舍いさゝかやけ。瓦葺の倉三十間ばかり燒うせぬ。丁未大火後も九度まで。賊ありて火をはなちけれど。警火の賤吏等みしりてうちけしたるが。けふ終にもえあがりしとぞ。されど殿閣はさらにこれにかゝらず。堀丹後守直寄速にはせつき。御厨の屋脊に飛のぼり。家士を指揮してことごとく消滅し。十間四方は角木屋瓦そのまゝやけ殘りたり。大御所はるかにそのさまを御覽じ。かしこによく指揮して火をけさするものはたれなりやと。御使してみせらるれば直寄なり。ことに御感ありて。中井大和守正次を御使し食籠酒瓶を下され。翌朝も群臣集會の中にて。皆々承れ。丹後一人がふるまひにて。さばかりの火を撲消して城中無事なりと。稱美し給ひしとぞ。(御年譜。家忠日記。當代記。堀傳記。)
○十三日堀田立菴正廣死して。其子大番神尾猪兵衛幸政つぐ。(家譜。)
○十四日大御所江戶へおはしまさんとて。けふ駿城をいでまし。この夜C水にやどらせ給ふ。醫員片山與安宗哲法印も供奉して。これより日每に御鷹狩せさせ給ふ。けさ城門のかたはらに堀丹後守直寄蹲踞して有しを御覽じ。御輿の側に召よせられ。汝は普第の士と同じく。今より後近習に奉仕せよ。今の所領遠ければ濃州飯山邊にて。四万石授くべしとて。大久保石見長安をめし。よき地をみたてゝとらせよと仰下されけり。又松平右衛門大夫正綱も。さきの火災に消防の指揮ことによろしく。御けしきにかなへりとて。采邑三千石加へたまふ。(家忠日記。國師日記。堀傳記。ェ永系圖。
世に傳ふる所。駿城急火にて後閤の女房達。急にのがれ出んとすれど。狼狽して物にあたりまよひたり。其時正綱納戶局より曝布あまた取出し。石垣にゆひつけしかば。人々これにとりつき逃出けり。其後正綱奥殿の屋脊にかけのぼり。衆人を指揮せる擧動ゆゝしく見えたりとぞ。貞享書上。家譜。)
○十五日大御所C水より善コ寺にならせ給ふ御道にて。御手づから銃もて鴻をうちとめ給ひ。直に藤堂和泉守高虎に下さる。かくて十八日まで善コ寺にとまり給ひ。日々此あたり狩し給ふ。大番大井彥三カ昌次死して。其子長右衛門正義つぐ。(創業記。當代記。家譜。)
○十六日江戶にては御所松平陸奥守政宗が邸に臨駕し給ひ御茶宴あり。政宗が嫡子總次カへ。來國俊の御差添をたまふ。(創業記。當代記。家譜。貞享書上。)
○十八日伯耆國大山寺岩本院へ寺料の御判をなし下さる。伯耆國大山寺領三千石幷に山林境內諸役等近代の故事のまゝ相違有べからずとなり。(國師日記。)
○十九日大御所善コ寺より三島につかせらる。(御年譜。創業記。)
○廿日小田原城にいらせたまふ。(創業記。)
○廿一日武州にいらせらる。御所には郊外まで出迎へ給ひて。江戶城にかへらせ給ふ。大御所江戶にはいらせ給はず。猶近郊所々にて放鷹したまふ。(創業記。)
○廿二日夜大雪。(創業記。)
○廿三日金地院崇傳江戶にまいり。登營して拜謁し奉る。(國師日記。)
○廿四日金地院崇傳より。御臺所へ杉原十帖献ず。(國師日記。)
○廿五日御所江城を出まし上總邊にならせられ。銃もて雁鴨多く打たまふ。今年江戶近郊雁鴨少かりしかば。上總邊の御狩ありし故にや。にわかに此郊鳥多くあつまり。大御所の御狩塲御獲物多くよろこばせ給ふ事大かたならず。(國師日記。創業記。當代記。)
○廿七日大御所より新鶴を大內に驛進し給ふ。この日崇傳に月俸五十口下さる。(勸修寺記。國師日記。)
◎是月馬塲右衛門信成死す。八十歲。其子次カ兵衛信正つぐ。信成もとは武田の臣にて父を駿河信久といふ。また大河內金兵衛秀綱召れて御家人にくはゝる。父は三河の吉良義昭の臣金兵衛秀綱入道休心なり。永祿七年義昭沒落ののちここかしこに漂泊し。久しく伊奈備前守正次のもとに寓居す。其弟長四カ正綱は十二歲より長澤の松平甚右衛門正次が家つぎて。大御所につかへ奉り右衛門大夫と稱す。正綱養子長四カ信綱。實は此久綱が長子なり。(ェ永系圖。)
○十一月朔日蝕す。さきに本多美濃守忠政が女をやしなはせ給ひ。堀越後守忠俊にあはせられしに。忠俊罪蒙り越後國除かれしとき。その妻は駿府(武コ編年集成には江戶につくる。)にめしてすませらる。しかるをこたび有馬修理大夫晴信が子左衛門佐直純に再婚の事仰下され。直純に長光の御刀御馬をたまひ。今年の內もろともに伏見までのぼる。明春所領肥前有馬へ。ともなひまかるべしと仰下さる。(節季蝕記。ェ永系圖。當代記。武コ編年集成。)
○十二日醫員野間壽昌院玄琢成岑。岡本玄治諸品。ともに法橋に叙す。(ェ永系圖。)
○十五日門奈助左衛門宗勝三子傳八カ勝重めし出さる。(ェ永系圖。)
○十八日大御所所々鷹狩し給ひて。けふ江城につかせ給ふ。(國師日記。)
○廿日金地院崇傳かねて江戶に待むかへ奉り。大御所に拜謁す。(國師日記。)
○廿三日金地院崇傳まうのぼり。大御所を拜し奉る。この日崇傳に江戶にて月俸五十口下さる。(國師日記。)
○廿五日伊勢國桑名の城主本多中務大輔忠勝が遺領十万石を。その子美濃守忠政に襲しめらる。この忠勝は九條右府師尹公十三代の孫右馬允藤原助秀。豐後國本多に住せしより家號とす。忠勝が五世の祖平八カ助時三河に來り。泰親。信光。親忠の三君につかへて戰功あり。その後世々當家閥閱の功臣にて。祖父忠豐。父忠高。引つゞき君のため戰死す。忠勝はじめ平八カと稱し。永祿三年大高城をまもらせたまふとき。十三歲にてしたがひ奉り。四年織田右府のもとへわたらせ給ふとき。國人等御行粧を見奉らんとて騷動せしを。忠勝大音にて叱しければ忽にしづまりぬ。六年吉田城攻に眞先かけて高名し。一世の武勇智畧凡その右に出るものなし。九年騎馬の士五十餘人を屬せしめられ。姉川の戰には朝倉が三万餘の中へかけ入。つゐに敵をうちやぶり。武田信玄入道が三河遠江を打したがへんとて。旣に飯田の城を攻落したるとき。方は敵のさまをうかゞはんと八千ばかりの人數にて。見附の原に打出しが。武田が大軍をみて引取かねしに。忠勝K糸の鎧に鹿角打たる兜をき。蜻蛉切といふ鎗馬手の脇にかいこみ。二反ばかりに押よせたるかたきの眞中に。しづかに馬を乘出し。味方を下知して軍を引かへしたるふるまひ。敵も味方も目を驚かす。さてこそ武田がたより。見附の坂に榜を立て。家に過たるものは二あり。からの頭に本多平八とかきて立しとぞ聞えける。また大御所和泉の堺にて。織田右府の事を聞召しおどろかせ給ひ。信長と死を共にせん。忠勝御先つかまつれと仰ければ。忠勝御先うちて馬をはせしが。廿町ばかり行て引かへし。
我君織田殿の好をおぼしめし。その舊盟を守りたまはむには。いかにも忍びて御本國に歸り給ひ。御軍勢を催され。織田殿の仇を報じ。光秀が首討て手向られんには。信長の亡靈もさこそスび給ふらめといさめ奉る。よてこの諫にしたがはせられ。伊勢伊賀をへ給ひつゝがなく三河にかへらせ給ふ。又長久手の戰には。豐臣秀吉味方負軍せしと聞大にいかり。直に樂田を立て大軍をひきつれ長久手に出馬せらる。忠勝このとき小牧山の御陣にとゞまり守りしに。長久手にむかひし軍勢。君も臣も戰疲れたるべし。秀吉の大軍新手を以てむかはんに覺束なしと思ひ。馬武者歩兵わづか三百餘人をともなひ。秀吉の大軍と道をならべて行ほどに。家士永井與次カが馬はなれ。敵軍の中へはしりいる。忠勝鞭あてゝ馬をはせ。敵軍の中へ乘入てその馬をとりかへす。敵これをみて大にいかり。忠勝が小勢を追とりまき討とらんとひしめくを。秀吉かたく制して龍泉寺にいたる。しかれども此とき君ははや小幡の城にいらせ給へば。秀吉力及ばずこの所に陣どる。忠勝ふるつはもの等を六人まで斥候につかはし。敵陣のさまよくみさせ。今夜秀吉の陣に夜討し。秀吉が首取て見參に入候べしと申けれども。夜軍は危ものぞと制したまひ。軍を全うしてかへらせ給ふ。其後豐臣家と御和睦あり。關白の妹君をむかへ給ふに及んで。忠勝御納采の御使にのぼせられしに。關白對面し給ひ。一人當千の兵とは汝をこそいふべけれと感ぜられ。貞宗の刀。小倉黃門定家卿の色紙を引出ものせらる。天正十六年四月十八日叙爵し中務大輔と稱し。十八年小田原の軍にて。上方の勢とともに。武州岩槻の城をはじめ八王子。筑井。鉢形。深谷寺等の城を攻落し。又關白ことさらの仰にて上總廳南の城をまもり。上總下總をしづむ。戰ひ終て關白東山道に下り給ひしとき。野州宇都宮の旅館に忠勝をめし。佐藤忠信が胄をたまはり。當時忠勝ならでは此兜用ひんものおぼえず。汝に授くとぞ仰下されける。關東にうつらせ給ふ時も。關白より井伊。本多。榊原。大久保等は。よのつねの輩に比すべからずと仰進らせければ。忠勝上總大多喜の城たまはり十万石になさる。慶長五年には井伊とおなじく軍監として。御先手の諸將を引具し美濃國に馳向ひ。九月十五日大勝の後御本陣にて。福島正則大御所にむかひ。けふ中書が大軍を下知したるさま。多勢を左右の手つかふよりも安く見えたり。天晴よき大將軍にて候と感じ聞え上ける。その側に忠勝ありてあざわらひ。あまり敵のよはく候て。たゝかふに堪ず候ひしと申けり。六年正月朔日伊勢桑名の城たまはり猶十万石領し。今までの所領大多喜の內五万石を。二男出雲守忠朝にたまふ。忠勝弱冠のむかしより攻城野戰の勳功。あげてかぞふるにいとまなし。身旣に老いたはる所多しとて。致仕せん事をこふといへどもゆるされず。この年十月十八日封地にありて終をよくせり。年は六十三。(ェ永系圖。藩翰譜。世に傳ふる所は。忠勝年頃軍費の爲。城中に貯ふる所の金一萬五千兩あり。長子美濃守忠政には封地をゆづる。二子出雲守忠朝は所領もいまだ乏しければ軍用充足せず。この金は忠朝にゆづるべしと。遺書にしるしてうせぬ。その遺書のまゝに忠政はじめ家臣等守りてその金を忠朝に授く。忠朝聞て。私恩をもて我に此金ゆづられしは。亡父の過といふべし。兄にています人は所領も廣く。家臣もあまた召つかはるれば所用も又多し。我は祿少ければ家人も少し。所用も又多からねば。この金は兄君のかたにつたへ。軍國の用に備へ給ふべしといふ。兄忠政これをきき。忠朝の申所理りとは聞ゆれど。亡父の遺命そむくべからずとて。兄は父の命を重しとし。弟は義は守り。互にゆづりてうけず。よて一族舊臣等あつまり議して。此金を半に分て兄弟にさづく。忠朝さらば我等がために分たれし金は。兄君
○もとにあづけ置。所用のとき申受べしとて兄にあづけ。終身その身の用にはついやさゞりしとなり。大坂の役に眞先かけて忠死せしはこの忠朝なり。兄弟遜讓のふるまひをみるに。後世にまたありがたき人と見へたりと申き。武將感狀記。)
○廿六日豐國社務萩原大夫兼從に御朱印をたまふ。その文にいふ。豐國大明神社領として山城のうち一萬石のこと。慶長六年先判の旨永代寄附せらる。神供祭祀修造以下社中諸役懈怠あるべからず。社家の事。左兵衛佐兼治は吉田神主相續せしめらる。當社は萩原二位兼見弟神龍院梵舜教導せしめ。故事のごとく祭祀以下はからふべし。明神祭代官等社法を亂さず嚴に守りて。慶長九年先判のごとく。全く社務相違あるべからずとなり。この日金地院崇傳は。大御所に先だち駿府へのぼるべしとて暇を給ふ。御臺所よりも時服二襲。あや二。その外かずかず賜物あり。また鹿苑院入院の公帖を崇傳にさづけらる。大御所江戶にわたらせ給ふほど。酒井雅樂頭忠世が宅へ渡御ありて。一文字の御刀をたまふ。(令條記。國師日記。家譜。)
○廿七日大御所江戶を出まし。駿府にかへらせ給はんとて。御道すがら御鷹狩あり。(創業記。當代記。)
○廿八日金地院崇傳に夫馬の券を下さる。(國師日記。)
○十二月朔日江戶にては。御所かたがたにならせられ御茶事あり。大御所より女院へ雁三十。女御へ二十進らせられ。兩傳奏へも十づゝつかはさる。(創業記。慶長年錄。勸修寺記。)
○三日金地院崇傳昨夜駿府へつく。あちやの局より兼ての仰とて。M名納豆を下さる。崇傳是を謝して。局へ園中の蜜柑を贈る。(國師日記。)
○七日多門平左衞門成正死して。其子小姓平次カ正勝つぐ。(ェ永系圖。)
○十日大御所駿府につかせ給ふ。(御年譜。)
○十二日神龍院梵舜京より參り。搨腰a劑方十二冊。杉原三束さゝげ。御けしきるはしく御感の旨仰下さる。萩原大夫兼從太刀馬代。卷物十束。宋牧溪畵三對幅さゝぐ。あちやの局へも梵舜は金箔帶二條。萩原大夫兼從小袖二贈遺す。江戶へも參拜すべき旨仰下さる。丹波代官權太小三カ某。能勢小十カョ隆訴論のことあり。本多上野介正純安藤帶刀直次して。查撿せしめらる。(舜舊記。創業記。當代記。)
○十三日大御所放鷹の御遊あり。此日明年彌生の頃御上洛おはしますべきよし仰出さる。また越後少將忠輝朝臣の臣花井遠江守某越後の國圖を献ず。(當代記。慶長日記。創業記。慶長年錄。)
○十四日大番本多九藏玄盛死して。其子權右衛門玄正(時に三歲。)家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○十五日門奈助左衛門勝重はじめて江城に參りつかへ奉る。(ェ永系圖。)
○十六日明國福建の商周性如が船五島に着す。長崎奉行長谷川左衛門藤廣によりて。駿府にまいり拜謁し。明國勘合印の事をはからひ申さんよしをこふ。よて本多上野介正純の書簡を。明の福建惣督陳子貞のもとへをくらしむ。其書は林道春信勝草して。金地院崇傳に繕寫せしめらる。藤廣よりも同じく書簡をおくり。和漢通信の故事をのべ。皇朝いま治平にて朝鮮。琉球。安南。交趾。占城以下の諸蠻より。書を献じ方物を送らせざるはなし。明室よろしく勘合の符をもて。信を通じ好を結ばるべし。しからば長崎の港をもて。兩國互市の利を開かんよししるしたり。これも信勝が草する所なり。(異國日記。烈祖成績。此書簡かしこに達するといへども。明廷の君臣猶狐疑をいだき。その事ならず。されども南京福建の商舶。年々長崎にいたりて互市する事。今に至りて絕ず。これ其起本なり。烈祖成績。)
○廿一日三河國吉田城主松平玄蕃頭家C卒。年四十五。其子民部大輔忠Cに原封三万石襲しめらる。此家Cは和泉入道殿の二子左京亮守家より出て。祖父備後守C善が時。はじめて三河國竹谷にうつりすみしゆへ。此ながれをば竹谷の松平と稱す。父は備後守C宗なり家Cはじめ與二カといふ。甲斐國へいらせ給ひしとき。北條勢と勝沼に戰て。首あまた切て献ず。長久手の戰にはをのが興國寺の城を守る。關東にうつらせ給ひしのち。武藏國松山(八幡山とも云。)の城たまはりて一万石領し。關原の戰には尾張國C州の城を守り。慶長六年二月いまの城たまはり。三万石になされしなり。(ェ永系圖。家忠日記。藩翰譜。)
○廿三日大澤兵部大輔基宥子虎松基重從五位下に叙し右京亮と改め。江戶に奉仕す。(家譜。)
○廿四日追儺の式行はる。
○廿五日立春なり。明年の春にいたらば。美濃伊勢の先方衆三河の輩は。尾州名古屋の城。關東をよび奥羽信州の輩は。江戶城造營の事課せらるべきよし令し下さる。この日江戶の御所には上杉中納言景勝が櫻田の亭にならせたまふ。景勝に包永の御太刀。備前守家の御刀。左文字の御脇差。時服五十。銀三百枚たまはる。景勝より來國俊の太刀。正宗の刀。貞宗の脇差。時服三十。銀三百枚。純子三十卷。綿三百把。鞍馬一疋を奉る。景勝の長子玉丸定勝に御盃をたまひ。名を千コ丸とたまはり。御手づから國光の御刀を授らる。時に七歲。また家臣直江山城守兼續等五人。各時服銀をかづけらる。(創業記。家譜。ェ政重修譜。北越軍記幷に武家盛衰記等に。是を慶長八年十一月廿八日の事とし。このとき景勝は直江山城守はじめ三人のみ邸內にありて。その餘の家士は皆下邸へつかはし。門々の警衛は普第の諸大名をたのみ。その外勤番幷に御膳所向。すべて本多佐渡守正信をたのみ。御家人に諸事をあつかはしめければ。大御所も景勝分别ものなりと御感あり。又景勝は石田第一の逆黨なりしに。かく御成までありと聞。西國上方の大名みな我輩患なしと安心せり。又武家咄に。此御成の日上杉家先年伊達家より分取せし看經の幕九曜の幕を馬屋に打置しかば御相伴に政宗出しが。これを見て赤面せしとあり。皆このときの事なるべし。御相伴は政宗。高虎。施藥院宗伯なりとしるす。)
◎此月松前より鷹を獻ず。この頃武州忍。遠州中泉の鳥屋に置れし大鷹數多損ぜしかば。鷹師等咎蒙る。(當代記。)
◎此冬富永甚四カ勝由幼稚にて駿府にすみける家の前を。大御所ならせたまふとて。本多上野介正純に命ぜられ。母もろともめしてまみえしめらる。十六歲までは外祖大岡傳左衛門C勝養育すべしと仰付られ。祖父の所領武州大宮へうつりすむ。(家譜。)
◎此年本多左大夫光政。松平采女正吉。(時に十六歲。)岡田左近重治。牛込傳左衛門俊重。(時に十六歲。)坪內半三カ定次。(時に十五歲。)早川五カ兵衛。(時に十三歲。)彥坂平六カ重定。森川庄九カ氏之。(時に九歲。)平岡次右衛門ョ重。井出八十カ。(時に十一歲。)渡邊六左衛門綱治。(時に十四歲。)志賀半兵衛定綱(時に十五歲。)江城にめして初見せしめらる。甲州武川の士は尾張右兵衞督義直朝臣に附屬せらるゝといへども。其長子等は江戶にて見參せしめらるべしとぞ。伊藤三右衞門重次が二子新五右衞門重昌をはじめ。いづれも江戶にて拜謁す。酒井作右衞門重之。(時に八歲。)武藤理兵衞安信。小川甚右衞門正信。楢村孫七カ某。(時に十一歲。)松平忠左衞門勝隆。齋藤惣左衞門重成大御所に拜謁す。關長門守一政子兵助氏盛。島津右馬允忠興(時に十二歲。襲封の謝恩せしなり。)兩御所に拜謁す。神谷助兵衞直次。(時に十三歲。)本間五カ左衛門季重。(時に九歲。)加藤太カ左衛門良勝。(時に十歲。)米津梅干之助康勝。佐脇傳右衛門安雅。伊勢作十カ貞晴。(時に十一歲。)榊原小兵衛長勝。神尾猪兵衛幸政。伊東源右衛門祐吉。渡邊國松勝綱。(時に十三歲。)田村安栖軒長頥三子傳右衛門長矩。(三百俵分つ。)はじめて江城につかへ奉る。もとの織田宰相秀雄の家人星合采女正具泰が。その主につかへ忠ふかく。關原の時も當家に志をはこびたるをもて。江戶に奉仕せしむべきよし。大御所の仰により召出され。これも江城につかへ奉る。高木善七郡守久。(時に十二歲。)野間久三カ重次。柘植平右衛門正時。木次カ右衛門可直。小川又左衛門氏綱大御所に仕へ奉る。小菅八左衛門正重若君のかたにつかへ奉る。鍋島和泉守忠茂は兄信濃守勝茂より。肥前國藤津郡に於て二万石分ち。原祿を合せて二万五千石になる。安藤對馬守重信は上野國多胡郡にて五千石加へたまはり。六千六百石になり。石河市正光忠攝津美濃兩國にて一万石たまはり。(のちに尾張につかふ。)三浦長門守爲春は。駿遠兩國を常陸介ョ宣朝臣に封ぜらるゝにより。遠江のM名にうつされ。三千石くはへて八千石になる。中西伊豫守元如常總のうちにて三千石たまひ。堀淡路守直重信濃國高井郡のうちにて。六千石くはへて八千石になさる。小出信濃守吉親采邑二千石たまひ。永井監物白元三百石。牛田三カ兵衛光成四百石。久貝忠左衛門正俊三百石くはへられ。大岡兵藏忠吉も采邑を加へ賜ふ。石川小刑部貴成養父彌左衛門貴繁が家つぎ千石たまはり。志賀半兵衛定繼父源助政繼入道良以老衰せしかば。父の原職をつぎ右筆となり所領をたまふ。佐久間大膳勝之常州にて三千石下され。從五位下に叙し亮となる。本多下總俊次も爵たまはり守になる。土井大炊頭利勝連署の列に加へらる。牧野內匠頭信成小姓組番頭となり火の番をかぬ。本堂伊勢守茂親常州笠間の城番にさゝる。大河內孫太カ久綱地方奉行關東四十八万石の地を支配せしめらる。安藤市カ兵衛忠次。田中彥次カ義次小姓組にいる。義次は現米八十石たまふ。稻生次カ左衛門正信。小河惣左衛門ョ勝書院番にいる。飯河兵十カ盛信。井出三右衛門正吉。兼松彌五左衛門正直。鈴木八兵衛信吉大番にいり。守屋左大夫行廣代官となり。小川甚右衛門正信和泉の代官となり。中西太カ右衛門三C三州伊奈の代官となる。醫員吉田吉皓如見駿府にて初見しけるに。試に藥性數品をとはせたまふ。その答る所明らかなり。よて父の原職をつぎ。駿府に伺候せしめらる。安藤帶刀直次は常陸介ョ宣朝臣につけられ。猶政闈に伺候せしめらる。玉虫對馬守繁茂は越後少將忠輝朝臣につけられ。秩父彥兵衛重能。佐野半左衛門政一は國松君につけらる。竹中周防守重定卒して。(家譜十六年四月廿六日とぞ。)その子吉十カ重房つぎ。伴野對馬守貞吉卒して。(呈譜七年三月三日とぞ。)その子縫殿助貞明つぎ。竹腰小傳次正信に。御所より持筒三挺下さる。去年駿府にても三挺たまはりしかば。此後旅行のとき銃六挺づゝもたらしむ。腰物奉行野々山新兵衛兼綱は江城御前にて。射藝を御覽にそなへ。御衣をたまふ。杉原伯耆守長房は妻子を江府にうつりすましむ。大岡源右衛門宗茂は少年により。安藤對馬守重信が手に屬し。御陣の供奉すべしと命ぜらる。小M民部少輔光隆。向井將監忠勝。久永源兵衛重勝。去年九月淡路國に御使し。諸大名の大船を查撿して歸りければ。時服金たまふ。(ェ永系圖。斷家譜。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。大三河志。貞享上書。) 
卷十五 / 慶長十六年正月に始り五月に終る御齡三十三 

 

慶長十六年辛亥正月元日江城歲首の慶會例のごとし。(榮松錄。)
○二日謠始例のごとし。駿城にてけふ歲首の慶會行はる。酒井左衛門尉家次江城より御使して。新年を賀せらる。大坂の豐臣右大臣秀ョ公より。大野主馬治房を駿城に使して賀し進らせらる。この日眼醫伊達本覺景長死す。その子本覺景次はェ永二年に至りてめし出さる。景長若かりし時は與大夫とて。父山城守景忠と共に高天神の城守り。武田勝ョの勢と戰て疵を蒙り。これより駿河國江尻に退居し。醫學に志して眼科の術を得たりといふ。(慶長年錄。御年譜。家忠日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○三日由良式部大輔國繁卒す。遺領七千石その子新六カ貞繁につがしめらる。貞繁が庇䕃料五千石をも。そのまゝたまはるべしとありしを。貞繁辭して父の遺領のみをつぐ。この國繁が家は。新田藏人義兼より三代又太カ政義はじめて由良を稱す。その後胤なりとぞ。此日松平飛驒守秀行が江戶の邸災あり。御成門は災を免れ。その餘は皆烏有となる。池田少將輝政が邸もこの災にかゝる。秀行はきのふ就封の發程せり。(家譜。ェ政重修譜。當代記。慶長年錄。)
○七日大御所遠州に狩したまはんとて。けふ駿城御發輿あり。田中にやどらせ給ふ。(御年譜。家忠日記。)
○九日大御所榛原郡に狩し給ひ。又田中にやどらせらる。(御年譜。家忠日記。)
○十日三河國御油驛火あり。(當代記。)
○十一日細川越中守忠興に暹羅渡海の御朱印。松浦法印鎭信に安南渡海の御朱印。角倉與一貞順にも同じく下さる。平野孫左衛門へは呂宋。船頭木工右衛門へは交趾渡海の御朱印を下さる。この日山岡對馬守景佐卒し。その子使番五カ治景長家つがしめらる。景佐はじめは近江の佐々木に屬し。其後織田家につかへ。天正十年より當家に奉仕し。この日五十九にて終りしなり。又大番植村庄之助正朝死して。その子庄次カ正相つぎはじめて見え奉る。時に十一歲。(御朱印帳。家譜。ェ政重修譜。)
○十五日御所松平陸奥守政宗が邸へならせ給ふ。この日本多上野介正純子(幼名詳ならず。)正勝爵ゆりて出羽守と稱す。小姓松平甚三カ行隆三州にて二百七十石の采邑をたまふ。(榮松錄。家譜。)
○十六日酒井河內守重忠が四男小姓與七カ忠正。叙爵して下總守と稱す。(家譜。)
○十七日大御所中泉より田中にかりせさせ給ふ。大御所より歲首の賀使命ぜられし大澤兵部大輔基宥此日參內す。(御年譜。勸修寺記。)
○十八日大御所駿城にかへらせ給ふ。(御年譜。)
○十九日植村二位法印泰忠卒しければ。其子帶刀泰勝に家つがしめらる。泰忠はじめは法師にて三河國鳳來寺の藥師别當となり安養院と稱す。元龜三年の冬三方が原合戰の時御味方になり。軍功をあらはしければ。榛原郡にて所領たまはり御家人に加はり。還俗して土佐守と稱し。天正十八年小田原の軍に本多鳥居等とおなじく。武州岩槻の城を攻落す。關東にうつらせ給ふに及び上總國勝浦にて三千石下さる。慶長五年上杉御追伐のとき勝浦にありて近國の賊徒をしづめむとす。六年地加へられて五千石たまはり。十二年ふたゝび入道して二位法印と稱し。七十三にて終をとる。また小姓阿部新四カ重吉死しければ。其子新右衛門重次家をつぐ。重吉は三河の產。父は新四カ重尙といふ。重吉十一歲にてはじめて大樹寺殿につかへ奉り。大御所御誕生の時より近侍し。駿州今川がもとにますころも御供し。三河にかへらせ給ふ後も常に眤近し。今は江城につかへ。齘つもりて八十二歲けふ終りし之。大御所御幼稚のむかしより。なれむつび奉りしものなれば。その死を聞召こと更御哀惜深かりしとぞ。(家譜。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○廿日江城にて具足の御祝あり。又連歌の筵を開かる。發句は紹之。若拷_井にたつや庭の松。御句は春の朝戶を明むかふ峰とつけたまひ。つきつぎ百韻にみちて連衆みな饗せらる。(慶長見聞書。連歌の筵三州よりの佳例なり。しかれどもその句のものに見にしは。このときをはじめとす。)
○廿一日江城より歲首の賀使として。上洛せしめられし吉良左兵衛督義彌參內す。又安藤對馬守重信江戶にて。連署の衆に加へらる。奉行の職をかぬ。大番頭山口但馬守重政野州にて一萬石加へられ。一萬五千石になる。(勸修寺記。ェ永系圖。慶長見聞書。ェ永系圖には日をしるさず。ェ政重修譜には八月とす。今慶長見聞書による。)
○廿二日島津義久入道龍伯卒す。この入道は豐後前司忠久が後胤。父は陸奥守貴久といふ。世々薩摩の鹿兒島に住す。室町將軍義輝より諱の字を授られ義久と稱し。爵ゆりて修理夫夫に任ず。天正九年五月三日從四位下にのぼる。後に守護職を弟兵庫頭義弘にゆづる。入道が代に大隅。日向。筑前。筑後。肥前。肥後。豐前まで打したがへ。大友宗麟を打亡し豐後國をもあはせんとす。豐臣關白天下の兵權を握らるゝに及び。兼て九州征伐の事思ひ立れしに。大友伊東等がすゝめければ。
天正十四年仙石。長曾我部。大友等島津退治として豐後國に向ひ一戰に負軍せしかば。十五年の春關白みづから畿內。南海。北陸等の軍勢を引つれ鎭西に發向し。伊東を案內として筑前筑後をへて其五月薩摩に亂入し。鹿兒島に押寄らる。今は義久も防ぎ兼剃髮染衣の姿となり關白の本陣に參る。關白大によ喜ばれ大隅薩摩兩國安堵の事仰くだされ。一族家人等にも對面有て九州二島ことごとく平均す。この後大坂に參り。殿下の命令にしたがひ軍事をつとめしかば。十六年七月五日在京料一萬石をたまひ。三位法印になさる。文祿の朝鮮軍には。弟兵庫頭義弘幷に其子又八カ忠恒押わたり。慶長三年泗川の戰に明兵の多勢を打やぶり。我邦の軍を全くして歸朝しければ。大御所その勳功の賞として。大坂の奉行等とはからせ給ひ。義弘には所領五萬石くはへられ。正宗の御刀を給ふ。しかるに五年の秋關原の戰に。義弘石田が方人して散々に打なされ。希有にまぬがれ國に迯かへる。入道福島正則につきてうたへけるは。義久內府公に二心をいだかず。弟義弘が所行以の外奇怪のいたりなり。義弘國に迯かへり後對面をゆるさず。櫻島にをしこめ置ぬ。御下知を待て誅すべきなりと申により。かねて薩摩征伐にむかひし加藤K田等をばめしかへさる。入道猶もみづから大坂にまいり。陳謝せむと思へど。病にをかされしかば。家人鎌田出雲をのぼせ樣々陳謝す。七年四月十一日ェ宥の御沙汰もて。本領安堵の御教書を入道に賜ふ。入道大にスび忠恒を伏見にまいらせ謝し奉る。十一年六月十七日忠恒御名の字たまはり家久とあらため。十四年家久琉珠を討て中山王を生取しかば。大御所より。入道をはじめ義弘家久へも御書たまはり褒せらる。入道齡つもりて七十九。けふ終をとりしなり。江戶より揖斐與右衛門政景薩州につかひし。香火料銀千枚たまひしとぞ。(藩翰譜備考。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿三日吉良左兵衛督義彌從四位下にのぼり。上野介と改む。(ェ永系圖。)
○廿五日尾張名古屋城下新町火ありて百五十戶燒たり。(當代記。)
○廿六日美濃笠町燒たり。(當代記。)
◎是月菅沼主殿定官。小姓鳥居左門忠ョ爵ゆりて。定官は頭となり。忠ョは讃岐守と稱す。大島久左衛門光俊に二條城修築のため。土木のことを查撿せしめらる。(ェ永系圖。家譜。)
○二月朔日神尾五兵衛守世が江戶の宅災あり。(當代記。)
○四日甲斐國金山奉行田邊佐渡守重眞死して。嫡孫C右衛門安直つぐ。(家譜。)
○六日鳥銃の術精妙を得たる稻富伊賀直家入道一夢駿府にて沒す。これは駿府江戶に近侍し其技を傳へまいらせ優侍せられしが。この日六十一歲にて終をとりしとぞ。(慶長年錄。)
○十日江戶より大內に御狩の鴈五十を驛進し給ふ。其中に白鳥十あり。(勸修寺記。)
○十一日津金勘兵衛久C死す。其子又十カ胤次つぐ。久Cが兄又十カ久次天正十八年岩槻城責のとき討死しければ。其家つぎて九戶陣に供奉し。文祿のはじめ朝鮮の事おこりし時。伊豆山より船材を伐出させ給ふ。山本帶刀成行と共に其事をつとめ。上田御陣にも供奉し。慶長八年武川津金にて舊領を賜ひ。けふ死せしとぞ。(ェ永系圖。)
○十二日雷聲を發す。(當代記。)
○十六日烈風餘寒甚し。(當代記。)
○十七日大雨曉に撒す。(當代記。)
○十九日風烈しく寒氣三冬の如し。(當代記。)
○廿日廿一日ともに烈風。(當代記。)
○廿二日地震。(當代記。)
◎この月松平筑後守康親駿府に參覲す。康親去年の冬獻ぜし鷹逸物にて。鳥とる事多かりしかば。御感のあまり康親をめして。その鷹のとりし鳥もて饗せられ。御盃をたまふ。また江戶にては松平陸奥守政宗狩塲のいとま下され久喜に赴く。(武コ編年集成。貞享書上。)
○三月六日大御所御上洛のため駿城御首途あり。右兵衛督義直朝臣。常陸介ョ宣朝臣も陪從したまふ。これこたび御讓位御受禪あるべきゆへの御上洛とぞ聞えし。今夜は田中へ着せらる。江戶の西城搆造あり。松平陸奥守政宗。鍋島信濃守勝茂その役を課せらる。營作の法令五條仰下さる。(御年譜。ェ永系圖。)
○七日大御所掛川にやどらせ給ふ。松平隱岐守定勝五男千コ定房。一位の局によりて初見の禮をとる。御前に召て籠鳥をたまふ。(時に八歲なり。)又江戶にては西城搆造所へならせられ御覽ぜらる。(御年譜。ェ政重修譜。貞享書上。)
○八日大御所M松につかせ給ふ。(御年譜。)
○九日吉田に着御あり。(御年譜。)
○十日岡崎にいたらせらる。江戶にては御所城中搆造の地を親巡し給ふ。(御年譜。貞享書上。)
○十一日名古屋城に大御所いらせ給ひ。國中の法制をたゞしたまふ。此日雷なり雹ふる。江戶にては堀尾三之助元服し。叙爵して御名の字たまはり。山城守忠晴と稱す。(御年譜。當代記。武家補任。)
○十三日大御所岐阜につかせらる。この日禁裏造營の事仰出され。板倉伊賀守勝重に其事を總督せしめらる。(御年譜。勸修寺記。)

○十四日西城營作塲にならせられ。松平陸奥守政宗が家人川島豐前景泰拜謁し懇の御詞を蒙る。またP名十右衛門正勝死して。其子市カ右衞門C貞つぐ。この日大御所赤坂に着御あり。(貞享書上。家譜。御年譜。)
○十五日大御所彥根につかせらる。(御年譜。)
○十六日松平陸奥守政宗が營作塲にならせられ。政宗出て拜謁す。大御所には永原に至らせ給ふ。此日大風。(貞享書上。御年譜。)
○十七日船越五カ右衛門景直死して。其子小姓三カ四カ永景に采邑六千四十石餘をつがしむ。景直淡路の產にて。其はじめは三好長慶が弟安宅攝津守冬康にしたがひ。のち豐臣家につかふ。秀次關白罪蒙られしとき。景直そのよしみあるをもて勘氣を蒙りしが。やがて當家にめして本領をたまひ。關原の戰に功有て千五百石加へ賜はり。七十二歲にて終りをとる。又丹波の代官權太小三カ某。去年能勢小十カョ隆と訴論し上裁に及び。權太終に非據に决し贓罪をたゞされ改易せらる。此日大御所御入洛。二條の城にわたらせらる。太田新六カ資宗はじめ騎馬供奉のもの若干なり。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿はじめ。月卿雲客山科に迎て拜謁せらる。伏見城に着御の後松平五カ八直基母と共に參り拜謁す。故越前黃門秀康卿の庶子時に八歲。直基に御馬をたまひ。その母にも時服をかづけらる。(ェ永系圖。ェ重政修譜。慶長年錄。御年譜。家譜。勸修寺記。武コ編年集成。)
○十八日營作所所に親巡し給ひ。松平陸奥守政宗御懇詞を蒙る。けふ廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿勅使として伏見城に參向あり。大御所はるばる御上洛有しを勞せらる。こたび御讓位。御受禪。御即位等の大儀ましませば。その事沙汰つかふまつらんため。江戶將軍名代として。上洛つかふまつらせ給ふよし答へたまふ。(貞享書上。勸修寺記。)
○十九日廣橋勸修寺の兩卿伏見に參りむかひ。義直ョ宣兩朝臣叙任あるべきとの內勅をつたへ。大御所かしこまり聞え給ふ。季子ョ房このついでに官階を下し給はらむ事願ひ給ふ旨こたへ給ふ。この日道路の法令を仰下さる。堤と川よけの間に牛馬を放べからず。道路ならぬ所をみだりに行來すべからず。樹木ならびにさし木等にさはるべからずとなり。(勸修寺記。令條記。)
○廿日右兵衛督義直朝臣。常陸介ョ宣朝臣。ともに從三位左近衛權中將にのぼらせられ參議をかけられ。左衛門督ョ房朝臣と從四位下右近衛權少將に叙任せらる。又故越前中納言秀康卿の長子三河守忠直。右近衛權少將にのぼせらる。また義直卿の傅役竹腰小傳次正信。三河守忠直の家司本多志摩富正叙爵し。正信は山城守。富正は伊豆守と稱す。この日大御所織田長益入道有樂を大坂城に御使し。右府近日上洛せられ。御對面あるべしと仰つかはさる。この夜二條城のほとり火あり。(御年譜。武コ大成記。慶長日記。家譜。當代記。)
○廿一日廣橋勸修寺の兩傳奏伏見城に參向あり。御參內の日期を議せらる。其時兩傳奏內旨をつたへられしは。大御所大功大コならびなく。天下これを瞻仰す。官位いまだ天意人望にみたざれば。大政大臣にあげ給ひ。そのうへ菊桐の御紋を勅許あるべしとなり。大御所叡慮の忝を拜謝し給ひ。しかしながら一人に師範し四海に儀形たる則闕の官には。いかで天恩をけがすべきと固辭し給ひ。又御紋の事はそのかみ足利家に勅許ありて。その氏族今にいたり累世これを用ゆ。新田足利もと一門同族なり。家康いやしくも新田の統をうけ。足利にをくるゝ事百餘年の今にいたりこれを拜賜せば。門流に優劣あるに似たり。あはれ御免を蒙り。臣が家代々傳ふる所葵を用ひ侍りたし。ふしてねがはくは臣に賜はる所の官を辭し奉れば。これに加へて新田曩祖大炊助義重。ならびに父次カ三カ廣忠に官位を贈り賜はらんには。寵榮あまねく泉壤をてらし。天恩永く後裔をかゞやかし候はんとぞ奏し給ふ。內にも深く其御誠意を叡感ましまし。御追贈の議行はれしとぞ。(家忠日記。)
○廿二日御追贈の宣下ありて。新田大炊助義重は鎭守府將軍從四位下。廣忠君は從二位大納言を贈らせ給ふ。上卿は廣橋大納言兼勝卿。職事は正親町三條右中將實有朝臣とぞ聞えける。また三河國岡崎城主本多豐後守康重卒しければ。其子伊勢守康紀もて原封五万石襲しめらる。この康重は九條右府師輔公十四代本多右馬允助定が五代の孫豐後守秀C。はじめて出雲守長親君に從ひしより。君も臣も世々を重ね。二心なき普第なり。父豐後守廣孝早く大御所に從ひ。高名軍功少からず。永祿五年御諱の字に御召初の甲胄及び御馬を給ふ。時に九歲。康重十六歲より父と共に遠江國懸川城攻の時高名し。姊川長篠等の戰に父子いつも勇をふるひ。鳶巢の戰には疵蒙る事二ケ所。鳥銃左の股にあたりしが。其玉は生涯肌にとゞまれり。天正五年父廣孝遠江國にて采邑賜はりしかば。三河國の舊領をば康重に賜はる。長鍬の戰堀秀政が三千騎一度におめき打てかゝり。味方危く見えたるに。康重が一勢どつと返し多勢の中に切廻り。太刀目釘打おりて。其敵と組て首をとる。其身も又疵七ケ所迄負たり。
十三年石川伯耆守數正が岡崎の城を出て上方にはしりし時。康重三男紀貞を人質になして獻る。汝は累代の忠臣。質子に及ばずとて返されたり。關東にうつらせ給ひて後。上野國白井の城たまはり二万石領し。文祿四年叙爵して豐後守と稱し。關原の戰には山道の御供しければ軍にはあはず。六年二月岡崎の城たまはり。加恩有て五万石領し。此日居城にうせぬ。五十八歲。病中江城より松平助十カ正勝御使し御懇問あり。(御年譜。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿三日城中營築所を親巡し給ふ。この日大御所御參內。まづ勸修寺中納言光豐卿の亭に立よらせ給ひ。御衣冠をとゝのへたまふ。宰相義直卿。宰相ョ房卿。三河守忠直も陪從してまいらせらる。曩祖先考御贈官を謝したまふ。兩卿忠直も天酌あり。勸修寺中納言光豐卿これを扶持せらる。御かへさにも勸修寺の亭に立よらせ給ふ。黃門饗しまいらせらる。兩卿。忠直及び廣橋亞相。船橋式部少輔秀賢も御かたはらに伴食す。御閑談晷をうつして二條城に還御なる。又最上出雲守義光は少將にうつり堀尾山城守忠晴は從四位下にのぼせらる。(貞享書上。御年譜。勸修寺記。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿四日けふも營作塲をみめぐり給ふ。是より先細川越中守忠興は。御上洛を待迎へ奉るべきため。國をいでゝ都にのぼり。吉田の邸に侍りしかば。御入洛の頃は病にそみ臥たるがゆへ。內記忠利を伏見へ進らす。大御所も忠興が所勞御心もとなく思召。片山與安宗哲もて万病圓をたまふ。忠興こゝろよくなりしかば。この日二條城にまうのぼり拜謝す。又下總の佐倉領主北條左衛門大夫氏勝卒しければ。遺領一万石をその養子久太カ氏重につがしめらる。この氏勝はもとの左衛門大夫氏繁が子なり。母は左京大夫氏康が女なり。その先源氏にして福島と稱せしが。祖先綱成北條氏綱が婿たるにより。氏を授けられ北條と稱せしとぞ。氏勝は父が家つぎ左京大夫氏政が命により。關東惣軍の先鋒となり。松田尾張守憲秀と共に關東所々にて軍功を勵す。天正十八年豐臣關白小田原の城を攻圍るゝ時に。氏勝山中の城をまもる。その城やぶるゝに及び。甘繩の城にかへりかたく守りしかど。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。榊原式部大輔康政等仰を蒙り歸順をすゝめしかば終に降參し。下總佐倉(斷家譜岩富。)にて一万石たまはり。その後仰により三州岡崎。尾州犬山。丹州龜山等の城を守る。この日五十三歲にてうせぬ。(貞享書上。家譜。ェ永系圖。斷家譜。ェ政重修譜。)
○廿五日御親巡連日のごとし。(貞享書上。)
○廿六日けふも營作所へならせ給ふ。松平陸奥守政宗かくと聞。いそぎまかり拜謁し御懇詞を蒙る。(貞享書上。)
○廿七日今上(後陽成院。)御位を三宮(後水尾院。)にゆづらせ給ふ。この宮は慶長元年むまれ給ひ。同五年御齡五歲にて親王宣下あり。十五年御元服。けふ御とし十六にて御受禪まします。この日豐臣右大臣秀ョ公は。大御所御對面の事仰つかはされければ。大坂をいでゝ淀に着せらる。義直ョ宣の兩宰相淀まで御迎としてまいらせ給ふ。(武コ大成記。世に傳ふる所は。大御所織田有樂をもて。秀ョ久しく對面し給はず。いまはおとなしくならせ給ふ事なれば。都にのぼり對面あるべし。もとより御婚姻あるうへは。兩家のよしみいよいよむつまじくならば。世上の人心も和順して。天下太平の基たるべしと仰つかはさる。秀ョは故太閤薨ぜられてのち。母子ともに慶長四年正月十日伏見より大坂にかへられし後は。十餘年の間いまだ一度も城中を出ず。生母淀殿故太閤在世とかはり行世の有樣を。うき事にうらみねたましく思ふあまり。秀ョ出城あらんとき。いかなる危難や出來なむとうたがひ。上洛の事を申とゞめらる。大政所かくと聞れ。もし大御所の御心にたがはゞ。いかなる秀ョ母子の身のうへうき事いで來んかと心づかひして。みづから大坂に赴き母子をいさめらる。太閤恩顧の諸大名等も。秀ョ强て上洛なくばあしかりなんと。うちうち大坂につげしかば淀殿も今はせんかたなく。秀ョ大坂をいでられしとなり。武コ大成記。)大坂川口より淀まで樓船にてのぼらる。川の兩岸は加藤肥後守C正淺野紀伊守幸長より弓鐵炮の人數を出し警衛す。船中にては饗宴をひらく。大御所よりもしばしば御使もて。起居をとひ慰勞せらる。江戶にては御みづから城溝浚利を見めぐり給ふ。(武コ編年集成。貞享書上。)
○廿八日けふも營作塲を巡視し給ひ。伊達の藩士川島豐前拜謁す。川島とよばせたまひ慰勞の御詞をかけらる。これを聞く松平陸奥守政宗は。いそぎまうのぼり謝し奉る。又京にては右府秀ョ公二條城にまうのぼらる。織田長益入道有樂。片桐市正且元。同主膳貞隆。大野修理亮治長。其他小姓の輩三十人ばかり陪從す。宰相義直卿。宰相ョ宣卿上鳥羽邊まで出迎へ給ひ。加藤肥後守C正。淺野紀伊守幸長。池田少將輝政。藤堂和泉守高虎もまかる。成P隼人正正成。竹腰山城守正信。安藤帶刀直次。水野對馬守重仲もしたがふ。右府竹田をへて市正且元が邸に立よられ。こゝにて肩衣袴を着せられ。
二條の城にまからる。秀ョ公は唐門外にて下乘あり。大御所玄關前莚道まで出むかへたまひ。御慇懃の禮をほどこし給ひ。殿上に導き給ひ。客座は南に主座は北に設らる。座定まりて後盛饌を供したまふべけれど。秀ョ公にも心おちゐたまはず。陪從の人々も時刻うつらん事はゞかり有べしとて。酒吸物のみ供し給ひ。三献の御祝あり。御酌は秋元但馬守泰朝。御加はなつの局つかふまつる。大御所まづ御盃をつかはさる。其時左文字の御刀。鍋藤四カの御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀。(南泉。)左文字の脇差を捧げらる。此外秀ョ公よりは眞盛の太刀。K毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。此間高臺院のかたこなたにおはし御對面ありて。同く御抔まいる。秀ョ公又義直卿へ光忠の太刀。ョ宣卿へ守家の太刀。各金百枚宛添て進らせられ。お万局。お龜局。阿茶局へ金三十枚づゝ。總女房へ金三百枚。本多上野介正純。大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重へ金三十枚づゝ。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。村越茂助直吉。米津C右衛門正勝へ金二十枚づゝ。大澤兵部大輔基宥。西尾丹後守忠永。秋元但馬守泰朝。水野對馬守重仲。柳原伊豆守某。城和泉守昌茂。銀百枚づゝ。諏訪部宗右衛門定吉へ銀三十枚。鷹匠頭三人へ十枚づゝ。廐舍人十三人へ銀三十枚。後藤庄三カ光次。吳服榮仁へ銀五十枚づゝ。其外醫員庖吏等へも銀子卷物若干かづけらる。次間にてC正。幸長。輝政を饗せられ。平岩主計頭親吉伴食し。其次にて高虎。且元。治長を饗せられ。上野介正純伴食す。C正は饗席につかず。はじめより秀ョ公の側をはなれず。御三獻はてし時。大坂の母君も待わび給ふべし。はや御暇をと申せば。大御所げにもとて歸洛をうながし給ふ。かくて二三の間まで送らせ給へば。秀ョ公蹲踞ありて。これまで出御恐懼にたへざる旨のべらる。有樂いかにも右府申さるゝごとしと取合せらる。大御所いかで御送り申さではあるべきとて。また玄關の筵道まで出まし。互に座につき給ひ。慇懃に一拜して秀ョ公はまからる。兼て大御所より大坂へ仰つかはされしは。右府いまだ豐國の社參もおはさねば。よき折から先社參せられて。二條城へまからるべきよしなりしが。有樂。C正。且元等はかりて。まづいそぎ二條城にまうのぼりたまひ。御對面ありて後御社參然るべしと定めしかば。このかへさに秀ョ公豐國社へまうでられ。銀三百枚奉納せられ。大工中井和泉守正次へも銀二百枚給ひ。大佛得長壽院など巡視して伏見に赴かる。C正をのが邸へむかへ進らせ饗しまいらせたしといへども。世をはゞかればとて。淀川の船中にまうけして盛饌をすゝめ。扈從の輩にも酒食をもてなす。輝政は病を稱し淀より歸る。C正は大坂まで陪從せしといふ。時に酉刻なり。淀殿をはじめ大坂の君臣衆民まで。秀ョ公事なく歸城ありしをよろこび。聲巷衢に滿たり。(貞享書上。武コ大成記。當代記。創業記。世に傳ふる所。C正は秀ョ公を供奉して。二條の城に參り。秀ョ公の側をはなれず。此日C正にも御刀下されしかば。これをいたゞきながら虛空に眼をくばり。愛宕山の方をにらみたり。また大坂に歸城ありしかば暇給はり我家に歸り。ふところより短刀とり出し。さやより拔てをしいたゞき。しきりに泪ながしつゝ。我今日にて太閤の御恩むくひ終りぬとひとりごちたりといへり。又秀ョ公上洛に治定有し日。C正はひそかに愛宕權現に祈願をこめし事ありと聞ゆ。この日また福島正則は病と稱し大坂に殘りしともいふ。藩翰譜。武家閑談。)この日秀ョ公まうのぼられし時。京極采女高廣も妻諸共にまいり。大御所を拜し奉る。又同じ時坪內喜太カ定仍父家定にかはりて。同心五十人を引ゐて供奉す。本多上野介正純。渡邊半藏重綱と共に大手門を警衛せしとぞ。又大坂の家人安閑無事に日月を消せば。士風自然に怠惰すべし。しかれば一万石以上の徒。今年より一人つゞ駿府へ交替して在勤すべしと仰出さる。今年は蒔田右衛門權佐廣定下るべきに定まりぬ。(家譜。ェ政重修譜。武コ編年集成。)
◎この月永井彌右衛門白元子松之助直元江戶にしてはじめて拜謁す。ときに十一歲。京にては大御所內裏造營の御沙汰有て。諸大名封地の高に應じ。その功を分賦し命ぜらる。いはゆる尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿。越後少將忠輝朝臣。越前少將忠直朝臣。加賀中納言利長。其子松平筑前守利常。池田少將輝政。その子松平武藏守利隆。三子宮內少輔忠雄。福島左衛門大夫正則。細川越中守忠興。京極若狹守忠高。京極丹後守高知。森美作守忠政。松平長門守秀就。加藤肥後守C正。淺野紀伊守幸長。K田筑前守長政。堀尾山城守忠晴。田中筑後守忠政。鍋島信濃守勝茂。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守至鎭。松平土佐守忠義。有馬玄蕃頭豐氏。生駒左近將監正俊。富田信濃守知勝。藤堂和泉守高虎。本多美濃守忠政。井伊兵部少輔直勝。上杉中納言景勝。松平陸奥守政宗。松平飛彈守秀行。松平攝津守忠政。佐竹右京大夫義宣。
南部信濃守利直。㝡上出羽守義光。松平隱岐守定勝。稻葉彥六典通。寺澤志摩守廣高。島津右馬允忠興。木下右衛門大夫延俊。竹中伊豆守重利。毛利伊勢守高政。小出右京大夫吉英。山崎左馬允家盛。久留島右衛門一長親。松平下總守忠明。一柳監物直盛。古田大膳大夫重治。稻葉大膳某。稻葉右近大夫方通。九鬼長門守守隆。菅沼左近定芳。土方杢助雄高。織田民部大輔信重。山岡主計頭景以。本多若狹守某。コ永左馬助昌重。遠藤但馬守藤隆。西尾豐後守光教。津田河內守某。竹中丹後守重門。宮城丹波守豐盛。日根野左京亮高繼。大野壹岐守氏治。村P左馬助重治。石川主殿頭忠總。朽木信濃守元總。その子兵部少輔宣綱。三浦監物義勝。戶田左門氏鐵。福島掃部頭高晴。福島刑部少輔正之。桑山伊賀守元晴。桑山左近大夫貞睛。松倉豐後守重政。平野遠江守長泰。伊藤掃部助治明。赤井豐後守忠泰。佐久間伊豫守實勝。森左兵勝佐可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。高山主水正盛總。古田織部正重就。谷出羽守衞友。藤掛美作守永勝。川勝信濃守廣綱。别所豐後守吉治。松平周防守康重。岡部內膳正長盛。佐々信濃守長成。桑山左衛門佐一直。水野日向守勝成。本多伊勢守康紀。本多縫殿助康俊。松平民部大輔忠C。戶田土佐守高次。松平主殿頭忠利。松平河內守定行。酒井出羽守某。杉原伯耆守長房。小出播磨守吉政。小出大隅守三尹。淺野但馬守長晟。長谷川式部少輔守知。池田備後守恒元。能勢伊勢守ョ次。森對馬守可政。三好因幡守一任。三好丹後守房一。猪子內匠頭一時。蒔田左衛門權佐廣定。戶川肥後守達安。花房志摩守正成。小堀遠江守政一。小堀越前守某。脇坂中務少輔安治。竹中采女正重義。池田備中守長吉。龜井武藏守玆矩。加藤左近大夫貞泰。關長門守一政。一橋下總守長政。高橋右近大夫元種。中川修理大夫祐慶。大村丹後守喜前。相良左兵衛佐長每。五島淡路守玄雅。松浦式部卿法師鎭信。金森出雲守可重。有馬修理大夫晴信。仙石越前守秀久。石川玄蕃頭康長。津輕越中守信枚。里見安房守忠義。佐野修理大夫信吉。秋田東太カ實季。日根野筑後守吉時。(吉時慶長七年より御勘氣蒙り。かつ祿額も二千石なり。織部正吉明このとき一万九百石領し。のち二万石になる。しかるに筑後守二万八千石とあれば。吉明が事なるべし。吉時は誤か。)駿府在勤のともがらには本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。松平豐前守勝政。松平淡路守重長。松平右衛門佐正綱。松平伊勢守康安。松平筑後守信直。松平和泉守家乘。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。城和泉守昌茂。內藤紀伊守信正。高力河內守長次。三井右衛門佐吉正。遠山民部少輔利景。榊原伊豆守某。水野備後守元綱。由良出羽守貞繁。堀丹後直寄。三淵伯耆守光行。秋元但馬守泰朝。近藤信濃守政成。伊奈筑後守忠政。田上左京進某。江府に在勤のともがらは本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。三子右京亮教隆。四子主膳正幸信。本多出雲守忠朝。榊原遠江守康勝。松平丹後守重忠。酒井雅樂頭忠世。內藤左馬助政長。高力左近大夫忠房。脇坂主水正安信。新庄宮內法印直ョ。其子越前守直定。井伊掃部頭直孝。水野隼人正忠C。山播磨守忠成。其子伯耆守忠俊。內藤若狹守C次。阿部備中守正次。山口但馬守重政。渡邊山城守茂。高木主水正正次。水野監物忠元。森川內膳正重俊。板倉周防守重宗。日下部河內守正冬。津田丹後守某。古田左近某。西尾因幡守吉定。山口伊豆守重信。永井信濃守尙政。菅沼主殿頭定官。鳥居讃岐守忠ョ。堀伊賀守利重。堀淡路守直重。土井大炊頭利勝。牧野豐前守信成。安藤對馬守重信。柴田筑前守康長。山口駿河守直友。大坂に仕ふる輩には羽柴河內守秀教。織田民部少輔信重。片桐市正且元。片桐主膳正貞隆。大野修理亮治長。伊藤丹後守長實。速見甲斐守守之。木民部少輔一重。野々村伊豫守雅春。中島式部少輔氏種。津川左近將監親行。生駒宮內少輔正純。堀田圖書助勝嘉。木村長門守重成。村井右近大夫某。杉原掃部助某。佐々內記某。吉田玄蕃頭某。南條中務少輔忠成。饗庭備後守某。山中主水正某。神保出羽守某。關河式部少輔某。石川肥後守康勝。丹羽備中守長正。赤座內膳正永成。别所藏人信範。湯淺右近大夫某。大岡雅樂助某。津田監物某。丹羽勘解由某。山口左馬助某。薄田隼人佐兼相。大野主馬治房。土橋右近將監某。太田和泉守某。石河伊豆守貞政。細川讃岐守隆之。郡主馬良邦。祝丹後守某。安威攝津某。伏屋飛驒守某。渡邊筑後守勝。水原石見守某なり。(ェ永系圖。御年譜。貞享書上。)
○四月二日尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿を大坂につかはされ。右府上洛せられ御對面有しを謝せられ。御太刀一振。馬一疋。銀千枚。淀殿へ銀二百枚。綿三百把。北方へ銀百枚。綿二百把。紅花三百斤をくらせたまふ。義直卿より右府へ國宗の太刀。ョ宣卿より友成の太刀。共に銀二百枚そへて進らせらる。淀殿幷に北方へ。
兩宰相より銀百枚。綿二百把。紅花三百斤づゝ進らせらる。右府より義直卿へ高木貞宗の太刀。吉光の刀。緞子百卷。小袖。道服幷に小鼓の筒。ョ宣卿へ二字國俊の太刀。松浦信國の刀。小鼓の筒。申樂の裝束(半臂三。狩衣三。半切三。大口三。)をくられ。供奉せし竹腰山城守正信へ信國の刀。成P隼人正正成左文字の刀。安藤帶刀直次に助眞の刀。水野對馬守重仲へ一文字の刀。三浦長門守爲春に長光の刀をたまひ。饗有て兩卿伏見へかへりたまふ。けふこなたより大坂の大藏卿二位兩局へ銀五十枚づゝ。饗塲局。大夫局。宮內卿局。阿古局。伊奈局。正榮尼へ銀三十枚づゝ。北方幷淀殿がたの惣女房へ銀百枚。綿三百把たまふ。兩卿より局だちへ銀十枚。綿五十把づゝ。北方ならびに淀殿の女房等へ銀百枚をゝくらる。その外織田長益入道有樂。片桐市正且元へ銀五十枚づつ。織田民部少輔信重。片桐主膳正貞隆。大野修理亮治長へ銀三十枚づゝ。北方の執事渡邊筑後守勝へ銀二十枚なり。京坂堺邊の市人等。今度右府の御對面事なく終りしを聞て。太平を祝しけるといふ。(家忠日記。武コ編年集成。)
○三日營作所を親巡したまふ。大御所には二條城より伏見城へ渡御あり。舊藏の寳物器械ども查撿したまふ。又上野下野兩國雹ふる事翌朝に至り。狐狸諸鳥多く打ころさる。(貞享書上。創業記。當代記。)
○四日營作所にならせられ。伊達の藩士川島豐前に慰勞の御詞をほどこし給ふ。池田少將輝政が女は。大御所御外孫なれば。松平陸奥守政宗が嗣子虎菊定婚の事を。おかちの局に仰下さる。先に局のうめる市姬君を虎菊に定婚ありしに。姬君世を早くし給ひて。局ふししづみなげきにたえざる故に。大御所かくは命ぜられしなり。(貞享書上。ェ永系圖。)
○五日朝營作塲にならせらる。大御所はけふ伏見より二條城に還御なる。(貞享書上。創業記。)
○六日朝營作塲にならせられ。松平陸奥守政宗拜謁す。その夕またならせたまひ。城溝弘闢のさま御覽ぜられ。川島豐前に。繩張近ごろの美觀なりと御詞をたまふ。また淺野彈正少弼長政卒す。時に六十五歲。(長政の死をェ永譜に。慶長十五年六月七日とす。藩翰譜備考等これにしたがひ十五年とす。武コ大成記家忠日記等には。十六年四月六日とす。烈祖成績には十五年十六年の兩年に出す。前後の文によるに十六年とすをよしとす。今これによりこゝに收む。)この長政は攝津守ョ光朝臣の後胤にて。父は織田家の弓役又右衛門長勝といふ。實は一族安井彌兵衛重繼といへるものゝ子なりしを。長勝養ひて子とせしなり。長勝の妻は木下七カ兵衛家利が女。其妹は杉原助右衛門某が妻となりて。女子一人長勝養ひて木下藤吉カにあはせ。長勝が女は長政にあはせぬ。藤吉カ羽柴筑前守秀吉となのるに及び。長政は秀吉につけらる。長政秀吉と相聟なりしほどに。かの家の事大小となくつかさどる。秀吉天下の權を握り。關白の職にのぼるに及び。長政五奉行の上首として叙爵し彈正少弼と稱し。禁裏。仙洞幷に兩政所の事どもつかさどる。これより先近江國大津坂本兩城をたまはり二万石領す。十四年秋關白の妹君御緣さだまりたまふときも。長政御送りに參る。大御所御上洛の時も。長政饗應の事つかさどり御旅館に侍り。これより後常に申次を承はる。十五年九月五日若狹一國を賜はり。小Mの城主になる。十八年關白小田原の北條討に下られし時。兼てより駿河の御城を旅館と定られしかば。頓て御城にいられんとせられし時。石田治部少輔三成耳語こと有て。關白猶豫せらる。これは當家北條とは御ゆかりあるをもて。三成讒かまへしなり。其時も長政よく諫て關白の疑とけぬ。北條亡びて後奥の地撿斷の沙汰し。又奥の賊を平らぐ。文祿二年十一月廿日其功をもて甲斐國に轉封あり。二十一万五千石を領す。豐臣家天下の黃金を改鑄せし時。長政が家臣此金を僞り造りし事あらはるゝに及び。其罪連及し長政罪に處せらるべきに定まりしに。大御所ふかく憐ませ給ひ。其罪なきよしをあながちにとり申給ひければ。其罪をゆるさる。長政刎らるべき首をつぎし事。偏にコ川殿の御恩なりと。感じ思ふ事かぎりなし。朝鮮の戰なかばに。太閤みづから渡海せんとて。大御所を日本の留守にョみたまはんとありしに。大御所御けしき損じ。强て朝鮮にをし渡り。先鋒たらんと宣へば。太閤以の外のけしきなり。其時も長政が殿下を直諫して事なく和らぎぬ。(これをその世の人。殿下。コ川殿。長政。三人名人揃の一劇塲と申ならはしたりとぞ。)太閤薨ぜらるゝの後。石田三成兼て長政と中あしければ。當家に對し長政罪蒙らん樣をはかり。終には長政職を去てをのが所領にもすまず。其罪を恐れ武藏の府中に蟄居せり。今の御所かれが罪なきをしろしめし。懇にとはせ給ふ事たえず。石田等が軍おこせし時は。その身今の御所にしたがひ。山道よりのぼる。嫡男左京大夫幸長は關原の軍功によて。紀伊和歌山城主になり。三十七万六千五百六十石余たまはり。其後慶長十一年二月四日長政には老を養ふべき料とて。
常陸國眞壁郡にて五万石。十四年正月廿日近江國愛知郡にて五千石たまひ。妻子悉く關東によびとりて。常に柳營に侍して終をとりしとぞ。世に傳ふる所のごときは。大御所常に長政を召て圍棋したたまふ。長政勝負を爭ひ。常に禮を失ふといへども。更にとがめさせたまふことなく。御機嫌いよいようるはしくしく。旦暮棋伴になされしが。長政死して後ふたゝび棋をかてみたまはず。世人伯牙斷絃に比してかたりつたふといふ。)この日勸修寺中納言光豐卿二條城に參向せられ。御對面あり。(貞享書上。御年譜。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。勸修寺記。)
○七日營作塲にならせられ。松平陸奥守政宗拜謁す。(貞享書上。)
○八日貝塚の邊溝渠疏鑿のことはじめあり。(今井伊掃部頭第宅の地といふ。)戶田五カ右衛門直秀死して。其子書院番又久直次家をつぐ。(貞享書上。家譜。)
○九日營作塲にて松平陸奥守政宗拜謁す。御輿をおり給ひて政宗と御物語あり。(貞享書上。)
○十日渡邊藤兵衛某死して。子永之丞某つぐ。(家譜。)
○十一日二條城にて申樂を催され。眤近の公卿殿上人を饗せらる。遠江宰相ョ宣卿。加茂。八島。三輪。唐船。鞍馬天狗等をまはせ給ふ。(勸修寺記。)
○十二日京にて即位の大禮行はる。(主上寳算十五。)大御所裹頭にてうちうち御覽じ給ふ。一乘院門跡尊勢。日野大納言入道唯心等侍座す。よて他人此禮拜覽する事をゆるされず。大禮はてゝ勸修寺中納言光豐卿の亭に渡御有て。御裝束を改めたまひ。御參內有て賀したまふ。義直ョ宣兩宰相もしたがひ參らせらる。御返さにもまた勸修寺亭にて勸盃あり。唯心入道幷に廣橋大納言兼勝卿。船橋式部少輔秀賢等御相伴す。この日大內修造の事を。いよいよ諸大名に課せられ。修理職內匠寮に仰下されて。その事を掌らしめらる。又仙洞に御領を進らせ給ふ。內にも院にもこと更叡感せらるゝ所なり。又在京の諸大名をして誓書を奉らしむ。その文にいふ。鎌倉右大將家このかた。公方家代々法禮欽遵すべし。しかりといへども古今損益をはかられ。江戶より令し下さるゝ事あらんには。いよいよその旨を守るべし。あるは法令にそむき。御旨にたがふ徒を。各國にかくし置べからず。各國にめしつかふ諸士もし反逆するか。人を殺傷するかのよしうたふるもの。互に查撿し召つかふべからず。是等數條違犯の輩は查撿せられ。嚴に命ぜらるべしとなり。この日江戶にては營作塲へならせられ。松平陸奥守政宗拜謁す。本多佐渡守正信も仰によりその地にまかり。御供して所々みめぐり。政宗に勞詞をたまふ。昨夜より雨ふる。三月五日後ふらず。庶民雨をよろこぶ事かぎりなし。今夜月邊の雲笠のごとし。(御年譜。勸修寺記。貞享書上。當代記。)
○十四日營作所にならせられ。川島豐前拜謁す。けふ二條城にて公卿を饗せられ。申樂あり。宰相ョ宣卿船辨慶。富士。太鼓をまはせられ。千手。烏頭。少進法印(本願寺衆。)つかふまつる。その外は申樂等なり。申樂には小袖をかづけらる。(貞享書上。勸修寺記。)
○十五日營作所にならせ給ふ。(貞享書上。)
○十六日又同じ。金地院に寺領の御朱印をたまふ。山城國葛野郡安井村二百石よせらるゝ所之。(貞享書上。國師日記。)
○十七日營作所へならせらる。又弓頭內藤六右衛門忠政死して。子六十カ忠吉つぎ。千石のうち五百石給ふ。幼稚なる故なり。大御所明日京を出たまふにより。勸修寺中納言光豐卿勅使として二條城に參向あり。この日知恩院へ詣給ふ。大御所御在京の間。故越前黃門の五子松平長光丸直良二條城にのぼり拜謁し御馬をたまふ。松平國丸上洛し。これもまうのぼり拜謁す。この時國丸十一歲。痘はじめて瘳たり。兄三河守忠直もスのあまり名の字を授け。出羽直政とあらためしむ。(貞享書上。家譜。御年譜。勸修寺記。慶長年錄。)
○十八日營作所へならせたまふ。この日大御所京を御首途ありて。永原にいたらせたまふ。傳奏眤近の月卿雲客山科(武コ太成記粟田口につくる。)までをくり奉る。(貞享書上。御年譜。勸修寺記。)
○十九日營作所の御親巡例のごとし。大御所彥根につかせ給ふ。(貞享書上。御年譜。)
○廿日營作所にて松平陸奥守政宗拜謁す。この日三浦助八カ久儀死して。其子C右衛門忠綱つぐ。大御所柏原につかせ給ふ。(貞享書上。ェ永系圖。御年譜。)
○廿一日具塚邊まで親巡し給ふ。大御所岐阜につかせ給ひ。其夜鵜飼を御覽ぜらる。(貞享書上。御年譜。創業記。)
○廿二日營作所にならせ給ひ。松平陸奥守政宗拜謁す。歸らせ給ひて又倉橋內匠助政勝御使し。政宗をめされければ。政宗まうのぼり饗を給ふ。大御所加納より名古屋に至らせらる。(貞享書上。御年譜。)
○廿三日貝塚邊親巡し給ふ。けふ大御所名古屋をたゝせたまひ。熱田のMより御船にめされけるに。東風はげしく波高ければ。御船を野間庄內海へつけ給ひ。柿並村の大御堂(これ義朝朝臣の香火院。)へわたらせ給ひ。院主長圓法印に御對面有て。御閑談刻をうつさる。(この法印は水野右衛門大夫忠政の外孫中山民部少輔勝時の子。
貞享書上。御年譜。創業記。尾州舊話記。)
○廿四日貝塚邊へならせらる。けふ風猶やまず。大御所の御船を智多郡師崎によせ。篠原にやどり給ふ。(貞享書上。御年譜。創業記。)
○廿五日關東諸大名あづかりたる營作塲へならせたまふ。大御所三州渥美郡牟呂より。陸につかせたまひ。吉田に至らせらる。この程の大風に船中供奉の輩皆船に醉たり。大御所幷に兩宰相は常にかはらせ給はず。(貞享書上。御年譜。創業記。)
○廿六日營作所にならせられ。川島豐前に勞詞をほどこさる。大御所中泉につかせ給ふ。(貞享書上。御年譜。)
○廿七日大御所田中へいたり給ふ。(御年譜。)
○廿八日大御所駿城にかへりつきたまふ。(御年譜。)
◎此月蠻船相州の三浦に着たるよし聞ゆ。(當代記)
○五月朔日蝕す。松平陸奥守政宗が役夫等半藏町の城溝をうがつ。(節季蝕記。貞享書上。)
○三日營作所にならせらる。(貞享書上。)
○七日御所の三カ君生れ給ふ。生母はしづの局といふ。神尾伊豫榮加が女なり。されど御所御子ともなし給はず。穴山信君入道梅雪が後室見性院といふは。武田信玄入道が女にて。この時までもながらへ。田安の比丘尼屋敷に住にけり。この尼むかへとりてやしなひまいらせ。幸松君と名付らる。後に保科肥後守正子が子として家ゆづり。正之朝臣と聞えしはこの君の御事なり。(世に傳ふる所は。見性院は信玄が女なればとて。大御所殊にあはれみ給ひ江戶にむかへられ。武州足立郡大牧といふ所にて六百石たまはりて。田安比丘尼屋敷に置れ。終身を養ひ給ひしとぞ。またしづの局身重くなりしかば。御臺所の聞えを憚かり。ひそかに神田白壁町にすめる處士竹村助兵衛といへるもの。ゆかありければ。その家にゆきて產おとしけるに。男子におはせしかば。一しほつゝみそだてまいらせけるに。大嫗どのこのよし聞て。見性院をたのみ養はしめたるなりといへり。家譜。以貴小傳。)
○九日松平陸奥守政宗に御茶をたまはり。就封のいとま下さる。上杉中納言景勝。佐竹右京大夫義宣。新庄宮內卿法印直ョもまうのぼる。駿城にては老臣ならびに普第の輩まうのぼり御對面あり。また圍棋を御覽ぜらる。(貞享書上。創業記。)
○十七日伊達の人數もて越後少將忠輝朝臣邸後の堤防を築く。加藤久大夫吉正子丑之助吉久若君方に付らる。(貞享書上。家譜。)
○十九日伊達の人數もで築きし城堤二百間崩壞せしかば。かさねて諸家に分配し修築せしむ。此ころ和州洪水。三輪山邊田圃一万石餘損亡す。(當代記。)
○廿日營作所を親巡し給ふ。(貞享書上。)
○廿二日越後少將忠輝朝臣邸後の溝渠を疏鑿す。(貞享書上。)
○廿四日貝塚邊をみめぐり給ふ。(貞享書上。)
○廿五日新見勘三カ正次死して。その子勘左衛門正種つぐ。(家譜。)
○廿八日營作所を親巡し給ふ。いよいよ經營を督責せらるゝがゆへに。人丁等雲霞の如くあつまり。土民利潤をよろこぶ事かぎりなし。(貞享書上。) 
卷十六 / 慶長十六年六月に始り九月に終る 

 

○六月朔日松平三河守忠直邸前にあたれる所。城溝疏鑿あり。よてその地にならせられ御覽ぜらる。また尾州名古屋城下に溝渠をうがち。舟船を通ぜしめらる。美濃伊勢の先方衆にその事を課せられ。千石に一人づゝ人夫を出さしめらる。又先に京にて仰出されし大內築地の課役。關東のともがらは八尺間一間に銀二貫五百目とさだめ。その銀を京職板倉伊賀守勝重並に大工棟粱中井大和守正次のもとに納むべしと令し下さる。この日蠻舶數艘入津す。よて糸類多わたり都鄙大にスぶ。(貞享書上。當代記。慶長年錄。)
○十一日山城國所々堤防を築かしめらる。
○十七日出雲國松江城主堀尾帶刀先生可晴卒す。其孫小太カに出雲隱岐二國廿四萬石を襲しむ。この可晴は尾張國丹羽郡供御所の住人中務丞泰晴が子。童名仁王丸。生年十六の春夜軍の有し時能首とり。翌日も又敗軍の中に踏留りて戰ふ。十七歲髻とりて茂助と云。羽柴筑前守秀吉のすゝめにより。織田右府に召れ秀吉に附らる。(世には織田殿田獵に出られし時可晴が大なる猪をさし殺せしを見給ひ。めし抱へられしと傳ふ。可晴十六歲より四十四年が間。或はみづから先がけし。或は士卒を下知し。攻城野戰の功多しといへども。深くつつみて子孫にさへかたらず。されどおのづから世に名高き軍功二十二度なりとぞ。所領しきりに加へられ。天正十八年の秋より遠江國M松の城にうつり十二萬石を領す。豐臣太閤大病にのぞみ。三人の中老職を置る。可晴其撰みに入られたり。然るに太閤薨ぜられわづか五月をみたず。大坂の奉行等前田亞相利家卿をすゝめて。當家を傾け奉らんとせしとき。可晴よくはからひこと平ぎしかば。大御所こたび世上靜謐して天下動きなきこと其功少からずとて。慶長五年二月越前國府の城たまはり。十八萬石になさる。此年の夏大御所上杉景勝御追討のため御發向ありしとき。可晴も隨ひ進らせんとて國府よりM松に來り晝餉奉る。可晴をばこゝより越前へ歸らしめ。其子信濃守忠氏を御供せしめらる。かくて可晴は暇たまはり越前へ赴くとて。七月十九日の夕三河の國池鯉鮒の驛に着しとき。水野和泉守忠重刈屋の城より。此所に出むかひ饗行ふ。大坂の使加々井彌八カ秀望も來りあひ。宴終りて後加々井忽ちに忠重を切例す。可晴すかさず秀望を取ておさへ殺す。水野のカ等は其ゆへをしらず。俄に太刀拔つれて切てかゝれば。可晴疵を蒙る事十七か所なり。されども少しもひるまず。燈をふみけし廣庭におどりいづ。そのひまに可晴が家士奈良といへるが忍びきたり。可晴を肩にかけ引退きしかば。可晴死にいたらず。其子忠氏は宇都の宮にさぶらひしが。今の御所はじめ可晴が水野を討しとの注進聞召。たとひいかならん事ありとも。忠氏におゐては二心いだくべきものならねば。召いましむるに及ばずと仰られけるが。やがて重ねての便に。事のさま詳に聞えしかば。御所よく人をしろしめされし事を人みな感しけるとぞ。關原の戰終て後その十一月。出雲隱岐兩國下し給はり二十四萬石を領し。忠氏に國ゆづり。可晴みづから松江の城を築き籠ゐけるに。九年八月四日忠氏世を早くし。その子三之助僅に六歲なりければ。祖父可晴ふたゝび國勢を沙汰し。齡つもりて六十九にて終りをとりしなり。(慶長日記。慶長年錄。ェ永系圖。藩翰譜。藩翰譜には十七年六月十七日とす。今はェ政重修譜により此日にかく。)
○廿四日諸大名誓詞を奉らしめらる。反逆の企あるべからざる旨をのせたり。このほど福島左衛門大夫正則大病により。沒前に襲封の事聞て瞑目せんよし。其子備後守正勝を江戶にまいらせて乞奉る。又肥後國熊本城主加藤肥後守C正居城に有て。疫をなやみて卒ぬ。その子虎之助に原封五十一萬五千石(斷家譜七十二万石餘とす。)つがしめらる。このC正が父は彈正左衛門C忠とて。織田家につかへたり。C正童名虎之助といふ。豐臣太閤の外戚につきてしたしみあり。(C正の母は太閤の生母と徒弟なり。C正幼にして孤なりしを。その母たのみて秀吉の生母養ひ人となりて。始て百七十石たまふといふ。天正九年六月因幡の國鳥取の物見にまかり高名せしをはじめ。山崎の合戰に勇をあらはし。志津が嶽の戰ひには七本鎗のその一にて。天下に名をあらはす。十三年の秋秀吉關白にのぼられしとき。C正も叙爵して主計頭と稱す。十六年佐々陸奥守成政が肥後の國のぞかれしかば。その閏五月C正と小西攝津守行長に分ちたまひ。熊本城主とせられ廿五萬石を領す。その冬國人等が楯籠たる志岐天草の城を攻落し一國を平均す。C正生涯の武畧多き中にも。文祿のはじめ朝鮮に攻入しとき。一勢を以てふかくすゝみ。北道兵使韓克城を鏡城に虜にし。また臨海順和兩王子を會寧に生擒し。我身は安邊府に有ながら。咸鏡の二十二官を打したがへしかば。朝鮮の君臣大にうれへ。明國の將士はなはだ恐る。やがて日本明國と和平の儀おこりしかど。その事とゝのふべからずとおもひ。C正が一勢猶安康を破り晋州を攻落す。是より先C正小西行長と二人先陣と定められしに。行長ふかくC正が功をねたみ憤り。
石田治部少輔三成と謀て讒言せしむ。太閤其讒を用ひてC正を誅せんとて召かへさる。慶長元年七月歸朝して伏見の居第に籠居す。その閏七月十二日の夜大地夥しく震動して。伏見の城崩れしに。C正最初に馳參て警衛せしかば。太閤感ぜられ其罪をゆるされしに。程なく和親の事破れ。二年七月C正行長再び先陣承て朝鮮に攻入る。凡この戰前後七年の間。諸將の戰功とりどり成りしかど。C正一人明朝鮮の爲に名を稱せられ。あるひは生ながら神となして祭らる。三年太閤薨ぜられ。十月諸軍みな歸朝しぬ。しかるに行長C正功をあらそひうたへ起り。C正はじめK田細川淺野等七人の大名一になりて石田を討んとす。大御所とかくあつかはせ給ひ。三成職ときて佐和山城に引こもり事たひらぐ。五年上杉御追討のため御發向のあとにて。大坂の逆徒蜂起せしかば。C正關東に使まいらせ。御味方たるべきよしを申す。(大御所スばせ給ひ。肥後一國をことごとく賜はり。いそぎ近國を攻したがふべき旨仰下さる。C正やがてK田勘解由入道如水とこゝろをあはせ。關東の御味方して。同國宇土八代の城を攻落し。筑後國柳川の城にむかひ。立花左近將監宗茂を味方とし。K田。鍋島。立花と共に薩摩の國に打入らんとす。然るははや天下一統して島津も降參しければ。御下知に依てC正等軍をかへす。C正は肥後の國主になり五十一万五千万領し。十年從五位上侍從にのぼり肥後守と改稱す。大御所の仰にて。C正が娘を宰相ョ宣卿の北方と定められ。また御所の御養女(蒲生飛驒守秀行女。)を一子虎之助に降嫁の事仰くだされ。C正は五十一歲にて終りをとりぬ。(紀年錄。創業記。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿五日松平因幡守康元が第三女滿天姬を。大御所御養ひありて。津輕越中守信枚に降嫁せしめらる。けふ奥州弘前の城に入輿したまふ。(藩翰譜。)
◎是月內藤石見守信廣江戶につかへ奉る。小笠原安藝信元嫡孫安藝信盛初見す。時に六歲。(ェ永系圖。家譜。藩翰譜。)
○七月朔日大番御手洗佐平次昌廣死して。その子吉左衞門昌重家をつぐ。昌廣が本生父は甲斐の武田が家人にて。加藤彌平治昌氏といふ。長篠の戰に討死す。その妻昌廣をいだき御手洗兵衛直重にふたゝび嫁しければ。昌廣も直重に養はれ。繼父の家名を冐して御手洗と稱し。慶長十三年より御家人に加はりしなり。(家譜。)
○三日江戶城邊火あり。井伊兵部少輔直勝榊原遠江守康勝等邸宅この災にかゝる。(慶長日記。)
○五日大番田村半兵衛直吉死して。その子庄左衛門直久つぐ。直吉は小田原北條につかへし田村安栖長榮が二子にて。北條沒落の後御家人にめし加へられしなり。(家譜。ェ政重修譜。)
○七日榊原九カ兵衛長貞死して。養子小兵衛長勝つぐ。(家譜。)
○十日江城營作の所々成功す。(慶長年錄。)
○十五日本多上野介正純阿媽港よりの書簡に答簡を送る。その文は林道春信勝が草する所なり。これ阿媽港の船先年焚攻せられしは。船主みづからまねく所にして。いかんともすべからず。今その國人非を悔ひ過を改め舊好を修め。互市通商の路を廢せざらんには。我國家柔遠の典に於ても。是をふせがるべきにあらず。いはんや國家同仁のコ善鄰の政。いかでその請をゆるされざるべき。しかれば明年例のごとく長崎入津の期を失はず。ますます交易の路をひらくべし。その國の官長等疑ふ事なかれとなり。(羅山文集。)
○十八日美濃部助三カ茂次死して。その子權之助茂正繼ぐ。茂次は天正十四年遠州M松にて初見し。小田原奥州名古屋の御陣にしたがひ。關東の後勢州桑名の城を請取。江州水口の城を警衛し。慶長六年近江國甲賀郡の內にて舊知三百石たまひ。采邑に住して卒せり。(家譜。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十九日西尾藤兵衛利氏死して。其子市兵衛政氏繼ぐ。采邑千九百石の內美濃國藪田上奈良九百石は。舊領たる故政氏に賜ひ。新恩千石は二子藤三カ政次に分たる。この利氏織田の家人鶴見市丞利政が子なり。父うせてのち西尾隱岐守吉次に養はれ西尾とあらため御家人に加へられしなり。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○廿三月山城一國の撿地けふよりはじめらる。(國師日記。)
○廿七日板倉內膳重昌上洛のいとま給ふ。こは父伊賀守勝重と共に。大內築地の事沙汰すべきがためとぞ聞えける。(御年譜。家忠日記。)
◎此月板倉伊賀守勝重。米津C右衛門正勝。大久保石見守長安。連署して驛路の令を下さる。江戶より品川まで上下駄ちん。荷物一駄四十五貫目に京錢廿六文。板橋へ三十二文たるべし。人足賃は馬の半分たるべし。馬番を定め荷物を負する事一切停止有べからず。馬早く出るまゝに荷物負すべし。驛次の所にて馬遲く出るに於ては。荷附馬の主通し先の駄賃定制のごとく出すべし。日くれて驛舍にやどらば。馬夫の宿ちんは荷主より出すべし。歸る馬に荷物負しむるは。荷主馬を見合たるべし。難澁するものあらば。その驛の長曲事たるべし。御上洛のときは何方の馬をも改め通行すべし。常には通馬停止すべし。
この條令違犯する者は。嚴科に處せらるべしとなり。また松平丹波守康長はいとまたまはり古河へ就封す。土屋權右衞門重成死して。その子權十カ重正續ぐ。(家忠日記。家譜。ェ永系圖。)
○八月朔日當賀例のごとし。駿府にては前殿に出まし諸士の拜賀を請給ふ。京にては前月二十七日內侍所假殿にうつし。主上假のおましに遷幸ましまし大內營造はじめあり。板倉伊賀守勝重奉行し。洛中の地下人課役としてつとむ。築地は國々の武士に課してきづかしめ。地形の高さ六尺。周二町。四圍の石垣は諸大夫の武士に課し築かしむる注進あり。此日より先駿府に史官を置れ。日々大小の事を注記せしめらる。(駿府政事錄。)
○二日駿府にて藤堂和泉守高虎の邸に。尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣をむかへて埦飯を行ふ。猿樂五番あり。水無P中將親具入道一齋。鈴木久右衛門重量常に此技に耽るををもてけふも仕ふまつる。次に勇武の壯士を集め相撲五番。次に高虎が近侍の兒童卅余人。錦繡をよそひ金銀を飾りて風流躍を催す。本多上野介正純。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。村越茂助直吉。松平右衛門大夫正綱及後藤庄三カ光次等まねかれて此宴にあづかる。此事ども大御所後に聞召て。御氣色殊にうるはしかりしとぞ。(駿府政事錄。)
○三日常陸下野兩國草賊蜂起の注進あり。よて服部中保正。細井金兵衛勝久。久永源兵衛重勝にこれを誅戮すべきむね命ぜらる。賊等此よし傳へ聞て黨をむすび競ひあつまりしを。三人速にはせむかひ。數百人生擒し。その首を切て小山。芋ネ。新田其外九十三所に梟首す。(駿府政事錄。)
○四日江戶より安藤對馬守重信を御使として駿府につかはされ。加藤肥後守C正の子虎之助に襲封の事をはしめ給ふ。大御所其請にまかせらるべきむね仰進らせらる。(駿府政事錄。)
○九日醫員曲直P養安院正琳死して。その子三益正圓家を繼ぐ。(家譜。)
○十二日金森出雲守可重所領の產なりとて。山漆草を駿府に献ず。(駿府政事錄。)
○十三日大御所淺間の山にのぼらせ給ひ。二町外に的をかけて銃を發し給ふ。三發してみな其たゞ中にあて給ふ。又かへらせ給ひし後前殿より。城櫓の上に留りし鳶三隻をうちたまふ。二は打落され。一隻は足をうち切られながち飛さる。その相へだゝる事五十間なり。近侍して見奉るもの蹉歎せざるはなし。(駿府政事錄。)
○十四日駿府新造の御庫に御寳物を收貯せらる。(駿府政事錄。)
○十六日故淺野彈正少弼長政が養老料常陸國眞壁五万石を。三子采女長重にたまひ。長重が是迄賜はりし下野國眞岡二万石の內一万二千石を堀美作守親良に賜はり。常陸國新治郡小栗の庄にて五千石を杉原伯耆守長房に加へ給ふ。長房是より先但馬國豐國にて二千石領せしかば。すべて五万五千石となる。親良長房みな長政が女壻なりとぞ。この日駿府書院を造替せしめらる。畔柳壽學某其奉行たり。(駿府政事錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿日長崎奉行長谷川左兵衛藤廣駿府にまかり。この秋唐山西洋はじめ諸國の商船八十艘着津し。互市大に繁昌するよし聞え上ければ。大御所殊更御けしき御快然たり。(駿府政事錄。)
○廿二日最上出羽守義光駿府に新鴻を献じけれは。大內へ驛進せらる。(駿府政事錄。)
○廿三日駿城にて有馬修理大夫晴信卷物二十献じ。其子左衛門佐直純銀五十枚献じ參覲の拜謁す。(駿府政事錄。)
○廿四日加藤虎之助。亡父肥後守C正遺領肥後熊本五十一万五千石余襲封せしを謝して駿府に參り。金五十枚銀百枚獻ず。宰相ョ宣卿の第に招きたまひ饗せらる。卿の北方は虎之助が妹たるが故なるべし。この日細川越中守忠興は暹羅國の象牙。白𥿻。孔雀。豹を獻ず。(駿府政事錄。)
○廿五日駿府にて衆醫へ韓參を賜ふ。この日會津より注進ありしは。此十三日かの地大地震あり。蒲生飛驒守秀行が城郭始め其邊の山崩れ。四万石の地陷り。湖水湧出。男女死亡二千七百余人に至りしとぞ。(駿府政事錄。當代記。大三河志。)
○廿六日駿府西城にて衆醫に神明膏藥を製せしめらる。(駿府記。)
○廿八日大御所淺畠に狩し給ひ。銃もて鴨一双うちとめ給ふ。(駿府政事錄。)
◎此月阿部備中守正次大番頭に命ぜられ伏見番せしめらる。遠藤善九カ重次駿府にて初見し奉り。江戶に奉仕せしめらる。久永源兵衛重勝が子內記重知。大御所に初見し奉る。時に十三歲。(ェ永系圖。)
○九月朔日當賀例の如し。駿城にも諸士出仕あり。金地院崇傳まうのぼり。しばし御物語有て退く。(駿府政事錄。)
○三日佐久間河內守政實尾州名古屋より駿府に歸謁し。城郭の指圖を御覽に備ふ。(駿府政事錄。)
○五日江戶御所第三の姬君(勝姬君。時に十一歲。)越前少將忠直朝臣の北方にさだまらせ給ひて。けふ江戶を發輿せられ。越前國福井へ赴かせ給ふ。供奉は土井大炊頭利勝。渡邊山城守茂。長谷川筑後正成つかふまつる。
筑後正成は千石如恩有て千六百石となり御方に附らる。駿府にては此日諸大名重陽を祝して時服を獻ず。(駿府政事錄。)
○九日重陽慶賀例の如し。駿城には前殿造替によりて出まさず。出仕のともがら老臣に謁し退く。この日大御所小林新平正重を御使にて金地院崇傳に時服をたまふ。(駿府政事錄。國師日記。)
○十日大御所御違例によりて。醫官片山與安宗哲を召れしに。遲參しければ御氣色を蒙る。されど速に御快復し給ふをもて御ゆるしあり。(駿府政事錄。武コ編年集成。)
○十一日勝姬君駿府につかせ給ふ。大御所かかへ給ひ御對面ありて。二丸にやどらせらる。(駿府政事錄。)
○十四日駿城料理の間營造成功しければ。けふ料理はじめあり。又明日勝姬君を饗せられ猿樂を催さる。同朋佐野福阿彌正重去年琉球中山王尙寧が進謁のとき。營中御裝束のことにより疎脫ありて御氣色蒙りしが。ゆるされて明日の事を指揮せしめらる。又この日日野大納言輝資入道唯心駿府に參着す。(駿府政事錄。)
○十五日老臣連署して。沿海の國國へ蠻舶入津の制を令せらる。蠻舶は諸浦をえらばず。何方にも着岸せしむべしとの御旨なり。蠻船に對し土人狼藉なからん樣に命ずべし。所領の海岸へ着船せば。領主より嚮導者をそへ其便にしたがひ。海陸いづくにも送るべし。蠻舶つなぐべき湊を見て。小船を借らん事を乞はゞ。借あたふべしとなり。駿城三丸にて姬君を饗せられ猿樂あり。能三番。(曲名つたはらず。)二番は宰相ョ宣卿まいたまひ。宰相義直卿は小鼓をつかふまつり給ふ。その外は下間少進法印。猿樂金春。狂言は大藏彌右衛門。鷺仁右衛門。長命甚六カつとむ。姬君より鵞眼一万疋。被物二領。金春に纏頭せらる。土井大炊頭利勝此事を役す。(家忠日記追加には金春を觀世につくる。)在駿の諸大名みなまうのぼりて見る事ゆるされ饗をたまふ。この日大御所には二丸に渡御ありて。入貢の呂宋人を御覽じ給ふ。献物は葡萄酒。南蠻蠟及卷物等なり。(國師日記。駿府政事錄。家忠日記。)
○十六日神龍院梵舜駿府にまうのぼりて藤氏系圖を献ず。姬君このほど咳氣なやませ給ふにより。猶駿府にとゞまらせ給ふ。(駿府政事錄。慶長見聞書。)
○十七日大工頭中井大和守正次まうのぼり。京大佛殿營造の事を聞え上る。姬君の供奉土井大炊頭利勝。渡邊山城守茂。長谷川筑後正成以下の諸士を。本多上野介正純のもとにまねき饗宴をひらく。(駿府政事錄。)
○十八日姬君御こゝろよくなりたまひて駿府を出立せ給ふ。この二三日前より宰相義直卿風の御こゝ地にわたらせられければ。毉官駿府に群參す。片山與安宗哲紫雪を献じて驗ありと聞ゆ。(駿府政事錄。)
○十九日松平陸奥守政宗。最上駿河守家親大鷹を駿府に献ず。この日大御所には林道春信勝を召て建武式目をよましめ。其得失を討論し給ふ。また淺野紀伊守幸長より。亡父彈正少弼長政の遺物とて。長光の刀。鎭西の茶壷を獻ず。また南都喜多院上洛するにより。時服二銀廿枚下さる。(駿府政事錄。駿府記。)
○廿日井上半九カ正就を御使として。駿府へ鮮鮭を進らせ給ふ。(駿府政事錄。)大御所來月は御放鷹に成らせらるべきむねを仰含らる。次に長谷川左兵衛藤廣。後藤庄三カ光次を御前にめして。輿地圖の屏風を御覽ぜられ。蠻國のことを議したまふ。
○廿二日去年京の市人田中藤助。濃毘湏般より互市して携來りし紫羅紗を獻りしかば。鷹野の御羽織に裁縫せしめらる。また水野對馬守重仲が。遠州にて得て獻ぜし隼御氣しきにかなはず。重仲に返し下さる。堀尾帶刀可晴の遺物眞壺幷金千兩を其孫三之助より獻ず。この日江尻の橋改架の事を。畔柳壽學某に命ぜらる。また三雲施藥院宗伯京より參りければ。御前にめして本艸物產の事をかたらはせ給ふ。片山與安宗哲も仰により侍し奉る。(駿府政事錄。)
○廿三日大御所この廿七日藤堂和泉守高虎がもとに成らせ給べきむね仰下さる。江戶より本多佐渡守正信鮭を獻ず。(駿府政事錄。)
○廿四日大御所府中に鷹狩し給ひ鴨四とらせられ。その狩塲にて直に料理せしめられ。供奉の近習衆にたまふ。(駿府政事錄。)
○廿五日雷聲を發す。岡野三右衛門房次死す。そのかみ房次北條十カ氏房につかへ諱の字を授かる。小田原城落て後氏直に從ひ高野山にのぼりしが。氏直うせて慶長九年伏見の城にて初て見參し。今は宰相ョ宣卿に附屬せらる。京職板倉伊賀守重勝より。柿蕈紅松を駿府に獻じ奉る。藤堂和泉守高虎を召て。明後日渡御の時申樂の事を仰出さる。又饗膳たまひ鮮鮭を下さる。(當代記。ェ永系圖。駿府記。駿府政事錄。)
○廿六日大御所。安藤帶刀直次水野對馬守重仲を召て。宰相ョ宣卿附屬の諸士に。遠州にて采邑を班賜せらるゝ旨仰下さる。この日毛利黃門輝元入道宗瑞。大久保相摸守忠隣鮮鮭鹽鮭を獻じ。但馬代官間宮新左門朝倉山桝をさゝぐ。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○廿七日大御所藤堂和泉守高虎がもとにならせらる。宰相義直卿ョ宣卿左衛門督ョ房朝臣もしたがはせ給ふ。その外本多上野介正純。安藤對刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。松平右衛門大夫正綱。水野對馬守重仲。西尾丹後守。竹腰山城守正信。私元但馬守泰朝。板倉內膳正重昌。長谷川左兵衛藤廣。淺井七平元吉。大岡兵藏忠吉。村越茂助直吉。佐久間伊豫守實勝。日根野左京亮高繼。高力河內守長次。喜多見長五カ某。野尻萬助某。醫員は三雲施藥院宗伯。片山與安宗哲をはじめ。供奉の諸士若干なり。日野大納言入道唯心。水無P中將親具入道一齋。金地院崇傳。圓光寺閑室等御前に伺候す。能組高砂。C經。杜若。采女。紅葉狩。湯谷。照君。谷行。吳服之。義直卿杜若の小皷をうたせらる。能は金春幷下間少進法印及高虎の小姓花房左京役す。大御所御覽の間。崇傳。閑室及少進法印。大藏道意をめして。謠曲亂舞の故事を尋させ給ふ。午時餅を獻じ。晚に及び御膳をさゝげ奉る。其時日野。水無P及崇傳。閑室等伴食し奉る。黃昏におよび還御のとき。伊豫守ョ勝御使して。けふの猿樂特更御氣色にかなひたる旨。少進法印に仰下さる。(駿府政事錄。)
○廿八日藤堂和泉守高虎の亭にて後宴あり。諸士ことごとく群參す。猿樂十一番。高虎猿樂等に銅二万疋を纏頭す。金春には殊更銀十枚。時服一襲をかつぐ。本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成は。此日江戶より安藤對馬守重信御使として參着するよし聞て。俄に坐を立てまうのぼりしに。高虎が許の猿樂見にまかるべしとの仰を蒙り。ふたゝび觀樂の座に赴き。歡を盡してかへりしとぞ。よて御前には松平右衛門大夫正綱。長谷川左兵衛藤廣。後藤庄三カ光次伺侯して。對馬守重信召出さる。この日越前の國福井にては姬君渡らせ給ひ。少將忠直婚儀行はれしとなり。(駿府政事錄。家忠日記。)
○廿九日松平陸奥守政宗は鮭。毛利黃門輝元入道宗瑞三男三次カ就隆銀百枚。福原安藝守資保鞢。龜井武藏守玆矩銀百枚。鐵炮一挺を駿城に獻ず。三次カ就隆直に江戶に赴ぐ。福原甚助某介添たり。(駿府政事錄。)
○晦日駿城二丸の宰相ョ宣卿亭へ。藤堂和泉守高虎をまねき給ひ饗せらる。宰相義直卿もその亭におはし接侍したまふ。やがて大御所も日野亞相人道。崇傳。閑室二僧等をともなひ渡御し給ひ。盃酌刻をうつしたまふ。この日崇傳に駿府にて米百石給ふ。(駿府政事錄。)
◎此月呂宋幷五和へ御返簡をつかはさる。いよいよ通商疎意有べからずとの御旨なり。(國師日記。)
◎この秋五畿近江より東國は豐穰。中國。西國及信濃。下野。陸奥は凶飢す。(當代記。) 
卷十七 / 慶長十六年十月に始り十二月に終る 

 

○十月朔日拜賀例のごとし。駿城にては山科少將言氏B舟橋式部少輔秀賢。冷泉侍從爲滿京より參着して拜謁し。秀賢は諸家畧系圖屏風一双を獻ず。下間少進法印に馬一疋。金春に銀三十枚。時服一襲。そのほか申樂六十餘人に皆時服をかづけらる。かくて日野亞相入道唯心及式部少輔秀賢。閑室。崇傳等をめして。京都大內の朝憲典故幷和漢の御談話刻をうつさる。これよりさき加藤肥後守C正卒しければ。その子虎之助襲封せしめらるゝといへども。いまだ幼弱たるゆへ。藤堂和泉守高虎その所領にまかり。政務を曉諭すべしと命ぜられ。高虎いとまたまはり肥後國熊本に赴く。目付牟禮ク右衛門勝成。小澤P兵衞忠重も同じくつかはさる。又この日遠江國市野村の豪民惣大夫といへるもの。駿府にまかりて生姜を獻ず。廐别當諏訪宗右衛門定吉を召て。ともに牧馬の事を談論せしめ聞しめし。御けしき大方ならず。この惣大夫は富豪にてつねに馬を好むの癖あり。よて御馬をもあづけられ。近村の代官をも命ぜらる。また棋師本因坊算妙京より駿府に參着す。(駿府政事錄。古老物語。)
○二日日野大納言入道唯心。山科少將言氏B冷泉侍從爲滿。舟橋式部少輔秀賢幷に圓光寺閑室。金地院崇傳御茶給はり饗せられて後。大御所其座に出まし御談話あり。此日山岡主計頭景以銀百枚献じ。其子新太カ景本羽織二献ず。岩本坊もとの西樂院僧正の遺物とて。天台三大部六十卷献ず。御前にめして天台法問の御物語あり。また後藤長乘は大鷹一聯をたまはる。松平右衛門大夫正綱は公料賦稅一万九千兩收む。長崎奉行長谷川左兵衛藤廣より。呂宋に書簡幷二の佩刀を贈る。長崎にて通商の御ゆるしあるむねをつたふ。占城にも書簡幷刀二その國王に贈り。王の夫人姊妹にも衣服を送り。奇楠香互市の事をかたらはしめらる。(駿府政事錄。駿府記。羅山文集。)
○四日新鮭を駿城に進らせられ。又鷹師等を遣はされ。今年關東雁鴨諸鳥甚多きむねを聞召上しめらる。又大工棟梁中井大和守正次駿府に參りければ。御前に召て前殿以下造替の事を議せしめらる。正次京大佛殿の虹粱容易に成功せしよし。聞えあげて御感を蒙る。この日片桐主膳正貞隆時服三領幷に澁帋貳百張献ず。これ例年御放鷹の料にさゝぐるとぞきこえし。又生駒讃岐守正俊は紫皮百枚献ず。(駿府政事錄。)
○五日御使成P豐後守正武駿府に參着す。(駿府政事錄。)
○六日金森出雲守可重が弟五カ八長光は。父兵部卿法印長近が老後に設けし子なり。亡父の沒前に美濃國上有知關幷河內國金田にて二万石の地を分ちたまはりしが。けふ六歲にて卒せり。幼稚にてうせたるにより所領は收公せらる。その家士島四カ左衛門三安。肥田主水助忠親。池田圖書政長三人は召出され。所領千石づゝ給ふ。けふ大御所御放鷹のため。關東におもむかせ給ふ。本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。松平右衛門大夫正綱。村越茂助直吉。後藤庄三カ光次。その他供奉のともがら多し。八幡邊にて鷹はなちて雁をとらせ給ひければ。日野大納言入道唯心にたまふ。今夜C水にやどらせたまふ。日野。水無P。冷泉。山科。舟橋も御供し。夜中御旅館にまかりて御けしきをうかゞふ。又この日日野へ米五十石。(一說五百石。)水無Pへ八十石。山科少將言氏B冷泉侍從爲滿。舟橋式部少輔秀賢に金一枚。時服一襲賜ふ。又畵工狩野某に舟橋禮部と相はかりこたび。新造の前殿には大內幷諸國大社の圖を繪がくべしと仰付らる。(ェ永系圖。家譜。駿府政事錄。)
○七日大御所つとめて今泉につかせ給ふ。善コ寺にて銃もて鶴を打留給ふ。(御年譜。當代記。)
○八日伊豆の三島に着かせらる。(御年譜。駿府政事錄。)
○九日小田原につかせ給ふ。大久保相摸守忠隣をめして。その子加賀守忠常の病をとはせられ。そのゝち又今年雁白鳥等の多少をとはせ給ふ。殊に數多よし聞え上る。江戶より本多佐渡守正信御迎として參り謁す。江戶の事共かたらはせたまふ。(創業記。駿府政事錄。)
○十日大久保加賀守忠常小田原城に於て卒す。此忠常は相摸守忠隣が長子なり。天正十八年相州小田原陣のとき。御所御年十二にて初て御出陣ありしに。忠常十一歲にてしたがひ奉る。文祿三年十五歲にて元服し。御名の一字たまはり忠常となのり。慶長五年上杉征伐の時。父忠隣は御前にありて諸事を司どりしかば。忠常兵を率ゐて先陣にすゝみ。その冬爵ゆりて加賀守と稱し。のち武藏國埼西にて二万石たまはり。十年御上洛の供奉し。この春より病にそみしが。三十二歲にてうせぬ。この人眷寵ふかく權勢ならぶかたなかりしが。天性溫順にして慈愛深かりしかば。時人よんで賢人とす。諸人したしみしたひ。其死を聞て諸士官長へも訴へず。小田原へはせ參るもの引もきらず。大御所相州の中原につかせ給ふ。安藤對馬守重信を江戶よりつかはされ。御膳以下の事を沙汰せしめらる。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。御年譜。駿府政事錄。)
○十一日大御所中原にとまらせ給ふ。(駿府記。)
○十二日相摸川までわたらせ給ひしが。雨によりて中原にかへらせ給ふ。(駿府記。)
○十三日藤澤にやどらせらる。(駿府記。)
○十四日大御所神奈川につかせ給へば。江戶よりも御所御迎としておはしまし御對面あり。江戶の近侍日下部河內守正冬を。榊原遠江守康勝に預られ。森川內膳正重俊を酒井左衛門尉家次に召あづけらる。これは先に大久保加賀守忠常が卒せしを聞とそのまゝ。公にもうたへず小田原に走り赴きたるをもて。御勘發を蒙りしとぞ聞えし。(駿府政事錄。紀年錄。世に傳ふる所は加賀守忠常江戶の御寵任あつく。その人また溫良なりしかば。諸人倚ョして此人を尊仰しければ。忠常若年ながら其權威すこぶる本多佐渡守正信が右に出たり。正信つねにこれを嫉妬せしかば。その死にのぞみかれにしたしき徒までも。あしざまにはからひしといふ。父相摸守忠隣が。後に罪蒙りしも。その根蒂はこの頃よりふくみしといへり。又ェ政重修譜には正冬重俊が罪蒙りしを十九年の事とす。されども今は紀年錄にしたがひこの日に收む。)
○十五日大御所稻毛邊に狩せられ。白鷹もてはじめて。眞名鶴を得給ひ御氣しき大かたならず。此ほど駿府にては尾張宰相義直卿痘なやみたまふ。三雲施藥院宗伯。片山與安宗哲御藥奉る。(駿府政事錄。尾州舊話記畧。)
○十六日大御所江戶城にいらせ給ふ。よて御迎として諸大名芝金杉品川邊へ群集し拜謁し奉る。やがて大御所には新築の西城に入御あり。(駿府政事錄。)
○十七日西城にならせ給ひて。大御所に御對面あり。(駿府政事錄。)
○十八日諸大名西城にまうのぼり。大御所を拜し奉る。この日伯州大山寺岩本院に。寺領の御朱印を給ふ。寺領三千石幷山林境內諸役。先々のごとく相違あるべからずとなり。(駿府政事錄。令條記。)
○十九日江戶近海白鳥多きよし聞召。大御所銃手數十人を具せられ舟遊したまふ。しかるにこの日風波あらければ。とみに歸らせらる。土井大炊頭利勝越前より歸りまいり。大御所に拜謁し。姬君御婚禮の事を聞え上奉る。(駿府政事錄。)
○廿日大御所に供奉したる本多上野介正純。大久保石見守長安。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。松平右衛門大夫正綱。長谷川左兵衛藤廣。及後藤庄三カ光次等をめして御茶を賜ひ。かつ鶴の饗膳をくださる。この日搶緕帶V智國師存應西城にまうのぼる。大御所御裝束改め給ひ御對面あり。高足天龍了的廓山も召出され拜謁す。(駿府政事錄。)
○廿一日本城にて猿樂催され山科少將言氏B冷泉侍從爲滿。舟橋式部少輔秀賢は御座に侍して見せしめらる。其余普第の輩見る事をゆるさる。樂は加茂。C經。松風。道成寺。自然居土。海士。馬頭。山婆。國栖。小町。弓八幡。少進法印に金春。金剛。寳生等つかふまつる。金春。金剛。寳生等は唐織小袖一襲づゝ。其外へも被物一襲づゝ。酒井雅樂頭忠世纏頭の役す。謠曲の徒等には銅三万疋くださる。けふ大御所江戶近郊に狩し給ふ。(駿府政事錄。)
○廿二日また猿樂あり。けふは大御所の仰により。御臺所はじめ諸大名母妻幷女子の在府せるをば。皆召て見せしめらる。樂は白髭。實盛。湯谷。舟辨慶。柏崎。葵上。籠太皷。藤榮。船橋。吳服なり。唐織被物帙等の纏頭昨日にかはらず。是は大久保加賀守忠常が死せしより。御所殊更御哀惜ふかく。御憂悶のさましるく渡らせ給ふにより。其御心なぐさめ給はんため。大御所催したまふ所とぞ聞えし。(駿府政事錄。創業記。)
○廿三日大御所近郊に狩し給ひ。鶴雁鴨あまたからせたまふ。(駿府政事錄。)
○廿四日大御所本城にならせ給ふ。御所も大門まで出迎たまふ。若君幷國松君は庇まで出給ひ。左右に附そひ大御所の御手をとらせ給ひ。御座につかせ給ふ。御臺所にも御對面ありて。山海の珍美をつくし饗せられ。御所若君にも御伴食あり。本多佐渡守正信一人侍し奉りて。大小の御政務樞機の御討論刻をうつされ還御なる。(駿府政事錄。世に傳ふる所は。國松君殊更御夙慧にわたらせられければ。御臺所别て御いつくしみ深し。よて人每に若君よりも此君後には大統をも繼せ給ふべきにやとおもひ。崇敬大かたならず。近臣等若君の御方には參らず。此君の御方に日夜あまた競ひ參りて仕へ奉る。その中に永井日向守直C一人。日夜若君の御方に伺候して。まめやかに仕へけれぱ。春日の局もつねにこの人をのみョもしく思ひけり。扨嫡庶の定らざる事。年ごろ憂ひ思ひける程に。この人をョみひそかに兄右近大夫直勝にその事をかたらふ。直勝もその心して。ある日御所の御氣色を伺ひ。天下万民のためにはやく國本を正し。嫡位を定め給はん事こそあらまほしけれと聞え上しに。猶靜に思ひはかるべしと仰らる。春日の局は其事を聞し夜よりいづ方にか失にけん行衞しらず。此程局がはからひにて。若君の女房伊勢參宮せしむるとて。留守居のともがらに券かゝせ。
女房三人まで伊勢へ遣はしたる事のありしが。もしや局もひそかに所願ありて。其女房等にまぎれ出けるにや。あやしとは思ひながら事輕からねばあはたゞしくもたゞし兼ぬる程。局はやがて何方よりか歸りきぬ。そのゝち程なく駿河の御所江戶にならせ給はんとの事仰進りければ。江戶にても俄にその御設けとりどりいそがせ給ふ。やがて大御所西城に入せ給ふ。かくて本城には御待設け大かたならず。迎たまひて饗し奉らる。よて御兄弟の御孫君も。御相伴の座を設られしを御覽じ。大御所大に御けしき損じ。國松君に附そひし女房等にむかはせ給ひ。竹千代は正しき儲副の事なれば。相伴あるべきなり。國松は庶流なれば行末竹千代が家ョとなり。忠勤を抽べき身なり。いかで君臣位を同じくして座を並べんや。とくその座を引退くべし。人は幼少よりの習はしこそ大切なれとて。そのゝち御所にも嫡庶の位定まらざれば。國家亂のはしとなるなりとて。さまざま教諭なし給ふ。御所もとより至孝の御本性なれば。かしこみかしこまり給ひ。是より若君の御位は定らせ給ふ由聞えき。この事誠ならんには。この日の御事にもありなましと推考せらるゝ故に。こゝに注し置ぬ。落穗集。藩翰譜。)
○廿五日御茶事あり。本多佐渡守正信。上野介正純。大久保石見守長安。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。松平右衛門大夫正綱。村越茂助直吉。長谷川左兵衛藤廣。後藤庄三カ光次饗せられ。鶴の料理を給ふ。この日大御所搶緕宸ノ詣給ひ。觀智國師存應に白銀百枚。時服十かづけられ。御閑談辰より未に及びてかへらせ給ふ。(駿府政事錄。)
○廿六日猿樂金春はじめ。その徒に銀時服かづけらるゝ事差あり。上京するによれり。この日大御所戶田にわたらせ給ひ御鷹狩あり。よて本城より安藤對馬守重信を遣はされ。每事沙汰せしめ給ふ。其地の目代中村某餅を奉り御けしきうるはし。(駿府政事錄。慶長年錄。)
○廿七日猿樂あり。關寺。小町の曲はとしごろ爲し得るものなくて廢絕しけるを。仰により下間少進法印はじめてつかふまつる。此日尾張宰相義直卿痘後酒湯の式行はる。又遠山四カ兵衛直吉死して。その子大番新次カ景綱つぐ。直吉もとは小田原北條の家人なりしとぞ。(駿府政事錄。尾州舊話記略。ェ永系圖。)
○廿八日松平陸奥守政宗が所領仙臺の地地震し。人畜多く死亡す。(貞享書上。)
○廿九日大御所日每に狩し給ひ。けふは川越に渡らせたまふ。安藤對馬守重信も日每に陪從し諸事を沙汰す。(駿府政事錄。)
◎是月毛利三次カ就隆駿府より江戶に參り拜謁す。酒井喜左衛門某駿城より御狩塲に參り。大御所の御氣色うかゞひ奉る。(家譜。國師日記。)
○十一月朔日大御所の御狩塲に。南光坊天海。仙波喜多院まいり拜謁し。仙波所化等が燈燭の料をこひねがふ。ことはりと聞召て寺料よせ給ふべき旨仰下さる。(駿府記。)
○二日より三日迄連日御狩あり。この日兄鷹をあはせられ鴻をとり得たり。前代未聞の事とぞ。(駿府記。)
○五日大御所連日放鷹せられ。けふは忍の城までいたらせ給ふ。江戶より土井大炊頭利勝御使として參り。狩塲の事を沙汰せしめらる。(駿府記。)
○六日江戶の御所にも鴻巢にならせ給ひ鷹狩したまふ。これ大御所より仰すゝめらるゝによれり。よて大御所かたに供奉せし成P隼人正正成。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝。松平右衛門大夫正綱。長谷川左兵衛藤廣。後藤庄三カ光次。忍城より鴻巢に參り拜謁す。(駿府記。創業記。駿府政事錄。)
○七日搶緕帶V智國師存應召に應じ。呑龍廓山等の諸僧を引つれ。忍城にまうのぼる。御前にめして佛理の御談話晷をうつし退出す。(駿府政事錄。)
○八日大御所日每に御鷹狩あり。狩塲にて日々鶴雁等の饗膳を。供奉のともがらにくださる。松平陸奥守政宗は江戶に參覲するとてまかりしが。大御所忍城にましますよし承りければ。御狩塲に黃昏に參り謁して。鷹十連馬十疋献じ奉る。(駿府政事錄。貞享書上。)
○九日大御所かねてより。上州新田は御曩祖義重入道上西居住の地たり。此春入道贈官ありしをもて。入道をはじめ新田代々追善のため。一寺を建立ましますべしと思召立給ふ。よて觀智國師存應に土井大炊頭利勝成P隼人正正成をそへて。その地に遣はされ案驗せしめ給ふ。(創業記。慶長年錄。)
○十日終日大御所御鷹狩あり。(駿府政事錄。)
○十一日江戶より御使もて御狩塲に魚物進らせ。御けしき伺はせ給ふ。すべてこの程日每に魚菓野蔬めづらしきもの。數を盡して進らせられ。御調度以下御心をつくし給はずといふ事なし。衆人みな江戶御所御孝心の深きを感歎せしとぞ。大御所はけふも狩せられ。眞名鶴。K鶴數々得たまふ。夜に入りて南部信濃守利直忍城に參り。茶を献じ饗し奉る。大御所御みづから御茶を點ぜられ。利直にたまふ。近侍のともがらもみな御茶をくださる。又瞽者撿挍紹一をめして。平家琵琶を聞しめさる。(駿府政事錄。)
○十二日大御所の御狩塲に駿府より使來りて。尾張宰相義直卿痘瘡の事を聞え上奉る。よて俄に御歸城の事をうながさる。(駿府政事錄。)
○十三日大御所川越にいたらせらる。御所も鴻巢よりこゝにおはしまして御對面あり。本多上野介正純。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝。松平右衛門大夫正綱。長谷川左兵衛藤廣。後藤庄三カ光次等に金幷馬を賜ふ。成P隼人正正成。土井大炊頭利勝は觀智國師存應を伴ひ。上州新田にまかり。御祖先の舊蹟を探搜せしかどしるものもなかりしに。一農夫ありて世良田の近き岡に。古寺のあとありと聞傳へしよし申ければ。利勝人夫を集めその岡上を堀らしめしに。古佛古瓦を多く堀出しければ。これこそまがふべくさなき御墳墓の地なれとて。その地形を圖し歸り來りて御覽に備ふ。(駿府政事錄。)
○十四日大御所武藏の府中につかせ給へば。御所には江戶城にかへらせ給ふ。(駿府政事錄。)
○十五日駿府より使來り。尾張宰相義直卿の痘輕症のよしを。侍醫三雲施藥院宗伯。片山與安宗哲より告來る。よて大御所御心地安らかにおちゐさせ給ひ。御道すがらゆるゆる御狩あるべしと仰出さる。(駿府政事錄。)
○十六日大御所御道すがら鷹狩し給ひて。けふ神奈川にいたらせ給へば。江戶よりも御所ここにならせ給ひ御對面ありて。逸物の白鷹幷鷂を献ぜらる。また上杉中納言景勝卿もこゝまで參り謁しもの献じ奉る。駿府よりはけふも驛使もて。宰相義直卿なやみうすくわたり給ふよし告進らす。この夜兩御所には金藏寺にとまらせ給ふ。夜中御物語あり。本多佐渡守正信のみ侍し奉る。(駿府政事錄。)
○十八日御所は江戶城に還御なる。土屋長三カ政重はじめて見え奉り。若君に附させられ。小姓となり采邑五百石たまふ。時に十四歲なり。此日風雪はげし。大御所雪をおかし鷹つかはせ給ひながら藤澤にいたらせ給ふ。夜中御旅館に搶緕尅カ應が上足弟子玄惠參り謁し。御閑話有てその寺修理料銀百枚給ふ。鎌倉莊嚴院も參謁し。御談話に侍し奉る。鎌倉ョ朝將軍以來北條家代々の事御垂問あり。その寺に年頃藏する所の保曆間記を。御覽に備ふべきよし聞え上る。又佐竹右京大夫義宣もこゝに參り拜謁し。蠟燭千挺献じ奉る。(駿府政事錄。ェ永系圖。)
○十九日大御所けふは若鷹もて白鳥を得給ひ。御けしきうるはしく。中原にとまらせ給ふ。この御旅館に鎌倉莊嚴院參り保曆間記をさゝげ奉る。御前においてよましめ聞召れ。鎌倉の故㕝ども御物語あり。けふも宰相義直卿彌こゝろよくならせ給ふ旨。駿府より聞え上る。(駿府政事錄。)
○廿日大御所御道すがら狩し給ひ。鶴三。雁三十。鴨廿得給ひて小田原につかせ給ふ。城主大久保相摸守忠隣は子の喪にこもりたれば拜謁せず。(駿府政事錄。)
○廿一日三島につかせ給ふ。(駿府政事錄。)
○廿二日今泉にいたらせ給ふ。この夜伏見より驛次にて。本月十七日伏見市街より火起りて。諸大名の邸宅二十餘宇災にかゝるよし注進す。同日相州小田原。豆州下田。駿州丸子にも火あり。近日放火の賊所々徘徊する聞えあれば。嚴に搜索すべきむね命ぜらる。(駿府政事錄。)
○廿三日大御所駿府にかへらせ給へば。宰相ョ宣卿御迎に出たまふ。大御所宰相義直卿痘平らがせられしを御覽ありて。且おどろき且よろこばせ給ふ。(駿府政事錄。)
○廿四日江戶より土井大炊頭利勝を御使として駿府につかはされ。大御所御歸城を賀せらる。宰相義直卿病中。江戶より日每に御使進らせられ。御尋問有しをよろこばせ給ふ御むね仰遣はさる。又日野亞相入道および圓光寺閑室。金地院崇傳を御前に召て饗を給ふ。(駿府政事錄。)
○廿六日池田備中守長吉駿城にまうのぼり拜謁し銀時服を献ず。淺野紀伊守幸長病にそみければ。家士淺野左衛門佐氏次を使し。宰相義直卿痘瘡のさまをとひ參らせて時服五奉る。また諸大名よりもとりどりものまいらせて伺ふ。(駿府政事錄。慶長日記。)
○廿七日宰相義直卿平愈の祝とて。生母龜の局より駿府城伺候のともがらを饗し。三雲施藥院宗伯。片山與安宗哲に酒肴を贈り。その餘の醫員には銀をさづく。(駿府政事錄。)
○廿八日駿府には。來舶の明啇をめして大御所御覽あり。長崎の地にて互市すべきよし命ぜられ。長谷川左兵衛藤廣もて御印書を授らる。(駿府政事錄。)
○廿九日角倉與一貞順京より駿府にまいり。大佛殿搆造成功の事を聞え上る。貞順が父了意光好水路を疏鑿して。大坂淀鳥羽の船直に京三條まで通ぜしめ。禁中造營の材木を運漕せしむ。京の市人米薪漕運の便を得て。よろこぶ事かぎりなし。(駿府政事錄。)
○三十日松平陸奥守政宗駿府に參謁し新鱈を獻ず。また先月廿八日其封內風濤の害にかゝり。海岸の村民多く溺死せしよし聞えあぐ。又南部津輕邊も。おなじく風濤の變ありとなり。(駿府政事錄。)
◎是月御手洗善左衛門昌重はじめて見え奉る。諸國水涸て猿澤の池水たへたり。(家譜。當代記。)
○十二月朔日尾州にて平岩主計頭親吉重病に臥たるよし聞えければ。阿倍四カ五カ正之を江戶より遣はされとはせ給ふ。駿府にては此日大御所府中のあたり狩し給ひけるに。刈田の面に水多くたゝへ置しかば。其地の里正等十餘人めして獄舍につながしむ。これ刈納せし後は。田間の水を引去べきよし。兼て命ぜられしを達犯せしゆへとぞ。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○二日雪ふる。寒威甚し。駿府には在勤の輩をめし。關東にて狩得給ひし白鳥をもて饗せらる。大坂より豐臣右府。遊佐新左衛門某を使し駿府に進らせ。宰相義直卿の痘平愈をほぎて手書を奉らる。(駿府政事錄。)
○四日大御所府中邊に狩し給ふ。(駿府政事錄。)
○五日阿倍四カ五カ正之尾州名古屋より歸り謁し。平岩主計頭親吉が病躰を聞え上奉る。その歸着速なりとて御感あり。(ェ永系圖。)
○七日新庄駿河守直ョ幷その子新三カ直定父子。下總の御狩塲にて鷹放ちし事あらはれて御勘氣を蒙る。大番太田加兵衛正直死して。その子又十カ正忠繼ぐ。駿府にては寺澤志摩守廣高。次カ忠晴參謁し。廣高は銀五十枚。緞子十卷。忠晴は銀五十枚獻じ。本多伊勢守康紀家繼ぐ後はじめて參謁し銀五十枚奉る。この日安藤對馬守重信江戶より參りければ。明年江戶に於て水路疏鑿し。運漕の便を得せしむべし。その役夫は中國九州の諸大名より出さしむべしと命ぜらる。(慶長年錄。家譜。駿府政事錄。)
○八日阿倍四カ五カ正之駿府に遣はされ。平岩主計頭親吉が治療の事聞え上給ふ。大御所はけふも御鷹狩あり。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○九日杉浦八カ五カ勝吉死して。その養子久藏勝次つぐ。この勝吉は大八カ五カ吉貞が子にて。弘治二年三州日近の戰に。宗徒の人人と共に福谷の寨を守り。永祿二年尾州大高の城へ粮米入られしとき。勝吉付候よくして御賞詞を蒙り。一向亂。三方が原。長篠。長久手の戰にしたがはずといふ事なく。軍功はげみしが。後病にそみ所領相州小雀村に閑居してうせぬ。齡つまびらかならず。(家譜。ェ政重修譜。)
○十日大御所御狩にならせ給ふ。織田長益入道有樂大坂より駿府に參り謁し奉る。(駿府政事錄。)
○十一日阿倍四カ五カ正之駿府より江城に參る。有馬左衛門佐直純駿府に參謁し。綾子十卷獻じ奉る。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○十二日今夜駿城にては幸若の舞曲御覽ぜらる。雨により御狩なし。(駿府政事錄。)
○十三日松平陸奥守政宗が嗣子虎菊十三歲。御前にめして首服加へられ。從五位下に叙せられ。御家號幷御名の一字給はる。松平美作守忠宗と稱す。よて御盃に三原正宗。(ェ政主修譜正家とす。)の御刀そへてくださる。有馬玄蕃頭豐氏長子吉法師九歲。同じく首服加へられ御名の字給はり。從五位下に叙し中務少輔忠クとあらたむ。(後に忠ョ。備考には十八年の事とす。)御盃に光忠の御刀そへて給ふ。駿府にては雨模樣によて御狩なし。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○十四日豐臣右府より。石河伊豆守貞政を駿府に使し。宰相義直卿痘平愈を賀して。銀三百枚。時服十領進らす。この日また織田長益入道有樂をめして御茶を給ふ。日野大納言入道唯心。山名豐國入道禪高おなじく召れて伴食す。大御所御みづから瓶花をさしはさみ給ひ。茶は有樂に點ぜしめらる。はてゝ有樂金三枚。時服五領献ず。(駿府政事錄。)
○十五日駿府にて島津陸奥守家久。祖父義久入道龍伯の遺物長光の刀。左文字の脇ざしを献ず。(ェ政重修譜には來國次の刀。小倉黃門定家卿の色紙幷葉茶壺とす。)また明國の請により。中山王尙寧をかしこにかへしたるを謝して。琉球使を奉り。國產藥種かずかず献じ奉れば。その使を前殿にめし御覽じ給ふ。駿州富士郡本門寺の什寳宗祖日蓮の眞蹟二幅。後藤庄三カ光次持參して御覽に備ふ。はてゝ府中邊狩したまふ。(駿府政事錄。)
○十六日おなじく御狩あり。(駿府政事錄。)
○十七日最上出羽守義光に御K印を給ふ。其子駿河守家親江戶に眤近するにより。國役三の一をゆるさるとの御むねなり。かつ義光病をつとめて駿府に參りしかぱ。玄關迄乘輿をゆるされ。御座近く召れ御藥をたまはり。すみやかに封地にまかり保護すべしと面命し給ひ。御使もて夜具頭巾等を下され。江戶にても玄關まで乘輿をゆるされ。拜謁せしとぞ。(ェ永系圖。ェ政重修譜には十七年の事とす。)
○十八日大御所御放鷹あり。寒節に入り雨ふることしばしばなり。明年の水徵かといふ。(駿府政事錄。當代記。)
○廿日煤拂例のごとし。平林藤三カ正次死して。その子次カ右衛門正好家をつぐ。正次が父は武田につかへ。そのゝち御家人にめし加へられ。上田城責のとき鎗下の高名せりとぞ。この日大御所御放鷹あり。(慶長日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。駿府政事錄。)
○廿一日金森出雲守可重が霞關の家にならせたまひ。可重に國光の御脇ざし幷馬時服を下さる。可重茶を獻ず。駿府にてはけふも鷹狩にならせらる。また大久保石見守長安越後より甲斐武藏の公料ども巡視して。この日駿府にかへり參る。(ェ永系圖。ェ政重修譜。駿府政事錄。)
○廿二日寺澤志摩守廣高が子次カ忠晴爵ゆりて式部少輔と稱す。時に十二歲。(ェ政重修譜。)
○廿三日東寺に御判物を給ふ。眞言佛法興隆のために。東寺醍醐高野の學徒勤學油斷すべからず。勤學怠惰幷持戒不律の僧。古跡の學室を汚すものあらんには。忽に追却して學者持律の住僧をもて替らしむべし。今より後この令を守るべしとなり。(榮松錄。)
○廿五日御給仕番一尾小兵衛通春近江の內にて采邑千石たまふ。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿六日駿城にては田中御狩よりかへらせ給ひ。夜に入て大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重。米津C右衛門正勝御前に召る。勝重正勝の二人は山城の國撿地事はてゝかへり謁す。(駿府政事錄。)
○廿七日對馬より柳川豐前守智永。韓產の人參以下藥種を駿府に献ず。又石川主殿頭忠總並美濃。尾張。三河。遠江の諸士參り謁す。(駿府政事錄。)
○三十日歲暮を賀して。諸大名金銀並に時服を献ず。此日尾張國犬山城主平岩主計頭親吉七十歲にて卒しぬ。この親吉は故左京進親重が子なり。その先は物部の大臣守屋が後胤にて。隼人正氏貞が時に弓削を平岩とあらため。代代當家の普第なるゆへ。親吉また七之助とて。いとけなかりけるよりつかへ奉り。大御所今川家へおはしませしとき。同じ御供して尾張の國に留られ。そのゝち又駿府にもさぶらひ。險阻患難の中に人とならせ給ひぬるまで。うれしさもうさも。ともに同じくともなひ進らせたり。永祿二年御軍始有しときも。親吉生年十七歲はじめて御供せしより。つねに堅きを破り强を討て。武勇すぐれしのみにあらず。仁愛有て智惠ふかゝりしかば。岡崎三カ君につけられ傅相の職に置れぬ。三カ君御事あるにおよび。親吉をのが首切て信長につかはされなば。信長の疑もなどか解ざるべきとて諫奉る。大御所も汝が志いづれの世にか忘るべきとて。御淚にむせび給ひぬ。されどやむ事を得ず三カ君御事ありて後。親吉つれなき命ながらへしに。程なく武田亡び信長またうたれ給ひし後。甲信の國々御手に入しかば。親吉もて甲斐の目代になさる。親吉が政事公平なりける程に。やがて其國もよく治る。此とき一萬三千石たまはり。天正十六年四月叙爵して主計頭と稱す。十八年小田原の北條攻られしとき。親吉も宗徒の人々と共に。武藏岩槻の城を攻落し。親吉又築井の城をもくだす。關東にうつらせたまひしのち。上野の國廐橋の城たまはり三萬三千石領す。親吉男子なかりしかば。大御所第六の御子松千代君を繼とせられしに。この君わづかに六歲にて世を早うしたまふ。關原のときはをのが城に有て。東國の軍勢をつかさどる。慶長六年二月三萬石加恩有て。甲斐國府中城主となされ六萬三千石領し。武川の士十四人を屬せられ。八年正月二十八日甲斐國を五カ太君に給はりしとき。親吉此君に付られ。(世には御父代りと申けるよしなり。)十二年閏四月廿六日君尾張國にうつり給ひしとき。親吉從ひ進らせ。同國犬山の城たまはり十二萬三千石になり。君はいまだ御幼稚にわたらせ給へば。親吉C州にありて國政をつかさどる。十五年C州を名古屋にうつされしかば。親吉は二丸にありて終りをとる。男子なければその家たえぬ。(駿府政事錄。御年譜。家忠日記。藩翰譜。ェ政重修譜。ある文に。親吉は督殿准父の心得なりしかば。别に男子を養はず。沒後には家人等みな督殿の方に參りつかふまつるべしと遺命してうせしといふ。)
◎此月大久保加賀守忠常が遺領二萬石を。其子千丸忠職に襲しめらる。時に八歲なり。また今川上總介氏眞が嫡孫主膳直房初見す。柴田筑後守康長御勘氣を蒙りて。下野足下に蟄居せしめらる。これは所屬の與力同心を虐使せしかば。屬吏等憤り訴へ出しによれり。その與力五人もと甲州士なれば。甲州定番命ぜられ。その余は土岐山城守定義に預らる。(重修譜には十八年の事とす。また柴田所屬をこれ迄は七九衆といふ。)又京には前月より井水涸て衆庶艱困せしに。このごろ雨を得て水多く湧出しかば。皆人これをよろこぶ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。慶長年錄。當代記。)
◎此年松平武藏守利隆が子新太カ。卅歲にてはじめて江戶に參り拜謁し。來國俊の御脇差を御手づから賜ふ。溝口伯耆守宣勝長子久三カ宣直。(時に七歲。)堀監物直政五子佐太カ直之。森伊豆守重政子次カ兵衛重繼。(時に十二歲。)小長谷彌右衛門時重三子九カ左衛門重次。富永彌二右衛門直信が子彥四カ直哉。少將忠輝朝臣の家士小宮山喜左衛門宣重三子傳九カ勝親。督姬君附鯰江對馬守正重が養子甚右衛門和甫。(後宮城とあらたむ。)大番金田惣八カ正勝三子左平治正辰。代官伊藤安兵衛助次子傳十カ正次。はじめて江城にのぼり初見の禮をとる。和甫は廩米四百俵賜ふ。京極丹後守高知が長子采女高廣。拓植三四カ正時子右衞門佐正直。(時に九歲。)猪飼太カ左衛門光治が子二カ兵衛光重。一色左兵衛範勝。山口駿河守直友子新五カ直堅。(時に七歲。)稻富宮內重次大御所に初見し奉る。宮內重次は此時より奉仕し廩米をたまはる。また先手頭久永源兵衛重勝が子內記重知。(時に十三歲。)
蒔田源六カ義祗(時に九歲。)兩御所に拜謁す。成P隼人正正成子半左衞門正虎。伊藤安兵衛助次子傳十カ正次は小姓組になり。正虎は四千石たまはり。永田與六カ重勝。中山六カ右衛門忠直は大番となり。廩米三百俵給はり。椿井權之助政次(のち內藤とあらたむ。)は江戶に奉仕し。廩米四百俵くださる。長谷川式部少輔守知が子縫殿助正尙。大草源右衛門忠次。(時に十五歲。)福島九藏爲重が子九カ兵衛爲信。京醫熊谷伯安宗祐。駿府にて大御所につかへ奉る。もと今川家に寓居せしころ。比企左馬助政員馬をこのみしかぱ。今川義元駿馬を集めて見せしめし事有しを。大御所よく知しめしければ。その子孫を尋らる。しかるに吹擧する人なかりしかぼ。其孫次左衞門義久遠州M松にてみづから訴へ出召出さる。本多伊勢守康紀が弟次カ八紀貞。爵ゆりて對馬守と稱す。堀丹後守直寄一万石加へられ五万石になる。これは去年十月駿府火災の時。消防の功を褒せられてなり。山伯耆守忠俊五千石加恩有て一万石となり。內藤外記正重五百石加へて千九百石となり。朝倉藤十カ宣正三百石加へて千石になさる。林道春信勝京邊にて采地三百十石餘たまはり。又在駿の費用をも下さる。大久保六右衛門忠尙はじめて召出され。采邑三百石給ふ。內藤外記正重大坂城番となり。永井彌右衛門白元目付となり。三宅半七カ重勝使番となり。山岡五カ作景長伏見城目付となり。大番大久保新八カ康村その組頭となり。朝夷市平義次。奥山茂左衛門重次共に大簞笥奉行となり。同心二十五人づゝ預られ。義次は采邑三百石。重次は二百五十石賜ふ。神尾五カ兵衛忠次は阿茶局のゆかりにより。駿府へめし出され二百俵給はり甲斐國代官となり。村PC藏重次。坪內半三カ定次。新見勘三カ正次小姓組番士となり。小堀左馬助正春書院番に入り。加藤長大夫景吉。加々美才兵衛正光が子金右衛門正吉大番にいり。長坂茶利九カ信次小十人組に入り。菅沼藤藏定政が從屬士加藤丑之助吉久はめし出され若君につかへ奉る。時に十四歲。大番小宮山喜左衛門宣正は越後少將に付られ代官となる。金森出雲守可重常州下妻にて狩塲を賜はり。兩御所より鷹を下さる。又藤懸美作守永勝子三藏永重。駿府に仕へて書院番をつとむ。又櫻井安藝守信忠卒し。其嫡孫市右衛門信利家を繼ぐ。信忠もとは甲斐の武田が家人なり。武田亡びで後御家人に加へられ。小田切大隅守昌吉と共に。甲州の惣奉行命ぜられ甲府の城をあづかり。ことし八十三歲にて終をとる。又小田切大隅守昌吉卒しければ。その子新右衛門昌次家を繼ぐ。この昌吉ももとは武田が家人なり。關原の後安藝守信忠と共に。甲州の惣奉行を命ぜられ甲府城を守り。ことし八十歲にて終る。葦野彌左衛門政泰死して。其子藤五カ資泰つぎ。その謝恩のため見參するとて。家に傳へし景秀の刀を獻ず。政泰は那須の支流にて芦野を領し。關原のときより御家人に加へられしなり。神尾立菴正廣死してその子猪兵衛幸政つぐ。米津十カ左衞門政吉は御勘氣を蒙る。また今年城溝浚治に。保科肥後守正光。淺野采女正長重。北條久太カ氏重。鍋島信濃守勝茂人夫を出す。またさきに有馬左衛門佐直純に。大御所御養女(本多美濃守忠政が女。)降嫁(十五年の事なり。)有しかば。今年その粧田千百石あたへらる。土井大炊頭利勝が家にならせ給ふ。今年諸國豐穰す。又大御所の仰として。今年より諸國賦稅悉く江城に納めしめられ。美濃伊勢兩州幷近江國十三万石をもて。駿府の厨料とし。駿河。遠江。尾張の三州は。宰相義直卿宰相ョ宣卿の厨料と定めらる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。斷家譜。當代記。慶長日記。) 
卷十八 / 慶長十七年正月に始り四月に終る御齡三十四 

 

慶長十七年壬子正月元日歲首の朝會例のごとし。駿城にては江戶よりの御名代本多出雲守忠朝。若君御名代神尾五兵衛守世拜謁し。次に越前少將忠直朝臣名代林左近大夫某。越後少將忠輝朝臣名代松平大隅守重勝拜謁す。つぎに在駿の諸大名はじめ諸拜賀し奉る。(家忠日記。御年譜。駿府政事錄。)
○二日謠曲はじめ例の如し。㝡上駿河守忠親。小笠原美濃守忠脩。松平外記忠實。牧野駿河守忠成。松平安房守信吉。松平丹波守康長着座す。駿城には豐臣右大臣の賀使薄田隼人正兼相拜謁し金十枚獻ず。きのふまうのぼらざる輩皆登營して賀し奉る。(慶長日記。駿府政事錄。)
○三日加賀米澤長門の三黃門はじめ。在國の諸侯賀使駿城に參り。金銀獻る者若干なり。(駿府記。)
○四日土井大炊頭利勝駿城に御使す。よてみづからの賀をも聞え上奉りければ。金千兩たまはる。この日大御所は去年の大晦に。平岩主計頭親吉が尾州名古屋城にありて病死せるよし聞召。親吉病おもらんには。などおのが犬山の居城にかへりては死せざるやとて。御けしきよからず。(駿府政事錄。創業記。)
○五日追儺なり。
○六日立春。諸國の寺社人駿城にのぼりて歲首を賀す。はてゝ遠州周知郡久野村の可睡齋宗珊を召し。其徒弟三十四人をもて。曹洞宗の論義を聞召る。金地院崇傳。圓光寺閑室侍座す。宗珊に被物銀をたまふ。徒弟には銅一万疋かづけらる。また曾我山正法寺雲達に修理料を給ふ。(駿府記。)
○七日大御所吉良に狩し給はむとて。田中にやどらせたまふ。(御年譜。駿府政事錄。)
○八日相良にやどらせらる。(駿府政事錄。)
○九日須賀にいたりたまふ。(駿府政事錄。)
○十日中泉につかせ給ふ。織田長益入道有樂江戶よりかへり參り謁し奉る。鷹のとりし鶴を下さる。是夜風烈しくて雪つもる事六七寸におよぶ。(駿府政事錄。當代記。)
○十一日津田紹意に毘耶宇島渡海の御朱印。茶屋四カ次カに交趾渡海の御朱印。唐人やようすへ廣南渡海の御朱印を下さる。この日大御所には例のごとく御鷹狩あり。(御朱印帳。駿府記。)
○十二日金地院崇傳江城に參謁す。けふ大御所にはM松にわたらせらる。(國師日記。御年譜。駿府政事錄。)
○十三日吉田につかせられ。城主松平玄蕃頭忠Cに銀百枚賜ふ。けふ烈風により狩し給はず。(駿府政事錄。)
○十四日吉良につかせられ。城主本多縫殿助康俊に銀百枚下さる。この地鳥多き故。數日とまり狩し給ふべしと仰出さる。本多美濃守忠政。松平下總守忠明。水野日向守勝成。菅沼左近定芳もこゝに參り拜謁す。藤堂和泉守高虎も肥後の國政を沙汰し終り。歸り來てこゝに拜謁し。肥後の國圖をさゝげ御覽に備へければ。江戶に參りそのよし聞へ上べしと仰下さる。よて高虎は翌朝江戶に赴く。(駿府政事錄。駿府記。)
○十五日上杉中納言景勝。越前少將忠直朝臣はじめ。東北の諸侯誓書をさゝぐ。其文にいふ。去年四月十二日京に於て。大御所仰下されし嚴旨のごとく。鎌倉右大將家以來。代々將軍家の法令を損益ありて。仰下さるゝ所の嚴旨をかたく守るべし。法令違犯の徒を各國に隱匿すべからず。諸國の藩士等もし叛逆するか。人を殺傷するよし聞ゆるものを召抱べからず。もし此條約にそむかんには。速に諊問ありて嚴科に處せらるべしとなり。(駿府記。)
○十六日山圖書助成重を吉良に御使せられ。大御所の御けしき伺はせらる。京極若狹守忠高。同丹後守忠知も使奉り。時服幷に嘉肴を獻じ。御けしきうかゞふ。大御所はけふも狩せらる。(駿府記。)
○十七日御狩塲より京に御使立られ。仙洞に鶴を進らせられ。廣橋勸修寺の兩卿にも鴈をつかはさる。(駿府記。)
○十八日鷹取し鶴を豐臣右府のもとに贈らせ給ふ。大內には近年絕し左義長を行はれしとぞ。(駿府記。創業記。當代記。)
○十九日御狩塲より駿城に使たてゝ。成P隼人正正成。竹腰山城守正信をめさる。これ平岩主計頭親吉卒しければ。兩人尾州名古屋城にまかり。國務沙汰すべきためなり。(駿府政事錄。)
○廿日大澤右京亮基重侍從に任ず。この日大御前には岡崎につかせ給ひ。城主本多豐後守康紀に銀百枚賜ふ。(家譜。駿府政事錄。)
○廿一日大澤兵部大輔基宥正四位下に推叙せらる。この日大御所御狩塲に松平攝津守忠政參謁す。(武家補任。駿府政事錄。)
○廿二日鷹とりし鶴を大內に驛進し給ふ。(駿府政事錄。)
○廿三日御狩塲に成P隼人正正成。竹腰山城守正信參謁す。(駿府政事錄。)
○廿四日御狩塲に松平筑前守利常時服二十獻じければ。鷹とりし鶴をまたふ。(駿府政事錄。)
○廿五日森右近大夫忠政狩塲に參り。緞子のはかまを獻ず。(駿府政事錄。)
○廿六日大御前には大樹寺に詣給ひ。御祖先の御墳墓を拜させ給ひ。一門の方々の古墳共をとはせられ。苔をけづり落葉をはらひ祭奠し給ひ。寺僧に香銀五十枚たまふ。又御父君の御墓は能見山松應寺におはしませば。爰にも詣給ひ。香銀五十枚を布施し給ふ。山源助正勝死して。其子甚右衛門正次家つぐ。(御年譜。駿府政事錄。ェ政重修譜。)
○廿七日岡崎をいでゝ。この夜尾州名古屋城に入らせ給ひ。新造の亭にて御祝あり。(御年譜。駿府政事錄。)
○廿八日名古屋城にて成P隼人正正成。竹腰山城守正信を召出し。壘壁溝渠經營のことを指揮したまふ。この日淺野紀伊守幸長はこゝに使奉り。時服五領獻じければ。大鷹幷に鷹とりし鶴を賜ふ。(駿府政事錄。)
○廿九日岡崎へかへらせ給ふ。(駿府政事錄。)
○晦日池田少將輝政より御狩塲に使して。時服五領獻じければ鶴を賜はり。其子左衛門督忠繼にも大鷹一聯下さる。(駿府政事錄。)
◎是月松平美與初見し奉る。御前にて元服し御名の一字給はり。叙爵して加賀守忠光と改む。池田少將輝政播州姬路の城にありて。病臥のよし聞えければ。朝倉藤十カ宣正。山岡五カ作景長。川口長三カ近次を御使してとはせらる。駿城にても大御所このよし聞召驚給ひ。牧野伊豫守成里。鵜殿兵庫長秀をつかはされ。其病を看侍せしめ給ふ。肥田主水忠親は駿河につかへ奉る。京畵工狩野右近將監孝信の子采女守信。駿府に參り謁し奉る。(家譜。ェ永系圖。)
○二月朔日雨ふりければ。大御所岡崎に滯留し給ふ。(駿府政事錄。)
○二日けふも雨により御滯留あり。(駿府政事錄。)
○三日大御所銃の妙手數十人を具し給ひ。遠江の堺川二川山に狩し給ふ。列卒五六千人。弓銃もて驅立られ猪二三十獵とらる。時に大雨ふり來りければ早く歸らせ給ふ。この夕M松にやどらせらる。(駿府政事錄。)
○四日成P豐後守正武を御使として。大御所の御けしきうかゞはせらる。かつ别に安藤帶刀直次。村越茂助直吉のもとに。御內書つかはされうかゞはせ給ふ。大御所今夜は中泉にいたらせらる。江戶よりしばしば御使進らせ給ふを感じスび給ひ。御鷹のとりし鶴一雙進らせらる。
○五日甚雨によて大御所中泉に御滯座あり。(駿府政事錄。)
○六日大御所御鷹狩あり。晚に及んで雨ふる。(駿府政事錄。)
○七日雨ふる。(駿府政事錄。)
○八日大風により御滯留あり。(駿府政事錄。)
○九日中泉を發して懸川城につかせ給ふ。(駿府政事錄。)
○十日連日の雨によて大井川水かさまさり。人馬渡る事を得ず。大御所には金谷より伊呂宇をめぐり。淺Pをこえて田中につかせらる。(駿府政事錄。)
○十一日駿府にかへらせらる。今度御狩の得物鶴七十六。鴈鴨の數は枚擧にいとまあらずとなり。(駿府政事錄。)
○十二日神尾五兵衛守世を駿城に御使せられ。大御所御けしきうるはしく。御歸城ありしを賀せらる。駿城にてはこの日日野亞相入道唯心ならびに圓光寺金地院兩僧を前殿に召て御物語どもあり。又女院より御使ありて桾ィを進らせらる。(駿府政事錄。)
○十三日風雨。(當代記。)
○十四日駿城にては大御所近侍の輩をめして。終日東鑑源平盛衰記を校讐し給ふ。少將ョ房朝臣痘わづらはせ給へば群醫輻湊せり。長坂孫兵衛吉次死して子孫七カ吉利つぐ。(駿府政事錄。家譜。)
○十五日安藤對馬守重信を駿城につかはされて。御起居を候したまふ。(駿府政事錄。)
○十六日安藤對馬守重信。駿城にて江戶水利疏鑿の圖を御覽に備ふ。成P隼人正正成。竹腰山城守正信は名古屋より駿府に參り。城郭搆造の事をきこえあぐる。(駿府政事錄。)
○十七日水野監物忠元駿城に御使して。少將ョ房朝臣瘡痘のさまをとはせ給ふ。(駿府政事錄。)
○十八日板倉伊賀守勝重江戶より駿府にかへる。(駿府政事錄。)
○廿日駿府淺間の社廿日會行ふにより。義直ョ宣兩卿まからる。この夜地震す。(駿府政事錄。當代記。)
○廿一日大御所府中に狩し給ふ。このほど駿府にて猿樂催し給はんがため。江戶より其徒をめさる。觀世はさきに非據の訟ことして御勘發を蒙り。高野山に蟄居せしが。こたびゆるされて參る。(駿府政事錄。)
○廿二日京職板倉伊賀守勝重を召て。大內並院中の寳物ども年比散逸せし事若干なり。其中にたまたま江戶駿府に傳へしは。こたびことごとにかへし進らせたまふべき旨仰出さる。(駿府政事錄。)
○廿三日本多上野介正純が所屬岡本大八某急に獄につながる。有馬修理大夫晴信もこれに座して御勘氣蒙る。そのゆへは岡本年頃晴信が家に親しく行かよひしが。ある時晴信をあざむきけるは。晴信先年蠻船焚伐の功あるによりこれを賞せられ。その舊領なれば鍋島信濃守勝茂が領する肥前の內三郡を給ふべしとの御內旨を。上野介正純奉りたりとて。御教書の案を僞造して示す。晴信これをまことなりとスび。岡本に托し正純に賄賂のため。金銀錦繡ををくる事かぎりなし。岡本ことごとくこれを私し。そのうへに猶も晴信をあざむき。この事は江戶の御所より仰下さるべきなれば。江戶老臣のもとへも。音物せられずばかなふまじ。それもそれがしよきに計ふべしとて。まを銀六百枚をとり。をのれは其銀をもて商賈して生產をいとなむ。晴信も後にはこれをいぶかしく思ひければ。正純のもとへ消息して其實否をたゞす。正純この消息を得て始終の事をしらざれば疑惑し。上栽を仰ぐにいたり。
晴信を召て對决せしめらるゝに。岡本が奸曲まがふかたもなく白狀せしかば。町奉行彥坂九兵衛光正に引渡し。獄につながれしなり。(駿府政事錄。)
○廿五日大御所鷹山にならせらる。義直ョ宣兩卿も陪從し給ふ。(駿府政事錄。)
○廿六日田中筑後守忠政駿城にまうのぼりて。銀百枚。K羅紗十間獻ず。生駒讃岐守正俊も駿府に參覲す。この日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重を召て。明の月には江戶の御所をむかへ給ひ。萬機のこと議せらるべき旨仰出さる。又阿蘭國主へとるほつと書簡を上野介正純にをくり。其國人通商の事ゆるされしを謝し。かつかすてあんとはいまだ實の和睦とゝのはざる旨を告奉るよしにて。去年下されし御朱印二通を返したてまつる。(駿府政事錄。異國日記。)
○廿七日大御所府中邊に狩し給ふ。(駿府政事錄。)
○廿八日松平陸奥守政宗生駒讃岐守正俊駿府にまうのぼり拜謁し。政宗は銀百枚。鹽鮭十隻。正俊は銀百枚。時服十獻ず。二人を御茶室に召れ御茶を賜ひ。正俊に御茶入を給ふ。日野亞相入道も同じく召る。この日用ひられし茶入を投頭巾といふ。こはそのむかしこの技の宗匠とよばれたる紹鷗が。はじめこの器を見たりし時。歎美のあまり手に持し頭巾を投出しけるより。その器の名とはなりしといふ。紹鷗は慈照院義政將軍の時眷寵蒙りし茶博士なり。この夜淨僧呑龍。了的。傳札をめして佛理を談じ給ふ。また安藤次右衛門正次撿使として伏見につかはさる。三浦龜千代正次命によりて。土井甚太カと改む。土井は外戚の氏なり。(駿府政事錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿九日鷹山にならせらる。藤堂和泉守高虎江戶より駿府に參る。(駿府政事錄。)
◎是月山善四カ重成目付に命ぜられて伏見に赴くに及び。いまだ嗣子なければ伯父小林又六カ重次が子源十カ重勝を養ひ。子とせん事を願ひ御ゆるしあり。(ェ永系圖。)
○三月朔日江城營作所の條約を仰下さる。其文にいふ。喧嘩爭論停禁すべし。もし違犯せば理非をえらばず。双方共に罪せらるべし。あるは親戚のちなみを思ひ。あるは知音のよしみにより荷擔するものは。其罪本人よりも重かるべし。經營の間人を返すべからず。又やみがたきゆへあらんには。事はてゝ家にかへる後沙汰すべし。經營の最中亡命するものは曲事たるべし。押買狼籍すぺからず。男女ともに勾引して匿し置べからずとなり。駿城にては出仕のともがら午時に及び拜賀す。碁將棋の徒江戶より駿府にまいる。(令條記。駿府政事錄。)
○二日大御所鷹山にならせ給ふ。(駿府政事錄。)
○三日上巳拜賀例のごとし。駿城又同じ。大御所碁將棋を御覽じ給ふ。山善四カ重成養子源十カ重勝召出さる。時に十三歲なり。(駿府政事錄。ェ政重修譜。)
○四日土井大炊頭利勝駿城に御使せらる。川口久助宗勝死して。其子孫作宗信つぐ。この宗勝父は久助宗吉といふ。宗勝始は織田家につかへ。しばしば軍功ありて尾州沓掛の城主となり。後豐臣家につかふ。慶長五年伏見城の寄手なりければ。關原戰終てのち松平陸奥守政宗にあづけられ。奥州にある事五年。宗勝が祖母のゆかりをもて。九年の秋御ゆるしありて。二千五百石たまはりつかへ奉る。病中にもしばしば御懇問ありて。御藥をも賜りしが。けふ六十七にて終りをとりぬ。二子茂右衛門宗重へ五百石分つ。けふも大御所は鷹山にならせらる。(駿府政事錄。家譜。ェ永系圖。)
○五日土井大炊頭利勝駿城を辭して江戶に赴く。(駿府政事錄。)
○八日肥前國五島領主五島淡路守玄雅卒しければ。其子孫次カ盛利に遺領一万五千五百石つがしめらる。この玄雅は故修理大夫純玄が子なり。玄雅は世々肥前國五島のうち福江の住人。天正十五年豐臣家より本領を安堵し。其後朝鮮の軍にしたがふ事七年。慶長五年の秋大坂の奉行等が牒狀に應じて。兵船にとりのり長門國下關にいたり。鎭西の人々と會合し軍の評定せしに。大村が異見にまかせ皆本國に漕戾す。天下一統の後本領もとのごとく賜はりけふ卒せしなり。年六十五。(家譜。藩翰譜。)
○九日駿城にては春夜やゝ短ければとて。近侍宿直のやから夜詰をゆるさる。(駿府政事錄。)
○十日伊豆山般若院快運拜謁し。古寫の續日本紀を獻ず。林道春信勝をしてよましめらる。(駿府政事錄。)
○十一日林道春信勝をめして。中庸は能すべからずといふ事を御垂問あり。信勝そのことはりを聞え上奉る。このごろ天主教は倫理を害し風俗をやぶる事をしろしめし。嚴に禁制せしめられんとて。御家人十人づゝ一隊とし。隊ごとに查撿を命ぜらる。原主水某年頃邪宗に惑溺するゆへ。此制を恐れて亡命す。榊原嘉兵衞某。小笠原權之丞某は。その宗に歸依するといへども。旣に改宗しければ死罪一等を减じて放逐せらる。(駿府政事錄。創業記。嘉兵衞は後年病死し。權之丞は難波の役に大坂に籠城してうたる。)
○十三日駿府にならせ給はむとて。江城を御首途ましまし。この夜藤澤につかせ給ふ。駿城にてはこの日京極若狹守忠高參覲し。夜着二領獻ず。(駿府政事錄。)
○十四日小田原につかせ給ふ。(駿府政事錄。)
○十五日三島にやどらせらる。駿府にては山門竹林坊賢盛多武峯學頭を命ぜらる。下間少進法印某京より駿府に參る。(駿府政事錄。)
○十六日C水にいたらせらる。駿府近侍の輩御迎として參謁す。(駿府政事錄。)
○十七日駿府西城に入らせ給ふ。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。山圖書助成重。山口但馬守重政。神尾五兵衞守世。水野監物忠元。井上半九カ正就。其他若干供奉す。午後本城にならせ給ひて大御所御對面あり。時に大久保右京亮教隆御刀をとる。御所より銀三千枚。時服五十進らせられ。義直ョ宣の兩卿にも。御刀幷に馬をつかはさる。今夜より御滯留の間は近侍の輩例のごとく夜詰すべしと命ぜらる。(駿府記。)
○十八日先に獄に下されし岡本大八。ふたゝび有馬修理大夫晴信が惡事を訴ふ。よて大八を引出し。大久保石見守長安がもとに於て。晴信と對决せしむる所に晴信詞屈す。よて晴信は石見守長安にあづけられ。大八はふたゝび獄につながる。これは晴信唐船互市唐糸の事。常に長谷川左兵衛藤廣に命ぜらるゝを猜み怨み。刺客をして藤廣を長崎徒來の路にて。殺害せんとたくむよしをうたへしなり。晴信も大八も其もとは天主教に歸依するにより。したしみあつければ。互にかゝる隱事をもかたりしものなるべし。晴信が子左衛門佐直純は罪なしとて。父の所領四万石を新に下さる。これ襲封せらるゝにはあらずとなり。(駿府記。)
○十九日兩御所駿府本城にて御對面し給ふ。吳服商榮任京より參りければ。御前に召て京の物語ども聞し召る。(駿府記。)
○廿日駿城に山名豐國入道禪高を召て。御所將棊の興を催し給ふ。(駿府記。)
○廿一日御所加護鼻にならせられ。竹腰山城守正信が銃技を御覽あり。御感のあまりに。着し給へる御衣を賜ふ。正信十三町の外に的を置。五十目の鉛丸三度。其あたる所少しもたがはずといふ。又江戶より供奉せし大久保右京亮教隆等の近侍數十人大御所に拜謁し奉る。この日岡本大八を獄屋より引出し。駿府市街を引廻し阿部川邊にて火刑に處せらる。これを見るもの堵のごとし。晴信大八等邪教に化せられ。かゝる奸惡の擧動しければ。彌邪教禁斷せらるべしとて。板倉伊賀守勝重に其寺院の京洛にある所は。悉く破却すべしと命ぜらる。又有馬左衛門佐直純所領肥前高來郡には。邪教歸依の者多により。淨僧萬隨意をかしこに下し。佛教を演說してその民を化せしむべしと仰付らる。又長谷川左兵衛藤廣を長崎につかはし。邪徒を查撿せしめらる。(駿府記。駿府政事錄。)
○廿二日御所けふも山名禪高を召て將棊の御遊あり。この日有馬修理大夫晴信を。甲斐の郡內に配流せらる。大久保石見守長安これを沙汰す。(駿府政事錄。)
○廿三日松平攝津守忠政。松平下總守忠明。水野日向守勝成。石川主殿頭忠總。本多縫殿助康俊等駿府に參り御所に拜謁す。又棋將棊御覽あり。(駿府政事錄。)
○廿四日京大佛は五年前。大坂の豐臣右府より再建ぜられ。其功すでになるに及んで鑄工火をつゝしまず。あやまちて爐火ほどばしり起り銅像やぶる。よてふたゝび三年前より興隆せしに。このころ成功し堂閣搆造告竣のよし。大工中井大和守正次駿府に參り聞え上る。(駿府政事錄。慶長日記。)
○廿五日駿城三丸にて猿樂催され御所を饗せらる。宰相ョ宣卿八島。唐船。鞍馬天狗をまはせたまひ。宰相義直卿杜若の小鼓をつかふまつり給ふ。松風安達原は少進法印。其外弓八幡。杜若。鵜飼。吳服は金春つかふまつる。はてゝ遠山民部少輔利景。池田備後守重信。鈴木久右衛門伊直も一番づゝ所作す。この三人世に名高き拙技なれば。見る者貴賤どよみわらはざる者なく君臣歡をきはむ。この日豐後國森領主來島右衛門一長親卒して。其子宮松通春六歲にて家つぐ。時に國光の御脇差。着御の服二領を賜ふ。長親が家は越智氏。(藻翰譜には源氏とす。)世々伊豫の河野の被官なり。河野の一族皆長曾我部に降參するに及び。長親が父助兵衛通總兄弟是に從はず。豐臣家より伊豫の國收公せらるゝ時。はじめ長曾我部に降參せし國人等。皆追却せられしかど。通總兄弟が勇を賞せられ本領安堵せしめらる。通總朝鮮にて討死せしかば。長親家をつぎ伊豫國風早一萬四千石を領す。關原の役に御麾下に屬し。慶長六年二月今の地に轉封し。此日三十一歲にてうせしなり。(駿府政事錄。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿六日大御所の御茶室に御所をむかへ給ひ。御茶進らせらる。日野亞相入道。京極若狹守忠高御相伴す。はてゝふたゝび本城にならせられ。けふの御謝詞聞え進らせ給ふ。そのとき大御所年頃祕藏まします楢柴。投頭巾。肩付といへる名器をとり出し給ひ。御心まかせにとらせ給へと仰ければ。御所投頭巾をこひうけ給ひて。西城へかへらせたまふ。其あとにて近臣等。けふは御所ことに御スにわたらせ給ひしよし申ければ。大御所聞召。汝等も將軍投頭巾の茶宴にあふべしと宣せたまひ。えみさかへさせ給ひしとぞ。御父子御むつまじくわたらせ給ふ事。實に天下後世までも又ありがたかるべしと。
見聞する群臣淚とゞめあへず。嗟歎せしとなり。また大御所より松平下總守忠明に佛カ機十二。大銃十二。小銃三百。其他甲胄弓鎗數百たまふ。また御所より駿府近侍の輩に時服を給ふ。(駿府政事錄。創業記。)
○廿八日御所けふ藤堂和泉守高虎が家にならせたまひ。尾張遠江の兩宰相もしたがはる。猿樂御覽あり。樂は竹生島。實盛。湯谷。二人靜。鐘馗。玉鬘。鵺。百萬なり。下間少進法印は實盛。二人靜。鵺をつとめ。玉鬘は花房左京つとむ。この日高虎に銀二百枚。小袖三十賜はり。高虎より長光の太刀並に脇差を獻じ。兩宰相へも脇差を獻ず。(駿府政事錄。)
○廿九日本多美濃守忠政駿府に參覲し御所に謁し奉る。(駿府政事錄。)
◎是月御所故松平因幡守康元の女を養ひたまひ。毛利甲斐守秀元に降嫁せしめらる。又土屋民部少輔忠直病臥によりとはせ給ひ。枕屏風を給ふ。(慶長日記。家譜。)
○四月朔日駿府にて兩御所拜賀を受給ふ。(駿府政事錄。)
○二日加藤肥後守忠廣家つぎて後。はじめて駿府に參覲し。金百枚。時服十領。帷子十領獻ず。鍋島信濃守勝茂使奉り。金五十枚。猩々緋三十間獻じ。父加賀守直茂金十枚獻ず。これ勝茂が所領の內三郡を有馬修理大夫晴信へ賜るよし。岡本大八が浮說を聞。勝茂父子大におどろきしに。上裁に及び其事あるべからざるに决斷ありしをもて。謝し奉るよしなり。この日本城にて兩御所御對面あり。傍人をさけしめ御密話數刻に及ぶ。(駿府政事錄。)
○三日南都興福寺寳藏に賊あり。寳物ぬすみたるよし聞えければ。京職板倉伊賀守勝重に命じて糺察せしめらる。(駿府政事錄。)
○八日駿府三丸にて兩御所猿樂あり。(駿府政事錄。)
○九日明日江戶に還御あるべきよし仰出さる。この日御餞别の御宴ありて猿樂催され。宰相ョ宣卿もまはせられ。少進法印もつかふまつる。其他は金春等なり。はてゝ御所より金春始猿樂等に。銀時服給ふ事若干なり。この日上總國久留里城主土屋民部少輔忠直卒しければ。其子平八カ利直六歲なるをして。遺領二万石つがしめらる。この忠直が父惣藏昌恒は。世々武田が家人なりしが。勝ョ父子天目山にて討死の時。さしもの武田が家人ども。あるは迯かくれあるは後失はるたぐひのみにて。日頃主從の契りたがへず義を守り。死をともにせしもの。侍大將のうちにては昌恒兄弟三人のみなり。其時忠直わづかに六歲。所屬の兵どもとかくして駿河國に落ゆき。C水寺の住僧にあづけたり。天正十年大御所御鷹狩の折から。此寺にいりていこはせ給ひし時。住僧此兒もて御茶を進らす。大御所つくづくとこの兒のさまを御覽じ。なにものの子なりやと問せ給ふ。住僧始終のことども語り進らせければ。さればこそさるものゝ子なれ。我にあたへよ。家人としてめしつかふべしと仰らる。僧大によろこび畏りければ。やがて御輿にのせて歸らせ給ふ。其時若君(御所の御事。)御迎のために出むかはせたまへば。御輿のうちより年頃ふところ刀まいらせんと思ひしに。けふこそもとめ得て侍れとて。御みづからかの兒の手ひき給ひながら御輿より出給ひ。若君に進らせらる。又阿茶の局(忠輝朝臣生母。)をめし。辰千代丸(忠輝朝臣の事。)が弟とおもひ。此子養ふべしと仰せられしかば。越後少將と一所にひとゝなり。今の御所の御身ぢかくめしつかはれ。やがて御一字たまはり忠直となのり。十九年十月相州禰宜內村にて三千石の所領たまはり。そのゝち總州布施村にて千石ましたまはる。慶長五年の秋關原の戰には山道の御供し。そのとし十二月叙爵して民部少輔と稱す。同じき七年上總國久留里の城をたまはり二万石を領し。けふ三十五歲にてうせぬ。(駿府政事錄。ェ永系圖。藩翰譜。)
○十日駿城を御發輿あり。このとさ太田新六カ資宗を御所に附られ。供奉して江戶に至る。今川上總介氏眞入道宗ァ。京より駿城に參謁し昔物語など聞え上る。(駿府政事錄。ェ政重修譜。駿府記。)
○十四日進藤三右衛門正次死して。其子三右衛門正成つぐ。この正次ははじめ宇喜多黃門秀家が臣なり。秀家關原の戰に打負て。近江伊吹山に迯るまで正次供せしが。秀家にさらばかねて秘藏したまふ鳥詞國次の脇差を下さるべし。それがし關東方の御陣所に參り。はからふ旨ありと申。その脇差と請とり泪と共に立わかれ。正次は本多忠勝が陣に參り。それがし秀家を弑し此脇差を持參すと申により。忠勝披露し其脇差を大御所の御覽にそなふ。兼々しろしめす品なれば疑ふべきにあらす。正次も直に召仕はるべしとて御家人になさる。其後秀家が薩州へ逃下りしよし露顯せしとき。正次が僞り申せし事を糺明有しに。正次少しも恐れず。最前それがしが申上しは。秀家を無難に薩州へ落さんとの計畧に候。秀家薩州へさへ下着候うへは。それがし本意は達したり。いそぎそれがしが罪をたゞし。首を刎らるべしと申。大御所聞召。かれは義士なりとてとがめられず。常に御談伴に召れ優侍せしめられしが。けふ都に在てうせしなり。(家譜。天元實記。)
○十五日土岐山城守定義大番頭になる。(慶長見聞書。)
○十九日藤堂和泉守高虎仰により江戶に參る。また安藤對馬守重信を御使とし駿城につかはされ。こたび尾張遠江の兩宰相幷に少將のかた對面ありしに。いとおとなしくならせ給ひ。ス思召るゝとの御ことにて。其ついでに投頭巾の茶入進らせられたるをも謝し進らせ給ふ。山門南光坊僧正天海參謁し。武州仙波喜多院の住職命ぜられ彼地に赴くによて銀三十枚時服等かづけられ。ならびに仙波の寺領永代三百石よせ給ふべきよし仰下さる。この天海は當時天台の學匠なりとて。これより眷注日々に深く。優遇せられしとぞ。この日致仕佐竹常陸介義重卒しぬ。義重が先は新羅三カ義光の孫冠者昌義。母方につきて常陸國久慈郡佐竹を領しければ。佐竹とは名乘なり。昌義が十七代の孫右京大夫義昭が子にて。代代關東八家の其一なり。天正十八年義重同國の大名江戶重通を伐亡し。水戶城攻とりて長子義宣にあたへ國務ゆづり。其身は太田の城にすむ。關白秀吉北條をうたるゝに及び。義宣速に味方に參りければ。關白も殊更優侍あつて。三十三人の國人等を討亡し。天下六人の大名にかぞへ入らる。これひとへに豐臣家の恩と思ひ。其上石田三成が推擧なりとしりければ。慶長五年關原戰のはじめ。兼て御使給はりめせども參らず。大御所上杉をうたせ給はむ時は。御うしろよりおそひ奉らんとはかりける。しかるに關原戰終りければ。父義重いそぎ降をこひ申により御誅伐も延引せり。六年の春御所關東へかへらせ給ふよし聞て。義重やがて武藏の神奈川驛まで參り。家亡び失むことをなげき申す。さらば伏見に參り。大御所へ其よし申べしとありければ。義重伏見に參り又なげき申す。大御所も義重が年老たるをあはれに思召され。させる御咎もなく。七年五月八日に義宣が常陸國八十万石收公せられ。出羽の秋田二十万五千石餘下したまはり。かくて義重も義宣とともに。秋田にうつり齡つもり六十六歲にてけふ卒しぬ。(駿府政事錄。ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿日三河國吉田城主松平玄蕃頭忠C卒す。忠C父は玄蕃頭家C。母は大御所の異父同母の御妹なり。慶長十五年父の遺領をつぎ三万石を領し。御名の一字たまはり。從五位下に叙し民部大輔忠Cとなのり。左文字の御刀をたまふ。後玄蕃頭に改め。けふ二十八歲にてうせぬ。嗣子なければ所領は收公せられき。これ急病頓死のよし聞ゆ。(ェ永系圖。家譜。當代記。)
○廿二日駿城三丸にて宰相ョ宣卿猿樂を催され。大御所わたらせられ御覽ありしに。式三番千歲の役者拙技なりしにより。御氣色損じとみに還御なる。(駿府政事錄。)
○廿三日雷雨。(當代記。)
○廿四日けふも雷雨甚し。上方は雹ふる。寒氣はげし。この日土御門陰陽頭久修駿府に參着す。(國師日記。駿府政事錄。)
○廿五日廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿駿府に參向あり。春日兩社の千木毁損して落たるにより。禁中重き御愼なりと聞えあぐる。大御所聞召。兩社搆造以來星霜をふる事久し。千木腐損して落ること怪しむにたらず。將軍より不日に修造せしむべしと答給ふ。(駿府記。)
○廿六日相國寺艮西堂駿府に參り。春秋左氏傳三十卷。齊民要術十卷獻じ奉る。(駿府政事錄。)
○廿八日丹羽勘解由某駿城にのぼり。大御所に拜謁し奉る。(駿府政事錄。) 
卷十九 / 慶長十七年五月に始り七月に終る 

 

○五月朔日拜賀例のごとし。駿城もおなじ。この日信濃國戶隱山に社領の御朱印を賜ふ。その文にいふ。信濃國水內郡粟田村。二條上楠川。合二百石は先に寄附せらる。上野村原內下楠川。宇和原。奈良尾。合て八百石は新に寄附せらる。この惣計千石の內别當五百石。社僧三百石。社家二百石。全く收納すべし。其他社領門前境內山林竹木守護不入の地と定めらるゝ事。永代相違有べからず。彌天下泰平の祈願を抽べきものなりとぞ。又令せらるゝは。戶隱山顯光寺三院の衆徒。いまだ灌頂傳授せざるもの。住坊せしむべからず。たゞし再興の時功勞の衆徒。生涯は住山をゆるさるべし。先師より相續の坊室たりといへども。行儀破戒の聞えあらんには查撿し。違犯露顯の者は放逐すべし。平坊として他院の坊職抱持事一切禁ずべし。寺役勤行幷に伽藍僧坊修理は。大坊の沙汰たるべし。衆徒猥りに連署し。黨を結び非義をくはだてば。首謀の者速に追放すべし。此條嚴に遵奉すべしと之。(此文國師日記には十月四日に出す。)又京高臺寺に御朱印をくださる。山城國葛野郡太秦の內市川村百石。攝津欠郡天王寺邊湯屋崎村(或湯屋島に作る。)四百石。合せて五百石寄附せらる。山林竹木門前境內諸役免除の事。永く相達あるべからす。佛事勤行修造等怠慢あるべからずと之。(駿府政事錄。國師日記。令條記。)
○二日伊豆山般若院實翁駿府ハ持院に於て衆僧を會集し。安居中論義を催す。よて米百石下行せらる。また大御所ならせ給ひて。其論義を聞し召る。(駿府政事錄。)
○三日搶緕帶V智國師存應に。寺料の御朱印をたまふ。武藏國橘樹郡池邊村三百石。師岡村二百石。巢鴨村百三十一石。中里村三百六十九石。惣計千石全く收納すべし。境內山林竹木守護不入の地と定め。寄附せらるゝうへは。永代相違あるべからずとなり。この日駿城には松前伊豆守慶廣。國產の膃肭臍を獻じ奉り。加藤左衛門尉貞泰銀三十枚。𥿻三十疋獻ず。また般若院實翁。竹林坊賢盛等を御前に召て。此日眞言論義の事により御物語刻をうつさる。(令條記。駿府政事錄。)
○四日神尾五兵衛守世を駿城に御使せられ。端午の賀とて時服五領進ぜらる。諸大名も同じく獻ず。(駿府政事錄。)
○五日端午の賀例にかはらず。駿府もおなじ。日野大納言入道唯心。水無P宰相入道一齋。土御門陰陽頭久脩拜謁す。飛鳥井中納言雅庸卿。冷泉三位爲滿卿。舟橋式部少輔秀賢も。駿府に參向ありて拜謁す。東本願寺門跡光壽拜謁し。時服五領。銀五十枚さゝぐ。(駿府政事錄。)
○六日近藤平右衞門秀用が子登助季用死す。その子勘助貞用七歲なるに家つがしめらる。この季用十八歲にて小田原陣の時。井伊兵部少輔直政にしたがひ。父秀用と共に天正十八年六月廿二日の夜。篠曲輪へ乘入敵の首級を得しかば。豐臣關白に拜謁し初陣の功を褒せられ。紅梅染の胴服鞍馬をたまはり。其後奥州九戶陣の時より。御麾下につらなり廩米千俵給ひ。肥前名護屋御陣にも供奉し。關原の時には歩行頭となりてしたがひ奉り。下野守忠吉卿みづから太刀打の高名し給ひしに。季用も其側にありて苦戰せしかば。卿後日に左文字の陣刀を授らる。この戰終て後父の家つぎ。井伊谷三千五十石をたまはり。けふ四十歲にてうせたり。(ェ永系圖。家譜。父秀用はこの後再び召出され。别に一万石たまふ。)
○七日有馬修理大夫晴信甲斐の配所にありて。憂悶にたへず自殺したるよし注進あり。よて板倉周防守重宗もて撿使に遣はさる。(駿府政事錄。)
○八日加賀中納言利長卿使を駿府に獻じ。其國にて始て得たる白銀千枚。𥿻白布百疋づゝ獻じ。義直ョ宣の兩卿へも。金熨斗付の刀十口づゝ進らす。堀尾山城守忠晴も參謁し。銀三百枚。單衣五領。𥿻の蚊蟵を獻じ奉る。其家司等も數十人拜謁す。村上周防守義明參謁し。銀百枚。蠟燭百貫目。帷子五領。鹽鮭二十獻ず。又この日日野。水無P。飛鳥井。冷泉。土御門。舟橋等の月卿雲客を饗せられ鶴の羮を賜ひ。和漢の御物語數刻に及ぶ。(駿府政事錄。)
○十三日和州多武峯竹林坊に御朱印を給ふ。多武峯學頭料三百石全く收納すべし。佛法紹隆のため寄附せらるれば。此旨を守り佛事勤行怠慢すべからず。國家安穩の精祈を抽べしとなり。又大久保石見守長安。金地院崇傳。圓光寺閑室連署してさづけし神領の制は。惣計三千石の內。神領千石。蓮院二百石。學侶九坊四百三十石。中坊三藏院二十七石。先達成コ院四十石。淨名院二十七石。久保院十二石。燈籠講南院。五大院某坊。山本坊。慈心坊。圓城院。如々院。共に廿七石づゝ。般若寺四十五石。峯々坊。玉藏坊。千手院。遍照院。共に廿七石づゝ。西坊淨土坊。金生院。奥坊どもに十二石づゝ。竹林院三十石。梅下坊十二石と定め。其餘八百石は今度あらたに。學侶新坊搆造のためにあてらる。新坊搆造あらば相當の寺領を分ちあたへらるべし。
みだりにむさぼり用ゆべからずとなり。又同國長谷寺小池坊に下されし御朱印には。大和國式上郡長谷村三百石寄附せらる。全く寺納すべし。門前境內山林竹木諸役免除せしめらるれば。此旨を守り佛事勤行修造等怠慢すべからず。國家安全の懇祈を抽づべしと之。駿城にては高野山寳性院政遍。寳龜院無里壽院長海等は御前に召て御物語どもあり。明日營中眞言論義聞し召るべき旨仰下さる。(國師日記。駿府政事錄。)
○十四日奥州會津の城主松平飛驒守秀行卒す。その嫡子龜千代丸。わづかに十歲なるに原封六十万石を襲せらる。この秀行は參議從三位氏クの子なり。文祿四年二月七日氏ク卒せしかば。豐臣太閤同日淺野彈正少弼長政を使して。父の遺領百廿万石餘相違あるぺからざる由御教書を下さる。今年元服して關白の一字賜はり。藤三カ秀隆と名のり。後に秀行とあらたむ。太閤媒せられ大御所の御女を進らせられ。やがて從五位下になされ飛驒守と稱し。慶長元年從四位下の侍從にのぼせらる。しかるに三年の春。其家の老等爭論おこりぬ。この秀行の母は右府信長公の息女にて。たぐひなき美人の聞えありければ。太閤忍び忍びに參らるべきよし召けれども。これをうきことに思ひ。みづからかざりをおろし尼になられたるを。太閤安からぬ事に思はれし折から。此事おこりければ。抑會津の地は陸奥出羽の鎭守として。大事の所にあるなるに。秀行年いまだ若く。家の事だに治め得ず。まして兩國を守護せむ事かなふべからず。成人のほどは他の界に移すべしとて。奥州會津百二十万石餘を轉じて。下野國宇都宮にて十二萬石をたまはる。これ秀行は當家の御聟君なれば。石田治部少輔三成がはからひ。かく事につけて封地を削りしとぞ。同五年東西の軍起りし時。秀行宇都宮城を守り。奥の先陣に向ひしが。關原の戰終り翌る六年。上杉中納言景勝米澤の城にうつされしかば。會津城をばふたゝび秀行にたまはり。六十萬石を領せしめられしに。けふ三十五歲にて終りしなり。大御所秀行が病危篤なりと聞召。牧野C兵衛正成をもて御藥を給ひしとぞ。この日駿府にしては。寳性院政遍を判者とし。寳龜院。無量壽院長海。般若院實翁。智積院祐宣等三十餘僧を召て。眞言論義聞召る。施物として銀百枚たまふ。又文殊院勢與が遺物とて。宋徽鷹畵二幅。遊行他阿目像賛を獻ず。(藩翰譜。駿府政事錄。)
○十五日板倉伊賀守勝重。米津C右門正勝駿府を辭して上洛す。(駿府政事錄。)
○十七日駿城に寳性遍を召て。大御所眞言の密旨を受させ給ふ。(駿府政事錄。)
○廿一日圓光寺閑室瘧病をなやみ死す。大御所殊にあはれみ惜給ふ。(駿府政事錄。按るに創業の時。閥閱の諸臣武勇はあまりあれども。文事にうとかりしかば。金地院圓光寺才幹ある僧ゆへ。寺社の政をとらしめられしなり。)
○廿二日越後少將忠輝朝臣江戶龍口の邸災にかゝる。(駿府政事錄。)
○廿三日寳性院政遍。駿城を辭して高野山に歸る。(駿府政事錄。)
○廿七日船賃の制を令せらる。烙印せざる船に商物を積のすべからず。渡船に積時。商物一駄に四十貫目。京錢十文たるべし。乘懸も馬人ともにおなじ。富士山參詣の道者も是にかはらず。たゞし歩人は五文たるべし。こたびかく船賃の定制を令せらるゝ後。往還のさはりなく船いたすべしとなり。是日大水。(令條記。當代記。)
○廿八日曹洞宗御朱印を。遠州大洞院可睡齋。武州越生龍隱寺。下總關宿ハ寧寺。關東の惣錄司たるによりて下さる。常州富田大中寺へはかさねて賜ふ。其文に曰。三十年修行成就の僧にあらずして。法幢を立べからず。二十年の修行を遂ざる僧を。江湖の頭にすべかず。寺中追却の惡比丘を。諸山に於て許容すべからず。江湖の後五年をへず轉衣すべからす。末山の徒本寺の法令に背くべからず。此旨違背の者あらんには。寺中放逐すべしとなり。(國師日記。)
◎是月逸見左馬助子佐源太義持はじめて見え奉る。(ェ永系圖。)
○六月朔日當賀例のごとし。駿城又おなじ。大御所より出仕の輩に。富士山の砂を頒賜せらる。(駿府政事錄。)
○二日江府新築の地を市街とし。京堺の市人に市鄽の地を分ちあたへしむ。後藤庄三カ光次この事を沙汰す。(駿府政事錄。)
○三日土井大炊頭利勝江戶の邸災にかゝる。(駿府政事錄。)
○四日成P豐後守正武駿城に御使し。江戶城石壁半成のよし聞えあぐる。錘なしの自鳴鐘を江戶に進らせ給ふ。(家譜。)
○六日加藤肥後守忠廣。(時に十二歲。)堀尾山城守忠晴(時に十四歲。)久しく參覲して江戶にありしが。けふ本城に召て饗せられ就封の暇給ふ。駿府にては後藤庄三カ光次はじめて新瓜を獻す。(創業記。)
○八日北條新左衛門繁廣死す。其幼子わづかに四歲。母の緣によりて下總國に寓居し。十九年召出され五百俵給ふ。後安房守氏長といふはこの小兒が事なり。繁廣は左衛門大夫氏繁が三子。左衛門大夫氏勝が弟なり。
天正十八年小田原の戰に。繁廣兄氏勝とおなじく降參し。關東にいらせ給ひし後も。兄と共に總州岩留の城にあり。其後氏勝病ありしかば。繁廣かはりてつかへ奉り。三十九歲にて死せしなり。(創業記。家譜。去年兄氏勝卒せし時。繁廣家つぐべきを。家人堀靱負がはからひにて。保科彈正忠正直四子久太カ氏重を養子とし。家つがせしかば。繁廣憤りその事うたへんとて江戶に參りしに。俄に病死せしといへり。家譜。)
○十日醫官半井驢庵成信江戶に參り勤む。(駿府政事錄。)
○十一日山圖書助重成を御使とし駿城につかはされ。江城修造の事を議せしめらる。(駿府政事錄。)
○十二日榊原隼之助忠勝死しければ。其子隼之助忠豐家をつぐ。(駿府政事錄。)
○十四日加藤肥後守忠廣駿府に參り謁し。國次の御刀。國光の脇差をたまはり歸國の暇下さる。京職板倉伊賀守勝重より。仙洞御惱のよし注進す。(駿府政事錄。)
○十五日小長谷市兵衛時友死して。子四カ右衛門時元つぐ。(家譜。)
○十六日嘉定例のごとし。駿城も同じ。在駿の月卿雲客もこれにあづかる。池田宰相輝政及び其家臣若原右京拜謁し馬を下され。輝政には御藥をたまふ。(駿府政事錄。)
○十七日星合采女正具泰江戶に參り拜謁す。これは織田秀雄につかへ忠ある者ゆへ。大御所の仰として召出されしなり。駿府にては冷泉三位爲滿卿。舟橋式部少輔秀賢等に上洛の暇下され。銀廿枚。綿百把。帷子五領づゝかづけらる。是院御不豫により。急ぎ歸洛せしめらるゝ之。下間少進法印某も綿三百把下され暇給ふ。東本願寺門跡光壽には。萬病圓。烏犀圓等をつかはさる。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○十八日飛鳥井中納言雅庸卿。土御門陰陽頭久脩に銀廿枚。綿百把。帷子二領づゝかづけられ。歸洛の暇給ふ。板倉伊賀守勝重より。院の御惱いよいよおもくわたらせ給ふよし注進す。(駿府政事錄。)
○十九日寺澤志摩守廣高。五島孫次カ盛利江戶に參謁し。廣高は緞子五卷。盛利は黃緞子五卷獻ず。駿府には金地院崇傳參着す。(駿府政事錄。國師日記。)
○廿日森右近大夫忠政駿府に參謁し。銀三百枚。緞子十領。單物十領獻ず。九鬼長門守守隆。其二子太カ五カ良隆。長助貞隆を召具して駿府に參謁し。良隆太刀馬ならびに單物五領。貞隆太刀馬を獻ず。良隆に來國次の御脇差をたまはり。直に江戶に赴く。又金地院崇傳拜謁し。院の御病躰をとはせ給ふ。崇傳に濃毘須蠻に遣はさるゝ御返簡をつくらしむ。其國の教法を本邦に傳ふる事あるべからず。たゞ互市のためのみに渡海すべしと。仰遣はさるべしとなり。その國主へ押金屏風五雙をつかはさる。かの國よりこたび獻ぜしは自鳴鐘一。簑一具。卷物一端。南蠻酒双樽。鷹具二。沓一双。金筋肢龠梶B鞢二具。蠻國圖三枚なり。(駿府政事錄。異國日記。)
○廿二日板倉伊賀守勝重より。院の御惱やゝさはやかせ給ふ旨注進あり。この日暴風。午刻より申の終まで吹やまず。三河。遠江。伊勢。美濃。尾張はこと更つよく勢尾の海上にて船二三十艘くつがへり。三遠の海上にて二百艘やぶる。熊野浦にても七八十艘やぶれたり。その他中國西國邊の浦々にても破船多し。奥州會津も大風大水の聞えあり。(駿府政事錄。當代記。)
○廿三日永田四カ次カ重乘死して。子惣三カ重春つぐ。(家譜。)
○廿四日駿州淺間の蓮池坊。紅白蓮花盛開のよし聞召て。大御所納凉のためならせたまふ。般若院實翁を判者として。密教の法問聞し召る。金地院崇傳。報土寺長老。高野山寳龜院等侍座す。(駿府政事錄。)
○廿五日蒲生龜千代丸元服せしめらる。大御所の御外孫なればとて。御所御一字たまはり。御家號ゆるされ。從五位下に叙せられ。下野守忠クとあらため。その弟鶴松丸も叙爵し。御一字賜はり中務大輔忠知と改む。また松平攝津守忠政美濃瓜を駿府に獻ず。この日大御所には林道春信勝を召て。曾子子貢の一貫及び湯武放伐のことを御垂問あり。信勝その理をきはめ論ず。(武コ編年集成。駿府政事錄。)
○廿六日木造七左衛門俊宣江戶にめし出され書院番に列す。こは伊勢國司北畠中將具康の次子市兵衛具次が子なり。采邑五百石たまふ。駿府には院の御けしき伺はせたまはむがため。上洛せしめられし赤井豐後守忠泰歸謁し。院いよいよさはやかせ給ふ旨を聞えあぐる。廣橋勸修寺の兩傳奏よりも。本多上野介正純に消息して。おなじ事聞えあぐる。藤堂和泉守高虎。毉員吉田盛方院淨珍江戶より參り謁す。淨珍は直に上洛の暇給ふ。成P隼人正正成は堺瓜を獻ず。(ェ永系圖。駿府政事錄。)
○廿七日加藤肥後守忠廣が家臣に下知狀をさづけらる。其文にいふ。水股。宇土。矢部の三城を破却し。其城中諸士の家族は熊本城に引取べし。隣國に不良の族ありて。ひかごとふるまふとも。家長等萬事堪忍し。速に公にうたふべし。肥後一國の庶民困究する聞えありといへども。ありしまゝに封地を下さるゝうへは。彌百姓を憐愍すべし。
家士の諸職は先代の半役たるべし。八代城代は加藤右馬允に仰下されぬ。さるうへはかの城中諸士。悉くく右馬允が與力たるべし。その中にて野尻久左衛門。蟹江與兵衛二人は。熊本城に引取べし。右馬允采邑近年內牧に於て領する所。八代城邊にてわたすべし。しかるうへは是迄の與力。騎士。徒士。銃手。八代へ引とり。其徒が采邑歲俸月俸あり來りしごとく。八代にてわたすべし。加藤万兵衛には內牧の城代命ぜらるれば。其采邑も內牧城邊にて渡すべし。矢部在住の諸士與力幷妻子。內牧へ引取べし。加藤美作守采邑は其國の中ほどにてわたすべし。捧庵采邑千石今度揄チして。二千石になし下さる。そのかみC正が召かかへし者の並に。采邑渡すべしと之。(駿府政事錄。)
○廿八日生駒讃岐守正俊江戶より駿府に參謁し。直に就封のいとま給ふ。大番組頭芝山權左衛門正次その家僕を誅しけるに。其黨あつまりきそひ來りて。正次を討て逐電す。これは近年諸國に無ョの惡黨あり。其首長を大鳥居逸平。大風嵐之助。大橋摺之助。風吹塵右衛門。天狗魔右衛門などいへる者。其黨類の惡少年をあつめ血誓をなし。もし其黨類災難の事あらむには。身命をすてて。君父といへども恐れず力をあはせ。其志を遂んと約しければ。惡少年遊俠の類幾百人が黨をわかち。市中を行し。人を害しク里を騷動せしむる事虛日なし。このほど官よりも嚴禁を下され。惡徒を追捕せらる。柴山が家僕にて其黨人ありしを聞しりて誅せんとせしに。其外の家僕も其黨多くありて。主を討て立退しとなり。こゝに於て益其法を嚴にし。江戶市中に新關を設て鞠捕せらる。正次子鐵兵衛正知には。後に家つがしめらる。(駿府政事錄。慶長年錄。當代記。家譜。)
○廿九日永井信濃守尙政を駿府につかはされ。暑中の御氣色うかゞはしめらる。(駿府政事錄。)
◎是月松平丹波守康長を。下總國古河より常陸國笠間城にうつされ。一万石加へて三万石になされ。小笠原左衛門佐信之。武藏の本庄より古河にうつされ。これも一万石加へて二万石になさる。(創業記。藩翰譜。)
○七月朔日拜賀例のごとし。駿城もまたおなじ。花山院大納言定熙卿駿府に參着し拜謁せらる。(駿府政事錄。)
○四日島津陸奥守家久が使伊勢兵部少輔駿府にまいる。家久より緋緞子二十端。奇楠香三斤。沈香一箱献じ。兵部少輔より卷物五さゝぐ。けふ文庫典籍曝凉あり。(駿府政事錄。)
○五日近江より西烈風にて。熊野浦破船あり。(當代記。)
○七日水野監物忠元を御使として。駿城に使はされ。七夕を賀せられ。帷子五領。其外袷單物を進らせ給ふ。かつさきに柴山權左衛門正次を弑して。逐電したる家僕を逐捕し鞠責せらるゝ所。其黨與若干諸方に散在するよし。白狀に及ぶにより。嚴に令ぜられ七十餘人追捕せらるゝといへども。なを迯失しもの六十人ありと聞ゆ。穗坂長四カ某も。其黨の惡少年數十人養置よし聞ゆるにより。采邑を召放し番頭にあづけられたる旨聞えあげらる。大御所聞し召。天下の邪惡を禁斷する事政務の要なり。駿府にもかゝる徒あるまじきにあらす。嚴に查撿すべしと有司に仰下さる。また豐臣右府の使佐々孫平次某駿府に參る。これも星夕を賀し。金十枚さゝげらる。孫平次某も時服を献ず。去年より異國渡海の徒に下されし。御朱書の數を查撿すべしと。金地院崇傳に命ぜらる。(慶長日記。異國日記。)
○九日南都喜多院十重禁戒二百五十戒の事を御垂問ありて。銀五十枚時服たまひ暇下さる。(駿府政事錄。)
○十日美濃國高須城主コ永式部卿法印壽昌卒しければ。其子左馬助昌重に。遺領五万六百石餘襲しめらる。この壽昌は柴田修理亮勝家が猶子伊賀守勝豐が家の老なり。志津が嶽の戰に勝豐は。羽柴秀吉の味方に屬しけるが。病にふしければ壽昌に軍勢を授けて。秀吉の陣に馳加はらしむ。この後壽昌は羽柴の家人となり。やがて入道し式部卿法印に叙し。美濃國高松の城主となり二万石を領す。後加恩ありて三万石になる。慶長三年太閤薨ぜられしとき。大御所の仰を薨り朝鮮に押わたり。諸軍勢を難なく引あげて歸朝す。五年上杉御追討のため。小山までわたらせ給ふ所に。上方の逆徙蜂起の注進ありければ。御本陣に諸將を召集られ軍議有しに。福島左衛門大夫正則㝡初に御味かたに參り申べきよし申たり。そのとき入道はるか末座より進み出。人その數にはあらねども。入道も福島と同じく御味かたつかふまつるべしと申けるにぞ。諸將皆一同にくみしける。かくて先陣の人々と同じく海道を打てのぼり。をのが城にいたり。同國高須の城主高木十カ兵衛(ェ政重修譜八カ左衛門につくる。)に歸降をすゝめしに。十カ兵衞これを聞。大坂より原隱岐守加勢のためこゝに來り。太田中村に陣どりたり。彼が聞んもあまり隱便に候へば。一攻せめられて後降參せむと答へける。さらばその城攻んとき。互に鐵炮の鉛丸をこむべからずと約したり。されどもこの事敵がたにもれんかとはゞかり。たゞ思ふ子細あれば。遠攻にすべしと下知しけれど。
先手の若者どもその意をしらざれば。その命を用ひず。たがひに先をあらそひすゝむ。高木はこの體を見て大にいかり。さらば一人ももらさず打とれとて。嚴しく矢炮を飛し防ぎしかば。寄手うたるゝもの數しらず。入道大におどろぎ。敵味かたを制しとゞめしかぱ。高木も川舟にとりのりて退き。城をば入道更取。また丸毛三カ兵衛某が籠れる同國福塚の城をも攻落し。後市橋井兄弟等と共に。多藝江に打出陣をとる。關原の戰前に。池田伊豫守秀氏が籠りし駒野の城を攻とり。戰終てのち多羅尾山へ逃入る敵十一騎。雜兵六十三人が首切て摺針峠に出むかへて見參す。そのとし十一月勸賞行はれ。二萬石加へて五萬六百石餘になされ。今の城をたまふ。齡つもりて六十四歲。けふ終りをとる。(家譜十六年とするは誤なり。)又木原兵三カ重義。この三月十七日死して。其子七カ三カ義久此日家をつぐ。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。家譜。)
○十一日けふより大旱。(當代記。)
○十二日大友侍從義乘卒す。子右衛門督義親に家つがしめらる。義乘は左兵衛督義統が長子なり。豐臣太閤朝鮮を攻られし時。義統も諸將とおなじく。かの地にをし渡りしが。軍事に怠りし聞えありて太閤大に憤られ。所領三十七萬石悉く除かれし時。義乘は關東に配流して。當家にあづけらる。しかるに舊家のゆへを思召。大御所常州筑波郡のうち三千石武州牛込にて三百石下され。小山の御陣には御懇の御書給はりが。この日三十六歲にて死せしなり。(家譜。)
○十三日宰相ョ宣卿の扈從朝比奈甚太カ某。松野勘助某。市中に於て同僚飯田傳吉某を詈り恥かしめしより諍論となり。互に刄傷に及びしが。傳吉終に勘助並に其從者等を切殺し甚太カに深手負せて。其身逐電するよし聞えければ。傳吉勇猛の擧動を感ぜられ召返さしめ。甚太カは同僚の輩を詈り恥かしめたる罪かろからずとて。切服せしめらる。(駿府政事錄。)
○十四日大御所いさゝか暑におかされ給ふ。(駿府記。)
○十五日當賀例のごとし。駿府もおなじ。(駿府記。)
○十八日圓光寺閑室が遺物とて。黃昏抄三十一卷を駿府に獻じ奉る。幸若歸越の暇給ひ。銀三十枚下さる。此日日野亞相入道唯心。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎に御茶を給ふ。(駿府記。)
○廿日圓光寺閑室弟子某駿府に參り拜謁し奉る。江戶より濃毘須蠻國主へ御返簡幷に鎧三領を遣はさる。(駿府記。)
○廿三日島田庄五カ利氏死して。その子庄五カ重利つぎ。この年御手水番となる。(家譜。)
○廿四日近江國長M城主內藤豐前守信成卒し。其子紀伊守信正家つぐ。この信成實は島田久左衛門景信といふのゝ子なるを。內藤彌次右衛門C長が子とせしなりとぞ。(一說信成が母は大樹寺殿御寵を蒙りし女房を島田某に賜ひ。三月ほど間ありて生れし子信成なり。C長これ主君の御子なるよし察しければ。むつきの內よりとりて養ひ。子とせしともいふ。)信成十三歲より大御所に仕へ。御軍始のとき其身もはじめて軍せしより此方。一向專修の門徒等。三河國にて御敵となりし時も。信成一族御味方にありて軍切をはげまし。姉川。味方原。長篠。高天神。小田原の戰にも戰功少からず。天正十七年甲州常光寺の城主となり。十八年關東にうつらせ給ふ時。伊豆國韮山の城賜はり一万石領し。關原の時は駿州沼津興國寺の兩城を守り。軍終て濃州岩村の城を守り。慶長六年二月駿州國府をたまはり移さる。此時加賜ありて四万石になる。八年叙爵し豐前守と稱し。十一年大御所駿府を御座所と定らるゝによつて。その四月三日近江の長Mにうつされ。近江。美濃。飛驒三か國の役夫もて。城きづかしめてたまはり。此日六十八歲にて終りしなり。駿府にては片山與菴宗哲に命ぜられ。烏犀圓。万病圓。雲母膏等を製せしめらる。(家譜。ェ永系圖。藩翰譜。駿府記。)
○廿五日駿府にては大御所南殿に出まし。日野亞相入道唯心。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎。ならびに金地院崇傳拜謁し。高野多門院長源をめして。眞言法問の御談話あり。また後藤庄三カ光次拜謁し。長谷川左兵衛藤廣より今年唐船及び呂宋船二十六艘長崎へ着岸し。白糸二十万斤餘のせ來りしと。注進ありし旨聞えあぐる。この日山城の寳菩提院。伯州岩本院も駿府にまかり拜謁す。また成P豐後守正武御使として。駿府に參らせらる。(駿府記。家譜。)
○廿六日武州忍の代官を駿府にめし。關東今年豐凶のさまをとはしめられ。また伊豆三島の代官をめして。先年八丈島より貢せし。桑板の事をとはしめたまふ。(駿府記。)
○廿七日忍代官貢米稅金を納む。成P豐後守正武駿府よりかへり參る。典籍三十餘品を江戶にまいらせらる。(駿府記。家譜。)
○廿八日當賀例のごとし。駿城もおなじ。高野多聞院長源をめして。眞言の法話を聞召る。小笠原安藝信元死して。嫡孫安藝信盛家つぎ。伊藤三右衛門重次死して。其子新七カ重昌つぐ。(駿府記。家譜。)
○廿九日大風雨。民屋傾壞するものあり。(當代記。)
○晦日暹羅の商客駿府に參り。鍛子。緋羅紗。鮫皮等を献ず。よつて蠻夷の風俗事情をとはしめ給ふ。
また異人因果居士京より參る。そのむかし御覽じ給ひける者なれば。御前に召て年齡をとはせ給ふ。八十八歲のよし答ふ。よて駿府にとゞめたまひ。時々召て古事を談じ給ふ。連日の大風雨天守の窓戶に吹いれ漏濕しければ。中井大和守正次が代棟粱源右衛門を戒めらる。僧廓山江戶より參り拜謁す。御前にめして淨土の法話聞召給ふ。此比大久保石見守長安中風を煩ふにより。烏犀圓を給ふ。(駿府記。)
◎是月山崎左馬允家盛子左近家治叙爵して甲斐守と稱す。故松平左馬允忠ョ二子監物忠直。十一歲にて江戶に參り拜謁し。眤近せしめらる。安藤對馬守重信駿府にありて。諸國賦稅の會計を沙汰す。又惡少年の酋長大鳥居逸平を江戶中引渡し磔せられ。其徒三百人餘誅せらる。御家人米津勘十カ某は津輕に。岡部藤次某は南部に。井上左兵衛某は佐渡に。穗坂長四カ某は村上に。坂部金大夫某は柴田に。內藤小傳次某。大久保源之亟某は共に配流せらる。これみなその黨たるによてなり。その他亡命せしたぐひは。悉く追捕して。あるは切腹。あるは改易せらる。また大久保荒之助忠當。小笠原角左衛門某。かの惡徒一番町の小屋に籠りしを討留しとて。山口但馬守重政もて褒詞をくはへらる。忠當創を蒙りければ御藥たまふ。また奥野兩州庶民疫死するもの多し。京極萬作某父丹後守高知の證人として江戶にいたり。この月病死す。(ェ永系圖。駿府記。慶長年錄。慶長見聞書。當代記。ェ政重修譜。) 
卷二十 / 慶長十七年八月に始り十二月に終る 

 

