■第1章 古代史の復元 | |
■第1節 国内資料 | |
一般に古代史を探る資料としてよく使われているのは、次のようなものである。
1 古事記・日本書紀・神社古伝承などの日本国内資料。 2 魏志倭人伝・後漢書東夷伝などの外国史料。 3 遺跡・遺物の出土状況。 日本国内資料は、他の資料に比べて詳しいのであるが、都合によって書き換えられている可能性もあり、その信憑性に疑問があるというのが一般的見解である。しかし、より正確であるといわれている外国史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じている。このような状況であるから、いつまでたっても古代史の謎は解決しないのである。 信憑性に疑問があると雖も、最も詳しいのは国内資料である。例えば、戦国時代において、今川義元が上洛の兵を挙げてから、徳川家康が幕府を建てるまでの国内の記録がすべて失われていて、それを、遺跡・遺物と外国の資料だけで正しく復元できる人がいるだろうか。このようなことは、まず不可能である。このように、国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられる。全体の流れをつかむには、日本国内資料に頼るしかないと判断し、日本国内資料のうち、正確である可能性の高いものを基に古代史を復元し、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思う。 古伝承に関して、多くの人の書物を拝見した中で、真実に近いのではないかと個人的に判断したのが、栗原薫著の「日本上代の実年代」、原田常治著の「古代日本正史」「上代日本正史」そして、小椋一葉著の「消された覇王」「女王アマテラス」である。 「日本上代の実年代」は、古事記・日本書紀の年代が古代の半年一年暦で決められており、その後の通常の暦との間で、混乱が生じたために、年代が合わなくなっているという仮定の下で、年代復元をしたものである。この復元年代を用いると、古事記と日本書紀の間の年代の違いを説明できるばかりか、中国史書や、好太王碑文、朝鮮半島の史書などとほぼ完璧に一致しているという結果が得られた。偶然で一致することはとても考えられないので、この仮定は正しいと考えられる。それと同時に、古事記・日本書紀は意外に正しい情報を伝えている証にもなる。しかし、一致しているのは開化天皇の没年(245年)以降のことであり、それ以前は、単純に日本書紀の年代を半分にしただけで、他資料との年代不一致がかなり見受けられる。そのため、崇神天皇以降について、「日本上代の実年代」は、概ね正しいと判断したい。 次に、「古代日本正史」「上代日本正史」「消された覇王」「女王アマテラス」であるが、これらは、著者が日本全国に散らばる神社に伝わる古伝承を調べ上げ、その古伝承につながりがあることを発見して、古代史を復元したものである。 離れた場所にある複数の神社が、互いを裏付けるような伝承を持っていることが多い。このように複数の神社で裏付けられた伝承をつないでいくと、古事記・日本書紀とは別の古代史が浮き出てくるのである。そして、各神社の伝承の食い違いを調べていくと、古事記・日本書紀に沿うように、伝承の改竄が行われていると言った事実も浮上してくる。 たとえば、古事記・日本書紀では、イザナギ・イザナミが国生みをしたとあるが、神話に記録されている場所の神社を調べてみると、イザナギやイザナミが祭られているものはほとんどなく、あっても具体的な行動を示す伝承を伴っていない。しかし、相当数の神社が代わりにスサノオやニギハヤヒを祭っていて、国土の統一をしたという伝承を伝えている。一つや二つの神社がこのようなことを伝えているのであったら、何かの間違いということも考えられるが、非常に広範囲に分布する数多くの神社が、古事記や日本書紀にはない具体的な各地における業績を伝えているのである。これは国土統一をしたのはスサノオやニギハヤヒで、古事記・日本書紀では、その業績をイザナギやイザナミにすり替えたものと判断することができる。 これらの伝承を伝える神社は数が多い上に、古事記や日本書紀が編纂される前に建てられたものが多いために、古伝承を故意に作ったとか、偶然一致するとか言うことは考えにくく、真実を伝えていると考えた方が自然である。 しかし、これら書物の復元古代史は、大和朝廷の成立を241年としており、中国史書や遺跡・遺物との照合が不十分で、その年代設定に矛盾が生じていて、「日本上代の実年代」とも繋がらない。そこで、神社古伝承の年代を何年か遡らせて修正し、「日本上代の実年代」と繋いだ古代史を復元したいと思う。 |
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■第2節 年代推定 | |
■第一項 平均在世年数
「古代日本正史」では、天皇一代平均在位年数を約10年として計算したために、神武天皇の即位年代が241年頃になるというものである。ところが天皇に即位するのは親から子へ相続することもあれば、兄弟相続のこともあるし、従兄弟相続もあり得るのである。そのため、どの相続をするかによって平均年代が違ってくる。一代平均の誤差は代を重ねるごとに累積するのである。なるべく誤差の少ない推定法を採らなければならない。 そこで、天皇に即位するかしないかに関係なしに、系図から年代を推定してみようと思う。まず、父の没年から本人の没年までを在世年数と呼ぶことにし、この在世年数がどれぐらいであるかを検討してみよう。父と子の年齢差が嫡子誕生時の年齢であるから、系図上の各人物の平均在世年数は、嫡子誕生時の平均年齢と等しくなる。嫡子誕生時の年齢は、医学的にある範囲に限られており、父が没する年齢が上がれば、子の在世年数は短くなり、下がれば長くなるため、何世かの合計として考えれば、そのばらつきは小さくなるものと考えられる。そして、実際に系図から年代を推定する場合は、何代かの合計年数を使うのである。はっきりしている範囲での天皇系図から、平均在世年数を求めると一世平均28年ほどになる。 一世あたりを計算すると、標準偏差約21年、平均に対する標準偏差の割合は74%で、平均に比べばらつきが大きいのであるが、七世程の合計で考えると195年程となり、その標準偏差は26年程で、平均に対する標準偏差の割合は14%となり、ばらつきは小さくなる。世数に比例して合計年数が増えるが、何世間の年数をとろうとも、標準偏差は大きくは変わらないのである。これにより、系図を用いて実年代を推定するには、何世かの合計を使うと、ばらつきが少なく、より正確な推定ができることが分かる。上の表は天皇系図における1世〜10世までの各世間の年数を計算し、その年数ごとの場合の数を示したものである。これをもとに古代の年代推定をしてみよう。 正確な年代推定をするには天皇系図が正しいものでなければならないが、古事記・日本書紀の系図は、大和朝廷初期ですべて直系になっており不自然である。そこで、まず、系図の確認をする。 |
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■第二項 天皇系図の修正
皇統譜の人物の没年から直系の各世代間の年数を調べて、古代の年代を推定しようと思う。 「日本上代の実年代」により崇神天皇の没年が279年になっており、神武天皇から崇神天皇までの世数がわかれば、神武天皇の即位年つまり、大和朝廷の成立時期が推定できる。「上代日本正史」によると、崇神天皇は神武天皇七世にあたり、古事記・日本書紀とは異なる系図を示している。第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇が兄弟であるということと、第八代孝元天皇は神武天皇の次男の彦八井耳命の曾孫に当たり、第七代孝霊天皇とは別系統同世代になっている。 著者の原田氏が、旧家に伝わる孝元天皇の系図を手に入れられたそうであるが、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であることの裏付けに乏しい。そこで、別資料から確認してみることにする。丹後の篭神社に保存されている国宝の海部氏系図によると、第五代孝昭天皇の皇后(世襲足姫)は、神武天皇と同世代の天村雲命の孫となっており、神武天皇と孝昭天皇も祖父と孫の関係ぐらいでなければならない。つまり、「上代日本正史」にあるとおり、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟と考えなければ説明が難しい。 また、阿蘇神社を創建した人物は、神武天皇の孫にあたる武磐竜命の子であるから、神武天皇四世である。これが孝霊天皇の時代であると記録されていることから、この人物は孝霊天皇と同世代と考えられ、孝霊天皇は神武天皇四世あたりと判断される。綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であれば、孝霊天皇は神武天皇五世となる。 このようにして、いろいろな豪族の系図と比較したのが豪族系図である。これを見ると、ほぼ完全に皇室の推定系図と世数が一致していることがわかる。 これらより、「上代日本正史」の系図は大体正しいと判断してよい。 |
■第三項 一年2歳論 魏志倭人伝には「倭人は春耕秋収を数えて年数としている。」「人の寿命は倭人の計算で百年あるいは八、九十年という。」とある。当時の平均寿命は発掘した人骨から30年を少し超えるぐらい、日本書紀の年代のはっきりした頃の天皇の平均寿命は54歳である、このことから考えると、当時の一年は今の半年に相当するようである。日本書紀の日付を調べてみると、綏靖天皇から開化天皇までは孝安天皇の即位期日を除いてすべて各月15日未満である。それ以外の天皇についても15日未満が圧倒的に多い。このことは、当時の1ヶ月が15日までであったことを想像させる。 |
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■第四項 「日本上代の実年代」による年代推定
栗原薫氏は、5世紀を中心とする上代は半年で1年とした紀年があったという仮定の元で朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などとの照合を図ることにより、その年代を復元された。この復元年代では朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文及び日本書紀・古事記の年代のずれがきれいに説明できる。要点をまとめると次のようなものである。 1 允恭天皇の没年までに通常紀年と半年一年紀年が国内に存在し、それぞれ干支で持って記載された資料があった。 2 日本書紀はそれぞれの干支から推定される年代を矛盾があるまま記載した。 3 通常紀年による年代と半年一年紀年による干支を区別せずそのまま記載した。 4 通常紀年と半年一年紀年の間に16年のずれがあり、半年一年紀年は通常紀年より16年さかのぼっている。 5 崇神天皇から仲哀天皇までは古事記または日本書紀の寿命から百を引いた数字を在位年数とすると、古事記の崩年干支及び、住吉大社神代記に伝えられている垂仁天皇の没年干支(辛未)と一致する。 6 通常紀年と半年一年紀年の双方を使うことにより古事記と日本書紀の宝算のずれが説明できる。 これによると、開化天皇以降の各天皇の没年は次のようになる。 崩年 修正 書紀 記 干支 干支 干支 9 開化天皇 245 庚午 癸未 10 崇神天皇 279 戊寅 辛卯 戊寅 11 垂仁天皇 307 辛未 庚午 12 景行天皇 325 戊申 庚午 13 成務天皇 328 乙卯 庚午 乙卯 14 仲哀天皇 331 壬戌 庚辰 壬戌 15 応神天皇 394 甲午 庚午 甲午 16 仁徳天皇 427 丁卯 己亥 丁卯 17 履中天皇 432 壬申 乙巳 壬申 18 反正天皇 437 丁丑 庚戌 丁丑 19 允恭天皇 459 己亥 癸巳 甲午 これによると倭の五王は讃(仁徳天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)となる。 この年代は朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などと合理的に一致しているため、この古代史の復元にこの説を用いることにする。この説を用いると、卑弥呼の邪馬台国時代は崇神天皇の時代となる。栗原氏は卑弥呼を開化天皇の皇后に比定しているが、倭迹迹日百襲姫にすると、卑弥呼の没年が250(崇神10)年となり、前後の日本書紀の記事と魏志倭人伝の記事がほぼ完全に一致していることが分かった。また、天文ソフトで計算された日食の日時(248年9月)と天岩戸神話のときに作られたという八咫の鏡の製作年(崇神6年=248年後半)と見事な一致が見られる。 |
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■第五項 大和朝廷の成立年
この系図を使うと崇神天皇は神武天皇七世となり、神武天皇即位から崇神天皇の没年までの年数は上の表より七世193年程となるので、神武天皇の即位年は、「日本上代の実年代」による崇神天皇没年の279年から逆算して86±27年となる。よって、大和朝廷成立は紀元80年頃と推定され、弥生時代後期前葉の終わり頃と考えられる。弥生時代後期前葉から中葉への変化は、大和朝廷成立によってもたらされたものと推定され、後でその変化を確認してみたいと思う。 栗原説によると神武天皇即位年は紀元前98年となっている。これは、開化天皇以前もそのまま半年一年紀年でつながっているとした仮定で計算されたものであるが、この復元古代史とは一致しない。栗原説を利用した神武天皇の即位年を推定してみると、神武天皇は辛酉年に即位したと記録されている。この辛酉が正しいかどうかの議論もあるが正しいとすれば、半年一年紀年で紀元91年となる。しかし、「日本上代の実年代」によると半年一年紀年は16年さかのぼっている。そのため通常紀年に直した8年をさかのぼらせて紀元83年となる。これは先に推定した即位年に極めて近い数値である。 |
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■第六項 初期天皇の在位年数
■古事記と日本書紀の年数の違い 崇神天皇以降の各天皇の在位時期は「日本上代の実年代」でほぼ間違いないと推定するが、それ以前の天皇については「日本上代の実年代」ではなかなか一致しない。そこで初代から第10代までの天皇の在位時期を推定してみる事にする。 表は古事記と日本書紀の年齢と在位年数を比較したものである。アンダーラインが入っているのは古事記の年齢と関連が深いと考えられる在位年数または年齢を示している。これによると、古事記の年齢に関連が深いのは、崇神天皇以前は日本書紀の年齢よりも在位年数である。表のa−cは古事記の年齢と日本書紀の在位年数との差を取ったものであるが、1の位が0〜3にかぎられ、きわめて作為的である。この二つのデータは関連が深いと考えてよいようである。また、各天皇の即位時の年齢は表のb−cであるが、崇神天皇まではこれも極めて作為的である。よって、崇神天皇以前の日本書紀の年齢はほとんど無意味であり、在位年数に意味があると考えられる。 ■孝霊天皇の没年 崇神天皇の即位を246年とすると、卑弥呼と考えられる百襲姫の没年は崇神10年(250年)となる。その前後の訪問記事が年表にあるとおり日本書紀と魏志倭人伝で一致していることから開化天皇の没年も「日本上代の実年代」が正しいと考えられる。 また、「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。日本書紀のとおりに半年一年暦で年代を計算すると孝霊45年が170年、71年が184年となり梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178〜183)とぴったりと一致し、孝霊天皇の没年までは日本書紀の年代はそのままでよいことがわかる。 孝元天皇の在位年数は日本書紀で57年である。これは古事記の宝算の57年に等しい。日本上代の実年代でも古事記の宝算は寿命というよりは在位年数と関連が深いことが指摘されている。孝元天皇の場合はそのものずばりである。問題は開化天皇にある。開化天皇は日本書紀における在位年数は60年で、古事記の宝算は63年である。「日本上代の実年代」によると、開化・景行・成務の三天皇の在位年数は不明であったがために平均の60年(通常紀年の30年)にしたとされている。それであるならば開化天皇の在位年数60年は怪しいことになる。ここでは倭の大乱があった頃と孝霊天皇の在位時期が一致するためにそのまま開化天皇の60年を採用しているが、あるいは古事記の63年が正しいかもしれない。しかし、その差は半年一年暦で3年であるから、63年を採用しても孝霊天皇時代に合致し矛盾は生じない。どちらが正しいかを判断する方法が今のところ存在しないので日本書紀の年代をそのまま使うことにする。 開化天皇の没年から推定される孝霊天皇の没年は1世代前であるから前表より245年−28年±21年である。つまり、196年〜238年となり、孝霊76年=187年より少しずれるようである。吉備津彦の謎の項で詳しく述べるが、吉備津彦の年代から推定して孝霊天皇の没年は200年頃以降と考えられる。 ■日本書紀の紀年は天皇誕生年からの年数 神武天皇の即位が80年頃ということから、孝昭天皇の在位83年や孝安天皇の在位102年は半年一年暦としても42年と51年となり長すぎる。日本書紀の年代はそのままでは正しくないようである。 上の表は孝昭天皇と孝安天皇の日本書紀の記述を年代ごとにまとめたものである。これを見ると、孝安38年に孝昭天皇を葬ったとある。死後38年(実は19年)もたってからの埋葬とは異常である。孝霊天皇や孝元天皇が死後5・6年(実は2.3年)たってから埋葬されているが、ほかの天皇はその年か次の年には埋葬されている。孝安天皇は孝昭天皇の死後即位したのではなく、生前に譲位されたものと考えれば、この矛盾が説明可能である。ということは、日本書紀の紀年は在位中の紀年ではないことになる。 また孝昭天皇も孝安天皇も皇后を決めたのが即位後29年と26年でいずれもかなり経ってからとなっている。古代は平均寿命も短く、流行り病などでいつ死ぬかわからない状態であり、後継者を早めに育てるのは大変重要なことと思われる。そのため皇后の決定は早くなければならない。このことは、この2天皇がかなりの若年で即位したか、紀年が即位からのものでないということを示している。前天皇が死亡したのならともかく、生前譲位で若年即位というのは考えにくい。その結果、日本書紀のこの2天皇に関する紀年は、即位年を基準としているのではないと考えられる。それでは何が基準になっているのであろうか。 孝昭天皇が没したのは孝安38年の少し前と仮定してみる。孝安天皇が誕生したのは孝昭48年であるが、その35年後に孝昭天皇が没している。この仮定によると日本書紀の孝安天皇元年は、孝安天皇誕生年とほぼ一致することになるのである。孝安天皇の紀年を誕生年を基準とするものとすれば、孝安35年(実は18年)に孝昭天皇が没し孝安38年(実は19年)に葬ったことになり、自然につながる。崇神天皇以前は古事記の年齢と日本書紀の在位年数の関連が深いのもこのことを裏付けている。日本書紀の初期天皇の紀年は天皇誕生年からのものと 考えられるのである。これによると孝昭天皇誕生から孝安天皇没までの年数は149年(実は75年)となる。 神武天皇即位が辛酉年であることはよく知られているが、これが正しいかどうかは定かでない、しかし、半年一年暦であることから計算した辛酉年は83年であり、推定した神武天皇即位年に極めて近く、誤差の範囲内で一致している。これが偶然である可能性は低く、神武天皇の即位年は83年が正しいと考えられる。神武天皇の在位年数の76年(実は38年)は初代天皇であるため、即位後のものと考えられる。これにより、神武天皇の没年は121年となる。孝霊天皇の倭の大乱までの年数が50年ほどとなり、「上代日本正史」にあるように神武天皇も生前譲位していたものと考えられる。 懿徳天皇の誕生は安寧天皇の即位5年前となるが、それは安寧天皇14歳(実は7歳)で、しかも懿徳天皇は第2子である。これは医学的にありえないことである。綏靖天皇(33年)、安寧天皇(38年)、懿徳天皇(34年)の在位年数を実年齢に直すと17年、19年、17年となる。他の天皇に比べて在位が非常に短いことと合わせて、この3天皇が兄弟相続であることの裏付けの一つである。しかし、兄弟相続なのに3人合わせて53年とは長すぎる。この3天皇の紀年も年齢と判断する。その結果、いずれも早く没したことになる。神武天皇即位後朝廷の体制が固まるまで譲位はありえないし、3天皇の死後即位ということも考えられないため、神武天皇の即位後15年前後してから譲位したものと考える。綏靖天皇の在位は100〜102程度、安寧天皇は103〜106程度、懿徳天皇が107〜110程度と考えられる。いずれも3〜4年在位である。後の時代の兄弟相続にしてもそのようなものであるから妥当といえよう。3天皇とも若すぎる死であるため、嫡子の誕生は難しかったと考えられるが、いずれも皇后がいたようである。奈良時代の貴族の平均結婚年齢は15歳であるという報告もある。当時は15歳あたりで一人前といった考え方があったのではないだろうか。この3天皇はいずれも短命であったために、兄弟相続となったと考えられる。 次の第5代孝昭天皇はある程度の年齢であることが必要とされ、懿徳天皇の子であるとすれば誕生直後の即位となり、「上代日本正史」にあるとおり、おそらく綏靖天皇の子であろう。孝昭天皇は綏靖天皇の死と入れ替わる様にして誕生したものと考えられる。よって孝昭天皇の誕生は102年頃となり、孝昭天皇の没年は144年頃、孝安天皇の没年は177年頃となる。 ■孝霊天皇と孝元天皇の関係 「上代日本正史」によると、孝霊天皇と孝元天皇はいずれも神武天皇5世であるが、別系統であるとなっている。後でも述べるが、このことのはっきりとした裏付けは取れていない。しかし、年代を調べていくとこの2天皇が父子相続とは思えない面が出てくるのである。 「魏志倭人伝」によると250年頃卑弥呼が没しているがそれは「年長大」と記録されている。80〜90歳であったと仮定すると、卑弥呼の誕生は160〜170年となる。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫と推定しており、孝霊天皇の長女である。また、弟の若建吉備津彦命も180年頃吉備国や出雲国との戦乱で活躍している。この兄弟はいずれも160〜170年頃誕生していると思われる。孝霊天皇はこの年代論で計算していくと149年誕生となる。孝霊天皇が20歳前後のときこの姉弟が誕生していることになる。後で述べるとおり、孝霊天皇は210年頃まで生存していたふしがあり、215年没の孝元天皇の生存期間とほとんど重なるのである。孝元天皇、開化天皇の紀年は誕生年からではなく、即位年からと思われ、在位年から推定すると平均的寿命であったと思われる。孝霊天皇と孝元天皇が親子であると考えられなくもないが、同世代である可能性が高い。 ■各天皇の没年と年代推定 第一代神武天皇の即位年を83年として開化天皇の没年(245年)までの各天皇の没年を「上代日本正史」をもとにしてまとめると次のようになる。 これを見るとほとんどの天皇が推定範囲に入っている。崇神天皇以降で範囲から外れているのは、短命であったと推定されている天皇のみである。崇神天皇以前では綏靖天皇から懿徳天皇までと孝霊天皇の没年が推定領域から外れている。綏靖天皇から懿徳天皇までは早世と考えられる。孝霊天皇については同世代への生前譲位であるためと思われる。また、孝安天皇と孝霊天皇が同世代という可能性もあるが、孝霊天皇が210年頃まで生存した可能性を考えると、やはり、孝元天皇と同世代と考える方が良いようである。 ■神武天皇以前の年代設定 神武天皇即位はAD83年頃となったが、それ以前の人物の年代を推定してみよう。 神武天皇の父である鵜茅草葺不合尊は1世前でAD50〜AD80ごろ、その母である天照大神(ムカツヒメ)はAD20〜AD50ごろで、イザナギはさらにその1世前でBC10からAD20頃となる。スサノオはイザナギと同世代と考えられBC10からAD20頃が活躍時期となる。ここにあげた年代はその人物の活躍時期であり生誕はその20〜30年前となる。 「上代日本正史」「古代日本正史」の年代を160年ほど溯らせて、「日本上代の実年代」に接続すると以後に述べるとおり、中国史書、考古学的事実、神社伝承が驚異的に照合するのである。 ■各種資料との照合 ここで導かれた推定年代が考古学的事実及び中国文献と一致しなければ、この年代推定は間違いということになる。以下の年表が考古学的事実と推定年代を照合したものである。これを見ると、伝承における人々の動きと外来系土器の出土状況、倭国、日本国、大和朝廷の各時期における伝承上の勢力範囲と各種青銅器、外来系土器、墳墓、鉄器などいずれもきれいに一致していることが分かる。ここで確認しておきたいことは、考古学的事実に照合するように伝承を組み合わせたのではなく、この年代推定の元で伝承を一本の線につないだら考古学的事実とこれだけ一致したということである。 |
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■伝承・中国文献・考古学的事実の対照年表
この推定年代を統計的に分析した。継体天皇を基準とした布都御魂から継体天皇没年までと開化天皇没年を基準とした表である。継体天皇以後は日本書紀の各天皇の没年がほぼ正しいと推定されているので、継体天皇以降昭和天皇までの天皇以外も含む直系の人物の没年を調べ、各人物の世数と年数の関係を統計分析し、その結果と継体天皇以前の各天皇の推定没年が統計上のどの位置に当たるかを調べたものである。これによると、没年を推定したすべての人物が統計上自然な時期であることが分かる。 下の表は各豪族の世数と天皇系図の世数の対照表である。水色がついているセルの人物はその世数の天皇とほぼ同世代と確認できるものである。 この表より海部氏、大伴氏、吉備氏はすべての世代において天皇家と世代が一致している。これに対して物部氏、出雲氏、三輪氏は応神、仁徳朝における対応人物が見当たらない。大伴氏も一般には大伴武持の子が大伴室屋といわれているが、和泉国神別によるとここに佐彦、山前が存在し、きれいにその前後がつながる。また、景行・成務朝も該当する人物がいない豪族もあるが、この期間は短期間(20年ほど)であるためにありうることと判断する。 履中・反正・允恭朝以降はどの豪族も不自然な箇所なく継続している。 応神・仁徳朝で何系統かの豪族に空白(赤色)が見られるのは神功皇后・応神天皇が大和を制圧したとき、旧大和朝廷側についた豪族が処罰を受け、履中朝までの間中央から遠ざけられていたためではないかと想像する。
この表から判断して、皇室系図は各豪族の世数との間に整合性が見られ、1世30年程度での年代計算が正しいことを示している。 下の表は神武天皇即位から崇神天皇没までの年代推定の結果を年表にしたものである。〜のついたものは年代がはっきりしないものである。
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■第3節 神社でまつられている神 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 スサノオ
スサノオは全国の神社で「天王さん」と通称されている。「天皇神社」の祭神はスサノオである。天王社の総本社は愛知県津島市の津島神社である。津島神社の記録に、 「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」とある。 これはスサノオが神々の頂点に位置していることを意味している。 また、大山祇命を祭る神社は全国に一万一千社あるといわれているが、その総本社は愛媛県大三島にある大山祇神社である。ここでは大山祇を日本総鎮守として祭ってある。 奈良県の山口神社は大山祇を祭る神社ということでたくさん存在し、いずれも、大和とその周辺の国を結ぶ要路の境界点に建っている。山口神社の中には祭神が大山祇命・須佐之男命と併記されている神社や須佐之男命のみになっている神社もある。これは、大山祇命がスサノオであることを意味している。 また、スサノオの霊廟といわれている島根県の熊野大社でもスサノオはすべての神々の親神であると記録されている。 このようにして、全国の各神社の祭神の関係を調べてみると、その他にスサノオは、タカオカミ・イカズチ・フツシミタマ・ハヤタマオ・シラヒワケ・カミムスビ・オオワタツミ・カグツチ・ホムスビ・ヤチホコ・八幡大神等として祭られていることが分かる。 スサノオは地域の守護神として、あちこちに祭られており、神々の中で最高位に位置している。これは、古事記・日本書紀に書かれている暴れん坊のスサノオ像とは全くかけ離れたものである。全国の神社を調べても、元あった神に違う神を祭らせられたり、祭神を消させられたりといったことが出てくる。スサノオは古代において大変な事業を成し遂げ、全国の神社に日本最高神として祭られたが、後の権力者が都合が悪いと抹殺したものと考えられる。 |
■第二項 ニギハヤヒ
古代より代々の天皇が頻繁に参拝した神社は、大和の「石上神社」、「大神神社」、「大和神社」が挙げられる。いずれも神話上の最高神である天照大神とは別の人物が主祭神として祭られているのである。日本最高の神社といわれる伊勢神宮には、日本書紀以前に参拝した形跡がほとんどない。そもそも、神話上の最高神を祭った神社が大和にないこと自体がおかしなことである。 古代大和朝廷にとって重要な神社は上に挙げた三神社で、ここに祭られている神は、朝廷にとって重要な人物であるということになる。その祭神とは、それぞれ、「布留御魂神」、「大物主神」、「大和大国魂大神」である。これらはいったいどういった人物なのであろうか。 地方の三輪神社を調べてみると、 ●栃木市 大神神社 倭大物主櫛甕玉命 ●桐生市 美和神社 建速須佐之男尊 大物主奇甕玉尊 ●島根県 来待神社 大物主櫛瓶玉命 大物主はスサノオの近親者で櫛瓶玉という別名があることが分かる。 櫛玉という名で神社を探してみると、 ●愛媛県北条市 国津比古命神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊 ●兵庫県龍野市 井関三神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊 ●福岡県鞍手郡 天照神社 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 ●福岡県久留米市 伊勢天照御祖神社 天火明命 ●京都府 篭神社(元伊勢一宮) 主祭神 彦天火明命 相殿 天照大神 豊受大神 ●兵庫県龍野市 粒座天照神社 天照国照彦火明神 ●鏡作坐天照御魂神社 天照国照彦火明命 饒速日という人物が出てくるが、この人物の別名であることが分かる。篭神社でも分かるとおり伊勢神宮の神の上に位置し、天照という名を持つ神である。「天照」という名の付いた神社の祭神は大抵この饒速日を祭っているのである。「天照」とは天照大神を指すのであるから、天照大神を祭っていなければならないはずである。饒速日は大和朝廷にとって大変重要な人物で、古代の天照大神は、この饒速日を指していたようである。このようなことから、大物主は天火明命であり、饒速日命であることが分かる。 京都の大原野灰方町にある大歳神社は祭神は大歳神であり、石作連がその祖神を祭った神社であるが、次のような記録がある。 「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という。」 これは、火明命が大歳であることを意味している。大歳は、西日本各地で祭られており、中には「大歳御祖」とか「大歳御祖皇大神」という名で祭られているところも多い。「御祖」とか「皇大神」とかいうのは、他に「天照皇大神」と「豊受皇大神」ぐらいしかなく、ともに伊勢神宮の神である。この尊称はこの人物が皇祖であることを意味している。 スサノオの出身地である島根県に大歳を祭る神社が多く、飯石郡三刀屋町に大歳神社があり、「神国島根」によると、「須佐之男命出雲に於いて大歳を生み給い...」と書かれており、大歳神はスサノオの子であることが分かる。つまり、饒速日命はスサノオの子ということになる。 スサノオの住んでいた島根県の須我神社を調べてみると、その摂社にスサノオの子が列記してあり、その三番目に「琴平 大歳」と書いてある。琴平の神といえば大物主神であり、大物主神は大神神社の祭神である。 次に、大国魂神であるが、 ●名古屋市 国玉神社 祭神 大物主神 国内神名帳に「従二位大国魂神」と記録されている。その他、全国の「国玉神社」「国魂神社」は、いずれも大物主神を祭っている。これより、大国魂神は饒速日であることが分かる。 次に布留御魂大神であるが、茨城県の総社神社に布留大神はスサノオの子であると書かれていた。これも饒速日と考えられる。 饒速日は、そのほかに、クラオカミ・ワケイカズチ・コトサカオ・トヨヒワケ・アメノミナカヌシ・クニトコタチ・カナヤマヒコとして全国に神社に祭られている。 古代から大和に祭られて、朝廷が頻繁に参拝している神社には、いずれもニギハヤヒが祭られており、スサノオの子である。ニギハヤヒは大歳御祖皇大神として祭られていることが多く、皇祖であるらしい。皇祖であるからこそ、大和の大きな神社にはすべて祭られており、歴代の天皇も参拝を欠かさなかったという事実が説明できるのである。 この人物は大和朝廷にとって大変重要な人物ということになるが、古事記や日本書紀ではほとんど登場しない影の薄い存在である。日本書紀はニギハヤヒをオシホミミの子であるとしているが、全国のどの神社を調べてもそのような伝承はない。 全国の神社に伝わっている伝承は、古事記や日本書紀とは別のものであり、複数の神社の関連を調べていって浮き出てくるものであるので、これこそ真実を伝えていると判断する。ニギハヤヒは、後の歴史改竄作業によって全国の神社から消されたが、完全に抹殺できず、方々に消し漏れがあり、それによって真の古代史を判明させることができるのである。 |
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■第4節 神社伝承を基にした復元古代史 | |
神社伝承を分析することにより、判明した復元古代史のあらすじを「古代日本正史」「上代日本正史」「消された覇王」「女王アマテラス」と先程の年代推定の結果と総合して述べると、次のようになる。 | |
■スサノオ出雲国建国
紀元前37年朝鮮半島北端部(現北朝鮮と中国の国境付近)にあった布留国が滅亡し、その王家の一族であるフツ(布都御魂命)が戦乱をのがれ朝鮮半島南端部から、朝鮮半島の先進技術を携えて船出をした。 フツ一族は対馬海流に乗って島根半島の河下湾に流れ着いた。36年ごろ、平田市塩津町石上神社の地でフツを父としてスサノオ(素盞嗚尊)が誕生した。スサノオは沼田郷で成長し出西の久武神社の地に住んでいた。 紀元前20年頃、スサノオは、恋人イナダヒメ(稲田姫)を土地の豪族ヤマタノオロチ(八岐大蛇)に横取りされたことから、酒の席でヤマタノオロチを殺害した。 スサノオはイナダヒメを奪って八重垣神社(現松江市)の地まで逃避行し、すぐそばの須我神社(現大東町)で彼女と結婚した。嫌われ者の豪族ヤマタノオロチを倒したその力を買われ、 スサノオは周りの人々から国王に祭り上げられた。ここに須我神社を中心とした出雲国が誕生した。 ■瀬戸内海沿岸地方統一(倭国の誕生) スサノオは父から受け継いだ朝鮮半島の先進技術を人々に示すことにより出雲国を統治した。先進技術が生活の安定を生み、 周辺の小国家が次々と出雲国に加盟し出雲国は次第に巨大化していった。スサノオは出雲国が次第に巨大化するのを見て、朝鮮半島のような戦乱時代が来るのを避けるため日本列島を先進技術でもって統一することを決意した。 国家統一するために必要な先進技術は今手元にあるフツから受け継いだ技術だけでは不十分に感じ、朝鮮半島に渡って更なる高度な技術を輸入することを考えた。 出雲国と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するために、紀元前10年ごろ、国がなかった対馬に渡り、対馬国を造り出雲国に加盟させた。スサノオは対馬から、朝鮮半島に渡り先進技術を次々と取り入れた。 スサノオはその技術を用いて、 瀬戸内海沿岸地方におもむき、日本列島統一の必要性を人々に訴え、西暦紀元ごろ、瀬戸内海沿岸地方及び紀伊半島は統一された。大阪湾沿岸地方は有力豪族がおり、彼らに追い返されてしまった。スサノオは統一した連合国家を倭国と命名した。大三島の大山祇神社を宮処として瀬戸内海沿岸地方を治めた。中細銅剣を統一のシンボルとして銅剣祭祀をはじめた。 ■北九州統一 紀元10年頃、スサノオは更なる先進技術を朝鮮半島から取り入れ、その一族と共に、宇佐地方を統一した。そこを基点とし、中広銅矛を統一のシンボルとして北九州統一に出発した。北九州には有力豪族がおり、その有力豪族は周辺小国家を虐げていた。スサノオは安全確保と食料安定供給を交換条件として次々と小国家を倭国に加盟させた。スサノオの第4子オオトシ(大歳)も協力して北九州を統一していった。統一できなかったのは球磨国(現熊本県)及び伊都国(現福岡県前原市)のみであった。スサノオが統一した地域には中広銅矛祭祀が始まった。 ■南九州統一 北九州を統一したスサノオ一族は南九州を目指して侵攻した。阿波岐原(現宮崎市)に上陸し、南九州統一の拠点とした。木花を拠点としていた中国の呉の太伯の子孫イザナギ(伊邪那岐)一族と出合った。イザナギに倭国に加盟するように要求した。イザナギはスサノオが娘のムカツヒメ(日向津姫)と結婚することを条件に倭国に下命することを承知した。イザナギは一族を挙げて倭国の拡大に協力することにした。 スサノオはムカツヒメと共に、現宮崎市から都城市一帯を統一後、高千穂山を越えて国分市付近を統一し、国分(現鹿児島神宮の地)に南九州統治の拠点を作った。イザナギは東霧島神社の地を拠点として都城盆地一帯を統治した。 ■紀伊半島統一 紀元15年ごろ、スサノオは協力者イザナギ、イザナミ及び五十猛命、大屋津姫、爪津姫をひきつれて紀伊半島の統一に向かった。スサノオは五十猛命、大屋津姫、爪津姫に和歌山市周辺の統一を任せ、自らはイザナギ、イザナミを引き連れて、熊野地方まで進出した。 紀伊半島統一後、スサノオは九州に戻り、ムカツヒメと妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、イザナギは大阪湾岸地方の統一準備のために淡路島に拠点を造り、イザナミは出雲で製鉄技術の革新のために出雲に渡った。イザナギ、イザナミはそれぞれの地で亡くなった。 ■倭国の分治 スサノオはムカツヒメとし、妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、ここで、宗像三女神、オシホミミ(天忍穂耳命)、ホヒ(穂日命)が誕生した。スサノオは巨大化しすぎた倭国の情勢が不安定化してしてきているのを感じ、出雲に帰還することにした。倭国は大きくなりすぎているので各地方をスサノオ一族で統治することにした。 南九州はムカツヒメ、北九州西部地方はオオトシの子であるサルタヒコ(猿田彦)、瀬戸内海沿岸地方は琴平を中心としてオオトシ、紀伊半島はイソタケ(五十猛)、 北九州東部地方はスサノオの倭国統治に協力的であったタカミムスビに長子オシホミミを預けて統治させた。 スサノオはムカツヒメに南九州の未統一地域を統一することを頼み、25年ごろ、彼女と別れた。 出雲に帰還したスサノオは佐田神社(島根県佐田町)に隠棲し、倭国全体の後継者(第二代倭国王)を育てようとした。後継者に選ばれたのは、末子スセリヒメ(須勢理姫)と結婚した出雲古来の豪族クナト(岐戸神・天冬衣神)の子であるオオクニヌシ(大国主)である。スサノオは北陸地方の統一を始めとした試練を与え、彼もそれに答えた。オオクニヌシは三屋神社(現島根県三刀屋町)を中心として出雲国を統治した。 ムカツヒメもスサノオの指示を受けるために何度か出雲を訪れている。 ■スサノオの死 スサノオは出雲に帰還して10年ほどたったころ、自分の死期を感じていた。オオトシを琴平から呼び寄せ、東日本地域の統一を託し、まもなく息を引き取った。 AD30年ごろであろう。御陵は熊野山である。 ■出雲国譲り騒乱 AD25年ごろムカツヒメは安心院より南九州へ旅立った。途中球磨国の様子を探るために高千穂に立ち寄った。ここでニニギ(瓊々杵尊)が誕生した。南九州に戻ったムカツヒメは東霧島神社の地を都として、南九州の地固めをした。このときヒコホホデミ(彦火火出見尊)、ウガヤフキアエズ(鵜茅草葺不合尊)が誕生した。 南九州未統一地域の統一には第二代倭国王であるオオクニヌシが欠かせないことを悟ったムカツヒメはオオクニヌシを南九州に呼んだ。 オオクニヌシは南九州で球磨国や、その他の未統一地域を倭国に加盟させるように努力をしたが、志半ばにしてコトシロヌシ(言代主)誕生後まもなく、南九州で病のため息を引き取った。 紀元40年ごろのことである。第二代倭国王の突然の死により、倭国王が空位になり、たちまち相続争いが起こった。タカミムスビはこの状態を憂い、倭国を東西に分割することを提案した。 東倭は出雲・瀬戸内海沿岸地方・紀伊半島で、出雲国を中心とする。西倭は九州地方・南四国地方で、東霧島を都とする。 そして、全体を統括するために出雲で大々的にスサノオ祭祀を行い、その祭祀者にコトシロヌシをあてるようにした。コトシロヌシはまだ幼いので、サルタヒコをその協力者とするという計画である。ホヒを出雲に派遣し、根回しをした。出雲国王は大国主とトリミミ命との子であるトリナルミであり、政治はトリナルミ、祭祀はコトシロヌシという体制を造ろうとした。 ホヒの活躍により出雲は大体納得したが、 タケミナカタだけは反対したので、タケミカヅチ、フツヌシを出雲に派遣しタケミナカタを諏訪まで追い詰め降参させた。南九州では国分の出雲屋敷をニニギを総大将として急襲することにより南九州一帯には反対勢力がいなくなった。 西倭国王としてオシホミミを即位させようとしていた矢先、オシホミミが急死した。急遽ニニギを派遣し北九州が騒乱に巻き込まれるのを防いだ。ニニギの活躍により北九州西部統治権をサルタヒコから受け継いだ。サルタヒコは北九州で青銅器祭祀(銅鐸・銅矛)を行っていた。サルタヒコは青銅器を携えて、ホヒの子タケヒナドリとともに出雲に旅立った。 ■ムカツヒメの南九州統一事業 オシホミミの急死によりムカツヒメが西倭国王(第三代倭国王)に即位した。45年ごろのことである。都を国分に移し、ニニギに引き続き北九州を納めさせ、 ヒコホホデミとフキアエズに南九州各地を巡回させ、地方の情報を集めた。50年ごろ、フキアエズには宇都(宮崎県高原町)で内政をまかせた。58年ここでサヌ(後の神武天皇)が誕生している。 ヒコホホデミには対馬や東倭を巡回させた。 ムカツヒメはスサノオに習い南九州の統一には外国の先進技術が欠かせないことを悟り、ヒコホホデミに後漢を訪問させた。 ヒコホホデミは57年後漢にわたり、先進技術とともに玉璧、漢委奴国王の金印を携えて戻ってきた。ヒコホホデミは帰国後、金印を携えて伊都国に渡り伊都国を倭国に加盟させた。ムカツヒメはその先進技術を示し、南九州の未統一地域に自分の子供たちを派遣した。 ニニギを北九州から呼び戻し薩摩半島北西部に、フキアエズを大隅半島に、ヒコホホデミを串間に派遣した。 ムカツヒメ自身も倭国に加盟することを拒み続けている曽於族を加盟させるために串間のヒコホホデミの元に行った。65年ごろのことである。 70年ごろムカツヒメは串間で亡くなった。墓は王の山で、後漢からの玉璧が副葬された。 75年ごろ後を継いだフキアエズも西州宮(桜迫神社の地)で亡くなり、サヌが後を継いだ。彼らの活躍により、球磨国と曽於国を残し南九州は統一された。 ■ニギハヤヒの日本国建国 オオトシは琴平で平形銅剣祭祀を行って瀬戸内沿岸地方を統治していたが、スサノオの遺命を受けることにより、近畿地方統一に乗り出すことにした。30年ごろと思われる。有力豪族がひしめく近畿地方を統一するために、オオトシはマレビトを近畿地方の各国々に送り込み、その子孫の協力によって国を統一することを考えた。オオトシは、自らが統一した北九州各国から有能な若い男子(マレビト)をかき集め、集団として大阪湾岸地方に乗り込んだ。各マレビトは、それぞれの国に分け入り、子孫を繁栄させた。 オオトシ自身はは日下から大和に入り、国王のナガスネヒコの妹ミカシヤヒメと結婚し、ニギハヤヒと名乗り、大和国王となった。このため、倭国とは別の国を作ることになったのである。新しい国の名をヒノモト(日本)とした。ニギハヤヒが日下から大和に入るとき生駒山山頂から昇る太陽の姿の感動したため、この名をつけたようである。 ニギハヤヒは大和国王になってから、石切神社の地を拠点として、大阪湾岸地方のマレビトと協力してそれぞれの国を統一していった。AD40年ごろ大阪湾岸地方が統一されたので、ニギハヤヒは葛城一族にマレビトとして入り込みそこを拠点として大和盆地南部に進出した。倭国に属していた紀伊半島地方を五十猛命より日本国に譲り受け、近畿地方一帯が日本国に所属するようになった。日本国の都を三輪山山麓に造り、大阪湾岸地方の豪族(マレビトの子)たちを東日本各地に派遣し、共同生活をしながら先進技術を示すことにより、東日本各地(福島県以南)を統一させた。ニギハヤヒ自身は関東地方中心に活躍した。 AD55年ごろ東日本地方が日本国に加盟したので、ニギハヤヒは帰国した。日本国王を葛城一族の娘(御歳姫)に生ませた事代主命に譲り、自らは初瀬地方で隠棲した。事代主は三輪一族の娘と結婚し三輪山の麓を拠点として日本国を統治した。このような中、AD60年ごろニギハヤヒは初瀬で亡くなり、三輪山に葬られた。 生前、 ニギハヤヒは三輪山の形が大変気に入り三輪山山頂から昇る太陽の姿をシンボルとして祭祀を始めた。その中心施設が冬至の日に三輪山山頂から昇る太陽を拝むことのできる唐古鍵遺跡である。その姿が銅鐸であり、三輪山の形は鋸歯紋として以後の大和朝廷のシンボルとなるのである。ニギハヤヒは需要の増した銅鐸生産を九州のサルタヒコに依頼していた。 ■大和朝廷成立 ニギハヤヒの死後、AD70年ごろ第二代日本国王事代主命もまもなく亡くなった。事代主命が若くして亡くなったので、後継者は幼少のイスケヨリヒメのみであった。後見人を誰にするかでまとまらず、各豪族間で主導権争いがおこり、日本国は乱れ始めた。その状態を憂えたオオクニヌシの子アジスキタカヒコネは倭国の狭野命と日本国のイスケヨリヒメとの政略結婚による両国の大合併を提案した。日本列島統一はスサノオ・ニギハヤヒの夢であり、そのことを当時の人々は知っていたのでヒノモトの人々も倭国の人々もその多くは賛成した。しかし、大和国の三輪一族以外は反対派となった。反対派が賛成に回る気配がないのでアジスキタカヒコネは強引に話を進めた。。 西倭のサヌがヒノモトのイスケヨリヒメに婿入りする形で大合併をし、合併後の都は大和、国名はヒノモト(日本国)とする。 ただし対外的には倭国を用いることにした。東倭・日向地方は大和朝廷の聖地として自治を認める。以上のような条約が交された。 ヒノモトの人々は反対派を説得したが納得しない。時機を逸してはならないので、78年、サヌが大和に行くことになった。サヌは南九州各地の一族に挨拶を済ませ、美々津海岸より出港した。 西倭・ヒノモトの大合併にはもうひとつ課題があった。北九州と大和の間にある瀬戸内海は大和朝廷にとって最も重要な交易路であるが、その全域が東倭に所属していたのである。 サヌは、安芸国に長期滞在し出雲のコトシロヌシと交渉を行った。その結果安芸国と吉備国西部(備後国)の割譲に成功した。サヌは割譲地を安定化させるためにさらにしばらく滞在(高嶋宮)した。 サヌは日下から大和に入ろうとしたがナガスネヒコに追い返された。サヌは紀伊半島南部に迂回し、吉野川流域、宇陀市周辺の豪族たちを味方に付け、反対派を打ち破り、AD81年大和進入に成功した。 サヌは大和に入り吉日(AD83年冬至の日・当時の1月1日)を選びイスケヨリヒメと結婚式を挙げ、大和朝廷初代神武天皇として即位した。 神武天皇は15年ほど在位した後、三皇子を第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇と即位させた。第四代懿徳天皇(倭国王帥升等・107年)のとき、後漢に生口(技術者)160人を派遣し先進技術を学ばせた。 その技術者を地方に派遣して、地方を開発し朝廷の技術を普及させた。これにより、地方は朝廷の下にまとまっていった。 ■倭国大乱 日本列島は大和朝廷の技術指導の下、安定化してきたが、2世紀半ばごろから始まった寒冷期により不作が続き、政情不安定になっていった。特に朝廷からの技術指導を受けなかった自治区であった東倭は凶作であった。その影響で、各地に略奪集団(鬼)が出没するようになった。東倭王の出雲振根はサルタヒコが九州から持ち込んだ祭器を使った祭礼強化で人々の心を安定化しようとしたが、鬼の出没はひどくなる一方であった。 第六代孝安天皇はこのことを憂えて、皇太子楽楽福(ささふく)命に祭礼に使う祭器を没収することを命じた。楽楽福命は伯耆国孝霊山麓に滞在して出雲と交渉したが埒が明かなかった。このようなとき(175年)に孝安天皇が大和で崩御した。楽楽福命は大和に戻り第七代孝霊天皇として即位した。天皇として即位した孝霊天皇は兄の子である吉備津彦・吉備武彦兄弟に鬼が出没している吉備国平定を命じた。 吉備津彦兄弟は吉備中山を拠点として吉備国平定を行なった。孝霊天皇自身は吉備国から伯耆国に入り吉備津彦兄弟の協力を得ながら、鬼住山・大倉山・鬼林山と鬼退治を行なった。 185年吉備国伯耆国の平定が完了したので、出雲本国に侵入することになった。 出雲との激戦は続いたが出雲軍は強く戦いはこう着状態に陥った。このとき、大天才として知られていた 当時讃岐国に派遣されていた倭迹迹日百襲姫が調停を行い、東倭は大和朝廷の支配下に下ることで倭の大乱が終結した。 人々は倭迹迹日百襲姫の指導力に驚き、彼女が日本国を治めることを臨んだ。 倭迹迹日百襲姫は大和最高神ニギハヤヒの妻となることにより、大和朝廷最高権力者となった。邪馬台国女王卑弥呼である。 ■古墳時代の始まり 倭国大乱の直接の原因が出雲と大和での祭礼形式が異なることであった。旧東倭を平穏に治めるためには大和と出雲の祭祀の統一がどうしても必要であった。その中間にある吉備国で祭祀の試行錯誤が行なわれた。そのなかで、大和系の前方後円墳、出雲系の前方後方墳にまとまってきた。 大和では、倭迹迹日百襲姫の指示の元、三輪山山頂から春分の日に太陽が昇る位置に日本国最初の巨大都市巻向遺跡が作られ始めた。 その祭礼施設として前方後円系の巻向石塚が作られた。前方後円墳は三輪山から昇る太陽の姿である。 倭迹迹日百襲姫は人々の心を安定化させるために祭礼強化を図った。そのシンボルとして 三角形(三輪山の形)の縁をもつ鏡を作ろうと魏に使いを出し技術者を日本に呼び寄せた。この技術者が三角形の縁を持つ鏡(三角縁神獣鏡)を作った。 大和朝廷が地方に国造を任命し地方に課税を始めた。課税を確実にするためには球磨国が朝廷の支配下でないのは甚だ不都合であり、この頃より、球磨国との戦いが始まった。球磨国とは狗奴国のことである。このような時250年(崇神10年)倭迹迹日百襲姫が亡くなった。魏からの技術者の指導の下、最大級の墳丘墓である箸墓を作った。古墳時代の始まりである。 大和朝廷は三角縁神獣鏡を作るための青銅不足を補うために各地の青銅祭器(銅剣・銅矛・銅鐸)を没収した。人々は没収されるのを逃れるために 土に埋めた。 曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ平定した。 ■古事記・日本書紀の編纂 大和朝廷の創始者であるスサノオとニギハヤヒは人々から敬われ大和朝廷でも大々的に祭られていたが、後になって仏教を広めるにあたり、この二人が邪魔になり、この二人の業績をイザナギやオオクニヌシのものとすり替えて全国の神社から抹殺し、それに合わせて、古事記・日本書紀を編纂した。これらの出来事があった跡には、いずれも現在神社が建っていて、これらの出来事を裏付ける伝承を伝えている。この復元古代史は、国内資料のみを基にしたものである。そのため、中国史料や考古学的事実と照合する必要がある。どのような統一方法を採ったかを吟味した後、照合をしてみたいと思う。 |
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■第2章 国家統一の方法 | |
■第1節 武力統一 / 日本史の謎 | |
この復元古代史が真実だとすると、大和朝廷の成立が一世紀後半と、一般に言われている四世紀に比べると300年以上早い。また、大和朝廷は成立直後に関東地方から九州地方までの、大変広い領域を支配していたことになる。なぜ、このようなことが可能だったのかが大きな疑問として残る。そこで、国家統一の方法を吟味してみることにする。
まず、日本史の疑問点を挙げてみると、次のようなものがある。 1 銅鐸...銅鐸は、3世紀中頃に関東地方から九州地方まで一斉に姿を消している。一斉の変化が起こるということは、これらの地域が同一勢力圏に入っていることを意味している。 2 古墳...3世紀後半頃より、古墳が関東地方から九州地方までの地域で、ほぼ一斉に分布するようになっている。墓制というものは変化しにくいものであるが、それが一斉に変化しているということは、これらの地域が、かなり強力な共通の何かの影響を受けたことになる。 3 祭祀型墳墓...後期初頭以前は北九州中心に権力君臨型と考えられる王墓が存在していたが、それ以降このような王墓は消えている。権力で君臨するタイプの王は、周辺の小国を併合して次第に勢力を伸ばしていくと考えられるが、このタイプの王が消えているのである。その後に発生する比較的大きな墳墓(四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓)は祭祀を重要視した墳墓で、副葬品が少ない。被葬者は権力君臨型ではなくて、宗教上の王のようである。人々を力で押さえつけたのでは、祭祀を行うことは無理である。 4 三角縁神獣鏡...三角縁神獣鏡も古墳と同じく関東から九州まで分布しており、その分布の中心は畿内である。畿内勢力によって配布されたものと考えられるが、この鏡の分布はその勢力範囲を示している。 5 方形周溝墓...方形周溝墓等の畿内系の墓制が関東から九州まで広がっている。 6 征服伝説...「大和朝廷に征服された。」という伝承もなければ、「征服した」という伝承もない。国をまとめあげるときの物語は、権力者が統治を正当化するためにも是非必要なもので、世界のどの王朝でも、その成立神話は存在し、しかも宣伝しているのである。しかし、日本の場合、各地域はいつのまにか大和朝廷の支配下に組み込まれており、どのようにして組み込まれたのか伝わっていない。 7 宮城...宮城は、古来から外敵に対して全くといってもいいほど無防備である。世界中どこの国へ行っても権力者というのは、自分の身を守るために防備を固めるものであるが、そのような気配は全くない。誰も攻めてくるはずがないといった安心感があったためとしか考えられない。なぜなのであろうか。 8 万世一系...世界史の常識では、王家の勢力が弱くなってきて、他に新勢力が現れると、間違いなく前の王朝が倒されて新王朝が成立するのである。過去に皇室よりも力を持った勢力は数多く存在するが、皇室を倒して権力を振るうということはせずに、皇室を形の上で立てて権力を振るっている。なぜ、皇室を倒し、新王朝を建てるといったことをしなかったのだろうか。日本では伝承上万世一系である。王朝交替があったという説は存在するが、それを決定づける証拠はない。これは、大変不自然である。 9 錦の御旗...日本での戦乱時代(戦国時代・幕末)において、錦の御旗を受ければ反対派が急激に勢力を失い、一挙に決着が付いている。どうしてこのようなことになるのであろうか。 10 祭政一致...古代大和朝廷は祭政一致で神を祭ることで国を治めていた。そして、全国各地にスサノオやニギハヤヒを祭る神社が圧倒的に多い。その一族までを含めると、七割以上がこの二人に関係した神社である。神社に神を祭るというのは、古今東西、権力に強制されて、ということはほとんどない。朝廷も人民も主体的に祭っているのである。そして、神道には教義も教典もないのである。教義や教典がなければ布教すらできないはずである。この二人が民衆から相当尊敬を集めていたからと解釈されるが、何か相当な実績がないとこのようなことにならない。 11 団結力...「好太王碑文」や朝鮮半島の史料によると、五世紀初頭あたり、倭人が数万という大軍を率いて、高句麗などの軍と戦っている。高句麗軍の方が地理的・物質的に圧倒的に有利であるはずなのに、倭人に対して大変に苦戦している。これは、倭人の団結力が異常に強かったためと考えられるが、なぜ、こんなに団結力が強かったのか。 12 戦乱遺跡...戦乱の跡と考えられる遺跡が少ない。矢じりが突き刺さっている人骨が出土することもあるが、多くは単独である。戦乱があった跡ならば数十体はまとめて出てくるはずで、焼かれた住居跡なども出てこなければならない。そのようなものはほとんどないのである。古代でも殺人事件ぐらいあったはずで、これと戦乱とは別物である。戦乱の跡と考えられる遺跡が少ないことは古代が平和な時代であったことを意味している。 1〜5までの内容は、九州地方から関東地方までが、同一の支配体制に組み込まれていることを意味し、その支配力は墓制を変化させていることから相当強力なものと考えられる。つまり、大和朝廷は成立とほぼ同時に、広大な範囲を強力に支配していたことになる。 6〜12までは、大和朝廷の支配が力の上に成り立っているのではないことを意味しているようである。大和朝廷が力で地方を締め付けているのであれば、宮城の警備は厳重であり、被支配者の反抗伝説がもっと残っても良さそうである。どうみても民衆が朝廷を崇拝しているといった感じである。 これらの内容は、あり得ないこととして、事実関係がはっきりしているものを除いて、一般には無視されているか、否定されているものである。しかし、事実関係がはっきりしているものもあり、すべてを否定することはできない。この謎は大和朝廷の成立の仕方にあるものと判断し、これらのことを、自然に説明できるような大和朝廷の成立方法を考えてみることにする。 |
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■第2節 平和的統一 | |
■第一項 武力統一ではない
■武力統一は人々の反発を招く 「古代日本正史」を初め多くの人の説が、大和朝廷が戦乱の末に全国統一をしたとしているが、このように考えると、先の日本史の特徴はすべて矛盾点となって返ってくる。「古代日本正史」を初めとする神社伝承を元とした書物は、スサノオが統一者となっていて、彼が、武力平定したように考えられがちであるが、武力平定したのでは、人々の反発をさけることができないはずである。全国におびただしく存在する神社は、そのほとんどがスサノオを祭っている。これは、この人物が全国で尊敬され、決して、恨みを買うことのなかったことを意味している。武力統一をしたのでは、このようなことはあり得ない。人の恨みが簡単に消えるものでないことは、豊臣秀吉に対する朝鮮半島の人々の感情を見てもわかる。スサノオが全国至る所で、神として祭られているということは、彼が神と見えるような統一方法を採ったということである。 ■王朝交替の証拠なし 武力統一したのであれば、統一王朝が衰退したとき、かつて征服された勢力が、王朝を倒そうと謀り、王朝交替が何度も起こるはずである。そして、権力者もそれを防止するために、堅固な守りをするはずである。しかし、宮城はほとんど無防備で、王朝交替が起こった証拠はない。 王朝交替は起こったという説は存在するが、それにしては、周りの豪族にほとんど変化が見られず、継続しているのはなぜだろうか。王朝交替が起こると周りの豪族に大きな変化が起こるはずである。前王の血筋が絶えて、代わりにどこからか遠縁の王を招いたということは考えられるが、はっきりとした形での王朝交替があったとは考えられない。 ■集団戦の跡と思われる遺跡がほとんど存在しない また、弥生時代における集団戦の跡と考えられる遺跡が少なく、かなり平和な時代だった。さらに、武力統一の場合、中心域から徐々に周辺に勢力を拡大していくために、日本全土を統一するには大変な年月がかかり、少人数ではできることではないので、中心になる国が相当な国家体制を充実させておかなければできることではない。一世紀はまだ国家体制も十分に整っていない時期であり、武力統一はあり得ないことである。 ■畿内に九州系の土器や墳墓がほとんど存在しない 統一国家の中心地である大和は、朝廷成立以前には、北九州地方に比べて未開の地であり、遺跡・遺物も貧弱である。このような地になぜ中心地ができるのであろうか。武力統一なら北九州勢力が中心となっておこなわれたと考えるのが自然である。北九州勢力が統一事業を行い、畿内に東遷したという説もあるが、それならば、畿内に九州系の土器や墳墓が多く見つからなければならないが全くと言っていいほど見つかっていない。これは、九州からは少人数しかきていないことを意味している。少人数では、武力制圧は不可能である。武力を使う以上、それ相当の人数や装備をそろえなければならず、それならば、多量の九州系土器の持ち込みがあるはずであり、また武力制圧後も九州系の持ち込まれた文化が強く残るはずである。それが全く出土しないことはとても考えられない。畿内にどこかの地域の土器や墓制が集中して多いということはない。これは、どこか外部の勢力が大挙して畿内に侵入し、そこを中心として、全国統一をしたのではないことを意味している。侵入があったとすれば、あくまでも少人数である。 ■宗教統一 弥生時代後期初頭を最後に権力君臨型の王墓というものが消滅し、かわりに、祭祀型の王墓と考えられる四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓が広がっている。これは、権力によって支配していた小国家群が何らかの宗教によって統一されたと見るべきであろう。宗教統一ならば、少人数で遺跡・遺物の少ない大和を中心として国家統一をすることも可能である。 古代の大和朝廷による政治は祭政一致であったらしい。古墳築造にしても労働力を確保するには、権力にものを言わせるか、信仰の力を使うしかないが、古墳上で祭礼が行われていることから判断して、明らかに後者である。これは、古墳が分布している範囲に同一の強力な信仰が存在したということを意味し、大和朝廷が宗教によって統一されていて、権力によって君臨していたのではないということである。大和朝廷が武力統一をしたのなら、被征服者には朝廷に対する反発心が強く残り、信仰によって人々を動かすことは不可能で、権力にものを言わせて人々を押さえつけるしかなくなる。そうすれば、宮城は反乱に備えて、警備が厳重になり、また地方の権力者の邸宅も厳重な警備の上に成り立っているはずであり、それが全く出土しないことはあり得ない。出土した地方の権力者の住居跡と思われる所もほとんど無防備である。これは大和朝廷の性格と全く異なる。古代は地方までも神に対する信仰心が浸透しており、地方権力者も神の扱いを受けて政治を行っていたと考えるべきである。 武力統一によって大和朝廷が成立したとすると、このように矛盾点が多いのである。大和朝廷は宗教によって全国統一したと見るべきである。 |
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■第二項 平和的統一
■宗教統一の条件 宗教統一と言っても、ある人物がある教えを広めても、地域差の大きい当時の日本列島に住んでいる人々が、単純に「はいそうですか」と一つの信仰に走るとは思われない。また侵入先に別の宗教が存在すれば、今度は宗教同士の戦いとなる。宗教的に国家統一をするには、他地方が宗教的に未開である必要があるが、弥生時代といえども、各地方に若干の宗教的なものは存在したであろう。それらを取り込んでしまうためには、人々に神の存在を信じさせるよほど具体的な何かが必要である。 ■人々の不安の解消 紀元前後の日本列島は、小国が分立する状態にあり、それぞれの小国はまだ国としての体制も十分には整えていない頃である。このような頃に住んでいる人々は、いつ、どこで、略奪や攻撃を受けるかわからない。事実、この頃は、北九州を中心として、防備のためと考えられる環壕で囲まれた集落が多く、鉄鏃や鉄剣・鉄刀等の鉄製武器の出土が多い。また、食糧やその他の物品も、安定して手に入れることが難しく、もし、多量にそれらのものを手に入れても、今度は、近くの集団からの略奪を警戒しなければならない。現在のような警察権力は存在しないのである。 当時の人々は、このように、治安や食糧に関して不安の多い生活を送っていたと考えられる。このようなときに、人望のある人物が「我が連合国家に加入しなさい。そうすれば、誰からも攻められることもなく、食糧や物品を安定して供給できることを保障する。」等と言って相談を持ちかければ、ほとんどの集団は喜んで参加するのではないだろうか。そして、人民を苦しめている夜盗集団のようなものを退治すれば、ますます強く信頼するようになるのではないだろうか。 「古代日本正史」でもスサノオがまとめて回ったとされている北九州各地で、大きな戦争をした形跡もなく、簡単に統一されているのである。当時、北九州地方は、日本列島内で最も強力な武力を持っていたと考えられ、武力で簡単に併合されるはずがない。物資の安定供給や治安維持を条件に加入したものと考えられる。スサノオの国家統一は、一世紀当時、北九州にかなりの規模の王墓が存在していたことから考えて、併合というよりも、連合国家と考えた方がいいようである。期が熟してから、王から中央の役人に政権移譲が起こったと考える。跡を継いだニギハヤヒも、近畿以東を同じ様な方法で統一したと考えられる。 ■先進技術の導入 また、地方に住んでいる人々にとって、朝鮮半島や中国の高度な技術を何者かに見せられたとすると、その不思議な現象故、人々がその人物を神と信じ込むことは十分にあり得ることである。おそらくスサノオやニギハヤヒは大陸の高度な技術を示して国家統一をしたのではあるまいか。通常高度な技術は最初に手に入れた人物が独占することにより、周辺の人々を従え、権力欲を満たすものであり、滅多なことでは他に伝えることはないのである。中期までは鏡などが特定の地域に集中するといった状態にあったが、中期末以降の大陸の高度な技術の地方への浸透が異常に速いことからこのように考えるのである。 このような統一をするためには、統一者はかなりの人格者であることが要求され、物欲があって、交換条件として何かを要求するような人物ではとても無理である。スサノオ・ニギハヤヒが純粋に人々の幸せを願って国家統一を実行したということでなければ、多くの人々はついてこないであろう。 |
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■第三項 日本史の謎の解明
このような方法で統一したのであれば、一般民衆の目には、この二人が、自分たちの生活を保障してくれた神のように見えるであろうから、多くの地方で、人々がこの二人を祭るというのもうなずけるし、二人の実績があるから、教義も教典もない神道という特殊な宗教が発生し、全国に広まったのもうなずける。そして、副葬品の多い権力君臨型の王墓が消滅し、副葬品の少ない方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓のような祭礼を重要視した墳墓が出現するのも説明できる。 倭国と日本国が、跡継ぎの政略結婚で合併することができたのも、共にスサノオの勢力を受けていたから、と解釈されるし、歴代の天皇がこの二人の系統の人物でなければ、人々が納得しなくなり、天皇にとって変わろうと言う人物が出てこないのも納得できる。そのため、歴代天皇は自己防衛を考える必要が全くなく、宮城が無防備であるというのも説明でき、万世一系という世界史の常識では考えられない歴史を残すことになったということも説明できる。そして、古代の天皇はこの二人を祭っていさえすれば、人心は安定し、徳によって人々を治めることも可能だったのである。 大和朝廷が成立した直後から、関東から九州までの広い範囲を支配していたのも説明可能である。さらに、このような統一方法は、中心になる国の国家体制が十分である必要はなく、少人数での統一が可能である。そして、大和という未開の地が中心地になることも可能であり、朝廷に武力がなくても、全国一斉に古墳という新しい墓制を広めることも、銅鐸を消滅させることも、神の力を使えばできることである。 また、「好太王碑文」にあるように倭人の軍が不利な条件にも関わらず強かったのは、平和統一がなされた結果、当時の人々には、「神によって造られた国」というような意識があったはずで、朝廷軍の団結力は、相当、強かったことがうかがわれる。事実、このような考え方は、近代の戦争にも使われている。実際に、神社史料によると、戦いの前に、あちこちで神を祭っている。神を祭ることで、志気を高めたのである。 このような方法での統一をするには、統一される側の国家体制が十分でないことが必要である。この方法での統一は、一世紀という時期であったからこそできたもので、定説である四世紀以降では、国家体制がしっかりしているため、国家間の利害が対立し、大戦争なしでは到底不可能と考えられる。 このように、平和統一といった考えをすれば、前に挙げた日本史の特異性が、否定しなくても、ことごとく自然に説明可能となる。 |
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■第3章 歴史資料との照合 | |
■第1節 呉太伯子孫到来 (ごたいはく) | |
■弥生時代の始まり
紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まった。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れている。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示している。朝鮮半島からというのが普通考えられるが、頭示指数や血液型の分布から判断して、中国大陸(特に江南地方)からと考えた方がいいようである。 なぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのであろうか。当時、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられる。平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられる。中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃である。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定する。北九州を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。 弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるが、弥生時代の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考える。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられる。このように緊急避難の場合、縄文人との対立は考えにくい。 日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになり、考古学的事実と一致している。 このような人々によって、多くの技術がもたらされ、弥生時代が始まったと考えるのである。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていない。これは、このような状態で逃げてきたわけであるから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断される。 |
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■弥生中期の始まり
弥生前期末から中期にかけて、多くの変化が起こっている。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現する。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られだす、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されている。甕棺墓にしても、銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものであるから、朝鮮半島から多くの人々がやってきたものと考えられる。紀元前108年、漢の武帝が朝鮮を滅ぼしていることから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものではないだろうか。 中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようである。博多湾岸を中心に小国家が誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われてきている。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として治められている。 先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見された。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味している。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようである。これらの人々によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものと判断される。 北九州に渡ってきた一団は朝鮮半島南部から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部から来たと思われる。 |
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■史記の記録
呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。 呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」> 太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→ 寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495年 - BC473年) BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。 |
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■松野連系図
日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。孝昭3年は皇紀ではBC473年に当たる。これは記紀の年代に合わせて挿入したものであろう。系図は以下のようになっている。 夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬→大田満呂→猪足 「日本書紀・景行紀」には「厚鹿文」「?鹿文」が登場する。景行天皇によって暗殺された熊襲の王である。また、忌の住んでいたという火の国山門(菊池郡)は熊襲の本拠地である。また、宇閉のとき、漢の宣帝に遣使した(BC68年)と記されている。この系図は熊襲王系を示しているようである。 この系統に倭の五王とされている讃→珍→済→興→武が記されている。「讃」は古代史の復元では仁徳天皇であると推定しているので、「謄」が応神天皇となる。正史では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に誕生した天皇となっているが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生まで10カ月となっており、不自然な点も多い。応神天皇は仲哀天皇の子ではない可能性を秘めている。しかし、当時熊襲は仲哀天皇の敵であり、神功皇后にとっては夫の仇でもある。熊襲の系統とは考えられない。この頃熊襲は大和朝廷に服属しており、後に挿入したものではないかと思われる。 忌から宇閉まで、8世。1世30年として240年となる。しかし、忌はBC473年、宇閉はBC68年でその間405年である。通常では14世ほど必要となり、かなり代数欠落があると推定される。また、厚鹿文が第12代景行天皇(AD310年頃)と同世代と考えられるので、宇閉との間は380年ほどの開きがあるがその間3世である。厚鹿文から倭の五王までは欠落はないようである。 BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。 |
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■狗奴国との関連
「呉」を称した句呉の裔は「鯰」をトーテムにするという。 後漢書倭伝に「会稽の海外に東(魚是)人あり。分かれて二十余国を為す。」とある。(魚是)は鯰の意。東(魚是)人とは鯰をトーテムとする民であるという。(魚是)は一つの文字。そして「会稽の海外の東(魚是)人」とは、漢の会稽郡の東、日本列島の二十余国であるという。 呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被っているとされる。BC473年に「呉」は長江の下流域に在って「越」に滅ぼされる。呉人は東シナ海から列島へと渡った。 そして阿蘇に住んでいた一族も鯰をトーテムとしている。阿蘇に下向した健磐龍命は大鯰を退治して阿蘇の開拓を成した。阿蘇の古い民も鯰をトーテムとしていたのである。 鯰を祀る「阿蘇国造神社」は阿蘇神社の元宮である。本来は阿蘇の母神とされる「蒲池媛」を祀るといわれる。「蒲池媛」は八代海、宇城の地より阿蘇に入ったと言われており、蒲池媛は満珠干珠の玉を操り、海人の血をひいている。「蒲池媛」はのちに筑後、高良神の妃ともされ、宗像三女神の「田心姫」に習合した。隼人である「狗呉」が、熊襲の裔、「肥人」をも含んで八代海、阿蘇、有明海周辺を支配したのが「狗奴国」であったのかもしれない。 |
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■宮崎県諸塚山伝承
諸塚山は高千穂町と諸塚村との境界にある標高1342mの山である。この一帯でもっとも高い山で、東の日向灘まで直線で約40kmあるが、おそらく日向灘が直接望める最も西の山である。山頂近くに多くの塚があることから諸塚山と呼ばれている。標高1342mの頂上付近に、誰が、何のために築いたのか謎である。そして、さまざまな伝承を持っているのである。 1 イザナギ、イザナミの御神陵である 2 天孫降臨の地である。 3 神武天皇巡幸の地である。 4 太伯山とも云い、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという。 古代中国に朝貢した倭の使者は「我々は呉太伯の子孫である。」と言っている。そこから、日本の皇室の祖は、呉(中国)の祖ともされる太伯であるとされ、諸塚山は、その太伯を祀ったことから太伯山とも呼ばれていたという。呉の祖、太伯は、高天原や天孫降臨と関連していることが分かる。 日向風土記逸文に書かれた二上山からこの諸塚山までの10キロ弱は、1000メートル級の峰続きで、六峰街道と言われている。かなり古くよりその形があって、降臨をはたした天孫瓊々杵尊はこの道を通って笠沙山(延岡市愛宕山)にむかったと伝えられている。 一つ一つの伝承を検証してみよう。 1 イザナギ・イザナミの御神陵。イザナミ神の御陵は広島県比婆郡の比婆山、イザナギ御陵は兵庫県淡路市一宮の伊弉諾神宮裏であり、この山が二神の御陵とはならない。しかし、これだけの伝承を持つ山なので、イザナギ一族と深い関係があるのは間違いないであろう。北麓の高千穂町は宇佐にいた日向津姫(ムカツヒメ)が一時滞在しており、ここで、瓊々杵尊が誕生している。イザナギ・イザナミは素盞嗚尊が九州統一した時、宮崎県南部の加江田神社の地に住んでいたと思われる。そこから考えても、高千穂町は全く縁のない地に思えるのであるが、イザナギ・イザナミの御神陵伝説を始め高千穂町には高天原関連の伝承が多い。日向津姫が一時滞在していたにしては、その伝承があまりにも多いのに不自然さを感じる。イザナギ・イザナミ一族の祖先の滞在地と考えれば、一連の伝承に筋が通ってくる。イザナギ・イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。呉王夫差の子「忌」が熊本県菊池市周辺を拠点として、その一族が周辺に広がっていく中、その一派が阿蘇山麓を経て高千穂町に到達したのではないだろうか。ここがイザナギ一族の古里となるのであろう。諸塚山はこの周辺で最も高い山であっる。周辺の地理を探るためにはこの山に登るのが最もよく、しだいにこの山は聖山となったものと考えられる。この頃の支配者の墓が諸塚山山頂付近の塚なのではあるいまいか。それが、後の世、イザナギ・イザナミの御神陵と言い伝えられるようになったものとすれば、納得がいく。 2 天孫降臨の地。高千穂町を流れる五ヶ瀬川は峡谷地帯であり、延岡市に達するのに川沿いに下るのは危険である。そこで、延岡周辺に進んでいくのに、二上山から諸塚山と通って、速日峰に至るまで峰沿いを通って、延岡市近辺に至る経路ができたものと思われる。長らく高千穂に住んでいた一族は延岡の方に移住する必要が生まれ、この経路を通って延岡に至ったものであろう。BC20年頃ではあるまいか。延岡に至った一族は海路南に下り、素盞嗚尊がやってきたころ(AD15年頃)には、宮崎市木花の加江田神社の地に住んでいたのであろう。イザナギ一族が宮崎市の方に移って行った後もこの高千穂町はイザナギ一族の始祖の地として大切にされていたのであろう。この移動こそが本来の天孫降臨ではないだろうか。そのために、日向津姫が一時この地に立ち寄り瓊々杵尊がこの地で誕生したと言える。 3 1,2のようなことがあり、高千穂町が聖地となっていたことは神武天皇が大和に東遷する時も、天皇自身が承知しており、東遷途中に神武天皇が訪問してくることは十分に考えられる。 4 呉太伯自身がこの地に住んでいたというのは考えられないが、太伯の子孫がここに住んでいたということは十分にあり得る。太伯の子孫であるイザナギ一族の古里であるために、太伯が滞在していたという伝承につながったと考えられる。 また、呉太伯は鹿児島神宮で祀られている。鹿児島神宮は国内で太伯を祀る唯一つの神社である。この神宮の地は日向津姫が南九州の拠点としていた処で、イザナギ一族にとっては聖地とも云う場所である。これもイザナギ一族が呉太伯の子孫であることを意味しているのではないだろうか。 |
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■幣立宮 幣立神宮には以下のような由緒がある 「高天原神話発祥の神宮である。悠久の太古、地球上で人類が生物の王者に着いたとき、この人類が仲良くならないと宇宙自体にヒビが入ることになる。これを天の神様がご心配になって、地球の中心・幣立神宮に火の玉に移ってご降臨になり、その所に芽生えた万世一系(日の木・霊の木)(一万五千年の命脈を持つ日本一の巨檜)にご降臨の神霊がお留まりなった。これがカムロギ・カムロミの命という神様で、この二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮である。大祓いのことばにある、高天原に神留ります、カムロギ・カムロミの命という言霊の、根本の聖なる神宮である。通称、高天原・日の宮と呼称し、筑紫の屋根の伝承がある。神殿に落ちる雨は東と西の海に分水して地球を包むという、地球の分水嶺である。旧暦十一月八日は、天照大御神が天の岩戸籠りの御神業を終えられ、日の宮・幣立神宮へご帰還になり、幣立皇大神にご帰還の報告が行われた日で、この後神徳大いに照り輝かれた。よってこの天照大御神の和御魂は、ここ高天原・日の宮の天神木にお留まり頂くという、御霊鎮めのお祭り巻天神祭を行う。しめ縄を天神木に引き廻らしてお鎮まりいただく太古から続く祭りである。太古の神々(人類の大祖先)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い、天地、万物の和合なす生命の源として、祈りの基を定められた。この歴史を物語る伝統が「五色神祭」である。この祭りは、地球全人類の各々の祖神(大祖先)(赤・白・黄・黒・青(緑)人)がここに集い、御霊の和合をはかる儀式を行ったという伝承に基づく、魂の目覚めの聖なる儀式である。 」 神話では、神々は高天原で生まれたとされている。熊本県蘇陽町の幣立宮は、最初の神天御中主神が鎮座し、神漏岐命、神漏美命を祀っている。この神社は以下のような伝承を持つ。 1 神武天皇は大和遷都後、7回この宮に参拝し、民族の繁栄と平和を祈願したという。 2 天照大神は天岩戸より出御のとき、天の大神を神輿に奉じ日の宮(幣立宮)に御還幸になった。 3 瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。 4 建磐龍命が阿蘇に下向した時、ここに幣を立てて天の神を祀られたので、幣立宮という。 5 瓊々杵尊はここより立ちて、高千穂に下る。 如何にも神話の最高の聖地と言うような伝承を複数持っている。どこまで真実かは定かでないが、神々の中心地であったという核になる部分は真実ではないかと思える。最も自然な成り行きとして考えられるのは、イザナギ一族が高千穂に行く前に住んでいた所ではないかということである。 その説を検証してみよう。古事記に最初に登場する神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神であり、造化三神と言われており、独神であり、その姿を隠している。これは後に検証するが、大和朝廷を構成する三系統の血筋を表しているものと考えている。天御中主神はイザナギ一族を指し、高皇産霊神は秦徐福の系統を指し、神皇産霊神は朝鮮系統を指しているようである。 次に神世7代が続くが最初の2代(国常立尊・豊斟渟尊)はいずれも饒速日尊を意味していると推定している。しかし、元来はイザナギ一族の先祖であったが、饒速日尊と同化したのではあるまいか。次の5代がイザナギ一族の先祖ではないだろうか 神世第一代 国常立尊 神世第二代 豊斟渟尊 神世第三代 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ) 神世第四代 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 神世第五代 大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと) 神世第六代 面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと) 神世第七代 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 幣立宮に祭られている神の大宇宙大和神は「おおとのちおおかみ」と読むそうである。神世第5代大戸之道尊と同じである。イザナギ一族はこの神の時代にこの地に住んでいたということではないだろうか。BC60年頃と推定する。 幣立宮は分水嶺上にあり、ここより東に降った雨水は五ヶ瀬川となり日向灘に流れ、西に降った雨水は大矢川から緑川となり、有明海に流れ込んでいる。呉太伯の子孫である「忌」は有明海を経て菊池市近辺を本拠とした。その一族は次第に周辺に広がっていき、球磨族となった。その一派が緑川を遡り、幣立宮の地に住んだ。ここからさらに東に進み、高千穂に下ったのであろう。この神社が九州の屋根と言われるのは分水嶺にあるためであろうが、ここを頂点としてイザナギ一族が東へ降ったためではないかと考える。 イザナギ一族と球磨族は共に同系統の一族のはずであるが、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。幣立宮が始原となっているが、それ以前に住んでいた地があるはずである。それが全く伝わっていないことからして、イザナギ一族は球磨族から仲たがいして分派したのではあるまいか。当初菊池市近辺に住んでいたが、球磨族と意見の相違があって、その地を離れ、緑川を遡り幣立宮の地に移り住んだのではないかと思う。その人物が神漏岐命・神漏美命であろう。その時期は定かではないが神世七代から推察してBC200年頃か。この頃は秦徐福が菊池市一帯のすぐ近くの佐賀平野に上陸しており、徐福一族とのかかわりが一族分裂の一因かもしれない。 イザナギ一族が球磨族から仲たがいで分裂したため、幣立宮以前の滞在地が全く伝わっておらず、この幣立宮が始原の地となり、他の神社には見られないような特殊な祭祀が行われるようになったのであろう。 イザナギ一族が素盞嗚尊による倭国に加盟し、倭国統一に熱心になったのも、球磨族を意識してのことではあるまいか。球磨族にしてみれば、けんか別れした一派の支配下に下ることなど、絶対に許されないことであったろうから、新技術を示されても、倭国に参加せず、大和朝廷成立後も熊襲として最後まで抵抗することになったと思われる。 |
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■秦徐福上陸
中国の歴史書「史記」によると、斉国・琅邪(ろうや・現在の山東省)の方士「徐福」が、不老不死の妙薬をほしがっていた秦始皇帝に対して「遥か東の海のかなたに三神山があり、そこに住む仙人が不老不死の霊薬を作っております」と申し出た。始皇帝は五穀・百工・童男童女三千人を乗せた大船団を徐福に与えた。大船団を率いて出港した徐福は、平原広沢の地にたどり着き、その地の王となり中国には戻らなかった。 これに対する日本側の伝承に徐福上陸関連の者があり、徐福はこの日本列島に上陸したようである。小山修三氏の弥生時代人口推計より推定すると、弥生時代は年平均50人から100人程度の渡来があったと思われるBC300頃から紀元前後までは1万〜3万の人々の流入と推定される。秦徐福が一挙に3000人を連れてきたと伝えられています。当時の人口規模からすると徐福の一団は相当な勢力となるのである。また、徐福は当時の最先端の技術を持った人々を多量に連れてきていますし、童男童女を主体として連れてきていますので日本列島上陸後一族の人口が増大していると推定されます。徐福のもたらした人々及び先進技術は後の大和朝廷成立に大きく影響を与えているはずです。ここでは、日本列島上陸後の徐福一族の行動について調べてみようと思う。 弥生時代になってから日本列島に多量の人々の流入が起こっているが、その渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。このことは弥生遺跡から発掘された人骨とこの地方の人々の人骨が同等のものであることからわかる。この時代は中国の春秋戦国時代であり、争いを避けて流入した者、国が滅び逃げ出した者などが中心と思われる。いわゆるボートピープルと考えられる。ボートピープルの場合、日本列島に流れ着いてもこれら人々の間に組織力・技術力はほとんどないと思われる。そのため、縄文人と徐々に融合しながら生活を送っていたと思われる。 それに対して集団で渡航した場合には、技術力・組織力は維持できているはずで、これは、上陸後の日本列島の統一過程に大きな影響を与えていると思われる。このために、徐福一族の上陸は組織力・技術力において他のボートピープルとは状況が全く違うと考えてよい。 ■徐福の出自 徐福の先祖は春秋戦国時代の穀倉であった山東・江蘇・安徽の三省にかけて支配していた徐国(BC512年呉によって滅ぼされる)の偃王(えんおう)の子孫であった。同時に徐福の父は秦王に仕えていた。 徐福は神仙思想・医学・薬学・農業・気象学・天文学・航海術の諸学に通じた方士である。また、インドに留学したという説もあり、インダス文明や仏教にも通じていたようである。徐国王の子孫という名門出身というだけではなく、その国際的な英知によって、始皇帝から重用されていた。 徐福の計画した渡航計画は童男童女三千人、楼船85隻という大がかりなもので仙薬探しにしては大規模すぎ、巨額の資金も必要としたであろう。また、童男童女三千人というのは、長期間にわたって滞在することを意味し、徐福の亡命を疑ってもおかしくはない。実際に徐福は亡命に成功し再び秦に戻ることはなかった。徐福は最初から亡命を計画していたと思われる。徐福が渡航を計画しそれを始皇帝に進言し、始皇帝から認可されたものと思われるが、始皇帝ほどの権謀術策にたけた人物が徐福の亡命をなぜ疑わなかったのだろうか。 始皇帝には別の計画があったと思われる。始皇帝は万里の長城の統合に苦労していた。その東北にいた燕が朝鮮半島と通行していることに注目し、燕が日本列島を狙っていると思っていたのではあるまいか。そのために、徐福を先遣隊として日本列島に定住させ、自らが日本列島を支配する足掛かりとしたのではないだろうか。徐福に日本列島征服の含みを持たせたとすれば、これほどの大部隊を徐福に与えたのもうなずけるのである。 ■徐福渡航 大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。 記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。 北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。 南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い 中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。 2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。 6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。 10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。 10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。 海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。 ■徐福の渡航目的 徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女を3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。 国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。 「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。 徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。 佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どおしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、専従者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。 徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。 |
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■上陸伝承
日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。 徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で、それを手でかき分けながら進んだという。 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ、井の字型の角丸太と5個の石が発見され、徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。 しばらく滞在していた徐福一行は、漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため、その臭いにがまんができず、この地を去ることにした。去るとき、何か記念に残るものはと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では、新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ、共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。 一行は北に向かって歩き始めたが、この地は広大な干潟地であり、とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので、ここを「千布」と呼んだ。使った布は、千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。 千布に住む源蔵という者が、金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために、徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中、阿辰が身の回りの世話をしていたが、やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら、「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが、阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり、阿辰観音として祀った。 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと、釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で、金立山の山奥に今でも自生している。 金立山には金立神社がある。祭神は保食神、岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず、徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300〜500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し、村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが、BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので、ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。 富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており、徐福の行動が詳しく記されている。 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが、中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。 |
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■吉野ヶ里遺跡
徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の大半が残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。 弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。 ■高良大社との関係 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に筑後国一宮の高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。 徐福一行は童男童女3000人が主体である。成人集団より人口増加率は高かったと思われる。西暦紀元前後には数万人規模になっていたのではないだろうか。佐賀平野だけでは収まらず、筑後平野にも進出していったと思われる。この一族の墓制は中国長江流域と同じく甕棺墓であると思われる。甕棺墓こそ佐賀平野・筑後平野一帯に広がっており、徐福の子孫が筑後平野にも進出していったことがうかがわれる。佐賀平野・筑後平野を一望できるのが高良山(高良大社)である。 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)は式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。 ここで、徐福一行と高皇産霊神がつながった。徐福伝承は大和朝廷成立にかかわる神話伝承には全く出てこない。しかし、これほどの技術者集団が大和朝廷成立に全く関わっていないということは考えにくく、神話上のどの神かにつながっているのではないかと思っていたが、その神が高皇産霊神であったようである。 徐福一団は佐賀平野から筑後平野に広がっていき、一つの国を形成したこの国名を仮に高良国と呼ぶことにする。高良国王は高皇産霊神の神である。高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の人々にも伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて統一されたのである。 ■狗奴国との関係 高良国が勢力を持ちだすと南の球磨国(狗奴国)と衝突するようになってきた。球磨国はBC473年に滅亡した呉の子孫が日本列島に漂着して作った国である。その呉は徐福の先祖の国である徐国を滅ぼしているのである。たがいにそのことは意識していたと思われ、徐福一行の高良国と球磨国は対立関係になったと思われる。甕棺墓をはじめとする徐福一行のものと思われる遺跡・遺物はいずれも熊本県最北端で止まっており、そこから南には全く見えない。これも両国の深い対立関係がうかがわれる。吉野ヶ里遺跡にも戦争を思わせるものが出土しているが、その相手国は球磨国であったのではないだろうか。 ■北九州沿岸諸国との関係 玄界灘沿岸地方の伊都国・奴国は朝鮮半島との関係が非常に深いようである。BC108年漢武帝が朝鮮を滅ぼして帯方郡を設置しているが、その頃より、発達してきている。朝鮮半島からの移民団によって建国されたものとも考えられるが、発掘された遺骨の分析では頭示指数・ABO式血液型分析による結果が、朝鮮半島のものとは大きく異なっている。この地域も中国の江南地方の影響が強いようである。日本列島で朝鮮半島の血筋に近い人々が多いのが近畿地方である。大阪湾岸に来た人々が朝鮮半島からの大量移民団と思われる。それ以外の地方の弥生人は、中国からの大量移民団が主流と考えられる。おそらく朝鮮半島からBC108年頃多量の移民団が北九州に上陸しようとしたが、先に上陸していた江南地方からの移民団によって阻まれたのではあるまいか。この集団はやむなく、瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのであろう。この集団は戦闘的性格が強かったようで、大阪湾岸の縄文人との間で戦闘が行われたようである。この集団は方形周溝墓の墓制を持っており、拡張意識が強く、100年ほどの間に近畿地方一帯はもとより、北陸地方・東海地方まで進出していった。 弥生時代前期から中期の初め頃まで、伊都国に朝鮮半島系の支石墓が出現するが、埋葬されている人々が縄文人なので、この頃には朝鮮半島からの文化の導入はあっても人の大量移民はなかったものと考えられる。 BC210年頃秦徐福が一挙に3000人を連れてきて高良国を建国した。高良国は暫らくのち、佐賀平野から筑後平野一帯に進出した。南の球磨国との衝突が起き、北の方に移動していったようである。この時点で遠賀川流域には甕棺墓がほとんど見られず、遠賀川流域までは進出していなかったのであろう。このようにこの当時の渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。 北部九州の戦闘遺跡を分析すると、弥生人どおしの戦いのようで、縄文人との戦いの形跡はほとんど見当たらない。最古の王墓と考えられているのが福岡市早良区にある吉武高木遺跡で中期初頭(紀元前2世紀)頃のものと思われる。この周辺の遺跡には朝鮮半島系の青銅武器が多量出土していると同時に戦死者と思われる人骨も多量に見つかっている。この遺跡の衰退と入れ替わるようにして伊都国の中心遺跡である三雲遺跡が発達している。これらの王墓には副葬品が多く、権力集中型の王墓と考えられる。 戦闘遺跡が最も多いのがBC2世紀から1世紀にかけての筑紫野近辺である。その南北において勢力の拮抗があったものと考えられる。 伊都国王は周辺の小国を従えた連合国を形成していたのではないかと考えている。武力により周辺を併合して行った様で、権力集中型の王だったと思われる。 これらのことより以下のように推定される。 BC473年中国呉最後の王夫差の子「忌」が熊本県菊池市近辺に上陸し狗奴国を建国、BC209年秦徐福が佐賀県佐賀市近辺に上陸し高良国を建国した。また、ほぼ同じころ中国の山東半島付近から(済州島経由?)で北九州北西部沿岸に人々が多量に上陸。これらの人々は秦の始皇帝によって滅ぼされた国の人々であると思われ、ボートピープルであるため組織力がなく、北九州上陸後、出身地ごとに小国乱立状態を作り、それぞれの小国間での争いが頻発する状態となったが、次第に伊都国に集約されていったとおもわれる。 高良国は北に伊都国を中心とする小国家連合、南に球磨国に挟まれた中で独立を保っていたのであろう。遠賀川流域、豊国地方はまだ未開の地で国としてのまとまりはなかったものと考えられる。これが紀元前後の北九州一帯の状況であった。 |
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■第2節 スサノオの父フツ | |
■第一項 フツの出自
スサノオが、国家統一事業を行ったと推定されるが、これは相当に難題で、これを実現するためには、相当の知識と知恵と行動力がなければできないことである。スサノオは、これらの能力を、どこで養ったのであろうか。 スサノオは、島根県平田市の宇美神社の地でフツを父として生まれている。フツという名は日本人らしくない名前である。「古代日本正史」によると、スサノオの本名はフツシで、ニギハヤヒの本名はフルである。どうも、同系統の名前のようである。 これについて、百済本紀を見てみると、紀元前一世紀頃の記録に、権力争いに敗れた「布流」という人物が出てくる。要約すると次のようになる。 「紀元前一世紀頃、高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて、その弟の方の温祚王というのが王位につき、その子孫が百済王朝を築いた。この兄の方は名前を布流といい、海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが、布流の国は土地が悪くて住み難く、布流はそれを恥じて死んでしまった。」 ここに登場する布流は、スサノオ一族と同系統の名で、ニギハヤヒの本名と同じである。布流はスサノオ一族と関係があるのではなかろうか。 また、ほぼ同じ頃、高句麗の始祖伝承によると、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国したことになっている。BC37年のことである。 この伝承の真実性は定かでないが、この頃「フル」という系統の地名なり、人名なりが、朝鮮半島北部にあったのは確かであろう。スサノオ一族の祖(フツ)はこのあたりに住んでいたのではないだろうか。あるいは、布流国王家の一族かもしれない。偶然かもしれないが、スサノオが誕生したと推定される時期(BC40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37)がほとんど重なるのである。 朝鮮半島の権力争いに敗れたフツ一族は、紀元前40年頃、朝鮮半島南端部から船出をしたということが考えられる。実験によると朝鮮半島南端部から漂流した場合、対馬海流に流されて、島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高いことがわかっている。スサノオの生まれたといわれている平田市の宇美神社は、河下湾のすぐ近くである。そして、河下湾周辺には、朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡が、伝承と共に存在している。この一族の一人にフツがいたのではあるまいか。 韓国側にもこれに相当する神話が伝えられている。ヨノランとセオニョの物語である。三国遺事に記録されている。 「今から1850年以上の昔、新羅という国があり、その国の海岸の村、今の浦項市の迎日湾あたりに、ヨノランとセオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。ある日ヨノランが浜辺で海草を採っていると、急に1つの岩があらわれ、彼を乗せ日本の「出雲」と呼ばれる国へ運んでいきました。セオニョは夫が帰ってこないので浜辺に探しに行ったところ、夫の履物が岩の上にありました。それをとろうとして岩にあがると、またその岩も動き出し、日本へ向かい、その国の人たちは2人を丁重に迎え、夫婦はそこで再会することができたのです。ヨノランはその土地の人たちに、製鉄の技術と米を作る技術を教え、セオニョは桑を植え、蚕を育て、絹を造る技術を教えた。」 この話をもとに、渡来人がどのようなルートで、どんな方法でわたってきたのか、実証しようというプロジェクト「日韓 古代の道をたどる会(からむし会)」が立ち上がっている。 この物語が真実を伝えているとすれば、後世の別の人物である可能性もあるが、神話上の人物と重なるなら、ヨノランはフツに相当することになる。関連論文ではスサノオとのかかわりを説いているが、スサノオは日本で生まれており、伝承上対馬経由のルートを通って何回も往復している。浦項-出雲間は直線300km程で、対馬経由に比べると危険性がはるかに高く、この経路を通るのは緊急避難的要素が強いと思われる。実際伝承でも計画的に移動したのではなく、流されて移動したことになっている。 |
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■第二項 出雲王朝
古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。古代出雲において出雲王朝は影が薄いのではあるが、要所要所に出てくるのではっきりとさせなければならない。 |
1 のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 4オミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。さらに、オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。また5天之冬衣神は天葺根ともいいスサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから1から6までは同世代とも考えることができるが、 古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか? 出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としてはよそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか?古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。 それでは出雲王朝初代は誰なのであろうか?それを明確に表現することが難しいが、出雲朝第二代布波能母遅久奴須奴が古事記編纂時記憶にあった最初の出雲国王だったのでは ないだろうか?直系であるとすればBC100年ごろの人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、布波能母遅久奴須奴は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。 これを元にオロチ退治以前の出雲の状態を推定してみよう。 |
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■第三項 国引き神話
