幕府の政治

江戸初期の幕府財政綱吉と天和貞享の治新井白石と正徳の治吉宗と享保の改革家重の親政期田沼意次寛政の改革御三家1御三家2徳川家と島津家 
新井白石諸説 / 折たく柴の記1折たく柴の記2近代天皇家泡盛宗教観偉大な学者九州年号経済を理解できなかった折たく柴の記3正徳の治と享保の改革最初の邪馬台国研究者「北条代々天下の権を司りし事」第二の人生「古史通」「或問」「読史余論」西川砂見と新井白石の功績卑弥呼の謎を解く藍染の捕縄・・・ 
田沼意次諸説 / 田沼意次松平定信田沼意知殺害事件幕政改革藩政改革一橋治済田沼政権が倒れた理由老中の役割江戸時代の税天明飢饉時代の食べ物江戸の商売金貸し暮らし教育宗教政策医者貨幣制度法律と制度武士の俸禄敵討ち武士の金融と借金武士の経済苦江戸の災害・・・ 
幕府の政治2 / 長期支配体制幕藩体制幕府官僚幕府職制直轄地年貢陸路と伝馬制度水路治水工事糸割符制度と朱印船制度新田開発貨幣鋳造1貨幣鋳造2町奉行住宅弱者消防時の鐘荻原重秀課税制度新井白石享保の改革上米制株仲間大岡忠相金貨銀貨交換レート元文改鋳目安箱株仲間奨励長崎貿易統一通貨蝦夷地開拓田沼意次の終焉寛政の改革米沢藩岡山藩熊本藩薩摩藩土佐藩古伊万里朝鮮通信使富興行お蔭参り遊郭岡場所銭湯蔵屋敷と蔵元堂島米会所大名貸し大坂商人御用金令幕末経済インフレ対策と問屋保護徳川家と朝廷公家維新活躍の留学経験者・・・ 
幕府の政治3 / 荻原重秀田沼意次冥加金運上金貿易赤字蝦夷地開発田沼時代の改革燃えた改革町人向け金融・・・ 
江戸時代の税諸説大奥とお坊さん
 

雑学の世界・補考   

大江戸の街づくり 
 
徳川家康は、江戸城に入城した1590(天正18)年以降、江戸の街づくりに着手し、13年後の1603(慶長8)年には江戸幕府を開きました。天下普請と呼ばれる江戸大改造は、家康の江戸入り後、徳川家4代・約70年にわたって行なわれました。  
第1段階(1590〜1603年)家康の江戸入りから幕府が開かれるまでの間。この時に行なわれたのは、道三堀の開削、平川の付替、本丸の修理、西丸の工事などわずかなものでした。 
 
第2段階(1603〜1615年)幕府開設から豊臣家滅亡までの期間で、徳川家が天下統一を果たす時期。日比谷入江の埋立、江戸前島中央部の外濠建設、江戸城の大拡張工事が行なわれました。 
 
第3段階(1615〜1660年)幕藩体制が確立されていく時期。西丸築城工事、大規模な掘割工事が行なわれ、大江戸が成立しました。 
 
江戸初期の幕府財政

1.江戸幕府に関する財政史料  
江戸幕府は、その滅亡に際して、各部門ごとの資料を、原則として、新政府の該当する機能を有する官署に引き渡しています。たとえば、江戸町奉行所というのは、基本的に江戸の民政を担当する機関ですから、その資料は東京都に引き渡されました。その伝でいくと、江戸幕府の財政を担当していた役所である勘定所(かんじょうしょ)の資料は、江戸幕府が滅亡したときに、大蔵省に一括して引き継がれたはずです。  
しかし、財政だけはその例外で、ほとんど引き渡していなかったようです。やはりお金に絡む問題には、非常に生臭い部分がありますから、徳川氏が滅びるに際し、おそらく、かなりの証拠書類は、湮滅してしまったようなのです。  
その証拠に、明治初期の大蔵省は、幕府の財政史料がないために悪戦苦闘するのです。日本という非常に大きな単位の行財政を、それ以前の経験なしにするのが大変なのは当然のことといえます。そこで、大蔵省では、その発足の直後から幕府の資料を求めて苦労しています。  
『徳川理財會要』という本があります。その本の解題によると、この本が作られるきっかけになったのは、明治11年の段階で、時の大蔵卿大隈重信が、大蔵省記録局の中に理財會要調掛をおいて、徳川時代の財政に関する事跡の沿革を編纂させたことに由来するといいます。その調査方法というのは、同掛員を「各県に派遣して、編纂の資料を収集せしめ又徳川幕府時代財政の局に当たりたる人々につき旧聞を徴承し、或いは民間蔵書家の所蔵する古書類等を借り上げてこれを抄写し、同13年故佐野常民氏が大蔵卿になるに及び、当時華族部長たりし公爵岩倉具視氏に依頼し、旧藩各華族に令達して、古書旧記の参考となるものを借り上げて抄写する」というような方法です。もし、他の幕府機関の場合のように、そっくり資料が大蔵省に引き渡されているなら、このような苦労は当然必要なかったはずです。  
その後、明治20年に、大蔵大臣松方正義は、旧幕臣の取り纏め役とでもいうべき勝海舟に、再度、江戸財政資料の収集を依頼します。海舟は、勘定所に関係した幕臣を集めて編集した本に、『吹塵録』と名付けました。その序に、次のような文章があります。  
「本省先に幕府財務の実況を記するの書なきに苦しみ、これを勝伯に謀る。伯、為に此の書を編し、名づけて吹塵録という。記述詳明能く本末を悉くす。固より尋常の著を以て見る可からず。因て之を印刷に付し、他日の参考に便にす。別に附する所の図若干ありと雖も暫く之を略せり。  
明治23年1月大蔵大臣官房」  
大蔵省が、幕府財政史料の不足に悩んでいたことが、ここにもよく表れています。  
この書と前述の徳川理財會要との違いは、會要が幕府財政史の要点を、大蔵省の責任でまとめたという体裁の本であるのに対して、吹塵録は、生の資料を、体系的に纏めただけのデータブックだ、という点にあります。この中には、上は皇居造営の設計図から、下は一文銭の図柄に至るまで、手に入った資料であれば、何でも記録してあります。土木工事の際に、丸太を人力で運搬する場合の労働者数を積算するための丸太の長さと直径別の人数データなどという、本誌の読者の皆さんに関係の深いものもしっかり入っています。どんな資料でも、いつかは何かの役に立つと考えたのでしょう。吹塵録とは良くも名付けたものです。  
會要の場合には、元がどのような史料によったのかが必ずしも判らないものですから、吹塵録の方が、歴史資料としての価値が高いものになっています。勝海舟という人は、江戸城明け渡しに見せた腹芸だけが取り柄ではなく、実務能力も非常にある人だったことが判ります。  
徳川の財政史に対する研究方法は、このように、肝心の幕府勘定所の一次資料が明治初期の段階ですでに失われてしまっている結果、今日でも、すべて上記徳川理財會要や吹塵録の編集手段と変わりません。幕府の高級官僚の個人的に作った控えといった二次史料や、各地の公的機関の間接資料から構成したものになります。  
高級官僚の残した記録として有名なものをあげると、新井白石の『折りたく柴の記』や、松平定信の『宇下人言(うげのひとごと)』があります。後者は、奇妙なタイトルですが、定信という漢字を分解したものです。子孫のうち老中になった者だけに当ててかかれた自伝ですが、堅く封がしてあって秘函とされていたため、実際には読まれることがなく、ようやく昭和3年になって一般に公開された、といういわく付きのものです。  
このような資料は、書き手の自己弁護、ないし政敵への非難という要素が混入しますから、読むときに注意を要します。たとえば徳川綱吉の下で勘定奉行をつとめた荻原重秀は非凡な財政家と考えられますが、折りたく柴の記で白石が口を極めて貶しているために、歴史家も一般に奸悪な人物として彼をとらえています。同じように、非凡な政治家であった田沼意次の評判が歴史家の間で良くないのも、松平定信や彼の子分達が大量の文献をのこして彼を非難しているのに対して、田沼意次側の資料というものがほとんどない(おそらく松平定信が職権を濫用して湮滅したのでしょう)のが最大の理由です。  
異色の著者による資料としては、蜀山人、大田南畝の書いた『竹橋余筆』もあげるべきでしょう。南畝は田沼意次の全盛期に狂歌作家として活躍しますが、寛政の改革が始まって、表現の自由に対する弾圧が始まると、あっさりと著作活動に見切りをつけ、勘定所の下僚として精勤するようになります。その業務の一環として、勘定所書類の抜き書きをしたのが、今日に重要な資料となって残っているのです。  
本稿を、これから読んでいっていただくと、本章を含めて、これからの各章で、比較的些末な部分でぎょっとするほど詳しい数字を紹介できる一方、非常に基本的な部分でさえも資料がないために想像論を展開していることが、おわかりになると思います。それは、上記の理由から発生する史料のばらつきのためです。  
こうした江戸財政史全体に対するハンディに加えて、本章が対象とする江戸初期には、さらにいくつかのハンディが加わります。  
第1は、幕府の制度そのものが非常に流動的であり、そのため、機構が確立していなかったという点です。したがって、整備された資料が、そもそもはじめからとんど作られなかったようです。それでは、資料の残りようがありません。  
第2のハンディは、そのわずかの資料もおそらく、明暦の大火その他、度重なる江戸の火災の中で、失われてしまっているものが多かった、ということです。実際、江戸後期の記録の中に、そのことを明記した上で、関係者の記憶から再現したのだという断り書き付きの初期の記録というものが、いくつも見つかっています。その手の資料は、往々にして、他の資料と矛盾することも多く、実態の解明をさらに困難なものにしています。  
こうしたことから、特に1657年の明暦の大火よりも前の幕府財政については、はっきりしたことは何も判らない、というのが、現在の段階での一番正確な表現でしょう。その曖昧な中から、できるだけ確からしい部分を抜き出して以下に述べておきます。それが、次章以下で本格的に紹介することになる幕府財政改革の出発点となる基本的な財政制度を構成するものだからです。  
なお、普通の日本史ですと、その時代の年号を示すことで、文の対象となっている時点を示すのが普通です。しかし、江戸時代の改暦は非常に頻繁なので、それを示していると、西暦を併記してもなお、時間の流れが見えにくくなると思っています。そこで、以下の文中においては、上述の明暦の大火とか享保の改革とかいうように、固有の名称として確立しているものを引用する場合は別として、時点を示すだけの場合には、すべて西暦で統一することとします。 
2.江戸幕府の財政基盤

 

(1)幕府直轄領  
大名の支配の及ぶ土地のことを、その頃は蔵入地(くらいりち)と呼んでいました。文字どおり、そこで生産される米が、それぞれの蔵に入ってくる土地という意味でしょう。江戸幕府は、もちろん佐渡金山や石見銀山に代表されるように、ゆたかな鉱山も持っていましたが、財政の基盤ということになると、封建体制として当然のことですが、その滅亡まで、一貫して、幕府の蔵入地からのからの年貢米収入でした。  
徳川氏が江戸に城を構えた当時の蔵入地は、関東地方を中心に合計で120万石程度と推定されています。関ヶ原の合戦では、破れた西軍からの領地の没収高は622万石に達しました。徳川氏は、これを諸大名に対する論功行賞に使用したほか、この機会に徳川一門や譜代大名の創出を行います。が、それだけではなく、かなり徳川宗家自身も蔵入地を増やしています。その結果、この時期以降は240万石程度になり、また関東に偏っていたものが、この時以降、全国的に分布するようになりました。  
私が幕府初期と呼んでいる時期は、将軍で言うと、家康、秀忠、家光、家綱の四代の統治期間です。この時期に、かなり大量の大名の改易、すなわち取り潰しが行われています。  
幕府成立後、初代の家康存命中に改易・減封された大名は40家(外様26、譜代14)に達します。ついで、二代秀忠の時代に改易・減封になった大名は37家(外様25、譜代12)となっています。もっとも、この時代には、同時に、尾張、紀伊及び水戸の御三家などの創出も行っていますから、その改易が、直接すべて幕府直轄領の増加につながるわけではありません。  
三代家光の時代に改易・減封になった大名家は計30家(外様23、譜代7)です。この時、家光は、次男綱重に甲府徳川家を、また三男綱吉に館林徳川家をそれぞれ創設させます。これは後の吉宗時代の御三卿と同様に、将軍家と御三家の中間の特殊な存在となり、五代及び六代の将軍はこの両家から出ます。とにかく、このような創設が行われる結果、この場合も改易・減封、即、幕府直轄領の増加というわけではありません。  
最後の四代家綱の時代に入ると、生前に後継者を決めて幕府の認可を受けておかなくとも、臨終の枕元で養子を取ることを認める末期養子という制度が認められるようになります。この結果、後継者の不存在による改易は激減することになりますが、それでも32家(外様17、譜代15)が改易・減封の対象になります。処罰の対象となる譜代と外様の数が接近していることは、この頃の処罰は決して外様いじめを目指したものではなくなってきていることを示しています。  
結局、初代から四代までで、領地を没収された大名は139という大きな数字になります。その過半数はもちろん外様ですが、一門や譜代大名も、後継者の不存在その他の理由から改易になるものはかなりの数に達します。他方で、取り潰された大名家が新規に家を建てることが認められたり、既存の大名の増封もありますが、それでも、この時期に、幕府蔵入地は急激に増加して、四代家綱が死亡する1680年の時点では、326万石に達していました。  
幕府蔵入地には、この当時、幕府が代官を派遣して統治する領地、佐渡や長崎など遠国(おんごく)奉行を派遣して統治する領地、そしてその近隣の地の大名に土地の管理をゆだねる大名預所(あずけしょ)の三通りの管理形態がありました。中核になるのは、何といっても代官による統治地域です。この代官統治の蔵入地を、以下においては、幕府直轄領と呼ぶことにします。  
これについては、天領と呼ばれることが普通でしょう。それは、幕府直轄領の農民が、他の大名領の農民に対してプライドを込めて自称したものであって、正式の名称ではありません。ただ、幕府直轄領か否かは、確かに農民の生活にかなりの影響がありました。幕府の場合には、公定年貢率が四公六民、すなわち40%であって、この点ですでに五公五民が普通の大名領より楽であり、しかも実際には、後述するように、代官所職員数がかなり少ないため、徴税活動の浸透率が低く、40%の徴収率に達することはなかなか難しかった様です。ずっと時代が下って、1843年に時の老中、水野忠邦が出した上知令の中には、三ツ五分という表現がでてきて、その頃になると、公定収納率そのものが35%に低下してしまっていることが判ります。これに対して、大名領では当初から五公五民、つまり50%の収納率であり、後には更に厳しくなっていきます。こうしたことから、幕府直轄領の住民、即、楽な生活、というニュアンスがありました。これがおそらく天領という言葉が使われた真の理由でしょう。  
もっとも、代官は民政全般について管理権を持っていますから、その代官の個性によって生活が激変します。代官の圧政に耐えかねて、幕府直轄領の住民が一揆を起こしたことは、江戸期全体を通じて53件に上っています。  
(2)工商税  
一般に、日本史の教科書等では、家康は、織田信長以来の楽市楽座政策を承継したので、商業や工業に対しては原則として不課税の原則をとっていたとされています。  
しかし、少なくとも一部の業種については、かなり早い時点から、租税徴収を行っていたことが、僅かに残る理財會要の記録の中に見えています。  
記録に見える一番古い例は堺市の朱座、すなわち朱製造の同業組合に課したもので、従来年に銀800枚だったものを、1606年から年1700枚に増税するというものがあります。この場合、始まりがいつかは判りません。  
また、1665年から、銀座、すなわち銀貨製造業者の組合に対して、年に銀1万枚の租税を課していたこと、そして納付期日は毎年7月とされていた、という記録があります。  
上記二つは、座という特権的な組織に対して課税しているので、一般的な工商税ではありません。その限りでは、教科書は正しそうです。  
しかし、次のものはどうでしょうか。  
1668年の記録に、江戸及び関東地方の染め物屋に対して1592年以来、染め物の甕1つ当たり年に米1斗を課徴していましたが、最近は米の値上がりが激しいので、今後は米1斗の代わりに銭200文を納めるように規則が変更された、という記述が見られます。この場合には、染物屋という業種全体に対して、何らの特権無く課税されているわけです。  
1658年の記録には、江戸市内における商工税則を定めたという記述が見られます。古着屋と茶屋の営業を行う場合には、許可が必要で、その鑑札を受けるに当たっては税金が年に1両といいます。また、床屋の営業許可については、鑑札を受けるに際し税金が年2両、その床屋の弟子についてはやはり鑑札が必要で、その際年1両の税金です。これらの場合には、特定の業種が許可制になっていて、その許可を受けるに当たり、免許税が課されていたわけです。  
また、近畿圏の場合には、当時既に運河による水運が発達していたのですが、その船からも税金をとり立てています。1603年に既に取るようになっていたのは確かですが、1616年になって税制が整備されました。それによると、米穀を運搬する船の場合には、積載する米穀100石について銀6匁の割合で税金を納付させる、とあります。  
どの場合も、税額は、座に対する特権料に比べると、かなり低額ですが、その分、特定業種のすべてを課税対象とする、大衆課税型の特徴を示しています。冒頭に記したとおり、この当時の記録は元々無いのか、あるいはその後の火災で湮滅してしまったのか、いずれにせよほとんど残っていません。  
しかし、これらの例が存在していることから見ると、実際には、かなり様々な業種から、この場合と同様に、毎年幅広く租税の徴収が行われていた、と推定する方が良さそうです。ただ、その広がりがどのようなものであったかは、全く判りません。  
したがって、楽市楽座という基本方針を江戸幕府が承継していた、というのが正しいのかどうかは疑問です。あるいは、楽市楽座とは、完全な無税のことではなく、このような低額大衆課税という意味だったのかもしれません。  
(3)貨幣高権の掌握  
秀吉は、貨幣高権の重要性を認識し、金貨銀貨の発行権を独占していました。家康も、同様に早くから貨幣鋳造権を幕府が独占することの重要性を認識し、関ヶ原の合戦により覇権を確立直後の1601年に、早くも金貨及び銀貨の鋳造を開始しています。  
この時発行した金貨は3種類あります。大判、小判及び一分金です。  
慶長大判は、44.1匁の重量があり、金の純度は68.11%でした。金純度のことを品位といいます。これについては発行量は不明です。その後、家綱の時代になって再度慶長大判の名のあるものを発行していますが、これは金67.27%と若干品位が下がっています。が、このころの金貨には出来にばらつきがありましたから、単なる調査対象貨幣の個体差に過ぎないでしょう。こちらの方は発行総量が約1万5千枚と吹塵録では推定しています。  
いずれにせよ、これは実用の通貨ではなく、賞賜、贈答などの目的に使われたようです。建前としては、小判10両で大判1両です。が、次に述べるとおり、小判の方がずっと良質の通貨だったので、実際の交換レートは小判8両2分程度で大判1枚というのがやっとだったようです。  
慶長小判は4.76匁の重量があり、金86.79%で残りは銀という驚異的な高品位通貨でした。本当は純金で作るつもりだが、それでは消耗が激しいので、不純物として銀を混ぜたという説明が、吹塵録にあります。慶長一分金は、1.19匁で金品位は小判と同一です。両者合わせて、綱吉が最初の改鋳をするまでの間に1472万7055両が発行されています。4分で1両に相当します。  
銀貨は2種類発行しています。慶長丁銀と豆板銀です。  
丁銀というのは、なまこ型をした銀の棒で標準重量は43匁ということになっていましたが、その前後に10匁内外のばらつきがあったようで、重量は一定していません。したがって、使用に当たっては、一々秤に乗せて重量を確認することが必要になります。  
豆板銀というのは、よく時代劇で小粒といわれているもののことで、板状をしています。重量は1匁〜10匁でこれも一定していません。丁銀の補助通貨として考案されたもので、この時初めて発行されました。この慶長豆板銀が発行されるまでは、適当な重量の丁銀がないときは、それを切っていましたが、これによりその必要性をなくした、という点で、非常に重要なものです。  
品位は丁銀も豆板銀も銀80%です。これは綱吉時代の改鋳までの間に、120万貫が発行されています。金貨、銀貨については、こうした大量発行によって、通貨高権の確立に成功したといえます。  
幕府創世期には、大名によっては、自ら通貨を発行した例もありました。しかし、幕府はまず、1625年に実態調査を行った上で、1627年に紙幣(「楮鈔」という表現を使っています)の通用の停止を命じます。  
金貨や銀貨を作っていた場合には、この禁止令は適用されませんでしたが、1635年に定められた参勤交代制により、参府滞在を義務づけられた大名は、否応なく品位が一定していて広い通用力を持つ幕府通貨を使用せざるを得ず、統一通貨体制に組み込まれていくことになります。  
たとえば加賀藩は、藩祖前田利家の入国以来、金銀貨を鋳造し、藩内限りで通用させていましたが1664年から幕府製造の通貨に切り替えることにしています。  
その後は、各藩が、新たに自藩内限りの通貨を発行したければ、幕府の許可が必要な状況へと自然に変化していったようです。すなわち、記録にある限りでは、金銀課の製造を幕府が公式に禁止したことはなさそうです。  
これに対して、銅貨について江戸幕府が貨幣高権を確立することは、かなり大変でした。これは、こうした庶民用の通貨については、秀吉は関心が無く、なんら対策を講じていなかったためです。家康は、自力での貨幣鋳造能力を持っておらず、秀吉の人的物的資源を承継して通貨の鋳造を行っていたために、秀吉の貨幣政策の欠陥も、そのまま承継することになったのです。具体的に言うと、金貨や銀貨については、秀吉の下で貨幣鋳造を担当していた後藤庄三郎等をそのまま起用して、鋳造をさせていましたが、銅貨については、鋳造スタッフから探す必要があったのです。  
そもそも、その当時、わが国には銅貨のきちんとした製造技術がありませんでした。室町幕府は、銅貨を国内生産せず、中国から永楽銭をを輸入してそのまま国内に流通させていたからです。もちろん、それだけでは不足したために、かなりの私鋳銭が出回っていましたが、それは「びた銭」と呼ばれました。「びた一文負けられない」なんていう表現の中に、悪貨の代名詞として今日までその名が残っているほどに粗悪なものでした。  
家康は、1606年になってようやく慶長通宝を鋳造します。また、秀忠も19年に元和通宝を鋳造します。いずれも1文銭ですが、どの程度の発行量かは判っていません。が。あまり大量ではなかったらしく、一般的には依然として永楽銭が主流でした。どうやらこの頃の徳川幕府は、銅貨は、作るのがやっとで、とても大量鋳造するどころではなかったようです。  
1636年に、家光は寛永通宝を鋳造します。これは1文銭で重量は1匁ありました。しかし、これも代替わりのプレゼンテーションに過ぎず、依然大量鋳造はできませんでした。  
こうした時期に、個人的に銅貨の中から粗悪なものを選りだして廃棄されたりすると、社会の中の通貨の絶対量が不足して、悪政のデフレが起きかねません。そこで、幕府は度々撰銭(えりぜに)禁止令を出しています。  
この後に技術的なブレイクスルーが起きたらしく、1660年代に入って、寛永通宝の大量鋳造が始まります。すでに家綱が将軍である時代に入ってからのことです。この正確な発行量は、やはり判っていませんが、新井白石によると、16年間で197万貫を発行している、とのことです。この段階にいたって、ようやく銅貨の統一が可能となり、幕府が通貨のすべてについて高権を確立するに至ったのです。
3.幕府財政管理機構

 

幕府財政の中央管理機構は、発足当初から勘定所と呼ばれていたようです。これに対して、地方管理機構は代官所と呼ばれていました。そして、現業部門は御蔵と呼ばれていました。このそれぞれについて、判っている限りのことを、以下に説明しましょう。  
(1)勘定所  
幕府直轄領の中央での統括・管理が、勘定所の基本的な業務です。この場合の管理とは、今日の税務署のように徴税業務に専念せず、その直轄領に関するすべての活動、すなわち民事に関する立法、司法、行政のすべてにわたって管理するという意味です。これを一口に民政と呼びます。  
江戸町奉行所が、江戸における同様の役割を担う機関ですが、一般に時代劇では、刑事警察活動と司法活動しか行っていないように描かれています。確かに、この最初期には、庶民からみた場合、その二つが、民政活動の中心ということができたでしょう。ただ、江戸も時代がたつにつれて、水道事業やゴミ・屎尿処理、生活困窮者の救済、非行少年の更生施設の運営など、今日でいう社会福祉行政が重要なものとなって現れてくるようになります。  
勘定所ないしその支配下にある代官所にとっても、そうした事情は、町奉行と同様で、幕府直轄領内の立法、司法、行政のすべてを一手に把握していました。しかし、中心になるのは、公租の徴収と訴訟であるのはいうまでもありません。  
勘定所が、いつ頃からできて、どのような活動をしていたのかは、先に述べたような理由からはっきりしません。1606年の日付の文書には、すでに「勘定所」という名称が現れています。おそらく1603年に幕府が成立した時か、ないしそれ以後のかなり早い時点に江戸に創設されたと考えてよいでしょう。ただし、その頃は、幕府直轄領に配置された代官がそれぞれに活動していたはずですから、必ずしも統一的な組織にはなっていなかった、と考えて良いでしょう。したがって、この日付で示される勘定所が、後の勘定所と同じ権限を持つ機関であったとはいえません。  
勘定所のトップとしての業務は、徳川家が関東に入部する時期から幕府が成立するまでは、年寄、すなわち後の老中に当たる地位にあった者、特に本多正信の職権の一部であったろうと思われます。しかし、実質は、大久保長安などの地方奉行がかなり処理していたと思われます。  
1604年に大久保長安が「所務奉行」に任命されました。この所務奉行という言葉が具体的に何を意味するのかは、江戸時代でも少し時間がたつと判らなくなっています。しかし、通説は、代官頭(だいかんがしら)を意味する、と理解しています。代官頭であるとすると、その地位には、外に伊奈忠次、彦坂元正、長谷川長綱の3名がいました。しかし、その中で大久保はとりわけ財政面に明るかったことから、彼が代官頭になった後は、事実上、勘定所業務の統轄を担当していたようです。そこで、彼を初代の勘定所のトップとする見解もあります(先に名をあげた徳川理財會要はその見解を採っています)。  
大久保長安という人は、もともと甲斐の武田氏の猿楽師という家柄ですが、主家滅亡後、徳川氏に仕え、特に小田原城主大久保忠隣(ただちか)の庇護を得て、大久保の姓を名乗るようになります。徳川氏の検地の中心となって活躍したほか、五街道の整備や石見、佐渡その他の鉱山の開発に優れた能力を発揮して幕府財政基盤を築き、「天下の総代官」と呼ばれた人です。その活動内容を見ると、まことに異能の人というに相応しく、何でもこなしています。とうてい、後年の勘定奉行の範疇に収まる活動ではありません。その広範な活動の一環として、実質的に勘定所のトップもこなしていた、という程度に考えれば良さそうです。  
家康は、1607年以降は大御所として駿河に城を築いて隠居します。しかし、実際は政治の実権を離さず、君臨していました。従って、彼の在世中は、幕府の構造自体が、江戸と駿河の二元支配構造になっていました。そのため、財政管理体制もかなり混乱していたようです。勘定所も、江戸と駿河の双方にあったと考えられています。しかし、力があるのは、当然のことながら、大御所家康の君臨する駿河政権の方でしたから、勘定所も、駿河の方が力がありました。  
この駿河政権の下の勘定所のトップには、1609年以降、松平正綱が当たっていました。当初、3千石取りでしたが、会計面における優れた業績から加増を重ね、最終的には相模の国甘縄2万2100石の大名にまで出世をします。なお、この正綱自身には代官としての経歴はありませんが、彼の実父の大河内秀綱は、徳川家が三河にいた時代に代官を務めており、関東入部後も代官頭伊奈忠治の家老格の代官でした。したがって正綱も代官業務のなんたるかは子供時代から良く知っていたはずです。ちなみに、この正綱の養子になったのが、松平信綱、すなわち後に知恵伊豆と呼ばれて老中として幕府政治を自在に切り回した人物です。  
この松平正綱の次席として、曽根吉次が活躍しました。綱吉の時代に、会計検査官の元祖として勘定吟味役という制度が誕生しますが、この時代、曽根は、そのいわば先駆けともいうべき業務を行っていた、と考える人もいます。  
他方、江戸政権の方の勘定所のトップには、伊丹康勝が任命されていたといいます。任命の時点ははっきりしませんが、正綱よりは後のようです。この人も、大久保長安と同じく、武田の遺臣で、家康の下で、父親も代官として働いていました。康勝自身も、秀忠に近侍し、長安の下で代官などを務めていました。彼もその後、順調に出世し、家光の下で、甲斐の国徳実1万2000石の大名になっています。  
すなわち、長安も含めて、初期の勘定所のトップにいた人々は、いずれも代官出身者かその一族でした。代官業務の実務経験が、勘定所業務に必要欠くべからざる時代だったことが判ります。こうした能力のことを、当時は「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼んでいました。  
1616年に家康が死ぬと、松平正綱はその財産整理の中心となって活動します。家康の遺産は金だけで総額200万両に上ったといわれます。これは、一説によると、尾張、紀伊両家に30万両づつ、水戸家に10万両が分与され、残りは江戸政府が引き継いだといいます。これが家綱時代までの幕府財政の基礎となります。  
以後、松平正綱は、統合された勘定所において、伊丹康勝とともに、そのトップとして活躍していくことになります。正綱が伊丹を後継者として推薦したという記録もあることからみて、正綱の方が上席だったようです。こうしたことから、日本史の通説では、松平正綱を勘定頭の初代に当てています。  
ただ、注意しなければならないのは、それは今日的な感覚でいう発令による地位というものではない、という点です。この時代は、ある問題を処理する能力を持った人が、個人の才能の程度に応じて様々な業務に関与し、その命令に応じて人が動くという状況があれば、その人がその部門のトップと認識されるという具合だったのです。だから、勘定所があっても、そのトップという職が法制的に存在していた、と法的に言うことはできないのです。このため、松平正綱がいつからいつまで勘定所のトップとして業務を処理していたのか、正確なところは判りません。先に名をあげた大久保長安を初代と考える場合も、同じことです。  
1623年に秀忠は、将軍職を家光に譲って引退し、江戸城西の丸に入って大御所と称します。ここに再び大御所と将軍の二元政治が始まりますが、財政的に秀忠がどの程度独自の基盤を持っていたかははっきりしません。しかし、大御所時代の家康ほど、はっきりした独自の財政基盤を持っていたと考える必要はなさそうです。  
1630年に、先に、松平正綱の次席として名をあげた曽根吉次は「関東の勘定頭」に任命されます。これが勘定頭という役職名が現れる最初のようです。但し、名称は関東でも、実際には全国各地の同種業務に関与していました。この当時の徳川幕府官職の通有性と言えるでしょう。この曽根という人物も、大久保長安や伊丹康勝と同様に武田の遺臣で、この地位に上がるまでの間、各地の代官職を務めています。また、後、1641年には総勘定頭という名称を与えられています。  
1632年に秀忠が死亡することにより、家光による本格的な親政がようやく開始されます。この頃には、幕府の取り扱うべき業務量がかなり増加していましたから、職制を整備し、権限を明確化する必要が認識されるようになってきます。  
まず1634年に、後に「老中職務定則」及び「若年寄職務定則」と呼ばれるようになる規則が作られます。それまで、家光政権の下では、年寄は酒井忠世、土井利勝、酒井忠勝の3人でしたが、これだけでは業務が停滞するようになったので、年寄の権限の一部を松平信綱らの六人衆(これが若年寄の起こりとなります。)及び町奉行に分割したのです。この段階では、後に勘定奉行の職権となるような様々の権限は、そのまま年寄の権限として残っています。松平正綱が、実質的に勘定所のトップとしての職務を果たしていた、と述べましたが、逆に言うと、彼が、年寄並という権威を持つようになっていた、ということを意味しているのです。決して、後の勘定奉行のように、老中の下にあって、その指揮監督を受ける地位と考えるべきではありません。  
この翌1635年に、今度は、後に「老中並諸役人月番の始及分職庶務取扱日定則」と呼ばれる規則が作られます。これは幕閣における事務分掌を定めたものです。しかし、この場合も、その後のように官職があって、それに対応して職務があるというのではなく、職務に対応してその任に当たる人が列挙されている構造になっています。それらの人には、肩書きとしての官職はありません。  
この中で、後の時代の勘定奉行の権限に該当するものを探していくと、例えば、「金銀納方」というのがあります。これには年寄の酒井忠世に加えて杉浦正友、酒井忠吉外2名の留守居役が名を連ねています。この留守居役という官職は、その後だんだん有名無実化して閑職となり、もっぱら上司の逆鱗に触れたり、老齢になって実務能力が低下した高級官僚の左遷先となりますが、このころは、大奥、すなわち、将軍の私的生活に関する万端の指揮命令を下す重要な職でした。それと兼任しているということは、まだ幕府の行政活動などにかかる公会計と、将軍の私会計が未分離の状態であったことを示しています。  
また、「関東中御代官方百姓等御用訴訟」の担当者には、松平正綱、伊丹康勝、伊奈忠治、大河内久綱、曽根吉次の5人が名を連ねています。ここでは訴訟権限だけが定められていますが、これはこの年に明確化された幕府の最高裁判所というべき評定所の審理規則の制定と絡んで規定されたためと理解されます。実際には、この5人が、それ以外の勘定所のトップとしての業務も、実際に処理していた、と推定されています。なお、大河内久綱はここで初めて名が出てきましたが、松平正綱の実兄で、その養子信綱の実の父です。  
勘定所そのものの機構がきちんと整備されてくるのは、1638年からです。この年に、幕府は、幕府直轄領の支配を、上方と関東方の二元支配とすることを決めます。そして勘定所の実務に携わる「勘定」12名が初めて正式におかれます。上方4名、関東4名、それに作事方(土木事業担当)4名とそれぞれ同数づつ配置したと考えられています。もっともこれまでそうした雑務を年寄等がいきなりやっていたはずはありませんから、これは正式発令に過ぎないと考えるのが正しいでしょう。  
1642年になって、ようやく正式に、勘定所のトップを務める者に対して「勘定頭(かんじょうがしら)」という名称が与えられます。この官職が最初に発令されたのは、先に名をあげた伊丹康勝、杉浦正友、酒井忠吉、曽根吉次の4名という事になったとされます。  
つまり、先に金銀納方担当とされた杉浦と酒井の2人と先に関東百姓訴訟担当とされた伊丹と曽根の2人の計4人というわけで、ようやく、権限的に後の勘定奉行とほぼ一致したものが登場してきたわけです。このうち、杉浦はこの後も留守居役も兼任していました。しかし、この兼任は、1651年に彼が勘定頭から退いた後は行われていません。この時期が、幕府公財政を勘定所が担当するという概念が確立した時期と考えられます。  
この前後の時期を、一般に日本史学者は「慶安幕政改革」と呼んでいます。すなわち、まず1648年に将軍の身の回りを世話する納戸役制度が確立します。そして、1651年には納戸方、細工方、台所方などの権限を定めた「御役方御条目」が制定され、狭義の将軍財政と公的な幕府財政の関係が定められることになります。留守居役杉浦正友の勘定頭兼任の廃止はまさにそれを象徴する人事といえます。  
ちなみに、この1651年という年は、家光が死んで、家綱が将軍となった年でもあります。  
但し、この後も、留守居役の財政への関与は続きます。金銀の出納事務は、後に述べる御金奉行の権限になりますが、これはこの後も留守居役の支配に属していました。また、通貨を製造する実務を担当していた金座や銀座もまた、留守居役の支配に属していました。これらが勘定頭の支配に変わるのは、綱吉が政権をとった後の1689年のことです。この時にいたって、幕府財政機構は、勘定頭によって全面的に掌握されることになります。  
従来、勘定頭の業務を行っていた5人のうち、この時発令のなかった伊丹と曽根以外の3人について述べると、松平正綱は地位が高いために別格となっていたのであって、職権がなくなったのではない、と考えられています。伊奈忠治は、後に説明する関東郡代の職に専従することになり、明確に勘定頭業務から退いています。また、大河内久綱は、これ以前の1638年に既に退職していました。  
1659年になると、勘定の指揮下に立つ「支配勘定」24名がおかれます。業務量がいよいよ増加してきたので、正規の職員を増加させる必要が生じたのでしょう。  
そして1664年に、「勘定組頭」6名の発令があります。これは、勘定の上役で、勘定所実務の筆頭として機能します。  
1674年には、勘定組頭は倍の12名に増員され、役料100俵が支給されます。管理職であることが認められたわけです。  
勘定所には、後になると、江戸城本丸にある御殿勘定所(あるいは単に殿中という)と、大手門内にある下(しも)勘定所という二つの執務場所がありました。しかし、いつ頃からこのように二つの執務所があるようになったのかは判っていません。また、先に述べたとおり、これとは別に、上方にも支所が置かれていました。勘定所業務そのものが、その対象区域を上方と関東方に二分していて、勘定組頭も、上方御勘定、関東御勘定というように人員が振り分けられていました。当時の通信事情によるものでしょう。この結果、勘定所は二元構造を持っていたことになります。この構造は享保の改革まで続きます。  
こうして一応機構が完成した時点での、その業務分担を紹介すると、殿中の勘定所は、今日の感覚でいえば官房に当たり、勘定所内の人事担当部門、勘定頭より老中、若年寄又は将軍に伺うべき書類の下調べ等の総務担当部門、それに歳出入を管理する部門などから構成されていました。これに対して下勘定所は、代官から将軍等へ上申されてくる書類を調べる部門、同じく代官からの帳簿類の検査・検討を行う部門、幕府からの租税や貸し金を担当する部門などから構成されていました。幕府の人事の特徴として、それぞれの部門には、複数の勘定組頭が配置されています。  
(2)代官  
一口に、代官といいますが、正式には郡代と代官の二種類がありました。業務内容的には同一ですが、郡代の方が、幕臣としての身分が高く、布衣(ほい)、すなわち六位相当の身分を持つ者でした。これは勘定所でいうと、後に設置される勘定吟味役の身分と同格です。  
幕府創世期には、先に大久保長安に関連して名称をあげた代官頭という制度がありました。しかしその中からまず彦坂元正が失脚し、ついで大久保長安の生前の不正を弾劾されて、その一族が失脚します。これらの支配地域を吸収する形で伊奈家が成長し、1618年以降、関東郡代とされます。もっとも、この関東郡代は、規模といい、格式といい、由来といい、普通の郡代とは全く別格というべきものでした。  
それ以外の郡代の場合には、基本的には代官とさほど違いはありません。どこが郡代の統治領なのか、ということは時代によってかなり変動します。ここで取り上げている初期の段階では、関東の外に、摂津河内、尼崎、丹波、三河がそれぞれ郡代とされていました。郡代の支配地は、一般に10万石以上といわれますが、他方に、10万石を越える代官領もあり、これは確定的な基準ではありません。  
違いは、その支配者に就任する者の身分と考える方が確かでしょう。先に述べたとおり、郡代は幕臣としての地位が高いのに対して、代官は、ほとんどが100石〜200石取り程度の軽輩でしめられます。勘定所でいうと、勘定ないし支配勘定級の身分となります。それどころか、この当時には、その土地の土豪や豪商が当てられている例もあります。特に商品経済の発達している上方でこれが目立ちます。その場合には100俵〜200俵の役料が支給されるだけになります。  
しかし、業務内容的には差異がないので、以下では、特に、郡代と代官を区別することなく、両者の総称として代官という語を使用します。  
代官は、建前的には一代限りの職ですが、このころは事実上世襲制でした。一人の郡代や代官の統治する地域は、25万石から4万石程度までにかなりばらつきがありますが、いずれにしても、中堅どころ以上の大名領に匹敵する広さがあります。  
代官所の経費については、口米(くちまい)ないし口永(くちえい)と称される年貢に対する付加税で賄うことになっていました。1616年に制定され、享保の改革まで続いた規則によると、関東方の場合には年貢米3斗7升について口米1升を課することが認められていました。上方の場合には年貢米1石について口米3升が認められていました。また、金納の場合には、何れの場合も100文について口永3文とされました。この付加税方式による代官所の独立採算制は、享保の改革まで続きました。  
代官所の職員の名称は必ずしも一定しませんが、手代などと呼ばれていました。あくまでも代官の雇い人であって、幕府の吏員ではありませんでした。したがって、何かの問題を起こして代官が罷免されるときには一緒に辞めることになります。後には、固定的な階層が生まれてくるようですが、このころは、代官が農民の中から適当な者を選んで採用していたようです。  
その俸給は、上記の口米等で賄う必要があるので、どの代官もできるだけ人数を切りつめていました。したがって、職員数は3〜8人が普通で、何かの理由で多いところでもせいぜい十数人止まりでした。同じ石高の大名領や、今の官庁の観念から考えると、およそ考えられないくらいの少人数で、管轄区域内のあらゆる業務の処理をしていたのです。  
家康は、代官と徳利は最後には首を吊すものだ、という趣旨の警句をはいています。徳利(とくり=とっくりとも言う)は、最近の若い人は知らないかもしれないので一言すれば、陶製の酒を入れる容器で、胴が太く、首が細くなっており、持ち歩く時はその細い首の部分に縄を巻いて下げました。つまり、代官は、その身分の割に、現地では非常に巨大な権力を行使することができ、監視体制が不十分であるだけに、どうしても不正が発生することは避けられず、最後にはそれがばれて処罰されて首を吊されることになるものだ、という訳です。  
トップがそういうつもりで見ているのですから、代官制度の歴史は、代官の行動や会計に対する検査の歴史という観を示します。幕府は、1610年に既に代官所の賦税に関する会計の監査を行っています。その後、1619年、1631年にも年貢を年内に必ず幕府に納めるように命ずるとともに、前任の代官が徴収しなかった分については後任の代官が必ず責任を持って徴収するよう命令する通達を発しています。  
しかし実際にはなかなかそれが徹底しないことから、年貢の収納を、個々の代官がバラバラに実施する体制から、勘定所が統一的に掌握する体制に切り替えるのは1649年のことです。先に、慶安幕政改革という言葉を出しましたが、これもその一環です。その後さらに法制面を整備し、各年の年貢は、3月に中勘定(要するに予算を算定)し、正規の決算はその1年後に行うということになりました。また、年貢を納めるに当たって、代官が一方的に徴収するのではなく、納入者自身に、課税台帳に間違いない旨の判形をさせるように、ということも決まります。このルールは享保の改革まで続きます。  
他方、代官自身の非違不正の発見の努力も根強く続けられます。それが発見された際には非常に厳しい処分が待っています。家康から家綱までの4代の間に不正行為により処分された代官は合計で22人を数えます。処分の内容は、切腹2名、流罪4名、改易4名という調子で、非常に厳しいものです。  
(3)現場機関  
勘定所の下の現場機関として、金蔵や米蔵があります。米蔵は普通、単に御蔵と呼ばれていました。経済の発達が、関西圏の方が早かったため、これらの現場機関も関西から先に整備され、後に関東となっています。  
A 米蔵  
上方には、一番最初に1617年に淀御蔵奉行の発令が、また翌1618年に伏見御蔵奉行の発令が、そして翌1619年に大阪御蔵奉行の発令が、それぞれ記録上確認できますから、江戸よりも早くから御蔵が設置されていたことは確実です。淀、伏見の二つの御蔵は、その後、1621年に大阪御蔵奉行の管轄下に移行します。また、二条城が造営されるのに伴い、1625年には二条御蔵奉行が設置されています。  
これらの蔵奉行は、この当時は、それぞれ大阪町奉行及び京都町奉行の支配に属していました(後には勘定奉行に直属することになります)。こうした現場機関は、どうしても不正経理の温床となり易いものです。そこで、その出納は、蔵奉行が検査する外、大番組蔵目付、城代下士、両定番与力、両町奉行配下の蔵目付の合計5つの機関が検査に当たりました。これを、五ヶ所目付と呼びます。こうした点から言うと、会計検査は江戸幕府の場合、その発祥と同時に行われている、と言って良さそうです。  
江戸の場合には、浅草に1620年に御蔵が置かれます。鳥越丘を崩して、隅田川右岸を埋め立て、石垣を築いて土止めをし、船入りのために8本の堀割を設け、それぞれに水門があったといいますから、堂々たるものです。この時代にどのくらいの面積があったかは判りませんが、将軍家斉時代の記録には、総坪数3万6648坪(約12万1000u)とあります。  
なお、江戸城の門の一つに和田倉門というのがあるのはご存じと思いますが、この和田倉というのは創建が古く、徳川氏の関東入部直後の頃に立てられたものと思われます。それを移設したのが、浅草の御蔵というわけです。もっとも、明暦の大火後、一時期、もう一度和田倉に蔵が設けられたことがあったようです。  
これらは、初めの頃は、勘定所の支配を受ける機関とは考えられていませんでした。すなわち、そのころは、米に蔵米と城米の区別があり、それぞれに、その管理責任者として浅草蔵奉行と城米蔵奉行が置かれていました。  
蔵米は、旗本や御家人に対するサラリーが主たる使途です。が、その他の一般行政費の原資にも充てられるものです。  
これに対して、城米は、兵糧米の備蓄等に当てられるものでした。実際には、この城米は、全国各地の城に城詰米という形で備蓄され、飢饉の救済その他に機動的に利用される性格のものでした。江戸に非常の事態が起きた際には、全国から江戸にこれを送る含みがあったことは当然です。  
広い目で見れば、蔵米も城米もいずれも軍事用の米という認識から、蔵奉行は、大番組(将軍直属の軍団。大番頭はこの時期には老中自身)や小十人組(将軍の親衛隊)の出役になっていました。奉行の数は、時代によって違いますが、例えば1642年には、大番組から2名、小十人組から4名の計6名が、浅草蔵奉行と城米蔵奉行にそれぞれ任命されていますから、合計12名も蔵奉行がいたことになります。  
これが勘定所の支配を受けるべき機関であるという認識ができて、勘定の地位にある者から発令されたのは、綱吉の時代に入った後の、1687年が始めてのことです。その時には、奉行の定数は10名となっていましたが、そのうち半数の5名が、勘定の職にある者から発令されたのです。しかし、かなり後まで、大番組等からの発令も続きます。幕府という軍事政権の下では、兵糧米という認識を捨てることはできなかったのでしょう。  
蔵の管理の実務を担当する職員としては、御蔵手代、御蔵番、御蔵小揚などがいます。  
御蔵手代は、1665年に24名が置かれます(但し、これは資料によりはっきりと発令が確認できる最初であって、これ以前からいたことは、後に触れるように、1642年に既に手代の中から処罰されたものが出ていることから、確実です)。実務上の必要が高かったのでしょう、その4年後の1669年には早くも32人に増員されます。その後も、1674年に48人、綱吉が政権についた後になりますが、1687年には56人とうなぎ登りに増加しています。  
御蔵番はこの当時は大体10名程度だったようです。御蔵小揚には、さらに小揚頭、杖突、平小揚等の名称の職員がいましたが、1665年の資料では、小揚頭10人、杖突20人、平小揚280人で、合計310人となっています。何によらず、少人数でこなす幕府職員の中にあってずば抜けた数ですが、重たい米俵の人力による運搬業務ということであれば、やむを得ないということでしょう。  
不正経理の危険性は大阪の蔵の場合と同様に、ここにも存在します。そこで、その出納については、蔵奉行自身によるほか、やはり勘定所や大番組目付等による厳重な検査が実施されていました。  
不正が発見された場合の処分は実に厳しいものです。この当時における最大の不正事件は、1642年に発覚しています。事件の詳細は判りませんが、城米蔵奉行3名及び城米方手代6名の計9名、それに浅草蔵奉行4名及び蔵方手代3名の計7名、合計で16名が、全員斬罪に処せられています。  
なお、関東圏の米は、始めから浅草御蔵に集中していたのではなく、最初期には、大久保長安などの代官頭や有力な奉行が、それぞれにその管理地内に蔵を設置して、自分で管理していたようです。1598年頃のものと見られる「慶長江戸図」を調べると、合計11ヶ所も蔵が見つかったといいます。しかし、大久保長安一族の失脚等に見られる代官頭の権力の消滅とともに、徐々にこうした蔵が廃止され、浅草御蔵に一元化されていくのです。しかし、完全に浅草御蔵に集中されるのは、吉宗が政権を握る時期まで待たねばなりません。  
B 金蔵  
このように、米蔵の設置は、関西が関東より早いと言っても程度の差に過ぎないのに対して、金蔵の場合には、関東はかなり遅れます。  
大阪御金奉行は1625年には発令されています。先に、代官として土地の豪商等が起用されている例があったと述べましたが、これら豪商は、年貢米を現地で売却して現金化し、それを幕府に納付していたことが判っています。但し、現地の裁量で販売価格を決定することを認めてしまうと、代官が高く売っておいて安くしか売れなかったと報告して差額を両得するような不正行為の温床となる恐れがあります。そこで、幕府の方では、一々販売価格の指定をしていたということです。  
こうした現金による年貢の納付は、幕府として現金収入を得る目的から実施されたものです。しかし、いまだ市場経済の未発達な当時において、大量の年貢米を売却することは近畿圏においても容易なことではありませんでした。そのため、畿内の農民の負担はかなりのものがあった、といわれます。  
これに対して、江戸で金蔵の出納をつかさどる御金奉行の正式設置を見るのは、ようやく1646年のことです。4名が発令されています。同年に御金同心4名も発令されます。もちろん、その前から実際に金銀を貯蔵する場所はありましたから、その管理をする人もいたはずですが、独立の官職として発令するほどの業務量はなかったということでしょう。  
このように江戸での発令が遅かったのは、関東圏においては、まだ市場経済が未発達で、現地での販売がほとんど不可能、という事情があったからです。明治政府は1873年に地租改正を行い、それまでの年貢米に換えて現金で納付するという制度を導入しますが、これに対して、茨城県などでは大規模な農民一揆が勃発しています。すなわち、明治になってもまだ、関東地方では地元での米の換金がままならず、金納を強制されることによって大幅に負担が増大するような経済状態にあったということなのです。明治に入ってからでさえその調子なのですから、関東地方の租税が、江戸初期にほとんどすべて現物で納められていたのは当然です。だから、御金奉行の設置の必要も、関東ではなかなか生じなかった、ということになる訳です。  
 
何れにせよ、幕府の職制というものは、この時期はまだまだ流動的です。今日的な、官と職務が対応しているという頭で、この当時の業務を理解しようとすると、非常な混乱を起こすことになります。我々が、江戸時代の官職として、日本史の時間に習ったものは、ずいぶんしっかりした組織ですが、そのほとんどは、次章で紹介する綱吉の強力な中央集権政治以降に、ようやく確立していったものなのです。   
 
綱吉と天和・貞享の治

 

封建体制の下においては、社会の変化にも長い時間がかかります。それでも、四代将軍家綱の時代には、幕府財政が最初の深刻な危機に見舞われていました。家綱には、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱や叔父の保科正之等、優れた補佐役が揃っていた、といわれます。がどうも彼らは財政家としてはそろって無能であったようで、何の手も打てないままに、幕府財政は破局へと突き進むばかりでした。  
これに対して積極的に挑戦し、幕府の財政基盤を確立して、真の意味で徳川封建体制を確立したのが、五代将軍綱吉です。その意味で、彼こそが幕府中興の祖と言うにふさわしい人物です。  
綱吉という人は、生類憐れみの令を出したおかげで犬公方と呼ばれ、我々が習う日本史ではまことに悪評が高い人物です。そのためでしょうか、その功績に対しては、ほとんど評価をされていません。それどころか、黙殺といえる状態です。  
しかし、調べてみると、意外なほどに様々な改革を実行した将軍なのです。そして、おそらく徳川15代の将軍の中で、もっとも将軍の権力が強大な時代を築いたということができます。逆に言えば、そうした強大な権力があればこそ、生類憐れみの令のような、当時でさえも悪評の高かった法を、幕府直轄領であると、大名領であるとを問わず、全国的に強行することが可能だったのです。  
ちなみに、最近の研究によると、この悪名のつきまとう生類憐れみの令も、単に世継ぎが生まれないために行った暴政と見るのは正しくなく、実際的な狙いのある、意味ある政策だったといわれています。  
そもそも生類憐れみの令という名の単一の法令は存在していません。全体として同じような傾向のある一連の政策の総称として、後世そう呼ばれるようになったのです。個々の法令は、実はそれぞれ異なる狙いをもっています。一例を上げると、キリシタンの摘発ということがあるといわれています。ご存じのとおり、仏教徒は原則として菜食主義です。これに対して、当時のキリシタンは積極的に肉食する傾向があったので、肉食の禁止を徹底することにより、隠れキリシタンの確実な摘発を目指した訳です。  
綱吉は、その強大な権力で、独力で当時の社会を根底から変革させました。その結果、我々が知っている江戸期の様々な制度や風俗のほとんどは、この人の作り出したものといっても過言ではありません。  
今日においてさえも、我々の行動のかなりの部分は、彼の政策の結果誕生した習慣に支配されています。  
たとえば、悪名高い生類憐れみの令は、今日もなお、我々の生活をはっきりと拘束しているのです。それが一番よく判るのが犬料理です。  
ご存じの方も多いと思いますが、お隣の韓国では犬料理を珍重します。実は、我が国でも江戸初期までは犬料理はごく普通のものでした。  
日本人が犬を食べなくなるのは、生類憐れみの令によって新たに生まれた習慣なのです。江戸時代も、少し後になると、食い物がなければ犬を食え、と言われたと怒って、農民が一揆を起こしたりします。  
今日でも、日本人で、犬を食べたいと思う人はまずいないでしょうし、韓国に行って犬を食べろと言われれば、かなりの度胸を必要とすることと思います。  
また、家族に不幸があると、その後1年間は喪中と称し、年賀状を出さない、というのは、今日におけるわが国のごく普通の習慣でしょう。これも、綱吉が、その文治主義の一環として定めた服忌令(ぶっきれい)の、今に残る名残です。  
一人の人間が導入した政策が、それまでの日本人の行動を根本から変え、しかも、その後の日本人の思考や生活を、これほどに大きく変えたという例は、おそらく外にはないと思います。家康や吉宗の政策でさえも、今日の我々の生活にまでは影響を与えているということはないはずです。綱吉がいかに巨大な存在だったか、ということが、このわずかの例からも判ると思います。  
綱吉は、明治時代にはある程度は高く評価されており、その治世は、享保・寛政・天保と並ぶ改革と理解する人が多数いました。表題につけた天和(てんな)・貞享の治というのは、その当時の呼称です。ただ、その明治時代の理解でも、その意義は、綱吉の初期政治にあり、以後は悪政の連続と理解しているようです。  
しかし、他の面については研究していませんから何とも言えませんが、財政面に限ると、最後まで優れた業績を上げた人と考えるべきだ、と私は考えています。 
1.綱吉の人と施策

 

三代将軍家光は、1651年に病死します。そのため、病弱な子であった家綱はわずか11歳の時に四代将軍となります。当然、その政治は老中主導型のものとなりました。とくに保科正之や松平信綱が死亡した後、大老となった酒井忠清は、下馬将軍の異名をとるほどの権勢を振るいました。  
その彼が、1680年に家綱が嗣子のないままに死亡すると同時ににわかに失脚したときは、世人は驚き、様々な噂が流れたものでした。  
有名なものとしては、彼が、鎌倉時代の北条氏と同様に、次の将軍は京都から宮家を迎えて就任させ、その下で引き続き権力を握ろうと動いたせいだ、という噂があります。以前の日本史では、宮将軍の画策は真実として取り扱っていました。が、最近では単なる噂で、真偽は不明とするのが通説のようです。  
その真偽はともかく、綱吉が、なかなか将軍になれなかったのは事実です。そして、酒井忠清の政敵堀田正俊が、ほとんどクーデター同様の強攻策で、綱吉を将軍に迎えたこともまた、間違いがない事実であるようです。  
綱吉は、第1章で紹介したとおり、家光の次男ですから、兄家綱に嗣子がない以上、理論的にはすんなりと将軍につける立場の人でした。その人が将軍に就くにあたって、こういうもめ事が起きたのでは、世間にとかくの噂が流れるのも、無理のない話です。  
綱吉は、その母が、我が子を名君にしようと英才教育を施した人です。そして実際、幼い頃から、その母の期待に応えて抜群の才能を示していました。  
良い君主というものは、自分が多才である必要はなく、有能な人物を手足として持って、それに任せることを知っていることが重要、ということを良く知っていました。  
そこで、館林藩主時代には、巷間に溢れている浪人の中から、有能な者を家臣に召し抱えるという政策を積極的に採っていました。  
綱吉が将軍になった後に、館林藩は結局廃藩となって、幕府直轄領に組み込まれます。したがって館林藩の家臣団約500人も、ほぼ全員が幕臣となります。  
ある研究によると、そのうち、200人までが浪人出身者であったといいます。その後、29年間続く綱吉政権において、この館林家臣団は常に政権の中核に位置し続けます。新参者が、譜代の家臣より優遇されたのです。  
綱吉時代の初期は、綱吉擁立の功績もあり、またその有能さが綱吉の気に入ったのでしょう、堀田正俊の全盛期です。  
正俊は、元々は上州安中で2万石を領していましたが、家綱時代に2度ほど加封されてこの時点で4万石となっていました。  
綱吉は、これを下総古河に移封し、一気に倍以上の9万石を与え、翌年にはさらに4万石を与えて計13万石とします。  
そして、単なる老中から、酒井忠清同様に大老という身分を与えます。  
この綱吉の強い信頼を基礎に、正俊は幕政改革に邁進します。  
ちなみに、堀田家は、家光の乳母として有名な春日の局の縁者として、にわかに台頭した家柄で、館林藩からの転属組ほどではないにしても、やはり新興勢力といえます。  
幕政に強い影響力を持つようになっていた門閥勢力を押さえて、将軍自身の力を強化するという観点から見た場合、非常に優れた補助者であったことは明らかです。  
しかし、この堀田正俊が84年に、江戸城内の御座の間(ござのま)で、若年寄稲葉正休(まさやす)によって突然殺され、その下手人の稲葉も、また、直ちに現場にいた他の老中によって討ち果たされるという事件が突発します。  
稲葉家も、堀田家と同様に、春日の局の縁者として台頭した一族で、いわば親戚筋です。その稲葉正休が、なぜ突然正俊を暗殺したのかは不明です。  
また、回りにいた老中が、なぜ加害者を取り押さえて取り調べようとせず、直ちに殺してしまったのか、という点もはっきりしていません。  
こうした不明朗さから、この暗殺事件は、むしろ稲葉正休が綱吉の意を受けて行った上意討ちではないか、といわれる程です。  
その真偽はともかく、綱吉は、この事件を徹底的に利用します。  
この前から、正俊と意見が衝突することの多くなっていた綱吉は、これを機に、老中の力をできるだけ削ぐことに力を入れます。  
正俊の遺児も、僻地へ左遷します。  
それから以後の幕政は綱吉の絶対的な親政となり、実務面では、綱吉の側用人、特に柳沢吉保を中心に動くことになります。  
従来の日本史的な見方だと、綱吉の悪政が行われるようになったとされる時期(俗に元禄時代と呼ばれます)に突入するわけです。  
しかし、私は、綱吉の統治時代は、一貫して綱吉の強力な独裁政治が行われていたのであり、その際の腹心が、天和期にあっては堀田正俊であり、元禄期に入ると柳沢吉保になるに過ぎないと考えています。  
少なくとも、財政政策的には、完全に一貫したものが認められるからです。それを、以下では見ていくことにしましょう。 
2.綱吉の財政機構整備

 

綱吉の推進した幕府機構の整備は、実に多方面に及びますが、以下では、後世にまでも大きな影響を与えた重要なものを紹介します。  
(1)勝手掛老中制度の創設  
綱吉よりも前の幕府では、老中の集団指導体制を採用していました。  
集団指導体制というと聞こえがよいのですが、逆に言えば集団無責任体制で、要するに、誰でもどの問題にでも口を挟みますが、責任を追及しようとすると、直接の責任者は誰もいないという体制です。  
いまの憲法上の用語で説明すれば、主任の国務大臣というものが存在していなかったのです。  
綱吉は、その老中の中から特定人を選抜して、これを勝手掛老中としました。  
勝手掛老中とは、勘定所の主任の国務大臣の意味です。  
すなわち幕府財政に関する専任者です。  
今日の感覚で言えば、大蔵大臣制度を作り出したということになります。  
もっとも、この時点における幕府財政は、完全に米に依存していましたから、その意味では、農林大臣を作り出したと言うこともできるでしょう。  
これにより、幕府財政に問題が生じたときには、勝手掛老中は、将軍からその政治責任を追及されることになりますから、安易に他の老中に雷同することなく、勝手掛としての主張を貫くことになります。  
勝手掛老中は綱吉が政権を握った80年に、直ちに創設されました。  
その初代は大老堀田正俊の兼担でした。  
その後も、老中首座が兼担した例がかなり多く、その権力の裏付け的な機能を果たしました。  
その意味からは、老中首座を、同等者中の第一人者という立場から、はっきりと首相として、他の老中より一段高いところから指導力を発揮できる体制を作り出す手段でもあった、ということができるでしょう。  
その後98年には、若年寄の中にも勝手掛が創設されます。  
若年寄とは奇妙な名称ですが、幕府創設当時は、老中のことを年寄と呼んでいましたので、これに準ずる地位を意味する名称と理解すればよいでしょう。  
江戸城中にあって旗本、諸職人、医師などを管掌し、日常的な小普請、小作事を行う幕府の重職でした。  
その中から一人だけが財務担当とされたのです。  
(2)側用人制度の創設  
従来の歴史観ですと、「側用人による政治の壟断」というようなことがいわれます。したがって、側用人制度を創設したこと自体、綱吉の悪政の一つに数えられます。  
しかし、家柄による無能者の政治を排して、能力本位の人事を可能にしたのがこの側用人という令外の官なのです。  
今日の能力本位人事を正当とする視点からする限り、当然のことであり、それを封建制度の中で実現したという点で、まことに画期的な施策というべきです。  
それまでの政治体制では、老中や若年寄、奉行などになれるか否かはすべて家格で決まっていました。  
しかし、たまたま幕府創世期にその分野で能力を示したからといって、子孫まで必ずそうした能力を持つとは限りません。  
したがって、こうした硬直的な人事体制をとっていたのでは、無能な人間により、幕政がゆがめられるようになるのは必然です。  
先に紹介したとおり、堀田家や稲葉家のような新興譜代といわれる人々が、幕政で大きな力を持つようになったのも、門閥勢力の無能が大きな原因となっています。  
綱吉ほどに強力な将軍でさえも、従来の老中や若年寄に無位無冠の有能な者を据えるということは不可能でした。  
そこで、これらの制度は特に変更しないことにより、門閥勢力の不平を抑えつつ、家柄等に関わりなく有能な人間を登用する手段として、側用人制度を創設した訳です。  
ここで、簡単に江戸城の構造を説明しましょう。  
江戸城中は、将軍の私邸というべき「大奥」、公邸というべき「中奥」、そして登城した諸大名が詰めている「表」と呼ばれる三つの部分から成り立っています。  
中奥にある将軍の執務室を御座の間といいます。将軍は、大奥に帰らない時は、ここで寝ます。  
堀田正俊の暗殺事件が起きるまで、老中は、この御座の間の一画にある大溜(おおだまり)というところで閣議を開いていました。  
ところが、この将軍の執務室兼寝室で暗殺事件が起きたのだから大変です。  
これを絶好の口実として、綱吉は老中の閣議専用の部屋である「御用部屋」を別途、中奥の中に設置し、老中はそちらに詰めることに決めました。  
その後は、何か用があるからといって、気楽に御座の間に立ち入ることは、老中といえども許されなくなったのです。  
こうなれば、当然、将軍の意思を老中に伝達し、あるいは老中による閣議の決定事項を将軍に上奏するための連絡係が必要になります。これが側用人です。  
なぜ只の連絡係が強い力を持ちうるかというと、一つの理由は、いつも御側にいますから、随時将軍の諮問に答えて答弁することができるからです。  
老中を閉め出した御座の間で、将軍は自分のブレーンだけを集めてミニチュア閣議を開いているわけです。  
将軍の力が強い場合には、この非正規の閣議の方が最終決定機関となり、老中の開く閣議は、この決定を後追い承認するだけのものとなるのです。  
その意味で、側用人というのは、米国大統領の特別補佐官と同様の役職と考えれば、今日の我々には理解がしやすいでしょう。  
今一つの理由は、閣僚の意見を将軍に取り次ぐという、側用人の設置目的たる権限の行使に当たって、裁量権を持っていたからです。  
気に入らない人や、話は、将軍に取り次がない自由があるのです。迅速に話を取り次いでもらいたいと思えば、普段からご機嫌を取っておかなければならないのは当然のことになります。  
こうした側用人の権力は、将軍の権力が強いほど大きなものとなるのは必然です。したがって、側用人政治というものの実体は、将軍中心政治ということになります。  
しかも、側用人は、今までになかった新しい役職ですから、どのような家格の者を据えなければならない、という既存のルールがありません。  
将軍は、自由に、その才能を見込んだ者を登用することができる、という点が、将軍独裁体制にとって最大のメリットとなります。  
初代の側用人は、牧野成貞(なりさだ)です。  
この人は、綱吉が館林藩主時代の家老であったのですが、幕臣に転じた際に、綱吉はこの地位を創設して任命したのです。  
ただ、この人の時代は、堀田正俊の大老時代とダブり、いわば正規の閣議がそのまま正常に機能していた時代ですから、その存在はあまり目立ちません。  
綱吉時代の側用人は全部で13名もいますが、その後も、綱吉時代の側用人は、生え抜きの幕臣ではなく、館林藩士から幕臣に転じたものが登用されます。  
従来の幕府慣行に対抗して、独裁体制を築こうとする綱吉としては、気心の知れた側近で身辺を固めたいというのももっともでしょう。  
その中で、もっとも地位家柄の低い所から出発して、もっとも高い地位にまで到達したのが、柳沢吉保(よしやす)です。  
柳沢吉保は、館林藩25万石時代には、160石取りの家臣の子でした。  
百石級の家というのは、武士としては決して低い方ではありませんが、上級武士とは間違ってもいえない家格でした。  
しかし才能を見込まれて綱吉の小姓をつとめ、小姓番頭まで進み、綱吉が将軍になるともに幕臣となり、1688年に一気に8千石加増されて1万石の大名になると同時に側用人に就任しました。  
その後、91年に武州川越7万2千石の藩主となるとともに老中格、97年にさらに2万石の加増があって大老格となりました。  
さらに、1701年にそれまで保明(やすあき)という名であったのが、将軍の名の一字をもらって吉保となるとともに、松平姓を賜ります。  
犬公方のエピソードに良く知られているとおり、綱吉は嗣子に恵まれませんでした。  
そこで1704年に甲府藩主家宣(いえのぶ)が綱吉の養子となって西の丸入りします。  
これと入れ違いに、吉保は、甲府15万石の藩主となります。甲府は、幕府最後の拠点として幕府が従来から重視しており、原則として徳川一門が藩主となる土地でした。  
松平姓を名乗って甲府城主になったということは、事実上の一門待遇になったということを意味します。  
このように、才能があればどこまでも昇進し、また、責任ある仕事をするようになるつれて、職務内容に応じた地位に昇格し、給料も上がっていく、ということは、今日の我々の目から見れば、当たり前すぎるほど当たり前のことで、別に不思議なことではありません。  
しかし、職務内容も、俸給も、生まれ落ちた家によって自動的に決まってしまうという人事政策に慣れ親しんできた人々にとっては、この側用人制度というものは非常に衝撃的なものであったことは、想像に難くありません。  
このため、江戸時代のインテリの書いた文書は、どうしても「側用人による悪政」という視点から描かれることになります。  
それどころか、明治以降になっても、日本史というものは、旧来の門閥勢力の視点そのままに、側用人の横暴という形で彼らを見ていたものです。  
驚いたことに、第2次大戦後になってもこの基調は変わりませんでした。おそらく本稿の読者の皆さんにとっても、高校以下の日本史で学んだのは、そういう側用人観だったのではないでしょうか。  
そういう目で見るものですから、柳沢吉保という人は、従来の日本史の上では非常に悪名の高い人です。  
しかし、当時における彼の悪名は、絶対者である綱吉の批判がはばかられるため、その代用品として批判されたという面があり、彼自身が実際に政治を壟断したという批判は、あまり行われていなかったようです。  
新井白石がその自伝「折たく柴の記」の中で、柳沢吉保について次のように書いています。  
「天下大小事、彼朝臣が心のままにて、老中はただ彼朝臣が申す事を、外に伝へられしのみにして、御目見などといふ事も、僅に一月がほどに、五、七度にも過ず。」  
要するに、老中は名のみの存在で、老中が綱吉に会えるのは月にせいぜい5〜7回程度に過ぎず、実際には柳沢吉保が伝える上意を他に伝達するだけが仕事になってしまっている、というわけです。  
従来の日本史学者は、この文章を、白石が、柳沢吉保による悪政を批判したものと読んでいます。  
しかし、次章で紹介するように、正徳の治において間部詮房とくんで同じようなことをやっている白石が、吉保が老中と将軍の間のスクリーンになっていること自体を批判するはずはありません。  
したがって、吉保によって伝えられる綱吉の政治を批判した文章と読むのが正しいと考えます。  
このように、有能であるにもかかわらず、吉保は円満な人柄だったようで、そのため、綱吉の死後も特に弾圧されることもなく、その子孫は大和郡山15万石で幕末まで栄えていくことになります。  
ただ賄賂に関する廉潔性だけはあまりなかった人のようです。  
彼と賄賂にまつわる話は枚挙にいとまがないほどにあります。  
何よりも、今も残る東京駒込の六義園を見ますと、単に藩財政の豊かさでは説明できないほどの、彼の財力がしのばれるのです。  
しかし、これも、彼が特に腐敗していたことを意味するものではありません。  
江戸初期の老中達も、彼同様に、盛んに賄賂を収受していました。  
ある老中が、硬骨漢からそれを非難されたのに対して、これは大名の財政力を低下させるのに役立つから受け取っているのだ、と反論したという有名な話があります。  
それなのに、吉保にだけ賄賂の話がたくさん残っているのは、単に彼のような成り上がり者に対する当時の嫌悪感が示されていると考えればよいでしょう。  
(3)勘定所の充実と吟味役の設置  
A 勘定所の機構整備  
綱吉は、財政活動の中心となる勘定所についての整備を積極的に進めます。  
その組織のトップの役職名が、それまでの「勘定頭」という名称から、その時点は不明ですが、この綱吉の治世のいつか、比較的初期の段階で、「勘定奉行」に改称されます。  
それ以降、寺社奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行としての地位が確立して行くわけです。  
もっとも、三奉行の中ではもっとも格が下とされます。  
江戸時代の身分制は、士農工商とされて、建前的には農民が上で、工商業者が下とされています。  
しかし、実際には商人や職人の方が農民よりも大事にされていたことが、この、町民担当の町奉行の方が、農民担当の勘定奉行より上席という制度の中にうかがえます。  
これは幕府だけでなく、ほとんどの藩に共通する特徴でした。  
1685年に、勘定の中に、評定所留役を担当する者が設けられます。  
評定所は、幕府の最高裁判所というべき機関で、留役は、今でいう裁判所書記官に相当します。  
民事訴訟の評定所への上告件数が増加してきたために、実務に通じている者が必要になったので、それを勘定所から出向させることになったのです。  
この後、評定所における実質審理は、この勘定所から出向している留役が担うことになります。  
その意味では、今日の最高裁判所調査官に類似している制度と説明する方が、正しいのかもしれません。  
さらに、1690年に、勘定所の主戦力である勘定が、それまでの12名から、20名へと大幅に増員になり、その翌年、改めて詳細に事務分掌が定められます。  
B 勘定吟味役制度の創設  
綱吉による財政面での機構整備で、最も重要なものは、1682年に「勘定吟味役」を創設したことでしょう。  
勘定吟味役の事実上の創設は、二代将軍秀忠の時代だという説を立てている者もいます。  
確かに、綱吉以前にも、勘定頭副役(そえやく)等の名称で、このような業務を行っているものがいたことは間違いありません。  
しかし、それらについては職務内容が必ずしもはっきりせず、また、常設の官職であったかどうかもはっきりしません。  
勘定吟味役は、綱吉によって最初に設置されたときは、勘定頭差添(さしぞえ)役という名称でした(勘定副奉行とする記録もあります)。  
それまで勘定組頭だった佐野正因及び國領重次の二人が起用されています。  
綱吉の時代に入っても、勘定奉行は、当初は家柄により選ばれていました。  
そのため、勘定方としての実務経験は皆無の者が就任していました。  
今日の国務大臣と、その点では同じです。  
どこの省庁でも、その結果、事務次官がかなりの程度、実質的な最高責任者として動いています。  
差添役とか副奉行という名称からすると、このポジションが設置された意図も、この、今日の事務次官と同じで、勘定奉行に対する監査機関というよりも、実務者の最高責任者として、置かれたのではないかと、私は考えています。  
つまり、側用人と同様に、従来制度の枠組みを変更しないままに、有能者を起用する手段というわけです。  
しかし、そのような無能な勘定奉行ではとうてい綱吉の厳しい期待に応えられません。  
その結果、堪忍袋の緒を切らした綱吉は、1687年に、時の勘定奉行千石正勝に逼塞を命じると、その後任に佐野正周を起用します。  
彼はそれまでは勘定組頭の地位にいた人物です。これが、幕府史上最初の、勘定方出身の勘定奉行です。  
そして、その勘定頭差添役には、後に勘定奉行として辣腕を振るう荻原重秀が就任します。  
こうして、勘定奉行が実務出身者がなったことが、勘定頭差添役制度を変質させていったのではないかと考えます。  
とにかく、このころから、勘定頭差添役が本格的に会計検査機関として機能するようになったのは間違いありません。  
このように、機能が変化したことが、これが吟味役と改称された理由であろうと、私は想像しています。  
勘定吟味役は、差添役を踏襲して、職制上は勘定奉行の次席とされます。  
が、実際には、勘定奉行を経由せずに直接老中に会計検査報告を提出するという権限を保障されているので、むしろ独立した会計検査機関と考える方が妥当です。  
すなわち、幕府における最高財政監督機関です。  
どうも荻原重秀は、この吟味役としての権能をフルに活用して、勘定方として始めて勘定奉行の地位に昇った佐野正周を失脚させたようです。  
ただ、この段階では、会計検査院の設置とまでは言えません。  
勘定吟味役は、独任制の機関で、部下を持たないからです。  
今日でいえば、地方自治体の監査委員が知事部局の職員を補助者に使用して知事部局の会計検査を実施しているのと同様に、勘定奉行配下の職員を補助者として使用して、勘定奉行の検査を実施していたわけです。  
その検査権限は、今日の会計検査院のように事後検査に限定されず、事前ないし同時検査も可能という広汎かつ強力なものです。  
たとえば、国庫金の支出は、決裁書に勘定吟味役の連署がない限り、老中の命令でも不可能です。  
こうした強力な会計検査権限は、現代においても、たとえば欧州のルクセンブルクでみられます。  
小国の場合には、相当合理性のある制度といえます。  
当時としては、世界的にみても最高水準の財政監督制度でした。  
もっとも、このような強力な権限のすべてを、綱吉時代の勘定吟味役が有していたかどうかは、よく判りません。  
勘定吟味役制度は、この後1699年に、時の勘定奉行荻原重秀が廃止に追い込みます。  
多分、後輩の優秀な奴に、自分が失脚させられてはかなわない、と考えたのでしょう。  
この制度を、新井白石が、1712年に、まさに荻原重秀を失脚させるための道具として復活させます。  
それ以後は、幕末まで連続して続き、今日の会計検査院へと発展していくことになります。  
したがって、これらの権限のかなりの部分は、白石の改革以降の新制度という可能性もあります。  
勘定吟味役という名称自体、綱吉時代に既に使われていたのかどうかはよく判りません。  
白石が再設置したときに、この名称だったことは確かですから、もしかすると、白石が作り出したものかもしれません。  
(4)能力本位の官僚制  
綱吉は、上述のとおり、老中、若年寄という大名級の役職については、側用人や勝手掛という制度の導入によってその力を削ぐ方針をとりました。  
これに対して、旗本以下の幕臣の就く地位については、門閥勢力からの抵抗が少なかったためと思われますが、遠慮会釈無く、能力本位主義を導入します。  
その中心は勘定所です。  
勘定奉行は、三奉行の中では一番格が低いとされていました。それだけに改革もやりやすく、また、なんといっても財政面を一手に掌握していますから、幕府財政に対するインパクトも大きいです。  
そこで、ここについては、完全に能力本位主義を採用します。  
直轄領からの年貢米収入は、何といっても封建体制下における幕府の最大の財政基盤なので、代官が年貢を未進したり滞納したりしないように、また、直接民政を担当するものとして、非違、不正を働かないように、という観点からの監督は、幕府当初からかなり厳しく行われていたことは、先に紹介したとおりです。  
その結果、綱吉が登場する以前の約80年間に、切腹2名を含めて、処罰を受けた代官は22名でした。  
綱吉は、将軍就任前から幕府直轄領の管理状況については危機感を持っていたらしく、将軍についた直後の80年に第一回の地方査察を、また、87年に第二回の地方査察を、それぞれ、勘定所に命じて実施させます。  
この結果、関東郡代として隠然たる勢力を誇っていた伊奈忠利が、職務怠慢という漠然たる理由で、80年に改易となります。  
これが、綱吉により処罰を受ける代官の第1号です。処罰に聖域なし、という象徴のような処分だったのでしょう。  
これを皮切りに、それまでとは比べものにならないほどに激しい代官粛清の嵐が吹き荒れます。綱吉治世下の29年間に、職務怠慢、公金浮き貸し、行状不良、収賄、年貢滞納等の理由で、改易、流罪、追放、死罪等の処罰を受けた代官は、なんと51名に達っしているのです(うち、切腹5名、斬罪1名)。  
このうち11名は、本人の責任ではなく、その父祖の代における非違等で処罰されています。  
代官の総数は、幕府直轄領の増減や統廃合に応じて絶えず変動するので確定的なことは言えませんが、この当時の代官は全国で60名程度であったと推定されています。  
したがって、よほど厳しく自分の行動を律していた例外的な人物以外は、すべて処罰されたと見た方が良いでしょう。  
処罰理由別に見ると、30名までが本人又は父祖の代における年貢滞納です。  
財政再建策の一環として実施されたことがよく判ります。  
少し脱線すると、水戸光圀が隠居して黄門と呼ばれるようになるのは90年のことで、この綱吉による代官粛正の、特に第2期のものとちょうど時期的に重なります。  
黄門は、生類憐れみの令に逆らって隠居させられたものですから、庶民に人気がありましたが、水戸藩から外へ出かけたことはまず無かったといわれます。  
このことから考えますと、いわゆる水戸黄門漫遊記に述べられた代官の非違・不正の取り締まり活動は、実は勘定所による地方査察という形で実施されていたものを、庶民に人気のあった水戸黄門に託して描いたと言えるかもしれません。閑話休題。  
さらに、処罰を受けたのではありませんが、代官から外されて小普請入りをした者が何名かいます。  
これについては悉皆的なデータがないので、正確な数字が判りません。  
こうした要素を加えると、前代まで世襲してきた代官のほとんどが、綱吉時代の間に罷免されたと考えても、間違いないでしょう。  
綱吉は、こうして罷免された世襲代官の後任代官については、原則として中央から派遣するという方針を打ち出します。  
以後、官僚たちは、任地から任地へと転勤しながら、その功績に応じて昇級、昇格していくことになります。  
今日のわが国における、上級官僚が本省採用されて全国配転する一方、中級以下の官僚が地方採用されて、その地域にとどまるという慣行は、あまり他の国に見られないものですが、もしかすると、この綱吉の改革に端を発するものなのかもしれません。  
荻原重秀は、そうしたこの新人事に伴う抜擢組のエースともいうべき存在です。  
荻原家は、もともとは100石程度の石高で二条城詰めをしていた家柄でした。  
が、重秀は長男ではないので、家は、その兄が継いでいます。だからふつうなら部屋住みと呼ばれ、どこかに養子にでも行かない限り、一生兄のすねをかじって暮らす身分でした。  
しかし、幸運にも、1674年に分家を立てることが認められ、幕府に召し出されて勘定方につき、その末席に位置することになります。  
さらに幸運なことに、その後に綱吉の勘定所改革が始まったため、彼は、その政策にしたがい、各地を転々とします。  
その間、畿内における検地奉行としての功績や上州沼田の真田氏の廃絶に伴う領地受け取りなど、様々な場面で能力を発揮してその都度、昇格、昇級してします。  
最終的に、96年に、柳沢吉保に登用されて、とうとう勘定奉行にまで上り詰めます。  
その後は、その有能さを買われて、次の家宣時代にまでまたがって、30年間も、幕府財政を一手に掌握し続けることになります。  
荻原重秀の生涯の不運は、家宣時代の重鎮であった新井白石という優れた人物に、なぜかひどく嫌われたことです。  
このため、30年間勤め上げた地位から追われ、その翌年に憤死とも暗殺ともいわれる謎の死を遂げることになるという悲運に合います。  
そればかりか、今日に至るまで、悪名を残すことになってしまったのです。  
私は、白石のファンですし、なにより重秀が、勘定奉行として活動するのに邪魔だとばかり、せっかく創設された勘定吟味役を廃止に追い込んだ、という点が、元会計検査院職員として許せない、と思っていますから、重秀悪玉説に基本的には賛成です。  
が、彼がきわめて有能な在世移管であったことは否定できない事実です。  
特に、荻原重秀の仕事で一番悪名高い貨幣の改鋳については、元禄時点における評価としては、白石の非難の方が間違っており、重秀が正しいと考えています。これについては、後に詳述しましょう。  
(5)役料  
江戸幕府の当初の制度では、何かの役についてもつかなくても、幕府からは特別の支給はありません。  
したがって、役職に就いたことにより特別の支出が必要になっても、それは、基本給たる知行や俸禄でやりくりしなければなりません。  
このため、非常に苦しむ者が増えたので、1665年に、役職に応じてある程度の手当が出るようになりました。これが役料です。  
今日でいうなら、管理職手当に相当するものと考えればよいでしょう。  
綱吉は、1682年にこれをいったん廃止します。  
役職が世襲的に決まっている状況下では、それぞれの家の禄高はその仕事に応じて決まっているはずだから、このような経費の支給は不要である、と考えたのでしょう。  
あるいはもっと露骨に、ろくに仕事もできない連中が、その職を温めて幕府財政を窮地に追い込んでいるのが許せなかったのかもしれません。  
彼らを財政的に窮地に追い込むことにより、職を辞するように圧力をかけたと見るのがよいのかもしれません。  
理由はともあれ、上述のように、能力本位に低い身分のものを抜擢する、という政策を導入したものですから、とても基本給だけでは、その仕事に応じた支出を賄うことができない、という明確な理由のある者が現れてきます。そこで、1689年にこれを復活します。  
そして、1692年には法制を整備して、役職ごとに基準石高を定め、俸禄高が不足する場合には、一定額を補填するという制度を導入しました。  
後で見るように、綱吉は、無能な人物には徹底的に弾圧するのですが、有能な人物に対しては、優遇することも忘れない人だったのです。 
3.幕府収入の増加策と支出の減少策

 

綱吉は、幕府の権威を確固たるものとするための絶対の前提として、幕府の財政基盤を確立するために様々なことを実施しました。  
たとえば、家康が関ヶ原の合戦や大阪の陣の時に、軍資金として諸大名に貸し付けた金の返還要求などもしました。  
一世紀近くも前の貸し金なのですから、今日であれば時効ではないか、と抗弁したくなる話です。  
また、江戸初期には近畿地方でだけ徴収していた運河通行の船からの租税徴収を、関東地方でも行うという細かい税収確保策も行っています。  
しかし、もっとも基本的には、全国の大名を徹底的に搾り上げるという手段によって、綱吉は幕府財政の確立を図ります。  
その具体的な姿を以下に見てみましょう。  
(1)大名・旗本の改易・減封  
封建国家における歳入の増大策としては、支配農地の拡大策を取るのが一番確実な方法です。  
そこで、幕府直轄領をできるだけ拡大する方針を、綱吉はその治世を通じて貫きます。  
その具体的な手段は、彼のような強力な将軍以外には絶対に不可能なほどの強引なものでした。  
すなわち、激しい粛清の嵐が吹き荒れたのは、決して代官だけではありません。  
大名にもまた改易や減封の嵐が吹き荒れることになります。  
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名は、実に46家で、関ヶ原の合戦の後の大量処分を別格とすれば、一代での処分件数としては、家康や秀忠を抜いて、歴代第1位の記録です。  
当時の大名家は全部で二百数十家ですから、5〜6家に1家の割で、綱吉に処分された計算です。  
ちなみに、吉宗は、かなり強力な将軍であった、と一般に思われています。  
しかし、その吉宗でさえも、綱吉とほぼ同じ将軍在位期間中における処分件数は、わずか12家に過ぎません。  
しかも、綱吉による処分の内訳を見ますと、秀忠や家光の時代で改易理由のエースだった後継者の不存在は、わずか5件に過ぎません。  
その外に、当主が刃傷事件を起こしたための改易が赤穂藩主浅野長矩など3家あります。  
おそらくこの8家は、外の時代でも改易等の処分は免れないでしょう。  
しかし、残り38家は、将軍が綱吉でなかったら、まず処罰されるには至らなかったような、軽微な理由から処分されているのです。  
代表的なものをあげると、お家騒動が起きたりしたために、藩政不良といわれて処分されたり、その宗家に連座して処分されたのが、徳川一門の越後松平家を筆頭に13家もあって、一番多い処罰理由です。  
特に越後松平家を改易にした越後騒動は、綱吉が、直々に裁判を行ったということで、非常に有名になったものです。  
先に代官粛正のトップに関東郡代に対する処罰を行ったことを紹介しましたが、越後松平家に対する処罰も、大名処罰に聖域なし、という象徴として、一連の処罰の冒頭に実施されたのです。  
次に多い処罰理由が、当主が幕府の役職に就いていて、あるいは就くのを拒んで、綱吉の不興を被ったという、文字どおり綱吉の気分によって処分されたというもので、10家あります。  
その中には老中板倉重種や側用人喜多見重政までが含まれています。  
これも、彼の将軍集権という政治姿勢を端的に示すものでしょう。  
驚いたことに、当主の発狂という理由が何と9家もあります。  
精神医学が発達していなかった当時において、発狂というのがどのような状態を意味しているのかは判りません。  
仮に当主が今日的な意味でのれっきとした精神病者であったとしても、正常な後継者がいる限り、代替わりをさせれば済むことであって、処分理由になるとは、とても思われません。  
やはり単なる難癖程度のものも多かったのではないかと思われます。  
秀忠、家光時代の大名処分が、外様大名を中心に行われたものであるのに対して、綱吉時代の処分は、譜代29家、外様17家となっていて、圧倒的に譜代に厳しいものになっている点にも、大きな特徴があります。  
「狡兎死して走狗煮らる」ということわざがありますが、幕府も安定期を迎えたことにより、外様の危険よりも、体制内部にあって直接将軍の権威と競合する門閥勢力の方が問題となる時代となっていたのです。  
そして、その問題に真っ向から取り組んだのが綱吉だったといえます。  
同様の問題は、幕府の官僚機構を直接構成している旗本についても存在しています。  
そこで、綱吉時代は、旗本に対して処分の嵐が吹き荒れた時代でもあります。  
綱吉によって処罰された旗本は、100家以上に上るといいます。  
もっとも絶対数は大名に比べると倍ですが、旗本は全部で5000家以上もありますから、率だけから見る限りでは、嵐というほどのものではなかったかもしれません。  
(2)元禄検地  
こうした改易や減封によって没収された石高は、総計で161万石に上ります。  
日本の耕地は、この当時、全部で2450万石と推定されますから、7%弱の土地が、没収になったことになります。  
家康以降四代将軍までの時期には、どこの大名でも積極的に新田開発を行っていました。  
ちなみに太閤検地の際には、日本の総石高は1845万石余と算定されました。  
したがって、その時から、綱吉の時代までの間に、わが国耕地の生産力は全体で3割強も増加したことになります。  
改易ないし減封によって没収された土地は、いったん幕府直轄領とされました。  
これに対して、綱吉は必ず検地を行わせました。  
検地というのは、非常に手間暇のかかるものですが、その実施は、近隣の大名に命じていますから、幕府の懐は痛まない、という仕掛けです。  
検地を行うと、その大名が領国経営にまじめに努力していればいるほど、その土地の名目上の石高(表高=おもてだか)に比べて、かなりその石高が増加します。  
これを打ち出しと称します。新田開発はやり易いところとやり難いところとがあります。  
おそらく、綱吉は、打ち出しの大きそうなところを狙って、集中的に改易や減封をしたに違いありません。  
仮に、10万石の藩が改易になったので、ここを検地した結果、打ち出しが5万石あったとします。  
そこで、この領地は15万石に相当すると判定されると、綱吉は、これを5万石分の領地と10万石分の領地に分割し、5万石分は、そのまま幕府直轄領にします。  
10万石分の方には、他から別の、表高が10万石の大名を移封します。  
そこで空いた領地については、これをまた幕府直轄領に編入した上で、検地を行います。  
こういう手順を繰り返していくので、全国的に大名の移封の嵐が吹き荒れることになります。  
そして、その大名の長年にわたる汗の結晶は、その都度、合法的に幕府の直轄領へと化けていくわけです。  
杉本苑子に「引っ越し大名の笑い」というユーモア味あふれる好短編があります。  
54年の生涯の間に、何と7回も移封させられた松平直矩という殿様を主人公とした作品ですが、この記録的な移封のうち最後の3回までは、直矩の晩年の10年強の間に立て続けにさせられています。  
すべて綱吉時代です。  
こうして全国的に改易と移封を繰り返すことで、幕府は、この時期、全国的な検地を実現します。  
検地を実施すること自体が、中央権力の力の程を示していることは、太閤検地で良く知られるとおりです。  
綱吉は、元禄検地を実施することで、その権力の大きさを全国の大名に見せつけるとともに、その過程で直轄領を大幅に成長させることになります。  
1687年がその頂点で、幕府直轄領は、その年、434万石に達します。  
その一方で、諸藩の財政は、この時期以降、急速に悪化していくことになります。  
(3)元禄地方直し  
こうして大量の直轄領を手に入れた結果、第一段の財政改革である歳入増加策は、これでほぼ完成です。  
1687年の末から翌年の春にかけて、幕府は大名預所であった蔵入地のほとんどを引き上げて代官支配に編成替えし、幕府の自由に運用できるような状態にします。  
そこで、この広大な直轄領を原資に、綱吉は、第二段の財政改革として、歳出の節減策を積極的に導入するのです。  
このころの政府は、小さな政府ですから、歳出の多くは人件費でしめられています。  
したがって、歳出削減の手段は、人件費の削減です。  
先に旗本に対する粛清の嵐が吹き荒れたといいました。  
それ自体が、人件費削減効果を持っていました。  
しかし、1687年以降に綱吉の導入した削減策は、旗本のうちの、高給取りのすべてを狙い撃ちにしたものです。  
すなわち、この87年、幕府は元禄地方直しと呼ばれる法令を発しました。  
500石取り以上の旗本には、全員に知行地を与えるという内容です。  
この時に、500石取り以上の旗本がどの程度いたか、正確なところは判りません。  
が、1722年の調査によれば、全旗本の約40%がこれに相当します。  
この当時も似たようなものと考えられます。  
この当時、旗本の俸給の支給方法には3通りありました。  
すなわち、全額を知行地の形で与えられている者、知行地と蔵米の2本立てとなっている者及び全額を蔵米で与えられている者です。  
この法令では、全額蔵米取りはもちろん、知行地と蔵米取りの2本立ての者も、その合計が500石以上に該当している場合には、すべて知行地に一本化するということになりました。  
具体的な知行地ができ、支配できる農地や農民が与えられるということは、一見旗本にとり、有利に見えます。  
しかし、実はこれは旗本にとり、大幅な支出増を意味します。  
蔵米は、幕府の派遣する代官が支配している土地から収納の上、輸送費用を幕府が負担した上で、浅草の米蔵まで運んできます。  
その途中での損耗も幕府の負担です。  
その点、知行地は、そこでの行政は旗本の責任であり、年貢の徴収、輸送、売却も、当然旗本の負担で行われます。  
したがって、蔵米を知行地に変換することで、幕府としてはかなりの経費が節減できることになります。  
元々全額を知行地という形で与えられていた旗本も、嵐の外にいたわけではありません。  
大名の転封に当たる知行替えをほぼ全員が受けています。  
その後は検地が行われ、その中から広大な山林や多額の運上金が期待できる地域は、すべて幕府直轄領に編入されることになります。  
この時期以降、旗本の財政もまた、急速に悪化することになります。  
こうして、綱吉の治世の終わる頃には、旗本の知行地が増えた分だけ幕府直轄領は減って、合計401万石に落ち込んでいますが、減少分については蔵米の支給が不要になることで十分に補いがつき、さらに、良質の土地に組み替えが進んでいるという結果が生ずるのです。  
この時点における旗本領の総計がどのくらいかはよく判りませんが、新井白石は、合計260万石と推定しています。  
その他勘定所の支配に服さない遠国奉行支配下の領地等を含めますと、幕府の支配地は680万石〜700万石くらいと白石は計算しています。  
先に述べたとおり、この時代の日本全体の石高は2450万石と推定されますから、幕府領は全体の3割近くに達したことになります。  
(4)小普請金  
蔵米取りの旗本や御家人は、この嵐の外にいたかというと、とんでもありません。  
現に幕府の役職について働いている者をいびると、職場の志気が低下しますから、そんなことはしませんが、無役の者は、当然に綱吉による弾圧・搾取の対象となります。  
幕府の旗本や御家人のうち、老幼、病弱などの理由から無役の者を小普請といいます。  
なお、同じ無役でも、石高が3000石以上か、身分が布衣(ほい)以上のものは「寄合」と呼ばれます。  
小普請を無役というのは、厳密にいうと正しくありません。  
小普請とは、小規模な普請、すなわち建物などがちょっと壊れたりしたときの修理作業などを意味します。  
したがって、本来ならば、そうした作業に小普請組の人々は従事すべきなのです。  
そこで、綱吉以前には、実際に小普請組から作業員を提供させて修理作業を実施していたのです。  
しかし、戦国時代の武士と違って、この頃になると、武士は、建築作業に自ら本格的に携わった経験などは持っていません。  
したがって、城の修理に駆り出しても、素人の日曜大工程度の技術では余り役に立ちません。  
そこで、家綱時代の1675年に、既に、作業員提供に換えて金で納めることもできるという制度が導入されていました。  
綱吉は、これをさらに徹底し、最初から金納を命じることにしたのです。  
それも、修理作業の有無に関わらず、小普請組から、毎年一律に、その石高に応じてスライドする方式で小普請金を取り立てる、ということにしたのです。  
1689年に触れを出し、翌年から実施としました。  
対象となるのは、禄米が21俵以上のものといいますから、かなりの軽輩まで皆対象になったわけです。正確には、  
21俵〜50俵の者は金2分、  
51俵〜100俵の者は金1両、  
101俵〜500俵の者は100俵につき金1両2分、  
501俵以上の者は100俵につき金2両  
を毎年徴収する、というものです。  
ちゃんと累進課税になっているところが、今日の所得税を思わせて、すばらしいではありませんか。  
この新制度により、綱吉の時代にどのくらいの歳入が生じたのかは資料がなく、判りません。  
が、1714年及び15年、すなわち新井白石が事実上政権を担当していた最後の2年間についていうと、小普請組が5組3184人おり、これからの徴収金が、金3万4190両及び銀8貫386匁6分あったということです。  
小判に換算すると、1年当たり、1万7千両程ですから、馬鹿にならない額です。  
つまり、小普請入りを命じられると、役料が入らなくなるだけでなく、本俸である家禄までが減ってしまうわけで、経済的な打撃は非常に大きなものとなります。  
このため、小普請入りが、単に役職を免ずる以上の、処罰としての機能を、この時代以降においては、持つことになりました。  
ついでに紹介しておくと、吉宗の時代になると、寄合からも寄合金と称して、100俵について2両の割合で徴収するようになります。  
幕臣の数そのものも、この後、家宣や吉宗が将軍になる際にもかなりの増加を示しますから、小普請入りも増加するため、1841年になると、これによる歳入額は、年間2万7千両にまで達します。 
4.元禄期の幕府財政