○八月朔日當賀例のごとし。駿城もおなじ。阿部川暴漲して堤防大にづくる。彥坂光正安西衆に指揮して是を防がしむ。美濃大垣も又大水のよしきこゆ。此日大御所には將棊を御覽じ給ふ。(駿府政事錄。當代記。駿府記。)
○二日慶長五年庚子このかた。十餘年の賦稅會計を查撿あり。(駿府記。)
○三日金地院崇傳多聞院長源及び廓山等をして。眞言の要文を讀しめ給ふ。はてゝ廓山に科注法華經を給ふ。此日五山十刹紫衣黃衣西堂等に。江戶より御印書たまはらんときは。その副一通を駿府にも呈したまふべし。また近年その器にあらざる緇徒。御印書拜受せざる以前。みだりの擧動ありと聞ゆ。よくよく查撿を加へらるべきむね。本多上野介正純金地院崇傳より江府老臣のもとにつたふ。(駿府記。國師日記。)
○四日呂宋の船主類子。駿府にまいりけれぱ。大御所御覽あり。緞子及び蜜二臺を獻ず。長崎より去月廿三日蠻船入津し。白糸十四万斤。猩々緋。綾羅。緞子等若干のせきたりしよし。後藤庄三カ光次披露す。伊豆山般若院實翁も駿府にきたり謁す。(駿府記。)
○六日令せらるゝは。一年期の奴僕は停禁せらる。侍はいふまでもなし。奴僕までもかゝへ置ば。罪科に處せらるべし。伴天連門徒嚴禁せらる。もし犯するものは忽に刑して其罪のがるべからず。刀傷せしものあらんには。其地の領主代官へ其故をうたふべし。もし刄傷せられし者。他より來らば。その地に留置交名を註し聞し上べし。かくし置時は重罪たるべし。烟草は嚴に禁制せらる。賣買の徒を見しりうたへ出ば。賣買の者の資財を。うたへし者に下さるべし。もし路頭にして見いだしなば。その賣者を其所にとめ置うたへ出べし。烟草負せたる馬荷物共に訴人に下さるべし。各國にも烟草を植しむべからず。また牛を殺す事を禁ぜらる。もし牛を殺す者には。一切牛を賣あたふべからずとなり。在封の諸大名へは土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。山圖書助成重連署してつたふ。この日木屋彌三右衞門へ暹羅渡海の御朱印を下さる。(令條記。御朱印帳。)
○八日南都一乘院門跡尊勢駿府に參向して大御所御對面あり。春日社造替の事仰出さるゝがためなり。(駿府記。)
○九日菅谷左衛門大夫範政卒す。其子紀八カ範貞家つがしめらる。範政は常州小田讃岐守氏治入道天庵が家臣にして。同國土浦の城主たり。小田原ほろびて後。範政も所領を失ひ流浪せしが。大御所兼て其武名を聞召ければ。召出され御家人に加へられ。五千石の采邑をたまはりしとぞ。(ェ永系圖。)
○十日高野山無量壽院長海。南都不動院重順駿府に參り拜謁し奉る。東大寺の子院法輪院惣寺中をうらむ事ありて。駿府に訴訟せしがけふ聞召れ。法輪院非據に定まり。惣寺中の輩喜の眉をひらく。(駿府記。)
○十一日江府老臣より。五山公狀を授られし旨を。本多上野介正純。金地院崇傳へ傳ふ。醫員曲直P三益正圓法眼に叙す。(圖書拔書。)
○十二日阿蘭船肥前平戶に着岸の注進あり。池田少將輝政駿府に參り謁しければ。營中に召て宴を給ひ。これより江府に參り。歸路に駿府にて御茶をたまふべしと仰下され。旅舘へも本多上野介正純御使して慰勞せらる。(駿府記。家忠日記。)
○十三日大御所P名川に漁を觀給ひ。黃昏にかへらせ給ふ。此日古田織部正重然駿府に參り謁す。(御年譜。國師日記。)
○十四日豐後國岡の城主中川修理大夫秀成卒す。其子內膳正久盛に。原封七万四百石襲しめらる。この秀成はP兵衛C秀が二男にて。修理大夫秀政が弟なり。兄秀政朝鮮にてうせければ。豐臣太閤よりその遺領たまはり。播磨國三木の城を領す。大友左兵衞督義統罪かうむりて。豐後の地闕國となりければ。岡の城たまはり七万四百石領す。其後叙爵して修理大夫と稱し。朝鮮にをし渡り。明軍とたゝかひ手疵蒙り。高名あらはし歸朝す。關原の戰には當家の御味方し。臼杵の城に兵をさしむけ。太田飛驒守宗隆とたゝかひしが。石田が黨敗績せしかば。太田も城を迯去る。かくて後ことし四十二歲にてうせぬるなり。また駿城には一乘院門跡尊勢をめして御茶宴あり。日野大納言入道唯心。金地院崇傳。藤堂和泉守高虎相伴たり。古田織部正重照折ふし參りあひければ。めして荼を點ぜしめらる。重然は今世の荼博士なりければ。貴賤師範として崇敬かぎりなし。(國師日記。ェ永系圖。藩翰譜。駿府記。)
○十五日拜賀例のごとし。駿城もまたおなじ。片桐市正且元參謁し。銀三十枚。羽織一領。鳥子紙六束献じ。古田織部正重然は紫革二十枚献ず。又明人一官祖官駿府に參り。藥種かずがずさゝげゝれば。大御所召て唐土の地理風俗等を問せ給ふ。又甲斐の松木紹哲と。畔柳壽學と圖棋せしめて御覽あり。此日京市人大K某に交趾渡海の御朱印を下さる。(駿府記。御朱印帳。)
○十六日一乘院門跡尊勢に。春日社造替料米二万石よせ給ふ。井上半九カ正就江戶より御使として駿府に參る。(駿府記。)
○十八日角倉與一玄之駿府に參り。紅糸。緋紗綾。沈香。藥種。縮砂。班猫。葛上。高長(虫名。)をさゝぐ。
安南國に渡海して。互市せし所とぞ聞えし。此日大御所板倉伊賀守勝重。金地院崇傳二人をして。今より後寺社の事沙汰すべしと仰付らる。また片桐市正且元。古田織部正重然駿府を辭して江戶に赴く。(駿府記。)
○十九日駿府にては。南部不動院重順めして佛理を談じ給ひ。維摩經の事をとはせられ。三論宗の要文をよましめ給ふ。日野亞相入道唯心。金地院崇傳。因果居士等侍座す。はてゝ大御所御幼稚のとき。今川のもとにわたらせ給ひし御艱難の御物語どもあり。(駿府記。)
○廿日江城より雁を進らせ給ふ。(駿府記。)
○廿一日日野亞相入道唯心。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎。三好因幡守一任。本田若狹守某。池田備後守重信を駿城にめして。饗膳ならびに御茶を賜ふ。長谷川修理宣次死して。子伊兵衛宣元つぐ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿二日池田少將輝政江戶へ參りければ。土井大炊頭利勝もて慰勞せらる。(駿府記。)
○廿三日池田少將輝政もの奉り拜謁しければ。御宴を開かれ。御盃に蜂屋クの御刀ならびに南部K鼠毛といふ駿馬二疋たまひ。參議に任ぜられ。正四位下に昇り。御家號をさづける。同日古田織部正重然もて。乙御前といふ釜をたまふ。この日稻生次カ左衛門光正死しければ。其子次カ左衛門正信して家つがせらる。光正は三河よりつかへて。武田勝ョ遠州井伊谷出張せしとき。大御所の御馬に從ひ高名して。三百石の采邑を給ひしより。次第に祿加へられ。この日うせしなり。駿府には松浦源三カ隆信參謁し。緞子五卷さゝげ。日野亞相入道唯心。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎。金地院崇傳。玄陽坊拜謁す。(ェ永系圖。)
○廿五日大御所淺間總持院へならせ給ふ。圓光寺を引うつさせたまふべしとの御事とぞ聞し。この頃洛中大水のよし聞ゆ。(國師日記。當代記。)
○廿七日松平宰相輝政江戶を辭して駿府に赴く。(ェ永系圖。)
○廿八日大御所關東へ御放鷹にならせらるべきを。いさゝか御違例によりて御延滯あり。蠻人駿府に參り。江戶駿府へ秦吉了駄鳥を献ず。(駿府記。當代記。)
◎この月本多九左衛門忠吉死して。其子九左衛門忠重つぐ。(ェ永系圖。)
○九月朔日呂宋ならびに五和國人。駿城にまいりければ。前殿に召て御覽あり。その國主より書簡をさゝげ方物を献じ。本多上野介正純幷に後藤庄三カ光次にも書簡を贈る。(異國日記。)
○二日近江伊勢美濃尾張邊大風。伊賀國上野城は天守修理するとて。工人傭夫城上に登りゐたるもの百八十人。風に吹落され毁傷して死す。美作は大水暴漲して。人畜五千餘溺死せしとぞ。(當代記。)
○三日松平宰相輝政江戶より駿府に參る。(ェ永系圖。)
○四日松平宰相輝政を駿城に召て御茶を賜ふ。山名入道禪高。藤堂和泉守高虎相伴たり。御茶事はてゝ。御床にかけられたる虛堂墨跡の掛幅。幷に若狹正宗の御刀。鷹馬を賜ひ。また攝州にて放鷹の地を賜ふ。(ェ永系圖。貞享書上。)
○七日石見國津和野城主龜井武藏守玆矩卒す。其子豐前守政矩して。遺領三万八千石つがしめられ。先に政矩に賜ふ所の䕃料五千石を合て。四万三千石となる。此茲矩はその先祖佐々木三カ秀義より出たり。はじめ秀義が五男五カ義C。出雲隱岐の地にまかりしより。十五代の間出雲國に住す。父永綱當國須佐の城にあり。一族尼子が山陰山陽に威を振ふに及び。をのづから其被官とはなりしなり。尼子亡びて玆矩は本國をさり。織田家にしたがひ。豐臣關白天下をしらるゝに及び。因州鹿野の城たまはりてうつる。此後つねに豐臣家に軍忠をつくし。武勇の譽をあらはしけり。關原のとき當家の御味方に屬し。其後も石見伯耆因幡但馬の城々攻下し。軍功少からざりしかば。勸賞行はれ二万四千五百石加へ給り。この正月廿六日五十六歲にて終りし之。(ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○九日重陽例のごとし。駿城もおなじ。金地院崇傳に時服一襲かづけらる。又明人ややうすに。暹羅渡海の御朱印を下さる。(駿府記。御朱印帳。)
○十三日京東山K谷火あり。僧法然の像此災にかゝる。(慶長年錄。)
○十五日駿城にては松平宰相輝政をめし饗せらる。(慶長年錄。)
○十六日松平下野守忠ク駿府にまいり謁す。(慶長年錄。)
○廿一日京極主膳高通。養父丹後守高知の證人として江戶に參る。(家譜。)
○廿五日五和の國主へ兩御所御返簡をつかはさる。(異國記。)
○廿七日一乘院門跡尊勢の請により。南都興福寺に條約をなし下さる。其文にいふ。坊舍幷寺領私に賣買ずべからず。一檀那と號して俗人より寺中の事沙汰すべからず。兒ならびに新發意には。嚴に補導の人を備ふべし。衆徒等は古例のごとく。寺務の命令にしたがひ違犯あるべからずとなり。(國師日記。)
○廿八日京極主膳高通江戶にて初見し奉る。よて扶助米千俵給ふ。(家譜。)
○廿九日水野備後守分長が子勘四カ元綱。從五位下に叙し大和守と稱す。本多上野介正純。後藤庄三カ光次より五和へ返簡を送る。(ェ永系圖。國師日記。)
○晦日呂宋國主へ御返簡をつかはさる。本多上野介正純後藤庄三カ光次よりも返簡を賜る。(異國日記。)
◎此月松浦源三カ隆信叙爵して肥前守と稱す。平野遠江守長泰二條城築の助役命ぜらる。(ェ永系圖。)
○十月朔日拜賀例のごとし。駿城にては五山の僧徒拜謁し奉る。(慶長日記。國師日記。)
○八日朝比奈新五カ正吉死しければ。その子內記正重家をつぐ。正吉其昔は北條美濃守氏規が臣なり。(ェ永系圖。)
○九日石野八兵衛氏置死して。其子八兵衛氏照家をつぐ。時に四歲。加恩の地千石は收公せらる。(家譜。)
○十一日大御所この程御不豫なりしが。さはやかせ給ひ前殿に出給ふ。京大コ寺雄峯。妙心寺拜謁す。この日城外へ御鷹狩にならせらる。(國師日記。)
○十二日大御所いよいよ御けしきよく。けふも前殿へ渡御あり。(國師日記。)
○十四日京長谷寺へ條約を下さる。其文にいふ。修學の爲住山の所化等廿年に滿ざらんには。法幢を建しむべから所ず。所化等もし能化の命令を用ひず。非法を企つるものあらむには。寺中追放すべしとなり。この日福島左衛門大夫正則駿府に參り謁し奉り。直に江戶に赴く。(家忠日記追加。當代記。)
○十六日道路堤防の制を仰下さる。大道小路とも馬さくりの所は。あるは砂あるは石もて堅固にならし。道の側には水路をうがつべし。泥滑の所も砂石もて堅固ならしむべし。堤防の芝生を剪剝すべからず。馬さくりの所は。土をもて堅固にすべし。道路よろしき地にみだりに土を敷べからず。橋梁は公料私領とも破損せば令し下さるべし。代官等心いれて修理加へしむべしとなり。またこの事の奉行を令せらる。川越は深津彌左衛門正吉。野呂理右衛門正俊。杉浦八カ五カ勝次。鎌倉藤澤は飯田右馬助昌在。飯河藤次カ盛政。石丸六兵衛定政。越谷は大澤忠次カ基雄。小金は尾崎助大夫信重。浦和は小笠原市左衛門長房。鴻巢は中川與助忠次。羽生崎西は大河內右衛門次カ某なり。(令條記。慶長年錄。)
○十七日阿蘭國主より書簡を奉る。(國師日記。)
○十八日大御所いよいよ御心よく前殿へならせ給ふ。(國師日記。)
○十九日猪子久左衛門正次死しければ。その子久左衞門正元家をつぐ。(ェ永系圖。)
○廿日戶田邊御狩あり。(慶長年錄。)
○廿二日上野國伊勢崎領主稻垣平右衛門長茂卒す。其子藤助重綱に遺領一万石襲しめらる。此長茂が父平右衛門重宗とて。三河國牛窪の牧野が家人なり。長茂が時に至りて。一たび御家人に加へらるゝといへども。故主の新次カ康成幼年たれば。又康成に附屬せられ。補佐して家の事を掌る。天正十年の秋武田が國々打從へんとて。御勢をむけられし始。長茂仰を蒙り。足高山の麓天神川の要害を守り。十一年駿河國中久保の古城を修理有て長茂に守らしめる。十八年關東にうつらせ給ひし時。ふたゝび御家人にめられ。下總國にて三千石給はり。關原の戰には海道の御供して攻のぼる。慶長六年伊勢崎の地一万石たまはり。其とし大御所伏見より關原へ下らせ給ひければ。長茂伏見の城を守り。今年七十四歲終をとる。この日故近江の領主として。織田右府のため攻亡されし佐々木右衛門督義治も卒したり。(家譜。藩翰譜。ェ永糸圖。)
○廿四日川越に狩し給ふ。この日駿府にては大御所城外に鷹狩し給ふ。御狩塲にて伯州大山寺の僧妙淨訴狀をさゝぐ。(慶長年錄。國師日記。)
○廿五日川越より還御あり。駿府にて宰相ョ宣卿。下間少進法印某。猿樂金春等能あり。はてゝ例の拙技遠山民部少輔利景。池田備後守重信。鈴木久右衛門伊直もつかふまつる。大御所はじめ滿座の輩どよみわらひ。一興を催す。(慶長年錄。慶長見聞書。)
○廿六日加治左衛門次カ正胤死して。其子喜平直胤つぐ。(家譜。)
○廿八日妙淨が訴を聞召る。其申所非據たるをもて。御前を引立て追放たる。(國師日記。)
○廿九日阿蘭國主へ御返簡を賜ふ。本多上野介正純よりも返簡ををくる。此日致仕永田宗祐入道久琢死しければ。かねて養老料に宛られし六百五十石を。四子權八カ久重にたまひ召出さる。この入道そのむかしは。織田內府入道常眞が家人なり。大御所の仰によて江戶にまいり仕へ。八十六歲にてうせぬ。(異國日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○晦日池田圖書政長めし出されて。寄合並命ぜられ采邑千石賜ふ。肥田主水忠親。島彌左衛門一正子四カ左衛門三安。各采邑千石給ひ。三安今年初見す。(家譜。ェ政重修譜。)
◎この月越後少將忠輝朝臣駿府に參謁し江戶に赴かる。又金森出雲守可重器財二種幷に雉子を獻ず。またさきに南都東大寺勅封庫に忍び入て。寳物盜とりし賊僧四人。その事露顯し。搦取て猿澤池のほとりに繫ぎ。往來の路人に示さしめらる。(當代記。家譜。)
○閏十月朔日文殊院。今年の所務は宮內卿にあたふべき旨。金地院崇傳に仰下さる。また南禪梅津の僧等訴狀をさゝぐるにより。崇傳に命ぜらるゝ旨あり。また和州東大寺の子院知足院相續の事。兩大寺よりうたふる旨あり。これも崇傳に查撿せしめらる。(國師日記。)
○二日大御所駿城を御發輿ありて。江戶に赴かせ給ふとて。御道すがら狩し給ひつゝC水にいたらせらる。(國師日記。創業記。)
○三日在駿の猿樂等江戶にまからしむ。(創業記。)
○十二日大御所江戶城にいらせ給ひ。西城に着御あり。けふ勸修寺大納言光豐卿前月廿七日卒せし注進あり。
○十五日畠山民部少輔義春子彌三カ義眞叙爵して長門守と稱す。(家譜。)
○十六日大御所本城にいたらせられ御對面あり。(御年譜。家忠日記。)
○十七日和州桃尾寺行人等訴狀をさゝぐ。金地院崇傳に其事を查撿せしめらる。(國師日記。)
○十八日本城に大御所をむかへ給ひ饗し進らせられ。御茶奉り給ふ。これは先に投頭巾の茶入を進らせ給ひし御謝儀とぞ聞えし。古田織部正重然が茶道役中野笑雪點茶つかふまつる。この日越前少將忠直朝臣の家司等爭論の事聞召。本多伊豆守富正。竹島周防。今村掃部。C水丹後。林伊賀等を江戶に召寄らる。また和州竹林寺の僧亂行の聞えあるにより。金地院崇傳より西大寺幷に其地の領主織田長益入道有樂其事查撿して。罪科に行ふべき旨をつたふ。(創業記。ェ永系圖。慶長年錄。國師日記。)
○十九日本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次をはじめ。駿府より供奉せし近習の輩を本城にめし饗せられ御茶を給ふ。中野笑雪もこれにあづかる。(御年譜。ェ政重修譜。)
○廿日大御所忍に御狩あり。白鳥を得給ひければ。御氣色大方ならず。御所には鴻巢に泊狩し給ふ。(御年譜。慶長年錄。)
○廿四日鴻巢より河越に狩し給ふ。(慶長見聞書。)
○廿五日江戶城にかへらせ給ふ。大御所には廿日より忍邊所々かりし給ひ。けふは幡羅郡東方村にいたり狩せらる。(御年譜。)
○廿七日大御所ふたゝび忍にわたらせ給ひ御狩ありて。けふは忍城にとまり給ふ。この夜先に召を蒙りし越前の家司等忍城に參る折ふし。江戶よりの御使に土井大炊頭利勝まかりしかば。大御所利勝に命じて。かの家司等が訴論を聞しむ。利勝双方の申所を注記して御覽に備ふ。大御所御覽ありて。これは江戶にかへり。將軍家と共にはかりて沙汰すべし。汝先この注記を江戶に持參すへしとて。利勝にかへしくださる。(御年譜。武コ編年集成。)
○廿八日金地院崇傳に扶助米百石給ふ。(國師日記。)
○十一月朔日大和國菩提山寺には。慶長七年八月寺領の御朱印なし下されしに。今年正月土人黨をむすびをしよせて。山中を亂妨するをもて。寺僧より訴狀をさゝぐ。大御所には連日江戶近郊にて鷹狩したまふ。この日金地院崇傳御狩塲に使を奉り蜜柑を獻ず。(國師日記。)
○八日南都東大寺寳庫の寳物盜みしは。福聚院。中澄院。北林院といへる。三僧なるよし露顯し。查撿せられし所。いよいよ三僧のしわざまがふべくもなき旨注進あり。(國師日記。)
○十二日松平主殿頭忠利に。三州深溝西郡城を轉じ吉田の城をたまひ。加恩ありて三万石になさる。同國西郡の地にて五千石を松平玄蕃頭忠C弟庄次カC昌に下され。その祀を奉ぜしめられ。隔年參覲すべしと命ぜらる。C昌はこれより先江戶に召出され書院番たり。子孫これを例とし代々帝鑑間に候す。此日三淵伯耆守光行子縫殿助藤利。駿府にいでゝ初見の禮をとる。時に九歲。廣戶備後守重久死して。その子半十カ正重つぐ。(御年譜。家忠日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。)
○十三日大御所連日狩して。忍にいたらせ給ふ。この日地震。(國師日記。慶長日記。)
○十八日內藤金左衛門忠C死して。翌年に至りその子金三カ忠次千石。二子市之丞某に五百石。三子六之助勝次に五百石わかちたまふ。(家譜。)
○廿日江戶より戶田に狩したまひ。鴻巢にならせられ。大御所を待むかへさせられ饗せらる。太田新六カ資宗もかねて御使にまかり有しかば。召て御相伴に候す。この日土民等訴狀をさゝげ。代官の事をうたふ。查檢せしに非據なりしかば獄につながる。(武コ編年集成。家譜。)廿一日雨ふりて廿三日に至る。(當代記。)
○廿四日御所川越に狩したまふ。(慶長日記。)
○廿五日江戶城に還御なる。(慶長年錄。)
○廿六日雷聲を發す。この日大御所御狩はてゝ。江戶城に入らせ給ふ。(當代記。慶長年錄。)
○廿七日越前の家司本多伊豆守富正と。今村掃部竹島周防C水丹後等を西城に召て對决せしめられ。兩御所聞召る。(慶長年錄。)
○廿八日本多伊豆守富正が申所。理り明らかなればとて。越前にかへり彌國務をとり行ふべしと仰下さる。今村掃部は鳥居左京亮忠政に預けられ。奥州岩城に配流せられ。C水丹後は松平陸奥守政宗に預けられ。仙臺に配流せられ。林伊賀は眞田伊豆守信之にあづけられ。中川出雲廣澤杢助は遠流に處せらる。竹島周防は對决に及ぶまで。禁獄せられしを恥て自殺せり。抑越前の國は故中納言秀康卿。人物を好み勇士を愛し給ふ事なみなみならず。凡勇名の聞えある輩。山林に沈淪したるものあれば。かならず聘を厚くし祿を重くして招給ひしほどに。諸家を退身せし勇士等。山のごとく越府にあつまれり。さるほどに黃門うせられし後は。この勇士各勇名にほこり威權をあらそひ。國中すべて靜ならず。
大御所かねてかゝるべしとしろしめしければ。もしこの者等大坂に內通せば。ゆゝしき亂を引出す事もあらんかとて。さてこそ江州長Mの舊壘を修築ありて。內藤豐前守信成に守らしめられしは。全く大坂と北越の要路を鎭壓せしめらるゝ神慮なりしとぞ。はたして藩中の大臣等確執して。以の外の騷動を引おこしたり。慶長十六年久世但馬といへる一万石を領せしものなるが。岡部自休といふ町奉行と訴論の事おこりしに。今村。C水。林の三家司は。ひたすら自休に荷擔し。中川出雲とて今の少將忠直朝臣戚族たりしをたぶらかし。但馬が訴を非據なりとて。しばしば忠直朝臣に讒せしむ。朝臣今年十七歲。何の思慮もなくその讒を信じ但馬を罪せんとす。本多。竹島幷に牧野主馬の三家司は但馬に荷擔し。一藩双方にわかれたり。しかるに牧野はいかゞ思ひけむ。逐電し高野山に蟄居す。其後竹島を搦取て兩刀を奪ひ。城內の櫓上にをしこめ。但馬をば誅戮せんとす。但馬もをのが宅に籠り討手を待うけ討死せんとかまふ。朝臣このよし聞れ。本多に命じ但馬がもとへ使し。よく異見すべしと命ぜらる。本多いかにもからきわざなりとはいへども。君命いなむべきにあらねば。死をきはめて侍一人具し但馬が宅に至り。思ふ所一通りいひはてゝ。立歸らんとするに及び。但馬が家人等追かけて打留んとす。但馬大に驚き。我討死したらん後に。我心に私曲なき所を申開んもの。富正が外になし。かまへてりようしすべからずといましめしかば。本多はからき命助かりて立かへる。跡より討手の者ども多勢塀を乘越攻いれば。但馬は其ひまに女子小兒をばみな落し。其身主從百餘人討手とたゝかひ。家に火をかけことごとく討死す。本多を但馬がもとに使せられしも。但馬がもとにて本多かならず討れんとての謀なりしとぞ。其翌日弓木左衛門入道齋安といへるも。但馬が黨人なりければ。これをも誅せよと討手をさしむくる。こゝにも家人等よく防ぎ。寄手三十餘人を討取て。主從のこらず討死す。上田主水も自殺し。其家人等も寄手多く討取て。其身もみな討死せり。よて本多以下の宿老ども。こたび免され其罪を糺されしが。本多罪なきにさだまり。其申所明白なりとて。ふたゝび國勢をあづけられ。また富正が一族本多丹下成重を新に朝臣に附られ。今村掃部が領せし丸岡の城をたまひ。二万石領せしめらる。この成重は作左衛門重次が子なり。この日大御所明の月には。駿府にかへらせたまふべしと仰出さる。(御年譜。創業記。家忠日記。駿府記。福井鏡。)
◎この月土屋平八カ利直はじめて拜し奉り。外山といふ伽羅をたまふ。致仕丹羽長門守長俊卒す。子なし。福島織部爲忠死す。其子九藏爲重は病によりて先に籠居し。嫡孫九カ兵衛爲信去年より召出され。このとし采邑をたまふ。米津藤藏常春死し。子C左衛門正勝つぐ。この常春は廣忠卿より大御所に歷仕し。三河國安祥。尾張國丸根城攻。一向專修の亂。三河國赤坂の戰等に軍忠を勵し。首級を得しが。この月江戶に在て死す。齡詳ならず。(家譜。ェ政重修譜。)
○十二月朔日大雪。(當代記。)
○二日大御所駿府にかへらせたまはんとて。江城を御發輿あり。此日京八幡公文所に御K印を下さる。公文所領事天正十三年以來。所務せしむる所彌相違有べからずとなり。また山圖書助成重。安藤對馬守重信。土井大炊頭利勝。板倉伊賀守勝重連署の下知狀をさづく。公文所領山城國鴨川內十四石餘。嵯峨河端內三十五石を。今年なし下さる。御判のむねをもてながく寺務せしむべしとなり。(慶長年錄。國師日記。)
○三日保科肥後守正光。仙石兵部大輔忠政。諏訪因幡守ョ水。眞田伊豆守信之に命ぜられ。信州伊奈より木材を伐出さしめらる。五味金右衛門豐直この事を沙汰すべきがため。伊奈に遣はさる。(慶長年錄。)
○四日高野山四所庄官所領所務の事を。金地院崇傳よりつたへしめらる。(國師日記。)
○六日二日より雪ふりてけふに及ぶ。(當代記。)
○八日大御日江戶よりの御かへさ鷹狩し給ひ。岩附城にやどらせ給ふ。城主高方攝津守忠房が母まみえ奉る。この母は三州伊奈の本多助大夫忠俊が女なり。伊奈本多氏の家系をとはせ給ふに。其答ふる所詳明なりければ。御感を蒙る。其子左近高長も初見し奉る。忠房が母幷に高長に時服をたまふ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十二日禁裏仙洞の經營始あり。南方築地は上杉中納言景勝。福島左衛門大夫正則。松平陸奥守政宗。本多美濃守忠政。㝡上出羽守義光。榊原遠江守康勝。里見安房守忠義。奥平大膳大夫家昌。松平攝津守忠政。南部信濃守利直。佐竹右京大夫義宣。松平飛驒守忠治。加藤肥後守忠廣。淺野紀伊守幸長。森右近大夫忠政。井伊兵部少輔直勝。細川越中守忠興。西方は松平宰相輝政。越前少將忠直。生駒讃岐守正俊。寺澤志摩守廣高。松平筑前守利常。北方は豐臣右大臣秀ョ公。尾張宰相義直卿。仙洞の築地。東は越後少將忠輝朝臣。K田筑前守長政。鍋島信濃守勝茂。松平長門守秀就。堀尾山城守忠晴。松平土佐守忠義。加藤左馬助嘉明。京極若狹守忠高。
京極丹後守高知。藤堂和泉守高虎。蜂須賀阿波守至鎭。富田信濃守知信。有馬玄蓄頭豐氏。鳥居左京亮忠政。田中筑後守吉政これを役す。(慶長年錄。)
○十三日駿府城下市街火あり。(國師日記。)
○十五日大御所駿城へかへらせ給ふ。諸大名拜謁す。K田筑前守長政子萬コ。十一歲にて初見す。中國西國の諸大名越年のため。江戶に赴くもあり。(駿府記。ェ政重修譜。創業記。)
○十六日金地院崇傳駿城にのぼり拜謁す。(國師日記。)
○十七日駿城には京極丹後守高知銀百枚。時服十。松平武藏守利隆銀百枚。時服十。K田筑前守長政銀二百枚。時服十。その子萬コ綿二百把。銀三千兩。有馬玄蕃頭豐氏銀五十枚。時服二領。稻葉彥六典通銀五十枚。時服二領。山崎左馬允家盛。古田大膳大夫重治もおなじく獻じ奉る。(駿府記。)
○十八日駿城にて諸大名に御茶をたまふ。日野亞相唯心入道。山名禪高入道もこれにあづかる。はてゝK田筑前守長政幷に其子萬コめし出され拜謁し。銀五十枚獻じ御盃下され。萬コに長光の御刀。正宗の御脇差幷鷹馬眞壺等をたまはり。右衛門佐となのるべしと仰下さる。此日本多美濃守忠政二子鍋之助政朝十四歲。叙爵して甲斐守と稱す。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿日南部信濃守利直が櫻田の邸に臨駕あり。大御所かねてより仰進らせらるゝ旨あるがゆへとぞ。淺野但馬守長晟。古田織部正重然。本多佐渡守正信御相伴に候じ點茶を献ず。銀五百枚。時服五十領。大純子三十卷。夜物五領。猩々緋八間利直に給ふ。利直よりは封內に產せし白根山吹の金五十枚。鹿毛の馬に御紋の鞍置たると。Kの馬に唐織の馬衣かけたるとを獻ず。長子權平重直七歲初見し奉り。新藤五の御小脇差をたまふ。家司三人拜し奉る。駿城にては細川內記忠利。木下右衛門大夫延俊拜謁し。綿二十把獻ず。また南都東大寺內中證院北林院は。C凉院無量壽院請所のごとくその跡をつがしめ。福藏院は集會所たらしめらる。(貞享書上。ェ政重修譜。駿府記。國師日記。)
○廿一日近郊に放鷹したまふ。山大藏少輔幸成千石加賜有て。千五百石になる。(國師日記。)
○廿三日松平陸奥守政宗參覲の道すがら鷹狩すべきよし御ゆるし蒙り。鷹つかひながらまいりけるに。大御所には中原の御狩塲にわたらせ給ふ頃にて。逸物の鷹二据たまはり。廿一日江戶に參り。けふまうのぼる。また佐藤駿河守堅忠死して。その子勘右衛門繼成つぐ。(貞享書上。ェ政重修譜。)
○廿六日松平陸奥守政宗まうのぼる。この日駿府に島津陸奥守家久。球球酒二壺獻じ。藤堂和泉守高虎。石川主殿頭忠總も拜謁す。(貞享書上。駿府記。)
○廿七日戶田甚九カ忠能叙爵して。因幡守と改む。豐臣右大臣秀ョ公より。駿府に鶴を獻ぜらる。松平和泉守家乘。松平主殿頭忠利。水野日向守勝成。本多豐後守康紀。本多縫殿助康俊。菅沼左近定芳。丹羽勘助氏信。越年せんとて駿府に參覲す。(ェ政重修譜。駿府記。)
○廿八日大久保相摸守忠隣が家にならせ給ふ。(貞享書上。)
◎この年夏秋冬雨多く。寒中暖氣春のごとし。五糓みのらず。九鬼長門守守隆。其子太カ五カ良隆初見し時服馬をたまふ。諏訪因幡守ョ水二子藏千代ョク。都筑彌左衛門爲政子彌左衛門爲次。塚原次左衛門昌信。米津甚右衛門貞重子才兵衛重勝。多賀吉左衛門常直二子外記常勝。醫員望月忠菴宗慶子甫庵元珍初見し奉る。元珍はこれより若君に近侍し百五十俵たまふ。秋田城介實季二子大藏季信。時に七歲。石河三右衛門勝政子甚太カ利政。渡邊三五カ重次。杉原小左衛門久吉。野一色ョ母助助重。梶野佐左衛門滿友始めて奉仕す。大御所かねてョ母助助重が武功をしろしめしければ。助重が弟三人も忠輝ョ房兩朝臣幷に松平宮內少輔忠雄に附屬せらる。恒岡內記資次子源兵衝資久。外山藤左衛門正勝子忠三カ正吉。伊丹十兵衛宗俊。酒井彌右次衛門元次。木太兵衛吉永二子久左衛門義精。北條太カ助氏信。(時に十二歲。)美濃部權之助茂正。(十一歲)。木村彥八カ良盛。長谷川式部少輔守知二子兵助守勝。(時に七歲。)は駿府にて大御所に拜謁す。義精は小姓になる。最上出羽守義光は去年三月廿三日少將拜任の後。久して病に臥しけるが。まみえ奉らずして果ん事を本意なく思ひ。ことし病をつとめて駿府にまかり拜謁す。時に玄關まで乘輿をゆるされ。御手づから御藥たまはり。その上夜のもの時服頭巾等を下され。直に江戶へまかるべしと仰下され。江戶へ參り同じく乘輿をゆるされ。まうのぼり時服白銀等をたまひ歸國す。美濃部地藏大夫茂數子八カ右衛門茂俊。門奈助左衛門宗勝。孫三カ右衛門宗次。木村庄右衛門長正子庄右衛門長吉。川窪與左衛門信俊子主膳信雄。大御所へつかへ奉り。長吉は御手鷹師となる。撿撿圓都子土屋左門知貞兩御所に拜謁し。江戶につかへ奉る。石川助七カ安重子兵左衛門安次初見す。中山勘解由照守養子勘右衛門重良(十三歲。)召出されて若君の小姓になる。近藤勘助貞用駿河にて。おかちの局ともなひ拜し奉り。
宰相ョ宣卿につけらる。松平宰相輝政の家士花井仁左衛門子二千勝。(時に八歲。)外祖K田五左衛門光綱が女ともなひて。これも大御所に拜謁せしめしに。ョ宣卿の小姓に命ぜられ無銘の短刀を給ふ。卿の生母おまんの局より善七と名付らる。(後高井助兵衛貞重が養子なり。五左衛門C直といふ。)大番頭松平大隅守重勝は越後少將忠輝朝臣につけられ家司につらなり。越後國三條の城主になり二万石たまふ。その長子丹後守重忠父に代り大番頭となり。次男淡路守重長は父と同じく附屬せらる。石川市正光忠は宰相義直卿に附られ。畔田半右衞門正成宰相ョ宣卿につけられ。內藤權之助正次。內藤仁兵衛政吉忠長卿に附られ。正次四百石加賜ありて八百石になる。津田太カ左衛門知信もおなじく大御所に拜謁し千石たまひ。儒役林永喜信澄五百五十石賜ふ。又土井大炊頭利勝一万二千六百石加へ四萬五千石になり。安藤對馬守重信は下總香取結城兩郡にて一万石加へ。舊領を合せて一万六千六百石になり。太田新六カ資宗下野皆川須葉山にて三百石加へ八百石になり。大岡兵藏忠吉も三百八十石餘加賜せられ。五百二十石餘となり。松平越中守定綱は江城溝渠修理のとき。一隊の長を命ぜられ。古田大勝大夫重治は尾州名古屋城修理の事命ぜられ。小堀遠江守政一は同城天守搆造の奉行仰付らる。小M民部少輔光隆は淡州洲本城番をつとめ。中坊左近秀政は春日造替の奉行。長谷川左兵衛藤廣は同所の撿地を命ぜらる。大久保右京亮教隆。大久保主膳正幸信は小姓組番頭になり。日向半兵衛政成銃手五十人を預る。書院番阿倍四カ五カ正之使番となる。松平紀伊守家信子又七カ康信叙爵して若狹守と改め。茶の番となり。本多彥兵衛利友。小泉次大夫吉次養子勘九カ吉勝。山岡新太カ景本小姓組番士となり。景本は五百俵たまふ。石丸孫次カ有定養子權六カ有吉は。大御所の小姓組に入番す。三浦半左衛門正次子十右衛門正定燒火番となり三百俵給ふ。井戶若狹守覺弘子左馬助良弘。覺弘弟忠右衛門治秀。井戶新右衛門直弘。駒井長五カ昌保。妻木雅樂助ョ忠子權左衛門ョ利。中坊左近秀政養子長兵衛時祐書院番となり。治秀直弘共に三百俵たまふ。阿倍四カ兵衛重眞子源左衛門重信。新見勘左衛門正種。塚原治左衛門昌重子次左衛門昌信。西山太カ兵衛昌綱養子長左衛門昌削。久保平左衛門勝正二子杢右衛門勝重大番にいり。松平五右衛門正吉番をつとめ。矢部掃部定C子七左衛門定勝納戶番となり。富田忠左衞門久次子與右衛門兼久(十歲。)近侍して御腰物持を勤む。本多角右衛門顯房攝州高槻奉行となり。河內右近知親。小栗彌助吉明代官となり。知親は三百俵賜ふ。三浦次カ左衛門氏俊四子助藏儀俊は。采邑百五十石廩米二百俵給ひ。堀川の事を奉行す。小出右京大夫吉英は大和守と改め。松平長十カ定實は信濃守と改む。又美濃國加納の城主松平攝津守忠政致仕し。子千松五歲にして襲封せしめらる。この忠政は奥平美作守信昌が三子にて。母は大御所の御女龜姬君なり。文祿四年いまの御所の御前にて元服し。御諱字たまひ忠七カ忠政と稱す。このとき備前景光の御刀をたまふ。慶長二年上野國吉井の城主菅沼小大膳定利の養子となり。五年四月十八日從五位下飛驒守に叙任し。七年遺領を繼松平の御家號を賜ひ。のち吉井よりいまの城にうつり。十万石を領し。攝津守に改め。今年致仕して後。十九年二月二日三十五歲にて卒す。致仕本多彥八カ忠次。(家譜後隼人佐また縫殿助。)卒す。(家譜慶長十八年四月六日卒といふ。)其子は縫殿助康俊なり。この忠次は三州室飯郡伊奈の本多にて。助大夫忠俊といひしが子なり。忠次が祖父縫殿助正方の時。C康君に御味かたせしより代々軍功をつくし常に眞先をかく。兄修理光忠所勞により忠次父があとをつぐ。吉田の城を攻られしとき。忠次先陣たまはりぬ。そのうへ從者戶田小栗を使とし。城の守將小原肥前守鎭實がもとに申旨ありて。鎭實城をさりて駿河國にかへる。永祿七年六月三河八郡の地ことごとく御手に屬しければ。忠次が功莫大なりとて。兄弟幷に從者戶田小栗まで所領多く下し給ふ。其後姊川。足助。伏地。鳶巢。高天神等の戰に軍功をはげみしが。其後病有て且子なかりしかば。酒井左衛門尉忠次が二子康俊をやしなひ子とし。天正十七年致仕し。今年六十五歲にてうせぬるとぞ。垣岡內記資正死して。その子源兵衛資久つぎ。井上權左衛門正友死して。その子內匠助正勝つぎ。矢島勘右衛門定久死して。其子次カ左衛門正次つぎ。父に代りて忍の城番となる。渡邊半藏重綱子國松勝綱も。仰により小半藏と改む。醫員片山與安宗哲。京極黃門定家卿眞蹟の色紙を賜ふ。島津陸奥守家久に命ぜられ。琉球國より書簡を明國福建に贈らしめ。通商互市の事を議せしめらる。森對馬守可政は右近大夫忠政が叔父にて。織田家黃縨の役たり。後豐臣家につかへ。朝鮮へをし渡り軍監をつとむ。關原の時關東の御味かたにまいり。
のち叙爵して對馬守とあらためしめられしが。今年忠政が請により忠政にかへし下され。其所領美作の津山に赴き。六十四歲にて終をとる。可政が采邑千八百六十石は。其子伊豆守重政に給ふ。野野山新兵衛兼綱は駿城へならせられしとき供奉をつとむ。三浦長門守爲春の父正木左近大夫ョ忠入道觀齋。はじめ總州勝浦の城主にて里見家に仕しが。豐臣太閤安房國を里見義康に與へられしとき退て其國に住す。今年駿府にめして大御所拜謁せしめられ。所領たまはるべきよし仰下されしが。爲春すでに新恩を蒙るうへは。老身いまこの世に求る所なしと。固辭して房州にかへり猶里見家に仕ふ。松平C藏親重は三河國代官の職務を辭し土呂卿に任し。歲首每に江戶に出て拜謁すべしと命ぜらる。小笠原安藝信盛は今年家つぎしを謝し奉る時。祖父信元の遺物呂宋の茶壷を献ず。(當代記。貞享書上。ェ政重修譜。ェ永系圖。家譜。武コ編年集成。家忠日記。) 
卷二十一 / 慶長十八年正月に始り二月に終る御齡三十五 

 

慶長十八年癸丑正月元日歲首の拜賀例のごとし。駿城にては江城よりの御名代酒井左衛門尉家次拜賀し奉る。次に越前少將忠直朝臣。越後少將忠輝朝臣名代の使者拜謁し。次に松平和泉守家乘。松平河內守定行。松平玄蕃頭C昌。松平主殿頭忠利。水野日向守勝成。本多縫殿助康俊。本多豐後守康紀。戶田土佐守高次。三好因幡守一任。戶川肥後守達安。三好丹後守房一。松倉豐後守重政。水野河內守守信。有馬左衛門佐直純。桑山左衛門佐一直。堀田若狹守一繼。池田備後守重信。堀丹後守直寄。瀧川豐前守忠征。佐久間河內守政實。市橋下總守長勝。山代宮內少輔忠久。桑山左近大夫貞晴。岡越前守某。宮城丹波守豐盛。能勢伊豫守ョ次。近藤信濃守政成。コ永左馬助昌重。山岡主計頭景以。分部左京亮光信。朽木兵部少輔宣綱。川勝信濃守廣綱。猪子內匠助一時。别所豐後守吉治はじめ群臣拜賀す。この日大風。(駿府記。大成記。慶長年錄。世に傳ふる所は。江城の賀使酒井左衛門尉家次御前にして烏帽子を落す。其下に綿帽子をきたりしかば。大御所大に御けしきそんじ。本多佐渡守正信は老年といひ。その上おどけもの故。まゝ烏帽子下に綿帽子用ゆる事もありといへども。家次壯年の身にて。老人の眞似するは以外の不屆なり。駿府は隱宅の事なればしばらくゆるすべしといへども。江城は政令の出る所。天下諸侯朝覲の地なり。もし江城にてかゝる擧動あらば。將軍家の耻辱たるべしと怒り給ふ。阿茶局御かたはらにあり。家次風邪に犯されて。今朝登營かなひがたし。いかゞせんと內々わらは方まで申越たるにより。たとひ病ありとも將軍樣の御名代元日にまうのぼらでは。歲首の朝儀とゝのふべからず。烏帽子下に綿帽子を着してなりとも。まうのぼるべしと申つかはしたる故に。家次かくはつかふまつりたるなるべしと聞えあげしかば。御怒とけ給へり。此局はさる才幹ある婦人にて。常にかく諸人の罪をも。なだめ申せし事多かりしとぞ。續明良洪範。)
○二日豐臣右大臣秀ョ公の賀使大野主馬首治房拜貿し奉る。次に謠曲はじめ行はる。着座左は越後少將忠輝朝臣。松平安房守信吉。西ク出羽守康員。松平丹波守康長。右は㝡上駿河守家親。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠實。牧野駿河守忠成なり。駿城にもこの日豐臣右府の賀使速水甲斐守守之。(守久。守次。)拜賀し。次に日野大納言輝資入道唯心。水無P宰相親具入道一齋。山名豐國入道禪高。畠山左近將監義眞。土岐市正持益。同左馬助ョ勝。上杉木曾が黨西尾豐後守光教。遠藤但馬守慶隆。竹中丹後守重門。一柳監物直盛。九鬼長門守守隆。古田大膳大夫重治。稻葉右近大夫方通。谷出羽守衛友。平野遠江守長泰。長谷川縫殿助正尙。片桐市正且元。同主膳正貞隆。その他醫員等拜賀し。宗對馬守義智が名代柳川豐前守調興拜賀し。次に京。堺。大坂。奈良。伏見の市人もおがみ奉る。夜に入て謠曲はじめあり。宰相義直。ョ宣兩卿。少將ョ房朝臣。亞相輝資入道唯心。豐國入道禪高。永井右近大夫尙勝。本多上野介正純等伺候し。終て觀世梅若等の猿樂に。時服一龔づゝかつげたまふ。(慶長年錄。慶長日記。駿府記。)
○三日駿城にては宰相義直ョ宣兩卿。少將ョ房朝臣御座所にて。三献の御祝あり。次に國持の輩使奉り。太刀馬代を獻ず。舊冬より駿府に越年せし諸大名。江城拜賀のためこの日駿府を發程す。(駿府記。)
○四日駿府の市人等拜賀し奉る。(駿府記。)
○五日大御所鷹山に出御あり。仰により勢子の輩悉く催促せらる。(創業記。)
○六日駿城にて寺社の拜賀をうけ給ふ。金地院崇傳幷搶緕帶V智國師の使廓山をはじめ。諸宗の僧侶祠官みな拜し奉る。遠州可睡齋宗珊法問を聞召て。銅百貫文たまふ。(駿府記。)
○七日松平丹波守康長が子美與從五位下に叙せられ。御名の一字給はり加賀守忠光とあらたむ。松平陸奥守政宗の子美作守忠宗參り謁す。政宗に海鼠膓をたまはる。この日大御所には田中へならせられ御鷹狩あり。かねては遠江の中泉まで。狩したまふべしと仰ありしが。暖氣にて鳥少ければその事なし。(藩翰譜備攷。國師日記。)
○八日山口但馬守重政罪蒙り。所領一萬五千石收公せられ。武州入間郡越生庄龍穩寺に蟄居す。これは石川長門守康通が子安藝守忠義が女を。大久保相摸守忠隣外孫たるにより養ひて子とし。重政が子伊豆守重信に嫁しけるが。いまだ公命をへざりしかば。私に婚儀むすびしをもて。御勘氣蒙りしとぞ聞えける。康通が子安藝守忠義も。つとに暴の擧動ありて。入間郡に蟄居せしめられありけるとなり。(大成記。)
○九日松平陸奥守政宗江戶より駿府に參る。(慶長日記。)
○十日大久保相摸守忠隣陳狀をさゝぐ。山口但馬守重政も入間郡龍穩寺より訴狀をささげ。其罪を陳謝すといへども納られず。(慶長日記。)
○十一日角倉了以光好へ東京渡海の御朱印。村山市藏に呂宋渡海の御朱印。長谷川忠兵衛藤繼に暹羅渡海の御朱印。
蕃人まのしるに同國渡海の御朱印。夏の局へ柬埔寨渡海。交趾渡海の御朱印。舟本彌七。米屋新右衛門幷壽庵。唐人しんによろ及五官へ交趾渡海の御朱印を下さる。この日大雨霙ふること翌朝にいたる。各所暴漲す。(御朱印帳。貞享書上。當代記。)
○十四日後藤庄三カ光次がもとに。古田織部正重然が使と稱し。金借らんといひて來るものあり。光次その僞りなるをしり。町奉行彥坂九兵衛光正に告る。光正より屬吏をしてとらへんとするに。かの黨あつまり來りて。頗る鬪爭に及び死傷少からず。彼賊ども捕得しかど。皆深手にて死ければ。其盜を宿せし者を查撿ありしに。歩行頭柴田左近某が組士なりしかば。左近某を改易せられ。其歩行士は死刑に處せらる。また加賀中納言利長卿病やゝ重りしとて沒前に使を奉り。得物とてクの刀新身藤四カの脇差を献じ。大御所に肩衝に金五百枚若君幷國松君に金五十枚づゝ。義直ョ宣兩卿にも金五十枚づゝ献ず。(坂上地院日記。當代記。)
○十五日當賀例のごとし。大久保相摸守忠隣は病と稱しまうのぼらず。(これは山口但馬守重政が事により。忠隣心快々として樂しまざりし事としられたり。)また山本傳次カ政重初見す。其父與次左衛門政Cは。去年十一月十五日死しけるなり。此日駿府にては宰相ョ宣卿。C水の湊より關船にて三條へわたらせ給ふ所。東風つよく吹起り。波高く船危うかりしに。この地の舊主中村式部少輔一氏が水主等漁船にとりのり。こぎいたし關船を救て。加茂村のMにつかせらる。ョ宣卿その水主等が功を感ぜられ。悉くめしいだし廩米を給ふ。(坂日記。家譜。駿府廻村記。)
○十六日駿府にては。吉田より持來りし續日本紀を。神龍院梵舜に書寫せしめらる。林道春信勝仰をつたふ。京南禪寺修造により。山城國葛野郡安井村の人夫を出さしめらる。(舜舊記。國師日記。)
○十八日有馬玄蕃頭豐氏が長子吉法師。御前にめして首服加へられ。御名の一字賜はり從五位下に叙して中務少輔忠クと稱せしめらる。(後に忠ョにあらたむ。)御冠服幷光忠の御刀を賜ふ。この時安藤對馬守重信加冠し。水野監物忠元理髮の役し。阿茶の局齒Kの事をつとむ。(藩翰譜備考。家譜。)
○十九日猪子久左衛門正元。父久左衛門正次が家をつぎてはじめて拜謁す。(家譜。)
○廿日金地院崇傳。駿府に於て十七史を恩借す(國師日記。)
○廿一日K田筑前守長政が子右衞門佐(この名は去年十二月十八日たまふ。)御前にめして首服加へられ。御家號幷御名の一字たまはり忠長と稱す。(後に忠政又忠之に改む。)御盃に守家の御太刀。國次の御脇差をそへて下され。鹿毛の馬をも引せらる。また松平宰相輝政病再發せしかば。その子武藏守利隆看侍のいとま給ひ就封するをもて。吉岡助光の御脇差を下さる。(家忠日記。)
○廿二日連日の雨により。所々暴漲の聞えあり。(當代記。)
○廿五日松平宰相輝政播州姬路に於て。昨廿四日より中風吐血再發し。言語を得ざるよし急使をもて告奉る。この使廿八日駿府に來る。大御所聞召おどろき。急に大番K川八左衛門盛治を御使として播洲につかはされ烏犀圓を給ふ。しかるに廿五日申刻遂にたゝずなりぬ。この輝政といへるは紀伊守信輝入道勝入が二男なり。童名は古新とて。十五歲の時花隈の城にて兄と同じく高名し。天正十年兄弟ともに織田殿の供して甲斐國に働き。十二年四月九日長久手の戰に。父勝入兄紀伊守之助討れ。手の兵散々に敗北せし中に。輝政も父兄一所に討死せんと取て返す。輝政が家人伴大膳。そのころはいまだ馬の龓なりしが。馬の口にとり付てこれを諫め。鐙の鼻にて頭を蹴られながら。片手にて鞭をあてゝ馳らしむ。馬は逸物鞭はしきりにあてられ。飛がごとくにはせ行ば。輝政心ならずもその塲を立去ぬ。豐臣秀吉勝入父子が討死をあはれみ。輝政に岐阜をたまひ。豐臣の姓をゆるされ。羽柴三左衛門と稱せしめらる。秀吉關白に任ぜられしとき。輝政も侍從になり。十八年の秋小田原の北條滅て後。三河國吉田城給はりてうつり十五萬二千石を領す。輝政始の妻は中川P兵衛C秀が女なり。男子一人設てその妻早くうせければ。大閤の媒にて大御所第二の姬君(督姬と申。其始北條民直に嫁し給へるなり。)をあはせられ。男女の子あまたまうけらる。慶長五年の秋關東の御味方し。岐阜の城を責落し。南宮の敵を追はらひ。其功尤大なりければ。其年十一月播磨一國五十二萬石給はり。八年正月六日備前國三十一萬五千石を加へ給はり。二月十二日少將に進み。十五年淡路國六萬三千石余を賜ふ。(備前は二男左衛門督忠繼。淡路は三男宮內大輔忠雄。成人の後あたふべしと仰下されしとなり。)十七年年來の病愈て。江戶駿府に參りけるに。八月廿三日御家號ゆるされ。參議に任じけるが。ことし病ふたゝびおこり。この日五十歲にてうせぬとなり。內室督姬君もとみに落飾ありて。良正院と號せらる。(ェ永系圖。藩翰譜。)
○廿六日御乳母大姥の局うせぬ。この局性正しく才器ありて。よく人を哀れみければ。みな人惜むこと限りなし。局母は岡部與三兵衛貞綱が女にて。河村善右衛門重忠が妻となる。河村駿州今川の家人なり。氏眞國失ひて後小田原の北條につかへてうせぬ。この妻は大御所御幼稚にて。今川がもとにおはしける頃より。よくその人となりをしろしめしければ。今の御所むまれさせ給ひしときより。召れて御乳母となされしに。このとしごろかひがひしくつかへ奉りければ。御所今もむかしもへだてなくかへりみむつみたまふ。その法號は正眞院と申せしとど。(慶長日記。玉輿志。大三河志。世に傳ふるところは。この老女御幼稚の昔より。乳まいらせし人なれば。御所かぎりなくねもごろにむつみなつかしくもてなされし程に。何事もたらはぬ事なく安富を極めけり。此局老後の樂には。月に一度づゝ大盤に飯も肴も山のごとくたくはへて。惣六尺中間小人のたぐひをことごとく招て。もてなしけるに。みづから厨にいでゝ飯を椀にもりてすゝめける。或日その饗の半なる所へ。本多佐渡守正信まいりあはせ。此躰をみて。いかに大ばどの。上の御恩澤にてめしつかふ侍女共もあまたもちながら。みづから飯匙とる事は。あまりの事ありと申ければ。局きと白眼て。其方近來驕るよし人の詞に聞しかど。よもさはあるまじと思ひつるに。今の詞をきけばいつのほどにか。はや驕奢の心になりぬる事しるし。姥其むかし三河にありて朝夕難困せし事を。今安富の身になりても忘れず。みづから飯匙をとるなり。其方彌八カとて鷹匠たりし時の事忘れたるや。それにては大切の殿樣を補佐して。天下の御政務にあづかる事心元なしとのゝしりければ。正信は一言もなく赤面して遁去りしとぞ。又大病にのぞみし時。御所御みづから其病牀にならせ給ひ。何ぞ思ひ置事あらんには申置べし。汝が申所ならんには。何事なりとも其旨にまかせられんと仰ありしに。局おもき枕をあげて。此姥は殿樣に御乳をふくめ進らせしとて。年頃かしこくまつはしたまへば。一身の安榮を極め侍り。今は此世に思ひ置事なし。殿にはたゞ大殿の御庭訓を守らせ給ひ。天下大小の人に後指さゝれざらん樣に。何事も掟させ給ふべし。この外申上る事なしと申ければ。其申所は理りと聞しめしぬ。さるにても猶申置事はなしやと。かさねてとはせたまふ。其時さらに此外申置事候はずと聞え上る。御所もかくあへかにかよはきさまを御覽じさして。かへらせたまふべき御心地もし給はねど。いつまでかくておはしますべきにあらねば。其所を立せたまはんとするとき。局また殿々と呼返し進らせ。我子先に罪を犯して遠き所にながされたり。此ものをば必ゆるし給ふべからず。もし老たる姥が事を哀と思しめし。姥故に天下の大法を曲させ給はゞ。これこそ姥が黃泉路の障になるべけれと。くりかへしへし其事を申て。其後は何事も申さずなりけるとぞ。古今の保母數多き中にも。かゝるたぐひあるべしとも覺えずと。ふるき人のかたりつたへき。げにさることなり。鳩巢小說。)姥が子岡部主水元C御家人に加へられ。姥に給ひし采地二千石をたまふ。(ェ政重修譜。)
○廿八日土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。山圖書助成重連署して。江戶崎官林の條目を令す。其文にいふ。江戶崎官林の山にて。先年採樵を禁ぜらるゝところ。近頃みだりに伐取こと甚以曲事なり。今よりのちかゝるたぐひあらんには。山麓村里のもの。特に曲事たるべし。山麓のもの嚴に查撿せば恩賞あるべし。もし油斷して他よりあらはるゝに於ては。山邊の者公料私領を分たず。曲事たるべしとなり。駿府にては南光坊天海仙波より參り謁す。(武家嚴制錄。國師日記。)
○廿九日立花左近將監宗茂は。その弟彌七カ直次(後宗一とあらたむ。)をともなひまうのぼり拜謁す。宗茂は立花が家つぎ。直次は父主膳兵衛鎭種が家督して。高橋主膳正と名のりしが。慶長五年の秋石田三成が催促に應じ出勢せり。關原の戰逆徒敗北し。宗茂が本國柳川に籠城せしが。加藤肥後守C正がすゝめによりて降參す。その時直次はC正にあづけられ八代に寓居し。後に洛の北山に隱遁す。宗茂は慶長八年江戶に參り拜謁し。奥州にて所領下されしに。直次もこたび免されて拜謁せしめらる。このときより本多佐渡守正信申旨ありて。高橋をあらため立花主膳正と名のる。(一說に立花とあらためしは十九年の事とす。ェ政重修譜。家譜。)
◎この月橋本彥兵衛正利。さきに小田原の北條氏直につかへ。感狀多く藏めたりと聞えければ。めして拜謁をゆるされ。遠州にて采邑二百石たまふ。(家傳。)
○二月朔日松平右衛門佐忠之從五位下に叙せらる。駿府にては松平宰相輝政が事により。けふより三日まで外殿にのぞみ給はず。此日朝鮮國より進らする大鷹十一隻九州へ參着す。(家忠日記。ェ永系圖。國師日記。創業記。)
○二日大坂城中火あり。天守下櫓三宇及三丸長屋燒亡す。(創業記。)
○三日曹洞宗會津の惠倫寺へ。總寧寺。吉祥寺。龍穩寺をして條目を下さる。兩御所令し下さるゝ條目。會津領中の諸山に於て違犯の徒。嚴科に處せらるべし。諸山江湖のとき惠倫寺其裁斷すべし。江湖の首長たるものは。惠倫寺に相はからひ請行ふべし。修行未熟の僧を以て長老となすべからず。諸山訴訟は專倫寺查撿し。猶查撿决し難き事は。奉行所へうたふべし。この條目遠犯する徒は。朱印御書の文にしたがひ。寺中追却すべしとなり。(新編會津風土記。)
○四日駿府にては。この日外殿へのぞませたまふ。南光坊天海。金地院崇傳等僧徒まうのぼり法話聞し召る。(國師日記。)
○五日土井大炊頭利勝を駿府につかはさる。これ松平宰相輝政がことにより。御內旨を聞え上たまふなり。播磨國姬路へは山岡五カ作景長御使して。兩御所より香銀百枚づゝ給ふ。この日南光坊天海駿城にまうのぼる。(駿府記。國師日記。)
○七日和州多武峯竹林坊文殊院の僧徒。駿城にまうのぼり拜謁す。(國師日記。)
○八日駿府にて叡山の僧徒等。歸山以前に法論聞し召るべき旨仰出さる。(國師日記。)
○十日叡山の藥樹院久運駿府に參る。(國師日記。)
○十三日本多美濃守忠政に所屬の梶淡路守勝忠沒す。その子金平勝成家つぎて。父のごとく忠政に屬せしめらる。勝忠が所領四千石は公に返し納めて。忠政より勝成に四千石あたふ。最上出羽守義光大病の聞えあるにより。江戶より御書給ひとはせらる。(家譜。)
○十四日小林田兵衛元長に采邑五百石給ふにより。御印書を下さる。此日叡山の正覺院僧正豪海駿府に參る。(貞享書上。家譜。國師日記。)
○十五日大久保新八カ康忠二子次カ八カ忠重大番に加へられ。廩米三百俵給ふ。この日南都興福寺の惣殊院某。同學の僧博經院某を殺害せしにより。寺法のごとく刑に處すべき旨。金地院崇傳。本多上野介正純より。京職板倉伊賀守勝重へつたへしめらる。また惣殊院へは一乘院門主內旨のごとく。華嚴院有學の僧たるにより。住持せしむべしとつたふ。(家譜。國師日記。)
○十八日駿城にて台宗の論義聞し召る。叡山正覺院僧正豪海。藥樹院久運。五智院x海。禪行坊。禪定院豪祐。多武峯竹林坊重順。武州仙波南光坊僧正天海。仙波中院實尊。淺草安養院。觀音院。江戶神田立法寺。上野千妙寺僧正はじめ三十僧これにあづかる。この日近江國高島阿陀彌寺駿府に參着す。(駿府記。國師日記。)
○十九日普請奉行犬塚平右衛門忠次死して。その子小善次重世家をつぐ。昨今兩日大雨洪水。(ェ永系圖。當代記。)
○廿日常陸國江戶崎領主山播磨守忠成卒しければ。遺領二万八千石を分て。長子伯耆守忠俊に二万五千石。二子大藏少輔幸成。三子天方主馬通直に千五百石づゝわかつ。忠俊は庇䕃料一万石を合て三万五千石になる。この忠成。父は喜大夫忠門といふ。幼より仕へ奉り小姓となり。天正三年(一說元龜二年。)父討死の後家をつぎ。これより先竹に角取紙付たる小馬印をたまふ。同じ八年より內藤彌三カ正成とともに。今の御所につけられ。十五年駿府に於て與力二十五騎。同心百人あづかる。これを久能衆と號す。十八年正月今の御所御上洛の供奉し。この年小田原陣に次男藤藏忠俊。(兄藤七カ忠次文祿元年死せしゆへ長子となる。)を具して從ひ奉り。關東にうつらせ給ふはじめ。忠成御先に江戶に參り諸事を沙汰し。このとき芝の稱名院を御菩提所とさだめられ。號を搶緕宸ニ改め。堂宇造營の事を奉行し。八月十九日五千石の采邑を賜ひ。又城西放鷹のとき赤坂の邊より。西は原野村に至るまで。御目の及ばせたまふかぎり。忠成が宅地にたまふ。(その地をのち山宿と唱ふ。)十九年相州中郡に於て采邑五千石搴汲ヘり。文祿元年名護屋陣のとき。御所は江戶にとゞまらせ給ふにより。忠成內藤C成と共に諸事を奉行し。また八月洛にのぼらせ給ふとき供奉し。御所京聚樂におはします事三年。忠成常に近侍せしかば。二年閏九月在洛料とて。江州にて二千石賜ふ。三年四月朔日叙爵して常陸介と稱す。慶長五年上杉景勝御征代のときも供奉し。また八月眞田陣にもしたがひ奉り。六年二月三日上總下總兩國のうちにおゐて。一萬千石加へたまふ。九月珠姬君前田利常に嫁せらるゝとき。加賀國金澤に至り貝桶の役をつとめ。同年十二月五日關東の奉行職を命ぜられ。內藤修理亮C成と同じくこれをつとむ。同年騎士二十五人。歩卒百人をあづけられ。八年六月千姬君豐臣秀ョ公御緣結ばれしとき。御方違として忠成が邸にわたりたまへば。この日御所にもわたらせられ。かずがずの賜物あり。のち常州江戶崎に於て領地を賜はり。同十年御參內のとき。騎馬にて供奉し。十一年正月廿五日忠成C成同じく御勘氣蒙る事ありて職ゆるされ。
この八月十一日播磨守とあらため。十一月六日御勘氣をゆるされ。けふ六十三歲にて卒す。この日駿府にては松平右衛門佐忠之。江戶にて御家號御名の一字給はりしを謝して。銀三百枚獻じ。父筑前守長政も銀百枚獻ず。忠之に御盃賜はり。守家の御太刀。鹿毛の馬を下され。就封のいとまたまふ。また相國寺の晫長老參りて住職を謝し奉る。昨日の洪水によて淺間の社祭を廢す。(家譜。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。駿府記。國師日記。)
○廿一日淺間の社祭あり。(駿府記。)
○廿二日伯耆國大山岩本院使僧駿府に參る。(駿府記。)
○廿三日駿城にて天台論義聞し召る。はてゝ僧等饗たまふ。南禪寺宗最拜謁して後江戶に赴く。(駿府記。國師日記。)
○廿四日相州小田原西念寺に蟄居せる天野三カ兵衛康景卒す。時に七十七歲。(傳は慶長十二年康景逐電の條に詳なり。ェ永系圖。)
○廿七日高野多聞院長源駿府に參謁す。(國師日記。)
○廿八日駿府にて論義つかふまつりたる正覺院僧正豪海。仙波南光坊僧正天海。上野K根千妙寺僧正亮運饗たまひ。各銀十枚。被物二領づゝ。その他老僧等へは銀五枚。被物二領づゝ。少年僧へは銅三百疋。被物一領づゝ給ふ。この日關東天台諸寺の御判物を。仙波喜多院に下さる。其文にいふ。本寺にうたへずして。恣に住持すべからず。非器の徒をして所化に付すべからず。但しむかしよりの法談所は。時宜にしたがひ用捨すべし。末寺の徒本寺の指揮違背すべからず。關東本寺の旨をうけず。山門の證狀を受べからず。關東にて追却せらるゝ輩を扶助すべからず。もし山門よりなして許容あらば。山門の指揮を受べからず。所化の徒一列して訴訟すべからず。所化法談所の經歷二季を闕べからず。一山の學頭别當幷衆徒依怙する事あらば。本寺よりその沙汰すべしとなり。また常陸國河內郡下妻庄K根ク千妙寺へ條目の御朱印を下さる。諸末寺の徒本寺の法令を違犯すべからず。法流以下寺中の僧俗。學頭の指揮にしたがふべし。山林竹木寺內門前先々のごとく免許せらるべしとなり。又同寺へ所領の御朱印を下さる。常陸國河內郡の內K根ク百石寄附せらる。全く寺納すべしとなり。又同國椎尾山に下さるゝ御朱印にいふ。法流以下幷山中の諸法度。學頭の命令にしたがふべし。寺領百石の內二十石は學頭領とし。寺內門前山林竹木等は。先例のごとく免許せらる。官事造營の時不勤の徒は坊領收公せらるべしとなり。また武藏國比企郡慈光山中道院に下さるゝ御朱印には。法流以下幷山中の諸法令は。學頭指揮のまゝたるべし。山中空房幷山林はすべて學頭の沙汰たるべし。官事造營のとき不勤の徒は。坊領收公せらるべしとなり。また同國太田庄慈恩寺に下さるゝ御朱印には。法流以下幷寺中諸法令。學頭指揮のまゝたるべし。官事造營のとき不勤の徒は。坊領を收公すべし。空坊は學頭の沙汰たるべし。寺中宅地他人の所務となすべからず。これまで有來りし宅地は。學頭沙汰たるべし。山林竹木先例のごとく。免許せらるべしとなり。また六波羅普門院駿府に參着す。(國師日記。)
○廿九日和泉國岸和田城主小出播磨守吉政卒しければ。原封八萬石を分て。長子大和守吉英は岸和田の城たまはり五萬石を領し。二子對馬守吉親但馬の國出石の城賜はり三萬石領す。この吉政は播磨守秀政が子なり。秀政は豐臣太閤同クの產にして。かの家にはことさらしたしくつかへたる家人なり。吉政文祿二年叙爵して信濃守と稱し。後大和寺また播磨守に改む。播州龍野の城主となり二萬石領し。後に但州出石にうつり六萬石領せり。慶長五年上杉御追討のたあ。大御所大坂より伐て下だらせたまふとき。秀政老病にて臥ければ。供奉する事あたはず。二男遠江守秀家に軍兵そへて御供に候せしむ。その跡にして石田等の逆徒蜂起し。秀ョの命なりと披露して。細川幽齋が籠りたる丹後國田邊の城を攻べしと。丹波但馬の軍勢をさしむくるとき。吉政は其催促に從ひ。城責の人數に加はりしかど。弟秀家が初より御供にしたがひしかば。關原の戰終りて後も。父兄ともに御とがめなく本領を安堵す。九年父秀政卒して家をつぎ。岸和田の城を領し。をのが子吉英に但州出石城を領せしめ。この日四十九歲にて卒しぬ。(家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。)
◎この月京職板倉伊賀守勝重奉りて。攝津國今宮村諸役免許の事を令す。祇園社大宮駕輿丁攝津國今宮神人等の事。歷世の證狀にまかせ諸役免許せしめらる。いよいよ先例を守り神役專につかふまつるべしとなり。又日野前大納言輝資入道唯心駿府に參向して。近侍するにより。近江日野の地にて千三十石つかはさる。又渡邊兵九カ多は大番組頭となる。折井主水次正が養子小右衛門門次召出されて百五十石賜ひ。直にその采邑に住居せしめらる。(國師日記。家譜。) 
卷二十二 / 慶長十八年三月に始り六月に終る 

 

○三月朔日日蝕す。桃節近により外殿に出たまはず。駿城もおなじ。(節季蝕記。駿府政事錄。)
○二日さきに神尾氏の腹にまうけ給ふ幸松丸君ことし三歲にならせられければ。見性院尼田安の邸にむかへとりて養育せらる。この尼は武田信玄入道の女にて。穴山梅雪が妻となりしが。梅雪うせて家たえしのち大御所むかしの御よしみを思し召て。田安に家つくらせ。老をやしなはせたまひけるなり。(このころ田安の地は比丘尼町とて。故ある老女老尼のたぐひ。みなこのところにて老をやしなはしめらる。家傳。以貴小傳。)
○三日上巳の拜賀例のごとし。駿城もおなじ。けふ岩P吉左衛門氏興死して其子C助氏次家をつぐ。(駿府記。家譜。)
○四日駿城にては天台論義聞し召る藥樹院久運。五智院x海。覺林坊實見の三僧。四十人の僧徒に對し問答す。此日照高院門跡道澄使もて歲首を賀せらる。須田長三カ盛近死して。其子與左衛門盛尙家をつぐ。(駿府記。國師日記。家譜。)
○五日駿城三丸にて申樂九番。宰相ョ宣卿田村。安宅。鵺。三輪。鞍馬天狗。少將ョ房朝臣ときに十一歲。江口拍崎を舞給ひ。宰相義直卿は江口の小皷をうたせらる。大御所をはじめ奉り三公子の生母だちみなわたらせらる。日野亞相入道唯心。山名豐國入道禪高。藤堂和泉守高虎。其外天台の僧見る事をゆるさる。(駿府記。)
○七日江戶龍寳寺を東光院と改る事。請まゝにゆるさる。鹿苑院晫長老江戶に進謁はてゝ。再び駿府に參る。(國師日記。)
○九日仙波中院實尊。南院駿府の暇給はり江戶に赴て拜謁す。鹿苑院晫長老暇給はり歸洛す。(國師日記。)
○十一日松平陸奥守政宗へ御供して魚物を給ふ。安藤對馬守重信御使命ぜられ駿府に參る。此日駿府には三丸にて猿樂御覽じ給ふ。水無P中將親具入道一齋。池田備後守重信。鈴木久左衛門伊直。藤堂和泉守高虎が扈從喜之助。其他は觀世。金春。大藏。梅若等なり。けふも天台眞言僧等見ることをゆるされてまうのぼる。(貞享書上。駿府記。)
○十二日武藏國倉田明星院祐長幷當山本山の修驗等。訴論裁斷の事により。駿府に召よせらる。又近江國竹生島常行院。同國神勝寺放生寺の使僧等駿府に參り拜謁し奉る。(國師日記。)
○十三日淺草寺忠尊に寺領の御K印を下さる。武藏國豐島郡(ェ文五年の御印書には千束村と見ゆ。)寺領五百石うち。二百五十石は别當幷修理料たるべし。衆徒の住坊に平僧みだりに住居すべからず。無寺の空地を所務すべからず。諸法令は寺務の指揮にまかすべし。官用營造の事をつとめざる役者は。坊領を收公せらるべし。山林竹木門前宅地先例のごとく。諸役免許たるべしとなり。又高野山無量光院長海に。先住の時のごとく碩學料百石の外。生涯五十石加へ給はる。又知恩院の使僧幷江州石山代僧法幢院。吉祥院。同國小谷稱名寺。長Mの陸昌寺。(淺井家歷代香花院。)同實隆庵。(同上。)同勝安寺の住僧等駿府に參り拜謁す。又近江國滋賀郡西教寺僧正訴狀をさゝげ。千本上善寺善照が弟子の僧眞照師命を違背し。行狀不律のよしを聞え上る。よて京職板倉伊賀守勝重に。查撿を加ふべき旨金地院崇傳よりつたふ。(國師日記。)
○十四日京智積院。近江國松尾寺善住坊。吉田神龍院梵舜駿府にまかる。(國師日記。舜舊記。)
○十五日安藤對馬守重信幷村越茂助直吉を播州姬路につかはされ。國政を監せしめらる。松平宰相輝政卒去せしゆへなり。この日神龍院梵舜駿城にまうのぼり。續日本紀幷杉原紙をさゝげ義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣へも掛香を奉る。智積院祐宣。江州惣持寺使僧等おなじく拜し奉る。高野山無量光院長海は。江戶に參り拜謁す。比叡山執行代x海も同じ。(駿府記。舜舊記。國師日記。)
○十七日大坂大蓮寺應蓮社駿府に參り拜謁す。神龍院梵舜幷叡山以下の僧徒もまうのぼる。梵舜神道の御物語聞え上る。はてゝ夕餐を給ふ。西洞院宰相時慶卿幷其子少納言時直駿府に參向す。川崎信濃守某もて。丸子驛に迎勞せしめらる。鳳來寺不動坊拜謁はてゝ江戶に赴く。(國師日記。西洞院記。)
○十八日中山猪右衛門勝政死して。三子猪右衞門重時つぎ。七百石給ひ。四子十カ右衛門政長召出さる。(家譜。)
○十九日西洞院宰相時慶卿少納言時直駿城にまうのぼり拜謁す。南都喜多院。近江國蒲生郡石塔寺。犬上郡荒神山對藏院も同じ。神龍院梵舜より義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣へ梭゚香三十袋奉る。和州金峯山寺木食快元。吉野山堂塔修理の事によて。訴狀をさゝげしかば。京職板倉伊賀守勝重に查撿すべき旨。金地院崇傳よりつたふ。此日西山八兵衛昌次死して。其二子八兵衛昌勝家をつぐ。(西洞院記。國師日記。舜舊記。家譜。)
○廿日竹內刑部少輔孝治駿城に參向して拜謁す。(西洞院記。)
○廿一日日野大納言入道唯心。西洞院宰相時慶卿。永井右近大夫直勝。本多上野介正純。其他神龍院梵舜。金地院崇傳。南光坊天海。竹林坊重順。駿城御前に伺候す。近江國坂田郡成菩提院。美濃國大野郡華嚴寺。谷汲觀音院别當等も拜謁す。駿州江尻江淨寺。同州C水實相寺訴論聞しめさるべき旨仰出さる。(西洞院記。國師日記。)
○廿二日この廿八日松平陸奥守政宗が邸へ。臨駕あるべしと仰出さる。駿府にては眞言新義の論義聞し召るべしと仰下さる。(貞享書上。國師日記。)
○廿三日西洞院宰相時慶卿。同少納言時直。竹內刑部少輔孝治。神龍院梵舜等駿城にまうのぼり拜謁し。春日をはじめ諸社の事聞えあぐる。日野大納言入道唯心。金地院崇傳。喜多院竹林坊。多門院等みな晚餐を給ひ。僧徒の外は白鳥を饗せらる。佐々木中務大輔高定。朽木河內守元綱。藤堂和泉守高虎。永井右近大夫直勝もこれにあづかる。(西洞院記。)
○廿五日立花主膳正宗一府內にて宅地を下さる。平野遠江守長泰。二條城營造助役を賞せられ御書をたまふ。駿府にては江尻江淨守。C水實相寺の本末訴論を聞しめさる。江淨寺證據さだかなるをもて彌本寺と定め。正月二日まうのぼり拜年すべしと仰下さる。西洞院宰相時慶卿。神龍院梵舜をめして。平野社の事を御垂問有て饗を給ふ。時慶卿けふはじめて義直。ョ宣。ョ房三公子に見えて。桾ィ幷杉原紙をまいらす。(ェ永系圖。ェ政重修譜。國師日記。西洞院記。)
○廿六日駿城に西洞院宰相時慶卿。喜多院南光坊天海。神龍院梵舜等召る。藤堂和泉守高虎はじめ在駿の大名幷儒役林道春信勝も同じくまうのぼる。時慶卿及び梵舜等と神祇の御談論刻をうつさる。(四洞院記。)
○廿八日松平陸奥守政宗が邸に臨駕あり。政宗御茶を獻ず。石川玄蕃頭康長。延壽院道三親C御相伴に候す。はてゝ將棊御覽あり。其後政宗所藏京極黃門定家卿眞蹟古今集以下の歌書を御覽に備へしに。御感淺からざりしかば。政宗御旨にまかせ此書獻ずべしと聞え上る。しかしながら御所にも定家卿眞蹟の伊勢物語。新勅撰集等。其他あまたおはしませば。これは政宗永く秘藏すべしとて返し給ふ。この日駿城にては猿樂あり。宰相ョ宣卿も御所作四番。西洞院宰相時慶卿みる事ゆるされまうのぼる。神龍院梵舜も同じ時慶卿に山門大會のとき。勅使の事をとはせ給ふ。(貞享書上。當代記。西洞院記。)
○廿九日佐竹右京大夫義宣。古田織部正重然。江府より駿城に參り謁し奉る。三丸にて猿樂あり。ョ房朝臣山姥。船辨慶をなさる。日野大納言入道唯心。西洞院宰相時慶卿。神龍院梵舜。金地院崇傳。南光坊天海等。みな見る事をゆるさる。又本山當山訴論により。照高院三寳院兩門主駿府に參向あるべき旨。本多上野介正純。金地院崇傳より京職に傳へしめらる。(駿府記。國師日記。)
○三十日佐竹右京大夫義宣駿城へまうのぼり。銀百枚。時服十献ず。日下部五カ八宗好採茶の事奉り宇治に赴く。神龍院梵舜まうのぼる。近江國成菩提院駿城拜謁はてゝ江府に赴く。(駿府記。國師日記。舜舊記。)
◎是月市井に令せらるゝは。奴婢一年期の事嚴に制禁せらる。もとより商賈ならず。武家の從者等俄につかへをやめ商人となるか。又は農民不時に物うりありき。一錢をとるべからず。もとよりそれを生產となし來る者は。町奉行米津勘兵衛田政。島田兵四カ利正の牌を受べし。市井もし火災あらば。武家につかふる徒。一切其地にはせ集るべからず。手負たる者を匿し置べからず。門立すべからず。巾もて頰をからげ。そのほか顏をつゝみ蔽ひ。または夜中に編笠きたる徒は。見るにまかせ死刑に處せらるべしとなり。また毛利中納言輝元入道宗瑞が三子三次カ就隆暇たまひ。左文字の御脇差。馬一疋下され。駿府に參り拜謁し馬三疋給ふ。星合采女正具泰はじめて廩米五百俵下さる。これは堀江治部大輔教賢が二男代々伊勢の岡崎城主にして。織田內府の被官なりしを。去年六月御家人にめし出されしなり。宗對馬守義智參覲し拜謁す。その子彥七カ義成が事聞し召て。富士の巢鷂二聯給ふ。越前少將忠直朝臣が家司等訴訟の事ありて參府す。駿城には故加藤肥後守C正が遺領の事により。家司等訴狀をさゝぐ。また有馬豐前滿秋に大御所より其家に傳ふる無一の劔法をつたへたまふ。(家忠日記。家傳。ェ永系圖。當代記。)
◎是春大御所の御養女を毛利宰相秀元に降嫁したまふ。この姬君實は松平因幡守康元が女なりしを。これより先養ひとらせ給ひ。福島左衛門大夫正則が子刑部大輔正之に配せられ。正之卒後慶長十三年四月安藝國より歸り給ひ。下總關宿におはし。御兄の甲斐守忠良がもとに住せ給ひしなり。また豐臣右府の臣片桐東市正且元。大野修理亮治長をめして。采邑五千石づゝ加恩し給ふ。また島津三位法印龍伯をして。中山王尙寧を介し。明國に勘合の事を議せしむるといへども。其儀猶合はず。(家傳。烈祖成績。異國日記)
○四月朔日當賀例のごとし。駿城も同じ。(駿府記。)
○二日富田信濃守知信を。豫州より江戶にめさる。坂崎出羽守成政が訴によてなり。これ山圖書助成重を以て。駿府の御旨を得られての事とぞ聞えける。(慶長年錄。)
○三日越後少將忠直朝臣江戶を發して駿府に赴かる。(創業記。)
○四日忠直朝臣駿城にまうのぼり拜謁せらる。銀百枚。時服十領さゝげらる。この日智積院並に關東眞言新義派の諸僧を。駿府に召て論義聞しめさる。神龍院梵舜聽衆に列る。(駿府記。舜舊記。)五日松平陸奥守政宗江府を辭し駿府に赴く。駿城三丸にて申樂九番。宰相ョ宣卿百万是界をまはせらる。(貞享書上。駿府記。)
○六日近江國成菩提院に御K印を下さる。近江の國坂田郡柏原クの內百六十石餘。幷に坊舍門前山林境內諸役免除の事。院內法度とも慶長三年十月四日先判の旨にまかせ。永世相違あるべからずとなり。けふ駿城三丸にて申樂五番。(國師日記。創業記。)
○七日本多平八カ忠勝。其弟鍋之助政朝。正月より駿府にありしが。暇給はり江戶に赴く。常州水戶小松寺宥重。一乘院朝岡。寳鏡院千本正意。伊豆三島相除院長音駿府に參謁す。(創業記。國師日記。)
○八日駿城にて眞言新義の論義聞し召る。大佛智積院祐宣。關東明星院祐長證義たり。この日淺間社祭あり。(駿府記。舜舊記。)
○十日智積院に御朱印を下さる。學問のため住山の所化二十年に滿されば。法幢をたつべからず。所化の徒能化の命を用ひずひが事あらば。寺中を追却すべし。所化等徒黨をくはだて。訴論を起すに於ては。その酋を追却すべし。もし酋たるものさだかならずば。其黨中首座の者を擯出すべし。院領は豐國領の中二百石全く收納し。故例のごとく能化進退すべし。寺地上下幷所化宅地。先規のまゝ相違あるべからずとなり。また惣持寺には江州坂田郡の內百二十石。先規のごとく全く收納し。寺地竹木等全く免許せしめらるとなり。又小谷寺には江州淺井郡小谷の內四十四石餘。先規のまゝ收納すべしとなり。竹生島には近江國淺井郡早崎浦のうち三百石。先規のごとく全く收納すべしとなり。これみな智積院に下さるゝところなり。この日松平陸奥守政宗駿城にまうのぼり拜謁し奉り。銀百枚。時服十領献ず。神龍院梵舜も伺候す。(國師日記。駿府記。舜舊記。)
○十二日松平陸奥守政宗めしにより。駿城にのぼり荼をたまふ。日野大納言入道唯心。山名豐國入道禪高是に加へらる。政宗この日駿府を辭して。江戶におもむかんとす。近日ョ宣卿の猿樂を見せたまふべしとて抑留したまふ。(駿府記。貞享書上。)
○十三日松平筑前守利常の妻は御所の姬君なり。こたびその御腹に女子うまれ給ひしかば。利常家司奥村備後守永福を駿府に使し。銀百枚。時服十領を献ず。永福を御前にめして時服かづけられ暇給ふ。この日神龍院梵舜まうのぼる。高野山大樂院等六僧。御前にて眞言論義聞しめさる。けふ忍城番石野新左衛門廣光死して。その子新藏廣次家をつぐ。この廣光は今川士河內守廣成が二子にて。御家人となり。長篠の軍に菅沼小大膳定利に屬し功あり。其後天龍川長久手の戰に高名し。定利卒して後は高木九助廣正と共に。その所屬の兵をあづかる。この日六十二歲にて沒す。(駿府記。舜舊記。國師日記。家譜。ェ政重修譜。)
○十八日駿城三丸にて猿樂九番あり。ョ宣卿皇帝。井筒。通小町をまはせ給ふ。松平陸奥守政宗めして見せしめられ饗せらる。(駿府記。貞享書上。)
○十九日松平陸奥守政宗暇給はり。駿府をいでゝ江戶に赴く。和州長谷寺玄音。常陸の眞壁樂法寺。同遍照院駿府にまいり拜謁す。(駿府記。國師日記。)
○廿一日松平陸奥守政宗江戶に參る。この後駿府より藥二十五品賜ふ。(貞享書上。)
○廿五日大久保石見守長安死す。とし六十九。此程下疳をなやみて。樣々治療しけれど。しるしなくてけふうせぬ。長安危篤にのぞみ。金棺をつくり遺骸を納め甲州へ送り。國中の緇徒を集め。葬儀華麗に執行べき旨遺言す。その事大御所聞しめし御けしきよからず。その遺言用ゆべからずと命ぜらる。(慶長年錄。)
○廿六日土井大炊頭利勝御使として駿府に參る。これ越前の家司訴論の事によりてなり。京職板倉伊賀守勝重駿府に參謁し。京都の政務を聞えあぐる。松平陸奥守政宗が封內眞言洞家四十九院爭論の事。金地院崇傳もて。大御所へ訴ふ。(駿府記。國師日記。)
○廿七日安藤對馬守重信。村越茂助直吉播州より駿府に歸り。姬路の政事得失を聞え上る。家司中村主殿助。若原右京が私曲のさまさだかなれば。この二人罪せらるべしと仰出さる。しかるに右京旣に病沒す。主殿助はやがて改易せらる。この後主殿助は眞田左衛門佐幸村が招に應じ。大坂に籠城せしとぞ。(駿府記。)
○廿八日照高院道澄准后駿府に參向せらる。西洞院宰相時慶卿このほど駿府より。江戶へ參向ありしが。
けふ駿府へ歸らる。(舜舊記。國師日記。)
◎この月山圖書助成重駿府に御使す。(家譜。)
○五月朔日月次朝會例のごとし。駿城にも同じ。神龍院梵舜駿府を辭して江府に赴く。三寳院准后義演駿府に參向せらる。成菩提院江戶より歸り參る。去年夏秋の頃より雨多く。今年も春夏打つゞきたるによて。重て國々の河水暴漲す。(舜舊記。駿府記。國師日記。當代記。)
○二日泉堺政所米津C右衛門正勝阿波國に配流せらる。これは芥川の里民私に人を殺せしに。正勝が屬吏賄賂を貪りて其賊をとらへず。よて里民等訴出しによりてなり。この日駿城にては照高院門跡道澄准后。三寳院義演准后御對面あり。(駿府記。慶長年錄。)
○三日西園寺右大將實益卿長子三位中將公益卿駿府に參向あり。(駿府記。)
○四日西園寺右大將父子。其外西洞院宰相時慶卿。竹內刑部少輔孝治等月卿雲客。駿城にまうのぼり拜謁す。(駿府記。)
○五日端午拜賀例のごとし。駿城には公卿殿上人も拜賀せしが。はてゝ御前に於て本山當山の訴論を聞しめさる。照高院門跡道澄准后。三寳院義演准后出座せらる。板倉伊賀守勝重本多上野介正純。その外諸老臣御前に伺候す。日光院千勝坊は。照高院門跡にしたがひ。法隆寺先達等と。三寳院門跡にしたがひ。双方にわかれ對决せしめられしに。本山派武藏の不動院玉瀧非據たるにより追放たる。(國師日記。)
○六日駿府にて幸若の舞御覽あり。大乘院江戶よりかへりきたり拜謁す。この日大久保石見守長安が死せしにより。その屬吏をして長安が所管の諸國賦稅を會計せしめられしに。長安が數年の贓罪あらはれ。國々に令してその贓貨を查撿せしめらる。よて長安が屬吏等を彥坂九兵衛正光に命じ獄に下さる。(駿府記。國師日記。創業記。)
○九日神龍院梵舜江城にまうのぼり。紹運錄幷に料紙を獻ず。また萩原左兵衛督兼從より獻ずる太刀幷單物三袷二を。梵舜名代としてさゝぐ。(舜舊記。)
○十日恒岡內記資正死して。其子新左衛門資久家をつぎ大番にいる。(家譜。)
○十一日故中坊飛驒守秀祐が子左近秀政。父の職を襲て南都奉行を命ぜらる。(ェ永系圖。)
○十二日大久保相摸守忠鄰。安藤對馬守重信薦擧により。京醫岡道琢孝賀江戶に參謁す。(ェ永系圖。)
○十三日佐原次カ左衛門元久死てその子太カ左衛門元次つぐ。
○十四日神龍院梵舜江戶を辭して駿府に赴く。よて時服二襲。金一枚給ふ。(舜舊記。)
○十七日松平筑前守利常駿府に參り。夫より江戶に赴く。故大久保石見守長安年頃の姦惡露顯により。其子みな召あづけらる。長子藤十カは遠州掛川に。二子外記は同州須賀松平式部大輔忠次に。三子山權之助を相州小田原大久保相摸守忠隣に。其外運十カ內膳右京等は各所にあづけらる。(創業記。世に傳ふる所は。長安石見佐渡の金銀山を所管して。其家きはめて富しかば。奢侈かぎりなかりしが。死にのぞみ數十人の寵妾等に財寳を分ちあたふべき旨。其子に遺言せり。寵妾等にも其事申置しかば。長安死後にかの妾ども其子に財寳をはたりとらんとす。されども長安年頃奢侈につのり贓多し。この會計を獻ぜざる以前は財貨を分つべきにあらずとてあたへず。妾等これを憤り官にうたふ。これより查撿加へられしが。ある日長安が妾どもの中にも。ことさら寵深く蒙りしものをめして。長安がことさら秘藏せし寳やあると問せられしに。長安が生涯寢所の下に石室を設け。その中にKき箱有しといふ。依て其箱をめしよせて查撿あれば。其中に長安この年頃朝鮮に交通し。私に財寳をかの國に贈りし文書どもを入置しが。中には大不敬の事共。又は連座の諸大名も多くあり。これより長安が罪科重くなり。連及の大名等もその事となく罪蒙りしとぞ。誠にやこの長安はもと甲州武田につかへし大藏大夫といへる猿樂の子なりしが。甲州版圖に入けるより長安宮仕しけるが。才幹ありて賦稅會計のことに精しかりしかば。日を追て其方に登用せられ。後には大久保忠隣が苗字を受て。大久保石見守と稱し。金銀山の事を掌り。近年驕奢淫逸をきはめたりとぞ。武家記。當代記。)
○十八日中澤主稅助某死して。その子主稅助吉政つぐ。この日甚雨。(家譜。當代記。)
○十九日駿城にて。三井寺の僧徒日光院等めして。天台論義聞しめさる。また高野山の僧徒幷竹林坊重順等。眞言の論義あり。信州戶隱山顯光寺駿城に參り謁す。今年越前の家司等ふたゝび訴訟の事ありて。上裁を加へられ。本多伊豆守富正いよいよ忠直朝臣を輔導し。國務沙汰すべしと命ぜられ。今村掃部助C水丹後は去年改易せらる。中川出雲守。廣澤兵庫助。林伊賀守は今年遠流に處せらる。竹島周防守は罪なきがゆへにゆるされしかども。查撿の間禁獄せられしを耻て自殺す。本多丹下成重新に越前に附屬せられ。四万石になり同國丸岡の城給はり。
富正と同じくその國政をとらしめらる。(國師日記。駿府記。成重幼なくて。もとの黃門秀康卿豐臣關白の養子として。上洛し給ひしとき。供奉して登りける。そのとき仙千代と申けるは。この成重なりとぞ。藩翰譜。)又大久保石見守長安が下吏等諸大名にあづけらる。長安が贓物各國より上納五千貫目。その外金銀の調度あげてかぞふべからず。慶長六年より今年に至で十六年の間。石見佐渡等へ巡視にまかる路次中。婢妾七八十人または二百五十人を引具し。經過の驛々新舘を設け。飮食等の費用かぞへつくしがたく。世人久しくその淫逸驕奢をしつて。人口に膾炙せりといふ。(當代記。)
○廿日松平筑前守利常駿城にのぼり拜謁して。銀五百枚。綿五百把。紅絹百匹。朽葉𥿻百疋献ず。其家司山山城守。奥村河內守。同攝津守みなもの奉り拜し奉る。高野無量光院長海。大樂院庵室。釋迦文院。覺證院みないとま給ふ。多門院長源には遍照光院收公の地百石たまふ。(駿府記。國師日記。)
○廿一日毛利伊勢守高政が子勘八カ高成拜謁す。神龍院梵舜江戶より駿府に歸りまうのぼる。この日本山當山修驗の法令を定られ。御K判を給ふ。三寳院には本山の山伏等眞言宗に對して理りなき役義の事停禁せらる。されど眞言宗の徒立寄りて。佛の法にあらざる祈念執行ものあらば。其徒を擯斥すべし。今より後かたく此旨を守るべしとなり。又修驗道の事。古制のまゝに山伏の由獅ノしたがひ入峯すべし。當山本山各别のことなれば。互に諸役混亂すべからず。今より後嚴に此令を守り。指揮せらるべしとなり。聖護院には本山の山伏眞言宗に對し。理りなく役儀行ふ事は停禁せらる。たゞし眞言宗の徒立寄て佛の法ならざる祈禱等執行するものあらば。其役儀をとゞむべし。今より後嚴に此旨を守り。指揮せらるべしとなり。又關東新義眞言宗に成下さるゝ條目には。住山勤學の所化二十年に滿ずして法幢を執べからず。入室の後闕座の徒あらんには。永く擯斥すべし。坐班は勤學階揩フ次第に任すべし。住山を遂ずして香衣を着すべからず。諸末寺の徒本寺の令を違犯すべからず。權門俗緣をかたらひ非法を企べからず。他寺の門徒を奪取べからず。本寺にうたへずして。末寺に住居すべからずとなり。(ェ永系圖。國師日記。)
○廿二日松平筑前守利常駿府を辭して江戶に赴く。(駿府記。)
○廿三日八幡豐藏坊宥傳駿府に參謁す。(國師日記。)
○廿七日良正院御方播州をいでゝ。駿府にまいらせたまふ。これ故松平宰相輝政の北方なり。此日京南禪寺に寺領の御判物を下さる。寺領五百九十二石餘。常住領梅津の內三百石。通計八百九十二石餘は。山城國各所にあり。こは全く收納あるべし。門前境內山林竹木等も先例のごとく免除せらる。永く相違あるべからず。此旨を守り佛事勤行修造等怠慢なく。彌天下安全の精祈を抽づべしと之。(駿府記。國師日記。)
○廿八日京北野松梅院駿府に參謁す。(國師日記。)
◎是月松平筑前守利常駿府より江戶に參り謁し。もの多く奉る。また酒井作右衛門重勝死す。その子與九カ重正は先だちてうせぬ。孫與九カ重之わづかに十一歲なり。重勝は采邑三千石。别に與力給として五千石給はりしが。重之幼稚なるゆへ。采邑千石。别に與力給二千石を給ふ。重勝は七カ右衛門重元が子にて。はじめ使番たりしが。長久手戰の時に鑓奉行となり。其後旗奉行を命ぜられ。關原の軍に戰功あり。しばしば祿加へられ。伏見の城を守り天守をあづかる。ことし六十五歲にて病死せり。此頃大坂にては右府秀ョ公。しきりに住吉邊遊行のよし聞ゆ。(大成記。ェ永系圖。當代記。)
○六月朔日當賀例のごとし。駿城も同じ。宮城十二カ豐嗣八歲にて初見し奉る。はてゝ天台宗論義聞しめさる。この日大雨。(ェ永系圖。舜舊記。當代記。)
○二日藤堂和泉守高虎が邸に臨駕し給ふ。(國師日記。)
○三日林道春信勝駿城御所にて論語を進講し時服一襲。金二枚かづけらる。けふ森織部義安死して。その子七兵衛義盛家をつぐ。(駿府政事錄。家譜。)
○四日駿府にては。この六日卯刻神龍院梵舜に。神道の御傳を受させ給ふべしと仰出さる。けふ土旺。(駿府記。當代記。)
○五日駿府にて長谷川左兵衛藤廣。𨗴羅諳吉利亞及び漳州の舶六艘。長崎の湊に着岸せしよし聞えあぐる。水戶佐竹八幡别當光明院駿城へ參謁す。この頃よりして諸國炎旱。(駿府記。國師日記。當代記。)
○六日中島大藏盛直死して。その二子五カ右衛門盛利家つぐ。駿城にては神龍院梵舜神道傳受し奉らんとまうのぼる。大御所その期にのぞみ。神道玄遠にしくたやすく聞くべきにあらずと仰出さる。其後梵舜。金地院崇傳等御前に於て。御閑談刻をうつさる。安藤對馬守重信江戶より御使として駿府に參り。故松平宰相輝政遺跡の事を議せられ。大御所の御旨をうけさせ給ふ。この日江戶より關東眞言宗諸本寺に御判物を下さる。其文にいふ。學問のため住山の所化。
二十か年をへずして法幢を執べからず。學室に入て後闕如の輩は。速に宗門を擯斥すべし。座配は學問階揩フ次第たるべし。住山をとげずして。香衣を着すべからず。諸末寺の徒本寺の命にそむき。俗緣權勢をョみ非法を企べからず。本寺にうたへずして。末寺に住居すべからず。他寺の門徒を奪取べからずとなり。また醍醐寺領の御判物を。三寳院門跡義演につかはさる。其文にいふ本山の修驗等いはれなき役事を眞言宗に課する事。かたく禁ぜらる。宗門の中にて寄合祈念するは正法にあらず。今よりのちもしさる事修行せば。その罪者を擯斥せらるべしとなり。又修驗道は先々の由獅フまゝに。諸國の山伏入峯すべし。當山本山の品を分ち。諸役互に混亂すべからず。この旨を得て指揮せらるべしとなり。また醍醐寺山上山下領。都合三千九百九十八石餘の事。幷門前境內山林竹木等守護不入たるべし。寺家法度坊舍再興以下。先規の如く當門指揮あるべし。その他諸事慶長十五年四月廿日先判の旨。相違あるべからずとなり。(家譜。駿府記。慶長年錄。家忠日記。國師日記。)
○七日駿城にて本多上野介正純を。安藤對馬守重信にそへて江戶につかはさる。故松平宰相輝政封地の事を議せらるゝ爲とぞ聞えし。(駿府記。)
○九日三井寺の僧等駿城に登り拜謁す。明後日論義聞し召べしと仰出さる。これよりさき板倉內膳正重昌は。大久保石見守長安が贓財查撿の事奉り上洛せしが。その事はてゝ駿府に赴く。(駿府記。當代記。)
○十一日駿城にて天台宗論義聞し召。竹林坊重順。五智院x海。玄陽院等なり。講師は金乘院つかふまつる。(國師日記。)
○十三日本多上野介正純江戶より駿府に歸り謁し。御所の御旨を聞えあぐる。(駿府記。)
○十六日嘉定例のごとし。駿城も同じ。傳奏の公卿上洛す。京職板倉伊賀守勝重に。公家條目をつかはさる。公家衆家々の學業。晝夜怠慢なくつとめしむべし。老少をいはず禮法にそむく徒は。遠流に處すべし。尤其罪科の輕重によりて。年月の程限を定むべし。夙夜の朝勤老少ともおこたるべからず。其他威儀をつゝしみ。朝參の刻限定例を守るべし。晝夜ともにゆへなく市街小路を徘徊あるべからず。公宴の外私に似つかはしからざる勝敗をいどみ。其上無ョの侍等を家に召置輩は流罪たるべし。かく定められし上は。五攝家幷傳奏衆より其事の告あらば。武家より沙汰せらるべしとなり。又諸寺紫衣の制を仰下さる。大コ寺。妙心寺。知恩院。知恩寺。淨花院。泉涌寺。粟生光明寺。K谷金戒寺等住持職は。勅許あらざる前に聞え上べし。其器量を撰ではからふべし。其入院の事申沙汰すべしとなり。此日故松平宰相輝政の遺領を分ち給ふ。播磨國五十二万石は長子武藏守利隆に給はり。備前國三十一万五千石は二子左衛門督忠繼給はり。播磨國宍粟。佐用。赤穗三郡をそへらる。淡路國六万三千石は三子宮內大輔忠雄に給はる。又駿城には神龍院梵舜まうのぼり。神道の御物語聞えあげて。歸洛のいとまたまふ。(駿府記。舜舊記。)
○十七日倉橋三カ五カ政範死して。其子長右衛門政厚つぐ。駿城には園城寺の僧徒をめして。論義聞しめさる。(家譜。國師日記。)
○十八日西ク出羽守康員卒しけれは。其弟孫六カ正員をして家つがしめらる。此康員は彈正左衛門家員が三男なり。兄孫九カ早世せしかば。父の跡をつぎ。三遠の古禮にしたがひ。每年正月二日謠曲はじめのとき着座す。慶長十四年十二月七日從五位下して出羽守と稱し。今年二十九歲にてうせぬるなり。この日駿城にて照高院門跡道澄准后歸洛の辭見せらる。このほど京北野松梅院幷宮仕座論の訴訟ありしが。けふ裁斷せられ。いまより後松梅院より。宮寺の雜事指揮すべしと仰出され。宮仕能閑は改易せらる。又此後竹內曼殊院門跡良恕法親王。北野寺務として万事沙汰あるべしと定めらる。(ェ永系圖。駿府記。)
○十九日一尾小兵衛通春叙爵して淡路守と稱す。(ェ永系圖。)
○廿日京職板倉伊賀守勝重歸洛のいとまたまふ。このごろ連日炎暑。近年まれなるところとぞ聞えし。(駿府記。當代記。)
○廿一日平野遠江守長泰は。去年九月より京二條の城搆造の助役して。かの地にありしが。こたび落成せしかば。兩御所より御書を給ふ。この日松平C六某幷鈴木平兵衞某が二子某。搶緕將において爭論して。二人ともに鬪死す。また駿城にては天台宗論義を聞しめさる。(家譜。創業記。當代記。駿府記。)
○廿二日良正院御方此ころ駿府におはしけるが。けふ播磨國へ歸り給ふ。これ輝政のことにより。其愁をなぐさめられんがため。久しく駿府へ招きとゞめさせ給ひしなり。この日京にては大久保石見守長安が事に座し。瞽者多く罪を蒙る。近年平家琵琶の妙手とよばれし高山淀一撿挍もこれに座す。(駿府記。)
○廿四日駿府にて天台論義聞し召る。三井寺僧喜見坊。眞淨院。法泉院。圓光坊。竹林坊重順。五智院x海。瀧の龜井坊。明星坊等まうのぼり。
法泉院講師たり森右近大夫忠政召により。美作國より駿府に參る。(國師日記。駿府記。)
○廿六日森右近大夫忠政駿城にまうのぼる。大御所より木紀伊守秀以秘藏せし肩衝をたまふ。其上にて松平左衛門督忠繼少年のこと故。國務を教諭すべしとの仰を蒙り。忠政歸國の暇給ふ。これ忠政は忠繼が岳父なるがゆへとぞ。金地院崇傳にも眞壺の茶を給ふ。この日また長崎の湊に。唐船數艘着岸の注進あり。又木屋彌三左衞門暹羅國より歸り。駿府に參拜す。彼國の風俗土產をとはせ給ふ。僧徒多くして黃衣を着すといふ。(駿府記。國師日記。)
○廿八日駿城にて天台論義聞しめさる。(國師日記。)
○廿九日今年諸國大旱の所昨今兩日駿河三河兩國雨を得て。國民大によろこぶ。(當代記。)
○三十日藤堂和泉守高虎駿府に參着す。(國師日記。)
◎是月松平陸奥守政宗の女。上總介忠輝朝臣へ婚嫁のため越後へ入輿あり。本多飛驒守成重は越前に附らるゝにより。采邑三千石其子丹下重良に給ふ。戶田半平光正死して。其子半平正好家をつぐ。又久永源兵衞重勝。五味金右衞門豐直。伊丹喜之助康勝。加藤市六正勝をして。武相兩國を巡視せしめらる。また島田C左衞門直時を甲州につかはされ。大久保石見守長安が事跡を案撿せしめらる。(貞享書上。家譜。ェ永系圖。慶長見聞書。) 
卷二十三 / 慶長十八年七月よりはじまり九月に終る 

 

○七月朔日拜賀のごとし。駿城にも同じ。(駿府記。)
○三日內裏造營けふ柱立あり。小堀遠江守政一これを奉行す。(駿府記。ェ永系圖。)
○六日南光坊僧正天海。高野寳性院政遍駿府に參著す。叡山淨教坊實善も同じ。(駿府記。國師日記。)
○七日星夕の拜賀例のことし。駿城もおなじ。朝會はてゝ大御所淺間の神事能御覽にならせらる。義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣も陪從し給ふ。能は梅若つかふまつる。(駿府政事錄。駿府記。)
○八日駿府にて猿樂あり。水無P中將親具入道一濟。池田備後守重信。鈴木久右衛門伊直等見る事をゆるされ。藤堂和泉守高虎が扈從左京喜之助等其事つかまつる。(駿府記。)
○九日故大久保石見守長安が諸子。父の罪によりて刑せらる。長子藤十カ某は兼て預られし遠洲掛川の城にて切腹。外記某は松平式部大輔忠次の同州須賀城にて切腹。山權之助某は大久保相摸守忠隣が相州小田原の城にて切腹。運十カ某。內膳某。右京某。其餘一人。都て七人皆腹切らしめらる。(駿府記。世に傳ふる所は長安死せし後贓罪を查撿あり。佐渡金山の會計糺されしに。佐渡は所領の地と心得てあるよし。子弟屬吏等答ふ。されど佐渡金山の事を長安に所管させられしのみにて。所領給はりしにあらねば。御命書たまはらず。長安が所領は關東にて千石下されしのみにて。别にたまはりし地はあらず。是又長安姦計にて。佐渡の地を所領の如くいひなし置たるなり。さて子弟等を方々へめしあづけられ。属吏をば獄につなぎ置て穿鑿を極られしに。ありのまゝにこたへし屬吏は其罪をゆるされ。又詐りをかざりたるものは死刑に處せらる。長安常に寢所の下にK匱を置て。其中に朝鮮へ交通せし往復の書をかくし置。又庫中に常に毒酒を數十樽蓄置。又武田の系圖武田の紋幕旗等を藏せり。仍て其罪いよいよ重く查覈せられしに。信玄の庶子聖堂といへる瞽者あり。其子は甲府一向專修の長園寺に住職たり。此僧信玄が孫なれば。其系圖幕等を傳來す。長安その僧をたぶらかし。かの幕旗幷その系圖までも請得て秘藏す。その事跡頗る大不敬の罪にあたるとて。其子弟等またおもく罪せられ。かの僧も伊豆の大島へ流されしとぞ。坂日記。)
○十日駿城にては大御所金地院崇傳をめして御閑談時をうつさる。この日藤堂和泉守高虎。駿府を辭して就封す。國師日記。)
○十二日土岐山城守定義大番頭になる。これさきに罪蒙りたる山口但馬守重政が闕を補せられし之。(代々記。)
○十七日毛利伊勢守高政が長子勘八カ高成叙爵して攝津守と稱す。この日伏見戍役にまいる大番頭に。在番の條目を下さる。其文にいふ。伏見城中番士の外。他人と交通すべからず。番所に武具幷得道具を備置べし。戍役中京都に於て。土人をもて僮僕とすべからず。城中に諸商を出入すべからず。戍役の間嚴密に日簿を記錄すべし。饗應のこと一汁三菜。酒は二巡たるべし。上下とも市中の浴室にまかる事停禁す。火禁の事嚴に令すべし。この旨いさゝか怠慢すべからずとなり。また信濃國戶隱山神領の御朱印を别當顯光寺に下さる。戶隱山神領信濃國水內郡の內千石。去年五月朔日先判のむねにまかせ。别當料五百石。社僧料三百石。社家料二百石收納せしむべし。社領村里門前境內山林竹木等守護不入の地として。ながく相違あるべからずとなり。駿府にては天台宗論義聞しめさる。講師は日揄@珍祐。精義は南光坊僧正天海つかふまつる。(ェ永系圖。令條記。慶長日記。駿府記。)
○十八日本多平兵衛季直死して。其子忠左衛門忠直つぐ。(家譜。)
○廿日駿城にてハ見院玉甫迁化のことを金地院崇傳聞え上る。(國師日記。)
○廿一日松平忠左衛門勝隆駿城にて大番頭命ぜられ。與力七十騎。同心五十人を預る。駿城大番組是まで二隊なりしが。けふより一隊をまして三隊となる。(ェ永糸圖。代代記。)
○廿三日山城國石C水八幡宮别當新善法寺に御朱印を下さる。其文にいふ。石C水の八幡宮放生川靈地たるうへは。地下人前々のごとく禁制たるべし。安居の神事は地下人つとむべし。もし他人にゆづり。又坊寺田畠等沽却せば。查撿して棄破すべし。地下人等跡職の事。新儀をかまへたる寺院を遁るる輩禁制すべし。殺生禁斷の地たれば。もし放鷹するともがらあらば申斷るべし。もし濫なる徒あらば。交名を注しうたへ出べし。すべて八幡八ク撿地免許並神事祭禮。山上山下社法の次第。慶長十五年九月廿五日先判の令にまかせ。彌相違あるべからず。この旨を守り社家中嚴重に令し。國家大平の懇祈精義を抽づべしとなり。此日駿城にては天台宗論義きこしめさる。桑名佛眼院講師たり。(家忠日記。駿府記。)
○廿四日中根喜八カ正時死して。其子平十カ正盛家をつぐ。(家譜。)
○廿五日大番頭井伊掃部頭直孝。渡邊山城守茂伏見城在番命ぜらる。松平安房守信吉。植村帶刀泰勝。一色宮內少輔直爲同じ城番を命ぜられ。
江戶を辭して駿府より參謁す。(駿府記。ェ永系圖。)
○廿六日伏見城在番勤番のともがら駿府にて辭見し上洛す。(駿府記。)
○廿八日本多豐後守康紀が子出羽。御一字給り忠利となのる。雲次の御刀並に御書を給ふ。(貞享書上。)
○廿九日江州石山寺に御朱印をたまふ。江州寺邊村のうち五百七十九石餘全く寺納あるべし。山林等先規のごとく相違あるべからず。この旨をまもり佛事勤行修造等怠慢なく。いよいよ天下安全の精祈を抽づべしとなり。また伊勢國熊岳金剛證寺に御朱印を給ふ。勢洲度會部山村のうち百石。全く寺納あるべし。先規にまかせ相違有べからずとなり。(國師日記。)
◎此月渡邊忠右衛門守綱。子半藏重綱ともに義直卿に附られ。守綱は三洲にて五千石。尾洲にて五千石加恩ありて。舊領に合せて一萬四千石になり。もとのごとく足輕百人あづけらる。(ェ政重修譜。)
○八月朔日當賀例のごとし。駿城も同じ(駿府記。)
○二日長崎より唐商等駿府に參着す。その中烟火戱に妙を得たるものありと聞ゆ。(駿府記。)
○三日駿城にては蠻人等拜謁す。諳吉利斯人は猩々緋。弩。鐵炮。千里鏡を献じ奉る。花火の術を得し唐商には。六日に其技を御覽ぜらるべしと仰出さる。この日西風烈しく吹く。長崎よりの貢船十五艘沈溺す。よつて京堺の地俄に糸價騰貴せしとぞ。(駿府記。當代記。)
○四日いんからていら國の(いまいふ伊伎利須なり。)使はじめて長崎にきたる。その國主より書簡並方物數種さゝぐ。この日伊勢國大風。(異國日記。當代記。)
○五日土井大炊頭利勝江戶より御使として駿府に參着す。(駿府記。)
○六日花山院大納言定熙卿。その子侍從定好朝臣に家領の御印書をつかはさる。亞相へは家領山城國のうち二百八十石。新知二百三十石餘。通計五百十五石餘全く知行あるべし。拾遺には山城國の內二百石宛行ふにより。全く知行あるべしとなり。さきに大久保石見守長安が事に座して。瞽者多く罪をかうむりしかば。これを謝せんがため惣撿挍以下の瞽者六十餘人。京より駿府に參着せり。又駿府二丸にて唐啇烟火の戱御覽ぜらる。義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣も陪し給ふ。(國師日記。駿府記。)
○七日常陸國佐竹八幡宮神主社務訴訟の事あるにより。先社務玄音當社務光明院共に駿府にめし上すべしと仰下さる。(國師日記。)
○八日土井大炊頭利勝拜謁終りて駿府を發し江戶に歸る。(駿府記。)
○九日駿城にては明の月十七日。御放鷹のため關東に赴かせ給ふべしと仰下さる。この日近江國北風烈しく。志賀の湖風濤甚だ高く。啇船十餘艘破損す。(駿府記。當代記。)
○十日搶緕宸フ廓山駿府に參り拜謁し。近日觀智國師存應まうのぼるべきよし聞えあぐる。はてゝ御法話刻をうつさる。(駿府記。)
○十一日南光坊僧正天海辭見のためまうのぼりしに。論義御所望ありて御茶を給ふ。(駿府記。)
○十二日金地院崇傳へ米百石給ふ。(私記。)
○十三日觀智國師存應駿府に參着す。(駿府記。)
○十四日秋暑殊に甚しかりしに。夜に入て風大に起る。(當代記。)
○十五日觀智國師在應駿府の旅寓報土寺に。大御所ならせた給ひ法問御聽聞あり。本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。村越茂助直吉。松平右衛門佐正綱。其外百餘輩御供す。はてゝまた南光坊僧正天海の安倍川小路寓居へならせ給ひ。御法話黃昏に及び還御なる。(駿府記。)
○十七日加藤喜左衞門正次死して。その子喜助正重家をつぎ銃卒をあづかる。駿城にては觀智國師存應まうのぼり法問聞し召る。(家譜。駿府記。)
○十八日山城國八幡豐藏坊へ御朱印を下さる。その文にいふ。城州八幡の內四十三石餘。片岡道仁沒入の地四十四石餘。落合忠右衛門沒入の地ともに八十七石餘。坊領として寄附せらる。舊領二十石。都合百七石餘所領たるべし。この旨を守りて佛事勤行修造等怠慢なく。いよいよ天下安全の懇祈を抽べしとなり。この日駿城にては禪宗法問聞し召る。ハ寧寺法幢たり。觀智國師存應も出座す。(國師日記。)
○廿一日駿城に江戶吉祥寺泉龍まうのぼり法問聞しめさる。けふ松平武藏守利隆。左衛門督忠繼兄第駿府に參着す。(駿府記。)
○廿二日松平武藏守利隆。左衛門督忠繼駿城にのぼりて襲封を謝し奉る。利隆は守家の太刀。銀三百枚。忠繼は長光の太刀。銀二百枚獻じ。利隆に志津の御刀。忠繼にも御刀幷鷹馬を賜ふ。又呂宋國王の使者召されて謁をたまふ。このとき御羽織袴をめし。上段にわたらせられ。曲を奉る。國王より書簡。蒲萄酒。氷糖を進らせ。使者卷物を獻ず。金地院崇傳御前に於て其書簡をよむ。老臣へも書簡を贈り。後藤庄三カ光次へも贈る。(駿府記。ェ永系圖。異國日記。)
○廿五日紀伊國領主淺野紀伊守幸長卒す。歲三十八。此幸長は彈正少弼長政の長子にて幼より豐太閣の膝下に近侍し。天正十七年四月叙爵して左京大夫と稱し。同十八年小田原の戰に父長政にかはり。
三千餘騎を引具して軍に從ふ。五日武州岩槻の城責に本多平八カ忠勝と同じく眞先かけて大手口を攻破る。橋の上に戰ひ城兵力盡て降參せしかば。翌日其城を請取。太閣よりも。大御所よりも御使給はり。幸長が功を稱し給ふ。そのとき幸長十五歲なり。文祿元年十八歲にて朝鮮の軍におし渡り。西生浦に城を築き。加藤肥後守C正と同じく所々の敵城を攻落。おなじ四年朝鮮和をこふにより歸朝し。慶長二年和議破しかば再度渡海し。明の援兵と戰ひ。大軍を敵に受て少しも屈せず。其身手疵數か所負ながら。勇を奮て明韓の大勢を切なびく。同三年の秋太閤薨ぜられ我國の軍引返に及び。その十月歸朝す。此比より大坂の奉行等やゝもすれば異心を起し。大御所をかたぶけ進せんとせしかば。幸長常に伏見の御館をはなれず警衛し。同五年上杉御追討の御供して。小山の御陣にまかりしかば。石田等の逆徒蜂起の注進ありければ。諸將をめして御軍議のとき。幸長進み出て。上方の諸將遠く本國をはなれて。こゝに從ひ來るもの。誰か命に違ふもの候べき。速に上方に御進發ありて。逆徒誅戮なし給ふべしと申ければ。御けしきうるはしく。幸長等先陣奉りて打てのぼる。八月廿五日諸將とおなじく木曾川を渡り岐阜の兵と戰て。池田三左衛門輝政と共に名ある敵の首千餘級切とる。翌日岐阜の城を攻て瑞龍寺の寨をやぶり。敵五百人討とる。九月十五日關原の戰には。輝政と同じく南宮を押へ。戰終りて後この勳功を稱せられ。甲斐國を轉じ紀伊國を給はり。六年從四位下にのぼり紀伊守と改め。けふ卒しぬ。(子なかりしかば封地除かるべきを。特惠にて弟右兵衛佐長晟つがしめらる。)けふ金地院崇傳に。呂宋國王へつかはさるゝ御返簡を製すべしと命ぜらる。(ェ永系圖。藩翰譜。異國日記。)
○廿六日仙波喜多院に關東天台宗諸寺の法制を下さる。その文にいふ。本寺の旨を請ずして。末寺に住職すること停禁たるべし。戒揩とげず非器の輩所化に附すべからず。尤斟酌すべし。然といへ共昔よりの法談所は時宜に從ふべし。諸末寺等本寺の命に背べからず。本寺の衆議を歷ずして。山門より直に證狀を受べからず。一寺に於て追放するものを。他寺にて用ゆべからず。もし山門おして許容ありとも。關東にては叡山の下知を受べからず。所化の徒一列して訴訟をこのみ。あるは連署して事を企るの類。その咎尤かろからず。制禁すべし。所化法談所二期の經回を欠べからず。一山の學頭别當ならびに衆徒。我意にまかするやからは。本寺に於て速に裁許をとぐべし。すべて今年二月廿八日先判の旨彌守るべしとなり。今夜紀伊國大風。旦にいたる。されども禾稼を害するには及ばざりしとぞ。(令條記。當代記。)
○廿七日駿府大風。土民屋多く傾覆す。(駿府記。)
○廿八日いんからていら國主へ御返簡ならびに押金屏風五雙。其外通商の條令を下さる。その文にいふ。いぎりすより。本邦へ今度はじめて渡海の商船。通商相違めるべからず。渡海するに於て諸般免許せらるべし。船に載來る商物は。其目をしるして召るべし。本邦各浦いづかたへなりとも。着岸相違あるべからず。もし洋中にて烈風に帆揖毁損せば。いづこの浦に漕寄るとも異議あるべからず。その請にまかせ府內にて宅地を給はるべし。屋舍搆造して其地に居住し通商すべし。歸國せん事はいぎりす人のまゝたるべし。屋舍もこれに同じ。この邦にていぎりす人病死せば。其荷物はその國人につはすべし。押買狼籍すべからず。その國人無ョのふるまひあらば。罪の輕重をはかり其頭目の申まゝに令し下さるべしとなり。この日井伊兵部少輔直勝駿府に參着す。(異國日記。駿府記。)この日大御所腫物を惱ませらる。針醫熊谷伯安宗祐治療して平愈し給ふ。(ェ永系圖。)
○九月朔日拜賀例のごとし。駿府も同じ。(駿府政事錄。)
○二日搶緕帶V智國師存應駿城にまうのぼり。法話刻をうつす。今日金地院崇傳のもとに觀智國師の弟子呑龍等を聚め。曩祖大光院殿幷御祖考大樹寺殿靈牌の書法を議せしめらる。(駿府記。國師日記。)
○三日大坂の元老片桐市正且元駿府に參謁す。先に右府秀ョ公より一万石摯浮ケらるゝといへ共。關東の盛慮を憚り。辭して受ざるよし聞し召て。拜受すべき旨仰下さる。此日京新K谷金戒光明寺に御判物を給ふ。城州岡崎の內百五石。同淨土寺の內二十五石。都合百三十石。先規にまかせ全く寺納すべし。門前境內山林竹木等免除相違あるべからず。此旨を守り佛事勤行修造等怠慢あるべからずとなり。けふ妻木吉左衛門之コ上下總の內にて采邑五百石下さる。(駿府記。國師日記。家譜。)
○四日駿城の御前に法華僧推參するものあり。近臣等引立て退かしむ。(國師日記。)
○五日駿城にて金戒光明寺西林。備後國P戶田に法然上人の影像幷聖經を傳へたるよし聞え上る。依て領主福島左衛門大夫正則に糺問すべきよし。本多上野介正純に仰下さる。
又町奉行彥坂九兵衛光正。江洲伊香郡菅山寺に一切經を收藏たるよし聞え上ぐ。その目錄二卷御覽に供ふ。けふ普請奉行貴志助兵衛正久死して。其子八カ右衛門政尙つぐ。(國師日記。家譜。)
○七日神尾五兵衛守世重陽の賀使命ぜられて駿府に參る。(駿府記。)
○八日常陸國水戶八幡宮神主社務玄音。宮寺寳鏡院訴論上裁あり。神主幷寳鏡院申所理りありとて。玄音非據たるに定まり。去年たまはりし御印書を收公ありて。神主に慶長七年の御朱印をもとのごとく下さる。(國師日記。)
○九日重陽拜賀例のごとし。駿城には江府の御使神尾五兵衛守世拜謁し。當賀として時服五領進らせらる。かつ關東この秋諸鳥多く集るよしを聞え上る。また金地院崇傳にも。當賀とて時服かづけらる。この日やようすへ暹羅渡海の御朱印をたまふ。(駿府記。私記。御朱印帳。)
○十一日石C水八幡别當豐藏坊へ御判を給ふ。石C水八幡宮神領の內當坊拜領の地幷寄進するところ。都合百餘石。去月十八日先判の旨にまかせ全く收納せしめ。永く相違あるべからず。彌國家安全の捆祈精誠を抽べしとなり。(國師日記。)
○十五日和州吉野山木食僧駿城にのぼり拜謁し。金峯山堂社修理料五百石くださる。(國師日記。)
○十六日先に大久保石見寺長安が事に座して。罪蒙りたる瞽者の事。松平右衛門佐正綱。後藤庄三カ光次が請ふ旨により御ゆるしあり。又小姓河內梅千代某俄に目しいたるにより。瞽者の座に入しめ撿挍たらしむ。(駿府記。此子孫武藏足達郡竹塚に農となる。今河內采女正胤祿同族と見えたり。)
○十七日大御所御放鷹としてC水にわたらせ給ふ。これ關東へ御鷹狩にならせたまふが故なり本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝。松平右衛門佐正綱。後藤庄三カ光次等扈從す。(駿府記。成P家譜。)
○十八日善コ寺に着せ給ふ。(駿府記。)
○十九日西城にて天台宗論義御聽聞あり。大河內善左衛門正澄が子善六カ政憲(時に十一歲。)初見す。大御所雨により善コ寺に御滯留ありて。この日銃もて鴻一雙連ね得給ふ。(慶長年祿。家譜。駿府記。)
○廿日大御所三島につかせらる。大久保相摸守忠隣浮島が原にてむかへ奉る。この日伊豆銀山の者等。大久保石見守長安が姦謀の旨を訴ふ。長安が沒前に訴出ざるが故に御けしきよからず。(駿府記。)
○廿一日大御所小田原へ着せ給ふ。江戶より御迎として本多佐渡守正信。加藤助右衛門則忠こゝにまかる。この日北條左衛門大夫氏勝が養子久太カ氏重叙爵して出羽守と稱す。(駿府記。ェ永系圖。)
○廿二日中原に大御所やどらせたまふ。(駿府記。)
○廿三日けふ中原に御滯留あり。
○廿四日おなじ。(駿府記。)
○廿五日中原を出給ひ。藤澤にやどらせらる。(駿府記。)
○廿六日神奈川にならせられ。大御所を迎給ひ。先立てかへらせ給ふ。(駿府記。)
○廿七日大御所城に入たまひ。西城に着せられ。在府の諸大名まうのぼり拜謁す。常陸國麻生領主新庄宮內卿法印直ョ子越前守直定家つぎて。二萬七千石餘を領せしめらる。四子宮內直房に三千石分つ。この法印が家は世々京都にありて室町將軍家につかふ。父藏人直昌は攝津國江口の戰の時。主從十二人同じ枕に討死す。直ョ並その子直定と共に豐臣家に眤近し。攝津山崎の城を守り大津の城にうつり。また和州宇田攝津高槻の城にうつる。(父子各一萬三千石づゝなりといふ。)慶長五年大坂逆徒蜂起のとき。奉行等が催促に從ひて伊賀の國にむかひ。上野の城を攻おとす。關原戰終てのち直ョ父子が陳ずる旨聞し召入られ。その罪をなだめ會津にながされ。(ェ永譜には。五年直ョ直定御陣に供奉すといへど。かたがた忠義を守り。御歸陣の後釣命に依りて會津に住すとしるす。其家の說たしかならぬに似たり。)三年ののち九年正月十五日父子召しかへされ。いまの領地三萬三百石餘たまはり。つねに江戶に伺候し御談伴に加へらる。十三年十二月二十六日直ョ入道して宮內卿法印になさる。十六年十二月下總國の御狩塲に亂入して鷹狩し。野守の爲に告られ父子とも逐電せしが。やがて御ゆるし蒙りめしかへされて。去年十二月十九日七十五歲にて卒せしなり。又駿河國沼津城主大久保治右衛門忠佐卒す。齡七十七。子なくして家たえければ。封地二萬石收公せらる。かつ沼津城地の利を得ずとて毁廢せらる。この忠佐は平右衛門忠員が二男なり。弘治二年蟹江の合戰を始として。大御所御幼稚の昔より。この年ごろ大小の戰に。忠佐が兄弟一族供奉して。忠戰を勵まさずといふことなし。忠佐常に兵刄の間に縱し。敵をうち旗を拔の高名あげてかぞへがたしといへども。終に手をも負ず。慶長六年いまの城たまはり二萬石を領しけるが。近年老病に臥し。けふ終をとりしなり。(駿府記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。御年譜。)
○廿八日西城にならせられ。大御所御對面あり。この日大御所は越谷に狩したまふ。(駿府記。慶長年錄。)
○廿九日大御所西城に還御なる。(慶長年錄。) 
卷二十四 / 慶長十八年十月にはじまり十二月に終る 

 

○十月朔日諸大名西城にのぼり大御所を拜し奉る。搶緕帶V智國師存應も同じ。此日里見讃岐守義高勤仕怠慢の罪によりて改易せらる。是は安房の領主安房守忠義が伯父なり。この日石卷下野康敬死し。二子權右衛門康貞家をつぐ。(駿府記。創業記。ェ政重修譜。)
○二日大御所葛西に狩し給ひ。鷹もて鶴鴈鴨を得給ひ。また銃もて鴻三雙打留給ふ。(駿府記。)
○三日南光坊僧正天海まうのぼり。西城にて論義あり。兩御所聞しめさる。諸大名も聽衆に列す。誓願寺幷に廓山等も同じ。(駿府記。)
○四日西城にならせられ。兩御所御物がたりはてゝ還御あり。その後大御所本多佐渡守正信。本多上野介正純を召て。御閑談刻をうつさる。(駿府記。)
○六日南部信濃守利直大御所に拜謁し。砂金千兩さゝぐ。(駿府記。)
○七日西城にて。大御所關東淨宗の僧徒を召れ。法理を御尋問あり。(駿府記。)
○八日吉祥寺泉龍西城に召れ。大御所法問聞しめさる。はてゝ兩御所前殿に出まして。坂崎出羽守成政。富田信濃守知勝が訴論を對决せしめらる。知勝非據に决す。黃昏に及びて淺野紀伊守幸長が遺物玉堂肩衡の茶入。古銅の花瓶。吉光の脇差を献ず。(駿府記。創業記。)
○九日西城にて兩御所南光坊僧正天海等の台宗十三人を台れ論義聞し召る。那須法輪寺講師たり。大御所本城へ成らせ給ふべしと仰出されしかど。御咳氣によりて延滯し給ふ。(駿府記。)
○十三日弓氣多源七カ昌吉。久貝忠三カ正俊御勘氣を蒙る。これは慶長十四年松平伯耆守忠一卒し。子なかりしにより。所領伯耆國收公せられしとき御使に參り。收公せらるゝ所の城中諸器械調度を大久保石見守長安に引渡せし事聞し召。大御所御氣色よからさるが故なり。此事に坐して谷全阿彌某が子六右衛門某も改易せらる。また鵜殿兵庫助某は土井大炊頭利勝にあづけられ。忠一が家司川毛備後守は。內藤若狹守C次にあづけられ。中村伊豆守。依藤半右衛門等は追放たる。これらは伯耆守忠一が家國除かれし時より。駿府に居住せしめられしが。今度其居宅悉く破却せらる。忠一が遺財を私せし事露顯の故とぞ聞えし。兵庫助(兵庫助はじめは同朋なり。長助長照とり立て武士とし。始は善六といひしとぞ。)は度々拷問にあひしかど。遂に一言をいはずして死せしとぞ。梶川平七カ分勝死す。長子半左衛門分好家をつぎ。二子平七カ勝重に千石の內五百石分ち奉仕せしむ。(創業記。慶長見聞書。駿府記。慶長年錄。ェ永系圖。)
○十四日松崎次カ兵衛重次死して。その子左平次重政家つぎ。曾根源左衞門長次死して。その子源左衞門家次家をつぐ。(ェ永系圖。家譜。)
○十五日淺野但馬守長晟京都より江府にまいる。(駿府政事錄。)
○十七日大御所このほど御咳氣にわたらせ給ひしが。快ならせ給ひければ。明日本城にならせらるべしと仰出さる。(駿府記。)
○十八日大御所本城へならせ給ふ。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝。松平右衛門佐正綱。後藤庄三カ光次供奉す。近習醫員等も皆陪從す。此日淺野但馬守長晟をめして。兄紀伊守幸長が遺領紀伊國を一圓に給ふ。これ幸長家つぐべき男子なきがゆへなり。(駿府記。)
○十九日駿府より供奉したる本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝。松平右衛門佐正綱。片山與安宗哲。後藤庄三カ光次。皆本城に召れ饗膳を給ふ。此日西城にて兩御所。南光坊僧正天海をめして論義聞し召る。夜に入て信濃國深志城主石川玄蕃頭康長を豐後國佐伯に流され。毛利伊勢守高政にあづけられ。深志の城をば信州飯田城主小笠原兵部大輔秀政に給はり。飯田は公料の地となる。此康長は伯耆守數正が子なり。數正天正十三年十月三日岡崎を走りて。豐臣家に投じける後。兼て約せし事ありしにや。關白より和泉國を給ひ彼家の軍奉行を奉り。十八年小田原の北條亡びし後は。信濃國深志の城給はり十万石領し。いくはどもなくて失ければ。所領を分て。長子玄蕃頭康長は八万石。二子肥後守康勝は二万石領しける。關原の時よりこの兄弟ともに御味方に參りければ。本領そのまゝ給はりしが。康長が女を大久保石見守長安が子藤十カ某に定婚し。そのちなみをもて長安と心を合せて。としごろ隱田せし事あらはれて。かく罪蒙りしなり。(深志城は小笠原領せしよりあらためて松本と名付しとぞ。)山圖書助成重は長安が子權之助某を養子としたる故これも御勘氣を蒙る。(駿府記。ェ永系圖。藩翰譜。紀年錄。)
○廿日大御所御鷹狩として。田邊より浦和へならせたまふ。(駿府記。御年譜。)
○廿一日御放鷹ありて。鶴鴈鴨あまた得給ふ。(この日御狩の地名をしるさず。駿府記。)
○廿三日川越にならせらる。朝倉才三カ政明死して子なし。天方山城守通總が二子堅次カ豐明して。その家つがしめらる。(駿府記。ェ永系圖。)
○廿四日伊豫國宇和島城主富田信濃守知勝封地十一万石收公せられ。奥州岩城城主鳥居左京亮忠政に預けらる。高橋右近大夫元種も。其事に坐して日向國飫肥七万石收公ありて。筑後柳川に配流せられ。立花左近將監宗茂に預けらる。これ慶長十年六月。坂崎出羽守成政すでに關東にまいりてうたへまいらせしが。其時は證據たしかならざりしかば。上裁に及ばざりし故。今度また其證狀を得て。大御所江府に御滯留の折から。幸としてうたへ出る。依てこの八日兩御所双方の訴を聞召けるに。出羽守成政が其證たしかなりとて。富田高橋の兩人語塞りければ。かく罪蒙りしなり。(駿府記。世に傳ふるところは。坂崎が家に左門といふものあり。人を討て立遁しが。富田が妻は坂崎が妹なり。左門坂崎がためにも此妻にもをゐなれば。そのよしみによりて富田が家に迯入て身をかくす。坂崎その事聞て。しばしば富田へその事をつげて。左門をかへし下さるべしといへども。富田はとくに我もとをも逐電して。有所をしらずと答ふ。慶長十年坂崎怒て安濃津の城にいたり。みづから搜索せんとす。其ころ富田は安濃津の城を領しければなり。然るに富田は折ふし伏見にありしかば。坂崎伏見まて來り。富田と爭戰に及ばんとす。人々漸々諫めしかば。坂崎大御所へ其事を訴へしに。大御所には。天下の事は皆將軍にゆづれり。關東へ參りうたふべしと仰下さる。坂崎江戶に下り訴へしかど。證據たしかならずとて上裁に及ばねば。このとし頃坂崎は幽憤に堪へず。左門も今は富田田がもとにも身をかくしかねて。富田がしたしき高橋がもとに行てかくれゐたり。富田が妻は左門が究迫を憐み。年每に夫にかくして左門がもとへ。米三百斛を與ふ。はじめ左門が亡命せし時。同じくにげうせし侍一人。いつしかこゝろがはりして。富田が妻より左門に送りし。消息を盜みとりて坂崎へささげ。歸參の願せしに。坂崎ス斜ならず。今度再度この事うたへ出しが。八日對决に及び。富田亡命のものを隱し置し事なしと陳じけれど。妻が消息を證として坂崎御覽に備し上は。富田高橋語塞り兩人とも罪せらる。その後町奉行米津勘兵衛田政。土屋權右衛門重成左門を搦取。土井大炊頭利勝。安藤對馬守信重が家士そへて。籠輿にのせて獄屋に送る。然るに左門籠輿の內にてみづから縳とき躍り出て。土井が家士の刀をうばひ。警固のものどもに切てかゝる。土井が家人に藤左衛門といふもの。組伏せて搦とり獄につなぎ。其後左門は誅せられ。藤左衛門は重く褒賞たまはりしとぞ。藩翰譜。創業記。)
○廿五日石川玄蕃頭康長が弟肥後守康勝。紀伊守某。兄康長が事に坐して所領沒入せらる。佐々淡路守行政子孫助某。二子內記某も采邑沒入あり。富田信濃守知勝が事に坐してなり。この佐々は織田豐臣兩家を歷て。鷹師の妙手なりとぞ。(駿府記。創業記。)
○廿六日藤堂和泉守高虎。召によりて川越の御旅舘に參る。大御所富田信濃守知勝が收公の封地伊豫國宇和島の事沙汰すべしと命ぜらる。宇和島は高虎舊領たるによてなり。(駿府記。創業記。)
○廿七日松平右衛門佐正綱仰により。岩槻に狩して白鳥三十三隻狩得たり。(駿府記。)
○廿九日仙波喜多院にて南光坊僧正天海論義を催す。法輪寺。西蓮寺。月山寺。眞光寺。中院の僧等これをつとむ。講師は春日岡惣宗寺亮運つかふまつる。大御所川越よりならせられ御聽聞あり。(駿府記。)
○三十日大御所忍邊に狩したまふ。この日竹中丹後守重門家族を引つれて。伏見より江府にうつる。(御年譜。家譜。)
○十一月朔日拜賀例のごとし。(駿府記。)
○二日鴻巢へ御鴻狩としてならせらる。(駿府記。)
○四日御歸城有てのち。酉刻江府にて眞言新義の論義聞し召る。弘善院精義つかふまつる。長久寺講師つかふまつる。息諦院。玉藏院。無量寺。長存坊。吉祥院。明星院。觀音寺。鏡識坊出座す。(駿府記。)
○九日佐野修理大夫信吉は。富田信濃守知勝が弟たるゆへ。御勘氣を蒙るべしといへども。罪なきよし聞し召開かれ。まうのぼり拜謁す。この日松前伊豆守慶廣嫡孫竹松丸公廣初見の禮をとる。(駿府記。家譜。)
○十一日より十三日まで。大御所忍邊にて御鷹狩あり。(駿府記。)
○十四日此十七日岩槻へならせ給ふべしと仰出さる。今夜大雪。(駿府記。當代記。)
○十五日大御所寸白の御なやみ有て。御鷹狩やむ。(駿府記。)
○十六日大御所御違例により。十九日まで御滯留有べしと仰出さる。(駿府記。)
○十八日加藤左馬助嘉明がもとへならせ給ふ。賜物數々あり。奉りものも少からず。內藤金左衛門忠C死す。沒前の願により。その子金三カ忠次へ千石。二子市之丞某。三子六之助勝次五百石づゝ遺領をわかちたまふ。この日大御所御狩の道にて。農民等訴狀をさゝげ。代官深津八九カ某が姦曲を訴ふ。
依て八九カ某を召れ。御前に於て對决せしめられしに。八九カ某私曲あるにより職奪はる。高木九助正綱に恩領十二万石の事沙汰すべしと命ぜられ。代官小栗庄右衛門正勝。遠藤豐九カ某。天野彥右衛門忠重の三人。正綱に屬してその事つかふまつるべしと仰付らる。(藩翰譜。家譜。)
○十九日大御所忍より岩槻にならせらる。岩槻の城主高力左近大夫忠房御迎として參る。(駿河記。)
○廿日鴻巢より御狩はてゝ。江府にかへらせ給ふ。大御所には岩槻より越谷にわたらせらる。本多上野介正純小山より參りむかへ奉る。(御年譜。駿府政事錄。)
○廿一日大御所御鷹狩有て。鶴三。鴈十六得給ふ。けふ前田半右衛門正勝死す。其子左助正信家つぎ初見す。又木刑部卿法印重直入道淨憲大坂にて死す。齡八十六。是昔美濃の土岐が家人にて。のちに織田豐臣の兩家に歷事し。その子民部少輔一重大坂七組の番頭なり。(駿府記。家譜。藩翰譜。)
○廿三日神尾五兵衛守世御使として岩槻へ參る。(駿府記)
○廿四日近郊の農民大御所御狩の路に出て訴狀をさゝげ。代官の私曲を訴ふ。御旅館にかへらせ給ひ。秉燭の後双方を召て。訴訟を聞し召るゝ所。農民非據たるにより。首謀六人禁獄せらる。けふ稻垣彥五カ俊忠死して。其子杢左衛門忠豐家をつぐ。(慶長日記。ェ永系圖。)
○廿五日大御所鶴鴈鴨あまた狩らせ給ふ。(駿府記。)
○廿六日大御所越谷に於て日々御放鷹あり。鶴十九得給ひ。御けしき大かたならず。明日は葛西にならせたまふべしと仰出さる。(駿府政事錄。)
○廿七日越谷より葛西にならせられ。御道にて鶴六得たまふ。御旅館より御使もて。松平陸奥守政宗へ鮓枝柿山椒をたまふ。(駿府記。貞享書上。)
○廿八日葛西にて鶴五得給ふ。明日江府へ歸らせ給ふべしと仰出さる。堺政所細井五左衛門正成頓死せしかば。采邑の半を削り。其子喜三カ正信に二百石たまふ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿九日御道すがら御狩有て。鶴六狩らせ給ひ。未刻江府西城に歸らせ給ふ。(駿府記。)
○十二月朔日拜賀例のごとし。西城にて兩御所御對面あり。南光坊僧正天海。仙波中院御前にて法話聞え上る。大御所御氣色殊にうるはしくして。天海に仙波の地にて寺領五百石給ひ。中院には黃金十枚たまふ。はてゝ搶緕帶V智國師存應まうのぼり拜謁して。御物語刻をうつさる。大御所明後日駿府へ御歸りあるべしと仰出さる。(駿府記。)
○二日西城にて兩御所御密談刻をうつし給ふ。駿府より供奉の輩本城にて暇たまひ。金時服若干かづけたまふ。けふ武島大炊助茂幸死して。その子七大夫茂成家をつぐ。(駿府記。家譜。)
○三日御辭見のため。曉ふかく西城へならせたまふ。辰剋に大御所西城を出まし。御道すがら御狩あるべしとて。けふは稻毛邊へならせ給ひ。鶴一双鴈あまた狩得給ふ。(駿府記。)
○五日明曉中原へいらせ給ふべしと仰出さる。本多佐渡守正信これまで御送りまいりしに。暇たまひ江戶へ歸さるゝとて。隼一据。万病圓。八味圓等の藥を給ふ。かつ明春は諸大名へ修築の事命じ給ふべしといへども。飛驒國金森出雲守可重は。此春尾州名古屋臨時の修築奉りたれば。今度は免さるべしと命じ給ふ。正信暇給はりしかど。猶陪駕してまからず。この日關原の戰後所領收公せられし尾州犬山城主石河備前守正久入道宗休。其弟奥山雅樂助貞信。罪ゆるされて御家人に加へらる。(駿府記。日記。)
○六日中原にならせらる。明日は小田原におもむかせ給はんとて。供奉の輩も皆行李の用意などせし所に。馬塲八左衛門といへるもの封事をさゝげ。大久保相摸守忠隣が叛逆を訴ふ。この馬塲は其むかし穴山梅雪入道が舊臣なり。梅雪宇治にて討れしのち。其子も早世しければ。大御所第五の御子万千代君を。水戶に封ぜらるるに及び。かの穴山が舊臣どもをみな付られし時。馬塲も同じくかの殿四人の家司に加へらる。然るに馬塲同僚と權を爭ひ訴論に及びしに。終に爭ひ負て相模守忠隣にあづけられ。此年頃久しく小田原に蟄居して。齡八十歲に及べり。本多佐渡守正信此封事を執りて御覽に備ければ。大御所大に驚かせ給ひ。佐渡守正信に忠隣がことをとはせたまひしに。忠隣が事をさまざま聞えあげしかば。さらば汝いそぎ江戶にかへり。其よしきこえあぐべし。大御所にも追付江府に立かへり。このこと議し給ふべしと仰下さる。(相摸守忠隣閱閥の名家にて。其武勇祖先を耻めず。數年の忠功史に赫々たり。しかれども久しく佐渡守正信とおなじく政務をとりけるに。忠隣は元來武人にてありしほどに。世務にいたりては疎脫多かりしなるべし。そのうへ愛子加賀守忠常を先立し後は。こゝろ快々としてたのしまず。細行に抅らず傲慢の擧動もありしなるべし。正信は鷹師會計の小吏より出身して。馬上の武功なしといへども。吏務は愼察にして。交るに少しく文筆の志ありければ漸々登庸せられ。
二人職をおなじくするに及んで。相猜む事なきにもあらず。馬塲が八十にあまり。いくほどもなき齡の末に。なにごとを怨望せるか。また何者に托せられしにや。無根の妄說をうたへて。終に良臣を讒害するに及ぶ。尤不審といふべし。)この夜新鷹あまた得たまへば。明年正月上總東金邊狩したまふべきよしにて。この所より江戶に立かへらせ給ふべしと仰出さる。(御年譜。大業廣記。創業記。)
○七日板倉周防守重宗を。江戶より御使して中原の御旅舘に魚物進らせ。御けしき伺はせ給ふ。(駿府記。)
○九日伏見城番松平庄右衛門昌利召により江府に參るとて。今日駿府にて死す。(家譜。)
○十日しんによろに柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(國師日記。)
○十二日江戶より御使として。土井大炊頭利勝中原御旅舘へ參り。うちうち聞え上る旨あり。其事秘してしる者なし。(慶長年錄。)
○十三日大御所江戶へかへらせ給はんとて。けふ中原より稻毛を過給ひ。小杉にやどらせ給ふ。御所には御迎として。兼て小杉へならせらるべしと聞えければ。大御所の御使として村越茂助直吉參り。當年は江戶にて御越年あるべしとの御旨を傳ふ。御所忝思召よし御謝詞有て後。大御所此地につかせ給ひ。御對面ありて。御所は夜中歸らせ給ふ。また駿府へは成P隼人正正成をかへされ。義直ョ宣兩卿をよく守護すべしと命ぜらる。またけふ今井九右衞門昌吉死して。其子四カ右衞門昌安明年七月に至り家つがしめらる。(駿府記。村越覺書。家譜。)
○十四日大御所駿府西城に入らせ給へば。御所ならせられ御對面あり。この日板倉內膳正重昌を京につかはされ。父伊賀守勝重が起居を問せられ。道すがら伊勢三河の諸大名。明春は拜賀のため江戶駿府へ參向すべからざる旨を傳へしめらる。又惣普請奉行石川八左衛門重次死して。其子八左衛門政次家をつぐ。(駿府記。當代記。ェ永系圖。)
○十五日當賀の諸大名。秉燭に及んで拜謁す。(駿府記。)
○十六日。連日大雪。寒氣殊に甚し。(當代記。)
○十七日最上出羽守義光病臥により。御書給ひ慰勞せられ。且二男駿河守家親年來駿府に在勤するにより。國役三分が一を免許せらるゝむね仰くださる。けふ森山兵部丞盛房死して。其子市兵衛盛治家をつぐ。(駿府記。家譜。)
○十八日犬塚十右衛門胤形死して。その子僅に二歲なる故家祿收公せらる。(家譜。)
○十九日大久保相摸守忠隣に。近年京邊天主教尊奉の徒多しと聞ゆ。急に上洛し京坂堺の邪徒をことごとく禁斷すべしと命ぜらる。此日秋月長門守種長が子三カ種春西城にまうのぼり。大御所に初見し奉る。(駿府記。家忠日記。)
○廿日西ク孫六カ正員襲封を謝し奉る。(家譜。)
○廿一日金地院崇傳江戶に參る。一色左兵衛範勝遠州にて采邑千石またふ。去年の稅米をもそへて下さる。(國師日記。家譜。)
○廿二日京職板倉伊賀守勝重より。此十六日新造內裏へ主上御移徙。內侍所以下先規のごとく。渡御ありしよし注進す。(駿府記。)
○廿三日金地院崇傳をして。天主教禁制の令文をつくらしめ。御朱印をなされ。京職のもとへ傳へしめらる。(異國日記。)
○廿五日大御所越谷に狩し給ひ。川越へ渡御あり。松平陸奥守政宗より大御所に綿二百把。幷鮎鮓一桶。鱈五。鮭百献ず。(駿府記。貞享書。)上
○廿六日大久保相摸守忠隣旅裝いとなむために暇給はり。相州小田原に赴く。此日細川越中守忠興參覲す。(駿府記。家譜。)
○廿七日細川越中守忠興拜謁す。昨今大雨各處暴漲せり。(家記。當代記。)
○廿八日大御所御狩はてゝ西城に還御なり。よて御所西城にならせられ。御對面あり。(駿府記。)
○廿九日諸大名登營して。歲暮を賀し奉る。織田長益入道有樂銀五十枚。小袖五。細川越中守忠興銀三百枚。小袖十。松平土佐守忠義銀二百枚。小袖五。松平攝津守忠政。松平下總守忠明。石川主殿頭忠明。本多美濃守忠政。松平主殿守忠利。鍋島信濃守勝茂。堀尾山城守忠晴。松平和泉守家乘。本多豐後守康紀等皆もの奉る。(駿府記。慶長年錄。)
○三十日けふも諸大名まうのぼり。歲暮を賀し奉る。(駿府記。)
◎此月醫員田村安栖長祇法印にのぼる。また朝倉堅次カ豐明大奥にのぼり兩御所に拜謁し。若君につかふまつるべしと仰付らる。時に四歲なり。落合小平次道次采邑二百五十石。廩米八十石給ふ。(ェ政重修譜。駿府記。)
◎是年二條左大臣昭實公の長子元服せらる。左府の請により大御所御名の一字つかはされ。康道と名のらる。是二條家は殊更武家にしたしき御中らひなりければ。鹿苑院准后義滿のとき。關白滿基に諱をくらせられしのち。代々武家の一字を請はるゝ例なりし故。このとき御名をこはれたり。この例今に至て永式となれり。植村帶刀泰勝子左京泰朝。遠山久兵衛友政が子刑部秀友。永田勝左衛門重眞子三十カ直俊。故大久保石見守長安に附屬せし代官岡上甚右衛門景親。
久保勘次カ勝成子五カ兵衛勝重。柳澤兵部丞信俊子孫左衛門安吉。本多縫殿助康俊二子修理忠相初見す。大番小田切新右衞門昌次が子庄兵衛昌直。西尾伊兵衞正義子伊之助正保。(時に十二歲。)岩波七カ右衞門道能。片桐次カ助孝利。遠藤但馬守慶隆養子內藏助慶利。(時に五歲。)武島與四カ茂員子與惣左衛門茂次。大御所に初見す。谷出羽守衞友三子助三カ衞勝。進藤三左衞門正成弟九左衞門正忠。(時に十三歲。)忍城番高木九助正綱が子甚左衞門正則。大島茂兵衞尉光政二子茂兵衞義唯。中井大和守正次子長吉カ正侶。(時に十四歲。)兩御所に初見す。三枝土佐守昌吉三子喜之助守盛は。御所幷若君に初見し奉る。松平兵庫忠隆。岡部外記忠吉二子彥右衞門忠房。坂本小左衞門重安弟權十カ貞俊。市川孫右衞門定吉。大河內又次カ正勝子兵左衞門忠次。松平大隅守重勝三男半次カ重則。五子忠左衛門勝隆。八木庄左衛門光政子勘十カ守直。門奈助左衛門宗勝四子惣兵衞政勝。豐島市兵衛秀有二子十左衛門勝直。小出五カ左衞門政重二子勘七カ重章召し出さる。田付美作直景定子兵庫助景澄。(銃技妙手。)藤川十右衞門重安。春日左馬助則。神谷八カ左衞門政成大御所に仕へ奉る。比企左馬助則員は越前黃門秀康卿につかへしが。病もて仕を辭し。川越御狩のとき大御所にめし出さる。木村源太カ元正二子猪右衞門保元若君につかへ奉り小姓になる。嶋田次兵衛利正江戶町奉行になり。松平半次カ重則歩行頭になり。朝倉藤十カ宣正大內造宮巡視命ぜられ。采邑千石くはへて權に堺政所の事を沙汰せしめらる。使番阿倍四カ五カ正之目付となり伏見に赴かしめらる。日向半兵衞政成銃卒五十人預けらる。渡邊半四カ宗綱使番となり。松平伊賀守忠晴御膳番となり。柳澤左太カ元吉。(毛利家臣監物元政之子。)本間五大夫秀年子勘七カ次年。(時に十四歲。)小姓となり。松平次大夫正成が子次カ左衞門信貞大御所方の小姓となる。楢村孫七カ。某五味金右衞門豐直近習番となり。永田權八カ久重。小栗又一忠政が三子又兵衞信友(時に十九歲。)小姓組にいる。伊丹喜之助康勝子作十カ勝長は花畑番にいり。高林市カ左衛門吉次大番組頭となり。石原四カ右衛門安昌。中山茂左衛門忠勝。大河內兵左衛門忠次。山角又兵衛政勝子市左衛門勝重大番に入る。多門平藏信C伏見城番を勤む。佐橋忠兵衛吉次。佐橋義左衛門吉堅。逸見左馬助義助も同じ。松村吉左衛門時安大御所方代官となり。深澤C兵衛某子忠右衛門某鷹師となり。杉原忠左衛門親俊金銀出納の奉行となり。納戶番倉橋勝兵衛政長賄頭となり。渡邊小平六生綱宰相ョ宣卿に附屬せらる。醫員金保安齋玄泰召出され。廩米百俵月俸十口給ふ。望月忠庵宗慶子甫庵元珍(時に十三歲。)若君に付られ。廩米二百俵給ふ。又高木九兵衛正次總州葛飾郡本クにて六百二十四石。松平忠左衛門勝隆は五百石。大岡兵藏正吉三百八十五石加へ給ひ。漆戶八兵衛吉次は廩米百五十俵給はり奥方番となる。曾雌又左衛門定Cの長子勘左衛門久次。二子傳藏定昌もおなじく召出され。武州鉢形にて所領を給はり。父と同じく奉仕せしむ。河內七左衛門正吉本領をたまはり諸役をゆるさる。鈴木杢之助重利は三州高橋庄三百五十貫の地を轉じて。上總國東金にて采邑を給ふ。柳澤兵部丞信俊子孫左衛門安吉所領を給ひ。稻富喜大夫正直上總にて所領六百五十石たまひ。松平太カ左衛門尙榮舊領三河國松平クにて二百十石給ふ。蓑笠之助正長は大久保石見守長安が近緣たるにより所領收公せられ。廩米二百五十俵賜はり冗員とせらる。又金森左兵衞重ョ叙爵して長門守と稱し。松平(蒲生。)下野守忠クの弟鶴松丸叙爵して中務大輔と稱し。御名の字たまはり忠知と名のる。これ大御所御外孫なり。醫員吉田意安宗皓法印にのぼせらる。忍城番村越茂兵衛延時が子市カ兵衛延連。大番組頭芝山孫作正次が子權左衛門正知。皆父死して家をつぐ。石野新左衛門廣光が子新藏廣次は。家つぎて父の原職をつぎ。忍の城番になる。水野C藏久次致仕し。子宗左衛門久信家をつぐ。又松平(池田。)新太カ五歲にて拜謁し。大御所より新藤五の御脇差を給はり。有馬大學豐長は人質として。慶長十一年より在府せしが。今年暇下され時服幷に兼光の御刀をたまふ。遠藤但馬守慶隆久しく在府せしにより慰勞せられ。合力米を給ふ。大工頭中井大和守正次は密旨を蒙り。大坂城中の圖を製して献ず。惣撿挍圓都は。瞽者等大久保石見守長安が事に坐して罪蒙りしとき。その事にあづからざるをもて時服銀給はり褒せらる。京醫笠原養泉重次江府に參る。織田內府信雄の舊臣星合采女正具恭に采邑千五百石給ふべしと有しに。同じく織田家につかへし時。具泰が祿は村P左馬助重治に數倍せり。今左馬助重治當家につかへて三千石を領す。
具泰村Pに劣る事を恥べしと。關說する者ありてその事延滯す。渡邊藤三カ勝が母は。姬君の御乳母に召れしかど辭して出ず。(紀年錄。ェ政重修譜。斷家譜。家譜。貞享書上。ェ永系圖。) 
卷廿五 / 慶長十九年正月に始り三月に終る御齡三十六 

 

慶長十九年甲寅正月元日拜賀例のごとし。松平和泉守家乘仰により。けふ諸大夫の上首にて拜賀し奉る。是駿府の例によられしが故とぞ。儀はてゝ西城にわたらせ給ひ。大御所に新年を賀し給ふ。太刀幷銀百枚進らせらる。奥にて御三獻の御祝あり。御酌は松平右衛門大夫正綱。御加は水野金十カ忠C。御配膳は金森左兵衛重勝。喜多見長五カ重勝。內藤掃部頭正成役す。次に若君國松君もおなじく賀したまひ。諸大名諸有司も同じく賀す。御流盃時服は本城のみにてたまふ。(創業記。慶長年錄。慶長見聞書。駿府記。)
○二日國持外樣の諸大名本城に登り拜賀し奉る。きのふ西城にのぼらざる輩は。けふ大御所に拜謁し奉る。けふも松平和泉守家乘。諸大夫の第一に拜賀す。豐臣右府の使薄田隼人正兼相も拜し奉る。この夜謠曲はじめあり。着座左は松平和泉守家乘。松平甲斐守忠良。松平丹波守康長。松平下總守忠明。加藤左馬助嘉明。小笠原左衛門佐信之。右は松平山城守忠國。小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠實。松平河內守定行。藤堂和泉守高虎。牧野駿河守忠成なり。又舊冬より駿府勤仕の番士等。悉く江府に召る。人其故をしらず。(創業記。慶長年錄。慶長見聞書。)
○三日細川越中守忠興はこと更にけふまうのぼり。兩御所へ新年を賀し奉る。大御所奥殿へ召て御懇詞を加へらる。(家譜。)
○五日本城に大御所を迎給ひ饗せられ猿樂催さる。國松君九歲にて。高砂。百万。善界をまはせられ。御臺所始め女房達簾中にて見給ふ。依て諸大名等は是にあづからず。又大久保相摸守忠隣はけふ小田原を出て上洛す。(駿府記。慶長見聞書。創業記。當代記。)
○六日搶緕帶V智國師存應始め。諸宗の僧侶西城にまうのぼり。大御所に拜賀す。はてゝ大御所天台淨土僧の法問聞しめさる。南光坊僧正天海出座す。はてゝ常陸國笠間郡月山寺に寺領の御朱印を給ふ。學匠料として三百石寄附せらるゝとなり。(創業記。駿府記。)
○七日細川越中守忠興を本城に召て御茶を給ふ。抛頭巾以下の名器を賜觀す。夜中大御所より片山與安法師宗哲もて藥種數品を給ふ。此日大御所葛西に御狩あり御旅館。(今戶村に御館跡あり。)に成P豐後守正武御使して。魚物進らせ給ふ。(家譜。駿府記。)
○八日大御所千葉に到らせらる。(創業記。)
○九日諸宗の僧侶本城へまうのぼり歲首を賀し奉り。はてゝ天台淨土の法問聞し召る。また大御所東金へ渡らせられ。鶴四狩得たまふ。江戶より水野監物忠元御使して。御けしき伺はせ給ふ。暫々御起居とはせ給ふ事。御けしき大方ならず。かつ此地形盛慮にかなはせ給ふ御旨なり。(慶長見聞書。駿府記。今も山邊郡東金村御殿跡ありといへり。)
○十日大御所けふも東金にて狩し給ひ。鶴五。鴈十八。鴨七狩得給ふ。この日唐商計泉けつあんへ東京渡海の御朱印。小西長左衛門。木津船右衛門。呂宋のしんによろまるとろめむいなに呂宋渡海の御朱印。木屋彌三右衛門に暹羅國渡海の御朱印。木田理右衛門幷にしんによろへ柬埔寨渡海の御朱印。舟本彌七。三官四官五官六官まのしるこんさかに交趾渡海の御朱印を下さる。(駿府記。異國日記。)
○十二日大御所御放鷹ありて鶴三狩得給ひ。此邊猪多ければ。これを獵しむべしと命ぜらる。(駿府記。)
○十三日土井大炊頭利勝。永井右近大夫直勝。松平右衛門佐正綱を部將として。近習の士百餘人吉田佐倉邊に狩せしめられ。鹿二猪四得たり。(駿府記。)
○十四日雨ふりければ。大御所猶御滯留あり。今夜伊勢山田市中火あり。(ェ政重修譜。當代記。)
○十五日本多出雲守忠朝上總大多喜の城へ就封して有ければ。大御所の御狩塲へ魚物を獻ず。この日村越茂助直吉去年中原まで供奉したるが。俄に病おこりて死す。その子C次カ吉勝して家つがしめられ。小姓組に入らる。この直吉はいとけなかりしときより奉仕し。所々の御使等うけたまはり。後御馬印をもて指物とすべき旨仰を蒙り。金の五本骨の扇子の指物を用ひたりしとぞ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○十六日大御所東金より千葉に至らせ給ふ。(駿府記。)
○十七日大御所千葉より葛西に至らせられ狩し給ふ。先に大久保保相摸守忠隣天主教查撿の事命ぜられ上洛せしが。けふ京に有て邪宗の寺二か所。あるひは燒拂ひあるひは破却す。かの寺の伴天連は西國へ迯去る。(駿府記。慶長見聞錄。世に傳ふる所は。邪宗歸依の土人は悉く俵に入。四條五條の河に夥しく出し置たり。このものどもはじめほどは。せんすはりはりと唱て居たりしが。のちには後世は誰も見ぬ事なれば。とかくこの樣に飢て。目くるめきては義も名聞も覺えず。みなみなころび申べし。助たまへといへば。獄吏共大に笑ひ。俵より出し放ちやりしと之。切支丹物語。)
○十八日大御所江戶へかへらせたまふにより。御迎として城外までならせらる。この度御狩に得たまふ所。鶴百十二。
白鳥八隻なりとぞ。この夕藤堂和泉守高虎をめして大御所御密談あり。その事秘してしるものなし。(駿府記。)
○十九日執政相摸國小田原城主大久保相摸守忠隣が居城を收公せらる。これその養女をもて山口伊豆守重信が妻とする事。上裁をこはず私に約を定む。忠隣旣に執政の身としてかく憲法を犯す。その罪特にかろからずとての事とぞ聞えし。よて其子右京亮教隆。主膳正幸信等を召て。士籍を削らるゝ旨本多佐渡守正信仰を傳ふ。しかりといへども大久保が家累代の功を沒すべからさるが故に。忠隣が長子故加賀守忠常が子仙丸忠職に。武州崎西二万石をそのまゝたまひ。封地に蟄居せしめられ。二子主殿頭忠總は石川の家をつぎし事故とがめらるゝに及ばず。是も駿府の市井に蟄居す。安藤對馬守重信には小田原城請取。忠隣が家士カ等悉く追放すべしと命せらる。松平越中守定綱。高力左近大夫忠房。淺野采女正長重。本多出雲守忠朝。牧野駿河守忠成。內藤若狹守C次。西ク孫六カ正員は各士卒を具して。その城勤番すべしと仰付らる。(御年譜。駿府記。紀年錄。ェ永系圖。慶長見聞書。ェ政重修譜。慶長年錄。)
○廿日明日大御所駿府へかへらせ給ふよし聞えければ。諸大名辭見のためまうのぼりしかど御對面なし。細川越中守忠興ばかり內殿へ召て見え奉り。鷹二聯。鶴一隻たまひ。やがて駿府へ參るべし。御茶たまふべしと仰くださる。次に鍋島信濃守勝茂にも鷹二聯たまふ。晚に及び天台宗論義聞し召る。南光坊天海精義つかふまつる。法輪寺講師たり。(駿府記。家譜。)
○廿一日大御所江城を出て神奈川驛にとまらせたまふ。此日伊藤小左衛門實以召出され。書院番に入る。實以が父三之丞實信は。豐臣家の命により羽柴秀勝に屬し。朝鮮の役に戰死せし故。實以御家人に加へられしなり。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿二日藤澤驛につかせ給ふ。終夜雨。(駿府記。)
○廿三日中原にやどらせらる。大久保右京亮教隆主膳正幸信は武州河越に配流せられ酒井備後守忠利に預らる。(駿府記。藩翰譜。落穗集。)
○廿四日大御所中原を出給ひ。途中御放鷹有て鶴鴈あまたからせられ。今夜小田原城に着せ給ふ所。江戶より御所も此所にわたらせられ。御旅館にて秉燭の後御密談刻を移さる。藤堂和泉守高虎。本多佐渡守正信二人是に侍し奉り。其餘は御前に參る事を免れず。明日拂曉より當城破却すべしと命ぜらる。又本多佐渡守正信。本多上野介正純。安藤帶刀直次。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信連署の狀を以て京都へ送り。大久保相摸守忠隣に小田原城を收公せられ。江州に蟄居すべき旨を傳ふ。此夜御所は城中二丸に宿らせ給ふ。又㝡上出羽守義光所領にて去十八日卒去の旨注進あるにより。其子駿河守家親は速に歸國して。國務を沙汰すべしと仰下さる。(御年譜。創業記。紀年錄。)
○廿五日小田原の本丸にて兩御所御對面ありて。御所は二丸に還らせ給ふ。今日より江戶駿府の諸卒を召集て。當城の外郭石壘を破却せしむ。麕至する役徒雲霞の如し。先に命ぜられたる淺野采女長重は。一番に馳付しとて御感を蒙る。(駿府記。貞享書上。)
○廿六日松平筑前守利常より使もて。其家人高山右近大夫友祥入道南坊。內藤飛驒守如安。邪宗尊崇するにより召捕て京職へ送る由注進す。其他邪教徒の姓名を記して獻ず。邪教を改めざる者は。悉く奥の津輕に配流すべしと令せらる。(駿府記。)
○廿七日小田原を發して。江戶へ歸らせ給ふ。大御所には箱根を過て三島に着せらる。箱根山中には五間づゝに道をさしはさみ。ひしと弓銃を備へ道を警固し。西は三島より東は大磯平塚邊迄の間徃來を抑留し。保田甚兵衛則宗。島彌左衛門一正此事を奉行す。また三島の御旅館へ成P豐後守正武御使として魚物進らせ給ふ。是まで大久保相摸守忠隣に預られし小坂新助某。米倉丹後守信繼。曲淵庄左衛門正吉。其外武川衆めし出さる。(駿府記。慶長見聞書。)
○廿八日大御所善コ寺に着せ給ふ。(駿府記。)
○廿九日大御所駿府に還らせ給ふ。宰相義直卿ョ宣卿。少將ョ房朝臣川江橋迄御迎に罷らる。此日牌日暈五色之。(駿府記。當代記。)
○晦日關東より御使土井大炊頭利勝駿府に參り。大御所に拜謁し密旨を聞え上奉る。折節長谷川左兵衛藤廣より献ぜし砂糖二十斤利勝に給ふ。京都にては本多佐渡守正信。上野介正純よりも奉書を遣はし。又板倉內膳正重昌も去年より上洛し。父伊賀守勝重に密旨を傳へ。今度屋代越中守秀正御使として上り。大久保相摸守忠隣改易の仰を傳へしかば。伊賀守勝重其旨を傳へんとて。忠隣が旅舘に行向ふ。忠隣折ふしある知音の僧と象棋をさしてゐたりしが。侍者あはたゞしく馳來り。唯今板倉殿御使に來り給ひしは。關東に讒者有て。御身寃罪に沈み給ふ由。洛中以の外風說頻り之と告る。忠隣更に驚きたる氣色もなく。
靜にことを終り沐浴してのち。さらばとて勝重を座に請じ入。謹で仰をうけたまはる。さなきだにこの程洛中洛外物さはがしかりしに。京童忠隣が罪蒙りしと聞て。すはや事の出くるぞと。資財雜具こゝかしこに持はこび。以の外騷動す。忠隣このよし聞て。弓箭兵具悉く束ね縳て板倉がもとにをくり。家子カ等共は皆いとまとらせ關東へ下しければ。洛中洛外程なく靜まる。かくて忠隣は井伊右近大夫直勝に召あづけられ。配流の身となり。近江の彥根に蟄居す。抑大久保が家は粟田關白道兼公五代の苗裔下野國の住人宇都宮左衞門尉朝綱末葉之。後醍醐天皇の御とき。朝綱が九代の孫左近將監泰藤官軍に隨ひしが。新田左中將義貞朝臣討れ。官軍利を失ひしにより泰藤も越前國をのがれて三河國に來り住す。泰藤より四代宇都野八カ右衞門昌忠。はじめて信光君につかへ奉りしより。子孫永く當家普第の御家人とはなりにけり。昌忠が三代の孫左衞門五カ忠茂が長子新八カ忠俊がとき。兄弟悉く大久保に改む。忠茂が三子平右衞門忠貞は忠隣が順父なり。父をば七カ右衞門忠世といふ。大御所御初陣のときより隨ひ奉り。戰功をあらはす。それよりこのかた一族常に先駈せずといふ事なく。一向門徒の逆亂にも。忠世等が一族は一人も彼に與せず忠戰をつくし。三方が原の戰には犀が崕にて。武田勢を破り。鳶の巢の役には㧞群の働して。織田殿の褒詞に預り。武田亡びて後甲斐國を打したがへ。信濃國をたひらげしその功少からずして。關東へうつらせ給ひしとき。相摸國小田原城四萬五千石たまはりけり。忠隣は十一歲よりつかへ奉り。十六歲のときはじめて堀川の戰に敵の首をとり。姉川合戰には先懸し。その外所所の戰功いと多し。天正の比より奉行職になり。國務の事を沙汰し。十三年十二月千貫文の地たまはり。十六年四月爵ゆりて治部大輔と稱し後相摸守に改む。江戶にうつらせ給ひし後。武藏國羽生城たまひ二萬石拜領し。文祿二年十二月今の御所につけさせられ老臣になり。三年父が遺領をつぎ。庇䕃料を合せて六萬五千石になり。四年關白秀次父太閤の旨に違ひし時。秀次中納言殿をとりまいらせ。大御所をたのみ進らせ。讒言を申ひらかんとはかりしを。忠隣かくと察しければ。よくはからひて伏見の舘にうつし進らせ。慶長五年上杉御征伐のときは。御所に從ひて發向し。信州上田城責には。まづ伊勢崎の要害を破る。そのとしの事とかや。大御所忠隣及び井伊直政。榊原康政。本多忠勝。平岩親吉。本多正信等をめして。嗣君の事を議せしめ給ふとき。異議區々なりしに。忠隣ひとり弓馬の道をもて論ずべきにあらず。中納言殿智勇兼備し給ふ上は此君を置て誰か有べきと聞え上しとぞ。こたび俄に御勘氣蒙りしが。後ェ永五年に至り。六月廿七日配所にありて卒す。年は七十六なりしとぞ。(駿府記。藩翰譜。大久保别記。ェ政重修譜。世に傳ふる所。井伊掃部頭直孝が彥根に移りしのちも。忠隣なを彥根に蟄居して有しかば。直孝あまりいたはしく思ひ。罪なき事を陳謝せられんには。直孝身にかへて執し申さんと申ければ。忠隣聞て。芳志は忝候へども。忠隣罪なくばいかでかゝる身とは成ぬべき。たとへ陳謝する事ありとも。我罪まぬかれむとて。終に御あやまちなき主君を世の人にうたがはしめんこと。更に本意にあらず。身はかくなり果しことなれば。只この儘にこそ候べけれといひしかば。直孝重ねて申詞もなく。感泪にむせびたりとぞ。今按ずるにこの事のおこりは。去年大御所駿河より江戶にならせ給ふ御道に。馬塲といふものが訴狀をさゝげしを。本多佐渡守正信が執し申けるより。おこりし事とぞ聞えける。畢竟忠隣當時の元老なりしかば權勢ならぶものなく。國々の大小名忠隣に親しみを求め。音信贈遺心を用ひし程に。門前車馬市をなす。大坂にも片桐且元を始め。いかにもして忠隣が心を取んと。阿諛を專一にして贈遺使節暇日なきがことし。忠隣もとより武夫にて世態に疎く。世の嫌疑を避る計もなさず。よて權を忌み勢を猜むもの。本多正信一人にも限べからず。忠隣權勢にまかせて。大坂の片桐等と交りを厚くし。その外上方大名にも親しみ懇なるは。非望の企あらんもはかりがたしと。側目するものも少からず。その折節馬塲が私怨を報ぜんとかまへたる讒訴に乘じ。衆蚊の雷をなし。積羽の船を沉むるにいたりしは。忠隣が撿束なきところより起りしものなるべし。)
◎此月大簞笥奉行朝夷市平義次死して。其子市平義春家をつぐ。此頃松平右衛門督利隆。松平左衛門督忠繼。池田備中守長吉。鍋島信濃守勝茂。江戶城修築の事にあづかる。淺野但馬守長晟。島津右馬頭忠興は石垣を築く。越後國福島の城しばしば水害にかゝるにより。高田に移し築かしめらる。上杉中納言景勝卿。松平筑前守利常。
松平下野守忠ク。最上駿河守家親。松平陸奥守政宗。眞田伊豆守信之。村上周防守義明。溝口伯耆守宣勝。仙石越前守秀久。佐竹右京大夫義宣。南部信濃守利直等この事を命ぜらる。すべて近年江戶府內諸侯邸宅華麗を極め。大厦高樓棟を連ね甍をならべ金碧映照す。其中にも上總介忠輝朝臣の外門雕琢の巧をきはめ。松平筑前守利常が堂廡結搆其魁たりとぞきこえける。(ェ政重修譜。家譜。慶長年錄。)
○二月朔日駿府にて大御所御返簡を土井大炊頭利勝にたまはり。御密談の後利勝いとまたまはり江戶にかへる。其後駿府近習の輩に。江城にて近臣等大久保相摸守忠隣に親睦するもの有よし聞召。江戶の御所御憤深き旨御物語あり。(駿府政事錄。)
○二日大久保次右衛門忠佐が沼津の居城破却すべき旨。本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成に仰出さる。金地院崇傳江戶より駿府に參謁す。この日大久保相摸守忠隣京を發し。江州の配所中村クに赴く。此所にて五千石賜はりしとぞ。(駿府政事錄。國師日記。慶長見聞書。ェ政重修譜。)
○三日淺野但馬守長晟駿府にまいり。銀三百枚。時服二十領献じ。襲封の謝聞えあぐる。直に江戶にまいり拜謁すべしと面命せらる。(駿府政事錄。世に傳ふる所。此長晟は淺野家より人質として大坂へ出し置ければ。兄紀伊守幸長が跡つがせん事。關東へはゞかりありとて。淺野左衛門佐をはじめかの老臣ども。長晟が弟采女正長重に家つがせばやと請出しに。大御所有べき事ならずとて。長晟をして襲封せしめられ。後に蒲生飛驒守秀行に嫁したまひし振姬君寡君にておはしけるを。長晟に嫁せしめられしとぞ。慶長年錄。)
○四日大御所駿府近郊に御鷹狩あり。今夜より彗星東南にあらはる。(國師日記。大三河志。)
○五日南都興福寺の衆徒等。駿府に訴狀をさゝげ。一乘院門跡尊勢のことをうつたふ。この日大坂城內天主より烟出る。衆人火災なりと驚き馳集りしに。その烟の出る所さだかならず。韓客李文長占して兵兆大凶とす。右府大におどろき諸寺諸山に命じて祈禱せしめらる。(大三河志。慶長日記。)
○六日出羽國山形城主最上出羽守義光が遺領五十一万石を。その子駿河守家親につがしめらる。此義光が家は義家朝臣の三男式部大輔義國の孫上野介義兼より六代伊豫守家兼が二男修理大夫兼ョが後胤なり。父は右京大夫義守といひて。世々㝡上郡山形の城に住して尤舊家たり。義光室町將軍義輝より諱字を授られ。爵ゆりて右京大夫義光と稱し。後出羽守に改む。少年の時より豪雄にして。父が讓りをうくるより。寒河江八沿天龍上山鮭延等の地をうちしたがへ。大寳寺が家を亡して庄內三郡を合せて領したり。天正十八年の秋豐臣關白小田原の北條責んとて。關東に下られしとき。義光㝡上に參陣し。かねて都に使を參らせてしたがひしかば。子細なく本領を安堵す。織田右府の時より義光當家にも音信を通じければ。義光今度馳參るよし聞召。酒勾の邊に御使たまはり迎へらる。十九年正月八日從四位下侍從に叙任し。その秋奥の九戶が叛し時。義光二男太カ四カわづかに十歲なるを具して御陣に參り。御家人に參らす。スばせ給ふ事大方ならず。また義光が女を關白秀次に參らせ。寵愛を蒙りしに。秀次太閤のけしき有て自殺せらるゝに及び。義光が女も誅せらる。其とき義光も秀次の謀叛に與せしとて。旣にその國收公せらるべきに定まりしに。大御所の御はらひにて。その罪ゆるされしかば。義光スぶ事大かたならず。いかにもしてこの恩報じ參らせんと思ふ所。あくれば慶長元年閏七月十二日の夜。大地おびたゞしく震て。伏見の城悉く破れ崩る。在京の大小名大閤のもとに馳參る。義光一人家子カ等引具しはだかせ馬に鞭打て。コ川家の御館に馳來り。かゝる時には人の心もはかりがたし。義光かくて候はんには。御心易思召べく候と申て御館を守り。其後太閤みづから大御所に茶進らせんといふ。其事がらあやしう聞えしかば。義光いそぎ御前に參り。かまへて今日の事御心得有べきなり。義光これに侍れば何の恙わたらせられん。去ながらとくかへらせ給ふべきにて候と。御供して立歸る。關原の事起るに及んで上杉中納言景勝が石田治部少輔三成と心を合せ軍起すにより。義光にも味方に參るべきよし申をくる。義光わざと同心のよし返答して。其事を大御所の御かたにうつたふ。頓て上杉御追討のため御下向有により。義光は南部秋田を先として山北の輩を引具し。會津に攻いらんとす。然るに上方また軍起ると聞て。山北の輩悉く引返す。景勝始め義光にたばかられしをいかりて。軍勢をさしむけ義光が城に城を攻落す。關原上方の軍旣に敗れぬと聞えしかば。上杉が軍勢引返すを。爰かしこに追詰追詰。千五百八十餘人が首切て。
谷地の城酒田の城を落し。明れば六年其勸賞に庄內三郡山北の地悉くたまはり。原封に合せて五十一万石領し。十六年三月廿三日左近衛權少將に進み。去年夏の頃より心地例ならず。今は齡もながゝるまじと思ひ。㝡期の暇こひ申さめとて。九月始俄に國を出て駿河に參りぬ。大御所其志の切なるを感じ給ひ。輿に乘ながら城門に入事をゆるされ。其上に御藥を始め。種々の賜物有て。關東にも參るべきよし仰下されしかば。頓て江戶に參り。同十月本國に歸り。今は思ひ置事なしとて。病の床に打臥して。此正月十八日六十九歲にて終をとりぬ。此日大藏番坂部四カ左衛門重宗死して。其子九カ右衛門宗次家をつぐ。(藩翰譜。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○七日處士宇津宮彌三カ末房召出されて。松平虎之助忠昌。(越前忠直卿の弟。)の家人にたまふ。末房が父は彌三カ朝房といふ。天正十年關白秀吉公のために。その所領を奪はれたるとき。その妻懷妊して有ければ。K田甲斐守長政舊家の血統絕ん事を憐み。ひそかに。筑前彥山に隱し置て。その妻出產せしめし所男子なりしかば。彌三カ末房と名付たり。慶長五年關原一戰のとき。末房家人芳賀權之助を使者として。大御所の御陣に進らせたりしに。權之助戰塲に於て討死せりとぞ。近衛准后信尹公ちなみありければ。その來由を陽明家より聞え上られしがゆへとぞ。(武コ編年集成。)
○八日寺澤志摩守廣高駿府へ參謁す。(駿府政事錄。)
○九日高野山學侶僧を駿府に召て。眞言論義聞召る。大樂院多聞院。庵室院。遍照光院講師たり。(駿府政事錄。)
○十日大御所御放鷹あり。義直ョ宣兩宰相。ョ房朝臣陪從したまふ。卒伍數百人。(駿府政事錄。)
○十二日森右近大夫忠政。蜂須賀阿波守至鎭。有馬玄蓄頭豐氏。駿府に參謁す。(駿府政事錄。)
○十三日大御所御放鷹あり。この日本多中務大輔忠勝に從屬の士梶次カ兵衛正道死す。六十四歲。正道ははじめ金平と稱し。三河國にてつかへ奉り。中務大輔忠勝に附屬せられ。しばしば戰功をあらはす。その子次カ兵衛正勝本多が家を去て御家人に列し。父が舊領の內二百石賜ふ。二子金平勝成は猶本多が家につかふ。(國師日記。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十四日仰によりて。江戶の執事酒井雅樂頭忠世。酒井備後守忠利。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。水野監物忠元。井上主計頭正就。町奉行米津勘兵衛田政。島田兵四カ利正等誓書をなして奉る。その文にいふ。兩御所の御爲後闇き事あるべからず。親子兄弟たりとも兩御所御爲あしきやから。又法令違犯の徒あらば。たゞちに訴出べし。今度大久保相摸守忠隣罪蒙るにより。其父子等と音信を通ずべからず。訴訟裁斷するにのぞみ。舊好知音はいふ迄もなし。親子兄弟といふとも。依怙贔負すべからず。會議の座に於て心中思ふ所は。是非にかゝはらず發言すべし。面命の事善惡をえらばず。御ゆるしなからんには他にもらすべからず。他の者に面命の事きゝ得るとも。本人發言せざる間は。他にもらすべからす。平生の知音をもて朋黨を結ぶものあらば。心いれて速に聞え上べし。君命にそむくものは。知音なりとも親交すべからず。我輩もし法令を違犯し。或は贔負偏頗をなし。政務にひがことふるまふことあらば。查撿をへていかなる罪科にも行はるべしとなり。この日森右近大夫忠政は銀二百枚。時服十。蜂須賀阿波守至鎭は銀百枚。時服十。有馬玄蕃頭豐氏は銀五十枚。時服五をさゝぐ。また金地院崇傳より京職板倉伊賀守勝重がもとへ書簡を送り。邪宗制禁の事を議す。(家忠日記。令條記。駿府記。國師日記。)
○十五日駿府にて眞言論義聞しめさる。多聞院。大樂院。庵室院。遍照光院講師たり。今夜より近臣の夜詰をゆるさる。(駿府記。)
○十六日京極丹後守高知駿府に參謁す。さきに邪宗をあらためず尊奉し。法令違犯する高山右近大夫友祥南坊。內藤飛驒守如安等を。長崎に送るべきよし。金地院崇傳より板倉伊賀守勝重につたふ。(駿府記。國師日記。)
○十八日武藏國豐島郡淺草寺に寺領の御朱印を下さる。その文にいふ。寺領五百石の內二百五十石は。别當領幷修理料たるべし。衆徒の欠あらん時凡僧みだりに居住すべからず。同寺院空宅抱置べからず。諸事寺務の指揮をうくべし。公役修造のとき怠慢する徒は。忽にその坊領放去すべし。山林竹木並に門前宅地。先規のごとく免除せしむべし。すべて慶長十八年三月十三日先令のごとく。ながく相違あるべからずとなり。この日駿府にては眞言論義聞し召る。大樂院。高室院。多聞院。菴室院。遍照光院講師たり。(令條記。駿府記。)
○十九日美濃國巖村城主松平和泉守家乘卒す。其子源次カ乘壽に原封二萬石をつがしむ。この家乘は左近眞乘が子にて。家乘が五代の祖加賀守乘元は。
親忠君の二子にて代々大給を領しける。家乘天正十年三月八歲にて父が家をつぎ。十二年長久手の軍には。いまだ幼稚なれば。家士松平五左衞門近正をもて陣代たらしむ。十五年十三歲の時御前にて元服し。御名の一字賜はり家乘と稱す。十八年小田原の軍には十六歲にて供奉し。關東へ移らせ給ふ時。上州那波を賜はり一萬石を領し。翌十九年奥州の御陣に供奉す。慶長元年五月八日豐臣太閤執奏によりて叙爵し。和泉守と稱す。五年關原の軍にはとゞまりて三州吉田の城を守りしかば。戰終てのち勢州桑名にいたる。六年正月一萬石加恩有て二萬石になされ。今の城たまはり。今年正月元朝の拜賀。第一に出座せしめられしが。この日四十歲にて俄にうせしとぞ。駿府には佐竹右京大夫義宣。封內に產する南鐐銀二百貫目。砂金千兩を献ず。(家譜。家忠日記。ェ永系圖。藩翰譜。ェ政重修譜。駿府記。)
○廿日洞家の法問を聞し召る。遠州全長寺(世につたふ可睡齋。)宋珊。(一本宋山。)瑞光寺。得願寺。廣コ院。安養寺。大林寺。秀陽泉良宗惠これにあづかる。(世につたふるところは。今日の法問。本則二月桃前所々新靈雲一見更無親相逢盡道休官去林下何曾見一人。このとき宋山答曰。爛熳と咲ふた桃花の色は。萬歲の色を含む。林下一人も見えず。是天下安平吉事といふ。大御所この答を御感ありしとなり。この日駿府淺間の神事あり。終夜大雨。(駿府記。當代記。)
○廿一日土井大炊頭利勝江戶より御使として駿府に參謁す。御密談剋をうつさる。その事秘してしる者なし。此日また眞言論義聞し召る。今夜また大雨。(駿府記。當代記。)
○廿二日駿府にて土井大炊頭利勝御密談あり。直にいとま給はり江戶に赴く。此日阿波國撫養に謫せられたる米津C右衛門正勝(斷家譜春茂一本ョ勝又政信につくる。)かの地にて戮せられ。其弟C三カ春親士籍を削らる。正勝は藤藏常春が子にて。堺の政所に補せられしが。屬吏の贓罪により去年五月遠謫せられたり。正勝かねて大久保石見守長安に親しみ。奸曲ありし事露顯する故とぞ。またこの夜大風により。諸國雪消の水暴漲の注進あり。(駿府記。當代記。)
○廿五日生駒讃岐守正俊駿府に參謁し。銀百枚。時ふく十献ず。高野山寳性院政遍。寳龜院。無量壽院長海。明王院光算。明照院。正智院。其他十餘輩參謁す。けふ眞言論義聞し召る。無量壽院長海講師たり。また近日の大風雨により。三丸北門西垣十四五間崩る。(駿府政事錄。國師日記。)
○廿六日松前甚五カ公廣叙爵して志摩守と稱す。この日江戶市街火あり。駿府にてはけふも眞言論義聞し召る。正智院講師たり。(家譜。慶長見聞書。駿府記。)
○廿七日菅沼左近定芳叙爵して。織部正と稱す。定芳仰によりて松平因幡守康元の女を迎て妻とす。昨夜江戶大火により。佐野修理大夫信吉所領上州辛津山の城にありしが。此火をみてまさしく。江戶なるべしとて。急に馬をはせて。從者も具せず通夜いそぎし程に。舘林にて馬を乘倒し。今日午前に江府にまいり。まうのぼりて御けしきをうかゞふ。あまりにはやかりし故。いかでかくはやくはまいりしぞとはせ給ひしかば。信吉居城よりは眼下に江戶を見おろし候へば。昨夜の火をもすみやかに。江戶なりとは察し候きと聞えあげたり。しかるに江戶を眼下に見おろすよし申上しこと。御氣色にかなはざりしとぞ。(ェ永系圖。佐野宗綱記。諸書これを東照宮の御事とす。しかれどもこのとき東照宮は江戶にましまさゞれば。いま台コ院殿の御事と定めたり。)
◎この月大久保相摸守忠隣が連座にて。その子右京亮教隆。主膳正幸信。內記成堯は南部津輕に配流せられ。(教隆幸信成堯が事。ェ政重修譜には南光坊天海に召し預けられ。武藏國川越に蟄居し。元和三年南部利直にあづげらるゝとあり。)忠隣が姪森川內膳重俊は。酒井左衛門尉家次にあづけられ。上州高崎に配流せられ。養女(實は村越茂助直吉が女)の夫日下部河內守正冬は。榊原遠江守康勝にあづけられ。舘林に配流せられ。谷六右衛門俊次はことさら忠隣親睦なりしかば。松平右近將監成重にあづけられ。大久保甚右衛門長重は采邑武藏國谷貫村に蟄居。大久保平右衛門忠尙は小田原に蟄居し。同半右衛門忠永。大久保與一カ忠辰。同半助忠尙。同右衛門八忠政。同源三カ忠知も御勘發を蒙る。堀伊賀守利重も忠隣が近緣なりとて。奥平大膳大夫家昌に預られ。野州宇都宮に配流せらる。又其頃京妙心寺派の僧昇進の事定められしは。近年其徒猥りに昇進する者多し。今より後駿府に參謁し。駿府より五山幷に紫野へ議せられ。奏聞を歷ざれば昇進をゆるさるべからずとなり。また五山の僧徒駿府に參る。今度駿府に於て每寺創建の故事。
幷に宗派の事鞠問あるべしと聞えければ。其徒恐懼にたへず。又尾濃兩國に提防を築かしめらる。(村越覺書。慶長見聞書。創業記。當代記。)
○三月朔日佐野修理大夫信吉が居城野州辛津山の城破却し。その身は江戶に伺候すべしと命ぜらる。就封して有ながら。江戶に火災ありとてみだりに馳參ること。御不審による所なり。(慶長見聞書。)
○二日大久保相摸守忠隣は南光坊天海により。駿府に訴狀をさゝげ。更に不忠の志なき旨を申す。くりかへしへし御覽ありしかど。また仰出さるゝ御旨もなし。(創業記。)
○三日上巳例のごとし。駿城もおなじ。(駿府記。)
○五日芝山小兵衛正親堺政所命ぜらる。朝倉藤十カ宣正去年かりに政所命ぜられ堺にありしが。正親にかはり歸府すべしとなり。中坊左近秀政亡父秀祐の時のごとく。奈良の代官を仰付らる。南都一乘院門跡尊勢幷法相の學匠等。召により駿府に參る。(慶長見聞書。慶長年錄。駿府記。)
○六日京南禪寺。天龍寺慈濟院彭長老。相國寺慈照院保長老。鹿苑院晫長老。建仁寺常光院紹益。兩足院。東福寺不二菴藤長老。龍眠菴。南昌院等めしにより駿府に參着す。作文を命ぜられんとての事とぞ。傳奏廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿。廣橋右中辨兼賢卿。日野左中辨光慶卿。藪參議季繼卿。高倉少將永慶もおなじく駿府に參向あり。(駿府記。)
○七日山口駿河守直友先に上洛し。京職板倉伊賀守勝重と共に。天主教禁斷の事を沙汰しけるに。今度間宮權左衛門伊治を遣はされ。前田家の臣高山右近大夫友祥入道南坊。內藤飛驒守如安等。細川家の臣加賀山隼人佐等。その外重科の男女百餘人。阿媽港に遠流し。その殘黨七十餘人をば。奥州外がMに配流すべしと命ぜらる。今度駿府に參着せし五山の僧寺に。おのおの文章を著作して。九日に進呈すべしと命ぜられたり。その文は爲政以コ、譬如北辰居其所而衆星共之を以て題とせらる。(御年譜。當代記。駿府記。)
○八日參向の公卿駿府にのぼり御對面あり。南都一乘院門跡尊勢もおなじ。(駿府記。國師日記。)
○九日K田筑前守長政。松平武藏守利隆駿府にまうのぼり。銀二百枚。時服十づゝ獻ず。直に江戶へ參府すべしと命ぜらる。この日先に作文を命ぜられたる五山の僧徒まうのぼり。をのをの其文章を進呈す。更に寳樹多花果衆生所遊樂を以て題とし。頌を作り獻ぜしめらる。(駿府記。)
○十日雨により駿府淺間の猿樂停廢せらる。(駿府記。)
○十二日京職板倉伊賀守勝重が家士恩田金右衛門罪ありて。その黨類と共に京伏見を引渡して戮せらる。此日駿府にては淺間の社能あり。大御所。義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣を伴なひてならせられ御覽ぜらる。一乘院門跡尊勢。北院。南光坊天海。月山寺。藥樹院慶存。寳龜院。大樂院。明王院光算。その外五山の僧等。みな見ることをゆるされて陪從す。(慶長見聞書。駿府記。)
○十三日西樂院に法令五條を授らる。その文にいふ。勤學怠慢すべからず。大山寺領三千石幷に山林境內万事西樂院の沙汰たるべし。所領多少により。住坊は其人を撰ぶべし。先例といへども不良の事は。時宜に隨ひあらたむべし。徒黨して訴訟すべからずとなり。秤座守隨兵三カ家つぎしかば。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信連署の狀をさつく。關東中秤目のこと。天正十一年十一月五日先判の旨を守り。年來のごとく彌全く沙汰せしべしとなり。(家忠日記。令條記。由誌早B)
○十四日駿府にて法相宗論義聞召る。一乘院門跡尊勢。喜多院。東北院。阿彌陀寺。妙喜院。明王院光算これにあづかり。ハ持院講師なり。次に眞言論義聞し召る。明王院光算。無量壽院長海。如意輪寺。多聞院。西南院。北室院。金剛三昧院。正智院。寳龜院。大樂院これをつとめ。講師は遍明院つかふまつる。參向の公卿幷南光坊天海。月山寺。藥王院慶存。其外淨土僧五山僧聽衆たり。この夕雷はじめて聲を發す。(駿府記。當代記。)
○十五日南都の衆徒等。一乘院門跡尊勢の事を訴ふるにより。執政諸老臣幷に金地院崇傳をして查撿せしめらるゝ所。衆徒等非據に决しければ。その徒は門跡にくださる。けふ越後國高田城經營事はじめあり。(國師日記。創業記。慶長見聞書。)
○十七日法相宗の僧等駿府に召て唯識の論義聞召る。一乘院門跡尊勢。東北院。ハ持院。明王院光算。阿彌陀院。妙喜院。華藏院これにあづかる。喜多院講師なり。(駿府政事錄。)
○十九日小笠原伊豆守貞經入道丹齋卒し。其子源次カ經治家をつぎ。仰により剃髮して丹齋と改む。この貞經は小笠原遠江守長經が二男伊豆守C經が十三代の後胤にて。C經が時伊豆國赤澤城に住せしより赤澤と稱し。貞經が時に至り本氏に復す。貞經始相馬長門守義胤が招により。陸奥中村に至り軍功を盡せしが。
慶長九年よりめし出され五百石賜はり。御家人に加へらしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿日松前志摩守公廣歸邑のいとま賜はり。銀時服下さる。(家譜。)
○廿一日官位昇進の輩大內に献ずる謝恩の定制を傳奏衆に議せられければ。兩傳奏より先例を聞え上らる。諸大夫は禁裏へ杉原十帖。緞子一卷。長橋局大御乳人へ杉原十帖。板物一反づゝ。院へ杉原十帖。緞子一卷。大貳の局へ杉原十帖。板物一反。女院へ杉原十帖。緞子一卷。權大納言局帥局へ杉原十帖。板物一反づゝ。女御へ杉原十帖。緞子一卷。兩傳奏へ太刀一振。馬代鳥目三貫文づゝ。上卿職事もおなじ。內侍所へ太刀一振。初穗一貫文。肝煎へ一貫文づゝ。四品少將宰相の謝恩は。大內へ太刀一振。馬代銀五枚。長橋局大御乳人へ鳥目二貫文づゝ。院へ太刀一振。馬代銀三枚。女院へ銀三枚。權大納言局帥局へ二貫文づゝ。女御へ銀三枚。兩傳奏上卿職事へ太刀一振。馬代鳥目三貫文づゝ。內侍所へ初穗一貫文。肝煎へ一貫文。又公家成のとき謝恩は。內へ太刀。銀五十枚。あるは卅枚。あるは廿枚。院へ太刀。銀三十枚。あるは廿枚。あるは十枚。女院女御にもおなじ。內侍所太刀。初穗銀二枚。或は一枚。內。院。女院。女御の局。末はしたもの。仕丁下々まで鳥目二貫文。あるは一貫文。兩傳奏へ太刀。銀三枚。上卿。職事。宣旨。大外記。太刀。鳥目三貫文。添使鳥目一貫文。肝煑鳥目二貫文と記して進呈す。今度あらためて諸大夫。四品。少將。中將。宰相の謝恩。禁裏へ金一枚。院女院。女御へ銀三枚づゝ。內の大乳人。院の大貳。女院の權大納言。帥。女御の中納言等の局へ銀一枚づゝ。兩傳奏上卿へ太刀幷銀六十目づゝ。內侍所初穗四十目。肝煑八十目。金子一枚。太刀五振の代り。銀一貫十文目と定らる。其旨傳奏衆へ告らる。松平陸奥守政宗は高田城經營により江戶に參る。細川內記忠利は駿府に參謁し。銀時服を献ず。(國師日記。貞享書上。駿府記。)
○廿三日西城留守居川井出羽昌守俊卒す。壽八十三。其子五兵衞昌等家をつぐ。昌俊は小田原北條に仕へしが彼家沒落の後御家人となりし之。此日駿府にて法相論義聞し召る。一乘院門跡尊勢。喜多院證義たり。ハ持院は問者。阿彌陀院。は講師。明王院。妙喜院。華藏院これにあづかる。けふ大風。諸木の枝多く吹折たり。(ェ政重修譜。駿府記。當代記。)
○廿五日駿城にて法相論義聞し召れて後。一乘院門跡尊勢。阿彌陀院。喜多院。東北院を數寄屋に招たまひ。御茶を給ふ。(駿府記。)
○廿六日駿城にて管絃御聽聞あり。藪宰相秀繼箏。その餘伶倫三人簀子に候して。笙笛篳篥を役す。樂は千秋樂。海波。陵王なり。良正院このほど駿府におはしまして。けふつねの御座の奥の間にて聽聞したまふ。この姬君先に備前岡山より。はるばるまいりたまひ。ひそかに聞え給ふ事あり。はじめ姬君小田原の北條氏直が方へ御入輿したまひしが。氏直うせし後寡住にて渡らせたまひしを。豐臣太閤の媒して池田宰相輝政にそはせられ。左衛門督忠繼をまうけ給ふ。忠繼には備前國を給はりしかど。忠繼幼年の間は兄武藏守利隆。父宰相の遺命をもてその國務を後見してありけるにより。今は忠繼にその國勢をとらせまほしとの御事とぞ聞えし。この日三河國深溝本光寺駿府に參謁す。(駿府記。國師日記。)
○廿七日參向の公卿駿府を發して江戶に赴く。けふ冷泉中納言爲滿卿駿府にまかる。是は大御所古今和歌集の奥旨御傳授有べきためとぞ聞えし。この夜林道春信勝御前に侍しかば。かの集中秘事とする。三鳥の口决をとはせたまひしに。信勝これに答ふること。響の聲に應ずるごとし。後日爲滿卿聞へあげし奥義口决。信勝が前日申たるに少しもたがはず。信勝大に御感を蒙る。(國師日記。駿府記。)
○廿八日駿府熊野森にて罪人火起請を行ふ。彥坂九兵衛光正是を沙汰す。(駿府記。)
○廿九日土井大炊頭利勝江戶より駿府に御使に參る。(駿府記。)
○晦日田中筑後守忠政駿城にまうのぼりて。K羅紗幷に銀二百枚献ず。是江戶城修築のこと仰蒙り。關東に赴くによりてなり。松平左衛門督忠繼の家士荒尾但馬。福原C左衛門も拜し奉る。是は良正院御かたに供して。駿府に參りしによりてなり。また土井大炊頭利勝を召て。御密話教刻に及ぶ。(駿府記。)
◎この月先に罪蒙り遠謫せられたる筒井伊賀守定次が弟藤五カ定廣。藤六カ廣之を召て。大和國福住にて一万石を授られ。郡山の城をあづけられ。もとの家人三十六人に二百石づゝたまはり。その寄騎に附らる。廣之は主殿助。藤六カは紀伊守とあらたむ。(家譜には。定次の弟藤六カ政行とて。市塲殿にあはせられ。和州にて五千石たまはり。慶長十五年八月三日死す。
六十四歲。この人紀伊守とあらたむ。その子を藤五カ政次とて。郡山城にあり。大坂陣の前退城して切腹す。政次のちに主殿頭とあらたむと見ゆ。藩翰譜には藤六カ藤五カを一人の事とす。政行實は福住入道宗永が子にて。順慶が猶子とす。いづれ是なるや。)また福島左衛門大夫正則。K田筑前守長政。蜂須賀阿波守至鎭。加藤左馬助嘉明。松平武藏守利隆。京極丹波守高知。森美作守忠政。寺澤志摩守廣高。細川內記忠利。有馬玄蕃頭豐氏。稻葉彥六典通等。江戶修築の事奉はり駿府に來り江戶へ赴く。又大久保忠隣配所江州よりして。叛心あらざる旨訴狀を奉るといへども。近臣時勢を恐れてこれを取次ものなし。成P隼人正正成忠隣が寃罪に沈めるを歎き。その訴狀を大御所の御覽に備ふ。大御所御覽ありて。更に可否の仰もあらず。またこの頃大坂城中織田有樂入道。大野修理亮治長より。ひそかに加賀國に使して前田中納言利長へ密書を送り。右府このほどは年漸く長じ給ひ。武將の器備りたまふ。利長はやく大坂へ馳登りて右府を輔翼し。大事を思ひ立給ふべし。城內粮米七万石を蓄へしに。福島左衛門大夫正則近日三万石を献ず。しかのみならず。城外商人の廪に畜しめしも若干なり。是みな利長の進退にまかせらるべし。そのうへ黃金千枚恩貸せらるれば。利長軍備を嚴整してはせのぼらるべしとなり。利長はさらに其答もなさず。筑前守利常をして。大坂よりの密書を駿府に献ぜしむ。大御所御覽あり。大坂城中金銀を積蓄すること山のごとしといへども。近年大社大寺を興隆し。土木の費專らなれば。今はその半を虛耗せしなるべしとのみ仰ありて。敢てあやしませ給ふ御氣色もみえたまはざりしとなり。されどかねて大坂一度は兵革興るべしとしろしめされ。御心を煩はしたまひしが。利常がこの訴よりのちは。いよいよ帷幄の御計略をめぐらされしとなり。また松平陸奥守政宗は。この春より越後高田の城搆造せしにより。江城にて守家の御刀をたまふ。(武コ編年集成。慶長日記。ェ永系圖。) 
卷二十六 / 慶長十九年四月にはじまり六月に終る 

 