出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 出雲風土記の国引きとは一体何であろうか。これについて検討してみよう。 ■国引き神話あらすじ 『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと・淤美豆神)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。 そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。 国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。 そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。 ・ 新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎) ・ 北門の佐伎(さき)の国(隠岐の島・島前)→多久の折絶から狭田(さだ)の国 ・ 北門の良波(よなみ)の国(隠岐の島・道後)→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国 ・ 越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼 神話伝承 ●長浜神社 主祭神 八束水臣津野命 ●国富の要石 国引きで引き寄せた土地が地滑りするのを防ぐために立てた石・出雲市国富町旧木佐家敷地内 ●帆筵石(ほむしろいし) 旅伏山の山頂、都武自神社の境内にある。八束水臣津野命が韓国へ航海した時の帆が石になったもの ●岩船石 出雲市唐川町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の船が石になったもの ●帆柱石 出雲市別所町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の帆が石になったもの 国引きとは一体何なのであろう。実際に土地を引き寄せたとは当然ながら考えられない。八束水臣津野命が韓国に航海したということが地域伝承に言い伝えられていることから、ほかの土地との交流を意味していると思われるが、これを技術者の輸入と仮説を立ててみた。 天之冬衣神はスサノオが八岐大蛇退治をするときに協力した神であり、スサノオと同世代と考えられる。オオクニヌシはスサノオより1世代後と考えられるので、天之冬衣神の父である八束水臣津野命はフツと同世代となる。出雲王朝はこの当時杵築(出雲大社周辺)に本拠地を置いていた一豪族と考えている。出雲本来の豪族であり、クナト大神、オオクニヌシと共通名で呼ばれることもあるようである。以下は推測である。 フツが河下湾に上陸し平田市近辺に住みついたとき、その世話をしたのが八束水臣津野命ではないだろうか、フツとしては見知らぬ土地で困っているところをいろいろと助けてくれたのである。フツのほうも八束水臣津野命に朝鮮半島の新技術を伝授した。八束水臣津野命は遠くの国には我々の知らない技術があることに驚いたであろう。知識欲が旺盛だった八束水臣津野命はフツにもっと技術はないものかと相談した。フツは韓国にはもっとすごい技術があると伝えたことであろう。 フツから韓国には素晴らしい技術があることを聞いて八束水臣津野命は韓国からその技術を取り入れようと決心し、船を造ってその技術を輸入しようとした。すぐには学べない技術もあったので、韓国の技術者を出雲に呼び寄せた。先ほどのヨノランとセオニョもその技術者に含まれるかもしれない。韓国から戻ってくるときの目標が三瓶山だったのではあるまいか。そして、その上陸地が長浜と考えられる。これが国引き神話の実相ではないだろうか。 韓国から技術導入の後、八束水臣津野命はほかの土地からの技術導入を思いつき、次は北陸地方能登半島の珠洲地方から技術者を呼び寄せた。能登半島は東の縄文文化と西の弥生文化の接点であり、出雲にはなかった技術があったのであろう。その帰り道、大山を目標とし、上陸地が弓ヶ浜だったと思われる。後に隠岐の島の島前・道後を訪問しここからも技術者を呼び寄せた。土地が違えば人々の生活形態も異なるものであり、出雲の人が知らない何かがあるのが当然であろう。フツは八束水臣津野命の支援のもと、平田近辺の一豪族として勢力を拡大していった。そして、この事業が後にスサノオが統一事業を始める試金石となったものであろう。 |
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■第四項 スサノオの誕生
スサノオ誕生伝説地と思われる場所が島根県下に存在している。当初平田市の宇美神社ではないかと推定していたがその後の調査によりもっと可能性の高い場所が見つかった。 平田市塩津町の石上神社である。この神社は風土記に宇美社と記載されており、誰か重要人物が誕生した地であるように思われる。祭神は布都魂命である。古代の神名帳には「宇美神社塩津村海童」と記されており、海童とは海神(スサノオ)を意味している。この地は平田市の北側の日本海岸にあたり絶壁のような狭いところに人家が集まっている。今は道路が開通しているが古代においては海からではないとこの地にたどり着くのは難しかったのではあるまいか。古代において人々が常時住むところとはとても思えない。BC37年布流国滅亡に際して朝鮮半島を船出した布流国王の血筋のフツが臨月の妻とともに日本海を漂流しているとき、命からがらこの海岸にたどり着き、そこで出産した。そのような物語がぴったりと来るような土地である。 スサノオはフツが日本海から上陸した直後に誕生したのではないかと思える。フツ夫妻はしばらく後産まれたばかりのスサノオを抱きかかえて、この地の少し西にある河下湾に上陸し、住みやすい地を探しながら沼田郷のほうへ移動したものと考えられる。 フツがわざわざ日本列島まで来るのは緊急避難的要素が強く、その必要性がある人々というのは、滅亡した国の王の系統であると思われる。また、スサノオは、ヤマタノオロチを退治するときに使った布都御魂剣(鉄剣で石上神宮に現存)という、当時としては、大変珍しい鉄剣を持っていた。この剣は父フツのものであり、当時の日本列島では大変珍しいものである。こういう物を持っているというのもフツが王家の系統である証である。 フツは朝鮮半島の王家の系統であるため、日本列島や、朝鮮半島の地理・情勢・人心のつかみ方・政治のあり方などをよく知っていたと考えられ、スサノオは父からそれを学び、それを実行に移したと考えることができる。また、父から、朝鮮半島での権力抗争の話も聞いていたであろうから、人々が権力抗争することの愚かさや、それによって起こる不幸な出来事を知っていて、権力抗争を憎む気持ちがあっても不思議ではない。 また、スサノオが統一事業開始前に朝鮮半島に渡って、色々な技術を採り入れていることも、フツからその知識を得ていたからと解釈する。 このようにスサノオが日本列島統一事業を始めることができたのは、朝鮮半島からやってきた人物を父に持ったからできたことであり、日本列島生まれの列島育ちでは統一事業はできなかったことであろう。 斐川町出西に久武神社がある。この東方300mの地にヤマタノオロチ退治の後稲田姫を娶り、ともに住んだ住居跡の伝承地がある。稲田姫との新婚生活をした場所は松江市の八重垣神社及び大東町の須我神社にある。周辺伝承とのつながりは松江市の方が強いため、久武神社のほうはヤマタノオロチ退治する前にスサノオが住んでいた地ではないかと推定している。ここは沼田郷に近いところであり、17歳ほどに成長したスサノオが生活するには良い土地であろう。この地に一目ぼれした稲田姫を呼び寄せたこともあったと思われる。そのような時、木次の豪族ヤマタノオロチの横恋慕が入り、稲田姫を奪われた。スサノオはオロチを退治して稲田姫を奪い、オロチ一族の追撃を恐れていたわけであるから、スサノオも自分の家に戻るとは考えにくい。オロチ退治後は知り合いの青幡佐草彦を頼って松江市の八重垣神社の地に隠れ住んだとするほうが自然である。 |
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■第五項 フツの御陵
島根県の日御崎神社の裏山に御陵がある。神社の記録によると、安寧天皇の時代に御陵の上にあった社を現在の位置に動かしたとあるので、この御陵は一世紀には存在していたようである。日御碕周辺にはその他にいくつかの朝鮮半島系のものと考えられる墳墓が見つかっている。スサノオは父のフツを尊敬しているはずであるから、その御陵は意味のあるところに存在するはずである。日御崎は朝鮮半島を向いた位置である上に、日御崎神社上の宮(祭神スサノオ)も朝鮮半島を向いている。フツが、彼の故郷である朝鮮半島を思う気持ちから、この地に作られたのではあるまいか。この御陵はスサノオのものと伝えられているが、スサノオの御陵は別に存在するので、この御陵をフツのものと推定するのである。そうなれば上之宮の真の祭神はフツである可能性も出てくる。 |
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■第3節 瀬戸内海沿岸地方の統一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 ヤマタノオロチ退治
スサノオはBC36年ごろ平田市塩津町石上神社の地で誕生したと推定した。スサノオの父フツは生まれたばかりのスサノオを連れて沼田郷に移動しそこに根付いた。スサノオはここで成長し、BC20年ごろには出西の久武神社の地に住んでいたと思われる。この直後にヤマタノオロチ事件が起きるのであるが、その事件の概要を伝承を元に探ってみようと思う。 ヤマタノオロチ関連伝承地は斐伊川沿いを中心として数多く存在しているが、3系統ぐらいに分けられる。第一の系統は木次を中心とする伝承で斐伊川と赤川の合流地点がスサノオとヤマタノオロチの決戦場となっている。第二の系統は斐伊川河口付近でヤマタノオロチが退治されたというもので、この伝承は周辺の伝承とあまりつながらない。第三の系統は木次町日登を中心とした伝承である。第一の系統に属する伝承の特徴はヤマタノオロチが巨大であるということである。また、出雲振根や吉備津彦の伝承地と重なっており、後の時代の倭の大乱を意味しているものと推定する。この関連伝承は倭の大乱の項で詳説する。第二の系統はヤマタノオロチが斐伊川上から大軍で押し寄せてくる類のものであり、斐伊川の洪水か、たたら製鉄の人々と農民との争いを意味しているように読み取れる。第三の系統がスサノオと稲田姫のつながりが深く感じられ、ヤマタノオロチと酒とのかかわりが深い伝承でヤマタノオロチは一人の人間を意味しているようである。スサノオのヤマタノオロチ退治はこの第三の系統のヤマタノオロチ関連伝承で説明できる。 ここでは、第三の系統の伝承に絞って検討してみようと思う。 ■ヤマタノオロチの実態 ヤマタノオロチの本拠地はどこであろうか。古事記の伝承によると、足名椎・手名椎の屋敷からは離れているようで、また、相当な権力をもった大豪族のように読み取れる。稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡であろう。ここから離れたところで、しかも、大豪族たる立地の場所を探すと日登の地が考えられたが、この周辺にヤマタノオロチ関係の伝承地が見当たらない。ヤマタノオロチは毒酒を飲んで苦しんでいるところをスサノオに刺殺されているので、ヤマタノオロチ終焉の地である木次の八本杉の位置かとも考えたが、この地は低地であり、斐伊川の洪水に流されてしまう場所である。しかし、八本杉のすぐ近くに斐伊神社がある。この神社は孝昭天皇5年に創建された神社で、かなり古いものである。 境内の略記には以下のように記されている 須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命 合殿 樋速夜比古神社 祭神 樋速夜比古命 本社の創立は甚だ古く孝昭天皇五年にご分霊を元官幣大社氷川神社に移したと古史伝に記載してゐる。 出雲風土記の「樋社」で延喜式に「斐伊神社同社坐樋速夜比古神社」とある。天平時代に二社あったのを一社に併合したのであろう。他の一社は今の八本杉にあったと考えられる。「樋社」を斐伊神社と改稱したのはこの郷の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により「斐伊」と改めたことによる。延喜の制国幣小社に列せられ清和天皇達観貞観十三年十一月十日神位従五位上を授けられた。本社は中世より宮崎大明神と稱えられ地方九ヶ村の崇敬厚く明治初年までその総氏神としてあがめられた。明治四年五月郷社に列せられた。 明治十六年馬場替をし、仝四十年五月日宮八幡宮稲荷神社を本社境内に移転し、境内末社とした。 昭和五十六年九月一日島根県神社庁特別神社に指定された。 昭和六十三年八月廿五日社務所を改築した。 また、この地はスサノオが仮宮を作って稲田姫を隠した地とも言われている。 八本杉の位置とこの神社はペアの関係にある。この神社の位置は高台にあり、ヤマタノオロチの本拠地との条件はすべて兼ね備えている。この位置がヤマタノオロチの屋敷跡とすれば、ヤマタノオロチの実態がかなり明確に想像できるのである。 この地は斐伊川沿いにあり、ここから下流はしばらく急流が続く、当時の人々は斐伊川を利用し船で他地域との交流を図っていたと思われる。斐伊神社のある里方の地はその入り口にあたり、急流を遡ってきた船はほぼ確実にこの地で休息を取るであろう地である。また、肥沃な日登、三刀屋方面からの合流点でもあり、この地を統治していた豪族は、ここから上流一帯の物資の流れを一挙に握っていたことになり、強大な権力があったことが予想される。この大豪族こそヤマタノオロチであったのであろう。 ■稲田姫一族の屋敷 稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡がある。アシナツチ・テナツチ二神の遊興の場「茶屋場」、馬を飼っていた「厩谷」、オロチ退治の毒酒を醸した「和泉谷」などの地名が残っている。周辺伝承とのかかわりから推定して、ここが稲田姫の実家であろう。長者屋敷跡は山岳地帯にあり、足名椎は地方の一農民といった感じである。久武に住んでいたスサノオも奥出雲地方との交流を盛んに行なうため、しばしばこの地方にもやってきていたようである。そのなかでスサノオは稲田姫と親しくなっていったようである。 ヤマタノオロチも稲田姫が気に入り、たびたび通ってきたようである。長者屋敷周辺数百m以内にはオロチが住んでいたという伝承をもつ地「八頭」、「大蛇池」、「大蛇瀑」、「八頭坂」などがある。稲田姫が気に入ったオロチは頻繁に通ってきて、周辺に滞在したものと考えられる。オロチが木次から通ったルートも大体想像がつく。木次から斐伊川を遡り、北原字川平の岸辺に船をつけ、布施川を遡り、オロチが来ると波が起こったといわれている波越坂を経由して長者屋敷から北東へ700m程離れた「大蛇池」、「八頭坂」に滞在するコースと、佐白の上布施の上陸し八代川に沿って遡り、長者屋敷から南東に200m程離れた「八頭」に滞在するコースが考えられる。ヤマタノオロチの滞在地が長者屋敷のすぐ近くに複数個所存在することから判断して、ヤマタノオロチの稲田姫に対する思い入れは相当強かったと思われる。 ■オロチ・スサノオ・稲田姫の三角関係 スサノオ一族はフツから教えてもらった朝鮮半島の先進技術を周辺の人々に伝えて出雲地方で人々に慕われていた。それに対して、ヤマタノオロチは権力をほしいままにしていた大豪族であった。斐伊川沿いの天ヶ淵の近くに福竹があり、足名椎・手名椎が稲田姫とともにオロチから逃げている様子が伝えられている。おそらく、稲田姫は激しく求愛するオロチを嫌って長者屋敷を逃げ出したのであろう。このようなとき人々から慕われているスサノオから求婚の申し込みがあった時喜んでその申込みを受けた。二人は佐白の八重垣神社地で結婚式を挙げ、久武の地の稲城でスサノオとの新婚生活を送ることになった。久武神社の伝承に詳しい。 ■久武神社の伝承 「命は出雲国に来たり、此邊りを跋渉せられると、偶然にも川中へ食箸が流れてきた。そこで、命は此川上に住んで居る者があることを知られ、川を遡って足摩槌手摩槌に遭ひ給ひ、稲田姫を娶られ、今の出西村稲城と云ふ森に堅固な城を築かれ、姫を入らしめ給ひ、大蛇退治の準備をせられ、次で追討に向はれた。大蛇はそれまで、出西まで出て来つたので、今の字来原は大蛇の来たところであって、大蛇はそれから上船津の蛇越という地を経て再び川上に至ったもので、命は川上の地で大蛇を討伐し給ふ。」 しかし、権力を笠にする性格のヤマタノオロチは納まらず、久武のスサノオを襲い稲田姫を奪った。伝承によると、オロチは斐伊川を下り久武と対岸となる来原の地に上陸して様子を探り、一挙に稲城の稲田姫を奪い去ったことが分かる。船津を経由して川上に連れ去ったものであろう。オロチは木次から斐伊川を下り出西で上陸すればすぐ近くに、スサノオ・稲田姫の新婚生活をしている屋敷がある。おそらく、このコースでオロチはスサノオから稲田姫を奪ったのであろう。 ■オロチ刺殺事件 八岐大蛇関連伝承地 ●稲城の森 出雲市出西 スサノオが稲田姫と新婚生活した地。オロチの襲撃を恐れ堅固な城にしたという。 ●来原 出雲市大津町 大蛇が来たところと伝える。 ●上船津 出雲市舟津町 大蛇が川上に戻る時、立ち寄った処。 ●布須神社 木次町守谷 「八塩折の酒」を作るための御室を設けて宿泊した。室山の麓には「釜石」があり、ここで毒酒を作った。 ●八口神社 木次町西日登 八岐大蛇退治の時の仮宮を立てた処。この時の酒壺が壺神様として祀られている。 ●斐伊神社 木次町里方 稲田姫を隠した所 ●八本杉 木次町里方 オロチ館跡。オロチが最後を遂げた処。 ●三社神社 木次町西日登 オロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところ ●大森神社 木次町西日登 オロチ退治後暫らく隠れて居た処。 ●佐世神社 大東町下佐世 スサノオがオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄り、佐世の木の葉を頭に挿して踊った時、刺した木の葉が落ちた処。 ●宝山 大東町中湯石室田 海潮温泉の裏山で御室山とも云う。「郡家の東北一十九里一百八十歩。神須佐乃袁命、御室造ら令め給ひて、宿りし所なり。故、御室と云ふ。」と伝える。 ●八重垣神社 松江市佐草町 背後の佐久佐の森に稲田姫を匿い、八つの垣を作ってオロチの追撃を防ごうとした。 ●八雲山 大東町須賀 スサノオノミコトが八岐大蛇退治後に稲田姫を娶り宮を作るためにこの地に来て「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた所。 ●須我神社 大東町須賀 スサノオ最初の宮跡。館の前で交換市を開いた。 稲田姫を奪われたスサノオは、なんとか取り返したいと思ったが、オロチは大豪族であり、まともに立ち向かったのでは勝ち目はない。そこで、稲田姫の実家のアシナツチ・テナツチの協力を得て強力な毒酒を作らせた。そのときの毒酒を作った地が木次町宇谷の布須神社、そのときの酒壺が木次町西日登の八口神社に壺神様として祀られている。その毒酒を木次の八本杉の地で宴会をしていたヤマタノオロチに飲ませた。ヤマタノオロチが毒酒に苦しんでいるときに父の鉄剣(布都御魂剣)で刺し殺した。 スサノオは稲田姫を連れてオロチの屋敷を飛び出した。スサノオはオロチの配下による復讐を恐れていた。もう出西には戻れないと思ったスサノオはその逆方向にある西日登の三社神社はオロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところで、東日登の大森神社の地にしばらく隠れていたと言われている。この神社の伝承によりスサノオがオロチを退治した後の逃避経路が判明する。八本杉のところから斐伊川を4km程遡り、能間より支流に沿って遡るとすぐに三社神社があり、峠を越えると大森神社がある。スサノオは宇谷の布須神社の地に移った後、様子をうかがいながら、大東町の佐世神社の地に移動した。この神社はオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄ったと伝えられている。そこから八雲村を経由して佐草の八重垣神社の地の青幡佐草比古をたずねていった。 八重垣神社の地で一時身を隠し、八重垣を作ってオロチ一族の追っ手を防ごうとした。オロチ一族の残党はスサノオを追うことはせずに、そのまま解散したようである。オロチの館跡には八本杉が植えられ、スサノオがこの事件に関連した場所には、神社が建てられ、これらの伝承を詳細に伝えている。権力をほしいままにしていたオロチであるから、人々はスサノオの行動に感謝をした。統一政権のない弱肉強食の時代にすんでいる人々は権力欲のある豪族にいじめられており、自分たちの生活を守ってくれる人物の登場を願っていた。彼らは人望のあるスサノオを中心として団結すれば、それらの豪族たちに立ち向かえると考えた。人々は、彼に王になってくれと嘆願した。スサノオも民衆のためになるのならと承諾し、彼を国王とした出雲国が誕生した。 ヤマタノオロチ伝承は、スサノオが国家統一事業を引き起こすきっかけになったもので、重要なことから、古事記・日本書紀でも無視できず、大蛇退治として記録された。しかし、出雲風土記には触れられていないのである。朝廷は、おそらく、ヤマタノオロチ事件を大蛇退治として記録するように要求してきたであろうが、出雲国造はスサノオの大事な事件を大蛇退治にしてしまうのに抵抗を感じ、風土記に書き込むのを拒否したと考える。出雲風土記にはスサノオに関する記述が非常に少ないが、これも朝廷の検閲の結果、朝廷に都合のよい記述をすることに抵抗を示して、スサノオ記述が少なくなったものと考える。 |
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■第二項 出雲国王就任
紀元前20年頃、土地の豪族ヤマタノオロチを倒したスサノオは、周りの人々に推されて出雲国を建国し、国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる。その周辺で、市を開いたり近郷の豪族を集めて会議をしたりといった伝承が伝わっている。古代にしては珍しく合議制だったようである。スサノオは権力で勝ち取った国王の座ではなく、人々から推されて国王になったのであるから、人々のことを考える気持ちが強かったと推察される。そして、スサノオは出雲各地を巡回し、人々の生活に心を配ったらしく、島根県各地の神社にこの巡回の模様が伝えられている。スサノオはこのように民衆に心を配ったために、出雲国の人々の生活は潤い、彼は民衆から慕われた。そのうわさを聞いた周辺の集落も、出雲国に加入するようになり、出雲国は次第に大きくなっていった。 ●来阪神社 出雲市矢尾 背後の鼻高山に登った。本殿傍らの岩はスサノオの腰掛岩と云われている。 ●山狭神社 安来市広瀬町 スサノオがこの地を巡視した時、仮の宿を立てた処。熊野山を経由して、熊野との間を往復していたという。 ●都弁志呂神社 安来市広瀬町 スサノオが置き忘れて云った杖と腰かけた岩を奉祀した神社 ●多賀神社 松江市朝酌町 スサノオ命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。 出雲国は、当初現在の島根県松江市南部およびその周辺の領域であったが、島根県東部地域一帯にまで広がるようになった。国が広くなると周辺地域まで心配りがなかなか行き届かず、佐田町の須佐神社の地に支庁を作ったようである。スサノオの名は「須佐の王」からきたものではあるまいか。 出雲国王としての成功がスサノオに自信をつけさせ、スサノオは日本列島を統一しようと考えるようになったのではないだろうか。 |
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■第三項 国家統一の動機
スサノオが国家統一をするに至った動機はどのように考えられるであろうか。 伝承によると出雲国王時代には、スサノオは出雲各地から毎年代表者を呼び寄せ、会議を開いていたようであり、その会議によって重要なことを決めていた。つまり合議制だったのである。古代の権力者は独裁になりやすいのであるが、スサノオはかなり民衆のことを考えた政治をしていたようである。神社伝承でも、出雲国王としてのスサノオは人々からかなり慕われていたことが伝えられている。スサノオは常に民衆のことを考える性格の人物であり、その性格が次のようなことを感じさせたのではあるまいか。 スサノオの父フツは、おそらく朝鮮半島の権力抗争に敗れた人物で、スサノオはその話を聞いていたと考えられる。また、出雲の豪族ヤマタノオロチの横暴をみるにつけ、日本列島が統一されていないために、このまま時が過ぎると出雲国はいずれどこかの国と戦争をしなければならなくなり、多くの人々の血が流されることになろう。 このように、各地の有力豪族が権力を欲しいままにしていた状況に「今のうちに、何とかしなければ」というものを感じたのではあるまいか。 有力豪族の権力抗争を憎み、 「今のように、小国家が分立した状態で、それぞれの王が、権力欲をむき出しにしている状態では、いずれ朝鮮半島のように列島内至る所で戦争が始まり、人々は苦しむ状態になる。幸い日本列島は小国家乱立状態で、それぞれの国家は烏合の衆である。今のうちに統一してしまえば、未来永劫、争いのない世界がやってくるのではないだろうか。」 とでも考えたのではないだろうか。この考えは日本書紀の「八紘一宇」「六合一都」の考え方で、初代神武天皇が大和で即位するときに人々に示したとされている。これは、戦前に強調され、太平洋戦争の口実になったものである。しかし、古代にしては考えられないほど理想的な考え方である。スサノオの実践があったからこそ、この考え方が存在していたのではあるまいか。おそらく、スサノオの考えを受け継いだ神武天皇が大和で即位するときに、この考え方を示したものであろう。 最初に統一された瀬戸内海沿岸地方から、出雲系土器が出土するが、その数はまばらで少ない。このことはスサノオのこの地方統一は少人数だったことを意味し、少人数での統一は平和統一しかあり得ない。スサノオは、瀬戸内海沿岸地方の人々に国家統一の必要性を説いて回り、その協力者を募ったものと考える。古代と雖も人々は戦いを好まず、平和な生活を望むであろうから、協力者はかなり多かったのではあるまいか。そして、彼らの協力を得て次の地域を統一していくという方法を使ったのであろう。 これは、スサノオが権力欲や支配欲なしで、純粋に国家統一を目指していたことを意味している。もし、スサノオが権力欲を持っていたのなら、瀬戸内地方を統一した後は、この地方を出雲勢力の勢力下に置くであろう。そして、統一に武力を用い、あくまでも出雲勢力を中心に動くはずである。統一した地方の人々を動かして、次の地域を統一するといった手法は、統一された側に支配されるという感情を持たせず、目的意識を持って積極的に国家統一事業に参加させるといった効果をもたらせたと考える。そのため、統一される側も、抵抗感が少なくなったのであろう。実際にその後の九州統一でも、遺物から判断して、出雲勢力よりも瀬戸内勢力がかなり活躍している。 このような気持ちで統一事業をやったからこそ、多くの人々が協力し、後に日本最高の神として崇められるようになったと考える。 |
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■第四項 対馬統一
当時の人々に生活苦があった状態では、生きるのに精一杯でとても理想的な行動をしようという気にならないが、この時期は温暖期にあたり生活はやや持ち直した時期であったようである。時期的にも統一にはよかったようである。 日本列島統一をするには、他の地域に対する売り物として、多くの先進技術や高い文化が必要である。各地の人々に統一国家に加入せよと言っても、そのメリットがなければ、従う者はいないし、加入した地域もそのメリットが継続していなければ、また離れて行くであろう。朝鮮半島の先進技術を手に入れ、統一国家に加入した人々に伝えれば、人々の生活水準は上昇し、加入地域も増えるであろう。 父であるフツや八束水臣津命が国引きで朝鮮半島から持ち込んだ剣などの金属器の輝きに人々が驚き、また、農業技術で人々の生活が楽になっていくのを見て、スサノオは外国の最新技術が国の経営に欠かせないことに気づいた。また、出雲国が豊かになるにつれて、周りの小国がどんどん加盟を申し出てくることから、国を豊かにすることが国家統一に必要なことであることも気づいた。 スサノオは、朝鮮半島から来た父のアドバイスをもとにして、国家統一の前に、まず、その先進技術や高い文化を入手するルートを恒常的に確保しようとした。 そのルート上にあるのが対馬である。出雲国王になったスサノオは、日本列島統一に絶対必要な最新技術を恒常的に手に入れるため、対馬を出雲国の支配下に入れることを考えた。紀元前10年ごろのことであろう。 対馬では弥生時代中期末(西暦紀元前後)になると、多量の副葬品を所有した墳墓が三根湾の一角に出現する。ガヤノキ、タカマツノダン、サカドウといった首長級の墳墓の出現である。副葬品としては前漢鏡、楽浪系銅釧、半島産小銅鏡などの青銅製品が多い。この周辺が対馬国の発祥の地であろう。 対馬に伝わる伝承では対馬はスサノオが開祖で代々スサノオの子孫が対馬を統治しているとされている。対馬では中期末以前には王墓らしき墳墓は存在しないので、伝承と照合すると、スサノオが対馬にやってきて国を作ったということになる。対馬は山が多い島であり、スサノオがやって来るまでは、まとまった国としての存在はなく、スサノオはここに国を作ることにより出雲と朝鮮半島の交流拠点を確保したものと考えられる。その拠点を三根湾沿岸に作ったものであろう。そして、対馬から朝鮮半島に渡り、先進技術の導入を謀ったのである。そのため、対馬には出雲系神社が多く出雲と同じ神在月伝承が残っていると推定する。 対馬の最北端には嶋頭神社(那祖師神社に合祀)があり、この地は、その昔スサノオが韓地ソシモリにわたったときの行宮の足跡といわれている。また、那祖師神社の伝承では素盞嗚尊は三韓経営のため対馬と朝鮮半島を往復した、とある。スサノオの朝鮮半島訪問は1回ではなく複数回に及んだものと推定される。そして、神話では、朝鮮半島に渡ったスサノオは全国に木の種を配って回ったとされている。木の種を配っても生長して実が成るまでには年数がかかり、実際上の効果がほとんどないと考えられ、木の種というのが新技術を示しているのではないだろうか。 対馬には出雲系の神社が非常に多く、神無月伝承に関わる神迎え儀式が伝わっており、出雲との間を、毎年、神が往復していたと伝えられている。これらから、対馬は他の地方よりも、出雲との間に深い関わりがあることがわかる。これは、他の地域よりも早い時期に出雲の勢力下に入っていたためと考える。 スサノオは、次に、朝鮮半島南端部を統一したようである。「尾張名所図絵」等の資料によると、愛知県の津島神社の創始について、 「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が、七代孝霊天皇の時に、西海の対馬に遷された。」とある。 スサノオが、朝鮮半島に祭られていたということは、その地を統一していたということになる。那祖師神社の記録にも「朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した」と記録されている。朝鮮半島南端部(狗邪韓国)は魏志倭人伝によっても倭人の国に属していた節があり、中国の認識する倭国の領域に朝鮮半島南端部が含まれていたようである。また、後の時代の任那日本府にしても、その起源は不明である。スサノオが統一していたとすれば、説明できる。おそらくスサノオは、外国交易の基点として重要視したい朝鮮半島南端部を、統一していたのであろう。スサノオは、ここを基点として、朝鮮半島の先進技術をかき集め、日本列島に持ち込んだものと考える。考えられる先進技術は、鉄器製造技術・青銅器製造技術(銅剣・銅矛・銅鐸)・農耕技術・暦・新作物の種などであり、いずれも以後瀬戸内沿岸で変化が起こっているものである。 大石武氏著「伝説散歩・八幡の島」p191に次のような記述がある。 峰町の竜造寺辰馬氏の言葉として「私は戦前長く朝鮮にいましたが、北朝鮮江原道の春川郡春川面というところに「ソシモリ」と呼ばれているところがありました。ちょっとした丘が聖地になっていて、土地の人はそこの神様のことを大昔日本から来た神様だと伝わっていると申していました。その丘をソシモリの丘と呼んでいました。」 また、現地では次のような言い伝えもある。 「素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う」 日本側の伝承とつなぎ合わせると、50人の兵士とは五十猛命、妹とは抓津姫、大屋津姫と考えられる。 また、日本書紀一書(第四)「素盞嗚尊の行いはひどいものであった。そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。 この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。」 一書(第五)「素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。 そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。」 根國へ放逐せられたる素戔鳴尊は身から出た錆の報いで所々方々を流浪しながら其の子の五十猛命と共に 今の朝鮮へ渡られ、新羅國の曾戸茂梨と言う所に居られた。 此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よってスサノオの別名を牛頭天王とも書いてある。 此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。 その木が紀伊の國で一番繁殖したので昔は紀伊は木國と言ったと伝えられてる。 牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。 これらの伝承をつなぎ合わせるとスサノオが出雲から朝鮮半島に渡り、朝鮮半島の先進技術を学び再び日本に帰ってきたことが伺える。 このことは考古学的にも裏付けられる。後の北九州統一のシンボルとして使われた中広銅矛をはじめとする倭国関連遺物が朝鮮半島の加羅国の領域から出土するのである。そのほかの領域からは全く出土していないので、この領域がスサノオの統一した領域と考えられる。しかし、統一したのは中広銅矛の出土から考えて北九州統一後のことであろう。この段階では朝鮮半島の先進技術を学んだものと考えられる。 スサノオは、五十猛と抓津姫、大屋津姫を引き連れ、朝鮮半島に渡った。 先進技術習得後の日本列島への帰還コースは、対馬−壱岐の伊宅郷−筑紫−長門の須佐−岩見の神主−温泉津−仁摩の韓島を経て五十猛町の韓浦に上陸した、と伝えられている。」 ここでいう壱岐の伊宅郷とは旧湯岳村を指し原の辻遺跡がある。スサノオは原の辻遺跡に立ち寄っていると思われる。壱岐は対馬と違って国としての形態がすでに出来上がっていたためにスサノオが入り込む余地がなく、その中心地である原の辻遺跡を寄港地として利用したものと考えられる。 |
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■第五項 瀬戸内海沿岸地方統一
対馬を通して、朝鮮半島から先進技術を導入したスサノオは、瀬戸内海沿岸地方に赴き、新技術を示して、国家統一の必要性を説いて回った。この地方の人々は、新技術を駆使して、当時の人々にとって信じられないような現象を引き起こしているスサノオを見て、スサノオを神と感じ、スサノオの考え方に同調した。そして、スサノオの統一国家に加入し、他の地域に加入を勧めるのに協力した。 この当時日本列島に住んでいた弥生人は、中国大陸や朝鮮半島の戦いに敗れて逃げてきた人々の子孫で、中国文献に「呉の太伯の子孫」とあるように、まだそのことを記憶していたようであるから、権力抗争の悲劇は知っていたはずである。この日本列島にも同じ様な悲劇が起こるのを恐れ、容易にスサノオの考え方に同調し、協力したのではあるまいか。彼らの協力により、多くの地域が次々と統一国家に加入し、瀬戸内海沿岸地方は西暦紀元頃統一された。 スサノオが統一したと考えられる地域にスサノオを祭った神社及びその伝承が伝えられているが、スサノオの行動を伝える伝承を持つ神社は、瀬戸内海沿岸地方から兵庫県南部、紀伊半島南部にまで広がっている。しかし、大阪や、奈良地方にはみられない。大阪や奈良地方は別の有力豪族がおり、入り込めなかったものと考える。有力豪族は、豊かな生活を送っていたであろうから、簡単にはスサノオの統一国家には加入しなかったものと考えられる。 スサノオの行動を伝える伝承を持つ神社の分布から判断して、スサノオは瀬戸内海の制海権を完全に把握していたものと考える。この頃瀬戸内沿岸地方に高地性集落が登場するが、瀬戸内航路の安全を願う見張り台と考える。 当時の瀬戸内海沿岸地方は、文化的にかなり後れており、有力豪族の国らしきものもほとんどなかったと考えられ、簡単に統一できたのではないだろうか。スサノオは、大三島の大山祇神社(「消された覇王」によると、大山祇=スサノオ)の地を拠点として活動し、芦田川を使って出雲往復をしたようである。芦田川沿いにこの頃(弥生時代中期末〜後期初頭)の出雲系土器が出土する遺跡が集中していると共に、スサノオと深いかかわり合いのある伝承を持つ神社が点在している。 スサノオは統一した地域内の交流を活発にして、新技術の普及に努め、人々の生活水準の向上に努めた。人々は生活水準の向上などにより、スサノオをますます強く信頼するようになり、後の九州統一の強力な協力者となるのである。 ■山陽地方統一の伝承 ●清神社 安芸高田市吉田町 「須佐之男命」がこの地に居つかれて、「吾が心清清し」と言われたためつけられた。「日本書紀」の一書に、「須佐之男命、安芸国の可愛の川上に到ります」と記録されており、その至った地であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治されたところを安芸国の可愛川(江の川)の上流としている。八面荒神という八岐大蛇を封祭した小祠があり、吉田町の入江で江の川に合流する川を簸の川と呼び、大蛇ケ淵という深い淵もあります。いずれも須佐之男命の大蛇退治にちなむ名前で、この神社は神代からの鎮座と伝えられている。 ●御神山 スサノオ命は母イザナミ命を訪ねて幾山河。ついに此の御神山山頂の三郡岩までたどり着き母神が比婆山におわすことを知ったという。昔は山頂にスサノオ命を祀った社があったそうだが、今は朽ち果てている。命は比婆山に母神をたづねた後鳥髪山より出雲に下った。 ●沼名前神社 広島県鞆町後地 延喜式神名帳に、『備後国沼隈郡 沼名前神社(ヌナクマ)』とある式内社だが、式内社の後継と称する「渡守神社」(ワタシ)と「鞆祇園宮」を合祀したもので、今、「鞆祇園社 沼名前神社」と称している。俗称:祇園宮。 崇神天皇5年全国に疫病がはやったとき、此処に勅使を派遣して祈願した所、疫病が下火になり、吉備津彦にお礼代参させ、神号を「疫隅ノ国社」と命名した。 ●素盞鳴神社 福山市新市町戸毛 スサノオ命がやってきて疫病を退散させたと伝える。出雲国への往来の途次、スサノオ命が数年間滞在したという。 ●素盞鳴神社 福山市木之庄町 スサノオ命の遺跡に建立したと伝える。 ●素盞鳴神社 福山市駅家町 八岐大蛇退治の酒瓶を御神体とする。 ●王子神社 福山市東深津町 「備後国風土記によれば、スサノヲ命が朝鮮より八王子と共に帰朝し、吾等を信仰すれば、その子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の人々はこの深津島山に王子神社を建て 矢野 上下町矢野 スサノオがこの地で暫らく休息し、傍らの泉の水でのどを潤し、多くの里人に送られて隣の甲奴町小童に入ったと伝える。 ●須佐神社 広島県三次市甲奴町小童 スサノオ命がやってきて疫病を退散させたと伝える。 福山市周辺にはスサノオ命が滞在したという伝承をもつ神社が多い。スサノオ命は朝鮮半島から戻ってきて、このあたりを拠点として瀬戸内海沿岸地方を統一したものであろう。スサノオ命関連の神社は鞆から芦田川流域を中心として出雲まで分布している。同じ地域に弥生中期末から後期初頭にかけて出雲系土器の出土が見られる。この経路で出雲地方と瀬戸内地方を往復していたものであろう。 スサノオの出雲・鞆往復経路を推定してみよう。 鞆から芦田川沿いに遡り、東深津町、木之庄町、駅家町を通過し、戸手の素盞鳴神社の地に滞在。この距離、川に沿って約28km。 更に芦田川を遡り、府中市篠根町を経由し福塩線に沿って北上し、 世羅町の甲斐村(福塩線びんごみかわ駅周辺)より、矢多田川を遡ると上下町矢野に着く。この距離、川に沿って約35km。 そこから西へ峠を越えて甲奴町小童につく。此処に須佐神社があり、 この地に滞在したと思われる。この間約7kmである。 ここから小童川に沿って下ると本郷郷がある。ここより上下川に沿って下ると三良坂につく。三良坂から馬洗川に沿って下ると、 三次市畠敷町に着く。此処にある熊野神社の地が滞在地ではあるまいか。ここまで川に沿って約40kmである。 この周辺は馬洗川、西城川、神野瀬川、可愛川、美波羅川が合流して江の川になっている所で、 水上交通の拠点となる最重要地である。スサノオがこの地に拠点を作ったのは間違いがないであろう。伝承は残っていないが、後世の神武天皇の滞在地が畠敷町の熊野神社の地なので、この地が拠点であったと推定する。ここから西城川に沿って遡れば、比婆山連峰、三井野原(畠敷から川に沿って約64km)があり、三井野原から出雲国の斐伊川沿いに出ることができる。また、神野瀬川に沿って遡れば高野町南より、王貫峠を越えて出雲国仁多に出る(畠敷から川に沿って約85km)。可愛川を遡れば清神社(畠敷から約30km)がある。これらの川沿いに後世の神武天皇が出雲往復のために滞在した神社があることから、スサノオもここを拠点として出雲を往復したものと考えられる。このすぐ近くに後に出雲地方で盛んに築造されるようになる最古の四隅突出型墳丘墓が存在している陣山墳丘墓群がある。最古の四隅突出型墳丘墓が築造されたのは紀元前1世紀に当たるまさにこの頃である。この三次拠点の支配者の墓であろう。 三次からは西城川を遡ったと思われる。西城川に沿って遡ると、三井野原に着き、そこから出雲国の室原川に沿って下ると、横田で斐伊川に合流する。後は斐伊川に沿って下れば、出雲国の中心地である。 |
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■第六項 倭国という国名
中国史書では、紀元前後から、日本のことを倭国と呼んでいたようである。最初に記録されているのは「山海経」であるが、はっきりしたものは、「漢書・地理誌」である。これは一世紀に書かれた書物であるから、日本を倭国と呼び始めたのは紀元前後ということになる。それ以前に倭国という表現は存在しない。倭国の領域の一般的見解は、中国・四国・九州地方を指すようで、近畿地方以東は含まれていないようである。誕生時期といい、領域といい、倭国とスサノオが統一した連合国家とは一致しているのである。倭国の語源にはいろいろと説があるが、倭国という名はスサノオが自分の統一した連合国家につけた名ではないかと考える。出雲国王時代の国名はスサノオがヤマタノオロチ退治をした後、最初の宮殿の地である須我神社の地で日本最初の和歌を読んでいる。「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」この歌から国名が出雲になったようである。出雲国王時代はそれでよかったが、瀬戸内海沿岸地方を統一したとき名前を新しく考える必要が出てきた。そうして選んだのが「ワノクニ」=「ワコク」であろう。 中国語の「倭」と同じ発音をする漢字は「環」または「輪」である。瀬戸内海を取り囲み環のように国が連合を組んだという意味で「環国」と命名したのではないだろうか。中国がその発音を聞いて「倭国」と記録したのであろう。「倭」とは中国人が付けた名で、日本側ではその意味を嫌い、「和」としたと記録されているが、「倭」の意味が気に入らないのなら、日本の国名を元から使われていた「ヒノモト」にすればいいことで、「和食」「和室」「和紙」など、現在まで「和」を日本の意味として使う必要はない。古代日本人にとって「ワ」という読みは大切なものであったからこそ、「和」と書き変えてもその読みを残したものと考える。「ワ」とはスサノオが統一した統一国家に付けられた名で、中国に朝貢したときに、日本人が自分の国を「ワ」と言っているのを聞いて「倭」と当て字をしたものと考える。 素盞嗚尊の行動を伝える神社は神戸以西の瀬戸内沿岸地方、紀伊半島部であり、大阪湾沿岸地方にはない。また、紀伊半島における素盞嗚尊の伝承の中にはイザナギ、イザナミを伴っているものも含まれているために、紀伊半島部を統一したのは、この後の九州統一の後と考えられる。よって、この当時の倭国の領域は山陰及び淡路島以西の瀬戸内沿岸地域と考えられる。 中期の大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとして、技術的に進んだ有力豪族の国があり、朝鮮半島からの新技術では統一できなかったものと考えられる。おそらく、スサノオは大阪湾岸地域の統一を後回しにして、先に九州統一に取り組んだものと考えられる。 |
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■第七項 考古学的変化
中期末に当たるこの頃、瀬戸内海沿岸地方に起こった考古学的変化を挙げてみると次のようなものがある。 ■銅剣祭祀の始まり 中細銅剣が異形化し、銅剣祭祀が始まった。この頃までの北九州での銅剣は、細型銅剣が中心でステイタスシンボルとして使われていたものであり、祭器としての使用の形跡はない。祭器として使われた形跡のある中細銅剣b類・c類は中国・四国地方中心に分布し、中期末の瀬戸内海沿岸部で製作されたと考えられている。そして、岡山県からその原型になったと思われる木製の細型銅剣が見つかっている。青銅器の埋納祭祀が始まったのは、中期末の瀬戸内海沿岸地方と考えられている。これは、外部からの技術導入によって、新しい技術と共に宗教が誕生したことを意味している。また、実戦用武器の出土がないことから、これは、平和裡に行われたと考えられる。 ■青銅器の広がり これ以前は銅剣・銅矛などは北九州周辺に限られていたものが、徐々にではなく、急激に大阪湾沿岸地方まで広がっている。さらに同笵関係にあると考えられる銅剣が大分県から大阪府の範囲で見つかっている。これらは、青銅器の瀬戸内海沿岸での東西交流が急激に盛んになったことを意味している。これも中期末に瀬戸内海沿岸地域の統一が進んだことを意味している。 ■瀬戸内の銅戈 広島、岡山で銅戈が見つかっているが、これは形式からして北九州の鉄戈を模して作ったものと判断されている。鉄戈は北九州のみから出土しており、朝鮮半島の銅戈を模して作ったものと考えられている。この鉄戈を模して作った銅戈が広島.岡山で見つかっているということは、瀬戸内勢力が、北九州から銅戈を直接輸入せず、わざわざ鉄戈から銅戈を作っているということであり、最初から祭器として作ったものと考えられ、副葬されていた北九州とは明らかに別の文化である。これも中期末の瀬戸内地方に高度な技術革新があったことを裏付けている。 ■瀬戸内系土器の広がり 中期末に九州地方や畿内地方に瀬戸内系土器が一方的に入り込んでいる。これは瀬戸内勢力の拡張主義が起こったことを意味し、相互の交流ではない。瀬戸内系土器が一方的に他地方へ入り込んでいると言うことは、瀬戸内勢力がまとまり、そして、他地方よりも高い文化を持っていたと考えるべきである。また、瀬戸内海沿岸地方で始まったと推定されている祭器化した銅剣は、北九州地方に逆に流れ込んでいる。大阪湾型銅戈が大阪湾地方に出現するが、これも瀬戸内海地方から持ち込まれたと考えられる。 瀬戸内系土器の周辺地域への広がりは何を意味しているのであろうか。実践用武器が伴えば侵略が考えられるが、武器は伴っていない。そのかわり、青銅祭器を伴っているのである。どちらかといえば宗教の進入といった感じである。 ■瀬戸内系祭祀の広がり 中期までは高坏の出土がほとんどないが、後期になると高坏が多く出土するようになる。これは中期末あたりに祭祀が盛んになったことを意味している。また、瀬戸内系の高坏や器台が九州地方や近畿地方に見られることから、瀬戸内系の祭祀が周辺に広がっていると判断され、瀬戸内勢力は、祭祀と共に周辺に勢力を伸ばしたことがうかがわれる。祭祀というものは保守的なものであり、一つの祭祀のあるところに別の祭祀が入り込むのは大変難しく、必ずといってもよいほど戦乱を伴う。大きな戦乱の形跡がないということは、この祭祀がそのまま大和朝廷の祭祀に継続している ということである。 ■Bタイプ槍鉋の出土 槍鉋はA型とB型がある。Aタイプは九州を中心とするタイプで、Bタイプは中国地方が発祥の地である。グラフは出土した槍鉋を地域と型で分類したものである。中期末の瀬戸内海沿岸地方に今までに存在しなかったBタイプの槍鉋が急激に出土するようになる。それまでは、九州からAタイプの槍鉋のみ出土していることから、瀬戸内勢力が独自に朝鮮半島から輸入したものらしい。Bタイプの槍鉋は、以後九州や近畿地方へ広がる傾向を示しているが、九州のAタイプの槍鉋は、九州からほとんど外へは広がっていない。これは瀬戸内勢力が九州や近畿地方へ勢力を伸ばした証であろう。また、後期中葉にAタイプの槍鉋が広島に出土しているが、これは、後で述べるような伝承(広島県の大分系土器)とつながっている。 ■出雲系土器の分布 広島県地方に出雲系土器(出雲中心域の土器)が見られる。広島県地方の出雲系土器は、広島県北部と芦田川流域で、いずれも弥生中期末に一斉に出現し、後期中葉になると一斉に姿を消し、畿内系土器と入れ替わる。芦田川流域はスサノオが訪問したという伝承を持つ神社が点在していて、スサノオが出雲往復に通った地域であると思われ、時期もスサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一してから大和朝廷が成立するまでの間で、伝承と完全に一致している。瀬戸内系の文化が周辺領域に広がっているが、その中心ともいうべき場所に出雲系土器が出土するということは、この瀬戸内の文化は出雲の影響を受けたものであることになる。瀬戸内から出雲に文化が流れたのであれば、出雲地方に瀬戸内系土器の出土が見られるはずであるが、出雲地方に瀬戸内系土器が出土し始めるのは後期後葉になってからであり、この頃に瀬戸内系土器の出土はない。これらより、中期末の瀬戸内に始まった考古学的変化は出雲地方からもたらされたものと推定され、これも伝承を裏付けている。 |
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■第八項 考古学的変化の理由
■高度な文化の流入経路 これらの変化は、この時期、瀬戸内海沿岸地方が急激に一つの勢力圏に組み込まれ、その勢力が周辺に広がっていったことを意味している。この瀬戸内勢力は、独自の銅剣を製造する技術やBタイプの槍鉋を製造する技術を身につけており、瀬戸内系の土器が北九州や近畿地方に流れていっていることと併せて考えると、この当時の瀬戸内の文化は、ある面において、北九州や近畿地方よりも高いものであったことがうかがわれる。 その高度な瀬戸内の文化はどこから来たのであろうか。大陸からと考えられるが、北九州とは異なる高い文化であるから、北九州経由とは別のルートを通ってきたことになる。朝鮮半島南端部から山陰を経由して瀬戸内海地方へ流れたと考えるべきであろう。それと、出雲系土器が瀬戸内海沿岸地方で出土していることから、この文化は出雲経由でやってきたものと考えられる。 ■日本側から輸入した技術 瀬戸内勢力が朝鮮半島から流れてくる文化を待っていて受け入れたのでは、北九州経由で流れ込む文化が多くなり、西部を中心として、北九州の文化が流れ込むはずである。北九州とは明らかに異なる文化であるから、出雲か瀬戸内の何者かが直接朝鮮半島に行き、高度な技術を直接輸入したためと考えられる。 出雲地方に生まれ育った人物がまったく知らない朝鮮半島に出かけていって技術習得するというのは当時の状況からして不可能であると考えられる。しかし、スサノオの場合父のフツが朝鮮半島出身であり、朝鮮半島のことを熟知しており、スサノオにとって、朝鮮半島に赴くことはそれほどの抵抗感はなかったと考えられる。これも、伝承と考古学的事実をスムーズにつなぐ要素となっている。 ■遺物の集中度 中期末に起こった瀬戸内地方の技術革新が、北九州地方の高度な文化と大きく違う点は、北九州の文化がその中心域に限られていて、そこから他の地方に広がる傾向は全くみられないのにたいして、瀬戸内周辺の文化は、中心というものがはっきりとせず、関連遺物がまばらに出土するといった点である。北九州の場合は、外国との交易で得た宝物をある特定の豪族が独占し、権力を誇示するために用いたためと判断されるが、瀬戸内地方のものはどう考えればよいのであろうか。もし、権力者が存在して、その権力を誇示していたのであれば、中心域が存在し、その周辺のみから多量の遺物が出土するはずであり、現実と大きく異なる。統率者が全く存在しない未開の地であるならば、周辺地域よりも高度な文化を持っているのが説明つかない。瀬戸内地方には偉大な統率者が存在し、その統率者が、高度な文化を輸入し、周辺にばらまいたということ以外には説明できない。 ■技術導入の目的 それではその先進技術を積極的にばらまく目的は何であろうか。権力欲や支配欲では自分で独占した方がよいために明らかに異なる。技術を受け入れた側では、技術を伝えてくれた人物に対する畏敬の念がわき上がるはずであり、この地方で銅剣埋納祭祀が広まっていることと、高坏の出土が増えることと考えあわせると、宗教的支配を目的としたものと考えられる。 では、なにを目的として宗教支配したのであろうか。権力欲や支配欲でないことは明らかである。銅剣埋納祭祀はこの地方独自のものであり、どこかの宗教が流れ込んだものとは異なることから、瀬戸内地方で発生したものと考えられる。また、同じ様な変化が、九州や近畿地方にも広がっているが、その形態は瀬戸内地方とは異なるため、何かある目的のために宗教支配をしたと考えた方が良さそうである。 この後、瀬戸内系の土器が九州や近畿地方に広がっていること、急激に西日本地域での流通が盛んになることから考えて、国家統一が進んだと考えられる。伝承、考古学的事実から考えて、その目的は、平和的国家統一であると考えられる。 このように、考古学的変化を調べると、神社伝承における、スサノオの統一行動を完全に裏付けることができ、同時にその他の説明は難しい。 ■銅剣埋納祭祀 スサノオは瀬戸内海地方統一後、人心を統一するために、朝鮮半島から導入した技術を使い、交流を活発化し、銅剣の異形化を進め、その銅剣を使った祭りを始め、祭礼を広めた。その当時の瀬戸内地域に住んでいた人々は金属というものを見たことがなく、スサノオが持ち込んだと思われる銅剣の輝きを見て、人々はさぞ驚いたことであろう。スサノオはその驚きを利用し、銅剣を魔除けの意味に使ったということは充分に考えられる。人々は祭の後、その銅剣を自分達の集落の外れに埋めることにより、五穀豊穣・家内安全を願ったものと思われる。スサノオは銅剣を配るとともに、朝鮮半島の先進技術を伝えることにより、瀬戸内地方の人々の心をつかみ、あわせて、国家統一の必要性を説いてまわったのであろう。 それにより、青銅器などが瀬戸内海沿岸の広い領域に急激に広まるようになり、瀬戸内海沿岸地方が堅固な国家体制になり、以後の瀬戸内勢力圏拡張の礎になったものと考える。 |
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■第九項 広島県三次地方の土器
広島県三次地方には、弥生中期末頃から、出雲系土器が出土するようになる。このころの住居跡の特徴を調べると、出雲系土器は集落内の特定の住居に集中し、その周辺の住居跡にもちらほらとみられる。山陰地方からやってきた集団が、在地の集落で共同生活をし、「お近づきの印に」ということで何かを配ったような様子である。山陰系の祭祀器具である分銅型土製品も出土していることから、山陰地方から、集団でやってきたようである。この土器の出土の仕方は、瀬戸内海沿岸の他の地方と異なるようである。 神社の祭神を調べてみると、この地方は大歳神社が非常に(兵庫県に次いで二番目)多い。大歳(ニギハヤヒ)がこの地方を統一したものと考えられる。スサノオが瀬戸内地方を統一した後は、瀬戸内系の勢力を率いて統一事業を行っていることから考えて、三次地方を大歳が統一したのは、極初期の段階であると推定される。 この地方の出雲系土器は、後期前葉までみられるが、後期中葉になると姿を消す(大和朝廷の誕生により、政権を引き渡したと考えられる。)。また、この地に四隅突出型墳丘墓が出現している。これらは、統一後も山陰地方との激しい交流があったことを示している。大歳は、この地方統一後、ここに出雲国支庁を作ったのではあるまいか。 紀元頃、スサノオが40歳ぐらいの時、瀬戸内地方を統一に出発したのと同じ頃、スサノオは10代半ば頃の大歳に、統一事業に参加させようと思ったが、まだ幼いために、不安を感じ、出雲国の有力者を従えさせて、三次地方の統一を命じたのではなかろうか。そのために出雲系土器が多くなったと考える。 この出雲系土器が、ここから先には広がっていないことから考えて、大歳が三次地方を統一している間に、スサノオは瀬戸内沿岸地方を統一してしまったと推定する。スサノオは瀬戸内勢力に国家統一の重要性を説き、協力者を率いて、次々と統一をしていったと考える。そして、倭国に加入した地域には、朝鮮半島の先進技術を伝えたのである。 瀬戸内海沿岸地方を統一したスサノオは、大三島に拠点を移し、瀬戸内海の制海権を握り、大歳には、琴平に拠点を持たせ、親子で、瀬戸内海の東西を支配した。 |
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■第十項 統一経路の推定
紀元前10年ごろ石見国を統一し、壱岐国(未統一)を経由して対馬に渡った。この当時の対馬は国が存在しなかったので、スサノオ一族(天狭手依姫)を配置し対馬国を建国した。紀元前5年ごろ朝鮮半島で植林法や青銅器製造法、造船技術などを学んで戻ってきたスサノオは、伯耆国、因幡国を統一して出雲国に戻り、斐伊川沿いを遡り奥出雲から中国山地を超え、江の川流域(三次地方)に入り、三次盆地を統一した。芦田川沿いに川を下り福山の鞆地方に瀬戸内海沿岸地方統一の拠点を作った。スサノオは以後もここと出雲を何回も往復しており、この流域にスサノオ関連神社が多く、出雲系土器が出土する。山陽沿岸を東進し吉備国、播磨国を統一し、淡路島から、讃岐国、伊予国(東部)と統一していったものと推察する。伊予国から鞆に戻ってから、安芸国、周防国、長門国、最後に豊国を統一し、豊国の宇佐の地に拠点を移したものと考える。宇佐の地に拠点を構えたのが西暦紀元ごろと推定する。 この当時の瀬戸内沿岸地方には有力豪族もなく、ばらばらの状態であったからこそ簡単に統一されたのではあるまいか。スサノオは以後5年間ほど瀬戸内海沿岸地方の人々に対して高度な技術供与、他地域との交流促進、銅剣祭祀等を推し進め倭国の国家体制を堅固なものに固めた。そして、今後の九州統一の協力者を募っていったのである。 体制が固まり九州統一の協力者も充分に確保できた。また、充分に成長した五十猛命、抓津姫、大屋津姫を引きつれ、再び朝鮮半島に渡り、更なる新技術を学んで戻ってきた。紀元5年ごろいよいよ九州統一に乗り出すことになるのである。 |
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■第4節 北九州統一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 北九州統一の伝承
紀元10年頃、スサノオは、オオトシや瀬戸内勢力を率いて、大分県の宇佐地方を統一し、そこを起点として北九州の統一に乗り出した。中期末頃より、福岡県東部から大分県にかけて瀬戸内系土器が多く出土するようになっている。また、大分県地方はスサノオやオオトシを祭る神社の割合が全国一高く、この二人が相当長期間に渡ってこのあたりにいたものと考えられる。その神社の中心に位置するのが宇佐神宮である。 宇佐神宮は全国の八幡神社の総本社で八幡大神を祭っている。周辺の神社がほとんどスサノオやオオトシを祭っているのにその中心にある神社が別の人物を祭っているのはどうも解せない。八幡大神はスサノオのことであると考えられる。宇佐の地は瀬戸内から九州への足がかりとなりうる地であり、スサノオ一族はこの地を拠点にして北九州地方を統一したものと考えられる。 北九州地方は当時の日本列島内で最も文化の進んだ地域であった。この地域を統一するのは至難の業と考えるが、どのようにして統一したのだろうか。これに関し、次のような伝承がある。 ■日本書紀の葦原中国平定の条 そして、大己貴のひろほこ神はかつて国を平定したときに杖とされた広矛を二柱の神に授けていわれた。 「私は、この矛でもってこの国を平らげるという功業を成し遂げました。天孫が、もし、この矛で国を治められれば、必ず無事に治めることができましょう。」 ■古事記・日本書紀国生みの条 伊邪那岐・伊邪那美の二神が天の浮橋に立って天の沼矛を、海に刺して引き揚げたところ、その矛の先から滴り落ちた塩が積もって島となった。 古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美が国生みしたのは、淡路島、四国地方、九州地方、壱岐、対馬、隠岐、佐渡、本州の順番である。このうち、国名が記されているのは、四国地方(伊予・讃岐・阿波・土佐)と北九州地方(筑紫・肥・豊・熊曾)のみである。この国名が記されている地方と、中広銅矛の分布している地方が一致している。 ■八千矛神 古事記・日本書紀ではオオクニヌシの別称と記録されているが、「消された覇王」によると、スサノオの別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。諏訪の八剣神社を始め方々の神社にスサノオの別称であると記されている。 ここにある大己貴と伊邪那岐の業績をスサノオのものと考えると神社伝承と繋がる。おそらく、スサノオの業績とすり替えたものであろう。 統一事業を行うには、何かシンボルになるものが必要であるが、これらの内容から判断して、スサノオは、中広銅矛をシンボルとして、北九州地方を統一したと考えられる。次に、このことを考古学的事実から裏付けてみることにする。その後に具体的な統一方法を考えることにする。 ■佐賀県有明町稲佐神社社記 祭神...天神、五十猛命、大屋津姫命 縁起...「天神は、その昔草木言語の時にこの地にやってきて国を創造された大神、稲佐大明神のことで、彼が着岸したところを、焼き天神といい、北御所に今も小祠あり、御園天神と呼ばれている。また五十猛命は韓国より帰国されたとき、ここ稲佐山麓八艘帆ヶ崎に着岸され、全山に植林し、農耕開拓の道を教えられた。よって住民は、その神徳をたたえて、天神の社に五十猛命と妹の大屋津姫を合祀し、三所大明神として崇敬した。」 共に祭られている人物が共にスサノオの子であることと、スサノオは彼らと共に朝鮮半島に渡っていること、周辺にスサノオを祭った神社が多いことから、天神とはスサノオのことと思われる。 日本で木々を植えようとした素盞嗚尊と御子の五十猛命がこの国を経由した時に豊日別命が出迎えて接待した。この伝承もその事実を裏付けている。 |
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■第二項 考古学的事実
中期末から後期初頭にかけて、北九州地方で大きな変化が起こっている。それをまとめてみると次のようである。 ■銅矛・銅戈の祭器化 それまで北九州地方でステイタスシンボルであった銅矛・銅戈が祭器化し、墓の副葬品であったものが埋納されるようになった。瀬戸内海沿岸地方で始まった中細型銅剣祭祀と、北九州地方で盛んになる中広型銅矛祭祀は、埋納形態から推察して、同系統のものと考えられている。宝器であった細型銅剣が、瀬戸内海地方で祭器としての中細銅剣に変わり、再び北九州地方に流れたものと考えられる。 ところが、北九州地方は、銅矛・銅戈は祭祀がおこなわれるようになったが、銅剣は廃れている。銅矛・銅戈の需要が高まったために銅剣は廃れてしまったと考える。 ■祭器化の流れ 銅矛も中期までは、細型銅矛が北九州地方で宝器として扱われていたが、中期末頃、中細銅矛が瀬戸内地方と北九州地方に出現する。瀬戸内系の銅剣と同じように埋納されていることから、瀬戸内海沿岸地方からの流れと推定される。その後、中広型銅矛に変わった。この銅矛は分布範囲が最も広い。しかし、この銅矛祭祀は北九州の周辺部で著しく、中心部(唐津・糸島・博多地方)では盛んでない。これは、中心部では外部勢力に対する抵抗感があったためと推定されている。後に、広型銅矛に変わるが、その分布範囲は少しせばまって、南四国地方と北九州地方である。 青銅器がステイタスシンボルであった時代は、青銅器が特定の地域に集中して、そこから周辺に広がる様子はほとんど見えないが、祭器化した後の分布領域は急激に広がっている。有力豪族が外国との交易で手に入れた青銅器を権力の象徴として、周りの人々を従える手段としていたため広がらなかったと解釈され、王が権力の元で君臨していたことが伺われる。しかし、埋納祭器の方は、急激に広い分布をし、しかも、中心域を避けて周辺地域で広がっている。中心域の王が勢力を伸ばしたのなら、中心地域に祭祀が盛んであるはずである。これらの地域が外部勢力によって宗教的に統一されたためとしか考えられない。 このことについて岩永省三氏は、「中細型青銅器の祭器化は北九州周辺地域で始まったとされ、その根元は中国、四国地域から流入した可能性を考えられている。そして、その中心部で祭器化が遅れるのは、前期末以来の首長層の青銅器に対する執着が、その阻止要因として働いたため。」とされている。まさに、そのとおりである。 ■漢鏡の分布範囲 この頃の漢鏡は、伝世されることなく墓に副葬されていることから、宝器であったようである。それまで、北九州の博多湾沿岸地方の一部有力者が独占していた漢鏡が、北九州の広い範囲に分布するようになった。北九州内の交流が盛んになったことがうかがわれ、北九州地方が統一されたことを意味している。 ■小型国産鏡の分布 鏡の国産はこの時期に始まったと考えられているが、その分布範囲が九州地方と瀬戸内沿岸地方である。九州地方と瀬戸内沿岸地方に激しい交流があったことを裏付けていて、スサノオの統一した領域と一致している。 ■鉄製武器の変化 鉄剣を除き、鉄矛・鉄戈・鉄鏃などの鉄製武器が激減する。しかし、鉄剣のみはその傾向が見られない。この当時、大陸では鉄剣よりも、武器として優れている鉄刀の方が主力武器になっているのにも関わらず、鉄剣の生産は継続されている。しかも実戦に向かない短剣が多い。鉄剣はステイタスシンボルとなったと考えられ、このことは、混乱の時代から安定の時代に変わった事を意味し、北九州内の交流が盛んになったことと会わせて、統一国家ができたことをうかがわせる。 ■甕棺墓の激減 甕棺墓は、北九州の中心地域で後期初頭には衰退し、その周辺部でも後期中葉になって衰退している。佐賀県で中期後葉に甕棺墓からの鏡の出土が少なく、後期初頭になって増加する。これは中期には鏡自体が回ってこなかったが中期末の北九州統一により回ってくるようになったと考えられる。 その他の特徴をまとめてみると、 1 甕棺墓は中期中頃から後半にかけて多く存在しているが、後期前半を最後に北九州地方の多くの地域で消滅する。 2 甕棺墓自体は古墳時代初め頃まで作られているが、単発的に作られ、集団墓地としては存在しなくなる。 3 中期後半頃の王墓と見られる墓はすべて甕棺墓である。このことは、甕棺墓がそれ以前の高い割合で人々を埋葬したものから、特定権力者の墓制に集約していったものであることを示している。 4 後期前半の井原遺跡と桜馬場遺跡が甕棺王墓の最後といわれている。 5 甕棺墓から土壙墓・石棺墓に変化しているが、埋葬の仕方は甕棺時代とよく似ていて、共同墓地に双方が共存しているところもあるので、同一集団の墓制が変化していったことがうかがわれる。 6 甕棺墓と土壙墓が共存する地域で、副葬品を比較すると、甕棺墓に乏しいのに対して、土壙墓に多い。 7 中期末までは多かった鉄剣を副葬する甕棺墓は、今の所、後期になると皆無である。 甕棺墓の減少の原因については、甕棺が作れなくなったからだといわれているが、それならば、一般の人々の墓制が変化しても王墓は残るはずで、さらに、副葬品が少なくなるということは考えられない。墓制は簡単には変化しないはずであるから、外部からの何者かの侵入以外には考えられない。墓制が急激に変化するというのは、権力者が強制的に行ったためか、宗教の力で変化させるかであるが、祭祀が盛んになっていることから判断して明らかに後者である。外部から侵入した宗教によって変化したものと考えられる。 北九州地方に畿内系の方形周溝墓や畿内系土器が出土するようになるのは、後期中頃以降であるから、畿内勢力の侵入というのは時期がずれる。甕棺の衰退は、後期初頭あたりから始まっているのである。どうやら、2段階の侵入があったようである。 甕棺墓が激減し、箱式石棺墓や土壙墓が多くなる。箱式石棺墓は、石の材質や形式から判断して、瀬戸内沿岸地方から入ってきたものと判断される。 ■王墓の激減 中期には多かった王墓と考えられる墓が激減している。副葬品が多く、特定の墳墓に集中していることから、これらの王墓はいずれも権力君臨型である。副葬品が伝世されている形跡もなく、被葬者が手にいれたものをそのまま副葬しているようである。被葬者は自らの持つ交易ルートを使って、外国から手に入れた宝物を、独占し、他に与えることはなかったようである。 ところが、後期初頭になってからは、井原鑓溝と桜馬場遺跡のみ確認されている。権力君臨型の王は、周りの王を武力で従え、それらの中で最強と考えられるものが最後まで残り、統一王朝を造ることになるはずである。しかし、中葉になると全国の権力君臨型と考えられる王墓がことごとく姿を消している。武力統一するのであれば、権力君臨型の王墓が消えることは考えられないのである。それと入れ替わるようにして広まるのが、方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓である。これらの墳墓は、祭祀系土器が多いが副葬品は少ない。そして、複数の埋葬施設がある。これは被葬者が宗教上の王であり、被葬者個人を祭祀しているのではなく、共通の神を祭祀していることを意味している。墳墓は墓であると同時に斎場でもあった。この形式の墳墓が広まることは、これらの地域が宗教的に統一されたことを意味している。 ■副葬品の変化 北九州中心部では、特定個人墓を除き、甕棺墓からの副葬品が少なくなっているが、その他の墓からの副葬品は増えてきている。墓は違っても、集団墓の中に甕棺墓とそれ以外が混在するようになり、甕棺墓以外の埋葬形態に、甕棺墓と似た埋葬がなされていることから、墓制が変化したものと考えられる。そして、その変化は、王墓を残してその周辺から変化が起こっている。甕棺墓の激減の理由として、甕棺を作ることができなくなったというのがあるが、これでは、甕棺墓の副葬品がその他の墳墓に比べて少なくなったことを説明できない。外部からの侵入があって、墓制に変化が起こったものと考えられる。 後期初頭になると、北九州中心域の甕棺墓に鏡の副葬は激減するが、周辺地域の甕棺墓には鏡の副葬が増加する。北九州中心域の鏡は一つの墳墓から多量に出土する傾向があるが、周辺の墳墓からは少しずつ出土する。周辺の墳墓の被葬者は自ら集めたのではなく、何者かによって配布されるようになったと考えるべきである。 ■銅矛の出土地 銅矛が集中出土しているのは、対馬と宇佐地方、それに有明海沿岸地方である。対馬は最初に統一し、朝鮮半島との交流の拠点としたところで、宇佐地方は九州地方統一の拠点としたところで、有明海沿岸地方は、西九州統一の拠点である。いずれも、スサノオが長期間滞在した伝承のある地方でスサノオを祭る神社の割合が異常に高い地域である。 ■瀬戸内系土器の流入 弥生中期末から後期初頭にかけて、北九州の西北部沿岸地方で、瀬戸内系の土器が増加している。それに反し、北九州系の土器はこの時期を境に、分布範囲の縮小化の傾向がある。北九州を初め、その周辺地域での北九州系土器は、瀬戸内系土器に圧倒されている。瀬戸内沿岸地域に北九州系土器が増加したということはないので、相互交流ということは考えられない。北九州勢力は外部勢力を受け入れたため、衰退したと考える。 須玖坂本遺跡で後期初頭の分銅型土製品が出土しているが、これはその形式から、愛媛県北部に出土するものと同じことがわかった。スサノオが愛媛県北部の大三島から、九州にやってきているという伝承とぴたり符合する。 北九州から出土する瀬戸内系土器は高坏が主流を占めている。これは瀬戸内系の祭祀を受け入れたという事を意味し、北九州が瀬戸内勢力によって宗教的に支配されたと考えてよいのではあるまいか。 ■熊本県地方 熊本県地方は、これらの影響を全く受けず、独自の文化を築いている。これは、北九州を中心とする遺物の分布は、熊本県北部地方で止まっており、そこから南部には見られないことから分かる。 神社伝承の方も熊本県はスサノオ・大歳系の神社が最も少ない県の一つで、彼らの足跡を示す伝承もまったく見つからない。熊本地方に住んでいた人々の抵抗にあったためかあっさりと手を引いているようである。 |
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■第三項 考古学的変化の解釈
外来系土器の侵入・墓制の変化・外来の祭祀の受け入れなどの変化は、自然に起こったものとは考えられない。また、在地系土器の衰退・甕棺墓の衰退・北九州勢力の外部地域に与える影響の衰退等と併せて考えると、外部勢力との交流によって起こったというのも成り立たない。外部から何者かが侵入してきて、その外部勢力によってもたらされた変化としか考えられない。 そして、鉄製武器の減少・漢鏡の広域分布化等から、北九州地方が安定化し、北九州の交流が急激に盛んになったということが判断される。北九州地方が統一されていない状態では、鏡などは特定の地域に集中すると考えられるので、これは、北九州地方が統一されたことを意味している。以上の二点を総合して考えると、弥生中期末に外部から侵入者があり、その一団によって北九州地方が統一されたということになる。 それでは、その外部勢力はどこからやってきたものだろうか。瀬戸内系の異形銅剣が見つかっていること、瀬戸内系と考えられる箱式石棺墓が増えてきていること、青銅器の埋納祭祀が始まっていること、瀬戸内系の土器が増加していることから判断して、瀬戸内海沿岸地方からの侵入としか考えられない。 瀬戸内勢力はどのような形で北九州地方に侵入したのだろうか。武力侵攻をした場合、制圧した地域を押さえ込むのに防備をかねた城を築き、力による政治を行うはずである。制圧された人々は、反抗を企てるはずであり、戦闘を意味する遺物が多く出土しなければおかしい。また、高度な文化を持っている北九州の豪族が簡単に瀬戸内勢力に破れるとも思えない。また、この時期以降、防衛のためと思われる環豪集落や鉄製武器は衰退している。これらのことは、瀬戸内勢力は武力侵入をしたのではないことを意味している。 変化が、北九州の周辺部から起こっていること、祭祀が盛んになっていること、実践的武器の出土が減少していること、戦闘遺跡と思われるものがないこと等から、平和裡の侵入と考えられる。瀬戸内地方が銅剣埋納祭祀であるのに対して、北九州地方は銅矛銅戈埋納祭祀である。埋納形式が瀬戸内地方とよく似ていることから、この形態は瀬戸内地方からの侵入と考えられる。しかし、それまで、北九州地方での出土率の高い銅剣は衰退していることから、瀬戸内系の祭祀が直接侵入したのではなく、瀬戸内系の何かが侵入し、その影響を受けて北九州地方に新しい別の祭祀が始まったと考えた方が良さそうである。それは銅矛銅戈をシンボルとするものと考えられる。 これらの変化と、伝承とをつなぎ合わせて、スサノオによる北九州地方の統一方法を考えてみよう。 |
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■第四項 統一方法
■シンボル 北九州の玄界灘沿岸地方には有力豪族がひしめいており、権力を振るっていたと考えられる。伝承によると、このような状況にある北九州地方をスサノオが統一しているのである。彼らは簡単に倭国に加入するとは思えない。彼はどのようにして倭国に加入させたのであろうか。 銅矛埋納祭祀などのように、北九州地方に侵入した結果生じた変化と思われるものは、玄界灘沿岸地方の北九州中心域と思われる地域以外で起こっていることから、スサノオはまず周辺国家に手をのばしたと考えられる。周辺国家を倭国に加入させ、中心域の有力豪族を孤立させて、北九州地方を統一したものと判断される。 それでは、どのようにすれば、周辺地域を倭国に加入させることができるであろうか。スサノオが瀬戸内地方を統一したときは青銅器の神秘性を見せてそれを魔除けとして広めたが、北九州地方の人々は青銅器を見たことがあり、その手は通用しなかったようである。彼らが最も欲しているものを与えるのを交換条件にして加入させるのがベストであろう。彼らが最も欲しているのは、中期末という時代から考えて、食糧の安定供給と、治安ではないかと考えられる。周辺の小国家は有力豪族との力関係により、強制労働や搾取など、かなりいじめられていたと考えられるのである。武器の出土率が高いのはこれを裏付けている。 スサノオが治安と食糧を交換条件にして倭国に加入させるには、何か倭国加入のシンボルとなるものが必要となってくる。これが中広銅矛ではないかと考える。銅剣は掲げるタイプのものではないので瀬戸内地方で使った銅剣ではなく、大き目の銅矛を高く掲げてシンボルとしたのではないだろうか。スサノオは周辺の小国家に中広銅矛をシンボルとして訪れ、「この銅矛を小国家の入口において起きなさい。そうすれば、倭国に加入した証となり、倭国は小国家の安全と食糧の安定供給を保証しよう。」などと言ったのではなかろうか。当時の北九州の人々にも瀬戸内地方を統一した倭国のことは知れ渡っていたであろうから、倭国の援護を受けて、有力豪族の横暴に対抗しようとしたと考えられる。 ■生活上の不安解消 当時には現在のような警察権力はなく、有力豪族の横暴があると同時に夜盗集団のようなものもいたと思われる。このような賊が小国家を襲おうとしても、そこに銅矛がおいてあったら、倭国に加入している証であるから、この小国家を襲うと倭国が総力を挙げて反撃をしてくることになる。銅矛のおいてある国を襲うことは、倭国に宣戦布告するようなもので、とうてい勝ち目はない。スサノオは、初期の段階において、倭国に加入した国を襲った一族を徹底的に叩き潰して、倭国に加入している国々を安心させ、同時に非加入国からは倭国が恐れられるようにしたものと考える。スサノオが全国で武神・守護神として祭られているのも、このようなことからと推定する。このようにして、小国家の安全は確保され、このことが、次々に加入する国を増やす結果になったと考える。 そして、人々が旅をするときも、中広銅矛をシンボルとして掲げていれば、倭国に加入している勢力であるということになり、旅の安全は確保されるのである。見知らぬ者が、訪問してきても、中広銅矛をシンボルとしていれば、安心して交流することができ、小国家間の交流は活発なものとなり、中広銅矛は広い範囲に広まることになる。このようにして、倭国に加入する国どおしでの交流が活発になり、それまで、特定の王に集中していた宝物が、多くの人々に行き渡るようになったと考える。 ■交易ルートの確保 スサノオは対馬を統一して、外国との交易ルートを確保しているため、倭国に加入している小国家に鏡等の宝器を配布したり、外国の先進技術などを伝えることができたものと考える。さらには不作で作物がとれなかった時でも他の地域から回すことができ、またスサノオの広めた新農法により作物の生産量は飛躍的にのび、小国家の生活は潤い、今までいじめていた有力豪族も手を出せなくなり、人々の不安は大幅に解消するのである。 ■小国家の加入 このようなことが周辺に知れ渡ると、周辺の小国家は生活上の不安を解消するため、我先にと加入を申し出たのではないかと想像する。スサノオは、北九州の要所要所に役所をもうけ、瀬戸内勢力の協力の下、加入した国々の治安維持や、食糧の安定供給、新技術の伝達などを行ったのではあるまいか。しかし、瀬戸内系土器の量が少ないことから考えて、その直接の運営は、地元の人々だったのではないかと考えられる。 ■有力豪族の消滅 北九州の有力豪族は、初めは抵抗を試みたが、周りの小国家がことごとく倭国に加入するようになってしまえば、外国交易ルートもたたれ、小国家から搾取することもできなくなり、孤立してしまい、小国家が次第に豊かになるのを見て、彼らも倭国に加入せざるを得ないようになってくる。加入してしまうと、その豪族は権力を振るえなくなる。このようにして、北九州地域から王墓が消えていったと考える。 ■銅戈について 銅戈については、ニギハヤヒのシンボルである鋸歯文を持つものがあること、熊本県北部や、宮崎県北部などスサノオよりもオオトシの行動の形跡を伝える神社の多い地域に銅矛よりも多く見られることなどから、スサノオと行動を共にしたニギハヤヒ(当時は大歳と呼んでいた)のシンボルであったのではないかと推定している。 ニギハヤヒはスサノオの死後、九州地方同様に銅戈をシンボルとして近畿地方統一に乗り出している。そのため、近畿地方から銅戈(大阪湾型銅戈)が出土することになるのである。 ■銅矛をシンボルとした理由 次にスサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一したのと統一の手法が違う理由を考えてみることにする。瀬戸内海沿岸地方は、有力豪族がほとんどいなかったと思われ、青銅器を見たこともないという人々がほとんどであったと思われるので、その輝きの神秘性を利用して、統一の必要性を訴え、人々の団結心を強化するために銅剣祭祀をしたが、北九州地方は有力豪族がひしめいている上に、青銅器は見慣れている人々が多いと思われるので、銅剣祭祀で倭国に加入させることができなかったものと判断する。有力豪族は自らの生活の豊かさから倭国には参加しないのである。有力豪族がいるということは、その豪族たちに虐げられている人々がいることを意味し、彼らを取り込むために、中広銅矛を倭国のシンボルとして利用することを考えついたのではあるまいか。シンボルとして使うためには、長い年月が経っても変化しない青銅器が最良である。しかし、個人が手で持つタイプの銅剣では不都合で、棒に取り付けて高く掲げるタイプの銅矛や銅戈の方が都合がよかったためと考えられる。そのため、シンボルらしく、次第に巨大化するのである。 ■国家統一の結果 スサノオが北九州を統一した結果、後期初頭の漢鏡が、広い範囲に広まるようになり、生活の不安が解消し、武器を持つ必要がなくなり、後期初頭の鉄製武器が急激に衰退した。 このように技術力・行動力に優れたスサノオは、周りの人々の目には神として写るのではないだろうか。北九州の人々は、スサノオの行動に感謝をし、統一者スサノオの持っていた中広型銅矛を使って、スサノオ祭祀をするようになった。スサノオの保障してくれた五穀豊穣や家内安全の願いを銅矛に込めて祭礼の後に埋めたのではないだろうか。 瀬戸内系の祭祀を受け入れた結果、北九州の墓制である甕棺墓は姿を消し、箱式石棺墓を中心とするその他の墓制が広まるようになった。後期初頭に存在する糸島地方の井原鑓溝遺跡被葬者は、甕棺墓であり、スサノオの倭国に最後まで抵抗を示していたと考えられる。 スサノオが鉄剣を所持していたために、鉄剣がステイタスシンボルとなり、他の鉄製武器が衰退する中で、鉄剣のみが生産され続けるようになったと判断される。また北九州中心部と考えられている地域(博多湾沿岸地域)の銅剣・銅矛祭祀が盛んでないのは、この地域の有力豪族が倭国に加入するのを渋っていたためと判断される。さらに、後に、銅矛祭祀の盛んでない南九州勢力や畿内勢力に支配されたのも影響しているのではあるまいか。 |
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■第五項 熊曾について
熊本県地方はスサノオの統一に失敗した地域のようである。それは、スサノオが祭られた神社がほとんどなく、スサノオの行動を伝える伝承もないことから判断される。そのため、この地方が独自の文化を保ち続けることができたと考える。しかし、このことが、後の時代、大和朝廷との激しい戦いを繰り広げる原因となっているのである。 |
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■第六項 統一経路の推定
スサノオ関連伝承・遺物が優勢な領域は中津平野、大分県地方、南四国地方、佐賀平野であり、大歳関連伝承・遺物が優勢な領域は遠賀川流域、筑後川流域、熊本県北部地方であり、五十猛命関連伝承が優勢な領域は長崎県地方である。これら、中広銅矛・銅戈の集中出土地域、神社伝承を考慮すると、北九州地方の統一順路は次のようになる。 スサノオは最初、宇佐の地を出発して南下し大分川流域、大野川流域を統一した。その後豊後水道を渡り、佐田岬半島から、宇和海沿岸を南下し、土佐地方を統一した。大歳は北上し遠賀川流域、冷水峠を抜けて筑後川流域を統一した。また、五十猛命は長崎県地方に伝承地が多いことから、唐津市あたりに上陸し海岸線に沿って現在の長崎県領域を統一して回ったと推定される。ここまでは順調に統一が進んだが、それぞれ行く手を阻まれることになる。 南四国地方を統一したスサノオは、再び北九州地方に戻り最も有力豪族がひしめいている北九州北西部沿岸地方に入った。奴国・伊都国領域である。スサノオの持っている新技術も北九州北西部の有力豪族たちには魅力的なものに移らず、また、倭国に加入してしまえば現在持っている権力をすべて失ってしまうのであるから、倭国に加入するはずもなく、スサノオ一行に頑強に抵抗した。スサノオはやむなく、有力豪族に虐げられている弱小豪族に目を向け、周辺小国を倭国に加盟させていった。 筑後川流域地方から南下し菊池川流域から、阿蘇盆地から流れ出る白川流域(熊本市近辺)に入ると球磨一族と衝突するようになった。球磨一族は「よそ者は全く受け入れない」といった考え方が強く、大歳が如何に説得しようが倭国にはまったく加入しない。そういった小国が増えてきた。 スサノオも大歳も加入を拒否する小国家はそのままにして、加入してくる小国家を次第に増やすという手法で統一を勧めていった。倭国に加盟した小国家には瀬戸内沿岸地方から連れてきた人々を連絡役として配置し、先進技術を伝えるとともに、他の加盟国との交流を密にするようにしていった。 スサノオは伊都国・奴国の有力豪族を倭国に加盟させるのをあきらめ、福岡平野を宇美川、那珂川沿いに南下し筑後川流域に出て、有明海沿岸地方を西へ統一してまわり、佐賀県有明町の稲佐神社周辺で長崎川を統一してきた五十猛命と出合った。佐賀平野(吉野ヶ里遺跡周辺)に拠点を構えて、南の球磨国、北の奴国・伊都国との交渉を継続すると同時に倭国に加盟した小国家の技術指導・交流促進に力を注いだ。また、銅矛、銅戈による祭祀も広めた。 このような過程を経て北九州地方の大半の領域が統一されたのであろう。小国家の中には最初加盟するといいながら脱退する領域もあるだろうし、逆に最初拒否しておきながら周辺の状況をみて加入を申し入れた領域(おそらく奴国)もあったと思われる。しかし、次第に加盟領域が増えてきて、北九州地方が統一されたのである。奴国領域はサルタヒコ関連神社が多く、青銅生産が行なわれていたところで最初加盟拒否したが、後で加盟したものと考えられる。この時点での未統一領域は伊都国、球磨国である。紀元5年ごろのことであろう。以後5年ほど佐賀平野を拠点として北九州地方の国家体制の確立に努めたものと考えられる。 スサノオ、大歳、五十猛命関連神社の分布、銅矛、銅戈等の関連遺物の分布から推察して北九州の統一過程は以上のようになる。 |
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■第5節 南九州進攻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 考古学的変化
北九州を統一したスサノオは、宇佐を拠点として、南九州地方の進攻を開始した。紀元10年(スサノオ45歳)頃と思われる。南九州地方に、この頃、次のような変化が起こっている。 1 中期末に、宮崎県と鹿児島県地方の広い範囲に、瀬戸内系土器が出土するようになる。後期初頭になると、量が増えるが、後期中頃までに消滅し、それと入れ替わるようにして、畿内系土器が出現する。 2 中広型銅矛が見つかっているが、その数は少ない。 広い範囲で瀬戸内系土器が出土することから、瀬戸内との交流は一時的なものではなく、恒常的なものであることが判断される。そして、瀬戸内沿岸地方で、南九州系の土器がほとんど見られないことから、この交流は瀬戸内から南九州への一方的なものであったと判断する。スサノオの南九州進攻の結果、瀬戸内地方から役人を派遣し、瀬戸内系土器が出土するようになったものと考えるとうまく説明できる。そして、瀬戸内系土器が後期初頭の途中で衰退するのは、出雲の国譲りによって、政権移譲が起こったためと考えられる。 |
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■第二項 統一方法
南九州に点在する神社を調べてみると、阿蘇盆地から、高千穂町、そして、延岡市にかけて、大歳を祭った神社が数多く点在し、大歳の行動を伝えている。大歳の行動の跡は都農町の都農神社にも見られる。大歳が阿蘇盆地の方から高千穂・延岡経由で、南九州に進入したことが伺われる。 一方スサノオの行動の跡は定かではない。 当時の南九州は宮崎県南部地方をイザナギ一族が支配していた。イザナギ一族は、おそらく中国史書にある「呉の太伯の子孫」であろう。太伯は周の開祖文王の叔父にあたり、その子孫が春秋時代に揚子江河口付近に呉を起こした。イザナギ一族の祖先はBC473年に呉が滅んだとき、東シナ海に船出をし、日向地方に流れ着いたものではあるまいか。この一族は、現在の宮崎県の都城盆地から宮崎平野にかけて領有していた。天照大神の誕生伝承地は宮崎県下に二箇所ある。ひとつは阿波岐原でもうひとつは清武町の加江田神社の地である。 ■阿波岐原について 「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」というのは、伊邪那岐命が禊払いをして三貴子をはじめ多くの神々を誕生させた場所である。神道にいうところの祝詞に良く登場してくる神聖な場所である。これは一帯何なのであろうか? 宮崎市の小戸神社に阿波岐原の説明文があった。それによると、「小戸」というのは現在の宮崎市街地一帯を指し、大淀川の河口周辺であるらしい。当時大淀川の川辺に多くの船が浮かんでおり、他地域との交流を盛んに行っていたらしい。その様子が「小戸」と呼ばれたようである。「小戸」とは小さな港の意味であるという。 阿波岐原の領域は寛延中の「日向小戸橘檍(あわぎ)原図」によると、宮崎市の西北大宮柏田から石崎川にいたる連続した領域を扇の頭とし、大淀川下流の蟹町をその要とした三角形をなす領域となっている。この領域は小戸神社に言う小戸の領域と一致している。 「伊邪那岐命が三ツ瀬の辺りに立たれて、上ツ瀬は速し、下ツ瀬は弱しと仰せられて中ツ瀬において禊払いをし給うた。そのときに多くの神々を生み給うた。」と古事記・日本書紀に書かれているが、この三ツ瀬には海原と川原の両説がある。 海原説・・・上ツ瀬=住吉神社沖、中ツ瀬=江田神社、下ツ瀬=下別府沖 川原説・・・上ツ瀬=下北方の津多賀瀬、中ツ瀬=上別府の也奈義瀬、下ツ瀬=住吉内瀬頭の伊和賀瀬 である。伝承地から考えると海原説が正しいようである。 阿波岐原とは何か、禊払いとは何かであるが、中ツ瀬の江田神社の祭神は現在では伊邪那岐命、伊邪那美命(後祀)であるが、神名帳によると素盞嗚尊の御子五十猛命、大屋彦命となっている。両神ともに倭国統一のために動き回った神である。その神が阿波岐原の中心地に祭られているということより、阿波岐原は素盞嗚尊一族が南九州を統一するために上陸した場所で、その拠点としたところではないかと推定される。この周辺からは祭祀系の弥生式土器の出土が多く、この地は一大祭祀地帯ということになる。 以上の事実から阿波岐原を次のように推定する。 北九州を統一した素盞嗚尊一族は、南九州を統一するために江田神社付近に上陸した。この地で、南九州の人々を倭国に加盟させるために、この阿波岐原で南九州の人々と大々的に祭祀を行った。その祭祀と共に、大陸から取り込んだ新技術・品物を人々に提示した。南九州の人々はその新技術に驚くと共に、この地が人々の聖地となったのではないだろうか?また、この周辺が彦火火出見尊、狭野命、鵜茅草葺不合尊?の誕生の地でもあることから、その新技術の中に出産にかかわる医学技術も含まれていたのではないだろうか。そのために、南九州の人々には出産の聖地として認知された可能性もある。 以上のような理由により、阿波岐原は天照大神の誕生地としては時代が少しずれることになる。天照大神の誕生地としては 加江田神社の地となる。天照大神はイザナギ、イザナミ両神より産まれているので、スサノオが南九州侵攻時のイザナギの宮居は加江田の地ということになる。 ■南九州統一過程 加江田神社より3kmほど東に今泉神社がある。ここは天御中主命が降臨した場所と伝えられている。 天御中主命とはニギハヤヒ命と考えられるので、ニギハヤヒ(大歳)がこの地に来ていたことになる。この地に来るには清武川をさかのぼり、 加江田を通り越さなければならない。おそらくニギハヤヒは宮崎市を迂回して北側から今泉神社の地に宮居した。スサノオは東側現在の青島方面から加江田川に沿って遡り、 加江田を二人が挟み撃ちにしている様子が浮かび上がってくる。 スサノオは阿波岐原を拠点とし周辺の小国に倭国に加盟するように勧めていった。スサノオが加江田周辺に来たときムカツヒメ(天照大神)と出合ったのであろう。 スサノオ50歳ほど、ムカツヒメ15歳ほどと考えられ、AD15年ごろと思われる。スサノオはこれまで大阪地方、北九州中心域、熊本地方で有力豪族に出会うと、争いを避けそのまま手を引いているが、 スサノオとイザナギの関係が神話上ではあまり良くないことからスサノオが武力を用いて南九州地方を統一したと当初考えた。しかし、和歌山県の熊野本宮大社に伝わる伝承では、スサノオがイザナギ・イザナミを伴って統一していることになっているので、イザナギ・イザナミはスサノオの統一事業に積極的に協力したことになる。 スサノオは加江田に都している南九州の有力豪族であるイザナギ・イザナミに対して日本列島統一の理念を話し、南九州諸国が倭国に加盟するように協力を要請した。イザナギ・イザナミは娘ムカツヒメ(日向津姫)と結婚することを条件として一緒に統一することを承諾した。 スサノオに協力することになったイザナギ・イザナギはその拠点の宮崎市周辺から大淀川を遡り、東霧島神社の地を拠点として、以前から交流していた都城地方の豪族にも倭国に加盟するように働きかけた。 ■東霧島神社 東霧島神社は主祭神伊弉諾命でイザナギの皇都があった地と伝承されており、境内には伊弉諾命に十握の剣で三つに切断されたという神石がある。イザナギ・イザナミがスサノオの元で都城地方を統一した時の拠点としたところであろう。イザナギ・イザナミの努力により、都城盆地一帯は倭国に加盟することになった。 一方、スサノオはムカツヒメを伴って舟で国分地方にわたり、この地方を統一した。 鹿児島県国分市の蛭子神社の地にたどり着いた。蛭子神社は「伊邪那岐・伊邪那美命の最初の子供は3歳になっても足腰が立たない蛭のような子供であったため、両親はその子を蛭子命と名づけ、天岩楠船に乗せて天上から流し捨てた。この天岩楠船の流れ着いた場所が蛭子神社の地である」といわれている。この蛭子命はスサノオのことであると推定している。「ヒルコ」「ヒルメ」は男女のペアを意味しており、「ヒルメ」は天照大神(ムカツヒメ)と考えられるので、「ヒルコ」はスサノオとなる。スサノオは加江田の地をムカツヒメとともに出港し大隅半島を回り蛭子神社の地に上陸した。 蛭子神社のすぐ近くに南九州の政庁があったと思われる 鹿児島神宮があるので、 この地を拠点として国分地方一帯を統一することに成功した。鹿児島神宮は元八幡宮といわれており、スサノオの南九州政庁の跡と思われる。この地はまだ未統一の大隅半島部や薩摩半島部に囲まれており、 その方面に対する牽制の意味でも重要な位置であった。スサノオの後もここに役人を配置して、南九州の統治をしていたものと考えられる。 鹿児島神宮の社伝「大隅正八幡本縁起」によると、震旦の陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)は 七歳にして解任、いぶかった父王が問いただすと、夢で朝日の光が胸にあたったために懐胎したのだという。 驚き畏れた王は大比留女をやがて生まれた王子とともにうつぼ舟にのせて大海へと流したとされ、この舟は九州の大隅(八幡岬)へと流れつき、大隅国に留まった王子は正八幡と称えられ、幼くして隼人を平定した。といわれている。この伝承はこのときのスサノオとムカツヒメとの関係によく似ている。 しかし、南九州一帯は北九州と文化が余りにも異なり、倭国に加盟させるのが至難の業であった。大隅・薩摩地方を統一するのはすぐには難しいと感じたスサノオは、 今まで統一した領域をまず安定化させようと、宇佐の地まで引き返した。ムカツヒメはスサノオの行動に深い理解を示し、スサノオと結婚をした。 そして、この時に、ヤマタノオロチから奪った鉄剣天村雲剣(後の草薙の剣)と出雲で製作した八尺瓊の勾玉を結婚の証としてムカツヒメに渡した。これはいずれも三種の神器になっている。 ムカツヒメは、安心院町の妻垣神社 「祭神、八幡大神(スサノオ).比売大神(ムカツヒメ)」の地でスサノオと生活していたと考えられる。そして、そのすぐ近くにある、 三女神神社の地でスサノオとムカツヒメとの間に3娘が生まれた。スサノオはムカツヒメとともに九州地方の統治をしていた。 この間イザナギ・イザナミは都城地域統一のため努力していた。紀元15年ごろのことであろう。 |
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■第三項 南九州統一過程
佐賀平野に拠点を置いていたスサノオは紀元10年ごろ南九州を統一する決心をした。五十猛命に北九州地方の統治を任せ、大歳は熊本平野から阿蘇盆地を抜けて五ヶ瀬川流域に入り高千穂から延岡と統一し、そのまま九州東海岸を南下し都濃神社の地に上陸し、そこからさらに南下した。スサノオは宇佐に戻り統一地域を巡回した後、九州東海岸沿いに南下した。そして、そろって宮崎市の阿波岐原に上陸し祭祀を行い、大歳は宮崎平野北部一帯を統一し、スサノオは大淀川の南岸沿いを統一し清武川沿いを統一しようとしたところ加江田の地でムカツヒメと出合った。加江田の豪族イザナギ・イザナミが大変協力的で娘のムカツヒメとの結婚を条件に大淀川上流域の都城盆地一帯を統一することを申し出た。スサノオは彼らにその地域の統一を任せ、自らはムカツヒメを伴って、大隅半島を回り、鹿児島県国分市近辺(蛭子神社の地)に上陸した。近くの現鹿児島神宮の地を拠点として国分地方一帯の統一に成功した。しかし、南九州地方一帯は北九州と文化が大きく異なり統一は簡単ではなかった。南九州地方の完全統一はひとまずおいて、スサノオはムカツヒメと共に宇佐に戻った。大歳は宮崎平野一体を統一後、讃岐の琴平に出向き、ここを拠点として瀬戸内海沿岸地方の統治をすると共に近畿地方の情報を収集した。 数年後(紀元15年ごろ)イザナギ・イザナミから都城盆地統一完了の報告を受けて近畿地方統一に乗り出すことになる。 近畿地方にはイザナギ・イザナミと五十猛命、抓津姫、大屋津姫を伴って行った。紀伊国の統一には成功したが大阪湾岸地方の統一には失敗した。 紀元20年ごろ再び宇佐に戻ってきた。スサノオは統一過程において国の安定経営のためには製鉄技術の確立が必要であることと、出雲国を留守にした期間が長すぎたために倭国内でも出雲国が大きく遅れていることに気付いた。また、鉄は出雲で大量に産出することが分かり、スサノオは出雲に帰ることになった。 |
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■第四項 その後の北九州
スサノオが出雲に去ると同時にムカツヒメも日向に戻った。南九州の未統一地域を統一するためである。二人が去った後の北九州北東部地方は、二人がいる間相談役をしていた福岡県田川市あたりを拠点にしていたタカミムスビに任せることにした。タカミムスビにはスサノオとの血縁関係がないので、二人の長子であるまだ3歳ほどのオシホミミを預けることにした。タカミムスビはオシホミミの後見人という形である。スサノオはさらに、北九州南西部の統治をゆだねるため、出雲からニギハヤヒの長男であるサルタヒコを呼び寄せた。北九州地方が二分されて統治されたのである。紀元25年頃でスサノオ60歳ほど、ニギハヤヒ30歳ほど、サルタヒコ15歳ほどであったと思われる。 島根県口碑伝説集「黄金の弓」によると、サルタヒコはニギハヤヒが、まだオオトシといって出雲にいた頃、キサカイヒメとの間にできた子である。スサノオが北九州を去るのにあたって、出雲からサルタヒコを呼び寄せたのである。北九州に来たサルタヒコは、北九州南西部地方を統治した。 サルタヒコは塩土翁・オオヤマクイ神・住吉大神・日吉大神・荒神等として全国に祭られている。特に集中して祭られているのが、福岡県那珂川町や春日市を中心とする北九州南西部一帯なので、このあたりに拠点があったものと考えられる。そして、この周辺は奴国の中心地として青銅器やその鋳型が集中出土している地域で、青銅器生産センターがあったと推定され、サルタヒコとの関係が考えられる。 スサノオのシンボルである銅矛は、その関係者が生産することでその価値が高まると思われ、サルタヒコとその一族が生産したのではあるまいか。 サルタヒコは福岡県那珂川町に拠点を置き、スサノオの国家統一のシンボルである中広型銅矛を守護神として祭礼する需要が高まってきたため、父から受け継いだ青銅器生産技術を使って、北九州の青銅器生産をし、地方に配布したのではないだろうか。 また、サルタヒコの勢力圏に吉野ヶ里遺跡があるが、吉野ヶ里の鎮守は日吉大神である。吉野ヶ里遺跡もサルタヒコと関係があるらしい。 |
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■紀伊半島統一
九州統一に成功したスサノオは、大阪湾岸地方から紀伊半島の統一に乗り出した。 ■大阪湾岸地方 弥生時代中期末に当たるこの頃(紀元20年ごろ)、大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとする多くの遺跡が存在しており、それらからは大型の建物跡が発見されるなど、かなり進んだ国があったようである。弥生時代中期のはじめごろ、瀬戸内海沿岸地方を渡ってきた弥生人が大阪湾岸地方に上陸し、ここを拠点とし、大和盆地をはじめとする近畿地方一帯から濃尾平野まで勢力圏を広げていた。拡張主義を持っていたようで、技術的にも高度なものを持っており、スサノオが大阪湾岸地方にやってきた時も倭国に加入することを拒否した。そのために、スサノオの行動を示す神社が大阪湾岸地方に存在しないものと考えられる。 ■和歌山県地方 和歌山県地方にはスサノオ一族の行動を示す神社がいくつか存在している。紀伊国は元「木国」といい、五十猛命が朝鮮半島から持ってきた木が最も生長した国なので、木国と呼ぶようになったと言い伝えられている。スサノオは五十猛命とともに大阪湾岸地方の統一を後回しにして紀伊半島の統一に乗り出したのであろう。 紀伊半島のスサノオ関連の伝承をまとめると以下のようになっている。 1.大和御前之宮 和歌山市北野744-3 祭神 天照大神 大己貴神 神代の時、天照御神の命により五十猛命ら三柱の神が導祖神猿田彦神の導きでこの地に天降られ木種を蒔かれました。三輪大神を祀るを以て大和御前と称す。 2.射矢止神社 和歌山市六十谷381 祭神 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある 3.伊太祁曽神社 和歌山市伊太祈曽 祭神 五十猛神、大屋都比売神、都麻都比売神 木の神様 素盞鳴命(すさのおのみこと)の子、大屋毘古命(おおやびこのみこと)が、多くの樹木の種をもち、この国に天下られたことから、まつられている。伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮に祭られていた。 4.大国主神社 紀の川市貴志川町國主1 祭神 大国主命 紀伊続風土記によれば、八十神等の危難から逃れ、五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が当地を訪れた事を由緒としている。古事記では母の神が大国主命を紀の国の大屋毘古の神のもとに逃がしたとある。 5.須佐神社 和歌山県有田市千田1641 祭神 素戔嗚尊 銅鐸・鉄刀出土地。神代五十猛ノ命出雲国より本国に渡り給ひしより其父神須佐之男命の御霊を有田郡須佐神社の地に鎮め奉れるなるへし 6.大神社 和歌山県田辺市芳養町1029-1 祭神 天照皇大御神 素盞嗚尊上陸伝承地 7.田辺須佐神社 和歌山県田辺市中万呂5 祭神 須佐之男命 配 稻田比賣命、八王子神 素盞嗚尊が立ち寄り木種を播いたと伝える。 8.神倉神社 新宮市新宮 祭神 高倉下命 神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。 9.熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神 素盞嗚尊降臨地と伝える。 10.熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 主祭神 家津美御子大神(素盞嗚尊) 『熊野権現垂迹縁起』によると、熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。 崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。 大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。 11.玉置山 山頂近くに玉置神社があり、神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。 12.阿須賀神社 新宮市阿須賀町 祭神 事解男之命 伊邪那岐伊邪那美さま熊野に参られ御生みになつた神々をお祭りし、従つて熊野は黄泉の国常世の国と読まれ初め家津美御子さまは貴袮谷、結速玉はアスカの森に二宇の社、第十代崇神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉には第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野の発祥地と云われています。(熊野山略記) 13.花の窟神社 三重県熊野市有馬上時130 祭神 伊弉冉尊 軻遇突智尊 七里御浜に突出する高さ約70mの巨巌を神体とする巨巌の根元に方5mほどの祭壇を設けて白石を敷き玉垣をめぐらして拝所とする。神殿はなく巨巌を崇敬する 太古の風習を残している。「日本書紀」神代上の一書に「伊弉冊尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには花の時には亦花を以て祭る又鼓笛幟旗を用いて歌ひ舞ひて祭る」と記され、伊弉冊尊を祀る。 14.産田神社 三重県熊野市有馬町1814 祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命 産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正十八(1521)年十一月十四日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。『三重県神社誌』 ■ これらの伝承を元に紀伊半島の統一過程を推定すると以下のようになる。 都城盆地一帯の統一が完了したイザナミ・イザナミは、紀元20年ごろ、大分県宇佐地方で倭国全体を統治していたスサノオの元におもむき、スサノオに近畿地方の統一を勧めた。スサノオは近畿地方の統一を決心し、イザナギ・イザナミに加え五十猛命、大屋都姫、爪津姫などを引き連れて近畿地方の統一に乗り出した。淡路島を拠点として大阪湾岸地方の統一をしようとしたが、大阪湾岸地方の豪族たちには倭国加盟を拒否された。 大阪湾岸地方の統一は後回しとし、大阪湾岸から南下し、紀伊半島の紀ノ川河口付近に上陸した。スサノオは紀ノ川流域の統一を五十猛命、大屋都姫、爪津姫に統一を任せた。スサノオはイザナギ・イザナミを伴ってさらに紀伊半島沿岸を南下し田辺市に上陸した。周辺を統一後再び出港し、最南端を超えて、新宮市近辺に上陸した。 新宮に上陸したスサノオは神倉山→阿須賀神社の地と拠点を移しながら周辺をまとめた。人々に造船技術を伝えて熊野川流域に入り込み本宮の地を拠点とし流域の人々との交流を促進した。熊野古道もこの頃より開かれたのではないだろうか。伝承の分布から推察してスサノオの統一した領域は現在の三重県熊野市あたりまでであろう。スサノオの紀伊半島統一は紀元20年〜25年ごろと推定する。 ■淡路島(伊弉諾尊の終焉) 淡路島に伊弉諾神宮がある。日本書紀によれば、国土と神々の生成を終えた伊弉諾大神が、淡路島に「幽宮(かくりのみや)を建てて鎮まったと伝えており、その地に建てられたのが伊弉諾神宮である。イザナギ命の終焉の地といわれている。終焉の地伝承地は近江の多賀大社にもあるがこちらは、この時点(弥生中期末)で、まだ倭国への未加入地域であり、後に(大和朝廷成立後)日向から多くの人々が移住してきた時、日向一族の創始者としてイザナギが祀られたものではないかと推定している。 ■伊弉諾神宮 イザナギが淡路島で終焉した理由を推定してみよう。イザナギ・イザナミは和歌山県の熊野三社の伝承を見ても分かるようにスサノオにかなり協力的であり率先して国家統一に参加している。紀伊半島を統一後、スサノオにとって気になるのが大阪湾岸地方である。淡路島はその対岸に位置し、海上交通を主としていた古代としては大阪湾岸地方と交流を図る拠点となる位置にある。この点から考えて、イザナギは大阪湾岸地域を統一する準備のために淡路島を拠点として活動していたのではないだろうか。しかし、志途中で病(熱病と伝える)で亡くなり、伊弉諾神宮の地に葬られたものと考える。 ■伊弉册尊の終焉地 伊弉册尊の終焉地は古事記では出雲、日本書紀では紀伊となっており、両書でまったく異なる伝承を伝えているのである。周辺伝承の詳しさは圧倒的に出雲のほうとなる。紀伊では調査した範囲では産田神社と花の窟神社のみである。出雲では御陵伝承地7箇所を元として関連伝承地が無数といっても良いほど存在しており整理に苦労するほどである。これらから判断して伊弉册尊の終焉地は出雲であろうと推定するのである。紀伊の伝承地の産田神社は伊弉册尊が誰かを生んだ地であり、花の窟神社はその子の亡くなった地と推定することもできる。伊弉册尊はいかなる理由によって出雲に行き出雲で亡くなったのであろうか |
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■伊弉册尊の出雲行き