 

(1)幕府の財政状況  
綱吉が将軍に就任した時点での幕府の財政がどの程度にひどい状況だったかは、正確には判りません。  
しかし、1650年代に、すでに「公儀の御使用入るを計りて出るを校れば、早、出る方多く成て御蔵の金を毎年一、二万両程づつ足す也」という話があったということが、荻生徂徠の著にあります。  
すなわち、毎年度の経常赤字が1〜2万両だったというのです。  
したがって、綱吉政権が発足した時点では、既に数十万両の累積赤字が発生していたことは確実です。  
であればこそ、綱吉は、これまで紹介してきたように、大幅な財政改革に邁進したのでしょう。  
しかし、逆に言えば、この時期には封建制の矛盾がまだあまり大きくなっていませんでしたから、綱吉のように抜本的に統治機構を整備し、歳入増、歳出減の荒療治を上述のように果敢に実施すれば、この程度の赤字財政を建て直すのは容易だったと思われます。  
実際、ある研究によると、元禄地方直しを断行する前年の86年の頃は、歳入116万両、歳出88万両と推定されていますから、年間30万両近い黒字がでるという、まことに健全な状態に変化していたようです。  
そうした豊かな資金力を背景にして、綱吉は積極的に文治主義を推進します。  
その一環として、朝廷に対する尊崇の姿勢を見せることが行われるようになります。  
朝廷の権威を高めることにより、将軍そのものの権威を高めるという手法です。  
朝廷では、財政難から221年間も実施することができなかった大嘗祭を1687年に挙行しますが、もちろん幕府からの資金提供があったからこそできたことです。  
そればかりか、荒廃した御陵の修復なども積極的にするようになります。  
家光の乳母というだけの資格で、春日局が天皇に拝謁を強要していた時代から比べると、大変な変化といえます。  
ただ、こうした朝廷に対する尊崇の姿勢は、先に述べた功利的な理由の外に、幼い頃の英才教育の結果、尊皇思想に綱吉が染まってしまったという点も度外視できないでしょう。  
儀礼というものをうるさく言うようになると、その性質上、時がたつにつれて、だんだんと細かなものとなっていきます。  
浅野長矩の吉良義央に対する刃傷事件も、勅使下向の際に、幕府が、細部にまで過度に神経を使いすぎたことから起きたことは、皆さんもご存じの通りです。  
こうした、儀礼を確保するための経費というものは、細かな部分にまで儀礼が確立されればされるほど多くが必要になります。  
したがって、時が経過するにつれて、仕掛け人の綱吉本人にもコントロールできないままに、幕府負担分も急速に膨れ上がっていきます。  
また、生類憐れみの令に代表される宗教に対する傾倒から、寺社の造営などに膨大な費用が必要となってきます。  
ある研究によると、綱吉時代になされた寺社の造営・修復は、実に106件に及び、そのための費用は総計70万両にも達するのではないか、と推定されています。  
さらに、館林藩から幕府に編入された500名もの家臣団による人件費の増加も、幕府財政を悪化させる上で、かなり影響があったようです。  
もちろん、家臣団に対する家禄が、館林藩時代のままに据え置かれていれば問題は起こりません。  
しかし、柳沢吉保の15万石を筆頭に、何れも大幅に増俸になっているのですから、かなりの悪影響を発生させるのは当然といえます。  
こうして、94年頃には、年貢徴収量は403万俵に達して、幕府歳入史上最高の記録となっているにもかかわらず、歳入総額は、116万両と86年当時と変わっていません(おそらく市場に大量の米が流れ込んだために、米価が下落したせいでしょう)。  
他方、歳出は127万両に達するものと推定されていて、その僅か数年前とは一変して、年間10万両以上の赤字財政時代に突入していました。  
こうした窮状に対して、綱吉からエースとして起用されたのが柳沢吉保で、そのため94年に、側用人でありながら、初めて老中格に昇格します。  
そして、この吉保によって抜擢されて、幕府財政を任されたのが荻原重秀です。  
彼は既に、勘定吟味役としてその辣腕を振るっていましたが、96年には、いよいよ勘定奉行に就任します。  
(2)荻原重秀の財政対策  
A 貨幣の改鋳  
荻原重秀の採用した基本的な対策は、従来の通貨を回収して貨幣を改鋳することです。  
これは基本発想そのものはきわめて単純です。  
この時はすべての金貨について改鋳していますが、それまでの基本通貨である小判を例に説明しましょう。  
慶長小判は純度84.29%であったものを、改鋳して、重量は同一の4.76匁ですが、金の純度を57.37%に落としました。  
こうすると金貨の場合、従来の通貨を回収すれば、47%、すなわち約5割も発行数量が増えます。  
だから、経費を無視して考えれば、この発行数量の差だけがそのまま幕府財政の歳入に化けるという話なのです。  
1695年から1710年までの10年間で、改鋳した金貨の発行量は1393万両あまりといいますから、差益金も莫大なものです。  
もちろん、実際には改鋳のための経費が必要ですが、これは1%に過ぎず、大勢に影響ありません。  
また、慶長小判は、長年の間にすり減ってかなり量目が不足するものが増えていた、といいますから、そうした減少分は考える必要がありますが、それもまた意外と少なかったようです。  
新井白石の調査したところによると、差益金は、441万2228両だといいますから、上記の割合で単純計算した結果とほとんど変わりません。  
同時に銀貨もすべて改鋳しています。  
慶長銀は純度80%であったものを64%に落としました。  
したがって25%発行数量が増えます。  
こちらの方は、1695年から1706年までの間に40万貫を改鋳していますから、幕府収入を単純に計算すると計8万貫あまりとなりますが、実際にはこれから金貨への混ぜものにいくらかが回されます。  
只、この最初の改鋳では、金貨に比べて、銀貨の純度の引き下げが小さかったため、金貨に対する銀貨の、民間における実勢交換レートが悪くなりました。  
それを是正するために、1706年には、銀貨の純度をさらに50%に下げて改鋳をやり直しています。  
これにより純度の引き下げ幅は銀貨も金貨とほぼ同様になり、実勢レートも、ほぼ公定レート並に回復しました。  
もちろん、こうした純度の引き下げにより、その後はさらに歳入量も増加したはずです。  
その額を、これまた、白石の調査に基づいて紹介すると、6万9918貫225匁となります。  
この時点では、金1両が銀50匁に相当するというのが幕府の公定レートですから、これにより金貨に換算すると139万8365両余の収入となります。  
もっとも、この改鋳後間もなく、幕府は公定レートを1両60匁に改訂します。  
このレートを使用して換算するなら、116万5303両余ということになります。  
したがって、金貨銀貨を合わせた収入総額は、少ない方の額で計算しても557万7532両ほどとなります。  
改鋳期間中、平均してこの額が流れ込んだとすれば、単年度当たり改鋳による歳入額は40万両を軽く越えることになります。  
幕府財政が、これで立派に立て直されたことは、おわかりいただけるでしょう。  
問題は通貨供給量の増加が、日本経済に与えた影響です。  
基本的に、通貨改鋳以前の我が国は、通貨供給量が過小のデフレ状態にあったと考えられます。  
その理由は、日本全体の経済規模の拡大に加えて、海外貿易による通貨の流出にあります。特に後者の影響が深刻です。  
この次の時代の幕府財政を担う新井白石が、非常に興味ある計算を行っています。  
白石は、その天才的な頭脳で、貿易収支の不均衡に伴う通貨の不足を計算したのです。  
貿易が、長崎という小さな窓だけを通して行われていたことから、我々は、その量も少ないように錯覚します。  
しかし、実際には、わが国の年度当たりの貿易量は、鎖国以前よりも、鎖国後の方が大きいのです。  
つまり、鎖国とは、単に貿易管理の手段であって、貿易の禁止措置を意味するものではなかったのです。  
このことを踏まえて、日本史学者大石慎三郎は  
「”鎖国”とは一度取り込まれた世界史のしがらみから、日本が離脱することではなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり”鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への”開国”であった」  
と論じています。  
鎖国とは鎖国という名の開国だ、という逆説が正しいかどうかは、本稿では問題ではありません。  
大事なのは、そう言いたくなるほどに活発に行われた貿易が、完全な片貿易だったという点です。  
すなわち、この当時の貿易とは、海外からの物資の輸入に対して代金を支払うばかりで、わが国からの輸出品はまったくなかったのです。  
このため、貿易が盛んになればなるほど、わが国通貨が激しく海外に流出していったのです。  
マルコ・ポーロの、黄金の国ジパングという伝説は、この当時、紛れもない真実だったのです。  
大久保長安の活躍により、全国の山から金がわき出していた時代は、このようにむちゃくちゃな貿易でも問題は起こりませんでした。  
しかし、各地の金山が枯渇するに連れて、問題は深刻になっていきます。  
実は、その当時は誰も気が付いていませんでしたが、家綱期における経常赤字も、この通貨の流出によって引き起こされていたのです。  
新井白石が使用することができた貿易統計が整備されたのは1648年以降だったらしく、それから1708年までの60年間を対象として、白石は、貿易収支を計算しています。  
それによると、この間に、金貨が239万7600両、銀貨が37万4229貫、それぞれ海外に流出しています。  
この数値から、江戸幕府の始まりからこのときまで107年間の通貨流出量を推定すると、我が国金貨の4分の1、銀貨の4分の3が流出してしまった計算になると、白石はいいます。  
今日の学者の研究でも、この白石の計算はだいたいにおいて正しいようです。  
これほど通貨が流出してしまっては、たとえ経済が停滞していても、国内流通量が減少して、デフレが発生してくるのは必然でしょう。  
しかも、一方で、江戸幕府創設以来の新田開発その他による国内経済規模の成長と、通貨経済の浸透という要素を加味すれば、この当時、かなり深刻なデフレであったことは間違いありません。  
重秀は、こうした状態の中で、金貨及び銀貨の供給量を大幅に増加させたのです。通貨量が大幅に増加すれば、それに応じて経済が健全に成長を起こすのも当然のことです。  
世にいう元禄文化の花が開いたのは、こうした通貨供給量の増加に刺激された経済の成長に支えられてのものです。  
従来の日本史の学者は一般に、この改鋳を、幕府財政だけを考えて、国民経済にしわ寄せをしたものとして非難しています。  
が、以上のように、この改鋳こそが、元禄という、今日に至るまで華やかな文化の代名詞になっているような国民経済の発展を生んだものです。  
その意味で、白石の尻馬に乗って荻原を非難するのは、歴史的事実に反する観念論と思います。  
ただ、役人の悪い癖で、一つの政策がうまくいきますと、社会情勢の変化も何もお構いなしで、どこまでもそれを押し進めます。  
白石の計算値と、貨幣の新規発行金額とを比較すれば一目瞭然ですが、銀貨の方はまだ不足気味ですが、金貨の方は、元禄期も終わりに近づくと供給過多になっていると思われます。  
すなわちインフレ基調への転換が起きてくるのです。  
ところが、重秀はそれを無視してさらに通貨の増発を行います。  
その結果、元禄バブル経済が誕生したのです。  
B 国役金=臨時不動産税  
綱吉というきわめて強力な将軍の下でなければ絶対に考えられないもう一つの財政上の事件が、この時代に起きています。  
すなわち、幕府領、大名領の区別なく、全国一律に不動産課税を行うという破天荒の租税措置が行われているのです。  
きっかけは、1707年に富士の宝永山が大噴火し、大量の噴石で麓の村々は大被害を受けたことにあります。  
その災害復旧工事を進めるため、幕府では、翌8年に、被災地を小田原藩領から幕府直轄領に変更します。  
それとともに、災害復旧費用に当てるためという理由で、諸国大名領であると幕府直轄領であると否とを問わず、全国の農地に対して石高100石について2両づつの割合で諸国高役金を課したのです。  
臨時に不動産税を課したわけです。  
幕府直轄領だけならともかく、大名領までも含めて全国一律に租税を課したのは、封建制の下ではそれまで考えられなかったことです。  
中央集権に一歩を進めたものということができます。  
納税義務者は農民ですが、早期納付を確保するため、幕府への納付は大名に立て替えさせています。  
このとき集められた資金は49万両弱と推定されています。  
先に何度か、この時点におけるわが国農業生産力は合計2450万石余に達していた、と述べました。  
その数字は、この租税の歳入総額から逆算したものです。  
過不足なく、全国から不動産税の徴収が可能であったのも、先に紹介した元禄検地のおかげといえるでしょう。  
なお、この臨時租税は、目的税とされていたにもかかわらず、重秀が実際に災害復旧に使用したのはせいぜい6万両程度で、後は一般歳出に振り向けられたようです。  
このため復旧は遅れ、富士山麓の村が、この災害復旧工事を完全に終えて、被害から立ち直るのは、幕末近くになったということです。  
C 各種雑税の創設  
荻原重秀は、社会における通貨不足を感じて、元禄改鋳を実施することができるような人でしたから、従来の農業以外の分野での新たな産業の出現、換言すれば担税力の発生を認識することもできました。  
そこで、各種の新税を創設しています。  
1697年に、綱吉は、酒の醸造に対して課税する旨の法令を出します。  
この法令は、儒教的倫理観と中央集権制という綱吉の持つ特徴が実によく表れていますから、適宜口語訳しつつ、次に紹介してみましょう。  
「代官及び領主地頭に令知して曰く、其の一、近来酒家が多いために、妄りに酒を飲み、乱行に及ぶ徒もまたすこぶる多くなっている。そこで、今回、酒の醸造元に運上(租税)を賦課することとした。それによって酒の値段を高くすることで、下民が酒を節制するようになり、乱行を防ぎ、刑罰を免れさせようとの恩旨に出たものである。この課税のために、酒家が減少することはもちろん期待するところである。其の二、運上は、江戸及び公領地においては政府に、私領地においては地頭に上納すべし。其の三、運上額は、従来の発売価格に、さらに二分の一を増加させる額を標準にとする。酒質の良し悪しに応じて価格もまた高低の差があるので、多少の過不足が生ずる場合があるであろうが、大体この標準にしたがって課税するべきである。」  
以下には、細かい課税方法が規定されているだけなので略します。  
綱吉は、堅物で、1689年には幕府内部での酒の供用を禁じ、また、庶民に対して暴飲を禁じ、醸造元を処罰する等の法令を出していたのです。  
が、効果がでないので、酒税を課することで、禁止効果を上げようとしたのです。  
もちろん、こうした一挙両得的な発想は、荻原重秀の得意とするところです。  
普通の将軍ならば、こうした新税の賦課は、幕府直轄領を対象とするところでしょうが、綱吉だと、当然のように、全国一律に課税し、ただ、大名領においては、大名に納付しなさい、という点が加わるに過ぎないのです。  
江戸初期の工商業課税のところで挙げた例に明らかなとおり、これまでの工商業税は、すべてどれだけの売り上げがあるかに関わりのない定額方式でした。  
この酒税で、おそらく幕府としては始めての定率課税方式が導入されたことになります。  
これも、荻原重秀という人の頭脳の柔軟さを示すものとして評価しべきでしょう。  
どのくらいの歳入があったのか正確なところは判りませんが、新井白石によると、幕府収入に限っていえば、年に6千両になったということです。  
D 長崎貿易の統制と長崎会所  
先に新井白石の貿易収支に関する計算を紹介しました。  
綱吉政権では、彼ほど明確に計数的に問題点を把握していたわけではありません。  
が、同様の危惧を海外貿易に関して抱いていました。  
そこで、輸入規制策を導入します。  
1685年に出された定高(さだめだか)仕法がそれです。  
同法は、長崎に入る船の数自体を制限し、かつ、貿易額にも制限を加えます。  
具体的には、中国船は年間70隻、貿易額は銀6000貫に、同じくオランダ船は年間2隻、貿易額は銀3000貫に、それぞれ制限して通貨の流出を減少させようとしました。  
この時点までの外国船の来航数は、オランダ船の場合、多い年で9隻、少ない年で3隻、この当時の平均は4隻というところですから、2隻というのは大幅なカットになります。  
これに対して、中国船の場合には多い年でも43隻、少ない年にはわずか9隻、大体20数隻が来ていた程度でした。  
したがって、それまでの実績を前提とする限り、中国船に関しては、隻数規制という意味は事実上はないはずだったのです。  
問題は、中国と日本の貿易政策の齟齬にありました。  
オランダと中国とでは、わが国鎖国令の例外として通商を行っていたという点では同じですが、国交の仕方には、根本的な差異がありました。  
すなわち、オランダとは正式の国交があり、長崎にはオランダ商館が置かれ、新規に着任したりすると、江戸まで商館長が出向くなどの措置が執られていました。  
また、貿易の相手としては、オランダの国策会社である東インド会社が独占していました。したがって、割に規制のしやすい相手であることは確かです。  
これに対して、江戸幕府と中国(清)とはまったく国交はなく、純然たる私貿易として中国船がくるのを是認する、という型の貿易でした。  
このため、中国政府と幕府は互いにどのような貿易政策を採用しているかについては関知しておらず、したがって、相互の調整を行う、などということはありませんでした。  
このため、幕府が新しい貿易体制を採用した、その前年である1684年に、中国政府の方では、貿易制限法である遷海令を廃止し、なんと自由貿易主義に切り替えていたのです。  
この結果、中国船による渡航ラッシュが突如として始まります。  
すなわち、中国船の来航数は、遷海令があった1684年には24隻に過ぎなかったのが、定高仕法を制定した初年の翌1685年には85隻と、早くも制限を突破します。  
そして1686年に102隻、1687年に137隻、1688年には実に194隻に達していました。  
そこで幕府では、妥協策として、この1688年以降は、中国船の受け入れ数を80隻に増加させることになります。  
中国船の方でも、積み戻りを命ぜられるのは商売としてうまい方法ではありませんから、ある程度自主規制をしたのでしょう、1689年以降は、大体80隻内外で推移していくことになります。  
わざわざ荷物を満載してやってきて売れないからといって、おとなしく帰る商人はいません。  
そこで、来航数と制限数の差はすべて抜け荷、すなわち密貿易になっていったと見るべきです。  
実際、この時期、摘発される事件数もぐっと増加しています。  
摘発例を見ると、この時期の抜け荷の特徴は、長崎に住むものが主犯となっているケースがほとんどです。  
長崎奉行所の職員が主犯格となっている場合も結構目立ちます。  
貿易相手とのコネの有無が抜け荷に重要な役割を果たしていたことが判ります。  
貿易相手方は圧倒的に中国船です。  
オランダ船の場合には、個々の船員が行った例はありますが、組織ぐるみの大規模な犯行というケースはありません。  
そこで、幕府では強力な対中国密貿易対策を展開し始めます。  
それまで中国人はキリシタンではない、ということで、長崎市内における行動の自由を認めていたのが、1688年以降は唐人屋敷を設置して、長崎滞在中はそこに囲い込むことにします。  
また、中国船は季節風に乗って貿易にくるため、その来航が春・夏に集中します。そこで、貿易をする日本人に対する対策としては、その期間中は、長崎市民は、他出を厳しく制限されたほか、夜中には住む町から出ることを許されなくなりました。  
抜け荷の主たる犯行手段は沖買い、すなわち港の外での荷物の受け渡しです。  
そこで、漁師が夜間に出漁したり、一般の船が夜間に入出港するのを禁ずるなどの規制が敷かれました。  
また、長崎市内や近村での船の新造、売買、貸借が一々チェックされました。  
こうした一連の規制のために、長崎は火が消えたようになり、多くの市民が困窮するようになります。何とか従来並に貿易量を増やす方法がないかと、模索が始まります。  
突破口が開けたのは1694年でした。  
ある商人が貿易制限を上回る中国船、オランダ船の商品について、銀1000貫相当に限り、銅を対価として支払う条件で買い取ることを考え出したのです。  
この願い出は、運上金1500両を納めることで許可されました。  
1696年には、同じ商人は、取引規模を拡大し、運上金1万両を納めることを条件に、銀5000貫相当について銅による支払いを許可されます。  
この枠外貿易手段に着目した、長崎の町年寄、高木彦右衛門が中心となって、1697年(一説によると1698年)に長崎会所が設立されます。  
それまで取引は、相対取引、すなわち個々の商人によって分散的に行われていました。  
これを、同会所の下に集中させて貿易窓口の一本化を図ったのです。  
そして、高木彦右衛門に対して、俵物(たわらもの=鱶の鰭、干し鮑など中国料理に欠かせない日本の特産品を俵に詰めたもの)及び諸色(しょしき=昆布、するめ、寒天、樟脳、鰹節など)を代金として決済することを条件に、銀2000貫相当の枠外貿易が、2万両の運上を納めることにより、認められました。  
こうした新しい局面の出現に敏感に反応したのが荻原重秀です。  
1699年に荻原重秀は自分自身で長崎まで出張し、貿易事情を調査します。  
その結果、長崎貿易等からあがる諸利益のうち11万両は、長崎会所及び長崎市に残し、残りはすべて長崎運上として徴収するという制度を制定しました。  
また、長崎奉行を3名から4名に増員し、その地位も京・大阪奉行よりも上席に改めました。  
さらに、新たに長崎吟味役を江戸より派遣して、長崎会所の会計検査に当たらせることとしました。  
この長崎運上という制度は、名称は運上ということで、租税の一種という位置づけですが、非常に変わっています。  
これまで、運上といえば、原則的な定額法にせよ、例外的に酒税で取られた定率法にせよ、政府がある割合で租税を徴収すると、残りはすべて業者の収入になるというものでした。  
そのかわり、取られる額が大きくて赤字になっても面倒は見ない訳です。  
それに対して、長崎運上は、会所に一定額の利潤を残して、後はすべて幕府に入れるというのですから、完全に逆転しています。  
厳しい会計監査を実施する点と合わせみると、むしろ今日の株式会社における株主に対する配当を思わせます。  
幕府が全株を握っている会社というわけです。  
長崎会所については、その詳細の研究がまだあまり進んでいません。が、オランダとの貿易においては独占的相手方として東インド会社が存在しているのですから、日本側関係者が、その詳細を知らないわけがありません。  
おそらくそれにヒントを得た日本版東インド会社ではないか、と私は考えています。  
この運上金は、1703年に6万7057両余、1704年には7万2425両余となっていますから、かなり大きな額です。  
さて、このような会所を窓口として、一元的に官営貿易を行う場合の最大の問題は、輸出代金に充てる銅をいかに確保するか、という点です。  
その点をクリアするため、1701年になって、大阪に銅座が作られ、長崎会所は年に銀1500貫を貸し付けて銅の集荷を行うことになります。  
すなわち生産地から大阪に送られる銅を、銅問屋及び銅吹き屋から銅座に申告させて、一元的に買い上げたのです。  
しかし、初めのうちは銅の確保は十分に行われず、ために許可されただけの輸入を行うことができない、という事態が起きました。  
このため、輸入商品の価格も高騰し、通貨供給量の増大と相まって、物価一般の上昇という結果を招いていたのです。  
元禄バブルの崩壊と、不景気の到来が、こうして長崎貿易の破綻をきっかけに、日本経済を直撃し始じめたのです。  
E 朝鮮貿易  
対朝鮮貿易は、対馬の宋氏の独占事業でしたから、幕府の歳入には全くつながりません。  
しかし、この場合にも、わが国通貨の流出が問題になるという点は、長崎貿易と変わりがありませんから、それに対する制限の状況などもあわせて紹介しておきます。  
1687年に幕府は、対馬藩に対して、朝鮮との今後の貿易額を1万8000両に限定し、かつ無益の諸物品は一切これを貿易することを禁じます。  
当時の日本にとって、朝鮮貿易での最大の輸入品は、朝鮮人参でした。  
朝鮮側では、このような貿易制限を不愉快に思ったのでしょう、1689年に、今後は日本に朝鮮人参の輸出は行わない、と通知してきます。  
あわてた宋氏が、使節を派遣して陳情した結果、従来通り輸出を受けることができるようになったといいます。  
1700年になって、宋氏からの陳情で、幕府は貿易制限額を3万両に増加させています。  
おそらく、この13年の間に限度額に達してしまったのでしょう。  
吉宗が政権をとった後の話ですが、幕府は、宋氏に朝鮮人参購入費の補助のために1万両の貸与を行っています。  
宋氏の経済が貿易制限のために破綻したためですが、同時に、朝鮮人参は、当時の日本にとって、なくてはならぬものだったことがよく判ります。  
 
綱吉について、初めは名君でしたが、後になると、政治に飽きて勝手なことをするようになったと、昔私は高校で習ったものです。  
この見方は、おそらく今日でも、平均的な綱吉観といえるかもしれません。  
しかし、ここに紹介した諸活動を見れば明らかなとおり、他の行政分野はいざ知らず、財政分野に関する限り、綱吉は不退転の決意で、幕府財政基盤強化のために、将軍在位期間を通じて努力したといえます。  
その結果、綱吉という人は、大名にとって、あるいは旗本・御家人にとって、さらに一般庶民にとって、疫病神以外の何者でもなかった、といえるでしょう。  
しかし、徳川家にとっては、まさに中興の祖というべき存在です。  
もし、この時期に綱吉が登場して、一手に憎まれ役を引き受けてくれなかったならば、徳川家は、財政基盤を整備することもできず、人材を登用するすべも知らないままに、ずるずると衰弱していったと思われます。  
他方、諸大名は、新田の開発その他で蓄積した実力を背景に、もっと早くから幕府の覇権に挑むようになっていたことでしょう。  
おそらく、その結果、江戸時代はもっと早い時点で終わっていたに違いありません。  
そうなっていた場合、日本が、その後にどんな歴史を歩んだかは判りません。  
しかし、絶対に確かなのは、吉宗を中興の祖と呼び、綱吉を蔑視する今日の日本史研究は、どこかが狂っている、ということです。 
■補1 徳川綱吉(1646〜1709)5代将軍  
綱吉といえば、生類哀れみの令や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。しかし、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。  
その綱吉の改革の中心的役割を担ったのが堀田正俊。  
彼は春日局の養子となったことで綱吉の兄、家綱の小姓となったことから出世の道がスタート。1681年には老中にまで上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「鎌倉幕府の先例に従い、京都から有栖川宮幸仁親王をお迎えすればよい」と主張した大老・酒井忠清に対し、「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局正俊が勝ち、忠清は綱吉に「おや、顔色がすぐれぬな。仕事はいいから、家で養生しなさい」と言われてクビになった。そして、正俊は下総古河9万石が与えられ、さらに大老となった。  
で、この2人がやったことは「綱紀粛正」であった。治政不良の大名は次々と処罰を受けた。御家騒動などもってのほか。また、代官の不正も許さなかった。一方で真面目な者達は表彰する。彼らは、いわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのだった。また、勘定吟味役という読んで字のごとくの幕府の役職も創設した。  
だが1684年に、いかなる理由からか堀田正俊が、甥の稲葉正休に殺されてしまう。一説には、政策をめぐって堀田正俊と綱吉が対立。次第に仲が悪くなり、正休が綱吉の命で殺したという。  
またもう一説には、淀川改修工事を巡るトラブルがあったらしい。正休のたてた改修計画の費用見積もり4万両に対し、正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させたところ半分の費用ですむことが判明。これで面目を失った正休が正俊を殺したそうな・・・。  
そして、この頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ね、マザコンのため、母上様(桂昌院)からの命令で生類哀れみの令を出し、勘定奉行荻原重秀に貨幣の改鋳をさせ、粗悪な金貨を作る代わりに貨幣の量を増やすなどを行った(この通貨政策は評価が二分)。この綱吉の跡を継ぐのが、兄(綱豊)の子の家宣である。  
なお、柳沢吉保は綱吉の死とともに、権力の座にしがみつくことなく辞任。宮仕えから解放され、ようやく大好きな学問に浸る生活を始める。彼の息子は名君とうたわれたことから、もしかすると吉保もその素質はあったのではないかと推測する。だいたい、気性の激しい綱吉の側近は、ただのおべっか使いではつとまらなかった。 
■補2 徳川綱吉の時代  
徳川綱吉、初期の政治  
1680年、亡くなった徳川家綱には実子がいなかったため、弟の徳川綱吉(とくがわつなよし1646〜1709年)が第5代将軍に就任しました。彼は、家綱時代に絶大な権力を誇っていた大老の酒井忠清を早速罷免し、自分を将軍として擁立してくれた老中の堀田正俊(ほったまさとし1634〜1684年/堀田正盛の三男)を大老とします。酒井忠清は越前松平家と縁続きである有栖川宮家の幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしていた・・・と言われており、失敗した忠清を待っていたのは・・・。というわけで、見事な権力交代劇といったところでしょうか。  
そして、酒井忠清は失意のうちに1年後に死去。  
彼が宮将軍を擁立しようとしていた真の理由は、未だに良く解っていません。そもそも、忠清を悪者とするために後に捏造された話ではないのか?という疑問も有力に出されています。  
さて、この時代になると、次第に平和ボケした幕府の空気はたるみ始め、さらに災害対策などの公共事業に多額の出費をしてきたため、幕府の財政も早々に危機的な状況になってきました。そこで徳川綱吉と堀田正俊は、天和の治と言われる改革を実行します。  
まず重要なのは、綱紀粛正。家綱の時代から一変し、不真面目な大名家は次々と処罰を受けました。御家騒動などもってのほか。また、代官の不正も許さなかった。一方で真面目な者達は表彰する。彼らは、いわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのでした。また老中直属の機関として、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)という幕府の財政や、代官などの不正行為などをチェックする役職を創設します。  
要するに現在で言う、監査役のようなもので、この発想を当時具現化したというのは、結構凄いことだと思います。  
このまま二人の改革の炎は続くかに見えましたが、1684年に、いかなる理由からか堀田正俊が、甥の稲葉正休に殺されてしまいます。一説には正俊と綱吉の仲が悪くなり、正休が綱吉の命で殺したという(だが、嫌いならクビにすれば良いだけのこと)。またもう一説には、大坂の淀川改修工事を巡るトラブルがあったそうな。  
正休の立案した改修計画の費用見積もり4万両に対し、正俊が独自に専門家の河村瑞賢(かわむらずいけん1617?〜1699年)に調査させたところ半分の費用ですむことが判明。これで面目を失った正休が正俊を殺したそうな・・・、という説。  
土木工事はお任せあれ、河村瑞賢  
話はズレますが、この河村瑞賢というのが凄い商人です。  
元々は伊勢国東宮(とうぐう)村(現在の三重県南伊勢町)で、貧農の子として生まれて13歳のときに江戸に出てきて、車力などの下積み生活の末に、材木商に転身。明暦の大火が起こると、木材の主要産出地である木曽の森林を買占め、その売却益で莫大な富を築き、今度はゼネコン業へ移行。幕府や諸大名の土木工事を請け負います。  
それだけなら、ただの一攫千金な商人ですが、彼は着眼点に優れた人物で、物資の効率的な輸送路を次々と切り開いていきます。例えば、福島など東北の方から江戸に米を運搬するルートは、従来は利根川まで出た後、川用の船に積み替えて・・・というルートだったのですが、彼はこれを房総半島経由で、大型船で一気に運ぶ東廻り航路(東廻り海運)を開発。大幅なコストダウンに成功しました。  
もちろん、ただ房総半島等経由にするだけなら誰でも考えるでしょうが、その中でも、どの航路を取れば最も安全に、早く江戸に着くかを、そして船の航路を守るシステムの構築を河村瑞賢は調査研究したのです。詳しくは是非、皆さんも調べてみてください。  
また1671年には出羽(山形県)にある幕府領の年貢米の輸送を請負い、日本海の諸藩が利用する、関門海峡、瀬戸内海を経由する西廻り航路(西廻り海運)を再構築。寄港地の再設定や、航海に危険な場所に水先案内船を置いたり、一部の港には夜間に烽火(ほうか)を炊かせるなど、安全性を確保。この航路が安心して利用されるようになり、特に終点の大坂は天下の台所として、発展していきます。  
柳沢吉保と荻原重秀  
話を戻しまして、堀田正俊が殺害されると権力を握ったのが側用人(そばようにん)という役職に就任した牧野成貞(まきのなりさだ1634〜1712年)と、柳沢吉保(やなぎさわよしやす1658〜1714年)でした。特に柳沢吉保は、所領の加増などで非常に可愛がられ、元々は綱吉の小姓としてスタートしたのが、側用人就任で1万2000石へ。終いには甲府15万石まで与えられ、大老格にまで上り詰めます。その権力や、大変なものだったでしょう。  
また経済面では荻原重秀(おぎわらしげひで1658〜1713年)を勘定奉行として登用。彼は財政難の幕府を立て直すため、産出量が減少していた佐渡金山を再調査して再生させたり、不足する貨幣の流通量を増やすため、貨幣を改鋳(かいちゅう)。金含有率を減らした元禄金銀を作らせました。ところが、金貨の価値が下がり物価が上昇した・・・との批判を受けますが、最近では「それほどのインフレ率ではなかったのでは?」という研究もあります。  
特に彼が凄いのは、世界各国が実物の金や銀を貨幣として重要視する中で、既に「通貨という物は、政府の信用があることが大切であり、そのためには金貨である必要もなく、瓦でも良い」という名言を残しています。事実、皆さんご承知の通り、今は買い物を金貨や銀貨でなんか支払っていませんよね。それどころか、電子マネーすら普及しています。要するに、通貨の材料は何でも良いわけで、問題は政府がきちんと流通の管理が出来ているか、ということなのです。  
ところが荻原重秀は不幸にも、幾ら財政再建に取り組んでも、例えば1707(宝永4)年に発生した富士山大噴火のように天災などで多額の出費を強いられ、しかも追い討ちをかけるかのように綱吉も、そして綱吉の母である桂昌院も寺社建設などで散在する有様(代表的なのが下の2例)。これでは中々・・・財政再建への先行きは厳しい。  
仕事に忙しかったのか、荻原重秀は自らの考えを記した書物を残さなかった上、徳川綱吉の死後、新たに権力を握った新井白石という学者に「賄賂を大量にもらっていた」などのある事無いことでボロクソに叩かれ、すっかり悪人扱いされてしまい、正当な評価がされてきたのは、比較的最近のようですね。  
生類憐みの令  
徳川綱吉も結局後継者に恵まれなかった将軍です。  
なかなか男児が生まれず、ようやく誕生した徳松は早世してしまいました。  
そこで彼は1685(貞享2)年から数次にわたり、後世に生類憐れみの令と総称される様々なお触れを出しました。つまり、「子供が生まれないのは、前世に殺生をしたため」だとか。これを進言したのは、綱吉の母である桂昌院が帰依する僧・亮賢(りょうけん)、または、やはり桂昌院がお気に入りの僧・隆光といわれています。その対象は犬が特に有名ですが、猪、鹿、狼、野鳥、牛、馬、犬、さらには捨て子にまで及びました。  
捨て子を町村に養育を義務付けるとか、「みだりに鳥を撃ってはならぬ」など、その理念は立派ですが、これに違反した者の処罰が過激すぎました。そして、犬公方と言われるほど江戸の犬を大切にし、武蔵国喜多見村(現在の東京都世田谷区)や、四谷、大久保、中野に施設を造って野良犬を保護し、エサを与えました。  
当然「俺たちの生活が苦しいのに、犬にエサを与えるのかよ」と庶民に不評でしたが、これは野良犬対策には有効だったと私は思います。ただ・・・犬の保護に多額の出費を行ったのは、幕府の財政にまたまた打撃を与えました。なにしろ、中野の施設では10万匹が保護できるものだったとか。それでも場所が足りずに、周辺の村に養育金を支払ってまで預けたほど。  
一般には綱吉の風変わりな政策に誤解されがちですし、もちろん多少はそうだとは思いますが、実は生物を全て幕府の管理下に置いてしまおうという、深読みすればするほど、凄まじい法律です。深読みしなくても、特に農民からは鳥獣保護を名目に、農作物を荒らす動物を追い払うための鉄砲を取り上げたそうで、幕府に反抗するための道具を奪うという、幕府にとって現実的な面もありました。  
そのため、綱吉の死後も鉄砲所持の規制など一部制度は存続しました。  
またこれに併せて、1684(貞享元)年に服忌令(ぶっきれい)というのを発布します。服忌とは、近親者の喪に服すこと(服喪)と、穢れ(ケガレ)を忌む忌引(きびき)の2つで、誰かが亡くなったときに、喪に服する日数や自宅謹慎の日数を、死者との関係によって色々と細かく規定したものです。  
殺すか殺されるかが当たり前のような戦国時代、そしてその影響が残っていた江戸時代初期。  
生類憐れみの令や、この服忌令は、血や死を穢れとすることで、忌み嫌うにし、人々の価値観を大きく転換させていくもので、徳川綱吉が何を理想としていたか、その一端を垣間見ることが出来ます。  
どこまで本当?忠臣蔵の世界  
徳川綱吉政権の末期にあたる1702年には、改易された赤穂藩浅野家の浪人たちが、吉良義央の屋敷を襲って彼を殺害するという、赤穂浪士の討ち入りが発生し、世間の注目を集めます。ことの発端は、次のような事情です。  
すなわち1701(元禄14)年、赤穂藩第3代藩主の浅野長矩(あさのながのり/通称は浅野内匠頭=たくみのかみ)が江戸城の松ノ廊下にて、旗本(高家)吉良義央(きらよしなか/通称は吉良上野介=こうずけのすけ)に斬りつけるという事件が発生。吉良義央は一命を取り留めましたが・・・。  
浅野長矩はこのとき、天皇・上皇の使いとして新年の賀礼に徳川綱吉を訪ねる予定の勅使・院使の饗応役に任じられており、その指南役が吉良義央でした。つまり、朝廷から大事なお客様がやってくるというのに、あろうことか接待の責任者が、礼儀作法の先生を殺そうとしたという、なんとも幕府にとって面子の悪い事件を起こしてしまったわけです。しかも、大切な場所を血で汚してしまった。先ほどの服忌令に象徴されるように、綱吉にとって最も忌むべき出来事です。  
当然のことながら綱吉は「余の顔に泥を塗る気か!」と激怒し、なんと事件当日のうちに切腹と赤穂藩浅野家の改易を決定。おかげで、浅野の殺人未遂の動機は未だに不明ですし、おそらく永久に解明することは無いでしょう。  
こうして赤穂藩は取り潰されてしまい、家老の大石良雄(おおいしよしお1659〜1703年/通称は内蔵助=くらのすけ)。吉良上野介を討つべし!という強硬論を抑えつつ、浅野長矩の弟である浅野長広による御家再興の機会を待ちます。うかつに幕府に反抗して、全てが台無しになっては困ると冷静に考えたのでしょう。  
ところが、浅野長広は広島藩浅野家永預かりとする!、つまり「赤穂藩浅野家の再興は無いぞ」と処分が決まったことで、いよいよ主君の敵討ちとして吉良義央を暗殺する計画を実行に移します。  
別に赤穂藩の人たち全員が計画に乗ったわけではなく、むしろ一部であり、さらに次第に計画から離れるものも出ましたが、最終的に大石ら47名が1702年12月15日未明、吉良邸に討ち入りを行い吉良義央を殺害。その首を泉岳寺の長矩の墓前に捧げ目的を達成しました。  
さて、この行為をどう評価するべきか幕府内でも論争となりましたが、討ち入りに参加した46名を切腹とし、さらに「何故か」吉良家の領地を召し上げ吉良家は断絶、これにて一件落着・・・としました。  
庶民は何と忠義に厚い赤穂浪士!として、現代に至るまで拍手喝さい。さらに江戸時代から現在まで、古くは人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」(1748年初演)に始まり、正月時代劇やNHK大河ドラマに至るまで、着色を加えて何度もドラマ化されています。  
しかし非常に謎の多い事件で、まず討ち入りに参加したのがその大半が給料の少なかった家臣たち。家老の大石良雄が1500石、他2名が300石なのがせいぜいでした。要するに、再就職できた人や当面は生活に困らない人たちは参加しなかったわけで、おそらく大石良雄は下級武士の再就職デモンストレーションを行ったのでは?と思います。  
さらに、討ち入りに参加したのが47人なのに切腹が46人。この1名の差は、実は浅野家の直接の家臣(直臣)ではなく、同志の吉田忠左衛門の足軽だった寺坂吉右衛門は幕府に討ち入りに参加した人間として、届けられていません。何らかの連絡役として残したと思われる一方で、当時の武士の感情とすれば、「あいつは直臣ではなく、陪臣であり我ら46人と格が違う」と差別された可能性も強い。  
吉良上野介の実像も良く解らない面があります。  
1686(貞享3)年に、領地の三河国幡豆郡吉良荘(現在の愛知県吉良町)造らせた黄金堤などの治水事業や新田開発は地元で高く評価され、名君であるとされています。もっとも、本人がどこまでかかわったかどうかは不明。色々な人にイジメを行っていたという逸話もあるようで・・・。  
浅野内匠頭についても、ずっと1人の妻だけを愛していたという話もあれば、とにかく女好きで政治を省みず、全てを大石良雄に任せっきり、大石も忠告しなかった不忠の臣であるという正反対の話しもあり良く解らない・・・上に、こんな大事件が起こって初めて注目されたため、事件前の彼らの記録については、あまり残っていないようで、その実態は良く解っていません。  
さて、徳川綱吉は1709年に死去。結局、後継者には恵まれずに甥の徳川家宣が第6代将軍になります。  
良くも悪くも見るべき出来事が非常に多かった徳川綱吉の時代。他にも越後国高田藩(現在の新潟県上越市)で起こった越後騒動と言う御家騒動に対する裁決など、色々と取り上げるべきことも多いのですが、とりあえずはこのぐらいにして、次回は寛永文化と、元禄文化についてみていきます。 
 
新井白石と正徳の治

 

1.家宣と間部詮房
1708年12月、綱吉は麻疹(はしか)にかかり、翌9年正月に死亡します。享年64歳でした。あの衛生状態の悪い時代には、これは十分長寿といえます。  
そもそも60過ぎまで麻疹にかかったことがなかったと言うこと自体、彼の生活環境がどれほど無菌状態であったかを端的に示しています。  
前章で述べたとおり、綱吉は、江戸幕府歴代将軍の中で最強の権力を誇った将軍であり、やりたいことはすべて自由にやれた只一人の将軍といえるでしょう。  
唯一、叶わなかった夢は、自分の血筋に将軍の跡を継がせるということだけです。  
彼の子は、男子はもちろん、女子でさえ、すべて彼より前に夭折していたのですから、人の親としてみれば、不幸な最後だった、というべきかもしれません。  
その後を継いだのは家宣(いえのぶ)です。  
彼は、綱吉の兄綱重の子、すなわち綱吉からみれば甥に当たり、当時、甲府宰相といわれていました。  
宰相というと、今日では総理大臣のことを意味します。しかし、この当時は、彼の就いていた宮廷における地位である「参議」の唐名が宰相であることから、こう呼ばれていたのです。  
参議という地位は、百人一首の詠み人にも何人かいますが、太政大臣、左右大臣、大納言とともに議政官を構成する身分でした。  
それ自体としては決して高い身分とはいえませんが、武士としては非常に高いランクに属します。  
甲府藩では、綱吉の館林藩と同じように、かなり積極的な人材登用策をとっており、その一環として大量の土豪や浪人の採用を行っていました。  
前章に触れたとおり、甲府の領主には、家宣と入れ替わりに柳沢吉保がなっています。換言すれば、甲府徳川家は、家宣が将軍後継者として西の丸入りした時点で、消滅したのです。  
その結果、甲府藩の全藩士が原則的に幕臣に編入されます。  
ある研究によると、御目見得以上だけで、幕臣に編入された者が、綱吉の将軍後継時の500名を遙かに上回る780名に達するといいます。  
これらは、家宣が将軍に就くとともに、幕府における諸々の行政活動の中核集団を形成するようになります。  
特に幕府財政の中核である勘定所の場合、全体で187名の職員のうち、64名までが甲府藩からの転籍組でした。しかも、そのうち8割までは、浪人出身者であったといいます。  
家宣としては、こうして子飼いの勢力で幕政の要所要所を固めたのですから、その総仕上げとして、綱吉同様に、当然側用人を重視します。  
綱吉政権における柳沢吉保の占めていた地位に座ったのは間部詮房(まなべ・あきふさ)です。彼は1666年生まれで、父親の代に甲府藩に召し抱えられました。  
家宣は、藩主である間、一度もお国入りせず、ずっと桜田御殿で過ごしていました。  
詮房は甲府藩当時、すでにこの桜田御殿の用人になっており、家宣の西の丸入りとともに、西の丸用人、そして将軍になるとともに側用人というように、一貫して家宣の用人としての道を歩みます。  
また、側用人になると同時にただちに老中格とされます。さらに1710年には上州高崎5万石の城主となります。  
このように柳沢吉保を上回るトントン拍子の出世ぶりのせいか、この人も、柳沢吉保同様に、従来の日本史の上ではきわめて評判の悪い人です。  
幼い頃に猿楽師の喜多七太夫の弟子となったことから、生涯「能役者上がり」という陰口につきまとわれます。  
また、容姿端麗であったために家宣の男色の相手という陰口もあります。が、家宣に召し出されたのは1784年で、もう20歳近く、当時の感覚では、とてもそういうお役に立つ年齢ではありません。  
彼と身近に接した新井白石によれば、彼は性質がよく、君子人で、将軍補佐のため、誠心誠意尽くしたということです。他人を評価するにあたり、点の辛い白石の言うことですから、信じて良いと思います。 
2.新井白石略史1

 

家宣及び間部詮房の下で、ブレーンとして実際に様々な政策を立案したのは、これまでにも、様々な統計資料の出所としてたびたび名を出した新井白石です。  
本名は新井君美(きんみ)ですが、当時は、通称の勘解由(かげゆ)が普通には使われていました。今日、一般に知られている白石は号です。  
白石の父、正済(まさのり)は長く浪人をしていましたが、白石が生まれた頃は、上総国久留里藩土屋利直に仕えていました。  
白石が生まれたのは、1657年、父が57歳、母が42歳の時の子といいますから、今日でさえも大変な高齢時の出産です。  
振り袖火事として有名な明暦の大火の翌日に、焼け出された避難先で生まれています。  
幼い時は、主君利直から火の子と呼ばれてかわいがられたそうですが、史上有数の大火とともに生まれるというのは、なにやら彼の生涯を象徴するようで、興味深いものがあります。  
幼い時から非常に聡明な子だったといいます。3歳(満でいえば2歳)の時に、既に字を書き、6歳で漢詩を暗誦したそうです。  
そこで、主君は彼を非常にかわいがり、片時も側から離さなかったそうです。その一方、利直は、自分の嫡男直樹は嫌っていて、正月に父子対面する以外は顔を合わそうともしなかったというのです。  
白石が20歳になったときに利直が死に、直樹が跡を継ぎました。  
しかし、直樹を暗君とみて、白石の父は、一日も出仕せず、辞職しました。  
当然、その子の白石がその跡を継ぐわけですが、直樹としては、自分が疎んじられていた父に白石が子供時代からかわいがられていたというのが気に入らなかったようです。  
結局、白石は、1年ほど後に難癖を付けて追放されます。  
もっとも、こうして浪人したこと自体は、早いか、遅いかの違いにすぎませんでした。人々の予想通り、直樹はすぐに暗君ぶりを発揮した結果、久留里藩は白石が23歳の時には、改易されて消滅してしまうからです。  
白石が、儒学に興味を持ったのは17歳の頃だ、と自分でいっています。当時としてはもう少年とはいえない年齢です。  
随分遅くなってから儒学を学び始めたわけです。  
綱吉が政権を握って学問の奨励を行うようになると、武士の気風も変わるのですが、白石が幼年の頃は、当然に儒学を覚えさせるというような時代ではまだ無かったのでしょう。  
当然のことながら、久留里藩には藩校のような手頃な教育機関はなかったらしく、始めから独習です。  
そうして、上記の通り、21歳には早くも浪人してしまうわけですから、貧しくて師匠につくこともできません。  
原典を人から借りては、ひとりで読んで勉強したらしいのです。  
おそらく、このことが白石の、従来の儒学の視点にこだわらない独自の学問を形成させたのだと思います。  
ついで26歳の頃に、推薦する人があって、大老堀田正俊に仕えることができました。  
が、先に紹介したとおり、正俊は暗殺されます。白石が28歳の時です。  
その頃、綱吉は正俊と意見が合わなくなっていたようで、当主が暗殺された機会に、堀田家はまず山形10万石に転封され、さらに翌年には福島10万石に転封されます。  
堀田家の家禄そのものは、正俊の全盛時代に、正俊自身の意思で一族に一部分与した結果、10万石に減っていましたから、これは表面的には単なる転封であって減封ではありません。  
が、この福島藩領はなるほど表高は10万石ですが、実高は5万石に過ぎなかったといわれます。  
あれだけ厳しい元禄検地をした綱吉のやったことですから、実高が表高の半分ということは意識的な嫌がらせであったのでしょう。  
この結果、堀田家は5万石分の収入で10万石相当の格式を維持しなければならない羽目に陥ります。  
したがって、減封されるよりもはるかに財政的に厳しいことになりました。  
こうした主家の苦労を見かねて、35歳の時に、白石は自発的に再び浪人しています。  
堀田家に仕えている間も、書物の購入などに金を使っていたため、この時、家に残った財産を調べてみると、わずかに銭3貫、米3斗にすぎなかった、といいますから、わずかとはいえ俸禄をなげうって浪人するとは無茶な話です。  
話は前後しますが、30歳になった頃に、初めて朱子学者木下順庵に巡り会います。  
本来なら門下生となるためには相当の入門金が必要ですが、白石にはそれがありません。  
幸い、順庵が白石の才能を見込んで、客分として出入りを認めてくれたことで、なし崩しに事実上の門下生となることができたのです。  
順庵の門下生には、白石の外、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、室鳩巣(むろきゅうそう)等、後に有名な学者になる人が多く集まっていましたから、ここに入門できたことは、白石に切磋琢磨の機会を与えたことになり、その成長に寄与するものは大きかったことでしょう。  
雨森芳洲については、あるいはご存じない方もいるかもしれないので簡単に紹介しておきます。  
彼は町医者の子として生まれ、順庵の推挙により対馬藩に仕えて、対朝鮮の外交官として60年間も活躍します。  
後に、白石が朝鮮通信使の待遇を改革しようとした際には、日本と朝鮮の間で苦労することになります。  
白石が37歳の時に、木下順庵は、白石の才能を見込んで、甲府宰相家宣に推挙します。  
甲府藩では最初、幕府お抱え儒者の林家に弟子の推薦を依頼したのですが、家宣(当時は綱豊と名乗っていましたが、混乱を避けるため、一貫して家宣と呼ぶことにします。)は、その頃、綱吉から冷遇されていたため、林家では家宣には将来性がないと見て、断ったので、話が順庵の方に回ってきたのです。  
後に、白石の全盛期には、林家は白石の学識の前に圧迫されて、ほとんど公的活動が許されなくなることを考えると、運命の皮肉というものを感じます。  
甲府藩の話は、始めは三十人扶持の俸禄という条件でした。  
一人扶持というのは、一日米5合を支給する、という意味ですから、三十人扶持というと、1年間で米54石を支給されるという計算になります。  
家禄としての石高は、五公五民という課税率を前提としますから、手取り石高の倍程度になります。  
だから普通の武士に換算すれば、百石取り程度の身分と理解すればよいでしょう。25万石の大藩の家臣としては、かなりの軽輩です。  
余り重視されていなかったことがよく判ります。順庵が掛け合い、ようやく四十人扶持になったといいます。  
これでも順庵は不服だったのですが、白石が家宣の将来性を見込んで、順庵に推薦を依頼したのです。  
家宣は、白石に実際に進講させてみたところ、既存の儒学の枠にとらわれない斬新な講義をするものですから、すっかり白石が気に入って重用するようになりました。  
藩として与えている給料が安いことを承知している家宣は、折りあるごとに本や現金を与えて、彼の家計を支えるように努力します。  
それ以上に重要なのが、側用人間部詮房が、彼の才幹にすっかり惚れ込んだ、という点でしょう。  
そのため、詮房は、家宣存命中はもちろん、その死後も、問題にぶつかる度に白石の意見を求めるようになります。  
その家宣が将軍になるにしたがい、白石も幕臣となりました。  
が、彼はあくまでも儒者という地位にとどまりましたから、間部と異なり、1709年に500石を賜り、1711年になって1000石に加増されているに過ぎません。  
身分的にも本丸寄合(よりあい)、すなわち無役のままで、最後まで通しています。  
将軍家宣は、綱吉の跡を継いで側用人を中心とした強力な政治を展開しますが、健康に恵まれず、将軍就任のわずか4年後の1712年に死亡します。  
50歳になっていましたから、当時の人としては、別に短命だったわけではありません。  
問題は、その子家継がわずかに数えの5歳、満でいえば3歳の幼児だったことです。  
普通であれば、4代将軍の時のように、老中が政治の実権を握って行くことになるはずです。  
しかし、家宣が強力な側用人政治を実現するために、老中には選りすぐり?の無能な者を任命してありますから、彼らにはそれができません。  
また、無能であるということは、自分たちが身を引いて、有能な老中を就任させるという知恵さえもないことを意味します。  
そこで、引き続き間部が政治の実権を握り続けます。この結果、将軍の意思の全く反映しない完全な側用人政治、というきわめて変則的な事態がここに始まることになりました。  
そして、間部詮房は、政治闘争面は別として、政策面に関しては完全に白石の進言にしたがっていました。  
そこで、この正徳年間は、政策面で見る限り、一貫して白石の時代といわれます。  
一介の寄合に過ぎなかった者が幕政を完全に左右していたのですから、地位と実際に行使した権力との落差に驚かされます。  
今の感覚でいうと、総理大臣の秘書官と家庭教師が、舞台裏から完全に国政を牛耳っている状態でも想像すればよいのでしょうか。  
結果は手段を正当化するとはいえ、かなり不健全な状況といえるでしょう。  
しかし、この二人の誠実さ、言葉を換えれば、無私の心だけは否定することができません。  
いくらでもお手盛りで自分に対する報酬を増やせる状況にありながら、そうした動きは全く見せていなかったからです。 
新井白石略史2 
明暦3年-享保10年(1657-1725)江戸時代中期の旗本・政治家・学者。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みできんみ)。  
先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原攻めによって没落したといわれている[1]。のちに父・正済は上総久留里藩に士官し、目付をつとめている。  
白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。  
利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。その後直樹が改易されると、自由の身となった白石は大老堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河・山形・福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化、白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。  
この間、豪商の角倉了仁から「知人の商人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われたり、河村通顕(河村瑞賢の次男)から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けたが、白石は好意に謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話がある。  
順庵との出会い  
独学を続けていた白石は、貞享3年(1686年)になって朱子学者木下順庵に入門することになった。通常入門には束脩(入学金)がかかるものだが、白石にはそれが免ぜられ、順庵も弟子というより客分として遇するほど白石に目にかけていた節がある。順庵の門下生には、白石の他、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海等、後に高名な学者になる者が多く集まっていたため、順庵に入門できたことは白石にとって大変意義があった。  
師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきてくれた。白石も後年、「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩は前田綱紀のもとで学問が盛んであった。ところが同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないでしょうか」と頼まれ、岡島にこのポストを譲った。  
その後、順庵は元禄6年(1693年)、甲府藩への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。甲府藩主徳川綱豊は当初林家に弟子の推薦を依頼したが、当時綱豊は将軍徳川綱吉から疎んじられており、林家からは綱豊に将来性なしと見限られ断られてしまった。そこで順庵の方に推挙を依頼してきたのである。  
甲府藩の提示内容によると、当初三十人扶持の俸禄という条件だったが、順庵が「白石よりも学問が劣る弟子でさえ三十人扶持などという薄禄はいない。これでは推挙できかねる」と掛け合った結果、甲府藩からは四十人扶持を改めて提示された。これでもなお順庵は推挙を渋ったが、白石は「かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず(徳川家の親藩であるから甲府藩は通常の大名家とは違う)」と、むしろ綱豊の将来性を見込んで、順庵に正式に推薦を依頼したのである。  
正徳の治  
徳川綱吉は多額の支出をして寺社を建立して祈祷し、生類憐れみの令を出したが、結局子宝に恵まれず、徳川綱豊を将軍世子として西丸に入れた。  
宝永6年(1710年)綱豊は名を家宣と改め、将軍となった。家宣は将軍に就任すると、側用人の松平輝貞・忠周を解任し、大学頭林信篤を抑えて、白石にその職責の大半を代行させた。ここに白石は甲府家から白石や間部詮房を自身の側近として、後に正徳の治と呼ばれるようになる政治改革を行った。白石の身分は500石取り(のち正徳元年1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない。そこで家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取った。幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与したのは、この白石をおいて他に例を見ない。  
白石の政策は旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。  
家宣が没すると、その子の7代将軍徳川家継の下でも引き続き間部と共に政権を担当することになったが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極めた。幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと白石は失脚、公的な政治活動から退いた。  
引退後  
致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。  
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。  
晩年はこうした不遇の中で著作活動に勤しみ、諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、『読史余論』、古代史について書いた『古史通』、また白石自身「奇会」と断言したシドッチへの尋問後に記した西洋事情の書『西洋紀聞』『采覧異言』、さらに琉球の使節(程順則・名護親方寵文や向受祐・玉城親方朝薫など)らとの会談で得た情報等をまとめた『南島志』や、回想録『折たく柴の記』などを残した。著書『古史通或問』の中では、古代史上最大の謎といえる邪馬台国の位置を大和国と主張し、この邪馬台国近畿説が後に本居宣長が主張した邪馬台国九州説とともに双璧を成す説となっている。  
『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日死去。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。  
政策  
経済政策  
通貨吹替え第5代将軍綱吉の時代に荻原重秀の通貨政策により大量に鋳造された元禄金銀および宝永金銀を回収し、家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉に忠実に慶長金銀の品位に復帰する、良質の正徳金銀を鋳造して、インフレの沈静に努めた。長崎貿易の縮小開幕以来の長崎貿易で大量の金銀が海外に流出したため、これを縮小する政策(海舶互市新例)を取った。  
外交政策  
朝鮮通信使の待遇の簡素化朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するとし、朝鮮通信使の待遇を簡略化させた(この一件は順庵の同門だった対馬藩儒・雨森芳洲と対立を招いた)。また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」とした。シドッチ密航事件ローマ教皇からの命でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、長崎を経て江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還が上策と建言した。また、白石はこの事件により得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を記している。 
3.新井白石の財政改革

 

白石は、あきれるほどの万能の超人で、彼の活動は、当時の学問の全般に及んでいますが、ここでは、その財政面における改革に注目しましょう。  
白石は、儒者としては、様々の点においてきわめて例外的な人物ですが、この時代の財政家としての最大の特徴は、数字に明るいということです。  
これまでも度々白石の調査数字を引用してきましたが、あらゆる問題に、実に周到に統計調査を行い、それに基づいて、合理的な思考で問題を解決していく点に、白石という人の優れた特徴が存在します。  
(1)宝永及び正徳の貨幣改鋳  
家宣は、前述のとおり、政権を握るとすぐに、幕府行政機構の担い手を、全面的に甲府藩から幕臣に転籍した者に入れ替える、大幅な人事異動を実施しています。  
しかし、勘定奉行自身は、外に適任者がいないことから、前代に引き続き、荻原重秀が留任し、その辣腕を振るい続けることになります。  
A 荻原重秀と宝永の改鋳  
前章に詳述したとおり、荻原は金貨の改鋳により、元禄期の幕府の財政危機を救いました。  
が、この頃になると、経済規模に比べて通貨供給量が多くなりすぎたことから、インフレ傾向へと経済基調が変化していました。  
しかし、当時の普通の人々には、そのような通貨常識はありませんでした。  
そこで、物価上昇の原因は、品位の低い通貨に改鋳したことにある、ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。  
A-1 金貨の改鋳  
そこで、荻原は、1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。宝永小判の発行です(「乾」の字の刻印があるところから「乾字金」とも呼ばれます)。  
これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。  
しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。  
だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。  
つまり十分に高品位でありながら、改鋳により幕府として出目が得られるという手法です。  
品位の低さだけを取り上げて非難していた人が、非難の論理を失って当惑している顔が、目に見えるような気がしませんか?  
同様に、やはり慶長一分金のほぼ半分の重量で、ほぼ同一品位の宝永一分金も発行します。  
両者合わせて1151万5500両と、ほぼ元禄金銀の発行量に匹敵する大量発行を敢行します。  
これらの通貨は、額面通りに通用させようとすると、抵抗がありますが、品位そのものは非常に良いため、補助通貨としては人気が出ました。  
つまり、一両ではなくその半分の二分金として、あるいは一分ではなく、その半分の二朱金として広く使われたのです。  
このため、後に白石が慶長金と同じ大きさで改鋳しても、なかなか市中から回収ができなかったといわれます。  
経済規模が拡大していたため、小規模取引が増加してきたのですが、それまで、こうした補助通貨がなかったので、乾字金は、まさにその間隙を埋める働きをしたわけです。  
A-2 銀貨の改鋳  
荻原以前の銀貨である慶長銀は、銀純度が80%という高品位でした。  
それを荻原はまず、1695年の元禄の改鋳の際に64%に下げました。  
しかし、これは元禄小判の慶長小判に対する品位の低下率よりも低かったので、低下率を同一にするために、宝永に入ると、まず1706年に50%に純度を下げたことは、元禄の改鋳の説明の中で述べました。  
この50%品位の銀貨は「二つ宝銀」と呼ばれます。丸に宝という刻印が上下に二箇所打たれていたためです。  
ちなみに元禄改鋳で作られた銀貨は、上下に丸に元の字の刻印が二箇所あり、元禄銀と呼ばれます。  
1710年に宝永小判を改鋳する際に、銀貨を放置しておいたのでは、品位の低下率に差が出て、金貨に対して銀貨が強くなってしまいます。  
そこで、重秀は独断で、すなわち将軍はおろか、老中の了解さえも得ないままに、同時に銀貨の品位を40%に下げました。  
これを「永宝銀」または「永字銀」といいます。二つ宝銀と同様に上下に2箇所打たれた宝という刻印があり、それとは別に、中央部分に丸に永の字の刻印が入っていたことによります。  
この後、荻原は、銀の品位を下げることに、ほとんど執念というべきこだわりを見せるようになります。  
なぜそのような執念を持ったかという点を理解するには、当時は金と銀の2重本位制が地域によって異なる形で機能していた、ということを知ってもらう必要があります。  
すなわち、江戸を中心とする東国経済圏は金貨本位制の経済であったのに対して、大阪を中心とする西国経済圏は銀貨本位制の経済であって、本位通貨が違っていたのです。  
この金貨=銀貨相互の交換レートは、幕府としての公定レートは、このころは、金貨1両が銀貨60匁という事になっていましたが、実際には市場は絶えず変動しており、幕府といえども、この公定レートを強行する力を持ちませんでした。  
金本位経済圏に位置する幕府としては、金貨の対銀貨レートが高いほど好ましいのはいうまでもありません。しかし、経済の中心は大阪にありますから、ややもすれば銀貨の方が強くなります。  
そこで、荻原は、銀貨の質を悪くすることで、腕ずくで金貨の対銀貨レートを好転させる事ができるはずだ、とこの時、考えついたのです。  
その結果、40%品位の永宝銀を発行したばかりのその同じ年のうちに、32%に下げた新銀貨を発行します。上中下三箇所に丸に宝の刻印があるところから三つ宝銀の名で知られます。この発行も重秀の独断専行によるものです。  
翌1711年にさらになんと20%にまで下げた新通貨を発行します。4箇所に丸に宝の刻印があるところから、四つ宝銀の名で知られます。  
総発行量を紹介すると、元禄銀(64%銀貨)が40万5850貫、二つ宝銀(50%銀貨)が27万8130貫、永宝銀(40%銀貨)が5836貫、三つ宝銀(32%銀貨)が37万487貫、そして最後の四つ宝銀(20%銀貨)が40万1240貫です。  
これを合計すると、荻原が発行した低品位銀貨は146万1543貫に達し、慶長銀発行総量の120万貫を上回ります。その過半数の77万1727貫は、銀が32%以下の超低品位銀貨です。  
このころには、長崎貿易のおかげで慶長銀は大量に海外に流出してしまっていたことを考えますと、これ以後、銀貨のほとんどは荻原の低品位通貨に変わっていったと考えて良いでしょう。  
さぞ大阪圏の経済は混乱し、大阪商人に何かと泣かされていた勘定方のトップとして、荻原はさぞ溜飲を下げたことでしょう。  
B 新井白石と正徳の改鋳  
白石は荻原重秀という人物をなぜかひどく嫌い、徹底的に排撃します。  
罷免すべきであるという意見書を家宣に提出すること、3度といいます。  
さらには家宣の病床で、どうしても荻原を罷免しないならば、自分が殿中で刺し殺すと脅迫するので、家宣は折れて、1712年に重秀をとうとう罷免しました。  
重秀は、翌年失意の内に死亡します。これについても、白石が暗殺したのだという説があるくらいの急な死でした。  
その死後、白石は、さらに重秀の腹心の部下や銀座の年寄たちを、賄賂を受け取って貨幣改鋳を行った罪で摘発し、遠島などの処分を行っています。  
ある研究者によると、この摘発は、逮捕と同日のうちに処罰の申し渡しが行われるなど、江戸時代の裁きとしては納得できない点も多く、白石の手による作為的な疑獄事件と見た方が良さそうだといいます。  
そこで、こうした荻原時代の貨幣改鋳を元の慶長金銀における金銀含有量に戻すという、正徳の改鋳が当然、白石の大きな課題となります。  
白石という人が、時代を超越した知性の持ち主であることが、この改鋳の持つ経済学的な意義を正確に認識していたことに見て取ることができます。  
先に説明したとおり、確かに、元禄より前においては、通貨供給量が減って厳しいデフレが起きていましたから、荻原の改鋳により、通貨供給量を増加させることは十分に意味のあることでした。  
しかし、荻原は一貫して通貨供給量を増加させてきたため、長崎貿易の破綻と相まって、このころになるとはっきりとインフレが起きて、諸物価は完全に右肩上がりの傾向を示していたはずです。  
白石は、通貨改鋳の建議の中で、このことを次のように述べています。  
人々は、通貨の質が下がったから物価が上がるのだと言うけれども、そうではなく、「真実は世に通じ行われ候金銀の数、そのむかしよりは倍々し候て多くなり来り候故にて候」、すなわち通貨量が単に倍々にも増えているためだと言います。  
仮にその通貨が「上銀にて候とも其の数多く候はんには、必ず其価軽くなり候て万物の価は重くなり候」、すなわち通貨の質が非常に上質だったとしても、通貨供給量が多ければインフレになるものだ、というのです。  
これを沈静化させるには、通貨供給量を減らしてやればよいはずです。すなわち、白石のいう改鋳とは、流通している低品位金貨3枚を回収して、代わりに高品位の貨幣を2枚を流通に置くことですから、通貨量の3割削減ということになります。  
銀貨の場合、荻原が最後に出した四つ宝銀(20%銀貨)を慶長銀並の80%に換えるということは、4枚を1枚にする、ということです。いずれをとっても、かなりドラスティックなデフレ政策です。  
これを一時にやったのでは、今度は経済に与える影響が大きすぎてデフレによる不景気が発生する恐れがあるとして、白石は、通貨の変更を20年くらいの長期をかけて徐々に行うように提言しています。  
その結果、正徳の治の間に行われた改鋳量は、そう多いものではありません。正徳小判・一分金合わせて21万3500両といいますから、あわせて2545万1720両に達する元禄小判・宝永小判等の発行量の、わずか0.8%にすぎません。  
白石政権下で、深刻な白石デフレが起きていた、という事を主張する日本史学者がいます。  
が、この程度の発行量では、回収量も微々たるもので、それほど劇的に経済状況が変化するとは思われません。  
白石自身は、自分の新通貨が流通しないことを気にして、新金強制通用令を出し、命令に従わない者は処罰するなどとしています。  
が、彼の導入したデフレ政策は、通貨を回収して、通貨総量を抑制することで効果を発揮するものです。  
したがって、新鋳造通貨が流通するかどうかは本質的な問題ではなかった、といえます。  
(2)海泊互市新令  
前章で、荻原重秀の行った貨幣改鋳に関連して、白石が、我が国の貿易収支を初めて算定した事を紹介しました。  
その要点は、当時の貿易は完全な片貿易であったため、我が国の国内通貨量のうち、金貨の4分の1、銀貨の4分の3が幕府創設から綱吉時代までの間に海外に流出していたことを、白石は論証した、という点にあります。  
白石は、机上の空論を述べている学者ではありません。問題を見いだせば、必ずそれに対する現実的な解決策を模索する人です。  
長崎貿易がぶつかっていた問題は、金銀に代わる貿易決済手段である銅が、先に触れたとおり、思うように集められない点にあります。実は、これには構造的な原因がありました。  
幕府は、国内の銅価格とは全く別に、輸出用の銅価格を決定していたのですが、これがやたらと国内価格に比べて安いのです。  
例えば1711年の荒銅(精錬してない銅)の国内相場は、100斤につき上品で銀194.5匁〜196.4匁、下品でも121.3匁〜123.3匁でした。  
ところが幕府は、一律105匁で買い上げるというのですから、鉱山側としては、できるだけ出荷しないようにするのは当然です。  
なぜ国内相場を無視した低額に押さえていたかというと、実際に外国との取引価格は、棹銅(精錬した銅)100斤について、対中国の場合115匁、対オランダの場合でも123匁だったからです。  
しかし、この低調達価格でも長崎会所は大変な赤字でした。なぜなら、荒銅を棹銅にするには、精錬費用が100斤につき銀200匁くらい必要だったといいます。  
つまり、長崎会所は輸送費用等を度外視した原価だけでも合計で銀300匁以上の費用のかかったものを115匁で売っていた訳です。その差はすべて会所の負担となります。  
何でこんな不利な取引を行っていたのかについての、わが国側の事情については、余り研究者にも判っていないらしく、いろいろな説がありますが、納得のいく説明は見あたりません。  
たとえば、初期の頃は、銅が比較的浅いところから豊富に産出したので、価格が安かったのですが、その後、段々と鉱山が枯渇し始め、坑道が深くなっても価格が据え置かれた、という説が通説のようです。  
これについて、作家の佐藤雅美が「幕末住友役員会」という小説の中で傾聴すべき説を唱えています。  
綱吉が、貿易総額を規制したのに対して、長崎会所では銅の値段を抑える代わり、オランダや中国商人からの購入額も値切っていたのだ、というのです。  
これにより、実際には貿易量が増大しているにもかかわらず、総枠規制の中に収まっているよう見せかけることが可能になります。  
たぶん、これが真実であろうと私は思っています。だとすれば、この、長崎が市を挙げて行った詐欺に、新井白石もまんまと騙されたことになります。  
このように、品質の良い銅が、低価格で、しかも安定して供給されたので、外国商人は、銀よりもむしろ銅の方を喜ぶようになりました。  
このわが国側の価格がものすごい利益を相手側に与えていたことは、銅以外では取り引きできない、といって商品を売らずに帰国する中国船まであったということからも判ります。  
オランダの場合、欧州まで船のバラストとしてですが、はるばる運んでアムステルダム市場で売却して儲けが出ていたほどです。  
逆に言うと、日本銅がこのように魅力ある価格設定になっていたことが、外国船を日本に引き寄せていたわけです。  
よほどの利潤が上がらなければ、制約の多い日本にわざわざ貿易にくるものがいるわけがありません。  
とにかく、こうして、調達価格が、国内相場に比べて極端に安かったことが集銅を非常に困難にしていた理由です。  
このために、長崎貿易そのものがこの頃行き詰まりを見せていました。  
白石は、現場の人の意見を大事にする人です。そこで、この問題に対する対策を立てるようにと家宣に諮問された際にも、まず、長崎奉行に意見を求めています。  
この当時は長崎奉行は3名いましたが、うち2名までは事なかれ主義の人物だったらしく、従来の方式に特に改革すべき点はない、と具申しています。  
残る大岡清相はかなり詳細な意見書を提出してきました。白石は、この大岡の意見書をベースに改革案を起案したのです。  
これが幕末まで続く貿易制限令となる、有名な海舶互市新令(正徳新令、長崎新令とも呼ばれる)で、1708年に施行されました。  
これは基本的には、貿易用に調達されて長崎に回される銅(「長崎廻銅」と呼ばれます)の不足によって悪化した貿易事情を改善し、合わせて従来の幕府の貿易政策の不備を含めた対外関係の行き詰まりを抜本的に是正することを狙ったものです。  
規定内容は22綱目に及ぶ詳細なものですが、その特徴を紹介すれば次の点が上げられます。  
A 輸入規制  
わが国の片貿易という基本的状況そのものは変わりがない以上、長崎に入る船の数を制限し、かつ、貿易額そのものにも制限を加える、という方法以外に、適切な対策がないことは明らかです。  
具体的には、中国船については年間30艘、貿易額は銀6000貫に制限します。  
ただし、そのうち銅300万斤相当分については、銅で決済しなければなりません。  
6000貫以上の貿易については、俵物、諸色で取引することを認めますが、それについても上限は9000貫相当額とします。  
先に説明したとおり、対中国貿易では、銅100斤を銀115匁と換算していましたから、銅300万斤は銀3450貫に相当します。  
残りは丁銀120貫(ただし、二つ宝銀)と俵物で決済していました。  
この原則6000貫、上限でも9000貫というのは、綱吉の改革で紹介した1685年に制定された定高仕法に規定されていた制限額と同一です。  
しかし、定高仕法の場合には、様々な例外が許容されていたため、実質的には、実に1万6000貫相当の取引が認められていました。  
これに対して、新令は例外を許容しませんでしたから、取引高を半分近くにまで削減したことになります。  
また、船数については、70艘というのが定高仕法の制限でしたから、これは半分以下に削ったことになります。  
さらに細かいのは、出港地別に、例えば南京船は7艘で1艘当たりでは銀200貫まで、台湾船は4艘で1艘当たりでは130貫まで、という調子で隻数と取引高の制限を定めたことです。  
中国船は、民間の船が各地の港からバラバラにやってくるので、総数規制だけでは、個々の船にとっては、その年の制限を突破しているかどうかは着いてみないと判らない、という欠陥があったのです。  
このように港ごとに船数を規制すれば、行っても無駄かどうかは、出航の段階でよく判ります。  
これは非常に効果を上げました。  
中国船の来航数をみると、新令が実施された1708年には103艘もやってきた中国船が、翌1709年には57艘に激減し、さらに1715年には20艘にまで減少したのです。  
以後、大体40艘ないしそれを若干下回る程度の数に落ち着くことになります。  
また、オランダ船については年間2隻、貿易額は3000貫に制限しました。  
ただし、それ以外に脇荷物400貫という例外が認められていましたから、実際の制限額は3400貫です。これについては定高仕法と特に変更されていません。  
そのうち、銅による決済分は150万斤です。  
銀に換算すると1845貫匁分が銅で支払われたことになります。  
また、オランダとの貿易は実際には金立てで行われていました。後に幕末になって大きな問題になりますが、わが国と欧米諸国では、金貨と銀貨の公定レートが大きく違っていました。  
そのことがある程度判っていたのでしょう、普通の1両60匁という公定レートの代わりに、1両68匁という特別のレートで制限額の換算が行われていました。  
したがって、金5万両が実際の支払い額になります。  
オランダ船については中国船に比べるとやたらと制限が厳しいように見えるかもしれません。  
が、これは中国船が比較的小型のジャンクであるのに対して、オランダ船が大型帆船であるため、1隻当たりの積載量の違いからきたものです。  
この中国及びオランダに対する銅決済分を支えるため、白石は、長崎には年400万〜450万斤の銅を回すことにします。  
50万斤の幅を認めたのは、諸国の銅山の産出高等にはどうしてもばらつきがあるため、厳密に定めても意味がないからです。  
実際に調達可能な量を念頭に置いて制限額を定めたという点にも、実務家としての白石の特長をみることができます。  
B 信牌制度  
単に規制を厳しくするだけでは、密貿易を誘発するだけです。  
実際、この時期、密貿易は第2のピークを迎えていました。  
例えば1707年には19件、新令の施行された1708年にも7件の密貿易が摘発されています。  
綱吉時代の密貿易は、長崎市民が犯人でしたから、市民の行動の自由を制限することで押さえることができたことは、前章で紹介しました。  
それに対して、この当時の密貿易は、主犯は長崎市民ですが、補助者にはよそ者が参画している場合がぐっと増え、したがって逮捕者を長崎市民とよそ者に分けると、よそ者の数の方が多い、という状態になってる点に大きな特徴を示します。  
もちろん、こうしたよそ者の利用が、長崎市民の行動の自由に対して加えられている制限をかいくぐるための手段であることはいうまでもありません。  
犯行が広域化したということは、取締が困難になるということを意味します。  
そこで、白石は、そのための策を立てます。すなわち、中国船に対する信牌(しんぱい)の発行です。これこそが、新令の最大の特色です。  
信牌は、割符(わっぷ)とも呼ばれます。  
来航した中国船のうち、新令に違反しないことを制約した者だけにこれを交付します。そして、以後は信牌を持たない限りわが国との貿易を認めない、という制度です。  
この制度には、巧みに飴とむちが組み込まれていました。  
すなわち、信牌を持っていれば、制限金額を銀30貫までは増額して、全量を買い取るという特典がつきます。  
そのかわり、積載量に定高より30貫以上の過不足がある場合には、以後の来航を禁ずるとか、指定された正規の航路以外を通ることは認めないとか、粗悪品、不正品を積載してきた者は、以後の貿易を認めないというような様々の条件を受け入れなければいけません。  
もちろん密貿易をした者は信牌を取り消されます。その結果、かなり効果的に密貿易の取締ができるわけです。  
もっとも、信牌を発行するのは幕府そのものではなく、単なる通事とされました。  
これは中国政府側の抵抗を恐れたからです。  
すなわち、中国の伝統的な政府貿易の形式は入貢貿易です。  
中国の臣下の国が貢ぎ物をすると、中国側ではその忠誠心を愛でて貢ぎ物以上の物を下賜する、という形式の貿易です。足利義満が臣下の礼をとって行った貿易などが有名です。  
中国では、信牌とは、この入貢国に対して与えるものだったのです。  
したがって、幕府が中国船に信牌を発行すると、中国をわが国の入貢国としたかのように見えるので、貿易摩擦の発生が予想されたのです。  
実際、そういう事件が起きました。  
信牌を与えられなかった中国商人達は、本国で訴訟運動を展開します。  
すなわち、信牌は日本の年号を使用しているので、信牌を受けた船頭は日本に忠誠を誓って清朝に反逆する者だと政府に訴えたのです。  
そこで中国政府では信牌を没収したため、多くの船が日本に来られなくなったのです。  
もとより白石はこうした事態のあることを予想して信牌を幕府発行とはしておかなかったのですから、早速適当な便船で、抗議書を中国に送りました。  
中国側では、結局1717年になって、康煕(こうき)帝の勅裁によりわが国の信牌の発行に文句を言わなくなりました。  
なお、中国では、同年から再び海禁(つまり鎖国)政策に転じます。  
おそらく中国側としても、日本の信牌を利用することで、貿易状況のチェックが可能になるという点に、信牌の許容策を導入した理由があると思われます。  
吉宗が将軍に就任したのが1716年のことですから、この時には、もう白石は政権から遠ざけられていました。  
他方、信牌を受けられなかった中国商人達は、九州各地、特に福岡、小倉、萩の3藩の領海が接する辺りに回航して、日本側の密貿易船を半ば公然と待ち受けるということを始めました。  
多いときには十数艘も滞船していた、といいます。  
幕府では当初は手を拱いていましたが、1718年に3藩合同の軍を出動させて追い払いました。  
その後、何度か出動させ、最終的には1726年に追い払うのに成功したのです。  
何故このように長く出動を遅らせたのかはよく判っていません。  
海上の3藩の境界という難しい場所であるために、関係する3藩の足並みをそろえるのに時間がかかったということもあるでしょうし、家宣が死亡して、権威が低下しつつある間部詮房の命令では、各藩がなかなか動こうとしなかったという事情もあるでしょう。  
しかし、国際紛争を未然に防ぐため、康煕帝の勅裁が降りて中国側が信牌の運用に文句を言わないということが確認できるまで待っていた、というのが真の理由ではないかと、私は考えています。  
C 長崎市振興策  
ところで、白石が新令の制定を諮問されたきっかけは、長崎廻銅の量の減少により、長崎貿易が不振となり、このため長崎市民が困窮しているという報告が長崎奉行から出されたことです。  
それなのに、貿易制限を強化したのでは、困窮の救済にはならないはずです。  
白石の答申した新令が長崎市民の救済になる、という逆説を理解するには、それまでの長崎貿易の状況を理解する必要があります。  
定高仕法によると、正規の貿易は長崎廻銅をベースとして行われなければなりません。  
ところが、この長崎廻銅が不足する結果、貿易量が恒常的に制限額以下で推移するという状況が生まれていました。  
前章で述べたとおり、長崎貿易では、諸利益のうち11万両は長崎会所に残し、残りはすべて長崎運上として幕府が徴収するという制度がとられていました。  
この11万両が、会所と市民に分けられるのです。細かく内訳を書くと、長崎会所で外国からの輸入品をわが国商人に売って得た銀(金7万両相当)、つかい銀(小遣い銭)、落銀(長崎市民に落ちる銀)、間銀(あいぎん=手数料)、役料(役目に対する報酬)などです。  
このうちから、7万両が地下(じげ)分配金として、長崎市民に配分されるはずなのです。  
ところが、貿易実績が上がらないのですから、このような市民への配当も来ません。  
幕府の方も、それでは長崎運上が入らないはずですが、そこは法令を作る方ですから、対策の立てようがあります。  
すなわち、貿易できずに帰る積み戻り船の船荷から、貿易制限の枠内での「追売」を認めて、貿易利潤の補填を図ったのです。  
これは会所の査定額で一方的に買い上げ、二割増で日本商人に売り出したので、夥しい利潤があったといいます。  
この追売は、幕府が長崎運上確保のために別枠で行うので、長崎市民への配当はありません。  
要するに、貿易総額が減少する中で、長崎運上に当てる追売を確保する方針を幕府が維持したので、本来の貿易は圧迫されてますます先細りとなり、運上額そのものは増加しているにも関わらず、長崎市民への貿易利潤の配分は減少する、ということが起きたのです。  
白石は、貿易額及び貿易船の入港数を低く設定することと、銅輸出額を実際の輸出能力にあったものに改訂することにより、追売のような不健全な貿易形態を廃止します。  
また、長崎市民が貿易を支えるために負担している様々な活動のための経費は、従来は、貿易決済後の実績によって配分していたのです。  
それを幕府からの前貸しの建前にして、貿易実績が上がると否とに関わりなく、配分することにしたのです。  
 
この海泊互市新例は、その後幕末まで続く幕府の基本政策となります。  
これを消極的な貿易無用論と理解しては間違いです。  
この政策は、二つの点で、国内産業の保護育成策なのです。  
一つは、俵物を正規の輸出品にしたことです。  
これにより、全国的に煎り海鼠や干し鮑の増産が行われるようになっていきます。  
今一つは、輸入品の国産化です。  
我が国において、片貿易が長く続いていた理由は、白糸(上質の生糸)、各種絹織物、綿布、鹿皮、砂糖などの海外産品に国内需要があるにもかかわらず、封建政権は、その基盤である米の生産に力を入れ、そうした農産品の国内生産を許さなかった点にあるのです。  
そこで、そうした農産品は国産化を推進すべきである、というのが白石の結論でした。  
惜しいことに、白石時代は長く続きませんでした。  
が、この農業政策の大転換が必要という発想は、次の享保の改革における農業政策の中心となっていきます。  
D 日朝貿易  
中国産生糸ほどの高品質のものが、幕府の政策が転換されたからといって、直ちに国内生産可能になるわけはありません。  
他方、国内の生糸需要は依然として根強いものがあり、長崎新令は、その道をふさいでしまったわけです。  
そうした膨大な需要を、長崎貿易に代わって支えたのは、対馬藩を経由しての日朝貿易でした。  
前章で簡単に触れたとおり、朝鮮人参については宗家と朝鮮王家との間の公貿易という形をとっていましたが、それ以外に日朝間には私貿易という形態の貿易が存在していました。  
その状況について対馬藩では「私貿易帳簿」というものを作成しており、1684年以降のものが現存しています。  
それによると、朝鮮経由の中国生糸の輸入がこの頃から急増していきます。  
対馬藩は、長崎貿易よりも安い価格で朝鮮から生糸を輸入するようになり、独自のルートで西陣などへ供給するようになりました。  
その結果、日朝貿易による生糸の輸入量は、1730年くらいまでは長崎貿易の量を凌ぐようになります。  
この日朝貿易の決済手段は相変わらず銀でした。  
このため、長崎からの銀の流出が止まっても、対馬から毎年、1000貫〜2000貫というレベルで銀の流出が続いていたことになります。  
元禄銀の場合には、品位の低さを補うため、一定のプレミアムをつけることが必要だったようです。  
そして、三つ宝銀や四つ宝銀の場合には、プレミアムをつけても受け取りを拒否されました。  
このため、1710年から1714年までは、勘定奉行荻原重秀の特別の計らいにより、品位80%という特別良質の銀貨が、年に1417貫だけですが、鋳造されます。  
これは、建前上は、朝鮮人参輸入の確保という名目でしたから、「人参代往古銀」という名称でした。  
これを幕府は、普通の劣位貨幣と同価で対馬藩に渡していました。  
つまり形を変えた輸入補助金というわけです。  
その後、重秀の失脚により、これは製造されなくなりますが、白石が作った正徳銀は信用が高かったので、そのまま問題なく取り引きされました。  
この対馬からの銀の流出は、白石も抑制することができませんでした。  
対馬藩には、幕府に代わって対朝鮮外交を担当する、という大義名分があり、日朝貿易の独占による利潤は、外交を円滑に進めるための経済的保障という性格があったためです。  
次章に詳しくは紹介しますが、1730年代に行われる元文改鋳により、銀貨の品質が再び著しく低下し、特例によって「人参代往古銀」は製造されます。  
しかし、この時は、宝永の時と違って、幕府が対馬藩に必要経費を請求するようになったことから、輸入量は急減します。  
最終的に日朝貿易による銀貨流出が終わるのは、1750年代のことになります。  
朝鮮人参について国産化が成功し、また、国産生糸の品質が向上して、中国産生糸に対する国内需要がほとんどなくなったのが、その理由です。  
なお、その後も対馬藩による日朝貿易は続きます。  
その場合、日本からの主力輸出品は、長崎貿易を通じて日本に入ってきた東南アジア産の胡椒、水牛の角、すおう等です。  
李氏朝鮮は、日本以上に厳しい鎖国を実施していましたから、このような奇妙な三角貿易の必要性があったのです。  
この場合の朝鮮からの輸入品は、3分の2までが木綿で、これは国内市場で売却されました。  
残り3分の1は米です。対馬はご存じのとおり、山がちの島で、米といえども自給自足ができません。  
そして距離的にははるかに朝鮮に近いので、日本国内から輸入するよりも安上がりだったのでしょう。  
E 琉球貿易  
この機会に、鎖国時代の今一つの貿易ルートであった薩摩藩による琉球貿易についても説明しておきましょう。  
鎖国というのは、わが国の場合、国交を持つ相手を制限する、ということであって、貿易量そのものを制限するものでなかったことは、第2章で説明しました。  
このため、薩摩藩による琉球貿易も、制限外として認められていました。  
琉球貿易は、琉球が独立国という建前の下に、中国などと貿易をし、他方、薩摩藩に対して琉球が朝貢貿易の形で船を派遣するという形で行われていました。  
銀貨が貿易の決済手段だったことは日朝貿易の場合と同じです。  
1715年に、白石は、従来認められていた銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。  
薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、小藩である対馬に対しては、外交費用相当の援助という要素があるためです。  
琉球貿易の詳細については、薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、確かなことは判りませんが、薩摩藩は、この禁令は余り守らなかったようです。  
(3)年貢増徴策  
貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。  
通貨改鋳策に至っては、経費分だけ幕府財政を締め付けることになるはずです。  
そこで、歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、天才白石といえども、封建社会の常識から抜け出すことはできませんでした。  
すなわち、年貢米をいかに増加させるか、という点を考えるしか、能がないのです。  
ここでも、白石のきわめて数理的な頭脳は、統計解析によって問題の所在を突き止めようとします。  
彼によると、幕府直轄領の税率は4公6民、すなわち税率40%のはずです。  
それなのに、実際には28〜29%程度で、30%を切っているといいます。  
その租税徴収率の低さが、幕府財政が苦しい原因だ、というのです。  
そこまでは正しい計算なのですが、白石は、江戸生まれの江戸育ちで、農村の生活に理解がありません。  
そこで、このように年貢徴収率が低いのは、幕府の代官やその手代が地元と結託して、賄賂を取るかわりに税率を下げる等の便宜を図っているに違いないという結論になります。  
これは当時の幕府の公式見解そのもので、御触書にも「近年は村々からの年貢収納量が段々と減少してきて、昔の半分ほどになっているのに村々は少しも豊かになっていない。  
それは村々が年貢を負けて貰うために代官諸役人に賄賂を贈っているからで、年貢量は減少するが、村々が支出する総領は、賄賂分を合わせると結局昔と同じになるからだ」ということが明記されていました(御触書寛保集成)。  
この当時の年貢の徴収は、検見取(けみどり)法というやり方でした。  
すなわち、代官以下の地方(じかた)役人が個々の村を回って、米の出来具合を個別に確認しては、村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。  
そして、確かに、収穫高の査定に当たる地方役人が、村側の饗応の多少によって査定に手心を加えるということはかなり横行していたようです。  
余り接待しすぎたために、役人の方がつけあがって、家族親戚まで連れてきて饗応を楽しんだ、という話まで残っているほどです。  
白石は、先に荻原重秀が廃止した勘定吟味役を1712年に再度設置して勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、勘定所に命じて、綱吉時代にもまして厳しい地方検査を開始します。  
具体的には、全国を十の地域に分け、それぞれに3名で構成される巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。  
3名の中には、彼として信頼できる甲府藩からの転籍者を必ず1名は入れていたといいます。  
この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、処罰された代官は10名に達します。  
期間当たりの処罰数としては空前のもので、綱吉の元禄期以上に代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。  
しかも実際には、事務処理が遅れて、処罰が享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。  
そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、甲府藩からの転籍組です。  
こうした締め付けの甲斐あって、1713年の年貢米徴収量は、前年に比べて43万3400俵も増加したと白石は自画自賛しています。  
この年、年貢米の量は、石数でいうと411万石あまりです。増加はその後も続いて、14年、15年といずれも412万石を突破しています。代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。  
しかし、白石が見落としていた重大な点があります。  
それは、幕府代官諸経費に関する構造的な要因から、まともに代官が仕事をしていたら、必ず赤字になってしまうという点です。  
年貢の未収分の相当部分は、そうした代官の赤字補填のために流用されていたものだったのです。締め付けると、そうした分が増加するのです。  
しかし、現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、そこまではこの天才でも、洞察することはできなかったのです。  
したがって、この問題の真の解決は、享保の改革に譲られることになります。  
(4)朝鮮通信使待遇改訂  
白石の事績を紹介して、朝鮮通信使の待遇改訂問題を避けてとおるわけには行かないでしょう。  
ご存じのとおり、日朝関係は、秀吉の朝鮮出兵によって決定的に破壊されます。  
自家存立の必須の条件として日朝友好を熱望していた対馬の宗家は、徳川家康が日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、日朝間にあって、懸命の工作を行いました。  
その結果、1607年に初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、1609年に、対馬と朝鮮の間で己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。  
その後、1617年に朝鮮政府は、徳川幕府による日本統一の賀使を、1624年には家光の将軍位襲職の賀使をそれぞれ派遣してきたので、ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。  
そして、1636年に、通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。  
以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。  
通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、1607年以降のすべての訪日を、朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。  
これら使節の訪日の趣旨そのものは、日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが幕府財政上の大問題にならざるを得ないのは、ひとえにその規模のためです。  
1607年の第1回の来日の際には、秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、朝鮮側としては各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、徹底的に日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。  
その結果、この時の使節団の総数は467人に達しました。  
この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。  
江戸まで使節が来たことは全部で11回ありますが、それを見ると、1624年の第3回が300人と少ないのを例外にすれば、正使以下の一行の人数は、最大500人(これが実は新井白石の改革の時です。)、最小でも428人(第2回)、平均470人程度となっています。  
使節団は3艘の船に分乗し、これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。  
これが釜山から対馬、壱岐経由で下関に入り、瀬戸内海を抜けて大阪に上陸します。その後、船を管理する人間を100名程度残して、残り全員が陸路、江戸に入ります。  
だから使節団だけで3百数十名という規模です。  
これに、対馬藩から、使節側1名当たり、2名程度の割合で随行者がつきます。すなわち約700名です。したがって、行列の本体規模が大体1000人に達することになります。  
建前として、日朝双方は対等ということになっていますが、江戸幕府としては、朝鮮は入貢してきているというポーズを国内的に取っています。  
そこで、この入貢国を厚遇することにより、ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、この大人数の、日本国内に入ってからの経費はすべて日本側の負担です。  
滞在期間は、建前としては半年ですが、悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、普通は大体1年近い期間が必要になります。  
海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。  
しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、当然この1000人という大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。旅行用の荷物に加えて、進貢用の荷物、それに貿易用の物資ですから、決して少ない量ではありません。  
さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。それやこれやで、行列は大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。  
これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さはまさに人の目を驚かせるものがあったのです。  
しかも、娯楽の少ない時代のことですから、見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。  
当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、機能が麻痺してしまいます。  
そのためと思うのですが、通信使が来る度に、幕府では「吉道」と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。  
このように見てくると、通信使の応接に巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、ということが判っていただけると思います。  
家宣が将軍に就いた時には、それを祝って1711年に第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、空前絶後の規模の通信使です。  
その際に、新井白石は、末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、極力この経費を切りつめました。  
しかし、記録に残っているのは、従来朝鮮側の国書の宛先を「大君」としていたのを、朝鮮と対等に「国王」に直したとか、使節が将軍に拝謁する際に御三家が同席していたのをしないことにした、というような形式面の話ばかりが多く、具体的にどこでどのような経費を削減したのかはよく判りません。  
朝鮮は、朱子学の大義名分論を大事にするので、大きな論争点になるのは、実質的な待遇の良し悪しよりも形式的な面に集中するためです。  
しかし、白石の方では、本当の狙いは幕府の財政難の救済にあったはずですから、できる節減は全部やったはずだ、ということだけは確かです。  
それでも、陸路に当たる兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする各地の道普請あるいは修復、人馬割り等々の入用は、総額金19万2301両、米5385石に達しています。  
また、この道中のために使用された人馬の数は、行きの場合には、通しで使った人足が310人、寄せ人足1万0691人、馬9754匹です。  
帰りの場合には、通しで使った人足は同じく310人ですが、寄せ人足は1万2707人、馬8161匹という膨大な数字に達しています。  
帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。  
したがって、諸大名が負担した分も含めた全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。  
この数字が、その前回や、再び元に戻した次回に比べてどの程度の節減になっているのかはよく判りません。いつものことながら、幕府記録の喪失のためです。  
白石だけがこうした記録を後世に残してくれたわけです。 
4.白石による改革の限界