○四月朔日朝會例のごとし。駿府にては幸若舞御覽ぜらる。この頃琵琶法師。棋師。象棋師等各めして試みたまふが故。曲藝の徒多く駿府に輻湊すといふ。(駿府記。武コ大成記。)
○二日夕陽の光火のごとし。さきに(三月廿八日。)駿府にて火起請とりしものゝ掌を奉行點撿す。(駿府記。)
○三日旭光赤銅のごとし。見るもの驚駭す。駿府には木下右衛門大夫延俊參謁し。銀二十枚。時服十獻ず。この日高力河內守長次卒す。こは武藏國岩槻の城主左近大夫忠房が季弟にて。つぎの兄傳十カ正重が家をつぎ駿府に近侍し。上段御給仕の役をつとめ。爵ゆりて河內守と稱し。けふ廿三歲にて卒し。子なければ家たえぬ。(駿府記。ェ永系圖。)
○四日加藤肥後守忠廣駿府に參謁し。銀二百枚。時服十。袷二十を獻じ。家臣等五人も見え奉る。間宮新左衛門直元。田邊十カ左衛門某佐渡國より參謁し。銀千貫目餘奉る。この日明星院眞言論義聞しめさる。(駿府記。)
○五日大村丹後守喜前駿府に參謁し。銀廿枚緞子五卷を獻ず。この日五山僧等に命じ。群書治要。貞觀政要。續日本紀。延喜式の中より。公武の法制となるべき事を撰擇せしむ。林道春信勝。金地院崇傳その事惣裁たらしめらる。西福寺撰釋集を獻じ。興福寺のハ持院法華廿八品和哥を獻ず。また駿河のM邊にて漁夫異魚を得。是を廿餘人にて荷ひ來り獻ず。その魚背Kくして龜甲のごとく。首は犬に似て尾三股にわかれ。腹下斑紋大鰭あり。諸人その名を知る者なし。(駿府記。)
○六日午牌霰降寒氣冬のごとし。越前少將忠直朝臣駿府に參謁せられ。銀二百枚。綿三百把獻ぜらる。その家司本多伊豆守富正。本多丹下成重二人をめして。忠直少年たれば兩人よろしく輔導すべしと面命せらる。(駿府記。)
○七日駿府にて林道春信勝。論語爲政篇を進講す。(駿府政事錄。)
○八日江戶城修築するにより。けふ基礎をさだむ。越前少將忠直朝臣駿府を辭して江戶におもむかる。京山科安祥寺脚力を以て。此三日高野山前撿挍寳性院政遍遷化の事注進す。大樂院後住たらしむべしと仰下さる。(創業記。駿府記。)
○九日勅使廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿。幷に藪宰相嗣良卿。日野弁光慶。廣橋右中弁兼賢卿。高倉少將永慶江戶に參向す。此日御勘氣蒙りながら駿府に隱れ住ものを追放たしめらる。けふ終日大雨。夜に至てはれず。諸人これをスぶ。(駿府記。創業記。當代記。)
○十日駿府にて安養寺存康をめして。洞家の法問を御聽問あり。(駿府記。)
○十一日駿府にて眞言新義法問聞しめさる。智積院日譽。明星院。建穗寺菖蒲。ハ持寺。吉祥院。上野鏡識坊。結城長存坊これにあづかる。下總圓福寺講師たり。この日水野大膳正春(家譜正忠。)死す。こは尾張の國大高の城主大膳大夫正長が子にて。召出され三千三百石領しけるが。直日を怠り御勘氣を蒙り。御ゆるしなくして死しければ。采邑收公せられ。その子九右衛門正行は。さきに别にめし出され小姓組たりしが。父が事に座して御勘氣蒙る。のち小姓に復し廪米三百俵給はりしとぞ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○十二日。勅使廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿。江城にまうのぼり。從一位右大臣の宣旨をつたへ奉る。(駿府記。)
○十三日駿府にては眞言論義聞しめさる。智積院日譽精義たり。この日五山の僧等先に命ぜられたる貞觀政要。續日本紀。延喜式等の抄錄を進覽し奉る。林道春信勝。金地院崇傳御前に於て是をよむ。又彥坂九兵衛光正柳津浦にて釣しとて松魚を献ず。又加茂の詞官等葵及び符籙をさゝげ奉る。(駿府記。)
○十四日駿府にて猿樂あり。冷泉中納言爲滿卿幷五山長老等にみせしめらる。樂は白樂天。松榮。井筒。鞍馬天狗。通小町。芦刈。柏崎。葵上。養老なり。ョ宣卿ョ房朝臣松榮をまはれ。義直卿井筒の小皷をうたせらる。(駿府記。)
○十五日駿城にてはけふも能あり。竹生島。ョ政。千手。谷行。芭蕉。花月。阿漕。善知鳥。老松なり。(駿府記。)
○十六日駿府にては本多上野介正純。金地院崇傳に仰事有て。京の文章博士船橋式部少輔秀賢にはかり。仙洞幷攝錄。竹園。月卿。雲客所藏の古書を搜索し。先その書目を進覽すべしと申送らしむ。また江戶參向の公卿に。宣下おはらば直に駿府へまいらるべしとの內旨を。上野介正純金地院崇傳よりつたふ。京大佛殿を豐臣右府より搆造あり。けふその鐘を新鑄すとて。蹈鞴百人。都鄙工匠の棟梁十四人。小工二百人。鑄師三千人集る。見物の貴賤堵のごとし。京所司代板倉伊賀守勝重。大坂惣奉行片桐市正且元監臨す。(國師日記。舜舊記。)
○十八日公卿江戶を辭して駿府に參向す。駿城にては法相論義聞し召る。
一乘院門跡尊勢講師たり。北院。東北院。阿彌陀院。ハ持院。妙喜院等是にあづかる。こたび大乘院門跡信尊受戒せらるべきに。その戒師たらんもの。興福寺はむかしより天正十二年まで綸旨連綿たり。東大寺は文安三年退轉せしより。今年まで百六十九年その例なし。近例により興福寺堂衆を戒和尙として。大乘院門跡早々受戒あるべき旨。一乘院門跡尊勢に仰つかはされ。一乘院門跡幷に喜多院にいとま賜ひ歸寺せしめらる。(駿府記。國師日記。)
○十九日駿城にて聊御違例なりしが。高野山の僧等江戶より歸り參りければ。直に論義聞し召る。京所司代板倉伊賀守勝重より。京大佛の鐘鑄造せし由注進す。(駿府記。)
○廿日勅使廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿駿城にまうのぼり。此十二日江戶にては從一位右大臣御昇進の事聞え上る。今度大御所にも大政大臣御昇進あるべきか。又は准三宮宣下せらるべきの旨仰進らせたまふといへども。かたく辭し給ひ。江戶御所の姬君女御入內の事のみ。御領掌ありしとぞ。又公家法制を定めらるれば。諸家舊藏の書籍寫して。進呈せらるべしと仰給ふ。實條卿三代實錄舊藏するにより。進覽すべきよし答奉りて退く。藪宰相嗣良卿。日野弁光慶卿。廣橋弁兼賢卿。高倉少將永慶も拜し奉る。醫官今大路延壽院正紹江戶番替によて拜謁す。はてゝ眞言論義聞し召る。明王院光算。大樂院。無量輪寺。遍明院。正智院。金剛三昧院。多聞院。西南院庵室。講師北室院政旻。次に新義論義智積院日譽。明星院。ハ持院實延。建穗寺學頭菖蒲。吉祥院。鏡識坊。長存坊。講師圓福寺つかふまつる。高野山の僧等聽聞せしめらる。はてゝ大樂院に高野山の寳性院を相續すべしと命ぜらる。大樂院先師所存あるべしとて辭退しければ彌その正直を御感あさからず。あながちに面命せらる。京都所司代板倉伊賀守勝重より大佛殿鐘の唐金一萬七千貫目餘。鞴百三十二挺。樋四筋。鑄物師棟粱山城國三條釜座彌右衛門。同助右衛門。脇棟梁駿河江尻長谷川。武藏江戶推名。伊勢山田源右衛門。播磨。若狹。備後。美作。大和。河內。攝津。和泉等すべて十一人。諸國鑄物師三千百餘人。鐘の口九尺一寸五分。高さ一丈八寸。厚九寸のよし注進す。この日一乘院門跡尊勢駿府を發し歸京せらる。(駿府記。國師日記。)
○廿一日駿府にて公卿饗應せられ猿樂催さる。高砂。經政。三輪。鵺。野々宮。皇帝。御裳洗。七番。三輪。鵺。皇帝はョ宣卿つかふまつらる。(駿府記。)
○廿二日細川越中守忠興病もて江戶を辭し。駿府に參り拜謁し。時服十領。緞子廿卷献ず。夜中片山與安法印宗哲をもて。萬病圓千粒。鉛液丹八香盒をたまふ。公卿駿府を辭して歸洛せらる。公武官位謝物の制をさだめ仰つかはさる。池田備後守重信巫女の惡事を訴へしに。その巫女は重信が妻のもとに住よし白狀せしがば。重信御勘氣を蒙る。(駿府記。家譜。國師日記。重修譜には。駿府に巫女有て諸人をたぶらかし。金銀をかりとり。重信が家士關彌八カといふものにあたへたりしに。貸せし者はたりければ。巫女は其金銀はわがもとにあらず。彌八カが所爲なりといふ。よて貸せし徒重信もしるべきよしをもてうたへ出しかば。糺明せられしに。重信しらざるよしの直訴をさゝげしにより。御勘氣蒙りしとしるせり。)
○廿三日持筒頭牧野伊豫守成里卒す。威重は代々三州吉田城主たりし牧野田三成三が四代の孫にて幼なくして。父傳藏成繼におくれ尾州に人となり。十六歲にて父の仇石川隼人佐といふものを討取て。伊勢の長島に逃行しを。瀧川左近將監一益これを感じ。めして近侍となす。これよりしきりに武功をはげみ。織田殿につかへ。又長谷川藤五カ秀一につかへ。また關白秀次にしたがひ。秀次事ありてのちは石田治部少輔三成がもとに寄食し。關原戰に三成が手に屬し出陣し。西軍破れしかばカ黨十餘人をしたがへ敵中を破り。池田三左衛門輝政が備に加はる。大御所兼ての武名をしろしめしければ。めし出され江戶御所に付られ三千石をたまひ。持筒頭たらしめられ。又仰により三子成純に傳藏の名をゆづり。成里は叙爵して伊豫守と稱し。齡五十九歲にて終りしなり。三男傳藏成純に家ゆづりて二千石。四男織部成常に千石わかちあたふ。長子將監成信二子宇右衛門成延は猶池田家に奉仕せり。駿城にては智積院日譽以下の諸僧をめして。直言論議聞し召れ。をのをの歸寺の暇給ふ。五山僧等も同じく暇下さる。三好丹後守房一。堀田若狹守某。能勢伊豫守ョ次。保田甚兵衛則宗。奥田三カ右衛門忠次をめして。池田備後守重信が罪を議せしめらる。(ェ永系圖。駿府記。)
○廿四日小姓向坂庄次カ政勝死して。
その子權十カ政定家をつぐ。(ェ永系圖。)
○廿六日下總國古河城主小笠原左衛門佐信之卒す。その子伊勢次カ政信して。原封二萬石襲しめらる。此信之實は酒井左衛門督忠次が三男にて。幼年より近侍しけるが。天正十六年仰によりもとの掃部助信嶺が養子となり。慶長三年二月九日父信嶺卒しければ家つぎ。五年上杉御追討のとき。今の御所の御供して御先手に列る。關原の戰には山道の御供し。十七年武藏國兒玉の所領をかへて今の城給はり。二万石になされ。ことし相摸國小田原城を守り。けふ四十五歲にてうせぬる之。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿七日安藤對馬守重信江戶より御使として駿府へ赴く。此廿三日霖雨。攝河兩國近年類なき洪水之とぞ。(駿府記。當代記。)
○廿八日安藤對馬守重信駿城にのぼり拜謁し。今度御所御昇進の事。御辭退あるべきにや。御庭訓をこはせ給ふ旨仰進らせらる。天恩の忝き御辭退有まじき由仰つかはさる。又江戶より請せ給ふにより。本艸綱目をつかはさる。京より船橋式部少輔秀賢かねて搜索し給ふ古書の目錄を進呈す。院の御庫に延喜式。百練抄。令。江次第。この外關白秀次公献ぜし古記の㧞萃あり。九條家の庫に新儀式。北山抄。類聚格。壬生官務孝亮の藏に西宮抄。類聚國史等なり。(駿府記。)
○廿九日美濃大水。尾張はことに甚しく。田圃損亡あげてかぞふべからずとなり。(當代記。)
◎この月江戶城經營中の令條仰下さる。經營の塲はをのをの下馬すべし。女子童子はこの限にあらず。經營中大器械は停止たるべし。奉行は此限にあらす。面をつゝみまたは烟草を用ゆる事。いよいよ禁ずべしとなり。南部信濃守利直が家司楢山五左衛門越後國の高田城經營の勞を褒せられ義助の御刀給はり。時服銀をかづけらる。また一色左兵衛範勝に采邑二千石をたまふ。(武家嚴制錄。家譜。斷家譜。)
○五月朔日拜賀例のごとし。駿城もおなじ。囃子五番。老松。當麻。松風。錦木。江口。(駿府記。)
○二日駿城にて天台論義あり。(駿府記。)
○三日五山僧等まうのぼり拜し奉る。この日處士大須賀與助政次死す。政次は三河にて岡崎三カ信康君につかへし人にて。今年八十五に至りしとぞ。その子治部政成は岳父佐野傳右衛門正長が乞により。後に大番にめしいださる。よて佐野に改む。駿城には片桐市正且元大坂より參る。是は大佛鑄造の事奉行して。しばらく在京せしが。四月廿四日京を發して。けふ參向せし之。(紀年錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。駿府記。)
○四日駿城にて天台法論聞し召る。中院。成菩提院。法輪寺。講師は春日岡總宗寺亮運つかふまつる。(駿府記。)
○五日蒲節例のごとし。駿城にもおなじ。酒井雅樂頭忠世江戶より御使に參る。八日にまうのぼり拜謁すべしと命ぜらる。(駿府記。)
○六日昨日より大雨。所々暴漲す。この日信濃國小諸城主仙石越前守秀久卒す。その子兵部大輔忠政遺領五万石をつがしめらる。この秀久は治兵衛久盛が子にて。はじめは權兵衛といふ。豐臣太閤いまだ羽柴筑前守と申けるとき。秀久に淡路の國須本の城をさづけ。年頃の武功を賞せらる。天正十一年七月爵ゆりて越前守と稱し。十三年の夏四國の戰に秀久先陣しければ。其勸賞に讃岐の國賜て移る。十四年島津を攻らるゝとき。十二月廿二日の朝戶次川の戰に。味方散々に敗れしかば。關白その不覺をとがめられ讃岐國を收公せらる。十八年相摸の北條をせめられしとき。秀久ひそかに供して信濃の國に下り。小笠原右近大夫貞慶が手に隨ひ軍せしかば。その擧動神妙なりとて信濃國小諸の城給はり。五万石を領し。慶長五年の秋大御所上杉御追討として。奥に下らせ給ふとき。御供して發向す上方またみだれしかば。今の御所の御供して山道をのぼり。眞田が上田の城をせめられしとき先驅し。その後小諸の城にとゞまりて。上方の戰にはあはず。十六年正月二日謠曲始のとき着座をゆるされ。けふ六十四歲にて卒せしなり。駿府にては天台論義聞しめさる。月山寺。中院。眞光寺。成菩提院。春日岡總宗寺亮運。法輪寺。講師は月山寺なり。(當代記。ェ永系圖。藩翰譜。駿府記。)
○七日駿城にて京北山鹿苑寺參謁す。金地院崇傳。今度大佛供養の導師咒願師證義師等を議定して聞え上る。導師は妙法院門跡常胤法親王。咒願は三寳院准后義演。證義は照高院准后道澄なり。(國師日記。)
○八日江城の御使酒井雅樂頭忠世拜謁す。今度右大臣從一位御昇進の御謝儀として。銀三百枚。長光御太刀。K鹿毛の御馬を進らせ給ふ。忠世も太刀馬に蠟蠋五百挺そへて奉る。忠世に長光の御刀たまはり直に暇下さる。また加藤肥後守忠廣は右馬允正方を名代とし。婚姻を謝し。緋繻子二十。K繻子二十。時服十。銀二百枚献じ。正方も時服五。銀三十枚献ず。
これ故蒲生飛驒守秀行が女は。大御所の御孫女なるをもて。御所御猶子となされ。忠廣のもとに入輿せられしなり。次に片桐市正且元干飯三盒。白炭三箱献じ拜謁す。御閑談刻をうつさる。(駿府記。)
○九日大風雨。(當代記。)
○十日小姓板倉周防守重宗京より駿府に歸謁す。大佛殿成功しこの仲秋上旬には。開眼供養あるべき旨聞え上る。松平下野守忠クが家司岡野半兵衛重政。外池信濃良重等退身せし聞えあるにより。蒲生五カ兵衞ク春に津川の城を授け。先に退身したる蒲生源左衛門ク成に三春の城をあたへ。四万五千石領せしむべしと仰下さる。(駿府記。大業廣記。武コ編年集成。)
○十一日五山の僧等江戶城にめして。をのをの題を給はりて頌文を試給ふ。昨今連日大雨。(國師日記。當代記。)
○十二日諸國洪水。天文十三年甲辰以來七十一年が間。いまだ例なき事とぞ。(當代記。)
○十三日松平陸奥守政宗。越後高田城經營にあづかるをもて。御自書給はり慰勞せられ。また御使をもて惟子をつかはさる。(貞享書上。)
○十四日雨猶やまず。(駿府記。)
○十五日駿城にて天台宗論義聞し召る。講師は眞光寺。精義は中院。月山寺。成菩提院。春日岡法輪寺。三井の法泉寺なり。(駿府記。)
○十六日江戶にて。五山僧に作らしめられたる頌文を。駿府へまいらせらる。儒役林道春信勝幷金地院崇傳御前に於て。是をよむ。(駿府記。)
○十九日加藤式部少輔明成駿府へ參謁し。銀百枚。綿二百把。袷衣十獻ず。腫物なやみて三年在封せしとぞ。京職板倉伊賀守勝重脚力もて幾內洪水。鴨河堤崩れ民屋流亡し。P田橋傾落の旨注進す。堤防橋梁速に修理すべしと。その二子內膳正重昌もて仰下さる。(駿府記。)
○廿日致仕前田中納言利長卿卒せらる。齡五十三。正二位大納言を追贈せらる。遠山民部少輔利景卒す。その子勘右衛門方景に家つがしめらる。この利景が父は相摸守景行といふ。代々美濃の國明智の城主なりしが。織田殿にしたがひ。元龜三年甲州の武田勢と戰ひ討死す。天正十年織田殿甲州發向の時。利景當家の麾下に屬し戰功を勵す。武田勝ョ滅亡のゝち河尻與兵衛鎭吉に屬し。美濃組のともがらと共に甲府を守る。織田殿事有て翌年ひそかに三州に參り。御家人たらん事を乞。御ゆるし蒙り。十二年長久手の戰におよび仰をうけて。森武藏守長一が兵ども守りたる明智の城を攻落し。首十五級切て御感を蒙る。豐臣太閤のときに明智をば森武藏守長一にたまはりければ。利景舊領明智を去て三州に參り。十八年小田原陣に御供し。關東に移らせ給ひしのち。上總の國の內にて采邑を下さる。慶長五年關原の時には。田丸中務少輔具直が濃州岩村の城にありて。明智土岐兩城をかゝへしかば。利景仰をうけ。舊領なればとて明智城に馳向て攻ぬく。夫より木曾組の人々と共に。岩村の城を責んとせしに。上方の軍敗れ。田丸も岩村の城を開退しかば。その城を守る。翌年その功を賞せられ舊領明智を給はり。六千五百三十石餘を領し。伏見城にて奏者の事奉はり。叙爵して民部少輔と稱し。七十四歲領地にて終をとる。竹腰山城守正信が兒を召て。御覽ぜられ。源太カといふ名を給はり。行光の御さしぞへを授け給ひ。又御壽齡にあやかり奉れとの仰にて。着御の袷衣をかづけらる。また片相市正且元歸坂の暇給はり。馬幷巢鷹を下され。八月二日大佛供養行ふべき旨命ぜられ。豐臣右府にも巢鷹を遣はさる。(慶長見聞書。ェ永系圖。慶長年錄。ェ政重修譜。家譜。)
○廿一日駿城にて池田越前守重利謁し奉る。重利は本願寺門跡の執事下間少進重政入道法橋ョ龍が子にて。これまで本願寺につかへ按察使と稱せしとぞ。また叡山の僧徒等參謁す。つぎに奥殿にて大御所南光坊僧正天海より。天台宗血脉相承したまふ。この日池田備後守重信。先に訴へし巫女のことに座して所領收公せられ。有馬玄蕃頭豐氏にあづけらる。(重修譜には。重信この後富士の麓法命寺に籠居すといふ。)重信が父は備後守重成とて。織田右府につかへ。その後御家人に加へられしが。重信も爵ゆりて備後と稱し。此日罪蒙りしなり。(家忠日記。駿府記。ェ政重修譜。)
○廿二日肥前國平戶領主松浦式部卿法印鎭信卒す。遺領六万三千二百石を。その孫壹岐守隆信に襲しめらる。此鎭信は故肥前守隆信入道道可が子にて。その先は左大臣融の後胤なり。源大夫判官久のときより。肥前國松浦に住せしかば家號とす。そのゝち肥前守與榮より。代々同國平戶に城かまへて住す。あるときは太宰少貳が被官となり。或ときは大內家または龍造寺等にしたがひしが。豐臣關白筑紫の地攻られしとき。鎭信降參して本領を安堵し。天正十七年二月廿七日式部卿法印に任ず。關白の命蒙りて朝鮮におし渡り。こゝかしこに戰ふ事七年。慶長三年歸朝せしが。
同じく五年關原の時は。石田小西等が催促に應じ。鎭西の人々も長門國下關まで兵船こぎよせしが。大村丹後守喜前がすゝめにより。こゝより本國に引かへしければ御感を蒙り。同年九月本領を安堵し。けふ領國平戶に於て卒せり。齡六十六。駿城には天台の僧等まうのぼり刻を移す。僧正天海申けるは。この頃比叡山學林坊が奴僕二カといへるもの。天狗のためにいざなはれたりしが歸り來り。我は叡山二カ坊の使とし。愛宕山太カ坊。鞍馬の僧正坊。彥山の豐前坊。大山の伯耆坊。上野の妙義坊等を呼迎へ。各所の大天狗近日叡山の嶺八王寺三の宮に會集すと告しかば。諸人大にあやしみ恐れしが。期日に至り俄に風雨晦冥し大雹おびたゞしくふりて。三の宮の邊さまざまの怪異をあらはしたるよしきこえ上る。(日記。藩翰譜。ェ政重修譜。駿府記。)
○廿三日戶田采女正氏鐵駿城に參謁し。銀五十枚。時服十献ず。(駿府政事錄。)
○廿四日僧正天海駿城にのぼり御物語刻を移す。下野國日光山の麓銅山近日白銀を出す。全く佛法興隆の祥瑞なるぺき旨天海聞え上る。大御所更に聞し召給はざるがごとし。(駿府政事記。)
○廿五日前田中納言利長卿卒去の事聞え上るにより。在駿の諸大名旗本の諸士。まうのぼり御けしき伺奉る。(駿府政事錄。)
○廿六日江戶城石壘搆造一の丁塲落成す。よて二の丁塲基礎を布置せしめらる。けふ五山僧等暇給はり。江戶を出て駿府に赴く。(創業記。駿府記。當代記。)
○廿七日五山僧等駿城に參謁す。松平陸奥守政宗が越後高田築城により。其旅館へ駿府より御書を使はされて慰勞し給ふ。(駿府記。貞享書上。)
○廿八日駿城にて天台論義聞し召る。叡山幷關東の緇從廿四人是にあづかる。(駿府記。)
○廿九日駿城にて五山僧等時服給ふ。この日里見安房守忠義銀百枚時服献じ拜謁す。(駿府記。)
◎是月京にては主上(後陽成院。)しきりに大御所御上洛を御催促のよし。兩傳奏より本多上野介正純。金地院崇傳へつたふ。山雅樂助幸成御勘氣を蒙る。こは大久保加賀守忠常が病をとはん爲。小田原にまかりし故とぞ。また原田九カ左衛門景種八十五歲にて沒す。その子小姓勘兵衛種正づく。二子三九カ吉種もめし出され大番に列す。(國師日記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○六月朔日當賀例のごとし。駿城にては出仕の群臣富士の氷を給ふ。東大寺C凉院某はじめ。華嚴宗の諸僧駿城にまうのぼり拜謁す。また幸若舞御覽あり。(駿府記。)
○二日松平源次カ乘壽駿城に登り。銀五十枚。時服を献じ襲封を謝す。五山僧等續日本紀の欠卷を補寫しさゝげ奉る。又天台宗回答を聞しめさる。鷄足院某。日揄@珍祐。觀音院忠尊。講師は竹林坊重順つとむ。(駿府記。)
○三日駿城にて華嚴宗論義聞し召る。C凉院某講師たり。こは當今の俱舍の達者なりとぞ。大喜院。ハ持院。無量壽院。專實坊。治部卿是に預かる。此日濃州大水。曾根の堤崩れたりとぞ。(駿府記。當代記。)
○四日成P豐後守正武駿府に御使し。江戶城石壘多半成功のよし告まいらせらる。大御所正武もて。江戶に自鳴鐘を進らせ給ふ。諸國洪水。攝津。河內。美濃尤甚し。田圃。民家。堤。橋梁多く損亡す。去月廿三日より霖雨のいたすところなり。(駿府記。)
○五日幸若舞御覽あり。(駿府記。)
○六日京鹿苑寺に御K印を給ふ。山城の國北山の中三百四十石余。西院の內九石餘。合て三百五十石。幷境內守護不入諸役免許の事。去慶長十五年四月廿日先判の旨にまかせ。彌相違せしむべからずとなり。天主教の徒獄に下さる。また蠻船肥前平戶に漂着するよし聞ゆ。この日妙法院門跡常胤法親王。梶井門跡最胤法親王。蓮院門跡尊純法親王駿府に參謁せられ。妙兩門は帷子十領づゝ。梶門は五束五卷奉る。三門跡はじめ五山の僧等論義きこし召る。觀音院忠尊。惠光坊良珍。日揄@珍祐。春日岡亮運。月山寺。中院。覺林坊實見。五智院x海。法林寺。竹林坊重順。眞光寺。惠心院良範。精義は正覺院僧正豪海。南光坊僧正天海。講師は惠光坊良珍つかふまつる。(駿府記。當代記。)
○七日駿城にて妙法梶井蓮院三門跡をはじめ。天台諸僧を饗せられ猿樂あり。樂は室君。實盛。夕顏。紅葉狩なり。石川傳次カ一勝沒し。その子次カ兵衛一長家をつぐ。(駿府記。)
○八日三門跡江戶に赴かるべしと命ぜらる。五山僧は暇給はり京にかへる。京愛宕威コ院駿府に參謁す。(國師日記。)
○九日三門跡江戶におもむかる。駿府にては天台論義聞し召る。西樂院。行光坊賢祐。延命院忠尊。鷄足院某。東光坊。覺林坊實見。法泉院。宗光寺。泉福寺。禪行坊。嚴光院。相住坊亮算つかふまつる。猿樂等六十餘人。唐織または時服をたまふ。(國師日記。駿府記。)
○十日駿城にて華嚴宗論義聞し召る。
この日故池田宰相輝政の北方。(良正院御かた。)駿府を出て歸國せらる。(駿府記。)
○十一日駿城にて幸若舞御覽ぜらる。雷鳴連日。(駿府記。)
○十二日庭田宰相重定卿江戶より駿府にまかる。下間少進法印ョ龍は。駿府より江戶に赴く。駿府に伺候の猿樂等に金錢を下さる。(駿府記。)
○十三日松平下野守忠クが家司町野長門幸和。稻田數馬貞右に御判を給ふ。其文にいふ。忠ク幼年の間下々萬事爭論あらしむべからず。法令違犯の徒は曲事たるべし。訴論を停禁し新進の徒を召抱べからず。止事なき故あらば聞え上べし。藩士緣むすぶ事聞え上ずして。私にはからふべからず。慶長六年新封以前の古借弁濟すべしとなり。駿城にて天台論義聞し召る。人數六日におなじ。鷄足院某法泉院を加へらる。講師は惠心院良範つかふまつる。又竹林坊重順。五智院x海をして。因業果業の問答せしめらる。また大乘院受戒會延滯すべき旨。本多上野介正純。金地院崇傳より。京職板倉伊賀守勝重がもとへつたふ。(武家嚴制錄。駿府記。國師日記。)
○十六日嘉定例のごとし。駿城にては宰相義直卿。ョ宣卿。少將ョ房朝臣。配膳は西尾隱岐守忠永役す。次に日野大納言輝資入道唯心は三方。水無P宰相親具入道一齋。金地院崇傳。冷泉中納言爲滿卿。大澤少將基宥は足付。山名豐國入道禪高。佐佐木中務大輔高定。畠山長門守義直。土岐左馬助ョ次。同市正持益は片付にてたまふ。その外は枚擧にいとまあらず。はてゝ天台論義聞し召る。其人數九日に同じ。應心院良範精義たり。(駿府記。)
○十七日智積院日譽江戶より駿府へのぼり拜謁す。鏡識坊。長存坊。圓福寺もおなじ。江城の御前にて論義三度聞し召るゝ旨聞えあぐる。また天台論義聞し召る。精義は正覺院僧正豪海。南光坊僧正天海。講師は月山寺。惠心院良範。眞光院。春日岡亮運。竹林坊重順。法泉院。法輪寺。鷄足院某。日揄@珍祐。五智院x海。惠光坊良珍。東光坊是に加はる。また冷泉中納言爲滿卿挍正せし弄花抄を捧げらる。(駿府記。駿府政事錄。)
○十八日松浦肥前守隆信江戶城修築の事はてゝ駿城に參り謁す。大御所御對面のおりから。祖父法印鎭信が關原にて忠功の事ども仰出され。その上鎭信かねて封內の邪教を嚴禁せし事きこしめしたり。隆信今度長崎邊の邪宗を查撿し。邪宗の寺院を破滅すべしと面命せらる。(駿府記。貞享書上。)
○十九日島津右馬允忠興襲封を謝して駿府に參謁し。太刀馬幷伽羅卷物を獻じ。拜謁して直に江戶に赴く。(駿府記。ェ永系圖。)
○廿日有馬玄蕃頭豐氏江戶城修築の勞を慰せられ。大御所より御書を給ふ。此日駿府にて眞言論義聞し召る。精義は智積院日譽。建穗寺。學頭蓮臺院。圓福寺なり。また南都華嚴の諸僧。江戶に參るべしと命ぜらる。この日春田猪之助吉次死して。その子與次カ直次家をつぐ。(享書貞上。駿府記。ェ政重修譜。)
○廿一日山口駿河守直友仰により長崎におもむき。天主教を禁絕せしめらる。(ェ永系圖。世につたふるところ。有馬左衛門佐直純は高橋右近元種が所領日向國縣をたまはり。本領肥前有馬より移らんとす。有馬の土人等かねて邪宗に歸依し。領主の命にしたがはず。よて直友を遣はされ島津の勢を引具し。命令違犯の徒を追捕せしめられしとぞ。藩翰譜。)
○廿二日片桐市正且元。大野修理亮治長駿府にて拜謁し。直に江戶に赴く。大御所には天台論義聞し召る。精義は正覺院僧正豪海。講師は春日岡亮運勤む。僧正天海所勞によりまうのぼらず。けふ曾雌源兵衛定行死す。その弟藤助定次つぐ。二百五十石の內三子平大夫定俊へ百石わかつ。定行は武川の士にて武田家に屬し。のち御家人となりし之。(駿府記。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。)
○廿三日諸大名江城にまうのぼり右府御轉任を賀したてまつる。松平陸奥守政宗。越後高田城經營心いるゝとて。御使もて御書幷時服を給ふ。(當代記。貞享書上。)
○廿四日御轉任の賀宴あり。諸大名江城へまうのぼり饗せられ。猿樂を見せしめらる。駿城には眞言論議聞し召る。講師は鏡識坊。精義は智積院日譽なり。越後少輔忠輝朝臣駿府に使參らせ。高田城經營の事を告奉らる。(慶長年錄。駿府記。)
○廿五日駿城には天台論義聞し召る。精義は惠心院良範つかふまつる。(駿府記。)
○廿六日駿府にて眞言論義あり。講師は圓福寺。精義は智積院日譽なり。(駿府記。)
○廿八日大澤左衛門佐基胤卒す。その子兵部大輔基宥家をつぐ。この基胤は父を治部大輔基相といふ。持明院左中將基長の末裔にて。代々遠州堀江の城主たり。永祿のすゑ大御所遠州をせめしたがへ給ふにおよんで。二俣。淺原。松下。久能等の國人みな風を望んで降附せるに。基胤一人今川氏眞が爲に孤城を守りて降らず。大御所その節義を御感のあまり。御誓書を給はり厚く慰諭し給ひければ。
遂にその恩に感じ歸順し奉り。しばしば忠勤をはげましけるが。齡つもりて八十歲。この日病沒せしとぞ。この日京にては大佛殿に新鐘をかゝぐ。駿城には天台論義聞し召る。精義は正覺院僧正豪海。南光坊僧正天海。講師は覺林坊實見なり。(ェ永系圖。藩翰譜。舜舊記。駿府記。)
○廿九日京職板倉伊賀守勝重より注進せしは。この廿三日。禁廷にて猿樂催されしに。擊釼をもて業となす憲法といふ者。見物の雜人に交り。警衛の吏數人を殺害し。庭上鮮血をそゝぐ。そのとき天俄にかきくもり。甚雷大雨。諸人みな奇異の想をなせりとぞ。けふ駿城には眞言論義聞し召る。講師は忠音なり。(駿府記。)
○三十日土御門左衛門佐久修夏秡を献ず。(駿府政事錄。)
◎是月さきに蒲生が家を退身せし蒲生源左衛門ク成に。再勤を命ぜられしが。ク成道路にて病沒せり。大御所この事聞しめし。ク成が子孫幷ク成と同じく退身せし徒を。めし返すべき旨。松平下野守忠クに仰下さる。このころ大坂の老臣片桐市正且元。大野修理亮治長をめして。近頃大坂にて諸浪人をめし集め。合戰の調練するよし。閭巷の風說頻りなり。四海太平の折といひ關東大坂壻舅の親み。父子のごとくなるべきに。今何のゆへありてかゝる擧動をなす事あらんや。我故太閤の顧命を信用して。敢て他志なし。汝等秀ョの股肱なり。よく輔導して秀ョ成立を致さしむべしとて。兩人采邑五千石づゝ加賜せらる。兩人雀躍して歸坂せりとぞ。(武コ編年。御年譜附尾。) 
卷二十七 / 慶長十九年七月にはじまり九月に終る 

 

○七月朔日飛鳥井中納言雅庸卿駿城に參謁す。大御所眞言宗論義聞し召る。空純講師たり。この夜冷泉中納言爲滿卿古今集を進講す。大御所人丸の事蹟をとはせたまふ。爲滿卿人丸のこと神秘なれば。容易に答奉りがたしといふ。そのとき御傍に林道春信勝侍座せしかば。信勝にとはせらる。信勝万葉集にのせたる人丸四人あり。哥聖と稱するは柿本人丸なりと。その答明暸なりしかば御感を蒙る。(駿府記。駿府政事錄。)
○三日京大佛供養あるにより。妙法院門跡常胤法親王駿府を辭して歸洛せらる。開眼供養の導師は仁和寺門跡覺深法親王に。勅命ありしむね。金地院崇傳聞えあぐる。この日駿城にて天台論義聞し召る。惠心院良範。宗光寺亮運。月山寺。行光坊。法輪寺。日揄@珍祐。五智院x海。惠光坊良珍。東光坊行光。法泉院。講師は竹林坊重順。精義は正覺院僧正豪海。南光坊僧正天海つかふまつる。(駿府記。)
○四日駿城にて眞言新義の論義聞しめさる。講師鏡識坊。精義は智積院日譽なり。このともがら直に歸洛命ぜられ。暇のたまものあり。(駿府政事錄。)
○七日星夕例のごとし。駿城には水野監物忠元。けふの賀使として江戶より參り。帷子五進らせらる。且江城修築の事ども聞えあぐる。大坂よりは山口左馬允弘定。右府の使して金十枚奉る。左馬允弘定太刀馬代ならびに紫皮十枚獻ず。はてゝ天台宗論義聞し召る。惠心院良範。惠光坊良珍。竹林坊重順。眞光寺。法泉院。月山寺。春日岡亮運。延命院忠尊。日揄@珍祐。東光坊。精義は正覺院僧正豪海。講師は法輪寺つかふまつる。南光坊僧正天海病に臥してまうのぼらず。(駿府記。駿府政事錄。)
○八日栂尾の地藏院。慶善院駿城に參謁す。この日南光坊僧正天海まうのぼり。今度京にて大佛供養行はるるとき。仁和寺門跡覺深法親王開眼の導師たれば。必妙法院門跡常胤法親王と。座班を爭論すべし。先に豐臣太閤の時には。この事奉行せる前田コ善院玄以。その身眞言僧より出たれば。高野山興山を以て着座せしむ。今度は妙法院門跡常胤法親王供養導師たれば。必開眼も導師せんとて。仁和寺と爭論に及ぶべしと聞え上る。大御所聞し召。聖武天皇の御宇南都大佛の搆造あり。その後鎌倉右大將ョ朝卿再造せらる。この兩度の古例を查撿し。供養開眼を朝夕か兩日に分ち行はるべきや。よく研究して治定すべき旨。片桐市正且元がもとへ申送るべしと命ぜらる。(駿府記。)
○九日飛鳥井中納言雅庸卿駿城にのぼり。その家系幷歌道宗匠日記を進覽す。この四日より霖雨晴やらず。(駿府記。當代記。)
○十日冷泉中納言爲滿卿江戶より駿城にまいり謁す。大御所京極黃門定家卿眞蹟の歌書を見せしめたまひ。敷島の道の御物語刻をうつし給ふ。また幸若の舞御覽ぜられ。その徒に銀時服下されて。歸國のいとまたまふ。(駿府記。)
○十一日駿城にて天台宗論義聞し召る。惠心院良範。眞光寺。竹林坊重順。日揄@珍祐。東光坊。法泉院。月山寺。春日岡亮運。法輪寺。五智院x海。覺林坊實見。講師は惠光坊良珍。精義は正覺院僧正豪海なり。(駿府記。)
○十二日梶井門跡承快法親王駿府を辭して歸洛せらる。南都東大寺の僧等。江戶より駿府にまいる。この日角倉了以光好沒す。その子與一玄之家をつぐ。光好はじめは與七と稱す。佐々木の庶流にて。代々吉田を稱せしが。父意菴宗桂に至り。山城の嵯峨角倉に住せしより。その地名をもて家號とす。光好そのはじめは織田家につかへしが。弟吉田意安宗恂が當家につかへ奉りしゆかりによりて。しばしば拜謁し。慶長八年はじめて仰をうけ。安南へ渡海して交易し。同じく十年また仰を蒙て。京大井川より丹波國に至る迄の水路をひらき高P船を通。運漕の便事を得せしめ。十二年富士川へ高P船を通じ。駿州岩淵より甲府に通船の道をひらき。また信濃國諏訪より遠江國掛塚迄。天龍川通船の事を司どり。十三年京大佛搆造あるをもて。巨材運漕のために鴨河を堰分て新に水路を通じ。十六年その水路をもて二條より伏見まで通航の便を得せしめぬ。今年富士川壅塞しければ。疏鑿の事を命ぜられしに。光好重病にそみてたえがたしとて。その子與一玄之に。かはりてそのことを勤めしめしが。光好はその病いえずして。けふ六十一歲にてうせぬるなり。光好資性巧慧にて。巖石をうがち水路を疏鑿するの妙を得しかば。都鄙の諸人その便を得て。世以て稱賛せり。(國師日記。ェ永系圖。家譜。)
○十三日贈大納言利長卿。養老の料として能登國のうち十六万石を領せしが。卿卒せしかば其封地の事公の御はからひを請ひ奉る。よて江戶より土井大炊頭利勝を御使として駿府につかはされ。御旨をこはせ給ふ。加州の家司等もおなじく參りて。その事をうたふ。大御所その家司前田對馬守。水原左衛門尉。奥村攝津守。本多安房守等をめして。
故亞相養老料の內三万石は。筑前守利常の北方にたまはる。この北方は御所の姬君(大姬君又ねゝ姬君。)なり。其餘は悉く利常に給ふ。利常いまだ年わかし。汝らよくよく補導すべき旨面命あり。四人落淚して退く。此日片桐市正且元より。大佛供の更名を進覽す。開眼供養は仁和寺門跡覺深法親王。導師は妙法院門跡常胤法親王。咒願は三寳院門跡義演。證誠は照高院門跡准后道澄。天台五百僧の引頭は竹內門跡良恕法親王。眞言五百僧の引頭は隨心院門跡搓Fなり。傳奏は廣橋大納言兼勝卿。奉行は頭右中辨。着座は鷹司關白信尙公。三條新大納言實條卿。中御門大納言資胤卿。日野大納言資勝卿。廣橋中納言總光卿。今出川中納言經季卿。万里小路宰相孝房卿。出居の次將は山科中將言氏B滋野井中將季吉。堂童子は烏丸右少弁光賢。竹屋權右少弁光長。度者使は持明院中將基久。執綱は飛鳥井少將雅宣。堀川少將康胤。高倉少將永慶。冷泉少將爲ョ。東坊城大內記長維。五條少納言爲適。執蓋は極掾B源藏人。新藏人。稱藏人なり。けふ叡山の正覺院僧正豪海駿府を辭し歸洛す。(駿府記。國師日記。)
○十四日江戶より土井大炊頭利勝御使として駿府に來り。京極黃門定家卿眞蹟伊勢物語を進らせ給ふ。よて林道春信勝に。その䟦文をよましめらる。この書後土御門院より。能登の畠山義忠入道義慶にたまはる。その後三好修理大夫長慶が家に傳來し。三好家亡びし後。この書堺の市人の手に落しを。細川幽齊玄旨法印購求したり。薩摩守忠吉卿これを懇望して藏せられ。卿失られし後。遺物として江戶御藏に歸せしなりとぞ。また叡山の五智院x海駿府を辭し江戶におもむく。その便によて。一切經を仙波喜多院へつかはさる。こは毛利黃門輝元入道宗瑞が献ぜし所とぞ。又宇都宮治部左衛門朝末に。來國俊の御刀。金三百兩たまふ。この夕竹腰山城守政信が駿府城下の邸宅燒ぬ。されども他に及ばず。(駿府記。万世家譜。)
○十五日江城にて猿樂御覽ぜらる。駿城には公武みなまうのぼる。日野亞相入道唯心。飛鳥井黃門雅庸卿。冷泉黃門爲滿卿に。昨日江戶より進らせられし。定家卿眞蹟の伊勢物語をみせしめらる。また土井大炊頭利勝いとまたまはり江戶にかへる。(當代記。駿府記。)
○十六日江城にはけふも猿樂あり。駿城には天台論義聞し召る。月山寺。眞光寺。春日岡亮運。竹林坊重順。法輪寺。日揄@珍祐。東光坊。觀音院忠尊。講師三井寺の法泉院。精義は南光坊僧正天海つかふまつる。けふ冷泉中納言爲滿卿。家藏せる先祖定家卿眞蹟の三十六哥仙和哥を御覽に備ふ。その家に黃門の遺書多しといへども。これ第一の奇蹟なりといふ。(當代記。駿府記。)
○十七日仙石兵部少輔忠政駿府にまいり。襲封を謝して銀百枚。𥿻五十匹。時服を献じ。また父越前守秀久遺物とて。長光の脇差。茶壺ならびに金百枚をさゝぐ。さきに代官權太小太カ某沒し。贓罪あるより家財を沒入せられし目錄を。江戶より駿府に進覽せらる。沒收の金千二百五十兩。贓する所に比すれば二十分が一とぞ聞えし。この日丹波國柏原城主織田上野介信包入道老犬大坂にて卒す。此入道はもとの備後守信秀の四子にて。織田殿の弟なり。はじめ伊勢國長野が家をつぎ。伊賀國上野の城主となり。また伊勢國安濃津に轉じ。のち今の城にうつり。天正十六年爵ゆりて上野介と稱し。のち從三位左中將までなりのぼり。文祿三年九月七日剃髮して老犬と號し。けふ七十二歲にて卒せり。この日大風。(駿府記。ェ永系圖。當代記。ェ政重修譜。)
○十八日京職板倉伊賀守勝重。大坂片桐市正且元より。此八月三日大佛供養。早天開眼。供養。終日中堂供養天台宗上座たるべしとて。着座の公卿以下の交名。布施の目錄を進覽す。大御所金地院崇傳をめして。東鑑鎌倉右大將南都大佛供養の故事をよましめ聞し召れ。崇傳幷本多上野介正純を以て。市正且元に供養の時。豐臣右府上洛の事は。右府の心まかせたるべし。開眼供養を兩日に分ち。三日開眼。十八日供養すべし。幸に故太閤十七年の忌辰かたがたさりぬべきよし仰下さる。また多武峯大織冠社壇。近日破壞す。されども神像はつゝがなき旨。崇傳幷竹林坊重順聞えあぐる。冷泉黃門爲滿卿。家祖亞相爲家卿眞蹟の假名遣抄を御覽に備ふ。(駿府記。)
○十九日駿城に島津陸奥守家久幷兵庫頭義弘入道惟新使奉り。家久染絹百匹。琉球酒二壺。惟新は染𥿻百匹。緋緞子廿卷。香一箱獻ず。この日大御所より相國寺艮璵。兩西堂に。豐光寺大光明寺領三百石をわかちたまふ。此兩僧は故豐光寺承兌が弟子なりとぞ。またさきに福島掃部頭高晴が家僕。主の事により訴狀をさゝげしかば。その時高晴を查撿あるべしといへども。兄左衛門大夫正則が軍功により。その事に及ばれず。しかるに今度其訴狀をさゝげしもの亡命して。府下に潜居せしを。高晴より家人五人を遣しからめとらしむ。
町奉行彥坂九兵衛光正この事を聞え上しかば。大御所高晴が擧動專なりと御憤深く。高晴は門をとざして家にこもらしむ。追捕せし五人も搦取て獄に下さる。また宇都宮治部左衛門朝末。祖先より傳來せし朝敵追討の射法仰付らる。(駿府記。万世家譜。)
○廿日谷出羽守衞友いとまたまはり。駿府より江城に赴き拜謁す。飛鳥井中納言雅庸卿駿城へまうのぼり。新哥撰の寫本を奉る。この日結城左衛門督晴朝卒す。壽八十一歲。(結城系圖八十三。)この人は藤原秀卿十一代の後胤結城七カ朝光が十七世の孫にて。下野守高朝が子なりしが。伯父左近將監政勝が子なかりしかば。その嗣子となりて宗家をつぎ。關東において八大名の隨一なり。豐臣關白相摸の北條征せられしとき。晴朝はやく味方に參り。小山榎本の兩城を攻取て軍忠を勵ければ。關白感稱淺からず。懇遇厚かりしに。晴朝齡旣に五十にあまり。いまだ家つがすべき男子もなく。たゞひとりの娘あり。哀れ殿下の御一族を給はり。その娘にあはせ家ゆづらんと請しかば。關白いよいよス給ひ。秀康卿を下し給ふべしとあり。晴朝大にスび。結城の館に卿をむかへ婿君とかしづきけり。卿越前國給はりてうつりたまふに及んで。晴朝もしたがひ參らる。かの國片粕といふ地に莵裘をいとなみ。老を養ひしに。卿にをくれ參らせふかきなげきに沈みければ。卿の五男五カ八(後大和守直基。)と申せしをむかへ。この孫を養育するに身のうさをわすれ。明し暮しけるが。けふ終に終をとりしとぞ。(駿府記。ェ永系圖。貞享書上。藩翰譜。)
○廿一日駿城にて飛鳥井中納言雅庸卿源氏物語を進講す。この日大御所。板倉內膳正重昌ならびに金地院崇傳をめして。今度京大佛新鑄鐘名關東へ對し大不敬の文辭あり。そのうへ上棟の日吉日にあらざるよし聞ゆ。早く鐘銘幷に棟札の草案を進呈すべき旨。京へ申つかはすべしと御諚あり。(御年譜。家忠日記。駿府記。世に傳ふる所は。此鐘銘は僧C韓がつくる所にして。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。坂上池院日記。)
○廿二日駿府にて華嚴宗の論義聞し召る。講師C凉院。ハ持院。大喜院。帥君なり。(駿府記。)
○廿三日成P隼人正正成癰をわづらふとて。その子半左衛門正虎幷に藤藏之成駿府に來謁す。(駿府記。)
○廿四日長尾藤四カ景繼沒し。その子庄右衛門景信家をつぐ。景繼は代々北條家の士なりしが。故有て北條家を去りて御家人とはなりしなり。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○廿五日成P豐後守正武江戶より御使として駿府に參謁す。(ェ政重修譜。)
○廿六日南光坊僧正天海駿府にまうのぼり。天台血脈相承を授奉る。この日板倉伊賀守勝重。片桐市正且元書狀をもて。今度大佛供養は三日。開眼は十八日たるべき旨。駿府よりの御旨なりといへども。十八日は豐國大明神臨時祭なれば。三日早天に開眼。次に供養行はまほしき旨。豐臣右府こはるゝ旨聞え上しに。大御所聞しめし。大佛棟札幷に鐘銘御不審少からず。開眼供養共に延滯せられ。はやく棟札鐘銘の草案進覽すべき旨。本多上野介正純金地院崇傳もて。勝重且元のもとへ仰下さる。(駿府記。)
○廿七日南光坊僧正天海駿城へまうのぼり。天台法問の義を聞え上奉る。此日江戶御使成P豐後守正武いとま給ふにより。周禮。家禮儀節。戰國策。楚辭。准南子。晋書。玉海。靖節集。李白集。陸宣公集。杜樊川集。唐音二程全書。朱子大全。朱子語錄。紫陽文集。南軒集。眞西文集。大學衍義。東萊博議。文山集。文章正宗。文章弁躰。讀杜愚得。自警編理。學類編。牧隱集。湖陰集。皇華集。唐書演義等三十部を江城へ進らせらる。また佐野修理大夫信吉。(藩藩譜政綱。)所領上州辛津山三万九千石收公ありて。信濃國松本に配流せられ。小笠原兵部大輔秀政にあづけらる。これは兄富田信濃守知勝が事に坐したるのみならず。その身も大久保相摸守忠隣が緣あり。かつ身のふるまひも不良なるがゆへとぞ聞えし。この信吉はもとの佐野天コ寺房綱が養子なり。鎭守府將軍秀クの後胤足利次カ大夫有綱が子太カ基綱より佐野を領せしかば佐野と稱す。信吉家をつぎ爵ゆりて修理大夫と稱し。慶長五年上杉御追討のときは。仰により封地を守り。この日罪蒙り。元和八年ゆるされて府に參り。七月十五日五十七歲にて死す。その子吉兵衛久綱。ェ永十五年十二月十六日に至りて召出されしとぞ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿八日菊亭右大臣晴季公。家藏の律令を駿府に捧げんとて。板倉伊賀守勝重により聞え上らる。これは武藏金澤文庫の藏書なりしを。先年豐臣關白秀次公召のぼせて。右府に贈られしなりとぞ。小笠原伊勢次カ政信襲封を謝して駿城に參り。時服十。銀百枚献じ。初見の禮をとる。
時に八歲。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿九日日野大納言入道唯心より。侍中群要抄を駿府にさゝぐ。これも金澤文庫に藏せしを。關白秀次公召のぼせて。日野家へ贈られしなりとぞ。(駿府記。)
◎この月有馬左衛門佐直純一万石加摎Lて。日向國延岡城給はり五万三千石になる。また井伊掃部頭直孝伏見城交替番により暇たまふ。大岡三カ大夫政保沒し。その二子金三カ政貞家をつぐ。政保は大樹寺殿よりつかへ奉り。今年八十一歲なりとぞ。川口孫作宗信沒し。其子久助宗次家をつぐ。宗信が父久助宗勝は。はじめ織田右府につかへ一万三千石領せしが。義を重んじ豐臣家の命にしたがはず信雄につかふ。信雄配流の後太閤に屬し。一万八百石餘たまはりしが。石田三成反逆に與せしかば。伊達政宗にめし預らる。然るに宗勝が武功かつ華陽院御方御ゆかりを思し召れ。宗勝宗信父子御ゆるし蒙り。二千五百石たまはり御家人とはせられしなり。(ェ政重修譜。慶長年錄。ェ永系圖。華陽院御方は川口帶刀宗定のもとに再嫁し給ひしかば。これ宗勝がためには祖母にわたらせらるゝなり。)
○八月朔日當賀例のごとし。駿城もおなじ。江戶よりは先日典籍數十部進らせられしを謝せられ。御手書を本多上野介正純へつかはされ。又土井大炊頭利勝もて。儒役林道春信勝へも。御喜スの旨申をくらしめらる。宇都宮治部左衛門朝末仰によりて。太平弓一張。了戒作の鏃二。同作の鑓一ネを献ず。京都には此三日大佛開眼供養有べしとて。惣奉行片桐市正且元。主膳正貞隆監臨し。導師咒願師をはじめ。諸門跡及び僧綱凡僧悉く集り。法會の用意專らに莊嚴をなす。よて都鄙の貴賤結緣のためにとて。雲霞のことく群集し。七月のはじめより近邊市街にも。新に肆店を設て飮食調度を備へ。其用意若干にて喧閙かぎりなかりしに。京職板倉伊賀守勝重より市正且元のもとへ鐘銘棟札の事によて。駿府の御不審あり。供養延滯すべしと命じければ。此法會にあづかる門跡はじめ僧俗大に驚き。四方に散亂し。市街に新に設たる假屋を毁棄などして。その騷擾大かたならざりしとぞ。(駿府記。万世家譜。貞享書上。世に傳ふる所は勝重この事を市正且元に傳へしかば。且元大に驚き。鐘銘棟札共に豐臣右府の著作染筆にもあらず。某等もさらに意を加へ。詞を加へしにてもなし。また東福寺C韓が筆作せし事なれば。たとひ其文中大不敬を犯すといふも。C韓が過失にて豐臣家君臣のしる所にあらず。かほどまで莊嚴用意し衆人も群集せし大會。俄に延滯せんは然るべからず。たゞ此儘に供養を執行し。若駿府より重て御咎あらば。我一人切腹して罪を謝すべしと答ふ。勝重は聞きて仰もさる事ながら貴殿切腹せられば。貴殿にをゐてはゆゝしき擧動なるべし。されど勝重いやしくも關東の命をうけて。京都を守護しながら。關東に對し大不敬の事を其まゝ執行せしめん事。我身にをいて是を抑留せざる事を得ず。明日の供養とにもかくにも延滯あるべしといふにぞ。且元もせんかたなく終に延滯に决しければ。遠近の緇素雲霞のことく集りたる者共。興さめて四方に散亂せしとぞ。(落穗集。)
○二日大工中井大和守正次より。大佛新鐘の銘を摹し。密に駿府へ奉る。大御所林道春信勝に命ぜられ。一通を寫して江戶へ遣はさる。
○三日五山十刹紫衣西堂の公帖摸本を進呈すべしと。本多上野介正純金地院崇傳より江府の老臣本多佐渡守正信等に傳ふ。駿府にては園池を修治せられ。魚を養はしむ。廐の預り諏訪部ハ右衛門定吉其事を奉る。(國師日記。駿府記。)
○四日中井大和守正次より大佛殿棟札を摹して駿府に献ず。この札は照高院道澄准后の書する所之。大御所には秀ョ大佛供養にて。出京あるべしとて。供奉の輩叙爵せしめながら。出京を延滯せらるゝこと御不審あり。(駿府記。)
○五日片桐市正且元鐘銘棟札の摸本を奉る。五山の僧徒に其文字を會議せしむべしと。板倉內膳正重昌京に遣さる。(駿府記。)
○六日淺野但馬守長晟が營作する江戶の石垣崩れ。役夫死傷する者多し。駿府にては金地院崇傳大藏一覽を獻ず。大御所御覽ありて。是後世の重寳たるべし。幸に廿萬の銅字を蓄たれば汝惣督し刷印すべしと命ぜらる。此日大佛鐘銘棟札幷に天台眞言着座の事御不審の旨。片桐市正且元のもとへ。本多上野介正純金地院崇傳もて仰下さる。けふ未申の刻三州吉田大風にて。寺院民屋を吹上て二里外に落し。人毁傷ありとぞ。(當代記。駿府記。國師日記。慶長年錄。)
○七日金地院崇傳に寺領七百石加へたまふ。駿城には日野亞相入道唯心。飛鳥井黃門雅庸卿。冷泉黃門爲滿卿をめして。山崎宗鑑が書し二十一代集を見せ給ふ。(國師日記。駿府記。)
○八日成P吉右衛門正一其身八旬に及び。長子隼人正正成は顯要の職にあり。二子內藏助吉正は加州につかへ。三子豐後守正武は江城につかへて小姓組の番頭たり。四子右衛門正勝。五子吉左衛門正則を具して駿府に參り。臣が子共みな特恩蒙り。各所領若干たまはり奉仕す。
願はくは老臣が采地四子正勝に下したまはらん事。老後の志願なるよし聞え上しかば。大御所聞し召。たゞちに御筆を染られ。采地二千石その子正勝に給ふ旨御判書をたまはる。正勝時に八歲。後小姓組にいる。この日小笠原兵部大輔秀政幷大學助忠眞。をよび洞僧松桙ワうのぼり拜謁す。南都上生院。大佛修治の事こふまゝにゆるされ。大工中井大和守正次に修治の事を命ぜらる。上乘院このちなみに鎌倉右大將手書の文書幷東大寺緣起を持參し御覽に備ふ。板倉內膳正重昌鐘銘棟札の事奉はりて上洛す。(ェ永系圖。家譜。駿府記。)
○九日駿府にて天台論義聞し召る精義南光坊僧正天海。月山寺。眞光寺。法輪寺。日揄@珍祐。寳泉院之をつとむ。また京極黃門定家卿眞蹟の古今集に。蓮院尊應法親王。飛鳥井亞相榮雅卿奥書せしと。並に西三條逍遙院稱名院眞蹟の三代集を。冷泉。飛鳥井。日野三卿に見せしめ給ふ。このころ伊勢太神宮託宣ありとて。勢州村々神躍を催し群集す。(駿府記。慶長年錄。)
○十日駿城にて弘法大師の心經。道風。佐理。大納言行成卿。尊圓親王の眞蹟。逍遙院。稱名院筆の伊勢物語二部。源氏物語系圖二卷。京極黃門家卿筆の新勅撰集を。日野。飛鳥井。冷泉三卿幷金地院崇傳に見せ給ふ。をのをの希世の珍蹟なりとて驚歎す。また大御所C凉院に御尋の旨あり。是も大佛鐘銘の事によれり。このころ晝夜一日も雨ふらざることなし。(駿府記。當代記。)
○十一日江城より五山公帖の案を駿府に進覽せらる。この日大御所に天台の奥義を。南光坊僧正天海聞えあぐ。畔柳壽學大魚を献ず。(國師日記。駿府記。)
○十二日駿城にて山名右衛門佐堯熙。中務大輔豐國入道禪高に。兩吟の連哥を命ぜらる。(駿府記。)
○十三日柬埔寨の商客を駿城にめし御覽ぜらる。白糸。金糸。布帛。虎子二頭。音呼鳥を献ず。片桐市正且元は今度の事陳謝せんが爲。大坂を出て駿府に赴く。(御年譜。舜舊記。)
○十四日京にて板倉內膳正重昌。五山碩學長老七人を召して鐘銘を會議す。(舜舊記。)
○十五日駿城にて天台論義聞し召る。寂光院仙重。月山寺。法輪寺。法泉院。藥樹院久運。眞光寺。東光坊純海。善行坊。觀音院忠尊。講師は日揄@珍祐。精義は南光坊僧正天海たり。夜に入りて囃子あり。小督。三井寺。老松。姥捨。(駿府記。)
○十七日大佛棟札查撿のため。大工中井大和守正次。南都興福寺法隆寺聖靈院の棟札寫して献ず。この棟札に二人の名を除くをもて。いよいよ御不審あり。(駿府記。)
○十八日天台論義聞し召る。東光坊純海。法泉院。善行坊。寂光院仙重。ハ持院。觀音院忠尊。講師は明靜坊。精義は眞光寺なり。板倉內膳正重昌歸府して。五山碩學七人捧ぐる所の議を御覽に備ふ。南光坊僧正天海。金地院崇傳。林道春信勝をして讀しめ聞し召る。勝林庵聖澄。東福寺守教。天龍寺令彭。南禪寺洪長老。建仁寺の大統等。みなこの銘中に國家安康の一句。御諱を犯す事尤不敬とすべし。たゞしC韓關東咒詛の意に於ては。その有無知るべからずとなり。片桐市正且元もこの日駿州鞠子驛まで參着す。これより先大坂にては。右府秀ョ母子鐘銘の事。大御所御憤ありと聞て大におどろき。C韓をば閉戶せしめたりしが。今度且元を駿府にまいらせ。その事陳謝せしめらるゝに及び。C韓を具して參着せり。大御所御憤深くましまし。C韓をば駿府の町奉行彥坂九兵衛光正にめしあづけらる。(駿府記。)
○十九日傳通院殿十三回忌によて。香銀二百枚駿府より江戶三緣山へをくらせたまふ。また五山碩學等鐘銘批判の筆記を。江城へうつしつかはさる。菊亭右大臣晴季公使もて。金澤文庫に藏せし律令十九卷を獻ぜらる。この日片桐市正且元駿府に入る。(駿府記。國師日記。)
○廿日高野山寳性院駿城に參謁し。こたび特旨によて入院せしを謝し。先住政遍遺物とて法華經一部を獻ず。釋迦文院。俊長坊おなじく拜謁す。C凉院。東大寺。大佛修理募緣狀を。金地院崇傳をもて捧ぐ。この日崇傳幷に本多上野介正純に。大坂專ら兵具を購求し。無ョの處士數百人を新に召置。その上大佛鐘銘棟札。先日仰下されし御旨をそむく事。御不審更にとけたまはざる旨仰あり。兩人片桐市正且元が旅宿に赴き。そのよしをつたふ。(駿府記。世に傳ふる所は。市正且元は弟主膳正貞隆大野修理亮治長を具して。駿府にくだりしかども。憚りて府にはいらず。鞠子の誓願寺に有て。((落穗集にはコ願寺となり。))そのよし府にうたへしかば。本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成その寺にまかりて。鐘銘幷に大坂異圖の風說しきりなるをもて。御不審の旨をつたふ。且元大坂にて異心の事は全く世上の浮說なり。又鐘銘の事は君臣更に知るところならず。韓長老一人にまかせ置しことのよしを陳謝す。三使歸りて且元が申所を聞え上しかば。その申所は聞し召入られ。且元を府下にめさる。且元府に入りしかば。旅宿へ正純崇傳御使し。
且元は文字にうとければ。銘文の事更に辨へざる旨は聞し召ひらかれぬ。たゞし大御所は秀ョ幼稚より。故太閤の顧托を思めし御撫育せられ。旣に將軍と婿舅の御緣をもむすばせられしうへは。この後かゝる世上雜說おこらざらん事を。且元に計らひ聞え上べしと。仰下されしといへり。且元兄弟治長等大におそれ。その御答にも及ばず閉戶して日數を送る。しかるにまた正純且元が旅宿に至りて。近日大御所仰に。片桐兄弟大野等は。大坂にをいて股肱輔弼のともがら。一日も秀ョの側を離るべきものならず。しかるに數日三人とも滯留なし。大坂の政務はいかゞなり行にやとの御事なりといへば。三人ますます恐れ且元一人爰に留り。治長貞隆兩人は直に歸坂し。駿府にての事どもを右府の母子に聞えしかば。淀殿甚氣遣はしくおもはれ。やがて大藏卿三位局正榮尼を淀殿の使とし。駿府へ下し。且元と共に陳謝せられしといふ。落穗集に且元等四月より六月まで。この事により鞠子に滯留せしとあるは。あやまりなり。落穗集。)
○廿一日駿府にて天台論義聞し召る。月山寺。眞光寺。法輪寺。日揄@珍祐。法泉院つかふまつる。精義は南光坊僧正天海。講師藥樹院久運なり。(駿府記。)
○廿二日飛鳥井黃門雅庸卿源氏物語の奥旨三箇の秘决を。大御所につたへ奉る。(駿府記。)
○廿三日眞言論義を聞し召る。如意輪寺宥盛。釋迦文院。俊長坊。深由坊。覺證院。宥賢坊。講師は寳勝院なり。(駿府記。)
○廿四日長崎の奉行長谷川忠兵衞藤繼幷に官商茶屋四カC次駿府にのぼり。蠻船入津の事を聞え上しかば。邪徒追逐の事御尋問あり。また東大寺戒師の事により。重ねて查撿をくはへ聞え上べき旨。京職板倉伊賀守勝重のもとへ。金地院崇傳。本多上野介正純よりつたへしめらる。(駿府記。國師日記。)
○廿五日村上周防守義明。溝口伯耆守宣勝駿城にのぼり拜謁し。蠟燭を獻ず。木下宮內少輔利房が子熊利當初見の禮をとる。是に十一歲。この日地震。(駿府記。當代記。)
○廿六日小田切喜兵衞光猶沒し。其子喜兵衞湏猶家をつぐ。光猶は甲斐の武田が士にて。信濃國小田切村を領せしより家號とし。武田亡びてのち御家人になりしなり。駿城にてはこの日能あり。吳服。經政。佛原。大佛供養。猩々。(ェ永系圖。ェ政重修譜。駿府記。)
○廿七日駿府にて天台論義聞し召る。藥樹院久運。眞光寺。法輪寺。日僧院珍祐。東光坊純海。法泉院。講師は月山寺。精義は南光坊攝ウ天海なり。飛鳥井中納言雅庸卿駿城を辭して江戶に赴く。また今度鐘銘をつくりし東福寺長老C韓が紫衣勅許の事。查撿して聞え上べしとの旨。本多上野介正純。金地院崇傳より。京職板倉伊賀守勝重に傳ふ。(駿府記。國師日記。)
○廿八日水野監物忠元江戶より御使として駿府に參る。本多上野介正純ともなひ御前にまかり。御密話數刻に及ぶ。この日江戶大風雨。洪水各所。諸侯邸宅門戶破倒す。伊勢甚雷大風。駿遠二國風なし。(駿府記。慶長年錄。當代記。)
○廿九日傳通院殿十三年周忌によて。江戶三緣山御法會。駿府にても御法會あり。今夕大坂より右府母子の使として。大藏卿局。正榮尼。二位の局等駿府に參る。(當代記。創業記。落穗集。世に傳ふる所は。三女駿府に着しかば。直にまうのぼるべしと有しかど。憚りて七間町の旅宿にて。其由正純と阿茶局にあなひしければとく召れ。大御所懇に右府母子の事をいはせ給ひ。淀殿にはさぞかし何事もうしろめたく心遣ひせらるべきこそ。いとおしけれと仰られ。御けしき常に替らせ給はず。三女大にスびその樣を且元旅宿へもいひけり。大坂へも文かきておくりしかば。右府母子のこゝろしばしおちゐしといへり。慶長年錄。)
○晦日朝倉源八某に采邑二百石の御印書をたまふ。駿府より本多上野介正純御密旨を承り江戶に赴く。また寳性院什物惠杲印信大師眞蹟。大日經願行の釼。その余K函の過去帳散逸せし由聞しめし。寳龜院朝印を召て鞠問したまふ。(貞享書上。駿府記。)
◎是月駿城後閤の女房。かねて原主水某と姦通せしに。一昨年原邪教尊崇する罪によりて追放たれしを怨み。此女房大逆を企し事顯はれ罪せらる。其兄野尻彥太カ某も。是に座して家におしこめらる。原は武藏岩槻にかくれゐしよし聞え。其領主高力右近大夫忠房に命じ搦とらしめらる。また鍋島信濃守勝茂が子三平元茂。江城にのぼり初見の禮をとる。向井將監忠勝子右衛門忠宗も同じ。(慶長年錄。家譜。斷家譜。)
○九月朔日當賀例のごとし。駿城もおなじ。蘭人御覽あり。白糸。龍腦。丁子。木綿。緞子を献ず。またいぎりす人八揚子も拜し奉り。虎子二匹を獻ず。江戶の若君へ奉らんとの事とぞ。江戶去月廿八日大風の事を駿府に告奉る。(駿府記。)
○三日駿府にて猿樂催さる。老松。江口。大會。小鹽。西王母。五番寳生座の鷺仁右衛門と金春左吉は。けふより觀世座に入らる。(駿府記。)
○四日駿府にてきのふの謠者に米二十石づゝ褒賜せらる。また天台論義聞し召る。月山寺。眞光寺。日揄@珍祐。東光坊純海。法泉院。觀音院忠尊。精義は南光坊僧正天海。講師は法輪寺なり。はてゝ月山寺。眞光寺。法輪寺駿府を辭し江戶に赴く。去月廿八日大雨にて。山城。河內。近江邊洪水。民家堤防所々崩破し。溺死のものすくなからざる旨京より注進す。今年三合の兆なりといふ。(駿府記。)
○五日京職よりC韓慶長九年五月十六日紫衣勅許の事を聞え上る。(國師日記。)
○六日駿城にて眞言の論義聞し召る。如意輪寺宥盛。釋迦文院。俊長坊。覺證院。覺俊坊。講師は寳性院なり。また安南國王より奇楠香一木。白𥿻十匹獻ず。その書簡をよましみ聞し召たまふ。此夜地震。(駿府記。異國日記。當代記。)
○七日本多上野介正純江戶より駿府に歸り謁す。よて正純幷崇傳を片桐市正且元が旅宿につかはされ。兩人仰をつたへしは。先に大御所より且元兄弟に加恩をもたまはりし事なれば。且元關東の御恩を忘るべきにあらず。鐘銘の事は且元もとより不學の武夫。忌諱を犯すの是非をもわきまへざる旨は。聞し召開かれぬ。このうへにも關東大坂御親睦の事。且元心もちひてはからひあるべしとの事なり。且元承り。この十五年前關東大坂異圖あるまじとの御內書をとりかはせ給へば。こたびは大坂より盟書をさゝげらるべきやと申ければ。正純崇傳こたびの御憤さる事にて聞し召開かるべしとも覺えず。されども是は駿府より御指揮あるべきならず。何事も且元が胸中にあるべきなりといふ。且元さては吾一身もてとかく决行して。聞えあげん事かたし。大坂へ立かへり。直にその旨を右府母子に聞え上てのち。かさねて聞え上べしと申て。御使をば返す。兩人又大藏卿。正榮尼。二位局等が旅宿へもまかり。おなじく仰をつたふ。(駿府記。貞享書上。世に傳ふる所は。大藏卿。二位局。正榮尼の三人は。駿府にとゞめられ數日をへければ。今は右府御母子も待わび給らん。早く御暇給はり歸坂せまほしとこひおけるに。大御所聞し召て。三女是まではるばる參向せし事なれば。幸に江戶へもまかり將軍にも對面し。右府母子やすらかなる氣色も物語らば。將軍も心落ゆべきぞと仰ける。よて三女はいそぎ江戶に赴きたり。その跡にて正純崇傳を且元が旅宿へ御使し。大坂謀叛の風說世上專らなり。こと更大佛鐘銘に大御所の御諱を犯し。關東を調伏のためとの聞え尤御憤深き所なり。今より後關東大坂異義なく御和睦あらん樣。且元がはからひに有べしと申ける。且元聞て我只今にあたりそのはからひいかにともおもひ得ず。兩使には何ぞよろしき智計も候はゞ。教へ給はり候へといひしに。兩使。我等おもふ所は。右府大坂を出て他所に移らるゝか。又は諸大名とおなじく駿府江戶へ參覲せらるるか。又は故太閤殿下の時。大政所を三州岡崎へ人質に出されしその例も候へば。淀殿を關東へ下し申さるゝか。この三條の外あるべからずといふ。且元聞て。こは兩使胸中より出し事にはあらざるべし。大御所の御內旨なるべしとおもひ。宣ふ所いかにもさる事なり。さりながら三條とも容易ならざれば。某一心にいづれとも决し難し。ふかく思慮して答奉るべしといひて御使をばかへしぬ。九月九日に至り且元めせとの事にて。且元駿城にまうのぼる。大御所とみに御對面有て。且元草枕を日かさね。旅况さこそ煩はしかるべけれと。御慰勞ありてのち。大坂にて無ョの浪士を募りあつめ。兵具用意專らなれば。世上の風說尤さはがしく。その上大佛鐘銘に我名を犯し。調伏の聞えあり。且元には何と心得たるにやと面命あり。且元つゝしんで承り。諸浪人は大坂繁華の地ゆへ。仕官を求るがため年々輻湊するは。古今おなじ事なり。秀ョ招かるゝ所にはあらず。もし又關東調伏の宿願ならんには。諸寺諸山の名僧修驗にたのみ。內々修法すべきを。諸人の耳目にふれ候はん鐘の銘に。雕刻すべきにあらず。これみな世上の浮說。全く證とすべき事にあらず。鐘銘に御諱を犯す事は。全くC韓が罪重大といへども。右府母子はいふまでもなく。且元はじめ大坂の諸臣更に知る所ならず。願はくは曠世の御ェ恕を垂られ。大坂の君臣異圖なき條聞し召ひらかせ給へと聞えあぐる。大御所聞し召。右府謀反の世評まぎれなしといへども。且元かく陳謝するうへは。しばらく捨て論ぜず。我は古稀をこえ旦夕をもはからぬ身なり。我なからん後關東大坂と間隙ありては。四海騷亂の基なり。我この事をおもへば臥しても眠る事あたはず。いかにもこの後天下泰平のはからひあるべきか。汝がはかる事聞え上べしと仰ける。且元承り。かゝる天下の大事。愚昧の某いかでかはかり申べきならずといへども。竊に考るに。秀ョ大坂を去て他所にうつるか。また駿府江戶に參覲せらるゝか。淀殿江戶に下り住居せらるゝか。この三條の外はおもひより候はず。されど是皆私に决すべからず。
大坂へかへり秀ョ母子に議し候はん上に。御答は申あぐべきなりと申けるに。御けしきことにうるはしく。早々歸坂すべしと御暇を下され。紅裏の小袖に御紋あるをかづけらる。駿府にも且元が親戚知音の大小名多かりしが。この程は世を憚り。その旅宿に音信るゝものもなかりしが。今日御けしきうるはしく退出たりと聞つたへ。われもれもと且元がもとへとひ尋ね。贈遺音信ひきもきらず。旅宿門前市のごとし。江戶へ參りし三女は。江戶にても懇の御もてなしごもにて御暇たまひ。再び駿府へかへり來てまうのぼれば。後閤の女房だち對面し。このほど大御所且元召て御物語どもあり。やがて淀殿には江戶にわたらせたまふ事と定まりしやうなり。淀殿江戶にすませ給はゞをのをのも定めて江戶へ參らせ給ふべし。この後はいよいよ懇に物かたらふべしなどいふを聞。三女はいぶかしく思ひ。退出て且元が旅宿をとひてみれば。在駿の大小名とひより贈遺山のごとくつみかさね。內もそともにぎはしく。その上且元は大御所の御けしきに叶ひ。紅裏の御小袖まで賜はりしなど聞。且元をかつうたがひかつそねみ。いそぎ大坂へ歸り。且元こそ關東へ一味し淀殿を人質に參らせんと契約したりけれと。ある事なき事とりあつめ。淀殿へ聞えあげしといふ。落穗集。)この日船橋大炊助秀相家襲しを謝し。亡父式部少輔秀賢遺物とて。三代實錄を獻ず。(駿府記。)
○八日江戶城石壘崩る。是K田筑前守長政。淺野但馬守長晟が築く所なり。此日駿城には飛鳥井冷泉の兩黃門幷南光坊僧正天海。金地院崇傳。寳性院に時服を給ふ。(當代記。駿府記。)
○九日重陽例のごとし。松平筑前守利常左近衛權少將にのぼる。長銘正宗の御脇差をたまふ。駿城にては神尾五兵衛守世江戶御使に參り當節を賀せられ。時服五進らせたまふ。在駿の公卿御盃をたまふ。この日僧正僧都の階級貞觀の古制に復し。龜山院以來の近例を用ゆべからずと令せらる。また高野山寳性院散逸の什物搜索の事を。寳龜院朝印に命ぜらる。又上野國榛名山巖殿寺學頭光明寺别當滿行院に御判書をたまふ。その文にいふ。上野國群馬郡天台宗榛名山巖殿寺。天下安全祈禱。每日護摩每月祭禮怠廢すべからず。山中に住もの學頭别當の指揮を守り。二王門內火宅の者住しむべからず。堂塔社頭坊舍造營の外。竹木伐取べからす。採樵は此限りにあらずとなり。又安房國館山城主里見安房守忠義十二万二千石收公せられ。伯耆國に配流せらる。これ大久保相摸守忠隣が事に座してなり。內藤左馬助政長。本多出雲守忠朝安房國に御使し。城をうけとらしめ。松平丹波守康長。戶澤右京亮政盛。松平石見守輝澄。西ク孫六カ正員。日根野織部正吉明。那須左京大夫資景。太田原備前守晴勝。同出雲守暾C。福原安藝守資保。葦名民部少輔資泰。稻垣平右衛門重綱。大岡彌平次政掾B千本帶刀資勝に。その城勤番仰付らる。左馬助政長その組頭を勤む。國中の制法を定む。この忠義は故の安房守義康が子にて。陸奥守義家朝臣の後胤里見伊賀守義成が苗裔なり。忠義慶長八年父につぎ。十一年十一月十五日御前にて元服し。御名の字たまはり安房守忠義と稱し。ほどなく從四位下の侍從に叙任し。けふ罪蒙て伯耆國に移り。月俸百口たまはりてありしが。元和八年六月十九日配所にて死す。歲二十九。忠義が家司正木大膳藤采女等江戶に參りて。さまざまに陳謝しけれど。終にゆるされず。(藩翰譜備考。ェ永系圖。當代記。紀年錄。家譜。國師日記。ェ政重修譜。藩翰譜。)
○十日駿城にて華嚴論義聞しめし。妙喜院。大喜院。帥君。講師はC凉院なり。けふ海野新左衛門昌雪死して。その三子藤兵衛昌重つぐ。御膳番佐々左平太長重は。其父信濃守長成に先達て死す。子なくして采邑を除かる。(駿府記。ェ政重修譜。)
○十一日諸大名關東に對し。いよいよ二心あるべからざる旨。盟書を江城に捧ぐ。駿城には朝鮮より肉落蓉牛黃を献ず。またこのころ箱根路の往還を停廢し。足ネ路を通行せしむ。(當代記。駿府記。)
○十二日片桐市正且元駿府を發し大坂に歸る。大藏卿局以下の女使もおなじ。(駿府記。)
○十三日舟橋大炊助秀相駿城を辭し江戶に赴く。先に寳性院。先師政遍の寺職を繼ぎしは。特命による所なり。寳龜院朝印これを妬み。朋黨を結び山中を騷がすの聞えあり。朝印が徙黨を查撿すべきよし。高野山碩學の僧等へ令せらる。又大樂院ははやく歸山し。亡失したる寳性院の什物搜索すべしと命ぜらる。寳性院は京山科安祥寺に移轉せしめらる。又先に武藏の岩槻に潜居せる邪徒原主水搦取て獄に下されしが。面に烙印して追放たる。また上性院。C凉院。南部の大佛修造のため。諸國勸化のことゆるされ。その上にも費用不足せば。官財を加へたまふべしと仰出さる。奈良奉行中坊左近秀政へもその事仰下さる。
また飛鳥井中納言雅庸卿いとま給はり京にかへらる。(國師日記。駿府記。)
○十四日江戶より土井大炊頭利勝駿府に御使し。密旨を仰進らせらる。また高野山照光院。堯王院兩僧。寳龜院朝印に黨して。山中を騷がする聞えあれば。嚴に查撿すべき旨かの學侶等に仰下さる。(駿府記。國師日記。)
○十五日當賀例のごとし。駿城にて幸若の舞御覽あり。又南光坊僧正天海を茶室にめして。佛理をかたらはせ給ふ。(駿府記。)
○十六日松平筑前守利常駿城にまうのぼり拜謁し。金三百枚。紅染𥿻二百匹。百絹百匹。守家の太刀。二字國俊の脇差を献じ。守家の御太刀。長光の御脇差をたまふ。又父中納言利長卿の遺物とて。備前三カの刀。不動正宗の脇差をさゝぐ。家司奥村河內守。奥村攝津守も時服奉りておがみ奉る。利常より義直。ョ宣。ョ房の三公達へ金三十枚づゝ進らす。阿茶。梶。萬。龜四人の局だちへ金十枚。綿二百把づゝ夏の局へ金五枚。綿百把。その他惣女房に銀三百枚をくり。本多上野介正純へ金三十枚。小袖十。安藤帶刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝。松平右衞門大夫正綱へ金十枚。小袖五づゝ。醫員片山與安宗哲および後藤庄三カ光次へも。金五枚。小袖三づゝ贈る。晚に及んで利常の新館に上野介正純。土井大炊頭利勝御使し御K印をたまふ。其文にいふ。加賀能登越中三ケ國一圓に命ぜられぬ。この旨を守りいよいよ忠勤を抽づべしとなり。かつ明朝はやく江戶に赴き。謝恩すべしと仰下さる。(駿府記。ェ政重修譜。當代記。慶長日記。)
○十七日江城修築にあづかりし諸侯褒賞を給ふ。銀五百枚。小袖五十。馬五匹。あるは銀三百枚。小袖三十。馬三疋。その他をのをの差あり。松平武藏守利隆は特に歸封のいとまを給ふ。(創業記。當代記。慶長年錄。)
○十八日松平武藏守利隆駿城にのぼり。拜謁を遂て國におもむく。この日可睡齊宗珊をめして禪理を聞し召。また幸若舞を御覽ぜらる。(駿府記。)
○十九日さきに罪にかうぶりし原主水某を。岡越前守某が子平內某。朋友の契りすてがたく思ひ。竊に扶助せしをもて士籍を削らる。主水がかくれすみたる槇谷耕雲寺の住僧も罪せらる。この日板倉內膳正重昌。三州深溝千二百三十石加恩ありて二千二百三十石餘になる。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿日代官伊丹喜之助康勝。鎭目左衛門雅明會計の事聞えあぐるがため。江府より駿府に參る。總州東金西福寺日善駿城にのぼりて拜謁す。蒔田權佐廣定菓子を獻ず。幸若舞御覽あり。又明の月十一日御放鷹のため。關東へならせ給ふべしと仰いださる。この日內藤主稅助信廣歩行頭となる。(駿府記。國師日記。)
○廿一日原主水に密通の女房斬に處せられ。主水は重罪によて手足指悉く斬落してのち首を刎らる。福島左衞門大夫正則人夫をいだして。尾州C州城石垣を修築す。(當代記。)
○廿二日先帝(後陽成院。)第八の宮良純親王は知恩院へ入室し給ふ。是後に大御所御猶子となさせ給ひ。知恩院の門跡に備りたまふ御方なり。(駿府記。門跡譜。)
○廿三日駿城にて上山撿挍某平家琶琵を彈ず。(駿府記。)
○廿四日因幡國鳥取城主池田備中守長吉卒し。其子治兵衛長幸に遺領六万石つがしめらる。この長吉は故紀伊守信輝入道勝入が三子にて。十二歲のとき豐臣太閤養子とせられ。羽柴藤三カといふ。天正十三年叙爵して備中守と稱し一万石給ひ。朝鮮の役には筑前蘆屋にて。かの國渡海の船奉行を奉り。慶長五年大御所會津御征伐の御供して關東にくだり。關原の戰にも御味かたにありて。兄三左衛門輝政と共に軍忠を勵しければ。其勸賞として。十一月因幡國鳥取の城たまはり。加恩ありて六万石になり。十一年江戶城石壘の助役を奉はり。備前三カ國宗の御脇差を下され。此日卒す。歲四十五なり。(ェ永系圖。藩翰譜。家譜。ェ政重修譜。)
○廿五日大坂より片桐市正且元急脚を駿府にまいらせ。注進せしその趣は。この十八日且元上坂して。右府江戶へ參覲せらるゝか。また淀殿江戶へ下り住居せらるゝか。又右府大坂城を出て他國にうつらるゝか。この三條の內をもて。天下太平人心鎭靜せん事をはからはるべしと諫をいれしかば。右府母子以外憤り强く。密々且元を誅戮せん企あるよし告るものあるをもて。止事を得ず且元病に托し。蟄居する旨なれば。大御所聞し召驚かせたまひ。御憤深しとぞ聞えける。(駿府記。家忠日記。世につたふる所は。大藏卿局をはじめ三人の女使。片桐に先立て大坂にかへり。且元關東に一味し。淀殿を江戶へ人質に下し參らせん事を約したり。夫ゆへにこそ駿府にて且元を寵遇大方ならずと。有事無事とりそろへて。長舌巧に讒しければ。秀ョも淀殿も大に憤られ。且元誅せよとてまづ大野修理亮治長。木村長門守重成。渡邊內藏助糺三人もて。織田常眞へこの事を議せらる。常眞は承り。
且元は故太閤殿下以來忠節無二の功臣。容易にさる事あるべしとも思はれず。まつ七組の番頭をえらみ且元が思慮を糺され。その上にてともかくもはからせたまへと返答す。秀ョこれ理りなりときかれ。速水甲斐守守之使して且元が思慮を糺されしに。且元聞て。さればその事に候。吾駿府に參り大御所の御旨を伺ふ所。專ら大坂諸方の浪人を募りかゝへ。兵具粮米を用意し。合戰の備をなすよし聞し召。御不審少からず。退て是をおもふに。大御所の御不審みな實事にて。世上の浮說にはあらず。其上大佛鐘銘棟札等の事も。我々旣に草案を閱しながらその心付ざりしは。尤陳謝の詞なし。然るに今度某申所の三ケ條は。本多正純傳長老等が申出し所といへども。その實は大御所の御內旨と我察したれば。わざとその中にて淀殿江戶御下向のこと。異儀なく承諾して歸りたり。其故いかんとなれば。江戶にをゐて淀殿御宅地を請とり。地形をならし石壘などいとなみ。大坂より巨材を運び搆造せば。その間に一年も歷べし。其後淀殿病をとなへ。とにかく三四年もふるうちに。古稀をこえ給ふ大御所。いかならん變もあるべきなり。大御所萬歲の後は。古殿下の恩顧の大名も。又此方へ招く謀もあるべしと。胸中にはかりての事なり。このむね右府御母子へよくよく演說せられよとあれば。速水大に感じて立歸り。そのむね遂一演達す。秀ョも且元がはからひ理ありとおもはれし樣なりしが。大野渡邊等。且元不忠の志をいだき。關東へ一味し反逆を企るにまぎれなし。さるを身の罪をかざり一時の難を迯れんと。さまざま巧言を以て申まぎらかす。速に且元を誅し御志を決し。大事を思召立させ給ふべしといふ。秀ョもしばし双方の是非にまよひ。群疑决しかねしを。常眞重成とかくいさめて。且元を誅する事先延滯せり。然るに大野渡邊等は兼て且元と不和なれば。この機に乘じ且元を失はんと密議し。翌日淀殿且元對面し給ふべければ。つとめてまうのぼるべしと召て。且元を城中にて討果すべしと謀り。その討手を薄田隼人正兼相。石河伊豆守貞政兩人へ命じたり。且元かゝる謀ありとは夢にもしらず。出仕の用意する所え。伊豆守貞政且元無二の功臣にて。讒邪のために寃罪に沈まんこと心うくおもひ。常眞がもとへかくと申送りしかば。常眞腹心の家人を使とし。且元へ密にこれを告る。是に於て主膳正貞隆はじめ片桐が家族一家等會議し。且元病臥のよし披露して出仕せず。大野渡邊は密計顯はれたるを憤り。さらば人數をさし向片桐を討果さんとその支度するを。且元がかたにもまた聞きしりて。一門兵具を帶し防戰の用意す。廿四日の夕かたより大坂城中騷動いふもさらなり。秀ョの近習今木源右衛門かくと聞。且元がもとに至り。ことのよし糺し秀ョにもかくと申せば。秀ョも大におどろかれ。且元に自筆の消息たまはり慰諭せられしかば。且元も淚ながして謝しにける。然るうへは双方の人數を引とるべしとの事にて。討手の人數引とれば。片桐が宅に集りたる一族等も。みなおのがじゝたち歸り。城中しばし鎭りたり。大野渡邊等は片桐が主君と和睦ありと聞大に怒り。且元を誅せずしては。後難うたがふべきにあらずとて。その後本丸へ同志のもの會議し。二度人數を集むれば。片桐がもとにも一族どもひた兜にてかけ集り。城中また騷動に及ばんとす。七組の番頭堀田圖書助勝嘉。伊東丹後守長次。かくては右府の御爲然るべからずとて。速水甲斐守守之に議しければ。守之双方のなかに立入て。とかく君の御爲なればと說諭して。双方より人質とりかはし。和睦せしめしかば。九月廿六日の曉に至り且元主從三百余人。甲胄をよそひ鐵炮に火繩をそへ。玉造口を出て河內路へかゝり。鳥飼の渡をこえ茨木の居城へまかりたり。そのとき双方の人質は。大坂の町はづれにて取かへしけるとぞ。また石河伊豆守織田常眞も。その薄暮に大坂城中を立さりぬ。これらのことにより。大坂反逆まさしき事。世上の風說專らなり。落穗集。貞享書上。且元大坂城を立退く事。貞享書上にはこの月廿六日とし。落穗集には十月朔日とす。いづれ是なるを知らず。)
○廿七日遠江國龍泉寺宋山へ御墨印を給ふ。その文にいふ。雲岩寺あらため龍泉寺と號し。遠江國豐日郡赤佐ク三十五石二斗二升。先規にまかせ寄附せらる。幷に山林竹木寺中門前諸役免許せしめらるれば。佛事勤行修造等慢怠あるべからずとなり。(國師日記。)
○廿八日豐臣右府より。丹羽佐平次正安。荏原與右衛門金全使とし。片桐市正且元城中を退去せしめらる旨聞えあげられ。また京職板倉伊賀守勝重へも。K印もてその旨を告らる。(當代記。創業記。家譜。貞享書上。)
○廿九日西洋人C安獄中にありて。獄徒二人を邪教に導きしをもて。兩手の指を切て追放たれ。瘍醫吉庵巧言を以て衆人を衒し。多く醫療を誤るをもて。江戶京大坂堺の津を引渡し戮せしめらる。(駿府記。) 
卷廿八 / 慶長十九年十月朔日に始り同十五日に終る 

 

○十月朔日拜賀例のごとし。駿城もおなじ。京より板倉伊賀守勝重急脚もて。駿府江戶兩城へ注進せしは。先月廿五日大坂城中大野。木。石河。薄田。渡邊はじめ十餘輩。片桐市正且元を誅せんとて其宅へうち向はんとす。且元これを知て邸內に引籠るが故。大坂城中以の外騷動す。いよいよ大坂謀叛まぎれなきよしなり。大御所聞し召御憤甚しく。直に御出馬あるべしとて。東海東山の國々御陣觸あり。(駿府政事錄。駿府記。世につたふる所は。此日駿府にては申樂催されしが。夜べより雨いたうふりて。舞臺の濕ければ。松平右衛門大夫正綱に。板敷拭はせよと仰ありて奥へ入せたまふ。そのとき板倉が急脚參りしかば。本多上野介正純その注進を請取阿茶の局もて奥へまいらす。大御所速に表へ出ましたり。このとき成P隼人正正成は尾州へまかりしかば。正純安藤帶刀直次兩人連署して國々へ御陣觸あり。井伊藤堂幷松平下總守忠明は東寺より。上下鳥羽の間に備て非常をいましめ。松平隱岐守定勝は伏見の城守るべしなど急ぎ仰下さる。正綱はこの事いまだしらず。御前に參り。舞臺の裝飾もとゝのひぬ。幸に天氣もはれたり。御能はじめ申べきやと申ければ。上方へ出陣するは。能見物がなるものかと仰られしにより。營中伺候のともがらやゝこの事を聞しりたりとぞ。落穗集。紀君言行錄。)暮に及で勝重より又注進しけるは。大坂城には片桐且元もし駿府へ下るに於ては。右府をも出城せしめ。大坂には織田常眞を惣督として。籠城の備すべき旨。織田左門ョ長等評議專なりとの風聞なりとぞ。上方にては且元茨木の城に入たりと聞て。大坂城中より多勢を以て茨木を攻圍んとす。よて且元寡兵の防戰かなひ難しと思ひ。板倉勝重に援兵を請ふ。折ふし在京の輩少ければ。長谷川式部少輔守知をして加勢に赴かしむ。保田甚兵衛則宗使番を命ぜらる。內藤外記正重持弓の頭となる。この日松平下總守忠明。本多美濃守忠政は。稻葉大夫紀通。古田大膳亮重治。一柳監物直盛。津田民部少輔某。分部左京亮光信。其他近邊の輩を指揮して江州へ馳のぼり。P田邊に陣取て御下知を待べしと仰下さる。又片桐市正且元茨木に籠城したるよし。大御所聞し召。うしろめたく思召。本多上野介正純して安否をとはしめたまふ。また大野修理亮治長が弟壹岐守氏治は。駿府に伺候せしかば。速に大坂へはせのぼり。右府市正且元を誅せんとの趣意を聞糺すべしと命ぜられ。いとまたまふ。京職板倉伊賀守勝重は大坂にて籠城用意とて。諸方より粮米を城中へ運送するよし聞ゆれば。大坂の地に積置たる米糓を。速に伏見へ輸送せしむ。(駿府記。貞享言上。ェ永系圖。家忠日記。家忠日記追加。慶長見聞書。世に傳ふる所は片桐兄弟織田常眞も大坂城を出去たる事。世上の聞えつゝむべきにあらねば。彌大事を思ひ立べしと諸國へ人を廻し。金銀ををしまず粮米を買入しむ。其とき福島左衛門大夫正則が大坂の廩に蓄し米八万石。その他大名坂邸に蓄し米三万石。市井の賣米二万石。みな城中へ引とりたり。こゝに關東の稅米五万石大坂の地に在しかば旣に是も城內へとり入んとする風說を聞。勝重わざと大野治長幷織田有樂がもとへ使たてゝ申遣はしけるは。その地に關東の稅米五万石あり。大坂この節籠城の設せらるよし世の風說專なり。もしその說のごとくならんには。この米をも城中へ引とられ。籠城の備に蓄らるべきか。もしまたさもなからんには。このかたへ送り給ふべきか。この兩樣とかく返答にまかすべしとなり。大野織田等はもしこの米引とらんといはゞ。城中粮米乏しきかと推察せられんと思ひ。城內粮米充實すれば。この稅米更に用なし。船をもて迎へとらるべしと返答す。よて勝重が方より船をもてその米五万石忽に請取て。伏見へ輸送しけるとぞ。貞享書上。家忠日記。)けふ卯刻大雷。(當代記。)
○三日雹ふる。その大さ棗のことし。宰相義直卿に二引兩の幕。白旗五本。金笠の馬印を給ひ。明日出馬して先尾張名古屋までまからるべしと命ぜられ。宰相ョ宣卿にも。中Kの幕。白旗七本。金御幣の馬印を給ひ。その上にも御指揮にて朱六幅の四半の大纏を製せしめたまふ。(駿府記。御年譜。紀君言行錄。大坂覺書。)
○四日關東奥羽の諸大名へ。江戶より御陣觸あり。このころ江城石壘修築の役にさゝれ在府せし西國大名等。速に暇たまひ歸國し。御下知次第早く大坂へ出陣すべしと命ぜられ。をのをのいそぎ歸國におもむく。福島左衛門大夫正則。K田筑前守長政。加藤左馬助嘉明は江戶留守に置れ。藤堂和泉守高虎は大坂の先陣命ぜられ。大和の國人等惣督すべしとて。けふ府を發したり。宰相義直卿は駿府を出て尾州へ赴給ふ。成P隼人正正成。竹腰山城守正信はじめ數百人陪從せり。兼松修理亮正吉も是に從ふ。本多美濃守忠政。松平下總守忠明は。いよいよ美濃組の人數を惣督し。
いそぎP田まで出陣すべしと。駿府より仰下さる。本多縫殿助康俊は江州膳所の城番命ぜらる。舟橋大炊助秀相駿府を辭し江戶に赴く。(御年譜。家忠日記。大業廣記。ェ永系圖。駿府記。貞享書上。國師日記。)
○五日京職板倉伊賀守勝重より。大坂いよいよ謀叛の兆顯然として。城郭を修治し處士多く募り集るよし注進す。寺澤志摩守廣高江城を辭し歸國す。また本多上野介正純。板倉內膳正重昌の奉書もて。片桐市正且元兄弟茨木に歸入せし擧動。神妙なりとの褒詞を仰下さる。代官三浦庄兵衛直正死して。その子庄三カ直利家をつぐ。(駿府記。國師日記。貞享書上。ェ永系圖。家譜。)
○六日本多美濃守忠政。大坂謀反の事を江戶へ聞え上る。よて本多佐渡守正信御感の旨をつたふ。織田源五カ長益入道有樂は。大坂城中より京職板倉伊賀守勝重のもとへ。片桐市正且元兄弟右府の勘發を蒙り。居城茨木へ退去せしにより。大坂城中甚しく騷動す。然ども有樂に於ては。兩御所に對し奉り更に二心を抱かざる旨申送る。よて勝重よりその旨駿府に注進す。細川內記忠利は江城修築の役終り。歸國の暇たまはり發程せしが。途中にて大坂の事聞しかば。駿府へ參る。御出馬あらんには先鋒の仰を蒙りたきむね聞え上る。大御所御感淺からず。速に江戶へ參り供奉つかふまつるべしと命ぜらる。忠利退出して後。忠利が忠志。さすが越中が子ぼど有て。神妙の至りといふべし。父越中守忠興庭訓おろかならず。その子も奇特の志なり。豐前國は邪教盛なりしが。忠興政事正直ゆへに國風も和順せしとて。ことに御稱譽ありければ。金地院崇傳よりその旨をつたへ。また大御所この十一日。駿府御出陣なれば。忠利は幼稚にて御所の御傍に近侍せし事ゆへ。今度も御所の御供して出陣し。忠興は在封して國中堅固に沙汰し。御下知を侍べしとの事を。本多上野介正純並崇傳よりつたふ。中川內膳正久盛も江城修築終り駿府に參る。速に豐後の所領へ歸封し。軍勢を催促し御下知を待べしと仰下さる。また松平攝津守忠政卒去のよし聞し召。その弟下總守忠明をめして。忠政が所領加納に到て。西美濃衆の人數を具し。速に伏見へ出陣すべしと仰下さる。父美作守忠昌へは。吊詞懇に仰下され。加納城堅固に守衞すべしと命ぜられ。攝津守忠政卒去によて。伊勢の人數は本多美濃守忠政引率して。伏見に赴くべしと。上野介正純。安藤帶刀直次奉書もてつたふ。また片桐市正且元兄弟が事。うしろめたくおぼしめしけるに。程なく居城へ引とりたる擧動。尤御感の御旨正純もて仰下さる。(貞享書上。駿府記。國師日記。)
○七日京極丹後守高知。若狹守忠高。森美作守忠政。田中筑後守忠政。江城修築はてゝ駿府にまいり謁す。速に就封し出陣の用意すべしとて暇たまふ。松平紀伊守家信。三宅惣右衛門康貞。駿府留守を命ぜられ。町奉行彥坂九兵衞光正は每浦のはや船を查撿せしめられ。長野九左衛門某。川井作兵衛政忠。沼津の番命ぜらる。片桐市正且元。主膳正貞隆より。家人小島庄兵衛。梅津忠介を駿府にまいらせて。茨木退去の形狀を聞え上る。この兩人御前にめして。時服羽織をかづけられ。その上且元えは。今度讒侫の徒種々結搆するよし聞召。且元がことうしろめたく思召たるに。難なく茨木へ立去りし擧動。尤御感の旨御內書をたまふ。其使一人は直に歸國し。一人は江戶に參りこの旨聞え上べしとて暇たまふ。宰相義直卿はけふ名古屋城へ着たまふ。また大坂にては大野修理亮治長。布施屋飛驒守某指揮し。市正且元所領を沒入せしとぞきこえし。またこの程京職より攝津往來の舟をとゞめ。洛中の米豆鹽等の商賣を停禁す。(駿府記。國師日記。貞享書上。當代記。創業記。慶長日記。)
○八日玄猪御祝例のごとし。片桐市正且元が使小島庄兵衛江城に參る。御所且元が擧動御感有て御內書を給り。庄兵衛には時服かづけらる。藤堂和泉守高虎今度御先手たるにより。大和邊まで軍勢を進め。紀伊。美濃。尾張。伊勢。遠江。三河の軍勢。一同に天王寺表にむかふべしと命ぜられ出陣す。江戶より土井大炊頭利勝駿府へ御使し關東御仕置の御指揮をこはせ給ふ。大御所には先上洛し給ひて。大坂の容躰を御覽じ。させるふしもなくば。紀綱を正され歸らせ給ふべし。もし又秀ョ彌謀反に於ては。江戶へ速に告らるべければ。いそぎ攻のぼり給ひ。大城城を攻落したまふべし。大御所にも人數十万を引つれ。奥州以下のこと沙汰せらるべし。又江戶よりも御出馬あらんには。江城留後の事は越後少將忠輝朝臣。蒲生下野守忠ク。奥平大膳大夫家昌。㝡上駿河守家親。鳥居左京亮忠政。酒井河內守重忠。同備後守忠利。內藤若狹守C次に命ぜらるべしとの御旨なれば。利勝畏りて江戶に赴く。この日竹中伊豆守重利江城の役はてて駿府に參謁す。大御所。汝は福島左衛門大夫正則と知音の事なれば。
江戶へ立かへり正則に對面し。今度大坂謀叛。秀ョの本心よりの結搆にはあるべからず。有樂はじめ大野渡邊等讒邪の小人。側より扇動する所なるべしといへども。正則故太閤舊好ふかければ。秀ョにもうとからず。むすぼふれたる身なり。世の嫌疑免かるべからず。依て正則は江戶に留り。家人は封地に下し。長子備後守正勝大坂に出陣すべきむね。說諭すべしと仰下され江戶に歸る。また大坂より使にきたりし丹羽左平太正安に。本多佐渡守正信懇に歸順をすゝめしかば。たゞ今首刎らるゝといふとも。さる二心を抱かずとて。その義氣歷然とあらはれ大に御感を蒙る。また因幡國若櫻の城主山崎左馬允家盛卒す。その子甲斐守家治原封三万石を襲しめらる。この家盛が祖先代々。近江の佐々木が被官なりしが。父志摩守片家織田殿に屬しければ。家盛父に繼て織田豐臣兩家に歷事し。攝津國三田の城に住し二万三千石領し。叙爵して左馬允と稱しけるが。關原のとき其身大坂にありながら。關東の御味方たりしかば。その賞として所頭七千石加へられ。今の城に移り。四十八歲にて卒せしなり。(慶長見聞書。貞享書上。駿府記。ェ永系圖。斷家譜。藩翰譜。)
○九日立花主膳正宗一常陸筑波郡にて。五千石の采邑を給ふ。㝡上駿河守家親襲封を謝し駿府に參謁し。銀五百枚。綿五百把。蠟燭千挺。鴇毛馬一匹。正恒の太刀を献じ。父出羽守義光が遺物とて。金百枚。來國俊の脇差を献ず。兩御所近日大坂に御出馬あり。家親江城留後たるべしと面命あり。松平土佐守忠義江戶より駿城に參る。直に大坂に赴くべしと命ぜらる。寺澤志摩守廣高江戶より參謁す。すみやかに唐津に歸り。長崎の代官長谷川左兵衛藤廣と相計て。伴天連等追放すべし。河內國淀川郡の半を廣高に所管せしむれば。さるべきものを留置て。諸事沙汰せしむべしと命ぜらる。本多美濃守忠政には。いよいよ十一日に御出馬なれば。いそぎ先陣うつて伏見まで出馬すべき旨。本多上野介正純より傳ふ。(駿府記。ェ永系圖。家記。國師日記。貞享書上。)
○十日淺野但馬守長晟。鍋島信濃守忠義。松平土佐守忠義。蜂須賀阿波守至鎭。小出大和守吉英。稻葉彥六典通。遠藤但馬守慶隆。毛利伊勢守高政。江城の修築おはり駿城に參謁す。明日御出馬なればをのをの歸國し。軍勢を催促し御一左右を待べしと面命ありて。ともに暇たまはり速に歸國す。松平陸奥守政宗江戶の羽檄を得てけふ仙臺を出馬せり。此日下野國宇都宮城主奥平大膳大夫家昌卒しければ。原封十万石其子千福に繼しめらる。わづかに七歲なりとぞ。家昌は美作守忠昌の嫡男にて。天正九年十二月大御所御前にて元服し。御一字給はりて家昌と稱し。そのとき守家の御太刀鷹等をたまふ。文祿四年叙爵して大膳大夫と稱す。慶長六年正月今の城給はり。十万石を領しけるが。三十八歲にて老父信昌に先立てうせけるとなり。(駿府記。貞享書上。ェ永系圖。藩翰譜。家忠日記。)
○十一日巳刻大御所駿府を御出馬あり。御放鷹の御裝にて甲胄をめされず。老臣みな羽折を着す。陪從のともがらおもひもひのよそひ。風流を盡しけるを御覽じて。御けしき大方ならず。金の瓢簟金連の小馬印のみ押立て。先手は打立行列を押しむべしと。本多上野介正純に命ぜられ。また宰相ョ宣卿には安藤帶刀直次供奉し。御跡より出馬あるべし。直次は卿の御供して。放鷹のかたへはまかるべからずと命ぜられ。御供の人數は小馬印にしたがひ本道をおしすゝみ。田中にいたる。大御所は近侍の輩のみ御供して。持舟にかゝり鷹をつかはせ給ひながら。田中に着せられとまらせ給ふ。御供の老臣は上野介正純。そのほか板倉內膳正重昌。松平右衛門大夫正綱。出頭のともがらは永井右近大夫直勝また伊奈筑後守忠政。大岡兵藏忠吉。淺井七平元吉。奏者は西尾丹後守忠永。榊原伊豆守某。城和泉守昌茂。大番頭は松平石見守康安。水野備後守分長。松平忠左衛門勝隆。書院花畠の番士は右衛門大夫正綱。右近大夫直勝所屬たり。旗本奉行は庄田三大夫安信。保坂金右衛門某。鑓奉行は大久保彥左衛門忠教。若林和泉直則。持弓頭石丸與五左衛門正次。持筒頭中根喜藏利重。先弓頭蜂屋七兵衛貞ョ。布施孫兵衛重直。先手鐵炮頭渡邊彌三助勝。日向半兵衛政成。山岡主計頭景以。坪內惣兵衛家定。輕卒頭間宮左衛門信盛。近藤平右衛門秀用。杉浦市右衛門正友。島田C左衛門直時。目付豐島主膳信滿。日下部五カ八宗好。加々爪甚十カ忠澄。花井庄右衛門吉高。牧野C兵衛正成。使番より權に目付の事奉はりしは瀧川豐前守忠往。山城宮內忠久。佐久間河內守政實。鈴木久右衛門伊直。田甚右衛門尹松。城和泉守昌茂。道中の目付和田庄兵衛定勝。落合小平太道次。使番は山本新五左衛門重成。服部權大夫政光。小栗又一忠政。(忠政去年の秋駿府門番の直日に失火し。所領削られ閉戶してありしが。今度ゆるされ御供す。)
本多藤四カ正盛。初鹿野傳右衛門昌久。眞田隱岐守信昌。眞田內藏助信勝。原田藤左衛門種吉。島彌衛左門一正。C水權之助政吉。奥山次右衛門重成。間宮權左衛門伊治。河野庄左衛門盛政。米倉丹後守信繼。歩行頭三井左衛門佐吉正。松平豐前守勝政。松平右馬助乘次。松平志摩守重成。阿部左馬助忠吉。諸道具奉行佐藤勘右衛門繼成。普請奉行村田權右門衛由良。小荷駄奉行夏目長左衛門信次。御給仕番は喜多見主水正正忠。佐久間伊豫守實勝。東條伊豆守長ョ。石谷友之助C正。三木十兵衛近綱。小栗勘十カ某。野々村三十カ某。長野次カ兵衛某。堀田權六一純。三好備中守長直。三好越後守可正。コ山五兵衛直政。石丸權六カ有吉。小姓松平三カ次カ康盛。K田藏人直綱。日根野左京亮高繼。安部次カ吉正成。石川小刑部貴成。鈴木友之助重氏。長野千竹某。蜂屋五カ作某。别所軍平守治。眞野庄次カ正重。長谷川半四カ某。高井助九カ貞C。加納九十カ久利。大久保彥十カ忠貞。その外松平筑後守康親。金森長門守重ョ。河窪主膳信雄。駒木根長次カ政次。柳澤左太カ元吉。朝比奈勘右衛門良明。長谷川縫殿助正尙。花房志摩守正成。同彌左衛門幸次。同勘右衛門正盛。同右馬助正榮。赤井豐後守忠恭。土岐左馬助ョ勝。同市正持益。天野小十カ長信。同彥八カ忠詣。同麥右衛門重勝。能勢攝津守ョ次。同小十カョ隆。喜多見五カ左衛門勝忠。同半三カ重恒。本堂伊勢守茂親。千本大和守義定。木下宮內少輔利房。三好因幡守一任。伊丹十兵衛宗俊。稻富宮內重次。岩本角彌守胤。今村傳右衛門正信。猪飼二カ兵衛光重。服部平吉保ク。同市カ右衛門元正。葉山久彌勝綱。蜂屋半之丞可正。羽太十大夫正成。西尾伊兵衛正成。同加右衛門正保。蜷川次カ右衛門親滿。入戶野九左衛門門昌。多門平次カ正勝。岡野平兵衛房恒。小田切新右衛門昌次。同庄兵衛昌直。小幡孫市カ直之。小倉孫左衛門吉次。同與助吉正。越智彌三右衛門吉廣。渡邊孫左衛門久勝。川窪與左衛門信俊。勝牛之助政成。梶川平七カ勝重。同四カ次カ忠助。地勘之丞吉次。谷內藏助衛成。高木安右衛門C實。同勘兵衛C吉。宅間伊織忠次。高原左助次勝。坪內玄蕃家定。蔦木越前盛次。妻木吉左衛門之コ。筒井次左衛門吉重。同內藏忠重。都筑善兵衛正重。根來右京進盛重。同小左次盛正。內藤左七政俊。同主馬重次。同傳左衛門長教。長崎半左衛門元通。松平九カ兵衛正俊。中澤主稅助吉次。同某吉政。武藤理兵衛安成。同C助安信。上原惣左衛門吉備。猪子次左衛門一日。井出三右衛門正吉。野間金左衛門重成。大岡十左衛門正次。長田理助吉廣。奥田三カ右衛門忠次。大草源右衛門忠次。大久保九カ兵衛忠元。大森半七カ好長。久留忠兵衛正吉。同善四カ正次。K澤次右衛門重久。山口藤左衛門光廣。山本新左衛門重成子助八カ吉正。山本四兵衛正吉。同彌右衛門忠房。山下庄大夫義勝。同彌藏周勝。山中八藏宗俊。八木庄左衛門光政。矢頭金左衛門重次。松田善右衛門勝政。前塲久三カ勝政。深津茂左衛門正則。布施五兵衛正森。同仁兵衛景盛。小林田兵衛元長。近藤信濃守政成。幸田五左衛門繼治。國領半兵衛一吉。赤井六兵衛公雅。朝比奈彌左衛門資重。同彥右衛門直正。同左近宗利。天方主馬助通直。木五カ右衛門之貞。同久左衛門義精。雀部新六重長。酒依長兵衛昌吉。同喜右衛門昌次。酒井彌次右衛門元次。坂井半左衛門成政。三枝善右衛門守知。篠山理兵衛資友。木內忠右衛門蕃正。美濃部市カ左衛門茂正。同新右衛門茂忠。同權之助茂正。三雲新左衛門成長。島四カ左衛門三安。志村加兵衛資只。神長左衛門忠次。神保五カ兵衛氏長。同八カ長利。同三カ兵衛重利。比企次左衛門義久。肥田與左衛門時正。鈴木兵左衛門重之。同三カ九カ重成。須田次カ大夫廣庄。杉浦一十カ正友。同善十カ吉成。同長左衛門吉正。諏訪部宗右衛門定吉。儒員林道春信勝。醫員片山與安宗哲。吉田盛方院淨珍。吉田宗達宗皓。中野笑雲某。松平陸奥守政宗家人山岡志摩某はじめ。惣軍すべて一万餘人。その外僧廓山。了的。朝賢等したがふ。久野丹波守宗成。松平紀伊守家信駿府に留守す。御出馬のときにのぞみ。上野介正純御馬前に參り。御供の諸士奈良邊より甲胄を着せしむべくやと伺ふ。長路甲胄着して疲勞し。戰塲にのぞみ物の用に立難しと仰らる。(世に傳ふる所は。この時の上意に。關原の戰に。江戶出馬のとき。傳馬人足の事あつかふ市人に金六といふ有しが。甲胄を着しかけはしるを。村越茂助直吉この事を告しかば。我聞て其儘置て行末を見よと答しに。果して道中にて金六疲勞し。其具足を木の枝にかけてすてたり。とかく長路は着しがたしと仰ければ。御供の輩住吉に御陣移さるる頃より戎せしといふ。)又今度天龍川に舟橋をかけらる。町奉行彥坂九兵衛光正。御通行前は往來を禁ずべしと申けるに。橋は諸人便を得むが爲架せしめたれば。往來を止る事あるべからず。
されど大人數一度に渡らんとせば毁損すべし。一騎づつ往還せしむべしと命ぜらる。また板倉伊賀守勝重より。大坂には工人數百人に課し。城櫓石壘を修理し。金銀をおしまず粮米を城中へ買入。そのさま反逆疑なき旨を注進す。この夜田中城に御止宿ありしに。夜中大雷。廓山。了的兩僧御談伴に侍りしが。廓山衆人の群座にをいて。出軍の前に雷聲を發す。大吉兆のよし申ければ御感を蒙る。本多美濃守忠政伊勢組の人數を引具し。今朝桑名の城を發す。また石川主殿頭忠總は駿府より供奉して。伊勢路をのぼるにより。大久保權右衛門忠爲美濃の大垣城にいたり。石川が家士を引連のぼるべしと命ぜられ。けふ大垣に赴く。松平伊豆守信一伏見在番してありけるが。岸和田へつかはされ小出大和守吉英にかはらしめらる。(駿府記。村越覺書。土屋記。ェ永系圖。武コ編年集成。大業廣記。家譜。貞享書上。南龍君譜畧。供奉記。慶長年錄。雜談昔物語。武コ大成記。)
○十二日大御所懸川城に着せたまふ。大坂へつかはされたる大野壹岐守氏治立歸り。御旅館へ參り。今度大坂城中にては織田長益入道有樂。其子左門ョ長。木村長門守重成。渡邊內藏助糺。幷兄修理亮治長をはじめ近習のともがら。右府をすゝめ俄に大事を思ひ立し旨聞えあぐる。兄治長は城中の謀主たる所。汝速に歸り來り神妙の旨御感をかうぶる。又片桐市正且元より奉りし使者も御前にめして拜し奉る。京職板倉伊賀守勝重より注進せしは。京に隱れすみし處士長曾我部宮內少輔元親。後藤又兵衛基次。仙石豐前入道宗也。明石掃部助全登。松浦彌左衛門某。其外千餘人大坂の招に應じ籠城し。近日奈良へ打出大和一國を責とり。宇治槇島幷に攝州茨木を放火し。片桐兄弟を攻伐んと計略するよし。風聞專らなりと聞え上る。(駿府記。世に傳ふる所は。長曾我部は土佐一國の領主なりしが。關原のとき石田三成に與しければ。所領を奪はれしかど。一命をたすけられ京にのぼり。相國寺門前竹林のうちにかすかなる家をつくり。村の小兒を集め手習ふわざを教へて。友無となのり居たりしが。一朝甲胄を帶し一人にて立出しかは。近里の者大に驚きたり。然るに今出川邊にては二三百人になり。伏見邊にては千騎ばかりになりて。大坂に赴しとなり。また後藤又兵衛はK田の家人なりしが。主を怨ることありて。國を立退て大坂邊にかくれゐたり。主人より人を出してその踪迹を尋もとめさせ。先基次が小兒をからめとりし事秀ョきかれ。大坂近邊に住ものは浪人たりとも我民なり。しかるをK田私の意趣を以て。專らに召取事尤曲事といふべしと怒らる。K田これを聞。止事を得ずその小兒を基次に返す。基次この恩を深く感じてこの度籠城す。仙石豐前も關原のとき。石田に與力して所領を奪はれ。京二條邊にて手習の師となり。宗也と名のりてゐたりとぞ。この外毛利豐前守勝永も關原に逆徒方なりしかば。所領收公ありて山內土佐守一豐にあづけられ。土州に配流してありしが。或夜妻にむかひ。我は反徒に與力せる事なり。かゝる罪にあふも元より期したる事なれば。更にうらめしともおもはず。罪なき妻子をして。謫居の艱難にあはしむる事のうたてさよ。我今おもひ立事ありといへども。詞に述難しといふ。妻聞て妻たる身は夫を以て天とし。何事も夫の心に順ふを道とす。何かくるしかるべき。かたらせ給へといへば。毛利大によろこび。今度大坂にて大事をおもひ立給ふよしなり。われ大坂に赴き一命を秀ョ公に奉り。武名を後世の書史にとゞめんとおもふ。しかし我この地を迯いでゝ大坂に赴きなば。定めて汝らいよいようき難にあふべきなりといへば。妻奮然として。夫の武名をあらはさんには。妻またいかなる難に沉とも更になげくべきにあらずとて。おもひ立給へとすゝむ。毛利は妻にいさめられ大にいさみ。その夜舟に乘て大坂へ赴きぬ。山內この事聞て大に驚き。毛利が妻子をきびしくいましめ。そのよし關東へ訴へしかば。大御所聞し召れ。それこそ武士たるものゝ妻なれ。その節操褒美すべきなりとの御諚ゆへ。山內は毛利が妻子をいたはりて大坂城中へ送り遣はしたりとぞ。この外宇喜多中納言の家老たりし明石掃部助。織田有樂の子左門ョ長。京極丹後守高知從弟備前某。石川玄蕃頭康長。石川肥後守康勝。山川帶刀。北川次カ兵衛。御宿越前。長岡與五カ興秋。結城權之助。伊木七カ右衛門。名島民部。淺井周防。三浦飛驒。稻木三右衛門。南部久左衛門。多田藤彌。武田永翁。塙彈右衛門。新宮左馬をはじめ。あらたに大坂の招に應ぜしものなを若干なりとぞ。槐記。老士物語。休菴話。兵家茶話。山口話。)今夜御旅館にて軍中の法令を仰出さる。松平下總守忠明はけふ美濃の加納に至り。父美作守信昌と軍議し河州枚方へ赴く。(供奉記。貞享書上。)
○十三日きのふ大坂の逆徒大和より打出。宇治邊を放火し攝州茨木城を攻落し。片桐兄弟を誅すべしと謀畧をめぐらす由。
京都より注進ありければ。大御所いよいよ御路を急がせ給ひ。けふ中泉につかせ給ふ。されど御道すがら鷹狩したまひ。鴈鶴あまた狩得られ。御旅館にて近臣饗を下さる。搶緕尅カ應より參らせたる僧源榮。懇の御旨ありてすぐに陣中にともなはせ給ふ。江戶よりは板倉周防守重宗を御使として。御けしき伺はせられ。重宗は直に陣中に侍らはしめ給ふ。この日福島左衛門大夫正則使もて書簡を奉る。竹中伊豆守重利もおなじ。書簡の趣は。こたび大坂謀叛にて。正則江戶御留守たるべき旨は奉りぬ。たゞし秀ョ母子反心。全く意外の事といふべし。これしかしながら秀ョいまだ少年なれば若輩の近臣等扇動する所なるべし。よりて只今秀ョ母子のもとへ諫書を送らんとすとて。其諫書は别に本多上野介正純へ寄たり。正純是を披見するに。今度秀ョの搆造せらるゝ所。尤天魔の所爲とすべし。速に反心をひるがへされ。是までの不義を謝せられんがため。淀殿には江戶駿府に參向せられ住居せらるべきなり。正則が家眷は兼て江戶に參らせ置し事なれば。正則に於ては關東に對しいさゝか異心を抱かず。秀ョ御母子今猶野心をあらためられざるに於ては。正則天下の諸軍勢に先立て。大坂に馳せのぼり。その城忽に攻落さんとす。願くは御母子御心をあらため御過を悔たまひ。正に順て永く國家長久の御計あるべきなりとぞしるしたり。この夜大光院殿(大炊助義重ぬしの事。)逮夜なりとて。遠州M松より新米を召て供養し給ひ。廓山。了的。源榮の三僧に銀二枚。縮緬一卷づゝ下さる。長崎代官長谷川左兵衛藤廣より。去月廿四日高山右近入道南坊。內藤飛彈守某はじめ天主教の黨百餘人。阿媽港に遠流せしよし注進す。此夕中泉旅舍にて小姓K田藏人直綱と安藤帶刀直次所屬の炮吏と爭論し。藏人手疵を負といへども。その徒者炮吏一人を討果し一人深手負せたり。江戶にては京極若狹守忠高書狀を奉り。大坂御親征のとき先鋒たらん事をこふ。土井大炊頭利勝奉書もて御感の御旨。且何事も大御所の御下知たるべき旨を傳ふ。美濃代官山田伊右衛門重俊死して子甚五カ重勝つぐ。(駿府記。供奉記。貞享書上。斷家譜。)
○十四日雨ふる。卯刻中泉を出給ひ。御道すがら御鷹つかはせ給ふ。天龍川二Pに舟橋を架せらる。大石十右衛門某。豐島作右衛門忠次これを奉行す。午刻M松に着せたまふ。京職板倉伊賀守勝重急脚もて注進せしは。坂城いよいよ防戰の備專にて。財貨をおしまず諸國の處士をつのりあつむ。高野山に潜居せる眞田左衛門佐幸村は金二百枚。銀三十貫を聘としてむかへたり。また若原右近は播磨浪人共を引卒し。淀殿のゆかりある淺井周防守政堅。其外根來のク士三百騎をはじめ。日を追て大坂の招に應ずるもの雲霞のごとしとなり。(駿府記。供養記。世に傳ふる所。眞田幸村は父安房守昌幸と共に。關原のとき石田がたなりしかば。所領收公せられしが。猶命たすかり高野山の麓九土山に蟄居す。慶長の末にいたり。父昌幸は病死し幸村はその舊廬を守り。妻子をはごくみ月日を送りける。然るに大坂の事やゝおこるに及んで。紀州の領主淺野紀伊守長晟よりきびしく近クの土民に令し。もし幸村亡命して大坂へ赴んもはかり難し。よくよく守りを怠るべかずとあり。また高野の門首衆徒等も專ら心もちひて怠らざりしかば。大坂よりひそかに幸村を招かるゝといへども。幸村遁亡せん透を得ず。幸村謀をめぐらし或日山中のク民數百人を招きあつめ。酒をすゝめ沉醉せしめて。そのすきを伺ひク民等が乘來し馬を奪ひ。荷物負せ。妻子を轎にのせ。主從百余人にて紀伊川を渡り。橋本木目峠をへて河內路へかゝり大坂へはせのぼる。この道筋のク民は皆眞田が舊廬に沈醉し。夜明てかくと聞大に驚くといへども。さらにせん方なし。幸村は薙髮して傳正月叟と名のり。山伏の服を着し。妻子家人等をば大坂の市中に殘し。たゞ一人大野修理亮治長が邸にいたり。大峯より卷數持參りし山伏なりとて治長に對面をこふ。治長は折ふし登城して家にあらねば。その歸りを待とて玄關に侍りしに。大野が家の若侍ども折ふし刀釼の鑒定してありしが。山伏の刀脇指をみんといひてとりて見しに。刀は正宗。脇差は貞宗にて。みな秋霜の光りあたりもかゞやく計りなりしゆへ。若侍ども大におどろき。この山伏いかなるものぞと怪む所に。治長歸り來り眞田とみければ。大にスび。軍師早々の來臨。我君の御運盡ざる所なりとて。すみやかに客殿に請じ饗應し。其身はふたゝび登城して。かくと披露しければ。秀ョよりも七組の頭速水甲斐守を使として。金帛若干贈らる。この躰をみて若侍どもさてこそと感じ入しとなり。眞田は滑稽なるおのこにて。こののちも大野が從者共をみるときは。刀釼の鑒定は上達せしかとて戱れしとぞ。武邊咄。翁物語。)また江戶より松平助十カ正勝御使として。御起居を存問せらる。加藤肥後守忠廣は江城修築の役はてゝ歸國するとて。
御旅館へ參り謁し奉る。すみやかに歸國し軍勢を集め。御下知を持べしとて。鷹の鴈一双下されいとまたまふ。脇坂淡路守安元も參謁す。是も所領にかへり人數を催し。藤堂和泉守高虎に屬し。出陣すべしとて暇下さる。伯州の代官伊丹喜之助康勝。山田五カ兵衛直時參り賦稅を納め奉る。又本多上野介正純。安藤帶刀直次奉書もて。本多美濃守忠政に。勢州の軍勢を引連淀鳥羽の間に陣し。歒より淀橋本をやかしむべからずとの御旨をつたふ。また越前少將忠直朝臣には。手勢一万五千をもて淀橋本邊に陣取あるべしとなり。また片桐市正且元は。御上洛に先達て茨木の居城開退べき旨を伺ふ。上野介正純より憚りなくその城にあつて。御上洛を待べき旨をつたへ。また石河三右衛門勝政を御使とし。その旨仰下さる。美濃守忠政陣所の事を。板倉伊賀守勝重に議す。勝重より淀鳥羽橋本邊に陣どり。武具は膳所邊より着せらるべき旨答しが。その後また草津より武具用らるべきよしを告。また板倉內膳正重昌より。いそぎ平潟に陣どるべき御むねをつたふ。金地院崇傳桑名より藤堂和泉守高虎へ書簡ををくり。河內國八尾地藏堂。同國澁川郡龜井村眞觀寺は崇傳所屬の蘭若たれば。制札を建て狼藉を戒めらるべきよしをこふ。(駿府記。貞享書上。國師日記。)
○十五日朝とくM松を御發輿あり。供奉のともがら松火ともして前行す。三河國にいらせ給ひては。御發祥の地なれば。國人等も寺社人もをのをの土產を献じ。簟食壷漿し歡抃してむかへ奉る。申刻吉田城につかせ給ふ。悟眞寺の長老蕎麥を奉りければ。御けしきよくきこしめされ。ク人寺社人もの献ぜし徒には銀をかづけらる。板倉伊賀守勝重脚力もて注進せしは。この十二日大坂の逆徒堺津を放火すと聞えしかば。堺のク人等大におそれ。忽に逆徒に降參し。その地にありあふ兵具玉藥等を悉く大坂城中へ輸送す。政所芝山小兵衛正親無勢なるが故に。是を防禦する事を得ず。岸和田まで引とりしよし注進す。その脚力御所にめして。事の樣御みづからとはせ給ふ。また堺にすむ圍碁師柏原宗具も。その騷亂を避て堺を走りいで。今夜御旅館に來りその事狀を聞え上ければ御感を蒙る。(供奉記。駿府記。世につたふる所は。堺の豪民等鹽硝千斤を大坂へ献じ降參し。秀ョの朱印を請得たり。依て大坂より堺を乘とらんと。大野道犬。赤座內膳。槇島玄蕃等人數を引具しおし寄る。土人等流石に關東より置るゝ所の政所芝山小兵衛正親を攻殺さんも憚りありとやおもひけん。芝山が岸和田へ引退しをばそしららぬ樣して打過ぬ。この地にすめる今井宗桙ヘ。かねて關東に志厚き事しるければ。大野以下の討手宗桙ェ家におしよせ。宗桾ヮqを生取て大坂にかへり。さて堺の地には赤座槇島二人を置て守らせたり。片桐市正且元は芝山が岸和田へ立退し事はしらず。芝山無勢なるべしと。多羅尾半左衛門。牧治右衛門を將とし人數をさしむけ芝山を救はしむ。片桐が兵どもは尼崎にいたり。建部三十カ政長がもとより船かりて。堺の地におし渡る。然るに堺には芝山とく迯去て。大坂の兵充滿し。片桐が人數を生どらんと騷ぐ。多羅尾牧等のがれざる所としりければ。宗桙ェ家にいり放火し。大坂の兵寄來るを待受て奮戰し討死す。多羅尾討死せしかば。その餘の殘兵尼崎に迯のき。再び建部に船をからんとこふ。建部がもとには關東より加勢として松平武藏守利隆が家人守り居たるが。片桐をうたがひ門戶鎖して片桐が兵を入ざれば。片桐が兵せんかたなく進退を失ふ。大坂城よりかくと聞。大野修理亮治長が從兵米村六兵衛。同次大夫。同市之丞。その外中島の一揆。北村三右衛門等に命じ。尼崎に人數を出し片桐が兵を前後よりはさみうつてみな殺にせしとなり。慶長年錄。國師日記。)また京にては淀の橋に新關を居て。木村惣右衛門勝C。河村與惣右衛門某。木村藤兵衛正邑等守りし所に。處士柏原源左衛門あまたの處士を伴ひ大坂へ赴くとて。板倉勝重が使なりと僞其關を馳ぬけしを。木村は八幡堤まで追かけ。柏原をはじめ其從者を討取たり。板倉勝重これを賞し。木村を關東に下しければ。今宵御旅館に參り拜謁し。その事を聞えあぐる。事始よしと御褒詞を蒙り物をたまふ。本多美濃守忠政より使もて。明日伏見へ着陣するのよし京職のもとへ注進す。先手伊勢組の人數は。けふ伏見へ着陣せしとなり。また大坂にては吹田の渡りに舟橋をかけ。茨木の城へ攻かゝらんとするよし聞えければ。片桐市正且元より板倉勝重に加勢をこふ。村上三右衛門吉政。その時は松平隱岐守定勝に屬し伏見の城を守りて有しが。勝重に請て小勢ながら茨木の加勢に赴き。穗積に陣して。敵よせば一戰せんと待かけたり。(貞享書上。ェ永系圖。) 
卷廿九 / 慶長十九年十月十六日にはじまり同廿九日に終る 

 

○十月十六日江城にて。御K印の軍令を下さる。喧嘩口論停止せらる。もし違犯の徒あらんには。是非を論せず双方ともに誅戮せらるべし。あるは親緣によりあるひは知音によて荷擔せば。その罪本人よりも嚴なるぺし。若私にゆるし置て後日に聞えなば。其主重科に處せらるべし。先手をさしこえて先驅する者は。勳功ありとも。軍法を犯す罪により。嚴に命ぜらるぺし。尤先手に告ずして斥候を出す事有べからず。故もなく他備に入交るものは。兵具馬具を奪べし。其ときに異義に及ばゞ。その主も罪に行はるぺし。人數押のとき脇道すべからざるむね嚴に戒むべし。諸事奉行の命令違犯すべからず。臨時の御使して何人をつかはさる事あらんにも。そのむね違犯すべからず。持鑓は軍賦の外なるがゆへ。長ネを捨て持鑓有べからず。長ネのほかに備へんには。其主の馬前に持しむべし。陣中馬を放去べからず。押買狼籍すべからず。もし違犯の徒は見るにまかせて罸すべし。小荷駄押は兼日より令し置。軍勢隊伍に混ぜしむべからず。渡船は他備に混せず一手越たるべし。役夫も是に同じかるべし。此令に違犯する徒は。嚴科に處せらるべしとなり。けふ大御所には早朝吉田を立せ給ひて。山中法藏寺にたちよらせ給ふ。御幼稚のときこの寺にて。御手習ありし所なれば。むかしの事思召出され。老僧嘉勝軒など召て拜謁せしめ給ふ。桑谷村のク士松平七藏長定が子長福八歲。山中に出て拜し奉り熟柿を獻ず。今宵は藤川の驛に宿らせたまふべしと聞えしが。俄に岡崎の城に入せらる。こゝは其昔世々の御居城なれば。むかしの御名殘覺し召出させたまふての事なるべし。大樹寺。信光明寺。高月院。大林寺。妙心寺。隨念寺。光忠寺。行福寺。隣松寺。松應寺。源空寺。不斷寺。誓願寺。桂岩寺。淨珠院。龍溪院。龍海院。勝曼寺。上宮寺。本照寺。眞福寺。妙源寺の諸僧。そのほか伊賀八幡院。池鯉鮒の祠官をはじめ。遠近の寺社人ども。あるは杉原紙。鳥目一貫文。或は柿。蒲萄。芋。或は草薢。蕎麥。茶。おもひもひの土宜を捧てまうのぼり。松平太カ左衛門尙榮。中島與五カ重春も出て拜謁す。御けしき例よりもうるはしく。大樹寺にはこと更金一枚。小袖五かづけられ。登譽幷祖洞に手向よとて。菓子幷香銀十枚下され。松應寺。信光明寺。大林寺。隨念寺。高月院へは饗應たまはり。小袖一襲づゝかづけらる。又板倉伊賀守勝重が脚力來て。この十三日大坂城より人數を堺に出し。尼崎にて片桐が人數を討とりたるよし注進す。よていよいよ御道をいそがせらるべしと仰出さる。又福島左衞門大夫正則書簡をもて。その身は命を奉じて江戶に留り。家眷悉く城內へ籠置べきよし聞え上る。また江城の御使として成P豐後守正武參り。旣に上杉中納言景勝。松平陸奥守政宗。佐竹右京大夫義宣以下。御先手の諸大名江戶に着陣せり。いそぎ御出馬あらまほしきとて。御指揮をこはせ給ふ。先手の諸將參陣せば。時宜次第御出馬あるべしと仰まいらせらる。宰相義直卿はけふ名古屋出陣し給ひ。一宮までつかせらる。金地院崇傳は駿府御出馬に先立て發程し。今日京南禪寺に着せしとて。本多上野介正純へ書簡を呈し。片桐市正且元いよいよ關東に對し。二心あらざる旨聞えあぐる。且元よりも先日使者奉りしとき。御內書賜ひたるを謝して。正純がもとへ書簡を呈しければ。正純返簡を送る。(慶長日記。貞享書上。慶元拾遺。供奉記。武コ編年集成。駿府記。國師日記。)
○十七日松平陸奥守政宗江城にのぼり拜謁す。今度一番の先隊たるべしと面命せらる。大御所はけふ名古屋城に着せらる。宰相直義卿はきのふ出陣し給へば。古田織部正重然。醫官半井驢庵成信。追手門外にむかへ奉る。夜中近臣に鶴の饗膳を給ふ。この夜遠山久兵衛友政桑名城番命ぜらる。よてその旨本多上野介正純より。桑名城留守の徒につたふ。またこの春御勘氣蒙り蟄居したる山口但馬守重政は。妻子を江戶に質とし。その身大坂に入て刺客たらんことを。土井大炊頭利勝。本多佐渡守正信にこふ。正信利勝これを聞。重政年ごろ關東無二の志は。世人みな知ところなれば。もし刺客の術をなし得たらんには。これかならず關東の內旨を蒙りたる事と人口に膾灸せん。今兩御所御みづから秀ョが罪を鳴らし征討したまはんに。刺客を用ひたまひしなど。世に批判あらんには。兩御所の御ため天下後世に於てしかるべからず。この事おもひとまるべしと堅く制しければ。重政やむことを得ず。その子伊豆守重信とともに。ひそかに大坂におもむかんとて箱根まで來りしに。關守のために留られ。むなしく江戶へ歸り。その子重信を商人の樣にいでたゝせ。忍びて大坂へのぼせしとぞ。宰相義直卿は今宵赤坂に着陣せらる。(貞享書上。駿府記。ェ永系圖。當代記。)
○十八日雨によて名古屋に御滯留あり。義直卿出陣の旗奉行富永彌右衛門一人之。
是より先成P隼人正正成は。たれをか旗奉行に加ふべきとて。大御所の御旨をこひしに。近日名古屋に到りて定め給ふべしと御諚ありしが。今夜尾崎助衛門定正とて。六十六歲の翁なりしを御前に召出され。御手づから御茶頭巾を下され。年ごろの武功を褒せられ。翌日旗奉行になされ。そのうへ養老料にとて采邑二百石給ひ。名をも內藏助と改めしめらる。板倉伊賀守勝重より急脚もて。大坂いよいよ籠城のさま顯然たるよし注進す。越前少將忠直朝臣も使もて。この十六日江州坂本まで參陣すとて。陣所をうかゞひ奉らる。西岡東寺九條山崎までおしつめ備べしと仰つかはさる。又松平筑前守利常も使參らせ。十四日加州金澤の居城出馬せしとて陣所を請奉る。淀鳥羽邊に備べしと仰下さる。本多美濃守忠政淀鳥羽へ着陣せしにより。伊賀守勝重その地に勤番させし人數をば引退かしむれば。舟にて往還する者を嚴に查撿し。火賊をもよく查撿すべし。軍勢の粮米伏見着陣の日より渡すべき旨を。勝重より忠政へつたふ。然るに忠政大坂へ籠城せんとてのぼる處士を。生擒して勝重に送りしかば。彌舟路の查撿こゝろ用ふべき旨を。勝重より忠政につたふ。忠政また森口邊へ斥候を遣はしけるに。大坂の城兵いまだ出軍せしさま見えざるむね。伏見の松平隱岐守定勝へ申送る。又京職より河內國龜井眞觀寺。八尾常光寺に制札を建る。その文にいふ。當軍勢濫妨狼藉また伽藍幷寺中寄宿又竹木を伐とる事。堅く停止せしむ。違犯の徒は嚴科に處すべしとなり。これ先日金地院崇傳より。藤堂和泉守高虎に就て乞によるものなり。(駿府記。蓬佐記。貞享書上。國師日記。)
○十九日江城にて。今度御出陣途中の令を下さる。安藤對馬守重信。土井大炊頭利勝。酒井備後守忠利連署なり。文にいふ。路次中諸驛木錢の事。宿主の薪を用ひば。びた錢三文。馬は一匹に六文たるべし。もし薪をみづから持來りて用ふるものは。宿賃をつかはすに及ばず。駄賃馬宿次の塲所より外路を追通すべからず。駄賃錢定制の如く。嚴にはからふべしとなり。松平陸奥守政宗まう登りて軍令を拜受す。大御所はけふ岐阜の城にとまり給ふ。立政寺の住僧參り拜謁す。コ永左馬助昌重がもとより急脚もて。大坂秀ョより贈られし書簡を御覽にそなふ。その書には。こたび片桐市正不忠の擧動有により。罪科を命ぜしを以て。大御所以外御憤りふかく。近日御出馬あるよし聞ゆ。尤不慮のいたりなり。秀ョに於ては兩御所に對し。更に異心をいだかず。このむねよろしく愁訴せん事を乞とぞしるしたり。大御所御覽ありて。去春加賀中納言利長へ大野治長が送りし密書に。大坂異心の趣明白なり。今度秀ョの手書。全く織田有樂幷治長等が姦謀に出る所。さらに信用すべきにあらずとて聞し召入られず。又本多上野介正純もて毛利中納言輝元入道宗瑞。島津陸奥守家久。鍋島加賀守直茂。福島備後守正勝。松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼。同宮內少輔忠雄。淺野但馬守長晟。蜂須賀阿波守至鎭。加藤肥後守忠廣。森美作守忠政。田中筑後守忠政。生駒隱岐守一正はじめ。すべて中國西國の諸軍勢。速に大坂へ發向すべしと令せらる。又御先手の諸將旣に伏見着陣せば。陣所にて喧嘩爭論あらしむべからざる旨。正純幷安藤帶刀直次より。伊賀守勝重につたふ。金地院崇傳木煉の梯を獻ず。尾張宰相義直卿永原へ着陣。本多忠政は枚方。松平下總守忠明。美濃組。三河の軍勢は鳥羽。藤堂高虎大和島へ發向したりと聞ゆ。京都にては今朝將軍塚鳴動し。黃昏西方に怪星現す。その光火のごとしといふ。(令條記。制法留。貞享書上。供奉記。駿府記。國師日記。當代記。西洞院記。)
○廿日江城より藤堂和泉守高虎へ御手書を遣はされ。近日御出馬あるべき旨仰下さる水野監物忠元は御使奉り。御出馬に先立て發程す。松平陸奥守政宗御先手として江戶を出陣す。馬上七百餘騎。惣軍一萬八千とぞ聞えし。大御所には今日柏原に着せたまふ。御迎とて勝山の安樂寺住僧御道までいで。關原のとき我寺へ立寄せ給ひし吉例の地なれば。こたびも御駕を枉らるべしと請奉る。今度は御道をいそがせたまへばとて。立よらせたまはず。その僧へ時服一襲かづけらる。板倉伊賀守勝重急脚もて注進せしは。大坂より偷人數十人に金銀若干をあたへ。山伏の躰にいで立しめ。二條城下を放火せしむべきよし。風說あるにより。搜索して搦取所六十余人。その中に一人金五百枚を受て乞丐に打扮し。大御所御途中に於てうかゞひちかづき奉り。討奉らんとするものありしが。是もおなじく生どりしむねなり。このほか京江戶幷諸大名より飛札もて。注進櫛の齒をひくが如し。諸軍勢に今夜より俸米を頒布せらる。その半は大和米。半は銀もて下されしどぞ。越前少將忠直朝臣は六條邊まで着陣せらる。その人數一萬。松平筑前守利常も下京まで着陣す。その人數二萬にあまれり。
大坂より敵打いでざらんには。御方より戰をいどむべからざる旨。板倉勝重より本多美濃守忠政につたふ。又南部一乘院大乘院兩門主より。金地院崇傳もて。卷數を御陣中へ奉る。この頃片桐市正且元。なをも無二の赤心をあらはさんと。長子出雲守孝利。次子吉助。(半之亟爲元か。)主膳正貞隆が子鶴千代貞昌。(ときに四歲。)女子(時に三歲。)を人質として勝重がもとへ送る。(家忠日記。慶長見聞書。貞享書上。御年譜。駿府記。供奉記。當代記。國師日記。)
○廿一日上杉中納言景勝二番の御先手として江戶を出軍す。此日大御所には摺はり峠にてやすらはせ給ひ。佐和山の城につかせらる。(一說永原。)此所にて法令を仰せ出さる。今度御供の輩脇道すべからず。街道にては家の左右を避て。貞實に供奉すべし。御旅館に着御のときは下馬し。馬は其所にとゞめ置歩行のものを通じ。その後器械を通じ。其のち馬を通ずべし。御座所へは供奉當直の外はまかるべからず。もしこのむねに違はゞ。罸銀一枚出すべし。目付番頭諸奉行はいふまでもなし。假令何樣の者たりとも。法令を傳ふる時違背すべからず。いかなることありとも。番頭組頭指揮せざらんには。其身はさらなり從者も出すべからず。目付番頭奉行罸銀出す罪を見のがさば。そのともがらより出すべし。馬側の從者は侍二人。馬取二人。沓打草鞋とり一人たるべし。與頭は侍五人。そのほかは停禁すべし。騎馬行列の中へ。他の馬引入べからず。若混入する者は。罸銀一枚たるべし。されど御前へ召れてまかる輩の馬は此限にあらず。御供するとて馬の口とらしむるか。又高聲するものは罸銀一枚たるべし。歩行の列へ諸器械を混ずべからず。又諸器械をも混雜して持しむべからず。下僕等に至るまで其主より嚴に令し。もし背く者あらば其主より罸銀一枚出すべし。御旅舘の驛々笠巾を脫すべし。街路にて馬の口洗ふべからず。馬に聲かくべからず。是にたがふものは。嚴科に處せらるべしとなり。宰相義直卿はけふ入洛せらるゝにより。公卿殿上人多く粟田口邊までむかへらる。本多上野介正純。安藤帶刀直次奉書もて。本多美濃守忠政は交野に陣どり。松平下總守忠明は其次に備ふべきとの仰を忠政忠明につたふ。又上野介正純は片桐市正且元兄弟が赤心のほど。大御所さらに疑はせたまはずとの誓書を送る。是は世上雜說紛然たるがゆへなり。板倉伊賀守勝重より美濃守忠政へ。先勢みだりに敵地に深入せしむべからざる旨をつたふ。(創業記。國師日記。供奉記。攝戰實錄。西洞院記。貞享書上。)
○廿二日永原に着御。(一說前崎膳所。)板倉伊賀守勝重。諸軍勢京着の日より。粮米を頒布するよし注進す。又堺津南北の市人等。此十三日政所芝山小兵衛正親退去後。以外亂妨狼藉なれば。はやく制札を建賜はらん事を願ふによて。後藤庄三カ光次もて制札をその市人に下さる。又竹中伊豆守重利を召れ。今よりいそぎ安藝備後にのぼり。福島備後守正勝の軍勢を引率して。大坂へ着陣すべし。且備後國は鐵鍛治あまたあれば。鐵楯若干製造せしむべしと面命せらる。また大坂より前波半入御旅館に參り。城中の事狀を聞え上ぐ。城中には何事も淀殿のはからはせたまふ事多く。將卒みな望をうしなふよし告奉る。大御所いさゝかも大坂を忌憎にあらず。かれみづから禍を造り四海を騷亂すれば。やむ事を得ず征討に出馬す。秀ョ自滅をまねく不便のことよと仰らる。聞ものみな淚を流し。天に代て民を救はせ給ふ王者の師といふやこれならんと。感歎せざるものなし。西近江より大鯰を獻ず。その大さ數間あり。本多上野介正純奉書もて。本多美濃守忠政。松平下總守忠明へ。枚方に備へ他所へ陣替すべからずと傳ふ。小出大和守吉英の許へ。秀ョ及び大野修理亮治長。津田左門某より送りし書簡を。吉英御覽に備ふ。正純奉書もて御感の旨を傳ふ。(駿府記。供奉記。貞享書上。)
○廿三日御所江城を御發駕あり。よて御留守は若君(大猷院殿の御こと。)をとゞめ給ひ。酒井河內守重忠。酒井備後守忠利。內藤若狹守C次。內藤左馬助政長。高木主水正正次。朝倉藤十カ宣正諸事を沙汰せしめ。越後少將忠輝朝臣。松平下野守忠ク。㝡上駿河守家親。鳥居左京亮忠政に番衛せしめらる。忠輝朝臣には何樣の事ありとも出城せず。河內守重忠にはからひ。時々番所に出座し法令を嚴にすべし。備後守忠利。若狹守C次。主水正正次。藤十カ宣正に。何樣にも城をはなれず。每事相議してはからふべし。左京亮忠政に。每事忌憚なく法令禁戒を嚴にし。㝡上。宇都宮。會津の人數幷米津勘兵衞田政。島田兵四カ利正にも令せられたれば。彌違背せざらんやう相議し。よく心入て令を施すをもて專要とすべし。勘兵衞田政。兵四カ利正には。鳥居。㝡上幷會津。宇都宮の人數と相議し。法令禁戒のこと心もちふべしとなり。
㝡上駿河守家親は留守の命蒙りたれば。鳥居幷米津島田と會議し。万事こゝろ用ひん事肝要たるべしとなり。會津幷宇都宮の家司等へもおなじさまに御K印もて令し下さる。(會津は忠ク幼稚ゆへ。その家司へ命ぜられ。宇都宮も奥平忠昌死して。その子千福幼稚ゆへ家司どもに仰下されしなるべし。諏訪因幡守ョ水は甲府城の番。渡邊囚獄長は沼津の番。小笠原安藝信盛。同新九カ廣信は相州三崎の番。向井兵庫助正綱は走水の番。松平玄蕃頭C昌は三州本坂の番。遠山久兵衛友政は桑名城番。內藤紀伊守信正は江州長M。戶田左門氏鐵は膳所。本多彥八カ康俊はその加勢としてつかはさる。其他の城々番衛嚴に命ぜらる。西ク孫六カ正員は內藤左馬助政長と共に房州の押を命ぜらる。また福島左衛門大夫正則。加藤左馬助嘉明。K田甲斐守長政。平野遠江守長泰。谷出羽守衛友は江戶にとゞめらる。(世に傳ふる所。福島は秀ョにちなみあり。其ほか。加藤。K田。谷。平野みな豐臣家功臣なるがゆへ。わざと江戶へとゞめられしといふ。)さて又法令を下されしは。各所にて雜說流言をなすもの查撿すべし。人質の外婦女幼童は船渡塲にて查撿し。あやしげなるものは。江城留後のともがらへ訴出べし。街道の外往還せしむべからず。東國へ行ものあらば查撿すべし。若黨奴僕役夫等陣中を亡命し。隱れすむものあらんには。その主のこゝろまかせに公私領をわかずおしよせ召取べし。かくし置たるものはさらなり。そのク中曲事たるべし。陣中より歸る僕卒は。そのぬしの券をもて往來せしむべし。無券のものは查撿すべし。賦稅を澁る者は嚴に命ぜらるべしとなり。今日供奉の一番酒井左衛門尉家次。松平甲斐守忠良。松平土佐守忠實。設樂甚三カ貞代。小笠原若狹政信。根津小五カ是宗。水谷伊勢守勝隆。仙石兵部少輔忠政。同大和守久隆。相馬大膳亮利胤。六ク兵庫頭政乘。(政乘明年夏は本多出雲守忠朝に屬す。)二番は本多出雲守忠朝。眞田伊豆守信之。秋田城介實季。淺野采女正長重。松下石見守重綱。一色宮內義直。須賀攝津守勝政。三番は榊原遠江守康勝。松平丹波守康長。北條出羽守氏重。成田左衛門尉氏宗。丹羽五カ左衛門長重。四番は土井大炊頭利勝。佐久間備前守安政。同大膳亮勝之。堀美作守親良。同淡路守直重。筒井主殿助正次。溝口伊豆守善勝。高力左近大夫忠房。由良信濃守貞繁。五番は酒井雅樂頭忠世。(忠世は御側にあり。その子万千代忠行その人數を引つれてこゝに押たり。)細川玄蕃頭興元。牧野駿河守忠成。脇坂主水正安信。土方掃部頭雄重。新庄越前守直定。杉原伯耆守長房。鳥居土佐守成次。稻垣平右衛門重綱。御傍には本多大隅守忠純。立花左近將監宗茂。同主膳正直次。前田大和守利孝。日根野織部正吉明。岡部美濃守宣勝。藤田能登守信吉。菅谷左衛門尉範貞。其外那須衆。由利衆。芦田衆。津金衆。其次は秋元越中守長朝したがへり。凡て供奉の有司老臣は。雅樂頭忠世。大炊頭利勝。安藤對馬守重信。旗奉行は島田次兵衛重次。(翌年は屋代越中守。)三枝土佐守昌吉。鑓奉行は小林勝之助正次。米津梅干之助康勝。永田善左衛門重利。多門縫殿信C。安藤次右衛門正次。小宮山又七カ昌純。戶田平左衛門光定。伊東右馬允政世。小坂新助勝吉。松田六カ左衛門定勝。室賀源七カ滿俊。筧勘右衛門元成。大番頭は阿部備中守正次。牧野豐前守信成。渡邊山城守茂。土岐山城守定義。松平丹後守重忠。書院番頭は水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊。松平越中守定綱。花畠番頭は水野監物忠元。井上半九カ正就。板倉周防守重宗。成P豐後守正武。使番は小澤P兵衛忠重。山田十大夫重利。朝比奈源六正重。阿倍四カ五カ正之。今村彥兵衛重長。牟禮ク右衛門勝成。近藤勘右衛門用政。石川八左衛門政次。渡邊半四カ宗綱。村P左馬助重治。中川半左衛門忠勝。溝口外記常吉。鵜殿石見氏長。兼松源兵衛正成。服部與十カ政光。三宅半七カ重勝。山石見守某。石河三右衛門勝政。川口長三カ近次。大田善大夫吉正。久貝忠三カ正俊。(一說中山勘解由照守。村P左馬助重治。安藤次右衛門正次は翌夏の使番とす。)鐵炮の奉行は秋山平左衛門昌秀。荒川又六カ忠吉。弓奉行は中山勘解由照守。神谷與七カC正。具足奉行山角又兵衛正勝。伊東長兵衛弘祐。(一說長兵衛弘祐。小野次カ右衛門忠明。神谷與七カC正幷に山角又兵衛正勝。木五左衛門高明。石川市右衛門某は。明年の諸道具奉行とす。)目付は山岡五カ作景長。加藤伊織則勝。永井彌右衛門白元。高木九兵衛正次。木村源太カ元正。太田新左衛門信勝。宿割役は淺井六之助道多。五味金右衛門豐直。柴山九右衛門吉次。須田次カ大夫廣莊。市川茂左衛門滿友。木小右衛門正定。高田小次カ直政。藤川庄次カ重勝。(夏陣には地杢左衛門安信を加ふ。)
幕の奉行は朝比奈彥右衛門眞直。內藤平右衛門某。持弓頭は內藤外記正重。持筒頭山善四カ重長。(家譜に使番より兼る。但重長は先日京都へ御使にのぼる。)先手弓頭は久永源兵衛重勝。本多太カ左衛門信勝。同じ鐵炮頭は近藤平右衛門秀用。屋代越中守秀正。加藤喜助正重。森川金右衛門氏信。服部中保正。細井金兵衛勝久。駒木根右近利久。倉橋匠助政勝。歩行頭は植村志摩守家政。內藤市正信廣。松平內膳重利。安部彌一カ純盛。奥𢨴從は菅沼主殿頭定官。小山左源太某。本多主水正某。松平伊賀守忠晴。三浦作十カ重成。鳥居讃岐守忠ョ。內藤左兵衛政次。神尾猪之助守勝。伊澤吉兵衛政信。太田新六カ資宗。安藤甚助某。川口左門正武。井上半三カ某。內藤小一カ某。木造長吉某。三宅惣十カ正勝。小納戶役は牧又十カ長重。三宅藤五カ政吉等。すべて惣軍二十万餘騎。整々堂々と隊伍をとゝのへ。旌旗雲日にかゞやきて。江戶より伏見まで百二十里が間。透間もなく野にも山にも絡繹たり。此日は神奈川の驛にとゞまらせ給ふ。大御所には今朝永原の御旅館を出立せたまひ。矢橋より御船を召る。四十八挺立の早船なり。膳所の城主戶田左門氏鐵船中にて御膳を獻ず。午刻御入洛ありて。二條の城にいらせたまふ。片桐市正且元幷その子出雲守孝利拜謁して。大坂城中反逆の事狀を聞え上る。吉田の神龍院梵舜も參謁す。福島左衛門大夫正則より。大坂へ遣はしたる使者歸り來る。城中さらに返答の旨なしといふ。市正且元。藤堂和泉守高虎二人を召て。大坂城溝の淺深をとはせ給ふ。又地圖を以て攻城の計略を議し給ふ。山善四カ重長關東の御使として參り御けしきを伺はせらる。いそぎ江戶御出馬あるべしと仰まいらせらる。(武コ大成記。令條記。家忠日記。攝戰實錄。成業。御年譜。駿府記。舜舊記。)
○廿四日佐竹右京大夫義宣御跡備とて。今日江戶を進發す。御所には神奈川より藤澤に着御あり。是より先蜂須賀阿波守至鎭江戶にありしころ。大坂の事おこると聞て。老父家政入道蓬菴がもとへ。いそぎ封地を出て江戶に參るべきよし申送りければ。蓬菴急に居城を出て海船にのり。此十五日三州吉田に着しが。大御所はや岡崎へわたらせ給ふと聞。岡崎さしていそぎ行所に。本多上野介正純より大御所仰をつたへて。入道はや船にのり。すみやかに着岸したる忠節感じ思召る。早々江戶へ參り參謁すべしとありければ。蓮菴再び道をいそぎ。江戶をさして赴くとて。けふ藤澤まで來りしかば。御旅館にまいり謁し奉る。御懇の仰を蒙て。これより江戶におもむき滯留す。(一說泉州一向宗大坊に滯留。)又酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信奉書もて。大御所御催促により。御軍行をいそがせたまへば。御手怠らず押すゝむべしとの御旨を。松平陸奥守政宗に仰下さる。この日大御所は二條城に渡らせたまへば。勅使廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿參向せられ御對面あり。そのほか公卿殿上人皆長袴にて參謁せらる。御先手として先日參着せる西國大名等も。をのをの拜し奉る。關東よりの御使水野監物忠元拜謁し。江戶にてもすみやかに御出馬あるべき。旨聞えあぐる。伊達。上杉。佐竹等の奥州勢を御先手となされ。御出陣いそがせ給へと御返答あり。また細川越中守忠興使者奉る故。上野介正純。金地院崇傳もて。島津陸奥守家久出陣せば。その跡より引つゞき軍勢引率し。早く大坂へ着陣あるべしと仰下さる。片桐市正且元參る。召出され攻城の計畧。城中のありさまどもとはせ給ふ。神龍院梵舜もまう登り。神書の御物がたりあり。又板倉伊賀守勝重幷崇傳より。天龍寺。相國寺。東福寺。建仁寺。萬壽寺五山の長老へ仰を傳へしは。本朝の古書共新寫命ぜらる。一寺より善書の僧十人づゝえらみ。南禪寺に參りこの事つかふまつらしむべし。寫すべき書の員數にしたがひ。猶も書手を加へらるべければ。そのこゝろすべし。其書は日本後紀。續日本後紀。文コ實錄。類聚國史。律。令。弘仁格式。貞觀格式。延喜式。御藏本欠卷あれば。全書をもて足成すべし。三代實錄。延喜儀式。類聚三代格等。その他諸家の記錄ども悉く寫すべし。仙洞の御藏書。百鍊抄。令。江次第。類聚國史。類聚格。九條家の藏本新儀式。北山抄。壬生家の藏西宮抄は。傳奏衆に仰遣はされ。かしこに輸送して寫さしめらるべしとぞ聞えける。此夜廓山了的に齋飯をたまふ。處士宇都宮彌三カ末房舊好の士十三人その外雜卒引つれて參り。拜謁して金十枚時服五賜はり。また御所を迎へ奉らんと。洛を出て東海道に下る。(金地院日記。御年譜。ェ永系圖。慶長日記。貞享書上。駿府記。西洞院記。國師日記。舜舊記。供奉記。武コ編年集成。)
○廿五日御所小田原に着せたまふ。
大御所は二條城に藤堂和泉守高虎。片桐市正且元を召て鎭西の軍勢いまだ着陣せずといへども。高虎先鋒として先大坂に軍をすゝむべし。大和組の諸將是に屬して進發し。且元は監軍たるべし。本多美濃守忠政は伊勢組の人數を引卒し。これにつゞき發すべしと命ぜらる。此時敵兵の中にも眞田。木村。後藤。塙。山縣等の勇士は御方に招きたきものぞ。誰か是をはかるべきやと仰らる。高虎且元かゝることはいかにも秘密にはからはせたまふべきかと聞え上しに。いさゝか秘するに及ばずとの御諚を聞て。衆人更に御深慮を伺ひ得ず。たゞ不審におもひしとぞ。五山の僧等百三十余人を召て。古書繕寫の事命じ給ふ。かゝる爭亂の中に。かく典籍の事をすて給はず沙汰したまふ好文の英主は。近世聞も及ばぬことゝ。衆人驚感し奉る。この日將軍塚ふたゝび鳴動し。又京洛の地大震。禁省はいふもさらなり。月卿雲客をはじめ。市中の家宅。倉庫。寺社。堂塔倒れくづれ。毁傷する者三百七十餘人。死するもの二人。たゞし二條の城中はいさゝかも廢損せず。遠州須賀の城主大須賀國丸。(松平式部大輔忠次がこと。)今年十歲幼稚なるがゆへその人數は家司引卒し。宰相ョ宣卿に屬して進發せしめらる。然るに國丸强て上洛して。戰塲に臨まん事を請ければ。大御所その勇志を御感ありて松苗一寸にして棟梁の器あらはると御褒詞あり。又今日より東海東山の兩道に新關を置て。無券の往還をゆるさず。また京中に令し。物價を查撿して。みだりに騰貴する事をゆるさず。(御年譜。武コ大成記。供奉記。駿府記。西洞院記。家忠日記。武コ編年集成。當代記。)
○廿六日御所三島に着せらる。又松平陸奥守政宗仙臺より江戶へ赴くとき。この十五日洛にて大坂よりの使和久半左衛門宗成來て。秀ョの密旨をつたへしは。政宗兩御所の懇遇尤厚きよしなれば。今度東西の和儀を搆成するか。さなくば故太閤の舊好をおもひ。大坂へ內通せんことを請はるゝ旨なり。よて政宗宗成をその地にとめ置。このよし江戶へ訴ければ。その使召捕て參らすべしと命ぜられたり。よりて政宗宗成をとらへて。けふ進らせしかば。三島の代官井出藤左衛門正信。佐野平兵衛正重兩人に召預られ。查撿せしめられしにより。宗成今度使節の大意を筆記して奉る。(大坂平均後和久は政宗に下され。仙臺家人となる。)二條城にては藤堂和泉守高虎大和組の人數を引率し。河內の國府に陣をすゝむ。堀丹後守直寄も是に從ふ。片桐市正且元監軍たり。織田內府入道常眞參謁す。この入道關原の時に所領沒入せられてのち。大坂に寓居せしが。今度はしばしば秀ョ反逆を諫め。また關東へはやく其事告しかば。天下靜謐の後は。領地給はるべしと面命ありて。左文字の御刀。行光の御脇指を給ふ。其他諸大名拜謁する者多し。後藤庄三カ光次密に告奉りしは。松平武藏守利隆。淺野但馬守長晟。鍋島信濃守勝茂。江城修築の事承り久しく江戶にありて。いそぎこの地に馳登り在陣するがゆへ。費用欠乏するよしなり。よて江城修築の地より直に參陣せし諸大名へは銀二百貫づゝ恩貸せらる。又京極采女正高廣御前にて奈良干柿を捧ぐ。五山の僧等まうのぼり拜謁して。一束一卷を獻ず。南禪寺にて古書新寫の事かさねて命ぜらる。萩原左兵衛兼從神龍院梵舜參謁す。仰により梵舜古事記舊事記を進覽す。これ新寫の用にあつる處なり。また丹後篠山城主松平周防守康重。山陰道の軍勢を引率し攝州へおし入。家士都筑久大夫重次を部將とし。别府川涯へ屯する敵兵を討取て河をこえ。佐良志川をも渉るむね注進す。けふ後藤源左衛門忠正今度御供して沒す。その子長八カ忠直慶長八年九月死しければ。孫C三カ吉勝其家つきたり。(御年譜。ェ永系圖。貞享書上。家記。武コ編年集成。駿府記。國師日記。舜舊記。ェ政重修譜。)
○廿七日御所は先に京へ進らせられし御使ども歸り來り。御返詞を聞え上しかば。いよいよ御みちをいそがせたまひて。御供におくれず從ふ者は。莫大の忠と賞せらるべし。又おくれたりとも罸せらるべきにはあらずと仰下され。書院小姓組の番士。御馬廻。奥小姓健足のものをえらみ供せらる。徒士等二百四十人。何れも忠勤この時なりと。汗を流し息つきあへず。こゝを專途と走りしが。御馬にすこしも離れざりしはわづかに三十餘人なり。その外の惣勢は安藤對馬守重信指揮して。御跡より押べしと仰付らる。かくいそぎたまふほどに。けふはC水までいたらせ給ふ。二條城には奈良一乘院門跡尊勢。そのほか喜多院。寳性院等參謁す。片桐主膳正貞隆も謁し奉る。松平武藏守利隆。石河伊豆守貞政を奥殿に召て。大御所御みづから尼崎地圖を示され。攻戰の進退を教諭し給ふ。黃昏に及で關東より脚力きたり。御所この廿三日江戶御出馬廿四日藤澤着御の由注進せしに。
大御所聞し召。數十万の大軍俄に押事なし難かるべし。すこしく緩くすべきむね仰遣はさる。泉南堺の市人等上洛して銀二百枚を捧ぐ。此日藤堂和泉守高虎の陣に。大和組の人數あつまり。越前勢も來りければ。小山まで人數をすゝめ。近邊を放火し國府にかへる。また南禪寺には五山の僧等五十人つどひて。諸家の記錄書寫をはじむ。一部は禁廷へ納め。一部は駿府。一部は江戶へ置れんがため。都合三通づゝ書寫せしめらる。林道春信勝金地院崇傳このことを奉行す。又書手の僧等へけふより三日齋飯をたまはる。これは傳通院殿忌辰によりてなり。又松平安房守信吉を岸和田の加勢につかはさる。小出大和守吉英請により。先手を命ぜらるゝが故なり。よて吉英には老臣幷京職より其旨奉書もて傳ふ。(榮松錄。由井書上。慶長見聞書。武コ大成記。駿府記。家忠日記。家譜。供奉記。貞享書上。)
○廿八日御所掛川にいたらせたまふ。松平千コ定房初見して時服をたまふ。又藤堂和泉守高虎より奉る書簡を御覽じ。直に御手書を賜ふ。けふ掛川にて書狀を披見す。洛次中飛立如くおもへども。大軍召具したることなれば。はかゆかで心ならず。あまり遲々なるが故に。人數だんだんに命じ。跡よりなるべき程急がしむ。來月二日三日には上着すべし。我上着せざらん程は。敵城へ取詰給はんこと。待せ給ふべき旨。高虎聞え上らるべし。何事も高虎をョみおぼし召なりとぞしるされける。松平陸奥守政宗より。あまりに御みちを急がせらるれば。人馬疲勞して御先をうち難しといへども。馬とりばかりにても。供奉すべき旨酒井左衛門尉家次へ申送る。藤堂高虎はけふ越前大和の軍勢を統領して。陣を小山に進む。本多美濃守忠政は仰により陣を飯森に移し。加賀越前勢の間に陣す。桑山左衛門佐一直は藤堂に屬せんがため。けふ河州山田に着陣す。二條城にては醍醐三寳院門跡覺定。奈良大乘院門跡信尊。本願寺門部光昭。妙心寺鐵山。大コ寺松岳拜謁す。(御年譜。貞享書上。家記。駿府記。)
○廿九日御所吉田に着御なり。御道いそがせたまふほどに。供奉のともがら武具諸調度までも殘置て馳走せり。二條には御所よりの御使として。永井信濃守尙政參り。この廿七日三島までいたらせたまふよし聞え上る。池田備後守重信。この夏御勘氣蒙り籠居して。今度供奉せざる事尤遺憾たり。御先手にすゝみ城溝の埋草ともならまほしきよし。板倉伊賀守勝重によりて請奉る。大御所大に御感あつて。すみやかにその罪をゆるされて。先手備に加へしめらる。この日藤堂和泉守高虎は師を河州にすゝめ敵城に迫り。泉州堺を右とし住吉を左とし野陣をはり。又大仙領より住吉のかたへすゝむ。松平下總守忠明。石川主殿頭忠總も。平野口より安部野の方へおしすゝむ。然るに紀州熊野の住人新宮左馬助行朝。同若狹。大坂へ籠城せんがため。この所に來り。高虎が先そなへ渡邊勘兵衞が陣前を通けるが朝霧深くて敵御方を見分がたく。遙行すぎて後追懸しが及はず。兩人は大坂城に馳りいたりぬるとぞ。(御年譜。創業記。駿府記。家忠日記。攝戰實錄。攝戰實錄附尾。世につたふる所は。關原の時石田方に組して。領地沒入せられし熊野新宮の領主堀內安房守氏嘉は流落して死したり。其子左馬助若狹守兩人大坂へ籠城し。大野主馬が所屬となりたり。此程大坂より槇島玄蕃允。赤座內膳正等をして堺近クを亂妨せしむ。然る所この輩關東勢日を追て近クにおしよするを見て。馬をはせて大坂に迯かへる。左馬助兄弟大膽者ゆへこれを恐れず。なを近クを侵掠せんとてこゝに來り。藤堂石川等の備をみて大に驚き。捨鞭打て住吉をさして迯行。藤堂が先手の者ども。これを追擊せんといふを。その隊長渡邊勘兵衛。敵の急に迯るは伏兵を設て味方を誘引ならん。朝霧深ければみだりに追べからずと抑留す。そのひまに敵城より米田監物。塙團右衛門。御宿勘兵衛等天下茶屋まで出むかへ。左馬助兄弟をともなひ城へ引入しかば。藤堂が先手の者手をむなしくして。渡邊をうらみのゝしりたり。勘兵衞も是を恥て翌夏若江口にて苦戰すといふ。攝戰實錄。)桑山左衛門佐一直は譽田表へ陣し。みづから斥候に出しが。敵兵に行あひ二騎切て其首を二條に獻ず。よて本多上野介正純。松平右衛門大夫正綱奉書もて。御感のむねをつたへらる。(家譜。)
◎この月大坂近邊勤番せしは。泉州岸和田の城番は小出大和守吉英。加番は本多因幡守政武。松平安房守信吉。(後に今里陣城警衛。)攝州尼崎城は建部三十カ政長。また松平武藏守利隆。山崎甲斐守家治もこゝに陣す。和州闇加利峠は遠藤但馬守慶隆。山城淀城は木村惣右衛門勝Cなりとぞ。いまだ駿府御發駕以前に牧野C兵衛正成が子三之助正景初見したてまつる。(ェ永系圖。貞享書上。) 
卷三十 / 慶長十九年十一月朔日にはじまり十五日に終る 

 

○十一月朔日御所岡崎に着せ給ふ。京都より急脚もて御書參り。大軍を急に押給はゞ。人馬疲勞するのみならず。行列混亂し。其上輕率の御擧動。大躰を失ひたまふべし。かまへて緩々と押れて。ェ大持重の躰を失ひ給ふまじき旨仰まいらせらる。大御所には二條の城に諸將を集會せられ。敵城の攻口を分ち命ぜらる。今度岡山を以て御所の御本陣と定めらる。南方の御先手は松平筑前守利常。大和川邊榊原遠江守康勝。井伊掃部頭直孝兩人。松平丹波守康長。丹波五カ左衛門長重。成田左馬助氏宗は康勝に屬せしむ。(御年譜。創業記。當代記。駿府記。御撰大坂記。今木記。世に傳ふる所は。直孝是まで大番頭にて。伏見城に勤番してありしをめして。伏見城は渡邊山城守茂にかはらしめ。汝は佐和山に赴き。兄兵部が軍勢を引具し。大坂表へ働くべしと仰らる。直孝忝と御請し。さて某年ごろ身のほどをも試し事ならば願奉る事もあるべけれど。いまだ試たる事もなければ。願奉るに及ばずと申て退く。大御所御側に。安藤帶刀直次が侍坐しけるを顧給ひ。掃部流石に故直政が子なれば。先手を所望の心にやと仰らる。直次承り。有がたき上意に候と御受す。そのとき再び直孝をめし。汝只今の一言聞とゞけたり。先手に備へ軍功をはげむべしと仰下さる。直孝身にあまりかたじけなきよし申て。今度先手にそなふといふ。攝戰實錄。)木津邊に本多美濃守忠政。有馬左衛門佐直純。分部左京亮光信。一柳監物直盛。古田大膳亮重治。又金森出雲守可重。寺澤志摩守廣高。河州國府には越前宰相忠直卿。また藤堂和泉守高虎。桑山伊賀守元晴。同左衛門佐一直。脇坂淡路守安元。木津今宮邊松平陸奥守政宗。伊達遠江守秀宗。その外生駒讃岐守正俊。神保長三カ相茂。本多左京利長。松倉豐後守重政。高力左近大夫忠房。溝口伊豆守善勝。堀美作守親良。佐久間藏人正ョ。堀淡路守直重。鳥居土佐守成次。又松平長門守秀就。毛利甲斐守秀元も南方より陣を進め。東方今福口は佐竹右京大夫義宣。鴨野口は上杉中納言景勝。堀尾山城守忠晴。また屋代甚三カ忠正は上杉佐竹の軍監とす。京橋口は伊東修理大夫祐慶。玉造口は本多出雲守忠朝。酒井左衛門尉家次。水谷伊勢守勝隆。又淺野采女正長重。松平石見守重綱は忠朝に屬す。天王寺口は小出大和守吉英。同信濃守吉親。平野は松平安房守信吉。今里は京極若狹守忠高。住吉を後にして水野日向守勝成。又掘丹後守直寄。丹羽勘助氏信は勝成に屬す。其外遠藤但馬守慶隆。コ永左馬助昌重。福島備後守正勝。植村帶刀泰勝。根津神平吉直。秋田城介實季。仙石兵部少輔忠政。六ク兵庫頭政乘。相馬大膳亮利胤。松平甲斐守忠良。設樂甚三カ貞代。保科肥後守正光は東より寄べし。岡山御本陣の左には高木主水正正次。右には阿部備中守正次。その外御旗本。先手は松平河內守定行。御本陣近く備ふべきは松平伊豫守忠昌。本多佐渡守正信。酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信。山伯耆守忠俊。牧野豐前守信成。板倉周防守重宗。本多大隅守忠純。井上半九カ正就。前田大和守利孝。田中久兵衛吉興。阿部信濃守某。同主膳正某。水野監物忠元。細川內記忠利。同玄蕃頭。立花左近將監宗茂。坂崎出羽守成政。土方掃部頭雄重。脇坂主水正安信。谷出羽守衛友。大福山城守助就。倉橋內匠助政勝。近藤平右衛門秀用。又蒔田源六カ義祗は幼稚ゆへ。その人數ばかり佐渡守正信引具す。茶臼山は大御所の御陣所と定めらるべしと思召により。岡山と茶臼山との間。天王寺口豐志谷口の方に宰相義直ョ宣の兩卿備させられ。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。成田右衛門尉長忠。萩田三カ右衛門治友。又本多上野介正純。永井右近大夫直勝も爰に備ふべし。木下宮內少輔利房は茶臼山御本陣に召加へらる。南部信濃守利直は御本陣の後備とす。西方は今宮邊淺野但馬守長晟。松平宮內少輔忠雄。小妻邊蜂須賀阿波守至鎭。(淺野。蜂須賀。後に穢多崎。)仙波は石川主殿頭忠總。花房助兵衛職之。新家は九鬼長門守守隆。(のち藍島。)花房五カ左衛門職利。中島の內海老口は戶川肥後守達安。大和田川は松平左門督忠繼。河州枚方は松平下總守忠明。又西尾豐後守光教。同出雲守嘉教は忠明に屬せしむ。下福島には向井將監忠勝。同左門正通。千賀與八カ信親。(後新家。五分一。島。)小M久太カ光隆。その外松平土佐守忠義。竹中伊豆守重利。長谷川主膳正某。稻葉彥六典通西よりすゝみ。北は天滿口森美作守忠政。中川內膳正久盛。能勢攝津守ョ次。池田次兵衛長幸。關長門守一政。加藤左近大夫貞泰。市橋下總守長勝。松平周防守康重。同主膳直ョ。岡部內膳正長盛。同美濃守宣勝。池田備後守重信。有馬玄蕃頭豐氏。别所豐後守吉治。その外羽柴右近光重。山崎甲斐守家治。加藤式部少輔明成。岡部庄兵衛長貞。村井右近某。又島津陸奥守家久。細川越中守忠興。田中筑後守忠政。
加藤肥後守忠廣等いまだ着陣せざれどもこの所に陣すべしと定らる。備前島は宮城丹波守豐盛。花房志摩守正成。同彌左衛門幸次。同四カ兵衛某。同勘右衛門正盛。同宗右衛門某。K田市正某。長谷川左兵衛藤廣。菅沼織部正定芳。本多豐後守康紀。同縫殿助康俊。片桐市正且元。同主膳貞隆。石河伊豆守貞政向ふべしと命ぜらる。又八條式部卿智仁親王。二條准后昭實公。九條關白幸家公。妙法院門跡常胤法親王。梶井門跡承快法親王。勸修寺門跡ェ海。隨心院門跡搓F參謁せられ。その以下の公卿殿上人あまた拜謁す。島津陸奥守家久がもとへ。長崎の商人高屋七カ兵衛といふ者を秀ョの使とし。K印幷長銘正宗の脇差を送り。今度味方にまねかる。大野修理亮治長。同主馬首治房よりも書狀もて。秀ョひたすらに島津の雄略をョみ思召るゝにより。家久速に出軍し天下一統の功を勵まさるべきよし申をくる。家久その使を追返し。贈物をもうけずとて。秀ョの書簡を二條城に捧て御覽に備ふ。松平左衞門督忠繼。有馬玄蕃頭豐氏及び八幡正法守。正福寺。橋本大融寺。鳥羽法田寺。日蓮派廿一寺等の住僧ども參り拜し奉る。神龍院梵舜も同じ。また上京下京の商人等銀千兩を獻ず。又板倉伊賀守勝重今日敵の間者一人を召捕る。この者は城中渡邊內藏助糺が屬士なり。貧にして母を養ふ事を得ず。今度大坂の命をうけ金百兩をこひ。是をそへて母を田舍に送り。その身は鐵炮を携へ。二條邊を忍びめぐり。透をうかがひ大御所を侵し奉らんとせしなりとぞ。大御所かれ老母を養はんため。其身死地に入て恐れざるは孝子なり。殺に忍びずとて助命して。獄に繫がしめらる。また本多美濃守忠政昨日飯森まですゝみ陣取し注進す。南禪守にて古書謄寫のものへ條約を下さる。朝は卯に集り夕は酉に散じ。その間は投宿すべし。此書寫いそがせ給へば。各寺務ありとも怠慢なく努力して。つかふまつるべしとなり。(攝戰實錄。家譜。御撰大坂記。今木記。ェ永系圖。貞享書上。駿府記。供奉記。國師日記。)
○二日御所名古屋城につかせ給ふ。(一說大垣。)本多美濃守忠政より。大坂彌籠城の形勢顯然。天王寺平野邊自燒したり。某枚瀉より飯森島まで軍をすゝめし旨注進す。よて酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝奉書もて。御氣色の旨を傳ふ。又三州吉田より京へ進らせられし御使內藤外記正重。けふ二條に參り。御路次彌いそがせ給ひ。駿州C水より遠州掛河につかせたまひ。掛河より直に三州吉田まで。つかせ給ふよし聞えあげしかば。大御所御氣しきよからず。大軍を引つれ數里の行程をいそがせ給ふ事。以外然るべからざるむね仰つかはさる。知恩院大僧正拜謁し。銀百枚。金襴。緞子。繻珍。各五卷賜ふ。其外知恩寺。C淨華院。金戒光明寺。龍松院。C凉院。喜多院等の住僧拜謁し。各銀五枚。時服五づゝたまふ。神龍院梵舜も謁し奉る。大坂城より薄田隼人正兼相。山口左馬助弘定出て平野邊を侵略す。藤堂和泉守高虎陣をM邊へ張出す所。沖の方より船こぎよする者あり。これは藝州の福島が家司福島丹波が長子長門。父の勘發蒙り籠居してありしが。大坂の事を聞て。幸に秀ョに降參し籠城せんと。手勢少々引つれ來り。この邊に東軍の備あらんとは思ひもよらず洲崎に上る。藤堂が先手の兵これは何人に候やととふ。長門等はこれを大坂の城兵なりと思ひ。これは秀ョ公の御方となり。籠城せんため馳參りしなり。城へ案內せられよといふ。藤堂が兵どもさては敵なり。すはもらすなとおめきさけんで取かこみ。一人も殘さす討取て。住吉の邊に梟首す。又城中にては速見甲斐守守之。郡主馬首宗保(一說大野主馬。)等相議して。藤堂が京軍を離れ。住吉表へ軍を進めしこそ幸なれ。打出て一戰せんとせしが。衆議一决せずしてその事空しくやみぬるとぞ。又佐々孫助某は老臣の命をうけ。先手にすゝみ美濃守忠政が旗本に屬す。此日折井市左衛門次忠死して。その子九カ次カ政次家つぐ。(御年譜。貞享書上。駿府記。供奉記。舜舊記。家記。慶元記。家忠日記。ェ永系圖。)
○三日御所大垣に着御あり。江戶より白銀百四十駄運び納む。京には先手の諸軍。攝河兩州に於て所々を放火亂妨するにより。土人是を憂ひ二條城に訴ふ。よて本多美濃守忠政。一柳監物直盛。古田大膳亮重治。分部左京亮光信へ。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重より。この事禁制すべき旨をつたへ御朱印を下されしかば。土人大に安堵の思ひをなす。また道明寺へは甲斐庄喜右衛門正房。同庄次カ某をもて御朱印を下され。兩人押の役す。片桐市正且元。先手の輩敵城を取圍まん事を伺ひしが。御下知を待ず猥に手を出すまじと仰下さる。攝河兩州に陣する先手踟蹰して進み得ず。その上淺野但馬守長晟いまだ參陣せず。浮說訩々たり。大御所御氣色よからず。松平下總守忠明。石川主殿頭忠總。古田大膳亮重治。コ永左馬助昌重等が枚瀉邊の備を。平野邊へ押詰べしと命ぜらる。
また使番山城宮內少輔忠久。瀧川豐前守忠征。城和泉守昌茂。鈴木久右衛門伊直。田甚右衛門尹松。眞田隱岐守信昌。初鹿野傳右衛門昌久七人を大坂に遣はし。其形勢を窺ひ。先手諸備に指揮を加へしめ。又島彌左衛門一正。本多藤四カ某兩人を天王寺表に遣はし巡察せしむ。兩人歸り來り。藤堂和泉守高虎をはじめ。道明寺小山邊諸備の形勢を聞え上しに。先手いまだほど近し。少しく敵地へおしすゝむべしと仰下され。その家臣藤堂仁右衛門。同新七をめして拜謁せしめらる。また知恩院大僧正使僧もて菓子獻じ御氣色伺ふ。その僧へ銀三枚下さる。松平陸奥守政宗。家人山岡志摩もて。先に秀ョより味方に招かるゝ書簡。幷その使和久半左衛門を生擒。本多佐渡守正信により江戶御所へ捧たるよし。聞えあげしかば御感の仰を蒙る。二條准后昭實公。今度古書新寫の料にとて。その家記若干御覽に備られしかば。金地院崇傳より。御感の旨其家司等につたふ。此日大坂より薄田隼人正兼相。山口左馬允弘定平野邊を侵掠し。粮米鹽等を城へ輸送せんと來る所に。藤堂が先手河州道明寺小山邊より渡邊勘兵衛。藤堂新七。同仁右衛門等の先勢押すゝむを見大に驚き。捨鞭打て逃歸る。藤堂勢は城兵捨置たる器械を分取し。平野表旣に敵なし速にを兵すゝめ給へと高虎本陣へ注進す。(御年譜。創業記。貞享書上。攝戰實錄。駿府記。紀年錄。武コ大成記。供奉記。國師日記。)
○四日御所柏原にとまらせ給ふ。(一說佐和山。)片桐兄弟。石川伊豆守貞政使奉りしかば御手書を下さる。二條城には近衛右大臣信尋公。一條大納言昭良卿はじめ。上達部殿上人まうのぼり各太刀一振づゝ進らす。すべて七十餘人。みな肩衣袴を着す。大御所道服召て對面し給ふ。次にC淨華院三時。知恩寺尼衆。龍安寺。高臺寺。長福寺。臨川寺。西方寺。高山寺。神護寺。山門正覺院。三井寺の住僧。又勸修寺。大覺寺。仁和寺。蓮華光院。蓮院。妙法院。實相院等諸門跡の使僧拜謁し。各杉原扇子茶菓等を獻ず。妙覺寺。本國寺。本立寺。妙顯寺。誓願寺。圓福寺。光明寺。禪林寺。般舟院。二尊院。大雲院。本覺寺。淨福寺。報恩寺。新善光寺。金蓮寺。金光寺。歡喜光寺。長樂寺。泉涌寺。遣仰院。廣山本禪寺。本滿寺。本願寺。佛光寺。興正寺。妙滿寺。本能寺。妙傳寺。立本寺。最光寺等も同じ。次に神龍院梵舜。金地院崇傳へ。自書の藤氏系圖七册を獻ぜんと議す。次に片桐市正且元大坂地圖を獻ず。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重を召て同じく閱し給ひ。御密議ありて後。また大工中井大和守正次に大坂近郊の圖を製せしめらる。後藤庄三カ光次。この廿二日大坂より迯來りし者の申所を鞫問して聞え上る。この日松平下總守忠明。本多美濃守忠政等。平野に城兵薄田隼人正兼相。山口左馬允弘定等出張すと聞えしかば。是を討んと西尾豐後守光教。コ永左馬助昌重。稻葉大夫紀通。石川主殿頭忠總等及濃勢の諸隊。飯盛邊より平野に軍をすゝむる所。敵は一戰に及ばず城へ迯入る。是より先枚方にも敵要害をかまへ。淀川を前にあて防戰の用意せしが。忠政忠明濃勢の軍勢。富田。高槻。芥川。洲奈。若江よりおしよせ。佐田の堤に上り矢炮を打懸しかば。此所の敵もはやく城中へ迯入たり。(御年譜。駿府記。西洞院記。供奉記。舜舊記。貞享書上。武コ大成記。慶元拾遺。)
○五日御所佐和山へ着せらる。第一の御先手松平陸奥守政宗は大津に着せり。二條には使番田甚右衛門尹松。佐久間河內守政實。初鹿野傳右門昌久。先手を巡視してかへり。先手の諸軍住吉邊に發向するよし聞えあぐる。片桐市正且元を召て密議あり。本多上野介正純をつかはさる。且元が家人日比半右衛門に時服をかづけらる。藤堂和泉守高虎が先手共。所々放火亂防の聞えありて御氣しきよからず。速に停禁すべしと仰下さる。本多美濃守忠政は。軍令嚴肅にしてあへて侵す者なしと聞し召御感あり。今霄は大樹寺殿月忌逮夜ゆへ。廓山。了的兩僧齋飯を賜ふ。合戰にのぞまば汝等敵御方を分たず討死のやからを供養すべしと命ぜらる。けふも三寳院。圓滿院。實相院。一乘院。曼殊院の諸門跡幷靈鑑寺。中宮寺。寳鏡寺。大慈院。光照院の尼宮だち御對面あり。(御年譜。國師日記。駿府記。)
○六日御所永原に着せ給ひ。こゝに後陣の勢を待せ給ふとて滯留し給ふ。そのよし松平陸奥守政宗使をもて二條城へ聞え上る。大御所殊に御氣色うるはしくて。其使へ銀子菓子を下さる。この日二條にては加藤式部少輔明成幷毛利の使宍戶備前守拜謁す。神龍院梵舜藤氏系圖七卷獻ず。御感ありて銀を給ふ。高野山大コ院も參謁す。知恩院大僧正菓子密柑を獻ず。そのほか南都の興福寺。稱名寺。西大寺。招提寺。初P小池坊。蓮臺寺。鷲峯寺。來迎寺。大念佛寺。多武峯。吉野櫻本坊。內山永久寺。寳生寺。法隆寺。當麻禪林寺。宇多慶運寺。三輪極樂寺。佐渡來迎寺。泉州佐野上泉寺。
春木西福寺の住僧等拜し奉り。符錄杉原菓子等を獻ず。又照高院准后道澄幷三井寺の僧七人。大坂よりの命なりとて。關東調伏の法を修するよし。三井寺の僧本覺坊密訴する旨。大工中井大和守正次告奉る。よて板倉伊賀守勝重に命ぜられ。その事查撿せしめらる。また松平下總守忠明は。昨日大坂より人數を平野に出し放火せんとせしを。追擊せんとする所。敵早く迯去しゆへ。直に平野の燒跡に陣取よし注進す。又藤堂和泉守高虎は住吉にすすみ。淺野但馬守長晟も紀州より一万餘騎にて出軍し。高虎と同じく陣どる旨注進す。(御年譜。貞享書上。駿府記。供奉記。創業記。世に傳ふる所。長晟紀州を出陣するに及び。吉野熊野の凶徒大坂に與して。新宮の城を攻んとす。淺野右近家人戶田六カ右衛門新宮川を渡りて是を討破る。又有田日高の賊徒大坂の命を奉じ。長晟が出軍の前路を遮りしを。長晟追ちらし。今日着陣す。家忠日記には是を七日とす。いまは駿府記による。攝戰實錄。)この日大坂より又人數を出し天王寺を放火す。折ふし寒風烈しかりければ。堂塔伽藍一時に焦土となる。(大坂兩陣記。世に傳ふる所は大坂城中には旣に關東と牟盾の沙汰に定まりしかば。籠城の用意し口々へ軍勢をさしむけんと評議し。淀川を前にし枚潟に要害をかまへしが。本多忠政。松平忠明濃勢の人數を以てをしやぶり。直に飯森より平野をさして軍をすゝむるを見て。平野に出張したる薄田山口も引入る。速見等は藤堂住吉に陣し。忠政忠明は平野に進むを見て城中より逆寄して勝利を得んとすゝめしかど。衆議一决せず。又大坂堤を切落し河內筋。攝州茨木郡大窪仁和寺。その外在々に水ををし入しめ。大和表は玉水幷天神森。木津川を前に要害を搆むとせしが。そのうちに藤堂勢。その外大和組の人數をし來ればこの謀もかなはず。止事を得ず天王寺邊の在家放火せしに。烈風ゆへその火太子堂へうつり。七堂伽藍一時の灰塵とはなりしとぞ。攝戰實錄。)高虎はこれを聞て先手を住吉にすゝむ。城兵は敵かく速に來るべしとはしらず。熊野新宮根來の僧二百人ばかりにて堺の町を放火せんとて出けるが。藤堂が先手の籏を見て。忽に敗走して城にかへる。このとき先手渡邊勘兵衛。追討せばこの二百人ばかりの敵は。鏖にすべきに。高虎を待合せ猶豫しける間に。城兵は虎口をのがれ迯延たり。高虎をはじめ大和組には。松倉豐後守重政。奥田三カ右衛門忠次。神保長三カ相茂等惣て一万餘騎。住吉の北に出て陣をとる。松平下總守忠明及美濃組の諸勢。平野より彌兵を進めければ。岸和田の城番松平安房守住吉に平野を守らせ。岸和田へは北條出羽守氏重を遣はさる。また溝口伊豆守善勝に。木津の舟留を命ぜらる。大御所は二條におはしまして。今日は必我兵河內攝津の邊にて戰あるべしと仰られしが。果してしかり。こよひは大樹寺殿忌辰によて。御精進なり。群臣軍中なればとて。御開葷をすゝめ奉りしかども聞し召いれ給はず。衆人御嚴恪を感じ奉る。(武コ大成記。攝戰實錄。武コ編年集成。供奉記。)
○七日御所は後軍到着をまたせたまひ。今日も永原に御滯座あり。二條の老臣より。猶一兩日も御滯留あるべしとの御旨を傳へ奉る。松平陸奥守政宗大津より參り謁す。饗膳を賜ふ。二條城には松平左衛門督忠繼使を參らせ。今朝辰刻大和田川を越て中島を乘取。敵兵を追擊せし旨を注進す。大御所大に御感ありて。御祝着の旨御K印の御內書をたまふ。有馬玄蕃頭豐氏も中島に着陣すとつげ奉る。(貞享書上。駿府記。世に傳ふる所は。池田家の兄弟三人。兄武藏守利隆は神崎に陣し右衛門督忠繼は尼崎に陣し。宮內少輔忠雄は大和田に陣す。この川大河故急に渡す事を得ず。利隆命じて舟筏を用意する所。忠繼當年僅に十六歲。其身諸軍に先立て下流へ馬を乘入ける。これを見て其軍勢幷戶川花房等七千餘人つゞいて乘入難なく神崎を渡りこす。この川の向ひに備へし織田有樂其外七組の城兵等。この勢ひに辟易しく鐵炮も放得ず四方へ迯ちる。つゞいて森有馬等も岸近くすゝむ。忠繼手勢幷戶川花房等敵を追討して。首數級を得たり。利隆此形勢を見て。弟に先こされしを恥て。忠雄もをくれしを憤り。急に渡て中島を乘取んとす。監使城和泉守昌茂拔懸は大禁の事。且大河嶮難侵難しと抑留す。阿部四カ五カ正之も昌茂を諭し。此川早く渡すべしとすゝむれば。昌茂大に怒り。大御所の仰なり。一人も渡るべからずと制す。此問答に時うつり薄暮に及びしに。城兵は悉く城に引取故。利隆が軍は手を空しくす。忠繼は直に中島の要害を攻て敵を追ちらし。十人ばかりが首級を得たり。石川主殿頭忠總豐後勢毛利伊勢守高政等も續いて中島に至る。また城兵は一万ばかり天滿に屯せしが。利隆始有馬等をしよするを見て。此地は廣くして守り難しと。天滿を自燒し城內へ引取れば池田有馬等の兩軍すべて天滿に陣どる。
二條にて大御所此戰を聞召。成P隼人正正成を忠繼が陣に遣はされ。戶川肥後守達安が勳功を褒せらる。達安事のさま詳に聞え上しを大御所聞召。中島には幸に城兵多く屯せり。利隆が大軍にてをしつゞかば。敵は悉く討取べきを。和泉が軍機に暗く時を失はしむる事よと御憤ありて。昌茂を叱し給ひ。林道春を召て御側にて孫子をよましめながら。汝君命不受所ありといふ事を知らぬか。不覺者ぞと仰ありしが。後に此罪をもて采邑を奪はれ。江州石山に蟄居す。攝戰實錄。落穗集。大坂覺書。)次に攝家眤近の公卿まうのぼられ饗膳進らせられ。銀賜ふ事差あり。加茂。平野。松尾の社人。八幡善法寺。北野梅松院の僧等も拜謁し茶菓を獻ず。近日御出馬ありて龍田法隆寺郡山をこえ。住吉に御在陣あるべしと令せらる。蜂須賀阿波守至鎭拜謁す。速に出陣せりとて褒詞加へらる。又諸家捧げし菓子を在陣の輩に賜はる。また南光坊僧正天海江戶より參り拜謁し。御密話數刻に及ぶ。(供奉記。駿府記。世に傳ふる所は。是より先に京へ往來の街道狹故。田宮に堤を築き其便を得せしめられしを。大坂城兵は防戰の便りよからずとて。密にその堤を切て落せと評議して。根來の正コ寺を部將として。二百餘騎出勢せしが。かねてかくあるべしと知しめし。濃州勢を枚瀉に屯させられしかば。城兵を追ちらし首數級を得しとぞ。攝戰實錄。)
○八日けふも御所は永原にとまらせ給ふ。本多美濃守忠政住吉へ陣替し。越前。加賀。藤堂の陣前後に備たるよし注進するにより。酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信。土井大炊頭利勝奉書もて慰勞せらる。二條城には公卿幷諸僧まうのぼる。先に本覺坊訴へし關東調伏の事により。三井寺の法泉院。光淨院兩僧をめして查撿ありしに。本覺坊兼て不良の擧動して。先に三井寺を追放たれ。いま大コ寺邊にさまよひたり。彼者兼て照高院及三井の寺僧を憎事大方ならざるがゆへ。かゝる浮說を搆造する事疑ひなし。しかのみならず其昔より聖護。實相。圓滿三門跡にて三井を統領せし所。故太閤の命にて聖護院一人に勾當せしめられしより。近年は照高院と寺僧と不快なれば。たとひ調伏修法するとも。合躰する事は决してあるまじきよし陳ず。よてかさねて本覺坊を召决すべき旨令せらる。昨日堤邊にて討取たる敵兵の屍を。あつく葬て法事いとなむべき旨。初鹿野傳右衛門昌久御使し知恩院へ仰つかはさる。是を見聞する諸軍勢。我君敵兵すらかく慈憐を垂給ひ。仁恩死骼に及ぼし給へば。まして御方の諸卒にをける。父母の子を愛する如くいとおしみたまふもことはりよと。感淚を流さゞる者なし。又廓山了的を召て。我故太閤舊好を思へば。大坂の君臣を誅滅するに忍びず。和議をはかる者あらんこそ本意なれ。汝等は先年南都に久しく遊學す。もし知音の者あらば此事はからはしむべしと密命あり。また本多上野介正純が奉書もて美濃守忠政へ先手彌亂妨狼藉放火を嚴禁すべき旨をつたふ。(貞享書上。駿府記。供奉記。)
○九日御所永原より膳所にいたらせ給ひ。布施孫兵衛重直。山角又兵衛正勝をして。其事を二條城に告進らせらる。大御所よりも城織部佑信茂。山代宮內少輔忠久を膳所につかはさる。御籏本の先手酒井左衛門尉家次は伏見に着陣す。二條には公卿參られしかど御對面なし。神龍院梵舜も同じ。安樂壽院。等持院。東北寺。長講堂。C水寺。成就院。六角堂。池坊。因幡堂。平堂寺。安養寺。C凉寺。鹿王院。春長寺。阿彌陀寺。寳塔寺。安祥寺の住僧等拜謁す。南光坊僧正天海。金地院崇傳等をめして。本朝の史傳格式の古書仙洞に傳へ給はゞ。奏請して新寫せしめん盛慮なりと仰出され。天海に院參して奏聞せしめらる。又老臣京職の奉書もて。本多美濃守忠政以下先手諸備。いよいよ亂妨狼藉放火を嚴禁すべしとの命を傳ふ。又本多上野介正純は奉はりにて。攝津の達磨寺へ制札を立らる。崇傳より細川越中守忠興へ。大坂敵御方の形勢を告。また島津陸奥守家久出陣を待て。その跡より出陣すべき旨をつたふ。また上林コ順勝永御勘發を蒙る。(御年譜。供奉記。家記。西洞院記。舜舊記。駿府記。貞享書上。國師日記。慶長見聞書。)
○十日御所伏見に着御。松平陸奥守政宗は先達て二條に參り。大御所に謁して歸る。今朝膳所にて戶田左門氏鐵御膳を獻ず。攝家はじめ。月卿。雲客。門跡。諸僧。大津追分まで御迎に參向す。宰相義直ョ宣の兩卿もこゝに迎給ふ。神龍院梵舜は山科に迎奉る。本多美濃守忠政は住吉阿部野の原に在陣するにより。使札もて御けしきを伺ふ。酒井雅樂頭忠世返簡して仰をつたふ。又雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信奉書もて。毛利甲斐守秀元へ。今日伏見着御の事を告。秀元には長門守秀就をともなひ。急ぎ上洛すべき旨をつたふ。(御年譜。天和書上。駿府記。舜舊記。貞享書上。世に傳ふる所は。秀元秀就兩人兼て江府に留置れしに。秀元は水野監物忠元に。我兩御所の深恩を蒙るのみならず。
兩人旣に御緣につらなるうへは。何の御疑有てか今度御跡にとゞめられたるや。强て御跡より出陣せんと請てやまざりしとぞ。貞享書上。)本多佐渡守正信は江戶にて万機を沙決し。御跡より發程し。今日尾州名古屋に着す。二條には大御所大炊頭利勝を召て。汝は一身の戰功をこころにかけず。片時も御所の御側を離るべからず。汝が人數は佐久間備前守安政に下知せしむべしと面命せらる。松平土佐守忠義は泉州堺大鳥村に在陣せしを。小妻へ陣替せしめらる。昨日天海もて奏請せられし仙院の御藏本類聚三代格。年代略。類聚國史。古語拾遺。名法要集。神皇系圖等を。公卿三人さしそひて二條に遣はさる。天海も同じく參る。夜に入て林道春信勝御前に召て是を讀しめ聞し召る。土岐見松ョ次沒して。其子左馬助ョ勝家をつぐ。(創業記。當代記。家傳書。大坂尋書。駿府記。ェ永系圖。)
○十一日二條城に渡らせられ。奥殿にて兩御所御對面あり。今度御上着を待せ給ひ。大坂御進發御延引ありしをあつく謝したまふ。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信御前に召て軍議あり。此十三日御進發あるべしと仰出さる。御所へ御祝の御膳進らせらる。梶井門跡最胤法親王。粟田口門跡尊純法親王。聖護院門跡興意法親王。幷知恩院僧正等兩御所に拜謁あり。僧正杉原幷緞子を獻ず。小袖十。菓子。昆布を賜ふ。保コ院。專求院の兩僧へも銀十枚づゝ下さる。搶緕尅カ應使もて。江戶海苔。枝柿。昆布を獻ず。其使へ小袖二。銀三十牧賜ふ。知恩院。C淨華院。金戒光明寺。C凉寺。誓願寺。大雲院。其ほか諸僧多く拜謁し。はてゝ御所には伏見へ還御なる。(駿府記。供奉記。世に傳ふる所。かゝる折からなれば。御所は小姓十人ばかり付添奉り。千本通竹田越をひそかに伏見に歸らせ給ひ。伏見へ御歸城の注進ありて。後本多正純御乘物にのり惣御供陪從し。挑灯松火白晝の如くかゞやかし。還御なりとて伏見にまかりしといふ。供奉記。)此日松平主殿助忠利。伊奈筑後守忠政に。神崎表鳥養邊の堤を切崩し。河水を落すべしと命ぜられ。松平源次カ乘壽。美濃組。稻葉內匠政成。遠藤但馬守慶隆。竹中丹後守重利。稻葉右近大夫方通。平岡石見守ョ資。大島黨。高木黨。妻木雅樂助ョ忠。遠山勘右衛門方景。小里助右衛門光親を引具し枚潟に赴きしに。福島備後守正勝は人數を出すべしと仰付らる。松平陸奥守政宗も二條に參り拜謁し奉る。大坂に捕れし今井宗梛v胤。其子宗呑兼隆。敵城を迯出て二條に來りしかば。御前にめし城中の形勢をとはせ給ふ。又目付より本多美濃守忠政に。先手の人數刈田を嚴禁すべきよしをつたへ。又先手天王寺まで押出すべき旨をもつたふ。(駿府記。貞享書上。)
○十二日尾張宰相義直卿。今朝二條を進發有て。木津川邊まで押出さる。上杉中納言景勝。佐竹右京大夫義宣二條にまうのぼり拜謁す。此日高野山僧等の法問を聞召る。はてゝ近日大坂を平定してのち。又聞召るべしと仰出さる。黃昏に僧正天海。金地院崇傳參り。十三日辛酉南行を忌めば。十五日まで御出馬御延引あるべき旨建白す。又崇傳より細川越中守忠興に。伏見二條近日の有樣を告て。島津出陣次第出船すべき旨をつたふ。此日伊達與兵衛房成采邑二百五十石賜ふ。(駿府記。金地院日記。國師日記。ェ政重修譜。)
○十三日伏見より土井大炊頭利勝を御使として二條へつかはされ。御密話數刻に及ぶ。次に細川玄蕃頭興元。新庄越前守直定幷其子新三カ直好。土方掃部頭雄重等多く參謁す。又大坂邊へ斥候に遣はされたる目付田甚右衛門尹松。山代宮內少輔忠久かへり謁し。先手の諸將天王寺より遙に押出し。城より十四五町こなたまでをし詰たりと申。伏見より下知なからんには。手出しなすまじと仰下さる。昨日金地院崇傳は伏見へ使もて蜜柑を獻じ。御氣しきを伺ふ。伏見にて今日軍令を下さる。軍勢甲乙人等。亂妨狼籍放火及田畠作毛刈取竹木伐とる事をかたく禁制せらる。もし違犯のやからあらば。速に嚴科に處せらるべき旨を。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信連署し。攝州芦屋。本庄。山路。都賀。撫水。拔坂。廣芝。須屋へ高札を建る。(駿府記。國師日記。家忠日記。攝戰實錄。令條記。)
○十四日明日兩御所御出陣の旨を。本多上野介正純より先手へ令す。本多佐渡守正信は今朝伏見へ參着し。二條へまうのぼる。御前にて鶴の饗をたまふ。御跡より追て馳のぼる關東奥羽の諸軍勢は。猶江戶品川邊までも引つゞき侍るべしと聞え上る。內藤左馬助政長。その子帶刀忠興は。江戶の留守幷房州の押へ命ぜられて御跡に殘りしが。忠興戰塲に從はざるを遺憾に思ひ。父に是をなげく事しばしばなり。父政長もこれをもだしがたく思ひ。兵士廿騎。歩卒百餘人をさづく。忠興大にスび御跡より馳登りしが。今日伏見に着て正信に其事を告たり。
正信令に違ひ私に馳登る事。尤上を蔑如するに似たりとてうけがはず。大御所かくと聞召。忠興少年銳氣かくあるべきなりとて謁見をゆるされ。酒井左衛門尉家次に屬し。松平丹波守康長と同じく備べしと仰下されしかば。忠興感淚を流し喜事かぎりなし。(貞享書上。駿府記。武コ大成記。家譜。)
○十五日御所伏見を御進發ありて枚瀉に着せ給ふ。これよりさき阿倍四カ五カ正之は攝州尼崎北中島邊にまかりむかひ。先手の陣營巡察すべしと命ぜらる。植村帶刀泰勝も同じ尼崎に赴く。御陣押の次第一番は松平陸奥守政宗。上杉中納言景勝。佐竹右京大夫義宣。酒井左衛門尉家次。松平甲斐守忠良。松平土佐守忠義。設樂甚三カ貞代。小笠原若狹政信。根津神平吉直。水谷伊勢守勝隆。仙石兵部大輔忠政。仙石大和守久隆。相馬大膳亮利胤。六ク兵庫頭政乘。二番本多出雲守忠朝。眞田內記信政。眞田孫六カ信吉。秋田城介實季。淺野采女正長重。松下石見守重綱。植村帶刀泰勝。一色宮內義直。須賀攝津守勝政。三番榊原違江守康勝。松平丹波守康長。北條出羽守氏重。成田左衛門尉長忠。丹羽五カ左衛門長重。四番土井大炊頭利勝。佐久間備前守安政。佐久間大膳亮勝之。堀美作守親長。堀淡路守直重。筒井主殿助正次。溝口伊豆守善勝。高力左近大夫忠房。由良信濃守貞繁。五番酒井雅樂頭忠世。細川玄蕃頭興元。牧野駿河守忠成。脇坂主水正安信。土方掃部頭雄重。新庄越前守直定。杉原伯耆守長房。鳥居土佐守成次。稻垣攝津守重綱。御籏本は本多佐渡守正信。本多大隅守忠純。立花左近將監宗茂。前田大和守利孝。立花主膳正宗一。日根野織部正吉明。岡部美濃守宣勝。藤田能登守信吉。菅谷左門範貞。那須衆。由利衆。芦田衆。津金衆。秋元越中守長朝。大押は坪內半三カ定次。(此御陣の時御鑓幷使番は御先にをさせられ。鐵炮は御跡より後陣に備しめ給ひし。御先手は酒井榊原等伺候すれば。御氣遣ひなしとの事とぞ聞えし。又枚方の御旅亭はかねて藤堂經營せしとぞ。)また諸將陣列を命ぜらる。東方屋口今福に佐竹。上杉。堀尾。京極丹波守高知。同若狹守忠高。同采女高廣。本多出雲守忠朝。眞田內記信政。同孫六カ信吉。淺野采女長重。松平丹後守重忠。コ永左馬助昌重。酒井左衛門尉家次。同宮內大輔忠勝。毛利伊勢守高政。菅沼織部正定芳。伊東修理大夫祐慶。本多縫殿助康俊。福島備後守正勝。松下石見守重綱。植村帶刀泰勝。彌津神平吉直。秋田城介實季。仙石兵部大輔忠政。六ク兵庫頭政乘。相馬大膳亮利胤。松平甲斐守忠良。設樂甚三カ貞代。水谷伊勢守勝隆。保科肥後守正光。松平丹波守康長。松平伊豆守信吉。新庄越前守直定。堀丹後守直寄。其側には大番頭松平越中守定綱。組士を引具して陣すべし。兩方岡山には加賀越前。その西に藤堂井伊陣し。大和組の諸軍幷生駒讃岐守正俊從ふ。茶臼山に兼て藤堂高虎御陣所を經營なし置たれば。義直ョ宣の兩卿はその前に陣所を設らるべし。御旗本諸士の陣營は。今宮茶臼山の方に列し。今宮の北海邊には淺野但馬守長晟。松平宮內少輔忠雄。蜂須賀阿波守至鎭。鍋島信濃守勝重。松平土佐守忠義。寺澤志摩守廣高。今宮の道路を挾で松平陸奥守政宗。其東は金森出雲守可重。小出大和守吉英。其北中島神崎等は松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼。森右近大夫忠政。有馬玄蕃頭豐氏。戶川肥後守達安等なり。城攻仕寄の手分は南方天王寺表辰巳より未申の方は加賀勢幷榊原井伊。その外丹羽成田は榊原に屬す。又越前勢。金森。神保。寺澤。松倉。藤堂。脇坂。生駒等。桑山左衛門佐一直。同伊賀守元晴。本多左京利長。其他陸奥守政宗。遠江守秀宗も此口より向ふ。西方仙波口未申より戌亥に至りては。淺野。鍋島。蜂須賀。石川。松平左衞門督忠繼。同宮內少輔忠雄。戶川肥後守達安。同助右衛門勝安。花房助兵衛職之。同五カ左衛門職則。同越前守某。その後陣は松平下總守忠明。稻業淡路守紀通。コ永左馬助昌重。難波橋の方船手は九鬼長門守守隆。向井將監忠勝。小M久太カ光隆。同彌十カ守隆。千賀與八カ信親。其外本多美濃守忠政。一柳監物直盛。有馬左衛門佐直純。古田大膳亮重治。分部左京亮光信。北方天滿口戌亥より丑寅にいたりては。武藏守利隆。池田治兵衛長幸。同備後守重信。有馬玄蕃頭豐氏。加藤式部少輔明成。同左近大夫貞泰。松平周防守康重。その他森。中川。山崎。能勢。關。别所。市橋。岡部。(ェ永市橋譜には。周防守康重と岡部美濃守宣勝とは。伯州の兵を引具し。十五日大和田川をこえ中島に移り。晦日長ネ川をこえ天滿邊に移るとあり。)其後陣は松平長門守秀就。毛利甲斐守秀元。竹中伊豆守重利。同采女正重義。同吉藏某。稻葉內匠助政成。其他福島。妻木。備前島。淀川。大和田川の間は片桐市正且元。同主膳正貞隆。花房志摩守正成。同彌左衛門幸次。稻葉彥六典通。木下宮內少輔利房。同右衛門大夫延俊。
本多豐後守康紀。同縫殿助康俊。松平丹波守康長。石川伊豆守貞政。其他宮木。蒔田。長谷川。木村。伊藤。菅沼。牧野。東方屋口。玉造口。平野口。丑寅より辰巳に至りては。上杉。佐竹。眞田。植村。堀尾。松下。秋田。仙石。水谷。相馬。及本多出雲守忠朝。淺野采女正長重。植村帶刀泰勝。酒井左衛門尉家次。松平安房守信吉。京極丹後守高知。同若狹守忠高。其外天王寺邊には松平伊豫守忠昌。細川內記忠利。小笠原信濃守忠脩。松平河內守定行。水野日向守勝成。堀丹後守直寄。岡山辰巳の方には南部信濃守利直たるべし。(御年譜。駿府記。ェ永系圖。貞享書上。攝戰實錄。世に傳ふる所。利直居城森岡にて御陣觸を聞。人數は追て跡より來るべしとて。馬廻りの從者ばかりを引つれ道をいそぎ。十月下旬に江戶へ參れば。兩御所はや御出馬ありしと聞。道をいそぎこの十五日朝伏見に着て拜謁す。御所御感斜ならず。早く大御所の御方に參るべしと仰られければ。今日直に奈良へ赴き。翌十六日追付て見え奉る。いと早かりしを御感ありて。其後御本陣の後に備しめられしとぞ。攝戰實錄。)大御所には今朝卯刻二條域を出たゝせ給ふ。御旗七本。持筒三挺。弓二挺。鎗百本。對の鎗二本。十文字鎗一本。長刀一振。供奉の輩小具足ばかりにて甲胄は帶せず。御乘物に召て伏見にかゝらせ給ふとき。南部信濃守利直御跡より追付て拜謁し奉る。小倉橋をこえ未下刻木津に御着陣ありしが。此ところ狹少なればとて。俄に本多上野介正純小姓衆はじめ。わづかに五十騎ばかり御供して。奈良へわたらせたまふ。一乘院門跡尊勢。大乘院門跡信尊。喜多院幷春日の禰宜等。御道まで御迎にまいり拜し奉る。やがてその地の奉行中坊左近秀政がもとにとまらせたまふ。この夜覲世宗雪。延命喜四カ入道等御けしき伺として參る。御佳例とて謠曲を奏せしめらる。高砂。老松。三輪三番なり。御供の軍勢追追をくればせに來るもの。何ゆへにかく道をいそがせたまふにやと思ひわづらひし者共。この謠のこえを聞て大に安心し。諸軍忽に靜りしとぞ。(駿府記。村越書上。落穗集。大坂冬御陣記。落穗集拾遺。世に傳ふる所は。木津は北に大河內ありといへども。東は伊賀路につゞき。西は廣々と大坂に通ず。要害の地にあらずとて。御湯漬召上られ御籠御馬幷惣軍勢跡より參るべしと令せられ。いかにも小勢にて奈良へいそがせたまふ。木津より廿町ばかりを通給ふとき。左右の藪陰より一聲の銃ひゞくとひとしく。一群の伏兵起り立て御先を遮らんと閧のこゑを發す。此邊に伏兵あるべしとは思ひもよらず。供奉の輩大に驚轉しける中に。中坊某敵近く馬を乘出し。是は大坂へ加勢として。籠城のためいそぐものぞと呼ばりしに。彼者等の中よりも一人進み出て。大御所陽には木津へ着陣と披露し。ひそかに今夜中奈良迄おはしますらんと。眞田殿のはからひにてこゝに待むかへしなり。彌味方へ加勢ならんには。大將たる人みづからこゝに來て名乘るべしといふ。そのとき安藤帶刀直次馬を乘出し。我は木村長門が親緣の者にて。一族をかたらひ。此人數にて籠城に行ものぞといへば。伏兵の大將と覺しき兩人何か相談するさまにて。道を開くを幸に御供の人々敵の中ををし通る。この詞戰の問に。御乘物には四五騎付そひ早く行過たまふ所に。又大勢追かけ來り鐵炮打かけ討てかゝる。安藤直次等今はせん方なく轡をかへし。大勢の中へうつている。敵は大勢御方は三分が一の小勢なりしが。いづれも勇猛の輩必死になりて血戰しつれば。見る前に敵數十人切伏る。其時御跡より馳來る御供ども追々來り。大勢になれば。敵は終に敗走し。御方は難なく奈良へ供奉すといふ。この軍中に廓山了的といふ兩僧が齎せしK本尊といふ佛像の化身。K裝束の法師武者と現じ。御方を助て歒を追散しけるが。その夜佛龕を開見れば。その像に銃痕三。その足に泥つきてありしといふ事を彼宗門に申傳へしも此戰の時のことなりとぞ。又一說に木津にて馬夫にまぎれし歒の間者をとらへて鞠問せしに。歒は大坂口の堤を切落し。本道へ淀の川水押入ば。御供の人數定て遲滯すべし。御供まばらなる所にて伏兵を發せんと謀を設たり。我は其時宜をはかり伏見の方へ注進せんため。馬夫となりて御供の中へまぎれ人たるよしを白狀せり。上には此事聞召ても更に驚かせ給はず。御ゆるやかに湯漬を召上られ終り。直に御供觸ありて俄に五十騎ばかりにて。奈良へ赴たまふとあり。いづれにも木津より奈良の間に。歒より伏兵を置し事はありしと見ゆ。供奉記。田家譜。)又西尾豐後守光教を大和河內の方へつかはされ。をくれ馳にまいる族神社佛閣に於て。狼籍する事あるべしとていましめらる。又義直ョ宣兩卿も參り給ふに。南都は名所古跡多きところなり。幸に見物すべしと仰あり。兩卿は春日社を始近邊の古跡ども遊覽せらる。此日旌旗の如くなる雲たなびく。見る者大にあやしむ。(攝戰實錄。紀伊家傳。舜舊記。) 
卷三十一 / 慶長十九年十一月十六日に始り卅日に終る 