イザナミ御陵伝説地 伝説地 場所 伝承 ●岩坂陵墓参考地 島根県松江市八雲町日吉 『雲陽誌』によると、「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギを追った女神イザナミが、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」と記されている。地元の人の間では、岩坂陵墓の中に墓石となるようなものは置かれていないと囁かれている。岩坂陵墓参考地はもっとも有力な候補地とされている。神納峠(かんなとうげ)。この峠の近くに、うっそうとした鎮守の森がある。はっきりとはしないが10メートル程の古墳と思われる。 ●比婆山 安来市伯太町 比婆山山頂に久米神社がある。その背後に4m位の高さで10m四方の古墳があり、比婆山神社古墳と呼ばれている。この境内にのみ群生するといわれる陰陽竹は、男竹に女性的なササがついている珍しい竹で、伊弉冉尊が比婆山に登ったときの杖が根付いたものと伝えられています。 ●比婆山 広島県比婆郡 比婆山は古事記所載の「故神避りましし伊邪那美神(いざなぎのみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境。比婆山に葬(かく)しまつりき」とある比婆山で一名美古登山(みことやま)とも言い、山上にある墳墓は伊邪那美神の鎮まります神陵として、古くから崇敬されてきた陵墓であると言われている。 この陵墓は三町歩にわらる平坦地の中央を南北にやや長い経六十四米、周囲約二百米の大円墳が築かれ、即ち比婆山大神の神陵とされている。 ●御墓山 島根県安来市広瀬町梶福留梶奥 島根県遺跡データベースに御墓山古墳として記録されている。頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいる。 ●佐太大社裏山 島根県松江市鹿島町佐陀宮内 佐太神社は伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えていました。 伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。(佐太神社由緒) ●伊弉冊 島根県仁多郡奥出雲町上阿井伊弉冊 鯛ノ巣山の中腹にある籠り岩でイザナミの尊が七日七夜この岩穴に籠られお産をされた、めでたい、ということで鯛の巣となる。上阿井地区には伊弉冊という地名の小さな集落があり、阿井川の支流として伊弉冊川がある。ここには岩柵があり、広さは十畳敷ほどで、伊邪耶美命(イザナミノミコト)が住んでいたと伝えられている。猿政山の山麓に尊原と呼ばれているところがある。ここに伊弉冊を祀っている。ここが御陵であろう。(島根県口碑伝説集) ●母塚山 鳥取県米子市 母塚山はイザナミ御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、イザナミを祭った神社が山頂にあったそうである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、イザナミ御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである 。 ●花の窟 三重県熊野市 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。一説によるとここは軻遇突智神の墓とのこと。 ●比婆山 鳥取県南部町金田 麓に熊野神社あり、伊弉冊命御陵地なりと伝える。「天宮さん(南部町指定文化財)」という巨岩があり、昔からこの地域の方たちは、この積み重なった岩のことを‘天宮さん’と呼び、天地を開き給う祖神の遺跡として大切に守り続けている。これは巨石崇拝遺跡であり、安産の神様として、大正から昭和の始め頃までは参拝者が多かったが、戦後になると登る人も少なくなった。地区の人が年に二回、草刈をして登山道を確保している。 麓から歩くと約一時間で、樹齢数百年の大樹が茂る山腹に、巨大な石が多く目に飛び込んでくる。その一角にある巨石が、イザナミノミコトのお墓ではと古くから云われ崇拝された「天宮さん」である。<なんぶSANチャンネルより> 調べた範囲では、イザナミ御陵は出雲6か所、伯耆2か所、紀伊1か所、広島1か所である。周辺伝承から判断すると、イザナミの終焉地は圧倒的に出雲であり、紀伊国の花の窟は別伝の軻遇突智神の墓が相当するであろう。イザナミが紀伊国開拓している時、産田神社の地で軻遇突智神を生み、この神は若年にて亡くなり、花の窟に葬られたと考えるのが最も自然である。 出雲の奥地にイザナミ伝承地が多いのであるが、これは不便な地にあり、製鉄との関係が考えられる。安来の比婆山、広島の比婆山、御墓山、仁多の伊弉冊のいずれも周辺に製鉄遺跡が集中している。これはイザナミがこういった地に滞在していたことを意味し、イザナミが出雲に来た理由は製鉄にあるということにつながる。 イザナミが出雲に来てすぐに山奥に行ったとは考えにくいので、最初に滞在した地が佐太神社の地であろう。ここは、伊弉冉尊の大元の社と言われており、本来は伊弉冉尊が主神であると思われる。それも、イザナミ自身がしばらく滞在していたためであろう。 安来市伯太町東母里井戸にイザナミが使った井戸が伝えられている。周辺に製鉄遺跡が多く、そのすぐ近くに比婆山神社があり、背後にイザナミ御陵伝承地がある。佐太神社の地で周辺情報を集め、準備を整えた後、そこから東へ移動し、飯梨川を遡り、この地に到達したものと考えられる。この周辺は日次(ひなみ)と呼ばれており、日向(ひな)がなまったものと伝えられている。また近くに日向山(ひなのやま)がある。この周辺にしばらく滞在したものであろう。この周辺の滞在伝承が後に比婆山御陵伝説が生じるもととなったものであろう。比婆山御陵古墳は古墳であり、だいぶ後の時代に築造されたもののようである。 伯太からさらに飯梨川を遡ると西比田殿之奥に到達する。比太神社の地に滞在していたと思われる。この周辺はイザナミ関連伝承地が非常に多い。近くに御墓山がある。御墓山は後の時代に第7代孝霊天皇が参拝したと伝えられているため、かなりの祭祀対象になっているようである。しかし、周辺伝承がイザナミの人としての伝承のようなものが少なく、黄泉国神話にかかわるものが多い。その多くは、おそらく、後の時代に作られた伝承と思われる。当初この御墓山が真実のイザナミ御陵と考えていたが、神武天皇がイザナミ御陵を遙拝したという葦嶽山からこの御墓山が見えないことから御墓山は御陵ではないと考えるに至った。それに対して比婆山連峰は葦嶽山からよく見え、葦嶽山は比婆山を遙拝するには最高の山であった。真実のイザナミ御陵は広島県の比婆山御陵と判断する。しかし、御墓山は孝霊天皇が参拝しているので、別の誰かの墓と考えられる。候補としては金屋子神ではないだろうか。 広瀬町の梶福富周辺は南側に山脈があるが、この中の御墓山がイザナミの御陵だと伝えられている。ここは古事記にあるとおり、まさに出雲と伯耆の境に当たる。明治初年まではこの山の中腹に比婆神社があったといわれている。この辺り一帯はイザナミに関する伝承が多く、御墓山(おはかやま)に東接する猿隠山は女神が崩じたところで、御墓山の西北麓の殿之奥はイザナミの御殿の跡と伝えられている。さらに後の時代になって孝霊天皇が参拝したという伝承もある。またこの周辺は日向、日向側、日向原、日向山など日向に関する地名も多く、日向地方から多くの人々がやってきて住んでいたものと思われる。また島根県下の多くの地域にイザナミ御陵伝承地があるが、いずれも出雲と伯耆の国境ではない。これは、出雲にやってきた日向の人々が作ったものと考える。 イザナミが実際に住んでいた殿之奥をさらに探ってみた。比太神社が少し小高い丘陵地に存在し、殿之奥はその神社を中心として栄えている集落である。比太神社の祭神は吉備津彦であり、イザナミ・イザナギが合祀されている。イザナミが祭られていることから判断してイザナミの御殿はこの神社の地に在ったのではあるまいか。吉備津彦は倭の大乱時にこの地にやってきて、ここから御墓山の祭礼を行なったのではあるまいか。その証拠に比太神社の真後ろが御墓山になっている。 イザナミの住んでいた殿之奥のすぐそばに金屋子神社がある。 この神社の祭神は金山彦、金山姫となっているがこれは後にそうなったようで、本来は金屋子神であるようだ。金屋子神は性別が不明であるが、女が嫌いであるなどの性格より女神であるらしい。金屋子神祭文ではこの神は高天原より播磨国に天降り、そこで鉄鍋を作ったが周囲に住めるところがなかったのでこの地に来て鉄造りを伝えたとある。 このとき、この神は「我は西方を主とする神である」と言っている。高天原(日向)から来たということと西方を主とすることから、九州方面の神であることが推定される。神話によるとイザナミの吐瀉物から生まれたのが金山彦・金山姫でその子が金屋子神である。 島根県に伝わる伝承によると、金屋子神は播磨→吉備中山→印賀(鳥取県日南町)→西比田の経路をたどっている。どう見ても東からの技術者といった感じである。金屋子神はイザナミ命の子孫ではあるまいか。紀伊国の産田神社の地で生まれた子の子孫とも考えられる。その金屋子神がイザナミが以前住んでいた殿之奥にやってきて本格的に製鉄を始めたものと考えられる。その時にイザナミ伝承、御墓山が作られたのであろう。 ここから北西へ山をひとつ越えると大東町上久野日向(ひな)まで直線10km、南西へ山をひとつ越えると横田町日向側(ひなたがわ)まで直線7kmである。伝承は伴っていないが、名前からイザナミ滞在地であろう。日向側から、南西へ13km程で日向原がある。また、ここから西へ7km程で仁多郡奥出雲町伊弉冊があり、この周辺はイザナミ伝承を伴っている。伊弉冊周辺の伝承は山腹の岩屋が多い。出産ではなく、鉄の採掘中の棲家であろう。おそらく、この周辺をイザナミは鉄資源を探して転々としていたものであろう。 イザナミは奥出雲地方を転々とした後、広島県側に滞在しているようである。経路は日向原→三井野原→油木→比婆郡西城町日南(ひな)と推定される。この周辺も製鉄遺跡の多いところである。 |
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■西城町周辺の伝承
●別所 イザナギノミコトは、月のさわりのとき、夫であるイザナギノミコトと別れて暮らしていたと伝えられる。故にその場所を別所(べっそ)という ●田鋤 イザナギノミコトは、黄泉の国から追いかけてきた八人の鬼神たちをこの地で桃のみを投げて撃退した。そしてそのあと、桃に向かって「おまえはこれから先も日本中の者が誰でも苦しんでいるときは、今の私を助けたようにみんなを助けてやってくれ」と言って、桃に対して「大神実神」という名を授けた。田鋤(たすき)はこの神話にちなんだ地名で「助けて」が転じて田鋤(たすき)となったらしい ●別路 イザナミノミコトが月のさわりで別所(べっそ)に向かうとき、イザナギノミコトはここまで送ってきて、また会う日まで別れをおしんだ場所であると伝えられる。そのため別路(わかりょうじ)という地名が付けられたという。 月のさわりがあると云うことは、まだ妊娠していないことを意味し、出産の悲劇が起こるだいぶ前のことと思われる。 ●千引岩 火の神を生んだことがもとで亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国へやって来た伊邪那岐命は、焼けただれた姿になった伊邪那美命の姿に驚き、黄泉の国から逃げ出した。伊邪那美命は怒って八雷神、千五百の黄泉軍を差し向けて追撃した。その時飛び越したのが「飛び越し岩」、軍勢を追っ払ったのが「越原」として、今も地名に残っている。最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」と二人が問答したことから千引岩と名がついたという。 ●不寒原 比婆は雪が多く寒い地方であるため、伊邪那美命はその寒い冬の間、比較的暖かいこの地に宮を造り、避寒の地にしたので不寒原(ひえんばら)と言うと伝わっている。今ではなまって「へんばら」という。 別路・別所の伝承から判断して、此の地にイザナギも一緒に生活していたのであろう。 ●伊邪那美命の隠れ穴 立烏帽子の谷間にある岩穴で「火除け穴」とも言われています。伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきたが、夜になったので自分の櫛に火を灯し、明かりとして通った所と言われています。また、伊邪那美命がここを通りかかったときに、天から火の雨が降ってきたのでこの穴に入って難を逃れたとも言われています。さらに、火の神を生んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとの説も残っています ●金倉神社 小奴可にある。背後に三段山があり、頂上に古代の祭祀跡と思われる巨石が散在。イザナギが火具土を三段に斬ったという伝承に関係? ●稚子が池(三井野原) 難産の末イザナミ命が崩御せらる惨事となったとき、難産につきものの汚物を洗った池。今は小さな池であるが、太古は底なしの池であった。 稚児ヶ池神社の由来<神社説明板より> 「三井野の地名は御生、御井で比婆山神話に由来し、此処にある稚児ヶ池は古い伝説と信仰を持っている。出雲風土記に出雲と備後の界室原山と言うあり、神の御室などありしが、此の原上に古井あり、今は稚児ヶ池と言う。また、天孫族の長者イザナギ神・イザナミ神二神の本拠が比婆山連峰の高開原、幸(油木)の高天原にあり。女性におわすイザナミ神御妊娠の時幸の高天原より東方一里御井(三井野原)にある方一町位の泉のほとりに産屋を作りお籠りになり三貴神天照大神、月夜見神、須佐之男神がこの地に御誕生になり、この泉を御井と呼ばれていた。その後三井と改字され五尺四方、深さ三・四尺の池なるも近国迄名高く聞こえ、毎年近郷より雨上り、雨乞いに即立願して其の験また多く、如何なる旱魃にても水減ずることなく往古は一町四方の池にて伯耆大山や宍道湖とも底が通じていて、大蛇がこれらの池を通っていたと言い伝えられ、陰陽往還の要所に位置し、水量豊富で過去幾多の人馬ののどを潤したが、この周辺は軟弱を極め、水を飲むために近寄りぬかるみに足を取られ、溺死した者もあったため、今は埋められて一坪ほどの池と化しその上に横たえる材木の上に須佐之男命を祀る祠があり、稚児ヶ池神社と呼ばれ隣国より水の神様として信仰を集めている。」 ●ジャバミ山 三井野原の西の分水嶺付近にナギハタという地名がある。このナギハタにイザナミの一杯水という泉がある。そのそばの小高い山をジャバミ山という。イザナミ命が崩御せられたことを悲しんだ泣沢女命が稚児ヶ池で汚物を洗って産屋に帰る途中で毒蛇にあったからつけられたという。 ●枕返し 難産で病み伏していたイザナミ命に仕えていた泣沢女が、せめて滋養物を差し上げようと魚を取りに行ったところ。彼女が眠っている間に方向が変わっていたのでこの名前がついた。ここにはイザナミ命に差し上げる餅をついたという「臼岩」がある。 ●比婆山御陵周辺の岩 比婆山御陵周辺には烏帽子岩を始めとして巨石が転がっているが、その多くは人工的な切り込みが入っており、そのことごとくが比婆山御陵のほうを向いている。 また、神様が比婆山から投げたという礫岩が八か所に存在している。その岩は比婆山をぐるっと囲んでおり、比婆山御陵が信仰の中心となっている。 ●比婆山伝説地(御陵) 比婆山(1264m)の山頂は、古事記に云う伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遙拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名・鳥の尾の滝)がある。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境として伝承されている。 古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。此の御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。 その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面は一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。 この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような大きな音を発するので太鼓岩とも呼んでいる。そして、その周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって、全国に知られるようになった。<案内板より> ●長者原 皇居跡と言われているが、誰の皇居があったのかがはっきりしない。神武天皇と推定する。 稚児ヶ池に伝わる伝承の高天原はどこであろうか?地図上で稚児ヶ池より西一里程の場所で油木に所属する人の住める条件を満たしている場所と言えば六の原地区の県民の森周辺しかない。しかし、此の地には調べた限りにおいて高天原伝承はないようである。六の原地区は後の時代にたたら製鉄の拠点があった処で、その人たちが高天原伝承を作った可能性も否定できないが、ここは高開原という地名にぴったりの場所で立地条件からしてイザナギ・イザナミ二神が一時期此処に住んでいた可能性はある。また、西城町日南(ひな)も地名から判断してイザナミが住んでいた可能性がある。これらの伝承から判断すると、イザナミ命は日向原から三井野原を越えて広島県内に移動し、日南辺りに住んで鉄の採掘をしていたようである。出雲ではイザナギの伝承が伴っていないのであるが、広島県側ではイザナギ伝承も伴っている。おそらく、イザナギが紀州から訪問してきて日南(ひな)や高開原で生活していたのであろう。 イザナミの出雲行きの理由がなかなか思い当たらなかったのであるが、この伝承を分析することにより、スサノオ・イザナギ・イザナミが紀州を統一した後、イザナギは紀州に残り紀州を安定化させ、スサノオは宇佐に戻り倭国全体の統治をし、イザナミが鉄資源を探して先遣隊として出雲を訪れたものと考える。イザナギも紀州を安定化させた後に出雲に行く予定だったのであろう。イザナミが鉄資源を探して広島県側に移動したころ紀州を安定化させたイザナギがイザナミのもとにやってきたのであろう。鞆の浦から芦田川沿いにイザナミの滞在していた日南までやってきたと思われる。 イザナミはそこからさらに熊野川に沿って遡り、比婆連峰で鉄の採掘をしていた。夏は山に入り、冬は不寒原で生活していたようである。別路の伝承から判断すると此の地にはイザナギもいたようである。この後高開原に居を移し、六の原周辺での鉄の採掘を行った。イザナミ命が妊娠をし、出産を控えて、きれいな水のあるところとして三井野原の稚児ヶ池を選び、そのすぐそばに産屋を立てて籠った。その出産は難産で、その影響でイザナミ命はこの地で亡くなった。古事記にはイザナミの腐乱遺体の描写があり、もがりをしていたのであろう。此の描写があると云うことから、イザナミが亡くなった時、イザナギはこの周辺にいなかった可能性が考えられる。宇佐や紀州に赴いていたのかもしれない。イザナギ命はイザナミの遺骨とともに直前までともに住んでいた高開原に戻り、その後比婆山御陵に葬った。AD25年ごろのことであろう。 比婆山の語源は「ひいばば様の山」と言われている。ひいばば様と呼べるのは3世後の世代である。その人物は神武天皇であろう。神武天皇はこの地にやってきて、比婆山を遙拝している。比婆山は神武天皇が命名したと思われる。 また、比婆山の西隣に吾妻山があるが、これは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が比婆山に眠る妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を「ああ、吾が妻よ」と山頂に立って生前を偲んだことが山名の由来とされている。 宇佐にいたスサノオもイザナミの死はショックだったようで、これをきっかけとして出雲に帰還したのかもしれない。スサノオ自身も比婆山を訪れているようで、比婆山御陵周辺の石の1つ「力石」は、スサノオ命が比婆山から戯れに投げたと云われている。おそらく、スサノオが比婆山御陵を祭祀する目的で、八か所に巨岩を配置したものであろう。烏帽子岩の切り込みも此の時つけられたのではないだろうか。 広島県の比婆山を真実のイザナミ御陵とすると、このように数多くの伝承がつながるのである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯伎(はくき)の境にあると記されている。伯伎は今の伯耆国で島根県と鳥取県の県境であると一般的に云われているが、三次市十日市町の熊野神社の記録に「昔はこの周辺一帯を伯伎と呼んだ」とある。現在の三次市一帯は伯伎国と呼んでいたようである。 |
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■製鉄について
製鉄はいつごろからあったのだろうか。 1 製鉄に必要な良質の砂鉄が多く取れること。 2 砂鉄を融かす木炭が取れること。 3 炉を作るための良質の粘土が取れること。 この3点が満たされている土地ということでこの地に金屋子神がやってきたと伝えられている。 イザナミが以前住んでいて未熟ながら製鉄を行っていたため、後の時代に金屋子神が訪れ本格的な製鉄を行う素地があったものと考える。 出雲にとってこの当時最も大切なものは、外国の先進技術であった。鉄は硬い上に銅よりも比重が小さいので武器に農具に工具に最適の金属である。 北九州での鉄器の出土が多いことから、北九州の豪族たちは鉄の加工技術を持っていたと思われる。スサノオは鉄の加工技術・製鉄技術はのどから手が出るほどほしかったに違いない。しかし、この豪族たちはこの時点でまだ倭国に加入していないのである。スサノオは朝鮮半島からさまざまな技術を取り入れたのであるが、 製鉄技術に関してはまだ不十分なものがあったのではないだろうか。スサノオは鉄の製鉄・加工技術の必要性を北九州統一のときに北九州の豪族たちにいやと言うほど思い知らされた。スサノオは朝鮮半島から製鉄技術を学び、それをイザナミに伝えた。紀伊国統一のあと宇佐でスサノオが倭国を統治している時、イザナミが各地を回り、製鉄ができる場所を探していたのではあるまいか。その結果、スサノオの生誕地である出雲こそ最適の製鉄のできる場所であることとの報告を受け、スサノオはムカツヒメの元、宇佐から出雲に帰ったものと考えられる。 中国山地の山奥であること、後の世にこの地方はたたら製鉄の盛んな地になっていること、金屋子神社から考えて、イザナミが出雲に持ち込んだ技術はこの製鉄技術ではないかと考えられる。この頃まだ出雲で製鉄が行われたという事実は確認されていないが、奈良時代以降出雲は全国一の鉄の生産地となっている。その走りのようなものがあったかもしれない。 この時期の製鉄の可能性について吟味してみよう。 弥生時代の鉄の加工は発掘事例から判断して弥生時代中期と考えられる。しかし、しっかりとした鍛冶遺跡は見つかっていない。鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されている。その原料は朝鮮半島からの輸入で、この頃製鉄はなかったというのが定説である。しかし、次のような状況により、製鉄があった可能性も指摘されている。 1 弥生時代中期以降石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。 2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。 3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。 4 弥生時代後期には大型銅鐸を鋳造する優れた冶金技術をもっていた。 5 広島県三原市の小丸遺跡は3世紀の製鉄遺跡ではないか思われる。 6 国内から出土する鉄器の分析により国内で生産されたものである可能性が高い。 弥生時代の鉄器の普及と、その供給源の間の時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたと考えられたのである。 しかし、成分分析によると国内の鉄原料を使っている可能性が高いことが分かった。弥生時代に製鉄があった可能性は十分高い。実際中期末に当たるこの頃、出雲地方に農具としての鉄器の出土が始まる。この頃より、出雲で鉄器が使われるようになったのは間違いのない事実である。 |
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■御墓山の伝承
御墓山は梶奥と日南町大菅との界にあり、標高769m。この山は、古事記に「神去りましし、イザナミノカミは出雲の国と伯耆の国の界なる比婆山に葬る」 といわれている地点で、山頂には、イザナミノミコトの御陵があると伝えられており、頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいます。 また、西比田地内に現存する地名で、神楽松山、殿之奥、追神、待神、行水谷、桃の木谷は、みなイザナミノミコトゆかりの地名として古事記にも見られるところであります。 大正年間に神道イザナミノミコト流伝御陵地として内務省より指定を受け、昭和6年7月29日には、神代史蹟鳥上峯周囲神域四郡神職会により、御墓山宣揚祭が行われ、当日は、神職80名の他、一般参拝者千数百名の参加があり、盛大な祭典が行われました。以来、協会主催にて年々盛大な祭典が挙行されましたが、いつ頃からか途絶えています。 |
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■第6節 伊邪那美命の死 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 イザナミ命の死
紀伊半島統一したAD18年頃、倭国の範囲は中国・四国地方全域・糸島地方を除く北九州地方、大分・宮崎および錦江湾北部地域、そして紀伊半島南部(和歌山県)領域であった。倭国が巨大化しすぎてしまったので、倭国をいくつかに分割して統治する必要性を感じていた。また、各地を回っている時金属器特に鉄器は当時貴重品であり、当時の地方の人々は鉄器をほしがっていた。鉄の安定供給が必要であることが分かった。鉄は朝鮮半島から鉄鉱石を輸入して生産していたが、輸送が大変なので、どうしても倭国内で鉄鉱石を採掘できる場所を見つける必要があった。 鉄の採掘ができそうな場所をさがすことにより、スサノオの故国出雲こそ鉄が取れる場所と云うことが分かった。スサノオ自身は倭国の分割について取り組む必要があり、宇佐の地で暫らく指示を出す必要があった。イザナギ命は紀伊半島部の安定化に今しばらく取り組まなければならないので、イザナミを出雲に向かわせて鉄の採掘を行わせた。 ■伊弉册尊の出雲行き イザナミ御陵伝承地は出雲を中心として分布している。出雲でのイザナミ伝承地を検討してみよう。 ■イザナミ御陵伝説地 ●岩坂陵墓参考地 島根県松江市八雲町日吉 『雲陽誌』によると、「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギを追った女神イザナミが、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」と記されている。地元の人の間では、岩坂陵墓の中に墓石となるようなものは置かれていないと囁かれている。岩坂陵墓参考地はもっとも有力な候補地とされている。神納峠(かんなとうげ)。この峠の近くに、うっそうとした鎮守の森がある。はっきりとはしないが10メートル程の古墳と思われる。 ●比婆山 安来市伯太町 比婆山山頂に久米神社がある。その背後に4m位の高さで10m四方の古墳があり、比婆山神社古墳と呼ばれている。この境内にのみ群生するといわれる陰陽竹は、男竹に女性的なササがついている珍しい竹で、伊弉冉尊が比婆山に登ったときの杖が根付いたものと伝えられています。 ●比婆山 広島県比婆郡 比婆山は古事記所載の「故神避りましし伊邪那美神(いざなぎのみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境。比婆山に葬(かく)しまつりき」とある比婆山で一名美古登山(みことやま)とも言い、山上にある墳墓は伊邪那美神の鎮まります神陵として、古くから崇敬されてきた陵墓であると言われている。 この陵墓は三町歩にわらる平坦地の中央を南北にやや長い経六十四米、周囲約二百米の大円墳が築かれ、即ち比婆山大神の神陵とされている。(説明板より) ●御墓山 島根県安来市広瀬町梶福留梶奥 島根県遺跡データベースに御墓山古墳として記録されている。頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいる。 ●佐太大社裏山 島根県松江市鹿島町佐陀宮内 佐太神社は伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えていました。 伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。(佐太神社由緒) ●伊弉冊 島根県仁多郡奥出雲町上阿井伊弉冊 鯛ノ巣山の中腹にある籠り岩でイザナミの尊が七日七夜この岩穴に籠られお産をされた、めでたい、ということで鯛の巣となる。上阿井地区には伊弉冊という地名の小さな集落があり、阿井川の支流として伊弉冊川がある。ここには岩柵があり、広さは十畳敷ほどで、伊邪耶美命(イザナミノミコト)が住んでいたと伝えられている。猿政山の山麓に尊原と呼ばれているところがある。ここに伊弉冊を祀っている。ここが御陵であろう。(島根県口碑伝説集) ●母塚山 鳥取県米子市 母塚山はイザナミ御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、イザナミを祭った神社が山頂にあったそうである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、イザナミ御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである 。 ●花の窟 三重県熊野市 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。一説によるとここは軻遇突智神の墓とのこと。 ●比婆山 鳥取県南部町金田 麓に熊野神社あり、伊弉冊命御陵地なりと伝える。「天宮さん(南部町指定文化財)」という巨岩があり、昔からこの地域の方たちは、この積み重なった岩のことを‘天宮さん’と呼び、天地を開き給う祖神の遺跡として大切に守り続けている。これは巨石崇拝遺跡であり、安産の神様として、大正から昭和の始め頃までは参拝者が多かったが、戦後になると登る人も少なくなった。地区の人が年に二回、草刈をして登山道を確保している。麓から歩くと約一時間で、樹齢数百年の大樹が茂る山腹に、巨大な石が多く目に飛び込んでくる。その一角にある巨石が、イザナミノミコトのお墓ではと古くから云われ崇拝された「天宮さん」である。 調べた範囲では、イザナミ御陵は出雲6か所、伯耆2か所、紀伊1か所、広島1か所である。周辺伝承から判断すると、イザナミの終焉地は圧倒的に出雲であり、紀伊国の花の窟は別伝の軻遇突智神の墓が相当するであろう。イザナミが紀伊国開拓している時、産田神社の地で軻遇突智神を生み、この神は若年にて亡くなり、花の窟に葬られたと考えるのが最も自然である。 出雲の奥地にイザナミ伝承地が多いのであるが、これは不便な地にあり、製鉄との関係が考えられる。安来の比婆山、広島の比婆山、御墓山、仁多の伊弉冊のいずれも周辺に製鉄遺跡が集中している。これはイザナミがこういった地に滞在していたことを意味し、イザナミが出雲に来た理由は製鉄にあるということにつながる。 イザナミが出雲に来てすぐに山奥に行ったとは考えにくいので、最初に滞在した地が佐太神社の地であろう。ここは、伊弉冉尊の大元の社と言われており、本来は伊弉冉尊が主神であると思われる。それも、イザナミ自身がしばらく滞在していたためであろう。 安来市伯太町東母里井戸にイザナミが使った井戸が伝えられている。周辺に製鉄遺跡が多く、そのすぐ近くに比婆山神社があり、背後にイザナミ御陵伝承地がある。佐太神社の地で周辺情報を集め、準備を整えた後、そこから東へ移動し、飯梨川を遡り、この地に到達したものと考えられる。この周辺は日次(ひなみ)と呼ばれており、日向(ひな)がなまったものと伝えられている。また近くに日向山(ひなのやま)がある。この周辺にしばらく滞在したものであろう。この周辺の滞在伝承が後に比婆山御陵伝説が生じるもととなったものであろう。比婆山御陵古墳は古墳であり、だいぶ後の時代に築造されたもののようである。 伯太からさらに飯梨川を遡ると西比田殿之奥に到達する。比太神社の地に滞在していたと思われる。この周辺はイザナミ関連伝承地が非常に多い。近くに御墓山がある。御墓山は後の時代に第7代孝霊天皇が参拝したと伝えられているため、かなりの祭祀対象になっているようである。しかし、周辺伝承がイザナミの人としての伝承のようなものが少なく、黄泉国神話にかかわるものが多い。その多くは、おそらく、後の時代に作られた伝承と思われる。当初この御墓山が真実のイザナミ御陵と考えていたが、神武天皇がイザナミ御陵を遙拝したという葦嶽山からこの御墓山が見えないことから御墓山は御陵ではないと考えるに至った。それに対して比婆山連峰は葦嶽山からよく見え、葦嶽山は比婆山を遙拝するには最高の山であった。真実のイザナミ御陵は広島県の比婆山御陵と判断する。しかし、御墓山は孝霊天皇が参拝しているので、別の誰かの墓と考えられる。候補としては金屋子神ではないだろうか。 広瀬町の梶福富周辺は南側に山脈があるが、この中の御墓山がイザナミの御陵だと伝えられている。ここは古事記にあるとおり、まさに出雲と伯耆の境に当たる。明治初年まではこの山の中腹に比婆神社があったといわれている。この辺り一帯はイザナミに関する伝承が多く、御墓山(おはかやま)に東接する猿隠山は女神が崩じたところで、御墓山の西北麓の殿之奥はイザナミの御殿の跡と伝えられている。さらに後の時代になって孝霊天皇が参拝したという伝承もある。またこの周辺は日向、日向側、日向原、日向山など日向に関する地名も多く、日向地方から多くの人々がやってきて住んでいたものと思われる。また島根県下の多くの地域にイザナミ御陵伝承地があるが、いずれも出雲と伯耆の国境ではない。これは、出雲にやってきた日向の人々が作ったものと考える。 イザナミが実際に住んでいた殿之奥をさらに探ってみた。比太神社が少し小高い丘陵地に存在し、殿之奥はその神社を中心として栄えている集落である。比太神社の祭神は吉備津彦であり、イザナミ・イザナギが合祀されている。イザナミが祭られていることから判断してイザナミの御殿はこの神社の地に在ったのではあるまいか。吉備津彦は倭の大乱時にこの地にやってきて、ここから御墓山の祭礼を行なったのではあるまいか。その証拠に比太神社の真後ろが御墓山になっている。 ここから北西へ山をひとつ越えると大東町上久野日向(ひな)まで直線10km、南西へ山をひとつ越えると横田町日向側(ひなたがわ)まで直線7kmである。伝承は伴っていないが、名前からイザナミ滞在地であろう。日向側から、南西へ13km程で日向原がある。また、ここから西へ7km程で仁多郡奥出雲町伊弉冊があり、この周辺はイザナミ伝承を伴っている。伊弉冊周辺の伝承は山腹の岩屋が多い。出産ではなく、鉄の採掘中の棲家であろう。おそらく、この周辺をイザナミは鉄資源を探して転々としていたものであろう。 イザナミは奥出雲地方を転々とした後、広島県側に滞在しているようである。経路は日向原→三井野原→油木→比婆郡西城町日南(ひな)と推定される。この周辺も製鉄遺跡の多いところである。 |
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■西城町周辺の伝承
●別所 イザナギノミコトは、月のさわりのとき、夫であるイザナギノミコトと別れて暮らしていたと伝えられる。故にその場所を別所(べっそ)という ●田鋤 イザナギノミコトは、黄泉の国から追いかけてきた八人の鬼神たちをこの地で桃のみを投げて撃退した。そしてそのあと、桃に向かって「おまえはこれから先も日本中の者が誰でも苦しんでいるときは、今の私を助けたようにみんなを助けてやってくれ」と言って、桃に対して「大神実神」という名を授けた。田鋤(たすき)はこの神話にちなんだ地名で「助けて」が転じて田鋤(たすき)となったらしい ●別路 イザナミノミコトが月のさわりで別所(べっそ)に向かうとき、イザナギノミコトはここまで送ってきて、また会う日まで別れをおしんだ場所であると伝えられる。そのため別路(わかりょうじ)という地名が付けられたという。 月のさわりがあると云うことは、まだ妊娠していないことを意味し、出産の悲劇が起こるだいぶ前のことと思われる。 ●千引岩 火の神を生んだことがもとで亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国へやって来た伊邪那岐命は、焼けただれた姿になった伊邪那美命の姿に驚き、黄泉の国から逃げ出した。伊邪那美命は怒って八雷神、千五百の黄泉軍を差し向けて追撃した。その時飛び越したのが「飛び越し岩」、軍勢を追っ払ったのが「越原」として、今も地名に残っている。最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」と二人が問答したことから千引岩と名がついたという。 ●不寒原 比婆は雪が多く寒い地方であるため、伊邪那美命はその寒い冬の間、比較的暖かいこの地に宮を造り、避寒の地にしたので不寒原(ひえんばら)と言うと伝わっている。今ではなまって「へんばら」という。 別路・別所の伝承から判断して、此の地にイザナギも一緒に生活していたのであろう。 ●伊邪那美命の隠れ穴 立烏帽子の谷間にある岩穴で「火除け穴」とも言われています。伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきたが、夜になったので自分の櫛に火を灯し、明かりとして通った所と言われています。また、伊邪那美命がここを通りかかったときに、天から火の雨が降ってきたのでこの穴に入って難を逃れたとも言われています。さらに、火の神を生んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとの説も残っています ●金倉神社 小奴可にある。背後に三段山があり、頂上に古代の祭祀跡と思われる巨石が散在。イザナギが火具土を三段に斬ったという伝承に関係? ●稚子が池(三井野原) 難産の末イザナミ命が崩御せらる惨事となったとき、難産につきものの汚物を洗った池。今は小さな池であるが、太古は底なしの池であった。 稚児ヶ池神社の由来<神社説明板より> 「三井野の地名は御生、御井で比婆山神話に由来し、此処にある稚児ヶ池は古い伝説と信仰を持っている。出雲風土記に出雲と備後の界室原山と言うあり、神の御室などありしが、此の原上に古井あり、今は稚児ヶ池と言う。また、天孫族の長者イザナギ神・イザナミ神二神の本拠が比婆山連峰の高開原、幸(油木)の高天原にあり。女性におわすイザナミ神御妊娠の時幸の高天原より東方一里御井(三井野原)にある方一町位の泉のほとりに産屋を作りお籠りになり三貴神天照大神、月夜見神、須佐之男神がこの地に御誕生になり、この泉を御井と呼ばれていた。その後三井と改字され五尺四方、深さ三・四尺の池なるも近国迄名高く聞こえ、毎年近郷より雨上り、雨乞いに即立願して其の験また多く、如何なる旱魃にても水減ずることなく往古は一町四方の池にて伯耆大山や宍道湖とも底が通じていて、大蛇がこれらの池を通っていたと言い伝えられ、陰陽往還の要所に位置し、水量豊富で過去幾多の人馬ののどを潤したが、この周辺は軟弱を極め、水を飲むために近寄りぬかるみに足を取られ、溺死した者もあったため、今は埋められて一坪ほどの池と化しその上に横たえる材木の上に須佐之男命を祀る祠があり、稚児ヶ池神社と呼ばれ隣国より水の神様として信仰を集めている。」 ●ジャバミ山 三井野原の西の分水嶺付近にナギハタという地名がある。このナギハタにイザナミの一杯水という泉がある。そのそばの小高い山をジャバミ山という。イザナミ命が崩御せられたことを悲しんだ泣沢女命が稚児ヶ池で汚物を洗って産屋に帰る途中で毒蛇にあったからつけられたという。 ●枕返し 難産で病み伏していたイザナミ命に仕えていた泣沢女が、せめて滋養物を差し上げようと魚を取りに行ったところ。彼女が眠っている間に方向が変わっていたのでこの名前がついた。ここにはイザナミ命に差し上げる餅をついたという「臼岩」がある。 ●比婆山御陵周辺の岩 比婆山御陵周辺には烏帽子岩を始めとして巨石が転がっているが、その多くは人工的な切り込みが入っており、そのことごとくが比婆山御陵のほうを向いている。 また、神様が比婆山から投げたという礫岩が八か所に存在している。その岩は比婆山をぐるっと囲んでおり、比婆山御陵が信仰の中心となっている。 ●比婆山伝説地(御陵) 比婆山(1264m)の山頂は、古事記に云う伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遙拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名・鳥の尾の滝)がある。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境として伝承されている。 古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。此の御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。 その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面は一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。 この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような大きな音を発するので太鼓岩とも呼んでいる。そして、その周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって、全国に知られるようになった。<案内板より> ●長者原 皇居跡と言われているが、誰の皇居があったのかがはっきりしない。神武天皇と推定する。 稚児ヶ池に伝わる伝承の高天原はどこであろうか?地図上で稚児ヶ池より西一里程の場所で油木に所属する人の住める条件を満たしている場所と言えば六の原地区の県民の森周辺しかない。しかし、此の地には調べた限りにおいて高天原伝承はないようである。六の原地区は後の時代にたたら製鉄の拠点があった処で、その人たちが高天原伝承を作った可能性も否定できないが、ここは高開原という地名にぴったりの場所で立地条件からしてイザナギ・イザナミ二神が一時期此処に住んでいた可能性はある。また、西城町日南(ひな)も地名から判断してイザナミが住んでいた可能性がある。これらの伝承から判断すると、イザナミ命は日向原から三井野原を越えて広島県内に移動し、日南辺りに住んで鉄の採掘をしていたようである。出雲ではイザナギの伝承が伴っていないのであるが、広島県側ではイザナギ伝承も伴っている。おそらく、イザナギが紀州から訪問してきて日南(ひな)や高開原で生活していたのであろう。 イザナミの出雲行きの理由がなかなか思い当たらなかったのであるが、この伝承を分析することにより、スサノオ・イザナギ・イザナミが紀州を統一した後、イザナギは紀州に残り紀州を安定化させ、スサノオは宇佐に戻り倭国全体の統治をし、イザナミが鉄資源を探して先遣隊として出雲を訪れたものと考える。イザナギも紀州を安定化させた後に出雲に行く予定だったのであろう。イザナミが鉄資源を探して広島県側に移動したころ紀州を安定化させたイザナギがイザナミのもとにやってきたのであろう。鞆の浦から芦田川沿いにイザナミの滞在していた日南までやってきたと思われる。 イザナミはそこからさらに熊野川に沿って遡り、比婆連峰で鉄の採掘をしていた。夏は山に入り、冬は不寒原で生活していたようである。別路の伝承から判断すると此の地にはイザナギもいたようである。この後高開原に居を移し、六の原周辺での鉄の採掘を行った。イザナミ命が妊娠をし、出産を控えて、きれいな水のあるところとして三井野原の稚児ヶ池を選び、そのすぐそばに産屋を立てて籠った。その出産は難産で、その影響でイザナミ命はこの地で亡くなった。古事記にはイザナミの腐乱遺体の描写があり、もがりをしていたのであろう。此の描写があると云うことから、イザナミが亡くなった時、イザナギはこの周辺にいなかった可能性が考えられる。宇佐や紀州に赴いていたのかもしれない。イザナギ命はイザナミの遺骨とともに直前までともに住んでいた高開原に戻り、その後比婆山御陵に葬った。AD25年ごろのことであろう。 比婆山の語源は「ひいばば様の山」と言われている。ひいばば様と呼べるのは3世後の世代である。その人物は神武天皇であろう。神武天皇はこの地にやってきて、比婆山を遙拝している。比婆山は神武天皇が命名したと思われる。 また、比婆山の西隣に吾妻山があるが、これは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が比婆山に眠る妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を「ああ、吾が妻よ」と山頂に立って生前を偲んだことが山名の由来とされている。 宇佐にいたスサノオもイザナミの死はショックだったようで、これをきっかけとして出雲に帰還したのかもしれない。スサノオ自身も比婆山を訪れているようで、比婆山御陵周辺の石の1つ「力石」は、スサノオ命が比婆山から戯れに投げたと云われている。おそらく、スサノオが比婆山御陵を祭祀する目的で、八か所に巨岩を配置したものであろう。烏帽子岩の切り込みも此の時つけられたのではないだろうか。 広島県の比婆山を真実のイザナミ御陵とすると、このように数多くの伝承がつながるのである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯伎(はくき)の境にあると記されている。伯伎は今の伯耆国で島根県と鳥取県の県境であると一般的に云われているが、三次市十日市町の熊野神社の記録に「昔はこの周辺一帯を伯伎と呼んだ」とある。現在の三次市一帯は伯伎国と呼んでいたようである。 |
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■製鉄について
製鉄はいつごろからあったのだろうか。出雲での製鉄の可能性について考えてみよう。製鉄の神は島根県広瀬町殿之奥をはじめとして奥出雲地方によく祭られている金屋子神である。 イザナミの住んでいた殿之奥のすぐそばに金屋子神社がある。 この神社の祭神は金山彦、金山姫となっているがこれは後にそうなったようで、本来は金屋子神であるようだ。金屋子神は性別が不明であるが、女が嫌いであるなどの性格より女神であるらしい。金屋子神祭文ではこの神は高天原より播磨国に天降り、そこで鉄鍋を作ったが周囲に住めるところがなかったのでこの地に来て鉄造りを伝えたとある。 このとき、この神は「我は西方を主とする神である」と言っている。高天原(日向)から来たということと西方を主とすることから、九州方面の神であることが推定される。神話によるとイザナミの吐瀉物から生まれたのが金山彦・金山姫でその子が金屋子神である。 島根県に伝わる伝承によると、金屋子神は播磨→吉備中山→印賀(鳥取県日南町)→西比田の経路をたどっている。どう見ても東からの技術者といった感じである。金屋子神はイザナミ命の子孫ではあるまいか。紀伊国の産田神社の地で生まれた子の子孫とも考えられる。その金屋子神がイザナミが以前住んでいた殿之奥にやってきて本格的に製鉄を始めたものと考えられる。その時にイザナミ伝承、御墓山が作られたのであろう。 1 製鉄に必要な良質の砂鉄が多く取れること。 2 砂鉄を融かす木炭が取れること。 3 炉を作るための良質の粘土が取れること。 この3点が満たされている土地ということでこの地に金屋子神がやってきたと伝えられている。 イザナミが以前住んでいて未熟ながら製鉄を行っていたため、後の時代に金屋子神が訪れ本格的な製鉄を行う素地があったものと考える。 出雲にとってこの当時最も大切なものは、外国の先進技術であった。鉄は硬い上に銅よりも比重が小さいので武器に農具に工具に最適の金属である。 北九州での鉄器の出土が多いことから、北九州の豪族たちは鉄の加工技術を持っていたと思われる。スサノオは鉄の加工技術・製鉄技術はのどから手が出るほどほしかったに違いない。しかし、この豪族たちはこの時点でまだ倭国に加入していないのである。スサノオは朝鮮半島からさまざまな技術を取り入れたのであるが、 製鉄技術に関してはまだ不十分なものがあったのではないだろうか。スサノオは鉄の製鉄・加工技術の必要性を北九州統一のときに北九州の豪族たちにいやと言うほど思い知らされた。スサノオは朝鮮半島から製鉄技術を学び、それをイザナミに伝えた。紀伊国統一のあと宇佐でスサノオが倭国を統治している時、イザナミが各地を回り、製鉄ができる場所を探していたのではあるまいか。その結果、スサノオの生誕地である出雲こそ最適の製鉄のできる場所であることとの報告を受け、スサノオはムカツヒメの元、宇佐から出雲に帰ったものと考えられる。 中国山地の山奥であること、後の世にこの地方はたたら製鉄の盛んな地になっていること、金屋子神社から考えて、イザナミが出雲に持ち込んだ技術はこの製鉄技術ではないかと考えられる。この頃まだ出雲で製鉄が行われたという事実は確認されていないが、奈良時代以降出雲は全国一の鉄の生産地となっている。その走りのようなものがあったかもしれない。 この時期の製鉄の可能性について吟味してみよう。 弥生時代の鉄の加工は発掘事例から判断して弥生時代中期と考えられる。しかし、しっかりとした鍛冶遺跡は見つかっていない。鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されている。その原料は朝鮮半島からの輸入で、この頃製鉄はなかったというのが定説である。しかし、次のような状況により、製鉄があった可能性も指摘されている。 1 弥生時代中期以降石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。 2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。 3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。 4 弥生時代後期には大型銅鐸を鋳造する優れた冶金技術をもっていた。 5 広島県三原市の小丸遺跡は3世紀の製鉄遺跡ではないか思われる。 6 国内から出土する鉄器の分析により国内で生産されたものである可能性が高い。 弥生時代の鉄器の普及と、その供給源の間の時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたと考えられたのである。 しかし、成分分析によると国内の鉄原料を使っている可能性が高いことが分かった。弥生時代に製鉄があった可能性は十分高い。実際中期末に当たるこの頃、出雲地方に農具としての鉄器の出土が始まる。この頃より、出雲で鉄器が使われるようになったのは間違いのない事実である。 |
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■御墓山の伝承
御墓山は梶奥と日南町大菅との界にあり、標高769m。この山は、古事記に「神去りましし、イザナミノカミは出雲の国と伯耆の国の界なる比婆山に葬る」 といわれている地点で、山頂には、イザナミノミコトの御陵があると伝えられており、頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいます。 また、西比田地内に現存する地名で、神楽松山、殿之奥、追神、待神、行水谷、桃の木谷は、みなイザナミノミコトゆかりの地名として古事記にも見られるところであります。 大正年間に神道イザナミノミコト流伝御陵地として内務省より指定を受け、昭和6年7月29日には、神代史蹟鳥上峯周囲神域四郡神職会により、御墓山宣揚祭が行われ、当日は、神職80名の他、一般参拝者千数百名の参加があり、盛大な祭典が行われました。以来、協会主催にて年々盛大な祭典が挙行されましたが、いつ頃からか途絶えています。 |
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■第二項 倭国の分割統治
■安心院での都作り 倭国があまりに巨大化したために、全体を統治するのが難しくなり、まずは倭国の都づくりをすることを考えた。倭国の統治領域の中心付近で海上交通の要となる場所として選んだのが宇佐の地である。現在の宇佐神宮がある地は、この当時丘陵地に囲まれた海岸であり、港湾としては最適の場所であったが、土地が狭いので都としては不向きであった。スサノオが都として考えたのが其の奥地である安心院の地である。ここは駅館川の上流にあり、盆地である。川を遡ることで、容易にこの盆地にたどり着くことができた。 佐田京石・・・安心院盆地の北はずれに米神山があり、其の周辺に佐田京石という、巨石による祭祀遺跡がある。伝承では「昔、神々がこの地に都を作ろうとし、米神山から100本の石を麓に飛ばそうとしたが、99本目にみだりに騒ぐ者がいたため、そこで作業は中断され、都が建設されることはなかったという。麓に残る京石はその名残である。」と言われている。京石周辺から弥生式土器が出土しているので、弥生時代のものであると云われている。 三女神社・・・スサノオとムカツヒメの誓約によって誕生したと云われている。このことは、スサノオ・ムカツヒメの新婚生活をしていた地はこの安心院であることを意味している。 妻垣神社・・・比売大神を主祭神とする神社でこの神は玉依姫と言われているが、別伝では三女神であるとも言われている。宇佐神宮でも中心的に祀られており、正体がはっきりしない神である。ムカツヒメではないかと想像している。 これらの伝承を総合して考えると、スサノオはこの安心院盆地に巨大化した倭国の都を作ろうとしていたのではあるまいか。都を作ろうとしていたが何かの出来事によって都づくりが取りやめになったものと考える。AD18年頃からAD25年頃までの間スサノオとムカツヒメはここを都として倭国統治をしていたと考えることができる。この間にAD20年頃三女神が三女神社の地で誕生し、25年までの間に天忍穂耳命と天穂日命がこの地で誕生したと思われる。 ■スサノオの子供たち スサノオの出雲での子供たちに倭国内の分割した地域の統治をさせようと考えていた。各人物の統治地域を次のように推定した。 八島野命・・・スサノオの長男である。出雲から外に出た形跡がなく、出雲本国の統治をしていたと思われる。 五十猛命・・・スサノオの二男である。スサノオと共に朝鮮半島に渡り、大陸の新技術を学んで帰ってきた。帰国後は佐賀・長崎など北九州西部地方の統一に尽力し、スサノオと共に紀伊半島部を統一し統一後は和歌山市近辺で紀伊半島を統治していた。紀伊国の国譲り(AD40年頃)後、出雲に戻った。 大歳命・・・スサノオの三男である。のちに饒速日(ニギハヤヒ)命と改名し、スサノオと共に北九州・南九州地方の統一に尽力後、スサノオの紀伊半島統一後、AD18年頃、四国の琴平の地を拠点として瀬戸内海一帯の海上交通のすべてを任されたようである。AD30年頃より、近畿地方に侵入し東日本地域を統一し日本(ヒノモト)国を建国した。 岩坂彦・・・スサノオの四男である。島根県八束郡鹿島町南の恵曇神社に祭られており、「祭神は須佐之男命の御子神。この地に到られし時、吾宮は此処に造らんと宣うた。」と記録されており、これ以外の伝承は調べた範囲では見つからず、早世したのではないかと推定している。 倉稲魂・・・スサノオの五男である。宇迦之御魂神・稲荷神ともいう。稲荷神は、もともと京都地方の豪族秦氏一族が、その氏神の農耕神として祀っていたものだ。古代には各地の有力豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神を祀っていた。稲荷神もはじめはそういう神だったのである。平安時代初頭に仏教の真言密教と結びついたことにより稲荷信仰が始まったと云われている。この神については不明な点が多い。 この子供たちの統治領域として判明したのは、大歳命(瀬戸内海沿岸地方)、五十猛命(紀伊半島部)、八島野命(山陰地方)である。不明なのが、北九州地方、南九州地方、南四国地方である。この地方の共通点は銅鉾祭祀の強い領域である点である。これは、出雲系ではないことから出雲におけるスサノオの子が統治したのではないと云うことであろう。 |
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■北九州地方の統治
出雲におけるスサノオの子が九州地方を統治したのではないとすれば、北九州を統治したのは誰であろうか、ムカツヒメの子が統治するには AD20年頃はまだ生まれていない。そこで後の時代の活躍人物から考えることにする。神話に於いてはムカツヒメ(天照大神)は後半に於いて常にタカミムスビ(高皇産霊神)とともに登場し、天照大神より上の地位にいる様にも見受けられる。神社伝承を調べてもタカミムスビに関しては、誰かの子(子孫)と云う人物は存在せず、全く別系統の豪族と考えられる。ムカツヒメの長子である天忍穂耳命はタカミムスビの養子となり、後の時代北九州東半分を統治している。このことから北九州東半分を統治していたのはこのタカミムスビではないかと考えられる。 タカミムスビの本拠地はどこなのであろうか?タカミムスビは神社伝承に於いてもただ祀られているだけで、具体的な行動伝承を伴うものがないので、その本拠地についてもなかなか推定できない。ところが、タカミムスビは高木神として、圧倒的に北九州地方でよく祭られている。その本拠地は北九州のどこかにあったと考えてよいであろう。よく調べてみると、神武天皇が東遷中、1か所だけタカミムスビを祀った場所がある。馬見山北麓の小野谷である。神武天皇は東遷中其の地にゆかりの人物をよく祭っている。さらに神武天皇の行程を調べてみると、小野谷の地は巡回コースから大きく外れているのに、わざわざこの地を往復している。神武天皇は鹿毛馬の地にいる時、馬が逃げたので、小野谷までやってきたことになっているが、その距離は直線で20kmもあり不自然である。また、別伝では馬に乗って移動したとあり、その後、鹿毛馬まで戻っている。伝承をつなぐと、神武天皇はこの小野谷の地に来るのが目的だったように見受けられる。其の地でタカミムスビを祀っているわけであるから、この小野谷の地とタカミムスビは相当深い因縁があると思われる。この地こそがタカミムスビの出身地ではなかろうか。 スサノオと血縁関係のないタカミムスビが北九州東半分を統治するようになった過程を推定してみよう。スサノオが北九州統一事業をしている頃、タカミムスビは馬見山北麓を統治する一豪族であったと思われる。かなりの知恵者であったようで、神話上でも知恵者として登場している。おそらく、スサノオの倭国統一事業にかなりの知恵を貸したのであろう。スサノオ自身もタカミムスビを頼りにしたのであろう。この後の統一事業はそのほとんどがタカミムスビの知恵に従ったものかもしれない。南九州を統一した時、イザナギ・イザナミの全面的協力が得られたのもタカミムスビの知恵が原因ではないであろうか。 このようにタカミムスビの存在が倭国の統一に欠かせないものとなった。北九州東半分は倭国の都に設定している宇佐を含む地で、スサノオの留守番として、軍師として、タカミムスビに北九州の東半分を統治させたのではないだろうか?しかし、スサノオとの血縁関係がないと云うのはやはり大きな問題となっており、これが、忍穂耳命がタカミムスビの養子になる要因となったのではないだろうか? 北九州西半分は誰が統治していたのであろうか。この地は倭国に加盟していない伊都国(糸島地方)や、南方の球磨国を抱えた上に、北九州の海上交通の要になる場所であり、倭国にとっては最重要個所となる。半端な指導者では治まらないであろう。この地方で集中的に祀られているのがサルタヒコである。サルタヒコ関連の神社は福岡市の那珂川流域に特に集中している。この地域は青銅器生産センターがあったようで、青銅器の集中出土している地域である。後の時代にニニギ命がこの地方にやってきた時、この地方の案内をしているようで、サルタヒコがこの地方の統治者だったようである。サルタヒコは出雲にいた頃の大歳命とキサカイヒメとの間にAD1年頃生まれている。この頃(AD20年頃)は20歳程だったと思われ、スサノオが出雲での実績を考慮して統治者に抜擢したものであろう。 南九州地方は、鹿児島神宮の地が拠点で出雲系の人物と思われるが、この時期誰が統治者だったのかは不明である。南四国地方も不明である。 ■サルタヒコの九州上陸 福岡市に住吉神社がある。この神社は神代から存在している非常に古い神社である。イザナミ亡き後、イザナギ命が禊祓いをした地で、最初に生まれた神が住吉神なので、住吉神社と呼ばれている。イザナミが出雲で亡くなったのがAD25年頃なので、その直後辺りイザナギがやってきたと考えられる。この地は古代において那珂川の河口であり、其の近くの丘陵地に当たる。海上交通の中継地になるべき地である。イザナギ命の九州への上陸地と考えられる。又この周辺は現在の福岡市であるとともに古代においては魏志倭人伝における奴国に該当している。この当時も人口集中地帯であり、スサノオの倭国にはまだ加盟していなかったと思われる。スサノオにとっても北九州で倭国に未加盟であった奴国と伊都国を加盟させるのは最重要事項だったはずである。この奴国を倭国に加盟させるために派遣されたのがイザナギであろう。イザナギ一人で人を産むことができるはずがなくイザナギが住吉神を連れて上陸したと考えられる。 住吉神とは誰であろうか?住吉神とは海の神として知られており、神功皇后が三韓征伐の時に祀ったのが始まりとされている。三大住吉が大阪府の住吉大社、下関の長門一宮住吉神社、福岡市の筑前国一宮の住吉神社である。この中でも福岡市の住吉神社が始原であるとされている。周辺神社にサルタヒコが集中して祀られていることから住吉神=サルタヒコと推定している。サルタヒコは出雲で大歳命とキサカイヒメとの間にAD1年頃生まれている。北九州に上陸したと思われるときは25歳ごろであったと推定する。イザナミが出雲に来た時最初に住んでいたのが佐太大社の地で、この地はサルタヒコの住居地だったようで、サルタヒコが宮前で会議を開いていたと伝えられている。サルタヒコは出雲で人々にかなり慕われていたと思われる。スサノオは其の人望を活用して北九州主要部の統一事業にサルタヒコを抜擢したものであろう。 福岡市近辺はイザナミを伴わずイザナギを祀っている神社が多い。若杉の太祖神社は神代からイザナギ命が祀られており、 鷲尾愛宕神社はイザナギ命・天忍穂耳命が景行天皇の時代に祀られ、後でイザナミが祀られた。また、直方市の多賀神社では「伊邪那岐尊、国土万物を生成し給ひ天に復命申し給ふと参登り座す時に寄来給ひぬる」とある。これは、イザナギ命がイザナミ命を伴わず北九州一帯を統一し最後の場所(淡路島)へ移動するまで、ここに滞在したことを意味している。イザナミ命を失った後のイザナギが奴国周辺の未統一地域を倭国に加盟させたと思われる。イザナギは暫らくして淡路島に移動したと思われ、その跡を引き継いだのがサルタヒコであろう。サルタヒコは五十猛命が紀伊半島に旅立った後の佐賀・長崎一帯及び北九州西半分を一手に引き受けて統治することになった。サルタヒコは大山咋命とも呼ばれて日吉神としても祀られている。この頃最盛期だったと思われる吉野ヶ里も氏神は日吉神である。 |
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■大己貴命の登場
大己貴命はBC5年頃、出雲王家の天冬衣神の子として杵築周辺で誕生している。大己貴命には多くの兄がいて、末子であった。出雲王家はBC108年漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、其の難を逃れてきた人々の末裔と思われる。スサノオが幼少のころ父であるフツは出雲王家のオミズヌの世話になった。スサノオとオミズヌの子であるフユギヌとは友人関係にあったようで、色々な事に協力し合っていた。スサノオが八岐大蛇を退治する時も協力していた。スサノオが出雲国を建国した時、いち早く出雲国に加盟している。其のフユギヌの子が大己貴命である。出雲王家の後継者であると同時に大変な知恵者であり、大己貴命は朝鮮半島からやってきたと思われるスクナビコナと協力して周辺地域の農業改革や病人へのアドバイスなどを行っており、出雲では其の知恵を頼りにされていた。 ■島根県下の大国主伝承地 ●多根神社 掛合町 大己貴命と少彦名命が、諸国を巡業した時、所持していた稲種をこの地の人々に与えた処から始め「種」と云ったが、「多根」に改められた。 ●加多神社 大東町 農耕拓殖の旧蹟地 ●虫野神社 松江市福原 大己貴命が久しく留まり田畑を害する害虫を除いた功績を尊んで祀った ●佐比売山神社 掛合町 大国主命が国土経営の時に佐比売山の麓に池を穿ち、田畑を開き農事を起こし民に鋤鍬の道を授けられた。 大国主命関連伝承地はこのように農業関連が多い。研究者肌の知恵者と云った感じである。大国主命の功績は諸国に農業技術を広めたと云ったところであろう。AD10年頃より20年頃にかけての伝承と思われる。 スサノオが九州統一をしていたAD10年頃には因幡国の方にも訪れ困っている人々(因幡の白兎)を助けたり生産力向上に努めたりしていたようである。彼も国家統一事業に協力していたのである。この時、鳥取市河原町曳田の賣沼神社の地に住んでいた八上比賣を娶った。八上比賣は近郷では有名な美女で、兄神が求婚したが、彼女は付き添ってきていた大己貴命の方を選んだ。大己貴命はしばらくこの地に住んでいて、二人の間に御井神が誕生した。因幡国を倭国に加盟させるのに成功した。(AD15年頃であろう) 賣沼神社関連伝承地 ●倭文 大国主命が恋文を書いた場所 ●袋河原 大国主命が、担いでいた袋を捨てた場所 ●円通寺 二神が結婚した場所 八上姫神社伝承・・・神代の昔、大国主命(オオクニヌシノミコト)と恋に落ちた因幡の国(鳥取県)の八上姫(ヤガミヒメ)は、大国主命を慕ってはるばる出雲の国へと旅に出たという。厳しい旅の途中、南の山の谷あいに湯(斐川町湯の川温泉)が湧き出ているのを見つけけた八上姫は、旅の疲れをその温泉で癒し、いっそう美しい美人神になったと伝えられる。 因幡国も落ち着いてきたので、大己貴命は次の任務のため出雲国に戻ることになった。出雲に戻った大己貴命は困った人々を知恵で助けていた。この姿を見て、スサノオの末子スセリ姫は大己貴命が好きになって、大己貴命に激しく求婚した。スセリ姫は激しい性格のようで思ったことは一途に行動したようである。末子であるスセリ姫と結婚する相手は第二代倭国王となるので、父のスサノオはその人物が気になり、安心院から戻ってきて大己貴命に色々と難題を吹っ掛けたが大己貴命はスセリ姫の助けを借りてそれを乗り切った。スサノオはスセリ姫の婿を大己貴命とすることを認め大己貴命に大国主命と名付けた。大国主命はスセリ姫と結婚することとなった。(AD20年頃) 一人になった八上姫は暫らく後、大国主命を追って出雲にやってきて、湯の川温泉の地に住んだが、スセリ姫の嫉妬の念が強く、八上姫はいたたまれなくなり、因幡国に帰ってしまった。 オオクニヌシは神話の中でもスサノオの娘であるスセリ姫の夫として、いきなり出現する。古事記ではアメノフユギヌの子となっている。天冬衣神はスサノオの八岐大蛇退治のとき共に協力した人物である。スサノオよりもむしろ年上ではないかと思われる。吉田大洋氏著「謎の出雲帝国」においては、オオクニヌシはクナト大神の子として扱われ、クナト大神は出雲国の創始者となっている。スサノオはよそ者あつかいである。 この違いは何が原因なのだろうか?次のように仮説を立ててみた。 スサノオがヤマタノオロチを退治する頃の出雲は、小国家がいくつか存在している状態であった。そのなかの有力豪族がヤマタノオロチで、クナト大神もその豪族の一人ではなかったのだろうか。クナト大神は現在の出雲大社あたりを支配していた小国家の国王でヤマタノオロチと対立関係にあった。そのため、スサノオはヤマタノオロチを退治するにあたって、クナト大神に相談し、大神から協力を得たのではないかと考える。 スサノオが出雲国王になって出雲国内を巡回するとき、クナト大神がその道案内をしてクナト大神は道案内の神として全国に祭られるようになった。このクナト大神=アメノフユギヌと考えれば、古事記と「謎の出雲帝国」がつながるのである。 そうすれば、よそ者のスサノオに対してオオクニヌシは正統な出雲の大神となり、後世オオクニヌシが出雲でスサノオ以上に祀られる要因になったと考えることができる。 オオクニヌシは、スサノオの末子であるスセリヒメと仲良くなり、結婚しようとした。彼はスサノオと性格が余りにも異なり、おとなしくて、研究者肌だったようである。スサノオはこれを嫌い、スセリヒメと結婚させるための条件として、いろいろと難題を吹きかけたようである。その中のひとつに越の八口平定があったようである。中国・四国・九州と統一した後は東方の統一である。素盞嗚尊は大国主に巨大化した倭国を統治する能力があるかどうかを確認するために大国主に越(北陸地方)の八口平定を命じた。AD20年頃のことであろう。 大国主の働きにより、出雲と越との交流が盛んになった。スサノオはオオクニヌシが学者肌で各種技術指導に優れているのを利用し倭国内の各地の巡回、技術指導を課した。そのために、オオクニヌシが開発をしたという伝承地が各地に誕生することとなった。これらの成果によりスサノオからの信頼も厚くなった。スサノオはスセリヒメとの結婚を許可した。 スセリヒメはオオクニヌシと結婚することになり、スサノオは、第二代倭国王の位を娘婿のオオクニヌシに譲った。 その後まもなく、スサノオは世を去った。AD30年ごろではあるまいか。スサノオは亡くなった地の近くの平田市の鰐渕寺周辺に葬られた。しかし、後に出雲国譲りの時八雲村の天宮山(熊野山)山頂付近の磐座が祭祀対象になった。ここは、出雲国の最初の宮跡の須我神社の近くであり、この周辺で最も高く出雲国全体に見晴らしが聞く場所である。祭祀対象としては最高の地であろう。 |
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■オオクニヌシの越八口平定伝承
北陸地方の大国主命関連伝承 ●布宇神社 八束郡玉湯町の宍道湖畔 天下造り坐し大名持命越の国に向かわんとしての途次、この郷の樹木の繁茂しているのを見そなわして、わが心の『波夜志なり』と詔い、この地の名称となった。」 ●気多大社 石川県羽咋市 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」 『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒」 「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」 ・神社名鑑による気多大社御由緒 御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」 ●久延比古神社 石川県鹿島町久江 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。 ●能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す ●能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。 ●能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。 社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。 その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。 ●鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。 ●宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと ●御門主比古神社 七尾市観音崎 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという ●高瀬神社 富山県南砺波市 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う ●牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 昔、大国主命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大国主命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大国主命を敬った ●気多神社 富山県高岡市伏木 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大国主命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。 ●居多神社 新潟県上越市 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという |
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■奴奈川姫関連伝承
●居多ヶ浜 上越市 大国主命が上陸した所 ●身能輪山 大国主命の宮殿があり、そこから奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした日は身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたという。この仕事が軌道に乗ると后の姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。 ●岩殿山 岩殿山の岩屋で建御名方命が誕生した。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしたという。明浄院という寺の境内に岩屋がある。岩屋は胎内岩と呼ばれ、一帯は子産殿(こうみど)といわれている。 ■奴奈川姫との結婚伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より) 結婚に先立ち奴奈河姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大国主は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び浮き名が立ってしまつた。そこで名立という地名ができた。ところで結婚はすんなりいつたわけではない。地元豪族がこれに反対した。能生の夜星武は日本海の海賊だつたが、結婚に反対したので大国主は后の一人(因幡姫)を彼の嫁にくれたところ鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。 また、後に大国主が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので鬼伏せという地名ができた。美姫奴奈河姫に想いを寄せていた根知の根知彦は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入した。周囲の酋長が仲裁に入り山の上からの飛び比べに勝った方が奴奈河姫を娶ることとなった。場所は奴奈河の里の奥山駒ヶ岳でおこなわれた。青光する神馬に乗ってとんだ根知彦は別所まで飛び岩にひずめの後を残した。続いて牛に乗った大国主が飛んだ所根知彦のひずめの後より少し先へ飛んだので大国主の勝ちということになったが根知彦はもう一度勝負を提案し二回戦が行われた。根知彦が再び飛んだ瞬間当たりが暗くなり「オー」という天の神の声とともに稲光が走り根知彦の神馬にあたった。神馬は石と化し山の中腹に落ちた。その神馬は駒ヶ岳の山腹に飛んだ姿のまま今ものこっている。大国主の勝ちは決定し姫と結婚することになつた。そこで飛び比べのあつた山を駒ヶ岳と呼ぶようになったとか。 ■奴奈川姫のその後の伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より) 不吉な知らせ 大国主命と奴奈川姫命の間に我が社の御祭神建御名方命がお生まれになり、豊かな暮らしがつづいていたがそこへ、大国主の父が亡くなったという知らせが長男八重事代主命より届いた。命は心配する高志の酋長たちにこの国は息子建御名方命に任せるので後見を頼み、出雲へ帰ることになった。帰るに当たり命は姫に一緒に出雲へ行くよう説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。出雲にはイナダ姫、須世理姫など美しい多くの后がおり、イナダ姫は中でも嫉妬深い后であったからであり、また姫には大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かった。承知しない姫に困った大国主は家来に命じ、姫の夜眠っている間に船に乗せ七尾港に運ばせた。翌朝目を覚ました姫は船の中にいることに驚き、事態を覚った姫は何とか脱出しようとチャンスをねらった。 姫の逃走 七尾港で一週間ほどたった暗い夜幼少のころから仕えていた人たちが小舟で助けに来た(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)。脱出した姫はまず故郷の福来口の洞窟に逃げたが、姫を連れ戻すよう命令された大国主の追っ手が早くもやってきた。姫は姫川の対岸へ逃げようとした。しかし姫は対岸に渡ろうとせず川上の今井に逃げた。そこでこの川を姫めが渡るのを厭がったので厭川と名が付きその後糸魚川となったとか。今井は姫を育ててくれた乳母の里で一行は西姥が懐で休息し、東姥懐でも休息。福来口と今井との間には子供のころ遊んだ船庭の池もあって昔を懐かしむ間もなく追ってに追われ姫川に沿って根知谷に逃げた。伝承に残るところをつなぐと、別所、大久保を経て、小谷村後悔が原に潜む。そこへ息子が来て出雲に行くよう勧めたが断った。息子は仕方なく身輪山の宮殿に戻った。姫は自分攻めた、そこで後悔が原という地名ができたとか。その後姫が淵(姫が淵は白馬にもあるようである)までやってきて姫は淵に身を投げたがお供のものに救われた。 夜星武、姫を助ける そこで姫は再び息子のいる宮殿の方に行こうと根知谷の方に戻り御前山から山伝いに逃げ平牛山にきたここで姫は食器などを追っ手に気づかれないよう埋めて隠した。ここに飯塚の森という塚がある。追っ手が来たので稚児が池に逃げそこに飛び込んだがまたお供の者に助けられ、池の周りの茅の中に身を隠した。追手は茅原を囲んで探したが見つからない。そこで茅に火をつけ出てくる所を捕らえることとした。しかし焼き払っても姫は出てこなかった。姿も見えない。死んだものとしてジンゾウ屋敷を作り裏山に剣を埋め姫の霊を祀った。しかし、姫は死んでいなかった。能生の海賊夜星武(よぼしたける)が茅の原に穴を掘って助けたのである。姫は島道の滝の下まで逃げてきた。ここは姫誕生の地と言われ胎内岩屋がある。産湯に遣ったという岩井口清水がある。姫はここでしばらく逗留した。 吉が浦の宮殿で天寿を全う 追手がこないので安心した姫は大沢山の山頂に護身の矛をもう使わないと言って共の者に奉納させた。それからこの山を矛が岳と呼ぶようになったとか。 また、追ってが来たという知らせで姫は矛が岳に逃げようと決心。権現岳からその山を目指した。権現岳の下で水を飲むため杖で岩盤をつくと清水がわいたここを横清水と呼んでいる。岩盤を登りはじめたが滑るのでくつを脱いだ。ここをわらじのぎというそうだ。追手がこないと知り、ませ口の源泉のところに下り、眺めのよいここに逗留すこととした。ここは宮地と呼ばれた。ここに息子健御名方命がやってきた。宮殿に帰ることを勧めたが承知しないので吉が浦に宮殿を建ててあげた。姫はここで天寿を全うした。この宮殿跡が姫の墓と言われている。その後、源義朝の家来が沖から神像を引き上げその墓の上に姥が嶽姫として姫を祀た。現在姥が嶽神社となっている。 これらの伝承をもとにオオクニヌシの越平定の経路を推察すると、 AD20年ごろ、出雲国斐伊川河口付近を出港→八束郡玉湯町→鳥取県気多岬→越の北島(羽咋)→能登金剛→鳳至珠洲→七尾市観音崎(御門主比古神社)→七尾市小丸山→高岡市伏木→居多神社(奴奈川姫との結婚)→高瀬神社→七尾市所口(能登生國玉比古神社)→邑知潟(久延比古神社)→口能登(羽咋・気多大社)→出雲帰還 期間は5年程といったところであろうか。オオクニヌシの越訪問の目的は賊徒平定というよりは、高度な技術を示して越の国を倭国連合に加盟させることであろう。越地方はこの頃まだクニと呼ばれるほどのものはなく、比較的簡単に国としてまとめあげることができたと思われる。しかし、考古学的には出雲の影響はほとんど見られず、むしろ畿内とのつながりが深くなっている。おそらく、オオクニヌシが越をまとめてすぐにニギハヤヒのまとめた日本国との交流が盛んになったためであろう。出雲としては出雲国譲り事件が起こったために越との交流は以後断たれてしまったと思われる。その時期はAD30から40年頃と推定する。 出雲に帰還した理由が大国主の父が亡くなったからと言われているが、大国主の父とは誰であろうか?実父は天冬衣命で、義父はスサノオ命である。スサノオが亡くなったのはAD30年頃で、スサノオの死が元で帰還したのであれば、大国主命は10年ほど越国にいたことになる。そう考えても大きな矛盾はないが、この後の倭国巡回を考えると出雲に帰還した時、スサノオは健在だった方が自然である。また、スサノオの死であれば伝承に於いてスサノオという名が出てきてもおかしくないと考える。よって、この大国主の父とは天冬衣命と判断する。また、その知らせを長男事代主命が知らせたとあるが、大国主命の長男は木俣神であり、事代主命はニギハヤヒの子である。また、この時事代主命はまだ生まれていない(40年頃誕生)とおもわれる。父の死を知らせたのは木俣神であろう。この伝承により、タケミナカタ命は出雲には行かなかったことになる。タケミナカタはこれ以降越国の王として活躍することになる。大国主命が父の死の知らせを受けた時、おそらく高岡市の気多神社の地に滞在していたものと判断する。スサノオは大国主が此の任を無事果たしたことにより、第二代倭国王の継承を承諾した。(AD25年頃) |
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■三屋神社拝殿
倭国王の位を継いだオオクニヌシは、三刀屋町の三屋神社の地に政庁を造り、そこで政務を司ったようである。三屋神社には「大己貴尊の惣廟である。」と記録されており、また、一の宮と呼ばれていることから、そのように判断するのである。オオクニヌシはその知恵を生かして、国を治めたようである。ここは斐伊川沿いの盆地であることから、オオクニヌシは農業開発などが目的でこの地を選んだものと考えられる。以後、この地が出雲国の中心地となる。 スサノオも齢60程となり、あと何年も生きられないことに気付いた。巨大になった倭国を統治する第二代倭国王は大国主命に決定したが、彼が、しっかりと倭国を統治しないと折角まとまった倭国は崩壊することが予想された。大国主命は倭国内の人々にあまり知られていないので、第二代倭国王として全国巡回を命じた。 大国主は倭国王を継いだ後、出雲にじっとしていることはほとんどなかったようである。紀伊国、四国、九州と飛び回ったようである。 |
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■少彦名命の登場
スサノオは紀元10年ごろ九州を統一し25年ごろまで宇佐の地でムカツヒメと結婚生活を送っている。この間に多くの皇子が誕生した。 25年ごろ出雲に帰還し、30年ごろまで島根県佐田町の須佐神社の地で隠棲していたと思われる。この頃末子(相続者)のスセリヒメにオオクニヌシという恋人ができた。オオクニヌシは、出雲王朝の系統で古来からの出雲の統治者である。スサノオとしても娘が大国主と結婚すれば、出雲国の安定統治には欠かせないものとなる。しかし、スサノオと正反対の性格で、学者肌であり、研究者に向いており、政治家としては不十分なものがあった。スサノオはオオクニヌシに倭国を任せるのに不安を感じ、オオクニヌシに、先ず、伯耆国・因幡国の統一を命じ、次に越の八口(能登半島)地方の統一を命じた。オオクニヌシはスセリヒメと協力することによってその試練を乗り切り、 スサノオは安心してスセリヒメがオオクニヌシと結婚することを認めた。25年ごろと思われる。 スセリ姫と結婚後、正式に第二代倭国王に就任した。就任後しばらくは三刀屋町の三屋神社の地を中心地と定め、その周辺の開発に従事した。その間にタケミナカタが生まれている。その後瀬戸内沿岸地方、紀伊半島地方の農業開発に従事した。その後宇佐に行き、三女神を伴って北九州地方の農業開発に尽力した。 大国主・少彦名命の行動を伝える伝承を追うことにより、具体化してみよう。 ●日本書紀 大国主神がはじめ出雲の「御大之御前」(美保崎か?)にいた時、小さなガガイモの実の舟に乗ってミソサザイの皮の服を着た小さな神様(少彦名命)がやってくるのを見ました。 ●筌戸 兵庫県佐用町 大神が出雲からやって来たとき、嶋の村の岡を呉床(腰掛け)にして筌(魚をとる道具)をここを流れている川にしかけたのでこの地を筌戸と呼ぶこととなった。しかし魚は取れなかったので大神は結局この土地を去ることになった ●伊和神社 兵庫県宍粟郡須行名 伊和大神(大国主命)がこの地にやって来たときに、鹿に遇われたことが由来になっている。「鹿に遇われた」が「ししあわ」。それがなまって「しさわ」と呼ぶようになったということである。 ●鍬山神社 京都府亀山市 この周辺は昔泥湖であった。大己貴命が鍬を挙げて干拓事業を行い耕地にした。 ●湯泉神社 有馬温泉 温泉開拓の神 ●伊太祁曽神社 和歌山市伊太祈曽 大穴牟遅神(大國主之神)が八十神からの迫害を避けるべく木の国の大屋毘古の神の御所(当地)に来た ●国主神社 和歌山県有田市 周辺に大国主命を祀る神社が多い。伊太祁曽に滞在中の大国主命が国土開発したものと思われる。 ●粟島神社 米子市彦名町 少彦名命は出雲地方をおさめた大国主命を助けて国づくりをし、後粟の穂にはじかれ常世の国に行かれたので、粟島と名付けられたという。 ●中山神社 西伯郡中山町 大国主命が因幡国へ遊行の時に立ち寄る。 ●白兎神社 鳥取市 因幡の白兎伝承地。大国主命通過地。 ●鷺神社 岡山県美作市 白鷺が薬湯を教えたので鷺温泉と云う。祭神が大穴牟遅神・少彦名神なので、白鷺とは此の二神と思われる。 ●日桃竢゚乳穴神社 岡山県新見市 大国主命が国土経営の折この地に足を留められ、地方の長者は命から当地を譲られた。 ●生石神社 兵庫県高砂市 神代の昔大穴牟遅(おおなむち)・少毘古那(すくなひこな)の二神は天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多数神々を集め、この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明されたのである。以来此の宮殿を石乃寶伝、鎮(しず)の石室(いわや)と称して居る所以である。 ●加麻良神社 観音寺市流岡町 大己貴神と少彦名神の2神による四国経営の御霊跡 大水上神社 香川県三豊市高瀬町 その昔、大水上神社に少彦名神が来て、夜毎泣き叫ぶので、 大水上神は桝に乗せて財田川に流したところ、当地に流れ着いたといわれている。 ●豫中神社 今治市玉川町 大己貴命、少毘古那命の御垂跡 ●天満神社 今治市玉川町 大己貴・少名彦2神が巡狩の古跡で天津宮と名づけられた場所 ●天一神社 今治市菊間町 少彦名命と、大国主命がこの地を通った ●荒神社 松山市風早 上古の世に、大己貴命が、越智郡から山路をたどって当地に来て、北条才之原に留まり神垣を立て、スサノオ神を祭った地。 ●道後温泉 愛媛県松山市 神代の昔、大国主命が病に倒れた少彦名命を温泉の湯につけたところ、たちまち病気が治ったと伝えられている。 むかし少彦名(すくなひこな)命が死にさうになったとき、大国主(おほくにぬし)命がトンネルを掘って九州の別府温泉の湯を引き、その湯に少彦名命を入れた。すると少彦名命は、「暫し寝(い)ねつるかも」と言って起き上がり、元気になったといふ。この湯は、熟田津石湯(にぎたづのいはゆ)と呼ばれ、景行天皇以来、たびたびの天皇の行幸があった。今の松山市の道後温泉のことである。(風土記逸文) ●少彦名神社 愛媛県大洲市 肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの神社である 。昔、道後温泉をあとにした少彦名命が大洲にやってきて、肱川を渡ろうとしていた。洗濯をしていた老婆にどこが浅いかと尋ねると「そこらが深いですよ」と答えた。「そこが浅い」と少彦名は聞き違えて深みに入ってしまい、溺れて死んでしまった。 [少彦名に纏わる地名] さいさぎ:少彦名を救出しようと村人が「さぁ急げ」と叫んで走ったので、これが転訛して「さいさぎ」になったという。 / 宮が瀬:少彦名が溺れたところ。 / みこがよけ:遺体が流れ着いたところ。 / 御壷谷:壷に入れて埋葬したところ。/ 御冠岩:少彦名の冠が流されてひっかかった川渕の岩。 ●赤崎神社 山口県小野田市 大己貴・少名彦2神の御事績の地。漁具を染められた跡を小釜といい、出漁された湊跡を神出という。 ●老松神社 福岡県嘉穂郡桂川町 大己貴・少名彦2神が二人で力を合わせ国造りをしていた時、この地へ立ち寄りしばし足を留めた所 ●英彦山 福岡県 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになった ●四国 大己貴・少名彦2神の四国における足跡は、道後温泉を発見ののち、大巳貴命と共に、山頂沿いに南下し、壷神山(大洲市八多喜)に薬壷を忘れ、都(大洲市新谷)に居住され、その後、宮瀬(大洲市菅田)に移られ、肱川を渡り更に南下しようとしたとき、大神に呼ばれ高天原か黄泉の国へ旅立たれたとされる。 少彦名命との共同行動の具体的事象があるのは兵庫県・四国地方・福岡県である。あとは、一緒に祀られてはいても具体的行動を伴っていない。そこで、時期的に3つに区分できる。 1 少彦名命と知り合う前と思われるもの・・・山陰地方・越地方・中国・紀伊半島開拓伝承 2 少彦名命と共同行動と思われるもの・・・播磨国・四国・筑紫国開拓伝承 3 少彦名と別れて以降と思われるもの・・・英彦山・南九州開拓伝承 大国主命は当時の倭国全域に国土開発伝承をもっている。大国主命の活躍時期はAD20年頃〜AD45年頃と推定されている。おそらくこの期間出雲にいたことはほとんどなく、地方開拓に取り組んでいたのであろう。時期を判別するには少彦名に出会ったときと、別れた年代がわからなければならない。 福岡県添田町の伝承には大国主命が宗像三女神を伴っている。この時には少彦名命を伴っていないので、少彦名と別れた後であろう。宗像三女神はAD18年頃誕生と思われ、大国主命は後にその一人多伎都姫と結婚しアジスキタカヒコネ命を産んでいる。他に事代主、下照姫が生まれたとも云われているが、此の2名は大和で生まれているという伝承や宗像大社の伝承ではこの一名であることから、多伎都姫との間の子はアジスキタカヒコネ命唯一人であろう。人間の成長を考えると、添田地方に大国主が来たのはAD30年代前半であろう。これから判断すると、少彦名と別れたのがAD33年頃と考えられる。 少彦名命とであったのが出雲国(美保関?)と云われており、また、紀伊半島の伝承には少彦名命を伴っていない。紀伊半島の伝承は反対派の抵抗をかなり受けているので第二代倭国王を引き継いだ直後と思われ、AD25年頃であろう。この紀伊半島から戻った直後位ではあるまいか。このことから大国主命が少彦名命と行動を共にしたのはAD25年頃〜AD30年頃と考えられる。 少彦名命とはどのような出自の人物であろうか?出雲国に海からやってきたと言われている。その海岸は五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)と記述されている。別表記に五十田狭之小汀〔いたさのをはま、【記】伊那佐之小浜〔いなさのをばま〕(底本によっては伊耶佐之小浜〔いざさのをばま〕ともあり、最も該当するのは島根県大社町の稲佐浜と思われる。ここに上陸するというのは、西からやってきたことを意味する。神魂命(スサノオ)の子と云われているが、先進技術を持っていることから推察し、朝鮮半島から流れ着いた人物と推定する。スサノオが朝鮮半島で先進技術を集めていた時、朝鮮半島で子が誕生し、その子が父であるスサノオを頼って朝鮮半島からやってきたのかもしれない。或いは無関係の漂流者かもしれない。 大国主命が第二代倭国王に就任する直前、兄たちから嫉妬による反対行動を受けていた。多くの人々から国王であることを認められるためにはさらに実績が必要であった。その実績作りのために、紀伊半島(有田市周辺)に赴き、その地を開拓した。実績作りのためと判断したのは紀伊半島における大国主伝承が有田市周辺に限られるためで、比較的短期間で出雲に帰還したと判断した。これがAD25年頃であろう。出雲に帰還して正式に第二代倭国王に就任した。 大国主命は倭国王就任後しばらくは三刀屋の三屋神社の地を拠点として出雲国で統治していた。この時、稲佐浜に少彦名命が流れ着いたのであろう。少彦名命が大変な先進技術を持っていることが分かり、彼と協力して倭国の技術開発をしていくことを決意した。大国主命は第二代倭国王に就任したと云ってもカリスマ性はスサノオにはるか及ばない。幸い、スサノオがまだ存命であり、出雲はスサノオが統治できるので、倭国の人々に信頼してもらうには地方開拓が一番と考えたのであろう。 伝承を分析すると、大国主命は少彦名命と共に行動した経路は2系統ある事がわかる。出雲→山口県→福岡県→大分県と出雲→伯耆国→因幡国→播磨国→讃岐国→伊予国とである。伊予国で少彦名命が亡くなっているので、前者が先で、後者が後であろう。前者はAD25〜AD30年頃で、出雲国→安芸国→周防国→長門国→筑紫国→豊国の経路と推定する。豊国で別府温泉を開拓したのであろう。この二神の業績は、土木工事・医療技術・狩猟方法の普及・農業技術の普及などであろう。少彦名命は薬・温泉の神で温泉地でよく祭られており、これは、病を温泉により療養することを考え出したことに由来するのではないだろうか。AD30年頃二神は一度出雲に戻った。時期から考えて出雲に帰還したのは出雲でスサノオが亡くなったためと考えられる。 スサノオが亡くなると、出雲国が不安定化するので、大国主命としては出雲に留まって倭国を統治しなければならなかったのであるが、地方の技術普及を続けることを優先し再び少彦名命と共に再び地方開拓に乗り出した。これが原因で出雲が不安定化することになり、これが、出雲国譲り事件のきっかけとなるのである。今度は伯耆国→因幡国→播磨国→讃岐国→伊予国と諸技術の普及を進めた。伊予国で少彦名命が病になったので、道後温泉で療養した。その後大洲地方に行き、この地方を開拓中不慮の事故(水死)で少彦名命は亡くなった。AD35年頃であろう。 |
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■大物主命と大国主命との関係
『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。しかし、前述したとおりこの2神は別人である。大物主神はニギハヤヒ命である。 大和に乗り込んで近畿地方を統一していたニギハヤヒにとっても少彦名命の持っている先進技術は魅力的なものであったに違いない。大国主命と少彦名命が播磨国にいる時(AD33年頃)、ニギハヤヒは三輪山周辺まで統一していた。このとき、ニギハヤヒはこの二人を三輪山周辺まで呼んだのではないだろうか。大神神社には主祭神は大物主命であるが配祀としてこの二人が祀られている。ニギハヤヒの参謀として活躍していた足が悪かった久延彦命の提案であろう。その関係で少彦名命が亡くなって途方に暮れている大国主命を勇気づけたのがニギハヤヒ(大物主神)ではないだろうか。ニギハヤヒ命は大洲で少彦名命が亡くなったとの情報を聞き、大国主を勇気づけるために大洲に赴いたのであろう。この時が上述の古事記の記述と思われる。。大国主命は倭国王であり、大物主命は日本国王である。共にスサノオから託された日本列島統一の使命を持っているわけである。共に協力し合っていたであろう。 この直後と思われる大国主命の行動が添田町の大国主伝承である。宇佐からスサノオの三女神を連れ出し、添田町を開拓し、三女神を宗像へ導いた。三女神の一人(多伎都姫)を娶り、日向国に赴いている。この行動からニギハヤヒの大国主命に対するアドバイスを推定してみよう。 朝鮮半島の先進技術の重要性を少彦名命から再認識させられたニギハヤヒは先進技術の導入を最優先する必要性を感じていたに違いない。スサノオが一応は確保しているがより高度に確保するために三女神を利用しようとしたのであろう。宗像三女神と言えば海上交通路である。スサノオの娘である三女神を海上交通の拠点である沖ノ島、大島、宗像に配置したのであろう。それと同時に、スサノオの死によって、中断された九州地方の開拓を完成させるため、北九州の残りの地域と日向国への技術供与をアドバイスしたと思われる。 |
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■出雲帰還
AD25年頃、スサノオは、ムカツヒメとの北九州の生活をやめて出雲に帰っていった。そして、AD30年頃出雲で世を去ったのである。 日本列島の統一が進み倭国は巨大化してきた。大きくなるとまとめるのが難しくなってくる。その中心というべき出雲国は北九州に比べて遅れていた。また、高齢になったスサノオもいつまでも生きてはいられない。倭国全体の後継者の養成は急務であった。それらの問題を解決するためには、スサノオ自身出雲に戻らなければならないと感じてきた。同時に南九州の未統一地域の統一。北九州の伊都国もまだ統一されていない。これらの統一はムカツヒメに任せた。ムカツヒメもスサノオ同様に行動力あふれかつ思慮深い女性だったのである。 このときのスサノオの考え方を推理してみると次のようなものである。 AD25年頃出雲でイザナミが亡くなった。イザナミはイザナギと並んで有力な協力者であり、イザナミを失ったことはスサノオにとって大変ショッキングなことであった。此のイザナミの死をきっかけとしてスサノオは一度出雲に戻る決心をした。ところが、出雲に戻ったところ故国出雲が北九州地方に比べて寂れているのに気がついた。倭国があまりに巨大になったために、倭国をこのままにしておいたのではいずれ必ず分裂が起こり、日本列島は戦乱に巻き込まれるであろう。倭国をさらに巨大化させると同時に国内の引き締めが重要であることを悟った。加えて自らが指揮して倭国全体を統治するには60歳を過ぎて年をとりすぎており、国内体制の充実と後継者育成の必要性を感じた。そのためには自分は表に出ず隠棲をし、後継者に統治させ、その相談役になればよいと思った。スサノオは自らの隠棲地を出雲の中心から外れた島根県佐田町須佐神社の地に決めた。留守番していた稲田姫と共にこの地に住んだ。スサノオがこの地にいたのはAD25〜28年頃と思われる。この時期に大国主は三屋神社の地にいたのであろう。スサノオが決めた倭国の新統治体制は次のようなものである。 1 出雲国の統治は長子ヤシマシヌミに任せる。 2 サルタヒコに北九州北西部一帯を統治させ同時に北九州中心域を倭国に編入させる。 3 ムカツヒメに、北九州東部および日向国の統治と同時に南九州地方の未統一地域の倭国への編入に向け努力させる。 4 紀伊国は倭国の飛び地になっているがここは、五十猛命に任せる。 5 オオトシには神剣である布都御魂剣を授け、瀬戸内海沿岸地方を統治させるとともに近畿地方以東の統一をさせる。 6 倭国全体のまとめ役(第二代倭国王)に末子スセリ姫の婿養子であるオオクニヌシに任せる。 7 製鉄技術の確立に努める。 出雲に戻ったスサノオは最初に比婆山に登りイザナミを弔った。 スサノオの正式な後継者は2代目倭国王のオオクニヌシとなった。AD25年頃のことである。彼に倭国全体に目を向けさせ自らは佐田町の須佐神社の地に隠棲をした。隠棲をしながら大きくまとまった倭国全体に目を通し後継者の育成に力を注いだのであろう。そのため、再び北九州の地を訪れることはなかった。須佐神社周辺にはスサノオに会うために天照大神が滞在したと伝えられている姉山がある。スサノオが出雲へ戻ってきて亡くなるまでは5年程と推定している。この間北九州に残って九州をまとめていたムカツヒメが何度か出雲を訪問しているようである。出雲にやってきたムカツヒメが滞在していたところが姉山ではないだろうか。ムカツヒメは宇佐の地より日本海経由で島根半島西端の日御崎を目印に出雲を訪問した。そのため、日御崎神社日沈宮として天照大神が祀られているのであろう。出雲にやってきたムカツヒメは現在の出雲市周辺から神戸川に沿って遡ると、姉山がある。そこからさらに10kmほど遡ったところに須佐神社がある。須佐神社の隣には天照社があり、スサノオとの関係が考えられる。同じ出雲でも松江市周辺の伝承には天照大神が存在しないので、同じ妻である稲田姫との関係および出雲には後継者(ヤシマシヌミ)がいるので、須佐神社の地に隠棲をしながら、 時々やってきたムカツヒメに対し九州方面の統治の指示を出していたのではないかと考えられる。 |
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■須佐神社由緒
出雲風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として、御鎮魂の霊地、又御名代としての霊跡地であり須佐之男命の御本営として古より須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は及ばず、世人の尊敬厚く社殿の造営は武将、藩主によって行うのを例としてきた。 (中略) その昔、須佐の郷を唯茂れる山であり、僅かに川沿いに猫額の耕地を持った寒村に過ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ「この国は小さいけれども良い国なり、我が名を石木にはつけず土地につける。」と仰せられ、大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの地に一生を終えられてから二千有余年、その神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は生業を得て繁栄している。(後略) ■出雲の製鉄技術開発 島根県平田市に韓竈神社がある。この神社には奥深い山の急斜面に存在している。通常人の来るところではない。この神社には次のように伝えられている。 由緒 / 出雲国風土記には韓かま(金至)社、延喜式神名帳には韓竈神社と記されており、創立は不詳であるが非常に古い由緒を持つ神社である。社名のカラカマは朝鮮から渡来した釜を意味するとされている。すなわち祭神の素盞嗚尊が御子たちとともに、新羅に渡られ「植林法」を伝えられるとともに「鉄器文化」を開拓したと伝えられていることと関連があろう。また当社より奥部の北山山系が古くからの産銅地帯といわれ、金堀り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。「雲陽誌」によると、当社は素盞嗚尊を祀るとして、古老伝に「素盞嗚尊が乗給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船の続きに周二丈余、高さ六間ほどの丸き立岩有り、これを「帆柱石」という。社の入口は横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかり、これが社までの通路となっている」と記されている。 この神社に伝わる由緒から判断して出雲に帰還した素盞嗚尊はこのあたりで金属器の生産をしていたようである。このすぐ近くの鰐渕寺境内にある摩陀羅神社に素盞嗚命の遺骨(大腿骨)を祀っている。これは昔素盞嗚尊の墓と伝えられる場所があり、そこを掘ると人の骨が出てきた。その骨を祀っていると伝えられているのである。 これが事実だとすると、素盞嗚尊はこの周辺で亡くなったことになる。素盞嗚尊は生誕地に近いこの周辺で製鉄技術の開発に力を注いでおり、その最中に亡くなったということが想像される。 スサノオはAD28年頃よりイザナミの業績を引き継ぎ、自らの力で製鉄事業を始めたようである。 ■スサノオの墓 スサノオの墓と言い伝えられている場所が平田市在住の持田さんの協力により確認することができた。韓竃神社より800m南の丘陵地の茶畑内にあった。土地の人の話によると、昔ここにはスサノオの墓と伝えられる神社が建っていたが、明治になって、摩陀羅神社に移された。そのとき、神社の本殿下を掘ると人の大腿骨が出てきて、今はそれを摩陀羅神社に祀っているとのことです。その後神社跡は茶畑になったそうだが、骨の出土地だけは今でも大切に保存されていた。この大腿骨は並みのものより太くて長いものであったそうである。葬られた人物は身長2mを越える人物と推定されている。 周辺は60件ほどの唐川の中心集落であり、墓のある場所はほぼその中心に位置している。江戸時代までは周辺の人々によって大切に祀られてきたことがうかがわれる。その背景から考えて、この墓は本物である可能性が高い。 ■スサノオの墓のある茶畑 スサノオの墓 スサノオ最高の聖地は熊野山の山頂近くにある磐座である。ここを崇拝する神社が熊野大社であり、昔は壮大な大社だったそうである。熊野山中はこの磐座を崇拝していたと思われる祭祀場址と思われるものが散在している。祭祀の中心は明らかに熊野山である。スサノオの本当の墓が唐川にあるとすれば熊野山とのかかわりはどうなるのであろうか? 日本書紀では「熊成峯(熊野山)に居しまして、遂に根国に入りましき」。日御碕神社社伝では、「素戔嗚尊は出雲の国造後、熊成峯に登り、鎮まる地を求め、柏葉を風で占うと、隠ヶ丘に止まった」と記録されている。熊野山はこの周辺では最も高い山であり、出雲の国見をするためスサノオは頻繁にこの山に登っていたようである。 スサノオが祭祀対象になったのは死後10年ほどした後の出雲国譲りのときである。国譲りをスムーズに進めるためにスサノオ祭祀を強化したと推定している。スサノオの墓は唐川の地であったが、出雲の中心から大きくずれており、祭祀対象にするには地域的に難しかったのではあるまいか。祭祀の対象としてはスサノオが頻繁に登っていた出雲地方で最も高い山(熊野山)がふさわしかったといえよう。スサノオの遺骨の一部、あるいは遺品を山頂近くの磐座に埋めて熊野山を祭祀対象にしたことも考えられる。 スサノオの墓と伝えられている場所は丘陵地の中腹であり、計画的に大々的に葬られたものとは考えにくい。倭国の創始者スサノオにとってはシンプルな墓といえる。当時としては人の往来のほとんどない山奥にある小規模な墓、そのような墓となったのはスサノオが急死したためではあるまいか。 近くの韓竃神社も人の往来のない山の急斜面にある。「なぜこんなところに神社があるのか」と頭をひねるような場所である。社伝にある通り鉄鉱石・銅鉱石の精錬を行っていたと考えればすっきりとする。神社は鉱石採取の址と思われる。鉱石採取の地に赴き、スサノオ自身が率先して人々に指示をしていたと想像される。その最中にスサノオが急死したとすれば、その近くに葬ることは十分に考えられる。その死因は事故死で、事故現場が神社の地ということもありうる。 |
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■四隅突出型墳丘墓の出現
四隅突出型墳丘墓は、弥生中期末の出雲地方に出現した。弥生時代最大規模の墳墓で、祭祀系土器が多く、後の時代になると、吉備系土器も多く出土する。出現時期と場所からスサノオに関連した人物の墳墓のようである。祭祀系土器の出土が多いことから、スサノオ祭祀者の墓ではないかと考える。 四隅突出型墳丘墓が最初に出現したのは、広島県の北部である。この地域は大歳によって統一され、出雲国の支庁があったと推定している。この地方は、大和朝廷が成立した頃より、出雲系土器が衰退し、四隅突出型墳墓も見られなくなる。この地方で四隅突出型墳丘墓の最古のものが見つかっている。この地は大歳が統一し、出雲国の直接支配地であり、スサノオに対する思いも特に強いことが想像される。そのために、スサノオに対する祭祀を最初にはじめたものと考えられる。この祭祀が出雲地方に広がっていったものと考えられる。出雲の中心域はスサノオがいなかった時期の方が多く、地方に比べてスサノオ祭祀に対する気持ちは弱かったと考えられ、この時点でスサノオ祭祀は行われていなかった。後の世になり、サルタヒコが出雲でスサノオ祭祀を始めたと考えている。 四隅突出型墳丘墓の多い地方は、広島県三次地方の江の川沿い、島根県の斐伊川沿い、そして、島根県東部の広瀬川・伯太川沿いである。川沿いに多いのは、墳墓築造に必要なものを船で運ぶためと考えられる。斐伊川沿いはオオクニヌシの政庁、飯梨・伯太川沿いは能義神社の地と、いずれも近くに政庁があったと考えられる伝承地がある。このことは、四隅突出型墳丘墓が各支庁の支配者の墓で、それはすなわちスサノオ祭祀者の墓となるのである。 四隅突出型墳丘墓の特徴を挙げると、 1 祭祀系土器が多い。 2 複数の埋葬施設がある。 3 弥生時代最大規模の墳墓である。 4 ほとんど出雲地方に限られている。 5 四隅突出型墳丘墓の周辺の土が踏み固められている。 墳丘墓周辺の土が踏み固められていることから、四隅突出型墳丘墓周辺の祭祀は墳丘墓を取り囲むように行われていたことが伺われ、これは、ピラミッド構造の階級はまだできていなくて、王以外は平等であったことを意味している。王が権力の上に君臨していたのなら、ピラミッド構造の階級が存在し、墓の副葬品も豪華な者になり、墓の祭礼は、一方向からの祭礼となるはずである。これは、四隅突出型墳丘墓の被葬者が、信仰上の王すなわちスサノオ祭祀者であることを意味している。 四隅突出型墳丘墓は、規模が大きく、複数の埋葬施設があり、副葬品が乏しいことから、祭祀の対象が埋葬者個人とは考えにくい。また祭祀系土器の出土が多いことから、墳墓の周辺で祭礼が行われていたようである。埋葬者個人が祭礼の対象になるのであれば、埋葬施設は一つで、副葬品も多いはずである。被葬者は祭祀者であり、その祭礼対象はやはりスサノオであろう。 四隅突出型墳丘墓は墳墓であると同時に、斎場でもあったようである。各支庁の首長は、普段墳丘墓周辺でスサノオ祭祀を行い、彼の死後、祭祀者をその場所に葬ったものではないだろうか。方形領域が斎場で、突出部がそこへ入る通路と考える。このように考えると四隅突出型墳丘墓の各特徴が説明できるのである。 ところが出雲国の中心地である松江市南部から八雲村・大東町にかけての一帯には、四隅突出型墳丘墓がほとんど見あたらない。これはどうしたことであろうか。大きな川がないというのも一因かもしれないが、出雲国の中心地域では、スサノオ祭祀の祭礼の場所が決まっていたからと判断する。それは、スサノオの霊廟である熊野山である。熊野山の熊野神社本宮は、現在でも本宮祭が行われているように、当時から祭礼の場所となっている。出雲中心域の祭礼は、熊野山で行われるが、その他の地方ではそのようなものがないので、四隅突出型墳丘墓を造り、そこで祭礼をしたものと考える。 四隅突出型墳丘墓が四国地方や九州地方まで広がらなかったのは、スサノオが広めた青銅器祭祀があったためと考えている。出雲地方は、統一の出発点であるがゆえに、スサノオに対する祭祀がこの時点までなかったのである。 スサノオの死は、倭国の人々を悲しませた。スサノオの遺徳を忍び、後に全国の神社に日本最高の神として祭られるようになるのである。特に、出雲の人々は、その死を惜しみ、スサノオの祭祀を始めた。スサノオ祭祀は出雲国の各支庁で行われ、その祭祀者の墓が四隅突出型墳丘墓となる。 |
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■第7節 讃岐のニギハヤヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ニギハヤヒの行動
ニギハヤヒは大物主神ともいい、大和に侵入するまでは大歳と名乗っていた。スサノオの四男である。その性格がスサノオに極めてよく似ているところから、スサノオが最も信頼していた子である。スサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一するときは、まだ幼いということもあり、直接の統一事業には参加せず、広島県の三次地方を中心として活躍していた。紀元10年ごろ、大歳20歳程になったときスサノオが北九州を統一にかかったときは銅戈をシンボルとして遠賀川流域、筑後川流域、菊池川流域を中心として統一事業に参加した。そして、その領域を中心として治めた。スサノオが南九州へ進行したときは、熊本平野から白川沿いに阿蘇盆地に入り五ヶ瀬川を下り延岡から都農を経て、現在の宮崎市付近に上陸し、その周辺を統一した。大歳の統一領域はスサノオについで広い領域であり、年老いたスサノオ以上に活発に活動したものと考えられる。 南九州が統一された後、紀元20年ぐらいまで大歳は琴平山を本拠として瀬戸内海沿岸地方を治めることになった。北九州の有力豪族は周辺地域を統一することにより孤立させ、南九州の未統一地域は日本列島の周辺部なので他への影響は少なかった。しかし、大阪湾岸地方の豪族は方形周溝墓を持つ拡張主義を持った豪族で近畿地方一帯から濃尾平野一帯まで勢力を広げており、北九州の有力豪族と違い孤立させることができず、列島統一には決して避けて通ることのできない最大の難関である。さらには西の倭国に対抗するために大阪湾岸地方の豪族が統一国家を作ろうとしている動きが見られ、このままにしておけば日本列島が二つの統一国家になってしまい、倭国との間で将来大きな統一戦争が起きる可能性が出てきた。何が何でも大阪湾岸地方の統一は急務なのである。しかし、スサノオ自身は年老いて自由に動き回ることができなくなっており、大阪湾岸地域の統一は若い大歳に託すしかなかったのである。大歳は九州統一に大きな貢献をしており、スサノオは絶大な信頼を置いていた。 |
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■ニギハヤヒと琴平との関係
ニギハヤヒは、スサノオの北九州統一に参加した後、近畿地方以東統一準備のために、讃岐の金比羅山(祭神大物主神)の地で、瀬戸内海東部沿岸地方を治めていた。琴平宮には次のような社伝が伝わっている。 「祭神大物主神は琴平山に本拠を定め、四国、中国、九州などの経営にあたられたという...」 琴平宮がニギハヤヒの宮跡だったようである。この地は現在は内陸地であるが、この当時は、海岸に位置し、海上交通の要衝であり、ニギハヤヒは海上交通の権益を握っていたようである。 この地域には次のような変化が起こっている。 1 讃岐・伊予を中心に、平型銅剣祭祀が盛んにおこなわれている。その最も集中出土するのは琴平周辺である。 2 平型銅剣は扁平紐式銅鐸と共に出土することが多く、共通の紋様が彫り込まれているものがあることから、同じ工人が造ったものと考えられる。 3 平型銅剣に鋸歯紋(後に述べるが、ニギハヤヒのシンボルである)が彫り込まれているものが約三割ほどある。 琴平宮と平型銅剣祭祀は関連しているようである。琴平宮の祭神大物主(ニギハヤヒ)は、ここを本拠地として東瀬戸内沿岸を治めていた頃、人心統一のため、スサノオの銅剣祭祀にさらに磨きをかけた平型銅剣祭祀をおこなっていたようである。この平型銅剣祭祀をすることにより、瀬戸内海沿岸地方に住んでいる人々は次第にニギハヤヒに心を寄せるようになっていった。これらの人々の協力を取り付け、いよいよ近畿地方統一に乗り出すのである。この祭祀は、ニギハヤヒの後も後期中葉までしばらくおこなわれていた。 ニギハヤヒは東瀬戸内沿岸地方を治めると共に、近畿地方を統一するために、河内や大和の有力豪族の状況を探っていた。 |
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■大阪湾岸地方の統一戦略
大阪湾岸地域の国々には池上曾根遺跡など大型の建物を持つなど、かなり先進技術を持っている。弥生中期の始めごろ(紀元前100年ごろ)朝鮮半島北部から、直接大集団で移ってきたものと考えられる。そのために大陸の先進技術を失わずに維持しているものと推察する。そのために倭国の先進技術はそれほど真新しいものとは移らないのである。そのために新技術の伝授を持ってこの地域を統一することは不可能である。 スサノオは南九州においてムカツヒメと結婚することによってイザナギ・イザナミの協力を得ることができ、ムカツヒメ自信も国内をまとめるのに絶大なる貢献をしてくれたことを実感している。これをヒントとして、大阪湾岸諸国に有能な男子をマレビトとして送り込み、そこの娘と結婚することによって、その地域を統一できないかと考えた。 一般に生物は近親交配を続けていると繁殖能力が低下しその種は滅びることになる。当時の人々もこのことを本能的に知っており、小さな集落の人々は外部からやってきた有能な男と、集落内の娘を結婚させて外部の血を入れることを行なっていた。外部からやってくる人間はそのほとんどが男であるために、外部の男と、集落内の女の結婚となることがほとんどであったと思われる。この男たちをマレビトと呼んでいた。 スサノオは大阪湾岸諸国にマレビトを一斉に送り込み、それによって統一することを考え付いた。「マレビト作戦」と呼ぶことにする。そのためには若い有能な男たちが多量に必要である。大歳にこのことを提案すると、快く了承した。しかし、大阪湾岸地方にマレビトとして入り込んだ場合、その国が主体となるために、それらの小国家を倭国に加盟させるのは難しいことが予想される。そのときは倭国とは別の国を作って、機が熟したなるべく早い時期に、倭国と合併をするという計画も話し合われたことであろう。 マレビトの条件としては、優れた先進技術を持っていること、運動能力に優れていること、心優しいことが考えられる。これらに優れた若い男が、小国家を訪問すれば、大抵の国ではマレビトとして受け入れてくれるであろう。「マレビト作戦」に重要なことはこの条件を満たすマレビトを探すことである。大歳は早速、自分が統一し、信頼されている北九州の遠賀川流域、筑後川流域の小国家を訪問し、このような条件を満たす若い男を集め始めた。 |
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■マレビト作戦の根拠
この「マレビト作戦」には、そうではないかと思われる根拠がある。以下にそれを列挙してみる。 1 大阪湾岸地方がこの時期一斉に平和裏に統一されている。 2 大阪湾岸から大和平野一帯の巨大集落遺跡・拠点のすぐそばには物部系の神社が必ず存在している。池上曾根遺跡の曾根神社、唐古鍵遺跡の鏡作神社、大和川・明日香川・富雄川などの合流点の広瀬神社、当時の大和川下降にある津原神社などいずれも物部系の神社である。これは、大阪湾岸から大和盆地一帯の拠点と思われる地域がことごとく物部一族で占められているということを意味している。 3 伝承では神武天皇以前に大和にいた豪族はエウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、葛城一族、賀茂一族、三輪一族、磯城一族などことごとく物部系の分派と思われ、饒速日尊の子孫であるという伝承を持つ、あるいは、そう思える節がある。 4 饒速日尊自身ナガスネヒコ一族に対してマレビトである。 5 饒速日尊と共に大和に下ったといわれている天神玉命も賀茂一族の祖となっている。天神玉命もマレビトである。 以上のような事実をすべて有効に説明できるのは「マレビト作戦」のみではあるまいか。 |