 

(1)川普請における請負の廃止  
川普請、すなわち治水事業に関しては、これまで言及してきませんでした。  
しかし、江戸幕府は、その初期から積極的に治水事業を展開してきたことは、皆さんもよくご存じのことと思います。  
例えば、江戸湾に注いでいた利根川を付け替えて、いまのように銚子に注ぐようにする、というような大規模工事は、既に初期段階で、関東郡代の手により実施されたものです。  
一口に川普請といいますが、この時点までの実施方法は、その主体によって、公儀普請、大名手伝普請、自普請の3種がありました。  
公儀普請とは、幕府自身が費用を負担するとともに自ら実施するものです。  
自普請は、領主自身が行う領主普請と、農民が自ら実施する狭い意味の自普請の2種に分けることができます。  
これに対して、大名手伝い普請というのは、幕府が諸大名に手伝いを命じるという形で、公共工事を大名を実施主体として実施することをいいます。  
その場合、幕府は、工事材料の支給だけを行います。  
江戸幕府は、本来軍事政権ですから、大名に軍事行動を行うように命令する権限があります。  
家康時代、すでにその形態が変化し、江戸城等の城の建築を大名に命ずるという形が行われるようになりました。  
これが手伝い普請の原型です。  
川普請に関しても、その一環として、徳川幕府が成立した翌年の1604年に、松平忠利が三河国矢作川の川普請を命じられた、という例があります。  
しかし、その後、1世紀の間は川普請について、大名に手伝い普請を命ずるという例はありませんでした。  
綱吉の時代になって、この手伝い普請が復活します。  
すなわち、1703年に大和川改修を姫路藩本多家等5大名に、1704年に関東地方の利根川、荒川の改修を秋田藩佐竹家等4大名に、1708年に富士宝永山噴火に伴う相模国酒匂川等の改修を白河藩松平家等5大名に、それぞれ命じた例が登場します。  
家宣時代に入ってからも、1710年に伊勢国長島の新田堤の手伝い普請を上野国厩橋藩酒井家等3大名に命じた例があります。  
ここに見たとおり、いずれも複数の大名に命じています。  
この時に復活した手伝い普請は、荻原重秀の存在なくしては考えられません。  
小普請組が実際の工事能力を失っていた、という話を綱吉の治世の一環として紹介しましたが、それは大名においても同じことです。  
そのため、この時期の手伝い普請は、実際には町人や有力農民の請負で実施されていました。  
請負人の選定は入札で行われましたが、その実施は幕府勘定所の所管でした。  
手伝いの大名はそれには全く関与していません。  
入札ですから、当然安価な札に落ちたはずです。結果として豪商や豪農がもっぱら請け負っていました。  
普請に関して、手伝いの大名を指導して、彼らの担当する場所を振り割り、派遣すべき家臣数を決定し、落札した請負人や出すべき費用を通知したのもすべて勘定所でした。  
老中や若年寄が普請の担当者として指定されたこともありましたが、実際には普請の開始から終了まで、江戸での実務はすべて荻原重秀が中心になって行っていたのです。  
現場の指導者は、したがって、その地域の郡代や代官でした。当然、現場には代官等の手代が多数常駐して実際の指揮を行ったのです。  
その結果、手伝いの大名は一応指定された場所に家臣を派遣しましたが、その数はきわめて少なく、実際上は、費用をその領地の石高の割合で負担するだけのものになっていました。  
このように、荻原重秀主導で復活した手伝い普請ですから、新井白石の手により彼が失脚すると同時に、この手伝い普請も廃止になります。  
1713年に幕府が各地の代官に向けて発した通知の中で、  
各地の町人等が請負人となって行う工事は、施工者が、その地の案内を知らず、あるいは利得を得ることを狙って、十分堅固に工事を行っていないにも関わらず、代官所の手代などは、贔屓や賄賂のために、十分監督を行っていないという弊害があるので、今後は普請において請負人を使用することを停止する、  
という旨のことが書かれています。  
賄賂による工事の歪みだけを問題にして、請負をいきなりやめるというのは、問題のある発想といえるでしょう。  
こういうところに、白石の儒者としての形式主義的発想の限界があったということができそうです。  
このため、これ以降において手伝い普請を命じられた大名は、家老を惣奉行に任命し、現地に元小屋、出張小屋などの工事事務所を設け、多数の家臣等を長期にわたって現地に駐在させる必要が生じたため、施設建設費や藩役人の出張・滞在費が跳ね上がる、という結果になりました。  
工事技術を失っていたはずですから、施工にあたってもさぞ苦労したことと思います。  
(2)老中の無能による幕政の停滞  
冒頭にも述べたとおり、白石は、身分はあくまでも一介の儒者で、彼の政策はすべて老中からの諮問に対する答申という形で表明されます。  
しかし、間部詮房としては側用人の活動の自由を確保するために、老中にできるだけ無能な人間をそろえています。  
このため、自発的に政策を起案する能力が幕閣にありません。  
部下が老中に指示を求めに行ったところ、今日は白石が休みだから何をしたらよいのか判らない、という返事があったという話が残っているほどです。  
そのため、白石の答申した政策はすべてそのまま実現されたので、あたかも白石が政治の実権を握っていたかのような現象が生じるのです。  
このような状態でしたから、老中達にとって、白石は怖い教師のような存在でした。  
白石は病弱な人でしたから、結構欠勤が多かったのですが、そうすると、今日は鬼がいないからのんびりできる、と老中が言ったという話も残っています。  
このように、無能な老中をそろえたことは、政治面では側用人や白石が存分に腕を振るえるので、好都合なのです。  
が、重要な役職に意識的に無能な人間を据えているのですから、当然のことながら日常業務においては、弊害が発生します。  
大きな問題の一つは、奥右筆(おくゆうひつ)の専横です。  
右筆というのは、武家の書記役をいいます。綱吉が、1681年に、これを表右筆と奥右筆に分化させました。  
すなわち、前章で紹介したとおり、綱吉は、それまで将軍の執務室の一画である大溜にいた老中を、御用部屋に追い出しました。  
したがって、将軍についている書記とは別に、御用部屋専属の書記役が新たに必要になったのです。  
そこで、従来通りの物書きとしての職務を担当していたものを表右筆と呼び、これに対して、御用部屋詰めの書記役を奥右筆として新設したわけです。  
これは、本来は、余り偉い職ではありません。  
平の奥右筆の場合で役高200俵、組頭でも役高400俵の布衣相当職です。  
その業務は、本来は、役人や大名などからの書類や届けを整理し、老中や若年寄が下した決済を文書化するだけの仕事のはずです。  
重要な問題なら、白石のところに諮問が来ます。  
しかし、あらゆる問題について白石が関与することは不可能です。そこで、些事は老中や若年寄限りで処理されます。  
ところが、綱吉時代以降、意識的に老中を無能な者にするものですから、これを補佐する奥右筆の実質的な権限がだんだんと膨れ上がり、老中の秘書官兼特別補佐官的な職務をこなすようになっていきました。  
すなわち、老中や若年寄の決済を要する書類の場合、前もって先例を調査・検討する事が要請されるようになります。  
ところが、先例を現在の問題に当てはめるといっても、ぴったりくるような例はあまりありません。そうなると、老中の諮問に応じて当否の判断を示す、ということまで、奥右筆の権限に入ってくるようになるのです。  
こうなると、諸大名としては、老中に直接交渉するよりも、奥右筆に適当に工作をする方が話が早く、しかも安上がりになります。  
つまり、奥右筆に賄賂を送っておけば、御用部屋での審議状況は筒抜けになる上に、先例や諮問意見を適当に操作することにより、老中の決定そのものを左右することが可能になるのです。  
その結果、奥右筆を長く勤めている者は、非常に裕福という通り相場ができてきたほどです。  
もう一つ深刻な問題が幕府評定所業務の停滞です。  
先に、評定所留役に勘定所から出向するようになったことを紹介しました。裁判官である老中に判断能力がないために、この留役が、奥右筆と同様に、実質的にの判断が非常に評定所の決定に大きな影響を与えるようになります。  
したがって、彼らに賄賂を送るなどすれば、有利な判決を引き出すことも可能になるわけです。  
また、上司である老中が無能ということは、ちゃんと仕事の監督が行われないということですから、評定所留役達は、午後も早々に仕事をやめてしまうようになりました。  
したがって、裁判そのものが非常に遅滞するようになりました。  
そこで、白石は再三意見書を提出し、綱紀粛正の命令を何度も発させています。  
勤務時間も申の刻、すなわちいまの時間でいえば夕方の5時までは勤務するように命じたのですが、人々は2時くらいには仕事をやめてしまい、後は定刻まで白石の悪口などを言いながら、ただ評定所に詰めている、という状態だったといいます。  
また、不正行為のあった役人は追放し、また訴訟が100日たっても決着しない場合には将軍にそのことを報告しなければならない、ということを決めさせています。  
しかし、家宣が死ぬと、こうしたことはすべてずるずると元に戻ってしまったのです。  
 
家宣の死は、詮房=白石コンビに非常に大きな影響を与えます。無能な老中達にとっては、このコンビなくしては実際の政治は不可能なのですが、嫌いなので、徹底的にサボタージュ戦術に出るのです。  
白石が出した建議について、長く放置したあげく、「このことは世に行はるべからず」と付箋をつけて彼に戻すなどの嫌がらせが行われます。  
白石だけではありません。間部詮房の活動も阻害されるようになります。  
評定所においても詮房が出席したときは簡単な事件のみを行い、問題の多い事件は、彼の出てこない日に審理するのです。後日にこれが彼の耳に入っても、既に決着済みだからどうにもならない、というわけです。  
確かに、白石の2大改革である通貨の改鋳と長崎新令は、家宣の死後に行われています。  
しかし、この場合には、家宣の生前に、すでに路線がしかれていたことが成功した理由といえるでしょう。  
家宣の死後においては、新規施策は、すべて無能な老中達によって阻まれた、といっても過言ではありません。幕府の公職に就いていない白石による改革の限界は、このような点に明確に存在していた、といえそうです。  
間部詮房や新井白石が、もう少し自身の名利を追求する人間であったならば、自ずと実権が伴ったでしょう。  
その結果、幼児将軍の時代にも改革が可能になったはずです。これもまた、大きな歴史のifということです。 
■補1 短命に終わった徳川家宣、家継時代  
引き際は肝心です  
徳川綱吉は結局、いくら動物を保護したところで後継者には恵まれず死去。  
続いて第6代将軍に就任したのが、綱吉の弟である徳川綱重・・・の長男、徳川家宣(とくがわいえのぶ1662〜1712年)。普通、権力を握っている人間って、トップが替わると追放されて不幸な最期を迎えるものですが、あの柳沢吉保は違う。綱吉の生前に、家宣(当時は徳川綱豊という名前でした)を養子にするよう進め、この縁組を実現。  
そして徳川家宣の将軍になると、あっさりと家督を息子の柳沢吉里に譲って引退しました。こうすれば、徳川家宣とその側近たちにとって、柳沢吉保に感謝こそすれ、わざわざ追い落とす必要が無いわけです。のちに柳沢家は大和郡山藩へ転封されますが、甲府時代の15万石を維持したまま。余談ですが柳沢吉里は学問好きの藩主として知られ、名君と言われることもあります(この他にも柳沢家の藩主は、明治維新に至るまで名君とたたえられる人物を数多く輩出しています)。  
というわけで単純に現在の権力者にしがみつくのではなく、次の権力者を見極め協力し、しかも頃合を見計らって引退して周囲からの警戒心を解く。何事も引き際が肝心ということですね。例えば、徳川家康側近だった本多正純のように、新政権でも発言力を確保しようとすると・・・末路は言わずもがな、になってしまうという2つの対称的な例です。  
さて、徳川家宣は48歳という徳川15代の中で最も高齢で将軍に就任。  
しかし幕府の改革に意欲を燃やし、朱子学者として高名な木下順庵の弟子で、甲府藩主時代から家宣の学問の先生だった新井白石(あらいはくせき1657〜1725年)と、やはり甲府藩主時代から側近として仕えた間部詮房(まなべあきふさ1666〜1720年)を信任して政治を行います。まずは生類憐みの令の大半を廃止(捨て子・捨て牛馬の禁令は存続)。また、漢文で書かれた武家諸法度を和文に直し、体系的に整理し直します。  
そして1711(正徳元)年、将軍の代替わりを表敬するためにやってきた第8回目の朝鮮通信使に対しては、応接費用を従来の6割に当たる60万両に削減。大幅なカットですが・・・それでも60万両とは、ものすごい接待費用。朝鮮から将軍に拝謁する使者がやってくるというのは、幕府にとっていかに重要だったか、ということですね。  
また、朝鮮から日本への国書には将軍のことを「日本国大君殿下」と書かれていましたが、これを日本国王と改めさせ、将軍の地位向上を図りました。ただし、これは8代将軍吉宗のころには慣例を重視して、再び従来どおり「大君」にさせています。  
さらに朝幕関係の融和をはかり、1710(宝永7)年に東山天皇の皇子・直仁親王を初代とする、新たな宮家の設立が決定(のちに閑院宮家と名称が決定)。  
従来、伏見宮、京極宮(桂宮)、有栖川宮の3宮家を継承する場合を除いて、皇子は全て出家することになっていましが、どの宮家にも男子が無く、天皇位を継ぐ者がいないと大変!実際に困った例も出ていました。そこでもう1つぐらいは宮家があったほうがいいだろうと新井白石は考え、朝廷側との思惑も合致し、幕府として1000石の所領を献上して財政的な支援を行い、新たな宮家の設立に踏み切ったのです。  
その結果、やはり後継者不足に陥ったときに閑院宮家より光格天皇(位1779〜1817年)が即位し、これ以後は光格天皇の子孫が天皇に即位。当然、現在の天皇陛下もこれにつながっており、新井白石の建言が今に生きていることになります。  
このように主に新井白石の儒学思想に基づいた、正徳の治と呼ばれる政治が開始されましたが、家宣は将軍就任から僅か3年で亡くなってしまいました。  
幼い将軍が即位しますが・・・  
そこで次の将軍になったのが、徳川家宣の息子である徳川家継(とくがわいえつぐ1709年〜1716年)。  
クイズで出題されても、なかなかこの名前を即答できる人は少ないでしょう。生没年を見れば解るとおり、数え年で8歳で亡くなってしまいました。間部詮房も新井白石も、幼い将軍であることを良いことに好き放題・・・なんて人物では無かったようですが、彼らにとって見れば逆に将軍の権力が弱すぎて、譜代の大名たちから抵抗に遭い、思うように幕府の改革も行えずに終わる結果になりました。  
特に家宣正妻の天英院と、家継の母・月光院の間で激しい権力闘争が起こり、これに間部詮房らに反対するグループも反・月光院派として、色々と横槍を入れてきます。  
その最大のものが絵島(江島)事件。  
月光院の下で絶大な権力を持っていた大奥年寄の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎とのスキャンダルが発覚。と言っても絵島らが芝居を見た後、生島らと宴会に夢中になって大奥の門限に遅れたという、もちろん褒められた行為ではないものの、要するに単純な遅刻だったわけ。  
ところが「大奥はたるんでいる!関係者をすべて厳重に処罰せよ!」  
と、これを格好のスキャンダルとした月光院、間部詮房らに反対するグループは、一気に追い落としにかかり、激しい取調べの末、月光院派の女中や、芝居の手配などをした御用商人、さらに歌舞伎役者などを厳しく断罪。流罪はもちろん、中には死罪になる人間も出るなど、なんと約1500名が処罰を受けました。  
そうした中でも、家宣が亡くなる直前に勘定奉行の荻原重秀を追放することに成功した白石は、1714(正徳4)年に正徳金銀を発行し、慶長時代の質の良い貨幣へ順次切り替えていくことにします(ただし、経済政策として効果があったかどうかは評価の分かれるところ)。  
また、海舶互市新例を出して、海外貿易で日本の金銀が決済に使われるばかりで、貨幣が流出することに対し、貿易の制限や国産品の積極的な輸出などで規制をかけます。  
次の後継者は・・・?  
さて、家継は利発だったと言われていますが体は弱く、既に生前から「どこから養子をもらうか」で、家宣正妻の天英院と家継の母・月光院の間で争いが発生しました。まず後継者候補として注目される、直近の血筋では徳川家宣の弟で、松平清武(館林藩主)という人物がいましたが、一度越智氏として甲府徳川家の家臣になっているという経歴、さらに54歳という年齢にもかかわらず、息子がいないとのことで、これは候補からはずされます。  
ところが、他に近い血筋はいない。ならば、とうとう御三家を活用するしかないですね!  
そこで天英院側は尾張家の徳川継友(1692〜1731年)を後継者に推し、月光院は紀州家の徳川吉宗(1684〜1751年)を推しました。最終的に、幕閣に根回しを行うことに成功し、何より紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗に白羽の矢が立てられ、1716年に家継が亡くなると第8代将軍となりました。  
そして、間部詮房や新井白石らはお役御免。  
このうち間部詮房は領地は削減されませんでしたが、江戸の北方を守る要所である高崎から、一気に越後村上にまで転封され、1720年、詮房は失意のうちに病死します。すると間部家はさらに越前鯖江藩(福井県)に移封されるという、何とも可哀想な仕打ちを受ける羽目になりますが、それでも幕末には間部詮勝が老中となり、井伊直弼と共に安政の大獄を行うという、歴史の表舞台に再び立つことになります。まあ、それはまた後の話。  
一方、新井白石の方は幕府を去った後、それまでの体験を元に執筆活動に入り、1725年に亡くなりました。自叙伝「折たく柴の記」は当時の政治史料として大変貴重。また、1708年に屋久島に漂着したイタリア人宣教師のシドッチを、家宣の命で4回にわたって尋問し、ヨーロッパをはじめとする西洋の事情や宗教など、様々な内容を通訳を通じて聞き取り、海外事情を記した「西洋記聞」、海外の地理を紹介した「采覧異言」を執筆しました。  
ちなみにシドッチは、牢の世話に来ていた夫婦にキリスト教の洗礼を与えていたことが発覚し、そのまま留め置かれ、1714(正徳4)年に獄死しています。 
■補2 新井白石(1657〜1725)儒学者・6代将軍家宣側近  
白石は、6代将軍家宣に仕え、「正徳の治」を進めた人物である。  
元々白石は、上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)の目付であった人物である。若い白石は、利発な才能から俊直に大変可愛がられたが、土屋家の御家騒動で主家が改易。続いて前述の堀田正俊に仕えたが、これも刺殺されるという不幸に見まわれ、浪人となった。  
1868年に儒学者・木下順庵の弟子となり、才能を認められ甲府藩主徳川綱豊の待講(じこう)となり、彼に儒学と歴史を教えることになる(19年間に1299日教えた。教える方もすごいが、聴く方もすごく情熱がある。)。さらに彼は家豊に、1万石以上の大名337家の歴史と、徳川家との関係を一目瞭然にわかるよう記した正編10巻と付録2巻からなる「藩翰譜(はんかんふ)」を大変な労力のもと著し献上。家豊は終生この本を離さなかった。この家豊が6代将軍家宣となったことから、彼も幕政に参画するのである。  
そんな彼とパートナーをくんで活躍したのが間部詮房(まなべあきふさ1666〜1720)。元猿楽師で、綱豊も目に留まり出世の道を歩むことになる。綱豊(家宣)は、この2人を使って綱吉時代の悪弊を取り除こうとつとめたのだ。彼は将軍就任とともに生類哀れみの令を廃止。続いて、前の側用人・柳沢吉保らが権勢を得てやりたい放題だったのを改めるべく、側用人を廃止した。側用人とは、将軍と老中の間の連絡係で、連絡係にとどまればよかったのだが、次第に政治の中枢にまで入り込むようになってしまった。堀田正俊の刺殺事件以降、将軍の身を案じて創設された役職である。  
そんなわけで、一度は廃止された側用人制は、家宣が詮房を側用人に取り立てたことで復活する。それは、いわゆる幕府内の門閥勢力と対抗するために必要だったからだ。将軍周辺に権力がなければなにもできない。結局の所、詮房は柳沢吉保の二の舞は踏まぬべく、新井白石とともに、家宣と彼の子家継の2代にわたって改革を押し進めていくのであった。  
さて、白石は、儒教精神に基づく仁愛の政治を目指し、また正徳金銀を発行して貨幣の品質を家康時代の良質の慶長金銀にもどし、貿易額を制限する海舶互市(かいはくごし)新例を発令して金銀の国外流出をふせぐなど、大胆な経済政策をおこなった後者はさておき、前者はいきなり通貨量を減らされたわけで、市場は混乱した。  
その他に武家諸法度の改訂や、将軍の代替わりごとにくる朝鮮通信使の接待を簡素化することで出費を抑えた。だが、そんな政策もほとんど効果がなく、さらに家宣の死後、「よそ者」ということで門閥勢力から反感を買い、家継死後に就任した吉宗により詮房共々失脚することになる。  
その後は著作活動に専念する。「折りたく柴の記」や宣教師シドッチの話をまとめた「西洋紀聞」はあまりに有名である。また、彼の友人で、彼の推挙によって幕府に入った室鳩巣は吉宗の信頼を得ている。吉宗も、白石の政策を受け継がねばならなかったことは事実である。もしかすると吉宗は、門閥勢力と妥協し将軍に就任するための条件として白石らの失脚を約束したのかもしれない。  
また、白石は極端な理想主義者でもあった。自分の信念を絶対に曲げず貫き通す。それはそれでいいのだが、かなり他人にも厳しく「鬼」と言われることもあったらしい。  
一方、間部詮房は高崎5万石の藩主にまで出世していたが、越後国村上に転封となる。その子孫の越前国・鯖江藩主間部詮勝(1804〜84)は幕末に老中となり、井伊直弼の下で安政の大獄を行った。  
 
吉宗と享保の改革

 

1716年、将軍家継は急逝します。もっともわずか8歳(満でなら6歳にしかなりません!)の子供のことではあり、当時の衛生水準と医療水準を考えれば、別に異とするようなことではありません。  
代わって将軍の地位に就くのは、紀州藩主吉宗です。吉宗は、綱吉を見習って強力な将軍として君臨しようとします。その治世も約30年と綱吉に匹敵する長期であるため、改革の内容は非常に多岐にわたり、改革の規模的にも、十分に綱吉の断行した改革に匹敵します。  
従来の日本史が、江戸三大改革と称しているのは、享保の改革、寛政の改革、そして天保の改革です。  
しかし、この中で、財政面に関して改革と呼びうるのは、最初の享保の改革だけといえます。  
私は、綱吉の改革と、この享保の改革、それに9代将軍家重から11代将軍家治まで息長く行われた改革(一貫してそれに関与していた、という意味において田沼意次の改革と呼んでも良いでしょう)の三つを合わせて、江戸財政の三大改革と評価するのが正しいのではないか、と考えています。  
ただ、問題はその内容です。綱吉の改革の場合には、その改革の内容は、幕府権力の強化、という一言で要約することが可能です。  
これに対して、吉宗の場合には、それほど単純ではありません。  
本稿の冒頭で、いわゆる改革という名の活動は、「社会が変化していく中で、為政者たちがそうした変化を無視、ないしは否定して、歴史の流れを逆転させ、江戸初期の封建体制に無理矢理戻そうと努力する活動のこと」だと書きました。  
その意味では、享保の改革は、いわゆる改革には属しません。これはまさしく、社会の変化の方向を直視して、その変化に合わせて江戸幕府財政を切り替えようとする努力でした。ある点では、時代の先取り的な性格をもっています。  
問題は、社会の変化は、封建制を崩壊させる方向に向かっていた、ということです。  
このため、幕府財政の確立という方向に向けての吉宗の努力は、長期的に見た場合、むしろ幕府権力の基盤を突き崩す方向に機能していきました。  
春秋の筆法を借りれば、江戸幕府を中心とする封建制を破壊したのは吉宗である、ということができるでしょう。その点が、この改革の大きな特徴です。  
また、この改革の端々には、彼の強烈な個性が表れてきます。  
その個性を抜きにしては、理解のできない政策も数多くあるのです。その意味で、吉宗の人となりを知ることは、その改革の内容を理解するうえで、きわめて重要です。 
1.吉宗の生い立ち

 

吉宗の生涯は幸運の連続と言っていいでしょう。  
彼は、1648年に紀州藩主徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれますが、兄の1人は早くに死ぬので、事実上の三男として育ちます。  
母の出自は今日にいたるもはっきりしません。とにかく非常に低い身分の女性であったことは間違いありません。  
そのため、吉宗自身も、間違っても晴れがましいところを歩けるような生まれとは考えられていませんでした。  
だから、1697年、彼が13歳の時に、将軍綱吉が紀州藩江戸屋敷を訪問した時にも、彼の2人の兄、すなわち綱教(つなのり)と頼職(よりもと)は、表の間に、父光貞と並んで、将軍に挨拶しましたが、吉宗は次の間に控えさせられていたのです。  
ところが、この時、吉宗に最初の幸運が訪れます。  
綱吉は何が気に入ったのか、わざわざ吉宗に拝謁を許したばかりか、越前丹生に3万石を賜ったのです。  
部屋住から一躍大名への出世です。  
川口松太郎の「新吾十番勝負」ですと、吉宗はその後越前に入部したように描いていますが、実際にはそのまま江戸に住んで、越前には一度も行かなかったようです。  
1698年に、光貞の長子綱教が紀州藩主となりますが、1705年に死亡します。  
子がなかったため、弟の頼職が跡を継ぎます。ところが、彼もわずか4ヶ月後に急逝するのです。  
こうして吉宗が一躍紀州藩主の地位に就くことになりました。彼が22歳の時のことです。二度目の幸運です。  
1712年に、吉宗自身の知らないところで三度目の幸運が起きていました。  
尾張公の徳川吉通(よしみち)は、吉宗や水戸家の当主と比べると、家康から数えての世代数では一世代上のため、御三家の中では、理論的には一番将軍に近い立場だったのです。  
そこで、病気に倒れた将軍家宣は、幼児の将軍に跡を継がせることに危惧の念を持った時、白石に、尾張公を西の丸に迎えて後継者とするか、少なくとも後見とすることを諮問します。  
この時、家宣の意思がとおっていれば、後継将軍はそのまま尾張家からでることになっていたかもしれません。  
が、白石が、れっきとした後嗣がいるのにそうしたことをしてはかえって世が乱れると反対したといいます。  
単に後見人に立てるという話に対する反対意見としては、随分不自然な理由です。おそらく本当の理由は、吉通の人物そのものにあったはずです。  
実は吉通は、荒淫暴食を常とする一種の人格破綻者だったのです。  
そんな人物を後見に立てるというのはとんでもないことですが、そんな親戚の悪口のようなことは家宣にはいえなかったのだと思います。  
その後、吉通は荒んだ生活が祟って、1713年にわずか25歳の若さで死に、尾張家の持っていた世代的な有利さは失われます。  
しかも、その跡を継いだ3歳の幼児五郎太も2ヶ月の在職で死ぬという二重の不運に、尾張家は襲われるのです。  
こうした一連の幸運の末に、この1716年、吉宗はとうとう将軍職に就きます。  
このとき、御三家は理論的には横一線で並んでおり、なぜ外の2家を押しのけて吉宗が政権を握ることができたのかは、今もはっきりしません。  
しかし、この時だけは単なる幸運ではなく、自ら呼び込んだ運命だったようです。  
吉宗は、将軍になった後、お庭番という将軍直属の隠密組織を創設したことに端的に示されるように、早くから情報に非常に敏感だった人です。  
したがって、この決定的場面でも、徹底的に情報を収集し、その分析の上に立って戦略を巡らすことで、将軍位を獲得したのです。  
すなわち、尾張家や水戸家に対して情報戦で勝利したことが、その最終勝利につながった、と言えるでしょう。  
尾張家では、後に、情報戦において紀伊家にあまりに遅れを取ったため、単なる努力の差とは思えず、誰かが紀伊家に内通していたためだったのではないか、と魔女狩り騒動まで起こしています。  
それほど決定的な差を、吉宗はこの時の情報戦において示したのです。  
とにかく、その時点で、後継者決定に関する限り、新井白石は、何の権限も認められません。幕府の正式職制に属していない悲しさです。  
したがって、キャスティングボードを握っていたのは老中陣でした。  
そこで、吉宗は、豊富な情報量を利して、彼らに何らかの公約を与えることで、その支持を勝ち得て、この横一線の競争から抜け出したことは間違いありません。  
それがどのような公約であったのか、ということは、明確なものは残っていません。  
しかし、吉宗のその後の行動で、公約の内容はかなり正確に推定できます。  
すなわち、吉宗は将軍になると、しばらくの間、じっと我慢の子を続け、彼を支持した老中達(これを「援立の臣」と呼びます)がすべて退陣するまでは、享保の改革に本格的に着手しないのです。  
それどころか、将軍の独裁という観点からは、不利になる一連の措置を執るのです。  
好きこのんで不利なことをする者がいるわけはありませんから、それこそが選挙公約だったはずです。  
しかし、そのように律儀に選挙公約を守るということは、譜代幕臣の間での吉宗の人気を高める上で絶大な効果がありました。  
そのように人気を高めた上で、やおら改革に着手したものでしたから、改革さえも幕臣の間で、非常に高く評価されるということになりました。  
先に述べたとおり、実際に幕府中興の祖は綱吉と見るべきでしょう。  
しかし彼は、徳川氏の公式歴史書である徳川実記においてでさえ、暴君という感じに書かれています。  
これに対して、吉宗は、中興の祖とされ、名君と言われて、死後間もない頃から神格化されます。  
これは、綱吉が将軍家の権威を高めるため、先に紹介したような様々な手段で幕臣を強く押さえつけたのに対して、吉宗は譜代の幕臣に対する徹底した人気取りを行ったおかげでしょう。  
綱吉は、生まれ落ちたときからの君主であり、名君となるべく教育されたものですから、自分の考えた正義を実施することが政治と考え、その過程で家臣の感情を忖度(そんたく)する、というような軟弱な神経は持ち合わせていませんでした。  
これに対して吉宗は、本来ならば冷や飯喰いの部屋住みという、家臣の情けにすがってやっと生きていくような脆弱な基盤から育ってきたものですから、どうしても彼を擁立する家臣の人気を取ろうという意識が働くのだと思います。  
お庭番とか目安箱を設けるということに現れる民衆に対する迎合傾向も、人気に敏感という彼の弱点の現れと見ることができます。  
実はお庭番が彼から収集を命ぜられる情報とは、問題となっている事柄に関する真実の情報ではありません。  
「風説書」というその名称に示されているとおり、調査対象に関して世間に流れている噂の収集なのです。  
その結果、大衆の人気を失ったことが判ると、腹心の老中を無造作に罷免する、というような極端なことさえも何度かやっています。  
このことは、彼が民衆の間での自分自身の人気を気にしていたということの裏返しと見ることが出きるでしょう。  
もちろん、直接民衆と結びつく、ということは、ナポレオンやヒットラーを見れば判るとおり、独裁の条件でもあるのですが。封建制の下でそれをやったというのは非常に珍しいということができます。  
吉宗の治世は、上述のとおり、1716年から1745年まで約30年に及びますが、大別すると、四つの時期に分けることができると考えます。  
初期は、援立の臣に遠慮して、じっと我慢をしていた時代です。援立の臣達が死んだり引退したりする1722年までがそれに当たります。  
中期が、いわゆる享保の改革と呼ばれるものの中心的な施策の行われた時代です。老中水野忠之が、幕政の中心となって活動した時期ということもできます。1722年から1731年までと見ることができるでしょう。  
その後、1737年まで、小さなものは別として、大勢としては、改革は一休みします。改革休止期と呼べばよいでしょうか。  
末期は、この享保の改革が破綻を見せ始め、その対策に追われるようになる時代です。  
年号が享保から元文と変わっていますから、私はこの時期を「元文の改革」と呼んでいます。  
老中松平乗邑(のりさと)、勘定奉行神尾春央のコンビで知られる強圧的な政治が行われた時代に当たります。1737年から吉宗の引退する1745年までがそれです。 
2.初期=援立の臣への遠慮時代

 

吉宗政権の初期は、従来の政策の破壊に終始する時期です。  
綱吉政権以来、一貫して側用人に押さえられ、さらに近年は新井白石という怖い先生がいたためにストレスのたまっていた老中達は、積年の恨みを晴らすべく、良い、悪いの別なく、一律に従来の制度の廃止要求を吉宗に突きつけてきました。  
援立の臣達は、綱吉や家宣が、側用人政治の邪魔にならないようにと、特に無能な者を選んで就任させた連中です。  
もっとも家柄はよいし、態度振る舞いは普通なので、最初は、吉宗も、それほど無能な連中とは思っていなかったようです。  
しかし、接すれば接するほど、その度し難い無能ぶりに、仰天したという話が残っています。  
しかし、この無能ぶりは、吉宗にも幸いしました。  
無能な人間というのは、物事の本質を把握できませんから、表面的なところだけを見て文句を言います。  
だから、表面さえ糊塗してやれば、実質は変更しなくても判らないのです。  
また、彼らの要求は、一般に形式面がほとんどでした。おとなしく飲んでいても、そう問題のあるものではなかったようです。  
結局、吉宗の初期の政策の中で、実質的に将軍にマイナスの影響が及ぶのは、次の諸点に過ぎませんでした。  
(1)譜代優遇策  
綱吉及び家宣が将軍になったとき、それに伴い館林藩士及び甲府藩士が大量に幕臣になったこと、そして、その中にはかなり大量にそれ以前は浪人であったものが混じっていたこと、そして、綱吉も家宣も、家康以来の譜代の幕臣を虐待し、自分の連れてきた新参者を中核として将軍中心政治を実施したことは、これまでに述べてきたとおりです。  
当然のことながら、譜代勢力としては、このような新興勢力の優遇というのは我慢がならないものだったに違いありません。  
吉宗政権の初期は、こうしたこれまで政権の中核にいた新参者に対する逆差別の時代です。  
吉宗は、内容は伴わないのですが、大向こう受けする派手なパーフォーマンスを連発して逆差別をアッピールすることで、一気に譜代層の人気を獲得します。  
例えば、吉宗が将軍職に就いた直後、紀州から来た用人内藤某が殿中不案内のため、老中列座のところをとおったことに気が付かず、無礼があったというので早速紀州に帰し、これを案内していた茶坊主も処罰した、という話があります。  
また、ある時、大奥の老女が縁故のものの登用を吉宗に願ったところ、吉宗は老中に申し出るように指示しました。  
そして、老中に、たとえ上意(すなわち吉宗の意向)であっても、この件は然るべからず、と拒否させた、というのです。  
そのほか、譜代の大名だけを集めて特に謁見を行ったり、饗宴を行ったりします。  
ほとんど実質のない優遇策ばかりです。  
わずかに実質を伴うものとしては、たとえば、譜代の旗本は養子を認めるが、新参者の場合には、実子がなければ家は断絶になるといったものがあるにとどまります。  
が、こうした政治的配慮は、一つ一つはいかに下らないことでも、重ねて実施すれば、人気取りには非常に役に立ちます。  
(2)側用人制度の廃止  
綱吉、家宣、家継とかれこれ40年近くも続いてきた側用人制度に対する門閥勢力の不満はかなり高いものがあったはずですから、その廃止という公約はかなり受けたに違いありません。  
これは、新参者による、譜代に対する圧迫のシンボルみたいな官職ですから、幕臣の間での人気に非常に神経を使う吉宗としても、この廃止は単に援立の臣に対する公約以上の重要性があります。  
このため、その将軍としての治世が終わるまで、側用人を復活することはありませんでした。  
そして、老中はいつでも将軍のところにきて話ができる、ということにしました。  
しかし、老中を御用部屋に押し込めるというやり方を変えたわけではありませんから、将軍と老中の間の連絡員が必要という事情に変わりはありません。  
そこで、吉宗が行ったが側衆(そばしゅう)の強化です。  
側衆というのは従来からある官職で、将軍の側にいて、その雑務を担当する者です。  
吉宗の時までは、側衆は業務的には既決書類の取次しかできないこととされていました。  
吉宗は、その中のエリートを御側御用取次(おそばごようとりつぎ)とします。  
御側御用取次は、規定役高5000石ということですから、旗本が就任できる官職としては最高位の職ということになります。  
参考までに、主要な役職の規定役高を紹介しておくと、書院番頭及び小姓組番頭が4000石、町奉行、勘定奉行それに大目付が3000石といったところです。  
つまり、旗本の就ける地位の増加なのですから、譜代の旗本にはそれだけで受けたに違いありません。  
なお、老中及び寺社奉行は、大名であることが資格ですから、旗本が就くことはできません。  
御側御用取次は、職務内容的に見ますと、未決や機密の事項を取り次ぐことが主な職務です。  
が、将軍側近として、その意を受けて政務にも関与しました。したがって、かなり側用人に近い制度です。  
ただ、側用人は1万石以上の領地を持つ者が就任する大名級の職で、老中に準ずる待遇を与えられます。  
これに対し、御側御用取次は、上記の通り、旗本が就く職とされている点で側用人よりは一格低い地位、ということは、幕府の階級組織の中では、大きな相違となります。  
これは形式を重視する譜代層には大事な点です。  
実際、吉宗は、お気に入りの御側御用取次に対してさえも、最終的にも1万石どまりに押さえて、大幅加増はせず、柳沢吉保や間部詮房のような、いわゆる出頭人といわれるほどに重用する者を出しませんでした。  
また、何といっても吉宗自身の強烈な個性が目立った時代ですから、その前の時代の側用人のように、一世にその名が喧伝されるほどの大物は、最後まで出ていません。このことも、非常に譜代の人々に好評でした。  
中期の、改革が始まった以降に入ると、少しトーンが変わってきます。  
1724年に、奉行達に対して、奉行より申し上げることは、まず老中に申し出るように、という命令を下します。  
これで老中がつんぼさじきに置かれることはないと、老中達は喜んだことでしょう。  
しかし、この命令には、重大な但し書きがついていました。将軍が側衆をもって尋ねたことは別だ、という点です。  
その結果、援立の臣が絶えると、吉宗から、改革を目指して積極的に奉行達に対して様々な下命が発されるようになります。  
それに答える場合には、奉行や目付は法令等の原案を作成すると、まず御側御用取次に上申します。  
それを受けて、将軍が採否の方針を決定しますと、その旨が奉行等に降りてきますので、そこで改めて老中に上申するという運びになります。  
その場合には、老中は、単なる追認機関に過ぎなくなっているのです。  
この結果、御側御用取次の権威というものは、時とともに、だんだんと大きなものになっていきます。  
援立の臣の一人、老中久世重之が、御側御用取次が老中の決定事項を独断で決定したことを叱責して、老中列座の席に呼び出して陳謝させたという逸話があります。  
援立の臣であり、地位的も問題なく上位の老中が、下の身分の御側御用取次を叱責する、というのは、犬が人を咬んだというのと同じようなもので、普通なら、ニュースバリューのない話です。  
それが逸話になりうるのは、援立の臣が残っている段階で、すでに、普通の老中はむしろ御側御用取次に迎合して、そのご機嫌を取っていたからなのです。  
そうした中での、久世の行為は、人が犬を咬んだという程度に、人々を驚かせたからに違いありません。  
末期に入ってくると、もうその権威は絶大なものとなってきます。  
ある時、町奉行大岡忠相が、吉宗の採用した政策に異議があり、クレームを付けようとして、御側御用取次の有馬氏倫(うじのり)に取次を依頼しました。  
これに対して氏倫は、その話は確かに承ったので、気が向いたら取り次ぎましょうという趣旨の答弁をしたという話もあります。  
皆さんもご存じのとおり、大岡は吉宗の寵臣といえる人ですが、その大岡の意見具申でさえも、気分一つで取り次がないことができる権威が、そのころになると御側御用取次にはあった、ということを、この話は示しています。  
もちろん、この職に就くのは、吉宗が紀州藩士から転籍させた者に限るのは、いうまでもありません。  
ちなみに、吉宗が、紀州藩から幕臣として転籍させた者は、江戸幕府の公式歴史書である徳川実記では、40数人となっています。  
が、これは御目見得以上の者だけに限ってのことです。  
本当の総数は計204名に達します。つまり、御目見得に届かない下僚を中心に転籍させた、という点に、この時の人事異動の大きな特徴があります。  
吉宗が大量の新参者で幕臣を刺激しないように配意しつつ、かつ、自分の支配権を確立するに必要な実務家層を引き抜いて、実質を確保したわけです。  
その典型がお庭番で、彼らは、身分は御目見得ではないにも関わらず、庭掃除という形式を通じて、実際には頻繁な接触を保っていました。  
一つの大名家全体が幕臣となった綱吉や家宣の時と違って、紀伊家そのものは、その後も御三家としてちゃんと残った事を考えますと、204名という数字はかなりの数といえます。  
(3)勝手掛老中制度の廃止  
勝手掛老中は、老中の集団合議制を否定し、それを将軍から勘定所への指揮命令系統の中に組み込むことが狙いですから、側用人制度と同様に、従来の門閥勢力から見れば、面白くない制度だったに違いがありません。  
そこで、吉宗は、要求に従い、これを廃止します。  
しかし、この公約だけは長く守ることはできませんでした。  
将軍の方から見れば、側用人に頼ることができない以上、改革の実施には、老中をラインの中に組み込まなければならないのは、必然の要求となるからです。  
したがって、これは、初期の公約の中で、一番最初に破られる公約となっていきます。  
吉宗政権の中期及び末期の改革は、いずれも勝手掛老中の任命という形式を採って始まることになります。  
(4)正徳の治の否定と承継  
吉宗の初期の政治は、援立の臣に対する遠慮の下での試行錯誤ですから、かなり無理なものが目立ちます。  
吉宗は、間部詮房については、側用人を罷免した後、高崎に比べると僻地の、越後村上5万石に移封しますが、それ以上特段の処分はしません。  
その子の代で越前鯖江5万石に再度移封され、彼の子孫は幕末までその地で栄えます。幕閣に関与する者も出ています。安政の大獄の際には、間部詮勝は老中として上京し、京都における志士の弾圧の指揮を執ったことで有名です。  
白石の場合にも、1000石という家禄と寄合という身分は残りましたから、その意味では、間部と同じ扱いです。  
が、白石として、是非残してほしい幕府儒者としての地位から罷免します。そればかりでなく、彼の施策を基本的に否定してかかるのです。  
すなわち、先に、無能な老中達のご機嫌をとるため、吉宗が様々な公約を出したらしい、という話をしました。  
この吉宗の「援立の臣」達は、怖い先生である白石が大嫌いでしたから、このチャンスとばかり、吉宗に、白石本人を排斥させるとともに、白石の政策も排斥させたのです。  
吉宗はこれに安易に迎合します。この結果、初期の段階では、かなり機械的に白石の政治の否定が行われます。  
たとえば、武家諸法度がそれまで主として漢文で書かれていたのを、白石は内容にも時代変化に応じた修正を加えつつ、全文を和文で書き下します。  
これは、漢文の素養が低かった当時の武士の知的水準にも適合した正しい変更だったと思われます。  
しかし、これについても、一言半句も違えることなく元に戻すことを吉宗は命じます。  
おそらく、元のものでは吉宗自身も読むことはできなかったでしょうが、それに拘束される気のない吉宗としては、それが何語で書かれていようと、どうでも良いことだったに違いありません。  
また、白石が、朝鮮通信使の接遇を大変な苦労をして改め、費用を減らしたのは有名な話で、前章でも紹介したとおりです。  
しかし、吉宗は無造作にいずれも元に戻します。もっとも吉宗は、その意味するところを理解していなかったのだと思います。  
結果として、そのために幕府の財政は破綻し、吉宗はその穴埋めに大変な屈辱を味わうことになるのですが、それは後の話です。  
白石としては、単なる浪人に戻されるよりも、こうした業績の否定の方が辛かったでしょう。  
しかし、吉宗によって、白石が、儒者から罷免され、業績が否定されたことを、後世の我々は感謝する必要があります。  
自分の意図や考えを後世に残そうと、白石は著作に邁進するからです。  
「折りたく柴の記」を初めとする彼の著作のほとんどは、これから後の白石の不遇の時代に書かれることになります。  
従来の日本史学者には、こうした行きがかりから、享保の改革を、正徳の治の全面的な否定という形で理解するのが普通でした。  
しかし、これは初期政治と、享保の改革そのものを混同しているところから起きる誤りです。  
1722年に本格的に始まる享保の改革における、財政面での措置を検討していくと、そのほとんどが、むしろ正徳の治の承継、発展という性格をもっていることが判ります。  
また、初期の段階でも、施策の内容が、幕府の権威を高める方向の改革である、ということが吉宗に理解できた場合には、援立の臣達に抵抗して、承継するという方針を打ち出しています。  
その具体例を、以下に見てみましょう。  
A 長崎新令の承継  
前章で、白石の長崎新例を説明した際に言及したとおり、享保の改革まで、幕府の基本政策は、主食である米と麦の増産にありました。  
ところが、そのために様々な生活物資、特に生糸・絹織物や綿布を海外から輸入することになり、金銀の激しい流出に見まわれたのです。  
吉宗は、白石の長崎新例を継承し、貿易制限額内の決済に当たっては銅を、それを越える分に対しては俵物や諸色による支払いを行います。  
さらに抜け荷による金銀の流出を防ぐため、その取り締まりを強化しています。  
しかし、真の対策は、そうした輸入に頼っている農産物の国産化であることは、白石が指摘していたとおりです。  
そこで、そうした抜本的な改革も行われます。それについては、別に項を立てて論じたいと思います。  
B 通貨政策の承継  
吉宗は、通貨政策に関しても、白石の政策を原則的には承継しました。  
すなわち、白石の正徳小判等をそのままの品位・重量で鋳造、発行を続けるのです。これを、白石の正保金銀に対して享保金銀と呼びます。  
したがって、正徳小判・一分金が発行された1714年から享保の終わる36年までは、白石のデフレ政策が、基本的に継承されていったことになります。  
享保が終わった1736年になって、町奉行大岡忠相の指導下に、いわゆる元文改鋳に着手します。  
が、それについては、末期の元文改革の一環として、大岡の他の施策と一括して、後述します。  
ただ、白石のデフレ政策の継承といっても、吉宗は、かなり過激な形でそれを実施します。  
おそらく吉宗には、急激なデフレの進行が、国民経済に、ひいては幕府財政にどのような影響を与えるかは理解できなかったに違いありません。  
そこで、白石が20年もかけてゆっくり改鋳を実施することを命じたのは、馬鹿馬鹿しく思えたのでしょう。  
また、財政状況の厳しい中で、白石がいうように手持ちの銀を吐き出す、という気もありません。  
そこで、吉宗の下で、幕府はわずか5年で改鋳を終えます。  
したがって、この急激なデフレに伴う大変な不景気に、吉宗政権は襲われることになります。  
このことも、吉宗に享保の改革を実施するよう駆り立てる大きな要因となっていきます。  
もっとも、この時に行われた享保小判・一分金の総発行量がどのくらいであったかは判りません。  
吉宗は、このほか、慶長大判と同じ重量・品位で、享保大判も1725年に発行します。こちらの方は、8515枚と判っています。  
綱吉の低品位元禄大判3万1795枚に比べてかなり少ないのです。  
これから考えて、おそらく享保小判等の方の発行量も、正徳小判等と同様に、元禄小判等の発行量に比べると、そう多くはなかったと思われます。  
3.初期における積極改革

 

前節に述べたとおり、初期は基本的には援立の臣に振り回された反動政治の時代です。  
しかし、この時期にも、吉宗は、援立の臣達の逆鱗に触れない範囲内で、早くもいくつかの積極改革に手を着けています。  
ここではそれについて見ることにしましょう。  
(1)代官所業務の改革  
これは、吉宗政権の初期に行われた政治の中では、後に詳しく説明する土地政策に関する改革と並んで、後世にまで大きな影響を与える非常に重要な積極的な内容を持つ改革です。  
もっとも、これに関しては、試行錯誤の結果たどり着いたのであって、始めから行おうとして行われたことではありません。  
中期の改革の項で詳しく説明しますが、初期の段階において、白石の政策の機械的否定から来る悪影響で、幕府財政は急速に悪化していきます。  
そこでなんとか収入を増やさなければなりません。  
封建政権における歳入増収策というと、年貢の増加策しか考えず、年貢の増加策としては、代官の尻をたたくことと考える点では、初期の頃の吉宗の発想は、白石と全く違いはありませんでした。  
そこで、白石同様に、吉宗もまた、代官の綱紀粛正に乗り出します。  
吉宗が将軍に就いた1716年からの10年間で処罰された代官の数は29名に達していますから、白石以上の厳しさです。  
もっとも、白石時代に摘発されて、処罰だけが吉宗になってから行われた、という例も結構あるようです。  
また、処罰の内容は閉門とか家督相続の延期など、結構軽いものもあり、綱吉時代のような死罪は一人もいません。  
まだまだ、そう強腰で幕臣に望むことのできる時期ではなかったのです。  
処罰理由としては、22名までが年貢の滞納等で、これは綱吉や白石の時以上に高い率を示しています。  
白石による粛正により、不心得な代官が一掃されていたことが、この構造的要因を浮き彫りにする上で力があったものと思われます。  
ここにいたって、ようやく吉宗は、年貢滞納という事態の原因が、代官の質の低下にあるのではなく、代官業務の構造的な要因によるものであることに気づき、その究明に乗り出しました。  
江戸初期の財政に関して説明したとおり、代官所経費は、年貢の口米・口永で賄うことになっています。  
これが1616年に定められたきり、この時まで100年以上放置されていて、その間の社会構造の変化に対応していないという点が、代官が年貢米を流用する原因として大きいのです。  
代官の正規の経費である口米・口永は、年貢の付加税という形式をとっていますから、凶作で年貢が減ればそれに連れて減ります。  
また、豊作で米の値段が下落すれば、実収入はやはり減少します。  
ところが、代官所は、単なる徴税機関ではなく、民政安定も任務としています。  
そうした経費は、豊作か凶作かに拘わらず、常に必要です。それどころか、凶作の時には民政安定のためにはよけいに支出を必要とすることになるはずです。  
また、こうした経常支出は、昔なら、米その他の現物支給や農民の労力奉仕の命令という形で賄うことが可能でしたから、現金はあまり必要としませんでした。  
しかし、市場経済の農村への浸透とともに、現金を支出しないと、実施が不可能な状況が生ずるようになってきています。  
そして、経常経費というものの本質的性質から、年間を通じて必要です。  
ところが年貢は秋の収穫シーズンにしか入ってきません。  
そこで、端境期は、軽輩で自分自身には資金力がない代官としては、代官所として借金をすることで、その費用を賄うほかはありません。  
秋の収穫シーズンになれば、こうした借金を優先的に弁済せざるを得ません。  
だから、凶作等のため年貢米収入が少なく、口米ではこの借金を返済できないということになれば、その分が、年貢米に食い込むことになります。  
さらにその結果として、幕府に納めるべき年貢米が所定の量よりも不足し、上納が遅れる(というより、ないから納付できない)という事態が起こる訳です。  
この当時には、口米や口永だけで経常費を賄うことのできる代官所は日本中からなくなっていました。  
代官はまじめにつとめればつとめるほど、借金の山で首が回らない、という事態が起きていたのです。  
調査の結果このような事実を把握した吉宗は、1716年から、それまでの口米支給仕法を廃止しました。  
それに代えて、地域に応じて代官所の必要経費を算定し、それを幕府から支給する方式に切り替えました。  
これ以後は、代官で処罰される者の数は激減し、その後の20年間でわずか4名といいます。  
(2)倹約令と御免株  
吉宗治世の初期において存在する唯一の財政政策は、倹約令です。  
援立の臣のような無能な老中達にとって、金がなければ、新たな歳入源を考えるよりも、支出をとにかく抑制すれば良い、という発想しか出てきません。  
そして、武士だけが倹約を心がけるのは面白くありません?から、倹約を一般の町人にまで押しつける、というのが、この時の基本政策ということになります。  
無能な人間が政権を握ると常にこうした発想が生まれるらしく、寛政の改革や天保の改革の際にも、同一の政策が採られています。  
一般町人に倹約を効率よく押しつけるにはどうしたらよいと思いますか?  
この点に関する限り、援立の臣達の発想は実にユニークです。  
倹約させる一番良い方法は、商品が購買意欲をそそらないようなつまらないものであればよい、というのです。  
確かに理屈です。そこで、購買意欲をそそるような新規の商品を開発することを禁止する、という政策が採用されることになります。  
1720年5月に老中から三奉行に下した指令では、食物はもちろん、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じています。  
翌1721年8月には、こうした新規商品を開発したりするものが出ないように、江戸の諸商人及び職人に組合を結成させています。  
当時、商人や職人の同業組合を株仲間(かぶなかま)といいました。  
そして、この場合には、幕府の命令による株仲間の結成なので、これは御免株(ごめんかぶ)と呼ばれます。  
その命令内容は実に細かく、扇屋、菓子屋、雛人形屋等、幕府から考えて、嗜好品と思われる96種の商品について、組合結成を命じているのです。  
相互監視システムによる文化の発達の抑止という、いかにも全体主義的な不愉快な発想がここには見られます。  
(3)社会資本整備と受益者負担  
江戸時代の租税は原則として農民が負担していましたから、町民は楽だったと思うかもしれません。  
しかし、租税という名称が付けられていなかっただけで、実際には町人もかなり大きな負担を背負っていました。  
ただし、その負担はもっぱら受益者負担の形式を採っていた、という点が、農民との違いです。  
実は、徳川幕府は、社会資本の整備や経済困窮者に対する援助政策など、各種の福祉政策を、意外にまじめに実施しています。  
同じ時期の欧州各国と比べると、当時のわが国は福祉大国といっても良いほどの手厚さです。  
しかし租税収入は、幕府の経常費を維持するのがやっとという状況ですから、そうした福祉政策の財源は他に求めなければなりません。  
そこで幕府は、福祉政策の財源は、受益者負担の原則に基づき、地元の町に負担させるという方式を標準的に採用していたのです。  
結局、今日の目的税的な負担が町人にもかかってきていた、ということができます。  
A 橋の維持管理費  
一例として橋の建設・維持にかかる費用をみてみましょう。  
徳川幕府は、大井川などの主要街道の大河については、防衛上の見地から架橋を認めなかったのは有名です。  
しかし、江戸や大阪の市中ではもちろん多数の橋が架けられています。  
それらの橋には、幕府の直轄する公儀橋と、橋筋の町が自前で管理する町橋という区別がありました。  
公儀橋は、江戸で160橋、大阪で12橋といいます。  
残りはすべて町橋です。水の都といわれた大阪の場合、橋の数は江戸よりはるかに多かったはずですから、橋のほとんどは町橋だったことになります。  
江戸時代の橋の寿命は、大体20年と幕府では見積もっていました。  
しかし、木造ですから、経年劣化ばかりでなく、洪水や火事による補修工事もかなり必要だったはずです。  
したがって、案外頻繁に架替工事の必要が発生するわけです。  
公儀橋といっても、橋の維持管理費を幕府が全面的に負担しているわけではありません。  
架替や補修のための工事費のうち、材木代、釘かすがい代および大工手間賃は公儀負担ですが、人足の労務費については、地元負担でした。  
大体工事費の1割程度になります。一度にとられると負担が大きいので、これを5年くらいに分割して徴収したようです。  
したがって、工事の頻度とあわせ考えると、いつでも費用徴収が行われていたことになります。  
租税と見られる、というゆえんです。  
この場合、費用は店持ち商人の間口(まぐち)割り負担でした。  
すなわち店の間口が大きくなるほど負担額が増えるわけです。  
特に負担の大きかったのが角店(かどみせ)です。道路の四つ角に位置する店のことで、普通に店を作れば、いやでも間口は倍になります。  
その代わり、その分だけ商売に有利だということで、いまでも不動産評価額は普通よりも幾分は高いようです。  
当時は、こういう角店は、今日よりも重視されていて、間口割りではなく、普通の店に比べて、はるかに多額の特別の負担が課せられていました。  
間口が大きかったり、角店だったりすれば、それだけ商売が大きいということであり、したがって収入も多かったでしょうから、一種の累進課税方式が採られていたことになります。  
江戸時代の商家は一般に、間口をできるだけ狭く押さえ、ウナギの寝床のように奥行きのある構造を持っているのが普通でした。  
これは、このような租税負担額をできるだけ押さえるための商人の知恵です。  
これに対して、店借り人は、こうした負担はありませんでした。  
すなわち低所得階層は、免税になっていたのです。  
この点でも合理的な租税制度といえます。  
その代わりに、当時の町は大幅な自治権が認められていましたが、税負担を免除されている者は、町の運営に対する発言権も認められませんでした。  
代表無ければ課税なし、という有名なスローガンがあります。その逆もまた真で、課税無ければ代表なし、ということだったのです。  
町橋の場合には、維持管理費の全額が地元負担です。  
橋の維持管理費を負担する地元の町を「橋掛り」といいます。橋が老朽化してくると、まず橋の両側の一番橋寄りの家(「橋詰」といいます。当然4軒あります。)の主人が集まって工事を発議します。  
この発議を受けて、橋掛りの町々の町年寄り(今の言葉でいえば町会議員)が集まって工事の実施を議決します。  
そこで、町奉行所に申請して工事許可を受けます。  
それに基づき、工事が行われ、完成すると、決算報告が出ます。  
これに基づき、地元の町に費用が割り振られるわけです。  
橋は、普通、二つの町を結ぶ形で架けられます。  
この、直接橋で結ばれている二つの町をそれぞれ「橋元町」といいます。  
工事費の2分の1は、橋本町が負担します。  
残りは、橋に近い町から遠い町に向けて、順に10%づつ等比級数的に逓減しながら割り当てられます。  
こういう割付方式を「段落之割方」と呼んでいました。  
橋元町では、町に割り当てられた経費負担の4分の1(したがって全工事費の8分の1)を橋詰めの4軒に、残りはその他の店持ちの商家で負担します。  
橋詰めの店持ちというのは、よほど裕福でなければやっていけないことが判ると思います。  
地元の町では、こうした費用負担を少しでも減じるために、有料橋にしている場合も多かったようです。  
橋番をおいて、地元外の者から通行料を徴収するわけです。  
隅田川に架かる永代橋は、1698年に、将軍綱吉の50歳の長寿を祝って架けられた橋で、その段階ではもちろん公儀橋でした。  
しかし、吉宗時代に財政が逼迫したものですから、公儀橋としては維持しきれず、1721年に町橋に移管されます。  
そこで、以後は賃取り橋として運営された、といいます。  
B 消防組織の維持管理費  
享保の改革の一環として、吉宗、あるいはその腹心の部下というべき大岡越前守忠相が江戸の町火消しを設けたことは、高校の教科書などにも必ず取りあげられていることで、非常に有名です。  
江戸町火消し制度は、1718年に定められます。  
当初45組あり、後に3組加わって48組になります。  
しかし、教科書には、なぜかその火消し組織の維持管理費は誰が負担したのか、ということは全く書いてありません。  
火消しの人数は、最終的には総数1万名に及んだといいますから、大変な費用が必要だったはずです。  
実は吉宗は組織を作らせただけで、費用負担は、やはり江戸の町々だったのです。  
その方法は、橋の場合とほぼ同じですから、詳細は省きます。  
C 治安維持組織の維持管理費  
江戸の町の治安維持についても同じことです。  
時代劇では、町奉行所の定回りあるいは隠密回りの同心が出てきて、颯爽と捕縛活動を行っていますから、彼ら、あるいは彼らから鑑札を貰っている岡っ引きなどが治安維持活動の主役のように思うかもしれません。  
しかし、実際には各町の治安維持の主体は、その町の自警団でした。  
町内に必ず、自身番と呼ばれる番屋が設けられ、ここを中心に町方の公用や雑務の処理、犯罪者の逮捕、拘留等の活動が行われていたのです。  
要するに、留置場までも備えた警察署を、各町で設置し、維持、管理していたのです。  
最初の頃は、商家の主人達が交代で詰めていたのですが、そのうちに雇いの番人が詰めるように変わりました。  
奉行所や同心は、この自身番に、捜査の際の捜査本部を設置したり、逮捕した犯人を連れ込んで尋問したりしていました。  
もちろん、本格的な取り調べは、奉行所の方に移送することになります。  
 
こうしてみてくると、こうした様々な社会福祉政策の費用はすべて、その福祉の対象となる地元の町が負担していたことが判ります。  
それを商人がすべてその店舗規模に応じて負担していたのですから、租税は無いどころか、かなり大きなものだったはずです。  
ただ、農民の場合には、収入額が、他の米の出来具合を見れば一目瞭然であったので、今のサラリーマンと同じように、非常に高い捕捉率となっていました。  
これに対して、商人の捕捉率は、今日の自営業者と同じで低いために、相対的に軽い租税負担で済んでいた、というに過ぎないのです。  
クロヨン問題の江戸時代版と言えるでしょうか。  
■補 徳川吉宗(1684〜1751)幕府8代将軍  
とりあえず、改革に成功したと言われているのがこの人物である。「享保の改革」といわれる彼の政策により、幕府は何とか息を継ぐことができた。そのため、幕府中興の祖と呼ばれる。  
吉宗は、御三家の一つである紀伊徳川家2代藩主徳川光貞の3男として生まれた。常識で考えればこのまま歴史に埋もれる人物になるはずだったが、兄たちが次々死去。見事に紀伊徳川家の地位を獲得した。  
なんと幸運、と言いたいところだが、当時の紀伊藩は吉宗の兄2人光貞との葬式の費用、初代藩主頼宣が幕府から借りた10万両の返済問題、紀州南岸をおそった地震と津波の被害と悪いことは続けて起こるもので、諸々の出費で財政赤字に苦しんでいた。吉宗はこれを改善しなければいけなかった。こうして彼は、11年間の藩主時代、藩政の立て直しにあたった。とくに井沢為永などの登用で治水・勧農事業を中心とする農政の改革に着手。また緊縮財政をかかげて経費節減や、自分を含め質素倹約を徹底させ、さらに家臣の給料の一部をカットし(これを差上金という。家臣が藩に給料を差し出すという形式のため)、また小役人など80人を解雇。藩主就任5年目にして財政を黒字にし、金蔵・米倉を建て増しするほどになった。また。有名な目安箱の先駆けとなる訴訟箱を和歌山城の門外にもうけ、庶民から意見ももとめた(異説あり)。う〜む、まさにカルロス・ゴーン?  
さてさて1716年。吉宗は8代将軍に就任する。それは、有力な対抗馬がいなかったから(尾張家の当主が死去していた)と大奥や老中の支持を得たからである。彼は早速側用人を廃止。これで老中達とのコミュニケーションをとりやすくするとともに、彼らの機嫌をとった。一方で彼の腹心である加納久通・有馬氏倫(うじのり)らを、新設した側御用取次役(実質的に側用人)に任命し身辺を紀州家出身者で固めた。  
また、土屋正直・井上正岑(まさみね)といった老中達は「今の幕府の財政状況は?」などの吉宗の問いに即答できず、凡庸であることを見事に露呈。大いに彼らは恥じたらしいが、将軍擁立の功で解任されることはなかった。つまり、名誉を守ったまま、口を黙らせたわけだ。これで抵抗勢力は押さえる。  
さらに、大岡忠相(越前)の登用など、家柄・若手に関係なく人材を登用。さらにそれをいっそう押し進めるべく「足高の制」を定めた。これは、役職が高くなるに連れて出費がかさむ中、身分や家禄の低いものでも高い役職に就けるように、在職中はその必要経費を払ってあげましょうというものである(注:役職が高いと給料が高くなるなんて決まりはないのよ。給料が低いまま平社員が部長になったら大変。人付き合いなどの出費に苦しむでしょう)。 
徳川吉宗の政策  
1.勘定所を訴訟専門の公事方と、財政専門の勝手掛に分割。職務分担で、互いに仕事をしやすくするようにした。  
2.京都所司代・水野忠之(49歳)を老中に任命し、紀州藩の時と同じように緊縮財政を押し進めた。また、22年には忠之を財政専任の勝手掛老中とする。吉宗自身も倹約につとめた。  
3.だらけきった旗本・御家人を引き締めるため、綱吉によって廃止されていた鷹狩りを復活。吉宗の鉄砲の腕前に幕臣達はびっくりした。  
4.大岡忠相(41歳)を江戸町奉行(今でいう東京都知事)に登用。彼は、以前紀州藩に隣接する伊勢山田の奉行で、紀州藩と幕府領の伊勢山田の農民の争いを、紀州藩の圧力に屈することなく、公平に裁き、紀州藩の農民を処罰。これが吉宗に感銘を与えたのだった。で、将軍就任とともに早速登用。彼は期待に答え、享保の改革の中心人物として活躍。火事に苦しむ江戸の道を拡幅したり、町火消し「いろは47組」を創設した。また、民政家の田中丘隅を登用し、農村の改善にも努めた。そんな彼は身分の低さからイジメにもたびたびあったらしい。吉宗は非常に心配し家禄をあげたりするなど彼のバックアップに努めた。上の人がちゃんとバックアップしなきゃねえ。どこかの首相に言ってやりたい。もっとも、最後には抵抗勢力に負けて寺社奉行に転出させている。仲がよいと言われる大岡忠相と吉宗だが、実のところ、よく意見が対立していたらしい。それでも起用するんだから凄い。というか、忠相さん、将軍に直言しているんだろ。あんた凄いよ。ま、何だかんだ言って2人ともウマがあったと言うことか。吉宗没後、後を追うように亡くなった大岡忠相。きっと張り合いを無くしたんだろうなあ。  
5.綱吉政権下で行われた、勘定奉行荻原重秀による粗悪貨幣(宝永金銀)の大量発行はインフレの原因として、新井白石が金銀貨の質を高めることにした。吉宗もこれを引き継いだが、新旧硬貨の交換が進まなかったため、法律で宝永金銀の使用を禁止。4年後にすべて新貨に切り替えた。ちなみに前回は書きませんでしたが、この荻原重秀という人物。何も貨幣に金銀を使う必要はない。こっかの信用が大切なのであって、貨幣など瓦でも良い、とこの時代、既に金本位制を否定。凄い人物だと思う。  
6.ゴミの不法投棄を厳罰に処することを決定した。ゴミ運搬業者が川にゴミを不法投棄し、経費節減していたことが問題になったのである。  
7.代官の大量解雇。それまで世襲型の代官が多かったため、これを有能な官僚型代官に変えることにした。彼らを使って、年貢の増徴率アップを図ることになる。  
8.増え続ける訴訟の迅速な処理を行うため、判例を整備させた。老中の松平乗邑(のりさと)を編集主任とし、1742年に「公事方御定書」を完成させた。  
9.全国の薬草を調査。若手の本草学者丹羽正伯(21歳)などが、諸国を転々と調査し、薬園の整備や薬種の流通ルートの確定など、吉宗の医療行政ブレーンとして大きく貢献した。また、その他にも野呂玄丈や植村正勝も活躍した。いずれも、吉宗に目をかけられた者達である。なお、野呂玄丈は日本初の西洋本草書を完成させている。また、吉宗はその他にも博物学の発展にも貢献した。彼の後押しで、博物学は大ブームとなるのである。  
10.キリスト教以外の洋書の輸入を許可。吉宗自身が学問好きであったことも起因の一つ。これにより、殖産興業に大きく貢献。及び、暦の正確さをいっそう増すことになった。  
11.1721年。縁座制の廃止。従来、一人の人間が罪を犯すと、一族全員が処刑などの憂き目にあったが、農民・町人に限り犯罪者の子供以下の子孫には罪を及ばないようにした(主人殺しや、親殺しはケースバイケースで判断)。  
12.同年に、初めて全国人口調査を実施。ちなみに江戸の人口は50万1394人と判明。  
13.井沢為永による新田開発の実施。見沼代用水(埼玉県行田市)亀池を始め、特に治水工事に力を注ぐ。また、新田開発をした代官には、その人一代に限り、その土地からの年貢の10分の1をプレゼントすることにした。  
14.足高の制の実施(前述)。  
15.1728年、実質的に年貢率をアップ。過去数年間の収穫量の平均を基礎として、凶作でも豊作でも年貢率を変えないことにした。これを「定免法」という。これにより、凶作時における農民の暮らしが悪化した。ただし一方で、代官が不正に年貢を取り立てないようにした。実を言うと江戸時代の農民って、一般に考えられているほど、いわゆる「貧農」ではなかったと言われます。戦国時代よりも遙かに年貢率が低かったらしい。綱吉の時代に至っては税率30%だったらしいから・・・・。  
16.1734年、大岡忠相の計らいで「さつまいも御用掛」となった青木昆陽(37歳)が、小石川薬草園で「さつまいもの」試作に成功。生育が容易なさつまいも(甘藷)を普及させることで、飢饉の防止で役立てることになる。  
17.1746年、神田佐久間町に天文台を移転。敷地は2500坪(8250平方メートル)測量台は吉宗自らが設計し、観測器も吉宗が製作するなど、ある意味吉宗の趣味でもあった。が、もう一つは暦の改暦である。幕府は、暦の編成を国家事業として独占してきた。今回は、それまで使ってきた貞享暦(渋川春海が中国の授時暦をベースに作った独自の暦)が誤差が目立つようになったため、吉宗の意向で、中国語に訳された西洋の本を参考に改暦することになったのである。  
18.大名に1万石につき100石の米を幕府に上納するようにし、そのかわり、参勤で江戸に滞在する期間を半年に短縮した。  
19.米価の安定のため最低販売価格の設定。豊作時に米の価格が急落するを防ぎ、幕臣が給料としてもらった米を米屋に安く買われないようにした。が、公認の米屋は取引量を縮小。結局非公認の米屋でしか取引ができなくなる。  
20.秘密警察「御庭番」の設置。各大名家の情勢を知らせる。幕末の新撰組に至るまで、諜報は幕府の悪名高い行為の一つである。  
と、まあこんなものである。吉宗の改革はこんなにあったのだ。しかし、残念なことに吉宗は「米将軍」と呼ばれるように、あくまで米を中心とした社会に固執した。そのため、社会は商人が力を付け、貨幣経済に移行しようとしていた中での矛盾を克服することはできず、幕府の根本的な財政再建には至らなかった。  
また、農民にしてみれば、年貢率を大幅に引き上げられ生活は困窮。おまけに勘定奉行の神尾春央(かんおはるなか)は、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」と放言し、事実各地に点在する幕府の直轄領を巡視した際、隠し田を摘発し、年貢率も上げて回ったため猛反発を受け、朝廷や公卿に訴えるものが急増した(が、本人は死ぬまで在職)。  
また、極端な倹約政策は出費を抑えるという点では効果的だったが、市場にお金が出回らなくなり、さらに贅沢品の購入を禁止するなどして、民の活力は大きく落ち込んだ。(ただし、一方で3年に一度と制限されていた江戸の神田祭と山王祭1年ごとに開催できるようにしたり、桜の木を多く植えて、レジャースポットを作ってはいる)  
ま。そういうわけで吉宗の改革は「あくまで幕府を存続させること」であったため、一般の人々には受け入れがたいものがあったのも事実である。これに対し積極財政政策で対抗したのが尾張藩の徳川宗春。 
 
将軍家重の親政期

 

享保の改革が終わってから、田沼意次が台頭してくるまでの間の、比較的短い期間を何と呼ぶかについては、日本史では、決まった表現がないようです。というよりも、何もなかった期間として、事実上無視されているのではないかと思われます。現在の高校の日本史の教科書をいくつか調べてみたのですが、私の見た限りでは、いずれも、享保の改革の後にはいきなり田沼時代が始まるように書かれていました。  
しかし、もちろんこれは誤りです。田沼時代が何時から始まるかは厄介な問題で、それについては、次章で改めて詳しく論じます。とにかく、享保の改革が終わった時点では、まだまだ彼は若輩で、幕政を左右するほどの実力を持っていなかったことは確かです。したがって、享保の改革以降をいきなり田沼時代とするのはかなり無理な説明です。高校生向けの簡略化された歴史とはいえ、何故文部省が検定で指摘しないのか、と思います。その程度の歴史知識しかないのにしては、随分大胆な検定をやっているではありませんか。首を捻りたくなります。  
この無視された時代が、何もなかった時代なら、そのような扱いでも構わないのですが、財政という観点から見た場合、この時期に、二つの重大な制度が創設されます。予算制度それ自体と、組織体としての会計検査院制度です。財政制度を支える二大制度が創設された時期を、すなわちわが国財政制度が世界に先駆けて、はっきりと近代的な制度に脱皮した重要な時期を、何もなかった時期として通り過ぎることは、本稿ではもちろんできません。一つの章を設けて論ずる次第です。  
この時期が、従来無視されてきたのは、幕政を主導するこれぞという有力な政治家が、老中クラスに見あたらないためではないか、と思います。その場合、将軍が実際の政治を動かしていると説明するのが妥当なのですが、この時期の場合には、担当する将軍が、無能・暗愚と定評のある家重(いえしげ)であるものですから、この前提を覆さない限り、時代を一つの基調で説明することができなくなります。説明しにくいところは無視して通るのが、間違いがない、というわけで、教科書レベルでは無視しているのだと思われます。  
しかし、オッカムの剃刀ではありませんが、一番単純な説明が正しい、と考えるべきです。すなわち、私は、この期間の政治の実権は、将軍家重自身が担っていた、と認めることが、もっとも自然な理解だと考えています。これは、かなり常識破りの考え方なので、以下に詳しく理由を説明したいと思います。  
とにかく、その様に考えるものですから、この時期そのものを、家重の親政期と呼ぶこととしました。具体的には家重が将軍位に就いた1745年から引退する1760年までが、本章で対象とする期間です。 
1.将軍家重の人物像

 

幕府の年貢米徴収量は、1740年代から近世最高の水準に達します。特に1744年の年貢米徴収量は146万石を上回っています(このほかに、銀納分が12万3千両あまりあり、これも空前のレベルです)。吉宗が将軍になった1716年の年貢米徴収量は107万石に過ぎませんから、実に36%の増収です。これは吉宗が、神尾などを使って、徹底的な年貢増徴策をとった成果でした。  
しかし、こうした無理な年貢増徴策が幕府直轄領の農民の激しい反撥を呼びます。特に神尾直々の調査により、年貢が一気に倍増した畿内の農民は、「惣公無民」であるとして、各地の代官所、大阪、京都の町奉行所、さらに京都所司代などへ繰り返し嘆願を始めました。それでも埒があかないところから、翌1745年4月には、約2万人が大挙京都に上り、朝廷に、年貢減免の斡旋を願い出たのです。朝廷には何の実権もありませんから、それ自体は意味のないパーフォーマンスですが、為政者としての幕府の面目は、丸つぶれというところでしょう。  
この、江戸期を通じて例のない注目すべき訴願が行われた年の9月、吉宗は突然将軍位を退き、その長男家重がその後を襲って将軍位に就きます。  
吉宗は、体力的にはまだ限界ではありませんでした。が、彼の独裁は、老中クラスを飛び越して、庶民と直結するという形で実現していたのですから、このように、庶民の間での人気が落ちてくる、というのは非常に気になります。そのように庶民の怨嗟の対象となっている状態の下で、将軍であり続ける事に嫌気が差したことが、この時、将軍位を投げ出した理由ではないか、と考えます。享保の改革の途中にも、数年間にわたって中だるみ時期があったことで判るとおり、時々政治を放り出したくなる癖が、吉宗にはあるのです。  
しかも、この年貢米収入の大幅な伸びは、必ずしも幕府の歳入額の増加そのものをストレートにもたらすものではありませんでした。綱吉の改革でも紹介したとおり、販売量が増えれば価格は下落するのが市場経済の鉄則だからです。したがって、これにより逆に幕府財政構造そのものに、近い将来に大きな破綻が生ずることは、米将軍とあだ名されたほどに、商品取引に詳しい彼には十分に予見できていたはずです。  
一般に、日本史学者は、家光や家宣の突然の死が、次の世代の治世をぎくしゃくしたものにしたこと等も合わせ考えて、家重の治世に問題が生じた場合に、いつでも後見を果たせる段階での引退を考えたものと説明します。そうであるならば、大御所時代の家康や後の大御所時代を作った家斉のように、政治の実権を離そうとしなかったはずです。しかし、実際には、この時点以降の幕府の政策に吉宗の個性は余り認められません。私は、彼は本当に引退してしまったのだと考えています。覇気の喪失は、男の命を縮めます。引退のわずか5年後に彼が死去した、という事実そのものが、彼がこの時点で政治を続ける意欲を失っていたことの良い証拠だと考えるのです。  
吉宗の長男家重は、1711年生まれですから、将軍位に就いたこの時は既に35歳。十分に責任のとれる年齢になっていました。ただ、子供の時の疾病のため、といわれますが、言語が不明晰で、長きにわたって小姓をつとめた大岡忠光だけしかその言葉をよく理解できませんでした。このことなどから、一般に暗愚な性格といわれます。  
それに反して、その弟の田安宗武(むねたけ)は聡明の誉れ高かったので、当時、重臣達の一部は、家重を廃嫡しようと画策したという話があるくらいです。  
しかし、今日の日本史学者までが平然と、家重を暗愚と呼ぶのは理解できません。もし本当に暗愚なら、政治のことは老中に任せきりにして、酒色にでも耽っていそうなものです。ところが、家重が将軍であった時代の治世を見ていきますと、将軍にしかできない決断を下していた事が、様々な事実から認められるからです。  
言語や運動能力に障害があると、とかく知能そのものが低く見られる悲劇は、たとえば松本清張の出世作「ある小倉日記伝」などに描かれているところです。家重の場合も、言葉は不自由でも、頭脳は怜悧であったと考えるべきです。通説に大きく反することなので、その根拠となる事実を、以下にいくつか示したいと思います。  
(1)側用人政治と将軍の指導性  
家重は、政権を握ると、久しぶりに側用人制度を復活させ、お気に入りの大岡忠光をその地位に据えます。  
そして、この時代が、側用人政治であったことは、彼が自らの意思で政治を行う有能な将軍であったことを意味しています。これまで、側用人を活用した綱吉以降の各将軍を紹介してきましたが、そこから明らかなとおり、側用人重視の政治を行うには、強力な将軍の存在が不可欠だからです。確かに幼児将軍家継のような例外もありますが、この時は間部がいったん強力な将軍であった家宣の下で権勢を確立した後のことであり、その間部=白石コンビでさえも、幼児将軍時代にはかなり無能な老中達に押され気味になったことは既に述べました。  
しかも、家重の側用人制度は、吉宗時代を単純に承継したものではありません。いったん積極的に否定的評価がされたために、吉宗によって廃止されていたものを、家重が再興したのです。  
確かに、吉宗の下で、側用人政治が実質的には、実現していたことは、前章に紹介したとおりです。御側御用取次制度がそれです。しかし、吉宗は、譜代勢力に対する遠慮から、最後まで実際に側用人という名称を使うことはしませんでした。しかも、その御側御用取次の持つ権威は、吉宗政権の末期には、強力な老中に押されて、かなり失墜していた、といわれています。  
強力な将軍といわれた父吉宗にできなかった側用人制度の復活を、吉宗時代の有能な老中達をほぼそのまま継承しながら、その権威を押さえて、名実共に実現できたということは、家重の並々ならぬ実力を物語るものです。  
しかもこの時代、すでに吉宗は神格化されていましたから、その吉宗の確立した政治方針を変更することに対する抵抗は、非常に激しかったはずです。このこと自体、家重が、その父を上回る強力な将軍であったことを示しています。  
もちろん、側用人の大岡忠光が、柳沢や間部ほどに強烈な政治力を持っている人なら、あるいは、将軍よりも側用人自身の功績とする方が正しいかもしれません。しかし、大岡について、政治力の強い人物だったという話は全く伝わっていないのです。それでいて、なお側用人政治だったことからは、将軍そのものの個性が見えてくるはずです。  
ちなみに、家重の側用人として有名な大岡忠光について簡単に紹介しましょう。1709年に300石取りの旗本大岡忠利の子として生まれます。吉宗の寵臣、大岡越前守忠相とよく似た名であることに明らかなように、彼とはかなり近い親戚です。1724年16歳の時に家重付きの小姓になったのが、忠光にとっての幸運の始まりです。家重が将軍になるに伴い、1746年に御用御取次になります。その後、寵愛を一身に集めて、1751年秋には石高が1万石を越え、大名に列することになります。さらに1756年には側用人になるとともに、武州岩槻2万石の藩主となりますが、1760年に現職のまま死亡します。常に家重の側にいてその相手をしており、ほとんど政治面には口を挟まず、権勢をはることもなかったといわれます。もちろん、綱吉時代の柳沢吉保や後の田沼意次のように、側用人のまま老中格になって、政治そのものに参加した、などというような行動はありません。  
当時オランダ商館長をしていたチチングが、大岡忠光の人となりを次のように書いています。  
「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(注:吉宗時代の有力な御側御用取次である加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の意味する)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。  
大方は出雲のほかにかみはなし  
その意味は、要するに『出雲のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。『我々は皆、そのことをよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」  
引用しているものについて、チチングは歌と書いていますが、むしろ川柳のたぐいというべきでしょう。それはともかく、何とも出来の悪いこの句からでも、その名の知られぬ詠み人の哀悼の情だけは確かに伝わってきます。大岡忠光は、単に家重に阿諛追従することでこの地位に昇ったのではないことがよく判ります。  
なお、大岡忠相と大岡忠光とは、どちらも平の旗本から大名にまで出世したのですから、大岡一族のリーダーともいえる立場です。一方は新将軍家重の側近であり、他方は大御所吉宗の側近として、活動する時期も重なっているのですから、当然二人の間に何か交渉があっても良さそうに思うのですが、私の調べた限りでは、特に密接な交渉があったらしい形跡は見あたりません。これも、この二人が共に、血族関係で政治を左右すべきではない、という信条を貫いていたことの、間接的な証拠のように私は考えています。  
(2)吉宗の家重に対する評価  
家重という人は、その父、吉宗から、当時の将軍の親子関係が許す限りの最大の愛情を注がれた人です。吉宗は、天一坊事件などから、精力絶倫の人という印象が強く、多数の愛妾がいそうに思われます。しかし、実際には、家重が生まれた時点では、その生母お須磨の方一人がいただけでした。彼女が1713年、家重が3歳の時に死亡したので、家臣が代わりの側室を入れるように勧めると、家重を育てる必要があるので、お須磨の方と縁のあるものが好ましい、といいます。そういう女性がいることはいたのですが、「其かたちよからず、枕席に侍すべきさまにあらず」と吉宗の伝記に書かれるほどの醜女でした。しかし、吉宗はそれでよいとしたのです。これが田安宗武の生母です。  
この話でも判るように、吉宗は家重に非常な愛情を持っていました。将軍を辞するに当たって、人事の刷新を行っていますが、これは父親としての子に対する置き土産人事と考えられます。その内容は実に思いきったものでした。すなわち、吉宗が将軍であった時代に、その政治の中心にあって実力を発揮した松平乗邑(のりさと)が罷免され、さらに1万石を減封された上、西の丸下にあった屋敷を没収され、蟄居(ちっきょ)を命じられています。  
乗邑は、先に紹介したとおり、それまでの慣例を破って、奏者番、若年寄等の業務経験を全く持たない彼を、1722年に老中に就任させたという人物です。その後、1737年には勝手掛となり、勘定奉行に神尾春央を抜擢して、神尾とともに、享保の改革の後半の立て役者となっていた人です。この時期には、彼の威光の前に、御側御用取次の権力はすっかり衰退していた、といわれるほどに、権勢を振るいます。1736年に、吉宗の信頼の厚かった町奉行大岡忠相を、寺社奉行に栄転させるという形をとって、罷免したのも彼だといわれます。  
吉宗が、この乗邑を自分の辞職の道連れにしてやめさせたばかりでなく、厳しく処罰までしたものですから、世人は驚きました。当時、乗邑は、家重の弟の田安宗武擁立を目指して暗躍したので、詰め腹を切らされたのだ、という噂が流れたほどです。  
私の考えでは、このように高い能力と強い政治力を持つ人物を、そのまま在職させていたのでは、家重の主体性が失われる恐れがあると、父親として危惧したためです。換言すると、そのような重量級の老中さえいなければ、家重なら、十分主体性を発揮できると、親の目から見ても安心できるだけの、能力を持つ将軍であったことを示しています。  
一般には、吉宗も、家重について、世間でいわれていたとおり、暗愚であると考えており、ただ長男相続制という秩序を崩すことはできない、というだけの理由から目をつむって跡を継がせたのだ、と解する人が多いようです。しかし、そうであれば、親としては、むしろ将軍が何もしなくとも政治が無事に動いていくように、有能な家臣を残して補佐させようと考えるのがふつうだからです。例えば、家光は、11歳の家綱を残して死ぬ際、もっとも有能な松平信綱には殉死を許さず、家綱政権の中心として残しています。  
なお、朝廷嘆願事件のきっかけを作って、実質的に吉宗を隠居に追い込んだ勘定奉行神尾春央の方は、家重時代にもそのまま引き続き在職します。彼のような劇物さえ、家重なら使いこなせると考えたからに違いありません。実際、家重時代になってから、神尾は勘定所内における実質的な権限を大幅に削減されます。しかし、1753年に現職のまま死亡します。彼のような仕事の虫にとっては、荻原重秀よりは幸せな最後だったといえます。  
(3)新老中松平武元の能力  
家重の下で、1747年に松平武元(たけちか)が老中となります。1779年まで老中に在職し、現職のまま死亡します。あまり一般に名を知られていない人ですが、この人に対する日本史学者の評価は真っ二つに分かれます。  
擁護派は、この人はすぐれた財政家である、と主張します。すなわち、田沼意次の財政政策として知られているもののほとんどは、この人の功績であり、この人が1779年に死んで初めて田沼意次は好き勝手なことを始めるといいます。  
他方、否定する派の人にいわせると、この人のメインの仕事は、幕府及び将軍家の慶事及び弔事一切の取り仕切りであり、政治実務に拘わっている余裕などなかったはずだといいます。  
どちらもあまり明確な資料的根拠を示さずに議論しているため、門外漢としてはどちらとも決めがたいのですが、私自身は、後者の議論に分があると考えています。武元が老中在職時代の改革には、冒頭にあげた予算制度の創設や会計検査院の設置以外にも、以下に紹介するとおり、かなりドラスティックなものがあります。彼が優れた財政家ならば、それらを主導した人物として、もっとその名が世間に喧伝されて良いはずです。一般に彼の名が知られていないということは、こうした重要な改革で、何もしていない証拠と見る方が穏当です。  
彼が老中職にあった時期は、一貫して側用人政治の時代です。そうした時期の老中には、積極的に無能な人間が選ばれることは、白石の改革などを通じて詳しく説明したとおりです。また、でる杭は打たれる、というたとえの通り、有能であれば、あれほど長期に在職しているのですから、当然側用人や将軍自身との軋轢が起きなければおかしいというべきです。そうした話が伝わっていないことを考えれば、その長期の在職自体、慶事、弔事の取り仕切りというような無難な仕事に専従していた証拠ということができるでしょう。  
(4)郡上藩の百姓一揆  
家重の強い指導性が現れる、一つの事件を紹介しましょう。郡上藩の百姓一揆に関する裁判事件です。  
郡上藩は、長良川沿いの八幡町に城を構える小藩(時代により石高がかなり変動しますが、この当時は3万8800石)で、この時は金森頼錦(よりかね)が藩主でした。彼は、幕閣のエリートへの登竜門といわれる幕府の奏者番就任を狙っていた、といわれます。金森家はもともと綱吉によって天領にされた飛騨の領主でしたから、一説によると、この旧領への復帰を狙っていたともいわれます。  
どちらの説が正しくとも、その実現のためには各方面への贈賄等が必要で、その資金を獲得する必要がある、と頼錦は考えたようです。とにかく、はっきりしていることは、1751年から、郡上藩内における年貢徴収法を、それまでの定免法から有毛検見法に切り替えて年貢を増徴しようとしたことです。神尾春央がやったそれは、一気に幕府の年貢収入の倍増をもたらしたことは、前章で紹介したとおりです。当然のことながら、これに驚いた農民は抵抗し、多数集合の上、嘆願書を提出しましたので、一部家老は検見法の採用を中止しようとしました。  
しかし推進派の家老は、老中本多正珍(まさよし)及び若年寄本多忠央(ただなか)を介して美濃郡代青木次郎九郎を動かし、郡上藩内の庄屋36人を集めて有毛検見法実施を承伏させようとしました。いかに隣接するとはいえ、私領の年貢問題に幕府役人が介入したというのは前代未聞のことです。追いつめられた農民は、1754年には数千人が決起するという大騒動になり、さらに一揆の総代は老中酒井忠寄(ただより)に駕籠訴し、それとは別に目安箱にも投書するという挙に出ました。  
このため、幕府も評定所での裁判がさけられなくなりました。評定所というのは、これまでも何度か触れましたが、江戸幕府における最高裁判所で、裁判官は、老中、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行、大目付及び目付から構成されます。  
裁判の結果、金森頼錦は断絶となりました。さらに注目すべき点は、この裁判では、幕府の要職にある者が幕府の名をもって藩政へ私的介入を行ったことを理由として、幕府の役職者の中から、厳しい処分を受ける者が大量に出たことです。  
すなわち、老中本多正珍は役儀取り上げの上、逼塞(ひっそく)。若年寄本多忠央が遠州相良1万5千石の領地没収の上、作州津山松平越後守へ永預(ながあずけ)。大目付曲淵英元(まがぶちひでもと)が役儀取り上げ小普請入りの上、閉門。勘定奉行大橋親義(ちかよし)が知行取り上げの上、奥州中村相馬弾正弼へ永預。・・とここまでは、いずれも評定所の裁判官ばかりです。このほか、美濃郡代青木次郎九郎が役儀取り上げ小普請入りの上逼塞等、いずれも軽い場合でも政治生命がたたれるという厳しい処分が並びます。  
ここで刑罰の内容について簡単に説明すると、「預け」とは、その身柄を親戚などに預けることです。流罪より形式的には軽いのですが、他所に送られて行動の自由を奪われる点では一緒です。それに「永」がついていますから、終身刑ということです。「閉門」とは、門を閉ざして家に籠もり、謹慎させることです。自宅禁固といえばよいでしょう。「逼塞」は、門を閉ざして家に籠もる点では閉門と同じですが、日中の出入りが禁じられるだけで、夜間の外出は許されていましたから、この中では一番軽い処分です。小普請入りは、本来は配置転換であって、刑罰ではありませんが、綱吉以来、小普請組に入ると役料が入らなくなるばかりでなく、更に所得税が付加されることになっていますから、事実上財産刑を受けたのと同じような機能がありました。  
処分を受けた役職者の顔ぶれを見ると、幕閣の中では、財政再建を伝統的な年貢増徴策を通して行おうとする派が重点的に対象になっている、と言われます。つまり、幕閣内の派閥抗争が、この事件を契機として決着した、というわけです。したがって、これ以後、重商主義路線が政権の主導権を握ることになります。  
家重には、重度の言語障害がありますから、綱吉の越後騒動の時と違って、自ら評定の場に出席して親裁を行うという行為に出ることはできません。しかし、代理人を出席させています。すなわち、この裁判の時はじめて、田沼意次に評定所への出席を命ずることになるのです。これ以降、田沼意次は、次第に幕閣の実力者として君臨するようになります。  
常識的にいって、裁判所の判決で、その裁判官自身を大量に厳重処断するというのは異常というべきです。したがって、大量の裁判官処分を行ったこの判決では、明らかにその上級裁判所の介入、すなわち実質的に将軍の親裁があったと見るべきでしょう。そのことは、将軍が十分に老中以下を押さえている存在だということを証明していると理解すべきです。  
こうして、家重期においては、万事に家重自身が指導性を発揮していたと考えられます。  
 