 

○十一月十六日卯刻御所枚方より河內國平岡に御陣を移さる。よて永井信濃守尙政を奈良へ御使して。其旨を告進らせらる。枚方は美濃國士大島次右衛門光成。同茂兵衛光政。同久左衛門義俊勤番す。松平陸奥守政宗は橋本に陣をうつす。今日雨ふりければ。午刻に及びて大御所中坊左近秀政がもとを出まし。法隆寺の阿彌陀院にうつらせ給ふ。この御旅館は兼て中井大和守正次搆造する所なり。法隆寺數百年兵燹を免れたる靈塲なりと。御稱美なりて三十か所の諸堂悉く御巡覽。靈像寳物までくはしく御搜素あり。向井將監忠勝關船に乘て傳法口に着岸す。此海岸には松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼が船手の者共備てありしかば。これに告て栅二重ぬかせ。小舟に乘て栅際に乘寄。其よし注進すれば。植村帶刀泰勝。阿倍四カ五カ正之。御使に來り仰をつたへ。殘る栅共取拂ひ。そのあたりの歒の戍卒追ちらし新家に陣す。(駿府記。創業記。金地院日記。坂上池院日記。貞享書上。供奉記。世に傳ふるところ。忠勝この月五日關船六艘に手勢をのせ江戶出船せしに。風濤あらく他の船どもみな所々にふきちらされ。忠信が乘し船のみけふ着岸し。その他の舟は追々跡より着岸せしといへり。貞享書上。)九鬼長門守守隆も三國丸といふ大船。其外安宅丸五艘。早船五十艘漕つれて。今日傳法口に着岸し。川口に番船を置く大坂へ出入の船を查撿す。千賀與八カ信親小M久太カ光隆が舟百餘艘も着岸す。(攝戰實錄。)
○十七日御所平野に御動座。松平陸奥守政宗平岡に陣す。大御所は關屋越して住吉まで御旗を進めらる。供奉の輩けふより甲胄を着す。御本陣は住吉社務津守の家なり。先手の諸將みな拜謁す。松平筑前守利常。藤堂知泉守高虎兩人は御前に召。大坂地圖をもて攻城のことを命ぜらる。黃昏に及び平野より。土井大炊頭利勝御使に來り。明日先備の形勢御覽のため。天王寺茶臼山邊へ御出馬あるべき旨仰進らせたまふ。また本多上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成が奉書もて。刈田嚴禁の旨先手諸將にふれらる。(駿府記。貞享書上。大坂冬御陣記。)
○十八日卯刻大御所住吉より茶臼山へならせらる。御所これに先立て平野よりわたらせたまひ。待迎へ給ひて。ともに山上より大坂城を見渡したまふ。藤堂和泉守高虎。本多佐渡守正信御前に召て御軍議あり。平岡。木津。其外所々に附城をかまへ。堀を穿ち堤を築き。四方の通路を塞ぎ番兵を附す。御所には伏見城にて人馬を休めらるべし。大御所は攝河の地に御放鷹あるべしと仰出さる。此日高虎がはからひにて。山麓に銃炮三十挺を備て警衞せしむ。各所御覽はてゝ御所は平野に還御あり。大御所は住吉へかへらせたまふ。(駿府記。金地院日記。大坂覺書。世に傳ふる處は。茶臼山は敵地を去事廿七八町あり。大御所甲胄はめさず。鷹羽ちらし紋の花田平袖の羽織をめし。鹿毛の御馬にて敵城の惣構近く乘廻し。加賀越前の陣所攻口を見めぐりたまひ。又御硯とり寄せ御みづから攻城の進退手配をかゝせられ。御所に授けたまふ。御書に御所の御左りは高木主水正正次。御右は阿部備中守正次。御後は水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊。本多三彌正重。軍奉行は安藤對馬守重信。大御所の御左は義直卿。御右はョ宣卿。田甚右衛門尹松。軍奉行永井右近大夫直勝とあそばされしとぞ。駿府記。大坂覺書。攝戰實錄。)蜂須賀阿波守至鎭此時住吉の南小妻に陣しけるが。家人稻田修理中村右近に木津邊を巡視させ。森甚五兵衛に川面をつばらに探索せしめ。水陸ともによく見定め。其身茶臼山の御陣所へ參り兩御所に拜謁し。其形勢を聞えあげ。穢多崎を攻て敵の屯兵を追拂はんよし請しかば。御氣色うるはしくして。かしこは兼て要害の地なれば。松平宮內少輔忠雄。淺野但馬守長晟とはかりて。戰利を失ふべからずと面命あり。また使番初鹿野傳右衛門昌久馳來り。只今敵城より後藤又兵衛基次を將として大軍俄に打出る。寄手の諸備もいそぎ手配いたすよし聞え上しかば。城中惣軍七八万に過べからず。よしや城兵擧て打て出るとも何程の事あらんや。敵を大軍などとは申さぬものぞと教訓したまふ。次に安藤帶刀直次參り。夜討ともなく晝軍ともなく。敵城より人數をくり出し候は。全く自滅をまねくものなりと見る所に。寄手諸備の嚴重なるにや恐けん。忽に城に逃入候と聞え上る。さこそあるべけれ。先手諸將より注進もなければ。我等が軍慮をめぐらすにも及ばざるほどの事とて。ェ然としてものゝ數ともなしたまはず。搶緕尅カ應使もて。奉書紙三十帖。菓子一箱を献ず。御陣中の事なれば。使僧夜中拜謁し直に暇たまふ。松平陸奥守政宗八尾川涯に陣しけるが。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝書狀を贈り。明日城攻の指揮を請ふ。九鬼長門守守隆。千賀與八カ信親等。野田福島につゞきし新家村の要害を攻破らん事を聞え上る。
先年大須賀家所屬として立退たる久世三四カ廣宣。坂部三十カ廣勝。再び召れて拜謁し。御家人に加はる。奥羽の諸軍伏見を發程すといへども。未だこゝに參着せず。猶路次に陣す。この邊近日商人更に來らず。諸陣物每にたよりあしかりしが。兩御所御着陣と聞て。都鄙の商賈俄にむらがり來り。諸軍便を得てよろこぶ事限なし。(ェ永系圖。大坂覺書。今木記。供奉記。貞享書上。家忠日記。武コ編年集成。當代記。創業記考異。世に傳ふる所。細川某此所へ御見舞に參りしに。大御所何とかあるべしと仰られければ。大將は源氏の茶臼山引まはされぬ武士ぞなきと聞えて。御氣色大かたならざりしとぞ。攝戰實錄。)
○十九日御所平野より住吉の御陣にわたらせられ御軍議あり。藤堂和泉守高虎。本多佐渡守正信。おなじく上野介正純。安藤帶刀直次。成P隼人正正成等。大坂地圖を開てとりどり評議す。大御所の仰には。淀川の流を鳥養の邊へ切落し。上流を塞ぎ天滿の水を乾かし。天滿口。仙波口。天王寺口より惣軍一同に攻べし。よて土俵。萱。芦等取集むべしと命ぜられ。急に攝河二箇國に土俵二十万を課せらる。敵城刀を以て攻んとせば。士卒を損ぜん事憐むべし。各竹束を用意し進みより。又金堀夫を以て門櫓を堀崩すべしと令せられ。御所は平野の御陣へかへらせたまふ。是よりさき穢多崎といふ地は。仙波口新堀邊にて大河を四方にうけ。尤要害の地なれば敵こゝに砦をかまへ。大野主馬首治房。薄田隼人正兼相將とし陣屋をかけ。大船廿余艘警置。淀尼崎の舟路を塞ぎ。防戰の用意したるに。この日拂曉に蜂須賀阿波守至鎭先として。敵の番船ことごとく追拂。穢多が崎を乘取ば。敵敗走し仙波の町へ入る。蜂須賀勢進て仙波をせめて首數級を得たり。淺野但馬守長晟。松平宮內少輔忠雄も跡より進み戰たり。至鎭速に使をはせ。住吉の御陣に告奉りしかば。御感ありてその使へ時服をたまひ。又使番田甚右衛門尹松。眞田隱岐守信昌。本多藤四カ某をつかはされ。その戰切を稱せらる。この御使たちかへり軍の次第言上せしかば。至鎭が家人山田織部。樋口內藏助。森甚五兵衛に御感狀下され。そのうへ急ぎ其地を引とるべき旨仰下さるゝといへども。至鎭其所へ栅結まはし。中村右近をして守らしむ。この戰に忠雄が家人箕浦勘右衛門も戰功有て。御感狀を下されしとぞ。水野日向守勝成。永井右近大夫直勝。西尾丹後守忠永。穢多崎新家邊へ巡視に遣はされ。歸り來りて其形勢聞えあげ。また仰をうけ川邊に仕寄を設く。中村右近は今夜伯樂が淵の堤下に仕寄をつくる。(駿府記。武コ大成記。創業記。ェ永系圖。御年譜。家忠日記。貞享書上。大坂覺書。攝戰實錄。世に傳ふ所。至鎭昨日穢多崎を乘取べしとて御ゆるし蒙りしが。淺野池田と謀を合せ軍すべしと命ありしかば。本多正信に穢多崎の小砦を押取に。淺野池田が力をかりん事快よからずといふ。正信軍門に君命受ざる所ありともいへば。心まかせたるべし。人數不足あらんには。某いかにもはからふべしと答ふ。至鎭大にスび。今日未明大小の軍船四十余艘。一樣に卍字の旗を立てこぎわたり。敵船四五艘乘取。亂杭ぬきとり岸近く攻寄たり。敵將明石丹波全延大に怒り。四方を下知し防がんとす。稻田修理。中村右近。山田織部。樋口內藏助五町ばかり上のPをこえ。陸に上て攻かゝる。森甚五兵衛は船中より太皷を打ておめき進めば。敵は矢炮を飛す暇なく。伯樂が淵の砦に迯入んとして踏留る者なし。大將明石は跡をかくして逐電す。このとき使番來り。度々引とるべしとありしかども。至鎭はこの所に右近をとゞめ守らせ。其身は伯樂が淵に攻かゝらんとて命を奉せず。一說淺野長晟は此所蜂須賀一人にて事たりぬとて。軍を出さずともいふ。攝戰實錄。武コ大成記。)九鬼長門守守隆等が勢は。新家を乘取てこゝに陣す。向井將監忠勝も新家の敵自燒せし跡へ來り。敵の關船を奪ふ。(ェ永系圖。家譜。世に傳ふる所。向井將監忠勝。小M。千賀等の船手大將ども。九鬼守隆とはかり。是より先秀ョの御座船安宅丸をば福島につなぎ置て。大野修理亮治長が組士に命じ警衛せしむ。然るに今夜九鬼が家人水練の達者。水底をくゞり安宅丸に飛うつり。舟印奪取て番人共を切殺す。守隆兼て期したる事ゆへ。かくと見るより兵船を乘出して。野田福島の間にある敵船若干うばひとる。向井。小M。千賀等に九鬼はだしぬかれたりと大にいかり。をくれ馳に兵船こぎ出しこゝに來る。中にも向井は血氣の若もの從者も具せず。唯一人小船にて乘寄せ。安宅丸に飛あがり。將監忠勝一番のりと呼はる。よて九鬼が兵大に怒り。旣に大事に及ばんとす。小M千賀等さまざまと双方をしづめ和睦せしめ。九鬼が船にて番船十艘。向井は一艘乘取り。安宅丸は九鬼。向井。小M。千賀等一統にのり取しよし注進に及びしが。九鬼は猶不足に思ひしとぞ。攝戰實錄。)
又藤堂和泉守高虎は天王寺口K門にむかひ陣をはる。此處は城兵大野主馬首治房。木村長門守重成が守る所といへり。松平陸奥守政宗は木津今宮の邊に陣をかまふべしと仰出さる。又加々爪甚十カ忠澄。豐島主膳信滿。日下部五カ八宗好。山上彌四カ某。田上右京秀行。村P右衛門某。使番に加へらる。(一說和田庄兵衞定勝。田村權右衛門某を加へて村Pをのぞく。)されど此輩は五の字の指物はいまだゆるされざりしとぞ。また此日諸軍に粮米を下さる。(家忠日記。駿府記。攝戰實錄。武コ編年集成。御年譜附尾。)
○廿日義直ョ宣の兩卿平野の御陣に參謁せらる。松平宮內少輔忠雄。蜂須賀阿波守至鎭を住吉の御陣にめされ。昨日穢多崎の軍功を賞せられ饗膳をたまふ。藤堂和泉守高虎もこれに加へらる。大御所はとにかく秀ョ逆心をひるがへし和睦せんにおゐては。今度の罪を宥らるべしとて。本多上野介正純より。織田長益入道有樂。大野修理亮治長がもとへ。其事申送らしめらるるといへども。城中には衆議一同せず。いまだ其返答なしとぞ聞えける。(大坂冬御陣記。大坂覺書。世に傳ふるところ。大野修理亮治長が弟壹岐守氏治は。御味方にありければ。いかにもして和議をはからはしめたまはんとの盛慮なりしが。この御使つとむる人を得られず。後藤庄三カ光次がはからひにて。籠城せし市人の緣者を尋出し。これを使とし其事申送らしめられしかども。城中より答もせず。然るところに城より落人あり。これをとらへて鞫問するに。大野が足輕なり。よて壹岐守にみせしむるに。疑ふべくもあらず父の時より召遣し家僕與助といふ者なりと申せば。この後與助をば壹岐守にあづけ置かれ。城中への使を時々に勤しむ。されど書簡のみにて互の情躰もさだかならずとて。有樂より村田吉藏。治長より米村權右衞門といふ者を庄三カがもとへ遣はす。庄三カ披露し。此ものども御本陣にめして。今度秀ョ謀反の罪天誅のゆるさゞるところ。御所尤御憤深しといへども。大御所故大閤の舊好を思召され。かつは御孫姬君にそはれし事。かたがた誅せらるゝに忍び給はず。秀ョみづから罪を知て過ちを悔に於ては。講和の御はからひあるべきなり。彌和議に及ばんには互に盟書質子取かはし。城の要害を破却して。志をあらはすべしとの御錠なり。兩使立歸り此旨を告れば。有樂治長また兩使を以て彌盟書質子取かはし。外溝悉く破却し講和すべしと申こしたり。本多正純より彌和議を講ぜられんとならば。外搆は今度新にかまへし要害なり。二三の郭まで破却あるべしと申送りければ。城中其答に及ばざりしとなり。攝戰實錄。)又松平陸奥守政宗は兩御所の仰を受て陣を木津にすゝむ。金地院崇傳京より大坂におもむき。御氣しきをうかゞふ。又本多美濃守忠政は米村權右衛門に講和の事をはからはしむ。かくて忠政伊勢組の人數を引つれ。平野より住吉に陣替す。又泉州へ西尾豐後守光教を遣はされ。亂妨狼藉を禁ぜしめらる。今夜なべて大雪なりしが。陣中にはふらずとぞ。(貞享書上。舜舊記。創業記。)
○廿一日平野の御陣より御使として。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信住吉の御陣に來る。彌敵城近く附城を築かしむべしと命ぜらる。今夜住吉の御陣邊を徘徊するものあり。警衛の士これを搦取て鞠問すれば。城中より藤堂和泉守高虎が陣へ贈る所の使なりとて。秀ョの書簡を懷にし。かつ申けるは。藤堂淺野は豐臣家舊好の徒なれば。今關東の命にしたがひ。寄手に加はるといへども。其實は城中へ志を通じ。しはしば密使を送り。衣服あるは酒肴を献ずるを見聞するむねなり。大御所是みな敵より御味方を疑はしむる謀なりとて。彼の者を高虎が手に引渡さる。高虎大に怒ていよいよ拷問すれば。彼者は大野主馬首治房が屬兵なりとて。彼が額に烙印し手足の指を斬て。紙旗に大野が家紋をかきて。彼が背にさゝせ。戶板にのせ城邊に棄去らしむ。(駿府記。家忠日記。武コ大成記に。此間者の手足切て。額に秀ョといふ字を入墨して。城中へ送り遣すべしと。高虎に命ぜられしよししるす。一說にこの者を高虎に引わたされしかば。高虎使の者を拷問せんと申けれど。大御所こは敵の謀とは誰もしる所なり。拷問にも及まじとのまひける。高虎衆人の疑を散ぜんため。此者を引つれ陣所にかへり。拷問してのち白狀の趣をきゝて。額に秀ョといふ烙印し。天王寺の堀へ棄しなりと見ゆ。此說是なるべし。また大御所駿府御出馬あらんとありし時。高虎御先に馳のぼり。大坂の形勢を見はからひ。御出馬を進め申べしとて。一番に大坂近く攻よせしかば。城兵等高虎を惡み。かゝる使を送りしなるべしとて。大御所御笑ひありしとぞ。秀ョ書簡には。高虎がはかりごとを以て兩御所を速に引出し。秀ョ祝着せらるゝよしをしるしたり。この文は竹田永翁が作なりといふ。攝戰實錄。家傳。)
○廿二日松平武藏守利隆。福島新家村の屯兵を破り。また城中鹽江甚助より送る使三人を搦取て。住吉の御陣へ奉る。これは利隆もし秀ョへ內通せば。天下一統の後大國三所をもて封ずべし。其答によりて甚助城を出て。會議すべしと申送りしなり。よて此使を鞫問し。城中へ內通の者を查撿すべしと命ぜらる。此日平野より令せられ。本多美濃守忠政伊勢組の人數を引具し。住吉の御營前に備へしめ。松平伊豆守信吉は先に小出大和守吉英に代り。岸和田城を守りしが。北條出羽守氏重に代らしめ。京極丹後守高知。同若狹守忠高が備たる今里に二の砦を築き。本丸は信吉。二丸は新庄越前守直定に守らしめらる。此月上旬より今日迄。名古屋より御陣に銀三千貫目輸送す。(金地院日記。駿府記。武コ大成記。創業記。)
○廿三日住吉御陣に松平陸奥守政宗。京極丹後守高知。同若狹守忠高。松平土佐守忠義。堀尾山城守忠晴。松平宮內少輔忠雄。蜂須賀阿波守至鎭。藤堂和泉守高虎拜謁す。政宗をばしばし御前にとゞめ給ひ。仙波口の軍議したまふ。日野亞相入道唯心。金地院崇傳御前に伺候せり。此日宮內少輔忠雄陣へ。大野修理亮治長より密書もて申送りし趣は。諸大名密に大坂へ內通し。秀ョ公に忠志をはこぶ者少からず。忠雄にも舊好をおもひ早く內通あらば豐臣家の大幸これに過ずとなり。又忠雄が所領淡路の國民等大坂に內通し。一揆を催すむね。忠雄が家司へも申通ずる書簡數通を送りたり。よて忠雄其使六人をからめとり。住吉の御陣へ注進す。福島備後守正勝が陣所へも。城中より送る密書數通をもて御覽に備ふ。此時上杉勢は鴫野へ軍をすゝめ。佐竹勢は今福にすゝむ。(大和川北を今福とし南を鴫野とす。)此處ふけ地にて泥深く。大軍すゝみがた。敵方は堀を深く三重に栅をふり。鴫野口に門を鎖し。井上五カ右衛門ョ次を將とし。銃卒多く警衛したり。今福には大野が屬兵五百餘騎矢野和泉守正倫。飯田左馬允家貞を將とし備たり。此よし御本陣へ聞えければ。安藤治右衛門正次。屋代越中守勝永。伊東右馬允政世三人鴫野口先手の撿使につかはさる。正次等その形勢をみて歸り來り。かくと聞え上しかば。榊原遠江守康勝。本多出雲守忠朝。堀尾山城守忠晴。松平丹波守康長。丹羽五カ左衛門長重。成田左馬助氏宗等を上杉佐竹の後備命ぜられ。大和川の上に陣す。(駿府記。武コ大成記。攝戰實錄。天和書上。)
○廿四日宮城丹後守豐盛備前島に在陣せしが。歒より打出す鐵炮にあたり。疵を蒙りたりと聞えしかば。平野御陣より朝比奈源六泰勝を御使としてとはせられ。御藥を賜ふ。また細川內記忠利は山下に陣どる。又佐竹右京大夫義宣はこの夕陣を今福の東村に移し。上杉とはかりあはせ歒を責んとするにより。安藤治右衛門正次。屋代越中守勝永。伊東右馬允政世を平野よりつかはされ。寨を築くべしと命ぜらる。間宮權左衛門伊治長崎よりかへり。住吉の御陣に參謁し。天主教の徒悉く西洋へ追逐せしよし聞え上る。(家忠日記。國師日記。武コ大成記。攝戰實錄。天和書上。大坂兩陣記。)
○廿五日平野御陣より。蜂須賀入道蓬菴御手書を賜はり。其子阿波守至鎭が忠勤を褒し下さる。又安藤治右衛門正次。屋代越中守勝永。伊東右馬允政世を鴫野口につかはされ。彌寨を築くべしとて。この三人撿使に付そひ居らしめられしに。歒よりこれをさまたげんと。銃卒を出し鐵炮を打かけしむ。この歒を追ちらさんと。政世幷に屋代が家人山本杢左衛門ともに。鑓引さげてすゝみ歒兵を追ちらし。其所に新寨を築き。平野へかへり來りそのよし聞え上しかば。此後も歒兵出て妨ぐる時は。早く追ちらし搆造をいそぐべしと命ぜらる。此三人の輩佐竹が陣へも御使し。今福に新寨を築き。歒出ば追ちらし。明日時刻をさだめ。上杉と同時に軍勢をさし出すべき旨をつたふ。此程諸大名に課して春日井の堤を切落し。芦萩を刈て水を中津川にをし流し。天滿川を涸さしめられければ。寄手大に便を得たり。是より先松平主殿頭忠利も仁名堤を築き。川水を湛えしとぞ。また今度新寨を築かせられしは。天王寺。茶臼山。穢多崎。今宮下一所。てんほ一所。岡山。大和路に一所。若江口。今福寺口。天滿の間に三か所なりとぞ。(家譜。天和書上。金地院日記。當代記。慶長見聞書。慶長年錄。)
○廿六日拂曉に安藤治右衛門正次。屋代越中守勝永。伊東右馬允政世三人は鴫野表巡察にまかりしが。京橋の向ひ屋口より。一町許り先へ栅ふりて。渡邊內藏助糺。大野修理亮治長が屬兵山市左兵衛。井上五カ右衛門を隊將として屯しける兵凡三十騎ばかりにて。頻りに銃を打かくる。三人はこれぞよき塲所なりと討てかゝる。正次が從者酒井左市カ歒の栅を破らんと進み寄るを見て。井上鎗を投突にす。其間に正次脇より井上を突伏る。其鎗を井上が從者切折しかば。井上深手負ながら退かんとするを。
越中守勝永が長子甚三カ忠正。わづかに十六歲。初陣なりしが追かけ井上が首をとる。井上うたれしかば歒は栅中に迯入て栅を閉て。頻りに鐵炮を放つ。正次は此所へ歒只今おし出べし。早々引取我陣をかたむべしとて其塲を退く。丹羽五カ左衛門長重も軍をすゝめ。萱原に埋伏せし兵を追立る。此時に上杉勢は安田上總助。須田大炊助。長尾權四カ。岩井備中守等を魁首として此栅門に押よす。城方は山市左兵衛。渡邊內藏助糺。小早川左兵衛。岡村椿之助。竹田兵衛。同大助等こゝを破られじと防戰す。上杉勢北條C左衛門。上泉主水。櫻囚獄。大股八左衛門。同彥六カ等奮戰して討死し。多田豐後守戰功をあらはし。須田大炊助はげしく下知し。終に栅二重をしやぶる。渡邊山市等大和川を西へ。有樂屋敷を過て京橋まで迯入る。上杉勢は直江山城守兼續下知し。大和川を限て追捨にし陣をかため。又鐵孫左衛門を隊將とし。鐵炮四五百挺を備へて。大和川西堤を堀切栅をふり置べしと命ず。(世に傳ふる所は。この時景勝直江を召て。さて備はいかにと問はる。安田を第一。須田を第二に申付たりと答ふ。景勝聞て。老功の者を先隊とするは今朝の事なり。この後は須田を第一とし。老功の安田を第二備とすべしと命じ。又西堤を堀切て鐵に備へしめしを。衆卒聞て。景勝今年いまだ老耄せらるべき年齡にもあらず。敵の虎口遙にへだてゝ脇を取堅めしめらるゝは。いぶかしき下知かなと異口同音につぶやきしが。後度の戰に此手配を以て上杉勝利を得しかば。衆みな景勝が軍慮神のごとしと感じけるとなり。)鴫野今福の間川一筋を隔たれば。佐竹右京大夫義宣。鴫野にては上杉勢はや合戰を始たりとて。上杉が陣にある安藤。伊東。屋代等。監使へ梅津半右衛門を使とし。義宣は監使の命を侍間。上杉勢は戰を始ると見え候。いそぎ今福の敵を追拂たき旨申送る。監使等同意の答しければ。澁江內膳を隊將として。いそぎ軍勢をさしむけたり。(駿府記に佐竹陣塲搆造するところへ敵よせ來るといふ。誤るに似たり。今武コ大成記。梅津覺書に從ふ。)半右衛門も內膳と共に先登して。堤へ乘あげ一番鑓を合す。內膳もつづいてをしよする。此處は蒲生堤とてこゝを守る敵の隊將矢野和泉守。飯田左馬允。牛瀧八人組。文殊院法印。粉川福常坊。鹿田孫市等鐵炮打て防ぎけれども。和泉守は味方散々追立られ。備前島の口まで追籠られしを見て。大に怒り晴なる討死せんとや思ひけん。具足を脫棄て兜ばかりを着。從兵四五人鑓にて拍子を打ながら。勝ほこりたる佐竹勢を二町ばかり追返す。その時佐竹勢の中より笈川南右衛門が放つ銃玉飛來り。矢野が首にあたる。矢野倒るゝ所を佐竹が兵大勢をし來て。終にその首をとり。其從士大谷式部等悉く討とらる。佐竹勢內藤半右衛門。K澤甚兵衛。小川刑部左衛門。江尻軍兵衛。小野崎織部等各首級を得たり。さきに上杉と同じく鴫野にて戰たる安藤治右衛門正次。伊東右馬允政世。屋代越中守勝永。もとより佐竹勢の監使なれば。此時また佐竹が先手に加はり。みづから鑓取て奮戰す。敵隊將飯田左馬允。其子靱負等三人踏留て討死し。殘兵栅を捨て迯行ば。佐竹は勝に乘じ片原町までをしこみ。討取所の首ども監使に實撿せしめ。伊達三河守。石塚大膳。戶村十大夫。小野大和三隊は。堀切をこえ敵城のかたに備をすゝめ。內膳は敵の栅を以て我方の岸に立直す。木村長門守重成は今切を守りしが。矢野和泉守討死し。佐竹勢勝に乘じ備前島まで乘取べき猛威なりと聞。未刻今切をすてゝ馳來り。銀の瓢簞の馬印をしたて隊伍を指揮す。七組の頭堀田圖書助勝嘉。大野が家兵等四千余にて。一同に木村を援て馳來り。終に蒲生堤の栅一取返す。この時秀ョ菱櫓にのぼり此戰を遠見し。木村討すな加勢せよとあれば。後藤又兵衛基次畏て櫓を下り京橋にて具足を着し馳來り。木村にかはり戰はんといへども。木村こゝにて討死するとも。此塲を引のくべからずといへば。後藤は鴫野へかゝり。上杉が備のより銃打かくれば。上杉方にも須田大炊下知して突て出。芝居を取敷。後藤は立かへり木村堀田と同じく今福にはたらく。木村が屬兵大井何右衛門。平塚左助。同五カ兵衛等。木村掘田が新手いさみすゝんでかゝれば。佐竹勢しどろになり亂れんとす。こゝに於て澁江內膳をはじめ。小野崎源左衛門。高垣兵右衛門等數十人踏留て討死し。木村二の栅を破る。戶村十大夫。大塚九カ兵衛。信太內藏助等は疵を蒙りながら高名す。右京大夫義宣。今福村の前に旗本五六十人にてひかへしが。みづから長刀を揮て敵を追拂ひ。堀切を越て備をたつる。川むかひにひかへたる榊原遠江守康勝が先手河井三彌。貴志角之丞等三百騎ばかり。今福の戰御方危しと見て我もわれもと川を乘越て。木村がより討てかゝる。戰畢て後康勝は先手の兵軍令をそむき。拔懸せりと怒りけれども。佐竹より使をもて。榊原が先手加勢して救ひたるを謝しければ。康勝も罪するに及ばず。
佐竹義宣使を馳て上杉に加勢をこへば。上杉より杉原常陸介に七百余兵をそへ川をこえ。木村。後藤。堀田の勢の合より。鐵炮雨霰のごとく打かくれば。木村。後藤。堀田の勢打立られ。又兵衛基次が左の腕に玉一つあたりしかば。紙にて其血をゝしぬぐふ。木村疵はいかにと問に。基次は秀ョ公の御運いまだつきず。淺手なりと廣言し。今日の戰これまでなりと操引にして退く。同時に鴫野の援兵として。城中より大野修理亮治長。竹田永翁。木村主計頭宗重。天滿口の作事にかかり居たる七組の頭木民部少輔一重。伊藤丹後守長次。速見甲斐守守之。中島式部少輔氏種。野々村伊豫守雅春。眞野豐後守ョ包等。その勢一万貳千餘をし出し。上杉勢にうつてかゝる。上杉方須田大炊助一時ばかり鐵炮迫合しけるが。城兵大軍ゆへ上杉方石坂新左衛門始廿余人討れ。大炊助が勢をし立られ。景勝の旗本へなだれかゝる。島津玄蕃は敵大勢に渡りあひ高名す。三隊の將杉原常陸介は。大將の下知なりと高聲に呼ばり。崩かゝる須田が人數を兩方へをしつけ。追來る敵にむかひ。鐵炮しげく討かくる。兼て二備にて脇にひかへたる安田上總介が四百余騎。合より下知して鑓を入しむれば。敵大軍といへもど散々に打なされ。杉森市カ兵衛。湯川治兵衛。田邊八左衛門。幡枝勘解由。米村加賀右衛門。平山藤藏。茨木五左衛門。安宅源八等返し合せけれど。終に大敗軍となり。小早川左兵衛。岡村椿之助。竹田兵庫。同大助を始として數百人討死す。秀ョ鎗法の師穴澤主殿助盛秀も。坂田采女と引組て首をとらる。又栅際にて半時ばかり鐵炮うちあふ。此とき城の本丸櫓よりも。大筒數挺打立しかば。敵味方の銃山川にひゞき渡り。御本陣に聞えければ。平野御陣より佐久間將監實勝。住吉御陣より久世三右衛門廣宣御使し。急に取詰なば味方損ずべし。早く景勝はもとの陣所へ引とり。其塲を堀尾山城守忠晴にゆづるべしと仰下され。その後五字指物の使番馳來り。嚴命を傳ふる事頻なり。景勝奮然として。弓箭の道は一寸揩ニいふことあり。今朝より粉骨碎身して取敷たる敵地を他人に渡すといふ事なるべきや。兩御所の仰なりとも。决して左はなすべからず。景勝がかく申て此塲を一寸退かずと。兩御所へ聞え上られよと答て。床机を立もあがらず。堀尾忠晴へも上杉と入替るべしと使番仰を傳ふ。忠晴は上杉の後に備しが。今朝も今福にて佐竹勢敵と戰ひ。敵大軍にて佐竹勢多く討るゝと見しかば。川を渡てよりきびしく突かゝり。佐竹勢を援て敵を追ちらし。唯今の仰を受てふたゝび上杉を援んと。鴫野口へ軍をすゝむれども。景勝勢虎口をゆづらねば。堀尾は上杉が備の南より押出し鐵炮を放し。伊賀雜賀の銃卒八十人三間ばかり前へをしいだし。膝臺にて打立しむ。丹羽五カ左衛門長重も景勝にはかりあはせんと。上杉が陣に來りしかど。景勝は牀机にかかり竹を杖につき。歒城をにらんで脇目もふらず。三百餘の精兵を側に引付て合戰の指揮し。丹羽に詞もかけねば。長重は景勝に近付事も得ず。これも堀尾と同じく上杉の先手へまはり。堀尾は大和川淵先より鐵炮を打かくる。この時直江山城守兼續。時分はよきぞと下知をつたへければ。大和川堤芦谷の栅塲に。今朝より景勝の命を請て備たる鐵孫右衛門。種子島百八十挺を敵のより玉込早く打かくれば。歒これに辟易し。大和川の堤まで崩れ。眞野豐後守が一隊を殘し城中へ迯入て。遂に上杉がた十分の大勝を得たり。此戰今日拂曉より終日戰暮し。景勝が始終指揮軍慮。歒味方舌を揮て稱歎せしとなり。佐久間河內守政實。小栗又一忠政御本陣にまいり。今福の戰の樣を聞え上る。佐竹義宣よりも平野の御陣へ。玉虫八兵衛を使とし。討とる首級を獻ず。その使御前に召て時服をかづけられ。首は石河三右衛門貞政して實撿せしめらる。梅津半右衞門御感狀幷信國の御刀賜ひ。K澤甚兵衛は御感狀。金十兩。御羽織。戶村十大夫御感狀幷江直次の御刀。信太內藏助御感狀。金十兩。御羽織。大塚九カ兵衛も同じく賜はりぬ。上杉勢には須田大炊助。杉原常陸介。島津玄蕃。鐵孫左衛門にも御感狀を下されける。此日九鬼長門守守隆。向井將監忠勝。小M民部少輔光隆。千賀彌八カ信親等は野田。福島。新家村の間に戰て。大野治長が船手宮島備中。明石丹後を追はらひ。歒船若干乘とる。此とき松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼も人數を出し助く。永井右近大夫直勝先手斥候して立歸り。かくと聞えあぐれば。蜂須賀阿波守至鎭に。穢多崎新家村に舟橋を架し。往來を得せしむべしと命ぜらる。又戶川肥後守達安芦野にて伏兵を追散し。首三級討て獻ず。水野日向守勝成。永井右近大夫直勝。堀丹後守直寄。新家邊巡察して歸り。伯勞が淵へ歒より栖樓を揚たる由申す。芦島に備なくて叶ふまじとの事にて。服部權大夫政光。能勢伊豫守ョ次御使し。芦野の陣所を石川主殿頭忠總に渡さしめらる。又毛利黃門輝元入道宗瑞尼崎へ着陣す。
又越前家の老臣本多伊豆守富正。同次カ大夫成重御本陣に參り拜謁す。夜に入り本多出雲守忠朝佐竹に替り。今福に向て陣せしめらる。淺野采女正長重。松平出雲守勝隆。眞田河內守信吉。同內記信政。仙石兵部大夫忠政。秋田城介實季。新庄越前守直定等も今福鴫野へ向ふ。(ェ永系圖。攝戰實錄。慶長見聞書。成業。武コ大成記。家々尋。大坂覺書。)
○廿七日平野御陣より土井大炊頭利勝住吉の御陣に御使し。攻城の御指揮を請せ給ふ。神龍院梵舜。萩原左兵衛兼從。泉州堺南北十六寺住僧。高野山行人等參り謁す。K田筑前守長政二子コ松參謁す。兄右衛門佐忠之所勞により。コ松を江戶に參らせしむる旨聞え上る。津田雅樂助信貞。(常眞弟。)刑部。(常眞子。)同小平次も謁し奉る。長谷川左兵衛藤廣。同忠兵衛藤繼長崎より歸謁し。天主教徒放逐幷に阿蘭佛良機近日到着の事聞え上る。千賀孫兵衛某斥候して歸り。穢多村近邊六所に船橋をかけ。蜂須賀阿波守至鎭。九鬼長門守守隆。戶川肥後守達安が軍勢思ひの儘に仙波へ亂入す。九鬼は昨夕福島新家邊にて。敵船若干乘取たる由注進せしかば。重て永井右近大夫直勝。水野日向守勝成。堀丹後守直寄。菅沼織部正定芳。山岡主計頭景以を遣はさる。此輩歸り來り。敵七八千出張したる由申上しかば。大御所然ば明日自ら其邊巡視すべし。供奉大勢なる可らず。百騎ばかり陪從すぺしと仰出さる。(大坂冬陣記。大坂覺書。世に傳ふる所。大坂城中には寄手今日野田福島まで亂入せしと騷動す。よて後藤又兵衛基次八千餘にて打出しが。此事虛說故引とるとて。唯今薩摩入なりと觸ながら打入しとなり。大坂覺書。)又佐竹右京大夫義宣。屋口の陣斥候として。平野より島田次兵衛重次を遣はされしに。古田織部正重然も見舞とてまかり。敵の鐵炮に右の眼上を討れたり。(駿府記。世に傳ふる所。吉田は茶事の宗匠にて。きはめての數寄者なりしかぱ。佐竹が陣所に見舞茶などのみながら。竹束の竹多を見て。此中に茶になる竹やあると。楯のかげより頭さし出したる處。流玉來て頭にあたりしかば大に驚しが。紫の服紗取出し其血をぬぐふ。さすが茶博士の進退よと。其頃笑ネとす。古老物語。)かくて兩御所共に鴫野口御巡視にならせ給へば。上杉黃門景勝が陣所の邊砂をもり。洒掃いたらぬくまもなく。惣大將親巡のときの故實とて。敵城に向ひ鐵炮をつるへ放ち。景勝は直江山城守兼續一人を具し。陣前に蹲踞して拜謁す。大御所御會釋ありて。昨日其方人數骨折と。慰勞の御詞を下されしかば。景勝は童部いさかひに候と答奉りたり。聞人舌を揮て感ぜしと之。其後九鬼長門守守隆は御本陣に參り謁す。また夕かけて雨降出しかば。松平陸奥守政宗より山岡志摩を使して。幸のしめり風もよろしければ。天滿仙波邊放火せんよし聞え上る。志摩土足にて參りたるよし聞しめし。大御所御營前へ出まし。志摩久々にて御覽あり。いつも强健に見ゆるぞと御詞を下され。饗膳をたまふ。志摩このとき八十餘歲とぞ聞えし。又陸奥守政宗今日まで今宮茶臼山の間に陣せしが。撞木橋(今宮仙波の間。)に陣替し。淺野但馬守長晟が後に備へしめらる。淺野頃日さらに戰功なければ。城中內通の風說あるがゆへとぞ。政宗その夜敵より仙波に立置し制札を奪て献ず。又平野よりは久世三右衛門廣宣。坂部三十カ廣勝をして。鴫野敵より搆ふる栅所を巡察せしめらる。また阿倍四カ五カ正之を。北は玉島。南は天滿より傳法。新家。曾根崎邊附城とせん地を撿點せしめらる。また三宅半七カ重勝を本多出雲守忠朝が陣に御使して。鴫野城は城兵不意に出勢すべき地なれば。かまへて栅を設べしと命ぜらる。けふ京より此廿四日近衛前關自信尹公薨ぜられたりと注進す。この夜平野御營近邊の陣屋。四五か所失火して燒失す。(武邊語。大坂冬陣記。天元實記。御年譜附尾。金地院日記。武コ編年集成。ェ永系圖。天和書上。)
○廿八日大御所穢多村新家邊御巡視ましまさんとて。銃手三百つかはされ。敵船の來る方にむかひ打せらる。されど親巡はとゞまらせ給ひ。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次して巡察せしめられしに。新家中島の間道造り成功し。通路を得たるよし歸參して聞え上る。今日親巡したまふと聞て。諸軍みな着甲せしかば。本營の令をも待ずさる擧動以外曲事とて。大御所御けしきあしく。平野御陣には松平陸奥守政宗。神龍院梵舜。高野山寳性院。無量壽院の住僧等參謁す。諸陣の士卒數日の勞憊を慰せらんがため。今日より三十万人の軍勢へ。粮米日每に千五百石づゝ揄チして下行せらる。遠國の軍勢は一倍して賜ふ。小堀遠江守政一代官所備中國米の員數をとはせらる。大坂武士の采邑五万八千石料八万石のよし申す。悉く大坂へ輸送し。粮米となすべしと仰下さる。本多美濃守忠政へは。木津より天王寺の間惣堀仕寄の事を催促せらる。中川內膳正久盛參陣して。チ千斤を献ず。急用の品なりとて褒詞を加へ給ふ。
又城責を急がれば。人數多く損亡すべし。明年二三月ごろまでゆるゆる責らるべければ。茶臼山邊數か所に付城をかまへ。人馬を休息せしむべしとて。阿倍四カ五カ正之にその事を命ぜらる。小出大和守吉英城中內通の風說によて陣所を追立しめ。其弟信濃守吉親は本多上野介正純より教訓を加ふ。古田織部正重然昨日屋口にて鐵炮疵蒙りしよし聞し召。片山與庵宗哲もて膏藥幷降眞香を下さる。山口駿河守直友參謁し。島津陸奥守家久近日出陣するよし聞え上る。又石川主殿頭忠總は。昨日仰を請しかば。今日芦島に陣をうつす。(駿府記。創業記。大坂覺書。大坂冬陣記。貞享書上。國師日記。世に傳ふる所。蜂須賀阿波守至鎭穢多崎を乘取し後。誰にても新家芦島へつかはされば。我等が人數をもて伯勞が淵を乘取たしと申により。水野永井等を芦島邊撿使に遣はされしに。此芦島は廣く長き荻原にて。其䕃に敵兵常に埋伏して鐵炮を打ゆへ。寄手大にくるしむよし申す。さらは勝成その所へ陣がへせよと仰らる。勝成は船なくして向ひがたしと辭しければ。石川に命ぜらる。忠總その地に至り見れば。川より海へつゝぎ潮さし入ゆへ。其身すこしの島に陣し。士卒は終夜水中に立て伯勞が淵の敵と。鐵炮迫合して夜を明す。伯勞が淵は仙波の西北にあたり。西國一の虎口なれば。敵もこの所を一大事の要害と思ひ。薄田隼人正兼相に守らしむ。此夜蜂須賀が陣にては。水野勝成が芦島に陣取と聞て。もし水野に伯勞が淵を乘取れては。我軍先日穢多崎を乘取し功を。水の泡とするものぞとて中村右近下知して夜中に仕寄をつけしとぞ。)
○廿九日勅使廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿。住吉の御陣へ參向あり。大御所老躰にて嚴寒を犯し。數旬の永陣宸襟を惱まさる。軍事をば先手諸將に指揮し。しばらく歸洛ありて保護ましませとの勅諚。大御所厚く天眷の忝を謝し給ふ。日野亞相入道唯心。飛鳥井黃門雅庸卿。金地院崇傳等伺候す。次に松平美作守忠宗拜謁す。次に福島備後守正勝幷家司小關隼人。後見として竹中伊豆守重利もともに參り謁し。秀ョより正勝へ贈られし書狀數通持參して御覽に備ふ。島津陸奥守家久が使伊集院半右衛門も拜謁し。家久すでに出船すれば。近日着陣すべしと聞え上る。山口駿河守直友も見え奉る。成P隼人正正成には。野田のむかひ福島伯勞が淵邊地理を察し。淺野但馬守長晟に陣どらしむべしと命ぜられ。安藤帶刀直次にも野田福島邊にまかり。軍令指揮すべしと仰つけらる。この日拂曉に蜂須賀阿波守至鎭が船手役森甚五兵衛。同甚大夫船をゝし出し。中村右近は陸よりすゝみ。惣軍川を游ぎこし伯勞が淵へをしよする。城方には薄田隼人正兼相七八百の人數にて。旌旗を潮風にひるがへし。栖樓を組て屯したり。(伯勞が淵前は大河二筋流れ。西は芦島。南北に阿波座土佐座の兩城あり。攝戰實錄。)石川主殿頭忠總は。昨日より芦島拍子島の仕寄を請取。大久保權右衛門忠爲もこゝに從て陣しけるにより。大雨篠をつく如きをしのぎ。軍を出さんとするに船はなし。其中に蜂須賀勢ははや伯勞が淵へをしよせ。鐵炮迫合を始めたる折ふし。燒損じたる船一艘流れ來るを幸に。まづ家士その船にのり。鑓の柄を掉とし難なく漕渡る。蜂須賀勢は森長右衛門。廣田加左衞門。其外高名討死とりどりにて阿波守至鎭遂に惣搆を乘破り。阿波座まで押込古屋敷に陣どる。松平宮內少輔忠雄が船手役高木九カ右衛門川次大夫も。蜂須賀勢が伯樂が淵にて合戰すと見て船を出し。蜂須賀勢敵の栖樓へ乘込し時舟乘付。次大夫は忠雄が船印一本一番にをし立。一番乘と高聲によばゝり。敵の隊長平子主膳を討とる。忠雄が家人箕浦玄蕃敵の番船多く乘取。此時石川が家人中K彌兵衛。神田九兵衛。坂部與五左衛門等は面もふらず土佐座の搆へ押よせ。忠總土佐座を取敷しは辰刻之。福島堤には隊長小倉左衛門に。大野が勢を加へ屯せし所へ。九鬼長門守守隆。向井將監忠勝。小M久太カ光隆。千賀與八カ信親もよりをしよせ。敗走する敵兵追討し。首級七。生取三人。大小の船數十艘乘とりければ。敵は悉く天滿口へ逃いりぬ。淺野但馬守長晟も兵船二十餘艘にてをしよせけれども。此邊蜂須賀池田勢とり敷くゆへ。海上に備たり。監使田甚右衛門尹松。眞田隱岐守信昌。本多藤四カ某よりも追々注進し。阿波守至鎭。宮內少輔忠雄。戶川肥後守達安。花房一黨。福島近邊海老口村に伏兵を設て。城中へ糠藁を運ぶ兵若干討取たりとて首三献じ。其旨を注進し。帶刀直次も歸參して野田福島の形勢を聞えあげ。戰功の徒姓名注記して奉る。戰功の輩をのをの黃金時服を褒賜せらる。忠雄家人川次大夫が討取し平子主膳は。兼て武勇に慢じしばしば無禮の擧動するものなれば。とくより誅戮をくはへらるべきものとて。次大夫は殊に褒せられ御感狀を賜はり。箕浦玄蕃も敵船若干乘取し功を賞せられ。御感狀を下さる。又九鬼長門守守隆をはじめ向井小M千賀等の船大將等へは。
平野御陣より老臣の奉書もて褒詞を加へられ。向井が家人注進に參らせし者へも。時服をかづけらる。松平左衛門督忠繼今橋をせめしに。敵の銃雨のごとくなるよし聞召。平野御陣より鐵楯を賜ひしかば。是をもて橋上を立ふさぎ。城兵を追ちらしたり。城にては伯樂が淵阿波座土佐座まで乘とられ。とかく惣搆持こたへん事叶ふべからずと評議して。天滿仙波邊數万の人家に火をかけ自燒し。惣軍樓の岸を限りて引とりたり。(攝戰實錄。武コ大成記。烈祖成績。慶長見聞書。慶長年錄。駿府記。慶元記。大坂覺書。家忠日記。世に傳ふ所は。大野主馬こと更申行たりしゆへ。惣搆の廢去する事諸將は同意せしかど。主馬一人はしたがはず。我をば捨殺にし給へとて。道頓堀の砦を守りて引とらず。城中にもやむ事を得ず軍議ありとて召ければ。主馬城に入し跡にて天滿より火をかけて燒立れば。主馬が砦に殘りしものはさらなり。衆兵大に驚き。諸隊ともに旗さしもの武具馬具取ちらし。やうやう城に迯入しに。塙團右衛門のみは兼て軍令嚴なりしゆへ。其從士等一物も取落さず。器械悉く城中へ取納めたり。又此時寄手池田兄弟。有馬。中川。岡部。加藤等追討して。天滿へ乘入むと軍をすゝめしに。此手の監使城和泉守昌茂頻りに抑留して軍を出さしめず。後日大御所聞召大に御けしきを損ぜしとぞ。攝戰實錄。)
○晦日城兵昨夜より天滿仙波を燒立る。その火煙を物の數とせず。天滿口の寄手蜂須賀阿波守至鎭。松平宮內少輔忠雄。松平土佐守忠義。鍋島信濃守勝茂。石川主殿頭忠總。淺野但馬守長晟。九鬼長門守守隆等仙波口に亂入す。城兵はみな旗指物武具兵具を捨て城中へ迯入る。その時燒音烈しく聞えければ。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。永井右近大夫直勝をして巡視せしめられ。又春日井堤切落す事いそぐべしと。松平主殿頭忠利に命ぜられ。毛利長門守秀就。福島備後守正勝が人夫を催促せられ。先日伊奈筑後守忠政に此事命ぜられしに。今日に至り遲緩せしめしとて。御けしきよからず。いそぎ堤を衝切て水を北へ落し。天滿を涸すべしと仰付られ。又仙波口敵より自燒せば。其時藤堂和泉守高虎寄口より城に向て。鐵炮をつるへ放つべしと下知せらる。榊原左衛門佐職直には。昨日花房助兵衛職之。同五カ左衛門職則が攻取し野田福島の塲所を守るべしと命ぜらる。此日柳澤兵部丞信俊死してその子孫左衛門信文つぎ。信文が䕃料は弟十右衛門信時へ下さる。(駿府記。紀年錄。武コ編年集成。烈祖成績。金地院日記。ェ永系圖。家譜。)
◎是月酒井讃岐守忠勝に。下總國にて三千石たまひ。與力廿五騎同心百人預らる。永井傳十カ直Cに五百三十石新に賜ふ。(家譜。) 
卷三十二 / 慶長十九年十二月朔日に始り十五日に終る 

 

○十二月朔日平野御陣より。本多佐渡守正信。土井大炊頭利勝御使として住吉御陣に參る。御前にめして御密話あり。次に仙石兵部大輔忠政拜謁す。僧廓山奈良より歸り謁す。淨土の御物語刻をうつさる。今朝長良に陣したる松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼。森右近大夫忠政。有馬玄蕃頭豐氏等。川を越て天滿の燒跡へ陣をとり。そのよし御本陣へ注進す。中島にありし丹波伯耆因幡の諸軍もおなじ。先手の斥候にまかりたる服部權大夫政光。島彌左衛門一正かへりて。諸勢天滿に陣取むね注進す。この日城兵一人を生擒して。城中の事狀を鞠問する所。後藤又兵衛基次今福の戰に鐵炮にあたり。すこぶる痛手なりとて城兵大に膽を消す。又大野修理亮治長も。その時屋口へ出馬せしかど。上杉佐竹兩軍の猛勢におそれ早く城へ迯かへる。衆人その怯弱を誹謗すといふ。鍋島信濃守勝茂も生擒一人を獻ず。此ものいふ所審ならず。鼻をそぎ足を斬て城內へ追返す。又安藤帶刀直次に。この四日茶磨山に御陣替あるべしと命ぜられ。仙波燒餘の市屋をこぼちて。陣營を搆造すべしと。大工中井大和守正次に令せらる。御先手諸軍勢今明兩日に城際へをしつむべきよし。使番四力へ乘廻し。なるべきほど亂がはしからず物靜に陣替すべしとふれわたす。其時井伊掃部頭直孝陣替すると其まゝ。歒城へむかひ惣鐵炮をかけ鬨をあぐ。城中はさらなり寄手の諸軍も色めき立たり。直孝はこの擧動ゆゆしきとて。大御所大に御感ありしとぞ。(駿府記。大坂覺書。大坂冬陣記。落穗集。世に傳ふる所は。井伊が手にて城に向ひ惣鐵炮をかけしを。平野御陣にて御所聞召驚き。掃部佐和山勢を引具し。大軍珍らしさにそばへての振舞と見えたり。大御所さぞ御怒あるべし。本多佐渡守いそぎ住吉の御陣に參り。掃部が存たる事にはなしとて。家老共一兩人腹切らせ。掃部御免あるべき樣申取るべしと仰られ。正信住吉の御陣に參る。御所正信を御覽あり。汝只今何事のありて參りたるや。掃部が手の鐵炮の事にてあるべし。彼者は流石兵部が子ほどありて。陣がへのしるしに歒城へ鐵炮打かけ鬨をあげて。一しほつけたる事。さだめて將軍も感ぜられ。その方をさしこされたるなるべしと仰らる。正信承りその事にて候。さてもても御父子とて。兩御所の御心符節を合せたるが如し。奇妙の御事に候。御所も掃部が擧動御感ありて。某を御使せられしなりと答奉りて。早々返りしといふ。)又石川主殿頭忠總が陣へ。近藤平右衛門秀用。高木九兵衛正次平野より御使し。その陣所よく持堅むべしと仰下さる。城兵西南の市街は皆自燒しけれど。城下の町をばいまだ燒ざりしに。寄手次第に陣替するを見て。市中の屋舍を寄手の栅にせられん事をうれひ。午刻今橋へ兵を出し。蜂須賀が陣前の市店を燒立る。主殿頭忠總は歒兵高麗橋に燒草を積で。火をかくるを見て燒せじと戰ひ。大久保權左衛門忠爲眞先に立て下知し。坂部與右衛門討死し大河內金三カは深手おひ。其外烈しく戰へば。雙方の銃音ことごとしく御本陣へ聞えければ。佐久間河內守政實。山城宮內少輔忠久もて。早々引とるべしと御下知あれども戰を取結びてやまず。その間に忠總ならびに權右衛門忠爲指揮よくして。其歒を城へ追込橋を燒しめず。(ェ永系圖。武コ大成記。烈祖成續。世に傳ふる所は。永井右近大夫直勝御前にありて。石川微勢なれば加勢を遣はさるべきにやと申けるを。大御所聞召。否とよ。此橋共は此方よりもわざと燒かせたくおもふ處なり。我大軍を以てこの城責落さんに。橋の二三をたのむべけんや。橋を燒せずば寄手安く寐る事かなふべからず。近日城より寄手熟睡をはかり。夜討をかくべしと仰られしが。果して其御詞の如しといふ。駿府記。)加々爪甚十カ忠澄御使して。惣責の令なき間みだりに小戰をなすまじき旨嚴に令せらる。松平陸奥守政宗は仙波の燒跡に陣替するとて平野へ使奉り。昨日城兵自燒のとき。御氣しきをはゞかり追討せざる事。今更遺憾なるよし聞え上る。仙波燒殘の肆店を政宗に下され。陣營の用に充しめらる。九鬼長門守守隆は難波橋まで責入。先手は高麗橋にて銃を放たしむ。又城中大野修理亮治長が宅失火しければ。敵味方ども頗る騷動す。(駿府記。ェ永系圖。一說此日兩御所天滿邊燒跡巡視し給ひ。天神の拜殿へ渡らせられし時。城兵すこし打て出たりしかば。本多上野介正純人數馳向て迫合。そのとき城中大野が屋敷火事ありとて城兵大にさはぎ立。早々ひき入しとあり。いづれ是なりや定めがたし。大坂覺書。慶元通鑑。)又松平土佐守忠實には加州郡山城の勤番を命ぜらる。(貞享書上。)
○二日大御所茶磨山にならせられ。明後日此處へ御動座あるべしと仰出され。御一騎にて敵城ちかく見めぐり給ふ。平野の御陣にもかくと聞召。俄に御出馬ありて。兩御所駒並て御巡視あり。本多佐渡守正信。同上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次等御跡よりしたがひ奉る。申剋御巡視はてゝ御陣へかへらせ給ふ。
この御供に松平陸奥守政宗もしたがひ奉る。石川主殿頭忠總が營前を過給ふとき。石川が家人どもは三河よりして大御所しろしめしければ。各御詞を賜ふ。(世に傳ふるところ。城中にては大御所城廻り御巡見ありと見しりければ。城兵矢狹間を開き。或は塀上へあがり頗に鐵炮を放つ。其玉御馬前近く雨のごとく來る。本多成P安藤等すべて十人ばかり御跡より馳來り。御馬の口にすがりて。かゝる御輕々しき御擧動勿躰なき儀に候。早く此所を立のかせ給へと申上れども。御耳にもふれたまはずしづかに城を御覽じ給へば。御供のやから各手に汗を握る處へ。田甚右衛門尹松馳來り。此殿樣は元來鐵炮はげしき處が御すきなり。みなみなそこのかせ給へと。御馬の口にとりつき。此處より仙波のかたは。猶大筒の玉多く來り候。ちと御覽ぜらるべしと申ながら。御馬を仙波町の方へ引まはし。蜂須賀が陣屋へ御供したるに。其方には城兵の鐵炮も來らざりしかば。衆人田が擧動流石老練なりしと感稱せしとぞ。((一說に田を安藤治右衛門正次ともいふ。))又城中にては後藤又兵衛基次城兵しきりに鐵炮を放すを制して。あの樣なる名將を鐵炮にては打ぬものぞと申けるとなり。これを聞て城兵は關東二心あるかと疑ふ者も有しといふ。天元實記。大坂覺書。烈祖成績。)御歸陣の後南部信濃守利直。淺野采女正長重拜謁す。(一說淺野を日根野につくる。)松平右衛門大夫正綱は先手巡察して歸り。仙波。天滿。備前島。曝布ク。今市。屋口。玉造口。榎並等。諸陣の形勢を聞え上る。石川主殿頭忠總城兵を追込て。其地に備をたて退かず。住吉御陣所より加々爪甚十カ忠澄。豐島主膳正信滿をもて。早くもとの陣所へかへり備ふべき旨仰下れ。忠總陣所へ歸りければ。平野御陣より內藤外記正重。近藤勘右衛門用政御使して忠總戰功御感の旨をつたふ。九鬼長門守守隆五分一島を乘取てこゝに陣し。佛カ機を放つ事三日。また花房助兵衛職之は陣を仙波にうつし。先日平野にて討取し首級を平野の御陣に獻じ御感を蒙る。(駿府記。大坂冬陣記。貞享書上。ェ永系圖。)
○三日住吉御陣より義直ョ宣兩卿の陣所へ。成P隼人正正成。安藤帶刀直次を御使として。明日御所御陣を平野より岡山へ移さるゝによて。兩卿も天王寺邊へ陣をすゝめらるべき旨仰つかはさる。本多上野介正純を先手巡視につかはされしに。正純は松平陸奥守政宗が營にたちより評議して立歸り。天滿表御方の備東西纔に六町。仙波は二十町にあまる。然るに人數つもり同樣に候へば。天滿表は高一万石に。わづか虎口三間づゝなれば。後陣の勢いたづらに先陣の擧動を見物するのみなりと申す。大御所聞召て。さらは番組を以て入替らしむべしとて。松平左衛門忠繼。森右近大夫忠政には。天滿より仙波に陣替し。今福口にむかはしめらる。此とき御所は近日惣責を令すべきにやと伺はせたまふ。大御所この事かたくあるまきじなり。城を急に攻ぬかんとせば。御方に死傷多かるべし。たとひ大勝を得るとも士卒多く損ぜんは本意にあらず。謀を以てなすべきものぞと御諚ありければ。御所にもこの御庭訓に感服し給ひ。惣責の事は思召とゞまれり。(慶元拾遺には二日の事とみゆ。)次に細川內記忠利住吉の御陣に參謁す。次に土井大炊頭利勝も平野より御使に參り謁し奉る。大工中井大和守正次明日茶磨山御營落成のむね聞えあぐる。しからば六日御動座あるべしと仰出さる。この御營の搆造奉行は島田C左衛門直時。日向半兵衛政成。また阿部備中守正次。平野の御營搆造すとて。地をうがち小壺を得たり。其中黃金三十兩。金具九塊。南鐐百兩ありと。後藤庄三カ光次聞えあげ。伊丹喜之助康勝持參して。大御所御覽に備へしかば。その金を正次に賜ふ。昨今寄手諸陣竹束を以て。惣搆堀際へ仕寄をつくる。城をさる事或は三町。或は二町半ばかりなれば。城中よりこれを妨んと。鐵炮烈しく打出すにより。寄手の士卒毁傷する者少からず。この時中井大和守正次奉りにて諸手へ鐵楯十張づゝをさづく。又加賀勢の斥候に井上外記正繼。安藤治右衛門正次をつかはされしに。玉造口に城兵十人ばかり見えけるを。外記正繼銃もて忽に其一人を打倒す。(駿府記。貞享書上。攝戰實錄。大坂冬陣記。慶長日記。創業記考異。落穗集。大坂覺書。世に傳ふる所。安藤は井上が城兵を打倒す其藝の精妙を。衆人稱美するを聞。さてさて外記は武道にくらき者かな。唯今敵一人を打殺したり共。敵に町間をしめすといふものなり。味方明日より仕寄付がたからんといひしが。果して明日此ところ御巡視のとき。城より銃はげしくうち出しとぞ。天元實記。)加賀陣の先手本多安房守政重は。敵城眞田丸北南おはせの笹山に屯せる城兵。銃繁く打出せば。明日は此山をかこみ屯兵を悉く伐取べしと。相備の諸將に示しあはせ。また宵より物具しておはせ山にせまる。この夜城中織田有樂より本多上野介正純。後藤庄三カ光次へ贈る書簡を。有樂が家人村田吉藏。大野修理亮治長が家人米村權右衛門持參す。
有樂さまざま和議をはからへども。秀ョ其諫を納られざれば。力及ばざる旨をのぶ。よて正純光次もて。有樂出城してこの事を議すべき旨答しめらる。又小出大和守吉英。同信濃守吉親。さきに御勘發蒙しが。陳謝して御免を蒙り。曝布ク堤築く事命ぜられ。落成してけふ拜謁しければ。慰勞の御詞を給ふ。此堤告竣して後。都鄙往來の自由を得たりとぞ。(烈祖成績。駿府記。大坂冬陣記。)
○四日御所平野より岡山へ御陣をうつさる。義直ョ宣兩卿も天王寺の邊へ陣替あり。成P半左衛門正虎は年頃御所に眤近せしが。義直卿へ附屬せらる。これ隼人正正成が子なり。加賀勢先手本多安房守政重は寅刻軍勢を率ひ。眞田丸の北南小羽Pの笹山を分入。草を分て搜しけれども。敵はとく立退て一人もなし。陣を並べし山崎閑齋は。本多が出㧞て城へをしよせたりとおもひ。人數ををし出し。朝霧深く寸歩も見えわかざるに。たがひに先を爭ひて堀際へはをしよせたれども。俄事にて楯竹束も携へず。越前。藤堂。井伊。幷大和組の陣にも此躰をみて。はや加賀勢が城乘するぞ。をくるなとのゝしりつゝ。楯も竹束も持ず城際へをしよせたり。ことさら城中新參の處士南條中務少輔忠成が寄手へ內通し。今四日寄手を引入むと密約せし事もあれば。寄手はいよいよいさみすゝむ。南條が反忠は旣に露顯して。昨夜城中にて誅せられしかど。寄手は是をしらず。(駿府記。大坂覺書。烈祖成績。武コ大成記。世に傳ふる所は。城中先月十七日會議せしに。眞田後藤等は。住吉御着陣の夜御陣へ逆寄して。不意を討て其備定まらざる間に勝利を得んといふ。大野等。夫は田舍漢が一揆爭ひの計略といふものぞ。今度天下分目の一戰。日本の大軍を引うけ。左樣なる輕卒なる計略を用ゆべからずとて用ひず。木村は眞田後藤が謀を用ゆべしといさめ。七組の徒もこれに同意すといへども。大野更にしたがはず。南條中務少輔忠成といふもの。其父伯州羽衣石の城主中務大輔光明とて。先に石田三成に一味し。關原の時所領收公せられ攝州山本に蟄居し。三年過て沒しぬ。此もの死にのぞみ其子に遺言しけるは。我豐臣家の舊恩山海より深し。依て三城に組し今山間に身を埋みはてぬ。汝も父が志をつがんとならば。此後東西牟楯に及ばん日は。ことの成否にかゝはらず。豐臣家のために討死して。二心をいだくべからずといひしかば。今度忠成父が志をつぎ。大坂に籠城せしが。此程會議のさまを見聞するに。たまたま後藤眞田が奇策をいひ出しても。大野渡邊等の姦臣これを用ひず。長曾我部明石を始め我々をば浪人どもと稱し。さらに其詞を聞ものもなし。とても秀ョの御運開くべきにあらず。當城をひらき秀ョ御母子は他國へうつらせ。我々は切腹の外あるべからず。夫よりは落城以前降參し。大御所に近付一太刀うらみ進らせば。父が九泉の幽魂に報ずべしと思ひさだめ。寄手に內通せしを。大野早くも聞付しかば。七組の徒に命じ南條をからめ切腹せしむ。是よりさき槇島玄蕃允重利も二心ありとて大野にめしあづけらる。今日の合戰最中織田雲生寺が持口よりは。しづまりかへりて鐵炮も打せず。これも敵中に內通あるにやと。城中雜說訩々としてさはがしければ。眞田後藤等大に眉をひそめたり。これは先に板倉伊賀守勝重が計にて。忍者數十人城中へ入置て。種々雜說をいはせし故とぞ。攝戰實錄。)折ふし城には石川肥後守康勝持口の櫓より失火し。K烟天をかすむ。越前の兩先手本多伊豆守富正。同飛驒守成重。落合美作守重長等。是を南條が合圖と思ひ。各栅をふみ破る。井伊が先手木俣右京も采配振て眞先に進み。石垣につけば。諸卒をとらじとひたひたと攻のぼる。松平出羽守直政この時十三歲。馬を先手へ乘出し。前後の諸隊を指揮あれば。越前。加賀。井伊。藤堂の諸軍一同に取詰る。城將眞田左衛門尉幸村はこの事聞といへども。しらぬさまし門柱に倚て居眠してゐたりしが。寄手はや城へ乘入らんとするをみて。諸士武功榮名此一擧にありと下知し。伊木七カ左衛門等走矢倉高矢倉はざまより。弓銃雨霰の如く射立打立れば。楯竹束の用意もせざる寄手の士卒。的に成て死傷數千人に及ぶ。御本陣にかくと聞えければ。五字指物の使番追々につかはされ。重て安藤帶刀直次もて。速に寄手引取べしと令せらる。寄手互に恥て引取かねしが。各本陣よりも使をたて。やうやう引取ける。未刻に及て大御所茶磨山御營の經營御覽あるべしと。本多上野介正純御先打てわたらせらる。時に越前の先手本多伊豆守富正。同飛驛守成重をめして。今朝合戰の形勢をとはせ給ふ。兩人先手早り雄の若者共。麁忽に事をおこしたるよし答奉る。これしかしながら汝等兩人が落度なりとて御氣色よからず。又先手御巡視あるべしとて。上野介正純。帶刀直次。成P隼人正正成。その外使番六人。龓二人。中間一人ばかりを御供にて。藤堂和泉守高虎が陣所までおはします。この御道へ城より。銕炮烈しく打かくるといへども。御甲胄もめさず。
さらに平常にかはらせ給はず。しづしづと御巡視ましまし薄暮に住吉へかへらせ給ふ。(烈祖成績。感狀記。大坂覺書。慶長年錄。武コ大成記。世に傳ふる所は。井伊が家老木俣右京一番に城へをしつめ手疵蒙り。始終堀下を離れざる事。尤軍令を背く。外樣大名見こらしの爲にも。木俣に切腹仰付らるべきにやと。御所御怒あるよし大御所聞召。安藤直次もて仰進らせられしは。軍令違犯するは曲事なりといへども。衆に擢で命を捨。眞先かくるもの多くはなきものぞ。左樣の事深く查撿あるべからず。聞かぬふりしておはしませとの御事なりしとぞ。大坂覺書。)藤堂和泉守高虎。松平陸奥守政宗も。各騎馬にて御供せしとぞ。(攝戰實錄。世に傳ふる所は。大御所御陣巡りより住吉御營へ歸らせ給ふ。其時政宗より生鱈を献じければ。料理命ぜられ。直に御供しける政宗高虎正信三人御相伴にて。御夜食召上られたる最中。高虎が陣より急に呼に來りければ。高虎辭してかへりしが。亥刻過て高虎再び參陣して申上しは。今晚城の豐志口を守る三上外記。コ原八藏といへるが家僕等私に爭論し。相方死人五六人手負二十人に及び。頗る騷動せしを。同所の守將織田雲生寺出てこれをしづめたり。然るに某が手のもの共此騷動に乘じ。城乘取ばやと思ひ思ひに攻よせしに。城中よりも早川九カ右衛門。木下左京亮。赤座三右衛門。山川帶刀。北川次カ兵衛。羽柴河內守。井上小左衛門。一宮助左衛門等一万余打て出防戰し。某が先手渡邊勘兵衛鐵炮疵を蒙るよし告來るゆへ。某立かへり大に制し。早々に引とらせたるよし申す。大御所聞召。高虎鱈の料理喰ずば。かゝる麁忽はあるまじきに。生鱈こそ高虎がためには大なるさまたげなれとて。高らかに笑はせ給ひしとぞ。攝戰實錄。)このころ吉野熊野の山民等賦稅を抑留せんとて。山中にたち籠るよし聞えければ。その地の代官に命じ。人質を取堅むべしと命ぜられ。又大坂籠城の徒が妻子。南都にかくれすむ者を查撿し召捕べしと。小堀遠江守政一。中坊左近秀政に命ぜらる。今夜金地院崇傳。廓山御前にめして。惣城責の日時を撰定せしむ。廓山は辭して明日奈良へおもむく。保田甚兵衛則宗死して。その子甚兵衛宗雪家をつぐ。(駿府記。ェ永系圖。)
○五日松平宮內少輔忠雄。蜂須賀阿波守至鎭を住吉御陣へめして。先手諸備をのをの土手を築き。竹束をかまへて。士卒傷死せざらんやうにはからふべしと面命せられ。また使番田甚右衛門尹松。間宮權左衛門伊治を仙波天滿へつかはされ。諸手の士卒弓銃のものども。一人たりとも死亡せん事いたましく思召。ば每陣竹束をかこひ土手を築き。矢炮をさけしむべしと令せらる。諸家の歩卒等これを聞て。感淚を流さゞるものなし。又九鬼長門守守隆を召て。海上に番船を置て。城中落人を改むべしと命ぜらる。次に京より六條中納言有廣卿。冷泉中納言爲滿卿。山科宰相言繼卿參向して拜謁あり。酒井左衛門尉家次。松平甲斐守忠良。仙石兵部大輔忠政も參謁す。石河備前入道宗林拜謁し羽織を獻ず。此宗林は關原以後浪人せしが。今度大坂に籠城せず拜謁をゆるさる。高野山文殊院應昌を召て。南都內山の先達。吉野大峰五鬼の中善鬼等大坂へ籠城し。其徒熊野北山にて一揆をおこすにより。近邊代官等に命じ追捕せしむ。彼等もしかゝる凶逆をほしいまゝにせば。此後山伏の入峯を禁絕せしむべし。汝かしこに行むかひ。先達等をよく曉諭すべしと命ぜらる。南都幽人岩井與左衛門。御甲胄を製造して捧ぐ。稻富宮內重次に銃もて試しむ。三文目五分の玉を以て試といへども。裏搔事を得ず。松平右衛門大夫正綱大梯にて製造せし火矢二筋を奉り。御みづから試給ふに。其飛事四町に超たり。松平陸奥守政宗。山岡志摩を以て銃を借ん事をこふ。火矢二挺。大筒三十挺かし給ふ。政宗やがて參謁す。近日惣責を令せらるべし。梯若干用意し石壘を乘破るべしと面命あり。又今井宗椏゙良酒一樽。蜜柑二籠獻ぜしかば。直に宗桙御使として。政宗が陣所に賜ふ。是政宗宗桙ヘ年頃むつまじきをしろしめす故なり。今夕榊原遠江守康勝陣を天王寺にうつす。又九鬼長門守守隆には。木津口にて銃放たしむべしとて。鐵楯二枚下されしかば。盲船三艘にて木津口へこぎよせ。銃うつて城櫓一所打倒す。岡山よりは土井大炊頭利勝を御使として。住吉御陣へ仰進らせられしは。大坂城たとひ金城鐵壁たりとも。日本の惣軍を以て攻ぬかんに。何の難事あらんや。城中より講和の事聞えあぐるとも。ゆめゆめ用ひ給ふべからず。日時を定め惣責して拔とるべきなりとぞ聞えたまふ。大御所聞召。仰さる事ながら。戰はずして勝を良將の謀とすれば。何事も老父がはからひにまかせ給ふべしと答給ふ。利勝立返り其旨聞え上る。御所大に御氣色損じ。何事も父上の御庭訓に違ふべきにあらずといへども。此事さらに心得られずと仰らる。本多佐渡守正信御側に有て。何事もしばらく御父君の御旨にまかせたまへといさめ奉る。また明日茶磨山へ御陣替にて。御本陣につゞき永井右近大夫直勝。西尾豐後守光教。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰明。松平右衛門大夫正綱等陣取べしと命ぜらる。(駿府記。家忠日記。貞享書上。攝戰實錄。)
○六日大御所住吉御陣を出まし。辰刻茶磨山御營にうつらせ給ふ。供奉の輩甲胄を着せず。この日御所岡山より渡御ありて見え給ふ。藤堂和泉守高虎。本多佐渡守正信侍座す。住吉には小堀遠江守政一。别所孫次カ某留守せしめらる。本多美濃守忠政は特命により。茶磨山の麓木津口に陣替す。大御所御一騎にて城外諸陣も巡視あり。近臣大に驚き追々に馳つき供奉す。御所も御跡よりしたがひ給ふ。天滿の栅外に御馬を立たまひ。しばらく城を望見し給ふをみて。城中より是をねらひ。鐵炮しげく放すといへども。更に御傍にもあたらず。たゞ御龓一人打ころさる。晚に及んで土井大炊頭利勝岡山より御使に參り。御密談あり。又成P隼人正正成。安藤帶刀直次。同對馬守重信をして城邊巡視せしめらる。重信は直に岡山御陣へかへる。けふ午刻兜山邊深叢の間。南北より蛙數千万出て戰ふ事一時ばかり。北蛙戰負て多く喰伏せられ引退く。極寒の折ネ尤奇異なりといふ。(駿府記。紀年錄。金地院日記。武コ大成記。世に傳ふる所。今日城邊御巡視の時。高虎政宗馳付て騎從し奉る。其所へ攝州武庫郡兜山村の庄屋參り蛙合戰の事申上る。大御所聞召。蛙合戰は先年三州岡崎にても見しことあり。怪しむにたらずといへども。時今三冬閉蟄の節といひ。方角にとりては北方旺氣なり。然るに北方の蛙負しは。御方勝利の徵なりと仰られければ。高虎政宗承りて賀し奉る。諸軍これを聞て勇氣一倍なりとぞ。攝戰實錄。)
○七日茶磨山御營に寺澤志摩守廣高參謁し。先日命ぜられし佛カ機。近日到着するよし聞え上る。秋田東太カ俊季參謁す。南光坊僧正天海。藥樹院久運拜謁す。昨日蛙合戰の事を聞え。兩僧方位を考るに。北方は大坂なり御方勝利の徵なりと聞え上る。聞くもの大にいさみたち。黃昏に及んで本多出雲守忠朝に仕寄を命ぜらる。天滿邊河深き事數尋。攻城の時急に寄がたきよし答ふ。御氣しきよからず。(駿府記。)
○八日茶磨山御陣へ。松平武藏守利隆。おなじく左衛門督忠繼。脇坂淡路守安元。藤堂和泉守高虎。淺野但馬守長晟。松平土佐守忠義弟吉兵衛政豐。淺野采女正長重。南部信濃守利直參謁す。佐久間久右衛門安政。同四男源六カ勝之もまみえ奉る。本多佐渡守正信。土井大炊頭利勝も參る。五山の緇徒幷南部喜多院も拜し奉る。菊亭中納言經季卿拜謁あり。羽織を獻ず。堺幷長崎の商人等ももの奉る。昨日但馬守長晟が陣へ。城中生田宗庵より矢文を射たりとて。本多上野介正純御覽に備ふ。其身鄙賤といへども。いさゝかのゆかりにより。やむ事を得ず籠城しければ。種々講和の異見を申といへども。新入の諸士更に同心せず。此返書を賜はらば。某出城すべしとしるしたり。又織田長益入道有樂。大野修理亮治長より。村田吉藏。米村權右衛門を使とし。書簡を上野介正純。後藤庄三カ光次がもとへ賜る。其趣は今度城中新入の諸士。ェ宥の御沙汰をもて助命せらるべきか。所領かへられむ國は。秀ョ公所望のまゝにゆるさるべきか。大坂城退去あるべきか。これら御許容あらんにおいては。和議に及ばるべしとなり。(金地院日記幷に大坂覺書十日とす。)又先に京にて造らしめ給ひし鐵楯成功してけふ捧ぐ。又奥州その外遠國の諸將へ銀百貫目づゝ給ふ。藤堂和泉守高虎は。先に粮米一万石獻じければ。銀貳百貫目下さる。又大和組の輩天王寺口にて佛カ機を放す。筑後守忠政に命ぜられ毛利福島の役夫をもて森口の堤を築かしめらる。仙洞より南光坊僧正天海をもて。桾ィ一包を進らせらる。木民部少輔一重。城中より內通の密書を呈す。本多上野介正純御覽に備ふ。越前の老臣山中內藏助甲胄を着して御前に參る。責口の事を面命せらる。永井右近大夫直勝。木次カ右衛門可直を召て。今夜より戌子寅三剋。寄手諸陣城にむかひ鯨波をあげ。亥丑卯三剋は大筒を放たしむべしと令せらる。(慶元拾遺。家忠日記五日とす。いま駿府記による。)しかるに今夜諸陣鯨波をあげ。鐵炮連發する事一時あまり。其響疾雷の如し。大御所聞召。銃放つ事あまり多に過たりとて御けしきにかなはず。片桐市正且元兄弟は今夜天滿より備前島に陣をすゝむ。又板倉伊賀守勝重書簡を島津陸奥守家久に贈り。出陣を催促す。(金地院日記。駿府記。貞享書上。)
○十日御所岡山より茶磨山へならせ給ひ御對面あり。宰相義直卿。藤堂和泉守高虎。本多佐渡守正信侍座して。軍議晷をうつさる。次に毛利黃門輝元入道宗瑞參謁し。其子長門守秀就懇遇を謝し。其家司吉川藏人廣家。福原某も拜し奉る。伊奈筑後守忠政。喜多見五カ左衛門勝忠見え奉り。河堤成功の事聞えあぐる。島津陸奥守家久出船せしかど。海上風あらく延引するよし聞えければ。細川。加藤。田中等もいまだ着陣に及ばず。
又京市人鉛千斤献ず。金地院崇傳は御前に召て。日期占卜の書をよましめらる。又城中口々へ持口より鐵炮を打出さゞる徒は。關東へ對し忠たるべし。さる者は持口姓名を矢文にて聞えあぐべし。もし城を出て降參するものあらば。其罪をゆるし本領安堵せしめらるべき旨。矢文を射入べしと命ぜらる。(駿府記。慶長年錄。大坂覺書。世に傳ふる所。眞田隱岐守信昌は城中の眞田幸村が叔父なれば。今度一亂の始幸村もし志をひるがへし御方へ降參せば。十万石を賜るべしと內旨を仰遣はさる。幸村承り。冥加至極忝は候へども。幸村久しく高野山中に乞食して。露命をつなぎ月日を送る所。秀ョ公に拔擢せられ。城中一方の將を命ぜらる。此恩に感じ一命は秀ョ公に獻じ奉る志なれば。台命に從ひがたしと申切たり。此頃また本多正純より。信州一國を賜ふべし。天命に應じ歸順すべしと申贈りしが。幸村更に返答もせず。信昌に對面もせざりしといふ。慶長年錄。)又諸手の仕寄に山を築。山上より惣搆へ大筒を打入しめらる。備前島菅沼織部正定芳が陣よりは。大筒百挺連發せり。此時寄手各惣搆の堀へ。廿間卅間よせて竹束をつき。土俵を以て山を築くゆへ。城中より鐵炮しげく放といへども。さのみ毁傷する者なし。此日松平下總守忠明に仙波の後備前島に陣し。本多美濃守忠政は天滿の後。柳原遠江守康勝。本多出雲守忠朝。同豐後守康紀は上方組の後に陣し。上杉陣の後鴫野砦に松平丹波守康長。第二の砦に牧野駿河守忠成陣す。仙波は材木商の軒をつらねし地なりしが。その商家も皆城兵のためにやかれしかど。材木は多く其火にかゝらざるゆへ。寄手これを以て栅竹束に充て大に便りを得たり。下總守忠明も山を築き其上より城中へ鐵炮を打入しむ。天滿玉造口は泥深ければ。寄手板幷簀子を敷竹束を付たり。今夜城中より寄手にむかひ。鐵炮を放ち鬨聲をあぐ。(慶長年錄。慶長日記。創業記)
○十一日藤堂和泉守高虎茶磨山御營に參り御密議あり。伊豆箱根三島の神人社僧參り。卷數を獻ず。北野松梅院住僧連歌師昌琢も拜し奉る。本願寺門跡光從使もて小屏風一雙獻ず。次に松平陸奥守政宗も參謁す。間宮新左衛門直元。島田C左衛門直時。日向半兵衛政成に。但馬石見銀鑛の役夫を召て。城櫓石垣等堀崩さしむべしと命ぜられ。この輩巡察し。加賀。井伊。藤堂の陣所より堀鑿つべき地勢あるよし聞えあぐる。よて鑛工數百人をして。其地より鑿たしめらる。此日K田甲斐守長政銀三千斤獻ず。淺野但馬守長晟使もて。今日仕寄を附終れば。直に堀を埋め候べきにやと請奉る。しばらく猶豫して。御下知を待べしと仰下さる。南禪寺にて古書謄寫する五山の僧侶。嚴寒により硯水こほりて艱困するよし聞召。十五日より休息し。明春十日より其事はじむべしと仰下さる。其夜城中又鬨を發し銃を放つ。(駿府記。紀年錄。國師日記。)
○十二日兩御所天滿より備前島邊。先手陣營御巡視の時。城中鐵炮雨の如く打かくる中を。さらにものゝかずともなし給はず。ゆるゆるとめぐり給ひて未刻還御あり。(駿府記。世に傳ふる所は。この日御所には有馬玄蕃頭豐氏が陣の井樓にのぼり給ふ。御馬印を城兵見しり火矢を射かけ。大筒を打かけしかば。近臣等勿躰なしと諫しかども敢て聞しめし入られず。その時水野日向守勝成參り。この有樣をみて。斤候は一口を見切り申べし。巡視は惣躰を見つもり候事簡要に候。一所に久しくおはしますべきにあらず。鴫野のかたへも御出有べしと申上ば。尤なりとて鴫野の方へわたらせ給ふ。上杉が陣にはたゞ今此所へならせ給ふと聞とひとしく。直江山城守兼續下知し。早々城へむかひて惣鐵炮をつるへ打かくる。城中是に先をとられ。御通行のときは鐵炮を放たず。大御所先日ならせ給ふときの如く。上杉の陣法流石なりと。御所にもことに御感あり。此時大御所は今福の方へめぐらせ給ふ。本多佐渡守正信參り。若殿も御まはり遊ばさるべきやと申上しかば。大御所我身は幼弱より干戈の間に人となりしかば。敵に對し營中に安座して有事。終に覺えず。ともかくも大將軍たらん人の心の儘たるべしと仰ければ。正信大に恐怖し。急使をはせて御所へその旨聞え上る。御所此ときははや岡山へおもむかせ給ひしが。かくと聞召たち歸らせ給ひ。今福のかたへも御巡視ありしとなり。駿府記にば十二日御巡視。大御所のみをしるすといへども。諸書みな兩御所とすれば。今これにしたがふ。攝戰實錄。大坂覺書。)此日城中織田有樂。大野修理亮治長より。後藤庄三カ光次へ書簡にて。講和の事いよいよ右府を諫むべきよしを申送る。(貞享書上。)
○十三日大風雨によて。岡山より土井大炊頭利勝茶磨山へ御使し御起居をとはせ給ふ。淺野但馬守長晟。松平土佐守忠義に。仙波堀川へ盲船をもて。船橋を架べしと命ぜられ。また堀を埋むるため。土俵を用意すべしと命ぜらる。中井大和守正次へ城責に用ひんため。梯熊手若干を製せしめ。諸將一人每に梯五十づゝ配分して授くべしと。本多上野介正純に仰つけらる。(駿府記。)
○十四日けふも雨風烈し。未刻にいたり雨はふりやみぬれど。風はいよいよ吹やまず。岡山の御營より板倉周防守重宗御使して。御氣色をうかゞはる。藤堂和泉守高虎御前に參り御物語あり。これよりさき阿茶局は。二條城に留め置れしが。けふ召て茶磨山の御營に參る。これ京極宰相高次の後室常高尼共に講和の事はからはせ給ふべしとの御旨とぞ聞えし。南部信濃守利直。所領栗木村に產する棊、を獻ず。和泉守高虎は城中の者共憎む事甚しく。ある時は城兵高聲に惡言をはき。ある時は城中へ內通の趣を矢文にしるし。寄手の諸陣へ射入る事しばしばなり。高虎幷北國組の諸陣仕寄より金堀を入て。塀石壘を穿ちこぼたんとす。本多美濃守忠政へは。諸手の陣所よりも。忠政陣所をば尤堅固にしかも高く山を築くべしと命ぜらるゝ旨。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次より傳ふ。又松平陸奥守政宗は堀際七八間まで仕寄を設けたり。始より政宗が備には毁傷十二三人の外なき旨注進す。此ころ諸手築山成功しければ。寄手各堀際へ逼り。栅結まはし。所々に井樓をかまへ。大筒を以て城中を眼下になしはなちかけゝれば。城中防かねてぞ見えにける。(駿府記。)
○十五日けふも風猶やまず。義直ョ宣兩卿茶磨山御陣へまかりて。御氣しき伺はる。城中織田長益入道有樂。大野修理亮治長より。本多上野介正純幷後藤庄三カ光次へ。和議の事申送るにより。光次をめして其使に城中の形勢をとはしめ給ふ。光次かれが申處を聞え上しは。城中は悉く淀殿の政務たるがゆへ。諸事遲引して急にとゝのはず。又その書簡にて申送りしは。淀殿江戶にまかられ。城壘をこぼち城を埋むべきにより。今度新入の處士共は。彌秀ョより召抱て扶助すべければ。彼等に宛行はんがため。大坂の所領を揄チせられば。和議に及ぶべきよしなり。大御聞所召。新入の處士等。何の忠節ありて所領を宛行はんや。畢竟はかゝる事にて時日を遲緩し。寄手を疲勞せしめ。城郭溝壘を堅固にせんためにやとの仰あり。また明年乙卯は秀ョがため大吉なるよし。陰陽術數の雜說ありと聞ゆれば。衆人いよいよ訩々たり。此夕安藤對馬守重信岡山の御陣より參謁す。石州銀山の渡邊備後を召て。城壘を穿つ事を命ぜらる。(駿府記。天和書上。世に傳ふる所。秀ョは四國のうち二ケ國を賜はらば。大坂を出退べしと請ふ。此方よりは上總安房兩國を遣はされんとの御旨之。この議論にて和平延引すといふ。金地院日記。)この日又城中より村田吉藏。米村權右衛門を使とし。淀殿いよいよ江戶へ參らるべければ。新入の處士に宛行ふべき所領を賜はるべし。この儀しかるべきに於ては。此後相違あらざらんため。兩御所御盟書を賜はるべき旨。申送るといへ共御許容なし。(武コ成業。) 
卷三十三 / 慶長十九年十二月十六日に始り廿九日に終る 

 

○十二月十六日岡山より。茶磨山御陣にならせられて御對面あり。義直ョ宣兩卿も參らる。本多佐渡守正信。同上野介正純。藤堂和泉守高虎伺候す。阿茶局をめして密に議せらるゝむねあり。松平丹波守康長。同周防守康重。加藤式部少輔明成拜謁す。八條式郡卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。二條准后昭實公。使もて毛氈幷に酒菓を獻じ。仁和寺覺源法親王。妙法院常胤法親王。梶井最胤法親王。蓮院高純法親王使もて酒菓を獻じ。京高臺院。南部C凉院。拜謁して蜜柑を獻ず。此日大工中井大和守正次に命ぜられし佛カ機の架成功す。よて松平右衛門大夫正綱を監使とせられ。岡山に供奉せし御家人の中より。井上外記正繼。稻富宮內重次。牧野C兵衛正成等の輩妙手を撰ばれ。天王寺口。越前。藤堂。井伊の攻口。備前島。菅沼。織部正定芳が責口より。大筒小筒一同に城にうちかけ。櫓塀以下打崩さしむ。城中こゝに於て騷動おびたゞし。(駿府記。金地院日記。武コ編年集成。世に傳ふる所は。御所牧野稻富兩人をめして。備前島片桐が陣所は城に近く。其上片桐城內の案內なれば。秀ョ母室の居間のあたりへ。大筒を打入しむべしと仰付らる。兩人銃手の妙を得たるもの數十人を撰み。先手前に櫓をあげ。大筒三百挺國崩し五つを放たしめしに。稻富が放ちし大筒あやまたず淀殿の居間の櫓を打崩したり。其響百千の雷の落るがごとく。側に侍りし女房七八人忽に打殺され。女童の啼呌ぶ事おびたゞし。日頃はたけかりし淀殿大に恐れよはりはて。是より和議の事を專ら秀ョにすゝめらる。有樂治長その意をうけ。寄手より和議のあづかひあるを幸にし。いづれにも和平あるべしと謀れども。秀ョ承諾なし。渡邊內藏助も薄田隼人正も。近日臆したる擧動して秀ョのけしきよからねば。木村長門守にこの事秀ョ公に謀らるべしと。有樂治長密謀せしに木村聞て。和議の事はしかるべしとは。㝡初片桐が申たる所なり。其片桐が忠諫を用ひず。唯今に至りさる事は申上べき樣なし。重成に於ては此事申上べからず。畢竟秀ョ公御運の末と歎息する外なしと云切て。更に取合ず。有樂治長せん方なく。後藤又兵衛に其事を托す。後藤秀ョに細川讃岐守を以て。つらつら當時の形勢を考るに。故太閤殿下恩顧の諸大名皆敵となり。御方に內通する者なし。結局御方一方の大將とョむ織田雲生寺等。心がはりする風說もあり。玉藥兵粮潤澤なりと雖。是も限りある事なり。後詰のョみもなき長籠城は。兵家の古今忌事なり。敵より和睦のあつかひあるを幸に。和平して時節を待あはせ給はゞ。駿河の老公は七十にあまる高齡。さのみ年月は經べからず。かの老公萬歲の後には會稽の恥を雪ぎ給はん事。足をそばだてゝ待べしと陳けるにぞ。秀ョもせん方なく和議のこと思ひ立れ。然らば各の意見にまかすべし。しかし㝡初片桐が諫をあながちに拒み。今かくなり行事。且元が思はん所恥かしとて落淚ありければ。近侍の輩もことはり過て哀さに共に淚にむせびしとぞ。大坂覺書。天元實記。)今夕今井宗梃搭vは。伊達が陣所へ城中より打入し鐵丸を持來り御覽に備ふ。其重さ五六百目。また片桐が陣所へ打入し銃玉を。伊丹喜之助康勝持參して御覽に備ふ。其重さ六百五十目の鐵玉なり。又此程井伊掃部頭直孝咳なやむ由。安藤帶刀直次聞えあげしかば御藥を賜ふ。此夜丑滿ごろ城兵塙團右衛門。長岡監物。御宿越前等を將として大野主馬治房が屬兵百人をえらみ。(大坂覺書八十人。感狀記三千人。攝戰實錄百六十人。)蜂須賀阿波守至鎭が陣に夜討をかけたり。蜂須賀方篝も明らかならず。戍卒等熟睡して有ければ。三十餘人撫切にす。蜂須賀が陣には家士中村右近かくと聞。唯一人速にかけ合せ。敵兵木村喜左衛門と鎗をあはす。喜左衛門は右近に鑓付る所へ。蜂須賀家士稻田修理かけよりて喜左衛門を突伏たり。城兵牧野潮太。畑角大夫。田屋右馬助等修理を討んとかけ寄るを見て。修理鑓を投突にして引返す。其時蜂須賀方岩田七左衛門。長谷川小右衛門。井十カ兵衛馳來り鑓を合せ。四宮與兵衛。鵜飼七カ左衛門は功名す。城兵米田監物が組伊達杢。伴彥大夫もよく戰ふ。主馬が所屬の土平野治部右衛門は討死す。塙が所屬生駒又右衛門は。中村右近を突伏て其首とらんとする所へ。修理が長子稻田九カ兵衛生年十五歲(又十七歲)の初陣なりしが。打合て生駒を突伏。首討て右近が首を敵にとらしめず。其屍を引とりたり。其間に寄手雲霞のことくむらがり來れば。團右衛門は城兵を指揮して輕くまとめ城へ歸りしが。兼て用意やしたりけん。今夜の大將塙團右衛門としるしたる札をこゝかしこに蒔散し置たり。大野主馬治房も城門まで出て控へ居しが。今夜蜂須賀が兵三十人討死。敵の首廿八級を討とりしと之。(駿府記。武コ大成記。大坂覺書。世に傳ふる所は。前月廿九日大野主馬道頓堀に陣しけるに。蜂賀須。山內。
石川等南北船塲より。土佐座阿波座邊まで取しきければ。城中軍議してとかく下町筋をすてゝ。上町へ引とるべしとの事なりしを。主馬一人承服せず。依て主馬を城內へ誘招き寄。其跡へ間者を出し。今橋より中筋長堀邊を自燒せしむ。折ネ乾風烈しく道頓堀邊燒立たるに。主馬が城內にあれば。屬兵共大に狼狽し。馬具兵具とりすてゝ上町へ迯出る。塙團右衛門が一隊のみ少しもさはがず。心閑に兵具ひとつも取落さず城內へ引とる。其火旣にしづまると其あとへ。蜂須賀淺野が軍勢押入。主馬が屬兵捨置たる旌旗兵具を拾とる。かくて主馬は其後北は今橋。南は本町筋に備を立しかば。蜂須賀が陣と相對す。蜂須賀が陣に主馬が捨置し旌旗をかざり置大聲に嘲哢す。主馬大に是を憤れは。團右衛門も大に恥。是非ひと夜討して此恥を雪んとはかる。其後又城中軍議して。川筋の橋どもを燒落せしめし時も。主馬團右衛門本町の橋をばやかせず。兎角して主馬より大藏卿局を以て。夜討の事を秀ョに申請て。さてこそ今夜蜂須賀陣を討て。猶も此事世に廣く傳へんと用意し。名を札に書て戰塲に蒔散せしとぞ。大坂覺書。)又城兵歸洛に高麗橋を燒おとす。(攝戰實錄。)
○十七日蜂須賀阿波守至鎭。昨夜城兵夜討をかけ。家人防戰せし委細を。茶磨山御陣へ注進す。よて使番小栗又一忠政をつかはされて諸士軍功を聞召る。此時又一忠政指揮して。蜂須賀が陣前の栅を取拂はしむ。又板倉內膳正重昌御使して。軍功の輩を褒賞せらる。阿波守至鎭軈て參陣して謝し奉る。不慮の夜討を防戰し。大功の旨褒詞を給ひ。家士稻田修理も手負ながら參謁し御感を蒙る。又至鎭に御感狀を給ふ。其文にいふ。今度穢多崎馬勞淵を攻取。あまつさへ仙波表にて敵より夜討をかけし時。家人等鑓を合せ首級をとり。手を負たる擧動一入感じ思召旨なり。至鎭が父蓬庵入道へも。御感書を遣さる。修理幷其子九カ兵衛へは。御感書幷時服佩刀を給ふ。其他森甚大夫。同甚五兵衛。廣田嘉右衛門はじめ戰功の士十人。金時服を下さる。次に藤堂和泉守高虎御前に參り。戰にのぞまば陣營には留守を置べし。さなくば後陣狼藉に及ぶべしと申しけるとき。藤堂が後陣に備へしは尾張勢なれば。成P隼人正正成聞もあへず。先陣城にすゝむ時は。後軍は左右をかへりみず。旌旗を堀際までおし進む。いかでか狼藉に至るべきといふ。此日越前少將忠直朝臣拜謁せらる。大御所本多上野介正純。土井大炊頭利勝に向ひ給ひ。忠直ことに成人せり。將軍の重寳となるべしとて。御スのさまあらはる。次に松平陸奥守政宗拜謁し。陣中仕寄の指圖を御覽に備ふ。此程片桐市正且元咳なやむ由聞しめし。片山與安宗哲をして。脉をうかゞはしめたる。此日勅使廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿御陣に參向ありて。嚴寒の折から老躰久しく野陣に日を送らるゝ事。宸襟をなやまさる。しばらく軍事をば諸將に令し。其身は京都へ歸り保護せらるべし。また双方和平の事。內勅あるへきにやと仰を傳ふ。大御所聞召。天恩の忝叡慮謝するに詞及はずといへども。某は諸軍の指揮を司りて。當地に在陣せざる事を得ず。和平の事はもし仰あらんに。秀ョ其旨に應ぜさる時は。天威を輕しむるに似たり。此事しかるべからざる旨答給ふ。次に加藤肥後守忠廣。八代蜜柑五箱獻ず。筑波山知足院參謁す。岡山御陣より水野監物忠元。稻富宮內重次に命ぜられ。佐竹の陣塲高處より。石火矢數挺を以て城中に放たしめらる。又淺野但馬守長晟仙波の堀川を埋めんとするに。敵城中より放つ佛カ機其玉土俵の中まで打とをす。その重さ五六斤なり。御前にめして御覽じたまふ。(駿府記。大坂覺書。御撰大坂記。家忠日記。)
○十八日本多上野介正純阿茶局をともなひ。京極若狹守忠高が陣所にまかり城中より忠高の母堂常高院尼を招寄て。和平の事を議せらる。此日榊原遠江守康勝茶臼山の御陣に參謁す。この夕岡山御陣より。水野監物忠元御使して開口魚を進らせらる。又大御所よりは鶴をつかはさる。安藤對馬守重信きづきし河堤成功の勞を褒せらる。片桐市正且元が備は京橋口なりしが。此日は豐國明神の忌辰なれば。秀ョ公城內祠堂へ參詣あるべしとて田付兵庫助景澄に命じ。大佛カ機を放けるが。雷霆のごとくひゞきて。折ふし淀殿の居られたる天主の二重目の柱にあたり。柱折てその下に侍りし女房二人。粉のごとく打くだかる。淀殿大に恐怖して。いよいよ城內和平の事おこりしとぞ。(駿府記。武コ大成記。此說十六日注文にしるしたる。稻富宮內が鐵炮にて淀殿居間の柱を折倒し。女房若干震死すといふ說と大同小異なり。もしくは一事を兩樣に傳へ誤りしにあらずや。いづれか是なるをしらず。一說此日岡山御陣より諸陣御巡見あり。眞田河內守信吉。內記信政兄弟が。敵城近く仕寄を進たるを御賞詞あり。又安藤對馬守重信を召て。大和川をこえ給ふべしと仰らる。重信とゞめ奉るといへども。聞召いれられず。其時本多三彌正重來りければ。重信正重をかたらひ。今日は日影西に傾きたり。
明日か明後日今福までも御巡見御尤に候とともども申ければ。理りと聞召入られ。此所より還御なる。城中にては御所御巡見ありと見ければ。今福までいたらせ給はゞ。大筒にて打奉るべしと用意したれど。道より歸らせ給ひし故。此計もむなしくなりぬ。安藤本多が諫言にて。その機を得たりと後に人々感服せしとぞ。又城中には眞田後藤等相談し。寄手には兩御所常々陣中御巡見ある樣に見うけたり。秀ョ公にも城內御巡見あるべしと命令はあれども。いまだ一度も巡視し給はず。諸軍勢勇氣をまし候はんため。御巡視然るべしと申。淀殿尤なりとて前夜より美酒佳肴をおびたゞしくつみ出し。諸軍を慰勞せられ。翌朝辰刻郡主馬首良列旗奉行なれば。先に立金の切先十二本。津川左近允親行茜の吹貫五十本。金瓢簞の馬印おしたて。二三万の軍勢前後左右をかこみ。秀ョ巡見せらるれば。淀殿も跡より巡見あり。三丸より二丸本丸次第に及ぶ。淀殿本丸の天守にのぼり四方を眺望せらる。唯今迄も城內の軍勢五六万。兜の星をかゞやかしなみゐたる有樣。げにョ母しと思はれしかど。城外の寄手山川のへだてもなく。幾百万騎數も限らず。家々の旌旗何千となく風になびき。雲につらなる躰を見られ。大に恐れ。我は織田殿の姪にて淺井長政が女なり。軍にのぞみ討死せんは。兼て覺悟するといへども。此大軍を引請ては。秀ョ運開き給ふべきにあらず。いかにも和議をはからふべしと。有樂治長等に申含められしと見ゆ。攝戰實錄。)
○十九日城より織田有樂入道。大野修理亮治長の使來り常高院尼即刻出城のよしを告る。よて本多上野介正純。後藤庄三カ光次此旨を聞え上れば。正純をして。阿茶局を伴ひ。京極が陣所に至り常高院尼に對面せしめらる。秀ョ母子の旨を述ぶ。本城を殘し二三の郭の堀を埋め。有樂入道大野治長が子弟を人質に參らせ。新入の處士等一統今度の罪をゆるされ。その上兩御所自今以後御疎意あるまじとの盟書をたまはらんとの旨なりとぞ。茶磨山には越前少將忠直朝臣。松平甲斐守忠良。松平筑前守利常。加藤式部少輔明成。福島備後守正勝。松平河內守定行。藤堂和泉守高虎。仙石兵部大輔忠政參謁す。またK田甲斐守長政子右衛門佐忠之は。病いまだ快からずといへども。つとめて參陣し。鹽硝五十斤を獻ず。其家臣井上周防守。小川內藏允も拜謁す。次に南光坊僧正天海拜謁す。又ョ宣卿生母の父正木覲齋入道落馬せるよし聞しめし。片山與安宗哲もて摩沙圓を賜ふ。此日より東西御和議の事おこるをもて双方矢炮を止む。(駿府記。家忠日記。福富覺書。兩御所はるばる御出馬の印に。惣二三丸の栅塀はすぐに。城內の人數をもてとり拂はるべしと仰つかはされ。御和議の事におよばれしとぞ。大坂覺書。攝戰實錄。)
○廿日城中より淀殿の使とて。常高院尼。二位の局。饗塲の局三人。荼磨山御陣に參り。大御所に時服三襲。緞子三十卷進らせられ。いよいよ御和談ことなくおよしみをむすばれんよし聞え進らせらる。(金地院日記。大坂覺書。世に傳ふる所は。是よりさき本多正純より有樂修理へ。上々樣がた一旦弓矢に及ばせられ候へども。御重緣のよしみ淺からざれば。旣に御和議の事うちうち事なくととのひぬ。有樂修理これまで御和議の事はからひながら。兎角遲引し。その間にうちうちのあつかひにて事平らぎなば。兩人の身に罪を得られんもはかりがたし。よく思慮あるべきなりと申送りしかば。兩人大に驚き村田吉藏。米村權右衛門を使とし。上々樣方御內意平らぎぬれば。下々にて兎角申上べきにあらず。猶御和議の事そのとゝのはん樣願ひ奉るよしをこたへ其後に城中よりこの女使は來りしとぞ。大坂覺書。)御陣にては有樂修理兩人より。人質を獻ぜんとの事なれば。その質子を請取て來るべしと。後藤庄三カ光次に本多上野介正純の家人寺田監物を差添て城中へ遣はさる。織田有樂入道は其子武藏守長政とて。十九歲なるを出す。大野修理亮治長は幼稚の子を出しければ。光次大に怒て。强て其長子信濃守長コとて十七歲なるを受とり伴ひ歸り。大御所光次が擧動ゆゝしとて御感を蒙る。此日片桐市正且元。主膳正貞隆は。家人小島庄兵衛重田惣右衛門を本多佐渡守正信。上野介正純がもとへ送り。先に御懇の密命を蒙るが故に。軍令そむきがたく虎口を守り。一方の寄手に備ふといへども。御和議とゝのふに於ては。かくてあるべきにあらず。所領へ赴き閉戶して籠居せんとこふ。大御所聞しめし。且元兄弟關原以來の擧動。みな先々の命令を守り。殘所なき事共なれば何の憚あらんや。こと更忠勤と感じおぼし召るゝところなり。いよいよ丹精をぬきんでゝ。つかふまつるべしと仰下されしかば。且元兄弟忝と答へ奉る。(武コ大成記に。常高院阿茶局城中にて淀殿に謁し。和平の議を說諭せしとしるす。家忠日記金地院日記等には。けふは和平すでにととのひ。常高院等御陣に參りしよしにしるす。この說是なるがごとし。)寄手城兵ともに塀際にあつまり。互に親戚戰死の屍を引とる。(駿府記。天和書上。福富覺書。)
○廿一日安藤帶刀直次。成P隼人正正成。永井右近大夫直勝仰をうけ。諸手の仕寄を本陣に引とらしむ。また松平下總守忠明。本多美濃守忠政。本多豐後守康紀。瀧川豐前守忠征。佐久間河內守政實。山本新五左衛門正成。伊東右馬允政世。安藤治右衛門正次。永田善左衛門重利。山岡五カ作景長等に。城溝を埋め。堅く四門を警衛して。軍勢の狼藉を禁ぜしむ。この日九州大名の軍勢。室兵庫の津に着岸せしとの注進あり。本多上野介正純をして。大坂旣に和平に及べば。諸軍その地より歸帆すべき旨をつたへらる。また島津陸奥守家久へは。上野介正純。山口駿河守直友書簡を以て。御和平により何方迄出船ありとも。その處より直に歸國あるべしと傳ふ。(武コ編年集成。家忠日記。坂上池院日記。天和書上。金地院日記には是等の事みな廿三日にしるす。)
○廿二日東西御和議旣にとゝのひければ。今日双方御盟書を取かはせ給ふとて。城中よりは木村長門守重成。郡主馬首良列茶磨山御陣に參り。大御所の御盟書を拜受して歸る。城中へは茶磨山よりの御使板倉內膳正重昌。岡山よりの御使阿部備中守正次をつかはされ。秀ョ公盟書を請取て歸り參る。(武コ大成記。世に傳ふる所は。木村長門守重成今年十九歲。((一說廿一歲。))白小袖の上に淺黃小袖麻上下を着し。芦毛の馬に乘り。文箱を淺黃のふくさにつゝみ頸にかけ。供の從者七人。郡良列は二百余騎。小具足にて跡にしたがふ。二丸水の手門天王寺口より茶臼山に至り。京極若狹守忠高案內し。御本陣門前にて各下馬し。玄關に本多正純出向ふ。御前には松平正綱。秋元泰朝。成P。安藤等伺公し。重成をば書院中央に召出され。良列は御次にとゞまる。同朋コ阿彌御茵を上段に敷。鳥居左京亮忠政御脇差を持出て御側に置。御刀は竹腰山城守正信是を持。大御所は綿子の上に茶色縮緬の小袖。同色胴服綸子の袴。茶縮緬の頭巾を召る。正純御前に參り。重成參上の由申す。重成御前にすゝみ。少しも臆せず。今度不慮の一亂に及びし所。御和睦に及び。万事御仁慮を以て太平の基をひらかれ。大慶これに過ず。とてもの事に御印拜見の爲。恐ながら某をさし進らせられ候と申終て平伏す。大御所聞し召。和睦の上は其議に及ばずといへども。天下靜謐の爲とあれば。默止べきにあらずとて御舌のはしを少し切給ひ。其御血を盟書にそゝぎ給へば。正純取て重成に授く。重成その臺ともにおしいたゞき。委く拜見して卷納て文箱に納む。其時左京亮忠政熨斗を持出る。伊奈筑後守忠政御手がはりして。其熨斗を重成にさづく。その時大御所重成に。汝は常陸が子かと尋給ふ。さん候と答へ奉る。實にも面ざしのよく似たる事かな。汝が父も秀次關白につかへ忠義の者なりしが。石田が讒にて無失の罪に身をうしなへり。弓矢とる身程哀れなる者はなし。しかし汝が父の仇をば我うちとりしぞ。うとくな思ひそとの給へば。一座の人々感淚をながす。重成盟書をいたゞき。文箱を手に持て退出す。始重成玄關に參りし時。大小名群居の中に禮をほどこさず打通りしが。歸路には跪き。先刻は秀ョ公御詞を申述ざる間ゆへ。各へ一禮に及ばざりし事。御免を蒙るべしと挨拶す。群居の輩そのゆゝしさを感じて一言も出さず。伊奈筑後守忠政御念入候。早々御退出あれと申て。重成は退出す。其後城中への御使を本多正純に命ぜられしに。城より弱輩の重成を使とせらる。少年の秀ョへ。某老臣の身にて。御使せん事いかゞあるべきや。願くは少年の輩に仰付らるべきかと申上しかば。ことはりと聞しめし。板倉重昌に仰付らる。重昌(時に十八歲。)重正も正次も腹卷に陣羽織着し。從者五十人ばかりにて重成が歸るさにおしつゞき玉造口より入る。有樂修理より人を出し。御祝儀の事なればとて大手より入らしむ。城中門々番士烏帽子素袍にて堅固嚴重なり。書院へのぼれば秀ョは直衣立烏帽子にて大野治長披露して板倉阿部拜謁す。秀ョは更に詞もなし。やがて秀ョ治長にむかひ。宛所はと問はるれば。治長重昌にいかゞと問ふ。重昌こは大御所へと申けるにぞ。秀ョもその如くしるし。指血をそそぎ直に奥へいらる。治長兩使にむかひ勞を慰すれば。兩使御和睦大慶のよし申て。もとの道を立かへり。御本陣に參り御前に出れば。大御所宛所の事を申殘しつるが。いかにはからひしそど仰らる。その事さしあたり疑惑仕候へども。御名を申て候しと申ければ。よくもはからひしぞとて。大に御稱譽ありしといへり。又一說には重成始御盟書を拜見し。秀ョ公は他意なく候へども。母堂婦女の事にも候へば。今少し御血判詳になし下され候樣にと申ければ。老年にて指に血少しとて。御後に侍座せし女房の中に。御手をさし出されしかば。針にて御指をつきし樣に見えて。今度はあざやかに御血をそゝがれしかば。重成忝と拜戴して退くとも見ゆ。攝戰實錄。)この十一月吉野熊野の凶徒一揆蜂起し新宮を攻かこむ時。淺野但馬守長晟が家司淺野右近家人戶田六左衞門。土民の質子を取かため。二千人を引つれ新宮川を乘越て。一揆を追擊したるよし注進す。この日本多正純が奉書もて右近を褒せらる。(御撰大坂記。)
○廿三日城溝を埋め塀栅をこぼつべしとて。其奉行を本多上野介正純に命ぜらる。けふより諸勢をして塀栅をこぼち堀をうづむ。日野亞相入道唯心。金地院崇傳には。今度公卿家々の舊記を書寫せしめらるれば。諸家禮法古今相違の事。うたへ出べきむね。先に令せられしかど。いまだその答をきかず。速に催促すべしと命ぜらる。(御年譜。創業記。駿府記。)
○廿四日黎明に茶磨山近所の陣屋五六燒失す。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。加々爪甚十カ忠澄等陣門を警衛し出入を禁ず。夜明て岡山より參らせ給ひ御對面あり。城中より織田有樂入道。大野修理亮治長參謁し。各々時服献じ御和議を賀し奉る。入道が子武藏守長政。治長が子信濃守長コも。おなじく時服一襲を献ず。京極若狹守忠高も拜謁す。この時入道は十コ。治長は羽織跨を着す。本多佐渡守正信。藤堂和泉守高虎御前に伺候す。大御所堀櫓をこぼちうづむる事。いそぐべしと仰られ。治長頓首して退出す。(駿府記。世に傳ふる所は。治長拜謁する時。大御所は本多正純をめして。修理事唯今迄は若輩ものと思召たるに。今度城兵の惣大將となり。弓矢の武邊はいふまでもなし。秀ョへの忠節淺からず思召所なり。汝も今後修理にあやかり候樣いたせと仰られ。治長が肩衣をこひとらせ給ひ。正純に着せ給へば。治長冥加に叶たりとて感淚を流したり。有樂入道は御次にさがり。群參の人々の中にて。是よりは天下太平ゆたかなる御代に逢て。我らは是にて一生を送らんと。茶を點ずるまねをせしとぞ。大坂覺書。)次に松平筑前守利常。福島備後守正勝。淺野但馬守長晟。鍋島信濃守勝茂。細川內記忠利。寺澤志摩守廣孝。松平武藏守利隆。同左衛門督忠繼。同宮內少輔忠雄。森右近大夫忠政。有馬玄蕃頭豐氏。稻葉彥四カ一通。京極丹後守高知。松平土佐守忠義。堀尾山城守忠晴。加藤式部少輔明成。南部信濃守利直。毛利長門守秀就。同甲斐守秀元。吉川藏人廣家。蜂須賀阿波守至鎭拜謁し。次に越前少將忠直朝臣舍弟虎松。榊原遠江守康勝。本多出雲守忠朝。本多美濃守忠政。松平下總守忠明。本多豐後守康紀。石川主殿頭忠總。水野日向守勝成拜謁し。次に南光坊僧正天海。金地院崇傳拜謁し。天海が建白によりて。鷹師小栗忠藏正忠御勘發を許さる。又長崎奉行長谷川左兵衛藤廣堺政所を仰付らる。長崎の事をも今迄のごとく司らしめらる。井伊掃部頭直孝は今度の軍功により。江州佐和山の城を給はり。速に封地に赴き國政汰沙すべしと仰付らる。次に城中より七組番頭等皆參陣し。太刀折紙を献ず。織田雲生寺ョ長は麁扇二ネ献じ。其名を雲生寺八方院火用坊としるす。人みな是をあやしみたり。蜂須賀阿波守至鎭茶磨山御陣に召て。今度軍功を褒せられ。長子千松丸御あやかり申べき爲とて。御上帶をとかせたまひ。御肩衣袴幷金三百兩千松に遣はすべしとて下さる。其家人稻田修理。其子九カ兵衛。祖父宗心。林道感。山田織部佑。樋口內藏助。岩田七左衛門。森甚五兵衛。森甚大夫も見え奉り。修理へ御感狀に元重の御刀そへて給ひ。九カ兵衛に御感狀に兼光の御刀添て給ひ。宗心道感へ時服一襲。金十枚づゝ。甚九兵衛へ御感狀に陣羽織そへて給ひ。內藏助織部佑へも御感狀を給ふ。松平宮內少輔忠雄家人川治大夫。箕浦勘右衛門にも御感狀を下さる。又尼崎は諸國の海船運送の津にて大坂城の倉廩若干此地に設く。領主建部三十カ政長は少年なるが故に。松平武藏守利隆に守護せしめ。池田越前守重利を加勢とせらる。大坂よりしばしば人數を出し。侵掠せんとせしかば。南部越後守某を加勢とせらる。大坂より粮米を城中へ運送せしめんとすれども。政長栅結廻し堅固に警衛す。御和議旣にとゝのひければ。松平主殿頭忠利仰をうけ。天滿より尼崎に陣替す。政長は茶臼山御本陣に參り拜謁する跡に。城より薄田隼人正兼相三百人ばかりを引具し神崎迄來り。尼崎へ使を送り。尼崎は大坂の所屬なれば。すみやかに賦稅を納むべしと政長がもとへ申送る。忠利聞て薄田がもとへ使を送り。忠利仰をうけ尼崎を守護す。もし人數を尼崎へかけられば。迎擊て追拂ふべしと申遣しければ。兼相大に恐れ早く城へ迯返る。大御所大に忠利を褒し給へりとぞ。(駿府記。駿河土產。家譜。天和書上。武コ大成記。)
○廿五日岡山には猶御在陣ありて所々御巡察あり。本多上野介正純。成P隼人正正成。安藤帶刀直次等奉行し。惣堀埋湮の事を沙汰す。大御所には辰刻茶磨山御本陣を出て。京都へ歸らせ給ふ。京より板倉伊賀守勝重御迎に參り。申刻二條城へいらせらる。(武コ大成記。駿府記。世に傳ふる所。かねては廿六日御歸陣。御勢は廿五日夜中より打立べしと令せられしかば。諸勢其用意する所。廿五日亥刻俄に御手廻りばかりにて。御放鷹の御供立。銃二。弓一對。鎗二。長刀一。提灯二。茶磨山より玉造にかゝらせ給ひ。大坂城中二三丸の間を何氣なく押通り。平潟まで夜明て京にいらせたまふ。
大坂の守兵更に見とがむるものなし。又御發輿以前本多正純を召て。總堀はいふ迄もなし。二三丸をも寄手人數にて破却し。堀は三歲の子上り下りのこゝろ儘なる程に。埋しめよと仰らる。是日正純嚴しく下知し。城の惣搆を破却し。二三丸は城中より命ぜらるべしといへども。遠國の寄手在日の長きをうれひ。助力して破却すべしと願ふ。尤の事とて惣人數二三の丸の塀櫓を打こはし。堀を埋めかゝる。城中是は約束遠へり。いかなる故ぞと有樂治長より。正純が許へ申送る。正純は風の心地して打臥し何事もあつかはずといふ。城中には今夜茶磨山に夜討の計策專らなりしが。はや御歸陣と聞てあきれはてたり。又一說にこの前日伊達政宗藤堂高虎と相談せしは。今度とてもの事に本丸まで打つぶして。大事を成就せんとて。御本陣に參會の諸將にもすゝめ。一同に今度惣堀を埋め。二三丸を破却等の事。御威光にて速に平均す。此上臣等愚意には本丸迄破却し。根本を斷滅せば。聖子神孫の御ため然るべきにやと建白す。大御所聞しめし。をのをの申所尤至極せり。然れ共我故太閤の舊好を思へば。秀ョを誅するに忍びず。今度先本丸は手指すべからず。此上にも秀ョ恩に背き反逆に及ばゞ。其時はせんかたなしと仰ければ。滿座たゞ曠世の仁コに感淚を流す。淺野。山內。有馬。堀尾。南部等は猶も强て此事聞え上んとせしが佐竹義宣此所へ來り。御發輿前なれば。しばらく後日に建白し給へとすゝめ。をのをの退出せり。翌日御發輿のあとにて諸將參會し。昨日の事强て諫め奉らんと評議せしに。政宗いひけるは。今日俄に御發輿ありしは。きのふ我等が議し申ける事の敵にもれん事を思召ての事なるべし。所詮年內餘日もなし。惣堀を埋め二三丸迄塀櫓破却し。躶城になしたれば。踏潰す事は何時も安かるべしといへば。諸將此議に同意してやみたりしが。彌諸勢急に諸所破却にかゝる。治長大に驚き。茶磨山へ使をたてゝ其故を糺せば。本多。成P。安藤等惣堀とあるゆへ。堀を一統に埋めしむ。其方二三丸の堀を埋ん事をいなむは。再度籠城の心かといふ。よて治長も語塞りしかば。淀殿より玉局といふ女房を使にて。正純に約を變じ內堀を埋らるゝはいかなち事ぞ。急に制詞を加ふべしとあれども。正純はその局を饗應して其返事もいはず。成P安藤等がもとへ申遣はせば。我々御陣跡を警固のためかくて候へども。堀埋の事は正純父子が沙汰にて。我らさらにあづからずと答ふ。よて京へ使たてゝ正純が父佐渡守正信へ申遣はせば。正信病臥とて二三日その使に對面もせず。其間日々人數を揩ト。堀は殘らず埋め終りし頃。正信は大坂に赴き此躰を見て大に驚き。某は病臥して何ごとも豚兒にまかせ置しに。豚兒若輩もの何の思慮にてかかる粗忽を下知し驚入て候。御和睦の上はこれも目出度吉端なるべしとて歸りしとなり。城中はたゞ物にをそはれしこゝちして更に物言ふものもなし。村越覺書。大坂覺書。攝戰實錄。武コ大成記。)この日有樂治長幷七組伊東丹後守長次。木民部少輔一之。堀田圖書助勝嘉。速見甲斐守守之等は岡山御陣に參り拜謁し御和平を賀す。また淺野但馬守長晟は歸國の暇給ひ。蜂須賀蓬庵入道へは大御所御書を給はり。阿波守至鎭が今度の軍功を賞し下さる。(駿府記。天和書上。)
○廿六日大坂にては寄手惣人數を以て。城溝へ大材を抛入土俵をまろばし入ておめきさけんで埋めけるほどに。さしもの大溝本丸計りを殘し。一日の中にことごとく平地となす。二條城にては先に命ぜられたる舊事紀。古事記。日本紀。續日本紀。日本後紀。文コ實錄。三代實錄。釋日本紀。類聚三代格。內裏式。江次第。明月記。西宮記。山槐記。菅家文集。續文粹繕寫終りしとて。金地院崇傳御覽に備ふ。林道春信勝も是にあづかる。片桐市正且元。板倉伊賀守勝重幷僧廓山拜謁す。(武コ大成記。駿府記。)
○廿七日岡山御陣より土井大炊頭利勝二條城へ御使し。大坂二三丸櫓塀破却。惣堀埋め終りし事を聞え上給ふ。また從軍の諸大名をのをの歸國の暇給ひ。今度在陣の勞を慰せられ。三年の間土木人夫助役の事免許の旨命ぜらる。又大坂和泉堺等の法令を定めらる。二條にては京職板倉伊賀守勝重に。明日巳剋大御所御參內あるべし。天酌の事は辭し給ふむね。先達て傳奏衆のもとへ申送らしめらる。よて傳奏衆より御參內あらんに。轅輿は築地內へ入事を得ざれば。長橋局まで御乘輿にて成せ給ふべしとつたふ。此日金地院崇傳。K谷C林拜謁す。本多次カ大夫光平鮮鱈を獻ず。直に供御に充らる。神龍院梵舜自寫の三光双覽抄を捧ぐ。(駿府記。武コ大成記。慶長年錄。舜舊記。)
○廿八日巳刻大御所御參內あり。大遠紋の袍を召る。供奉みな烏帽子素襖を着す。まづ長橋の局にまいらせ給ひ。しばしありて御對面まします。今度御和睦世上太平に歸し。叡感淺からざるむね詔あり。大御所にも聖慮御仁恩の深き事を謝し給ふ。例は御盃まいり天酌あれど。御老躰ゆへに先日より固辭し給へば其事なし。
主上に銀千兩。綿三百把。仙洞に銀五百兩。綿百把。女院。女御に銀五百兩。綿百把づゝ進らせ給ひ。再び長橋局に渡らせ給ひ。攝錄の方々始め上達部みな謁せらる。禁中儀式の事ども議し給ふ。近年兵革打つゞき朝儀みな廢す。舊記にもとづき今の宜をはかり。定め給ふべしと仰られ申刻二條城に還御なる。やがて阿野宰相實顯院使として參向し。御武コを以て。天下忽に靜謐し。けふ御參內御喜スのむねをつたふ。菊亭右大臣晴季公も。拜謁せまほしく願ふといへども。老歩心にまかせず。本意を失ふ旨を傳ふ。又明年は改元あらまほしき旨の天氣をのぶ。大御所仰には漢土太平の美號を用ひ給ふべき由答給ふ。又板倉伊賀守勝重に命ぜられ。伏見中務卿邦房親王の家に傳へられし。桾ィ千歲菊の製方を書寫し進らせらるべしと仰遣はさる。次に片桐市正且元拜謁す。御所には岡山にて越年し給へは。且元もかしこにまかるべしと仰下さる。堺政所長谷川左兵衛藤廣鮮鯛十尾を獻ず。また松平武藏守利隆が今度の軍功を褒せられ。銀三千枚を給ふ。(一說五千枚。)富田信濃守知勝が收沒の所領伊豫國宇和島十万石を。松平陸奥守政宗が長子兵五カ秀宗に賜ふ。この日京諸寺へ寺領の御印書をなし下さる。天龍寺へは寺領千七百廿石。山城國中に散在する所别記のごとし。常住領碩學料諸塔頭支配等。指書のごとく全く寺納すべし。幷門前境內山林竹木先規のごとく免除せらる。この旨をまもり佛事勤行修造等。怠慢なくいよいよ天下安全の懇祈を抽べしとなり。建仁寺領八百廿一石。東福寺領千八百五十石四斗餘。万壽寺領八千五百石四斗餘。其文は前に同じ。慈照寺領は山城國深草の內三十五石全く寺納すべし。山林等先規のごとく。免除せらるゝとなり。聽松院領は山城國朝原村百石。岩栖院領北山內七石。先規のごとく院納あるべしとなり。酬恩庵は山城國薪木村九十五石。全く寺納あるべし。山林等先規のごとく免除すべしとなり。(駿府記。攝戰實錄。紀年錄。駿府政事錄。家忠日記。ェ政重修譜。國師日記。)
○廿九日岡山御本營より。在陣の諸大名悉く暇たまふといへども。五万石以上は万石に廿人づゝ殘し。明年正月二日より大坂の外郭を破却すべし。五万石以下は人數を殘すに及ばず。明春歲首の拜賀も心にまかせ。陣役にいとまなき徒は。まうのぼるに及ばずとふれしめらる。諸大名この令に感銘し歡ぶ事かぎりなし。然といへども破却の事は。一万石以上皆人夫を出さんとこふ。よりて一万石より三万石迄二十人。五万石迄三十人。七万石までは五十人。十万石迄は百人。十五万石迄二百人。廿万石までは四百人。廿五万石までは八百人。卅万石までは千五百人。五十万石迄は二千人。百万石までは三千人とかぎり課せらる。又歲首拜賀の事。近國一日程の徒は元日拜賀畢り二日發程すべし。西國四國の徒。川口に風を待て滯留すべからず。この令堅く守るべし。万一違犯せば過失たるべしとなり。かくて年內歸國のともがらのみ。岡山御營に參り歲暮の賀聞えあげ奉る。松平陸奥守政宗は。明春大御所御出京三日後に發程すべしとて。けふ岡山に參り酒一樽幷大福の料とて茶一箱。難波の寒梅一枝を獻ず。御所御對面ありて。ことさら御氣しきうるはしく御盃を賜ふ。御所は岡山にて御越年あるにより。成P隼人正正成。安藤帶刀直次は茶磨山御營に留守し。明春は元日に參賀すべし。その時も本多上野介正純は猶茶磨山にとゞまり。大坂外郭破却の惣奉行たるべしと命ぜらる。さきに堀埋の奉行命ぜられし松平下總守忠明。本多美濃守忠政。本多豐後守康紀。下奉行渡邊半四カ宗綱。山田十大夫重利も暇下され。目付瀧川豐前守忠征。佐久間河內守政實を殘し。山本新五左衛門重成。山岡五カ作景長。(一說山城宮內少輔。)も暇下され。二條城には勅使廣橋大納言兼勝卿。西三條實條卿參向ありて。正月節會。白馬。踏哥等幷准后。親王。諸家官位等の事はからはせたまふ。大御所聞しめし是等の事古今異同の說區々にして。一旦に定めがたし。深く古の律令格式等を考て。駿府より奏し奉るべしと答へたまふ。今夕賀儀例のごとし。伊丹喜之助康勝を岡山より召て。諸軍月俸のことを令せらる。細川越中守忠興は島津が出軍せんまでは在國すべしと令ぜられしに。毛利島津も出船せりと聞て。一万二千餘兵を率し。この日門司の關まで着船したりしが。御和平によて速に歸帆すべしと令せらる。島津陸奥守家久も。けふ豐後森口まで着岸せしに。これもおなじ令を聞て。直に歸國せりとぞ。(攝戰實錄。駿府記。天和書上。)
◎是月小笠原兵部大輔秀政三子虎松丸十六歲。首服加へ。御所御一字をたまはり。叙爵して。壹岐守忠知と改む。柳澤左太カ元吉に采邑五百石給ふ。(家譜。ェ政重修譜。)
◎此年三枝平六守知。長谷川民部少輔守知が三子兵助守勝初見の禮をとる。(ェ政重修譜。) 
卷三十四 / 元和元年正月に始り三月に終る御齡三十七 

 

元和元年(七月十三日改元。)乙卯正月元日岡山御營に在陣の諸大名。裝束にて出仕し新年を賀し奉る。二條城へは在京の諸大名幷諸出家まうのぼり拜賀す。大坂より右大臣秀ョ公名代として。伊東丹後守長次參る。はてゝ自からの賀をも聞え上る。御前給仕の諸大夫裝束を用ひず。五か日の間長袴を用ゆ。大御所には明後三日御出京あるべしと令せらる。(駿府記。元ェ日記。慶長年錄。)
○二日岡山御本陣警衛の軍勢不足なりとて。本多美濃守忠政。松平下總守忠明。岡山の東に陣替して警衛す。(金地院日記。攝戰實錄。)
○三日快晴。午刻大御所二條城を御首途あり。此とき大番頭松平石見守康安。水野備後守分長。松平忠左衛門勝隆は。御所岡山御在陣の間。和州郡山城にまかり警衛すべしと令せらる。申刻に江州膳所城にいらせ給ふ。城主戶田左門氏鐵御膳を献ず。此日神龍院梵舜は粟田口にて見え奉る。水野監物忠元は名古屋まで御見送りに參る。又大峰先達等草津に出て。勝仙院護摩料押領の事を訴ふ。板倉伊賀守勝重金地院崇傳に查撿すべしと命ぜらる。(駿府記。ェ永系圖。紀年錄。舜舊記。元ェ日記。國師日記。)
○四日辰刻御船にめさる。近習に小姓五六輩。其他松平右衛門大夫正綱。片山與安宗哲。後藤庄三カ光次のみ伺候す。矢橋より御上陸ありて。申刻水口へつかせ給ふ。代官長野內藏丞某御膳を奉る。板倉內膳正重昌より。父伊賀守勝重幷に金地院崇傳へ。山伏先達等訴狀の事。兩人會議して裁斷すべしとの仰をつたふ。(駿府記。國師日記。)
○五日卯刻水口を出給ひて。申刻勢州龜山の城にいらせらる。城主松平下總守忠明はいまだ在坂により家人等饗し奉る。この日K田筑前守長政へ御書をたまはり。其子右衛門佐忠之病をおして上坂せしを勞せらる。(駿府記。貞享書上。)
○六日辰刻龜山城を出まし。申刻桑名の城に入給ふ。城主本多美濃守忠政は大坂に在陣するゆへ家人等饗し奉る。此日御途中鈴鹿山坂下山林深密の地なれば。銃手二百人を埋伏して警衛せしめらる。日向半兵衛政成。畠田C左衛門直時これを指揮す。(駿府記。)
○七日卯刻桑名城を出まし。御船にて名古屋へ赴かせ給ふ。熱田より御馬を奉り。御途中放鷹したまひて。申刻名古屋城にいらせらる。城主宰相義直卿在坂により。家人藤田民部少輔某。原右衛門某等饗し奉る。(駿府記。)
○八日名古屋御滯留。卯刻より城外に御放鷹ありて。鶴三。鴈鴨若干からせられ。申刻歸らせらる。岡山の御營より。大坂城諸務を以て堀を埋るといへども。二丸の堀濶四十間あるひは五十間六十間。水底の石垣三間四間。淺所も二間。急に成功得がたきよし聞し上る。(駿府記。)
○九日名古屋を御發輿まして。御道すがら鷹狩せられ。鶴三鴈鴨數多得給ひ。申刻岡崎城へ入たまふ。城主本多豐後守康重は大坂に在陣していまだ歸らず。よて家人等饗し奉る。今夜追儺。京にては金地院崇傳より。五山僧徒に令し明日より古書謄寫の事を催す。(駿府記。國師日記。)
○十日立春。岡崎に御滯留ありて鷹狩し給ひ。鶴四鴈鴨多く得給ふ。岡山御陣より永井信濃守尙政御使に參り。大坂堀埋の事この十六七日には成功すべきよし仰進らせらる。織田前內府入道常眞は江戶に住居せん事をこふによて。故大久保石見守長安が宅地を營作せしむ。又大久保半右衛門忠永。去年宗家忠隣が事に座して御勘氣蒙りしが。此とき召されて近侍し奉る。(駿府記。國師日記。ェ政重修譜。)
○十一日岡山御營に蜂須賀阿波守至鎭をめして。去年穢多が崎幷仙波表の軍功を褒せられ。御感狀に順慶左文字の御刀そへてたまはり。其上御家號をゆるさる。その家人稻田修理に。長光の御刀。その子九カ兵衛に延壽の御刀。ともに御感狀をそへて下さる。父宗心幷林道感に。金百兩。時服二づゝそへて下され。森甚五兵衛。岩田七左衛門には御陣羽織一づゝ。御感狀そへて下され。森甚大夫へ時服二に御感狀そへて下され。山田織部佑。樋口內藏助にも御感狀を下さる。この日越前忠直朝臣の弟虎松。從五位下侍從に叙任し。御名の一字給はり伊豫守忠昌と稱す。大御所は岡崎に御滯留あり。(家忠日記。紀年錄。家譜。藩翰譜備考。駿府記。)
○十二日岡崎御旅館へ岡山より御使とて。佐久間河內守政實。安藤治左衛門正次參る。御前にして大坂堀埋の事を御垂問あり。二丸の堀深くして堤を崩し。其土を以て埋るといへども。猶不足するがゆへに。千貫櫓幷織田長益入道有樂。大野修理亮治長が邸宅等を破却し。その屋材を投入て。やうやく平均すとこたへ奉る。又正次に玉造鴫野口合戰のさまをとはせらる。委曲答奉り御感を蒙る。(駿府記。)
○十三日岡崎城へ最上駿河守家親が使鮭延紀伊守をまいらせ。白馬二匹。K馬一匹。國產漬蔘一桶を獻ず。紀伊守も子籠鮭十隻奉る。紀伊守拜謁のとき。家親貞實なる生質故。江城留守せしめらるゝよし仰を蒙る。(駿府記。)
○十四日岡崎にて鶴鴈若干狩らせ給ふ。最上駿河守家親が使鮭延紀伊守に歸國のいとま給はり。家親へ御內書を下さる。土井大炊頭利勝參謁し。御氣色を伺ふ。(駿府記。武コ編年集成。元ェ日記。)
○十五日岡崎御滯留。御放鷹昨日の如し。(駿府記。世に傳ふるところは。此日秀ョより使者として。伊東丹後守長次。木民部少輔一重來り。本多上野介正純につきて申けるは。旣に御和睦の時つかはされたる御盟書にも。惣搆の堀のみ埋むべきよししるされしに。東國勢惣人數をもて城中の堀悉く埋めたり。御盟書の趣と相違せるは。如何なる子細にての事にや。そのむね承りたしとの事なり。大御所聞しめし。惣堀を埋んとは外郭の堀のみ事と令したるを。その奉行等あやまりて。麁忽に城中の堀を悉く埋めたりと見えたり。やがて關東より舊のごとく修治してつかはさるべしと御答ありて兩使をば歸されたりとなり。この事坂上池院日記。元ェ日記等に見ゆるといへども。駿府記政事錄等に。この日大坂の使來りたる事は見えず。いぶかしきに似たり。よて本文にはしるさず。)この日勢州桑名の城下火あり。市井三百戶餘。城主米廩七。材木藏一この災にかゝる。夜中大雪。近江美濃和泉は。そのつもる事四尺餘なりとぞ。(當代記。)
○十六日宰相義直卿ョ宣卿大坂より京へ歸陣せらる。この日唐商ばらへ交趾國渡船の御朱印を下さる。舟本彌七唐商三官にも同じく下され。船右衛門へ呂宋國渡船の御朱印を下さる。(創業記。摯竚c長年錄。御朱印帳。)
○十七日岡山御營に。上杉中納言景勝卿の家士鴫野表軍功の徒をめして褒賞を給ふ。杉原常陸介へ御感狀に時服一襲。金十枚。須田大炊助に御感狀幷御刀。(銘詳ならず。)時服一襲。鐵孫左衛門に御感狀。時服一襲下され。佐竹右京大夫義宣が家士今福の軍功を褒賞せられ。戶村十大夫。海津半右衛門へ御感狀に御刀一口。時服一襲。陣羽織一づゝそへて給ひ。信太內藏助。大塚九カ兵衛。K澤甚兵衛にも御感狀を下さる。又伏見城番平岩金左衛門正當死して。其子大番金左衛門正次家つぐ。此日より雪ふる事三日に及ぶ。(家忠日記。金地院日記。ェ政重修譜。當代記。)
○十八日岡山御營より御使山善四カ重長岡崎に至り。大坂二丸まで堀を埋め終れば。御所には此十九日伏見へ御歸陣あるべし。義直ョ宣兩卿はすでに。十六日京へかへせられし旨聞し奉る。(駿府記。)
○十九日申刻御所岡山御營より。伏見の城へ還御なる。本多上野介正純。安藤對馬守重信は大坂に留り。猶堀埋の事を監臨す。松平下總守忠明。美濃守忠政も在陣してその事をつとむ。郡山勤番せし松平石見守康安。水野備後守分長。松平忠左衛門勝隆歸謁し。銀五十枚づゝ下さる。この日大御所は岡崎より吉良にかりし給ふ。鶴鴈等御得物多し。(御年譜。武コ大成記。攝戰實錄。家傳。駿府記。)
○廿日伏見城に在京の輩まうのぼり。歲首を賀し奉る。本多佐渡守正信はけふ大坂より伏見に着す。大御所はけふも吉良に狩し給ふ。すべて去冬より今春にいたり。寒威の烈しき事例年に超たり。(國師日記。當代記。)
○廿一日伏見より脚力もて。この十九日岡山より伏見まで御歸陣の事を。吉良の御旅舘に告進らせ給ふ。大御所けふも御放鷹あり。辻左次右衛門久吉死してその子忠兵衛久昌つぐ。久吉はじめ豐臣家の臣木村彌市右衛門秀俊に仕へ。後御家人に列し。信州上田の城責のとき七本鎗のその一人なり。(駿府記。家譜。ェ政重修譜。)
○廿二日伏見より御使成P豐後守正武吉良御旅館へ參謁す。けふも御鷹狩し給ふ。又關東奥州より上坂の諸軍勢。このせつ歸陣により。券なしとも通行せしむべきよし。成P隼人正正成。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝奉書もて。信濃衆。千村平右衛門良直。知久伊左衛門則直。代官宮崎太カ左衛門安重へ傳ふ。(駿府記。天和書上。)
○廿三日吉良御旅館へ秀ョ公より吉田玄蕃允某使して。染物箔の小夜物二。緋綸子の小夜物一。おなじ蒲團一。緋鷹子蒲團一。蒔繪枕一。紅梅の枕掛一。桐長持二棹に入てまいらせらる。大野修理亮治長より羽二重十疋。玄蕃允某は鷹大誌\筯を獻ず。玄蕃允某をめして。秀ョ公へ御狩の鶴をつかはさる。けふも御狩あり(。駿府記。)
○廿四日御所伏見より二條城へいらせ給ひ。直に御參內あり。吉良御旅館にては。けふ烈風によて御放鷹なし。安藤帶刀直次大坂より吉良へ參謁す。(駿府記。)
○廿五日五山。大コ。妙心。龍安寺の僧徒二條城にのぼり拜謁す。吉良にては御放鷹あり。鶴鴈あまた得給ふ。(國師日記。駿府記。)
○廿六日吉良御旅館へ。京職板倉伊賀守勝重脚力もて。御所この廿四日二條城へ渡御。同日御參內ありしをも注進す。この日大風。吉良にて御かりなし。(駿府記。)
○廿七日御所御參內供奉の輩松平伊豫守忠昌は從四位下にのぼせらる。從五位下に叙するもの十一人。酒井万千代忠行は阿波守。松平源次カ乘壽は和泉守。松平伊賀忠晴は伊賀守。秋田安東太カ俊季は伊豆守。(備考二十六日とす。)
太田新六カ資宗は備中守。山內吉助一唯は伊豆守。小山左源太某は長門守。䕃山佐助貞廣は因幡守。井上半九カ正就は主計頭。神尾五兵衛守世は刑部少輔。水野藤次カ重良は淡路守と改む。今朝二條城には八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。其外攝家C華。すべて上達部。殿上人。諸門跡。僧綱。凡僧皆拜謁し奉る。萩原大夫兼從。神龍院梵舜もおなじ。大御所は吉田邊御放鷹。鶴鴈鴨あまた得給ふ。(御年譜。武コ大成記。藩翰譜備考。舜舊記。駿府記。)
○廿八日御所二條の城御首途。關東へ赴かせ給ふ。在京諸大名もみないとま給はり。各封地にかへる。御所今夜膳所城を御旅館となさる。城主戶田左門氏鐵御膳を献ず。今朝金地院崇傳へは時服三。銀五十枚下さる。吉田にては大御所御放鷹例の如し。(駿府政事錄。御年譜。元ェ日記。ェ政重修譜。國師日記。駿府記。)
○廿九日御所は膳所を出まし。水口に宿らせ給ふ。大御所は御道すがら鷹放ち給ひつゝ。M松城につかせらる。(元ェ日記。駿府記。)
○晦日水口より龜山に到らせ給ふ。大御所は中泉につかせらる。こゝに御所御使として內藤右衛門佐正重參謁し。二條城を廿八日御首途。大坂堀埋め成功し。諸大名悉く就封の暇たまはり歸國すといへども。大坂には新入の處士等いまだ一人も放ち去しめず。猶城中に群居する由聞え上る。大御所聞召。大坂城中破却成功の後御對面あらんため。御放鷹に日をかさねられ。此地に御滯留のよし仰遣はさる。又板倉伊賀守勝重より脚力もて。故池田宰相北方良正院御方。京にて痘なやみたまふよしを告奉る。又京金地院には五山幷大コ。妙心。龍安。高臺寺の諸僧にたまはる時服を領布す。(元ェ日記。駿府記。國師日記。)
◎この月山岡五カ作景長二子主水景兼初見し。片山源右衛門國次は致仕し。其子三七カ國家父の原職を繼。作事方の小奉行となり。外科漆崎道益正房子平四カ定常は。大筒役井上外記正繼に屬せしめられ。松平伊豆守信吉伏見勤番にくははる。(家譜。)
○二月朔日御所桑名に御とまりあり。大御所は中泉に御滯留。大坂より本多上野介正純參りて。かの城溝悉く埋終り。二三丸の堀門櫓殘る所なく破却し。本城櫻門邊を往來の道路とするよし聞え上る。(元ェ日記。)
○二日御所宮の驛にとまらせ給ふ。(元ェ日記。)
○三日名古屋城へ着御。宰相義直に長光の御刀。則國の御脇差を遣はさる。義直卿饗應しまいらせ。長光の刀來國光の脇差を奉らる。大御所は猶中泉に御滯留。(御年譜。家忠日記。駿府記。)
○四日御所岡崎に着せらる。宰相ョ宣卿は御所の御歸路に駿府に饗し給はんとて。いそぎ歸らるゝ道にて。義直卿名古屋にて饗し奉られしと聞給ひ。ョ宣卿は駿府にて饗し奉らるべきむねを聞え上らる。大御所けふも中泉にとまらせられ御放鷹あり。朝比奈源六泰勝。阿倍四カ五カ正之目付を命ぜられ。伏見より直に肥後國に赴く。(駿府記。御年譜。家忠日記。泰勝正之兩人は使番之。肥後國目付はさゝれしなるべし。)
○五日岡崎より御使として。井上主頭正就中泉の御旅館に參り。御所昨日岡崎につかせ給へば。七日には中泉に至らせ給ひて。御對面あるべしと仰進らせらる。大御所御スありて。御旅館の洒掃を命ぜられ。莚帶をも新に設しめらる。(駿府記。)
○六日御所M松につかせたまふ。(駿府記。)
○七日辰刻中泉に至らせられ。御父子御對面あり。大御所より饗膳進らせられてのち。本多佐渡守正信上野介正純のみ侍座して。御密議數刻に及ぶ。次に土井大炊頭利勝を召して。議せらるゝむねあり。次に扈從の輩酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信。水野監物忠元。井上主計頭正就。神尾刑部少輔守世。小山長門守某。山伯耆守忠俊。本多三彌正重をはじめ七十餘人大御所に拜謁し。各慰勞の御詞を下さる。また御所に御鷹を進らせらる。松平伊豫守忠昌にも同じく給ふ。午時御所中泉を辭し給ひ。掛川につかせらる。(駿府記。慶長年錄。慶長日記。)
○八日御所田中城に入らせらる。京職板倉伊賀守勝重より。良正院御方この五日。播磨國姬路にて逝去の事を告奉る。(武コ編年集成。駿府記。)
○九日御所御制中ゆへ駿府にはいらせ給はず。C水にやどらせらる。大御所けふも中泉に滯留し給ふ。(武コ編年集成。駿府記。)
○十日大御所相良にいたり給ふ。この地始て鷹狩し給へば。新殿搆造あり。(駿府記。)
○十一日雨により御延留あり。(駿府記。)
○十二日御所蒲原に着せ給ふ。大御所田中にいたらせらる。代官彥坂九兵衛光政御膳を献ず。この日遠藤但馬守慶隆長子長門守慶勝。京柳馬塲旅宿にて病卒す。歲廿八とぞ。(元ェ日記。駿府記。家譜。)
○十三日御所三島驛に着せ給ふ。大御所は田中に泊狩し給ふ。(元ェ日記。駿府記。)
○十四日御所小田原に着御あり。大御所はけふ駿府にかへらせ給ふ。(元ェ日記。家忠日記。駿府政事錄。)
○十五日雪ふる。駿府にては今夜より近習の夜詰をゆるし給ふ。(駿府記。)
○十六日御所江戶城にかへらせ給ふ。猿樂幸若舞あり。(一說十四日とす。元ェ日記。)
○十七日松木常哲忠成死して。子七カ兵衛安成家つぐ。(家譜。)
○十八日良正院御方の事により。秋元但馬守泰朝吊使命ぜられ播州に赴く。(駿府記。)
○廿日長谷川左兵衛藤廣及茶屋四カ次カC次駿府に參謁す。(駿府記。)
○廿三日井伊掃部頭直孝を駿府に召て。兄右近大夫直勝多病なるがゆへに。直孝父直政が家つぐべしとて。近江國彥根十五万石を賜り。兄の直勝は父舊領の內。上州安中三万石を給はり。病を養ふべしと命ぜらる。(武コ大成記。榮松錄。世に傳ふる所は。この時直孝淚をながし。兄にて候直勝。年ごろ病にをかされ。軍國の政務に堪ず。然りといへども父直政に附屬せられし古兵ども多く候へば。家の事をば沙汰し申べし。直孝かくて候へば。天下の御大事あらんには。兄が代官として彼手のものを引具し馳むかひ候はん事。此度の如くにこそ候べけれ。いかなる仰なりとも。兄にて候者を退け。父が家をつがん事。のぞむ所に候はずと辭しけれども。御ゆるしなければ。安藤帶刀直次につきてしきりになげき申たりしかど。終に御免なかりしとなり。藩翰譜。)
○廿六日越後少將忠輝朝臣駿府へ參謁せらる。これ江戶城留守せられし故なり。織田長益入道有樂より。家人村田吉藏を使として。入道思はずも大坂城中にありしかば。出城せんと密計する所。御和睦とゝのひし上は。はやく城を出て京堺邊に閑居すべきよし聞え上る。大御所聞召。その心にまかすべし。猶江戶のむねを請て。ともかくもはからふべしと仰下さる。この日太田市左衛門重榮大番にいる。(駿府記。家譜。)
○廿八日江戶留守したる最上駿河守家親駿府に參り謁し蠟燭を献ず。家司鮭延紀伊守も拜謁す。備前より脚力もて。この廿三日松平左衛門督忠繼痘なやみ。卒去のよし注進す。忠繼年十七。去年大坂にてもことさら軍功ありしことなれば。大御所御外孫といふのみならず。御愁傷大方ならず。兄武藏守利隆幷岳父美作守忠政へ。吊使として森筑後守可澄をつかはさる。忠繼には江戶駿府より香銀を給ふ。越後家へ付られし代官小宮山六カ右衛門宣正死して。其子喜左衛門宣重つぐ。(駿府記。家譜。)
○廿九日村上周防守義明。溝口伯耆守宣勝駿府に參り謁す。商人某へ交趾國渡船の御朱印を下さる。(駿府記。御朱印帳。)
◎是月內藤紀伊守信正に尼崎勤番。三宅越後守康信。其子大膳康盛。仁賀保兵庫頭擧誠等に淀城を警衛せしめらる。日向半兵衛政成子傳右衛門政次。大御所に初見し奉る。(武コ大成記。ェ永系圖。)
○三月朔日駿府には日野亞相入道唯心及諸士まうのぼり拜謁す。けふ日蝕す。(駿府記。)
○二日江戶より御使として。土井大炊頭利勝駿府に參り。密に聞え上るむねあり。(駿府記。)
○三日上巳例のごとし。駿府にも賀例のごとく行はる。出仕の輩みな長袴を着す。(駿府記。慶長年錄。)
○四日島津陸奥守家久へ。本多上野介正純奉書もて。今春江戶駿河に參府する事を延滯し。うちうち旅裝を用意して。一左右を待べきよしをつたふ。(貞享書上。)
○五日京職板倉伊賀守勝重より。大坂城中再叛の企ありとしられ。近郊米豆を買入。去冬埋めたる城溝を疏鑿し淺所は人の腰に至り深所は肩に至る。その外處士おびたゞしく新入する事去年にこえ。處士二三百人づゝ每度京にのぼり。都を燒拂はんとする風說あり。また近日大佛殿再興のため。積たくはへたる巨材を城中に引取んとするゆへ。淀の木村與惣右衛門勝Cこれを抑留せしよし注進す。(落穗集拾遺。世に傳ふる所は。大坂去年軍士五萬を集む。和議のゝちこの軍士に割與ふべき地なし。そのうへ城溝悉く埋められ君臣憤を含む。去年關東の大軍五十萬人城をめぐり攻て功なく兵を解く。たとひ樓櫓破却し溝渠皆埋めらるゝといへども。關東勢を引受一戰に勝敗を决せんは居ながら餓死せんには。はるかにまさるべしとすゝめしかば。秀ョこれを然りとし。又再叛を用意あれば。山林潜藏する無ョの徒を募り集む。これを聞京都の農商大に恐れ。醍醐鞍馬邊へ資財をもちはこび。東西南北に奔馳して。その騷擾大かたならず。秀ョ别所藏人助信。長谷川吉左衛門C貞を以て。これを制しとゞめしむるがゆへに。いよいよ衆人うたがひをなせしとぞ。武コ大成記。元ェ日記。)この日藤堂和泉守高虎に預られたる筒井伊賀守定次。鳥居左京亮忠政に預られたる宮內少輔順定切服せしめらる。これ去年中大坂に內通の聞えあるが故とぞ。(家譜。)
○十日余語源三カ伊成死して。其子久兵衛正重つぐ。伊成が父勝久は織田右府につかへ。伊成は御家人にめし出され。本多佐渡守正信に屬して。七十騎の頭となり。采邑上總國東金の內に住せしかば。大御所御放鷹の折から。伊成が邸宅に過らせ給ひ。御前近くめさせ給ひ。御旨を蒙り。この日死せしなり。(家譜。)
○十一日駿府にて尾州名古屋へわたらせ給ふべしとて。供奉の輩用意を命ぜらる。宰相義直卿近日婚禮行はるゝ故とぞ。(元ェ日記。)
○十三日大坂より秀ョ公の使木民部少輔一重。
淀殿の使常高院尼。(京極若狹守忠高の生母。)二位尼。(渡邊筑後守勝の姉。)大藏卿局(大野修理亮治長の母。)正榮尼(渡邊內藏助糺の母。)駿府に參着す。(駿府記。)
○十四日阿茶局に本多上野介正純をそへて。常高院尼の旅館に御使し慰勞せらる。この日濃州加納城主致仕奥平美作守信昌卒す。齡六十一。よて加納十万石は三子故攝津守忠政が子千松にたまふ。嫡子大膳大夫家昌别に宇都宮にて。十万石領するがゆへなり。此信昌はもとの美作守貞能が子。始め八九カ定昌といふ。(家說。)その先祖赤松則景が二子氏行。上野國奥平クを領せしより家號とし。八カ左衛門貞俊がときより。三河國作手にうつり。世々百貫文の地を領しける。そのゝち安祥三カ殿の御手にしたがひ。後に駿河の今川に屬す。父貞能がとき今川をそむき。當家に從ひ軍忠をはげみしが。元龜三年に至り。一族等甲斐の武田に從ひしとき。心ならず祖父監物貞勝入道道文。父貞能。武田が旗下に屬しけれども。貞能は猶當家に志をはこび。敵の謀をも通じ進られせける。天正元年貞能父子をのが作手の城を去て歸順せし時。信昌は武田が方へ質とせし妻をすてゝ參る。その志尤深ければとて。三年二月廿八日さきに長篠の城をたまはりぬ。武田勝ョ大にいかり。大軍にて其城を攻しに。定昌小勢をもつて嚴しく守る。長篠の戰大勝となりしかば。織田殿も大に感賞有て。諱の字給はり信昌にあらたむ。四年三河國新城にうつりすむ。この七月大御所第一の姬君(龜姬君。)を降嫁せしめらる。又長篠の功を賞せられ。作手。田峯。長篠。吉良。田原。および遠江國の內にて采邑をたまひ。大般若長光の御刀を下さる。のち甲州および尾張の小牧山小田原の戰等其軍功少からず。十六年爵ゆりて美作守と稱し。十八年關東へうつらせ給ひし時。上野國小幡にて三万石くだされ。宮崎城に住しけり。慶長五年九月關原戰終りて後。京都の守護を命ぜられ。六年三月美濃國加納の城給はりて十万石になされ。九月三男忠政に四万石をわかちあたへ。七年忠政に六万石をつがしめ。忠政が領せし四万石は。信昌が養老の料にあてらる。かくその身拔擢せらるゝのみならず。子共までみな御外孫の事なれば。所領多く給はり恩に浴しけるが。老後に男子三人までさきだてゝ今日終りぬ。この日奈良の奉行中坊左近秀政へ御書給はり大和の國人等大坂へ籠城するものあるべし。嚴に查撿し國中靜謐すべしと仰下さる。(駿府記。家忠日記。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。天和書上。)
○十五日秀ョ公使臣木民部少輔一重駿城にまうのぼり拜謁す。秀ョ公自書ならびに金欄十卷進らせらる。一重も蒔繪鷹の打枝十枚獻ず。次に常高院尼。二位局。大藏卿。正榮尼等は奥に參り見え奉る。(駿府政事錄。武コ大成記。世に傳ふる所。女使等淀殿の口狀を聞え上しは。兩御所やすらかに御歸城。万民安心のことこの上あるまじく候。つぎに大坂所領河攝兩國。去年大旱の上兵亂にて土民逃散し。賦稅さらに收納せず。城中上下艱困すること甚し。御仁惠の御はからひを仰進らせらるゝとの趣之。大御所聞召。尾州にて宰相婚儀行はれければ。我も近日尾州へ赴なり。田舍に生立し女房共儀式にならはねば。三女は先達て尾州にいたり其指揮すべし。一重は江戶に赴き其事を聞え進らせ。跡より尾州へ來るべし。我は尾州より京にのぼり。河攝の民を撿察し。政令を正すべしと仰ありしと之。武コ大成記。元ェ日記。)
○十六日京職板倉伊賀守勝重より。大坂ひそかに京に出勢し。大內仙院以下を燒拂ふ風說頻なるゆへ。京中上下大に騷動するよし注進す。依て井伊掃部頭直孝。藤堂和泉守高虎。本多美濃守忠政。松平下總守忠明。京の東寺邊へ陣取大內を守護し。直孝高虎は淀大渡へ人數を出し。往來を查撿すべしと令し下さる。(駿府記。慶長年錄。)
○十七日松平陸奥守政宗京より歸り來り。駿府にまうのぼり太刀馬を獻じ御盃を給ふ。織田內府入道常眞も今日參謁す。(駿府記。國師日記。)
○十八日江戶より土井大炊頭利勝御使として駿府に來り御密議あり。(駿府記。)
○十九日林道春信勝。金地院崇傳京より駿府に歸參し。去年命ぜられし古書謄寫のこと。成功せしよしきこえ上る。(駿府記。)
○廿日松平陸奥守政宗駿府より江戶に參る。蜂須賀家政入道蓬庵は江戶より駿府に參り謁す。金地院崇傳。大內幷親王攝家及門跡よりさゝげられし典籍を御覽にそなふ。大御所御氣色大方ならず。日野亞相入道唯心も侍座す。この夕雨ふる。夜に入て大風。(貞享書上。駿府記。國師日記。)
○廿一日林道春信勝。金地院崇傳に群書治要。大藏一覽開板の事を命ぜらる。(駿府記。)
○廿二日駿府に於て石火矢を鑄造せしめらる。(駿府記。)
○廿三日江戶にて酒井雅樂頭忠世。酒井備後守忠利。安藤對馬守重信奉書もて。武川の輩へ軍役一万石。鎗百ネと定めらるゝといへども。今度は鎗五十ネ銃二十挺持しむべしと傳ふ。
この日中山雅樂助信吉叙爵して備前守と改む。(天和書上。家譜。)
○廿四日大野修理亮治長が使米村權右衛門駿府に參る。織田內府入道常眞拜謁す。(駿府記。國師日記。)
○廿五日去年九月より。伊勢にて風流踊と名付。諸人風流の衣裳をかざり。市街村里を踏哥す。其風十一月ころより畿內近國に及びしが。今日駿府にて土人この踊をなす。やがて日をへず奥羽までも風習大に盛になる。(駿府記。紀年錄。これは伊勢の巫祝等歸化の唐人をたのみ。太神宮飛行し給ふとて。所々に花火を飛す。國々此神祭を迎ふるとて。かく踏哥をなせしが。やがて嚴制せられしなりとぞ。摯竚c長日記。駿府記。)この日內藤左馬助政長房州勝山にて一万石加へ給はり。四万石になさる。其子帶刀忠興。上總國佐貫にて别に一万石を給ふ。大坂の軍功によてなり。(家譜。貞享書上。)
○廿六日宰相義直卿へ。故の淺野紀伊守幸長の女子を。幸長沒前に定婚ありしが。このほど尾張名古屋へ入輿し婚禮行はる。よて成P隼人正正成いそぎ駿府を辭して。名古屋へ赴く。(駿府記。)
○廿八日土井大炊頭利勝駿府を辭し江戶に歸る。酒井雅樂頭忠世。酒井備後守忠利。安藤對馬守重信奉書にて武川の徒に。來月二日大御所駿府御發駕。尾州名古屋へならせらる。近日御所にも御上洛のよしつたへ。又他クより亡命せしもの其地へ來らば。搦取て江戶へ注進すべし。もし迯去しめば曲事たるべしと令し下さる。織田長益入道有樂大坂より。後藤庄三カ光次へ消息して。城中には入道の詞更に用ゆる者なければ。其詮なきに似たり。早く出城せんと思へば。こと更援助を請よしなり。久保新三カ正俊が子吉右衛門正元初見す。時に十四歲。(國師日記。天和書上。斷家譜。)
○廿九日江戶よりの御使幷井上主計頭正就駿府に來り。拜謁して御密議あり。(駿府記。)
○晦日大坂に籠城せし高野山行人十二人。其黨百十人。其坊跡沒入すべしと令せらる。(國師日記。)
◎是月大坂再叛のきこえ旣にさだかなれば。板倉伊賀守勝重江戶駿府の令をまたずして。京都諸口の警衛を嚴にし。後に御感を蒙る。松平下總守忠明。本多美濃守忠政は速に上洛し。東寺鳥羽邊を守護す。江戶にては屋代越中守勝永が子甚三カ忠正。去冬大坂の軍功を褒せられ。甲州逸見にて新に四千石給はる。山大藏少輔幸成。同圖書助成重子新十カ成次。ともに御勘發をゆるさる。また南部信濃守利直封地にて。大坂再叛の事を聞。家司楢山五左衛門を江戶にまいらせ。御出陣のあらましを伺ひければ。今度は出軍に及ばず。封地にありて東國を鎭護すべき旨。本多佐渡守正信仰をつたふ。利直かさねて使を奉り。兩御所へ馬二十疋づゝ献ず。處士平井久右衛門長勝新に召出され。書院番命ぜらる。(貞享書上。家譜。ェ政重修譜。)
◎此春肥後國大村の城主大村丹後守喜前致仕し。其子新八カ純ョ家をつぎ。二万七千九百石餘を領す。この喜前は故の民部大輔純忠が子にて。豐臣關白九州を征伐ありしとき。御かたに參りしかば本領安諸し。朝鮮にも七年が間在陣し。慶長四年正月十一日叙爵して丹後守と稱す。五年大坂の奉行等が奉書により。長門國下關まで着船し。有馬松浦五島の人々と會議し。喜前眞先に引歸し。東國の御味かたすべき旨。加藤主計頭C正がもとへ申をくり。其後C正に從ひここかしこに軍しければ。大御所御感書をなし下され。十九年大坂の軍には。仰により鎭西の人々同じく參陣す。この春致仕して二年八月八日。四十八歲にて卒せしとぞ。(藩翰譜。ェ政重修譜。) 
卷三十五 / 元和元年四月 

 

○四月朔日月次拜賀例のごとし。身延山僧日乾拜し奉る。また酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝奉書もて五畿內の大名へ令しけるは。大坂城の落人あらば。男女老幼を分たず搦取て進らすべし。かくし置者は曲事たるべし。各怠慢あるべからずとなり。また雅樂頭忠世。大炊頭利勝。酒井備後守忠利。安藤對馬守重信奉書もて武川衆へ令しけるは。大坂の事により。今月九日十一日の中に御出陣あるべし。よてそれより先に近江勢田まで打てのぼり。去年の軍令のごとく。同隊相議して指揮を待べし。路程は東海中山道いづれにも心にまかすべし。万石に二百人役たれば。召具する從者鎗持以下其人をえらみ用ゆべし。夫馬以下のため一万石に三百口の月俸を下さるべしとなり。(國師日記。家忠日記。天和書上。)
○二日大坂より進らせられたる女使三人幷木民部少輔一重は。尾州名古屋に赴き着御を待べしと命ぜられ。けふ駿府を發程す。片桐市正且元。その子出雲守孝利。石河伊豆守貞政駿府に參謁す。且元父子は今度大坂を引拂て參りしとぞ。又京職板倉伊賀守勝重より。五山僧徒新寫の書籍を駿府に搬送す。(紀年錄。國師日記。駿府記。)
○三日大御所には宰相義直卿合卺の禮行はるればとて。明日名古屋へならせらるべしと仰出さる。(駿府記。)
○四日午刻大御所駿府を御發輿ありて。申刻田中に着せ給ふ。駿府は鶴千代君を留後に置れ。宰相ョ宣卿をばともなはせ給ふ。今度尾州より直に大坂へ御發向あるべきにより。御供の輩。御旗の奉行庄田三大夫安信。保坂金右衛門某。御鎗奉行大久保彥左衛門忠教。若林和泉直則。千本鎗奉行は米津梅干之助康勝。小林勝之助正次。根來組百人。鐵炮支配成P隼人正正成。與力百騎。同心百人。內藤若狹守C次。與力廿五騎。同心百人。先手弓取布施孫兵衛重直。蜂屋七兵衛定ョ。共に與力十騎。同心廿人づゝ。先手鐵炮頭坪內玄蕃家定。日向半兵衛政成。齋藤伊豆利宗。共に與力廿騎。同心五十人づゝ。使番小栗又一忠政。眞田隱岐守信昌。初鹿野傳右衛門昌久。城和泉守昌茂。田甚右衛門尹松。山本新五左衛門重成。服部權大夫政光。鈴木久右衛門伊直。島彌左衛門一正。間宮權左衛門伊治。C水權之助政吉。本多藤四カ政盛。原田藤左衛門種吉。山城宮內少輔忠久。米倉丹後守信繼。佐久間河內守政實。河野勝左衛門盛政。瀧川豐前守忠征。奥山治右衛門重成。目付は加々爪甚十カ忠澄。豐島主膳信滿。日下部五カ八宗好。牧野C兵衛正成。花井庄右衛門吉高。老臣本多上野介正純。大番頭は駿河三組松平忠左衛門勝隆。松平石見守康安。水野備後守分長。歩行頭は松平內膳重則。同右馬助景次。阿部善七カ忠吉。三井左衛門佐吉正。寄合組の頭永井右近大夫直勝。西尾丹後守忠永。書院小姓組の頭は松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。坂倉周防守重宗。(重宗上京の時は安倍彌一カ信盛代る。)足輕大將は坪內宗兵衛家定。杉浦市右衛門正友。阿部四カ兵衛重眞。渡邊彌之助勝。室賀源七カ滿俊。權に原田四カ左衛門種直を加へらる。普請奉行佐藤勘右衛門繼成。村田權右衛門某。簟笥奉行中根喜藏正次なり。またこの日軍令を下さる。喧嘩口論嚴に制禁せらる。違犯の徒は其事の是非を論ぜず。双方誅罸せらるべし。或は親戚の緣故により。或は同僚の知音により荷擔する徒は。罪科本人より重かるべし。もし宥恕して後日露顯に及ばゞ。其主も重罪たるべし。先手をこえて功名するといへども。軍令にそむく者は罪せらるべし。先隊に告ずして斥候を出すべからず。故なく他備に入交る徒は。武具馬具ともに收公すべし。もし其主異議に及ばゞ共に曲事たるべし。人數押のとき脇道する事嚴に制すべし。諸奉行の令違犯すべからず。御使として誰をつかはさるゝとも違背すべからず。持鎗は軍役の外たれば。長ネを持ずして持鑓のみ持しむべからず。長ネの外にもたせば。其主の馬前に一本もたしむべし。陣中にて馬を取放べからず。押買狼藉すべからず。もし違犯せば罪せらるべし。小荷駄は道の左を通行し。軍勢に混雜すべからず。山坂にては山にそひ通行すべし。舟にて渡さんに。他備に混雜せず一手越たるべし。夫馬以下もこれに同じ。此令違犯の徒は嚴科に處せらるべしとなり。又御所より藤堂和泉守高虎に御自書をたまひ。先に大坂再叛の形勢詳密に聞え上て。御感淺からず。大御所今日駿府御首途あり。御指揮を待て江戶出馬すべしと仰下さるゝといへども。遠路遲引せんことを思召ば。近日江戶を御發向あるべし。高虎もやゝこの頃は封地發程すべしと思召るゝとの御旨なり。高虎もけふ封地を出立て淀の城郭を修理す。又島津陸奥守家久。加藤肥後守忠廣。田中筑後守忠政。細川內記忠利は封地にありて。忠廣忠政は島津が出船に少し先立出船し。忠利は少しのちに出陣すべしと令せられ。福島左衛門大夫正則は江戶にとゞめらる。(駿府記。御年譜。供奉記。元ェ日記。令條記。武家嚴制錄。家忠日記。藩翰譜。)
○五日大御所掛川へつかせ給ふ。大坂より大野修理亮治長使を以て。大坂城を出て他にうつらん事は秀ョ公母子さらに同意なし。幾度も陳謝せらるべき旨。常高院尼をもて申さるゝよしなり。大御所聞召。もししからんに於は。止事を得ずと答給ふ。此日伏見町奉行長田喜兵衛義正書狀をささげ大坂再叛のさまいちじるくして。京伏見までこれがために騷擾なゝめならざるよし告奉る。(御年譜。駿府記)
○六日江戶より近日御出馬あるべきにより。先隊の諸大名今日府を發して出軍す。その一番は酒井左衛門尉家次。その所屬は松平甲斐守忠良。山內豐前守一唯。小笠原若狹政信。水谷伊勢守勝隆。仙石兵部少輔忠政。同大和守久隆。相馬大膳亮義胤。二番本多出雲守忠朝。その所屬は眞田河內守信吉。秋田城介實季。淺野采女正長重。松平石見守康安。六ク兵庫頭政乘。植村主膳正康明。須賀攝津守勝政。一色宮內義直。三番榊原遠江守康勝。その所屬は松平丹波守康長。小笠原兵部大輔秀政。諏訪出雲守忠恒。保科肥後守正光。成田左衛門尉長忠。北條出羽守氏重。丹羽五カ左衛門長重。藤田能登守信吉。四番は土井大炊頭利勝。其所屬は堀美作守親良。佐久間備前守安政。同大膳亮安次。谷大學頭衛友。北條久太カ氏利。由良信濃守貞繫。溝口伊豆守善勝。五番は酒井雅樂頭忠世。その所屬は牧野駿河守忠成。鳥居土佐守成次。新庄新三カ直好。杉原伯耆守長房。細川玄蕃頭興元。土方掃部頭雄重。稻垣平右衞門重綱。脇坂中務少輔安治。この輩行程を陪し早く上洛して。御着陣を待べしと令せられ。また驛驛に令を傳ふべきために。使番近藤勘右衛門用政をつかはさる。また大御所にはけふ中泉につかせ給ひ。美濃。尾張。三河。伊勢等の諸軍。早く伏見鳥羽邊へ進發すべしと。本多上野介正純もて令せらる。また江戶より中泉御旅館へ板倉周防守重宗御使し。御旅中近侍せしめらる。(駿府記。村越覺書。)
○七日大御所M松へ至らせ給ふ。中國西國の諸軍は封地に有て御指揮あらば。速に西宮尼が崎邊へ出陣すべきよし。本多上野介正純もて。鍋島信濃守勝茂へ傳へしめらる。(駿府記。天和書上。)
○八日江戶城にて六ク兵庫頭政乘子長五カ政勝初見し奉る。大御所吉田へつかせ給ふ。本多上野介正純もて島津陸奥守家久に令せらるゝ事。昨日鍋島信濃守勝茂に令せられしに同じ。(家譜。駿府記。天和書上。)
○九日大御所岡崎へ着御あり。松平陸奥守政宗けふ江戶を出たつ。(駿府記。貞享書上。)
○十日江戶城御出馬あり。御留守は竹千代君幷に國松君を置かせ給ふ。松平下野守忠ク。鳥居左京亮忠政。奥平大膳大夫家昌。內藤左馬助政長。酒井河內守重正。福島左衛門大夫正則。平野遠江守長泰。戶澤右京亮政盛等是にしたがふ。町奉行は米津勘兵衛田政これをつとむ。諏訪因幡守ョ水は甲府を勤番せしめらる。その外すべて去年留後のことし。御供の老臣本多佐渡守正信。御旗奉行三枝土佐守昌吉。安藤次右衛門正次。島田治兵衛重次。屋代越中守勝永。鎗奉行近藤平右衛門元成。伊東馬之允政世。多門縫殿助信C。投鞘奉行室賀源七カ滿俊。永田善左衛門重利。大番頭阿部備中守正次。高木主水正正次。松平丹後守重忠。書院番頭山伯耆守忠俊。水野隼人正忠C。松平越中守定綱。板倉周防守重宗。小姓組番頭水野監物忠元。井上主計頭正就。成P豐後守正武。(元ェ日記。此三人に十人ならびに歩行頭を兼る。)永井信濃守尙政。使番鵜殿石見守氏長。牟禮ク右衛門勝成。今村彥兵衛重長。中川半左衛門忠勝。(元ェ日記此人なし。)久貝忠左衛門正俊。(元ェ日記忠三カとす。)小澤P兵衛忠重。(元ェ日記深兵衛。)山岡五カ作景長。阿倍四カ五カ正之。兼松源兵衛正成。中山勘解由照守。村P左馬助重治。近藤勘右衛門用政。山田十大夫重利。山石見守C長。(是祖父江法齋が事。)石川八左衞門政次。溝口外記政一。渡邊半四カ宗綱。川口長三カ近次。朝比奈源六泰勝。高木九兵衛正次。服部與十カ政信。三宅半七カ重勝。石河三右衛門勝政。太田善大夫吉正。目付は四カ五カ正之。五カ作景長。九兵衛正次。永井彌右衛門白元。木村源太カ元正。加藤伊織則勝。持弓頭は內藤右衛門正重。持筒頭は山善四カ重長。大組は內藤若狹守C次。山伯耆守忠俊。先手弓頭久永源兵衛重勝。倉橋內匠助政勝。鐵炮頭は加藤喜助正重。森川金右衛門氏信。細井金兵衛勝久。服部中保正。駒木根右近利政。歩行頭は植村志摩守家政。阿部善七カ忠吉。內藤主稅助信廣。松平豐後守勝政。(元ェ日記は松平內膳重則。)朝比奈彌太カ泰重。松平縫殿助眞次。諸道具奉行伊東長兵衛弘祐。神谷與七カC正。山角又兵衛正勝。小野次カ右衛門忠明。荒川又六カ忠吉。石川市左衛門利賢。秋山平左衛門昌秀。木五左衛門高ョ。幕奉行朝比奈彥右衞門眞直。內藤平左衛門某。宿割役は淺井六之助道多。五味金七某。柴山九右衛門吉次。須田次カ太カ廣庄。市川茂左衛門滿友。木小右衛門正定。高田小次カ直政。藤川庄次カ重勝。
船奉行は九鬼長門守守隆。向井兵庫頭正綱。小M久太カ光隆。向井五カ八正俊等なり。今夜は神奈川にとまらせたまふ。大御所は名古屋に至らせられ。平岩主計頭親吉が舊宅にやどらせらる。宰相義直卿郊迎し給ふ。此日本多上野介正純より。大村丹後守喜前に船手役命ぜらるれば。水軍の用意して指揮を待べしとつたへ。又島津陸奥守家久へは。指揮を待て中國西國の軍勢。西宮尼崎もへ出軍すべきにより。其用意すべしとつたふ。淺野但馬守長晟參謁す。(創業記。元ェ日記。供奉記。ェ政重修譜。家譜。御年譜。天和書上。村越覺書。)
○十一日藤澤に至らせ給ふ。此日東海道の諸城主は。ことごとくさき達て京着すべしとふれらる。大御所は名古屋におはしまし。大坂の使常高院尼。二位局。大藏卿局。正榮尼。幷木民部少輔一重を召て。聞召所の如きは。大坂今に於て烏合の處士どもを追放たず。秀ョ母子の憤り猶とけず。兵具をあつめ軍勢を手分して。京都を燒拂はんとするよし。世上の風說專らなるがゆへ。人心大に安からず。都下以の外騷擾するよし聞えたり。我不日に上洛しその虛實を糺明して沙汰すべければ。常高院二位の局は大坂にかへり。秀ョ母子にこの旨を告べし。大藏卿の局。正榮尼幷に一重は先達て都にのぼり我上着を待べしと面命せられ。一重及四人の女使は直に發程せり。(御年譜。元ェ日記。駿府記。)
○十二日小田原へつかせ給ふ。小澤P兵衛忠重密命を蒙り今曉江戶にかへり。留主の輩に仰をつたへ。直に立かへる。名古屋にては宰相義直卿の北方。熱田旅宿より入輿せらる。供奉の輿五十挺。騎馬の女房四十三人。長持三百棹從へり。北方より義直卿へ時服十領。銀二百枚。生母へ時服十。銀百枚進らせらる。(元ェ日記に。大御所御着前に婚禮はてしよし記す。あやまりなるべし。)京職板倉伊賀守勝重脚力もて注進しけるは。この九日大坂城中にて。大野修理亮治長本丸より退出の途中。賊ありて不意に後より切かけ。左脇より肩迄突て走る。治長が從者等其賊を討取しが。此賊は治長が弟主馬治房が所屬の者のよしにて。城中の者大に騷動に及ぶよしなり。(世に傳ふる所は。治長櫻門を出る時。何者にや一刀突て直に迯る。治長は深手なれば。平山內匠といふ從者の肩にかゝりながら。これを追んとす。岡山久右衛門といふ從者は。脇道より賊の前路を遮るゆへ。その賊やむ事を得ず立歸る所。治長に行逢ふ。治長二刀切所に內匠とゞめをさす。松明をてらして見るに。何者といふ事をしるものなし。よて嚴に查撿すれば。主馬治房が所屬成田勘兵衛が部下今倉孫三カといふ者と定まりぬ。よて成田を糺明すべしとありしに。これを聞て成田は家に火をかけ自害せしかば。その證さだかならねども。關東より入置れし間者か。又は治房が兄治長が威權を猜み。ひそかに刺客を用ひしといふ風說も專らなりとぞ。東迁基業には此ものを服部平七とす。しからば間者にや。)織田長益入道有樂使もて。入道父子は秀ョ母子をはじめ。城中の將士其諫を用ひずとて。城を出去るよし申す。これより先雲生寺ョ長は。今度城中惣軍の將たらん事を請といへども衆議决せず。ョ長これを憤りこれも出城せしとぞ。又此日本多上野介正純より。藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝。本多美濃守忠政。松平下總守忠明。水野日向守勝成等鳥羽東寺邊に陣取。非常を禁ずべしとの令を傳ふ。(御年譜。斷家譜。駿府記。元ェ日記。大坂覺書。)
○十三日豆州三島につかせ給ふ。大御所は名古屋城に入らせられ。昨日義直卿婚儀行はれしを賀し給ふ。織田長益入道有樂幷に武藏守尙長父子參謁し。大坂城中新古の軍士を三部に分ち。七組の隊長並に後藤又兵衛基次一部とし。大野修理亮治長これを統領し。眞田左衛門佐幸村。明石掃部全登。渡內藏助糺一部とし。木村長門守重成これを統領し。長曾我部宮內少輔盛親。毛利豐前守勝永。仙石豐前入道宗也を一部とし。大野主馬治房これを統領するよし聞えあぐる。次に大御所明晝は桑名まで御發向あるべしと令せらる。(御年譜。駿府記。武コ大成記。)
○十四日駿州C水へつかせ給ふ。この日雨降ければ。大御所は名古屋に御滯留あり。宰相義直卿三日の祝とて。本丸へわたらせ給ふ。(御年譜。駿府記。名古屋を出て大垣にいたるとあるは。あやまれるがごとし。)
○十五日田中につかせ給ふ。大御所も名古屋を出まし。佐屋より御乘船にて桑名につかせらる。(御年譜佐和山。)本多出雲守忠朝は江戶の御先手として上洛せしが。こゝに參り謁し奉る。又渡邊半四カ宗綱。御所よりの御使に參り。城攻の事は御上着を侍せ給ふべきよし仰進らせらる。大御所聞召。いかにも待せらるべしといへども。敵もし討て出る時は。止事を得ずと答させ給ふ。(御年譜。駿府記。創業記。)
○十六日遠州掛川につかせ給ふ。大御所は勢州龜山にいたらせらる。(御年譜永原。)京より脚力もて。大坂城中には此十二日烏合の處士等に金銀を配分し。兵具用意せしむるよし注進す。この日宰相義直卿名古屋を發して桑名につかる。(御年譜。駿府記。)
○十七日新井に渡御あり。藤堂和泉守高虎に御自書をたまはり。高虎淀城修築の勞を慰せられ。そのうへ廿二三日には御上洛あるべければ。其頃まで城攻の事待せ給はん樣に。大御所へ聞え上べしと仰下さる。大御所には水口にわたらせ給ふ。御途中より雨ふる。御所よりの御使として成P豐後守正武來り。此十日江戶城御首途。十四日駿河C水御止宿あり。廿三四日頃は御上着あるべきにより。夫迄待せ給はむ事をこひねがはせ給ふ。今度の合戰には。かならず御所御先手つかふまつらせ給ふべしと仰進らせらる。成P隼人正正成。安藤帶刀直次脚力もて。義直卿は土山にいたられ。ョ宣卿は今日永原にいたらるゝよし注進す。又越前少將忠直朝臣は江州坂本へ陣したるよし注進ありければ。西岡日向明神の邊へ陣取べしと令せらる(御年譜。家忠日記。駿府記。)
○十八日岡崎につかせ給ふ。大御所は卯刻水口を御發輿ありて。矢橋より御船に召る。船中にて膳所の城主戶田左門氏鐵御膳を獻ず。午刻御舟より御上陸あり大津にいたらせ給ふとき。山科邊へ月卿雲客も御迎ひにまいられ。市人もあまた群參し。未刻御入洛ありて二條城に入給ふ。宰相義直卿ョ宣卿も先達て入洛せらる。御所より板倉周防守重宗。伊丹喜之助康勝。鎭目市左衛門惟明等を御氣色伺ふため進らせられしかば皆供奉し。秀ョの使木民部少輔一重幷女使等もともに入洛す。此日御入洛の御行裝平日にことならず。いさゝか御出陣の躰にあらず。京師にて見物の貴賤案に相違せしとぞ。淺野但馬守長晟は泉州佐野川に陣しけるに。この所は大野修理亮治長が采邑なれば。治長が家人大野彌五左衛門。(一說茂左衛門また五カ左衛門。)北村善大夫(一本中村。)土人を催し淺野が陣を襲はんとす。長晟かくと聞て。忽に謀をめぐらし。善大夫を搦取。彌五左衛門を討取しかば。土冠みな迯去たり。(一說には紀州にての事とも見ゆ。)この日織田武藏守信吉入道道卜京師におゐて卒す。其子は孤雲菴了甫と號す。(御年譜。駿府記。元ェ日記。東迁基業。家忠日記。ェ政重修譜。織田家の支族この類多し。內府信雄をはじめ關が原一戰後。大坂にありて秀ョにつかへ。大坂一戰以前京師に立退しなるべし。此類のやからめし出されずして。堙沒せしたぐひいかばかりかありけん。)
○十九日尾州熱田につかせらる。松平武藏守利隆の妻。次男三五カ恒元を伴ひ。證人として江戶に參る道にてけふ拜謁あり。恒元ときに五歲。婦人稚子遠國より山川をへて。辛苦のむね慰勞せられ。直に延壽の御脇差を賜はり。そのうへ諸軍出陣の折からゆへ途中妨あらん事を思召やり。官吏をそへて江戶にをくらしめらる。大御所は二條にて大野壹岐守某を大坂城中につかはされ。兄修理亮治長が手疵をとはせらる。又石川主殿頭忠總に高槻。松平武藏守利隆。宮內少輔忠雄に尼崎西宮を守らせ。松平周防守康重。岡部內膳正長盛は丹波口に有て。山陰道を警衛せしめらる。山陰西海兩道の軍勢。神崎中島より入。南海道の軍勢は。泉州より大坂へ入べしとなり。(御年譜。慶長日記。駿府記。)
○二十日土山につかせたまふ。松平陸奥守政宗。K田筑前守長政。加藤左馬助嘉明は入洛す。(御年譜。駿府記。世に傳ふる所は。この日大坂より木民部少輔一重を使として御入洛を賀し。其上攝河兩州去年の兵亂及洪水にて。土民逃散し賦稅納まらず。家人に宛行はん物なし。よろしく御沙汰たまはるべしとの事を。秀ョより仰まいらせらる。やがて御返答あるべしとて。先その使は返さるゝよし見ゆるといへども。駿府記に此使の事曾てしるさず。其上木は先に駿府に使し。直に供奉して今に至り。いまだ女使と同じく二條城にとゞめらるれば。こゝに使に來るべきにあらず。尤いぶかしき事なり。元ェ日記。)次に水野監物忠元御使に來り。密に聞え上る旨あり。島津陸奥守家久。鍋島信濃守勝茂等へ本多上野介正純より。旣に十八日大御所御入洛あり。廿三四日には御所も伏見へ着せ給ひ。いよいよ大坂御征伐あれば。各軍勢引率し出陣すべしとつたふ。又近藤八右衛門用忠死して。子小十カ用尹つぐ。(元ェ日記。天和書上。家譜。)
○廿一日伏見城につかせ給ふ。(元ェ日記。村越覺書等に御所今度はことさら道をいそがせ給ひ。小勢にて先勢を越。もみにもんで早く上着したまひしを大御所聞召。左樣に奥州大名共を後にし。輕々しき御擧動以の外なりと御氣色損じ。本多正純をもてそのむね仰進らせられ。御對面兩三日延引ありと見ゆ。翁物語駿河土產等にも。是に同じき說どもあり。されど駿府記に。翌廿二日直に御對面のよし聞ゆれば。以上の諸說は誤りなるべし。)諸國の軍勢も追々に到着す。小笠原兵部大輔秀政は供奉し。其子信濃守忠脩は封地信州松本に留守すべきに定められしを忠脩其令をまたずして上洛す。父秀政大におどろき。本多佐渡守正信につきてうたへしかば聞召。忠脩旣に上着せしうへは。咎めさせ給ふ旨なし。されど軍令をまたずして。出陣せし事法にそむけば。まづ見參はゆるされず。
又成P隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重。本多上野介正純より。小出大和守吉英。同信濃守吉親。伊藤掃部助治明等へ。もし城中より人數を出す事ありとも。御下知なからんには。みだりに合戰をむすぶまじきよしを令す。また伏見城警衛は松平隱岐守定勝に。大番頭松平丹後守重忠。土岐山城守定義を加へらる。(駿府記。紀年錄。元ェ日記。東迁基業。天和書上。慶元拾遺。)
○廿二日伏見より二條にわたらせられ御對面あり。大後所には廿八日大坂へ御發行あるべしとの御事なりしに。加賀越前奥羽の軍勢いまだ全く上着せず。五七日も御發行延引あらせらるべしと。藤堂和泉守高虎をもて仰進らせらる。大御所には今度大坂城は堀を埋められ要害を失ひたれば。籠城して防戰の便なし。必城外へ打て出。一戰の雌雄を决せんとすべし。御方は歒いか程ありとも速におしよせて。片端より追崩すべしと仰らるれば。これにしたがはせ給ひ。申刻伏見城へ歸らせ給ふ。此時土井大炊頭利勝。本多佐渡守正信。同上野介正純侍座して軍議に與謀す。(駿府記。大坂覺書。世に傳ふる所は。このとき大御所我すでに古稀の齡にいたる打留の軍なれば。自身先陣すべしと仰らる。御所聞召てそれがしかくてあらんに。御父上先手し給はん事勿躰なし。かつは諸大名の聞所もいかゞなり。是非に某に先手を命ぜらるべしと仰けれども。大御所うけひかせ給はず。御父子の御論决せざるを見て。本多正信その間に入て。古より軍の前後は陣取の塲所による事と承り候。大御所は二條におはしまし。將軍樣は伏見に御着陣にて敵に近ければ。將軍樣御先手にすゝませ給はん事。尤道理と存候と申ければ。大御所。佐渡はことの外古法しりなりとて。大に笑はせ給ひ其旨にまかせらる。大坂覺書。)また森美作守忠政。木下宮內少輔利房に。山崎の要路を警衛すべしと命ぜらる。(武コ編年集城。)
○廿三日大坂より軍勢一万餘を大和に遣し。邑里を侵掠し居民を殺戮す。大工頭中井大和守正次が家法隆寺村にあり。去年の城責に正次寄手のために種々攻具を工夫し。城中を困究せしめし怨を報ふとて。其家に火をかけて。少長男女を分ず皆屠らせしとぞ。けふより廿五日に至りて。國々の諸大名軍勢引具し悉く上着す。(武コ大成記。元ェ日記。世に傳ふる所は毛利甲斐守秀元長府にあり。長門守秀就萩城に住す。秀元より萩城に使を五六度つかはし。出陣をすゝむるといへども。秀就は遲緩して出陣せず。家老福岡越後。兒玉豐前は。先達て兵庫迄出陣すといへども大坂へは進まず。秀元一人手勢を具し馳のぼる所に。播州室津に大坂方より番船を出し。これをとゞむる中をおし分て。明石と岩屋と兩方より鐵炮を打かくるを事ともせず。關東の味方毛利宰相と呼はり。舟を乘ぬけて五月七日の曙に參着せり。秀就あとより出陣せしが。はや大坂落城せし後なりしとぞ。元ェ日記。)
○廿四日常高院尼。二位局をもて大坂に和議を仰つかはさる。よて大藏卿局。正榮尼をも城中へかへされ。木民部少輔一重は猶歸されず。後藤庄三カ光次仰を傳へ。板倉伊賀守勝重は一重が旅宿の市人に命じ。嚴に警固して迯去事を得ざらしむ。常高院尼。二位局城中に入て秀ョ母子に仰を傳へしは。去年大坂の兵亂にて。攝河兩州の農民逃散し。賦稅收納を得ざる事はさることなりといへども。和議旣に成て互に盟書取かはしたるうへは。速に烏合の人數を放ち遣すべき所。今に於て處士一人もはなちさらず。あまつさへ日々に山林に潜藏する凶徒をつのりあつめ。これが爲に城中儲蓄日日月々に虛耗にいたる。尤さもあるべきことはりなり。其上城中常に攻戰の調練し。武具を繕修するよし四方に傳聞し。大坂再叛の風說專なり。秀ョ盟誓の血いまだ乾かず。决して異圖あるにはあるべからずといへども。世上の雜說訩々たれば。しばらく人心のしづまらんため。攝河兩州を引かへて大和國を遣はさるべし。大坂城を出て和州郡山に引うつられば。五七年の間には大坂の城溝以下。舊貫に復して遣はさるべし。その間所領の事は西尾豐後守光教。伊奈筑後守忠政に沙汰せしめ。欠乏にいたらしむべからず。新入の處士も心まかせ抱置べしとの御事なり。(駿府記。武コ大成記。世に傳ふる所。大坂にては是よりさき關東へ下したる木一重並に女使ども。いまだ歸り來らぬうち。關東勢ははや追々上着すると聞大に驚き。秀ョ諸將を會議し各に防戰の異見をとはれしに。關東勢は南へおし廻し。天王寺口よりかゝるべし。城兵は十万の勢を二手にわけ。八町目へ押出し兩御所旗本へ突てかゝり。一戰に雌雄を决せんといふ。秀ョ尤なりとて翌日軍列を嚴にし。天王寺住吉邊より岡山迄巡見して歸城あれば。城兵大に勇氣倍し。直に天王寺表へ栅をふる。しかるにまた今度和州郡山へ轉換の事仰つかはされしかば。秀ョ又諸將を會集して。此事いかにと異見をとはる。耆舊の宿將等は。いづれも關東の命にまかせ和州にうつり。時を待を上策とすといへども。少年の銳將等は。大坂を出て和州にうつり給ひ。益困究して遂に餓死せんよりは。思めし定められ。君臣同じく社稷と存亡を共にせらるべきなりとすゝむ。
新入の處士等これを是なりとして。關東の詐謀に陷り恥を後世に殘さんより。はなばなしく一戰に勝敗を决し給ふこそ。勇將剛士の本意なれと建白す。秀ョ母子共に去年堀埋のことを憤らるゝ折節なれば。これをことはりと聞かれ。重て伊東丹後守長次を使とし。父太閤數年心力をつくし築かれし城を出て。他にうつる事は决てかなふべからず。また新入の兵士を追はなつ事もなしがたし。この事兩御所御こゝろに叶はずば一戰して討死するの外なし。御人數をむけらるべしとの返事なり。伊東をば木と共に板倉勝重に召あづけられ。猶も女使を以て和議を仰つかはさるゝといへども。秀ョ母子終に仰にしたがはざりしとなり。また一說に此御使には常高院に後藤庄三カ光次を添へて遣はされ。郡山へうつるべしと有しに。淀殿大にいかり。庄三カは商人なり。常高院は破戒の賣僧なり。共に秀ョをうらんとするかと大に怒られ。早々立歸るべし。汝等もし武士ならば其儘にすてをかじと有しかば。この兩人鼠の如く逃歸りしといふ。誠にや。大坂覺書。難波戰記。)此日向井將監忠勝は內藤紀伊守信正の指揮により。九鬼長門守守隆。小M民部少輔光隆と共に。大坂入津の舟を查撿すとて。小船三艘を乘取。その舟に積し米大豆の事を伏見二條へ注進す。兩城の老臣より褒書を贈る。(天和書上。)
○廿五日關東の諸軍勢悉く上着す。伏見より御使として土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信二條に來り。密に聞え上る旨あり。明日御所二條へわたらせ給ふべしとの事にて。兩人は退出す。(駿府記)
○廿六日巳刻御所二條城にわたらせ給ひ御對面あり。兩御所いよいよ廿八日大坂へ御進發あるべしと。諸軍に令せらる。藤堂和泉守高虎は淀より河州須奈に至り砦を搆造し。大御所をむかへ奉らんとす。是より先京極丹後守高知。同若狹守忠高。石川主殿頭忠總は枚方森口より大坂にいり。山陰西海の諸軍は神崎中島へおもむき。南海の諸軍は泉州よりむかひ。越後少將忠輝朝臣は大和口諸軍の惣督たるべし。これに屬する一番は水野日向守勝成。丹羽勘助氏信。堀丹後守直奇。その外大和の住人松倉豐後守重政。奥田三カ右衛門忠次。神保長三カ相茂。本多左京利長。桑山左衛門佐一直。秋山右近某。藤堂將監嘉以。山岡主計頭景次。多賀左近常長。村越三十カ正重。甲斐庄喜右衛門正方。二番は本多美濃守忠政。同中務大輔忠刻。同甲斐守政朝。同能登守忠義。菅沼織部正定芳。其外伊勢組。稻葉淡路守紀通。一柳監物直盛。古田大膳大夫重治。分部左京亮光信。織田民部大輔信重。三番は松平下總守忠明。美濃組。コ永左馬助昌重。遠藤但馬守慶隆。遠山久兵衛友政。四番は松平陸奥守政宗。五番惣督忠輝朝臣。その先鋒は村上周防守義明。溝口主膳正宣勝と定られしが。ことさら水野勝成には。汝に大和口の先鋒を命ずるは。我普第の諸臣を歷觀するに。汝が右に出る者なし。大和口の諸將汝が命を用ひざる者あらば。一二人を踏潰し其餘を懲すべし。しかしながら汝むかし少年の一本鎗の心得して。猥りに一箇の功を爭ふべからず。持重して惣軍を指揮すべし。また御所の御先手は藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝。河內路須奈四條繩手より進發せしむれば。汝は大和路より國府に出て。道明寺にて藤堂井伊と手を合すべしと命ぜられしかば。勝成感謝して退く。しかるに大坂より大野主馬治房。後藤又兵衛基次が部下の兵を大和に出し。秋篠伊駒山をこえ郡山を燒拂はしむ。郡山には筒井主殿助正次。與力三十六騎をしたがへ勤番せしが。大坂より大軍を以て。郡山に燒働すと聞て。此小勢にてかなひがたしと。早々郡山を迯出て福住へ退きしかば。大坂勢は郡山を燒拂ひ。その處に陣して夜を明す。(駿府記。家忠日記。東迁基業。大坂覺書。)
○廿七日雨ふる。二條城より本多上野介正純を伏見に御使して。明日御出馬延引の事を仰進らせらる。また稻葉佐渡守正成は濃信兩州の軍を引具し枚方を警衛すべしと仰付らる。松平和泉守乘壽。妻木雅樂助ョ忠。平岡平右衛門ョ資。遠山勘右衛門方景。小里助右衛門光親。其外大島黨。伊奈黨。高木黨。那須黨これに加はる。よて其地に高札を立らる。大坂籠城の者妻子。いづこに潜藏するとも搜索ありて斬に處せらるべし。もし其城を出る者は罪をゆるされ。歸欵して忠ある者は。所領あるは褒賞たまはるべしとなり。此日郡山を侵掠せし大野主馬治房が部下の人數。けふ南ク寺田邊等を燒働す。水野日向守勝成は昨日の特命に感激し。鳥羽に備たる手勢を具し。山城の長池迄進發する所に。敵郡山を放火し。奈良におし入との注進を聞。これを拒がんと奈良へ急ぐ道にて。奈良の代官中坊左近秀政。藤林市兵衛勝政。奈良より迯來り。敵は奈良の般若寺坂まで亂入したれば。防戰かなふべからず。しばらくこゝに陣取て。敵の動靜をうかゞはるべきにやといふ。勝成聞て敵に奈良を燒せなば味方の恥辱なり。兩人には奈良の所司なれば。曲て我に從はれよとて直に馬をはする。松倉豐後守重政は大和口の五條に在陣し。兼て細作を出し大坂の形勢を伺はしむるに。城兵伊駒山をこえ。今日南ク寺田邊を燒働すと聞。七百人ばかりの勢をもて。
これを防がんと出馬するとて。多賀分部桑山等の大和組の諸將に。かくとふれわたせども。此輩は法隆寺の上の太子堂に陣取しが。敵を恐れ返答もせず。奥田三カ右衛門忠次。藤堂將監嘉以ばかり是に應じて馳來り。松倉が陣に加はる。松倉奥田兩將より急使を水野が方へ送り。貴殿もし遲くば。奈良は抱へ難しと告る。勝成道にて此使に行逢ひ。ますます道を急ぎ。黃昏に奈良に着陣すれば。松倉奥田も南方より同じく馳來る。大坂勢は水野松倉が旗馬印を見るより。奈良をすてゝ郡山に引取しかば。奈良の土人は大に安堵す。(駿府記。家忠日記。天和書上。大坂覺書。)
○廿八日大和口出陣のともがらより脚力もて。城中處士一萬餘郡山におし出し。龍田法隆寺邊を放火しけるが。幸に法隆寺堂塔以下此災にかゝらず。郡山守護の筒井主殿助正次。敵の多勢を見て防戰する事を得ず。忽に遁去たりと注進しければ。先手の諸將いよいよ軍をおし詰べきよし令せられ。高力攝津守忠房。鳥居土佐守成次は奈良におもむき。警衛すべしと命ぜらる。この日郡山に引とりたる大坂の人數は。水野松倉等の勢追々到着するをみて。急に新條越をして。河內路さして引んとせしかば。松倉。奥田。藤堂等追擊して六人生擒。首六七切て二條城へ獻じければ。大御所水野勝成松倉重政が擧動を御感斜ならず。次に井伊藤堂をはじめ。御先手の諸軍かねての軍令を守り。けふ京師を進發して大坂に赴く。この夕暮に大野主馬治房。塙團右衛門直之。岡部大學則綱。御宿越前正倫。長岡監物貞安等宗徒の輩すべて四方の着到にて。淺野但馬守長晟が出陣のあとをうかゞひ。其領地紀州を襲はんとて出軍す。金森出雲守可重。小出大隅守三尹が守る岸和田の押には。修理亮治長が所屬宮田平七に。堺津を守らせたる槇島玄蕃允重利。赤座內膳某を加へて殘し置。大野道犬に堺津の人家に火をかけ。住吉邊を燒立しめ。その火光にて暗夜に大鳥をこえたり。(駿府記。武コ編年集成。大坂覺書。武コ大成記。天和書上。世に傳ふる所。廿六日城中軍議の時。天王寺表にて一戰せんと一决せしとき。後藤又兵衛基次申けるは。大軍にて野合の軍せんに。駿河の老公と相采を取候はんもの凡日本にはあるまじく候。某が所存には。國府越暗がり峠新庄龍田越等の嶮岨に要害をかまへ。山道に敵を遮て一手二手きり崩さんには。大軍といへども仄徑に行かゝり。せんかたなく奈良か郡山邊へ後陣より敗走すべし。その後は大軍再びよせきたらんに。五七日も手間どるべければ。味方また何ほども防戰の手段候べしと申。秀ョ尤なり何事も後藤次第とて。基次に大和口先手を命ぜらる。そのときかねて紀州へつかはしたる密使北村善大夫。大野彌五左衛門は。淺野が出陣後熊野。有田。高野山下の土人一揆を催し。大野主馬へ注進し。大坂より大軍にて淺野を伐給はゞ。我等はかの一揆と共に手を合せ。淺野を前後よりさしはさみ伐べしと申ける。主馬は全くこの注進をたのみて。今夜阿部野に勢揃すと號し打立しなり。されども善大夫。彌五左衛門が謀畧はとく露顯し。彌五左衛門は淺野がために誅せられ。善大夫は禁嶽せられしかど。城中には此事いまだしらざりしものなるべし。大坂覺書。)伏見城を守る松平安房守信吉は。一色宮內大輔義直。菅谷左衛門範貞に城を渡し飯森にむかふ。(ェ政重修譜。)
○廿九日伏見より二條にならせ給ひ。御密談有て後。來月三日御所奈良へ御進發大御所は伏見にいたり。御發輿あるべしと令せらる。堺より脚力もて。昨夜城兵。堺。住吉。大湊邊を放火す。されども住吉の社頭は恙なしと注進す。淺野但馬守長晟よりは。大野修野亮治長が家人北村善大夫。大野彌五左衛門以下三十餘輩を生擒せし旨を注進す。此日大野主馬治房等惣軍四万餘にて。八町畷をへて樫井クに於て淺野が兵と挑戰す。淺野が家人龜田大隅。上田主水。多胡助左衛門。安井喜內。岸九兵衞。幷淺野左衞門佐家兵八木新左衛門。松宮勝助。永田次兵衛等よく戰て。主水は塙團右衛門直之と鑓を合せて疵を蒙らしめしを。新左衛門塙が首をとる。淡輪六カ兵衛をば永田治兵衛討取。その外芦田左內。米田監物。井治右衛門。山內權三カ等の隊將十二騎をはじめ。敵を討事若干なり。主馬治房は泉州貝塚願泉寺にありしが。先手塙淡輪等討れ悉く敗走すと聞て。急に人數をくり出しけるが。淺野勢は椿坂まで引取しかば。詮方なく樫井邊を燒拂て。安松蟻通の社前にて敗卒をあつめ。岸和田のM邊をさして引處を。小出大和守吉英。同信濃守吉親。金森出雲守可重等。岸和田城より討て出尾擊して。首二三十級討とりたり。大坂より岸和田の押にむかひし宮田平七加勢槇島玄蕃允重利父子も。樫井の戰味方敗れしと聞て。みな大坂へ迯歸る。(駿府記。武コ大成記。世に傳ふる所。淺野但馬守長晟は佐野の市塲へ張出し陣しける所。廿七日俄に大坂勢は主馬を大將にて四五万。此所へ唯今寄來るよし聞て。先手の隊長淺野左衛門佐。同右近。日向守等。此所廣塲にて防戰のためよからねば。樫井へ引取敵を待べしとて。安松に龜田大隅ばかり殘り。その外はみな長瀧村まで引とり。
夜半より雨降出し霧深く。夜明雨はやみしかど。霧は猶はれず。長晟は日の出王子邊に馬をたてゝ。先手の一左右をまち居たり。塙團右衛門。佐野市塲迄押來るに。淺野勢は信達へ引とりたりと聞。和泉路の案內は淡輪六カ兵衛。紀州の案內は山口兵吉兵內を具し。岡部大學は去年よりかれ等と互に勇を爭ひ威を競ひ。安松へ馳着る所。淺野がた龜田大隅池端に鐵炮五十挺そろへ打かくるを。團右衛門大學すこしもひるまずおし立行ば。淺野方は二町ばかり引とる。左衛門佐隊下に永田治兵衛。八木新左衛門。樫井の北池堤に備へしが。是も二町餘操引にして。宮前に立こたえたり。その間左衛門佐謀にて。土人をして蟻通明神の森に伏兵ありと唱へしめしかば。大坂勢はこれをきづかひ叢間を搜索す。其間に岡部大學はすゝみて龜田と鑓を合せ引退き。淺野方上田主水は手勢を引とらせ。其身跡より退く所に。大坂方淡輪六カ兵衛乘込しを。永田治兵衞鑓を合す。淡輪は十文字の鑓の手を町の格子に引かけし所を。永田ふみ込て突伏首をとる。上田主水は塙が屬兵山掛三カ右衞門を討取。其時龜田大隅も松浦作右衛門。丸森小傳次を討取。塙團右衛門は多胡助左衛門が矢にあたり。馬より眞倒に落る所へ。助左衛門馳寄しを。團右衛門は多胡を取て投る。其所へ八木新左衛門おり合鑓付て。大勢立重り團右衛門を討取。大坂方吉田淺右衛門。熊谷忠大夫。須藤忠右衛門みな討死し。大坂勢は安松の方へ敗走す。大野主馬は具塚にて先手敗軍を聞。大に驚き長岡監物。上條又八。御宿越前等と共に。樫井まで馳着しに。淺野勢は川南の山に引取しに。日も黃昏に及べば各引返す。淺野長晟日の出王子に陣取所へ。龜田上野歸り來り。討勝たるよし告るより。合戰の次第を注記し。二條へ注進す。一說には長晟の古老の隊將小野慶雲をして。旗本勢を指揮せしめ。合より突入て大坂勢を追崩したりと見ゆ。大坂覺書。東迁基業。元ェ日記。)かゝる所に長晟が所領紀州有田郡名草邊一揆蜂起し。和歌山城を攻て。大坂と手合せするよし聞えければ。黃昏に山口まで引返し。直に溝口五左衛門。熊澤兵庫。長谷川志摩をさしむけしむ。(元ェ日記寺西左衛門。原勘兵衛兩人に作る。)熊野北山の前鬼津具。山室鬼之助。多賀羅兵衛。戶津川八藏。大會の孫四カ。湯川の五兵衛などいへる一揆どもみな潰散す。又きのふ犬野道犬が堺津の商家を燒立し時。向井將監忠勝木津口より船にて乘付。互に鐵炮打かけ。忠勝も乳の上を鐵炮にて打れしが。歒船數艘乘とり注進す。よて老臣奉書もて其切を褒せらる。(大坂覺書。天和書上。大成記に道犬が堺を燒しを廿六日とし。編年には廿三日法隆寺邊燒働の時とす。みなこの時の事を誤りしが如し。)
○晦日淺野但馬守長晟が使關市兵衛。寺川左馬助兩人二條城に參り。きのふ樫井合戰の事を注進す。大御所大に長晟が功を賞せられ御感書を給ひ。使者兩人に馬黃金を下され。また松平右衞門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。後藤庄三カ光次が奉書もて龜田大隅。上田主水入道宗胡。多胡助左衛門軍功褒詞をつたへらる。その上領地一揆擾亂するよし聞し召。はやく就封して國中を鎭恤すべし。大坂にむかふに及ばさる旨仰下され。生擒せし北村善大夫をば。京職板倉伊賀守勝重に引渡さしめらる。(駿府記。武コ編年集成。)
◎此月小笠原安藝信盛。向井兵庫頭正綱は。相州走水の船手役を命ぜられ。池田越前守重利子內藏助重政は初見し奉り。松平紀伊守家信病臥により。その子若狹守康信は宰相ョ宣卿に屬し。松平主殿頭忠利。戶田因幡守忠能とおなじく大坂に赴く。(天和書上。) 
卷三十六 / 元和元年五月朔日に始り六日に終る 

 