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■大歳が北九州地方で召集したマレビトたち
先代旧事本紀に饒速日尊が天孫降臨するときに付き従った人々の一覧が乗っている。まとめてみると以下の通りである。 防衛者(32人) 天香語山命(尾張連等祖) 天鈿売命(媛女君等祖) 天太玉命(忌部首等祖) 天児屋命(中臣連等祖) 天櫛玉命(鴨縣主等祖) 天道根命(川瀬造等祖) 天神玉命(三嶋縣主等祖) 天椹野命(中跡直等祖) 天糠戸命(鏡作連等祖) 天明玉命(玉作連等祖) 天村雲命(度会神主等祖) 天神立命(山瀬久我直等祖) 天御陰命(凡河内直等祖) 天造日女命(安曇連等祖) 天世平命(久我直等祖) 天斗麻祢命(額田部湯坐連等祖) 天背男命(尾張中嶋海部直等祖) 天玉櫛彦命(間人連等祖) 天湯津彦命(安芸邦造等祖) 天神魂命(葛野鴨縣主等祖) 天三降命(豊国宇佐国造等祖) 天日神命(縣主対馬縣主等祖) 乳速日命(広湍神麻連等祖) 八坂彦命(伊勢神麻続連等祖) 伊佐布魂命(倭文連等祖) 伊岐志邇保命(山城国造等祖) 活玉命(新田部直等祖) 少彦根命(鳥取連等祖) 事湯彦命(畝尾連等祖) 八意志兼神児表春命(信乃阿智祝部等祖) 次下春命(武蔵秩父国造等祖) 月神命(壱岐縣主等祖) 五部人 天津麻良(物部造等祖) 天勇蘇(笠縫部等祖) 天津赤占(為奈部等祖) 富富侶(十市部首等祖) 天津赤星(筑紫弦田物部等祖) 五部造 二田造 大庭造 舎人造 弉蘇造 坂戸造 天物部等二十五部人 二田物部 当麻物部 芹田物部 馬見物部 横田物部 嶋戸物部 浮田物部 巷且物部 足田物部 清尺物部 田尻物部 赤間物部 久米物部 狭竹物部 大豆物部 肩野物部 羽束物部 尋津物部 布都留物部 経迹物部 讃岐三野物部 相槻物部 筑紫聞物部 播磨物部 筑紫贄田物部 船長、舵取等 天津羽原(船長跡部首祖) 大麻良(舵取阿刀造等祖) 天津真浦(船子倭鍛師等祖) 天津麻占(笠縫等祖) 天都赤麻良(曽曽笠縫等祖) 天都赤星(為奈部等祖) これらの中には女性名と判別できる名は存在しない。また、そのほとんどは後の時代の豪族の祖になっている。これらの事実は、饒速日尊の従った人物もマレビトであったということを示している。 |
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■マレビトの出身地
二十五部の物部の出自地が次のように推定されている。 二田物部 福岡県小竹町新多 当麻物部 熊本県益城郡当麻 芹田物部 福岡県若宮町芹田 鳥見物部 福岡県遠賀町鳥見山 横田物部 福岡県飯塚市横田 嶋戸物部 福岡県遠賀町島津 赤間物部 福岡県宗像市赤間 狭竹物部 福岡県小竹町小竹 大豆物部 佐賀県三田川町豆田 大豆物部 佐賀県北茂安町豆津 聞 物部 福岡県北九州市企救 贄田物部 福岡県鞍手町新北 十市物部 福岡県若宮町都地 弦田物部 福岡県宮田町鶴田 筑後物部 福岡県久留米市高良大社附近 いずれも北九州の倭国加盟領域の人物である。大歳がマレビトの条件を満たす人物をかき集めたことを裏付けている。マレビトたちの出身地から推察して大歳の出港地は遠賀川河口であろう。 これだけの陣容を何とかそろえ、大歳は大阪湾岸地方を目指して遠賀川河口を出港した。紀元25年ごろのことと思われる。 |
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■十種の神宝
饒速日尊は大和に天降るとき天神(スサノオ)から十種の神宝を授かっている。 ・ 息津鏡(オキツカガミ) ・ 死返玉(マカルガエシノタマ) ・ 辺津鏡(ヘツノカガミ) ・ 道返玉(ミチガエシノタマ) ・ 八握劔(ヤツカノツルギ) ・ 蛇比禮(ヘミノヒレ) ・ 生玉(イクタマ) ・ 蜂比禮(ハチノヒレ) ・ 足玉(タルタマ) ・ 品物比禮(クサグサノモノノヒレ) これらの神宝のうち息津鏡と辺津鏡は丹後の籠神社に神宝として保存されている。息津鏡は前漢の内行花文昭明鏡で、辺津鏡は新〜後漢初期の長宜子孫内行花文鏡である。近畿地方にはこの当時全く存在しない形式の鏡であり、この鏡が饒速日尊を主祭神とする籠神社に伝世されていることはこの伝承の正しさを裏付けているといえる。時期としては辺津鏡の長宜子孫内行花文鏡が新〜後漢初期頃鋳造されたもので、西暦紀元ごろから紀元50年ごろのものである。息津鏡が紀元前1世紀後半のものであることとあわせ、紀元25年ごろ饒速日尊が天降ったというのは時期的に整合している。 |
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■第8節 大和統一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■河内勢力と大和勢力
紀元20年頃「近畿以東を統一せよ」とのスサノオの遺命を受けたニギハヤヒは、近畿地方に進攻することになる。河内地方と大和地方は、瀬戸内海沿岸地方統一時の神社伝承によるスサノオの行動の跡がみられない。有力豪族がおり、スサノオも手を出せなかったようである。スサノオは、この地方を避けて、紀伊半島南部を統一したようである。 河内地方は、朝鮮半島からきた方形周溝墓を持つ一族がおり、大和にはナガスネヒコ一族がいた。弥生中期には、方形周溝墓は近畿地方一円に分布するようになっていたが、大和地方にはほとんどみられない。朝鮮半島からきたこの一団は、河内地方とその周辺に住み着いていたが、大和盆地には入れなかったようである。この二つの一族は協調関係にはなく、対立関係にあったようである。対立関係にあるものが手を握ることは難しく、何か大きなメリットが双方に出現したと考えられる。河内地方と大和地方の考古学的違いを検討してみると次のようなものがある。 1 方形周溝墓が東日本地域に急激に分布するようになっている。 2 大和朝廷成立後に畿内系土器が全国に見られるようになるが、この土器は、河内地方の土器で大和盆地の土器ではない。 3 河内地方と大和では一般の土器は異なるが、祭祀形態はほとんど同じである。 4 大和盆地の形式の土器は大和からほとんど外部に出た形跡はない。 5 弥生時代後期の遺跡分布で考えれば、圧倒的に河内平野が多い。大和盆地は中期までは大和川支流に沿って集落遺跡が散逸する状態で、後期になって増加する傾向がある。その遺跡分布の中心となっているのが唐古鍵遺跡である。この遺跡も後期になってから巨大化している。 大和朝廷成立後も、地方に勢力を伸ばしていたのは河内勢力である。大和勢力は、ほとんど外部に出た形跡はないが、大和朝廷は大和に存在する。これはどうしたことであろうか。大和にいる王の命に従って、河内勢力が全国を統治していたと考えるのが自然である。豪族は、初期大和朝廷に一門の技術でもって仕えていたようであり、河内の一族は地方統治で仕えていたと見るべきであろう。このことも大和朝廷が宗教統一で武力統一ではないことを示している。そうでなければ、地方に勢力を張っている河内勢力は、簡単に大和朝廷を倒すことができたであろう。 また、ニギハヤヒが大和に侵入したと推定される中期末までは、大和盆地に遺跡が少なく、大和盆地はまだ成熟した国は存在せず、未開の地であったと考えられる。後期になって遺跡が増加していることから判断して、ニギハヤヒの進入によって国が造られたと判断できる。 河内勢力と大和勢力は、多くの点で違いが見られるが、土器から判断して祭祀だけは共通である。祭祀とはおそらくニギハヤヒに関連したものと考えられる。対立関係にあったこの二勢力が、ニギハヤヒの進入によって協調関係になったといえる。 |
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■ニギハヤヒの侵入経路
饒速日尊の侵入経路を神社伝承によって探ってみよう。 1 三島鴨神社 大阪府高槻市三島江二丁目 祭神 大山祇神、事代主神 / 淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。 2 溝咋神社 大阪府茨木市五十鈴町十七 祭神 媛蹈鞴五十鈴媛命、溝咋玉櫛媛命 三島溝咋耳命、天日方奇日方命、素盞嗚尊、天児屋根命 / 『古事記』では大物主が玉櫛姫を見そめて、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれることになっている。 3 磐船神社 大阪府交野市私市9丁目19ー1 祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(饒速日命) / 磐船神社は御祭神饒速日命が天孫降臨された記念の地である。 4 白庭邑 奈良県生駒市白庭台白谷地区 / 「長髄彦本拠」と「鳥見白庭山」の石碑がある。 5 長弓寺(伊弉諾神社) 生駒市上町4447 / 長髄彦の旧跡、饒速日命と御炊屋姫を祀っていた。二神の廟社であり「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。 6 饒速日尊の墓 生駒市総合公園北側山中 檜の窪山 / 饒速日の尊がなくなったとき、天の羽弓矢、羽羽矢、神衣帯手貫を、登美の白庭の邑に埋葬して、墓とした。「天孫本紀」 7 矢田坐久志玉比古神社 奈良県大和郡山市矢田町965 祭神 櫛玉饒速日神 御炊屋姫神 / 東側に「迎ひ山」があり、河内からやって来た神を里人が迎えた山といわれる。饒速日尊降臨伝承地 8 登弥神社 奈良市石木町648-1 祭神 東殿 高皇産霊神、誉田別命 西殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋根命 / 神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説がある。 9 饒速日山(日下山・生駒山) 饒速日山は、饒速日命が天降ったとされる河上哮峯のことで、生駒山地の北端の峰をさす。現在生駒スカイラインの料金所がある辺りである。昔は饒速日尊が祀られた神社があったらしい。また、このあたりに饒速日尊の宮跡があったと伝えられている。 これらの伝承をまとめてみると以下のようになる。 瀬戸内海を東進してきた饒速日尊一行は淀川沿いの三島鴨神社の地に上陸した。この地で一行はそれぞれの小国家に向って分散した。饒速日尊はここから現在の国道168号線(天野川)に沿って川を遡り、磐船神社の地で休息された。この神社の裏山である饒速日山と呼ばれている山に登り大和盆地の様子を探り、長髄彦が統治する小国家(白庭邑)にたどり着いた。長髄彦は饒速日尊をマレビトとして受け入れ、妹の御炊屋姫と結婚することになった。饒速日尊は御炊屋姫と結婚後長弓寺の地に住んでいた。数年後、饒速日尊は長髄彦の協力を得て生駒市中心域、富雄川流域を統一し登弥神社の地に移った。また、饒速日尊はほかのマレビトが入り込んでいる河内平野一帯と大和盆地北部の両方を見ることができる生駒山の饒速日山山頂付近に宮を造り時々そこに住んだ。紀元30年ごろのことであろう。 |
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■河内地方統一
饒速日尊は大和盆地北部を統一することに成功したが、同時に河内平野に送り込まれた他のマレビトもそれぞれの国に入り込んで子孫を作らなければならない。そして、それらの国との交流を常に保っておかなければならない。生駒山の西麓に饒速日尊、可美真手命を祀った石切劔箭神社が存在している。 「神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。」これが石切劔箭神社の発祥と伝えられている。大和盆地北部を統一した饒速日尊が他のマレビトが入り込んだ河内平野の国々との交流を保つために、 この地にやってきて住んでいたのではあるまいか。可美真手命が育った時期であるから紀元30年から35年ごろのことであろう。 このマレビトたちの活躍があり河内平野の国々は次第に一つにまとまりつつあった。この状態で倭国に加盟するのは人々の抵抗が大きいので饒速日尊は倭国とは別の国を作ることにした。 日本書紀によると、 「饒速日命、天磐船に乗り、太虚をめぐりゆきて、この郷におせりと天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国」という。」 とある。これによると、饒速日尊が大和に入ったときに、日本国という名前を付けたようである。日本はヒノモトと読む。東大阪市に「日下」(朝、太陽が生駒山から昇ってくるその日の下という意味)という地名があり、饒速日尊は、ここから大和に入ったと伝えられている。饒速日尊は倭国とは別の連合国家を造ることになったために、新しい統一国家の名を考える必要がでてきた。饒速日尊が大和に入るときに見た生駒山からの日の出に感動して、その国名として「ヒノモト」を使ったものと考える。饒速日尊が生駒山西麓に住んでいたころでないと上のようなことにならないので、この頃新しい統一国家の名前をつけたのは紀元30年ごろのことであろう。 饒速日尊はマレビトの入り込んだ国々を回りながら、将来の東日本統一のために河内一族が一つになる必要性・統一国家の必要性を説いて回り、人々の協力を得ようとした。河内平野の人々の意識も次第に変化してきて、協力が得られる体制が次第に固まってきた。 |
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■葛城地方の統一
葛城地方に残る伝承をまとめてみると次のようなものである。 1 一言主神社 / 葛城一族の神とされるのが一言主神である。一言主神とは鴨氏の神である事代主神の代わりに作られた存在。 旧事紀に、素戔嗚尊の子と伝えている。 2 高天彦神社 / 高天彦神とは高皇産霊神の別称。 付近一帯は高天の地名が残り、神話の高天原に比定され史跡となっている。葛城氏が、大和盆地へと下り、勢力を広げていったことが、後に天孫降臨として伝えられたと伝えられている。 御祭神は高皇産霊尊。 天忍穂耳尊に、本社の御祭神の娘・栲幡千々姫が嫁ぎ、御子の瓊瓊杵尊が高天原から降臨される。その神話にいう高天原がこの台地である。 3 高鴨神社 / 御祭神は味耜高彦根命・下照姫命・天稚彦命 鴨の一族の発祥の地。弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた。味耜高彦根神の本拠地 4 鴨都波神社 / 御祭神は積羽八重事代主神・下照比売命。 下鴨神社ともいう。事代主神の最初の誕生の地。鴨族の発祥地。 5 葛木坐御歳神社 / 中鴨神社ともいう。御祭神は御歳神で、相殿に大年神・高照姫命が祀られています。御歳神は大年神の娘。古事記には須佐之男命と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されている。相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神である。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われている。 6 長柄神社 / 御祭神は下照姫命 下照姫の本拠地 葛城地方の神々の名が他地方の神々と大きな矛盾を呈していることが特徴である。言代主命は出雲の神であり、そのほかの神々も出雲中心の神々である。 味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシとスサノオ・ムカツヒメの娘である三穂津姫との間にできた子である。 本来大和とは縁のない存在のはずである。この謎を解明するために、賀茂一族の系図を調べてみることにする。 |
これらの系図も明らかな食い違いのある矛盾に満ちた系図である。一つ一つ解明していくことにする。 まず、一言主神であるが、旧事記にスサノオの子と記されている。スサノオの子で大和にやってきているのは饒速日尊のみなので、一言主神=饒速日尊という図式ができる。一言主神社では一言主神=言代主となっているので、言代主=饒速日尊となる。この等式は丹後の籠神社に伝わる伝承でも火明命は言代主命のことであると伝えられているので、両者は一致することとなる。大和で言う言代主命は饒速日尊と考えてよいようである。 葛木坐御歳神社の御年神は大歳神(饒速日尊)の娘となっている。また、近くの二上山は饒速日尊の降臨した山とも伝えられており、饒速日尊は葛城一族に対してもマレビトとして入り込んだようである。葛木坐御歳神社で高照姫が大歳神とペアで祀られていることから高照姫は大歳神の妻と考えても良いのではないだろうか。つまり香用比売命=高照姫である。 味鋤高彦根神は古事記では賀茂大御神と呼ばれており、天照大御神と並ぶ尊称を与えられているが、上の系図で見る賀茂一族の先祖となっていない。また、味鋤高彦根神は後の時代の倭の大乱時に吉備津彦が吉備国におもむく時、片山神社に祀った神であり、国家統一に関して大変重要な神と考えられる。この神は下照姫の夫である天稚彦と大変よく似ていて仲も良かったと記されており、同一人物ではないかと考えている。 先代旧事本紀に次のような記事がある。 高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に 「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」 と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して 「神の御子は既に亡くなられました。」 と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。 饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に 「我が子を私の形見としなさい。」 と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。これを持って墓と為した。 さらに高天彦神社が天孫降臨の地と伝えられているように、この記事は国譲りの物語によく似ている。国譲り神話を要約すると、 葦原中国に派遣した天稚彦がなかなか復命しないので雉を派遣したところ、天稚彦が高天原を裏切っていたので高皇産霊尊は天稚彦を殺した。 この二つの記事は元来同じものではないかと考える。饒速日尊が作ったヒノモト(葦原中つ国)と倭国(高天原)の合併が国譲り神話と重なったのではあるまいか。国譲りの後の天孫降臨伝承も高天彦神社に存在している。このように考えた場合、完全ではないが次のような対応が見られる。 国譲り神話との対比 記紀神話 大和の伝承 国を開拓した人物 大国主命 饒速日尊 高天原から派遣された人物 天稚彦 味鋤高彦根神 催促に派遣された人物 雉 速飄神 降臨した人物 瓊々杵尊 神武天皇 道案内の人物 猿田彦 鴨建角身命 系図に対する考察 大田々禰古命は第十代崇神天皇のころの人物であり、天日方奇日方命は神武天皇の頃の人物と伝えられているので、代数で判断すれば先代旧事本紀が正しいことになる。大田々禰古命は大物主神の子孫なので、大物主神を祀ることになっている。このことから考えると、大田々禰古命の祖先は大物主神でなければならない。その点から判断すると、言代主か大国主が大物主神とならなければならない。大田々禰古命の出身地と伝えられている陶邑のある大阪市の南から堺市、和泉市にかけて曽根の地名が分布している。長曽根に長曽根神社があり、和泉市には池上曽根遺跡に隣接して曽彌神社があり、『新撰姓氏録』和泉国神別曽禰連、神饒速日命六世孫伊香我色雄命後也 とあるように、大田々禰古命の出身地は物部の勢力圏である。その点から考えると、この系図の大国主は饒速日尊でなければならない。大物主=饒速日尊と考える必要がある。饒速日尊がマレビトとして陶邑に入り込んだものであろう。 年代を考えると饒速日尊をはじめとするマレビト集団が大阪湾岸に入り込んだのは紀元25年〜30年ごろであり、天日方奇日方命は神武天皇と同じ頃なので、 AD80年ごろの人物となる。言代主命=饒速日尊とすれば、神武天皇時代までの年数が開きすぎることになる。大国主の子と言われている言代主命は饒速日尊の子と考えれば年数を考えても合理的となる。 世数に注意して系図を比較すると 賀茂一族系図(三輪高宮家系譜) 建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・ (和魂大物主神) (猿田彦神) (事代主神) (荒魂大国魂神) (大物主神) (玉櫛彦命) 日向系系図 素盞嗚尊───饒速日尊 (大歳神) 天照大神────鵜茅草葺不合尊────神武天皇 (ムカツヒメ) 先代旧事本紀 大国主命────都味歯八重事代主神−天日方奇日方命 三輪高宮家系譜に言代主が二代続いている。他の系図との比較によりこの系譜だけが1世多い。また、大国主命と都美波八重事代主命が共に大物主の別名を持っている。これらのことから判断して、饒速日尊=大物主=大国主=都美波八重事代主命となり、言代主=天事代主籖入彦命=玉櫛彦命となる。 賀茂一族の系図を編集しなおすと次のようになる。 |
このように考えると次のような物語になる。
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スサノオは饒速日尊に近畿地方以東をまとめ上げ、倭国と合併させる使命を持っていたが、いつまでたってもその音沙汰がない。あせった高皇産霊尊は味鋤高彦根神を派遣して合併を勧めさせた。味鋤高彦根神は大和に来て葛城一族の娘下照姫(御年神?)と結婚し、なかなか帰ってこない。味鋤高彦根神が大和にやってきた直後に饒速日尊は亡くなった。味鋤高彦根神は、ヒノモトと倭国の間を取り持って大合併が成功し、味鋤高彦根神は賀茂大御神と称されるようになった。 根拠は薄弱であるが、このように考えるといろいろとつじつまが合うのである。葛城一族の神々に混乱があることは明白であるので矛盾がないように再構築するとこのようになる。混乱が生じたのは饒速日尊をはじめとするマレビトたちが一斉に方々の国々に入り込んだために系統が複雑になりすぎたためと思われる。 饒速日尊は紀元35年頃、河内平野がまとまってきたので、大和川を遡り再び大和盆地に移動してきた。最初に葛城山麓の葛城一族にマレビトとして入り込み高照姫と結婚し御年神をもうけた。これにより葛城一族がヒノモトに加盟することになった。 |
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■三輪山山麓の統一
耳成山 / 古くは天神山と呼ばれ、8合目に耳成山口神社(天神社)があり、大山祇命・高皇産霊尊が祀られている。昔より神が坐す山といわれていた。位置から考えて、葛城から三輪方面へ移動する丁度途中にある耳成山は饒速日尊が拠点とするには最適と思われる。 鳥見山・等弥神社 / 最古の斎場だと言われている。山頂には祭壇状の斎場跡、祭祀の饗宴場だったという「庭殿」、注連縄をはって祭場とした「白庭」がある。等弥神社の祭神は「大日霊女貴尊」であるが、「饒速日尊」を祀っていたようである。 三輪山 / 「三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3ヶ所に神の宿る座があり、それぞれ大物主神・大己貴神・少彦名神の依代であると言われている。 そのなかの山頂周辺にあるのが奥津磐座である。この磐座が三輪山祭祀の中心と考えられる。山頂には大物主神の子といわれる日向御子神を祀る高宮神社がある。 大神神社 祭神 大物主神 / 三輪山そのものを御神体としている。 大和神社 祭神 大和大国魂大神 / 中央本殿の祭神大和大国魂大神、左本殿の祭神八千矛神(素盞嗚尊or饒速日尊?)、右本殿の祭神御歳神である。大和大国魂大神は大歳神の子(言代主か?)と言われている。近くには素盞嗚尊を祀る神社が多い。 志貴御県坐神社 / 本来の祭神の詳細は不明なようであるが、饒速日命とも言われている。 宇陀郡榛原町檜牧 / 宇陀川と内牧川の合流点の南側に磐舟という字有り、近くに御井神社がある。この周辺は饒速日尊滞在伝説地である。 初瀬川上流の白木 / 饒速日尊が遷座したところ、鳥見の白庭の地であると伝承されている。東に鳥見山がある。初瀬町白河に饒速日尊を祭る白山神社がある。 芹井(白木の北) / 芹井物部(饒速日尊に供奉した物部)のいたところと伝える。 大行事社 奈良県桜井市三輪字平等寺 / 大物主神の子といわれる、事代主命、加夜奈流美命を祭る。最古の市場の跡といわれている。 日向神社 / 大物主神の子といわれる、櫛御方命、飯方巣見命、建甕槌命を祀る。 狭井神社 祭神 大神荒魂神、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神 / 五十鈴姫の実家があったと伝わる狭井川の畔に立つ大神神社の摂社 墨坂神社 奈良県宇陀郡榛原町萩原字天野 / 祭神 墨坂大神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神の六柱神の総称) 神武天皇東遷以前にすでに祀られていた。 「雄略紀」には、「天皇、少子部スガルに詔して曰く、朕、三諸の岳の神の形を見むと欲すと。或いは云う。此の山神は大物主神と為す。或いは云う。うだの墨坂神なり。 」とある。これは墨坂大神=大物主神であることを意味している。 神武天皇の皇后となった姫蹈鞴五十鈴姫命は勢夜多多良姫命と大物主神との間の娘とも、事代主神と勢夜多多良姫命との間の娘とも言われている。葛城一族の統一のところでも述べたが元来この二神は親子と考えられ、各方面の系図において混乱が生じている。大物主(饒速日尊)が大和に入ったのが紀元25年(饒速日尊30歳ごろ)ごろで、紀元80年ごろの神武天皇の皇后になるためには紀元80年ごろ姫蹈鞴五十鈴姫命は 20歳前後でなければならず、彼女は紀元60年ごろ誕生したことになる。饒速日尊65歳ごろでありえないとは言わないが、姫蹈鞴五十鈴姫命は饒速日尊の孫と考えたほうが自然である。つまり、大物主神(饒速日尊)の子である言代主と勢夜多多良姫命の娘が姫蹈鞴五十鈴姫命と考えたほうが自然となる。 三輪山周辺の神社の祭神分布を見ると、三輪山西麓周辺は饒速日尊関連伝承はほとんどなくその子の言代主と思われる伝承が多い。大物主関連伝承も良く検討をしてみると大物主神よりも言代主のものであると判断したほうが年代的に自然となる事例が多い。饒速日尊に関しては三輪山の南部の初瀬川南側からその上流域に伝承地が多いようである。言代主は葛城の鴨都波神社の地で誕生していると思われる。その後三輪山周辺に饒速日尊が進出するまで、それほど年数は立っていないと思われ、言代主は幼少の段階で三輪山に来ていることになる。饒速日尊は耳成山から鳥見山に拠点を移し狭井神社の地に拠点を置いていた一族(大神荒魂神?)に嫡子言代主を預けたのではないだろうか。饒速日尊は初瀬川に沿って統一し宇陀地方に拠点を置いた。しばらく後饒速日尊が東日本統一に乗り出した時、言代主命は留守番として大行事社の位置で市を開き周辺の物資の交流を促進したものと考えられる。 大和川流域一帯の集落にマレビトが入り込み、大和盆地全体がヒノモトの国として統一された。紀元40年ごろのことである。 |
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■事代主命
事代主命とはどのような人物であろうか。先ずは神社伝承をまとめてみよう。 ●下鴨神社 事代主神の最初の誕生の地 ●三島鴨神社(高槻市) 事代主神の滞在地。大山祇神のご降臨の地 ●西宮神社 祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。蛭児命は西宮に漂着し、 「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。 ●大山祇神社(愛媛県大三島町) 大山祇神は三島鴨神社から大三島に移ったと伝えられる。 ●石津神社(堺市) 事代主神はここに五色の石をもって御降臨したと伝えられている。五色の石は神社の前に埋められており、天変地異のある時は浮上すると言い伝えられている。 ●斐太神社(新潟県妙高市) 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。 ●諏訪大社 諏訪明神以前の土着の神を祀る神事がある。「事代主命社祭」である。この社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では「武居會美酒」とある。 事代主命と同神と言われる「えびす」である。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」という話がある。また、 下諏訪にも「武居恵比須社」が鎮座している。恵比寿様は「長野県の武居神社」で生まれたとある。 ●大行事社(桜井市三輪) 加夜奈流美命は、事代主命の御妹。旧説に、事代主命は大己貴命の第一王子にして、幽冥の節度を掌り給う。そのことにより、大行事と称する。『万葉集』や平安時代の物語に出てくる日本で最古の市場、 ●狭井神社 古代の三輪山の麓、狭井川のほとりに大物主大神の御子神、媛蹈?五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が住まわれていた。狭井川のほとりはささゆりが咲き匂う美しい所で、やがて五十鈴姫命は神武天皇に見初められて皇后様になられたと記されている。大和朝廷成立直前の事代主命の住まいでは? ●美保神社(島根県美保関町) 国譲りに同意して美保関に引き籠もられる。 事代主神が揖屋の溝杭姫の所に通っていて「ワニに足を噛まれた」という神話あり。 ●三嶋大社(三島市) 八人の妃神と二十七人の御子神を得て、富士山の神と共同で七日七夜の間に、ここに十個の島を生成して、新たな国作りをした。初め三宅島におられたが、後に白浜海岸→広瀬と移られて、最終的に現在の三嶋大社の場所に御鎮座された。ここが、事代主神の最終御鎮座地となる。 伊豆で最初の御鎮座地である三宅島の富賀神社および第二御鎮座地の白浜神社の御祭神は伊古奈姫。そして広瀬神社の御祭神は溝咋姫。いづれも事代主神の重要な妃神である。伝説では三島明神は奥様たちを置いて単身で三嶋大社に御鎮座なさったと伝えられている。 事代主神は他に宮中の第八殿に祀られている。宮中に祀られると云うことは大和朝廷成立に深くかかわった特別な神であることを意味し、記紀神話に伝えられているだけのものではないことは明らかである。 誕生地は神社伝承を見る限りにおいては、奈良県御所市の鴨都波神社(下鴨神社)ということになる。父は大物主命(ニギハヤヒ)、母はカムヤタテヒメである。この地を支配していた鴨一族の地にニギハヤヒ命がマレビトとして入って、一族の娘カムヤタテ姫との間にできた子であると推定される。時期はAD30年から35年頃ではあるまいか。その娘が神武天皇の皇后になっており、大和朝廷成立に大きく貢献した人物であろう。 事代主命の行動の時系列を整理してみることにする。高槻市の三島鴨神社に滞在しているが、ここから、愛媛県の大三島町に移動。西宮神社・石津神社の伝承もこの頃のものと考えられる。三島鴨神社の地で溝杭姫を娶り、神武天皇の皇后(姫鞴五十鈴姫)が誕生している。この姫の誕生は神武天皇との結婚がAD83年なので、AD60年頃と推定される。よって、三島鴨神社の地に滞在していたのはAD60年頃と推定できる。 新潟県妙高市の斐太神社の地で大国主命と国土開発をしていることになるが、大国主命が北陸に来たのはAD20年頃で、事代主命はAD30年以降に誕生しているので時代が合わない。この大国主命はニギハヤヒ命のことであろう。事代主命はニギハヤヒ命と共に東日本地方開拓をしていることが分かる。AD45年頃であろう。また、諏訪大社にタケミナカタ命が降臨する前の神として事代主命が祀られているが、タケミナカタ命がこの地を訪れるのはAD47年頃なので、その直前に事代主命がこの地を開拓していたことになる。AD43年頃ではあるまいか。諏訪地方→妙高市への移動と思われる。 大行事社や狭井神社周辺の伝承によると事代主命は大和朝廷成立直前に三輪山の麓に住んでいたようである。AD70年頃であろう。AD55年頃東日本地方開拓から父ニギハヤヒと共に戻ってきて、三島鴨神社の地に移動したと思われる。移動の理由はなんだったのであろうか。 西宮神社は蛭児命であるが、この人物も恵比寿様であり、事代主命と共通である。事代主命であろうと推定している。西宮神社・石津神社・三島鴨神社と大阪湾岸の重要拠点に位置している。また、此処から移ったと言われる大三島の大山祇神社も海上交通の重要拠点である。このことは、事代主命が瀬戸内海の海上交通の実権を握ったことを意味している。ニギハヤヒ命の建国した日本国は海外から離れているために、海外の最新技術が入りにくく、瀬戸内海の海上交通の安定は是非とも確保しなければならないものだったに違いない。事代主命は東日本地域の開発をする中で、西日本に比べて最新技術が入りにくいことを肌で感じたのであろう。そのために、大和帰国後、瀬戸内海の海上交通路の確保に奔走したのではあるまいか。越智水軍は大山祇神社の水軍であり、謎が多いのであるが、事代主命が作ったと言えなくもない。 この後、事代主命は出雲の統治者になっているのである。神武天皇東遷のとき、天皇は安芸国に滞在している。その時、出雲と安芸国の割譲について話をしているが、その交渉相手が事代主命である。どのような過程で出雲の統治者になったのであろうか。そのヒントとなるものが、瀬戸内海航路である。この時(AD60年頃)瀬戸内海沿岸地方は東倭に所属しており、その支配権は出雲にあった。この当時出雲国譲りでサルタヒコが出雲の統治者であった。東倭に所属している瀬戸内海沿岸地方の実権を握るには出雲との交渉は欠かせないものである。サルタヒコ命も事代主命もともにニギハヤヒ命の子であり、異母兄弟である。AD60年頃はサルタヒコ50歳、事代主30歳程度と思われる。サルタヒコはこの後伊勢に移動しそこで亡くなっているので、この頃出雲の統治権がサルタヒコ命から事代主命に移ったことになる。事代主命は大和朝廷が成立した後、伊豆地方の開拓に移っており、出雲の統治権を持っていたのは20年程度と考えられる。出雲の統治権は事代主命の後、サルタヒコの娘と結婚した天穂日命の孫に当たる櫛瓊命に移っており、以降命の子孫が代々継承している。事代主命は出雲の統治権を一時的に継承したという感じである。 事代主命は瀬戸内海航路の安定確保のために出雲にあいさつに赴いたことであろう。この時、サルタヒコと瀬戸内海航路の確保の必要性について話し合ったに違いない。サルタヒコの娘が高齢で誕生した直後と思われ、他に子がなく、出雲の後継者がいなかったのではないだろうか。サルタヒコも高齢に達し、娘婿に出雲を任せたいと思ってはいたが、何せまだ若すぎる。娘が成長し、出雲を任すことのできる後継者が育つまでの繋ぎを事代主命に頼んだことが考えられる。事代主命としても出雲の統治権が手に入れば、瀬戸内海航路の整備は思い通りにでき、サルタヒコにとっても出雲を安心してまかすことができる。事代主命もニギハヤヒ命の子であり、出雲創始者スサノオ命の孫である。血筋としては十分な存在であった。そのような次第で、事代主命が出雲の統治権を引き受けたものと考えられる。 事代主命が出雲統治者になるのはよいにしても、事代主命は次の日本国王の候補者である。大和にいたニギハヤヒ命も高齢である。賀茂一族の系図にそのヒントがあるようである。 賀茂一族系図(三輪高宮家系譜) 建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・ (和魂大物主神) (猿田彦神) (事代主神) (荒魂大国魂神) (大物主神) (玉櫛彦命 この系図を見ると猿田彦神の後を事代主神が引き継いだことになっている。また、事代主命は二人いることになっている。ここでいう事代主命は都美波八重事代主命であり、第二代日本国王として活躍したのは天事代主籖入彦命ではないのだろうか。直系のようにつながっているが、次の奇日方天日方命が神武天皇と同世代であることから考えると、都美波八重事代主命と天事代主籖入彦命は兄弟とも考えられる。このあたりの系譜も混乱しているのであろう。 サルタヒコは出雲の国を事代主に譲った後、伊勢国椿大神社の地に隠居し、そこで世を去った。事代主命は成長したサルタヒコの娘と天穂日命の孫である櫛瓊命を結婚させ、櫛瓊命に出雲の統治権を譲渡した。事代主命は東日本地域の開拓に再び旅立ち、伊豆地方を開拓し静岡県三島市の三島神社の地で亡くなった。 |
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■紀伊國国譲り
この当時、紀伊国はどうなっていたのであろうか。紀伊国はAD20年ごろ、南九州を統一したスサノオがイザナギ命、イザナミ命、五十猛命、大屋津姫、抓津姫を率いて統一した。五十猛命、大屋津姫、抓津姫は和歌山市周辺、イザナギ命、イザナミ命は熊野地方を統一した。この地方はそのまま倭国に所属していたが、倭国分裂後出雲の統治力が低下し、東倭の支配権が十分に届かない状態になっていた。紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深く、ニギヤハヒ命も和歌山市周辺に名草一族の祖である天道根命、熊野地方にはニギハヤヒの九州での御子である高倉下命のマレビトを送り込んできた。天道根命はAD30年ごろ、高倉下命は少し遅れてAD35頃ではあるまいか。 伊太祁曽神社に伝わる伝承では、本来の鎮座地は現在の日前宮の地で、後にこの伊太祁曽の地に遷座になったと伝えている。このことから、五十猛命は日前宮の地を拠点として紀伊国を統治していたと推定できる。 また、大和御崎之宮(御祭神 天照大神 大己貴神 猿田彦神)によると、「はるかなる太古、神代の時代、天照大神の命により、素戔嗚命の子五十猛命(別名伊太邪曾大神・大屋津姫神、?津姫神の三柱の神が木種を持って、道祖神猿田彦神の導きで、この和歌山市北野の地に天降られました。」とある。五十猛命は大和御崎之宮の地に到着し、統一後日前宮の地に移動したものであろう。 10年ほど経った、AD30年ごろニギハヤヒ命の一行に伴って天道根命がマレビトとしてやってきた。AD35年ごろ出雲でスサノオ命が亡くなった後、不安定になった出雲を立て直すために、五十猛命は出雲に帰ることになった。その後、紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深いので、天道根命は倭国から離れ、日本国に所属することにした。 伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、「日前宮・国懸宮この地には元々伊太祁曽神社が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れた。その後、伊太祁曽神は山東の地に引いた」とある。日前宮は天照大神で、国懸宮は御神体が鉾(スサノオのシンボル)なので、日前宮がニギハヤヒ、国懸宮がスサノオと思える。この宮は紀伊国国譲り後の拠点であったのであろう。 おそらく、いずれ出雲に帰ることを考えていた五十猛命はマレビト天道根命がやってきた時、その統治権を天道根命に譲り、自らは伊太祁曽に引いたものであろう。二人協力して紀伊国を開発していったものと考える。 スサノオの死後出雲に帰った五十猛命は横田町大呂の地で、製鉄開発に努力しその地で亡くなった。同地の鬼神神社に五十猛命の御陵がある。 熊野地方も高倉下の努力によって日本国に所属するようになった。また、熊野地方の開祖、スサノオ、イザナギ、イザナミに対し熊野本宮大社での祭祀が始まった。 熊野地方が日本国に所属するようになると、大和との交流が必要になるが、熊野山岳地帯は急峻であるために、交流がままならなかった。しかし、熊野奥の宮といわれている玉置神社は神武天皇東遷時には既に開かれていた。このことは、大和・熊野の連絡道がすでに存在していたことを意味する。、ニギハヤヒは後の神武天皇東遷経路に沿って道を切り開き、その途中の玉置山でも祭祀を始めた。これが現在の玉置神社であろう。 八咫烏命はこの経路を通って、熊野・大和の連絡役をしていたと考えられる。 |
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■河内平野の考古学的変化
大阪湾岸にある代表的な池上・曽根遺跡を調べてみると、中期までは都市的な色彩を帯びた巨大集落であったが、中期末(紀元前後)に瀬戸内系土器が出土するようになるとまもなく、この大規模な集落は瓦解する。以後は小規模な小集団に分散する傾向がある。このような変化はこの遺跡だけではなく大阪湾岸一帯の遺跡で一斉に起こっている。このような集落の急激な変貌は、内的要因によってもたらされたと考えるよりも、外部圧力によるものと考えられる。中期末の外部圧力となれば、ニギハヤヒの大阪湾岸侵入と時期・場所ともに一致するのである。 ■池上・曽根遺跡 近畿地方の弥生中期末から後期初頭への変化はニギハヤヒの近畿地方侵入によってもたらされたものと推察されるが、伝承から推定された年代と、考古学的事実から推定される年代の照合を謀ってみよう。 スサノオの死が紀元30年頃であり、ニギハヤヒの近畿地方侵入はその前後と考えられるから、紀元25年頃と推察される。 一方考古学的事実では、中国の王莽時代の貨泉(漢書「食貨志」によれば紀元14年〜40年の間)が近畿地方後期の最も古い形式の土器と共に出土している。この頃は頻繁に中国と交流しており、鋳造時期と出土時期はほぼ重なると見てもよい。また年輪年代法と合わせて推定すれば、 中期と後期の境目は紀元20年から30年頃と思われ、まさに伝承とぴったりと一致している。 ニギハヤヒの近畿地方侵入を裏付けるものとして、次のようなものがある。 ■瀬戸内系の土器 唐古・鍵遺跡には、中期までは、近隣地方や東方地域からの土器の搬入があるが、西方地域からの土器の搬入は全くなかった。ところが、中期末になると、瀬戸内系の大型器台と大型の壷が出土している。これらは日常的に使うものではないことから、瀬戸内系の文化を受け入れたものと判断される。 大阪府高槻市の安満遺跡では、中期末になると、壺や鉢などの多くの土器に、新形式が出現し、器形や製作技法に瀬戸内系の要素が強く認められるようになる。そして、石器が少なくなり板状鉄斧や鉄鏃などの鉄器が多く見られるようになる。さらに、墓域が居住区に変わるなど、中期の生活形態を否定するような変化が起こっている。住んでいた人々は集団でどこかへ移動したようである。池上・曽根遺跡、安満遺跡、を初めとする近畿地方一帯の遺跡から中期末にほぼ一斉に人の姿が消えるのである。おそらくニギハヤヒの東日本統一事業に参加し、統一後の地方統治をしたものと考える。これは、瀬戸内勢力の侵入を受けて起こった変化と考えられる。瀬戸内勢力は畿内の人々に各方面での技術供与を行い、その見返りとして、東日本統一に協力するということになったと思われる。 ■大和盆地での遺跡の集中 近畿地方では、中期末に当たるこの頃より、周辺の遺跡が消滅する傾向にある。しかし、唐古・鍵遺跡のみがそれとは逆に巨大化してきている。近畿地方が統一され、その統一政府の指示によって人々が移動したと考えられる。そして、その統一政府のあったのが唯一巨大化した唐古・鍵遺跡であろう。 唐古・鍵遺跡は中期末あたりから規模が大きくなり、その中心の祭祀遺構から鶏の土製品が出土している。同時にその位置は、冬至の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。中期末頃、日の出の位置から時期を探る暦法が導入され、三輪山信仰が始まったと考えられる。山頂からでてくる太陽の姿が好きだったニギハヤヒが始めたものと考えられる。 ■瀬戸内系の祭祀 唐古・鍵遺跡から分銅型土製品が見つかっている。これは、山陰系の祭祀器具であることから、山陰系の祭祀も受け入れているようである。唐古・鍵遺跡には瀬戸内系と、山陰系の勢力がほぼ同時に入ってきていることになる。畿内系の土器が、この時期、瀬戸内・山陰地方に流れた形跡がないことから、この流れは、瀬戸内・山陰から畿内への一方的なものと判断される。また、戦闘遺跡が見られないことから、大和の勢力は、瀬戸内・山陰系の文化を平和里に受け入れたことになる。 ■大阪湾型銅戈 大阪湾型銅戈が中期末の土器と共に出土する。銅戈は北九州地方から出土するため、この地方からもたらされたものと判断するが、瀬戸内沿岸地方からほとんど出土しない上に、九州のものと形式が違っている。九州とは違った祭祀をおこなうという目的を持って、九州地方からもたらされたものと考える。大阪湾型銅戈には銅鐸と同様に鋸歯紋(ニギハヤヒのシンボル)が多用されていることから、ニギヤハヒはスサノオと九州統一をした後、畿内地方に新しい祭祀を広めるため、瀬戸内地方からもたらしたものと考えられる。 畿内の中期後半の遺跡から山陰地方と、瀬戸内地方の土器あるいは土製品が見つかっている。中期末のこれらの変化は、ニギハヤヒが山陰生まれで、瀬戸内育ちということを考えると、ニギハヤヒの侵入という伝承と完全に合致しているといえよう。 |
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■第9節 東日本統一 | |
■第一項 各種変化
ニギハヤヒは、大和に入ってしばらくした後、東日本統一に乗り出している。 伝承 「往古、武蔵の国を開発された大国主命が、初めてこの府中に御降臨になった折り..」東京都府中市・大国魂神社伝説 東日本を統一したのはオオクニヌシとなっているが、神社名の大国魂命は、他の複数の神社の伝承によると、ニギハヤヒのことであるから、すり替えられたものであるらしい。 「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし、宇摩志麻治を産んだ。その後東征し、印旛沼、手賀沼、利根川に囲まれた土地に土着した部下が、祭神の三神を産土神として祭り、鳥見神社とした。」千葉県印西町鳥見神社記録 このような伝承が東日本のあちこちで残っている。これは、大和に入ったニギハヤヒが、その後、東日本一帯を統一したことを示している。そして、統一後、各地に自分の部下を配置し、彼らにその地方を開拓させ、新技術を伝えた。この部下が方形周溝墓を持つ河内一族であると考える。大阪湾一帯の遺跡の多くが中期末を境に消滅しているが、ニギハヤヒについて統一事業に参加したものと考える。ニギハヤヒは河内一族を率いて東日本地方を統一したのである。 ■方形周溝墓の急激な伝播 方形周溝墓は、朝鮮半島より、弥生前期末頃大阪湾岸地方に移動し、中期までは、近畿地方と、北陸・東海の一部にしか見られなかったが、中期末に当たるこの時期、一挙に関東地方まで広がっている。しかし、その中心であるべき大和盆地には少ないのである。また、方形周溝墓は一挙に広まった割に地域差がかなりある。そして、この頃の方形周溝墓は西日本地方には全く見られない。 方形周溝墓に関するこれらの事象が起こった原因について検討してみよう。 まず、中期末になると、一挙に関東地方から東北地方南部まで広がっている。細かく分析してみると、短期間の間に西から東への伝播であることが分かる。その出発点は近畿地方である。近畿地方で何かがあって、その結果急激な伝播が行われたと考えるべきである。そこで、この時期、近畿地方の遺跡で起こった大きな変化を調べてみると、次のようなものがある。 ・ それまでになかった瀬戸内地方からの土器の流入が増え、そして、土器に製作技法上の変化が起こっている。 ・ 上の変化が起こってしばらくして近畿地方の多くの遺跡がこの時期ほぼいっせいに消滅する傾向がある。 ・ それ以降の遺跡は小規模なものに変わり、以前の生活形態を無視するような(墓域が住居に変わる)遺跡の分布になる。 ・ このような変化の中で唐古・鍵遺跡のみは今まで以上に巨大化し発展している。 近畿地方に東からの新しい流入はないので、近畿地方で起こった変化により、一方的に東日本地方に方形周溝墓が伝播したと考えられる。その変化のきっかけと思われるものが瀬戸内系の土器の流入にあり、また、方形周溝墓が西日本方面に伝わっていないので、瀬戸内地方からの影響を受けて、近畿地方に変化が起こり、東日本地方に伝播したものと判断される。 ■人々の移動が起こる理由 方形周溝墓が一挙に広まるためには近畿地方からの多くの人々の一斉の移動がなければならない。近畿地方の遺跡の急激な減少はこれと対応しているようである。人々の一斉の移動が起こる原因としては次のようなものがあげられる。 1 近畿地方をはじめ西日本地方が住みにくくなったために東への移動が起こった。 2 東日本地方が住みやすくなったので人々の移動が起こった。 3 東の人々から呼ばれた。 4 外部勢力の進入により追い出された。 5 近畿地方の統一政権の国王の命令で人々が一斉に動いた。 1〜3の理由では人々が広範な範囲に急激に広がるということが説明できない。住みやすさで人々が移動する場合は住みやすい特定のところに方形周溝墓が集中する傾向が出るはずである。また、唐古・鍵遺跡のみが巨大化したことが説明できない。 外部勢力の侵入がこの時期にあったのは事実と思われる。それは、瀬戸内地方と思われ、その地方の土器が出土するようになるからである。外部勢力の侵入があった場合、それまで住んでいた人々はその勢力との共存を嫌い、他の地域へ逃げることが考えられる。しかし、この場合、近畿地方で人々の入れ替えが起こるために、今までとはまったく違った遺跡の形式になるはずである。たしかに、墓域だったところが居住域になるなどの変化は起こっているが、連続的な変化ではなく、断絶がある。追い出された場合、ある時期を境に急変が起こるはずである。これは、遺跡が消滅し、その後に別の人々が移住してきたと考えた方が自然である。 また、中心遺跡と思われる。唐古・鍵遺跡を見ても、瀬戸内系の遺物は出てくるようになるが、今までの生活様式が否定されるような傾向は見られない。まして、戦闘があったと思われるような遺物は見つかっていない。瀬戸内からの影響を受けて変化したと考える方が自然である。 残る可能性は5のみである。1〜4が否定される以上、人々の一斉の移動を可能にするものは、統一政権以外に考えられない。唐古・鍵遺跡のみが巨大化していることは、近畿地方に統一政権が誕生し、その中心地(都)が唐古・鍵であり、その統一政権の指示により、人々の大移動が起こったと見るのが自然である。 ■移動の目的 次に重要となるのが、この統一政権が人々の大移動を起こした目的である。重要な目的があったからこそ、人々の移動が起こるのである。伝承については後で検討することにして、まずは、考古学的見地からその目的を推定してみようと思う。 まず、第一のポイントは非常に広範な範囲への一斉の移動である。おそらく10年ほどの間に東海地方から南東北まで一挙に広まっているのである。しかも、現地の人々と戦いがあった形跡もなく、平和裏に行われているようである。方形周溝墓は祭祀系の墳墓であり、その墓域から祭祀系土器が良く出土し、副葬品は少ない。これは、力でもって現地の人々を征服したのではなく、宗教的進入を意味している。宗教を広めるための移動であれば、広範囲にいっせいに移動し、平和裏に現地に侵入するということもあわせて説明できる。実際、この領域は地域差はあるがこのあと、銅鐸祭祀が広まっているのである。 スサノオの国家統一方法と同じように、ニギハヤヒが新技術を示して、東日本地方を統一して回ったと考えれば、考古学的事象と矛盾なく一致するのである。東日本地方の神社に伝わる伝承のように、ニギハヤヒが近畿地方に住んでいた人々を率いて、東日本地方を回り、各地にその人々を配置し、その人々がその地方に近畿地方の高度な文化・技術・祭祀を伝えたと考えられる。東日本地方に住んでいる人々は、この技術で生活が潤い、ニギハヤヒの行動に感謝した。東日本地方の各地域はニギハヤヒの日本国に加盟し、日本国は一挙に近畿地方から南東北地方までを治める巨大な統一国家になったものと考えられる。 |
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■第二項 統一方法
東日本地域は、畿内への土器の流入状況から判断して、畿内と似たような共通の文化圏に属していたようである。このため、東日本地域の統一は、比較的簡単ではなかったかと想像する。 近畿地方よりも東の地方は、中国大陸や朝鮮半島から離れている関係上、外国の技術は全くといってもいいほど入っていなかったと考えられる。そこへ、農業などの新技術を持ってニギハヤヒが訪れ、新技術を使った生活を伝えてゆけば、その技術が人々にニギハヤヒを神ではないかと感じさせ、併せて祭祀をすることにより、人々の心を一つにまとめ、国を統一していったものと考える。西日本地方の伝承と違い、東日本地方の伝承が国を開発したとか、開拓したとかのものが多いのはこのためであると考えられる。 方形周溝墓から出土する土器に祭祀系のものが多く、その他の副葬品が少ないことから、方形周溝墓は祭祀者の墓と考えられる。ニギハヤヒと共に東日本地域を統一した河内一族は、ニギハヤヒからその地の開拓を任され、ニギハヤヒの祭祀をする事で、その地方を治めていた。方形周溝墓はその祭祀者の墓と判断する。 |
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■第三項 地方での墓制のわずかな違い
方形周溝墓にしても、古墳にしても、箱式石棺墓にしても、ある地域から地方へ広がっているのであるが、墓の微細な部分はかなり違っているのである。同じ一族が集団で動けば、その地方に元の地方と全く同じ墓を作るはずである。そして、もし人々の移動がなければ、離れた地域の墓制をまねすることはとうてい考えられない。つまり少人数の移動としか考えられないのである。しかも、これらの墓制は広い範囲に分布していることから、少人数の広範囲な移動ということになる。これは大変不自然なことである。少人数ながら広範囲であることを考えれば、その合計人数は相当大規模なものとなる。大人数が広い範囲にバラバラに移動するということは、通常考えられない。全く見知らぬ地へ移動するわけであるから、当然不安があり、どうしても大集団を作るはずである。大集団となれば、墓も、移動元とそっくりにならなければおかしい。これはどうしたことであろうか。 伝承とつなぎ合わせてみるとこの謎も解決するのである。畿内から役人あるいは技術者が地方へ派遣されたと考えるのである。少人数では不安もあるが、大和朝廷によって統一され、しかも、地方まで、同一の神(スサノオ・ニギハヤヒ)を信仰しているという事情があれば、共通の精神基盤であるから、派遣された人物は、その地方に入り込みやすく、その祭祀を行っていれば、その地方が治まっているわけであるから、大人数を派遣しなくてもよいわけである。朝廷にしても人数に限界があるために、各地方に大人数を派遣するわけには行かず、少人数の派遣にしたわけである。その人々が河内一族である。そのため、この時期、大阪湾一帯の住居遺跡が激減することになる。 人々はニギハヤヒの技術でもってニギハヤヒを神と思っているわけであるから、ニギハヤヒに従っていた人間も神に近い存在として受け入れたのではあるまいか。スサノオの統一と同じ宗教統一である。少人数の場合死後墓を作るのに在地の人々が中心になって作ることになり、他の地方と同じものが作れなかったと考える。その代表者にシンボル的なものを持たせて、地方に派遣し、祭祀をしっかりやれば、地方を治めることができたのである。このことも初期大和朝廷が、力による統一ではなくて、平和裡の統一をしたことを裏付けている。 |
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■第四項 少人数での統治
少人数で地方を治めることは難しいので、ニギハヤヒが統一した地域に、畿内からニギハヤヒ祭祀者がやってきて、ニギハヤヒ祭祀によってその地方を治めたと考える。その祭祀のシンボルが河内一族が持ち込んだ小銅鐸ではなかったのだろうか。小銅鐸は河内一族が朝鮮半島から移ってきた時に日本列島に持ち込んだものと考えるが、これによって、それまで鳴り物であった銅鐸が祭器化し、ニギハヤヒのシンボルである鋸歯紋が重要視されるようになってきたと判断する。大和盆地に方形周溝墓が少ないのは、河内一族とナガスネヒコ一族との対立関係のため、河内一族が大和に入ってくるのをナガスネヒコ一族が許可しなかったことと、四隅突出型墳丘墓と同じく、祭礼の場所が決まっていたからと考える。大和にはニギハヤヒの霊廟(三輪山)が存在し、人々はその前で、祭礼をしていたのである。 |
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■第五項 統一過程の推理
饒速日尊は河内平野、大和盆地一帯を統一完了した紀元40年頃、東日本一帯を統一するために、大和を出発した。饒速日尊が大和にマレビトとして入り込んで15年の間に、饒速日尊や他のマレビトたちによって、大阪湾岸一帯に誕生した子供たちも15歳ほどに成長した。スサノオが西日本一帯を統一した時と違い、大阪湾岸一帯の諸国は饒速日尊一族で占められることになった。大変多くの人々の協力が得られたので、饒速日尊自身が東日本一帯を巡回して統一して回るのではなく、大阪湾岸一帯の人々を数多くの小集団(おそらく家族単位)に分け、先進技術を携えて、東日本一帯の各地の国々に入り込んで共同生活したものと考える。方形周溝墓の分布から判断して、中部地方・関東地方・南東北地方までの大変広い領域が10年ほどで一斉に統一されていること、饒速日尊の具体的行動伝承が西日本ほど多くないことなどから、このように判断するのである。 東日本の諸国に派遣された小集団(家族)は、目標の小国に入り込み、現地の人々と共同生活をしながら、ヒノモト国のもつ技術と共に祭祀を伝えた。現地の人々は、いろいろと新しい技術を提供してくれた派遣者に感謝し、ヒノモト国に加盟することを承諾し、派遣者の死後、派遣者の伝えてくれた祭祀法によって方形周溝墓を造り、祭祀を継続したものと判断する。 このように考えれば、大阪湾岸一帯の遺跡が消滅すると同時に、東日本一帯に一挙に少しづつ形式の違う方形周溝墓が分布するようになる事実をうまく説明できる。 饒速日尊は紀元40年ごろから55年ごろにかけて、東日本一帯を統一してヒノモト国を拡張したのである。統一完了後、紀元55年ごろ、饒速日尊は大和に帰還した。 具体的な統一過程の解明は東日本地域が広範囲である上に、伝承がばらばらであるために至難を極める。少ない伝承を推理を交えて繋ぎ合わせてみたいと思う。 |
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■饒速日尊による東日本統一伝承 | |
饒速日尊は東日本全域を統一していると思われるが、それを示す伝承は少ない。おそらく、後の時代饒速日尊の伝承が抹殺されたためではないかと思われる。東日本地域の一宮・二宮級の神社には出自不明の神が祀られていることが多い。一宮・二宮級の神社は後の世の国造が神社に参拝する順番を示しており、その国を統治するには重要なことであった。そこに祀られている神が全く意味のない人物と言うことは考えられず、その出自不明の神々は、その国を開発した重要人物すなわち饒速日尊の別名ではないかと推定する。
それを示す伝承をもつ神社が見つかった。 |
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■矢田八幡神社
祭神「應神天皇、神功皇后、武諸隅命 配 孝元天皇、内色姫命」 「崇神天皇10年。四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。」豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による) 京都府熊野郡久美浜町大字佐野字地シワ38 この神社の記事には饒速日尊を祭神とする神社に蘇我氏の追求が来て祭神を変更しなければならない状況が伝えられている。これが饒速日尊が抹殺された実態であろう。このために、古代史の復元が至難を極めることになる次第である。しかし、複数の神社の伝承を照合することにより、この変更された神の実態に迫れればよいとは思っている。 神社に祭られている神々は 1 はっきりと人物が特定できる神 2 同一人物が別の神名で祀られている 3 複数の人物の総称 4 祭神が不明であったり間違っている などがあり、いずれも伝承であり、物的証拠のあるものではない。神社に祭られている神の正体を探るのは並大抵のことではない。また、その地域の人々に崇め祀られている神の名を勝手に変更するのは、あまり気が進まない。その上、複数の異説を持つ事が多く、その中の一つを採用することになる。これは、都合のよい解釈につながり、古代史の復元の方針とは合わない。そこで、各地域に祀られている神々が饒速日尊とつながる面を持っているかどうかに絞って調べてみることにする。 |
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■大山祗神(駿河国一宮三島神社他)
大山祗神はスサノオの妻の稲田姫の祖父として神話に登場する神である。伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギ命の妻吾多津姫の父として祀られている。これらは同一人物とは考えられない側面があり、その土地の有力者を大山祗神と呼んでいることがうかがわれる。しかしながら、三島神社で祀られている大山祗命は行動実績を伴っている。東日本地域の一宮級の神社の祭祀の原点を探ってみると大山祗神であることが多い。地域の土着神である可能性もあるが、これは一人の同一人物と考えてみる。 1 大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている。饒速日尊は大和に侵入する時の伝説地をたどると、まさにこの周辺に上陸したと考えられる。また、伝承上他の人物で、大山祗神に該当するのはいない。このことより大山祗神と饒速日尊がつながる。 2 伊予国大三島の大山祗神社には「わが国建国の大神で、地神・海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、日本総鎮守と者社命を申し上げた。大三島の御鎮座せられたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫小千命が伊予二名島に(四国)に渡り神地御島(大三島)に祖神大山積命を祀った。」とある。「建国の大神」とくれば、スサノオ・ニギハヤヒが該当する。日本の総氏神・総鎮守と言うのはスサノオの活躍が西日本限定であるので饒速日尊が該当する。また、小千命の祖神は「新撰姓氏碌」によれば、「饒速日尊」である。 饒速日尊は各地を訪れた時、周辺の地勢を探るために、その周辺で最も高い山に登ったものと推察される。そのために、各地方の山に大山祇神が祀られ、「山の神」として崇拝されることになったのであろう。 |
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■宇賀御魂大神(稲荷神社)
古事記では、スサノオと稲田姫との間に生まれ、大年神(饒速日尊)は兄としている。日本書紀では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。スサノオと稲田姫との間の第6子に倉稲魂命がいてこの人物だと言われている。しかし、この人物の具体的行動実績は全く伝えられていない。行動実績がないのに大々的に祭祀されているとは考えにくく、別の人物が倉稲魂命に移ったものと考えられる。 1 宇賀御魂大神は陸中国一宮駒形神社社伝「雄略天皇21年に、京都の籠神社から宇賀御魂大神を勧請して奥宮へ祀り」とある。籠神社の祭神は彦火明命で別名饒速日命である。 2 稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社である。その聖地は稲荷山である。稲荷山頂付近は古墳が多く、稲荷信仰が始まる前にも祭祀者の子孫による古墳の祭祀があった。神として祭祀されるのはその始祖である。この付近は紀郷と呼ばれており、紀朝臣の一族が栄えた場所である。紀朝臣の祖は彦太忍信命(孝元天皇皇子)であり、母は伊香色謎命で饒速日尊6世の孫である。 3 稲荷山信仰には「己さん」(神蛇)信仰と「験の杉」という「杉」を縁起物として参詣者が持ち帰る風習がある。これらの信仰は大神神社に古代より伝えられている信仰でもある。 4 神奈川県の秦野に近い大山の阿夫利神社は、秦野に住み着いた秦氏が作った神社で祭神は大山祇命である。伏見稲荷大社も秦氏が創建している。 |
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■浅間大神(甲斐国一宮)
浅間大神の総本社は富士山本宮浅間大社である。この神社ができる前この位置には冨知神社が鎮座していた。神社の記録には「祭神(大山祇)は当地の地主神であり、富士山の神であつたと思われる。現在、淺間神社が鎭座する大宮の社地は、もとは幅地明神富知神社の社地であつたという。淺間神社は平城天皇の大同年中に山宮から今の地に移したのであつたから、大同年間以前は富知神社は大宮に鎭座していた。」と記録されており、浅間神社の大本は冨知神社である。この神社の祭神は大山祇神である。 |
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■白山神(加賀国一宮)
白山の神を祀る神社は白山神社である。加賀国の白山比盗_社(現石川県白山市)を総本社とする。祭神は菊理媛神(白山比盗_)・伊弉諾尊・伊弉冉尊 3柱としているものが多い。御前峰の奥宮には菊理媛命を、大汝峰の大汝神社には大己貴神を、別山の別山神社には白山の地主神である大山祇神をお祀りしています。大己貴神『白山之記』では本来の地主神が、白山権現に御前峰を譲って別山にお鎮(しず)まりになったとされている。白山信仰が始まる前に白山に祀られていたのは大山祇神と言うことになり、白山神は本来は大山祇神=饒速日命であったと思われる。 滋賀県高島郡今津町北生見21の白山神社の主祭神は「大山祇命、伊弉諾尊」であり、これを裏付けている。 |
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■寒川大明神(相模国一宮)
寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。 1 讃岐国寒川郡に讃岐国三宮の多和神社がある。祭神は大山祇神である。 2 千葉県印西町鳥見神社記録に、「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし、宇摩志麻治を産んだ。その後東征し、印旛沼、手賀沼、利根川に囲まれた土地に土着した部下が、祭神の三神を産土神として祭り、鳥見神社とした。」とあり、関東地方を開発したのは饒速日命である。 以上の点から寒川大明神は饒速日命と考えられる。 |
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■大山咋神(松尾大社・日吉大社)
古事記に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝山に坐し、また松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ」これにより、両大社の神は同神であることが分かる。 1 日吉祢宜口伝抄」に「天智7年3月3日鴨賀島8世孫宇志麻呂に詔されて、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口おいて祭る。大比叡宮と曰ふ」とある。これは日吉大社の祭神は大神神社の祭神と同じということを意味し、大山咋神=大物主神となる。 2 「群書類従」日吉社の項に、「大宮。三輪同体。號大日枝。山王與三輪一躰事」とあり、これも大山咋神=大物主神であることを意味している。 しかし、大山咋神は大歳神の御子とも云われており、猿田彦命の影も併せ持っている。 |
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■国常立神(玉置神社)
小村神社(高知県高岡郡日高村下分字宮の内)の祭神は国常立神であるが、この地は高岡郡日下の庄と呼ばれ、日下氏、高丘首が住んでいた。土佐幽考に「日下氏は神饒速日命の孫比古由支命を祖とし、高岳首は同祖15世物部麁鹿火大連を祖とするとされ、その共通の祖神として国常立尊を祀った」とある。このことより「国常立神=饒速日命」が成り立つ。 |
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■豊国主命(相模国三宮比比多神社)
豊雲野神・豊斟渟尊と同一神と考えられている。 比比多神社の記録によれば創建は神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったとある。神体山が大山であり、この山は古くから庶民の山岳信仰の対象とされており、大山講と呼ばれた。山頂には阿夫利神社本社があり、祭神は大山祇神である。これより、豊国主尊=豊雲野神=豊斟渟尊=大山祇神=饒速日尊と云うことになる。 |
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■日本大国魂神
日本大国魂神は大国主命の荒魂と言われている。 1 日本書紀一書には大国主神の別名として大物主神、大国魂神とある。この神は大和神社の主祭神で、現在の大神神社の摂社である狭井神社はその昔、大和神社の別宮であったと言われている。祭神は大神荒魂神である。 2 国玉神社(名古屋市中川区)主祭神大物主神、尾張大国霊神社より勧請したというが、この神社の祭神は尾張大國霊神・大御霊神で尾張地方の総鎮守と言われている。 これらのことより大国魂神=大物主神=饒速日尊と考えられる。 |
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■伊奢沙別命(越前国一宮気比神社)
伊奢沙別命は笥飯大神、御食津(保食)大神とも云われている。 これは宇迦御魂、すなわち稲荷神の異称と言われている。宇迦御魂=饒速日尊と推察しているので、伊奢沙別命=饒速日尊となる。また、伊奢沙別命は北陸総鎮守として崇められており、これはあ、北陸地方を統一した神となり、加賀国の白山神と同様に饒速日尊がその正体であることが推察される。 御食津大神は食物を主宰する神で、宇迦乃御魂神は稲の霊、大年神は稲の稔りを司る神でいずれもよく似た役割の神である。同一人物としても不思議はない。 |
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■建御雷神・経津主神(鹿島神宮・香取神宮・春日神社)
建御雷神・経津主神はともに葦原中国平定において天鳥船とともに葦原中国の荒ぶる神々を制圧し、建御名方神との戦いに勝利し、葦原中国を平定した神である。 1 「群書類従二十二社註式」に「石上社 延喜神祇式曰。大和国山辺郡石上坐布都御魂神 人皇十代崇神天皇。御鎮座 一座布留神也 常陸国 鹿島大神同体也」この記事は鹿島大神=建御雷神=布留御魂神であることを意味している。布留御魂神=饒速日尊であるから、建御雷神=饒速日尊となる。 2 「古事記」には建御雷神のみで経津主神は記述されていない。しかし、建御雷神の別名に建布キ神、豊布キ神とあり、この二神は同神と考えられる。 3 福岡県田川市に春日神社があるが、ここは饒速日尊の降臨伝承地である。 春日神社はこの二神が祀られていることから春日大神も饒速日尊と考えられる。 |
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■高良玉垂命(高良大社・筑後国一宮)
「先代旧事本紀」「天孫本紀」において物部氏の祖神饒速日尊は三二人の従者と二五部の物部軍団を率いて大和国へ降った記述がある。その物部軍団の本拠地は北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。その中心地が高良大社のある高良山と推定されている。「姓氏家系大辞典(角川書店)」によると、「筑後、当国は物部族の最初の根拠地にて、当地方の大社高良山はその宗社と考えられる」。このことから高良大社の祭神高良玉垂命も物部氏の祖神饒速日尊となる。 また、高良大社の元の祭神は高皇産霊神で、あとからやってきた高良玉垂命に場所を譲ったと記されている。 |
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■大縣大神(尾張国二宮)
大縣大神は尾張国開拓の祖神で国狭槌命とも云うと記録されている。尾張国開拓の祖神は同じ尾張国一宮の真清田神社、三輪神社の祭神でも明らかであるが饒速日尊である。国狭槌命は異説に国常立命と同神であると云うのがあり、大縣大神=国狭槌命=饒速日尊となる。 |
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■大物忌大神(出羽国一宮)・級長津比古命(出羽国二宮)
大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。 1 大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神・宇賀御魂神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。 2 広瀬神は龍田神社の風の神と同神と言われており、日本書紀では級長津彦命も風の神と言われている。伊勢神宮外宮の別宮に風宮があり、級長津比古命を祀っている。 3 「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。 4 龍田大社の元宮の聖地は背後の三室山にある。この御室山は三輪山の別名でもある。 これらより、大物忌大神=級長津比古命=宇賀御魂神=饒速日尊とつながる。 |
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■二上神(越中国一宮)
現在はニニギ命となっているが、本来は二上山に祀られていた神である。同じ名の大和の二上神社は豊布都霊(とよふつのみたま)神と大国魂(おおくにたま)神を祀る。豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承がある。豊布都霊神については武雷神と同神とされる。大国魂神は国津神の大将軍とされている。これらの神々はいずれも饒速日尊である。 |
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■金山彦(美濃国一宮)
製鉄の神。 1 金山彦神社 「古代の嶽山・竜田山周辺地域は製鉄業で栄えており、製鉄の守護神として奉祀されたのがはじまりと思われる。北方の高地は製鉄を営むのに最も適した風か得られるところで、風神をお祀りしたと思われる風神降臨の聖地として御座峰が伝承されている。」。鞴が発明されていない頃は製鉄には風が欠かせないことから風の神と金山彦がつながったのであろう。金山彦=風の神=饒速日尊となる。 2 島根県邑智郡川本町に大歳金山彦神社がある。祭神は大歳命である。この神社名は大歳=金山彦を意味している。 3 岡山県津山市の中山神社には、主祭神が鏡作神、相殿が石凝姥命で、社伝には「一に中山大明神または南宮と称せられる・・・金山彦命を祀る」となっている。 主祭神の鏡作神は金山彦命となり、鏡作神は鏡作坐天照御魂神社の主祭神、天火明命(ニギハヤヒ命)であるので、ニギハヤヒ命=金山彦となる。 |
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■生島・足島神(信濃国上田)
日本の国魂の神とされる。同一神と言われている。 1 生国魂神社 祭神 生島神、足島神 神社略記によれば神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしている。この石山はかっては磐舟神社があり、饒速日命の降臨の地ともされていた。難波の聖地であった。この事実は生島神、足島神=饒速日命であることを意味している。 |
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■高オカミ神・闇オカミ神(貴船神社)
1 京都貴船神社 「貴船神社の社殿の裏側の山手に岩座という3つ大きな岩があり、有史以前から岩座で祭事が行なわれていたと言われている。その昔玉依姫が、浪速の津から淀川・賀茂川をさかのぼり、船が着いた貴船の地に祠を建て、国土の安泰を願ったと言われており、その船が貴船神社の奥ノ宮にある「船形石」とも言われている。その船は黄色い船であったため、この地が「きぶね(貴船)」と呼ばれるようになったとも話がある。この貴船神社に祀られているが、高(たか)オカミの神、闇(くら)オカミの神である。高オカミ、闇オカミは同じ神で、闇オカミは谷の水、高オカミは岡の水を表しているとのこと。」 2 貴船神社の祭神は丹生川上神社の祭神と同じと言われており、また、大和神社は丹生川上神社の本宮である。このことより、高オカミ=闇オカミ=饒速日尊となる。 ここに挙げた神々はいずれも饒速日尊と何らかのつながりが認められる神々である。しかし、他の人物の影も見えるので、完全に等しいというわけではなさそうである。たとえば数学の集合で表すと「宇賀御魂神∋饒速日尊」と言ったところであろうか。 |
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■天日槍命来日 | |
天日槍命が垂仁天皇の時代に来日したと日本書紀に伝えられているが、大国主命との争いが神社伝承で伝えられている。一体これはどういうことなのだろうか?この謎を解明したいと思う。
天日槍命が日本にやってきたのは垂仁天皇3年(日本書紀でBC27年)と言われているが、天日槍命は新羅第4代国王脱解王(AD57年〜AD80年)の子であると言われている。脱解王はAD57年に62歳で即位したと伝えられており、その誕生はBC5年頃と推察される。よって、AD15年頃新羅国で誕生したと考えられる。このことから天日槍命が日本にやってきたのはAD30年頃以降となる。大国主命との争いが伝えられているが、大国主命が播磨国を統一していたのはAD30年頃と推定しているので大体一致している。この頃は大和国に饒速日尊がマレビトと共に降臨して数年たったころである。天日槍命が来日し、丹波国に至るまでの過程を追ってみたい。 父である脱解王の誕生説話は韓国の民間伝承に次のように言い伝えられている 「昔、倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を龍城国とも言った。国王の名前を含達婆といい、女王国の女を王妃としていた。 その王妃は妊娠から7年目にして大きな卵を産んだ。国王は怪しいと思って、それを捨てさせた。王妃は絹布で卵を包み、櫃の中に入れて船で海に流し「有縁の地に到り、国を建て、家を成しなさい」と祝福して別れを告げた。その船は阿珍浦(慶州郡陽南羅児里)に流れ着いた。その地の老婆が空を見上げると、鵲(かささぎ)が盛んに鳴きながら飛んで来たので、何故かと思って行ってみると、船の中に子供を見つけた。 その子供を大切に育てると、人々が尊敬するような人物になった。 鵲の飛鳴によって発見したので、鵲の字の鳥を除いた字である「昔」を姓とした。また、老婆が櫃(ひつ)を解いて出現したので名前を「脱解」とした。その賢名を聞いた朴氏第二世の南解王は、彼を婿に迎え、朴氏第三世の儒里王が崩御した後、遺言によって新羅国の第四代の王となった。」 実際はBC5年頃誕生ではあるまいか。脱解王の出身地は、東北一千里のところにある龍城国(竜宮国)となっている。一千里は魏志倭人伝と同じとすれば100km程度となる。方向が若干違うが倭国(北九州)から100km離れた位置の対馬国がこれに該当するのではないだろうか。対馬国はBC10年頃素盞嗚尊が建国した国で、豊玉彦(海神)が統治していた。日子穂穂出見命がここへ竜宮を目指してやってきている。素盞嗚尊はこの当時倭国と朝鮮半島を対馬を経由して何回も往復していた。脱解王は素盞嗚尊の子とも考えられなくはない。 天日槍命はこの脱解王の子と言われている。誕生はAD15年頃であろう。古事記・日本書記・播磨風土記を元にしてその後をまとめてみると 新羅の阿久(アグ)沼<大韓民国慶州市>の辺で、昼寝をして居た女性が太陽の光を浴びて、目映い赤玉を産み落としたと言う噂を聞いて、譲り受け、持ち帰った処、赤玉は美しい乙女に変身し、天日槍は妻に娶り、楽しい歳月を送るが、夫婦喧嘩の末に「祖国へ帰る」と云い残し、日本に逃げ帰った妻阿加留比売(あかるひめ)を追い、家督を弟知古(ちこ)に譲り来日。 |
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■大国主命と天日槍命との戦いを示す伝承<播磨国風土記>
1 揖保郡・揖保の里 粒丘 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命に お乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった。境内に「粒丘」と彫った石標がある。<兵庫県たつの市揖保町中臣1360 中臣印達神社> 2 新良訓 昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓とよぶ。 3 穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。<宍粟市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大国主神」> 4 穴禾郡比治里奪谷 葦原志挙乎命と天日槍命が奪いあったので、奪谷と云う。 5 穴禾郡柏野里伊奈加川 葦原志挙乎命と天日槍命が国を奪い合った時、馬がいなないたので、伊奈加川と云う。 6 兵庫県姫路市一宮町須行名407 伊和大神と天日槍命が国を争い、天日槍命が先に占拠した。「度[はか]らずに先に・・」と云ったので波加村と云う。<伊和坐大名持御魂神社「大己貴神」> 7 餝磨郡・伊和の里伊和部 積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、 「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。<手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大国主命」もとは三輪明神> 8 穴禾の郡・御方の里 葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の 黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。<姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」>葦原志許男神と天日槍神との戦いを仲裁するべく大和から高皇産靈神がやって来て和議があいなった。そこでお三方をお祭りしたので御方神社と呼ぶ。 9 神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。<姫路市船津町八幡> ■国土開拓伝承 10 因達の神山 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、 その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。 11 揖保郡・香山の里鹿来墓 揖保郡・香山の里鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。 <揖保郡新宮町香山> 12 揖保郡・阿豆の村 揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。<揖保郡新宮町宮内> 13 揖保郡・御橋山 揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。<揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)> 14 揖保郡・林田の里談奈志 揖保郡・林田の里談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし) をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。<姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」> 15 揖保郡・林田の里・伊勢野 揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命(建比名鳥命の子)、伊勢都比売命である。<姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤> 16 揖保郡・林田の里・稲種山 揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の?岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、 「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられた。山の形も稲積に似ている。<姫路市下伊勢 峰相山> 17 穴禾の郡 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。<宍粟市 伊和神社> 18 穴禾の郡・比治の里・宇波良の村 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまる で室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。 19 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。<姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」> 20 穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。<宍粟市山崎町梯川> 21 穴禾の郡・雲箇の里(うるか) 大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。<宍粟市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」> 22 穴禾の郡・御方の里・伊和の村( 大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和) 大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。<宍粟市一宮町伊和 伊和神社> 23 賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。<下里川流域> 24 賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。<加西市豊倉町の飯盛山> 25 賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。<東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」> |
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播磨国風土記に伝わる伝承を伊和大神と天日槍命との戦いと伊和大神の国土開拓に分けてまとめてみた。大汝命=伊和大神=葦原志挙乎命=大国主命と考えられるが、少々複雑なようである。平和的な国土開拓と天日槍命との戦いが入り乱れており、異なる時代の出来事が重なっているようである。
この地域にやってきた人物は最初は、25番より素盞嗚尊であることが分かる。また、10番は子が火明命(饒速日尊)であることから、大汝命は大国主命ではなく、素盞嗚尊を指しているようである。17番、22番、25番は国土統一の終了を意味しており、ここの伊和大神は素盞嗚尊を指しているのではないか。BC5年頃、素盞嗚尊は幼少の火明命(饒速日尊)を伴ってこのあたりを統一したのであろう。 AD30年頃、新羅から天日槍命がこの播磨国に上陸している。ここで、伊和大神と戦いをしている。9番より判断してこの戦いは集団戦だったようである。また、3番、7番は伊和大神が饒速日尊であることを示している。しかし、16番は少彦名命を伴っているので、この大汝命は大国主命であろう。最後に8番で高皇産霊神が大和からやってきて仲裁しているが、これはいったい誰なのであろう。 これに対して古事記・日本書紀を中心としてまとめると、以下のようになる。 其の間阿加留比売は難波の比売詐曾(ひめこそ)神社の祭神と成ってしまう。天日槍は八種の神宝を持参して難波を目指し、一旦播磨の国宍粟(兵庫県宍粟郡)に上陸。噂を聞いた垂仁天皇は使いを出し、何故新羅の王子が日本に来たか問うと、「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した」と答えると、其の宍粟周辺の領地を与える約束を受けたが、妻を求める為、宇治川を上り、近江の国<滋賀県>・若狭の国<福井県>から但馬の国<兵庫県>をさ迷ったが思い果たせず、(難波を播磨・但馬と聞き間違えたのか?)出石の住人俣尾(またお)或いは、麻多烏の娘前見津を娶り、天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。出石神社の祭神である。 この当時はAD30年頃で垂仁天皇の時代ではなく、まだ統一が完了していなかったが大和に君臨していたのは饒速日尊である。よって、この伝承の垂仁天皇は饒速日尊を指していることが分かる。そして、仲裁したのがこの饒速日尊のようである。とすると、天日槍命と戦ったのは大国主命と言うことになる。 これらをもとに天日槍命の戦いの実態を推定してみると次のようになる。 BC5年頃、素盞嗚尊がこの地を統一していたが、素盞嗚尊の技術供与が十分でなかったために、この土地の人たちはまだ未開の状態にあった。そこへ、AD30年頃、大国主命と少彦名命は出雲から美作国を経由してこの地を開拓するために播磨国にやってきた。揖保川河口付近を開拓していたころ、天日槍命が朝鮮半島の高度な技術を携えて、揖保川河口付近にやってきて大国主命に、「土地を譲ってくれ」と言ってきた。大国主命はその高度な技術と異様な雰囲気から、倭国とは別の独立国を作ろうとしているように思えて、上陸を許さなかった。 天日槍命は大国主命の指示を無視して、揖保川を遡り上流に居ついてしまった。大国主命はこれはまずいと思って、揖保川を遡り、天日槍命軍と長い戦いになった。揖保川流域で大国主命と天日槍命が戦っているという情報を聞いた饒速日尊は早速、この地を訪れて、双方から事情を聞いた。天日槍命は「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した。」と答え、倭国とは別の国を作るという気持ちがないことが分かり、宍栗周辺を提供した。先に来た妻を探して、宇治川を上り、近江国・若狭国・但馬国をさ迷ったが思い果たせず、出石の住人俣尾娘前見津を娶り、そこに住み着いた。天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。 |
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■北近畿地方の統一 | |
近畿地方北部(丹波国・丹後国・若狭国・但馬国・山城国)は、どの時期にどのように統一されたのであろうか、ここではこの地域の統一過程を推定してみよう。 | |
■統一関連伝承
■丹波国 ●一宮 出雲大神宮 京都府亀岡市 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊 「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記す。 出雲神社などと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる。従って縁結びの神ということも当宮を指すのである。兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎない。 三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りの砌天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である。 日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である。 ●桑田神社 京都府亀岡市篠町山本北条51 市杵島姫命・大山咋命・大山祇命 往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる。古くは丹波(たにわ)といわれ、赤い土で染まった大きな湖だったこの地を、出雲大神が八人の地祇と協力して、浮田(請田)の狭を切開き、湖を干拓して桑畑(桑田)に変えたという。その謂れにより左岸に請田神社、右岸に桑田神社、そして干拓に用いた鍬が山を成した上矢田の地に、鍬山神社を祭ったと伝えられる。 また、大己貴命が、丹(あか)い波の湖を見て、この水を無くせばすばらしい農地をつくれるだろうと、この地の八人の神様と協力して浮田を切開き、水を保津峡に導いて豊かな農地を作ったというような同様の伝承もある。 桑田神社は、鍬山神社の祭神と共に保津の山峡を切開き、亀岡盆地を干拓したという大山咋神と市杵姫命を祭っている。市内では古い社で、大日本史神祇志に、この社地辺を桑田というと記されている。 ●小川月神社 京都府亀岡市馬路町月読16 月讀命 神代 『丹波国桑田郡小川月神社 名神大社』によれば、「神代よりの旧地なり」と記しており 当神社は昔から月読神社とも言われている。「延喜式」神名部に、丹波の国桑田郡(今の亀岡市及び北桑田郡)十九座の中の大社二座の一つで桑田郡第二の大社とあり、また古記録は、伊勢の内宮・外宮が今の地に遷座される前の末社であり、神代から当地に祀られていたと伝えている。 ●愛宕神社 京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1 伊邪那美命 火産靈命 大國主命 701 愛宕神社は全国に御分社800余社を有し、防火・火伏の神として崇敬されている“愛宕さん”の総本宮として海抜924メートルの愛宕山、山上に鎮座する。 創祀は神代と伝えられ山を神籬として祭られた。 ●大井神社 京都府亀岡市大井町並河1-3-25 御井神、月読命、市杵島姫命 710 伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座された。 ●請田神社 京都府亀岡市保津町字立岩4 大山咋命 市杵嶋姫命 祭神・大山咋命は自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き亀岡盆地を開拓した神。その開拓の開始の鍬入れを「受けた」ので、請田と呼ばれているという。祭神大山咋神は、丹波地方を開拓するため、出雲地方から来られた神といわれ、当社および川向うの桑田神社のある保津川入口から開拓を始められたと伝える。 ●多吉神社 京都府亀岡市西別院町柚原北谷1 高御産靈神、神産靈神 祭神高御産霊神は、古事記等に国ゆずりや天孫降臨を命令された筆頭の神として登場され、天照大御神が皇室の祖神としてあがめられる以前にあっては、大王家の祖神であったとされている ●村山神社 京都府亀岡市篠町森山先34 大山祇命、木花開耶毘賣命 桑田神社の祭神と同じく、泥湖を干拓された神であるという伝説がある。社伝によるともとの社域は広かったが、兵火により焼失、応永二十七年、領主渡辺頼方が社殿を再興したとある。社殿背後の洪積台地は宮山といい、古代陶器の窯跡があり、このあたりから王子にかけての山麓に登窯が作られ、須恵器や瓦が焼かれていたという。又、裏山には、神霊の天降る聖地として重んじられた禁足地が残されている。 ●鍬山神社 京都府亀岡市上矢田町 大己貴尊 大昔この地は泥湖であったが、大己貴命は東方浮田峡を開いて水を決せられた。よって鍬山大神として称えられたと言う。 往古、当地は大蛇の住む泥湖であった。そこで祭神・大己貴命が、八神を黒柄山に集めて協議し、みずから鍬を持って浮田峡(保津峡)を切り開き、肥沃な農地としたという。里人は、その神徳を慕い、天岡山の麓に大己貴命を祀ったのが起源。社伝等によると、亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命が黒柄山に八人の神様を集め一艘の樫船に乗り一把の鍬で浮田の峡を切り開き、肥沃な農地にされたと伝えます。 ■山城国 ●一宮 賀茂別雷神社 京都市北区 賀茂別雷大神 ○ 神武 社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える 日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。 丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。 ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神賀茂別雷命である。また、父は乙訓社の雷神であったという。 ●一宮 賀茂御祖神社 京都市左京区 賀茂建角身命 不詳 上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である ●乙訓坐大雷神社 京都府長岡京市井ノ内南内畑35 火雷神 乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった ●國中神社 京都府京都市南区久世上久世町773-3 大綾津日神、大直日神、神直日神、素盞嗚尊 素戔鳴神を御祭神とする國中宮は、神代の頃、午頭天皇=素戔鳴尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた。その符とは素戔鳴尊の愛馬、天幸駒の頭を自ら彫刻し て、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わし給うたのである。この形見=馬の頭が國 中宮の御神体として祀られている ●向日神社 京都府向日市向日町北山65 向日神 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。 ●久我神社 京都府京都市伏見区久我森ノ宮町8-1 建角身命、玉依比賣命、別雷神 当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。 ●松尾大社 京都府京都市西京区嵐山宮町3 大山咋神 中津嶋姫命(市杵島姫命) 祭神・大山咋神は、古事記に、「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されている神。「鳴鏑」の伝承に似た伝説は、賀茂別雷神社にも残されており、別雷神の父神は、大山咋神となっている。大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。当社は、「酒の神」として有名である。 ●久我神社 京都府京都市北区紫竹下竹殿町47 賀茂建角身命 神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、賀茂県主の祖神である。 ●貴船神社 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180 高オカミ神 闇オカミ神 罔象女神 玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭ったのが当社の起こり。玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。 ●岡田鴨神社 京都府相楽郡加茂町大字北字鴨村44 建角身命 。「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降 られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわ ち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神 は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂 村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。 |
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■丹波・山城国の開拓時期及び開拓者
松尾大社に伝わる伝承では山城国・丹波国を開発した神は大山咋神となっている。また、丹波国鍬山神社、桑田神社、請田神社、村山神社の伝承を総合して考えると、丹波国の湖を切り開き、水を保津川に流し、山城国を潤した神は大山咋命・市杵島姫・大山祇命・大己貴命となるが、大山祇命=大己貴命=饒速日尊と判断できるので、大山咋命・市杵島姫・大山祇命が協力して湖を切り開いたことになる。桑田神社の祭神(大山咋命・市杵島姫)と鍬山神社の祭神(大己貴命)が協力したと記録されており、大己貴命と大山咋命は別人であることが分かる。大山咋命は大歳命(饒速日尊)の子であると古事記に記録されており、猿田彦命であると思われる。市杵島姫は宗像三女神のひとりであるが、AD30年頃、猿田彦の妻となっている。 猿田彦命・市杵島姫・饒速日尊が山城国・丹波国を開拓したのは、いつ頃のことであろうか。猿田彦命は饒速日尊が大和降臨する時、伊邪那美を出雲で亡くした伊邪那岐命と共に福岡市の住吉神社の地に上陸し、以降高皇産霊尊より北九州西半分の統治を任されている。この時、市杵島姫と結婚したと思われる。結婚はAD30年頃のことであろう。また、猿田彦命はAD47年頃の出雲国譲り後は市杵島姫と別れ、出雲に移っている。また、饒速日尊はAD40年頃以降東日本統一に尽力しているので、丹波・山城国統一に両者がかかわれるのはAD35年頃となる。猿田彦命は北九州の統治が一段落したAD35年頃饒速日尊の要請を受けて丹波・山城国の統一に協力したものと考えられる。この時、市杵島姫も丹波・山城国にやってきたものと考えられる。 |
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■賀茂別雷命の正体
賀茂別雷命とは誰なのであろうか?饒速日尊と言う説もあるが、少し違うようにも思える。父が乙訓社の雷神(火雷神=饒速日尊=丹塗矢)で母が玉依姫である。山城国一宮の賀茂別雷神社の主祭神なので、相当ないわれのある人物のはずである。他に知られていない神のはずがない。日本列島統一に大きく寄与した人物と思われる。『賀茂之本地』では阿遅?高日子根神と同一視されており、賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神であるという説も存在している。系図は次のようになっている。 神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命−┬−鴨建玉依彦命−五十手美命−麻都躬之命−看香名男命 (八咫烏) | └−玉依姫命 ├−─賀茂別雷命 火雷神 (饒速日尊) 岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017にある加毛神社(祭神 神別雷命)では、白髭明神と称せられ、昭和の神社明細帳は、祭神別雷命(猿田彦命)としている。これは、賀茂別雷命は猿田彦命であることを意味する。賀茂氏系図でも父の火雷神が饒速日尊を意味しているので、賀茂別雷命はその子の猿田彦命を意味することになる。饒速日尊は鴨建角身命1世代後になっているが、実際は饒速日尊は鴨建角身命より2世代前の人物である。賀茂別雷命の方が鴨建角身命より1世代前となる。この賀茂氏系図は明らかに矛盾を持っている。この山城国を開拓したのが饒速日尊・猿田彦命と思われるので、この二人を賀茂氏系図に取り込んだものではないだろうか。とすると、玉依姫も系図に取り込まれたのではないかと思える。京都府京都市左京区鞍馬貴船町180の貴船神社の伝承によると玉依姫は淀川を遡ってきた姫であることになり、山城国で誕生した神ではないことになる。玉依姫は元来対馬の豊玉彦の娘であり、鵜茅草葺不合尊の妻であり、神武天皇の母である。最初同名の別人かとも思ったが、火雷神・賀茂別雷命の系図への挿入を考えるとこの人物も挿入されたものと考えることができる。山城国の開拓に深くかかわる女性となれば、猿田彦命の妻である市杵島姫がこの玉依姫に該当することになる。 |
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■鴨建角身命(八咫烏)について
鴨建角身命は伝承によると、「建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まる。」とされている。ところが、賀茂氏系図では祖父の天神玉命(天活玉命)は饒速日尊に従ったマレビトであり、建角身命は大和国で誕生しているはずである。また、山深き熊野山中を道案内するということは、日向から神武天皇共にやってきた人物には不可能で、それ以前に熊野と大和を何回も往復している人物にしかできないであろう。建角身命が日向に降臨したのは間違いであろう。天神玉命が饒速日尊に従って降臨した事実が誤り伝えられたものであると判断する。天神玉命(天活玉命=高天彦)は饒速日尊に従って大和に降臨し、自身は葛城山周辺を任地としてその周辺を開拓したものと思われる。そして、葛城山頂に祖神高皇産霊神を祀った。これが高天彦神社となる。そのため、山頂付近は聖地高天原と呼ばれるようになったのであろう。建角身命もこの葛城山の麓でAD50年頃生まれたと思われる。 建角身命が誕生したのは紀伊国が日本国に加盟した直後と思われる。この頃より、大和国と紀伊国の間の人的交流が盛んになってくる。多くは大和川を下り大阪湾に出て海路紀伊国に至るか、五条から紀ノ川に出てそこから和歌山近辺に至る経路は確保されていたであろう。しかしながら、饒速日尊が切り開いた玉置神社・熊野本宮大社は熊野山中を抜ける必要があり、建角身命は熊野山中を何回も往復して、熊野と大和の交流を行っていたものと考えられる。そのために、神武天皇東遷時の道案内役に抜擢されたのであろう。 |
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■丹波・山城国統一
AD25年頃饒速日尊は数多くのマレビトを率いて大和国に降臨した。AD30年頃、三輪山の麓まで勢力下におさめることができ、河内・泉・大和国の統一が完了した。同じくAD25年頃北九州に上陸した猿田彦命も北九州西部地方全域の安定した統治ができるようになっていた。饒速日尊の次の目標は山城国の統一であった。近江国にはマレビトが入り込んでおり、紀伊国は素盞嗚尊によって統一されていた。近畿地方北部の山城国・丹波国・丹後国・但馬国・若狭国がこの時点で未統一であった。山城国は京都市南区久世の国中神社の伝承にあるように、その昔素盞嗚尊が入り込んで統一事業を起こしていたが、成功にはいたっていなかった。この周辺は多くの豪族がひしめき合っていて、安定して統一状況を維持することはできなかったと思われる。 京都市内は賀茂別雷命すなわち猿田彦命が統一しているようである。おそらく、饒速日尊は東日本統一のための準備に手がかかり、山城国統一に手が出せない状況にあったのではないだろうか、そのために、北九州にいる猿田彦命に統一を頼んだのであろう。この時、猿田彦は市杵島姫と結婚してたので猿田彦の後を追って市杵島姫がこの地にやってきたのであろう。山城国では玉依姫と呼ばれていた。猿田彦は山城盆地(京都盆地)全域を統一した。 山城盆地を統一した猿田彦は保津川を遡り、亀岡盆地に進出した。当時亀岡盆地は巨大な湖であったようである。湖水の出口が保津峡入口であろう。ここは桑田神社と請田神社に挟まれた領域である。猿田彦はここを切り開けば、肥沃な土地が広がり、その土地を開墾すれば広大な農地ができると考え、人を集めここを切り開こうとした。この頃には饒速日尊も東日本統一の準備ができたので、亀岡盆地にやってきた。AD35年頃のことであろう。饒速日尊・猿田彦・市杵島姫を中心として湖を切り開き亀岡盆地の開拓をした。 |
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■若狭国統一
若狭国 ●一宮 若狭彦神社 福井県小浜市龍前28-7 彦火火出見尊 714 社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。 ●二宮 若狭姫神社 福井県小浜市遠敷65-41 豊玉姫命 714 安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある ●大神社 福井県大飯郡おおい町山田4−1 大飯鍬立大神 社伝として、大飯田郷開拓の祖神七柱を、大飯鍬立大神・七社大明神として祀ったのが起源。「鍬立」とは農業始めという意味らしい。祭神の異説として、祭神不詳、猿田彦神などがある。 ●宇波西神社 福井県三方上中郡若狭町気山字寺谷129−5 鵜草葺不合命 現在の神社案内では、最初日向に現れ、後上野谷(金向山麓)を経由して、現在地に遷座したとある。 地域には九州日向国の住人が移住してきており、付近の村村とは言葉遣いも異質である。 若狭国は一宮・二宮ともに九州系の神を祀っている。九州日向から多量の移民があり、そのために若狭彦命として日子穂々出見命を祀っている。若狭彦神社の伝承では彦穂々出見命・豊玉姫が現在の小浜市に上陸したと言われている。彦穂々出見命がここに来た事実はあるのだろうか。来たとすればいつのことであろうか。ここでいう豊玉姫は薩摩の豊玉姫ではなく、対馬の豊玉姫と思われる。薩摩にいるときは若狭国までくる時間的余裕はなかったと思われる。彦穂々出見命が対馬に行ったのはAD50年頃と思われ、AD65年頃には日向国に戻っている。若狭国に来たのはこの間であろう。彦穂々出見命はAD57年に後漢に朝貢し、漢倭奴国王の金印を受けている。新技術を伝えるという観点からすると、彦穂々出見命が若狭国に来たのはこの直後と思われる。また、伝承にあるように唐人のような服を着ていたというのもこれを裏付けている。AD60年頃であろう。そして、この頃は饒速日尊が大和で亡くなったころである。この後すぐに伊都国へ移動しているので若狭国にいたのは短期間であろう。若狭国は周辺の状況からAD35年頃統一されているようなので、統一された後、多量に移民があったのは直線で15km程東の三方五湖の辺りである。この頃彦穂々出見命は日向にはいなかったので、日向から多量移民はできないし、上陸地点も若干異なる。多量移民があったのは、大和朝廷成立後ではないかと考えている。 では何のために、彦穂々出見命はこの若狭国に来たのであろうか?AD60年頃と言えば、その10年ほど前に対馬の穂高見命が信濃国安曇野に赴いて開拓をしている。対馬では日本国への意識が強まっていたと思われる。この時期の倭国・日本国の状況から以下のように判断する。 この頃は、西倭国と日本国との大合併論議が盛んになっており、合併後の安定政権維持のためには、饒速日尊が統一した東日本地域の状況を把握することが目的で、東日本地域全体を巡回したのではないだろうか。彦穂々出見命が後漢に行って中国の先進文化を見てきた直後であり、日本列島を今後どのようにしていくかの方針決定のためにも是非とも必要だったのであろう。おそらく、日本列島平和統一に情熱を燃やしていた高皇産霊神が指示したものであろう。 では、AD35年頃若狭国を統一したのは誰であろうか。大飯神社の祭神は誰なのか不明ではあるが、一つの伝承に猿田彦の名がある。他の人物の名が見当たらないので猿田彦と考えたい。亀岡盆地を統一した後、猿田彦は若狭国を統一したと思われる。 |
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■丹後国統一
丹後国 ●一宮 籠神社 京都府宮津市 彦火明命 ○ 不詳 『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊としている。これは、神代の昔、天にあった伊弉諾大神が、地上の籠宮の磐座 に祭られた女神伊弉冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。 伊弉諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神を祭って来たが、 その縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑から移った後、之を與謝宮(吉佐宮)として一緒に祭った。 その後天照皇大神は11代垂仁天皇の時に、また豊受大神は21代雄略天皇の時にそれぞれ伊勢に移った。 それに依って当社は元伊勢と云われている。両大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として、 又丹後国の一之宮として崇敬を集めて来ました。 ●二宮 大宮売神社 京都府京丹後市大宮町周枳1020 大宮売神・若宮売神 不詳 古代天皇家の祭祀を司った人々の生活があり、稲作民による祭祀呪術的な権力を持つ豪族の国(大丹波)の祭政の中心の地であったといわれる。当宮の境内は、神社としての社ができる以前に、既に古代の政(まつりごと)が、おこなわれていた地である。 ●大虫神社 京都府与謝郡加悦町温江1821 大己貴命 昔、大国主命が沼河姫と加悦に住んでいたころ、槌鬼と言う病いが姫にとりつき、たちまち病いにかかられて大国主命はあまりになげかれたので少彦名命七色に息をはいて、この槌鬼の病いを追いだされたので姫の病いを癒されたがその息がかかったため人や植物が病にかかって苦しむようになり、少彦名命は「私は小虫と名のって貴男の体内に入り病のもととなる虫を除きましょう。」と言われ、大国主命は「私は人の体の外の病を治そう」と言われ、鏡を二面つくられ一つを少彦名命が一つは大国主命が持たれた。ここで大虫、小虫と名のられたと言うことである。 ●比沼麻奈爲神社 京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661 豐受大神、瓊瓊杵尊、天兒屋根命、天太玉命 遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。 豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此の社に御鎮座していた。即ち此の社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元の社である。 ●熊野新宮神社 京都府京丹後市久美浜町大字河梨字大谷 事解男命、速玉男命 熊野新宮大神の休憩された大石があり、人馬の足跡なりと云う「馬蹄岩」がある。 亀岡盆地の統一の後、猿田彦は若狭国へ、饒速日尊は丹後国の統一に向かった。比沼麻奈爲神社(京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661)にあるように、豊受大神が此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めるなどの技術を広めたのである。この豊受大神は饒速日尊と思われる。 京都府京丹後市久美浜町大字河梨字大谷の熊野新宮神社には熊野新宮大神が休息した大岩があると言われているが、前後関係より熊野新宮大神(事解男命)は饒速日尊と思われる。 丹後国一宮籠神社の主祭神は天火明命(饒速日尊)である。天火明命が鎮座する前には豊受大神が祭られていたそうであるが、この神社には息津鏡、辺津鏡という饒速日尊が所持していたと言われる鏡が二面伝世している。これは、饒速日尊がここに滞在していたという物的証拠となる。 このように丹後国を統一したのは饒速日尊と考えられる。 |