最後に逆説的な事実を指摘しておきます。家重が暗愚とされて幕臣の間で評判が悪いということは、幕臣にとって困る人物である、という意味に他なりません。しかし、彼が本当に巷間いわれるように、口も効かずにおとなしく大奥で座っているだけの将軍ならば、これは譜代の家臣にとってはむしろ理想的な将軍というべきでしょう。その反対で、従来の慣行を無視して積極的に活動し、家臣を弾圧する結果につながることも厭わないために、暗愚という評判が立つのです。それは、大名や旗本を遠慮会釈なく弾圧して徳川家の財政基盤を確立した綱吉が、幕府の公史の中でさえ、あしざまに悪口が書かれているのと同じ理由です。  
松平乗邑が本当に田安宗武を擁立しようとしたのだとすれば、それは宗武の方が、乗邑にとり、より取り扱い易い人物だったからに他ならないと考えるべきです。吉宗が、股肱(ここう)の臣というべき乗邑をあれほど厳しく処罰したのも、そうであればよく理解できます。  
家重が、ある時公務中に、その言語障害のために、トイレに行きたいという意思を側近に徹底できず、小便を漏らした、という事件がありました。普通であれば、こうした殿中の機微が市中に漏れることはありません。しかし、この話はかなり早くから市民の知るところとなり、小便公方の綽名が付きます。このことは、殿中の大物が、家重と戦っていたため、積極的に秘密漏洩戦術に出ていたことの間接的な証拠といえます。 
2.家重の財政改革

 

家重の時代には、吉宗型の年貢米の増徴というオーソドックスな財政対策が、明確にその壁に突き当たっていることが表面化しました。当然、それに代わる新しい財政政策が導入されなければなりません。家重は、郡上一揆裁判を通して、新しい財政政策に切り替えるという基本姿勢を明確に示しましたが、それがどのようなものかはまだ見えていませんでした。そこで、家重は、新しい方向を求めて模索を繰り返すことになります。  
ここでは、財政面におけるいくつかの出来事を紹介しましょう。成功したものばかりでなく、失敗したものもありますが、いずれも家重の非凡な個性を示しています。  
(1)吉宗の年貢増徴策の破綻とその対策  
吉宗としては、たとえ幕府直轄領で一揆が頻発するという副産物を生みだしたにせよ、年貢徴収高を史上最高にした、ということで引退の花道を飾ったつもりでいたことでしょう。  
しかし、この膨れ上がった年貢徴収量そのものが、かえって家重時代に、幕府財政を空前の窮地に追い込むことになったのは皮肉という外はありません。  
この時代の幕府は、すでに完全に貨幣経済に立脚して運営されていましたから、年貢米は、それ自体としては価値がありません。これを大阪に送って、堂島の米市場で売却して現銀に換えて初めて、様々な諸施策に使用することができるようになります。したがって、史上最高の量の年貢米を、幕府は当然に毎年大阪に送り込みます。  
同時期に、同じように財政難に苦しんでいた諸藩が、やはり吉宗を見習って年貢増徴策を採用し、これまた幕府と同様に、現銀収入を得るために大阪に米を集中させました。  
越年米(えつねんまい)という言葉があります。市場に流入しながら、売買されずに年を越してしまった米です。今日の言葉でいえば、市場に需要がないために発生した滞貨の量を示していると考えて良いでしょう。したがって、これが大きくなれば当然に米価の停滞ないし低落が考えられますから、その量を追うことで市場動向をある程度把握することができるわけです。  
この時期、かってないほど大量の米が集中的に大阪に送り込まれた結果、大阪堂島米市場の越年米高は1752年には189万俵とそれまでの最高水準に達しました。しかし、その翌1753年には、この記録をあっさり更新して、なんと248万俵にまで達してしまったのです。  
吉宗は、市場を創設して、その価格の操作により米価をコントロールできると考えていたわけです。が、市場は生き物で、その創造主の言うことを、いつまでもおとなしく聞いてはいませんでした。市場経済の下においては、需要が増加しないままに供給が増加すれば、商品の価格は低下するのが必然です。  
このように膨大な量の米が大阪に集中した結果、幕府の買い支えは全く功を奏せず、米の価格はそれ以前の半値近くにまで暴落します。量が3割増えても、価格が半減すれば、幕府収入が激減するのは当然のことでしょう。そこに買い支えのための費用が上積みになります。そのため、家重政権には、吉宗の思惑とは逆に、逆に深刻な財政危機がもたらされた訳です。  
米という、市場に流通する商品の中のただ一つにだけ、幕府財政が依存しているというのは、市場経済の下においてはかなり異常な体制といえます。この封建制そのものの持つ限界が、商品経済の発達と享保の改革による年貢米の増収により、露呈するようになった、ということができます。  
この深刻な事態に対して、家重は様々な対策を導入しています。いずれも、家重という人の発想が、当時の日本人としては、時代を先取りした透明性をもっていたことをよく示すものです。  
A 予算制度の導入  
家重の採用した第一の対策は、予算制度の導入です。吉宗の亡くなる前年である1750年から実施されているので、この改革が、大御所吉宗の影響はほとんどなく、家重自身の主導性の現れと評価できるのはまず確実です。  
これにより、享保の改革期のような、単なる一般的な倹約から、きちんと目標を設定しての倹約策に切り替えられたわけで、その財政上の意義はきわめて大きなものがあります。歳入をきちんと積算し、それに基づいて、各部局に予算高を割り当て、歳出をその範囲内に押さえさせようという内容のもので、非常に近代的な予算制度でした。  
いや、近代を飛び越して、現代的な予算制度という方が正しいかもしれません。なぜなら、その後に誕生した欧米の近代予算制度は、夜警国家理念に基づいた歳出中心の、すなわち歳出に必要な歳入額は増税等で当然に賄うことができるということを前提とした予算制度であったからです。  
我々日本人にとっては、限られた歳入でどのように歳出を賄うか、という発想は自然のもので、明治初期の予算から、既にはっきりとそのような目的で予算は編成されています。しかし、欧米の場合には、こうした発想は、主として第2次大戦後の現代予算制度まで待たなければ、表れてこないからです。  
我々財政に志す者としては、この予算制度の導入という一事だけからでも、家重の名を忘れることがあってはならないでしょう。  
なお、比較のために世界の予算の歴史を簡単にみるならば、イギリスにおいて1664年に、特定の収入をオランダとの戦争目的にのみ使用するように議会が決議しているのが、予算制度の濫觴とされていますから、家重の予算制度の導入は、それよりは若干遅い時期です。しかし、フランスやドイツには、まだ予算らしきものはまったく無く、米国に至っては国も生まれていませんでした。また、イギリスの場合にも、ここで予算と呼ばれているものは、特別の租税収入だけを対象にしたもので、幕府のそれのように、毎年行ったものでもなく、また、毎年のすべての歳入、歳出を統制したものではありませんでした。  
家重の創設した予算は、毎年度、年度別に歳入、歳出を定め、政府活動の全面にわたって予算統制を行ったものですから、整備された年度単位の予算制度としては、おそらく世界で最初といえるでしょう。イギリスの場合には、こうした年度単位のきちんとした予算制度は19世紀の末になってようやく完成します。  
実をいいますと、本稿の冒頭に述べたように、勘定所資料が明治政府に引き継がれなかったという理由から、この予算制度については詳しいことが判っていません。今日伝わっているのは、すべて、何らかの要職にあった人が個人的に残した記録だけであるため、すべての年度が判るわけでもなく、すべての項目が判っているわけでもありません。  
私の手元にあるもっとも悉皆的(しっかいてき)な資料は、村井益男が近年ハーバード大学の日本史関係資料の中から発見した、石河政平(1843年から55年まで勘定奉行を勤めた)の手元資料中にあった勘定所の、1844年分にかかる金銀受払勘定帳です。  
これをみますと、予算の全体は大きく定式収支(今日の言葉では経常収支にほぼ相当すると考えられています)と別口収支(毎年度発生しない臨時の収支をとりまとめたものと考えられています)に分かれます。  
内容を細かくみますと、定式収支の歳出の一部が別口収支の歳入にあがっている場合もあります。これは、相互に資金の流れのある別個独立の会計であることを示しています。わが国特別会計制度は、類似のものが欧米諸国に全く見られず、その由来に謎がありますが、あるいは特別会計の萌芽が、この二本立ての勘定方式に認められるのではないかと考えています。  
B 勘定吟味役制度の充実  
家重の施策として重要なのは、その監督機関たる勘定吟味役についての機構を大幅に整備した点にあります。  
まず1758年に、勘定吟味役に直属の部下を置きます。部下は、勘定が5名、支配勘定が5名の計10名です。翌1759年にはさらに勘定1名、支配勘定2名の3名を追加して、13名としています。こうして、ようやく勘定吟味役は、検査活動に当たっての手足を得たのです。  
それまでも、勘定吟味役は、独任制の機関であるとはいえ、完全に単独で活動していたわけではありません。勘定所の次席としての地位において、検査業務の遂行に当たり、適宜、勘定所職員を使用することは当然できたはずです。しかし、検査対象になる業務を行っている職員が、検査業務を行うのでは、その検査の透明度に、疑問があるのは明らかです。今日の会計検査の用語でいいますと、検査担当者のクリーンハンド性を確保することが、そのようなやり方ではできないわけです。  
家重の改正は、単に、勘定吟味役にその直属の部下が与えられた、というに止まらず、吟味役が、その部下に関して、勘定奉行からは独立した人事権を得た、ということを意味します。すなわち、これらの職員は、建前的には勘定所に属しますから、その人事異動は、勘定奉行の権限です。しかし、その際に、勘定吟味役の同意が必須の要件とされたのです。  
こうして、検査官+専属の部下が存在するようになったのですから、この時をもって組織体としての会計検査院の創設と見るべきでしょう。その意味では、今日のわが国会計検査院につながる制度の創設は、綱吉ではなく、家重の功績と考えるべきです。  
諸外国における会計検査院の創設は、いずれも独裁者と緊密に結びついています。欧州主要国の会計検査院の創設を、その古い順からあげれば、プロイセン会計検査院の創設者がフリードリヒ一世であり(1714年)、オーストリア会計検査院のそれがオーストリア中興の女帝マリア・テレジアであり(1761年)、フランス会計検査院のそれがナポレオン一世です(1807年)。国の会計が、自分の利害と緊密に結びつくという感覚を持つのは、独裁者の特徴だからでしょう。現在では、国民主権国家における独裁者である国民が、会計検査院を必置の機関としていくことになります。こうした世界的な傾向を通して、この会計検査機関の充実を評価すれば、家重がかなり独裁傾向の強い将軍だったことの、今ひとつの証拠となります。  
綱吉が会計検査院制度の創設者と考えた場合には、わが国の創設は、これら諸外国の会計検査院のどこよりもずば抜けて古いことは明らかです。しかし、家重まで遅らせて考えても、プロイセンに次いで古い会計検査院の歴史をわが国は持っていることになります。こうした会計検査院制度の持つ歴史の厚みが、明治以降において、非常に早い時期から、会計検査院の活発な活動を見る原動力となります。  
なお、家重は、勘定所の充実も、注目すべき形で行っています。1755年に、支配勘定見習いという職制を新たに導入しているのです。今日の会計検査院の役職名でいえば、調査官補というところでしょうか。十人扶持が支給されたといいます。財政という特殊な知識、技能を要求される業務においては、新人の研修が重要だ、ということを、家重は承知していたのです。  
C 酒造りの解禁・奨励  
吉宗は、米の先物取引所での架空の需要で市場操作することにより、米の価格を高水準に維持できると考えていましたが、それは圧倒的な年貢米徴収量の前に破綻しました。  
その結果、家重は、実際の需要をより多く作り出す必要を痛感しました。そこで、米をより多く消費させるという政策の一環として、1754年に幕府が出したのが、酒造勝手造り令です。  
それまでは、幕府は、酒は主食の米を無駄に消費するものと見て、その生産に対しては長いこと厳しい規制をしてきました。しかし、ここで政策を180度転換させて、酒の製造を奨励し、それによる米需要を創出しようとしたのです。  
このような大きな政策転換が、弱体な老中達の決断によって実現するはずはありません。しかも、吉宗の死後3年目であることを考えれば、大御所による政治と考えることは絶対に不可能です。したがって、これも家重の指導性の現れと理解するのが、唯一妥当な解釈になるはずです。  
この禁令解除を受けて、全国各地で酒造りが始まります。特に大きく発展したのが灘地方の酒造であり、今日に至る地場産業の基礎が築かれることになります。  
なお、酒税は、荻原重秀が創設したことは先に触れましたが、吉宗がはっきりしない理由から廃止し、この時にはまだ廃止のままです。しかし、その後しばらくすると、幕府の大切な租税収入源となってきます。その時以降においては、米の価格の上昇と合わせて二重の財政効果を発揮するという優れた施策といえます。  
もっとも、この対策は、予算制度や会計検査院制度と同じことで、現に発生している財政赤字を短期的に解決する上では、ほとんど効果を発揮するものではありません。長期的展望には非常に強いが、短期的展望に弱い、という点が、家重という人物の特徴のようです。彼は重度の言語障害のため、人とあまり話をすることができません。そこで一人で沈思黙考するという習慣から、このような傾向が生まれたのだと思います。  
短期的な対策はあまりなかったのですが、米の価格問題そのものは、一つの不幸により解決されました。1755年に東北地方から関東、北陸にかけて凶作となったからです。秋田藩で3万2千人、南部藩で2万人も死んだという大飢饉になったといいます。しかし、これが家重には幸運をもたらしました。その影響で、家重施政期の後半には、米価は平年程度に戻り、幕府としても愁眉を開くことになります。  
(2)藩札としての金兌換券の発行禁止  
先に説明したとおり、藩が紙幣を発行するのは、江戸初期に禁止されていました。が、1730年に吉宗が、従来の慣行を追認するという形で認めたのをきっかけに、慣行のない藩でも願い出れば認めるようになっていました。  
この場合、紙幣は兌換券ですから、当時の日本のように、金貨、銀貨及び銅貨の三重本位制を採用している国では、金兌換券、銀兌換券、銭兌換券の三種類がありえます。実際あったようです。  
家重政権では、1755年に、ある大名から、金兌換券、銀兌換券の2種類の発行許可申請があったのを機会に、諸大名に対して、以後、金兌換券及び銭兌換券を発行することを禁じました。ただし、以前に幕府の許可を受けて金兌換券等を発行していた藩は、その許可期限内に限り、そのまま通用させて良いとします。その場合でも、許可期間が満了した後は、延長は認めないとしました。  
1759年には、前回の布令を再確認するとともに、従来慣行のあった地方及び1730年以降に新規に許可を得て銀兌換券の発行を行ったものについては、今後も許可するが、これまで発行していなかった藩に、新規に認めることはしないという法令を出しました。兌換券発行例がどんどん増えていったら、将来何らかの支障が生ずるかもしれない、というのが、そこに示されている理由です。  
この場合も、吉宗が全面許可したことを原則禁止に切り替えたのですから、重要な政策の転換です。しかも、吉宗は、この時期にはすでに事実上神格化されていましたから、その決定事項を覆す、などということは、一介の老中に決定できる事ではなかったはずです。家重の指導性発揮の一場面と見るべきでしょう。  
おそらく、このような形でなし崩しに藩札の発行を認める場合には、幕府の貨幣高権が揺らぐことを恐れたことが、この禁令の意味でしょう。特に、通貨の中でも、金貨を中心に動く幕府としては、金兌換券の乱発により、金本位制度まで揺らいではたまりません。また、庶民の通貨である銅貨が影響を受けるのも、民政安定という観点からは非常に困ることです。その点、銀貨の方は、銀兌換券の乱発により、銀本位制が崩壊しても、幕府に対する影響はもっとも少ないので、これだけを例外的に許容するという姿勢を示したものと思われます。以後、藩札といえば銀札という常識が、幕末まで続きます。  
(3)薩摩藩による木曽三川分流工事  
公共土木工事については、大名手伝い普請といって、特定の大名に工事の実施を命ずるというやり方があったが、享保の改革中は停止されていたが、幕府の権威が回復した元文改革の時期になって復活したことは、前章に紹介しました。また、綱吉時代においても、吉宗時代においても、手伝いは、常に複数、それもその工事規模に応じて3〜10家程度の大名に協同で実施するように命じていたことも、前章までに紹介したとおりです。  
このやり方が、家重の時代には、大きく変化します。1747年に2件の手伝い普請が実施されています。すなわち、美濃・伊勢両国の川普請が陸奥国二本松藩丹羽家に、甲斐国の川普請が因幡国鳥取藩池田家に、それぞれ命じられています。いずれも単独です。また、この場合には、いずれも町人請負が認められています。このことは、正徳の治以後における大名手伝い普請に関する前例をことごとく破った新機軸です。  
さらに大きな例外を作り出したのが、1753年に薩摩藩島津家に命じられた川普請です。これは、木曽川、長良川、揖斐川の、いわゆる木曽三川の合流点での水害復旧工事と、三川の分流工事です。これほどの大工事が、薩摩藩一藩に命じられたのはもちろん全く前例がありません。同藩では、これを原則的に直営で、例外的に難所だけは町人請負で実施するという方法で行いました。  
この工事については、様々な小説や戯曲に取りあげられていますから、ご存じの方も多いと思いますが、有名な難工事となりました。当初の工事費見積もり総額は、14〜5万両ということでした。が、実際に始めてみるとはるかに工事費がかかり、最終的には40万両にも達することとなりました。  
工事を実施したところが崩壊して度々手戻りが起きるものですから、工事費が嵩むように、と幕府が工事の妨害工作をやったとまで、言われている程です。しかし、これはちょっと信じられません。工事費が嵩むことは薩摩藩にとって痛手ですが、手伝い普請は、工事材料は幕府支給が建前ですから、妨害工作をすればその分だけ、幕府の財政を圧迫することにもなるからです。  
おそらく、薩摩藩が工事費を節減するために工事には素人の武士達による直営工事分を増加させたことが、かえって傷を広げることになったのだろう、と私は想像しています。もっとも、本当に妨害工作が行われていたとすれば、それはそれで、将軍家重の下における幕府の権威を象徴する、といえるでしょう。が、そのような客観的必要性はなかった時代だと思います。  
薩摩藩では、この資金を上方商人からの借り入れで賄いましたが、これはその後長く同藩の財政を苦しめることとなり、1827年の調所広郷(ずしょひろさと)による財政改革の断行まで回復することはありませんでした。また、工事の間に出た、薩摩藩士の犠牲も80名を数えます。そこで、工事責任者の平田靭負(ゆきえ)は、工事完成後に、お家に迷惑をかけた責任をとって自刃する、という惨憺たる結果となります。  
この工事は、当初見積もりのまま完成したとしても、非常に大きな財政上の犠牲を、薩摩藩に強いるものでした。幕府創設の当初は、江戸城の建設を初めとして多くの御手伝い普請がありましたが、このような大規模工事に対する御手伝い普請を単独の大名に命じた例は、以上に見てきたとおり、これまで幕府に前例のなかったことです。  
なお、薩摩藩の次の手伝い普請は1766年の、やはり美濃、伊勢、尾張、甲斐等の国々の河川改修工事ですが、この時からは、工事の実施主体は幕府勘定所で、大名は御金御手伝い、すなわち請求書の回ってきた工事費を負担するだけ、というやり方に変わります。工事の検収には勘定吟味役が直接派遣されているなど、完全に幕府主体の工事となっています。この時以降、幕末まで、川普請は御金手伝い普請と変わっていきます。このことについては、詳しくは次章で説明します。  
薩摩藩の実施した木曽三川工事が、江戸時代全体を通じて、いかに異例のものかが判っていただけると思います。江戸時代のように慣習がものをいう社会で、このように前例のない、これほどの負担を、仮に老中が命じようとしたのであれば、よほどの実力者でない限り、失脚の恐れがあります。また、実力者の場合でも、薩摩藩は、賄賂攻勢で回避することも十分に可能だったはずです。事実、多くの老中が、この前でも後でも、有力諸侯との軋轢が原因で失脚しているのです。  
その意味で、これほどの雄藩にこうした前例のない大工事を強いることが可能であったのは、この時の幕府が、賄賂も効かず、失脚することもないリーダー、すなわち将軍のイニシアティブの下に動いていたことの、今一つの証左となります。  
(4)国役普請の再開  
国役普請は、吉宗が治水事業と幕府財政難対策の必要性から考え出した方法でした。そこで、享保の改革が終わるとともに必要性が失われて、廃止されたことは先に紹介しました。  
家重は、1758年12月に、これを再開します。享保期と同様に、その流域の大名領や旗本領までが、国役金賦課の対象となりました。ただし、どの程度の実績があったのかはよく判りません。  
これは、当時の幕府財政が、吉宗が上げ米の制を取り入れた時同様に厳しい状況にあったことを示しているものと考えます。家重が上げ米の制を導入していないのは、今回の財政危機は、米のだぶつきが原因となっているからに他なりません。  
 
家重は、本章の冒頭に述べたように、暗愚とされ、彼の治世の業績は、前半は吉宗の大御所政治の功績とされ、後半は、田沼の功績とされて、正当に評価されていません。しかし、以上に述べたとおり、吉宗引退の後の政治のトーンは明確に吉宗時代とは変わっています。死の直前にあった人物が、これほどの柔軟な発想の転換ができたと考えるのは無理というものです。  
また、家重時代は、まだまだ田沼意次は小物で、幕政を左右するほどの実力を持っていたと考えるのは無理でしょう。したがって、ここに紹介してきた様々な施策は、すべて家重のリーダーシップによるものと認めるのが、一番素直な見方だと考えるのです。  
 
田沼意次の財政改革

 

この章で取り上げるのは、ほぼ家治が将軍だった時代です。すなわち、家治は1760年に将軍位に就き、1786年に死亡します。しかし、その2年後の1788年から寛政の改革が始まりますので、この章では、少し家斉将軍時代に入りますが、この1788年までを対象として検討していきたい、と思います。  
この時までに、わが国の市場経済化の趨勢はきわめてはっきりしたものとなってきており、もはやそれを無視して、幕府の財政改革は不可能な状況になってきています。しかし、家重政権では、それに対して基本的な問題意識は見られ、積極的な制度整備は行われたものの、前章に紹介したとおり、その治世の短さもあって、具体的な政策にまでは至りませんでした。  
こうした市場経済の状況を前提に、家重の用意した基盤の上に立って、年貢米の増徴策を排した積極的な財政改革を行おうとした最初の人として現れる田沼意次が、この章の主役です。 
1.田沼意次の略歴

 

田沼意次が世に出ることができたのは、吉宗のおかげです。  
意次の父、意行(おきゆき)は、もともとは紀州家の足軽でした。足軽というのは、一応武士ということにはなっていますが、これより下はないという低い身分です。赤穂浪士の事件があったのは1702年のことですから、意行と同時代といえますが、彼らは最終的に幕府の重大罪人ということになって全員死罪が申し渡され、また、その子達も男子であれば15歳以上のものは全員遠島、15歳未満の者は15歳になるのを待って遠島という厳しい処分を受けました。ところが浪士中ただ一人の足軽であった寺坂吉右衛門は、実際に討ち入りをしたにも拘わらず、別に処罰されることもなく済んだのです。つまり、幕閣の目からは武士に含めて考えられていなかったからです。この当時における足軽とは、その程度の、本当に低い身分と考えればよいでしょう。  
意行の能力や人となりについては詳しいことは判りません。しかし、おそらく足軽の中にあっても、見る人が見ればそれと判るほどの有能な人物であったのでしょう。徳川吉宗が越前丹生3万石の藩主であった時代に、彼に見いだされてその小姓となりました。足軽としては信じられないほどの大抜擢といえるでしょう。  
あるいは、彼はその時点で浪人で、その才能を見込んだ吉宗が、その当時の彼の持つ限られた権限内でできる唯一の手段として、足軽ということで採用した上で、とり立てていったのかもしれません。何故そういう想像も成り立つかというと、吉宗が紀州宗家の主人となる以前の時点での、紀州家の家臣の名簿には、彼の名がないからです。  
ただ、吉宗の小姓になれただけでは、さほど将来性のある話ではありませんでした。何といっても、吉宗はその時点では紀州家の第三子であるに過ぎません。上に2人も兄がいては、紀州家当主になることさえ、とても望めない地位だったからです。ところが、第4章で詳しく紹介したとおり、この一代の幸運児は、一気に将軍となって江戸城に入りました。それに伴い、意行も幕臣となり、そのまま小姓として吉宗に仕え、昇進して小納戸頭取にまでなり、禄高600石といいますから、堂々たる旗本にまで出世したことになります。  
意次は、その意行の嫡男として、1720年に、奇しくも、後に彼のライバルとなる松平定信と同じく、田安屋敷で生まれました。1734年、16歳の時に、吉宗の命で将軍世子家重の小姓となりました。父親が上述の通り、文字通り吉宗の子飼いの側近であったことから考えれば、順当な人事ということができます。ちなみに彼の弟である意誠(おきのぶ)は、家重の弟宗尹(むねただ)に仕えています。これも同様に、吉宗の意向による人事といえるでしょう。彼も兄同様に有能だったらしく、後、宗尹が一橋家を創設するとともに、その家臣となり、用人から最終的には家老となって、兄の改革を間接的に支援します。  
意次は1747年に小姓組番頭格で御側御用取次見習いに昇格し、さらに翌1748年に小姓組番頭となります。なお、翌1749年に、後年彼を大いに補佐した嫡男、意知(おきとも)が生まれます。  
吉宗の亡くなった1751年秋に、意次は家重の御側御用取次となります。吉宗時代は、これが側衆としての最高の地位でしたから、それまでの常識でいえば、出世の一つの頂点に達したといえます。ただ、この時点では彼はあまり注目を引かなかったようです。  
それは大岡忠光の存在のためです。彼より11歳年長の大岡忠光は、彼より早くに御側御用取次になっており、その1751年秋には1万石の大名にとり立てられて、御側御用取次中の筆頭としての地位を確立していました。しかも、1756年には、吉宗が名称としては廃止していた「側用人」という身分を、家重はわざわざ復活させた上で、大岡をこれに当てています。ちなみに、側用人は、身分的には老中に準ずる格(大岡忠光は実際に若年寄とされています)ですから、御側御用取次より一格上ということになります。  
家重は、側用人大岡忠光は、話し相手として、常に側から離しませんでした。それとは反対に、意次については、その政治的能力を非常に高く買っていたようです。そこで、むしろ積極的に外に送り出そうとします。それがはっきりした形で表面に現れたのが、1758年に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆に関する裁判です。  
この裁判そのものの詳細は、既に前章で紹介しましたからここでは繰り返しません。しかし、この裁判が、意次の人生に大きな転換をもたらします。家重は、この裁判に意次を積極的に関与させるために、加増してあわせて1万石を越す大名にするとともに、御側御用取次の一人にすぎない意次に対して、評定所の式日に列座することを命じたからです。これ以降、意次は幕政に関与するようになってきます。  
この裁判の結果に意次がどの程度の影響を与えたのかは資料がなく、はっきりとは判りません。しかし、彼の意見を参考にするつもりがなければ、家重はそもそも彼をわざわざ加増した上で、評定所に送り込むというような面倒な措置を執るはずがありません。老中や若年寄まで処断する厳しい判決を家重が下した背景には、意次の的確な進言があったと見るのが妥当でしょう。  
この裁判の結果、意次はにわかに、今後の幕政の鍵を握る人物として注目を集めるようになります。たとえば、佐渡奉行石谷清昌(いしがやきよまさ)は佐渡奉行所の改革案を上申したとき、老中と同時に、権限的には全く関係のない意次にも同じ書類を提出しています。旧来の意次観を墨守する日本史の学者は、これを単に意次に迎合してのことと見ているようです。しかし、佐渡奉行所という財政に縁の深い官署の改革案であることを考えますと、この時点で既に意次が、財政に造詣が深いこと、そして積極的に改革を推進する、進取の気象を持つ人物であることが知られてきたために、改革への側面援助を期待しての行動と見る方が素直でしょう。なお、この石谷は、翌1759年に勘定奉行に栄転し、1762年から1770年までは長崎奉行も兼任して、その時期における財政政策の中心人物として活躍することになります。  
先に述べたとおり、1760年に大岡忠光が死亡すると、親友を失った家重は気落ちして隠居します。かわってその息子である24歳の家治が将軍位につきます。しかし、意次は、この家治にも信頼されていたため、引き続き新将軍の御側御用取次をつとめることとなります。  
むしろ、ここからが、意次の本格的な出世となります。1765年に遠州相良、すなわち先に本多忠央が没収された領地を中心に、2万石の大名となります。このころになると、意次の政治的権力は非常に大きなものに成長しています。1767年ごろのことと思われますが、意次の無礼を咎めた老中秋元涼朝(すけとも)は、その直後、彼の報復を恐れる家臣たちの要望で、老中を辞任したという逸話があります。  
その1767年に、彼は家治の側用人の地位につきます。同年に5000石が加封されます。さらに1769年に老中格とされます。地位的には、この時点でこれまでの側用人の出世頭である柳沢吉保と並んだことになります。そして1772年、意次54歳の時にとうとう老中となります。側用人で、正式の老中になったのは、意次が最初です。しかも特に「昵近(じっきん)もとの如し」と命ぜられて側用人の職も、そのまま行うこととなりました。同年には、三河に5000石を加増され、1777年には遠州及び駿河に合わせて7000石を加増され、さらに1781年に和泉に1万石を加増され、1785年に遠州、三河、河内の三国に合わせて1万石を加増されます。この一連の加増の結果、最終的に合計5万7000石の大名となります。  
要するに、江戸封建体制の下で、親子二代をかけ、将軍三代にまたがってのことではありますが、足軽という最下級の軽輩から、幕臣として望みうる最高位までかけ上ったことになります。幕末の混乱期はともかく、これ以前には全くなかったシンデレラボーイということができます。  
ただ、彼の出世なるものは、今日の感覚から見れば、そう異常なものとはいえません。彼の履歴を今日流にいうならば、若い頃に国家機関に事務官として奉職し、何人もの総理大臣に仕えつつ、秘書官、官房長と順調に昇進して、晩年に、政界に転じて、最終的に閣僚の一人になった程度のものだからです(首相に当たる老中首座には、最後までなっていません)。俸給も、その地位に見合う程度のもので、柳沢吉保のように異例の高禄というわけではないのです。  
ただ、当時の門閥体制を前提にした場合に限っての異数の出世であるにすぎません。だから、その人物も、政治力も、その長期間にわたる官僚としての活動の中で練り上げられ、優れたものとなっていたと思われます。 
2.田沼意次と賄賂

 

意次というと、賄賂政治という言葉が反射的に出てきます。たとえば明治期において既に、徳富蘇峰は、その著「近世日本国民史」で意次に論及して次のように述べています。  
「田沼は実に虎の威を藉る狐であり、〈中略〉賄賂は彼の政治の生命であり〈中略〉むしろ世の濁流に泳ぐ怪魚だった。」  
しかし、本当にそのように賄賂をむさぼる人物であったかについては、相当疑問があります。そもそも、意次が賄賂をむさぼったという資料は、落首や流言飛語のたぐい、及びそれ同様に信頼性の低い文書をのぞくと、たとえば意次の政敵である松平定信自身の書いた「宇下人言(うげのひとごと)」や、肥前平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)の書いた「甲子夜話(かつしやわ)」程度しか、伝わっていないのです。静山は、定信の腹心ともいうべき松平信明の姉の夫で、自らの幕閣に加わりたくてかなり運動した人物ですから、明らかに定信派です(しかし、政治家としては無能であったらしく、寺社奉行にさえして貰っていません)。本章の最後に詳述しますが、田沼派と定信派は、その政権交代に当たって長期にわたって死闘を展開しました。いつでもそうですが、その様な死闘があった場合、勝者の側の話しか伝わらないのは、歴史の常です。  
しかも、その政敵達の文章でさえも、記述は一般論を述べているのであって、自分の見聞した具体的な事例はほとんどあげられていません*。定信派は、重商主義を推進する出自の卑しい人物のやることだ、という主張の下に情報戦を展開していたと思われますから、賄賂をむさぼったという話も、その一環として、意識的に流されたと考えるのが妥当でしょう。というのも、享保の改革の項で紹介したとおり、吉宗の創設したお庭番という秘密情報組織は、噂が流布しているかどうか、に力点を置いた情報収集を行うので、相手に不利な情報を大量に流すことは、失脚させる非常に有力な手段だったからです。  
仮に、世にいわれるほどの賄賂を受けているのであれば、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがありそうですが、そのようなものは意次にはありません。また、使わずにため込んでいたのであれば、その後、失脚した際に、巨万の財産が没収されたというような話が出なければおかしいですが、それもありません。  
また、それほど膨大な賄賂は、当然送り手の側にとってもかなりの負担となります。この頃になれば、どこの大名でもきちんとした財政に関する帳簿を付けるようになっています。そういう帳簿はもちろん外部に公表する性質のものではありませんから、莫大な賄賂を送ったりしていれば、当然、そうした財政帳簿の中に、その事実が記載されていなければおかしいのです。そうでなければ、その藩の会計責任者が横領したと思われてしまうからです。ところが、そうした記録は皆無です。  
それどころか、逆の内容の記録は見つかっています。仙台の伊達家文書には、こんな話があります。当時の藩主伊達重村は、自家と同格と信じている薩摩の島津家の当主が既に中将に昇進していたのに、自分が少将であることから、昇格運動に乗り出します。伊達家では、その実現手段として賄賂戦術を考え、その目標として、老中筆頭であり、かつ勝手掛であった松平武元、大奥取締の老女高岳および側用人田沼意次の3人を選び、面会を申し込みます。そうすると、松平武元は、目立たないように供の数も減らしてくるように、と指示して会った上で、その挨拶にはなはだ満足した、ということになっています。老女高岳に至っては、伊達家から家を一軒建てて貰っています。これに対して、田沼意次は「ご丁寧のこと、わざわざ御出にもおよばず」と面会することさえも断っているというのです。  
そもそも、そのように賄賂をむさぼるような人物を、なぜ将軍が信頼したか、という問題があります。将軍に賄賂が効くわけはありません。だから、情実に訴えるのであれば、阿諛追従の方法しかないと思われますが、そのような形跡もありません。ふつう、阿諛追従によって出世した寵臣は、次代の受け入れるところとはなりません。柳沢吉保しかり、間部詮房またしかりです。しかし、意次の場合には、これまでに紹介してきたように、三代の将軍によって低い身分から段々と取り立てられているのです。しかもその3人はただの人ではありません。英明な君主として知られる吉宗が最初に彼を起用します。家重は、寵臣の大岡忠光を側に引きつける一方で、彼を積極的に政治面に投入します。最後に、本当に彼を重く用いたのは、24歳という希望に満ちあふれた時期に将軍に就任した家治です。このような若者に対して、前代の遺物である老人*のする阿諛追従が役に立つとは思われません。  
少なくとも予算面で見ますと、意次の行為は、将軍に阿諛追従するどころか、その逆で、積極的に苦しめているのです。田沼時代には、大幅な財政改革が実施されますが、その一環として、当然支出の抑制も厳しく行われます。が、それは吉宗や後の松平定信のような、一律に倹約一本槍というのではなく、部署ごとに節減の程度に差異を設けるというやり方です。江戸町奉行所や伏見町奉行所のような民政を担当する機関の予算は、ゼロシーリングとなっています。これとは反対に、将軍の私生活を賄う御納戸金は、家重が幕政の実権を握っていた1750年には2万4600両でした。ところが意次が実権を握った1771年には1万5000両に削減されています。約60%にカットしたことになります。これほど削られては、将軍としても、さぞ日常生活全般にわたって具体的な影響がでて、苦しくなったと思われますが、それほどひどい目に遭わされながら、家治の意次に対する信頼は、その死の瞬間まで揺らぐことはなかったのです。  
池波正太郎の代表作の一つに「剣客商売」があります。その作中では、準主役級の扱いで、禁欲的な生活を送る田沼意次が描かれています。老中が豪華な生活をしていては、将軍が質素な生活を送る気にもなれないだろうことを考えますと、賄賂をむさぼる意次像よりも、こちらの方がより実像に近いものと思われます。  
このことから考えても、意次が、阿諛追従よりは、その能力を買われて取り立てられたと見るのが妥当でしょう。そして、彼のようなコースを通って、最高権力者まで上り詰めた最初のものであっただけに、激しいねたみを旧来の門閥勢力から受けました。さらに、彼の推進した財政改革が、従来の特権の上に眠る門閥勢力にひとかたならぬ犠牲を強いるものとなったことが、その軋轢をいやが上にも増したのです。  
ただ、彼の同僚や下僚は、商人との密接な交渉の中で、ややもすると賄賂を受け取ることが多かったことは、様々な資料から見ても間違いない事実です。  
ロシアや東欧圏などでは、共産主義国家であった時代に、資本主義を唾棄すべきものとして非難する教育を行っておきながら、最近、共産主義の行き詰まりから自由主義に方針を変更しました。その結果、資本主義としてももっとも忌むべき形で利潤を追求するような行動が横行し、アルバニアに至っては、国家そのものが崩壊の危機に瀕しています。  
おそらく、それと同様に、商行為を卑しむべきものとする儒学教育を行っておきながら、突如として商行為を為政の中に積極的に取り込むという方針の転換が起きたために、商業道徳に悖るような行為を行うことも、新政策の下では許されるような錯覚が、下級官僚に生じたのではないかと思われます。その意味で、田沼時代が賄賂の横行する時代であったということ自体は否定できないでしょう。そして、そのことについては、最高責任者の一人として、田沼意次も責任を免れないところです。  
もっとも、これに対して意次は積極的に取り締まり努力を行っています。勘定方の監視機関たる勘定吟味役機構の整備は、家重時代に始まったことは前章に紹介しましたが、意次の時代にはその整備が一段と進んでいるのです。  
具体的にあげますと、まず1761年に3月に勘定吟味役付の部下の事務分掌が決まります。ついで同年9月には吟味方改役及び吟味方改役並という職制が設けられ、吟味方は総員28名となります。1767年には、吟味役に下役が置かれます。下役というのは抱席、すなわちその身一代限りの奉職者のことで、町奉行所の同心などに相当します。いわば検査活動の手足に当たるものですが、これが8名置かれます。翌68年には、早くも17名に増員されます。  
こうしてみますと、不正根絶のためかなりの努力をしていたことは確かです。  
なお、勘定所そのものについても、1761年にその分課分掌規則が整備されます。この時の職員数を見ますと、勘定組頭12名、勘定134名、支配勘定93名、支配勘定見習い12名で、合計252名という大組織に成長しています。さらに1767年に勘定の増員があり、計259名になったといいます。 
3.田沼時代とは何時から何時までか

 

田沼時代と一口にいいますが、実は、それが何時から何時までかは必ずしもはっきりしません。  
始期については、彼が徐々に幕政に権力を持つようになっていきましたので、明確にどこからが、彼の個性を反映した幕政なのかがはっきりしないからです。  
一番早い時点としては、御側御用取次に昇格した1751年から、と考えることもできます。中間的な考え方としては、1758年の郡上一揆裁判以降がそうだ、と考えても良いでしょう。もう2年遅らせて、家治が将軍になってから、というのも一つの線の引き方でしょう。1769年に老中格として幕政に正式に関与できるようになりますので、ここで線を引くのにも理屈があります。1772年に正式の老中となりますから、この時からと考えても構いません。  
田沼意次という人を否定的に捉える論者は、さらに遅らせて考えます。すなわち、1779年に、それまで老中首座を勤めていた松平武元が現職のまま死亡しますが、それまでは、武元に抑制されて、意次は本領を発揮できないでいたと考えるのです。その場合には、この1779年以降の10年ばかりが田沼時代とする見解をとることになります。  
以上から判るとおり、田沼時代があるとしても、その始期に関して1751年から1779年まで28年もの幅があります。このどこを採っても間違いとはいえないのです。  
先にも一言したとおり、彼は最後まで、老中首座になっていません。それどころか、財政改革の中心である勝手係老中にさえもなっていないということから考えると、田沼時代なるものは錯覚で、実はない、といっても間違いとはいえません。  
なぜ、このように始期について幅があるかというと、そもそもなにをもって田沼時代というのか、という基本的な問題が不明確だからです。  
老中首座になって、初めて政策に影響力を持つようになった松平定信や水野忠邦の場合であれば、その首座にいる期間が、彼らの改革期間と定義されます。しかし、同様の観点からこの時代を見るときは、先に言及した松平武元が79年に現職のまま死去するまで老中首座の地位にありましたので、このときまでは武元時代というべきでしょう。なお、その時の勝手係老中は、武元自身が兼任していました。  
その後の老中首座は松平康福(やすよし)でしたから、その前を武元時代と呼ぶなら、以後は康福時代と見るべきでしょう。この時代の勝手係老中は、主として、水野忠友(ただとも)でした。ただ、忠友の養子に意次の四男意正がなっていたような関係にあり、この時代の意次の影響力は非常に大きなものとなります。そこで、先に述べたように、この康福時代を田沼時代と限定する見解もあるわけです。  
なお、財政政策の実行責任者というべき勘定奉行は、武元時代と康福時代で交代しています。武元時代には、先に名を紹介した石谷清昌と安藤惟要(これとし)が財政改革の中心にいました。康福時代になりますと、1779年に石谷が留守居役に転出し、代わって勘定吟味役であった松本秀持(ひでもち)が起用され、また安藤が1782年に大目付に転出し、代わって京都奉行であった赤井忠晶(ただあきら)が、それぞれ就任して、財政政策の実行に当たることになります。  
終期は、一般には1786年の、老中から失脚した時と考えられています。しかし、その後も老中首座を水野忠友がつとめる等、1788年に彼が死亡する時期くらいまでは幕閣の主要メンバーは依然として田沼派で占められ、その政策がそのまま遂行され続けました。たとえば後であげる田沼時代の重要政策である南鐐(なんりょう)二朱銀の発行は、1788年まで続けられます。  
すなわち、松平定信は、1787年に老中になります。が、同年中に井伊直幸を、翌1788年に水野忠友、松平安福をそれぞれ老中や大老から辞職に追い込むことで、ようやく田沼派を一掃して、幕閣を自派で固め、いわゆる寛政の改革に本格的に乗り出すことができるようになったのです。  
要するに、田沼時代というものは、田沼意次という一人の独裁者がいて、すべてを仕切っていたのではありません。老中から御側御用取次に至るメンバーで構成されたチームで、田沼政治といわれるものは行われていたのです。そのため、彼一人が失脚しても、その政策は依然として続けられるということが起きるのです。  
本稿は、意次の運命を見ようとしているのではなく、その財政政策を見ようとしていますから、終期についても、その政策の終期を採るのが妥当でしょう。  
このように重点を政策に置いて考えますと、始期についても田沼自身の経歴に基づく細かい議論をする必要はないでしょう。忘れてならないことは、この家治時代も側用人政治であり、側用人政治の成立用件は、強い将軍の存在だ、という点です。家治自身が市場志向型の政策の必要を痛感し、そうした政策を有する者を幕閣に起用していますから、同一傾向の政策を有するチームができあがるのです。そのチームの全盛期に、将軍と老中部屋の連絡係という要の位置に田沼意次が座っていたに過ぎません。そこで、本章冒頭にも述べたとおり、家治時代をほぼ田沼時代と把握すればよいことになります。 
4.田沼時代の財政政策

 

この時代の財政政策は、幕府としては未知への挑戦です。その結果、依然として家重時代と同様に、試行錯誤の連続であり、したがって、成功したものもあるが失敗したものも数多いという状況にあります。順次見ていきましょう。  
(1)市場経済への挑戦  
A 暦の御用金令  
家重施政期の後半に、いったん平年並みに戻っていた米価は、家治時代に入った直後の1760年から、再び下がり始めました。そこで、幕府では、1761年12月に目付や勘定吟味役を大阪に派遣して市場調査を実施し、抜本対策を検討させました。その結果、出されたのが1762年1月の宝暦の御用金令です。  
吉宗が、全国の商人に命じて値下がりの際には買い出動に出させることで、米の値段を高めに設定する方策を採ったことは前述しました。しかし、そのように、商人自身に買い出動させるやり方では、家重時代の暴落のように、市場の先行きに対する見通しが暗い場合には限界があります。損をすると決まっているような買い出動を、一片の命令のみの力で、商人に行わせることは、不可能というべきことです。  
そこで、この時考え出されたのは、あらかじめ商人から幕府が資金を借り入れて、幕府自身が随時買い出動に出る体制を採る、という方法です。原資は大阪商人に対して総額170万3000両を強制的に割り当てる、という方法で確保します。これを使って幕府が大量の米を買い上げ、高くなったところで売り払うことで、幕府及び大名を救済しようというのです。これがこの御用金令です。理屈としては正しいといえるでしょう。  
問題は原資の調達です。商人からの借り入れは、月0.1%という大変な低利率なのです。ちなみに寛政の改革で、松平定信が借金に苦しむ幕臣の救済のため、棄捐令を出して強引に金利を下げさせますが、それによる低下後の金利が月1%です。したがって、この金利では、もちろん任意に貸す者はいません。そこで、大阪町奉行所では、出金者に指名された者を白州に呼び集め、「不埒な者は牢に入れるから、再度我が家に帰れる所存ではあるまいな」と明け方まで恫喝するという強引な手法で、資金を提供させました。  
これは大名救済策をかねていましたので、このうち3分の2は米の買い出動用に使われ、3分の1は大名への低利貸出資金として使われました。  
こうしたかなり無理のある方法で、資金の大量吸い上げが行われましたので、大阪の金融市場は一気に冷え込みました。大名が大阪町人に資金融通を頼んでも、御用金を理由に断られることから、大名の不満も高まりました。こうして、御用金が56万両あまり集まった2月28日に、御用金令は、突如うち切られることになったのです。  
借り集めた資金は、3月以降に順次返済されることになっていました。が、松平定信の批判を信ずるなら、実際には踏み倒しに近いことになったようです。  
これに懲りて、幕府は、これ以降、米市場についてはレッセ・フェールの方針を貫き、特別の介入はしなくなりました。後に天明の大飢饉の時に、この方針が問題となります。  
B 金=銀レートへの挑戦  
江戸通貨に、金と銀という二種類の本位通貨と銅という補助通貨が存在していて、江戸が金中心であるのに対して大阪が銀中心であったため、相当混乱していたため、大岡忠相がこれに挑み、強引な手法を採ったため、失脚したことは、享保の改革の際に述べました。  
改めて問題点を簡単に述べますと、この金銀交換レートの変動のため、幕府等は、一般に不利な方向に、かなりの影響を受けました。それは次のようなメカニズムからです。すなわち、幕府や大名は、米を金銭化するために大阪に送ります。米が季節商品であるために、一時期に市場に集中せざるを得ません。そこで、価格は必ず下落します。その代価は銀で支払われます。これを幕府を初めとする諸大名では江戸での消費に当てるため、送金します。しかし、江戸は金本位経済ですから、江戸で使うには、この銀貨を金貨に両替する必要があります。しかし、一時期に大量の銀貨が江戸に流れ込みますと、銀に対する金の交換レートは上昇しますから、ここでまた幕府や大名の手取り額は減少することになります。このように、金銀二重本位経済であるために、米→銀、銀→金と2回に渡って、幕府等は交換差損を出すことになります。  
この当時、既に為替決済システムが江戸=大阪間で確立していましたから、この銀貨の大量流入といっても、それは帳簿上のことで、実際には、銀貨は江戸に移動していません。  
そこで、米相場への挑戦に失敗した翌年の1762年になって幕府が考え出したのは、実際に銀貨を運ばせれば良い、ということでした。なにより幕府等は、現銀がくれば、江戸でもそのまま使えない訳ではありませんから、金貨に両替することによる差損がある程度は防げます。そのうえ、大阪の現銀が不足してくれば、金に対する銀の交換レートが高くなるという方向に、レートの変動に影響を与えるのではないか、というアイデアでした。  
そこで、大阪で集められた現銀はすべて現物を江戸に送り、他方、大阪に所在する幕府機関の活動に必要な資金は為替で送金するという方法で、どんどん大阪市場の資金を吸い上げるという施策が採られました。1767年にこれが中止されるまでに、大阪から江戸に送られた銀貨は約10万貫に上ります。  
しかし、為替送金システムは、双方向への資金の流れがほぼ均等だから成り立つのです。このように強引に、流れを一方向だけに限定されたのでは、システムは崩壊せざるを得ません。したがって金融市場そのものが機能を停止してしまったのです。  
こうして1767年には再び、大阪から江戸への為替送金が行われるようになりました。  
 
御用金令といい、この現銀の輸送作戦といい、ほとんど思いつきに近い事を、果敢に実行しますが、失敗したと見ますと、さっと撤退するところは、いかにも将軍とそれを取り巻くスタッフたちの若さを感じさせます。一国の為政者が、このように思いつきに走られては、国民たる者としてはたまったものではありません。  
が、その積極的な挑戦には、現在という安全な場所から見る私としては、何とはなしにほほえましさを感じてしまいます。  
こうした試行錯誤の中から、彼らは次第に実効性ある政策を見いだしていくのです。  
(2)通貨改革  
商品経済を支えるのは通貨です。したがって、通貨改革は、商品経済をより発展させ、それを基礎とした租税政策を実行あるものとするためにも、欠くことのできないものでした。  
金貨と銀貨が別個に価格が変動し、固定レートができない原因の一つは、銀が秤量通貨であった点にあります。当時、銀貨には、丁銀と豆板銀という2種類がありましたが、どちらもその重さは一定ではなく、そのため使用に当たっては一々秤でその目方を確認する必要がありました。  
これが、金銀レート変動の原因ではないか、ということを思いついた幕府は、早速65年に、元文丁銀・豆板銀と同じ46%の純度ですが、正確に五匁の重量を持つ五匁銀を発行しました。そして、これを幕府公定レートにしたがい、いつでも12枚で金貨1両と交換させようとしました。  
しかし、五匁銀は、単に秤ではかる必要がなくなったというだけのことで、金額表示のものではありませんでしたから、幕府の金貨と銀貨の固定相場を作ろうとする意図に反して、市場では、相変わらず、市場レートにしたがって、金貨と交換されていて、発行の目的は達成できませんでした。  
そこで、両者を一本化するためのエースとして1772年に発行されたのが南鐐二朱銀です。これは素材が純度98%という、それまでわが国通貨史上に登場したことがない、非常に良質の銀貨です。このため、通貨の純度に対する信仰のあった当時の市場には受け入れられやすい、という大きな特徴を持っていました。しかも、二朱という、金貨における通貨単位をもっているため、金貨と固定的な相場で兌換できるという奇抜とも、斬新ともいえるアイデアでした。  
なお、金貨の通貨単位としては、小判における「両」が良く知られていますが、その下は「分」といいます。4分で1両となります。分の下が「朱」です。4朱で1分となります。従って、二朱銀であれば、2枚で1分に相当し、8枚で1両に相当することになります。南鐐の表面には、8枚で1両に相当する、ということが明記されていました。  
銀貨を金貨として使用させるという点に、市中には若干の抵抗感もあったようですが、元禄期の荻原重秀や享保期の大岡忠相の改鋳のように悪貨に変更するどころか最高の品位であり、また従来の通貨を廃止するような強権的な方法を採らず、漸進的な改革であったため、特段の通貨混乱が起きることもありませんでした。  
南鐐という名称は、輸入した良質の銀という意味です。すなわち、この時期、長崎貿易は、それまでになかった全く新しい新局面を迎えていました。それまで、長崎貿易の悩みは、片貿易のために、金、銀、銅という基本的な金属資源が激しい流出を示すという点にありました。  
しかし、貿易により、そうした金属資源を輸入することで、国内的な品薄を解消できるということを、この時期の幕府は考えついたのです。  
1763年といいますから、先に何度か触れた勘定奉行石谷清昌がわざわざ長崎奉行を兼任していた時期に当たります。その年の記録に、中国から「足赤金、八呈金、九星金」をそれぞれ146匁4分、「元寶足紋銀」を117貫179匁、「中型足紋銀」を37貫752匁9分、「元絲銀」を240貫73匁2分2厘6毛輸入したといいます。金や銀についている変わった名称の意味はよく判りませんが、それぞれの塊の形を意味するもののようです。これを単純に合計しますと、銀は計395貫という事になります。白石の長崎新例による対中国貿易制限額が年3000貫でしたから、その1割程度で、国内的に強いインパクトを与えるほどではありません。が、幕府創設以来の流れが逆転し、金銀が海外に流出する代わりに流入するようになった、ということの意義は大きいといえます。この年を皮切りに、以後、毎年のようにかなりの金銀の輸入が始まります。  
同年から1782年までの10年間の、中国からの輸入総量は金が88貫474匁、銀が6374貫772匁余といいます。このうち3829貫919匁9分9毛9絲を溶かして、南鐐二朱銀を126万650片を鋳造したといいます。額面金額に直せば、15万7581両あまりです。  
このほか、1765年から、オランダからもやはり銀の輸入を開始しています。オランダの場合には同国の銀貨そのものを輸入していますから、これは輸入というより、相手国通貨による貿易の決済といった方がよいでしょうか。当時のオランダの銀貨は、デュカットという単位でしたが、1770年には、輸入限度額を1万5000デュカットと決めていますから、大体その程度の輸入額があったと考えて良いでしょう。当時の日本人には、デュカットという発音が聞き取れなかったらしく、テカトンという表記になっています。1782年までの集計では、1417貫068匁余となっています。  
この銀の対価として支払っていたのは、俵物と銅です。このうち、銅については増産といっても限界があるのに対して、俵物については、生産拡大の余地がありました。1764年に、幕府は中国輸出向けの煎り海鼠(なまこ)及び乾し鮑(あわび)を増産するように、諸国に命じています。すなわち、生の海鼠や鮑の漁業になれていない漁村や、せっかく生の海鼠や鮑を採っていても、中国人の好む製造方法を知らないために、加工していない漁村がかなりあったからです。そこで、そうした漁村は近隣のそうした技術を持っている漁村からそれを習って、増産に努めるように、と命じたものです。翌1765年には、鱶鰭(ふかひれ)の製造がきちんとなされていないために商品価値を落としている例があるので、製造方法に注意するように、というお触れが出されています。輸出を盛んにするために、それについては租税を免除する、というのです。  
もっとも、南鐐二朱銀が輸入銀で製造されたというのは建前であって、実際には、かなりのものは、市中に出回っている丁銀を鋳潰して作ったのです。それによって幕府はかなりの出目を得ることができました。低品位通貨を回収して高品位通貨を発行する際に出目が得られるというのは、まるで手品のようで、意表をついたものですから、それまでの改鋳と違って人々の通貨不信を呼ばなかったのです。  
そのからくりは次のようになります。南鐐二朱銀は1枚の目方が2.7匁ですから、8枚分(1両相当)では21.6匁になります。純度98%ですから、それに対する純銀量は21.1匁という計算になります。他方、通用中の元文丁銀は品位46%でした。幕府の公定交換レートは上述のとおり、金1両=丁銀60匁でした。この60匁の丁銀中に含まれる純銀量は27.6匁という計算になります。つまり丁銀を南鐐二朱銀に直すごとに、27.6ー21.6=6匁づつ出目が、1両ごとに発生するわけです。換言すると、1両相当の丁銀を二朱銀に直すことで、二朱銀が10枚以上もできることになります。  
これまでの改鋳は、白石のそれを例外とすれば、まとめてドカッと行うと長期に渡って放置する、というやり方でした。ところが、この南鐐二朱銀の発行は、少量づつ、息長く行われました。そして、改鋳のたびごとに通貨供給量が二割程度増加するわけです。  
これは、田沼政権の重商主義的経済運営によって発生する通貨需要の増大にふさわしい通貨発行量の増加をもたらしました。このため、この時代の物価は非常に安定しています。すなわち、南鐐二朱銀は、幕府財政政策と金融政策という二重の機能をもっていたわけです。  
こうした数々の優れた長所があったため、以後、1788年に、田沼派が総退陣に追い込まれるまで南鐐二朱銀は定期的に発行されました。さらにその後、松平定信が寛政の改革に失敗して失脚すると、再び復活して行われるようになりました。発行総量は593万3000両になります。最終段階では、全通貨流通量の20%以上が、この南鐐二朱銀になったといわれます。  
なお、長崎貿易において、銅が対価の主役となってきたことから、銅が不足し、銅貨の増発も思うに任せなくなっていたことは先にも触れました。そこで、67年に、初めて真鍮製の四文銭を発行しました。これも銅の使用量を抑えるための苦肉の策といえます。しかし、荻原が発効した十文銭と違い、これは鉄の一文銭の上位通貨として庶民に受け入れられ、1860年まで発行が続けられ、発行総量は1億5742万5360枚に達しました。  
こうした様々な要素から、1736年の元文改鋳から次の改鋳である1818年の文政改鋳までの間に、通貨供給量は大体40%程度のびていただろうと計算されています。  
(3)租税政策  
封建経済から商品経済へと、社会の経済構造が変革していることを直視するとき、幕府財政の基礎を、そうした商品経済へと移す必要があります。同時期に、同じように財政危機に陥った諸藩で財政改革に成功したものを見ますと、たとえば徳島藩が藍を、熊本藩がろうそくの材料である櫨(はぜ)をそれぞれ専売にしたことに代表されるように、何らかの換金作物の栽培を奨励し、特産品化し、それを専売するという方法でした。  
しかし、幕府の場合には、財政規模が大きいですから、そのような小手先の対策では限界がありました。どうしても、商業そのものに対して課税する方法を開発する必要があったのです。  
ある税制が優れたものとして機能するためには、無駄なく、無理なく、少ない徴税コストで、できるだけ多額の租税収入を可能とするものでなければなりません。封建体制の下において、米が租税の中心となったのは、この条件を満たしていたからです。たとえば有毛検見法のように手間のかかる認定手段をとった場合ですら、農民にどれだけの収穫があるかは、その地方の特定の田圃のごく一部を坪刈りすれば十分です。そこから先は、農民ごとの耕作面積さえ把握しておけば、容易に課税総額を決定できるのです*。  
商業に課税するというのは簡単なようですが、このような条件を満たす税制を開発できなければ、実効性を期待することはできません。ここで忘れてならないことは、この時代にはまだ商業簿記の技術は開発されていなかった、ということです。商人は、いわゆる大福帳なるもので、その取引の管理をしていましたが、それでは、なかなか年単位の収支の全貌を明確に把握することは難しいでしょう。また、仮に利潤が大福帳を解析して把握することが可能であったとしても、課税者側である幕府官僚にその帳簿の解析能力がなければ、結果は同じです。  
今ひとつ忘れてならないことは、この時代の政府は、我々の想像を絶した小さな政府で、きわめて少人数で運営されていた、という点です。したがって、かって、わが国税務署がよく行っていた個々の商店の棚卸しまで税務職員の手で行って納税額を認定するというような、人海戦術的な課税手段は間違ってもとれません。  
そこで導入されたのが、様々な登記、登録に対して、担税力の存在を認め、登録免許税を徴収するという手法です。この登録免許税を、当時は「冥加金(みょうがきん)」と呼んでいました。  
また、この登記、登録の期間を一定に限り、その更新に対しても課税しました。これを、運上(うんじょう)といいます。登記、登録のおかげで、ある程度対象となる商業活動の内容が把握できるところから、冥加金が固定的な金額であったのに対して、運上は課税額が年によって変動するのがふつうでした。その意味では今日の事業税の性格を有しているといえます。  
どんな場合に、その登記、登録という公的サービスを幕府が提供したかを以下に見ましょう。  
A 株仲間の公認政策  
株仲間とは、独占的な商工業者の同業組合のことです。江戸幕府では、織田信長の楽市楽座政策を承継し、金座、銀座など一部の業種をのぞいて座の結成を原則的に禁じていました。しかし、大阪では1710年代には既にほとんどの業種で株仲間が結成されていたといいます。また、江戸でも元禄期に十組問屋(とくみどんや)*が誕生しています。享保の改革の際には、大岡忠相が、物価の引き下げや贅沢品取り締まりの目的から株仲間の結成を強制した御免株(ごめんかぶ)のことは既に説明しました。  
田沼時代の幕府では、このように放置しておいても結成される株仲間を、幕府として積極的に公認する代わりに、公認料として「冥加金」を徴収するという方式を導入しました。公認を得るには、問屋や仲買は、仲間の判形帳(はんぎょうちょう)を幕府に差しだし、冥加金を納める必要があります。こうして、幕府としては、商工業者の実態を把握することで、商工業政策の基礎が得られると同時に、財政収入の確保が可能になるという、一挙両得の方策でした。また、結成後は、運上を徴収することで、継続的な財政基盤としました。  
この公認の株仲間を願株(ねがいかぶ)と呼びます。大阪では、この時期に大問屋から、小売り商人、職人までが冥加金を納めて株仲間として認可を得ています。江戸の十組問屋に対応する江戸積二四組問屋も1784年に株仲間となりました。その結果、願株は130種にも及んでいます。庶民の生活の全般にわたって、株仲間が存在していたことになります。  
この株仲間の公認は、大岡忠相の御免株のように幕府の政策によって初めて株仲間ができたのではなく、むしろ、陰に存在していたものが表面化したに過ぎないことは留意する必要があります。表面化させることにより、幕府は商工業の全般に渡ってコントロールする可能性が開けた、という意味で、単なる租税対策の域を越えた優れた施策と評価するのが正しいでしょう。  
ただ、株仲間を通じて商業の実情を把握するためには、その株仲間が、その商品をほぼ完全に押さえている必要があります。このため、田沼政権では、大阪市場のもつ実質的優位性を法によって与えられた特権的地位にまで高めていきます。この状況を、燈油の統制を通じてみてみましょう。  
燈油については、斉藤道三がその販売を通じて巨富を積み、美濃一国を奪い取るに至ったことで知られているように、古くから、非常に人々の暮らしに直結した貴重な物資でした。そこで、徳川幕府では早くから、その株仲間の設立を強制して計量単位を統一させ、1672年には時価を毎月幕府に報告するように命じるなど、物価調査の対象ともしていました。享保の改革では、その一環として、燈油を扱うものすべてを株仲間に加入することを強制し、その代わりに、業者ごとの営業区域を定めて、その地域内における特権的販売権を認めています。これにより、燈油価格の安定を目指したのです。  
しかし、こうした保護政策にもかかわらず、原料の調達面での問題から燈油価格が騰貴したことから、家重は、従来よりも大阪の特権的地位を高めることにより、株仲間を通じた価格コントロールに乗り出します。それは次のような理屈によるものです。すなわち、大阪に燈油が集中すれば、燈油の市場価格も安くなるのに、中国地方などで作られている燈油が、大阪を飛び越していきなり江戸に運ばれているので、大阪市場の燈油が品薄になり、ややもすれば騰貴する、というのです。そこで、諸国の燈油は必ず大阪の株仲間に売却するように強制するようになったのです。  
田沼政権も、この政策を継承し、強化します。1766年に出した法令によると、たとえ村の中で使用する燈油といえども、つくってそのまま消費してはならず、いったん大阪に運べ、としています。これは、随分無理な法令といえます。そこで、翌1767年には、江戸に燈油の株仲間の設立を認め、関東地方の燈油は、ここに独占権を認めるとしています。燈油商にこのような特権を認める代わりに一軒あたり、毎年銀50枚の冥加金の納付を認めるというやり方をとるわけです。これを明和の仕法と呼びます。  
このように、独占権を認めることで物価の安定を図るという発想は、今日の我々から見るとかなり狂ったものといわざるを得ません。しかし、これは上述のとおり、江戸初期から一貫した発想です。田沼政権は、これを幕府直轄領であると大名領であるとを問わず、全国一律に大阪の優越的な地位を保障する、という形で徹底させたに過ぎません。  
B 家質奥印(かじちおくいん)差配所  
質というと、ふつうは担保に入れる物の占有権を債権者に移して行う担保物権のことです。しかし、ここでいう家質(かじち)とは、江戸時代の町方で行われた家屋敷を担保とするもののことで、今日の民法学でいう譲渡担保のことです。家を担保として金融を得るために、その家を質に入れては居住する場所がなくなり、困ります。そこで、債務者は債権者に売券(ばいけん=売却証明書)と借家請状(うけじょう)をワンセットで差し入れて担保とするのです。利息は家賃の支払いという形式をとって支払われることになります。期限までに借金の返済ができないときは、正式に帳切(ちょうぎり=名義の書き換え)が行われるわけです。商品経済の発達していた大阪で、低利で確実な庶民金融として発達しました。  
しかし、このままでは公示性が低いため、取引の安全を確保することが難しいのが問題です。そこで、享保の改革の一環として、家質証文には五人組と町年寄りが加判する事になりました。しかし、加判者がその地位を悪用するような事態が現れたため、より客観性ある公示機関の設置が必要となりました。  
そこでまず1767年に、大阪に町人の出願により家質会所(かじちかいしょ)が設けられる事が認められました。これは会所が証文に奥印を与えて、公示性を確保するという手法です。  
ここに担税力の存在を認めた幕府は、翌1768年にこれを家質奥印差配所に切り替えました。差配所では、家質証文に奥印を与えるに際して印賃を徴収しました。これは今日の言葉で言えば抵当権の設定に当たって登録免許税を徴収するという手法です。  
しかし、家質による資金運用の秘密がすべて幕府に握られることを意味しますので、大阪町人は強く反対し、結局、差配所からの収入額と同額の川浚い金を大阪に課すことで、1775年に廃止されました。大阪市民に課した川浚い金は、総額9950両でしたから、大体その程度の額が毎年幕府の歳入に上がっていたはずです。  
 
先に述べたとおり、幕府勘定所の当時の細かな歳入内容については不明です。このため、この冥加金や運上が、幕府財政の改善にどの程度寄与したかは判っていません。しかし、こうした運上を徴収するという税制は、この時以降確立しました。明治政府が徳川幕府から継承した小物成り(こものなり=田畑に課される本年貢以外の雑税を意味する)、運上等は、合計で1500〜1600に及ぶといいます。これらが明治期の、所得税などはほとんど無きに等しかった時代における租税の中核である消費税へと発展していくことになります。  
(4)専売制の拡充  
諸藩では、財政改革の手段として、その地域の特産品を藩の専売とすることを、重要な手段としましたが、田沼政権でも、一部のものについて、幕府の専売制度を導入しています。  
A 銅座  
輸出の中心物資である銅については、吉宗による元文の改革の際、銅座が設けられていましたが、業務は銀座が片手間にやっている程度のものでした。そのため、あまり実効性が確保できないでいました。  
田沼政権ではこれを強化し、まず長崎銅会所というものを新たに大阪に設置し、これが実質的に銅座の業務を行うようにしました。そして、従来銅や金を扱っていた商人の株仲間が処理していた事項も、すべて銅座が指揮することにしました。また、銅座が取り扱う銅については、課税対象外としました。そして銅座に納入するのを奨励するために、直接銅座から銀貨で直ちに代金を支払うのを原則としました。そして、組織を勘定奉行、長崎奉行及び大阪奉行の共管におき、規定を詳細に整備しました。1766年のことです。銅座が実質的に成立したのはこの時と見るべきでしょう。  
B 人参座  
朝鮮人参は、和漢薬のエースとでもいうべき存在で、朝鮮貿易の中心でもありました。  
田沼政権では、これを国産化することを企てます。そこで、朝鮮と似た風土を探して上野国の今市付近を選定して種をまき、栽培してみたところそれに成功し、薬効も朝鮮産のものと異ならない、という結論が出ました。そこで、これを幕府の専売として、人参座を作ったのです。1763年のことです。当初は勘定所の役人が兼務で処理していましたが、業務量が多く、とても無理ということから、1766年からは、専門に担当する職員をおくようになっています。ずっと後、1819年のことですが、国産の朝鮮人参を中国に輸出したということです。金銀の流出原因だった朝鮮人参が、逆に外貨を稼ぐ産業にまで生長していったのです。  
 
残念ながら、これらの専売事業によって、どの程度の利潤を獲得できたかははっきりしません。  
(5)蝦夷地の直轄化  
蝦夷地、すなわち北海道は、江戸時代、松前藩の領地でした。しかし、松前藩の統治形態はきわめて異例のものでした。ふつうの藩では、家臣に知行地を与えますが、松前藩では、アイヌ民族の居住地に、藩の独占的な交易の場所を作り、そこで交易する権利を家臣に与えるという形で知行としていました。これを「商場(あきないば)」あるいは単に「場所(ばしょ)」と呼びます。初期には、藩では自営の船等を派遣して交易して利を得るという形態でした。  
ところが、武士にとってはそれは面倒なので、徐々に、商いそのものを商人に請け負わせるという形態に変化しました。商人は、場所で、単に交易を行うだけではなく、漁業経営を行うようになってきました。この商人を場所請負人、請負金のことを運上金、場所経営の拠点のことを運上所と称しました。商人たちは、アイヌ人を交易相手から漁場の下層労務者へと転落させ、酷使、収奪しました。  
こうした弾圧に抗してアイヌ民族は、1669年に、大酋長シャクシャインを中心に反乱を起こしました。幕府もこれを重視し、幕臣を派遣するとともに津軽藩にも出兵を命じるなどしました。結局、松前藩側は和睦と騙してシャクシャインを謀殺し、反乱の鎮圧に成功しました。  
一方、そのころ、北海道を巡る世界情勢は急迫していました。すなわち、ロシアのシベリア経営は16世紀後半に始まりますが、1696年にはロシア領はカムチャッカまで到達し、このころには千島までロシア人が進出し、アイヌ人との交易も始まっていました。それにも関わらず、松前藩は、上述のとおり、アイヌ人を収奪するのみで、何ら建設的な方策を採らないことを憂えて、仙台藩医工藤平助は83年に「赤蝦夷風説考*」を著しました。  
意次はこれを内覧し、勘定奉行松本秀持(ひでもち)に蝦夷地調査を命じました。秀持は配下の御普請役5名、下役5名の10名を特別に建造した回船に乗せて蝦夷地調査に向かわせました。いかにも田沼時代らしいと思うのが、この回船の運航を回船商人に請け負わせ、その際、アイヌとの交易も実施するように雑穀、茶、タバコなどの交易物資を搭載していたことです。調査活動そのものがある程度採算がとれるように配慮しているのです。  
また、同時に赤井忠晶にも命を下して、戯作者平秩東作(へづつとうさく)を幕府の蝦夷地調査団の派遣に先立って蝦夷地の内情調査に行かせました。相互に独立した二つの調査班を送り込んで、情報の客観性の確保を図った、という点も、江戸時代にはあまり例のない話で、意次の非凡さを示しています。  
それらの調査結果に依ってでてきた結論は、従来の松前藩の報告とは異なり、蝦夷地は決して不毛の大地ではなく、十分に米作りなども可能という結論でした。実は、松前藩ではそのことは十分に承知していましたが、アイヌ人を農耕民族化すると、松前の代表的な産物である毛皮等の入手が困難になることを恐れ、禁止していたのです。  
蝦夷地をロシアの南下から守るには、このように消極的な松前藩に委ねておいてはだめなことは明らかです。しかし、蝦夷地を直轄化し、幕府の手により防衛するためには膨大な費用がかかります。そこで、意次は、蝦夷地内部に116万6400万町歩の開発計画を立て、実行に移そうとしました。農耕者としては、まずアイヌ人に農機具や種子を与え、作り方を与えることで確保します。しかし、それだけでは不足するので、非人、すなわち被差別部落の人々をこの地に送り込んで、農耕民として救済する、という方策です。  
蝦夷地の防衛と、農耕地化、そしてアイヌや非人という被差別者の救済という、一石三鳥のこの計画は、江戸期のプランとしては、実にすばらしいものと思います。  
結局、この直営構想は、このときは意次の失脚により実現しませんでしたが、このように積極的に民間の建言に反応したところに、意次という人物の特徴が現れます。このプランは、明治期になって屯田兵という形で実現することになります。  
(6)天明の大飢饉とその対策  
1783年、浅間山が大噴火し、それをきっかけとしていわゆる天明の大飢饉が始まります。それから3年の間に奥州一ヶ国での餓死者がおよそ200万人といわれます。  
この時の全国的な収穫量は判りません。しかし、幕府直轄領は、全国的に分布していますから、その年貢米の徴収量の推移を見れば、日本全体の作柄が見えるはずです。そこで飢饉の3年間を挟む前後7年間のそれを見てみますと、次のとおりです。  
 1781年114万7934石  
 1782年113万8370石  
 1783年96万8418石  
 1784年117万2935石天明の大飢饉  
 1785年109万3200石  
 1786年85万1493石  
 1787年116万4205石  
これで見ますと、確かに1783年の徴収量は前年よりも大幅に落ち込んでいますが、この段階では飢饉は大したことはありませんでした。本当に飢饉が深刻化を始めた1784年の方は、全国的に見れば、その当時としてはむしろ豊作だったことが判ります。参考までに紹介すれば、吉宗が将軍位に就いた1716年の年貢米徴収量は107万4035石にすぎません。それに比べれば1783年と1786年を除けば、いずれも豊作といえます。また、飢饉が終わった後の1786年の方が、飢饉の始まった83年の凶作に比べても、深刻な凶作だったのですが、この時にはほとんど餓死者は出ていません。  
その意味で、天明の大飢饉なるものは、全国平均で見る限り、実は豊作の年に起きたといえるのです。要するに、この事件は、東北各藩が、1783年の凶作にも関わらず、財政が苦しいために、例年並の年貢収奪を強行し、自藩内に食糧を確保しなかったために起きた人災ともいえる事件だったのです。  
庶民の方では、凶作の年に例年並に収奪されたのでは冬が越せなくなることは判っていますから、どこの藩でも早い段階からかなりの抵抗活動がみられます。例えば弘前藩では、1783年の7月下旬以降、上方への廻米積出港である青森、鰺ヶ沢、深浦などで打ち壊しを伴った都市騒動が連続的に発生しています。腕ずくで、米の移出を防ごうとしたのです。  
享保にも同じような凶作がありましたが、その時は、飢饉の中心が西日本であったため、幕府は城詰め米を各地に大量に輸送して救援することが可能でした。しかし、天明の飢饉の際は、飢饉の中心が東北地方だったのが致命的でした。冬に入って飢饉が本格化した頃には、当時の拙劣な航海技術では、荒れる北の海に救援米を乗せた船を走らせることは不可能になっていたため、為政者としては手の打ちようもなくなっていたのです。  
1786年の大凶作に飢饉が発生していないのは、この厳しい教訓から、各藩も少しは学ぶところがあったためでしょう。  
飢饉に対して、意次の採った対策は、1784年正月に、関東、陸奥、出羽、信濃など凶作に見舞われた地域に対して、米の買いだめや売り惜しみをしないように、という法令を出すに留まります。  
確かに、凶作といっても全国的な現象ではなく、関東、東北に限られた問題であるに過ぎませんから、自由市場にゆだねておけば、アダム・スミスなら「神の見えざる手に導かれて」というところだろうところの現象により、自ずと適当量の米の供給がなされるはずでした。  
しかし、その凶作に経済チャンスの存在を認めた商人達が、買い占め、売り惜しみに奔ったため、飢饉がどんどんひどくなっていったのです。  
商人だけではありません。為政者の中にさえ、買い占めに奔ったものがいたのです。その筆頭が、意次の政敵、松平定信でした。彼は、天明の大飢饉に際して、白河藩において適切な措置を講じたため、東北地方にあってただ一人の餓死者も藩民から出さなかったことから、名君といわれます。すなわち、1783年に奥州白河12万石に初めて入部しますと、まず質素倹約を訴えて家臣の俸禄を半分に下げます。そこから捻出した資金で、大阪等において米6950俵を買い占め、また会津藩に懇請して米1万俵を取り寄せて、これを家臣や窮民に与えた、といいます。この政策は、先に述べた幕府の禁令を、公然と無視して実施されたのです。  
このように抜け駆けで、米の買い占めをする藩が出れば、米は騰貴し、商人は売り惜しみをして流通が阻害されるのは目に見えています。定信の抜け駆けが、人災の度合いを増したことは確かです。換言すれば、定信は、他藩の農民の犠牲において自藩の農民だけを救済する方策を採用したのです。  
このことから、定信を、藩主としては優れていても、全国視野の行動ではなかった、と批判するのは容易です。事実、日本史学者の中にはそう批判する者もいます。しかし、今日の我々は、アダム・スミスと違い、自由市場を無条件で信じることの危険さを知っています。したがって、もし今日、同様の事態が起きたならば、政府としては、意次のように自由市場を信じてレッセ・フェールに徹するのではなく、何らかの対策、少なくとも積極的に豊作の地方から年貢米を輸送して凶作の地方へ無償で放出する(あるいは貸し付ける)等の措置を執るでしょう。  
その意味で、この時の対策としては、意次ではなく、定信の方に軍配を揚げざるを得ません。実際、定信は、後に政権を握ると、積極的に、封建政治なりの社会福祉政策を推進するのです。  
(7)印旛沼運河工事  
日本史の教科書には、よく、田沼意次が印旛沼の干拓工事を行おうとした、と書いてあります。が、誤りです。重農史観で歴史を読んでいますと、明々白々たる歴史資料でさえも読み間違える、という良い例です。吉宗の時代でさえも新田開発が完全に壁にぶつかっていたのですから、ましてこの頃には新田開発を行っても意味がありません。そのことがよく判っていて、重商主義への転換を図ろうとしている意次が、印旛沼を干拓して、新田を開発しようとするはずはないのです。  
彼がしようとしたのは、印旛沼の中に、水路を開削して、江戸への物資輸送の近道を造るということだったのです。  
江戸幕府は、鎖国政策の一環として、海洋を航行する能力を持つ船の建造を禁止していました。具体的には、船には竜骨があってはならず、またマストは一本に限る、とされていました。そのため、日本海側はともかく、太平洋側となりますと、東北地方から銚子までは何とか南下してこられますが、犬吠埼をまわって、黒潮を突っ切って江戸湾にはいるのは不可能でした。  
そこで、利根川を遡航し、利根運河を抜けて、江戸川を下って江戸に入るというのが、この当時の標準的な物資の輸送路でした。地図を見れば一目瞭然ですが、仮に印旛沼を抜ける運河を掘ることができれば、江戸までの内陸水路はグンと短くなります。利根運河を経由するものに比べて3里5町も近道になるといいますから、これができれば、大変便利です。意次が狙ったのはそれです。それだけ便利な運河が完成すれば、通行料収入だけでも莫大なものが得られるはずです。  
田沼意次が関与する以前の段階では、計画は、2案立てられていました。いずれも、印旛沼の水の利根川への放水路の使命も兼ねさせることで、干拓もしようというというものでした。第1案は運河の底幅は12間とされていました。その場合、掘削土量は50万立方坪と計算されました。第2案は運河の底幅は8間で、掘削土量は23万立方坪と計算されていました。  
意次は、運河の幅をぐっと広く、底幅20間に変更しました。大型の川船が楽にすれ違えることを考えれば、確かにこのくらいは必要です。どのくらいの水深とする計画だったのかよく判りませんが、計画掘削土量が50万立方坪と、第1案の底幅12間の場合と同量であることから見て、その分水深を浅く計画し直したことは明らかです。放水路なら深い必要がありますが、平底の川船の通行に水深は不要だからです。彼の工事目的は、あくまでも運河の開設にあって、干拓にはなかったことがよく判ります。  
1783年に起工しましたが、意外の難工事に、運河の底幅を6間と、ぐっと狭めることにしました。しかし、1786年の水害で大きな被害を受け、また、この段階で意次が老中を退くことになったため、残念なことに中断することになりました。  
後に、水野忠邦がやはり印旛沼の開削工事を手がけますが、この時は昔ながらの発想で、やはり干拓が主たる狙いとしてありました。ひたすら運河だけを造ろうとしたのは、印旛沼の長い開発計画の中でも、意次ただ一人しかいません。ここにも彼の重商主義傾向がはっきりと見て取れます。  
(8)金融政策  
意次の諸政策の中で、もっとも問題があり、また、結局その命取りになったのが金融政策です。  
客観的な問題認識は正しいものがありました。当時の最大の問題は、一人幕府のみならず、全国諸藩のすべてが、各地の商人や領内の地主等から多額の借金をしており、元利返済に難儀をしていたため、商人等に対して新たな借金の申し込みをしても、断られる、という点にありました。したがって、こうした大名たちに対して、新たな金融の道を開くということは、幕府として是非必要な施策であったことは間違いありません。  
そこで、幕府が対大名金融に当たって実質的に保証人として行動することにより、金融の道を開くとともに、幕府収入も確保するという一挙両得をねらった企画を1785年に立てたのです。  
当初は、いわゆる江戸、京都、大阪の三都商人から金融の道を開くことを考えていました。彼らに融資させる条件は、第一に、物的担保として、借入高に応じて、領主としての租税徴収権を提供することです。具体的には、期限に元利金の返済がない場合に、貸し主が幕府に請求すれば、幕府代官所が当該地域を管理下に置き、年貢米を徴収の上、貸し主に優先返済するというものです。第二に、金利を年7%とすること。ただし、そのうち1%は幕府が収納します。保証料というべきものです。  
この構想は、宝暦の御用金令に比べれば桁外れに高い利息を約束し、しかも返済の保証付きという好条件ですから、初めて出されたものであれば、それなりの実効性をあげたかもしれません。しかし、宝暦の御用金令の時には、幕府を信じておとなしく出金したものほど損をした結果となりましたから、今回の場合には、町人側は頭から信用せず、ほとんど出金を得られませんでした。それでは、と、強制的に出金を集めようとしましたが、従来から借金のかさんでいる大名家は、その弱みから、逆に町人のために免除を陳情するなどの行動にでたのです。  
そこで、翌1786年に、第二段の構想が立てられました。これは、簡単にいいますと、全国の不動産に対して時限的に固定資産税を課し、それからの収入を大名に対する金融の原資に使おうというものです。具体的には、百姓には持ち高百石について銀25匁を、町人に対しては家の間口一間について銀3匁を、それぞれ5年間御用金として出金するように、との触れを出したのです。ここでの全国とは、単に幕府の直轄支配領ばかりではなく、大名領、旗本領を含む、文字通りの全国です。  
これは、基本的には、綱吉が1708年に、富士宝永山の噴火による被害復旧のため、と称して全国の農地に課した臨時不動産税と同一の発想です。あの時は、農地百石に対して2両の割で課されました。今回は、銀25匁ですから、5年間で計125匁となり、幕府の公定レートである金1両=銀60匁で計算すると、ほぼ同額の課税です。インフレが進んでいることを考えれば、それよりはかなり低額の課税とさえいえます。  
しかし、今回は、ほとんどすべての大名が猛反対しました。  
意次は、綱吉の時代との客観条件の差を軽視していたのです。  
綱吉時代には、大名にはまだ余力がありました。しかし、綱吉が改易・減封と転封の巧妙な組み合わせにより、江戸初期に大名が行った新田開発等の利益をすべて幕府に吸い上げていました。この結果、この時代になりますと、大名の疲弊が一段と進んでいたのです。幕府直轄領の公定税率が40%であったにもかかわらず、実質課税率はじりじりと下がっていったことについては、何度か触れました。吉宗の下での神尾春央の剛椀を持ってしても3割強の徴収がやっとだったのですから、この時期には幕府直轄領の実質課税率はおそらく3割未満に落ち込んでいたでしょう。したがって、年25匁程度の臨時課税なら十分に吸収力があったのです。意次は、幼い頃から幕臣一筋できた人ですから、どうしてもそういう頭で、農村を考えてしまいます。  
ところが、大名は、三都商人からの借金で首が回らなくなっているくらいですから、領民から、これに少しでも上乗せすれば一揆は必至という、ぎりぎりの線まで搾り取っている状況でした。具体的には、本来の建前の、課税率50%どころか、軒並み60%を越える課税率になっていたと思われます。このような情勢の下で、銀25匁の上乗せは、まことに厳しい、といわざるを得ません。大名としては、それが大名に金融の道を開く手段だといわれたくらいで、おいそれと新規課税に応ずるわけには行かなかったのです。  
今ひとつの条件の違いは、宝永の課税は、将軍のイニシアティブだったことです。これに対して、意次の良き理解者だった家治は、この騒動の最中に、急死しました。代わりにわずか15歳の家斉が将軍位に就きます。こうした幼い将軍の下における老中の立場は弱いものです。  
結局、この触れの出された3日後に、田沼意次は老中を解任されることになります。  
その瞬間、一つの時代が終わりを告げることになります。それは、家柄的にはどれほど低い人間でも、十分に有能で、将軍にみいだされさえすれば、幕閣の最高に地位にあがり、幕政を左右できる、という時代の終わりです。  
意次は、決して最後の側用人ではありません。彼の後に側用人になる者は、8名もいます。しかし、彼らにとっては、側用人は、単に一国一城の主が、幕閣の中で出世していく際の一つの里程標に過ぎません。無位無冠の身から老中にまで出世した者は、彼が最初であると同時に、最後となります。  
 
田沼時代の政策は、上記の通り、決して全て成功したわけでもありません。また、成功した政策も、次章で改めて詳しく検討しますが、長く続ける間にその矛盾が現れてきて、何らかの是正策が必要な状況も生じてきていました。しかし、市場経済下という時代の趨勢をしっかり見据えて対応しようという姿勢は、非常に正しいものがあり、また、その改革が狙いとした、幕府の財政基盤の確立には成功しています。すなわち、1770年には、奥金蔵の備蓄金は171万7529両に達し、綱吉以降における最高値を記録します。いわゆる寛政の改革と呼ばれるものは、この田沼時代の資産を食いつぶす形で実施されます。 
■補 田沼意次(1719〜88年)側用人・老中  
賄賂政治をしたとして非常に悪名高い田沼意次。  
もっとも、それは戦前の考え方で、戦後は次第に幕府では珍しい経済通の人物として評価が高まっています。それでも、賄賂政治のイメージはなかなかとれないんですがね・・・・。ただこれは、彼を仇敵として憎んだ松平定信一派の流したデマのようです。  
正確に言うと、当時の幕府では賄賂を取ることはむしろ当たり前のことでした。何故かというと、賄賂を取ればそれだけ、賄賂を送ってくる諸大名の勢力をそぐことが出来るからです。田沼意次がどれほど賄賂を取ったか、もしくは賄賂を取らなかったかは解りませんが、しかしながら今言われているように彼だけが特別に悪いことをやったわけではないようです。  
それを表すエピソードとして、田沼意次が側用人だった頃、仙台藩の伊達重村が、「島津家よりも官位が下というのは許せない。何とか同格になるよう便宜を図ってくれ」と、賄賂を使って要請してきます。この時、老中の松平武元はしっかり受け取っていますが、田沼意次は門前払いしております。  
1.田沼意次の出世街道  
まずは、田沼意次がその権力をつかむまでを見ていくとしましょう。  
田沼意次の父、意行(もとゆき)は紀州藩の出身で、徳川吉宗が8代将軍に就任するときに江戸幕府に転勤しました。600石の旗本です。そして、田沼意次は15歳で、吉宗の長男、後に9代将軍となる徳川家重の小姓になります。  
家重が9代将軍となると、意次は御小姓組番頭となり、禄高も2000石へ。1751年にはさらに御側役、その4年後には5000石へ加増。この時32歳。1760年に家重が亡くなりますが、彼は跡継ぎの家治に「意次の能力は高いから是非使いなさい」と遺言。  
しかも、家治は凡庸ではありませんでしたが、政治にはあまり興味がない。そんなわけで、次の将軍になっても意次は重用され、老中の松平武元とコンビを組んで政治を行います。そして1767年には側用人に登用され(家重の時に側用人は復活)、2万石に。2年後にはなんと老中格になり、2万5000石へ。その後老中にもなり、最終的には遠江相良5万7000石へ出世します。柳沢吉保ですら老中そのものにはなれませんでしたから、いかに家治が意次を信頼したかが解ります。  
余談ですが、ほとんど馬鹿の代名詞とされる家重。  
言語不明瞭で、全てを投げ出し、唯一彼の言葉を理解できたという側用人の大岡忠光(大岡越前の遠戚)に任せっきりとして評判がえらく悪いですが、前述のように田沼意次の才能を見抜いたり、また彼の重用した大岡忠光は、彼のために復活された側用人という立場を悪用せず、あくまで分をわきまえた行動をとっていることから、人材を見る目は多少あり、世間一般に言われているほど馬鹿ではない気がします。  
2.妬みと恨み・・・ほとんどサスペンスドラマ並み!  
当然、元々は紀州藩の下っ端の家柄である軽輩の田沼意次が、出世していくのを苦々しく思う人たちが出てきます。そこで意次は、譜代大名や大奥(将軍の奥方などのが女性がいる場所)にご機嫌をとったり、姻戚関係を結んだりと、結びつきを強化していきます。  
その中で田沼意次と特に懇意になったのが徳川治斉(はるさだ)。吉宗が、将軍に後継者がいないときには跡継ぎを出すことにした御三卿の1つ・一橋家の当主です。彼は、将軍家治の体質から考えると跡継ぎは出来まいと考え、そうすると自分の所から将軍を出したいと思います。しかし、そこでライバルとなるのが、やはり御三卿の1つ・田安家。  
ここ当主の治察(はるあき)は虚弱体質でどうせもう先は長くないし、子供もいない。それはいいが、弟の賢丸(まさまる)というのが残っていて、これがライバルになりそう。そこで治斉は、将軍に圧力をかけて、無理矢理、賢丸を奥州白河藩(福島県)の、松平定邦の養子に飛ばしてしまいます。これに、田沼意次が協力したらしい。  
この賢丸こそ、後の老中・松平定信。果たして、家治には後継者が出来ず、治察も子がないまま病没。10代将軍の座は治斉の子、家斉が射止め、さらに後継者のいない田安家は家斉の弟が跡を継ぐと、踏んだり蹴ったりです。当然、松平定信は徳川治斉を恨む・・・・と思いきや、猛烈に田沼意次を恨みます。熱烈に田沼意次の悪口を言いまくり、賄賂老中だとねつ造して人々に言いふらし・・・。  
お怒りはごもっともですが、あなた、恨む相手を間違えていますよ(笑)。  
さらに、家治が危篤に陥ると、徳川治斉は田沼意次を裏切り、松平定信に接近。定信は、彼を自派に入れるという始末。  
まあ、そんなわけで・・・、家治が死ぬと、田沼意次は一気に権力の座から引きずりおろされ、家督も孫の意明に譲らされ、城は徹底的に壊され、奥州下村1万石へと左遷されます。  
それに先立ち、田沼意次は息子の意知(おきとも)を、城内で暗殺されるという悲劇で失っています。下手人は佐野正言(まさこと)。個人的な恨みで殺されたと言われていますが、これも怪しい。定信が裏で手を引いている可能性はあります。当時のオランダ商館長は、幕府の高官が関わっていたと書き残しています。  
と、申しますか・・・。  
そもそも、定信の父・宗武は、家重と将軍位を巡って争って負けているわけです。当然、定信とすれば面白くない。自分の父は英明の誉れ高く、かたや家重は言語不明瞭で意味がわからない。何であんなやつが将軍位を。そして、当然、家治もむかつく、と。そんな全ての鬱憤を、下っ端である田沼意次にぶつけたんではないかと思います。  
ちなみに、家治は重病に陥ったときに、田沼意次が推薦した医者の薬を飲んで危篤に陥りました。このため、定信は意次が家治を暗殺したんだと言い回ります。ですが、ちょっと考えれば解ることですが、意次は家治が生きていないと権力の座から落とされてしまう。むしろ、家治が生きていたら困るのは誰か。・・・はい。  
う〜ん、真相は闇の中ですが、権力闘争は恐ろしいですね。では、次のページで政策を見ていきましょう。  
3.田沼意次の政策  
さて、それでは田沼意次がどんな政策をやったか見ていきましょう。  
時代的な背景や、いわゆる抵抗勢力の妨害で成功しませんでしたが、荻生狙来と並んで、幕府には数少ない経済通。  
重商主義政策をとるという、先見性の持ち主。  
彼が才能を愛した発明家・平賀源内と共に、登場にはまだ早すぎたのかもしれません。んで・・・・。  
1.予算システムの導入  
まずはこれですね。意次は、予算という考えを導入します。元々幕府は裕福なため、何か必要になったら、その度に金蔵からお金を引っ張り出してきていました。が、当然財政が悪化するとこんな事はやっていられない。そこで意次は、前もってどこの部門にいくら予算を使うか、きちんと立てておくことにしました。  
2.将軍・大奥予算の削減  
意次は大奥に機嫌をとる一方で、実は予算も削っています。いったいどんな魔法を使ったんだか。この部門の予算を削るのに成功したのは彼だけではないでしょうか?具体的にどれほど削減したかというと、20年間で約1万両の削減です。また、将軍周辺の予算も削減しています。ただし、緊縮財政かと言われればそうではなく、江戸町奉行とか内政部門には普段通りの予算を与えています。  
3.飢饉の対応  
天明の大飢饉の時、東北地方は大凶作に見舞われました。この時田沼意次がとった政策は、日本全国から米の余っているところは、東北地方に売り惜しみをしないようにという命令。実際、からなず日本全国が大飢饉になることはなく、むしろ豊作になる地域もありました。実はこの時、領民に1人もが死者を出さなかたったとして評判の高い松平定信。なんのことはない、彼は上方(大阪)で、米の買い占めを行った他、会津藩の松平家からも1万石を取り寄せています。当然、定信が買い占めた米は東北に出回らないわけで・・・。とはいえ、意次の考えもむなしく、結局上手く米が出回らずに、東北の飢饉は防ぎきれず、定信が注目されたわけです。領民にとって見れば、定信の方が有り難いのは事実ですね。  
4.年貢税から商業税へ  
幕府の収入と言えば年貢にかかっています。ゆえに、増税と言えば農民からいかに搾り取るかでした。ところが、田沼意次は商業の方に税金をかけることを考え出します。これは、荻生狙来も酒に50%の税金を実行しましたが、新井白石によってやめさせられています。で、田沼意次が商業全体に税金をかけようとすると、当然の事ながら商人達はいやがります。そこで・・、「株仲間」というグループを各産業ごとに承認し、そこに独占的な販売権を与えます。こうしてお互いに思惑が一致。  
5.貨幣制度の見直しと統一  
この時代、江戸では金、大阪では銀が通貨として使われていました。しかし、この2つの都市は商業的に結びつきが強く、両替することが多かったんです。ところが、その両替に統一的なルールがない。また、金は貨幣の形で流通していましたが、銀は固まりをちぎって重さで価値を表した物でした。そこで、両替には両替商が天秤で量っておこなっています。もちろん、中間マージンと手心でもうけています。そこで、銀をきちんと貨幣の形にして、そこに「この銀は60匆(そう)で金1枚」と彫って、流通させました。また、明和時代に発行された銀には「5匆で金1枚」としました。次第に金と銀を近づけているわけです。この後、もう一段階近づけられましたが、結局、松平定信によって潰されて元通りにされています。あ〜あ、もったいない・・・。日本に統一貨幣が出来るのは、明治時代まで待たないといけませんでした。  
6.蝦夷地(北海道)の開拓  
吉宗時代から、次第に東北、さらにその北というのも特産物の宝庫ではないのかと注目されるようになります。これは、吉宗が行った「諸国物産調べ」のから判明。吉宗も米政策以外に色々やっていますな。で、それまで自由放任状態だった蝦夷地。松前藩というのが江差に置かれていて、そこに勝手にアイヌ支配などを行わせていましたが、意次は自ら蝦夷地の経営に乗り出します。ちょうど工藤平助という学者が「蝦夷地の調査を!」と論文を提出していたので、早速調査隊を派遣。この調査隊によって測量が行われ、蝦夷地の面積が算出されます。これは農業開発すると大きな収入になると考えた意次。しかも、アイヌ民族がいます。彼らに開発をさせてしまえば楽勝。・・と、ここで不幸にも意次は失脚。もちろん、松平定信はこの計画を握りつぶします。ようやくこの計画が実行されるのは明治政府が登場したときですね。  
7.印旛沼の開拓  
北海道だけでなく、すぐ近くの印旛沼という大きな沼地を農地に変えようと干拓事業に乗り出します。さらに干拓だけではなく、利根川と連結して水路を造り、新たな運河を造って北方との流通をよくしようと考えたわけです。ところが、3分の2まで進んだ時点で大洪水が発生。事業は中断しました。もちろん、松平定信はこの事業も握りつぶし。ここまで来ると悪役ですね。でも、この人はこの人でなかなか良い政策を行っているので、それは後でしっかり見ていきます。この事業は、後に水野忠邦も行おうとしました。ところが、やはり洪水で失敗。ちと難しいのかもしれません。  
 