○五月朔日諸大名二條伏見兩城へ出仕す。此三日大坂へ御進發あるべしと仰出さる。松平陸奥守政宗もけふより木津に着陣す。淺野但馬守長晟樫井表にて討取首級。本多上野介正純より伏見へ搬送しけれは。御所御感書を長晟に給はり。小出信濃守吉親。伊藤掃部助治明。小出大和守吉英は。敵大和路より退く時。岸和田堅固に持かためたるよし注進す。よて酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤但馬守重信が奉書を送る。K田筑前守長政が三男大万。(後長興。)四男万吉(後高政。)初見し奉る。高田藤五カ安政小性組に入る。(駿府記。天和書上。家譜。)
○二日淺野但馬守長晟もて樫井合戰の繪圖記錄に。大野彌五左衛門が首を献ず。小出信濃守吉親。伊藤掃部助治明。大和守吉英は。去廿九日敵大和路より敗走の時。岸和田城より打て出。首卅二級。生擒六人を献じければ。本多佐渡守正信。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信奉書もて御感の旨をつたふ。松平陸奥守政宗きのふ木津へ着陣しければ。伏見より伊東右馬允政勝。小澤P兵衛忠重御使して慰勞し。また老臣より軍勢へ下さる俸米の事をつたふ。(駿府記。天和上書。)
○三日兩御所御出馬御延引之。(元ェ日記。紀年錄等に。將軍家は三日須奈迄御出陣とあるは誤之。今御年譜大成記及び大坂覺書等による。)是は京職板倉伊賀守勝重へ。先に岡崎喜左衛門(もと江戶につかへしが。今は處士となり。今度大坂へ籠城し。城中の間者となり。歒の情實を常に注進すといふ。武コ編年。)ひそかに。大坂より偷人あまた京師に潜居せしめ。御出陣あらば禁裏仙洞をはじめ。京師ことごとく燒拂ふべしと計策をめぐらすよし告たりしが。きのふ又戶田八カ右衛門といふ處士。兄の仇とて江州代官鈴木左馬助を日の岡にて討果し。山を越て三井寺に退去す。その時鈴木が從者は迯失て挾箱を殘し置ければ。土人京職のもとへ訴出る。其挾箱の中に大坂へ內通の密書幷一揆蜂起せしむる廻狀あるを以て。勝重これを二條に進呈す。こゝに於て此事急に查撿せしめらるゝ所。古田織部正重然は左馬助が舅なり。重然が家の茶童木村宗喜をはじめ。一揆の魁首二十余人を搦とられ。彌糺明ありしに。古田はとく大坂に內通し。兩御所京師御進發の跡にて二條城を攻落し。禁裏仙洞を奪ひ奉り。京師を燒拂はんとする隱謀あらはれしかば。板倉にあづけらる。又前日秋元但馬守泰朝を以て。明日御出馬延引し給はん事を。二條より伏見に仰進らせられしに。御所には先手井伊藤堂等旣に出陣せし所。御出馬遲緩あらん事いかゞあるべきにやと。安藤對馬守重信もて聞え上給ひしが。いよいよ延引あるべき旨に定めらる。これこの火賊查撿の事によてなり。(村越覺書。四月廿八日の事とし。元ェ日記五月朔日の事とす。武コ編年此日に係る。是なるがごとし。)又この後兩御所御出城あらんには。松平隱岐守定勝は二條城を守り。松平河內守定行は小笠原若狹政信。一色宮內義直。菅谷左衛門範貞。松平外記忠實と共に伏見城を守り。松平紀伊守家信は尼崎城の加勢たるべしと命ぜられたり。又向井將監忠勝に。伏見より老臣の奉書をもて。堺浦軍功を褒せらる。また細川越中守忠興は手廻りの人數ばかりにて。けふ攝州花熊浦に着船す。兼て先手を願ふといへども小勢なれば藤堂和泉守高虎と同じく陣取べき旨。本多上野介正純よりつたふ。松平陸奥守政宗は木津より奈良へ着陣す。さきに郡山城をすてゝ。福住へ迯入し筒井主殿頭正次けふ自殺す。(駿府記。村越ェ書。紀年錄。天和書上。家譜。)
○四日水野日向守勝成を伏見城に召て金五十枚たまひ。先日奈良の軍功を褒せらる。また上杉中納言景勝二條城にめして。景勝は京師を警衛し。御凱旋まで八幡に陣取。枚方街道河內路往還を查撿すべしと命ぜらる。此頃までも大御所は猶さりともと。常高院尼をもて城中へ和議を仰つかはさるゝといへども。秀ョ母子終にその命にしたがはず。また二條より老臣奉書もて。小出信濃守吉親。同大和守吉英。伊藤掃部助治明。金森出雲守可重。岸和田の軍功御感の旨をつたふ。又伏見より山岡五カ作景長。大田善大夫吉正を。松平陸奥守政宗が陣につかはさる。(大成記。家忠日記。大坂覺書。御年譜附尾。天和書上。)
○五日快睛。伏見城を御出馬。惣白の御旗七本。その奉行三枝土佐守昌吉。島田治兵衛重次。旗持七人づゝ二行に列す。次に七本骨の金扇。日輪かきたる御馬印。銀の纏。半月の本に金の切先付たる小馬印。銀の二瓢の本に。銀の暖簾付たる小馬印。御所には糸の御鎧。山鳥毛の御羽織。唐人笠の御兜。櫻野といふ十寸三分の栗糟毛の駿馬に。孔雀の馬氈をかくる。この馬は本多上野介正純の獻ぜし所とぞ金具の鞍。紫の厚總。虎皮の障泥。象眼の鎧。白磨の轡。白手綱。熊皮尻鞘の御太刀。御右の手には唐團扇を持給ふ。歩行立の輩は皆唐團扇に。左卷二引の腰差を用ゆ。歩行頭阿部善七カ忠吉。內藤主稅助信廣。
次に土井大炊頭利勝を左軍の隊將として。佐久間備前守安政弟大膳亮安次。堀美作守親良。同淡路守直重。高力左近衛大夫忠房。溝口伊豆守善勝等すべて一万餘騎。酒井雅樂頭忠世を右軍の隊將として。細川玄蕃頭興元。北條出羽守氏重。鳥居土佐守成重。杉原伯耆守長房。土方掃部頭雄重。脇坂主水正安信。新庄越前守直定等すべて一萬餘騎。次に本多佐渡守正信が所屬松平伊豫守忠昌。立花左近將監宗茂。同主膳正直次。本多大隅守忠純。前田大和守利孝。日根野織部正吉明。秋元越中守長朝。菅谷左衞門範貞。那須。由利。芦田。津金。武川衆。惣て一万五千餘騎。次に大番六隊。左は阿部備中守正次。內藤大和守某。松平越中守定綱。右は高木主水正正次。山伯耆守忠俊。水野隼人正忠C。惣て三万餘騎。御馬廻二万餘騎。長ネ弓鐵炮行列去年におなじ。大御所同刻二條城を出ます。御乘物に召る。行列惣白御旗七本。奉行庄田三大夫安次。朝倉藤十カ宣政。次に金扇の御馬印。銀瓢簞の本に金の切裂付し小御馬印。次に吉例の御旗(そのむかし三州岡崎御在城の時。用ひ給ひし厭離穢土欣求淨土の法文かきし御旗。今は日光山寳庫に納むといふ。)をば御紋の箱に納めて。御乘物の側に持しめ給ふ。次に使番は四半に金を以て五字の指物。次に御輿左右の小姓近習の輩膳番等。白と紫の母衣かけて銀の切裂の出し半月の前立物。すべて一万五千餘騎。(駿府記。東迁基業。大坂覺書。大成記。世に傳ふるところは。大御所御發輿の前に。厨人の長松下常慶を召て。御陣中御膳米五升。干鯛一枚。梅干。昧噌。鰹節ども随分に持せしむべし。其外無用の物一切持べからずと命ぜられしゆへ。厨所の長持唯一にて事足たり。さらに人の煩なし。畢竟數十年來戰塲を經給ひし事故。かゝる事迄老練し給ひ。儉素簡易常人の及ぶ所ならずと。衆人みな感服せり。また諸軍にも今度の合戰さのみ日を費すべからず。三日の糧を用意してうちたつべしと命ぜられしが。神算少もたがはざりしとぞ。東迁基業。)其次に宰相義直卿。成P隼人正正成。竹越山城守正信を先鋒として一万五千騎。宰相ョ宣卿は安藤帶刀直次。水野對馬守重仲を先鋒として一万餘騎。御所は須奈に御着陣。大御所は淀を過させ給ふとき。八幡の鳥居にむかひ。陣押するは古例にあらずとて右に見なじ。河內路に押て星田に御着陣あり。細川越中守忠興參謁す。速に出陣神妙なりとの仰を蒙る。やがて御所須奈より星田に渡御なりて御軍議あり。本多佐渡守正信。藤堂和泉守高虎。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信豫參す。是より先相繼て進發する諸將。第一は藤堂高虎。第二井伊掃部頭直孝。第三榊原遠江守康勝。小笠原兵部大輔秀政。同信濃守忠脩。同大學助忠眞。保科肥後守正光。仙石兵部大輔忠政。諏訪因幡守ョ水。丹羽五カ左衛門長重。成田左馬助氏範。藤田能登守信吉を左軍とし。松平丹波守康長。水谷伊勢守勝隆。相馬大膳大夫利胤。六ク兵庫頭政乘。稻垣平右衛門重綱右軍とす。第四は酒井左衛門尉家次。松平甲斐守忠良。松平安房守信吉。牧野駿河守忠成。松平右近將監成重。第五は本多出雲守忠朝。眞田河內守信吉。秋田城介實季。淺野采女正長重。松下石見守重綱。植村帶刀泰勝。第六は越前少將忠直朝臣二万餘騎。第七は松平筑前守利常三万餘騎。皆河內路より大坂をさして發行す。大坂に群集の兵十四五万と聞ゆ。四面より城を環て攻かこまば城兵死をまぬかるゝ事得べからずとて。必死に防戰せんに寄手も死傷多かるべし。天滿口を明置城兵の生路を示すべしと令せらる。又大和口の寄手惣督越後少將忠輝朝臣は奈良に陣し。松平陸奥守政宗は郡山に陣す。前軍一番は水野日向守勝成を隊長として。大和組。松倉豐後守重政。同長門守重次。同十左衛門重能。藤堂將監嘉以。桑山伊賀守元晴。本多左京亮利長。神保長三カ相茂。别所孫次カ某。秋山右近某。多賀左近常長。村越三十カ正重。奥田三カ右衛門忠次。甲斐庄喜右衛門正方。山岡主計頭景次。其外堀丹後守直寄。丹羽勘助氏信等そひたり。第二番は本多美濃守忠政を隊長として。伊勢組一柳監物直盛。古田大膳大夫重治。分部左京亮光信。菅沼織部正定芳。第三番は松平下總守忠明を隊長として。織田民部大輔信重。稻葉信濃守紀通。コ永左馬助昌重。遠藤但長守慶隆。西尾豐後守光教等。監軍は中山勘解由照守。村P左馬助重治。ともに國府に陣取。陸奥守政宗はいまだ奈良を出ずといへ共。水便の地を得んとて。片倉小十カ重綱一隊圓妙駒谷とて。片山の脇小川を前にあてゝ陣す。山岡五カ作景長。山田十大夫重利。太田善大夫吉正。近藤勘右衛門用政。渡邊半四カ宗綱等先手諸陣に御使す。夕かけて日向守勝成は諸將を引つれ片山にのぼり。道明寺の方を見切て。河內の國府に立歸りし後。藤井寺と譽田の間にあたり。松明の火おびたゞしく見えしが。程なく消しは。敵夜中より打て出るもしるべからず。今夜油斷すべからずと。大和口の諸手にふれわたし。嚴しく用心したりとぞ。(基業。大坂覺書。駿府記。武コ大成記。ェ永系圖。貞享書上。
世に傳ふる所。大坂方後藤又兵衛基次。先日大坂城中君臣軍議のとき。關東の大軍を引うけ平塲の合戰かなふべからず。東軍は必定大和路より押寄べければ。その先軍山路半も過なん所を。一度に突てかゝりなば。十に八九も勝利あるべしと申。平野の先手を免されしかば。五日の夜半に松明數千ともしつれ。大和海道へむかひて。急ぎ藤井寺につきしかども。後軍おそければ二の手明石掃部全登へ催促し。藤井寺を打立譽田八幡にかゝり。松明を消て道明寺河原へ押付たり。秀ョはかくと聞大に驚かれ。眞田。薄田。井上等の後軍。早早おし結べしと下知せられたりとぞ。大坂覺書。)この日藤堂高虎は千塚に陣し。井伊直孝は龍田越。神立明神の麓に陣し。其外の軍勢は飯森。服郡。四條繩手邊に陣し。今夜雨ふり風も烈しければ。各敵夜討の用心堅固に備たり。また大和河內の境闇峠をば。朽木信濃守元綱に命じ警衛せしめらる。(大坂覺書。基業。武コ編年集成。)
○六日雨はれて天色ことに和Cなり。大御所けふは河內の星田御營に御滯留と令せられければ。(駿府記。武コ大成記。東迁基業。大坂覺書。此星田は市橋下總守長勝が所領なり。先日大坂の兵大和河內邊燒働せしとき。長勝よく防て敵の侵掠にあはず。よつて御營をいとなみ迎へ奉りしとぞ。家譜。)辰刻御所は須南の御陣よりはや御進發あり。その時安藤對馬守重信を御使して星田へ遣はされ。先手藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝より。敵八尾久寳寺邊へ打出たれば。合戰をとりかくるよし注進す。よて御所ははや須南を御出馬あり。御旗本勢平岡まで押給ふべしと仰進らせらるれば。大御所聞し召。城兵足長に打て出し上は。合戰御方の勝利疑ひなしと仰られ。兩御所とも星田二三里御旗をすゝめらるゝ所。先手より早打を以て大坂勢合戰を取結ぶよし注進すれば。しばらく御旗をとゞめ給ふ所へ。先に御勘氣蒙りたる河野權右衛門通重は。井伊備にありて功名し甲首持參し。本多上野介正純につきて披露す。直に見參せしめられ御勘氣をゆるされ。御みづから先手合戰の形勢をとはせたまふ。父の庄左衛門盛政も御前に出。落淚して恩の辱を謝したてまつる。權右衛門通重直に御陣に供奉すべしと仰事ありしかど。御前の首尾を掃部に申聞せ度と申て引返す。是よりさき水野日向守勝成は。敵の先手後藤又兵衛基次。夜中より片山におしのぼり。拂曉に山上より鐵炮をうちかけしに。奥田三カ右衛門忠次一番に片山におしのぼり。忠次をはじめ忠次がョ切たる處士岡本加助。神子田四カ兵衛。下野道仁。井上四カ兵衛。阿波伊兵衛みな討死す。松倉豐後守重政もつゞいておしよせ。散々に戰て手の者多勢うたせしが。天野半之助ふみ留りてもり返す。日向守勝成。其子美作守勝俊をはじめ。丹羽勘助氏信。堀丹後守直寄。伊達勢の先手片倉小十カ重綱。本多左京亮利長。桑山伊賀守元晴。藤堂將監嘉以。中山勘解由照守。村P左馬助重治。二番備本多美濃守忠政。三番備松平下總守忠明等。すべて大和美濃伊勢の諸軍。龍花越國分片山三筋より入亂て先をかけ苦戰し。秋山右近某は討死し終に敵を追崩す。敵方先鋒の隊長後藤基次は。片倉が勢より放つ鐵炮にあたり討死し。後藤が後陣につゞきたる薄田隼人正兼相は。水野が家人河村新八カに討れ。井上小左衛門時利は菅沼織部正定房が手にて。家人菅沼權右衛門首をとる。日向守勝成は勝軍して。後藤。薄田。井上等の隊將の首をはじめ。首ども若干討取たるよし注記し。家人松平金兵衛。竹本廣助を使とし。御所の御陣に進らせければ朝合戰に打勝たりとて御けしき大かたならず。兩人の使者御前にめし出され金一枚づゝ給ふ。神保長三カ相茂も手に逢て討取首を献ず。かくて此口にむかひたる敵は。後藤。薄田等討れしかば。散々に敗れ。跡よりつゞく大野修理亮治長。眞田左衛門佐幸村。毛利豐前守勝永。渡邊內藏助糺。山川左兵衛。北川次カ兵衛宣勝。大久保九兵衛。古田九兵衛。槇島玄蕃允重利。其子庄大夫重宗。明石掃部全登。長岡與五カ興秋。小倉左衛門行春。大谷大學吉胤。伊木七カ右衛門遠雄をはじめ二万余の人數。道明寺を西へ藤井寺まで敗走すれば。御方は勝に乘じ譽田邊までおしつむる。其中には眞田幸村閑に後殿して引所に。松平陸奥守政宗が先手片倉小十カ重綱。石母田大膳が人數。鐵炮うちかけ突てかゝり。入亂れたる中に。松平信濃守定實御旗本より。片倉が備へ來り高名せり。渡邊糺も深手負。眞田も薄手負て互に戰ひつかれひき分る。この時一柳監物直盛。菅沼織部正定芳は。敵只今藤井寺邊にひかへたる。これを追崩さんといふ。水野日向守勝成。監使中山照守をして。本多美濃守忠政。松平下總守忠明にも其旨すゝむるといへども一决せず。政宗も手勢毁傷多ければとてこれを辭す。その時忠輝朝臣着陣せられ。是非一戰せんとすゝまれしかど。政宗時刻遲しと抑留す。其間に眞田毛利をはじめ。敵みな平野の方まて引返せば。御方の諸軍は藤井寺。常明寺。譽田古市邊に陣をとる。(以上を大和口常明寺表のたゝかひといふ。)
次に藤堂和泉守高虎井伊掃部頭直孝は。朝より八尾久寳寺をさして進發するところ。道明守表に充滿し合戰はじまるさまなり。高虎が隊將渡邊勘兵衛先手に乘出し道明寺の方を見切に出しに。道明寺ははや水野伊達等合戰を始たりと見え。鐵炮の音ことごとしく聞ゆ。又西の方八尾と若江の方にあたり。南をさして押出す敵。俄に東に向ひ藤堂が先手へ平がゝりに懸り來るは。木村長門守重成。長曾我部宮內少輔盛親が一万ばかりの勢なり。兼ては西の堤に人數をまとひ一戰せんと定めしが。高虎が家司藤堂仁右衛門。同宮內。同新七。同玄蕃。同勘解由。桑名彌一兵衛。渡邊掃部。田中內藏允。友田左近右衛門。各隊將の者共いづれも軍令を耳にも入ず。前後の次第を亂し。八百余騎が二騎三騎づゝ息をもつかず馳かゝるを。長曾我部盛親八尾堤下まで引付て。俄にどつとおめきて突かゝる。藤堂が手の者忽に六十餘人討れ。隊將の仁右衛門以下家士六十三騎雜兵二百あまり。みな奮戰して討死すれば。勘兵衛には山土河野村にひかへたる長曾我部が先手を追ちらしたる後。井伊勢は木村が殘兵を追立こゝに來るとみて。長曾我部が備久寳寺前にひかへたる合に。人數を馳て突てかゝる。長曾我部の人數は最前の苦戰に精力盡しに。渡邊が新手にもみ立られ。備開き靡て堤の上より八尾の町はづれまで崩かゝる。搏c右衛門尉長盛が子兵大夫長曾我部が手にありて藤堂家士磯野平三カにうたれたり。渡邊は長曾我部が旗本へ喰付て。尾擊して敵の首を討取事三百余級。天王寺邊にて追捨て平野を堅め。高虎の旗本へしばしば使を以て。旗本を押つめたまへとすゝめしかど。高虎終に從はざりしかば渡邊も軍を返す。藤堂が先手初度の戰に討取首級貳百餘。渡邊が討取首三百余大御所の御陣に献じければ御感を蒙る。(以上八尾久寳寺の戰といふ。)掃部頭直孝は關東方第二の先手なれば。今朝高安の里邊よりおし立て。藤堂におしつゞき。進發する所に。城よりは木村長門守重成。山口左馬助弘定。內藤新十カ長秋。佐久間藏人忠ョ。牟禮孫兵衛以下都合一万餘騎。久寳寺松原を過て若江表へ發向す。藤堂が先手より鐵炮を打かけ突てかゝる。藤堂が隊將藤堂新七は。木村が手に打とらる。山口修理亮重政。同伊豆守重信等は井伊が先手に有て。左馬助新十カ等と戰ひしが。重信は討死す。木村は勝鬨を揚ていさみ進み。若江を越玉越川の堤にかゝる。藤堂は長曾我部に向ひ八尾の方にて戰ふ。掃部頭は立田山神立明神の麓より赤幟おし立。赤備一万ばかりにて若江をさして。相掛りに鬨をあげ。木村が先手山口內藤が勢と决戰す。河野權右衛門通重。皆川志摩守隆庸も。井伊が陣に有て一番に首をとる。木村は去年今福口にて一人當千の勇を顯したる剛兵二三百を馬廻に備へ。軍令を嚴にし必死を極めて緞にかけたつれば。井伊が備も度々開き。直孝が家にて名をしられたる勇士若干討死せしに。直孝旗本を以て精をもみて突かゝる。井伊が家にて十本鎗と名を得たる河野六兵衛。戶渡太カ右衛門。丸山八カ左衛門。成島彥右衛門。齋市之允。內山五カ左衛門。藤田四カ左衛門。岡部惣右衛門。石原傳左衛門等奮戰すれば。木村が勢は散散に崩れ。山口左馬助首は八田金十カ討取。佐久間藏人が首は(大坂覺書眞野藏人入道宗信とて七組の一人なるを。正木舍人討取とあり。)日下部源太カ。朝比奈左近相討にす。其外河崎和泉。水谷忠助。村上十大夫。篠岡右京。松浦左吉。秦兵庫。K木藤七カ。木四カ左衛門。早川義大夫。根來僧山口知コ院。平塚熊之助以下。城中驍勇の將士多く討れ。長屋平大夫。木七右衛門は生取となり。近藤平右衛門秀用引つれ御本陣へ參る。長門守重成は引ばひかるべきを討死と覺悟して。猶も力を奮て大軍の中に馬を蹴立て突戰する所を。井伊が老臣菴原助右衛門十文字の鑓にて。溝越に重成が縨を引かけひき倒し。重成水田の中へうつぶしに倒るゝ所を。衆兵おり立ておこしも立ず討取て。首を安藤長三カ得たりとぞ。敵の殘兵はみな玉造口をさして引かへす。大御所は御先手藤堂井伊が人數。はや合戰に及ぶよし聞し召。御道より久世三四カ廣宣。坂部三十カ廣勝。本多三彌正重を以て。敵打出しこそ幸なれ。機に乘じて追討べしと命ぜられしが。其御使未だ至らざる間に。井伊は敵を追ちらし。討取首三百五十餘級を献じけり。大御所平岡より一里前にて御轡を立られ。其首御實撿ありしに。木村が首は髮に伽羅を留しにや。その桙關rしかりしかば。其用意のほどを上下共に感歎す。重成が首とりし安藤長三カに金十枚。八田金十カ。日下部源太カへ金三枚褒賞せらる。(以上は若江表の合戰といふ。)長門守重成が祖父(一說弟。)木村主計頭宗明は。重成とは六七町をへだて岩田村に備たり。御方は榊原遠江守康勝。小笠原兵部大輔秀政。水をへだてゝ對陣せしかば。榊原小笠原進んで戰を决せんとせしを。兼て監使に付られたる藤田能登守信吉。前に深沼あり。卒忽にかゝるべからず。其上掃部人數唯今敗軍すべし。
其跡へかゝるべしと制す。其間に榊原が人數やうやう進んで突戰し。村上彌右衛門。原田權左衛門。中根善左衛門。三枝勘兵衛。貴志角之允功名し。討死する者又少からず。長門守重成討死し。殘る軍勢皆城中さして敗走すれば。主計頭宗明が備もともども追崩され。榊原勢は首級少しは打得たりしが。榊原小笠原ともに藤田に抑留せられ。時刻遲引せしを後悔せしとぞ。(以上岩田村の戰といふ。)かくて兩御所ともに平岡に御陣あり。(東迁基業には御所は道明寺。大御所は平塚とあり。今は駿府記にしたがふ。)藤堂井伊は今日の奮戰に力をぬきむで。其軍士死傷若干に及びし故。明日の御先手はゆるされ。岡山の御旗本に備ふべしと命ぜらる。明日越前勢は天王寺表御先手。加賀勢は岡山筯御先手と定められしに。越前の兩家司本多伊豆守富正。本多丹下成重。岡山御營に參り。明日の軍令を伺ふ所。大御所今日道明寺。八尾若江の合戰最中。越前の者共は晝寢して居たるにや。明日先手は加賀勢と本多出雲に令したるぞと仰けり。兩本多立歸りてかくと申せば。忠直朝臣且恥かつ怒て。夜中陣を天王寺の西方におしすゝめ。短夜の明るをおそしと待れける。(駿府記。大成記。東迁基業。大坂覺書。貞享書上。攝戰實錄。天元實記。世に傳ふる所。大御所の仰をきかれ。我加賀の利常と見かへられ。此世に耻をさらすべきか。越前國をば返上し。高野山に蟄居の外はなしと。怒れる眼より泪をはらはらと流されしに。本多伊豆守かほどの思召にも候はんには。明日の合戰に思召も有べきか。もししからんには吉田修理を御ョみ尤に候はんといひて。修理を伴ひまいる。修理は忠直朝臣にむかひ。さる思召に候はゞ。只今より御支度候べし。我は直におし出し候へば。兩執權も引つゞき。跡より御旗本も押出さるべし。越前の者共が晝寐の夢の醒たる働を。兩御所の御覽にいれられん事は。某方寸に候へと。廣言はらつて立しとぞ。天元實記。) 
卷三十七 / 元和元年五月七日に始り廿九日に終る 

 

○五月七日寅刻平岡を御出馬ありて。御旗を岡山のかたへ進めたまふ。第一の御先手は松平筑前守利常。其つぎは本多大隅守忠純。(基業は天王寺表。)加藤左馬助嘉明。K田筑前守長政。第二の備藤堂和泉守高虎。井伊掃部頭直孝。細川越中守忠興を左とし。本多縫殿助康俊。同豐後守康紀。石河伊豆守貞政。蒔田權佐廣定。片桐主膳正貞隆。遠藤但馬守慶隆。本多越中守忠利を右とし。御旗本先隊は大番頭阿部備中守正次。高木主水正正次。書院番頭水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊。松平越中守定綱。高力左近大夫忠房。その外渡邊山城守茂。土岐山城守定義。牧野內匠頭信成。板倉周防守重宗。永井信濃守尙政。井上主計頭正就。日根野織部正吉明。鳥居土佐守成次。安藤彥四カ重能。宮城丹波守豐盛。山大藏少輔幸成。阿部修理亮正澄等なり。本多佐渡守正信。(その身この日は大御所の御跡より供奉し。こゝには人數ばかり出す。)酒井雅樂頭忠世。(其身御側にあり。人數は其子阿波守忠行に附與し。細川玄蕃頭興元に指揮せしむ。)土井大炊頭利勝(その身御側にしたがふ。人數は佐久間備前守安政父子下知す。)が備。御馬廻は大番書院番小姓組の番士。其外近習の諸士若干供奉し。安藤對馬守重信は後陣をうつ。其後に義直卿ョ宣公兩勢もおされたり。大御所は卯刻御輿にて御進發。(御進發に先だち。藤堂高虎參り。今日は御具足を召さるべきやと申けるに。大坂の䜿子を討んに我具足をいるに及ばずと仰られしとぞ。)茶色の羽織に下絬の袴をめされ。御籏長ネは住吉の方をさしておさせらる。この御先手は第一本多出雲守忠朝。相備は眞田河內守信吉。同仙千代信政。植村帶刀泰勝。須賀攝津守勝政。松下石見守重綱。淺野采女正長重。秋田城介實季。六ク兵庫頭政乘。其次小笠原兵部大輔秀政。同信濃守政脩。同大學助忠眞。松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。牧野駿河守忠成。水谷伊勢守勝隆。保科彈正忠正貞。仙石兵部少輔忠政。細川玄蕃頭興元。藤田能登守信吉。成田左馬助氏宗。丹羽五カ左衛門長重。(基業に藤田成田丹羽は岡山にあり。)內藤帶刀忠貞。本多上野介正純。(其身御前にあり。人數は立花宗茂下知す。)立花左近將監宗茂。酒井宮內大輔忠勝は左。松平丹波守康長。酒井左衛門尉家次。榊原遠江守康勝。稻垣平右衛門重綱は右より段々にすゝみ。內藤掃部助正成。植村出羽守家政。板倉內膳正重昌を始め。近臣三十人ばかり御輿にしたがふ。本多佐渡守正信は甲胄を着せず白袷に茶色の羽織を着し。山籠にのり拂子にて飛蠅を打はらひながら御後にしたがひ。永井右近大夫直勝。安藤帶刀直次は御先手を馳めぐり。惣軍の進退を指揮す。大和。伊勢。美濃。諸軍勢は。昨日道明寺口にて苦戰したれば。今日は住吉の方に備ふべしとの事にて。水野日向守勝成大和組の軍を引具し。本多美濃守忠政は伊勢組の軍を引具し。松平下總守忠明は美濃組の軍を引具し。その次に松平陸奥守政宗。その次に越後少將忠輝朝臣の軍勢引つゞく。この時西國筑紫の人數は。いまだ着陣せずといへども。松平武藏守利隆中國よりはやく參陣せしかば。舍弟宮內少輔忠雄。池田備中守長幸を始め。播州勢二万餘人引卒し。仙波天滿京橋にそなへ。京極若狹守忠高。同丹後守高知。石川主殿頭忠總等は搦手にむかふべしとて。枚方守口より備前橋にいたり。これも京口におしよせ。松平和泉守乘壽は守口に備ふ。(この輩はみな落城の時追討の功あり。)旣にして岡山筋より天王寺口をかけて。惣軍の隊伍堂々整々と旗幟を立ならべ。寄手はことごとく兩御所御旌のいたるを遲しと待所に。大御所使番本多三彌正重。米倉丹後守信繼を以て先手にふれられしは。義直ョ宣の兩卿をとりかはせ給ふにより。先手軍を始むる事しばらく延引し。馬をば一二町も引退け。人々馬よりおり鑓を手にし。重ねての令を待べしとなり。水野勝成はや巳刻に及び候。茶臼山の敵陣次第にかさみ見えて候。速に戰を取結び然るべしと答奉る。次に久世三四カ廣宣。坂部三十カ廣勝。小栗又一忠政。佐久間河內守正實等の使番。惣軍をはせめぐり。諸手合戰をとりかくべからず。閑に重ねての令を待べしとふれわたす時。越前少將忠直朝臣は昨夜より覺悟ありし事なれば。此令を聞ぬふりして家士吉田修理に眞先かけさせ。家司の兩本多はじめ。三万に近き大軍を十六段に分て。加賀勢の備たる眞中をかけぬけ。加賀勢怒りとがむるにも答へず。無二無三に天王寺の方。茶臼山の前までおしつめ。此地の御先本多出雲守忠朝が備より少し左に鶴翼に陣をはる。この時御所よりは朝比奈源六正重。安藤次右衛門正次。佐久間河內守政實を御使とし。城兵は寄手を引よせて夜を待さまに見え候。早く戰を令すべしと仰進らせらる。旗奉行保坂金右衛門某。庄田三大夫安信。鎗奉行大久保彥左衛門忠教。若林和泉直則も。天王寺口ははや戰を始るさまなれば。御籏御長ネ住吉へは押るまじ。
直に切れ村小山の筯より天王寺へむかひおし申べしと聞え上る。かさねて安藤重信も御使に來り。天王寺口の寄手ども合戰取結候へば。いそぎ岡山筋は旗をすゝめ候。早く御輿をもすゝめ給ふべしと仰進らせらるれば。大御所も御馬にめされ。義直ョ宣兩卿へも。いそぎ人數をすゝめらるべしと仰つかはされ。御籏御鎗奉行等へもはや住吉を引かへて。天王口へおすべしと仰下さる。是よりさき本多忠朝が先手敵にむかひ。鐵炮打かくるとひとしく。越前勢七八百挺の鐵炮を一度に打かけ。其烟の中より十六段の軍勢。一同に茶臼山の敵へ打てかゝる。此所屋口より茶臼山かけて備たる城兵は。眞田左衛門尉幸村父子。少し南に伊木七カ右衛門遠雄。大谷大學吉胤。(刑部少輔吉隆が子にて。關原後大坂にて眤近す。)渡邊內藏助糺。江原石見守某。その東天王寺口毛利豐前守勝永が備の脇までかけて。福島伊與守正守。同兵部少輔正鎭。眞田采女正信倍。篠原又右衛門忠照。石川肥後守數矩。津田左京亮信澄。結城權之助勝朝。淺井周防守政堅。竹田榮翁等備たり。越前勢は大軍なり。しかも伊與守忠昌は。本多富正が備の眞先かけて奮戰し。城中にて擊劔の名を得たる念流左大夫をも。みづから討てとる。其外越前勢木新兵衛。乙部九カ兵衛。荻田主馬。豐島主膳等。功名する者あまたにて。茶臼山より庚申堂まで備たる眞田が備一さゝへもさゝへず。幸村をば西尾仁左衛門討とり。御宿越前政倫(一說長則。)をば野本右近尙久討とる。眞田勘解由。大塚C安。高梨主膳も幸村が左右にて討死す。越前の先手仙波口よりK門へおし入旗を立て。城內所々に火を放つ。水野勝成は住吉の方へおしけるが。茶臼山に戰始ると見ければ。大和勢にも越前勢と同じくかけよと下知すれども。大和勢はすゝまねば勝成父子手勢ばかりにて。阿部野が原へおしあげ。天王寺石の鳥居をこゆるをみて。菅沼織部正定芳。伊勢組の中より馳出る。本多忠政。松平忠明等も伊勢美濃の勢を進め。越前勢に引つゞぎかけ立る。木津。今宮。生玉。勝曼院。道頓堀邊。敵も味方も勝負區々にて城兵終にかけまけ。大谷吉胤は戰死し。伊木遠雄は跡をかくして落行。渡邊江原等は城をさして逃る。越前勢の先手吉田修理は。あまりに敵を長追し天滿川に墜て溺死せり。(駿府記。大坂覺書。駿河土產。東遷基業。慶長年錄。武家閑談。後日越前の家司等を召て。越前の者ども何とて軍令を待ず。合戰を始たるやとたゞされしに。本多伊豆守されば公にも御存のごとく。忠直家士吉田修理は一万石授置程のものなるが。何思ひけん手勢を以て一番にかけ出せしかば。修理一人をみごろしになしがたく。忠直旗本われわれも引つゞきかけ出て敵を追崩し。大坂城の一番乘を仕候。修理何の思慮有て。一番に馳出候ひしや。その思慮を糺明せんとぞんじ候へども。天滿橋の燒跡へのりかけて川へ落。そのまゝ溺死仕候へば。只今糺明すべきやうもなしと答奉る。その後はまた咎らるゝ旨もなかりしとぞ。天元實記。)すべて越前の手に討取敵の首三千六百五十二級。また明石掃部助全登(一說守重。)は西國押のためとて仙波に備しが。此時眞田と謀を合せ。眞田が合戰半に仙波より。寺町筋勝曼院の下へかゝり。安部野をおしあげ。寄手の後へ切かけんと。逞兵三百人を撰び天王寺西の岸陰まで來る所。眞田が軍は旣に敗れ。幸村も討死すときゝ。今は討死せんとそのまゝ寄手の中へ切てかゝる。寄手其猛勇に碎易し。すこぶる潰走らんとするを見て。水野勝成大に怒り。明石が勢を迎へ討。明石小勢なれば忽に打破られ。全登が首は水野家人汀三右衛門討とり。水野勢は殘兵を櫻門まで追こみ。勝成は旗を櫻門內へおし立る。此戰に大和組の神保長三カ相茂は。主從共に三十六騎同枕に討死す。天王寺口の御先手本多出雲守忠朝は。越前勢と同じく鐵炮をうちかけかけおしすゝむ。この口の城兵は毛利豐前守勝永。其子式部少輔永俊を隊將として。山本左兵衛晴宣。樫井勘解由昌孝。天王寺庚申堂前に備へ。其少し前へすゝみ福田。眞田。篠原。津田。淺井。武田永翁等が陣引つき。少し艮の方天王寺と岡山との間に。木村主計頭宗明。湯淺右近助正壽。長岡與五カ興秋。小倉作左衛門行春。眞野豐後守助宗。木攝津某。樋口淡路守雅兼。津田平三カ信貫。內藤宮內少輔長宗。織田左衛門信次。三浦飛驒守義C。稻木三右衛門高利等陣取たり。毛利勝永は勢を二手にわけ。本多忠朝を左右より引包んで討んとかゝる。忠朝今日を討死と志事なれば。他の勢を交へず。たゞ一手の人數にて。左右よりおし來る敵を突分て鑓を合すれば。敵相備の秋田。松下。六ク。淺野が方へなだれかゝる。此備どもこれが爲におし立られ。散々に崩れかゝる味方の中をおしわけて。二旗の小笠原兵部大輔秀政。同信濃守忠修眞先にすゝみ。榊原。酒井。保科。稻垣。內藤等も一同に。淺井周防守政堅。武田永翁等が備に突て入る。小笠原秀政深手負。
信濃守忠脩は戰沒し。弟大學助忠眞も深手負。家士等やうやう扶け引退く。本多忠朝猛勇大力にて。百里といふ駿馬にのり鐵捧を打ふり。大敵の中を縱に馳めぐり。敵數十人を打殺し。其身も終に討死す。本多小笠原兩家の家人。其主討るゝと見て一足も退かず。其塲にて討死するものあげてかぞへがかし。松平丹波守康長。保科彈正忠正貞も創を蒙り。內藤帶刀忠興はみづから首級をうること四。又岡山筋の御先手松平筑前守利常は。今朝より合戰を始めず。重ねての指揮を待べしとの軍令を守り。備を張てゐたる所。越前勢ははや茶臼山におしよせ。天王寺にても鐵炮の音しきりに聞えければ。長九カ右衛門入道如庵。山崎閑齋。本多安房守政重。山山城守長知等を先手とし。都合三万余の軍勢大野主馬治房に突て掛る。第二の左備井伊藤堂。御籏本先陣永野隼人正忠C。山伯耆守忠俊。松平越中守定綱。高木主水正正次等。隊下の番士を先手に進め。加賀勢の際より乘ぬけ。をのをの先をあらそひかく。諸番の士勳功高名あまたあり。討死も又少からず。其時に此邊へ敵の設置たる埋火はね起りしかば。御先手これに驚き大に潰散す。(一說に本多正純が手より。誤りて味方に鐵炮を打て。御先手敗走すといふは誤りなり。正純が手にて鐵炮うちしは茶臼山にての事なき。)折ふし御馬前に扈從の輩少かりしかば。御所御みづから手鑓をとらせ給ひ。敵陣へかけむかはんとし給ふを。安藤重信御馬をひかへて動かさず。その中に右備の本多忠純。加藤嘉明。K田長政。軍勢引つれはせ來り。御馬廻を守護し奉る。御所は少しもさはがせ給はず。三枝土佐守昌吉に命られ。潰崩るゝ先手の中をおし分て。御籏を敵ちかくすゝめ。御みづから馬上に白采振て。かゝれすゝめと下知し給ふ。此手の城兵は主馬治房を首將として。二宮與三右衛門常廣。岡田縫殿助。岡部大學則綱。槇島玄蕃允重利。山川帶刀堅信。中島掃部助秀直。新宮左馬助に根來の者ども屬し。その西北の方には大野修理亮治長寄合組を引具して備しが。前よりは加賀勢大軍にておしかけ。左よりは右備の本多康紀。同康俊。石川。遠藤。蒔田等を討ば。大野等散々にうちなされ。天王寺と惣堀の間にひかへたる七組の徒もさゝへかね。寄手玉造口より東門へ付いりにせんとする時。城中より火失を放つ故。寄手こゝをば退き。二本松の算用塲よりおし入たり。すべて加賀勢の討死五十余人。敵の首を得る事三千二百級とぞ。石川嘉右衛門重之は。大御所御籏本より拔掛して首二級をとる。(重之軍令達犯の罪により御勘氣蒙り。隱居して丈山と號す。)安藤治右衛門正次は軍令を傳ふるとて先手に至り。敵二人が首とり。その身も深手負たり。(正次この十九日この疵にて死す。)天王寺表は本多小笠原戰死しければ。毛利勝永はじめ城兵頗る勝に乘じ。寄手の諸備追立て。すてに御籏本へ切かけんとす。藤堂井伊兩人岡山の戰塲に備しが。天王寺表の敵勝に乘ずと見ければ。筋違に道をはせ。大野治長が手より打かくる矢玉。雨霰の如きをことゝもせず突ている。榊原遠江守康俊も直孝とおしならんで敵を追立て。首七十八切しが。藤田能登守信吉もみづから痛手二か所まで負て。手のものに首二十三きらせたり。勝永が人數を討れ敗れて城中へ迯入れば。天王寺と惣堀の間にひかへし七組の遊軍入かはりて。また井伊藤堂が人數を追立る。この時安藤彥四カ重能討死し。井伊が家にてしられたる孕石豐前。廣P左馬等も戰死せしが。安藤直次馳めぐり難なく寄手の備を立直す。細川越中守忠興も岡山より馳來り。天王寺昆沙門池の邊にて七組の輩を追立て。栅際までおしつむる。御先手旣に打かちたりと聞えければ。大御所は上野介正純。松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝を御先備にて。茶臼山へ御營を移さるべしとて。庚申堂前まで至らせ給ふ時。上野介正純が下部誤りて鐵炮を放しけるを。御先手の雜兵等敵の伏兵なりと思ひ驚きて。昧方大に騷動せしかど。やがてしづまり。茶臼山に御營をうつさる。これ未刻なり。御所も岡山に御營をうつさる。又其頃城中庖所より火おこる。是は庖人佐々孫助(一說大角與右衛門。)反忠して火を放ちしなり。其火盛にもえ立千疊敷へも火かゝれば。七組の隊長郡主馬首良列。眞野豐後守助宗。中島式部少輔氏種。堀田圖書助正高。野々村伊豫守吉安。其外渡邊內藏助糺。其母正榮尼も自殺す。速水甲斐守之は大野治長と共に秀ョ母子を守護し。山里の土庫に火をさくる。大野主馬治房。仙石豐前人道宗也をはじめ。狹間をくゞり迯失る者。天滿。長良。京橋邊人なだれをなして數もかぎらず。たままた殘る者どもは。或は自殺し或は猛火に焚死す。すべて今日の戰巳の刻にはじまり未剋に終りしに。寄手討とる首一万四千五百三十餘級。伊東右馬允政勝。永田善右衛門重利して監せしめらる。搦手へむかひたる京極石川等京街道よりおしよせしに。仙石豐前入道宗也。津田主水。今津圖書。竹光伊豆守。大塲土佐守。淺野長門守。家所帶刀。生田茂庵。
三千餘人打て出で野口の堤に戰しが。城兵敗走しこれを追討して各高名し。片原町に陣をかたむ。御所やがて茶臼山にならせられ。御對面有て今日諸軍潔く戰功をはげみたるよし聞え上給へば。大御所は將軍勳功比倫あるべからずと御けしさうるはしくして。御所は還御なる。次に本多忠政をめし。弟忠朝が戰死を吊せられ。功名の家人等へは御感書を賜ひ。又小笠原秀政も今日の深手愈ずして卒したりと聞召。大學助忠眞が陣へ山岡五カ作景當。施藥院宗伯を御使して。父秀政兄忠脩を吊せらる。又秀ョの北方(千姬君。)は秀ョ母子助命をこはせ給はんとて城を出給ひしを。坂崎出羽守成政道にて行あひ進らせて。荼臼山へ護送し奉る。大野治長も家士米村權右衛門をもて。右府母子助命の事を希ふ。將軍家の御旨にまかせらるべしとて。米村をば後藤庄三カ光次にあづけらる。(東遷基業。大坂覺書。武コ大成記。駿府記。藩翰譜。家譜。攝戰實錄。慶長年錄。此一戰の事詳密にしるせし諸書あまたあれば。こゝにはたゞその始末を見むが爲。大概を略記せしゆへ。軍功姓名等疎脫多きは。もとよりあやしむべからず。たゞし世に傳ふる所。大坂方には關原勢よも急にはおし寄べからす。なる程寄手を天王寺口に引付て。一戰に勝敗を决せんとはかる所。七日の朝に至り寄手は引付るに及ばず。岡山より天王寺口をかけて。平押に充滿す。城中は案に相違しあはてふためき。秀ョも出馬せんとて。故太閤遺物の籏馬印を陳列し櫻門まで出て。先手の注進を待れしが。大野治長は茶臼山に至り。眞田幸村に逢て軍略をこふ。幸村この上は秀ョ公に早々御出馬をすゝめらるべし。御出馬あらば惣軍の勇氣も百倍すべし。又明石掃部助全登を閑道よりひそかに寄手の後へ廻し。駿府老臣の本陣を不意に襲はしめば。勝利疑なしといふ。治長この謀をよしとし明石が方へその旨申送り。明石が寄手の後陣に追つく頃を待て。天王寺口にも戰をはじむべしとしめし合せ。治長はその計略を秀ョへ告んため城にかへる。幸村は其身新入の處士ゆへ。今三軍の惣督となりても。城中信疑まちまちなれば。そのうたがひを散ぜんため。一子大助に謀を授て。人質の心にて城へかへす。此地に出張せし城兵共は。修理も大助も城に入るをみて。さては迯支度するかと疑ひ。衆兵皆時々道明寺。若江。八尾の敗軍にならひ。はや色めき騷ぎ立處へ。越中の大軍俄におしかゝれば。茶臼山の備忽に敗れ。幸村討死す。天王寺口毛利勝永が備も。相圖をたかへ合戰を始むれば。明石は計策空しくなり。半途より引かへし討死す。治長は城にかへり。秀ョに眞田が計策を告しかば秀ョ出馬せんとせられし折ふし。城中反忠の者ありて。秀ョ出馬あらば。その跡にて城へ火をかけ。寄手を引入んといふ風說もあり。又は只今寄手より和議の使來るといふ風說もある故。秀ョも心ならず出馬延引する間に。天王寺口岡山筋城兵みな打負。眞田明石も討死せりと聞えしかば。秀ョも出馬し城外にて討死せんとありしを。速水甲斐守守之亂軍の中へ御出馬其詮なし。もし城陷らば其とき御自殺あるべしと諫めしかば。秀ョも櫻門より引歸さる。ほどなく城中火もえ出れば。據なく月見櫓芦田櫓より。山里の土庫へうつられしとぞ。大坂覺書。)
○八日辰刻片桐市正且元使もて茶臼山御營に。秀ョ母子幷大野修理亮治長等股肱の徒。二丸帶曲輪に籠居するよし告奉る。(一說片桐且元は此時駿府にて病臥し。其子出雲守孝利も看侍のため駿府にとゞまり。弟主膳正貞隆も夏陣には供奉せずと見ゆ。かたがたうたがひなきにあらず。)御所より安藤對馬守重信御使して。帶曲輪にこもる所秀ョ母子幷扈從の男女悉く自殺を命ぜられしよし。茶臼山御營へ告られ。午刻井伊掃部頭直孝を以て。秀ョ母子以下自殺すべしと仰遣はさる。此日帶曲輪土庫中にて。從一位前大臣秀ョ。(二十三歲。)生母淺井氏。(淀殿。)大野修理亮治長。其子信濃守治コ。速水甲斐守守之。其子傳吉。(一說には出來丸十三歲。)津川左近。竹田永翁。堀對馬守。成田左吉。高橋半三カ。(十五歲。)同十三カ。(十三歲。)埴原八藏。同三十カ。寺尾庄右衛門。小室茂兵衛。土佐庄五カ。(十七歲。)加藤彌平太。森島長意。(松平藤助兄。)片岡十右衛門。伊藤武藏守。土肥勝五カ。新入の浪士は眞田大助幸信。(十三歲。)毛利豐前守勝永。其子勘解由。荻野道喜入道。(氏家內膳正行廣。關原後姓名を變ぜしなり。)中方將監。(淺井周防守子。)中方平兵衛(一說中高。)みな自殺し。女房和期の局。(伊勢國司親族。)大藏卿局。(大野治長母。)饗庭局。(內藤新十カ母。)右京大夫の局。(木村重成母。秀ョ乳母。)宮內卿局。玉の局(湯川孫右衛門姉。)も同じく自害せり。二位局は召れて茶臼山にありしかば。終に助命せらる。(駿府記。
世に傳ふる所は。この日早天に井伊直孝に芦田曲輪を取かこませ。二位の局を茶臼山に召れ。秀ョ母子助命の事を議し。其後直孝を以て。太閤以來の舊好を思召れ。助命あるべければ。出城あるべし。懸命の食邑は宛行はるべしと仰遣はさる。直孝帶曲輪にいたり。近藤登助秀用を以て。速水甲斐守守之へ其旨を申送る。種々問答ありて秀ョ母子出城せらるべきに定まる。其とき速水は御母子の御乘物を進らせらるべしといふ。秀用聞て。この急遽の中にて御乘物などゝ申までもなし。御馬にて御出あれかしといふ。守之憤然として。いかに御運の末になりたりとも。右大臣殿御母子面をさらし。馬にてならせらるべきや。汝等如き葉武者のしる事ならずとて。その儘門をとづるとひとしく。庫中には念佛唱名の聲高くみな自殺ある樣なれば。外より鐵炮を打かけしに。內よりも火を放て。自殺せし君臣の尸はみな燒たり。大御所後に聞召。速水が擧動ゆゝしと感ぜられ。その子の關東に質子として有しをば。助命せられしといふ。また一說秀ョ母子助命の事仰つかはされしかば。御乘物を賜はるべしとこはる。さらば乘物を迎に進らせらるべしとて。其用意延引する間。井伊直孝。安藤重信。阿部正次相計り。今日にいたり秀ョ母子を生し置ては。終に後の禍をのこすものなり。我々後日いかなる御咎蒙るとも。天下の治亂にはかへがたしとて。帶曲輪に鐵炮を打かけしかば。大野速水等も。此事とゝのはずとや思ひけん。庫中よりも火をはなつて。君臣なみ自殺せしともあり。大坂覺書。東遷基業。)城兵の中にも京極備前守。今木源右衛門。别所孫右衛門。渡邊長右衛門等は先手へ使にまかりしが。終に亡命して行衛しれず。この日御所義直ョ宣兩卿共に茶臼山にならせられ。御對面あり。昨今連年大御所御老躰にて。御みづから御出馬ありしゆへ。凶賊速に平均し。天下一統の大慶これに過ずと謝したまへば。大御所は今より後政道公平に仁恩を施され。諸大名三年が間は。徭役をゆるさるべしと宣ふ。御所敬で諾し給ひ。岡山御營にかへらせ給ふ。次に越前少將忠直朝臣參陣せられ。眞田左衛門佐幸村。御宿越前正倫が首を實撿にそなへらる。家人西尾仁左衛門。野本右近尙久も拜し奉り。御褒詞を加へたまふ。午刻大御所茶臼山を御發輿あり。京にかへらせられ。木村宗右衛門勝正が淀の家にやすらはせ給ひ。着御の甲胄幷信國の御刀をたまふ。(大坂覺書。東遷基業。創業記。駿府記。貞享書上。世に傳ふる所。大御所是より先。板倉重昌御供にて城內燒討を御廻り。京橋口より御歸洛なり。是日快晴なりしが。かゝる跡は大雨なりと仰られしを。御供の輩いかなる故かとあやぶみしが。守口へ至らせ給ふ頃より雨ふり出し。枚方にては大雨篠をつくがごとし。御輿を出給ひ御馬にていそがせ給ふ時。木村惣右衛門雨具を獻じ。亥刻二條へ着御あり。大坂在陣の諸軍。御歸洛をしるもの一人もなかりしとぞ。大坂覺書。)御所阿部備中守正次。高木主水正正次に大坂の城跡を警衛せしめ。水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊。內藤若狹守C次。松平越中守定綱に櫻門極樂橋を警衛せしめ。又西國の軍勢は百余日在留して。城の燒討を掃除せしむ。又桑山左衛門佐一直は住吉邊へまかり亂妨を禁ぜしめ。小出大和守吉英堺浦にて敗兵を討とるべしと命ぜらる。金森出雲守可重は岸和田に勤番せしに。大坂旣に落城したりと聞。大坂へまかるとて。櫻井村にて大野主馬治房が敗兵に行あひ。首二百八級討とり。八人生擒して獻ず。毛利甲斐守秀元は四月の末に。長門の府中より出軍し昨日の合戰半に長ネ川をこえ。高麗橋より極樂寺にむかひ。城兵にあひ首三百級を得。又向井將監忠勝を援て。敵の番船十余艘を乘取れり。(元ェ日記。家忠日記。家譜。慶元拾遺。ェ永系圖。)
○九日御所岡山御營より伏見城へ還御なる。義直ョ宣兩卿も從ひ給ふ。諸大名追々に二條伏見に出仕して。御凱旋を賀す。安藤對馬守重信。山伯耆守忠俊。阿部備中守正次大坂にのこり。府庫存在の金銀を查撿せらる。又山口駿河守直友より島津陸奥守家久へ。大坂落城せしかば軍勢は途中よりかへし。其身速に上洛して慶賀すべしとつたふ。又高野山文殊院應昌には。其山中幷紀州邊大坂の殘黨を搜索して。訴へ出べしと仰下さる。(駿府記。東遷基業。貞享書上。國師日記。)
○十日淺野但馬守長晟。松平阿波守至鎭。生駒讃岐守一正。松平宮內少輔忠雄參洛し。二條へ登り拜謁す。長晟今度信達の軍功を褒せられ。家士上田宗古。龜田大隅。多湖助左衛門。安井喜內。岸九兵衛等。御前に召て褒詞を加へらる。越前少將忠直朝臣今度の軍功莫大なりとて。先初花の茶壷を賜ひ。又御所御手づから貞宗の御刀をたまふ。其家臣等みな褒詞を加へられ。中にも本多丹下成重。荻田主馬には茶壷をたまひ。主馬は原祿一万石の外に與力の祿として一万石加ふべしと命ぜらる。駿府記。武コ編年集成。)
○十一日蜂須賀家政入道蓬庵が家士長坂三カ左衛門。八幡村里に於て長曾我部宮內少輔盛親幷其家士中內宗右衛門を生擒して伏見に獻ず。よて三カ右衛門に金百兩褒賜せられ。盛親は面縳して二條門外に曝さしむ。遠近より群聚して是を見る者堵のごとし。(駿府記。家忠日記。世に傳ふる所。長曾我部齡四十餘の大入道にて。搦られ伏見へ參りしかば。內々の御沙汰にて。玄關へ置茶を賜ひ。井伊直孝。安藤重信。土井利勝等出て對面し。御所も物かげよりひそかに御覽ぜらる。その時に長曾我部申けるは我六日の晚今一勝負せんと思ひしが。左の方より赤備の人數合より討てかゝらん形勢ゆへ。たまらず敗軍したりといふ。直孝聞てその赤備は我等なりしと答ければ。長曾我部詞なかりしとみゆ。又その子右衛門大夫も。一同に擒にせられしともいふ。慶長日記。續武家閑談。天元實記。)この日高力左近大夫忠房。桑山伊賀守元晴。同左近大夫貞晴。别所孫次カ某。本多左京亮利重。松倉豐後守重政等に。高木九助正次。山田十太夫重利をそへて。大和國に赴むき。大坂の殘黨を搜索せしめらる。御所は二條城へわたらせ給ひ。御密談數刻に及んで。伏見へかへらせたまふ。松浦肥前守隆信は今日參着して。伏見二條兩城にのぼり拜謁す。又田中五カ右衛門義忠病死して。その子一カ右衛門忠勝つぐ。(家忠日記。駿府記。ェ永系圖。家譜。)
○十二日大坂殘黨を搦取て進らすべきよし。諸國の領主代官に令せらる。京極若狹守忠高は秀ョ息女八歲なるを捕へて獻ず。これは秀ョの妾成田氏(五兵衛助直女。)の腹に設けしを。北方養ひ給ひしなり。助命せられ後年比丘尼となり。鎌倉松岡東慶寺に住持して天秀和尙といへるは是なり。又秀ョ妾腹に男子あるよし聞えければ。嚴に搜索すべしと觸らる。また城兵山川帶刀賢信。北川次カ兵衛宣勝。八幡瀧本坊に匿れゐたるよし注進ありければ。秋元但馬守泰朝逐捕せんとむかひしに。兩人迯失たりよて。瀧本坊住僧を搦取て禁獄す。(駿府記。武コ編年集成。慶長日記。)
○十三日中川內膳正久盛。寺津志摩守廣高參洛して兩城にのぼり。遠國ゆへ戰亂におくれ。遺憾なり聞えあぐる。御所二條にならせらる。(慶長年錄。慶長日記。)
○十四日各所より。大坂殘黨の首切て獻ずるもの六百餘級。此日大坂の町奉行水原石見守某。二條邊に隱れ居るよし訴ふる者あり。藤堂和泉守高虎逐捕せんとむかひしに。水原は藤堂が捕手三人切伏て。其身も死せり。よてその首切て二條西門外に曝さる。奈良代官中坊左近秀政。其地に落來りし城兵を誅し。御書を賜はる。(貞享書上。)
○十五日細川內記忠利參洛し。兩城にのぼり拜謁す。長曾我部宮內少輔盛親を一條より都下の大路を引渡し。六條河原に於て誅し。三城河原に梟首し。その餘大坂の殘黨七十三人が首切て。粟田口幷に東寺邊に梟せしむ。紀州國人新宮若狹守氏弘を。松倉豐後守重政生擒して獻ず。彼は紀州にて一揆をすゝめ。領內を擾亂せしかば。淺野但馬守長晟領內へ引つれ歸り。磔に行はん事をこふ。然るに氏弘が弟堀內主水氏久大坂に籠城せしが。北方城を出たまひし時。氏久刑部卿局と共に茶臼山御陣へをくり進らせし功ありとて。兄氏弘が死罪一等を减じて追放たれ。氏久は後召出され采邑五百石たまはり。大番に加へらる。(家譜。駿府記。慶長日記。東遷基業。)
○十七日先に逐電せし北川次カ兵衛宣勝。山川帶刀堅信瀧本坊が召捕られしと聞て堅信は本能寺に來り。宣勝は知恩院に來りみづから訴て。かの僧をゆるしたまはん事をこふ。その心義ありとて兩人に茶菓をたまひ。助命ありてかの二寺にあづけらる。此日金地院崇傳より諸寺へ。上古は綸旨をたまはらずして。院號を稱する事を得ず。しかるに近年本義を失ひたり。今より後古例にしたがひはかるべし。昇進も近世は容易にみだりがはしくなり行たり。今より後は舊規に復すべしと令せしむ。(慶長日記。東遷基業。國師日記。)
○十九日大御所近日京より駿府にかへらせ給んと聞え給へば。御所伏見より成せられ御對面あり。八月迄は御在京有て。万機うしろみ聞え給はん事をこはせ給ひ。强てとゞめたまへば。其御旨にまかせらるべしと答へさせたまふ。(駿府記。)
○廿日眞田左衛門佐幸村が妻は。紀州伊都郡中に忍びゐたるを。淺野但馬守長晟捕ふ。かの妻秀ョより幸村にたまはりたる來國俊の脇差。ならびに金五十七枚を所持せりとて。二條に獻じけれど。皆長晟にたまふ。又佐久間大膳亮勝之は竹田永翁が首切て獻ず。此日處士宇都宮治部左衛門朝末に米千俵。時服五十。銀三百枚。其家人安武久兵衛に時服二。銀二十枚。同市カ兵衛に銀十枚下さる。(駿府記。家譜。慶長年錄。坂上池院日記。貞享書上。)
○廿一日伏見の農人。秀ョの男子國松丸が橋下に忍びゐたりとて。捕へてうたへ出る。(駿府記。一說に國松丸をば大野主馬治房が供奉して城を落しに。賊治房が路費を持たるをしりて。治房を討て其路費を奪ひさる。
國松丸をばそのまゝすておきしかば。國松丸七日よりけふまで所々に忍びかくれたるを。只人ならぬ樣と見て。伏見の市人哀れみ家にともなひ。食物などすゝめし上にて。御父の名は何と申と問しかば。上樣と答ふ。さては大坂の若君にまぎれあるべからずとて訴へ出しといふ。又一說國松丸は。秀ョの妾成田氏の腹に生れ。今年八歲なるが。關東の聞えを憚り。京極の常高院がもとにあづけ置しを。今度の一亂に及び城中へ迎取しが。城陷に及んで乳母抱て逃出。京の商人のもとにかくれゐたるを。其土人あやしみ訴出しとも見ゆ。また一說には吉野の吉水寺にかくれゐたりしともいふ。時代記。元ェ日記。)野間金三カ重成。小林田兵衛元長兩人。伏見より二條城に出仕する道にて。大坂の大野道犬が大佛邊に匿れたるを見て生擒し。二條城に獻ず。又西國九州より出軍の諸大名。各途中にて大坂落城せしと聞。人數をば國に歸し。各入洛して大坂平均を賀し奉る。(駿府記。家譜。慶元通鑑。)
○廿二日野間金三カ重成。小林田兵衛元長。昨日大野道犬を搦取て獻ぜしにより。本多佐渡守正信。酒井雅樂頭忠世。奉書もて其功を褒せられ。道犬が帶せし刀を重成。脇差(關兼定作。)を元長にくださる。鯰江甚右衛門和甫は。伏見より加州に御使して。姬君の痘をとはせらる。(貞享書上。ェ永系圖。)
○廿三日御所二條城にならせられ御對面あり。此日秀ョの男子國松丸を六條河原に於て首を刎らる。其乳母の付添ひたるは助命せらる。國松丸若州に養はれし時。傅役たりし田中六左衛門かくと聞。板倉伊賀守勝重のもとへ訴出て同じく誅せらる。仙石豐前入道宗也が子も(六歲。)首をはね。前田コ善院玄以の孫二人も切腹せしめらる。又今度討取城兵の首帳を進覽す。其中御旗本に討取所二百九十五。越前の手に三千七百五十三。加賀勢に三千二百。藤堂の手に八百六十八。備前勢に六百廿一。伊達勢に五百廿五。京極高次の手に三百六十。井伊が手に三百十五。京極高知二百二。本多忠政手二百五十三。同忠純手二百十七。鳥居手に貳百八。森が手に二百六。その以下惣計一万四千五百三十四級。(一說一万八千八百六十四級。慶長見聞書。駿府記。慶長年錄。)
○廿四日後藤庄三カ光次に。大坂の金銀を查撿すべしと命ぜられ。大坂へ遣はさる。(駿府記。)
○廿六日松平陸奥守政宗へ。大坂より密書を以て使せし和久半左衛門是成は。能書なるがゆゑ。政宗より請奉り助命せらるゝむね。本多上野介正純。土井大炊頭利勝奉書をもて政宗へ送る。此日大久保四カ左衛門忠成千石加て三千石になさる。間宮虎助直澄は七日傳法口の戰に深手負。今日死しければ。その子造酒丞長澄家つがせらる。吉田四カ兵衛正時召出され。御家人に加へらる。(貞享書上。家譜。ェ永系圖。)
○廿七日榊原遠江守康勝。風毒腫をなやみて俄に卒す。兩御所大におどろかせ給ふ。又大コ寺の天齋松岳玉室を召て。寺法の事を令せらる。是日武州岩槻に於て。先に高力左近大夫忠房にあづけられたる搏c右衛門尉長盛切腹せしめらる。時に七十一歲。長盛は庚子の亂後配流の身となり。今年までながらへしが。其子兵大夫盛次はゆるされ。尾張宰相義直卿につかへしめられしかば。去年も義直公に從て寄手の陣にありしが。ことしは大坂に籠城し。六日八尾の戰に藤堂と戰ひ討死せしが故なり。(駿府記。家譜。國師日記。慶長日記。世に傳ふる所搏c盛次去年寄手の陣にありながら。城兵打勝時はスび。味方勝軍すと聞時は。哀傷の色面にあらはれしかば。大御所其よし聞召。盛次には似合しき志なり。籠城せんと思はゞ心にまかすべしと仰下さる。盛次大にスび。夏陣には大坂方へ參りければ。秀ョ大に其志を感じ。錦の陣羽織を賜りたり。六日の一戰に盛次其陣羽織着て。藤堂が手にむかひ力戰し。磯野平三がために討れしとぞ。慶長日記。)
○廿八日井伊掃部頭直孝。藤堂和泉守高虎を伏見城に召て。今度六日七日兩日の勳功拔群なりとて。金銀の大法馬(千枚吹といふ物なり。)二づゝ給はり。猶追て所領を揄チへらるべしと面命せらる。是日片桐市正且元病卒せるよし。駿府より注進す。歲六十三なりとぞ。(駿府記。駿府政事錄に。今日告來ると記たるゆへ。これにしたがふといへども其家系によれば。且元が死は今日なり。其日の中に駿府より京まで訃の至るべきにあらず。梵舜が記に。且元京にて死し。大コ寺に葬るとあるをみれば。京にて死せしにや。京にて死せしならば。其日聞えあげし事もあるべきにや。駿府記政事錄等は當時の記錄ゆへ。疑ふべきにあらずといへども。大野道犬廿日に生取れしと記しながら。八日に道犬が首を越前少將持參すとしるし。榊原康勝が死は。ェ永系圖其外諸書に廿七日と見えたるを。晦日に死すとしるし。國師日記金地院が廿九日の奉書に。明朔日とあれば。この月は小盡なる事疑なし。しかるを晦日を係て康勝が死をしるす。この類の不審すくなからず。ことごとく證となしがたし。)
○廿九日田中筑後守忠政參着し。
兩城にのぼり謁し。遠國にて遲緩遺憾の旨聞えあぐる。(駿府記。)
◎此月藤堂和泉守高虎加恩五萬石賜はり。二十七萬九百石餘になされ。大御所御印書を下さる。旗奉行三枝土佐守昌吉には備前の守家の御刀。松平豐前守勝政には大御所より鳥毛抛鞘の鑓。幷御牀机賜はり。使番島彌左衛門一正。數度斥候をつとめしとて。御兜幷備前兼光の御刀を給はる。目付永井監物白元先手へ三度御使して。K門口にて指揮のさまよろしとて金下され。もと越前黃門に仕へし永井善左衛門安盛。御陣營に到りこひ申旨ありしかば。めされて先手頭仰付らる。松平右衛門佐忠之二條城にて乘馬を御覽にそなへ。毛の馬を下され。大御所より則國の御脇差を賜はる。大番組頭山岡傳右衛門景重子傳右衛門景信初見し。堀豐前利政御陣にて拜謁し。廩米五百俵賜はり。書院番に入。これは織田家の臣奥田七カ兵衛道利が子にて。堀監物直政が外孫たりしゆへ。今度淡路守直重が陣に有て。軍功をあらはしけるが故とぞ。(貞享書上。家譜。武コ編年集成。ェ政重修譜。) 
卷三十八 / 元和元年六月に始り閏六月に終る 

 

○六月朔日江戶大に地震す。(慶長日記。)
○二日安藤對馬守重信及び後藤庄三カ光次。大坂より沒入の金二万八千六十枚。銀二万四千枚をもたらして獻ず。島津陸奥守家久。前月五日一万三千人引具して鹿兒島を發しけるが。海上にて大坂落城せしよしを聞て。人數はかへしけふ尼崎に着船す。其臣伊勢兵部へ本多佐渡守正信消息して慰勞す。(駿府記。貞享書上。)
○四日諸醫伏見城に群參す。御所御咳氣によてなり。二條城にては高野山僧の論義聞召る。一條亞相昭良卿。三寳院門跡義演。神龍院梵舜聽衆たり。(駿府記。舜舊記。)
○五日島津陸奥守家久二條城にのぼり拜謁し。銀五百枚。綾子五十卷獻ず。(駿府記。)

○六日細川越中守忠興が次男長岡與五カ興秋は。父子の間不快なりしかば大坂へ籠城せしが。城陷て後京稻荷山東林院にかくれたり。其罪死をゆるされずといへども。父忠興庚子以來無二の忠節によて。其死を宥らるといへども。忠興其命を奉ぜずして自殺せしむ。松平宮內少輔忠雄が弟左近輝澄叙爵して石見守と改む。(家譜。藩翰譜備考。)
○七日伏見より土井大炊頭利勝を御使として。御咳氣御快復を告らる。(駿府記。)
○八日松平下總守忠明。今度美濃組諸大名の旗頭として大和路におしすゝみ。勳功最大なりとて。伊勢の國龜山の城を轉じ。攝津河內の內五万石加へて十万石になされ。大坂の城に住べしと命ぜらる。(諸國に大坂の城を守らしむとも見ゆれど。重修譜の說には大坂城を下されしと見ゆ。)龜山へ立よらず。直に大坂へ乘入べしと面命あり。大坂城に存在の武具器械玉藥等も悉くたまふ。稻葉大夫紀通も伊勢の田丸を轉じて。攝津の中島にうつり。原額のまゝ四万五千七百石領せしめらる。(紀通は忠明が聟にて。しかも年少ければ。忠明が請により轉封せしよしなれば。同日の事にはあらざるべし。)江戶留守最上駿河守家親脚力もて。この朔日江府大震。家屋過半顚倒せしよしを。二條伏見に注進す。(駿府記。家譜。紀年錄。東遷基業。)
○十一日古田織部正重然。伏見木幡に於て切腹せしめらる。長子山城守重廣も同じ。鳥居土佐守成次。內藤右衛門佐正重撿使たり。此重然は故の主膳正重定が子にて。はじめ豐臣の家人となり。年若より茶事を好て。千利休宗易が隨一の弟子なれば。宗易罪せられて後は。世人重然を以て一世の宗匠と尊敬せり。庚子の亂には關東の御方しければ。勸賞行はれ所領あまた加へ。万石に列る。しかるに今度大坂に內通し。兩御所御出京の跡をうかがひ。京都を燒拂はんと謀りたる事露顯しかく罪せらる。(駿府記。藩翰譜。)
○十四日畿內の諸大名へ。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝奉書もて。一昨年より今春に至り。諸國より大坂に出て勤仕せる者を搜索し。姓名をしるして奉るべし。もし大坂を迯出て故クへ歸る者あらば追捕すべし。その身踪跡をしらしめずば。故クに殘りし妻子を嚴禁して。迯去しむべからず。妻子もなきものは。其親戚の姓名を查撿し聞え上べしとふれらる。淺野但馬守長晟。紀州土寇の尊長を搦取て獻ず。この日搶緕帶V智國師存應上洛して拜謁す。倉橋內匠助政勝陣中より病おこり。江戶に歸り死す。その二子內匠助久盛幼稚なるがゆへ。食邑五千石を减じ三千石給はり。家つがしめらる。(家忠日記。駿府記。家譜)
○十五日大御所御參內あり。御輿にめさる。供奉の輩わづかに三十余人。主上へ銀百枚。綿二百把。女院。女御へ銀五十枚。綿百把づゝ進らせられ。長橋局へ銀二十枚。綿三十把つかはされ。又院參し給ひ銀五十枚綿百把さゝげたまふ。(御年譜。駿府記。)
○十六日二條伏見にて嘉定の議行はれ。在京の諸大名まうのぼる。(駿府記。)
○十七日二條城にて天台僧の法論聞召る。(駿府記。)
○十八日本多佐渡守正信。豐國明神の社を毁ん事を請ふ。その社を破却するに及はず。神號祭禮を廢し。釋徒の法を以て沙汰せしむべしとて。有職の公卿及宿コの諸門跡をして議せしめらる。(慶長日記。慶長年錄。)
○十九日燒火間番頭神尾刑部少輔守世が子小姓猪之助守勝千石賜はり。即日叙爵して宮內少輔と稱す。これ守世の母阿茶局。去年大坂和議の時數度城中に御使し。思召まゝによく計らひし勘賞とぞ聞えし。(家譜。)
○廿日御所二條城に渡御有て。天台論義聞し召る。大御所より勢高肩衝を進らせ給ふ。是は古田織部正重然が秘藏せし所なり。(舜舊記。駿府記。)
○廿一日大中寺二條城にのぼり拜謁す。(國師日記。)
○廿二日佐竹右京大夫義宣は先月大坂落城し。天守に火かゝる時平岡へ參着す。この日安藤對馬守重信御使して軍令に應じ急ぎ多勢を催し馳のぼりたる條御感淺からず。遠國の事ゆへ在京の勞を思召。歸國のいとま賜はるとて。銀子百貫目下さる。(貞享書上。)
○廿六日越後少將忠輝朝臣の家人藤井主水某を。松平丹波守康長へ召預らる。(家譜。)
○廿七日大野道犬を堺津に引渡し。堺政所長谷川左兵衛藤廣沙汰して梟首す。これ今度大坂落城前に。道犬堺津を放火し。神社佛閣過半この燹に罹しかば。治承のいにしへ平中將重衡が南都に引渡し誅せられたる例に遵て。堺の地に於て誅し。甘心せん事をその土人等請によりてなり。(駿府記。紀年錄。東遷基業。)
○廿八日二條にならせられ。松平宮內少輔忠雄を召て。舍兄左衛門督忠繼が所領備前國岡山三十一万五千石を賜ひ。舊領淡路國六万三千石は收公せられ。またその弟石見守輝澄に。播磨國完粟郡三万八千石。岩松政綱に同國赤穗郡三万五千石。古七カ輝興に同國佐用郡二万五千石分ちたまはる。忠繼は故宰相輝政の次男。母は大御所の御女。(良正院御方。)忠繼童名は藤松。五歲の時慶長八年正月六日備前國をたまはり。伏見城にまうのぼり謝し奉るとき。大御所より吉光の御脇差を下され御庶子に准ぜらるべきむねの懇命を蒙り。十三年四月十八日江戶にめして元服し。御家號をゆるされ。御一字たまはり從四位下侍從に叙任し。左衛門督忠繼と稱す。このとき正宗の御刀くださる。十八年六月六日父の宰相卒しければ。遺領の內播州にて完粟佐用赤穗三郡をくはへたまはり。去年大坂の軍おこりしかば。大軍を引つれて馳參り。軍功をあらはし。兩御所の御感を蒙りしが。國に歸てほどなく此二月二十三日十七歲にてうせぬるなり。又戶田左門氏鐵が子新次カ氏信も。けふ叙爵して采女正と稱す。是日曹洞宗法規を大中寺にくださる。その文にいふ。三十年の修行成就せざらん者は。法幢を立べからず。廿年の修行を遂ざらば。江湖の頭たるべからず。寺中を追放せし惡比丘は諸山に於て許容すべからず。江湖をいたすの後五年をへず。又は修行未熟の僧は轉衣すべからず。諸末寺の僧等本寺の命令を違背すべからずとなり。(駿府記。ェ政重修譜。藩翰譜。家譜。藩翰譜備考。國師日記。)
○廿九日秀ョ秘藏せし藥研藤四カ吉光骨喰と名付たる太刀を。阿州の農民拾ひ得しとて。本阿彌又三カ二條城へ進覽せしかば。又三カに返し下されしに。又三カこれを伏見城に持參して献ず。よて金百兩下さる。(駿府記。關難間記。)
○晦日二條に金地院崇傳。南光坊天海。智積院日譽。勸學院等拜謁す。林道春信勝。先に命ぜられたる大藏一覽十部進覽す。これ駿府にて銅字數十萬鑄造して。今度百廿五部刷印せし所なり。文字鮮明なりとて。衆皆稱讃す。よて每部朱印を押て。諸寺に寄進すべしと命ぜらる。(駿府記。)
◎此月本多豐後守康紀が子出羽忠利叙爵して伊勢守と稱す。(重修譜に本多豐後守康紀が子出羽忠利。慶長十八年七月二十八日御諱字を賜はり。忠利とめされ伊勢守と稱すとあり。)又松平武藏守利隆次男三五カ恒元。伏見城にのぼり初見し奉り。中島來の御脇差を賜ふ。久志本周防守常興子式部常尹二條伏見城にのぼり初見し奉る。又福島掃部助高晴がもとに小堀遠江守政一。中坊右近秀政を御使として。高晴が家人先にうつたふる汝が罪。のがるべからずといへども。兄左衛門大夫正則が大勳功あるが故に。その罪をとはれず。しかるにみだりに國法を犯し。あまつさへ官吏に無禮の事をのゝしる。その罪甚重し。しかれども舍兄が故により别の義をもて。猶その罪をなだめ所領を收公せらる。(家譜。藩翰譜備考。武コ編年集成。世に傳ふる所は。去年大御所關東人へわたらを給ふ時。高晴が家士封書を奉り。高晴が不義を訴ふ。かへらせ給ふ時にも又封書を奉る。その八月高晴この事を憤り。其家人が亡命して駿府の市中に居たるをからめとる。町奉行彥坂九兵衛光正大にいかり。公に訴へず私に城下の市井にして人をとらふる事。頗る狼藉なりといへば。高晴聞て。高晴がカ等を高晴が捕へしむるに。何のことあらんやとのゝしるを。訴へし家士は追放たれ。其上に高晴はかく罪せられしといふ。藩翰譜。)又小幡勘兵衛景憲伏見城にて拜謁し。御家人に加へらる。この景憲は甲州の武田が臣小幡豐後守昌盛が三男。母は原美濃守虎胤が女。天正十年十二月十一歲にて當家につかへ。御所いまだ若君と申ける時より給事し。其後故ありて逐電したりしが。年經て慶長五年關原の時は。井伊兵部少輔直政が先手にありて眞先にすゝみ。戰功をあらはし。去年大坂の軍には加賀勢の中に入て。眞田幸村が丸出しにむかひ。姓名をなのり勇戰せしかば。御和議とゝのひてのち。大野主馬治房聘を厚くして招く。其時景憲。松平隱岐守定勝。板倉伊賀守勝重にはかり。間牒となりて其招に應じて城に入。密かに城中の情實を搜得て。定勝勝重に告る事度々なり。大坂再叛のこと景憲が注進によりてぞ。其實はさだかにしられしとぞ。大坂にては景憲老練の剛兵と思ひ。常に軍議の席にも加へしかば。大坂より兩御所御出京の期をうかがひ。京都を放火せんと計策をめぐらしける事は。景憲先告まいらせけり。其功少からざるを以て。先の逐電せし罪をゆるされしなり。(ェ政重修譜。武コ編年集成。)
○閏六月朔日諸大名兩城に參賀す。
南光坊天海衆坐の中にて。ひとり天台僧の外紫衣をゆるされ。また僧正にのぼる事あるべからずといふ。多門院末坐より聲を放て。我宗祖弘法院に紫衣を賜ひ。其上高野東寺醍醐の諸僧等。僧正に任ずる者古今其例少からず。何ぞ天台一宗にかぎらんやといふ。天海默然たり。(駿府記。)
○二日松平武藏守利隆幷弟宮內少輔忠雄共に拜謁し。忠雄に舍兄左衛門督忠繼の遺領繼しめられしを謝し奉る。(駿府記。)
○三日小豆島は長崎に接近し。海船往來の便を得る地なるを以て。長谷川左兵衛藤廣所管すべしと命ぜらる。また淺野但馬守長晟より。紀伊國浦邊へ漳州船着岸し。砂糖を載來る由注進す。心まかせに賣ひさがしむべしと令せらる。(駿府記。)
○四日松平阿波守至鎭去年の軍功を賞せられて淡路國を賜ふ。舊領阿波國を合せて廿五万七千石になさる。大御所も去年以來無二の忠節なりとて褒詞を加へたまふ。細川越中守忠興は歸國の暇下さる。また本多出雲守忠朝が遺領上總大多喜五万石を。美濃守忠政が次男甲斐守政朝に賜ふ。忠朝が二子入道丸政勝は僅に二歲なれば。政朝して叔父の家繼せられしなり。忠朝は故中務大輔忠勝の次男。關原の戰には忠朝十九歲。父と同じく島津が陣に向て。みづから敵の首二級を切取しかば。大御所大に御感あり。慶長六年正月朔日父忠勝が勢州桑名城賜はりてうつるに及んで。父が舊領大多喜五万石を忠朝に給はり。即日叙爵して出雲守と稱す。去年の戰には御所の御先手にて軍し。ことし五月七日の戰には天王寺口の先陣にて。敵の陣を打やぶりぶり。思ふ儘に奮戰し。年三十四歲にて討死せしなり。(駿府記。東遷基業。藩翰譜。重修譜政朝が襲封を七月朔日とするは。此十日謝恩の事見ゆれば採らず。今駿府記に依て。此日に係く。編年壬六月三日とす。)
○五日竹屋左少辨光長が家士田邊三右衛門京中を引渡し誅せしめらる。これは淡路國泉光寺に綸旨を僞造して授けし事。露顯せし故なり。(國師日記。)
○六日伏見より二條にならせ給ひ御密議あり。二條にて眞言論義聞し召る。寳性院朝印。無量壽院長海。遍明院。正智院。金剛三昧院。如意輪寺宥盛庵室。北室院政旻これに預る。講師は多門院なり。公武聽衆多し。此日南禪寺金地院末寺河內國八尾眞觀寺に寺領千石下さる。(駿府記。)
○七日大坂合戰の時。潰走の徒查撿すべしと命ぜらる。又伏見城には飛鳥井中納言雅庸卿。同左中將雅宣蹴鞠御覽あり。又大中寺松桙ノ曹洞宗法規を授らる。(駿府記。)
○八日廓山淨土宗の規别を進献ず。活字大藏一覽一部を賜ふ。(駿府記。)
○九日金地院崇傳本朝文粹二部を進呈す。是は甲斐國身延山の藏本をもて新寫せしめし所なり。然るに第一卷散逸せしを。林道春信勝京市にて購求し全備せしかば。大御所大に御感あり。又大坂城中收貯せし茶器。兵燹の後散逸して其行所を知らず。よて織田長益入道有樂に。其茶器の形狀を聞え上べしと命ぜらる。此日松浦肥前守隆信高麗鴨を献ず。信濃の松本山中銀鉛を產するよし注進あり。よて松平右衛門大夫正綱。伊丹喜之助康勝に。其山を查撿して堀しむべしと命ぜらる。(駿府記。)
○十日本多美濃守忠政。其子中務大輔忠刻。次男甲斐守政朝二條にまうのぼり。政朝に出雲守忠朝が長女を配し。其遺領つぐべしと命ぜられしを謝し奉る。越後少將忠輝朝臣。松平伊豫守忠昌も拜謁あり。古田織部正重然罪せられて後。堀川三條南の邸宅を藤堂和泉守高虎に命じ收公せらる。その沒入せし茶器。俊成定家兩蹟。一山南浦一休屋の墨蹟等多く二條に進らせ御覽あり。この日島津陸奥守家久鐵炮藥袋幷火繩十筋献ず。これは所領薩州の唐種の竹もて製する所とぞ。片桐主膳貞隆奇南香一木を献ず。松浦肥前守隆信。祖父式部卿法印鎭信遺物とて刀一振銀二百枚奉る。次に尾張宰相義直卿昨夕より。中暑病臥によて。醫官片山與安宗哲に仰せて。六和湯を調進せしめられしに忽其驗あり。(駿府記。)
○十一日使番山石見守C長伏見にて切腹せしむ。山伯耆守忠俊監使たり。このC長そのはじめは祖父江五カ左衛門定翰入道法齋とて。福島左衛門大夫正則が家士たり。關原の時先手の斥候して。天晴ゆゝしき擧動し御感にあづかり。後に御家人に召加へられ。山常陸介忠成が苗字を授けしめられて。石見守C長と改め。使番に命ぜられき。しかるにこのC長大坂の七組隊長眞野豐後守ョ包が弟なるをもて。去年以來城中へ內通の事露顯によりてなり。(駿府記。家譜。世に傳ふる所は。去年大坂堀埋の時。關東の役人大勢奉行して其所にあつまり。役夫を指揮せし中に。C長も渡邊半四カ家綱。山田十大夫重利等と共に監使命ぜられまかりし時。城中よりうるはしくよそひたる上搶蘭[一人立出。その人々の中に山石州やおはするとよびて。御城にて上々樣方やすらかにわたらせ給へば。其元も安心せらるべし。先は東西御和睦とゝのひ目出度候とて入ぬ。C長は大に赤面し同列の人々にむかひ。某が一族城中にも候へば。其ゆかりによてかの女房も物語せしと見へき。
各の思給はん所も恥かしくこそ候へ。此事ゆめゆめもらし給ふなと口がためけり。これしかしながら城中へ內通せしものならんと。これを見聞して訴ふる者ありて查撿に及びしに。去年の合戰にも不意にC長が手より城にむかひ鬨をあげ。城中これに應じたりし事など。かたがた不審少からずとて鞫問ありし所。果して內通の事露顯せしといへり。大坂冬夏戰錄)。
○十二日使番溝口外記常吉。其子書院番半右衛門重長。次男大番新左衛門常勝。共に改易せられ采邑二千石收公せらる。南部信濃守利直家士南部十左衛門。大坂へ籠城せし事に座してなり。(駿府記。世に傳ふる所。南部利直が小姓に。南部左門といへる者あり。逐電して京に徘徊するよし聞て。利直これを討て來れと命じ。十左衛門を京にのぼせたり。京はその頃大坂の事やゝ聞えて。旅客を嚴しく查撿せらるゝ事ゆへ。十左衛門に宿かすものなし。其時溝口は十左衛門が知音なれば。證人として券かきて京尹のもとに送りしゆへ。十左衛門難なく京に寓居することを得たり。十左衛門は左門にめぐり逢しが。ともに大坂へ馳入て籠城の兵となる。落城に及び十左衛門は丹波路に迯行しが。日向半兵衛政成生取て京へまいらせけり。利直かくと聞て大に怒り。十左衛門をば請出てこれを誅す。さてかの左門をも誅せんと請しが。これは堀內主水と同じく。秀ョ北方の御供して出城せしをもて。一命をゆるし放ち去らしめらる。溝口は十左衛門が證人となりて。京に寓居させたるのみならず。溝口が乘馬を媒ありて城中へ賣し事など在しとなり。)大坂へ姬君御入輿の時。執事となりて參りたる江原與右衛門金全。又城中にて附られたる渡邊筑後守勝等は。みなゆるされて御家人に加へらる。(武コ編年集成。)
○十四日大御所けふよりK𥿻をめして。公武の人々に御對面あり。山科右中將言獅ェ申所によられしとぞ聞えし。(こゝにK𥿻と稱せしは。常服をめされしにや。)此日廓山に淨土宗法規の御印書を給ふ。(駿府記。)
○十五日兩城へ出仕の輩例の如し。中井大和守正次南都法隆守阿彌陀院遺物とて。唯識論本經抄一箱を献ず。これは先師興福寺多門院より相傳する所とぞ。又宰相ョ宣卿伏見へまうのぼり拜謁せらる。義直卿は病後腫氣ゆへおもむかれず。安藤對馬守重信は伏見より二條に伺候す。(駿府記。)
○十六日二條城へならせられ御對面あり。諸大名も多く出仕す。武家典故の書藉を。大御所より御所に御讓與あり。信濃善光寺大勸進より。如來堂回祿の事を注進す。今度大坂城中收貯の名刀兵火にかゝる者多し。搜索し再造せしむべしとて。刀工下坂その事をうけ給はる。この日井伊掃部頭直孝を侍從に任ぜらる。(御年譜。家忠日記。國師日記。駿府記。重修譜幷備考。系圖閏六月十九日直孝侍從とあり。いまは駿府記による。)
○十七日二條にて淨土法問聞し召る。搶緕帶V智國師存應。呑龍。了的。廓山。隆益等十二人つかふまつる。一乘院門跡高勢。蓮院門跡尊純法親王。大乘院門跡信尊。其外公卿聽衆たり。冷泉中納言爲滿卿。大比叡哥合一册献ず。永井信濃守尙政御使にて。伏見より大鱸を進らせらる。やがて御膳に調理して奉る。又來月十三日改元治定あるべしと。傳奏の輩へ仰つかはさる。この日大坂にて合戰の時潰散せし御家人。御前にめして剛臆の糺明し給ふ。榊原左衛門佐職直。山田三十カ重次よく踏こたへて。衆人剛臆の證となる。書院番頭水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊は。互に戰功をきそひ爭論に及びしかば。閉戶せしめられ。菅沼主殿頭定行も戰功に誇りしにより。御勘發を蒙る。(駿府記。武コ編年。大坂覺書。)
○十八日井伊掃部頭直孝二條城にのぼり。侍從に任ぜしを謝し奉る。今度下坂新淬の刀をたまふ。直孝軍功卓越なりとて。先に所領あまた加へられ。今度また昇進するのみならず。大法馬(ふんどんをいふ。)以下恩賜す。優待寵遇のあつき。衆人欽曹ケざるはなし。つぎに金地院崇傳。南光坊天海。竹林坊拜謁し法話刻をうつさる。(駿府記。)
○十九日越前少將忠直朝臣。松平筑前守利常。松平陸奥守政宗共に參議をかけ。忠直朝臣は三位に昇階せらる。藤堂和泉守高虎。松平隱岐守定勝は從四位下にのぼり。高虎は御所より高木貞宗の御刀を賜ふ。(重修譜には御刀たまひしは十二月十五日とあり。今は駿府記による。)是皆昨今兩年の勳功を賞せられてなり。又安藤對馬守重信が子勝藏重長は叙爵して伊勢守と稱し。池田治兵衛長幸は備中守と稱し。本多美濃守忠政が三男右兵衛忠義は能登守と稱す。筑前守利常が家司本多安房政房。山山城長知もともに從五位下に叙せられ守となり。越前の老臣本多次カ大夫成重。爵ゆりて飛驒守と改しめられ。國光の御刀三吉野といふ茶壷をたまふ。(駿府記。家譜。ェ政重修譜。家忠日記。)
○二十日蜂須賀家政入道蓬庵上洛し。二條城に參謁し。長子阿波守至鎭今度淡路の國を加へたまはりしを謝し。其上淡州はこと更由獅る地なれば。厚恩謝するに詞及ずと申。大御所も至鎭今度無二の忠功をあらはしたるのみならず。
御孫女に聟たれば。公達と同じく思召旨仰下さるとて。入道感淚袖を霑し退出す。此日越前。加賀。仙臺の三宰相。藤堂和泉守高虎官位昇進の拜賀す。(駿府記。)
○廿一日御所御參內により。つとめて廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿。院使阿野左中將實顯。そのほか飛鳥井中納言雅庸卿。冷泉中納言爲滿卿。六條中納言有廣卿。烏丸中納言光廣卿。廣橋左中辨兼賢。山科右中將言氏B飛鳥井左中將雅宣。烏丸左少辨光賢はじめ。眤近の上達部殿上人。みな伏見にまかりて供奉つかふまつる。武家には尾張遠江の兩宰相。越前宰相。大崎宰相。井伊掃部頭直孝。藤堂和泉守高虎。酒井左衛門尉家次。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。本多出羽守正勝。本多大隅守忠純。山伯耆守忠俊。內藤若狹C次。水野監物忠元。井上主計頭正就。酒井下總守忠正。酒井讃岐守忠勝。神尾刑部少輔守世。山大藏少輔幸成。松平下總守忠明。本多美濃守忠政。戶田左門氏鐵等したがひ奉り。吉良上野介義彌御釼に候す。先施藥院に渡御なりて法印宗伯御膳奉る。銀十枚時服十給ふ。こゝより御衣冠にて御轅に召され。巳刻御參ありて銀千枚送らせ給ふ。午刻過院へもまいらせ給ひ。院に銀三百枚。綿五百把。女院。女御へも銀百枚綿三百把づつ送らせらる。大御所より施藥院まで。本多上野介正純を御使として。御かへさに二條へ立よらせ給ふとも。直に伏見へ還御ならせ給ふとも。御心にまかせらるべき旨仰つかはさる。今日は日もくれ近ければ。二條へは明日明後日のほど參らせ給ふべしとて。直に烏丸より伏見へまかで給ふ。この日成P藤藏之成叙爵して伊豆守と稱す。(駿府記。ェ政重修譜。)
○廿二日廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿伏見城へ參向あり。昨日御參內によてなり。上達部殿上人もあまたまうのぼらる。大御所は兩傳奏をもて。內へ本朝文粹を進らせ給ふ。又島津兵庫頭義弘入道維新は。今度參賀すべしといへども。老躰心にまかせず。陸奥守家久在洛により。使もて純子十卷奉る。又片桐出雲守孝利は銀三百枚さゝげ。また亡父市正且元が遺物刀脇差。(銘詳ならず。)葉茶壷を献ず。(駿府記。)
○廿三日二條にて眞言論義聞し召る。室性院朝印。無量壽院長海。如意輪寺宥盛。性智院。金剛三昧院。多門院。北室院政旻。釋迦門院是にあづかる。遍明院講師たり。松平陸奥守政宗。家藏せる京極黃門定家卿幷俊成卿女眞蹟の古今集を御覽に備へ。しきりに献ぜんとこふ。しかれども政宗珍翫の品なればとて返し下さる。また織田上野介信包入道老犬が長子民部大輔信重とは父子不快なりしかば。遺言して所領は次男式部少輔信則にゆづる。しかるを兄信重父が沒後に及んで。族分部左京亮光信長野內藏允某につきて上裁を仰ぐ。よてそのことを信則に尋らるゝをもて。信則けふ父が遺言の證あるよしを答奉る。父入道沒前の遺言瞭然たるの上は。信重其遺蹟を爭ふ事あるべからずと仰下さる。(駿府記。)
○廿四日伏見城に金地院崇傳をめして。武家法令のことを議せらる。(駿府記。)
○廿五日大和宇多城主福島掃部助高晴。所領三萬石收公せらる。よて其城は破却すべしと。小堀遠江守政一。中坊左近秀政に命ぜらる。又二條にては天台論義聞し召る。講師は實報坊。精義は惠心院良範仕ふまつる。又東寺。寳護院。杲室無盡藏大師の眞蹟を持參し御覽に備ふ。南光坊僧正天海。法問傳授を聞え上奉る。(駿府記。)
○廿六日喜連川左馬頭ョ氏二條城にのぼり。太刀馬を献じ拜謁す。大御所御菌を降らせ給ひ送らせらる。名家たるが故優待せらるゝ所之。次に眞言論義聞し召る。高室院講師たり。(駿府記)。
○廿七日二條城にて兩御所舞樂御覽あり。振鉾。三節。萬歲樂。延喜樂。凌王。納蘇利。太平樂。狛鉾。散手。古コ樂。拔頭。還城樂。退出。長慶子。公武見る事をゆるされ群參す。其中に小笠原大學頭忠眞は。深手いまだ平愈せず。遲刻してまうのぼりしに。忠眞がのぼるを待て。舞樂を始めらる。時に大御所諸大名に向はせられ。忠眞五月七日天王寺口にて父兄討死し。其身も晴なる勇戰し。七か所の深手負しかば。けふも遲參しぬ。我等がおもひ孫なりと仰ければ。加藤左馬助嘉明等。(家傳には。福島正則を加ふといへども。正則は夏陣に江戶留守たればこゝに出仕すべきにあらず。こゝにて御答申上しは。政宗か高虎たるべし。家傳誤りしと見ゆ。)玉音の如く小笠原父子三人とも。報國の志をあらはしたる奮戰比類なく。感じ入候よし答奉る。大御所ことに御けしきうるはしかりしとぞ。太田攝津守資宗病いゑて出仕し。病中仰によりて竹田慶安定賢が藥を服用し。速に驗を得たるを謝し奉る。(駿府記。家譜。家傳。)
○廿八日搶緕帶V智國師存應明日江府にかへるとて辭見し。先に御勘發蒙りたる代官彥坂小刑部元成。はやく御免を蒙りなんことを强て請奉りければ。大御所聞し召。釋徒みだりに政務賞罸等の事にあづかるべからずと仰らる。(駿府記。)
○廿九日織田民部大輔信重父の遺言にそむき。家督をあらそひ。弟式部少輔信則と訴論に及ぶ。信重父と不快なるがゆへ。父信則をもて嗣子と定たる上は。信重終に非據に决せられ。所領三万石收公せらる。この日さきに兩御所大坂御出馬の御跡にて。島津が家人ども大坂へ一昧し。一揆を催促すととなへ。京中を燒拂はんと謀りたる古田織部正重然が茶童宗喜。京中を引渡し車上に磔となさしむ。又長崎へ蠻船着岸の注進あり。(駿府記。) 
卷三十九 / 元和元年七月 

 

○七月朔日御所二條城にならせられて申樂あり。公武の人々群參し饗せらる。大坂御凱旋の慶宴なり。申樂は翁。三番叟。高砂。八島。松風。鵺。百万。自然居士。祝言。(駿府記。)
○二日金地院崇傳法令草案を兩城の御覽に備ふ。南光坊攝ウ天海二條にのぼり。天台法問の相傳を授奉る。遠州可睡齋宗珊も參謁す。(駿府記。)
○三日伏見より土井大炊頭利勝を二條につかはされ。法令の事を議せらる。此日眞言論義聞し召す。無量壽院長海。遍明院。多聞院つかふまつり。寳性院朝印講師たり。(駿府記。)
○四日伏見より水野監物忠元御使として鱸を參らせらる。天台論義聞し召る。正覺院僧正。南光坊僧正天海。陽成院。惠心院良範。竹林坊賢盛。法輪寺。專光坊等つかふまつり。月山寺講師たり。また申樂梅若大夫に能裝束一具をくださる。(駿府記。)
○五日二條にて日野。三條。飛鳥井。冷泉。烏丸等の諸卿に。源氏物語抄の訓譯を命ぜらる。幸若舞御覽じ給ふ。烏帽子折。和田酒盛。俊ェなり。つぎに土井大炊頭利勝伏見より二條に參り。議せらるゝ旨あり。(駿府記。)
○六日松平下總守忠明大坂東北櫓燒跡より。黃金三十枚。竹流金數十枚幷金の盆。香爐。箸。壷等の諸器を堀出せしとて。松平右衛門大夫正綱。後藤庄三カ光次もて。二條へ進呈す。伏見へ進覽して後。悉く忠明に賜はる。二條にて眞言論議聞し召る。(駿府記。)
○七日伏見城に諸大名を召て。本多佐渡守正信武家の法令を仰出さるゝ旨を傳へ。金地院崇傳これをよむ。其文にいふ。文武弓馬之道專可相嗜事。左文右武古之法也。不可不兼備矣。弓馬是武家之要樞也。號兵爲凶器。不得已而用之。治而不忘亂。何不勵修練乎。可制群飮佚遊事。令條所載嚴制殊甚。耽好色業博奕。是亡國之基也。背法度輩不可隱置於國々之事。法是禮節之本也。以法破理。以理不破法。背法之類其科不輕矣。國々大名小名幷諸給人各相抱之士卒。有爲反逆殺害人告者。速可追出事。夫挾野心之者。爲覆國家之利器絕人民之鋒釼也。豈足允容乎。自今以後國民之外。不可交置他國者事。凡因國其風是異。或以自國之密事告他國。或以他國之密事告自國。侫媚之萌也。諸國居城雖爲修補。必可言上。况新儀之搆營。堅令停止事。城過百雉國之害也。峻壘浚隍大亂之本也。於隣國企新儀結徒黨者有之者。早速可致言上事。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。或忽違于隣里。不守舊例何企新儀乎。私不可結婚姻事。夫婚合者陰陽和同之道也。不可容易。睽曰匪寇婚媾。志將通。寇則失時。桃夭曰。男女以正。婚姻以時。國旡鰥民也。以緣成黨。是姦謀本也。諸大名參覲作法之事。續日本紀制曰。不預公事恣不得集己族。京裡二十騎以上不得集行云々。然則不可引率多勢。百万石以下二十万石以上。不可過二十騎。十万石以上可爲其相應。蓋公役之時者。可隨其分限事。衣裝之品不可混雜事。君臣上下可爲各别。白綾。白小袖。紫袷。紫裏。練無紋之小袖。無御免衆猥不可有着用。近來カ從諸卒。綾羅錦繡等之飾服。甚非古法。雜人恣不可乘輿事。古來依其人。無御免乘家有之。御免以後乘家有之。然近來及家老諸卒乘輿。誠濫吹之至也。於向後者。大名同子息一門之歷々等。一城被仰付衆。付五万石以上。或五十以上之人。醫陰兩道。或病人等。不及御免可乘。其外之輩御免以後可乘。至國々諸大名家中。於其國者。其主人撰仁躰遂吟味可免之。叨令乘者可爲越度也。但公家門跡幷諸出家之衆者非制限。諸國諸侍可被用儉約事。富者彌誇。貧者恥不及。俗之凋弊無甚於此。所令嚴制也。國主可撰政務之噐用事。凡治國道在得人。明察功過。賞罸必當。國有善人則其國彌殷。國無善人則其國必亡。是先哲之明誡也。右可相守此旨者なり。次に猿樂を催され大小名に見せしめられ。饗應せらる。樂は吳服。實盛。熊野。鐘馗。錦木。海士。K塚。通小町。此日三河國田原の城主戶田土佐守尊次京都にて卒す。この尊次は故三カ左衛門忠次が子にて。天正十二年小牧の御陣に廿一歲にて供奉し。父と共に大野の城を守る。その賞として三河の和地村五千石給はり。その後小田原の軍關原の戰には後陣を守り。その時越前國丸岡の城を守らしめられ。慶長六年十一月累代の所領なればとて。今の城給はり一万石になさる。同十二年叙爵す。去年の軍には岡崎の城を守り。今年の戰にはョ宣卿の旗下に屬して打てのぼり。けふ卒す。年五十一。嫡男因幡守忠能家つがしめらる。(駿府記。令條記。家忠日記。藩翰譜。)
○八日伏見城にてけふも猿樂あり。越前永平寺二條に參謁す。(駿府記。)
○九日二條に南光坊僧正天海。金地院崇傳。板倉伊賀守勝重をめして。豐國の社を廢し大佛殿廻廊の裏にうつし。别當照高院興意は聖護院に迁らしめ。今より後妙法院門跡常胤法親王を大佛殿の住職として。寺領千石寄附せらるべしと命ぜらる。天海崇傳尤ことはりなりと聞えあぐる。(駿府記。世に傳ふる所。
大內へ奏請し給ひ。豐國明神の神號を廢せられ。この後は大佛殿の後に秀吉墳墓をいとなみ。法號を國泰院俊山雲龍と贈られ。釋法をもて供養すべしと命ぜらる。照高院興意は秀ョの密旨をうけ。兩御所を咒咀せしかば。其罪かろからずといへども。别義を以て聖護院に迁居せしむ。祠官萩原兼從も豐國社祭主を除かるゝといへども。所領千石はもとの如く宛行はれ。後年興意その罪を免され。白川に照高院をいとなみ。寺料千石を下されしとぞ。是より豐國の祀典はながくたえぬるなり。武コ編年集成。)この日冷泉中納言爲滿卿參謁す。源氏物語奥書の事をとひ給ふ。先祖定家卿眞蹟家に傳ふるよし答奉る。(駿府記。)
○十日京尹板倉伊賀守勝重をめして。關白の司る所。辨官の司る所各殊なり。其所司により奏請する事あるべし。かならずしも兩傳奏にかぎるべからずと仰くださる。金地院崇傳。多門院には。高野山惡僧等他の財寳を匿藏する聞えあり。嚴に查撿すべしと命ぜらる。次に土井大炊頭利勝伏見より御使に參りしかば。大御所この廿七日京師を發し。駿府へかへらせ給ふべし。將軍は其前後御心まかせに御歸府あるべしと仰つかはさる。(駿府記。)
○十一日御所伏見より二條にわたらせ給ひ。御對面有て。この十九日御所は都をたゝせ給はんと。御治定有て還御なる。(駿府記。)
○十二日能登國總持寺二條にのぼり拜謁す。(駿府記。)
○十三日年號改元あり。慶長二十年を改て元和元年と定めらる。此日蜂須賀家政入道蓬庵。井伊掃部頭直孝就封のいとま給ふ。越前國永平寺。能登國總持寺の僧等。曹洞派に御印書賜はらん事を請たてまつる。(駿府記。)
○十四日伏見城にて在京の諸大名歸國の暇下さる。(駿府記。)
○十五日二條城にて京極丹後守高知。同若狹守忠高。鍋島信濃守勝茂。島津陸奥守家久歸國のいとま賜ふ。その外諸士若干暇下さる。(駿府記。)
○十六日松平右衛門佐忠之二條奥殿にて拜謁し歸國の暇給ふ。この日K田藏人直綱爵ゆりて信濃守と改む。(駿府記。家譜。)
○十七日兩御所二條城に攝家華族をはじめ。公卿殿上人を會せられ。御饗應あり。兩傳奏をめして公家法令十七條を授給ふ。廣橋大納言兼勝卿これをよみ。關白昭實公はじめ月卿雪客にみなこれを聞しむ。其文にいふ。天子御藝能の事第一御學問也。不學則不明古道。而能政致太平者未有之也。貞觀政要明文也。ェ平遺誡。雖不窮經史。可誦習群書治要云々。和哥自光孝天皇未絕。雖爲綺語。我國習俗也。不被棄置云々。所載禁秘抄御習學專要候事。三公之下親王。其故は右大臣不比等着舍人親王之上。殊舍人親王仲野親王贈太政大臣。穗積親王准右大臣。是皆一品親王以後。被贈大臣時は。三公之下可爲勿論歟。親王之次前官之大臣。三公在官之中は。雖爲親王之上。辭表之後可爲次座。其次諸親王。但儲君各别。前官大臣關白職再任之時は。攝家の中可爲位次事。C華之大臣辭表之後。座位可爲諸親王之次座事。雖爲攝家。無其器用者。不可被任三公攝關。况其外乎。器用之仁躰雖被及老年。三公攝關不可有辭表。但雖有辭表。可有再任事。養子者連綿。但可被用同姓。女緣其家督相續。古今一切無之事。武家之官位者。可爲公家當官之外事。改元者漢朝年號之中。以吉例可相定。但重而於習禮相熟者。可爲本朝先規之作法事。天子禮服。大袖。小袖。裳。御紋十二章。諸臣禮服各别。御袍。麴塵。色帛。生氣御袍。或御引直衣。御小直衣等之事。仙洞御袍。赤色。橡。或甘御衣。大臣袍橡。異文小直衣。親王袍橡。小直衣。公卿着禁色雜袍。雖殿上人大臣息。或孫。聽着禁色雜袍。貫首。五位藏人。六位藏人着禁色。至極搨麴塵袍。是申下御服之儀也。晴時者雖下搨之。袍色四位以上橡。五位緋。地下赤色。六位深香B七位淺香B八位深縹。初位淺縹。袍之紋轡唐草輪無。家家以舊例着用之。任槐以後異文也。直衣。公卿禁色。直衣始。或拜領家々。任先規着用之。殿上人直衣。羽林家之外不着之。雖殿上人。大臣息又孫聽着禁色。直衣。布衣。直垂。隨所着用也。小袖。公卿衣冠之時者着之。殿上人不着綾。練貫。羽林家卅六歲迄着之。此外不着之。紅梅十六歲三月迄諸家着之。此外平絹也。冠。十六歲未滿透額。帷子。公卿從端午。殿上人從四月西賀茂祭着用。普通之事。諸家昇進之次第。其家々守舊例可申上。但學問。有職。哥道令勤學。其外於積奉公之勞者。雖爲超越可被成御推任御推叙。下道眞備雖爲從八位下。依有才知譽。右大臣拜任。尤規摸也。螢雪之功不可棄捐事。關白傳奏幷奉行職事等。申渡義。堂上地下輩於相背者。可爲流罪事。罪輕重可被相守名例律事。攝家門跡者可爲親王門跡之次座。攝家三公之時者。雖爲親王之上。前官大臣者次座と相定上者可准之。但皇子連枝之外之門跡は。親王宣下有間鋪也。門跡之室之位は。可依其仁躰。考先規法中之親王希有之儀也。近年及繁多無其謂。攝家門跡親王門跡之外。門跡者可爲准門跡事。僧正。(大正權。)門跡。院家可守先例。至平民者器用卓拔之仁。希有雖任之。可爲准僧正也。但國王大臣之師範者。各别事。門跡は僧都。(大正少。)
法印叙任之事。院家は僧都。(大小權少。)律師。法印。法眼。任先例任叙勿論。但平人は本寺推擧之上。猶以相撰器用可申沙汰事。紫衣之住持職之事。先規希有之事也。近年猥勅許之事。且亂搦汪脂官寺。甚不可然。於向後者撰其器用。戒臘相積。有智者有聞者。入院之儀可有申沙汰事。上人號之事。碩學之輩者。爲本寺撰正權之差别於申上者。可被成勅許。但其仁躰佛法修行及廿ケ年者。可爲正。年序未滿者。可爲權。猥競望之儀於有之者。可被行流罪事。右可被相守此旨者也。兩御所。關白昭實公御連署也。各拜聽し畢て。關白幷菊亭前右大臣晴季公。今日の條約最詳悉明亮。敢て遺憾なしと感歎あり。次に猿樂催され饗し給ふ。樂は翁。三番叟。竹生島。ョ政佛原。谷行。芭蕉。葵上。祝言。又八條式部卿智仁親王は太刀馬資。伏見中務卿邦房親王小高檀紙十束。九條前關白忠實公帷子に太刀馬資進らせらる。又信濃國松本城主小笠原兵部大輔秀政が遺領八萬石を。次男大學頭忠眞につがしめらる。此秀政は故右近大夫貞慶が子なり。秀政は岡崎三カ君の御嫡女にそひまいらせければ。關東にうつらせ給ひし始より。下總の國古河の城賜はりて三萬石を領す。關原の時には宇都宮の城を守り。慶長十八年十月信濃國深志の城にうつり。此時より深志をあらためて松本と稱しぬ。今度天王寺口の戰に其子信濃守忠修。次男忠眞父子三人。大敵の中にわつて入。歒陣をたびだび打やぶり奮戰して。忠修は其地にて討死し。秀政は深手負その日歸陣して沒しぬ。年は四十六とぞ。忠眞大御所より熊皮投鞘の鑓一双賜はり。懇の御詞を加給ふ。(駿府記。令條記。ェ政重修譜。藩翰譜。家譜。)
○十八日伏見城にて越前宰相忠直卿。松平筑前守利常。松平武藏守利隆。島津陸奥守家久。松平土佐守忠義。堀尾山城守忠晴。加藤式部少輔明成はじめ。諸大名みな歸國の暇下され。忠直卿利常へは金二百枚。家久利隆銀千枚たまはり。その他諸大名も金あるは銀賜ふ事差あり。二條城には加藤肥後守忠廣參謁し。銀三百枚幷帷子を献ず。(駿府記。)
○十九日卯刻御所伏見を首途有て關東へ赴かせ給ふ。此日江州永原に御輿を駐らる。又先に知恩院本能寺にあづけられたる山川帶刀某を肥前平戶に謫し。北川次カ兵衛を同國大村に謫せらる。二條にては智積院日譽照高院にうつり。妙法院常胤法親王には照高院の地をそへて下され。大佛を守護すべしとて寺領三百石加へ給ふ。渡邊小半藏勝綱伏見に於て病死す。その子なし。(駿府記。武コ編年集成。ェ永系圖。)
○廿日江州佐和山井伊掃部頭直孝が居城にやどらせたまふ。二條にては中院宰相通村卿。源氏物語初音の卷を進講す。(御年譜。駿府記。)
○廿一日赤坂にうつらせたまふ。二條城にては申樂。矢立。加茂。忠度。井筒。大江山。柏崎。大佛供養。藤戶。國栖。水野。けふは公卿の上搶蘭[達。多く招たまひ申樂をみせ給ふ。故豐臣太閤の政所(高臺院殿。)もこれにあづかり饗せらる。水野日向守勝成今度の軍功により。三州刈屋の城を轉じ大和の郡山城主とせられ。三萬石そへて六萬石になさる。建部三十カ政長寡兵を以て嚴に尼崎を守り。大坂の爲に糧米を奪はれず。その功輕からずとて。攝州河邊郡にて一萬石給を給ひ。御印書を下さる。池田越前守長利も昨今兩年の勳勞により。同じく一萬石たまはる。醫員熊谷伯安宗祐采地二百石餘給ふ。(御年譜。駿府記。家忠日記。藩翰譜。ェ永系圖。紀年錄。)
○廿二日濃州岐阜にやどらせらる。此夜岐阜川にて鵜をつかはせて御らんじ給ふ。その時供奉內藤甚八。市川傳三カ。何事か爭論して互に討果す。二條城にはけふも申樂あり。嵐山。兼平。源氏供養。大會。邯鄲。松榮。善知鳥。融。祝言。猿樂大夫等に唐織時服その他に鵞眼二萬疋くださる。本多縫殿助康俊纏頭の事をつかふまつる。(御年譜。元和年錄。駿府記。)
○廿三日名古屋城に入らせ給ふ。宰相義直卿饗し奉られて。則重の刀行光の脇差をさゝげられ。御所よりは眞守の御刀。新藤五の御脇差を賜ふ。二條にては織田內府信雄入道常眞に。大和國宇陁郡福島掃部助高晴沒入の地三万石。上州小幡二万石。合せて五万石たまはる。この日越前宰相忠直卿幷井伊掃部頭直孝參謁す。又天台論義聞し召る。藥樹院久運。眞光寺。喜見坊。月山寺。竹林坊賢盛。法輪寺。日揄@珍祐。惠光坊。法泉院つかふまつる。精義は南光坊僧正天海。講師は惠心院良範なり。(御年譜。駿府記。)
○廿四日名古屋城に御滯留あり。二條城には寳龜院拜謁し。寳性院朝印と和睦し。彌佛法興隆の志をはげむべき旨面命せらる。これ先に寳性院の遺跡をつきしが。故ありて御勘發を蒙りしに。今度御ゆるしを得て歸山せしめらるゝ所なり。五山僧等碩學料賜はりしをもて。保藤の兩長老出て謝し奉る。この日五山十刹幷大コ。妙心。永平。總持寺。古新義の眞言淨土宗の僧等へ法規を下さる。金地院崇傳これをつたふ。五山十刹の法規にいふ。東班西班轉位官資。寺法の如くたるべし。秉拂は叢林の典章出身の初歩たりといへども。近世猥に無拂の帖を申下すにより。
秉拂の古規旣に廢絕せんとす。無拂の帖嚴に停禁すべし。南禪は深紫。天龍は淺紫。其次京鎌倉の五山黃衣。十刹諸山の出身入院開堂等の儀式等。先規を守るべし。南禪寺は龜山法皇仙院を改めて。禪刹となされたれば。尊崇尤他に殊なるべし。旣に勅書に。長老は器量卓拔。才智を兼。全く佛法を重擔とし。勤行を志節とする者を撰み補任すべし。僧は氏族の貴を以て尊とすべからず。たとひ我子孫たりといへども。權勢を以て住職すべからずと載られき。然るに近年他山に住ながら。南禪の帖を申下すを以て。紫衣の員本寺に超過す。甚以て其いはれなし。今より後本寺の外みだりに補任あるべからず。もし耆コ碩學の僧には。たまさか免許せらるゝ事ありとも。准南禪と稱し。其位は本寺の次座たるべし。新院刱建せば。綸旨あるは奉書を申下て。塔頭披露をなす。是先規たり。しかるに近年私に寺號院號を稱する事。尤縱恣の至りとす。今より後嚴禁すべし。庄園今度進呈する所を以て。碩學料を定め下さるれば。其器用を選て。其生涯これを受用すべし。鹿苑䕃凉の官職は。先代の規範といへども。當時に於ては用ゆるにたらざれば。是を停廢す。今より後五山長老中歸依の僧をして。これを兼補すべし。出世の官資幷入院出世の儀式等は。先規のごとく重賞あるべし。これ寺法相續。學問昇進のため。新に定め下さるゝ所なりとぞ。又大コ寺の法規は。僧臘轉位幷佛事勤行等先規のごとくたるべし。參禪修行善知識に就て。三十年綿密の工夫を費し。千七百則話頭了畢のうへに。遍く諸老の門を經歷し。普く請益をとげ。眞締俗諦成就出世衆望の時。諸智識の連署を以て建白するに於ては。入院開堂を許さるべし。近年の如きは猥りに綸旨を申下し。あるは僧臘も高からず。或は修行も未熟の徒出世せしむるにより。たゞ官寺を汚すのみにあらず。廣く世人の嘲をうくる事。甚法制に違へり。今より後。さるひがこと企る者は。永く其身を追却すべし。新院刱建の時は綸旨を申おろして後。塔頭披露をなすをもて先規とす。しかるに近年私に寺號院號を稱する事。尤縱恣の至りとす。今より後嚴に禁斷すべし。常住領諸塔頭領。今度進呈する所のごとく永く收納すべし。諸院各塔の主先規の如く輪番たるべし。たとひ門派たりとも。弱齡又は非器の僧は輪番せしむべからず。これ寺法相續の爲。新に令し下さるる所なりとぞ。妙法寺の法規も是に同じ。醍醐寺へ下さるゝ眞言法規は。四度加行より授職灌頂に至るまで。師資授法の儀幷衣色淺深等先規寺法の如くたるべし。事相教相習學觀心尤專要たるべし。修法は尤護國利民の基なり。密宗の建立是を以て簡要とす。彌四海安全の丹誠を抽づべし。破戒無慙の比丘は脫衣すべし。諸末寺は本寺の法規を遵行すべし。もし法儀中絕の事あらんには。他流に求めず自門の濫觴を糺明すべし。萬一縱恣の企をなす徒あらんには。寺領を沒官せらるべし。新儀の僧廿年螢雪の功をつみ。三年住山をとげて後歸國せば。一會の法談をゆるさるべし。數年住山の僧教導の器譽あらんには。能化に任じ常法談執行せしむべし。法論の席に於て能化を誹謗し。訴訟をくはだて。學業を妨るものあらむには。速に其魁首を擯斥せしむべし。紫衣は尤法中の規摸とす。勅許あらずばみだりに着用すべからず。延喜の御宇高野大師(弘法。)に賜る御衣は檜皮色とす。或は香衣をそめ。あるひは紫衣をとゝのへ。或は赤色を用ゆ。されど香衣に於ては。密教の棟梁有智の高僧貴族の外は着用すべからず。各國の僧近年猥りに上人號を申おろし。香衣を着するもの。尤其いはれなし。今より後嚴に停禁せらる。もし有智の譽ある輩は格别たるべし。此旨違犯の僧は遠流に處せらるべしとなり。高野山になし下さるゝ法規は。撿挍職の事。今より後碩學の徒。先規の如く。三ケ年在職し。學衆は一年たるべし。其他老少の修學。法衣の威儀。先規を守るべし。仁和。高雄。東寺。醍醐。高野の五ケ寺互に交衆とし。事教の修學を勤行すべき旨。弘法の遺戒たれば。修學の前後を以て。搦氓亂るべからず。近年仁和。高雄。東寺。醍醐をもて。本寺とする旨申募といへ共。弘法遺戒顯然たるがゆへ。法會出座の時門跡僧正の外は。戒臘にまかせ座次を定むべし。寺號院號先規みだりに是をゆるさず。然るに近年みだりに是を稱す。尤其いはれなし。嚴に禁斷すべし。灌頂授職の儀式あるは由獅フ寺ととなへ。あるは貧僧結緣と稱し。たやすく客坊奥院等の。非衆非學の宿所に於て。灌頂曼供を執行す。これ先規にたがへり。嚴に停禁すべし。天神明神は高野の鎭守なれば。祭祀神事等すべて神主社家供僧先規を守り。新儀を企べからず。先に寺法を令し下され。御K印を賜はるといへども。今度諸寺社の法令を仰出さるゝにより。重て以上五箇の條約をなし下さるゝとなり。越前國永平寺の法規にいふ。二十年の修行をとげ。江湖の頭となり。五年をふるの僧轉衣の望あらんには。嗣法師の推擧狀を以て登山し申出る時。當寺より傳奏につき綸旨を申下し。其上を以て出世轉衣披露有べし。
出世の戒臘は綸旨日付次第たるべし。三十年の修行了畢にあらずして。法幢を立べからず。紫衣に至ては當寺幷ハ持寺の現住奏聞をへ。勅許の時これを着すべし。兩寺の外一切着すべからず。當時退去に於ては。紫衣を脫すべし。開山忌には越前一國の末寺悉く出會すべし。遠國に於ては志にまかすべし。日本曹洞の末流先規の如く。當時の訓戒を守るべし。近年法度廢亂し。みだりに紫衣黃衣の僧街衢に充滿す。これ佛制に違ひ世人の嘲をうく。佛道の陵夷これより甚敷はなし。今度佛法紹隆。宗門繁榮のためかく令せらる。この令違犯の僧等は。配流せらるべしとなり。またハ持寺の法規にいふ。二十年の修行をとげ。江湖頭五年をふるの僧轉衣の望あらむには。嗣法師の推擧狀をもて登山し。其旨申出べし。當寺より傳奏につきて。綸旨を申下したる上にて。出世轉衣披露あるべし。出世の戒臘は綸旨の日付次第たるべし。三十年修行了畢にあらずしては。法幢を立べからず。紫衣にいたつては永平寺幷當寺の現住奏聞をへて。勅許の時着用し。當寺の外は一切着用すべからず。當寺退去せば紫衣を脫すべし。開山二世兩忌ともに加賀能登越中三國の末寺のこらず出會すべし。遠國の末寺は志趣にまかすべし。近年法規混雜し紫黃の僧閭巷に遍滿す。尤佛制にたがひ衆人の嘲をうく。法道の陵夷これより甚しきはなし。且は佛法紹隆且は宗門繁榮のため。かくの如く令せらるれば。もし違犯の僧は配流に處せらるべしとなり。知恩院。搶緕宦B傳通院へ令せられし淨土宗法規は。知恩院に宮門跡を刱建せられ。門領各别に定めらるれば。寺家に混雜すべからず。引導佛事等は脇住持先規の如く執行し。十念に於ては結緣のため。門主授與せらるべし。京都門中に於て其器をえらみ。六人役者と定め。諸事沙汰せしめ。曾て贔負偏頗すべからず。碩學の輩圓戒傳授に於ては。道塲の儀式をとゝのへ執行せしむべし。淺學の徒に猥りに授與すべからず。俗人に五重血脉を相傳すべからず。淨土の修學十五年にみたざるもの。血脉傳授あるべからず。殊更璽書許可するに於ては。たとひ其器たりとも廿年に充ざる者は。嚴に相傳すべからず。勤學の年臘は搶緕宸フ現住幷談義所の能化。兩判の證狀を以て本寺に啓達すべし。廿年稽古の功を滿るものは。正上人の綸旨を頂戴せしめ。廿年未滿の者は權上人たるべし。十五年以前の出世座次。正權の差次たるべし。古來よりの學席にあらずして。私に法幢を立べからず。事理縱の深義を解せず。着相慿文の族名利に貪着して法談すべからず。たとひ尊宿の許可を蒙り。勸化せしむといへども。空しく佛經を閣き偏事を祖釋し。狂言綺語を以て妄に愚民を迷はす。あまつさへ自讃毁他是法衰の因。諍論の端をひらく。堅く禁絕せしむべし。遠國より往還の智識は其所の門中許容せざらんには。みだりに法談すべからず。少年の時十年勤學して後退轉せる僧。色袈裟をのぞむといへども。其人によりて六十歲以後に許すべし。上人號の事は猶斟酌あるべし。平僧はたとひ老年に及ぶといへども。引導はつかふまつるべからず。淨土一宗の諸寺は。其師の附屬たりとも。私に住職すべからず。相替にて古跡をつぐものは。その血脉附法相續すべし。もし前住沒後入院するに於ては。其流の本源に就て傳授すべし。紫衣の諸寺隱退する時は。紫衣を脫すべし。大小の新寺私に建立すべからず。俗家を借て佛壇をかまへ。利養を求むべからず。知識の座次を分つに於ては。血脉綸旨の次第上下の品を定むべし。法問商量の座に於ては。勤學の戒臘を以て上下を定むべし。其外の衆會に於ては。出世の前後を以て着座すべし。所化寺僧の會遇に於ては。選擇以上は平僧の上たるべし。平僧の中聲明法事等の役其能あるものは。同臘たりとも上座たるべし。階級の淺深を辨へず。恣に高聲自身を擧揚し。上座に對し緩怠をふるまふものは。永くその席に會せしむべからず。諸寺の住僧自身の私意にまかせ。世出世の法義を背くものあらば。寺中の老僧平日教戒すべし。もししからざる者は同罪たるべし。白旗流義諸國の末寺。其大小にしたがひ報謝錢を集め。三年に一度使僧を以て影前に備ふべし。出世の官物綸旨銀二百文目。參內五百文目。合て七百文目と治定せらるれば。米價の高低にかゝはるべからず。末々諸寺はその本寺より万事沙汰を加ふべし。もし非義の沙汰あらんには。本寺曲事たるべし。無智の道心者俗人に十念をさづけ。男女をすゝめ血脉を授るの類は法賊といふべし。今より後堅くこの徒を禁絕すべし。妄人近年恣に邪教を興し。經文釋義を相違し。私に安心をすゝめ。六字名號を闕て唯三字をとなへ。種々の姦計を企て衆生を幻惑す。是惡魔の所行たれば。この徒速に追拂ふべし。靈佛靈地の修理と稱し。各國勸進すべからず。舊例の如く夏安居四月五日より六月廿九日を期し。冬安居十月十五日より十二月十五日を期し。聊延促あるべからず。一夏中客殿法問十則下讀法問十一則。闕减なく决擇せしむべし。浴日の外談塲懈怠あるべからず。
冬安居もこれに同じ。解問は春二月朔日より。三月廿九日を期とし。秋は八月朔日より九月廿七日を期とし。讀書法問懈怠すべからず。碩義十人以下の僧寮坊主たるべからず。法談所の所化今より後。たとひ他山に赴とも。老弱ともに同名を付替べからず。一寺追放の所化は諸談所の會遇あるべからず。其他寺僧同宿も同前たるべし。諸檀林所化の法規ことごとく上文に從ふべし。この三十五條永代此旨を相守るべし。もし違背せしむるに於ては。科の輕重にまかせ。或は流罪或は三衣を脫却せしむべしとなり。西山派の法規は。粟生光明寺に授くべしといへども。光明寺住持あらざるをもて當麻禪寺にさづく。その文にいふ。所化列に入て三年の間は。先コの古抄を習學し。衆徒の前に於て每日講誦し。利鈍によりて遲速あるべし。三年の後聖教を寫すことをゆるす。是を立筆と號す。聖教を頂戴して後。善導の疏五部九卷選擇等。伴頭の指南をうけ。三經一論諸决擇等修練せしむべし。中年に及ばゞ其器をえらみ。授法して宗脉をつぐべし。當麻曼陀羅注記十卷は證空の作なり。此注銘文繪相問答を以て。一年餘再聽再問。其根氣にしたがひ。思量工夫相熟するを待て。血脉相承あるべし。これを兩部合傳と稱す。この傳授の後寺中の小役をめし伴頭におらしむべし。圓戒傳授血脉相承有べし。修法修行器用卓拔の僧あらば衆徒相議して色袈裟をゆるし。一七日の間成道せしめ。門中披露をとけば能化とすべし。辻談義といふは街談巷說とて。先輩殊にこれを厭ふ所なり。近年やゝもすれば土民を勸化すと稱し。この企をなす者あり。尤正法にあらざれば停禁すべし。香衣綸旨頂戴の事。佛法世法共に成就し。俗諦眞諦ひとしく歸依する僧。齡耳順を過て推擧するこれ先規たり。然るに近年當宗のみにかぎらず。みだりに出世するものあり。今より後舊規に復し。其器量年齡にしたがひ。衆望の時奏聞をとげ。綸旨拜受あるべしとなり。此日福富平左衛門家貞召出され書院番となり。采邑三千石給ふ。(駿府記。令條記。ェ永系圖。)
○廿五日岡崎につかせ給ふ。二條にては伊東修理大夫祐慶拜謁し。歸國の暇下さる。(御年譜。駿府記。)
○廿六日吉田に着御あり。二條にては眞言の論義聞し召る。寳性院朝印。無量壽院長海。遍明院。正智院。多門院庵室つかふまつり。寳龜院講師たり。越前宰相忠直卿。加藤肥後守忠廣歸國の暇給ふ。此日三條の鑄工に命ぜられし鍾數十を諸寺に分賜ふ。(御年譜。)
○廿七日M松に着せらる。二條にては住吉の社家等へ。攝津國住吉のク二千六十石の社領をよせられ。御印書を給ふ。(御年譜。雜記。)
○廿八日掛川に至り給ふ。二條にては公武出仕するもの多し。神龍院梵舜搴セ三册献ず。(御年譜。駿府記。舜舊記。)
○廿九日田中にとまらせらる。この御道に長坂血鑓九カ信次參り。弟小十人六兵衛信時幷伊丹彌藏勝久二人。不慮に越後少將のために誅せられし事を訴ふ。御凱旋の後糺明あるべしと仰下さる。二條にては中院宰相通村卿源氏物語箒木卷を進講す。冷泉中納言爲滿卿。金地院崇傳御前に伺候し。女房も襖へだてゝ聽聞せしめらる。此日明石掃部助全登が聟岡越前守家俊。(故の浮田の舊臣八千石を領せしとぞ。重修譜には慶長五年の後東照宮に召出され。采邑六千石をたまふとあり。)その子平內某。ともに妙願寺にて切腹せしめられ。(去年原主水天主教尊奉するにより。平內が家に匿しける事露顯し。平內も追放たれしかば。今度父子大坂に籠城せしとぞ。)萩野道喜入道が(氏家內膳正行廣が事。)次男左近。三男內記。四男八丸。妙覺寺にて切腹せしめられ。前田コ善院玄以孫二人高安寺にて切腹せしめらる。これみな大坂籠城の徒なり。岡が二男忠兵衛は江戶にて誅せられ。道喜が五男は南光坊天海が弟子となり。出家して天海がもとにありしかば。天海この雛僧をともなひ。二條に參り。道喜籠城のものなれば。その子ども皆誅せらるゝよしうけたまはりぬ。このものは拙僧が弟子となりて出家せしうへは。御免をかうぶりたきよし懇願せしかば。氏家が子出家せしものまで誅すべきにあらずとて助命せらる。後にこの僧は愛宕山康樂寺の住職となりしとぞ。(一說道喜が子の刑は晦日なりといふ。御年譜。藩翰譜。駿府記。武コ編年集成。元和年錄。東迁基業。)
○晦日C水につかせ給ふ。又大坂の北方江戶へおもむかせ給ふにより。阿茶局はじめ女房數百人供奉し。安藤對馬守重信護送す。二條城には蠻人まいり物若干を獻ず。(御年譜。駿府記。舜舊記。)
◎此月內より大御所太政大臣御昇進の事を。仰進らせられしかど固辭し給ふ。松倉豐後守重政和州二見の地一万石を轉じ。肥前國島原の地四万三千石給はる。今度の軍功によりてなり。(重修譜元和二年とあり。)又飛驒國高山城主金森出雲守可重沒するにのぞみ。長子飛驒守重近は勘發し。次男甲斐守重次。三男長門守重ョはみな别につかふまつるをもて。可重が遺領の事は。公の御沙汰にまかせ奉るむね遺言して卒したり。重ョ幼年より大御所に眤近して。勤勞少からざればとて。
父が遺領三万八千七百石餘をたまふ。この可重はもとの長近入道素玄が養子にて。實父は長屋將監景重といへりとぞ。長近入道はじめは織田家につかへしが。羽紫柴田牟盾におよぶ後。入道も可重も飛彈國賜りて高山に住ける。父子とも當家にしたしく參りければ。關原の亂に可重は美濃國の敵に向て軍し。郡上の城攻落し。父入道は御供して海道より攻のぼりしかば。賞せられて濃河兩州の內にて。二万三千石加恩の地をくはへられ。すべて六万千石餘領す。その子重ョさきに和泉の國岸和田の城をまもり。大坂城陷に及び落人二百八人が首切。(元和首帳には百五十二級とあり。)八人を生取て獻ず。可重は五十八歲にてこの閏六月三日卒せしなり。また大和國龍田領主片桐正且元が遺領三万二千石。(重修譜四万石。)その養子出雪守孝利にたまふ。且元が父は孫右衛門直貞といひて淺井の家人なりしといふ。且元初め助作と申けるときより豐臣家につかへ。近江の國志津が嶽の合戰に七本鎗とよばれたる高名の一人なり。豐臣家次第に登庸し所領一万石與へ。從五位下して市正と稱し。秀ョの傅となりしより年頃心をつくし輔導しけるが。慶長十九年八月大佛殿修造の事より。關東の御氣色よからずと聞て。駿府に參り一々に陳じ申て。東西の御中和らがせ給はんやうを。深く謀り遠く慮りて。三の策を聞え上しに。大御所大にスばせ給ひ。且元大坂へかへりけるが。大坂には且元關東に心をあはせ。豐臣家をかたぶけんとするよし讒者多かりしかば。秀ョ母子大に怒られ。且元を誅せられんとせしにより。且元も弟主膳正貞隆と共にをのが家にこもり討手を待て死せむとす。双方をなだむる者ありて兄弟故なくをのが居城茨木に立かへる。大御所聞召。且元が上策用ひられず。世旣に亂れぬるを歎かせ給ひ。且元に於ては罪なし。猶も天下無事ならんやうはからふべしとて召れしかば。父子兄弟打つれ御陣に參りたり。ことしの軍には病にふして。大坂城陷し後五月廿八日卒す。年は六十三とぞ聞えける。また大坂七組の番頭木民部少輔一重は。この春大坂より淀殿使の女房達を具して駿府にまいりしが。彼女房達は尾張の宰相義直卿の婚儀はからふべしとて。大御所めしぐせられ名古屋におはしける。其後都にのぼらせ給ひ。女房達は大坂にかへされしが。一重は都にとゞめられて歸る事をゆるされず。大坂落城し秀ョ母子自害有と聞て。落髮し高野山に隱遁せんとせしを召出され。本領一万二千石余を安堵せしめらる。一重もとは御家人たりしが。いかなる故にや御家を立退て。丹羽五カ左衞門長秀が家につかへ。長秀うせて後豐臣家につかへしなり。伊東丹後守長次も七組の番頭たりしが。五月七日の戰に岡山にありて戰をはげみしかど。城兵散々に敗れしかば城へ引返さんとせしに。城には東國勢雲霞の如くおし入。猛火盛にもえあがりしかば。そのまゝ高野山に落行しに。秀ョ母子自害し給ひしと聞。今は世に思ひをく事なし。さらば關東の撿使を待て腹切んとて訴出しが。思ひの外に御免ありてこれも召出され。本領一万三百石余を安堵す。淺井備前守長政が庶子と聞えし周防守政堅。樋口淡路守。大角與五左衛門。佐々孫助等は板倉伊賀守勝重につきて。恩免をこふといへども彼等不臣の擧動御けしきにかなはざりし故にや。遂にゆるされず。洛下に漂泊して世を終りしとぞ。赤座內膳。岩佐左近。その外秀ョ眤近の輩十人ばかり。所々に身を潜めゐたりしが。大坂の殘黨搜索嚴なればとても迯るべからずと知て。妙心寺に至り海山和尙に教をうけて後。撿使を待て腹切んと訴へ出たり。大御所聞召。關原の一戰に敵となりしをゆるしたる恩をわすれ。今度大坂へ籠城せしものは。再犯の罪ゆるすべからず。又大野等がごときはしばしば䜿子寡婦をあざむき。天下をくつがへさんとはかる。是等は天誅のがれさる所なり。赤座岩佐が知きは秀ョ普第の者どもなれば。其主のために籠城苦戰するは。もとより義のあたる所かくあるべき理りなり。今に於て何の罪かあらんとて悉く助命せらる。伊勢の巫祝戶部大夫も豐臣家代々の御師なりしが。今度戰中大坂より命をうけ。關東調伏の法を行ふ。よて山田奉行日向半兵衛政成。中野內藏允某搦取て禁獄せしよし聞召。彼各其主のために志を盡す所。何の罪あらんとてゆるさせ給ふ。又織田主水昌澄は今度籠城しけるが天滿口の擧動勇々敷なりとてゆるさる。その母は大坂の北方につかへたりとぞ。畠山二カ四カ政信は室町家の管領尾張守政長が苗裔なり。久しく大坂に漂泊し。片桐が扶助を得て年月を送りしが。今度御陣に參り召出され。後に高家になさる。今度大坂方にて討死せし井上小左衛門定利は。齋藤道三が子長井隼人佐道利が三子なり。舊家たるゆへに哀み思召。其子次兵衛利儀とて。十二歲なりしを召出さる。三好左馬助直政といふ。その生母は御臺所の從弟たればとて。これも召出さる。片桐が所屬たりし長井勝左衛門正次も本領を給はり。出雲守孝利に附與せられしが。後には御家人に加へらる。瀧川下總守雄利が子壹岐守正利も。今度御方に參り召出さる。
又先に大久保相摸守忠隣が事に連座して罪蒙りたる山大藏少輔幸成。朝比奈彌太カ泰勝。森川內膳正重俊。大久保右馬允忠據。同荒之助忠當。同助左衛門忠益。别所孫次カ友治。林三十カ某等。みな此度の軍功によりて再度めしかへされ。御家人になる。高尾惣兵衛嘉文も同じ。其上にも大藏少輔幸成は常陸國新治筑波兩郡の內にて一萬石を加へられ。一萬三千石を給ふ。書院番花畠小十人三番の頭を命ぜられしとぞ。又榊原が遺臣伊藤忠兵衛は五月七日の戰に眞先かけて討死せり。其子采女とて十六歲なるが。二條へ訴へ出しは。五月六日若江表の軍。木村長門守重成が左備木村主計頭宗明が備は。榊原が備に近かりしゆへ。榊原が勢ども打てかゝらんとせし時。監使藤田能登守信吉。我指揮するまでは。一騎一人たりとも先手へ出べからずと令す。父の忠兵衛藤田が令を守り人數を出さゞさ間に。城兵は井伊が勢に追立られ。忽に敗走しければ。榊原が人數戰に及はず。これ忠兵衛が指揮の所を失なひし故なりと。惣軍忠兵衛を嘲り憎む。忠兵衛是を恥て翌七日には討死せり。此事糺明なし給はん事をこふ。よて藤田と采女とを召喚せらるゝ所。采女は幼なければとて。榊原が家中にて伊奈主永といふ者。采女にかはりて對决せしに。信吉が指揮よからざるに决し信吉語塞りしかば。信吉は手疵を養ふよし請て。信州諏訪の溫泉におもむき翌年うせぬ。(一說には信吉此時改易せられしとも見ゆ。)又玉虫對馬守繁茂。甲州武田が家の古兵なればとて。越後少將忠輝朝臣へつけられしが。これも六日道明寺口の戰に。忠輝朝臣着陣あるとそのまゝ。眞田がひかへたる備へ打てかゝらんとせられしを。玉虫は奈良より長途をへてたゞ今着陣し。軍兵いまだ兵糧をとゝのへず。日も旣に傾きしに。勞兵を以て大歒をめがけ地理不熟の場所に戰ふ事あるべからずと諫しにより。忠輝朝臣戰に手を空しくせらる。全く玉虫が罪なりとて改易せられ。其外田上右京某。山上彌四カ某。穗坂金右衛門等は。軍法に違へる事ありてこれも改易せらる。また松浦壹岐守隆信は暇給はりて歸國す。すべて今度大坂の落人所々に潜匿して世を忍びたる者ども。悉くゆるさるれば。心のまゝに主を求め。身のよるべをさだむべきむね。各國に令せらるれば。又何事ぞ世の變もあれかしと山林に蟄居せし者大に喜び。思ひ思ひに諸家へ籍仕する事を得て。海內一同に曠世の仁コを仰ぎ。歡抃の聲街衢にみちみちたり。(紀年錄。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。武コ編年集成。山口咄。大坂覺書。天元實記。ェ永系圖。) 
卷四十 / 元和元年八月に始り十二月に終る 

 

○八月朔日御所三島驛にとまらせ給ふ。二條城には八朔を賀して。公武各まうのぼる。入貢の蠻人も拜し奉る。けふ日蝕す。(御年譜。駿府記。)
○二日箱根につかせ給ふ。二條城にては中院宰相通村卿源氏物語箒木卷を講ぜしめらる。次に紫野大コ寺長老天叔。松岳玉室禪理を聞え上る。南光坊僧正天海。金地院崇傳も侍し奉る。(御年譜。駿府記。)
○三日藤澤に宿らせ給ふ。二條城には明日御出京ありて。駿府に還らせたまはむと仰出さる。(御年譜。駿府記。)
○四日江戶城に還御なる。大御所は午刻二條城を出まし。今霄は膳所にとまらせ給ふ。是よりさき松前伊豆守慶廣。二條にて歸國の暇給ひ。時服羽織を下さる。(御年譜。駿府記。家譜。)
○五日大御所水口に到らせ給ふ。今夜越後少將忠輝朝臣出陣の道守山にて。御家人長坂伊丹兩士を誅せられしよし聞し召て。御氣色損じ。本多上野介正純を召て問せ給ふ。よて近江代官長野內藏允某。小野宗右衛門貞則。觀音寺等に命じ。土人に糺明せられしに。いかにもその事ありと聞えあげしかば。彌御けしきよからず。又霖雨により此所に御輿をとゞめらる。林道春信勝論語學而篇を進講す。(駿府記。駿府政事錄。)
○六日雨により御滯留あり。(駿府記。)
○七日雨猶やまねば。けふも御延滯あり。尾張宰相義直卿使もて御氣色伺はる。(駿府政事錄。)
○八日けふも雨により御發輿なし。(駿府記。)
○九日雨晴ければ水口を出たゝせ給ひ。龜山に渡らせらる。(駿府記。)
○十日江戶には越後少將忠輝朝臣の家人等を召て。朝臣出陣の道に於て。長坂伊丹兩士を誅せられし子細をとはれしに。朝臣守山の驛を過られし時。馬武者二騎。若黨十五人づゝ具して行過る者あり。朝臣の先おふ者ども。上總介殿通行の所。何者なれば狼籍ふるまふぞと咎めしに。我等二人の主はもたず。誰殿にても下馬に及ぶべきかとて打通るを追かけしかば。二人馬乘すてゝ道のほとりに迯入ば。朝臣はそのまゝ打すてゝ通らせ給ふをまちかけ。兩人刀ぬきつれて切て出。供の輩我も我もと打もの鞘をはづしてかけむかふ。二人又引かへして迯るを追かけたゝかふ。始より御家人ともしらざれば。終に討留候と陳じ申けるを聞し召。長坂伊丹旣に死たる上は。汝等陳じ申所證となしがたし。かつ始事急なるにのぞみては。誰といふ事しらずとも。事旣に終りて後。など御家人とはしらざらん。それに少將がこの陳謝申出さるゝ事。尤驕恣の至りなりと怒らせ給ふ。大御所はつとめて龜山を出たち給ひ。四日市にて水谷九左兵門某御膳を奉る。夫より御船に召て夕暮名古屋につかせらる。宰相義卿郊迎し給ふ。(元ェ日記。藩翰譜。駿府記。)
○十一日大御所名古屋に御滯留あり。此日宰相義直卿へ美濃信濃兩國にて。三万石摯浮オ給ふ。(駿府記。)
○十二日雨ふりければ。大御所けふも名古屋にとまらせ給ふ。(駿府記。)
○十三日雨はるれば。大御所名古屋を御發輿ありて。岡崎に至らせたまふ。(駿府記。)
○十四日三河の吉田につかせ給ふ。さきに大崎船手つとめし中島與五カ重好子與五カ重春(九歲。)此所にて拜謁す。小姓小堀治左衛門正行死して。子九カ兵衛正十つぐ。(駿府記。家譜。)
○十五日中泉に着御あり。(一本中原。駿府記。)
○十六日雨にて御滯留。けふより十九日に至る。(駿府記。)
○廿日遠州の掛川につかせ給ふ。(駿府記。)
○廿一日駿州田中へつかせ給ふ。(駿府記。)
○廿二日田中に御滯留あり。(駿府記。)
○廿三日大御所駿府城に還御し給ふ。秋元但馬守泰朝中國西國海上の事を命ぜられ。相州廣光の鑓を給ひ。搶緕尢ケ的をして。鞘に無の字を書しめて下さる。(駿府記。)
○廿四日大坂戰中潰走の徒を糺明あれば。各見聞する所を策にしるし。封じて奉るべし。尤愛憎を以て是非混雜すべかずと誓詞を献ぜしめらる。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰朝その事を奉行す。此日江戶より酒井備後守忠利を駿府に御使して。御歸城を賀せられ。かつ去年大坂より質とせられし大野修理亮治長が次男彌十カを誅せらるべしと告らる。忠利に大御所より十五夜といふ茶壺をたまふ。(駿府記。御年譜。家忠日記。元ェ日記。)
○廿五日下谷海禪寺に於て。大野彌十カを誅せらる。駿府には諸士剛臆の入札を献ず。(元ェ日記。駿府記。)
○廿七日駿府にて。越後少將忠輝朝臣の老臣花井主水正義雄を召て。朝臣今度大坂の戰ひには。大和口の惣督としてありながら。手を空くしてその戰にあはざりしを推問せられ。猶たづねらるべき事有とて。主水を駿府にとゞめらる。(藩翰譜。元ェ日記。世に傳ふる所。これよりさき江戶に於て。忠輝朝臣守山驛にて御家人をうたれし事。御推問ありければ。朝臣大に恐れられ。かの長坂伊丹二人を討取しは。朝臣の家人平井三カ兵衛安西右馬允といふ兩人なり。この兩人を搦とりて長坂伊丹が一族に引渡し。罪を謝せらるべしと評議ありしを。平井安西聞て大にうらみ。兩人忽に逐電しぬ。安西猶もうらみに堪兼て。朝臣今度軍事に怠り給ひし事を。封事にして關東に献じければ。花井を關東に召てたづねさせ給ひ。
また駿府にもめして御推問ありしとぞ。藩翰譜。)
○廿八日松平加賀右衛門康次死して。其子三右衛門正次家をつぐ。(家譜。重修譜には二十二日とあり。)
◎此月山伯耆守忠俊。澁谷八幡宮鳥居幷瑞籬營造の奉行す。(家譜。)
○九月朔日諸大名出仕例のごとし。駿府城も同じ。今度大坂へ供奉せし諸士休暇をたまひしが。今日より平常の如く勤番す。(駿府記。慶長日記。)
○七日九鬼長門守守隆金三千枚(一說卅枚。)献ず。これは大坂の落人喜多十左衛門が沒入の品とぞ。山圖書助成重沒す。成重先は大久保石見守長安が事に座し御勘氣蒙りしが。去年の御陣にひそかに供奉せしに。旅宿に幕うちし事その憚りなしと咎められ。掛川驛より采邑に歸り。今年は病にふして出陣せず。下總香取郡飯田にて死す。よて采邑一万石收公せられ。その子作十カ成次は十二月に至り。父が舊領の中にて千石たまふ。(駿府政事錄。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○八日江戶より御使として水野監物忠元駿府にまいる。大坂諸軍の剛臆を御垂問あり。江戶に於て各封事をもて。建白せし旨答奉る。(駿府記。)
○九日重陽例の如し。駿城にては日野亞相輝資入道唯心。及大澤兵部大輔基宥。畠山長門守義眞。土岐左馬助ョ勝。土岐市正持益。三好因幡寺一任。猪子內匠頭一時。堀田若狹守一繼。丹後守直寄。市橋下總守長勝に御茶を賜ふ。又尾張宰相義直卿より。銃もて打留られし白鳥を献ぜられしかば。其鳥もて此輩饗膳を給ふ。今朝水野監物忠元御使して。江戶より重陽を賀し給ひ。時服を進らせらる。此日木屋彌三右衛門幷唐蘭の商西類子しんによろ幷に琉球人に。呂宋國へ渡海の御朱印を下され。また高尾次右衛門及び權六唐蘭商三官しやかうへには。暹羅國。長崎船主彌一右衛門には柬埔寨。忠兵衛には交趾。等安には臺灣渡海の御朱印をくださる。(駿府記。御朱印帳。)
○十日駿城に。佐竹右京大夫義宣大鷹二聯。松平陸奥守政宗大鷹一聯。㝡上駿河守家親大鷹二聯を献ず。さきに松平忠左衛門勝隆を越後へ御使につかはされ。少將忠輝朝臣今度戰期遲滯して。年をむなしくせられ。あまつさへ御家人二人恣に誅せられながら。其事を聞えあげられず。大御所おはします時だに。將軍家に對しかく無禮あれば。万歲の後覺束なくおぼしめさる。今度また兩御所御參內の時も。少將病と稱し供奉せられず。川逍遙のため嵯峩邊に出て日をくらし。又暇賜はるをまたず都をいで。速に間道より國に赴かる。御連枝ながら國家の大法をやぶらるゝ罪輕からず。今より後御對面かなふべからざる旨仰つかはさる。朝臣驚恐れらるゝ事大方ならず。種種陳謝せらる。よて勝隆此日駿府に馳かへり。その陳謝の樣くはしく聞えあげしかば。御氣色いよいよよろしからず。(駿府記。藩翰譜。世に傳ふる所は。これよりさき長坂伊丹うちし者めしとつて。關東にまいらせらるべきよしなり。さきに番士を討留し平井安西は逐電したり。其外三百餘人の歩侍。いづれをさして下手人とさだめがたく。評議遲々なりしに。歩侍の頭山田將監富永大學。いづれに一命をうしなはんも同じ君の爲なれば。我等兩人下手人となりて。御不審を申ひらかせ給ふべき由申ける。其隊下のものども罪なき二人を失はんより。われわれ下手人にいでんと申出しもの三人あり。さらばその三人を下手人にして出されんとありしに。我々いかで死をのがれんとはなすべき。刀を帶していでんといふ。しかれども關東にまいらせられん下手人に。刀帶して出されんは緩怠なるべしと此評議また一定せず。日をふる間。下手人たらんと望み出しもの。縲紲の恥を蒙らんは無念の次第なりと。寺に入て腹切んといふ。とかくする程に日數かさなり。やうやう二人を下手人と定め參らせしに。大御所下手人を參らする事延引するのみならず。罪なき者を下手人と定めし事。いよいよ御憤淺からざりしとぞ。藩翰譜。)
○十一日駿府城に曹洞僧松桴@關參謁し。大藏一覽一部づゝたまふ。(駿府記。)
○十二日駿城にて曹洞宗法問聞し召る。松桴@關つかふまつる。(駿府記。)
○十三日松前伊豆守慶廣江戶城に登り拜謁す。時服五襲銀千兩賜はる。(家譜。)
○十四日大御所城外に鷹狩し給ふ。(駿府記。)
○十五日拜賀例のごとし。野村藤三カ爲重初見し奉り。燒火間番となる。駿城にては細川越中守忠興參謁し。時服二十獻ず。(ェ永系圖。駿府記。)
○十七日江戶より御使として。燒火間番頭神尾刑部少輔守世駿府に參り。近日關東へ御鷹狩にならせ給ふべしと仰進らせられしを。御喜スありて待せ給ふ旨を聞えあぐる。次に鴻巢の僧のこらず參謁し。大藏一覽一部を賜ふ。(駿府記。)
○十八日江戶より駿府に蛤二籠進らせらる。けふ駿府にては御鷹狩あり。雁四得給ふ。(駿府記。)
○十九日鍋島和泉守忠茂。病をつとめて江城より參謁す。特命にて城中庖所前まで乘輿をゆるされ。殿中にては岡田太カ右衛門利治扶持し御前に參る。忠茂本領安堵の上。こと更御懇遇を蒙りながら。病重く去年今年の御陣御供せざる事遺憾なりと聞え上る。駿城にては御狩の鶴をもて。日野亞相輝資入道唯心以下の人々を饗せらる。(家譜。駿府記。)
○廿一日江戶にて毛利長門守秀就邸出火し。松平陸奥守政宗。島津陸奥守家久等の邸宅此災にかゝる。駿府にては御狩あり。鶴鴈鴨鷺鶉等御得物多し。(武コ編年集成。駿府記。)
○廿二日成P隼人正正成。志水甲斐守忠宗駿城に參謁す。(駿府記。)
○廿三日金森長門守重ョ駿城に參謁し。家繼たるを謝して銀二百枚献じ。弟內匠可次。小四カ重勝銀十枚づつ献じ。その父出雲守可重遺物とて。國次の刀。正宗の脇差並葉茶壷を献ず。又南光坊僧正天海拜謁し。佛理御談話あり。小野左馬助高政死して。その子源十カ高盛つぐ。(駿府記。ェ永系圖。)
○廿四日江戶より脚力をもつて。火災の事を駿府に告らる。(駿府記。)
○廿五日駿城に織田內府入道常眞參謁し。繻珍十卷さゝげ。井伊掃部頭直孝時服十。銀二百枚献上。また南光坊僧正天海參り。御法話數刻に及ぶ。(駿府記。)
○廿六日江戶より御使として土井大炊頭利勝駿府に參り。御密談數刻に及ぶ。(駿府記。)
○廿七日金地院崇傳京より參り。河內國八尾の眞觀寺住職のこと聞えあぐる。(駿府記。)
○廿八日駿府より舊事紀。古事記。續日本紀。續日本後紀。文コ實錄。律令等の書。江戶にて新寫命ぜらるべしとて。原本を搬送せしめらる。(國師日記。)
○廿九日駿府より大御所關東へ越かせたまふとて。本多上野介正純。松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。板倉內膳正重昌等供奉し。申刻C水へつかせ給ふ。(駿府記。)
◎この月河內國八尾眞觀寺門前境內竹木人足等守護不入たるべき旨。御印書を給ふ。且鐵炮を放ち。綱ざし箱ざし鷹狩鳥ざし。すべて殺生の類禁ぜられ。被官農民は耕耘怠慢すべからず。處士並に無ョの者宿かすべからず。守護不入の地とさだめらるれば。他領より課役を命ずべからず。もし他領の田圃を耕作せば。賦稅滯りなく納むべし。喧嘩爭論嚴に禁制す。もし非理の事申かくるものあらば。その者はさらなり其主の名を慥に聞。早く注進すべしと令せらる。また兩御所の仰とて酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。山伯耆守忠俊を。若君師傅の職に命ぜらる。(案紙拔書。山家傳。)
○十月朔日今年より。玄猪の慶會に長袴着用すべしと命ぜらる。大御所善コ寺へ着せ給ふ。御道すがら御放鷹あり。(慶長年錄。駿府記。)
○二日善コ寺に大御所御延留あり。(駿府記。)
○三日江戶より大御所御迎として。安藤對馬守重信。近藤平右衞門秀用を箱根迄つかはさるべしと命ぜらる。秀用この時小田原城を守る。大御所は三島につかせ給ふ。(元和年錄。駿府記。)
○四日安藤對馬守重信近藤平右衛門秀用箱根まで御迎にまいる。大御所今宵は小田原に着御あり。又江戶より酒井雅樂頭忠世御使として。御氣色うかゞはせ給ふ。(駿府記。御年譜。)
○五日大御所中原にとまらせたまひ。そのほとり狩せらる。(駿府記。)
○六日雨にて中原に御滯留あり。(駿府記。)
○七日けふも中原にて泊狩したまふ。(駿府記。)
○八日藤澤につかせらる。(駿府記。)
○九日大御所神奈川につかせたまふにより。御所御みづからならせられ。御對面ましまし。直に江城にかへらせ給ふ。(駿府記。)
○十日大御所江戶の西城に入せ給ふ。若君及び國松君は。幸橋邊まで御迎として渡らせられ。諸大名も路次に出て迎奉る。御所は西城にならせられて御對面あり。(駿府記。武コ編年集成。)
○十一日西城へならせ給ひ。大御所に對面し給ふ。宇佐美助右衛門長元死して。子助右衛門長歲家をつぐ。(駿府記。ェ政重修譜。)
○十二日㝡上駿河守家親が庶兄C水大藏大輔義成。大坂に內通の事ありしとて。家親に命ぜられ誅せらる。その臣里見越後守同民部をも誅す。大坂より秀ョおくられし手書には。義成が官加階は望にまかせ。里見が一族には庄內の三郡に本領をそへてたまはるべしと載られしとぞ。(武コ編年集成。藩翰譜にのする所。編年に記する所。㝡上が記等大同小異なり。今しばらく諸說を合せて。こゝに載しなり。)
○十五日大御所を本城に迎へて饗し給ふ。(駿府記。)
○十八日西城にて法問聞し召る。京職板倉伊賀守勝重より。僧C韓を生擒し。彼を匿し置たる市人も禁獄せしとの注進す。C韓は先に大佛殿鐘銘を書しゆへ。大坂の亂おこると直に寺を逐電し。民間に潜匿せしなり。(元和年錄。國師日記。)
○廿一日大御所戶田邊に狩し給ひ。川越。忍。岩槻。越谷。西葛西。千葉。東金。船橋邊まで。日々泊狩し給ふべしと仰出され。蜂屋九カ右衛門善成は屬吏五十人引つれて。御旅舘を警衛し。又供奉の女房達を守護す。大御所はかく日をかさね遠近のク村に狩したまひながら。民政の得失。郡吏の善惡。農民の患苦を糺察し給へば。遠近の百姓訴狀を捧げ。小吏の殘暴をうたふる者多し。(駿府記。家譜。元ェ日記。)
○廿二日江城にて天台論義御聽聞あり。講師は法輪寺仕ふまつる。(國師日記。)
○廿三日江城にて各隊の番頭。其他諸有司を御前に召て。五月七日大坂合戰の時。諸士の剛臆を御みづから御推問あり。此日三州擧母領主三宅惣右衛門康貞。七十二歲所領の地にありて終をとる。其子惣兵衛康信家つぎて。原封一萬石を襲しめらる。此康貞が先祖は備前國兒島三カ高コより出て。その子孫三河に來り。伊保。梅坪。廣P等の地にわかれしが。康貞が父藤左衛門政貞が時より當家に歸順す。康貞母は鳥居伊賀守忠吉が女なり。御一字を賜り康貞となのる。年若かりし頃より軍中にしたがひ參らせ。中にも甲斐の府中。K駒。藤木等にて。北條が多勢を打破り。長湫の戰にはC洲K田の城を守り。關東に移らせ給ひし時。武藏國瓶尻の地たまはり五千石領し。慶長九年十一月今の地にうつり。五千石くはへられ一萬石にはなされしなり。(國師日記。家傳。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿四日板倉周防守重宗を戶田の狩塲につかはされ。大御所の御けしきうかがはせ給ふ。(國師日記。)
○廿五日大御所戶田より狩して川越に至らせ給ふ。江戶より諸士捧る所の戰中剛臆の封書をもて。御旅館へ進覽せらる。永井右近大夫直勝隊下の士は。直勝一人の沙汰にまかせ。その剛臆を决せしめらる。當時の面目此右に出る者なし。人みなこれを榮とせり。又大御所は一兩日の間に忍へわたらせたまへば。其時御所は戶田邊へ狩したまひ。鴻巢までもならせらるべし。大御所東金へわたらせられん時は佐倉までならせらるべしと仰遣さる。(駿府記。武コ編年集成。國師日記。)
○廿八日江城にて夜中天台論義聞し召る。月山寺講師たり。(國師日記。)
○晦日大御所川越より忍に狩したまふ。(駿府記。)
◎此月越後少將忠輝朝臣は。先の罪謝せられんがため。上野國深谷までおはして仰を待れしが。其所は猶御狩塲に近ければとて。藤岡へ移られたり。これは先に御對面かなふべからずとの御使つかはされしにより。朝臣大におそれられ。是彼につきて歎申されけるが駿府の宿老等より。今は國にましまさん事しかるべからず。かつは遠き境より御なげき仰られんも。便りよかりぬとも覺えず。上野の國邊迄も渡らせ給ひ。關東へ御なげき有べきにやと申進らせしかば。さらばとて此所までいたり給ひしなり。(元和年錄。藩翰譜。)
○十一月朔日在封諸大名諸士江城にのぼる。(駿府政事錄。)
○二日御所江城を出まし鴻巢へ狩したまふ。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝江城に留守たり。御狩の供奉尤多からず。井伊掃部頭直孝軍功の勸賞として。五万石加恩給はる所の御書を下さる。大御所よりは五月たまはりしなり。(駿府記。御撰大坂記。)
○六日朝倉六兵衛在重死して。その子藤十カ宣正家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○九日鴻巢より御狩はてゝ江城に還御なる。大御所は忍より岩槻にいたり給ふ。(駿府記。國師日記。)
○十日大御所岩槻より越谷に至り給ひしが。御狩塲に水泛溢して放鷹を得ざりしかば。御けしきよからず。其地の代官勘發せらる。(駿府記。國師日記。)
○十三日本多上野介正純足痛にて供奉する事を得ず。御狩に出立せ給ふ後。所領小山に赴き病を療す。後藤庄三カ光次もこたびは眼疾にて御跡にとゞまる。(國師日記。)
○十五日江城には藤堂和泉守高虎參謁す。此日稻葉彥四カ一通爵ゆりて民部少輔と改む。大御所越谷より葛西へ至らせ給ふ。(國師日記。家譜。駿府記。)
○十六日御所江城を出まし舟橋に至らせ給ふ。これは土井大炊頭利勝が所領下總國佐倉にて。鹿狩したまはんとてなり。酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信江城を留守す。この日大御所は下總の千葉に至らせ給ふ。(駿府記。國師日記。)
○十七日御所船橋より佐倉に渡御あり。大御所は東金に狩し給ふ。(駿府記。)
○十九日太田攝津守資宗を御使として。東金の御旅館につかはされ。大御所の御けしき伺はせ給ふ。大御所資宗に下坂康繼の御刀をたまひ。また今夜伴食せしめらる。(家忠日記。家譜。)
○廿三日御所江城へ還御なる。(駿府記。)
○廿四日大御所第三の御女振姬君を。淺野但馬守長晟に降嫁したまふ。これはさきに蒲生飛驒守秀行に嫁したまひし姬君なり。(ェ政重修譜。)
○廿五日本多佐渡守正信病臥せしが。少しく快くけふ二丸に出て謁し。上野介正純も足疾愈て拜し奉る。大御所東金より船橋へ至らせ給ふ。今夜船橋市中失火し。民居悉く燒失すといへども。御旅館は恙なし。(國師日記。駿府記。元和年錄。)
○廿六日大御所葛西に至らせ給ふ。(駿府記。)
○廿七日大御所江戶にかへらせ給ふ。本多佐渡守正信拜謁し。秋より病臥せしが。やや快と聞し召よろこばせ給ふ。(駿府記。元和年錄。)
○廿八日小笠原大學頭忠眞江城にのぼり襲封を謝し奉る。大御所は明の月四日江城御發輿ありて。駿府へかへらせ給ふべしと仰出さる。又花畑番頭成P豐後守正武。小姓小山長門守吉久。軍功は勵みしかど。先に御參內有しとき。さるゆかりありとて掖庭の局に入て。
衣冠を脫し宮女と酒くみかはし。たはれたる擧動せし事あらはれ。豐後守正武は吉祥寺にて切腹せしめられ。長門守吉久は新知恩寺にて切腹せしめらる。正武が妻幷に其子虎之助祐正峯松祐秋兩人は。外戚伊東豐後守祐兵に下さる。(元和年錄。國師日記。ェ政重修譜。)
○廿九日兩御所今よりのち三年に一度。各國へ監使をつかはさるべしと仰出され。先會津の監使には永田庄左衛門某。豐島主膳信滿是を命ぜらる。彼の所在留の間は其地にて采邑を賜はり。家宅は領主よりいとなましめられ。其國々政治の得失。民間の利害を糺明し。訴狀をさゝぐるものあらんには。受納して注進すべしと命ぜらる。又大御所は三島邊に莵裘を營せ給ふべしと仰出さる。是も來年は駿府の城を。宰相ョ宣卿にゆづらせ給ふべき御あらましとぞきこえける。(元ェ日記。駿府記。國師日記。)
◎此月松平伊豫守忠昌常州下妻に移され。二万石加恩ありて三万石たまふ。これ五月七日戰功の賞とぞ聞えける。永井傳十カ直Cに采邑五百三十石たまふ。(越前家譜。家譜。)
○十二月朔日月次拜賀例のごとし。上野國館林城主榊原遠江守康勝が遺領十万石を。姪松平五カ左衛門忠次につがしめらる。是忠次が父出羽守忠政は。外祖五カ左衛門康高が家をつがせられしに。今度康勝卒し家つぐ子なきよし。家人等聞え上るによて。大須賀家も閥閱の功勞他に殊なりといへ共。榊原が家には比すべからず。よて忠次をして榊原の家をつがしめらるゝ旨仰下され。大須賀家に傳へし遠州須賀五万五千石城地は收公せられ。その家につけられたる久世三四カ廣宣。坂部三十カ廣勝。渥美源五カ友勝。福岡太カ八カ某。曾根孫大夫某。丹羽彌惣某。同金十カ某等みな召出されて御家人となる。この康勝は故式部大輔康政が四男にて。父の家をつぎ。慶長十年四月廿六日叙爵して遠江守と稱し。十九年冬大坂の軍に。御所の先陣うつてのぼり。今年の夏は井伊藤堂につゞき。五月六日若江表の戰に。井伊勢の跡より木村長門守重成に向ひ决戰せんとせしに。軍監に付られたる藤田能登守信吉指揮軍機を失ひ。井伊が手にて敵打やぶりしかば。康勝が手にはやうやく首少し討とる。翌七日天王寺口の戰には。康勝昨日軍せざりしを憤り。敵の多勢を打やぶり首七十八。信吉もみづから二級を得。手の者に二十三級切せければ。大御所の御感を蒙りしが。康勝風毒腫を惱み出し。五月廿七日俄に卒す。康勝が妾腹の子に平三カ勝政といふがありしを。家人等はいかなる故にや子なきしを申けるゆへ。其家をば忠次につがしめられしとなり。(駿府記。駿府政事錄。元ェ日記。家譜。藩翰譜。ェ政重修譜。基業には廿九日とし。家譜年錄ともに日をしるさず。今元ェ日記にしたがふ。)
○三日西城にならせたまひ御密議あり。本多佐渡守正信のみ一人これに侍す。大御所は明四日江城御首途あるべしと仰出さる。(元ェ日記。駿府記。)
○四日大御所江城を御發輿ありて。稻毛邊に狩し給ふ。(元ェ日記。駿府記。)
○五日金地院崇傳に。江城近邊に於て宅地をたまふべしと命ぜらる。けふも大御所は稻毛に滯留し給ふ。(國師日記。駿府記。)
○六日金地院崇傳府を辭して駿府に赴く。大御所は稻毛より中原にいたらせ給ふ。此日大雪。(國師日記。駿府記。)
○七日大御所中原に鷹狩したまふ。宇佐美助右衛門長歲初見す。(駿府記。ェ政重修譜。)
○八日大御所中原に滯留し給ふ。(駿府記。)
○九日同じ。此日小十人頭稻垣權右衛門某。狩塲に於て鷹を毁傷しければ誅せらる。(駿府記。)
○十二日大御所は猶中原に泊狩し給ふ。(駿府記。)
○十三日大御所中原を出まし小田原に着せ給ふ。(駿府記。)
○十四日三島につかせ給ふ。明日吉辰莵裘の地を治定せらる。金地院崇傳方位の事をきこえ上る。(駿府記。國師日記。)
○十五日拜賀例のごとし。大御所は三島をいで給ひ。P子善コ寺につかせ給ふ。三島のほとり泉頭と云は。山水佳麗の勝地なれば。こゝに莬裘をいとなませ給ふべし。經營は明春よりはじめらるべしと令せらる(駿府記。國師日記。元和年錄。)
○十六日大御所善コ寺より駿府へかへらせ給ふ。宰相ョ宣卿C水まで御迎として參り給ひ。直に供奉せらる。(駿府記。)
○十七日大御所先に三崎御旅館にて。少將ョ房朝臣例ならず打ふし給ひしよし聞召。醫官片山與安宗哲をいそぎ駿府に遣し。治療せしめられしに。此頃やゝ其驗ありと聞え上る。(國師日記。)
○十九日江戶より土井大炊頭利勝御使して。泉頭御隱殿御治定を賀せられ。その搆造は御所よりなし進らせたまふべしと仰進らせらる。此夜追儺の式行はる。(駿府記。元和日記。)
○二十日立春なり。(駿府記。)
○廿一日加々爪甚十カ忠澄叙爵して民部少輔とあらたむ。(家譜。)
○廿二日此ほど西國中國の諸大名。關東にて越年せんが爲追々に參着し。日々駿城にのぼり拜謁し江戶に赴く。此日田中筑後守忠政。櫻井庄之助勝成を具して駿城にのぼり拜謁し。勝成は召出され御家人になる。勝成が父庄之助勝次とて。さる古兵の剛者なりしが。
本多中務大輔忠勝に屬せられしに。勝次死後勝成家つぎて。父のごとく本多が所屬たりしが。忠勝が子今の美濃守忠政が時に及び。いかに思ふ所や有けん。本多が家を逐電して渥美左京と改め。田中が家に仕へ五十騎の隊將となりたり。然るに大御所いまだ都にましましける時。其かみ櫻井とて剛者ありしを本多が家に預け置たり。其子今はいかゞせしにやと問せ給へば。忠政彼きはめて荒者なりしが。先年それがしが家を逐電し。今は田中がもとにあるよし承り候と申ければ。櫻井は戰中にて一度も手をむなしくせざりし者之。かれが子久しく他國に置べからずと仰られ。やがて筑後守忠政に命ぜられ國より呼下して。けふ召出さる。忠政がもとへは永井右近大夫直勝御使し。年頃懇に勝成を養ひ置し事を褒せらる。(國師日記。續武家閑談。ェ政重修譜。)
○廿四日細川越中守忠興駿城にのぼり拜謁す。大御所忠興が大坂の戰功を賞せられ。信國の御脇差を賜はる。且豐臣太閤より羽柴の氏を授らるゝといへども。そのいはれなければ。いまより後は本氏に復すべしと面命せらる。(家譜。)
○廿五日江戶より歲抄の賀使として。神尾刑部少輔守世を駿府につかはさる。(駿府記。)
○廿六日大坂の軍功剛臆をたゞされ賞罸を行はる。(大坂覺書七月廿六日とし。元ェ日記八月廿六日とし。家忠日記十一月とす。今元和年錄。武コ編年によりこゝに納む。一說廿七日ともいふ。)內藤帶刀忠興みづから敵を討て功名せしをもて。新に庇䕃料一万五千石賜ひ。(重修譜一万石とす。)阿部善九カ正澄も自身の高名を以て二千石たまふ。(重修譜元和二年とす。)使番太田善大夫吉正六百石加へられ。千六十石たまふ。中山勘解由照守六百石。(家譜三百石。)山田十大夫重利五百石。(家譜元和二年とあり。)渡邊半四カ宗綱。(重修譜記さず。)服部權大夫政信も。ともに五百石づゝ賜ひ。政信が父權大夫政光死しければ。遺領三千石つがしめ。すべて三千五百石になされ。弟杢助政重千石を領せしめらる。小姓菅沼主殿頭定官。川口長三カ正武(家譜翌年正月廿日とす。)五百石づゝ。安藤甚助某。(此家たゆる。重修譜記さず。)稻垣藤七カ重太四百石づゝ。喜多見半三カ重俊。八木勘十カ守直。(重修譜しるさず。)藁科孫九カ某(重修譜二年五十石とす。)三百石づゝ。小姓にて目付を兼し木村源太カ元正百二十石加へられ七百五十石。其子甚九カ勝元新に庇䕃料二百石賜ふ。高木主殿正正次隊下大番組頭山田C大夫重次。五百石加へて千石。(重修譜二年とす。)同番士兼松彌五左衛門正直。渡邊平六綱治五百五十石づゝ。金田惣八カ正辰五百石。權大夫泰成二百石加へられて六百石。組頭筧助兵衛爲春三百三十石。高木茂右衛門元吉。(重修譜しるさず。)高木忠右衛門三百四十石余たまふ。土岐山城守定義隊下の大番石谷十藏貞C三百石賜ふ。(重修譜二年とす。)また伏見在番の大番加藤傳兵衛正信陣塲割をつとめ。其上市橋下總守長勝が備の監使にまかり。矢尾にて敵をからめ取たる功により。二百石たまひ。(家譜なし。)組頭命ぜらる。水野隼人正忠C隊下の書院番士水野多宮守重。(重修譜には康長十二年七月十八日死と有。)田五カ三カ政松五百石。東野惣右衛門某。赤見猪右衛門某。天野佐左衛門雄得千石加へられ二千百石。平井久右衛門長勝。山本新五左衛門重成は千石。三木十兵衛近綱は五百石。齋藤左源太利政。(重修譜翌年正月五日とす。)堀田甚左衛門正吉。本ク勝右衛門勝吉。瀧川三九カ一積(家譜なし。)三百石づゝ賜り。柴田三左衛門勝重五百石加へられて二千五百二十石余。佐左衛門雄得が子權十カ雄利庇䕃料三百石賜ひ。山伯耆守忠俊隊下の書院番士大久保四カ左衛門忠成千石加へられ三千石。同番士高木善次カ正成。中根傳七カ正成。今村傳四カ正長千石くはへられ千三百五十石。松前隼人忠廣千石加恩ありて二千石。花房右馬助正榮千石賜ひ。月俸は收めらる。土方宇右衛門勝直千石加へられ千五百石。大久保牛之助長重五百四十石加へられ八百四十石。同源三カ忠知五百石加恩して八百石。安藤傳十カ定知五百石加恩ありて八百石。井戶左馬助良弘五百石。駒井右京親直三百石加へて千八百石。(重修譜二年とす。)朝比奈彌一カ泰澄二百二十石加へられ千五百石賜ひ。松平越中守定綱隊下の書院番士戶田藤五カ重宗(家譜なし。)は千石。駒井次カ左衛門昌保。跡部民部良保三百石。(重修譜二年とぞ。)水野監物忠元隊下の花畑番士松平五左衛門正吉は五百石。石丸權六カ有吉(重修譜なし。)は三百石。井上主計頭正就隊下花畑番士土屋左門知貞五百石。山崎權八カ正信(家譜三百石。)は四百石。岡部庄九カ一綱五百石。(家譜なし。)板倉周防守重宗隊下花畑番士彥坂平六カ重定。(重修譜ェ永十年五百石とす。)四百石。高田藤五カ安政二百石。成P豐後守正武隊下花畑番士中山內記信政。(重修譜慶長十四年五百俵とあり。)安藤與八カ某三百石づつ。納戶番小栗九カ右衛門久勝廩米三百俵たまひ。寄合組三浦權六某千石。
中山助六カ直定四百石。間宮權左衛門伊治。大番組頭大久保新八カ康村(家譜なし。)三百石給ふ。朝倉仁左衛門在重戰功により書院番にいる。城和泉守昌茂子織部佐信茂。溝口外記常吉が子。書院番半左衛門重長二子大番新左衛門常勝。共に首級を得しかど。父が罪により士籍をけづられ。山伯耆守忠俊隊下書院番村越內藏助某。(重修譜元和六年とす。)佐久間孫四カ某。(重修譜慶長三年十一月死す。)山五カ八某。同小兵衛某。水野隼人正忠Cが隊下書院番士土屋彌六某。杉山三右衛門某。堀田C十カ某。その外本多傳三カ某。大番西山C兵衛昌信等は。合戰最中潰走せしをもて。同じく士籍を削らる。傳三カ某。C兵衛昌信は陳謝して召返さる。鑓奉行伊東右馬允政世。筧勘右衛門元成。庄田三大夫安信。保坂金右衛門閉門命ぜらる。山上彌四カ某。田上右京某は士籍を削らる。これも陣中臆したる擧動せし事聞えけるが故なり。須賀攝津守勝政は本多出雲守忠朝が備の監使につけられしに。指揮よからずとて士籍を削らる。森川內膳重俊。大久保助左衛門忠政。林三カ某。大久保半助忠尙。羽柴勘右衛門某。朝比奈彌太カ泰重。河野權右衛門通重等は。さきに御勘氣を蒙りて有しが。今度先陣にまいり戰功をはげみしかば御ゆるしあり。山善四カ重長軍法にそむき。歒陣へ深入せしとて士籍を削らる。又醫員田代養玄も戰塲にて高名したりとて三百石給ふ。八王子千人頭は甲州以來武功の徒にて。今度虎皮抛鞘の鑓若干を歩卒にもたらせし指揮よしとて。五十石づゝ加恩給ふべしと有しを。辭して銀二千枚づゝ給ひし中に。志村勘左衛門貞昌一人は銀を辭し。廩米五十俵を拜受す。此日森右近大夫忠廣は從五位下の侍從に叙任す。(元和年錄。元ェ日記。ェ政重修譜。武家補住。)
○廿九日細川越中守忠興江城にのぼり拜謁す。明年元日拜賀よりして諸士素襖烏帽子を着し。まうのぼるべしと令ぜらる。(家譜。駿府記。)
◎此月山圖書助成重が子作十カ成次に家つがしめられ千石給ひ。又大坂にて陣沒したる高木主水正正次が所屬の大番士林藤四カ吉忠が子兵四カ忠勝。米倉忠右衛門義繼は子なければ。弟傳五カ昌繩。筒井甚之助吉武が弟次左衛門吉重。間宮庄五カ正秀が子庄五カ正勝十一歲。をのをの家つがしめらる。水野隼人正忠C所屬の書院番士松平庄九カ忠一が子掃部忠隆は。家つぎて五百石加へ千石たまひ。小姓となる。松平助十カ正勝子なし。松平紀伊守家信が二男助十カ重信を以て。正勝が女にあはせて家つがしめらる。粱田平七カ某。同權三カ某父子討死しければ。その家絕ぬ。山崎助十カ久家は子なし。山口小平次重克子なし。山伯耆守忠俊が所屬書院番士古田左近某は戰死すといへ共。其父の罪あれば家たゆ。大島左大夫光盛弟茂兵衛義唯を。父茂兵衛光政が嗣子とせられ。光盛子久五カ春政。父が戰死をあはれみ思召て。别に月俸三十口を賜ふ。野一色ョ母助重が弟外記義重は。新に二千石賜ひ。服部中保正が長子三十カ保光は子なければ。弟三九カ保俊を嗣子と定められ。共に家つがしめらる。松倉藏人某は子なし。别所主水宗治が子主水信治は。家つがしめらる。(家譜。元ェ日記。)
◎是年土井大炊頭利勝岡山御陣の前軍に有て。首凡九十八級を討取て奉りければ。これを賞せられ猿毛朱ネの鎗をたまひしが。重ねて二萬石加恩たまひ。六萬五千二百石になされ。大番頭阿部備中守正次は。岡山の戰に手に合し。徒の證人となりたる功を褒せられ七千石加へ。二萬二千石になされ。佐久間備前守安政は信州飯山城賜はり加恩ありて三萬石領し。佐久間大膳亮勝之は大坂に於て竹田永翁を討取。其外首あまた討取て献ぜし功によりて一萬石たまはり。一萬八千石になされ。木下宮內少輔利房は備中足森にて二萬五千石たまはり。三枝土佐守昌吉は三千七百右加へられ。六千石になされ。市橋左京長政に千石たまひ。久世山三カ廣當に五百石。小姓木久左衛門義精に三百石たまひ。永井彌右衛門白元には二百石くはへたまひ。(重修譜二年とす。)今村彥兵衛重長に千石加へ二千二百石。(重修譜二年とす。)伊丹播磨守康勝にも采邑を加へ給ふ。(重修譜に其數詳ならずと見ゆ。)京極主膳高通從五位下に叙し正となり。新庄新三カ直好も叙爵して駿河守と改め。又松平右衛門大夫正綱は。秋元但馬守泰朝板倉內膳正重昌と共に奉書を連署し。諸士を支配すべしと命ぜられ。ことさら正綱には勘定の奉行をかねしめらる。川奈助左衛門宗勝伏見奉行となる。松平三カ次カ眞次徒士頃となり。所領千石たまはり。爵ゆりて縫殿助と稱す。河野庄右衛門照盛伏見の城番奉はり。野一色外記義重は書院番にいり。渡邊忠七カ忠綱は。父忠右衛門重綱が所領賜り别に奉仕せしめられ。平井久右衛門長勝。渡邊源藏眞綱はじめて奉仕す。牧野內匠頭信成は大番頭となる。また對馬國府中城主宗對馬守義智が子彥三義成。僅に十二歲にして父の遺領對馬一國幷に肥前基肆養父二郡を襲封せられ。
朝鮮通文の事をつかさどらしめらる。この時仰により爵ゆりて對馬守に任ず。此義智は故讃岐守義調が子なり。この家平相國C盛の子中納言知盛より出たり。知盛が三子右馬助知宗はじめて宗と稱し。その子彌次カ左衛門尉重尙といひし時より。對馬におしわたり。太宰少貳にぞ屬しける。文永十一年十月蒙古の賊船當國に襲來りし時。右馬七カ助國をはじめ。一族家の子眞先かけて討死す。其子孫足利將軍家に仕へ。讃岐守貞盛が時より。年々朝鮮と相約し。通商交易の事はおこりたり。義智が時に豐臣太閤の命をうけて。朝鮮の國王とよしみを結ぶ事をはからひ。文祿の軍にはかの國におしわたり一方の先手奉りてこゝかしこに合戰し。慶長庚子の亂には大坂の催促に應じ。家臣柳川豐前守調信に軍勢をさづけ伏見の城を攻させしかど。その罪ゆるされ本領を安堵し。十一年朝鮮の僧松雲義智がもとに來り和好を議しけるに。大御所義智がはからひをことはりと聞し召。我國に生取置たるかしこの民。ことごとく送りかへされしが。彼國の君臣大によろこび。其翌年始て信使を參らせ。永く善隣のよしみを結ぶ事となりぬ。これらのこと皆義智が。彼國の君臣に我御仁コを傳へ播しけるが故なれば。兩御所御感斜ならず。其功を賞せられ十万石の列に加へられたり。かゝりし後は彼國にても明朝に奏し。ゆるしを受て交易の利を通ずる事いよいよ絕ず。義智去年の冬は大坂にのぼり。城責の寄手にくはゝりしが。其後病にそみ此正月三日。四十八歲にて卒せしなり。又伊豫國大洲城主脇坂中務少輔安治致仕し。その子淡路守安元に所領五万三千五百石を襲しめらる。この安治は父外介安明織田殿にしたがひ。永祿十一年六月四日近江國觀音寺の戰に討死す。安治幼より羽柴筑前寺秀吉にしたがひて志をつくし。いつも軍陣の供にしたがひ軍功をはげみしかば。天正十一年四月志津嶽の高名七人の中にて。その賞として始て山城國にて三千石たまはりしが。夫より次第に功勞を以て。同十三年五月攝州能勢郡の內一万石加へられ。七月從五位下して中務少輔と稱し。關白薩摩の島津。相摸の北條をせめ。朝鮮をうたるゝにも。安治功をはげまさずといふことなし。庚子の亂に大御所會津にはせ下らせ給へば。その子安元を奥に下し御供させ。關原の時は父子共御方にまいりしかば。其勸賞とて今の城たまはり五万三千五百石領す。去年今年の戰には安元をまいらせ。敵の首あまた切て奉り。安治はことし致仕し。洛陽西洞院のあたりに閑居し。ェ永三年八月六日とし七十三にて終をとる。安治我子を御方に參らせ。コ川家の新恩にむくひ奉るといへ共。我は流石故太閤の恩遇ふかきものなればとて。昨今の軍にも參らず。かく世をそむき閑居せる志のほど哀なりと。その頃人みな沙汰せしとぞ。貴志助兵衛正久が子八カ右衛門政尙は。家つぎて大番にいり。大岡傳藏忠行大坂にて戰死し。その子忠四カ忠種家をつぎ。五十石加恩せらる。又松平武藏守利隆が次男三五カ恒元初見し。中島來の刀を賜ひ。米良小右衛門重隆は御所に初見し奉る。また井伊掃部頭直孝は。山城近江の兩州にて狩塲をくだされ。旅行にも恩賜の鷹をもたらし。往還心まかせに狩すべしと命ぜられ。又左文字の御刀。宮王の茶壷をたまふ。これみな大坂の戰功を重ねて賞せらるゝ所とぞ。その上大御所の仰により。蜂須賀家政入道蓬庵の女子をもて定婚せしめらる。石谷十藏貞C。山作十カ成次も戰功により。金三枚づゝ賜はり。京極若狹守忠高御臺所に拜謁し。御所より金三千兩たまふ。內河七左衛門正吉が子七左衛門吉次家つぐ。この年大坂亂興るに及んで。丹波國一揆蜂起の聞えあれば。岡部內膳正長盛。同美濃守宣勝。松平周防守康重に命じ。これを追拂はしめらる。また攝州曾根にも土寇亂妨するよし聞えければ。康重人數を分て追擊せしめ。首三十余級討取る。能勢攝津守ョ次は同州多田庄にむかひ一揆を討果す。大橋角之允貞次は板倉伊賀守勝重。秋元但馬守泰朝と牒し合せ。大坂城に入て間牒をなす。城陷て五條にかくれすむ。泰朝に仰下され其踪蹟を搜索ありしかど。しる者なければ。落城の日討死すと披露して。貞信終に隱遁し身を終る。又服飾の事を令せられしは。正月朔日二日六日裝束たるべし。給事の諸大夫布衣の侍。五日の間は長袴たるべし。三月三日出仕の輩長袴たるべし。四月朔日より袷衣を着し韈を脫べし。五月五日染帷子。長袴。六月十六嘉定の節もおなじ。七月七日八月朔日白帷子。長袴。八朔には五千石以上太刀折紙を献ずべし。九月朔日より八日までは袷衣。九日より染小袖。十日より韈をゆるさる。九月九日長袴たるべし。十月玄猪の慶會長袴を着すべしとなり。(ェ政重修譜。家譜。藩翰譜。天和書上。元和年錄。) 
卷四十一 / 元和二年正月に始り三月に終る御齡三十八 

 

元和二年丙辰正月元日卯刻よりK木書院に出給ふ。御直垂なり。御太刀御刀は近臣是を役す。若君(時に十三歲。長袴を召る。)同じく出まし御左の座に着給ふ。國松君(時に十一歲。)太刀目錄もて出座し。歲首の賀聞えあげ給ひ。酒井雅樂頭忠世披露す。國松君は閾の內に入て。御右の方に着せらる。其時井上主計頭正就御盃持出。水野監物忠元吸物を持出。捨土器は主計頭正就もち出る。御所の御酌は正就。御加は監物忠元役し。若君へ御盃進らせらる。若君召上られ。御加ありてもとの御座へ復し給へば。雅樂頭忠世其御盃をとりて。三方に載て御前に奉る。其とき若君御中座ありて謝し給ひ。まかんで給はんとする時。御手づから御肴進られ拜受し給へば。御所御加ありて。其御盃を國松君につかはさる。國松君御加ありて。その御盃を持ながら。御次へまかでらるゝ時。土井大炊頭利勝その御盃をとりて三方にのせ。御酌の役へわたす。御所其御盃とらせ給ふ時。國松君中座して謝し給へば。時服纏頭せらる。國松君復座の時御加ありて。御銚子を納め吸物を徹し。若君も國松君も次第にまかで給ふ。次に御所白木書院に出ます。尾張宰相義直卿太刀目錄捧げ拜せらる。大炊頭利勝披露す。次に遠江宰相ョ宣卿拜せらる。次に水戶少將ョ房朝臣。次に越前宰相忠直卿。次に加賀少將利常。松平武藏守利隆拜謁し。御盃は正就。御引渡は忠元。御捨土器は森川出羽守重俊役し。三家の輩次第に御盃つかはされ時服纒頭せらる。宰相忠直卿以下御加はなし。時服各纏頭ありてもとの座へ歸る時。忠元正就役し御雜煎奉る。着座の輩へも雜煎給はり。又御盃を三家各給はり。忠直卿。利常。利隆は巡盃にて御銚子を納め。次に兎の吸物を奉り。着座の人々へも賜ふ。又御盃給ふ事始のごとく。はてゝこの輩退く。次に侍從以上普第衆太刀目錄もて拜賀す。松平伊豫守忠昌。松平出羽守直政。松平甲斐守忠良。松平隱岐守定勝。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。永井信濃守尙政。山大藏少輔幸成以下。各太刀目錄持出て拜謁す。御盃幷時服かづけらる。次に大廣間に出まし忠世御障子を開く。御次に普第大小名。諸番頭。近習外樣三千石以上の徒。法印法眼の醫官。太刀目錄前に置て拜賀し。布衣以上の諸有司。寄合衆。書院番。大番。扈從人等一同に拜謁し忠世披露す。次に上段につかせ給ふ。正就。忠元御盃御引渡持出御加あり。松平和泉守家乘。松平主殿頭忠利。松平伊豆守信吉を始。諸大夫の輩。法印法眼の醫官等まで。御流れ給はり時服かづけらる。次に布衣以上諸有司。番士。同朋等までも御流給はり。次に板緣にて幸若觀世等も御流を拜戴し。後奥に入らせ給ふとき。大廊下にて高家幷諸國由獅フ輩。久志本左京亮常衡拜し。白木書院次にて小姓組の番士拜し。其緣にて後藤本阿彌。吳服所。官工商。狩野一統の畵工等捧物して拜し。阿部備中守正次披露し。次に同所溜にて伏見勘七カ長景拜し。K木書院の勝手にて御膳奉行右筆等拜し。終て白木書院の緣にて。正就。忠元。重俊の三人へ時服を賜ふ。次に大廣間の三間にて。在封の輩名代の使者老臣に謁し。太刀目錄を献ず。正次。重俊。忠元。內藤若狹守C次。松平越中守定綱。新庄越前守直貞。高力左近大夫忠房等の奏者番是を請とる。今年はじめて拜賀のともがら。烏帽子。直垂。狩衣。大紋を着し。其以下素襖着しまうのぼる。この夕雅樂頭忠世。大炊頭利勝を御前にめされ。江城駿府年中諸節の禮儀いまだ全く備らず。よて昨年より會議して定らるゝ所の儀。今日より始め行はるれば。當家歷世の永式となすべきよし面命せらる。駿府に於ては江城よりの御使某新年を賀し奉る。其外出仕の輩あり。(今年よりして江城にをいて諸禮儀行はれ。駿府は全く畧禮を用ひ給ふと見えたり。)松平五カ左衛門忠次從五位下に叙し。式部大輔にあらたむ。松平三カ次カ康盛も叙爵して右京亮に改む。(駿府記。元ェ日記。東武實錄。武コ編年集成。家忠日記。ェ永系圖。坂上池院日記。)
○二日大廣間に出ます。御太刀御刀の役昨日の如し。松平宮內少輔忠雄。淺野但馬守長晟。松平長門守秀就。細川越中守忠興。森右近大夫忠政。松平阿波守至鎭。立花左近將監宗茂。宗對馬守義成。鍋島信濃守勝茂。太刀目錄もて拜す。井上主計頭正就御引渡持出て。水野監物忠元御捨土器もちいで。各次第に御盃給はる。忠元御酌。正就御の役す。ときに時服纏頭せらる。次に佐竹右京大夫義宣。伊達遠江守秀宗。K田筑前寺長政。京極若狹守忠高。太刀目錄もて拜し御盃下され。時服かづけらる。(少將は臺。侍從は廣蓋。)次に喜連川左馬頭ョ氏太刀目錄持出て拜し。酒井雅樂頭忠世披露す。時服は御次にて下さる。次に障子開て諸大夫の輩。太刀目錄前に置て拜し御流下され。時服給はる。次に畠山下總守義眞。前田大和守利孝時服かづけられ。其以下の徒みな御盃賜はる。大廣間より入らせ給ふとき。大廊下にて無官の醫員連歌師等ものささげて拜し。次に白木書院にて代官大工棟梁。落緣にて諸工人拜す。奥へいらせ給て後在封の輩の使者。老臣に謁し太刀目錄を献ず。舞々猿樂は兼て大廣間の落緣に侍ておがみ奉る。(元ェ日記この儀を三日とす。誤れり。今は東武實錄元和年錄に從ふ。)去年は大坂の再亂により。謠曲始の式を停廢ありしが。この春は舊に復し行はる。よて酉刻長袴めして大廣間に出給ふ。近臣御刀の役す。尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣拜謁せらる。御次には左松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。牧野駿河守忠成。右小笠原右近大夫忠眞。松平丹波守康長。松平外記忠實。設樂甚三カ貞代着座す。その時初献の御盃。御引渡。御捨土器御前に奉り。三家幷着座の輩へも引渡供す。時に御盃御加ありて宰相義直卿へ賜ふ。義直卿其御盃とりて退らるゝ時。酒井雅樂頭忠世其御盃をとり。御酌の役にさづく。其御盃をとらせ給ひ召上られて。宰相ョ宣卿に賜ふ。其御盃もて又少將ョ房朝臣へ給ふ。その儀皆上に同じ。次に御酌の役かはりて。ョ房朝臣の前なる御盃をとり。御次伺候の輩へ。南より始て千鳥がけに御酒を酌す。次に二献の御盃御吸物を奉り。三家幷着座の人々にも供す。義直卿はじめョ宣卿。ョ房朝臣。次に着座の輩に御酒給ふさま初献のごとし。次に三献。蕗の臺星の物持出て御盃とらせ給ひ。御加の時酒井雅樂頭忠世出て。謠曲始むべきよし令し。觀世左近四海波靜にてと謠ひて御加あり。其御盃を義直卿に賜ふ。其御盃酬給ふ間に老松の囃子あり。次にョ宣卿ョ房朝臣へ御盃給はり。御肴つかはされて後御通りになり。蕗の臺を徹す。次に三家幷國松君より進らせらるゝ臺持いづる。雅樂頭忠世披露し御座の左右に置。四献は義直卿より献ぜらるゝ臺の盃にてめしあげられ義直卿に給ひ。二銚子にて御通りになる。五献にョ宣卿より献ぜられし臺の盃にてョ宣卿にたまひ。六献にョ房朝臣よりの臺の盃にてョ房朝臣に給ふ。此時また二銚子にて御通りになる。忠世諸大名より献ずる臺を。西板緣にならべ置て披露す。七献に中段に供せし臺の御盃にて。越前宰相忠直卿へ給ひ。八献に松平出羽守直政。九献に立花左近將監宗茂。十献に井伊掃部頭直孝を召て御盃下さる。此間に高砂の囃子はてゝ。御通りの銚子を納む。時に忠世廣庇に出座し。猿樂等に時服纏頭す。次に松竹の臺いでゝ。また御銚子進り。御加の時弓矢の立合を舞ふ。この舞終るころ御加ありて御銚子を納む。時に忠世御前に參り。御肩衣を給はりて觀世左近に纏頭す。この時各肩衣脫べきよしを忠世つたへて。三家をはじめ陪宴の輩各肩衣を脫て猿樂大夫に纏頭し。猿樂にも諸大名献ぜし臺にて御酒給ひ。折紙を下されて衆皆歟抃して退出す。(元ェ日記。東武實錄。)
○三日白木書院に出まし。國持の長子無爵の徒。各太刀目錄もて拜賀し。次に無爵の大名廊下溜にて拜謁し。其後座に諸大名の證人幷井伊兵部少輔直好。松平式部大輔忠次。奥平九八カ等の家臣等拜し。次の板緣にて江戶。上京。下京。大坂。奈良。堺。伏見。大津。淀過書。銀座。朱座の徒拜し奉り奥へ入らせ給ふ。この日京に新正の賀物進らせ給ふ。禁裏へ銀百枚。蠟燭千挺。仙洞へ銀五十枚。蠟燭五百挺。女院に銀五十枚。女御にも同じ。長橋の局に銀廿枚。兩傳奏へ金十兩づゝつかはさる。(元ェ日記。東武實錄。)
○五日長袴召て白木書院に出まし。叡山の諸僧。淺草寺。知樂院。山王權現の社司日吉大膳。别當最教院等はじめ。僧徒社人等拜し奉る。又駿府にては大御所は近郊へならせられ鷹狩し給ふ。(元ェ日記。國師日記。)
○六日御直垂にて白木書院に出給ふ。搶緕尅カ應。傳通院。新田大光院。誓願寺。大願寺。大養寺始め。出家社人拜謁し。コ川滿コ寺。千人頭等も同じ。はてゝ禪僧の法問聞召る。此日小出勘七カ重章死して。其子加兵衛重宗つぐ。(元ェ日記。國師日記。家譜。)
○七日七種の御祝あり。この故事兼て諸儒陰陽の徒諸僧等に會議せしめ。京都へも御尋問ありといへども。諸說紛々として一定せざるをもて。古來流例のまゝ七種の粥を供せらる。京鎌倉五山幷僧錄司の座班等。すべて足利將軍家の故例を用ひらるゝよし令せらる。月次朔望の儀は舊例のまゝたるべしとなり。(元ェ日記。)
○九日小姓川口左門正武。去年の戰功により新に五百石たまふ。(萬世家譜。ェ政重修譜。)
○十日土井大炊頭利勝駿府へまかり。けふ歸り謁す。大澤兵部大輔基宥暇給はり京へ御使す。(國師日記。)
○十一日伊豆國泉頭の地に。大御所莬裘を御經營あらんため。十五日駿府を出まさんの御あらましなりしが。泉頭は地景もしかるべからずとて。此儀停廢あるよし仰まいらせらる。また船主彌七カに交趾渡海の御朱印二通。唐商はうへ東京渡海の御朱印。三官へ交趾渡海の御朱印を下さる。又久貝忠左衛門正俊目付となる。(國師日記。御朱印帳。家譜。)
○十二日大御所田中に鷹狩し給ふ。(榮松錄。)
○十四日內藤主稅助信廣叙爵して東市正と稱す。(家譜。)
○十五日月次出仕例の如し。
○十九日松平宮內少輔忠雄從四位下に叙し侍從に任ず。(備考系圖廿三日とす。)藤堂和泉守高虎が子大助高次從五位下に叙し。大學助と稱し。加藤左馬助嘉明が二男民部明利も叙爵して。民部少輔とあらたむ。駿府にては群書治要活板の事仰出され。儒役林道春信勝幷に金地院崇傳より。其旨を京職板倉伊賀守勝重につたへしめらる。この日振姬君を淺野但馬守長晟がもとへ入輿せしめ給ふ。(家忠日記。東武實錄。ェ永系圖。國師日記。ェ政重修譜。)
○廿一日駿府にては大御所田中へ放鷹し給ふ。宰相ョ宣卿少將ョ房朝臣も陪從せらる。しかるに俄に御心地例ならずなやみ給へばとて。醫官片山與安宗哲御藥を奉る。落合小平治道次は御狩塲より。この事告奉るため四十五里の行程を十二時が間に江城に參着し面謁し奉る。よつてその速なるを褒せられ。金時服をかづけ給ふ。(國師日記。家忠日記。)
○廿二日駿府にては大御所田中の御旅館にて。御違例なりと聞て。在府の輩みな田中に馳參す。昨夜御藥のしるしわたらせ給へば。廿四日には駿府へ還御あるべしと仰いださる。駿府老臣より急脚もて。この事を江城へ告奉る。(國師日記。)
○廿三日江城より山伯耆守忠俊を。いそぎ駿府へつかはされ。御けしきうかゞはせ給ふ。この頃上野介忠輝朝臣は。駿河の八幡に旅宿ありて。駿府の女房達生母阿茶の局等により。身の罪を樣樣陳謝せられしかども。大御所更に聞召入られず。(元和年錄。元和日記。)
○廿四日駿府にては。大御所御惱いさゝか御こゝろよくならせ給ふとて。府城に還御あり。(家忠日記。)
○廿五日江城より安藤對馬守重信を駿府に御使して。御病躰をとはせ給ふ。此日松平甲斐守忠良は下總國關宿より。美濃國大垣城にうつり。一万石加へ五万石になさる。これ大坂戰功の賞とぞ聞えし。(國師日記。藩翰譜。元ェ日記。)
○廿九日土井大炊頭利勝を駿府につかはされ。御けしきをとはせたまふ。このほど安藤對馬守重信をして。御看侍の爲つかはされしが。猶御心もとなく思召。御みづから參らせ給ふべき旨仰進らせられしに。しからば御對面もあらまほしきむね仰つかはされ。對馬守重信いそぎ江戶へ歸るべしと命ぜられ。いとま給ふ。この日水野善兵衛宗勝死ければ。其子藤太カ勝次家をつがしめらる。(國師日記。家譜。)
○三十日京都にても主上。上皇。大御所の御不例聞召驚き給ひ。傳奏衆より急脚もてとはせ給ふ。このほど醫官半井驢菴成信。片山與安宗哲等。日夜近侍し御藥を奉る。(國師日記。)
◎この月代官淺井八右衛門忠政の子次右衛門忠保初見す。織田長十カ高重は。駿府へ歲首の拜賀に參りしに。大御所御覽じ。今日群參の中に窠の紋の士は。誰にやと問せ給ひしかば。織田長十カ高重と聞え上しに。直に叙爵命ぜられ。美作守と改めしとぞ。(家譜。)
○二月朔日辰刻江城を御出輿ありて。駿府におもむかせ給ふ。大御所御不例によりてなり。大御所には日ごとに御脉例ならずましますよし諸醫聞え上る。(國師日記。家忠日記。)
○二日昨夜中御道をいそがせ給ふ。けふ駿府にならせたまひ。御對面ありければ。大御所御氣色なゝめならず。けふ目付阿部四カ五カ正之。使番朝比奈源六泰勝。肥後國目付はてゝ駿府まで昨夜着しかば。今夜幸に駿城にのぼり拜謁し。九州の事を聞え上奉る。(家忠日記。東武實錄。)
○三日けふは御脉平常に復し給ふ旨。諸醫聞え上ければ公達御方々はいふまでもなし。上下なべて喜躍する事大かたならず。また御所の御沙汰として。都鄙に名を得たる醫者を。俄に駿府に召あつめ。御治療を議せしめられ。また天下の諸寺諸山の名僧高僧。神祇官陰陽寮に御祈禱を命ぜらる。(國師日記。元ェ日記。)
○四日大御所御病牀に藤堂和泉守高虎。金地院崇傳等を召て御物語あり。納豆汁にて饗膳を給ふ。御氣色平常にかはらせ給はずとて。衆人皆ス事限りなし。又夜に入りて京より急脚參り。主上御氣色を御心もとなく叡慮をなやまし給ふ旨。傳奏衆よりきこえ進らす。攝家宮門跡月卿雲客とりどり使奉り。御氣色うかゞはる。(國師日記。)
○五日このほど御所は駿府の西城を御座となされ。大御所御氣色をはからはせ給ひ。時々本城へならせられ御看侍ありて。又西城へかへらせらる。(國師日記。)
○六日大御所さきに命ぜられたる群書治要。けふ御病間に金地院崇傳を召て。いよいよ活板の事仰出され。挍正のために五山の僧。一山より二人づゝ召寄べしと面命し給ふ。崇傳書簡もて。兩御所うるはしくわたらせ給ふよし。江城留守の老臣本多佐渡守正信へ傳ふ。(國師日記。)
○七日八幡豐藏坊御祈禱符籙を駿府へ献ず。(國師日記。)
○九日近衞右大臣信尋公急脚をもて。大御所御けしき伺はる。多賀不動院より御祈の札を献ず。(國師日記。)
日南都大乘院門跡信尊御祈の符籙進らす。鎌倉鶴岡よりも同じ。(國師日記。)
○十一日叡山より御祈禱札を献ず。(國師日記。)
○十四日愛宕山威コ院福壽院より札を奉る。松平伊豫守忠昌がもとに寄寓する宇都宮三カ左衛門朝末病に臥し。召ども起事を得ず。金百兩。米千俵を賜はる。(國師日記。武コ編年集成。)
○十五日庭田中納言重定卿急脚もて八宮(後陽成院皇子。大御所御猶子。)殊更御心もとなく思召旨を聞え上る。(國師日記。)
○十六日飛鳥井中將雅宣急脚もて。父大納言雅庸卿去年十二月廿二日卒去のよし聞えあぐ。(國師日記。)
○十九日廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿駿府へ參向あり。(國師日記。御鎭座記十七日とす。)
○廿一日生駒左近將監正俊。大坂城修理のため大角石栗石を献ぜしによて。御判書を賜ふ。(家譜。)
○廿二日大御所御けしき甚煩はらしく見え給ふ。松平陸奥守政宗駿府へまかり。日々まうのぼり御けしき伺ふ。(國師日記。貞享書上。)
○廿三日勅使廣橋大納言兼勝卿西三條大納言實條卿まうのぼり。奥にて大御所御對面あり。直に西城にいでゝ。御所にも對面せさせ給ふ。(國師日記。)
○廿五日生駒左近將監正俊從四位下にのぼせらる。松平外記忠實を駿府に召て。此節中山道より潜行して上洛し。伏見城三年勤番すべしと仰付らる。(武家補任。貞享書上。)
○廿八日勅使の兩卿外殿へまうのぼらるゝといへども。御對面の儀なし。(國師日記。)
○廿九日尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿。少將ョ房朝臣幷に越前宰相忠直卿等。日々御所にしたがひ御看侍に候せらる。松平陸奥守政宗。福島左衛門大夫正則K田筑前守長政等は。日をへだてゝまうのぼり。御氣色うかゞひ奉る。(國師日記。)
◎是月筒井次カ助政信。二百石加恩ありて千二百石になさる。(家譜。)
○三月二日松平式部大輔忠次暇給はり。駿府より江戶に赴く。(家譜。)
○三日京職板倉伊賀守勝重より注進せしは。主上大御所の御病躰を御心もとなく思召。大內に於てその御祈りとて。三寳院門跡義演延命の護摩一七日修行せられ。廿七日結願により。竹屋左少弁光長勅使として。卷數を二條の城に進らせたまふ。この外加茂。春日。伊勢。八幡をはじめ。諸社より御祈禱の卷數も。京職のもとに納めたりとぞ。今日野田左衛門大夫弘朝を召て。采邑五十石給ふ。こは故古河の足利氏の遺臣なりとぞ。(國師日記。家譜。)
○四日佐久間備前守安次が子民部少輔勝宗卒す。時に廿八歲。上林コ順勝永が子又次カ勝盛家をつぐ。(家譜。)
○五日醫官片山與安宗哲御藥の事により。御けしきにたがひて信州諏訪高島へ謫せらる。この頃は半井驢庵成信友竹等日々診脈せしめらる。(國師日記。世に傳ふる所。この日大御所御けしきこと更重く見えさせ給ひしかば。阿茶の局御側にありしが御けしきをうかゞひ。上總介忠輝朝臣の御事御かうじゆるさせ給ひ。御對面もあれかしとしきりになげかれしを聞召。少將が容貌氣質ものゝ用に立べき者と思ひつるに。去年大坂にて以の外軍事に怠り。敵の旗をも見ず。其上將軍の家人を途中に於て私に誅し其事聞え上ず。我世にあるほどさへかくのごとく無禮ふるまふおこの者。我なからん後はいかなることなし出さんもしるべからずと。御淚ぐませ給ひしかば。局も詞なくて退き。其よし文かきて朝臣のもとへ送らる。朝臣もことに驚き。此際に及びかく御勘氣かうぶらせ給ふことを深く歎給ひしかど。御免の沙汰もなし。この後終に伊勢國朝熊にうつらせられしも。御遺言なりしとぞ聞えける。藩翰譜。元ェ日記。)この日小島源左衛門正重死て。其四子源左衛門正利家をつぐ。(斷家譜。)
○七日女御より大乳人。女御より帥の局駿府へ參向す。大御所御氣色うかゞはんためなり。日下部五カ八宗好宇治採茶使にさゝれ暇給ふ。(國師日記。)
○八日御手洗越前正吉死して。其子彥右衛門正久家つがしめらる。(斷家譜。)
○十日直江山城守兼續へ。律令。群書治要挍正の事により。藏書を進覽すべき旨。金地院崇傳より傳ふ。(國師日記。)
○十二日伊丹彌右衛門義虎死して。子彌五右衛門勝忠家をつぐ。(家譜。)
○十四日妙法院門跡常胤法親王使もて。御所の卷數捧らる。(國師日記。)
○十五日大森半七カ好長に二百石。久松惣太カ定コに三百石加恩せらる。去年大坂の戰功によりてなり。(ェ永系圖。家譜。)
○十六日一乘院門跡尊勢御祈の卷數參らす。(國師日記。)
○十七日大御所太政大臣御昇進の事。先にも大內よりうちうち其旨もらし聞え給ひ。京職よりも聞え上けれど。かたく御辭讓のみわたらせ給ひしが。こたびは御老病不起の御症なるべきよし。主上も院もこと更叡慮をわづらはし給ひ。さらば此際におよび。せめて今一しほ長上極官宣下ありて。年頃の大勳にむくはせ給はんとの叡慮にて。今度兩傳奏をさし下され。あながちに其叡慮を仰遣らせ給ひしかば。さのみいなみ給ふもかへりて恐あれば。詔のまゝに受ひかせ給はんとの御事なりしかば。兩傳奏より急脚もて。京へ其よし奏聞をとげ。宣命使以下片時も早く。駿府へ參向すべき旨をつたふ。(國師日記。)
○十八日西大寺。藥師寺。菩提山寺。相國寺より使もて卷數を献ず。松平下野守忠クの藩臣蒲生源左衛門が子源三カ。其弟源兵衛幷蒲生忠左衛門と同藩町野長門守幸和と確執の事おこり。藩中雙方引分れ訴論やまざるよし大御所聞召。忠ク御外孫の事なれば。こと更御心をなやまされ。御病中といへども双方を城中に召决せられしに。幸和終に非據に决しければ。源三カ。源兵衛。忠左衛門等は采地を揄チせられ。幸和は遠謫せられ。又先に忠クの家を立退し蒲生三カ兵衛。外池信濃は召返さしめらる。この日保田甚兵衛宗雪大御所に初見し。仰によりて父甚兵衛則宗が家をつぐ。(國師日記。元ェ日記。ェ永系圖。)
○十九日大御所御病躰大に御快。今朝は御粥もけしきばかり召上られ。御行歩もすこやかに渡らせ給ふとて。上下スびあへり。(國師日記。)
○廿日僧C韓御諊問の事ありて京より召れ。町奉行彥坂九兵衛光正して獄に下さしむ。(國師日記。)
○廿一日松平右衛門大夫正綱に加恩七百八十石たまひ。三千七百八十石餘になさる。(家譜。)
○廿三日細川內記忠利駿府に參着す。(國師日記。)
○廿五日相國宣下の口宣駿府に參着す。(國師日記。)
○廿六日竹腰山城守正信に。召れし御風折烏帽子を給ふ。こたびの大禮に用ゆべきが爲とぞ聞えし。(國師日記。)
○廿七日勅使は臨濟寺の新館にやどられしかば。つとめて本多上野介正純草津邊に迎へて。あとよりしたがひ。使をはせて勅使出門を駿府に告しむ。勅使は廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿。行列は中原師易。秦行兼。左右に先行して警蹕を唱ふ。次に宣命使舟橋C少納言秀相板輿にのり。布衣侍二人。白丁三人從ふ。次に大內記某。主鈴某騎馬。各布衣侍二人。白丁三人從ふ。次に烏丸大納言光廣卿。廣橋中納言總光卿。網代の轅輿にのり。小隨身三人。布衣侍三人。白丁四人。次に四辻中納言秀繼卿。河野宰相實顯卿。同じく輿にのり。小隨身二人。布衣侍二人。白丁四人從ふ。次に柳原右大辨業光。烏丸右中辨光賢板輿に乘り。小隨身一人。布衣侍一人。白丁一人從ふ。次に壬生官務孝亮。押小路大外記師生。出納某。各騎馬にて白丁三人具す。次に唐櫃。次に少外記師勝。騎馬にて白丁三人具す。次に岡部內膳正長盛。騎馬にて後捍す。素襖着の侍四人從ふ。次に侍筒二百挺。騎士左右に分れて警衞す。御所には玄關に勅使を迎給ふ。勅使常の御座所にて御對面。上段に勅使着座あれば。大御所御病牀をもて下段にうつし給ふ。戶田式部少輔某。(或は民部に作る。重修譜に見えず。)酒井河內守重忠御官服を持出て御枕邊に置て退く。御座の御右に御所着給ひ。其他着座の公卿は御次につかる。尾張遠江の兩卿。水戶の朝臣。越前宰相忠直卿むかひて座につかる。大外記師生便宜の所にありて。唯許と唱ふる事二音。次に少納言秀相宣命をよむ。(こと更の叡慮あるをもて黃紙を用ひらる。)次に左右の伶人樂を奏す。次に少納言秀相微音にて侍臣をめす。宰相忠直卿膝行してすゝみ。宣命を拜受して御座に捧げて。又持退て案上に置く。次に勅使また少納言秀相をして。案に就て宣命高らかによましむ。一句讀卒ることに樂を奏す。はてゝ勅使宣命使本座に復して後。勸盃の儀ありて。公卿諸官人みな退出す。(御鎭座記。國師日記。)
○廿八日在駿の諸大名みな府城に出仕す。在府の公卿諸大名御暇給はるべき旨。大御所より御所へ仰進らせらる。(舜舊記。國師日記。)
○廿九日駿城に於て勅使を饗せらる。大御所御病中といへども。御衣冠をめして出仕諸大名の拜賀をうけ給ふ。勅使饗應の席には。御所緋御直垂にて上段に出まし。東面の座につかせ給ふ。兩傳奏直垂にて次の座に南面してつかる。尾張宰相義直卿。遠江宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣。共に水干着し北面してつかる。細川內記忠利。井伊掃部頭直孝御酌の役に候し。諸大夫の輩配膳の役し。御膳七五三御盃惣金御三献の式あり。初献は御所召上られしを。宰相義直卿に賜はり。其御盃を廣橋大納言兼勝卿に賜られ。其次宰相ョ宣卿。其次西三條大納言實條卿。其次少將ョ房朝臣に廻りて納む。二献は御所の御盃をョ宣卿へ給ひ。其御盃を大納言實條卿へめぐらし。次に少將ョ房朝臣。次に大納言兼勝卿。次に宰相義直卿にめぐらして納む。三献は御所の御盃をョ房朝臣。次に兼勝卿。次に義直卿。次に實條卿。次にョ宣卿にて納む。この間に拍子あり。觀世これをつとむ。高砂。吳服。善界。三番はてて禁裏へ銀千枚。院へ三百枚。女院。女御。各二百枚進らせられ。こたび宣下の上卿日野大納言資勝卿金十枚。職事廣橋頭弁實勝金五枚。押小路大外記師生金二枚。兩傳奏金十枚。小袖三十づゝ。御所より銀三百枚つかはされ。その餘の諸官人へ銀三十枚づゝかづけらる。次に數の御土器出て。烏丸大納言光廣卿。廣橋中納言總光卿。四辻中納言季繼卿。阿野宰相實顯卿幷諸大名へも御盃給ふ。この日御前給仕は內記忠利。掃部頭直孝。酒井下總守忠正。鳥居讃岐守忠ョ。御相伴の配膳は三好備中守長直。西尾丹後守忠永。佐々木民部少輔高和。一色淡路守某。一色七カ範勝。朽木兵部少輔宣綱役す。範勝諸大夫にあらずといへども。名家の子孫たるゆへに。素襖を着して諸大夫と共にその事をとる。尤規摸たるべしとて。大御所こと更に此列に加へらる。この日又和歌管絃を催さる。和歌題は花契多春。大御所御歌。治れる大和の國に咲匂ふ幾万代のはなのはるかぜ御所の御歌。万代の春に契りて梓弓やまと島根に花を見る哉烏丸大納言光廣卿。東路のひろき惠に契るかな八百万代の春の初花廣橋中納言總光卿。さき初る花さへけふは万代と東の春の香に匂ふらん四辻中納言季繼卿。契るぞよこま唐土も芦原も花になりゆく万代の春。この外猶あまたあり。樂は太平樂。陵王。營翁。春鶯囀。安摩。(御鎭座記。創業記。武コ大成記。東武實錄。國師日記。ェ永系圖。御鎭座記この饗宴幷に賜物等を三月朔日とするは誤なり。今國師日記。舜舊記等により今日にさだむ。)
◎この月伊達遠江守秀宗駿府に參覲し。大御所貞宗の御脇指。鹿毛の御馬をたまひ。太田攝津守資家に長光の御刀。國俊の脇差を下さる。鷹役飯田甚三カ某。常に心いれつかふまつるを稱せられ。御前にめして金をたまふ。松平石見守重綱所領駿河の久能より。下野國烏山城にうつり。加恩ありて二万八百石になさる。これ去年難波の戰功によりてなり。新庄越前守直定の二子內匠直之助初見す。此ほど松平陸奥守政宗日々まうのぼり。御けしきうかゞひ奉りしに。或日御病牀御蒲團の上まで召れて。いまよりのちいよいよ將軍家の御事。ョみ思召むね仰事あり。御形見のためとて。C拙の墨蹟を給ひしかば。政宗感謝にたえず。落淚して御前をまかで兼しとなり。(東武實錄。ェ永系圖。貞享書上。武コ編年集成。ェ政重修譜。) 
卷四十二 / 元和二年四月に始り六月に終る 