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■但馬国統一
但馬国 ●一宮 出石神社 兵庫県豊岡市 天日槍命・出石八前大神 859 祭神の天日槍命は新羅の王子であったが、八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住したと伝える。また、八種神宝を八前大神として祀っており、『延喜式神名帳』では八座とされた。 当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出し、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めている。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれている。 ●一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市 彦火々出見命 不詳 粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという.祭神は彦火々出見尊。あるいは、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、丹波道主の日子坐王とする説もある。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。 ●三宮 養父神社 倉稲魂命・大己貴命・少彦名命 ○ 崇神 地誌『但馬考』にはかつて弥高山の山頂にあったとされる上社に大己貴命、中腹の中社に倉稲魂命と少彦名命、現社地である下社に谿羽道主命を祀るとの記述がある。『特選神名牒』では大己貴命以外の4座を不詳としている。 ●石部神社 兵庫県豊岡市出石町下62 奇日方命、 この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこ し、あまたの信望をあつめられた、天日方奇日方命を祀る。 ●小坂神社 兵庫県豊岡市出石町三木字宮脇1 小坂神 大正11年、祭神を忍坂漣の祖・天火明命と確定するように申請したが確証が無いとして退けられ、内務省と協議の結果小坂神に決定したという。しかし、忍坂連の祖天火明命と伝わる。 ●気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 大己貴命 大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。 ●小田井縣神社 兵庫県豊岡市小田井町15-6 國作大己貴命 大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であ って、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開い て水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。 ●鷹野神社 兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1 武甕槌神 大国主神が出雲国の伊那佐の小浜における国譲りの折衝に天孫系神族の代表としてその使者に選ばれた武甕槌神が大国主神との談判が成立の後、出雲系神族に対して御神威 を示され、天孫神系の神に帰一することを誓約されているから、武甕槌神はこの竹野郷に神降りまし居住民族が祖神当芸志比古命も天孫神系の神であるため氏神として奉斎するに至ったと考えられる。武甕槌神は鹿島神社の主祭神として鎮護されたため、神降りましたと伝えられる所が神の誕生浦といい、鹿島の神である武甕槌神を鎮祭した島を加島山と称したと伝えられている ●法庭神社 兵庫県美方郡香美町香住区下浜 武甕槌命 あるいは天照國照天火明饒速日命 旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。 法庭神社の記録が大和から但馬国迄の経路を伝えている。法庭神社の伝承は 「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」である。これをもとに、大和から但馬までの饒速日尊の通過経路を推定してみよう 大和盆地を北に移動し木津川市から木津川流域に入る。木津川を下り、大山崎町より桂川流域に入る。ここまで桜井市から約50kmである。桂川を遡り京都市内を抜け、亀岡市に達する。日吉町殿田より胡麻川流域に入る。この経路に沿って山陰本線がとおっている。南丹市日吉町胡麻より高屋川流域に入り、川を下ると由良川に合流する。綾部市を通過し福知山市安井より牧川流域に入る。ここまで大山崎から約100kmである。夜久野町平野から礒部川流域に入り川を下る。さらに下り、和田山より円山川に入る。和田山町土田より糸井川を遡り、床尾山に至る。安井より約40kmである。北に下って出石町桐野より出石川に沿って下る。円山川に再び合流し城崎町来日より来日山に登る。床尾山より約30kmである。川をさらに下って約7kmで海に出る。海岸沿いに25km西に進むと法庭神社に達する。 丹後国から直接の移動ではないようなので、丹後国統一後一度大和に戻ったようである。この当時但馬は泥海だったようで、岩山を切り開いて肥沃な土地を広げたと記録されているが、その人物は法庭神社では饒速日尊、小田井縣神社では国作大己貴命、出石神社では天日槍命である。大己貴命=饒速日尊と思われるが、天日槍も同じ伝承を持つ。おそらく、天日槍命と饒速日尊が協力して岩山を切り開いたものであろう。 天日槍命はAD30年頃播磨国にやってきている。その後近江国・若狭国をさまよった後、この但馬国出石にやってきている。天日槍命がここにやってきたのはAD35年頃と思われ、饒速日尊がここに来た頃とほぼ一致するのである。おそらく先に来たのは天日槍命で、饒速日尊は後からやってきたものであろう。饒速日尊は天日槍命と共に豊岡市一帯を統一し、後を天日槍命に任せて、西へ進んだものであろう。 饒速日尊はどこまで行ったのであろうか。法庭神社の地から25km程西に兵庫県と鳥取県の県境がある。ここより西は東倭国であり、東が日本国だったのであろう。東倭国まで行ったかもしれないが伝承はない。 饒速日尊はこの但馬国統一後、東日本統一に旅立ったのであろう。 |
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■東海・関東地方統一 | |
■東日本地域統一の順番
各地に残る伝承をもとにして、統一の順番を推定すると、次のようになる。 1 伊勢地方に統一伝承が認められない。また、滋賀県の伊吹山周辺を饒速日尊が通過したと思われる伝承があるので、近江国→美濃国→尾張国の流れが浮かんでくる。 2 飛騨地方は五十猛命の行動が認められるため、紀伊国国譲りの後と推定される。 3 関東地方が饒速日尊とウマシマジ命が活躍している。ウマシマジ命は饒速日尊の長子であるため、統一の時期は早かったと推定する。よって、尾張国→三河国→遠江国→駿河国→関東地方と推定できる。 4 陸奥国(東北地方太平洋岸)は日向からやってきたアジスキタカヒコネ命を伴っているために、統一事業の最後と思われる。 5 信濃国は駿河国と同じ系統の神であるために、駿河国と同じような時期と思われるが、タケミナカタ命の移動を考えると、統一を途中で中断しているように思えるので、関東地方統一の後であろう。 6 信濃国を途中で中断したのはおそらく、出雲国譲りが起こったためであろう。倭国が不安定になったために一度大和国に戻ったのであろう。この時に紀伊国国譲りがあったと推定する。 7 紀伊国国譲りの後、五十猛命を伴って飛騨国を統一。 8 成長した事代主命を伴って中途になっている信濃国に赴く。 9 信濃国に赴いている時越国で騒乱が起き、東倭に統治能力がなく、越国の国譲りを実行 10 タケミナカタ命に信濃国の開拓を任せ、日本海側を北上し出羽国の統一 11 アジスキタカヒコネを伴って陸奥国を統一。 12 残った未統一地域は伊勢国・志摩国・伊賀国・安房国である。伊勢国・志摩国・伊賀国は出雲のサルタヒコに委ねる。 13 大和国初瀬地方で隠棲し暫らくのち亡くなる。 |
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■1.近江国
格式 神社 場所 主祭神 饒速日尊(○) 創建 備考 ●一宮 建部大社 滋賀県大津市 日本武尊、大己貴命、稲依別王 ○ 景行 景行天皇46年に神崎郡建部郷(現在の東近江市五個荘付近)に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされる。 ●二宮 日吉大社 滋賀県大津市坂本5丁目1-1 大山咋神(東本宮)・大己貴神(西本宮) ○ 不詳 牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。 ●三宮 多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604 伊邪那岐命・伊邪那美命 神代 『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが、当社のことである。摂社(境内社)である日向神社は延喜式内社であり、瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る 伊邪那岐命は、まず多賀大社の東にそびえる杉坂山に降り立ちました。そして、北麓にある多賀町大字栗栖に降りて、そこで一度休息を取って、その後に現在の多賀大社がある場所に鎮まったといわれています。 ●三宮 御上神社 滋賀県野洲市三上838 天之御影命 孝霊 孝霊天皇の時代、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝が三上山を神体(神奈備)として祀ったのに始まると伝える ●那波加神社 大津市苗鹿一丁目 天太玉命 天智 祭神 天太玉命が太古よりこの地に降臨したと伝える。 ●石坐神社 滋賀県大津市西の庄15-16 彦坐王命、天命開別尊 天智 音羽山系の御霊殿山(御竜燈山)に天降った八大竜王(スサノオ)を祀ったのを創祀とし ●沙沙貴神社 滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1 少彦名神 神代 少彦名神降臨伝承地 ●大瀧神社 滋賀県犬上郡多賀町冨之尾1585 高おか神 不詳 多賀大社の末社あるいは奥宮として考えられてきた。 ●調宮神社 栗栖 伊邪那岐命 伊邪那岐命が多賀の地へ到着する前に一時休息した場所といわれ、そこから多賀大社の御旅所とされた宮 ●櫻椅神社 滋賀県伊香郡高月町東高田363-1 須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命 太古ここが湖の頃、須佐之男命が肥の川上の八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側の阿介多と言う小高い所に来臨し、剣の血を洗た御霊跡と伝わる。 近江国は天太玉命・天之御影命など饒速日尊に追従してきた神を祀っている神社がいくつか存在している。また、物部氏が建てた神社も散在している。このことから、近江国は饒速日尊がマレビトを送り込んだ地域に属すようである。 饒速日尊が降臨する前にスサノオ命やイザナギ命が降臨しているようである。おそらく紀伊国を統一する前に近江国を統一しようとしたのであろう。その後饒速日尊がマレビトを送っていることから判断すると、スサノオによる近江国統一は失敗したようである。饒速日尊は近江国を出発し美濃国へ抜けたようである。 |
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■2.美濃国
●一宮 南宮大社 岐阜県不破郡垂井町 金山彦命 ○ 神武 金山彦大神を主祭神にまつり、全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めている ●二宮 伊富岐神社 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484−1 多多美彦命(天火明命説あり) ○ 不詳 伊福部の名の由来を「火吹部」とする考えもあり、天火明命に率いられた技術者集団が当地に居住したものだろう。とにかく、伊富岐神ということだ ●二宮 大領神社 岐阜県不破郡垂井町宮代765番地 不破郡大領宮勝木實命 715 宮勝木實は、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)の命で、不破道(不破関付近)に出兵した人物。功績により、不破郡の大領になったという ●三宮 多岐神社 岐阜県養老郡養老町三神町406-1 倉稻魂神、素盞嗚命 ○ 和銅 古代、この地域を支配した多芸氏の祖神を祭ったという ●三宮 伊奈波神社 岐阜県岐阜市伊奈波通り1-1 五十瓊敷入彦命 景行 五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。 伊吹山は近江国と美濃国の国境にある。伊富岐神社の伝承にある通り、天火明命(饒速日尊)はここに、技術者集団を集めて 居住させた。近江国側にも意布伎神社(草津市・祭神級長津比古命)、伊夫岐神社(滋賀県坂田郡伊吹町伊吹603祭神伊富岐大神、素盞嗚尊、多多美比古命)がある。伊富岐大神とは饒速日尊と思われる。伊吹山周辺は強い風が吹くので知られている。饒速日尊はこの風を利用して製鉄・製銅などの技術をこの地方の人々に伝えたものであろう。美濃国には全39座の式内社中15座(38%)が饒速日尊と思われる神を主祭神として祀っており、ほぼ全域に広がっている。饒速日尊は美濃国全域を物部一族を率いて統一したものと考えられる。 |
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■3.尾張国
●一宮 真清田神社 愛知県一宮市 天火明命 ○ 不詳 尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神である天火明命を祭ったのが起こりである。天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓 、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招 来遊ばされた貴い神様である。 ●一宮 大神神社 愛知県一宮市 大物主神 ○ 不詳 祭神は大物主神であるとされており、これは、奈良県桜井市の大神神社の神と同神であるという伝承によるものである.大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える ●二宮 大縣神社 愛知県犬山市宮山3 大縣大神 ○ 垂仁 大縣大神は、尾張国開拓の祖神である。国狭槌尊 ●三宮 熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1 素盞嗚尊 景行 祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている ●尾張大国霊神社 愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大国霊神 ○ 神代 尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されている。 当社は奈良時代、国衙(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社であった。 ●針綱神社 犬山市大字犬山字北古券65-1 尾治針名根連命 ○ 太古よりこの犬山の峯に鎮座せられ東海鎮護、水産拓殖、五穀 豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く 白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。 尾張国121座の式内社のうち饒速日尊と思われる人物を祀っているのは23社(19%)である。特に一宮から三宮迄の4神社のうち3神社までが祭神を饒速日尊としている。これは尾張国開拓を主導したのが饒速日尊で彼は尾張国総鎮守として崇められている。 |
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■4.三河国
●一宮 砥鹿神社 愛知県豊川市 大己貴命 ○ 大宝 東海地方の総鎮守.本宮山は古代から信仰の対象であり、山頂付近には多くの磐座らしきものも多い ●二宮 知立神社 愛知県知立市西町神田12 鵜草葺不合尊・彦火火出見尊・玉依比賣命・神日本磐余彦尊 景行 日本武尊が東国平定の際に当地で皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事平定を終えた帰途に、その感謝のために皇祖神を祀ったのに始まる ●三宮 猿投神社 愛知県豊田市猿投町大城5 大碓命 仲哀 大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説あった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる。 ●四宮 石巻神社 愛知県豊橋市石巻町字金割1 大己貴命 ○ 不詳 神郷は、石巻山参道付近の集落である。現在の読みは「ジンゴウ」であるが、40年ほど前まで「みわのさと」と読んでいた.ほかにも三輪川がある。そして、石巻神社の祭神は奈良の三輪神社と同じ「オオナムチ」である。『三輪神社縁起書』に、「三河石巻神社」という記載がある ●御津神社 愛知県宝飯郡小坂井町小坂井宮脇2 大國主命 ○ 大國主命は船津大明神として祀られているが全国の船津大明神は建御雷命(饒速日尊)であることが多い。 三河国26座の式内社のうち7座(27%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。三河国では大国主命或いは大己貴命として祀られていることが多いが、背後関係をみると、そのすべてが饒速日尊のようである。一宮の砥鹿神社の祭神大己貴命は大国主命とされているがこの神は東海総鎮守として祀られており、東海地方の他国の神の実態から判断してこの神は饒速日尊と思われる。四宮の石巻神社の祭神も周辺の地名から推察して饒速日尊と推定される。 |
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■5.遠江国
●一宮 小国神社 静岡県周智郡森町 大己貴命 ○ 欽明 欽明天皇16年(555年)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる ●一宮 事任八幡宮 静岡県掛川市 己等乃麻知媛命 成務 成務天皇(84年〜190年)の御代の創立と伝え聞く。大同2年(807年)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地 本宮山より現社地へ遷座すという。延喜式神名帳に(佐野郡)己等乃麻知(ことのまち)神社とあるはこの社なり。古代より街道筋に鎮座、遠江に坐す願い事のままに叶うありがたき言霊の社として朝廷をはじめ全国より崇敬されし事は平安期の「枕草子」に記載あるをみても明らかなり。 ●二宮 鹿苑神社 静岡県磐田市二ノ宮 1767 大名牟遅命 履仲 二宮神社 とともに遠江国の二宮であり、江戸時代末までは高根明神社と称し、高彦根命を祀っていた。 ●二宮 二宮神社 静岡県湖西市新居町中之郷320 大物主神 ○ 敏達 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大物主命」とも申し上げる。国土開発、福徳縁結び、萬の産業、医薬、健康安全、知徳の主護神として敬われ 御神徳極めて高し 遠江国は62座の式内社中38座(61%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮の小国神社の祭神大己貴命は三河国一宮と同じ祭神である。三河国の大己貴命は東海総鎮守と言われている。遠江も東海なので、総鎮守は同じ神のはずである。よって、小国神社の大己貴命も饒速日尊と思われる。二宮の鹿苑神社の祭神大名牟遅命も周辺の神社の大国主命が饒速日尊と推定できることから、この神も饒速日尊と思われるが根拠はない。 |
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■6.駿河国
●一宮 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市 浅間大神 ○ 垂仁 11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと ●二宮 豊積神社 静岡県庵原郡由比町町屋原185 木花之佐久夜比売命 ○ 白鳳 延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していた。また、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇(つみ)から取られた ●三宮 御穂神社 静岡県静岡市清水区三保1073 大己貴命 ○ 不詳 三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説ゆかりの社としても名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。 「大己貴命は豊葦原瑞穂国を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。」 ●那閉神社 静岡県焼津市浜当目13 八重事代主命、大國主神 ○ 継体 虚空蔵山とも呼ばれる海辺の神奈備山である。海の彼方から神が来訪する水平来臨型の信仰の山である。 ●静岡浅間神社 静岡県静岡市宮ヶ崎町102-1 大己貴命 木花開耶姫命 大歳御祖命 ○ 不詳 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社といい、何れも創立は千古の昔にさかのぼる。大己貴命は少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。 ●富知神社 静岡県富士宮市朝日町12-4 大山津見神 ○ 孝霊 大宮の地主の神 鎮守の神・産土の神として古くから、この地方の人々は篤い崇敬を捧げて祭ってきた。 『富士本宮浅間社記』には、浅間大社が鎮座した大宮は、もとは福地明神(当社)が鎮座していた地、とあり、浅間大社が鎮座した、平城天皇大同年間以前から、当地の地主神として崇敬されていた古社。 浅間大神は静岡浅間神社・冨知神社の伝承から判断して饒速日尊と思われる。三穂津姫は、高皇産霊神の娘で、大国主命或いは大物主命の妻になったと言われている。この地方には大国主命は来ていると思えないので、三穂津彦は大物主命=饒速日尊となる。駿河国は一宮から三宮まですべて饒速日尊を祀っていることになる。駿河国は事代主命を祀る神社が多くなっている。静岡浅間神社で大己貴命が少彦名命と共にこの地で、国土経営をしたと記録されているが、周辺伝承から推察してこの少彦名命は事代主命ではないかと思われる。事代主命もこの地方に来ていることが推定できるが、事代主命はAD35年頃誕生していると思われ、饒速日尊がこの地を訪問したと推定できる40年代前半では幼少すぎること、また、御穂神社の伝承によりここに饒速日尊がやってきたのが出雲国譲り(47年頃)の後になっていること、三穂津姫は高皇産霊神の子で、高皇産霊神が饒速日尊と接触するのは、北九州にいた時(AD10年頃)か、大和侵入時(AD25年頃)、或いは出雲国譲りの時である。御穂神社の伝承より出雲国譲後と思われる。このことから推察して、饒速日尊が駿河国に来たのは2回と言うことになる。1回目が40年代前半で、2回目が出雲国譲後の40年代後半である。その2回目に事代主命を伴っていたのであろう。1回目はこの後関東地方の開拓を行い、2回目はこの後富士川を遡って甲斐国、信濃国の開拓に向かったと思われる。 駿河国式内社22座のうち10座(45%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。 |
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■7.伊豆国
●一宮 三嶋大社 静岡県三島市 大山祇命・積羽八重事代主神 ○ 不詳 三宅島(現:富賀神社)→下田・白浜海岸(現:伊古奈比当ス神社)→大仁町(現:広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承。 大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。 ●二宮 若宮神社 静岡県三島市西若町8−7 譽田別命 不詳 国司により勧請された八幡神社 ●三宮 浅間神社 静岡県伊豆市小下田1556 岩倉姫命 ○ 不詳 『伊豆国神階帳』に「従四位上 いわらい姫の明神」とある古社で、式内社・石倉命神社に比定されている神社。 ●四宮 廣瀬神社 静岡県伊豆の国市田京1−1 三嶋溝杙姫命 不詳 三島大社が下田から当地に遷座され後に、現在の三島へ遷ったとある ●伊古奈比メ命神社 静岡県下田市白浜字白浜2740 伊古奈比メ命 伝承 「伊古奈比メ命は三嶋大明神の后。三島大神(別名事代主神)は、その昔、南のほうから海を渡ってこの伊豆にやって来ました。伊豆でも特にこの白浜に着かれたのは、この白砂の浜があまりにも美しかったからです。そして白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主であった富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。さらに、三島大神は伊豆の土地が狭かったため、お供の見目の神様、若宮の神様、剣の御子と、伊豆の竜神、海神、雷神の助けをかりて、島焼きつまり島造りを始めました。 最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。 7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりました。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比・命は特に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比・命とお供の見目、若宮、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比・命神社です。」 ●来宮神社 熱海市西山町 大己貴命 ○ 大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命。古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられている。 ●大三王子神社 東京都新島本村大三山 大三王子明神、弟三王子明神 当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座するを貞享3年現地に転社 伊豆国は駿河国以上に事代主命がよく祭られている。事代主命の妻・子などもよく祭られており、事代主命がこの地方に長期にわたって滞在したことがうかがわれる。伊豆国式内社92座中12座(13%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。事代主命は13座である。一宮の主祭神は饒速日尊と思われる。 |
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■8.相模国
●一宮 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町 寒川比古命 ○ 不詳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開 拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの 親神である。 ●一宮 鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市 応神天皇 1063 源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである ●二宮 川勾神社 神奈川県中郡二宮町山西2122 大名貴命・大物忌命・級長津彦命 ○ 垂仁 相模の国で最古の神社といわれている。 磯長国国宰である阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のために創建した。 ●三宮 比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472 豊国主尊、天明玉命 ○ 神武 当社は神武天皇が天下を平定した際、人々を護るために建立された神社であるとしている。『比々多神社 参拝の栞』[5]によれば、これは神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことが創始である ●四宮 前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮4丁目14-26 莵道稚郎子命・大山咋命・日本武尊 不詳 兄に帝位を譲るため自殺したとされる菟道稚郎子命が実は死んでおらず、一族を率いて東国に下り曽祖父である日本武尊に所縁の地へ宮を建てた ●高森神社 神奈川県伊勢原市高森527 味須岐高彦根命 加茂族の首長高彦根命は、事代主神と共に国づくりに大変活躍されました。神話においては国譲りに際し、謙譲の精神をもって接した御神徳の高い御祭神であります。農耕にあたっては、鉄器をもちいて新しい殖産を始め、日本国土づくりの神として尊崇を受けたのであります。平和の神、家内安全、五穀豊穣の神として、また縁結びにわたる御神徳は、今後高森の氏子ならび崇敬者の人びとの心に深く刻まれている。 ●大山阿夫利神社 神奈川県伊勢原市大山字阿夫利山1 大山祇大神 ○ 御主神大山祇大神は又の御名を大水上御祖の神とも、大水上の神とも 申し上げ、神威炳焉、生活の資源は勿論のこと、海運、漁獲、農産、商工業また又の 御名を酒解神と称へ酒造の祖神とし御霊徳高く丹精を篭めて祈願すれば諸願一つとし て成就しないことはない。 ●深見神社 神奈川県大和市深見3367 武甕槌神 ○ 雄略 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の 名の起った所以である。 相模国式内社13座中6座(46%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮から三宮までの神社はすべて饒速日尊と思われる神である。相模国も饒速日尊が開拓したとみてよいであろう。 |
■9.武蔵国
●惣社 大國魂神社 東京都府中市宮町3-1 大國魂大神 ○ 景行 祭神は大國魂大神で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は 素盞鳴尊の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された ●一宮 氷川神社 さいたま市大宮区 名神 須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命 ○ 孝昭 武蔵総社六所宮である大國魂神社(東京都府中市)に属する武州六大明神の内の一つであり、六宮の内の三宮である。 ●一宮 氷川女体神社 さいたま市緑区 小社 奇稲田姫命 崇神 崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと ●一宮 小野神社 東京都多摩市・府中市 小社 天下春命 安寧 天下春命は知々夫(秩父)国造の祖神である。ただし、延喜式神名帳では座数は一座となっている。『江戸名所図会』では「瀬織津比賣一座」とある。『神名帳考證』では小野氏の祖の天押帯日子命としている。 ●二宮 二宮神社 東京都あきる野市二宮2252 国常立尊 ○ 不詳 「二宮大明神」とは「神道集」あるいは「私案抄」にみられる、武蔵総社大所宮(現在の大国魂神社)所在神座、武州六大明神[1]の第二次にあるがためである ●三宮 氷川神社 ●四宮 秩父神社 埼玉県秩父市番場町1-1 八意思兼命・知知夫彦命 崇神 元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということになるが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。 ●五宮 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750 天照大神・素戔嗚尊 景行 日本武尊の東征の帰途、伊勢神宮にて倭姫命(やまとひめのみこと)より賜った火鑽金を室ヶ谷に鎮めたのが起源とされる。 ●六宮 杉山神社 神奈川県横浜市西区中央1-13-1 大己貴命 白雉3 白雉3年(652年)、出雲大社の大己貴命の分霊を祀ったと伝えられる。 武蔵国式内社44座中17座(39%)が饒速日尊及び大国主命が祀られている。大国主命の名で祀られている神が、饒速日尊であると特定できない神社が多く、正確には不明である。武蔵国は出雲系の人々の移民があったようで、出雲系の神々がよく祭られている。総社の大国魂神社のみが具体的伝承を伝えている。武蔵国を開拓したのも饒速日尊である。 |
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■10.下総国
上総国・安房国は饒速日尊と思われる神を祭った神社は1社(倉稲魂命)のみである。饒速日尊は上総国・安房国の開拓をしなかったものと思われる。この両国を開拓したのは、伝承によると天太玉命で、大和朝廷成立後のようである。 ●一宮 香取神宮 千葉県香取市 経津主大神 ○ 神武 神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、香取神宮の起源とされている。 ●二宮 玉崎神社 千葉県旭市飯岡2126-1 玉依姫尊 景行 日本武尊が東征の折、相模より上総に渡ろうとして海難に遭った際、弟橘媛が「これは海神の御心に違いない」と言って入水したので、無事上総国に着くことができ、葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉の浦(九十九里浜)に渡ることができた。そこで日本武尊は、その霊異を畏み、海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられている。 ●二宮 二宮神社 千葉県船橋市三山五丁目20-1 速須佐之男命 810 式内社寒川神社の後裔社であり、現在でも寒川神社と呼ばれることがある 下総国11座中4座(36%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮の香取神宮は経津主大神でこの神は饒速日尊と推定している。二宮の寒川神社では神奈川県で寒川大明神(饒速日尊)を祀っており、この神社も饒速日尊かもしれない。下総国も饒速日尊が開拓したと思われる。 |
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■11.常陸国
●一宮 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市 武甕槌大神 ○ 神武 天地が開ける以前(天地草昧已前)に高天原から天下った「香島の天の大神」を祀る。 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。 御神徳 神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。 武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名 ●二宮 静神社 茨城県那珂市静455 建葉槌命 平安 鹿島神宮、香取神宮と共に東国の三守護神として崇拝され、豊臣氏や徳川氏から寺領などの寄進を受けたとの記録がある ●三宮 吉田神社 茨城県水戸市宮内町3193-2 日本武尊 5世紀 日本武尊の東征時にこの地朝日三角山で兵を休ませたことにちなみ、創建されたという ●大洗磯前神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890 大己貴命、少彦名命 ○ 祭神が霊夢に顕れ「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り東海に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられた。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居り、大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨された。 即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります ●鳥見神社 茨城県印西市平岡 饒速日命 ○ 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。その後東征して印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。 ●鳥見神社 茨城県印西市小林 饒速日命 ○ 崇神 此の地開拓の祖神として祟神天皇御宇五年に創建されてと伝えられている。 常陸国式内社28座中15座(54%)が饒速日尊を祀っている。この比率は他国より高い。鹿島神宮の地が長期滞在した場所であろう。大洗磯前神社に大己貴命(饒速日尊)が二度やってきたとあるが、関東地方開拓が一段落(AD45年頃)した後、東海地方に戻り甲斐国・信濃国を開拓した。その後出雲国譲り(AD47年頃)が起こり、その後、再びこの地を訪れている。この時(AD53年頃と推定)は、鹿島神宮の地を拠点として、陸奥国を開拓したものと思われる。鳥見神社の伝承により饒速日尊が宇摩志真知命を伴って、関東地方一帯を開拓したことが分かる。 |
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■12.上野国
●一宮 一之宮貫前神社 群馬県富岡市 経津主命 ○ 安閑 創建は安閑天皇元年(531年)3月15日、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まり 経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である ●二宮 赤城神社 前橋市二之宮町 赤城大明神・大国主命・経津主命 ○ 不詳 崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上野国に移ったとき、赤城神社は神庫岳(現・地蔵岳)の中腹に「赤城大明神」と「沼神の赤沼大神」として既に祀られていたそうです。他の赤城神社では大己貴命が主祭神で祀られているので、赤城大明神は大己貴命と思われる。 ●三宮 伊香保神社 群馬県渋川市伊香保町伊香保2 大己貴命・少彦名命 ○ 825 当社が現在の温泉地に移転する以前は、「いかほ」(榛名山も含むこの地域の旧称)の山々を山岳信仰の場とした「いかつほの神」一座が祭神であったとされる。 上野国式内社12座中6座(50%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。赤城山は関東平野を一望する見晴しの好い山なので、饒速日尊は山頂に登り、周辺を見渡していると思われる。赤城大明神とは饒速日尊であろう。 |
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■13.下野国
●一宮 宇都宮二荒山神社 栃木県宇都宮市 豊城入彦命・大物主神・事代主神 ○ 仁徳 毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀る。主祭神については時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。 ●一宮 日光二荒山神社 栃木県日光市 二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命) ○ 767 日光の3つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。 ●大前神社 栃木県真岡市東郷937 大己貴命、事代主命 ○ 大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。 下野国では式内社11座中8座(73%)まで饒速日尊と思われる神を祀っている。これは非常に高い比率である。大前神社の地に大己貴命(饒速日尊)が滞在していたようである。 |
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■14.甲斐国
関東地方一帯の開拓が軌道に乗ったころ(AD45年頃)、饒速日尊は関東地方から駿河国に戻り、富士川を遡って甲斐国の開拓に臨んだ。この時は事代主命が同行しているようである。 ●一宮 浅間(あさま)神社 山梨県笛吹市一宮町 木花開耶姫命 ○ 垂仁 垂仁天皇8年正月に神山である富士山の山の麓で神祭があり、貞観7年(865年)12月9日に現在地に遷座した。浅間大神を祀る。 ●二宮 美和神社 山梨県笛吹市御坂町二之宮1450-1 大物主命 ○ 景行 三輪山を神体とする大和国(奈良県)の大神神社から勧請され、尾上郷の杵衡神社へ遷された後に新たに二之宮に遷座されたとする伝承が一般的 ●三宮 玉諸神社 山梨県甲府市国玉町1331 大国玉命 ○ 不詳 延喜式内社 玉諸神社と称し、その創建勧請の年代は詳かではないが、祭神は天羽明玉命(天の岩戸の変の時、真榊の枝にかけた 八坂瓊五百箇御統玉を造った神である)。 ●四宮 甲斐奈神社 山梨県甲府市中央3−7−11 菊理姫命 木花咲耶姫命 ○ 綏靖 人皇第二代綏靖天皇の御代、皇子土本毘古王が、甲斐国疏水工事を行い、甲斐国開拓の御業なせし時、中央の山上甲斐奈山(現愛宕山)に、白山大神を祀ったのが当社の起源。 甲斐国式内社20座の内14座が饒速日尊と思われる神を祀っている。甲斐国はこの頃甲府盆地の大半が湖であった。その周辺の開拓を行ったのであろう。開拓は一朝一夕で為せるものではなく、饒速日尊が開拓の指示をし、饒速日尊が引き連れてきた物部一族が何代もかけて、開拓をしていったのである。そのために、饒速日尊が祖神として祀られているのである。 |
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■15.信濃国
甲斐国の開拓が軌道に乗った時、饒速日尊が次に進んだのは、信濃国である。信濃国は後に越国を統治していたはずの建御名方命がやってきて開拓を行っている。建御名方命がやってくる前に諏訪大社の位置には事代主命がいたようで、建御名方命は事代主命から統治権を譲り受けているようである。信濃国には謎が多く、まず、神社の実態をそのまま示すことにする。 ●一宮 諏訪大社 長野県諏訪市・茅野市 建御名方命・八坂刀売命・八重事代主神 不詳 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。 ●二宮 小野神社 長野県塩尻市北小野175 建御名方命 崇神 建御名方命は科野(しなの)に降臨し、しばらくこの地にとどまり諏訪に移った。その旧跡に崇仁天皇の時祭神を勧進奉斎す ●二宮 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢 正殿 :大己貴命 ・事代主命 副殿 :建御名方命・八坂刀賣命 ○ 欽明 遠い神代の昔、大己貴命(おおきむちのみこと)の国造りの神業にいそしまれた折り、御子の事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たてみなかたのみこと)をしたがえて、この地にお寄りになったと伝えられている ●三宮 沙田神社 長野県松本市島立区三ノ宮字式内3316 彦火火見尊 豐玉姫命 沙土煮命 大化 孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以って祭祀す ●三宮 穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。主神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる ●四宮 武水別神社 長野県千曲市八幡3012 武水別大神 孝元 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。 ●生島足島神社 長野県上田市下の郷 生島神、足島神 ○ 神代 古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている ●三輪神社 長野県上伊那郡辰野町辰野下辰野新屋敷2095 大己貴命・建御名方命・少彦名命 ○ 大己貴命・少彦名命が神代にこの地に留まったと伝えられている。 ●阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となるとあり ●安布知神社 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。 ●戸隠神社 九頭龍大神 奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。古くは虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。地元の人によると戸隠の九頭龍神は梨が好物だそうである。九頭龍大神は饒速日尊と思われる。 九頭龍大神については「雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高オカミ大神(黒龍大神)、闇オカミ大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜(舟橋の現在地から6.5km上流の川の中央に位置)に創祀された。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖〜九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。」。これより、九頭龍大神=高オカミ大神であることが分かり、高オカミ大神=饒速日尊である。 建御名方命が信濃国に来ている。建御名方命は大国主命と奴奈川姫との間にAD20年頃できた子で、饒速日尊が信州にやってきたころは越国を統治していた。一般に建御名方命は出雲国譲りで建御雷命と争い、出雲から逃げて信州に来たとなっているが、神社伝承をつなぐと、少し違うようである。建御名方命は越国を統治しており、建御雷命は饒速日尊である。このことは、饒速日尊が建御名方命に越国を譲らせたことになる。建御名方命が来る前から饒速日尊は信濃国にいて、建御名方命に信濃国を開拓させたようである。阿智神社の思兼命は饒速日尊に従って大和に降臨した人物である。饒速日尊に従っていたと思われる。信濃国は諏訪族・安曇族・阿智族の三系統の人々によって開拓されたようである。どういった手順でそのようなことになるのであろうか。他の地域の伝承を確認してから、このなぞに迫りたい。 信濃国式内社48座中17座(35%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一方建御名方命は21座(44%)である。 |
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■具体的統一手法
伝承をもとに統一方法を判断すると、以下のようになる。 伝承はそのほとんどが土地を開拓したと云うようなものである。海外からの新技術を以ての水田開発であろう。当時の人々にとって食料の安定確保が最重要課題である。よい水田ができればこの目的を達したことになる。処が広い土地での水田開発など一人でできるものではなく、多くの人材を使っても数十年規模の年数が掛かると思われる。ところが饒速日尊は各国1年程度の滞在のようである。東日本全体を15年程度で統一するにはこれほどの速さが必要であるが、そんなに早く土地開発はできるものではない。 各国では饒速日尊を祀っていると思われる神社が関東地方では5割を超えている。これは、物部氏が多数入植してその人たちが始祖である饒速日尊を祀ったものと解釈できる。近畿地方から相当数の人々の移動がなければならない。弥生中期末に当たるこの頃、大阪湾沿岸の多くの遺跡が急に消滅し人の気配が消えている。ほぼ時期を同じくして、大阪湾岸に多かった方形周溝墓が関東地方まで一挙に広がっている。これは考古学上でも大阪湾岸に住んでいた人々の大移動があったことを意味しており、伝承上の物部氏の大移動と時期と言い場所と言い完全に重なるのである。 饒速日尊は大和侵入に関してマレビト作戦を使った。能力の高い男子を大阪湾岸の集落にマレビトとして送り込み、その集落に先進技術を導入し、統一するというものであった。今回は東日本と言う広大な地域の一斉統一である。方形周溝墓の性質から判断して、今度の入植は家族単位の移動と思われる。饒速日尊にマレビトとして送り込まれた人々は、入り込んだ集落の人々に新技術を伝え、国家統一の目的意識を植え付けていった。饒速日尊はそれぞれの集落の人々に東日本各地に赴いてその土地を開発するように指示した。大阪湾岸地域の集落の人々はそれぞれ家族単位で指示された地域に赴いて、土地開発を行い同時に周辺の人々に新技術を伝えていったのである。饒速日尊はその入植した土地を巡回して、細かい指示をして回ったと判断する。 神奈川県小田原市に中里遺跡がある。縄文人と弥生人が協力して稲作を始めたというものであるが、そこから出たのは瀬戸内(兵庫県東部)の弥生中期末の土器である。この遺跡こそ、まさにこの伝承が正しいことを立証するものではないだろうか。 この当時、東日本に住んでいた人々は国と言う統一組織もない状態だったので、新規入植者から、土地開拓をはじめとする先進技術を教えてもらい、この入植者(物部氏)が始めた祭祀を行うようになり、自然に日本国に所属するようになったと解釈する。 |
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■第10節 日向国の台頭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■出雲国譲り | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■大国主命の最期
第二代倭国王大国主命の最期はどうなったのであろうか。神話伝承では国譲りの時、交換条件の出雲大社に留まったというのが最期である。それまでに大国主命は二度死んでいる。 「兄弟神たちは怒って、大国主の神を殺そうと企んだ。まず、伯岐の国の山に行って、大国主の神に赤猪の捕獲を命じた。大きな石を火で真っ赤に焼いて、猪に見せかけ転がし、大国主の神にぶつけたので、大国主の神は焼け死んだ。これを嘆いた母親が、神産巣日の神のもとへ行ったところ、神産巣日の神が派遣した蚶貝比売と蛤貝比売とが貝で治療したため、大国主の神は生き返ることができた。しかし、兄弟神たちはそれを見て、さらに、 大きな樹に楔(くさび)を打ち込み、その割れ目に大国主の神を誘い込んで、楔を外して挟み殺した。そこでまた母親が、大国主の神を見つけ出し、木の中から助け出して、生き返らせた。そして、紀伊の国の大屋毘古神のもとへ逃がした。」 これは大国主命が第二代倭国王になることによって、周りの人たちから嫉妬の念を受けて、色々といじめられたことを意味していると思われ、本当の死を意味しているのではないと判断する。 大国主命の墓ではないかという伝承があるのは島根県三刀屋町の三屋神社の裏山である。三屋神社の延喜の棟札の裏書に≪大己貴神天下惣廟神明也≫とあるので、此処が墓ということになる。 全国の大国主関係の伝承を集めた処、最期の方のものと考えられるのは九州方面の伝承である。出雲に戻ってきたという伝承が見つからない。国譲りの段で国譲り交渉を大国主命と行っているが、大国主命が存命なら、日向国(高天原)が国譲りを要求する理由がなくなってしまう。あるとすれば領土的野心であるが、之があれば戦乱は必至である。弥生後期初頭に当たるこの頃、戦乱の後を示す遺跡はない。また、この頃九州方面から武器系の遺物の出土は減少傾向にあり、考古学的に戦乱を意味するものはない。 国譲りが起こる理由としては後継者争いが最も自然に考えられる。後継者争いとなれば、第二代大国主命が「後継者を決めずに急死した」というのがありうる筋書きとなる。九州方面で伝承が途切れていることから、九州で急死したと考えるのが最も自然であろう。大国主命は九州で宗像三女伸の一人の多祁理姫と結婚し、味耜高彦根命が誕生している。記紀神話では他に事代主命と下照姫も生まれていることになっているが、神社伝承では味耜高彦根命のみである。生まれた後、味耜高彦根命は南九州の高皇産霊神の指示のもとで動いている。これは、味耜高彦根命の誕生地は南九州であることを意味しており、大国主命は南九州の日向国で亡くなっていると判断できる。 三屋神社の裏山が御陵となっているのは、大国主命の遺骨を出雲に運んだためであろう。大国主命は出雲国で政治をしている期間は第二代倭国王に就任してからわずかの期間でしかなかった。その後は倭国開拓のために各国を巡回していたのである。そしてその巡回先で亡くなったと考えられるのである。高皇産霊神の元で亡くなったと思われ、高皇産霊神は生まれ故郷に葬ることを考え、出雲での政庁の跡に葬ったのであろう。 |
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■倭国の分裂
この時期、神社伝承や神話伝承によると、倭国に大きな変化があったようである。出雲国譲り神話がこの変化を示しているようであるが、具体的に倭国がどうなったのであろうか。神話伝承や神社伝承を基にすると、次の2つが考えられる。 ・倭国が九州倭国(西倭)と出雲倭国(東倭)に分裂した。 ・倭国の実権が九州に移った。 どちらが正しいのか検討してみよう。 神社伝承によると国譲り後出雲は猿田彦命が治め、九州は日向津姫が治めているようである。統治者がそれぞれにいるのである。また、九州系の遺物が、この時期中国地方に出土する傾向は見られない。その上、九州地方に瀬戸内系の土器の出土が激減するという傾向が見られる。 さらに、後の時代の大和朝廷が成立したときも、九州には方形周溝墓が出現し畿内系のの祭祀が始まっており、畿内勢力が実権を握っていた形跡があるのに対し、中国地方には方形周溝墓が見られず、中国地方と、九州地方では、大和朝廷下での扱いが異なる。 もし、倭国の実権が九州に移ったのであれば、中国地方から九州系の遺物の出土が増えるはずであり、大和朝廷の、九州と中国地方の扱いが異なることは考えにくい。これらのことを考えると倭国は分裂したと考える方が妥当である。素盞嗚尊のまとめた倭国は、銅剣・銅矛祭祀が早くから消滅した中国・北四国地方を中心とする東倭と広形銅矛祭祀の広まっている九州・南四国を中心とする西倭に分裂したと判断できる。 ではどういう経過をたどって分裂したのであろうか。ここに、神社伝承を元に推定してみることにする。 |
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■日向津姫が宇佐を旅立つAD25年ごろの北九州の情勢
素盞嗚尊は高齢化し倭国の経営を安心できる後継者に任さなければせっかくまとまった倭国がすぐに崩壊することを憂えていた。また、AD20年頃出雲で伊邪那美命命が亡くなったことを聞き、伊邪那美命を弔うために出雲に帰還し、そして、後継者の選定をすることになった。そして、正統な出雲王家の系統である、大国主命を第二代倭国王とした。 倭国は大きくなりすぎたので、各地域ごと有力者に統治させないと倭国の体制は維持できないと考えていた。同時にまだ未統一の地域の統一も重要であった。大国主には倭国全体を統治させるため、各地方を巡回して農業をはじめとする新技術を広めて新しい土地開発に従事させた。日向津姫には南九州の未統一地域の統一を命じた。そして紀伊半島部は五十猛命に任せた。 気になるのは北九州地方である。この地域は海外交易の玄関口になり、最重要拠点である。その中心域の伊都国・奴国はまだ倭国に加盟していない。ここに信頼できる人物を派遣しないと倭国は安定して維持できなくなる。そこで、白羽の矢が当たったのが高皇産霊神である。高皇産霊神は馬見山北麓辺りに拠点を置いていた豪族で、優れた知恵をもっており、素盞嗚尊の北九州統一時に色々と知恵を授け、素盞嗚尊も大変信頼していた。素盞嗚尊はこの高皇産霊神に長男である忍穂耳を預け、忍穂耳を旗頭として豊国、嘉麻、田川、飯塚一帯を統治させることにした。 問題はそれ以外の北九州地域である。北九州中心域近辺と佐賀・長崎地域である。ここを猿田彦命に任せることにした。 猿田彦命は出雲にいたころの大歳(後の饒速日尊)とキサカイヒメとの間にできた子で、AD1年頃誕生している。AD25年に当たるこの頃は25歳ほどであった。 この時まで出雲をまとめている八島野命に協力をしていたものと考えている。猿田彦命は人望があり、知恵にも優れていたので、素盞嗚尊は猿田彦命こそ北九州の 中心域の統治には最適と考えた。猿田彦命は妻を失ったイザナギを伴って、福岡市の住吉神社の地に上陸した。猿田彦命は住吉大神の別名を持つこととなった。 北九州中心域にはイザナギ・伊邪那美命を祀った神社が数多く存在しているが、イザナギの行動実績は伝えられているが、伊邪那美命は伝えられていない。後の時代に神武天皇がこの地を訪れた時もイザナギのみを祀っている。おそらく、伊邪那美命と死別したあとのイザナギが訪れたのであろう。福岡市の住吉神社は根の国から戻って禊をして住吉神を産んだとされている。住吉神は猿田彦命で猿田彦命と共にこの地に上陸したことを意味しているのであろう。古代の住吉神社の地は那珂川の河口でありながら、丘陵があり上陸地に最適の場所だったようである。 猿田彦命はここを拠点として北九州市以西の海岸線及び筑後川流域、佐賀・長崎の広い地域を統括することになった。猿田彦命の統治領域は広い海岸線を含んでいる。海上交通の実権を握っていたことは明らかであろう。この地域の実権を握るには海上交通を抑えないと意味がない。住吉大神は海上交通の神である。宗像三女神も海上交通の神であり、両者にはつながりが感じられる。三女神を祭る中心的神社は宗像神社と呼子の田島神社である。呼子は壱岐島からの最短距離にあり、宗像は東からの海上交通の要になるところである。そしてその真ん中あたりに住吉神社がある。また、この配置は当時の未統一地域である伊都国を東西から挟んでいる配置である。伊都国は猿田彦命によって海上交易の利権を奪われた形になっている。猿田彦命は、この時三女神のひとり市杵島姫と結婚したのであろう。イザナギは猿田彦命の統治に暫く協力後、饒速日尊に協力するために淡路島に行ってそこで世を去った。 日向津姫のほうは九州でまだ未統一な地域の統一を素盞嗚尊から託されてそのために尽力することになった。 宇佐で素盞嗚尊と日向津姫が生活しているときいろいろと知恵を絞って倭国の経営に協力してくれたのが高皇産霊神であった。 日向津姫は南九州未統一地域の統一のために日向に戻らなければならず、素盞嗚尊の指示通りにまだ幼少の長男忍穂耳命を高皇産霊神に預けた。高皇産霊神は忍穂耳命を旗頭として九州北東部地域を治めることになった。忍穂耳命は成長後のAD35年頃高皇産霊神の娘ヨロズハタトヨアキツヒメと結婚した。高皇産霊神は成人した忍穂耳に豊前、嘉麻市、飯塚市、田川市辺り一帯の統治を任せた。この頃日向津姫は南九州地方の統一に手間取っていたため、高皇産霊神は日向津姫を助けるために日向に旅立った。忍穂耳はこの地域を治めていたが、出雲国譲り直前のAD45年頃病没した。 日向津姫は次男穂日命命をつれ、宇佐を出発した。日向に戻る前に素盞嗚尊が統一に失敗した球磨国の様子を探るため延岡から五ヶ瀬川をさかのぼり高千穂に立ち寄った。高千穂の櫛降神社は瓊々杵尊の誕生伝説地である。瓊々杵尊誕生伝説地は調べた限り他になく、瓊々杵尊はここで滞在中の日向津姫から産まれたのではないだろうか。 日向津姫が高千穂に住んでいたのは25年頃〜27年頃の2年間ほどと考えられる。日向津姫が住んでいたのは高千穂町三田井のはずれにある高天原と呼ばれている丘陵上ではないかと考える。 ここは瓊々杵尊の宮居伝説地である。このためにこの高千穂が天孫降臨の地として後世に伝えられることになったのではないだろうか。 日向津姫は27年ごろ生まれ故郷である日向の地へ戻った。日向に戻った日向津姫の拠点は当初イザナギの皇都があったという伝承を持つ東霧島神社の地であろう。この神社は瓊々杵尊が都していたという伝承も持っている。ここを拠点として日向津姫はしばらくは日向地方の地固めを行なっていた。 この当時、九州では球磨国・大隅半島部・薩摩半島部・日南地方はまだ未統一であった。 高皇産霊神は政略的な知恵には長けていたが大国主は科学的知識に長けていた。高皇産霊神は南九州統一にはこの地域の農業生産性を上げる必要があり、そのためにはどうしても大国主の科学的知識が必要と考え、AD40年頃北九州にいた大国主を南九州に呼んだ。 そこで大国主命に、素盞嗚尊との間にできたタギリヒメと結婚させた。日向(西都市周辺)で農地開発に協力した。大国主は比木神社の地を中心として活躍していたようである。西都市周辺にいる時AD40年頃アジスキタカヒコネが生まれている。熊本県の幣立宮に大国主命がいた痕跡がある。 大国主命は球磨国を倭国に取り込もうと努力をしていたのであろう。そのほか日向一宮である都農神社を始め、日向には大国主命の足跡を伝える神社が存在している。大国主命は球磨国を初め、未統一地域の統一に向けて努力をした。 しかし、アジスキタカヒコネが生まれた後、志半ばにして大国主命は日向で死んでしまった(AD44年ごろ)。 大国主命の遺骨は出雲に引き取られ、生まれ故郷の出雲国山屋神社裏山に葬られた。 大国主命が後継者を決めずに日向で亡くなったことが倭国に相続問題を引き起こすことになった。第三代倭国王の候補は出雲ではタケミナカタである。 しかし、タケミナカタの母は越の人であり出雲とは無関係であった。出雲の人々が納得するはずはない。 その上九州内の未統一地域が倭国の切り崩しを謀って不穏な動きをしていた。 そのため、倭国に衰退の兆候が見られてきたのである。高皇産霊神は、このままでは、せっかくまとまった倭国が再び分裂し、戦乱の時代が来るのではと危惧した。 素盞嗚尊が創始した倭国は巨大な統一国家に成長した。しかし、その政治体系は未熟なものがあったのである。 |
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■国譲り会議
朝鮮半島の技術は素盞嗚尊の活躍によって取り入れることができたが、それだけでは不十分であり、さらに進んでいる後漢の技術の習得し、 その技術を使って残された未統一地域の統一がこの危機を乗り切るのに急務であった。そのためには、指導力のある強力な国王が必要であったが、出雲にその人材がなかった。倭国全体を治めることのできる人物は素盞嗚尊以外にはいないのである。そのため素盞嗚尊祭祀を強化する必要があった。倭国の建て直しのためには、倭国の政治体系と祭祀体系を確立しなければならないのである。日向津姫、高皇産霊神が何とかしようと思っても出雲からの指示待ちでは何もできず、倭国の分裂は明らかで戦乱の時代が来ることが予想された。日向津姫、高皇産霊神の発言力は倭国全体には及ばなかったのである。そこで、高皇産霊神は日向津姫と相談し倭国から九州を独立させることを提案した。 高皇産霊神の考えをまとめると次のようなものである。 1.猿田彦命による出雲中心域での素盞嗚尊祭祀の確立。 2.猿田彦命による出雲の統治権の確立。 3.忍穂耳命を国王として九州を倭国から独立させる。 4.対馬の豪族を取り込み後漢の技術を取り入れる。 5.九州内の未統一地域を統一し国力を充実させる。 6.東倭と再び合併する。 7.最終的に東の日本国と合併し、列島内の統一政権を作る。 出雲は八島野命が統治していたが、この八島野命もこの頃亡くなった。大国主の子である鳥鳴海(鳥鳴海命)が出雲国の後継者となった。しかし、倭国全体を統治するには反対意見もあり、出雲も落ち着かない状態になっていった。後継者をすぐにでも決定しなければ倭国が分裂してしまうことは避けられない。カリスマ性を持っていた素盞嗚尊ほどの統治者はいないのである。やはり倭国全体を治めるには素盞嗚尊しかいないのである。そこで、素盞嗚尊祭祀の形で神となった素盞嗚尊の言葉を伝える人物(言代主)をつくり、神(素盞嗚尊)の言葉として政治を行うと倭国全体が治められるのではないかと高皇産霊神は考えた。出雲中心域では素盞嗚尊の祭祀が散発的にしか行われていなかったのである。出雲中心域で本格的な素盞嗚尊祭祀を創める必要があった。国を治めるには祭祀を強化すると同時に強力な支配者が必要である。この支配者が出雲にはいないのである。 大国主命の子供は以下のように整理される。 ●スセリ姫 子なし 大国主命は結婚後スセリ姫の激しい性格をきらい、近づかなかったようである。地方巡回に精を出したのも彼女から逃げると云う目的もあったと思われる。 ●八上姫 木俣神 スセリ姫の激しい嫉妬から八上姫は故郷に帰ってしまった。 ●奴奈川姫 タケミナカタ 越国に派遣している時に生まれた。越国王として活躍しており、出雲にはいなかった。 ●タギリ姫 アジスキタカヒコネ この人物は日向に住んでおり、日本国・倭国の合体実現に貢献した ●トトリ姫 鳥鳴海 トトリ姫は素盞嗚尊長男八島野命命の娘。出雲王朝第7代国王 ●カムヤタテ姫 事代主命 下照姫 カムヤタテ姫は大国主命ではなく大物主命の妻である。したがってこの二神は大国主命の子ではない。 このような複雑な事情を解決するためには有力者が各地に散らばっているので、もめごとを起こさないためにも関連人物を1か所に集めて会議をする必要があった。之を示す神話が以下のものである。 <古事記> 高天原から、最初は天穂日命が、次には天稚彦が国譲りの交渉役に遣わされるが、どちらも大国主命に従って、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神と天鳥船神(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫った。 大国主命は、ふたりの息子に意見を求めた。釣りに出ていた事代主神は国譲りに承諾したが、健御名方神は反対した。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、建御名方命が敗れてしまい、国譲りが実行された。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。 <日本書紀一書> 大国主命のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけた。すると、高天原の高皇産霊尊は、大国主命の言葉をもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示した。 その一番の条件は、大国主命は以後冥界を治めるというものです。さらに、大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えた。大国主命はその条件に満足し、根の国に行った。 <出雲国風土記> 国譲りにさいして、大国主命は、 「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」 出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、と大国主命は宣言している。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけである。 この三種の国譲りを見て言えるのは戦闘が主ではなく、話し合いが主である。話し合いで互いに条件を出し合い交渉をして、国譲りを実現していることが分かる。日本書紀一書にある、大国主命が以後冥界を治めるということは、大国主命がこの時すでに亡くなっていることを意味している。大国主命が会議の後処刑されたことも考えられなくはないが、これら文章はそんな殺伐としたものに見えない。すでに亡くなっていると考えた方が前後がスムーズにつながる。 倭国の将来を決定づける重要な話し合いである。遠く離れた地で交渉するのも不自然である。一か所に集まって会議をしたと見るのが自然であろう。参加した人物は上の文章から判断して、高皇産霊神(日向国代表)、饒速日尊(=武甕槌神・日本国代表)、事代主命、建御名方命(越国代表)である。前後の出来事を考えると、他に五十猛命(紀伊国代表)、天忍穂耳命(北九州東部代表)、猿田彦命(北九州西部代表)、味耜高彦根命、鳥鳴海(出雲国代表)が加わっていると判断する。 会議の場所はどこであろうか、出雲国が倭国の中心地なので出雲国のどこかと思える。次の伝承が参考になる。 |
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■「島根県口碑伝説集・十六島の岬」の記事
大国主命は国譲りの問題が起こると、子供の建御名方命を信州から呼び寄せ、協議した。建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。この時、建御名方命は事のいきさつを事代主命に諮らんとして、今の十六島の岬から上陸して、今の東万田(島根県出雲市万田町)に着いた この伝承は建御名方命を出雲に呼び寄せたことを意味している。信州から呼び寄せたことになっているが、この時点では越国にいたはずなので、越国から呼び寄せたものであろう。「建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。」を削除すれば、全体の意味が素直につながり、「十六島から上陸して東万田に着いた」というのが、会議に参加するために来たという意味にとれる。 |
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■島根県出雲市湖陵町差海891にある佐志武神社の伝承
「出雲国譲の際に、両祭神(建御雷神・経津主神)が当地から進み(ススミ)出たという。ススミ、ススム、サシムと変化した。」 両祭神は、国譲りの交渉のため当地へ上陸(あるいは降臨)したとおもわれる。ちなみに『神国島根』によると、上古は出雲大社の西の杵築浦から、当社の南の田儀浦までを稲佐の浜と呼んだという。 斐川町鳥井の鳥屋神社(祭神建御名方命)。この神社は大きな岩の上にある。この岩は建御名方命が建御雷命との多芸志の小汀の決戦で建御名方命が投げた岩と言われている。多芸志の小汀とは今の出雲市武志町と言われており、その位置に鹿島神社がある。 これらの伝承を総合して判断すると会議が行われたのは出雲市武志町の鹿島神社の地と思われる。斐伊川の河口付近である。饒速日尊は先に日向国の高皇産霊神と会い根回しをしていたと思われる。饒速日尊と高皇産霊神は一緒に湖陵町差海に上陸し、建御名方命は十六島を経由して河下湾に上陸して、出雲市武志町までやってきたのであろう。ここで、一同が会して国譲り会議(日本列島統一会議)が行われたと考える。 |
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■国譲り会議の決定事項
■第一議題 第三代倭国王の決定 日向で急死した大国主命の子は木俣神、建御名方命、鳥鳴海、味耜高彦根命の4神である。第三代倭国王の条件としては素盞嗚尊の血統かどうかが重要である。スセリ姫との間に子があれば一切問題はないのであるが、スセリ姫との間に子がなかったのである。木俣神、建御名方命は素盞嗚尊との血縁はない。素盞嗚尊と血縁を持つのは鳥鳴海と味耜高彦根命である。味耜高彦根命は出雲と関係ないので、出雲勢が反対する。該当するのは鳥鳴海しかいない。鳥鳴海が第三代倭国王の候補となるべきであるが、日向の日向津姫や高皇産霊神にとっては無関係な人物であり、日向勢は猛反対するであろう。鳥鳴海は出雲古来の王家出雲王朝を引き継いだ。大国主命はスセリ姫と結婚したため、倭国王と兼ねることができたが、鳥鳴海の場合は日向勢の反対のため、出雲王家が倭国王を兼ねることができなかったのである。 素盞嗚尊の子のうち、出雲・日向の人々から最も信頼されているのは饒速日尊(大歳)命である。第三代倭国王としては饒速日尊の子しかいないことになった。該当するのは北九州で活躍している猿田彦命と大和で誕生した事代主命である。末子相続の原理からすると事代主命となるが、この当時10歳前後と思われ、倭国王とするのは無理である。該当人物として猿田彦以外にいないこととなった。 高皇産霊神は倭国から九州を独立させ、出雲国中心の東倭国と日向国中心の西倭国にし、東倭国王を北九州で青銅祭器を生産していた猿田彦命にしようと提案した。猿田彦命は素盞嗚尊の孫であり、饒速日尊の子である。伊邪那美命が出雲にやってきたAD15年頃、佐太大社の地で合議制の政治をしており、住民から絶大な人気を誇っていた。出雲に伊邪那美命がやってきた時、伊邪那美命を向かい入れ、伊邪那美命の世話していたのではないだろうか。このように、出雲にいるころ八島野命の補佐役として活躍しており、出雲の人々には絶大な人気があったのである。この猿田彦命が出雲を治めるとなれば出雲の人々が反対することはないと予想された。しかし、猿田彦命に倭国全体の統治は広すぎてかなり難しい。そこで、紀伊国と越国を政権が安定している日本国に所属替えをし、猿田彦命の統治領域を中国地方・北四国地方とし、忍穂耳命の統治領域を九州地方・南四国地方(高天原・西倭)とすることにより素盞嗚尊祭祀者を中心として 分割統治するというものである。ただ分割すると言うのでは出雲は納得しないであろうから、素盞嗚尊祭祀者の言葉(素盞嗚尊の言葉)のもとでの分割統治であれば、 出雲も納得するであろうと高皇産霊神は考えた。西倭の統治者を忍穂耳命としたのは、忍穂耳命は素盞嗚尊と、日向津姫の間にできた子であるというのに加え、 高皇産霊神の娘婿であるという要素が強かったに違いない。 西倭が海外交易の実権を握るには猿田彦命の統治領域の北九州北西部の統治権を譲ってもらわなければならない。海外交易の実権さえ握れば、西倭が主体になって外国の先進技術を導入し、その技術で東倭を立て直すことができる。素盞嗚尊の統一した倭国を尊重したい日向津姫ではあるが、 このままにしておけば素盞嗚尊の倭国が衰退して分裂し、戦乱が起こるのは明らかであった。彼女としてみれば、倭国の衰退はどうしても避けたかったので、 高皇産霊神の考えに同調した。 この考えを実行するためには、まず、出雲の人々を承諾させねばならなかった。そのために、日向津姫の次男である穂日命を出雲に派遣し根回しをさせることにした。 根回しが完了した時、猿田彦は北九州東部(豊国)の忍穂耳命に北九州西部(筑紫国)を譲り渡して東倭王に就任し、忍穂耳は西倭王となる事の大体の了承が得られた。 反対したと思われるのが出雲統治者の鳥鳴海と、越国の建御名方命であろう。大国主命は第二代倭国王である。その王の子にはそれなりの立場が必要であったが、素盞嗚尊との血縁関係を考えると難しい問題が起こったのである。第一子の木俣神は以降全く出てこないので早世したか自ら身を引いたと思われる。味耜高彦根命は生まれたばかりで自分の意見を言うことはできないが、高皇産霊神としては大合併の時に重要な役割をしてもらうつもりであった。鳥鳴海命と建御名方命はそれなりの立場を考える必要があった。 そこで考え出したのが祭政分離である。鳥鳴海は古来からの出雲王朝の血を引いているので、出雲国王として今後代々出雲国を治める権限を与えた。これは、出雲風土記の大国主命の言葉、 「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」 この言葉から推定したものである。以降鳥鳴海の子孫が出雲国王として出雲国を治める様になった。 それでは、猿田彦との関係はどうなるのであろう。猿田彦命の系統は娘が穂日命の子である武夷鳥命の長男と結婚しその子孫は、以降、出雲国造家(出雲大社宮司)として繁栄している。つまり祭祀を司っているのである。猿田彦命には東倭国全体の統治と素盞嗚尊祭祀の中心人物として任命した。これは、日本書紀一書の「大国主命は以後、冥界を治め、さらに、大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどの条件に満足し、根の国に行った」という記事から類推したものである。宮を作るということは祭祀を意味し、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造るなどは神事を意味しているのではないだろうか。 この提案に鳥鳴海命は納得し、以降出雲王朝が第15代トオツヤマサキタラシまで、代々継続することになった。 収まらないのが建御名方命である。大国主命の後を継ぎ越国王として、越国をまとめてきた。素盞嗚尊に対する憧れがあったのか、日本国に所属することに反対した。最後まで建御名方命が納得することはなかった。やむを得ず、越国はそのまま倭国に所属するという形で結論を出した。 ■第二議題 日本列島の統一(倭国と日本国との大合併) 素盞嗚尊の最終目標は日本列島をひとつの国として統一することであった。これを最終目標とすることには誰も異存はなかったが、具体的手法に関しては意見がまとまらなかったのである。 高皇産霊神にとって最も不安に感じていたのが、日本国の饒速日尊である。成り行きとはいえ倭国とは別の国を作ってしまったということが、将来日本列島をに分割し、互いに争い、どちらかが相手を滅ぼすという最終戦争につながることを最も恐れていた。饒速日尊もその気持ちは一緒であった。饒速日尊はこれが議題になった時、次のような会話が想定される。 饒速日尊:「大和を統一する時、との土地の有力者の長髄彦の反対があったので、やむなく、日本国を作った。今、私は東日本一帯の統一事業を行っている。あと数年で統一できると思う。その後なんとかして長髄彦を説得して大合併を実行する。」 高皇産霊神:「具体的にはどのようにして大合併するのか。」 饒速日尊:「互いの後継者通しを政略結婚させたらどうだろうか。」 高皇産霊神:「それは良い考えだが、その時期はいつ頃か。」 饒速日尊:「5年後ぐらいに互いの後継者を選定し、10年後ぐらいに大合併ではどうか。」 高皇産霊神:「了解。それでは東倭国はどうするか」 饒速日尊:「西倭国と日本国が大合併してしまえば、体制が決まるので、その時の話し合いでなんとかなるのではないか」 高皇産霊神:「その時まで我々は生きていないだろうから、後継者をしっかりと育てよう」 もっともこの内容に関しては、国譲り会議の時ではなく、饒速日尊が先に高皇産霊神のもとに赴いていることから、すでに根回しができていたのではないかと思われる。饒速日尊はその証として、高皇産霊神の娘である三穂津姫と結婚することになっていた。 大合併に関しては、大筋の合意が得られたので、5年後ぐらいに再び話し合うことで決着した。各自それぞれの国に帰り、決定事項を実行することになった。 ■忍穂耳命の急死 会議の決定事項により穂日命が出雲に派遣され、穂日の活躍により出雲のほうの大方の了解を取り付けたので次の計画として、忍穂耳命に北九州の猿田彦命からその権限の移譲ををすることになった。しかし、その準備中に忍穂耳命が急死したのである。忍穂耳は西倭国の国王となることを想定していたのであるが、計画が大きく狂ってしまった。再び会議で決定する時間的余裕はなく、急遽対策を練る必要が生じた。 忍穂耳亡き後の北九州東部の統治を引き受け、同時に猿田彦命の統治領域を譲ってもらう人物となれば、忍穂耳の弟である瓊々杵命しかいなかった。しかし、猿田彦命が統治者が瓊々杵命になることに賛成するかどうか分からなかったので、日向津姫と高皇産霊神はやむなく三男の瓊々杵命を急遽猿田彦命との交渉にあたらせることにした。 福岡県京都郡の高木山には、瓊々杵命が天降った高千穂峰であるという伝承がある。瓊々杵命は日向からここにやってきたようである。 ここから瓊々杵命の伝承地をつないでみると、嘉穂町の馬見山、そして、福岡県と佐賀県の県境の基山である。基山には瓊々杵命が高千穂から遷向して国見をしたと言い伝えられている。そして、佐賀県と長崎県の県境にある多良岳である。いずれにも荒穂神社があり瓊々杵命が祭られている。瓊々杵命は、高木山、馬見山、基山、多良岳と北九州を横断している。基山と多良岳は、素盞嗚尊一族の伝承があるところで、猿田彦命の勢力圏である。猿田彦命も出雲で素盞嗚尊祭祀がほとんど行われていない状態を憂えており、高皇産霊神の提案を快諾しその実現に協力することになった。猿田彦命が了承すると北九州全域の出雲の役人は次々と了解した。地域的には戦闘もあったかもしれないが、北九州全域の出雲の役人は瓊々杵命に政権を移譲し出雲に帰還することとなった。瓊々杵命は猿田彦命に変わって北九州北西部全域を統治することになった。国を譲ったあと猿田彦命は 北九州市の白髭神社の地に住んでいたようである。市杵島姫はまだやるべきことが残っていたので、宇佐に戻り、瀬戸内・日向との海上交通の要を守った。猿田彦命は瓊々杵命に随伴してきた天細女命(サルメ)と後に結ばれ、彼女と共に出雲に旅立ったのである。 瓊々杵命は高木山の近くの海岸に上陸し、そこから今川に沿って、忍穂耳のいた吾勝野→香春→田川→飯塚→嘉麻(馬見山の麓)と移動し、馬見山に登って周辺を国見した。これによって、忍穂耳の統治領域を引き継ぐことができた。その後猿田彦命の本拠地である福岡市の住吉神社の地に赴き、猿田彦命と交渉した。猿田彦命の承諾を得たのち、基山→太良嶽と巡回し各地方の豪族の承諾を得て北九州一帯の統治権を得た。この時、猿田彦命は瓊々杵命を案内して各豪族を説得して回ったのであろう。そうでないと瓊々杵命だけでは各豪族の反発が強くて簡単には引き継ぐことができないと思われる。これを見ても猿田彦命は北九州の人々に信頼されていたことが分かる。これにより猿田彦命は道祖神と呼ばれるようになった。47年頃のことであろう。 ■出雲国譲り 瓊々杵命の活躍により九州に派遣されている出雲の人々は大方納得し、分割後は出雲に引き揚げることとなった。国譲り会議の決定事項を実行するのにあたって、障害となるのは、決定事項に逆らい、鹿児島神宮の地に居座っている出雲から派遣されていた人々のみとなった。高皇産霊神は話し合いを継続したが、埒があかないので、ついに武力に訴えて解決することを決意した。 瓊々杵命を総大将として鹿児島神宮の近くの石体社の地に集結し、鹿児島神宮の地にある出雲屋敷を急襲し、南九州から出雲勢力を追い出した。これが高千穂旗揚げである。鹿児島神宮の地は後に晩年の日子穂々出見命が住んでいた地でもある。 次に、出雲の鳥鳴海に国譲りを迫った。使者を遣わし出雲と交渉を行った。穂日命の根回しが功を奏し会議の決定事項の通り出雲国譲は成功した。 この結果倭国は西倭(九州・南四国)と東倭(中国・北四国)に分裂することになった。猿田彦命は出雲に移住し素盞嗚尊祭祀を始めた。 九州北西部は瓊々杵命、東九州一帯は日向津姫が治めることになった。AD47年ごろのことである。このとき穂日命の子武夷鳥命も猿田彦命が作っていた青銅器(後の出雲神宝)を持って出雲に同行している。 出雲に来た猿田彦命は出雲最大の聖地(熊野山=素盞嗚尊御陵)に熊野大社を建立し、その参道沿いに遥拝所を儲けた。 八雲村大石の旧能利刀社の地に素盞嗚尊の言葉を聞く施設を作り、職言綾根を設けた。 猿田彦命はそこの対岸の広場の布吾弥社の跡地に人々が集まって言綾根(言代主とも云う)の言葉を聞く施設を作った。そして、さらに少し離れた松江市大庭町神魂神社の地を神都として東倭各地から代表者を集め旧暦10月に代表者会議を行うようにした。 その会議で決定されたことを代表者は各地に戻りその地方を統治した。このときの出雲国代表者が猿田彦命である。出雲国の素盞嗚尊祭祀者(後の出雲国造)はこの地での火継ぎ(日嗣)の儀式を経ないと勤めることができないようにした。この出雲国の聖地で行われる儀式は、後の時代に熊野大社に移り現在は出雲大社へと変遷している。素盞嗚尊祭祀者を神聖化することにより東倭を治めることに成功したのである。 穂日命は父の故郷出雲国を立て直すために出雲に残り、息子の武夷鳥命と共に猿田彦命の祭祀を補助した。武夷鳥命は主に斐伊川流域を、 穂日命は主に安来平野を中心として開拓をした。 |
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■日向女王日向津姫の誕生
■武夷鳥命の出雲行き 神話では出雲国譲りの時穂日命と武夷鳥命(武夷鳥命)が高天原から派遣されている。穂日命は神話の通り国譲りの前と考えられるが、穂日命の子武夷鳥命は北九州に行動の足跡があることと、穂日命が出雲に行ったころまだ20に満たない幼さがあったものと考えられ、かなり後からではないかと思われる。 武夷鳥命が出雲に行ったのはいつ頃のことであろうか、日本書紀では、穂日命が出雲に行ってから国譲りが起こる前となっている。しかし、武夷鳥命は、 日本書紀崇神天皇の条に「出雲に神宝を持ち込んだ。」と記録されており、この天皇の頃までその神宝が保存されていたらしいのである。この神宝が、少なくとも 200年以上保存されている。大抵のものは朽ち果ててしまうことから、この神宝は青銅器であると考えられる。北九州地方で青銅器を大量生産をしていたのは猿田彦命であるということと、猿田彦命が青銅器を持って出雲に行っていること、猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を行うことから考えて、武夷鳥命は父の穂日命を 頼って、猿田彦命と共に出雲に行ったのではないかと想像する。その時期は国譲りの直前(AD45年ごろ)と思われる。猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を始めるため、 九州地方で盛んな素盞嗚尊祭祀器具である青銅祭器を持ち込む必要があったのである。武夷鳥命は出雲に着くと飯石神社の地に住んでいたようである。 ■女王日向津姫誕生 倭国から九州を独立させるのに成功したが、忍穂耳命が急死し、西倭王の座は空いたままになってしまった。候補者は日向津姫の子である瓊々杵命・日子穂々出見命・鵜茅草葺不合尊であるがこの3人はまだ倭国に加入していない地域の統一に活躍しなければならず、その手段として政略結婚もありうるので、国王にするのは今はまずいとの思いがあった。そこで、最終的に適任者は一人しかいないことになる。それは日向津姫である。日向津姫は素盞嗚尊の妻であるから、国王になる資格は十分である。日向津姫が西倭王として即位することになった。 この後、日向津姫とその一族は南九州の未統一地域の統一のため、北九州地域の政治体制を固めた後、素盞嗚尊が南九州政庁とした国分の鹿児島神宮の地に移動した。この地は南九州の未統一地域(大隅・薩摩・日南)の中央にあり、これら地域の統一の指示を出すには最適の地である。日向津姫はここを拠点として以後20年間西倭をまとめたのである。紀元50年ごろと思われる。 そして、この直後、後に神武天皇になる佐野命が日向津姫の末子鵜茅草葺不合尊の子として生まれている(AD58年)。日向津姫は西倭の全実権を 握った。その結果、南九州での瀬戸内系土器が衰退したものと判断する。 |
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■国譲り後の出雲
AD47年頃国譲り騒乱の結果、猿田彦命は瓊々杵命命の従者であったサルメと結婚し、出雲の統治者として赴任してきた。この後の出雲の統治者は色々と変わっているようである。ここではその分析をしてみよう。 国譲り後の出雲関係推定年表 年代 事項 AD40年頃 武夷鳥命九州にて誕生 AD47年頃 出雲国譲り完結。猿田彦命東倭初代国王として赴任 / 武夷鳥命、猿田彦 命と共に出雲に来る。神宝(荒神谷の青銅器)を持ち込む。 AD58年 佐野命(神武天皇)日向で誕生 AD60年頃 武夷鳥命長男櫛瓊命誕生 AD60年頃 事代主命東倭第二代国王として出雲に赴任 / 猿田彦命伊勢地方開拓に 出発 AD60〜65年頃 饒速日尊大和で死去 AD83年 神武天皇大和にて即位。大和朝廷成立 AD85年頃 神武天皇全国巡幸。 / 櫛瓊命第三代東倭国王就任。以降天穂日命の系 統が東倭国王を引き継ぐ。/ 事代主命、伊豆地方開拓に出発。 AD107年 第4代懿徳天皇、後漢に技術者(生口)を派遣する。 AD121年 神武天皇崩御 広島県葦嶽山に伝わる伝承では、神武天皇がここに滞在中使者を使わして出雲国事代主命に東征の協力を申し出たことが伝えられている。このことは、AD80年頃の出雲の統治者は事代主命であることを意味している。倭の大乱のあったAD160年頃は出雲振根命が出雲の統治者となっている。出雲振根命は出雲国造家の系統である。 伝承を探ることにより、国譲り騒乱後の出雲統治者は猿田彦命→事代主命→出雲国造家と変遷しているようである。この過程を検討してみよう。 出雲の伝承には猿田彦命の娘と武夷鳥命の長男が結婚して出雲国造家に出雲の統治権が移ったと言われている。その年代を推定してみよう。猿田彦命はAD10年頃出雲で誕生しているので出雲国の統治者になったのは40歳ごろとなる。このとき、瓊々杵命の従者であった天ウズメ(サルメ)と結婚している。猿田彦命の娘というのはサルメとの間の娘であろう。AD50〜60年頃誕生していると思われる。武夷鳥命は天穂日命の子である。天穂日命はAD20年頃誕生しているので武夷鳥命はAD40年頃誕生と思われる。長男は櫛瓊命と思われ、誕生はAD60年頃であろう。この弟が出雲建子命(別名伊勢津彦命)で神武天皇の時代に東海地方に派遣されており、櫛瓊命も神武天皇時代AD80〜100頃活躍したと思われる。年代的にもこのようなものであろう。これにより、武夷鳥命の長男と猿田彦命の娘が結婚したのはAD80年頃と推定される。神武天皇即位直前の出雲の統治者は事代主命なので、事代主から出雲国造家に政権が移ったのは神武天皇即位後暫らくしたAD85年頃ではあるまいか。 猿田彦命から事代主命に政権が移ったのはいつ頃なのであろうか。事代主命は大和国鴨キ波神社の地で饒速日尊命を父として誕生している。饒速日尊が葛城地方に勢力を伸ばしてしばらくしたAD40年頃誕生であろう。事代主命の娘が神武天皇の皇后となっている。この娘の誕生はAD60年頃と思われ、この頃までは事代主命は饒速日尊と共に東日本開拓をしていたことになる。神武天皇が大和に入るころ大和国での事代主命の行動形跡が伝わっていない。この頃にはすでに出雲に移動していたことになる。猿田彦命は事代主命に出雲の政権を譲った後、伊勢国に移動しているが、武夷鳥命の二男出雲建子命も伊勢国に移動している。おそらく一緒に赴いたのであろう。 なぜ、国譲り後の出雲は政権が色々と変わっているのであろうか?なぜ、大和の事代主命が出雲の統治者になったのだろうか?事代主命・猿田彦命は政権移譲後なぜ、東国に移動したのであろうか?など多くの謎が付きまとっている。この変化がAD60〜65年頃一斉に起こっていること、東日本がかかわっていることから判断して、饒速日尊の遺言が原因ではないかと想像する。 饒速日尊命はAD60〜65年頃大和国で亡くなっている。ちょうどこの頃起こっている変化である。饒速日尊命は東日本地域を統一し日本国を建国した。東日本地域は饒速日尊命が統一したが、東日本地域は西日本地域と異なり、外国の先進技術が入りにくい状態である上に、縄文人が多い地域でもあった。饒速日尊としては西日本地域の先進技術を取り入れることに力を注いでいたことが予想される。実際に東海地方では出雲文化が浸透している。古墳時代に入った時もいち早く出雲から前方後方墳の築造技術を学んでいる。このことも出雲文化が東海地方に浸透していたためではあるまいか。 |
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■素盞嗚尊祭祀の中心地はどこか
■神都 神魂神社 その中心地であるが、猿田彦命が中心として祭られているのが出雲国二ノ宮である佐太大社である。佐太大社前の広場には毎年10月(神有月)には各地から代表者が集まって会議が開かれていたと伝えられている。この神事は現在出雲大社で行われているが、その元はこの佐太大社にある。しかし、当初の佐太大社の位置は西側の朝日山の麓にあったようである。猿田彦命がこの地で政治を行っていたためであろうと当初考えたが、この地は当時の出雲の中心地から大きくずれている。多くの人々を集めて政治を行うためには中心地周辺でなければならない。そこで、ほかの神社で該当するところを探してみると、松江市の神魂神社が該当するようである。神魂神社は主祭神が伊弉冊大神で 「当社は大庭大宮とも云ひ出雲国造の大祖天穂日命が、此地に天降られて御創建、伊弊冊大神を祀り、出雲大神、出雲国の総産土大神、として天穂日命の子孫は元正天皇霊亀二年に至る二十五代果安国造迄祭主として奉仕、斉明天皇の勅令により、出雲大社の創建なるや、杵築へ移住したる。しかし、国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続式、並に新嘗祭を執行の為め、現在も当社に参向されている。 従って大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を執った当社が古代出雲の神都であり、毎年十月には全国の八百万の神々が集ひ給ふ神在祭も行はれている。」 と記録されている。神在祭が行われていること、神火相続式、並に新嘗祭を執行、熊野山に近いこと、松江市大庭周辺は古代出雲の中心地のひとつであることなど、政治の中心地としての条件を兼ね備えている。主祭神が猿田彦命ではないので佐太大社ではないかと思っていたが、猿田彦命から穂日命の子孫に出雲の統治権が移った後、神社になったために穂日命以降の記憶のみが残ったか、祭神が書き換えられたのかではないかと判断する。 ■熊野神社の素盞嗚尊祭祀 素盞嗚尊祭祀はどのようなものだったのであろうか。祭祀者は素盞嗚尊の言葉を聞く立場にあるので、 素盞嗚尊御陵のある熊野山あるいは熊野山がよく見えるところと考えられる。この地は出雲国一ノ宮である熊野大社の元宮があったところで、熊野大社にいたものと判断する。熊野大社は当初出雲国最大の神社であったが、次第に衰退して現在の形になっている。熊野大社は天文11年(1542)大内氏の富田城襲撃の際全焼し、また、元禄11年(1698)意宇川の氾濫によって社地の大半を失うなどして、神社の記録はすべて失われており、どういった由緒があるのかはわからないのである。しかし、古代の崇敬の規模からして相当の由緒があることは間違いないであろう。熊野山がその元宮で素盞嗚尊の御陵であると推定している。それ以外にこれほど崇敬の対象になる理由がない。古代は熊野山頂に元宮があり、意宇川に沿っていくつかの摂社が存在していたようであるが、明治になりそのすべてが現在の熊野大社に合祀されている。熊野大社崇敬会 川島扶美子氏著 「熊野の大神様」によると、神社は次のように配置されていたそうである。 熊野山から意宇川に沿って下ると、市場・宮内・稲葉・森脇・大田・大石・元田と呼ばれる地が続いている。熊野大社の摂社は意宇川に沿う参道の要所要所に配置されていた。熊野山山頂にあった元宮は市場の地に移されたようである。次の宮内に現在の熊野大社が存在している。次の稲葉地区の盆地が狭くなる西側に前社(さきしゃ)の跡地がある。この前社は「雲陽誌」には熊野御崎社と記されており、祭神は少彦名命といわれている。現在もこの参道は残っている。谷間の切れ目から熊野山が遥拝できる。次の森脇地区には楯井社の跡があり、大田命が祭られていた。この地からは熊野山が見えない。次の大石地区に田中社の跡地がある。この地からも熊野山は見えない。次の大石地区の北端部に意宇川を挟むようにして布吾弥社(ふごみしゃ)と能利刀社(のりとしゃ)の跡地がある。この地は出雲の政治の中心地である 松江市大庭町周辺から熊野山へ参詣する参道の入り口に当たりここより谷間に入っていくのである。布吾弥社の跡地は少し高台にあり、その社地は他の摂社とは比べものにならないほど広い。北側が開けており、さまざまな建物が建っていたことが予想される。当時の人々がこの周辺に集まって祭礼をしていたことが伺われる。反対側の能利刀社は大岩がありその岩を背にして社が建っていたようである。「御祓所」といった雰囲気を持っている。この地からはよく熊野山を遥拝できる。祭神は天児屋根命であったようである。事代主命は素盞嗚尊の言葉を聞くという神聖な儀式を行う必要があったのでこのいずれかの地にいたと思われる。熊野山が遥拝できない場所ではないと思われるので、最有力候補地は能利刀社ということになる。雰囲気からして熊野大社の摂社の中では最も神聖な神社のようである。また祭神の天児屋根命の語意は、「天は天神に対する称辞で、兒屋根は言綾根である。言綾とはこの神の言辞が誠に麗しく綾あるによっての称で、根はモト、根本の意の称辞である。古事記伝(本居宣長)には、招祖泥(こやね)の義で石屋の中の大神を招き出し奉りし行蹟を称えた名であるとも説いている。書紀には、天兒屋根命は神事を主る宗源なり」 と言われている。猿田彦命は素盞嗚尊の言葉を聞く言綾根という職を作り、この言綾根にこの能利刀社の位置で熊野山を遥拝し素盞嗚尊の言葉を聞く儀式を行い、猿田彦命にその言葉を伝え、 猿田彦命は神魂神社の地でそれを人々に伝えるとともに祭祀を行っていたものと考える。熊野大社に熊野銅鐸(菱環紐式)が伝わっているがこれは全国でほとんど出土例がないほど 旧式の銅鐸である。荒神谷でも同じ形式の銅鐸が見つかっており、猿田彦命が出雲に持ち込んだ銅鐸のひとつであろう。以後代々事代主として熊野大社の神職につながり、 猿田彦命は穂日命一族にその地位を譲り、出雲国は栄えていった。 ■出雲王朝 これに対して八島野命に始まる出雲王朝はどのような地位を占めているのであろうか。大国主命までの間が風土記などに国土開発をしたなどと伝えられているが、 それ以降はまったく記録がない。祭神としてもほとんど祭られていないのでその実態は不明である。前後の状況から推理をするしかない。 猿田彦命の祭政一致の政治体制が確立した関係上、出雲王朝はその体制からはみ出してしまう。風土記・古事記などの記録では出雲から外に出た形跡がまったくない。また、初代の八島野命は素盞嗚尊の長子で素盞嗚尊から出雲国内の統治を任されているのである。このことから猿田彦命の体制は東倭全体に及び、 出雲王朝は出雲国内のみであったのではないかと想像する。猿田彦命体制が祭祀で出雲王朝が直接統治ではあるまいか。それでは、この出雲王朝の本拠地はどこ なのであろうか。八島野命の時代は須我神社の地で素盞嗚尊が旅立った後を治めていたようで、大国主命の時代は三刀屋町の三屋神社の地を本拠地としていたようである。 また、倭の大乱終了後大和系の墳墓が斐伊川河口を避けて出現している。斐伊川河口付近は少し離れたところの神庭の荒神谷に多量の青銅器が見つかり、河口付近に四隅突出型墳丘墓 が出現している。これらのことから斐伊川河口付近の神庭あたりにその本拠地があったのではないかと推定している。 出雲神話に大国主命が良く登場するが、それらの伝承の中には倭の大乱の頃(倭国大乱参照)のものと思われるものも存在する。 おそらく、出雲国王の行動はすべて大国主命の行動にまとめられたのではあるまいか。 出雲王朝第14代天日腹大科度美命に関する伝承のみ神社に伝わっている。大東町の日原神社と木次町の大森神社である。日原神社の地を宮跡とすると他地域との交流に不便と思われ、日原神社が誕生地で大森神社が宮跡ではないかと推定する。 |
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■猿田彦命の晩年
事代主命は、AD60年頃、猿田彦の後を引き継いで、素盞嗚尊祭祀を行い素盞嗚尊の言葉として東倭をまとめた。晩年、武夷鳥命の長男櫛瓊命に出雲祭祀権を譲り、伊豆諸島の方に移動してそちらで世を去っている。これは伊豆諸島の神社に伝承として残されている。 武夷鳥命は、飯石の郷を開拓した神として尊敬を集めている。出雲地方は、中期末に灌漑・土木技術・農耕具に鉄器が導入され、後期になると意宇平野、簸川平野において遺跡数が急増している。鉄器の導入を計ったのは伊邪那美命の協力を得た素盞嗚尊で、その遺志を継いだ大国主命・猿田彦命・武夷鳥命らが平野の開発を行ったものと考える。 一方出雲で素盞嗚尊祭祀を始めた猿田彦命は、島根県松江市大庭町の神魂神社の地で祭祀を始めた。その後、AD60年頃年老いた猿田彦命は、饒速日尊の遺言により大和からやってきた事代主命に祭祀権を 引き渡した。その後AD85年頃、櫛瓊命に祭祀権を引き渡した。事代主命は本来の素盞嗚尊祭祀者の猿田彦の系統に祭祀権を戻したのである。猿田彦には娘しかいなかったのであろう。櫛瓊命は猿田彦命の娘と結婚したのである。以後穂日命の子孫が出雲国の祭祀権を受け継ぎ、倭の大乱の後は国造に任じられることとなった。 猿田彦命が出雲の統治権を武夷鳥命の長男に譲ったAD60年頃は大和で父である饒速日尊が亡くなったころである。猿田彦命は饒速日尊が統一できなかった伊勢地方の統一に、櫛瓊命の弟の伊勢津彦と共に伊勢の地へ移動してそこで世を去っていて、その御陵には椿大神社が建てられている。 穂日命はどうしたのであろうか。神社伝承によると、穂日命は出雲に来ると、神魂神社の地で伊邪那美命を祭り、その後、能義平野のほうへ移動し能義平野を開発し、安来市の能義神社の丘陵地に葬られたと伝えられている。出雲国譲り後、能義平野を中心として活躍したのであろう。 国譲り後の出雲は斐伊川河口付近(簸川平野)が出雲国王鳥鳴海命系の人々が、松江市南部地方が素盞嗚尊祭祀者(出雲国造)系の人々が、飯梨川河口付近(能義平野)が穂日命系の人々が中心となって治めた。その結果、この3地域の近くに四隅突出型墳丘墓群が存在しているのである。 猿田彦命や事代主命は若い後継者(武夷鳥命の長男)に出雲の祭祀権を譲り、成立したばかりの大和政権下で旧日本国地域(東日本)にまだ素盞嗚尊祭祀がまったく 行われていないのを憂えて、その地域に素盞嗚尊祭祀を広めるために、事代主命と共に東海地方に赴き、そこで生涯を終えたのである。彼らの働きにより東海地方に素盞嗚尊祭祀 が根付き、後の時代に東海地方に前方後方墳が広まる原因となっている。 倭国の実権を握った日向国は、高皇産霊神の協力の下に国家体制を揺るぎないものに変えてゆくのである。 |
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■紀伊国の国譲り | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信濃国の開拓事情が他の国と極端に異なり、この国だけ阿智族・諏訪族・安曇族の三系統の人々によって開拓されている。阿智族は饒速日尊系、諏訪族は建御名方命系、安曇族は海神系である。それぞれ、全く違う系統の人々が相争うことなく協力して開拓している姿には驚かされる。信濃国の開拓には何があったのだろうか?以下は推定である。
饒速日尊が信濃国の開拓を始めたのがAD46年頃と推定している。ちょうどこの時は日向で大国主命が亡くなり、出雲の国譲騒乱が起こる直前である。倭国が不安定になっている時日本国王の饒速日尊としては無視するわけにもいかず、信濃国から引き返して、日向国の高皇産霊神の元にはせ参じたものと思われる。そして、倭国を東西に分割する案が話し合われたことであろう。その時、大きな問題点として残るのが、紀伊国と越国である。越国の方は建御名方命が統治しており、紀伊国は五十猛命が統治していた。ともに安定していたようではあるが、東倭の統治能力が低いことが予想され、さらには西倭からはどちらも遠く、何か不安定な出来事が起こった時に対応できなく、これらの国が独立することを許してしまう可能性がある。倭国の分裂は極力避けたい認識の高皇産霊神は紀伊国を倭国から日本国に譲ることを提案した。紀伊国は出雲よりもはるかに大和国に近いので、日本国に所属した方が安定すると云う考え方からであった。越国も同じような理由により日本国に譲ることを考えたが、建御名方命が反対していることから、越国は様子を見ることにした。 紀伊国の統治者五十猛命も紀伊国の所属を倭国から日本国に変更するのを快く承知した。倭国も日本国も何れは合体して一つの国になるわけなので、今どちらに所属していても、最終的には同じことだと、五十猛命は考えたのであろう。 |
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■紀伊国
●一宮 日前神宮・國懸神宮 和歌山県和歌山市 日前大神(日前神宮)、國懸大神(國懸神宮) ○ 神武 鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。 社伝によれば、天照大神降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた ●一宮 丹生都比売神社 和歌山県伊都郡かつらぎ町 丹生都比売大神、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神 不詳 丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は紀の川川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている ●一宮 伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市 五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命 不詳 古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を開け渡したと社伝に伝える ●射矢止神社 和歌山市六十谷381 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある ●神倉神社 新宮市新宮 高倉下命 神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。 ●熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神 熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、諸説ある。 もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。 ●熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 家津美御子大神(素盞嗚尊) 神代 『熊野権現垂迹縁起』によると、 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。 崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。 大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。 ●玉置神社 奈良県吉野郡十津川村玉置川1番地 国常立尊 ○ 神代 神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、 玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。熊野大社奥の院 ●阿須賀神社 和歌山県新宮市阿須賀1-2-28 事解男命 熊野三山信仰とも深い関わりを持ち、神倉山に最初に降臨した熊野三所大神はその後熊野三山に遷座し、そのとき阿須賀神社には熊野三所大神と関連の深い事解男命が勧請されたといい、熊野速玉大社の境外摂社となりました。ただし『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれており、阿須賀神社の創建経緯には複雑なものがある 紀伊国の伝承によると、紀伊国の国譲りがあったことになっている。紀伊国はAD20年頃、素盞嗚尊が伊邪那岐・伊邪那美命を伴って統一し、倭国に所属するようになった国である。その後素盞嗚尊の子である五十猛命・大屋津姫・爪津姫が統治していた。出雲国譲りが起こるAD45年頃もこの三者が安定して統治していたと思われる。 この紀伊国がなぜ国譲りされることになるのか?その理由は倭国の他の地域から遠く離れた飛び地になっていることと、国譲りが起こって倭国が不安定になったことと深い関係があるであろう。また、この時争った形跡もなく、五十猛命はあっさりと国を明け渡しているようである。五十猛命は紀伊国を明け渡した後、飛騨国統一にかかわり、その後、出雲に帰りそこで世を去っている。どう考えても平和的明け渡しである。 国譲りを受ける相手は日本国以外にあり得ない。日本国の中心である大和国と紀伊国は近い関係にあり、交流を活発に行うことができる。射矢止神社伝承によると「天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れた」とあり、天香期山命(高倉下命)、一言主神(饒速日尊)が五十猛命に導かれて紀伊国にやってきたことがうかがわれる。また、日前神宮・國懸神宮の社伝にある「天照大神(饒速日尊)降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた」は、この地に饒速日尊が降臨したことを示している。後の世神武天皇が熊野山中を抜ける道をヤタガラスが伝えられたのも、大和と熊野を結ぶ道がこの時開かれていたことを意味し、人々の移動があったことを示している。これも、紀伊国の国譲りがあったためであろう。 熊野本宮大社・玉置神社はともに神武天皇が通過するときには祀られていたそうで、神代の創建と考えられている。熊野大社奥の宮と呼ばれている玉置神社の祭神は国常立尊でこの神は饒速日尊と推定している。事解男命はその正体が不明であるが熊野三所大神と関係が深いと言われており、この神も根拠はほとんどないが饒速日尊と考えている。紀伊国国譲りを受けた饒速日尊は紀伊国を巡回したことであろう。大和国から和歌山市近辺(射矢止神社の地)に上陸し、素盞嗚尊の古跡をたどって海岸沿いを新宮まで巡回し、熊野川を遡り、本宮の地を経由して、玉置山に登り、熊野山中を越えて、大和に戻ったと考えられる。この時、熊野大社、玉置神社が創建されたのではあるまいか。 日向国における国譲り会議に紀伊国統治者の五十猛命も日本国王饒速日尊も参加していたであろう。出雲国の統治能力が不安定となり、紀伊国は倭国の外の地に対して飛び地のようになっており、倭国に所属していたのでは、不便な点も多いのでこの会議によって、日本国に所属するようになったのではないかと推定している。饒速日尊も五十猛命もともに承諾し、紀伊国は日本国に所属するようになった。 |
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■高倉下について
日本書紀の記事 高倉下という人が、夢を見ました。「天照大神が武甕雷神(饒速日尊)に言われるには、葦原の中つ国は騒々しいので、お前が行って平らげなさいと。すると武甕雷神は、私が行かなくても、私が国を平らげた剣(布都御魂剣)がありますから、それを差し向ければ、国は平らげることができるでしょうと答えました。武甕雷神は、高倉下に、「今、あなたの庫に置きましたから、天孫に献上しなさい」 高倉下命と言う人物は饒速日尊の子と言われている。紀伊国国譲りがあった時、紀伊国を統治する人物に高倉下命を選んだと思われる。饒速日尊は高倉下命を伴って大和国から紀伊国にやってきた(射矢止神社伝承)、高倉下命関連伝承地は熊野地方の多いので、新宮市(神倉神社)を拠点として熊野地方を中心に統治したと思われる。和歌山市周辺は大屋津姫・爪津姫が継続統治していたのであろう。饒速日尊は高倉下命に東国統一のシンボルである布都御魂剣を預け、それが神武天皇に伝わったと思われる。紀伊国の統治者の五十猛命は朝鮮半島で技術導入し九州統一・紀伊国統一の実績を持つ経験豊かな人物であり、饒速日尊がこの後統一が難しいと予想された飛騨国統一に尽力してもらうつもりであったと推定している。 |
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■飛騨国統一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飛騨国も日本国に所属しているのであるが、その統一過程は他の地域とまったく異なるもののようである。飛騨地方には他地域にはない飛騨高天原説、神代遺跡が豊富である。これはいったい何を意味しているのであろうか?