寛政の改革と幕府財政の崩壊

 

日本史学者の間では、松平定信という人は、非常に人気の高い人です。そのため、寛政の改革は、教科書などでは、基本的には肯定的なトーンで語られるのが普通です。  
確かに寛政の改革の中には、優れた施策がいくつも見られます。しかし、財政改革という観点から見る限り、それは時代錯誤以外の何ものでもありません。  
その意味で、江戸財政改革史は、田沼時代で終わりを告げることになります。本章を終章とした理由です。では、なぜ寛政の改革は、財政改革ではあり得ないのかを、以下に見ていくことにしたいと思います。 
1.田沼意次と松平定信の死闘

 

(1)松平定信略歴  
田沼意次が、武士の最下級から、才能と努力だけを頼みによじ登った人物とすれば、その政敵、松平定信は、吉宗の孫ですから、徳川封建体制の中ではエリート中のエリートといえます。  
定信の父、田安宗武(むねたけ)は、吉宗の次男で、兄家重より遙かに才能に優れていると、当時いわれ、幕臣の多くは、彼が吉宗の次に将軍に就任することを望んだといわれます。家重登場と同時に、吉宗の股肱の臣、松平乗邑が失脚しますが、巷説によると、これは彼が宗武擁立を狙って陰謀を巡らしたのが原因です。  
しかし、吉宗は、長男家重をそのまますんなりと将軍とし、宗武には田安家を起こさせました。この田安家に加え、吉宗三男の宗尹(むねただ)が一橋家を起こします。また、家重の次男重好(しげよし)が清水家を起こします。この三家を、紀伊、尾張、水戸の御三家に対して、御三卿(ごさんきょう)と呼びます。御三卿は、家光の創設した館林徳川家や甲府徳川家と同じように、御三家に比べて時の将軍により近い血筋です。したがって将軍位継承にあたっても、より上位にあります。御三卿は、館林徳川家などとは違い、領地を持たず、幕府からそれぞれ10万石相当の現物支給を受けます。したがって、大名としての取扱は受けない、という変わった家柄です  
定信は、田安宗武の六男(七男という説もあります)として、1758年に生まれます。1772年(73年という説もあります。)に、幕命により、定信は、奥州白河松平家の養子となります。本来なら、冷や飯喰いの末子なのですから、そう文句のないところでしょうが、彼本人は、田安家よりも家格の低い松平家に養子に行かされることに、かなり不満があったようです。というのも、その時点で田安家の当主であった長兄治察(はるさだ)には嗣子がなく、また、この長兄と定信の間の兄たちも既にいなかったため、田安家の中では定信は推定相続人と考えられていたからです。そこで、自伝「宇下人言(うげのひとごと)」の中でも、名はあげませんが、この養子縁組みを推進した従兄一橋治済(はるさだ)に対する不平不満を書いています。  
そして、定信が松平家の養子ということになって間もない1774年に、田安家当主の治察(はるさだ)は危惧されていたとおり、病気で死亡しました。嗣子がいないため、田安家は相続人不存在の状態になりました。実はこの時点では、まだ定信は田安家に暮らしていて、松平家には移っていないのです。そこで田安家では、養子縁組を解消して、定信を当主としたいと希望しました。しかし、幕府では、養子縁組が成立している以上、定信はもはや田安家の人ではない、と決定し、彼の相続権は否定されたのです。田安家は、このために、一時的に廃絶状態となりました。  
その後、今度は将軍家治の嗣子である家基(いえもと)が死亡します。そこで一橋治済の四男(もっとも上はすべて死んでいて、家督相続者です)である家斉が、1781年に家治の養子となり、将軍家を継ぐことになりました。白河松平家に養子に行かなければ、定信が田安家の相続人になっていたことは間違いありません。そして、田安家は吉宗の二男、一橋家は三男という家格及び定信の方が、家斉より年齢的にも上という要素を加味して考えますと、定信が田安家を嗣いでいれば、そのまま将軍になっていた可能性は、非常に高いといえます。  
なお、田安家は最終的には、一橋治済の子が養子に入って再興されることになります。要するに治済は、将軍家、田安家、一橋家の三家を自分の血筋で独占してしまったわけです。治済の政治的辣腕ぶりには驚かされます。こうしてみると、多分に結果論的なところがありますが、定信が治済を怨むのももっともと思われます。  
しかし、一橋治済は、家斉が世子になるまでは意次と密接な協力関係をとっていましたが、なぜか、その後立場を一転し、むしろ反田沼派の黒幕となり、定信を老中にするために積極的に活動しました。また、家斉時代は、一貫して隠然たる力を持ち続けました。このため、子孫でさえも、老中になった者しか見てはいけない、という条件付きの自伝の中でさえも、あからさまに治済の名をあげて不満を書けなかったのでしょう。  
定信が田沼意次に対して持つ怨念には、また別のものがあります。定信が白河松平家に養子縁組みするに当たって、田沼意次がどのように動いたのかはよく判りませんが、定信は、意次が治済と組んでの画策とも信じていました。その上、前に述べたとおり、天明の大飢饉の際には、定信は幕命に反して、藩士や領民の救済を行いました。このため、田沼時代が続けば、早晩禁令違反ということで処罰されることは必至でした。  
こういう状態は、逆に、自分を処分しかねない人間に対する敵意を募らせるものです。そこに、政治理念の根本的な対立という要素を加えると、定信が意次を憎むのも、またもっともいう気がします。実際、天明の大飢饉の終わった1786〜7年頃に将軍に提出した公文書の中で、明確に意次のことを敵と呼んでいます。定信は、また、意次を殿中で2度も自ら刺そうとしたといいます。  
意次の息子、意知が殿中で暗殺された黒幕は、定信だったと、当時長崎のオランダ商館長だったチチングが書いています。引用すると、  
「様々な事情から推察するに、幕府のもっとも高い位にある高官数名がこの事件に関係しており、この事件を使嗾(しそう)しているように思われる。」(ここでいう高官とは松平定信のことであることは文脈上はっきりしています)。チチングは続けて、「元々この暗殺計画は、田沼意次・意知親子の改革政治を妨げるために、意次の方を殺すものだったといわれる。しかし父親の方はもう歳を取っているので間もなく死ぬだろうし、死ねば当然その改革計画も止むであろう。しかし息子の方はまだ若い働き盛りなので、彼らがこれまで考えてきた様々な改革政治を実行するだけの十分な時間がある。また、大事な息子を奪ってしまえば父親にとっては痛烈な打撃となるはずで、改革の動きも鈍るだろう。こう考えて、息子の方を殺すことに決定したのである」とあります。  
在日外国人という客観的立場の人間の文章ですから、かなりの信頼性があると思われます。確かに、自ら意次を刺そうとしていたくらいですから、人をけしかけるくらいのことは当然やっただろう、という意味でも、うなずける話です。  
とにかく、意次が全くあずかり知らない間に、一方的に敵意を燃やしてくる相手ほど、始末の悪い敵はありません。  
(2)政権交代時の死闘  
田沼時代から、寛政の改革への移行は、幕府政権交代史で稀にみる死闘となりました。普通であれば、先の政権の実力者が罷免されますと、その他大勢は、次の実力者の下へと、さっさとバスを乗り換えます。中には、天保の改革時の鳥居甲斐のように、それまで庇護を受けていた実力者の命運を見切って、事前に積極的に裏切ったものまでいます。  
そして、失脚した実力者はおとなしく席を明け渡します。その代わりに、それまで獲得した石高は保障され、特別の処罰は受けない、というのが基本パターンといえます。  
しかし、この時は、リーダーである田沼意次が失脚した後も、先の政権におけるその他大勢組は、あくまでも定信の老中就任を阻もうとします。さらに、定信が老中に就任し、勝負がついたように見える後も、その政策の実現を阻むべく、全員が玉砕するまで抵抗し抜きます。時系列的に見てみましょう。  
意次の良き理解者であった将軍家治が死亡するのが1786年8月6日です。この結果、将軍がわずか15歳の家斉という、譜代勢力にとっては絶好の好機が降って湧きます。側用人政治の成立には、あくまでも強い将軍が必須の要件だからです。そこで、長いこと将軍中心の側用人政治で、脇に押しやられていた譜代・門閥勢力、特に御三家と家斉の父一橋治済は、この機会に政治の主導権を取り返そうと俄然活動を開始します。その結果、意次は、8月27日に老中を罷免させられます(家治の生前に罷免させられていたという説もあり、この時期についての正確なところはよく判りません)。  
最初の頃は、松平定信はすぐにも政権が握れると、甘いことを考えていたようです。というのは、意次が罷免させられると、すぐに水野忠友が、自らの養子としていた意次の四男意正(おきまさ)を離縁したからです。意次とそれほど近い関係にある者までが、意次を見捨てるのであれば、政権移行は簡単と、定信が思うのも無理はありません。  
しかし、この離縁は、たまたま時期的に意次の失脚と重なっただけのことです。実際には意次側の必要で、彼を田沼家に戻すようにと、その前から話し合いが行われていて、したがってこの離縁は双方が納得して平穏裏に行われた、と私は考えています。なぜなら、この意正は、意次の死後、田沼家を嗣いだ人物ですが、彼は、彼の後に水野忠友の養子となった水野忠成(ただあきら)と親しく、この二人は、寛政の改革が失敗した後、政権を握って、父親達譲りの重商主義に基づく財政改革を行うことになるからです(大御所家斉の浪費のおかげでほとんど効果を上げることはできませんでしたが・・)。もし田沼失脚のこの時、巷間で言われるように、手切れの意味で離縁されたのであれば、このような親しい関係が水野家と田沼家の間に残ることはなかったでしょう。  
したがって、田沼派の抵抗はそれ以降、逆に俄然激しくなっていきます。幕閣ばかりでなく、大奥までが一体となっての抵抗運動が繰り広げられ、なかなか後継政権については、門閥勢力の思うとおりにはなりません。  
何より、将軍と老中とを結ぶパイプ役である御側御用取次は完全に田沼派で押さえているのですから、門閥勢力としても、勝手に上意を作り出すことは不可能なのです。そこで、翌1787年の正月の年賀の際には、意次は依然として家臣の筆頭の位置に座って、その存在を誇示します。まだまだ敗者復活の余地が十分にあると、彼も彼の支持者達も考えていたのです。  
門閥側に運の良い?ことに、1787年5月20日から24日まで、江戸で激しい打ち壊しが起きます。その時、御側御用取次が、その情報を新将軍家斉に幾分脚色して伝えました。  
門閥勢力は、このチャンスを生かして、まず御側御用取次の責任を追及しました。その結果、本郷康行(やすあき)が5月24日に罷免されたのを皮切りに、意次の甥である田沼意致(おきむね)が5月28日に、横田準松(のりとし)が5月24日に、それぞれ罷免されるという大量粛正が、ここで敢行されます。  
こうして、将軍との間の壁が取り払われ、道が開けた結果、門閥勢力のエースというべき松平定信が、ようやく老中に就任できたのは6月19日です。定信は、老中就任と同時に老中首座に座り、直ちに寛政の改革の大号令を発します。ところが、普通の政権交代だとしっぽを振ってついてくる同僚の老中たちが、定信に対しては消極的な抵抗を展開します。その結果、新しい法令を出すことができないものですから、幕政は依然として田沼時代の法令に従って動いていきます。  
そこで、定信は老中達の粛正を考えるようになります。まず、大老井伊直幸を9月11日に罷免します。そして、定信の腹心というべき松平信明(のぶあきら)を翌1788年2月2日に側用人として送り込み、将軍との連絡手段を確保します。しかし、その程度の人事異動では、田沼時代の政策は、依然として存続し続けます。  
この時期に、定信は、同僚の老中達のことを無為・無能とののしる手紙を書いています。実際に無能なのであれば扱いは楽でしょうが、本当は、サボタージュ戦術に出て、定信の改革を阻んでいるのであり、定信もそのことを承知しています。  
その証拠に、単なる首座では改革を行うのに必要な十分な指導性を発揮できないとして、自分をもう一段格上げするよう、御三家や一橋治済に申し入れているのです。格上げ方法がいろいろと検討されましたが、結局、治済の強力な後押しを受けて、翌1788年3月4日に定信は将軍補佐役に就任しました。秀忠の隠し子であった保科正之以来の待遇です。  
この地位を背景に、定信は、まず老中水野忠友を3月28日に、同じく老中松平康福を4月3日に、それぞれ罷免する事にようやくのことで成功します。そして、その後任として、つい半年前に側用人にしたばかりの松平信明を4月4日に老中に昇格させることを皮切りに、老中就任以前に「刎頸の交わり」をした、自分の腹心達を老中職に据えることで、ようやく寛政の改革の体制が確立するのです。田沼意次が老中から失脚したときから数えると、丸2年がかりの死闘が、こうして終わったのです。  
なぜ田沼派は、このように全滅するまで、徹底抗戦を行ったのでしょうか。これは決して意次という個人を守るための抵抗ではありませんでした。定信が、怨念が一時に吹き出したように、田沼意次の領地を没収し、せっかく築いた新城を破却するという、慣例を無視した厳しい処分を行った際にも、田沼派の老中達は、特段の抵抗はしていません。  
彼らが、全滅を賭して守ろうとしたものは田沼政権の政策それ自体だったのです。すなわち、この政権交代が江戸幕政史上異例のものとなったのは、これが単なる為政者の交代ではなく、基本的な価値観そのものの交代だったからです。  
価値観の対立の第一は、側用人制度に代表される、身分にこだわらず、能力ある者が政治の実権を握るという能力本位の政治に対する、門閥に代表される身分中心の政治という対立です。  
今一つは、重商主義対重農主義の対立です。何度も述べてきたとおり、田沼時代における基本的なイデオロギーは、商品経済の発達を直視して、そこに何とか幕府財政基盤を確立することにありました。これに対して、定信は、こうしたイデオロギーを全面的に否定してきます。彼自身の言を借りれば、重商主義政策を採れば「利を以て導き候えば利を以てしたがい候間、自然と下に利にのみ走」ることになるというのです。「貴金賤穀」、すなわち金を重視し、穀物を軽視するのは本末転倒だとも主張します。  
このように、二重に時代錯誤的な主張を行われれば、政治家として一片の良心でも持っていれば、玉砕覚悟で、徹底抗戦に打って出るのも無理のないことです。  
(3)定信政権の実像  
田沼派が、徹底抗戦したもう一つの理由は、玉砕にはならない、という見込みがあったためと考えられます。すなわち松平定信の権力基盤はかなりもろいので、十分に時間を掛けて抵抗していけば、定信派はいずれは自壊すると考えていたはずです。  
というのも、表面的には将軍補佐役という絶対権力を握ったかに見える定信でしたが、実際にはそれは一橋家や御三家の同意と協力の下に勝ち得た地位であるだけに、その権力基盤はかなり脆弱でした。つまり、その権力基盤を保ち続けるためには、一橋家に代表される譜代勢力の信頼を失うわけには行かなかったからです。  
享保の改革の前夜、吉宗は、譜代勢力の信頼を集めるために、様々なパーフォーマンスを行う必要があったこと刃先に紹介したとおりです。しかし、彼の時には、直接の対象となっていたのは、前代の遺産である無能な老中達でしたから、彼らが満足する程度の形式さえ整えてやれば、後はかなり自由に活動することができました。  
これに対して、定信が満足させなければならないのは、一橋治済というきわめて老獪な政治家です。彼を満足させるためには、あらゆることについて、彼の意見を斟酌してやる必要があります。したがって、定信政権では、政策は、幕閣で決められるのではありません。事前に、まず一橋家や御三家に根回しをして、その同意を得てから、ようやく将軍に上奏し、允許を得るという羽目に陥ったのです。  
定信の政治については、合議制的だという説と、専制的だという説の二つがあります。が、話は単純で、御三家等との関係では合議制的であり、幕閣においては専制君主だったのです。既に、御三家の同意の得られている案件について、改めて幕閣で討論して変更することは、彼の政治基盤の性質上不可能ですから、専制的にならざるを得ないのです。このため、彼は、刎頸の友で固めたはずの幕閣の中で、次第に浮き上がってきます。  
定信が、こうした自分の権力基盤をコントロールするために持っていた事実上唯一の武器は、彼が、幕閣内に存在する田沼派と戦うために譜代勢力の持っている唯一の駒である、という事実そのものにありました。  
自分が欠くべからざる存在であることが判っているとき、自分の政策に味方が反対して思うようにならなければ、よく使われるのが、辞める、と脅かすことです。定信も、この手法を使いました。濫用した、といった方がよいでしょう。わずか6年の在職中にも、度々辞表を提出し、その都度、家斉から慰留を受けています。慰留を受けるという形式を踏むことで、その絶対的な地位を確認し、権威の拠り所としたのでしょう。  
どんな武器でも濫用すれば、その威力は薄れます。最終的に、1793年に、定信が将軍補佐・老中首座の地位を解任されたのは、一橋治済との対立が原因となって将軍と衝突したためでした。この時には、もはや家斉は少年ではなく、青年になっています。定信を使わなくとも、自分自身がリーダーシップをとることで、十分に反対勢力を押さえつけることが出きるまでに成長しています。だから、定信がいつもの脅しに出たとき、それを無造作に受理したのは当然のことでした。この時、定信の「刎頸の友」達は、田沼没落の時の同僚達とは逆に、むしろ彼の足を引っ張るような行動に出ます。彼がいかに幕閣内で浮き上がっていたかが、よく判ります。  
定信が政権を握ったのはわずかに6年間にすぎません。これでは、ほとんど意味のある改革を実行することはできなかったはずです。この時間を短さを補うため、従来、日本史学者は、その後も、いわゆる「寛政の遺老」達の手により、寛政の改革は続けられたと説明します。しかし、定信退陣後は青年将軍家斉のリーダーシップが発揮され出す結果、退陣の前と後とでは、政策の中味にも顕著な違いが見られます。それを寛政の改革の延長というのは、家斉に対する過小評価が基礎にあるためと思われます。 
2.寛政の改革の基本方針

 

寛政の改革については、よく、享保の改革を理想として実施された、といわれます。定信の持つ権威の由来は、吉宗の実の孫という点にありましたから、彼がスローガンとして、享保の昔に返せ、と主張したことは事実です。  
しかし、政策の内容を見ると、むしろ、享保の改革の否定であることに注意するべきです。彼が目指したのは、享保の改革どころか、その前の綱吉政権の改革さえも否定して、江戸初期の封建体制の時代に、強引に時計の針を戻すことでした。  
例えば、1788年に出された、寛政の改革のシンボルともいうべき倹約令を、適宜現代語訳しつつ、次に紹介しましょう。  
「百姓の儀は、粗末な服を着、髪などは藁をもって束ねることが、古来の風儀である。それなのに、近頃は何時からともなく贅沢をして、身分の程を忘れ、不相応の品を着用しているし、髪には油や元結を用いているので、費用がかかる。その結果、村も衰え、離散するようになっている。一人が離散すればその納めるべき年貢は、村が代わりに納めなければならないから村全体が難儀をする。〈中略〉百姓どもは、だから少しも贅沢すべきではなく、古来の風儀を忘れるべきではない。百姓が、余業として商いをすることも、村に髪結い床があることも不埒なことである。以後、贅沢なことを改めて、随分質素にし、農業に励むべきである。」  
これは、明らかに1643年に出された、寛永の土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)の復活です。前にも説明したように、これと、その同年に出た田畑勝手作りの禁の二つが、徳川封建体制の基礎でした。そして、綱吉以降の財政改革は、社会の変化に対応する形で、この二つの禁令を緩和すること方向で行われてきたのです。特に、享保の改革において、大幅緩和が実現されたことは、先に説明したとおりです。ですから、寛政の改革を享保の改革を理想としたものと説明するのは、明らかに誤りなのです。  
以下に彼の代表的な政策を見ていくことにしましょう。 
3.機構の修正

 

今までですと、機構改革と銘を打っていたところです。しかし、定信の行ったのは、改革というよりは改悪に近いと思っています。そこで修正という表現にしてみました。  
(1)勘定吟味役付き組織の廃止  
定信は、あれほど賄賂政治を糾弾していたのに、なぜか財政監督機関の重要性を認めず、勘定吟味役付の組織の廃止を行います。すなわち1788年8月といいますから、定信が実権を握った直後ですが、吟味方改役、同改方並、同改方下役を廃止して、すべて勘定奉行の下に移管し、勘定所の各課に配置した上で、吟味役の業務を行うという体制にしました。下役制度は、この際、廃止されています。  
元文の改革の一環として、勘定奉行は、公事方、勝手方の別無く、全国の代官所を分担したと述べました。その際にも、勘定吟味役だけは全員が、全国を担当する、という体制だったのですが、定信は、勘定奉行と同様に、地域割りをして、担当することに変えました。  
もちろん、会計検査を行うものが、会計検査対象業務を行う者の指揮監督下にあり、検査補助員たる下役もいないというような状態で、まともな検査ができるはずもありません。しかも、その中から欠員が出たときには、新規補充を行わない、というのですから、定信政権が長く続けば、やがては勘定吟味役はすべての手足を失って、単独で活動しなければならないことになっていったはずです。  
おそらく、定信は、勘定吟味役を勘定奉行に対する監査役ではなく、勘定奉行の次席としか理解していなかったためと思われます。  
こうした馬鹿げた変更は、定信が93年に失脚しますと、当然のことながら、元に戻されることになります。すなわち1795年8月には改役等は、全員が従来通り、勘定吟味役の支配の下に復帰したのです。  
なお、勘定吟味役下役も復活しましたが、8名に限られています。これは、定信失脚と同時に、幕府が大幅な人員削減に乗り出したことを反映しているようです。すなわち、翌1796年には勘定所総定員が232名に削減されます。その課別の配置人数を見ますと、御殿詰め22名、勝手方40名、取固方47名、道中方10名、伺方41名、帳面方43名、評定所29名となっています。評定所は、裁判所事務官ですから、そこの人数は、勘定所業務の実戦力にはなりません。  
(2)租税政策  
定信には、これという租税政策が見あたりません。田沼時代の重商主義的増税策を基本的に否定していますから、租税対策としてとれることは、封建政権としては昔ながらの手法、すなわち年貢米の増徴です。しかし、天明の大飢饉の後で、農村人口の減少が著しく、享保の改革の時の神尾のような荒っぽい増税策がとれないのは当然のことでしょう。そこで、農業人口の確保による農業生産力という方策だけが唯一の選択肢となります。  
定信の法令万能主義は、こうした場合に、きわめて単純な法令を発させます。すなわち、農村で農民が不足していますのに、江戸等へ農民が奉公にでるのはけしからぬという発想で、1788年に「出稼奉公制限令」を出します。人数の少ない村から奉公にでることは認めず、奉公にでても耕作に影響のない村の場合でも、代官や領主の添え状を町奉行所に届けなければ江戸への奉公は認めないというものでした。  
しかし、一方において農村では金銭収入が得られないという問題があり、他方においてこうした出稼ぎ農民が江戸の労働力不足を補っていた、という経済構造そのものは全く手を着けていませんから、当然の事ながら、あまり実効性があがらなかったといわれます。  
こうした農村の疲弊を救うため、代官所制度を改善し、代官が機動的に年貢の軽減等を行う権限なども認めています。当然のことならが、年貢米収入の減少につながる施策です。  
(3)通貨の改悪  
田沼政権では、長期に渡って、市場から丁銀を回収し、これを原料に南鐐を製造しました。南鐐は、原料は銀ですが、金貨として通用します。したがって、市場全体からいえば、銀貨が減って、金貨が増加しているということになります。したがって、金=銀の交換レートが、品薄の銀貨が高くなる方向へと動いていくのは、市場の必然です。田沼時代の末期には、市場での金=銀レートは、金1両=銀50匁程度になっていたといわれます。公定レートが金1両=銀60匁ですから、それに比べると随分金貨が弱くなったことになります。  
定信は、南鐐を発行することの持つ長期的な狙い、すなわち金本位制と銀本位制という二重通貨構造の打破、ということは理解できません。単に、幕府財政の基本通貨である金貨が、商人の通貨である銀貨に比べて弱くなっていることは悪いことだと考えます。そうでなくとも、南鐐はにっくき政敵である田沼意次の通貨政策の中心です。そこで、政権を握ると早速、南鐐の発行を中止し、代わって、丁銀の製造を始めます。  
秤量通貨を新たに製造するというだけでも時代に逆行する馬鹿げた政策です。その上、この政策には、短期的にもはっきりした欠点があります。従来のように丁銀を南鐐に替えれば2割強の出目がでますが、南鐐の製造を中止することで、それを失います。そして逆に丁銀を発行するわけですから、南鐐を作る場合に比べて2割強の銀を追加負担しなければなりません。したがって、往復で5割近い損失が出ます。たとえ市場の交換レートが丁銀発行によって公定レートに近づいたとしても、その程度の利益では賄いきれない大きな打撃を、幕府財政に与えることになります。  
定信が失脚するやいなや、彼の「刎頸の友」であったはずの老中達が、南鐐の発行を再開し、幕末まで継続的に発行されることになります。これも、こうした財政事情を考えれば、無理のないことといえるでしょう。  
(4)蝦夷地対策  
寛政の改革は支出増の時代でもあります。  
支出増の要因としては、たとえば京都の大火により御所が焼失したので、莫大な費用を投じてそれを再建するなど、あまり幕府の役に立たない支出増加要因が目立ちます。定信になまじ学があり、尊皇思想をもっていたためです。  
しかし、定信が作り出した、幕府の財政を将来に向けて圧迫する今一つの、そしておそらく最大の要因は、蝦夷地対策です。  
田沼意次は、仙台藩士工藤平助の著した「赤蝦夷風説考」に刺激されて、蝦夷地防衛に乗り出しましたが、その際には、その資金繰りの目的から、蝦夷地開発を構想した、ということを前章において紹介しました。  
民間から同じような問題提起があっても、これが松平定信だと全く異なった反応となります。林子平は、工藤平助と同じく仙台藩士ですが、1786年に「海国兵談*」を著し、1791年までに逐次刊行しました。これに対して、1792年、定信は、みだりに国防を論じたことを罪として版木を没収し、子平を禁固刑に処したのです。  
しかし、そのわずか4ヶ月後には、ロシア使節アダム・ラクスマンが、漂流民大黒屋光太夫の送還を名目に根室に来航しますので、定信は、あわてふためきます。  
彼の国防思想には定見というものがなく、その結果、この事態にもその場しのぎの外交に終始します。ラクスマンに対する対策としては、長崎で中国船に与えるのと同じ信牌(しんぱい)を与え、長崎にくれば話し合うと騙して帰国させました。  
しかし、蝦夷地防衛が必要なことは、いかに石頭の定信にも否定できません。そこで、大慌てで防衛構想を立てるのですが、当然ながらきわめて不徹底なものでした。すなわち、同年12月に定信が提示した「蝦夷御取締建議」によると、蝦夷地支配は依然として松前藩に任せ、防備を強化させるというのです。これは幕閣の一部に残っていた意次の蝦夷地直轄構想を否定する、というだけの性格しかもたず、将来構想を全く含んでいません。  
定信の蝦夷地評価は子供のように単純です。田沼意次の言うように蝦夷地を開拓して沃野に変えると、ロシアに、その地を欲しいと思わせるので良くない、それよりは、誰も欲しがらない荒蕪地のまま放置しておいた方が国防上得策だ、と言うのです。蝦夷地が、シベリアの凍土に比べれば現状でも十分に沃野に見え、だからこそ積極的にロシアが南下政策を実施中という現実のすがたは、彼のご都合主義的発想の中からは、きれいさっぱり抜け落ちてしまっているのです。  
寛政の改革は、きわめて短い期間しか行われなかったので、このような一時しのぎの策でも、何とか間に合ったのでした。すなわち、定信は、その翌93年に失脚します。  
その後の蝦夷地の運命をここで簡単に見ておきましょう。  
老中首座は、その後長いこと、松平信明(のぶあきら)が占めることになります。彼は初期には定信の蝦夷地政策をそのまま承継しました。しかし、1796年になりますと、イギリス人ブロウトンが指揮するプロビデンス号が内浦湾に停泊するという事件が起こります。これに衝撃を受けて、松平信明は見分役を派遣して、東蝦夷地の調査を行うことになりました。その結果、蝦夷地防備を松前藩に任せるという定信以来の方針を撤回し、津軽、南部両藩兵が交代で松前に詰めることになりました。  
しかし、翌1797年、再度ブロウトンが来航しました。ここにいたって、松平信明は、ようやく蝦夷地の実態を正確に把握する必要を痛感し、1798年に大調査団を派遣して東蝦夷地、西蝦夷地の調査を行いました。この東蝦夷地調査隊には、有名な近藤重蔵が加わり、最上徳内とともに国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島に渡っています。近藤重蔵が、択捉島に「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標注を立てたのはこのときです。  
この結果、1799年に東蝦夷地を7年間の限定で、幕府直轄領にすることが決まります。翌1800年に松平信明は全蝦夷地の永久直轄を上申しますが、結局、1802年になって、家斉の決済により、東蝦夷地に限って直轄領化し、西蝦夷地については松前藩に任せるということが決定されます。しかし、1804年に目付の遠山景晋(かげみち=遠山の金さんの父)が西蝦夷地を視察し、松前藩には警備能力がないと判断しました。  
同年、ロシア使節レザノフがラクスマンに与えられた信牌をもって長崎に入港します。幕府は翌1805年まで回答を引き延ばしたあげく、遠山景晋を派遣して、ロシアとの通商は国禁で許すことができない旨を伝えさせます。そこでレザノフは、通商を実施するためには非常手段をとる外はないと決心し、1806年から7年にかけて、千島、樺太、択捉の各地の日本人番屋を襲撃しました。その間、津軽、南部藩兵との戦闘も繰り広げられることとなりました。  
こうした実地教育により、ようやく家斉にも蝦夷地防衛の必要が判り、1807年に蝦夷地全域が幕府直轄領となります。意次が蝦夷地の直轄を検討し始めてから、実に24年目のことでした。なお、防衛構想の一環として、間宮林蔵が樺太探検に出発するのは、この翌1808年の事です。  
しかし、15年後の1821年には再び松前藩が旧領に復帰することとなりました。これについては、通常、当時の老中首座水野忠成(ただあきら。一説にただしげ)が意次同様に側用人から出世した者で、化政文化の中で、田沼時代同様に賄賂が横行していたと言われることもあって、松前藩から賄賂により、水野忠成が独断で決定した、と簡単に片づけられるのがふつうです。しかし、むしろ松平信明等によって実施された蝦夷地の直轄地化は、意次の開発構想とは違い、もっぱら国防の観点から行われ、歳入増加策が組み込まれなかった点に、直轄打ち切りの理由を求めるべきでしょう。  
すなわち、蝦夷地の直轄により、幕府としても、毎年数万両に及ぶ支出を余儀なくされ、これは大きな負担でした。それ以上に大変だったのが、蝦夷地警備負担を命ぜられた東北諸藩です。連年の蝦夷地出兵により家臣団は疲弊し、それによる負担はその知行地へ転嫁されるしかありません。この結果、化政時代は、これらの藩は毎年のように百姓一揆に揺さぶられることになるのです。こうした状況の中で、運良くロシアの南下の勢いが止まってきたため、直轄の必要性もまた薄れてきたということとなります。  
ここに、松前藩復活の理由があるというべきです。その意味では、忠成の決断は、財政責任者としては当然のことで、非難さるべきものではありません。意次の構想のように、開発計画が組み込まれ、それが成功していれば、忠成の決断内容も違っていたと思われます。 
4.農村再建策

 

封建制度というものは、年貢米の納入能力を持つ小規模な自営農民(以下、「小農」と呼びます)が農村の中核となっている状態の下に成立しています。ところが、綱吉以降、特に、吉宗時代に豪農保護政策を打ち出して、それを基盤に幕府財政を立て直そうとしました。また、田沼期にはレッセ・フェールに徹したため、やはり特定の保護政策は採られませんでした。要するに、封建制の基礎というべき小農層及び貧農層を、長期に渡って無保護で放置してきた訳です。その結果、生活に困った貧農は、土地を捨てて離散し、現金収入を求めて江戸や大阪などの都市へと流出し、これが発展する都市商業に、重要な労働力を提供していたのです。  
定信は、その自伝「宇下人言」で、この点について、1786年には、その前の1780年の諸国人別改めの時に比較して、農村人口が140万人も減少している、といっています。  
(1)農村人口増加策  
重農主義を基礎とする定信としては、こうした農村の荒廃は許せない状況です。そこで彼は、他国出稼ぎ禁止令を出して、農民をその出身地に閉じこめる政策に出ます。  
他方、現に江戸にいる者を送り返すことも考えなければなりません。特に天明の飢饉の結果、農村の疲弊が激しく、農業人口が激減している関東・東北地方の農民であったものに対しては旧里(きゅうり)帰農令を出します。これは江戸にいる者で、機能を希望しているが、旅費や、帰った後の営農資金の不安から帰れないでいる者には、補助金を与える、というものです。これは同時に江戸の下層民対策という性格ももっていました。  
その手法として、補助金というソフトな手法がとられていることに注目すべきでしょう。この法令は、1790年、91年、93年と3度も出されました。しかし、江戸の生活になじんだ農民は帰農を希望することはなく、実効性はありませんでした。  
これと平行してとられたのが、石川島の人足寄場(にんそくよせば)の設置です。これは、鬼平の異名で知られる火付け盗賊改め方の長官長谷川平三の建言で行われたものです。田沼派失脚の原因となった天明の打ち壊しの原因となる都市における失業者層を収用して取り締まると同時に、彼らが職を得るために必要な職業教育を実施したのです。封建制下でとられた、という意味で非常に世界的に見ても珍しい労働福祉政策といえます。それまでは、狩り込みといって、無宿人の一斉逮捕などをすることもあったのですが、捉えたものは、単に溜まりと呼ばれる牢に放り込んで放置してあったため、千数百人も逮捕されると、そのうち千人は牢内で死ぬというすさまじい状況であったのです。  
農村の人口が、江戸期全体を通じて横這い傾向にあった大きな原因に、間引きと呼ばれる産児制限手法があります。赤ん坊が生まれたその瞬間に、産婆があらかじめ用意したしめらせた和紙でその鼻と喉をふさぎ、産声を立てる前に殺す、というやり方です。定信は、この間引きを禁止します。  
単に禁止するだけではなく、出産の奨励策として、児童手当の支給を行います。すなわち、1790年に出された法令によると、2人目の子どもから、赤子の養育費として金1両を支給するということになっています。これは1799年には、さらに1両を増加するというように、強化されます。このような児童福祉政策の存在も、寛政の改革の一環として注目してよい点です。  
しかし、どれをとっても福祉政策としての長所は、同時に幕府財政負担を増やすという短所と裏腹の関係にあったこと、少なくとも幕府財政赤字を減らすものではなかったことは、注意するべきでしょう。  
(2)減税政策  
農村の負担そのものを軽減する方策を積極的に導入したのも、寛政の改革の特徴です。それまでは、封建制の動揺を、幕府も、諸藩も、農民に負担を転嫁する方法で解消しようとしていましたから、これはある意味で抜本的な方向転換であり、有意義な対策だったといえます。  
その代表が、助郷負担の軽減です。街道沿いの農村は、年貢米の納付が免除されています。その代わり、大名行列その他の公用の旅がある場合には、その荷物を運ぶための人馬を無償で提供する義務が課せられていました。これが助郷です。おそらく、江戸初期においては、公用の旅行はそれほど多くなく、他の地域の年貢米負担と釣り合う程度の労力奉仕だったのでしょう。ところが、時代が進み、商品経済が発達するに連れて、公用旅行がうなぎ登りに増加します。これに対する人馬の提供義務は、それ自体が負担であることに加えて、それに拘束されている時間は農作業ができない、という形で街道沿いの農村に重い負担となってのしかかってくるようになってきたのです。  
そこで定信は、やはり1790年に、助郷による無償の人馬の提供は、朱印状による場合に限ることとし、その場合でも定量以外の荷物の逓送を禁止したのです。そして、規定以外の人馬の提供については、相当する貨幣の支払いを命じました。これは、農村に対する減税策です。  
しかし、当然のことながら、これは従来、助郷に依存していた公的旅行の負担増を意味します。したがって、幕府財政の限りでは、幕府官僚の公用旅費の増加を意味し、また、大名家に関してはただでさえ負担の大きい参勤交代費用を増加させて、その財政疲弊を加速するという効果をもたらすことになります。  
街道沿いではない農村に対する減税策としては、納宿(のうやど)の廃止があります。納宿とは、「宝暦のころより初り、村々より納る米を、その納やど引きうけて御蔵おさむる(宇下一言)」ものです。すなわち、納宿は、幕府直轄領の諸村から上納する年貢米の、計量から始まって、浅草の御蔵に納めるまでのそれに関する事務の一切を引き受けていたです。その事務に必要な手数料は、年貢を納める村々の負担でした。したがって、納宿の存在は、地方税的な性格をもっていたわけです。そこで、これを廃止し、代官が、納米の手続を農民に教示して、村方から直納にすれば、この中間搾取機関は不要になり、したがって幕府の収入には影響を与えずに、なおかつ減税が可能になる、というのが定信の発想でした。  
しかし、前にも紹介した代官所の手薄な勢力で、納米業務に不慣れな村方に十分教示するというのは、実際問題としてできない相談でした。しかも、納宿の機能は、そうした納米事務に限られていたわけではありません。納米廻漕の際、難船その他の理由から納米に不足が生じた場合には、村方に資金を貸し付け、その代わりの米の買い付けの世話をし、また、濡れ米等の売り捌きも引き受け、さらには幕府や諸藩の払い出し米を買い受けて仲買業を営んでいました。  
したがって、単に事務の指導を代官所等が行うだけでは、その機能を代替しきれないのです。そこで、結局、定信にできたことは、暴利をむさぼっていた納宿を辞めさせて、代わりに誠実を旨とする納宿を選定する、という程度に後退せざるを得ませんでした。  
(3)囲籾積金(かこいもみつききん)  
定信の農村対策の中で、特に有名なのが、飢饉用の食糧の備蓄を、農村共同体を単位として実施させたことです。  
定信が出てくる以前においても、幕府の主導による食糧の備蓄というものが行われていました。一つは、前に紹介した城米などです。しかし、それは主たる目的は、籠城戦その他の軍事的目的にありました。また、一口に三倉といわれるものもありました。社倉(しゃそう)、義倉(ぎそう)、常平倉(じょうへいそう)の三つを意味します。  
社倉は中国宋時代の朱子が唱えた社倉法という制度に由来するもので、領主が奨励金・米を出し、あるいは農民がその持ち高に応じて穀類を出し合い、備蓄する、という方法です。江戸初期に既に保科正之が導入しています。新穀が出るとそれと交換しますから、これを行うと、農民はいつも古米を食べる羽目になるのですが・・。  
義倉というのはこれに対して、古代の律令に由来するもので、富裕な者の慈善によって醵出された穀類を貯蔵しておいて、窮民に給与する、というものです。常平倉というのは、やはり古代に設けられた倉で、政府所有の米の一部を備蓄して、米価が高騰した際に放出したりする事を目的として設けられていたものです。鎌倉時代にいったんなくなりますが、江戸期に復活していました。  
定信は、各村落共同体に、こうした各種の倉を建てさせ、幕府直轄領に関しては10分の1の補助金を出して、籾の備蓄を行わせたのです。これが囲籾(かこいもみ)です。  
さらに、諸藩に対しても、囲籾を実施するように命じています。その御触書によると、幕府の財政が窮迫しており、本来なら享保の時同様に上げ米を命じたいところだが、天明の飢饉などのため、諸藩も辛いだろうから、その命令は出さない。その代わりに、各藩では1万石について50石の割合で1790年より1794年までの間、その領地内で囲籾を実施するように、という内容です。  
施策内容そのものは、新しいものではありませんが、このように、幕府領であると大名領であるとを問わず、全国的な統一の方法として徹底して行われた点が、寛政の改革の大きな特徴です。  
この囲籾は単なる飢饉対策ではない点も注目されるべきです。平時には、種籾をもたないような貧農に対して、種籾を貸し付けるという形を通じて、それら小農の農業経営の安定という機能をもっていたのです。  
積金(つみきん)というのは、倹約令によって浮いた資金を共同貯金の形でプールさせ、飢饉に対する備えにすると同時に、平時は営業資金の供給という機能を果たすことが期待されていました。  
このように、農業資金の供給がなぜ必要になるかといえば、吉宗の無理な新田造成策により、農業生産を引き上げるには、農村は金肥に頼らざるを得なくなっていたからです。  
また、先に倹約令は、寛永の土民仕置覚(どみんしおきおぼえ)の復活と説明しましたが、さすがの定信も、寛永の田畑勝手作りの禁までも復活させることはできませんでした。確かに、全国的に穀物生産の奨励を強調していますが、菜種、綿その他の有用な作物栽培については、例外であるとして、それを公認せざるを得なかったのです。このような換金作物の栽培の公認は、定信が農村の実状をよく押さえていたことを示しています。ただし、煙草、藍、紅花、桑(養蚕)などは、贅沢品と見たのでしょう、規制の対象としています。  
 
以上に見たように、定信の農村対策は、それなりに優れたものがあります。それと同時に、その優れた点は、福祉政策という点にあるのであり、福祉というものは、何時の時代にも、多額の費用を必要とするものだ、という点を忘れてはなりません。ここに紹介した施策もまたは、どれもかなりの費用を必要とします。定信は、幕府財政の立て直しをキャッチフレーズに登場したはずなのですが、その施策は、長期的にはともかく、短期的には歳出増の歳入現をもたらすものです。 
5.経済政策

 

定信は、生まれも育ちも江戸という大都会なのですが、なぜか農村に対する理解に比べて、都市ないしそこで営まれる商業というものに対する理解が非常に不足しています。  
定信の念頭にあるのは、さしあたり、江戸という都市に暮らして困窮している幕府の旗本・御家人の救済です。彼らの困窮の原因は、大別して二つありました。一つは、多年にわたる困窮から、蔵前の札指しに多額の借金を背負っていることから来る困窮です。今一つは、米が物価の中心から外れた結果、米は安いのに、他の物価は騰貴するために起きる生活苦です。  
田沼時代は、基本としてレッセ・フェールに徹していましたから、旗本・御家人の困窮に対して積極的な救済策は採られませんでした。田沼の評判の悪さのほとんどはこの点からきています。定信は、それぞれに積極的な救済策を実施しました。しかし、それが効果があったか、というと疑問です。むしろ、やらない状態よりも悪くなったと言った方がいいかもしれません。順次見てみましょう。  
(1)棄捐令(きえんれい)  
武士はもともと給料として米を支給されて生活している存在です。しかし、米という形での受け取りは、今日の現金での支給と違っていろいろと面倒な手続きがありました。そこで、御蔵からの米の受け取り手続を代行しする商人が登場してきました。これが札差しです。札(ふだ)とは、蔵米の受取手形の意味で、浅草の御蔵の前(すなわち蔵前)に店を開いている米屋が、米の受け取りを代行するにあたり、この札を割竹に挟んで、蔵役人の藁づとに差したことからこの名が生まれました。  
しかし、都市に生活する武士としては、大量の米の現物給付を受けても、そのままでは使いようがありません。市場で売却して現金に換えなければ困るのです。そこで、札差しはその販売も引き受けるようになりました。禄米100俵について、札差し手数料は金1分、販売手数料は同じく2分、計3分と公定されていましたから、これ自体はそう儲かる仕事ではありません。最大の業者でも年収600両程度だったといいます。  
ところが、都市における物価の上昇その他から、俸禄では暮らしていけない幕臣が続出するようになるにつれて、この札差しが金融業者となっていきます。幕臣の唯一の収入が禄米ですから、それを担保に金融をすることができるのは、札差しに限られたのです。次第に札差しは実力を蓄え、場合によっては幕臣の家計全般を把握するまでになっていったのです。  
この累積した債務を一片の法令によって棒引きにしようとしたのが、1789年に出された棄捐令です。もっとも、すべてを棒引きというわけではありません。これは、正確には二つの法令です。  
第1は、この法令の出る前5年以内の借金で、これについては、一律に金1両について銀6分の利息とします。銀1分というのは銀1匁の10分の1のことです。公定レートでは金1両は銀60匁ですから、要するに1%の金利ということです。これは月額ですから、年利に直せば12%ということになります。当時、札差しからの借り入れは、年利15%というのが普通でしたから、利子が20%下がったという程度で、大した違いはありません。  
問題は、第2の部分で、6年前の1784年までに借りた金は新旧の別なく切り捨てる、というのです。年利15%で借りていれば、元本相当額はほとんど返済済みだからというのが、その根拠です。しかし、適正金利が12%だとすると、過剰返済分は年3%、したがって、5年間でも15%に過ぎず、随分強引な定めであることは間違いありません。  
これによって、札差しが被った損害は、誰が計算したのか知りませんが、どの本にも、合計118万両と書かれています。このような莫大な経済的ダメージを受けたのでは、さぞかし、札差しの倒産は続出したはずと、常識的には思われます。ところが、実際には棄捐令により倒産した札差しは、皆無に近いと考えられています。棄捐令後の年であっても、それ以前の年と同じ程度の倒産件数しかないからです。  
つまり、実際には旗本・御家人達は、このせっかくの権利を行使しなかったと考える外はありません。それも当然でしょう、この権利を行使すれば、なるほどこれまでの借金は消えますが、これから金融を受ける道を閉ざされてしまうからです。また、借金さえ棒引きになれば、今後は金融は不要、という程度に財政状態が良い者の場合にも、札差しを今後は使えないということになれば、自分で人手を揃えて御蔵まで出かけて米を現物で受け取り、さらにそれを市場で売却しなければなりません。それができなければ、現金収入の道を失い、貨幣経済が支配する江戸では生きていけないことになってしまいます。  
つまり、この法令は、幕府の権威を大いに傷つけただけで、実際の困窮旗本の救済の役には立たなかった、ということになります。また、憤激した札差しの慰撫のため、猿屋町貸金会所を新たに設立して、2万両の貸付を行っています。彼らを慰撫しなければ、その後の御蔵の運営に支障が生ずることが、遅ればせながら、定信にも判ったためです。  
こうして、この法令もまた、幕府が2万両損をしただけという結果に終わり、その財政圧迫要因となりました。  
(2)御免株・座の廃止と強化  
定信は、織田信長以来の楽市楽座を、商業のあるべき姿と考えていましたから、株仲間の存在こそが、物価騰貴の原因であると考え、これを廃止します。したがって、株仲間を公認することから得られていた冥加金や運上収入の道を断ち切ってしまったことになります。  
また、田沼意次が専売制の意図から新設した人参座、鉄座、真鍮座もいずれも廃止されました。これにより、専売収入ももちろん入ってこないことになります。  
このように、歳入減を招いても、それにより物価が下がるはずだから十分に引き合うと、定信は考えたのです。ところが、実際には物価は下がりません。そこで後には逆に、経済政策の道具として適当と見て、田沼時代よりも積極的に株仲間の強化につとめるようになりました。  
しかし、この頃になると、経済構造の変化から、古くからの権益の上にあぐらをかいている消極的な株仲間に代わって、それに属さない進行の有力な商人が続々と台頭して、経済の実権を握るようになります。したがって、いくら株仲間を通じて統制しようとしても、その実効性を確保することが難しくなります。田沼政権のように、自然発生的な株仲間の公認であれば、こういう問題は起こらないのです。  
こうして、朝令暮改的な彼の政策は、いたずらに経済を混乱させただけにおわりました。  
後に天保の改革において、水野越前は、株仲間がその独占性のために物価高騰の原因になっていると見て、1841年に株仲間解散令を発しました。ところがやはり何の効果もないどころですか、流通が混乱してかえって物価の騰貴が起きましたので、1751年に再び認可しました。しかし、株の固定を廃止する代わりに、冥加金を廃止することとせざるを得ませんでした。したがって、天保の改革においても、株仲間は幕府の財政には何の寄与もしないことになります。  
結局、株仲間は、明治になって同業組合に改組し、今日に至ることになります。  
(3)七分積金  
七分積金は農村における囲籾の都市版というべき施策です。しかし、こちらの方は、農村における囲籾と違って、完全な失敗施策です。都市の各町が、かなり広範な自治権を共有していたことは、先に享保の改革の一環として説明しました(第4章3.(3)「社会資本整備と受益者負担」参照)。こうした広範な自治権をきちんと享受するには、当然かなりの経費を必要とします。今日であれば地方税という形で徴収されるものに相当します。借家人の場合、直接にはこの地方税負担はありませんでしたが、大家は、自分の負担を店子に転嫁しますから、結局家賃の一部として地方税額相当が徴収されていたわけです。  
農村における納宿の場合もそうでしたが、定信には、このような自治のための税負担の必要性が理解できません。そこで、それを止めろといえば、その分が浮くはずだと考えました。そこで、その70%(すなわち七分)を原資として囲い籾及び貧民救済用の積金を実施するように、と命じたのです。もちろん、地方税がなくなれば、それによって雇われていた人間を雇い続けることが不可能になりますから、その行っていた業務、すなわち木戸番、自身番や夜回り等の仕事は、各町の旦那衆が自分で実施しなければなりません。地方税のうち、20%は、そういう地主や大家の手間が増えた分に対する報酬としてとってよい、と定信は言っています。残り10%は町入用の余分として自治体が徴収してよい、というのです。  
この積み金の管理機関として町会所が設立されました。しかし、本来自治権行使に必要な地方税を、中央政府である幕府が勝手に免除しようとしても、うまくいくわけはありません。町会所は、貧民救済機関というより、家賃や地代の取り立て機関して機能することとなってしまいました。都市というものの機能に対する定信の無知が、こうした頓珍漢な政策をもたらしたのでしょう。 
6.寛政の改革の評価

 

田沼意次を高く評価する人は、寛政の改革は時代逆行の馬鹿げたものと決めつけます。一方、松平定信を高く評価する人は、田沼時代の政治はすべてだめで、寛政の改革は天国を作り出した、といわんばかりの誉め方をします。  
こうした一方に偏った評価は常に誤りです。既に紹介したように、田沼時代にも、思いつきのずいぶん馬鹿げた政治は確かにありました。が、そこで大切なことは、その推進した自由主義経済政策と、商業を幕府の財政基盤とするという方策は、おそらく江戸日本を近代国家にスムーズに移行させ、幕府をその政権として生き残らせるための最後の頼みの綱だったということでした。  
定信は、意次に対して個人的な敵意に燃えていたために、意次の推進した政策は、その善悪の程度など御構いなしに機械的に否定したところがあります。良い部分までも否定した点では、明らかに間違った政治だったといえます。  
他方、定信は、自由主義経済を飛び越えて、福祉主義実現のため邁進したところがあります。自由主義経済を信奉していた意次は、最後まで、こうした福祉主義の重要性を評価する思想に到達することはなかった訳で、定信のこの点は高く評価すべきでしょう。  
しかし、本稿が取りあげている財政改革という観点から見る場合、寛政の改革と呼ばれるものは、改革の名には全く値しません。  
一般に、日本史の通説では、幕府財政は、寛政の改革によって立て直されたといわれます*。しかし、寛政の改革で有名な政策は、上記のとおり、すべて幕府歳出額を増加させるか、歳入額を減少させる効果を持っていました。したがって、仮に財政が再建されたとすれば、それは収支のバランスを上手にとった、という方法に依らざるを得ません。しかし、そのための方策としては、倹約策以外には、何ら具体的方策を、定信の施策の中に見いだすことはできません。  
倹約策というのは、吉宗の享保の改革の場合、冗費の削減ということでした。しかし、その様な意味での倹約策は、大奥経費を例にとって説明したとおり、田沼時代に既に徹底した形で推進されています。したがって、この時点では、削れるような冗費はほとんどなかったといえるでしょう。  
この結果、寛政の改革における倹約策というのは、必要な支出も含めて、全支出の抑制、という形にならざるを得ません。  
施設管理の経験のある方は判ると思いますが、施設管理費というものは、削っても直ちには弊害が見えません。したがって、冗費といえばいえます。しかし、施設というものは、毎年度きちんとメンテナンスを行っていれば、最小限度の費用で長いこと利用が可能です。ところが、メンテナンス費用を削減して、崩壊するまで放置しておくと、もう取り壊して作り替える方が安上がりになってしまいます。そして、その場合、何もないところに作るよりも、取り壊し費用の分だけ高いものになります。  
寛政の改革における倹約策は、このように短期的には影響のでない経費を削るというものです。したがって、こういう倹約策では、表面上、資金が蓄積できても、何年かたてば、必ず反動で、一気に多額の支出を必要とし、倹約で蓄積した資金などは一撃で吹き飛ぶ、ということになります。これでは財政改革の名に価するとはいえません。実際、定信の跡を継いだ、松平信明政権の時代は、その倹約による資金の蓄積と、補修による赤字財政の繰り返しです。  
したがって、寛政の改革は、幕府財政の崩壊を決定づけたものです。間違っても再建に成功したとはいえないと考えています。  
定信は、老中首座に就任した後、わずか6年間で失脚します。しかし、これは意図的に、自ら選んでおこなった失脚の匂いが濃厚です。改革は長く続けられるものではないことを、彼は十分に承知していたのだと思います。  
辞職願いを出すに当たり、彼は自分自身を正宗の名刀に喩えています。名刀は、使わなければ何時までも名刀として価値があるけれど、使えば折れてだめになってしまう。だから名刀は死蔵した方がよい。それと同じで?定信も、老中として使わない方がよい?という奇妙な論理が、その中で展開されています。  
確かに名刀は使わなければ末代までも残ります。しかし、実際に政権を担当しない政治家にいったいどのような価値がある、と彼は考えていたのでしょうか。理解に苦しむたとえです。  
彼は、吉宗の実の孫であるだけに、世間の評判を非常に気にする体質を持っていますから、何時までも政権を持っていると、改革に失敗したときの非難を浴びることになるのを恐れたのだと思われます。  
 
定信の寛政の改革が失敗に終わった後、幕府は2度、積極的な財政改革を経験しています。  
一度目は、家斉の大御所時代に行われています。水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の子田沼意正のコンビによる、重商主義に基づく改革です。このため、この水野の改革は、田沼時代と同様、賄賂政治という代名詞の形で悪口を浴びせかけられています。その上、肝心の大御所家斉が、田沼時代の家治のように率先して節約に協力してくれるどころか、大変な浪費を重ねますから、ほとんど効果を上げることはできませんでした。  
今一度は、水野忠邦による有名な天保の改革です。この改革は、水野忠成の改革を失敗に終わらせた大御所家斉の死のタイミングを捉えて実施されています。しかし、この時点では、既に幕末の兆候が内外に現れており、彼の政策はそちらへの対策に大きく引っ張られていってしまいます。最終的に忠邦の命取りになった江戸・大阪周辺の土地を幕府直轄領にするという上地令も、国防目的の施策でした。しかも、父家斉に似て、将軍家慶は肝心なところで、忠邦を見放してしまっています。したがって、財政改革という観点から、天保の改革を評価するのは非常に難しいのです。  
それ以後は、幕末の動乱に巻き込まれ、幕府財政は混乱の一語に尽きるようになります。したがって、江戸時代においては、本当に財政改革の名に価する最後の組織的努力は、田沼意次の改革をもって終わる、と考えることができます。  
幕末の混乱の中から、非力な明治政府がいかにして日本国政府としての財政再建に成功していったか、という話は、これとはまた、別の物語です。  
 
御三家1

 

はじめから御三家があったわけではない  
武家の歴史は戦いの歴史である。  
敵は外だけに限らず、父子・兄弟など同族の間の敵を抱えることも多かった。特に源氏では、同族間で熾烈な争いが繰り返されており、正に血塗られた系譜といっても過言ではない。(家康が源氏であるかは別問題として)そういう意味では、家康が同父の兄弟を持たなかったのは幸いだったかもしれない。  
しかしながら、関ヶ原の戦いに勝利するために、多くの豊臣大名の力を借りて薄氷を踏まざるをえない結果となったことは、家康に強力な一門衆の必要性を痛感させた事だろう。  
一門衆が脆弱であった場合、衰退の道を辿るしかないことは他ならぬ秀吉が見本を示してくれているし、古くは自らの手で兄弟達を抹殺したために自分の血統が子の代にして根絶やしになってしまった源頼朝の例もあるのだから。  
関ヶ原の戦いの後、家康は、自分の子供達に大禄を与え、徳川家の覇権を支えさせるとともに一門衆の序列化を図ろうとした。しかし、同時に一門衆を強力にする事は、母屋を取られる危険を冒すことでもある。家康が身内に厳しかったと言われるのは、歴史を知っていたからだろう。  
一門衆の中でも家康の九男・義直に始まる尾張家、十男・頼宣に始まる紀伊家、十一男・頼房に始まる水戸家の徳川三家は御三家と称され、江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられている。  
家康は、はじめから後の世にいう御三家を想定していたのだろうか。実は家康存命中に三家が成立したわけではなく、五代・綱吉の時代まで紆余曲折の末に御三家の家格が成立したといわれている。そういう意味では徳川御三家は、家康の徳川一門創出構想の一環として成立したのであるが、家康の子供の中で家系を繋ぎえた結果、特別な家として扱われるようになったともいえる。  
家康の子供たちの運命  
家康の子供としては、十一男五女が知られている。男子をあげると、長男・信康、二男・秀康、三男・秀忠、四男・忠吉、五男・信吉、六男・忠輝、七男・松千代、八男・仙千代、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房となる。もっとも、「幕府祚胤伝」によれば、忠吉と信吉の間に松平民部、信吉と忠輝の間に小笠原権之丞がいたとされ、土井利勝や内藤信成も家康の子であるとの言い伝えが記されている。  
家康が没した元和2(1616)年当時の家康の子供達の状況を見てみよう。  
上の表から家康が没する時に生存していたのは、11人の息子のうち、三男・秀忠、六男・忠輝、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の5人だけである。  
このうち、忠輝は一時、越後75万石とも言われる大禄を与えられたが、自身の不行跡により改易に処せられており、家康の子で将軍家を補佐する役柄は当然の如く、義直・頼宣・頼房にしか担えなかったのである。もし、秀康や忠吉が長命であったならば、当然に徳川一門の構成もかなり違ったものとなったに違いない。  
家康の秘蔵子、義直・頼宣・頼房  
ところで家康の子供を見ると他家に養子に出された者が以外にも多い事に気付く。  
二男・秀康⇒羽柴秀吉、結城晴朝(下総結城5万石城主)  
四男・忠吉⇒東条松平家  
五男・信吉⇒武田家(穴山氏)  
八男・忠輝⇒長沢松平家  
養子と言っても東条松平家、武田家、長沢松平家の場合は断絶となる家を継いだもので秀康の場合とは事情が違うが、その家臣団を統率する立場に立たされるという意味では生家を出される苦労を十分に味わったことだろう。  
これに対して、義直・頼宣・頼房は、比較的早い時期に出生した兄たちと違って、ほぼ天下を手中にした家康の膝下で育てられ、いずれも幼くして大禄を与えられ、高官に任じられている。  
ここで3人の経歴等について、以下の表に簡記したので見ていただきたい。表を見ると家康の3人に対する溺愛ぶりがよくわかる。  
慶長12(1607)年、家康は駿府城に移り、江戸との二元政治を始めるが義直・頼宣・頼房をそれぞれの領地に下さず、死ぬまで自分の手元に置いている。  
もうひとつ、特徴的なのは義直と頼宣の官位を同時期に同位に昇進させている事である。頼宣と頼房が同腹であることを考えれば、頼房が一段下に置かれたことは致し方ないことかもしれない。  
このことが紀伊が尾張に対して同格意識を持つことになり、「柳営婦女伝系」などで御三家とは将軍家と尾張・紀伊を言うといわれる所以であろう。  
御三家の位置付け  
このように御三家の藩祖となった義直・頼宣・頼房は、家康により将軍家である兄・秀忠を親族として補佐すべく位置づけられた。  
家康は死に望み、義直に対して秀忠は主人であるから決して逆らう事があってはならぬと言って聞かせ、秀忠には3人を子のように慈しんで欲しいと依頼したという。秀忠は家康の遺言どおり3人を遇し、秀忠在世中は将軍家と御三家の間に波風は立たなかった。  
三代家光の時代になると、家光の弟・忠長が駿河、遠江55万石を与えられ独立する。忠長の官位は頼房より上位となり、序列では尾張・紀伊・駿河・水戸の順となり、当然ながら、この時期、まだ御三家という言葉は使われていない。  
忠長自刃により、駿河家は断絶するが、秀忠が没すると家光は「今より後天下に主たる者我一人なり」と宣言し、御三家をも臣下として扱うようになる。  
義直ら三人にとっては家光は甥である、甥ではあるけれども宗家の当主にして武門の棟梁であって家光に弓を引く気は持ち合わせなかっただろう。しかし、彼らには家康の膝下により育てられた権現の子という強い自負がある。秀忠にも「この後は、かたみに心を隔てず共和して輔翼(ほよく)せらるべし」と後事を託されている。  
ところが、家光はそうは考えていない、特に義直、頼宣と家光の間に軋轢が生じ、いろいろなエピソードが残されている。  
 
家光の嫡男・竹千代(後の家綱)の山王社初詣の儀の時のエピソードである。なお、松平信綱は時の老中である。  
松平信綱「御三家も竹千代様の初詣の儀にお供されるように」  
尾張義直「大納言である私が無官である竹千代様に徒歩でお供するのはいかがなものか」  
松平信綱「無官と申しても竹千代様は将軍の御子でござる」  
尾張義直「親の官位をいうなら、われら三人は太政大臣の子ではないか」  
松平信綱「上様のためであるからお供願いたい」  
尾張義直「典礼になきことをなされては返ってお上のためによろしくない」  
義直は頑固に拒否をし、お供をしなかったという。  
 
いつしか、幕府では御三家を敬して遠ざける風となり、当代の将軍家との血筋からいっても家光の後は将軍位を嫡男・家綱が継ぎ、家綱の時代に家光の三男・綱重が甲府家、四男・綱吉が館林家として独立し(両家を御両典という)たため、遠い存在となった。  
つまり、将軍家との肉親的な情誼を離れ、はっきりと別個な家として認識されたということであり、徳川姓を名乗る将軍家の藩屏として高位高官に昇る特別な家としての家格が固まっていったのである。  
ちなみに「御三家」という言葉は、綱吉が将軍位に就いた年、延宝8(1680)年に初めて幕府文書中に現われている。 
御三家の特権  
それでは御三家は他の大名家と比べ、どのような違いがあるのだろうか。  
武士の格式というのは官位や石高は当然として、参勤交代の際に許可されている持道具の種類や将軍に謁見する際の着座する畳の位置まで非常に些細な事までもが関連している。以下に挙げるのは御三家の代表的な特権待遇である。  
1 将軍継嗣になる資格を持つ  
家康が将軍家に継嗣なきときは御三家が継ぐよう遺言したというがこれについては定かではない。しかしながら、江戸時代の武家のルールとして継嗣なきときは同姓の同族から養子を迎えるということは至極、当然のことであって徳川姓を名乗る以上、徳川宗家=将軍家の養子になる資格を有するのである。  
事実、八代・吉宗、十四代・家茂、十五代・慶喜(一橋家を経由)が将軍継嗣となっている。そういう意味でいえば秀忠の子・忠長の駿河家、家光の子の御両典(甲府家・館林家)、吉宗の子・孫の御三卿(田安家・一橋家・清水家)も同様である。  
2 江戸城内の詰所は「大廊下・上之部屋」  
大名の格式を語る時、禄高・官位官職の極官(最後に到達する官位官職)とともに必ず併記されるのが殿中での詰所である。これは、即ち、殿中での席次を表し、上座か下座かという格好の判断材料となる。ちなみに親藩・譜代・外様という区別は後世のものであり、江戸時代にそのように大名を区別した史実はない。  
詰所は7つのグループに分けられており、格式順に並べると「大廊下」「溜之間」「大広間」「帝鑑之間」「柳之間」「雁之間」「菊之間」となる。このうち、「大廊下」には上之部屋と下之部屋があり、「大広間」にはニ之間と三之間の別がある。  
詰所別に石高、官位、幕府役職、将軍との関係などの相関関係は、かなり興味深いのであるが、この話は別の機会に譲りたいと思う。  
なお、詰所は席次であるから、固定したものではなく移動することもあったのであるが御三家については「大廊下」は不動であった。実はこの「大廊下」は、江戸城絵図で見ると将軍の居る「御座之間」からは一番離れた位置にあり、まさしく「敬して遠ざける」といった感がある。  
また、御三家間の席順であるが、必ずしも尾張・紀伊・水戸の順ではなく、初めは官位順、後には家を相続した時期の早い順であったという。時代によっては水戸が尾張・紀伊の上座につくこともあったのである。  
3 官職の極官は大納言・中納言  
大名家の官位は、幕府の奏請により朝廷から賜ることとなっており、大名家によって初叙任の官位と最終叙任の官位(極官)は、ほぼ定まっていた。ただし、功績等により一代限り高位に就いたり、諸事情から極官に昇れない場合も例外としてあった。  
御三家の官位は将軍家を別とすれば最高のものであって、尾張・紀伊の初叙任は従三位宰相、極官が従二位大納言、水戸の初叙任は従三位中将、極官が従三位中納言であった。ちなみに御三家・御三卿以外で一番高いのが前田家で、極官が従三位上宰相であった。  
なお、大納言・中納言の「納言」というのは「下の言を納(い)れ、上の言を下に宣(の)ぶる」という意味である。また、大納言を亜相、中納言を黄門ともいい、ここから「水戸黄門」といわれるのであって、水戸光圀だけが水戸黄門であったわけではない。  
黄門というのは中国の王朝・秦や漢の時代の職名で宮門の扉が黄色であって、その内で政務を執ったことに由来している。  
4 大名行列の通行優先権  
参勤交代や江戸城に登城の際には、大名行列が行き交うこととなり、注意しなければ他家の大名行列と行き会う場合がある。普通の場合はお互いに片道を空けて、それ相応の礼を尽くしてすれ違えば良かったが相手が御三家の場合は、そうはいかなかった。道を空けるのはもちろん、脇によって通過を待たねばならなかったのである。藩主も駕籠を降りて礼を尽くさなければならなかった。  
御三家の場合、行き会った相手が勅使であっても片道を空けるだけで、すれ違ったというから他の大名家にあっては、いかんともしがたいところであった。  
ただ、実際は先駆けの者が進行方向に他の大名行列がないか確認し、相手が御三家や勅使などの場合は、脇道に避けたようである。小身の大名の場合は列を乱して、脇道に隠れたというから御三家の威光恐るべしである。  
また、参勤交代の際は、他の大名家の城下町を通る事もあり、御三家が通る際には、藩主が出迎えに出なければならなかった。それに対して御三家の藩主は「出でられ候か」と声を掛けるだけであった。  
なお、大名行列が通行する際、TVなどでは「下にー、下にー」と声を掛けているが、あれは御三家に限られた事であって、老中といえども、そのような掛け声はなかったという。  
5 御三家に領地判物なし  
幕府は大名を統制するため、家康・秀忠・家光の時代に大規模な改易(領地没収)、減封(領地を削る)、転封(領地を変える)などにより、いつしか大名家の領地は将軍家に安堵されたものであるという考え方が一般的となった。  
そのため、原則として藩主の代替わりに将軍家に所領安堵をしてもらい、また、将軍家の代替わりにも所領安堵してもらわなければならなかった。その方法は、10万石以上の大名に対しては将軍の花押がされた領知判物、それ以下では将軍の領知朱印状を持って行われ、これに領地の郡村名を記した領地目録が添えられた。  
御三家に対しては、他の大名と違い、この領知判物が発給された形跡が見当たらない。ただし、家康が義直に尾張を与えた際に、将軍・秀忠から領知判物が出されているが代替わり毎に出されてはいない。  
これは御三家の領地は、幕府の直轄領と同様であるという考え方なのか、将軍家の所領安堵権が御三家には及ばないものであるという考え方なのか判然としないが、いずれにしても手続き的に将軍家の所領安堵を必要としないというのは、御三家が特別な存在であるという証である。  
6 御三家は誓詞不要  
慶安4(1651)年、三代・家光が死去すると、嫡男の家綱が将軍位を継いだ。この時、家綱はまだ11歳と幼かったが、家綱にとって叔父にあたる保科正之をはじめ前代の遺老である酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋が健在であったため、幕府に大きな動揺がなかったとされている。  
更に万全を期すためか、幕府は諸大名等から誓詞を提出させている。誓詞とは、神仏に誓う形で誓いを書式にしたもので、この場合は諸大名等が将軍に対し、忠節を誓約するというものである。この後、将軍が代替わりする度に誓詞を提出することが慣例化する。  
誓詞は諸大名が自発的に提出するという形をとるため、手続き上は一旦、老中に提出の伺いを立てなければならなかった。諸大名がこぞって誓詞を提出する中、御三家も提出伺いをしたところ「御三家は自余の輩に比すべきにあらず」と誓詞に及ばざることを告げられた。  
もっとも、翌年には将軍が幼年につき、御三家は在府(江戸に留まること)して、将軍を補佐するように申付けられており、御三家を信頼して誓詞を取らず、在府させたものか、警戒して在府を申付けたのか、その真意はわからない。  
なお、誓詞免除は初めからではなく、八代・吉宗からとする説もある。  
7 御三家の下乗位置  
諸大名、諸役人が登城する際は、その身分によって駕籠や馬を降りる位置や供の人数が制限されていた。  
式日などで登城する場合、普通は大手門か内桜田門から入城して三之門、中之門、中雀門(ちゅうじゃくもん)を通って、本丸御殿玄関に至る。  
大手門も内桜田門も門前に橋が掛かっており、その手前に「下馬札」が掲げられていて大名、役高500石以上、高家、交代寄合、50歳以上の者以外は、ここで駕籠や馬を降りて供を減らし徒歩にならなければならなかった。  
一般大名は更に奥に入り、三之門の門前の橋の手前まで駕籠で入る事が出来た。この場所は絵図などでは下乗と書かれている。  
更に御三家や日光門主の場合は、中之門の手前まで駕籠を使う事が出来た。ただし、資料によっては中雀門前まで駕籠を使えたとするものもある。  
8 佩刀持参の特権  
江戸城の殿中では、老中といえども佩刀を持ち込むことが出来ず、玄関で刀番に預ける定めであった。殿中では脇差のみ許されていたのである。  
ただ、御三家については、佩刀の持参が許されていたのである。もちろん、腰には脇差一本であったが従者が刀を手のひらに寝かせて、高い位置で捧げ持つのである。  
ちなみに、将軍家の刀持ちは御三家が刀を横に寝かせるのに対して、刀を立てて持っていた。  
なお、佩刀(はいとう)というのは腰に差す刀(愛用の刀)という意味である。  
9 「御対顔」と将軍家の言葉  
将軍家が大名を謁見する場合、これを「御目見」(おめみえ)というが、御三家の場合は「御対顔」という。この呼び方に将軍家との関係の違いが如実に現われている。  
将軍家は御三家との謁見の際には敷物もはずしたといわれ、将軍家の方でも御三家に対しては特別に礼を尽くしたようである。  
また、御三家に対する将軍家の言葉は敬語が使われており、他の大名に対するものと比べても違いがある。「御覚控」という史料によれば十代・家治が参勤交代で就封(国元に帰ること)する大名に次のように語ったと記録されているようである。  
尾張家へ「寛々休息あらるゝ様ニ、目出たう盃を」(ゆるゆると休息されるように、おめでとう盃を)  
松平肥後守(会津松平・溜之間詰)へ「在所えの暇をやる、休息するやうニ」(在所への暇をやる、休息するように)  
松平肥後守といえば保科正之以来の将軍家ゆかりの家であり、溜之間という高い格式を誇る名門であった。それと比べても「休息あらるゝ様ニ」と「休息するやうニ」というのは、御三家に対する将軍家の礼が顕著に表れていると思うのだが、いかがだろうか。  
10 公役等の免除  
幕府の大名に対する統制政策として改易・転封、参勤交代と伴に効果的であったものに軍役・御手伝普請などの賦課がある。  
御手伝普請とは、幕府の命により他国の普請を行うことであり、命を受けた大名家の経済面での負担は非常に大きなものであった。具体的には、江戸城、大坂城、名古屋城などの築城、木曽川などの河川改修、社寺の建立などがある。  
特に有名なのが薩摩藩による木曽三川の「宝暦治水工事」で藩士に80名近い犠牲者を出し、責任を取って家老が切腹、そして薩摩藩の財政を極度に悪化させるものであった。このような例は薩摩のみならず、同じく長州藩、岩国藩、越前小浜藩でも木曽三川の治水工事に1000名を越える藩士が従事している例がある。  
ところがこのような公役の負担は、基本的に御三家に対しては命じられてはいない。もっとも、寛永5(1628)年の江戸城普請で尾張藩が伊豆国より石を運ぶ役を命じられているが、このような例は稀である。  
ただし、公役が大名に負担を強いた事は否めない事実としても、この負担が大名家の家格を左右した一面も忘れてはならないだろう。  
特に深刻な財政難に陥る江戸中期以前においては、普請などで同格の他藩より少ない役高を命じられる事は、家格に関わる重大事であるため相当の役高を命じてもらわなければならなかったのである。  
 
御三家2

 

徳川御三家の成立  
家康には11人の子がいましたが、長男信康は3男秀忠の生まれた年に織田信長の命令で切腹させられ、次男秀康は豊臣秀吉の養子に出されてのちに結城氏を継いだため、3男秀忠が実質的な世継ぎとして処遇されることになりました。  
右図では、将軍を青字で、初代御三卿をグレーで示しています。第7代将軍家継までは徳川宗家(徳川秀忠の子孫)から輩出されましたが、第8代将軍吉宗から第14代将軍家茂までは紀州徳川家から輩出されました、  
最後の第15代慶喜だけは水戸徳川家から輩出しました。ただしこれは、御三卿の1つである一橋家にいったん養子に入ってからのことです。  
家康が1603年に征夷大将軍に任ぜられて徳川幕府を開くと、その年のうちに将軍職の世襲を明確にするために、秀忠が右近衛大将(うこんえのだいしょう)に任ぜられました。  
「幕府」とは本来、中国の戦国時代において、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った「陣地」を意味する言葉であり、それが日本に来て、「近衛大将の唐名」となりました。その後、右近衛大将源頼朝が征夷大将軍に任ぜられたことから転じて、「征夷大将軍の別称」ともなりました。つまり、右近衛大将は「征夷大将軍の前段階」とみなされていたわけです。これ以降、徳川幕府でも右近衛大将(右大将)は将軍後継者とみなされました。  
幕府開闢から4年後の1607年には、次男の秀康と4男の忠吉が若くして病死し、残ったのは3男の秀忠(当時29歳)、6男の忠輝(同16歳)と幼少の9男義直(同7歳)、10男頼宣(同5歳)、11男頼房(同4歳)の5人だけでした。そこで家康は、世継ぎ争いを避けるために、大坂城攻めで秀頼との戦を嫌った6男忠輝を流罪に処するとともに、9男義直、10男頼宣、11男頼房を、兄・秀忠を補佐するように命じました。これが御三家(ごさんけ)の起こりです。御三家は、江戸時代初期に分立した徳川氏の一族であり、次の三家を指します。  
尾張徳川家 始祖: 徳川家康の9男徳川義直  
紀州徳川家 始祖: 徳川家康の10男徳川頼宣  
水戸徳川家 始祖: 徳川家康の11男徳川頼房  
江戸初期には、徳川将軍家(徳川宗家)、尾張徳川家と紀州徳川家を御三家と呼ぶこともあり、また尾張家、紀州家に駿河大納言忠長を始祖とする駿河徳川家を加えて御三家という場合もありました。将軍家の分家としては、これらの他にも、3代将軍家光の子を分封した甲府徳川家や館林徳川家があり(これらは「御両典」とも呼ばれる)ましたが、駿河駿河徳川家が改易され、館林徳川家の綱吉が5代将軍となり、甲府徳川家の綱豊が6代将軍(家宣と改名)となって以降、これらの徳川家が消滅したため、残った尾張・紀州・水戸の三家を御三家と呼ぶことが定着しました。また「徳川」の名は、家康が1603年征夷大将軍となった後は、秀忠以降の将軍家本家と御三家、御三卿に限られ、将軍直系以外は松下姓を名乗ったといわれています。 
徳川御三卿の成立  
第8代将軍吉宗以降は、徳川宗家ではなく紀州徳川家から将軍が排出されたことは前述しましたが、幕府設立以来、代が下るにつれて徳川宗家と御三家の血縁が薄くなってしまったため、8代将軍徳川吉宗は、尾張藩7代藩主徳川宗春との対立を踏まえて、「現在の将軍により近い血筋から将軍候補者を立てる」ことを目的として、将軍家に後嗣がないときは次の三家から適当な者を選定することとしました。  
田安徳川家 始祖:8代将軍吉宗の次男徳川宗武  
一橋徳川家 始祖:8代将軍吉宗の四男徳川宗尹  
清水徳川家 始祖:9代将軍家重の次男徳川重好  
これら三家の当主は、公卿の位である従三位(じゅさんみ)に昇り、従三位は律令制下においては本名の下に「卿」という敬称が付けられるため、「御三卿」(ごさんきょう)と呼ばれました。御三卿は、姓は徳川ですが、独立した家ではなく、領地も持たず、「あくまで将軍家の家族」であり、家の格は徳川御三家に次ぐものです。  
田安・一橋・清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内のもっとも近い城門の名称に由来します。田安門は武道館への入り口の門、清水門は千代田区役所の向かい側に残っていますが、一橋門は1873年(明治6年)の令により撤去されています。  
実際、11代将軍家斉以降は一橋徳川家が将軍を輩出しています。また最後の15代将軍慶喜は水戸徳川家の出身ですが、御三卿の1つである一橋徳川家の養子となってから将軍となりました。  
御三家としてあげられる駿河、尾張、紀州の三家は従二位(じゅにい)大納言、水戸家と御両典(甲府徳川家・館林徳川家)と御三卿は従三位中納言であり、家格としては、駿河、尾張、紀州、水戸の順であり、水戸家と御両典(甲府徳川家・館林徳川家)と御三卿はほぼ同格でした。  
 
徳川家と島津家の縁戚関係史

 

宮崎あおい主演のNHK大河ドラマ『篤姫』の初めでは、島津今和泉家(島津忠剛,ただたけ)の娘であるお一(おかつ)が、一橋派として将軍後継問題に干渉しようと計画する島津本家(島津斉彬,なりあきら)の養女・篤子(篤姫)となったが、学説的には徳川家と島津家の縁組は家定の将軍就任以前から既定されていたと言われる。次いで、五摂家で最も家格の高い近衛家(近衛忠煕,ただひろ)の養女・近衛敬子(すみこ)となるが、これは摂家以上の娘と婚姻を結ぶ徳川家の慣例に合わせたものであり形式的な家格の向上である。  
篤姫は13代将軍・徳川家定(いえさだ,1824-1858)の継室(死去した正室の後継)となるが、篤姫以前の家定の二人の正室は鷹司家(任子)と一条家(秀子)の出身である。家定の死語に、当時の慣例に倣って落飾(仏門への帰依)した篤姫は天璋院(てんしょういん)を名乗り、江戸城大奥を統率して幕末の動乱の中で公武合体による徳川家の存続に尽力した。結果として、新政府軍(薩長主体の官軍)との戊辰戦争に敗れた江戸幕府は、江戸城の無血開城によって崩壊するが、下参謀・西郷隆盛との交渉で徳川慶喜が助命されたことや宗家の家督が田安徳川家の徳川家達(いえさと)に譲られたことで徳川家そのものは現在にまで存続することになる。  
家定は病弱などの理由で事実上の夫婦関係(性的関係)を持ったことがないとされるものの、縁組みは基本的に摂家との間で行われており、その慣例に従うために島津斉彬は篤姫を近衛家の養女としている。薩摩藩の島津家は関ヶ原の戦い(1600)の時には石田三成・毛利輝元の『西軍』に味方して『東軍』の徳川家康と敵対したが、家康は外様大名の中で最も強大な軍事力を保持し地理的にも遠方にある島津家への影響力を強めたいという意図を持っていた。薩摩の島津家は初代藩主・島津家久(いえひさ, 1576-1638)の時代から他の大名家との政略的な縁組みには消極的であり、孤立主義的に九州南部での覇権と独立性を強めていたが、家康は島津家と血縁関係を持つために異父弟の松平定行(さだゆき,久松松平家)と家久の養女を婚姻させている。  
徳川将軍家の親藩・松平家との縁組みによって『島津家と徳川家の距離』は急速に縮まるが、江戸末期に篤姫が近衛家の養女になったことも偶然ではなく、藩主・島津斉彬と近衛忠煕は義兄弟の近しい関係にあった。近衛忠煕の正室の島津興子(郁姫)は、10代藩主・島津斉興(なりおき)の養女であり斉興は斉彬の父である。郁姫(興子)は実際には島津斉宣(なりのぶ,斉興の父)の娘であったが、斉宣は薩摩藩の藩政を牛耳る父・島津重豪の逆鱗に触れて隠居させられていたため、斉興の養女として近衛家に嫁いだのである。近衛家に輿入れした郁姫に随行したのが上臈(じょうろう)の幾島(いくしま)であり、NHK大河の『篤姫』では松坂慶子が篤姫の教育係をした幾島を演じていて存在感がある役所になっているようだ。  
歴史的にも、島津氏というのは家系を遡ると『近衛家の門流(家司)』に行き着くと伝承されている。島津氏の始祖は鎌倉幕府を興した源頼朝に重用されたと言われる島津忠久(母は頼朝の乳母の子)であり、島津忠久は鎌倉幕府の有力御家人(薩摩・大隈の守護)であると共に京都では近衛家の家司(家臣)だったとされる。関ヶ原の戦い後に江戸幕府が成立しても、薩摩藩の初代藩主・島津家久と2代藩主・島津光久は他の大名の娘を娶らず島津一門や家臣の娘を正室にしていたが、3代藩主の島津綱貴(つなたか,1650-1704)は鷹司家の松平信平の娘を正室にした。綱貴の娘・亀姫は近衛家久の正室となっており、ここから島津家と近衛家の縁戚関係が生まれ、後の島津家の徳川家との婚姻にも影響を与える。  
4代藩主・島津吉貴(よしたか,1675-1747)は桑名松平家の松平定重の娘を正室にしたが子ができず、側室の子である島津継豊(鍋三郎)を嫡子とし正室の子として育てた。まだ幼少の島津継豊(つぐとよ,1702-1760)に対して、幕府の側用人から5代将軍・徳川綱吉(つなよし,1646-1709)の養女である竹姫(たけひめ,清閑寺煕定の娘)との縁組みのご内意があったが、島津氏はこの申し出を幼少を理由にいったん拒否した。縁組を断られた竹姫は、会津藩主・松平正容(まさかた)の嫡子久千代と婚約するが久千代があっけなく死去する。次いで、有栖川宮正仁親王(ありすがわのみやまさひとしんのう)と縁組する話がまとまるのだが、親王も間もなく病没してしまった。  
1715年(正徳5年)4月に、鍋三郎は6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の御前で元服して5代藩主・島津継豊となり、初めは萩藩主・毛利吉元の娘と婚姻を結んだ。しかし、継豊の正室となった毛利吉元の娘は早逝してしまい、8代将軍・徳川吉宗(1684-1751)と松平乗邑(のりさと)の斡旋もあって島津継豊は竹姫と縁組みすることになる。これによって薩摩島津家と徳川将軍家の縁戚関係が成立することになるが、継豊のほうは竹姫との縁組みには余り前向きではなく徳川家の影響力が強まることを嫌っていたようである(格上の徳川家の娘と婚姻することによる莫大な財政支出の増大という理由もあった)。しかし、将軍吉宗が側室の子である益之助(島津宗信)を嫡子にして良いと認めたこと、6代将軍家宣の正室・天英院(島津家との縁戚関係にある近衛煕子)の強い意向があったことにより、島津継豊は徳川家の竹姫を正室に迎えることになった。  
将軍吉宗は、島津家の嫡子である島津宗信も継豊と竹姫の子として産まれた菊姫も実の孫のように可愛がり、徳川家と島津家の交友関係はより一層強化されていく。菊姫は筑前国福岡藩主・黒田重政に嫁いでいる。6代藩主・島津宗信(1728-1749)は尾張徳川家・徳川宗勝の娘である房姫と縁組みするが、房姫がすぐに死去すると宗信もその後を追うかのように22歳の若さで死去した。宗信の後を継いだのは異母弟の7代藩主・島津重年(しげとし,1729-1755)だったが、重年は幕府から河川の氾濫が頻繁に起こって人々を悩ませていた木曽川の治水工事(普請手伝い)を命じられ、莫大な財政負担を負うことになった。重年の嫡子の8代藩主・島津重豪(しげひで,1745-1833)は、徳川家の御三卿の一橋宗尹(むねただ)の娘・保姫(やすひめ)と縁組みした。  
8代藩主・島津重豪は11代藩主・島津斉彬(なりあきら,1809-1858)に大きな影響を与えた蘭癖(洋学嗜癖)の先進的な開明君主としても知られるが、華美・贅沢な生活様式を好んで派手な浪費をする放漫財政を行い、薩摩藩の財政赤字を急速に悪化させた人物でもある。島津重豪は89歳という現代でも長寿に当たる年齢まで生きて、薩摩藩の藩政を独裁的に掌握して膨大な財政の浪費をした。重豪は自分の財政方針・藩政改革に逆らう『近思録崩れ(きんしろくくずれ)』の内紛を起こした9代藩主・島津斉宣(なりのぶ,1774-1841)を隠居させ、斉宣の長男の10代藩主・島津斉興(なりおき,1791-1859)を擁立して更に院政を継続した。  
斉興は長男の島津斉彬と険悪な仲でありなかなか家督を譲らなかったが、その理由としては放漫財政や藩政独裁を行った重豪との共通点が多かったこと、斉興が側室のお由羅の方を寵愛していたことなどが考えられる。藩政改革に当たった家老の調所広郷(ずしょひろさと,調所笑左衛門)とお由羅の方は、お由羅の子の島津久光(斉彬の異母弟)を擁立する策略を巡らして『お家騒動(お由羅騒動)』が起こったが、結局、諸侯の調停によって島津斉彬が順当に11代藩主の座に就くことになる。天璋院(1836-1883)は『篤姫』として13代・徳川家定に輿入れしたが、この篤姫(お篤)という名前は、8代藩主・島津重豪の娘で11代将軍・徳川家斉(いえなり,1773-1841)の御台所(みだいどころ・正室)となった茂姫(広大院)の幼名・お篤に由来している。  
茂姫の徳川将軍家への縁組みには、徳川綱吉の養女として5代藩主・島津継豊と婚姻した竹姫(浄岸院,じょうがんいん)の意向が強く働いていたとされるが、元々、茂姫は父の島津重豪の縁続きで御三卿の一橋家と縁組みする予定であった。11代将軍の徳川家斉は一橋治済(はるなり)の長男で御三卿の家柄だったが、第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基が死去した後に家治に男子がいなかったため、一橋治済と老中・田沼意次の計略によって将軍に擁立された。娘の茂姫が次期将軍の正室となったことで、島津重豪は江戸城における種々の政治的特権を享受することになり、外様大名でありながら島津家の江戸での発言力が際立つようになる。  
 
新井白石諸説

 

折りたく柴の記1 / 人としての出処進退
東北地方太平洋沖地震に茫然、新井白石の『折たく柴の記』を読み、人としての出処進退の見事さを学ぶ。  
今回の大地震に際して思い出したのは、矢張りと言うべきか、新井白石の『折たく柴の記』に記述されている江戸を襲った元禄16年の大地震の体験談のことです。(同書には、他に宝永4年の富士山大噴火の記述もあります。)  
中央公論社の「日本の名著」の輝かしい第1回配本(昭和44年)の<新井白石>を引っ張り出し、『折たく柴の記』にある地震の記録を確認しようと上巻から読み始めましたが、読み進むうちに心の中にずっしりとした手応えを感じたのは、この自伝文学の傑作に漲っている新井白石の人としての凛とした姿勢の正さと、出処進退の見事さでした。  
例えば次のようなエピソードがあります。師の木下順庵が白石を加賀の前田家に推挙しようと思い立った時、同僚で加賀の人である岡島某が「加賀に年老いた母がいますので、なんとかして先生に御推挙いただくよう申し上げてください」と言われ、白石は師にそのことを詳しく伝えて、  
ー「私の仕官は、どこの国でもかまいません。あの人にとっては、老母のいる国でありますから、私のかわりに御推挙くださるよう、私からもお願い申します。きょうからは、私をあの国に御推挙くださることは、かたく御辞退申し上げます」ときっぱり申し上げたところ、このことをじっとお聴きになって、「当節、だれがこういうふうなことを言う者があろうか。むかしの人をいまに見るということはこういうことである」と言って、涙を流されたが、この後も、いつもこのことを人びとに話された。(前掲書80頁:桑原武夫訳)  
むかしの人とは、桑原氏によれば古武士のことであり、その徳目(決断・勇気・忍耐・禁欲・質素・寡黙・清潔)が尊重さるべきとしています。しかし、そのバックボーンは多分、古代中国の古典に見る孔子を始めとする聖人君子のことであるとも考えられます。順庵の言葉からも、既にこの時代の人としての有り様(よう)がこれら理想的人物像から遥かに遠ざかっているのがよく分かります。  
白石のこうした姿勢はこの書の随所に読みとれます。また、同時に(封建制度下の主従関係の枠を超えて)強く感じたのは、主君の綱豊(後の六代将軍家宣)の家臣に対する思いやりの深さであり、同時に、主君たるものの当然の責務として課される厳しい勉学であり、それを当然として学問に打ち込む真剣な姿勢です。たとえ封建時代の武家制度において絶対的君主としての殿様といえども、身を犠牲にしても家(組織であり社会でもある)や領民を守る絶対的な責任があり、そのためにも有用な家臣を大切に扱うという姿勢は、学ぶべきものがあります。それらと比較して絶望的な気持ちにさせられるのは、現在の私たちの戴く政治家や社会の指導者たちとの悲しいほどの覚悟と資質の違いです。  
この書には、元禄の大地震前後の徳川幕府の財政政策についての白石の考えや事績が語られています。ご多分にもれず、幕府も財政赤字に悩まされていたことが分かります。そこで出てくるのが金銀貨幣の改鋳の問題です。これを推進して幕府財政を救わんとしたのが将軍綱吉時代の柳沢吉保や勘定奉行となった荻原近江守重秀であり、後者は家宣の治世下でもこれを推し進めようとしましたが、貨幣の純度を慶長小判の水準まで戻そうと考えていた白石は断固これを退け、最終的に重秀を罷免に追い込みます。白石は一種の経済音痴で、嫉妬に近いほど重秀のインフレ政策を憎みましたが、果してどちらが正しかったのか、議論が分かれるところです。一たび政府が出来上がると、必ず公共工事や社会保障に莫大な財政資金が注ぎ込まれ、また官僚が肥大化し、畢竟財政赤字に向かって進んでいくのは昔も今も一種の宿痾のようになっていますが、それをどうやって切り抜けるかは今に到っても議論が定まりません。日本人の感性からすれば、上杉鷹山のような極端な緊縮財政と産業振興を併せて実施することに喝采を送りたくなりますが、現代のような肥大した国家社会では極めて困難な政策と言えましょう。白石と重秀の政策を比べてみると、白石の考えは儒教道徳を経済にまで持ち込もうとした因循さが感じられますし、少なくとも経済財政政策としては重秀の考えは天才的と評価してもよいでしょうが、どちらも上手くいくとは思えませんし、そのことは歴史が証明しています。  
五黄土星生まれの私は、生まれた年が太平洋戦争が勃発した年であり、昭和30年に新潟市内中心部を炎が舐め尽くした新潟大火に直面し、昭和39年には故郷の新潟が大地震に見舞われ、鹿児島にいた時には激特事業の対象となった集中豪雨による大洪水(平成5年8月)に遭遇し、当時の九州では雲仙普賢岳の大噴火もあり、どうやら五黄土星の星の下の人間は天変地異に強い縁があるのかと思っていました。  
しかし今回の大地震と原発の災害はこれまでの経験を超えた、想像を絶する大災害です。私が生きている間に、このような悲劇にこの国が見舞われるとは夢にも思わず、さらに亡くなられた方々や未だもって行方不明の方々、被災して今この瞬間も筆舌につくせぬ苦難の中にある方々の身の上を思うと胸は塞ぎ、ただ暗澹たる思いに心が張り裂けんばかりです。また過酷な条件下で原発の復旧作業に身命を賭している自衛隊、消防、警察、市町村職員の方々は勿論、さらには東電と協力会社の作業員の方々の身上や気持ちを考えると、ただただ心から頭が下がるのみで、他方どこにぶつけていいか分からない激しい怒りと悲しみに身が打ち震えます。  
今回被った大きな災厄により、日本はその文明の一部に毀損ないし欠落を生じさせたのではないかと怖れます。願わくばこれが杞憂であらんことを!今私たちに必要なのは<希望>です。日本の再生に繋がる<希望>の端緒を見たいのです。  
私たちは今こそ日本の古典に還るべきです。古典に足場をー日本人としてのアイデンティティを保つために古典に精神の足場を築き、これから迎えるであろう苦難に備えるべきなのです。  
前掲書の桑原武夫氏の解説の中に、白石が晩年の”孤独と寂寥のなか”(桑原武夫氏)にあった享保8年作の一篇の詩が紹介されていますが、今の私の心境に強く添ってくるものがあるので、孫引きですが下記に引用してみます。(前掲書17頁)  
何ぞ堪えん今夜の景、去年の晴に似ざることを。  
天は中秋に到って暗く、人は子夏の明に同じ。  
交遊空しく旧態、衰老なお余生あり、雲雨手をひるがえすが如し、世上の情に関するにあらず。  
*「子夏の明」とは、桑原氏の解説によれば、「その子死し、これを哭(こく)して明を失う」という『史記』の「仲尼弟子列伝」に所載の、子夏が子をなくした悲しみから失明したという故事によるものです。  
*「雲雨」は、これも桑原氏の解説を引用すれば、杜甫の詩「貧交行」の「手をひるがせば雲となり、手をくつがえせば雨となる。紛々たる軽薄、なんぞ数うるをもちいん」からきています。  
 