 

○四月朔日大御所御病床に堀丹後守直寄を召て。此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後。國家に於て一大事あらんには。一番の先手藤堂和泉守。二番は井伊掃部頭に命じ置ぬ。汝は兩陣の間に備を立て。鑓を入べしと命ぜらる。直寄落淚しながら。やうやう有難しと御請して退く。其後諸老臣をめして面命の旨あり。(年錄二日。榮松錄六日とす。今は貞享書上元ェ日記による。)この日島津陸奥守家久へ。御所より吉光の御刀を賜ふ。最上駿河守家親も御けしき伺はんとて駿府に參る。(貞享書上。元ェ日記。家譜。)
○二日金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。大御所御病床に召て。御大漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戶搶緕宸ノて行はれ。靈牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都には南禪寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拜せしむべしと命ぜらる。神龍梵舜駿府に參り。まうのぼり御けしきうかゞひ奉る。(國師日記。舜舊記。)
○三日大御所御病のひまに種々御遺言ども仰出さる。其御詞悉く神明の如くなりと。是を聞し者感泣せざるはなし。本多上野介正純金地院崇傳兩人を御使として。御所へも御密旨仰つかはさる。水野隼人正忠Cを御病牀にめして。父和泉守忠重以來の舊功を御稱美あり。忠Cまた去年大坂表の戰功少からずとて。本領三州刈屋の城主となされ。二万石給ふ旨面命あり。忠C落淚して拜謝す。上總介忠輝朝臣御勘發の身憚ありといへども。今の時にあたり。遠く上州藤岡の地に蟄居せむ事あまりに本意を失ふ。せめて三島蒲原の邊までまかりて。近く御けしき伺はん事をうちうちこはれける。御所御ゆるしありて。三島の旅館におもむかる。勅使はじめ公卿諸官人駿府を發し上洛す。よて酒井阿波守忠行大井川まで送る。東海道諸城主に命ぜられ。道々にて饗應せしめらる。(國師日記。貞享書上。家忠日記。武コ編年集成。東武實錄。元ェ日記。御鎭座記。)
○四日このころ大御所にはとかく御絕食にて。御疲勞つよくわたらせられ。御みづからにもこたび不起の御症と思召とらせ給ひ。御遺言ども日日仰出さるれば。御所はじめ御方々近侍のともがら。晝夜御病牀に看侍して。愁傷いはん方なし。夜に入て石川主殿頭忠總を病牀にめし。我汝をして外祖石川日向守家成が家つがしめし事忘れずは。大樹に忠勤怠るべからずと命ぜられ。忠總感泣して退く。又同じ頃外班の諸大名を御牀の邊にめし。我齡古稀にこえて不起の病にそみぬれば。天壽すでに終らんとす。大樹天下の政を統領すれば。我なからん後の事。更に憂とせず。たゞし大樹の政務ひが事あらんには。各かはりて天下の事はからふべし。天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なれば。吾これをうらみず。是により各に暇給へば。一先封地にかへり。大樹の令を待て來るべしと面命有て。各もの賜ふ。また御所には天下の政に於て。いさゝか不道あるべからず。諸國の大名共へ大樹の政治ひが事あらば。各かはりて。政ネを取べしと遺言しぬ。もし又諸國の大名大樹の命にそむき。參覲に怠るものあらんには。一門世臣といふとも。すみやかた兵を發し。誅戮すべきなり。さらに親疎愛憎を以て政事をみだるべからず。義直ョ宣ョ房がごとき年猶幼冲なれば。我いとおしみ尤ふかし。よろしく愛憐したまへと仰けるに。御所も御淚にくれて。かしこまらせたまふ。そのゝち義直。ョ宣。ョ房の三公達を召て。汝等は大樹の命にしたがひ。何事にも心いれて服事すべしと命じたまふ。三公達欷歔して退かる。又この頃土井大炊頭利勝も。日夜看侍し奉りしかば。しばしば御遺命を蒙る。その中に近年鐵炮を以て先手とし。その次弓。其次鑓。其次騎馬と定れども。必しも定例にもなすべからず。銃弓を以て先手。その次騎馬たるべし。鑓は右とも左とも。ときに應じて一所にあつめ。奉行を置て指揮せしむべし。我沒後此事を聞え上べしとの御事なりしとぞ。この日松平陸奥守政宗。駿府を辭して江戶に赴く。高雄法身院より御祈の卷數をさゝぐ。(國師日記。ェ永系圖。東武實錄。武コ大成記。貞享書上。)
○五日富士淺間の社にて。御祈の爲大般若轉讀せしめらる。大御所御病牀へ松倉豐後守重政。市橋下總守長勝。桑山左衛門佐一直。堀丹後守直寄等をめして。去年大坂の戰功を御稱美大方ならず。長勝一直に一万石給ふべし。重政直寄に五千石づゝ加恩給ふべしと仰下され。别所孫次カ某をも召出て。去年大和口の戰功を御感あり。御勘氣ゆるされ。新に采邑二千五百石給ふ。また夏目長右衛門信次。杢左衛門吉次兄弟を召て。汝等父吉信三方原に於て忠死す。我思ふまゝに天下を平均し。四海昇平に歸せしむる事。今思ふに吉信忠死の功によるなり。汝等今諸國に漂泊する事。尤ひが事といふべしとて。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝もて。この兄弟御所に申て御家人に加へ。采邑を賜ふべしと仰下さる。この輩皆感泣して退く。又近習に候せし猶村孫七カ某にも。采邑二千石の外别に五百石加へ。小姓組に入番せしめらる。阿部茂右衛門正勝も御側まで召て。年頃の勤功を稱したまひ。御手づから金一枚たまひ。手鷹師神谷小作直次。御自書の御K印を給ふ。神保八カ左衛門長利二子彌兵衛長政。渡邊半兵衛眞綱二子八カ右衛門勝綱。津田小平次秀政養子平七カ正重十七歲。御病中に初見し奉る。酒井雅樂頭忠世も御病床にて。酸漿の茶入をたまふ。淺野但馬守長晟にも玉堂の茶入をたまふ。これは先に父彈正少弼長政が獻ぜし所とぞ。藤堂和泉守高虎御病中看侍し。年來忠功御感スの御ものがたりどもあり。仰により宗門を天台に改む。(國師日記。武コ編年集成。家譜。貞享書上。ェ永系圖。)
○六日御所には此程御看侍有て。猶も御心をなやまされ。伊勢。春日。八幡へ御立願あり。近日奉幣の御使立らるべしと命ぜらる。又搶緕尅カ應幷に了的。廓山。駿府へ參り。三州より大樹寺もまいる。冷泉中納言爲滿卿。山科中將言獅熄x府に滯留す。(國師日記。)
○八日大御所御けしき彌重くわたらせたまふ。松平筑前守利常。島津陸奥守家久。細川忠興入道三齋等を御病牀にめし。御遺物とて各刀劔を給ふ。この日御祈のため大僧正天海。淺間の社にて大般若轉讀す。御所の御沙汰によりてなり。(貞享書上。舜舊記。)
○十二日南都諸寺より御祈の卷數參る。(國師日記。)
○十四日福島左衛門大夫正則御病牀にていとま賜ひ。兩三年も在國して休息すべしと面命あり。正則淚に咽び御請に及ばず。此日P名十右衛門政勝死して。其子源五カC貞家をつぐ。(武コ編年集成。ェ永系圖。)
○十五日神龍院梵舜をめして御所御對面。神道佛法の事御垂問あり。大御所は都筑久大夫景春をめし。三池の御刀を授けられ。罪人を試むべしと令せらる。景春やがて罪人を試て立かへり。切味尤速なる名劔なりとて捧しをとらせ給ひ。二三度振まはし給ひ。我此劔を以て。永く子孫を鎭護すべしと仰られ。御けしきことにうるはしかりしとぞ。(坂上地院日記。舜舊記。武コ編年集成。)
○十六日大御所御大漸の後。尊躰をば神式を以て久能山へ納めたてまつるべき旨令せらる。神龍院梵舜議定する所なり。けふは御病躰彌つかれそはせ給ひ。御湯などもけしきばかり奉る御さまなれば。上下愁歎かぎりなし。大御所御病床に榊原大內記照久を近くめし。久能山御廟地の事つばらに命ぜられ。汝幼童の時より常に心いれておこたらず近侍し。且魚菜の新物を献ずる事絕ず。我死すとも汝が祭奠をこゝろよくうけんとす。東國の諸大名は多く普代の族なれば。心おかるゝ事もなし。西國鎭護のため神像を西に面して安置し。汝祭主たるべし。社僧四人を置て其役をとらしむべし。そのため祭田五千石を宛行ふべしと面命あり。照久には别に采邑を加て千石を賜ふ。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信を以て。この御遺言を御所の御方へも仰進らせられ。照久を御懇に召つかはるべき御旨をもつたへしめらる。(舜舊記。國師日記。坂上地院日記。家譜。)
○十七日巳刻(國師日記。舜舊記による。)大御所駿城の正寢に薨じ給ふ。台壽七十五。御遺命により夜中尊躰を久能山にうつしたてまつる。本多上野介正純。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰朝四人靈柩に供奉し。御所御名代として土井大炊頭利勝。宰相義直卿の名代成P隼人正正成。宰相ョ宣卿名代安藤帶刀直次。少將ョ房朝臣名代中山備前守信吉のみ御跡より供奉す。其他は山に登る事を禁ぜらる。金地院崇傳。大僧正天海。神龍院梵舜はこと更に供奉して事をとる。町奉行彥坂九兵衛光正。K柳壽學。大工中井大和守正次。先達て山にのぼり假殿を經營す。是夜微雨そゝぐ。(國師日記。家忠日記。舜舊記。)
○十八日今度御廟地神儀を以て營造せらるゝにより。神龍院梵舜その事をとる。こゝに於て本多上野介正純。土井大炊頭利勝。成P隼人正正成。安藤帶刀直次。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰朝等會議し。夜中兆域をいそぎ經營す。(舜舊記。)
○十九日假殿經營成る。其制は假殿三間四方。鳥居。井垣。燈爐二を置。左右に𥿻幕を張。𥿻布を以て筵道とし。假殿より廿五間が間。𥿻布廿二帖。筵道十端を用ゆ。今日の御行裝は旌旗一對。土方小十カ某。一柳治左衛門某。次に戟は大久保新八カ康村。弟は土屋八左衛門某。次に持弓五張。植村與三右衛門某。次に鐵炮五挺。柳川杢某。此輩皆素襖を着す。次に御鎧。久貝忠左衛門正俊。次に御劔。本多甲斐守政朝。次に御馬三疋。次に素襖士五人。次に同朋二人。その裝束を着す。次に酒井左衛門尉家次。本多出羽守正勝。次に吉田左兵衛佐兼治。幸コ井三位某。次に綱頭阿部作十カ重次。次に布衣侍二人。次に松平紀伊守家信。松平豐後守某。次に翳一對。次に御輿。舁夫廿四人。榊原大內記照久。酒井阿波守忠行二人左右にあり。次に御香爐。護身劔。次に御所御轅にて從ひ給ふ。山大藏少輔幸成。土井大炊頭利勝。大澤兵部大輔基宥。畠山主計頭某從ふ。次に松平豐前守勝政。松平忠左衛門勝隆。次に左右に持弓百張。次に鐵炮百挺。次に調度懸。次に鑓二百ネ。次に安部彌一カ信盛。安藤右京進重長。水野遠江守忠直後押す。諸大夫以上は皆束帶之。御迁座の時灯明悉く消し。惣て喧騷を禁じ。御先に散米。次に御鏡。次に御幣は大內記照久是をもち。鈴は梵舜是をならす。次に靈柩。烏帽子上下の士供奉す。次に弓。次に矢。次に楯。次に鉾なり。御迁座の式終りて御內陣に入奉らんとて。先御鏡を梵舜取て散米し。太麻をとりて祓ひして御內陣に納め。次に神供一膳。後菜六膳。つぎに卅六味。ことごとく精饌なり。つぎに机を杌子にたて神供を備ふる事照久是を勤む。次に三種の加持。つぎに三種太祓百二十座。梵舜つかふまつり太祝の言を高くよむ。謹白。元和二年卯月十九日亥時撰定天吉日良辰乎。太政大臣從一位源朝臣公乃御形像乎。駿州有度郡久能乃奉葬高嶺仁。備御神供後菜乎。此狀乎安介久鎭坐弖。天下靜謐彌繁昌長久乃基乎守利坐與。恐美恐美毛奉申。辭别申佐久。自然參集中仁。不心不淨乃者在止毛。御廣幾御心惠乎以天。守護幸給倍止。恐美恐美毛申。つぎに二拜。つぎに拍手。つぎに退下。つぎに奉幣兩段再拜。これみな梵舜儀注を治定し。照久に傳授せし所なりとぞ。つぎに諸老臣參拜す。(舜舊記。御鎭座記。御鎭座記に是を四月廿七日にするは誤なり。いまは舜舊記による。)
○廿日諸老臣幷金地院崇傳等。久能山より駿城へかへる。山にては神龍院梵舜神供を奉り。太麻祓つかふまつる。たゞし幣の儀はなし。(國師日記。舜舊記。)
○廿一日神供昨日のごとし。ョ宣卿生母まんの局。落飾ありて養珠院尼と改らる。勝の局は英勝院と改め。夏の局はC雲院とあらたむ。(舜舊記。國師日記。ェ永系圖。家譜。)
○廿二日御所久能山神廟へうちうち詣給ふ。義直ョ宣兩卿。ョ房朝臣もしたがはる。御所御哀戚の御さま。見るもの感泣せざるはなし。御本社いそぎ搆造つかふまつるべき旨を。中井大和守正次に面命せらる。御本社は大明神造り。千木堅魚木を備ふべし。次に拜殿。次に巫女屋。次に神供所。次に舞殿。次に御廐。次にあぜくら。次に神籬。次に樓門を建べし。新に杣木を曳べしとて。杣入の事を命ぜらる。この搆造成功するまで。衆人參拜を禁ずべしとて。山下に番所を設け是を警衛すべしと命ぜらる。御かへさ榊原大內記照久が家に立よらせられ御懇詞を給ふ。御所は今日直に駿府を出たゝせたまひ。C水までもわたらせ給はんとの御あらましなりしが。のべられて廿四日と定らる。(國師日記。舜舊記。家譜。駿府政事錄。脫漏東武實錄廿五日久能山御參詣とするは誤なり。今は國師日記舜舊記に從ふ。)
○廿四日御所駿府を御首途あり。土井大炊頭利勝は御先に發行す。日野大納言輝資入道唯心江戶へ參向して。折々御談伴たるべしと命ぜられ。駿府より江戶へ赴く。(國師日記。家譜。)
○廿五日駿府に近侍せし女房達久能山に參詣す。神龍院梵舜山より駿府に赴く。金地院崇傳等も御跡より江戶へまかるべき旨命ぜらる。(舜舊記。國師日記)
○廿六日土井大炊頭利勝より。神龍院梵舜江戶へまいるべき旨の仰をつたふ。金地院崇傳駿府をいでゝ江戶へ赴く。(舜舊記。國師日記。)
○廿七日江戶城へ遷御なる。神龍院梵舜江戶へ赴く。(國師日記。舜舊記。家忠日記。武コ編年集成等の書に。廿五日久能山御參詣。廿七日駿府御出輿。廿九日江戶遷御とするはあやまり之。)
◎この月江戶搶緕宸ノも。靈廟を造營せられ。僧徒法謚を奉りて。安國院殿コ蓮社崇譽道和大居士と稱し奉る。永井右近大夫直勝江戶にまいり拜謁す。大坂兩度の戰功を稱したまひ。上野小幡にて一萬石如恩たまふ。大御所御遺物とて井伊掃部頭直孝は銀一萬兩たまはる。藤堂和泉守高虎は四聖坊肩付たまはり。又成P隼人正正成。大坂軍中用ひ給ひし則重の御わきざしを御所より給ふ。津田平七カ正重も御遺命により。江戶へ參り初見の禮をとる。鷹師蜂屋五カ兵衞正成。御遺物とて金時服幷に磁の鉢を給ふ。醫官吉田意安宗皓に紫銅獅子香爐。螺鈿沈箱。時服三。金五枚給ひ。休暇をたまはり上洛す。朽木信濃守元綱は入道して牧齋と改め。山口駿河守直友も髮そりすてゝ惠論とあらたむ。津田小平次秀政も落髮して。興庵と改めて京に退隱す。春田猪之助直次は八歲なりしが。剃髮して江戶に參りしかば。見參ゆりて束髮を命ぜらる。高井助兵衛貞重は遠江宰相の御かたにつけらる。久能山の神廟本地堂。神樂堂。御供所。樓門。鳥居等は宰相ョ宣卿より搆造せらる。駿府寳庫の御寳物は。尾張遠江水戶三公達幷にその御生母及び阿茶局にわかちたまふ。其餘金銀數萬兩久能の御庫に收められ。金二千兩づゝ三公達の御生母に下さる。阿茶の局C雲院は江戶へ參り。阿茶局には竹橋の內にて宅地下され。中野村にて厨料三百石給ひ。C雲院にも同所にて五百石給ふ。この程國々の大小名いづれも江戶にめしつどへられ。其動靜をも御糺明ありて。嚴重の法令をも仰出さるゝかと。おのがじし思ひまうけたるに。土井大炊頭利勝仰を傳へ。駿府より一同に暇給はり就封せしめられ。更に常にかはりたる法令も仰下されず。諸國おしなべて當代御ェ弘の御政事を感スせしとぞ。(御年譜。元和年錄。貞享書上。家譜。東武實錄。)
○五月朔日金地院崇傳江戶に參る。(國師日記。)
○二日菊亭大納言經季卿。中院大納言通村卿。勅使として駿府に參向あり。江戶にては金地院崇傳まうのぼり拜謁す。(御鎭座記。國師日記。)
○三日本多上野介正純。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。金地院崇傳を。神龍院梵舜駿河町の旅宿へつかはされ。御神號の事を議せられ。權現大明神と神位の甲乙優劣をとはせらる。梵舜承り。權現大明神の尊號。更に優劣なしといへども。權現は陰陽兩尊の神號とす。大相國の御事は尤大明神の尊號先當れり。大明神には供御にも魚鳥を用ゆべきなりと答へ奉る。(舜舊記。今按するに。梵舜が傳るところは吉田卜部の神道にて。旣に豐國も大明神を號せしむるは。梵舜等が議する所なり。ゆへに今我烈祖をも大明神の追號を以て祭祀せんとす。しかれどもかねて烈祖は天海大僧正を信任したまひ。天台宗山王神道を御歸依なりしかば。御沒前旣に天海と議定し給ひ。我万歲の後はかならず大權現と稱し。永く國家を鎭護せんと仰置れし事なれば。天海は大權現の議を專ら主張し。梵舜が議は終に行はれざりしなるべし。旣に此とき天海と梵舜異論の事ども崇傳が記に散見せり。)
○四日菊亭大納言經季卿。中院大納言通村卿。久能の山廟に參拜す。江戶にては搶緕宸ノて七々日の御法會行はる。よて諸老臣ならびに金地院崇傳等參拜す。松平陸奥守政宗江戶を辭して就封す。これよりさき上總介忠輝朝臣へは。初七日の御忌はてば。三島より上州藤岡まで歸り。百か日をへてのち江戶へ參覲有べき旨仰つかはされしかば。朝臣豆州三島を出て。藤岡に赴かるといへども。この朝臣性質暴獅ノをはせば。いかなる思慮あらんもはかりがたしとて。松平四カ重則。近藤平右衛門秀用を藤岡の旅館へつかはされ。さきに百か日をへて江戶へ出府有べき旨仰下さるゝといへども。あまり遲引せん事然るべからず。近日その地を發し。微行して江戶淺草の别業へ赴き。命を待べしと仰下され。又近國のともがらをして川の關を守らせ。その上猶も府內騷擾の事聞えば。いそぎ江城要阨の地を警衛すべしと令せらる。(御鎭座記。國師日記。貞享書上。武コ編年集成。)
○五日金地院崇傳へ厨米三百俵下さる。(國師日記。)
○十一日令せられしは。大かけ。われ錢。形なし。ころ錢。新錢。鉛錢。この六錢の外は。官廩にも收用せらるれば民間にて善惡をえらばず。金一方に錢壹貫文をあてゝ。通用賣買すべし。もしこの六錢の外をえらび。取捨するもの有か。又この六錢をおして用ゆるものあらば。查撿してその面に烙印せしむべしとなり。また諸大名へ。老臣及伊丹喜之助康勝よりつたへしは。制禁の惡錢諸國道路におゐて米豆賣買すれば。往還の旅人これを患困す。よてこたび御料の地にては。米豆を官廩より出し賣ひさがしめ。其價にびた錢を以て官廩に納むれば諸國の私領に於ても。時價を以て米豆をうらせ。びた錢にかへて領主の廩に收むべし。なを高室金兵衛昌成。藤川庄次カ重勝より令すべしとなり。この日大御所尊靈を神にいつきまつらせ給へば。禁中に於て觸穢なし。よて加茂競馬深草祭も例のごとく。宣命使を立らるゝ旨。京職板倉伊賀守勝重より注進す。(東武實錄。國師日記。)
○十二日金地院崇傳。神龍院梵舜まうのぼり拜謁す。(國師日記。)
○十七日搶緕宸ノて今日より晦日まで御法會あり。神にいははせたまふにより。御法事はうちうちの事なれば。諸大名より香資獻ずる事も禁ぜられ。武藏一國の諸寺は。この御法會に會集諷經する事をゆるさる。京都の寺院は諷經に參る事をとゞめらる。御所御詣あり。終日千人施行あり。一人に米一升づゝ下さる。(國師日記。舜舊記。)
○十八日武藏國中諸宗の僧侶。搶緕宸フ御法會につどひ諷經す。ひとり日蓮派の僧侶のみ别にこひ出けるは。大御所搶緕宸ノ御葬禮行はるゝ時は。我宗派のともがらやむ事を得ず諷經にまかるべしといへども。神靈駿州久能山にあがめまつり給はんには。我徒に於て久能に登山して。諷經つかふまつる事ゆるし給はらんやとなり。これかの宗僧等淨土宗の寺に參り。誦經つかふまつらん事を快とせざるが故なり。よてその宗門の僧侶等こふ所の如きは。近年に神靈下野國日光山にうつりまし給ふべければ。その時日光に登山して諷經すべしと令せらる。(元和年錄。)
○廿一日本多上野介正純上野國佐野一圓二萬石加へ給ふ。原封下野宇都宮に合て五萬七千石餘になさる。其上父佐渡守正信に屬したる三州高橋士七十騎をも。正純が與力とし。根來組二百人をも歩行同心につけられ。この給料とて别に一萬三千石餘を給ふ。櫻井庄之助勝成江戶にまいり書院番にいる。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。大御所御遺命のよし聞えあぐるによりてなり。駿城に奉仕せる諸士みな江戶に參るによて。神田臺下の川を吉祥寺の際へ堀あらため。川邊の堤防を平均し。かの諸士の宅地とせられんため經營あり。(國師日記。武コ編年集成。今の駿河臺の地是なり。)
○廿六日赤井豐後守忠泰。大和の內にて采邑二千石給ふ。(家譜。)
○廿八日。神龍院梵舜歸洛の暇を給ふ。(舜舊記。)
○廿九日酒井備後守忠利。內藤若狹守C次。山伯耆守忠俊若君の御方に附らる。(紀年錄。)
○晦日搶緕宸フ御法會結願によて御詣あり。この日池田出雲守長常に。御小鎧並金の梨打の御兜を賜ふ。一色左兵衛範勝駿府へ御使につかはさる。又大關土佐守暾C長子彌平次政搗イす。廿六歲なり。(國師日記。東武實錄。)
◎是月成P隼人正正成。竹腰山城守正信。久能山の御宮前に石燈二脚を進獻す。茶道頭中野笑雲駿府より來り拜謁し江戶にて宅地を下さる。(家譜。ェ永系圖。)
○六月五日板倉周防守重宗京より歸りて。直にまうのぼり拜謁す。(國師日記。)
○六日京職板倉伊賀守勝重より甘瓜を驛進す。この日板倉內膳正重昌。上總下總兩國の內にて三千石加恩ありて。五千二百卅石になされ。永井信濃守尙政。武藏近江兩國の內にて四千石加へ五千石になざれ。伊丹喜之助康勝も二千五百石加恩ありて。三千石になさる。この日御忌はてければ御開葷なり。(國師日記。ェ政重修譜。)
○七日阿倍四カ五カ正之弓頭になり。高木九兵衛正次持筒頭になる。この日午刻元老本多佐渡守正信卒す。齡つもりて七十九歲。この正信は豐後國の住人本多助秀といへるが後胤にて。祖父彌八カ正定が時より。C康君に仕へ。父佐渡守正俊は廣忠卿に仕ふ。正信幼より大御所につかへ奉り。所々の御軍に從ふ。永祿六七年の間一向專修の門徒蜂起せし時。正信も弟三彌正重と共に上野の城に立こもりしが。七年二月門徒等罪ゆるされ。降參するに及び。正信國を去て都の方に赴く。松永彈正忠久秀是を見て。コ川家より來る士を見る事少からずといへども。多くは武勇の輩なるに。ひとりこのものが容貌言行。つよからず柔からず。ものごとにかざりなくして又賤からず。尋常ならぬ器なりと感じけるとぞ。其後加賀國に年をへて。ふたゝび召れて三河國にかへる。(一說に。武田亡びて後正信召に應じ。三河へ參らんとする時。織田殿本能寺の事あり。大御所和泉の堺より微行して伊賀路をへ。三河へかへり給ふとき。正信宇治の上林をかたらひ川の上下にかゝり。火たきて守らせければ。光秀が兵どもコ川殿こゝにましますとうたがひしほどに。難なく伊賀路よりかへらせ給ひしといふ。まことにや。)これより後御覺へ大方ならず。常に帷幄の中に近侍し。軍謀密策あづからずといふ事なし。天正十四年五月叙爵して佐渡守と稱す。關東にうつらせ給ひしとき。上野國八幡(家忠日記には相州甘繩。一說に上總八幡。)一万石たまふ。豐臣太閤薨ぜられし後。關原の一戰に及んで。正信がはからふ事少からず。今の御所將軍宣下ましましける時より。其身は關東の執權として。嫡男上野介正純は駿府の執事たり。父子相ならんで天下の權をとる。その年頃の功つもりしかば。大御所しばしば所領加へ給はるべしと仰けるに。正信承り。年頃國恩にうるほひ。家富に至らずといへども貧しからず。正信若かりし時ども。弓箭打物とつて高名もせず。まして犬馬の齡旣にかたぶけり。功名の望更になし。正信に賜はらん加恩の地を以て勇力の士に充行はれ。益天下うごきなき樣にはからはせ給はんにはしかじと固く辭す。數十年の間天下輔弼の元老として。領する國の地わづかに二万二千石に過ず。大御所薨じ給ひ。其年をも超ず世をさりしとぞ。正信男子三人あり。嫡子上野介正純はすでに三万二千石を領し年頃駿府に有て政權をとり。今江戶に參りても執政たる事もとの如し。二男安房守政重加賀國にありて前田が家につかふ。三男大隅守忠純。别に二万八千石を領す。正信當時の耆宿にて。其上大御所常に朋友の如く御優待ありし故。大御所には長者をもてまたせたまひ。何事にも先とひはからせ給ふ。あるとき天下政務のさまを御垂問ありしに。正信一卷の書をしるしてたてまつる。其書の草案は今も本佐錄と題して世につたふ。(年錄。東武實錄。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○十日板倉內膳正重昌幷に儒臣林永喜信澄は。大僧正天海に伴ひ上洛せしめらる。御神號の事京にて議せらるゝによれり。よて歩行士一隊をして。天海を護送せしめらる。(舜舊記。東武實錄。)
○十一日院の御使秋篠彈正忠某參向す。駿府にてつかふまつりし士みな江戶に參る。このほど休暇をたまへば。京坂にても采邑にても。其外何方にもまかり。秋にいたり參府すべしと命ぜらる。この輩が宅地給はんとて。神田川を堀替て地所を經營せらるため。關東八州の役天を催促あり。(國師日記。)
○十三日播磨國姬路城主松平武藏守利隆卒す。翌日酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝御使して。其子新太カに香銀百枚をたまふ。牧野傳藏成純慰問の御使す。(東武實錄。ェ永系圖。)
○十四日右筆曾我又左衛門尙祐。金地院崇傳が旅宿にいたり。濃毘數般へ渡海御朱印の書法を議す。(國師日記。)
○十六日嘉定の御祝例の如し。(舜舊記。)
○十八日播磨國姬路城主松平武藏守利隆が子新太カに。遺領三十二万石を襲しむ。時に八歲。この利隆は宰相輝政の嫡男。慶長五年父ともに會津陣に供奉し。十年三月廿六日正五位下に叙し。同年四月廿一日從四位下侍從に叙任し。右衛門督と稱す。この年御所榊原式部大輔康政が女を養はせ給ひ。利隆がもとに降嫁し給ふ。此時江の御刀。左文字の御脇差。御馬二疋たまふ。十二年利隆始て關東に參る。六月二日御家號をゆるされ武藏守と稱す。長光の御太刀。國光の御刀。安吉の御脇差。その外鷹。馬。銀。時服等若干給はり。其上歸國の折から鎌倉一覽すべしとて。鵜殿兵庫助長秀に道しるべを仰付らる。十四年男子生れしかば。牧野豐前守信成御使して。江の御刀。信國の御脇差及び。生子にも時服銀を給ひ。北方にも湯沐の邑千石たまひぬ。十八年正月江戶に侍ひしに。父宰相大病のよし聞召。看侍の暇給ふとて吉岡助光の御刀を下さる。父卒して後六月六日。いまの封地三十二萬石給はる。此とき弟左衞門督忠繼に所領三郡を分ち給はり。大坂の兵起るに及んで。利隆は江戶に侍りしに。御所の仰承り。夜を日についで封地にはせかへり。軍勢催し攝津の國にのぼり。手のもの等に尼が崎の城を守らせ。我身は大坂に在て軍す。十二月廿八日其賞とて銀三千兩給ふ。ふたゝび軍おこりし時首六百廿一切て奉りしが。この十三日病もてうせぬるなり。齡やうやく卅三歲なり。(武家補任。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○廿日神龍院梵舜歸洛の暇たまひ。銀三十枚。時服四下さる。(舜舊記。)
○廿六日細川玄蕃頭興元に常陸國谷田郡の地六千石加へられ。一萬六千石になさる。去年大坂の軍功によてなり。上總介忠輝朝臣の臣花井主水正義雄。先につみ蒙り松平丹波守康長預りて常陸國にありしが。けふ首刎らる。又同家士安西右馬允もおのが命をおしみ。身のをき所なきまゝに主の罪訴ふる事。倫理にそむけりとて頭を刎らる。(國師日記。藩翰譜。)
○廿七日能勢新兵衛ョ久死す。子なくして家絕ゆ。(家譜。)
○廿八日松平九カ右衛門忠利大番頭命ぜらる。(重修譜見えす。)是より先大番九隊なりしをこの時新隊を加へ十隊と定めらる。この日村越內藏助某故ありて士籍を削らる。(元ェ日記。家譜。)
◎是月軍役の定制を令せらる。五百石銃一挺。鑓三ネ。(持鑓も此中なり。下皆同じ。)千石銃二挺。弓一張。鑓五ネ。騎士一人。二千石。銃三挺。弓二張。鑓十ネ。騎士三人。三千石銃五挺。弓三張。籏一本。鑓十五ネ。騎士四人。四千石銃六挺。弓四張。籏一本。鑓二十ネ。騎士六人。五千石銃十挺。弓五張。鑓廿五ネ。籏二本。騎士七人。一萬石銃二十挺。弓十張。籏三本。鑓五十ネ。騎士十四人たるべしとなり。又安藤彌兵衛次吉。佐渡國を主領すべしと命らる。(東武實錄。佐渡年代記。) 
卷四十三 / 元和二年七月に始り九月に終る 

 

○七月朔日朝賀例のごとし。(國師日記。)
○五日上野介忠輝朝臣淺草の别業(編年搶緕專ヲとす。今藩翰譜に從ふ。)に。近藤平右衛門秀用。神尾刑部少輔守世御使して。大御所御遺命なれば。伊勢國朝熊にうつるべしと仰下さる。朝臣承はられ。臣何の異心候てか。かく遠嫡せらるべきおぼえなし。罪あらんにはたゞこのまゝに首をはねらるべきなりと答らる。兩使立かへりこの旨をかくと聞え上しかば。ゆめゆめしかるべからず。こはしばしその罪を鳴らし。懲しめ給ふべき爲のみなれば。御遺命のごとく朝熊に赴かるべしと再び仰下さる。朝臣この上はいなみ奉るべきにあらずとて。終に配所に赴くべきにぞ定まりける。朝臣に大御所より賜はりたる相國寺の茶入。波およぎといふ信國の名劔は。天下の重器なれば。配所へ携へん事はばかり少からず。これはかへし納め奉りてんと願はれしが。これも大御所賜はる所なれば。いづこまでも身をはれたずたづさふべきなりとてかへさせ給へば。朝臣もせんかたなく。この兩器は土井大炊頭利勝にあづけらる。よて越後國高田城本丸の在番は。酒井左衛門尉家次。二丸は牧野駿河守忠成。堀丹後守直寄。三丸は眞田伊豆守信之。仙石兵部大輔忠政。信濃國河中島は小笠原右近大夫忠實。又朝臣の臣松平大隅守重勝が三條の城は。保科肥後守正光。山田隼人某が長岡の城は諏訪因幡守ョ水。松平筑後守信直が糸魚川の城は溝口伯耆守宣勝警衛し。國務は左衛門尉家次にさしつぎて。使番佐久間河內守政實。山城宮內少輔忠久。山田十大夫重利。山本新五左衛門重成。田甚右衛門尹松。村P左馬助重治。阿部四カ五カ正之を監使とせられ。御印の條約を下さる。其文にいふ。喧嘩口論停禁せらる。違犯のものは双方斬罪たるべし。もし荷擔せしむるものは其罪本人より重かるべし。押買狼籍を禁ぜらる。竹木伐採べからず。在番中人を返す事停禁ぜらる。其地の者は其所に留置べし。たゞし主從のはからひにまかせ覺悟すべし。未進の償又は年期にめしつかふ奴婢の事。ことごとく棄捐せしむれば。其地に留置べしとなり。又老臣よりの下知狀には。夏稅は先納たるべし。代官。郡奉行。町奉行。前規のまゝたるべし。弓銃玉藥長ネの外。武具は城に殘し置べし。各地へ高札を立べし。朱印賜はりし輩藩士の居宅は。在番の輩に引渡すべし。屏戶障子等を取散ずまじとなり。此時高木九兵衛正次も越後に赴き。國務を沙汰すべしと命ぜらる。(東武實錄。藩翰譜。武コ編年集成。制度留。ェ永系圖。)
○六日駿府勤仕の諸士みな束髮せしめらる。(國師日記。)
○八日蜂屋九カ左衛門善成死ければ。其子九カ次カ善遠家を繼しむ。(家譜。)
○十一日內藤右衛門正重。柳生又右衛門宗矩仙臺へ御使し。忠輝朝臣配流の事を松平陸奥守政宗へ仰下さる。(貞享書上。)
○十二日(藩譜には八月十二日とす。)上野介忠輝朝臣今日江戶を發し。勢州におもむかるゝとて。こよひは品川の妙國寺に一宿あり。陪從の臣ば正木左京亮。千本掃部。久世左近。長谷川權左衛門。近藤十カ左衛門。富永九兵衛。戶田采女。山田大藏。戶田角彌。明石志摩介。河村長右衛門。淺井左京。旅中護送のため近藤平右衛門秀用。中山勘解由照守つかはさる。(元和年錄。藩翰譜。武コ編年集成。家譜。)
○十四日(藩譜八月とす。)上總介忠輝朝臣小田原驛に於て剃髮せらる。從臣も皆髮そりすてゝ入道す。松平大隅守重勝は越後におもむき圖牒を查撿し。監使に引渡すべき旨命ぜられ。越州におもむく。(武コ編年集成。)
○廿日上總介忠輝朝臣は。驛々關々にて江戶よりの御下知なりとて。從者等兩三人づゝ抑留せられしかば。わづかに五六人したがへ。勢州朝熊の山に入て。金剛證寺を住居とせらる。(藩翰譜。)
○廿六日伊丹彌五右衛門勝忠大番にいり。百石加へて四百石になさる。(家譜。)
○廿七日上總介忠輝朝臣家士安西兵部正重召出され。本領五百石給ひ大番に入らる。これは同藩花井主水正義雄訴論の事ありて。先に對决せしめられたるに。義雄非據に决したるがゆへなり。(家譜。)
○廿八日松平伊豫守忠昌信濃國川中島の城主とせられ。(今は松代といふ。)十二万石になさる。堀丹後守直寄は信州飯山より。越後國長岡の城主とせられ。三万石加へて八万石になさる。この日奥州仙臺城大震し。城壁樓櫓ことごとく破損す。(國師日記。貞享書上。)
◎この月令せらるゝは。年貢米今年より米三斗七升を一俵とさだめ。欠米口米ともに一升づつをくはへ上納すべし。錢は百文に口錢三文づゝを加へ納むべし。この條公料私領ともにかたく守るべしとなり。牧野駿河守忠成は上州太胡より。越後長嶺にうつり五万石給ひ。新に城築くべしと命ぜらる。酒井備後守忠利に武州にて七千石加へて二万七千石になされ。本多三彌正重に下總の相馬にて加恩たまひ一万石になさる。畠山長門守義眞駿府より來りつかへ。山甚左衛門正次始て奉仕す。大工頭片山三七カ國家この四月廿七日頓死す。よて廩米三百俵は收公せられしが。その父源右衛門國次が懇願により。甥中西C十カ國久に其祀を奉ぜしめ。國次が養老料廩米百五十俵を給ふ。田中筑後守忠政が請により。其封地筑州山本郡善導寺の地に。大御所の靈廟を經營し。祭田五百石よせ奉る事をゆるさる。又小野次カ右衛門忠明。石川市左衛門利賢。山角又兵衛正勝。中山勘解由照守。伊東新十カ弘祐等門とざし家にこもらしめらる。後に市左衛門利勝は士籍を削らる。こは次カ右衛門忠明世にならびなき擊劔の達者にて。御所にも劔法を傳へ奉りしほどに。土井大炊頭利勝。山伯耆守忠俊等も皆其徒弟なり。しかのみならず其身慶長五年關原一戰の時も山道の御供し。信州上田にて眞田安房守昌幸が城攻られし時も。一番に先がけせし七本鑓の一人なり。大坂の軍にも道具奉行をつとめしかば。かたがた武功にほこり同僚を輕侮し。常に大言を吐ゆへに。衆人かたむけにくまぬ者なし。或時御家人等會集の中にて。大坂戰中に怯弱の擧動せし者ありといひつるを。同僚等聞とがめ中山勘解由照守。伊東新十カ弘祐。山角又兵衛正勝。石川市左衛門利賢等大に怒り訴狀を老臣に呈し。又は神田橋にならせたまふ御道に於て御輿近く推參して訴狀をさゝげしかども。旣徃の事なればとて其儘すて置れしかば。此輩益憤り。十五日諸大名拜謁の席へ訴狀をさゝぐ。よて棄おかれ難しといへども。かばかりの事表立しく會議せらるべきにもあらずとて。双方を厨所に召决せらる。其時小野が申旨により。榊原家士寺島斧之亟をめして其時のさまをとはせられしに。合戰の最中K馬にのり猪の指物さしたるもの。榊原が備の中へ乘込たり。其名を尋るに次カ右衛門なりと答ふ。これは次カ右衛門が子又助新に買たる大馬に乘てその日出軍せしかば。父次カ右衞門戰中にて新に買たる大馬にはのらぬ者ぞと教訓し。みづからの馬に子の又助をのらしめ其身彼大馬に乘出けるに。果して其馬口つよく兩度馳出て。他の陣へ乘入しなりと聞えしかば。其まゝ御所には奥へ入らせられ。双方ともにかくは命ぜられたりとぞ。(東武實錄。ェ永系圖。家譜。)
○八月朔日茶道中野笑雲子了雲初見し奉る。(ェ永系圖。)
○五日上總介忠輝朝臣は勢州朝熊山金剛證寺に閑居せられしが。此所は殺生禁斷の法界にて。魚鳥の肉を喰ふ事を得ざれば。あまりいたはしと近藤平右衛門秀用が聞え上しかば。その山麓妙光庵にうつされ。九鬼長門守守隆に警衛せしめらる。(元和年錄。藩翰譜。)
○八日唐船互市幷天主教の禁を令せらる。(令條記。)
○九日大久保權右衛門忠爲死して。其子彌五カ正信つぐ。(家譜。)
○十二日渥美又右衛門親時死して。子又右衛門守時つぐ。(家譜。)
○十八日大番頭水野備後守分長に江州にて二千石くはへたまひ。一万二千石になさる。(東武實錄。)
○二十日さきにョ宣卿に附られたる高井助兵衛貞重が子市右衛門貞Cに父が舊地二百石たまふ。父貞重にはョ宣卿より。新に所領給ひし故なり。けふ令せらるゝは。伊祇利須國より渡海の商船は肥前國平戶にて互市すべし。その他に着岸をゆるさず。されども洋中風潮の變にあふときは。本邦いづ方の地に着すとも異議有べからず。尤諸役免除せしむべし。船中に積のせし資財は。目錄に記し召寄らるべし。押買狼藉すべからず。其國人病死するといへども荷物違失すべからず。一船の商人等罪を犯すものあらば。其國法によて船主これをはからふべしとなり。伊達の家士澤將監。便船にて堺津より南蠻へおもむかしむ。其請によてなり。遠江宰相ョ宣卿へ附られたる小笠原次右衛門正信に。遠州にて采邑千石の御朱印を下さる。(ェ政重修譜。東武實錄。貞享書上。家譜。)
○廿一日交趾商船へ御朱印を給ふ。其文にいふ。交趾國より渡海の商船。洋中風濤の變にあはゞ。本邦何地方に着岸すといへども。いさゝか疎畧あるべからずとなり。(令條記。)
○廿八日江州高島阿彌陀寺。同州佐々木宮别當圓福寺拜謁し奉る。(國師日記。)
○晦日伏見城留守居日下部兵右衛門定好死して。其子五カ八正親つぐ。(家譜。)
◎是月關東諸關へ條約を下さる。白井渡。廐橋。五科。一本。木葛。和田。河股。古河。房川渡。栗橋。關宿。七里渡。府中。神崎。小見川。松戶。市川。すべて定制津梁の外。猥りに行人を渡すべからず。婦女又毁傷のもの。すべていぶかしげなるものは。渡頭に留置江戶へ訴出べし。酒井備後守忠利が券もたらせし者は。このかぎりにあらず。隣ク通行の者は定れる津梁よりわたるべし。婦女または毁傷せるものゝ外は。其地の給主あるひは代官の券をもて渡らしむべし。備後守忠利が券持し者といへども。定れる津梁の外にては。婦女又毁傷あるひはいぶかしげなるもの。一切通行せしむべからず。すべて江戶へおもむく者は查撿加ふべからず。此條件違犯の者あらんには。嚴科に處せらるべしとなり。又酒井雅樂頭忠世。上野大胡伊勢崎にて三万二千石加恩あり。市橋下總守長勝は伯州矢橋より越後三條の城にうつり。一万五千石加へて四万千三百石になる。また山右近興知に五千石給ふ。これは加州の老山城守長知が二子。證人として久しく在府せしなり。小幡勘兵衛景憲三百石加へて五百石になさる。松平豐前守勝隆二千五百石加へて五千石になさる。近藤五左衛門用可先手鐵炮の頭になる。阿倍四カ五カ正之河中島の監使はてゝ歸り謁す。(東武實錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。)
○九月三日大僧正天海京より歸り。まうのぼり拜謁す。(大師行狀。)
○四日板倉伊賀守勝重京より參着す。(國師日記。)
○七日大僧正天海京より御神號の議を承り來りて聞え上る。二條關白昭實公。菊亭右大臣晴季公より勘進する所。東照大權現。日本大權現。威靈大權現。東光大權現のうちを以て。御所思召のゝまに定め給ふべしとの叡慮とぞ聞えける。近日に傳奏の兩卿參向あるべきにより。兩卿に議して定らるべしと仰出さる。(國師日記。)
○九日菊節例のごとし。唐人五官へ交趾渡海の御朱印。高木作右衛門に摩陸國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)
○十三日鳥居土佐守成次を國松君の傳相とせらる。(ェ政重修譜。坂日記。元和年錄等。朝倉筑後守宣正も。同日命ぜらるゝとしるす。今重修譜により宣正は元和七年にかく。)
○十五日書院花畑番士を撰んで。若君へ附られしは。松平C三カ昌長。松平新五左衛門直次。中根傳七カ正成。稻垣藤七カ重太。三枝宗四カ守惠。井上C兵衛政重。秋山三四カ正重。鯰江甚右衛門和甫。宮崎金右衛門時重。神尾內記元勝。酒井五カ助忠知。植村權兵衛直宗。安藤傳十カ定智。玉虫助大夫重茂。高田藤五カ安政。鵜殿新三カ長直。內藤久五カ直政。倉橋三カ五カ政厚。門奈助左衛門重忠。加藤勘右衛門正信。伊達庄兵衛房次。永田四カ三カ直時。水野傳藏近之。中野吉兵衞重弘。小河惣左衛門ョ勝。土屋左門知貞。田村助太カ長衛。戶塚作右衞門忠之。牧助右衛門長重。戶田藤五カ重宗。戶田宗左衛門政重。戶田又久直次。保々長兵衛則貞。山角藤兵衛勝成。菅原左衛門某。河田助兵衛政親。松平采女正吉。大久保右衛門八忠政。佐野外記政成。渡邊忠四カ成綱。曾我彌五八カ俊助。多田所左衛門正信。河村善右衛門重勝。梶川半左衛門分好。渡邊平左衛門重。早川五カ兵衛好勝。本多四カ兵衛學澄。坪內久太カ行定。淺羽孫三カ幸正。遠山C右衛門安次。成P長四カ某。菅沼宗六勝利。柴山甚太カ正信。小澤權之丞忠秋。朝比奈彌一カ泰澄。三枝新九カ守秋。市岡多左衛門定次。伊勢作十カ貞晴。渥美九カ兵衛正勝。菅沼作十カ定則。此輩六十人を四組として十番切の間(曾我五カ時宗が十番切を壁に畵がきし間なり。)に勤仕す。世に十番切の番士といふ。また大番士をえらび國松君に附られしは。松平作左衛門忠勝。本多四カ左衛門貞久。筧十左衛門某。河野庄右衛門照辰。細井金大夫勝元。松下忠兵衛友勝。戶田藤右衛門正次。戶田六兵衛吉政。小林左次兵衛重勝。櫻井市右衛門信利。伊丹彌五右衛門勝忠。小笠原與左衛門貞利。勝屋勘左衛門正次。朝比奈六左衛門昌行。飯河善右衛門方好。鈴木權兵衛重弘。雨宮鵜右衛門重次。米津才兵衛重勝。高尾勘右衛門忠正。森川助右衛門長俊。森川善大夫重次。三枝C右衛門吉勝。桑島惣十カ某。秋山伊兵衛正勝。秋山市右衛門近憲。富永彌二右衛門直信。秋山太カ兵衛某。飯塚半次カ忠重。大久保茂左衛門忠吉。三宅小十カ勝重。坂本權十カ貞俊。大井長右衛門正義。木C左衛門信生。山上長兵衛忠勝。關彌右衛門吉政。中根五兵衛正次。牛込三右衛門俊重。逸見市之丞義記。平甚次カ某。江原九カ右衛門生次。高木彌右衛門吉次。松平傳六カ昌信。駒井C兵衛長成。大岡求馬助某。加藤五カ左衛門某。伊藤源兵衛某。長鹽七右衛門某。飯室與兵衛昌繼。川井善兵衛政吉。小林吉大夫正村。都筑三四カ政吉。太田甚九カC政。朝比奈吉兵衛眞照。筒井七カ左衛門重三なり。この日小姓酒井五カ助忠知書院に入番す。(家譜。)
○十七日大僧正天海を西城にめして饗せらる。(大師行狀。)
○十八日神田邊の經營成功しければ。駿府より來りたる諸士宅地を賜ふ。この日小栗又一忠政死て。その子庄次カ政信家づぎ。二子仁右衛門信由へ采邑五百五十石分ら賜ふ。(國師日記。ェ永系圖。)
○十九日松井與兵衛宗直死して。その三子掃部宗利家をつぐ。(家譜。)
○廿九日御所第一の姬君は。豐臣右大臣秀ョ公の北方にましましけるが。大坂の城陷りける後は關東に下りましたるを。今度本多美濃守忠政が長子中務大輔忠刻へ降嫁せらるべきに定まりぬ。(本多家譜に七月の事とす。然れども國師日記に九月とす。今これに從ふ。元和年錄も同じ。)これは忠政が妻は岡崎三カ君の御女なり。此北方先に大御所御病のさまうかゞはんとて駿府におはしけるとき。御病牀にまいり懇に此事こはせ給ひ御ゆるしありとぞ。さてその御輿添は永井信濃守尙政。山大藏少輔幸成。貝桶は安藤對馬守重信。本多がもとにて御輿を請取しは。松下河內。長坂太カ左衛門なり。佐野傳右衛門正長。本多新五兵衛政重。染木八右衛門正信。星田次カ左衛門正種。長田六左衛門重政は姬君につけられ。かの家につかはさる。姬君の湯沐の邑とて别に十万石給ふ。こゝに石見國津和野城主坂崎出羽守孝親。この姬君勢州桑名に出たゝせたまふを待とりて。御輿を奪ひ進らせんとするの聞えあり。柳生又右衛門宗矩をはじめ。御使してうちうちなだめ仰らるゝ旨ありといへども。孝親は對面もせず塗籠に引こもりて。家士カ等等も戒具を用意し。何となく其さまあやしげなり。關東にありあふ諸大名この事聞傳へ。すは事こそ出來たれと兵を集る事大かたならず。よて執政の人々。かくては天下の騷動を引いだすべきかと大におどろき。其家人等に奉書を下し。汝が主の擧動全く狂氣のいたす所と見え。君臣の禮を失ふといふべし。しかしながら反逆の例に准じ御沙汰あらんも。なさけなしとあはれみ思召ば。只今にも孝親自殺してはてんには。一族の中をえらび。其祀をば奉ぜしめらるべし。とにもかくにも汝等がはからひによるべきものなりとの事なりしかば。家臣坂崎(東武實錄による。年錄牧野とす。)勘兵衛等相はかり。孝親を自殺せしめ。其首取て進らせたり。誠は孝親を沉醉せしめ。晝寢せしを薙刀取て首を刎しときこえける。(藩翰譜本多上野介正純が傳に引ところによれば。坂崎がおとなのもとに奉書して。汝が主違犯の罪のがるべからず。汝もし主の家絕ざらん事を思はゞ。主にすゝめて自害させよ。さあらんにをひては。主の家のよつぎを立らるべきよし。下知すべしと議しけるとき。正純聞て。此奉書下されん事然るべからず。彼が不臣を罪せんがため。又かの臣に不臣をすゝめたまふ事。天下の下知にあるべきこととも覺へず。かつは天下の政事は。信ならずんばあるべからず。ただ速に軍勢をさしむけて。誅伐あるべきものなり。なんぞいやしくも人臣の教とすべからざる事をのべて。いつはりを行ひ。天下の風俗をみだし給ふべきぞといひしかど。衆議一决せしうへは正純が議は用ひられず。其時に及び正純はこの奉書に連署はすべからずとて。署を加へずと見えき。東武實錄には家臣坂崎勘兵衛。出羽守が庫中に醉臥するをはかり。執政につげ。執政兵士をさしむけ坂崎が宅をかこみ。出羽守自殺すとしるし。元和年錄には柳生又右衛門其家臣牧野勘兵衛にすゝめ。出羽守行水する所を殺害すとも見ゆ。しかれども正純が此論あるを見れば。執政より家臣どもに奉書を下して。自殺をすゝめしを以て是とすべし。)御所聞召出羽が擧動旣に反逆に似たりといへども。彼老臣等が諫により。彼君臣の禮を守り自殺したらんには。别議を以て一族の中をえらび。其家繼せ給ふべしとこそ思召つれ。それに彼家長どもをのが主をたばかり。首刎て献ずる事。無道のいたりといふべし。出羽また君臣の禮を失ふのみならず。をのが家臣の爲に失はれしうへは。今其祀を存ぜしむべきにあらずとて。所領收公せらるべきに定まりしかば。柳生又右衛門宗矩。駒井右京進親直。小笠原市左衛門長房御使として。石州津和野へ下され。所領沒收ありて家財は其弟大膳某にたまはり。家人等は各所へ召預らる。(此事東武實錄には元和三年九月とし。元和日記には三年五月とし。元ェ日記には四年五月とす。しかれどもこの姬君本多が家に御入輿の事。その家譜に二年とし。國師日記にも又二年九月の記に見えたるときは。坂崎が事も其ときの事なれば。二年なるに疑なし。よて本文は元和年錄と藩翰譜をあはせしるす。さても孝親がかゝるひがごと思ひ興せし事も。異說區々にしていづれか是なるをしらずといへども。世にひろく傳へしは。大坂城陷るにをよび。姬君は秀ョ公母子の助命をこはせ給はんとて。五月七日の夕方城を出給ひしを。熊野新宮の住人堀內主水かくと見て御供に侍けるに。孝親道よりむかへて御本陣にをくり進らせたる事は。天元實記大坂聞書等にさだかに見えたり。孝親これを功とし。姬君ををのが妻にたまはらん事懇願せしかど。姬君はいまだ二八の御齡。孝親は五十余のおのこ。しかも孝親が身の分際にて。御聟君とせらるべきにもあらず。本多が家に御再婚あるべきに定まりしかば。孝親ふかく恨み奉り。御入輿のとき御輿奪取て刺違へ死せんとはかりしといふ。元和年錄には孝親大坂の武功にほこり。本多何ばかりの功勞ありて姬君を降嫁せられ。そのうへ粧田十万石を給ふならん。我本多と對决し。姬君をも十万石をも。我にこそ給はらめと憤りしよし聞え。世上すは大事よと騷動に及ぶにより。柳生宗矩御使にまいりしよしにしるす。藩翰譜坂崎が傳の注文には。孝親そのかみ宇喜多が家につかへしころ。常に都へ往來せし事ゆへ。都には知音のもの多しと聞召。御所ひそかに孝親都にのぼり。攝家公達などの中に。姬君御年ごろもにげなからぬをかたらひ。媒せよと仰付られしかば。孝親都にのぼりさりぬべき方をかたらひかへり來て。かくと聞えあげしに。御所御感斜ならず。やがて姬君をかの方へ進らせらるべきに定まりぬ。しかるに姬君此事聞召。今更都にのぼりさる人に面あはせ給ふ事。いかにも叶ふべからずと仰ければ。御所も思召わづらひ。さらば孝親再び都へのぼり。かくと返詞せよと仰付らる。孝親かたがた契りし事。いまいかで變易せらるゝよしの御使つかふまつるべき。たゞいかにもして始の御詞たがはず。姬君を都へのぼせたまへとて。日かずふる間に。姬君思の外に本多が家に御入輿あるべきに定れりと聞て。斯ては孝親再び世の人に面むくべき樣もなし。よしよし御道に待とりて御輿を奪ひ。都にともなひ。契置ける方に渡し進らすべしと申切て。かくふるまひしと見ゆ。これらや實なりなんもしらず。)又この日令せられしは。暄嘩爭論ある時。一切其塲へ出逢べからず。罪人誅戮のとき。役人の外その地へまかるべからず。市街火災のとき。下人といふともかけ集るべからず。武家は親族近緣のものはゆるさるべし。その他知音たりともまかるべからず。違犯の族は忽に嚴科に處せらるべしとなり。(家譜。國師日記。藩翰譜。元和年錄。東武實錄。)
◎この月石川主殿頭忠總は濃州大垣より豐後の日田にうつり。一万石加へて六万石になされ。また山田C大夫重次伏見の町奉行となる。(東武實錄。武コ編年集成。) 
卷四十四 / 元和二年十月に始り十二月に終る 

 

○十月二日松平陸奥守政宗が子美作守忠宗正五位下侍從に叙任す。(武家補任。)
○三日令せられしは。烟草を種るもの。市人は五十日。農民は三十日繫獄せしむ。繫獄の間は食物もみづからもたらすべし。賣買するものもこれにおなじ。これを種立しク邑の民は。過科として一人每に錢百文づゝ收公せしめ。その地の代官は五貫文いださしむべし。又前々のごとく道途橋梁絕ず修理すべし。もし緩怠せば。其地の代官過料として。五貫文出さしむべしとなり。(東武實錄。)
○六日C水平左衛門正親死して。養子平三カ恒豐つぐ。この夜金地院崇傳をめして。武家法令の事を命ぜらる。(ェ永系圖。國師日記。)
○七日崇傳昨夜命ぜられし令條を進覽す。(國師日記。)
○十二日右筆會我又左衞門古祐は。崇傳が旅院に來り。この七日進覽の令條を。國字にてしるすべしとつたふ。此日知足院庭上の白山茶咲出しをもて。折て獻ぜしめらる。(國師日記。)
○十三日この夜曾我又左衛門古祐また崇傳がもとに至り。令條を原稿のまゝ淨寫すべしとつたふ。(國師日記。)
○十四日金地院崇傳令條淨寫して進覽す。よて今日仰下されしは。武家若黨はいふまでもなし。奴僕たりとも一年期の者は。一切かゝへ置べからず。凡て一年期の者の證人となるべからず。年月を期せず心まかせに召置者は。此かぎりにあらず。一切人を賣買する事を禁ぜらるれば。もしみだりに賣買せしものには。賣人買人共に損失と定め。本人は心にまかせしむ。もし勾引して賣者あらば賣人は罪に處せられ。賣られしものは本主にかへし下さるべし。期年は三年を限りとす。これを過ば双方曲事たるべし。市井火災の時武家の者奴僕までも。一切其地にまかるべからず。毁傷せる者を匿し置べからず。主なき者に家を借時は。證人の券を町奉行に出し。兩奉行の裏印を得てかすべし。辻立門立すべからす。巾もて頰をからげ。其外何にても顏をふかくつゝみかくす者は罪すべし。烟草は植る者も賣かふ事も。かたく停禁せらるゝ事。いよいよ先に令せられしごとくたるべしとなり。(國師日記。制度留。)
○廿五日織田辰之助倍則從五位下侍從に叙任し。民部大輔にあらたむ。(東武實錄。)
○廿六日下野國日光山に神廟搆造あるべしとて。大僧正天海かしこにまかる。藤堂和泉守高虎は經營をつかさどり。本多上野介正純は惣督たり。日根野織部正吉明。本多藤四カ政盛。山城宮內少輔忠久。糟谷新三カ某これにそふ。奥平九八カ忠昌。小笠原左衛門佐政信。松平丹波守康長。水谷伊勢守勝隆。淺野采女正長重。其外那須皆川等の人々助役のため登山し。明年四月に成功すべしと命ぜらる。又阿倍四カ五カ正之材木運漕を指揮す。金地院崇傳銀五十枚時服二下され上洛の暇給ふ。(東武實錄。ェ永系圖。武コ編年集成。國師日記。)
○廿九日醫員熊谷伯祐法眼に叙す。仙洞御惱を治療し。其功を奏せしによりて之。(ェ永系圖。)
◎是月神田臺の土功成功す。阿倍四カ五カ正之奉行する所なり。久我大納言敦通卿在府せしが。歸洛の暇下され賜物あり。稻富宮內重次廩米にかへて。采邑五百五十石たまふ。(紀年錄。國師日記。家譜。)
○十一月朔日松平陸奥守政宗江戶に參りければ。土井大炊頭利勝御使して慰勞す。(貞享書上。)
○三日松平陸奥守政宗拜謁し。太刀一振。馬二疋。大鷹五聯。兄鷹一据。鷂三据。銀三百枚獻じ。若君へ駮馬一疋。國松君へ栗毛馬を奉る。やがて內藤右衛門正重御使として。政宗へ甘干柿一桶たまふ。(貞享書上。)
○七日佐久間河內守政實死す。其子伊豫守實勝は駿府より江戶に參り八千石給ふ。(東武實錄。斷家譜。)
○九日松平陸奥守政宗を召て。鶴の饗膳をたまふ。(貞享書上。)
○十一日內藤右衛門正重御使して。松平陸奥守政宗に密柑一桶下さる。(貞享書上。)
○十八日石川又四カ重勝御使して。松平陸奥守政宗へ御鷹の鴈を給ふ。政宗まうのぼり謝し奉る。板倉伊賀守勝重は江戶よりけふ上洛す。(貞享書上。舜舊記。)
○十九日美濃國揖斐城主西尾豐後守光教卒す。齡七十三。遺領三万石を分て。養子出雲守嘉教に二万五千石。主水氏教に五千石分ち給ふ。(光教が死を重修譜には元和元年とす。東武實錄幷藩翰譜みな二年につくる。今これに從ふ。但し東武實錄に光教嗣子なきにより。外孫三人を養て家督を分つといふは誤なり。始に養子とせし信濃守教次は。慶長十三年五月六日養父光教に先だちて死せしかば。此時所領を分ちしは兩人にして。三人にあらざる事あきらけし。)この光教。父は出雲信光といひて。代々美濃國曾根の城に住す。はじめ齋藤道三入道に屬し。後に織田豐臣に歷仕して二万石を領し。從五位下に叙し豐後守と稱す。慶長五年奥の御陣に大谷吉隆がとゞむるをもちひず。ひそかに關東に御供しければ。大坂の奉行ども憤りにたえずして。光教が領地を燒拂ひ。大坂に證人としてありし妻子をも誅せんとせしに。幸ひに陽明家にゆかりありしかば。妻子等信尹公のもとにかくまはれて此禍を免かる。小山より引返し給ふに及んで。光教等先立て尾州C州に至り敵のさまを搜索し。密に井伊兵部少輔直政に告しかば。御書を給ひ。岐阜城責には先鋒となり。荻原をこえ本丸をせめしにより。田中一柳等と共に一紙の御書を賜ふ。其後曾根の砦に據て島津が勢とたゝかひ。九月十五日水野日向守勝成と同じく。曾根の砦を出て大垣の城を責。本丸の守將福原右馬助某を。和議して城を開去しむ。此軍功により一万石加へたまはり三万石を領し。十九年大坂の軍には松平下總守忠明が手に屬し。天王寺口寄手に加はり。去年の戰にも忠明に屬し。大和口に陣し。五月六日道明寺邊にて。歒の首七級を得て奉り。けふうせしなり。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○廿日萩原大夫兼從へ。豐後國內にて所領たまはる。折紙を板倉伊賀守勝重より授く。服部中保正死て。二子三九カ保俊つぐ。(舜舊記。ェ政重修譜。)
○廿三日內藤右衛門正重御使して。松平陸奥守政宗に諸白兩樽を賜ふ。(貞享書上。)
○廿四日松平陸奥守政宗まうのぼり。昨日の賜物を謝す。(貞享書上。)
○廿五日加藤伊織則勝御使して。松平陸奥守政宗に御鷹三据賜ふ。この日甲斐國身延山久遠寺に條約を下さる。其文にいふ。久遠寺中幷に門前雜生禁斷幷に竹木寺內門前諸役等免除せしむ。法度以下舊規にまかせて。大坊より令すべし。大坊幷僧坊被官。其他寺中市中に於て俗家の權令を受ず。末寺は住持上人指揮のまゝたるべし。もし寺僧末寺等本寺に對し。不義の企をなさば。大坊よりこれを放逐すべし。倍在守は諸役免除し。會式の席も免除せしむ。すべて天正十六年十一月十一日先令の旨にまかせいよいよ違失あるべからずとなり。(貞享書上。武家嚴制錄。)
○廿七日松平陸奥守政宗登營して賜物を謝す。(貞享書上。)
○廿九日織田內府入道常眞四子勝法師信良。正五位下侍從に叙任し兵部大輔に改め。其弟主膳良雄。從五位下侍從に叙任し主膳正となる。(藩翰譜備考。)
◎是月令せられしは。傳馬をはじめ駄賃荷物。いづれも一駄四十貫目たるべし。府より品川まで往還荷物。一駄鐚錢三十四文。板橋へは三十九文。人夫賃は馬の半たるべし。もし制外に晁Aをむさぼらば。其市中每家過料鐚錢百文づゝ出さしめ。當人は五十日獄に繫ぐべし。傳馬幷駄賃荷は驛中馬持の心のまゝたるべし。駄馬多く用ゆる時は。その驛より村々の馬をやとひ。風雨をいとはず。荷物遲滯なからん樣に出すべし。歸り馬の賃定の如くたるべし。此令違犯せばその市中父老等まで曲事たるべしとなり。また松平和泉守家乘二子內匠助知乘。はじめて府にまいりて奉仕す。大岡源右衛門宗茂中間支配となる。(令條記。ェ永系圖。家譜。)
○十二月朔日松平陸奥守政宗放鷹の暇たまはり。久喜へおもむく。(貞享書上。)
○七日荒木十左衛門元滿幷其子四兵衛元政ともに國松君に附らる。(家譜。)
○八日寺澤志摩守廣高參覲して拜謁す。(國師日記。)
○十一日代官市野惣大夫實久死して。その子又次カ實次家をつぎ。直に父の原職を命ぜらる。(家譜。)
○十二日别所孫次カ某風呂屋を搆造せしと。桑山左衛門佐一直。伊藤掃部助治明を招き會飮して後。互に沈醉して爭論し。伊藤扇子を以て别所が頭を打けれは。别所忽に腰刀引ぬき伊藤をつく。一直驚きて别所を取てをさへんとする時。酌とりし小童うしろより。伊藤に切てかゝるにより。一直また小童を取てをさふる間に。别所が家人等數人かけあつまり。遂に伊藤を切殺す。一直もこゝかしこ手を負たり。一直が伯父佐久間大膳亮勝之かくときゝ馳來り。此よしを見聞してうたへしかば。其夜别所は切腹せしめられ。别所幷伊藤が子は追放たれ。一直は門とざし家にこもらしめらるゝといへども。罪なきが故に日をへて後ゆるさる。(これは别所をのれが大坂の武功にほこり。醉に乘じ松倉豐後守堀丹後守等。大坂の戰功をもて加恩賜はりしをあざけりけるに。伊藤は松倉と知音なりしかば。大にいかり爭論に及しとぞ。東武實錄。)
○十三日金地院崇傳京より八尾の餅米十苞獻ず。(國師日記。)
○十四日松平陸奥守政宗放鷹はてゝ歸り參る。(貞享書上。)
○十五日圓福寺神證江戶愛宕の别當命ぜらる。(國師日記。)
○十六日松平陸奥守政宗狩塲より歸りて。白鳥三。鴻三。雁二獻ず。渡邊半四カ宗綱御使して政宗に鮒をたまふ。(貞享書上。)
○十八日下野國烏山城主成田左衛門尉長忠卒す。長男新十カ長邦は先立てうせ。嫡孫新五カ房長わづかに二歲なれば。長忠が二子左馬助氏宗に。遺領のうち一万石を襲しめらる。この長忠は下總守長泰入道芦伯が二男にて。はじめ武州寄西の城にあり。文祿四年十二月兄左馬助氏長死しければ今の城を給ひ。遺領三万七千石を襲しが。けふうせしなり。(東武實錄。斷家譜。藩翰譜成田が傳に。其家の系圖をみねば。くはしき事をしらずと注し。本文に氏長が子を左馬允氏範とし。氏範子なく家絕たりと見ゆ。これは長忠が兄氏長が遺領繼し事をしらず。氏長が遺領を子の氏宗が襲しとあやまりて。其名をも氏範と誤りしなり。今は東武實錄幷斷家譜の說と同じければこれにしたがふ。)
○廿日松平陸奥守政宗へ海鼠膓をたまふ。(貞享書上。)
○廿一日はじめ豐臣家に仕て。近年駿府に勤仕せし輩は。彼府下安西に宅地を給ふ。因て呼て安西衆と稱す。此輩はみなこれ累年武功の者どもなれば。こたびこの輩に。もとより在府の輩の中にて。耆宿の徒を撰び交て御談伴と定められ。直日をさため。日々かはるばる御前に伺候せしめらる。其輩はいはゆる丹羽五カ左衛門長重。立花左近將監宗茂。細川玄蕃頭興元。三好因幡守一任。猪子內匠助一時。堀田若狹守一繼。佐久間備前守安政。同大膳亮勝之。堀丹後守直寄。戶川肥後守達安。九鬼長門守守隆。脇坂淡路守安元。毛利伊勢守高政。市橋下總守長勝。谷出羽守衛友。木民部少輔一重。蒔田左衛門權佐廣定。平野遠江守長泰。能勢伊豫守ョ次。宮木丹波守豐盛等なり。日野大納言輝資入道唯心。山名中務大輔豐國入道禪高。朽木信濃守元綱入道牧齋。佐久間駿河守正勝入道不干。前場吉右衛門勝秀入道半入。今大路延壽院正紹等はこと更老耋なれば。優待せられ。直日を定めず心まかせにまうのぼり御談話に侍せしめられ。渡邊山城守茂。松下石見守重綱。近藤平右衛門秀用。眞田隱岐守信昌。田甚右衛門尹松。初鹿野傳右衛門倍久。久世三左衛門廣宣。坂部三十カ廣勝。儒役林永喜信澄。醫員佃玄鑒某。田村安栖長有等は。每夜出仕して御談伴たるべしと命ぜらる。(國師日記。紀年錄。)
○廿四日松平陸奥守政宗が三子河內宗C。五子攝津宗綱初見し奉る。(貞享書上。)
○廿六日坂部三十カ廣勝二千石加賜せられ。七千三百石になされ。别に與刀の給地二千石たまふ。山本新五衛門重成死して。子助八カ吉正つぐ。(家譜。ェ永系圖。)
○廿七日福島左衛門大夫正則が三子市松忠勝。從五位下の侍從に叙任し備後守と稱す。(武家補任。)
◎この月新庄越前守直定。奏者番となり。布施新次カ重直先手弓頭となり。布衣着する事をゆるされ。安部彌一カ信盛歩行頭になり。書院番組頭をかねしめらる。松平和泉守家乘が二子內匠助知乘中奥小姓命ぜられ。廪米五百俵賜ふ。大島久九カ春政初見す。ときに五歲。父左大夫光盛去年大坂の役にて戰死せしなり。京極丹後守高知が子采女高廣叙爵をこふ。名家たるゆへ從五位下侍從に叙任し。采女正とあらたむ。(重修譜十二月廿六日とす。)尾張遠江の兩宰相江戶へ參着ありしかど。いまだ邸宅の地定まらざれば。義直卿は本多美濃守忠政が邸に僑居せられ。ョ宣卿は小笠原右近大夫忠眞が邸に寓居せらる。又松前隼人正忠廣參府す。(斷家譜。ェ永系圖。ェ政重修譜。東武實錄。貞享書上。)
◎是年酒井左衛門尉家次四子忠吉勝吉。松平隱岐守定勝五子千コ定房。土屋民部少輔忠直二子辰之助數直。柳生又右衛門宗矩長子七カ三嚴。丹羽平右衞門正長。山田小次カ直政子藤五カ定政。服部杢助が子杢助政次。山高孫兵衞親重二子五カ左衞門信保。有賀半三カ種次子半左衞門種親初見の禮をとる。京極采女正高廣。山口駿河守直友子勘兵衞直堅。若君へ初て見へ奉る。小笠原丹齋經治二子源四カ貞信初見して直に召出さる。美濃部十大夫茂吉。西尾加右衛門正保。木久左衛門義精。同五カ右衛門之貞。八木庄左衛門光政。神保三カ兵衛重利。牧野C兵衛正成。鈴木三カ九カ重成。川窪與左衛門信俊二子七カ右衛門信世。曲淵勝左衛門正吉子彥助正次。渥美與四右衛門某弟阿部久五カ貞重。能勢攝津守ョ次三子惣右衛門ョ之。吉野作右衛門信次。醫員吉田意安宗達。茶道頭革島善貞某等。あるは駿府より參り奉仕し。あるは父の䕃もて召出され。あらたに御家人に加へらる。仁賀保兵庫頭擧誠二子內膳誠政は。若君につかへ奉る。又松平右衛門大夫正綱は。城壘修築の惣督うけたまはり。永井信濃守尙政は駿府よりまかりて書院番頭となり。松平忠左衛門勝隆も駿府より參て大番頭となり。大久保四カ左衛門忠成は書院番組頭となり。島田C左衛門直時は先手頭になり。牧野C兵衛正成は使番となり。松平志摩守重成歩行頭になり。長谷川左兵衛藤廣は長崎奉行もとのまゝにて。泉州堺。河州石川郡。備前等を管領せしめられ。鎭目市左衛門惟明は佐渡の奉行となり。喜多見五カ左衛門勝重江州一圓の奉行になり。天野小三カ長信納戶頭になり。酒井大膳勝吉。根來小左次盛正は小姓になり。八木庄左衛門光政は大番組頭になり。酒井作右衛門重之小姓組に入番し。依田內藏助信重。石川彌左衛門貴成。能勢小十カョ隆。(石川能勢二人はもと駿府にて小姓なり。)島四カ左衛門三安。杉原四カ兵衛正永。能勢惣右衛門ョ之。山中八藏宗俊。牧野三之助正景。松平作十カC須は書院番にいり。松平P兵衛政勝。木五カ右衛門之貞。岩佐吉助某。鈴木九カ右衛門重定。K澤杢助定幸。笠原彌次兵衛重政が子平左衛門信重。田澤久左衛門正久が子治左衛門昌重。朝比奈六左衛門昌行が子太カ兵衛昌春は大番にいり。平賀三五カ忠勝は腰物奉行になり。加藤小左衛門重常は納戶番になる。又平野藤次カ正貞は代官になり。水原八右衛門親好。內河七左衛門吉次は甲府の城番になり。秋山半右衛門伯信は勘定役になり。栗林曾部右衛門峯筠。久世三左衛門某は伊賀者の支配となる。本堂伊勢守茂親は伏見城在番にせられ。瀧川豐前守忠征は屋張宰相義直卿に付られ。これまでの所領は外孫與三右衛門直政にゆづり。兼松源兵衛正成も同じく義直卿につけられ。所領はその子又四カ正尾にゆづり。共に本城に勤仕せしむ。駿府町奉行彥坂九兵衛光正は。遠江宰相ョ宣卿につけられ。三千石加恩有て。安藤帶刀直次と同じく輔導の職たらしめられ。設樂兵庫頭貞Cが弟四カ兵衛貞慶もョ宣卿に付られ。山高孫兵衛親重。米倉八左衛門信繼。(重修譜に元和三年とす。)渡邊藤三カ勝。石川金阿彌吉次は國松君につけらる。また叙爵二人。關兵部氏盛は安藝守。佐久間左兵衛勝年は信濃守と改む。また宰相ョ宣卿は駿遠兩國を以て封ぜらる。松倉豐後守重政は和州五條より肥前高來にうつり。六万石になりて。のちに島原の城にうつる。松平丹波守康長は常陸の笠間より上州高崎にうつり。二万石加へて五万石になり。松平越中守定綱は下總の山川より。常陸の下づまにうつり。一万五千石加へて三万石になされ。稻葉大夫紀通は岳父松平下總守忠明が請により。勢州田丸より攝州中島にうつる。二万五千七百石もとのごとし。稻垣平右衞門重綱は。上野の伊勢崎より越後の刈羽郡藤井にうつり。一万石加へて二万石たまはり。前田大和守利孝は。上州七日市にて一万石たまひ。松平出羽守直政は。兄宰相忠直卿の封地を分て一万石給ふ。これらは皆去年大坂の戰功によて給る所とぞ聞えける。久永源兵衛重勝は二千石加へて七千石。永井信濃守尙政は四千石加へて五千石。松平庄右衛門C直。佐久間左兵衛勝年は五千石づゝ。水野大和守元綱。新庄越前守直定二子宗兵衛直之は千石づゝ給ふ。喜多見五カ左衛門勝重は五百石加へて千石になる。瀧川久助一乘はすでに十五歲におよべども。一族三九カ一積その采邑をあづかり。かへさゞるよしうたふ。一乘いまだ二十歲にみたず。勤番命ぜらるゝまでは。三九カ一積これを攝すべければ。一乘に别に七百五十石給ひ。合て千石を領せしめらる。酒井大膳忠吉は七百石。(重修譜に七年の後とす。)山岡與左衛門景孝は新に采邑百石給はり。天野小三カ長信は二百三十石加へて五百三十石になり。神長左衛門忠次。川口左門正武五百石づゝ。野村彥大夫爲勝三百三十二石新に給ひ。川村善次カ重久。駒井次カ左衛門昌保。喜多見半三カ重俊。小栗九カ右衛門久勝は。廩米三百俵を采邑にかへて給ひ。永井監物白元廩米二百苞加へられ。高田藤五カ安政には。あらたに二百苞くだされ。長谷川半右衛門重治あらたに五百石。水野八右衛門親好に新に采邑をくださる。(その稅額つばらならず。)又川勝左京知氏が子勘左衛門重氏。津田小平次秀政が子平七カ正重。飯田四カ左衞門重次が子助九カ直重家つぐ。醫員曲直P養安院正圓死して嗣なし。父養安院正琳が外孫玄理をして。家つがしめらる。松平宮內少輔忠雄就封のいとまたまひ。御刀並に鷹馬を下さる。又駿府より參り仕る輩に給ふ宅地。始には江戶川の水路を北東に直流せしめ。其中に宅地を築き給ふべしとて。吉祥寺の後より本クの臺を堀通すべきかと有しが。また改て吉祥寺前を堀うがち。田安門の北東を平均し。神田明神の祠萬隨意院以下の神祠寺院を遠く退け。明神は御臺所御沙汰として。神田薹に搆造し給ひ。萬隨意院は下谷へうつし。本妙寺等は小石川にうつし。堀の土をもて宅地を平均せらる。又令せらるゝは。過書船上米の事。百石に銀六刄と定るにより。木村惣右衛門勝正。角倉與市貞順兩人へ請取て納むべし。船數兩人の心のまゝたるべし。伏見より下り船乘人荷物の上米。先例のごとく兩人方へ納むべし。舟數前に同じ舟賃も先例のまゝたるべしとなり。又渡海塲に令せられしは。商人荷物一駄四十貫目。船賃鐚錢十八文たるべし。乘掛荷物も人共におなじ。人のみ乘時は。一人每に六文たるべし。船質かく定むるにより。此後往還のもの遲滯せしめず渡すべし。もし此令にそむく時は。曲事たるべしとなり。(家譜。東武實錄。ェ永系圖。坂上地院日記。藩翰譜。ェ政重修譜。斷家譜。紀年錄。元和年錄。令條記。法令雜錄。) 
卷四十五 / 元和三年正月に始り四月に終る御齡三十九 

 

元和三年丁巳正月元日朝儀例のごとく。諸大名以下登營新正を賀し奉る。この日大風。(東武實錄。續年錄。)
○二日いさゝか御不豫により。外殿にのぞみ給はず。今夜謠曲始も停廢あり。(續年錄。)
○三日又同じ。(續年錄。)
○七日又同じ。(續年錄。)
○十日京に新年の賀物進らせらる。禁廷に銀百枚。蠟燭千挺。院へ銀五十枚。蠟燭五百挺。女院へ銀五十枚。國母へ銀五十枚。長橋の局へ銀廿枚。廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿へ金壹枚づゝ。秋篠彈正大弼某。岩倉杢頭具堯へ銀三枚づゝつかはさる。(東武實錄。)
○十一日水野河內守守信。榊原伊豆守某。駒井右京進親直。跡部民部良保。天野佐左衛門雄得。赤井兵庫頭忠泰。長谷川四カ兵衛重次新に使番を命ぜられ。佐久間伊豫守實勝。石川六左衛門重勝。齋藤左源太利政。本ク勝右衛門勝吉。大河內善兵衛正勝。川口長三カ近次。下曾根三十カ信由。高木忠右衛門爲信は。若君御かたの使番仰付らる。喜多見五カ左衛門勝重。は長谷川左兵衛藤廣にかはりて堺政所を命ぜられ。山田甚之丞政春は。父大炊助政豐關原にて討死せし褒として召出され。三百石下され腰物奉行となる。このほど御不豫御こゝろよくならせられしかば。今夜謠曲始の式行はる。(元ェ日記。摯竚ウ和日記。家譜。續年錄。)
○十三日山城河內邊堤防を築かしむ。金地院寺領の農民等は。先代免除の御印書顯然たるをもて。此役をのぞかる。(國師日記。)
○十四日西久保天コ寺火あり。紫衣勅許の綸旨。先代の御印書幷本尊來迎佛此災にかゝる。この日內藤主稅助信廣從五位下に叙し東市正に改む。(東武實錄。家譜。)
◎この月豐島主膳正信滿目付となる。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尙書院番にいる。(斷家譜。東武實錄。)
○二月朔日駿河宰相ョ宣卿の家司安藤帶刀直次に。一万石餘を加へて二万石餘とし。遠州掛川城主たらしめんことを。卿のこふまゝにゆるさる。(ェ永系圖。元ェ日記。)
○五日井上主計頭正就老臣の列にくはへらる。さきに大久保相摸守忠隣が子を。酒井河內守重忠にあづけられ河越にありしが。今度改めて右京亮教隆は南部信濃守利直にあづけられ。主膳正幸信は津輕越中守倍枚にあづけらる。(續年錄。ェ永系圖。)
○十一日花房助兵衛職之死して。其子五カ左衛門職則家祿七千二百二十石餘をつぎ。二子榊原左衛門佐職直に千石を分ち給ふ。此日船手頭向井將監忠勝二千石加へて三千石になさる。(ェ永系圖。東武實錄。万世家譜。)
○十二日大久保甚左衛門忠直駿州田中の城代を命ぜられ。五百石加へて二千石になさる。(續年錄。家譜。)
○十三日申刻大風。砂塵を吹たてすべて闇夜のごとし。江戶京ともに民家若干吹倒す。(坂上池院日記。續年錄。)
○十八日松平陸奥守政宗就封の暇給はる。(貞享書上。)
○廿一日駿州久能山神廟へ。勅使万里小路宰相孝房卿參向あり。東照大權現の神號を進らせらる。五條少納言爲適宣命使たり。着座の公卿は花山院右大將定熙卿。轉法輪大納言公廣卿。日野大納言資勝卿。勸修寺大納言光豐卿。柳原左中弁茂光。烏丸右中弁光賢なり。(御年譜。御鎭座記。)
○廿三日大番頭松平筑後守康親。三州福釜に於て卒しければ。其子讃岐守康盛家つがしめられ。此後吉良上野介義彌とおなじく。拜謁すべしと命ぜらる。(斷家譜には三月とす。今ェ永系圖。ェ政重修譜。東武實錄に從ふ。)
○廿五日久能山へ參向の公卿。けふ江城にて拜謁あり。饗宴をひらかる。この日成P吉平久次死して。其子吉平正吉家をつぐ。(御鎭座記。家譜。)
◎是月松平宮內少輔忠雄參覲す。(ェ永系圖。)
○三月朔日木村九カ右衛門吉次死して。其子三右衛門吉正家をつぐ。(家譜。ェ永系圖。重修譜には四年死として月日をしるさず。)
○四日金地院崇傳京より參着す。(國師日記。)
○五日金地院崇傳まうのぼりて拜謁す。(國師日記。)
○六日出羽國山形城主㝡上駿河守家親病卒のよし注進あり。今年在封して猿樂を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ。松平新太カは。先に父武藏守利隆が遺領播州姬路を襲封せしが。この日因幡伯耆兩國あはせて三十二万石を給ひ。因州鳥取をもて居城とす。池田備中守長幸は鳥取にて六万石領せしが。五千石加へて備中國松山城に移され。六万五千石になる。(續年錄。摯竚ウ和日記。東武實錄。)
○七日松平丹波守康長は。去年常陸の笠間より上州高崎にうつり。二万石加へて五万石になされしに。今年又高崎より信州松本の城にうつされ。二万石加へて七万石になさる。この人年々にかく益封ありしかば。諸人曹ワざるものなし。(元ェ日記。元和日記。)
○九日京より東照大權現に正一位の御追贈宣下ありしかば。御所こと更御感ス大方ならず。(元和日記。)
○十一日久能山の神柩を下野國日光山にうつしまいらせらるゝにより。土井大炊頭利勝は江戶より駿州に赴く。(國師日記。)
○十五日かねては三年が間。久能山に神靈を安置し。宰相ョ宣卿の祭祀を受給ひ。その後日光山に御垂跡あるべしとの御あらましなりしかど。三年を待せらるべきにあらずと思召旨有て。ョ宣卿へ議せられ。日光山神廟經營をいそがせ給ひしかば。この程はや成功せしにより。けふ神柩を發行せらるべきに定まる。大僧正天海は先達て登山し。其他山門の碩學。東關の僧綱凡僧悉くまいりあつまる。寅刻本多上野介正純。土井大炊頭利勝。松平右衛門大夫正綱。板倉內膳正重昌。秋元但馬守泰朝等三百餘騎。雜兵一千人を具して御迎に參る。すべて大織冠鎌足公和州多武峰に改葬の先蹤によることゝて。大僧正天海みづから鋤鍬とりて其事を行ふ。さて上野介正純。右衛門大夫正綱。內膳正重昌。但馬守泰朝。永井右近大夫直勝。榊原內記照久。幷もとの駿府小十人組の番士等供奉す。大森半七カ好長も此列に加はる。御所御名代は大炊頭利勝。尾張宰相義直卿の名代成P隼人正正成。駿河宰相ョ宣卿の名代安藤帶刀直次。水戶少將ョ房朝臣の名代中山備前守信吉。是らをはじめ。騎馬の行粧は唐鞍うち。馬副の布衣侍雜色走衆にいたるまで。みな綺羅をかざり花を折たり。今夜の御泊は富士山の麓善コ寺なり。こゝにて初夜の御法事布施。しなじな引わたさる。後夜は人しづまりて。殊更彌生望の月圓滿の光のどかにて。人心すみわたりしとぞ。烏丸大納言光廣卿もこのとき供奉なり。(創業記。東武實錄。紀年錄。續年錄。紀行。ェ永系圖。)
○十六日靈柩吉原より浮島が原をへて。三島にとまらせ給ふ。こよひの御法事よべにことをそへて。うるはしかりしとぞ。此日林道春信勝京より江戶に參着す。使番川口長三カ近次宇治採茶使にさゝれ。暇給ふ。(紀行。御年譜。國師日記。)
○十七日けふも靈柩は三島にとまらせ給ふ。江戶にては三緣山の靈廟に御詣あり。此御道にて大橋長右衞門重保。(後入道して龍慶といふ。)阿部備中守正次につきて。訴狀をさゝげて申けるは。慶長十九年大坂の御軍いまだ起らざる前に。秀ョ公讒人の言を用ひ。片桐市正且元叛逆の企なすとて。旣に誅せられんとありし時。且元も身のあやまりなき旨陳謝せんがため。居邸に立籠る。其時重保も且元とは年頃の舊好わすれがたく。且元が弟主膳正貞隆幷畠山民部政信。毛利兵橘重次。矢野十左衞門某。西川八右衞門某。永井助十カ某。伊東猪左衞門某等と同じく。且元が邸にまかり。これをたすけて防戰せんとせしに。七組番頭等がはからひにて。秀ョ公疑を散ぜられ。且元罪を免かるゝに及び。重保等も危難を免かる。其後大斾御進發ありしかば。重保等も且元兄弟にしたがひ。備前島の陣に加はり。去年の夏大坂平均の後。且元兄弟はいふまでもなし。かの畠山。毛利。矢部。西川。伊東等もみな拔擢の恩に浴す。ひとり重保は備前島陣中に深手負しかば。其瘢治療するとて彼等にをくれ。いまにいたり沈淪するよしを訴ふ。其事ことはりと聞召て。この年重保召出され采邑五百石下され。善書の聞えあれは右筆を命ぜらる。この日遠州光明寺御印書を賜ふ。其文にいふ。虛空藏領遠江國豐田郡二俣山東村一圓寄附せらるゝ事。慶長八年九月廿五日先判の旨。永く相違あるべからずとなり。又宗對馬守義成從四位下侍從に叙任す。(御年譜。東武實錄。續年錄。家譜。貞享書上。武家補任。藩翰譜備考。)
○十八日靈柩箱根山をこえて。小田原につかせたまふ。今宵もやんごとなき御法事ども數をつくされたり。江戶にては阿部左馬助忠吉大番頭になり。永井善左衞門安盛鑓奉行になる。(紀行。續年錄。)
○十九日靈柩けふも小田原にとまらせ給ふ。(御年譜。東武實錄。)
○廿日小餘綾の磯を過て。靈柩を中原の御離殿にとゞめらる。(紀行。)
○廿一日武州府中の御殿につかせまします。(東武實錄。紀行。)
○廿二日けふも府中にとまらせ給ひ。さまざまの御法會行はる。この日江戶にては城外に御馬を試給ふ。其時僧良賢訴狀をさゝげて。高野山の事をうたふ。(紀行。國師日記。)
○廿三日靈柩仙波につかせ給ひ。大堂に入らせらる。(御年譜。創業記。)
○廿四日江戶にては酒井雅樂頭忠世。安藤對馬守重信。町奉行島田兵四カ利正。米津勘兵衞田政等。金地院崇傳とおなじく藤堂和泉守高虎が邸に會集し。高野僧を召て尋問す。一昨日僧賢良が訴狀さゝげしことによりてなり。(國師日記。)
○廿五日仙波にては川越の城主酒井備後守忠利もよふしにて。今宵衆僧を請じ論義あり。大僧正天海證義つかふまつる。そもそもこの仙波といふは。仙保仙人開闢ありし地とて。そののち慈覺大師中興。尊海僧正搆造して。勅額數代の靈地なれば。一生入妙覺といへる論題を出し。問答各懸河の辯を競ひたり。法席終りて。施物は備後守忠利より蚨を山のことく臺にのせて纏頭す。所は名におふみよしのゝ里。折から田のむの鴈も霞めるそらによると鳴聲ふかゝりし夜の景色。法席に列る緇素袖しぼらぬはなかりしとぞ。(東武實錄。紀行。)
○廿六日仙波には猶御滯座にて終日御法會どもいとことごとし。今宵は大僧正天海みづから沙汰として。衆僧を請じ法華讀誦す。(紀行。東武實錄。續年錄。)
○廿七日靈柩仙波を出まし。忍につかせ給ふ。今宵曼陀羅供行はる。(御年譜。東武實錄。紀年錄。)
○廿八日靈柩忍を出まし。利根川にて松平式部大輔忠次御船よそひし。渡P川にては本多上野介正純御船奉り。館林に御中やどり有て。佐野の春岡といふ寺に入奉る。(今ハ宗寺といふ寺なりとぞ。)上野介正純あらかじめ新殿をいとなみ。こゝに蹕を駐たまふ。この日江城にては鍋島信濃守勝茂四子翁助初見す。(東武實錄。紀年錄。日光藏書。ェ永系圖。)
○廿九日靈柩佐野を出まし。輿窪富田櫔木などいへるあたり過させたまひ。こよひは鹿沼の藥王寺を御旅所とせらる。(一說今の今宮權現の付地といふ。)この所に四月三日までおはしましぬ。(紀行。東武實錄。日光藏書。)
◎この月日光山御本社。御本地。堂。廻廊。御供所。御廐等造畢す。江城には紅葉山にも御宮を經營ありて。山王權現日吉權現と一社に配祀し給ふべしと令せらる。又京にては女院御所造營あり。五味金右衛門豐直これを奉行す。土井甚太カ正次仰によりて元服し。左兵衛と改め左文字の御刀を給ふ。(東武實錄。續年錄。ェ政重修譜。)
○四月朔日靈柩猶鹿沼にまします。如在の奠日ごとにかはらず。六時の御法會又おなじ。(紀行。)
○三日尾張宰相義直卿。駿河宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣。ともに江戶に參着せらる。金地院崇傳等御迎にまいる。(國師日記。)
○四日未刻に靈柩日光山の座禪院に入奉る。この日江戶日光山御參詣の事仰出さる。よて令せるるゝは。今度供奉の輩脇道すべからず。市中にては。家際左右をよけ。すべて謹愼に供奉すべし。御旅館へ入らせ給はゞ御供の輩下馬し。馬は其所に殘し。供奉の人ことごとく進行せしめて後。器械調度を通すべし。御旅館御座所へは當直の者の外は。まかる事をゆるさず。もし違犯せば罰銀一枚づゝ出さしむべし。何事ありとも番頭組頭の下知なくして。其身はいふまでもなし。奴僕までも馳集らしむべからず。騎馬の側に召具するものは。龓二人。沓持一人。草履持一人。鑓持一人。此外若黨を召具すべし。騎馬の列に替馬を曳入る事をゆるさず。違犯のものは罸銀一枚出さしむべし。たゞし御用にて召るゝ輩の馬は。此かぎりにあらず。供奉の列にありて。馬の口とらしむるか。又馬に聲かくるものは。罸銀一枚出さしむべし。目付幷諸奉行等此令違犯の者を見聞しながらひそかにゆるし置時は。目付奉行人も罸銀いださしむべし。諸器械混亂せしむべからず。御旅館へつかせ給はん時は。其市街に於て各笠巾を脫すべし。市中にて馬の口あらふか。又は聲かくる事あるべからず。組頭なき徒は日行事を定め。日々御旅館に伺候すべしとなり。(一說此令は十二日又十三日に下るといふ。)又尾張宰相義直卿。駿河宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣まうのぼらる。(御年譜。東武實錄。紀行。令條記。國師日記。)
○七日義直卿。ョ宣卿。ョ房朝臣を城中に召て饗せらる。(國師日記。)
○八日靈柩を日光山奥院巖窟中に安置し奉る。大僧正天海兩部習合の念想を密凝し。五眼具足の印明を授進らす。凡て今度の御事。天海大僧正專らうけたまりしは。大織冠鎌足公を攝津國阿威山より。和州多武峯にうつしける時。定惠和尙執行ひしためしによれり。且は天照太神宮も倭姬命に神託ありて。五十鈴の川上にしづまりまし。八幡宮と行教和尙の三衣に御影をうつされて。豐前の宇佐より山城の男山にはうつらせたまひける神迹聖蹤。かれとひこれといひ。古今めでたきためしを引て。とり行はれける所とぞ聞えし。又御迁行はるゝ爲。京よりは梶井門跡最胤法親王。正覺院權僧正豪海參向あり。奉幣使はC閑寺宰相共房卿。宣命使は中御門宰相尙長卿。阿野宰相實顯卿。奉行は廣橋頭辨兼賢。烏丸右中辨光賢。着座には廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿。日野大納言資勝卿。西園寺中納言公益卿。冷泉中納言爲滿卿。西洞院宰相時慶卿。被物の殿上人は正親町少將季俊。水無P少將兼俊。北畠少將親顯。藤谷少將爲賢。藤右衛門佐永慶。高倉少將嗣良。園少將基音。東坊城少納言長維。綾小路侍從高有。竹內刑部少輔孝治。樋口侍從信孝。平松侍從時庸。土御門左衛門佐久修。唐橋民部少輔在村。壬生極搓F亮。差次藏人某。C藏人賢忠。堂供養の着座廣橋。三條。日野三大納言。四辻宰相季繼。奉行は柳原頭辨茂光。竹屋左少辨光長等登山す。諸大名みな御宮前に石燈を進獻す。(慈眼行狀。紀行。東武實錄。)
○九日冷泉中納言爲滿卿は。金地院崇傳をもて廿一代集を新に寫し捧ぐ。これは去年阿茶局申請て仰下されし所とぞ。(東武實錄。)
○十日昨夜より大風雨。所々暴漲す。(續年錄。)
○十二日風雨猶やまず。この日日光山御參詣の御首途あり。入馬川洪水して千壽の大川みなぎり。大橋も旣におしながされんとす。小石を苞とし數萬俵。透間なく橋下に備へしかば。さはりなく御通行あり。御跡よりまかりたる牧野織部成常等十三騎水にながされしが。からうじて游ぎあがる。人馬溺死するものあり。又昨日御先に器械もちまかりし下部等の中には。千壽草加兩驛の間にて。風雨に咽て死する者十三人とぞ。ほとんど未曾有の大風雨とて。衆人驚愕す。今夜高力攝津守忠房が岩附の城を御旅館となさる。(續年錄。國師日記。)
○十三日連日の大風雨に。栗橋の渡りに架せし船橋流失す。よて岩附城に一日御滯留あり。城主高力攝津守忠房が妻幷長子左近高長拜謁し時服を賜ふ。(續年錄。家譜。)
○十四日夜神位を假殿にうつし奉る。御所には小笠原若狹政信が古河城にやどり給ふ。(創業記。東武實錄。ェ永系圖。家譜に十三日とす。しかれども栗橋の舟梁流失によて。岩附に一日御滯座あれば。十四日たる事明らけし。)
○十五日奥平九八カが宇都宮城に御とまりあり。九八カに無銘の御刀幷時服賜ひ。其家司等へも時服を下さる。(家譜。)
○十六日夜神位を假殿より本社に移し奉り。大僧正天海密法を修す。御追號の宣命使中御門宰相尙長卿宣命をよむ。天皇我詔旨良万止。故柳營大相國源朝臣尓詔倍止。勅命止聞食止宣。振威風於異邦之域比。施ェ仁於率土之間湏。行善敦而コ顯留。身旣沒而名存勢利。崇其靈氐東關乃奥域尓大宮柱廣敷立氐。吉日良辰乎擇定氐。東照乃大權現止上給比治賜布。此狀乎平介久安介久聞食氐。靈驗新尓天皇朝廷乎寳位無動久。常磐堅磐尓夜守日守尓護幸給比天。天下昇平尓海內靜謐尓護恤賜倍度。恐美恐美毛申賜者久止申。御贈位の宣命は河野宰相實顯卿是をよむ。宣命。東照大權現贈正一位勅宣。抑太政大臣御諱幼少之從昔敵之圍陣仁連其圍於遁連。若年之從時心武久。長年志而古代之名將尓越而武威於日本尓輝志。逆亂於治庶民安閑之思乎成須。是彼朝臣我忠功多利。依而在世之忠義尾感志。神靈登仰東之守護神多羅无事尾。勅命有而宣旨尾宣理宣給布。C閑寺宰相共房卿奉幣の事つかふまつる。院使は西洞院宰相時慶卿。女院使は平松侍從時庸。此日御所日光山にのぼらせ給ひ。公卿殿上人拜謁せられ。梶井門跡㝡胤法親王も御對面あり。明日御祭禮行はるべしとて。諸役を定らる。(東武實錄。紀年錄。慈眼行狀。日光雜錄。憲教類典。)
○十七日御宮にて小祥の御祭あり。御束帶にて詣給ふ。御轅の御簾は高倉右衛門佐永慶。御太刀吉良左兵衛督義彌。御刀は酒井下總守忠正。御裾は永井信濃守尙政役し。大澤兵部大輔基宥奉幣す。土井大炊頭利勝。太田攝津守資宗等供奉す。尾張宰相義直卿。駿河宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣。藤堂和泉守高虎。其外諸大名ことごとく參列す。御祭は巳刻を以て始行はる。その行列。鳥甲着百人。金襴の直垂にて鉾をもつて二行に列る。次に天狗面かけし者一人。次に大獅子二匹。次に僧伶八人。金襴の直垂大口を着し。二人は立烏帽子を用ゆ。笛一管。太鼓持三人は白張。次に太鼓二。笛二。釼持二人。巫女八人。白衣を着し鈴を持。次に騎馬の僧一人。次に騎馬の神人四人。次に神馬三匹。紅厚總白切付。梨地金御紋の鞍。覆鐙。障泥虎皮。次に銃百挺二行。猩々皮雨覆。次に弓百張二行。虎皮空穗。持夫はK繻珍羽織。天鵞絨の脚半をつく。次に鑓百本二行。持夫は金紋羽織を着す。次に武者百人二行。K實に緋威の金甲。前立物金輪。貫梨地の太刀を佩たり。次に兒廿人二行。剪綵花を簪とす。左はK繻子の直垂。右は赤繻子の直垂。樣々の縫物す。次に社人六十人。K白の縞の衣。猩々皮の羽織。菖蒲革の袴をつく。次に軍配圍扇四本。紗地に御紋を縫たり。次にK袍の神主馬上に太刀を佩行。一人は神釼を錦袋に入て背に負。一人は御旗を錦袋に入て負たり。次に御旗八本。次に猿面をかけ。猩々皮の羽織きたる童子卅八人。次に猿卅三匹。各色の衣を着せしあ猿引卅三人も各色の衣を着て。笛皷を携て拍子す。次に造り獅子二匹。次に兒八人二行。冠に金襴の直垂を着す。次に兒五十人。鳥甲に剪綵花をさしはさむ。次に大太鼓二。次に鐘二。白張これをうつ。次に白張百人二人二行。次に黃直垂百人二行。次に黃衣僧十人。次に鷹の造物十二据二行。次に御手鷹二据。萌黃の狩着衣たる鷹師二人これを臂にして。御宮前にてこれを放ちさらしむ。次に松平右衞門大夫正綱。秋元但馬守泰朝。束帶。次に神輿。舁夫數十人。白張なり。御跡より神主十人。次に素襖着の侍百人二行。次に麻の上下着たる侍百人二行。次に太鼓一。次に黃衣僧五十人。次に山王權現神輿。白張數十人これをかく。次に素襖着五十人。上下着五十人。次に太鼓一。次に摩多羅神。輿舁夫上に同じ。次に素襖着五十人。次に上下着五十人。次に太鼓一。次に山伏八人。白衣錫杖をもつ。次に山伏十六人。篠懸にて金剛杖をもつ。次に山伏五十人。篠懸にて貝をふく。是より後この式を以て永制と定らる。(東武實錄。ェ永系圖。家譜。創業記。貞享書上。元和日記。元ェ日記。)
○十八日御神前にて宸筆の御經供養あり。御所つとめて詣給ひ。御聽聞所にならせらる。御束帶。廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿。日野大納言資勝卿。西園寺中納言公益卿。冷泉中納言爲滿卿。西洞院宰相時慶卿をはじめ。公武ことごとく着座し。僧綱凡僧みな群參す。大僧正天海御導師つかふまつり。高く法則をとなへ神コを哥頌す。咒願師は梶井門跡最胤法親王。證誠は正覺院權僧正豪海。散華被物は正親町少將季俊。水無P少將兼俊。北畠少將親顯。藤谷少將爲賢。園少將基音。藤右衛門佐永慶。高倉少將嗣良。東坊城少納言長維。綾小路侍從高有。竹內刑部少輔孝治。樋口侍從信孝。平松侍從時庸。土御門左衛門佐久脩。廣橋民部少輔在村。壬生極搓F亮。差次藏人某。C藏人賢忠役す。伶人左右の幄より臺にのぼり舞樂を奏す。今日は御齋會に准ぜらるるがゆへ。廣橋頭辨兼賢。烏丸右中辨光賢奉行たり。ことはてゝ後又御本地堂供養あり。大僧正天海導師として法華曼荼羅供執行し。廣橋。三條。日野の三亞相。四辻宰相季繼卿着座す。これも御齋會に准ぜられ。柳原頭左中辨茂光。竹屋左少辨光長奉行す。この日松平下總守忠明は。大坂より日光山に參着して拜謁し奉る。(慈眼行狀。家譜。)
○十九日奥院御廟塔供養あり。(東武實錄。紀年錄。)
○廿日日光山をいでまして江戶へ赴かせたまふ。法華万部供養あり。これにあづかる僧凡三千五百口。導師は天海。證誠は最胤法親王。咒願は豪海。其外月卿雲客の着座。花籠被物等前に同じ。(國師日記。慈眼行狀。東武實錄。)
○廿二日江戶城に還御なる。(國師日記。)
○廿九日日光山御祭祀により參向の月卿雲客。江戶へ參り拜謁す。けふ饗宴開かれ猿樂催さる。照高院門跡興意法親王。梶井門跡最胤法親王幷廣橋大納言兼勝卿。三條大納言實條卿は御前にて饗せられ。其他の公卿殿上人は。日野亞相入道唯心及金地院崇傳伴食して饗せらる。(國師日記。)
○卅日高雄法身院京より參る。(國師日記。)
◎此月この六月に御上洛あるべしと仰出され。小澤P兵衞重之。山岡五カ作景長。供奉の人々宿割の事命ぜられ江戶を發す。また今度日光山廟社造營の奉行としてまかりたる本多藤四カ正盛。壬生に於て切腹せしめらる。こは去年よりこの造營奉りて。日根野織部正吉明。山城宮內少輔忠久。糟谷新三カ案內して登山せしに。糟谷はやがて病にそみ江戶にかへりて死しぬ。春にいたり造營やゝ成功するに及び。奉行等土木の費用を會計せんとするに。吉明正盛二人は大酒を好み。常に山中にても長夜の宴をのみなし。會計急にとゝのひがたく見えしゆへ。忠久しばしばこれをうながしけるを正盛憤り。醉に乘じ刀のこじりにて。忠久が鬢をつきければ。忠久怒るといへども公事はてざる間。私の爭論すべきにあらずと强て怒りをつゝみいたりしが。この月に至り山中酒掃までことごとくなし終り。會計の簿書も淨寫なりしかば。松下孫十カ長勝へこれをさづけ。其身は江戶にかへり參るとて。宇都宮驛にて自殺せり。其事查撿に及び。終に正盛も自殺命ぜられしとぞ。(續年錄。) 
卷四十六 / 元和三年五月に始り八月に終る 

 

○五月朔日參向の門跡月卿雲客。歸洛のいとまたまはる。賜物梶井門跡最胤法親王は銀千枚。廣橋大納言兼勝卿。西三條大納言實條卿は銀五百枚づゝ。日野大納言資勝卿。西園寺中納言公益卿。冷泉中納言爲滿卿。銀二百枚づゝ。阿野宰相實顯卿。C閑寺宰相共房卿。四辻宰相季繼卿。廣橋頭辨兼賢。柳原頭左中辨茂光は銀百枚づゝ。竹屋左少辨光長。烏丸右中辨光賢。東坊城少納言長維。藤右衞門佐永慶。正親町少將季俊。水無P少將兼俊。北畠少將親顯。土御門左衛門佐久脩。竹內刑部少輔孝治。高倉少將嗣良。園少將基音。綾小路少將高有。樋口侍從信孝。平松侍從時庸。藤谷少將爲賢。唐橋民部少輔在村。壬生極搓F亮。差次藏人某。C藏人賢忠銀五十枚づゝかづけらる。此日大雹。諸國の麥圃大に損ず。石川與次右衞門永正死して。其子助左衞門重正家をつぐ。(國師日記。東武實錄。)
○二日岡田太カ右衞門利治死す。二子兵部少輔利良。嫡孫內記利永。先に召出されて。采地たまはりしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○三日出羽國山形城主最上駿河守家親遺領五十一万石を。その子源五カ義俊につがせらる。ときに十二歲。この家親はもとの出羽守義光が二男なり。天正十九年奥州九戶が謀叛のとき。大御所にもとつて下らせ給ひ。大森に御陣さだめてましましける時。家親僅に十歲。父義光ともに參陣したり。其時義光この家親を以て。御家人に參らせんと申す。當家にて大名の子を御家人になさるゝ始なれば。スばせ給ふ事斜ならず。文祿三年八月五日家親十三歲の時。江戶に召れ御前にて元服させ。御諱の字たまはりて家親となのらせ。やがて御執奏有て從五位下に叙し。駿河守と稱せしめらる。慶長元年より江戶に近侍し。五年奥の御陣にも御所の御供して。下野國宇都宮にいたり。後に信濃國上田の城責にしたがひ。十年四月八日從四位下侍從にのぼり。その後は御謠初の座に列り。又中山王尙寧が聘禮進らせし時よりして。時宜に應じて奏者をつとめ。十九年父義光卒するにより。いそぎ封地におもむき國政を沙汰せしめらる。その二月六日襲封す。大坂の軍起るに及で。家親從軍の事をこひ申けれども。幼年より御心安くめしつかはれしとて。江戶の留守を命ぜられ。元和元年御凱旋の後。留守の賞とて韮山則重の御刀を給ひ。この三月六日山形に於て。三十六歲にて卒せしなり。(義俊が襲封を東武實錄及び貞享書上三日とす。今これに從ふ。重修譜には九日とす。)義俊襲封を謝して銀五百枚。綿五百把。蠟燭千挺。馬一疋。守家の太刀を獻ず。又父家親が遺物とて。長光の刀唐肩衝を獻ず。(後に㝡上肩衝と名付らる。)この日立花主膳正直次子彌七カ種次初見し奉る。島津陸奥守家久參覲す。(貞享書上。ェ政重修譜。藩翰譜。東武實錄。國師日記。)
○五日蒲節例のごとし。土井大炊頭利勝。本多上野介正純。酒井雅樂頭忠世を松平筑前守利常のもとに御使し。御上洛の日次幷に其邸に渡御の日次を仰下さる。この日島津陸奥守家久拜謁し銀千枚卷物等を獻ず。(國師日記。)
○六日日光山御遷宮の御祝として猿樂催さる。諸大名みる事ゆるされ饗せらる。(續年錄。)
○八日日光山御遷宮の時。勅使以下參向の謝として。京に大澤兵部大輔基宥御使命ぜらる。(東武實錄。)
○九日㝡上源五カ義俊襲封せしめられしによて。其令を下されしは。今度駿河守家親が遺封を襲しめ給へば。祖父出羽守義光。父駿河守家親が定め置たる制度をたがへず。万事沙汰すべし。家臣婚嫁二千石以上は公にうたへ。御ゆるしを得てはからふべし。以下はうたふるに及ばず。但其人によりては小祿の者たりとも。聞え上て後命ずべし。訴訟裁斷は先代のごとくはからふべしといへども。もし會議して定め兼る事は。聞え上て御旨をこふべし。父祖の時任じ置たる有司等を私に變易すべからず。もし闕曠せば其旨を聞え上べし。父祖勘發して封內に入る事を禁ぜし者を。許容して立入しむべからず。家人の俸祿を加揩キるか。新に召かゝゆるものは。義俊幼稚のほどは。公に聞え上て御沙汰を待べし。家士等朋黨を結ぶ事。嚴に禁ずべしとなり。(東武實錄。武家嚴制錄。)
○十二日明日松平筑前守利常の邸へ成らせ給ふにより。老臣幷金地院崇傳等その邸に集會して作法を議す。(國師日記。)
○十三日松平筑前守利常の邸に渡御あり。まづ露路口より茶室にならせられ御膳を奉る。日野亞相入道唯心。藤堂和泉守高虎御相伴に參る。御膳部は杉足打。御相伴は杉平具なり。御茶終て書院にならせられ熨斗を奉り。御祝の御膳奉り。御三献有て利常御盃を給ふ。廣間へ成せられて利常へ守家の御太刀。一文字の御刀。平野藤四カの脇差。(此御脇差は中納言利長さきに献ぜし所なり。)暑衣百。袷百。單物百。小袖百。八丈縞三百端。銀三千枚たまふ。利常よりも守家の太刀。鞍置たる馬一疋。時服百。袷百。白糸百斤。紅糸百斤。繻珍緞子百卷。黃金三百枚。綿千抱を。梨地に葵をまきたる長持三十棹に入て献ず。次に家司等拜謁す。山山城守。本多安房守は太刀一振。時服廿づゝ。奥村河內守。松平伯耆守。神屋信濃守。山大膳亮。山式部少輔。畠山下總守。今村內記等太刀一振。時服一襲づゝ獻ず。この輩みな白銀時服給ふ事差あり。次に猿樂七番。加茂。八島。夕顏。鐘馗。芦刈。三輪。祝言。狂言三番。はてゝもとの書院へかへらせ給ひて。七五三の御膳を奉る。あるじ利常幷に亞相入道唯心。水無P親具入道一齋。藤堂和泉守高虎御相伴に候す。引替の御膳奉り。貞宗の刀。新見藤四カの脇差を獻じ。酒井雅樂頭忠世披露す。又御盃酌あり。御酌は板倉周防守重宗。御加は永井信濃守尙政。御給仕は山大藏少輔幸成。酒井下總守忠正。菅沼主殿頭定官。鳥居讃岐守忠ョ役す。御膳はてゝかさねて廣間へならせられ。猿樂御覽じ給ふ。次に酒菓もりて。剪綵花かざりし五合の折櫃十。おなじく金銀の色繪かきたる小桶龜足五十。蓬萊の島臺。富貴の臺。山鳥瀧の臺。七曜龍の臺。源氏の臺。龍虎梅竹の臺。人丸の臺。三星の臺。二星の臺等を置。猿樂四座の大夫唐織の小袖。役者へ小袖。舞臺には鳥目五百貫づゝ置てあたへたり。供奉の輩三百五十人へは五々三の膳部。走り衆二百人へは三汁七菜。中間二百人三汁五菜を供す。猿樂はてゝもとの露路より還御なる。(東武實錄。ェ永系圖。家譜。)
○廿日酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信連署もて。東海道の領主へふれしは。驛々木錢は。一人每に京錢四文。馬一疋に八文とさだめ。逆旅賃とせらるれば。各領の驛々に令すべし。もし旅人薪をもたらして用ゆるときは。木錢半たるべし先に令せられし如く。彌錢の善惡をえらぶべからず。此旨かたく令すべしとなり。(東武實錄。)
○廿二日木村源太カ元正死して其子甚九カ勝元つぐ。二子猪右衞門保元へ勝元の䕃料二百石をたまふ。(家譜。)
○廿四日松平陸奥守政宗御上洛の供奉つかふまつらんがため江戶に參る。上杉中納言景勝。佐竹右京大夫義宣等もおなじく參る。(貞享書上。國師日記。)
○廿六日御上洛によて令せられしは。こたび供奉の輩脇道すべからず。市中に於は家際左右を除て通行すべし。喧嘩。爭論。火災。その外何等の事ありといふとも。番頭組頭の指揮なくば。其身はさらなり奴僕までも其所に馳集るべからず。これにたがふものは曲事たるべし。路次中御着座の時は馬より下り。馬は其所に置て人を通じ。其次に馬。其次に器械を通すべし。御着の時當直の外は御供すべかず。目付諸番頭諸奉行はいふまでもなし。たとひ何等の者申といふ共。法制の旨違犯すべからず。馬上のとき召具する歩卒は。龓二人。沓持一人。草履取一人。鑓持一人。この外に若黨を從ふべし。騎馬のうちへ乘替の馬引入べからず。たゞし召有て參る者はこのかぎりにあらず。組頭なき徒は日行事を定め。御旅館に伺候すべし。供奉の時馬の口をとらせ。あるは高聲する事を禁ず。諸器械入まじゆべからず。市中にて馬の口洗ふべからず。又馬に聲かくべからず。小荷駄は右の方を通すべし。たゞし山坂にては山に付て通るべし。御着座のとき市中にて笠巾をとるべし。この件々違犯のやからは。過料銀一枚出さしむべし。もし目付番頭諸奉行過料いだすべき程の事を見聞しながら。ゆるし置に於ては。これも銀二枚出さしむべしとなり。又令せらるゝは。路次にて沓打時。其主をあふぐべからず。宿牌ある所はたとひ人あらずとも。みだりに入べからず。容姿俳優に似たる者を具すべからず。驛路にて沓鞋を始め何品を買事。其賣主うけひかざるか。又は惡錢あたふる事かたくなすべからず。逆旅にては定制の木錢をさづけ。旅宿の主より請取の券とるべしとなり。この日牛奥太カ右衛門昌雄は。養父三右衛門昌茂がとき給はりし甲州六十貫文の采邑を改て二百石下さる。山角紀伊守定勝二子文右衛門定信召出され。二百石賜ふ。(條令。東武實錄。家譜。)
○廿七日松平主膳正信正死す。子なくして家たゆ。(家譜。)
◎この月村上三右衛門吉正初見し。小佐手新八カ信房三子左助信次めし出さる。榊原八兵衛正成子喜兵衞正重めし出され大番にいる。眞田仙千代信政叙爵して。大內記とあらたむ。代官五味金右衛門豐直。御上洛に先達て發程し。驛路にて錢の事を令し。もし令にそむき錢をえらび用ゆるものあらば。面に烙印すべしと命ぜらる。(ェ永系圖。家譜。)
○六月朔日出仕例のことし。(國師日記。)
○二日林道春信勝御先に江戶を發し上洛す。(國師日記。)
○三日金地院崇傅いとま給はり。銀五十枚。時服五領かづけられ御先に上洛す。(國師日記。)
○六日松平陸奥守政宗御先に發程す。(貞享書上。)
○七日寺澤志摩守廣高御先に江戶を發す。(國師日記。)
○十二日江城御發駕あり。今夜神奈川にとまらせ給ふ。保科肥後守正光。同彈正忠正貞。松平千コ定房。一柳監物直盛。同丹後守直重。松平丹波康長。太田原備前守晴C。仙石大和守久隆等供奉す。小笠原安藝信盛は相州走水に勤番せしめらる。(續年錄。ェ永系圖。家譜。貞享書上。)
○十三日藤澤(續年錄。)
○十四日小田原。(續年錄。)
○十五日三島。(續年錄。)
○十六日蒲原。(續年錄。)
○十七日駿府にとまらせ給ふ。この晝C水に御やすらひありて。久能山に詣給へり。(續年錄。)
○十八日駿府御滯留。(續年錄。)
○十九日田中にやどらせらる。喜多院松林院はじめ寺僧等まいり謁し奉る。この日土用にいる。(續年錄。國師日記。)
○廿日(是より前十九日までは。日々御旅館續年錄にしるし。此後は闕てしるさず。今御年譜慶長十九年十月御上洛の日次により。推考して闕文を補ふなり。)この日懸川にとまらせ給ふ。城主松平河內守定行が子刑部定ョ初見し奉る。時に十一歲。御手づから御刀を賜ふ。(貞享書上日をしるさず。推考してこゝにしるす。)駿河宰相ョ宣卿はけふ武田へ參着あり。(貞享書上。國師日記。)
○廿一日中泉にやどらせ給ふ。福島左衛門大夫正則この日從四位下に昇り。參議に任ぜらる。(貞享書上。)
○廿二日M松に御とまりあり。この日江原玄蕃金全死して。子與右衞門宣全つぐ。(ェ政重修譜。)
○廿三日吉田。
○廿四日岡崎。
○廿五日名古屋。
○廿六日岐阜。
○廿七日柏原。
○廿八日膳所につかせらる。金地院崇傳等御迎に參り謁す。(國師日記。)
○廿九日伏見城に入らせ給ふ。(國師日記。)
○晦日傳奏の公卿院の御使。其外眤近の公卿皆參謁す。各直垂なり。よて直垂召て御對面あり。諸大名皆直垂大紋にて出仕す。(國師日記。)
◎この月山崎甲斐守家治は。因幡の若櫻より備中の成羽をたまふ。(家譜七月とす。今はェ永系圖による。)また鷹司太閤信尙公へ。銀ならびに時服つかはされければ。自書もて謝せらる。有馬中務少輔忠ョは仰により兵部大輔と改む。又西ク孫四カ正員伏見城加番を勤む。(ェ永系圖。國師日記。東武實錄。ェ政重修譜。)
○七月朔日內藤若狹守C次卒す。男子なかりしかば弟萬次カC政に遺領二萬六千石を襲しめらる。時に十五歲なり。C次は故修理亮C成が子にて。幼より御側につかへ奉り。後に書院番頭になり。采邑五千石給はり。慶長五年從五位下に叙し若狹守と稱し。十三年父が遺領をつぎ。庇䕃の料をあはせて二萬六千石領し。與力同心をあづけられ。十九年大坂の軍には。酒井河內守重忠同備後守忠利と共に。江戶に留守して諸事を沙汰し。後に奏者の事奉はる。元和元年には大坂の御軍に供奉し。城陷に及んで水野隼人正忠C。山伯耆守忠俊と同じく。櫻門極樂橋を警衞し。閏六月廿一日御參內の供奉し。二年備後守忠利伯耆守忠俊と共に若君につけられ補導の職にぬきんでられ。此日四十一歲にて卒しぬ。(ェ永系圖。東武實錄。ェ政重修譜。藩翰譜にC次が子を百助正勝とし。外祖板倉周防守重宗が請により。封地收公せらるゝとするは大なる誤なり。C次が遺領を弟C政に給り。C政死たる時又其遺領を第三の弟正勝にたまはる。正勝死したるとき。其子重次幼なかりしかば。一族の願により所領收められ。重次に五千石たまはり後に三萬石になさる。いまの內藤大和守ョ以が家祖なり。本文は重修譜の說を用ゆ。)
○三日本多彌左衞門正重卒す。其子源十カ正貫に遺領一萬石の內八千石をつがしめらる實は外孫なり。此正重は佐渡守俊正が四子にて。正信がためには弟なり。始めは三彌といひ。後に三彌左衞門と改めしとぞ。兄正信と共に早くよりつかへ奉りつるに。一向專修門徒等が蜂起せし時針崎に立こもる。翌年門徒等罪ゆるされしかば。めしつかはれしに。永祿十一年十二月十五日今川氏眞がこもりたる遠洲懸川の城責に。眞先かけて敵の首級を得。元龜元年姉川の合戰にも敵の首をきり。同三年九月一言坂にては。武田勢の中へ引かへし勇をふるひ。其十二月三方が原の戰に。武田が大軍を打やぶる事七度。身疵を蒙ること四か所。二俣の戰に武田がつはもの新村某が首をきる。天正三年五月長篠の戰にもよく戰て首をうる。其後三河國を去て尾張國に行。瀧川左近將監が旗下に屬し。足輕大將となりて播磨國神吉の城を攻やぶり。十二年には前田筑前守利家が足輕大將となりて。末森の城の後卷し。佐々內藏助成政が勢と戰ひ。十五年豐臣關白筑紫征伐せれしときには。蒲生飛驒守氏クが軍奉行して魁し。慶長元年に至て伏見城に召れ。再び見參してもとの如く召つかはれ。五年關原の戰にしたがひ奉り。軍中の撿使をつとめ。七年十月二日采邑千石給はり。十九年大坂の役には御所の御供して軍謀に與參し。去年七月下總相馬郡にて所領たまはり。はじめて一万石になされ。けふ七十三歲にして卒しぬ。(家譜。ェ政重修譜。藩翰譜。世に傳ふる所は正重剛勇なるのみならず。正直なる人なりしが。ある寒夜に大御所の御前に參りしに。其時御夜食めし上らるとて鵠の汁を供せしに。兄正信にも御相伴に候しゐたり。折ふし御旨こふ事どもありて時うつり。その汁をめし上られ。常の汁ならんにはかほど時うつらば冷になるべきに。此あつものゝかく暖なるをみるに。いかにも大鳥は又ことなるものなれ。老人の服餌して養生になるべしと仰ければ。正信何とか答奉らんとするをみ。正重進み出。さればこそ此正重がごとき小鳥は。今の間に氷付て候べしといひすててまかりいづ。大御所も打わらはせ給ひ。正信にむかはせられ。汝が弟いまに心おとなしからず。あのこゝろなるゆへに。大名にはとり立かぬるものをと仰けるとぞ。藩翰譜。)
○八日代官糸原甚兵衛正安死して。其子甚左衛門重正家をつぐ。(家譜。)
○九日京五山天龍寺。相國寺。建仁寺。東福寺。万壽寺幷大コ寺。妙心寺の碩學等。伏見城にのぼり拜し奉る。その外寺僧社人群集す。板倉伊賀守勝重ならびに金地院崇傳指揮し。諸老臣は御次に伺候す。この日多賀吉左衛門常直死して。その子左近常長家をつぐ。(國師日記。ェ政重修譜。)
○十四日本多美濃守忠政。伊勢國桑名より播磨國姬路にうつる。五万石加へて十五万石になさる。松平隱岐守定勝は伏見城より桑名にうつる。六万石加賜ありて十一万石になされ。長子河內守定行遠江國懸川城三万石の地は收められ。ともに桑名に赴くべしと命ぜらる。(ェ政重修譜。貞享書上には六月の事とす。いま本多が重修譜によりこゝにいだす。)
○十六日福島備後守正勝從四位下にのぼせらる。神谷助兵衛直C死して。其子小作直次つぐ。(家譜。)
○十七日島津陸奥守家久參議に任じ。吉光の御刀を給ふ。(ェ永系圖。武家補任。東武實錄。紀年錄十八日とす。今はェ永系圖にしたがふ。)
○十九日尾張宰相義直卿。駿河宰相ョ宣卿共に權中納言に任ぜらる。(藩翰譜備考。)
○廿日酒井左衛門尉家次。上野國高崎より越後國高田にうつり。五万石加へて十万石になされ。松平伊豆守信吉常陸國土浦より高崎にうつり。一万石加へて五万石になされ。小笠原右近大夫忠眞信濃松本より播磨の明石城にうつり。二万石加へて十万石になさる。脇坂淡路守安元は伊豫國大洲より信濃の飯田城にうつり。二千石加へて五万五千石になさる。加藤左近大夫貞泰は伯耆國米子より大洲にうつり。舊のごとく六万石たまふ。是みな大坂の軍功による所とぞ。また諏訪因幡守ョ水子小太カ忠恒。從五位下に叙し出雲守に改む。(ェ永系圖。ェ政重修譜。紀年錄。)
○廿一日伏見城より御參內あり。夕ぐれ伏見に還御なる。島津陸奥守家久等供奉の大名雲霞の如し。今日丹羽勘介氏信從五位下に叙し。式部少輔と改め。松平庄次カC昌も叙爵して。玄蕃頭と改む。又和州長谷寺の條約を。小池坊僧正に下さるる。其文にいふ。學問修行のため住山の僧。二十年にみたざる間は。法幢を執べからず。坊舍幷に寺領を私に賣買すべから所化等もし能化の命を用ひず。非法の擧動するものあらんには。寺中を追放すべしとなり。又山城の高臺寺に御朱印を下さる。本寺領山城國葛野郡太秦內市川村百石。攝津國天王寺邊湯屋島四百石。惣計五百石。幷に山林竹木門前境內諸役免許の事。彌慶長十七年五月朔日先判の旨にまかせ。永く相違あるべからずとなり。又金地院に山城國安井村內二百石。同國靜原市原野。東九條北山大小五箇所の內七百石。河內國龜井八尾兩村の內千石。惣計千九百石。幷各所山林門前境內竹木人足等自餘に混せず。守護不入の制慶長十六年十九年元和元年三通先判の旨にまかせ。永く相違あるべからずと之。又菩提山寺の地生院普門院には大和國添上郡池田村三百石。幷寺廻竹木山林等。慶長七年八月六日先判の旨にまかせ。永く進退相違あるべからずとなり。又服部權大夫政信。久貝忠三カ正俊は。脇坂淡路守安元が轉封の地監使命ぜられまかるにより。老臣幷板倉伊賀守より下知をつたふ。信州伊奈郡にて。先に小笠原右近大夫忠眞が領內五万石を。今度脇坂淡路守安元にたまはるにより兩人監使命ぜらる。よて彼地竹木幷城內の事はいふまでもなし。家具等紛失せしむべからずとなり。又轉封の輩に下知をつたへしは。今度轉換により各就封する輩。百石に馬一疋。夫一口にて二日路送るべし。尤荷物以下定制のごとく違失なく送るべし。從者は上下とも轉換の地まで陪從し。就封の後其主と相議して歸國すべし。しからん時は其主も相違なく歸すべし。每家建具は下々にいたるまで。違失すべからずとなり。又本多美濃守忠政就封により御K印を下さる。竹木一切伐取べからず。武具其他諸器械轉封の地へ引取べし。種借の事城廪より借出せしは返辨せしむべし。借物の事各所へ高札を立て令すべし。未進は悉く棄捐すべし。未進のため驅使する男女も。ともに棄捐たるべし。奴僕は主從心まかせにはかるべし。歲俸悉く受取たる者は。約期のごとくつとめしむべし。されど歲俸を返納するに於ては。其者の心にまかすべしとなり。又上州廐橋城主酒井河內守重忠卒す。其子雅樂頭忠世。庇䕃の料をあはせ父の遺領と共に八万石を領せしむ。この重忠は故の雅樂助正親が長子にて。永祿十二年懸川の城責のときに。父正親と共に供奉し。元龜元年六月姉川の戰にも從ひ。天正四年家つぎ。三州西尾の城主たり。このゝち田中高天神の城責にも扈從し。十年明智光秀が亂逆によて。堺浦より大和路をへて。伊賀路より伊勢の白子浦にかゝり御歸國あるとき。このよし聞とひとしく。速に船を出してむかへ奉りしに。金鐘の御船印を御覽あり。重忠はやくも御迎に出たるを感じ給ひ。其船にのりうつらせられ。岡崎へかへらせ給ひ。重忠が擧動を賞せられ。其御船印を賜はりければ。これより重忠その御船印をもて馬驗とす。十一年織田信雄のもとへ密使つかふまつり。仰により弟與七カ忠利と共に。尾張の丸子城を守り。十二年四月長久手の戰にしたがひ。其後豐臣關白と御和議なりて。關白の妹君十四年五月御入輿ありし時御輿を接受し。十八年關東にうつらせ給ふ時。武藏國川越の城給はり一万石領し。文祿元年肥前名古屋御發向のときは。江戶に留守し。これより先家臣二十四人を附屬せられ。慶長二年千姬君御誕生のとき。蟇目をつとめ。五年奥の御陣にしたがひ。關原の戰にも供奉し。戰終て後特旨をうけ。弟忠利とゝもに大津の城を守る。六年三月三日川越より。上野國廐橋城にうつり。益封有て三万三千石になされ。十年二月今の御所御上洛の供奉し。大坂兩度の御陣には江戶に留守し。粮米運漕出入以下の事を沙汰し。この日廐橋にをいて六十九歲にて終りをとる。(國師日記。貞享書上。家譜。令條記。東武實錄。雜記。ェ政重修譜。)
○廿五日戶田左門氏銕江州膳所より攝州尼崎にうつり。二万石加へて五万石になさる。(戶田尼崎轉封の事。ェ永系圖。藩翰譜。家譜此年とす。重修譜には二年とすといへども。國師日記にも此年の事にみゆれば。今重修譜の說はとらず。)阿部四カ五カ正之監使にさゝれ伯耆國に赴き。加藤左近大夫貞泰より同國米子城を受取。龜井豐前守政矩に石見の津和野城引渡しの事命ぜらる。(ェ永系圖。東武實錄。)
○廿九日松前隼人正忠廣は。病によて御跡より上洛するとて。勢州桑名に至り終にたゝずなりしかば。その子民部直廣家繼しめらる。此日美濃部地藏大夫茂數死して。子八藏茂俊家をつぎ。茂俊が庇䕃料二百石を加賜ありて。五百十一石餘を領す。(家譜。ェ政重修譜。)
○八月朔日越智長大夫吉次初見し奉る。父彌三右門吉廣が務に代り。五畿內諸島の事を沙汰し百二十石を賜ふ。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○十二日淺野但馬守長晟の子生る。岩松と名づく。是大御所第三の姬君の御腹なりしかば。御使して祝物を遣さる。(ェ永系圖。)
○十三日高林與五右衛門昌重死す。その養子又十カ直次慶長六年より别に家を起し。二子與五右衛門正成後にめし出さる。(家譜。ェ政重修譜。)
○十五日伏見西城に於て。五山をはじめ京中の寺社人に時服を頒賜せらる。永井右近大夫直勝。阿部備中守正次幷金地院崇傳これを沙汰す。(國師日記。)
○廿日朝鮮國王李琿聘使を奉る。これは大坂平均を賀しまいらする所なり。今日信使吳允謙朴梓李京稷をはじめ。韓人四百餘人入洛せり。例によりて紫野大コ寺(一に天瑞寺ハ見院に作る。)を旅館とし。所司代板倉伊賀守勝重饗應す。三使は七五三の膳部。通事等は五々三。其以下供給差あり。(通信惣錄。)
○廿一日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重。紫野の大コ寺に赴き。韓使慰勞の命を傳ふ。兩使衣冠なり。(通信惣錄。)
○廿三日宗對馬守義成。柳川豐前守調興伏見城にまうのぼり。拜謁してもの奉る。韓使を引具し上洛せしが故なり。(通信惣錄。)
○廿六日宗對馬守義成朝鮮信使を引つれ伏見城にのぼる。よて巳刻御衣冠にて。西城前殿の上段におます。上段には重ね疊の上に蒲團をしき。其上に御茵をかさね。御刀架を左に設く。朝鮮國王よりの獻物鷹五十聯。虎皮三十張。豹皮三十張。人參二百斤。金襴三十疋。花絲𥿻五十疋。帽段百疋。白苧布五十疋。白紬五十疋。K麻布二十疋。花席廿卷。皮十枚。墨三十挺。黃毛筆二百ネ。白紙三十卷。東南の庇に陳烈す。眤近の公卿幷諸大名。各衣冠にて侍座し。板倉伊賀守勝重。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信等は御前の庇に伺候す。この時三使吳允謙朴榟李京稷御前にいでゝ拜し奉る。大澤兵部大輔基宥。朝鮮國王李琿が書簡をもち出で。御前に置て退く。三使上段の閾に近より三拜し。退て西に向ひ座す。次に通事等板緣より出て疊にのぼり。三拜して三使の後に座す。次に上官等三列して緣上に出て三拜し退く。次に其以下の輩は庭中に出て。三拜して退く。次に近習の諸大夫上段の御簾を下し。外樣の諸大夫下段の御簾を下す。次に板倉周防守重宗永井信濃守尙政等の諸大夫御酌御加の役して三使御盃を給ふ。其時伊賀守勝重。上野介正純。大炊頭利勝。對馬守重信等。通事官朴大根を揖すれば。通事官三使の謝詞を奏す。三獻はてゝ奥にいらせ給ひて後。尾張中納言義直卿。駿河中納言ョ宣卿出座せられ三使に饗膳を賜ふ。七五三。通事官以下はみな御次にて椀飯を給ふ。巳刻に及て聘使退出す。重て前殿に出まし。尾張駿河の兩中納言及び上杉中納言景勝。越前宰相忠直。松平陸奥守政宗以下の諸大名拜謁し。聘禮の事なく行はれしを賀し。又松平右衛門大夫正綱。伊丹喜之助康勝に命ぜられ。韓使の歸路をむかへ。大佛殿に於て饗宴をたまふ。金地院崇傳は奥に召て。朝鮮の書簡をよましめられ。御返簡を製すべしと面命せらる。又仙洞(後陽成院。)このほど久しく御不豫にわたらせ給ひければ。典藥寮をはじめ。都鄙の名毉をめしのぼせ。御治療手をつくし。諸寺諸山の御祈ども數をつくされしかど。しるしなくこの夕終に崩じ給ひぬ。寳算四十七にぞわたらせ給ひける。喜多見五カ左衛門勝忠。五味金右衛門豐直。御葬禮の事を沙汰せしめらる。(國師日記。通信惣錄。東武實錄。家譜。)
○廿八日金地院崇傳朝鮮國王へ贈らせ給ふ御返簡草案。二通製し御覽に備ふ。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。板倉伊賀守勝重等御前に伺候して議定す。この日住吉の社人へ御朱印を賜ふ。攝津國闕郡住吉クのうち二千六十石の事は。元和元年七月廿七日先判の旨にまかせ社納せしめ。永く相違あるべからずとなり。又妙國寺へ下さるゝ御朱印にいふ。攝津國闕郡桑津村のうち百廿石の事。先々のごとく寺納せしめ。永く相違あるべからずとなり。又連歌師里村昌琢に。豐臣太閤よりあたへられし采邑百石。其まゝ賜はるとて御朱印を下さる。(異國日記。所見雜記。ェ政重修譜。)
○廿九日金地院崇傳御前に召て。朝鮮國の禮曹參判尹壽氏より。我國の執政へ贈りし書簡をよましめらる。彼國には文祿の戰爭に。生擒せられて異域の累囚となる者幾千万人かあげてかぞへがたし。先に放ちかへさるゝ者ありといへども。わづかに九牛が一毛のみ。今兩國ますます敦睦を修められんに於ては。猶殘り留め置るゝ髦倪をことごとくかへして。彼此の交誼を新にせられん事をこふよしをぞしるしたり。よて執政の人々へも。虎皮三張。人參十斤。帽段十匹。墨廿。笏筆四十枝をぞ送りける。これも崇傳をして返簡を作らしめらる。(異國日記。)
○晦日振姬君は淺野但馬守長晟がもとに御再婚の後。此十二日男子設給ひしが。其後御快からず。いくほどなくしてうせ給ふ。よて洛東新K谷金戒明光寺にをくりまいらせ。正C院と法謚し。藝州廣島には别に正C寺を建立し香火院とす。(東武實錄。)
◎是月新見彥左衛門正勝五百石加へて八百十一石五斗をたまふ。又土屋與次カ虎隆。權四カ虎永。國松君に附屬せらる。(家譜。ェ政重修譜。) 
卷四十七 / 元和三年九月に始り十二月に終る 

 

○九月朔日金地院崇傳は。執政より朝鮮國禮曹參判尹壽氏へ返簡の草案をつくりて御覽に備ふ。酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。板倉伊賀守勝重の五人より答ふる所之。かれより贈遺あれば。これよりも謝物をくるべきやと議せられしかど。答禮に及ぶべからざる旨に定らる。雅樂頭忠世は父の喪制にこもりて此議に會せず。島津陸奥守家久は御家號をたまはり。松平薩摩守と稱すべしと面命ありて。貞宗の御刀をたまふ。(異國日記。一說藩翰譜備考に。御家號たまはりしを慶長十一年六月十七日とす。今は貞享書上にしたがふ。)
○五日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重。朝鮮國御返簡を携て紫野大コ寺にいたり。韓使にさづく。韓使等へ歸國の暇を給ふ。御返簡は蒔繪の匣に納め。唐織を以てつゝむ。此他國王へ御贈物銀一万五千兩。金屏風十五双つかはされ。三使へ銀五千兩。金屏風五双づゝたまふ。通事官二人へ銀四千兩づゝ。上官二人銀千兩づゝ。その下諸員へ銀五百枚。從卒等に蚨十萬疋さづけらる。又酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。板倉伊賀守勝重。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信より。禮曹參判尹壽氏に返簡を送る。其趣はこたび文祿の役に囚虜とせし韓人。猶吾邦に殘りとゞまる者多ければ。これを歸し送らん事をこはるゝといへども。渠等全く歸國せんと思ふ者はかへし遣はすべし。もし此國にて妻子を設け。永く此國にとゞまる事をこふ者は。その意に任すべしとなり。宗對馬守義成。柳川豐前調興も。韓人を引つれ歸るにより。共に暇の賜物あり。又智積院に條約を下さる。學問修行のため住山の所化二十年にみたざる者法幢をを立べから。ず所化等能化の令を用ひず。非法の事を企る者あらば。寺中を追放すべし。所化朋黨を結び。訴訟を企つる者あらば。其謀主寺中を追放すべし。若謀主分明ならざる時は。黨中主座の者一人擯出すべしと之。此日間宮左衛門信繁死て。其子藤太カ信之つぎ。父に代り鷹匠及び鐵炮同心支配すべき令ありといへども是を辭す。よて鐵炮同心二十人を。鳥見同心となされ。其給地を給ひ。鷹匠同心を合て四十人を預られ。御手鷹師を支配す。(通信惣錄。紀年錄。令條記。東武實錄。貞享書上。ェ政重修譜。)
○六日春日社幷興福寺領の御朱印を下さる。其文にいふ。千五百五十四石二斗は神。供田幷に社家領。千六百五十一石八斗餘は燈火料幷禰宜領。千四百九十五石二斗は一條院領。九百五十一石七斗餘は大乘院領。二百八十石は喜多院領。二百九十石は院家中領。七千七百廿一石餘は諸院諸坊領。三千四百七十五石九斗餘は五師領。神宮領。千石は學問料として五師の預りたるべし。千七十一石は修理料として五師預るべし。千百九十五石三斗餘は祈禱所の六家宅。幷に會式法會の費用。三十三石二斗餘禰宜居宅料。三百八十石は衆徒方料。十九石九斗餘は辻將監。幷に正寳院及び廊承仕の居宅料。惣計二萬千百十九石五斗餘。全く社納せしむ。五師預り所管すべき事。别錄のことくたるべしと之。此日朝鮮人の献ぜし韓鷹を。伏見在勤の諸大名へ頒賜せらる。又諸老臣會議し。御歸途の日次を金地院崇傳に議せしめらる。本月十三日良辰なりと勘進す。御氣色うるはしく外殿に出まし。松平陸奥守政宗。織田長益入道有樂及び崇傳等拜謁し御物語刻を移さる。(東武實錄。令條記。續年錄。國師日記。)
○七日春日社僧に老臣連署の條約を授く。其文にいふ。春日神供修理。祭禮諸下行幷に學問料。五師所管の地。五千五百八十七石五斗餘は。大和國中各所にて授けらる。納方は寺領幷に喜多院權别當指揮して。一年がはりに寺中より三人づゝ出て。中坊五師時の觸口に會議し。領民の物成を查撿し。唐藏奥院新坊へ納め封記すべし。神供は一月に五十七石二斗七升づつ納苞を以て。明の月の料は前月廿八日衆會して授くべし。各所修理は寺務幷に喜多院權别當。其外役人悉く會議して治定すべし。各所音信贈遺もこれに同じ。每歲十月廿一日會計をなすべし。五師田百五十石。其年の豐凶にしたがひ五師これを納め。口米を以て代官給米に充べし。衆僧三人。現米一人に十石づゝ授け。承仕四人は一人に三石づゝ授くべしとなり。又伊勢國白子觀音寺へ下さるゝ御朱印の文にいふ。伊勢國河曲郡江島村の內三十石。先先のごとく寺納すべしとなり。(東武實錄。令條記。貞享書上。)
○九日南禪寺領。金地院領の御朱印をたまふ。(國師日記。)
○十日朝鮮三使以下。紫野大コ寺の旅舘を發し今夜淀に宿す。板倉伊賀守勝重仰を蒙り。人馬を出し護送し。旅宿にて饗宴を開く。(紀年錄。)
○十一日朽木河內守元綱入道牧齋。金地院傳伏見城にて拜謁し。銀五十枚づゝたまふ。この日池田越前守重利攝州のうちより。播州新宮へ轉封あり。稅額一萬石故の如し。建部三十カ政長攝州尼崎を轉じて。播州揖東郡の內一萬石賜ひ。林田を住所とす。(國師日。記家譜。ェ政重修譜。)
○十二日高野山金剛峯寺衆徒に條約を下さる。衆徒行人諸公事。往古の例にまかせ各别たべし。衆徒領中人夫竹木一職の進退たるべし。山上山下の諸伽藍造營の時は。二萬千石の役夫。双方ひとしく出してつかふべし。人夫着到は双方より奉行を出して。行人方着到は衆徒方にてとり。衆徒方着到は行人方にてとるべし。巖寺は官より建置るる寺なれば。修造の材木幷に薪等。山中に於て其地を定めず。何方の林樹をも伐とるべし。巖寺領二千石の地。千石は住持撿挍の費用とし。千石は衆徒中の碩學八人分ちて費用とし。もし八人の中欠員あらんには。學侶中其者にあたる者。搦氓ノまかせかの欠を補ひ。昇進せしむべし。無量光院の搨nは現住の生涯に限るべし。諸伽藍破壞のときは。衆徒より行人がたへ申をくり修造せしめ。會計の事は行人より衆徒に對し遂しむべし。諸伽藍差别なく。なべて千石の修理料を以て。造營怠るべからず。すべて慶長六年五月廿一日先令のむね。嚴に守るべしとなり。(東武實錄。令條記。)
○十三日伏見城より二條城へわたらせられ。御出京の御首途あり。此日平井三カ兵衛光茂死して。其子甚右衞門茂氏つぐ。此日小澤P兵衞重之。中澤主稅助吉次は江戶城普請奉行。村田權右衞門某駿府の普請奉行命ぜらる。(國師日記。續年錄。家譜。)
○十四日膳所城に御泊あり。(是よりして後。推考してしるす。)城主本多縫殿助康俊御膳を献じ。長谷部國重の御脇差を給ふ。(ェ政重修譜。)
○十五日柏原。此地にて新庄刑部左衞門忠直入道東玉酒肴を献ず。(家譜。)
○十六日岐阜。
○十七日名古屋。
○十八日岡崎にとまらせ給ふ。松平陸奥守政宗は御跡よりけふ京を發す此日本多甲斐守政朝上總國大多喜を轉じ。播磨國龍野にく五万石給ふ。(貞享書上。ェ政重修譜。)
○十九日吉田。
○廿日M松。
○廿一日中泉。
○廿二日懸川。
○廿三日田中。
○廿四日駿府。
○廿五日蒲原。
○廿六日三島。
○廿七日小田原。
○廿八日藤澤。
○廿九日神奈川。
○晦日江戶城へ歸らせ給ふ。
◎此月土岐山城守定義が長子內膳ョ行。時に十歲。次子大學利貞九歲。兩御所に初見し奉る。小野傳三カ高行大番にいる。(ェ永系圖。)
○十月朔日藤堂和泉守高虎に伊勢國田丸に於て。五万石の地をくはへられ。先に弟內匠助正高に賜ふ所の下總國香取郡の所領三千石を合せて。三十二万三千九百石餘を領せしめらる。(ェ永重修譜。東武實錄紀年錄等に。山城大和二州の內とあれ共。重修譜は其家說によれば。今是に從ふなり。正高は大坂陣に軍令をそむき。兄高虎の勘氣をうけしかば。采邑をのぞかれ。後ゆるされてその家臣になりしなり。)
○四日山名平三カ恒豐召出され御家人に加へらる。恒豐が父與五カ堯政は。大坂にありて元和元年の戰に討死す。その時恒豐は祖父右衞門督堯熙をはじめ。家眷を引つれ京に落行て。六條邊に閑居せり。舊臣C水平左衛門正親今は御家人たりしが。年頃主從のよしみを忘れ兼。をのが俸祿を讓り恒豐召出されん事を頻りにこふにより。けふ召出され正親が遺跡二百八十七石を賜はり。C水平左衛門と改む。(家譜。子孫に至り本氏山名に復す。)
○五日松平右近將監成重下野國板橋一万石を轉じて。三河國西尾の城を賜ひ。一万石恩賜ありて二万石になる。(ェ政重修譜。)
○九日大久保助左衛門忠益死す。子與一カ忠辰。前に相摸守忠隣が事に座して。當時御勘氣を蒙り蟄居し。後召返さる。(斷家譜。)
○十四日さきに戶田左門氏鐵に賜はりし攝州尼崎の地に。新城築くべしと命ぜられ。山岡圖書頭景以。戶川助左衛門勝安。村上三右衛門吉正。幷建部三十カ政長かしこにまかり。其事沙汰すべしと命ぜらる。(國師日記。)
○十五日永井右近大夫直勝上野國小幡より常陸國笠間にうつり。一万石加へて三万石になさる。(ェ政重修譜。)
○廿四日駿河中納言ョ宣卿の老臣水野對馬守重史。駿遠二州の內にて一万石餘を加へ給はり。すべて三万五千石餘になる。(家譜。)
○廿六日長崎奉行長谷川左兵衛藤廣死す。藤廣もとは伊勢國司北畠の家人なりしが。慶長八年より召出され。長崎の奉行とせらる。いまだ采邑も賜はらず。子どもみな幼稚なりしかば。浪人してェ永二年にいたり。末子八左衛門廣C召出され。采邑四百石下されしとぞ。(家譜。)
○廿八日去年越後少將忠輝朝臣收公の領地の事奉る田邊十カ左衛門某に令せられしは。越後一國の稅米府下に到着せしは年內に賣拂ひ。其價は時估に從ふべし。他國の米前例のことく。たしかなる奉行を命じ賣拂ふべし。今度改出せし辰巳兩年の辨銀は。速に納むべし。卯年も辰年にをなじかるべし。もし調達なしがたきは。十カ左衛門に辨納せしむべければ。いさゝか緩怠すべからず。筋座吹分座八千兩すくみに定られし後。先座の者一萬兩にうけがふといへども。すでにすくみに定められしによて。今年は八千兩と定め。明年山を查撿して令すべし。男女年期は官法のごとくたるべければ。高札をつかはさるべし。六十枚口の番士持鑓を賣し者四人。磔罪に行ふべし。船を賣しもの同罪たるべし。買者又同じ。もし黨與たりとも自首するに於てはゆるさるべし。小比叡山惡僧幷に勘解由は。繫獄して後令を待べし。上山田村六左衛門又おなじ。河原田城櫓屋舍はこぼち雨覆すべし。小木城は倉庫を設置て。貢銀輸送せんまゝに收貯し。貞實の者を撰みてこれをまもらしむべし。同城の木材雨露に朽損ぜざらんために。覆を嚴になし置べしとなり。又佐渡國に高札を立らる。人賣買の事一切停禁せらる。もしみだりに賣買せば。双方とも損失とし。本人は心のまゝたるべし。もし勾引して賣ひさぐ者は斬に處し。本人は本の方にかへしあたふべし。年期は三年を限り。これを過ば双方曲事たるべし。この令違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。)
◎是月立花主膳正直次が子彌七カ稙次に家つがしめらる。この直次は故高橋紹運入道が二男にて。はじめより筑前國岩屋の城に住す。天正十五年豐臣關白筑紫征伐のとき。兄左近將監宗茂と共に一番に味方にまいる。(時に十四歲。)佐々陸奥守成政が所領肥後國一揆蜂起せしときも。兄弟おなじく兵を出し。成政を助け一揆を伐平らげ。十七年從五位下に叙し主膳正と稱し。文祿元年朝鮮にをしわたり。明軍と戰て大に武勇を顯はし。慶長五年には石田三成にかたらはれ。伏見の城寄手に加はりしかば。關原戰の後本領收公せらる。しかりし後十八年正月廿八日兩御所に拜謁し。十九年十月九日常陸國筑波郡の內にて五千石采邑賜はり。大坂兩度の御陣にしたがひ。この七月十九日四十六歲にてうせぬるなり。又こたび御上洛の時。諸驛旅舍の事沙汰せんためまかりたる山岡五カ作景長。小澤P兵衛忠重。不良の事有て士籍を削らる。又是月より彗星あらはれ十一月に至る。(ェ政重修譜。續年錄。)
○十一月三日伏見城にて番士酒井庄三カ直治。同僚五味金十カ某と爭論して討果す。よて双方その家を除かれ。直治が子源十カ某は父がことに座し。鳥井左京亮忠恒に預らる。(續年錄。ェ政重修譜。)
○五日河野勝左衛門盛政死して。その子源左衛門通利家をつぎ。四子才三カ通安に三百三十石を分ち給ふ。(東武實錄。)
○八日幸松の方を保科肥後守正光養育すべしと密旨ありしにより。けふ俱して信濃國高遠に赴く。これ見性院尼(武田信玄が女にして穴山梅雪が妻なり。)執し申せしによれり。(ェ政重修譜。)
○十三日江戶山王の社へ御朱印を下さる。山王領武藏國淺生クの內百石寄附せしめらる。永く相違有べからずとなり。(東武實錄。)
○十五日川田六カ左衛門貞次子吉兵衛貞利。若君の御かたへ付られ小十人組に入。(ェ永系圖。)
○十七日K川玄蕃盛治死して。其子八左衛門盛至家をつぐ。(家譜。)
○十九日松平右京長次養子十左衛門長正。若君御かたに付られ小十人に入。河野新兵衛通俊死して。その子新七カ通利家をつぐ。(ェ永系圖。)
○廿日永田彌左衛門重春死して。その子善十カ重俊家をつぐ。(家譜。)
○廿一日若君本城より西城にうつらせ給ふ。(續年錄。)
○廿三日若君西城御移徙の賀宴を開かれ猿樂あり。(續年錄。)
◎是月越谷東金邊へならせられ。放鷹の御遊あり。阿倍四カ五カ正之等供奉す。(東武實錄。家譜。)
○十二月二日松平陸奥守政宗放鷹の暇たまはり久岐へ赴く。(貞享書上。)
○十日松平薩摩守家久使もて。花氈十枚。硫黃三百斤献じければ御內書たまはる。(貞享書上。)
○十三日松平陸奥守政宗が長子美作守忠宗には。先代の御末女を降嫁の事仰出されしに。程なく其姬君うせ給ひしかば。生母かちの局深くふししづまれしをあはれみ思召。池田宰相輝政卿の女は御外孫なりしかば。この局に養ひとらせ給ひけり。しかるを今の御所その先志をつがせ給ひ。こたび御養女となされ。忠宗へ降嫁せしめらる。この日申刻御入輿あり。土井大炊頭利勝。渡邊山城守茂。伊丹喜之助康勝等護送す。政宗が家司伊達安房成實虎の門前にむかへて御輿を請とる。大番組頭丸毛內匠利久姬君の執事命ぜられ。實祿四百石の外に千石の地をたまふ。(貞享書上。)
○十六日松前伊豆守慶廣が嫡孫志摩守公廣に其家つがしめらる。此慶廣は若狹守季廣が子たて。文祿二年正月七日初見し奉り。慶長四年蠣崎を改め松前を稱し。十一年城を築き福山と稱す。十四年五月廿八日叙爵し。元和元年大坂に供奉し。二年十月十二日所領にて死せしなり。よて公廣に御朱印を賜ふ。其文にいふ。諸國より松前にいたるもの。領主にうたへずして蝦夷と通商するに於ては曲事たるべし。領主にうたへずして渡海通商する者あらば速に訴べし。夷人は何方へ往來す共心の儘にすべし。夷人に對し非理の事申かくべからず。すべて慶長九年正月廿七日先判の旨。いよいよ相違あるべからずとなり。(家譜。令條記。)
○十七日長井又左衛門吉正死して。其子五右衛門吉次家をつぐ。(家譜。)
○十八日松平陸奥守政宗。美作守忠宗父子まうのぼり。姬君降嫁を謝し奉り。政宗より大刀一振。小袖十。銀二百枚。K毛の馬一疋献じ。若君へ太刀一腰。銀百枚。鴇毛の馬一疋。御臺所へ綿二百把。銀百枚。國松君へ太刀一振。銀五十枚。鹿毛馬一疋さゝげ。忠宗より太刀一振。小袖三十銀。五百枚。鹿毛馬一疋献じ。若君へ太刀一振。銀二百枚。栗毛馬一疋。御臺所へ小袖十。銀二百枚。國松君へ太刀一振。銀百枚。鹿毛馬一疋さゝぐ。政宗へ别所貞宗の御脇差たまひ。忠宗に長光の御刀。貞宗御脇差(太鼓磬と稱す。)を賜ひ。その家司伊達安房成實。伊達安藝定宗も拜謁し時服を下さる。(貞享書上。)
○廿三日久世三右衞門廣宣。坂部三十カ廣勝ともに足輕五十人を預らる。又駿河國龍泉寺に寺領三百石下さる。これより先慶長九年三月十九日三十石よせたまひしを。こたび揄チせらるゝ所なり。よて酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。井上主計頭正就。安藤帶刀直次。彥坂九兵衞光政等この事を沙汰す。(東武實錄。)
○廿五日松平忠左衞門勝隆叙爵して市正とあらため。內藤萬次カC政修理亮と改め。三宅惣兵衞康信越後守と改め。朝倉藤十カ宣正筑後守とあらたむ。(ェ政重修譜。)
◎是月酒井左衛門尉家次三男右京忠重叙爵して長門守と改む。西城留守居番河井五兵衛勝昌等若君に附られ。小十人組番士となる。小姓內匠助知乘廩米五百苞賜ふ。池田備中守長幸が季弟左門長賢。(時に十四歲。)有馬玄蕃頭豐氏三子(幼名詳ならず。)ョ次。山伯耆守忠俊子藤五カ宗俊。(時に十四歲。)吉良上野介義彌子三カ義冬。(時に十一歲。)久世三右衛門廣宣三男三之亟廣之。(時に九歲。)片桐主膳正貞隆子鶴千代貞昌。(時に十三歲。)大草與六カ公信子大學公利。(時に八歲。)高木安右衛門C實子六カ左衞門C正。(時に十二歲。)澤庄吉實定子左吉眞則。關口次カ左衛門正長子長九カ正明。宇佐美助右衛門長歲。新見藤四カ正信。醫員坂宗僊洞庵子玄昌桂巖初見し奉る。大學公利は此年より若君に近侍す。松平孫大夫忠政。中川市右衛門忠重三子勘三カ忠幸は。若君に初見す。井上主記頭正就子大助學正利(時に十二歲。)は兩御所に初見し奉る。池田家の證人荒尾平八カ久成慶長九年より江戶に置しが。今年召れて仕へ奉る。內藤紀伊守信正伏見城代命ぜられ。一萬石加へて五萬石になさる。菅谷左衛門範貞同城の番を勤む。高刀攝津守忠房奏者番となり。渡邊圖書助宗綱。朝比奈源右衛門泰勝。石川八左衛門政次。共に目付になる。京極主膳正高通。池田備中守長吉五子左門長賢小姓となり。鈴木友之助重氏若君の小姓組にいり。中川勘三カ忠幸は召出され小姓組に入番し。和田庄之助定繼。大森半七カ好長花畑番にいり。御側近侍せし仙石大和守久隆幷に大久保半右衛門忠永。西尾加右衞門正信。成P吉平正吉。森伊豆守重政子次カ兵衛重繼は書院番に入番し。植村庄次カ正相。神保八カ長利二子彌五兵衞大番になり。K川與兵衛正直代官となり。三島彌八カ政吉若君の腰物持となり。飯田四カ左衛門重次子助九カ直重。野篠源三カ成元石。渡源右衛門勝久は始て奉仕し。狩野采女守信は京より召れ畵工となる。處士日根野長右衛門弘佐は大坂兩度の役に。始めは松倉豐後守重正が手に屬し。のちは松平下總守忠明が手に屬して。軍功をあらはしければ召出さる。松平石見守輝澄從四位下にのぼる。阿部備中守正次封地を轉じ。八千石加へて三萬石になされ。上總國大多喜の城主になさる。さきに上總介忠輝朝臣に付られし松平大隅守重勝召かへされ。下總國關宿の城主になされ。二萬六千石賜ふ。土岐山城守定義同國相馬郡一萬石の封地を轉じ攝津國高槻の城主になされ。一萬石加へて二萬石たまひ。其城を改め築かしめられ。花房五カ左衛門職則。搏左內重國。長野內藏丞某。多羅尾久九カ光雅にこの事を監せしめらる。又松平市正勝隆は三千石。高木主水正正次は二千石加へ給ひ。御膳番阿部小平次忠秋廩米三百苞たまひ。三枝善右衛門守知は二百石加へて國松君に付らる。鈴木作兵衛信正死して。子作兵衛信吉家をつぐ。甲州代官平岡帶刀良知致仕して。其子次カ右衛門和由つぎて代官となり。米倉左大夫正繼。同加右衛門信繼。國松君に付賜ふ。さきに小田原御陣のとき立退し永井善左衛門安盛。其後蒲生上杉等につかへ。又越前家につかへて。武者奉行たりしが。御勘發の身なれば。こゝにも身を安んぜず又退く。其子C右衛門某と共に大坂の役に。をして大御所御陣所前へまかりしを御覽じ。何者ぞと尋させ給ふ。久世三右衛門廣宣御側に有て。さるゆへを聞え上しかば。さらば將軍の陣につかはすべしと命ぜらる。よて父子御本陣にまいり。C右衞門某(時に十八歲。)頗る武功をあらはせしに。今年父子とも召出され。父善左衛門安盛采邑二千石たまはり旗奉行命ぜられ。與力十騎。同心五十人屬せられ。子C右衛門某别に五百石賜ふ。また伏見城三年戍役を改めて。今年より一年をもて瓜期とせられ。大番頭高木主水正正次。阿部左馬助忠吉二隊今年勤番す。慶長十一年より今年までは。一隊づゝなりとぞ。
◎此歲又駿州久能山御宮を造營せらる。大森半七カ好長奉行して。日光久能の兩宮に神寳若干をおさめらる。淺草觀音别當觀音院忠高は。紅葉山御宮别當職に充られ。權僧正に任じ知樂院とあらたむ。松平下總守忠明封地攝州天滿の川崎へ御宮を刱建す。片桐主膳正貞隆。赤井兵庫頭忠泰。大坂天王寺再建の奉行命ぜられ。桑山左衛門佐一直は大和國多武峯造營の奉行うけたまはる。角倉與一玄之は江城修築の用とて。駿河の富士山より巨材を伐て運致す。松平主殿頭忠利は三河吉田橋改架の奉行にさゝれ。小堀遠江守政一は伏見本丸書院搆造の奉行をつとめ。河內國の奉行又播州姬路の事をも沙汰せしめられ。渡邊圖書助宗綱。永井監物白元。牧野C兵衛正成は各國巡視の御使奉はり。花房志摩守正成。豐島主膳正信滿。五味金右衛門豐直は。池田備中守長幸。山崎甲斐守家治が備中の知行割を命ぜられ。赤井兵庫頭忠泰は伊勢田丸城に御使し。古田大膳大夫重治は同所の勤番をつとむ。成P隼人正正成には尾州犬山城をたまはり。故平岩主計頭親吉が家士悉く所屬とせらる。醫員吉田意安宗皓參向しければ在府の間月俸を給ふ。又越前宰相忠直卿長子仙千代わづかに三歲。疳痢にて殆ど危篤のよし聞えければ。板倉伊賀守勝重に命ぜられて。京中兒醫の名あるものを精選せられしに。吉田機庵宗活その薦に應じてかしこにまかり治療せしに。ほどなくその功を奏す。茶道頭中野笑雲に牧溪が驢馬の畵幅を給はる。(ェ永系團。家譜。ェ政重修譜。東武實錄。斷家譜。貞享書上。紀年錄。) 
卷四十八 / 元和四年正月に始り六月に終る御齡四十 

 

元和四年戊午正月元旦慶賀例のごとし。今日已後雪はれて大風。(東武實錄。元ェ日記。)
○二日謠曲はじめ例の如し。けふ後閤へ條約を下さる。後閤修理洒掃等。萬事天野孫兵衛某。成P喜右衛門某。松田六カ左衛門定勝を伴ひまかるべし。局より奥へは男子入べからず。女上下とも券なくして出入すべからず。酉牌過ては門の出入有べからず。走り入女ありて其よしつげ來らば。すみやかに返し出すべし。厨所諸事孫兵衛某。喜右衛門某。六カ左衛門定勝。替々晝夜勤番し善惡を沙汰し。もし命令にそむきひがふるまひするものは。速に聞え上べし。ひそかにかくしてうたへ出ざるにをいては。ともに曲事たるべしとなり。(續年錄。令條記。)
○三日例のごとし。
○五日天台一宗の拜賀例のごとし。(元ェ日記。)六日寺社人拜賀例の如し。(元ェ日記。)
○七日若菜拜賀例のごとし。葛西邊へ成せられ御放鷹あり。銃をも試させ給ふ。本年南部信濃守利直が獻ぜし黃鷹。殊に無双の逸物なればとて御稱愛淺からず。けふこの鷹を試みたまふにより。利直も御供すべしと命ぜられしかば。利直御側に陪從す。ときに御手づからこの鷹もて鶴を捉らせたまひ。御けしきいよいよ大かたならず。利直に近日鶴の饗應せらるべき旨面命あり。利直忝きむね謝し奉る。(元ェ日記。續年錄。家譜。)
○九日神保八カ長利采邑甲賀にあつて病死せり。その子三カ兵衛重利家繼しむ。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十一日國松君に甲斐國をまいらせらる。(元和年錄に二年九月十三日とす。藩翰譜御九族記天ェ日記みなこの日にかく。今是に從ふ。)是日追儺の式あり。(元ェ日記。)
○十二日立春なり。
○二十日南部信濃守利直に鶴の饗膳をたまふ。此鶴は利直が獻ぜし鷹もてとらせ給ひければとて。御けしき大方ならず。先代より御秘藏の差取棹と名づけし鐵炮を。御手づからたまひ。永く家珍とすべしと命ぜらる。K澤次カ右衛門重久死して。その養子木工助定幸家繼しめらる。この日令せらるゝは。奴婢期年をかねて定め。召使ふものゝ外は一年に二月八月と兩度に出替りしむる事。急迫にして便あしきをもて近頃二月二日を出替りの期と定む。これ村里にて三月より春畊のときなるを。三月に召抱ゆる時は。畊作の用遲引せんにより。二月とさだめ。三月には旣に畊作の業をなすべきが爲なり。然るに奴僕等身のよるべなく漂泊し。田舍に行て農業をつとめん事を嫌ひ。武家の勤めせんも物うきまゝ。山伏修驗の弟子となり。祈禱卜筮をする事もかなはねば。伊勢愛宕の祭文一通よみ習ひ。そのまゝ諸方かげめぐり募緣して活計とし。或は伊勢熊野の勸進比丘尼を妻とし。弟子を設けおき諸方に勸進せしめ。その身程なく峯入し先達と號し。金襴の袈裟をかけ院號を稱し。みだりに諸人に無禮を行ふ尤曲事たるべしとなり。又山田奉行水谷九右衛門某に。諸老臣より伊勢の神號をかりて。諸國勸進するものあまたありと聞ゆれぱ。山田の神宮その外寺院に令し。かゝるひがふるまひする者を。嚴に禁すべきむねをつたふ。(家譜。ェ永系圖。制度留。)
○廿九日老臣連署もて。宇治山田の神官並に年寄等へ嚴に命じ。諸勸進の者を禁ずべき旨。山田奉行に令し。また京職板倉伊賀守勝重にも。諸老臣より令せしは。愛宕勸進といつはり。諸方募高キる山伏あまた徘徊する聞えあり。さる者を嚴禁すべき旨寺家へ令すべし。眞の愛宕山伏は牌をもてまぎれざらん樣定め。そのほか江戶にをいて查撿せしむべしとなり。(制度留。令條記。)
◎此月依田小隼人守直が子伊之助政直初見す。ときに七歲なり。(ェ永系圖。)
○二月三日小杉邊に御放鷹あり。紅葉山御宮搆造せらるゝによて。K田筑前守長政石華表を獻ぜしめらる。(續年錄。)
○十二日この日令せらるるは。定制の外錢を撰ぶものあらば法のごとく面に烙印すべし。先例の如く。金壹兩に錢四貫文の賣買たるぺし。若是法をそむきその價を高低して賣買するものあらば。賣買の金錢を過料として。双方より召上らるべし。この條件違犯のものは。其一町より過料として。戶每に百文づゝ出さしめ。その地の代官過料として。五貫文出さしむべしとなり。(令條記。)
○十八日此日令せらるゝは。大かけ。われ錢。かたなし。ころ錢。鉛錢。新錢。此六錢の外はゑらぶべからず。もしえらむものあるか。又は强て用ゆるものあらばその面に烙印すべし。またその市井過料として。年寄は五貫文。其ほかは每戶百文づゝ出すべし。金壹兩に錢四貫をかへて賣買すべし。もし此制にたがひ價を高低して賣かふものあらば。その金錢を過料として双方より出さしむべし。其市井の過料は前件におなじかるべしとなり。(條令。)
○二十六日金地院崇傳京より江戶に參る。(國師日記。)
○二十九日蜂屋半之丞可正死して。子半之丞可達つぐ。このとき可達僅に二歲なり。よて采邑を减ぜられん事を親族より請奉りければ。二百五十石給ひ現米百石は收めらる。(家譜。ェ政重修譜。)
◎是月尾張中納言義直卿。駿河中納言ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣へ。江戶城內にて邸地をたまはり搆造せしむ。松平新太カはじめて就封のいとまたまはり國俊の御刀ならびに御馬を給ふ。宅間伊織忠次。仙波七カ左衛門吉種京にまかり。錢の法令を沙汰せしむ。向井將監忠勝は相州三崎船查撿の事を令せらる。醫員片山與安宗哲信州の配所より召かへされ。懇の仰を蒙り直に暇給はり日光山に參拜す。これは前代御大病にのぞみ。御くすりの事により御けしきにたがひ。罪蒙りしなり。稻葉佐渡守正成二子八左衛門正次召出され。采邑五千石給ふ。(續年錄。ェ永系圖。東武實錄。家譜。元ェ日記。ェ政重修譜。)
○三月四日西城の北鷲の森にをいて。御宮搆造せらる。これ今の紅葉山なり。(國師日記。)
○五日上總介忠輝朝臣。伊勢朝熊の配所より飛驒の國に移され。金森長門守重ョに預けらるべしとて。近藤平右衛門秀用。中山勘解由照守御使にまかり。その命をつたへしに。忠輝朝臣吾罪あらんには。この儘に死をたまはるべしとて動かれず。よて兩人江戶に歸りかくと聞え上しに。老臣等とかく先仰にまかせられ。飛驒に移りたまひ。ともかくも御陳謝あるべきなりとすゝめて。平右衞門秀用。勘解由照守幷に九鬼長門守守隆とおなじく飛驒に護送して歸る。この日本多備前守紀貞上野の白井にて一萬石たまふ。(元ェ日記。續年錄。ェ政重脩譜。)
○六日村上周防守義明が家人魚住角兵衛といへるもの。義明が所領村上の地に有て。暗夜に殺害せらる。これその藩の老高野權兵衛が所爲なりと風說ありしかば。角兵衛弟和兵衛そのよし義明にうたふ。權兵衛はかねて上にも見參せしものなれば。義明私にはからひがたく上裁をこふ。よて奉行所にをいて双方對决に及びしに。權兵衛雄辨なりしかば。終に和兵衛が訴ふる處非據に决せらる。この權兵衛が祖藤藏は。先代御幼稚にして。尾州熱田におはしましけるとき。つねに小鳥などまいらせ。御心をなぐさめ奉りしかば。その子勝左衛門先代に召見せられ。時服たまはりし事などありて。上の御覺え一方ならざりしものなりとぞ。(東武實錄。續年錄。東武實錄には河野庄左衛門を暗討にするものあり。その子權兵衛が訴により兼松與三カが所爲なりとて。與三カ妻子妹悉く村上の地に磔になすことをもしるせり。)
○十日伊奈筑後守忠政死して。その子熊藏忠勝家をつぐ。(家譜。)
○十一日中川市助忠保死す。その子市助忠房は前に采邑たまはり奉仕す。(家譜。)
○十三日朽木信濃守元綱入道牧齋三子與五カ友綱初見し。書院番に入て廩米三百俵給ふ。(ェ永系圖。東武實錄。)
○十五日越後國高田城主酒井左衛門尉家次卒しければ。その子宮內少輔忠勝して家つがしめらるこの家次は故左衛門尉忠次が長子にて。母はC康君の御女なり。東照宮御諱字たまはり家次と名のる。天正三年長篠の戰に父忠次にしたがひて。鳶巢山におもむき軍功あり。十四年豐臣關白の妹君御入輿のとき。家次等途中に出むかへて御輿をうけとり。十六年十月家を繼。十七年十一月廿九日從五位下宮內大輔に叙任し。十八年關東に移らせ給ふにより。八月十九日三河の吉田を改め。下總の碓井城に移り三万石を領す。慶長五年石田三成謀叛のとき。今の御所中山道を御發向有て。眞田昌幸が上田の城を攻給ふとき。家次眞田が斥候の士卒を追ちらし。追手の門際に至り城兵と鎗を合せ。すぐに城にせめいらんとせしに。御本陣よりはやく引とるべきむね。急使追々來て命をつたへければ。やむ事を得ず引とる。九年十二月廿日上野國高崎の城に移り。二万石くはへられ五万石を領し。このころ左衛門尉とあらたむ。十九年大坂の御陣に。御所先鋒の一番となり。元和元年には第四の備にあり。五月七日天王寺口にて敵の首三十一きりて獻ず。二年越後の高田城たまはり。五万石くはへられ十万石を領し。けふ五十五歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。東武實錄。ェ政重修譜。)
○十六日久保勘次カ勝正死して。その子平左衛門勝房家をつぐ。(家譜。)
○十八日常陸國谷田部領主細川玄蕃頭興元卒し。その子勝千代興昌して。原封一万六千二百石餘を襲しむ。この興元は兵部大輔藤孝入道幽齋が二男。天正五年河內國片岡城せめのときよりして。兄越中守忠興と共に織田豐臣兩家に歷事して軍功をはげみしが。慶長五年關原の戰にも。兄弟御味方して奮戰す。後故ありて兄弟不和なりしに。十三年春駿府にめして兄弟和順せしめられ。十四年江戶に召て眤近し。十五年下野國茂木にて一萬石餘給ひ。十九年大坂の軍に御供し。元和元年には五月七日酒井阿波守忠行が軍を指揮し。みづから力戰して首十四級を献ず。二年其軍功を賞せられ今の地たまはり。六千二百石餘をくはへられ。この日五十七歲にて卒せし之。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○二十二日松平陸奥守政宗が邸に成せられ。御茶事あり。是日醫官半井驢庵瑞桂暇たまはり上洛す。(國師日記。)
○廿三日內藤外記正重宇治採茶使にさゝれいとま給ふ。(國師日記。)
◎この月金森長門守重ョ上總介忠輝朝臣を預るにより。はじめて歸國の暇たまはり。時ふく廿。銀三千兩。馬一疋給ふ。大番內藤與三兵衛正守罪有て士籍を削らる。(家譜。)
○閏三月七日松平大膳亮忠重。紅葉山御宮搆造に人夫を出さしめらる。この日金地院崇傳へ廩米二百苞たまふ。(東武實錄。國師日記。)
○十四日文殊院應昌參着す。(國師日記。)
○十六日冷泉中納言爲滿卿參向あり。(國師日記。)
○十七日今大路延壽院正紹參着す。(國師日記。)
○十八日知足院參着す。(國師日記。)
○二十日藤堂和泉守高虎が許に臨駕あり。御茶はてゝ後申樂を御覽に備ふ。當麻の御脇差。時ふく。白銀等恩賜せられ高虎が女を松平下野守忠クに嫁すべきむね仰くださる。醫官竹田法印定宣參着せり。(ェ政重修譜。國師日記。)
○二十一日山岡主計頭景以山田奉行になる。(東武實錄。)
○廿二日紅葉山遷宮の御使として。姉小路侍從公景參着す。(舜舊記。)
○廿五日島津義弘入道惟新大病のきこえあれば。御內書つかはされとはせらる。(貞享書上。)
○二十六日松平陸奥守政宗いとま賜はり就封す。
◎この春江戶西城南堀疏鑿を。關東の諸大名に命ぜらる。去年日光山御參幷に御造營にあづかりたるともがらは。半役たるべしと命ぜらる。また小笠原右近大夫忠眞に賜はりし播磨國明石に。新城築くべきにより。忠眞ならびに本多美濃守忠政。その地を巡視して定むべしと命ぜられ。兩人會議して人丸山を以て城地とさだめ。地圖木形をつくり進覽す。このとき白銀千貫目を忠眞に給ひ。費用に充らる。都筑彌左衛門爲政。村上三右衛門吉正。建部三十カ政長等參りて。普請の事を沙汰す。また本多豐後守康紀弟長次カ重世召れて小姓となる。(貞享書上。紀年錄。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○四月朔日申樂御覽あり。(國師日記。)
○二日もおなじ。(國師日記。)
○九日越後國本庄城主村上周防守義明封地九萬石收公有て。丹波の篠山に配流せられ。松平周防守康重に預らる。この義明實は石田三成に黨して。慶長五年關原に戰死したる戶田武藏守氏繁が男なりしが。幼稚より外祖周防守義滿が養子となせしゆへ。叛黨といへどもゆるされて。其家つがせられしに。國政みだりがはしく。家人等しばしば爭論をなして。おだやかならず。故にかく罪せられしなり。(續年錄。藩翰譜。斷家譜。藩譜には義明上總介殿手に屬し。軍事に怠りしとて所領沒收せられたり。かねては又上總介殿の臣花井主水が緣者ゆへなりとしるす。)よりて令せられしは。夏成先納はその處にとゞめ置べし。弓鐵炮玉藥長ネ。その外武具は城中に殘し置べし。城內はいふまでもなし。家士奴隷に至るまで。屋舍戶板等を查撿し。失はしめざるべし。種借は城廩より出せしにたがひなからんには。券とりて其米は堀丹後守直寄に預け置べし。借物は互の證狀にまかすべしとなり。この日また堀丹後守直寄は越後國長岡の城を轉じ。二萬石くはへて都て十萬石になされ。本庄の城をたまふ。(今村上といふ。)よて直寄に條約をたまふ。其文にいふ。喧嘩爭論かたく停止せしむ。若違犯のものあらば。双方斬に處しめ。荷擔人はその罪本人より重かるべし。押買狼藉すべからず。幷に竹木伐とるべからず。未進のかたに召つかふ男女は。弃捐すべしとなり。又阿陪四カ五カ正之その城引渡にまかる。よて下知狀を授らる。武具諸器械は轉封の地へ引とらしむべし。城內は更なり。家士下々に至るまで。建具を改め相違なからん樣にはからふべし。先納の年貢はその地にとめ置。未進は弃捐たるべし。種貸は城廩より出せしにたがひなくば返濟せしむべし。借物は互の證狀にまかすべし。その年の俸米ことごとく受とりしものは。約のごとくつとむべし。ク里に土着せん事を願ふもの。日數をはかり俸米を返納して。其所にとまるべし。送り馬は百石に馬一疋。夫一人出して。二日路送るべしとなり。(令條記。ェ政重修譜。武家嚴制錄。家譜。)
○十四日傳奏の公卿參向して御對面あり。今夜紅葉山假遷宮行る。(國師日記。)
○十七日日光山御祭祀。本多上野介正純代參す。紅葉山昨夜迁宮ありければ。御束帶にて御參拜法會行はれ。勅使始め公卿參堂。大僧正天海導師仕ふまつり。散花被物等の作法。去年日光山遷宮の法會に同じ。在府諸大名をのをの束帶にて豫參。幷に行列にまいる。(續年錄。東武實錄。紀年錄。大師傳。)
○二十一日村上周防守義明に所屬の河野權兵衛氏勝。あらたに召出され信州河中島にて千五百石の采邑をたまはり。小姓組にくはへらる。(家譜。)
○廿三日近衛右大臣信尋公參向せらる。(國師日記。)
◎是月牧野駿河守忠成越後の長嶺より。同國長岡にうつり。七萬三千石給ふ。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○五月四日近衛右大臣信尋公歸洛の發輿あり。(國師日記。)
○七日傳奏衆歸洛せらる。(國師日記。)
○八日越後國轉封の地監使をつかはさる。よて老臣下知狀を授く。武具器械は轉封の地にて引とるべし。竹木一切伐とるべからず。先納は返し置べし。種借は城廩より出したるにまぎれなくば返濟せしむべし。借物は證狀の儘たるべし。未進は弃捐すべし。未進によて召つかふ男女も。おなじく弃捐すべし。家僕は主從心まかせにはからふべし。一年の俸米受とる者は。定めのごとく勤むべし。俸米返濟するにをいては。そのこゝろにまかすべしとなり。又令せしは今度轉封のともがら百石に一人一匹と定め。人馬出して二日路送べし。士以下奴婢上下とも。轉換の地まで陪從し。其主にはかり歸クすべし。そのときは主もたがはず返しつかはすべしとなり。又三浦助藏儀俊死して。子八藏義武つぎ。三宅半七カ重勝死して。子隼人重吉つぐ。(東武實錄。家譜。)
○十一日二條中納言康道卿。鷹司中納言教平卿參向ありければ。饗宴をひらかれ猿樂を催さる。(國師日記。)
○十三日榊原內記照久從五位下に叙し大內記と稱す。(家譜。)
○十五日播州姬路城櫓搆造の事。本多美濃守忠政こひ出けるに。その請所御氣色にかなひて御ゆるしあり。(貞享書上。)
○十六日丸毛兵左衛門利政はじめて拜謁す。けふ藤堂和泉守高虎が邸に成らせたまひ。時ふく白銀をくださる。(家譜。ェ政重修譜。)
○十九日二條中納言康道卿。鷹司中納言教平卿府を發せらる。(國師日記。)
○二十日二條黃門康道卿日光山御宮參拜せらる。(國師日記。)
◎是月伊勢國國府と平野村の間にて。參宮の瞽者四人を殺し路金を奪ひさりし賊あり。この事惣撿挍なげき訴により。償金三十枚をもてその賊を搜索せしめらるる旨。その地に高札を立らる。石谷十藏貞C二百石くはへられ五百石になざる。(東武實錄。家譜。)
○六月五日藤堂美作守永勝死して。其子三藏永重家をつぐ。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○七日小栗又一忠政が四子半右衛門忠次めし出されて。小姓組に入番し。廩米四百苞を下さる。(家譜。)
○十二日松平孫右衛門忠勝が子P兵衛政勝家をつぐ。(家譜。)
○十六日松平陸奥守政宗が五男攝津宗綱死しければ。政宗に御內書をたまはり。吊慰せらる。(貞享書上。)
○廿一菅谷左衛門範貞。伏見城守衛に在て死しければ。子紀八カ範重四歲にして家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○廿二日近藤信濃守政成死す。其子百千代重直幼なければ。封地一萬石の內五千石たまはり。寄合に列せしめらる。この政成實は堀左衛門督秀政が四男にて。故織部佐重勝が養子となり。慶長五年三月東照宮に初見し小性とせられ。小山關原等の御陣に供奉し。八年二月從五位下信濃守に叙任し。十五年松平越後守忠俊が所領除かれしとき。政成が領知を信濃美濃の內に移され。大坂兩度の御軍にしたがひ。けふ卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○二十四日榊原大內記照久從四位下にのぼせらる。(東武實錄。家譜。)
◎この月常陸國麻生領主新庄越前守直定が子駿河守直好に。原封二萬七千三百石襲しめらる。この直定は故宮內卿法印直ョが子にて。はじめ豐臣家につかふ。東照宮慶長三年父法印が宅にならせ給ひしとき。はじめて見參す。五年關原一戰の後父とおなじく。蒲生飛驒守秀行がもとに趣しが。九年正月十五日父子ともにめされて兩御所に拜謁し。十年四月廿六日御所將軍宣下御拜賀のため御參內の供奉し十八年九月廿七日父が遺領をつぎ。弟宮內直房に三千石をわかち。十九年大坂の御陣にはク里の附城を守り。元和元年五月七日には大坂の城中に入て。みづから力戰し。手のもの等も首五級を切て献ず。二年十二月奏者番命ぜられ。この四月廿一日五十七歲にて卒せしなり。また一柳監物直盛が三子藏人直ョ初見し奉る。また島津義弘入道惟新大病により。こふ儘に醫官壽コ庵玄由を薩州鹿兒島へ遣はさる。(家譜。ェ政重修譜。ェ永系圖。貞享書上。) 
卷四十九 / 元和四年七月に始り十二月に終る 

 

○七月七日鎭目長四カ惟吉は。市左衛門惟明に先立て死し。其子長太カ惟C父が庇䕃料二百俵を給ふ。(ェ政重修譜。家譜。には庇䕃料を收公せらるゝとあれども。いま重修譜にしたがふ。)
○十八日大島久左衛門光俊死して子久左衛門義治つぎ。采邑三千二百五十四石餘の內。弟P兵衛光隆へ五百石をわかつ。(ェ永系圖。東武實錄。ェ政重修譜。)
○廿六日細川內記忠利が祖母。江戶の邸にありて大病なりしかば。しばしば御使もて懇にとはせられ。典藥のともがらをも遣はされて。治療くはへしめられしかど。終にけふうせけれは。土井大炊頭利勝もて吊せらる。(國師日記。家譜。)
◎この月藤堂和泉守高虎が邸に渡御あり。風流躍を御覽にそなふ。また伯耆國K坂城主關長門守一政所領五萬石收公せらる。これ家士等爭論絕ざるをもてなり。されどその子安藝守氏盛に。近江國蒲生郡の內にて。さらに采邑五千石給はり。寄合に列せしめらる。氏盛實は一政が弟主馬首盛吉の子之とぞ。(ェ政重修譜。藩翰譜。東武實錄等に。一政子なくして家絕しとしるせしは誤なり。今重修譜にしたがふ。)もと上總介忠輝朝臣に附屬せられたる松平勝右衛門C直。先に罪蒙りて采邑收公せられしかど。長澤の筋目を思召。三洲形原にて五千石給はり。交代寄合に列せしめらる。(家譜。)
○八月三日戶川主水正正安死して。その子主水安平家をつぐ。(斷家譜。)
○四日仁和寺門跡覺深法親王參向して拜謁せらる。(國師日記。)
○五日一色左兵衛範勝を。豐前國小倉へつかはされ。細川越中守忠興が母光壽尼うせけるを吊せられ。御內書たまはり香資の銀を下さる。(國師日記。)
○六日京六角堂災にかかりたるよし注進あり。(元ェ日記。)
○七日酒井雅樂頭忠世が邸に諸老臣聚會し。加藤肥後守忠廣が家士爭論を聽斷するにより。肥後の監使阿倍四カ五カ正之。朝比奈源六正重もこれに列す。忠廣が家士。一方は加藤右馬允。下川又左衛門。並河志摩。森下儀大夫。庄林隼人。加藤與左衛門。加藤平左衛門。中村將監。齋藤伊豆幷棒庵。一方は加藤美作。其子丹後。加藤壽林。中川周防。和田備中。玉目丹波等すべて三十二人なり。(東武實錄。紀年錄。)
○八日酒井雅樂頭忠世が邸に諸有司會聚して。加藤肥後守忠廣が家士双方の訴論を查撿し注記して進覽す。(東武實錄。)
○十日加藤肥後守忠廣家士甲乙双方ともに本城に召て。御みづから聽斷し給ふべしとて。大廣間に出ます。酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信の諸老臣侍座し。井伊掃部頭直孝。藤堂和泉守高虎もこと更に召れて伺候す。諸有司群士は廣緣に列居し。肥後守忠廣並に其家士等を御前に召出し。林永喜信澄。閑齋甲乙の訴文をよみて後。双方の申處をきこし召る。甲方加藤右馬允等申ていふ。加藤美作父子等國政を專らにし。威福を張私黨を結び。恣に國民をなやましむる。一事として主人忠廣がため。然るべき事をおぼえず。國家の擾亂眼のあたりなれば。願くは上裁を以て。彼等が罪を糺したまはるべしといふ。乙方美作等雄辨饒舌をふるひ。これを說破する事數回にして。理非いまだ决しがたし。そのとき甲方又申ていふ。美作父子等姦惡邪黨の證は。美作先に運漕のためとて。大船二艦を造り置しが。其實は寅卯兩年大坂合戰の㝡中に。兵船となして大坂に援兵を送らんと企しなり。また豐臣秀ョ公乳母子に齋藤采女といふものあり。この采女を肥後國にかくし置しが。大坂籠城のよしを聞。ひそかに采女を大坂にのぼせたるは。城中へ內通せんがためなり。又江C四カを大坂にのぼせて。東西の動靜をうかがはしめしに。かの者歸り來て。大坂方は勝に乘じ東勢大に敗績しければ。大御所は二條の城に退たまひ。將軍家は伏見城に籠り給ひ。追日に大坂勢京にのぼり。兩城をかこみ攻んに。東軍敗走うたがひなしなど虛說をとなふ。人心疑惑し國中訩々として騷擾するにおよび。美作父子スび顏色にあらはる。是をもて奸黨不臣の罪を聞し召分給はるべしといふ。諸奉行こゝに於て美作父子を糺明するに及び。彼等答ふる取分明ならず。阿部四カ五カ正之熊本の監使として。かしこに有て聞しる所も。甲方の說に同じきむね申ければ。美作等すべて陳ぜん詞なく口をとづる。こゝにをいて直に御座をたゝせられ。奥に入らせ給へば。諸有司もをのをの退散す。この日松平上野介康忠入道元信京にあつて卒す。ときに七十三。この康忠は長澤の正統上野介政忠が子にて。母はC康君の御妹なり。永祿三年父政忠は今川義元が軍に從ひ尾州桶狹間にて討死せしとき。康忠幼稚なりし故祖父上野介親廣入道淨賢養育して家つがせ。人となりて御一字給はり康忠となのり。東照宮の御妹君(矢田姬。)にそひまいらせしかば。一かたならず御かへりみを蒙り。二連木。牛窪。八幡等にて軍忠をはげみ。姉川。長篠。高天神の戰にも武功をあらはしけるが。岡崎三カ信康君に附られしに。君御事ありし時より蟄居してありしかど。其子源七カ康直武藏の深谷城にて一萬石領しければ。入道もこゝに身をよせて有しに。康直父に先だちてうせ。男子なかりしかば。長澤の遺跡をば東照宮第六の御子松千代君うけつがせたまひ。松千代君世を早うし給ひしかば。第七の御子上總介忠輝朝臣。その跡をうけつがせ給ふ。これも罪蒙られしより。長澤の正統は旣に絕ぬ。入道いよいよ身の置所を失ひ。異父同母の弟本多縫殿助康俊が扶助を受て。京の誓願寺のかたほとりに閑居してうせぬるとぞ。(東武實錄。紀年錄。家譜。ェ政重修譜。續年錄。)
○十一日加藤肥後守忠廣が家士江C四カ。橋本掃部助。同作大夫三人は斬に處せられ。その餘加藤美作父子はじめ三十三人の逆黨等。各所に配流せらる。山田十大夫重利。渡邊圖書助宗綱等肥後熊本にまかり。その事を沙汰せしめらる。しかりといへども忠廣年尙若くて。國政みな家臣等がはからひにまかせ置し事なれば。その罪をゆるされ。加藤右馬允等の家臣をして。よく輔導すべきむねを命ぜらる。(ェ永系圖。東武實錄。家譜。紀年錄。)
◎是月千本大和守義定伏見城松丸大手の勤番を命ぜらる。西尾丹後守忠永上野國白井より封を轉じて。常陸の土浦に移り。城主になさる。久能御宮附三浦八カ左衛門元秋死して其子小次カ義勝つぐ。又松浦肥前寺隆信ならびに長崎奉行に令せれしは。伊祇利須の商船は長崎平戶の湊にをいて貿易せしめ。其外の湊港にて私に互市する事をゆるさず。たゞし唐船は何方にても。船主の心まかせに通商せしむべしとなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。令條記。)
○九月朔日貴志彌兵衛正盛十八歲にて病死す。家つがすべき子弟なければ。その采邑收公せらる。(ェ永系圖。家譜。)
○二日板倉伊賀守勝重幷に後藤庄三カ光次に。府內にて宅地を給ふ。金地院崇傳には城內駿河中納言ョ宣卿邸宅北どなりにて宅地を下さる。(國師日記。ェ永の地圖によるにいまの田安門內なり。)
○五日松平土佐守忠義が母。江戶の邸にありて病沒せしかば。水野監物忠元御使して吊慰せられ。封地土佐の高知へは。庄田小左衛門安照御使として。香資銀三百枚遣はさる。(貞享書上。)
○十日荒川長兵衛重世の子七兵衛重政召出され。初見して大番に入番す。(家譜。)
○十一日朽木信濃守元綱入道牧齋が三子彌五カ稙綱召出され。若君の御方につけらる。この日久貝忠三カ正俊。日下部五カ八宗好して。金地院崇傳が宅地を引渡さしむ。東六十間。西三十一間。南五十四間。北五十五間なり。(ェ永系圖。東武實錄。國師日記。)
○十三日致仕大河內金兵衛秀綱入道休心死す。七十三歲。(東武實錄。家譜。)
○十四日金地院崇傳府を發して日光山に赴く。(國師日記。)
○十七日日光山御祭祀あり。(國師日記。)
○十九日杉浦彥左衛門親次死す。八十三歲。その孫彌一カ親勝家をつぐ。(東武實錄。)
○廿二日金地院崇傳日光山より歸着す。(國師日記。)
○廿八日生コ院箱根山别當職に補せらる。よて寺寳什物悉く引渡し佛法興隆せしむべきむね。諸老臣連署もて山中衆徒に傳ふ。(東武實錄。)
○廿九日一色左兵衛範勝豐前小倉より歸謁す。また遠山小右衛門景政死して。子小右衛門景次家をつぐ。(國師日記。家譜。)
◎この月松平紀伊守家信急に召れ。三州形原よりまいる。留守居役命ぜられ。房州にて别に采邑五千石給ふ。本領に合せて一萬石になさる。小堀遠江守政一は女御の御殿搆造奉行を令せらる。五味金右衛門豐直もおなじ。(貞享書上。家譜。)
○十月九日國松君は。このほど鐵炮を稻富宮內重次に學ばせられしが。けふ西城の湟の邊に鴨のゐてありしを。かなたの橋の上より鐵炮にてうたせたまふに。あやまたずうちあて給ひ。みづからも深くよろこび給ひて。御母上のかたへまいらせらる。御臺所またよろこばせ給ふ事大方ならず。この夕さり御臺所御かたへ。御所わたらせたまひしに。かの鴨をあつものに調じて御酒すゝめられ。これは國が手づから得たるよし聞え上給ひしかば。御所も御心よげにて。さるにてもいづくにてか得たりけんと仰ありしに。そのさま御物語ありしかば。聞召もあえず御箸を投すてたまひ。なにものゝ供に候て。かゝる不思議をばふるまはせたりけん。抑この城は父御所のあらたに修し築かせ給ひ。我に讓らせたまひ。我また竹千代にゆづるべき所なり。それに國が身として。その城にむかひみづから鐵炮をはなつこと。上は天道にそむき。且は父御所神慮のほどはかりがたく。下には竹千代のきかん所はゞかりなきにあらずと。以の外御氣色損じ。御座をたゝせ給ひ。かの御供にさぶらひし人々。たゞされ御勘氣を蒙りしとぞ。(藩翰譜。元ェ日記。)
○十二日猿樂配當米の事。諸大名へ老臣勘定の司より令せしは。猿樂配當米の事。封祿の數に應じ。廿萬石は二十石づゝ出し。江戶にをいて松風助兵衛正廣。紅林彌右衛門某へ。去巳年より渡して。證狀取置べきむね令すべしとなり。この日安南國より本多上野介正純土井大炊頭利勝へ書簡を呈し。近年商人等互市をみだり。兩國の累をなす事多し。さきに船本彌七カ顯定貴國の信牌を持渡り。互市の法嚴重にして混亂する事なかりしかば。この後も顯定をして信牌を持て渡海せしめ。互市の法を嚴整ならしめん事を請とぞ聞えし。よて金地院崇傳をめして。その返簡を作らしめられ。崇傳その返簡を製して。草案を御覽に備ふ。かの國請所のごときは。本邦に於ても又しかるべき事なれば。顯定を渡海せしむ。本邦の情實はかのものに對話して。聞得べしとの旨なり。又顯定に令せられしは。本邦より通商のため。交趾國に渡海する諸商は。顯定沙汰して互市嚴正にすべし。もしひがふるまひするものは。かの國法にまかすべし。此令違犯のもの歸國せば速にうたふべし。嚴科に處せらるべしとなり。(東武實錄。異國日記。)
○十三日稻富宮內重次をめして炮術を緞練し國松君へよくつたへ奉りしとて。褒詞をくはへたまふ。この重次が師は。稻富伊賀直家とて。もとは細川越中守忠興が家臣にて。大坂の邸にありしが。關原の戰前に石田三成等がはからひにて。在坂の諸大名妻子を人質として。大坂城へとり込んとはかりしとき。忠興の妻これをこばみて自害す。家臣等家に火を放てみな自殺せり。そのとき直家は遁出て入道し。一夢と號し山林に身を隱しけり。世治りてのち忠興ふかく憤り。一夢を搜出し誅せんとせしに。一夢希代の銃手なりければ。薩摩守忠吉朝臣とかくかくしはごくませたまひしに。忠興もせんかたなく年月をすぐしたり。その後兩御所もかれが妙術をおしませ給び。慶長九年より御家人になされたり。重次年頃一夢が弟子にて。その秘傳を請て師の氏を冐し。稻富と名乘りて奉仕しけるなり。この日松崎左平次重政死して。その子左平次重良家をつく。(元ェ日記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○廿八日織田長益入道有樂參府して拜謁す。(國師日記。)
○廿九日越谷邊御鷹狩にならせ給ひ。これより連日御泊狩ありて。土氣東金邊までならせらる。井上主計頭正就。水野監物忠元。永井信濃守尙政。阿部備中守正次。山大藏少輔幸成をはじめ。醫員今大路道三親C等も御供す。儒役林永喜信澄も同じ。(續年錄。國師日記。)
◎是月播州明石新城の奉行として。都筑彌右衛門爲政。村上三右衛門吉正ならびに建部三十カ政長その地にまかるにより。その費用として銀千貫目つかはさる。明年の春より經營をはじめ。本丸二三丸石垣土居等。官費もて搆造し。武士町土居三丸の石垣は。小笠原右近大夫忠政私費もて經營すとぞ聞えし。(貞享書上。)
○十一月朔日細川內記忠利就封す。(國師日記。)
○六日御狩塲へ金地院崇傳使もて。蜜柑一箱献じ御氣しきをうかゞふ。(國師日記。)
○十二日東金邊御狩はてゝ御歸城あり。(國師日記。)
○十四日鈴木久右衛門伊直老年におよび諸役をゆるされ。所領三州足助にあつてけふ病死す。(ェ永系圖。)
○廿日佐原太カ右衛門元次次子小栗右衛門八元重召れて御手鷹師となる。(ェ永系圖。)
○廿一日數寄屋にわたらせたまふ。御茶事あり。諸大名御茶をたまふ。(國師日記。)
○廿三日關東眞言古義の諸寺へ條約を下さる。一年兩度法談の日を定め置。みだりに减すべからず。二季の修學怠慢すべからず。本寺住山かならず三年を遂べし。本寺住山するといへども菲學のもの能化をゆるすべからず。談義所にをいて能化の命を違犯すべからず。本山住山の間一宗本書普下受學すべし。たとひ教相の學ありとも。事相の學なきものは。能化をゆるすべかず。平日佛法興隆を志して。宗旨如法の修行專一たるべし。古跡の一山にをいては。尤學匠の能化をして任ぜしむべし。此旨違犯すべからずと之。けふも數寄屋にて諸大名御茶を給ふ。細川越中守忠興參府す。夜中海なる事甚し。(制度留。國師日記。續年錄。)
○廿六日板橋邊へ田獵にならせられ。鹿三十一頭を得給ひ。御氣しきうるはしくて還御なる。(續年錄。)
◎この月織田三左衛門昌澄入道道半齋。近江にて采邑二千石を給ひ。束髮して主水と稱し。寄合の列に加はる。(家譜。ェ政重修譜。是は七兵衛信澄の子にて。秀ョにつかへて大坂前後の軍に功をあらはし。落城の後みづから罪を謝し。死刑に處せられん事をこふ。神祖その働を感じたまひ。罪をなだめられ。諸國徘徊をゆるされ。剃髮して道半齋といひしなり。)戶川主水安平家つぎしを謝して拜謁す。(ェ永系圖。)
○十二月六日堀美作守親良。美濃國山縣郡にて五千石の地をくはへ給はり。一万七千石になさる。これは先に近藤信濃守政成が遺領の半を召上られし地なり。(ェ政重修譜。)
○十日山角刑部左衛門政定死して。子又兵衛政勝家を繼。(家譜。)
○十一日織田長益入道有樂いとま給はり上洛す。(國師日記。)
○十三日土井左兵衛正次采邑七百八十二石給ふ。この日近藤織部重直七歲家つぎて初見し奉る。(ェ永系圖。東武實錄。)
○十七日尾張駿河兩黃門參府あり。(國師日記。)
○十八日本田主膳正家死して。その子C兵衛正次家をつぐ。(東武實錄。家譜。)
○十九日東本願寺門跡光從使もて。二種一荷獻ぜしにより御內書を給ふ。(東武實錄。)
○廿三日南部信濃守利直が子權平重直從五位下に叙し。山城守と改む。金地院崇傳に廩米三百苞たまふ。(ェ永系圖。東武實錄。國師日記。)
○廿四日飯室金左衛門昌恒死して。子金左衛門昌吉つぐ。(家譜。)
○廿七日松平周防守康重が子左近康政從五位下に叙し。左近大夫にあらたむ。(ェ永系圖。)
○廿八日島津右馬允忠興叙爵して頭になる。先手頭大久保甚左衛門忠直。布衣の侍にくはへらる。(東武實錄。)
○廿九日大村民部純ョ叙爵して大輔と稱す(ェ永系圖。)
◎是月若君はじめて酒井備後守忠利が川越の居城にならせらる。(案ずるに川越邊御鷹野にならせられ。忠利は輔佐の臣たるゆへ。その居城へならせられしなるべし。)戶田左門氏鐵が二子新吉氏經ことさらに召出され。采邑七百石給ふ。村上文左衛門勝友が子文三カ勝信若君に初見す。井上C兵衛政重が子C兵衛政次初見す。高城C右衛門重胤。日根野長右衛門弘佐書院に入番し。有馬玄蕃頭豐氏三子(幼名詳ならず。)ョ次は新に召出され。國松君につけられ一万石たまふ。ョ次が生母は先代の御養女連姬君也。毛利三次カ就隆歸國の暇たまはり。中島來の御脇差ならびに御馬を給ふ。細工頭矢部掃部定Cが三子助之進定成父の職を命ぜらる。
◎此冬松平美作守忠宗に御鷹の鶴を給ふ。(ェ政重修譜。家譜。ェ永系圖。貞享書上。)
◎是年大久保四カ右衛門忠成が子四カ左衛門忠重。新見七右衛門義C子七右衛門正信。飯高彌五兵衛貞次子吉兵衛貞成。須田平左衛門盛滿二子久左衛門盛正。小長谷加兵衛時次が子次カ右衛門時之。甲州代官平岡次カ右衛門和由初見し。一柳監物直盛が子丹後守直重。高木甚左衛門正綱子九助正則若君に初見し。松平出羽直政はじめて江戶に參覲し。兩御所に拜謁し奉る。ときに十八歲なり。醫員曲直P養安院正圓子一有玄理參府し。兩御所に拜謁し。すぐに江戶にとゞまり若君の侍醫たり。喜多見五カ左衛門勝重堺の政所になりて。攝河泉三州の奉行をかねしめらる。久世三四カ廣當は小姓組の番をゆるされ。父三右衞門廣宣が職事を習ふべしと命ぜらる。廣宣は與力十騎。同心五十人をあづかりしなり。水野C六カ忠保は書院番組頭になり。秋山十右衛門正重は目付になり田甚右衛門尹松は持筒頭となり。使番をも兼しめらる。日向半兵衛政成に與力十騎預けらる。加恩千石たまふ。永井右近大夫直勝四子長八カ直重。三枝宗四カ守惠小姓となり。守惠は二百石くださる。大草大學公利は去年より。若君の近習に候せしめられ。この年月俸十口下さる。梶川四カ次カ忠助子七之亟忠久召出されて大番にいり。內河七左衛門吉次は國松君に附られ。佐橋甚兵衛吉次大番組頭となり。松風權右衛門正忠は金奉行になり。花房志摩守正成四子助之亟正信召出され。西城の小姓組にいり。荒尾平八カ久成書院に入番し。向井五左衛門正勝子權十カ正直。酒依長兵衛昌吉二子權右衛門吉政。花井伊賀守定C子勘左衛門定光。二子庄左衛門定次。ともにはじめて奉仕し。忍の城番となり。山本忠兵衛正義二子平九カ正直は召出され。若君に附られ。醫官岡本玄次諸品法眼に叙せらる。諏訪因幡守ョ水信濃國筑摩郡の內にて五千石の地をくはへられ。本領に合せて三萬石になさる。小川左太カ安吉は五百石くはへたまはり。七百石になる。井上C兵衛政重采邑五百石給ひ。先に賜はる廩米は收らる。川田吉兵衛貞利は廩米五十俵給ひ。菅沼次カ右衛門勝利は廩米を加へて采邑二百石給ふ。さきに慶長十四年御勘氣蒙りたる三宅杢助康政ゆるされてめし出さる。また野間忠左衛門重安子與右衛門政次。猪飼五カ助重正子大番半衛門正久。父死して家をつぐ。松平式部大輔忠次西城南堀疏鑿の助役し。阿部備中守正次等是に屬す。近年日光山搆造の助役つかふまつりしにより。その半役をゆるさる。淺野采女正長重半藏口修築を命ぜられ。土屋平八カ利直は紅葉山御宮搆造の奉行命ぜられ。阿倍四カ五カ正之江戶の道路を巡視し。水道の事を沙汰せしめらる。藤堂和泉守高虎就封のいとま給ふとて。左文字の御刀をよび御馬を下され。京極丹後守高廣も。おなじ暇給ふとて備前眞守の御刀くだされ。池田備中守長幸には御馬を下され。醫官吉田意安宗皓歸洛のいとまたまはり。時服三。金三枚給ひ。片山與安宗哲奥に召て。萬病圓を製せしめられ。表高家唐橋左衞門在種は。公に訴へずして遠遊するをもて。俸祿を奪はる。水野備後守分長牧野內匠頭信成の二隊伏見城に戍役す。(家譜。ェ永系圖。斷家譜。ェ政重修譜。貞享書上。東武實錄。) 
卷五十 / 元和五年正月に始り六月に終る御齡四十一 