まず、神社からまとめてみたいと思う ●一宮 水無神社 岐阜県高山市 水無大神 ○ 神代 飛騨国一宮・総社。旧社格は国幣小社で、戦後は別表神社となった。祭神は御歳大神・天火明命・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称する。祭神の水無大神は地名に由来するものと考えられる。水無大神は、御歳大神とする説の他、八幡神などとする説もあった。位山を神体とする。 ●二宮 二之宮神社 岐阜県高山市漆垣内町963番地 天照国照火明命 ○ 仁徳 孝徳天皇御宇大八椅命の後裔たる國造が天照國照彦火明命(國造ノ祖神)大八椅命(斐陀國造ノ祖)譽田別神(応神天皇)の三柱の神を祀りしに始まり(明細帳)御神像も一千余年以前の作なりと云ふ。古来当國二ノ宮と称す。 ●式内社 槻本神社 岐阜県大野郡丹生川村大字山口字月本145 大山津見神、櫛御氣野神、建御名方刀美神、八坂刀賣神 ○ 不詳 周辺地域の神社との合併問題が再三持ち上がっても、村人はこれを拒否しつづけた。当地にとっては、非常に重要な神社と思われるが、由緒不明 ●式内社 荏名神社 岐阜県高山市江名子町字塩谷1290 高皇産靈神 不詳 創建の由諸は不詳である。延喜式神名帳に「飛騨国大野郡 荏名神社」と記され、小社に列しているが、後に衰廃し、所在は不明となっていた。 ●式内社 大津神社 岐阜県吉城郡神岡町大字船津字寺ノ上1823-2 大彦命 不詳 創始年代は不明。文徳実録・日本三代実録に依れば、平安時代初期には祭祀が行なわれていたとされ、また延喜式神名帳に飛騨國内八社の一つとして記されている ●式内社 荒城神社 岐阜県吉城郡国府町宮地1464番地の1 大荒木之命、國之水分命、彌都波能賣神 不詳 周辺には縄文中期の遺跡が多い。水神信仰に関わる社であった。 祭神・大荒木之命は、高御牟須比命(高皇産霊神)の13世の孫。 ●式内社 高田神社 岐阜県飛騨市古川町貴船町8−6 高魂神 不詳 境内近くに五千年前縄文時代中期の集落跡があり、多数の遺物や祭祀遺跡がある。社名の「高田」は高台にある水田を意味し、周辺の湿田には古墳時代祭祀に使用されたとみられる土器が数多く出土している。 当神社を中心に環状に配されている21基の古墳はこの土地の氏族の墳墓とおもわれ、この神社はこの氏族の氏神であり、始祖神の「高魂命」をこの土地に祀られたとおもわれる ●式内社 阿多由太神社 岐阜県吉城郡国府町木曽垣内字牧戸1023 大歳御祖神、大物主神 ○ 不詳 江戸時代には「権現宮」と称していた。 文化年中の調査の際、式内・荒城神社として札を掲げたところ、現・荒城神社の氏子が、怒ってその札を外したという。その後、再調査した結果、阿多由太神社に比定された。 ●式内社 栗原神社 岐阜県吉城郡上宝村宮原350 五十猛神、大山祇大神、宇迦之御魂神、伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命、火産靈神 ○ 不詳 明治初年までは、白山権現と称していた ●大歳神社 岐阜県飛騨市古川町杉崎大歳41 大歳神 ○ 不詳 式外社 ●日輪神社 岐阜県高山市丹生川町大谷字漆洞562 天照大神 ○ 不詳 山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社であり、神体石、太陽石が頂上部にある。超古代文明の謎を見たいとお参りする人が多い。当地山頂は、丹生川村(小八賀郷)の乗鞍岳から昇る太陽を神とあがめる拝所を聖地としている。祭神は天照皇大御神である。この外に倉稻魂大神、火武主比大神、奥津日子大神、奥津比女大神菅原道真公、6柱となっているが、明治40年に稲荷、天満、荒神の3社を合祀した。世界ピラミッド説を称える人たちが昭和13年夏、社殿頂上部を調査し、太陽石を発見し、列石の一部であると共に、その大石には古代の人が刻む長方型の列穴が、30数個あり、後代の者が穿ったものではないこと、巨石は太古住民の遺跡である。 ●飛騨総社 岐阜県高山市神田町2-114 大八椅命 931 大八椅命は飛騨国の最初の国造、天火明命の後裔。 ●乗鞍本宮 乗鞍山頂 五十猛大神、天照御大神、大山津見大神、於加美大神 ○ 不詳 「位山」と呼ばれ山岳信仰の対象として敬われてきた。岐阜県側には、飛騨乗鞍に及ぶ一帯こそが神話にいう「高天原」であり、人類発祥の地であるとする高天原伝説が残る。 |
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■飛騨国一宮水無神社祭神
主祭神は水無大神と言われているがこの神はだれか一般に言われているのが、「御歳神」、「天火明命」、「大己貴命」、「神武天皇」、「八幡神」、「大歳神」である。水無神社の本宮が大森神社であったという村の伝承が残っている。この大森神社が宮川の氾濫で八幡社と合併されたのが水無神社であると言われています。この大森神社の祭神は大歳神である。これから判断すると、水無神社の主祭神は大歳命(饒速日尊)となる。 式内社8社の内4社が饒速日尊と思われる神を祀っていることになる。また、飛騨国最初の国造は天火明命(饒速日尊)の子孫であることから考えると飛騨国も饒速日尊が統一したということが推定できる。しかしながら式内社は通常弥生遺跡とかかわる地にあることが多いが、この飛騨国では縄文遺跡内に存在しているものが多い。創始年代が不詳の神社ばかりで、一度廃れてしまった神社も多い。このことは、神社祭祀が継続されなかったことを意味し、これも他に国と異なる点である。 その上、飛騨国は飛騨高天原伝承があり、飛騨国から九州へニニギ命が天孫降臨したという伝承や、天照大神伝説などが豊富であり、また、それを裏付ける神代遺跡も多い。この伝説はいったい何に由来するのか、饒速日尊の統一過程は他の国とまったく異なるようである。飛騨国の謎は深まるばかりである。まずは、飛騨高天原関連伝承・遺跡の実態を探ることにする。 |
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■位山
位山は水無神社の御神体とされており、さまざまな伝承が残っている。 1 この山のイチイの木の原生林で採れた笏木を朝廷に献上し、天皇の即位の式典に使用されていた。 2 地域伝承として「位山の主は、神武天皇へ位を授くべき神なり。身体一つにして顔二面、手足四つの両面四手の姿なりという。天の叢雲をかき分け、天空浮船に乗りてこの山のいなだきに降臨し給ゐき」と言い伝えられている。 3 高天原は日本にいくつもあり、中でも一番古いのが飛彈高天原で、位山はその中心となり天照大神の幽の宮(かくれのみや)がある。 4 神武天皇がこの山に登山すると、身一つにして面二つ、手四本の姿をした怪神( 両面宿儺・リョウメンスクナ )が雲を分けて天から降臨し、天皇の位を授けたので、この山を“位山”と呼ぶようになったという。(初代神武天皇に位を授けたとされる両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代には朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)によって討伐された。両面宿儺に対して史書は鬼賊といっているが、地元の伝説はすべて王者か聖者として崇敬している点が大きい違いである。) 5 位山は分水嶺であり、北は宮川から神通川となり、富山湾に流れ、南は飛騨川から木曽川と続き、伊勢湾に流れる。 6 すぐそばを古代の官道(東山古道)がとおっている。現在でも石畳の一部が残っている。 7 位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。 8 越中の竹内家に伝わる超古代資料である竹内古文献に位山に太古天皇(天照大神)の大宮があったと記録されている。 9 大直根子命が景行天皇の時代に奏上したと言われている秀真伝(ホツマツタエ)に「天照大神が誕生した時、位山の笏木で胞衣を切り開いた」とされている。 10 位山は国常立尊の神都であり、天照大神の誕生所・御陵であると言われている。 11 縄文中期後葉と考えられている。堂之上遺跡では、集落がコの字の形をしており、そのむいている方向は位山の方向である。また、集落の中央付近に祭祀遺構が見つかっているが、その方向も位山の方向である。 |
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■飛騨高天原伝承
山本健造氏著「日本古代正史とその思想 国づくり編」より抜粋 乗鞍岳の麓に大昔から日本人類の祖先に当たる最初の人たちが住んでいて、その民族の総本家として敬われていた家には姓がなく、上方様と呼ばれていた。その分家が飛騨から日本全国に広がり日本人に元となった。 高天原は飛騨であり、その中心は丹生川村・宮村・久々野町・高山市であり、その一帯に古代の中央政府があった。上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいたという。この一族が記紀のスメラミコトで後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んでいた。 飛騨の丹生川の地で、森の中に水をためる池を作り、その池の周りに集まって座り、池の水に太陽を映してそれを見つめる御魂鎮めをしていた。この神事は「日抱の御魂鎮め」といって、今から130年前ぐらいまで行われていた。日を抱くように人々が輪になって座ったので日抱と言った。日抱の宮は乗鞍を中心として18社あるが、後に伊太祁曾神社と名を変えられている。この日抱が後に飛騨となった。この神社の場所は乗鞍岳がよく見える場所にあり、この神事を行った池は現在も残っている。 気候の変動と共に乗鞍の地から位山の地に移った。位山の頂上の磐座の周辺は国常立尊や天照大神など代々のスメラミコトを祀った神聖な場所である。天照大神の時代に九州地方が騒々しくなった。天照大神は三人の娘を九州に様子見に行かせた。また饒速日尊を大和や河内国を治めるために大勢のものを連れていかせた。九州ではコホロギという人たちが住んでいて、朝鮮や大陸から来た人たちに責められるかもしれないので助けてほしいという要請があった。天照大神は諸神と諮って、飛騨にいては対処できないので、若い強い者を九州に送ってそこを平定しようということになった。瓊瓊杵命以下、飛騨高天原の人々の大移動が行われて、九州の高千穂の地に行かれました。これが天孫降臨である。 出雲の国譲りの時、天若彦が殺された。妻の下照姫その兄の阿遅志貴命が、その遺骨を持って飛騨に入ろうとしたが、若彦の反逆の真相がわかり、飛騨での本葬をあきらめて飛騨路の入口の美濃で葬式を行った。美濃にその喪山や若彦と下照姫を祀った大矢田神社がある。その後下照姫と阿遅志貴命は美濃を開拓した。 この伝承で、飛騨高天原のあらすじがよくわかる。 |
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■船山
船山は旧名を久々野山といい、標高1479mの山である。飛騨富士とも呼ばれている。位山とはあららぎ湖を挟んで向かい合ってそびえている。 太古の天之浮船(あめのうきふね)が舟山に降りたと伝えているが、舟山にはノアの箱船が着いた所と言う伝説もあり、伝説の箱船が漂着したアララト山に名前のよく似たアララギ湖が近くにある。山頂には船山神社があり、雨乞いの神として崇敬されてきた。麓には船山の方向を向いた八幡神社があり祭神は久々能智神である。竹内古文献によると天忍穂耳命の御神陵があると記録されている。巨石群が多くあり、頂上付近の巨石にはペトログラフも発見されている。 |
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■乗鞍岳
乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)南部の剣ヶ峰(標高3、026m)を主峰とする山々の総称。古代においては「アワ山」と呼ばれ、乗鞍の意は「祈り座」からきたものと伝えられている。山頂に乗鞍本宮があり、飛騨側に乗鞍本宮(鞍ヶ嶺神社)、信州側に朝日権現社が背中合わせで建っている。近くに高天原と呼ばれているところもあり、周辺には祭場が散在している。最初の神都があった処と言われ、飛騨高天原の中心となっている。 |
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■日輪神社
山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社。祭神は天照皇大御神。太陽神“天照大神”を祀る。日本全国で日輪神社と稱するのは唯この一社のみ である。創立年代は不詳。日輪神社建立場所は太古のピラミッドであり、飛騨のピラミッドの中心位置にあると神社、ここが飛騨の中心で、ここからエネルギーが放射状に流れているとも言われている。日輪神社の裏山は、どこを掘っても硅石まじりの川石が出てくるので、裏山は人工のピラミッドと思 われる。日輪神社を中心に放射状に巨石群や、ピラミッドが分布しており、乗鞍岳外16の飛騨の山々をピラミッドと見て、其の方位を線で結ぶと線の中心が日輪神社であると言われている。神体石、太陽石(壊されかけている)が頂上部にある。太古のピラミッドとは日来神堂と書き、巨石を積み上げ、鏡岩を東向きに置き、祭壇石にお供えものを祀って太陽の光を反射させて神様に祈りを捧げる巨大祭祀施設である。 日輪神社を中心に分布しているピラミッドと思われる山は、位山、舟山、洞山、日ノ観岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、須代山、見量山、高屋山、金鞍山、松倉山(飛騨の里)である。 |
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■御皇城山
富山市内に呉羽山があり、呉羽丘陵とも呼ばれている。富山平野にある丘陵である。「呉羽」は一帯の地名で、呉服部にちなむという。呉羽山は 呉羽丘陵の中の標高80mの山の名前であり、太古、御皇城山と呼ばれ皇祖皇大神宮があったという。この皇祖皇大神宮に伝わっている文献が竹内文献である。 伝承によれば、第25代・武烈天皇に仕えた大臣に、 武内宿禰の孫、平群真鳥がいた。日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。 しかし、ここに伝わる伝承ではかなり違っている。当時、武烈天皇は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献の引き渡しを強要されていた。天皇はこの文献を守るため、平群真鳥を殺したと見せて実は密かに越中へ落ちのびさせた。この密命が、越中富山の御皇城山にあった皇祖皇太神宮に伝わった古文献の守護だった。この平群真鳥の子孫が竹内家である。竹内文献には、神代文字で書かれた古文書と、これも奇妙な神宝類があった。この古文書をさして「竹内文書」といい、神宝類を「御神宝」といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。 「竹内文書」は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。 御神宝には、謎の金属「ヒヒイロカネ」で造られた皇室の三種の神器である鏡・刀剣、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという 神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。しかし、戦前不敬罪で裁判を受けることになり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4、000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となったが、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、それら原本は太平洋戦争中の空襲により焼失したとされている。 第25代武烈天皇はこの行為により日本書紀で悪逆非道な天皇として記録されることになるのである。実際は仁愛に満ちた名君だったという。 竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・ 436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった。 そして、越の国、つまり、いまの富山県・神通川の御皇城山を中心に、飛弾・乗鞍にかけた一帯が神話で云うところの高天原であり、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮」という壮大なパンテオンがあった。世界の人々は、この元宮にお参りに来たという。ここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を高天原と呼んだというのである。高天原とは首都、世界の首都の意味だと、竹内文書はいう。 |
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■尖山
尖(とがり)山は、富山県中新川郡にある標高559mの三角状の山である。立山に向かって山々を眺めると、回りの山々とは形の違う、妙に尖がった山を見ることができる。これが、尖山で地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。 また地図上で尖山を中心に古代から聖地と呼ばれている場所を結ぶと、いくつもの巨大な三角形が描かれるという。つまり、この山は計画的に造られた可能性も高いと言える。位山ともピラミッドネットワークでつながっているという。 この<尖山>と飛騨高山の聖地<位山>はピラミッドネットワークで結ばれているようである。 『竹内文書』には、太古の日本にはヒラミツトなる祭殿が何ヶ所かに造営されたと書かれてあり、それを読んだ山口博氏が尖山は「ニニギノミコトが築いたと伝えるヒラミツトではないか」と推定し、地元でも注目を集める事となった。前出の山口博氏が尖山を中心に富山全域の 神山霊域を地図上にポイントしてみると、きれいな三角形が描かれたそうです。この三角の図形が持つパワーを地形を利用して計画的に配置し、互いがエネルギーを放射し合って、位山への瞬間移動のような現象を生み出すのではないかとも云われている。 |
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■日本ピラミッド
日本国内には各地にピラミッドと呼ばれている山がある。その中で、山中・山周辺に「岩石祭祀遺構」と呼ばれる岩石が見られるのは、大石神(青森県)・黒又山(秋田県)・五葉山(岩手県)・千貫森(福島県)・尖山(富山県)・位山(岐阜県)・石巻山(愛知県)・東谷山(愛知県)・三上山(滋賀県)・三輪山(奈良県)・日室ヶ嶽(京都府)・葦嶽山(広島県)・弥山(広島県)・野貝原山(広島県)である。 ピラミッド 県 内容 ●大石神 青森 大石神山と呼ばれる山の中腹にある巨石群を指す。巨石には太陽石、方位石、星座石、鏡石などが規則正しく配置されている。安政4年に大地震で文字が書かれた巨石が埋没したとされる。古くから知られた存在で、大石神と呼ばれ古代から巨石信仰の対象になっていた。 近くにキリストの墓がある。 ●黒又山 秋田 地元では「クロマンタ」と愛称され、山頂には本宮神社(祭神大己貴命)がある。黒又山のすぐ近くには、国特別史跡「大湯環状列石」がある。山麓には、縄文時代の遺跡がある。 ●五葉山 岩手 北上山地の南東部にある霊山五葉山は、高地で最も海に近い1、351mの高峰である。 伊達藩直轄で「御用山」と呼ばれたが五葉松が多い所から五葉山になったと言う。4合目には、畳石(祭壇石)があり、この他、林立した巨石群がある。また、五葉山山頂には10数メートルもあろうかと思われる巨石群が天を向いて突き出している。五葉山スフィンクス、謎の絵文字、石の加工跡、連続する日の字、など縄文期前後に特殊な祭祀が存在した。 ●千貫森 福島 千貫森ピラミッドは葦嶽山や尖山とはまた違った、なだらかなそれでいて不思議な存在感のある山である。千貫森の脇には当然のように拝殿山と思しき一貫森と呼ばれる、これまた山容がピラミッドのような美しい山が存在している。讃岐富士と言われる飯野山によく似た山容である。千貫森の周辺には夥しい巨石群が散在しています。おおよそ20Km四方の中に興味深い巨石がたくさんある。 ●尖山 富山 地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。 ●位山 岐阜 水無神社の御神体であり、位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。 ●石巻山 愛知 豊橋で一番の高さを誇る石巻山。豊橋市の北東部に位置するピラミッド形の山。石巻神社(祭神大己貴)があり、三輪山とも呼ばれ、奈良の「三輪山の元山」と地元では言われている。本宮山がピラミッドで、石巻山は拝殿とも考えられている。石巻山城趾、ダイダラボッチの足跡、石巻の蛇穴などが存在し、頂上はほぼ東西に走る石灰岩の大岩塊になっている。ここは雄岩と呼ばれており、その東に雌岩、西に天狗岩がある。雄岩が一番高い。その周りには、天然記念物指定の大きな要因となった、石灰岩地帯の植物であるマルバイワシモツケを見ることができる。 ●東谷山 愛知 別名「当国山」。標高198mで名古屋市最高峰。山頂に延喜式内 尾張戸神社が鎮座し、山中から山腹にかけて30基以上の多数の円墳が築造されている。尾張戸神社は尾張開拓の豪族尾張氏の氏神とされる。山頂三角点のすぐ脇に4個の巨石を中心とする岩石の集積があり、これはかつて磐座として用いられていたものであろう。4個の巨石の最奥にあるカマボコ形の巨石のみ花崗岩であり、これは東谷山では産出しない石質であることから、人為運搬によるものと考えられている。カマボコ形巨石の右側面にはペトログラフが刻まれているという。 ●三上山 滋賀 俵藤太のムカデ退治の伝説で知られるこの山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られている。山中の『出世不動』周辺の尾根上には、『弁慶の経机』と呼ばれる巨岩があり、これは巨大なドルメンである。斜面には巨大なイス状の石組みも発見されている。近くに縄文遺跡あり。 ●三輪山 奈良 大神神社の御神体。饒速日尊の御陵であると考えている。三輪山の山中には、無数の磐座があり、その周辺には膨大な遺物が埋もれている。かつて大雨の後は、山中から泥と一緒に勾玉や管玉などが川に流れ出るため、麓の川でいろいろ拾えたという話である。 ●日室ヶ嶽 京都 京都府の北部元伊勢神宮のあるあたりで、岩戸山・城山・日裏が岳・日室岳など多くの別称を持ち、神霊降臨の聖山と伝えられている。内宮の祭神が天照大神であることを考えると、その神霊とは天照大神であろう。最初に天照大神が降臨した山を、当地における元伊勢信仰の淵源として神聖視しているということである。 標高427mで麓からの比高差300m程の低山で、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ山であり、山の東斜面は聖域として禁足地に指定されてきた。山中には数多くの巨石群があり、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込む姿が見える。 ●葦嶽山 広島 どの方角から見ても三角形に見えることからその名がついた葦嶽山。標高815mの山頂は約4m四方の平地になっている。昔は太陽石があったらしいが、戦前破壊された。すぐ近くの鬼叫山にはさまざまな形の岩が多数あり、葦嶽山の拝殿と考えられている。神武天皇がやってきたという伝承がある。 ●弥山 広島 宮島の最高峰弥山、山頂には巨石が多数存在し、ペトログラフも確認できる。山頂広場の中央には太陽の光を反射する太陽石が存在していた痕跡がある。太古の昔には巨石には神が下りてくると信じられており、巨石祭祀があったと考えられている。厳島神社の本来の祭神は神武天皇と考えられ、ここにも神武天皇がやってきた伝承を持つ。 ●野貝原山 広島 弥山の対岸にはのうが高原(野貝原山)がある。古代参道から登ると、山頂付近に祭祀に使われたと思われる多くの巨石が林立している。雨宿り石、円形鏡石、ピラミッド積石、方位石、タイル石などである。宮島のピラミッドと対になって存在しており、巨石群が林立しているところからは宮島がよく見える。 越中国から飛騨国にかけて他の地域とはまったく異なる系統の伝承が数多く伝わっている。これら伝承はオカルト的であったり、新興宗教がらみであったりして学術的とはいえない面が多い。しかし、そのようなものが広がること自体、その核になるものがこの地域にあったことを意味している。頭から否定しないで、その核になるものは何だったのか考えてみたい。 ■ピラミッドは縄文祭祀 祭祀の中心はピラミッドである。日本のピラミッドは自然の山を改造して巨石を配置したもので、太陽崇拝の儀式に使われたものと考えられる。東日本にも多く、その近くに縄文遺跡があることが多い。縄文人の祭祀ではないかと考えられる。飛騨高天原における「日抱の御魂鎮め」も太陽信仰である。饒速日尊が活躍したころは弥生時代中期末に当たるが、この頃、東日本各地には弥生遺跡は少なく、縄文人が数多く存在していた。饒速日尊が東海・関東地方を統一したが、この地方は海岸地帯であり、縄文遺跡はやや山寄りのことが多く、大阪湾岸沿いから入植した物部一族は弥生遺跡を海岸寄りに作り、縄文人との上手な住み分けができたのであろう。弥生人と縄文人が争った形跡はほとんどなく、平和裏に混合していったものであろう。縄文人としてみれば、入植者によって近くに弥生集落が造られた時、その弥生人の持つ先端技術を学びに周辺の縄文集落から人々が集まってきたのであろう。物部一族にしても、入植地で農耕に都合がよい土地を見つけてそこに農耕地を作るが、その土地は縄文人にとっては重要な土地ではなかった。そのために摩擦は起きなかったと考えられる。 ところが、内陸地帯はそうはいかないであろう。縄文人はピラミッド・巨石を利用した太陽信仰を行っており、その土地に弥生人が入ろうとすると、摩擦が起こる原因になったと思われる。そのために、信濃地方はかなり統一に苦労することになったのであろう。この飛騨国も山岳地帯であり、農耕地帯は少なくなる。まして、縄文人が数多くいたのではその統一は簡単にはいかなくなる。 飛騨高天原は伝承では日本最古の王朝と考えられている。飛騨には縄文人の作った国のようなものがあったと判断できる。この縄文人たちは乗鞍岳をシンボルとして丹生川沿いに栄えていたが、気候変動により、その周辺が住みにくくなり、位山周辺に移動してきたのであろう。二千年ほどに渡って、その状態が言い伝えられていたと考えられる。縄文人たちの言い伝えが誇張され、竹内古文献・秀真伝にあるような物語となったと考える。 現在でも飛騨地方は縄文人の血が多く継承されている地域である。現在まで縄文人が主流で生活しており、弥生系の人々があまり入っていないと考えられる。これも、縄文系の国が既にできていたあかしであろう。他の東日本地域は縄文人通し緩やかにつながっており、物々交換していたのであろう。国ができるというものではなく、王と呼ばれる人もいなかったと考えられる。しかし、伝承から判断して飛騨国だけは王と呼ばれる人々(上方様)が存在しており、祭祀を主として神通川流域で生活していたものであろう。 ■ピラミッドと饒速日尊との関係 縄文祭祀は太陽信仰なので、その最高神は太陽神(天照大神)となる。巨石祭祀が確認されている上記の14の日本ピラミッドに於いて位山は水無神社の御神体でその祭神は大歳神(饒速日尊)と考えられ、愛知県の石巻山ピラミッドは三輪山とも云われており、石巻神社の祭神は大己貴命(饒速日尊)と考えられる。また、東谷山ピラミッドの神社は尾張氏の氏神であり、これも饒速日尊がその祖神である。京都府の日室ヶ嶽は近くの籠神社でも明らかなように饒速日尊と深いかかわりを持っている。また、奈良の三輪山は饒速日尊の御陵と考えられている。東北地方は確認していないが中部・近畿地方のピラミッドと思われる山はそのほとんどが饒速日尊と深いかかわりを持っていることになる。饒速日尊は縄文人の祭祀を取り入れていることになる。 縄文人の祭祀は太陽祭祀なので、その対象の神は天照大神となる。饒速日尊の神社における正式名称は「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」とよばれ、天照大神と一体化しているのである。秀真伝においては飛騨の天照大神は男神であると言われている。位山は天照大神の御神陵と言われているが、位山は水無神社の御神体であり、この神社の祭神は饒速日尊と考えられ、饒速日尊=天照大神の図式が生まれる。 飛騨高天原の最高の霊地と考えられるのが乗鞍山頂の乗鞍本宮と思われるが、ここの祭神は五十猛大神、天照御大神、大山津見大神、於加美大神で、大山津見大神、於加美大神は饒速日尊と思われ、天照御大神は縄文本来の神と饒速日尊が重なったものではないだろうか。五十猛大神は日抱と伊太祁曾がよく似ている事と、縄文祭祀を抹殺する流れから、飛騨高天原伝承にある通り、後で付け加えられたのではないだろうか。 また、日輪神社では天照皇大御神、倉稻魂大神、火武主比大神、奥津日子大神、奥津比女大神が祭られているが、火武主比大神はホムスビ神=カグツチ=愛宕神である。カグツチ(ホムスビ)を祀る神社にオオヤマツミ・タカオカミ・イカズチと、カグツチを同神扱いしている社が見られ、オオヤマツミ=カグツチもしくはホムスビを示す社は特に多い。山形県米沢市の愛宕神社が「軻遇突智(カグツチ)命・大山祇命」。東京都港区芝の愛宕神社は「火産霊神・高竈神・大雷神」で、これは三島神社の三神の中のオオヤマツミを火産霊神の置き換えた形である。福岡県船引町の愛宕雷神社の祭神は「火産霊神・大雷神」で、ホムスビ=イカズチである。これから考えると倉稻魂大神=火武主比大神=饒速日尊となる。また、奥津日子大神、奥津比女大神は大歳神の子と言われており、飛騨高天原の中心施設の日輪神社も饒速日尊と極めて関連が深くなる。 また、広島県の葦嶽山・弥山はともに神武天皇が訪問している伝承を持っている。もう一つの野原貝山(のうが高原)は弥山ピラミッドと対となっており、伝承にはないが神武天皇が訪問していると推定している。また、神武天皇は福山市の磐田山中腹に天津磐境という巨石による巨大祭祀施設を作っており、これも、同系統の祭祀と考えられる。神武天皇も縄文祭祀を引き継いでいると思われる。 また、位山の伝承では位山のイチイの木から作った笏木を天皇の即位の儀式に現在まで使っているようで、その最初は神武天皇からと伝えられており、これも現在の皇室祭祀が縄文祭祀を引き継いでいることを意味している。 以上のようなことから判断して饒速日尊は縄文祭祀を受け継ぐことにより、飛騨国を統一していると判断できる。 |
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■統一方法
式内社に祭られている神は饒速日尊系か高皇産霊神系である。饒速日尊が高皇産霊神の縁者を引き連れて、この飛騨国にやってきたのであろう。この飛騨国にはすでに飛騨王国が存在し、それを統一するのは容易でないことは饒速日尊にはわかっていた。このような場合戦争して相手をたたきつぶして統一するというのが世界の常識であろうが、戦争した痕跡もなく、縄文文化と饒速日尊が平和裏に一体化している。日本古代ではあくまでも平和統一だったのである。それぞれが交換条件を出し合って、併合していったものと考えている。 飛騨国側としては、できれば独立を維持したい思いはあったろうが、周辺の国々がことごとく、日本国に吸収合併されている状況もわかっていたであろうからいつまでも独立を保つのは不可能であろうし、無駄な血を流したくないというのもあったであろう。そこで、飛騨国王と饒速日尊との間に会議が開かれたと思うがそれぞれの主張を推定してみよう。 ■飛騨国側要求 1 飛騨国の太陽祭祀の伝統は引き継ぐこと。 2 歴代日本国王は我々の聖地である位山のイチイの木を使って即位の儀式をすること。 3 将来に日本列島が統一した時のために、九州の西倭の後継者にも太陽祭祀の伝統を引き継がせること。 4 飛騨国王家は継承させること。 5 新技術を提供すること。 6 日本国の王の系統に縄文の血筋を入れること。 などであったと推定する。 ■日本国側(饒速日尊)要求 1 飛騨国は日本国に所属すること。 2 祭祀に絡むこと以外は日本国の方針に従うこと。 3 日本国の役人を受け入れること と言ったところであろうか。互いに簡単には、話し合いがつかなかったと思われるが、最終的には上記のような要求を互いに受け入れて、 飛騨国は日本国に所属するようになったと推定する。日輪神社の奥津彦、奥津姫は天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)と大歳との間に生まれた子で、この姫の名「天を領する、生命力に満ちた太陽の女」という意味となる。太陽の女性を讃美した名となり、飛騨王国の王の血筋の娘ではないだろうか。この姫との間の子は伝承では、奥津日子神(おきつひこ)、奥津比売命(おきつひめ)、大山咋神(おほやまくひ)、庭津日神(にはつひ)、阿須波神(あすは)、波比岐神(はひき)、香山戸臣神(かぐやまとみ)、羽山戸神(はやまと)、庭高津日神(にはたかつひ)、大土神(おほつち)である。何れも日本国の要として活躍したのであろう。 この交渉の結果、飛騨国の一団が西倭の日向国に赴き太陽崇拝の縄文祭祀を広めたものではあるまいか。その結果、神武天皇が東遷の最中ピラミッドと呼ばれている山を訪問したり、天津磐境を建設することになったものと考える。 飛騨国には饒速日尊の子を日本国の役人として、高皇産霊神の縁者と共に飛騨国に残し、飛騨国にさまざまな技術供与をしていった。時代がさがって国造を決める時、饒速日尊の子孫である大八椅命が最初の国造になったものであろう。 |
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■統一のその後
飛騨国王は日本書紀では両面宿儺として表現されている。悪人のように表現されているが、実際は人格優れた人物であったと飛騨国では言い伝えられている。両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代に朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊によって討伐されたと言われているが、実際はこの時、大和朝廷と飛騨国王との間の意見の相違があり、飛騨国王は処罰され、この時、縄文時代からつながる飛騨国は滅んだと推定している。このとき、日抱神社を抹殺するために重要な神社に伊太祁曾神(五十猛命)を祀らせ、真実が分からないようにしたと考えられる。 第25代武烈天皇について考えてみる。 古事記 長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。 日本書紀 「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」 仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥臣は驕慢で国政をほしいままにし、臣下としての礼節がま るでなかった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連の娘影媛が、平群真鳥臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連とともに平群真鳥臣 も焼き殺す。そして即位し、大伴金村連を大連とするのである。 即位後 「多くの悪業をなさって、ひとつも善業を行われなかった。様々な酷刑を、親しくご覧にならない事はなく、国民は震い怖れていた。」 二年九月 婦の腹を裂いて、その赤子を見る。 三年十月 人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。 四年四月 人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。 五年六月 人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。 七年二月 人を木に登らせ、弓で射落とす。 八年三月 女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、没して官婢とした。 凄まじい暴虐ぶりである。 宮中では出廷退廷の時間もいい加減になり、贅沢と酒池肉林に明け暮れ、一日中淫靡な音楽を奏で、天下の上を顧みなかった、とある。 即位前後で全く別の人格である。その境にあるのが平群真鳥の事件である。富山の皇祖皇大神宮に竹内家が残っている以上、この部分は竹内家の伝承が正しいと判断する。この当時朝廷の有力豪族が飛騨国の痕跡を抹殺しようと図っていたのであろう。正しく物事を考えることのできる武烈天皇は、それを残そうと思っており、平群真鳥を策略で富山へ落ち延びさせ、失われつつあった飛騨国の言い伝えをまとめさせたのである。これが竹内古文献であろう。しかしながら長年書き写している間に、真実から少しずつ外れ、現在残っているような状態になったのではないだろうか。 武烈天皇が悪逆非道に描かれているが、具体的に詳しく書かれているわけではなく、ただ事象が書かれているだけであり、この記事は後で都合がよいように挿入したことがうかがわれる。精神異常を起こしていた可能性も考えられなくはないが、それなら、そのようなことが書かれていてもよいように思える。武烈天皇は飛騨国抹殺派の圧力に耐えながら国を治めていたのではないだろうか、後継者なしで早世しているのも暗殺された可能性が考えられる。雄略・清寧・賢宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化各天皇の在位期間に若干不明な点がある。これは後に考察してみようと考えている。 |
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■越国国譲り | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■大国主命が「越の八口」を平定した領域の判定
古代の越国は福井県敦賀市西端の関峠から、新潟県の弥彦山までの領域を指していたようである。越国はAD20年頃出雲の大国主命が素盞嗚尊の命を受け「越の八口の平定」をしたと伝えられている。まずは、大国主命の平定領域を伝承から探ってみたい。 |
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■大国主平定伝承を持つ北陸地方の神社
●気多大社 石川県羽咋市 大国主命 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」 『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒」 「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」 ・神社名鑑による気多大社御由緒 御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」 ●身代神社 川県羽咋郡志賀町梨谷小山10−273 大国主命 御祭神は大穴牟遲神 少名毘古那神 社伝によると、出雲から船に乗って当地に着いた。「大真石」を御神体とする神社であるという。 ●能登比盗_社 石川県鹿島郡鹿西町能登部下125甲29 大国主命 社伝によると、大己貴命が少彦名命とともに、国土経営を行い、越の国を平定した後、当地で憩い給う時、一人の機織乙女に接待される。 その乙女が、能登比当ュ天神であり、郷民に機織の技を教えたと伝わる。 ●鳥屋比古神社 川県鹿島郡中能登町春木ナ87 大国主命 祭神鳥屋比古神は国土平定開発の祖神と仰がれる大神で、往昔、竹津浦鹿島路の湖水に荒ぶる毒蛇が棲息して人民に害毒を及ぼした時これを平定し、その射給うた矢の落ちたところを羽坂と称するに至ったという。 而して、社殿後方の鳥屋塚こそは、この蛇身等を埋めたものだと伝えれいる ●久延比古神社 石川県鹿島町久江 饒速日尊 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。 ●能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 大国主命 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す ●能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 大国主命 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。 ●能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 大国主命 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。 社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。 ●白比古神社 石川県鹿島郡中能登町良川ト1 饒速日尊 白山社とも呼ばれていた神社。 社伝によれば、祭神・白比古神は大己貴命の御子神にして、当地方開拓の祖神であるという。 ●鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 大国主命 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。 ●宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 大国主命 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと ●御門主比古神社 七尾市観音崎 大国主命 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという ●高瀬神社 富山県南砺波市 大国主命 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う ●牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 大国主命 昔、大国主命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大国主命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大国主命を敬った ●気多神社 富山県高岡市伏木 大国主命 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大国主命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。 ●杉原神社 富山県富山市八尾町黒田3928 饒速日尊 黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨が続き途中洪水が発生した。このとき杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきったからだで咲田姫を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したという。これにちなんで今でもこの地域一帯を「婦負の里(ねいのさと)」と呼ぶ。 祭神 杉原大神(この地の開拓の祖神)、 祭神は一説に大己貴命、あるいは饒速日尊とも云われている。 ●草岡神社 山県射水市古明神372 大国主命 社傳によれば、古老ノ口傳ニ云、神代ノ昔、草岡ノ地所、万三四里アリテ、草木繁茂シ、悪蛇毒虫ノ巣窟ニシテ、人民恐レヲナシ、敢テ近依ル者アラズ。時ニ大己貴神、此地耕耘ニ適シ、地味良好ナリトテ、鍬ノ御矛ヲ以テ切伐開墾シ、以テ土民ニ恩顧ヲ蒙ラシメ玉フ。其後数十年ヲ経テ大己貴神ノ神霊ヲ該地ニ勧請シ、草岡神社ト稱シ奉リシ由 ●鹿島神社 富山県下新川郡朝日町宮崎1484 饒速日尊 健甕槌命が、能登を廻り、海を渡って宮崎の沖の島に降臨された。 ●居多神社 新潟県上越市 饒速日尊 大国主命 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという ●圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 饒速日尊 祭神国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神 大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。 ●斐太神社 新潟県妙高市宮内241 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。 ●宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 大国主命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。 ●御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。 当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。 ●物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。 ●石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。 祭神 大国主命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定) 北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。 ●弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた ●船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。 ●石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号 饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます ●西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16 饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。 祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。 |
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■佐渡国
●一宮 度津神社 新潟県佐渡市 五十猛命 配祀 大屋都姫命 抓津姫命 素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられた。初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂し為に「植林の神」として崇められた。そして宮殿・家屋・船・車から日用器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも云う。又、人々に造船・航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津と称して居る。 祭神は航海の神という説もある。 ●二宮 大目神社 新潟県佐渡市吉岡1284 大宮売神 ○ 祭神は大宮売神(オオミヤメノカミ)とされている。和名抄に見える「大目郷」の神であろう。背後の大目林は神体山である。 祭神は大己貴命という説もある。 ●三宮 引田部神社 新潟県佐渡市金丸488−丙 大彦命、大己貴命 『神社名鑑』、猿田彦命 ○ もとは当地の「こうがい崎」という場所にあったという伝承がある。あるいは「こうがい崎」は、当社の神田であったとも考えられる。祭神は、社伝では大己貴命。『神社明細帳』では、猿田彦命としており、境内案内板では、大彦命となっている。 北陸地方の統一伝承は以上のようなものであるが、出雲の大国主命関連伝承なのか、饒速日尊関連伝承なのか、判断が難しい。上の表は、推定した神名を記入した。判断の根拠を挙げてみよう。 原則、「出雲から来た」「少彦名命や奴奈川姫を伴っている」と記述されているのは大国主命と判断される。しかし、誤って伝えられている可能性もあるので断定はできない。 事代主命は饒速日尊の子と判定しているので、「事代主命」と共に祭られている場合は、饒速日尊と判定できる。白比古神社は白山社と呼ばれていたようで、白山神(饒速日尊)と判別できる。 居多神社の大国主命は奴奈川姫との伝承を含んでいるので大国主命と判定できるが、周辺の山が美能輪山(三輪山)であり、饒速日尊との関連性をうかがわせる。おそらく、最初大国主命がやってきて、後に饒速日尊がやってきたものであろう。 久延比古神社の久延比古は奈良県大神神社の伝承では大物主神の知恵袋として活躍した神である。そうであるなら、この神は饒速日尊と行動を共にしていると思われる。 圓田神社は主祭神が国常立尊なので、饒速日尊と判定した。 宇奈具志神社は穂日命が登場するので大国主命と判定した。 御嶋石部神社は 1 周辺の人々に大鹿島と呼ばれていること。・・・鹿島は鹿島大神=建御雷命=饒速日尊を意味している。 2 東北地方まで統一していること。・・・東日本全域を統一したのは饒速日尊で、大国主は越の八口のみ統一した。 3 荒神二田彦・石部彦の二神が出迎えたこと。・・・この人物は物部氏で饒速日尊の天孫降臨(AD30年)の後で、大国主命がここにやってきたのは其の10年ほど前と推定している。 4 御嶋は三島で本来の祭神は大山祇神(饒速日尊)と考えられる。 これらのことよりこの地にやってきたのは饒速日尊と考えられる。此の神社の伝承では大己貴命は居多神社の地からやってきており、居多神社の地に饒速日尊がいたことになる。 石井神社は 1 近くにある別の石井神社は小鹿島と言われており、鹿島は饒速日尊を意味している。 2 神名帳考證における祭神は御井神である。本来は大国主神の子である木俣神を指しているそうであるが、奈良県宇陀市の御井神社の御井大神は気比神、御食津大神とも云われている。そして、この神社は饒速日尊の滞在伝承を持つ。このことから御井大神=饒速日尊と判断できるのである。 以上のことより此の神社に祭られている大己貴命は饒速日尊と判断する。大己貴命はこの地に滞在後、佐渡を統一している。佐渡島の神社は大己貴命や御食津神が祭られている神社が多い。ともに饒速日尊と考えられるので佐渡島統一も饒速日尊であろう。 |
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■船江神社
新潟市の船江神社は猿田彦命の来訪した地となっているが、猿田彦命が北陸地方にやってきたという他の伝承が存在しない。これは、父である饒速日尊の誤伝承ではないかと想像している。 ここに挙げた大国主命と饒速日尊の判定ははっきりと示せるものもあるが、根拠が貧弱であるのもある。或いは間違っている可能性も十分に考えられる。しかし、大体の傾向として、大国主命は新潟県の出雲崎辺りまで訪問したのではないだろうか。能登地方は大国主命の関連伝承と思われるものが多いが、上越市以東は饒速日尊関連伝承と思われるものが多くなっている。大国主命の関連伝承をもつ領域は、古代から言われている越国の範囲にほぼ該当している。御嶋石部神社の伝承でもわかる通り、物部氏は天孫降臨後間もなく、この地を訪れている。饒速日尊に従ったマレビトはここまで来ていたということである。 大国主命が素盞嗚尊の命を受けて越の八口を統一しているが、その範囲は福井県敦賀市から新潟県上越市までの領域と判断する。新潟県の出雲崎まで赴いているようであるが、物部氏が入り込んでいることから考えると、上越市から東は統一まではできなかったと判断できる。饒速日尊が越国の国譲りを成功させた後、日本海岸を東北地方まで統一したと思われる。 |
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■越国の実態
大国主命が越国を統一したのがAD20年頃で、饒速日尊が越国国譲りを成功させたのがAD50年頃と思われる。大国主命は越国統一後その子建御名方命に国を任せていたようである。考古学上の遺物も出雲によって統一された割には出雲系遺物が少なく、間もなく、畿内系遺物が多く出土するようになる。これは、越国が出雲の支配下にあった期間は短く、すぐ後に畿内の支配下に下ったことを意味している。伝承上でもそれは裏付けられたことになる。 ■建御名方命誕生秘話 AD20年頃能登・越中国を統一した大国主命は越後国居多ヶ浜に上陸した。居多ケ浜の近くに身能輪山という丘のような山に大国主命の宮殿があり、大国主命はここを拠点として、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えた。そうしているうちに美しいという噂のあった奴奈川姫と知り合い結婚したいと思うようになった。結婚に先立ち奴奈川姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大国主は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び名立という地名ができた。 しかし、結婚には反対がつきものである。特にはるか遠くから来た大国主命(弥生人)と奴奈川姫(縄文人)とは色々な面で異なるところも多く、地元豪族能生の夜星武が反対した。彼は日本海の海賊だつた。そこで、大国主は后の一人を彼の嫁に差し出すと鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。また、後に大国主が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので鬼伏せという地名ができたと言われている。 大国主命は鬼伏から名立の奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした後、身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。大国主命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたと言われている。暫らくして姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。宮殿に落ち着いた大国主命は稲作や布を青芋(あおそ)から作る技術を土地の人に伝授し人々の暮らしを向上させた。この頃姫は岩殿山の岩屋で王子を生むこととなった。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしてめでたく建御名方命を誕生させたという。 福井県今立郡池田町稲荷12-18の須波阿須疑神社の伝承に、「大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座、この地の開発の祖神である。」とある。また、羽咋郡宝達志水町荻島の志乎神社(祭神素盞嗚尊・大国主命・建御名方神)の神様は鍵取明神と言われ他の神様が神無月に出雲に行っても留守番をしていて他の神様の鍵を預かっていると言われている。この留守番をしている神様は素盞嗚尊や大国主命とは考えられず、建御名方神であろう。これも建御名方命が越国から離れず、越国を統治していたあかしであろう。大国主命は第二代倭国王を継がなければならず、越国が統一されたのを機に出雲に帰らなければならなくなった。大国主命がAD23年頃出雲国に戻ったあと、大国主命から技術を受け継いだ人々が建御名方命を盛りたてて越国の開拓をしていったと思われる。成長した建御名方命は越国を巡回して越国を治めていたと思われる。 ■越国国譲りに関して 出雲国譲り神話に於いて、出雲の建御名方命が反対したため、建御雷命が建御名方命を出雲から諏訪まで追いやったことになっている。しかし、ここまでの古代史の復元では、建御名方命は出雲ではなく越国にいたことになり、建御名方命と戦った建御雷命は饒速日尊の別名であることが分かっている。そのまま直接解釈すると、出雲国譲り神話の建御名方命の段は、話が違っていて、饒速日尊における越国の国譲りになってしまう。 能登半島には「鎌打ち神事」と呼ばれているものがある。富山県氷見市の諏訪神社に伝わるものである。鎌打ち神事は、建御名方命が大国主命の能登開発を先導した故事によるものと言われている。しかし、建御名方命は大国主命の子であり、大国主命は建御名方命がまだ幼少のときに出雲に帰っているので、この大国主命は饒速日尊と考えることができる。 この伝承から判断すると、越国国譲りは平和的に行われているように見える。しかし、次のような伝承もある。 富山市大沢野町舟倉寺家と同市呉羽町小竹に鎮座する延喜式内社・姉倉姫神社には以下のような伝説がある。昔、上新川郡東南の舟倉山(今の猿倉山)に大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘・姉倉比売命(あねくらひめのみこと)という女神が住んでいた。夫は越中と能登国境の補益山に住む伊須流伎比古で、夫婦は毎晩行き来するほど仲が良く、心を合わせて越中を治めていた。しかし能登の仙木山に住む能登姫という悪い女神は越中が欲しくなり、伊須流伎比古に迫った。これを知った姉倉姫は能登姫に使者を送って改心させようとしたが聞き入られず、ついに能登姫は伊須流伎比古と結び付いた。これに起こった姉倉姫は舟倉山の石を仙木山に投げ始め、石が尽きると立山の尖山(尖山で迷った人間は岐阜県位山に現れるという)に住む仲の良かった女神・布倉姫の軍をはじめ、国中の兵を集めて能登姫征伐の軍を編成した。対して能登姫も姉倉姫征伐の軍を集めて防戦態勢をとった。両軍の衝突は氷見市宇波山で始まり、一進一退の攻防が繰り広げられた。これを見た天地にいる他の神々は高天原(たかまがはら)に使者を送り、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)に報告した。すると高皇産霊神は驚いて、出雲の大国主命に越の国の争いを鎮圧するよう命じた。命を受けた大国主命はすぐ出雲を発って越路に入り、雄山の手刀王彦命や舟倉のおさ子姫といった越の神々と軍議を行い、まず姉倉姫のいる舟倉山の城を攻めた(同山には猿倉城址がある)。しかし、同山は周囲に7里(約28km)の大池がある難攻の山だった。そこで大国主命の軍が山を掘ると池水は堰を切って大急流となり、流出した。これに驚いた姉倉姫は柿峻(かきひ)の宮に逃亡したが、大国主命の軍に襲撃されて生け捕りにされた。その後、姉倉姫は呉羽山麓の西・小竹野に流され、同地で得意の布を織って貢物とし、越中の女達に糸紡ぎと機織の方法を教えた。これが八講布の始まりだという(小矢部市八講田に由来するとされ、越中麻布の総称)。姉倉姫が機を織る際、蜆の宮(土器や石器なども出土している小竹貝塚(蜆ヶ森貝塚)の上に鎮座している)の蜆が蝶と化して群来し、姫が舟倉山に帰るのを許された時、姫に従って舟倉の御手洗の蜆になったといわれ、夏になるとこの蜆が蝶と化して飛び回るともいわれている。呉羽の地名は「呉の機織」が「くれはとり」となり、更に「呉羽」となってできたといわれている。呉とは呉服の呉である。尚、能登姫と伊須流伎比古の連合軍も大国主命の軍に抗戦したが、捕らえられ海辺で処刑された。そして大国主命を助けた雄山の手刀王彦命と舟倉のおさ子姫は功績を称えられて富山市月岡町壇山神社の月見ヶ池近くにあった月読社に祀られていたが、現在は鳥居しか残っていない。<富山県の民話より> この伝承が最大限真実を伝えているとすれば、大国主命の娘が結婚適齢期になるのはAD40年頃となるので、この事件が起こったのは出雲国譲り事件に近い時期となる。この時期、大国主命は越国に来れる状況になかったことと、高皇産霊神が登場している(この人物は日向国関連人物である)事から考え併せ、この大国主命は饒速日尊で、この事件が起こったのは出雲国譲り事件の直後と思われる。伊須流伎比古命の正体は今のところわからないが、その周辺の大豪族であったのであろう。高皇産霊神は日本列島統一にかなり情熱をかけており、饒速日尊が大和に降臨する時も自らの子を複数付従えさしている。この事件のあらましは次のように解釈している。 大国主命がAD45年頃なくなり、第三代倭国王の候補者が決まらないなか、日向国の高皇産霊神の発案で倭国を分割することになった。九州は西倭、中国四国地方は東倭となるのであるが、倭国の飛び地になっている紀伊国と越国の扱いが問題になっていた。何れ日本列島は統一されるので、それまでの間、饒速日尊の日本国に所属させることになったのである。紀伊国は五十猛命の協力があり簡単に国譲りができたが越国には問題があった。 AD45年頃日向国の倭国分割会議で越国は日本国に所属させるように会議で決まっていたが、建御名方命は自分の国を取られるような感覚を持ったのかその決定に反対していた。ところが、AD50年頃、建御名方命が統治する越国に勢力争いが起こった。かなり大きな大乱となり、建御名方命では抑えきれない事態に至った。そのとき頼りになるはずなのが、越国の宗主国である出雲国であるが、国譲り事件の最中であり、出雲国では処理できるはずもない、そこで、倭国の実権を握っていた日向国に救援を頼んだのであろう。日向国の高皇産霊神は、日本国の饒速日尊に命じてこの大乱を鎮圧させた。これを契機として建御名方命は饒速日尊に国を任せることにしたのであろう。そして、饒速日尊を案内して国中を回ったのである。これが「鎌打ち神事」の由来になったと考える。 |
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■白山神について
白山神は饒速日尊と推定しているが、この神は複雑な実態を持つようである。多くの白山神社は菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀っている。これらの人物とのかかわりはどうなっているのであろうか? 中世の『元亨釈書』や『白山之記』などには、伊邪那岐神・伊邪那美神を祭神とする記述はあるが、菊理媛神の名は登場しない。 ところが、近世になると、『諸神記』、『諸国神名帳』、『本朝神社』などで、明瞭に白山神=菊理媛神となっている。そこで、次のような説が生まれている。 養老3年(719)に泰澄大師が白山山頂で神を祀っているが、その神が高句麗媛といわれている。これが、鎌倉仏教の影響を受け、白山において泰澄大師が祀った高句麗媛(コウクリヒメ)は、音がよく似ている日本書紀における菊理媛神(ククリヒメ)と同一であるとされた。 時間の流れからすると、これが正解なのではあるまいか。そうすると、白山神=伊邪那岐神・伊邪那美神となるが、これはどういうことであろうか? 丹後国一宮籠神社(天の橋立のすぐ北側にある)に次のような伝承がある。 「天橋立は、国生みの神である伊邪那岐と伊邪那美が降臨した天浮橋である。また、伊勢神宮の神々がこの地からうつられた元伊勢のひとつ。神代の昔、真名井の地に降り立った豊受大神を丹後地方の氏神であった彦火明命がお祀りしたことに始まり、第10代祟神天皇の御代に天照大神がおうつりになり、吉佐宮として一緒にお祀りした。」 比沼麻奈爲神社の伝承では 「遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。 豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。 多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。 その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座になりました。その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせられたのが、雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。 古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦九百年)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。 社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝殿は、大正九年から同十一年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。<神社由緒> この伝承から推察するに、この丹後地方には最初豊受大神が降臨し、この地方を開拓した。この神がこの神社に祭られていたが、 伊勢に移ると同時に彦火明命が祭られ現在に至っていることになる。ここまでの考察で彦火明命が饒速日尊と言われていると同時に豊受大神=饒速日尊である。また、籠神社には、息津鏡、辺津鏡が伝世している。この鏡は饒速日命が天津神(大和降臨前に素盞嗚尊より受け取る)から賜った十種神宝のうち2鏡である。息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古である。天橋立の伝承の伊邪那岐・伊邪那美に関しては行動実績が全くなく、この地で活躍しているのは饒速日尊となる。これより伊邪那岐=饒速日尊と考えるとつじつまが会うのである。 ただし、日向国にも伊邪那岐命は存在しており、大和朝廷成立後の第7代孝霊天皇も伊邪那岐命と重なる伝承をもつので、伊邪那岐命は日向国の伊邪那岐命・孝霊天皇・饒速日尊の影が感じられることになる。神社の伊邪那岐命はこれらの人物が重なった存在ではなく、それぞれの神社で祀られている伊邪那岐命はこの三人の何れかと解釈した方がよいようである。当然白山神として祀られている伊邪那岐命は饒速日尊と考えられる。 |
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■越地方各国一宮
越前国 ●一宮 氣比神宮 福井県敦賀市 伊奢沙別命 ○ 神代 土公(どこう) - 周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で、隣接する敦賀北小学校敷地内に食い込む形で存在する。主祭神降臨の聖地 ●二宮 劔神社 福井県丹生郡越前町織田113-1 素盞嗚尊、気比大神・忍熊王 ○ 伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。 加賀国能登国 ●一宮 白山比盗_社 石川県白山市 白山比淘蜷_ ○ 崇神 崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります ●二宮 菅生石部神社 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81 菅生石部神 用明 用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。 ●一宮 気多大社 石川県羽咋市 大己貴命 神代 大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる ●二宮 伊須流岐比古神社 石川県鹿島郡中能登町石動山子部1番地1 伊須流岐比古神 717 主神の伊須流岐比古神は、すなわち五社権現とも称される石動権現である。「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。 ●二宮 天日陰比盗_社 鹿島郡中能登町二宮子6 屋船久久能智命 崇神 石動山山頂にある伊須流支比古神社の下社。神社後方の山の山頂に、大御前峯社があり、中御前という場所は崇神天皇の御廟跡らしい 越中国 ●一宮 射水神社 富山県高岡市 瓊瓊杵尊 ○ 不詳 歴史的には伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる二上神(ふたがみのかみ)であった。二上神は現在は二上山麓の二上射水神社に祀られている。 ●一宮 気多神社 富山県高岡市 大己貴命、奴奈加波比売命 757 在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。 ●一宮 高瀬神社 富山県南砺市 大己貴神 景行 大己貴命が北陸平定を終えて出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をこの地に鎮め置いたのに始まると伝える。 ●一宮 雄山神社 富山県中新川郡立山町 伊邪那岐神・天手力雄神 ○ 不詳 社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。 越後国 ●一宮 彌彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村 天香山命 不詳 社伝によれば、越後国開拓の詔を受け、越後国の野積の浜(現長岡市)に上陸し、地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたと伝えられる。このため越後国を造った神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。 ●二宮 物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 二田天物部命 崇神 天孫降臨の後、当社祭神は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。 ●二宮 魚沼神社 新潟県小千谷市土川2丁目699-1 天香語山命 崇神 越後国一宮である弥彦村の彌彦神社に対し、当神社を「二の宮」と呼び、この地域の人々の信仰の中心となった。「魚沼神社」と称したのは幕末頃で、式内社であるという確証はない。 ●一宮 居多神社 新潟県上越市 大己貴命・奴奈川姫命・建御名方命 ○ 建御名方命ではなく事代主命とする資料もある、もとは日本海近くの身輪山に鎮座していた。 ●一宮 天津神社 新潟県糸魚川市 瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命 景行 境内社・奴奈川神社は奴奈川姫命を主祭神とし、後に八千矛命(大国主)が合祀された。この一帯はかつて「沼川郷」と言い、そこに住んでいた奴奈川姫命の元を八千矛命が訪れたという話が日本神話(大国主の神話)にある。伝承では、両神の間の子が建御名方命であり、姫川を遡って信濃国に入りそこを開拓したという。 各国一宮はいずれも饒速日尊と思われる神を祀っている。越国国譲りを受けた後、越国開拓を進め、人々から敬われたためであろう。 |
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■越国国譲り後
饒速日尊は建御名方命から越国を譲り受けた後、自らの子事代主命を信濃国から呼び寄せ、暫らくは居多神社の地に滞在し、周辺の情報を集めていた。その後妙高市の斐太神社の地に赴きその周辺を開拓した。 建御名方命は饒速日尊との越国の安定に寄与した後、姫川を遡って信濃国に赴き、信濃国を統一している。饒速日尊が建御名方命に信濃国開拓を命じたと思われるが、どういった事情で、建御名方命が信濃国開拓をすることになったのであろうか。 その理由の一つとして考えられるのが建御名方命は縄文人の血を引いているということである。信濃国は弥生人がほとんど入っていない地域である。また、広大な盆地であり、開拓しなければならない面積は相当広い。当時平野は湿地帯が多く、開拓に適している土地はそれほど広くない。盆地には開拓に適した土地が広がっており、信濃国はまさにそういった土地だったのである。饒速日尊は人手不足を感じ、建御名方命に信濃国を開拓することを頼んだ。或いは建御名方命自らが申し出たのかもしれない。それでもまだ人材不足だったので、当時の最先端技術を持っている九州の安曇族にも信濃国開拓を託した。 |
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■信濃国統一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信濃国は「諏訪大明神絵詞」によるとすでに縄文系の国があったようである。また、開拓したという人々は、建御名方命率いる諏訪族、思兼命率いる阿智族、穂高見命率いる安曇族と他の国に比べて、かなり複雑な様相をしている。この信濃国はどのようにして統一されたのであろうか。
信濃国のおもな神社の伝承は以下のようなものである。 ●一宮 諏訪大社 長野県諏訪市・茅野市 建御名方命・八坂刀売命・八重事代主神 不詳 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。 ●二宮 小野神社 長野県塩尻市北小野175 建御名方命 崇神 建御名方命は科野(しなの)に降臨し、しばらくこの地にとどまり諏訪に移った。その旧跡に崇神天皇の時祭神を勧進奉斎す。 ●二宮 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢 正殿 :大己貴命 ・事代主命 副殿 :建御名方命・八坂刀賣命 ○ 欽明 遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれた折り、御子の事代主命と建御名方命をしたがえて、この地にお寄りになったと伝えられている ●三宮 沙田神社 長野県松本市島立区三ノ宮字式内3316 彦火火見尊 豐玉姫命 沙土煮命 大化 孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以って祭祀す ●三宮 穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。主神穂高見命は、別名宇津志日金折命と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる。 ●四宮 武水別神社 長野県千曲市八幡3012 武水別大神 孝元 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。 ●生島足島神社 長野県上田市下の郷 生島神、足島神 ○ 神代 古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。 ●三輪神社 長野県上伊那郡辰野町辰野下辰野新屋敷2095 大己貴命・建御名方命・少彦名命 ○ 大己貴命・少彦名命が神代にこの地に留まったと伝えられている。 ●阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となる。 ●安布知神社 長野県下伊那郡阿智村駒場 2079 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」に、天思兼命とその子天表春命は共に信濃國に天降り、阿智祝部等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めていた。 ●戸隠神社 九頭龍大神 ○ 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社である。その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。 しかし、山岳密教の霊場として戸隠に行者が入るようになった平安時代には、戸隠山の神様は農耕の水を司る「九頭竜」で、まだ「天の岩戸開き」とのゆかりは語られていなかった。 「天の岩戸」と戸隠が文献上で完全に結びつくのは、室町時代。修行僧のひとり有通が、戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した『戸隠山顕光寺流記』の中のことである。以来、戸隠神社の御祭神は、岩戸開きに関わった神々と地主神であることが、神社の由緒として語り伝えられてきた。 九頭龍社は奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。古くは虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。地元の人によると戸隠の九頭龍神は梨が好物だそうである。九頭龍大神は饒速日尊と思われる。 ●阿禮神社 長野県塩尻市塩尻町大宮6 素盞嗚命 不詳 素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平げて後、科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平げたという。その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源。 荒彦山は、今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるという ●穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にある。その奥宮は、穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は、奥穂高岳の頂上に祀られている。 対馬の豊玉彦命の子でありる穂高見命は海神族の祖神で、その後裔の安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であった。 ●川會神社 北安曇郡池田町会染十日市場 底津綿津見命 景行 川會神社は、川の氾濫を防ぎ、耕地や村落の荒廃を免れるために創始された神社であるが、水害により度々遷座されるという、まさに水との戦いに明け暮れた社となった。 御祭神の底津綿津見命は安曇野市穂高神社の御祭神・穂高見命の父神にあたり、まさに安曇郡内の式内社二社は安曇族の祖神二柱をお祀りしている神社でした ●當信神社 上水内郡信州新町信級字当信平 大年神/建御名方命 ○ 往昔土地開拓の草創時代により上下一般の崇敬を享けた ●更級斗売神社 長野県長野市川中島町御厨 1622 健御名方命 (配祀)八坂刀売命 健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。 ●小川神社 長野県上水内郡小川村大字小根山6862 健御名方命 不祥 祭神・健御名方命が出雲での武甕槌命との戦いに敗れ、 母神・沼河比売命の郷里・糸魚川を経て信濃を開拓。母神への往来(糸魚川街道)の要衝である当地に村民が、その徳を慕って奉斎したという ●守田神社 長野県長野市七二会字守田乙2769 守達神、大碓命、久延毘古命、大物主命、健御名方命、素盞嗚尊 守達神は健御名方命の御子神で当地開拓の祖神。 ●健御名方富命彦神別神社 長野県長野市箱清水1−3 健御名方富命 健御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。 地方民はそのときの健御名方富命の徳を敬仰追慕し奉祀した ●越智神社 須坂市大字幸高字屋敷添389 饒速日命 ○ 湧水池の多いこの地に移住し田畑を耕して越智氏の祖神饒速日命を産土神とした。 ●高杜神社 長野県上高井郡高山村大字高井字大宮南2040 健御名方命、高毛利神、豐受姫命、武甕槌命 ○ 古老の伝によると、高杜神社祭神の高杜大神は、この地の濫觴(らんしょう:始めること)の太祖(祖先)である。 そのため、その神徳を仰ぎ奉りて郡名を高位と称したところ、郷里はおいおい繁盛して一郡になったという。 また、諏訪社旧記にはつぎのようにある。多加毛利命は健御名方富命の子供で、高位県を守り給う神である。 だから、高位県大明神と称している。」 この伝承によると、諏訪大社の祭神である健御名方富命とその子供の多加毛利命が高杜神社の祭神 ●大宮諏訪神社 野県北安曇郡小谷村大字中土字宮ノ場 建御名方命・ 八坂刀売命 旧社地「すわま」は、諏訪明神(建御名方命)の信濃入りの際の神跡と伝えられる。 |
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■安曇族とは
長野県安曇野市穂高6079の穂高神社には対馬の豊玉彦の子である穂高見命が穂高岳に降臨し、安曇野地方を開拓したと伝わっている。豊玉彦の娘豊玉姫と日子穂穂出見命が結婚しているので、穂高見命も日子穂穂出見命とほぼ同世代と考えられる。つまり建御名方命と同世代であり、穂高見命が安曇野にやってきたのは、建御名方命が信濃国にやってきたのとほぼ同時期となる。饒速日尊が信濃国開拓の人手不足から安曇族も対馬から呼び寄せたものであろう。 建御名方命は伝承によると姫川を遡って信濃国に入ったことになっているが、安曇氏もほぼ同じコースである。また、時期もほぼ同じ時期と推定されるので、両者は一緒に信濃国入りしたのではないだろうか。 生島足島神社の伝承によると生島足島神(饒速日尊)に奉祀した事になっている。饒速日尊が滞在している処へ建御名方命がやってきたようである。 居多神社・斐太神社の地では饒速日尊と建御名方命・事代主命が行動を共にしていたのであるが、信濃国への入国は別々のようである。生島足島神社の伝承から饒速日尊・事代主命の方が先に入国していたと判断できる。饒速日尊・事代主命は斐太神社の地から関川を遡り、 現在の信越本線に沿って信濃国に入ったと思われる。野尻湖から鳥居川に沿って下り、豊野で千曲川流域に出る。千曲川を遡り、上田市の生島足島神社の地で、開拓事業をしていたのであろう。 建御名方命が饒速日尊と別行動をした理由は、安曇一族を信濃国に導くためではないかと考えられる。斐太神社の地で、饒速日尊と別れた建御名方命は姫川の河口付近で穂高見命が安曇一族を導いてやってくるのを待った。安曇一族と合流後、姫川を遡り信濃国に入ったと推定する。 安曇一族はなぜ、信濃国にやってきたのであろうか。安曇一族は対馬の豊玉彦の一族である。対馬は海外交易の通り道にあり、常に朝鮮半島からの最先端に技術が入ってきていたと思われる。安曇一族は、おそらく、当時の日本列島内で最も進んだ最新技術を持った集団と解釈してよいのではないだろうか。饒速日尊は信濃国を統一するのは他の地域に比べてはるかに難しいということを知っていた。そのために、最先端技術を持っている安曇一族に協力を求めたのであろう。穂高見命は豊玉彦の一男二女(穂高見命・豊玉姫・玉依姫)の三人の子供のただ一人の男子である。普通なら対馬国の後継者になるはずの人物である。この頃日向国の彦穂穂出見命が対馬に滞在しており、豊玉姫の婿として対馬に婿入りした頃であった。彦穂穂出見命が対馬国の後継者として期待されていたので、穂高見命を安曇族の今後の発展を願って、信濃国に派遣したものであろう。 越国の国譲りが成功した直後、饒速日尊が次の信濃国の統一のために、安曇一族に期待して対馬から呼び寄せたと思われる。 安曇一族は姫川河口に到着し、そこで待ち受けていた建御名方命と共に姫川を遡り、白馬村神城の地で安曇一族と別れた。建御名方命は神城から大町市美馬に抜け、そこから土尻川に沿って下り、信更町で犀川に合流し、犀川を下って長野市に至った。この経路上に小川神社、皇足穂神社がある。このあたりを通過したのであろう。 穂高見命率いる安曇一族はそのまま南下し、青木湖、木崎湖を経て大町市に到着した。そこから高瀬川に沿って下り、穂高の地に落ち着いた。穂高の地に着くと、周辺の地形を確認するため梓川を遡り、上高地から穂高岳に登山した。安曇一族は穂高岳から見渡せる一帯を開拓した。今の安曇野市である。 |
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■八坂刀売命の正体
建御名方命の妻は八坂刀女命である。建御名方命はこの姫といつ結婚したのか伝承には全く伝わっていない。越後国の式内社(論社を含む)に建御名方命を祀られているのは11社あるが、その中に妻が祭られているのは1社しかない。これから判断すると、建御名方命が結婚したのは信濃国に下ってからとなる。 長野県内で八坂刀女命が建御名方命と共に祭られている神社は長野市近辺に圧倒的に多い。八坂刀女命は長野市近辺で建御名方命と結婚したのではあるまいか。長野市近辺の神社を調べると長野市に夫無神社と言われていた妻科神社があり、そのすぐ近くに、健御名方富命彦神別神社がある。 この神社は「御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。地方民はそのときの健御名方富命の徳を敬仰追慕し奉祀した」と伝えられている。また、長野県長野市川中島町御厨 1622に更級斗売神社があり、「健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。この付近が、平安時代の「斗女」郷の中心地と考えられている。」。このことから、八坂刀売命の本拠地は川中島であり、健御名方富命が健御名方富命彦神別神社の地に滞在している時に知り合ったものと考えられる。結婚前の八坂刀売命は妻科神社の地に滞在していたと思われる。 八坂刀売命は天八坂彦の娘とも穂高見命の妹とも云われている。どちらが正しいのであろうか。もし、穂高見命の妹であれば、対馬からやってきた安曇族に属し、兄である穂高見命と一緒に来たとも思われるが、それならば、穂高神社に八坂刀売命が祭られていなければおかしいが、穂高神社の祭神に八坂刀売命はない。また、建御名方命が安曇野から長野市方面に移動する中間地にある神社にも建御名方命のみで八坂刀売命は祭られていない。これより八坂刀売命は天八坂彦命の娘であることになる。天八坂彦命は饒速日尊と共に降臨したマレビトの一人である。おそらく、八坂彦は饒速日尊が信濃国に入国する前に信濃国の川中島周辺の開拓をやっており、八坂刀売命はこの地で生まれたものであろう。白馬村神城で安曇一族と別れ土尻川を下ってきて犀川から千曲川に出るところに、更級斗売神社がある。この時、八坂刀売命と知り合ったのではないか。 長野市に入った建御名方命は健御名方富命彦神別神社(長野県長野市箱清水1−3)の地で、周辺の人々に最新技術を伝授し、土地開拓を推進した。この時、川中島で知り合った八坂刀売命をすぐそばの妻科神社に呼び寄せ、通ったものであろう。暫らく後この二人は結婚した。 建御名方命は千曲川沿いに飯山市(健御名方富命彦神別神社あり)辺りまで巡回した。また、犀川を通って安曇野の穂高見命との連絡も取り合ったのではないか。犀川沿いに彦神別神社・当信神社・日置神社など建御名方命を祀っている神社があることから類推できる。長野市近辺の状況が落ち着いた後、建御名方命は千曲川を遡り、上田市下の郷に滞在中の饒速日尊・事代主命と出会った。生島足島神社の位置である。 饒速日尊・事代主命・建御名方命は協力してその周辺の地域を開拓した。 |
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■諏訪族とは
「神長官守矢資料館のしおり」には、以下のような記述がある。 出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。 一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。 口碑によりますと、そのころ、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです。 さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。 大祝は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、また、即位にあたっての神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり神に願い事をする力は神長のみが持つとされており、こうしたことよりみまして、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ち続けたと考えられます。 こうして、諏訪の地には、大祝と神長による新しい体制が固まりました。こうした信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代、中世と続きました。 これによると、建御名方命がやってくる前の諏訪地方は、縄文人の集合体のようなものがあったことが分かる。また、神社伝承によると建御名方命は饒速日尊・事代主命と行動を共にしており、周辺を統一した後、諏訪には最後にやってきている事が分かる。諏訪湖周辺で洩矢神と争っているが、他の長者とは争っていない。また、争いの後、洩矢神の子孫を重く用いていることから、この戦いは殲滅戦とか相手を滅ぼすとかいった類の戦いではないと考えられる。饒速日尊の統一の手法と考え併せると、次のような手法が考えられる。 建御名方命は饒速日尊・事代主命を伴っている。これは、二宮の弥彦神社の伝承でも明らかである。当時の信濃国は諏訪に縄文人の国のようなものができていて、他の地域のようにあっさりと統一するのは難しい状況であった。そのため、信濃国内の未開の地を開発しながら周辺の縄文人から協力を取り付けた。縄文の血を引いている建御名方命が率先してこれに当たったのであろう。周辺が統一されてから、建御名方命は統一が難しいと思われる諏訪周辺にやってきた。いきなり土地を奪う戦いをしたのではなく、それぞれの地域の長者たちに日本国に加盟するように交渉したと思われる。その結果、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などは、日本国加盟を申し出たのであろう。洩矢神は日本国加盟に反対し、交渉が決裂して争いになったと思われる。 諏訪大社には「事代主命社祭」というのがある。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」と言われており、 これは、諏訪明神以前の土着の神を祀る神事が今に続いている事を意味している。この神社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では「武居會美酒」とあり、事代主命と同神と言われている「えびす」である。兵庫県の西宮神社の摂社に「百太夫神社」があり、そこでは、恵比寿様は 「長野県の武居神社」で生まれたとあり、事代主命と武居の長者が一体化しており、事代主命が武居一族の協力を取り入れることに成功したことを意味しているのではないだろうか。 |
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■諏訪での交渉
諏訪湖周辺には国を形成できるような組織をもった集団がいた。未開の地であれば、簡単に開発できるが、国があればそこの人々に日本国に加盟してもらう交渉をしなければならない。信濃国は広いが未開の地が多かったので、ここまでは順調に進んだが、この諏訪族だけは難局が予想された。上田市から依田川に沿って遡り、旧中山道に沿って諏訪湖湖岸に達した。ここで、日本国に加盟するように交渉したが、上手くいかなかった。 諏訪大社下社に事代主命が祭られている。また、事代主命社祭があること、武居會美酒と言うように武居と事代主命が一体化している様子も見られることから、諏訪にて諏訪族と交渉したのは事代主命のようである。おそらく下社の地で交渉したのであろう。 しかし、伝承では諏訪湖の西に直線8km程の所にある信濃国二宮である小野神社・矢彦神社の地から諏訪へ行ったようである。方向性が逆である。また、諏訪湖を水源とする天竜川の下流領域が饒速日尊・事代主命・建御名方命によって開発されている。このことは辰野町の三輪神社、飯田市の大宮諏訪神社の伝承でもわかる。 饒速日尊・建御名方命は諏訪族との交渉を事代主命に任せ、天竜川流域の開発に携わったものであろう。信濃国は大変広く、このあたりまでくると、土地に住み着いて土地開発を継続して行う人材がいなくなってしまった。そこで、饒速日尊は神坂峠を越えて、尾張国に高皇産霊神の子である思兼命を代表とする一族を信濃国飯田市近辺に呼び込んだのではないか。是が後の阿智族である。阿智族の協力のもと天竜川流域が開発されることになった。 |
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■阿智族とは
信濃国を開拓した一族に阿智一族がいる。阿智一族は、信濃国南西部飯田市近辺の神社に阿智一族の祖、思兼命を祀った神社がある。 長野県下伊那郡阿智村智里489にある阿智神社には 「社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天 降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられる」 とあるが、天八意思兼命は、高皇産霊神の子である。饒速日尊とともに大和に降臨したマレビトの一人である。その人物が孝元天皇の時代に信濃国にやってくるのは時代に差がありすぎる。第八代孝元天皇は、地方開拓に力を入れている天皇のようで、各地に重要人物を派遣している。 近くの長野県下伊那郡阿智村駒場2079にある安布知神社には 「天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。」 と伝わっている。こちらの方は孝元天皇の時代とは記されていない。思兼命は饒速日尊の時代に降臨したが、孝元天皇の時代にも高皇産霊神の子孫と思われる人物が信濃国開拓のために降臨しているのであろう。 式内社の「阿智神社」は、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのかはっきりとはしないが、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、 昼神(現阿智神社)を奥の宮と言った」と言われており、前宮、奥宮の関係にあったようである。鎌倉時代になってから山王信仰が盛んになり、以降、阿智神社の社名は忘れられ山王権現となったが、阿智神社と山王権現は異名同体であるといわれている。山王権現の祭神は、大物主尊、国常立尊、豊斟渟尊となっており、この神はいずれも饒速日尊である。 阿智神社は、古代の東山道最難関の尾張国と信濃国との国境にある神坂峠の麓にある。阿智族の本拠地も饒速日尊の影が見える。この神坂峠を饒速日尊は通過したと思われる。饒速日尊は思兼命、及びその子表春命を伴って、神坂峠を越えて尾張国から信濃国に入ったと思われる。 尾張国には伊多波刀神社(愛知県春日井市上田楽町3454)、高牟神社(愛知県名古屋市守山区大字瀬古字高見2400)、松原神社(愛知県春日井市東山町2263)、渋川神社(愛知県尾張旭市印場元町北島3977)、高牟神社(愛知県名古屋市千種区今池1-4-18)など高皇産霊神を主祭神として祀っている式内社が多い。これは、尾張国が饒速日尊と共に天降った高皇産霊神の子である思兼命がその子孫と共に開拓していた場所であると推定できる。饒速日尊は信濃国から尾張国に戻って、高皇産霊神の子孫を連れて、再び信濃国に戻ったものと考えられる。信濃国開拓には人手不足だったのであろう。 天竜川流域の開発体制を固めることができた饒速日尊・建御名方命は矢彦神社の地を本拠地として諏訪族との交渉に本格的に取り組むことになった。 |
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■諏訪一族の統一
饒速日尊・建御名方命が天竜川流域を開拓している間に事代主命は武居一族をはじめ、ほとんどの一族を統一することに成功していた。その手法はやはり、農地開発をはじめとする新技術の伝授であろう。諏訪族も伝授された新技術で生活が楽になれば喜んで日本国に加盟し、周辺の集落にもその技術を広げることに協力したのであろう。 しかし、洩矢命を長者とする一族だけは最後まで了承しなかった。洩矢命を誅するというような記事ではなく、国土開発の協力者として決着していることから、日本国に加盟することに反対していたのではなく、条件面での闘争だったような気がする。その条件は何かはわからないが、天竜川への出口付近で相争い、結果として建御名方命側が勝利を得た。 戦いにより、建御名方命側が勝利を得たが、やはり不満はくすぶっていた。建御名方命にとって、自分が育ってきた越国は日本国に所属しており、土地開拓をして人々の生活を向上させることの喜びを知っていた建御名方命は戦いの後の虚しさもあり、この土地の人々のためにここに残る決断をしたのであろう。諏訪大社に建御名方命と土着神が区別なく祭られていることからこのように判断する。建御名方命はこの土地に残り、信濃国の人々の生活の向上に尽力し、この土地で亡くなったのである。御陵は諏訪大社上社の前宮の拝殿裏の丘陵に葬られた。 諏訪大社の土着の神との和合が行われているようなので、このように判断した。 事代主命はこの後、大和に戻り、饒速日尊は出羽国統一に出発することになった。 |
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■出羽国統一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信濃国統一を終えた饒速日尊は諏訪で建御名方命・事代主命と別れ、越国の居多神社の地まで戻った。ここで、出羽国統一の準備を行い、ほどなく日本海岸に沿って出羽国統一に向かった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■神社伝承
越後国 ●一宮 居多神社 新潟県上越市 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 饒速日尊 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという ●圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 國常立尊 大己貴神 大山咋神 譽田別尊 饒速日尊 大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。 ●斐太神社 新潟県妙高市宮内241 大國主命・ 矢代大神・ 諏訪大神 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。 ●宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 天穂日命 大国主命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。 ●御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 大己貴命 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。 ●物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 二田天物部命 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。 ●石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 御井神 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神 大国主命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。 ●一宮 弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 天香山命 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた ●船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。 ●石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号 饒速日命 水波女命 高?神 闇?神 饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます ●西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16 気比大神 饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。 出羽国 ●一宮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1 祭神 大物忌大神 月山神 饒速日尊 祭神・大物忌神については、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがある。鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、異狄に対して神力を放って国家を守ると考えられている。 ●二宮 城輪神社 山形県酒田市城輪字表物忌35 倉稲魂命 饒速日尊 二宮古今記』によれば、祭神城輪大明神は倉稲魂命のことで鳥海山大物忌神社と同体であり、用明天皇の御宇に鳥海山大物忌神社を一宮とする題額の宣旨が給われた頃から当社は二宮と称するようになった、二宮とは第2王子のことである、 ●三宮 小物忌神社 山形県飽海郡平田町大字山楯字三之宮48 級長津彦命、級長津姫命、豐受比賣命 饒速日尊 もとは「三之宮大座明神」と称し、古来より鳥海山大物忌神社の第3王子とであるとされ、鳥海山大物忌神社が「春物忌」を行った後に当社においても3日間の「物忌」を行うのが慣わしになっていたと言う。 ●月山神社 山形県東田川郡庄内町大字立谷沢字本沢31 月讀命 饒速日尊 出羽三山は共に山そのものが神であり、神の住居である。 ●出羽神社 山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山33 伊弖波神 稻倉魂命 饒速日尊 出羽と書いて「いでは」と読む。出羽の由来は、越国の先端(出で端)にあるためとか。出羽国国魂神を祀った神社 ●湯殿山神社 山形県鶴岡市田麦俣字六十里山7 大山祇命 大己貴命 少彦名命 饒速日尊 出羽三山奥の宮 ●唐松神社 秋田県大仙市境字下台94 饒速日命 玉鉾神 愛子神 饒速日尊 物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。 その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。 ●三倉神社 協和町船岡字合貝 饒速日尊 饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた。当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという ●古四王神社 秋田県秋田市寺内字児桜81 武甕槌神 饒速日尊 、四道将軍の一人・大彦命が蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ ●岩木山神社 青森県弘前市百沢字寺沢27 顯國魂神 多都比姫神 大山祇神 坂上刈田麿 宇賀能賣神 饒速日尊 昔、大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。 その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。 その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという。 |
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■越後国統一経路
居多神社を出発後、柿崎の圓田神社の地に滞在、ここまで約20km。30kmほど進んだ柏崎市西山町の三島石部神社の地に到達した。この神社の伝承は 「居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている」 祭神は大己貴命となっているが、「北陸東北方面平定したこと」、「二田彦・石部彦の二神が出迎たこと」などからこの神は饒速日尊と判断する。大国主命は越国を統一しているが、弥彦神社の地まででそこより先は饒速日尊が統一している。また、二田彦・石部彦は物部氏であり、饒速日尊が大和に降臨した時に引き連れてきたマレビトである。大国主命がこの地に来たのはAD20年頃で、饒速日尊が大和に降臨したのはAD30年頃なので、マレビトがここまで来たのはそれより後となる。これらから、この大己貴命は大国主命ではあり得ず、饒速日尊となる。 三島石部神社から4km程進んだところに石井神社がある。ここの伝承は 「神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神は神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。」 祭神御井神は、大国主命の子木俣神を指すと言われているが、この地に来た記録はない。御井神は大和国宇陀郡にある御井神社に祭られている神でこの神社の記録では気比神として祀られており、同時にこの地は饒速日尊の滞在伝承地である。これから、御井神=気比神=饒速日尊となる。この伝承より、饒速日尊がここから佐渡島に渡り、佐渡島を統一したことが分かる。 次は50kmほど先の新潟市信濃川河口付近にある船江神社である。 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。 と記録されている。ここでは猿田彦大神となっているが、猿田彦大神もこの周辺に来た記録がない。この神も饒速日尊ではないかと推定している。 さらに50km程進んだ村上市に、岩船神社がある。この神社は直接の名饒速日尊で祀られている。「天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれています。」とある。また、5km程先に西奈弥神社があり、「気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。」とある。気比大神とは饒速日尊と推定している。饒速日尊はこのあたり一帯を開拓したと思われる。 以上越後国の饒速日尊と思われる伝承地を挙げたが、海岸線を一直線に出羽国に向けて進んでいるようである。内陸部には伝承地は全く見当たらない。その代わり、越後国は弥彦神(天香語山命・高倉下命)の伝承地が越後国各地に散らばっている。これはどうしたことであろうか 饒速日尊の信濃国統一段階ですでに人材不足に陥っていたと思われる。土地開拓をするにはその土地に長期間数十年単位で滞在しなければならない。その間に周辺の人々に新技術を伝えていくのである。それができる人々を大阪湾岸から各地に連れて行ったもののさすがに人がいなくなってしまったものと考えられる。饒速日尊もこの時60歳程に達していたと思われ、余命がそれほどないことは饒速日尊にも分かっていたであろう。自分の生きている間に列島全域を統一するには時間が足りないことを感じてきたのではないだろうか。そのために、比較的統一が楽に思えた越後国は後世の人物(自らの子)に任せて先へ進んだものと考える。 越後国内陸部は饒速日尊が統一しなかったために、大和朝廷成立直後神武天皇が天香語山命に越後国開拓の勅命を下したのであろう。 |
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■出羽国(山形県の実態)
越後国を通過した饒速日尊は出羽国に入ったと思われるが、山形県内に饒速日尊に関する伝承は、今のところ全く見当たらない。しかし、一宮の鳥海山大物忌神社(大物忌神)、二宮の城輪神社(倉稲魂神)、三宮の小物忌神社(級長津彦命)はいずれも祭神が饒速日尊の別名と推定している神である。また、聖地である出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)に祭られている神もこれまた、饒速日尊の別名と思われる神たちである。出羽国式内社9社のうち8社までが、饒速日尊と思われる神を祀っている。残りの一社も饒速日尊関連人物を祀っているという説が存在している。このように出羽国(山形県)内には饒速日尊伝承は存在しなくても、彼が深くかかわり、統一していたことは間違いないであろう。 |