折りたく柴の記2

 

昔の人は、ふだんは無用の口はきかず、そのかわり言いたいことを言うべきときに言った。そういう言い草から『折りたく柴の記』は始まる。  
昔の人というのは白石の祖父の時代の人々のことであり、白石はその血を思い出しながら、この日本屈指の自伝を書きおこす。白石が「言葉の人」であり、かつ「家の人」であったことが、これだけで伝わってくる。  
日本屈指の自伝というのはその通りで、『福翁自伝』が出版されるまで、本書こそが唯一無比の日本自伝文学の最高峰にいた。それだけではなく、本書をかつて桑原武夫が『日本の名著』で現代語に訳したときに書いたように、これはヨーロッパの最初の自伝文学を書いたチェルリーニに遅れること1世紀だが、近代自伝の幕をあけたルソーの『告白』に先立つこと半世紀の成果であって、そのことをおもうと、まさに屈指の自伝文学であった。  
ぼくは高校の頃から白石をあまり好きになれないままにいた(江戸の歴史家としては白石よりも頼山陽が好きだった)。なぜ、好きになれなくなっていたかは、いまとなってはそのきっかけをよく思い出せないが、幕政側に立って保守改革をするようなところだけを齧り見て、おそらくは面倒くさい人物だという感想をもったためだろう。  
ところが本書を読んで、少なくとも白石は読まなくてはいけないなと思うようになった。好きな滝沢馬琴が白石読みの名うてのエキスパートだったことも手伝っている(馬琴は白石の著書のコレクターであって、かつ厳密な校訂者でもあった)。ただし、人物としてはあいかわらず好きじゃない。  
なぜ白石を読むべきかというと、たとえば本書を読むとときおり背筋が正しくなってくるのだが、それは白石の気迫によってそうなるのではなく、白石が観察した近世中期の日本人の生きざまが、そうさせる。その他の話題についても同様で、『西洋紀聞』や『読史余論』を読むと、白石の周辺に対する観察が立ち上がってきて、そこに目が奪われる。ようするに白石という人のカメラアイが信用できるのだ。  
単なるカメラアイというのでもない。白石は当時を代表するエンサイクロペディストでもあって、そのカメラアイにはバックデータがくっついている。いわば密度に富んだデータベースをぶらさげた高性能ブラウザーなのである。  
それゆえ白石を読むということは、歴史の只中にもぐりこみ、将軍家の側近にいた眼によって日本(和学)と中国(儒学)の相対的な歴史の現在化に立ち会うということを意味するわけなのである。あまりいい例ではないけれど、昭和平成の読者が司馬遼太郎を通して“この国のかたち”に立ち会ったようなものである。おそらく白石を読んだ近世・近代の読者は、司馬遼を借りて日本を読んだように、白石の日本を読んだのであったろう。  
『折りたく柴の記』については、白石ほどの男が二度の浪人の身を体験して、そうとうの苦労辛酸をなめていたというあたりにも、それなりの滋味がある。他人の苦労を読んでおもしろがるというのはいただけないが、これが白石のような自信屋の告白となると、やはり味わいがある。  
新井白石は明暦の大火とともに生まれ、鳩巣と徂徠、あるいは康煕帝とニュートンとともに時代を生き、家宣とともに将軍補佐官となり、吉宗の時代には隠遁をした。  
白石にとって人生の大事件であったのは木下順庵との出会いである。それまでは中江藤樹の『翁問答』を海図として儒学を学んでいたのだが、それはまだ“雑儒”にすぎず、而立の歳におよんで西山順孝の紹介でようやく順庵に師事できた。『折りたく柴の記』にも順庵に従っていかに多くの書籍を集めたかが、いささかおおげさに綴られている。白石は順庵から結局は経学と史学の経史両方を学んだのである。しかも、忠実に。これは順庵門下の同期生に室鳩巣というライバルがいたせいでもあった。鳩巣が中庸保守を意図したため、白石は進取に走ったわけである。  
しかし、白石の最大のライバルはなんといっても荻生徂徠であった。このことについては、「千夜千冊」で徂徠の著作を採りあげるときに、またふれたい。  
このように見てくると、白石こそは江戸時代きっての大学者ということになる。  
天明期に出回ったらしい「学者角力勝負付評判」という番付を見たことがあるのだが、そこでは東の大関が熊沢蕃山、西の大関が新井白石となっていた。当時の角界には横綱の位はなかったので、白石は蕃山と並ぶ最高位の学者とみなされていたわけである。ちなみに関脇が荻生徂徠と伊藤仁斎で、中江藤樹や木下順庵は前頭筆頭になっていた。世話役が貝原益軒・太宰春台である。  
白石と蕃山が並ぶというのは、同党異伐を否定したこと、天下有用の学を称揚したこと、排仏的であること、反キリシタンであることなどが似ているからであろう。が、対照的なところもある。白石が貨幣主義と貿易不要論を貫いたのに対して、蕃山は農村の自立を説いた重農主義者であったし、偉才というなら、蕃山のほうがスケールが大きかった。白石を激しく批判した中井竹山は、白石を出世主義とみて、蕃山を“大君子”とさえ褒めた。  
ようするに白石は律義な大学者なのである。それゆえ、きわめて実務力のある政治家あるいは官僚ともなりえた。そこはワイマールの宰相を務めたゲーテに近い。今日の政治家や官僚にはこうした人物はとんと少ないが(現代の官僚には役所を退任してから大学教授になる者は少なくないが)、白石の時代は学問を収めない政治家や官僚など、ありえない。  
白石はまた洋学者でもあった。寛政期の『近来繁栄蘭学會我』というランキングでは、白石が第一等、青木昆陽・前野良沢・杉田玄白が第二等になっている。これはいささか褒めすぎだが、洋学に通じていたことはたしかだった。  
しかし、こうした数々の名声にもかかわらず、白石の自伝『折りたく柴の記』を読むと、白石の人生の苦節と、幕政の場面ごとに工夫した苦労がせつせつと伝わってくる。桑原武夫を気にいらせたのは、あるいはこのような白石の自己周辺観察力であったかもしれない。  
なお、本書には朝鮮使節や元号をめぐる経緯が詳しく綴られている。まるで敗戦直後のGHQによる憲法制定過程を内側から見ているような気分で読める。それとともに、この日韓状況と国号問題を見つめた白石の目こそは、いまこそ日本が気にしはじめている問題に必要な目であるようにも思われる。  
 
近代天皇家と新井白石

 

文仁親王妃、男のお子さまご出産、おめでとうございます。  
お子さまの皇位継承順位は、第一位皇太子、第二位文仁親王に次いで第三位となる。たぶん、この順で皇位が継がれていくか、あるいは皇太子の次となるかだろう。  
何年先のことになるかわからないが私はもうこの世にいないだろう。が、この慶事を聞いて私なども日本がそのころまで中国に飲み込まれることもなく存続していたらいいなという仄かな希望を覚える。  
テレビなどから見る日本庶民の喜びのようすは遠い親戚の本家の世継ぎが出来てよかったという気持ちのように受け止められる。もともと日本の庶民にはごく例外を除けば血統意識がなくあっても実際には家名の継続があるだけである。つまり、家の財産のシステムでもある。  
これで皇室典範改正は見送りになるだろうし、一世紀近くは女帝の登場もないということになるのだろう。私個人としては、「極東ブログ:英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう」(参照)にも書いたように次第に女帝容認という流れになるかと思っていたが、そうはならないだろう。  
近代日本人は明治時代以降に意味付けられた日本歴史の意識のなかに生きているせいか、天皇家が古代から首尾一貫して続いていたような幻想を持つが、とまでは言ってはいけないか。いろいろ意見もあるだろうから。ただ、紆余曲折はあった。  
ネットを見ると橋爪大三郎の東工大講議「尊皇攘夷とはなにか山崎闇齊学派と水戸学」(参照)のレジメがあり、そこに江戸時代の天皇家について簡素に書かれている。  
当時の天皇家は、山城の国の一領主。法的に幕府の支配下に置かれていた点は、浅野家の赤穂藩と変わりません。もし、天皇を絶対視し、その確認不能な「意志」を自らの志として行動する人間が出現したら?赤穂義士の場合と同じで、それを肯定するほかないでしょう。幕末には、薩長や水戸藩ばかりか、幕府も会津も、国中が尊皇を旗印にするようになります。そういう雰囲気が、攘夷の主張(外国に侵略されるのは、政治的な正統性が誤っているからだ)と結びついた結果、尊皇攘夷思想→倒幕運動が成功したのです。  
これは山本七平が「現人神の創作者たち」で示した史観であり、これを小室直樹が受け止めその弟子の橋爪大三郎に影響した。  
この史観についてはこのエントリでは触れないが、この「当時の天皇家は、山城の国の一領主」ということ今回の皇統断絶の危機を救った男児をぼんやり考えながら、新井白石のことを少し考えていた。現代日本人にも新井白石のような合理主義的な考えをする人もいるだろうが、いても、どうしようもないか。いやどうだろうか。  
江戸時代中期の政治家新井白石はその時代、既存の宮家はすでに皇統と縁が遠くなりつつあったこともあり、皇統の断絶を懸念して閑院宮を創設した。ウィキペディアの同項目にはこうある(参照)。  
皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、享保3年(1718年)、霊元上皇から、直仁親王に閑院宮の称号と1000石の所領を下賜された。こうして、寛永2年(1625年)の有栖川宮が創設されて以来の新宮家誕生となった。  
閑院宮を創設したのが新井白石だ、という表現でよいのか微妙なところがあるにせよ、概ねそう言っていいだろうし、この創設ということはつまり千石の所領を与えるということ。形の上では徳川家が与えたというわけでもないが実際はそう見てもいいだろうから、つまり、閑院宮というのは千石の新藩主に近い、たぶん、かなり。ちなみに私も武家で祖先は江戸時代そのくらいあったかなと思うのでその規模の領主の経世について親近感がある。  
白石の予感は当たり、後桃園天皇は安永八(一七七九)年在位中崩御。二十二歳。子は内親王のみ。女帝を立てず、新設閑院宮家より養子を迎え光格天皇として即位させた。余談だが現在の皇室典範では養子はできない。  
光格天皇についてはウィキペディアより「北摂箕面の春夏秋冬」という個人サイトの「光格天皇についてのメモ」(参照)が機微を簡素に表現している。  
(2)傍流から養子に入り女帝に育てられたとか聞きますが?  
後桃園天皇が22才で没した時、皇子がいなかったので、急遽、当時9才の閑院宮師仁親王が、後桃園天皇の養子となって践祚したのが光格天皇です。  
傍系から来たために周りの人々から軽く扱われましたが、母代わりとなって養育した後桜町院が、人から軽ろんぜられないためには学問をしなさいと導き、彼もまた、周囲の軽視をはね除けたい一心で、猛烈に勉強したようです。  
この「一心」がなにをもたらしたかというのも興味深い話題だがそれはさておき、この光格天皇から、仁孝天皇、孝明天皇と続き、明治天皇となる。  
 
泡盛雑説

 

新井白石の泡盛7年古酒説  
1609年の薩摩の侵攻以降、琉球国は薩摩藩の命を受けて、徳川幕府へ18回に渡り、王子を正使とする総勢百数十人の使節が派遣されています。これは「江戸上り」と呼ばれ、琉球国王が即位した際には謝恩使が、幕府の将軍が即位した際には慶賀使が派遣されました。  
当時、琉球国の正装は、中国風の衣装でしたし、中国の楽器を奏でながら薩摩から江戸までの道のりを練り歩く江戸上りの一行を、人々は興味津々で迎えたに違いありません。  
徳川幕府(徳川家宣)に仕えていた江戸時代の儒学者で、新井白石(1657-1725)もその一人でした。  
江戸上りの琉球使節やそれを引率する形の薩摩の藩士からいろいろ情報を収集し、さらには中国の冊封使禄などの資料を紐解いて、琉球のことを「南島志」(1719年)にまとめています。新井白石の取材に応じた琉球側の使節には、4人の王子のほか、琉球に初めて学校を設立した教育者、程順則(名護親方)、組踊の始祖ともいわれる玉城朝薫も含まれていることからも、かなり深く琉球の素顔に触れていたことが推測できます。  
この『南島志』には、泡盛についても、次のように詳しく記されています。  
「滴露の方、始め外国より伝はる。色味清くして淡、これを久しゅうして壊せず、よく人をしてよはしめ易し。使琉球禄にシャムより出づといふも亦非なり。造法はシャムと同じからず。米を蒸して麹を和し各分剤あり。すべからく水を下すべからず、封醸して成る。甑を以って蒸してその滴露をとる。泡のごときものを甕中にもり、密封七年にして之を用ふ。首里醸すところのもの最上品とす」  
蒸留方法はシャム(タイ)からもたらされたというが、タイの酒造法とまったく同じではなく、米を蒸して麹をまぶし、水を加えることなく封をして発酵させ、それをさらに蒸留して造るという作業工程が、詳しく聞き書きされています。  
さらに、注目したいのは、「密封7年にして之を用ふ」という記述。  
琉球王朝時代の泡盛は、最低でも7年は熟成させてから飲まれていたということを意味するのでしょうか。これからすると、江戸には常に、7年古酒以上の泡盛が渡っていたのかもしれません。興味深いですね。 
江戸時代は薬だった泡盛  
泡盛は琉球国から徳川幕府への献上品として、または薩摩島津家の藩主、藩士たちを通して、江戸の有力者たちへかなりの量が運ばれ、その名も知れ渡っていたようです。  
「徳川実記」「駿河実記」などの史書をひもとくと、「尚寧22(1610年)、将軍家に琉球焼酎を献上」、その2年後には「島津家久、琉球酒2壷を献ず」といった記述があります。  
お酒ですから、もちろん飲みもしたのでしょうが、当時の泡盛はどうやら薬としてとても重宝されていたことを語る文献が、数多く残されています。  
例えば、江戸時代に編纂された「和漢三才図会」(寺島良安編集/1712年)には次のように書かれています。  
「琉球及び薩摩の泡盛酒は、みなこの国の焼酎で、気味はなはだ辛烈にして、痞(つかえ)を消し、積聚(しゃくじゅ)を抑へて、よく湿を防ぐ」  
痞とは胸のつかえ、積聚はお腹のかたまりで胃けいれんや差し込みなど腹部の急な痛み、湿には湿り気のほかに疥癬(かいせん)という意味もあるようです。  
また、刀傷の消毒にも欠かせない薬だったという記録もあり、ほかにも痰を切る、回虫を殺す、利尿作用があるなど、さまざまな効能があると、泡盛は薬として珍重されていました。徳川家康は、娘の嫁入り道具に泡盛壷を持たせたという話もあるほどです。  
ちょっと気になるのは、「和漢三才図会」に記されている「琉球及び薩摩の泡盛酒……」という一節。そうなんです。江戸時代には、薩摩藩で造られる蒸留酒にも「泡盛」の名がつくものがあったようなのです。しかし、それは琉球国の泡盛とは区別されていたらしく、主に1600年代の徳川氏や武将、家臣などの言葉などを記録した「明良洪範」には、「泡盛酒は薩摩州にても造れども、琉球には及ばず……」と記録されています。  
同じ泡盛の名がついたお酒であっても、泡盛はやはり琉球王国産のものがいいと評価されていたのですね。17世紀後半になると、各藩では泡盛が手に入るのを待ちきれず、日本酒の粕を蒸留した粕取焼酎を、酒屋に常備させるようになったともいいます。  
泡盛が薬として利用されたのは、何も江戸時代だけではありません。地元沖縄でもちょっと昔までは、切り傷や擦り傷に泡盛、あせもができたときも泡盛、やけどをしたときは泡盛とキダチアロエの葉肉を塗るという民間療法がありました。今でも、使っている人はきっといるはずですよ。  
ちなみに、「泡盛」という名称が初めて登場したのは1671年のこと。江戸幕府へ献上された数々のお品書きの中に、その名が初お目見えしています。 
ペリー提督もが飲んだ古酒  
琉球王朝時代、泡盛(当時は単に『サキ』と呼ばれることが多かったようです)は、外国からの来訪者を接待するための国酒でもありました。琉球を訪れた外国人の中には、さまざまな場面で振る舞われた泡盛の印象を記録として残している人も少なくありません。  
古くは中国や朝鮮、そして1800年代に入ってからはヨーロッパやアメリカからも琉球を訪れた異国の人々。その中には、黒船で浦賀に来航し、江戸の人たちを驚かせたアメリカのペリー提督一行もいたのです。  
ペリーが琉球に上陸したのは1853年、浦賀に入港する前のことでした。琉球側は、何度も交渉を断ったのですが、軍隊を率いて城入りするぞと脅されて、仕方なくではありますが、ペリー一行を晩餐会に招待します。そのときに飲んだ泡盛について、テイラーという秘書官が『日本遠征記』に詳しく記しています。要約すると、次のようなものです。  
「小さな盃に注がれた酒は、これまでこの島で味わった酒と比べてはるかに芳醇であった。まろやかに熟し、きつくて甘く、ドロリとした舌触り。フランスのリキュールに似ていた」  
フランスのリキュールというのは、たぶんブランデーのことではないかと思われます。それにしても、この表現からすると、かなり良い古酒が振る舞われたのではないでしょうか。しかし、ほかの史書などを調べた研究者からは、このときに振る舞われた料理は、中国の使者や薩摩の役人たちに振る舞われるそれよりはランクを下げたものだったという話も聞かれます。進貢貿易を行っていた中国、1609年の侵攻以降、実質の権限を握っていた薩摩に遠慮しての接待だったに違いありません。  
ペリー一行の来琉より約50年ほど前には、イギリスの軍人、バジル・ホールも琉球を訪れています。セントヘレナ島に幽閉されていたフランスのナポレオン皇帝に面会し、「世界には武器を一切持たない国がある」と琉球の話をして、皇帝を驚かせたという、あの人物です。  
1816年に来琉したバジル・ホールは、『大琉球島航海探検記』という本の中で、琉球の王子と泡盛を酌み交わしたときのことをこう語っています。  
「王子の卓では盃の応酬は少なかったが、ほかの卓ではあらゆる口実をもうけてサキの壷を回しては乾杯が繰り返された。サキはそれほど強くはなかったが、きわめて質が良く、強いられるまでもなく杯が乾された」  
しかし、いつでもこのような上質な泡盛が振る舞われていたわけではないようです。1827年に来琉したイギリスのビーチー司令官の記録には、「泊村のもてなしでは食事や菓子類のほか、2種類の火酒、サキが並べられた。あまりにもきついので、途中からブドウ酒に替えてもらった」というような記述を残されています。ペリー一行やバジル・ホールに振る舞われたと思われる首里の泡盛古酒に比べ、こちらのお酒はまだ若い泡盛だったのかもしれませんね。  
 
「天地創造」に拒否反応かみ合わない宗教観

 

イエズス会の本部が置かれたイタリア・ローマのジェズ教会には、奇妙な形をした彫刻がある。同会創立者のイグナチウス・デ・ロヨラ像が威風堂々と立つ傍らに、踏みつけにされ、打ちひしがれた悪魔の彫刻である。  
その悪魔の一部には、こんな文字が刻まれている。  
「Cames(神)、Fotoques(仏)Amidas(阿弥陀)、Xaca(釈迦)」  
ローマ法皇に絶対服従を誓うイエズス会は、異教の神には一片の寛容も持ち合わせていなかった。日本人がキリスト教を受け入れないのは、神や仏という悪魔にたぶらかされ、真理を見る目を曇らせているからだと考えていたからである。「悪魔」として刻まれた神や仏の文字には、イエズス会の怨念(おんねん)がこめられているかのようだ。  
高山右近をはじめとするキリシタン大名の領地で少なからぬ信者を獲得したとはいえ、大方の日本人は、キリスト教を受け入れなかった。キリスト教徒が人口のわずか1%以下に過ぎない現代日本の姿と見事に符合するわけを、小堀桂一郎・東大名誉教授の評論「キリスト教創造主と日本の神々」を手引きに考えてみたい。  
まず、当時の日本の知識人は、キリスト教をどうとらえていたかである。時代はやや下るが、江戸中期の碩学、新井白石は、密航で捕らえられたイタリア人宣教師シドチを訊問した。白石は、訊問に際し、西洋の国情や文化、天文、地理などの科学知識について詳細に聞き出し、シドチの博覧強記ぶり、優れた西欧の学問水準に驚嘆した。このときの問答を元に、白石が書いた「西洋記聞」「采覧異言(さいらんいげん)」は鎖国下での貴重な西洋研究書である。  
だが、シドチがここぞとばかりに熱弁を振るったキリスト教の教義に関して、白石は冷笑をもって答えた。キリシタン禁制下ゆえに、白石が耳を貸さなかったからではない。シドチの説明があまりにも非論理的に思えたからである。それでもシドチが食い下がると、白石はこう反論した。  
「天地万物を創造したデウスがいるというなら、デウスにもまた必ずこれを造り出した作者がいたはずだ。デウスが自ら成り出でることができるものならば、天地もまた自成し得ることに何の不思議もない」  
白石の反論は、右近の時代に庶民が宣教師たちに反駁(はんばく)した理屈と基本的に同じであり、現代を生きる非キリスト教徒の素朴な疑問とも共鳴し合う。西欧人と日本人の思考方法には、単なる宗教観の違いを超え、どこか決定的にかみ合わない部分があるのかもしれない。  
たとえば、イエズス会宣教師たちは日本人の識字率の高さと、天文学や医学などの自然科学を好む民族性に着目して「フィデスの導師」というローマ字本を出版し、布教に使った。自然科学の最新の研究成果を詳細に述べ、結論をすべて神の存在証明に結びつけるところに特徴がある。天体運動の法則や人体の機能を科学的に論述しながら、「これほど精密な機能(法則)を創造しうる力の持ち主はデウス以外に考えられない」と結論づけるのである。これを読んだ当時の日本人は、宣教師たちが最も強調したい結論の部分に戸惑い、首をひねったのではないか。  
イザヤ・ペンダサン(山本七平)は日本人の宗教観の特徴は「神が人を選ぶのではなく、人が神を選ぶ」点にあると指摘した。秀吉の伴天連追放令のなかには、「宗教は8つも9つもあるのだから、どれを選んでもよい」との記述があり、宗教の選択権はあくまで人間の側にあると考える日本人の宗教観がここにも反映されている。  
数多いキリシタン大名のなかで、領国を捨ててまで信仰を貫いたのは右近だけである。イエズス会宣教師たちを感嘆させた右近の信仰心の篤さは何によって育まれ、根を下ろしたのか。その生きざまが日本人のなかのとびっきりの少数派であるがゆえに、右近は日本史のなかで異質な光彩を放って見えるのである。  
聖ザビエルの手紙  
日本人は、論理的思考を好みます。故に私が地球が丸いことや、雨の原因について説明すると、彼らは夢中になるのでした。しかし、私が「全能である神が、悪魔を含む全宇宙を創造した」と話しても彼らは納得しないのです。なぜ、善である神が、悪魔を創造したのか?全能である神が、人間をこれほど弱く、罪を犯しやすいように造ったのか?このように質問してくるのです。(1552年1月29日付)  
 
幕政改革に取り組んだ偉大な学者

 

新井白石は江戸中期、六代将軍徳川家宣、七代将軍徳川家継に仕え、幕政改革の理想に燃えた、“鬼”の異名を取った稀代の学者政治家だ。その学識の高さは、その当時における、というより江戸時代を通じてすら、比較すべき者の少ない学者だった。  
白石が儒者として俸禄四十人扶持(年72石)で甲府藩に召抱えられたのは元禄6年。彼が37歳の時だ。そして、それ以前の白石は久留里藩の土屋家、古河藩の堀田家と2度も浪人し、20歳代から長い間貧しい生活を強いられ、37歳のその時は本所で私塾を開いていた。この間、白石の器量を見込んでか、富裕な商家から二つも縁談があった。その一つは相手が河村瑞賢の孫娘だったので、承知すれば豪商の家の婿に納まることもできたわけだったが、白石は断った。甲府藩に仕えることができたのは、学問の師である木下順庵の推挙によるものだった。  
元禄15年12年に200俵20人扶持に引き上げられた。加増の理由はこの年3月、起草してからほぼ1年余を経て完成、藩主・網豊に献じた『藩翰譜』の成功に対する褒賞ではないかと思われた。藩翰譜は、儒者というよりは歴史家としての白石の本領を示した労作で、12巻18冊、ほかに凡例総目次1巻を加えた大著だった。ここに書きとめられた諸家の数は333家におよび、これを記すのに紙1480枚を費やしたが、草稿、浄写の作業に写し損じを加えれば費やした紙数は3000枚に上ったろう。いずれにしても、ようやく白石は貧しさを気にしなくて済む身分になった。  
五代将軍綱吉の死後、白石は側用人・間部詮房とともに、六代将軍家宣となった藩主の天下の治世に乗り出していく。「勘解由(白石)を経書を講ずるだけの儒者とは思っておらぬ。政を助けよ。意見があれば、憚りなく申せ」という将軍家宣の篤い信頼のもとに、白石は「政治顧問」的な立場で様々な下問に対し、先代までの慣例や事績にこだわらない、あるべき意見も含め献策する。「生類憐れみの令」の停止およびその大赦考、改鋳通貨「宝永通宝」の通用停止、武家諸法度新令句解などがそうだ。こうした出仕が評価され、白石は200石加増され、従来の200俵20人扶持を300石に直し、計500石とされた。  
白石は宝永6年(1709)11月、江戸小石川茗荷谷の通称切支丹屋敷で、ヨーロッパの学問16科を修めたというイタリア人、ジョバンニ・バチスタ・シドッチと会い、尋問する。シドッチは薩摩・屋久島に流れ着いた宣教師だ。白石はこの尋問の前に、あらかじめカトリックの教義について予備知識を得たいと思い数冊の書物を読んだ。  
白石が西洋人に接したのは初めてであり、最初シドッチが何を言っているのか分からなかったが、次第に分かってきた。他の日本人には全く分からなかったが、白石はシドッチの日本語に近畿地方や山陰、九州の方言が入り混じっていることに気付いた。発音にもシドッチのクセが出る。そのクセは当然、一定の法則性のようなものがある。それを白石は見抜いた。これらに照らして理解していけば、シドッチの日本語が自然と分かってくるのだ。白石の頭脳が、シドッチの不思議な日本語を理解させたのだ。白石はシドッチの持っている知識を貪婪に吸収した。白石はこれを『西洋紀聞』に書いたが、シドッチの母国語までは理解するには至らなかった。イタリア語を吸収できるほどの時間的余裕がなかったからだ。しかし、白石が行った尋問で、結果として彼自身の学識の高さを示すことになったことは確かだ。1.貨幣の改鋳の停止2.裁判の公正3.長崎貿易の見直し−など白石の献策は、それまでの幕府官僚の施策とは明らかに異なり、本質的には的を射たものだった。が、白石はやはり学者で潔癖でありすぎた。そのため“鬼”の異名と取ることになり、周囲に煙たがられた。そして、彼の得意時代はそれほど長くは続かなかった。正徳2年、10月14日、家宣が享年51歳で亡くなり、嫡子鍋松(家継)がわずか4歳で将軍職を継いだが、家継も8歳で亡くなってしまったのだ。結局、白石が幕政にタッチしたのは7年ほどで、紀州藩から入った八代将軍吉宗が登場すると、即、更迭され、彼の「善政」はすべてご破算になってしまう。  
ただ、白石はこれからが凡人とは違った。60歳から死ぬまでの9年間、『折りたく柴の記』をはじめ数々の名著を執筆するのだ。彼が政治家として得意の時代を続けていたら、これらの名著は生まれなかったかも知れない。  
 
「九州年号」真偽論の系譜 / 新井白石の理解をめぐって

 

はじめに  
「『宇佐八幡宮文書』の九州年号」において、宇佐八幡宮の神祇卜部兼従による『八幡宇佐宮繋三』(一六一七年成立)を紹介し、卜部兼従が九州年号の教到を「筑紫の年号」と認識していた記事を引用した。次の通りだ。  
「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」※〔〕内は細注。  
江戸初期における「九州年号」真作説に立つ文章であるが、引き続き江戸期における「九州年号」真偽論を調査したところ、江戸時代屈指の歴史学者新井白石(一六五七〜一七二五)が九州年号について触れていることを知った。そこで、白石の学問の方法と九州年号に対する理解について紹介することにしたい。  
水戸国学批判  
新井白石が生まれた年、明暦三年(一六五七)水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始された。『大日本史』三九七巻は明治三九年(一九〇六)に完成するが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていた。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で厳しく批判している(注1.)。  
「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻五一八頁)  
日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田武彦氏が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法である。  
さらに白石は『日本書紀』そのものに対しても実証的かつ科学的な批判の目を向けている。  
「神武をもって日本の天皇のはじめとし、国史に書かれていることをよりどころとしても、それはわずかに周の末にあたります。中国では、それ以前に三皇五帝などいろいろあって、泰山に封禅(土を盛って天を祭り地をはらって山川を祭る儀式)した君主が七十二代、うち管仲が聞き及んだのが十代で、孔子はそれより少したくさん引かれたと『史記』の「封禅書」にも書いてありますから、中国でも太古のことは、聖賢もご存じないことがいくらもあるように思われます。  
これをもって考えると、神武以前の日本の神代は、どこまでいっても神代で、聞いたこともないようなことがあるようであります。その証拠には、国史(『続日本紀』)にも書いてあるとおり、能登\近江\遠江、そのほかの国国からも、地中から銅鐸を掘り出し、その高さ三尺、さしわたし一尺もあるものがいくらもあります。これはともかく人間の作製したものですが、神代以来、そうしたものをこの国で作ったということは、歴史に書いてありません。してみれば、神代という時代に、それらの道具が入ってきた時代があったにちがいない。  
まして神代などという時代も、よく吟味してみれば、二、三百年も古い時代のように書かれているけれども、実際は中国の周の末、秦のはじめにあたるはずです。要するに、天皇家の血統を立てようとして、それ以前のことは消してしまい、神代、神代とまぎらかしたように思われます。  
してみれば、神社などのたぐいも、わからぬことがいくらもあるように思われますのに、あたかも見てきたことのように断定することは君子としてすべきことではなく、疑いは疑いとして伝えるとする聖人のことばにそむくことになると思います。ただ、少しでも根拠のはっきりしたことをもって追究したいものだと考えているまでのことでございます。」(『新井白石全集』第五巻五六二頁)  
神武以前を神の時代とする『日本書紀』の記述に対して、中国史書との対比や銅鐸の出土という考古学的知見をもって批判を展開する白石の学問の方法と堅実な姿勢は、今日においてなおその学問的意義を失っていないと言わねばならない。これは、自説に不利な考古学的事実を無視したり、論証抜きで夢の中で夢を説くような幻想とは全く異なる学問の方法と姿勢である。  
「九州年号」への言及  
こうした白石の学問の方法と慧眼は、「九州年号」にも及んでいた。水戸藩の知人、安積澹泊(たんはく)宛書簡で次のように問い合わせている。  
「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。  
その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻二八四頁)  
白石が書簡で触れている『海東諸国紀』(一四七一年成立)には次の九州年号と『日本書紀』に見えない記事が記されている(注2.)。  
「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(申叔舟著『海東諸国紀』岩波文庫)  
これらの九州年号を白石は「本朝の年号」と理解しており、『日本書紀』編纂時に採用から漏れたものとする。従って真作説ではあるが、九州王朝の年号、あるいは九州地方で公布された年号という理解までには至っていない。冒頭紹介した卜部兼従の認識とは明らかに異なっている。これは、九州の由緒ある神社宇佐八幡宮の神官と、江戸の学者という立場や地理的歴史的背景の違いからもたらされた認識差ではあるまいか。  
朝鮮の『海東諸国紀』に記されたこれらの年号が国内の寺社縁起や系図に記されており、干支などが一致していることから、白石は真作と見なし、水戸藩の安積澹泊(たんはく)に見解を質したが、残念ながらその返事は『新井白石全集』には収録されていない。  
おわりに  
水戸藩の『大日本史』を「夢の中で夢を説くようなもの」と批判した佐久間洞巌宛書簡の最後に、白石は次のように記している。  
「とにかく、わたしが死んで百年二百年後の世の人々の公論に身を任せる他はありません。」(『新井白石全集』第五巻五二〇頁)  
新井白石のような時代を代表する歴史家でさえも、現実の世の学問に深く絶望し、自らの著作や学問を後世の人々に託すほか無かった。その白石が没した享保十年(一七二五)から二百年経た大正十五年(一九二六)、古田武彦氏が生まれる。「故村岡典嗣教授の文献学の最良の面の後継者」(注3.)として古田氏は、白石が抱いた疑問の数々を解き明かすのであるが、日本古代史学界の状況は白石の時代と本質的には何ら変わっていないようである。 
注 
1.本稿での白石書簡現代語訳の多くは、中央公論社刊『日本の名著第十五巻新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。  
2.『海東諸国紀』には九州年号と共に九州王朝関連記事が記されているが、このことについては別に詳述する予定である。  
3.家永三郎「日本古代史研究に投じた一石──古田武彦『「邪馬台国」はなかった』」一九七三年『朝日ジャーナル』所収。『新・古代学』第七集(二〇〇四年一月、新泉社)に再録。 
 
経済を理解できなかった新井白石

 

1 大浪費家綱吉  
綱吉の晩年は綱吉の大浪費により、幕府財政は破綻寸前でした。  
宝永5年(1708)の綱吉死去の前年の幕府の歳入は60万〜70万両で、歳出は140万両という莫大な額。これが経済政策などであるならともかく、単なる「浪費」ですから正気の沙汰とは思えません。  
その内容は、広大な神社造営、「御成」(臣下の屋敷訪問)の際の土産代、「お犬様」への支出、気前の良い加増、学問関係の催し物など、金銭感覚ゼロの将軍綱吉に起因するものでした。  
勘定奉行荻原重秀は、前節のように貨幣改鋳により対応してきましたが、度重なる改悪により、貨幣としての信用も失い、また市場の必要以上に貨幣が流通しているため猛烈なインフレとなります。まさに八方ふさがり。そのような状況で将軍に就任したのが徳川家宣であり、その右腕が新井白石でした。  
新井白石は、家宣(1709〜1712)、家継(1713〜1716)の二代に仕えますが、彼が主導となって行った政策を「正徳の治」といいます。  
2 新井白石と荻原重秀  
新井白石のやったことは、まず徹底的な倹約です。これは綱吉の「見栄っ張り」のせいで出費が異様に増えていたので当然といえましょう。  
これは良い政策です。  
次に貨幣関係の改革をするため、荻原重秀をあの手この手で罷免を画策しました。しかし、これは「余人に変わる者なし」ということで、将軍家宣が反対し、なかなかうまくいきませんでした。結局不正蓄財を理由に正徳2年(1712年)ようやく排斥に成功します。  
白石の荻原嫌いはある意味偏執的で、白石の著作「折焚く柴の記」では「歴史始まって以来の極悪人」とされ、それがそのまま現代までの荻原評になっています。田沼の時もそうですが、勝者が残した「日記」はそれが主観的なものであれ「事実」になるのです。  
なお、荻原は翌年、変死していることも付け加えておきます。  
さて、白石は失われた貨幣への信用を回復すべく、金銀の比率を「慶長小判」、つまり幕府創設当初に戻しました。  
さらに金銀の流出を防ぐために長崎貿易の制限を行います。当時、貿易は完全な輸入超過(輸入品が多く支払うお金が多い)で、金銀が外国に流出していたからです。  
このように、白石は荻原の政策と正反対の政策を採ったといえます。さて、その結果はどうなったのでしょう?  
3 経済停滞  
貨幣改鋳は、失われた貨幣に対する信用を取り戻すためのものでしたが、実際は、その分の貴金属の「金」が必要となります。例えば6の金で作っていた貨幣を8の金で、作ろうとした場合、金の量がよけいに2必要になります。よってその分金が必要となるのです。  
しかし、金がばんばん産出された江戸時代初期と異なり、当時は、前章のコラムの佐渡金山の枯渇に代表されるように産出量も激減しています。ですから発行できる貨幣が減り、貨幣流通量は減少することになります。  
また金6割のものと8割のものがが同じ「1両」だとしたら、当然品質の悪い6割の方が使われます。いわゆる「悪貨が良貨を駆逐する」ということになるわけです。  
つまり、貨幣の量が減り、しかも「良い貨幣」は使われない、という悪循環に陥るわけです。  
貨幣流通量が減るわけですから、もちろんデフレとなり、経済成長にストップをかけることとなります。  
また、貿易制限は、貨幣の流出を止めることにはなりますが、そもそも必要であるから貿易を行っているわけで、必要物資が入ってこないということにもなります。貿易制限の経済的悪影響はいうまでもありません。  
貿易の輸入超過に関する問題の本質は「金銀流出」ではなく、日本から輸出するものがない、その結果日本がものを買ってばかりなので金銀が流出する、という点です。これに気づかなかったわけです。  
4 評価  
白石の考え方の一部は従来の考え方にのっとって考えれば立派な考え方であり、白石個人も尊敬に値する人間であったといえます。  
しかし、経済的に見れば行きすぎた貨幣政策から、貨幣流通量の減少からデフレを招きました。  
「貨幣流通量を減らす」→「生産物の価値が下がる」という根本に気づかない限り、旧来型の手法に頼った経済政策の失敗は約束されていたといえましょう。  
また、長崎貿易制限も、確かに一時的に金銀の流出は止まるかもしれませんが、本来貿易というものは対等に物資を行き来させ、相乗効果で経済を発展させるためのものであり、貿易自体が問題ではありません。  
むしろ経済の発展を止める作用をもたらしたと言えましょう。  
幸い、数年で新井白石は政治の中心から外れますので、大きなボロが出ませんでしたが、この考え方をおおむね踏襲した吉宗の時代に入り、その問題点が露呈することとなるのです。  
 
落首 「万代の亀の甲府が世になりてほうえい(宝永)ことよ民の喜び」  
甲府の大名であった家宣と亀のこうらをひっかけ、新しい元号「宝永」と「ほう良い」とひっかけた落首です。いかに綱吉の時代が民衆を苦しめたか、ということになるのですが、この対象は江戸の落首なので「生類憐れみの令」を指します。思いこみの強い「歴史家」「小説家」ですと、これをもって綱吉時代は最悪だ、ということになるのですが、日本全国で見るとどうでしょうか。そう言った観点からすると、この落首だけでそのように断言はできないと思います  
 
折りたく柴の記を読む3

 

元旦の朝日新聞に、中学3年間でたった一冊、200ページ余の中勘助著『銀の匙』を教材として読んだ、という元国語教師の話題が、紹介されました。私の加藤周一著『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫上・下)の読書は、読み始めて16ヶ月たち、やっと上巻を終わるところまできました。読みの深さは到らなくても、かけた時間だけは、先の元国語教師に近づきつつあります。『序説』はゆっくりと、「第七章元禄文化」に入っていきました。  
加藤氏は、16世紀末から17世前半の日本文化の最高の表現は、文芸ではなく建築(築城・茶室)、造園(修学院離宮・桂離宮)、絵画(宗達・探幽・風俗画)、工芸(古田織部)などの造形美術にあった、と指摘します。これに対して、17世紀末、元禄時代(1688〜1704)を中心とした時期には、荻生徂徠(1666〜1728)・新井白石(1657〜1725)・近松門左衛門(1653〜1724)・松尾芭蕉(1644〜1694)・井原西鶴(1642〜1693)などが輩出し、まさに学問・文芸が一気に花開いたような様相を呈しました。加藤氏は、これら「元禄文化」の特色として、1徹底して現世的・世俗的な文化であったこと、と2価値の二重構造(表の義理と禁欲的倫理、裏の人情と感覚的快楽主義)が発達したこと、をあげています。  
そこで先ず、私の「元禄文化」へのアプローチは、義理と禁欲的倫理を説いた儒者のひとり新井白石の『折りたく柴の記』から読み始めます。テキストは、桑原武夫訳(中公クラシックス04年刊)を使用。  
新井白石は、浪人の息子で、儒者として甲府の徳川綱豊(後の六代将軍家宣)に仕え、幕府の政策立案者として重きをなしました。著書『折りたく柴の記』三巻は、白石が吉宗の将軍就任時に罷免(1716)された直後に、執筆され始めました。上巻は、白石が幕政に直接参画する以前の生涯を描き、中・下巻は、家宣・家継二代の将軍時代(1709〜16)、白石自らが関与した政治的回想録です。加藤氏は、白石の日本語散文は西鶴のそれとともに、同時代の日本では画期的であった、と評価しています。  
白石の禁欲主義は、父親からの教訓のなかで、育まれます(上巻)。「男は、ただ忍耐ということだけを修練すべきである」「(金と色)の欲のない人だけが・・・人に嫌われないもの」。この忍耐と欲のなさは、幕政参画以前の困窮した青年期に早くも、遺憾無く発揮されます。白石は、父の仕えた土屋利直の死後、土屋家の内紛に連座して追放・禁錮に処され、父の俸禄も奪われ仕官の道も絶たれました。21歳のころです。同情した知人たちに、冨商の養子になることや医者になることをすすめられますが、断ります。また、金三千両と宅地の提供を受けて婿となり、大学者になるべく勉強していただきたい、との申し出にも、「蛇が小さいうちは、わずかばかり短刀でさし切ったにすぎぬところが、大きくなってみると、一尺あまりの傷となった」という喩えをひいて断ります。現在の私の傷は小さいが、私が大学者になったら、傷は大きくなる、といっているのです。この「傷」は、追放・禁錮処分のことを指しているのでしょうか。白石には、欲はありませんが、大きな自信があったのです。その後、禁錮は解かれ堀田家に仕官しますが、主君刺殺という事件のあと、堀田家は不幸に見舞われ、多くの家来たちが去って行きます。しかし白石は、主従の関係を重んじて残り、長年にわたり妻子を飢えさせない程度の低い禄米に、甘んじ続けます。しかし、35歳のとき堀田家を去り、再び浪人となります。市中で塾を開いて、食いつなぎます。こうした困窮のなかにあって、恩師の木下順庵から加賀藩への仕官を勧められますが、加賀に年老いた母親がいるという友人に、その職を譲りました。まさに白石は、義理と忍耐と無欲の人だったのです。  
中・下巻は、政治家・新井白石の面目躍如たるところ。先ず中巻の記述から、白石の政治的業績二つを紹介し、彼の政治・社会思想を見ておきます。  
1 五代将軍綱吉時代の「生類憐みの令」の廃止と恩赦について。  
1708年8月、馬のたてがみを切ることを禁止。人びとの引いたり乗ったりしている馬は、野生の馬のようになる。更に10月、馬に乗ることも禁止。馬に乗るべき身分の人も、馬を引かせるだけで乗ることがもできなかった。これらは、「生類憐みの令」の最後の布令。  
1709年廃止。白石曰く「近年、このことで罪をうけた者が何十万人になるか、数えきれぬほどである。そのときに裁決が決まらず、獄死して死体を塩づけにしてある者が九人まであった。まだ死なない者もその数が多い。この禁令をなくさなければ、世の中の憂いと苦しみはやむことがない」。また「一羽の鳥、一匹の獣のために死刑に処せられ、一族まで殺され、そのほか流罪・追放など、人びとは安心した生活をすることができない。父母・兄弟・妻子が家や村を離れて流浪の身となり、ちりぢりになり、その数十万人あるかわからない。いまにおいて天下に大赦をされることがなければ、どうして人民が生きかえった思いをすることができよう」。その結果、8831人が解放されました。ただ、この白石による「生類憐みの令」批判は、綱吉没後のこと。この分、評価は差し引かなければなりません。  
2 「越後の農民が、地方官(大庄屋)の課する年貢過重を、その頭越しに、江戸の中央政府に訴えたとき、農民の行動の非合法を無罪とし、かえって腐敗した地方官の苛斂誅求を警めたこと(1710)。」(加藤氏による要約)  
白石は、この事件の背景を次のように分析します。諸大名・旗本の所領替えのとき、肥えた田や利益の上がる山林・河川の多いところを天領(幕府直轄地)とし、残りを私領としたため、農民も領主たちもともに苦しむことになった。また、地方官(大庄屋)は、幕府役人(代官)の滞在費を農民たちに負担させ、苦しめていた。このように、農民たちの訴えは、道理の無いことではない、と白石は強調します。幕府の中心にいて、幕政の自己批判を明確にしています。時の将軍・家宣の懐の深さをも語るものです。  
この2項をみただけでも、白石の「合理主義と事実を尊重する精神」と「自律的な人間の知的勇気」が「はるかに時流を抜いていた」という加藤氏の新井白石評を、十分にうかがうことができます。  
次に、当時の日本社会を知る上で興味深い事例を、下巻の記述から要約します。  
3 正徳の疑獄について。夫が行方不明となった妻の訴えがきっかけで、夫が父と兄に殺されたことが判明します。「婿を殺した二人の罪は、疑うことはできない。しかし、その妻なる者は、父の罪をあばいたという罪の疑いがある」という事件について。この事件について、評定衆(裁判官)は、「財産を没収して奴婢とすべき」といい、林大学頭信篤(儒者)は、「父を告発した罪をもって処断すべき」つまり、絞殺すべし、と主張しました。これに対し白石は、「この女は罪せられるべきではない。・・・父と夫のために尼になるようにすすめ・・・父と夫の財産を・・この寺に施し、生活の心配を除いてやるならば、・・・法律も、女の操も、両方とも守られるであろう」と意見した。まさに、大岡裁きです。儒者の意見はいささか過激だとしても、評定衆の意見が恐らく、当時の常識的な判断だった、と想像します。そうした中での白石の意見は、まさに合理的で実際的、しかも公正で人情味あふれる判定でした。  
4 奉行所は「獄につながれた者は決着をつけるべき」との主張にもとづき、「七、八年前に、主人を殺した者の死体を塩づけにしてあったのを、「その死体に対して法律どおり処置せよ」と言って、干からびた死骸を縄でくくって、はりつけにした」。白石は、「言語に絶しただらしないこと」と奉行所を非難します。江戸中期の法治主義の幼稚さと幕僚たちの硬直した官僚主義に驚きます。白石はここでも、現実的・実際的です。  
5 賄賂を行う商人のことについて、白石自身の経験を記しています。「去年のこと・・・長崎貿易に関する利権のことをたのみに来て・・・お礼として金五百両・・・事が成就したあかつきは、毎年ご子息たちに三百両ずつの金をさしあげ」るとの申し出があった。白石は言います。「私のような者にすら、このようなことを言うのである。およそ権門勢家の人びとのことなどは、想像がつくであろう」。徹底的無欲の人、白石への賄賂は、行き先を間違えたようです。役人への賄賂は、古今東西、変わりません。  
6 今で言えば、二世議員のことについて。「御先代家宣公が世を継がれてから、老中の人びとが、日々御下問を受けることがあったけれども、この人たちは、元来世間でいう「大名の子」であって、むかし道理を学んだということもなく、いまのことをよく知っているわけでもなく、年来、上様の御命令を伝えただけで、・・・国家財政の有無すら知らないという程度であつた。ましてや、機密の政務など、その本末がわかろうはずはなかった」。こちらも、古今、変わらないことのようです。  
いままで観念してきた「儒者・新井白石」のイメージは、固くて難しく寄り付き難い、とかってに思い込んでいました。今回、『折りたく柴の記』を読んで、それが間違いであることがわかりました。桑原武夫の現代語訳もわかり易く、なによりも『折りたく柴の記』そのものが、形而上の議論は一切なく、現実の実際的な諸問題についての実証的・合理的思考が貫かれているため、時代を貫通して、現代の私たちにも訴えかけるものがあります。時には、現代政治への警告すら、文中に読み取ることができるのです。  
 
正徳の治と享保の改革

 

綱吉の時代と新井白石の正徳の治  
『島原の乱とキリシタン禁制』の項目では、3代将軍・徳川家光の治世に日本の鎖国体制が強化されたことを説明しましたが、4代将軍・徳川家綱(いえつな:在位1651-1680,1641-1680)が幼少で将軍職に就任したことで徳川将軍家の世襲体制は磐石なものとなりました。徳川家綱の治世の初めでは、家光の武断政治(大名統制)が生んだ『大名の改易・転封』によって奉公先を失った浪人が、由井正雪(ゆいしょうせつ)や丸橋忠弥(まるはしちゅうや)をリーダーとして幕府転覆を計画するという『慶安事件・由井正雪の乱(1651年)』が起こります。将軍の徳川家綱は、叔父の保科正之(ほしなまさゆき)や大老・酒井忠勝(さかいただかつ)、老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)など有能な幕閣の活躍によって慶安事件の早期鎮圧に成功しますが、家綱は家光時代の武力・懲罰で大名を過度に威圧する『武断政治』を改めて『文治政治』へと転換していきます。大名家を改易で取り潰したり転封によって遠国に赴任させたりすると、奉公先(勤め先)を失った武士たちが浪人化して反幕府勢力に転じたり治安悪化の要因になる恐れがあったからです。  
4代将軍・徳川家綱は『末期養子の禁止(藩主が危篤に陥った時や死んだ後に、大名家の家督を守るために緊急に養子を擁立することを末期養子という)』を緩和して大名家を継続しやすくさせ、大名の嗣子(後継ぎ)がいないために大名家が改易されて浪人が多く生まれるといった事態を無くしました。更に、家綱は儒教的な君臣の忠義を現す『殉死』を禁止する『殉死禁止令』を出して、藩政を安定的に運営するために家臣は大名(主君・藩主)が死んでもその後を追って自害してはならないと命じました。家綱が危篤に陥ると、大老・酒井忠清(さかいただきよ)が有栖川宮幸仁親王(2代将軍秀忠の兄である結城秀康の血統を継ぐ親王)を宮将軍として迎え入れようとし、堀田正俊(ほったまさとし)が家綱の弟の徳川綱吉を推挙するという将軍後継問題がありましたが、結局、徳川綱吉が5代将軍として就任することになります。5代将軍・徳川綱吉(つなよし:在位1680-1709,1646-1709)は、宮将軍を自分の代わりに立てようとした大老の酒井忠清を罷免して、自分を強く推挙した堀田正俊(1634-1684)を重用し大老に取り立てました。  
『犬公方(いぬくぼう)』と呼ばれる徳川綱吉は、犬などに対して行き過ぎた動物の生命保護を強制する『生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい))』を出して庶民を苦しめたことで知られます。その為、綱吉は幕府の政治にも関心が薄くまともな判断能力を持たない暗愚な君主というイメージがあるのですが、その治世の前半では忠実な賢臣である大老・堀田正俊を的確に活用して『天和の治(てんなのち)』と呼ばれる善政を敷きました。徳川綱吉は幕府の正確な会計監査を行う『勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)』を設置し、儒学の学問を奨励して林家が主宰する『湯島聖堂(ゆしませいどう)』を建立したことでも知られます。儒学(朱子学)の経典を熱心に読んでいた徳川綱吉は天皇・皇室を敬う『尊王思想』の持ち主でもあり、御料(皇室領)を1万石から3万石に加増するだけでなく、生活が苦しかった公家の貴族たちの所領も増やしています。しかし、重用していた堀田正俊が貞享元年(1684年)に若年寄の稲葉正休(いなばまさやす:1640-1684,堀田正俊の従兄弟)に江戸城で暗殺されると、綱吉は幕政への関心を弱めて側用人の牧野成貞(まきのなりさだ)、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)らに政治を委託していくようになります。  
儒教の『忠孝の徳』を実践しようとする後年の徳川吉宗は、母・桂昌院(けいしょういん)の意見を重んじるようになり、母のために朝廷から『従一位』という極めて高い位階を賜与させています。以前は、母・桂昌院が寵愛した僧侶の隆光(りゅうこう)の宗教的な助言によって『生類憐みの令(一切の殺生を禁じる1687年以降のお触書)』が出されたと言われていましたが、現在はその時に隆光が江戸にいなかったことが分かっており生類憐みの令と隆光との関係は否定されています。享保の改革を実施した8代将軍・徳川吉宗は5代綱吉の『天和の治』を理想化していたとも言われますが、綱吉が将軍に在位した元禄時代は近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉などに代表される華麗な『元禄文化(げんろくぶんか)』が花開いた財政・景気が良い時代でもありました。綱吉の治世は『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』で知られる赤穂浪士事件(1703年)が起こった時代でもあります。赤穂浪士事件というのは、吉良上野介の度重なる非礼・嫌がらせに対して江戸城で殿中刃傷(でんちゅうにんじょう=江戸城で刀を抜くことは死罪に相当)を起こした浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の旧家臣たちが、主君を侮辱して自害に追いやった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を独断で討ち果たした事件ですが、私怨で復讐したとされた家臣たちは幕府に自害を命じられました。  
1704年に次の6代将軍は甲斐国甲府藩主の徳川家宣(松平綱豊)に決まり、綱吉が宝永6年(1709年)に死去すると、48歳の徳川家宣が6代将軍に就任します。6代将軍・徳川家宣(いえのぶ:在位1709-1712,1662-1712)は民衆の悪評・不満を受けていた『生類憐れみの令』や『酒税』を即座に廃止して、綱吉が重用した柳沢吉保を罷免して、文治政治の改革を進められる人物として新井白石(あらいはくせき)や間部詮房(まなべあきふさ)を登用します。徳川家宣は綱吉時代から経済政策を担当してきた荻原重秀(おぎわらしげひで)を用いて財政改革も推進しましたが、在職わずか3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に51歳で死去し、その政策は子の7代将軍・徳川家継へと引き継がれました。6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の治世を合わせて『正徳の治(しょうとくのち)』と呼びますが、この期間は比較的、幕藩体制と経済情勢の安定が保たれた時期でもありました。  
7代将軍・徳川家継(いえつぐ:在位1713-1716,1709-1716)は、徳川15代将軍の中で最も幼少で即位した将軍ですが、わずか7歳で死去したために新井白石の改革は中途半端な形で頓挫することになります。白石の『折りたく柴の記』によると、6代将軍・家宣は1712年(正徳2年)に新井白石と間部詮房を病床に呼び寄せて、『次期将軍は尾張徳川家の徳川吉通(よしみち)に定めて、家継の処遇は吉通に委任する』という遺言と『子の家継を将軍にして、吉通を家継の世子に据えて白石らが政務を代行せよ』という遺言を残したと言われます。しかし、家宣が死去すると、新井白石や間部詮房は『徳川吉通や尾張家の重臣を迎えることによって幕府で宗家と尾張の内紛が起こるのではないか』と懸念して、家継を将軍職に据えて『側近政治』を行うことにしました。江戸前期の安定的統治と評価される『正徳の治』は、幼少の将軍である徳川家継を側用人の間部詮房と政治顧問の新井白石が補佐するという形で推進されたのです。  
 
新井白石(あらいはくせき,1657-1725)は、初め上総国久留里(くるり)藩主・土屋利直(としなお)の目付として働いていましたが、幼少期から才気・器量に抜きん出た英才であり儒学の教典・知識に関する深い造詣を持っていたとされます。新井白石は藩主・土屋利直から寵愛されましたが、その後、お家騒動があって土屋直樹が後を継ぐと、土屋家から罷免されます。白石は5代将軍・綱吉の治世で大老・堀田正俊に見出されて幕府に仕えますが、堀田正俊が稲葉正休に刺殺されると奉公先を失って浪人となり独学で儒学の学問を続けます。新井白石は優れた門下生(雨森芳洲・室鳩巣・祇園南海など)を多く抱えていた朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)の弟子となり、学問奨励をしていた加賀藩の仕官を他の門下生に譲った後に、徳川家の親藩である甲府藩に仕官します。  
白石は甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に学問を教授する待講(じこう)に就任して、綱豊に儒学や歴史を19年間にわたって教えましたが、この綱豊が後に6代将軍の徳川家宣になります。甲府藩に仕官したことが白石が幕政に参画するきっかけとなりますが、将軍家宣は白石の学識の深さと人格の高潔さに敬服していたと言われます。白石といえば回想記の『折りたく柴の記』が有名ですが、甲府藩主時代の徳川綱豊に1万石以上の大名337家の家系図と歴史を正確に記した正編10巻と付録2巻からなる『藩翰譜(はんかんふ)』を献上しています。正徳の治を実現した新井白石の政治的手腕は優れたものでしたが、良質な『正徳金銀』を鋳造して緊縮財政を行った白石の経済政策は、インフレ(物価上昇)を抑えたもののデフレ(物価下落・幕府の収入の減少)を引き起こすという弊害をもたらしました。  
吉宗の享保の改革  
新井白石・間部詮房が側近政治を行った7代将軍・徳川家継の治世が終わると、譜代大名の発言力が増して天英院(6代将軍家宣の正室)の推挙によって、紀州徳川家の徳川吉宗が8代将軍に就任します。8代将軍・徳川吉宗(よしむね:在位1716-1745,1684-1751)が将軍になると側近政治を行っていた新井白石や間部詮房は失脚して政治活動から引退し、吉宗は幕府の権威と財政を再興するために元紀州藩士を起用して強力な幕政改革に着手します。紀州藩の5代藩主であった徳川吉宗は財政再建や綱紀粛正を目的とする『藩政改革』を行った経験があり、吉宗以後の政治改革の基本理念となる『質素倹約・緊縮財政(歳出削減)・風紀紊乱の取締り』を幕政に持ち込みます。徳川吉宗は新井白石らの側近政治を排除して『将軍親政』による幕政改革に取り組みますが、この幕府の統制力や財政赤字を改善するための吉宗の政治改革を『享保の改革(きょうほうのかいかく)』と呼びます。享保というのは、吉宗が将軍に在位した1716年から1745年の年号のことです。  
徳川吉宗の享保の改革・松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革は『江戸三大改革』と呼ばれますが、現代の経済学的観点からの評価では、江戸三大改革よりも老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が行った『重商主義的な経済改革・規制緩和(商業活動と文芸活動の奨励)』の方が財政再建・経済成長の効果が高かったのではないかと言われています。徳川吉宗は水野忠之(みずのただゆき)を老中に任命して総合的な政治改革としての『享保の改革』をスタートさせ、財政再建を達成するために『質素倹約(支出削減)・新田開発と増税(収入増加)』を積極的に推し進めますが、行政・司法・学問(蘭学)の分野でも改革を行いました。正徳の治の時代までの『文治政治』を転換して、武家の棟梁として武芸の鍛錬を重視する『武断政治』を心がけるようになり、徳川吉宗は生類憐みの令を出した綱吉の時代から行われていなかった『鷹狩り』を復活させました。  
将軍に直属して諜報活動(隠密裏の情報収集の活動)を行う『御庭番(おにわばん)』を創設して、吉宗に忠実な態度を貫く紀州藩の生え抜きの人材を御庭番に任命しました。町民・農民など庶民の幕政に対する意見や不満・要求などを聞くために『目安箱(めやすばこ)』という投書箱を設置して(1721年)、庶民の声を幕政に反映させられる仕組みを用意しました。江戸の都市政策・行政改革では、南町奉行に有能で公正な大岡忠相(おおおかただすけ・大岡越前,1677-1752)を任命して、風紀粛清・風俗取締り・治安維持を厳しく行わせて町奉行所や町役人の機構改革を実施しました。特に、私娼・賭博・心中などは江戸の風俗を紊乱するものとして厳しく取り締まりが行われました。  
大岡忠相は吉宗の命令を受けて貧民や病人を救済する『小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)』を設置したり(1722年)、蘭学者で農業研究を行っていた青木昆陽(あおきこんよう)を書物奉行に任じて飢饉対策の食料となるサツマイモの試作を行っています。その一方で、穢多(えた)・非人などの賤民階層に対して服装・居住地を制限する差別政策を推進したという好ましくない部分もあります。火事の多かった江戸の防火対策として『町火消し』の組合が創設されて、燃えにくい資材を使った防火建築なども奨励されました。1719年には、幕臣(旗本・御家人)の借金・負債を軽減するための『相対済令(あいたいすましれい)』を出して、札差・両替商が金公事(金銀貸借関係の訴訟)を起こせないようにして当事者間の示談(相対)を推奨しました。1722年には、『足高の制(たしだかのせい)』によって、幕臣が昇進して役職に就いている期間だけ俸禄を加増し、役職を離れれば元の俸禄に戻すということが決められました。1742年には、司法改革を進めるために刑法判例を編纂した『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』を制定しています。  
吉宗の『享保の改革』で最も重点が置かれたのは財政再建と米価調整(物価安定)でしたが、吉宗は財政政策として質素倹約と増税を行いました。百姓に対する増税策として年貢を四公六民から『五公五民(税率50%)』に引き上げ、年貢を安定的に徴収するためにその年の収穫(豊作・不作)と無関係に定率の年貢を徴収する『定免法(ていめんほう)』を導入したため(1722年)、農民(百姓)の暮らしが困窮します。年貢の税率は1728年に『五公五民制』へと引き上げられました。増税と不作・飢饉などの影響によって、農村人口はその後減少傾向を示すようになり、年貢徴収と生活困窮への不満から一揆・打ち毀し(うちこわし)といった暴動の事態も起きました。定免法を導入する前には、土地面積ではなくてその年の収穫予想高に応じて課税する『検見法(けみほう)』と呼ばれる課税法が採用されていました。  
徳川吉宗は『増税・倹約』に加えて治水工事や新田開発なども積極的に行って財政収入の増加に努め、逼迫していた幕府財政を暫時的に安定させることに成功しました。しかし、貨幣政策や米価安定(物価調整)の改革は思い通りに進まず、貨幣価値に対して米価は下落していったので、現金収入が乏しい大名・旗本・御家人・武士の暮らしは相対的に見て苦しくなっていきました。石高制に基づく『年貢収入』を主とする幕府や諸藩(諸大名)の本質的な問題は、都市部(江戸・京都・大坂)で発達した貨幣経済(商品経済)に十分な適応ができないということであり、享保の改革をはじめとする緊縮財政・重農主義政策では財政状況を根本的に改善することが出来なかったのです。  
徳川吉宗は徳川将軍家の藩屏として『田安家』と『一橋家』(両卿)を創設したことでも知られますが、吉宗死後に『清水家』が加わって御三卿(ごさんきょう)となります。政治に関心が乏しく言語障害があったとされる9代将軍・徳川家重(いえしげ)に将軍位を譲ってからも、吉宗は大御所政治を行いました。家重の後の10代将軍・徳川家治(いえはる,1737-1786)の治世では、老中に上り詰めた田沼意次(たぬまおきつぐ,1719-1788)が商品経済・金融経済を活性化させる重商主義的な政策を中心にして、農業経済で停滞していた江戸時代では珍しい『経済優位・規制緩和の政治改革』を主導することになります。  
 
最初の邪馬台国研究者は誰?

 

日本の史書で、「邪馬台国」についての記事が現れる最初の文献は「日本書紀」の神功皇后摂政紀である。  
邪馬台国、卑弥呼という文字が出てくるわけではないが、魏志に曰くとして、景初三年倭の女王が使いを送ったと記されている。これ以降、幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が現れるが、いずれも倭人伝の簡単な紹介で、暗に卑弥呼は神功皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていない。  
我が国における本格的な邪馬台国研究の先駆者は、新井白石である。新井白石は、正徳六年(1716年)に完成させた『古史通或問』において、「魏志は実録に候」と述べており、魏志倭人伝に現れる倭の国々を実在の地名に比定していった。  
対馬國を対馬、一支國を壱岐、末廬國を肥前の國松浦郡といった、現在でもほぼそうであろうと考えられている比定地は、彼が最初に著したのである。又、倭人伝に記されている年代や官名、風俗等についても考察し、白石以前の記事が、倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的・実証的な研究を行ったと言える。  
彼も又、卑弥呼は神功皇后であるとして、日本書紀以来の呪縛から抜け切れていないが、邪馬台国問題は彼によって初めて学問として研究する対象となったと言えよう。  
しかしながら、『古史通或問』で彼は邪馬台国は大和の國であるとしながら、その後に著した『外国之事調書』では、邪馬台国は筑後の國山門郡であると書いている。即ち、邪馬台国大和説から九州説に転じた事になる。尤も、『古史通或問』と『外国之事調書』はいずれが先に著されたものか判然としない点もあり、そうなると九州説から大和説に転じたとも言えるのである。  
つまり、新井白石は、我が国邪馬台国研究の先鞭をつけたと同時に、今日までの論争の火種をも自分自身で創出しているのである。  
新井白石が世を去って5年後に生まれた本居宣長は、『古事記伝』の大著を著し、邪馬台国研究を更に掘り下げたものにした。彼は白石ほど倭人伝を信用せず、中国の史書に対して多くの疑念を持っていた。倭人伝の多くの記事を「これは間違い」「これは一月ではなく一日の誤り」などとして、邪馬台国は筑紫にあり、卑弥呼は、熊襲の類が神功皇后の名を語るのに用いたものであるとした。皇朝(すめらみかど)の臣宣長としては面目躍如であるが、今日にも見られる原文の恣意的解釈は、本居宣長に始まったとも言える。  
あらゆる意味において、この二人が邪馬台国研究の先駆者と言えるが、二人の方法による邪馬台国論がその後、明治、大正、昭和、平成に渡って延々と続く事になる論争の原点とも言える。  
 
「北条代々天下の権を司りし事」『読史余論』正徳二年(1712)

 

〔1219年〕二月十三日、信濃守行光上洛、六条宮冷泉宮のうちをよつぎの事を申す。十五日、河野法橋全成の子冠者時元時政が女の腹に出生す。多勢をひきゐて、駿河国に城郭を構て、東国を管領すべきよしを企と聞て、十九日に二位尼の仰として、金窪兵衛尉行親等の討手をさしむく。時元自殺す。承久記には、河野冠者は手づきよき源氏なれば、是こそ鎌倉殿にもなり給はむずらめとのゝしりあへり。義時此事伝へ聞て、何条さる事のあるべきとて、討手をつかはし攻られけり。身にあやまる事なけれども、陳ずるに及ばねば、散々に戦て自害してうせぬと。云々。これによらば、東鏡の記する所おぼつかなし。七月十九日九条左府道家の子三寅丸下向あり。二歳。中十一年ママを隔て承久の乱あり。承久三年〔1221〕。  
承久の乱後、二年をへだてゝ元仁元年〔1224〕、六月十三日、義時死。六十二歳、執権廿年。東鑑に、日比脚気の上霍乱にて弥々危急なりしかば、若君に申して今朝寅時に出家して死す。昨朝より弥陀を唱て怠らず、外縛の印を結び、念仏十遍の後に終る。順次往生といふべし。保暦間記には、近習の小侍のために刺殺されしと見ゆ。一説に、近侍に深見三郎といふものあり。はじめ彼が父数個所の地頭たりしに、罪ありてころさる。其三人の子は流されき。年経て赦されて、長子三郎近侍となる。父の罪をも贖ひ、又弟をも召仕はれん事を思ひて、夙夜する事五年に及しかど、一所をも賜はず、又弟をも赦さざりしかば、恨みて、其病に乗じて、刺しけるを、亘理平太といふもの七十余歳なるが、侍にありて推隔しかどかなはず、義時は刺れぬ。深見をば亘理うちけりともいふ。  
按ずるに本朝古今第一等の小人、義時にしくはなし。三帝二王子を流し、一帝を廃しまゐらせ、頼家并にその子二人、禅師君、公暁。又頼朝の子一人、意法坊生観むすめの腹に出来しを、殺せしといふ事、承久記に見ゆ。頼朝の弟一人、全成。姪一人、河野冠者。それが中、公暁をして実朝を殺させしありさま、其姦計おそるべし。景時・義盛を殺せし事、前に論じき。かれいかでか其死を得べき。東鏡に記せし所信ずべからず。順次往生の類、皆是文飾のことばたる事明なり。保暦の記さもあるべくや。されど義時が奸計を遂し事も、外戚の勢に倚りし故也。譬ば王莽元后の力をかりて、つひに漢鼎を移せしが如く、本朝にしては蘇我馬子元舅の親によりて、用明の皇弟穴穂部(あなほべノ)皇子及び守屋の大連(むらじ)を殺し、そのゝち終に崇峻を殺し参らせしより此かた、かゝる類もなく、義時が罪悪はなほ馬子に軼たり。  
義時死後二七日に泰時・時房鎌倉に帰り、此時両人共に在京。中一日をへだてゝ泰時二位尼に見参、将軍御後見を命ぜらる。先是広元と議して、此事※忽(そこつ)たらむ歟とありしに、広元入道のべて今日に及ぶ猶遅し。世の安危、人の疑懼、治定有べき事也。早く其沙汰あるべしといひしが故也。  
義時死せし後、泰時舎弟等討べしとて下向すとて、四郎政村が辺ものさわがし。政村が母は、伊賀守朝光が女也。故に伊賀式部丞光宗兄弟、政村を後見として、宰相中将実雅を将軍とせむと謀れり。此実雅は義時当腹の女婿なれば也。泰時にかくと告知らする人あれば、不実たるべし、要人の外は参るべからずとて、ものさびしくて有けり。  
廿九日、時房が男帰部助時盛、泰時が男武蔵太郎時氏を上洛せしむ。物騒しき折ふし、いかにと二人ながら申せしを、京師は猶人の疑あるべし。はやく警護せよとて遣す。  
七月四日、三七日の仏事あり。五日の夜鎌倉中物騒にて、光宗兄弟、義村が家に往来し、又義時後室のもとにて、此事変ずまじとの盟ありと、ある女房告しに、泰時かれら兄弟変ずべからずとの契約尤神妙也といひけり。  
五七日の明る日、十七日近国の輩馳集り、此夕大きにさわがし。子時に二位の尼駿河局ばかり具して、義村がもとにゆき、此ほど世しづかならず、政村・光宗等汝の家に往来頻也と聞ゆ。何事ぞや、泰時を謀れるにや、此人の功にあらずんば、承久の乱に関東今日なからまし、さらば義時がよつぎ、此人にあらずは誰かはあるべき、政村と汝と父子のごとし。誰か疑なかるべき。無事の様をはからふべしといふ。義村しからざるよしを申しければ、政村を扶持せん歟、和平の計を廻らさん歟、たゞいま申切るべしとありしかば、義村、四郎殿は全く異心なき歟、光宗等申す事あり、制止を加ふべきよしを誓ひしかば、二位尼還り給ひぬ。明日義村、泰時がもとにゆき、光宗等を制止せしよしを陳ず。泰時さらに政村がために害心なし。いかで阿党を存ぜんやとて、喜びし色も驚きし色もなし。  
四十九日の仏事の夜、卅日鎌倉中さわがしく、旗をなびかし、鎧著しものはせちがひしかど、暁がたにはしづまれり。明れば閏七月一日、二位の尼若君をぐして泰時が家に入、義村に使して世を鎮むべしと申せしのち、昨夜の騒動殊に驚き思ふ所也とて、義村をめして、我いま若君を具して泰時・時房一所にあり。義村も各別なるべからずとてとゞめおかれ、其余宿老等悉く召集む。  
八日に広元が老病にふせしを召して、光宗等謀あらはれぬ。但し卿相以上、関東の沙汰に及びがたし。義時が後室と光宗等は流罪たるべし。余党は罪科に及ぶべからずとて、廿三日、実雅を上洛せしむ。伊賀四郎左衛門尉朝行・六郎左衛門尉光重・式部太郎宗義・伊賀左衛門太郎光盛等これにしたがふ。廿九日に、伊賀式部丞光宗、政所執事職をとゞめ、五十二個所の所領をめしはなし、外叔隠岐入道行西に預らる。廿二日に百日の仏事ありて、廿九日に義時、後室の尼伊豆国北条に下して籠居せしめ、実雅は越前に、光宗は信濃に流され、其弟朝行・光重等は、京よりすぐに鎮西に流されて事定る。  
九月五日、義時遺領を男女の子にわかつ。かねて泰時二位尼に申請し所也。嫡子分すくなかりしかば、いかにと有しに、泰時執権の身、領所等の事はあながちに望なし。たゞ舎弟等を顧むべき事也といひしに二位尼しきりに感涙を流し給ひき。嘉禄元年〔1225〕六月、正四位下前陸奥守大膳大夫大江広元卒。八十三。中納言匡房の曾孫也。四代の幕府に仕へて、参政五十年、子孫多し。上田・古河・小沢・西目・柴橋・寒河・長井・那波・毛利・海東・水谷等の祖也。  
按ずるに広元、累世王家の臣として頼朝をたすけ、六十州をして其掌握に帰せしめ、義時を助て承久の謀主たり。この人当時の望ありしかば、時政が一幡を殺せし時も、かれを仮りてみづからをなし、およそ義時が奸詐を恣にする、常にかれをかりて私を営みき。されば此人、ひとり、朝家に背きしのみにあらず、頼朝にもそむきたり。其柔侫多智、これも又義時が亜たるべし。玉海に、頼朝広元に委ぬるに腹心を以てす。恐らくは獅子身中の虫也とのたまひし事、先見の明ありといふべし。  
二年ママ七月十一日、二位尼平政子薨。六十九。貞永元年〔1232〕五月、泰時撰定式目。泰時二男時実、高橋某に殺さる。十六。高橋捕れて誅せらる。仁治三年〔1242〕六月、泰時卒。六十二。執権十九年、嫡孫左近衛将監経時職をつぐ。嫡子修理時氏は、寛喜元年〔1229〕六月、廿九にて卒す。経時は時氏の子。寛元二年〔1244〕四月、頼経の子頼嗣六歳にて元服、将軍に任ぜらる。従五位上右少将たり。頼経二歳にて下向。九歳にて将軍たり。十八年にて譲らる。天変の慎によるといふ。按ずるに、去年十二月二十九日午時、白虹貫日。此事によりて、頼経種々の祈祷の事ありき。一説に実は北条威を恣にせむとて、幼主をたてしともいふ。三年〔1245〕七月、頼経落飾。廿一歳か。此月経時妹檜皮(ひかは)姫を頼嗣の室とす。頼嗣七歳、女子十六歳。四年〔1246〕四月十九日、経時病危急、職を其弟左近衛将監時頼に譲り落飾、閏四月朔日、武蔵守経時卒。三十三。執権五年。  
同月十八日、亥時より鎌倉中騒動、甲士群集。廿日、近国御家人等群参。五月廿二日、寅時城介義景家中并に甘縄辺騒動。廿四日、鎌倉中大に騒動。すでに辻辻をかたむ。面々御所に参り、時頼が方にゆく。廿五日、時頼が宅警衛きびし。卯時御使として但馬前司定員来れども入ず。越後守光時義時が孫、朝時が子。御所にありしが、今暁出奔、髪を剃てその髪を時頼に贈る。これは光時、頼経に近習せしが、時頼を討むと謀る事発覚せしによるといふ。光時弟尾張守時章・備前守時長・右近衛大夫将監時兼等は野心なしと聞ゆ。午以後又群参の士旗をあぐ。今日遠江修理亮時幸病によりて出家、六月一日、時幸卒。十三日、光時伊豆国に流され、廿七日に、頼経越後守時盛が佐介第に入る。これ上洛門出の儀也。七月十一日、入道将軍頼経上洛、廿八日、入洛。八月一日に、供養人を帰さる。能登前司光村落涙に堪へず。これ廿余年昵近の人也。按ずるに、光時が事によりて、時頼急にその主を逐ふか。  
宝治元年即寛元五年。正月廿九日、羽蟻群飛。卅日、星流。三月十一日、由比浜潮血の如し。十二日、流星。十六日、鎌倉中騒動。十七日、黄蝶飛。〔裕曰飛字上或脱群字。〕四月四日、秋田城介景盛入道覚地東より来りつねに時頼が許に来りて長居す。十一日に、子息義景を諷し、孫九郎泰盛を鼻つかしむ。これ三浦の輩当時に秀て、傍若無人なり。世既に季になりなば、我子孫かれらに対揚に足るべからず、思慮有べき事なるに、義景・泰盛等怠りて武備なき事、奇怪のよしと。云々。廿五日、巳刻日暈あり。  
五月十八日、流星。廿一日、鶴岡の鳥居の前に札をたつ。曰く、若狭前司泰村独歩之余、依背厳命可被加誅罰之由有其沙汰。能々可有謹慎云々。此ほど時頼軽服ありて泰村が家にあり。廿七日、かの一族群集し、夜に入て鎧腹巻を粧ふ音聞えたり。此ほど告申す人多けれども、信用あらざりしかば、忽に符合すと思ひあはせて、五郎四郎といふ者一人に太刀もたせて、家に帰る。泰村内々に陳謝に及ぶ。廿八日、夜に入て、三浦の者どもの家家に人をつかはし見せしむるに、面々に兵具を調へおき、安房・上総等の領地より、船にて甲胃のごときをはこぶ由を申す。廿九日、三浦五郎左衛門尉、時頼がもとに来り、去る十一日、津軽の浜に大魚流来。偏如死人。先日由比浜水紅なりし事、此魚の死せし故か。其比奥の浦浦の水も紅也。比事文治五年〔1189〕泰衡が時、建仁三年〔1203〕左金吾の事、建保元年〔1213〕義盛が事有し義勘申と云々。  
六月一日、時頼近江四郎左衛門尉氏信を泰村が許につかはす。其旨を知る人なし。泰村此間世上の物騒、偏似一身之愁。其故は兄弟他門にこえ、己正五位下たり。其外一族多帯官位。剰守護職数個国、荘園数百町をつかさどる。栄運極りぬ。讒人の慎なきにあらずといふ。その侍に弓征矢鎧の唐櫃の棹数十本あり。郎従友野太郎して見せしに、厩侍に積おく所鎧匣百二三十合歟のよしを還り申せしかば、時頼が用心いよ/\きびしく、二日、近国御家人等時頼が家に馳集て旗をあぐ。  
三日、泰村が南庭に落書あり。檜板にしるせり。其詞に、この程世間のさわぐ事、何故とかしらで候。御辺うたれ給ふべき事也。忍びまゐらせて、御心得のために申侯。泰村使して、某に於て野心あらず、世の申よし沙汰するによりて、国国の郎従等きたり集れり。ざだめて讒口のもとゐ歟。御不審あらば、早く追い返すべし。もし他人の上の事ならんには、衆力に非ずば御大事を支ふべからず、進退貴命に随ふべしといひしに、時頼敢て疑ひ申す事なしと答ふ。  
四日、御家人并に時頼の祗候人等、退散すべきよしを触らる。五日、暁より鎌倉中いよ/\物騒。時頼、万年馬入道を使として、郎従等をしづむべしと泰村にいひおくり、次に平左衛門入道盛河に誓紙もたせ、異心あらざるよしをいひけり。泰村殊によろこび、盛阿座をたちて泰村猶座にありしうち、その妻湯漬をすゝめて案堵を賀す。〔是時頼高野入道と議して、かれを誅せしなリ。其奸計畏るべし。〕  
高野入道覚地かくと聞て、此のち泰村が氏族ひとり驕侈なるべし。其時彼に封揚かなふまじ。たゞ此時に雌雄を決せよとて、父子一族泰村が家に馳向ひて、かぶらを飛す。泰村大に驚きて防戦ふ。盛阿馳帰りてかくといふ。時頼此上はとて実時して御所を守らせ、六郎時定を大将とす。時定は舎弟也。毛利蔵人大夫入道西阿も御所に参らむとせしを、其妻に泰村が妹なり。諫られて、泰村が陣に馳くはゝる。時頼これを聞て、午時に御所に参り、北風南にかはりしかば、泰村が南隣に火を放つ。泰村・光村等、法華堂にゆきて、頼朝の影前にて自殺す。宗たる輩二百七十六人、都合五百余人也。此中御所の番帳をゆるされしもの二百六十人。此外縁坐にて罪せらるる者、挙て数ふべからず。  
京都への状に、若狭前司泰村、能登前司光村以下舎弟一家之輩、今日巳刻已射出箭之間、被誅罰候訖と云々。法華堂承仕法師、天上よりうかゞひし事書に、光村云、入道頼経の時、任禅定殿下内々仰旨。則可執武家之権。しかるを若州の猶予によりて、後悔有余とて、みづから顔を削り、猶見知らるべしやといふ。其血御影を穢す。又御堂を焼んとするを泰村制止す。泰村云。義明以来四代の功をおもひ、又北条外戚として内外をたすけし事を思はれば、一徃の讒によりて、多年のなじみをわすれて、かくあるべしや。さだめて後日に思合せらるる事あるべし。但故駿河前司殿、他門の人人を多く死罪に申し行ひ、それらの子孫を亡し給ひき。罪報の果す所歟。今死に臨てさわがしく、北条殿を恨むべからずと云々。泰村以下の妻児等は、命をたすけて諸国に預らる。  
七月北条相模守重時義時が三男、泰時が弟。京都より下向、時頼が招きしに依て也。是より両執権たり。重時は陸奥守になり、時頼相模守に任ず。 
其後建長三年〔1251〕、十二月廿六日、了行法師・矢作左衛門尉・長次郎左衛門尉久連等を捕ふ。謀反によりて也。廿七日、叛人を誅す。近国御家人等馳参る事夥し。皆々返さると。  
四年〔1252〕、二月廿日、和泉前司行方、武藤左衛門景頼上洛す。これ上皇第一の宮を申して将軍とせんがため也。廿一日、法性寺禅定殿下道家也。薨。奥州・相州以下群参。彼薨御事有説等。武家可有籌策之期也。云々。四月一日。後嵯峨上皇第一宮一品中務卿親王宗尊御下向。十三ともいひ十一ともいふ。三日に頼嗣帰洛、治世八年なり。中二年隔て同七年〔1255〕八月、頼経卒。三十九。十月、頼嗣卒。十八。按ずるに、宗尊は親王たりしが故、公卿殿上人二三輩近侍して、儀式厳重、前代に超たりといふ。  
按ずるに、三浦光村が死期に申せしも、道家公内々の仰ありし由也。これ関東を謀られし由聞ゆといへども、頼経の父頼嗣の祖たれば、其儘にてありしが、了行が事発覚せしかば、道家自殺し給ひしか、又武家よりはからひしにや。頼嗣を急に逐出せしも、了行が事より起れりと見えし。但しこれらもいかなる謀計にや、いぶかし。  
建長五年〔1253〕十一月、時頼建長寺を建て供養す。導師は宋僧道隆たり。蘭渓と号す。号大覚禅師是也。異国僧のきたるこれを始とす。康元元年〔1256〕三月、重時辞職、其弟政村を以て執権とす。十一月、時頼辞職。在職、十一年。武蔵守長時執権たり。長時は重時子。時頼落飾、山の内に退居、最明寺と号す。三十歳。文応元年〔1260〕二月、故近衛兼経公の息女下向、時頼が猶子として宗尊に嫁す。廿歳。宗尊は廿一歳歟。七月、僧日蓮時頼に対面、弘長元年〔1261〕、十一月、陸奥入道重時卒。六十四。極楽寺と号す。是赤橋の祖也。二年〔1262〕十一月廿八日、僧範宴死。親鸞是也。九十一。三年〔1263〕十一月廿二日、相模入道時頼卒。三十七。二男時宗十三にて家督せり。  
按ずるに、時頼兄につきて権を掌り、始に其主を逐ひ、頼経其後三浦一族を謀りて終に滅し、かさねて又其主を逐ふ。頼嗣峯殿の薨去をも、世の人関東の籌策を疑ひ、ほどなく旧主二人共に相継て卒せられし疑なきにあらず。かくて後嵯峨上皇の皇子を関東の主となし、摂家の息女を己が子となして御息所となす。長子を捨てゝ幼子をもてよつぎとなし、死して後その家乱れし、これらを以て観る時は、彼を泰時と並べ称する事心得られず、それのみにあらず、はじめて異国の僧を迎へ禅窟を開て、今に世の費をなす。後世賢明とする事、吾其故をしらず。  
文永元年〔1264〕八月、長時卒。卅五。左馬頭時宗執権たり。相模守に任ず。時頼長男式部丞時輔は在京して時茂と長時が弟。両六波羅たり。時宗家督の後は、政村・長時これを輔佐しき。時宗が舅秋田城介泰盛も権勢ありき。  
三年〔1266〕、三月晦日、御所の和歌会。四月廿二日、御悩によりて松殿僧正良基験者として護身あるべきよし御沙汰におよぶ。六月十九日、時宗が第にて秘せる沙汰あり。左京大夫政村、越後守実時、城介泰盛が外、会する者なし。此日良基、御所を出て逐電。後に高野に入、断食して死す。廿三日酉時、俄に御息所姫君、山内殿に入給ひ、若宮は時宗が第に入給ふ。人人時宗が家に馳集。鎌倉中騒動。廿六日、近国御家人等馳きたる事夥し。七月一日、近国の御家人或は関をやぶり、或は道を廻りて来るもの多し。三日巳時、甲士旗をあげ、東西に馳廻り、時宗が門外をうかがひ、次に政所の南大路にて一同にときをあぐ。少卿入道心蓮、信濃判官入道行一等、時宗が使として御所に往来両三度、昵近の輩皆々御所を出て、残りつかふる者纔に五人、四日午時又騒動、戊時将軍家越後入道勝円が佐介宅にうつり給ふ。女房の輿を用ふ。是は帰洛の御首途也。廿日入洛。時に廿七か。按ずるに、宗尊の時宗をはかられしによりてなり。帰京の後、後嵯峨上皇も御対面なく、中御門左少弁経任を下されて、仰らるゝ旨ありしに、武家別義なければ事定りぬといふ。宗尊在職十五年。鎌倉には其子惟康、纔に三歳なりしを主とす。  
五年〔1268〕十二月、蒙古の牒宰府に来る。七年〔1270〕正月、北条時茂卒。三十。八年〔1271〕十月、長時が子義宗上洛して北に任す。九年〔1272〕二月十五日に鎌倉の早馬、六波羅の北方義宗が許に来り、義宗俄に南方へよせて時輔をうつ。是時宗が兄にて弟に家督せられ、逆心ありし由あらはれし故也。鎌倉にて、北条公時・教時等縁座にて殺さる。是を二月の騒動といふ。  
十年〔1273〕五月、政村卒。六十九歳。義時四男。義政加判たり。重時四男。十一年〔1274〕三月ママ、蒙古襲来。七月宗尊薨。三十三。建治三年〔1277〕五月、義政加判を辞す。これより時宗一判たり。(弘安)四年〔1281〕、蒙古阿刺罕・范文虎等大襲来。六年〔1282〕、業時加判たらしむ。重時五男。七年〔1284〕四月四日、時宗病によりて入道。道果と号す。此日卒。三十四。宝光寺といふ。執権廿一年、嫡子左馬権頭貞時十四にて家督、其外祖秋田城介泰盛陸奥守に任じ、威を恣にす。時国六波羅にて逆心有とてよび下し、常陸へ流し、遂に殺す。建治元年〔1275〕に南方たり。時房が曾孫なり。  
八年〔1285〕二月、貞国ママ相模守たり。其内管領平左衛門尉頼綱泰盛と快からず、泰盛が子宗景驕侈の余、曾祖景盛は頼朝にゆかりありとて、源氏と改め称す。頼綱、かれが氏改る事、将軍の志あるにやといひしかば、貞時もさもおもひし歟。又実に異心ありしにや。十一月、泰盛・宗景以下の一族、并に其同類皆誅せらる。これを霜月騒動といふ。此後頼綱一人にて権を執り、薙染ママして果円といふ。  
按ずるに、泰盛が祖父高野入道覚地、三浦が一族を讒し殺して、子孫のために謀りしに、其孫の代に一家ほろぶ。又果円・泰盛をうしなひしが、其後又おのれも誅せられぬ。天の報応かくの如く明らかなり。  
十年〔1286〕六月、業時剃髪、貞時宣時を加判とす。宣時は時房孫。正応元年ママ〔1288〕、貞時がはからひにて、後宇多をおろしまゐらせて、伏見即位あり。二年〔1289〕九月、鎌倉騒動し、将軍惟康親王俄に上洛。さる八月十五日、鶴岡放生会までは、貞時・宣時供養して渇仰せしが、俄に網代輿さかさまによせて逐出せり。在職廿四年、廿六歳也き。貞時、後深草本院の御子、当今の御弟久明親王を迎て主とす。十月御下向。惟康の娘を久明十六歳。の御息所となす。  
永仁元年〔1293〕三月、貞時初て、北条兼時を六波羅より筑紫へ遣し、鎮西探題とし、長門の探題を置て、西国中国の事を掌り、異賊のおさへとす。兼時は時頼が孫、建治九年ママより六波羅たり。四月、鎌倉大地震、圧死一万人に及ぶ。此比果円恣に威をふるひ、二男飯沼判官も父におとらず、時人飯沼殿といひ、又安房守に任ず。果円驕の余りに、飯沼を将軍にせむと謀る。果円が長子宗綱かくと告しかば、頼綱入道も飯沼も誅せられ、宗綱も佐渡へ流され、其後召返して管領たらしめらる。又罪有て上総へ流されき。  
四年〔1296〕十一月、三河守範頼の玄孫吉見孫太郎義世謀叛の聞えありて、鎌倉にて誅せらる。五年、貞時国国へ使を遣し、守護の善悪、民間の疾苦を問ふ。是より年ごとに遣す。又其使のゆくさきにて悪事あるを、貞時しらざりしが、出羽の羽黒の山伏来て直訴せしにて、使の悪事を糾明して、罪に行はる上使百人余也。其後諸国よく治りて、人皆善政を称す。 
正安三年〔1301〕、正月、貞時使を遣はして、後伏見院をおろして後二条を位に即く、八月、貞時入道す。崇演といふ、其婿師時に譲職。師時は時頼孫。また時村は政村が子にて長者たれば、師時に副て執権加判せしむ。嘉元三年〔1305〕正月、宗方時頼が孫、駿河守也。時村を殺す。是は師時・時村二人、貞時が名代にて、執権せしに、宗方、師時と権を争ふ。まづ時村を殺して、師時を謀るべしとて、久明将軍の仰也と称して、兵を集て時村を夜討にす。于時時村六十四。貞時怒りて陸奥守宗宣と宇都宮貞綱して宗方をうち、其同類をも殺し、宗宣を師時に副て加判せしむ。  
徳治三年、即延慶元年〔1308〕七月、貞時が計ひにて、久明親王を逐出し、其子守邦親王を主とす。久明在位廿年、三十四。守邦纔に七歳也。応長元年〔1311〕、九月師時頓死。三十七。十月廿六日、貞時卒。四十一。最勝園寺といふ。執権当職十八年、剃髪の後十年、合て廿八年なり。嫡子高時九歳なれば、宗宣と煕時と連署執権たり。煕時は時頼が孫、貞時がむこなり。貞時が内管領長崎入道円喜と、高時が舅秋田城介時顕と、遺言をうけて、高時を輔佐す。円喜は頼綱が甥、光綱が子、時顕は泰盛の弟、顕盛が孫。  
按ずるに、世人貞時が善政を称す。されども十四歳にて父につぎ、十五歳にて外祖外舅を殺し、泰盛宗景。其主を逐ふ事二人、惟康久明。帝位を廃する事二代、後宇多後伏見。其威を恣にして、東宮をたて給ふことも、皆かれが心に任せらる。国家既に、善政を称すといへども、かれが代干戈頻にうごく、泰盛・果円・吉見・宗方前後四個度也。たゞ一事の称すべきは、諸国に使を廻らして、民間の疾苦を訪ひし事のみにや。  
正和元年〔1312〕、六月宗宣死し、煕時一判、円喜・時顕やゝ威をふるふ。四年〔1315〕、煕時死し、基時・貞顕執権たり。基時は業時が孫、貞顕は義時が玄孫、金沢実時が孫なり。五年〔1316〕、高時十四にて執権となる。基時辞す。文保元年〔1317〕、三月、高時相模守。十五。二年〔1318〕、関東より花園をおろして、後醍醐をたつ、元亨二年〔1322〕、奥の安東五郎叛す。これは又太郎といふ。一族といさゝか争論の事ありしに、円喜耄して、其職を嫡子高資にゆづる。高資驕て高時をないがしろにせし比なれば、両方より賂を取りて、しかも私ありしを、五郎憤れる也。又摂州の渡辺、紀州の安田、大和の越智なども、武家に叛く。承久以来武士の北条にそむく事の始なり。  
正中元年〔1324〕、土岐頼員が事あり。二年、資朝・俊基下向の事あり。此年十月、前将軍惟康薨。六十一。嘉暦元年〔1326〕三月、高時入道す。廿四。崇鑑と号す。舎弟左近太夫泰家に職を譲るべしとありしに、長崎高資きかず、泰家入道して恵性といふ。北条守時・維貞執権となりて、高時が旨を承て事を行ふ。二年十月、維貞卒。元徳二年〔1330〕、六月。茂時執権たり。煕時が子。九月、高資が逆威甚しきにより、高時窃に其一族高頼して誅せんとせしが、事あらはれ、高頼奥へ流されて、高資が権弥々盛也。  
元弘元年〔1331〕、八月、帝笠置に行幸。九月、笠置陥。帝をとりまゐらせ、正慶元年〔1332〕、三月、隠岐へ御幸、五月、楠正成兵起り、八月、赤松兵起り、二年〔1333〕五月、七日、京陥。仲時・時益討れ、廿二日、高時等義貞の為に滅さる。当職十一年、其後七年。三十一歳。守邦将軍同日入道して、七月卒。三十三歳。  
按ずるに、北条九代とは、時政・義時・泰時・時氏・経時・其弟時頼・時宗・貞時・高時をいふ也。されどもし執権の世次を以ていはゞ、時氏父に先て死したり。九代にはあらず。もし血統をもていはゞ、経時・時頼兄弟なり、共にこれ一世にして、九代にあらず、実は八代なりしを、いかで九代とは申すにや。其中時政・義時父子が姦悪、前に論ぜしがごとし。されど天下の武士彼を仰ぎし事は、義時承久の乱後に、多くの闕所を悉く軍功ありし輩に分ちあたへて、おのれ一所をも領せざりし一事にやあるべき。泰時が賢なる事いふに及ばず、猶くはしく下に見ゆ。さてその嫡孫経時、執権の程久しからず、其人称すべき事もなく、又そしるべき事もなし。たゞ将軍頼経の職を譲り落飾ありしを、経時が計ひのやうに申せど、いかゞあるべき。其弟時頼が事は、其悖逆不智既に前にしるしぬ。時宗又持明院殿と大覚寺殿と両流かはる/゛\御位しろしめさるべしとて、帝室を乱り、其主を逐ひ、宗尊其兄をうつ。時輔これら皆人倫の理なし。たゞ大元の兵頻りに我国に寇せしを、おのれ鎌倉にありながら、これを破ぶる此一条、其器度おもひはかるべし。貞時が事又前に論じぬ。世の人時頼をならべ称することは、諸国に巡察使を下せし一事のみ也。高時が事に至りては、論ずるにたらず。  
正統記にいはく、大方泰時心正しく、政すなほにして、人をはくゞみ、物におごらず、公家の御事をおもくし、本所の煩を止しかば、風の前に塵なくして、天の下則しづまりき。年代を累ねし事、偏に泰時が力とぞ申伝ふめる。陪臣として久しく権を執る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら、二世をば過ず。義時いかなる果報にか、はからざる家業を始て、兵馬の権をとれり。ためし稀なる事にや。されば殊なる才徳も聞えず、又大名の下にほこる心や有けむ。中二とせばかりぞありし。身まかりしかど、彼泰時相続て徳政を先とし、法式を固くす、己が分を量るのみならず、親族并にあらゆる武士までも戒しめ、高官位を望ものなかりき。其政ついでのまゝに衰へ、終に亡びぬるは、天命の終る姿也。七代まで保てる事こそ、彼が余薫なれば、恨る所なしといひつべし。およそ保元・平治より此かたのみだりがはしさに、頼朝といふ人もなく、泰時といふ者なからましかば、日本国の人民、いかゞなりなまし。此いはれをよく知らぬ人は、故もなく皇威の衰へ、武備のかちにけると思へるは誤也。泰時が昔を思ふには、ふかく誠ある所ありけむかし。子孫はさほどの心あらじなれど、固くしける法のまゝに行ひければ、及はずながら世をも累ねしにこそ。按ずるに泰時、其異母弟政村に怨なく、父の所領をこと/゛\くに諸弟に分ちあたへ、執権十二年の後、わづかに従五位下に叙しぬ。四条院崩御のゝち皇胤ましまさざりしに、土御門院の皇子、後嵯峨院を立まゐらす。又其主君頼経を敬ひ、成敗式目をさだむ。  
○太田道灌が説に、泰時執権の時、僧ありて、公もし善心あらば一伽藍をたて給へといふ。泰時建立の事も有なむ。其功徳はいかにやといふ。一宇の伽藍を建立しぬれば、治世安民、後生善所、子孫繁昌の功徳ありといふ。泰時仏法と神道、聖法とは何れか優劣ある。僧こたへて、神道、聖法は仏法には及がたし。泰時笑て、一師道にくらければ万弟道にまどふとは、かゝる事にぞ有べき。我国の宗廟太神宮は、小社を茅ぶきにしてわたらせ給へども、御恵は秋津洲にみつ。和僧の心こそ正しからね。功の大小によらず、志道に協ふ時は、求ざるに善縁ありと勧めなば、よかりなん。我を※(だま)して伽藍たてよといふは、大に過れるにこそ。今伽藍を建なば、其費大にして国の煩なるべし。これ安民の便ならず、民を苦むるなるべし。現〔裕曰、現一作理。〕世安穏とは何をかいふべき。世を治め従類眷属をはごくむこそ、現世安穏とはすべき。子孫善ならば、祈らずとも栄え、悪あらば祈るとも亡びなまし。我家業だによく知る事はかたし。ましてや我道ならぬ事をや。聖賢の道、神道の意の深長なる、いかてか知り尽すべき。一天の主万乗の君も渇仰し給へる仏道なれば、あしゝとは申がたし。和僧鎌倉にあらば、政の妨ともなり、浅智の人、家業を失ふ媒ともなりなむとて、鎌倉を追出しけり。其後は鎌倉の僧これに畏れて、人を誑かさず。  
泰時かゝる賢才ありしかど、時頼が代に建長寺を建しより、鎌倉中に五山とて大なる寺どもあまた作り、其外国国に寺を作る事、数をしらず、国の宝大きに費ヘ、盗賊巷にみちぬ。尊氏は夢窓国師といふ僧にたぶらかされて天龍寺をたてゝ、あらぬ事多かりき。武将の身としてかかるみちに惑ては、国治ること難かるべし。寺作るこゝろざしあらば、まづ四海流離の民をすくふ謀こそ、あらまはしけれ。  
 