 

元和五年己未正月元旦拜賀例の如し。この夜微雨(東武實錄。元ェ日記。)
○二日三日例のごとし。金地院崇傳奥へ參り。御所ならびに御臺所はじめ。御方々へ拜賀し奉る。(國師日記。)
○五日例のごとし。金地院崇傳西城へのぼり若君へ拜賀す。(國師日記。)
○六日寺社人拜賀例のごとし。はてゝ淨土の法問聽し召る。(國師日記。)
○七日若菜御祝例のごとし。是日中西伊豫守元如死す。その子主水元吉をして家つがしめらる。是元如は馬塲美濃守信房が二子にて。中西出雲守元重に養はれ。筒井伊賀守定次に仕へしが。定次國除かれし後御家人に召出され。采邑三千石給はりしなり。加々爪民部少輔忠澄。牧野C兵衛正成目付となり。堀田勘左衛門正吉は。若君の目付となる。又伊丹理右衛門之信。寅卯以來四年の會計皆濟によて御K印を下さる。(國師日記。東武實錄。家譜。ェ政重修譜。)
○十七日代官深谷忠兵衛盛吉賦稅皆濟せしとて御K印を下さる。(家譜。)
○廿一日中井大和守正次死して。子長吉カ忠侶つぐ。(家譜。)
○廿六日伊東喜左衛門春景死して。子喜太カ景俊家つぐ。(ェ政重修譜。)
◎是月小出播磨守秀政五子甚太カ重堅小姓組へ入番せしめらる。(ェ政重修譜。)
○二月十日令せられしは。武家にてめしつかふ侍はいふまでもなし。奴僕といへども一年期にて召かゝゆべからず。その證人ともなるべからず。たゞし堪忍次第として召仕ふは。この限りにあらず。人を賣買する事嚴に制禁す。もし違犯のものあらんには。その罪の輕重により。或は繫獄。或は過怠を負はしむべし。媒するか宿借の類同罪たるべし。奴僕は三年を期と定むべし。三年を過なば曲事たるべし。市街失火あらんとき。人にめし仕はるもの。上下ともかけ集るべからず。刄傷せしものをひそかに隱し置べからず。主なきものに宿かさんには。證人の券を町奉行所に呈し。奉行兩人の裏判を以てのち貸べし。辻立門立すべからず。帛布をもて面躰をつゝみかくすものは曲事たるべし。煙草を培植する事幷に賣買する事。前令旣に明らかなり。いよいよ停禁すべしとなり。また令せらるゝは。主に暇を請はず。亡命して他の家に給事するものは。今の主につげて呼返すべし。たゞし御陣中ならびに御上洛經營等のときは。しばらく宥め置て。歸府の後に召返すべし。然りといへどもその者罪を犯し逐電せしは。この限りにあらず。速に訴て上裁をこふべし。各所の村里に住者は領主代官より嚴に查撿を加ふべし。亡命の者兼約の俸米は。その證人よりその主へ納むべし。軍陣御上洛ならびに搆造所より亡命せし者は尤曲事なり。證人嚴に搜索して。主人に返すべし。若尋ね出し得ずば過料として兼約の俸米一倍を主へ出すべし。過料を出さゞるにをいては。百日の間獄に繫ぐべし。亡命の者他にて召かゝへ。給金を授けなば。その給金は後の主人損失たるべし。これ證人なきものを召抱へし過失あれば。やむ事を得ざる所なり。それも證人ありて。召抱るにをいては。その給金の數をはかりて。證人より前後の主へ出すべし。これは。其證人ゆへなく亡命ものゝ證人たりしつみある故なり。すべて公法を違犯し亡命せし重科の者は。證人速に追捕して出すべし。若出さざるときは。その證人嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。東武實錄。)
◎この月荒川上野介義定が二子右馬助定安初見し奉る。(ェ永系圖。)
○三月十日諸國の代官ならびに采邑の主に仰下されしは。一年の賦稅會計の事。其地により明春までに皆濟すべし。舊代官舊邑主の逋債は新代官新邑主嚴に查撿し。取立て上納すべしとなり。(令條記。)
○十一日忍城番石野新藏廣繼子彥次カ廣重初見す。時に六歲なり。(家譜。)
○廿五日今度御上洛の事仰出されしをもて。供奉せんがために。松平陸奥守正宗。封地を出て參府せり。(貞享書上。)
◎是月酒井宮內大輔忠勝越後國高田より信濃國松城に移る。(ェ政重修譜。松城ふるくは河中島海津城と號す。慶長八年より松城と改め。正コ元年より松代とあらたむといふ。)十万石故のことし。松平伊豫守忠昌信濃國松代十二万を轉じ。高田に移り廿五万石になさる。忠昌弱齡をもてひろき封地を賜はりしかば。國政を沙汰せん事御心もとなしとて。稻葉佐渡守正成老練の者なれば。忠昌に附屬せられ。越後國糸魚川にて一萬石加へ給ひ二万石になさる。(藩翰譜。ェ政重修譜。伊豫守忠昌が轉封。家譜には元和四年とすといへども。宮內大輔忠勝今年まで高田にある時は。其以前に忠昌に高田をたまふべからず。故に藩翰譜。紀年錄。元ェ日記にしたがひ忠昌が轉封を今年におさむ。佐渡守正成が轉封を。重修譜。紀年錄。元ェ日記にしたがひ。忠昌が轉封を今年におさむ。佐渡守正成が轉封を。重修譜には今年二月とすといへども。忠勝が轉封。重修譜には三月とし。東武實錄。ェ永系圖。紀年錄も三月とすれば。稻葉が事も今月より前にはあるべからず。故に東武實錄に從ひ今日に係る。)
○四月二日秋田伊豆守俊季河內守と改稱す。(家譜。)
○十三日金地院崇傳上洛のいとま下され。銀五十枚。小袖五十たまふ。(國師日記。)
○十五日金地院崇傳江戶を發程す。(國師日記。)
○十六日松平壹岐守正朝二子源太カ正村初見す。(ェ永系圖。)
○廿五日先年御勘氣蒙り。三河國に蟄居したる河內勘左衛門正明ゆるされて。其子長助正次めし出され。納戶番令せられ。廩米二百苞たまはる。書院番田五カ三カ政松死して。子大學某家をつぐ。(家譜。)
○廿六日松平陸奥守政宗御駕に先立て上洛す。藤堂和泉守高虎もおなじ。(貞享書上。)
◎この月金森長門守重ョ改て出雲守と稱す。所領飛驒國高山に御宮を刱建す。(家譜。)
○五月二日今日より七月にいたるまで久旱。田穀みな枯る。(榮松錄。)
○七日醫員坂洞葊宗仙死して。其子玄昌桂嚴家をつぐ。(ェ永系圖。)
○八日御上洛御首途ありて。神奈川に泊らせらる。本城は國松君。西城は若君をとゞめ守らせ給ふ。鳥居左京亮忠政。內藤左馬助政長。酒井宮內大輔忠勝。松平下野守忠ク。松平式部大輔忠次。最上源五カ義俊。福島左衛門大夫正則等留守す。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。加藤左馬助嘉明。京極主膳正高通。阿部左馬助忠吉。一柳監物直盛。同丹後守直重。松平出羽守直政。太田攝津守資宗。安部彌一カ信盛。本堂伊勢守茂親。野々山新兵衛兼綱。保田甚兵衛宗雪。小M久太カ嘉隆。曾根源藏吉次。山本四兵衛正吉。松平掃部忠隆。駒井次カ左衛門昌保。芦野民部少輔資康。小野左馬助高盛等は供奉の列にくはゝる。この日兼松彌五左衛門正直大番組頭になる。本多主膳正家死して。その子C兵衛正次家をつぐ。(東武實錄。家譜。ェ永系圖。貞享書上。斷家譜。)
○九日藤澤にとまらせ給ふ。
○十日小田原にとまらせたまふ。
○十一日三島。
○十二日蒲原。
○十三日駿府。
○十四日けふも駿府にとまらせ給ふ。けふ江城にて若君御浴室に渡らせたまふとき。近習坂部佐五右衛門正重が子右衛門某頗る不禮を犯すをもて。御手づから誅したまふ。(元ェ日記。)
○十五日駿府に御滯座。此日令せられしは。武家宅地にをいて。市人ならびに主なき浪人に住居せしむる事嚴禁せらる。此廿二日各所に撿使をつかはし巡視せしめ。もしさるものに借おかば。その宅地を收公せらるべしとなり。(東武實錄。)
○十六日田中。この日松平陸奥守政宗は御先に洛に入。また大番松波五カ右衛門勝安子三カ衛門勝信初見す。(國師日記。家譜。)
○十七日懸川にとまらせらる。
○十八日中泉に御旅宿あり。
○十九日M松。
○二十日吉田。
○廿一日岡崎。
○廿二日名古屋。
○廿三日岐阜。
○廿四日水口。(國師日記。)
○廿五日柏原につかせ給ふ。代官新庄吉兵衛直氏が老父刑部左衛門直忠入道東國酒肴を献じ。御親筆の畵を給ふ。半田丹阿彌景周死して。その子丹阿彌景如家をつぐ。(國師日記。家譜。ェ政重修譜。)
○廿六日膳所。
○廿七日伏見城に入らせ給ふ。公卿。殿上人。その外御先に上洛せし諸大名。ことごとく山科へ出迎へ奉る。(舜舊記。)
◎是月安部彌一カ信盛從五位下に叙し攝津守に改む。また山作十カ成次は小姓組に入番す。甲州代官秋山半右衛門伯正死して。其子九兵衛正甫家つがしめらる。(家譜。)
○六月朔日蝕する事あり。(國師日記。)
○二日福島左衛門大夫正則は。關原の一戰に御味方して軍功をはげみけるにより。安藝備後の兩國を給はり。その身參議にまであげられしに。この人資性强暴にて。軍功にほこり。朝憲をなみし。惡行日々月々に超過して。藝備の人民常に其虐政にくるしむ。あまつさへ居城廣島に於て。恣に城櫓壁壘を搨zし。天下の大禁を犯す。これゆるし置るべきにあらずとて。其罪を議せられ。まづ正則がもとへ酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。板倉伊賀守勝重。安藤對馬守重信が奉書を遣はさる。その文にいふ。今度廣島の城を私に搨zせし事。尤大不敬の罪免かるべからず。然るに陳謝の詞をつくすをもて。しばらくェ宥の御はからひにて。本丸を殘しその外悉く破却すべき旨仰下されしに。陽に拜諾しながら。上石のみをとり去て日月を延滯する事。尤重科たれば。藝備兩國を收公せられ。尙恩命をもて陸奥の國津輕の地にて。懸命の所領を下さるべしとなり。久世三右衛門廣宣。坂部三十カ廣勝等を今日江戶に下され。江戶に留守する松平下野守忠ク。松平式部大輔忠次。鳥居右京亮忠政。松平下總守忠明。奥平九八カ忠昌。最上源五カ義俊等に。正則今度の命を聞て。對捍の擧動せんときは。速に人數を發し誅戮を加ふべき旨仰下さる。御內書を廣宣廣勝に授給ふ。兩使かしこまりいそぎ鞭をあげて江戶にはせくだる。(藩翰譜。東武實錄。家譜。世に傳ふる所は。正則かねてより强暴の舊つはものにて。當時武名尤秀。そのうへ兩國を領する大身なれは。正則が國除かれんとき。天下の騷擾を引出するもあらんにやと。上にも御心をわづらはし給ひ。執權のともがらも議しわづらひて。藤堂和泉守高虎。本多上野介正純。本多美濃守忠政。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。板倉伊賀守勝重等。日々御前に召て此事を議せられしに。かれら議する所異同ありて。事决せざる事四五日に及べり。そのとき伊賀守勝重申けるは。井伊掃部頭直孝はいまだ年若く候へども。人の足跡踏て雷同の說申べき者にあらず。召問はるべきにやと申。よて翌日直孝を召て。利勝事のよしを語り。直孝存ずる旨を聞え上べしと申。直孝承り人々の議する所に異なる事も候まじと申けれど。强て所存を申せと仰ありければ。直孝存ずる所は。正則を都に召のぼせられ。彼が罪一々にかぞへられて。申ひらくべき事あらんには聞し召るべし。もし又領國にくだり申ひらくべしとならば。その望にまかせらるべしと仰下されんか。さもなからんには。御使一兩人を江戶に下され仰を傳へしめられ。もし對捍にをよび候はんには。留守に候人々をして誅せられんにすぐべからずと申。高虎聞て直孝には年わかくして。小路軍といふものはしられざるなるべし。大なる屋敷に士卒あまたたて籠り切て出候はんには。仕にくきものをと申。直孝聞て。高虎にはいつか小路軍をもし給ひしにや。小路軍といふ事むかしは聞ど。今其軍せしといふものを聞ず。むかし駿河國にて今川の家人飯尾信濃守といふものを討しとき。さる事ありしといひ傳へたれど。當時それ等の軍せしといふものをきかずといふ。この問答を聞し召。それらの事はしばらく置て。明日また議せらるべしと仰有て。人々皆暇給はり退ぬ。其夜井上主計頭正就より傳へしは。明日密に直孝に仰らるゝ旨あり。とく參るべし。裏の御門より入來るべしとの御むねなり。直孝是を聞て思ふは。今度の事衆議决せずして日を重ぬれば。世にも泄聞ゆる事有べし。我今其議に召加られて。人々の疑うくる事然るべからずとおもひ。其夜一紙の起請文を書て。夜明るを待て參りしかば。正就御門の內に出迎て導き。つねの御座の南緣にままいるとき。直孝袖の內より起請文とり出し。指の血そゝぎ正就して献ず。やがて御前にめされ。汝きのふ申つる所の外。又别におもふ所もなしやと仰らる。直孝謹で。更に别に存ずる旨も候はずと答へ申。その時仰けるは。我はじめよりおもふ所汝が申所に相おなじ。然れども衆議異同なるが故に。事久しく决せざりき。今は汝が議せし所に從ふべしと仰下され。やがてまた例會議の人々に直孝をも加へて召出され。牧野駿河守忠成。花房志摩守正成を江戶へ下され。正則がもとへ仰のむねを傳へしめられ。もし事あらんときのために。ものに心得しもの共をも下さるべしとて。久世三右衛門廣宣。坂部三十カ廣勝に小栗又一正信。阿倍四カ五カ正之。堀田勘左衛門正吉。山田十大夫重利をもそへくだされしといへり。藩翰譜。)
○四日本多彥左衛門C政死して。子次カ右衛門助重家をつぐ。(東武實錄。家譜。)
○五日石谷十右衛門政信死して。子市右衛門政勝つぐ。(ェ政重修譜。)
○六日今度福島左衛門大夫正則に罪條を仰下さるゝとき。正則もし公命をこばみ騷擾におよぶ事あらんが爲に。遠州久野城は西ク孫六カ正員警衛し。本堂源七カ茂親。設樂甚三カ貞代も。おなじく此事つかふまつるべしと命ぜらる。(家譜。)
○九日牧野駿河守忠成。花房志摩守正成兩人江戶へ下りて。福島左衛門大夫正則がもとへ御使し。嚴命を傳ふべしと仰付らる。よて兩使に酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。板倉伊賀守勝重。安藤對馬守重信連署の狀を授け正則に傳へしむ。その文は。國替の事により。上使として牧野駿河守忠成。花房志摩守正成まかりむかふ。御諚のむね兩人演說すべしとなり。又駿河守忠成。志摩守正成兩人に授くる下知狀には。左衛門大夫正則嚴命を謹領せば。そのまゝ酒井宮內大輔忠勝。本多縫殿助康俊兩人を。藝州廣島へ御使して嚴命を傳へしむべし。正則が妻はこゝろのまゝに何方にも引移らしむべし。正則が收貯の貨財米粟も。正則心まかせに藝備兩國の船もて。何方にもその望のまゝに運送すべし。家臣等妻子家財も違亂せしめず。運送すべしと也。また江城留守する鳥居左京亮忠政幷に若君の傅臣酒井備後守忠利。山伯耆守忠俊。國松君の傅臣鳥居土佐守成次。朝倉筑後守宣正に。今度正則に仰下さるゝむねあれば。いよいよ怠らずこゝろ用ひ守護すべきよし。御印書をなし下さる。(東武實錄。令條記。家譜。)
○十二日永井右近大夫直勝。安藤對馬守重信に。福島左衛門大夫正則が所領藝備國收公御使命ぜられ。毛利甲斐守秀元。加藤左馬助嘉明。西國の案內者なれば。殊更につかはさるべしと命ぜらる。その他南海山陽の輩をもさしそへ遣はさるべしとて。森美作忠政。本多美濃守忠政。松平阿波守至鎭。松平宮內少輔忠雄。生駒讃岐守正俊。松平土佐守忠義へ令し下されしは。今度發向の人數次第定書のごとく覺悟し。諸事上使の指揮を受べし。各所にて放火すべからず。押買狼籍はかたく禁ぜらる。竹木みだりに伐取べからず。小屋具のごときはこのかぎりにあらず。然りといへども古跡の寺院は避べし。喧嘩爭論嚴に停禁すべし。違犯せば双方斬に處すべし。もし荷擔人あらば。その科本人より重かるべし。在番中人返しすべからず。その地の人馬其まゝ土着せしむべし。奴婢は主從のはからひにまかすべし。農民未進のため召仕はるゝ男女。一年期たりとも悉く弃捐して。そのク里にとめ置べしとなり。又安藤對馬守重信。永井右近大夫直勝に仰下されし條約にいふ。藩士の妻子家財はをのをの心のまゝに。何地にても引とらしむべし。若ひき移る地にて。公をはゞかりひき移る事をいなむものあらんには。兩人の券を授けて引とらしむべし。城下市中の政務は。重信。直勝兩人。本多美濃守忠政と相議して令すべし。宿賃の事先例のまゝたるべし。御使の輩平常の行裝にて。備中國までまかり。安藝國に入事は後命を待べしとなり。忠政には别に廣島市中の政務重信直勝とおなじく會議すべき旨奉書を下さる。此日松平孫大夫忠政死して。子大番組頭市大夫忠次家をつぐ。忠政は深溝の松平大炊助忠定が孫にて。大番にめし出され。文祿元年城西の小だかき所をきりひらき。大番六隊の邸宅とせらるるにより。その事をうけ始はり。關原の役に西城の留守令せられ。同心を預けられしとぞ。使番川口長三カ近次死す。其子左門正武さきに小姓をつとめて御勘氣蒙り。庇䕃料收公せられてありしが。ゆるされて父の遺領千石をたまひ。後書院番に列せしめらる。(東武實錄。武家嚴制錄。ェ永系圖。貞享書上。家譜。ェ政重修譜。斷家譜。)
○十四日牧野駿河守忠成。花房志摩守正成兩人御使として。福島右衛門大夫正則が江戶愛宕山下の邸にまかり。廣島城を私に搨zして。天下の大禁を犯す。その罪尤輕からず。よて藝備兩國を收公せられ。なを津輕の地にをいて。四万五千石を充行はるゝとの嚴命をぞつたへける。正則仰のむねうけたまはりて。やゝ有て後。大御所の世に在ます時ならんには。正則申べき事もなきにあらず。當代になりて何事をか申べき。たゞ兎にも角にも仰にこそしたがふべけれと答へ申ければ。聞人感淚を催しける。上にも此由を聞し召れ。あはれみおぼし召けるとぞ。(紀年錄。家譜。藩翰譜。此御使遣はされしは諸書に二日とし。重修譜に九日とすといへども。こは奉書の下りし日なれば。今は紀年錄にしたがふ。また一說に。此御使鳥居左京亮忠政なりしが。正則は御使を二時計またせ。長袴きて刀をも帶せず。幼き娘の手をひきて出きたり。正則さしもコ川家には忠を盡し候ものなり。たとひいかなる事ありとも。七代のうちは罪ゆるさるべき身を。生涯をだに過ず。かゝる仰を承はらんとは。おもひよらざる事なれ。今は妻子を一々にさし殺し。貴殿とさしちがへんとおもひ定めつれど。旣に刀をぬきまづ彼等をさし殺さんとする事。千度百度に及ぶといへども。いづくに刀たつべしとも覺えず。この上は力なし。たゞ兎にも角にも仰にこそしたがふべけれと答へけるともしるしたるものあり。されど此ときの御使牧野花房たる事。すでに奉書に名をのせられたれば。鳥居が御使せしにあらざる事さだかなり。また元ェ日記に。近藤登助秀用に豐島主膳信滿を添て御使に遣はされ。その罪狀も。第一に關原の戰後に日の岡にて家人喧嘩せしとき。强訴して伊奈圖書昭綱に腹切らせ。第二に正則父子つねに大坂に志を通じ。第三に逆意に組せざる家士を。他に事よせて手刄し。第四に罪なき國民を誅戮し。第五に大坂の役にさらに志を顯はさず。第六に正則父子今にをいて叛逆の風說頻りなり。第七に備後守正勝今京都に於て兵具を多く貯ふ。この七條をもて封地收公せらるゝとつたふるよしにのせたり。この說尤いぶかし。近藤豐島が御使せし事はすでにたがへり。また奉書の文には。廣島城搨zの事。天下の大禁を犯したるをもて罪せられしむねをのせられたれば别にかゝる七條の事は見えず。尤うけがたき事なり。藩翰譜。)是日もし正則對捍の擧動せんこともあらんには。松平下野守忠ク。鳥居左京亮忠政。松平式部大輔忠次。最上源五カ義俊等人數出し。正則が邸を攻圍んと用意し。町奉行島田彈正利正。米津勘兵衛田政もまかりむかひ。久世三右衛門廣宣。坂部三十カ廣勝等をはじめとして。御先手の人々正則が邸のうへ。愛宕の山のいたゞきに鐵炮たてならべ。彼邸を見おろし。事おこらば忽に打破らんとする有さまなりしとぞ。またこの事により。江戶より若君の御使鯰江甚右衛門和甫。國松君の御使本多新七カ直久伏見にまいり。御氣色を伺ふ。このとき和甫は仰によりて。鯰江を改て宮城と稱す。(藩翰譜。元ェ日記。東武實錄。家譜。)
○十九日金地院崇傳に。京にて諸家拜謁の次第をとはせたまふ。崇傳古例を書し。林永喜信澄もて進覽す。その第一當官の三公。次に親王。つぎに前官の大臣。その次に諸法親王なり。前代の御ときも八條伏見の兩親王。その次に前官大臣と定られたり。但し伏見家は世々今上の御猶子たるをもて。諸親王とは别格たるべしと定られしなり。(國師日記。)
○廿日藝備兩州の御使にさゝれたる安藤對馬守重信。永井右近大夫直勝へ老臣連署の下知狀を授く。その文にいふ。安藝備後の兩國沒收の事。福島左衛門大夫正則。備後守正勝謹領し。その城御使へ引渡すべき旨。家臣等へ手書をなすにより。其手書を牧野主馬某。東條伊豆守長ョにもたらして。廣島へつかはさしむ。その封地受取においては。池田備中守長幸。山崎甲斐守家治に三原城を守らしめ。法令違犯なからん樣に令すべし。廣島へ發向の人數は廣島の城を去事一二里にて地利を考定して備へ。兩使嚴命のごとく。本城受取て後番所を定め。諸家の人數をして勤番せしむべし。松平長門守秀就。堀尾山城守忠晴が人數も是におなじかるべし。その地の事はてば。其人數は歸國せしむべし。目付渡邊半四カ宗綱。使番中川半左衛門忠勝仰の旨をうけて。その地につかはさる。其口演をもて承るべしとなり。廣島城請取の人は酒井宮內大輔忠勝。本多縫殿助康俊。本城二丸は本多美濃守忠政在番せしむ。これは對馬守重信。右近大夫直勝御使として。毛利甲斐守秀元。加藤左馬助嘉明を案內とし森美作守忠政。堀尾山城守忠晴。本多美濃守忠政。松平阿波守至鎭。松平宮內少輔忠雄。生駒讃岐守正俊。松平土佐守忠義。松平新太カ。松平石見守輝澄。松平甲斐守忠良。池田越前守重利等の人數發向し。目付には日下部五カ八宗好。加藤伊織則勝等。竹中采女正重義を廣島の案內として備中の國笠岡に着て。こゝより廣島の城に使たてゝ。左衛門大夫正則父子罪蒙りて兩國沒入せらるゝにより。其城を受取むためわれわれまかりむかひたり。速に嚴命にしたがひ其城退去すべしといはせけり。其とき正則が城代の家臣福島丹波等。これより御答申べしとてその使を返し。やがて吉村又右衛門。大橋茂右衛門に輕卒百餘人そへて。隱戶のP戶(廣島より七里へだつ。)へ出し。正則罪をかうぶり所領の國々收公せらるゝよし謹で承りぬ。然るにこの國城は。正則上よりたまはる所なりといへども。正則が臣たるものは。正則が命を請て守る所なり。しかるに正則が命にあらずして國を避退かん事。人臣の道にあらずといふ。重信直勝これを理りと聞。正則は江戶にあれば。かれにこの事を告むには。むなしく日を費すべし。幸に正勝京都にあれば。正勝に證狀かゝせてとらせんといふに。彼等これを然りとせず。正勝はまさしく正則が子なりといへども。我々この國を守る事は。正則が命をうけて正勝が命うけしにはあらざれば。正勝が下知にしたがふべきにあらずと答ふ。人々尤と聞て。さらばとて江戶へこのよしつたへられ。正則が墨付をとりよせ給ふべしと有しに。丹波また正則が墨付を取よせたまはらんとならば。その間は各の人數を當國にとゞむべきにあらず。正則が封境を三里退て。御陣とらせ給ふべし。その事かなはずとならば。當城微勢といへども。正則年頃養ふ所の士卒を以て。その所におしよせて一戰し。快く討死して屍を曝さんか。また城を攻圍たまはんとならば。籠城して防戰仕るべしといふ。人々は丹波が申狀不敬也。直に此人數をもて。城を攻おとせとひしめきたちしものも多かりしが。老練の輩は。今太平のとき。みだりに于戈を動かさん事しかるべからず。たゞ彼が申旨まかせば允當なるべしとて。諸人數を三里退けて。そのよし江戶へ申つたふ。正則みづから筆とりて。早々その國避渡し進らすべきよし。下知狀を書て出しければ。牧野主馬某。東條伊豆守長ョにその書をもたせ。廣島へ遣はされし也。丹波をはじめ城兵等は正則が自書を見る上は。疑ふべきにあらずとて。福島式部。林龜之助兩人を使とし。御使の人々にかさねて申けるは。さすが正則が內室はじめ城中の男女。徒跣足にて城を退くもみぐるしければ。あはれ近國の人々より船四五百艘をつかはし給はるべし。攝州へ送り遣し。その後こゝろ閑に城中酒掃し。渡し參らせんと申。これも理りとて御使の人々より近國へ令し。五百餘艘の廻船を送る。この間に城中弓銃玉藥。其外武具馬具を廣間にかざり。壁上に士以上の姓名を紙に書て糊し。扨內室女房ども財寳等は。船にのせて退かしめ。藩士の家々も器械をかざり置て後。城兵は上下を着して輕卒に弓銃もたせ。鎗籏の奉行はじめ隊伍嚴整にして門の左より出る。安藤永井を始め人々これも上下着し。從者鐵炮に火繩をかけ門の右より入。をのをの相揖して引分る。丹波以下の家司共は。上使ならびに目付の輩に對面し。城中器械を引渡してさりしとぞ。凡今度丹波はじめ福島が家人どもの擧動嚴正なりと世もつて稱歎しければ。かの家人どもはみな諸家より舊祿を加陪して召抱られしに。丹波一人はかたく辭して仕をもとめず。入道して世を終りしとぞ。(武家嚴制錄。東武實錄。元ェ日記。家譜。)
○廿一日五山の僧等伏見城にのぼり拜謁す。(國師日記。)
◎是月松平出羽直政叙爵して守になり。水野日向守勝成が三子百助成貞小姓となり若君へ仕へ奉る。島津兵庫頭義弘入道惟新大病のよし聞えければ。篠崎吉右衛門某を薩州に御使してとはせ給ふ。池田越前守重利は。今度廣島の城へ發向の列に加へられ。播州より馳むかひしに。分外に人數數多召具しまかりしをもて。御感を蒙り。かの城請取て後備後の鞆をを警衞す。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。) 
卷五十一 / 元和五年七月に始り十二月に終る 

 

○七月二日福島左衛門大夫正則藝備兩國收公ありて。津輕の家にうつされ四万五千石給ははりしが。津輕はあまりに程遠ければとて。信濃國川中島にうつさる。よて酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝連署の奉書をさづく。その文にいふ。津輕は遠境なれば。酒井宮內大輔忠勝。牧野駿河守忠成が封境近きほとりにうつりすむべし。津輕にて下されし四万五千石の地も。其邊にてかへ給はるべし。猶寺澤志摩守廣高。駿河守忠成。花房志摩守正成より。委曲演達すべしとなり。こは正則名に聞えたる强暴の者なるが。先に御使して所領沒收の嚴命を傳へられしに。いさゝか無禮の詞をもはかず。とにもかくにも仰にこそ從ふべけれと御請しつるを聞し召。あはれにおぼし召れ。津輕は遠境なれば。今少し近き邊にうつされしなり。かくて越後魚沼郡にて二万五千石。信州川中島にて二万石。すべて四万五千石給はり。信濃の高井野村に蟄居せしめらる。子備後守正勝もをなじく配所に赴く。(東武實錄。武家嚴制錄。藩翰譜。家譜。)
○十三日伊丹源六某姦曲露顯せしかば。京より召くだし箱根の關に於て搦とる。(元和年錄。)
○十四日二條關白昭實公薨ぜらる。年六十四。この公當世縉紳中の耆宿にてコ望雅量朝野の謄仰する所。かつ朝廷の典故に練達する事。その右に出るものなし。關東にも其訃を聞しめし。世のため人のため深くおしませ給ふ。この日內藤左馬助政長の二子左兵衛政次死す。二十三歲。つぐ子なし。(春日社記。家譜。)
○十五日淺野但馬守長晟。紀伊國和歌山城三十七万四千石を轉じて。安藝幷備後半國四十二万六千五百石餘を給ふ。(重修譜には此年に係て日月を記さず。榮松錄元ェ日記により此日にかくる。)廣島の城主たらしめらる。これ福島左衛門大夫正則が舊領なり。(ェ政重修譜。元ェ日記。)
○十九日駿河中納言ョ宣卿。駿河遠江兩國の封地を轉じ。紀伊國幷伊勢の松坂。合て五十五万五千石を給はり。和歌山の城主たらしめらる。これにより安藤帶刀直次も遠江國掛川より。紀伊國牟婁郡田邊城にうつり。一万石加へて。須賀士の內二百石以下の者三十六人を。直次に附屬せられ。鐵炮足輕もとのごとく隷し。與力足輕の給地をあはせて三万八千八百石餘を領せしめられ。水野出雲守重英。遠江國M松を轉じ。紀伊國新宮の城三万五千石餘給はり。久野丹波守宗成。遠江國久野城より伊勢田丸城を給はる。田丸は熊野邊より一揆の出口なれば。殊更心用ひて警衛すべきむね命ぜられ。直に就封のいとま給ひ。馬幷に茶壺を下さる。これより後駿府をば番城として。松平丹後守重忠。秋元但馬守泰朝及び福原雅樂頭資保弟織部保通幷に長子內記資盛等勤番すべしと伏見にて命ぜらる。太田原備前守晴Cも同じ。松平越中守定綱常陸下妻を轉じ。遠江國掛川の城主となる。三万石故の如し。(紀伊家傳。元ェ日記。ェ政重修譜。家譜。重修譜に元和四年とすといへども。四年には安藤直次未だ掛川にあるをもてこゝにうつす。)
○廿一日轉封の輩に御墨印の條約を授らる。その文にいふ。武具以下諸器械。轉換の地へ引取べし。竹木一切伐取べからず。先納は留置べし。種借の事は城廩より取出せしにまぎれなく。借あたふるに於ては。返辨すべし。借物は相互の證狀次第たるべし。未進あがなはんため給事の男女も。未濟と同じく棄捐すべし。家僕は主從の心まかせにはからはしむべし。一年の俸ことごとく請取りし者は。兼期のごとく給事すべし。其歲俸を返濟せんに於ては。その心にまかせしむべしとなり。また酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。松倉伊賀守勝重。土井大炊頭利勝連署の下知狀には。今度轉封の輩。百石に一疋一人と定めて。陸路は二日路送り。海上は轉換の地まで送るべし。僕從は上下とも轉換の地に至り。主從相はかりて歸國すべし。其時主もさはりなく。歸しつかはすべしとなり。又仰下されしは。今度藝備に赴く人數の次第條約の如く。心して萬事御使の指揮をまつべし。各所放火すべからず。押買狼藉幷竹木みだりに伐取事なすべからず。喧嘩爭論かたく禁制す。若違犯のやからあらんには。双方斬に處すべし。こと更荷擔する者あらんには。其罪科本人より重かるべし。今度在番中人返しあるべからず。その土人はその地にとゞむべし。主從は互にはかりあひ。其意にまかすべし。百姓男女年貢の未進あがなはんため。奴婢となりし者。一年期の約たりともことごとく弁捐し。其ク里に土着せしむべしとなり。この日島津兵庫頭義弘入道惟新卒す。壽八十五歲。其訃京都に至りしかば。薩摩守家久急にいとま給はり歸國す。(令條記。東武實錄。)
○廿二日松平下總守忠明攝津國大坂城より大和國郡山に轉封せられて。二万石を加へ十二万二百石餘を領せしめらる。(ェ永譜。重修譜みな此年に係て月日をしるさずといへども。令條の文によるに。必この時の事なる明らかなり。よて今こゝにおさむ。)水野日向守勝成は郡山六万石を轉じ。備後福山にうつり。十万千石餘になさる。これ備後の深津。沼隈。安那。品治。芦田。神石。甲怒。備中の小田。後目九郡四万石を加へられ。野出村常興寺山に新城を築かしめらる。(重修譜に八月四日とすといへども。これも前條と同じくこゝに收む。)よて酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。板倉伊賀守勝重。土井大炊頭利勝連署して。大坂町奉行水野河內守守信。代官間宮三カ右衛門光信へ令せしは。今度轉封の輩。百石に一人一疋づゝ出し。郡山より大坂まで送るべし。從僕は上下とも轉封の地まで陪從し。その後主從相はかりて歸國せしむべし。その時主も違亂のふるまひせず。歸しやるべしとなり。また堺政所喜多見五カ左衛門勝忠。渡邊筑後守勝にも同じく。大坂より郡山へ百石に一人一疋の定制を以て送り。從僕は上下とも轉封の地まで陪從し。主從相はかりて歸國せしむべし。其時は主も違亂なく歸すべき事を令す。(ェ政重修譜。東武實錄。元ェ日記。武家嚴制錄。渡邊勝がこの時に此事奉るいはれなし。攝州川邊郡豐田を采邑とせるがゆへにや。)
○廿五日御參內あり。銀千枚進らせられ。女御へは五百枚進らせられ。女房だち局々へ千枚つかはさる。(舜舊記。)
○廿七日酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。板倉伊賀守勝重。土井大炊頭利勝連署して。福島左衛門大夫正則へ令せしは。先に仰下されしごとく。越後魚沼郡のうちにて。二万五千石授らるゝがために。井上新左衛門某。市川茂左衛門滿友をして引渡さしむ。さりぬべき家士を出し早く請とらしむべしとなり。(武家嚴制錄。東武實錄。)
○廿八日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成を。肥後日向の國境椎葉山(一に那須山といふ。)中の凶徒を鎭むべしと面命せらる。かの椎葉山といへるは。四面みな峻嶽重嶺絕嶮にして。樵夫杣人もたやすく分入事を得ず。相良左兵衛佐長每が領地球麻郡より。一徑を通ずるのみにて。其外更に道なし。山中には那須久太カ紀之助左近といへる豪族ありて。久しく山中に割據せり。豐臣太閤武威盛なるに及んで。彼等恐服し終に朱印を給はり。其地に安堵し年々蒼鷹を貢とす。慶長の末天下一統せらるゝに及び豐臣家の例にまかせ。當家よりも御朱印を下され。那須が一族山中を安堵する所。近年庶子彈正といへる凶悍の者ありて。山民をあざむき一揆をくはだて。宗家の久太カを弑し。山中を領せんとす。こゝに於て山中もつての外擾亂す。左兵衛佐長每伏見城にいでゝこの事を注進すれば。さらば討手をさしむけらるべしとて。日々諸老臣會議す。四カ五カ正之は先に肥後國の監使にまかり。其邊地理事情に熟せし故。正之が思ふ所をとはせ給ふべしとて。正之をめさる。正之建議九か條を御覽に備ふ。第三條の議思召に應じはれば。今は正之がはからふ旨にまかせらるべし。時宜により萬に沙汰し。人數を用ひん事あらば。相良が人數を招きよせ。もし大軍を用ひんには。有馬左衛門佐直純または松平薩摩守家久。加藤肥後守忠廣に申送り。その余豐後日向の人數を催促し心のまゝに指揮し。誅伐すべしと仰下されしとぞ。(ェ永系圖。東武實錄。)
◎是月長谷川五左衛門直舍死して。子嘉左衛門直辰つぐ。山口主膳光廣子左平太光正初見し奉る。(家譜。)
○八月朔日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成伏見城を辭して西國に赴く。(東武實錄。紀年錄。)
○七日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成。豐後の鶴崎に着て椎葉山に使を立。今度御使として兩人をむけられしは。山中の訴訟を聽行し。かつは鷹巢及田畠等の事を。沙汰せしめられむがためなり。然といへども山路嶮岨にて人馬通せず。たやすく其地に赴きがたし。山中のもの十五歲以上六十歲以下。ことごとくこゝに來るべしと令しけれど。敢て答る者もなし。(ェ永系圖。)
○九日小笠原久左衛門直光死して。子久左衛門正光家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○十日諸國洪水。田圃大に損害し。人畜これがために。災にかゝるもの若干なり。(元ェ日記。)
○十一日大久保權右衛門忠長駿州田中の城代命ぜられ。與力十騎同心三十人附屬せらる。(元ェ日記。)
○十四日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成。嶮路しかも連日の風雨をしのぎ。けふ相良左兵衛佐長每が肥後國人吉の城に着ければ。ふたゝび椎葉山に羽檄を馳て。先に山中の者を召ども來らざるは。公令を蔑如すといふべし。速に大軍を發行し。首惡の酋長等を誅戮すべしと令す。一揆等かねて要害の地を搆へ。防戰の用意しけるが。此檄文をみるに。山民ことごとく誅せらるべきにはあらざるべしとて。異儀區々なり。こたび藝備兩國收公により。堀田若狹守一繼は八千八百八十四石余の采邑にて。一万石の軍賦を供す。(ェ永系圖。東武實錄。家譜。)
○十五日龜井豐前守政矩伏見城に在て卒す。時に三十歲。その子太刀玆政わづかに三歲。此冬家つがせらる。この政矩は武藏守茲矩が長子なり。慶長九年十五歲にて叙爵し。右兵衛佐と稱し。常に外樣の列に候するをこのまず。多年眤近の勤せん事をこひしかば。十年十月朔日伏見より關東にかへらせ給ふとき。供奉の列に加はり。十四年伯耆の國久米川村二郡の內にて五千石たまひ。十七年九月七日父の遺領をつぎ。あはせて四万三千石領し。大坂兩度の御陣に供奉し。元和三年九月因幡の國鹿野を轉じ。石見の國津和野三本松の城にうつり。ことしは病臥してありしかど。福島正則が國除かゝる時。輿にのり御使の人々に廣島に會議す。されど病やゝ重りしかば居城にかへり。安藤對馬守重信。永井右近大天直勝。國中の法度を沙汰し。伏見にかへると聞て。その身もまた城を出て伏見に參る。その病躰尤疲勞せしかば。土井大炊頭利勝かくと聞えて上しにより。京にて治療を加ふべしと命ぜられしが。終にたゝずして卒せしなり。(ェ永系圖。東武實錄。ェ政重修譜。)
○十六日伊奈熊藏忠勝九歲にて死す。よて弟千代松忠隆へ采邑のうち。千百八十石餘を給はりその祀を奉ぜしむ。(家譜。)
○十八日椎葉山中の凶徒那須彈正が子をはじめ三十餘人。山を出て肥後人吉の城下にいたる。阿倍四カ五カ正之大久保四カ左衛門忠成。ひそかに捕手を山谿茂林の中に埋伏し。俄に刀釼を奪ひ是を搦めとり。山中戶口姓名を審に察問し。良民と凶徒を分ち置。其夜凶徒十九人を誅す。(ェ永系圖。東武實錄。)
○廿二日松平若狹守康信。遠江國荒井の奉行を仰付らる。(貞享書上。)
○廿三日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成。相良左兵衛佐長每が人吉城下を出て江代にいたる時。椎葉山中の一揆等三十人こゝに來る。ひそかにこれをとらへ良民をゆるし凶徒を誅し。其夜半椎葉の山路に分入る。この山に三逕あり。正之等江代に於て謀を定め。士卒に命じ三隊に分ち。一隊は山口に屯して。山中より迯出る事を得ざらしむ。一隊は山中の者を見ん程ならば。搦取て刀劔を奪ふべしと定め。一隊は凶徒を誅戮する事を秘して。土人に知しめざる爲に備へしめ。正之等葛かづらを攀巖石を渡りからうじて山中におし入。山中二十六村男女千餘人。一人も殘らず搦取て。凶徒の酉長百四十人が首を刎るを見て。婦女自殺する者廿人。玆に於て正之忠成等兼て御朱印を奉る者をば悉く赦して。令を嚴にし恩を施し。鎭恤しければ。土人悉く安堵し山中靜謐す。(ェ永系圖。東武實錄。)
○廿六日大和國春日の社人等。大坂亡命の者をかくし置よし風說ありければ。中坊左近秀政に命ぜられ。社人等查撿をくはへしめらる。(春日社記。)
○廿七日細川越中守忠興就封の暇たまはり。銀千枚。袷二十。帷子二十下さる。此日木原七カ三カ義久初見す。(舜舊記。家譜。)
○廿九日先に島津兵庫頭義弘入道惟新卒したるにより。花房五カ左衛門職利を薩州に御使命ぜられ。松平薩摩守家久を吊せられて御內書賜はり。香銀千枚を遣はさる。けふ天主教尊崇するやから。男女すべて六十餘人。七條河原に引出し火刑に處せらる。都鄙の老若是を見んと。群集する者雲霞の如し。(東武實錄。舜舊記。)
◎此月安藤對馬守重信。永井右近大夫直勝。廣島の國務はてゝ伏見に歸る。今度伏見城を廢し。伏見在番輩直に大坂へまかり。勤番すべしと命ぜられ。松平石見守輝澄。松平豐前守勝政大坂に赴く。伏見の城內吉野の間を。城代紀伊守正信に賜ふ。水野隼人正忠C松平左近將監成重。伏見大坂へ轉換の事を奉行せしむ。伏見の地は山口駿河守直之奉行たらしめらる。(按ずるに重修譜には六年とす。元和九年伏見城に於て將軍宣下あり。其後殿閣を淀に下さる由みゆれば。此ときいまだ破却せられしにあらず。)紀伊守正信は大坂の城代となる。代官五味金右衛門豐直。大久保六右衛門忠尙は。廣島を淺野但馬守長晟にたまはり。福山を水野日向守勝成にたまはりしゆへ。領地割渡のためにまかり。また大內御料等の事を沙汰してかへる。また都築彌左衛門爲政。村上三右衛門吉正。ならびに建部三十カ政長は。播磨の明石城新築の奉行はてゝかへる。本堂伊勢守茂親遠州久野の城番命ぜられ。今月より十一月まで勤番す。また分部左京亮光信は伊賀國上野を轉じ近江國大溝にうつり。高島野洲兩郡の內にて二万石餘たまふ。又松平新太カは伏見にて左文字の御刀を賜はる。このころ織田長益入道有樂茶道の數寄者なりしが。紫野大コ寺の長老紹長より。妙超宗峰が筆跡一幅。金五十兩に購求して。秘藏する事かぎりなし。しかるに是を見て。贋僞なりと疑ふもの多かりしかば。金地院崇傳をはじめ。五岳有名の緇徒が審鑒をそへて。その證とするといへども。江月澤菴等の僧爭てやまず。終に上裁をこふに至る。京職板倉伊賀守勝重はじめ。諸有司裁斷する事あたはず。この事聞召て。大コ寺より妙超が眞蹟數々召て。入道購求せし幅と合せて御覽ぜられしに。ますますいぶかしげなれば。林道春信勝に所存をとはせ給ひしに。たゞ贋物たるのみならず。誤字を書たるをもて。妙超が筆なるべからずと申たり。その申所をもて有司に下し議せられしに。終に贋物をもて人をあざむく罪のがるぺからず。紹長は法衣を脫して山門前より追放せらる。(ェ永系圖。元和年錄。貞享書上。紀年錄。東武實錄。元ェ日記。家譜。ェ政重修譜。)
○九月朔日細川內記忠利就封の暇給はり。銀三百枚時服五十領下さる。(舜舊記。)
○二日阿倍四カ五カ正之。大久保四カ左衛門忠成等椎葉山の事沙汰しはてゝ。日向國細島をめぐり。此日船を發し伏見に赴く。(ェ永系圖。東武實錄。)
○七日伏見城を出まし大坂へならせ給ふ。(國師日記。舜舊記。)
○八日大坂城に御滯留あり。此時戶田左門氏銕が尼崎の居城へならせ給ひ。新築のさま御覽ぜられ。御けしきにかなひ。氏銕へ銀。その妻へ小袖幷金たまはり。長子采女正氏信へ召れたる御馬を下さる。(國師日記。貞享書上。)
○九日大和國郡山城へならせらる。春日社へ明日早朝御參詣あるべし。鎌倉右大將ョ朝卿參詣の故式をとはせ給ふ。社人社僧これをしるものなき旨答奉る。(春日社記。)
○十日春日社御參詣あり。俄の義なれば御衣冠に及ばず御道服なり。猿澤の池南大門金堂等御めぐりあり。祓殿より御輿をおり給ひ。弓鑓長刀等はこゝにとゞまる。本社御拜禮の間。社家は廻廊に蹲踞し。神人は車宿邊に蹲踞して拜し奉る。供奉の輩五六十人なり。兩社御拜はてゝ。祓殿より直に東大寺の方へならせたまひ。大佛御覽の後緣起をも御覽ぜられ。はてゝ伏見城へかへらせ絡ひ。城中にて論義聞し召る。興福寺。北院。妙喜院。花嚴院。東大寺。C凉院講師つかふまつれり。この日島田C左衛門直時。久貝忠左衛門正俊。水野半左衛門守信。大坂町奉行命ぜられ。正俊は千五百石加賜せられ三千石になされ。其餘與刀同心給料とて。五千石下され八千石になる。服部權大夫政信。同杢助政重。遠州今切番命ぜられ。五百石加へられ四千二百九十石餘になる。川勝信濃守廣綱。五味金右衛門豐直。宮城丹波守豐盛京知恩院造營の奉行を命ぜらる。(重修譜久貝を正月十五日。水野半左衛門守信を二月二日。島田を二月七日とすといへども。其時は大坂はまだ松平下總守忠明。が領地なれば。大坂町奉行命ぜらるべきにあらず。元和年錄によりて此日に係く。春日社記。元和年錄。ェ政重修譜。)
○十一日中坊左近秀政の宅に。伊丹喜之助康勝まかりて。春日社司二人幷大藏院。窪轉經院。其外東大興福兩寺より論義にまいりし僧へ時服一襲づゝかづけられ。春日幷東大興福の寺僧社人等。帙十貫文下さる。今度御參によりてなり。(春日社記。)
○十二日惺窩藤肅卒。壽五十九歲。此人名は肅。字は斂夫。下冷泉參議爲純卿の子にて。永祿四年その采邑播磨の細河邑に生る。幼にして頴悟。七八歲の時釋東明につきて。心經法華等を諳誦せしかば。世以て神童と稱せり。遂に釋氏に歸し。落髮して蕣首座と稱す。天正十九年豐臣關白秀次五山の詩僧をめして。聯句の會を催されしに。一たびその召に加はりし後。再其席に臨まず。衆人强てうながすに及び。肥前名古屋に赴き。金吾黃門秀秋がもとに寓居す。文祿の始朝鮮の軍おこるに及んで。太閤名護屋に在陣せられしにより。列國の將士みな來集しければ。東照宮もこゝに渡らせ給ひしに。始て拜謁する事を得たり。其後西國を周遊してかへり。江戶にまいる。その學識を御稱美あり。常に召て講書せしめられ。貞觀政要等を進講す。また東遊はてゝ都にのぼり。いよいよ聖賢性理の書に思ひをふかくし。世に善師なきをうれひ。唐土におしわたり師を求めんため。筑紫より便船を得て海に浮びしに。折ふし風濤に逢て。鬼界島に漂着せり。これより聖人常師なし。六經に求て足れりと志を决し。益儒學に力を專らにす。凡本邦の往昔遣唐使をもて。かの國の學を傳へられしこの方。縉紳みな漢唐諸儒の說にのみよりて。いまだ濓洛性理の書を講窮する者なし。まして足利氏の末天下戰爭の世となりしよりこのかた。文字はたゞ五山僧徒の業の如くのみなり行し中に。ひとり浮屠をすてゝ道學に歸し。聖賢の書を尊信して。道果してこゝにある事を知て疑はず。天やゝ時の壞乱をいとひ。天授の眞主顯れたまひ。一たびその言を聞し召より。治國平天下の要道。この外にあらざる事を感悟ましまし。しばしば禮遇をあつくして招かせ給ひ。其講說を聞し召る。これ又當時織田豐臣二氏をはじめ。列國の英將豪俊あまたありしといへども。比倫する事を得ず。終に千百歲太平の基業を開かせ給ふ符瑞命脉こゝにありとしるべし。しかりといへども此人仕官を欲せず。その弟子中尤翹楚の名を得たる林道春信勝兄弟をすゝめ。召見せらるゝに及び。退て山林風月に優游し。高尙の志をとげたり。信勝都に庠序をいとなみ學政を振起し。此人を請て其師とせん事を建白し。旣に御ゆるしを蒙りしに。大坂の軍事おこりて果されざりしとぞ。淺野紀伊守幸長。細川內記忠利。戶田左門氏鐵等もつねにその道コを尊信したり。よて今年御在洛の折から。しばしば今の御所にもその事聞え上しかば。上にも召見し給はん盛慮なりしに。其折しも病にそみ遂にたゝずなりしとぞ。しかりといへども昇平二百年にあまり。文運學政の盛になりぬること。その權輿はこの人の功にありといふべき之。さればこそ信勝がその遺像に賛したる詞にも。道學勃興桑海東。高標C節嘯松風。背山别業似濓水。庭草生々意思中とは頌しけん。(羅山文集。羅山行狀。)
○十四日杉田九兵衛忠次。松村吉左衛門時直。河內澁川郡の代官となる。(國師日記。)
○十五日大坂四天王寺に御朱印を賜ふ。その文にいふ。四天王寺領攝津國東成郡の內。すべて千百七十七石餘寄進す。全く寺納して相違あるべからず。修理勤行懈怠あるべからずとなり。又生玉明神領にも同じく御朱印を給ふ。生玉明神。攝津國東成下難波の內三百石寄進せらる。全く社納して永く相違あるべからず。神事勤行社役等懈怠すべからずと之。此日金地院崇傳僧錄司を仰付らる。又東本願寺內敷地寄附せらるゝにより。御朱印を給ふ。當寺內敷地として。六條七條の間方四町寄附せらる。全く領掌して相違あるべからずとなり。(所見雜記。國師日記。武家嚴制錄。)
○十六日春日社家はじめ南都の徒。みなもの奉り拜謁す。有馬玄蕃頭豐氏。(家譜四年とするはあやまりなり。)大村民部少輔純ョは大坂城石堅修築を仰付らる。小堀遠江守政一。備中の內の所領を近江國淺井郡のうちに轉ぜらる。金地院崇傳に銀五十枚たまふ。(春日社記。ェ政重修譜。家譜。國師日記。)
○十七日中坊左近秀政幷春日社家等へ老臣連署もて令せしは。春日祭禮旅所假屋の材木幷雉千二百。狸二百二十。兎二百三十。先規のことく每年大和國中の課役として嚴に納むべしとなり。金地院崇傳僧錄司命ぜらるゝによて御朱印を給ふ。元和元年七月令せられし先判の旨にまかせ。彌鹿苑院䕃凉軒僧錄司を廢し。金地院をして僧錄司たらしめらる。いよいよ五山十刹の諸法令。出世の官資入院の儀式等。先判の旨を守り。舊規のごとく沙汰すべしとなり。(東武實錄。令條記。國師日記。)
○十八日伏見を出たゝせ給ひ。二條へわたらせられ。城郭經營の事を御みつからさたせられ。藤堂和泉守高虎も此事を奉る。かくて御出京ありて。今夜大津にとまらせ給ふ。今度月卿雲客淫穢の聞えある輩を查撿ありて。万里小路前大納言光房入道。中御門中納言尙長。藪中將嗣良。堀川中將康胤等御勘發を蒙る。近年大內に於て日夜酣飮し。白拍子女申樂等を引入て。亂行以の外なる故とぞ。(國師日記。貞享書上。舜舊記。春日社記。)
○十九日彥根城にわたらせ給ひ。今夜御止宿ありて。城主井伊掃部頭直孝に。近江國坂田愛知神崎蒲生四郡のうちにて。五万石加へたまひ。二十五万石になさる。この日高井作左衛門直C死して。子書院番五兵衛C正家をつぐ。直Cは伊賀の國士にて。天正十年神祖伊賀路をこえたまふとき。その地の諸士を引ゐて供奉し。慶長五年伏見城の名古屋丸を守り忠戰せしかば。七百二十石餘たまはり。伊賀の士二十人をあづらけれしとぞ。(ェ政重修譜。家譜。)
○廿日岐阜にとまり給ふ。
○廿一日名古屋にとまらせ給ふ。この日醫官岡道琢孝賀仰によりて若君に奉仕す。矢橋喜兵衛忠重死して。孫與吉重ョ家をつぐ。忠重は始め松永彈正久秀につかへ。のち筑前中納言秀秋に屬し。慶長八年より御家人にめし出され。御談伴にくはへられしとぞ。(國師日記。ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○廿二日岡崎にやどらせらる。
○廿三日吉田。
○廿四日M松。
○廿五日中泉。
○廿六日懸川城にとまらせらる。城主松平越中守定綱御刀ならびに銀時服たまはる。(貞享書上。)
○廿七日田中。
○廿八日駿府にとまらせ給ふ。金地院にて御祈禱大般若經を轉讀しければ。洗米ならびに二種一荷を献ず。松平陸奥守政宗けふ京を發す。(國師日記。貞享書上。
○廿九日駿府御滯留あり。
○晦日肥後國熊本へ御使にまかりし使番渡邊孫三カ勝かの地にて死せしかば。その子孫三カ富次に家つがしめらる。勝が家は代々伊勢の國司北畠の臣たりしが。彼家亡びて後御家人となりしなり。(ェ政重修譜。)
◎此月御在京中伏見にて。土岐山城守定義が子內膳ョ行に。父が遺領攝津國高槻二万石をあらため。下總國相馬郡にて一万石をたまふ。ョ行幼稚なるがゆへとぞ聞えし。ときに十二歲なり。この定義はもとの山城守定政が二子にて。兄藤藏ョ顯早世せしかば。世つぎとなり。慶長二年遺領をつぎ。叙爵して山城守と稱し。五年奥の御陣には。今の御所に扈從し。下野國宇都の宮にまかり。信濃國上田の城責にもしたがひ奉り。十一月御參內の供奉し。七年佐竹右京大夫義宣が領地を移さるゝ時。松平周防守康重と同じく常陸國におもむき。水戶の城を守る。其時佐竹が舊臣車丹波亂をおこさんとたくみしが。其謀露顯しければ。丹波以下數十人生捕て誅し。十四年八月伏見城を守り。十七年大番の頭となり。十九年大坂の軍にしたがひ奉り。元和元年には江戶の城を守り。三年攝津國高槻の城主にせられ。二万石になさる。ことし正月八日かの城にありて卒す。歲四十。(重修譜。ョ行が家督轉封ともに十月にかくるといへ共。松平紀伊守家信伏見にて高槻へ轉封せらるゝ事同書にしるさず。しかればョ行が家督も。又其時なる事明らけし。よりてこゝに收む。)松平紀伊守家信三河國形原を轉じ。一万石加へて二万石賜はり。攝津國高槻城主となさる。封地の內五千石は。長子若狹守康信が庇䕃料とすべしと命ぜらる。又仰によりて先年尾州犬山にて家信野呂孫一カを突伏せし鑓を獻ず。阿部備中守正次上總國大多喜城三万石を轉じ。相摸國小田原城を給ひ。二万石を加へて五万石になさる。小田原城は大久保相摸守忠隣が居城なりしが。忠隣封地收公の後。今年迄は番城たりし之。高力攝津守忠房は武藏國岩槻二万石を轉じ。遠江國M松城を賜ひ。一万石加へ新田を合せ三万五千石になさる。三宅越後守康信は。三河國擧母より伊勢國龜山城にうつる。一万石故のごとし。京極丹後守高知にも多年の忠勤を思し召て。勸賞有べしといへども。いまだ欠地あらざるをもて。しばらく延滯せらるゝむね。本多上野介正純よりつたへしとぞ。(東武實錄。ェ政重修譜。紀年錄。ェ永系圖。)
○十月朔日蒲原に御やどりあり。
○二日三島。
○三日小田原。
○四日藤澤。
○五日神奈川にとまらせ給ふ。松平大隅守重勝駿府城代を命ぜられ。下總關宿の封を轉じ遠江國須賀にうつる。二万六千石故のごとし。大番頭渡邊山城守茂城番となる。その子監物忠も加恩千石給はり。千五百石になり。父と同じく守衛す。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○六日江戶城へ還御なる。(國師日記。)
○七日金地院にて御誕辰の御祈禱あり。(國師日記。)
○十二日松平陸奥守政宗江戶にまいる。(貞享書上。)
○十三日日光山御參の御首途あり。此夜岩槻にとまらせ給ふ。この日木村久左衛門則繼四子久藏宗綱めし出され近習に加へらる。(ときに六歲。元和年錄。家譜。)
○十四日古河につかせ給ふ。田付兵庫助景澄死して。子四カ兵衛景治家つぎ。父のごとく鳥銃の事をうけたまはる。景澄銃技長ぜし聞えあれば。慶長十八年よりめされて御家人になり。大坂兩度の役にも。大筒をうたしめらる。のちに其書若干あらはし。田村流といへるを起せしとぞ。(家譜。ェ政重修譜。)
○十五日宇都宮にとまらせらる。
○十六日日光山につかせらる。(元和年錄。)
○十七日御參宮。(元和年錄。)
○十八日日光山御發輿有て宇都宮につかせたまふ。(元和年錄。)
○十九日古河にやどらせらる。
○廿日岩槻にやどらせ給ふ。下總國古河城主小笠原左衛門政信。同國關宿の城にうつり。新田を合せて二萬二千七百石になされ。奥平千福下野國宇都宮より。下總國古河に移され。一萬石加へ十一万石になされ。酒井雅樂頭忠世上野國里見にて。一萬石加へられ八萬五千石になさる。(ェ政重修譜。)
○廿一日江戶に還御なり。
◎此月本多上野介正純。下野國小山三萬三千石を轉じ。同國宇都宮城賜はり。十二萬二千石加へて十五萬五千石になさる。酒井備後守忠利は武藏國の內にて。一万石加へ三万七千石餘になさる。小出信濃守吉親は但馬國出石城より。丹波國園邊にうつり。二万九千七百石もとのごとし。小出大和守吉英は和泉國岸和田城より。但馬國出石にうつり。五万石もとのことし。松平周防守康重は丹波國篠山より。和泉國岸和田の城にうつり。一万石加へて六万石になさる。松平安房守信吉は上野國高崎城より。丹波國篠山にうつる。五万石故のごとし。此とし伊豆守に改む。安藤對馬守重信は常陸國鹿島。下總國結城。近江國神崎の封地を轉じ。上野國高崎の城を給ひ。二万石加へて五万六千六百石になさる。又向井權兵衛政家死して。其子權十カ某家をつぐ。(ェ政重修譜。東武實錄。斷家譜。)
○十一月五日長田金平白勝弟平四カ白久召出され。鷹師になされ。廩米百苞給ふ。(東武實錄。斷家譜。ェ政重修譜。)
○十二日大番組頭松平市大夫忠次死して。子七十カ重次家をつぐ。(東武實錄。家譜。)
○十三日肥前國大村城主大村民部大輔純ョ卒しければ。その子松千代純信遺領二万七千九百七十石餘をつがしめらる。(重修譜には慶長六年五月十五日襲封とす。)父の遺物江の刀を献ず。此純ョは故丹後守喜前が子にて。慶長十年の春父と共に。伏見城にまいりて。兩御所に初見し。十九年九月長崎に至て天主教の塲を打破り。是年の秋有馬左衛門佐直純が封地をうつさるゝにより。仰をうけて舊領北有馬の郡務を沙汰す。このとし又久島城を築く。元和元年大坂の役に父と共に艤して。五月朔日周防國上關を過る所。大坂城旣におちいると聞て。伏見二條に參り。兩御所に見參し。直に從駕して駿府にまいり。封をつぎて領地にかへる。四年十二月廿九日從五位下に叙し。民部大輔と稱し。この日二十八歲にて卒せしなり。(家譜。ェ政重修譜。)
○十五日朝倉筑後守宣正國松君につけられ。三千石加へ六千石になる。(元ェ日記。ェ政重修譜。重修譜は國松君に付られしを元和七年とす。今元ェ日記による。)
○廿日瀧川久助一乘若君に初見す。(ェ永系圖。)
○廿一日御放鷹として土氣東金邊にならせらる。內藤左馬助政長この時御供にまいりしが。途中に於て安房の國の內五千石加恩たまひ。四万五千石になされ則重の御刀たまふ。(國師日記。ェ政重修譜。)
○廿六日下總の市川に至らせたまひ。鐵炮にて水鳥をうち留給ふ。淺原又三カ安正水に飛入てその鳥をとらんとす。折ふし寒氣酷烈なりしかば。其まゝ凍死す。上にも深く哀み思召。その子又三カ正勝をその地に召れて。五十俵加賜せられ。父の家つぎ二百五十俵たまふ。(家譜。)
◎この月東金の御狩塲に。若君の御使土井左兵衛正次まいり。御氣色を伺ふ。松平式部大輔忠次に屬せし小笠原八右衛門廣安若君に初見す。時に十四歲。越前家に付られたる水野大藏少輔吉勝死して。子庄助勝安家をつぐ。(東武實錄。家譜。ェ永系圖。)
○十二月二日金地院崇傳江戶に參着す。(國師日記。)
○五日御狩はてゝ江戶城にかへらせ賜ふ。この日極熱暑中のごとし。都鄙夏衣を着し汗を拭ふ。(國師日記。元ェ日記)。
○六日金地院崇傳まうのぼり拜謁す。(國師日記。)
○十日金地院崇傳に廩米三百苞たまふ。御狩の供奉せし土井大炊頭利勝は所領佐倉に留りて。けふ府にかへる。(國師日記。)
○十二日石川四カ兵衛重久死して。子八右衛門春吉つぐ。この日大雪。(東武實錄。ェ政重修譜。國師日記。)
○廿一日柳川豐前守調興參着す。(國師日記。)
○廿六日令せらるゝは。人を勾引して賣ものは斬に處すべし。人を買取てまた他へ賣たるは繫獄百日の上に。過料錢は分限を越て令すべし。もし過料出さざる者に於ては斬に處すべし。人賣買停禁せらるゝうへは。たとひ譜第あるは家子たりといふとも。其身價は賣者買もの兩方より出し。賣れたるものは取返し。其覺悟にまかすべし。勾引して賣れたる者は。その本主へ返すべし。もし主なくば其者の心にまかせしむべし。年頃人賣買をもて活計となしたる者は死罪たるべし。一夜宿せしものも。其罪を查撿して曲事たるべし。人賣買の媒介せしもの。勾引したる者。媒したるは死に處し。普第家子以下を媒したる者は。查撿の上あるは繫獄。あるは過料たるべし。年期を長くする事も停禁せらる。もしみだりに違犯するものあらんには。その分限に應じ。過料命ぜらるべし。主に暇を乞ず亡命し。他家に勤むる者は。前主より當主につげて召返すべし。御軍陣御上洛大搆造の時ならばしばらくなだめ置て。歸府の後めしかへすべし。されどひが事ふるまひ逐電せし者は。其事情を當主へつげやり。當主うけがはずぱ奉行所へうたへ出べし。村里に籠りたるものは。其邑主代官へつげて召返すべし。證人はその品により。亡令の者を舊主へ引渡すべし。もし下請の證人あらば。其者にはからはしむべし。亡命者の證人は。兼約の歲俸に一倍して。舊主へ出すべし。其事かなはざらんには獄につなぎ。其上舊主の心にまかすべし。御陣御上洛幷大搆造の時に亡命する者其罪尤重し。證人速に搜索して舊主へ返すべし。もし其事かなはざらんには。歲俸の二倍を舊主へ出すべし。それもかなひがたくば繫獄せし上。其者の意にまかすべし。亡命の者他につかへ。當主歲俸をさづげたるにおいては。其歲俸當主の損失たるべし。證人あらば請取し俸金の數をはかり。前後の主へ出すべし。公法を違犯して亡命せし者は。尤重科たり。速に本人を搜索して出すべし。其事かなはずば斬に處すべしとなり。(武家嚴制錄。東武實錄。)
○廿九日野間與五右衛門政次百五十石加へ給はり。二百七十石五斗となる。(家譜。ェ政重修譜。)
○晦日鍋島三平元茂從五位下に叙し。紀伊守にあらたむ。坂部三十カ廣勝五十人組の頭になる。よて與力の給分として。上總國大多喜にて二千石の地を給はる。久世三四カ廣宣もをなじ。(東武實錄。家譜。)
◎是月松平出羽守直政。上總の姉崎にて一万石加へられ二万石となる。書院番日根野長右衛門弘佐廩米三百俵たまふ。天野彥右衛門政弘子兵右衛門政則。天野甚七カ正久子C兵衛正信。若君につかへ小十人組番士になる。小田切庄兵衛昌直死して。子庄七カ昌勝つぐ。松平式部大輔忠次家司原田權左衛門種次。中根善右衛門某。村上彌右衛門勝重。先代より給はりし采邑各千石。ありしまゝにたまはる。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
◎是年夏より冬に至るまで。東南に白氣あらはる。其形牛角のごとく。長さ數十丈。また彗星東北にあらはる。其光火炎のことし。小出播磨守吉政が四子杢助吉成。阿倍四カ五カ正之が長子左衛門次カ政繼。二子主馬正朝。兩御所に初見し奉る。淺野但馬守長晟子又六カ長治。(時に六歲。)曾我又左衛門尙祐三子猪之助包助。(時に九歲。)能勢攝津守ョ次五子市十カョ永。(時に十一歲。)井戶左馬助良弘子三十カ覺弘。森川金右衛門氏信二子三左衛門氏時。(時に十三歲。)同朋佐野福阿彌爲綱が子八カ正長初見し。井上權左衛門正友が子內匠正勝。小笠原安藝信盛弟七左衛門信吉。小笠原孫左衛門廣信子孫六カ廣安若君に謁し奉り。左衛門氏明は近習に召加へらる。又植村帶刀泰勝は大番頭となり。大番佐橋義左衛門吉堅。小野麻右衛門高光其組頭になり。のちに此二人は國松君につけらる。大番頭高林市カ左衛門吉次養子孫市カ利春若君の小姓になる。時に(十五歲。)安藤次右衛門正珍。山岡十兵衛景次。柘稙右衛門正時子右衛門佐正直。曾根源左衛門家次養子半兵衛良次小姓組にいり。鈴木九大夫重三。久留善兵衛正次子善四カ次正大番にいり。大番淺井平右衛門元忠弟太カ右衛門安本小十人組にいり。佐野傳右衛門正長は千姬君に付られ。先手頭日向半兵衛政成。大番朝比奈彌左衛門資重。曲淵C兵衛吉門は國松君につけられ。渡邊監物忠子久左衛門善は。父の庇䕃料五百くだされ。二子平左衛門重は國松君につけらる。故上總介忠輝朝臣に仕へし跡部三カ兵衛重治。めし返され大番にいり。故歩行組頭つとめし河島喜平次重勝。病により處士となり。外科を業とし了俊と稱せしがめし出され。廩米百苞。月俸十口たまはり。同朋石川金阿彌吉次が子才阿彌久次。茶道頭中野笑雲子了雲初て奉仕す。故土屋民部少輔忠直二子辰之助數直。高林太カ兵衛直次弟與五右衛門正成は若君に奉仕す。また古田大膳大夫重治伊勢國松坂城を轉じ。石見國M田城主になさる。五万五千石故のごとし。永井右近大夫直勝は常陸國柿岡土浦にて。二万石くはへて五万二千石になされ。その子信濃守尙政は上總國閏井戶にて。一万石加へて一万五千石になされ。丹羽五カ左衛門長重は常陸江戶崎にて。一万石くはへて二万石たまひ。北條出羽守氏重は相州甘繩より。遠州久野にうつり。一万石賜はり。尾張中納言義直卿家司竹腰山城守正信も。一万石くはへて三万石になる。杉浦忠左衛門親俊は二百石くはへて五百石。大森半七カ好長二百石加へて七百石になり。安藤伊勢守重長は二千石。駒木根長次カ政次は七百石。小笠原縫殿助長房が二子左門元定は。新に三百五十石たまひ。元定は腰物持役になる。江原與右衛門秀次紀伊中納言ョ宣卿につけらる。又攝津國麻田の領主木民部少輔一重致仕し。その養子源吾重兼に所領一万石をつがしめらる。この一重は刑部卿法印重直が子なり。重直は織田豐臣兩家につかへ。慶長十八年大坂にて卒す。一重始今川上總介氏眞につかへ。今川亡びし後遠江國掛川のほとりにしのび居たりしに。そのむかし新坂の戰によき敵と組て首をとり。名を得たるをもて。當家にめし出され。元龜元年姉川合戰に從ひ奉り。眞柄十カ某を討とり高名し。後に去て豐臣家の家人となる。さる功の者なれば。豐臣太閤二十四人の勇士をゑらび。黃母衣をゆるされしとき。その撰にあづかり軍使をつとめ。又二十四人が中よりゑらびいだされて。七組の番頭となり。天正十六年從五位下に叙し民部少輔と稱し。西東御和睦有しとき。大坂より淀殿の使とて進らせられたる女房を護送して參りけるに。女房等は故なくかへされて。一重はかへる事をゆるされず。世治りてのち二條城に於て召出され。再び御家人に加へられ。攝津備中伊與の國內にて一万二千石餘下され。今の地に住し。ことし致仕して。後ェ永五年八月九日七十八歲にして卒せしなり。菅沼藤十カ定俊子藤十カ定政家をつぎ。三千五十石の內。千二十石を二子新三カ定勝に分つ。深澤C兵衛某子忠右衛門某。父死して家をつぎ。小知喜兵衛重周致仕し。その子嘉兵衛正俊つぐ。曲淵助之丞吉重は。父縫殿左衛門吉Cが家つぎ。武川衆と同じく甲府城番となる。又松平越中守定綱は。江戶城大手より櫻田まで修築の助役し。鍋島信濃守勝茂も同じく助役し。菅沼織部正定芳は。所領近江國長島水害にかゝりたるをもて。賑救のため米千五百石。金二千兩恩貸せらる。(重修譜六年とす。)又松平陸奥守政宗が邸にならせ給ひしとき。長子美作守忠宗に包永の御刀をたまふ。(東武實錄。ェ政重修譜。ェ永系圖。家譜。貞享書上。) 
卷五十二 / 元和六年正月に始り六月に終る御齡四十二 

 

元和六年庚申正月元日慶會例の如し。(視聽日錄。)
○二日また同じ。謠曲始例にかはらず。(視聽日錄。)
○三日同じ。金地院崇傳拜賀して年筮を献じ。又使して御臺所はじめ後閣の方方へ。繻珍板物純子等をさゝぐ。この夜追儺。(國師日記。)
○四日立春なり。群臣西城に出仕して新年を賀し奉る。(視聽日錄。)
○五日禁裡の新年の賀として。御太刀。馬代銀百枚。蠟燭千挺進らせ給ふ。この日銃技幷御茶事はじめあり。金地院崇傳西城へのぼり。拜賀して年筮を献ず。若君御前にて筮儀を講ぜしめらる。また本城にのぼり國松君へも年筮をさゝぐ。此日佐々木莊五カ正成始めて奉仕し三百俵たまふ。(東武實錄。元ェ日記。續元和年錄。國師日記。ェ政重修譜。)
○六日出家社人拜賀例の如し。(續元和年錄。)
○七日若菜の御祝あり。
○十日葛西邊放鷹に成せらる。(續元和年錄。)
○十一日水野勘八カ重家若君方の歩行頭命ぜらる。小姓松平掃部忠隆從五位下に叙し兵庫頭と改む。忠隆が兄庄九カ忠一は。元和元年大坂の役に討死し子なかりしかば。弟忠隆をして其祭を奉ぜしめらるゝ所之。(斷家譜。元ェ日記。東武實錄。)
○十二日金地院崇傳に國松君第宅搆造の良辰を撰ばしむ。本月廿三日を勘進す。(國師日記。)
○十五日月次朝會江戶官工商等拜し奉る。(國師日記。)
○十七日紅葉山御宮御參あり。御折烏帽子御直垂をめさる。豫參供奉諸大夫以上。直重狩衣大紋を着す。金地院崇傳も紫衣に九條袈裟かけて從ひ奉れり。(國師日記。)
○十八日大坂城修築の事を。西北國諸大名に課せらる。屋口より玉造口迄は越前宰相忠直卿。松平筑前守利常。京極若狹守忠高。京極丹後守高廣。一柳監物直盛。松平阿波守至鎭。石川主殿頭忠綱。堀尾山城守忠晴。松平土佐守忠義。松平長門守秀就。鍋島信濃守勝茂。玉造口より大手門迄は松平薩摩守家久。織田河內守長則。有馬玄蕃頭豐氏。京極若狹守忠高。織田刑部大輔信則。鍋島信濃守勝茂。秋月長門守種春。久留島右衛門市通春。古田兵部少輔重恒。稻葉民部少輔一通。木下右衛門大夫延俊。本多因幡守政武。分部左京亮光信。遠藤但馬守慶隆。生駒讃岐守正俊。藤堂和泉守高虎。島津右馬頭以久。戶川肥後守達安。一柳監物直盛。伊達兵五カ秀宗。松平阿波守至鎭。桑山左衛門佐一直。桑山加賀守貞晴。池田備中守長幸。森美作守忠政。有馬藏人康純。松平石見守輝澄。松平岩松政綱。松平右近大夫輝興。松平宮內少輔忠雄。京極丹後守高廣。京極修理大夫高知。中川內膳正久盛。平岡石見守ョ資。松平新太カ。立花左近將監宗茂。立花彌七カ種次。稻葉大夫紀通。毛利伊勢守高政。松平右衛門佐忠之。松浦肥前守隆信。大村松千代純信。寺澤志摩守廣高。杉原伯耆守長房。松平長門守秀就。堀尾山城守忠晴。石川主殿頭忠總。松倉豐後守重正。加藤五カ八泰興。小出信濃守吉親。片桐出雲守孝利。伊東修理大夫祐慶。土方丹後守雄氏。大手門より京橋口までは加藤肥後守忠廣。松平右衛門佐忠之。有馬左衛門佐直純。加藤左近大夫貞泰。秋月長門守種春。田中筑後守忠政。有馬玄蕃頭豐氏。寺澤志摩守廣高。土方丹後守雄氏。加藤左馬助嘉明。松浦肥守隆信。大村松千代純信。久留島右衛門市通春。木下右衛門大夫延俊。細川越中守忠興。森美作守忠政。本多因幡守政武。杉原伯耆守長房。片桐出雲守孝利。藤堂和泉守高虎。京橋より屋口迄は松平宮內少輔忠雄。松平新太カ。毛利伊勢守高政。生駒讃岐守正俊。松平筑前守利常。越前宰相忠直卿。內郭東は京極若狹守忠高。堀尾山城守忠晴。石川主殿頭忠總。市橋下總守長勝。松平長門守秀就。松平阿波守至鎭。鍋島信濃守勝茂。織田刑部大輔信則。立花左近將監宗茂。立花彌七カ種次。本多因幡守政武。分部左京亮光信。有馬左衛門直純。遠藤但馬守慶隆。稻葉彥六典通。松平右衛門佐忠之。古田兵部少輔重恒。島津右馬頭以久。秋月長門守種春。森美作守忠政。松平長門守秀就。南は細川越中守忠興。松平長門守秀就。松平石見守輝澄。松平岩松政綱。松平宮內少輔忠雄。松平新太カ。西は生駒讃岐守正俊。毛利伊勢守高政。戶川肥後守達安。山崎甲斐守家治。稻葉大夫紀通。一柳監物直盛。桑山加賀守貞晴。桑山左衛門佐一直。池田備中守長幸。松浦肥前守隆信。寺澤志摩守廣高。大村松千代純信。杉原伯耆守長房。土方丹後守雄氏。松平新太カ。平岡石見守ョ資。中川內膳正久盛。伊達兵五カ秀宗。京極修理大夫高知。京極丹後守高廣。伊東修理大夫祐慶。片桐出雲守孝利。加藤左馬助嘉明。松倉豐後守重正。コ永左馬助昌重。織田河內守長則。小出大和守吉英。小出信濃守吉親。加藤五カ八泰興。桑山加賀守貞晴。京極若狹守忠高。藤堂和泉守高虎之。(續元和年錄。)
○十九日松平陸奥守政宗營中に召て饗宴を給ふ。(貞享書上。)
○廿日具足始御祝あり。又連歌興行例の如し。發句は紹之。世にかさず天つ高竢シの春。御脇句は霞にあまる四方の梅がゝ。第三は日野大納言資勝卿。長閑にも千鳥百鳥聲はして。(續元和年錄。)
○廿五日新庄刑部左衛門直忠入道東國死。七十九歲。其子吉兵衛直氏は。江州代官にて柏原御旅舘の奉行たり。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿六日織田內府入道常眞。先に恩賜ありし黃鷹にてとりし鶴を献じければ。御內書つかはさる。(東武實錄。)
○廿八日日向半兵衛政成が子傳右衛門政次初見す。(ェ永系圖。)
◎是月諏訪因幡守ョ水三子左門ョ長初見の禮をとる。天方主馬通直小姓組與頭になる。また淺野但馬守長晟廣島の城において。その家司淺野左衛門佐氏次を誅す。これは長晟これより先紀伊國を領せしとき。同國新宮城を氏次に預けまもらしむ。長晟藝備に轉封の後。備後の三原城を氏次にあづけず。同州淺野右近にあづけしかば。氏次これをうらみ此のちは籠居して憤言を咄出し。强慢無禮を行ふ事少からざるが故なり。しかれども彼氏次は見參せし者なれば。長晟は公をはゞかり江戶にまいり。閉戶してつゝしみゐたり。よて御ゆるし有て出仕せしめらる。又氏次が二子內膳氏重は江戶に奉仕して有しが。長晟をはゞかり籠居せしめらる。(家譜。紀年錄。)
○二月十一日河內國中堤坊を修築せしめらる。(國師日記。)
○十二日朝とく松平陸奥守政宗の邸に御使(姓名つたはらず。)して問せらる。けふ牛奥太カ右衛門昌雄死して。その子太カ右衛門昌陸家をつぐ。(貞享書上。家譜。)
○十七日紅葉山御宮御參あり。安南國王より船主船本彌七カ顯定が歸帆に付して。奇楠香幷油汁鐵炮二挺進らせ奉り。本多上野介正純に密𥿻五卷。奇楠香一木。土井大炊頭利勝へ密𥿻十卷。鐵炮一挺を贈る。よてその御答禮として。國王へ甲胄二領。太刀二ネつかはされ。正純より描金屏風一雙。利勝より鞍鐙轡等の馬具をおくらしめらるべしとて。金地院崇傳に正純利勝の兩老臣返簡を製せしめらる。兩國通商非義非法を制し。永く斷絕あるべからざる旨を傳へしめらる。(異國日記。)
○廿二日京にて女院腫物なやませ給ふよし聞えければ。兩傳奏衆のもとへ御手書もてうかがはせたまふ。この日水野將監勝氏死す。子千代松某も遺領賜らざる前に死せしかば。采邑を收らる。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○廿六日阿波國コ島城主松平阿波守至鎭卒す。遺領阿波淡路兩國廿五万七千石を。その子千松丸につがしめらる。時に十歲なり。此至鎭は阿波守家政入道蓬庵が子にて。八歲の時より豐臣家につかふ。慶長四年石田三成が叛狀旣にあらはれければ。細川越中守忠興。加藤肥後守C正等と志を合せ。その事を書して東照宮にうたへ奉る。五年正月御養姬君(實小笠原兵部大輔秀政が女。)降嫁ありしかば。伏見城にのぼり拜謁し家をつぎ。奥の御陣に御供して下らんとす。大坂の奉行搏c長盛がもとより。豐臣家の舊臣として。コ川家に從ひ軍するいはれなしと申おくる。至鎭大に怒り。我なんぞ豐臣家にそむくべき。只汝等に黨する事をせずとて。手のもの五千餘騎大坂の居邸に引籠り。寄手をまつ。其勢あたるべからざりしゆへ。長盛和をこふによりつゐに御供して下野國小山にいたり。關が原の御軍にも供奉し。九年從四位下して阿波守とあらたむ。(この時までは長門守と稱せしとぞ。)十九年大坂の戰に穢多崎伯樂が淵等にて家臣等軍功をはげみ。又其後城兵塙團右衛門直之等が夜討せし時もよく戰しかば。家臣等御感狀幷若干のたまものあり。元和元年正月十一日岡山の御陣に召れ。御感淺からざる旨御詞を蒙り。松平の御家號をゆるされ。御感狀幷順慶左文字の御刀等を給ひ。家臣等もかずがずのものくださる。翌年の戰には五月七日大坂にいたる。所城はや陷りければ。八日の朝茶磨山岡山に參り。兩御所に拜謁す。御凱旋の後伏見城に召れ。淡路國を加へたまはり。都て二十五万七千石になされ。けふコ島にありて三十五歲にて卒せしなり。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○廿七日內藤外記正重御使し。松平陸奥守政宗へ駿河蜜柑一籃を給はる。そのとき政宗他適して御使に對面せず。(貞享書上。)
○晦日江戶城修築のため松平宮內少輔忠雄角石平石栗石を獻ず。よて奉書をたまふ。けふ上京より失火して。京中市街多半燒亡するよし注進あり。(東武實錄。國師日記。)
○三月二日前塲吉左衛門勝秀入道半入死す。その子久三カ勝政つぐ。(ェ永系圖。)
○三日上巳例のごとし。駒井右京親直が子孫三カ親昌(時に八歲。)初見し奉る。(ェ永系圖。)
○四日上京よりふたゝび出火し。燒殘りたる市街民屋悉くこの炎にかゝる旨注進す。(國師日記。)
○五日松平阿波守至鎭が父蓬廣入道を吊慰せられ。御自書にそへて香銀五百枚たまふ。(東武實錄。)
○六日國松君新第宅御遷徙の時を。金地院崇傳に撰定せしめらる。本月廿七日を勘進す。(國師日記。)
○七日枚野右馬允忠成に。越後國古志郡の內橡尾に於て一万石加へ給ひ。すべて七万四千石餘になさる。これ去年福島正則が封地沒入の時。御使に參りて沙汰せし所。よく時宜を得たりとの褒賞なりとぞ。この日武藏の浦和大宮邊。大雹ふりて鳥獸大に損害す。(ェ政重修譜。續元和年錄。)
○十一日渡邊半兵衛眞綱老病やゝ重きよし聞えければ。久世三左衛門廣宣。坂部三十カ廣勝御使して御樂を賜ふ。(家譜。)
○十二日渡邊半兵衛眞綱死す。八十歲。その子八カ右衛門勝綱家つぎて。半兵衛と改めしめらる。(ェ永系圖。)
○十四日京職板倉伊賀守勝重より。京中大火ありしによて改元あるべきやと。禁中に於て會議せられ。關白並傳奏衆內議の旨注進す。よて諸老臣をして金地院崇傳に議せしめらる。(國師日記。)
○十五日日光山。久能山。喜多院に神領寺領を寄附有て。御印書を大僧正天海に賜ふ。日光山の御書は下野國日光山神領惣計五千石各所十七か村寄進せらる。殊には御宮搆造あるにより。本山衆僧社家門前屋敷地子等悉く免許せられ。又永代撿斷使を停止せらる。若國法にそむくものあらんには。このかぎりにあらず。よろしく此旨を守り。佛法興隆嚴密勤行すべしとなり。久能山の御書は駿河國久能山神領惣計三千石のうち。千石は神供料。二百石は社僧領。千八百石は神主領として。本國有渡郡中十六ケ村寄進せらる。永く撿斷使を停禁せらる。但犯科の徒あるにおいてはこの限りにあらず。神領すべで榊原大內記照久沙汰し。神事社役嚴につかふまつるべしとなり。又喜多院へ下さるゝ御書には。武藏國東叡山無量壽寺喜多院領入東郡仙波ク五百石全く寺納して。寺中門前屋敷境內山林竹木等免許せられ。永代撿斷使不入の地と定らる。もし大法違犯の者はこの限りにあらず。よろしく此旨を守り。佛法興隆怠慢有べからずとなり。(東武實錄。武家嚴制錄。)
○十七日大坂城修築助役の諸大名に。其功を褒賞せられて奉を下さる。參議の輩には大坂城修築の事。心いれ速成せしめ御感淺からず。深く其勤苦を察し給へば。謁見のおりから猶仰下さるべしと之。侍從以下には其功の甲乙を分て褒せらる。甲功の輩には。大坂修築心いれ速に告竣に及び。勤苦のほど察し思召るゝとなり。乙功の輩には。今度大坂の修築心いれ成功し。スばせたまふとのみしるさる。又越後國三條の城主市橋下總守長勝卒す。實の子なき故に封地四万千三百石を收公せらる。其養子左京長政は是より先别に三千石給はりて。三條の地にありしに。近江河內兩國のうちにて二万石給ひ。長勝が家を相續せしめ。近江國蒲生郡仁正寺に住せしめらる。此長勝は故壹岐守長利入道一齋が子にて。織田豐臣兩家に歷仕し。天正十五年より美濃國今尾の城主として一万石を領す。慶長五年奥の御陣に從ひ。下野國小山に至る。上方の逆徒蜂起するに及び。今の領地敵のこもりたる大垣に近しといへども。家人等堅固に守りければ敵攻る事あたはず。長勝は鍋島K田等の人人と共に。御先手奉りて彼地にいたり。福塚の敵丸毛三カ兵衛。大垣の城主伊藤彥兵衛と。藤川をへだてゝ對陣し。終に丸毛伊藤等を追散し。福塚の城を攻てこれに住し。桑名大垣の通路をふさぐ。關原御凱旋の後一万石加へたまはり。常に駿府に伺候し。十三年轉封して伯耆國矢橋の城たまはり。二万千三百石を領し。十九年大坂の役には吹田川中島をこえ。長ネ山をわたり天滿川邊に陣し。川の淺深をはかり。敵城近く標をたてゝかへりしかば御感斜ならず。元和元年の役には河內國星田村に御營をいとなみ。迎へたてまつり。五月六日には仰によて。家人等に其地をまもらせ。その身は御駕にしたがふ。大坂平定の後伏見に於て。兩年の軍功を褒賞せらるゝ事しばしば之。二年東照宮御不豫のとき。堀。松倉。桑山。别所等の輩と共に。御病牀にめして恩言甚あつく。普第の人々と同じくつかふまつるべしと仰下され。江戶に參りて拜謁し。八月今の城たまはり。二万石加へて都て四万千三百石を領し。六十四歲にて卒せしなり。(東武實錄。元和日記。ェ政重修譜。)
○十八日㝡上源五カ義俊が家士等爭論おだやかならず。よて今村傳四カ正長。石丸六兵衛定政に出羽の㝡上監使命ぜられ暇給ふ。また石川八大夫春吉(時に十歲。)初見し奉る。(東武實錄。元和日記。)
◎是月常陸國土浦城主西尾丹後守忠永が子右京忠昭に。原封二万石を襲しめらる。この忠永は酒井河內守重忠が子にて。故隱岐守吉次が養子となりしなり。慶長五年關原の役に供奉し。八年十一月廿五日從五位下して。丹後守と稱し奏者の事承り。十一年十月七日家つぎ。大坂兩度の御陣にしたがび。元和二年上野國白井にて加恩たまはり二万石を領し。四年八月封地を轉じて常陸國土浦城をたまはり。この正月十四日居城に在て卒す。年三十七。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○四月朔日藤堂和泉守高虎。このほど病に臥けるが。やゝ快よし聞しめし。猶怠らず保護すべき旨奉書を下さる。(東武實錄。)
○二日松平陸奥守政宗就封のいとまたまはらんとて召けるに。折ふし近郊にまかりて家にあらず。ことに途中より病にそみしかば。この十六日いとまたまはり就封す。(貞享書上。)
○九日渡邊忠右衛門守綱死す。壽七十九。其子半藏重綱遺領一万四千石襲て。父の如く尾藩につかふまつる。(ェ永系圖。)
○十一日江戶城石垣修築事始めあり。大手升形幷石垣十三町餘は松平陸奥守政宗。三丸虎口石壁は阿倍四カ五カ正之奉行して。伊豆。相摸。駿河三國の夫役をもて石を運送し。松平大膳大夫忠重助役す。石壁は內櫻田門よりC水門にいたり。升がたは外櫻田。和田倉。竹橋。C水。飯田町口。糀町口まで修築す。その助役は上杉中納言景勝。佐竹右京大夫義宣。松平下野守忠ク。㝡上源五カ義俊。南部信濃守利直つかふまつる。(紀年錄。元和日記。)
○十二日細井金兵衛勝久死す。その子金五カ勝吉家つぎて銃手五十人あづかる。(家譜。)
○十五日大番頭水野備後守分長を水戶少將ョ房朝臣に附屬せられ。安房上總のうちにて一万五千石領せしめられ。彈正忠にあらたむ。その子大和守元綱别に三州新城の舊領一万石給はり江戶に奉仕せしめられ。備後守と改む。又松平惣兵衛忠貞が子長三カ忠良に。その家つがしめられ。初見の禮をとる。時に五歲。(東武實錄。續元和年錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○十七日日光山御宮祭祀によて。本多上野介正純代參す。今年始て御旅所へ神幸有により。鹵簿の器械を正純奉納す。(續元和年錄。)
○廿二日後閤土戶より內へ。その方の番士侍庖所の徒小人下男の外は。一切入る事を禁ずべしと令せらる。(東武實錄。令條記。)
○廿四日酒井讃岐守忠勝若君の御方につけられ。西城に奉仕す。(ェ永系圖。)
○廿九日高臺院のかたより。(豐臣太閤政所。)時服を進らせられければ。御內書をつかはさる。(東武實錄。)
◎この月小笠原八右衛門廣安小姓組に入番す。志村勘左衛門貞昌は京に御使す。醫員曾谷伯安宗祐は。御腫物に針治ならびに藥を奉る。村P左馬助重治水府に附屬せられ。水府より一万石たまふ。舊領の內五百石は。長男C藏重次。二千五百石は二子小三カ重俊に給ふ。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○五月四日第七の姬君(御諱和子。)女御にさだまらせたまひ。今度御入內あるをもて。土井大炊頭利勝松平右衛門大夫正綱その事沙汰せむがため。先達て上洛す。(續元和年錄。)
○五日西城にて御茶事あり。茶道頭中野了雲臺子の茶を點じて奉る。こと更御感ありて金時服を給ふ。(東武實錄。ェ永系圖。)
○八日姬君江戶を出たゝせ給ふ。酒井雅樂頭忠世幷板倉周防守重宗。すべて大名廿人。歩行頭安部攝津守信盛。植村出羽守家政以下供奉若干。弓氣多源七カ昌吉は執事命ぜられ。千石加へて二千十石餘になり。阿茶の局はかたじけなくも御母代にまいられ。その外女房あまたしたがひ奉る。女房乘物御調度の運送道もさりあへず。醫員曾谷伯安宗祐扈從するにより。銀五十枚。時服十。羽織二賜ふ。若君よりは土井左兵衛正次を。神奈川の御旅館に御使し。姬君より正次に夏衣を下さる。この日荒川長兵衛重世死して。その子長藏重勝家をつぎ。野間與五右衛門正次が子藤市カ政成家つぎて。鷹師になる。(東武實錄。元ェ日記。紀年錄。舜舊記。ェ政重修譜。以貴小傳。家譜。ェ永系圖。)
○九日河內國洪水の注進あり。(國師日記。)
○十二日蜂須賀千松丸襲封を謝して拜謁す。家司稻田修理。賀島主水。益田備後も拜し奉る。(家譜。)
○十五日大村松千代純信襲封を謝して拜謁す。(ェ永系圖。)
○十六日加藤久次カ則之死す。弟加兵衛則次采邑五百石を襲て鷹をあづかる。(家譜。)
○廿日大和河內洪水。大和川の堤潰へ二万石餘の地を損ず。攝州柏原千四百石の地荒廢するにより。代官末吉孫左衛門長方水路を開き平野川へ通じ。舟七十艘を造り運漕を便にしければ。其地漸々繁榮し。荒田年を逐て始に復せしとぞ。(ェ政重修譜。)
○廿六日大中寺へ曹洞宗の條約を下さる。三十年修行の僧にあらずば。法幢を立べからず。二十年の修行を遂ざる僧は。江湖の頭たるべからず。寺中放逐の惡比丘は。諸山に於ても住居をゆるすべからず。江湖頭の後五年を歷ざるか。又は修行未熟の僧轉衣すべからず。諸未寺等彌本寺法令を違背すべからずとなり。又ハ寧寺もこれに同じかるべしと令せる。(武家嚴制錄。)
○廿八日姬君都へ入らせたまふ。菅沼織部正定芳は御入內の供奉命ぜられ。膳所にむかへて供奉す。都にはこの御行粧を拜し奉らんとて。見物の貴賤街衢にみち。紅塵天をおほふ。この日二條の城にいらせたまへば。大內よりの御使も度かさなり。月卿雲客參りつどひ。御入內の作法さまざまはからはせらる。天文曆道の博士日時をえらみ。六月十八日良辰なりと勘進す。まづ大宮には。(中和門院前子。近衛關白前久公女。)女院にうつらせ給ふべき宣旨あり。(續元和年錄。ェ永系圖。入內記。)
○廿九日宮城丹波守豐盛死して。その孫主膳豐嗣家をつぎ。祖父に代りて川勝信濃守廣綱。五味金右衛門豐直と同じく。知恩院造營の奉行をつとむ。(ェ永系圖。)
◎是月美濃國苗木城主遠山久兵衛友政が子刑部秀友に。遺領一万五百石襲しめらる。この友政は故久兵衛友忠が三男にて。美濃國阿手羅の城に住し。祖父友勝うせて後苗木の城にうつり。織田家に屬す。天正十一年父又忠とともにM松にいたり。十八年小田原落城の後。榊原式部大輔康政に屬せられ。上野國舘林の地に住しけるが。慶長五年關原戰のまへ。いまだ下野國小山にましましける時。友政鐵炮玉藥等たまはり美濃國に赴き。苗木岩村の城をせめたり。今の御所信濃の上田に御進發のとき。木曾路の山民深山に迯入て。旅舍に人なく粮食の便を得ざりしに。友政粮米大豆及馬沓等を献じたり。この軍忠を御感ありて。本領に加へて一万五百石餘をたまひ。十九年大坂の役には。伊勢の國桑名の城を守り。元和元年には松平下總守忠明が隊に屬し。敵の首六級を切て献じ。五年十二月十九日苗木において。六十四歲にて卒せしなり。松平陸奥守政宗は江城石垣修築助役により。六月下旬出府せんと請しが。政宗出府せばその他の諸大名も。各出府すべければ。かまへて思ひとゞまるべしと仰下さる。よてこの月の末に名代として。家司伊達安房。大條薩摩に下司諸工人をそへて出府せしむ。又朝倉賢次カ豐明始て月俸十口を給ふ。又姬君御上洛の時勢州龜山の城にやどらせ給ふ。城主三宅越後守康信供奉の人々を饗應せり。(東武實錄。ェ政重修譜。貞享書上。ェ永系圖。)
○六月二日姬君從三位にのぼらせ給ふ。(入內記。)
○五日鑓奉行戶田七內光定死す。八十四歲。その子三左衛門政重は。若君の御方に奉仕す。戶田九平勝則死して。その孫久助貞吉家をつぐ。伊澤吉兵衛正信叙爵して。隼人正と稱す。(ェ政重修譜。家譜。)
○十日城中修築の地を親巡し給ふ。松平陸奥守政宗が家司伊達安房。大條薩摩をめして。ねもごろの御詞を給ふ。此後もしばしば親巡ありて。美作守忠宗幷其家士修築にあづかるもの等御懇詞をかうぶる。(貞享書上。)
○十二日都にては二條の城へ。關白はじめ諸卿參向ありて。入內の式法を議せらる。(入內記。)
○十四日猿樂ありて諸大名見る事をゆるさる。(視聽日錄。)
○十五日高木喜左衛門正信死して。子太カ助正長家をつぐ。(家譜。視聽日錄。)
○十六日嘉定の御祝例のごとし。(視聽日錄。)
○十八日都にてはけふ女御入內し給ふ。かねて二條の城より大內迄の道作り。辻固の警衛等おごそかに命ぜらる。二條城より郁芳門まで十餘町の間。堀川前東北二百八十間。同二條大橋北百三十間は本多美濃守忠政。本多甲斐守政朝。同北百五間は松平伊豆守信吉。下立賣橋北七十三間は岡部內膳正長盛。北百五間は松平周防守康重。東北百九十間は松平下總守忠明。(此間中立賣の橋を戾橋といひしを。此時万年橋と改む。)油小路東百五十一間は小笠原右近大夫忠眞。西洞院新町通施藥院までは井伊掃部頭直孝。人數出してこれを警衛す。かゝる大儀なれば。天下の諸大名に課せらるべきなれど。特更奢侈巨麗をはぶき。四海の凅弊を思召やらせ給へば。たゞ都近き普第の大名のみに仰せ付らる。二三日前よりこの御行粧を拜し奉らんとて。二條より內裏までの間に。思ひ思ひに支度し。堀河邊に棧敷をかまへ。あるは門々の蔀格子を引はなち。錦繡の幔幷繪がける簾をかけ。けふを晴とかざりあへり。洛中の貴賤遠近の道俗。昨日の夕より夜もすがら行つどひ。こゝの辻かしこの軒の下までも衆人群集せり。しのゝめの空明行ば。しばしそゝぎし雨もはれて。辰の一點より先御調度をもちはこぶ。一番長櫃百六十棹。二番四方行器十荷。三番屏風三十双。四番翠簾箱一對。五番几帳箱二荷。六番幕箱一對。七番衣桁箱三。八番長鬘箱一。九番圓行器十荷。十番小行器五荷。十一番御膳行器二荷。十二番辨當五荷。十三番葛籠。十四番挾箱二荷。十五番擔廿荷。十六番長櫃百棹。十七番箏箱三。十八番廿一代集箱一。十九番双紙棚一。廿番K棚一。廿一番御厨子棚一。廿二番貝桶二荷。廿三番吳服箱三荷。廿四番匂唐櫃三。廿五番內の御裝束唐櫃一對。廿六番御服唐櫃五荷。(各唐織縫紋の覆をかく。)次に長ネ輿四十挺。局以下の上揩アれにのる。次に長ネ切三十六挺。中揶ネ下の女房これにのりて。御先に參る。すべて御調度の持夫淺黃の素襖を着し。輿駕丁も素襖着。烏帽子着の侍三四人づゝしたがふ。かくて供奉の上達部殿上人。とりどり今日をはれと衣裝をかひつくろひ。御迎とて巳刻ばかり二條の城にまいれば。先廣庇にてあるじまうけあり。盃あまた度ずんながれしほどに。時旣にいたりぬとて。御祓反閇等の作法どもあり。行列のともがら各おり立しは午時ばかりなり。先女房の輿どもやり過して後。雜色十人素袍着て鐵捧を提げ。二行に列す。その棟梁松尾。松村。荻野。五十嵐等。例によりて御先追ふ聲いと高し。次に伶人四十五人。鳥兜に樂裝束して二行に列して路樂を奏す。次に前駈の殿上人騎馬二行に列る。左は唐橋秀才在村。壬生極搓F亮。持明院侍從基定。舟橋式部少輔秀相。難波侍從宗種。松木侍從宗保。綾小路少將高有。櫛笥侍從隆朝。中院侍從通純。勸修寺右少辨經廣。樋口少將信孝。園少將基音。久我少將通前。竹屋右中辨光長。藤谷少將爲賢。中山少將光親。冷泉中將爲ョ。飛鳥井中將雅宣。藤右衛門佐永慶。右は鹽小路藏人頭通規。久世少將通式。六條侍從有純。四條侍徙隆術。山科內藏頭言總。飛鳥井侍從雅章。日野西右少辨總盛。河鰭侍從基季。小川坊城兵部少輔俊完。西坊城侍從遂長。東坊城侍從長維。甘露寺治部大輔時長。冷泉侍從爲景。烏丸左中弁光賢。正親町頭中將季俊。コ大寺中將公信。水無P中將兼俊。滋野井中將季吉。各衣冠太刀弓箭を帶し。馬にさまざまの鞍おき。紅の大總鞦をかけ。泥障をはづしてのり。各馬前に白丁四人。舍人二人。鞭持一人を具し。後に布衣侍一人。烏帽子着の侍五人。傘持一人沓持一人をしたがふ。次に板倉周防守重宗。大理職に准じ。前後の間を隔てたゞ一騎うつ。次に武家隨身。左は大森半七カ好長。遠藤善九カ重次。比企次左衛門義久。田中五助忠勝。右は山下彌藏周勝。平賀三五カ忠勝。杉浦長藏吉正。小林權平信重。各立烏帽子。赤地金襴の袍。虎皮尻鞘の太刀。尻籠をおひ重藤の弓を持。馬にのり。床机持一人。鞭持一人。舍人二人。傘持一人を具す。共に白丁なり。次に武家諸大夫騎馬二行。左は松平和泉守乘壽。松平甲斐守忠良。松平紀伊守家信。菅沼織部正定芳。板倉內膳正重昌。本多豐後守康紀。小笠原右近大夫忠眞。右は松平山城守忠國。松平河內守定行。松平周防守康重。三宅越後守康信。岡部內膳正長盛。松平右衛門大夫正綱。土井大炊頭利勝。松平主殿頭忠利。各白丁四人。舍人二人。鞭持一人。烏帽子持六人。沓持一人を具す。次に御隨身二行に歩行す。左は村雲右京進。土山玄蕃助。村田因幡守。村雲備前守。古山將曹。調子將監。土山將監。調子越前守。土山駿河守。右は調子將曹。村雲采女正。小野主馬首。鈴木壹岐守。調子右京進。調子府生。三上將曹。調子筑後守。各立烏帽子。阪|等の布衣を着し。金の末廣を持。次に判官二行に歩行。左は姉小路判官。堀江判官。勢田判官。右は町口判官。堀川判官。衣躰前に同じ。次に北面の士二行に歩行す。左は速水采女正。河端左衛門志。大澤左衛門大夫。世繼甲斐守。速水長門守。井家攝津守。山形加賀守。右は松浪勝九カ。岡本美作守。速水右京進。速水右近大夫。河端佐渡守。衣躰前に同じ。次に御壺召次二行に歩行す。左は米津彥七カ正守。山本四兵衛正吉。庄與左衛門某。右は加藤市六カ正勝。阿部左吉某。指田小三カ某。各立烏帽子。深高フ布衣。赤葛袴。小刀を帶し。金末廣をもつ。次に御車は金銀梨地高蒔繪。紫糸毛白𥿻の下簾をもるゝ蘭麝の桙閧ヘ四方に馥郁たり。御車は牛二疋にてひき。阿茶局權中納言の局は驂乘し。牛飼四人。御車副の布衣。烏帽子着の輩數輩前後に圍繞し。退紅數十人。榻持以下は跡より從ふ。次に後騎二行。左は大澤少將基宥。酒井雅樂頭忠世。本多美濃守忠政。右は井伊掃部頭直孝。本多縫殿助俊次。松平下總守忠明。各衣冠にて騎馬。白丁四人。舍人二人。鞭持一人。布衣一人。烏帽子着侍六人。傘持一人。(但し大澤井伊のほかは布衣侍なし。)次に御供車六領。ともに金銀梨地蒔繪。K𥿻の下簾を引。第一の車はおかの局。やゝの局。近江の局。第二は兵部卿の局。小宰相の局。第三はふうの局。かいの局。第四は新宰相の局。くうの局。第五はたまきの局。こほの局。第六はたまの局。くりの局。なつの局まいる。次に攝籙九條關白幸家公(此時忠榮。)轅の塗輿。駕輿丁十人。同紋の素襖を着す。車の前に白丁廿人。隨身八人。諸大夫四人。その一人は太刀を持。あとに布衣侍十人。小結の童十人。烏帽子着の侍五十人。沓持一人。退紅十人を具せらる。次に近衛左大臣信尋公。次に一條內大臣昭良公。行粧陪從上に同じ。次にC華の人々騎馬にて。供奉せらる。轉法輪大納言公廣卿。白丁十人舍人二人。鞭持一人。布衣侍二人。烏帽子着の侍十人。傘持一人。沓持一人を具す。中御門大納言資胤卿。日野大納言資勝卿。烏丸大納言光廣卿。廣橋大納言總光卿。西園寺大納言公益卿。從者上におなじ。三條中納言實秀卿。日野中納言光慶卿は。白丁八人。舍人二人。鞭持一人。烏帽子着侍八人。傘持一人。沓持一人を具す。西洞院宰相時慶卿。廣橋宰相兼賢卿。柳原宰相茂光卿。花山院宰相定好卿。白川伯二位雅朝王は。白丁六人。舍人二人。鞭持一人。烏帽子着侍六人。傘持一人。沓持一人を具し。其中にも中將を兼たる人人は。小隨身一兩輩をしたがふ。次に諸司衣冠にて歩行す。次に警衛の士五十人。素襖に太刀をはき竹杖をつく。次に惣同勢數千人したがふ。御車新造の御所に到らせ給へば。武家の隨身は唐門の下に左右に别れ床机にかゝる。御壺の召次は中門の白洲に蹲踞す。かくて廣橋前內大臣兼勝卿。三條大納言實條卿御車寄にむかへ帷幄をかゝげて御車を引入る。御供車の女房達は軒の外よりおりて參る。いづれも五衣に緋袴を着し。かんざしをかうぶり。妻紅の扇をかざし。女房に裾をとらせている。此ほど關白をはじめ上達部は。中門の砌に一揖して。次第に引立せらる。諸司御隨身等はその後にさぶらひ。伶倫は此間千秋樂を奏す。御車いり給ひし後。前內大臣兼勝卿。大納言實條卿庭上に下り。大臣達に揖して共に殿にのぼれば。參侍の輩みな退き出る。さて亥の二點ばかりにぞ。御對面ましましけるなるべし。女御の御方よりは夏冬の御裝束。夏の御料は御引直衣。御單精好。同じ大口。紅生𥿻の御袴。冬の御料には御冠。御引直衣。御單。御袙。御打衣。御打の袴。御扇。その外色々の御衣百領。銀一万兩進らせ給ふ。女院の御方へもうるはしき御衣五十。銀五百枚。惣女房達へは銀二百枚かづけらる。C凉殿より常の御とのにあがらせ給ひ。御祝の御盃ことありての後。主上には此品々叡覽ましましけるとぞ。かくて後朝より三五の日までとりどりの御祝事ども。あげてかぞふべからず。大臣親王たちをはじめ。上達部殿上人はさらにもいはず。諸衛諸司の下が下まで。あるは大掛。あるは御單。又は金銀。其ほどほどにつけて御かづけものいとこちたし。(入內記。ェ政重修譜。松平山城守忠國傳。以貴小傳等此御入內を元和七年とするは誤なり。國師日記。舜舊記は當時の記錄なり。皆六年とす。疑ふべからず。)
○廿二日內にはけふより廿四日迄。攝家C華の人々。あるは法親王だち。女御の新殿へ參りあひ。おもひもひに御祝ひのもの奉りことぶかる。權中納言の局萬づにうけばり沙汰す。(入內記。)
○廿五日武家の輩とりどり御祝物さゝぐ。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝はじめ。內にも女御の御方にもさゝげものすれば。兩傳奏御使して。この輩にも御太刀を給はり。女御の御方よりも。金に御衣そへてかづけられ。女院よりも時服下さる。又三宅玄蕃頭正勝は女御の御方に付られ。賄方納戶方の頭をも兼領せしめらる。(入內記。ェ永系圖。家譜。)
○廿八日成P吉右衛門正一入道一齋。八十三歲にて終りをとりければ。四子右衛門正勝家をつぐ。(家譜。) 
卷五十三 / 元和六年七月に始り同十二月に終る 

 

○七月三日小姓組中井主馬正好京にありて死す。子なかりしかば其家を除かる。(家譜。)
○六日松平伊豫守忠昌生身魂をほぎて鯖料を獻じければ。御內書をつかはさる。金地院崇傳に御門柱立の日時をえらばせられければ。本月十九日を勘進す。(東武實錄。國師日記。)
○七日星夕例の如し。加藤式部少輔明成索麫を獻じければ。奉書を下さる。(東武實錄。)
○八日佐久間新十カ信實死して。子總太カ盛カ家つがしめらる。堺政所喜多見五カ左衛門勝忠が子主水正正忠死す。(家譜。斷家譜。ェ政重修譜。)
○十五日堀田若狹守一繼子掃部一通。從五位下に叙し兵部少輔にあらたむ。(家譜。)
○十七日大坂城の修築。藤堂和泉守高虎があづかる所は。先月廿一日頃成功に及ぶ由注進す。小堀遠江守政一は外郭幷諸櫓搆造の奉行をつとめ。翌年の冬に至り成功すといふ。(國師日記。ェ永系圖。)
○廿日和泉國谷川領主桑山伊賀守元晴卒しければ。二男主殿に遺領二万六千三百石餘をつがしめらる。此元晴は故修理大夫重晴が二男にて。其始は豐臣家につかふ。慶長五年關原の役に御味方して。みづから大谷吉隆が鐵炮頭を組討にしければ。御感有て大和國葛上郡にて二千石たまふ。其年父が所領一万石分ち給ひ。其內二千石をもつて父が養老の料とす。十一年父卒して後。其所領の內六千石與へらる。十四年嫡子又四カC晴御勘蒙りし後。其所領和泉國谷川一万石を元晴に下され。すべて二万六千三百八十石餘を領し。十九年大坂の役には。御先手藤堂和泉守高虎の軍に會して。戰べしと令せられしかば。十一月廿九日天王寺口K門の邊にそなへ。翌元和元年には桑山修理大夫一晴。左衛門佐一直と同じく。水野日向守勝成にしたがひ。大和口より道明寺表にすゝみ五月七日敵の首十七級を切て獻じ。十一日高力攝津守忠房と同じく大坂の餘黨を追捕して。大和の國に赴く。御凱旋の後其居邸に臨駕ありて茶を奉る。此時常陸國下妻に於て。放鷹の地を給ひ。けふ五十八歲にて卒ぜしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜には元和七年とす。今ェ永譜幷に重修譜に從ふ。)
○廿二日菅原左衛門某死して。其子作左衛門某つぐ。(斷家譜。)
○八月朔日丹波國笠山城主松平伊豆守信吉卒す。其子山城守忠國原封五万石をつがしめらる。此信吉實は松平與次カ忠吉が子にて。故伊豆守信一が養子となり。慶長七年四月佐竹右京大夫義宣が領國を移されし時。常陸國府中又は江戶崎の城を勤番し。十二月その勞を賞せられ。同國土浦にて五千石賜はり。九年叙爵して安房守と稱し。後に封を襲て。先の采邑を合せ四万石を領し。十年四月御上洛の時。御參內の供奉し。十六年正月二日御謠初の席に着座して後永例とす。十八年伏見の城番をつとめ。十九年大坂の役おこるの前。板倉伊賀守勝重等とはかり。城中へ間牒をいれて注進し。後に岸和田の城を守り平野にむかひ。また今里附城の本丸を守り。元和元年正月伏見を守り。大坂の兵再びおこるに及び。飯森に陣し。五月七日先手にありて軍功をはげみ。首二十一切て獻じ。御凱旋の後伏見を守り。三年土浦を改め。上野國高崎の城主になされ。一万石くはへて五万石になり。五年また今の地にうつり。伊豆守に改め。けふ四十六歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○五日大原四カ右衛門正貞大番にいる。興津治右衛門直勝死して。子彥八カ直重つぐ。(家譜。斷家譜。)
○六日淺野但馬守長晟が安藝國廣島の城。此五月水害にかゝり。二丸角櫓幷石垣崩れ。二三丸總溝破損せしよし。京職板倉伊賀守にうたふる旨聞しめされ。先規の如く修築すべきよし命ぜらるゝ旨。老臣奉書もてこれをつたふ。(東武實錄。)
○七日城門搆造の日時を。金地院崇傳に撰定せしむ。本月十日十一日を勘進す。此日筑後國柳川の城主田中筑後守忠政卒す。子なかりしかば封地三十二萬五千石を收公せらる。此忠政は故筑後守吉政四男にて。幼年より證人として江戶にあり。後に從五位下して隼人正と稱し。慶長十年御上洛の時從ひ奉り。將軍宣下御拜賀の供奉を勤め。のちに兄民部少輔吉次は父の勘氣をうけ。久兵衛吉興は病者なりしゆへ。别に二萬石を分ちあたへ。忠政をもつて嗣子に定め。十四年四月遺領をつぎ。是年從四位下侍從にすゝみ筑後守に改め。御名の一字たまはり。大坂兩度の御陣には。島津陸奥守家久が勢順風を得ずとて。渡海遲滯せしかば。その押として封地にとゞまり。元和二年御宮を領地に造營し。實相精舍と號す。けふ三十六歲にて卒せしなり。(國師日記。ェ政重修譜。)
○九日大原(斷家譜には佐々木につくる。)中務大輔高定七十四歲にて卒し。其子大膳大夫高和家つぐ。此高定は故佐々木義賢入道承禎が二男。後に駿府にて召れ御談伴とせられし之。(ェ永系圖。)
○十二日小笠原新九カ廣信死す。子なくして家絕たり。(家譜。)
○十四日都筑彌左衛門爲政三子松下十左衛門爲定めし出され。小姓組に入番す。(家譜。)
○廿三日大番頭松平石見守康安。松平豐前守勝政兩隊。大坂城戍役はてゝ歸り謁す。(續元和年錄。)
○廿四日田中筑後守忠政が封地筑後國收公せらるゝにより。內藤左馬助政長。柳川城うけとり。家子カ黨以下所領の事沙汰すべしと命ぜらる。よて御K印を賜ふ。其文にいふ。國中竹木猥に伐とるべからず。給人の夏成は下さるるにより其旨を領すべし。藩士の武具資財は。相違なく其輩に受取しむべし。未進方につかふ男女は。未濟賦稅と同じかるべし。家僕は主從のはからひにまかすべしとなり。(貞享書上。)
○廿八日女御入內ありしをほぎ奉り。万石以上の輩樽肴を献ずること差あり。蜂須賀千松丸久しく江戶にありしが先に就封す。旣に寒天にむかへば今年は在國し。春をむかへ參覲すべき旨。祖父蓬庵入道幷に千松丸へ奉書を下さる。(元ェ日記。東武實錄。)
◎是月畿內西國洪水。相良左兵衛佐長每が子長次カョェ。從五位下に叙し壹岐守と稱す。三宅越後守康信二千石を加へ。一石二千石餘になさる。松平陸奥守政宗は江戶修築のため。家人佐々木若狹元綱をまいらせければ。召て見えしめらる。(東武實錄。ェ永系圖。ェ政重修譜。貞享書上。)
○九月四日松前志摩守公廣。大鷹一聯献じけるにより。奉書を賜ふ。(東武實錄。)
○五日金地院崇傳をめして。近日若君幷國松君御元服ましますにより。御名の文字を撰定すべき旨面命せられ。若君の御名家忠。國松君忠長の文字を撰進す。(國師日記。)
○六日廣橋內大臣兼勝卿。三條大納言實條卿參向ありて。まうのぼり謁見せらる。昨日若君の御名文字を兩傳奏に議せられしに。家忠は花山院家祖の名なるよし聞えあぐるにより。かさねて金地院崇傳に命ぜられ改撰せしめらる。よて家光の文字を勘進したるに。大に御けしきにかなひ。直に此御名を進らせらる。是日城壁搆造の地へならせらる。(國師日記。貞享書上。)
○七日廣橋內大臣兼勝卿。三條大納言實條卿まうのぼる。けふ若君御元服ありて。從二位權大納言に御叙任あり。國松君も同じく首服加へられ。從四位下の中將に叙任せられ。參議をかけらる。(續元和年錄。御系譜。三松系圖。其外諸書ともに。大猷院殿御官位を。正月五日正三位。十一日權大納言とし。その日御元服ありとしるす。然れども國師日記等の當時の記錄に。今月六日漸御名を定められ。この日勅使參向御元服ありしと見ゆれば。江戶にて御元服ありて。御官位を受給ひしは全く今日にて。正月五日十一日とするは。京都にて位記宣旨にしるされし日取なるにうたがひなし。忠長卿の官位も諸書に八月廿一日。または廿二日としるすといへども。御兄君より先に御官位うけ給ふべきいはれなし。かつ御名の文字も御兄弟同日に定められしをもつて見れは。是も御元服御官位は。此日に行はれし事明かなり。八月廿二日といふは。位記宣旨の日取たる事うたがひなし。よてともに此日におさむ。水戶ョ房卿の昇進も。八月廿一日にしるすといへども。これ又位記宣旨の日取なるべし。翌日官位のため兩傳奏水邸に參向するをもて。八日と定む。)
○八日諸大名まうのぼり。昨日大納言殿御元服御官位を賀し奉る。又廣橋內大臣兼勝卿。三條大納言實條卿。けふ水戶少將ョ房朝臣の邸へむかはれ。正四位下左近衛權中將にあげられ。參議を兼しめらるゝ詔を傳へらる。(續元和年錄。視聽日錄。位記には八月廿一日をしるさる。)
○九日重陽拜賀例のことし。諸大名大納言殿御元服御官位を賀して樽肴を獻ず。水戶宰相ョ房卿太刀馬代をさゝげ。昇進を謝し奉らる。よて來國次の御脇差を賜ふ。(視聽日錄。續元和年錄。)
○十一日公卿饗應せられ。猿樂催さる。女御入內御祝のためと聞えたり。(紀年錄。)
○十二日㝡上源五カ義俊は。少年放逸にて常に淫行をほしひまゝにし。家臣の諫を用ひず。けふ淺草川に船遊して妓女あまたのせ。みづから櫓をとりて漕めぐらすとて。船手方の水主と爭論し。からうじて迯かへる。水主等追かけて其邸宅に至り。ありしさまをつげて歸りしかば。此事都下紛々の說おだやかならず。(續元和年錄。)
○十三日金地院崇傳大手門柱立の吉辰を撰ばしめらる。本月十九日をもて勘進す。(國師日記。)
○十四日福島左衛門大夫正則が子備後守正勝配所にありて卒す。とし廿二。(武家補任。)
○十六日大納言殿東金邊へ御狩にならせらる。池田帶刀長賢御使して魚物進らせらる。(續元和年錄。)
○十九日宗對馬守義成婚儀を謝して小袖五虎皮二枚獻ず。(東武實錄。)
○廿日水野日向守勝成。疊の表五百枚獻ずるによつて。奉書をたまふ。また佐竹右京大夫義宣大鷹一聯を獻ず。(東武實錄。)
○廿八日小林勝之助正次死して。子勝之助正直つぐ。(家譜。)
◎此月高家宮原勘五カ義久が子右京晴克(時に十四歲。)初見し奉る。知久伊左衛門則直。信濃國浪合。小野川。帶川。心川。四か所の關を守り。千三百石餘の地をあづけらるゝ旨仰を蒙る。此秋はじめより神田臺の下に堀をうがち。堤を築かしめらる。堀の方は松平右衛門大夫正綱奉行し。堤は阿倍四カ五カ正之奉行す。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。元和年錄。)
○十月六日照高院門跡與意法親王參向ありしかば。水野監物忠元慰勞の御使して其旅舘に至りしが。忠元其座に於て頓死す。法親王もまた程なく逝去せらる。(紀年錄。)
○七日玄猪の御祝例の如し。(視聽日錄。)
○十二日淺野但馬守長晟三原酒三樽献ず。(東武實錄。)
○十五日大納言殿御元服御官位の御謝使を。大澤少將基宥に命ぜられ上洛せしめらる。よて廣橋內大臣兼勝公。三條大納言實條卿へ。御自書をもて御謝詞を仰せ進せられ。宰相忠長卿幷に水戶宰相ョ房卿昇進をも謝し進らせられ。內に御太刀一振。銀五百枚進らせ給ふ。大宮の御方へも銀二百枚進らせ給ひ。勾當內侍のもとに御みづから御消息遣さる。(東武實錄。按ずるにこの一條。元和五年十月五日にのするといへども。若君幷國松君ョ房卿官位仰出されしは。今年五月七日なれば。先年に御謝儀有べきいはれなし。全く誤りたりと見ゆれば。いまここにおさむ。)
○十九日岩城忠次カ貞隆卒しければ。其子能化丸吉隆して遺領一萬石を襲しめらる。(時に十二歲。)此貞隆實は佐竹常陸介義重が三男。天正十八年左京大夫常陸が養子となる。是年豐臣太閤奥に發向有しかば。下野國宇都宮に至りて拜謁し。父が遺領十二万石を領し。陸奥國岩城の城主たり。慶長五年上杉中納言景勝御追討として奥に下らせ給ふ時。兄佐竹左京大夫義宣と共に。召に應ぜざりしかば。六年所領沒入せられ。江戶に來りて淺草に住居したるに。七年九月廿日月俸三百口賜はり。本多佐渡守正信が所屬とせられ。大坂兩度の御陣にも。正信が組にて供奉し。元和二年八月信濃國河中島の內にて。領地一萬石をたまひ。けふ三十八歲にて卒せしなり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿日山伯耆守忠俊。下野國都賀郡の內より武藏國岩槻城にうつり。一萬石加へて四萬五千石になさる。元和二年大坂の軍功を。褒顯せらるゝ所とぞ聞えし。(ェ政重修譜。)
◎是月內藤六左衛門忠政二子三十カ政康十四歲にて召出され。小姓組に入番せしめらる。(家譜。)
○十一月二日搶緕尅カ應寂す。七十五歲。こは天正十八年八月東照宮關東八州を領したまひ。はじめて江戶の城にうつらせ給ひし時より。永く香火院とさだめ給ふ。(三河にて世々大樹寺を香火院になさる。この寺大樹寺と同宗なれば。かく定め給ひしなるべし。かの寺に傳る所の如きは。その宗門の私言にて矜具とするところゆへ今は取ず。)搶緕尅エ頃は貝塚にありしか。其地は狹隘なればとて。今の地にうつされ。是より御かへりみ日々にあつく。常に弟子を引つれまうのぼり。法論を聞召れ。又本堂。山門。經藏。伽藍。悉く搆造せられ。寺領千石よせ給ひ。一切經三部納め給ふ。慶長十三年こと更の仰を蒙りて。上洛して仙洞にまいり。宗戒の要文を授まいらせしかば。詔して普光觀智國師の號をたまふ。上野國新田に大光院を御建立のときも。專ら其事をつかさどり。をのが弟子呑龍をして開山たらしむ。其外宗門のために御ゆるしを得て。三十五條の法制を定め。關左に十八檀林を創置し。すべて一宗の主領として。三緣に在山する事三十七年なり。病にふしければ。醫官今大路延壽院正紹をして。藥を違め治療せしめられ。また御使もて其病をとはしめ給ふ事絕へず。存應が高足の弟子廓山。今は傳通院に住し。了的は京都新K谷金戒光明寺に住職す。此二人は先代よりしばしば御眷住を蒙り。大坂兩度の御陣にめし具せられたる者なりしが。存應沒期に廓山をさし置て。搶緕宸了的にゆづらまほしく遺言せるよしなりしかば。その議决しがたく。これより一年が間三緣の貫主を命ぜられずとぞ聞えし。(東武實錄。寺傳。續元和年錄。)
○十日相摸國小田原に。御離館を營造有べしとて。金地院崇傳に吉辰を撰定せしめらる。十一月十九日廿六日廿七日を勘進す。(國師日記。)
○十二日加藤肥後守忠廣蒲萄酒二壺献ず。よて奉書をたまふ。(東武實錄。)
○十七日大久保五カ八カ元政死して。その子文左衛門元勝つぐ。(斷家譜。)
○廿日松平薩摩守家久。先に御狩にならせたまふよし聞て。御狩塲へ使もて時服五献ぜしかば。御內書を下さる。(貞享書上。)
○廿一日松平陸奥守政宗が奉はりたる城垣成功しければ。美作守忠宗に大具梨迦羅廣光の御刀を賜はり。家司伊達安房も拜謁し時服賜ひ。其下司どもに銀時服等若干かづけられ。又政宗がもとへは御內書をたまはり。其功の速かなるを褒せられ。忠宗が勤勞を御稱美の御詞尤懇なり。(貞享書上。)
○廿二日小島次カ左衛門貞延子忠兵衛賢廣。はじめて大納言殿に拜謁して。右筆命ぜらる。十日より今日にいたるまで。雪ふる事連日。(ェ永系圖。續元和年錄。)
○廿五日神田臺へならせられ。溝渠疏鑿の地を親巡し給ふ。(續元和年錄。)
○廿七日立花左近將監宗茂。陸奥國棚倉三万石を轉じ。舊領筑後國山門。三池。三潴。上妻。下妻五郡の內にて。十万九千六百石餘を賜ひ。再び柳川城主になさる。又花房五カ左衛門職則死して。その子平吉職利家をつぐ。(時に十三歲。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○廿八日星合伊左衛門具枚を。松平右衛門大夫正綱が隊下たらしめらる。(ェ永系圖。)
◎是月忍の邊へ御鷹狩にならせられ。越谷に至らせ給ふ。井上主計頭正就。阿部備中守正次。山大藏少輔幸成。林永喜信澄。今大路延壽院正紹等御供す。齋藤忠次カ忠勝めし出されて。小十人組にいる。(視聽日錄。國師日記。ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十二月朔日御狩塲にならせ給ふ。土井大炊頭利勝も居城總州の佐倉に赴く。(國師日記。)
○四日河野松安通幸は。遊學して長崎にありしをめして。侍醫命ぜられ。采邑四百石給ふ。御狩塲へ金地院崇傳使して密柑を獻ず。(ェ永系圖。國師日記。)
○五日松平陸奥守政宗封地の雉鱈鮒を獻ず。よて御內書を給ふ。(東武實錄。)
○七日金地院崇傳に廩米三百苞を下さる。(國師日記。)
○九日江戶火あり。延燒十五町がほどに及ぶ。(續元和年錄。)
○十一日御狩はてゝかへらせ給ふ。(國師日記。)
○十二日渡邊孫左衛門久勝死して。其子孫助久次家をつがしめらる。(ェ永系圖。)
○十四日駿府城代松平大隅守重勝任所にありて卒す。よて其子丹後守重忠。原封遠江國須賀二万六千石を襲て。父の原職を命ぜらる。此重勝は松平次カ右衛門重吉が四男にて。永祿二年はじめて拜謁し。七年十六歲にて大番の頭となり長篠長湫の戰に高名をあらはし。天正十三年十一月十三日石川伯耆守數正が岡崎城を立のき。上方へのぼりし時。重勝速に手の者具してはせ參り。その騷動をしづめしかば御感にあづかる。慶長八年從五位下して越前守と稱し。のちに大隅守にあらたむ。十年伏見城を守り。十七年上總介忠輝朝臣に屬せられ。家司となりて越後國三條の城主にせられ。二万石を領す。其時長子丹後守重忠は江戶にとゞめられ。父の原職命ぜられ。大番の頭になり。二子淡路守重長は父と同じく忠輝朝臣につかふ。元和二年朝臣罪蒙り給ひし後。重勝はめし返され。三年下總國關宿城を賜ひ。二万六千石になされ。五年遠江國須賀に轉じて。駿府城代仰付られ。七十二歲にて終りしなり。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○廿二日寺澤志摩守廣高參覲す。(國師日記。)
○廿三日大番安藤四カ左衛門重成死して。その子久太カ正次家をつぐ。(ェ永系圖。)
○廿六日內藤仁兵衛忠政四男仁左衛門政次初見し奉る。(ェ永系圖。)
○廿七日三枝伊豆守守昌子源八カ守全。二子諏訪源十カョ搶煙ゥす。(ェ永系圖。)
○廿八日高臺院尼より歲暮を賀し。時服を進らせければ。御內書をつかはさる。(東武實錄。)
◎是月松平出雲守勝隆三千石くはへたまひ。合せて六千五百石になる。花房平吉職利初見し奉る。時に十三歲。また下野國山川領主水野監物忠元子左近忠善に原封三万五千石つがしめらる。此忠元は故の右衛門大夫忠政が四男織部忠守が子にて。始より今の御所につかへ奉り。慶長十年將軍宣下御拜賀のとき扈從し。從五位下に叙し。後に小姓組番頭となり。十九年大坂の御陣に。組士を引つれて供奉し。元和元年にも同じくしたがひ奉り。敵の首五級を得たり。下野國山川。結城。鹿沼。板橋。幷に近江の內にてすべて三万五千石たまはり。政務に與參せしめられ。この十月六日卒す。年は四十五なり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○閏十二月八日中奥小姓松平內匠助知乘叙爵して頭になる。近侍松平監物忠直もおなじく叙爵し淡路守とあらたむ。金地院崇傳廩米三百俵給ふ。有馬玄蕃頭豐氏。丹波國福知山城を轉じ。筑後國久留米城をたまはり。十三万石加へられ二十一万石になさる。忍城番石野六左衛門廣吉は。めされて江戶に至る。(東武實錄。ェ永系圖。國師日記。ェ政重修譜。)
○十七日尾張中納言義直卿。紀伊中納言ョ宣卿參府あり。(國師日記。)
○廿八日西ク孫六カ正員。叙爵して若狹守に改む。阿部備中守正次二子三浦作十カ重次も。爵ゆりて山城守と稱す。又織田長益入道有樂參府す。(貞享書上。ェ政重修譜。國師日記。)
◎この月尾張紀伊水戶三家。江戶の第宅落城し。臨駕のため營造せられし御成門等。結搆花麗をつくされたり。又小姓本多長次カ重世。叙爵して丹後守と稱し。堀田勘左衛門正吉三四カ正盛。(時に十三歲。)大納言殿に初見し奉り。これより御側に候す。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
◎是年松平隱岐守定勝六男吉五カ定政を携へ江戶に參り。初見の禮をとらしむ。(時に十一歲。)歸封のいとまたまはるとき。兩御所に見え奉り。定政に馬をたまふ。寺澤志摩守廣高が二子堅高。植村土佐守泰忠二子平右衛門政泰。片桐出雲守孝利弟半之丞爲元。細井金兵衛勝吉子金五カ勝武。佐久間總太カ盛カ。渡邊孫助久次。(時に十歲。)今村傳助貞長。荒川又六カ忠吉子又六カ(初名詳ならず。)吉元初見し。川口久助宗次。肥田與左衛門正勝子與左衛門定勝は。大納言殿に初見し。先年大坂にて木村長門守重成に屬し討死したる內藤宮內少輔政勝が弟。東福寺の僧たりしが。ことし江戶に參り大納言殿に近侍す。母は刑部卿の局とて。天樹院御かたの老女たり。後に內藤勝兵衛直信といふこれなり。小出大隅守三尹が長子與平次有棟。(時に十三歲。)二子右馬助尹貞(時に十一歲。)は。兩御所に初見し奉る。又本多備前守紀貞大番頭となり。保科肥後守正光大坂城番となり。小M民部丞光隆大坂船手頭命ぜられ。二千石加へられて五千石となり。叙爵して少輔に改む。先に屬せられし水手五十人もめし具せしむ。植村平右衛門政泰は大納言殿御かたの小姓命ぜられ。書院番牧又十カ長重は小納戶になり。前田左助正勝。三宅惣右衛門康政書院番に入。康政は采邑五百石賜ひ。河內與兵衛胤盛子彌左衛門胤次。八木庄左衛門光政二子忠三カ豐政。伏見金右衛門長景養子勘七カ爲則。三浦庄右衛門直次子五兵衛直吉。三田左兵衛守綱子長右衛門守長。國領七カ右衛門吉次大番にいり。久保新左衛門正俊子吉右衛門正元右筆となりて廩米百五十苞下され。木村九カ左衛門吉次五男孫八カ元繼。騎法に通達しければ。馬方になる。山中七左衛門吉正子喜兵衛吉長は御手鷹師となり。長田十大夫重政は忠長卿に附らる。稻富喜大夫正直子主馬助直賢は初て奉仕す。加藤肥後守忠廣從四位下に昇る。女御附弓氣多源七カ昌吉從五位下に叙し。內の昇殿をゆるされ。攝津守とあらたむ。また松平隱岐守定勝伊勢國長島の城を賜ひ。七千石加へられ十一万七千石になさる。稻垣平右衛門重綱越後國蒲原郡の內に於て。三千石加へられ。三條城主となされ二万三千石になる。有馬大學豐長は三千石給ひ。近藤平右衛門秀用は。嫡孫勘助貞用紀州に有しを召かへし。舊領三千百四十石餘を讓り。小姓酒井五カ助忠知は。廩米にかへて采邑五百石賜はり。中奥小姓岡田太カ右衛門利永は六百五十石賜はり。小姓小笠原七左衛門信吉は廩米二百苞賜はり。又京所司代板倉伊賀守勝重致仕の請を許され。其子周防守重宗近侍にて。書院番頭兼つかふまつりしを。父に襲て京の所司代たらしめられ。是迄所司代に附屬せられし與力卅騎。同心百人を廢し。其年俸を重宗に賜はり。今迄給りし庇䕃料六千石を合せて。計二万七千石になさる。父勝重が是迄の所領一万八百六十石餘は。其儘養老料として下さる。この勝重は八右衛門好重が二子。幼くして僧となり。玉庵和尙の弟子にて宗哲と稱し。三河國中島村の永安寺にすめり。しかるに父好重永祿四年四月十五日。松平大炊助好景が手に屬し。吉良義昭と戰て。好景と同く討死せしに。長子杢右衛門忠重は好景が家人となり。勝重は僧となりしが故に。勝重が弟喜藏定重して。父の家つがせしに。これも天正九年三月廿二日高天神の城責のとき。先登して討死す。神祖その家の統絕ん事を憐み思召て。永井善右衛門某をして。勝重に還俗し。其家繼べしと命ぜらるゝ事しきりなりしかば。勝重再三固辭すといへども。終にやむ事を得ず御請して。甚平とあらため。家繼て御家人に加へらる。天正のはじめ。ゆへ有て御氣色かうぶり。遠江國天龍川の邊に閑居する事。三年にして御ゆるしを蒙り。十四年九月駿府に移らせ給ふ時。此所の町奉行にぬきんでられ。關東に歸らせ給ふ時。武藏國新座豐島二郡の內にて采邑千石賜り。江戶の町奉行にて小田原の地をも奉行し。關東の代官を兼勤む。慶長六年九月京都に所司代をおかるゝに及んで。米津C右衛門正勝。加藤喜左衛門正次とともに。まづ京の町奉行をつとめ。六千六百十石餘の地を加へらる。その二十八日勝重また所司代にあげられ。八年二月十二日將軍宣下のとき。從五位下に叙し伊賀守にあらたむ。豐臣家の例にて與力三十騎。同心百人をあづけらる。十四年また九千八百六十石餘をくはへられ。すべて一万六千六百十石餘を領す。このころ天下草創の始めにて。四海の士民威に服すといへども。未だコに化するにいたらず。まして豐臣秀ョ大坂にあれば。さすが昔をしのぶものも多く人心いまだ定らず。しかるに上は一人より三臺九棘諸衛百司の事を執し。下は寺社農工商の事まで。勝重一人にてつかさどれば。劇務いふばかりなしといへども。事一として淹滯なく。物一として廢闕なく。天下其能を賞せずといふ事なし。大坂の兵再び起りしにも。勝重かくてありければ。王城の內うごきなく。宸襟殊におだやかなり。しかのみならず帷幄の籌策に與參してはからふ事ども悉く機會を得て。御旨にかなひしとぞ。いまは齡七旬を越るにより。職を辭して御ゆるしかうぶり。堀川の邊に閑居す。元和九年十二月十五日從四位下侍從に昇進し。齡積りて八十歲。ェ永元年四月廿九日堀川の閑居に終りをとれり。(この人治蹟世に傳ふるところきはめて多し。いまことごとくしるすにいとまあらず。すべてこの人の廳に出て裁斷うけしものは。訴にまけしものも。をのが罪を悔て奉行をうらみざりしとぞ聞えける。此一事にてもその才コのすぐれたるはおしてしるべきなり。また老年におよびしきりに致仕をこひ奉るといへども。この職にかへらるべき人なければ。いましばらく職を奉ずべきよしにてゆるされず。重勝猶こふことをやまず。然らば汝に代るべきものを薦擧すべしと仰下されしに。勝重年ごろ都にのみありて。多くの御家人の事いかでかしりわくべき。是ほどの人の中に。などかその人なかるべき。よく人々に御尋候べきにて候。さりながら猶も勝重にすゝめ申せとの御事ならんには。子にて候周防は。密夫の首きるべきものに候はず。もしかれを以て仰付らるべくもや候と申ければ。上にも大にスばせ給ひ。重宗に父に代るべき旨命ぜられ。勝重はのぞみのまゝにゆるされたり。重宗しきりに固辭するといへども。子をしるは父にしかずといふ事あり。汝が父のすゝめなれば。辭する事有まじと仰下さる。重宗力なく御請して。父に對面し。重宗いかでかこの任にあたるべき。情なくも御推擧にあづかり候ものかなとうらみしかば。父うちわらひて。汝はしらずや。世の諺に爆火を子にはらふといふ事は。此事にて候と答へしとぞ。實に父子ともに名譽天下の稱する所。虛ならずといふべし。)鈴木忠兵衛重次致仕し。二子三カ九カ重成家をつぎ。先にたまはりし二百石を合せて。七百石になされ。小十人組をつとむ。新見市左衛門政勝死して。子市左衛門政次家をつぎ。土屋惣八カ正猶死して。子四カ左衛門正眞つぎ。今年より大番を勤む。大久保與一カ忠辰は死して子なかりしかば家絕たり。又松平大膳大夫忠重北丸の搆造をつとめ。阿倍四カ五カ正之は三丸虎口石垣の奉行し。松平志摩守公廣所領の內金鑛をうがち得て。金百枚を献じければ。其金を下され。又金山をも永く下さるゝ旨。土井大炊頭利勝。山伯耆守忠俊命をつたふ。醫官片山與安宗哲仰を請て。宰相ョ房卿の瘧疾を治療しけるに。速に平癒ありければ大いに稱褒せらる。細川越中守忠興江戶の邸にあつて病にふしければ。永井信濃守尙政及び侍醫今大路延壽院正紹をもて。しばしば御尋あり。(家譜。東武實錄。ェ永系圖。斷家譜。ェ政重修譜。貞享書上。紀年錄。藩翰譜。) 
卷五十四 / 元和七年正月に始り七月に終る御齡四十三 

 

元和七年辛酉正月元日朝會例のごとし。(水戶記。元ェ日記。)
○二日例のごとし。謠曲始また同じ。細川內記忠利參府して直にまうのぼり拜謁す。星合伊左衛門具枚。星合太カ兵衛具通。けふより小十人組にいる。(元ェ日記。家譜。ェ永系圖。重修譜には具枚六年小十人組にいるとす。)
○三日例に同じ。金地院崇傳新年を賀し奉り。御臺所はじめ御方々へも拜謁す。(國師日記。)
○四日西城へ諸大名出仕して新年を賀し奉る。本城にてはけふ御茶事はじめあり。(水戶記。續元和年錄。)
○六日寺社人拜賀例のごとし。(續元和年錄。)
○七日若菜御祝例の如し豐前國小倉城主細川越中守忠興致仕の請をゆるされ。原封三十九萬九千石餘。その子內記忠利に襲しめらるゝにより。けふまうのぼり謝し奉る。この後忠興は中津城に退隱し。忠利をして小倉城に住せしむ。此忠興は幽齋法印の子なりしが。光源院義輝將軍の命により。故の中務大輔輝經の家をつぎ。室町家にては大外樣衆に列し。實父法印の領地をうけつぎ。後に法印と同じく織田右府に屬し。こゝかしこにて軍功を勵しかば。右府感賞せられ眤近の列とせられ。中將信忠より諱を授けて忠興と稱す。天正八年右府より丹後國十二石餘を給はり。八幡山城に住し。また宮津にも城を築く。十年右府事ありし時。忠興が妻は反賊明智光秀が女なるが故に。光秀これを招くといへ共隨はず。妻を出し羽柴筑前守秀吉に志をあはせければ。光秀滅て後丹後の國の內。光秀が押領せし地を忠興にあたへられ。其妻をももとのごとくかへりすましめらる。この後豐臣家につかへ。志津が嶽を始として。攻城野戰の勳功をつみ。これより先從五位下に叙し。十三年七月十一日從四位下侍從にすゝみ。羽柴の家號をゆるされ羽柴越中守と稱す。十六年左近衛少將にすゝみ。十八年正月今の御所はじめて御上洛ありし時。神祖忠興に田舍そだちの兒なれば。都のてぶりさらに事なれず。威儀作法の事くはしく教導進らすべきよしの仰を蒙り。これより恩遇他に異なり。文祿の役には朝鮮におしわたる。關白秀次罪蒙られしときは。忠興兼て關白より黃金白枚かしあたへられし事ありしかば。太閤これをかへし收むべき旨命ぜらる。この金俄にとゝのひがたく。家臣松井佐渡康之を以て。本多佐渡守正信につき。うちうち神祖へなげき申けるに。康之を御前に召て懇の仰有て。金百枚をあたへらる。これを太閤に捧げしかば。太閤の疑も解けるとぞ。慶長四年石田三成逆意を企て。加賀大納言利家をすゝめ。神祖をかたぶけ奉らんとせしとき。忠興是を聞て速に告奉り。又利家が女を忠興が子の與一カ忠隆に合せければ。利家も外家の好みありとて。利家をすゝめて和議をあつかひ。その後も三成大坂の奉行等とはかり。やゝもすれば伏見の御舘を襲んとする事ありしに。忠興其會議に列りながら。とかく其議を延滯せしめ。向島の御舘にうつらせ給はん事をすゝめ奉りしかば。其詞にしたがはせ給ひ。殊更忠興が忠節を感じ思召て。其八月忠興丹後にかへりて後。奉行等又加賀中納言利長隱謀をくはだて。忠興も是にくみしたりと風說せしめしかば。御使を給はり其虛實を糺明せらる。忠興誓詞を献じ。五年正月廿五日三男內記忠利を江戶に進らせ。質として益其志をあらはす。その二月豐後國杵築六万石をくはへ給ふ。このとし上杉御追討として。奥に打て下らせ給ふとき。忠興もやがて下野國宇都宮におもむき。小山にいたり兩御所に拜謁す。その後上方の逆徒蜂起するに及び。忠興が妻子を大坂の奉行等質とせんとせしに。妻は夫が關東に御味方する志をしりて。家に火をかけて自殺す。忠興は福島K田等の人々と同じく。先陣うつて尾州C洲に屯し。御出馬をまちしが。八月廿二日人々と同じく岐阜の城を攻落し。九月十五日關東の戰にもみづから鑓を取て力戰し。父子兄弟奮ひ戰て。討とる首百三十六級。これより先杵築の城をも三成が黨大友義統攻よせしに家臣松井佐渡。有吉四カ右衛門等よく防ぎておとされず。又小野木公クがこもれる丹波國福知山城をせめて降參せしむ。これ等の度々兩御所より御太刀。御刀。其外茶器。又は御書を給はり。御感稱ある事あげてかぞへがたし。その十一月二日豐前一國に豐後國の國先速見兩郡。あはせて三十九万九千石餘給はり。豐前國中津を以て居城とす。七年小倉の城を築て移る。九年從三位參議にあげらる。大坂の役には島津が押として在國すべしと仰を蒙りしかども。島津出船せしかば。忠興も兵船五百餘艘にて。長門の國門司の關まで着せしに。御和議とゝのひたりと聞て。此所より引かへす。元和元年には先鋒たらん事をこひて。忠利に一万餘勢をそへて進發せしめ。その身は馬廻りの從卒のみにて大坂にまいり。帷幄の籌策にくはゝり。七日には首廿級を得たり。其後多病をもて致仕せん事をこふことしばしばにして。やうやく去年閏十二月廿五日みゆるし蒙り。入道して三齋宗立と號す。この後も彌御懇遇あつく。常にめされて御茶宴に侍し。あるは御談話の席に陪する事絕ず。正保二年十二月二日。年八十三にておはりをよくせり。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
○八日小里庄三カ光親死して。子藤藏光重つぐ。(家譜。)
○九日尾張紀伊の兩邸へ臨駕あるべしと仰出さる。よて金地院崇傳へ吉辰を撰ばしめらる。尾邸は本月廿三日廿六日廿八日。紀邸は二月六日九日を勘進す。(國師日記。)
○十日立花彌七カ種次五千石を加へられ。舊領常陸國筑波郡をあらためて。筑後の國三池一万石を給ふ。(ェ政重修譜。)
○十一日奥平千福御前に召て首服加へしめ。從五位下に叙し。御名の一字給はり美作守忠昌とあらため。左文字の御刀を給ふ。松平千松(攝津守忠政子。)同じく元服し。從五位下に叙し。御名の一字給はり飛驒守忠隆とあらため。是れも左文字の御刀たまふ。松平半次カ重則大番頭命ぜらる。松平右近將監成重。三河國西尾を轉じて丹波國龜山城を給はり。二千二百石加へて二万二千二百石になさる。(ェ政重修譜。東武實錄。紀年錄。千松以下重修譜は是年にかけて日をしるさず。いま紀年錄による。)
○十四日窪田小兵衛正重死して。子茂左衛門直盛つぐ。(家譜。)
○廿日具足御祝。連哥始例のごとし。(續元和年錄。)
○廿三日曉に尾張中納言義直卿新第より出火して。其火城溝をこえ。上杉中納言景勝。松平陸奥守政宗。松平長門守秀就。松平薩摩守家久。鍋島信濃守勝茂。同紀伊守元茂。同和泉守忠茂。眞田伊豆守信之。戶澤右京亮政盛。森美作守忠政。南部信濃守利直。秋田城介實季。成田左馬助氏宗。太田原備前守晴C。大關右衛門高掾B溝口伊豆守善勝。淺野采女正長重。寺澤志摩守廣高。松平宮內少輔忠雄。仙石兵部大輔忠政等の邸宅悉く延燒し。一日一夜にして漸く熄む。(續元和年錄。)
○廿五日內藤半左衛門正勝死して。養子半十カ正次其家をつぐ。(家譜。)
○廿八日兼ては尾張中納言義直卿新第に臨駕あるべく仰出されしが。燒亡により延滯せらる。此夜京都室町燒失せり。(紀年錄。東武實錄。)
○廿九日先に火災にかゝりたる輩へ白銀を給はる。松平陸奥守政宗には銀一万千六百枚。美作守忠宗に四千六百枚たまふ。その他なを若干なり。(續元和年錄。貞享書上。)
◎是月失火の患あるがため。彌烟草を停禁すべしと令せらる。木村彥八カ良綱燒火番となる。(續元和年錄。家譜。)
○二月二日令せられしは。各采邑の所置あしざまなる輩をば。一度も二度も曉諭して。その後に改革せざるものあらば聞え上べし。邑主の欠たる地は。其所管これを收めて。近邊の代官に附屬すべし。ク中の百姓山水の訴論により。弓銃を以て喧騷する時は。其ク中悉く誅伐すべし。井堤修築の役夫は父老はからひ。ク中ことごとく倩ひ用ゆべし。稅額不足の地は。先に查撿せし者幷大久保石見守長安が所屬の者をさしそへ。水帳を以て坪入をなし。不足の地は引おとして。現額を定むべしとなり。(東武實錄。)
○四日松平薩摩守家久就封の暇たまひ。御脇差(銘詳ならず。)幷銀五百貫目下さる。(貞享書上。)
○五日松平(蒲生。)下野守忠クの弟中務大輔忠知に。藤堂和泉守高虎の女をめあはすべしと仰下さる。(慶長年錄。)
○七日近江國膳所城主本多縫殿助康俊卒す。その子下總守俊次家つぎて。膳所を轉じ舊領三河國西尾の城をたまはり。五千石加へて三万五千石になさる。この康俊實は酒井左衛門尉忠次が二男にて。天正三年長篠の戰に。康俊七歲にて織田家へ質子にまいり。八年故縫殿助忠次が養子となり。十年十四歲のとき御前にめして元服せしめ。御諱の字給はり彥八カ康俊となのり。十八年小田原陣の時も質として豐臣家に參る。此年關東にうつらせ給ひければ。下總國のうち小篠のク五千石給はり。慶長元年御任槐の時。康俊も從五位下して縫殿助と稱し。五年奥の御陣にもしたがひ。關東にては御後備にあり。御凱旋の後三河國吉田城を守り。六年二月同國西尾の城主になされ。加恩ありて二万石を領す。八年將軍宣下御參內の時は。御沓の役し。十九年大坂の役には近江國膳所を守り。また河內國須那にまかり凶徒を追捕し。のちに大坂へ參りて備前島に陣し。元和元年大坂の軍ふたゝびおこりしときは。御所の御供して奈良口の押にそなへ。五月七日岡山筋にて。加賀勢と大野治房と爭戰眞㝡中。加賀勢の右より打てかゝり。嫡男下總守俊次。二男美作守忠相。みづから敵の首級を得たり。凡康俊が手に打とる所百五級。御感淺からず。三年所領の地一万石加へられ。膳所城給はり。三万石になさる。五年福島左衛門大夫正則所領沒入せらるゝ時。酒井宮內少輔忠勝と同じく。安藝國廣島の城請取て勤番し。ことし居城にありて病篤よし聞し召。石谷十藏貞Cを御使し。懇の御諚を蒙りしが。けふ五十三歲にて卒せしなり。(ェ政重修譜。)
○八日田澤治左衛門昌吉死して。その子五カ左衛門昌次家をつぐ。(家譜。)
○十二日持筒頭田甚右衛門尹松が四子梅松胤松。大納言殿の近侍命ぜらる。ときに七歲。(家譜。)
○十七日代官宮崎太カ左衛門安重死して。その子太カ助重綱家をつぎ。直に父の職命ぜられてつかふまつらしめらる。(斷家譜。)
○十八日守山八兵衛政勝死して。その子八兵衛政利家つがしめらる。(家譜。)
○廿二日馬塲次カ兵衛信正初見し奉る。(ェ永系圖。)
○廿六日有馬玄蕃頭豐氏。筑後國久留米にうつりし後は。丹波國福知山空城なれば。松平山城守忠國して警衛せしめらる。忠國は此時丹波國篠山城主なり。(東武實錄。忠國重修譜に元和八年有馬豐氏に代て福知山勤番するといふは誤なり。いまは東武實錄によりて今年にさだむ。)
○廿七日常陸國水戶に於て御宮新造ありて。今度迁宮行はる。よて京より轉法輪大納言公廣卿。西園寺宰相實晴卿參向す。(日野記。)
○廿八日猿樂觀世こたび御ゆるしかうぶり。御成橋(今の櫻田なり。)に於て勸進能を張行すること。けふより三月朔日にいたる。在府の諸大名棧敷を設け見物雲霞の如し。(紀年錄。)
◎是月細川越中守忠興入道三齋歸國の暇給ふとて。宋の佛照コ光の墨跡をたまふ。(世に小松內府重盛經山へ祠堂金寄進せし時。コ光が贈りし書なれば金渡の墨跡とよぶ。)入道忠興が國のため君の爲に忠勤の功莫大なれば。尙も大國に封じ官加階もあらまほしく思召けるが。すでに隱退せしうへは。其事に及ばれず。此墨跡は天下の名物ゆへに。賜はるとぞ仰下されける。これに白銀八丈縞等若干をそへられたり。これより先にも御優待大方ならず。本城へまうのぼるときは。玄關まで乘輿をゆるされしとぞ。(貞享書上。ェ政重修譜。)
○三月三日上巳。拜賀例のごとし。(水戶記。)
○七日大風雨雷なる事甚し。豆房の海上大に荒て。渡海の船覆沒し。溺死するもの數百人に及ぶ。(續元和年錄。)
○十日桑山加賀守貞晴より。大納言殿に勝山といふ駒を獻ず。無双の駿足にて。廐馬にもこれにならぶ者なしとて。大に御感をかうぶる。(續元和年錄。)
○廿一日柳生又右衛門宗矩。大納言殿へ劔法の奥旨を傳へ奉りしにより御誓書をたまふ。(ェ政重修譜。)
○廿六日福島左衛門大夫正則が舊邸を。松平宮內少輔忠雄に給はり。又邸宅搆造の費用として。銀千枚下され。又御衣を下さる。かつ襲封のいとま給ふとて。繩目守家の御刀幷鷹馬を給ふ。(ェ政重修譜。)
◎是月明の欽差總鎭浙直地方總兵官中軍都督府僉事王某より書簡をさゝげて。兩國の商船交易を名とし奸賊を業とし。黨をあつめ貨物を劫掠し。あまつさへ官兵を殺傷するにいたる。よろしく細勘して。嚴刑懲治すべき旨をのぶ。其文體尤無禮なるがゆへに。拒ていれられず。この日頃越前宰相忠直卿は。强暴のふるまひ超過し酒と色とにふけり。あけてもくれても近習小姓等を手討にし。または打擲し。參覲の時至りても參られんともせられず。永見右衛門といへるもの勘氣かうぶり。家にこもりてゐたるに。討手をさしむけて燒討す。岡田源左衛門といへる者も。永見と同じく籠居して一所に討死す。天下今は弓を袋にし。劔を箱に納め。世は泰平なれど。越前國にはやゝもすれば。兵革おこるべきかと人皆安き心もなし。(異國日記。續元和年錄。世に傳ふる所は。故中納言の家人に永見右衛門といふは。中納言うせられたる時追腹切て死す。其子右衞門と申ける。其母年尙盛りにて美人のきこえありしを。宰相聞給ひ色にふける心より。その母を召事度々に及ぶ。彼母大に歎き。我夫は弓矢取身の習ひとて。命をすてて先君冥土の御供せり。その妻としておもなく世の人にまみゆべきやとて。みづからK髮をそりすて姿をかへたり。宰相大に憤られ。我詞にしたがはざるもの思ひしらせんとて。其子右衛門を誅せんとあり。永見は父のときより一万七千石領する者なれば。手のもの少からず。もし討手よせきたらぱ。防矢射んとて。思ひ思ひに永見が宅にはせ集り。門を閉して堅めたり。本多伊豆守富正かくと聞て大におどろき。先々討手の人々を制して。一人永見が宅にむかひ。對面し何とかかたらひけん。其日より永見が家の守り怠り。手の者どもゝやがて家にかへりぬときかれ。宰相時こそよけれと。混甲二三百騎急に永見が宅におしよせ散々に攻入て。右衛門をはじめ一家の男女悉く討とりしが。其後も名ある家人其國にて大名とよばるゝものども。攻殺さるゝ事たびだびにおよびしとなり。藩翰譜。)
○四月三日松平中務大輔忠知。櫻田に於て邸地を給ひ。俄に營造をいそぐ。藤堂和泉守高虎が女を迎ふるがためなり。佐久門久七カョ直はじめて見參す。(元和日記。東武實錄。)
○十三日傳奏の公卿參向せらる。(國師日記。)
○廿八日中澤五カ左衛門久吉死して。子新左衛門久次家をつぐ。(家譜。)
○五月二日佐野彥大夫正吉死す。九十三歲。子與八カ正長つぐ。(東武實錄。)
○三日細川內記忠利就封を謝し。使もて羽織五獻じければ奉書を給ふ。(東武實錄。)
○四日小笠原右近大夫忠政蚊屋を獻じければ奉書を下さる。大村松千代純信はじめて拜謁す。直に暇たまはり銀時服下され。十五歲に及ばゞ參覲すべしと仰下さる。(東武實錄。家譜。)
○五日端午拜賀例のごとし。太田原出雲守暾Cが子掃部政繼初見す。川口久助宗次召出され書院に入番す。(ェ永系圖。)
○十日金地院崇傳江戶を辭して上洛す。(國師日記。)
○十五日醫員吉田盛方院淨珍死して子淨元つぐ。(ェ永系圖。)
○十六日酒井茂兵衛正次駿府加番命ぜられいとま給ふ。(家譜。)
○廿七日戶田左門氏鐵二子新吉氏經。從五位下して淡路守と改む。山伯耆守忠俊子藤五カ宗俊も。叙爵して因幡守にあらたむ。(ェ永系圖。家譜。)
○六月三日猿樂御覽あり。小姓酒井忠吉勝吉大膳とあらたむ。(國師日記。家譜。)
○十一日松平筑前守利常をめして御茶をたまふ。(國師日記。)
○十三日朝覺院尼うせらる。これ茶阿局といひしなり。(世に阿茶局と同人と思ふ人有。大にあやまれり。)此尼ははじめ遠江國M松の城におはしましける時。金谷村といふ所の者の妻にて。名をは八といふ。この所の代官某はちがみめかたちうるはしきに心まどひ。我物にせんと思ひて。その夫に非法の事おほせて罪におちいれころしてはちをうばひとる。八これにしたがはず。三歲の女子をいだき。ひそかに代官が家をのがれ出て。M松の城にはしり入て御前にまいりなげきくどきてうたへければ。やがてその代官をめして糺明せられしに。はたして八が申所にたがはざりしかば。代官は罪におこなはれ。八はみうちにとゞめられ茶阿の局とめされしが。第六の御子辰千代君。第七の御子松千代君をまうけたり。松千代君ははやくうせ給ひ。辰千代君はおひたゝせたまひ。上總介忠輝朝臣と申ける。後に越後の國高田城を給はらせ給ひしが。其方に花井庄九カとて。きはめて出頭し。後に遠江守と聞えし者ありければ。局の女をあはせたりき。局は前代におくれ進らせし後。餝おろして朝覺院といひしが。けふうせければ小石川吉水宗慶寺に葬り。又傳通院にもしるしをたてぬ。(東武實錄。以貴小傳。)
○廿日栗原忠兵衛C次大坂に於て死す。其子又左衛門忠正つぐ。時に四歲なり。(ェ永系圖。)
○廿五日森美作守忠政就封を謝し。使もて曝布二百端。干鰹一筐を献ず。よて奉書を下さる。松平宮內少輔忠雄も就封を謝して羽織五献ずるによりて奉書を給ふ。(東武實錄。)
○廿七日有馬玄蕃頭豐氏就封を謝し。繻珍十卷杉原十束献ず。よて奉書を給ふ。(東武實錄。)
○廿九日宿老上野國高崎城主安藤對馬守重信卒す。養子右京進重長に原封五万六千石餘を襲しむ。此重信は故杢助基能が二男にて。天正十年長久手の御陣に御供し兜首一級を得。其後今の御所に付られ。慶長五年眞田安房守昌幸が籠れる信州上田の城責に扈從し。九年從五位下に叙し對馬守と稱す。十年御上洛の供奉す。是より先采邑千六百石を給ふ。十五年上野國多胡郡の內にて五千石加へられ。十六年奉行の職に列し政務にあづかり。十七年下總の小見下野の結城に於て。一万石加恩ありて一万六千六百石になる。十八年二月村越茂助直吉と共に。松平武藏守利隆が所領播磨國姬路に至りて政務を監し。十九年大久保相摸守忠隣が所領沒收せらるる時。小田原に赴き其事を沙汰し。其十年大坂の役にも供奉して。駿河の國C水に至る時。神祖は近江の永原に至りたまひ。御使もて御上洛をうながし給ふにより。御みづからは御近習の人々のみ供せられて。いそぎ永原に赴かせ給ふ。重信仰をうけ御勢を卒ゐて御跡よりつゞきて京都にのぼり。又御供して大坂に進發し。常に御旗下に伺候し。諸軍に御使して諸勢の進退を聞え上しが。東西御和議とゝのひ。京都にかへらせ給ふに及んで。大坂に殘りとゞまる事三四日。城溝を埋めし所を監し。京都にかへる。大坂の亂再びおこる時。一隊の士を卒ゐて御陣にそなへしかど。其隊士をば養子右京進重長に指揮せしめ。その身は御傍をはなれず。五月七日には仰によりて先陣に赴き。戰機を察し御進軍を勸めて供奉し。敵旣に敗軍し落城に及び。秀ョ母子廩中にかくれ有しとき。重信監使となり井伊掃部頭直孝。本多上野介正純。阿部備中守正次等にそひてまかり。其事思ふまゝにはからひすませて。重信は備前島に殘り。諸事を沙汰して後京にかへり。八月常陸國鹿島。下野國結城。近江國神崎三郡の內に於て二万石を加へられ。五年福島左衛門大夫正則罪蒙りて國除かるゝ時。重信永井右近大夫直勝と同じく御使奉り。重長及び西國の諸勢を引ゐて。安藝國廣島にいたり。先備中の國笠岡より廣島に使をたてて。城を請取んといはせしに。城中の者ども正則が墨附なくては。城を渡すべからずとて。旣に籠城の企するよし聞て。重信諸勢を指揮し。其城を攻かこまんとする所に。正則が家臣に示す書到着せしかば。事ゆへなく城をうけとり。暫く廣島にありて國務を沙汰し。其十月上野國高崎城を給はり。同國群馬。片岡。近江國神崎。高島四郡の內にて。二万石加恩有て五万六千六百石給はり。此日六十五歲にて卒せり。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
◎是月內藤紀伊守信正が子彌七カ信照。從五位下に叙し豐前守に改む。細川內記忠利は小倉城に迁り住するよし注進す。(東武實錄。國師日記。)
○七月二日松平長門守秀就就封を謝し。使もて繻珍三十卷献じければ奉書を給ふ。(東武實錄。)
○四日松平飛驒守忠隆繻珍三十卷。熨斗一箱献ず。(東武實錄。)
○六日松平伊豫守忠昌金ならびに柳樽三荷。鯖百刺献じければ。奉書を下さる。(東武實錄。)
○七日星夕拜賀例のごとし。
○十九日南部信濃守利直巢鷹二聯献ず。(東武實錄。)
○廿八日使番堀三右衛門直之幷コ山五兵衞直政。三州西尾城引渡命ぜらる。よて老臣連署の下知狀をさづけらる。その文にいふ。今度轉封の輩百石に一匹一人の制にて。二日路送るべし。家僕等上下とも轉封の地まで陪從し。其上にて主從はかり合歸國すべし。その時は主も違儀なく返しやるべし。賦稅未進のため給事する男女。廿年をこえたるは普第たるべし。未進のため召つかふ男女を。其地に殘し置ときは。たとひ主家に給事して後。生れたる子ありとも。七歲までは父母に附屬すべし。未進つくのはんためにあらず。その父母兄弟より普第の奴婢にせよとて出したる男女の事。つばらに查撿し。もし疑ふべからざるゆへさだかなるに於ては。勿論普第に定むべし。去年賦稅未進は。この正月より四月までは。先領主の方へ納めしめ。五月より以下は弃捐たるべしとなり。(東武實錄。)
◎是月讃岐國高松城主生駒讃岐守正俊が遺領十七万千八百石を。その子小法師高俊につがしめらる。この正俊は故の讃岐守一正が子にて。正五位下に叙し左近將監と稱す。慶長十年四月將軍宣下御拜賀の供奉し。十五年四月遺領を襲て。十七年二月廿八日駿府に召れ。松平陸奥守政宗と同じく御茶を給ひしとき。肩衝の茶入をたまふ。十九年大坂の役には船塲堀邊に備ふ。御和睦の後家臣等拜謁し。慰勞の御詞をかうぶり。ことさら萱生兵部は御刀を下さる。元和元年の御陣にもしたがひ奉り。二年二月廿一日大坂城修築の助役せしかば。御書を給はり慰勞せらる。その月從四位下に昇進し。この六月五日三十六歲にて卒せしなり。能勢攝津守ョ次老病もて致仕の願をゆるされ。また長子治左衛門ョ重に采邑三千石をゆづり。ョ重が庇䕃料千五百三十石余は。二子小十カョ隆にめづり。ョ隆が庇䕃料千石は三子惣左衛門ョ之にゆづり。ョ之が庇䕃料八百五十石は。五子春松ョ永にゆづりあたへん事こふまゝにゆるさる。又御手洗彥右衛門正久子平三カ定重初見し奉る。揖斐與右衛門政景は小田原の町奉行となり。代官をかねしめられ。二百石加恩ありて九百石余になる。(ェ政重修譜。斷家譜。) 
卷五十五 / 元和七年八月に始り十二月に終る 

 

○八月朔日菅沼織部正定芳參覲す。(家譜。)
○三日大風。搶緕寰R門を吹倒す。(東武實錄。)
○十一日暹羅國の使坤屹實參密未坤備斜緝等長崎の港に着船し。江戶に進謁して方物を献じ。兩國の通信をこはんよしを。その地譯官長谷川權六によりてうたふ。(異國日記。)
○十八日菅沼織部正定芳。伊勢の長島城を轉じて。近江國膳所城主にせられ栗本滋賀兩郡の內にて一萬石餘加恩あり。三萬千百石余になさる。(ェ政重修譜。)
○十九日有賀半三カ種次死して。子半右衛門種親家をつぐ。(家譜。)
○廿二日金地院崇傳京より江戶に參る。(國師日記。)
○廿三日金地院崇傳まうのぼり拜謁す。(異國日記。)
○廿五日金地院崇傳大納言幷宰相忠長卿に拜謁す。(國師日記。)
○廿六日暹羅國信使江戶參着す。從者廿人譯官長谷川權六はじめ。長崎より護送六七十人に過ず。誓願寺を客館に充られ。牧野豐前守信成饗應のごと奉る。(異國日記。)
○廿七日老臣の邸に暹羅の譯官をめして。かの使者の趣旨を尋問す。金地院崇傳もこれにあづかる。(異國日記。)
○廿八日譯官等本城にのぼりて。かの國より本多上野介正純。土井大炊頭利勝に贈る書簡幷花縵十條づゝなり。かつ國王より献ずる方物を進らす。方物は長劔。短劔各一把。鳥銃一双。金盤一具。花縵十條。硯一具。象牙千觔なり。(異國日記。)
○廿九日林永喜信澄。金地院崇傳。牧野豐前守信成にともなひ誓願寺客館に至り。暹羅の使臣に對話し。其國風土俗を尋問す。(異國日記。)
◎是月岡部內膳正長盛は丹波國龜山城を轉じ。同國福知山城主にせられ。一萬六千石加へ五萬石になさる。松平山城守忠國二月より福知山警衛してありしかば。長盛に城をわたしてかへる。板倉內膳正重昌は福知山龜山兩城引渡し命ぜられて。その地に赴く。中川市助忠房死して。子市助忠宗つぐ。又令せられしは。西國諸大名參覲就封往來の船。風變にあひて破損せし時。諸器械はいふまでもなし。糧米等散亂せしむべからず。もしいゝさかたりとも。猥りに散亂せし事聞えば曲事たるべし。商賣の廻船難風にあはば。救の舟を出して助くべし。その上にも力及びがたきは。制の限りにあらず。廻船破損の地へ。武家につかふるもの上下ともに馳集るべからず。浦々の者相會し。廻船の法のごとく沙汰すべし。この條件違犯の徒は。速に嚴科に處せらるべしとなり。(ェ政重修譜。家譜。令條記。)
○九月朔日暹羅國使引見あり。よて御長袴を召て大廣間に出給ふ。上段に緋緞子の大茵をしきて御座を設く。進献の方物あらかじめ御前に陳列す。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。本多上野介正純。皆長袴きて侍座し。金地院崇傳紫衣に緞子の袈裟をかけて侍座す。其外諸大名諸士は半袴にて庇に伺候す。雅樂頭忠世暹羅國王の書簡を御覽に備へ。御座の右に置。次に使臣幷譯官三人。下段に出て拜し奉る。忠世幷に上野介正純。大炊頭利勝慰勞の御詞をつたふ。譯官互に通譯して後。使臣拜辭して退く。次に御座を立せ給ひて。白木書院に渡らせられ。諸大名諸士各當日の賀聞え上て退出す。次に常の御座にて崇傳をめし。かの國書をよましめ聞召る。その文の赴は。永く隣好を修めて。通信を結び。互に貿易の道を開き。國家の利を修めん事をこふよしなり。よて崇傳に御返簡を製すべしと命ぜらる。(異國日記。)
○二日金地院崇傳御返簡幷本多上野介正純。土井大炊頭利勝兩人よりの報書を製して御覽にそなへ。かの國こふ所のごときは。ことはりと聞召により。隣好を修せられ互市をゆるさるべしとの御事なり。兩老臣の報書にもおなじく。其趣しるしたり。(異國日記。)
○三日暹羅國使辭見あり。使臣等午刻まうのぼる。大廣間に出ましてその拜を受給ふ。かの國王へ御答禮には金屏風三双。鎧三領。太刀二振。鞍馬三疋つかはさる。あらかじめ御返簡は文箱におさめ臺にのせ。上段の床上にあり。下段の庇に唐戶を置。その上に鎧をかざり。屏風は其後にあり。太刀は袋を脫して鎧の側にあり。馬は庭上に引立たり。使臣下段へ進み出る時。酒井雅樂頭忠世。本多上野介正純。土井大炊頭利勝。御床の上より御返簡を取て使臣に授け。御答謝の品々をも授終りて。使臣拜辭して退く。次に老臣御次間に使臣をともなひて仰事をつたへ。使臣二人へ銀二百枚。小袖十づゝ給はり。譯官へ銀五十枚。小袖五たまはり。長崎より伴ひ來りたる譯官へ。銀二十枚小袖二づゝ下さる。又故大久保治右衛門忠佐が輿夫に山田仁左衛門といへる者あり。かれいつか暹羅國に渡海し。かの國にて頻に登庸せられ今は政ネをとるよし聞えしが。彼のもの使臣に附して書簡を大炊頭利勝に呈し。鮫皮二枚。𪉩硝二百斤をおくる。よてこなたよりも晒布二十匹を贈りてこれにむくゆ。(異國日記。)
○五日八木莊右衛門光政死して。其子勘十カ守直に家つがしむ。(家譜。)
○六日忍城勤番石野新藏廣次死して。其子彥次カ廣重つぐ。(ェ永系圖。)
○十三日猿樂御覽あり。上杉中納言景勝。松平陸奥守政宗。佐竹右京大大夫義宣を饗せらる。又市橋三四カ長吉實は武藤金右衛門重成が子なり。幼にして父を失ふがゆへに。外戚市橋下總守長勝に養はれ。武藤を改めて市橋と稱す。先に長勝が終りに臨て。請申むねあるにより。けふ召れて見參し奉る。(國師日記。ェ政重修譜。東武實錄。)
○十四日久志本右京亮常範死して。子內藏允常亮つぐ。(ェ政重修譜。)
○廿日本堂伊勢守茂親子源七カ榮親初見の禮をとる。(ェ政重修譜。)
○廿四日阿媽港の父老より。書簡を土井大炊頭利勝に呈す。其趣は去年使者を進らせしに拜謁をゆるされ。殊更若干の物賜はり。御懇遇淺らず。又利勝よりの懇書謝するに詞たらず。よて今年も又使者を奉る。その意先年大船を以て渡海せしめ。通商の便を得たるに。近年和蘭私販の船十三艘。平戶の海上に漕並べて海路を遮るがゆへに。大船往來自由ならず。わづかに小船にて往來するを以て。通商の便をうしなへり。和蘭は私販を專らにし濫行なるがゆへに。諸國に於てその舟を留めしめず。よて彼船平戶を以て據とし。其上白糸を押買すること甚しく。商船甚だ難苦す。願くは私販の蘭船を平戶にとゞむることを禁じ給はるべし。これ阿媽港闔國の懇願する所なりとぞ聞えける。よて金地院崇傳をしてその返簡を作らしめらる。かの國訴ふる所を以て聞え上しに。げにことはりと聞しめさる。はやく沿海の地に令し。海上互市の妨をなす賊船を嚴制せしめ。其請所の便を得せしむべしとなり。(異國日記。)
○廿九日越前宰相忠直公長子仙千代は卿の名代として參府あり。時に七歲。召れて木偶人二をたまふ。(家譜。)
◎是秋より日光山奥院御寳塔造營せらるゝとて。永井右近大夫直勝および佐藤勘右衛門繼成。長崎半左衞門元通。小倉忠右衛門正次奉行を命ぜられ。本多上野介正純人夫を出す。松平式部大輔忠次。奥平美作守忠昌。本多大隅守忠純。水谷伊勢守勝隆。日根野織部正吉明。秋田河內守俊季。堀美作守親良。那須與市資重。芦野民部少輔資泰。福原內記資盛。伊王野豐後守資友。岡本宮內義保。千本大和義定。太田原出雲守暾C等は石材運漕の事を沙汰す。淺野采女正長重。秋田城介實季。松下石見守重綱。大關右衛門高掾B太田原備前守晴C。成田左馬助氏宗等も。此事兼てはうけたまはるといへども。この春邸宅災にかゝりしがゆへにゆるさる。又此ころ阿部善八某。永井長十カ某營中にて爭論したる事有しに。永井頻りに鄙語惡言を吐しかば。善八こゝは宿直所なれば耻辱を忍ぶなり。何ぞ鄙惡の言を吐出すとていかりけるを。同僚やうやく集りて双方をなだめ引分たり。善八は阿部備中守正次が從弟なれば。正次がもとに來り。正次幷左馬助忠吉。永井信濃守尙政等にはかりしに。旣に衆人の中にて惡言をいひかけられながら。默止すべきにあらず。途中に待請て討果すべきなりと决し。正次忠吉尙政よりもさるべき家士をそへ。善八が家士を大手口。平川口。櫻田口三方に分ち。善八は平川口に待居たるに。長十カ何心なく。黃昏に平川口より退出る所を。善八北丸天守の邊にて後より追かけ。名乘よりて切かくる。長十カ馬上より顧みながら。刄をぬかんとする所を善八腰の番より切る。長十カたまらず馬より落る。其從者奴僕はおどろきあはてゝ逃散れば。善八は長十カがとゞめをさす。すは喧曄よとて近邊のものども馳集り。騷動するといへども。善八暗夜に乘じて終に踪跡をとゞめす。後に高野山にかくれすみしとぞ。(紀年錄。ェ永系圖。家譜。元ェ日記。重修譜には善八正廣阿部伊豫守正勝が弟にて。慶長七年正月故ありて自殺としるす。これと同人なりやしらず。)
○十月七日玄猪御祝あり。(水戶記。)
○十五日雨宮權左衛門政勝子與十カ正種(時に十歲。)大納言殿に初見し奉る。(東武實錄。)
○廿二日西城裏門柱立の吉辰を。金地院崇傳に選定せしめらる。本月廿七日を勘進す。(國師日記。)
◎此月吉祥寺山門を造營せしめらる。年頃御臺所護身佛となされたる正觀音の像を御寄附有て。山門の本尊となされ。また前代の御菩提のためとて。茶湯料金八百兩をたまふ。(寺傳。)
○十一月朔日高木彌十カ政勝が子彌十カ政春家つぎて鷹師になる。(家譜。)
○三日東金邊御鷹狩あるべしとて出たゝせ給ふ。(續元和年錄。)
○六日金地院崇傳。日光山奥院搆造始十一月十一日を良辰なりと勘進す。(國師日記。)
○十一日林永喜信澄もて金地院崇傳に吉日勘進の事を仰下さる。(國師日記。)
○十二日紀伊中納言ョ宣卿の老臣水野對馬守重仲卒す。よて其子小姓組淡路守重良。父につぎて紀邸に付られ家司たらしめらる。(家譜。家譜には重良紀邸につけられん事を辭して。奏者番書院番頭となりて。九年六月御上洛の時。京に於て再命有て紀邸に付らるとあり。)
○十五日酒井雅樂頭忠世がもとに。諸老臣幷に金地院崇傳集會し。相國寺豐光寺大光明寺の訴訟を對决せしむ。(國師日記。)
○十九日松平右衛門大夫正綱がもとに。諸老臣及金地院崇傳集會して。相國豐光大光明僧の訴訟を議せしめらる。(國師日記。)
○廿日紀州和哥浦に御宮新造せられ。正迁宮あるにより。中御門大納言資胤卿。廣橋宰相兼賢卿參向あり。(日野記。)
○廿一日諸老臣及金地院崇傳連署の奉書を。先の京職板倉伊賀守勝重がもとへ遣され。相國豐光大光明寺訴訟の事を議せしめらる。(國師日記。)
○廿二日豐光大光明寺兩僧に。歸洛して先師承兌が遺書を持參るべしと令せらる。(國師日記。)
○廿四日山中與九カ介政死して。其子源右衛門重之家をつがしめらる。(ェ永系圖。)
○廿八日昨日雨ふりければ。けふ東金の御狩塲につかせ給ふ。大納言殿より土井左兵衛正次を御使として。御けしきうかゞはせ給ひ。魚物進らせたまふ。(國師日記。續元和年錄。)
◎是月堀因幡守秀信子甚五兵衛秀嵩初見し奉る。山角C三カ定勝大納言殿に初見す。又御手洗吉左衛門昌重大番にいる。又小姓組番頭稻葉宇右衛門正勝は書院番頭命ぜられ。上總の國のうらにて千五百石加恩たまひ。二千石になさる。又今度御狩の時神尾刑部少輔守世。采邑上總金親村にて御膳を獻じ。延壽の御刀。因幡茶壺。利久が作の茶茶入を給ふ。(東武實錄。家譜。ェ政重修譜。)
○十二月三日東金の御狩塲より。越谷をへて還御なる。(國師日記。水戶記。)
○五日織田長益入道有樂。京祇園の閑居に有て中風を煩ふにより。其子丹後守長政看侍の暇給はり上洛す。(國師日記。)
○十日松平陸奥守政宗暇給はりて久喜の狩塲におもむく。(貞享書上。)
○十一日山岡主計頭景以三子四カ右衛門景廣初見す。(東武實錄。)
○十三日織田侍從長益入道有樂卒しければ。養老のためたまはりし一万石は收公せらる。この入道は備後守信秀が十一男にて。右府の弟なり。右府の事ありし時其所に居合せしかど。いかゞして迯出けん。命生のびて。其後豐臣家につかへ。四位の入道して有樂と號す。秀ョの母堂淀殿の伯父なれば。大坂にあり。關原時に御味方して。石田が隊將山喜內と鑓をあはす。家人千賀又藏たすけ來り喜內を打とりしかば。その首取て實撿に備ふ。よて本領を安堵し。别に大和國の內にて新恩を加へられ。すべて三万石を領し。慶長十九年大坂の役には。城中にありて軍事をはからふ。(重修譜に。仰によりて大坂に籠城して。常に密事を關東に注進せりとしるすは。全く其家傳の說をとりしのみにて不番少からず。故に藩翰譜の說による。)東西御和睦の事はじまりしに。入道一番に人質を獻ぜしによりて。城中の人々互に心をへだつるに至りぬ。入道思はずも今度大坂に籠城すといへども。本意にあらず。旣に城を出て御陣に參らんとせしに。御和睦ととのひし上は。あはれ御ゆるしを蒙りて。京洛の間に有て餘年を送るべしとこひ奉り。元和元年大坂の役には京都にあり。其後一万石を四男丹波守長政に。一万石を五男大和守尙長にゆづり。其餘の一万石を養老の料になし。京都東山に閑居し。年七十五にて終をとりしなり。(東武實錄。藩翰譜。ェ政重修譜。)
○十四日宰相忠長卿着甲の良日を。金地院崇傳に議せしめらる。本月十五日を勘進す。細川內紀忠則參府しければ。永井信濃守尙政慰勞の御使す。又石川助七カ安重死して。子兵八カ安次家をつぎ。齋藤久藏次綱死して。子文藏正久家をつぐ。(國師日記。家譜。ェ政重修譜。)
○十五日京にて女御御方御脇ふさぎの御祝あり。(日野記。)
○十六日細川內紀忠利參覲の拜謁す。(國師日記。)
○廿日中根茂助正成死して子仁左衛門正次つぐ。(家譜。)
○廿一日細川內記忠利が長子六丸ことし三歲。大奥へまうのぼり。御所ならびに御臺所に拜謁し奉る。(國師日記。)
○廿二日松平陸奥守政宗のもとへ。內藤外記正重御使して。御狩の鶴をたまふ。又堀越後守忠俊奥州岩城の謫居にて病死す。年二十六。(貞享書上。家譜。)
○廿六日金地院崇傳へ廩米三百苞給ふ。(國師日記。)
○廿八日岡部右衛門長賢從五位下に叙し。丹波守にあらたむ。(ェ永系圖。)
○廿九日土屋平八カ利直近習の勤を命ぜられ。從五位下に叙し民部少輔に改む。松平讃岐守定勝五男千コ定房も。爵ゆるされて美作守と改む。又佐野主馬吉總死して。子竹松正周家をつがしめらる。(ェ政重修譜。家譜。)
◎此月山岡四カ右衛門景廣は宰相忠長卿につけらる。千本帶刀資勝子C兵衛長勝初見し。醫員吉田淨元今年十一歲。兩御所に初見す。(ェ永系圖。東武實錄。)
◎是とし大內より新刻皇朝類苑を進らせたまふ。金地院崇傳をめしてよましめ聞召る。又土方掃部頭雄重が子彥三カ雄次。(次に十二歲。)內藤市正信廣が子主稅信光。(時に十一歲。)近藤平右衛門秀用孫勘助貞用。神谷縫殿助正次二子八右衛門次重。夏目長右衛門信次子右衛門八カ安信。山本四兵衛正吉子又右衛門正茂。大岡兵藏忠吉子兵藏忠章。渡邊半兵衛勝總子八カ右衛門重眞。海野藤兵衛昌重。竹中丹後守重門三子權佐重利。松下C九カ重政子C九カ重氏。富永主膳重吉二子權左衛門重利初見し。內田平左衛門正世二子權九カ正信。(時に九歲。)服部杢之助政重が子杢助政次は大納言殿に初見し。又大番頭阿部左馬助忠吉。松平半次カ重則。高木主水正正次は大坂城番し。福原雅樂頭資保。芦野民部少輔資泰は大坂の城勤番せしめられ。細井金兵衞勝吉駿州C水船手頭となり。水主五十人あづけられ。大久保玄蕃頭忠成子四カ左衛門忠重幷小M民部少輔光隆二子熊之助利隆。村上三右衛門吉正子三十カ三正小姓組に入番し。瀧川久助一乘。佐久間外記盛カ。山口左平太光正書院に入番し。板橋與五右衛門政重子勝三カ政郡。新見七右衛門正信幷に岩佐吉助某子金左衛門吉勝は大番に入り。富永主膳重吉子孫六カ重師新に燒火間番となり。都築又右衛門政武は月俸幷賄方を沙汰せしめられ。大岡兵藏忠章は近習の勤命ぜらる。島田C左衛門直時が子C左衛門直次(時に十三歲。)なりしが大納言殿近習小姓命ぜられ。廩米五百俵給ふ。阿部新右衛門重次子新四カ重勝ははじめて奉仕し。久保次左衛門正俊剃髮して松雲と號し。御側に伺候せしめらる。又小姓有馬大學豐長叙爵して。出雲守とあらたむ。また駿府城代松平丹後守重忠遠江國須賀城二万六千石を轉じ。出羽國上山城たまはり。一万四千石加へられ四万石になさる。宰相忠長卿執事朝倉筑後守宣正。采邑四千石を加へられ一万石になさる。(東武實錄。元和日記。重修譜にも。この時忠長卿に附られしといふといへども。國師日記を見るに。忠長卿に附給ひしは。先年の事たるべし。)松平內匠頭知乘は廩米五百俵を改め。采邑千石給ふ。畿內代官喜多見五カ右衞門勝重治績拔群なるを褒せられ。千石を加へたまひ二千石になる。近藤平右衛門秀用馬飼料二千石給はる。石野六右衛門廣吉二子小右衛門廣利ゆかりあるをもて。故の菅沼小大膳定利が妻の養子とせられ。彼女に給ひし百二千石を給はり。小姓組柘植右衛門佐正直は廩米三百苞。同僚曾根半兵衛忠次は二百苞を下され。加々爪備前守政豐は永祿十一年遠江國御出陣の時より御味方に參り。關原へうつらせ給ひし時。相摸國高座郡のうちにて。馬飼料として八十石餘の地を給ひ。大庭入村に閑居し。今年其地に於て死す。年は八十四。その子隼人正政尙は别に三千石給はり。父に先立て死し。孫民部少輔忠澄は今目付の職にあり。又外孫半之丞保忠を養子として。馬飼料八十石餘の地をゆづる。岡部彥右衛門忠房子六之助吉房。鈴木久七カ重信二子久三カ重正等は。皆父死しを家をつぐ。又大納言殿川越に鷹狩し給ひしに。內藤左馬助政長供奉しければ。御旅館に於て則重の御刀給はる。小姓小笠原七右衛門信吉も同く供奉す。朽木彌五カ稙綱勤仕の勞を褒せられ。大納言殿御小脇差及び御馬を給ふ。松平新太カ就封の暇給はるとて。左文字御刀たまはる。醫員田澤C雲道賀。片桐出雲守孝利は危痘を治療せし事を聞召れ。見參をゆるされ延齡丹を献ず。又鍋島和泉守忠茂病により。さきに給ひたる下總國矢作の地にまかり。病養ふべきよし御ゆるしあり。また明年は先代第七年の忌にあたらせ給ふ。其御祭には日光山に詣たまふべき御あらましなりき。本多上野介正純は近年拔擢の御恩にて。十五万石の大身となり。今度は居城宇都宮を御旅館になされんなれば。殿閣ことさらに花麗結搆を極め。饗し奉らむとて。今年よりその搆造をいそぎ。晝夜數萬の人數をうながし營作しける。外郭二三の丸は堅固に成功し。巨麗宏敞近國にたぐひまれなる事なりしが。すでに本丸の經營に及びしが。前代の御時より其家に附屬せられたる根來足輕同心百人あり。さばかり急劇の搆造なれば。家人等は一人も殘らずかりもよふされて。役事つとむるにより。かの百人の足輕どももみなその役に出べしと令しければ。彼者共我々は公より軍用のため。御附屬ありし所にて。私の役にしたがふべきにあらずとて。その催促に應ぜざりしかば。正純大に怒て。其同心ども一日がうちにことごとく首切て棄たり。(今宇都宮城外の原に。根來塚といふあり。かの百人の根來同心をうづめし所之。)また當城の先主奥平美作守忠昌が母は。當代の御姉君におはしませば。こと更優待あつくわたらせたまひしにより。おのづから威權もつよく。その上御本性をゝしくましまし。先に當城より古河へうつらせ給ひし時。藩士等に御みづから令せられ。當城藩士が居宅の竹木ことごと伐とらせ。家財屏障戶板までみな古河へ引とらせしめられしを。正純が方にては大に憤り。これ轉封の大法にそむけりとて。國境に新關をすえて。これをおさへとゞめて引かへしければ。かの母堂かくと聞召憤ふかく。正純をにくみ給ふ事大方ならず。彼これを以て今度正純城郭の搆造。いかさま思ふ所有てのしわざにやなどいふ流言やうやう世にきこえたり。(續元和年錄。ェ永系圖。斷家譜。家譜。東武實錄。ェ政重修譜。案ずるに正純今度御旅館の造營。やり戶ごとに又戶一づゝをまうけたり。これはもし地震して地かたぶき。戶のひらかざらん時には。遣り戶より出させ給ふべきために設たる所なり。その世にはかゝる機巧の作事いまだしるものなかりしほどに。軍兵のみだれ入んための設けなりといひなし。又浴室の板敷ふまばおちむやうにたくみ。その下に悉く刀劔をたてならべしなどいふ。あとかたもなき事まで流言せり。又かの根來同心を皆誅し。一穴にうづめしをも。この機巧を作事せし工人等。秘事を世にも人にも泄さんかとて。たばかりて工人をみな誅し埋めたりなども言いでゝ。遂に翌年正純が不慮の不幸をば引出せしなり。畢竟正純數年駿河に在て大政をつかさどり。帷幄參謀の臣にて威福を弄ぶ事。廿年にあまれるが故。みづから功にほこり權を專らにして。身の禍に及びしなり。ひとり此等の事のみにはあらざるがことし。) 
卷五十六 / 元和八年正月に始り六月に終る御齡四十三 

 