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■秋田物部文書概略
秋田県大仙市境字下台94 に唐松神社がある。この神社には秋田物部文書が伝わっており、この文書に饒速日尊の行動が記されている。 物部文書が伝えるところの饒速日尊の行動 秋田物部氏の遠い祖先、饒速日命は、天の鳥船に乗って豊葦原中ツ国の千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、山上湖(鳥ノ海)・潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であった。この国を巡った後、逆合川を遡り日殿山山頂に「日の宮」を造営、天地の神々である大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。これが唐松神社の由来である。このとき、 饒速日命の居住していた場所は御倉棚と呼ばれ、ここに十種の神宝を奉じ、当地では住民に神祭、呪術、医術を教えたと伝えられ、その跡地(大仙市協和船岡字合貝)には、 現在、三倉神社が鎮座している。現在、唐松神社にはその十種の神宝の内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。十握の剣は鎌倉時代の作のようだが、鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のような固い黒い色をした石でできているらしい。 この地を拠点として東国を平定した饒速日命は更に南下、大和まで侵攻した。当時の大和国では先住民族の「安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)兄弟」が治めていた。そこに天津神「ニギハヤヒの命」が入ってきたのであるが、別に争いをするでもなく、「ニギハヤヒの命」は長髄彦の妹を娶り平和に共存の道を歩むことにした。 しかし、この平和に暮らしていた大和国に突然、戦闘的な天孫族イワレヒコの命(神武天皇)の東征軍が現れ、戦争を仕掛けられ、安日彦・長髄彦・ニギハヤヒの命らは、果敢に応戦したが、戦の最中ニギハヤヒの命が叛意した。ニギハヤヒの命は戦の最中に、イワレヒコの命が天津神「天照大神」直系の皇子であることがわかり従わざるえなくなり、王位継承権の証である「天津瑞(あまつしるし)」を献上し配下に下ったためである。この寝返りの結果、安日彦・長髄彦軍は総崩れとなり、長髄彦は討ち死に、安日彦はかろうじて逃れることができ、丹波より船で日本海を北上し、津軽十三湊に着き先住民族を束ね古代東北王朝を築き、のちの安東氏=秋田氏の始祖となった、とされている。 このとき、饒速日命は畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武天皇に献上した。神武天皇はその恭順の意を容れ、 饒速日命の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じたという。ここに物部氏は始まり、物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、蘇我氏との対立に敗れるまで、その威勢を振るう事になる。 ■物部文書の実態 神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、饒速日命から数え八代目の物部瞻咋連(いくいのむらじ)はこれを助け、懐妊した皇后のために腹帯を献じたといい、その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って、この蝦夷の地に至り、日の宮に詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営したと伝えている。 神功皇后は神威によって、新羅・百済・高句麗の三韓を服従させたことを記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)と呼んだとされる。 欽明天皇は仏教を歓迎し有力者に是非を問うたら、大臣(おおおみ)だった「蘇我稲目」は賛成したが、大連だった「物部尾輿」や連の「中臣鎌子」は、 国津神の怒りを招く、と強く反対。 かねてから朝廷の祭祀・軍事部門を担ってきた物部氏と、渡来系一族で物部氏より少し遅れてきただけに過ぎない蘇我氏の確執は「物部守屋」の代で決定的となった。 三十一代用明天皇は疱瘡で死んだとされ、病の床で用明天皇が仏教に帰依したいと願ったことから、大臣「蘇我馬子」は賛成し、「物部守屋」は反対して双方が兵を繰り出す騒ぎになった。 用明天皇崩御(587年)の後、物部守屋は穴穂部皇子を天皇につけようと画策しましたが、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れ、皇子は殺害され、 守屋の屋敷も襲撃されましたが、守屋は襲撃からはなんとか逃げたものの、部下の裏切りにあい殺されてしまう。 このようにして長い間、大和朝廷を古くから支えてきた物部氏は滅び、歴史の表舞台から消された。 『物部文書』では、「物部守屋」戦死後、守屋の一子、那加世(三歳)は物部家の家臣捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱かれて東方に逃げ延び、秋田仙北郡(現、大仙市協和町)の日殿山に入った。そして年を経て、その那加世の末裔が「秋田の唐松林」(大仙市協和町上淀川)に定住した現在の唐松神社宮司家物部氏は、この那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。 物部家では、代々の当主がこの文書を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたといい、その一部だけが公表された。しかし、その大部分は依然、未公開のままである。物部守屋が蘇我馬子に襲撃されて一族は滅亡したとされているが、『秋田物部文書』の伝承によれば、その事件で殺された当主物部守屋の子のなかに、当時三歳になる‘那加世’という名の子があったという。 |
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■東日流外三郡誌概略
今から約2700年前に津軽古代王国が生まれ、次いで古代アラバキ王国が成立した。このころ、日本ではこれら幾多の部族が互いに侵略しあっていたが、安日彦・長脛彦の兄弟がそれを統一し、耶馬台国を建国した。そこにあるとき、日向族という渡来人の一派が九州にやってきた。日向族は比未子という呪術者を使って土着民の心を惑わし、しだいに勢力を拡大していった。 稚三毛淳麻命(神武天皇)が即位する8年前の癸丑の年に、九州の日向から東征軍を挙動したニギハヤヒノ命と日子瀬命(いつせのみこと)は、耶馬台国の長髄彦・安日彦軍と戦って敗北。日子瀬命は討死した。その為ニギハヤヒノ命は吉備(岡山県)で神武天皇に加勢を頼み、戊午2年に再び追攻。この時、長髄彦軍は敗北して安日彦に越国(北陸地方)で救われ、耶馬台国は神武天皇に平征された日向族のリーダー神武天皇は東征を開始した。安日彦・長脛彦は勇敢に戦ったが、ついに敗れ、畿内から追い払われた。敗れた安日彦・長脛彦は、津軽地方へ逃れた。 津軽地方には縄文時代、阿蘇辺族という民族が住んでた。そこに中国大陸や朝鮮半島から漂着した津保毛族や、中国の王族も亡命してきた。耶馬台一族を引き連れてきた安日彦・長脛彦は、これらを糾合し、荒覇吐(あらはばき)の神を崇める荒覇吐族(あらはばきぞく)を名乗った。荒覇吐族は耶馬台一族の農耕技術と津保毛族の優れた騎馬戦術が合せて強大になり、幾度か大和に攻めのぼった。 第6代孝安天皇の時、荒覇吐族は大軍で大和に進攻。倭国は大いに乱れた為、天皇が空位となり、第10代崇神天皇が登場するまで、神武系の皇位を退けて荒覇吐系の天皇を次々と即位させたという。第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇や第9代開化天皇は荒覇吐系の天皇である。 開化天皇は北九州の筑紫を除く日本全土を統一することに成功した。しかし彼はその後、荒覇吐神の信仰を捨て、出雲族や日向族の神を崇めたために、畿内の荒覇吐族と奥州の荒覇吐族との間で争いが起こり、日本は二つに割れた。荒覇吐族が仲間割れを起こしているうちに、騎馬民族を率いて海を渡って攻めてきたミマキイリヒコによって開化天皇は敗れ、ミマキイリヒコは天皇(崇神天皇)に即位した。そして、律令制等を整えることで国力を強化し、奥州の諸勢力を服属させていった。 ■東日流外三郡誌の実態 東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎氏が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」として1970年代に発表された。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書で、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていたという内容である。 東日流外三郡誌については、記述内容が考古学的調査との矛盾していたり、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」などの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉表現の新しさ、また、和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはなく、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書であると言われている。 |
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この2種類の古文書のうち物部文書は一部しか公開されていない。その真偽は不明である。東日流外三郡誌は内容を見てみれば明らかであるが、他の伝承とは全く相いれないものがある。また、当時日本列島内は戦乱の嵐のような内容となっているが、この当時の戦乱を意味する遺跡はほとんど存在しない。武器を意味する出土物もほとんどない状態である。これらから三郡誌は真実から大きくずれていると判断してよいであろう。しかし、いくら偽書であると言っても100%の偽書は造ること自体が難しいと思われる。その本質的なところには真実があったが、書き写したりしている間に創作が入り込んでしまうのであろう。人間は体制側も反体制側も都合がよいように書き換えてしまうことが多い。だからこそ複数の伝承で確認する必要がある。両者の共通点は安日彦が神武天皇即位後大和から逃れて津軽にたどり着き、勢力回復を図ったというところである。この部分は正しいと判断する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■出羽国統一経路の推定
この伝承から、饒速日尊の行程を推定すると、出羽国に入った饒速日尊は、霊峰鳥海山が目に入ったことであろう。早速鳥海山の麓である山形県飽海郡遊佐町吹浦の月光川河口辺りに上陸したと思われる。饒速日尊は初めての国に到達した時、その国で最も高い見晴しの好い山に登って周りの地勢を確認している。出羽国でその目的に叶う山は鳥海山をおいてほかないであろう。吹浦に上陸した饒速日尊は月光川を遡り、鳥海山の山上湖である鳥ノ海に降臨した。これは秋田古文書にも記載がある。鳥海山山頂から周辺を見渡した饒速日尊は、酒田市・鶴岡市周辺を巡回していると思われるが、直接的伝承は認められない。秋田古文書では「この国を巡った」と記されている。この周辺に出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」・二宮「城輪神社」・三宮「小物忌神社」が集中している。何れも主祭神は饒速日尊と思われる神である。ここは越後国の岩船神社から約100kmの位置である。 吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。この時期の縄文人の人口密度はかなり低く、適当に川を遡っていたのでは人がいない可能性が高く、東日本を統一しようとしている饒速日尊にとっては無駄足となる。このあたりはまだ弥生文化がほとんど浸透せず縄文終末期の状態であったと思われる。この頃の縄文人の人口は10万人程度と予想されており、縄文人はぽつぽつと存在する縄文集落で生活していたのである。河口付近に人工物が流れ着いているかどうかで上流に人がいるかどうかを判断し、人工物が流れ着いている川を遡ったのであろう。神話でも素盞嗚尊が斐伊川の河口付近で箸が流れていることから上流に人がいることを確認している。饒速日尊はこれと同じような感覚で、河口付近に流れ着いているものから上流に人がいるかどうかを判断していたのではないだろうか。 吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。雄物川河口付近に人工物が何か流れ着いていたのであろう。雄物川を遡って、今の大仙市協和境と言う処に縄文集落を発見した。饒速日尊はこの地にしばらく滞在して色々な新技術を現地の人たちに伝えた。饒速日尊が滞在していたという三倉神社は唐松神社から北北西に1.7km程の位置にある。 当然ながら失われてしまった伝承もあると思われるので、実際の経路はもっと複雑ではなかったかと思われるが、残っている伝承から推定するとこのようになる。 唐松神社が饒速日尊の統一事業の最北端かと思っていたら青森県の岩木山神社に饒速日尊ではないかと思われる伝承が見つかった。 岩木山神社伝承「大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという」 このようなものである。出雲の大国主命はこんなところまでやってきてはいないので、ここにある大己貴命とは饒速日尊のことと判断される。ここにも暫らく滞在したようであるが、180人の子を産んだとあるのは何であろうか?饒速日尊がここにいたとしても最大限数年程度でそれ以上は考えられない。また、180人もの人を連れてきているとも思えない。これは、饒速日尊が養成した技術者ととらえたいがどうであろうか。 唐松神社の地にいた饒速日尊は当然ながら周辺の縄文人の集落の位置を聞き出したと思われる。縄文人を案内人として周辺の縄文集落を訪問していることであろう。そのいくつかの伝承は失われているが、この岩木山神社には残っていたということであろう。経路を推察すると、唐松神社の位置から雄物川の河口に移動し、そこから北上。津軽半島の十三湖に到達し、そこから岩木川に沿って遡ったものであろう。途中秋田市・八郎潟・能代市近辺の縄文集落にも立ち寄っていると思われるが、伝承はない。 物部文書の内容は古代史の復元と一部を除きよく一致していることに驚いた。饒速日尊が東国平定(実際は平和統一)したこと、神武天皇に東日本全体を譲ったこと(実際は政略結婚による対等合併)などである。 |
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■安日彦の謎
物部文書にある安日彦・長髄彦兄弟についてであるが、饒速日尊が大和に降臨したAD30年頃長髄彦の妹の三炊屋姫を娶っている。結婚適齢期を考えると、長髄彦はAD10年頃誕生したものと考えねばならない。神武天皇が即位したAD83年には70歳を超えているはずである。あり得ないことではないので、長髄彦には問題はないが、安日彦については問題がある。長髄彦と兄弟であるなら、AD10年頃の誕生と思われるが、AD83年以降も生き延びているのである。しかも津軽で活躍している。これはどのように解釈すればよいのであろうか。 一つ考えられるのは安日彦は長髄彦の歳の離れた弟である。昔のことであるから20歳ぐらい下の弟がいてもおかしくはない。あるいは、長髄彦の子である可能性も考えられる。何れにしても長髄彦とは年が離れていなければならない。神武天皇即位後安日彦が十三湊にやってきているが、このことから、饒速日尊の出羽国統一団の一員に安日彦がいたものと判断される。安日彦は饒速日尊に就いて、出羽国を統一する時、饒速日尊と共に十三湖から岩木川を遡り岩木山神社の地を訪問していたのであろう。そうすると、神武天皇即位後安日彦が大和を逃れてこの津軽の十三湊にやってきた理由が分かる。 安日彦は長髄彦と共に饒速日尊に心酔しており、饒速日尊が統一した日本国を日向からやってきた見も知らぬ人物に手渡してしまうのがどうにも我慢ならず、最後まで抵抗した。しかし、長髄彦が殺害されるにおよび、もはやこれまでと、自分の立場を理解してくれそうな、津軽の人々のもとに旅立っていったと考えれば、自然につながるのである。 北東北地方は統一後大和朝廷支配下から外れる 「東北地方北部まで饒速日尊が統一したのに、後の大和朝廷の勢力下から外れたのはなぜか」という疑問が沸く。大和朝廷勢力下にあったのは東北地方では福島県地方のみである。方形周溝墓も出現していないし、古墳も築造されていない。明らかに北東北地方は大和朝廷支配下に含まれていないのである。これはどうしたことか? これは、饒速日尊統一時に人材不足だったためではないかと考える。他に地域は、国土開発に日数を要するために、その地に入植し何年もかけてその土地を開拓していったのである。東日本地域は縄文人が住んでいた地域であるが、4500年前から気候は寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少し、たと推測されている。鬼頭宏氏「人口から読む日本の歴史」によると2500年前は日本列島の人口は8万人と推計されている。人口密度は0.2人/km2となる。この密度は各県当たり1600人で、各県に30集落程度があり、5km四方に一集落程度あったと思われる。しかも縄文人は、やや高地に住んでいる。水田稲作を中心とする弥生人とは生活する基盤が異なり、弥生人が大挙して入植しても、土地がガラガラにあいているうえに生活基盤が異なるので衝突はほとんどなかったと思われる。それよりも、入植者が周辺の縄文集落に赴いて、新技術を伝えれば、その地域を統一するのはかなり楽であると言える。実際は弥生人の入植者の処へ周辺の縄文人が新技術を教えてもらいにやってきたのではないかと思われる。これら入植者が役人を兼務して中央の指示を伝えればよいのである。入植者がいる限り、その国の体制は維持されるとみてよいであろう。 しかし、人材が豊富だったのは、東海・関東・甲斐地方までで、信濃国統一時あたりから人材不足が問題になりだしたようである。東北地方統一時には入植者は全くいなかったのではないだろうか?この状態では新技術を伝えても、その地域でその技術を維持するのは難しく、長い年月のうちに失われ、しだいに日本国支配下から外れて云ったものであろう。また、神武天皇に敗れた安日彦が東北地方に退去した時。饒速日尊の恩恵を受けている東北地方の人々にとって、大和朝廷を敵視する安日彦と思いが重なりやすく、東北地方をまとめたとあっては、大和朝廷に反逆することはあっても簡単に従うことはないと思われる。大和朝廷としても、東日本地域は広く、全域を安定して統治するのは難しく、安日彦の後継者の指揮のもと反抗する東北地方を武力で抑え込む余裕もなく、統治の手が回らなかったのであろう。このような理由で、東北地方が大和朝廷支配下から外れたものと思われる。 |
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■饒速日尊大和帰還
物部文書によると東北地方での活動を終えた饒速日尊は大和に帰ったと記されている。ここで、いまひとつ疑問が浮かんでくる。 一つは、「饒速日尊はなぜ太平洋側に回らなかったのか」ということである。饒速日尊は大和に帰還後再び統一に出発し今度は陸奥国を統一している。大和に帰らなくても、このまま太平洋側に回って陸奥国を統一すれば済むことである。 この時点で東日本地域で未統一の地方は、伊勢国・志摩国・伊賀国・安房国・上総国・陸奥国である。伊勢国・志摩国・伊賀国は猿田彦命が、安房国・上総国は天太玉命が統一することになる。これら地域は入植者が簡単に見つかりそうな地域なので、何れ誰か後継者が統一できることは饒速日尊も予想できたと思われる。しかし、陸奥国だけは出羽国同様に入植者が簡単に見つからず、苦労すると思われる。饒速日尊はこの時、陸奥国の統一に回らなかったのはなぜだろうか? 饒速日尊が越国国譲りのために大和を旅立って、5年程度は立っていたのではないかと思われる。饒速日尊に課せられた使命は東日本統一だけではない。最終目標は素盞嗚尊の夢であった日本列島統一である。そのためには倭国との大合併も実現させなければならない。出雲の大国主命が亡くなった時、高皇産霊神との話し合いで大合併の準備期間が与えられていたはずで、その時期が迫っていたためではないかと推定する。饒速日尊にとっては、東日本統一に予定以上に時間がかかっていたのである。大合併を順調に行うためには、遅れていることを倭国に伝える必要がある。互いに不信を抱けば倭国と日本国との並立による大戦争が将来起こる可能性を秘めているのである。 そのために、饒速日尊は大和帰還を優先したものと判断する。陸奥国統一は大合併の後、大和朝廷の力で実施することも考えていたのであろう。 |
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■陸奥国統一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大和に帰還した饒速日尊は次に陸奥国統一に旅立つのであるが、陸奥国は饒速日尊よりも味鋤高彦根命が主体的に動いているようである。まずはその過程から推定してみよう。
●一宮 鹽竈神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 塩土老翁神・武甕槌命・経津主神 武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると ●一宮 都都古和気神社 福島県東白川郡棚倉町馬場 味耜高彦根命 味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。棚倉町には、当社の他に、都都古別神社がもう1社存在する。また、久慈川に沿って、近津と呼ばれる神社が3社存在し、その鎮座地から、当社・馬場の都都古別神社を上之宮、八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県の近津神社を下之宮とし、近津三社と呼ばれる場合もある。 ●一宮 都都古別神社 福島県東白川郡棚倉町八槻大宮 味耜高彦根命 日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現。味耜高彦根命の鉾を授けた。日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという ●一宮 石都々古和気神社 福島県石川郡石川町 味秬高彦根命・大国主命 当社は八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていたことがわかる。延喜式神名帳の記述が書物における当社の初見である ●二宮 伊佐須美神社 福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命 社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付け、天津嶽(御神楽岳)山頂に国土開拓の祖神として諾冉二神を祀ったのが起源という ●立鉾鹿島神社 福島県いわき市平中神谷字立鉾33番地 武甕槌神 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました ●志波彦神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 志波彦神 志波彦神社は鹽竃の神に協力された神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰されている。志波彦の神が降りてきたため、神降川と呼んだのが「かむり」になった。その神が川を渡るときに乗っていた白馬が躓き、神が冠を落としてしまったからだという伝説がある。旧社地は川沿いの岩切の丘陵上にあったと言われている。今の七北田川である。 ●和渕神社 宮城県石巻市和渕町1 経津主神 武甕槌神 大巳貴神 ?神 香取神社の神船が、常陸より八重の塩路に乗り、牡鹿郡和渕山の西辺(船島)に着き、その東方に船を留め(船澤)、山頂の船澤山 猿霊峠(樹霊峠)に宮柱を立て祭祀したとも伝えられる ●鹿嶋御児神社 宮城県石巻市日和丘2丁目1-10 武甕槌命、鹿嶋天足別命 往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝え があります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。 ●鹿島御子神社 福島県相馬郡鹿島町大字鹿島字町199 天足別命、志那都比古命、志那都比賣 御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである 鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。 ●桙衝神社 福島県岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山97 日本武尊、建御雷命 武甕槌命の事績に由来するという 陸奥国の神社伝承にはいくつか系統があることが分かる。まとめてみると、 1 大国主命と御子味秬高彦根命のペア 2 建御雷命と御子天足別命 3 志波彦命と鹽土神 これらの神々の関係を見てみたいと思う。 陸奥国一宮の鹽竈神社伝承では、鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えた。また、武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたものと伝えられる。主祭神は鹽土老翁神と考えられる。讃岐国阿野郡の塩竃神社など他の同名の神社の祭神は味耜高彦根命が多いが現在の塩竈神社には味耜高彦根命の名は見えない。現在の祭神は鹽土老翁神、武甕槌神、經津主神であるが、これは江戸時代に定められたようである。『和漢三才図絵』によれば、陸奥の鹽竃六所大明神 在千賀浦 祭神一座 味耜高彦根命とある。陸奥一宮の祭神は味耜高彦根命とされ弘仁式には鹽竃の神である。これらのことより、鹽竃の神=味耜高彦根命という図式ができる。建御雷命=饒速日尊なので、陸奥国を統一した人物は饒速日尊と味耜高彦根命のペアと言うことになる。 味耜高彦根命は出雲の大国主命と宗像三女神の一人多祁理姫との間にできた子である。大国主命が亡くなる直前のAD40年頃に九州で誕生していると思われる。AD55年頃と推定されるこの頃には15歳程になっていることであろう。饒速日尊と味耜高彦根命は親子ではないが、共に行動していると周りからは親子に見えるであろう。なぜ、この二人がペアで陸奥国を統一したかは後で考察するとして、他の神社の伝承との照合を先にする。 鹿島御子神社・鹿島御児神社では建御雷命とその子天足別命のペアとなっているが、他の神社の伝承から判断すると、天足別命=味耜高彦根命が自然であろう。しかし、直接的にこの両者が同一人物であることを裏付ける伝承は見つからない。志波彦神は、国土開発・産業振興・農耕守護の神と言われていることから饒速日尊と思われる。これも直接裏付ける伝承は見つからないが、似たような伝承のつながりからこのような推定が成り立つ。 |
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■饒速日尊出羽国からの帰還
出羽国統一が終了した饒速日尊は、倭国との合併準備のために大和に帰還した。大国主命死去の後出雲国譲り会議の時、倭国と日本国の大合併も議論に登ったが、饒速日尊は東日本地域の統一がまだ途中(この時点では陸奥国・出羽国・飛騨国・信濃国が未統一)であることを理由に先延ばしをしていた。饒速日尊は大和に帰還したが、その時は、すでに約束した期限を過ぎていたのである。日向国の高皇産霊神はしびれを切らせ、味耜高彦根命を大和に派遣したのである。 大和国は日本国の中心地であるが、三輪山より東側(宇陀地区)はこの時点でまだ統一されていなかったのである。大和に戻った饒速日尊はこの地域が落ち着いていないのが気になり、初瀬川上流の桜井市白木地区を拠点としていた。大和にやってきた味耜高彦根命は饒速日尊に会うためにここにやってきた。初瀬川の中に巨大磐座があり、古来より味鋤高彦根命を祭神とする祠があったが、今は湖の中である。すぐそばに高籠神社があり、おそらくこの地に味耜高彦根命は滞在して饒速日尊と会ったと思われる。 味耜高彦根命は倭国との大合併の状況について饒速日尊に聞いたと思われる。饒速日尊としては、東日本全域を統一してから大合併をしたいということを伝えたものと思われる。この時点で未統一の地域は伊賀国・伊勢国・志摩国と大和国の東側領域と、上総国・安房国の関東地方の一領域及び陸奥国である。陸奥国以外はいつでも統一できるとして、倭国との合併は陸奥国が統一されてから実施したいと提案した。味耜高彦根命はそれを了承した。陸奥国統一には人材確保など準備が必要として、陸奥国出発までに少し時間があった。この間に饒速日尊は自分の娘である御歳姫(下照姫)と味耜高彦根命を結婚させた。この二人の間に天八現津彦命が生まれ、後の賀茂氏となった。 饒速日尊も65歳程になり、体力の衰えも見えてきたはずである。饒速日尊だけでは統一事業を行うのは難しくなっており、味耜高彦根命が統一事業に協力することとなった。陸奥国統一は饒速日尊よりもむしろ味耜高彦根命の方が主体的に動いているようである。 |
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■陸奥国統一
いよいよ準備が整い、陸奥国統一に出発した。陸奥国統一の基点として鹿島神宮の地を選定した。陸奥国に出発する前に、さらに人材確保のために、下野国(現在の栃木県)辺りを巡回した。下野国は味耜高彦根命を祀る神社が異常に多いことからこのように推察する。 陸奥国の統一領域を推定してみると、方形周溝墓の北限が宮城県栗原市であり、饒速日尊と思われる神を祀っている式内社の北限も宮城県までである。行動伝承もここまでであり、岩手県下には饒速日尊と思われる神を祀っている式内社は存在しない。饒速日尊が味耜高彦根命とともに陸奥国統一したのは、宮城県北端までのようである。 それでは、鹿島神宮の地を出発した饒速日尊一行の統一経路を推定してみよう。 都都古和気神社(棚倉町)は久慈川領域にあり、鉾衝神社・石都都古和気神社は阿武隈川沿いにある。久慈川を遡って行くと、棚倉町の都都古和気神社の近くで、阿武隈川流域に入る。この地理関係から、饒速日尊一行は鹿島神宮の地を海路北上し久慈川河口から、久慈川を遡って行ったと推定できる。その流域の人々に新技術を伝えながら、棚倉町のところから阿武隈川流域に入り、白河市から郡山市一帯を統一した。このとき、会津若松方面も統一していると思われるが伝承がない。郡山市から、阿武隈川の支流谷田川を遡り小野町で夏井川流域に入り、夏井川に沿って下るといわき市に着く。 いわき市には鹿島立鉾神社があり、この神社には「武甕槌神が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました。」とある。 この地から東へ進んでいるので、武甕槌神(饒速日尊)は夏井川を下ってきたことを意味する。 ここから、海に出て、海岸沿いを統一しながら北上した。南相馬市に到達し真野川を遡り、鹿島区についた。ここには鹿島御子神社がある。ここでは、 「御祭神天足別命(味耜高彦根命と推定)が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。」 と伝承されており、ここで、賊徒に襲われたようである。 再び海岸線に沿って北上し、仙台市宮城野区の七北田川河口から上流に入った。岩切と言うところに仮宮を作った。志波彦神社の旧社地である。ここを起点として、仙台市、多賀城市、塩釜市一帯を統一して回った。後に塩釜神社の地に拠点を移した。 塩釜神社では「祭祀は武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(味耜高彦根命と推定)がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると」伝えている。 塩釜市一帯の統一が完了すると、さらに北上し、北上川の河口である石巻市の日和山に仮宮をたて、その周辺を統一した。ここには鹿島御児神社があり、 「往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。」 このあたりになると、饒速日尊の行動が見られなくなり、味耜高彦根命のみである。おそらく、饒速日尊は仙台市に留まったままであったのであろう。このまま北上川を遡り、一関市・栗原市一帯の統一を実行した。方形周溝墓の北限がこのあたりであり、饒速日尊に率いられた入植者は、このあたりまでやってきたのであろう。 |
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■大和帰還
北上川をさらに遡れば、岩手県の花巻市、盛岡市一帯が統一できたはずなのであるが、統一した形跡はない。その入り口近くで、統一を取りやめ、大和に帰還したようである。これはどうしたことであろうか? 陸奥国統一には饒速日尊と思われる人物の直接的な行動が少なくなり、ほとんどがその子味耜高彦根命と思われる人物の行動が伝わっている。おそらく、饒速日尊は高齢化で体力的衰えが際立ってきたのではないだろうか。饒速日尊にはまだ、倭国日本国大合併という仕事が残されているのである。 饒速日尊の体力的衰えを感じた味耜高彦根命は饒速日尊に大和帰還を勧めたのではないだろうか。饒速日尊自身もそのことを気にしており、陸奥国のこれ以上北部領域は後世の人物に統一を託して、大和帰還をすることにした。 大和帰還した饒速日尊は大合併を実施することなく、間もなく亡くなったのであろう。 |
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■高皇産霊神の正体 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古代史の復元に於いて、おもな人物の出自はほとんど判明した。しかし、重要人物でありながら、いくら調べても正体不明なのが、この高皇産霊神である。古代史を復元する過程で、素盞嗚尊が北九州を統一する時にいきなり登場してくるのである。北九州の豪族の一人ではあると思うが、高天原では天照大神を凌ぐほどの位置にいる。実質的に高天原最高神と言ってもよいような存在である。地方の神社にもよく祭られているが、その実態はなかなかわからない。古事記では天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神を形成している。ここでは、この高皇産霊神の正体をわかる範囲で推定してみる。
古事記の記述 天地が初めてできたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。 日本書紀(一書の四) 天地が初めて分かれて、初めて共に生まれた神がいた。國常立尊言う。次に國狭槌尊。 また、高天原において生まれた神の名を、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊 。 これら記事を見ると天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神は三神が一体となっているようである。隠身・独神であることも併せて、特殊な位置にある。神話上でも他の神と立場が異なるようである。 天御中主神は神話上の行動実績が全く見られないが、高皇産霊神・神皇産霊神は色々と神話上に登場している。 |
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■系図上の考察
高皇産霊神には伝承上6人の子がいる。思兼命、栲幡千千姫命、天忍日命、三穂津姫、天太玉命、天活玉命である。この御子たちの思兼命・天忍日命・天太玉命・天活玉命の4人は饒速日尊と共に大和に降臨して以後マレビトとして活躍している。思兼命は信濃国阿智族の祖であり、天忍日命は大伴氏の祖、天太玉命は忌部氏の祖である。天活玉命は越国に降臨していると思われ、三穂津姫は出雲国譲り後に饒速日尊の妻となり、やはり、大和に降臨している。栲幡千千姫命は日向津姫の長子天忍穂耳命の妻となっている。このように子どもたちは日本各地に赴き、後世に名が残るような氏族の祖となっている。また、高皇産霊神が神話上では天孫降臨、国譲神話、神武天皇東遷時と統一事業にかかわる場面での登場が多い。これは、高皇産霊神が日本列島統一に大変な熱意を持っていたことをうかがわせる。 高皇産霊神がかかわっている重要な神社を挙げてみると以下のようなものである。 春日神社(田川市宮尾町6番13号) 祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他、この地は饒速日尊降臨伝承地である。高皇産霊神が最も長い名で祀られている。 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地) 式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。 高木神社(嘉麻市小野谷1580番) 祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。 以下はその高木神社であろう。 高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1 高木神社 田川郡添田町落合3583番 高木神社 田川郡添田町津野2227 高木神社 田川郡大任町大行事118番 高木神社 田川郡大任町大行事2496-1 高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番 高木神社 嘉麻市桑野2588番 高木神社 嘉麻市小野谷1580番 高木神社 嘉麻市桑野1399番 高木神社 嘉麻市平217番 高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番 高木神社 宮若市黒丸1572番 高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番 高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番 高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番 高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番 高木神社 筑紫野市天山字山畑241番 高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8 高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番 高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番 高木神社 朝倉市佐田377番 高木神社 朝倉市黒川1806番 高木神社 朝倉市黒川3328番 高木神社 朝倉市佐田2953番 高木神社 朝倉市江川1201-1 高木神社 朝倉市杷木白木172番 高木神社 朝倉市杷木赤谷744番 高木神社 朝倉市杷木松末2784番 高木神社 朝倉市須川1683番 |
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■『 太宰管内志 』
「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡 夜開(よあけ)郷 林村の大行事、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村の大行事などなり。此社今も有て神官是を守れり」と記している。この英彦山大行事社 は、弘仁13年(822)神領七里四方に48か所設けられたと伝承され、山内大行事社、六峰内大行事社、山麓大行事社、各村大行事社から成っており、七大行事社は山麓大行事社のことで、神領の最も外側にあり、またそれは参道の入口ともいえるところに作られている」 英彦山産霊神社(英彦山山頂付近) 往古高皇産霊尊鎮座の旧知であるという伝承があって、文武天皇時代に再建されたという。 昔の英彦山の神領域の境界に大行事社を作り、その大行事社が高木神社であるというのである。地図上にプロットしてみると福岡県側にしかなく、すべて英彦山の北西部一帯の英彦山を中心とする半径45kmの北西部半円内に収まっている。前述の春日神社、高良大社もこの領域にある。また、高木神社の首班と言われている嘉麻市小野谷の高木神社を中心とする半径30kmの円内にすべての高木神社及び春日神社、高良大社が収まっている。 嘉麻市小野谷の高木神社はすべての高木神社の首班であると同時に神武天皇が創始している。神武天皇はわざわざこの地にやってきて、高皇産霊神を祀っているので、それなりの由緒ある場所であることには間違いがないであろう。 高良大社の伝承では本来ここには高皇産霊神が祭られており、饒速日尊がやってきてこの地を譲ったことになっている。饒速日尊(この時は大歳命)がこの地にやってきたのはAD10年頃で饒速日尊15歳程であったと思われる。これは、この地がもともと高皇産霊神の支配地域であったが、素盞嗚尊・饒速日尊の日本列島統一事業の考え方に強く同調し、自らの土地を献上したと考えられる。高皇産霊神は日本列島統一事業によほど強く同意したのであろう。そうでなければ自分の支配地を快く献上するなどと言うことは考えられない。高皇産霊神は自分の支配領域を献上した後、饒速日尊の天孫降臨に自らの子を4人も参加させるなど統一政策に積極的にかかわっているのである。 高皇産霊神に関して他の神と異なる点がいくつか存在している。高天原の事実上の最高神であること。皇居内八神殿の第二殿で祀られていること。数多くの神社に祭られていながら、具体的行動を示す伝承が存在しない。などである。また、娘の栲幡千千姫命を天忍穂耳命の妻としているので、日向津姫や饒速日尊とほぼ同世代で西暦紀元頃の誕生と考えられる。饒速日尊死後大合併論議の中で、大和に使者の味耜高彦根命を送っているので少なくともAD70年頃までは生存していたと思われる。 高皇産霊神の子孫の世代ごとの該当人物を見てみると
大体世代が一致している。天神立命は高皇産霊神の子であるという異説もあり、この神もマレビトと思われる。天三降命は宗像三女神との説もある。また、天富命は神武天皇時代に活躍したことが伝えられている。これらの神の系統は上の表で一列左にずれる可能性を持っている。そうすると、天櫛耳命も高皇産霊神の子である可能性が出てくる。神武天皇と同世代と思われる人物は三世の人物なのである。これらの系図が正しいとなれば高皇産霊神はもう一世代上で、素盞嗚尊と同世代(BC30年頃生誕)でなければならないことになる。さらに複雑となっているのは大伴氏の系図である。 一般に大伴氏は高皇産霊神→天忍日命→天津彦日中咋命→道臣命と言われているが、『古屋家家譜』によると、 高皇産霊神→安牟須比命─香都知命─天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命─天日咋命─刺田比古命─道臣命 となっている。道臣命が神武天皇と同世代なので、AD50年頃誕生とすれば、高皇産霊神は9世前なので、一世平均30年とするとBC220年頃の生誕の人物となる。 賀茂氏系図では 高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命(神武天皇と同世代)より、高魂命はBC40年頃生誕となる。 このように高皇産霊神の子孫から逆算した高皇産霊神の生存年代がばらばらになってしまうのである。BC40年頃生誕でAD70年頃まで活躍したとすれば、高皇産霊神は100歳程度生きたことになる。絶対にあり得ないとは言わないが、まず、あり得ない話である。古事記には高皇産霊神は独神で隠身であったと言われていることから、この神は特定の人物を指しているのではなく、系統名ではないかと考えられる。おそらく天御中主神・神皇産霊神も系統名であろう。 |
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■神皇産霊神
まず、神皇産霊神はその系統を見てみることにする。 出雲神話によく登場し少彦名命の父、と言われている。 賀茂氏系図では神皇産霊神→天神玉命→天櫛玉命→鴨建角耳命(神武天皇と同世代)となっており、神皇産霊神もBC40年頃生誕の人物となる。天神玉命も天櫛玉命も饒速日尊の天孫降臨のメンバーである。 神皇産霊神は出雲の御祖神とされる神魂命と同神と言われている。『出雲国風土記』では、支佐加比賣命、八尋鉾長依日子命、宇奈加比賣命、天の御鳥命の親神となっている。楯縫郡の条においては「天の下造らしし大神のために、柱は高く板は厚く、十分にととのった宮殿を造り奉れ」と詔し、天御鳥命を天降りさせる。また、神魂命は大国主神の危難を救った神として、出雲大社本殿では客神として、境外社・神魂伊能知奴志神社(命主神社)では祭神として祀られているが、出雲の御祖神でありながらなぜか現在の出雲において主祭神一、配祀八、境内(外)社三と祀られている社は意外に少ない。唯一主祭神として祀られているのが高宮神社である。また、佐太大神(猿田彦)の祖母が神皇産霊神であると伝えられている。 生馬神社伝承 八尋鉾長依日子の命は、神魂尊の御子にあらせられ、国土開発経営に際し、殊の外力をいれ拓殖の道を開き給う。 神魂命の子どもである私は、平明かに憤まず(怒らない)」と言ったのでこの土地を生馬(いくま)ということになった 法吉の地名説話 神魂命の御子である宇武加比賣命が法吉鳥(鶯といわれる)になって飛び渡り、ここに静かに坐したからホホキと名づけた。 古事記 ウムカヒは大蛤のことを表すといい、『古事記』にはオオナムチが兄弟神に迫害され大火傷を負った時、カミムスビがこの神を遣し、 貝殻の粉を集め蛤の汁で溶いて塗り治療したと、古代火傷の民間治療法の説話を残す。 これら伝承をまとめてみると、神皇産霊神は素盞嗚尊の影が色濃い。神皇産霊神=素盞嗚尊かとも思える。しかし、常世国から渡ってきた少彦名命が神皇産霊神の子である。また、母神(女神)であると伝わっていることや、佐太大神(猿田彦)の祖母であるので、素盞嗚尊と同世代の別人物とも考えられる。 これらのことから判断すると、神皇産霊神は個人名ではなく朝鮮半島からの渡来神の系統を指しているように思える。 |
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■秦の徐福
それでは、高皇産霊神はどういった人々の系統に属するのであろうか。『古屋家家譜』による大伴氏の系統をたどるとBC200年頃の人物となること、元の本拠地が高良大社の地であること、日本列島平和統一に対して異常な執念を燃やしている、ことなどを総合して考えると、浮かび上がって来る人物が存在する。それは、秦の徐福である。ここで、高皇産霊神=秦徐福の系統であるとして、その可能性を追ってみたいと思う。 ■中国での徐福 徐福は秦の時代の中国でBC278年に誕生したと言われている。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者であった。 中国では1982年に江蘇省連雲港市において「徐阜(じょふ)村」が発見され、そこが以前は「徐福村」と呼ばれており、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認され、徐福出生の地として「徐福祠」が建設された。伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として認定されたのである。 当時中国は秦と呼ばれた時代で始皇帝が中国を支配していた。始皇帝は不老不死の仙薬を求めており、徐福に仙薬の入手を命じたのである。 徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを決心した。 司馬遷の『史記』に、「東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう) という3つの神山があり、ここには仙人がすんでいます。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。」と徐福が願い出たと記述されている。 始皇帝は、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣し、徐福に託した。徐福は紀元前219年、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航したのである。 ■日本上陸 徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で、それを手でかき分けながら進んだという。 一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ、井の字型の角丸太と5個の石が発見され、徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。 しばらく滞在していた徐福一行は、漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため、その臭いにがまんができず、この地を去ることにした。去るとき、何か記念に残るものはと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では、新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ、共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。 一行は北に向かって歩き始めたが、この地は広大な干潟地であり、とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので、ここを「千布」と呼んだ。使った布は、千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。 千布に住む源蔵という者が、金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために、徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。 百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中、阿辰が身の回りの世話をしていたが、やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら、「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが、阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり、阿辰観音として祀った。 徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。 やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと、釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で、金立山の山奥に今でも自生している。 金立山には金立神社がある。祭神は保食神、岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。 徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず、徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300〜500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し、村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが、BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので、ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。 富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており、徐福の行動が詳しく記されている。 「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが、中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。 以上が徐福伝承のあらましである。徐福はこのほか九州から関東までの太平洋岸と日本海岸では丹後と秋田・青森に伝承を残している。この地域で不老不死の薬を探しまわったのであろう。 ■吉野ヶ里遺跡 徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の何人かが残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。 吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。素盞嗚尊・饒速日尊の統一事業の前に巨大化していたためと思われる。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。 吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。 弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。ところが、素盞嗚尊・饒速日尊が訪問してきた弥生時代中期末以降急速に、平和状態になったようである。武器は祭器化し、環濠集落も消滅したのである。 ■高良大社との関係 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。 饒速日尊がこの地にやってきたのはAD10年頃で、徐福がいたころから200年ほどたっている。1世代30年ほどとして、200年は7世ほどである。当然ながら200年前の記憶は残っていたであろうし、この地に住んでいた人々は徐福の子孫であることを自負していたのではないだろうか。 徐福がこの地に着いて、吉野ヶ里遺跡を形成してから、周りからの襲撃を頻繁に受けており、戦いにはうんざりしていたことであろう。また、徐福は中国にいる頃、中国の戦国時代で戦いの中で育ってきており、秦に敗れた斉の出身である。戦争の悲惨さは身にしみて感じていたと思われる。しかし、吉野ヶ里遺跡の状況からみて防御中心であり、周辺の集落を襲撃して国として統一しようとしていたようには見えない。吉野ヶ里遺跡の人々は先進技術を持っている上に武士を引き連れていたのであるから、周辺の国々を併合して統一国家を作ることは可能だったと思われる。戦いを好まない徐福の性格が、ここの人々に侵略戦争を仕掛けてはならないことを伝えていたのであろう。 この人々こそ高皇産霊神と呼ばれた人々ではないかと考えている。高皇産霊神としては、頻繁に襲撃を受けてはたまらないがこちらから戦争をしかけてはならない。こういった状況は何とかならないかと思っていたことであろう。そういったところに素盞嗚尊・饒速日尊が平和統一の提案をしたのである。高皇産霊神としてはこの案に飛びつくのは当然である。迷うことなく、自らの造った国をすべて献上して、饒速日尊の統一事業に協力するというより、主体的に動くことになるのである。 高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の国々に伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて一挙に統一されたのである。AD25年頃、饒速日尊が大和に降臨して東日本全域を統一する計画を持ちかけた時、自分の子をはじめとする、多くの人々を従えさせた。饒速日尊が率いていったと言われる物部氏の旧蹟地は、上記の高木神社の存在範囲とほぼ完全に一致している。これも高皇産霊神の協力があったことをうかがわせる。また、BC200年頃、徐福一行が立ち寄った地にはその子孫が生活していることであろうから、それらの人々に協力させることも行ったと思われる。徐福伝説地は東日本太平洋岸に多いが、この地域の統一に饒速日尊は大して苦労した様子もないことから、これら人々の協力があったのかもしれない。 素盞嗚尊・饒速日尊は神皇産霊神に相当し、徐福の子孫は高皇産霊神に相当する。共にムスビの神である。協力し合って、日本列島統一をしたので、このように呼ばれることになったのかもしれない。皇居八神殿の第一殿に神皇産霊神、第二殿に高皇産霊神が祭られているのも当然であろう。姿が見えない神であるというのも系統を指しているためと理解できる。 |
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■秦氏
徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、 1 松尾大社 2 伏見稲荷大社 3 木嶋坐天照御魂神社 松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えている。他に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏は饒速日尊を強く祭祀していることが分かる。 秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の「避」にちなんだ社号だといわれている。 さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになった。 しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。 秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べている。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。 これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた人々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろうか、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量移民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられる。そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇帝の子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。 魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられる。また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。 徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。そのため、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王というのも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾は一つを残してすべて解決するのである。 最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とはどういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫であれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもないのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、このようになることが考えられる。 饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。また、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大変深い関係にあることになる。このことから、秦忌寸の先祖はこの高皇産霊神と考えるのが最も自然となる。 秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したのが 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていたようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂氏の分派と言うことになる。 |
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賀茂氏の系図は2系統ある。
1高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命 (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命) (三島溝杭耳命) ┌鴨建玉依彦命 2神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命┤ (八咫烏) └玉依姫─賀茂別雷命 この2系統をつなぐものとして鴨氏始祖伝がある。 高皇産霊尊 ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命 ├――――┤ 神皇産霊尊 └天神玉命―――天櫛玉命――天神魂命――櫛玉命――天八咫烏 両者をつなぐと次のように推定される。 高皇産霊尊 ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命 ├――――┤ 神皇産霊尊 └天神玉命―――天櫛玉命――天八咫烏 (天活玉命) (鴨建角身命) このように考えると矛盾しているように見える上の2系統がつながるのである。先に高皇産霊神はBC30年頃誕生でAD70年頃まで生存して、その期間が長すぎることを述べたが、この系図が真実だとすると、その疑問は解消する。高皇産霊神は2代続いた名であるということである。これも高皇産霊神が系統名であることを示している。初代の高皇産霊尊が神皇産霊尊を妻としているが、これは、朝鮮半島系の人物を妻としたことを意味しているのではないかと思う。天神玉命は饒速日尊に従って大和に降臨したマレビトである。これをみるとまさに賀茂氏の祖は高皇産霊神であり、それは、秦氏の祖が高皇産霊神であることを意味している。秦氏の祖が徐福であることを考えると高皇産霊神は徐福の子孫ということになる。 |
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■高皇産霊神の子孫の系統の修正
上の表のように高皇産霊神が2代存在すれば、周辺人物の年代がすっきり収まるのである。 |
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■高皇産霊尊の子供たち
■高皇産霊尊 高皇産霊尊はBC30年頃誕生しており、饒速日尊が北九州統一に来る前は高良山の麓の高良大社の地を本拠地として周辺を統治していたと思われる。AD10年頃饒速日尊がこの地を訪れ平和統一の交渉をした時、高皇産霊尊はこの考えに強く感銘し、自らの統治領域を献上した。饒速日尊から遠賀川流域・筑後川流域・豊国の統治を任され、この地方を中心に統治し、自らの持つ徐福から受け継いだ技術、饒速日尊から受け継いだ技術を周辺の人々に伝授し各種技術者を次々と育て上げた。 高皇産霊尊の持つ先進技術は素盞嗚尊・饒速日尊が朝鮮半島から取り入れた先進技術以上のものがあったのではないかと推察している。徐福は秦の学者であり、当時の中国における最高の技術を持った人物である。また、それを補佐する人物を3000人も日本列島に連れてきているのである。BC200年頃とはいえ、中国から朝鮮半島に流れ込む技術よりも早く、日本列島にたどり着いていることが容易に想像できる。日本列島に高度な技術が流入するのに最高の条件だったと言えよう。その高度な技術は徐福から門外不出とされており、周辺の地域には伝わっていなかった。そして、その高度な技術ゆえに吉野ヶ里は周辺国からよく襲撃されていたのではないだろうか。そういった事情があったために饒速日尊の日本列島平和統一に強く感銘し、徐福の子孫として高皇産霊尊が一族を挙げて全面協力すべき大事業と考えたのであろう。 徐福の元来の目的が不老長寿の薬探しであるから、地方に散っていった徐福の子孫たちはそのうちの誰かが不老長寿の薬見つけることができた時、他の同族たちと連携をとる必要があったと思われる。このため、高皇産霊尊は東日本地域に移動していった同族たちと数年置きぐらいに互いに連絡を取り合っていたと思われる。饒速日尊の日本列島統一の考え方に同調した高皇産霊神は当然ながら地方に散っていった仲間たちにもそのことを連絡し、饒速日尊に協力することを要請したと思われる。徐福が上陸したと言われている地域は東海地方の太平洋沿岸地域に多く、饒速日尊はこの地域をかなりスムーズに統一しているようなので、このことが裏付けられる。 高高皇産霊尊は饒速日尊に東日本の情勢を知らせ、彼にマレビトを連れて大和に降臨することを勧めたのではないだろうか?AD25年頃、饒速日尊はマレビトを連れて高皇産霊尊の統治領域と重なる地域から数多くの人々を引き連れて大和に降臨している。このマレビトは高皇産霊尊に育て上げられた技術者であろう。高皇産霊尊は自らの子の思兼命・天活玉命・天忍日命をマレビトとして饒速日尊に随行させたのである。高皇産霊尊は饒速日尊一行の出立を見届けてからAD25年頃、亡くなったものと思われる。このとき、出雲の猿田彦命に北九州西半分の統治権を譲ったのであろう。 |
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■高皇産霊神
名前からして高皇産霊神が嫡子であると思われる。記紀に記述されている高皇産霊神とはこの人物であろう。紀元前後に誕生し出雲国譲りを決行し、西倭国・日本国の大合併を企画した人物で神話では天照大神と共に行動している。高皇産霊神は高皇産霊尊の統治領域をそのまま引き継いだ、AD15年頃には高皇産霊尊より豊国地方を任されていたと思われる。豊国の宇佐地方は素盞嗚尊の北九州統一の拠点となった処で、重要地域であったが、素盞嗚尊は高皇産霊神を信頼し、彼に統治を任せたのであろう。その後素盞嗚尊は豊国地方の安心院を倭国の都にしようとして、ここで日向津姫と共に生活することになった。高皇産霊神はさまざまの面で協力していたことであろう。素盞嗚尊が出雲に去った後は日向津姫と共に倭国の統治をすることになった。 AD25年頃日向津姫が南九州薩摩・大隅地方統一のために日向に向かうことになった。これを勧めたのも高皇産霊神と思われる。高皇産霊神は娘の栲幡千千姫命を日向津姫の長子である天忍穂耳命と結婚させ、天忍穂耳命を自らの養子として育てた。高皇産霊神は天忍穂耳命を引き連れて、今川を遡り吾勝野の開拓をした。高皇産霊神は天忍穂耳命と共に英彦山に頻繁に登頂したことであろう。英彦山山頂から自らの統治領域を眺めていたと思われる。高皇産霊神・天忍穂耳の活躍した領域は現在の田川市・飯塚市・嘉麻市・朝倉市・うきは市あたりであろう。 AD45年頃大国主命が亡くなり、出雲国譲り会議を出雲で主催し、今後の日本列島統一の道筋を話し合った。この会議で天忍穂耳命を西倭国王とすることになっていたが、天忍穂耳命はこの時急死してしまった。高皇産霊神は急遽次子瓊々杵命に北九州全域を任せることにし、猿田彦に国を譲らせた。 |
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■思兼命
思兼命の伝承はホツマツタエに詳しい。ホツマツタエはどこまで正確かわからないのであるが、「紀伊国に住んでいた天照大神の妹の和歌姫に恋い焦がれ、紀伊国にて和歌姫と結ばれた。その後、野洲宮で新婚生活を送り、信濃国の阿智にて亡くなった。」と言うようなことが記されている。 和歌姫と言うのは稚日女命で別名「丹生都比売大神」とも云われている。丹生都比売神社の由緒によると、「神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。」となっている。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、和歌山県和歌山市和歌浦中3−4−26の玉津島神社の地とされている。 この和歌姫とは誰なのであろうか、天照大神の妹と言われているが、天照大神が日向津姫であるなら九州から饒速日尊と共にやってきたマレビトの1人となるが、女性であるからマレビトとは考えにくい。ホツマツタエでは伊邪那岐・伊邪那美命の娘となっているが、紀伊国に最初から住んでいた人物のようである。伊邪那岐・伊邪那美命は素盞嗚尊と共に紀伊国統一のためにやってきている。伝承によると三重県熊野市有馬町1814の産田神社で誰かが生まれている。神社には「伊奘冉尊が、ここで軻遇突智を産み亡くなったので、花の窟に葬った」と伝えられているが、伊邪那美命は紀伊国では亡くなっておらず、日本書紀の記述が入り込んだものと考えられる。この産田神社で生まれた人物が和歌姫ではないだろうか? 思兼命はこの和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した。美濃国には高皇産霊神を祭神とする神社が多く、この周辺にその子孫が滞在していたことが推察される。 AD50年頃、信濃国統一に人材不足を感じた饒速日尊から、信濃国を統一してほしいと頼まれ、一族を率いて神坂峠を越えて信濃国に入り、阿智族として信濃国伊那地方を開拓し、この地で亡くなり、長野県下伊那郡阿智村智里奥宮山 497の阿智神社奥宮の奥の川合御陵に葬られた。 |
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■天活玉命
祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。 二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたのではあるまいか。 天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。また、越国の神社で祀られていることから、越国国譲りの時、越国に赴いて、国譲り後の越国の統治をしたのではないかと推定している。 ■天忍日命 天忍日命は天孫降臨時瓊々杵尊の先導をした人物とされている。そして、その孫の道臣命が神武天皇の東遷時に活躍しているので、瓊々杵命に従ったのではないかと思ったのであるが、神武天皇東遷伝承でも道臣命が登場するのは紀伊半島迂回時からで、それ以前には登場していない。饒速日尊と共に大和降臨したのかもしれないと思い、近畿地方の大伴氏関連神社を調べてみると次のようなことが分かった。 刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味している。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。 降幡神社(南河内郡河南町山城)は『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとする。また、伝説によると、「太古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。」とあるが、祭神は天之忍日命であり、天忍穂耳命ではない。この伝承における天忍穂耳尊は天忍日命の間違いであると思われる。これも天忍日命がマレビトであったことを意味している。 以上より、天忍日命は父の高皇産霊尊よりマレビトになることを命じられ、饒速日尊に従って近畿地方に降臨した。淀川河口付近で饒速日尊と別れ、海岸に沿って南下し、河南町で休息し、和歌山市に赴き、その周辺にマレビトとして入り込んで技術導入して土地開発を行った。その孫の道臣命は神武天皇の名草の戦いのときに功績を挙げ、以降神武天皇に付従って大和に侵入した。その子孫は大伴氏として栄えたことが分かる。 |
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■高皇産霊神の子供たち
■栲幡千千姫命 AD25年頃誕生しており、天忍穂耳命の妻となり、天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となっている。天忍穂耳命がAD45年頃25歳前後で亡くなっている。その後の人生は不明である。おそらく天忍穂耳命が高皇産霊神の後継者であったのであろう。 ■三穂津姫 饒速日尊の妻となっている。静岡県の御穂神社は羽衣で有名だが、「天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。」と記録されている。新婚旅行でこの地を訪れたことになっている。 饒速日尊と結婚した時期はいつ頃であろうか、新婚旅行で来るということはこの地方が統一されていたはずであるからAD40年頃以降であろう。AD40年頃以降で饒速日尊が高皇産霊神と接触したと思われるのは、出雲での国譲り会議の時である。AD45年頃の国譲り会議の直後に結婚したものと考えられる。 島根県の美保神社で事代主命と共に、京都府亀岡市の出雲大神宮に三穂津彦と共に祭られている。三穂津姫はAD30年頃の誕生ではないかと思われ、饒速日尊死後も活躍していたと思われる。事代主命の母ではないが、事代主命が出雲に赴く時一緒に出雲に行ったのではないかと思われる。 ■天太玉命 安房神社の社伝「天太玉命の孫の天富命は、神武天皇の御命令を受けられ、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀を植えられ開拓を進められました。その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。」 天太玉命は忌部氏の祖である。饒速日尊に追従してマレビトとなった。具体的行動は不明である。 ■天御中主神 高皇産霊神は秦徐福系の人々、神皇産霊神は出雲にやってきた朝鮮半島系の人々を指すと推定した。それでは、その神々よりも先に登場した天御中主神は何者であろうか。伊勢神道によると伊勢外宮では豊受大御神が天御中主神と伝わっている。天御中主神も饒速日尊の影を感じるが、同じように姿が見えない神なので、これも系統を示していると考えられる。 高皇産霊神や神皇産霊神より先に出現した系統として考えられるのは、日向の伊邪那岐命系である。この系統は呉の太白の子孫と言われており、紀元前5世紀に日本列島にやってきたと思われる。徐福や素盞嗚尊よりも明らかに先に日本列島に上陸しているのである。また、神武天皇はこの日向族の系統なので、高皇産霊神や神皇産霊神より上に位置するのも納得できるところがある。 大和朝廷は天御中主神(日向系)、高皇産霊神(徐福系)、神皇産霊神(朝鮮系)の人々の協力のもとで成立したと考えられるのである。 |
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■南九州伝説地の考察 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮崎・鹿児島両県には日向三代関連の伝承地が集中している。その地域を調べてみると何箇所かに集中していることがわかる。地域ごとに真実性を考察してみよう。
1 延岡周辺 瓊々杵尊関連伝承地 2 西臼杵郡高千穂町周辺 日向三代すべての伝承地が集中している 3 西都市周辺 日向三代すべての伝承地が集中している 4 佐土原町周辺 神武天皇関連伝承・ヒコホホデミ関連伝承 5 宮崎市周辺 日向三代すべての伝承地が集中 6 清武町周辺 天照大神・瓊々杵尊関連伝承 7 都城周辺 日向三代すべての伝承地が集中 8 日南海岸沿い 日向三代すべての伝承地が集中 9 日南周辺 ヒコホホデミ関連・吾平津姫関連伝承・神武天皇関連伝承 10 串間周辺 ヒコホホデミ関連 11 鹿屋市周辺 鵜茅草葺不合尊・神武天皇関連伝承 12 国分市周辺 ヒコホホデミ関連伝承・神武天皇関連伝承 13 指宿市周辺 ヒコホホデミ関連伝承 14 加世田市周辺 瓊々杵尊関連伝承 15 川内市周辺 瓊々杵尊関連伝承 伝承というものは真実がそのまま伝えられていることもあれば、形を変えられて伝えられていることもある。また、まったくのでたらめであることもある。この区別をしなければ真実は見えてこない。宮崎鹿児島両県にまたがる様々な伝承の真実性を地域ごとに判定してみよう。 古代日向国(ムカツヒメ統治領域)はスサノオが統一してから出雲国譲り(50年ごろ)までは日南周辺を除く宮崎県の領域であった。その後宮崎県、鹿児島県全領域に広がっている。日向三代の宮居伝承地もこれに準ずると考えられる。つまり、日向三代が若い頃20代以前は宮居跡は宮崎県のみのはずで、その領域の外に出るのは壮年期から老年期にかけてと思われる。宮居伝承地はこれを基に判断していくことにする。 真実性の高い伝承は、他地域の伝承とつながっているはずであり、他地域の伝承によって裏付けられる伝承は真実性が高いと判断する。それに対して他地域とまったくつながらない伝承は真実性が低いと判断する。伝承の中には大変具体的なものもあれば、そこにいたというだけの伝承地もある。具体性の高い伝承を真実性が高いと判断することにするが、中には創作されたものもあると考えられるので、他地域の伝承との整合性を基に判断することにする。 御陵伝承地に関しては、日向三代の最後の宮跡近くのはずであるから、鹿児島県内にあるものが真実と思われる。また、日向三代の活躍時期は弥生時代後期初頭と思われるので、考古学的にもその時期のものが必要である。古墳時代の遺跡は伝承とは関係がないのである。 |
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■1 延岡周辺
延岡市均衡には瓊々杵尊関連伝承地がある。笠狭宮跡、瓊々杵尊御陵などである。瓊々杵尊御陵は北川町俵野にあるが、古墳時代の円墳と思われる。また、周辺から古墳時代の須恵器が出土している。弥生時代のものとは思われない。おそらく、瓊々杵尊が一時期滞在しており、その由来を元に伝承地が造られたものと推定する。 53年ごろ瓊々杵尊は北九州から日向に戻ってきているがその途中で一時期滞在したのではあるまいか。 |
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■2 西臼杵郡高千穂町周辺
瓊々杵尊天孫降臨伝承地である。瓊々杵尊を始め、ヒコホホデミ、鵜茅草葺不合尊すべての御陵が存在している。 それだけではなく、高天原の天岩戸まで存在している。神話関連伝承の勢ぞろいといった感じである。何か核になる事実が存在してそれに関連して他の伝承地が作られたものと推察する。 天孫降臨伝承が核になると思われる。 二上山が瓊々杵尊誕生伝承地であることから、 ムカツヒメが宇佐から日向に戻る途中に高千穂に立ち寄りそのときに瓊々杵尊が誕生したと考えている。25年ごろのことであろう。 山奥であるために国の重要機関が長期にわたって存在したということは考えられない。 他の伝承は付け加えではあるまいか。ムカツヒメがこの地にいたのも数年程度と考える。立ち寄りの理由は位置から考えて球磨国の情報収集あるいは球磨国との交渉ではあるまいか。 |
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■3 西都市周辺
この周辺も日向三代すべての伝承がそろっている。高千穂と同じく何か核になるものがあり、 他の伝承はつけくわえと考えられる。その核になる伝承地が西都原古墳群であり、 そのなかでも男狭穂塚で瓊々杵尊御陵と伝えられている。これは古墳であり、 時代が明らかに異なる。他の御陵と伝えられているものもことごとく古墳である。 西都原は斎殿原から来たもので、古墳時代に南九州の中心地として栄えている。 当時の支配者が伝承地をこの地に集めたものではないだろうか?そうだとすると、西都周辺の伝承には真実性がまったくないということになる。 |
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■4 佐土原周辺
佐土原は佐野原が語源で神武天皇が誕生した地と意味であるという。 現王島に日吉神社があるがここに神武天皇の胞衣を埋めたと伝えられている場所がある。 神武天皇誕生に関しては最も具体的な伝承である。河口付近に鵜戸神社があり鵜茅草葺不合尊の上陸地と伝えている。 この2点は真実性が高いと考える。他に御陵伝承地がいくつかあるがことごとく古墳なので、真実性はないであろう。 |
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■5 宮崎市周辺
宮崎市周辺は皇宮屋、金崎、宮崎神宮などの神武天皇関連伝承、高屋神社のヒコホホデミ関連伝承、江田神社の阿波岐原伝承がある。いずれも他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断する。北方の奈古神社の瓊々杵尊御陵伝説地は古墳であるために真実ではないと考えるが、阿多長屋は正しいのではないかと思う。 瓊々杵尊は加世田に移った後に結婚しているが、かなり高齢になっているので、若いころに一度結婚しているのではないかと判断する。それが、磐長姫ではないのだろうか?米良村に磐長姫の終焉の地があり、ここからは近いが、加世田からはあまりに遠い。 神武天皇関連伝承はかなり具体的である。また、他地域の伝承ともつながっている。それによると都城周辺から宮崎に来ているようである。 日南地方の伝承とのかかわりにより、宮崎にいるときに吾平津姫と結婚し日南地方との間を往復していたことがわかる。 阿波岐原に関連する伝承は周辺地域から弥生時代の祭祀系土器の集中出土がある地域なので、弥生時代この周辺地が聖地であったことの裏づけは取れる。また、彦火火出見尊、神武天皇の誕生伝説地(鵜茅草葺不合尊もそうではないかと推察)が近くにあり、当時の重要人物はこの周辺で産まれたと推定される。 |
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■6 清武町周辺
木花神社を始め、加江田神社、久牟鉢山、霊山嶽などの伝承地があり、瓊々杵尊の宮居伝承地、天照大神誕生伝承地などがある。 瓊々杵尊の若い頃の宮居跡と判断する。40年ごろであろう。妻は木花神社ではあるが木花咲耶姫は加世田に移った後の後妻と判断するので奈古の磐長姫ではないかと考えている。 久牟鉢山、霊山嶽にヒコホホデミ、瓊々杵尊の御陵があると伝えられている。山頂部にそれらしき盛土があるが、ヒコホホデミ、瓊々杵尊のものではなく、その子孫のものではあるまいか。また、近くの青島にもヒコホホデミ関連伝承があるが、 これは地理的に考えてヒコホホデミが鹿児島方面と往復するときに立ち寄った地ではあるまいか。 |
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■7 都城周辺
この地域は高千穂峰の麓にあたり、天孫降臨の地として日向三代すべての伝承地が広い範囲に散在している。 中でも東霧島神社が皇都であるという伝承がある。ムカツヒメはこの地に宮を造ったと考えている。日向三代すべて幼い頃はここで育ったのではあるまいか。27年ごろから49年ごろであろう。 高原町に神武天皇の誕生伝承地(皇子原)、成長伝承地がある。誕生伝承に関しては佐土原の方が具体的であるために佐土原で生まれてすぐに皇子原に移ったと考えた。58年のことである。 母の玉依姫は神武天皇を生むためにわざわざ佐土原に行ったのではないかと考えている。近くに宮の宇都があり、鵜茅草葺不合尊の宮跡と伝える。 また、皇子原と宮の宇都をつなぐ道には神武天皇が通ったという伝承もある。 神武天皇の成長伝承はかなり具体的であるので真実性が高いと判断している。 都城市都島にもヒコホホデミ、神武天皇の宮があったとの伝承がある。この伝承も宇都から移ったのは高千穂山の噴火が原因であるとか、 ここから宮崎に転居したなどという他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断している。 |
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■8 日南海岸沿い
日南海岸沿いにも日向三代すべての伝承地がある。瓊々杵尊関連の伊比井神社、彦火火出見尊関連の鵜戸神宮、神武天皇関連の吹毛井、 鵜茅草葺不合尊関連の吾平山陵、宮浦神社、玉依姫御陵などである。日南海岸は鬼の洗濯岩で有名で海路の難所である。 このようなところに長期にわたって住むとは考えられず、これらの伝承地は宮崎、日南間を海路往復するときの休憩所として立ち寄ったものであろう。 その立ち寄った地にいろいろな関連伝承が出来上がったと考える。よって、この地域の伝承の真実性は低いと判断する。 |
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■9 日南周辺
日南周辺は、海幸彦関連の伝承が中心である。海幸彦が山幸彦とのいさかいの後、北川町の潮嶽神社の地に住み、 その子孫の吾平津姫と神武天皇が結婚している。吾平姫の宮跡や御陵、神武天皇と吾平津姫との子である、手研耳命の御陵伝承地もある。 また、吾平津姫と神武天皇にかかわる伝承も豊富である。 吾田神社の背後にある手研耳命の御陵についてであるが、手研耳命は神武天皇と共に大和に行っている。 弟の岐須耳命は伝承がほとんど残されてなく、大和には行っていない。ウエツフミによれば早世したとのことである。おそらく弟の岐須耳命の御陵ではあるまいか。 これらの伝承から判断して、この地域は当初ムカツヒメの統治領域に入っていなかったものと判断される。伝承では海幸彦が外部からやってきたことになっているが、海幸彦はこの地域の土着の人物ではないかと判断する。 そうすると、海幸彦・山幸彦のいさかいは山幸彦(彦火火出見尊)がこの地方を倭国に加盟させるために引き起こした出来事と考えることもできる。また、その子孫である吾平津姫が神武天皇と結婚したのも倭国加盟のための政略結婚ということになる。 彦火火出見尊は海神国(対馬・後漢・伊都国)に長期間滞在していたので、その前後ということになる。海神国へいく前であれば 53年ごろ、後であれば65年ごろとなる。 豊玉姫が風田神社周辺の海岸で鵜茅草葺不合尊を出産したと伝えているが、 このとき、彦火火出見尊が豊玉姫との約束を守らなかったために豊玉姫は彦火火出見尊と別れて暮らすようになった。豊玉姫の宮居が風田神社の川をさかのぼったところにある川上神社であるという。この豊玉姫は薩摩半島南端部の豊玉姫と思われ、 この妹と鵜茅草葺不合尊が神武天皇を生んでいるわけであるから、海神国へいく前のことと判断する。よって、海幸彦と山幸彦のいさかいは53年ごろの出来事であろう。彦火火出見尊はこの直後海神国(対馬)に行ったことになる。 |
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■10 串間周辺
串間神社と勿体が森に彦火火出見尊関連の伝承地がある。 彦火火出見尊は海神国から帰ってさらに南下してここに来たと伝えられているので、海神国から帰った後に串間にきたことになる。65年ごろのことであろう。 串間周辺に彦火火出見尊が来た目的であるが、このころ曽於国(鹿児島県曽於郡)がまだ倭国に加盟していなかった。 曽於国は日向国の拠点であった都島のすぐ近くにありながら日向国と対立関係にあるわけであるから、日向国にとって積年の課題だったはずである。 都島、国分、大隅と三方はすでに倭国に加盟しているので、串間は曽於国の東に位置する重要拠点である。この地域は53年ごろ倭国に加盟していたと思われるが、 曽於国を加盟させるために彦火火出見尊がこの地にやってきたものと考えている。 串間には王の山がある。王の山は玉璧が出土しているのであるがその位置は不明である。玉璧が出土したことからこの墓の被葬者はムカツヒメ以外には考えられない。このことはムカツヒメが串間で死んだということを意味している。 ムカツヒメは国分に拠点を置いていたと思われるが、曽於国の統一のために彦火火出見尊と共に串間に来ていたと判断する。串間の宮居伝承地は二つ存在している。串間神社と勿体が森である。串間神社は穂穂宮ともいい、彦火火出見尊の宮跡のようであるが、 勿体が森のほうは彦火火出見尊が頻繁に通ってきていたという伝承である。そのようなわけで、ムカツヒメがいたのは勿体が森ではないかと判断した。 神武天皇東遷のときに天皇がここに上陸している。王の山のムカツヒメに挨拶(参拝)するためだったのではないかと思う。 |
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■11 鹿屋市周辺(大隅半島)
大隅半島は鵜茅草葺不合尊関連伝承が中心である。吾平山陵があることから、鵜茅草葺不合尊の終焉の地である。 古事記では鵜茅草葺不合尊は西州宮で崩御したことになっている。西州宮は東串良町宮下の桜迫神社の地である。 鵜茅草葺不合尊がこの地を中心として大隅半島の統一に向けて活躍していたのは間違いがない事実であろう。 神武天皇が皇子原から都島に移ったのはこの当時の年齢で 15歳(現年齢7歳)のときで、65年に宮下の桜迫神社の地に来たものと思われる。神武天皇東征伝承に鵜茅草葺不合尊は出てこないので、 75年ごろ西州宮で亡くなったものと考えられる。 考慮を要するのは、神武天皇関連伝承である。桜迫神社の南1km程の所にイヤの前という場所がある。 ここで、神武天皇が誕生したというのである。現在石碑が立っている。この伝承はかなり具体的である。 しかし、誕生伝承はあるが成長伝承はない。また、ここからどこかに移動したという伝承もない。また、他地域にもここからやってきたという伝承がないので、イヤの前が神武天皇誕生地というのは真実ではないと判断する。 しかし、イヤの前の場所が肝属川の河畔のあたり船着場のあとがある場所である。当時肝属川を使って物資の交流を行なっていたようで、 その船着場がイヤの前ではなかったかと思われる。 神武天皇がこの地に来たのは吾平津姫と結婚した後で、 日南の駒宮神社にこことの間を馬で通ったという伝承もあり、神武天皇が宮崎にいるときここに何回か来ていたようである。 時期としては70年ごろであろう。イヤの前は神武天皇関連の誰かの誕生地のように思える。神武天皇の子である手研耳命か岐須耳命の誕生地ではあるまいか。 肝属川河口付近に神武天皇発港の地の伝承地がある。近くの山野(さんの)に神武天皇の宮居があった伝承地があり、 この柏原の地から東遷に出発したとのことである。東遷出港地は宮崎説とこの柏原説があるが、柏原説は周辺に関連伝承を伴っているので、真実性が高いと判断する。宮崎のほうは以前宮があったので立ち寄ったのではないかと思われる。 神武天皇はなぜここから出港したのであろうか。山野の宮跡などから考えると鵜茅草葺不合尊亡き後大隅半島の統一事業を受け継いだのではないかと判断する。 鵜茅草葺不合尊が亡くなった75年ごろのことであろう。日本国との合併の話が進む中で、神武天皇はここを基点として各地の知り合いに挨拶や相談に行ったのではないかと推察する。 実際にここを基点として方々を訪問したという伝承が残っている。大根占の河上神社、鹿児島市谷山の柏原神社、宮浦宮などである。 山野宮で出港準備をしていたものと考える。ここを出港したのは79年のことである。鹿屋市花岡に高千穂神社がある。この神社は瓊々杵尊が笠狭宮におもむくとき、胸副坂(霧島神宮駅周辺)よりこの地にやってきて、 近くの古江港から笠狭宮に旅立ったと伝えている。瓊々杵尊はこの直前まで北九州を統治しており、北九州から戻ると同時に笠狭宮に派遣されている。瓊々杵尊伝承地をつなぐと、次のような経路になる。 北九州→木花→都城→胸副坂→国分→花岡→古江→黒瀬海岸(野間半島)→笠狭宮 瓊々杵尊は北九州から戻ったときに昔住んでいた木花に立ち寄ったのであろう。 このとき磐長姫を離別し、都城・胸副坂を経由して国分のムカツヒメに挨拶をした。そして、花岡を経由して黒瀬海岸に向かったことになる。なぜ、わざわざここに立ち寄ったのであろうか。国分から鹿児島市経由で黒瀬海岸行くほうがよいと思われる。 理由として宮下の鵜茅草葺不合尊に会うためというのが考えられる。笠狭宮に行ってしまえばおそらく二度と会うことはできないであろうから、弟と最後の別れをするのは当然であろう。このことから瓊々杵尊が笠狭宮に行ったのは鵜茅草葺不合尊が宮下に移ってから少し後ということになる。 ムカツヒメが生きている必要があるので、65年から70年の間となる。67年ごろであろう。 笠狭宮で瓊々杵尊が阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚したのはかなり高齢(40歳)になり、 政略結婚であることは明らかで、瓊々杵尊はこれ以前に一度結婚していたと思われる。その相手が奈古の磐長姫であろう。 内之浦にも日向三代の伝承がある。彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊である。 内之浦港に彦火火出見尊が海神国から戻ってここに上陸したと伝えられている。地理的に考えて、ここでいう海神国は指宿周辺と思われる。 彦火火出見尊は指宿周辺で豊玉姫と結婚ししばらく滞在したあと、この内之浦にやってきたものと考えられる。 彦火火出見尊が姉の豊玉姫、鵜茅草葺不合尊が妹の玉依姫とそれぞれ結婚していること、ここに鵜茅草葺不合尊と彦火火出見尊の伝承があることから、 この二人が一緒に行動していたのではないかと考える。二人とも最初の結婚と考えられ、二人とも20歳前後であろう。国譲りの後でなければならないので、53年ごろと思われる。 鵜茅草葺不合尊はこの直前に種子島に行っているようで、二人とも国譲りの直後広い範囲を短期間で訪問している。未統一地域の情報収集のためにムカツヒメから巡回を命じられたのではないかと考えている。鵜茅草葺不合尊はここを拠点としたとき大隅半島の情報を得たのではないかと考える。このことが後に大隅半島に派遣される理由となったのではあるまいか。 宮崎県高鍋町蚊口浦の鵜戸神社に鵜茅草葺不合尊上陸伝承があるが、ここを出発した鵜茅草葺不合尊が蚊口浦に上陸したと考えられる。ここは二人とも短期間の滞在であろう。彦火火出見尊はここを出港してから日南におもむいて海幸彦を倭国に加盟させたと考えている。 |
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■12 国分市周辺
国分市の鹿児島神宮の地が古代日向国の中心地と考えている。本来の宮地は鹿児島神宮横の石体宮の位置で、ここに彦火火出見尊が住んでいたといわれている。彦火火出見尊はこの地で日向国を治め、この地で亡くなり、少し北にある高屋山陵に葬られたようである。 彦火火出見尊は長寿を保ち神武天皇が大和に旅立った後この地で日向国をまとめていたようである。100年ごろ彦火火出見尊はここで亡くなっている。 神武天皇が大和に旅立つ前、大隅からここに頻繁に通ってきているようである。 その途中にあたる宮浦宮、若尊鼻に通過伝承が残っている。彦火火出見尊は串間に住んでいたが70年ごろムカツヒメが串間で亡くなった後、 この地で日向国全体をまとめていたのではないだろうか。そのために、神武天皇が何回もここに来ているのであろう。 また、国分市の南西に子落という地があるがここは神武天皇が都城と国分の間を往復していたという伝承を持つ、神武天皇が都城にいたのは65 年ごろなので、その頃も国分は重要地点だったことになる。 また、瓊々杵尊は胸副坂(霧島神宮駅周辺)から鹿屋の高千穂神社の地におもむいているが、 国分はその途中に通らなければならないところである。 石体宮に高千穂宮跡があるが、ここは瓊々杵尊の高千穂旗揚げ伝承地で、国譲りの戦端が開かれたところである。 スサノオが南九州を統一してから出雲の役人がここを中心として滞在していたと思われる。瓊々杵尊が国譲りに際してここを急襲したものと思われる 。 日向神話関係の人物が高千穂山から降りてきているような伝承が多く存在しているが、都城と国分を人々が往復しているとすれば説明がつく。 ムカツヒメに関する伝承は伝わっていないが、日向三代はここを中心として動いているように伝承が伝わっている。ムカツヒメは50 年ごろから70年ごろまで20年ほどこの地にいたと推定している。 止上神社が近くにあり彦火火出見尊の宮跡と伝わっている。 ムカツヒメが生きているとき、彦火火出見尊はここを宮として活躍していたのではあるまいか。 ここを宮としていたのはムカツヒメがここに移ってきた直後で指宿方面に行くまでの間であろう。50 年ごろと思われる。 また、南九州巡回から戻ってきた後海神国に立つまでの間住んでいたとも考えられる。いずれにしても短期間であろう。 鹿児島神宮の近くに蛭子神社がある。蛭子はイザナギの長子で足腰が立たなかったので、葦の船に乗せて流したところ。ここに着いたと言い伝えられている。 この神話と鹿児島神宮に伝わる「震旦国の陳大王の娘?大比留女が7歳で懐妊した。理由を聞くと「夢で日光が胸にさすとみて妊娠した。」と答えた。そのうちに皇子が本当に誕生したので、大王は畏れて空船に乗せて流した。それがついたのが日本の大隅半島であり、 皇子は八幡を名乗って大隅半島に留まり、正八幡と祝われた」というのがある。この伝承と関係があるらしい。 ここでいう八幡神=蛭子=スサノオと考えれば、どうであろうか。 神話上で出雲から大陸経由で技術を伝えにきたのがスサノオであり、ヒルコの名とヒルメの名は対応している。夫婦と考えてよいのではあるまいか。 ムカツヒメの夫はスサノオである。スサノオが宮崎を統一後国分に上陸し蛭子神社の地に最初住んでいた。 その後石体宮に移動したのではあるまいか。神話ではイザナギがヒルコ(スサノオ)を流したとあるが、事実はスサノオがイザナギを淡路島へ流したと推定している。 |
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■13 指宿周辺
指宿周辺は豊玉姫・玉依姫の伝承が柱となっている地域である。豊玉姫伝承は長崎県対馬にもあり、 彦火火出見尊は豊玉姫と結婚したがどちらが真実なのであろうか。鹿児島市谷山の柏原神社に神武天皇が母(玉依姫)の里に通うとき土地寄った所との伝承があり、これは、75年ごろ東遷の挨拶に通ったときのものであると考える。 玉依姫伝承はこの伝承が示すとおり指宿の方が優勢である。 このことから、豊玉姫も指宿の方が優勢と考えられる。しかし、日南の風田神社の伝承では、彦火火出見尊はここで豊玉姫と離別しているので、この後対馬に行ったとき対馬の豪族の娘と再婚したことは充分に考えられる。この娘も豊玉姫と伝えられているのである。 元の名は別であったが伝えられるうちに同じ名になったのではないかと推定する。 指宿にやってきた彦火火出見尊は玉ノ井の近くで休んでいるとき、井戸の水を汲みに来た豊玉姫に心引かれ、 父の豊玉彦の館に招かれ、彦火火出見尊は豊玉姫と結婚し婿入谷に館を建て、そこで3 年間過ごしたと伝えられている。古事記伝承では玉依姫は豊玉姫が鵜茅草葺不合尊を生んだ後去ってしまったので、 鵜茅草葺不合尊の乳母として残り、後に鵜茅草葺不合尊と結婚したことになっているが、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊は兄弟であるから、そのような不自然な結婚ではなく、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊が二人でここを訪問したと考えれば、説明がつく。 鵜茅草葺不合尊の伝承は伝えられていないが内之浦では二人いたことになっているので、二人一緒に巡行していたものと考えている。この近く開聞岳の麓一帯は竜宮伝承のあるところで竜宮一族が住んでいて、この当時まだ倭国には加盟していなかった。ムカツヒメはこの竜宮一族を倭国に加盟させるために、この二人を派遣することにしたのであろう。50 年ごろと思われる。この二人は豊玉彦の娘と結婚することにより、竜宮一族は倭国に加盟したのであろう。 彦火火出見尊は伝承どおり3年ほどこの地に滞在していたと思われるが、鵜茅草葺不合尊は種子島に行ったようである。 その出港地が開聞岳麓の海岸と山川町児水浦(ちごみずうら)といわれている。 種子島の浦田神社に鵜茅草葺不合尊がやってきて稲作を広めたとの伝承がある。 種子島はそれまで赤米であったが、鵜茅草葺不合尊が白米を持ってきたと伝えられている。鵜茅草葺不合尊は種子島から内之浦に、彦火火出見尊はそのまま内之浦に行ったと考えている。豊玉姫は日南の風田神社の地で彦火火出見尊と別れたあと、近くの川上神社の地に住んでいたが、この地に戻り知覧町の豊玉姫御陵に葬られた。 |
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■14 加世田市周辺
加世田市周辺は瓊々杵尊関連伝承が中心である。伝承によると、瓊々杵尊は鹿屋市の古江港を出港し野間半島の付け根の黒瀬海岸に上陸し近くの宮の山にしばらく住んでいた。 宮の山は日本最初の都の跡といわれており、宮の山遺跡がある。そこからは弥生系土器が出土している。この時期に人が住んでいたのは事実のようである。その後、阿多津姫と結婚し加世田市の舞敷野に笠狭宮を建てて住んだと言い伝えられている。 加世田市の隣に阿多と呼ばれるところがあり、ここに大山祇神社がある。大山祇神社としては全国最古のものである。阿多津姫の父の住処と伝える。大山祇はこの付近の豪族で、瓊々杵尊が上陸してきた当時まだ倭国には加盟していなかったものと考える。 瓊々杵尊は、ムカツヒメから倭国に加盟させる命を受けて、この地に乗り込んできたものと推察する。瓊々杵尊の黒瀬海岸への経路から推察してその時期は67 年ごろと考えられる。 黒瀬海岸に上陸後宮の山に宮居して、大山祇と倭国に加盟する交渉をしていたのではあるまいか。 まもなく、瓊々杵尊が大山祇の娘阿多津姫と結婚することを条件として交渉が成立したのであろう。 瓊々杵尊もこうなることを予想して木花で磐長姫を離別していたのである。交渉成立後、瓊々杵尊は舞敷野の転居し、そこで、 皇子を出産している。誕生したのは伝承では彦火火出見尊兄弟であるが、彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるので誕生したのは別人であろう。 加世田の笠狭宮伝承地はもうひとつある。宮原の笠狭宮である。現在この地に竹屋神社がある。 伝承では舞敷野で数年間過ごした後、ここに移住してきたそうである。 最初阿多津姫と結婚した頃は、大山祇がこの地を取り仕切っていたが、数年後に大山祇からこの地を治めるすべての権利を受け継いだのであろう。あるいは大山祇が亡くなったのかもしれない。その結果、加世田の周辺地から交通の便の良い宮原の地に移ったと思われる。宮原の地は彦火火出見尊成長伝承地である。 70年ごろと思われる。瓊々杵尊がここに移ったということは、物資の交流を握ったということを意味し、この地が倭国に加盟したということになる。 近くの伊佐野に神武天皇が立ち寄ったという伝承地がある。東遷に際して神武天皇はここまで瓊々杵尊に挨拶に来ているのである。東遷前であるから、 78年ごろではあるまいか。 |
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■15 川内市周辺
瓊々杵尊は加世田周辺を倭国に加盟させ、しばらくその地に住んでいたが、その次に川内に移動している。川内は可愛山陵があるので瓊々杵尊終焉の地となる。 78年ごろにはまだ加世田にいたので、このときの年齢は 50歳ごろと推定されかなりの高齢である。瓊々杵尊が加世田からここに移った時期はこの直後あたりと考えられ、 80年ごろではあるまいか。このときはムカツヒメはすでに亡くなっているので、瓊々杵尊自身が川内の統一の必要性を感じて川内に移ったと考えられる。 川内川河口の船間神社に瓊々杵尊の舟を漕いでここまで来た船頭を祀っている。 瓊々杵尊は加世田から海路川内にやってきたのである。川内に上陸した瓊々杵尊は、鏡野(現小倉町)で鏡を奉納した。以後、この地を倭国に加盟させるために努力することになる。 瓊々杵尊宮の伝承地がこの周辺に散在している。都町の都八幡神社の地、宮ヶ原の地、宮里の地、地頭館跡、神亀山である。 数が多く、かなり短期間で転々と移動した様子が伺われる。 50歳を過ぎている瓊々杵尊である上に、阿多津姫を伴っており、政略結婚での倭国加盟は不可能であったと思われる。 この地は有力な豪族がいなかったのではないだろうか。小国が乱立している状態であったために、それぞれの小国ごとに交渉により、大陸の先進技術を示しながら倭国に加盟させていったのであろう。そのために宮跡が転々としていると推定する。 最後の宮跡が神亀山と伝えられている。この地は可愛山陵のあるところである。瓊々杵尊は川内に移っておそらく 10年ほどでこの世を去ったと思われる。 |
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■第11節 漢委奴国王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 委奴国は日向国