第二の人生

 

新井白石を詳しく知る人はいない。  
しかし「第二の人生」を特集するなら欠かせない人物であることを私は楠木誠一郎さんの本から知った。  
今回は白石の清廉潔白、ぶれない人生について書こうと思う。  
何度かの人生の岐路での選択を間違えなかった白石の人生でなにかを考えてほしい。  
日本史の教科書に掲載されている、だれもが知っている人物であっても、苦難の時代はある。  
あのとき、あんなことがなければ、日本史の教科書に名前が載ることもなかっただろう…ということもありうる。  
儒学者として「第一の人生」を、「正徳の治」をおこなった政治家として「第二の人生」を送った新井白石は、そんなひとりだ。  
新井白石の素性について語られることは少ない。  
新井家の先祖は、もともと上野国の小領主で、そのあと常陸国下妻城主である多賀谷氏に仕えていたが、豊臣秀吉の小田原城攻めで没落したとも、関ケ原の戦いののちに主家とともに所領を失ったともされる。  
白石の父正済は浪人の身となり、妻とともに江戸に出るが、明暦元年(1657)1月18日、明暦の大火で被災。  
2月10日、焼け出された避難先で白石が生まれた。  
父正済は上総国久留里藩主土屋利直に仕え、目付まで務めたが、御家騒動に巻き込まれて父子ともに追われ、他家への奉公も禁じられた。  
幼いころから学問で非凡な才能を示していた白石だったが、父がたびたび浪人の身となるために経済的に苦しんだ。  
 
そんなとき白石にふたりの豪商が手をさしのべた。  
ひとりは角倉了仁(玄紀か)。  
了仁は「知り合いの商家の娘を要って跡を継がないか。  
そうすれば父親も楽ができる」と誘ったが、白石は「自分は武士ですから」とこれを断っている。  
もうひとりは、河村瑞賢。  
瑞賢の次男と白石が学友だったこともあり、瑞賢は白石に万巻の蔵書を自由に披見させるなど経済的援助を惜しまなかった。  
瑞賢は、白石の将来を見越して、三千両と宅地を持参金に孫娘と結讐せようとした。  
だが白石は即座に断っている。  
「幼蛇のときにつけた傷がわずかでも、一丈(約三メートル)もの大蛇になったときには、その傷は一尺(約三十センチ)あまりにもなってしまいます。もしあなたがおっしやるとおり、わたしが儒者になったとしましょう。そうしたら世の人はわたしのことをどう噂するでしょうか。わたしは大傷のある大儒にはなりたくないのです」と。  
もし、縁談のいずれかに承諾していれば、白石が歴史に名前を残すことはなかっただろう。だが角倉・河村という有名な豪商が声をかけたあたり、いかに白石が高く評価されていたか、うかがうことができる。  
白石の理想は高かった。  
双方の誘いは彼にとって魅力的な提案だったが、心ぶれることなく断っている。  
新井家は1でも書いたように、順風満帆なわけではなかった。  
幼少の頃の体験で、人間が種類に分かれる。  
自分の境遇を嘆き、不幸に押しつぶされていく者。  
境遇を教訓にして、更なる発展をする者。  
白石はまさに後者の典型である。  
 
このあと土屋家が断絶して、他家への仕官が可能となり、天和二年(1682)、二十六歳のとき、下総国古賀藩主で大老の堀田正俊に仕える。  
だが二年後に、正俊が若年寄稲葉正体によって殿中で刺殺され、跡を継いだ子の正伸に仕えたが、元禄四年に堀田家を辞した。  
正俊が警れた二年後から白石は生涯の師匠となる、朱子学者の木下順庵に入門。  
経済的に苦労していることを知ってか、順庵は入学金を免除した。  
白石は高弟・客分としてあつかわれ、「木門の五先生」「十哲」のひとりに数えられた。  
当時、同門に勘梨郷、室鳩巣らがいた。  
順庵は、白石の才能を見越して、「天下の書府」として知られる加賀藩への仕官の口を見つけてくる。  
だが白石は、「加賀には年老いた母がいる」という同門の岡島忠四郎から頼まれて、仕官の話をゆずる。  
このとき加賀藩に仕官していても、白石が歴史に名前を残すことはなかっただろう。  
白石が三十七歳のとき、順庵は甲富への仕官をすすめてきた。  
ときの甲窓主は徳川綱豊(のち六代将軍家宣)。  
はじめ綱豊は林家に儒学者の推薦を求めたが、綱豊とそりの合わない叔父の五代将軍綱吉の命令があったのか林家から断れてしまったため、順庵に話が来たという経緯があった。  
白石は四十人扶持の俸禄で仕官することとなった。  
白石と順庵との関係はつづき、白石が四十二歳で火事で被災したとき、順庵が「これで仮の家を建てなさい」と五十両を贈ってくれた。  
だが白石は自分だけ家を建てるわけにはいかないし、ふたたび被災すると師匠の気持ちをムダにしてしまうと考えた結果、五十両で鎧と兜を作った。  
実際、五年後に被災したときは、鎧を避難させて無事だった。  
はじめの火災の三カ月後に順庵は他界。白石は師匠の葬儀を執り行なった。  
白石の人生には様々な岐路がある。  
加賀藩の仕官のときも人生の岐路だった。  
白石は友人のために、その願ってもないような仕官を譲る。  
その直前に堀田正俊に仕えるが、殿中で刺殺されるというこの上もない不運にあって、心細かったはずである。  
しかし彼は、仕官を友人に譲った。  
かれの自分自身への信頼は計り知れない。  
彼は口先だけでなく、本当に自分自身の力を信じていたのだろう。  
努力できる人間は本当に強いものだ。  
 
甲府藩に仕官するようになった白石は、藩主綱豊の侍講となった。  
綱豊が家宣となり、5代将軍綱吉の養子となると、白石は幕臣となり、家宣が六代将軍に就任すると幕府政治に発言の場を与えられた。  
ここに、白石の華々しい「第二の人生」の幕が切って落とされる。  
側用人となった間部詮房とともに家宣を補佐。  
家宣が死んで、子の家継が七代将軍となると、間部とともに政治を取り仕切った。  
とはいえ白石は幕閣ではないので、側用人の間部を通して、将軍からの下問に応えるかたちだった。  
家宣・家継の二代のあいだに、白石と間部のおこなった政治改革を「正徳の治」という。  
白石が間部と断行した正徳の治はそれまでの武断政治をしりぞけるもので、儒教道徳にもとづく文治政治だった。  
文治政治が台頭し、そして成功したのには理由がある。  
新井白石が生まれたのは明暦三年(1657)、間部詮房が生まれたのは寛文七年(1667)。  
ふたりとも、関ケ原の戦いはおろか、島原の乱も知らない、いわゆる「戦争を知らない」世代が事実上政権をにぎつたからだ。  
白石と間部は、綱吉の時代に大量に鋳造された元禄金銀を回収し、良質の正徳金銀を鋳造して、インフレを抑えたほか、大量の金銀が海外に流失するのを防ぐために長崎貿易縮小政策(海舶互市新例)をとった。  
また幕府財政を圧迫している朝鮮通信使の接待を簡素化した。  
ここが白石の絶頂期である。  
彼の影に間部詮房がいたのは、あまり知られていない。  
白石は幕閣ではない。  
間部詮房なくして、「正徳の治」はなかったのである。  
 
白石で知られているのはシドッチ密航事件だ。  
ローマ教皇の命令でキリスト教布教のために密航して捕らえられ、長崎から江戸茗荷谷のキリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還を建言した。  
この尋問で得た海外知識は、著書『西洋紀聞』『釆覧異言』となつて世に残ることになつた。  
白石は、ほかにも『読史余論』『古史通』などの歴史書、『蝦夷志』『南島志』『琉球国事略』などの地誌、『東雅』『東音譜』『同文通考』などの国学書が知られるが、なかでも『藩翰譜』は有名。  
『藩翰譜』というのは、慶長五年(1600)から延宝八年(1680)までのあいだに徳川将軍に臣属した万石以上の大名三百三十七家の譜と歴代の伝記を集成したもの。  
正編十巻、付録二巻、凡例・目録一巻からなる。  
元禄十四年(1701)一月、綱豊の命令で七月十一日に七月に起筆、十月に脱稿。翌三月十九日(二月十九日とも)に清書本を提出した。書名は綱豊みずから命名。「藩」は「かきね」、「翰」は「国の柱」を意味している。  
短時日に書かれたために事実の誤謬があ、のちに白石みずから補訂した。  
『藩翰譜』には『続藩翰譜』(『藩翰譜続編』とも)がある。  
白石の死後六十四年経った寛政元年(1789)に幕府が右筆所に命じて編纂させたものだ。  
諸大名に系譜類を提出させ、天明六年(1786)までのデータが収められている。  
白石の作家としての才能もたいしたものだ。  
こういう固いものから、晩年の『折りたく柴の記』のようなものまで、白石の文才は見事なものだ。  
 
だが人生の絶頂期は、そんなに長くは続かない。  
白石の政治はあまりに理想的で、妥協するところがなかったために幕閣から抵抗され、間部詮房とともに孤立していく。  
家継が死んで、八代将軍に徳川吉宗が就任すると、ふたりとも失脚した。  
失脚して四カ月半後の享保元年(1716)十月四日、白石は自叙伝『折たく柴の記』を書きはじめる。六十歳のときだった。  
『新古今和歌集』に収められている後鳥羽上皇の歌「思ひ出づる折たく柴の夕煙むせぶもうれし忘れがたみに」からとられたものとされる。  
『折たく柴の記』は、子孫のために書き残したものだが、どちらかというと己の政治の正しさを主張し、後世に残す意味が込められていた。  
白石の伝記としてのみならず、正徳の治の記録、当時の幕府政治の内部事情、武士の生活ぶりを知るうえでも貴重な史料とされている。  
それだけ白石は記憶力にすぐれ、また博覧強記の人でもあった。  
白石は、友人や知人の家を訪ねて、煙管を手にしては、「これはいつの時代に誰が作ったものです」など来歴を面白く語ってきかせるような人物だった。  
失脚して十年後の享保十年五月十九日、白石は他界する。  
享年六十九。『折たく柴の記』がいつ完成したかはわかっていない。  
ひとりの儒学者として一生を送っていたかもしれない白石は、甲府藩主綱豊の侍講になったことで人生が大きく変わった。  
華々しい「第二の人生」が待っていた。  
まさに人生に逆転勝ちした瞬間だった。  
 
文章で読む限り、白石の晩年はそんなに悲惨なものではない。借金だらけの身分の低い武士の家に生まれ、後に天下を動かす大人物になったのは、何が原因なのだろう。若かりし時、自分の生き方を貫くとした白石の意志以外の何物でもないと、私は思っている。 
 
「古史通」「或問」「読史余論」

 

新井白石は江戸中期、幕府に仕えた儒学者である。『古史通』とは、古事記などの日本の古代史について考察されているものなのですが、驚くべきことに、当時の道徳観がそうであったからなのか、新井白石の個人的な見解なのかが定かではないのですが、どうも極めて独断的な歴史観が述べられているのです。  
『古事記』には、国産みをした神として、伊邪那岐と“妹”伊邪那美の名があります。古代の日本の婚姻制度には近親婚も多く、妻や夫を「妹(イモ)」「兄(セ)と呼ぶ習わしも、その名残かと思われます。  
ところが、新井白石は、そういった「兄」と「妹」が結ばれるという不道徳な婚姻の形態を認めたくないらしく、「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言っているのです。  
おやおや、いきなりそうきますか、と、たとえ新井白石の道徳観と古代の婚姻形態がズレていたとしても、書かれてあることが「間違っている」とは、あまりに学者らしからぬ発言ではありませんか。実の兄妹の結婚はさすが古代でもありませんでしたが、父母どちらかが違えば、血族婚もあったのかもしれません。  
むしろ近親婚は普通に見られることでした。聖徳太子の父用明天皇も、母である穴穂部間人皇女も、蘇我稲目の娘の子供であり、つまり用明天皇と穴穂部間人皇女は従兄弟同士ということになります。  
当時は特に天皇家のような高貴な身分の人々は、その血を保つことで身分の高さを保持するため、叔父叔母などの近親婚もあたりまえに行われていました。聖徳太子の家系は蘇我氏の威光の強さが反映しているものと考えればいいでしょう。  
こうした古代の婚姻制度に対し、「小姪叔異母父子の婚姻に秩序のないありさまを述べたりしている。道徳上の教えにおいて、何を教えとし、鑑戒において何を戒めとするのか、明らかにされてはいないのである。」とあります。  
『古事記』では邇邇藝能命(ニニギノミコト)が麗しき美人であった木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)を嫁に欲しいと申し出ると、父である大山津見神は姉の岩長毘売も一緒にやるというのです。もちろん現代人の感覚から言えば、姉妹が同じ男に嫁ぐことは、驚くべきことですが、この時代にはそうしたことも普通に行われていたのでしょう。格別変わったこととして書かれているわけではないのです。ただこの岩長毘売がたいへん醜かったので、「甚凶醜(イトミニクキ)によりて、見畏みて返し送り」とあるのです。妹を嫁に欲しいといったところ、姉も一緒に来たが、姉が醜かったので要らないと送り返したのですね。  
つまり蘇我稲目の娘二人が、聖徳太子の父である一人の男(用明天皇)に嫁いだことも、神話時代から続いていた習わしであって、当時は、同じひとりの男に姉妹が同時に嫁ぐということもまヽあったのでしょう。  
ですから古代に書かれたことが多少奇異に見えても、それは古い時代の因習を写す貴重な資料と考えなければならないはずですが、これを新井白石は「すべてこれらのたぐいを見れば、父子兄弟のあいだで道徳が正しく行われていたとは考えられないことばかりである。」と、言って切り捨てています。  
当時の江戸の学者の道徳感がこのようなものであったことは、かえって興味深く思えましたが、これだけではありません。さらにさらに、新井白石の過激な歴史観は続くのです。  
『古事記』には、伊邪那岐と伊邪那美のふたりの最初の子供が「水蛭子(ヒルコ)」であったために、水に流して葦船で流したことが書いてありますが、そうしたことも、「書かれた内容が正しくないことが自然に明らかになるであろう。」と、述べています。  
『古事記』では最初伊邪那美が先に声を発したがために、伊邪那岐から『女人先に言へるは良からず』と、水蛭子(ヒルコ)が生まれたことになっています。そこで、その子は葦の舟に入れて流してしまうのですが、『古事記』原文では以下のように記されています。  
伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。  
爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。  
故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。  
爲生成國土奈何伊邪那美命答曰然善。  
爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。  
爲美斗能麻具波比如此云期。  
乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。  
伊邪那美命先言阿那迩夜志愛袁登古袁  
後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。  
女人先言不良。雖然久美度迩興而生子、水蛭子。  
此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。  
最初の子供は間違った方法で交合い、水蛭子(ヒルコ)が産まれてしまったため、そこでもう一度ふたりは子づくりをやり直して、伊邪那岐は『乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。(あなたは右から廻りなさい。私は左から廻り、お互い逢いましょう。)』と、今度は伊邪那岐が先に言葉を発し、ようやく“正しい交合い”ができ、日本列島の島々=淡路島など、国産みをしていきます。  
江戸時代も貧しい農村で堕胎は普通に行われていたとも言われています。『古事記』にある水蛭子(ヒルコ)というのが、早産であったのか、未熟児であったのか、蛭(ヒル)のような手足の無い奇形児であったのかは分からないのですが、海か川に流してしまうというのは、新井白石の道徳観からすれば、考えられないことだったのでしょうか。  
けれど、江戸時代だって、産まれてすぐの赤ちゃんを、何らかの理由で親が育てられず、「赤ちゃんポスト」のように、捨てる場合も多くあったのではないかとも思うのです。  
伊邪那岐・伊邪那美夫婦のみならず、水蛭子(ヒルコ)が葦船に乗せ流されるというお話が、実は神話だけのことではなく、普通にあった話しだからこそ、「桃太郎」が川から流れてきておじいさん、おばあさんに拾われたり、「かぐや姫」が竹藪で翁に拾われたりしたのではないでしょうか。むしろ「捨て子」は普通にあることだったのではないかと思うのです。たまたま拾った老夫婦は、それが他で捨てられた子とは思わず、神様からの授かりものと考え大事に育てたのではないでしょうか。  
『古史通或問』は問答形式になっていて、QandA、邪馬台国や卑弥呼などにもふれ、「問い」に対しての「答え」という形で進んでいきますが、新井白石は建速須佐之男命(素戔嗚尊)に関して言えば、韓(カラ)に天降ったと書いています。建速須佐之男命の伝承には高天原を追放された後、韓国に渡り、それから出雲に来たという話しや、建速須佐之男命が韓神である熊野の牛頭天皇と同一視されるなどありますが、これはあくまでも伝承と思っていました。ところが、どうやらこの時代はその伝承がそのまま信じられていたらしいことが、白石の書いたものから分かりました。  
また、古代日本民族が騎馬民族に征服されたという説や、日本人のルーツは韓国にあるという説は今でもありますが、「朝鮮の民族・風習と我が国の関係」と題した中で、白石はそうした考えに対し否定的な見解を述べています。理由は、韓国の歴史が日本の天皇の歴史より新しく、よって、日本民族の祖が韓国にあるというのは間違っているということらしいのですが、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、ここで初めて新井白石は学者らしいことを述べています。  
邪馬台国論争もその一つですが、確証が無くても断定的に語っている本が世間には多くあります。研究者が陥りがちな盲信の戒めとでも言いましょうか、どんな学者にも言えることですが、何かを関連づけようと最初から意図していれば、どんなことも関係があるように考えてしまうことは、よくありがちなことです。けれどそれこそが真の研究にとっては大きな落とし穴であり、澄んだ眼を曇らせる一番の危険因子とも言えます。  
はじめて、学究に対するまともな言葉にであって、ほっとするのですが、それもすぐ翻ります。古代の様々な言葉の表記に対する考察では、「卑弥呼」という呼称も「日御子」であると言い、このあたりの推察は小気味よく読めるのですが、どうも新井白石の歴史観は、古史に書いてあることも、彼の価値観に無いことは真実ではなく、誤ったことが書いてあると頑として言い張るのです。  
これは自分が述べている、真理を探究する学者としての心がまえとは矛盾するように思えるのですが、どうなんでしょうね?  
『読史余論』には、「壬申の乱」に対する記述があって、天智天皇の皇子である大友皇子を討ち政権を奪った天武朝が7代で断絶したこと、天智系の光仁天皇以降、現在まで天皇家が天智系であるのは、「天が道徳的に正しい側に味方したことは明白といえよう。」と書いてありました。なんと、天武朝は逆賊扱いなのです。  
これも江戸時代には一般に流通していた史観であったのか、新井白石個人の考えであったのか、よく分からないのですが、いずれにせよ、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、言った人の言葉とは思えない、史実を史実のまま見るのではなく、かなり感情的な私見を交え歴史を見ているではないかと思える言説が続きます。  
これが当時の幕府や儒学者の一般的な考えだったのか?宗教観に関しても、驚くべき見解でして、なんと、仏教に関して「憎むべき仏教勢力」ということを書いているのです。彼が儒学者であったとしても仏教勢力が“憎むべきもの”であったとは、穏やかならぬものがあります。  
彼はこう書いているのです。「比叡山の僧はいうまでもなく、法華宗(日蓮宗)、一向宗(浄土真宗)の僧徒、高野山・根来寺の僧徒らも、」と、仏教勢力が大きな力を持っていることを苦々しく書いていて、信長が比叡山と根来寺を焼き滅ぼしたことを「大きな功績であった。」とまで書いています。  
江戸時代にも大きな一揆があり、そうした反乱には法華経や、一向宗などの集団が関わっていましたから、分からないでもないですが、白石が民衆側にいる人ではなく幕府側の人間であったからこそ、お上に逆らう集団は許せない、という意味の発言になったのでしょうか。  
彼の儒教精神は、自分の兄弟も無慈悲に殺した冷徹な頼朝にも批判の眼が向けられ、「ついには北条氏のために後継者を滅ぼされてしまった。天のむくいは的確であるとはいうものの、そもそも彼自身に根を発していたことであった。」と、実朝が公暁に暗殺された顛末も天の報い、頼朝が行ったことの因果応報と言っているのです。  
たしかに忠孝忠義、信、仁、愛、誠、礼、義などをモットーとする儒教精神からすれば、我が兄弟、親類縁者を殺すなどもってのほかかもしれません。君子に対する逆賊や謀略も同じで、「爾より出で爾に帰る」と孟子の言葉を曳き、善悪福禍みな自ら招くという考えを示していますが、どんな歴史的事件も、すべて、結局「報いが来て滅んだのは当然」という結論になっていて、鎌倉三代、頼朝はじめ正子、北条氏が滅んだのも、室町三代幕府が滅んだのも、信長が最期光秀の謀反で殺されたのも、豊臣家が滅んだのも、みな「あさましき世の習い」と、天の報いで片づけられてしまうのもどうかなと思うのです。  
新井白石は江戸の大学者とも言われている人です。なので、彼の歴史観がどのようなものであるのか、かなり期待を持って読んだのですが、古代史を読み解き、日本を読史した結論が、すべて「爾より出で爾に帰る」であり、政権が交代し、時代が変わり、歴史が変遷してきたことを、「天の報い」に結論づけるとは正直驚きでした。とても歴史家の見る目ではありません。  
結局、滅んできた者たちの最期がよろしくないのは自業自得と言い、我が神祖(徳川家康のこと)に家臣は忠孝忠義であったから、江戸幕府が永きに渡って滅ぶこともなく、世の中は天下太平であると、徳川家の神祖家康を褒め称えています。  
おやおや、やがて徳川も滅び、天下が変わるとは考えていなかったようですが、さて、では徳川幕府が滅んだのは因果応報だったのでしょうか。?  
こうした江戸の学者に蔓延していた儒学的歴史解釈に対し、「漢意(からごころ)」を排除し「古えのまことの意(こころ)」をとらえようとしなければならないと、「大和魂(やまとごころ)」によって読み解いていくべきだと主張したのが本居宣長でした。  
そして、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない。それが宣長が三十五年という歳月をついやして『古事記』を読み解いていく発端でもあったのです。   
 
西川砂見と新井白石の功績

 

徳川幕府による鎖国政策は二百六十年にわたる幕藩体制を強化する上に多大の効果があったが、他面かっての「天龍寺船」「ご朱印船」や「八幡船」等による公私にわたる海外貿易の道を封鎖せしめる結果になった。  
かくて海外事情もようやく疎遠となり、海外知識を吸収する機会も実地に祝祭見聞する手段も暫時、隔絶されるようになった。往年の日本人にとって唯一の海外雄飛の夢も野望も消え去り、わずかに許されたオランダ船の来航という一本のパイプによってのみ海外への窓口が残されていた。その許された日本で唯一の窓口はかつての堺に替わった長崎港であった。このたった一つの開放された開港を通じてヨーロッパ諸国の動静を窺い知り得たのである。この意味において二百数十年にわたる鎖国時代の長崎港のもつ海外情報センターとしての演じた役割は決して少なくなかった。  
鎖国会発布後、約二十年で日本では最初の世界地図ともいうべき「万国絵図」がこの長崎で出版された。これは利馬宝(マテリオリッチ)の地図を参考にして製図されたものであると伝えられる。この地図には一応、海外における回教諸国の一部名称も記載されてあって、国外といえば高麗とか唐とか天竺以外は、すべて南蛮ぐらいしか知らなかった当時の日本人にとっては大きな驚きであった。  
以前から来往していた旧教系のポルトガルが幕府のキリスト教弾圧政策によって入国禁止の羽目になってから、これにかわって新教系のオランダが海外貿易の一手専売国となって、その舞台に登場した。だがオランダは、自国の版図の一部にインドネシア諸島を領有したが、この属国となったインドネシア領のイスラームやムスリムのことについての知識はなんら日本に伝えなかった。また彼らにとって、それを日本人に伝える必要性も義務感もなかった。ただ交易による利潤追求に専念するのみであって海外への唯一の耳目であり、窓口であった当時のオランダ人からも、日本人は世界三大宗教に一つであるイスラームについての概念や予備知識の片鱗すらも把握することができなかった。このように日本人自身にとってもまた、イスラーム自体にとっても不幸な情勢のときに、日本最初の西洋の地理学者である西川知見が現れたのである。  
如見は元禄八年(一六九五年)に出版したことのある「華美通商号」を一三年後に補筆して、増訂版「増補筆夷通商号」を宝永五年(一七〇八年)に再版した。その中に海外回教諸国の国名とそれらの位置、さらに日本からのおおよその距離なども列記したが、それは当時としては出色のものであった。  
その中で如見は、この頃にインドを制圧していたムスリム国であるムガール帝国を「モウル」と誌して回教国であると論断している。  
さらにその「モウル」の国は、日本から、海上二千八百余里の距離にあってシャム(現タイ)の西北に位し、南天第一の大国なりと記載している。今からおよそ三百年近い以前のことである。  
またイランは「ハルシャ」の名称で日本より海上五千里、南天の両辺地即ち西天の内地であり、黄金の大塔ありと述べられてあるが、この黄金の大塔こそはイスラームの象徴ともいうべき先塔(ミナレット)のことであろう。  
次にトルコのことを「トルケイン」の名称で日本から海上一万一千二百五十里と書き「ハルシャ」同様、金色織物を産す、と説明されてあるが、これは恐らく有名なこの国の特産物トルコ・カーペットのことを指しているのである。  
またアラビアについては「南天竺の西、シャムより三十余里の砂地あり、大風趣きると砂を吹き波のごとし、行旅の人たまたまこれに遇うと砂浪のために埋れる」とある。  
最後に、エジプトは「エジット」の名称でこの国に大河あり、ニナ河別名ニロ河とも称すとあるが、これはナイル河のことである。  
この当時の日本における世界的地理学者西川知見に次いで出現したのが、新井白石である。白石は知見の回教関係諸般の不足事項を補足修正した。そして彼は正徳五年(一七一五年)「西洋紀聞」を述作した。奇しくも徳川幕府中興の祖と、称せられた将軍吉宗により彼が能免される前年のことである。  
白石は従前の漢字訳された地名を片仮名で実地に比較しつつ、「マアゴメタン」はモゴールの教えにしてアフリカ地方、トルカ(現トルコ)もその教えを信奉している。漢字で書く四回の教えが、実はこの「マアゴメタン」のことである。  
また「ハ〃シャ」は漢語で波爾斉亜と書いているが、これはむろんペルシャ(現イラン)のことでインディアノ西、アフリカの東にあり天下の良馬を産すとしている。  
次にトルコについては、トルコはまたはツルコという。アフリカ、エウパロ、アジアの地方につらなり、国都はコウスタンチンィ・またはコウスタンチノプール(現イスタンブール)のことである。  
この頃あたかも旭日昇天のごとき国勢にあったオスマン。トルコ帝国の盛大な状況については大略以下のごとく述べている。  
その風俗はタルクーリャすなわち韃靼国にひとしく勇敢敵すべからず、丘ハ馬の多きこと二十万エウパエロの地方はその侵略に堪えずして各国相援けてこれに備う。アフリカ地方ことごとくトルカに属し、東北はゼルコニア(ゲルマンすなわちドイツ)に至り東南はスマアタラ(現スマトラ)に至るという。以上のように当時の極盛期にあったオスマン帝国の領有していた広大なる版図を述べている。  
新井白石はこうした地理上における回教諸国の概貌を解説しているのみならず、ここに注目すべきことは宗教的なイスラームそのものについても日本人として初めてその一端に触れている点について達識振りに敬意を表わすものである。  
白石が回回教なる宗教が世界の三大宗教の一つであると喝破した最初の邦人としての業績は大きい。彼は「西洋紀聞」中にマアゴメタンは漢でいう回回の教えのことでキリスチャン(クリスチャン)と共に世界宗教の一つとして文中に列記しているのである。  
ただし、さすがの博学多識な彼もこのマアゴメタンや回回を漢字で「伊斯蘭」とも片仮名で「イスラム」とも表現していないのは、まだそこまで研究しつくされていなかったのであろう。  
さらに回教発祥の聖地アラビア地方が逸脱しているのも不可解である。しかしこの「西洋紀文」より二年後に発表した「采覧異言」の方にはアラビアを「夫方」と称しムハンマッドを国王「謨罕黙徳」と漢字で表現している。この「采覧異言」の方がどちらかというと、その二年後にできた「西洋紀文」より回教の件のついては詳細に描写されている。  
一例を挙げれば聖地メッカの神殿やカーバ黒石のことも次のように原文では説明している。「自古置有礼拝寺等分為四方方九十間共三百六十間、皆白玉為柱、中有墨石一片方丈余、寺層次高上如城毎見月初生、皆拝天写呼称揚以為礼。  
以上漢文体ではあるが、なかなかリアリズムに冨んでいる一文である。  
さて、八代将軍徳川吉宗は自身のことであるが彼はかねて聞く群馬に比して日本在来産の馬が馬格においてすこぶる劣る観があるので、その改良を思い立ち長崎出島にあるオランダ商館の館長から優秀なペルシャ産の駿馬十数頭を享保十一年(一七二五)頃から約十年余りの間に購入した事実があるが、これなどもオランダの商人を通じて曲りなりにも中東イランの事情や産物の一端が吉宗やその側近に判かっていた結果からであろう。   
 
卑弥呼の謎を解く

 

宇摩説(伊予王朝説)は、本居宣長と対立することは、何度も述べた。私の合理的な、説き方に先覚者が居なかったわけではない。  
解明の思考に、合理性を使った学者は居た。後で知ったものだが、同じように、合理的にとこうとした学者が居る。それは、幕府の重臣も勤めた、「新井白石」である。  
白石(1657〜1725)は、宣長(1730〜1801)より、70年ほど前に生まれている。白石は、家宣、家継と、二代の将軍に仕えた朱子学者である。  
日本の経済全体を、長く見てきた人である。この様な広い知識を持って、日本の古代史を合理的に解こうとした。宣長は三重で医者をしながら、古事記を解釈している。  
今の私には、全体的見識の違いが、極端に在ると思われる。なのに、後出しの強みで、宣長は自分の尊王思想から、白石の解明を扱き下ろして、排斥してしまう。  
こうして、神秘的に解釈した、宣長説だけが、学者に引き継がれて、残ってきた。この解釈が、明治時代に、天皇陛下を「神」にしたのである。  
私の宇摩説は、図らずも、白石の合理的思考と、同じ合理的解明をしている。白石を読んで、白石に学んだ訳ではないが、私も、投資の世界で、経済全般を見てきたから、似たのであろう。  
実は、もう独り、投資の世界から、古代史の世界に入って、有名な人物が居る。この人のことは、後のブログに書くことにするが、よく似た経験を持っている。  
古代と言えども、人の生活がある。つまり、経済活動があるわけで、この現実を思う時、古代史は経済学者の参入も必要であろうと、私は思っている。  
古代も今も、人間のすることは、余り変わらない。  
生まれて二十才頃までに、生活手段を学び、結婚して子を育てる。子育てが終わると、余生は知識を後輩に教える。これが。人生であり、ほとんど変っていない。  
今の日本に欠ける物は、年寄りの知識が継承されてないことだ。このために、起こっている事件が多いと、私は思う。日本は正しく解けば、2000年以上の知識の蓄積があるのだが、、、。 人間は、基本的に見れば、二千年前でも、今でも同じであることが判る。ただ、経済活動の内容は変るが、働きと、収入(獲物)とのギャップなど、同じものであろう。  
古代史は、大昔のことで、今の自分には無縁だと思っている人が、日本人には特別多いが、実は、人類が始まって以来、知識的、精神的、思考的にはほとんど同じなのだ。  
つまり、どれほど前の話であっても、合理的に解けば、今の生活に役立つ、助言が得られるのである。この様な、歴史の解き方が、日本には無かっただけと言える。  
歴史は、過去の人々が、実際に体験した人体実験のようなもので、これを生かさないと、浮かばれないだろう。貴重なデーターを、放置しているのだ。もったいない。   
 
藍染の捕縄

 

『折りたく柴の木』に、新井白石が、17〜18歳のとき、その父に叱られた・・・、話が出てきます。  
新井白石の父は、新井白石に向かって、「かほどのわきまへなからん年齢にもおはせぬものを・・・」と辛辣なことばを投げかけます。  
「わきまへ」というのは、『部落学序説』の筆者が指摘する「常民」「非常民」、あるいは、「非常民」においても、「軍事」「警察」の区別のことです。  
新井白石は、その父から、武士は「軍事」に関与するけれども、その職務についていないときは「警察」に関与すべきではない・・・、というのです。「すべてもののふのわざは、何事も心得べき事勿論也。されど、人はほどほどにそのつけてなすべきわざと、なすまじきわざとある事也」。  
白石は、その父から、「すべて武士のなすべきわざは、なにごとも心得ていなければならないこと、いうまでもない。しかし、ひとには、身につけて、それを実践していいわざと、実践してはいけないわざがある・・・」と叱られたのです。  
それは、新井白石が、懐中にしのばせていた「とり縄」を、その父の前で落としたことに端を発します。「とり縄」というのは、「人を捕えてしばるのに用いる縄」のことです。犯人を捕縛するのは、「同心」「目明し」「穢多」「非人」などの役です。  
その「とり縄」、「青き糸を細く組ませて、其末にとりかぎといふものをつけし・・・」ものです。「青き糸」・・・、それは、藍染の糸ということでしょうか・・・。  
享保・文化・文政のころ、「捕縛四季弁色の制」というのがあって、「とり縄」は、青・赤・白・黒・黄の各色が季節ごとに決められていたそうです。幕末期は、南町奉行所同心は「青色」、北町奉行所同心は「白色」の「とり縄」を使用したそうです。「伝馬町牢獄関係は紺色染め」の「とり縄」を使用していたそうです。  
その藍染の「とり縄」・・・、本来は、新井白石の持ち物ではなく、その父の持ち物でした。新井白石の父が「目付役」をしていたとき、その職務上、警察権を発動して、犯罪者を逮捕しなければならないときがあったそうですが、常に、藩主から拝命した職務については怠ることがなかった新井白石の父は、部下の「同心」「目明し」「穢多」「非人」が、捕縛の際に必要な「とり縄」を持っていない場合を想定して、いざというときに、彼らにそれを渡すために、「燧袋」に入れて常時携帯していたというのです。  
しかし、新井白石の父、「目付の役」を返上したあとは、その「とり縄」は必要なく、それを、「猫のつな」として用いていたというのです。  
新井白石の父は、白石に、「すべてもののふのわざは、何事も心得べき事勿論也。されど、人はほどほどにそのつけてなすべきわざと、なすまじきわざとある事也。」といさめたというのです。  
新井白石の父は、藩主から、捕縛の職務を与えられていない限り、たとへ、武士であったとしても、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、「同心」「目明し」「穢多」「非人」の所作をしてはならない・・・、というのです。  
元服を過ぎて、大人の仲間入りをして、2〜3年の歳月が過ぎた白石に、「とり縄は、わぬしの身に随ふべき物にはあらず。」として、「これほどの分別がつかない年齢でもあるまい・・・」とこごとを言ったというのです。  
 
田沼意次諸説

 

小説「剣客商売」に見る江戸の町。田沼意次は秋山大治郎と結婚した佐々木三冬の父であり、小兵衛達を支える重要な人物の一人である。田沼意次は賄賂政治家という誤解された観点で見られ、戦前では「日本史の三大悪人」とすら言われていたほどである。田沼意次は、江戸時代では異彩を放つ政治家であったが、どうしてそこまで悪い評価を下されたのか、本当の田沼意次はどのような人だったのかを考えてみる。  
政治家・田沼意次の真相

 

田沼意次の簡単な経歴  
享保四年(1719年)に御納戸頭取の田沼意行(もとゆき)の長子として生まれる。御納戸頭取を務める父親のおかげで享保十九年(1734年)に徳川家重(吉宗の長男。後の九代将軍)の御小姓として召しだされ、幕臣としての道を歩みだす。  
その後、享保二十年(1735年)に家督を継ぎ、元文二年(1736年)に父親と同様に従五位下主殿頭に叙任する。順調に出世し宝暦元年(1751年)には御側兼御用取次役を任される  
宝暦四年(1754年)に起こった郡上八幡の一揆の事件の審議に加わり、上手く収めている。この事件は藩主・金森頼錦は内々で老中・本多正珍と若年寄・本多忠央らに藩が有利なよう一揆を処理するように依頼したことで幕閣を巻き込んだ難事件になってしまった。この事件の審議など数々の活躍が認められ、宝暦八年(1758年)に遠州相良一万石の大名になり、幕府の評定所に列席し将軍への奏上権を与えられる。宝暦十一年(1761)に将軍・家重は田沼意次を重用するように次期将軍家治に言い残して亡くなる。  
家治は父の遺言通り田沼を重く用い、明和四年(1767年)には御側兼御用取次役から側用人に昇格させ二万石に加増し従四位下に叙任、明和六年(1769年)には老中格(格は見習いという意味)兼側用人に、安永元年(1772年)には老中兼側用人(五年間兼任)に就任する。側用人から老中への出世自体が異例の抜擢で兼任することは将軍からの厚い信頼の現れである。安永八年(1779年)に老中首座の松平武元が死去し田沼意次が完全に政権を握る。この時点から田沼時代をと呼ぶ説もある。  
政権を握った田沼は諸大名と縁戚を結び、幕閣に登用し政権地盤を固めた。次代も幕政改革が継続されるため長男・意知(おきとも)を天明元年(1781年)に奏者番、天明三年(1783年)に大名の嫡男では異例の若年寄に就任させた。しかし、この行為が周囲からは「傍若無人の振る舞い」と受け取られる。その不満からか天明四年(1784年)に城内で新番士佐野善左衛門政言に刺され、意知は数日後に亡くなる。  
そのことがきっかけで田沼への反感が徐々に高まり、天明三年(1783年)の浅間山噴火と天明の飢饉など天災への不満から反田沼勢力の勢いが増す。天明六年(1786年)に田沼の絶対的な後ろ盾だった将軍家治が亡くなったことで老中を罷免され失脚する。  
松平定信を中心にした政権が樹立すると永蟄居と急度慎を命じられ、生涯屋敷に幽閉される。最大で五万七千石あった領地は数回の処分により、一万石まで減らされた。 
田沼意次の人柄  
家臣への厚い心遣い  
『田沼意次御不審を蒙ること、身に覚えなし』(著藤田覚ミネルヴァ書房)で『翁草』にある田沼に関する話を紹介している。『翁草』の作者である京都町奉行所与力・神沢杜口は田沼意次が失脚し減封処分を受けたことにより、リストラされた下級奉公人からの聞いた話しを記している。それによると田沼意次はリストラされた二百七十人の家臣が路頭に迷い暮らしに困窮しないよう、まとまった手当金を支給している。退職時の役職ごとに金額が決められ物頭並(物頭は足軽隊長に相当)なら二百両、武士の中では最下級の小徒士並でも五十両を支給している。  
庶民なら一年間で十両あれば暮らせるといわれている時代であるだけに、これほどのまとまった額が支給されたことで助かった者が多いだろう。大半の武家が財政難で新規採用を控えている中、一度浪人すれば再就職は難しく、しかも、反田沼政権であり、田沼の改革を否定する松平定信政権下では田沼への評価も低く、田沼家に仕えていた経歴が再就職をより困難にする可能性が高い。  
もっとも、新政権が田沼家に御手伝普請の名目で負担を求め、田沼家自体が苦難を強いられるのは目に見えている時期だけに、これだけの手当金を出す姿勢は立派である。視点を変えると大幅減俸というやむを得ない事情ではあるが、田沼家が原因で浪人が増加し、社会不安を招かないようにするのは元老中としての責務を果したとも考えられる。最後まで幕府のことを考えたともいえる。  
また、『翁草』では寒い早朝の登城の前に意次は武家奉公人に酒や温かい食べ物を振る舞う心遣いを見せている。これほどの心遣いをする武家が珍しいからこそ記録したのだろう。他の武家の当主が行っているのなら記録する必要はない。  
田沼が残した遺訓の三条は身分の上下に関わらず心を配るように書かれている。田沼本人が実践している証拠であろう。ただ、田沼家に譜代の家臣がおらず、最大で五万七千石を与えられた田沼家は数百人の家来を確保する必要がある。譜代の家臣は皆無で、意次が家督を継いだ頃は六百石の旗本であり、家臣と奉公人を合わせても十名ぐらいである。大名時代の田沼家の家臣のほとんど新規採用である。これほどの心遣いをしなければ人が集まらなかった時代なのかもしれない。  
よほどの豪傑  
『田沼意次御不審を蒙ること、身に覚えなし』で川路聖謨(かわじとしあきら)の田沼を再評価する話が紹介されている。彼は宝暦四年(1754年)に起こった郡上八幡の一揆の処理に関する書類を読み田沼の手腕に感服したそうだ。藩主・金森頼錦は内々で老中・本多正珍と若年寄・本多忠央らに藩が有利なよう一揆を処理するように依頼したことで郡上八幡の一揆は幕閣を巻き込んだ事件になってしまった。この難事件の審議を将軍・家重から任された上手く収めたのが田沼である。  
彼は田沼の前半と後半に分けて評価している。前半は事務処理能力・人事力・判断力に優れている才能の持ち主という意味で田沼を「よほどの豪傑」、「正直の豪傑」と評している。人事力では長崎奉行と佐渡奉行を歴任し、勘定奉行を二十年間務めた石谷清昌の起用を高く評価している。  
田沼が幕政を掌握した天明元年(1781年)以降を後半とし全権を握り良心を失い傲慢になったとして「骨髄よからぬ人」と評している。世間にはこの頃の田沼のみが印象に残ったため悪く言われている彼は考えている。  
遺訓より  
『田沼意次の時代』(著大石慎三郎岩波書店)で紹介されている遺書が彼の実像を表している。七条まであり一条二条で忠節や孝行について語られ三条は身分の上下に関わらず心を配るように書かれ低禄から出世した田沼の心配りが見られる。田沼の屋敷に陳情に訪れる者が多い理由は彼の絶大な権力もあるが、他の幕閣とは異なり、身分が低い者と理由で門前払いをしないからと言われている。  
四条では人事、五条には武芸を奨励しつつ余暇で遊芸をすることも認めている。倹約のため一切の遊芸を禁止する藩がある。意次は息抜きが必要だと考えたからであろう。話のわかる人物である。  
六条では他の大名との交際、七条は領地経営について触れられる。七条には別紙があり増税をせずに倹約を行い、予想外の出費に備えるように命じている。従前まで信じられていた田沼意次像とは正反対である。池波さんは五条から田沼の武芸好きという設定に活かしたのだろう。剣客商売で描かれた田沼像は真実に近い印象を受ける。  
田沼は二代の将軍に仕え、その恩顧に応えるべく蝦夷地開発や開港構想により幕府財政を根本から見直し揺るぎないものにしようとした。百年後を見据えた広大な構想を打ち出した田沼は改革者としての側面を評価するべきだろう。ただ、高齢でいつ亡くなるかわからないという時間的な焦りから改革を強引に進め、周囲に本意が伝わらず不満を招いた感もある。 
田沼意次賄賂政治家説を検証  
田沼意次が賄賂政治家という根拠について考えてみる。田沼意次が賄賂政治家という揺るぎない根拠は未だに示されていない。百年後を見据えた構想を持つ政治家と評価する人も多い。現代の政治家でこのような広大な構想を持つ政治家は皆無に等しい。「田沼が歴代の老中と比較して賄賂を受け取った額が抜きに出て多い」という史料的な裏付けがない限り田沼を賄賂政治家と断定することはできない。  
失脚後の評価  
松平定信が失脚後に大量の文章を書き残しているがそれが事実として受け止めれた。しかしながら、失敗した政策については触れないなど自己の都合のいいように書いている。例えば、『天明蝦夷探検始末記』(著照井壮助八重岳書房)の指摘によると彼が編纂に関わった『徳川実記』には田沼意次が将軍の裁可を仰いで行った蝦夷地調査も含めて蝦夷地に関する記述が全くない。蝦夷地全体というのは同書にあるように彼が政権を担当しているころに蝦夷地政策で大失敗したことを幕府の公式記録から抹消したかったのだろう。  
戦前まで朱子学が重んじられ、朱子学を復活させた「英雄」の彼の改革を高く評価している。彼の田沼に関する記述をそのまま研究者が引用することで間違えが起っている。彼の田沼意次に関する記述は彼の一方的な見解であり、中立性を欠いている。  
平戸藩主の松浦静山が記した有名な随筆集『甲子夜話』でも田沼の話は登場するが、彼は定信政権下で活躍した松平信明や本多忠籌(ただかず)と親戚関係にあり、中立の視点で書かれているとは言い難い。田沼を批判的書いた文章が悪評の根拠とされたが、田沼政権を批判し評価を下げることは政権を倒した自分達の正当化を訴えることにつながるため事実無根の批判や中傷を行われていた。田沼政権のような独自色の強い政権が江戸時代にはなく田沼の政治を弁護する者は少なかった。  
さらに田沼意次の失脚を題材とした実録物が出し物として演じられているうちに「田沼意次が悪人」というのが世間で常識化したようだ。本能寺の変の明智光秀、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、「忠臣蔵」の吉良上野介、「太閤記」で殺生関白と評された豊臣秀次など「悪役」にされた人物が「悪人」ということを強調したいがために「悪行」を創作するパターンと同じである。  
辻善之助著『田沼時代』の影響  
田沼意次再評価派の大石慎三郎氏は自著『田沼意次の時代』の中で、大正四年(1915年)に出された辻氏の『田沼時代』が従前からの賄賂政治家説を決定付けたとする一方、辻氏が著作に引用した史料の誤りを指摘されている。  
「まいない鳥、まいないかぶれ」という田沼意次の賄賂政治ぶりを風刺した絵図として有名なもので、田沼意次を賄賂政治家として紹介する折には紹介される。これは天保十年(1839年)に巷の噂を興味本位に集めた『古今百代草叢書』の中にある絵図で、歴史史料とするだけに信頼性なく同絵図はまいなり鳥を田沼意次と特定していないことを大石氏は同著の中で指摘している。  
大石氏によれば辻氏は無役の者が属する小普請組の植崎九八郎が田沼意次政権を批判する上申書を将軍に出し、その文章を田沼批判の根拠にしていたぐらいしか根拠がないらしい。ちなみに植崎は享和元年(1801年)には今度は失脚した定信らを批判する上申書を提出している。彼は失脚した政治家を批判する上申書を提出することで幕閣に注目され、御役目に就く機会を掴みたい一心で提出したようである。  
家臣統制に失敗  
田沼家は意次の父親が紀州藩の部屋住み時代の吉宗に仕えたため譜代の家臣はいない。彼の代で六百石の旗本から最高で五万七千石の大名になったため、石高に応じた人数の家来を集めることになる。六百石なら十三人ぐらいで済んでいたのが、五万七千石なら五百人以上の家来が必要になる。武家奉公人も含まれるが、これだけの人数を集めるため質より数で採用したようで田沼家の用人二人ですら武家の出でない。  
もっとも、武士として教育を受けた者が都合よく大量に浪人や厄介(武家の当主と嫡男以外)としているわけもなく、一から教育する時間的余裕がないため人数を揃えることが優先されたのはやむを得ない。  
田沼家には家法すらなく、普通の家なら厳禁している賄賂を受け取ってはいけないということを寄せ集めの家臣達は理解していなかったかもしれない。賄賂を受け取ることに罪悪感を感じなかったかもしれない。家臣統制に失敗したのは田沼の責任である。  
付届け社会  
人に何かを頼むときや世話になっている人への御礼の気持ちを表わすために付届けをするのが常識だった。他家を訪れる時には主の分とは別に家臣の分も用意した。他家から使いに来た家来にも心づけを渡す。付届けは西洋のチップの感覚で小額を何度も繰り返して公然と渡し、時には領収書も発行されるもので合法である。  
寛政の改革の中で賄賂を禁じるが本来支払うべき付届けまでやめる者が出たため寛政四年(1792年)には付届けを義務付ける触れを出した。付届けは武家社会では常識で払わない方が非常識である。  
賄賂は高額な金品を影で渡し見返りを求めるものである。付届けと賄賂の明確な線引きは江戸時代にはなかったようだ。  
老中と付届け・賄賂  
老中は大政奉還が行われた慶応三年(1867年)に役料が年三万両と定められるまで、幕府からは公式な報酬は一銭もなかった。経済的に保障されている現代の政治家や公務員と同じ感覚で考えると大きな誤解をする。  
『江戸の組織人』(山本博文新潮文庫)では松平定信の家臣水野為長が書いた『よしの冊子』の約二ヶ月間の老中就任による臨時出費の記述を引用し、そこから老中就任による出費が年間約一万二千両がかかるとしている。田沼意次は老中就任により三万石に加増されたが、領内の年貢を四割と仮定すると松平が要したとされる老中経費と同額の年間一万二千両しか藩の収入はない。老中就任に伴う出費だけで藩の収入が消えてしまう。付届けと賄賂を歳費の代わりに受け取らなければ老中就任による生じる費用は藩の持ち出しになり、藩の財政が確実に破綻する。  
付届けに関しては寛政の改革で賄賂を禁じると付届けまでやめた者が続出したため、寛政四年(1792年)には付届けを義務付ける触れを出していることから付届けを受け取ることは幕府公認である。付届けはチップ感覚で付届けをすることが常識だった。  
御対客日や御逢日という日が公式に設けられ、朝六時から登城する時間までに老中宅へ大名や旗本、御用商人職人など誰でも直接陳情や挨拶に出向くことが許されていた。御対客日は月二回、御逢日は月五回ある。田沼は遺言で相手の身分の上下に関わらず心を配るように言い残している。老中に上り詰めた田沼だが元は低禄の旗本だった経験からだろう。身分が低いことを理由に門前払いにされる心配がなく、権力が強い田沼なら陳情したことを実現してくれるはずで人々が頼みにいくのは当然だろう。この日の田沼家の門前には行列ができたそうだ。  
老中への賄賂が横行する原因の一つに寛保二年(1742年)から「御手伝普請」が復活したことがある。大名に幕府が行う公共工事を請け負わせる。幕府の公共工事は日本国中が利用する街道の整備や大きな河川の治水など日本全体で負担すべき費用を幕府がそれまで負担していた。担当させる大名を決めるのは老中の裁量次第である。財政難の大名家にとっては数万、時に数十万両の金額を負担させられる御手伝普請から逃れるため老中に千両程度の賄賂を渡して逃れる方が安上がりで合理的な選択である。  
田沼は御手伝普請が幕府と老中が指名した藩だけが負担するのでは平等ではないとして「日本惣庫税」を構想した。日本国中に関わる公共事業にかかる費用をあらかじめ日本国中から税金として徴収し、全国で平等に費用を負担する内容である。賄賂を溜め込みたいならわざわざこんな構想は考えない。  
もっとも、賄賂が悪いことだという感覚が当時にはなかったのだろう。小説でも言われているように田沼がもらった賄賂を私の物とせず改革を進めるため配下の者や在野の者を支援するために使っていたようだ。  
朱子学の影響  
松平定信は異学の禁を出し時流に即さず廃れていた朱子学を幕府の学問と定め、朱子学を学ばない者は役人にしないと決めた。諸藩は幕府に入らぬ疑惑を持たれないように自発的に従いこれ以降の武士の学問は朱子学になった。  
重農主義である朱子学の観点では金銭を扱うのは身分の低いものがすることであり、武士は経済に対して消極的なほどよいとされた。時代劇の悪役に城代家老、勘定奉行、代官など金銭を扱う役職者が多いのは朱子学の影響と云われている。  
田沼意次の重商主義は伝統的な武士の価値観では「武士にあるまじき行為」であり、松平定信は朱子学にとって「英雄」である。彼が倒した田沼政権の評価を不当に下げることで彼が田沼政権を倒し政権を樹立した正当性が強調された。幕末の尊王攘夷も朱子学の思想から生まれた言葉で戦前までは朱子学が主流な思想であった。  
しかしながら、寛政の改革当時の時流はすでに貨幣経済であり、時代に逆行した重農主義が上手くいくはずもなく、田沼政権を批判しながら後の政権は政策だけは真似している。真似した方が改革と評価され、オリジナルが悪者扱いされているのだから評価というものは当てにならない。  
まとめ  
田沼意次が賄賂政治家というのは史料的裏付けがない。「田沼が歴代の老中と比較して賄賂を受け取った額が抜きに出て多い」という史料的な裏付けがない限り田沼を賄賂政治家と断定することはできない。  
戦前まで重んじられていた朱子学を幕府の学問と定めたことで復興させた松平定信を朱子学では「英雄」とし、「英雄」である彼の改革を正当化するため、彼が否定した田沼意次を悪人と位置づけたことが田沼意次を賄賂政治家など不当に低く評価している要因と考える。  
 
松平定信はどうして田沼意次を恨むか

 

剣客商売の春の嵐では、老中の田沼意次を追い落とそうとする一橋治済が田沼を恨む松平定信を利用し政争を起こそうとしている話である。定信は将軍への上申書の中で懐剣をこしらえて城内で刺し殺そうと考えるほど意次を恨んでいた。その理由を簡単に説明すると安永九年(1780年)に十代将軍家治の嫡男であり、唯一の男子である家基が若くして急死した時に、「白河松平家へ養子にさえ行かなければ、私が将軍の養子になり、十一代将軍になれたはずだ」と思い込み、養子話を進めた田沼意次を逆恨みをしていた。
一橋治済と松平定信がいた御三卿について  
吉宗の次男宗武が江戸城の田安御門、四男宗尹(むねただ)が一橋御門の傍に屋敷を与えられ、それぞれ屋敷をもらった門にちなみ田安宗武、一橋宗尹と名乗った。姓は徳川だが将軍家と区別するため徳川を省略している。  
なお、清水家は十代将軍家治の弟・重好が清水御門の側に屋敷をもらい創設された。田安、一橋、清水の三家を御三卿と呼ぶ。  
八代将軍の吉宗と幕府重役達は、当時では全く情報がなかったであろうアテトーゼ型脳性麻痺の症状がある吉宗の長男・家重に子供を作る能力があるのかと不安を抱いていた。彼が九代将軍になるが嫡男が生まれないまま亡くなれば、将軍の後継者争いが起こるという不測の事態に備えて、二人の息子を「将軍のスペア」として大名ではなく「将軍家の部屋住」という形で城を与えず江戸に留め置いた。当初は三万石、後に十万石を与えた。  
家重に嫡男が生まれ、彼の嫡男が無事に育ち将軍職を継げる時点で、「将軍のスペア」という2人の役割は消滅する。取り潰すことを前提の両家の家来は旗本・御家人とその厄介(家督を継げない次男・三男など。通常は養子口か仕官先を探す)達の中から派遣している。取り潰し後は派遣前の状態に戻るだけであり、通常の改易に比べて浪人になる者は少ない。  
元文二年(1737年)に将軍家重の嫡子で後の十代将軍家治が、延享二年(1745)には後の清水重好が誕生した。吉宗は家治が数え年で十一歳の延享四年(1747年)に両家の「将軍のスペア」としての役目を終えたと判断し、一橋宗尹の養子話が起こる。この話は養子先の越前松平家の当主と宗尹の年齢差が六歳しかなく、宗尹の嫡子小五郎を代わりに養子(小五郎は若くして亡くなる。彼の弟が兄の養子となる形で同家を継いだ)に出した。  
その後、幕府は田安家からは伊予松平家と白河松平家、一橋家から筑前黒田家へと養子に出している。幕府は役割が消滅した両家を通常の大名のように相続させる考えはなく、養子口がなく家に残っている者がいるなら家督を継がせる程度の考えのようだ。取り潰すのが目的の養子入りとはいえ八代将軍吉宗の血筋を引く彼らと釣り合う養子先は「それ相応の大名家」と限定されたようだ。  
定信の白河松平家への養子  
病弱な兄・治察が安永三年(1774年)に亡くなると定信はすでに決まっていた白河松平家の養子への件を取り消し、田安家を継ぐ運動を約一年以上展開した。幕府は取り合わず養家の催促で定信はやむなく養子に行った。  
財政改革中の幕府にとって役割を失った両家に十万石ずつ支給する意味はなく、両家の男子を全員大名の養子に送る方法で取り潰せば、彼らは大名家の当主の座が与えられ、各家に与えていた計二十万石分の支出がなくなることで幕府も収入が増えるのだから得をする者の方が多い。  
後の世では結果論から「将軍位を狙う一橋が田沼と組み、将軍家治に説き将軍候補で聡明(寛政の改革を高く評価する人の評価の可能性が高い)と評された定信が将軍の座に就けば退けられることを怖れて養子に出した」と考える人もある。  
しかしながら、この時点では家治の嫡子家基は健在で、養子入りから六年後に彼の急死により将軍家に嫡男がなく、養子を探す事態が起こりとは誰も予想していなかった。  
そのため、定信が松平家へ養子に行く時点で将軍になる可能性は極めて低い。田沼意次らは吉宗の御議定(思召のこと)に従い相続人がいなくなった時点で廃邸にしただけである。なお、将軍の意向で宝蓮院(家祖・宗尹の妻)が生きている間だけは屋敷を存続させることになった。  
仮に定信が田安家の相続を果たしても将軍家へ養子入りする可能性は低かっただろう。定信の父宗尹は「病気を持つ家重より自分こそが将軍にふさわしい」と考え、家重の将軍就任には不満のようで延享四年(1747年)に家重を誹謗し、侍医を通じて世間に漏れたことを咎められ、大御所の吉宗から三年間謹慎処分を受けた。家重の息で現将軍の家治と家重の小姓から老中に出世した田沼の田安家への印象は悪く、わざわざ次期将軍就任が前提の家治の養子を田安家から迎えるとは考え難い。  
ちなみに定信は老中をやめた後に記述した書物の中で「田沼が将軍の命と称して養子に追いやった」としているが、その頃には吉宗の御議定について知っていたはずである。天明七年(1787年)に一橋治済が定信に無断で彼の実家・田安家に実子を送り込み田安家を再興させた件を「御議定に背くことだ」と批判している。田沼を悪者にしたいため意図的に御議定について何も触れなかったようだ。  
将軍の養子選び  
安永九年(1780年)に将軍嫡子の家基が急死した。家治は彼以外に男子は生まれなかったため家治は老中の田沼意次、若年寄の酒井石見守、留守居依の田豊前守に命じて万一に備えて養子を探させた。将軍が急死すれば次期将軍に将軍の弟清水重好、吉宗の孫である一橋治済や松平定信ら、御三家を立てる者も現れ、将軍職を巡る争いが起きかねない。十一代将軍を継ぐことを前提にした養子を向かえることは争いを防ぐ当然の処置である。  
最有力候補の将軍の弟・清水重好は兄とはたった八歳違いで、しかも彼にも男子がいないため、彼が将軍職に就任しても同様の問題が起こることから対象から外れた。  
定信が田安家に残っておれば御三卿筆頭の田安家(田安家は吉宗の次男、一橋家は四男が祖)当主の自分が養子に選ばれたはずだと思っていただけに、松平家へ養子に行くように仕向けたと彼が推測する田沼を逆恨みをした。仮に田安家を継いでも父親の一件で選ばれない可能性が高い。  
ただ、吉宗の孫世代では候補者が多く、孫世代から養子を選べば彼らの間で争いが起こる可能性があるから曾孫の豊千代を選んだ可能性が高い。  
吉宗の孫として優遇される  
定信は殺したいほど恨んでいたはずの田沼らに賄賂を贈り天明五年(1785年)に殿中席が溜之間詰めにされた。溜之間詰めは臣下の最高の座席で幕政の最高顧問の役割として将軍直々に政治について意見を求められることもある。  
井伊家、会津松平家、高松松平家の三家と譜代大名の家格から選抜される場合もあり一代限りの家もある。白河松平家の家格では本来選ばれないのだが「吉宗の孫」として特例で選ばれている。本来は次期将軍になれたはずだと思い込んでいた定信は納得できなかったようだ。  
反田沼派の譜代門閥層の旗印に  
定信は吉宗の孫であり、天明の飢饉では藩内に餓死者を出さずに乗り切ったことで評価が一気に高まった。飢饉を予測して大坂などに家臣を派遣し、米を買い付け隣藩の会津藩から隣同士のよしみで米を融通してもらうなど先手を打ったことによる。彼が田沼を嫌っていることは周知のことで彼を反田沼勢力の旗印になった。  
天明七年(1785年)に政権を握ると田沼を隠居させ、彼を政治犯として扱い永蟄居の処分を下し亡くなるまで屋敷に幽閉した。領地を没収し江戸から遠く痩せ地が多い陸奥下村藩一万石に転封しあえて大名として存続させる。わざわざ大名として残したのも大身旗本は大名より収入は少ないものの、大名家に多大な負担となる参勤交代がないため大名よりも経済的に豊かであることを承知の上である。  
田沼の政策に関与したものは小者に至るまで処罰するなど徹底し、さらに意次の領地であった遠州相良城までも破壊させている。城自体を破壊する合理的な理由はなく、私怨であるによるものである。  
さらに『その時歴史が動いた22』では2000年に発見された田安家関連文書中にある『見聞雑録』を紹介している。それによると「幕府が病床の田沼を監視し逐一病状を報告させ、医師の往診をわざと控えさせ死期を早めた」とある。この時の政権は定信が握っている。彼を死ぬまで苦しめることで個人的恨みを晴らしたのかもしれないが、これが事実なら狂気である。  
政権を握った定信による寛政の改革は重農主義の思想である朱子学を基にするもので重商主義の時代にそぐわない部分も多く、あまり成果が上がらなかった。田沼政権の政策の中には定信政権にも受け継がれたものがある。  
政権樹立当初から大御所となった一橋治済と折り合いが悪く対立したことに加え、蝦夷地政策の大失敗もあり寛政五年(1793年)に失脚した。結局、田沼政権を倒すためだけに彼は担ぎ出されただけであった。  
 
田沼意知殺害事件

 

政権への不満が噴出し反田沼精力の譜代門閥層の声が高くなり意次の権勢は衰え失脚するきっかけになった田沼意次の長男・意知(おきとも)殺害事件を考えてみる。殿中刃傷は江戸時代に何度もあるが私憤によるものがほとんどであった。幕府は「犯人である新番士佐野善左衛門政言の狂信による行為」として処理したが佐野が誰かの命を受けて行ったと考える落首が当時から詠まれたように政治テロの可能性が濃厚である。この事件を詳しく考えてみる。  
事件経緯  
事件発生は天明四年(1784)3月24日の夕刻に事件が起こる。執務時間が終り、御用部屋から下城しようと歩いていた若年寄の田沼意知らは中ノ間から桔梗の間へ差し向かう途中、新番士の佐野善左衛門政言に意知が斬りつけられた。意知は脇差を抜き防ごうとするが防ぎきれず、肩などを斬られ近くの桔梗の間に逃げ込む。この事件で処罰された人数が21人であるため、これぐらいの人数が事件現場周辺にいたと推測される。  
最初に刺された時点で助けられれば彼は死ぬことはなかっただろう。桔梗の間で意知は倒れてしまい股を刺された。刺し傷は三寸五から六分で骨に達し、この傷による出血多量が死因となったと伝えられている。大目付松平対馬守忠郷が佐野を取り押さえ、目付柳生主繕正が佐野の手から脇差を落とした。  
4月2日に意知が享年36歳で亡くなり、翌日の4月3日に佐野が切腹させられる。意知の葬列には石が投げられ罵声を浴びせられた一方、佐野が処刑後に高騰していた米価が偶然下がり民衆は佐野を「世直し大明神」と称える。佐野は「時の人」となり、佐野が葬られた浅草本願寺地中徳本寺には参拝者が押しかけ幕府が門を閉じ参拝をやめさせようとしたが夜中に参拝する者がいたほどであった。  
幕府の公式記録『徳川実記』では「意知が脇差で防いだ」ことにしたのは、彼が逃げ回り一方的に刺され殺されたのでは「武士としてあるまじき行為=不覚をとる」だからである。武士は事件の被害者であっても相手から逃亡し、背後から斬られることは「不覚」であり、事件被害者であっても御家断絶か御役御免など厳しい処分が下されることがある。本当に彼が防いだかは不明であるが、体面上そういうことにしておかなければ、彼の武士としての名誉が守られない。  
佐野の狂信とする幕引き  
幕府の公式記録『徳川実記』では佐野の狂乱としている。4月17日には大目付と目付は「佐野が狂信して犯行に及んだ」とし「同僚におかしな様子なら注意して観察し場合により自宅で治療させるよう」にという趣旨の触れを関係各所に出し「佐野の狂信」とし巷で流れる政治テロ説を改めて否定した。  
もっとも、佐野が「ある大名、もしくは幕府高官の指図で実行した」と自白したとしても、公にすれば関わった人物を処罰する必要が生じ、改易にすることになれば、その家に仕える者が職を失うことになり、公にはできない。事件の影響を最小限に留めるため公にせずに「佐野の発狂」として幕引きを図った可能性もある。  
意外なほど軽い処分  
意外にも佐野が切腹したのは意知が亡くなる翌日の4月3日。亡くなれば切腹、亡くならなければ絶家という裁断が下され、「亡くなるのを待った」形になったのだろうか。切腹は厳密には死刑ではなく「自分の罪を自分で裁く」という武士としての面目を保った形での処分である。  
『徳川実記』によると4月7日に15名の人物が処罰を下されたとある。佐野と同僚の新番士4名は佐野が白刃を持って部屋から出たのを引き止めなかったことを理由に解任され小普請に入れられ「出仕とどめらる」とある。「出仕とどめらる」の意味は正確にはわからないが解任された上に出勤停止というのは文脈としておかしく、一ヶ月後に許されているとあるから登城禁止だろうか。  
目付2名は事件現場にいながら佐野を押しとめようとしなかったことが咎められ解任され、他の目付2名には1ヶ月間、大目付2名には十日間の差控の処分が下され、中ノ間にいた町奉行と勘定奉行らには注意が与えられた。この件で唯一褒美が与えられたのは最初に佐野を取り押さえた松平対馬守で200石加増され、取り押さえに協力した目付の柳生主繕正は御咎めなしである。しかし、「意知を見殺しにした」形になった若年寄3名については何も記述がないことから特に処分がなかったようだ。  
武家は官僚化したとはいえ軍人である。被害者の立場でも逃亡すれば敵前逃亡なのだから「武士にあるまじき行為」して厳しい処分を下される。『江戸の旗本辞典』(小川恭一講談社)で紹介されている文政6年(1823)が書院番士の松平外記が同僚5名を死傷させた殿中刃傷での処罰は、松平は事件後切腹、彼は部屋住みのため御家は存続する。その一方、脇腹か背中に傷を受けて亡くなった被害者のうち部屋住みの者を除けば「相手から逃げた」ということが理由で改易絶家処分を下されている。  
意知殺害事件でも事件現場にいながら逃げた者は「武士にあるまじき行為」であるから改易絶家など厳しい処分を下されてもやむを得ない。しかし、田沼は我が子が被害者とはいえ「御家取り潰しにより大量の失業者を発生させることは治安悪化を招き幕政にとって好ましくない」という老中としての立場を優先したのだろう。若年寄が殺害された事件の割には処分が軽い。  
田沼意知はどのような人だったか  
意知は天明元年(1781)に大名の嫡子でありながら、通常は大名の当主しか就任できない奏者番に就任し、天明三年(1783)には若年寄に就任する。翌年の天明四年(1784年)に城内で新番士佐野善左衛門政言に刺され、約一週間後に亡くなる。  
政策としてはわかるものは明和五年(1769)に亡くなった若年寄の松平忠恒が抱いていた貿易船の建造と外国人誘致構想を引継ぎ、長崎奉行を通じて和蘭商館長チチングにバタビヤの船大工を招きたいと申し入れていた。彼が亡くなったことで計画は白紙になった。  
個人犯行説への疑問  
佐野の口上書では私憤が原因としている。田沼家は佐野家から家系図を借りたが帰さなかったことや田沼家は佐野家の家来筋にあたり同じ祖先を持つよしみで出世を目論んで総額620両相当の金品を贈ったが出世は適わず何度も来る佐野を煙たがったことに怒ったという説。佐野の領地にある「佐野大明神」が田沼家の家臣により「田沼大明神」に名称が変更され横領された説。また、佐野家の旗が田沼家の定紋である七曜紋のため取り上げられたなどがある。  
ただ、佐野の先祖は田原(俵)藤太秀郷の流れを汲む名家の佐野家で、先祖にゆかりのある下野国都賀郡(つがごおり)は田沼家の先祖である下野国安蘇郡田沼村に近く、田沼家は名家の佐野の流れを汲むと自称してたが、旗本佐野家は支流の支流の家であり田沼家が政言から家系図を借りなくてもいくらでも家系図を立派なものに書き換える(家系図を書き換えるのはよくある話で徳川宗家も行った)方法があったはずである。  
余談だが賄賂政治家と後世から評された田沼意次が620両で出世させないという話は実際は金で人事を決めることはないという話が垣間見える。  
十五巻二十番斬りでは佐野は田沼意次の政治に不満を持ち意次を批判する内容の「田沼罪状」という斬奸状を所持していたため政治的な理由で犯行に及んだとされる。これは佐野が記したのでなく後世の偽造と考えられ、佐野が書いた確証はないと 小説でも紹介してある。単独犯と仮定してた場合、譜代門閥層がこの事件を政治的に利用するために捏造した可能性も考えられる。  
発狂している人物が政治テロとして最も効果がある意知を執拗に斬りつけるのは納得できない。同僚かこの場所を通る他の人物に斬りかかっているはずである。 
政治テロと仮定すると  
真の黒幕は?  
この事件でもっとも得をしたのが反田沼勢力の譜代門閥層である。この事件の当時は田沼政権の最大の後ろ盾である将軍家治が二年後の天明六年(1786)に亡くなるとは誰も想像できず、家治存命中は意次を解任することは難しい。事件後に意次が寿命で亡くなろうと、家治が存命なら政権交代ができるとは限らない。  
ただ、将軍家治が亡くなると同時に田沼意次を失脚させることに成功したのはこの一件で磐石に見えた政権への不満が一気に沸き起こり、反対勢力を勢いづかせ結束したことがあるだろ。後に政権交代を呼んだきっかけになった一件だけに政治テロとしてはこれほど効果的なものはなく、佐野の独断で行ったとは思えない。  
譜代門閥層の彼らから見れば多くの者が出世の機会がない中、浪人の子の田沼が老中まで出世し政権を握っているだけでも疎ましいだろう。能力主義の田沼政権が続けば「名門」以外の取り得がない者が多い譜代門閥層からは登用や出世の機会は著しく減少する。重商主義の田沼の改革は商業が発達した現状に即した政策だが重農主義を基盤とする伝統的な武士の価値観では全く理解できない政策で「幕府の制度をひっくり返す」ぐらいの悪政で「武士が商人のようなことをしている」とすら感じ批判していた。  
彼らの憤りと不安が事件を起こさせたと考えられる。ただ、直接手を下せば家は御取潰しになり、切腹は間逃れず家臣は失業し縁戚関係にある家に連座が適用され処罰が下されるなど多大な迷惑をかける。佐野に行わせ黒幕である自身について話させなければ我が身には影響はないと考え佐野を使ったとも想像できる。  
真っ先に思いつきそうなのは松平定信で将軍家に養子に行くはずが田沼意次の謀略で白河松平家に養子に出されたと逆恨みし「殿中で田沼を刺し殺すための短刀を拵えたが大人気ないのでやめた」と告白しているほどである。他にも田沼の幕政改革に批判的な大名はいくらでもいただろう。  
実行場所を殿中にした理由?  
殺害することだけが目的なら田沼家屋敷に曲者を侵入させるか陳情や面談と目的を偽って近づく方法も考えられる。現代では存在しない制度だが老中と直接陳情や面談ができる御対客日や御逢日という日が公式に設けられ、直接会うことができる。その時に殺害しようと思えばできたかもしれない。これでは「急な病で亡くなった」という時代劇ではおなじみの方法で田沼家が内密に処理し事件が世間に知られずに終る可能性が高い。  
屋敷外なら多数の目撃者が存在し事件を隠すことは不可能だが、登城には家来が付き添うため難しい。意外にも城内は要人専用の護衛の者はなく、城外に比べてはるかに手薄であることから殿中を実行場所として選ばれたと推測する。  
どうして佐野が実行犯に選ばれたのか  
佐野の役職である新番士は中奥や老中や若年寄、側用人ら幕府高官の執務室である御用部屋への出入り口である納戸口を警護する役職である。新番士が詰める新番所や控え室の新番部屋の前は老中や若年寄らの「通勤路」である。逃亡することを考慮しないなら犯行現場にいても役目柄不自然では新番士の佐野が適任である。  
また、佐野なら田沼家と系図を巡る私憤として処理できると考えたのだろう。系図上の争いという説が言われたくらいだから当時から佐野と田沼家の間に何かのトラブルがあったことは意外と知られていたのかもしれない。田沼家に恨みを持つ佐野をそそのかすか説得し実行犯にしたかもしれない。  
佐野を世直し大明神と称えたのも策略か?  
疑いだしたらきりがない。佐野が処刑された4月3日に庶民が米価高騰で苦しんでいた中で偶然米価が下がると原因を佐野に結びつけ佐野を「世直し大明神」と称えたとある。米価の下落は単なる偶然かもしれないが米価高騰の要因に米問屋の買い占めによる流通量の低下である。事件の真の黒幕(もしくは単独犯と仮定してこの事件を利用する何者か)が米問屋と結託するなどの方法で人為的に流通量を増やせば米価を人為的に下げることは容易である。  
意知の葬列に石や罵声を浴びせたのは誰かが命令して行わせ佐野を「世直し大明神」だと称える話を人為的に広め、世間の政権への不満を高めようと画策したとも推測できる。さらに佐野を称えることで「第二の佐野」が現れ自発的に政権の要職者を襲撃することを煽っていた気もする。  
意知を標的にした訳は?  
意次は当時68歳と、この時代の感覚では「いつ亡くなってもおかしくない年齢」である。「意知を殺害すれば田沼家の後継者がいなくなる」という考え方もできるが、この2年後に将軍が亡くなるとは誰も予測していないため、政権交代が起こらなければ意味がない。意次の四男金弥が意次の盟友水野忠友の養子入りしているものの家督は継いでおらず、養子縁組を解消し田沼家の家督を継がせるか孫・意明が田沼家を継ぎ、田沼の政策を引き継ぐ政権が継続すれば何も変わらない。  
意次ではなく意知を標的にしたの最大の理由は、彼が大名の惣領(家督を継ぐ前)にもかかわらず若年寄に就任しているため彼が「田沼意次独裁の象徴」として捉えられえていたことと推測する。5代将軍綱吉の時代に老中大久保忠朝の子・忠増が若年寄に就任した前例が一度あるものも、意知が若年寄に就任していることは異例であり、このことに不満を感じていた者は多いはずである。田沼意次の独裁の象徴である彼を殺せば息を潜めていた反田沼派から支持を得られる標的として考えられる。  
小兵衛が武士の世が長くないと予感した訳は  
最後に小説の小兵衛がこの事件を知り武士の世は長くないと予感していたがなぜなのか少し説明しないとわかりにくい。周りには処罰された人数から推測すると21人はいたようだ。常識的に考えればたった1人の佐野は簡単に取り押さえられ意知は軽傷で終るはずであった。しかし、佐野に向かって行ったのは70歳の大目付松平対馬守忠郷だけである。  
武士は官僚化したとはいえ本分は軍人である。武士ならば武芸を修め、いざという時に対処できるように心身を鍛えている。新番士の平時の職務は江戸城内の警備であり、佐野を取り押さえずに逃亡したことは職務放棄である。また、目付・若年寄といった旗本・大名の当主は合戦では指揮官として家来を率いることになる。  
彼らは剣術の切紙や伝書を伝授されていたはずだが「守るべきものを守るため剣を振るう以外方法がない場合は迷いなく剣を振るう」という剣術の根本を理解できていなかったようだ。小兵衛はこの事件でほとんどの武士がいざという時に何の役にも立たないと感じたのだろう。  
領民は税を納める代わりに武士はいざという時に領地領民を守るために命懸けで戦ってくれるという暗黙の契約関係で武家政権は成立している。しかし、武士が何の役に立たないとわかれば武家政権への信頼感がなくなる。  
幕末になり、武士が奇兵隊など庶民中心の歩兵隊に敗北し、武士の体たらくが露呈し武家の世が終るがこの時点でわかる人にはわかったかもしれない。  
 
田沼意次の幕政改革

 