元和八年壬戌正月元日歲首の儀規のごとし。今年は尾張中納言義直卿。紀伊中納言ョ宣卿は在封によて。水戶宰相ョ房卿のみ拜謁せられ。新年を賀せられ。御盃時服かづけ給ふ。次に松平下野守忠ク。次に松平伊豫守忠昌。次に譜第の輩拜謁し奉る。(東武實錄。水戶記。續元和年錄。)
○二日例の如し。謠曲始また同じ。この日市橋三四カ長吉書院番を命ぜらる。外祖下總守長勝遺命によて。その子下總守長政より采邑二千石わかちあたふ。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
○三日諸家證人まうのぼり新年を賀し奉る。金地院崇傳もおなじ。(續元和年錄。國師日記。)
○四日諸代官拜賀し奉る。西城にては大納言殿歲首の賀を受たまふ。水戶宰相ョ房卿。松平下野守忠ク。松平伊豫守忠昌御盃を給はる。(續元和年錄。水戶記。)
○五日御茶事あり。(續元和年錄。)
○六日諸寺諸山僧徒。社人。山伏。新春を賀し奉り拜謁例のごとし。この日京に歲首の御使進らせらる。大澤修理大夫基宥これをうけたまはりて上洛す。(續元和年錄。國師日記。)
○七日若菜御祝例のごとし。市人等歲首を賀し奉る。けふ御鳥銃始あり。(續元和年錄。)
○十一日丹羽五カ左衛門長重常州古渡の所領を轉じて。奥州棚倉赤楯にうつされ。三萬石加恩ありて五萬石になさる。(ェ政重修譜。)
○廿日具足御祝例の如し。連歌興行また同じ。發句は紹之。松の葉や有數にへん代代の春。(その余は散失す。續元和年錄。)
○廿一日仙石兵部大輔忠政。信濃國小諸を轉じ。同國上田の城たまはり。小縣更科兩郡のうちにて。一萬石くはへて六萬石になさる。(ェ政重修譜。重修譜此年に收て月日をしるさず。今は元ェ日記による。)
○廿六日松平(K田。)右衛門佐忠之。さきに大久保相摸守忠隣が女を娶りしが。離别して後やもめずみなれば。御養姬君(實は松平甲斐守忠良女。後の法號梅溪院天秀妙貞。)降嫁の事仰出され。この日婚儀とゝのひしかば。來國俊の御太刀。吉光の御脇差をたまひ。家臣等にも時服銀下さるゝ事差あり。(ェ政重修譜。)
○廿八日日光山にて。今年は七周の御法會行はるるにより。その所に奥院御寳塔の造營成功すべしとうながさる。これ去年より近國諸大名へ命ぜらるゝ所なり。(國師日記。)
◎是月土井左兵衛正次小姓組の與頭になる。これ大納言殿より命ぜらるゝ所なり。(ェ政重修譜。)
○二月二日土井大炊頭利勝の邸へ。諸老臣ならびに金地院崇傳集會し。相國寺中豐光寺大光明寺の訴訟裁斷す。(國師日記。)
○三日松平右衛門大夫正綱の邸にて。訴訟裁斷あり。金地院崇傳もまかる。(國師日記。)
○九日本城造營の日時を議せらる。金地院崇傳本月十八日を勘進す。松平下野守忠クが家人渡邊二カ右衛門訴狀をさゝげ。同藩町野長門守幸和が事をつぐるにより。双方を召决せらるゝといへども。證左明白ならざるがゆへに。二人ともに其主忠クにめしあづけらる。(國師日記。元ェ日記。)
○十日令せらるゝは。喧嘩爭論の地へ一切馳參るべからず。公法違犯の者誅罸せらるゝ所へ。其事にあづからざるやから出むかふべからず。邸宅火災のとき。其藩中の徒幷父子兄弟の外は。かけあつまるべからず。市街火事の時は。武家上下とも一切出あふべからず。この令下さるゝの後。もし違犯するものあらむには。速に嚴科に處せらるべしとなり。又令せらるゝは驛馬駄賃荷物は。一駄四十貫目たるべし。府より品川驛まで上下の荷物。一駄の賃鐚錢三十四文。板橋驛へは三十九文。歸馬の賃もこれに同じかるべし。役夫賃は馬の半たるべし。かく定らるゝ後。晁Aを貪取ものあらば。その過料として一戶鐚錢百文づゝ出さしめ。市中父老は五貫文出さしむべし。その上本人は五十日獄につなぐべし。驛馬駄賃荷物は。驛中馬持の次第たるべし。駄馬若干用ゆる時は。其驛より各所の馬をやとひ。たとひ風雨の時たりとも。遲滯せざらんやう荷物運送せしむべし。此條件違犯する者あらば。その地の父老等曲事たるべしとなり。又令せらゝは。大かけ。洪武錢。割錢。新錢。無形錢。鉛錢の外は。えらぶべからず。もしえらぶものあるか。おして通用する者あらば。其市井過料として。父老は五百文。其外は每戶百文づゝ出すべし。尤賣買は金一兩に錢四貫文たるべし。もし此令にそむき。價を高低してうりかふものあらんときは。双方より其金錢を收公し。その上過料錢は定例の如く出さしむべしとなり。又近藤縫殿助用可は御使うけたまはりて。越前國におもむきしが。歸路に相州藤澤に於て落馬し。其痛み愈ずしてけふ死しぬ。其子縫殿助用治家をつぐ。(東武實錄。令條記。家譜。)
○十九日先に信州へ配流せられたる佐野修理大夫信吉。國免許を蒙りて歸參す。(ェ政重修譜。)
○廿五日松平陸奥守政宗がもとへ。持弓頭內藤外記正重御使して枝柿一匣給ふ。(貞享書上。)
○廿七日內藤外記正重御使して。松平陸奥守政宗に九年母一匣たまふ。(貞享書上。)
○廿九日大番伊藤安兵衛助次死して。子小姓組傳十カ正次家をつぐ。(家譜。)
○晦日渡邊半四カ宗綱御使して。松平陸奥守政宗に鷹の取し鴈一双下さる。(貞享書上。)
○三月五日松平隱岐守定勝病臥のよし聞えければ。大納言殿より土井左兵衛正次を。勢州桑名へつかはされてとはせ給ふ。(續元和年錄。重修譜此年に收て日月をしるさず。いま續元和年錄による。)
○九日松平陸奥守政宗がもとへ。內藤外記正重を御使として。諸白大樽一双幷高麗鶴一双給ふ。(貞享書上。)
○十三日永井彌右衛門白元御使して。松平陸奥守政宗へ。鷹のとりし鴈一双給ふ。このほど政宗病臥せしかば。ことさら度々御使を給はりしなり。(貞享書上。)
○十五日近習星合兵九カ專來死す。子なくして家絕たり。(ェ政重修譜。)
○十八日宰相忠長卿新亭落成して移徙あり。(國師日記。)
○廿一日廣橋前內大臣兼勝公。日光山御法會のため參向ありて。けふ府につかる。(日野記。)
○廿八日木治カ右衛門可直死して。子次カ助直澄家をつぐ。(東武實錄。家譜。)
◎是月京極丹後守高知。丹後國宮津の居城に有て病痾にかゝるにより。その子采女正高廣看侍の暇給はり。宮津に赴く。その時來國光の御刀及び御馬を給はる。又杉浦勝次カ則勝子八十カ勝治初見す。(ェ政重修譜。家譜。)
○四月朔日寺澤志摩守廣高長子式部少輔忠晴父に先立て卒す。二十三歲なり。(ェ永系圖。)
○五日日光山御法會にて。參向の公卿門跡等拜謁せられ。直に山におもむかる。(國師日記。)
○七日今年は日光山にて七年周忌の御法會行はるゝにより。御參詣あるべしと仰出さる。よて令せられしは。今度御供する時脇道すべからず。幷市街に於ては家の左右をよけて供奉すべし。若違背の族あらば。過料として銀一枚出さしむへし。喧嘩爭論火災をはじめ。いかならん事ありとも。番頭組頭指揮なからんには。その身はいふ迄もなし。奴僕までも其地にまからしむべからず。もし違背の徒あらんには曲事たるべし。御道にて御着座ある地にては。馬より下り馬はその所にとめ置て。從者を通し。その次に馬を通し。その後諸器械を通すべし。もし違犯の徒あらんには。過料として銀一枚出さしむべし。御供の輩人返しの事。一切停止せしむ。もし其子細あらば。還御の後沙汰に及ぶべし。御旅館御着の時。當直の外は供奉すべからず。もし違犯せば過料として銀一枚出さしむべし。目付幷番頭諸奉行はいふに及はず。たとひ誰なりといふとも。法令の旨つたへんには遠犯すべからず。違儀に及はゞ過料銀一枚出さしむべし。馬の際に召具する從者は。侍一人。龓二人。鑓持一人。履持一人其外若黨を召具すべし。騎馬の中へ替馬引入べからず。御用ありて召るゝ者の馬は此限りにあらず。違犯の徒は銀一枚出さしむべし。組頭なき徒は同僚の中にて日行事を定め。御旅館に伺候せしむべし。もしみだりなる徒あらば。過料を出さしむべし。御供する時は馬の口をとらするか。又高聲する事有べからず。馬に聲かくべからず。御旅館の驛にて馬の口洗べからず。もし違犯の徒あらんには。過料銀一枚出さしむべし。諸器械混雜せしむべからず。もしみだりなる徒あらば。過料銀一枚出さしむべし。駄馬は右の方を通すべし。山坂にては駄馬を山の方へ付て通すべし。押買狼藉すべからず。違犯の徒は曲事たるべし。作毛の塲へ馬を放つべからず。違犯の徒あらばその輕重によりて。過料出さしむべし。竹木を猥に伐採べからず。この旨にそむく徒あらば。その輕重によて過料を出さしむべし。目付幷番頭奉行等かゝる違犯の徒あるを見聞しながらゆるし置時は。その輩より銀子二枚づゝ出さしむべしとなり。又令せられしは。宿賃償はざらん者は。過料銀五枚たるべし。御出陣御上洛の時。かゝる者は斬に處せらるゝといへども。今度は御參詣により。ェ容の御沙汰もて過料に定めらる。他人の宿札剝とる者は。過料銀三枚たるべし。その身の宿札剝とる者は。過料銀一枚たるべし。晴天の時雨具を騎馬の列にもたしむる者。過料銀一枚たるべし。笠をもたしむるはこの限りにあらず。御旅館の前茶亭にて。指揮をまたずしてみだりに飮食せば。過料銀一枚たるべし。御供の時刀筒傘をはじめ。すべてめやすからざる物を。騎馬の列に入まじへもたらしむる者。過料銀一枚たるべし。着御の時御供の輩下馬せず。直に其驛へ乘込む者は。過料銀一枚たるべし。御供の時狼藉する者は。斬に處せらるゝのみならず。其主も過料銀二枚出さしむべしとなり。また令せられしは。宿賃の制一人に錢四文。馬一疋八文の定めたるべし。もし薪木をもたらせ用る者は。一人に二文。馬一疋四文と定むべし。その旅宿に廐なくして馬を宿外につなぎ置。薪もみづからもたらしめて用ゆる時は。馬も一疋二文たるべし。たゞし馬は外につなぎ置とも。その宿の薪用ひんには。馬一疋四文に定むべしとなり。又月俸の制百石に七人。百五十石十人。二百石十人。これより上八百石までは百石に二人揩フ定とす。八百五十石二十三人。九百石二十三人。千石二十四人。これより上二千九百石までは。百石に一人揩フ定めとす。三千石四十五人。之より上は。百石に一人半揩ニす。たゞし御出陣の時は一倍たるべしとなり。(令條記。)
○十二日日光山御參の御首途ありて。今夜岩槻の城を御旅舘になさる。城主山伯耆守忠俊饗膳を奉る。御懇詞を蒙り恩賜若干なり。この日風日和してまたCし。秋田河內守俊季等供奉す。(續元和年錄。)
○十三日奥平美作守忠昌が古河の城に宿らせ給ふ。(續元和年錄。)
○十四日本多上野介正純が宇都宮城にやどらせ給ふ。この日林藤五カ忠政死して。嫡孫兵四カ忠勝家をつぎ。廩米三百俵を給ふ。(續元和年錄。家譜。)
○十五日今市の驛に御泊りあり。此新庄越前守直好が石橋の所領にて。御膳を献じければ。時服及羽織を給ふ。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
○十六日日光山へつかせ給ふ。(續元和年錄。)
○十七日御宮御祭禮あり。江戶より供奉せし諸物頭以下。悉く神輿に供俸し諸役をつとむ。この御祭禮御覽のため棧敷にならせらる。水戶宰相ョ房卿。藤堂和泉守高虎陪し奉る。(紀年錄。水戶記。)
○十八日中禪寺へ詣たまふ。水戶宰相ョ房卿。藤堂和泉守高虎陪し奉り。伶人の舞御覽ぜらる。廣橋前內府兼勝公。三條大納言實條卿も着座あり。御參堂はてゝかへらせ給ひ。午刻御宮へ參らせ給ふ。ョ房卿高虎供奉す。こゝにても舞樂あり。蓮院門跡高純法親王。梶井門跡最胤法親王はじめ。公卿は兼勝公。實條卿。正親町三條中納言實有卿。柳原宰相業光卿。松平宰相時慶卿着座せらる。御供所着御ありて舞樂御覽ぜらる。大僧正天海この日奥院御寳塔前に於て。圓頓戒を授奉る。導師は大僧正天海。證誠は最胤高純兩法親王。其外三老僧は塔中にいり。衆僧は塔外に侍列す。はてゝこの輩御本社にまいり四箇法要を執行す。永井右近大夫直勝。去年より奥院寳塔造營の奉行して成功しければ拜謁し。御感の御詞を蒙る。(水戶記。慈眼大師傳。貞享書上。)
○十九日御本地堂曼荼羅供行はる。此日山をおりたまひ今市より出たゝせ給ふ比。江戶より御臺所御不豫のよし告來れば。宇都宮城に立よらせ給はず。急に御駕をいそがせたまひ。今夜は壬生にとまらせらる。井上主計頭正就一人宇都宮城に入て。御旅館搆造のさま巡察してかへる。(慈眼大師行狀。續元和年錄。世に傳ふる所は。奥平美作守忠昌の祖母は神祖の御長女なり。奥平と本多と宇都宮轉替の時より。この姬君正純を心よからず思ひ給ひしに。今度正純が御旅舘營造のさま奇巧を極め。世上種々雜說行はれ。其上城中にてひそかに蒺䔧を數多く設け。御旅館を高く造り。その下を自由に數人往來すべくかまへ。この營造深夜にいそぎて搆造し。又搆造にあづかりし根本同心百人を。一日のうちに悉く誅したり。又此ころ京よりあまた銃を苞苴にして下したり。これらの事尤不審なり。御用意なくてはいかなる珍事引出さんもしるべからずと。御消息にしたゝめたまひ。そのころ奥平がもとにめしあづけられし堀伊賀守利重もて進らせらる。伊賀守利重この事注進せし時。近臣等これを聞。いかにもさる事なかるべしとも思はず。旣にならせ給ひし時には。宇都宮にとまらせ給ひしが。御旅舘の設心得ぬ事多し。先寢殿の戶に樞を付置しが。庭に出させ給はんとせし時。其樞落て戶を明る事あたはず。又火事の用意とて御膳終るまでの間。城中嚴に火を消さしめ。御先にまかりし族が行李をもとかせず。病者有て藥用ゐんとて。湯を請といへどもあたへず。家司をはじめ家士等は皆野陣を張て。馬の鞍をも取離さず用意せり。これらの事尤不審なりなど。とりどり申ければ。いよいよ御止宿然るべからずとの事に决して。この夜直に壬生までおはしたりといへり。又一說に正純が造營したる寢殿の遣戶每に。又戶一づゝをまうけたり。これはもし地震して地傾き。戶のひらかざらん時には。遣戶より出させ給ふべきために搆へたるなり。その時かゝる搆造は世上いまだなかりし程に。これ軍兵のみだれ入らんために設たりとて。人々あやしむ。又浴室の板敷落ん樣にたくみ。その下に悉く釼をたてならべたりなどいふ事は。あとかたもなき事なりといへり。この所よりひそかにかへらせ給ひしは。さだかなる事なり。いづれにも正純御不審蒙りしはゆへある事なるべし。續元和年錄。藩翰譜。)
○廿日壬生より岩槻にとまらせ給ふ。(續元和年錄。)
○廿一日江戶城へ還御なる。石谷十藏貞C。志村加兵衛資只。小栗平吉久玄等はおくれず供奉せしとぞ。今年本城修理あるにより。西城に御座をうつされ。大納言殿にはしばらく本多美濃守忠政が第にうつりすませ給ふ。宰相忠長卿には松平式部大輔忠次が邸にうつらせらる。本城搆造の助役は諸老臣幷近習の中大名等つかふまつる。また新に天守臺を築かるゝにより。松平伊豫守忠昌。淺野但馬守長晟。加藤肥後守忠廣助役し。その石材は西國諸大名に課せて貢せしめらる。安藤右京進重長も石垣の助役し。阿倍四カ五カ正之これを奉行す。(貞享書上。斷家譜。紀年錄。ェ政重修譜。)
◎是月久能山御宮祭主榊原大內記照久に。其家もとC和源氏に出たるをもて。綸旨口宣いよいよ其旨を守るべきよし仰下さる。又醫官久志本右馬助常淳は兩御所に初見す。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○五月三日C水平左衛門恒豐大番にいる。恒豐實は豐臣家の臣山名與五カ堯政が子にて。父は大坂に於て戰死せり。與五カ堯政が臣C水平左衛門正親先に御家人たりしが。舊恩を忘れかね養子とせん事をこひて。家をゆづりたるなり。(家譜。)
○四日藤方平九カ安正は伊勢國司北畠の支族にて。織田上野介信包にしたがひし者なりしが。慶長のはじめ山名中務大輔入道禪高が推擧にて。御家人に加へられ。後故ありて處士となりしが。今年召返されいまだ采邑給はらずしてけふ病死す。よて九月に至り其子平九カ安利に。采邑三百石を給ひ。大番に加へらる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○六日細工頭矢部掃部定C死して。其二子納戶番七左衛門定勝家つぎ。父の原職命ぜられ。同心十二人を屬せらる。定Cもとは今川家の士なりしが。慶長元年より今の職つかふまつりたるなり。(ェ政重修譜。)
○九日穴山陸奥守信君入道梅雪が妻は信玄入道の女にて。梅雪におくれし後髮そりすて。見性院尼と稱しける。穴山が家亡て後田安門內の比丘邸に養はれ。武藏足立郡太間木村にて。厨料五百石を賜はりてありしがけふ卒しぬ。御庶子幸松丸の方は慶長十八年の頃より。この尼かひがひしくうけばり養育まいらせ。元和三年保科肥後守正光がもとに養ひまいらするまで。こゝにおはしけるなり。(續元和年錄。以貴小傳。)
○十七日日光山御宮臨時祭あり。よて松平式部大輔忠次代參す。(家譜。)
○廿三日千本又七カ和隆兩御所に初見す。(東武實錄。)
◎是月松前志摩守公廣鷹を獻じければ。御內書を給ふ。又宗對馬守義成より朝鮮國へ使を贈りしにより。かの使に附してその國より白苧布三十匹。白綿紬三十匹。人參伍觔。虎皮三張。豹皮三張。粘六張。厚油紙伍部。花席二十張。綿布伍千匹進らせ。諸老臣へ白苧布三匹。白綿紬三匹。虎皮一張。粘四張。厚紙二部。花席三張。綿布六十匹を贈る。(家譜。續元和年錄。續善隣國寳記。)
○六月朔日小姓池田左門長賢小姓組與頭になる。(家譜。)
○三日大番組頭山岡傳右衛門景重死して。その子傳右衛門景信家つがしめらる。(ェ永系圖。)
○七日原田藤左衛門種吉死して。二子藤左衛門種成その家をつぐ。(家譜。)
○十六日京にて女御深曾木の御祝ありて。諸人賀したてまつる。(舜舊記。)
○十八日千人同心頭窪田助丞吉正。(呈譜正勝。)八十二歲にて死す。こはもと甲斐の武田が家にて目付をつとめ。鑓の者を支配しけるが。歸降の後も猶その者等を屬せられ。小田原の北條ほろびて後。その一族陸奥守氏輝が殘黨。八王子の地にあるべければ。不虞に備へられんがため。かしこにうつりすましめられしなり。其子兵左衛門次持家つぎて父の原職をつとむ。中間頭畔柳助九カ武重七十一歲にて死す。その子五カ大夫武英家つぎ。父の原職をつとめしめらる。武重は元龜三年十二月三方が原の役に忠勤をつくし。M松に御馬をかへさるゝ後。城外敵の形勢を見て聞え上しかば。御腰の扇を賜はる。折しも雨ふり扇の紙はしめりて。骨ばかりのこりしを。翌日兜の前立物となして。御前に參りければ。御けしき大方ならず。五本骨の扇を汝の家の紋とすべしと仰を蒙り。是より家の紋とすといふ。(ェ政重修譜。家譜。)
○十九日里見安房守忠義。伯耆の國田中の配所にて死す。子なければ家絕たり。(斷家譜。里見記には八月十五日とみゆ。)
○廿日久能の御宮祭主榊原大內記照久從二位にのぼせらる。照久卑賤の身高位にのぼらん事。はゞかりあるによりて。先伊勢の祭主をして。二位にのぼせしめて後。此宣下ありしとぞ。又大番組頭高林市カ左衛門吉次死して。養子彌市カ利春家をつぐ。(東武實錄。家譜。)
○廿七日醫官吉田意安宗皓死して。子意安宗恪つぐ。(ェ永系圖。)
◎是月大坂城外郭石壘多門過半成功して。本丸二丸の石垣を築く。よて戍役の番頭高木主水正正次。松平半三カ重則に府庫を搆造すべしと命ぜられ。大番富永喜左衛門正義。池勘之丞吉次を奉行として。府庫十二搆造せしめらる。又松平孫大夫重次大番にいる。この程霖雨日をかさねてはれず。冷氣秋のごとし。よて諸國疫行はれ衆人これにかゝる。紀伊中納言ョ宣卿在封にて。おもくなやまるゝよし聞えしかば。板倉內膳正重昌御使してとはせらる。また越前宰相忠直卿。近年酒色に耽り强暴の行つのり。朝憲を蔑如し。禮法みだりがはしくなりて。今年も日光山へ參拜すとて。美濃の關原まで至り。急に病と稱し歸國せんとす。家司本多飛驒守成重が强諫せしを憤り。國にかへり直に成重が丸岡の城を攻んとせらる。成重やむ事を得ず。城には其子信濃重能をとゞめ。その身は京に出て。板倉周防守重宗にはかり。ともかくもせん樣あるべしとて京にまかりしを。洛より討手をさしむけらるゝよし聞えしかば。かくては京中の騷ぎともなるべければとて。先近江の栗崎に蟄居せりとぞ。(續元和年錄。家譜。) 
卷五十七 / 元和八年七月に始り十月に終る 

 

○七月朔日水戶宰相ョ房卿長子江戶邸に生れらる。竹丸と稱す。後に讃岐守ョ重といふこれ之。(家譜。)
○三日松平肥前守利常の北方。加賀の金澤城にて逝去あり。御歲は二十五。御所第二の姬君(珠姬君。又ね々姬君。)なり。やがて天コ院と謚す。城下に一寺を建立あり。御法謚をもて寺號とす。の日松平彥大夫政勝大番にいる。(ェ政重修譜。紀年錄。家譜。)
○四日諸大名群參して。珠姬君の御ことを吊しまいらせ。御けしき伺ひ奉る。(續元和年錄。)
○五日諸大名登營昨日のごとし。(續元和年錄。)
○七日御喪制により星夕拜賀停廢せらる。部下烟火戱を翫ぶ者なし。(續元和年錄。)
○八月朔日拜賀例のごとし。(水戶記。)
○五日今度封地轉換あるにより。先其事を令し下さる。其文にいふ。武噐諸械轉封の地へ運致すべし。竹木一切伐とるべからず。家僕は轉封の地まで召具して。其後普代にあらざる者は。主從はからひのまゝたるべし。逋償のために召仕ふものは。轉封の地まで送り行て後。本國へかへるべし。しかりといへども廿年以上召仕ふ時は。普代たるべし。逋償のためにはあらず。親兄弟より普代の約にて召仕はしむる男女。其證たしかなるはいふに及はず。逋償のため召仕ふ者本國へかへしやる時。その者主家にて設けし子あらんには。七歲までは父母の方に附しむべしとなり。又令せらるゝは。今度轉封の時。百石に一人一疋の制をもて人馬を出さしめ。二日路送るべし。種借の事城廩より借あたへし事まぎれなからんには。返納せしむべし。諸借物は證狀にまかすべし。本年未進の賦稅は弃捐たるべしとなり。(東武實錄。)
○十二日丹後國宮津城主京極丹後守高知卒しければ。その子采女正高廣に。遺領七万八千二百石襲しめ。二子六丸高三に三万五千石。三子主膳正高通に一万石分たしめらる。高通實は朽木兵部少輔宣綱が二子にて。高知が養子となり。小姓をつとめ三千石給ひしかば。これより一万三千石になる。高廣父が遺物正宗の刀を献じ。大納言殿にしつの脇差。御臺所へ茶壺。忠長卿へ行光の刀をさゝぐ。この高知は長門守高吉の二子にて。宰相高次の弟なり。豐臣家につかへ五千石給はり。後太閣の命によて毛利河內守秀政が遺領をつがしめられ。信濃國飯田の城主となりて。從四位下侍從に叙任し。修理大夫と稱し。六万石餘を領し。やがて十万石になる。慶長五年奥の御陣にしたがひしが。上方の逆徒蜂起しけれぱ。福島左衛門大夫正則等とともに。御先に馳のぼり。美濃の國岐阜の城を攻落し。御書を給はり賞せらる。關原戰終て後今度の戰功を賞せられ。近江の國に越前の國給はらんや。又丹後の國たまはらんや。その望にまかすべしと仰下されしに。丹後を請奉りしかば。宮津の城に十二万三千二百石そへて給はり。丹後守と改む。十九年大坂の戰には大和口にむかひ。元和元年の戰には五月七日追討して。敵の首三百二級切て奉る。けふ五十一歲にて卒せしなり。又大島茂兵衛光政死して。二子茂兵衛義唯つぎ。眞野勘右衛門正次死して。子勘兵衛正重つぐ。又久能山御宮祭主榊原大內記照久參內して昇殿をゆるさる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。家譜。東武實錄。)
○十六日伊豆の國代官曾根源左衞門家次死して。その二子源藏吉次家繼しめらる。(ェ政重修譜。)
○十八日㝡上源五カ義俊罪ありて。所領出羽國㝡上山形城以下二十五か所の城地五十七萬石を收公せられ。新に近江三河の國內に於いて。一萬石の地を義俊母子に給ひ。その家司山野邊右衛門義忠は。松平宮內少輔忠雄にあづけられ。松根備前は立花飛驒守宗茂にあづけられ。小國日向同大膳は鍋島信濃守勝茂にあづけらる。野邊澤遠江は加藤肥後守忠廣に預られ。楯岡甲斐は細川內記忠利にあづけられ。日根野將監は藤堂和泉守高虎に預られ。上山兵部は松平右衛門佐忠之にあづけられ。本庄豐前。大山筑前は酒井雅樂頭忠世に預けられ。鮭延越前。新關因幡は土井大炊頭利勝にあづけられ。氏家左近。同小左衛門は松平長門守秀就に預けらる。これは義俊若年にして。みづから國政を沙汰する事あたはず。常に酒色にふけり宴樂を專にして。家司等是を諫といへども用ひざれは。家人多半義俊を廢し。叔父右衛門義忠を主として。家つがせんと欲す。しかるに家司松根備前光廣これをがへんせず。是より先に義俊が父駿河守家親。鷹狩のために城を出て歸るさに。家司楯岡甲斐が家に入て酒宴し。家親その座より俄に煩ひ終に卒したり。これは家司鮭延越前と楯岡甲斐と心をあはせ。家親が弟右衛門義忠を主に立んとはかりて。家親に毒をすゝめしなりといふ風說有しをもて。松根備前江戶に參り。越前等義忠を主にせんと思ひ。舊主家親を毒殺し。又今若年の義俊をすゝめて酒色にふけり國政をみだりにせしむるよしを訴ふるにより。酒井雅樂頭忠世が邸にめして。双方を糺明に及びしに。備前が訴ふる所その證たしかならざりしかば。備前忽に罪蒙り。筑後の國柳川に流されて。立花飛驒守宗茂に預けらる。其後町奉行島田彈正利正。米津勘兵衛田政を御使として。其家司等に仰下されしは。義俊年若くて政務ととのはず。家臣等騷動に及ぶ。畢竟㝡上といへるは。奥羽越後にまじはり。東國第一の要害なり。しばらく收公せられ義俊には新に六萬石給はるべし。九人の家の老にも心を一にして補佐し。國政私なく沙汰しなば。義俊成長の後に本領をかへし給はるべし。義忠をはじめ家司ども。明日登營して答謝し奉るべしと仰下さる。しかるに義忠はじめ鮭延等の家司どもこれを承り。嚴命謹で承りぬるといへども。松根が如き逆臣を嚴科にも處せられず。其まゝになしおかれんに於ては。又松根ごとき讒人の出來てうつたふる事やむべからず。しかる時に至ては。いかでその罪をのがるべき。いよいよ義俊が本領を收公あらんとならば。家司どもはみな。只今より身の暇を給はり。出家遁世して高野山へ籠り申べきなりと申せしかば。このよし聞え上しに。義俊幼弱にして家司等また互に心よからざらんには。いかで國政をおさむべきとて。かくは命ぜられしなり。(㝡上が封地收公の日月。江城年錄には七年十月廿八日。藩翰譜には八年五月とす。今重修譜にしたがつてこの日に收む。)さて山形城請取に本多上野介正純。永井右近大夫直勝命ぜられ。松平下野守忠クよりは。これに先立て士卒三千餘人出さしめられ。渡邊半四カ宗綱。庄田小左衛門安照は别に仰を奉はり。松平陸奥守政宗が人數三千餘を引つれむかはしめ。內藤左馬助政長。丹羽五カ左衛門長重。戶澤右京亮政盛以下の奥羽諸大名は。一左右次第河崎まで罷出て。御使を待合すべしと命ぜらる。是皆㝡上が家人等もし命を拒む事あらば。直にその城を攻落さんがためとぞ。(ェ政重修譜。貞享書上。ェ永系圖。元和日記五月として日を記さず。年錄には七月十九日とす。今㝡上が一條重修譜によりて今日に收むる時は。この御使の事も。今日に係ざる事を得ず。)
○十九日京極采女正高廣喪制にこもりければ。吊慰の御書を下さる。又內藤外記正重御使して。香銀五十枚たまふ。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○廿日京中市街へ令せられしは。奉行の廳にて衆民訴訟裁斷の時。双方訴訟人の外一切出べからず。たゞし親子兄弟は此限りにあらず。もし双方證人たるものは。訴人と同じく出べし。尤元和五年以前のことは。訴訟に及ぶべからず。諸商人交易賣買の事は。諸人の要用なるを以て。商人等心まかせに賣買すべし。私に法を設て黨を結び。盟誓をなすべからず。何事によらず黨を結び。盟誓をなす事。先令旣に嚴禁する所明かなり。今より後新法をくはだて。違犯するものあらんには。速に廳に訴べし。查撿して嚴科に處せらるべし。朱銀の兩種はこのかぎりにあらず。質物は質屋の牌に。双方ク里姓名諸人よみやすからんやうにしるさしむべし。もしよみ得がたく書て牌付る事停禁せしむ。質物の價今より後三分に分ち。その二は本主へわたし。その一は質屋の利潤とし。利息はたがひにはかりあふまゝたるべし。かく定むる後みだりに下直の質物を取置べからす。もし盜物を質に取時はその質屋嚴科に處せしむべし。諸券押印の制は。證狀をもて對决せんに。其印を持來るといへども。他人その印をみしらざるに於ては。不審なきにあらず。證とすべからず。今より後在京の市人はいふまでもなし。借屋の者たりとも。市人等平生その印を見しり置べし。賣買の時たしかなる一札をとりかはすべし。近頃端書とてみだりにしるせしものを證として。廳にうたへいづるといへども。そはたしかなる證となして。裁所なしがたし。今より後即時に價をつくのはず。證狀をとりかはさんにおいては。たしかに一札を取置べし。先に火災の地へ行むかふ者。みな水を持來るべしと令す。今よりいよいよその令を守るべし。武家につかふるものか。又は市人刀脇指を帶したるもの。火災の地に出むかふべからず。もし違犯の徒は速に搦取べし。處士をかくし置事は。先より旣に禁ぜらるゝ所なり。しかるをもし違犯して。かくし置者あらんには。其宿主はいふまでもなし。闔街ことごとく曲事に處せらるべきにより。嚴密に查撿すべし。天主教もとより嚴禁なり。その宗徒たる事露顯せば。死罪に處せらるべし。その宗徒市街にかくれすまば。速に訴へ出べし。褒賞せらるべし。もしかくし置て他よりあらはるゝに於ては。闔街の者同罪に處せらるべし。新に寺院建立の事停禁せらる。近年ひそかに寺號院號を稱す。尤縱恣といふべし。今より後彌嚴に禁制せらる。この令下りて後。私に新寺建立するものあらんには。速に廳にうたへ出べしとなり。(令條記。)
○廿一日大納言殿河越へならせられ。酒井備後守忠利が居城にとまらせ給ふ。よて內藤左馬助政長その地を警衛す。(續元和年錄。紀年錄。)
○廿三日川越より土井左兵衛正次御使して御けしきうかゞはせらる。先に出羽國山形の城請取にむかひたる本多上野介正純㝡上の家臣等よりまづその城を請取。永井右近大夫直勝。二日路へだてゝ跡よりまかりて入城しければ。上野介正純は外郭の上山兵部が舊宅に引取て。本城をば直勝に引渡し。翌日その宅にむかへて饗しける。跡より喜之助康勝。高木九兵衛正次御使として。正純に今度御糺問ある所。十一ケ條の書をよみきかしむ。正純一々これに答ふる所明白なりしが。康勝また懷中より三か條の書を出して。ふたゝびこれを尋ぬる時。正純是に詞屈して答ふることを得ず。その時封地下野國宇部宮城十五万五千石收公せられ。出羽の國由利に配流せられ。猶厨料として五万五千石を賜ふの命を傳ふ。正純固く辭して是をうけず。佐竹右京大夫義宣にあづけらる。(此事年錄には八月二日とす。これは㝡上が國除かるゝを六月とするゆへなり。今重修譜に㝡上が事を八月十八日とするにしたがふ時は。本多が事その前に出しがたし。重修譜の本多が傳には。正純が事を十月につくる。これはまた遲緩甚し。いづれにも正純の事は。㝡上へ御使せし時の事なれば。この時に出さざる事を得ず。續年錄に此日冣上城の修理の事をかくるが故に。やむ事を得ず何事もこの日にかくるものなり。)その子出羽守正勝も父と同じく罪かうぶり。由利の地に蟄居せしめらる。この正純は佐渡守正信が子にて。少年の時より東照宮の御側に近侍し。夙夜の勞おこたらず。慶長六年五月十一日從五位下に叙し上野介と稱す。關原大坂の軍事よりして。將軍宣下韓使聘禮神廟創建等すべて大禮大事あづかりつかふまつらずといふ事なく。元和二年神さらせ給ふの後。江戶に參りて後も。天下大小の事悉くとり行ひ。五年こと更に下野河內近江三國において。十五万五千石を給はり。宇都宮城に住しけるが。けふ罪蒙りてのち。九年同國大澤にうつり。わづかに厨料千石給はり。ェ永元年四月同國手にうつされ。十四年三月十日かしこにて死す。齡つもりて七十三歲なりとぞ。(この人の罪たしかならず。世につたふる所は。この年日光山御參の時。その居城を御旅舘とせられしに。御設のため搆造せしさま。奇巧をつくしたる事をいへども。いかにもいぶかしき事多きに似たり。)松平陸奥守政宗よりは。伊達安房同安藝を將とし。人數を㝡上に出し。延澤C水等の城を請取。御使にわたして歸國す。上杉中納言人數幷太田原備前守晴C。同弟出雲守暾C。大關土佐守高掾B共に勤番せしむ。然るに山形の城をば永井請取て後。この城破損せし所多きよし。江戶へ訴ければ。官費もて修築を命ぜられ。その奉行は池田圖書政長。花房彌左衛門幸次に命ぜらる。正純が宇都宮城は淺野采女正長重請取て勤番す。伊丹康勝この時の御使よくつかふまつりしとて。牛込佐渡原にて别業の地一万五千三百六十五坪たまふ。)東武實錄。ェ政重修譜。續元和年錄。貞享書上。)
○廿五日伴五兵衛重盛死して。其二子五兵衛盛政翌年十月にいたり家つがしめらる。(ェ永系圖。)
○廿八日大納言殿河越よりかへらせ給へば。宰相忠長卿御迎として板橋まで出給ふ。大納言殿には直に西城へわたらせ給ひ。御對面あり。忠長卿も西城へまうのぼり。兩御所に拜謁し給ふ。水野日向守勝成が所領備後國福山に。公役もて新城を築かせたまはりしを謝して。銀百枚時服十献ず。よて奉書を給ふ。(續元和年錄。ェ政重修譜。奉書の事は東武實錄元和六年十二月廿八日よりこゝに收む。)
◎この月宮城甚右衛門和甫は大納言殿の仰により。目付として川越に供奉しけるをもて。かへらせたまひしのち。采邑六百石加へられ。千石になさる。畠山民部政信ははじめて大納言殿に拜謁す。又奥平美作守忠昌は下總國古河城を轉じ。下野國宇都宮の城をたまふ。十一万石もとのごとし。堀伊賀守利重は。慶長十九年大久保相摸守忠隣がことに座して。所領收公せられ。奥平が家にめしあづけられてありしが。大坂の軍には。松平下總守忠明が手に屬して。戰功をはげみしかば。今度御勘發をゆるされ。常陸國土浦にて。一万石給はり。美作守忠昌年尙幼ければ。その國政を補翼すべしと命ぜられ。此後宇都宮に居住す。酒井宮內大輔忠勝は信濃國川中島松代城を轉じ。出羽國庄內鶴岡城にうつり。三万八千石加へて十三万八千石になさる。弟右近大夫直次に一万二千石。長門守忠重に八千石たまふ。(直次忠重所領の事は。重修譜にはつまびらかならざるがことし。)山口但馬守重政。先に御勘氣蒙りて高野山に閑居せしが。四男半兵衛弘隆。五男左兵衛重恒とともに。本多美濃守忠政にあづけられ播磨の國姬路にうつる。(東武實錄。ェ政重修譜。紀年錄。貞享書上。ェ永五年九月十二日御免ありてめしかへさる。)
○九月十日大番本多次カ大夫光平死して。子小平次光勝家つがしめらる。(家譜。)
○十五日大納言殿御着甲始あり。加藤左馬助嘉明は當時の耆將なれば。こと更の仰ごと蒙りてこれを着せ奉る。希代の面目とぞ聞えける。かねて御所嘉明をめして。大納言殿に御鎧をめさせ申べしと面命ありしに。嘉明固辭再三に及ぶといへども。御ゆるしなかりしかば。さらに家にかへりよくおもひはかりて。御こたへをば申べきにて候とて。御まへをまかり立。やがて嘉明が子々孫々にいたるまで。ながく二心を抱くまじきよしの起請文をかきて奉り。此上は御ゆるしをかうぶるべきにて候と申ければ。御所其ふるまひを御感深くして。なを御ゆるしなかりければ。遂に仰に從ひしとぞ。(貞享書上。藩翰譜。御着甲の事。山が譜には慶長十七年九月十五日とすといへども。貞享加藤家書上。藩翰譜。江城年錄。柳營譜畧。皆今年に係るがゆへ。今これにしたがふ。)
○十八日大番依田甚五左衛門守次。松井助大夫宗重。森山市兵衛盛治を忠長卿に附らる。(家譜。ェ政重修譜。)
○廿日本堂伊勢守茂親が子源七カ榮親。大納言殿に初見の禮をとる。(ェ永系圖。)
○廿一日布施孫左衛門長吉死して。子半兵衛吉成家つぎ小十人となる。廩米百俵賜ふ。(ェ政重修譜。)
○廿五日鳥居左京亮忠政。陸奥國岩城平をあらためて。出羽國㝡上山形城をたまはり。十万石加恩ありて二十万石になされ。東國の押たるべしと命ぜらる。その子伊賀守忠恒同所にて二万石たまふ。(鳥居が事重修譜には。年に係て月日をいはす。永井家貞享書上に。九月にこの城引渡す事をしるし。同書內藤土方が事も此日輩封あれば。推考しこの日にかく。)このとき忠政が封地の邊。酒井宮內大輔忠勝は庄內にて。凡十六萬石。戶澤右京亮政盛新庄にて六万石。この忠勝は忠政が聟。政盛は妹聟。松平丹後守重忠は上山にて四万石。これ忠政が從弟なれば。これらは麾下に屬し。すべて五十万石の稅額に充らる。永井右近大夫直勝は山形の城請取て。この頃まで㝡上にあり。この命降るを待て。城を忠政に引渡して江戶にかへる。戶澤右京亮政盛。常陸國松岡より出羽國最上の新庄にうつされ。二万石加恩ありて六万石になさる。(此政盛は鳥居が妹聟之。)內藤左馬助政長は上總國佐貫より。陸奥國岩城にうつされ。二万五千石加へられて。七万石になさる。其子帶刀忠與も同所にて一万石加へられ二万石給ふ。土方掃部頭雄重。下總國田子より陸奥國菊多郡の內にうつされ。一万五千石加へて二万石になさる。眞田伊豆守信之。信濃國上田城より同國川中島松代にうつされ。四万石加恩ありて十三万五千石になさる。是より先長子河內守信吉に上野國沼田城三万石。二子內記信政に二万五千石。三子隼人信雄に一万七千石を分ち給ふ。仙石兵部少輔忠政。信濃國小諸城より同國上田にうつされ。一万石加へて六万石になされ。小諸城は甲斐宰相忠長卿にあづけらる。淺野采女正長重は本多上野介正純が封地收公の後宇都宮城を請取て守り。宇都宮を奥平美作守忠昌に引渡してのち忠昌が古河を守る。(ェ政重修譜。貞享書上。紀年錄。)
○廿七日伏見城番兼町奉行山口駿河守直友入道應倫卒す。その子勘兵衛直堅家つぎ。父の原職をつがしむ。(ェ政重修譜。)
◎この月京極采女正高廣參覲しければ。廩米千俵をたまはる。藤方平九カ安利召出され。大番にいり采邑三百石給ふ。勘定秋山半右衛門伯重代官となる。(ェ永系圖。家譜。)
○十月朔日玄猪賀筵例のごとし。(水戶記。)
○七日甲斐宰相忠長卿に信濃國小諸城七万石を併せ領せしめらる。芦田武川の諸士をつけたまふ。屋代越中守秀正ならびにその子甚三カ忠正。三枝土佐守昌吉と共に忠長卿に付られ。小諸城代たらしめらる。昌吉が子伊豆守守昌も。父と同じく忠長卿に付らる。(元和日記。ェ政重修譜。)
○八日醫官今大路道三親Cが子藤三親昌召出され。大納言殿小姓になる。(家譜。)
○十三日木村久左衛門則綱死して。三子久藏宗綱つぐ。(家譜。)
○十四日大番頭松平石見守康安駿府城代命ぜられ。其子書院番組頭壹岐守正朝大番頭になり。庇䕃料千石給ふ。(ェ政重修譜。)
○十五日搶緕寰R門再搆によて供養行はる。こは元和六年八月三日の大風にて破壤せし故なり。小姓組岡部庄左衛門永綱死して。その子庄左衛門正綱つぐ。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○十六日松平陸奥守政宗就封の暇たまふとて虛堂墨跡の掛幅を下さる。又松平八兵衛利次死して。子助之進乘忠つぐ。(貞享書上。家譜。)
○廿二日本多飛驒守成重が所領北相馬郡のうち。井野ク桑原村柳村に於て。鳥取事をゆるさるゝ旨御K印を下る。(家譜。)
○廿五日水戶宰相ョ房卿に。常陸國松岡三万石摯浮ケられ廿八万石になさる。(紀年錄。)
○廿八日傳通院廓山をして。搶緕寶Z職を命ぜらる。存應逝去して後。三緣山貫首久しく曠せり。(東武實錄。)
◎この月松平大膳亮忠重。武藏國深谷の采邑八千石をあらため。上總國佐貫の城主になされ。一万八千石をたまふ。服部權大夫政信三子新左衛門政久初見して。小姓紐の番士となり。廩米二百俵たまふ。(ェ政重修譜。ェ永系圖。) 
卷五十八 / 元和八年十一月に始り十二月に終る 

 

○十一月三日小姓組を六隊として所屬を分たしむ。其一隊は井上主計頭正就に屬し。その組頭は本多美作守忠相。二隊は永井信濃守尙政に屬し。其組頭は酒井下總守忠正。三隊は山大藏少輔幸成に屬し。その組頭は秋山長門守季次。四隊は松平右衛門大夫正綱に屬し。其組頭は太田采女正資宗。五隊は板倉內膳正重昌に屬し。その組頭は鳥居讃岐守忠ョ。六隊は秋元但馬守泰朝に屬し。其組頭は三浦山城守重次として。小十人組の番士をも。直日にあたりしものゝ所屬たらしむ。(續元和年錄。重修譜。酒井下總守忠正が傳には。小姓組與頭をかねぬるよしは見えて。年月もしるさず。其外はこの事江城年錄續年錄にのみ有て。東武實錄にも見えずとぞ。重修譜にみなしるさず。然れどもこのとき兩番士は。皆執政眤近の所屬にて。别に番頭も置れず。けふ組頭にせられし人々は。みな小姓の輩なるゆへに。執政眤近に屬し。番頭の隊頭を兼しめらるゝ事。なしともいふべからず。故に今年錄にしたがひこゝにしるす。)
○五日中根外記某が家に蜂屋六兵衛定氏。牧野源助某を招き。酒を飮み醉に乘じて爭論し。中根牧野兩人にて蜂屋に切てかゝる。かくと聞て。中根牧野が從者も數十人はせよりて。蜂屋一人を討んとす。蜂屋數十人を敵として戰しが。終に二人を切殺し數十人に手を負せ。その身も深手十七ケ所負て倒れたり。これをみて中根牧野二人は。家眷ことごとく引具し。深夜に逐電す。その跡にて蜂屋やうやう起あがりてみれば。家內寂寞として人を見ず。やむ事を得ず其家を出て。親友なりし太田善大夫吉正がもとに赴き。創を養ひ翌日そのことをうたへしに。爭論もとより酒興よりおこり。從者等手負死人ありといへども。其主三人共に死せざれば。裁斷に及ばずとの事なりしかば。中根牧野蜂屋三人ともにみな隱遁す。(東武實錄。)
○十日本城搆造成功しければ。西城より還御なる。よて大納言殿は本多美濃守忠政が邸より西城に移りたまふ。此日田大學某死して。子なければ其家除かれしが。後に弟五カ三カ隆松もて。その祀を奉ぜしめらる。(續元和年錄。家譜。)
○十一日本城御遷徙の賀莚あり。(續元和年錄。)
○十二日賀莚きのふに同じ。(續元和年錄。)
○十三日京中市街に令せられしは。京中にて賣買の糸少しづゝうりひさぐによて。爭論を引出す事あれば。其價を定め直に糸をうり渡すべし。糸をば受とらずして。劵幷價銀授受して後に訴出ば曲事たるべし。火災の地へ刀脇差佩し者まかる事。先に嚴禁せらるれば。借家に住者等によく曉諭すべし。一年期のもの其主に無禮ふるまふものありと聞ゆ。さるものあらば。其街中より廳に具して來るべし。曲事に處せらるべし。一年期の間にゆへあらんには。前約の如くはからふべし。もし年期終りていとまとらしむる時。兼約の給分を其主違亂せんとするものあらばうたふべし。其主に嚴に命ぜらるべし。市人召つかふものも是に同じ。一夜の宿をかすにも。よくよく查撿してかすべし。屋舍かす事は一月かぎりにかしあたふべし。月の半俄にそのかりし屋舍をかふるに於ては。うたへ出べし。もし兼約の一月終りて他へ宿をかへん時に。さきにかしあたへたる宿主より。こたびうつりすむ地へ。その事告やるべし。家業もなくク里もつまびらかならぬもの群集せば。市中よりよく查撿すべし。查撿怠慢して盜賊に家をかしたる事あらはるゝ時は。後日たりとも曲事たるべし。もし其子ひが事せんとき。其親廳へうたへ出んに其情實を鞠問し。親が訟ふる處まぎれなからんには。親が請ふ所のまゝに其子繫獄せしむべし。京中の市街末末までも銃放つ事停禁せらる。もし盜賊おし入たりとも。銃は用ゆべからずとなり。(令條記。)
○十五日宿直の番士に御K印もて令せられしは。當直不參の徒は士籍を削去らしむべし。番頭卯牌前に退出せば。其年の邑入を收公せらるべし。寢番の徒酉刻まうのぼるべし。これを過ば過銀二枚出さしむべし。他隊と交替の時は。一人每に相對して交代すべし。同隊もこれに同じ。出番の時刻遲引せば。過銀二枚出さしむべし。宿直の徒ゆへなく他の席にまからば。過銀一枚出さしむべし。宿直の徒急用ありとて。番頭目付にもつげず退出する者は。士籍を削去べし。宿直所にて紙燭を用ゆるものは。過銀二枚出さしむべし。宿直所にて夜詰の後。定制の外燈を立置ものは。過銀二枚。屋壁障戶落書するものあらんには。本人は斬に處すべしといへども。もし幼稚の者ならんには。流罪に處せしむべし。もし本人つまびらかならざらんには。其座當直の者過銀十枚出さしむべし。それも番士の員數多寡によるべし。何事となく法令をそむき。行狀不良のものは。其輕重によりあるは死罪。あるは流罪。又は過怠たるべし。番頭組頭心とゞかずして。番士みだりにふるまふ者あらん時は。頭組頭より過銀出さしむべし。尤その事により輕重の定めあるべし。城中にて若黨奴僕何事によらず。法令をそむき不良のふるまひするものあらば。其本人は誅せらるべし。其地の番人是を見のがさば。過銀五枚出さしむべし。すべてきこえ上ずしてかなはぬことは。何時によらず聞え上べし。かならず每月晦日諸令遵行の可否を聞え上べし。もし又其時によりては。老臣にうたふべしとぞ。さきに大納言殿御着甲ありければ。是を着せ進らせたる加藤左馬助嘉明より太刀馬代を献ず。大納言殿にはけふ紅葉山御宮に御參あり。又京にては御袖留御額直したまふ。御祝として高家大澤少將基宥御使命ぜられ。樽肴金時服奉り給ふ。よて基宥上洛のいとま給ふ。(令條記。東武實錄。續元和年錄。)
○十八日御祝の猿樂催されて。諸大名太刀馬資を献じ奉る。醫員片山與安宗哲死す。其子與庵宗琢ことし家つぎて。兩御所を拜し奉る。けふ九條大納言道房卿參向あり。(續元和年錄。ェ永系圖。)
○十九日けふも猿樂ありて。諸大名より太刀馬資を献ず。(續元和年錄。)
○廿日坂部三十カ廣勝死して。其二子十カ兵衛廣利家をつぐ。(東武實錄。)
○廿一日冬至。(舜舊記。)
◎是月田中久兵衛吉興久しく病にかゝり。つかふまつることを得ざれば。菅沼織部正定盈が五男にて小姓をつとむる主殿頭定行を養子とし。其女にめあはせて所領をゆづり。其身は京都に隱居せん事をこふまゝにゆるされ。所領二萬石を定行にゆづる。定行が名を吉官とあらためたり。この吉興は故の筑後守吉政が三男にて。關原の軍に父吉政と共に出陣して戰功ありしかば。近江三河上野等において所領二万石たまはり。其後大坂兩度の役にも供奉し。こたび致仕して京都に閑居し。ェ永六年五月六日卒しぬ。齡は詳ならず。又新庄越前守直好。下野國石橋の所領一万石を轉じ。常陸土浦にうつさる。是直好が居城常陸の麻生なるがゆへ。石橋とは地隔れば請申に於ては居城近ほとりにかへ給はるべしと。土井大炊頭利勝もて仰下されしかば。やがて請奉りしによりて之。又土井左兵衛正次は。上總にて采邑二百二十石加へられ千石になさる。又番士八十人して駿城を警衛せしめらる。秋山伊兵衛正勝も是にあづかる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十二月朔日小姓田中主殿頭吉官小姓頭になり。岡田兵部少輔利良歩行頭になる。(ェ政重修譜。)
○三日酒井雅樂頭忠世。武藏國榛澤郡上野國獄郡藤岡に於て二万六千石加へられ。新田を合せて十二万二千五百石餘になさる。酒井讃岐守忠勝。武藏の國深谷の城主になされ。七千石加恩ありて一万石給ふ。(ェ政重修譜。)
○七日永井右近大夫直勝。常陸國笠間を改め下總の國古河の城主とせられ。二万二千石加へて七万二千石になさる。此時より常に府にありて政務會議の席に候す。これまで古河城を守りし淺野采女正長重は。常陸の眞壁より笠間にうつり。新田を合せて五万三千五百石餘になる。されど眞壁は父の墳墓の地なれば。他の地にて加恩あらんよりは猶もとの地にあらんことを請しかば。御感有て其身笠間城にありて。眞壁を領せしめらる。(ェ政重修譜。)
○八日本城搆造成功ありて新殿移徙をほがせ給ひ。京より勅使中院中納言通村卿參向せらる。この日根來右京進盛重和泉國の代官を命ぜらる。こは其はじめ紀伊國根來寺の僧にて。成眞院に住し大納言坊と號す。さきに豐臣太閤根來寺を燒亡されし後。この僧一山の法師等をひきゐてM松にいたり。拜謁せしかば。還俗せしめられ。成P吉右衛門正一に屬せらる。是今の世にいふ根來同心の濫觴なり。元和元年四月廿七日より愛染院長算と同じく。根來同心五十人を引つれ伏見城を守りしに。長算はほどなく死しければ。盛重一人にてこれを所屬とし。守衛したり。しかるに今度五十人の者等は。江戶に召て成P伊豆守之成が所屬とせらるゝが故に。盛重はかく命ぜられしとぞ。(東武實錄。ェ政重修譜。續元和年錄。)
○十二日尾張中納言義直卿。參府せらる。(續元和年錄。)
○十三日本城御移徙の賀に參向せし。勅使中院中納言通村卿を饗せられて猿樂あり。又牧野右衛門長勝死して。子又十カ長重家をつぐ。(續元和年錄。家譜。)
○十四日花井越中守忠吉死して。子使番庄右衛門吉高家をつぐ。近習番淺井七平元吉死して。長子掃部元正家つぎ。二子藏人元久へ采邑千五百六十石餘のうち。五百四十石餘をわかちたまふ。(家譜。ェ政重修譜。)
○十五日高原次カ右衛門直久兩御所に初見す。(東武實錄。)
○十六日中院中納言通村卿歸洛の暇給ふ。(家集。)
○十七日都築彌左衛門爲政死して。其子惣右衛門玄成は本多美濃守忠政に附屬せらる。二子彌左衛門爲次は别に召出され五百石給はり。後に歩行頭になりしとぞ。(ェ政重修譜。)
○十九日大屋小右衛門吉正死して。子兵太カ正利つぐ。(ェ政重修譜。)
○廿三日內藤甚十カ忠重武藏下野の內にて。采邑千石加られ千三百石になる。(ェ政重修譜。)
○廿四日美濃部三カ左衛門茂勝。新に川船奉行を命ぜらる。(家譜。重修譜には元和九年召出さるとして。川船奉行の事見えず。)
○廿六日鍋島信濃守勝茂が二子翁助從五位下に叙し。御家號御名の一字給はり。松平肥前守忠直と稱し。時服御馬下され。かさねて麻の上下を下さる。勝茂が長子紀伊守元茂は。家の女房の腹に設けたり。忠直が母は東照宮御養女(岡部內膳正長盛が女。)の腹に設たるをもて。こたび嗣子とさだめたるが故なり。又田中城代大久保甚左衛門忠直。任所に於て病沒す。齡七十二。其子甚四カ忠當父衰老せしにより。兼てかしこにありて是を輔けしかば。明年にいたり家つがしめらる。(ェ政重修譜。)
○廿七日立花左近將監宗茂が子千熊丸首服加へしめらる。御名の一字給はり。從五位下に叙し左近將監忠茂と改め。左文字の御刀を給ふ。よて其父宗茂飛驒守と改む。板倉內膳正重昌は紀伊國御使はてゝかへり謁す。(ェ政重修譜。家譜。)
○廿八日尾張中納言義直卿參覲の拜謁せらる。よて水戶宰相ョ房卿もまうのぼらる。けふ岡部內膳正長盛が三子(幼名詳ならず。)長政。從五位下に叙し因幡守に改む。毛利中納言輝元入道宗瑞三子三次カ就隆。敍爵して日向守と稱す。大番山角市左衛門勝重新に廩米百五十俵を給ふ。こは大坂の役に同僚間宮庄五カ正秀が深手負し時。勝重これをたすけむらがる敵を追はらひ。正秀を救ひたりしが。其時父刑部左衛門正勝御勘發の中なるがゆへに。其事聞えあぐるものなかりしゆへ。その時は褒顯を得ざりしとぞ。(水戶記。ェ政重修譜。家譜。藩翰譜備考。)
◎是月細川內記忠利仰によりて越中守と改稱す。伊達兵五カ秀宗(慶長元年四月叙爵せしなり。)遠江守に改め。其子千松丸宗實伊豫松宗時初見し。宗實は左近大夫と稱せしめらる。小笠原右近大夫忠實の第五の弟乙松丸長俊。爵ゆりて出雲守と稱し。小姓となり。采邑五千石給ふ。小姓本多丹後守重世采邑千石給ふ。阿倍四カ兵衛重眞これまで足輕五十人あづかりしをあらためて。與力十騎。同心廿人をあづけらる。內藤長助正次死して。其子源左衛門正綱家をつぐ。(家譜。東武實錄。)
◎是年溝口伯耆守宣勝長子金十カ政勝。(時に十五歲。)二子又十カ宣秋。(十四歲。)三子內記宣俊。久貝因幡守正俊四子ョ母正編。高木主水正正成子善次カ正弘。二子善之丞正好。山田十太夫重利が子十大夫重恒。一色七カ範勝が子右馬助範親。妻木吉左衛門之コが子善九カ永コ。齋藤與三右衛門三存が子右近三友。(時に九歲。)鈴木九大夫重三子九大夫重長。中島五左衛門信久子三右衛門正平。猪飼五カ助重正子半左衛門正久。大井新右衛門政景子庄十カ政直。幷堀左馬助利長。森川久右衛門重次。三浦庄三カ直利は大番にいり。瀧川與三右衛門直政。森川小左衛門之俊。醫金保安齋元泰初見し。永井信濃守尙政子大膳尙征。(時に九歲。)加藤五カ八泰興。(時に十二歲。)兩御所に初見し奉る。井上主計頭正就は連署の衆に加へらる。小堀遠江守政一は近江の奉行を命ぜられ。成P伊豆守之成は百人組の頭となり。西山八兵衛昌勝は小十人頭になり。二丸門番をかねて所屬とし。同心二十人二丸御番をあづかる。郡代五味金次カ豐直は丹波國の奉行となり。大番仙波太カ兵衛正種は駿城定番の組頭になる。本多縫殿助康俊三子主馬助俊昌。五子將監景次。久世三左衛門廣宣三子三之丞廣之。共に小姓になり。金森出雲守可重が七男右衛門八重澄十六歲にて初見し。後大納言殿の小姓に仰付られ。其後また仰によりて。酒井讃岐守忠勝が苗字を冐し。叙爵して酒井山城守となりぬ。又土屋辰之助數直近習となる。大久保彥左衛門忠教二子勘七カ忠職。小笠原七左衛門信吉。西尾小左衛門重長幷に代官K川與兵衛正直。太田宗兵衛次勝小姓組にいり。大久保彥左衛門忠教長子兵助忠名。兼松又四カ正尾。星合采女正具泰書院番にいり。大番塚原次左衛門昌信。長井又左衛門吉次其組頭になり。坂部次兵衛正勝。C水平左衛門恒豐。三浦庄兵衛直利。長尾庄右衛門景信。朝比奈助大夫照勝が子勘六カ勝照。小林勝之助正直子平三カ正玄。佐野傳右衛門正長三子四カ右衛門政重。下山平右衛門重次子五カ助勝盛。服部久兵衛貞富子久右衛門貞常。富永三右衛門守次。松波五カ右衛門勝安が子三カ右衛門勝信。藤方平九カ安利大番にいり。勝信は廩米二百五十俵。安利采邑三百石を給ひ。山本四兵衛正吉子又右衛門正茂小十人組にいる。平岡次カ右衛門和由は甲斐一國代官の長司となり。大番神保三カ兵衛重利は大納言殿に附らる。玉虫對馬守繁茂ならびに子次カ右衛門俊茂。柳澤孫左衛門安吉。大番山中市カ右衛門元吉。忠長卿に附られ。元吉は納戶頭になる。大平角助俊宗は初見し奉り。さきに御勘氣を蒙りたる小川百助政吉。駒井孫四カ勝重は召かへされ。御家人に加へられ。政吉は小姓組。勝重は大番にいる。松平源太カ正村。新庄宮內直房は大納言殿につかへ奉る。また井上主計頭正就加恩ありて遠江國須賀の城主になされ。武藏下野近江等の國々幷遠江國のうちにて。新墾の田を合せて五萬二千五百石になさる。永井監物白元五百石加恩ありて。千五百石になり。五味金次カ豐直所管の治務よろしとて。四百石加へて千七十石餘になり。甲府宰相家司朝倉筑後守宣正は。六千石加へて一萬六千石になり。金森出雲守可重が六子左兵衛重義は。兄出雲守重ョ封地のうち。二千石分て召出され。寄合に列せしめ。後に西城書院番になり。廪米五百俵給ふ。小十人星合太カ兵衛具通廩米百俵たまふ。また細川勝千代丸興昌。從五位下に叙し玄蕃頭に改む。星合采女正具泰が女は女御の御方にまいり。梅局と稱せしが。ことし立后ありしによて。三位を給はり。肥後の局と稱す。又上野國惣社領主秋元越中守長朝致仕の請をゆるされ。其子但馬守泰朝に所領一萬石をつがしめ。庇䕃料五千石をあはせて一萬五千石を領せしめらる。この長朝累代關東の管領上杉家につかへ。井原。秋元。岡庭とて武藏の深谷三人の宿老なりしが。小田原の北條を豐臣太閤討れしころ。淺野彈正少弼長政にたよりて神祖に見參し。御家人に列し五百石たまはる。(藩翰譜には關東へうつらせ給ひし後。井伊直政をもてめされしとあれども。ェ永譜重修譜本文のごとくしるしたればそれにしたがふ。)慶長五年小山の御陣にましましける頃。上方逆徒蜂起により。打てのぼらせ給ふとき。長朝密旨を蒙り。上杉がもとに御使し。是をつたへ關原の戰終て後。また豐光寺承兌と共に。上杉がもとへ仰の旨をつたへしに。景勝やがて仰にしたがひ。天下悉く平らかに治りぬ。これは長朝が累代上杉の被官にて。しかも長朝智謀ゆゝしきものなれば。かゝる大事の御使を。ふたゝびまで奉りしとぞ聞えける。これよりさきしばしば祿加へられ四千石領せしが。此功により慶長六年六千石加へ給はり。上野國群馬郡のうちにて一万石を領し。大坂兩度の御陣にしたがひ奉り。このとし致仕してェ永五年八月廿九日所領惣社の地にて卒す。齡つもりて八十三歲なりとぞ。(長朝上杉へ兩度御使せし事を。重修譜には疑て删り去る。然れどもこの說家につたふる所。藩譜の說ほゞおなじければ。今これにしたがふものは當時の事實かゝるたぐひの事は尤多し。是のみにかぎらず。却て當時の情躰を見るべきもの故。これをとりて重修譜の說をばもちひざるなり。)下野國烏山城主成田左馬助氏宗頓死す。子なければ封地一万石收公せらる。この氏宗は左衛門尉長忠が二男にて。兄新十カ重長早世しければ家つぎ。大坂兩度の役にしたがひけふ死す。齡詳ならず。千人頭河野掃部助通玄致仕し。其子小右衛門通次家つぎて。父の原職を襲ふ。又藤堂和泉守高虎が邸に臨駕ありて。猿樂御覽ぜられ。賜物若干あり。松平隱岐守定勝伊勢の桑名城にて病に臥ければ。土井左兵衛正次御使してとはせ給ふ。井伊掃部頭直孝近江國彥根城にて病臥しければ。板倉內膳正重昌御使してとはせ給ふ。大關右衛門高掾B日光山諸堂社搆造の助役す。代官下島市兵衛政眞。賦稅九年皆濟により。御K印給ふ。又永井信濃守尙政に御染筆の懷紙を下さる。榊原小兵衛長勝從者が罪を犯せるをゆるがせにしたりとて。相馬大膳亮利胤に召預らる。(東武實錄。家譜。ェ永系圖。ェ政重修譜。斷家譜。貞享書上。藩翰譜。) 
卷五十九 / 元和九年正月に始り五月に終る御齡四十四 

 

元和九年癸亥正月元日大納言殿甲斐宰相忠長卿奥にて新年を賀せられ。三献の御祝あり。次に表に出まし尾張中納言義直卿。水戶宰相ョ房卿拜謁せられ。御盃時服つかはされ。次に松平伊豫守忠昌。松平宮內少輔忠雄。藤堂和泉守高虎御盃給はり。時服下され御盃を納め。次に譜第の輩拜謁して賀し奉る。昨夜より終日大雪やまず。(水戶記。續元和年錄。元ェ日記。)
○二日外樣諸大名拜謁して新春を賀し奉る。今夜謠曲始め例の如し。尾張中納言義直卿。水戶宰相ョ房卿まうのぼられ御宴例に同じ。小笠原右近大夫忠眞今年より。松平和泉守乘壽と左右に别れて着座す。(水戶記。家譜。)
○三日諸家證人年始を賀し奉る。この日岩P吉左衛門氏興が三子市兵衛氏忠小姓組に入番す。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
○四日西城にて大納言殿新年の賀を受給ふ。尾張中納言義直卿。水戶宰相ョ房卿。松平伊豫守忠昌。松平宮內少輔忠雄等御盃を賜はる。(水戶記。)
○五日茶宴始あり。(續元和年錄。)
○六日出家社人拜賀あり。(續元和年錄。節季蝕記。)
○七日若菜御祝例のごとし。今夜追儺。
○八日立春。
○九日高家大澤右京亮基宥。大內新年の賀使命ぜられ暇給ふ。(國師日記。)
○廿日具足御祝。連哥興行例のごとし。陰あふぐ松高殿や千々の春。(紹之。)國民の戶も長閑なる時(御旬。)久堅の光にもれず雪解て。(久我大納言敦通卿。續元和年錄。)
○廿五日書院番戶田三左衛門政重が子七內政次初見し奉る。けふ後閤に令を下さる。後閤法制の事は。竹尾四カ兵衞俊勝。筧助兵衛爲春。松田六カ左衛門定勝三人。晝夜一人づゝ伺候して可否をたゞすべし。もし指揮にそむくものあらば。憚りなく聞え上べし。もしゆるして聞えあげざる時は。三人の輩曲事たるべし。券なくしては上下の女。一切門を出入せしむべからず。酉牌過なばたとひ券ありとも通すべからず。局より奥へ男子出入あらしむべからず。搆造酒掃以下やむ事を得ざる時は。三人の輩これを召具してまかるべし。僧社人は表厨所までまかり。三人の輩に事を議せしむべし。醫は半井驢庵成信。今大路延壽院正紹。同道三親Cは奥厨所までまかるべし。その他の醫は臨時に召さるゝ時。三人の輩より達すべし。諸大名の使は先々より奥厨所へまかりしは。寄付までまかり三人の輩にことはるべし。官商工は後藤源左衛門幸阿彌二人のみ。奥厨までまかるべし。其他の商工别に召るゝ事あらば。三人の輩より達すべし。走り込の婦女一切に停禁せらる。すべて後閤御用の事は三老女をもてつたへしめらるべし。其時三人の輩これを遵奉してはからふべしと之。(ェ政重修譜。東武實錄。令條記。)
◎是月天方備前守通直書院番組頭になる。荒川右馬助定安書院番になる。山內伊豆守一唯も同じく書院番に入て。此とし采邑三千石給ふ。山岡半兵衛景次初見の禮をとる。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○二月八日花房志摩守正成死て。其子彌左衛門幸次四月に至り家つがしめられ。寄合に列す。(ェ政重修譜。)
○十日越前國北庄城主宰相忠直卿致仕して。豐後國萩原に蟄居せしめられ。厨料として千石宛行はる。この卿は故中納言秀康卿の長子。童名は長吉丸とぞ申ける。慶長十二年閏四月八日父の卿うせられしかば封を襲て。十六年三月廿日御前にめされ元服し。從四位上左近衛少將に叙任し。御名の一字給はり三河守忠直とあらたむ。(武家補任に慶長十年九月十日從四位下侍從とあるは。後より追て口宣位記にしるされしなるべし。)其九月廿八日。今の御所第四の姬君(勝姬君と申す。)御入輿有て北方に備り給ふ。十九年の冬大坂の兵起りしかば。北陸道より馳むかひ。あくる元和元年五月七日には。敵將眞田左衛門佐幸村を始て三千七百五十人の首切て。眞先に大坂の城に攻入らる。當時勳功の第一なりければ。閏六月十六日從三位して參議になさる。この卿剛强にして其功又高かりしかば。常に我父の卿は神祖の長子として。天下のゆづりをもうくべき身の。わづかに國一つ領し。我又其嫡子にて家をつげば。かゝる大功なしとも官位かくあるべきなりと。功大にして賞の小なりと憤り。近年强暴の擧動のみ長じ。酒と色とにふけり。參覲朝聘の禮をもつとめず。めしつかはるゝ男女やゝともすれば。切て捨る事いくらといふ數しらず。世は太平に治まりて。弓を袋にいれ釼を箱に納る中に。越前の國はしばしば兵革をおこして。家臣大祿領する者ども攻伐るゝ事。しばしばなりと聞えたり。上にも故黃門の事をも思召。且は御聟君にもましませば。いかにもして其心の改らん樣にと。思召わづらはせ給ひしかども。日にまし月にまさり。强暴の擧動のみ超過しければ。其生母C凉尼といふをうちうちめして。宰相近年あらあらしく國政おだやかならず。越前は北國の要樞なれば。是を鎭撫せん事覺束なし。いかにもして仕をかへしなば。所領は幼子仙千代丸につがしめ。其身は所領を西の國にて。のぞみのまゝさづくべし。北方にもしめし合せ。やすらかに致仕をこはせん樣。はからはんには。世の聞えもおだやかならん物ぞと仰ける。尼もかしこき事に承り。直に越前にまかり北方にもはかりまいらせ。事よく申なせしかば。忠直卿思ひの外に聞うけられ。何事も公の仰にもどるべからず。まして幼子に所領襲しめ給ふとの仰。いと有がたしと申さる。よて其旨聞えあげしかば。上にも御心おちゐたまひ。さらば最愛の女子侍妾等をも引具して。豐後の府內に赴くべしと仰下され。卿は三月に越前の北庄を打立。敦賀にしばし滯留し。この所にて入道し一伯と改め。五月二日配所におもむかれしかば。竹中采女正重次これをあづかりしが。後には同國津森といふ地にうつされ一万石を宛行はる。重次罪蒙りて後は。日根野織部正高明にあづけられ。慶安三年九月十日配所にて卒せらる。五十六歲。(家譜。藩翰譜。藩譜には忠直の配流を五月十三日とし。元和日記五月二日。續年錄二月とす。今は家傳の說に從ふ。)
○十三日尾張中納言義直卿新邸落成しければ臨駕あり。つとめて義直卿まうのぼりむかへ奉られ。御先に歸邸して侍奉らる。御待受として水戶宰相ョ房卿。藤堂和泉守高虎。酒井雅樂頭忠世も御先にまかり。露路口にてむかへ奉る。此所にて御輿より降立給ひ。ョ房卿高虎陪侍して數寄屋へならせらる。ョ房卿御草履奉らる。御中立の時は高虎奉る。御茶めし上られ。義直卿に給はり。つぎにョ房卿。次に高虎にて納め。次に鏁間にて薄茶菓子奉り。次に長の御袴めして書院に出たまひ。三獻の御祝ありて。初献の御盃義直卿給ふ。其時御刀御さしぞへ給はり御盃かへし奉り。又其御盃をョ房卿に給はり返盃せらる。御三献はてゝ七五三の御膳を供せられ。兩卿幷高虎御相伴し。蓬萊の洲M出て御盃を義直卿に給ふ。その御盃酬奉らるゝ時。卿より刀脇差をさゝげられ。ョ房卿高虎へも御盃給ひ。次に廣間にて義直卿よりの献物を披露し。其次間にて尾邸の家司等に銀時服給はり。次に猿樂御覽あり。樂は高砂。八島。江口。紅葉狩。百萬。橋弁慶。祝言。竹生島。狂言三番。煎じ物。自然石。鴟梟。はてゝ還御の時。兩卿高虎露路口迄拜送して後。義直卿。ョ房卿。高虎兩城にまうのぼり謝し奉る。けふ義直卿へ賜物は。大原實守の御太刀。義弘の御刀。奈良屋貞宗の御脇差。時服二百領。八丈紬三百反。銀三千枚。その生母相應尼へ金三十枚。大宿衣五。家司成P隼人正正成。竹腰山城守正信に銀三百枚。時服十づゝ。瀧川豐前守忠征。阿部河內守某。渡邊半藏重綱。成P半左衛門正虎に銀百枚。時服五づゝ。志水藏人忠政。大道寺玄蕃某。山下信濃某。遠山掃部某。市邊出羽某。兼松源兵衛某は銀五十枚。時服五づゝ下さる。卿よりの献物は久國の太刀。吉光の刀。宗近の脇差。金三百枚。時服二百領。繻珍百卷。金襴三十卷。白糸百斤。紅糸二百斤。綿千把。鞍馬一疋。(片山鹿毛。)この日上杉中納言景勝卿の長子喜平治定勝。從四位下侍從に叙任し彈正大弼に改む。(水戶記。東武實錄。紀年錄。)
○十五日醫員片山與安宗琢家つぎて。はじめて兩御所に見え奉る。けふ令せられしは。宅地に市人幷處士を住居せしむることは嚴に禁ぜらる。この廿二日より吏をめぐらして撿點せしめ。この令に違ふものあらば。其宅地收公せらるべしとなり。(ェ永系圖。東武實錄。)
○十八日大納言殿尾邸にならせ給ふ。よて甲斐宰相忠長卿。水戶宰相ョ房卿。藤堂和泉守高虎つとめてより御先にまかる。卯牌ならせられ。露次より數寄屋に入らせ給ひ。御膳を奉られ。御中立有てふたゝび數寄屋にわたらせられ。御みづから御花をあそばさる。(白玉椿。白辛夷。)御炭もあそばし。御茶はてゝ鏁間にて菓子薄茶を獻じ。長の御袴めして書院にならせられ。舞樂御覽ぜらる。加茂。朝長。玉葛。道成寺。猩々。三番過て七五三の御膳を奉られ。中納言義直卿。宰相忠長卿。同じくョ房卿御相伴たり。時にこと更の仰ごとにて和泉守高虎もめし加へられ。御三獻の後御宴酣にして猿樂御覽はて還御なれば。義直卿。忠長卿。ョ房卿幷高虎西城にのぼり拜謝す。けふの賜物義直卿へ國行の御太刀。長光の御刀。來國俊の御脇差。衾十。銀五十枚。生母相應尼へ綿二百把。銀五十枚なり。忠長卿よりも義直卿へ眞長の太刀。安吉の刀。來國光の脇差。小袖二十。金三十枚をくらせらる。義直卿より長光の太刀。貞宗の刀。綱吉の脇差。小袖二十。金五十枚。K毛の鞍馬一匹獻ぜられ。忠長卿へも景光の太刀。長光の刀。信國の脇差。銀三百枚。紅糸五十斤をくらる。又竹腰山城守正信等の家司は太刀。馬代。時服十獻じ。小袖十。銀三百枚づゝ下され。志水藏人忠政等は時服五。銀五十枚づゝ下さる。(東武實錄。家譜。)
○廿三日高家大澤右京亮基宥京よりかへり謁す。(國師日記)。
○廿五日金地院崇傳暇給はり上洛す。(國師日記。)
○廿八日尾張中納言義直卿就封の暇遣はさる。山名中務大輔豐國入道禪高參謁す。(國師日記。)
◎是月酒井雅樂頭忠世幷伊丹喜之助康勝。大納言殿御方につけらる。松平下野守忠クは侍從に任ぜらる。又大納言殿川越邊へ放鷹の御遊あり。土井左兵衛正次江戶へ御使にまかる。此時仰によりて。本氏三浦に復せしめらる。一昨年の春より大坂城修築せしめられしに。三年をへて外郭石垣多門幷本城二丸の天守臺は成功すといへ共。殿閣いまだ告竣に及ばず。今年は兩御所御上洛ありて。大坂へも渡らせらるべければ。先假殿を造營すべしと。小堀遠江守政一に命ぜらる。又松下石見守重綱。常陸伊勢の內一万六千石を改て。下野國烏山城二万八百石給ふ。(東武實錄。紀年錄。續元和年錄。重修譜には元和二年とす。國師日記今年の二月とし。東武實錄今年の三月十三日とす。國師日記は當時の書なれば。尤したがふべし。其上に元和八年までは成田左馬助氏宗烏山の城主にて。八年に成田が家除かれしゆへ。今年松下にその跡の烏山を給はりしなり。もし元和二年より松下烏山を給はる時は。成田はいづ方に置べきや。重修譜の誤尤いちじるしければとり用ひざるなり。)
○三月朔日水野備後守分長六十二歲にて卒す。分長は三河の國新城にて。一万二千石を領せしが。元和六年四月十五日水戶宰相ョ房卿に附屬せられしとき。别に安房上總兩國のうちに於て一万五千石給はり。舊領一万石餘の地は。長子大和守元綱に終はり。其外には分長が所領をゆづるべき子なければ。此遺領收公せらる。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○四日依田小隼人守直を忠長卿に付られ。信濃國小諸城番となり。其子伊之助貞Cも同じく付られて小姓となる。(ェ政重修譜。)
○十五日大納言殿右近衛大將右馬寮御監を兼任し給ふ。(御系圖。)
○廿五日向坂六カ五カ吉長死して。子六カ五カ吉次家つぎ。後に大番にいり采邑三百石給ふ。(東武實錄。)
○廿九日加藤助右衛門氏次死す。八十四歲。其子伊織則勝つぐ。(東武實錄。)
◎是月先に豐後國萩原に配流ありし越前宰相忠直入道一伯の長子仙千代丸に。祖父中納言秀康卿以來の舊領七十五万石給ひ。越前の國北庄の城主たらしめられ。仙千代丸暇給はり鷹馬下され。大納言殿よりも馬を給ふ。仙千代丸時に九歲なり。又大納言殿今年は御上洛ましますによて。その供奉を酒井雅樂頭忠世。松平丹波守康長。松平式部大輔忠次。幷阿部備中守正次。安藤右京進重長。大番頭高木主水正正次。松平出雲守勝隆。歩行頭松平縫殿助眞次。松平右馬助乘次。先手弓頭本多太カ左衛門信勝。蜂屋七兵衛宣ョ。鐵炮頭森川金右衛門氏信。渡邊彌之助勝等。各所屬を引つれ供奉し。勘定頭伊丹喜之助康勝も。御供すべしと仰付られ。かつ丹波守康長。式部大輔忠次。この後大納言殿につかふまつるべしと命ぜらる。岡部庄左衛門正綱大納言殿に初見す。(家傳。紀年錄。ェ政重修譜。)
○四月朔日拜賀例のごとし。(東武實錄。)
○二日美濃國揖斐城主西尾豐後守嘉教卒す。嗣子なければ所領二万石收公せらる。この嘉教は故豐後守光教が子にて。慶長五年十一歲にて初見し。十八年從五位下に叙し出雲守と稱し。十九年父と同じく大坂の軍にまかり。元和元年家をつぎ。父が遺言によて。織田右府より給はりし唐繪茄子の掛幅を献じ。今の御所の仰により豐後守に改め。けふ卒せり。歲三十四。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○十三日大納言殿日光山御參首途あり。(東武實錄。)
○十六日大納言殿日光山につかせ給ふ。(東武實錄。)
○十七日大納言殿日光山御宮に詣給ふ。(東武實錄。)
○十九日大納言殿日光山を御發輿あり。(東武實錄。)
○廿二日大納言殿西城に還御あり。(東武實錄。)
○廿五日松平陸奥守政宗は御上洛の御供せんが爲此日江戶に參る。(貞享書上。)
○廿六日西城にて令せられしは。腰懸所に於て高聲に雜談す可らず。同所にて頭を包む事停禁たるべし。その他平臥するか。鏡を見るか。足を投出してゐるか。謠舞小哥などうたふ類みな停禁す。道路にて往還のさまたげをなし。又は大手の橋欄に慿て佇立すべからず。高股立とるべからず。かゝる類の從者あらば。その主より過料銀五枚出さしむべし。烟草くゆらすものあらば。見及ぶまゝ斬に處すべし。奴僕履持のもの𥿻布を着せば。その衣は剝取て後。その主過料銀二枚出さしむべし。目付よりつたふる所の令條にたがひ。雜言を咄出すか。又は佩刀に手をかくるものあらば。其身斬に處せしめ。その主より銀五枚出さしむべし。すべて違犯せし事の輕重にしたがひて。其罪科命ぜらるべしといへども。違犯數度に及ばゞ。その主も曲事たるべし。たゞし本城につかふまつるものゝ類は。此かぎりにあらずとなり。又令せらるゝは。大額大なで付大剃さげ。又は下鬚幷太刀。大脇差。朱鞘。大鐔。大角鐔停禁せらる。もし違犯のものは繫獄せしめ。その主よりは過料銀二枚出さしむべしとなり。又大番頭本多備前守紀貞卒す。子なくして家絕たり。この紀貞は豐後守康重が三子にて。慶長十六年叙爵し對馬守と稱し後備前守に改め。元和四年三月五日上野國白井にて一万石給はり。六年大番頭となり。けふ四十四歲にて卒せしなり。(東武實錄。ェ政重修譜。)
○廿九日小里助右衛門光重死す。子なくして家絕ぬ。(ェ政重修譜。)
○五月二日越前宰相忠直入道一伯配所豐後國萩原に到着せらる。御上洛有て後。京より監使として。阿倍四カ五カ正之。高木九兵衛正次をつかはさる。駿府城代松平石見守康安卒す。歲六十九。其子大番頭壹岐守正朝家つぎて。父の原職をつぎ駿府の城代になる。(家傳。續元和年錄。)
○六日出羽國米澤城主上杉中納言景勝卿卒せしかば。長子彈正大弼定勝に原封三十万石を襲しめらる。この景勝。實は長尾越前守政景が二男。故彈正大弼輝虎入道謙信が養子となり。天正四年正月十一日彈正少弼に改め。六年謙信卒して後。これも謙信が養子とせし三カ景虎と國を爭ひ。終に戰勝て謙信が遺領をつぎ。十一年豐臣家と好をむすび。十四年上洛して關白に謁し。六月廿一日從四位下に叙し左少將に任じ。十六年四月十日參議をかけ。關白より豐臣氏羽柴の家號をさづけられ。近江の國に於て一万石給はり。在京の用にあてられ。十八年小田原九戶の軍にも出軍し。朝鮮にもおしわたりて諸軍を指揮し。文祿三年八月十八日從三位中納言にのぼり。C華の列に准ぜられ。四年三月豐臣家大老の職にくはへられ。慶長三年正月十日越後國を轉じ。陸奥の國會津若松の城を給はり。同國仙道信夫。出羽の國米澤庄內の地を合せて。百二十万石になさる。五年石田三成が謀叛おこすに及んで。景勝もとより同謀の第一なりしかば。居城に立こもり謀反の色をあらはすにより。神祖伊奈圖書昭綱を御使に下され。速に上洛すべしと仰下さるゝといへども。景勝仰に從はず。よて景勝征し給はんとて。東西の諸將あまたひき給て大斾を進められ。下野國小山まで討て下らせ給ひしに。上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。景勝をば三河守秀康卿をはじめ。近國のやからをして押へしめ。又上方へ御發行あり。其御跡にて景勝は㝡上伊達等の輩としばしば戰をいどみしかど。關原にて石田等の逆徒みな敗績し。悉く誅に伏しければ。六年秀康卿につきて。景勝その罪を謝す。八月十六日ゆるされて。會津の所領はみな收公せられ。出羽の國米澤城三十万石たまふ。景勝この後は御上洛に供奉し。禁闕城壘等修築の助役し。しばしば江戶に參覲す。十九年十月大坂の役にも出陣し。今福鴫野の戰に力を盡し。家人等勇をふるひ功勞多かりしかば。御感狀御釼金服給はるもの少からず。翌年の戰には玉水に陣し。戰終て後元和元年十一月廿日。武藏國府中八王子の邊にて。放鷹の地とて三千石給はりこの三月廿日居城米澤にて終をとる。歲は六十九なり。(ェ政重修譜。藩翰譜。)
○十一日こたび兩御所御上洛によて。御墨印もて令せられしは。今度供奉の時脇道すべからず。市街は家屋の際左右を除きて供奉すべし。喧嘩口論火災はいふまでもなし。其他如何なる事おこるとも。番頭隊頭の指揮なきに。その身はさらなり。從者奴僕までも一切出逢べからず。供奉中人返の事停禁せしむ。もし止事を得ざるは。還御の後沙汰せしむべし。路次に於ては御着座の時。馬より下り馬は其地にとゞめ。從者ばかり通し。其次に馬を通し。其次に諸器械を通すべし。御着座のとき當直の者の外は。御供すべからず。目付の輩幷番頭諸奉行はいふまでもなし。たとひいかなる者たりとも。申つたふる所の法令違犯すべからず。馬上の傍に召具の從者は。馬口取二人。沓持一人。履持一人。鑓持一人。その他若黨を召具すべし。されど騎馬の中に乘替の馬を引入べからず。もし御用ありて召るゝ者はこの限にあらず。御供の時狼籍ふるまふものは斬に處し。其主は過料を出さしむべし。御供中馬の口をとらするか。又は高聲すべからず。諸器械混雜せしむべからず。駄馬は右の方を通し。山坂にては山の方に付て通すべし。みだりに竹木を伐とるべからず。田畠に馬を放つべからず。この諸件違犯の徒は科の輕重によて。あるは斬に處し。あるは流刑或は過料を出さしむべし。もし目付幷番頭奉行の輩見聞しながらゆるがせにせば過料出さしむべし。猶下知狀にのせらるゝ所なり。又老臣より令する下知狀には。御供番不參の徒は士籍を削去べし。路次中御旅館にて番改の事。江戶の如くたるべし。宿賃出さゞるものは曲事たるべし。他人の宿札剝取者は過料銀三枚。その身の宿札剝取ものは。過料銀一枚たるべし。晴天の時駄馬中に雨具持しむる者は。過料銀一枚なり。されど笠を持しむるはこの限りにあらず。御旅館幷驛中茶亭に於て。指揮をまたずみだりに飮食する者は。過料銀一枚。又騎馬中に刀筒傘。その他見ぐるしき物混入する者は。過料銀一枚。御着座の時御供の輩馬より下らず。直に驛中へ乘込ものは。過料銀一枚出さしむべし。何によらず借子といふものなさば曲事たるべし。組頭あらざる者は同僚の中にて日行事を定め。御旅館に當直すべし。馬に聲かくべからず。御旅館の地にて馬の口洗ふものは。過料銀一枚。又脇道するか。あるは市街家屋の際を通行せば。過料銀一枚出さしむべし。喧嘩口論火災の時指揮をまたずして出あふ者は。曲事たるべし。御着座の時當直の外制をおかして供奉する者。路次にて御着座の時下馬して。後の次第相違するか。馬上の際へ召具の歩行者以下。騎馬中へ乘替馬引入るゝか。定制の次第相違するの類。ともに過料銀一枚出さしむべし。狼籍ふるまふものは斬に處し。その主は過料銀一枚出さしむべし。馬の口をとらしむるか。あるは高聲するか。諸器械混入せしむる者。これも過料銀一枚たるべし。竹木伐取ものは曲事たるべしとなり。又御旅館の地にては旅舍あしくとも。茶番の輩は同所にて旅舍をさつくべし。小姓組書院番大番當直の輩。たとひ其旅舍あしくとも。同所にてさづくべし。同隊たりとも人持次第によりて。族舍の高下あるべしとなり。又市街三町前より。馬の沓打べからず。もし違犯せば過料銀一枚。沓打て後二行の間乘行時。おこたらず地道にて故の所に乘入べし。狹隘の所にてに馬を立べからず。もし違犯せば過料銀一枚。駄馬は巳牌以前出立しむべし。もしおくるゝ時は御發輿の後。一里半へだてゝ出しむべし。もし違犯せば過料銀一枚。騎馬の間中斷すべからず。もし違犯せば過料銀一枚。町入の時扇もてあそぶか。あるは笠脫ざるもの過料銀一枚。馬上の小十人組御調度もちし徒。御履持のもの町入の時。家の左右顧見るべからず。歩行の者町入の時小鞋の賜シすか。町入の時水をのみ。又は何にても食物買ものは過料銀一枚。ふみ馬かん馬乘出すとき。作法あしきものは。嚴に命ぜらるべし。もし馬一匹にて其馬のり得ざるものは。歩行して供奉するか。又は御跡よりまかるべし。馬に沓打事は一隊の內一人づゝうつべし。一隊かぎりに番頭に從て乘べし。御供中何にても買物すべからず。路次に於て大便すべからず。水口よりのしつけ停禁たるべし。大津より笠持事を禁ぜらる。中間履持等佩物を禁ぜらる。小姓組書院番寄合の輩は。御入洛の日頂髮そり足袋を脫し。刀脇差の引膚脫し去べし。惣番ともに隔番につかふまつるべし。伏見御入城の時より。各上下を着すべしとなり。又御在京中の條約を令せられしは。今度御在京中。みだりなる行狀一切なすべからず。喧嘩口論あるに於ては。誰なりとも其座にありあふもの雙方を申宥め。速に靜謐せしむべし。もしその詞を用ひざるに於ては。目付の輩にうたふべし。その塲にありながら不慮の變おこる時は。一座の徒查撿の上にて嚴に命ぜらるべじ。番改授受の事は。江戶定制の如くたるべし。喧嘩爭論はたとひその理ありとも。發言せし者曲事たるべし。失火其他いかなる事あり共。指揮をまたず番所を出べからず。當直の事晝夜怠慢すべからず。もし不參の者は速に士籍を削去べし。番頭組頭も當直の日。一向直所を空曠すべからず。されど交代の番あらざる時は。このかぎりにあらず。供奉の外一切他行すべからず。もし止事を得ざる事あらば。老臣幷目付の輩にうたへて後まかるべし。うたへずして他行する者曲事たるべし。御在京中神社佛宇へ參詣。其他諸遊觀にまかるべからず。私舍へ參會すべからず。市中浴室へまかるべからず。御入洛の時行儀をみだり。法令違犯の徒曲事たるべし。陪臣に參會すべからず。何方なりとも饗宴にまかるべかず。烟草を喫すべからず。在洛中婦女を馴むつむべからずとなり。又令せらるゝは。喧嘩爭論は嚴に停禁せらる。違犯の徒は雙方成敗あるべし。もし荷擔するものあらば。本人よりも尤曲事たるべし。火災その他何事の起るとも宿より外へ下部等を出さしむべからず。もし出る者あらば本人は成敗せしめ。その主は過料銀二枚出さしむべし。門立一切停禁せらる。もし違犯するものは。其主へ引渡し。その主は過料銀一枚出さしむべし。城中はいふまでもなし。私舍にても烟草用ゆる事停禁せらる。もし違犯する者は成敗せらるべし。賭戱嚴禁せらる。違犯の者は曲事たるべし。市中浴室に赴く事を禁ぜらる。違犯の者は主人へ引渡し。其主は過料銀一枚出さしむべし。その主の券なくしては。一切夜行を禁ぜらる。遠犯の者は成敗せしめ。其主より過料銀一枚出さしむべし。押買狼藉すべからず。もしみだりなるものあらば。見及ぶまゝに成敗せしむべし。下人等一切市街へ出さしむべからず。止事を得ざる時は其主の券をもちて出すべし。券持て出るとも。數度ひが事おこすに於ては。其主も曲事たるべし。すべて城中の法制。江戶にて令せられし如くなるべしとなり。又供奉の輩に宛行はるゝ月俸の制は。百石に七口。百五十石。二百石ともに十口。二百五十石は十一口。三百石は十二口。三百五十石は十三口。四百石は十四口。四百五十石は十五口。五百石は十六口。五百五十石は十七口。六百石は十八口。六百五十石は十九口。七百石は貳十口。七百五十石は貳十一口。八百石八百五十石はともに貳十貳口。九百石九百五十石はともに廿三口。千石より千四百石までは廿四口。千五百石は廿五口。二千石は三十口。二千五百石は三十七口。三千石は四十五口。三千五百石は五十二口。四千石は六十口。四千五百石は六十七口。五千石は七十五口。一万石は百五十口。二万石は三百口。三万石は四百五十口なり。驛舍宿賃の制は。一人に四錢。馬一疋に八錢たるべし。もしみづから薪をもたらして用ゆる時は。一人に二錢。一疋に四錢と定めらる。其舍に廐もなく薪みづからもち來らば。馬も二錢たるべし。たとひ廐はあらずとも。逆旅の薪をもちゆく時は四錢たるべしとなり。京にては廐なく外に繫置てみづからの薪を用ゆるとも。四錢たるべしとなり。又供奉の輩盟書を捧げしめらる。其文にいふ。仰下さるゝ法令。いさゝかも違犯すべからず。今度御在洛中行儀をみだるべからず。一切遊觀をなすべからず。私宅に會集談話すべからず。城外へ一切出べからず。番頭組頭幷目付の輩はさらなり。たとひいかならん者たりとも。御旨を演達する時違背すべからず。路次の行儀法令を守り。怠慢なく仕ふまつるべし。僞病する事あるべからずとなり。(令條記。東武實錄。制法留。)
○十二日江戶城を御首途。神奈川に御やどりあり。松平主殿頭忠房御駕に先立て上洛す。(續元和年錄。ェ政重修譜。)
○十三日藤澤。
○十四日小田原。
○十五日駿府御滯留あり。大納言殿より三浦左衛門正次御使として。御けしき伺はる。(續元和年錄。)
○十六日松平陸奥守政宗幷美作守忠宗の父子ともに。御上洛の供奉せんため江戶を發程す。(貞享書上。)
○十八日大納言殿御不例なり。(國師日記。)
○廿五日石川長左衛門忠吉死して。その子太カ左衛門忠重家をつぐ。大番山角市左衛門勝重五十俵加恩ありて。二百俵になさる。(ェ永系圖。ェ政重修譜。)
○廿七日駿府を御發輿あり。田中にとまらせ給ふ。大納言殿兼ては。けふ御上洛御首途あるべく定められしが。御不例にて其事なし。醫官武田道安信重京にて法眼に叙す。(國師日記。ェ永系圖。)
○廿八日掛川にやどらせ給ふ。城主松平越中守定綱に。御刀時服銀賜ふ事例のごとし。松平薩摩守家久供奉のため上洛す。(ェ政重修譜。舜舊記。)
○廿九日中泉にやどらせ給ふ。
○晦日M松に御とまりあり
◎是月御上洛に先立て。松平式部大輔忠次は今度大納言殿御上洛の路次。祖父式部大輔康政が例により。先驅たるべき旨面命あり。又京極丹後守高廣は御上洛の前に。長谷部國信の御刀御馬をたまふ。大納言殿には今度伏見城をもて。御座とせらるゝにより。城中殿閣搆造の事を。五味金右衛門豐直に奉行せしめらる。又皆川山城守廣照入道老圃齋御勘氣をゆるされて大納言殿につけらる。その子志摩守隆庸も同じ。又石見の國M田城主古田大膳大夫重治致仕の請をゆるされ。所領五万五千石は姪希代丸重恒に襲しめらる。この重冶は故吉左衛門重則が二男なり。慶長十一年六月兄兵部少輔重勝卒し。その子希代丸わづかに六歲なりしによて。重治して遺領をつがしめ。兵部少輔に改むべきむね仰を蒙るといへども。希代丸成長の後に。兵部少輔の名をば給はるべきよし辭し申せしかば。神祖聞召。今の世にはたぐひ少きまめ人なりと感じ仰下されしが。やがて叙爵して大膳大夫と稱し。大坂前後の御陣に供奉し。元和元年の戰には。首六十一級を切て献ず。五年伊勢の國松坂より。今の城にうつされ。けふ致仕してェ永二年十一月廿五日四十八歲にて卒せり。(ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。) 
卷六十 / 元和九年六月に始り七月に終る 

 

○六月朔日三河國吉田の城を御旅館となさる。城主松平主殿頭忠利は御駕に先立て上洛したりしかば。其子五カ八忠房まみえ奉りて御馬をたまふ。(時に五歲。貞享書上六月十一日とするは誤なり。今御入洛の日より推考して。今日に收む。)江城にては大納言殿御平愈あり。鐵炮玉藥奉行夏目長右衛門信次二子次カ左衛門信忠。大納言殿に初見し小姓組となり。廩米二百俵給ふ。中根傳七カ正成小十人頭になる。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○二日岡崎にとまらせ給ふ。
○三日名古屋。
○四日岐阜。
○五日龜山城に宿らせらる。城主三宅越後守康信饗し奉る。(貞享書上五月中旬とす誤なり。推考してこゝにおさむ。)金地院崇傳使出しひしほ一壷献ず。(ェ政重修譜。國師日記。)
○六日柏原御殿に於て新庄吉兵衛直氏酒肴を献ず。(家譜。)
○七日膳所城に御泊あり。城主菅沼織部正定芳饗し奉り。金時服を給ふ。(ェ政重修譜。)
○八日御入洛あり。公武みな拜迎す。この日小野左馬助高盛も供奉す。(舜舊記。ェ永系圖。)
○十二日鵜殿新三カ長直小十人頭になり。采邑二百石加へたまはり。七百石になる。(ェ政重修譜。)
○十四日金地院崇傳に。大納言殿江戶御首途の良辰をとはしめられる。この廿八日幷明の月朔日を勘進す。けふ水野勘八カ重家死して。その子庄左衛門元重つぐ。(國師日記。ェ政重修譜。)
○十五日二條城に公武まうのぼり拜謁す。先第一に九條關白幸家公。近衛左大臣信尋公。一條右大臣昭良公。八條式部卿智仁親王。伏見兵部卿貞C親王。鷹司太閤信房公。二條內大臣康道公。鷹司大納言教平卿。これより先に勅使三條西大納言實條卿。女院使者岩倉杢頭具堯。次に仁和寺門跡覺深法親王。照高院門跡興意法親王。曼殊院門跡良恕法親王。大乘院門跡信尊。一乘院門跡尊覺法親王。妙法院門跡堯然法親王。知恩院門跡良純法親王。三寳院門跡義演。梶井門跡最胤法親王。隨心院門跡搓F。蓮院門跡尊純法親王。勸修寺門跡ェ海。次に西園寺前右大臣實益公御對面あり。御上洛を賀せらる。次に在洛の諸大名太刀目錄獻じ賀し奉る。此日江戶にては松平長四カ信綱を小姓組番頭とせられ。三百石加へて八百石になさる。(日野記。ェ政重修譜。小姓組の一番を花畠番とよぶ。家譜。)
○十六日二條城にて嘉定の式行はる。御馬廻り諸士以上。ことごとく菓子を賜ふ。(舜舊記。)
○十七日二條城に天台淨土兩宗の僧徒出て拜し奉る。(國師日記。)
○十八日五山大コ妙心寺。其他臨濟の僧等出て拜し奉る。(國師日記。)
○十九日二條城に寺社人參謁す。藤井某太刀折紙。萩原大夫兼從も同じ。神龍院梵舜杉原廿帖獻ず。(舜舊記。)
○廿四日細川越中守忠興入道三齋江戶より上洛す。江戶にては服部三カ右衛門保定大納言殿に謁し奉る。(舜舊記。ェ永系圖。)
○廿五日御參內あり。塗輿を用ひらる。御先へ白丁。次に諸大夫幷布衣の侍。烏帽子着の輩若干供奉す。眤近の公卿唐門の南面上北面蹲踞して迎へ奉る。武家の輩は唐門の上に西面して蹲踞す。外樣の輩非藏人までは。唐門の內東に蹲踞す。御輿唐門の內にて下らせ給ふ。勸修寺右少辨經廣御簾をかゝげ。大澤少將基宥御太刀をもち。井伊掃部頭直孝御刀をもち御沓は弁經廣是をとり。田中主殿頭吉官御裾の役す。例の如く長橋の局へわたらせ給ひ。しばし御やすらひ有て。奥にならせられ。傳奏の輩進らせられ拜披露し。中段南方につかせ給ひ。御盃御肴かずがずまいる。主上もやがてこゝにおはしまし。御對面あり。長橋局權大納言局。其外女房四人侍ふ。天盃給はらせ給ひ。その御盃を長橋の局へつかはされ。次に别の御盃をもて主上きこしめして。御所にさゝせられ。天酌ありてその御盃を大納言の局へつかはさる。次に御所御酌とらせ給ひ主上きこしめし。其盃を御所にまいらせられ。御所より長橋の局につかはされて納む。次に尾張大納言義直卿拜奉らる。次に長橋の局へかへらせ給へば。女御の御方より御使ありて。三枚戶より御學問所をへて廊をわたらせ給ひ。女御の御方へならせらるれば。女御廊の五間ばかりこなたにむかへたまひ。御互に蹲踞したまひ。女御御先へ導かせ給ひ。女御の御方にても又御盃參る。此間にC凉殿にて諸大名主上を拜し。御盃給はりはてゝ。主上も女御の御方へわたらせ給ひ。又御三献ありて御所别殿へ退き給ひ。土井大炊頭利勝。井上主計頭正就。板倉周防守重宗參る。次に御裝束あらためたまひ。重て女御の御方へならせられ。七五三の御膳進らせらる。主上わたらせられ。中納言義直卿もいでゝ拜し奉られて後。二條城にまかで給ふ。今夜主上は直に女御の御方にとまらせ給ひ。終夜後宴ありて。二條城よりしばしば御使まいらせらる。(日野記。舜舊記。國師日記。日野記には十五日を御參內とす。いまは國師日記舜舊記による。)
○廿六日內藤修理亮C政卒す。子なければ遺領三万石の內二万石を。ェ永三年にいたり弟百介正勝に給ひしなり。このC政は故修理亮C成が二子にて。元和三年兄若狹守C次卒して。男子なかりしかば。其遺領を給ふ。時に十五歲なり。後に叙爵して修理亮と稱し。八年相摸國の領地を安房國にうつされ。加恩ありて三万石になされ。けふ廿一歲にて卒す。(ェ政重修譜。東武實錄。)
○廿八日大納言殿御上洛の御首途あり。先駈一番は松平式部大輔忠次。水谷伊勢守勝隆。松下石見守重綱。二番は松平丹波守康長。保科肥後守正光。此兩人は信濃より東山道をへて。大津に至て迎奉る。三番は酒井雅樂頭忠世。其身は御側に侍へば。家人のみこの所にあり。(內藤帶刀忠興。前田大和守利孝。細川玄蕃頭興昌。西ク若狹守正員。幷那須の輩。四番は山伯耆守忠俊。(其身は御側に侍へば。人數のみ此所にあり。)同因幡守宗俊。新庄駿河守直好。松前志摩守公廣。五番は阿部備中守正次。(其身は御側に侍へば。人數のみこゝに備ふ。)後騎は酒井讃岐守忠勝。(其身は御側に侍へば。人數のみこゝに備ふ。)次に安藤右京進重長。次に水戶宰相ョ房卿押後せらる。高木主水正正次。松平出雲守勝隆は兼て仰により。大番頭にて隊下を引具してしたがひ。書院番星合采女正具泰。市岡多左衛門定次。小姓組小栗又兵衛信友。駒井次カ左衛門昌保。根本小左次盛正は諸驛宿割をつとむ。百人組の頭成P伊豆守之成御先乘をつとめ。太田原備前守晴C。同出雲守暾C。松平半次カ重則。先手頭は本多太カ左衛門信勝。蜂屋七兵衛定ョ。森川金右衛門氏信。渡邊彌之助勝。歩行頭は松平縫殿助眞次。松平右馬助乘次。その餘松平美作守定房。池田帶刀長賢。矢部助之進定成。同七左衛門定勝。中川勘三カ忠幸。金森甲斐守重次。保田甚兵衛宗雪。小宮山長兵衛吉成。土屋民部少輔利直。同辰之助數直。土屋左門知貞。地杢右衛門安信。小M久太カ嘉隆。小M半左衛門利隆。小林勝之助正直。森川庄九カ氏之。朽木彌五カ稙綱。久世山三カ廣當。瀧川久助一乘。永井勘九カ吉勝。西山八兵衛昌勝。同弟忠左衛門ェ宗。大岡二カ兵衛直政。儒役林道春信勝。馬方葉山久彌勝綱。其子猪之助公綱。荼道頭中野了雲。右筆大橋長左衛門重保等供奉に列す。この夜神奈川にやどらせ給ふ。(國師日記。紀年錄。ェ永系圖。家譜。ェ政重修譜。)
○廿九日藤澤にやどらせ給ふ。この夜小十人太田七之助某失心して。同僚伊吹平兵衞某を討果し。其身も自殺せり。日頃親友にて更に怨をふくむ事もなかりしとぞ。(續元和年錄。)
○晦日小田原にとまりたまふ。
◎是月伊澤隼人正政信。松下與兵衛重綱。朝比奈彌太カ泰重は歩行頭に命ぜられ。今度上洛の供奉に加へられしとぞ。(ェ政重修譜。朝比奈が歩行頭となりし事。重修譜にはこの御代とあり。年月をしるさず。いま元ェ日記にしたがふ。)
○七月朔日三島にやどらせ給ふ。
○二日駿府にやどらせらる。
○三日久能山御宮に詣給ふ。榊原大內記照久が子三十カ照C初見し奉る。時に五歲なり。京にては松平土佐守忠義が二子虎之助忠直。此程上洛して初見し。太刀馬資金幷時服五献ず。松平右馬助乘次大納言殿につけられ。書院番頭となる。(東武實錄。家譜。ェ政重修譜。)
○四日田中にとまらせ給ふ。
○五日掛川。
○六日二條城より大坂へ御親迎あり。大納言殿にはこの日中泉にいたらせ給ふ。(國師日記。)
○七日M松。
○八日吉田にやどらせらる。城主松平主殿頭忠利饗し奉り。其子五カ八忠房五歲にて拜謁し御馬を給ふ。金地院崇傳御旅館へ使出し。ひしほ一壺献ず。(ェ政重修譜。國師日記。)
○九日岡崎。
○十日名古屋。
○十一日桑名に立よらせ給ふ。城主松平隱岐守定勝嫡孫千松定ョ拜謁して御刀を給ふ。龜山に御とまり有て城主三宅越後守康信饗し奉る。又大番飯室次カ兵衛昌喜死して。其子大番八カ兵衛昌勝つぐ。(ェ政重修譜。ェ永系圖。)
○十二日膳所にやどり給ふ。城主菅沼織部正定芳饗し奉り時服銀を給ふ。この日大番赤井權左衛門時次死して。子權左衛門時善家をつぐ。(ェ政重修譜。)
○十三日大坂城より二條城に還御なる。大納言殿には膳所城より伏見城につかせたまふ。その御行列は酒井雅樂頭忠世。鐵炮百挺。次に弓百張。虎皮は空穗。次に鐵炮百挺。次に左弓百張。右鐵炮百挺。次に投鞘長柄鑓百本。次に引馬五疋。次に乘輿。次に挾箱十二。荷弓立二。傘二本。笠二。蓋掛硯二荷。床几一。長刀二振。次に歩行士百人。次に御輿歩行士百人押中間。次に御持鑓五柄。次に小姓の輩十騎。次に番士五百騎。次に酒井備後守忠利。次に惣同勢挾箱。次に山伯耆守忠俊乘輿。次に金森甲斐守重次乘輿。次に長柄鑓十柄。鐵炮五挺。弓五張。小道具三本。引馬三疋。次に六尺廿人。次に騎士十三人。次に酒井讃岐守忠勝。次に安藤右京進重長。伏見城先年破壞殘りの殿閣に。今度いさゝか修飾して御座とす。五味金右衛門豐直奉行せり。二條城よりの命により。成P伊豆守之成根來同心を引卒して大手門を警衛す。先立て上洛せし諸大名。伏見城に到りて拜謁す。禁廷よりは西三條大納言實條卿勅使として參向せらる。御長袴召て御對面あり。その外眤近の公卿殿上人。各參り拜謁せらる。此日伊豫國大洲城主加藤左近大夫貞恭が子五カ八泰興を。二條城に召て遺領五万石襲しめ。弟大藏直泰に一万石分たしめらる。この貞泰は故遠江守光泰が子にて。始は父光泰と共に豐臣家につかへしが。父光泰卒する後。文祿四年甲斐國封地廿四万石を改めて。美濃國K野に於て四万石あたへらる。時に十六歲なり。慶長五年石田治部少輔三成逆謀を企るに及んで。貞泰も其催促に應じ。竹中丹後守重門。稻葉右京亮貞通。關長門守一政等と共に。犬山城に籠りしかども。貞泰三成には舊怨をふくみし程に。(貞泰が父光泰は朝鮮より歸陣せし時。三成謀りて毒殺せしがゆへなりとぞ。)關東に志を通じ。弟平內光直を人質に獻じ。その九月江戶より御出馬有て。小田原に御止宿の時。貞泰は重門と共に飛扎を獻じ。彌二心なきをあらはしければ。御感の御書を給はる。其後井伊兵部少輔直政が指揮にて。美濃國本田に發向し。大垣に對陣し。關原の軍終て後稻葉右京亮貞通と共に。長束大藏大輔政家が水口の城にむかふ。政家一戰にも及ばず城を捨て走りければ。貞泰等は御供して大坂にいたる。十五年七月十五日舊領をあらためて。伯耆國米子城を給はり。二万石加へて六万石領せしめられ。十九年大坂の役には松平周防守康重。岡部內膳正長盛と共に天滿口を守り。翌元和元年の軍には神崎口に陣し。五月七日に敵の首二級を切て獻ず。三年今の地にうつされて。此五月廿二日四十四歲にて卒せしなり。(國師日記。水戶記。舜舊記。紀年錄。吉良日記。ェ政重修譜。)
○十五日大納言殿御輿にて。二條城にわたらせらる。御路にては井伊掃部頭直孝板倉周防守重宗歩行して。御輿の左右に侍す。二條城にては御父子御長袴召れて御對面あり。伏見城に還御なる。けふも禁廷より勅使あり。(紀年錄。日野記。貞享書上。)
○十六日伏見城へ三條大納言實條卿勅使して參向あり。岩倉木工頭具堯は女御の御使に參る。主上より御太刀。女御より金一枚。曝布百疋まいらせらる。次に大納言實條卿。木工頭具堯みづからの拜謁し奉る。次に九條關白幸家公。一條右大臣昭良公。八條式部卿智仁親王。伏見兵部卿貞C親王。鷹司太閤信房公。二條內大臣康道公。鷹司大納言教平卿。九條大納言道房卿拜謁せられ。庇まで送らせ給ふ。つぎに仁和寺門跡覺深法親王。曼殊院門跡良恕法親王。大覺寺門跡尊性法親王。妙法院門跡堯然法親王。知恩院門跡良純法親王。一乘院門跡尊覺法親王。聖護院門跡興意法親王。照高院門跡道周法親王。梶井門跡最胤法親王。三寳院門跡義演。蓮院門跡尊純法親王。隨心院門跡搓F。大乘院門跡信尊。三寳院附弟覺定。勸修寺門跡ェ海拜謁し。これも庇までをくらせ給ふ。つぎに西園寺前右大臣實益公。花山院前右大臣定熙公。轉法輪大納言公廣卿。中御門大納言資胤卿。日野大納言資勝卿。烏丸大納言光廣卿。廣橋大納言總光卿。西園寺大納言公益卿。菊亭大納言經季卿。萬里小路大納言入道光房卿。正親町三條大納言實有卿。四辻中納言季繼卿。中御門中納言尙長卿。阿野中納言實顯卿。C閑寺中納言共房卿。日野中納言光慶卿。中院中納言通村卿。西洞院宰相時慶卿。廣橋中納言兼賢卿。柳原宰相茂光卿。花山院中納言定好卿。西園寺宰相實晴卿。白川二位雅朝王。水無P前宰相氏成卿。五辻右兵衛督之仲卿。西洞院右衛門督時直卿。轉法輪中納言實秀卿。正親町宰相季俊卿。烏丸左中辨光賢。土御門左衛門佐久脩。飛鳥井左中將雅宣。滋野井右中將季吉。堀川左中將康胤。水無P左中將兼俊。高倉左中將嗣良。冷泉左中將爲ョ。コ大寺左中將公信。中山左少將光親。竹內刑部少輔孝治。藤谷左中將爲賢。北畠左中將親顯。園左少將基音。東坊城少納言長維。久我左中將通前。庭田右少將重秀。平松侍從時庸。五條少納言爲適。大炊御門左少將經孝。三條西侍從公勝。竹屋右中辨光長。甘露寺左少辨時長。勸修寺右少辨經廣。中御門中務少輔泰重。樋口右少將信孝。小川坊城兵部少輔俊完。西坊城少納言遂長。鷲尾左少將隆量。川鰭右少將基季。櫛笥左少將隆朝。綾小路右少將高有。C閑寺左衛門權佐共綱。姉小路右少將公景。山科右少將言總。松木侍從宗保。四辻侍從公理。日野西右少辨總盛。六條右少將有純。四條侍從隆術。西洞院侍從時良。東園左少將基教。萬里小路右兵衛佐綱房。久世右少將通式。飛鳥井侍從雅章。舟橋式部少輔秀相。持明院左少將基定。廣橋侍從綏光。中御門左兵衛佐宣順。C水谷侍從實任。日野侍從弘資。中院宰相通純卿。正親町侍從實豐。高倉三位永慶卿。花園右少將公久。油小路侍從隆基。橋本左少將實村。裏辻侍從季福。阿野左少將公業。白川侍從雅陳。岩倉右少將具起。唐橋民部少輔在村。正親町三條侍從公高。堀川左中將康胤。西大路侍從隆ク。七條侍從隆脩。次に極掾B着次藏人。C藏人。新藏人。次に南都喜多院僧正。松林院僧正祐澄。醍醐松橋僧正。叡山尊勝院僧正。醍醐報恩院ェ濟。東山若王子澄存。御室眞光院。南部東北院。醍醐金剛王院。理性院觀助。御室菩提院信遍。聖護院。積善院。南都內山上乘院。嵯峨法成院。覺勝院。次に押小路大外記師生。壬生官務孝亮。木村越前守。岡本美作守。山形右衛門尉。速水長門守。速水安藝守。立入河內守。出納豐後守。同將監。井家攝津守。土山駿河守。同將監。勢田豐前守。世繼左衛門。川端佐渡守。松波勝九カ。武田兵庫。調子越前守。眞繼美濃守。調子玄蕃。三上將曹。調子主膳。幸コ井陰陽頭。調子將曹。村雲備前。行事官大藏。木村筑後。同新九カ。次に比丘C宮東御所。(惠仙。大聖寺。)女御の御生母近衛政所。曇花院。大聖寺。光照院。三時知恩寺。大慈院。寳鏡寺。禪智院。慈受院。次に惣持院。法將院。隨度院。繼孝院。本光院。畠中養林庵拜謁し奉る。次に諸大名まうのぼり。太刀目錄を献ず。また安部攝津守信盛。牧野豐前守信成。大坂の戍役にあたれば。けふ江戶を發程して。急ぎ上坂す。(吉良日記。紀年錄。續元和年錄。)
○十八日公卿殿上人伏見城へまうのぼる。(日野記。)
○十九日實相院門跡義尊。圓滿院門跡常尊。その他十六日禁中宿直にてまうのぼらざる月卿雲客。けふ伏見にいでゝ拜謁し奉る。この日鹽入金兵衛重信死して。子金兵衛重成つぐ。(吉良日記。ェ永系圖。)
○廿二日渡邊忠七カ忠綱廿歲にて。父忠右衛門重綱に先立て沒す。子なきがゆへに。庇䕃料三千石は收公せらる。(ェ永系圖。)
○廿三日大納言殿伏見城より御參內あり。先施藥院へならせられ。御衣冠をめさる。國持の輩の外に四位五位みな御供す。(元和日記。)
○廿四日大納言殿二條城にならせられ。御對面あり。この日越前國北庄へ。島田治兵衛重次。高木九兵衛正次御使して。仙千代丸の老臣等に仰を傳へしは。宰相忠直國政撿束なきがゆへに。豐後國府內の地へ蟄居せしむ。長子仙千代丸に所領越前の封をつがしめらるれば。今より後府內より何樣の事を申送るとも。一切承引べからず。その返答をもなすべからず。もしやみかだき事あらば。速に江戶にうたへ。御指揮をうけて返答すべし。一藩の法令嚴に下知して。違犯の者は速に罸すべし。此旨藩士等へかたく曉諭すべしとなり。かつ越の國は寒威はげしく。風雪はなはだしきに。幼雅の仙千代丸おひ立なん事も。御心苦しく思召る。其うへ御母うへにも遠境に久しく住居し給はんも。御こころ安からねば。御母子とも江戶へ出府せらるべき旨を。C凉尼もて仰下さる。(續元和年錄。家譜。)
○廿五日內藤甚十カ忠重從五位下に叙して。伊賀守にあらたむ。(藩翰譜。重修譜には七月廿七日とす。)
○廿六日伏見城に五山幷大コ妙心寺の僧徒まうのぼり。大納言殿へ拜謁す。萩原大夫兼從神龍院梵舜等も同じ。(國師日記。舜舊記。)
○廿七日今度御上洛は京都にして。征夷大將軍の重職を大納言殿へ御與奪あるべきとの御本意なり。よて御上表しばしばに及び。內にもことはりと聞召入られ。午刻陣の議行はる。上卿は三條大納言實條卿。奉行は正親町宰相季俊卿。辨は勸修寺右少辨經廣。陣議終り直に實條卿勅使として。御位記宣命の諸役伏見城へ參向あり。大納言殿征夷大將軍に補せられ。直に正二位內大臣に昇進し給ひ。淳和弉學兩院别當源氏長者等とゞこふりなく。牛南隨身兵仗等先規のごとく宣下おはしければ。公は此日より天下を御讓與ましまし。御みづからは大御所と稱し奉る。閏八月十四日には御參內ありて。廿一日都を出まし。九月七日江戶城へ還御なり。翌ェ永元年西城を修理なりて。その九月廿二日より引うつらせ給ふ。三年五月廿八日また御上洛ありて。六月廿二日二條城に入らせ給ひ。九月六日二條の城へ行幸を奏し行はせ給ひ。九月十三日太政大臣に昇らせ給ひぬ。かくて江戶にかへらせ給ひし後は。西城にうつりすませ給ひても。猶天下の萬機をうしろみ聞召て。巨細となく盛慮を加へ給ひ。其御いとまには御子だち宗室の方々をまどゐし。御宴遊のついでに常に烈祖艱難の事ども。ねもごろに御物がたりましまし。又は故老の名臣をあつめて舊事を談じ。遠國夷狄の事までとはせ給ひ。郡國の利害衆民の疾苦を尋給ひ。又は國初の功臣。歸順の宿將等。加賀。薩摩。仙臺。上杉。藤堂等をはじめ。井伊。本多。酒井等閥閱の重臣までも。連日これを召て。花を賞し宴を設け月を翫て茶を賜ひ。熙々然として天下の樂をもて樂とし給ひ。御隱退前後十年にして。ェ永九年正月廿四日亥刻西城の正寢にして薨じ給ふ。御壽五十四なり。御大漸にのぞませ給ひても。嗣君を近くめして。我命旦夕にあり。簀を易ふるに及んでも。深くなげき給ふべからず。たゞ烈祖の功コを思ひ。天下の事に心を用ひ。万民を憂ひとし給ふべき御旨を。諄々と御遺教ましまして。ほどなく屬\に及ばせ給ひけるとぞ。猶くはしき事は御附錄にのせぬ。かくて同じ廿七日亥刻靈柩を三緣山にうつし奉り。御葬有て靈廟をいとなまれ。良阿道山の二僧をもて奉祀せしめられしが。後に良阿がために寳松院をいとなみ。道山がために惠眼院をたて。此兩院をもて别當職にあてらる。二月廿九日勅使參向ありて。台コ院と勅諡せられ正一位を贈らせらる。主上は太上天皇の尊號を。御追贈あらまほしき叡慮おはしけれど。御平常御謙遜の御志ふかくましましけるゆへ。こなたよりはかたく御辭退ありければ。先正一位にのぼせ給ひけるとぞ聞えし。(續元和年錄。吉良日記。日野記。國師日記。大內日記。東武實錄。)抑烈祖麟趾の化さかんにおはしまし。聖子神孫數多ましましける中に。はやくよりこの御所をもて。嫡嗣に定め給ふ事は。始め豐臣家と御緣をむすばれける時。互にとりかはさせ給ひし御盟書に。たとひ此後男御子生れたまふとも。長丸どのゝ嫡位は替給ふべからざる旨をのせられ。其後御官途も御兄弟の中に。殊にすゝませ給ふをもて。始より深き神慮ましまして。定給ふ事とはしられしなり。しかるに關原凱旋の日。諸老臣を會し御子達の嫡庶を議せしめ給ひしは。またく人望の去就をこゝろみ給ひしなるべし。天意人望の歸する所。はたしてこの公御儲闈にそなはらせ給ひける。いかにも天資孝順溫和にましまし。何事も烈祖の御庭訓にもれ給はず。いさゝかも御心のままに。專らふるまはせ給ひし事はおはしまさず。烈祖神さりませし後は。いよいよ舊規を改め給はず。霄衣食肝し給ひ。己を虛にし諫をいれ。儉を崇み奢を禁じ。百姓を撫育し賦稅を减省し給ひける。すべて文武の道はいふまでもなく。茶事猿樂等の末技も兼通じ給ひし中にも。ことに鼓うつことを好ませ給ひけるが。天下の御ゆづりをうけつがせたまひて後は。更に鼓を御手にもふれたまはず。侍臣等其ゆへをうかゞひしに。上の好む所は下必ならふものなり。今我鼓をこのむことあらば。天下貴賤とも鼓を翫て。武備を廢せんかと恐るゝぞと仰ければ。聞もの落淚して退きたり。また花を好ませ給ひしかば。ある大名より廣島絞と名付し珍らしき山茶を。ねこじ奉りしに。これを花圃に植しめ。明暮その花咲を待わび給ひしが。やうやう咲出ければそのよし聞え上しに。折ふし御輕服にこもりおはしたるをもて。終に花圃へはわたらせ給はざりしといへり。これ等小事といへども。御平常御嚴格の一端をうかゞひしるべきなり。されば先輩みな公御篤恭のコそなはらせ給ひ。周成漢文にひとしき良主なりと稱讃し奉る所なり。しかりといへども今その御一代の御政蹟を遍くうかゞふに。當時强暴の剛將とよばれし福島正則を罸して。忽に藝備兩國四十九万八千石を收公せられ。永く藩鎭驕傲の釁をとぢられ。定策の功臣と呼れし本多正純を貶して。速に宇都宮十五万石を沒入せられ。早く宰臣專權の弊をのぞきたまふ。駿河の驕逸なる越後の貪縱なる。越前の矜慢なる。悉く放逐して。骨肉至親といへども。綱紀をゆるべ給ふ事なし。それはた一時の暴怒私智をもて。はからはせ給ふにはあらず。これらの事連日宿老臣を會議せられし上。御みづからの英斷をもて。上裁せられし如きに至ては。ひとり篤恭の良主といふのみにもあらず。剛明英果の御コ兼そなはらせたまふものといふべし。かくてぞ守文の政穆々昭々として。國家殷富天下太平の効を。千載に傳へ給ふ。いにしへ有功を祖とし。有コを宗とすとか聞えしもさる事にて。その懿範宏規。天下後世よくよく欽遵し奉るべき事ならずや。 
 
台徳院殿御実紀附録

 

卷一 
東照宮の公達あまたおはしましける中に。岡崎三カ君(信康君。)はじめ。越前黃門。(秀康卿。)薩摩中將(忠吉朝臣。)等は。いづれも父君の神武の御性を禀させられ。御武功雄畧おゝしく世にいちじるしかりし中に。獨り台コ院殿には。御幼齡より仁孝恭謙のコ備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬づ御旨に露違はせ給はで。いさゝかも縱恣の御擧動おはしまさゞりき。かゝれば世に仁柔にのみ過させたまひしかと思ふものもあれど。神祖の大統をうけ給ひ。繼體守文の任に當らせ給はんには。たゞ三カ君等のごとく武勇にのみほこりて。治世安民のコおはしまさではいかゞあるべき。すでに關原の役は。上方蜂起のよし下野の小山に告來りしとき。秀康卿はス喜のさま顏色あらはれ。忠吉朝臣はいさみはやらせ給ひしに。公には何となく憂悶の御樣に見えたまひしを。其比の人。御嫡位失はせ給はん事をおぼしめされしゆへなりと。しりう言する徒もありしとかや。またくさにはあらず。この時上杉景勝いまだ天誅に服せず。其上に上方の逆徒又蜂起し。當家は其兩間に在て。從事の諸將も多くは豐臣家恩顧の輩なれば。さしあたりいかになりゆくべきかと。深く御思念ありしさまの。御面色にもあらはれしなるべし。かの戰に臨でおそれ。謀をこのむでなさむとありし聖語も。かゝるたぐひにや。たゞ暴虎馮河して。血氣にはやるとは。おなじ樣にあげつらふべきにあらず。これぞ末終に繼體守文の主に備はらせ給ふべき。御瑞相のあらはれしなるべし。神祖豐臣關白と御和睦ありし後。天正十八年正月公いまだ長丸君と申て。十二にならせ給ふ御時。關白に見參せしめむため。駿河より京におもむかせたまふ。關白待むかへられ。スばるゝ事かぎりなし。尼孝藏主して後閤にいざなはれ。政所みづから公の御くしをゆひ改め。御衣御袴も皆新調せしをきせ進らせ。關白みづからの名の一字を進らせて。秀忠君と稱せられ。公の御手を引て表に出られ。御供に侍りし井伊兵部少輔直政等をめし。大納言にはよき子をもたれしな。年の程よりはいとおとなしやかにて。さぞ本意におもはるべし。但田舍風をかへて。都ぶりに改め。返し參らするなり。大納言にもさぞ待遠に思はるべし。いそぎ供奉して歸國せよとて。直政はじめ御供の輩にも。さまざま引出物給ひ。幾程なく御歸國ありしとぞ。(大成記。)
おなじ關白。小田原の北條を討むとて相摸國まで攻下り。湯本堂にて諸將をあつめ。酒宴ひらきて軍議ありしに。關白神祖に向はれ。秀忠をよびたまひて。この大軍を見せ給へとあれば。急に招かせ給ふ。この時大久保新十カ忠常十一歲なるが。一人供奉してまいる。關白みづから着領の甲胄とりいだして公にきせ參らせ。わが武運にあやからせ給へとて。御背を再三なでられしとぞ。(大成記。創業記。)
文祿四年關白父子の間に事起りし時。公には京の邸におはしけるが。秀次をのが方に迎て質とし。一旦の害をまぬかれんとおもひ。つとめて使進らせ。朝餉參らすべければ。御出あれといひ送りけるを。大久保治部大輔忠隣その謀を察しければ。土井甚三カ利勝はじめ五六人御供せしめて。ひそかに伏見の館にわたらせ給ふ。利勝がすゝめにより竹田路にはかゝらで。大路をへて恙なく伏見におはしければ。大閤スばるゝ事ななめならず。實に新田殿の子なりとて稱賛せられしとぞ。こはさきに神祖京を出て。關東に下らせ給ひし時。公をめして。我東に下りし後。かならず太閤父子の間に事起るべし。さあらむにはおことは搆へて。太閤のかたへ參らせ給へと仰られしを。兼々よく守らせ給ひしゆへ。何の御恙もわたらせたまはず。しかのみならず。太閤もことにョもしきかたに思ひとられ。實に新田殿の御子なりと稱美ありしとぞ。(大成記。)
關か原の役に公には諸軍を引ひ。木曾路を打てのぼらせ給ひ。眞田が上田の城責にひまとらせ給ひし上。折ふし霖雨降つゞき。道の程にて關原の戰事終りぬと聞しめし。御憤りにたへず。御馬を早められ。近江草津にて神祖に行逢せ給ひぬ。然るに神祖御心地あしとて。三日が程御對面なし。上下みな色を失ひ。いかなる事にかとおそれあへり。榊原式部大輔康政はかねて公の御供にさゝれしが。このよし聞て。其夜ひそかに神祖の御方に參り。こたび中納言殿御けしき蒙らせ給ふは。上田の城責落し給はぬと。海道の戰にあはせ給はぬ故にや。さらむにはかしこけれ共。殿の御誤なきにしもあらず。先殿には今月(九月。)朔日江戶を出立せ給ひ。十一日に尾州C洲の城に入せられ。十五日には關原にて御合戰事終りぬ。御父子一所に御軍あらんとおぼしなば。など早く御出軍の期をば告知せ給はぬぞ。又海道よりも御使立られ。山道の御勢をも催させ給ふほどは。C洲にしばし御滯座あつて。山道の勢を待せ給はんに。三成等何程の事をか仕出すべき。然るに思ひの外に御軍を急がれ。いまとなりてひとへに。中納言殿の御緩怠のごとくしなさせ給ふはいかにぞやと。はゞかる氣しきなくまうしければ。神祖さればこそ。八月晦日に使を馳て。明日首途すれば。山道の勢もいそぎ馳上れといひつるはと宣ふ。康政承り。さん候。その御使今月七日に小諸の御陣に參りつればこそ。中納言殿にも始めて聞召驚かせたまひ。御いそぎありしなり。されども名におふ木曾の難所なるに。大雨さへ降つゞき。一日が中に十五六里が程。御馬を進められしかば。人も馬も疲れはてぬと申。神祖聞しめし。などその使は遲かりつるとて。そのもの聞たゞされしに。霖雨にて人馬のかよひ絕果しゆへ。遲參しぬと申す。康政かさねて申けるは。上田の城の事は。中納言殿には是非攻破て御通あらんと仰られしを。この御かたより附進らせられし古老のものどもが。あながちにとゞめ奉れば。御心ならず押の兵を殘されて。御道をいそぎのぼらせられぬ。抑御父子の御間なれば。常の御事にはいかなる御嚴譴もおはしませ。今中納言殿御年も壯に。行すゑ天下をも讓らせ給ふべき御身の。弓矢取ての道にをいて。父君の御心によしともおぼしめさずなど。世の人のあなづり申さんは。御子の恥辱のみならず。父の御身にもいかでその嘲はまぬかれ給ふべき。これほどの御遠慮のおはしまさぬ事こそうたてけれとて。淚をながして申ければ。神祖も御心とけて。明る日伏見の御陣にて御父子御對面ありて。海道の軍の樣も。山道の事をも。かたみに御物語ありければ。上下みな安堵せしとぞ。其後に公御みづから御筆を染られ。康政がこたびのこゝろざし。我家のあらむかぎり。子々孫孫にいたるまで。忘れはつまじきよしの御書をなし下されしとぞ。(藩翰譜。)
關原の戰終てのち。神祖には草津より大坂城中へ御使をつかはされ。仰下されし旨あるにより。城中安堵せし所に。公には御馬を進められ。大坂に至らせたまひ。御使もて城中へ仰遣はされしは。こたび伏見にて討死せし鳥居元忠等が首ども。此地にとりよせ秀ョ實撿せしときゝぬ。さらばこの一亂全く秀ョが心中より出しといふ者なり。早く御人數を向らるべしとあれば。城中大にひしめきあひ。すは事こそ起れとのゝしる。秀ョが母堂淀殿。秀ョ幼弱なれば。こたびの一亂元より思ひたつべきにあらず。首實撿の事も毛利輝元はじめ。奉行人のせし所にて。秀ョがあづかりしる所にあらざれば。この所察せられ。まげて御ゆるし蒙らんとあれば。公よりこのよし神祖に聞え上させたまひしとぞ。神祖もとよりさる神慮にましましければ。彌事なくしづまり。秀ョ母子ともに安堵せられぬ。この事往復の間は。諸勢みな旗をしたてゝ一戰の支度せしが。かく仰出されし後。はじめて休息せしとぞ。(駿河土產。)
加賀井彌八カが三州池鯉鮒にて。水野和泉守忠重を討しを。堀尾帶刀吉晴が所爲なりといふこと。下野の小山に告來り。神祖聞しめし驚かれ。吉晴が子信濃守忠氏は公の御陣に在れば。いそぎ宇都宮へこのよし告知らせらる。公聞しめし。吉晴父子當家に叛き奉るべきものにあらず。たとへ承る事のごとくならんにも。信濃守に於ては二心抱くべきものならねば。めしいましむべきにあらずと。屹と仰進らせられぬ。然るにかさねて彼地より。彌八カが忠重を討しかば。吉晴即座に彌八カを討とり。其身も深手負し事つばらに注進ありしかば。神祖聞せられ。公のよく人の心しろしめしける事を。かへすべす感じ給ひ。衆人も皆御コをかしこみあへりしとぞ。(藩翰譜。)
慶長五年關原の軍散てのち。神祖いかなる思召にやありけん。大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉をめし。我今三人の男子をもてり。いづれか我家國を讓るべき。汝等が思ふ所をつゝまず聞え上よとの仰なり。正信は三河守殿こそ武勇といひ智畧といひ。あつばれすぐれ給ひ。殊更御長子なれば。天下の御ゆづりはうたがひなく。この殿にまさるはあらじといふ。直政。忠勝。親吉がいふ所もまちまちにして定らず。ひとり忠隣。軍陣の間には武勇をもて主とすれども。天下を平治し給はんには。文コにあらでは。大業を保ち給はん事かたし。三人の御子みな龍種におはしませば。御武勇の程いづれをまさりいづれを劣れりとさだめ奉るべきにあらず。ひとり中納言殿はもとより。謙遜にましまして御孝心もあつく。文コ智勇かね備へ給ひ。殊には久しく正嫡に備はり給ひ。御官途も又御兄弟にこえさせ給へり。天意人望の歸する所。いかでこの君をすてさせ給はんと申ければ。神祖何と仰らるゝ旨もなかりしが。一二日ありてさきの人々めしいで。相摸が申所我意にかなへば。家督は永くさだまりぬと仰ければ。何れも奉賀してまかでしとぞ。これは公久しく儲位におはしませば。神祖元より廢立の念おはしますにはあらざれども。天下新定の時に當り。人心の向背を試み給ひ。國本をしていよいよかたからしめんとおぼしめして。かゝる事仰出されしなるべし。(武コ大成記。烈祖成績。)
神祖あるとき本多佐渡守正信をめして。秀忠はあまり律義すぎたり。人はりちぎのみにてはならぬものなりと仰られけるを。正信承りこのよし聞えあげ。殿にも折々はうそをも仰らるゝがよしと申ければ。公わらはせられ。父君の御空言はいくらも買ふものがあり。我等は何事も仕出せし事なければ。うそつきてもかふものあるまじと仰られしとぞ。(駿河土產。)
いつのころにや。神祖の御けしき伺はせ給はんため駿城にならせられ。二月ばかり御滯留ありし頃。神祖うちうち阿茶の局をめされ。將軍には年若ければ。こゝらの旅ねさぞつれづれならん。こよひ花を使とし菓子持せ。裏口よりしのびやかにやるべし。つれづれまぎるゝかたもあらん。されどわが申たるなどいふべからず。汝心得てよきに計らへと仰けり。花といへるは。其比とし十八ばかり。すぐれて美麗のきこえあるを。局のはからひにて殊によそひたてゝ。はしたものに菓子もたせ進らせけり。こよひかゝる事ありと。局よりも御方に通じ置ければ。公には暮ぬ程より御上下めし。端座して待せ給ふ。夜に入て花御庭の木戶を扣きければ。公御みづから起たまひてその戶を明給ひ。花を導て上座にすへられ。持たる菓子をとらせられ。是は定めて大御所より下されしならんとて。いたゞかせられ。扨御用すみたれば。汝はもはや歸るべしと仰ありて。また先に立せられ戶口まで送らせ給ひければ。花は兼て局の教へしおもむきと違ひ。いかにも公の嚴恪におはしませば何といひ出ん詞もなく。恥らひつゝ還りきて。このよし神祖に申あげしかば。將軍には例の律義人なり。我階子をかけても及び難しと仰られしとぞ。(雨夜灯。)
大坂冬の役に天滿より備前島邊御巡視ありて。有馬玄蕃頭豐氏が陣の井樓にのぼりたまふ。城兵馬印を見知り。火失射かけ大筒打かけしかば。近臣等もつたひなし。とくとく下させ給へと諫め申けれども。さらに聞召いれ給はざる所へ。水野日向守勝成馳參り。この在樣を見。斥候は一口を見切り。巡視は惣躰をつもり候をもて要とする事なり。一所に久しくおはしますべきにあらず。鴫野の方へも御出ありて然るべしと申上る。尤なりと仰て鴫野のかたへわたらせ給ふ。その時上杉の陣には。たゞ今この所へならせ給ふと聞とひとしく。直江山城守兼續下知し。早々城へむかつて鐵炮を打かけしかば。城中是に先をとられ。御通行の時は鐵炮を放つ事もなし。上杉の陣法さすがなりと感じたまふ。この日大御所は今福のかたへめぐらせ給ふ。本多佐渡守正信參り。若殿も參らせ給ふべきにやと伺ひしに。大御所我身は幼弱より干戈の間に人となりしかば。敵に對し營中に安座してある事能はず。ともかくも大將軍たらん人の。心のまゝたるべしと仰ければ。正信大に恐怖し急使を立てかくと聞え上る。公はこの時旣に岡山に赴かせ給ひしが。かくと聞しめしいそぎ立かへらせ給ひ。やがて御跡より今福の方へ御巡視ありしとぞ。(挍合雜記。)
五月七日戰いまだ始らざる前に。諸營を巡視し給ふ。K絲の鎧に山鳥の陣羽織を召れ。角頭巾の兜を陪從に持せられ。櫻野といふ十寸三分ある御馬に孔雀の馬鎧かけて乘せ給ひ。御傍に十文字の鑓一本及長刀もたしめ。歩士二十人ばかりゆくりもなく附そひ奉り。この時K田筑前守長政。加藤左馬助嘉明。いざ見參に入むとて御前へはしりいで。御馬の左右にとりつき。昨日は敵兵城を出しが。味方討もらしておめおめと城中に引入らしめしを。口おしと思ひしに。今日又足長に打て出しは天の與ふる所なれ。一人もあまさず討て捨べきなりと申上しかば。公御けしきうるはしくて。追付追付と仰られ打通らせ給ふ。兩人しばしが程御供せしが。最早それにと仰せられて。兩人ひかへ居し處へ。本多正信澁帷子きて胄はがりかぶり。大團扇もて蠅拂ひつゝ。山駕籠に乘て來りしが。兩人にむかひ。おことだちは見奉られしや。いまの將軍家の御行裝は例とかはり。いと御手輕き事にはなきかといへば。嘉明さなり。御手輕なるは例の御家のくせよといらへはれば。長政こはいとよき御くせなれといひながら行わかれぬ。公常は何事もおもりかに。嚴正におはしませしが。かゝる忩劇の折には又かく眞率にあらせられしなり。(武邊咄聞書。落穗集。)
おなじ七日の役に。戰すでに半なりし比。櫻の門の邊に歒の設置し埋火はね起りしかば。御先手の者等驚きあはてゝ大に潰散す。折ふし御馬前人少なりしかば。御みづから手鑓とらせ給ひ。歒陣へかけむかはんとし給ひければ。たれいふともなく御旗御馬印六七間ほどゆるぎ出たり。この時安藤對馬守重信。及び中間頭畔柳助九カ武重はせ來り支へ奉る。武重は御馬の口付の足に。己が足を踏かけて。あをむけに倒れふして。大殿の御馬前にてもかゝるためし度度有き。御手討になる共御馬は放すまじといふ。公この時御刀二三寸拔あけ給ひ。はなさぬかぬかと仰らるれども。武重ちつとも動かず。その內に本多正純。加藤嘉明。K田長政等軍勢引つれはせ來り。御馬廻を警衛し奉る。公は少しもさはがせ給はず。三枝土佐守昌吉に命ぜられ。潰崩るゝ先手の中をゝし分て。御旗を敵ちかくすゝめ。御みづから馬上にて白采振て。かゝれゝれと下知し給ふ。この御勢に勵まされて。諸手みな奮戰し城兵悉く敗走しければ。やがて茶臼山にならせられ。大御所に對面し給ひ。今日諸軍いさぎよく戰功をはげみたるよし仰上給ひしかば。將軍今日の勇氣といひ。すべて勳功比類あるべからずと。大御所仰有て。御けしき殊にうるはしかりしとぞ。(攝戰實錄。駿府記。古老噺。)
大坂の城すでに破れ。秀ョ母子北方はじめ。芦田曲輪にあつまりて。いづれも自害の用意のみなりし時。大野修理亮治長北方の御乳母にむかひ。世はこれまでなり。この上は北方城を出給ひ。大御所の御陣におはして。御みづから御母子の助命の事願ひ給はんより。外の事なしとすゝめ奉れば。この議しかるべしとて北方御出城ありて。まづ本多佐渡守正信につきて。この事申上給ひしかば。大御所聞しめし。お姬がねがひとあるは尤なり。秀ョ母子助けたりとて何かくるしからん。願の通りにいたしつかはすべし。されども汝岡山に往て。將軍にこのよし申せと仰ければ。正信岡山にまいりかくと申上しに。公殊に御氣色損じ。いはれざる事を申さずとも。など秀ョと一所に生害はせぬぞと。以の外の御樣なれば。正信まづまづ何事も。大殿の御差圖にまかせ給へと申てかへりしが。とかくする內に。秀ョ母子は遂に生害ありしとなり。(大坂陣覺書。)
大坂の役に。近臣の中に反間の者ありといひふらせしを聞せられ。神祖は御座を立せ給ひ。さる者あらんに見知らぬ事やあるとて。御次伺公の人々をつばらに御覽あり。公の御陣にもおなじきさまの事いひ出ければ。聞しめすとひとしく。御刀とつて立出給ひ。近臣の中とは誰が事ぞと仰られしとぞ。御父子ともおなじさまの御心用の程を。人みな感じあへり。(前橋聞書。)
神祖駿府より江戶へわたらせ給ひ。武相の間御放鷹の折。御塲の內にもち繩張てありしを御覽あり。たが所爲なりやとて御糺ありしに。山常陸介忠成。內藤修理亮正成がゆるせし所といふ。神祖御氣色損じ。わが留塲にて彼等かゝる事ゆるしたるは奇恠なれ。將軍は知給はぬかと仰ありければ。公きこしめし驚き給ひ。兩人を誅して御怒休め奉らむとおぼしめせど。彼等幼より御側ぢかくめしつかはれしものなれば。駿府へかへらせ給ひし後。阿茶の局もて伺はせ給ひけれど。何の御答もなし。よて本多正信めして議せらる。正信わざわざ駿府へまかり。神祖の御前へ參り。內藤山が事むづからせ給ふにより。若殿には兩人に腹切らしめんと仰あれども。いかにも不便におもひ侍るなり。正信が身も年老て物の用に立ず。この後いさゝかの過失ありて。若殿の御誅伐に逢むも計りがたければ。この後は江戶を去り駿河に參り。大殿に奉事してしらが首つなぎ侍るべきなりと申もはてぬに。神祖御心とけて。將軍かくまでおごそかに申付られしや。かかれば兩人ゆるさるべしと申せと仰ありて。正信歸りきて此由聞へ上しかば。公にもスばせられ。兩人しばらくの間閉居せしめられ。やがて其職をばゆるされたり。(武家閑談。)
神祖御大漸に及ばせられし時。わが命すでに旦夕にせまれり。この後天下の事は何と心得られしやとのたまへば。公天下は亂るゝとおぼしめす由御答ありければ。神祖ざつと濟たりとの仰にて。御心地よげに見え給ひしとぞ。(道齋聞書。)
神祖かむさらせ給ひし後も。如在の禮怠らせ給はず。いさゝかの事もまづ御宮へ聞えあげさせられ月ごと十七日には殊さらの御愼にて。御衣服調度の類はさらなり。便殿の奥まで改めかへられ。前夜はわざと夜ふくるまで起居て。さまざまの御物語あり。もし御殿ごもりてあしき夢など見給はゞ。神威を汚し給はんかとの御心用なり。夜明ると御行水めし。Cまはりして御宮へ參らせ給ふまでは。御手を御けしの內に入れ給はず。御膝の上にあをのけておかれしなり。其日はいつも本阿彌などめしいでて。日ねもす刀劍の御鑑賞あり。はてには臣僚の差料を取よせて御覽あり。これも他の御遊あらば。御誠意の散じ給ふ事もあらんかとおぼしめして。かく愼ませ給ひしとぞ。(額波集。名將名言記。)
神君の御遺金をわかたせ給ふ時。尾紀の兩卿はおのおの三十萬兩。水戶のョ房卿へ十萬兩遣はされき。御みづからは天下を讓り受たまへば。この外に何を求んとて。一品も御身に付させ給はず。長久手の役にめされし御鎧は。名譽の御品なれば。これはいかにと伺ひしに。それも御物にはし給はず。これらに就ていと御廉潔の盛意はかりしるべきなり。かの御遺金あまた分たせ給ひし餘。なを三十萬兩のこりしも。御みづから御費用にはなされず。駿城の庫に納てありしが。その後忠長卿駿河に封ぜられ賜ふに及んで。駿河殿預り給ふもしかるべからずとて。久能山に納られぬ。是其比の古語に久能の御金といひしなりとぞ。(ェ元聞書。) 
卷二

 

駿河亞相未だ國千代君と申ける頃。銃うつことを稻富喜大夫直賢に學給ひ。ある日西城の湟に居し鴨をうちとめられ。御臺のかたへ進らせ給ひければ。御臺所ス給ふ事なゝめならず。その夜しも公後閣にわたらせ給ひければ。これを調じて御酒すゝめ給ひ。こは國が手づから打留しよし申させ給へば。公にも御氣色うるはしくて。さてもこの物いづくにて打留しにやと問せられしに。御臺所いかにもよく聞え給はんとて。つばらに西城の湟にて打留給ひし旨をかたらせ給へば。きこしめしもあへず御箸投すて給ひ。たが供してかゝるふしぎをなさしめしぞ。そもそも當城は東照宮新に築かせられ我に讓らせ給ひ。我又竹千代に參らすべきなり。さるを國が身として。城に向て鐵炮放せしこと。上は天道にそむき。且は神慮の程も計りがたし。下は竹千代がきゝ思はんも。その憚なきにあらずと。殊の外御けしき損じ。御座を立せられ。その日國千代の御方に御供せし者御勘事蒙りけり。此事世にいひ傳へて。嫡庶の分を正しうせられし御心諚いとたうとし。さるを又駿河殿を御偏愛有て。廢立の念おはしませしなどいふは。とるにも足らぬ妄說なるべし。(武野燭談。藩翰譜。)
ある頃のことなりしが。茄子に穴を明て空をみれば。月二つ見ゆるとて。上下かゝる事を專らなせし事あり。御側の女房。公にもいさゝか御覽あるべしと申ければ。それ月二つありては天下治らず。月を二つにせんも一にせんも。我心にありと仰られしは。いかなる事とも心得られざりしが。これもその頃駿河殿の威權つよく。世には廢立の事もおはしまさん樣に。流言せしほどの事なりしとぞ。(駿河土產。)
御連枝あまたおはしける內に。薩摩守忠吉卿は御同腹にて殊更御したしみふかくおはしましけり。慶長十二年此卿病にそまれ日數へしが。思ひの外に平愈してまうのぼられしかば。御喜大方ならず。さまざまもてなさせ給ひ。さてまかでられし後。又俄に危篤の由聞えければ。大に驚かせ給ひ。その寓居大久保加賀守忠常が芝浦の亭に御親ら渡御ありて。ねもごろに問せ給ひ。其後も御使もて尋給ふ事絕えず。いさゝかも病怠らせ給へば。公にも御けしき快く御膳もめし上られ。またおもらせ給ふよし聞召ば。御飮食も常の如くはめし上られず。ふししづみなげかせたまひしが。日比ありて遂にはかなくならせられしかば。御歎大かたならず。しばしが程は闇にくれ惑ふ心地しておはしませしとぞ。其御樣見聞せし者どもゝ。げに友干の御情厚く渡らせ給ふ事。曠古ためし稀なりと。誰も誰も感淚袖をうるほさざるはなかりしとぞ。(武コ編年集成。)
慶長十五年三月駿城より還御の時。發軔にのぞみ神祖仰けるは。義直ョ宣の兩朝臣猶いとけなければ。殊に哀なるものにおぼしめす。わがなからむ後も。彼等成立のほど懇に訓戒し給へと託し給へは。公かしこまり申させ給ひ。しきりに御淚袖をうるほされ。御道すがら御輿の中にても。御眼を拭はせ給ふを見奉りしものども。その御至性のほどを感じ奉りけるとぞ(創業記。)
加賀黃門利長關原の事終りて後。關東に參るべきよしかねて仰つかはされしに。折ふし神祖は京坂にわたらせ給ひし比にて。公御みづから利長を迎へ給はんとて。板橋の驛のほとりに御出ありて。見參の事をスび仰らる。利長かねてかゝるべしともおもはざりしかば。よろこぶ事あさからず。あくる日まうのぼりしに公には寢殿に出御ありて。利長が座ははるかの下にまうけられ。對面の儀ことに嚴重にして。饗應の樣また善美をつくせり。利長この時はいと口おしき事におもひしとぞ聞えし。金百枚。銀千枚。時服を献り。公よりも鍋藤四カの御脇差に。金百枚馬鷹そへて給れり。此後には黃門いかが思ひしにや。弟利常に國ゆづり。をのれは引こもり居て。再び關東へは參らざりしとぞ。(藩翰譜。)
細川越中守忠興が見え奉りしとき。天下の機務はいかゞ思ひとりてよけんと宣へば。忠興角なる物に圓き葢せしごとくなるが。宜しからむと答奉れば。尤なりと仰られけり。また老臣列侍せし折から。忠興に人はいかなるを善人といふべきと問せければ。忠興明石の浦のかきがらの如きを。よき人と申べけれといふ。是も御感あり。其のち老臣に問せられ。先に忠興がいひし事を。汝等何と心得しと仰ければ。いづれも何ともわきがたしと申す。時に明石は世に聞えたる風濤の處なり。そが浦に生るかきがらは。浪にもまれすべよくなるなり。人もまたかくのごとく。さまざま辛き目に逢て。人にもまれたるがよきぞと仰られしとなり。(葛藤别紙。)
立花左近將監宗茂は。關原の役に逆徒石田三成が方人せしをもて。領邑を沒入せられしが。宗茂元來勇烈智謀逞しき者なれば。後にめし出され。奥州棚倉にて一万石たまひ麾下に列せしむ。元和六年十一月に到り。宗茂を御前にめし出され。汝往年の役に順逆を辨じ速に戰をやめ。居城を加藤肥後守C正に渡し歸降せし處置。御けしきに叶ふのみならず。棚倉の小邑に在て。いさゝかも不平の樣辭色にあらはれず。忠懇をいたす所神妙に思しめす。よて此度舊領筑後柳川城を下し賜はるなり。此後いよいよ忠勤を勵ますべしと仰ければ。宗茂かしこさのあまり。しばし御請の詞も發せず。落淚數行に及びしとぞ。(家譜。君臣言行錄。)
松平新太カ光政が。はじめて參府して見參奉りしとき。公には碁をうたせられ。織田常眞入道は大あぐらして。上座にうそぶきゐたり。光政出しかば。新太カそこへはいりや。伯耆は雪國のよし聞たるが。そふでおぢやるか。勝手にゆき飯くやれ。大炊同道せよと仰られて。土井大炊頭利勝光政をいざなひて。こと所にまかりて御料理下さる。時に同座の人常眞はじめ十三人ばかりなり。膳部のしなは。蕪汁におろし大根のなます。あらめの煑物。乾魚のやきものばかりなりしとぞ。その比いと御眞率にして。儉素の御樣思ひしるべきなり。(駿府土產。)
藤堂和泉守高虎が夜談の折に。明智日向守光秀は織田殿に登庸せられて。はてには大逆に及べり。光秀が罪申までもなけれど。信長のかゝる凶人をしらで用ひられしは。その過失なりといふを聞給ひ。そは信長があしきにあらず。明智がよからぬなりと仰られしは。君臣の名分を正しうせられ。たとひ君きみたらずとも。臣その道をうしなふまじと思召ての御事なるべし。(ェ元聞書。)
古今武將の上をさまざま評論ありしとき。近き世にては織田信長ほど。すぐれて猛勇なるはなし。されどたゞ人の己にしたがふ事のみを好みて。人につかふる事をこのまず。故に思ひの外の災も出こしなり。東照宮の古今にすぐれ給ひしは。よく此處をわきまへ給ひて。强弱その度にかなひ。かつ人の才能あるをそれぞれ見分て使はせられしゆへ。天下の大業を成就し給ひしなりと御物語りあり。(天平將士美談。)
福島左衛門大夫正則は。關原の城に關東に御味方して。戰功をはげましければ。格外の賞典を施され。安藝備後二國をもて封ぜられ。其後官參議にまで昇せ給ひしは。彼が勳功に報ぜらるる所。また薄しといふべからず。然るにこの人天資凶暴にして。動もすれば舊勳にほこり。朝憲を蔑如し惡行日にまし。藝備二國の人民も常に彼が虐政にくるしむのみならず。國家の大禁とせらるゝ所の城壁を。わたくしに搨zしける事聞えければ。これ捨置べきに非ずとて。元和五年御在洛の折から。群臣と再應商議せしめて。まづ正則が許に老臣連署の奉書をつかはされ。其罪を詰問せしめ。牧野佐渡守忠成。花房志摩守正成御使にさゝれ江戶に馳下り。正則が第にゆきてこの旨傳へしむ。かねて正則暴戾の者なれば。いかなる對捍をせんもはかりがたし。さあらむには天下の騷擾をも引出さんかと案じ思しめして。さまざまその用意どもありしが。御使を迎るに及びて。思ひの外謹で御受し。大御所の世におはしまさんには。正則申べき事なきにも候はず。當代には何をか申べき。たゞとにもかくにも仰にこそ從ふべけれと答ければ。忠成正成の兩人も感淚を催し。公にもいとあはれとおぼしめし。かねては藝備兩國を收公ありて。奥の津輕に配せられんと命ぜられしを。あまり程遠き地なればとて。信濃國川中島にうつしかへられ。高井野村といふ所に蟄居せしめらる。はじめ此事密議ありしに。衆議紛々として一决せず。四五日に及べり。其時板倉伊賀守勝重申けるは。井伊掃部頭直孝はいまだ年若き者に候へども。人の足跡踏て雷同の說申べき者にあらず。召問るべきにやと申。よて明日直孝を召て。土井大炊頭利勝事のよしをつたへ。汝が存ずるむねをきこえ上べしと仰下さる。直孝承り。人々の議する所に。異なる事も候はじと申けれど。强て所存を申せと仰ければ。直孝存ずる所は。正則都にめしのぼせ。彼が罪一々にかぞへられて。申ひらくべき事あらんには聞し召入らるべし。もし又領國に下り申開くべしとならば。其意にまかせらるべしと仰下されんか。さもなからんには。御使一兩人を江戶に下され仰を傳へしめられ。もし對捍に及び候はんには。江戶留守の人々して。誅せられんにすぐべからずと申ければ。藤堂和泉守高虎猶又申旨ありて。其日も事ゆかで明日又議せらるべしと仰ありて。人々まかでぬ。その夜しも井上主計頭正就をして。直孝に傳へしめられしは。明日ひそかに仰らるゝ旨あれば。つとめて裏の門より參るべしとの御旨なり。直孝これを聞て思ふは。今度の事衆議决せずして。日を重ぬれば。世にも泄聞ゆる事あるべし。我今其議に召加へられて。人人の疑うくる事しかるべからずと思ひ。其夜一紙の誓文を書て。夜明るを待て參りしかば。正就御門の內に出迎て導き。常の御座の南緣にまいるとき。直孝袖の內より誓文を取出し。指の血そゝぎ正就して獻ず。やがて御前にめされ。汝昨日申つる所の外。又别に思ふ所もなしやと仰らる。直孝謹でさらに别にぞむずる旨も候はずと申上ければ。公仰けるは。われ始より思ふ所に相同じ。しかれども衆議區々なるゆへに。事久しく决せざりき。今は汝が議せし所に從ふべしと仰下され。例の會議の人々に直孝をめし加へ。かの牧野花房の兩人をめし出して。かくは仰付られしとぞ。(紀年錄。藩翰譜。)
千姬の方(公第一御女。秀ョ北方。)浪華の事ありし後は寡居にておはせしが。舊緣のあるをもて本多中務大輔忠刻へ降嫁の事さだまり。元和二年九月廿九日御入輿あるべしとせしときに。坂崎出羽守成政いかなるゆへにか。勢州桑名に出たゝせ給ふを待とり。御輿を奪ひまいらせんとする聞えあり。よて柳生又右衛門宗矩等をもて。うちうちなだめ仰せらるゝ旨ありといへども。成政對面もせず引こもりて。家子カ等も戎具を用意し。何となくあやしげなる樣なれば。府下にありあふ諸大名この事聞傳へ。すは事こそ出來たれと兵を集る事大方ならず。よて執政の人々大に驚き。成政が家人等に奉書を下し。汝が主の擧動全く狂氣の致す所にして。禮を失ふといふべし。然しながら叛逆の例に准じ。御沙汰あらんもあはれにおぼしめせば。只今にも成政自殺して罪を謝せむには。一族の中撰み出て。其祀を奉ぜしめらるべし。とにもかくにも汝等よきにはからふべきなりといひつたへければ。その家臣坂崎勘兵衛等相はかり。成政を自殺せしめ其首取て參らせたり。誠は成政を沉醉せしめ。晝寢のひまに薙刀とつて首を刎しとぞ。公このよし聞召て。出羽が擧動すでに叛逆に似たりといへども。彼君臣の禮をまもり自殺したらむには。一族の中にてその祀を奉ぜしむべしとこそ思ひつれ。さるに家人等をのが主をたばかり。首刎て獻ずる事無道の至りといふべし。出羽また君臣の禮を失ふのみならず。をのが家僕の爲に害せられしうへは。今更其家つがしむべきにあらずとて。石州津和野城沒入せられ。後々もかゝる不逞のものあらむには。同じ樣に行はるべしと刑典を正しうして。遍く天下に示されしとぞ。(家譜。國師日記。慶長年錄。)
板倉伊賀守勝重久くして京職に在て。齡やゝ傾き。その職にたへざればとて辭し奉けるに。公なをしばらくかくてあるべし。汝に代りてこの職勤むべき者なしと仰ありて。ゆるしたまはず。勝重なを强て辭し奉りければ。さらば代るべき者撰み出よ。我はいまだ其人をみずと仰下さる。勝重年比京に侍て。御家人の事委しくは知侍らず。こゝらの人の中になどか人のなかるべき。遍く尋させ給へ。但し勝重にすゝめよとあらんには。子にて候周防守重宗こそ密夫の首切るべき者に侍らず。もし彼をもて父の闕に補せらるべきやと申ければ。公大によろこばせ給ひ。重宗めしてその事命ぜられ。勝重には原務をゆるされぬ。されども重宗あながちに辭しければ。子を知るは父にしかずとこそいへ。汝が父のすゝめにてあるぞ。辭するなと仰下されしかば。重宗やむ事を得ず御請し。まかでゝ後に父にむかひ。某いかでこの職にたゆべき。情なくも御推擧にあづかりしものかなとうらみけれは。勝重うちわらひて。おことは世の諺をしらぬよな。爆火を子にはらふといふは。この父が事なりと答へしとぞ。晋の祈奚が內擧親を避ずといへりしふる事。思ひあはされ。いと殊勝なる事にこそ。(藩翰譜。)
元和四年正月七日放鷹のため葛西に成らせらる。去年南部信濃守利直が献ぜし黃鷹殊に逸物なればとて。御稱美淺からず。けふ此鷹を試給へば。利直も兼て扈從の列に加はるべしとの命ありしかば。利直御傍に陪從す。時に御手づがら此鷹もて鶴を捉らせ給ひ。御けしき大方ならず。利直に近日鶴の饗膳を給はるべきむね面命あり。おなじ廿日利直めしいでゝその饗を下され。殊に先代より御秘藏ありし差取棹と名付し鐵炮を。御手づから賜りければ。利直かしこみ奉り。かの銃をば永くそが家に寳傳して。寵光を子孫に傳へしとぞ。(家譜。)
松平伊豆守信綱かいまだ長四カとて。若君の(大猷院殿御事。)御遊仇にてありける時。ある日公の御方の寢殿の軒ばに雀の子うみしを。若君御覽ぜられほしがらせ給ひ。長四カとりて參らせよと仰らる。時に長四カ十一歲。いかにもかなふまじと辭しければ。侍ふ者ども晝の程に巢のさまよく見置て。夜にいりこなたの軒より傳ひゆきてとれ。おとなは身おもくてあし音せんものをとそゝのかせぼ。せむかたなくうけがひて。日暮ると教へしことく寢殿の軒につたひて取むとせしが。踏そむじて御方のつぼの中に落ぬ。公此音に驚きて。御刀取て立出給へば。御臺所もおなじく脂燭さして出させ給ひ。御覽ずるに。長四カにてありければあやしませ給ひ。汝何しにこゝには來りぬるぞと尋ねたまひしに。晝のほど此屋の軒に雀の子うみしをみしが。あまりのほしさに參りしといへば。公こは汝が心より出しにはあらざるべし。たがをしへしとさまざま詰問し給へども。すこしも言葉をかへねば。かうまであらがふは。おのれ年にも似ぬ不敵者よとて。大なる袋の中におし入。そが口を御手づから封ぜられ。柱にかけ。事のよしありのまゝにいはざらんほどは。いつまでもかくてあるべしと仰けり。夜旣に明はてゝ。公には晝の御ましに出させ給ふ。御臺所ははやう彼が心を察せられ。己が身のくるしさを顧みず。竹千代君の御名を出すまじと心まうけしたるを。哀なる者と感じおぼし給ひ。御手づから袋の縫目をとかせ給ひ。朝餉めして給はせ。又本のことくぬひしめてをかせらる。晝の程公入せ給ひ。かさねて推問せられしかど。もとのごとく詞違へねば。御臺所さまざま御かたはらより仰られ。此後かゝる事すなと。いたくいましめたまひてゆるされしなり。その後御臺所にむかはせ給ひ。長四カが今のこゝろもて生立んには。竹千代が爲にはならびなき忠臣にてあむなれ。かくさいなめしも。その心根見んとなりとて。殊に御スありしが。果して後年に至り輔翼の臣となり。兩代無雙の良臣とよばれしかば。人みな公の御明鑑の程を。感じ奉りけるとぞ。(信綱言行錄。)
大坂夏の戰に。今村傳四カ正長一番に敵陣に馳入り。乘たる馬鐵炮にあたりければ。徒立にて戰ふ。山伯耆守忠俊が臣近藤忠右衞門このさまみて。馬はいかゞせしといへば。鐵炮に中りしといふを聞て。忠右衛門よくかせぐよ。我馬にのれとて芦毛の馬をかしければ。正長即ちその馬に跨て。敵また一人討とり。重ねて乘放しければ。敵の首もちきて忠右衛門にさづけ。放れし馬を取得ずむば。再びかへるまじといひ切て敵中にかけ入り。その馬に乘たる敵うち取て還り。首そへて馬ともに忠右衛門に返しけり。戰畢てのち公正長を御前へめし。汝二度高名せしときく。しかるに首帳に一つと記せしはいかにと宣ふ。正長しかじかのよし申し。一つの首は伯耆が家人に遣しければ首帳には記し申さずと答へ奉れば。折しも黃昏にてほの暗ぎころなれば。公御みづから脂燭とらせ給ひ。御前近く正長をよばせ給ひ。汝が如き剛の者は。よく見覺えてをくべき事なりと仰ければ。正長も殊に面目を施しけるとぞ。(明良洪範。家譜。)
永見新右衛門重成も。大坂の役に拔懸して高名せしが。兼ての軍令に背しにより切腹に定まる。しかるに俄に重成が實父今村彥兵衛重長めしければ。本多佐渡守正信仰を承り。重長より何ぞもの奉るべしとありしかども。とみの事にてはからひがたしといへば。さらば外より奉りし物を。先かりにさゝげよとて。庖所より髭籠樣のものとりよせて奉り拜謁す。公御前ぢかくめされ。若き者の高名をはげむはさる事なれども。汝年七十に及での高名は。いらざる事に思しめすと仰下さる。其時佐渡守御前に出て。ありがたき上意に候。新右衛門事御軍令にそむきし上は。切腹に極りたれ共。若き者の志はさる事との上意は。新右衛門御免あるべしとのことぞ。彥兵衞御禮申上べしとありて。即ち御禮申上ければ。公御笑ありて奥へ入せられけるが。御凱旋の後重成めし出し。今度の働比類なしとて。加秩千石賜ひしとぞ。(家譜。)
石谷十藏貞Cは。大坂の役に供奉せん事こひ奉りしが。御ゆるしなかりしか共。のどめあへずしてひそかに御跡をしたひて上り。京にて追付奉り。御法令を背き奉れば。首刎られんは元より思ひ設けし事ながら。これ迄はせ參ぜしおもむきは啓し給はれと。御側勤めける何がしに就て申けるが。何がし公には兼て一度仰出されし事は。かへ給はぬ御本性なれば。かかる事聞えなば。いかなる御咎にあはんもはかり難しとて。江戶に下りねとさまざまさとしけれども。貞C聞入ず。からうじて申上しかば。公しばし御思惟のさまにておはしけるが。法令背たれば嚴重にも仰付らるべきが。若者の事故その志不便におぼしめせば。ゆるし給はるなりとて。あまさへ黃金二枚下されけり。さて此後は一人たりとものぼるべからず。もし上る者あらんには。屹と御咎あるべしと仰出されしなり。貞Cはかしこさのあまりに。身命を抛て戰功を勵しけるとぞ。(兵家茶話。石谷家傳。)
おなじ役に安藤治右衛門定次御本陣にはせ來り。けふは天下分目の戰なり。勝せ給はゞ御一代また軍あるべしともおぼえず。もし御勝利なからむには。是又きはめの御軍なれ。ともかうも速に御勢を出させ給へと。高らかにいへば。公大に定次を咎めたまひ。敵軍よせ來らば御馬を出され。ただちに切崩し給ふべし。いま敵ども城中へにげ入るほどなるに。追うたんこと。いさましとも思しめされずと宣へば。定次恥いりつつ。詞なくして御前をしぞきしとぞ。(天野逸話。)
島田彈正利正が町奉行つとめけるとき。罪人の已に死に處せし上にても。なをしばしば生路を求め。遂に助くべき理なくば斬れと仰られしは。好生のコ民心にあまねしといひし古語思ひあはせられていとたうとし。(三河之物語。) 
卷三 

 

慶長の末まではいまだ創業の時なれば。何事も簡易にして。朝儀禮節を議せらるゝにいとまあらず。元和元年浪華の再亂已におさまり。全く大一統の業をなし給ひぬれば。やゝ此事に及び衆に議せしめて。古今武家の舊規を損益し。新に一代の制度を創建せらる。明る二年正月元日より新儀をはじめ行はる。まづ元朝には御直垂めしてK木書院に出まし。若君。(大猷院殿御事。)國松丸君(駿河大納言忠長卿御事。)御献酬ありて後。白木書院にて尾張宰相義直卿。駿河宰相ョ宣卿。水戶少將ョ房朝臣。及び越前宰相忠直卿。加賀少將利常。松平武藏守利隆拜謁し。御盃たまはり時服かづけらる。雜煑兎の吸もの等を供し。着座の人々にもたまはりて退く。次に侍從以上普第衆太刀目錄もて拜賀し。松平伊豫守忠昌。松平隱岐守定行等。及び老臣おなじく賀し奉り。御盃服賜ひ。次に大廣間に渡御ありて。普代大名。諸番頭。近習。外樣。三千石以上の徒。法印法眼の醫官。其他布衣以上の諸有司。寄合。番衆の輩も一同に拜謁し。諸大夫以上は太刀目錄を献ず。上段につかせたまへば。老臣御盃もち出て御引渡御加あり。松平和泉守家乘はじめ諸大夫の法印法眼の醫官まで御流たまはり。服かづけらる。次に布衣以上諸有司。番士。同朋にも御流たまはり。次に板緣にて幸若觀世にも御流賜はり。入御のとき大廊下にて高家幷諸國由獅フ徒拜し。白木書院にて小姓組の番士拜し。其緣にて後藤本阿彌官工畫工の徒まで拜し奉り。K木書院の勝手にて。御膳奉行右筆等拜謁し。終て奥に入せ給ふ。二日には大廣間に出まし。松平宮內少輔忠雄はじめ外樣大名拜謁し。御盃及び服賜る事元日に同じ。御障子開て諸大夫の徒拜し。昨日のごとく御流に服賜る。奥に入せ給ふ時。大廊下にて無官の醫員。連歌師。白木書院にて代官。大工棟梁。落緣に諸工人拜伏して入御なる。この夕つげて兼て謠曲始行はれしを。過し年は浪華の乱によて停廢せられしが。これもけふより舊規に復し行はる。西刻長袴めして大廣間に出給ふ。三家及び着座の人々まうのぼり拜謁せられ。御盃出て三献の時。觀世左近四海波しづかにてとうたひ出せば。つぎづぎ巡流れ。老松。東北。高砂。弓箭立合にて御銚子納むる時。御肩衣を脫し左近に纏頭し給ひ。陪莚の徒いづれも肩衣脫て大夫にさづけ。みな歡抃して退く。三日には白木書院に出まし。國持の長子。無爵の徒拜賀し。次に無官の大名廓下溜にて拜し。其後に諸家の證人及び井伊。榊原。奥平の家人等拜し。板緣にて府下。京。大坂。奈良。堺。伏見。大津。淀過書。銀座。朱座の徒拜し。奥に入せ給ふ。五日には白木書院にて天台宗僧巫拜賀し。六日にも同所にて搶緕寰nめ淨宗其他の諸宗僧徒社人等拜謁す。七日は兼て七種粥の事。諸儒。陰陽家。僧徒等に命じて議せしめられ。京へも御尋問ありしかど諸說紛厖にして一定せざれば。古來流例のまゝを用ひたまひて御祝あり。此外月次朔望の儀は。みな舊規のごとくにて。别に改めたまふにも及ばれず。是までは拜賀の者。衣服の制も定まらざりしを。今年はじめて烏帽子。直垂。狩衣。大紋を着し。其以下は素襖を着せしめらる。元日の夕かた酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝をめして。江城駿府ともに年中諸節の禮儀。いまだ全く備らず。よて昨年より會議して定めらるれば。今日行ふ所の儀をもて。當家永世の式となすべきよし面命せられしとぞ。是よりのち歷朝の間猶損益ありといへども。大躰はみなこの時の制に遵據ありて。永く百世不刊の大典となりぬるにぞ。(紀年錄。武コ編年集成。元ェ日記。)
當家創業このかた。いまだ一代の法制を定めたまひ。天下一統に令せらるゝほどの暇ましまさず。かくて四海の人。其遵守する所に疑惑すべきなりとおぼしはからせ給ひ。元和元年御在洛の折から。金地院崇傳長老をめされてその事を議せしめ。遠くは和漢古今律令の舊文に據り。近くは鎌倉室町このかた武家の式目を斟酌せられ。新に條件十三條を草せしめ。神祖ともつばらに御商訂ありて。その年七月七日諸大名を伏見城にめしあつめられ。本多佐渡守正信して。新令仰出さるゝの旨を傳へしめ。崇傳長老してこれをよましめらる。かくてぞ天下の大小名。みな金科玉條に欽遵し國務を謹愼にして。敢てその法令に違背するものなく。いよいよ國家無窮の洪業をして。磐石よりもおもく。泰山よりも安からしめ給ひしは。いともかしこき御事なり。(駿府記。)
朝家の御事。あがりての世はいふに及ばず。室町殿の中業より騷亂打つゞき。典章制度もみな廢墜し。九重の內もたゞ形のことくのみなりしを。慶長十一年の春の比。禁裡仙洞狹隘にして。朝儀行ひがたければ。先月卿雲客の第を他所に引移し。其地境を恢弘し給ふこと一町にあまりぬ。されど朝章制度いまだ創建せざるより。その比有職の人々はじめて。崇傳長老等にも參議せしめて。元和元年兩御所御在洛の折から。二條の城に攝家華族はじめ。公卿殿上人をめして饗せられ。兩傳奏して公家の法令十七條を授給ふ。廣橋大納言兼勝卿にこれをよましむ。關白昭實公はじめ月卿雲客みな拜聽し。畢て關白及菊亭右大臣晴季公。今日仰出されし所の條約。誠に詳悉明亮にして。いさゝか遺憾なしとて。しきりに感歎ありしとぞ。その令條の末には。兩御所ならびに昭實公の御署をすえられしとなり。(駿府記。大三川志。)
攝家親王の座班は。禁中にてもその時と人とにより。前後定まらざりしが。元和五年京におはしましけるころ。金地院崇傳に諸家奉謁の次第を御尋あり。崇傳古例を書し。林永喜信澄もて進覽す。その第一は當官の三公。次に親王。次に前官の大臣。其次に諸法親王なり。前代の御時も八條伏見の兩親王。其次に前官の大臣と定られたり。たゞし伏見家は世々今上の御猶子たるをもて。諸親王とは别格たるべしと。つばらにしるして奉りければ。これをもてその進見の次第をば定られしとぞ。(國師日記。)
江城は國家定鼎の地にして天下の諸侯朝聘するに。舊來の規摸いと狹隘にして。その禮を行ふにたらざればとて。慶長十一年三月より諸大名に課して。經營をはじめさせたまふ。藤堂和泉守高虎は二三の丸を奉り。細川內記忠利は石垣を搨zし。松平越前守忠宗は天守二重の櫓を奉り。加藤肥後守C正はおなじ列の大名にすゝめて。大石を進獻せしむ。その六月おほよそ成功せしかば。みな就封のいとまを給はれり。この時役せし徒みなたちつけを着し。おのが持塲にのぞみみづから督課し。公にも日ことに兩度づゝ親巡して。慰勞し給ひしゆへ。渠等も一際奮勵して力を竭しければ。かゝる大擧いと神速に成功せしとぞ。(紀年錄。君臣言行錄。)
元和二年四月神祖旣に薨じ給ひし後。各國の大名いづれも江戶にめしつどへられ。その人々の動靜を御糺明ありて。嚴重の新令をも仰出さるゝかとおもひまうけしに。土井大炊頭利勝して仰を傳へ。駿城より一同に暇たまはり就封せしめられ。别て新令を仰下さるゝ事もなし。よて天下をしなべて。御政道のェ仁なるに服し奉りけるとぞ(東武實錄。)
服飾の制も。其頃まではしかと定れる事はなかりしを。元和元年はじめて仰下されしは。正月元日二日六日は裝束たるべし。給事の諸大夫。布衣の侍。五か日の間は長袴たるべし。三月三日出仕の輩長袴。四月朔日より韈を脫べし。五月五日染帷子長袴。六月十六日嘉定の節もおなじ。七夕八朔は白帷子長袴。八朔には五千石以上は太刀折紙を奉るべし。九月朔日より八日までは袷衣。九日よりは染小袖。十日よりは韈をゆるさる。重陽は長袴。十月玄猪も同じ事たるべしと仰下されぬ。是よりして永制とはなりぬるなり。(令條留。)
當家一統の後。祿額に准じて軍役の制を仰出されしは。元和元年六月の事にて。その制は五百石は銃一挺。鑓三柄。(持鑓もこの內なり。以下同じ。)千石は銃二挺。弓一張。鑓五柄。騎士一人。二千石は銃三挺。弓二張。鑓十柄。騎士三人。三千石は銃五挺。弓三張。旗一本。鑓十五柄。騎士四人。四千石は銃六挺。弓四張。旗二本。鑓廿柄。騎士六人。五千石は銃十挺。弓五張。鑓廿五柄。騎士七人。一万石は銃廿挺。弓十張。旗三本。鑓五十柄。騎士十四人たるべしと定らる。此後大猷院殿御代になりて。尙又精細にさだめ仰出されしも。その本はこの時の制に遵據せられしなり。(東武實錄。)
室町家の比には。鹿苑院の䕃凉軒もて僧錄司の職に任じ。天下寺院の政令を司らしむ。元和五年九月これを改られ。金地院崇傳もて僧錄司とせられ。且仰出されしは。元和元年令せられし先判の旨にまかせ。いよいよ鹿苑院䕃凉軒の僧錄司をば廢せられ。金地院をして僧錄司たらしめ。五山十刹の諸法令。出世の官資入院の儀式等。先判の旨に遵ひ舊規のごとくたるべしと定められぬ。後に至り寺社の諸務いよいよ繁擾にして。僧徒の管轄に事ゆかざれば。寺社奉行を建置せられしより。金地院の職掌は廢せしなり。(令條記。國師日記。)
烟草は天正の比蠻人舶載せしより。次第に世人好む者多くなりしかば。やがて各國にも栽培する者數そひたり。貴賤ともに烟管を懷にせざる者なきにいたれり。このものうゆが爲に。田畝を荒蕪すること少からず。又警火のためにもよろしからねば。元和二年十月はじめてこの禁令を仰下さる。烟草植るもの。市人は五十日農民は三十日獄に繫ぐべし。賣買する者も是におなじ。植立しク邑の民は。過料として一人に錢百文づゝ收公せしめ。その地の代官は五貫文出さしむべしとなり。(令條記。)
慶長九年二月公の尊慮もて東海東山北陸の三道に。一里ごとに官堠を建られければ。行來の徒殊に表識を得て。御恩の驛路にまで及ぶことをかしこみ奉りぬ。此時東山道は永井監物白元。本多左大夫光重兩人奉り。築きはてし後參洛し。神祖に謁見し奉りければ。その樣つばらに聞しめし。築かた尊意にかはねば。あらためよとの仰にて。兩人京よりかへさに。尙又きづきかへしとぞ。(武コ大成記。永井家譜。)
ェ永八年阿倍四カ五カ正之に命ぜられ。その七月より下總國小金の山野を堀通し。下總常陸奥州の舟路をちかくし。水漕の便をよからしめむと思しめされて。かく命ぜられしが。いく程なく御不豫重らせ給ひしゆへ。その事遂ずなりしかば。世の人みな口おしき事に思ひしとぞ。(阿倍家譜。)
當代に天主教御搜索嚴重にして。揖斐半右衛門政イに命ぜられ。西國にゆきてその法試みよとの仰奉りて。政イ彼地にある事七年。其法心得し者に就て悉く聽たゞし。かへりきてそのさま申上しに。三日が間晝夜絕間なく聽せ給ひければ。あまりの御事なり。少し御休息あらばよからむといふものありしに。公かれわが命により。七年が間遠境に困苦せしを。よき程にして聞さすべきやとて。いさゝか御倦怠の樣おはしまさゞりしとぞ。(明良洪範。)
當代御談伴といひしは。そのはじめ織田豐臣兩家に仕て。其後駿府に勤仕せし輩かの府下安西に宅地を給ふ。よてその比此人々を安西衆と稱しけるとぞ。この輩はみな累年武功の者共なれば。其外にももとより江戶に在府せし徒の中にて。耆宿の徒を撰みて其擧にあてられ。直日を定め。日々かはるばる御前に伺公せしめらる。其人々は丹波五カ左衛門長重。立花左近將監宗茂。細川玄蕃頭興元。三好因幡守一任。猪子內匠助一時。堀田若狹守一繼。佐久間備前守安政。同大膳亮勝之。堀丹後守直寄。戶川肥後守達安。九鬼長門守守隆。脇坂淡路守安元。毛利伊勢守高政。市橋下總守守長。谷出羽守衛友。木民部少輔一重。蒔田權佐廣定。平野遠江守長泰。能勢伊豫守ョ次。宮城丹波守豐盛等なり。日野大納言輝資入道唯心。山名中務大輔豐國入道禪高。𣏓木信濃守元綱入道牧齋。佐久間駿河守正勝入道不干。前橋吉右衛門勝秀入道半入。今大路延壽院玄朔等は。ことさら老耋なれば優待せられ。直日を定めず心まかせにまうのぼり。御談話に侍せしめられ。渡邊山城守茂。松下石見守重綱。近藤石見守秀用。眞田隱岐守信昌。田甚左衛門尹松。初鹿野傳右衛門信久。久世三右衛門廣宣。坂部三十カ廣勝。儒役林永喜信澄。醫員佃玄鑒某。田村安栖長有は。每夜出仕して御談伴たるべしと命ぜらる。この後大猷院殿御代となりても。その員欠る時はまた外の耆宿の徒めし加はへて。絕へず御前に伺公せしめ。談話ども聞しめされぬ。そもそも高貴の方々はとにかく朝夕近臣とのみ狎接せられて。嚴師友の益を得給ふ事もおはしまさず。みづから人情世態にもうとく。放慢に成行ものなれば。かゝる徒めし出て。己がじし古今文武の事ども。はばかる所なくかたらしめて聞しめせば。古今の治亂盛衰。世間の休戚利害までも。あまねくしろしめし。おのづから智識をもひろめ給ひ。政務にも裨益あることおほかたならずとおぼしめされ。かゝる事ども設置給ひしならん。この御談伴のはじまりしは。元和二年十二月の事なり。(國師日記。紀年錄。) 
卷四 

 

慶長十五年閏二月十六日三州大久保山藏王山にて狩し給ふ事あり。三遠の人數をかり出して勢子とし。數十里を圍む。群卒おほよそ二万人。かり立る聲及び銃矢の音。山谷にひゞきて雷霆のごとし。その日の御獲物鹿二十餘頭。猪狐兎の類もあまたあり。この比本多中務大輔忠勝は。引こもりて勢州桑名の城にありしが。御狩塲にまいりて拜謁し。御行裝の盛なるを稱したてまつり。そのかみ忠勝がまだ若かりしとき。武田信玄入道が三方が原の軍裝を見し事の候ひしが。かほどまでには思はれざりしと申て。老の淚をのごひけり。同じ十七日にまた藏王山に狩し給ひ。鹿二百四十頭。猪二十二頭かり得給ふ。この日阿倍四カ五カ正之は。かねて射藝に達しけるが。けふも鹿猪二頭づゝ射とめ。安藤治右衛門正次は大猪を射とめ。弓矢を賜ふ。又鎗にて大猪を突とむ。其鎗後の岩にとほりければ。岩突といふ名を賜ふ。しかるに永井信濃守尙政が隊下の番士中川八兵衛と。岡部八十カと爭鬪に及ぶ。井伊掃部頭直孝左備の隊長なりしが。馬に鞭て速に馳來り。大竹の杖をふりあげ双方を押分る。そのひまに中川が從者岡部を討しかば。八兵衛も死を賜ふ。かゝる騷擾にも狩塲の諸士法令を守り。一人もその方に面をむけし者なし。隊伍亂れざる事は。公の御法令の嚴肅なるがゆへにして。誠に美觀なりと。人々稱譽し奉りけるとぞ。(紀年錄。御年譜。)
ェ永六年七月大猷院殿痘瘡御平愈の御祝ありしとき。公も西城より其祝とてならせられたり。其日兼て申樂催されし上に。踊を興行ありて。御覽に備んとの御內旨を西城の老臣まで仰遣はさる。その時老臣とりどり議しけるは。大御所御物がたき御本性におはしませば。今樣の風流踊など遂にみそなはし給ふ事もなし。もし此事聞え上ばいかゞあるべきと案じわづらひし時しも。藤堂和泉守高虎まうのぼりしかば。高虎にはかりけるに。高虎我等老人の事なれば。さのみ御とがめもあるまじければ。試みに聞え上べしとて。御所へまかりその事を申上たるに。我等年若きとき豐臣家聚樂の亭にて見し事もありしなりとて。御心ちよげにわたらせ給ひしが。兼ては踊五番の定めなりしを。一番終るを待て。やがて還御せさせ給ひしとぞ。(君臣言行錄。)
ェ永六年九月廿日西丸山里にて口切のお茶ありて。大猷院殿にも渡御あり。おなじ廿二日又諸大名を。山里へめして御茶下さる。其折しも紀水の兩卿は。御けしき伺のため。西城へまうのぼられしが。山里へ成せられし後。しばし還御を待しめらるゝに。大猷院殿また渡御ありければ。兩卿まづ見え奉らる。とかうして山里より山大藏少輔幸成御使して。過し廿日成らせられし時は。空打しぐれてふじの山さだかならざりしを。いと名殘多くおぼしめすに。けふはいとよく晴わたりたれば御覽あるべし。よて御鏁の間にてお茶を參らせらるべければ。兩卿をも伴ひて渡らせ給へと仰せければ。即ち兩公を伴ひて山里へ渡御あり。露地數奇屋など御覽の後。鏁の間に入せ給ふ。やがて御みづから茶を點じて參らせらる。大猷院殿いたゞかせ給ひし後。兩卿に給はりおさむ。後の炭は大猷院殿あそばされ。事はてゝ富士山御覽あり。所がらかの資長入道が。軒ばに見るといひけんごとく。西嶺千秋の雪たゞ手にとるばかりなれば。公御けしきいとうるはしく。富士山の事よりはじめ。神祖駿城におはしませし程の御事ども。語りいで給ひて聞しめらる。若き御方々の未だ聞も及ばざる事どもにて。いとかしこしとおぼしたり。とかくして時刻うつり黃昏に及びて大猷院殿還御ありければ。諸卿も恩を謝してまかでられしぞ。(君臣言行錄。)
寳算五十に滿せ給ひし比。藤堂佐渡守高虎ものゝ序に。尊齡已に知命に及ばせ給へば。今よりは何事もすこし御ゆるみ有て。御心のまゝに御遊などおはしましなば。いかにと申上しを聞しめし。汝等が如きは年老てのち何事をなすとも妨あるまじけれど。われはかしこくも則闕の官に在て。天下の具瞻する所なれば。死ぬまでつゝしみても尙たらずと仰ければ。高虎かしこみ。御謹愼の老てもおこたらせ給はぬを感じ奉りけるとなり。(武家閑談。)
御弱年のころより。御容儀端莊におはしまして。御不豫の折からといへども。怠慢の樣おはしまさず。ある時御談伴の徒相議して。山口修理亮重政。田村安栖長有等もて。いにしへより賢主名將といへども。內外張弛の别ありて。かゝる御違例の御時には。しばらく機務を停られ大奥にましまして。御心のどかに御保護あらまほしきよし申上しに。おほよそ人の上たるもの。下々の疾苦を察せず。己が遊興にのみ耽るはあるまじき事なり。まして天下の主たる者は。己が命の長からんことを欲して下民を苦しめ。一身の佚樂をこひねがふは。禽獸にも劣れりといふべしと仰ければ。いづれも覺えず感淚袖にそゝぎけるとなり。(三河之物語。)
御不豫重らせ給ひても。御ぐしあげ給ふ事常にかはらず。こは一日といへども天下大小の政事を聞しめさねば。御心地あしくおはしますとなり。大猷院殿兼て老臣に。おもたゞしからぬ事は。御病床に聞え奉るなと仰られしを聞せられ。我天下の事一日もきかねば心にかゝりて。かへりて心ちよからず。すべて天地の間に用なきものはなし。天下の主たるものは。死に至るまで天下のことをきくが本意なれと仰ありしを。承傳へし者ども。あまりのかしこさに淚をとさゞるものなかりしとぞ。(名將名言記。)
大御所大漸に臨ませられし時。御所に向はせ給ひ。樣々御遺托どもありしかば。御所にはひたすら御悲歎かぎりなく。御泪にのみ咽給ひしを御覽ぜられ。人の生死は元より定命なれば。さまで歎かせらるゝに及ばず。今より後は天下の者。御身を月とも日とも戴き仰ぐことなれば。よく天下大小の機務を勤め行れて。いさゝか怠らせ給ふな。但し當家世を有つの日淺く。今まで創建せし所の紀綱政令。いまだ全備せしにもあらざれば。近年の內にはそれぞれ改修せんと思ひしが。今は不幸にしてその事も遂ずなりぬ。我なからむ後に。御身いさゝか憚かる所なく改正し給はゞ。これぞわが志を繼とも申べき孝道なれと仰置れしを。その時の臣僚等がいひけるは。公は元は。將軍家とより御志趣のかはりめおはしませば。薨ぜられし後は。かならず新政どもかずがず行はるべし。然るに前朝に建置れし舊章を。俄に改めかへ給はゞ。當代御不コの樣にも。世にはもてはやさんかとおぼしめして。あらかじめかゝる御遺命はありしならんと。評し奉りし者もありけるにぞ。(名將名言記。)
おなじ三家の方々へ仰られしは。今の將軍はげに果報のものとこそいふべけれ。おのれ先代に别奉りし折は。おのおのもいといひがひなき程の事にて。何事もいひ合すべき人なく。心ぼそくおぼえしを。今はいづれも成立せられぬれば。この後はかたみに心隔ず共和して將軍を補翼せらるべし。もし將軍の擧動その任に應ぜざることもあらば。おのおのの內にて。代攝あるべきなり。ゆめゆめ神祖の櫛風沐雨の勞を。忘るゝことあるべからずと仰ければ。諸卿いづれも感泣してまかでられしとなり。(别本當代記。)
これも同じ時。老臣等めし出て。我命すでに旦夕にせまれり。今一度御宮にまうでゝ。是まで天下安寧に保ちし事を。告奉らんとおもへば。速に扈從の者命ずべしとの仰なり。老臣等今少し御心地さはやかせ給ふ時にいたりて。成せ給へと申ども聽せ給はず。はじめ我先代より大業を讓りうけ奉りし事なれば。今又この際に臨むで。一往告奉らで徒にはてんは。始終の分にをいて全からず。かならず參らせ給はんと强て仰らるれば。いづれももて煩ふ處へ。天海僧正御氣色伺のためまうのぼりしかば。老臣等折よしと待とりて。僧正に此事を議し。何とかしておもひとまらせ給ふ樣に。いさめ奉られよといへば。僧正やがて御前へ出づ。その時公また此事仰らる。僧正御ことはりなり。いかにもとく參らせ給へと申てまかでしかば。諸老臣近習の徒も。みなみな大にいかり。くにき表裏の坊主かな。とゞめは奉らでかへりてすゝめ奉るよなと。口々にのゝしりいふ所へ。僧正また立返り御前へ出て。只今大手の御門邊までまかりて心付しことの候へば。立歸り待しなり。さきに承りし御參の事は。まづとゞまらせ給へ。いかにとなれば。君今かゝる事おはしませしと聞傳へば。この後天下の大小名。いづれも死に臨むで。將軍家に見參して。死後の御暇申さむとてまうのぼりなん。さる時は殿中又は路次にて。死はつる者も多くあるべきなり。これを思へば御參は思召とゞまらせ給ふにしかじと申ければ。げにもと聞しめし入て。御參の事とゞまりませしとなり。今はの際まで端正におはします事は申奉るに及ばず。かくてぞ僧正が機對もいとよく喩を取し事と人々感じける。(備陽武義雜談。)
天海僧正御病床に伺公して。萬歲の御後は先朝のことく。神號受させ給はんにやと聞え上しに。御僧は天下の主たるもの。みな神に祀らるゝ事とおもはるゝにや。先代の御事は本朝數百年の騷亂を打平げ。古今未曾有の大勳を建給ひ。その聰明英武におはします事。實に人慮の及ぶ所にあらざれば。神にもいつかれ給ふべけれ。我はたゞ先業を恪守せしといふまでにて。何の功コもなし。神號なぞは思もよらぬ事なり。とにかく人は上へばかり目が付て。己が分際をしらぬは第一おそれいましむべき事なりと仰ければ。僧正も謙讓の御コ。今にはじめぬ御事と感じ奉りけるとぞ。(額波集。名將名言記。)
文學の事は御年十に三ばかりあまらせ給ふ比より。文字を讀ならはしめ給ひ。御成長の後は藤惺窩の講說を聽しめせし事もありしとか。慶長十二年四月林道春信勝江戶に參りし時。三畧及び漢書を讀しめて聞せらるゝ事十五日。其時道春に御尋ありしは。三畧は實に張良が著せし所なるや。道春承り。史記張良が傳に。老父が良に秘書を授けしを。良ひらきみれば大公兵法なりとばかり有て。三略といふ名見へ侍らず。後漢書に光武帝黃石公が事を引れし事の侍れば。その比は三略をもて。正しく良が著せし所となせしものならんか。また黃石公が素書といふものあれども。こはいと後世の僞作にて。三略よりははるかに文義もおとりし書なりと答へたてまつれば。また六韜はいかにと御尋あり。道春呂望が事は委しく詩經孟子等にみえ。また史記齊の世家に。隱謀秘計ありといふことあれば。もしくは六韜は其著書にても侍らんか。されども漢書の注文に引し所の大公六韜の詞。今世の六韜に載ざれば。今の書また疑はしきものにて候よし。つばらに申上ければ。その博洽にして知ざる所なきを御感歎あり。やがて大學を講ぜしめて聞しめさんとありしが。その比韓使來聘の事によて。信勝駿河に參りしかば。その事果し給はざりしとぞ。(羅山年譜。)
慶長八年の比。常に用ひさせたまふ御硯筥。及び御印籠に。古人の詩を蒔繪にすべしと命ぜられ。佐野修理大夫信吉が家臣蛻菴といふもの。兼て能書の聞えあれば。かれにかゝしめられ。その賞として銀十枚賜りしとぞ。またいにしへより高名の人の書を。手鑑に貼じ給ふとて。林永喜信澄に議せられしに。公の仰に豐臣太閤は書跡あしけれども。近比名だかき人なればとて。そが神祖にまいらせたる文書を貼せられしとぞ。(元和小說。)
元和七年十月後水尾院より。京にて活刷ありし宋朝類苑を進らせられければ。金地院崇傳を御前に召て讀しめ。前三河守定基入道寂照が。入宋して宋帝に崇敬せられしことを聞しめし。日本の名譽なりとて。御けしきいとうるはしかりしとぞ。(元和年錄。)
神祖東鑑を珍重し給ひ。旣に活刷して遍く世に行はしめられし程の御事なれば。公にもその御志を承繼せられ。常に此書を御覽ありしにや。慶長十年正月足利學校寒松に命じ。活板の東鑑へ。朱墨もて點を加へしめられしは。その句讀の解しやすからむことをおぼしめしての御事なり。(寒松東鑑跋文)。
和哥連歌は元よりの小枝にて御心もちひたまふこともおはしまさぬゆへにや。世に傳ふるものもいとまれなり。元和二年二月神祖相國御拜任の時。駿城にて和哥管絃の宴を催され。花契萬春といふことをよませ給ひける。
萬代の春に契て梓弓やまと島根に花をみるかな
ェ永三年九月御上洛の折。二條城へ行幸ありて御哥の會ありし時。竹契遐年といふ事を。
吳竹のよろづ代までと契るかな仰にあかぬ君の行幸を
述懷といふ題にて。
草の葉に置しら露はほどぼどに重きは人の身の上としれ
山大藏少輔幸成が首服加へしとき。
ちるとてもながめは猶も打をかじ思ひやまさる山の花
相國御拜任あらんとせしとき。
位山のぼるもつらし老の身は麓の里ぞ住よかりける
始めはかく御辭退ありしが。後に叡慮のもだしがたければ。遂に御拜任はありしならん。(和歌物語。山家譜。新撰和歌集。)
慶長十六年正月廿日連歌の莚をひらかる。發句は紹之。若拷_井にたつや庭の松といへるに。春の朝戶を明むかふ峰とつけさせたまひ。つぎづぎ百韻にみち。連衆饗せらる。おほよそ連歌の筵三州よりの佳例といへども。其句のものに見へしは。この時をもてはじめとするにぞ。鎌倉鶴岡八幡宮に别當大庭周能といふもの御連衆にめし加へられ。常に御會にめし出しが。ある時周能。
さゞれ石の岩ほに種や松の春
といふ發句せしを。ことに御けしきにかなひ。
いく八千代まで長き日の影
とつけさせ給ひ。御筆を染させられて。周能に下されしとて。今にそが家に傳けり。(大庭家藏。)
また御若年の時岡田太カ左衛門といふ者。俳徊躰の發句に。
上髮をちむちろりんとひねりあげ
といふに。
花の下にて松虫ぞなく
太カ左衛門また。
やせ馬に曾我兄弟が乘つれて
とあるに。
とち毛の犬のほゆる大磯
と附給ひける。これらは一時の御遊戱といへども。御捷才の程うかゞひ奉るべきにぞ。また御たはむれにあそばしける俳徊躰の御句。御みづからかゝせ給ひしを。今も畵院狩野探淵が家に傳へたり。
台コ院樣御眞翰。(箱書探幽自筆。)
夕ま暮天井より
のさがり蛛。
いそぎて歸れ。
尻をやかるな。
むさし野に嗜む
をとは誰ならじ。
心もうかぬ月を
こそ見れ。
ひらきをく戶口の
風に振はれて。
ちりぢりになる粉
藥はおし。(御連哥留。)
翰墨の技も御幼年よりよくせさせたまひ。七歲の御時菅神の名號をかゝせられ。半井大和守正Cにたまはせしとて。いまにそが家に傳へたり。また本多中務大輔忠勝が家臣都築彌左衛門が見え奉りしとき。世にはわれ能書なりといふよし。いかにと御尋ありに。いかにも仰のごとく。たれもれも目を驚し奉ると申上ければ。さらば汝に手本書てとらさん。何にても好にまかせんと仰ければ。彌左衛門かしこみて。たゞ俗間通行の書牘を給はらんと。ねぎ奉りければ。そのごとくに御筆をそめられしとぞ。御精技の程思ひしるべし。今も御文庫に傳へし王羲之が聖教序は。常に御臨本になされし御品なりとぞ。また下總國舟橋太神宮の神庫にも。二條城行幸の時の御懷紙今に傳へ。畵院狩野探淵が家にも。御屏風におされんとて。古歌八首をあそばしたるを。遠祖探幽法印に賜りて珍藏す。いづれも御筆勢溫澗富腴にして。よく蓮一派の骨法を得給ひ。あてにもたうとくも伺ひ奉るは。げに天章奎藻などいふごとく。凡筆のくはだて及ぶ所にあらず。(貞享書上。半井譜。)
騎法をば中山勘解由照守に學ばせらる。或時其家の秘傳都歸の法といふを問せられしに。照守是は第一の秘事なれば。名ざしては申難し。とくに申上置ぬといふ。其後御乘馬のおり照守にむかはせられ。これにてはなきやと仰られしかば。さん候。唯今の御手綱が即ち都歸にて侍と申上しかば。御スなゝめならず。その後鎧下の馬四五疋求めさせらるゝとて。照守を奥につかはされんと命ありしに。馬毛の疵及び年の鑑。定爪の打方は。それがし見分難しと申て。太田善大夫吉正を推擧して。同じく奥に下り。龍蹄二十疋計り求め得て還り聞え上しかば。馬喰町の馬塲に成せられ。閱覽有て悉く照守に預け給ひぬ。其後照守老年に及びける比。今一度騎法尋させ給はんとて。殊さら二丸に召て。御門まで乘輿の御免しありて圓座を設け。いと懇ろに御尋ありて。召せられし御羽織を賜はりしとぞ。(家譜。) 
卷五 

 

伊豆の三島通行ありしとき。御旅館にて御寐の程。近臣等御傍に在てよもやまの物語せしに。一人いふ。さいつ比此處通御ありしに御中間何がしいと剛の者にて。三崎の神池のうなぎをかばやきにして食し候。常は神のうなぎなどいひて。土人等手もさゝぬ事なれど。上樣の御供なれば。何のたゝりの有べきとてくひしは。いと剛の者にてはなきかといふを聞給ひ。俄に起あがり給ひて。何とあるぞ。今一度いへとの給ひて。重てとくと聞せられ。本多佐渡よべとの上意にて正信參りければ。さきの事佐渡にきかせよとてまたかたれば。即ち正信に命じ。その者糺して明日三島の町端に磔にかけ。札にそのよしかきてさらすべし。わが威權をかりて靈神を輕しむる樣に成ては。この後誓詞の文もいたづらになりなん。これ小事の樣なれども。事躰に關係すること容易ならずとて。遂に法のごとく行れぬ。また府城の番に出る者が。酒にゑひ刀を拔て。御堀のこまよせきりけるよし聞し召れ。酒に醉すぐして人もこまよせもけぢめなくなりしゆへ。さだめてこまよせを人と思ひて切しならん。この處咎めらるべきにあらず。たゞ番に當る者がかくいひがひなく醉すゝみては。何の用にか立べき。番するも詮なしと仰られて。是も腹きらしめられしとぞ。(逸話。)
御鷹狩仰出されて。夜半計りより大雨ふり出しが。延引の仰もなければ。供奉にさゝれしものら。七時よりまうのぼり。公にも六時前に御膳きこしめし畢て。鷹匠共は揃ひたるかと御尋あり。いづれも燒火の間に。ぬれし御鷹をほして罷在と申あぐ。公直に出御有て。此雨にてはかなふまじやと上意あれば。いかにもかなひ申まじと申上るにより。さらば還りて鷹のしゝを開き候へと仰られ。その上供奉人にみな見參給ひ。けふの御狩御延滯の旨仰出されしとぞ。元より大雨にてならせ給ひ難きは。しろしめしながら。一度御觸ありていづれも伺公せし事なれば。上にもことさら御裝束まで。かへさせられし上にて。延引は仰出されしとぞ。(額波集。)
明日六時御鷹狩に出給ふべしと觸ありて。御膳の半に六時を已に打ば。御箸をすてられ直に成せられぬ。かく嚴正におはしければ。御膳などにさしかゝり少し刻限の遲きは。見計ひて自鳴鐘を鳴らさずして扣へしとなり。井伊掃部頭直孝このよし聞て。大に近臣等をとがめ。おことだちはいまだ臣たるの道をしらざるか。上正道をもて萬事をおきてたまふに。臣たるもの誠心もてつかへ奉らねばかなはぬ事なり。さるを君を僞りてよき事とおもふは僻事なり。かゝることの起てぞ。上下壅蔽して上の正道下に及ばず。下の誠意上に徹らず。小人この隙に乘じて姦邪を行ひ。下民怨恨するに至る。この後はきと愼まれよといたくいましめしとぞ。(雨夜夜灯。)
御側ぢかき者に役義命ぜられし後。その者あしき事仕出さば。上の御失なれ。外樣の人にかゝる事あらば。是その頭支配の越度とす。されど從世となりなば。その曲折しるものなければ。ともに上の御過と思ひなすべし。よく常々監察して善惡をえらぶべし。又あしきとて一切にその人すつべからず。去年あしきとも今年よき事あらば。そのよきをとりてさきのあしきをばすつべし。とにかく先非を悔て善にすゝまん樣に引立べしと仰なり。かゝればこそ當代には。昨日迄あしと思しめしても。今日善事あればとみに褒賞行れしことも。度々ありしとぞ。(三河之物語。)
人はいかにも己が身を卑下し。何事も人に及ばぬと心得て。謹むべきなり。たとへば愚人蛤貝一片を得てその對を求むるに。もとめ得ざればはらだちて元の貝をも捨るなり。元の貝のよからぬには非れども。わが心からかゝる事するもあり。人々己が不善をわすれ。朋友にむかひて善を求むるは。おなじ事なれと仰有しを。阿部備中守正次承りしとて。人に語りしなり。(武功雜記。)
鯉を御前にて調理しける時。兼て鯉の庖丁は。鯉の脊を三度撫て切といふが法なれば。庖人撫る時。鯉はねて爼板の上より落る處を。まなはし取直し。そが兩眼を一箸にさして。其まゝ調理しける樣。いかにも手際に見えければ。侍座のものいづれも感歡し。賞せられ給はゞなどそゝのかしいふに。公ははじめより側むきて見もし給はざりしが。旣に調じて獻り左右にも賜はりけるに。風味格别なりとてまたまたいひ出ければ。仰にかゝる小事には賞行はぬものよ。すべて賞罸はつり合よからねば立ぬものなり。この鯉を調理せん時。もし取落したりとて罸すべきや。汝等たゞ目前の事のみにて。始終の思慮なしと仰けるとなり。(逸話。)
御狩の折。御鷹にて鴈を合せ給ふべしといふに。鐵炮めして直に打とめ給ひぬ。還御の後御物語ありしは。われ鷹使ふ事は思ふ樣にもなけれども。銃技はすこし手に附樣にもおもへば。銃にて打とめしなり。すべて諸藝ともかくの如くにて。其身にかなはぬ業を。人の見るも憚らずおこがましくなすは。其人がらまで何となくうつけて見ゆる者なりと仰られしとぞ。(名將名言記。)
加州金澤城燒しよし聞し召れ。御內書遣はされて問せ給はんと仰られしを。老臣等少しのべられ賜物とゝのへて。一度に遣はされんかと申上しに。かゝる時は一刻も早く。安否をとひたるがよし。延引してよからずと仰ありて。曾我又左衛門古祐召て。御書かゝしめて遣はされしとぞ。(武家閑談。)
惣じて人の福コは生れ付てある者なり。たとへば。我意にかなひ加恩賜らむとおぼしめしても。ゆへなくしては下されかぬる事もあり。また御意に入らで。加恩はさらなり。何ぞ過失あらば御咎をも仰付られんと心搆しても。やむことなく加恩下されねばならぬ樣に。打こむでくる者あり。伊澤隼人などは盛意にかなはぬ者なるが。加恩給はらねばならぬ事仕出すゆへ。御心ならねども度々加秩下されしなり。八木勘十カは御氣しきにかなへば。よき折もて加恩たまはらんとおぼしめせども。あやにくに仕損ずる事ありて御しかり蒙るか。又は病に逢て其時を失ふ事度々なりと仰られしが。かくれさせ給ひし後。御遺命によりて。靈廟の搆造を奉りし其功によりて叙爵し但馬守と稱し。四千石の加秩給はりしとぞ。(ェ元聞書。)
世の諺に浮世はのごとし。一寸先は闇なれば。たゞ一時も樂しまむこそ。樂なれといふは僻事なり。夢の內はわづかなれど。後の世は長し。又わづかなれば愼むべし。つゝしむにも安しと仰られしとぞ。(名將名言記。)
いつの比にか彗星北方に現れしかば。騷亂の兆なりとて世にいひもてなやむを聞給ひ。人々よく考へみよ。大空の中に斯る一星が出て。その兆は何くの國にあたるなどいふは兒童の見なれ。善惡とも天に現るほどならば。世人なにをもてのがるべきと仰られて。少しも御懸念の樣おはしまさゞれば。いづれも安意せしとぞ。むかし晋の孝武帝の時。長星の現れしをみて。長星汝に一抔の酒をすゝむ。いにしへより萬歲の天子なしといひしにくらべ奉れば。公の天命に安じ。御身に立反り給ひて御自修ありしは。いと及びがたき御事にぞ。(名將名言記。)
凡そ侍たる者の心得は三つあり。第一は風狂鬪諍。第二は震雷。第三は火災。此三つは皆不測に起れば。兼てより此時にはかくせんと工夫して。狼狽せざるを肝要とすべしと仰られしなり。(名將名言記。)
あるとき林道春信勝に尋給ひしは。豐臣太閤の京都の邸を聚樂と名付しは。いかにと問れしに。信勝歡樂極りて哀情多といへば。樂をあつむるといふは。いと不祥の兆なりと申上しかば。公聞しめし。われらもその比幼弱にてありしが。さ思ひし事よと仰られしとぞ。(久國談話。)
觀世小次カが殿中にて。はじめて申樂つかまつりし時。脇は高安彥太カとて。其比名高きものなり。この日脇の見所はなく。たゞ小次カがさまいかにもすぐれて見えしかば。見物の者ら。藝は上手におさるゝといふはさる事なれ。さすがの彥太カも。小次カにけおされて見る影もなしといふ。公には御覽はてゝ後。彥太カが名人といふを今日こそはしりつれ。いかにとなれば。小次カはけふは始めてのわざなれば。そが仕よきやうにかまへて。己が藝の限り出さぬは。上手の上の事にて。なみなみの者の及ぶところならず。格别の事なり。小次カも慕閑が子ほどありて。よくしたりと仰られしとぞ。(明良洪範。)
小太刀半七といへる劍法に達せしもの。鐵扇もて仕合するに妙を得しと聞しめされ。その門人にいかなる術あるかと尋給へば。别の事にも候はず。仕合いたし候に。何となく面白くおぼゆるが。極意なりと申上しかば。殊に御感ありて。すべて軍陣などに臨ておもしろしとだに思へば。恐しき事うせて自ら計策も出くるなれ。いさゝかの諍鬪にも。急遽にせまりて轉動するゆへ。手ぬるくて後れをとるものなりと仰られしとなり(三河之物語。)
御平常御けしきうるはしき時にも。大名旗下の者らが病死せしよし聞しめせば。俄に御樣變り。しばしが間はものものたまはず。人によりては御淚おとされ。そのまゝ奥に入らせられし事もあり。かく人々を手足のごとくおぼしめされしゆへ。下が下に至るまで。御仁心になづき奉らぬはなかりしなり。(名將名言記。)
御平素小皷うつことを好ませ給ひしが。神祖かくれさせ給ひて後は。絕てうたせ給ふ事なし。土井大炊頭利勝御咄の折から。徒然におはします折は。例の御皷あそばしなば。少しは御心も慰ませ給はんかと申せしに。いやとよ。我も打度は思へども。今我天下の主として皷うたば。下々の者らその風をまなび。皆皷打に成べしと仰ければ。利勝あまりのかしこさに。淚おとして御前をまかせしとぞ。(古老噺。)
花卉を殊に愛翫し給ひしゆへ。各國より種々の珍品ども奉りける內に。廣島しぼりといふ花瓣に斑の入たる椿を。接木にして獻りしものあり。殊に御けしきにかなひ。後圃にうへしめられ。いつしか咲出んと月日をかぞへて待しめ給ひ。からうじて咲出ければかくと告奉りしに。見事なるかとの仰ばかりにて。後園に出まして見そなはす事もましまさず。其頃いさゝか觸穢の事おはしまして。つゝしみ給ふ程なれば。もし園庭に出まして天日の光に當らせ給はゞ。天を敬の道にあらずとおぼしとりて。かくつゝしませ給ひし之。さるは常に宮室の內にても。日光の及ぶ所はよけて踏せ給はざりしなり。又嚴冬の比窖養せし牡丹を奉りし者あり。いとうるはしと宣ひて。花瓶にも挿せ給はず。その儘捨置れしなり。かく時ならぬものは。何ほどめづらしとても御手にもふれ給はず。もとより御美質におはしましければ。自然と御行狀の聖賢にもかなはせられ。いとたうとく仰ぎ奉るとぞ。(額波集。名將名言記。)
豐臣太閤申樂催して。諸人に見物せしめしとき。韓國より捕來りし虎の。檻を破て見物の席へはひ上りければ。太閤は奥の方へ走入り。加藤主計頭C正の座をめかけて進みよれば。C正太刀を按へ一呵せしかば。虎恐れてこたびは公の御前にむかひ來るを。はたとにらませ給へば。虎また畏縮して退去せしとぞ。常には溫和にわたらせ給へども。時としてはかゝる御威容もおはしましける事よと。見聞の輩驚歎せしとぞ。(君臣言行錄。)
大姥の局といふは。公の降誕ありし時より御乳にめされ。年比かひがひしく仕へ奉り。公にも御心へだてなくむつび給ふ。局元より性質正しく才器ありて。よく人を哀みければ。人また愛重する事大方ならず。局が大病にのぞみし時。御みづから病床にならせ給ひ。何ぞ思ひ置事あらんには申置べし。汝が申所は何事なりとも。かなへてとらすべしと仰ありしに。局重き枕をもたげ。此姥は殿に御乳を含め進らせしとて。年比かしこくもかへりみまつはし給へば。一身の安榮を極め侍りぬ。今はこの世に思ひ置事なし。殿には大殿の庭訓を守らせ給ひ。天下大小の人に後指さゝれざらむやうに。何事も掟させ給ふべし。この外申上る事なしと申ければ。いと理と聞しめされ。さるにても猶申置事はなしやと重ねてとはせ給ふ時。さらに申上べき事候はずと聞えあぐ。公にもかくなやましき樣を御覽じすてゝかへらせ給ふべき御心地もし給はねど。いつまでかくておはしますべきならねば。其所をたちさらせたまはんとする時。局また殿々と呼返しまいらせ。吾子さきに罪を犯して遠き所に流されたり。このものはかならずゆるしたまふべからず。もし老たる姥を哀とおぼしめし。姥がゆへもて天下の大法をまげ給はゞ。これぞ姥が黃泉路の障となりぬべしと申て。その後は口を閉て何事も申さずなりけり。古今の保母さまざまなる中にも。かゝるたぐひあるべしともおぼえす。また公の年比保育の恩を忘れ給はで。終始よく恩䘏を施し厚遇し給ひし事を。誰も誰も感じ奉りけるとぞ。(巢鳩小說。)
佐竹義宣は關原の役に。上方の方人せし罪により。代々の舊領常州水戶を召上られ。出羽の秋田に迁さる。義宣が內に車丹波といへるは。聞えたる剛の者なり。水戶の城をとりかへさんとて一揆を起せしが。事ならずして誅せられぬ。その弟何がし身をかくし。兄の仇復むとて公の御草履をとり。晝夜間を伺ひしかども。遂に露顯してめしとられぬ。御所に引出し。いかなる者ぞと親ら問せ給へば。ありのまゝを聞え上。さるべき折を伺ひ。およそ三度まで思ひ立しが。いつも御威嚴わゝしきにおそれ。太刀拔んとすれば兩手ふるへてかなはず。はてにはかく縛せられぬ。此上は一刻もはやく首刎られよといふ。公聞せ給ひ。兄が爲に仇報ひんとかまへし志。神妙におぼしめせば。この後改めて我につかへねと仰けれども。一旦仇と思ひ奉りし御方を。今さら主とョみ奉らむも本意にあらず。ひらに誅し給はれとて從はず。公重て。いかにも汝が命をば助くるなり。心短くおもはであれとの給へば。一命をたすけ給はるはかしこけれど。何の顏ありて世にまじらふべき。此よりは乞丐となりて身を終り申べきなりといへば。さらば非人の頭にいたし遣すべしと仰ありて。終にそのごとくなし下されしは。いまに車善七といふて。丐者の長たる者の祖なりとぞ。(明良洪範。) 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。