後漢書「東夷伝」に、 「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ、朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った。」 とある。この時の印綬が、志賀島より見つかった「漢委奴国王」の金印であることは、ほぼ間違いないといわれている。定説では、委奴国は奴国や伊都国を指すといわれているが、後漢の光武帝が金印を授けるという国は、相当大規模な国に限られている。北九州の小国であると考えられている奴国や伊都国では該当しないのではないか。この委奴国はどこを指すのであろうか。後漢書「東夷伝」では、「倭奴国」となっているが、金印が「委奴国」となっているため、より原典である「委奴国」が正しいと判断する。そのまま読むと「イナコク」である。委奴国とはどこにあった国であろうか。 中国書物の倭奴国記事をまとめてみると、 1 倭国は古の倭奴国である。「旧唐書」 2 倭の最南端である。「東夷伝」 そのまま直接解釈をすると、倭奴国は大和朝廷の前身で、日本最南端にある国ということになる。さらに金印を賜っていることから、当時の日本列島の大半を治めている強大な国ということである。1世紀中頃と推定される国内伝承と照合すると、委奴国は日向国としか考えられない。委奴国が日向国である可能性について考えてみよう。 まず、「日向」は古代なんと呼んでいたのであろうか。推古天皇の頃の記事に「ヒムカ」と呼んでいる部分があり、この頃は「ヒムカ」だったようである。景行天皇が九州征伐に赴いたとき(日本古代の実年代によると312年〜315年)にこの地方に日向という地名をつけたことになっている。このときから呼び名が「ヒムカ」となったものと考えられる。それ以前はどうだったのであろうか。それがもし広く使われていたものであればその呼び名は現在まで何らかの形で残っていると思われる。全国に「日向」という地名が散見するが、その多くは「ヒナ」あるいは「ヒナタ」と呼んでいて「ヒムカ」や「ヒュウガ」と読む例は数少ない。そして、日向から出雲に来たイザナミの陵があると推定した奥出雲地方には「日向」と付く地名が4個所あり、「日向(ヒナ)」、「日向原(ヒナノハラ)」、「日向山(ヒナヤマ)」、「日向側(ヒナタガワ)」といずれも「ヒナ」と読んでいる。このように日向と書いてヒナと読ます例が多いこととから「日向」は、当時、「ヒナ」と呼んでいた可能性は高い。 h音は落ちやすいことからイナ国の前にhが付いていて中国人が聞き間違えたとすると、日向国・委奴国は共にヒナ国となる。霧島連山の中に夷守岳というのがあり、その北麓の小林市は昔夷守(ヒナモリ)と呼ばれていたと言われている。ここは大和朝廷の日向出張所のあったところではないかと思われ、日向守の意味と推定している。大和朝廷成立後、ヒナ(雛)は都から遠く離れた国という意味で田舎を指す言葉となったものか?、魏志倭人伝の卑奴母離は、この頃設置されたと思われ、日向守の意味か? 日向国は現在の宮崎県であり最南端ではないという指摘もあるが、律令時代の極初期は現在の宮崎県と鹿児島県とを合わせて日向国といっており。古代の日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた領域であった。その後713年大隅国と薩摩国を分離し日向国は現在の宮崎県の領域になった。昔は宮崎・鹿児島合わせて日向と呼んでいた事から考えて、古代において、この領域は一つの文化圏にあったといえよう。まさに倭国最南端の国「日向国」である。 伝承面を見ても、子のニニギを今の鹿児島県川内市に配置し、神武天皇の兄に当たる「ミケイリヌ」を高千穂峡の地に配置しているが、これらはいずれも日向国の境界で球磨国(熊本県)との交通の要所に当たり、球磨国との争いを感じさせる。 また、大隈半島の付け根に当たる鹿屋や串良周辺は北九州の主要部に次いで弥生時代の遺跡密度の高い地域である。この地はシラス台地の端に当たり、稲作には向かない事を考えると政治的中心地があったため遺跡密度が高くなったと考えてもよいのではあるまいか。後に述べるように「王の山」で国宝になっている璧の出土した王墓らしきものも見つかっており、委奴国は日向国と考えられる。 紀元50年頃、九州倭国王となったムカツヒメは、政権を安定維持するために、紀元57年、中国に朝賀したものと考える。委奴国王というのはムカツヒメのことであろう。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、倭から中国に朝貢する国が出てきたと、中国史書に書かれているが、具体的な内容が出ているのはこれが始めてである。それまで、中国との交流を主に行っていたのは北九州の豪族達であった。倭国の朝鮮半島との交流はスサノオ以来続いていたが、新しい技術が少なくなってきたので、さらに強力な新技術を導入するために中国との交流を考えたものと考えられる。おそらく、今までの小国とは違い、倭国を代表する大国が朝貢に来たため、中国側も大変慶び、金印を与えるなどして破格の扱いをし、記録されたものではあるまいか。 |
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■第二項 金印の使用目的
次に、日向国王の持ち物であるはずの金印が、なぜ志賀島から見つかったのか考えてみよう。まず、この金印の使用目的から考えてみることにする。当時、北九州は外国との交易をする玄関口で、人の交流の盛んなところである。政権を安定維持することを考えている日向国王は、当然、この地に役人を配置して交易の実権を握ろうとするであろう。この役人に金印を渡して、身分証明の代わりに用いたのではないかと考える。金印は印として何かに押しつけた跡はほとんどなく、印を押すための紙があったとも思われない。やってきた外国人に示して、「私は、こういうものです。信用してください。」とでも言ったのではなかろうか。あるいは北九州主要部にはまだ倭国に加入しないで頑張っている有力豪族が残っており、それらを倭国に加入させるためにも金印という外国の権威を利用したとも考えられる。 |
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■第三項 日向国王の政策
糸島地方の伝承 交易の玄関口となっているのは、魏志倭人伝や遺跡分布から、福岡県の糸島地方(伊都国)と考えられる。そこで、糸島周辺の神社の記録を調べてみると、次のようなものが出てくる。 ・高祖神社(祭神彦火々出見命他) 高祖山周辺に日向と共通する地名が多い。 ・志登神社(祭神豊玉姫・彦火々出見命他) 「彦火々出見命が海人の国(対馬)から先に上陸してきたので、豊玉姫が後を追ってこの地に上陸した」との伝承あり。 ・細石神社(祭神木花開耶姫・磐長姫) 近くに井原鑓溝遺跡。三雲南小路遺跡あり。天孫降臨関連伝承・彦火々出見命生誕地の伝承あり。神殿は高祖神社の方向を向く。 これを見ると、糸島周辺に日向地方の伝承が多いことがわかる。これは、日向地方から、この地方に多くの人が来ていたことを意味している。その中心人物は、伝承の内容から判断して、おそらくヒコホホデミ(ムカツヒメの四男)であろう。 ■交易ルートの確保 ムカツヒメはスサノオと同様に外国の先進技術を取り入れることを重要視した。対馬にヒコホホデミを派遣して対馬経由の交易ルートを確保することにした。対馬はスサノオが国を作り拠点を三根湾周辺においていた。その中心となる祭祀施設は海神神社(対馬一ノ宮)であろう。三根湾周辺の王墓は弥生中期末のもので、弥生後期になるとその中心地が浅茅湾北岸の二位周辺に移動している。遺跡からは突出した統率者集団は認められず、佐保浦を中心とする地域で青銅製品の集中が見られる。スサノオ祭祀の祭祀具である中広・広形銅矛の130本を越える異常なほどの多量出土地域である。後期初頭になって対馬の中心地が三根湾沿岸から朝茅湾北岸に移動してきたためであろう。この時期がヒコホホデミが対馬に派遣された時期と重なるのである。また、この地域にヒコホホデミがやってきたという伝承を持つ和多津美神社が存在している。 ムカツヒメより対馬で交易ルートの安定確保を指示されたヒコホホデミは対馬の人々に対馬の開祖であるスサノオに対する信仰が強いのに目をつけ、浅茅湾北岸に拠点を構え大々的にスサノオ祭祀(銅矛祭祀)を始めた。ヒコホホデミは人々の心をつかみ、対馬で外国交易の実権を握ることに成功した。 ヒコホホデミに関連して豊玉彦及び豊玉姫伝承地が対馬と薩摩に存在しているが、この伝承の真実性はどうなのであろうか?薩摩半島に存在している豊玉姫伝承地は周辺に複数の関連伝承地が存在し伝承どおしにつながりが感じられる。しかし、対馬の和多津美神社に伝わる豊玉姫伝承はこの神社のみであり、周辺に関連伝承地は調査した範囲では存在しない。さらに豊玉姫と出合ったと言われている玉ノ井は海辺から10mほどのところに存在しており、井戸として意味をなさないと思われるなど、対馬のほうは後で作られた伝承地のように見受けられる。しかし和多津美神社の地は祭祀の聖地であることには変わりなく、位置的にも対馬にやってきた彦火火出見尊と関連は深いものと考えられる。おそらく、ヒコホホデミが活躍したとの元伝承が存在し後の時代になって薩摩の豊玉姫伝承とつながったのではあるまいか? ムカツヒメは今までのような外国の先進技術を取り入れるのみではなく、外国人を積極的に倭国に招いて本格的交流をする決意をした。その使者に立てられたのが、おそらくヒコホホデミであろう。 ヒコホホデミは対馬の交易拠点を安定化させると共に、57年当時の後漢に朝貢し外国人を招いたと考えられる。 ヒコホホデミは対馬を安定化させた後、日向国王ムカツヒメの命により、まだ統一されていない北九州中心域の統一のために糸島の地に派遣されてきた。その役所があったのが、高祖神社の地ではあるまいか。 ■伊都国王との関係 さらに重要なことは、伊都国最後の王墓といわれている井原鑓溝遺跡が、細石神社のすぐ近くにあるということである。そして、この王墓の造られた時期(出土した流雲文縁方格規矩鏡は紀元50年頃のもの)と、日向が実権を持っていた時期(紀元50から80年)とが、ほぼ一致していることである。井原鑓溝遺跡の被葬者は墓制などから、日向出身とは考えられない。また、高祖神社の細石神社に対する優位性から判断して見ると次のようになる。 スサノオの倭国に参加しなかったと考えられる井原鑓溝遺跡の被葬者は、それまでは倭国とは別の交易ルートによって、宝物を手に入れ、かろうじて独立を保っていた。ところが、対馬からやってきたヒコホホデミが、日向国王の金印を携えて外国人と交渉をするようになった。その結果、外国人がヒコホホデミを信用し、被葬者の方は外国人に全く見向きもされなくなり、独自の交易ルートも絶たれてしまった。ヒコホホデミの働きかけもあり、ついに倭国に加入したのではないだろうか。これにより北九州での権力型の王墓は消滅するのである。 北九州の中心域は、銅剣・銅矛祭祀が盛んでないが、これは、この地域の豪族が元々の裕福さからスサノオの倭国に参加せず、その後は、このように北九州以外の勢力により直接支配されたためではないかと判断する。 この北九州最後の王の倭国に加入の状況が伝えられたのが海幸・山幸神話ではないだろうか。つまり、海幸彦は井原鑓溝遺跡の被葬者で、山幸彦はヒコホホデミである。海神の宮は対馬である。ヒコホホデミはスサノオとムカツヒメの間に紀元25年ごろ誕生し、日向が実権を握った50年ごろ(25歳)から、ムカツヒメに外国との交易ルートを確保するように任じられた。まず、対馬に行き、当時出雲と関係の深かった豊玉彦に取り入って、婿入りした。そして、豊玉彦の信頼を得て日向と外国との交易ルートを確かなものにした。次に外国人の倭国訪問の玄関口である伊都国を倭国の直轄にするため、井原鑓溝遺跡の被葬者(海幸彦)に倭国に加入するように交渉に行った。しかし海幸彦は倭国に入る気がなく、ヒコホホデミにいろいろ難題を吹きかけて困らせていた。57年になり、ムカツヒメの命により、後漢に朝貢した。後漢の皇帝は今までの倭の小国ではなく、倭国の大半を統一した日向国が朝貢に来たので大変喜び、金印や玉壁を与え、その返礼として、後漢の使者を倭国に派遣した。ヒコホホデミはこの使者と共に倭国に戻り、金印を初めとする最新の物品によって、海幸彦を降参させ、伊都国を倭国に加入させることに成功した。ヒコホホデミは伊都国の「一大卒」として、高祖神社の地に宮を造り、外国交易の柱として活躍した。 |
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■第四項 金印の埋納
この金印は、身分証明に使っていたため、日向国がなくなってしまえば無用のものとなる。つまり、神武天皇が即位して大和朝廷が成立すると必要なくなるのである。大和朝廷が成立したとき、日向国王から派遣されていた伊都国の「一大卒」(ヒコホホデミの後継者)は、大和朝廷により派遣された「一大卒」に政権を移譲し、海路日向に帰ることになったであろう。この金印を持っていると、それを理由に大和朝廷から難癖をつけられたり、せっかくまとまった国が分裂するもととなりかねないので、帰る途中にあたる志賀島に埋めてしまったものと考える。 |
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■第五項 南九州の統一
このころの九州地方は政治の中心地があると同時にまだ統一されていないところがいくつかあった。伝承から推察するに、スサノオが南九州地方で統一したのは現在の宮崎県と鹿児島県の錦江湾北部地域と思われる。大隈半島、薩摩半島、北薩地方はスサノオの行動の跡が見られないことから、未統一であったと考えられる。第3代倭国王のムカツヒメはその遺志を継ぎこの地方の統一をしようと努力したのであろう。タカミムスビはこのあたりより伝承に登場しなくなるために出雲国譲りの後亡くなったものと考えられる。ヒコホホデミの活躍により北九州の主要部が倭国に加盟し、未加入地域は球磨国と大隅半島と薩摩半島部と曽於国のみとなった。後漢から導入した新技術を示すことにより、薩摩半島部及び大隅半島部の統一に乗り出すこととなった。当時の薩摩半島南端部は対馬におもむく前にヒコホホデミが統一しており、野間半島部から笠沙にかけてオオヤマツミ一族がいて、曽於国(現鹿児島県曽於郡)に曽於族がいた。オオヤマツミ一族はサルタヒコの旧領を治めていたニニギを呼び戻して派遣することとなった。大隅半島部には嫡子であるウガヤフキアエズを派遣した。曽於国を倭国に加盟させるためにヒコホホデミを串間に派遣した。ともに紀元65年ごろであろう。ムカツヒメの五皇子たちの行動を元に南九州の統一過程を追ってみたい。ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズの日向三代の陵墓候補地は南九州に複数存在するが、伝承をたどっても考古学的に検討しても、明治7年7月明治天皇が御裁可した三候補地が最有力である。これについては季刊「邪馬台国」第37号に詳しい。 ■ムカツヒメの子供たち 長男 オシホミミ 次男 ホヒ 三男 ニニギ 四男 ヒコホホデミ 五男(嫡子) ウガヤフキアエズ 嫡孫 サヌ(後の神武天皇) 狭野命の誕生伝承地は南九州に何箇所も存在している。1佐土原(佐野の森)、2高原町佐野(皇子原)、3志布志町佐野、 4東串良町宮下(イヤの前)、 5鹿児島県加世田市、などである。どれが正しいのであろうか。他の地にある伝承とうまく繋がらなければならない。狭野命の成長伝承地、宮跡伝承地などを総合すると、1または2が残る。他の伝承地は宮跡と繋がらない。 2が成長伝承や宮跡伝承と最も良く繋がるのであるが、現王島の日吉神社には神武天皇の胞衣を埋めた伝承がある。狭野命は近くの佐野の森で誕生し、ここに胞衣を埋めたというのである。この伝承が誕生時を最も具体的に示しているといえる。そこで、狭野命は佐野の森で誕生し誕生後すぐに皇子原に移動しそこで育ったのではないかと考えてみた。 このように考えると日向国の重要人物はことごとく阿波岐原(宮崎市西海岸)周辺で生まれていることになる。阿波岐原は伊邪那岐命が禊払いをし、三貴子をはじめ多くの神々を産んでいる地である。誕生の聖地として臨月に達した妊婦はこの周辺に産屋を立てて皇子を出産するという慣わしがあったのではないかと推定するのである。玉依姫命も狭野命を出産するためにあえて宇都からここにやってきて出産したのではあるまいか。 狭野命は皇子原に15歳までいたことになっている。現年代計算で7歳までである。このころ、鵜茅草葺不合尊は宇都に宮居していた。皇子原から宇都まで2km程を狭野命が往復していたという伝承をもつ道も残っている。また、御池で舟遊びをしたという伝承もある。 狭野命が7歳になったころ(65年)、ムカツヒメは鵜茅草葺不合尊に大隈半島の統一を命じた。ちょうどこのとき高千穂山が大噴火して、多量の火山灰が降り注ぎ、作物が取れなくなった。狭野命は以前彦火火出見尊が住んでいた都島に宮居を移した。 70年ごろムカツヒメが串間にて崩御した。父の鵜茅草葺不合尊より、倭国のために働くように命じられた。まずは、宮崎に赴いて北九州・東倭地方との物資の交流を監督するのが任務だった。宮崎の皇宮屋に宮居を移した。この途中で金崎を通過している。金崎の丘陵上から阿波岐原方面を眺めている。宮崎に宮居してしばらくしたころ、鵜茅草葺不合尊が以前海幸彦と約束していた彼の娘との縁談が決まった。吾平津姫である。狭野命は彼女と結婚し、日南の駒宮神社の地に宮を作った。狭野命は暇さえあれば日南にやってきてこの地に滞在した。吾平津姫との間には手研耳命と岐須耳命が生まれた。結婚後も吾平津姫は、油津の駒宮神社の地に住んでいたようである。その陸路の通い道(現在の飫肥街道と思われる)にあるのが 生達神社である。狭野命は馬に乗って日南から父と連携を取るために西洲宮に通っていたようである。 75年ごろ鵜茅草葺不合尊が西洲宮で亡くなった。鵜茅草葺不合尊は志途中で亡くなっており、狭野命が後を継がなければならなくなった。宮崎に住んでいた狭野命は大隅に移ることになった。東串良町の山野(さんの)に山王屋敷がある。ここに宮を建てて鵜茅草葺不合尊の大隅開発を継承した。 ムカツヒメがまだ生きているころから、日本国との合併論議が始まっていた。次第に具体化してきており、最初は鵜茅草葺不合尊が大和に行くことになっていたが、鵜茅草葺不合尊の崩御により狭野命が大和に行くことに決定した。鵜茅草葺不合尊より引き継いだ第五代倭国王の地位を彦火火出見尊に引き渡すことになった。引継ぎに関して、国分との間を何回も往復した。その途中の伝承地が 宮浦宮及び若尊鼻である。出港地はおそらく古江港であろう。また、狭野命は対岸の薩摩半島の母方の実家にも挨拶に行った。鹿児島市谷山の柏原神社にその伝承がある。狭野命はこの時期関連人物の宮居に頻繁に出入りしている。 皇宮屋 肝属川の河口の柏原に大和に行く舟を集め、荷造りをしていった。まもなく準備がそろい、78 年柏原の波見港を出港した。 熊襲地方 熊襲地方(現熊本県)は、あのスサノオですらまったく手がつけられなかっただけあり、北九州中心域や薩摩地方に比べてかなりの難物であり、まったく統一の気配すら得られなかった。そこで、ムカツヒメは、熊襲地方を取り囲むようにその交通の要所に重要人物を配置することにした。熊襲の領域は現在の熊本県とほぼ重なり、三方向は山に囲まれている。北方の要所はサルタヒコが以前安定化させていたので、西方の要所である高千穂には孫であるミケイリヌを、南方の要所である川内地方(ニニギの御陵は川内にある)には笠狭宮のニニギを派遣した。 |
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■第六項 日向国王の墓
日向国王ムカツヒメの墓は、「古代日本正史」によると、西都原古墳群の男狭穂塚になっているが、五世紀のものと考えられるこの古墳では、明らかに時代が合わない。ムカツヒメの墓はどこにあるのであろうか。 都の移動 日向国の都のあった場所を伝承から探ってみると、宇佐、高原町宇都、都城市都島、鹿児島県串良町周辺である。このあたりは九州で二番目に遺跡密度の高い地域で、倭国の中心地と考えても不思議ではない。これらの移動の理由として、宇佐から高原町に移ったのは、スサノオ亡き後、南九州の完全統一のため、イザナギの旧都に戻ったものと推定され、高原町から都城に変わったのは、霧島山が大噴火して、狩りも作物もできなくなったため、との伝承がある。 ムカツヒメの方は、伝承が消えているために直接の移動を探ることは難しい。鹿児島神宮のとなりの石体神社に卑弥呼神社なるものが作られている。その創設者の郷土史家松下兼知氏によると、邪馬台国女王卑弥呼の居城がこの地にあったことが判明したそうで、それを記念して卑弥呼神社を創始したと神社の記録にある。その根拠を知りたいと調査をしてみたものの現在のところ不明である。松下氏がいろいろと調査された結果この地に日本建国の女王が居城していたことが分かったらしいが、神社伝承を基にした古代史の復元では、この女王は卑弥呼ではなく日向国王ムカツヒメのことであろうと判断される。松下氏の根拠が不明なので、その可能性について独自に考えてみたいと思う。 その昔、スサノオがイザナギ王国を倭国に編入した後、この地にやってきて国分市一帯を統一した。そのときの拠点とした所が石体神社の地である。スサノオが南九州から去った後は、出雲から役人が派遣されてきてその政庁となり、南九州全域を統治していた。AD50頃、出雲国譲りのとき、ニニギを総大将としてこの政庁を急襲し出雲の役人を追い出した。その後25年間が不明でAD75年ごろ、ヒコホホデミが薩摩半島南端部から呼び戻され、サヌから第6代倭国王の位を引き継ぎ、この地で南九州を治めていた。その後、AD180年ごろ倭の大乱の結果東倭が大和朝廷に吸収されたときに、日向国も朝廷の支配下に下っている。朝廷の支配下に下ってからの南九州の中心地は古墳の集中度からして西都に移ったものと判断される。 このように石体神社の地を伝承によってたどってみると、AD50頃〜AD75頃を除き、スサノオ以来大和朝廷に服属するまでの間、常に石体神社の地は日向国の中心地になっているのである。この空白の25年間にムカツヒメがこの地にいたとするのはごく自然である。この25年間のこの地はまだ倭国に加入していない地域である大隅半島部、薩摩半島部、北薩地方に囲まれており、それぞれの地で活躍している子供たちと連絡を取るには実に良い場所である。松下氏の言うとおりこの地に女王がいたとして間違いがないであろう。 王の山 都城周辺にはムカツヒメの墓らしきものが見つからない。しかし、サヌが大和へ行く以前に、ムカツヒメが死んでいる(70年ごろ)と考えられる。また、サヌは大和へ旅立つ前にいろいろな関係者のところを挨拶回りしているので、必ず、その墓へも参拝していると思い、神社伝承でサヌの行程を調べてみた。東串良町柏原を出発したサヌ一行は、最初、串間市に上陸している。そして、すぐに対岸から海に出ている。上陸せずに海を行った方がよいと考えられるのにわざわざ上陸しているのである。串間市には関係者の伝承もないことから、ムカツヒメの墓参りのために上陸したのではないかと推定した。墓は串間市にあるはずである。調べてみると、串間市の王の山にそれらしきものが見つかった。 ここは、江戸時代に発掘されて、現在、その位置が不明になっているのであるが、記録によると、鉄器30点と共に、中国王侯の印とされている璧が出土している。璧は現在国内で四点しか見つかっていないが、いずれも一世紀の王墓と考えられる墳墓から出土している。璧は中国において銅鏡を遥かにしのぐ貴重なものである。しかも王の山の璧は、そのうち最大で国宝になっている。この璧は径33cmと超大型で、中国にもこれほどの大きさのものはいくらもないといわれるほどのものである。中国で見つかった漢武帝の兄である中山王劉勝の墓から出土した壁のうちで最大のものが径23cmであるから王の山の璧が如何に大きいかわかる。 璧の出土状況が定かでないので、井原鑓溝遺跡から出土した璧を調べてみると、鏡の間に納められていたようである。これより、璧は鏡と同様にステイタスシンボルと考えられる。このような璧の、しかも、最大の物が鉄器30点と共に南九州の墳墓から出土することは、尋常では考えられない。このようなものが副葬されている墓の被葬者は並大抵の地位にある人物とは考えられない。倭国の小国の王にこのようなものを漢の皇帝が渡すとはとても考えられず、この人物こそ倭国王ムカツヒメのものと考えられる。漢の皇帝は金印を与えるだけでなく、このような璧まで与えており、倭国王ムカツヒメを破格の扱いで、大変重要視していた。この交流が中国に記録されていないというのも不自然で、これが57年の記事であろう。 串間市に九州倭国最期の都があったとするには、あまりにも中心域から外れている。おそらく、このあたりを巡回していたムカツヒメがこの地でなくなったのではないかと考えられる。 この付近は弥生遺跡が大変多く、このような墓が存在すること自体が、日向国が存在した証となる。でなければなぜこのようなものが南九州にあるのか説明できない。 この墓のことは、まったく伝承されていないが、古事記・日本書紀を編集するとき、ムカツヒメを天上に上げてしまった関係上、御陵の伝承が消えてしまったものと考える。 |
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■忍穂耳命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍穂耳命は正哉勝々速日天之忍穂耳命と呼ばれ、天照大神(ムカツヒメ)の長男である。AD22年頃、宇佐の地で、スサノオとムカツヒメとの間に生まれた。3年ほど後の25年頃、スサノオが出雲に帰還することとなり、ムカツヒメは同時に球磨国対策で、高千穂に滞在することとなった。広島県の斎島神社に正哉勝々速日天之忍穂耳命が主祭神として祀られており、そこには「天照大神の御長男で養子の神」と記録されている。忍穂耳命は誰かの養子になったようである。
忍穂耳は後にタカミムスビの娘であるヨロズハタトヨアキツヒメと結婚していることから、タカミムスビの養子になったと考えられるのである。タカミムスビは北九州に本拠を置く豪族のようである。 AD25年頃出雲のスサノオの命により、ムカツヒメは南九州の未統一地域の統一のために高千穂に移動した。其の時3歳程になった忍穂耳には将来北九州地方の統治者にする予定のために、北九州の豪族タカミムスビに其の養育を任せることにした。宇佐の地においてタカミムスビの養育の元で成人した忍穂耳は、AD35年頃、タカミムスビの娘であるヨロズハタトヨアキツヒメを娶り、北九州統治の地盤作りのために動き出すことになった。 タカミムスビは北九州の地の統治を忍穂耳に託して、自らは南九州で活躍していたムカツヒメの元に移動した。ムカツヒメも優れた知恵をもつタカミムスビを頼りにしていたのであろう。 「昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。 ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。」<添田町HPより> 忍穂耳は宇佐から今川に沿って遡り赤村にたどり着いた。この赤村には倭国に加盟していない小国があったようである。岩石山を挟んで反対側にある彦山川一帯は大国主命が宗像三女神と共に開拓しており、発展していたが、この小国はそれを邪魔していたようである。忍穂耳はこの小国を倭国に加盟させた。岩石山は吾勝山・赤神山とも呼ばれており、その昔忍穂耳命が山頂に祀られていたそうである。この山は忍穂耳命の勝利の神跡と云われている。忍穂耳がこの小国を加盟させる時ここを統治していた豪族と戦いがあり、其の首領をこの山に追い込んで打ち取ったものであろう。忍穂耳はこの小国を開拓するためにしばらくここに滞在していたのであろう。そのためにこの周辺を吾勝野と呼ぶようになった。 宮跡は不明であるが、岩石山山頂が忍穂耳の聖地のようなので、御陵が岩石山山頂で、宮跡はこの山の麓(我鹿八幡神社の周辺)にあったのではあるまいか。忍穂耳は岩石山山頂に何回も足を運び国見をしたのであろう。しだいに其の周辺の国も巡回するようになり、より遠くの地域までを見渡すために英彦山山頂でも国見をしたのであろう。 田川市に香春神社がある。その昔は九州でも有数の大社であったようで、歴史上重要な意味が込められているようである。この神社にも忍穂耳命が忍骨命として祀られている。 ■ 『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、 「豊前国田川郡三座 辛国息長大姫大目(カラクニ オキナガ オオヒメ オオメ)命神社(以下「息長比刀vという) 忍骨(オシホ)命神社 豊比(トヨヒメ)命神社」 とある式内社で、今、香春一の峰南麓に鎮座し、 『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない) は三の峰麓に鎮座するが、この両社に係わって幾つかの縁起・伝承が残っている。 1 香春神社縁起(成立年代不明) 「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神を併せ祀り奉り『新宮』という」 なお、「息長大姫尊は神代に唐国経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神の御子で、荒魂は南山に和魂は第二岳に鎮まり給う。豊比当スは第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」 2 続日本後記・承和4年(837)条 「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比当スの是三社である。元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」 3 香春神社解文(1287成立) 「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」 4 三代実録・貞観7年(864)条 「豊前国従五位下辛国息長比盗_・忍骨神に従四位上を叙す」 5 香春神社古縁起(太宰管内志所載) 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」 第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比当スの御殿だが、豊比当スは祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」 ■ 香春神社は時代が異なる神が祀られているが、その中で最も古いのが忍骨命である。古代において忍穂耳がこの周辺を統治していたためにここに祀られたものであろう。英彦山神宮に「天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されている。また、瓊瓊杵の国を統一するのに助力したと」記録されている。此の香春神社周辺は古代からの銅の産出地である。このことより、忍穂耳命はここで、銅の産出をしたと思われ、後に朝鮮半島から来た渡来人が本格的に銅の産出をしたものであろう。この地はニギハヤヒがAD5年頃最初にやってきて倭国に加盟させ、大国主がAD25年頃やってきて農地開発を行い、AD35年頃忍穂耳命がやってきて統治していたと思われる。 忍穂耳命はほかにも福岡市の鷲尾愛宕神社、小郡市の天忍穂耳神社などで主祭神として祀られており、この周辺も訪問しているようである。また、後の時代神武天皇が帝王山山頂で祭祀したのは忍穂耳命であり、馬見山では関連の深いタカミムスビを祀っている。忍穂耳命関連伝承はそのほとんどが失われているが、このことから判断して田川郡から嘉麻市一帯を統治していたのであろう。出雲の国譲りの時にこの地域をニニギ命が引き継いだために「瓊瓊杵の国を統一するのに助力したと」英彦山神宮に伝えられることになったのであろう。 忍穂耳命は出雲国譲りが起こる直前AD45年頃、急死したものと考えている。そのために弟であるニニギが急遽北九州へ来ることになったのであろう。 北九州地方は海外との交易の要になる地域であるために、古代史上の主要人物の出入りが非常に激しく、その実態を解明するには非常に難しい地域である。 |
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■天穂日命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホヒは23年ごろ安心院の地で産まれたものと考える。ムカツヒメと共に日向で成長したが、44年ごろオオクニヌシが九州で亡くなった直後、出雲国譲りの根回しのために出雲に派遣され、松江市大庭町の神魂神社の地を拠点として活躍していた。国譲り後も出雲にとどまり、晩年は安来市の能義神社の地を拠点としてその周辺の開拓に努力した。その長男タケヒナドリは40年頃日向にて生まれ、出雲の国譲り後にサルタヒコと共に50年ごろ出雲にやってきて協力して出雲国の開拓に努力した。タケヒナドリは伊佐我(櫛瓊命)と出雲建子(伊勢都彦)の2児を設けた。このうち伊佐我命が出雲のスサノオ祭祀者であるサルタヒコの娘と結婚しその子津狭が出雲国造の祖となった。その子孫は代々スサノオ祭祀者として出雲国を治め、倭の大乱以降は出雲の国造として出雲国の発展に貢献した。
出雲国造家 瓊速日---猿田彦---娘------ |−津狭-・・・-出雲振根 穂日-----武比鳥---伊佐我-- |
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■瓊々杵尊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スサノオ(素戔嗚尊)とムカツヒメ(天疎日向津姫尊)との間にできた三男である。この人物の伝承から、彼の行動を明らかにしてみよう。
瓊々杵尊関連地図 生誕地 神話によると瓊々杵尊は高天原で誕生している。誕生直後に高千穂に天孫降臨している。実際のところはどうなのであろう。瓊々杵尊の誕生伝説地を挙げると 1 西臼杵郡高千穂町の二上峰 2 西臼杵郡高千穂町の櫛触神社(天孫降臨地) 調べた限りそのほかの誕生伝説地はない。瓊々杵尊の誕生地が山の頂上というのはおかしなものである。二上峯の中腹に洞窟があり、此処が生誕地と伝えるが、此処も不自然である。人の誕生地には産湯が使える場所が必要なのである。最初の宮跡が高千穂町の高天原であるという伝承があり、高千穂町で生誕した可能性が高いといえる。誕生地は当然ながら聖地となっているはずである。残る誕生伝説地は櫛触神社の地である。すぐそばに天真名井「瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移されたと伝えられている。」があり、今でも清水が沸いている。この水を産湯に使ったことも考えられる。ここが瓊々杵尊の生誕地として最有力である。後の時代天孫降臨を天上からの降臨と位置付けられた時、近くの高峰に降臨地を作ったものが二上峰と推定する。高千穂一帯はムカツヒメが数年間住んでいたところであるが、日向三代すべての関連伝承地を含むなど他地域の伝承との間で矛盾を生じる伝承地も多く含まれており、神武東遷の後、三毛入野命がこの地にやってきて、聖地化されるなかでその他の伝承地が作られたものと推定する。 このころムカツヒメは出雲のスサノオのところへよく通っていた。その帰りに高千穂の地に立ち寄ったのではあるまいか。理由は球磨国との交渉のためであろう。ムカツヒメが高千穂の高天原に滞在中に瓊々杵尊が誕生したものであろう。AD25年頃のことである。近くには高天原遙拝所、四皇子峰がある。 高千穂の伝承地 伝承 推定 ●高天原遙拝所 高天原を遙拝した所。瓊々杵尊宮跡 実際のところ、何を遙拝したのであろうか?ムカツヒメの時代とすると、遙拝対象がはっきりとわからなくなるのであるが、後の時代、この地にやってきた三毛入野命、健磐龍命の祭礼地と考えたほうがよいようである。ムカツヒメの時代ではムカツヒメ自身が瓊々杵尊ともに住んでいた宮跡と思われる。 ●櫛触神社 天孫降臨の聖地。祭神瓊々杵尊 瓊々杵尊の生誕地と推定 ●天の真名井 瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移された処 瓊々杵尊の誕生時の産湯をつかった井戸。櫛触神社から200mほどしか離れていないので、両者は深い関連があるものと思われる。 ●四皇子峰 神武天皇をはじめとする四兄弟の宮跡。 神武天皇はこの高天原とは直接関連が認められないので、神武天皇ではなく、天孫降臨の従者の宮跡ではあるまいか。 ●天岩戸神社 天岩屋遙拝所・祭神天照大神 天安河原・諸神会議所 この当時は諸神を集めた会議がよく行われていたようで、岩屋を聖なる地とし、その前で、初会議を行ったその会場と推定する。 高千穂より西へ30kmほど進んだ場所に幣立宮がある。この宮にもさまざまな伝承が伝えられている 幣立宮伝承 内容 ●筑紫の屋根 天照大神、天の岩戸よりご出御の御時、天の大神を神輿に奉じ日の宮に御還幸になった。 ●村雲尼公殿下の御玉串 皇孫瓊々杵尊の思し召しで皇祖天御中主尊の御許に天村雲命を上らせ給う ●東御手洗 皇孫瓊々杵尊はこの神水で全国の主要地を清められた。天村雲姫が水徳を開かれた。 ●日の宮 神武天皇が大和遷都後、七度訪問した。 幣立宮のこれらの伝承を総合して判断すると、この地は、高千穂に滞在中のムカツヒメがおそらく球磨国との合併交渉のために、この地を訪れ、その拠点としていた場所と推定できる。神武天皇自身も遷都後に日向を訪れたという伝承をもっている。これも球磨国との交渉であったろう。神武天皇が亡くなる直前(神武76年=AD120年)健磐龍命がやはりこの地を拠点としていたようである。 瓊々杵尊は誕生後数年間は、高天原の地に住んでいた。ムカツヒメはこの地から何回か出雲へ訪問したものと考えられる。数年後瓊々杵尊はムカツヒメとともに日向に戻ることになった。高千穂から延岡に向かう途中に当たる日之影町の大人神社には、大人神社があり「昔は大日止と書き瓊々杵尊が高天原から高千穂にご降臨の後しばらく御滞在の地」と伝えている。この地を通って日向に向ったものであろう。 次のヒコホホデミは阿波岐原で産まれているので、ムカツヒメが高千穂にいた期間は短く。すぐに日向に戻ったものと考えられる。この頃は南九州がまだ未統一であり、球磨国が倭国加入を拒否している関係上いつまでも球磨国にかかわっているわけにもいかず、先に南九州統一に方針転換をし、日向に戻ったものと考えられる。日向での宮居は北諸県郡高崎町の東霧島神社での地であろう。ここには神代の皇都で瓊々杵尊が住んでいたという伝承がある。ムカツヒメと共に40年ごろまで住んでいたとおもわれる。 宮崎市北方に奈古神社がある。古事記にいう阿多の長屋でここから妻木花咲耶姫を娶ったとあるが、瓊々杵尊は後に薩摩半島で阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚している。この伝承が真実であるならば、瓊々杵尊は2回結婚していることになる。神話伝承では磐長姫と木花咲耶姫の二人を結婚しようとしたが、磐長姫を返している。この奈古神社の結婚相手は磐長姫ではないのだろうか?磐長姫は瓊々杵尊から返されたあと、悲しんで米良の地で密かになくなっている。米良の地はこの奥地に当たる。 AD40年頃、15歳ほどになった瓊々杵尊に縁談があった。奈古神社の地に住んでいた髪長姫である。 瓊々杵尊の宮居伝承地は宮崎大学の近くの木花神社にもある。出雲国譲りの後、ムカツヒメの子供たちは遠くに出て行っているため、木花神社に居を構えたのは出雲国譲りの前で、40年頃〜46年頃までの期間であろう。瓊々杵尊は奈古の磐長姫を娶り木花神社の地で新婚生活を送っていたと推定する。 木花神社の社に向かって左側に無戸室(うつむろ)址がある。古来神聖視しており人が入ることを許さないという。また、社の東側の坂道の途中に桜川という産湯の跡がある。 ここでの生活は長く続かなかったようである。AD46年頃出雲と日向との間の確執が大きくなり、鹿児島神宮の地の出雲屋敷にいる出雲の役人を日向から追い出すことになった。20歳前後となった瓊々杵尊にその総大将の命が下ったのである。瓊々杵尊は早速軍をまとめ、石体社の地に集結し出雲屋敷を急襲し、出雲族を南九州から追い出した。これが瓊々杵尊の初陣であった。 鹿児島神宮を追い出された出雲の役人たちは、奪還を目的として延岡市の天下神社の地に終結した。この地はニギハヤヒがこの地方統一のために宮としていた地で、出雲の役人はここを拠点としていた。瓊々杵尊はここからも出雲の役人を追い出すために、ここも急襲した。市内の愛宕山は笠沙岬で、瓊々杵尊が新婚生活を送っていたという伝承がある。この周辺には北方の俵野や可愛岳山頂、西側の榎岳山頂に瓊々杵尊御陵伝説地があり、瓊々杵尊は出雲族を追い出した後、人々の心を落ち着かせるために髪長姫とともに愛宕山に居を構え、周辺を巡回したのであろう。そのために御陵伝説が残ったものと考える。 ムカツヒメは南九州から出雲族を追い出し、北九州をオシホミミでまとめようとしていたが、47年ごろ、オシホミミが急死したとの連絡を受けた。すぐに対応しなければ北九州が不安定になるために、急遽瓊々杵尊を北九州に派遣することにした。瓊々杵尊は海路、福岡県行橋市に上陸し、オシホミミの旧領をタカミムスビの子孫から受け継ぎ、ついでサルタヒコから北九州北西部を譲り受けるために佐賀県基山に移動しサルタヒコからその領域を受け継ぐことに成功した。これにより、伊都国以外の北九州全域が瓊々杵尊の支配地となったのである。第三代倭国王を受け継いだムカツヒメより引き続き北九州の統治を任された。 福岡県苅田町の高城山に瓊々杵尊の降臨伝承がある。瓊々杵尊は海路ここに上陸し、ここから今川に沿って赤村に入った。赤村はオシホミミ本拠地であり、御陵(不明)に参拝したものであろう。馬見山の北麓地帯もオシホミミの舊蹟地帯なので、この地方も巡回している。嘉麻市牛隈に荒穂神社があるが、この周辺に滞在していたものであろう。これによりオシホミミ一族の協力を得ることができた。 サルタヒコに出雲を統治してもらうために、サルタヒコから北九州一帯を譲り受けなければならない。そのために福岡県佐賀県の県境にある基山に本拠地を移し、サルタヒコとの交渉を行った。ここにも荒穂神社がある。サルタヒコとの交渉は成功したので、周辺地域も安定させるために佐賀県太良町の太良嶽神社の地に拠点を移し佐賀県長崎県一帯も支配下に入れることができた。これにより、北九州地方全域が瓊々杵尊の支配地域になった。 北九州の瓊々杵尊はどこに住んでいたのであろうか。福岡県鞍手郡宮田町に六ヶ岳という山があり、その山には 瓊々杵尊に関し次のような伝承をもつ 「この山は六っつの峰からなり六ヶ岳と呼ばれた。主峰旭岳と、天冠、羽衣、高祖、崎戸、出穂の峰がある。伝説ではニニギノ尊の御陵であり、亡骸を旭岳に、冠は天冠に、衣は羽衣に埋葬された。」 との伝承がある。瓊々杵尊の御陵とは思われないが、この麓に拠点を置いていたものと考えられる。周辺にこれ以上高い山がなく、見晴らしの良い山である。北九州主要部が一望できる。現在の飯塚市周辺はニギハヤヒ信仰が強いところで、この地に隣り合う直方市を中心として活躍していたのではあるまいか。その本拠地は現在のところ不明であるが、この地を選んだのは遠賀川の水運の拠点だったためと思われる。 北九州滞在中瓊々杵尊は東倭を巡回しているようである。広島県下に瓊々杵尊訪問伝承が残っている。また、日向との間を何回か往来しており、その途中に宮崎県日向市の大御神社に立ち寄っている。 65年ごろになり、ムカツヒメは薩摩半島部の統一に瓊々杵尊が欠かせないことを悟り、瓊々杵尊に日向に帰還することを命じた。北九州を別の人物に託し、日向に戻ってきた。ここで、ムカツヒメから「加世田のほうで阿多一族の娘と結婚し阿多一族を倭国に加盟させよ」の命を受けた。瓊々杵尊は妻の磐長姫を奈古に返すことになった。奈古の磐長姫の父は瓊々杵尊を恨んだ。米良神社の伝承によると磐長姫は慙愧に堪えず家を去り一ノ瀬川を遡って米良神社(西米良村小川)の地にたどり着き、御池の淵に身を投じて逝去した。と言い伝えられている。磐長姫が奈古神社の位置から北に出たとすると、この伝承の通りになるのである。 |
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■米良神社の伝承
「伝説によれば天孫降臨の際、瓊々杵尊が美女を見そめ父大山祇命に請われたところ父大山祇命は磐長姫と妹の木花開耶姫の二人を奉ると申し出られた。然るに瓊々杵尊は木花開耶姫を留め、姉磐長姫は醜いため返し給えることになった。磐長姫は棺の底より櫃の底より鏡を取り出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ッ瀬川)を伝い上られ米良の小川の里に住まわれていたが、ついに悲観のあまり御池の淵に身を投じ薨ぜられた。村人これを憐れみ一宇を建立し祀ったという。 以後、髪長姫は隠れ神として人をいみ給うことになり、本殿のある神山には神宮の外の者の入ることをきらい、殊に女人は絶対に立ち入ることを禁じられて今日に至った。また、当神社には神宝として、髪長姫のものという毛髪があったが、元禄十六年五月七日洪水が起こり山は崩れ、、川は氾濫し、社も川上へ漂上した。 川水が引くにつれて社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。これがすなわち現在の拝殿である。」 髪長姫は国の統一のためやむなく瓊々杵尊と別れはしたが、相当つらいものであったらしく、山奥に引きこもってしまわれたようである。 天孫降臨後の経路伝承(古江出港まで) 天孫降臨とは何であろうか。北の高千穂町の方は瓊々杵尊の生誕を天孫降臨と解釈した。霧島連峰の1つである高千穂峰も天孫降臨伝承をもっている。高千穂峰は山頂には、瓊々杵尊が降臨したときに峰に突き立てたとされる、青銅製の天逆鉾が立っており、山岳信仰の舞台となった。かつて、山中には霧島峯神社が鎮座したが、噴火により社殿が焼失した。このため、山麓の鹿児島県側に霧島神宮、宮崎県側に霧島東神社、狭野神社などに分社したとされる。これは古代から高千穂峰に相当強い執着があったことを意味しており、単なる伝承では済まされない強い歴史的事実が存在するのは間違いないであろう。 高千穂峰は標高1574mで霧島連峰第二の高峰で東端にある。山頂より宮崎平野一帯、鹿児島の錦江湾一帯を一望でき、国見には最高の山であろう。地図のない古代の南九州一帯を統治するには周辺の地理的状態を把握しなければならないがそのために、国を一望するには最高の条件を備えた山には違いない。おそらく、当時の支配者たちは国見のために頻繁に高千穂峰山頂に登り、そこで祭祀をしたのであろう。霧島峯神社には日向三代すべての人物が祀られており、都の跡だと言い伝えられている。これも、ここからきているものではないだろうか。 瓊々杵尊が国分のムカツヒメのところにあいさつに行く途中、高千穂峰に登って今後の統一事業の成功を祈って山頂に天逆鉾を立てて祭祀を行ったと推定される。これが高千穂峰の天孫降臨ではないだろうか。 ●胸副坂 霧島神宮駅裏 古代より国分から霧島神宮に参拝する旧道である。瓊々杵尊はこの旧道を通ったと伝える。 ●春山牧 霧島市国分重久春山原 天孫降臨の時、天斑駒の遺裔である良馬を携え給ひ霧島山中の原野に放牧せられた駒が繁殖して良質の馬族となり、神武天皇の御馬料となし給ふた原で御牧と申し伝える ●天孫牧 鹿児島空港周辺 八重山部落(溝辺町麓の東北)は神代瓊々杵尊の牧場であった。ここは神馬の産地として知られていた。この馬は立髪が長く、尾は地まで着き、脚が強くてどんな登り坂でも登ることができたという。 ●仰谷御崎殿 鹿屋市百引 瓊々杵尊天孫牧より出で、仰谷御崎殿を御通過ありて鹿屋市祓川に出で、古江浦に至らせ給うと伝える。京田、御納戸、キリシマクワンジョも又由緒の地と伝えらる。 ●高千穂神社 鹿屋市花岡町 瓊々杵尊霧島山に降臨の後滞在した所と伝える。神社の西に小池あり、瓊々杵尊がこの水を使用したと伝える。神社の南境内に霧島松がある。ここが瓊々杵尊の宮跡と伝える。 東に小丘あり、柴立という。この地に瓊々杵尊が降臨したと伝える。 ●神石 鹿屋市古江港 古江港の浜辺にある。高さ三尺の岩石にて、此処より笠沙の御崎に行幸遊ばされたと伝える。 磐長姫と別れた瓊々杵尊は奈古から大淀川沿いに都城を抜け、高千穂峰で天の逆鉾を立てて祭礼をした後、鹿児島県霧島町胸副坂(霧島神宮駅の近く・瓊々杵尊通過伝承あり)をとおり、国分でムカツヒメに挨拶した。このとき、馬を育てるため天孫牧、春山牧を作ったものであろう。 このときムカツヒメから後に天壌無窮の神勅と言われる命を受けたと考えられる。 「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就きて治らせ。行矣。寶祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮まりなかるべし」(日本書紀巻二) この神勅は当然そのままではなく日本書紀編纂時に書き換えられていると思われるが、おそらく、「大隅・薩摩半島部の諸国を統一せよ。」というような意味があったものではあるまいか。 この地に滞在後、大隅半島を南下して鹿屋市花岡の高千穂神社の地に滞在した。このときの経路は海上ではなく陸路である。福山辺りからほぼ現在の国道504号線に沿って鹿屋市の祓川まで移動している。海路のほうが楽なのに、陸路を通っているのは周辺住民の視察のためであろう。この当時大隅半島はまだ完全には倭国に加盟しておらず、この経路の国々はこの瓊々杵尊の巡幸にて加盟したのかもしれない。西州宮(桜迫神社)の鵜茅草葺不合尊に別れの挨拶をした後、高千穂神社の位置に滞在し、古江港から薩摩半島めがけて出港した。67年ごろのことである。 |
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■古江出港から裳敷野に宮を作るまで
●大山崎 指宿市大山崎 瓊々杵尊古江より出港され、御船をこの地に寄せ給いし所、これより周辺を揖宿と云う。 その後、山川に渡ったので、その間を大渡と云うようになった。 ●桜井神社 指宿市大山 昔瓊々杵尊が薩摩にお降りの際、山川の無瀬浜に御上陸になった。そのとき大山に二人の姉妹があった。姉は醜く妹は美しかった。妹をこの国の案内役として望み、仲睦まじく暮した。命は再び東方に御還り遊ばすことになった。姉妹は大山に止まり涙をもって御見送り申し上げた。現在別れの浜といい、間もなく姉はこの地で亡くなられたので、桜井神社に祀られ、妹のほうは開聞の地に移動しその地で亡くなった。開聞神社に祀られている。 瓊々杵尊は巡狩なし給わんと国見しつつ頴娃郷に行去り坐して平に来りき。是処美国の好哉。可愛の郷と見へたり。然れば開聞は平処来りきの約言なるべし。 ●立瀬と舞瀬 神渡の西方 神渡の西方磯辺にある立瀬は天孫御巡幸の際お立ちの処、舞瀬は同じく舞をみそなはされた処と伝える。 ●神渡 笠沙黒瀬海岸 瓊々杵尊初め舟に乗り給ひ神渡の少し西方磯辺に打ち寄せられしを、塩焚の翁かしつき奉り己れか塩屋に入れ参らせ塩俵の上に鹿の皮を敷き御座させ奉る。 ●誌の石 黒瀬海岸 黒瀬海岸上方水田中にある。これは天孫を導き奉った塩焚の翁が塩浜の舊跡であると云い伝えている。 ●宮の山 宮の山遺跡 天孫瓊々杵尊、御巡幸最初の宮居である。笠沙宮の古祉と伝えられる。古老の伝承「あな尊き貴方よ。此処に暫く憩ひ遊ばせ」とて、一大岩窟の中に己の抜いた茅を敷いて休ませ申した」 近くの門山は宮門の跡、池平及池と呼ぶ地はよく清水の湧き出た処で、この水を神々がご使用になったと伝える。 ●船ヶ崎 宮の山西方 宮山の西方海岸で神代のころ舟の発着所であった。魚の形のある巨岩は神々が魚釣りをなされた時、釣り上げた魚を投げつけなされた跡である。 ●瀬戸山 宮山の西方 宮山の西方瀬戸山には天孫御遷幸の際、命の御杖より生じたという鈴?(しのたけ)という竹がある。 ●宮之床 野間岳 野間岳堂峰の足下祓川の上流にあって、日受けやすく厳冬寒さを知らぬ処で、付近には熱帯植物「へご」が自生している。ここは天孫が宮居されたところで、吾田津姫が皇子を御降誕遊ばされたと伝える。 ●神憩場 赤生木 昔、諸神が野間岳と宮山との間を往復の途次御休憩遊ばされた処と言い伝える。 ●股覗石 赤生木 野間岳と宮山の中間小高き所にあって、昔神々がここを通過の際大洋を股下より覗かれた処と言い伝えている。 ●池の田 片浦 小浦より突出した半島にあって、往古野間岳の神がこの田の水を御使用になったという。そして、この田には肥料を使用してはならぬと伝え、現在まで使用しないという。 ●宮園 大浦 大浦にあって、元九玉神社を祀っていた。宮園は往古宮殿、上の門は宮門の遺蹟と伝えられている。天孫の此処より久志地を経て津貫を越えて行かれたとも云う。津貫は神々が御通りになった処で、大浦の海が奥深く入りこんでいた際、海より同所を越えられたから津貫という。 ●花立の腰掛岩 赤生木 赤生木の花立にある巨石で、この巨石は天孫が御腰掛になったと伝えられている。 ●会合 内布 瓊々杵尊、この地にて木花開耶姫と御会いなされしと伝承す。また相川とも書けり。 古江を出港した瓊々杵尊は大山崎に着岸し、次に無瀬浜に上陸した。大山の地にしばらく滞在し、その間に開聞、頴娃郷を巡幸しているようである。大山の伝承は「東に戻った」とあるので、一度高千穂神社に戻ったのかもしれない。この地は15年ほど前日子穂穂出見尊や鵜茅草葺不合尊が滞在していたところである。しばらく滞在後加世田の方へ向けて海岸沿いに舟を進めていると、嵐にあったためか黒瀬海岸の少し西に打ち上げられた。神渡の塩焚の翁に助けられ、この近くの宮の山にしばらく滞在することになった。 |
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■宮の山
瓊々杵尊の宮跡と伝えられている宮の山は宮の山遺跡として知られている場所であり、その傾斜地上下4か所に巨岩で覆われた岩窟がある。窟内は数十畳の広さがあり幾分人工的加工が加えられた跡がある。また、この付近には割り石と思われる石を積み上げた小丘がある。この付近一帯は現在では疎林であるが、往古は相当の森林であったと推定されている。宮の山・堂の峰・宮の床付近には石器や弥生式土器の出土品が多く、この時代に人が住んでいたことは間違いがないことである。周辺の最高峰である野間岳に瓊々杵尊が登り周辺の国見をしたと伝えられている。ここは急傾斜地であり、長期滞在には不向きであり、周辺の状況を探るためにしばらく滞在していたと考えられる。 しばらく滞在後黒瀬から祓川に沿って下り小浦から宮園に移動して宮を作った。宮園で加世田の様子を探りながら、内布に赴いたところ、吾田津姫と出会った。その後、阿多の長狭(大山祇)と交渉を重ね、その娘阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚することにより、加世田一帯を倭国に加盟させることに成功した。宮園から久志地、津貫を経由して、舞敷野に移動し宮を作った。是が笠沙宮である。ここで、新婚生活をした。 |
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■舞敷野
●高倉・大倉野 笠沙宮在りし頃の御蔵在りし地とつたえられる。 ●霧島殿 瓊々杵尊が下山田の霧島殿に御降りになり、大谷川で禊身を遊ばされたとも、此処で、皇子を御産みになられたとも伝えられている。 ●舞敷野 瓊々杵尊皇居の跡と伝える。周辺に神人の宅地跡あり ●立神川 流域に船繋石、長持石、腰掛石、立神などの瓊々杵尊関連伝承地あり 舞敷野の御座屋敷と呼ぶ地には笠沙宮跡の石碑が建っている。この地が瓊々杵尊の宮跡である。その南方に標高271mの竹屋ヶ尾という山がある。此処が彦火火出見尊の生誕伝承地である。その頂上は北方遥かに金峰山を、西には長屋山を望み、加世田平野は一望の中にある。彦火火出見尊誕生時の無戸室の柱石と称するものが現存している。また、日本書紀の記述の「高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトは、吾田の笠狭御崎の、コノハナサクヤヒメを嫁とり山幸彦ほか2尊を生み、竹刀で臍の緒を切り、捨てた竹刀はのちに竹林になった。その場所を竹屋と言う。」の元となった竹林がヘラ山と称せられて現存している。往古は山峰に竹屋神社があって鷹屋大明神と云っていた。 彦火火出見尊は宮崎の高屋神社の地で誕生したと推定しているので、此処は彦火火出見尊の誕生地とはならない。彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるが、皇子であると変更されたために、この地で誕生した瓊々杵尊の皇子が彦火火出見尊になったものであろう。瓊々杵尊は数年間は此処に滞在したものと考えられる。AD70年ごろであろう。 |
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■阿多の長狭(大山祇)
阿多新山字山角の小山の上に大山祇神社があって、大山祇神を祀っているがこの神社は最古の大山祇神社といわれている。その東方の標高200mの山上にメンヒルと称せられる巨岩が存在し、神代の遺蹟と伝えられている。ここは瓊々杵尊の休息の跡と言い伝えられており、この山麓に大山祇神の宮跡と伝えられているところがある。近くに貝塚があり、弥生式土器・石器・獣骨が出土している。ここが阿多の長狭(大山祇)の本拠地であろう。大山祇はこの周辺を統括する豪族であった。瓊々杵尊はこの地域を倭国に加盟させるためにこの地を訪れたのである。瓊々杵尊の宮跡が宮の山・宮園・舞敷野と周辺を転々としており、なかなか中心地域に入れない状態が伺われる。交渉が長引いたためであろう。宮の山にいるとき、大山祇の存在を知り、宮園にいるとき倭国加盟交渉をし、大山祇の娘阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚により倭国加盟を承諾させ、舞敷野に宮を移したと考えられる。しかし、まだこの地は加世田地域の中心地からは外れている。中心地域内に反対勢力が残っていたためではあるまいか。 |
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■後の笠沙宮
●頓丘石 大山祇神の霊蹟といわれる山角の岡に登る中程の路傍に巨岩がある。これが頓丘石と呼ばれるもの。瓊々杵尊がここで休息されたとの伝承あり。 ●京田 肥沃な水田であるが、この地の米を南の笠沙宮へ奉納したので、京田と名付けられたという。 ●国見岩 亀山の頂にあり、瓊々杵尊笠沙に宮居ました頃、この岩に登り国見しましたと伝えている。 ●千本楠 宮内楠屋敷の千本楠は、瓊々杵尊お出ましの時、御持ち給うた楠の御杖を地中に挿し給うたものから芽を出したものと言い伝えている。 ●双子池 万瀬川改修前は不思議な神竹林が密生し、池も残っていて、双子池と呼んでいた。コノハナサクヤヒメがニニギ命の皇后として皇子をお産みになる時、この地に入口のない産屋をお造りになり、炎炎たる火炎の中で無事御分娩なされたので、その神竹林は竹刀で皇子の臍の緒を切られて後捨てられたのが生い茂ったものと言われていた。 ●伊佐野 南さつま市金峰町の旧阿多駅前辺りである。明治初年までは伊佐野権現があって、付近一帯は昔から神聖な処と畏れられたところであった。同所は神武天皇が日向に坐せられたころ、宮居あらせられた聖跡と伝えられている。 舞敷野における加世田一帯の統治が軌道に乗ると、外部との交流のために立地条件の良い宮原に宮を移した。現在の竹屋神社の地である。73年ごろと思われる。この宮跡伝承地は万瀬川河口近くの台地にあり、船着場があったと思われる地にかなり近い場所である。また、すぐ近くに大山祇の宮跡伝承地があり、加世田の中心地といえる。此処にもストーンサークル、メンヒルなどの巨石の一団が存在している。この地に宮を移したということは海上交通の要であることから、加世田一帯の実権を握ったことを意味している。 南さつま市金峰町宮崎字伊佐野に神武天皇滞在伝承地がある。神武天皇が大和に東遷の挨拶に来たものであろう。金峰町宮崎には他に山野、前山野と神武天皇関連伝承地がある。神武天皇がこの地に滞在したのは78年ごろと思われる。これにより78年の時点で瓊々杵尊は加世田にいたことがわかる。 ■川内転居 ●市来湊 瓊々杵尊が笠沙宮を出発して、江の地方(川内)に向かわせ給わんとするや、瓊々杵尊は舟師を率いて、市来湊に寄港し、征船の用意を整え再び海路を取らせ給い、千台川を遡って沿岸の賊徒を退治遊ばされ、江の地方を平定し給うたと云うことである。 ●船間神社 瓊々杵尊は川内河口から入り給い、先ず此の島に暫し御船を留め、四方の賊を御平定になり民情を御視察遊ばされたと伝えらる。島の中腹に船間神社がある。祭神は瓊々杵尊に伴い、笠沙より御案内申した船頭がこの島で病死したのを葬り給うたと伝えている。 ●月屋山 瓊々杵尊湯の浦に御上陸になり、月屋山に御登りなされ明月を御覧あそばし感慨に浸り給うたと伝えている。 ●鏡野 皇孫川内川を遡航あらせられ、小倉に御出になると、賊共の反抗に遭い給い三種の神器も危うくなったので、八咫鏡を此処に埋めて難を避け給うたと伝えている。 ●京泊 瓊々杵尊が御出で遊ばされて、京都の如く栄える様にとの思し召しから京泊と命名遊ばされたといわれる。 ●汰宮 高江の近村に宮里と云うなり、里人伝えて天孫瓊々杵尊、高千穂峰に天孫天降し給いし後、此処に坐まし、大己貴命をして神亀山の宮地を観せしめ給いしに、勝れて清浄の地なれば、みづからその所に主張居れり、天孫復命の遅きを疑い、行てその状を見給うに己におのれ住居の地とせし程に、大に怒らせ給えば、命その威厳に懼れ後さまにすべり転べり。即神亀山の麓にして、今その所に大己貴神社あり、ゆえにそこなる流れをも、すべり川と名つく。新田宮の燈下忍穂井川の末流なり。 ●宮里 瓊々杵尊川内川を遡航し給い、宮里に宮居給うて川内川の北側を経営し給うが、大己貴命の反逆により一時宮里の宮居から都八幡に遷幸し仮宮遊ばされて平定に待ち給うたと伝えている。 瓊々杵尊が川内に到着後臣民が献上した土地を「宮様が農事をなさる土地」ということから宮里と呼ぶようになったと伝えている。若宮八幡址が宮居の地と云われているが、現在近くの志奈尾神社に合祀されている。 ●都原 隈之城都原は、青垣山籠る清々しい台地で、瓊々杵尊を祭神と奉祀する宮古八幡が鎮座ましますが、此処は、天孫瓊々杵尊、御宮居の址と伝えられる。 ●宮ヶ原 瓊々杵尊御降臨あらせらるるや先ず此の地に宮居を御定め給うたと伝えている。 ●地頭館址 宮ヶ原の地は坂路の多い不便と飲料水に乏しいこととにより、後に此の地に御移り遊ばされたと言い伝えている。 ●屋形ヶ原 地頭館址の宮居の後、この屋形原に宮居したと伝えられる。現在この地に石碑が建っている。 ●御手洗池 新田神社に隣て瓊々杵尊の御杖が根付いたものと称せられるタブの木があったが今はその株から若木が出ている。隣に御手洗という池があって尊が御手をお洗いになった処と伝え、その屋敷を御手洗屋敷と称し村人は此処に家屋を建てないことにしている。 ●神亀山 瓊々杵尊最後の宮跡と伝えている。山頂部は可愛山稜で瓊々杵尊の御陵となっている。 ●蘭牟田 瓊々杵尊通過伝承地、瓊々杵尊は高千穂と川内を此処を通って往来したと伝える。近くの入来小学校周辺にも瓊々杵尊宮跡伝承地がある。 これらの伝承をもとに、瓊々杵尊の川内での行動を推定してみると以下のようになる。 80年ごろになり、加世田一帯が軌道に乗った。加世田を中心として周辺の地域を倭国に加盟させていったが、川内地方に強力な豪族がいて倭国に加盟することを拒否していた。川内地方を倭国に加盟させるためには近くに宮を移す必要を感じ宮を移す決心をした。阿多津姫とともに宮原の笠沙宮を出発した。戦闘も予想されるため途中市来湊に寄港し準備万端を整えて、川内川河口にたどり着いた。川内川河口の船間島にしばらく滞在して此の地の豪族で神亀山に本拠を置く大己貴命(出雲のオオクニヌシとは別人であろう)と倭国加盟の交渉をした。 その時、船頭をしていた十郎大夫と呼ばれている人物が病死したので、船間神社に葬った。瓊々杵尊は船間島から湯の浦に上陸し月屋山から周辺を国見した。そして、川内川北岸に沿ってこ大己貴命の本拠地向けて進撃している時、小倉で大己貴軍に遮られ危機に陥った。ムカツヒメから授かった八咫鏡を一時隠匿して難を逃れた。この八咫鏡は三種の神器とされている鏡ではないと予想している。再び船間島に避難し再び機をうかがうことにした。 大己貴軍は強敵でありこれを打ち破るのは簡単ではないと思い知った瓊々杵尊は大己貴命に虐げられている周辺住民を取り込むことにした。川内川南岸の神亀山の対岸である宮里の住民が協力を申し出たので、宮里の若宮八幡神社の地に宮を作り農業技術を伝えながらここを拠点として大己貴命と交渉をしたが、大己貴命軍に攻め込まれ、南の都原に避難した。都原に宮居しながら、周辺住民に先進技術を伝えながら味方につけて行った。神亀山の北側の住民も協力を申し出てきたので、宮ヶ原に宮居を移した。此の地は宮居としては不便な地なので、大己貴軍の動静を探りながらより神亀山に近い地頭館址に宮居を移した。 ある日夜陰に乗じて神亀山のすぐ北にある屋形ヶ原に拠点を移し、神亀山の大己貴命を急襲した。激しい戦いの末大己貴命を神亀山の麓で誅することができた。これにより川内地方は統一され倭国に加盟することになった。瓊々杵尊は屋形ヶ原に宮居を置いていたが、暫く後に神亀山の宮を移し此処を本拠として川内地方一帯を治めた。統一完了したのは85年ごろと思われる。 瓊々杵尊は川内地方統一後、彦火火出見尊が本拠を置く鹿児島神宮の地を何回か訪問しているようである。鹿児島神宮の地はこの頃の西倭国の都であり、佐野命(神武天皇)東遷後の第6代倭国王彦火火出見尊との連携は必要だったのであろう。伝承をもとにその経路を推定してみる。 神亀山から川内川を遡り楠元町戸田より川内川の支流樋脇川にはいり、この川を遡って行く。暫く遡ると宮跡伝承のある入来に着く。此処から後川内川を遡と蘭牟田につく。此処が後川内川の最上流部であり、ここで、千貫岳の麓の峠を越えると田平川の最上流部に出る。この川に沿って下ると、別府川に合流し加治木町から鹿児島湾に出る。此処から鹿児島神宮まではすぐである。道のりは60kmほどであり、現在の地形を見ても自然な経路となっている。 5年ほど此の地を統治した後90年ごろ瓊々杵尊はこの地で世を去った。65歳ほどであろう。彼は最後の宮の址の可愛山陵に葬られた。彼はこの後、さらに北を統一する予定であったろうが、この地で余命がなくなってしまったのである。 |
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■日子穂穂出見命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦火火出見尊誕生伝説地は宮崎・鹿児島両県に数箇所存在している。神話では瓊々杵尊の子となっているが、実際はスサノオ・ムカツヒメの子である。誕生伝説地のうち瓊々杵尊が絡んでいないものが真実性が高いといえる。その伝説地は宮崎市村角の高屋神社である。他はすべて瓊々杵尊の子としての伝承地である。
彦火火出見尊は28年ごろ、阿波岐原の高屋神社の地で誕生している。ムカツヒメは東霧島神社の地に居を構えても定期的に出雲のスサノオの宮居を訪問(出雲市姉山に伝承あり)していたようである。それにより、日向に戻ってから皇子を出産することになったようである。彦火火出見尊は誕生後東霧島神社の地で成長していった。宮崎県内の彦火火出見尊宮居伝承地は串間と都島に存在する。串間は海神国から戻った後と伝承されているため、最初は都島となる。オオクニヌシが日向で亡くなる43年ごろ都島に宮居を移したと推定する。当時は15歳前後で成人といった考え方が在ったようで、瓊々杵尊も15歳前後で独立している。彦火火出見尊も15歳前後で独立し都島に宮居したのであろう。 彦火火出見尊は九州各地に最も広く伝承地が広がっている人物である。おそらく九州各地を巡幸したのであろう。出雲国譲りが終わりムカツヒメが第三代倭国王になった50年ごろ、ムカツヒメは南九州を倭国に加盟させるために積極的に動き出した。長男忍穂耳尊はすでに無く、次男ホヒは出雲に派遣し、三男瓊々杵尊は北九州を治めている。自由に動けるのは4男彦火火出見尊と末子鵜茅草葺不合尊のみであった。ムカツヒメはこの二人に南九州一帯を巡幸して情報を集めるように指示をした。二人は国分から薩摩半島のほうを巡幸した。薩摩半島最南端に着いたとき、その地の豪族の娘豊玉姫と出会い結婚をし、婿入谷に宮居を構えてしばらく生活した。それにより、薩摩半島南端部が倭国に加盟することになった。弟の鵜茅草葺不合尊も妹の玉依姫と結婚した。 鵜茅草葺不合尊は妻と共にまもなく種子島に巡幸し、彦火火出見尊はしばらく滞在後妻と共に内之浦へ巡幸した。彦火火出見尊が内之浦に滞在中、鵜茅草葺不合尊も内之浦に上陸した。ここを拠点として大隈半島の状況を視察した。 彦火火出見尊は鵜茅草葺不合尊とともに日南地方の状況を探るため、日南に上陸した。当時の日南地方は海幸彦が潮嶽神社に地を拠点として治めていた。海幸彦は山幸彦(彦火火出見尊)と兄弟とされたために外部からやってきたことになっているが、海幸彦が主祭神として祭られているのはこの神社のみであり、この地に土着の人物であると推定する。さまざまな交渉の末、海幸彦は倭国の後継者鵜茅草葺不合尊の嫡子と海幸彦の娘を将来結婚させるとの約束を取り付け、倭国に加盟をすることにした。この地(風田神社)で彦火火出見尊は豊玉姫と仲違いになり、豊玉姫は故郷の薩摩半島に帰ってしまった。 彦火火出見尊はこの後、西都市周辺を統一するために都於郡の高屋神社の地に宮を造りこの周辺の統一に尽力した。 二兄弟は日向に戻り国分のムカツヒメに報告した。ムカツヒメは二兄弟の報告により、各地域の王は倭国に加盟するための交換条件として皇子との政略結婚を要求していることがわかった。そういった方法を何回も使うわけにもいかず、倭国の統一にはスサノオがやったように海外の最新技術の導入が欠かせないことを悟った。ムカツヒメは早速彦火火出見尊に対馬に行って、出雲が確保している海外交易ルートを日向国にも回してもらえるように交渉し、あわせて、大陸に渡り大陸の技術を導入してくるように指示した。スサノオは朝鮮半島の技術を導入したが、ムカツヒメは更に進んでいる中国の技術導入を考えていた。54年頃彦火火出見尊は対馬に向けて旅立っていった。 対馬に上陸した彦火火出見尊は対馬の豊玉彦の娘豊玉姫(薩摩半島の豊玉姫とは別人と考えている。)と結婚し、対馬を治めた。そして、57年対馬を出発し後漢に朝貢した。「漢委奴国王」の金印や王の山の玉璧を受け取って後漢の使者を連れて戻ってきた。彦火火出見尊は後漢の使者を国分のムカツヒメのところまで案内した。後漢の使者はこのときの状況を記録して残し、後に女王国として魏志倭人伝に取り込まれることになる 香川県女木島や屋島に彦火火出見尊及び豊玉姫が滞在したという伝承地がある。後漢への使者を務めた後、東倭(瀬戸内海沿岸地方)を巡幸したものと思われる。ひょっとして出雲も訪問したのではないだろうか。理由は見聞を広めるためであろう。東倭巡幸のあと、いよいよ積年の課題である北九州唯一の未統一地域の統一に乗り出すことになった。 北九州で倭国に加盟していないのは唯一伊都国のみである。ムカツヒメは彦火火出見尊に中国から導入した新技術を用いて伊都国を倭国に加盟させるように指示した。彼は一度対馬に戻り、豊玉姫に別れを告げ、金印を携えて、伊都国に赴任した。対馬の豊玉姫は彦火火出見尊を追いかけて伊都国の志登神社(伝承あり)の地に上陸した。海外貿易の外交官として、また、伊都国の最後の国王井原ヤリミゾ遺跡の被葬者を倭国に取り込むために努力した。彦火火出見尊は地方巡回をしているために倭国全体の見識が広く、また、金印を携えているので、伊都国にやってくる外国人も地域の人々も伊都国王よりも彦火火出見尊の方を信用するようになり、伊都国王も倭国に加入することになった。60年ごろのことである。 この時点で九州内で倭国に未加盟な地域は、大隈半島・薩摩半島西部・北部・曽於地方及び球磨国である。大隈半島へは鵜茅草葺不合尊、薩摩半島西部・北部へは瓊々杵尊を派遣するように段取りができた。のこるは球磨国と曽於地方のみとなる。球磨国はかなりの苦労が予想されるため、まず、曽於地方を倭国に加盟させることをムカツヒメは思った。伊都国が落ち着いてきたので、別人を伊都国に派遣し、曽於国を倭国に加盟させるために彦火火出見尊を伊都国から呼び戻すことにした。65年ごろのことである。 伊都国から戻ってきた彦火火出見尊は次に串間に派遣された。串間神社には「海神国から帰った後、南へ降り串間にやってきた。」と言い伝えられている。串間神社の地に穂穂宮を建て、そこを基点として曽於国との交渉を行った。このとき、宮崎平野と日南を何回も往復し日南海岸の特定の地に立ち寄ることになり、日南海岸に彦火火出見尊の伝承地が多くなった。薩摩・大隈半島部が瓊々杵尊・鵜茅草葺不合尊の活躍により順調に倭国に加盟してくるのに対して、曽於国は球磨国同様難物でなかなか倭国に加盟しない。ついにはムカツヒメ自身が串間にやってきた。68 年ごろと思われる。串間の勿体が森に宮を構えていたのではないかと考えている。 西倭国(九州地方)を長年にわたって治めてきたムカツヒメも年老いてきて、70年ごろこの勿体が森で息を引き取った。享年70歳ほどである。ムカツヒメの遺体は付近の王の山に後漢から手に入れた玉璧を副葬品として葬った。 ムカツヒメが最も信頼していたのは彦火火出見尊である。ムカツヒメは鵜茅草葺不合尊は嫡子であるが、日本国との合併のために大和に行くことを予想しており、この日向国の正式な後継者に彦火火出見尊がなることを遺言して亡くなったのではあるまいか。ムカツヒメの死後、彦火火出見尊はすぐにも国分に宮を移した。これにより九州での未統一地域が球磨国と曽於国になり、あわせて熊襲という。熊襲の統一が残された課題となった。 ムカツヒメの死後、鵜茅草葺不合尊が第4代倭国王になり、75年ごろに鵜茅草葺不合尊が亡くなると狭野命が第5代倭国王となった。このころには日本国との合併の話が進んでおり、79年狭野命が大和に旅立つとき、彦火火出見尊は第6代倭国王に就任し、日本国との合併の条件により彦火火出見尊の当地範囲は日向国(宮崎鹿児島両県)のみとなり、国分を中心として日向国を束ねた。彦火火出見尊は熊襲を倭国に取り込むよう努力をした。曽於国とは良好な関係を保つことができたが球磨国は相変わらずであった。曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ武力平定することになる。 かなり長寿を保ち100年ごろ国分の地で亡くなった。彦火火出見尊の遺体はそこより少し北にある高屋山陵に埋葬された。 彦火火出見尊亡き後その後継者が国分を中心として日向国を束ねたが、倭の大乱の後日向国は大和朝廷からの役人を向かいいれ、中心地を西都に移した。西都原古墳群の始まりである。西都原古墳群の中央に古墳がまったくない領域がある。西都原の語源は斎殿原であり、ここで大規模な日向系の祭祀が行なわれていたのではあるまいか。日向国の有力者はその周辺に葬られた。それが西都原古墳群である。 この祭祀者が、日向三代の伝承地を周辺に造ったものと考えられる。そのため、西都周辺に日向関連伝説地が勢ぞろいしていることになる。 |
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■鵜茅草葺不合尊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鵜茅草葺不合尊の生誕地ははっきりとは伝えられていない。日南の鵜戸神宮の伝承はあるが豊玉姫の子としての誕生であり、また、崖上で通常人間の生誕には適さないところである。鵜戸神社が高鍋町蚊口浦にある。鵜茅草葺不合尊の上陸地という伝承地である。鵜戸は鵜茅草葺不合尊の誕生地を表す言葉のようなので、この地が鵜茅草葺不合尊の誕生地ではないかと予想している。鵜茅草葺不合尊は30年ごろ蚊口浦で誕生している。
鵜茅草葺不合尊は幼少時、東霧島神社の地で成長した。50年ごろ、彦火火出見尊が南九州巡回の旅に出たので、鵜茅草葺不合尊も彼について巡幸した。薩摩半島南端部で豊玉姫の妹の玉依姫と結婚した。彦火火出見尊が長期にわたって薩摩半島南端部に滞在しているとき、鵜茅草葺不合尊は種子島に上陸し種子島を倭国に加盟させた。その後、内之浦に居を構えていた彦火火出見尊の後を追って、内之浦に上陸し大隈半島の状況を視察した。 続いて彦火火出見尊と共に、日南に行き海幸彦及びその領域を倭国に加盟させるために努力をしたが、海幸彦は自分の一族との政略結婚を交換条件に出してきた。兄弟共に妻がいる身であり、嫡子である鵜茅草葺不合尊はいずれ倭国を継ぐので、鵜茅草葺不合尊の将来生まれるであろう嫡子と結婚させる約束をすることにより日南地方を倭国に加盟させることができた。 日南を出た鵜茅草葺不合尊は彦火火出見尊と共に蚊口浦に上陸し、佐野原に居を構え、国分のムカツヒメに状況報告をした。54年ごろのことである。二人は宮崎市以北の内陸地方の統一を始めたと思われる。この時期彦火火出見尊は都於郡の高屋神社の地に宮を造っていた。60年ごろ宇都に宮を移した。ここを拠点として日向国の内政を司っていたのであろう。国分のムカツヒメが未統一地域の統一に全力を傾けている関係上、内政を司る人物が別に必要となる。それが、嫡子である鵜茅草葺不合尊の役割だったのであろう。 58年、後に神武天皇となる狭野命が誕生した。鵜茅草葺不合尊は65年、ムカツヒメから大隈半島部の統一を託され、大隈半島に旅立っていった。肝属川に沿って川をさかのぼり、宮下という地が水運に恵まれている地であり、他地域との物資の交流に便利であるので、ここに宮を建てた。西洲宮という。現在の桜迫神社の地である。70年ごろムカツヒメが串間にて崩御したので、第4代倭国王の位を受け継いだ。しかし、鵜茅草葺不合尊も75年ごろこの西洲宮にて亡くなった。遺体は少し南にある吾平山陵に葬られた。鵜茅草葺不合尊は若くして(45歳ほど)亡くなったために、大隈半島の統一事業は半ばであった。その後を継いで大隈半島の開拓に乗り出したのが狭野命である。 |
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■第12節 三輪山信仰の始まり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ニギハヤヒの死
■暦の始まり 紀元25年ごろ近畿地方にマレビトとして入り込み、日本国を作ったニギハヤヒは40年ごろまで、近畿地方一帯を統一し、日本国の安定政権を作るのに努力をした。 唐古・鍵遺跡の中心と考えられる祭祀遺構に鶏と考えられる土製品があり、この地から冬至の日に三輪山の山頂から昇ってくる朝日を見ることができる。このことは、当時の人々が、冬至の日に出てくる太陽を崇めていたことを意味する。そして、唐古・鍵遺跡が巨大化し始めたのが、ニギハヤヒが入ってきた中期末頃と判断されていることから考えて、ニギハヤヒは、農耕のための暦も広めたのではないかと判断する。 この当時、国家を平和的に維持するには、農業特に稲作は重要な要素である。スサノオから受け継いだ方法により、大和盆地で稲作をするための作業をする時期を日の出の方向から判断できるようにした。この当時一年で一番重要な日は、冬至の日であった。一年で一番太陽が南から昇り、この日を境に太陽が復活するのである。ニギハヤヒは三角形の山頂から太陽が昇ってくる姿が好きだったようで、冬至の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる位置に唐古・鍵の小さな集落があった。ニギハヤヒはこの位置に祭礼施設を作り、ここを中心として祭礼を行い、それを元に、農業を行った。このとき、ニギハヤヒは三輪山の形(三角形)を日本国のシンボルとして、いろいろな祭器に刻み込ませた。これが、鋸歯紋の始まりである。 ニギハヤヒの本来の目的は、「近畿地方以東を統一せよ。」とのスサノオの遺命の遂行であった。日本国の基礎固めのために15年ほどを費やした。この15年の間に近畿地方は安定した。東日本地方はこの時点でまだ未統一であった。東海地方から来る人々の話では多くの人々が住んでいて、小国家が少しづつ誕生してきているそうである。このままにしておけば、日本国はいずれ、これらの国々との戦争になる危険性もあった。早めに統一する必要性に駆られた。ニギハヤヒはこの15年の間に大阪湾岸地方の人々に、東日本地域の統一の必要性を訴え続けていた。ニギハヤヒは近畿地方に新技術の導入を行い、自分たちの生活ががらりと変わり、近畿地方の人々から神のように敬われるようになっていた。そのニギハヤヒの言葉を受け入れ、人々の間に東を統一しなければならないという意識が次第に育ってきていた。紀元40年頃のことである。 ニギハヤヒは、ミカシヤヒメとの間にできたウマシマヂが大きく成長し、東日本を統一する時期が到来したと判断し、大阪湾岸地方の人々を大勢引き連れて、東海地方を初めとして、東日本一帯に新技術を広める旅に出た。それぞれの国々を回り、そこに住む人々に新技術を伝授する代わりに日本国への加盟をするように言った。現地の人々は、うわさにより、日本国の状態は知っていた。ニギハヤヒの伝える技術で生活が楽になるとのことなので、多くの国々は日本国に次々と加盟していった。 日本国に新しく加盟した地域には、大阪湾岸地域から何人かを派遣し共同生活をすることにより、先進技術を現地の人々に伝えた。派遣された人々は、現地の人々から神のように扱われ現地に土着し、その地方で亡くなった。その結果、方形周溝墓が急激に広まったのである。 ■大和帰還後の饒速日尊 陸奥国南半分を統一して大和に帰還してきた。AD60年頃と思われる。AD40年頃、東日本統一事業を行ってから20年ほどたっていた。饒速日尊も齢70程になっていた。饒速日尊にはまだやるべきことが残っていたのである。東日本に未統一地域が残っていることと、倭国との大合併である。しかし、饒速日尊に余命はほとんど残っていない。体力の衰えも顕著になってきた。もう自らですべてをこなすことができなくなったのである。若い次の世代にやらねばならないことを託さなければならなかった。饒速日尊がやらなければならないことは次のとおりである。 1 伊勢地方の統一 2 越後国内陸部の統一 3 安房国の統一 4 陸奥国北部の統一 5 西倭との大合併 6 東倭との大合併 ■伊勢地方の統一について 伊勢地方は饒速日尊の統一地域から漏れてしまっていた。近くであるからいつでも統一できると思われ、後回しにされたのではないかと思う。逆に大和国のすぐ近くなので、少しでも早く統一しなければならず、これが最優先課題となった。伊勢地方の統一を任せることができるのは、ウマシマヂ、猿田彦命、事代主命、味耜高彦根命、高倉下命などである。それぞれ任地で活躍中であった。ウマシマヂは関東地方、猿田彦は東倭、事代主命は伊豆地方、高倉下命は紀伊国をそれぞれ統治中であった。味耜高彦根命は西倭との合併交渉に必要であり、すぐに伊勢地方統一に回せる人物はいなかった。神社伝承から判断すると、伊勢地方を統一したのは猿田彦命となる。出雲国は猿田彦と入れ替わるように事代主命が継いでいる。どういった事情がこのような継承をさせたのだろうか。 猿田彦命は出雲の統治をしていたのであるが、猿田彦は賀茂別雷命(岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017の加毛神社では祭神神別雷命を白髭明神と称している。)、住吉神、大山咋神などと言う別名を持っており、方々に祭られている。これは、出雲でおとなしく統治していたのではなく、倭国・日本国を行き来して、地方開拓に協力していたことを意味している。出雲は出雲王朝の鳥鳴海命が統治していたと思われる。 出雲地方はこの後、猿田彦の娘とタケヒナドリの長男が結婚して素盞嗚尊祭祀を継続している。出雲国の祭祀権は猿田彦命が持っていたわけである。その猿田彦に伊勢地方統一を命じ、事代主命に東倭の統治を命じているのはどうしてなのであろうか。これを東倭と日本国の合併工作の一環として捉えられないだろうか。出雲国は東倭の中心となっている国で、西倭と共に日本国と合併する必要がある。そのためには、日本国の実態をよく知っている人物が東倭の統治者となると饒速日尊にとっても都合がよいのである。それが事代主命である。彼は猿田彦の異母弟であり、素盞嗚尊の血を引いているので、出雲の人々の納得は得られやすかったのであろう。猿田彦命は中国・近畿地方一帯を頻繁に巡回しているので伊勢地方の事情にも詳しかったと思われる。饒速日尊が亡くなる直前にこの計画は実行された。 越後国内陸部や安房国(房総半島)、陸奥国北部に於いては、遠方でもあり、大合併後の新政権に任せることとした。残るは合併論議であるが、これを推し進めるまでもなく饒速日尊は亡くなったのである。 |
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■三輪山信仰の始まり
ニギハヤヒは、東日本地域統一後、紀元55年ごろ再び大和に戻ってきて、日本国全体を統治した。再び大和に戻ってきた饒速日尊はウマシマジに統治を任せ、自らは宇陀地方の磐舟の地を拠点として奥地の小集落と交流し、最後は初瀬川上流の白木の地で隠棲したものと考えられる。 饒速日尊は白木の地で75歳前後で没した。紀元65年頃であろう。 先代旧事本紀に次のような記事がある。 高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に 「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」 と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して 「神の御子は既に亡くなられました。」 と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。 饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に 「我が子を私の形見としなさい。」 と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。これを持って墓と為した。 これによると、饒速日尊の遺体は天上にあり、地上には登美白庭邑に遺品を埋葬して墓としたことになっている。遺品の墓は伝承から判断して生駒市総合公園北側山中の檜の窪山であろう。ここには饒速日命墳墓と書かれた石碑が立っている。それでは遺体はどこの葬られたのであろうか。天上というのは当然ながらありえない。天上と判断できる場所と言うことになる。これこそ祭祀の対象になっている三輪山山頂の奥津磐座であろう。山頂という高いところであるので天上と言い伝えられたのも考えられなくはない。 なぜ、饒速日尊の墳墓は2箇所になったのだろうか。これを日本国の後継者争いが原因ではないかと考える。饒速日尊はマレビトとして近畿地方一帯の小国家に入り込んだのであるから饒速日尊の子孫が多く相続争いが起こるのは当然である。大和に入ってきて最初に生まれたのが長髄彦の妹のミカシヤ姫との間のウマシマジであり、葛城の豪族との間に生まれた言代主との間の相続争いと考えられる。末子相続の時代であるので正規には言代主であり、遺体は三輪山に葬られたが、納得できない長髄彦は饒速日尊の遺品を埋めて白庭に墓を作ったものであろう。 生前、三輪山から昇ってくる太陽を崇拝していた饒速日尊は、その死後、三輪山に葬られ、日本国の開拓者・皇祖・太陽神・天照大神として人々から崇められた。饒速日尊は農業開発をしたため、農業の神としても知られ、三輪山の山の神遺跡では小型鏡や子持ち勾玉、石製模造品や土器の他に農具や食器を模した土製品が奉られた。そして、三輪山の形(三角形・鋸歯紋)が饒速日尊のシンボルとして、後の饒速日尊の祭器(平型銅剣・大阪湾型銅戈・銅鐸)に刻み込まれることになるのである。 ニギハヤヒが亡くなった後、ニギハヤヒの後継者は言代主であるが彼は出雲国に旅立っており、その娘イスケヨリヒメとなった。まだ幼少であるので、饒速日尊と共に東日本統一に参加した長男のウマシマヂが後見として実質日本国を治めた。 実質日本国の後継者となったウマシマヂは、日本国を治めようとしたが、マレビトとしての饒速日尊の子供が方々に誕生しており、それらの間の後継者争いが大和国内で発生することとなった。饒速日尊にはカリスマ性があったので、彼が存在しているだけで大和国はおさまっていた。しかし、彼が亡くなると大和国内が不安定化してきた。 |
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■倭国と日本国の合併論の台頭
■先代旧事本紀の記事 高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に 「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」 と命じられた。 とある。饒速日尊=大国主命と考えることにより、日本国と倭国の合併を国譲り神話と重ねて考えることもできる。速飄神=雉、天稚彦=味鋤高彦根と考えると、次のような物語として先代旧事本紀の記事が説明できる。 タカミムスビは倭国においてムカツヒメを補佐している重要人物である。素盞嗚尊の夢は日本列島全体を統一することである。饒速日尊が日本国を建国して東日本全体を統一したが、その最終目的はあくまでも日本列島全体の統一のはずである。東日本全体の統一が完了すれば倭国との間に合併の話がなければならないが饒速日尊からは何の連絡もない。そのまま日本国と倭国に別れたまま饒速日尊の子孫が日本国を統治するように饒速日尊が考えているのかもしれない。その不安が、先代旧事本紀の記事の「疑わしい事」なのであろう。 高皇産霊神は饒速日尊が出羽国を統一して大和に帰ってきた直後の紀元57年ごろ味鋤高彦根を日本列島統一の使者として大和に派遣した。 饒速日尊の隠棲地と考えている白木のすぐ近く初瀬川流域の和田というところに葵坂と呼ばれているところがある。ここに味鋤高彦根神の磐座がある。白木に隠棲している饒速日尊に会うために、ここまでやってきたのではないかと考えている。饒速日尊から娘の下照姫を紹介され、味鋤高彦根は下照姫と結婚して葛城の地に住み着いてしまった。そして、味耜高彦根命は饒速日尊と共に陸奥国統一に出発してしまった。味鋤高彦根がいつまでたっても倭国に復命しないので、高皇産霊神は、数年後、速飄神を派遣したが、このときすでに饒速日尊は亡くなっていたものであろう。紀元66年ごろである。 日本国と倭国の合併を推し進めるために大和に派遣されてきた味耜高彦根命は、葛城に拠点を置き日本国内の豪族と様々な交渉を進めていった。 日本国はウマシマジの失政もあり地方が落ち着かなくなっていた。三輪一族、葛城一族、長髄彦一族などが、日本国の後継者争いを起こしたのである。倭国と日本国の互いの後継者通しを 政略結婚させて大合併を成功させるというのは饒速日尊・高皇産霊神双方ともに納得している方針である。先ず西倭と日本国を合併させ、その後で、東倭を合併させようとした。西倭と日本国では誰と誰を結婚させるかというのが大きな課題であった。倭国側は正統な後継者としてAD58年に誕生した佐野命であることは確定した。ところが日本国側の後継者が決まらなかった。 饒速日尊が存命ならあっさりと決まったであろうが、それぞれの一族が自らの一族の娘を後継者に挙げているのである。また、長髄彦一族は合併そのものに反対している。もともと饒速日尊が大和にやってきた時、大和を倭国に加盟させようとしたが長髄彦の反対によって倭国とは別の国である 日本国を作るはめになったという経緯がある。饒速日尊は長髄彦を時間をかけて説得するつもりだったようであるが、その間もなく亡くなったのである。 末子相続の原則からすると饒速日尊の末子は事代主命でそのまた末子は誕生間もないイスケヨリヒメであった。正論としてはイスケヨリヒメが日本国の後継者となるのであるが、イスケヨリヒメは三輪一族に属していた。 最大の問題点は日本国内の後継者争いである。なんとしても強硬に反対しているのがウマシマジの叔父の長髄彦である。彼としては甥のウマシマジが饒速日尊の河内平野統一、東日本地域一帯の統一に大きく貢献し、日本国の実質支配者であったのに、後継者が自分と関係のない言代主の子では納得できないのも無理はない。彼はこの案に強く反対した。彼としては日本国の後継者をウマシマジとし、倭国から後継者の娘を向いいれて合併するように主張したのである。 そのほか反対しているのは葛城の高天彦である。イスケヨリヒメは葛城一族の血を引いてはいるが言代主が三輪一族の養子になっており、倭国との合併後三輪一族が勢力を強めるのは明らかである。こういった点が不満であるために葛城一族の賛成を得ることは難しかった。しかし、味鋤高彦根が葛城一族の娘と結婚しているのでナガスネヒコほどの強烈な反対はなかった。 味鋤高彦根は10年ほどかけて日本国の各豪族の意見をまとめようとしたが、反対派、賛成派それぞれがなかなかまとまらなかった。倭国の佐野命、日本国のイスケヨリヒメは共に 適齢期に成長した75年ごろ、いつまでもこの状態が続けば、合併の時期を逸してしまうと判断した味鋤高彦根は日本国が承諾したと言って、強引に合併策を推し進めることにした。 倭国は準備を進め、紀元79年佐野命は倭国を出港した。 日本国と倭国の合併が成功した後、味鋤高彦根は残る東倭の出雲国も合併させるために下照姫と共に、出雲に旅立ち、出雲で亡くなった。 |
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■第13節 銅鐸について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 出現時期
銅鐸は、紐の部分に注目して、菱環紐式、外縁付紐式、扁平紐式、突線紐式と分類されている。銅鐸の謎を解くためには、その出現時期が重要となってくる。外縁付紐式の流水文が中期初頭の櫛描流水文土器と密接な関係にあることから前期末あたりを紀元と推定されているが、三木文雄氏の中期後半開始説がある。根拠を挙げると、 1 西日本における青銅武器の国産開始時期が中期中頃以降である。 2 古式銅鐸と共伴する青銅武器が中期末から後期初頭のものである。 3 古式鐸の鋳造規格が後漢尺に適合する。 4 流水文鐸に見える絵画図文が畿内第四様式以降の土器に存在し、後期の木器に流水文を彫刻した例(石川県猫橋遺跡)がある。 などである。 銅鐸に鋸歯文が多用されてニギハヤヒに関連したものと考えられること、外縁付紐式銅鐸は瀬戸内地方にも分布しているが、近畿地方と瀬戸内地方との交流が盛んになったのは土器から判断して、中期末以降であることから、中期後葉起源説を採用したい。 |
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■第二項 銅鐸の使用目的
銅鐸が東日本地域に急激に広まっている。それまで、鳴り物であった銅鐸が巨大化し、見るのが目的になってきた。銅鐸にはほとんどすべてに鋸歯文が刻まれ、銅鐸鋳造の時、絵の部分がはっきりしない場合、そのままになっているが、鋸歯紋がはっきりしない場合は追刻をしている。これは、銅鐸の鋸歯紋に特別な意味があることを意味している。鋸歯文はニギハヤヒの霊廟である三輪山の形を表したもので、ニギハヤヒのシンボルであり、大和朝廷のシンボルとして使われていたと考えられる。この鋸歯文が銅鐸に多用され、しかも重要視されていることから、銅鐸はニギハヤヒの祭器であろうと思われる。 銅鐸の成分分析により、菱環紐式と、外縁付紐式の一部が朝鮮半島の青銅から作られていて、それ以降は華北の青銅から作られていることが分かっている。さらに、菱環紐式は畿内で作られたと考えられているが、外縁付紐式は、畿内以外に北九州でも作られている。以後の銅鐸は北九州では確認されていない。さらに、菱環紐式は少ししか出土していないが、外縁付紐式以降は多量に出土している。これらから、外縁付紐式の時代に銅鐸生産に大きな転機があることがうかがわれる。 菱環紐式は鳴り物と考えられるが、外縁付紐式は紐に外縁が付くようになっている。紐に外縁が付くこと自体吊り下げにくくなるため、この形式の銅鐸から、鳴り物としての目的以外にも使用されたと考えなければならない。 なぜ、外縁が付いたかであるが、銅鐸に鋸歯文(三輪山)と渦巻文(太陽)が多いこと、当時の畿内は三輪山から出てくる太陽の姿が祭祀の対象になっていたこと、一つの祭祀があるところへ別の祭祀が入ることは考えられないことなどから、紐の部分は太陽を表し、その下の部分は三輪山を表していて、銅鐸自体が三輪山から昇る太陽を表しているのではないかと考える。そうだとすると、紐の部分に最初外縁が付き、次に内縁が付き、突線(太陽光か?)が付くという変化が説明できる。そして、新しい形式の銅鐸では、紐の部分に何重にも鋸歯文が彫り込まれ、これら鋸歯文は太陽の輝きのようにも見える。銅鐸にこのような意味があるとすれば、銅鐸は神聖な物として扱われ、祭礼に使われると言うことも説明できる。 |
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■第三項 北九州での生産
銅鐸の起源は朝鮮半島の朝鮮式銅鐸であると言われている。銅鐸が中期後葉に出現したとすれば、これは、朝鮮半島に渡ったスサノオを通して、ニギハヤヒが畿内に持ち込んだものと解釈される。ニギハヤヒは朝鮮半島から手に入れた青銅を使って小銅鐸を生産し、それを東日本統一のシンボルとしたと考える。銅鐸が重要な扱いになるにつれて、菱環紐式銅鐸を作るようになり、さらに、祭器としての意味を強化するために外縁付紐式銅鐸を作り出したと考える。ところが、当時の畿内では、外国との交易ルートが十分でないために、原料である青銅が不十分で、必要量の生産ができなかった。たちまち限界がやってきた。 北九州から銅鐸の鋳型が見つかっているが、これは、外縁付紐式銅鐸である。この鋳型は後期初頭の土器と共に出土しており、後期初頭に作られていたものと考える。しかし、これ以外の形式の銅鐸は確認されていない。さらに、銅鐸の鋳型が出土したのは北九州の四遺跡と近畿地方の九遺跡であり、鋳型の出土量から考えて、畿内に匹敵するほどの需要があったと考えられるが、北九州からは銅鐸本体はほとんど見つかっていない。作られた銅鐸はどこへ行ったのだろうか。 銅鐸の鋳型の紋様は畿内と九州に共通するものがあり、畿内勢力が北九州勢力に銅鐸を作らせたと考えれば説明が付く。おそらく、ニギハヤヒが畿内に持ち込んだ技術や青銅では大量生産ができないため、北九州に頼み込み、外縁付紐式の銅鐸を生産してもらい。できた銅鐸を中国地方や近畿地方に持ち帰ったものと考える。そのために、青銅の成分に変化が起こったと考える。その証拠に外縁付紐式の銅鐸の分布領域は他の銅鐸よりも西に偏っている。 |
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■第四項 伝承との照合
これを伝承面から考えてみることにする。「女王アマテラス」によると、後期初頭の北九州にはニギハヤヒの出雲での子であるサルタヒコが治めていた。サルタヒコは、スサノオの晩年、北九州地方の統治を任され、北九州の青銅器生産をしていたと考えられるが、サルタヒコの本拠地と考えられる福岡県春日市周辺から、銅鐸の鋳型が出土しているということから、青銅不足に悩んでいたニギハヤヒが、その子であるサルタヒコに銅鐸の製造を頼んだということが推定される。畿内で重要な意味を持つ銅鐸を、全く関係ない勢力に頼むと言うことは考えにくく、自分の子供がいたからこそできたことではないだろうか。サルタヒコは、倭国が持つ中国との交易ルートを通じて青銅を入手し、それを使って銅鐸を生産した。 |
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■第五項 北九州生産の終焉
しかし、北九州で銅鐸を生産するという状態は長くは続かなかった。日向勢力は後継者問題で出雲を降伏させた後、急逝したオシホミミの代わりに、ニニギを押し立てて、サルタヒコの統治する北九州南西部の引き渡しを要求してきた。サルタヒコは日向勢力と一戦を交えることも考えたが、戦いを避けて、北九州を明け渡し、故国出雲を立て直すために出雲に帰っていった。その時を最後に北九州での銅鐸生産は終わり、以後の形式の鋳型が出てこないと解釈される。 倭国は主に朝鮮半島との交流をし、朝鮮半島から青銅器の原料を手に入れていたが、北九州の豪族が、中国との交流をしており、また、朝鮮半島が三韓時代で政情不安なため、サルタヒコは後漢が成立して安定している中国との交流を行うようになり、中国の原料を入手するようになっていたと思われる。日向国王のムカツヒメはそれを利用して中国との交流を本格化させたのである。サルタヒコは出雲に帰る前にそのルートを技術とともに大和側に伝えた。これにより、中国から畿内への青銅ルートが確保され、以後、畿内で多量の銅鐸生産ができるようになったと考える。 出雲に帰ったサルタヒコは、鹿島町の佐太大社の地に政庁を作り、祖父のスサノオの手法をまね、出雲勢力圏の代表者を集め、合議制による政治を行った。これが現在の出雲大社に伝わる神在祭の起源になっている。また、山陰地方に外縁付紐式銅鐸の出土が多いが、これもサルタヒコによって、もたらされたものと考える。 |
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■第六項 扁平紐式銅鐸
次に、扁平紐式銅鐸の分布と伝承との関連を調べてみることにする。 次の扁平紐式銅鐸は、東部瀬戸内沿岸地方から畿内にかけての分布である。この銅鐸は後期中葉あたりのもので大和朝廷成立後のものと推定され、平型銅剣との共伴が多い。紋様も平型銅剣と共通するものが多いことから、共通の工人によって作られたものと推定されている。扁平紐式銅鐸の多い東部瀬戸内沿岸地方は大和入りする前のニギハヤヒが治めていた地域であるため、ニギハヤヒ信仰の強い地域である。ニギハヤヒが始めた祭祀の祭器である平型銅剣を、畿内から派遣された銅鐸工人が扁平紐式銅鐸と共に作るようになり、平型銅剣にニギハヤヒのシンボルである鋸歯文が刻み込まれ、このような出土状況になったと考える。 |
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■第14節 大和朝廷成立 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■第一項 二大国家の合併
スサノオ・ニギハヤヒの統一事業の結果、日本列島は、西日本の倭国と近畿以東の日本国とにまとまった。このままでは、いずれ、大戦争が起きると考えた人々は、互いの後継者を結婚させて、日本列島を一つの国にまとめようと考えた。日本国の後継者はニギハヤヒの末子であるイスケヨリヒメで、この頃30歳程であった。倭国の方は、女王のムカツヒメがこの頃没しているために、その末子のウガヤフキアエズとなるところであるが、ウガヤフキアエズもこの頃没し、その結果、後継者はウガヤフキアエズの末子のサヌとなった。サヌは25歳ほどであった。 外国交易により勢力のあった倭国の方に異存はなかったが、大和の方はまとまらなかったようである。ニギハヤヒの死後、有能な人材に恵まれず、外国との交易ルートが不十分なため新技術の導入も思うようにならず、大和の勢力は衰退を始めていた。尊敬しているニギハヤヒが造った国を、倭国に乗っ取られるのではないか、と考えたナガスネヒコは猛反対したが、大勢は、勢力回復のため賛成であった。 ナガスネヒコの承諾が得られないままに、ゴーサインを出し、サヌが日向を出発することになった。途中東倭から安芸国を譲り受けるために安芸国・吉備国に滞在した。サヌは、そのまま、日下から大和に入ろうとして、ナガスネヒコに追い返されてしまった。その後、大和国内で賛成派の勢力がナガスネヒコを殺害して、サヌを向かい入れ、イスケヨリヒメと結婚して、初代神武天皇として即位した。紀元83年(弥生後期前葉末)のことと思われる。 統一国家の国名は、正式には日本国となったが、倭国という国名はスサノオがつけた貴重なものであるために抹消できず、しばらくは双方の国名を使っていた。特に、中国との交易ルートがあったのは倭国であり、日本国にはなかったことから、対外的には倭国で通していたようである。 |
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■第二項 中国文献について
この伝承を各方面より裏付けてみることにする。まず、中国史書を見ると次のようなものがある。 「旧唐書」 「日本国は倭国の別種なり、その国、日辺にあるをもって日本と名をなすと、あるいは言う、倭国自らその名の雅らかならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは言う、日本は旧小国、倭の地を併わせたりと。」 「新唐書」 「倭の名を憎み、改めて日本と号す。使者自ら言う。国日出ずる所に近し、故に名をなすと。あるいは言う、日本はすなわち小国、倭の併わす所となる。ゆえにその号を冒せりと。」 倭と日本 これらは、日本書紀における日本の国名の起源と一致している。そして、倭の名が気に入らないから日本と改めたという説と、日本国と倭国が合併して日本国となったという説と、二つあることがわかる。 古事記や日本書紀を見ると「大和」「日本」「倭」いずれも「ヤマト」と読ませている。いずれも当て字である。古事記・日本書紀では両方の名が共存している。八世紀頃、「ヤマト」は国名を漢字二字で表すという制約から「倭」を「大倭」と書くようになり、「倭」は字の意味から嫌われ「大和」と表されるようになったようである。「倭」を嫌って「和」と書き改めていることからして、合併説が正しいようである。「ワ」という国名は当時の人々にとって大切なものだったのである。 倭国とはスサノオが統一した連合国で中国・四国・九州地方を指し、日本国とはニギハヤヒが統一した近畿地方以東を指している。中国史書によるとどちらがどちらを併合したのかに混乱が見られる。中国の常識では考えられない政略結婚による対等合併であったからこそ、このような混乱が起こったのではあるまいか。 中国に「日本」という名が知られたのは、この記事から判断して唐の時代であると考えられる。新統一国家の名称として、「日本」=「ヒノモト」が使われるようになったが、「日本」は中国との交易ルートを持たなかった関係上、対外交易の時は、対外交易ルートを持っていた旧国名の「倭」を使っていたのではないかと思う。日本国内でも日本書紀に見られるとおり、まだ「倭」は生きていたのである。 弥生時代は、西日本の銅剣銅矛銅戈の祭祀があり、東日本には銅鐸祭祀があった。大和朝廷はこの両方の祭祀圏を同じ信仰で統一しているのである。祭祀は保守的なものであるため、異なる祭祀を受け入れるときには大きな戦乱が付き物である。そのような形跡もなく、混じり合った形跡もなく、すんなりと統一されているのである。これは、双方とも同系統の祭祀であったがために統一できたとしか考えられない。すなわち、スサノオ・ニギハヤヒという共通の人物である。祭祀の統一ということもこの二人の統一事業を裏付けているのである。 邪馬台国畿内説 邪馬台国問題は畿内説と九州説とで対立しているが、三世紀の時点で、日本列島の統一国家は、大和朝廷しかないことになり、邪馬台国畿内説となる。そして、邪馬台国は、大和朝廷そのものということになる。この視点から魏志倭人伝を見ると、 「倭人の国では、もと男子を王とし、七、八〇年続いたが、国が乱れ、攻め合うこと数年の後、一人の女子を共立して王とした。」 とある。この記事によると、倭国大乱(後漢書によると147〜189年の間)の70から80年前に、邪馬台国(大和朝廷)が成立したことになる。逆算すると、紀元67年から119年の間となり、この復元古代史の推定する大和朝廷の成立時期と一致する。 |
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■第三項 土器について
後期初頭までは、西日本各地に畿内系土器は見られなかったが、後期中葉以降、西日本全域で見られるようになる。この状況を、まとめてみると次のようである。 後期中葉になると、西日本の広い範囲で畿内系土器が出土するようになる。これらの畿内系土器の分布は、畿内の人々が、後期中葉になって、西日本各地に移動してきたことを意味している。人々の移動は、地方に引きつける理由があったか、畿内に出ていく理由があったかのどちらかであるが、大変広い領域に、恒常的に分散していることから、畿内に理由があったことが考えられる。そして、計画性を持って、定期的に地方へやってきていると判断される。畿内に、各地方の土器が出土するわけではないので、これらは、単なる交流とは、とても考えられず、大和朝廷が成立して、畿内から役人が各地方に派遣されたとすれば、うまく説明できる。 方形周溝墓が出現している北九州北西部では、畿内系の高坏が出土するようになる。これは、高坏は祭祀土器であることから、北九州北西部で畿内系の祭祀が行われるようになったことを示している。その他の地方で出土する畿内系の土器に祭祀系のものが見られないことから、北九州北西部は大和朝廷にとって外国交易上特別な場所であり、特別な役人を配置して、重点支配したものと考えられる。 吉野ヶ里遺跡からも後期中葉になると畿内系土器が出土している。内豪の端あたりにいくつかがまとまって出土するといった形である。出土の仕方を見ると畿内から来た人々は少数で定期的にやってきてしばらく滞在していたようである。 |
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■第四項 鉄器について
次に、鉄器の分布を見ることにする。鉄器は圧倒的に九州からよく出土するため、九州王朝があったと考える人が多いが、九州地方と、それ以外の地方で形式の違う鉄器を時代ごとに分析してみると、そうではないことが分かる。 ■鉄鏃 まず、鉄鏃であるが、鉄鏃は九州系と畿内系とその形式が異なり、九州系は無茎で畿内系は有茎である。下のグラフは、九州地方と中四国近畿地方で出土した鉄鏃のうち有茎のものが占める割合を各時期毎に表わしたものである。これを見ると、後期初頭までは、鉄鏃の分布領域がきれいに分かれていたが、後期中葉以降、九州に畿内系の有茎鉄鏃が見られるようになることがわかる。そして、有茎鉄鏃の占める割合は、時が経つにつれて増加する傾向にあり、終末期には畿内の比率に近くなっている。しかし、九州系の鉄鏃は、九州から外へ出る傾向は見られない。次第に出土比率が減少しているのである。これは後期中葉あたりに大和朝廷が成立して、畿内の勢力が九州に及ぶようになったためと考えられる。 ■槍鉋 槍鉋も、後期中葉以降、九州系のAタイプは広島地方には一部見られるが、それ以外に九州の外に出る傾向は見られない。これは、九州に住んでいた人はほとんど九州外に出ることはなかったことを意味している。それに対し、中期末に中国地方に発したBタイプの槍鉋は九州へ入り込んでいる上に、後期後葉には全国に分布するようになっている。鉄鏃と同じく、九州のBタイプ槍鉋は年代と共に増加傾向にある。瀬戸内系の土器が中期末に畿内で出土するようになっていることから推察して、瀬戸内地域から畿内に流れたBタイプ槍鉋が畿内勢力によって地方にばら撒かれたと考えることができる。 後期中葉に広島県下に九州系槍鉋が出土するのは、同じ時期に広島県地方に大分系土器が出土するのと共通であり、大分宇佐地方からの集団移住があったためと考えられる。
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