田沼意次は『剣客商売』の重要人物の一人である。佐々木三冬の実父で三冬と結婚した秋山大治郎から見れば、義理の父親に当たり、小説の期間は田沼意次の権力の絶頂期と重なる。「田沼意次=賄賂政治家」という誤解が今も残る影響で、田沼政権の百年後を見据えた改革は享保、寛政、天保の三大改革よりも広大な構想ということから近年ようやく再評価されつつある。ここでは田沼意次を中心とした田沼政権の幕政改革を見ていく。田沼個人については別ページに掲載している。藩政改革のページを参考にしてもらうと幕政改革と藩政改革の理念や方法には大差がないことがわかる。もっとも、田沼政権は改革を意図したのではなく、財政難に陥った多くの藩同様、重農主義の限界を感じ、重商主義への政策転換による政策が後世では改革と評価された可能性もある。
当時の重要課題と田沼政権の幕政改革の概要  
当時の重要課題は財政再建である。増税、新田開発、貨幣改鋳による利益など享保の改革の成果で明和年間(1764から1771年)では余剰金(累積黒字)は三百万両あり、財政は良好に見えたが。幕府の年間収支は、ほぼ均衡していた。大災害など不時の出費が続けば、近い将来余剰金を使い果たすのは目に見えていた。  
幕府の当時の推定歳入は百七十万〜百八十万両。旗本・御家人の俸禄などの人件費や将軍、大奥の生活費などには手が出せず行政費の約十四万両のみが老中らの権限が及ぶ。享保の改革における年貢の増税政策は米以外の諸色物価の高騰により米が実質的に目減りし、年貢増加が必ずしも収入増につながず、年貢増税が原因で発生した宝暦四年(1754年)の郡上八幡一揆により年貢増税政策が限界に来ていた。  
田沼政権は幕府財政の安定化を目指し、新たな収入源を探るため重商主義を中心とした幕政改革を目指していた。この時代に藩政改革に成功した藩の多くが重商主義を展開していた。  
田沼政権は従来の譜代門閥層から吉宗が紀州から連れてきた者達の子孫を中心に低禄で有能な者が抜擢され活躍した。紀州出身者の子孫の中で田沼意次は出世頭だった。彼は六百石の旗本からスタートし五万七千石の老中に登りつめた。  
田沼政権は紀州出身者など幕政に関わってこなかった者が中心の政権だけに、幕政の慣例を破る政策が展開される。蝦夷地開発構想と他藩が採用した重商主義を幕政にも取り入れるなど幕政に新風を吹き込んだ改革を目指した。しかし、改革は慣例を重んじ、それまで幕政を握っていた保守派である譜代門閥層の反感を買い、田沼意次の失脚により失敗に終わったが一部の政策は後の政権にも受け継がれた。 
新税構想  
年貢税率を増加させる政策は百姓の不満を高め宝暦四年(1754年)に起こった郡上八幡の一揆に代表されるように各地で一揆を招く。また、年貢収入は天候に左右されるため収入が不安定で、天明の飢饉のような大凶作になれば収入は激減し、財政に大打撃を与える。年貢だけを頼るにはあまりにもリスクが高い。  
米価以外の物価である諸色物価が上昇し、米の実質的な価値が下がったことで年貢収入の増加が財政再建につながらないことから、藩政改革を行った藩のように年貢依存から脱却しようという構想だった。  
そこで田沼らは国税や間接税を導入し幅広く財源を求めるようになった。百姓が収穫の三分の一以上を年貢として納めることに比べると、町民には微々たる税しか課していない。現代の所得税と法人税にように所得に応じて課税する税はなく武家以上に大金を持っていたためそこに財源を求めた。  
国税の構想  
田沼政権は日本国中の人々が利用する街道や大規模な河川の普請を幕府のみが負担するのは平等性に欠くと感じていた。江戸時代初期は幕府の収入源の一つである金銀産出量が多く、財政的に余裕があり、直轄地のみの収入だけでも黒字だった。そのため、藩から税を徴収する必要性を感じなかったのか、幕府の税徴収権は天領のみにしか及ばなかった。  
江戸中期に入ると黒字財政の大きな要因である金銀産出量の低下に伴い、財政が苦しくなる。寛保二年(1742年)から復活した「御手伝普請」では老中が任意で指名する藩に全額負担させていた。田沼は街道の整備など公に関わる費用を全国民から平等に徴収しそこから拠出しようとした。宝永五年(1708年)に富士山大噴火降灰除去を名目としてた幕府唯一の国税「宝永の国役金令」を参考に国税徴収を計画した。  
課税額は高百石で二両の割合で五年分割とし百姓一世帯あたりで銀2.5匁(250文)とし、宝永の国役金令では対象外だった町民には間口一間あたり銀三匁(300文)を想定し、寺社領も対象に加えた。五年間かけて徴収するのは負担軽減以外にも五年間も徴収することで税を徴収する仕組みを作り新たな政策のために活かそうと考えていた。  
しかし、財政難の藩は領民に重税を課しているため不満の声が高く、これ以上領民に負担を強いることが無理な藩が多い。「領地の徴税権は領主固有の権利」として抵抗、藩が責任を持って幕府に納めるため領民が導入に反対し徴収できないなど徴収漏れがあれば藩の負担になるなど反対意見が多く実現できなかった。  
しかしながら、幕末には幕府は国防費と外交費が増加したが、藩に負担を求めるだけの力がなく全て幕府の負担となり幕府財政は苦しくなった。  
日本全国から税を徴収する考えは今では常識である。  
間接税の導入  
江戸時代を通じて現代の法人税に該当する税は幕府にはなかった。江戸時代初期は商業が未発達で、重農主義だったことも影響するだろうが、商店の場合は各店の儲けを把握した上で、課税する制度がなければ、課税は難しい。  
長崎貿易の機関である長崎会所から運上金が納められ、石谷清昌が勘定奉行と兼任で長崎奉行に就任していた宝暦十二年(1762年)から明和六年(1770年)の間は毎年二万七千両を納めさせていた。  
商人から課税しようと宝暦十年(1760年)から株札制度を発足させ特定の商人が業種独占する組合や株仲間を認め利益を保障する代わり冥加金を納めさせた。冥加金は御礼という意味合いが強く、納める側が金額を決めていた。異業種が主体となり組合を作るなど実態が不明な組合が多くでき、混乱を招いた弊害もあったが商人への課税の道を開いた。  
御用金制度  
宝暦十年(1760年)から始まった制度。「幕府発行の公債」という形を取るが半ば強制的に上納を命じたため実質は税。富裕層から財源を求めた。田沼政権は大坂と堺・兵庫など周辺都市の商人・百姓に限定、後の政権では幕府の御用商人や江戸など幕府直轄都市の町民、幕府領の百姓まで徴収範囲を拡大した。「公債」という名目から年利3%の利息を加えて返還する仕組である。一回目は米価調整を名目に徴収され目的どおりに用いられたが一部は公金貸付の財源に充てられた。公金貸付は年利10%だから単純に計算すると幕府は年7%の利益になる。  
しかしながら、諸大名が平気で商人からの借金を踏み倒している御時世に幕府が利息をつけて返してくれるという話は「あまりにも話ができすぎている」として信頼されず「御用金は新たな負担を強いるもの」と世間には捉えられ不満を招いた。  
後の政権では米価調整や財政補填、江戸城再建など各種土木事業費、長州征伐などを名目に不定期で徴収した。文化年間(1804年から1818年)だけでも三回計125万両を徴収した。財政難になる幕末では返済が行わずに次の御用金が命じられた。 
幕府の金融業参入・「幕府立銀行」の設立  
幕府は金融業に参入し、現代で言うところの銀行を設立して利子収入を得ようとした。  
公金貸付による利子収入  
公金貸付制度は大名や旗本、富裕商人、農民に年一割前後の利子で公金を貸し付ける制度。利子収入を新たな収入源とした。公金貸付の資金は三分の二は幕府から資金と御用金の流用だが残りは宮方寺社の名目金と富裕商人農民の有志からの出資である。出資者には利子が支払われる決まりになっている。  
田沼政権下では貸付対象を江戸町民に限定した。公金貸付で衰退の一途を辿る旧来の特権商人救済を目的に貸付、利益の一部を冥加金として納めさせ、金融市場の把握し、彼らを政策協力者にしようと目論むなど、様々な意図で実施されたが、返済が焦げ付き失敗した。  
松平定信政権では貸付対象を全国の富農と富裕商人などに範囲を拡大させた。田沼政権の失敗を踏まえて新興の大商人で構成された勘定所御用達商人などを中心に貸付け利益を挙げた。町奉行、代官や遠国奉行、勘定奉行が事務を取り扱っていた。寛政の改革で収支が黒字に転換したのは従来は倹約の成果だと考えられていたが、田沼政権下でも倹約は実行済みで公金貸付の利子収入も一因と考えられている。  
天保十三年(1842年)には約260万両の貸出金があった。利子を年一割と仮定しても26万両と年貢収入の二割に相当する。これ程度安定した収入が毎年得られたのなら幕府財政を大いに助けただろう。ただ、幕末になると滞納が増加し返済猶予や利子の引下を行った。  
大名貸しに参入・貸付会所  
国税を資金源として公金貸付制度を拡大し、借金を踏み倒し信頼を失くし金が借りられずに苦しむ大名を救済する制度が貸付会所。藩よりも百姓の方が信用が高く藩の借金を「百姓が田畑を担保に金を借りる」形にしなければ借りられなかった藩もある。  
全国の米が集まる大坂では藩は米倉にある米を米切手に記し、それを担保に大名貸しから借金した。財政破綻した藩は数年先の年貢米まで米切手にして担保にしなければ金が借りられないほど苦しんでいた。そのため、空切手という現物がない切手まで流通していた。  
幕府は大坂の両替商らから御用金六百万両を徴収しそれを「公金」として彼らの手元に戻し大名に貸し出す資金とした。藩は領地の一部を担保として差出、返済が滞れば幕府が担保の領地を管理し貸付額分の年貢を取り立てて返済が終わると藩に戻す仕組みだった。利息は当時としては低利の7%。担保があるのだから低利なのだろう。1%が幕府の取り分。割り当て分が全て貸し出されると仮定すると幕府は年六万両の収入を得る計算になる。  
借金に苦しむ藩は否応なく貸付制度に手を付ける。財政破綻している藩では財政再建案を作成しても実行する費用すら調達できない藩もある。この制度で借りた金を資金に財政再建を行い、成功しないかぎり収入は増えないため返済は厳しい。「借りて返済が滞り、また借りて滞る」の繰り返しに陥り、領地のほとんどが幕府に管理されるのは自明である。諸大名は領地を質流れにし幕府のものにしようとする意図を感じ取り反対はしたが背に腹は換えられず結局は利用した。  
幕府が直接、藩へ貸すのではなく、各両替商が藩と交渉して貸し出す仕組みのため貸し渋りが起こった。天明六年(1786年)に出された案は同年に田沼の後ろ盾であった家治が亡くなり意次が老中を解任されると同時に廃止された。  
幕府が各両替商に割当額を強制的に貸し出すか幕府の勘定所など幕府の機関で直接貸し出しを行う仕組みなら成功していた可能性もある。文化十四年(1817年)に馬喰町御用屋敷という似たような組織が作られるが知行地を差し押さえることは行わなかったため借主が破綻したこともある。  
しかしながら、この制度は藩財政救済は名目で返済の有無に関わらず幕府が儲かる仕組みから幕府の収入を増やすのが本来の目的だったかもしれない。本当に救済を目指すなら参勤交代など藩財政に大きな負担になる制度を変えるなど他の方法を採るべきだっただろう。 
明和の貨幣改革貨幣統合  
当時の貨幣は江戸は金を中心、上方は銀を中心に流通していた。金と銀、銅の為替相場は幕府が提示する公定相場を両替商は無視して毎日二回相場を決めていた。現代の感覚では円とドル、ユーロが同じ国で日常的に使われているようなものであった。  
特に銀貨は額面は記されず金属の塊と扱われ使う度に品質を調べ重さを量ってから使用する有様であった。経済活動を活発化させるには貨幣を一本化し、相場を固定化する目的で明和の貨幣改革を行った。銀を用いていたのは貿易黒字に転換し、貿易決済という形で輸出していた銀を逆輸入し、国内で余っていたからである。。  
明和五匁銀  
明和二年(1765年)に勘定所(後に勘定奉行)の川井久敬の提案で銀では初めて額面を書いた定量計数貨幣明和五匁銀を作り額面どおり五匁の価値がある銀貨を作った。幕府の公定相場では一両=銀六十匁のため十二枚で一両、三枚で金一分と交換できる計算である。  
しかし、明和五匁銀が定着すれば一両=銀六十匁という幕府の公定相場を認めてしまうことになる。両替商は為替取引で儲けることができない。また、当時の相場は一両が銀六十匁以上するため銀六十匁で一両を両替すれば損になる。  
為替相場が毎日変わるなど複雑な制度があるからこそ専門家が活躍できるだけに両替商にとって死活問題だった。そこで両替商は明和五匁銀に猛反対し五匁銀の額面を無視して他の銀貨同様「金属の塊」扱いをして五匁銀の相場を設けるという抵抗に遭い定着せずに終わった。  
明和南鐐二朱判  
明和九年(1772年)には明和南鐐二朱判を鋳造した。額面は表記されていないが「以南鐐八片換小判一両(南鐐八枚で小判一両と交換)」と鋳銘されていることから二朱(銅貨換算で750文)の価値がある。これまでの貨幣は額面と金属の塊としての価値は一致しているが、明和南鐐二朱判には二朱分の価値が含まれてない。幕府は八枚で小判一枚に交換できることを保証している補助貨幣で、世界初の金本位制の導入といわれている。鋳造するほど額面と品質の差が幕府の利益になるため収入増加と、金貨と銀貨の統合いう一石二鳥を目論んだ。  
明和南鐐二朱判は好景気により不足している金貨の流通を補い、少額貨幣を望む声に応えたともいわれている。幕府は両替商に取り扱いの優遇奨励制度を設け、二朱判五万両を三年間無利子で貸しつけ、納税には本来は許可していなかった銀貨での支払いも南鐐貨二朱判のみ可能にするなど流通促進に努めた。田沼政権では定着しなかったが寛政年間(1789年から1801年)には「一枚で二朱(750文)の価値があり小さくて財布に入れやすいから便利」という庶民の声により定着し両替商は抵抗を諦めた。  
田沼政権の後に成立した松平政権は天明八年(1788年)に流通量過多や両替商の抵抗と反田沼の世論を利用する形で鋳造を一時停止し、焼失した京都御所再建費用として明和南鐐二朱判四万両を回収し丁銀の材料とするなど通用停止の不安を招き価値が暴落した。しかし、流通は継続され寛政二年(1790年)には公金貸付制度の対象拡大で西国方面の貸付金の中に二万両分の明和南鐐二朱判を使い流通範囲を拡大させた。  
文化二年(1805年)には丁銀(金属塊である従来の銀貨)を作るよりも南鐐二朱銀を増鋳すべきと意見が出され、文化六年(1809年)には丁銀をすべて買い上げて南鐐二朱銀に変えると利益が638万両になるという試算がなされている。利益だけで幕府収入の約五年分に相当するが、流通している全ての丁銀を回収するだけでも幕府の約十年分の収入である約千二百万両分の費用がネックとなり実現されなかったのだろう。  
その後は明和南鐐二朱判と同様の補助貨幣という考え方を踏襲し、額面と品質の差額で利益を出し財政難を解消する貨幣が多く作られた。天保年間(1830年から1844年)では年平均約88万両(年貢収入の半分以上に相当)という大きな収入を得た。  
本来の目的である通貨統合は明治政府が慶応四年(1868年)に丁銀が廃止されることで実現した。 
蝦夷地開拓構想  
田沼意次の政策としてはあまり知られていないが、蝦夷地を舞台に北方貿易や蝦夷地入植計画を構想していた。幕府の新しい財源を蝦夷地に求めた。幕府としてはじめて本格的な調査が行われ計画が立てられつつある時期に田沼意次が失脚し計画は幻に終わった。  
当時の蝦夷地の状況  
蝦夷地は松前藩の領地で「米が取れない代償」としてアイヌ人と交易をすることを幕府は認め、藩士は自分の知行地に相当する場所で商人に交易を請け負わせて金を得るという「場所請負人制度」を取っていた。交易は米、酒や木綿針、古着など日用品をアイヌ側からは鮭、鰊、干鮑など海産物を交換していたが木綿針一本で鮭五尾、水を混ぜた酒二升入りの樽で鮭二百本、彼らは一切逆らってはいけないという不平等な交易であった。  
彼らが農作できるようになれば、藩が幕府に認められた交易ができなくなるため農作を一切教えない。また、幕府の役人など本土から来る者へ彼等が藩にとって都合の悪い内容を伝えられることを防ぐため日本語を教えない。  
藩は飛騨屋からの借金の肩代わりに運上金を前払いさせ交易を請け負わせたことで飛騨屋などは運上金回収のため無理な交易をする必要に迫られ不公平な交易を加速させた。当時の日本の貿易黒字を生み出す「俵物三品」もこのような方法で生み出されていた。  
ロシア人は何度も蝦夷地に現れているが、藩は幕府の蝦夷地介入を怖れて黙殺した。明和八年(1771年)にカムチャッカから逃亡したハンガリー人のペニョフスキーが長崎オランダ商館長宛てにロシアの南下を警告する文章を送ったことで幕府はようやくロシア人の南下を知った。このことが幕府や知識人に蝦夷地に興味を持つきっかけを与えた。安永七年(1778年)にロシア人が根室に表れ貿易を求めるが貿易は長崎のみとして藩は断った。ロシアは毛皮などを入手できる土地は侵略するが商売相手になる国は通商を行う姿勢だった。  
幻のロシア貿易構想  
勘定奉行松本秀持は工藤平助の『赤蝦夷風説考』に着想を得て田沼に蝦夷地調査を願い出た。『赤蝦夷風説考』は田沼家用人三浦庄司の依頼でまとめられたものだった。この本の内容はロシアとの貿易がオランダと同規模とするなど情報不足から起こる誤った内容もあるが、貿易相手を増やすという考え方は当時としては画期的なものだった。幕府が公認しなければ松前藩などの藩か民間で抜け荷が行われ、利益を独占されるだけに、幕府の管理下でロシアとの貿易を認めて、幕府が利益を独占することを考えていた。  
松前藩としては幕府の調査は好ましくないが、安永九年に蝦夷地貿易を巡り松前藩が飛騨屋の船を臨検し飛騨屋の手代が自殺した事件を飛騨屋が「松前藩による交易の妨害」と幕府に訴え、翌年幕府が飛騨屋の訴えを認め松前藩の家老と勘定奉行に重追放の上に知行没収、臨検した藩士は死罪という判決が出されている。これ以上、幕府の機嫌を損ねれば「松前藩に不審な動きがあり」と幕府の本格的な調査により悪事が表に出ると改易の可能性が高いだけに協力せざるを得なかったようだ。天明六年から七年(1785年、1786年)にかけて蝦夷地に調査隊を送る。調査隊の中には後に蝦夷地調査で有名になる最上徳内と間宮林蔵が参加していた。  
工藤と田沼は北方でも長崎のような貿易港を定め幕府以外の貿易を禁じ幕府が独占して貿易の統制や利益を得るという構想があった。蝦夷地探索に協力した廻船方御用達の商人・苫屋久兵衛に千島で試しにロシア人と貿易させる計画まであった。  
しかし、調査によると蝦夷地に現われるロシア人はロシア本国ではなくロシアの主要輸出品であるラッコの毛皮を求めシベリアに進出したコサック人とわかった。彼らは極寒の地では食糧が生産できず本国から輸送するより日本や清と貿易し、食糧を確保しようという考えとわかった。オランダに比べてはるかに小規模で彼らの輸出品である毛皮は当時の日本では需要がないものだった。ロシアとの貿易は幻に終わった。  
ちなみに財政難の幕府は約二千五百両の経費捻出に困り、蝦夷地に詳しい堺屋市左衛門の提案で苫屋久兵衛に公金三千両を貸し付けて経費一切を賄わせる代わりに「荷がない船は重心が上になり、不安定」という口実で、苫屋久兵衛に江戸で仕入れた商品を松前藩を介さず直接アイヌ人と交易を行うことを認めている。調査費をこのような方法で調達するのは田沼政権らしいやりかたである。  
蝦夷地の一大食糧生産地化構想  
調査結果で貿易構想は幻に終わり貿易は諦めた一方で、米が取れないはずの蝦夷地でアイヌ人が密かに稲作を行い、豊作になったことがわかった。松前藩は「蝦夷地では農作ができない」という前提でアイヌ人と交易をすることを幕府は認め、藩士は商人に担当する場所での交易を請け負わせて金を得るという「場所請負人制度」を取っていた。この制度を利用し不平等交易で法外な利益をあげていたのだから米が取れることを幕府に知られるわけにいかなかった。  
調査隊は蝦夷地を船から一周し、おおよその蝦夷地の広さを基に580万石の新田開発が可能と見込んでいる。580万石は幕府の天領(旗本・御家人に与えた知行地を除いた直轄地)よりも多く、日本全体が三千万石程度といわれるだけに大きな石高である。江戸時代に何度も飢饉で苦しんでいる現状から考えると580万石も増えると助かるだろう。  
松前藩には領地分の石高の替地を与え蝦夷地を全て幕府の直轄地にし、580万石の収穫に四割の年貢を課し米価が下がらないと仮定すると年232万両になる。幕府の一年分の収入以上になり財政的再建につながる。外国から食糧が輸入できない江戸時代において国内の食糧生産が高まればその分飢饉で苦しむ心配が減る。  
新田開発のために十万人の労働力が必要と見込まれ、アイヌ人に農耕を教えるだけでなく、本土からの入植を検討していた。関東などを支配する非人頭・弾左衛門は全国の非人への支配を許可してくれれば全国の二十三万の非人の中から七万人を入植させ、費用を負担すると願い出ている。同時に入植して百姓になる彼らの身分解放を求めている。勘定奉行の松本は彼らの申し出を認めたが身分解放は町奉行の管轄のようで協議する予定だった。しかし、協議が始まるより先に、田沼が失脚し計画が中止になった。  
入植者十万人のうち七万人が確保できる見込みがあり、幕府の計画では詳細な調査を行い八年から九年後に入植し十年以内に開拓は成功すると見込んでいた。中止は非常に残念である。  
田沼意次の失脚により中止  
天明六年(1786年)に田沼の後ろ盾である将軍家治が亡くなり老中を解任されると蝦夷地に関する計画が打ち切られた。調査隊に報告書は受理されず処罰された。松平定信は田沼の蝦夷地政策を彼の犯罪行為の一つとし蝦夷地政策を田沼政権以前に戻した。彼の考えでは蝦夷地は日本に含まれないそうで、蝦夷地を開発すればロシア人が蝦夷地に魅力を感じ侵略してくる怖れがあるそうだ。  
しかし、松平政権の蝦夷地は調査隊が予見した飛騨屋の横暴が原因で騒動が起こる。蝦夷地に現れたロシア船は漂流した日本人の返還と皇帝から将軍への親書などを携え将軍との面会のため江戸入港を求めた。松平政権の蝦夷政策は完全に失敗した。  
蝦夷地の大規模な開拓は明治政府が明治二年(1869年)に「北海道開拓師」が設け、北海道開拓が行なわれる形で実現し、現在では日本有数の農産物の産地になっている。  
その他の政策  
印旛沼開拓事業  
下総印旛沼の開拓は新田開発も目的の一つだが、利根川が増水すると印旛沼に逆流し沼は氾濫、周辺に多大な被害を与えている関東有数の洪水多発地域で、水害対策も目的の一つだった。沼の水を江戸湾に抜き水路を建設し、下総から江戸湾への新たな水運ルートを目指したものだった。  
享保九年(1724年)に行われた工事は多額の費用により出資者が破産し失敗した。田沼政権では安永九年(1780年)に計画が持ち上がり天明二年(1782年)から工事を開始した。三分の二まで終了したが天明六年(1786年)に起こった未曾有の大洪水で壊滅的打撃を受け失敗した。  
天保十三年(1842年)に幕府普請方格に任命された仕法家の二宮尊徳は老中水野忠邦の命で利根川水系の調査を行い十四万両と二十年の年月を要するという計画案を出したが水野は採用せず幻に終わった。実現したのは戦後の話である。  
貿易赤字の解消と貿易の拡大  
江戸時代の貿易は絹や漢方薬を輸入し代金として銀と銅を輸出するという一辺な貿易で国内の銀が海外に流出していた。  
八代将軍徳川吉宗が輸入品の国産化を命じ家重の代にも継続していた。将軍自らの意思だけに中奥の役人が担当していた。田沼は朝鮮人参の国産化に成功した田村藍水を幕臣として召しだし、朝鮮人参を独占的に扱う人参座を設立した。また、田村の推薦で武蔵国大師村河原村地主・池上幸豊に輸入品である白砂糖の原料甘蔗栽培を命じる。田沼は直接関与しないが、彼らの求めに応じて製法を伝授するため村々を廻ることや栽培地の払い下げの許可が下りるように便宜を図った。他の輸入品も国産化が成功し輸入額を減らした。  
明和元年(1764年)に幕府は中国で「俵物三品」と呼ばれるフカヒレ・昆布・アワビ・炒り子など乾物が中国料理に重宝されていると知ると俵物の生産を奨励する一方で幕府の機関である長崎会所に買い付けを限定し幕府が取引と利潤を独占した。貿易赤字を解消され海外に流出した日本の銀を逆輸入できるようになった。逆輸入した銀は新貨幣の材料と外国産品の国産化のための資金にした。  
若年寄の田沼意知は明和五年(1769年)に亡くなった若年寄松平忠恒が抱いていた貿易船の建造と外国人の誘致の開国構想を引継ぎ、長崎奉行を通じてオランダ商館長チチングにバタビヤの船大工を招きたいと申し入れていた。天明四年(1784年)に彼が殺害され話は終ってしまう。幕府の監視下でオランダ人に日本製の船を使わせる方法で貿易を拡大するという考えなのだろうか。そうなれば外国のつながりができるため国際情勢がより把握でき幕末の混乱を招かなかったかもしれない。  
幕府直営の座の設置  
幕府が専売制を行い利益を上げる目的で幕府直営の座を設立し幕府の許可を得た商人に販売を限定した。銅座、真鍮座、朱座、人参(朝鮮人参のこと、吉宗の政策により国産化が行われ成功していた)があった。専売制は多くの藩で導入され、幕府はその流れに乗ったといえる。もっとも、天領は各地に点在しているため、他藩のように専売制を採り、日用品にまで座を設けるようなことは行わなかったようだ。 
藩主としての田沼意次  
田沼意次が遠州相良藩主であるが老中という職務柄、在府が義務付けられ国許で政治を行うことは出来なかった。相良港に千石船が入港可能にして商品の運搬を便利にし太平洋を行く船の寄港地として整備拡充しようとした。相良と東海道藤枝宿までの街道を整備、城下町の整備と不燃化対策として茅葺きから瓦葺に変える構想を立て瓦関連の業者に融資をして不燃化を促進した。また、藩の特産物を作り出そうと養蚕や櫨の栽培を奨励した。  
もっとも、急速に所領が拡大した田沼家は石高に応じた家来を集めたが用人すら武家の出身ではないなど家来は質の悪い寄せ集め集団であった。そのことで満足な家臣統制が行えず、家来が諸家や商人からの賄賂を受け取ることを取り締まれなかった。 
まとめ  
松平定信は名君として米沢藩主・上杉鷹山と肥後熊本藩主・細川重賢を挙げている。米沢藩は藩主自ら模範となり蚕を飼育し侍女に内職を勧めるなど織物を藩の特産品にする政策を行い、肥後熊本藩は商業振興で財政再建を成功させた。彼は二人の財政再建を高く評価しながらと同じ考え方である田沼政権の改革を否定しているのは矛盾している。  
これだけ批判された田沼政権の政策と考え方の多くは後の政権でも継続し開国までの幕府財政を支えていたことは忘れてはならない。田沼の政策が朱子学の復興に貢献した松平定信により否定されただけで不当に低く評価されていることは納得できない。  
これほどの改革を目指した田沼政権は日本でも稀有な存在であり、改革が成功していれば違った形で幕末を迎えていただろう。  
 
藩政改革

 

江戸時代に成功した藩政改革や財政再建を見ていくことで田沼意次の幕政改革を考える一助になるはずだ。領民と共に繁栄する道を選んだ藩がある一方で領民を搾取の対象と考え重税を課した藩、農業重視した藩があれば商業重視した藩もあり改革の方法も各藩多様である。  
藩が財政破綻寸前まで落ちいった原因を要約すると人員過剰、贅沢化による歳出増加、放漫経営など藩政の問題と参勤交代、江戸藩邸の維持費、諸大名との交際費など制度上強いられる歳出がある。また、幕府の御手伝普請や風水害による被害など予期せぬ出費がある。特に幕府の御手伝普請に指名されると年間歳入を上回る金額を負担させられることもある。  
米価が下がり諸色物価が上がった影響で江戸中期以降は多くの藩が財政難に陥った。新田開発による年貢収入も諸色物価の影響で大きな歳入増加につながらないため年貢以外の新たな歳入の柱を求める必要があった。  
多くの藩が改革に取り組んだが強い推進者が存在しない藩では反対派と推進派の対立が御家騒動にまで発展することもあった。  
藩政改革に取り組んだ藩主は順当に藩主になった者より藩外からの養子か藩主の息または弟が他家へ養子入りできず部屋住みが藩主の養子となり藩主になった者が多い。他家から養子入りすると藩内では「常識化」している藩の慣行を客観的に見られ自分のやり方で政治を行おうと考えたのだろう。部屋住みから藩主に就任した場合は困窮している部屋住み時代の倹約の経験が活かされたのかもしれない。 
農村に関する改革  
藩の大きな歳入の柱は年貢収入。百姓の暮らし向きが成り立たなければ百姓の耕作放棄や没落で農村が荒廃し年貢の未納が多発し藩財政にも影響を与える。農村の暮らしを安定させることが藩政の基本である。財政改革ではまず農政に着手することが多い。  
江戸中期になると貨幣経済が活性化し米ではなく商品作物栽培を行う者や商人に転職や都会に移ることが多くなり農村荒廃を招き農村の商人の在住を禁止し貨幣経済と切り離し百姓を農業に専念させる藩がある。  
一方で特産品販売で収入を得ようとする藩では特産品の原料となる植物を栽培するように推進した藩もあり大きく姿勢が異なる。  
新田開発と百姓の確保  
幕府と藩では年貢収入を増やすため新田開発を行った。幕府か藩が自ら行う場合もあるが民間資本の投入や浪人達が結束し無主の地を開拓することもある。ちなみに新田開発とは自然の土地に水路を引くなどし耕作人が開墾できる状態を整えることである。土佐藩では長宗我部に仕えていた浪人を郷士として採用し自ら開墾させた土地を知行地として与えた。  
新田開発に入植する百姓は既存農村の厄介(親の後を継げない次男三男)だけでは足りず新田を耕作する百姓を確保するのに必死だった。転職組だけでなく税の重さに耐え切れずに他領へ逃亡した者や犯罪者でも罪を許し、百姓が離散した藩では帰郷を促し百姓を確保しようとするなど百姓の確保に必死だった。  
新田入植者に当座の食糧と資金の援助をする藩があった。米沢藩では住居の建築費と材木まで支給した。新田は既存田畑よりも年貢を一定期間無税や軽減する(約束不履行の藩もあったが)優遇措置があった。  
ただ、元々の田畑を捨てて税の安い新田に移る傾向があり既存の田畑の荒廃を招き放棄されたため既存の農地を引き受けた者にも同様の優遇を儲けた藩もある。過剰な開発が山林荒廃を引き起こし大洪水の原因となったこともあり寛文六年(1666年)に過剰な開発を禁止する触れが幕府により出された。  
新田開発で年貢は増加したが諸色物価の高騰で米の実質的な価値は下がり、大きな成果を得られなかった。  
税制改革  
減税を行い農村を安定させた。加賀藩で慶安四年(1651年)の「改作法」で税制改革を行い年貢徴収方法を役人が田圃を見て年貢量決める「検見法」が行われていた。役人が賄賂を取り年貢の軽減を行うなど不正の温床となっていたが一定期間の収穫量の平均値を基に年貢を定める「定免法」を採用した。年貢量は増加したものの役人への供応費と賄賂が不要で実質減税になる。百姓は年貢として納める量の目処が立ち家計が立てやすくなった。藩は安定した年貢収入が得られ財政計画が立てやすく双方が便利な制度であった。  
「定免法」は他大名や旗本領でも採用し幕府が享保七年(1722年)を採用した。凶作や災害の年は「破免検見法」を実施し役人が現地を見て通常の年よりも年貢負担を軽くした。  
加賀藩では給人(知行地を持つ藩士)が直接知行地から年貢を取るのではなく藩が全ての領地から年貢を取り藩が委託する商人が給人に俸禄分を支給した。領主である給人が過当な税を課し農村が荒廃することを防止した。  
多くの藩では検地で実際の石高以上の石高を設定し百姓から不当な年貢を取っていたが会津藩では保科正之の代で廃止し四割の不当な年貢が減った。  
増税  
肥後熊本藩では宝暦六年(1756年)に検地を行い帳簿と田畑の枚数を確認し隠田摘発を行い七百町余りの隠田が見つかった。帳簿に未掲載の隠田は帳簿上存在しないため年貢が課せられていない。検地は隠田を登記することを前提のため実質的な増税で百姓からの反発が多く、費用と期間を要する面倒な仕事でありなかなか実施されない。  
萩藩では宝暦十三年(1763年)に一斉検地を行い新たに得た約四万千六百石の増高を得て財政再建のために撫育方という産業振興局の財源にした。  
幕府が四割程度、他藩が五割か六割の税しか課さない中、松江藩は七割の税を課し検地を行い隠田を摘発し百姓から取れるだけの税を取ることで収入を大幅に増やした。  
薩摩藩では奄美周辺の黒糖販売を強化し民を酷使し収穫量を上げさせ全てを藩の専売制とし価格を吊り上げ二十倍の利益を得ていた。奄美周辺では一揆や逃散が起きるが藩が武力鎮圧した。  
低利貸し  
百姓は担保もなく凶作になると生活に困窮し高利の金貸しに手を出すかことが多く、利子に苦しみ離農する者が多かった。改革に乗り出した藩は低利貸しや無利子の貸し出しを行い百姓の食糧や農具に充てる資金にした。  
加賀藩では代官や豪商、豪農が高利貸しを行い百姓を苦しめていた。特に代官は利子分を年貢から回収する形で中間搾取し藩に納めるべき年貢が足りなる有様であった。慶安四年(1651年)より「改作法」を実施し未納分の年貢と負債を帳消しに食糧や農具を仕入れる資金を藩が貸し農業に専念できる環境を作った。  
庄内藩の再建責任者の豪商本間光丘や小笠原藩宇津家領桜町の再建を任されていた二宮金次郎は自ら資金を提供し百姓相手の低利貸しを行い彼らを助けた。  
貨幣経済から農村を分離する  
江戸中期になると農村にも貨幣経済が広まり商品作物の栽培やよりよい働き口を求めて都市に出る離農が増えたことで農村荒廃を招き年貢収入が落ち込んだ。肥前佐賀藩では百姓の確保を目的に天保五年(1834年)に農商分離政策を行い農村には百姓以外には農具を作る職人以外の住居を禁じ貨幣経済から農村を分離した。  
奥州弘前藩でも農村の荒廃を防ぎ百姓に農業に専念させ年貢収入を上げる目的で商人の農村住居を禁止した。  
肥前佐賀藩では商人による田畑の所有が横行し小作百姓を集めて小作料を徴収した。藩は小作料を廃止し均田制を実施し田畑の売買を禁じ商人が自費で開拓した新田を除き不在地主の田畑を藩が没収し半分以上を藩が小作農や貧農に分け与え商人の田畑の所有を制限した。  
商品作物栽培の奨励  
商品作物栽培を禁止する藩もあるが新たな収入の柱として藩の特産品の原料となる植物の栽培を奨励した。肥後熊本藩では藩の輸出品である蝋燭(ろうそく)の原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料の楮(こうぞ)、蝋、絹糸の生産を奨励し藩が買い取り藩内で原料調達が容易で安価にできるようにした。  
土佐藩では藩の輸出品である茶、漆、桑など商品作物栽培を奨励し現物や売却代金を年貢として納めることを認めるなど商品作物栽培を促進する藩が多かった。 
商業政策  
年貢収入には限りがあることを感じた藩は財政再建のため自給自足以外に特産品を作り出し藩外へ輸出し収入を増やそうと努力した。また、商人の考え方や豪商を藩政改革の責任者に就任させるなど藩政に商人の知恵を取り入れ成功した藩も多い。  
地域産業の振興と領外への輸出推進  
産業を基本に改革を行った藩では国産品の改良や増産に力を注ぎ藩の専売にして利益を上げようと努力した。国産品の原料を藩内の百姓に栽培させ藩が買い取り原料調達を容易にした。  
肥後熊本藩の宝暦の改革の一連として実が蝋燭(ろうそく)の原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料の楮(こうぞ)、蝋、絹糸の生産を奨励し藩が強制的に買い上げ藩営工場で加工や製造し大坂の加島屋を通じて藩外に輸出し大きな収入を得て財政回復に成功した。  
肥前佐賀藩では江戸中期に中国の織物の緞通(だんつう)を模した鍋島緞通と鍋島焼を国産品として他藩に輸出し長崎に近い立地を生かして白蝋を長崎経由でオランダへ、東シナ海を航行する外国船に石炭を売り利益を上げた。  
播州姫路藩では木綿が特産品であったが上方商人を通じて江戸に売りさばく方法では利益が少なかった。そこで藩が設立した国産木綿会所で木綿を出荷し売却する方針を打ち出した。売却から代金が払われるまでの期間が長く商人は高利貸しから金を借りてその間をしのいでいることに着目し荷受所を会所に提示すると代金の八割相当の藩札を渡すことで会所を利用する方が儲けが多くなる仕組みを作った。このことで株仲間の結束が進み藩の専売制に移行し販路を奥州まで広めることに成功した。  
一方で行き過ぎた専売制度により百姓が栽培した商品作物を安値で藩が買い上げ、高い値をつけて領民に売ることで利益を出す方法は藩や特権商人が利益を得るが領民は物価高で苦しみ一揆が起こること事態もあった。萩藩では天保の改革で専売制の規制の撤廃や緩和を行い百姓達も商品作物を栽培し現金収入を得られるようにした。  
他国からの技術者招聘  
土佐藩では陶器の自給自足を目的とし承応二年(1653年)に陶工を招聘し陶器製造の拠点を作り焼物の基礎を築いた。また、尾張の捕鯨名人を招き土佐藩での捕鯨が盛んになった。  
大野藩では領内の様々な分野の生産者に品質向上と増産化のための意見を集め、織物は京都の西陣織、糸繰りは上州や信州から職人を招聘した。  
藩営の商売  
藩営の商売を行い成功した藩もある。萩藩では海の要所下関に下関物産総会所という藩営の商社を設立し下関港を往来する船の荷を倉庫に預かりや販売代行、資金融資を行い多くの船が下関を中継港として利用したことで利益をあげた。  
大野藩は十年来行ってきた改革が順調に進み藩の物産の品質向上と増産に成功していた。大野藩の物産を売る藩直営店「大野屋」を安政二年(1855年)に大坂に開き、安政四年(1857年)には蝦夷地の箱館店を開き約八千両の大型洋船大野丸を建造した。行きは藩の物産を売り、帰りは蝦夷地の品を仕入れて大坂で売り大きな利益を得たこともあり改革を始めた天保十三年(1842年)当初の収入の八十年分の借財を十七年で完済できた。  
仙台藩は年貢取立て後に余った米を他領へ売り渡すことを禁じ藩が安値で買取って江戸で売却し利益を挙げた。仙台藩の財政再建案を提言した大坂両替商枡屋の山片蟠桃(やまがたばんとう)が米を買う資金と運送費を提供し枡屋が販売を独占した。彼は相場を見て米を高値で売却し特に寛政三年(1791年)と翌年は藩が豊作で関東と西国が凶作で仙台米は高値で売却し、藩は二年間で五十万両の利益を得た。  
藩営銅山の改革  
大野藩では天保三年(1832年)から藩営銅山を設け採掘していたが風紀の乱れ、人夫による博打や租銅の横流し、物資を供給する依託商人から役人が賄賂を取り経営状態が芳しくなかった。そこで大野藩では天保十三年(1842年)から行われた改革の中で役人の賄賂と人夫の博打と横流しを厳しく禁止し、人夫を三組に分けて目標採掘量に達した組に褒美金を与え競争させることで採掘量を増加させ藩の収入を増やした。  
密貿易  
薩摩藩が琉球を中継点に中国との貿易が行われていたが幕府が認める範囲を超えて行い利益を挙げた。他藩でも密貿易の噂があり海沿いの藩の幾つか採集を増やすため行われていた。  
御用金  
藩財政が傾くと商人や百姓、藩士に「御用金」と称して税を課し強制的に徴収した。また、商人には藩の仕事を請け負わす見返りに御用金を命じることもある。 
負債の整理と運転資金の調達  
多くの藩では負債を抱え破綻寸前や破綻し大口の債権者に財政を握られる「台所預かり」になった藩があり、田畑を担保にするが払えず幕府の介入がなければ商人が領主になる事態まで発生した。財政再建のためいかにして負債を整理し、改革のための運転資金を調達するかが課題だった。  
債権整理  
改革を行う藩の最大の障害が過大な負債。改革者自ら誠意を持って商人と交渉し債権の一部を献金扱いや長期の年賦返済に変えてもらい負債を減らした。奥州弘前藩は特定期間返済猶予を認めてもらいその間に支払うべき利子分米五万石を担保に米手形を発行し他領から金を集めさらに担保の米を売りさばく奇策を使い二倍の収入を得ている。  
大野藩では収入の八十年分の借財があり藩主藩士は俸禄を停止し面扶持(一人一日四合を家族分支給)に切り替えた不退転の覚悟を取り、領内の商人は藩札である銀札での返済という意外な要請に快く応じた。このことが領民の銀札への信頼が高まり銀札を原資に国産品の改良費用に充てた。改革責任者の内山良林が藩外の商人に誠意を持って返済案を話し合い藩直営店の構想を打ち明けると商売方法について商いの手ほどきを受けた。  
一方で江戸中期からは利息さえ払わず「御断り」と称した負債の踏み倒しが横行し倒産した大名貸しも多い。出雲松江藩は領民からの借財を棒引きにした。  
薩摩藩では改革の責任者である調所広郷が「藩主から古借証文を取り戻すように命じられ商人達に証文の書き直す」と偽り、提出された五百万両の借金を二百五十年の年賦返済に書き換え一方的に通告する奇策を用いて負債を整理した。薩摩藩は実質的な踏み倒しで商人に提訴されるが同時期に幕府に十万両の献金をした効果があったのか藩や調所には何の咎めがなった。  
運転資金調達  
財政再建を目的に改革に取り組む藩は改革案を実行に移す資金調達に苦しんでいた。多くの藩では利息さえ払わず「御断り」と称した負債の踏み倒しが横行し商家からの信用がなくなり当座の入用費の調達すら難しくなった。肥後熊本藩では大坂の加島屋に資金融資を引き受けてもらい国許から直に江戸藩邸に送る物資輸送を大坂の加島屋を通じて送るようにした。  
薩摩藩では百二十万両を踏み倒し五百万両の借金があり信頼は地に落ち誰も融資を断ったが調所広郷は奄美島の黒糖の利益の一部を毎年支払うことを条件に融資を受けた。長州藩では宝暦十三年(1763年)に一斉検地を行い新たに得た約四万千六百石の増高を財政再建のために撫育方という産業振興局の財源にした。  
藩札、切手の発行  
藩札は発行した藩内のみで通用する地域通貨である。藩内の通貨流通量を増加させ、経済を活発にするのが名目だが正貨(幕府発行の貨幣)を藩札と交換し集まった正貨を藩外との取引で使う。紙幣は際限なく発行でき、財政難を解消する安易な方法として大量発行にしたが正貨と兌換する準備金(または銀)が必要でその金を調達するのに苦しみ藩札の信頼が下がり正貨との二重価格が立てられ財政難を加速させた例が多い。  
成功した例は少ないが福井藩が安政六年(1859年)に藩札五万両を発行し藩内の殖産事業に投資し良質な品の生産向上に成功し藩外やオランダ商館へ売り込み正貨を得て兌換を始め藩札を全て回収し五十万両の利益を得た。越前大野藩は銀札を元手に商品作物の栽培や品質向上を行いオランダが生糸を高値で買い取ると知ると増産し利益を上げた。  
播州姫路藩では藩が専売制を目指して設立した国産木綿会所では木綿を出荷し売却し代金が入るまでの期間が長いことに目をつけ荷受所を会所に提示すると代金の八割相当の藩札を渡す利便性から株仲間の結束が進み藩の専売制に移行した。  
仙台藩の財政を再建した両替商枡屋の山片蟠桃は文化五年(1808年)に再び財政再建を任せられ彼は蔵屋敷に保管されている米を担保に枡屋が保障する米札(俗に枡屋札と呼ばれる)を発行し藩内の年貢取立て後に余った米を買い上げた。藩は米を買い取る資金が不要で枡屋は現金が必要がなく売上げは現金で受け取れる。米札は藩札と同じ性格を持ち藩内に限り貨幣代わりに使えた。彼は米札と正貨を使い分けて藩と店に大きな利益をもたらした。特産品への投資など明確な構想を持った藩札や切手は藩を助ける。 
政治改革  
政治分野での改革が財政再建には必須である。多くの藩では泰平の世になると万事贅沢化しそれが当然のようになり藩の歳出を増やす要因になっていた。前例主義で門閥から形成された既存の政治体制では財政難に立ち向かうことは難しく事態に対処できる人材を登用する藩が多く藩内に人物がいなければ民間からでも登用し財政再建の責任者にした。また、財政支出を減らすため倹約や給与の削減が行われた。  
改革者自ら倹約  
財政再建を行うにあたり藩主自らが率先して倹約を実行し藩士への模範とする例が多い小説の『黒白』では信州松代藩主真田伊豆守信弘が禅僧のような質素な生活をし藩主になる前は俳諧の師に渡す金がなく藩士に頼んで金を集めてもらうことや紙と灯りがなく暗闇の中で指で習字の稽古をしている逸話が紹介されている。  
米沢藩主上杉鷹山は藩主が江戸藩邸で使う費用を十四%と大幅に減らし奥女中を五十人から九人に減らした。彼は安永四年(1775)に特産品の増産を目的に漆(うるし)、桑、楮をそれぞれ百万本植えて寺社地や町地、空き地だけでなく藩主や藩士の屋敷にも割り当て、藩主自ら模範となり蚕(かいこ)を飼い奥女中に機を織らせ領民に養蚕や製糸、織物を推奨した。  
宝暦の改革と称され名君と呼ばれた肥後熊本藩主細川重賢は部屋住み時代に何度も質屋に通った困窮生活の経験が藩政改革を成功させた原動力になり藩主就任後も倹約に徹した。  
倹約  
多くの藩は領民にも倹約を強制した。倹約令の内容は藩によって異なるが絹の衣服着用や料理屋の禁止など贅沢の禁止と芝居や寄席など娯楽の禁止し、虚礼の廃止である。過剰な倹約は経済が停滞し領民から娯楽を奪い藩内の活気を奪った。  
体面にこだわらない経費削減  
佐賀藩では参勤交代の供を91人減らし1200両の経費を削減した。家格により御供の数の上限が定められいるが御供の数を減らすは自由なのだろう。経費削減の容易な方法であるが減らすと家格が低く見られ、体面のため減らさない藩が多い。  
出雲松江藩では藩主ですら1両も借りられずに苦労した逸話があるほど困窮し参勤交代の費用を調達できず8年間も江戸に滞在し、幕府要人や諸大名への贈物など江戸の交際費が膨大として削った。参勤交代は制度上、国許に留まることは許されないが国許へ帰らない分には問題ない。  
越前大野藩は藩主がほとんど使わない江戸の中・下屋敷を閉鎖して維持費を削減し屋敷に詰めていた藩士を国許に帰した。  
冷静に考えれば簡単な削減方法だが藩の体面にこだわり不要と感じつつも  
俸禄の減額と相続の規制強化  
多くの藩が容易な経費削減方法として人件費カットを行った。俸禄の二割、三割減ならむしろ少ないほうで俸禄を二割にする藩や遅配が常習化することすらある。  
越前大野藩では藩主土井利忠が天保十三年(1842年)から行った改革の中で三年間に限り俸禄の支給を停止し成人一人につき一日四合を家族の人数分を支給する面扶持を藩主藩士に関係なく実施した。同藩は収入の八十年分に相当する借財があり藩の不退転の覚悟が評価され借財整理に役立った。  
庄内藩では寛保元年(1741年)から二年間俸禄支給をやめ藩士一人一日米六合、禄高百石あたり銭七百五十文(一両=五貫と換算すると七百五十文は百両の0.15%)を支給した。下級藩士の中には生活苦から自殺や出奔があった。  
肥後熊本藩では五代藩主が就任した年の慶安二年(1649年)以後に召抱えられた家臣について家督を無条件で継がせず父の功績と嗣子の文武の成績に応じて決めるように変更した。藩によっては相続時に一律で削減する所もある。  
これだけの仕打ちを受ければ現代なら大問題だが江戸時代中期以降に浪人になれば縁故かよほど秀でたものがなければ再仕官は困難で耐えるしかなかった。  
有能な人材の登用と政治機構の刷新  
多くの藩では世襲の家老が藩政を担っていたが前例主義で適性に欠ける者が多く財政悪化を止めることができなかった。そういう人物に限って高禄を食み財政難の原因になっている。改革を行った藩は従来の政治慣習を破り能力のある者を取り立て改革の責任者に置き彼らに政治的な権限を与えた。  
肥後熊本藩主細川重賢は能力のある堀平太左衛門を藩政改革の責任者とし、越前大野藩では藩主土井利忠が天保十三年(1842年)から行った改革の中で首席家老など藩重役を罷免し藩士から広く意見を求め低禄の内山良林の意見を採用し改革の責任者に登用した。  
藩内に人材がなければ民間から登用した。仙台藩は財政再建案を提言した大坂両替商枡屋山片蟠桃(やまがたばんとう)を起用した。彼は藩財政に商いの要素を注入し既存の体制を利用し藩と店の利益を両立させ仙台藩の財政難を解消し他藩でも彼の指導を仰ぎ成功している。仕法家二宮金次郎は小笠原藩家老服部家の財政再建に成功した。彼は藩の財政再建にもかかわり成功させ、評判を聞いた幕府に登用された。  
無駄な役職を廃止し必要な役職を新設し改革実行者に権力を与え改革を進めた。肥前佐賀藩では仕組所で重職者に藩政の重要な事柄を審議させ、分散していた行政機構を藩政の実務者達の役所である請役所に一本化することで中央集権化と無駄な役所を廃し藩の財政方の蔵方と農村行政を担当する郡方を兼任するなどし藩の役人の三分の一相当の四百二十人を罷免し人件費を削減した。  
ただ、改革が成功する過程で贅沢や賄賂取り込みや行き過ぎた政策に走り失脚した者も存在する。  
また、出雲松江藩では改革に失敗した直後に改革責任者に任命された朝日丹後は改革の最初に人心の一新と改革失敗の責任を取らせる形で藩主を説得し隠居させた。  
予算制度の導入  
江戸時代には予算を組むという考え方がなく収入の少ない年でも収入の多い年と同様に使う傾向があり物価上昇も考慮に入れないこともあり借金を増やす原因になっていた。庄内藩では予算制度導入し平均米収を基に支出を考え、物価が上昇しても予算内に収まるように倹約し借金返済を行った。  
二宮金次郎は藩主の命で領主宇津家の過当な年貢取立てで荒廃した下野国桜町領の再建を命じられ彼は町の百年間の年貢収入から年貢の平均を割り出し、領主宇津家の過当な年貢取立てをやめさせるため千五百俵以上は年貢を取らないように強く要請しこれを守らせた。  
藩校の設置  
優秀な人材を育成し藩政を運営させる目的で幕末になるとほとんどの藩で藩校が作られ文武の教育が行われた。成績優秀者を表彰し家禄の加増など優遇する藩がある一方で肥前佐賀藩では不出来のものには役職に就かせず相続にも不利益を与えた。  
肥後細川藩や大野藩などは身分を問わず人材を求めた。藩によっては蘭学を教え医学館を設置した。姫路藩では改革者の河合道臣が私学を開き次世代の人材育成に努めるなど個人が藩校に似た組織を作ることもある。 
金融・福祉政策  
金融や福祉政策で領民の暮らしを安定させた藩がある。領民や藩士が生活に困り高利貸しに手をつけさらに困窮する中、藩が行う低利貸しは彼らを助けた。  
農村への金融社倉制度  
当時は米を貯蔵する考えは少なく凶作になっても困窮農村を助けてくる組織はなく高利貸しに頼るか田畑を捨てて逃げることが多かった。当時の金利の相場が三割か四割だった。  
会津藩は承応四年(1655年)に中国の隋の制度を模範とした福祉と金融を兼ねた社倉制度が行われた。困窮農村の救済や災害救済、新規百姓への食糧援助が目的である。藩が米を買い上げてそれを元手にした。米を貸す場合と与える二種類があり郡奉行が申請を審査し無利子で貸し出すか有利子で貸し出すかを決めた。  
利子は二割と低めに抑えられている。利子は年貢納入の折に納める。会津藩ではそのような心配はなくなり生産力が向上し藩内の人口が増加した。初年の約七千俵から十年後には約二万三千俵にまで増え多くの農村に社倉が設置された。  
播州姫路藩では文化六年(1809年)に同様の制度が行われた。領内の富豪に元手となる米や麦を無償で提供させた。同藩ではこの制度による米の備蓄により天保の飢饉を餓死者を出さずに乗り切った。  
領民への金融  
播州姫路藩では富豪に資金を提供してもらい代官が領民に百両を限度に無利子で貸し出す制度を設けた。領民は金がなくなると高利貸しに手を出さざるを得なかっただけに藩が後ろ盾のこの制度は領民には心強いものだった。相互互助の金融制度の頼母子講を発展させた御国用積銀を発案し領民の中から加入者を募り毎年百匁を五年間積み立てさせ六年目から十年間にくじに当たった者に利子を支払う制度で積みたてた銀を災害救済など非常時の財源や借財の返済に充てた。  
また、同藩では特産品の木綿の売却代金の支払いが三ヶ月から半年先になり、支払いまでの間に資金不足に陥いり高利貸しに手を出さざるを得ない商人のために木綿切手会所を設置し荷受証を提示した商人に代金の八割に相当する藩札を渡し株仲間の結束を高め姫路木綿の専売制を進める一因になった。  
庄内藩は再建の責任者の豪商で御手廻格の本間光丘が自らの資金で従来代官所で行われた高利の融資をやめさせ五分という低利融資を代官所を通じて行い百姓救済に務めた。彼は藩に年利五分で二万両を融資し領民に七分で貸し、領民が高利貸しから借りていた分を返済させ差額の二割を百姓へ融資する提案するが藩内の勢力争いに負け実現できなかった。  
二宮金次郎は小笠原藩家老服部家の財政再建を任せられ文政三年(1820年)に藩から借りた金を原資に「五常講」という金融制度を始め藩士救済に乗り出した。百人に一人三両百日期限で貸し出し、支払われない場合は連帯責任を負わし一両なら名簿順に未返済者から十人目までに一人七百文を返済させた。世界初の信用組合とも言われる。二宮は百姓に資金を無利子や低利で貸し出した。  
 
江戸時代最大の陰謀家?一橋治済

 

一橋治済は江戸時代最大の陰謀家と言われている。田沼政権崩壊にとどめを刺した形になった一橋の行動が原因だが、『剣客商売』の小説では通説の陰謀家というイメージから一橋対田沼という構図の話を描き、剣客である小兵衛達が幕政に関わる大事件に巻き込まれるという話を加えることで作品に厚みを与えている。 小説の一巻・御老中暗殺では、元一橋家の家来で現在は田沼が口にする食材を吟味する御膳番の飯田平助に一橋家の家来と思われる人物が毒薬を渡し、田沼の毒殺を謀るが失敗に終わる。十巻春の嵐では一橋家の差し金で戸羽平九郎に意次の娘婿である秋山大治郎と名乗らせ、田沼家と松平定信の家来などを殺害され定信の田沼への憎悪を掻き立てることを行なっていた。史実ではどうだったのかを検証してみる。  
一橋治済の成果  
結果論で考えれば実子を将軍家治の養子に出し十一代将軍家斉に就任させ大御所に就任した。家斉の子供五十五人は尾張家、紀州家と御三卿など(清水家へ養子に出すがその子供は紀州家へ養子に出された)へ養子に出され大名の一割を一橋の血筋で固めた。将軍になる夢を果たせなかったが十四代将軍家茂(紀州家より。彼の曾孫)までは一橋治済の血を受け継ぐ。結果論で考えれば「江戸時代最大の陰謀家」である。  
ちなみに十五代将軍徳川慶喜は一橋家からの養子だが、生家の水戸家から一橋家へ養子入りし、その後、徳川宗家へ養子に行っているため一橋家の血筋は引かない。  
彼は将軍こそなれなかったが、将軍実父である大御所として幕政に積極的に人事介入を行い、政権を操り将軍を操る他の者を排除し将軍の権威を高めようとしたらしい。実父として若くして将軍になった家斉を心配した父親という純粋な目的ではなく、彼が将軍の大御所として幕政を動かすためには将軍の権威が高いほど有利であった。もっとも、老中松平定信と対立し彼を辞職に追い込んだこと以外は大御所としての幕政への影響はわからない。  
家基急死による大御所への道  
安永八年(1779年)に家治の嫡子・家基が急死する。後の世では田沼意次の悪評からか田沼による毒殺と考える者がいた。この一件でもっとも損をしたのが田沼である。将軍の信頼が大きな後ろ盾である田沼にとって、家重が家治に「田沼を重く用いるように」と遺言した同じ内容を家治が家基に遺言し、家基の代にも彼と田沼一族が重用されるを望んだ。  
そのため、家基の将軍継承を望んでいたはずである。家基が亡くなれば養子を向かえる必要があり、自分が推す人物以外が養子入りし将軍に就けば代替わりと同時に失脚、推した人物が将軍に就任しようともその人物の父親が大御所として権勢振るい、田沼家との関係が悪化すれば失脚する可能性がある。そのため、家基の将軍位継承が望ましい田沼にとって大きなマイナスである。  
一方、最も得をした人物こそが一橋治済であった。当時に御三卿の当主に男子がいたのは一橋家しかなく家基が急死したことで豊千代が将軍家へ養子に行くことができた。家基の急死により実権のない御三卿から将軍の大御所になることができた。そう考えて実行したと想像も可能である。  
ただ、急死を毒殺という考え方もできるが現代でも若者が病気による急死は決して珍しいことではない。まして、ほとんど城内暮らしの家基が城外という慣れない環境で狩という激しい運動をしたことで体調を崩し急病で亡くなったというのが実情だろう。 
一橋家と田沼家の関係  
田沼意次の弟意誠(おきのぶ)は一橋家老である。ただ、意誠は享保十七年(1732年)に小五郎(後の一橋宗尹)の小姓として仕え、主である宗尹に気に入られ、宝暦九年(1759年)に「一橋付人」として旗本扱いとなり、同年一橋家老になった。  
意誠が一橋家に仕えたのは父意行(おきとも)が吉宗に重用されていたからである。家老まで登りつめた理由は前年に大名になった意次の人事介入ではなく、意誠本人が優れていたからであろう。さらに御三卿の家老は吉宗が紀州から江戸へ連れてきた者が就任することが多く、意次の舅・伊丹直賢も一橋家老を務めている。  
意誠の子意(おきむね)が安永七年(1778年)に一橋家老に就任する。老中意次の意向で無理やり押し付けたといわれていたが、実際は一橋家から頼んだようだ。一橋治済はすでに御三卿当主が叙任される従三位下中納言の官位を授かっている。大半の大名の当主の官位は彼の官位より低く、彼の官位と釣り合いが取れる家は限定され、養子に出される心配はない。しかし、治済の子供は次々と養子に出され、治済の代で終わるのは目に見えていた。田沼家との関係を保ち、田沼意次を筆頭とする政権を握っている紀州党に近づき家を存続させるという思惑があり、意次の甥の意致が意次ら紀州党との繋ぎ役を果たしてくれることを望んだ。  
さらに一橋家は天明の飢饉の影響で財政難に陥り、天明四年(1784年)に田沼意次らに頼み込み幕府から借りていた一万三千両の返済を免除され、毎年一万両を五年間幕府から支給してもらった。知行は十万石と並の大名に比べるとけっして少なくはないがであるが、知行地は各地に分散し治め難いことが財政難の原因と考え、十万石のまとまった領地(甲府を希望していた)を望んでいたようだ。幕府政権を握る紀州党との縁が切れてしまえば幕府からの援助が受けられないという死活問題だけに一橋家を保つためには意次との関係を保つことが不可欠だった。  
また、大奥にいたお富の方(十一代将軍家斉の母)を一橋治済が室に向かえたのもその一環である。彼女の祖父・岩本正房は田沼らと同じ紀州出身で意次の父意行のと同じく吉宗の小姓、彼女の伯父正時は田沼意次と同じ日に家重の小姓に就任しているなど田沼家と親しい関係にある。  
意次らにより安永九年(1780年)に家斉が将軍家治の養子に選ばれた。亡くなった家基以外の男子がない家治の養子入りすることは、家斉が次期将軍の就任することを意味する。恩返しの意味合いで意誠を西の丸番頭格に推薦した。  
田沼家への恩返し  
天明七年(1787年)の江戸市中打ちこわしで御側御用取次を解任された意次の甥・意致は松平定信失脚後の寛政六年(1794)に大番頭、意次の孫の意明(おきあき)が寛政八年(1796年)に大坂城守衛(定番か加番か不明。どちらも譜代の小大名が務める役職)に就任している。同年に意明が若くして亡くならなければ、その後の昇進の可能性も考えられる。  
その後、田沼家の当主が次々と亡くなり田沼家の家督を継いだ意次の四男・意正(おきまさ)は文政二年(1819年)に若年寄に、文政八年(1825年)に側用人まで出世している。治済と将軍家斉は将軍の地位に就けたのは意次のおかげだと感謝し、意次の子孫の起用は恩返しと考えていたようだ。治済は文政十年(1827)没のため、意正が側用人就任時は存命である。彼が本当に意次を恨んでいるなら、この人事は阻止できたはずである。  
田沼意次を政権の座から落とし止めを刺したのは治済であるが、意次個人への恨みはなく、むしろ恩に感じていたようだ。  
譜代門閥層と御三家が中心の反田沼派と田沼派の争いが天明七年(1787年)の江戸市中打ちこわしがきっかけで反田沼派の勝利が確定すると、田沼派の側用人を解任するなど反田沼派の新政権樹立の功労者となることで自身の保身と影響力の拡大を謀りたかっただけである。  
将軍死後直後に反田沼派の御三家から「田沼意次を他家にお預けの上切腹させるべきだ」という処罰案を拒絶したことは案外知られていない。 
政権樹立の布石  
家治からの遺言で新将軍の補佐を任され影響力を持った御三家や松平定信を押す譜代門閥層に協力し、田沼派を一掃し政権交代を起こそうと目論んでいたのは確かなようだ。ただ、新政権樹立に協力しなければ自身も田沼派と見なされ失脚させられるという保身の側面もあったかもしれない。  
さらに急速な政権交代により定信らが政権を握り「第二の田沼意次」となり、家斉を操ることも警戒した。さらに田沼派が逆転勝利し政権交代が失敗に終わる可能性も考え、どちらが勝利してもいいように備えていた。  
御三家と組み新政権樹立を目指す  
天明六年(1786年)に実子・家斉が将軍になるとすぐに動き出した。田沼意次と協力関係にあり勝手掛老中の水野忠友が田沼が独断で行おうとした貸付会所構想に反対し、治済と組み家治の信頼を背景に政治を進めていた田沼を老中の座から降し、御側御用取次の稲葉正明など田沼派の一部の者が解任される。この時点では田沼政権の分裂である。  
筆頭の田沼ら一部の者は失脚したが、水野忠友ら旧政権の残党は健在で、御三家と組み新政権を作ろうと画策した。  
まず、松平定信ではなく奏者番秋元永朝を老中に推挙しようとしていた。彼は井伊大老の養女を室に向かえ、彼女の死後は老中牧野貞長の娘を向かえ、父は老中という家柄で彼を老中に据えるには容易なことと思われた。彼の父は田沼を怖れて老中を辞職しているだけに、政権への不満を持つはずの彼を通じて幕政への影響力を行使しようと目論むが大御所治済の人事介入を嫌い水野忠友ら幕閣にまで拒絶され諦めた。  
定信老中就任運動  
治済は定信を老中にする運動を行う。老中は原則譜代大名に限られ親藩である白河松平家には資格がないこと、松平定信の妹が家治の養女となったことで定信は将軍の近親者になり幕府要職に就けないことを理由に大奥が反対する。この背景には旧政権の残党や田沼自身の大奥への工作もあっただろうが治済の人事介入を嫌ったのが本音だろう。  
翌年の天明七年(1787年)の二月には治済は一橋派の御側御用取次小笠原信善を通じて中に望まない人物のリストを渡し大奥に定信の老中就任を実現させようとするが、翌月にはリストに含まれていた阿部正倫が老中に就任してしまう。運動は頓挫、どさくさに紛れ治済は「将軍が若年で老中や大奥が操っている」とし幕府諮問役就任を望むが大奥の反感を招き実現しなかった。  
江戸市中の打ちこわしと御側御用取次の解任による新政権の樹立  
天明七年(1787年)五月二十日に江戸市中の米価高騰に月番の北町奉行所の対応の不手際が原因で江戸市中の打ちこわしが起こる。幕府内の政治抗争とは直接関係はないが、これを契機に政権への不満が高まった。また、御側御用取次は意次の甥・意致など田沼政権時代からの者が残っていたが、治済派の小笠原以外を解任した。小笠原は御庭番を使って江戸市中の様子を将軍に伝えたが、他の者は報告しなかったことが解任の理由である。こじつけの感があり、小笠原のみが御庭番を用いる立場であったことも不可解である。  
意致は病免、本郷康行は御用取次のみを解任され側衆に降格し、横田準松(のりとし)は解任された。横田は安永二年(1773年)から就任し二代の将軍に仕え、この年の五月一日に加増されたことで九千五百石の大身になり権勢を振る出した。将軍に信頼されているからこそ横田への加増である。しかし、治済は彼が将来「第二の田沼意次」となり将軍の信頼を背景に政権を握ることを怖れての解任だろう。江戸市中の打ちこわしは彼らを解任するいい機会だった。  
治済は将軍の周りにいた定信の老中就任に反対する者を排除し、治済は六月に定信の老中(同時に老中首座)就任を実現させた。八月に田沼意次追放を提案し、十月に意次は失脚し隠居させられ領地は没収と完全に政権復帰の望みを絶った。  
天明七年(1787年)九月には田沼により擁立された大老井伊直幸を、天明八年(1788年)勝手掛老中水野忠友と老中松平康平を解任、旧政権の残党を一掃した。 
新政権のその後  
一橋治済と松平定信の対立  
同年六月に跡取りがなく廃邸になっていた定信の実家田安家へ治済が実子を養子として送り込んだ。老中就任六日前の出来事であり、定信から老中就任協力や田沼派一掃への持参金と推測する人もいる。定信は田安家の復興を治済らに頼んでいたが、一橋家から養子を迎える話は知らなかったようだ。将軍実父の威光で養子を押し付けたと定信は感じ、御三家と共に吉宗の御議定である「養子を迎えてまで御三卿を相続させない」に背くことだとして批難し政権樹立当初から治済への不信感が生まれた。  
田沼派を一掃するため治済は御三家を通じて大名を説得し、幕閣に登用し定信の改革を補佐させた。しかし、治済は政権交代のために定信を利用したに過ぎず、政権交代が起こると対立が起こった。若くして将軍に就任した家斉が実父治済を頼ろうとするが、定信らは治済が大御所としてふるまい政治介入することを嫌っていた。治済と定信は何度も隠居、辞任を表明し将軍に慰留されることで信任を得ることを繰り返し互いを牽制していた。  
定信を追放した理由  
家斉が治済を隠居した将軍のみに許される「大御所」の位を与えると言い出し朝廷でも天皇の父(天皇ではない)に「太上天皇」の尊称を贈りたいという東西で同時期に似たような問題である尊号事件が起こる。定信が太上天皇の位を与えないことで大御所就任を望む治済の問題も片付けようとするが、幕府と朝廷の関係を悪化させ将軍の怒りを買い辞任させられたと説明されている。この事件は家斉の孝心を表す創作話が定信失脚と関連づけられたという説もある。  
似たような話としては治済が一橋家の屋敷が手狭となり拝領地を賜わるが自費で建設しなければならないため、一橋家老を通じて定信らに将軍の世子か大御所が住む二ノ丸が空いているため移りたいと表明し断られた邸問題がある。若い家斉としては父が近くにいれば心強い。家斉親子と定信の心情的対立が当初からあったのだろう。  
寛政三年(1791年)に大奥で不祥事が起こり、多くの者が処罰されたことにより定信に対する大奥の反感が高まった。定信は事件直後に辞表を提出するが、辞任を認めれば大奥への処置は誤りだと将軍が認めることになり据え置きされた。将軍やかつての協力者治済、大奥からも嫌われ反田沼政権の先鋒として定信を担ぎ上げた譜代門閥層も政権を握った後は冷たかった。  
政権を握った六年後の寛政五年(1793年)に定信が追放される形で辞任する。定信は譜代門閥層や治済に田沼政権を崩壊させるだけに利用され、役目が終わると捨てられた。「自分こそが将軍だ」という自意識過剰な面があり、周りとの調和を欠いたのかもしれない。  
さらに重農主義である朱子学に基づく考え方しかできず、改革は現実離れの感が強く、外国船が日本近海に出没しているにも関わらず現実的対処な対処ができなかった。定信は中央政権から退けられ一藩主として生涯を終える。御三家はこれ以降幕政に介入することをやめた。  
その後の治済  
治済は寛政三年(1791年)に41歳の若さで中納言に叙任された。大御所として扱われていることが理由とされていたが、邸問題で城内に住まわせないことへの代償という見方もある。定信失脚後は松平信明など「寛政の遺老」と呼ばれる定信の政治の仲間に引き継がれた。治済は大御所として扱われ御三卿の当主では従三位権中納言が最高位であるのに対して治済は従一位准大臣、死後は太政大臣まで叙任された。  
ただ、大御所として具体的に何をしたのかはわからない。純粋な意味で大御所として我が子の後ろ盾となるため奔走したのかもしれない。 
小説の頃の関係は?  
最後に史実を踏まえて小説で描かれている事件の頃の関係を考えてみる。明確な証拠はないが後に江戸時代最大の陰謀家と評される治済が意次を貶めようと暗躍したと考える人も多い。仮に行われてても公には出来ず、証拠は残らないという点を踏まえて小説の題材になっている。  
剣客商売の「御老中暗殺」の頃(安永七年1778年)の関係  
田沼意次と一橋治済の関係はその年に一橋家老に元一橋家老田沼意誠(意次の弟)の子意致を向えて関係は良好に見えた。父宗尹が幼少から仕えていた意誠を信頼し家老にまで取り立てその子意致が家老になるのは御三卿家老の任命権がある老中の意次の一橋家への過剰な人事介入ではなく一橋家が田沼家や紀州党(吉宗に従ってきた家臣やその子供)との繋がりを切らないように頼んだそうだ。  
安永二年(1773年)には大奥にいたお富の方を向かえて関係を強化している。お富の方の実家は紀州党の岩本家で田沼家とは親しい家である。治済の兄弟が次々と養子に出され田沼らにより田安家が廃邸になった翌年だけに治済の子も全員養子に出され一橋家が取り潰されると危機感を感じつつも幕府からの財政援助に頼り幕府の内政干渉を受けること現状に憤りを感じ暗殺という極端な手段を選択したとも解釈できる。  
春の嵐(天明元年1781年年末)の頃の関係は?  
治済の子豊千代(家斉)が将軍家の養子に行き我が子が将軍になることは決まっていた。治済としては一橋家は新将軍の実家となり御家は安泰でこの時点ではわざわざ田沼意次と対決する必要はない。ただ、このままでは家斉の代に老中田沼意知(意次の長男。この時点では健在)、水野忠徳(意次の四男。水野家に養子入、意次失脚後に養子は解消される)、側用人田沼意致(意次の甥)を始めとする田沼一族と縁戚が表と奥の要職を占めるのは確実である。  
田沼政権が継続し将軍を操ると治済が「大御所」として権威を振ることはできないため田沼政権に打撃を与えようと目論み反田沼勢力である譜代門閥層の代表松平定信をけしかけることもありえた。定信は自著の中で「殿中で田沼を刺し殺すために懐刀をこしらえた」と告白しているほど田沼を恨み激高しやすく古典主義者の彼を利用して一騒動を起こさせようとしたのだろう。  
ただ、この時点では政権に大打撃を与えた意知殺害事件や天明の飢饉、浅間山の噴火は起っておらず田沼意次は完全に政権を掌握し倒れる気配はなかった。  
 
田沼政権が倒れた理由

 

田沼政権の特徴を簡単にまとめると吉宗が紀州から連れてきた家来を親に持つ紀州党など能力本位で登用された下級武士による重商主義の改革だった。紀州党の出世頭が田沼意次だった。重商主義や蝦夷地開発など江戸時代では異色の政策を展開したことが政権の特徴である。田沼政権が倒れた理由とその影響を考えてみる。  
次々と起こる災害が政権への不満につながる  
田沼政権にはなぜか次々と人災や天災が起こった。主なものでも明和九年(1772年)の江戸の三大大火と言われる「目黒行人坂の大火」、天明二年(1782年)と三年(1783年)には関東と江戸で大地震、同年浅間山大噴火と火山灰が原因で東北地方を中心に冷害が発生し天明の飢饉が発生する。政権が財政改革に尽力したにも関わらず、予期せぬ歳出により幕府余剰金は減ることになる。  
また、火山灰が川底に堆積したことが原因で天明六年(1786年)の未曾有の大洪水が起こってしまう。この影響で田沼政権の政策の一つである印旛沼干拓は失敗してしまう。  
天災が起こるのは政権が原因ではない。しかし、民衆は捌け口のない不満を政権にぶつけ、反田沼勢力譜代門閥層は追い風にし、勢いを高めた。この時期の北半球は小氷河期と言われた時期で政権の責任ではない部分が多い。  
天明の飢饉に関してはこちらのページでも触れているが江戸時代に天候不順は何度も起こっているにもかかわらず過去の大飢饉の教訓を活かされていない。藩が飢饉に備え、非常用の米を備蓄するなど適切な対策を行わなかった人災の部分も大きい。  
そもそも、江戸時代には幕府が食糧に余裕がある藩に飢饉で苦しむ藩へ食糧援助を命じるという考えがなかったことも被害拡大を食い止められなかった。  
伝統的武士観と商業政策  
伝統的な武士観では商業を卑しいもので、武士が関わるべきではないと考えられた。税は年貢が柱と考えていた。幕府成立当時は貨幣の流通量が少なく、偽造貨幣が蔓延し貨幣への信頼が低く米穀を貨幣代わりに使用していた。貨幣制度が未確立で、貨幣の流通量が足りず、金銭で税を徴収するには無理な話だった。  
それまでの幕府は商業を抑制することで物価統制を行ってきた。田沼政権は商業を振興させ、そこから税を取ることや公金貸付など金融業に幕府が参入するなど伝統的武士観から外れていた。田沼政権では取れる所から税を取ろうとして批判を浴びたのは確かである。  
ただ、この時代の多くの藩が年貢だけに頼る財政難に陥り、商業振興など新たな収入源を確保に奔走していた。幕府の政策は時代の流れに即したものだった。  
ちなみに田沼政権を「商人と結託した」と批判した松平定信が政権を握ると天明の飢饉の影響もあり、発足直後の天明八年(1788年)に百万両の赤字が発生した。公金貸付制度の拡大と勘定御用達商人を任命して彼らに政策に必要な費用を拠出させるなど田沼政権よりも積極的に商人の力を利用していた。  
古参者の譜代門閥層が出世した新参者へ反発  
譜代門閥層のほとんどが戦国時代の先祖の武功で現在の地位や家格を与えられている。当主は無能でも先祖の武功により家格に応じた役職に就任しているが格式と前例を好み時勢の変化に適応できない無能な者が多く、出世や加増の機会には恵まれない。生涯無役か出世できずに終える者も珍しくなかった。  
一方、天領を統治する勘定所は格式や年功ではなく能力主義である。事務能力に必須の読み書き算盤が得意な者でなければ、天領を統治することはできず、有能な者が出世するのは当然である。幕府は勘定所の有能な役人がいるからこそ成り立っている。  
田沼政権では勘定所出身者が中心の能力主義の人事が行われた。低禄から勘定奉行に出世した石谷清昌、川井久敬、松本秀持を代表するような低禄で有能な旗本、御家人を登用し要職に置いた政権であった。彼らは自身の能力で競争に勝ち抜き出世をした。しかし、彼らの出世を妬み譜代門閥層は「賄賂を贈り出世した」と吹聴した。  
浪人だった父を持つ意次が六百石から五万七千石に加増され老中に出世し、政権を握ったことは異例中の異例のことである。戦国時代の武功により家禄を得ている譜代門閥層にとって武功が全くない新参者が政権を握ること自体が反発の対象になった。吉宗の孫である松平定信を担ぎ出して田沼政権を倒した。  
困窮する武家への配慮不足  
重商主義の田沼政権により経済が活性化され武士以外の身分の者の暮らし向きがよくなり贅沢ができるようになった反面、米価の下落と諸色物価が高騰し実質的に俸禄は減少の一途をたどり武士の暮らしはますます苦しくなっていった。  
結局、江戸時代のどの政権でも行わなかったが田沼政権でも困窮する武士を救済する政策を行わないため彼らの不満を招いた。  
家基死去  
安永八年(1779年)に将軍嫡子家基が十七歳の若さで鷹狩直後に病を得て亡くなった。後に田沼の評価が下がると世の人は意次の犯行と考えた。  
若者の突然死は現代でもあることで当時としては決して珍しくない。特に鷹狩という普段行わない激しい運動をしたことで体力と抵抗力が低下したことで何かの病気に感染し、死につながっただろう。  
将軍の信頼が唯一の後ろ盾である田沼にとって順調な将軍位継承が望ましい。家重が家治に「田沼を重用するよう」と遺言したように家治も家基に同じような遺言を残すことが考えられた。  
家基の死で家斉が養子入りし将軍就任と同時に失脚した田沼にとっては大きな打撃だった。家基が亡くなって最も損をしたのは田沼である。  
親類縁者で政権を固めることへの不満  
成り上がり者の田沼は将軍の信頼以外強力な支持基盤がなかった。家治の側室お知保の方と親しい千賀道有(千賀と意次は親しく彼のとりなしで御典医に出世した)の養女を通じてお知保の方や大奥の奥女中たちに贈物を届け大奥を味方につけた。  
一方で親類縁者で政権の基盤を固めていった。長男・意知は大名嫡子では異例の若年寄に就任させ、甥・意致は家斉付の御側御用取次、失脚する天明六年(1786年)時点での老中は西ノ丸老中の鳥居忠意を除けば全て田沼の親類で固められ、大老・井伊直幸は意次の四男の養子先である水野家の娘の嫁ぎ先である。  
若年寄・太田資愛は孫娘が田沼の孫との婚約が決まり、側用人・稲葉正明の嫡子正武の妻は田沼の養女でその後離婚するが田沼の養女の嫁ぎ先である大岡忠善の弟の養子先加納家から室を迎え一応親類に含まれる。  
これだけ見ると親類縁者で政権を固めていると批判されても仕方がない。いつ亡くなってもおかしくない年齢になった彼は改革の道筋を示し次代にも継続されるためには限られた時間を有効に使うためにも周りから反発を買う強引なやり方を選択せざるを得なかった。  
ただ、若年寄の太田資愛と若年寄・安藤信友は寛政五年(1793年)に老中に就任し松平定信が政権を去った後も改革を引き継いだ老中・本多忠籌(ただかず)や松平信明らの補佐を務めている。縁故だけでなく能力主義の人事が行われている証拠であろう。  
田沼意知殺害事件  
天明四年(1784年)に田沼の長男若年寄意知が城内で新番士佐野善左衛門政言に刺され亡くなった。意知死後、一気に政権への不満が沸き起こり反田沼勢力の譜代門閥層の声が高くなり意次の権勢は衰え失脚するきっかけになった。民衆は事件後に高騰していた米価が偶然にも下がり佐野を「世直し大明神」と称えた。  
この事件には真の黒幕がいると当時から言われ譜代門閥層が佐野を操り起こさせた可能性も考えられる。単独犯と仮定しても事件を反田沼の世論を作り出すために譜代門閥層が利用したともいえる。この事件に関してはこのページで詳しく触れている  
国税と貸付会所構想  
天明六年(1786年)の貸付会所計画が政権を分裂させた。日本国中が利用する河川や街道の大規模な普請を特定の藩に課す御手伝普請という不平等な制度を改めて平等に税を課し、税の一部を貸付会所の資金として幕府が藩の知行地を担保に貸すことを構想していた。  
多くの藩は借金踏み倒しの横行で信頼を落とし、商人から新たな借金ができず、天明の飢饉の折も現金を得るため米価高の江戸などに米を売らざるを得ないほど財政が悪化していたほどだった。  
課税額は高百石で二両の割合で五年分割とし百姓一世帯あたりで銀2.5匁とし町民には間口一間あたり銀三匁を想定し寺社領も対象に加えた。  
藩から見れば国税は幕府から保障された徴税権の侵害で藩が責任を持って幕府に納めるため徴収漏れがあると藩の自己負担になる。重税を課し領民の不満が高まる中でこれ以上の国税を課すのは難しいため反対した。  
また、度重なる借金踏み倒しで四苦八苦している大名救済を名目としている貸付会所は担保に領地を取ることから幕府が「担保に入れた藩の領地を取ることを目的」と誤解を招き政権への不満がさらに高まった。  
将軍家治の死と毒殺疑惑  
天明六年(1786年)に家治が亡くなる。漢方医では病状が回復しない将軍を思い田沼が蘭方医を推薦し診察させた直後に家治の容態が悪化し「田沼の命で医者が毒を盛った」という噂が流れ政権への不満が高まっていた反対派の勢いが強まった。  
家治の死でもっとも打撃を受けたのは田沼である。彼を絶対的にして唯一の後ろ盾としていた田沼が毒を盛って殺害して何の得にもならない。その直後に田沼は病気を理由に解任された。家治の治世は老中が致命的な失政しても誰も解任されなかった。  
大名の視点の欠如  
田沼政権は八代将軍の吉宗が将軍就任時に紀州から江戸から連れてきた者の子孫が中心である。新参者ゆえに慣習に捉われず斬新な改革を行えた。  
しかし、財政難など大半の大名と旗本が陥っている問題は把握していただろうが実際に経験したものは政権内に少ない。そのため、彼らへの配慮が欠けていた。田沼政権には大名の視点が欠けていた。  
そのため、田沼政権の改革は幕府の収入を増やすということが目的で諸大名へは痛みだけを与えるものだった。例えば、幕府が財政難という理由で田沼は大名と旗本へ災害救済などを目的に無利息で貸し出さす拝借金を明和八年(1771年)から五カ年制限したことで「幕府がいざという時に諸大名と旗本を助けてくれない」という不信感を招いた。  
例えば、大名救済のために金融制度を考案したのもあくまで幕府の視点である。大名としては制度上、重い負担を強いられる参勤交代などの負担を減らす政策の方が救済につながっただろう。 
失脚の影響  
失脚すると政権交代が起り処分が行われた。松平定信は田沼意次を恨み通常の処分よりもはるかに厳しい処分を課し田沼意次の政策に加担した者を徹底的に処罰した。  
田沼意次への処分  
失政や中央政権で失脚した者が隠居させられるのはよくある処分で田沼も隠居させられた。さらに永蟄居(生涯屋敷に幽閉)が適用されたのは異例で安政の大獄で一橋慶喜ら政治犯に適用されたことから松平定信から政治犯扱いされている。もっとも、将軍死後直後には御三家は他家に預けた上で切腹させようという厳しい提案があったが一橋治済の反対により間逃れた。  
『その時歴史が動いた22巻』で紹介された『見聞雑録』(2000年に発見された田安家関連文書中にある)によると幕府(すでに松平定信は老中)が病床の田沼を監視し逐一病状を報告させ医師の往診をわざと控えさせ死期を早めたとある。真偽は不明だが田沼憎しで遠州相模城を壊した松平定信だけにありえない話とは言い切れない。  
「田沼のせいで将軍になりそこなえた」と逆恨みし殿中で彼を刺し殺すための短刀まで準備していたと将軍への意見書に書いたとされる松平定信だけに私憤で処分を行ったとも考えられる。  
田沼家への処分  
田沼家へは遠州相良など領地没収の上、陸奥下村藩一万石に転封された。下村藩は東北にあり冷害の影響を受けている。大身旗本の方より一万石の大名の方が収入が多いが参勤交代があり経済的に苦しいことを承知の上だろう。  
田沼家を継いだ田沼意明(意次の長男意知の子供)は国許へ帰ることを許されず江戸で暮らした。将軍への拝謁と一般大名が叙任される従五位下の官位が与えられるのは松平定信が失脚する寛政五年(1793年)まで待たなければならなかった。天明八年(1788)に下村藩に川々普請六万両の上納を命じているが普請金を命じる権限は老中にあり恣意的な措置に間違いない。  
田沼意次の旧領遠州相良の城の廃城  
松平定信は没収した遠州相良藩の城を廃城にし壊させているさせている。城を建てたのは田沼意次の代の話だが藩の領民の税で作った「公」の城をわざわざ壊すのは理解できない。  
大名を相良藩に転封させ城を残ることはできたはずである。意次憎しの一念で彼が建てた城まで潰さなければ気がすまなかったのだろう。さらに意次の三女の嫁ぎ先である遠江横須賀藩に城の破壊を命ずる。表向きは地理的に近いという理由だろうが身内に壊させるという嫌がらせである。ここまで来ると狂気に近いものを感じる。  
もっとも、城が廃城になり、他の大名が転封せず天領であったことが幸いして文政六年(1823年)に田沼意正が下村藩から旧領遠州相良に転封を許された。  
田沼派の解任  
意次が失脚する直前には大老は井伊直幸、老中首座松平康福、勝手掛老中水野忠友、老中が田沼意次、牧野貞長、西の丸老中が鳥居忠意である。  
井伊は天明七年(1787年)に病免、八年(1788年)には松平康福と水野が解任された。鳥居は新将軍に従い本丸の老中になり、牧野は定信と共に勝手掛老中を兼ねるが田沼政権と新政権のつなぎ役として扱われたのか政権が定信一派に固められた寛政二年(1790年)に辞職している。結局、田沼派の老中は解任された。  
側用人や御側御用取次もほとんどが解任されたが松平定信が就任する以前の話で一橋治済によるもので彼らが将軍の信任を得て第二の田沼意次を生まないための予防策である。  
将軍死後直後に田沼派の稲葉正明が解任され田沼意致ら家斉に従い御側御用取次に就任した者達は天明七年(1787年)の江戸市中打ちこわしで定信擁立派の小笠原信善を残し御側御用取次ぎの職から外された。  
田沼政権の官僚を処罰  
松平定信が老中就任後の天明七年(1787年)九月に不正役人五十名ほど処罰した。十二月に越後買米事件に関連して田沼政権の官僚の大量処罰が行われる。  
事件は飢饉で越後から米穀を購入を命じられた役人が不正を行い、不正を犯した役人を推薦した勘定組頭土山宗次朗(田沼の蝦夷地政策を後押し)が死罪、田沼政権では勘定奉行だった松本秀行、赤井忠晶ら官僚や不正商人ら数十人が処罰された。  
田沼失脚後に閉職に転任した二人は領地の半分を没収し小普請入り(本来は要職である勘定奉行を務めたことから小普請より格上の寄合に属する)の上、逼塞(自由を奪う刑罰。日中の外出を禁じられる)まで処せられた。  
また、蝦夷地政策は田沼失脚後に計画が廃止され調査隊は報告書を提出するも受理されず召し放たれ、印旛沼の工事推進責任者の勘定組頭達は罷免され現地監督の代官宮村孫左衛門は「公金を預けておいた市中の者が行方不明」という理由で遠島の刑に処せられた。こじつけに近い理由で意次に協力した人物は徹底に処罰された。 
その後の影響  
松平定信が朱子学を官学とし、朱子学を学んでいない者を幕府の役人には登用しないという異学の禁は朱子学の観点のみで政治を考え現実に適応できなくなった。  
田沼時代のように低禄から出世した者が政権を担うことはなくなり時勢に対処できない譜代門閥層は外国への対応を誤り幕末の混乱を招き崩壊した。  
市中への影響  
田沼時代には風紀規制は緩く日本古来の文化を見直す国学や西洋の学問である蘭学が盛んになり、狂歌などの新しい文化が生まれた。寛政元年(1789年)に倹約を強いる令を出し贅沢を禁じた。寛政二年(1790年)に物価引下令が出されるが中小の商人の反対で失敗した。好景気だった江戸の町は不景気になった。  
同年には出版統制が行われ本を新しく出版するには許可が必要となり現実の出来事を過去の時代や人物に置き換えての政治批評や時事問題の論評などを禁じるなど禁令が次々と出され自由な気風から規制尽くめで暮らしにくい世の中になった。  
 
老中の役割

 

ここでは田沼意次を理解する上で欠かせない老中について考えてみる。老中は表の役職の最高位で幕政を担う。通常は四人。官位は従四位下侍従と、御三家や国持大名どころか支配下にある高家よりも官位は低い。  
老中という名称  
農村の長老達による合議制を幕府が導入したことからこのような名称が使われた。江戸中期以前は「御年寄衆」と呼ばれた。「老中」と呼ばれだした時代でも旗本らは昔のまま使った。古参の老中が筆頭老中として他の老中をまとめた。  
「老中」という役職名だが、就任者の年齢は関係なく年少者でも老中に選ばれることがある。奉書に加判することから「加判の列」とも呼ばれる。宿老とも呼ばれる。  
大老  
常設の職ではなく酒井、井伊、堀田、土井の四家など十万石を超える譜代大名が老中に就任すると大老に就任する。老中より格は上で将軍といえども大老の決裁を動かせない。  
老中の役割  
幕政の実質責任者。老中が評議で決め、形式的に将軍が認可するため、実質的に老中の決定が幕府の決定になる。朝廷関係や外交、知行割や大規模な普請、大名からの諸届や願い事への対応を行う。手伝い普請をさせる大名を選ぶのも老中の役目。毎月一名が月番として願い事や諸届の窓口となり対応する。重要な事柄は老中全員で審議し決める合議制を採る。  
司法にも関わる。老中支配下にある町奉行所などが独自の権限で判決が出せる刑の範囲を越える判決を出したい場合、老中に仕置伺を出し、老中は判決の是非を評定所で審議させ、協議の結果を基に老中が判決を決めた。  
任命後は老中格という見習い期間がある。八代将軍の治世より財政を専門に担当する勝手掛老中が設置され、筆頭老中が兼任していたが十代将軍家治の治世より適任者を選ぶようになった。  
勤務時間  
年中無休。老中としての勤務時間は午前十時から午後二時まで。藩邸に戻ると藩主としての役割がある。  
田沼意次は側用人を兼任していた時期もあり、多忙であった。  
老中になる資格  
譜代大名に限られる。外様からは唯一信州松代藩の真田幸貫が就任した。彼の実父が八代将軍吉宗の孫で老中を務めた松平定信のため幸貫は将軍吉宗の曾孫である。ただ、他の外様大名は名君と呼ばれた大名でも幕政に関わることはできなかった。  
また、九州の譜代大名は長崎を防衛する役目があり、在府が義務付けられている老中に就任することはできなかった。  
老中の報酬と付届け・賄賂  
三万石以下の大名が老中に就任すると三万石に加増され、老中としての最低限の格式を保てるように配慮はしてくれる。  
大政奉還が行われた慶応三年(1867年)に老中の役料が年三万両と定められるまで公式な報酬は一銭もない。役料は他の役職では以前からあるもので、就任中の出費を補う性格がある。役料が必ずしも必要経費を賄える保証もなく三万両という額が適切であるかはわからない。また、幕末は江戸時代全体を通じて物価は高いため、江戸時代全体の老中経費の参考にはならないだろう。  
それまでは老中就任中の経費は自己負担である。経済的に保障されている現代の政治家や官僚と同じ感覚で考えると大きな誤解をする。  
『江戸の組織人』(山本博文新潮文庫)では老中の経費に関して松平定信の家臣水野為長が書いた『よしの冊子』の約七十日間の老中就任による臨時出費の記述を引用し、それを基に松平の老中就任による出費増加分が年間約一万二千両としている。  
老中就任中の出費は就任者の藩の石高の多寡とは比例しないと考えられる。田沼意次は老中就任により老中就任者の最低ラインの三万石しかなく、田沼の領地の税率が四割ならば松平が要したとされる老中就任による経費と同額の年間一万二千両の収入しかない。経費が支給されないため、付届けと賄賂を歳費の代わりに受け取らなければ藩の財政が破綻してしまう。経費を藩で賄うために税を上げれば領民が迷惑する。  
松平は唯一人賄賂を受け取っていないと公言している老中である。彼が藩主の白河藩は11万石と老中の中では異例の石高で、賄賂なしでも財政的な余裕があるのだろう。ちなみに松平は田沼意次に賄賂を贈り、殿中席を将軍から政治に関して意見を求められることがある溜之間詰めに変えてもらっている。  
賄賂が横行する要因に寛保二年(1742年)から「御手伝普請」が復活したこともある。幕府が藩に税を課さない代償として幕府が行う公共工事を請け負わせる。全ての藩に必要な金額を石高に応じて平等負担させるのではなく、老中が工事を担当する藩を指名した。御手伝普請に指名され数万から数十万両の出費を強いられるより、老中達に賄賂を贈ることで、指名を行う老中らの心証を良くし、指名を間逃れる方が安上がりである。  
田沼意次は作為的に決められ不平等なこの制度より、国税を徴収し平等に負担させようと考えていた。国税で普請を行うようにすれば老中への賄賂が減り、老中にとって減収になる。賄賂を好む人物ならこのようなことは考えない。  
付届けはお世話になった人への感謝の意を金品で示すもの。西洋のチップと同じような感覚である。付届けは武家社会の慣習であり、寛政の改革で賄賂を禁じると付届けまでやめた者が続出したため、寛政四年(1792年)には付届けはやめないように触れを出していることから義務に近い。  
老中への陳情  
幕政を動かす老中にはなかなか会う機会がないと思いがちだが、老中と面会できる御対客日や御逢日という日が公式に設けられていた。朝六時から登城する時間までに老中宅へ大名と旗本、御用商人、職人など誰でも直接陳情や挨拶に出向くことが許されていた。御対客日は月二回、御逢日は月五回あり、御逢日の方が気軽な感じである。  
当日は田沼家門前に早朝から行列ができたそうだ。  
田沼意次は遺言で相手の身分の上下に関わらず心を配るように言い残している。他の老中と違い身分が低いことを理由に門前払いにされる心配がなく、権力が強い田沼へ頼みに行くのは当然だろう。  
 
江戸時代の税

 

江戸時代の税は百姓が課せられる税の年貢はよく知られている。それ以外の税はほとんど知られていない。小兵衛や大治郎など都市部で暮らす住民の税など江戸時代の税について考えてみる。  
幕府が全国的に課した税  
戦国時代から江戸時代初期までの日本は世界有数の金銀銅の産出国であった。江戸時代初期の幕府は放漫経営であったが、鉱山がもたらす収入が膨大で財政黒字が続いていた。幕府成立当初は幕府が藩から税を課す必要性が存在しなかった。幕府は定期的に税を課すことはなく、例外的に一度だけ実施した。  
江戸初期に鉱山産出量のピークが過ぎ、鉱山からの収入が減った江戸中期以降は財政が苦しくなった。田沼意次は国税導入を検討していたが実現できずに終わった。  
江戸初期までは、各藩が合戦で軍事力を提供する軍役の代わりに幕府の公共事業を「自発的」に藩が手伝うことがあった。御手伝普請が行われるまでは全国の人々が利用する主要な街道河川の整備普請など公共工事費を幕府が負担していた。  
幕末に入ると外交や軍事など幕府は事実上の中央政府として諸外国から扱われ日本全国に関わる費用まで幕府が負担し財政を苦しめた。幕末は大半の藩が財政破綻寸前で幕府の権威も弱まり藩に新たな負担を求めることはできなかった。  
宝永の国役金  
宝永四年(1707年)に起こった富士山大噴火で大被害を受けた小笠原藩救済を目的とするもの。幕府が特定の藩を救済する目的で税を徴収したのはこの時のみである。  
小笠原藩の独力では復興が難しいと判断した幕府は降灰除去を名目としてた宝永の国役金令を翌年に発令し、高百石につき二石(税率2%)の税を天領旗本領大名領に関係なく、日本国中の百姓に課した。  
ただし、実際に目的に使ったのは二割程度で、残りは幕府財政に組み込まれた。  
上米制  
全ての藩を対象に税を徴収したのは享保の改革で行った上米制のみである。税ではなく、幕府財政再建のための臨時的な措置だった。  
享保七年(1722年)から享保十五年(1730年)に実施され一万石あたり百石(税率1%)を課す代わりに参勤交代で在府する期間を半減させたことで藩の負担を和らげた。幕府は年間約18万7千石の収入を得た。  
御手伝普請や幕府諸儀礼・儀式の費用負担  
江戸時代初期は藩は合戦で兵力を提供する軍役の代わりとして幕府の公共事業を手伝った。  
寛保二年(1742年)から御手伝普請を復活させ工事費用を負担させた。税の一種とも考えられるが、全ての藩に石高に応じた費用を平等に負担させるのではなく、普請を担当する藩が工事負担を負担する。  
担当する藩は老中が任意で選ぶという平等性に欠けるものだった。藩は万両単位の負担より、老中ら幕府要職者に賄賂を贈り、彼らの心証をよくする方が安上がりという計算で老中らに賄賂を贈った。この制度は老中への賄賂の蔓延を招いた。  
忠臣蔵で浅野内匠頭が松の廊下で人情に及んだことで有名な勅使供応など幕府の行事や儀式は幕府ではなく担当する大名が費用を負担していた。  
赤穂藩は名産の塩の収入もあり、裕福という理由で指名された。藩が幕府が担うべき費用を負担するという点では、税に等しい性格を持つ。こちらも指名制である。 
旗本・御家人への税  
小普請金  
無役の旗本や御家人は小普請、寄合(三千石以上もしくは高位の役職を退職)に属する。彼らは御役に就かずに家禄を支給される代償として小普請金を幕府に納める。  
幕府は百俵の者は一両二分(税率1.5%)、千俵の者は二十両(税率2%)など規定が定められた。七十歳の老齢で役職を退職した者は免除された。
江戸御府内の町民税  
農民が高い税を支払うのに対し、小兵衛のように都市部の住民の税は驚くほど安かった。所得税、贈与税や相続税に該当する税はなかった。  
百姓を除けば、現代に比べてはるかに税負担は軽かった。収入を把握するのが百姓などと比べて困難というのも理由だろう。  
公役(くえき)  
幕府のために働く人足を出させるという公役(くえき)を課していた。後に銀納化された。二十坪を一小間という課税単位とし、地域によって格差をつけた。江戸の中心部(日本橋、神田など)は五小間、中の所(浅草近辺、両国、芝など)は七小間、郊外(本所、深川など)は十小間の割合で銀三十匁を納める。土地がある地域のランクと広さで税額が決まる。  
小説の大治郎の家の土地の正確な広さはわからないが、道場は十五坪、住居は六畳の三畳の二間と台所がある設定のため二十坪以上はあるだろう。小太郎が生まれると増築したのでもう一間ある。大治郎の道場兼住居の土地を多めに見積もって約二小間だろうか。浅草近辺は七小間で銀三十匁の割合で納めるため、大治郎が納める銀は約九匁(この時代の相場は一両=65匁=6貫文のため)と驚くほど安い。現代のように税金の支払いで苦労することはないだろう。  
町名主が年に三回集めに来る。借家人である店子の分は家賃に含まれ家主が納めた。  
国役  
職人を幕府のために使役する。時代経るに連れて銀納になり、棟梁がまとめて支払った。  
町入用  
現在の地方税に相当する。江戸時代は町名主や家主など町民の役人である町(ちょう)役人が主体となり、江戸府内の自治を行っていた。詳しくは江戸の自治参照。  
町入用から名主や地主、家主ら町役人や自身番、木戸番や町火消など町内に雇われている者の人件費、事務費、町内の道路工事や雑用など自治にかかる費用を賄っていた。町入用は町名主に納める。 
百姓への税  
領主が自由に税率を決めた。高い税負担では百姓が逃げてしまい知行亡所という耕作者がいなくなることもある。  
四代将軍家綱の頃までは城下町や街道整備、治水工事など大掛かりな土木事業が行われ七割の税だった。新田開発が盛んな江戸時代初期までは耕作地に比べ耕作する者が少なく、引き手数多だった。天領は人件費が藩よりはるかに安いため藩よりも税率は低い。  
江戸時代の平均で四割程度と言われているが八公二民という高税を課した藩もあった。ただ、帳簿上から導き出される税率であり、帳簿のデータが古く、実際の村高の増加分が反映されず、帳簿に未記載で税が課せられていない隠田があるため実際の税率はさらに低いと考えられている。  
検地は実際の村高が記載され、隠田が摘発されるなど増税を前提に行わるため百姓の反対が大きい。定期的に行うには費用や技術的に困難な面倒な作業で、百年ぐらい検地を行わないことあった。ここで紹介するのは幕府のもので藩は各藩によって異なる。  
年貢  
村高に応じて村単位で年貢が課せられ村内で負担を割り振った。幕府の税率の目安は四公六民(税率四割)だった。役人が田圃を見て年貢量決める「検見法」が行われていた。代官所は人手不足で、代官所の役人である手代は家を継げなかった百姓の次男三男など現地採用の者が多く、馴れ合いが生じた。視察に来た役人へ賄賂を贈り、年貢量を減らさせるなど不正が多く、綱吉の代には年貢率が三割以下に低下していた。  
享保七年(1722年)の税制改革で十年平均の収穫量を基準に年貢量を決める「定免法」に切替え年貢率は三割七分まで上った。年貢率は向上したが税を減らすために賄賂を贈る必要もなく、税負担は負担は減ったと考えられている。幕府としては収入が不安定な検見法より年貢収入がわかりやすくなる。  
なお、同制度は加賀藩が慶安四年(1651年)より実施し、他の大名や旗本領では行われていた。凶作や災害時には「破免検見法」を実施し、役人が現地を見て通常の年よりも年貢負担を軽くした。  
畑への課税はその面積の三分の一で収穫可能な米の年貢相当代金を農作物を売却した銀から徴収する「三分一銀法」だったが同時に米で納めさせるようにした。十八世紀後半には金納制も実施された地域もあり農村にも貨幣経済が拡大していた。  
小物成  
米以外の桑や茶などの農作物や漁業や狩猟で得た収入に対する税。村単位で課税される。金銭で納めた。  
夫役  
領主が行う公共工事などに人足として労働力を提供するか、金銭を納めた。  
国役金  
朝鮮通信使の来日や将軍の日光社参拝、大規模な土木工事などの費用を賄うための税。日光社参拝なら関八州、東海で大規模な工事を行うなら東海地域の天領と旗本領の農民と内容ごとに対象地域が決められ、その都度課税した。  
高掛金  
浅草御米蔵前入用(米蔵の運営費)や御伝馬宿入用(五街道の整備や本宿、宿駅の維持経営費)、六尺給米(江戸城の台所賄いの人件費)の三種類。村高に応じて課税される。御伝馬宿入用費と六尺給米は御三卿領地にも課税される。  
浅草御米蔵前入用は百石で金一分(税率0.25%)、御伝馬宿入用は百石で米六升(税率0.06%)、六尺給米は百石で米二升(0.02%)の割合で税を納めた。  
村入用費  
自治会費。現在の地方税に相当する。江戸時代は現在よりも住民自治が進み幕府や藩ではなく村が役所のような役割を果たしていた。人件費や事務費、出張費、祭礼費用、自治体内の公共事業(道普請や水利事業など村が行えることは村が行った)などで帳簿化し透明性を高めた。 
商人への税  
幕府は農民へ税を課したが商人に百姓並の負担を課すという考え方はなく、現在の法人税や所得税に相当する税はなかった。  
御用金制度  
宝暦十年(1761年)から始まり約二十回ほど徴収された。富裕商人から財源を求めた。年利3%の利息を加えて返還する決まりのため幕府債である。実質は税で半ば強制的に上納を命じた。当初は上方商人と周辺都市の百姓に限定したが幕府の御用商人や江戸など幕府直轄都市の町民、幕府領の百姓まで徴収範囲を拡大した。初期は返還されていたが財政難に陥ると返還が滞った。  
定期的に行われるのではなく米価調整や財政補填、江戸城再建など各種土木事業費、長州征伐などを名目に不定期で徴収した。  
「上納」という「自発的」に納める制度上、上納金五千両につき銀二十枚、二千両で十五枚、千両で十枚(銀1枚は約43匁。1両=60匁と換算すると銀一枚は0.7両の価値)の割合で褒美が出される。三千両を上納し、返還を求めなければ永代苗字が許される特典まであった。文化年間(1804年から1818年)だけでも三回実施し計125万両を徴収した。  
冥加金  
旅籠や質屋などの株仲間が、商売を独占する御礼の気持ちを表す政治献金の意味合いで冥加金を納めた。自発的な献金のため納める側が金額を決めていた。  
運上金  
商業や漁業、狩猟者など個人が納める税。「分一」と呼ばれ収入の一割、五分、三分など一定の税率で納めた。  
 
天明の飢饉と江戸打ちこわし

 

田沼政権に決定的な打撃を与えた天明の飢饉と江戸での打ちこわしが起こった原因について考えてみる。江戸では米百俵の値段は平年178両が天明七年(1787年)では213両に、平年では百文で米一升以上、収穫前の五月でも五升以上が買えたが、徐々に高騰し最高値を記録した天明七年五月には二合五尺しか買えないようになった。  
対応を誤った藩では餓死者が多数発生し、各地で打ちこわしが起こり、幕府や藩といった武家政権が民衆を救えなかったことで権威が低下し、後の尊王思想につながった。  
飢饉の原因と対策  
ここでは原因と対策について簡単に触れる。一言で言えば享保十七年(1732年)に起った享保の飢饉の先例を活かさず、商人は自己の利益を優先し囲い米を行い幕府や藩は自領のことのみを考え米がある藩が米のない藩に融通することを行わなかったことが飢饉の被害を拡大させた。  
飢饉の自然要因  
天明二年(1782年)に奥羽地方で冷害が起こり死者11万人の被害が出た。天明三年(1783年)には浅間山の噴火が起こり噴煙が日光をさえぎり、東北と関東での凶作になった。噴灰が川底に堆積することで洪水を起こし被害を与えた。天明年間(1781から1789年)は浅間山の噴火の影響で日本全体が平年よりも気温が低い寒冷期であった。  
救済より財政を優先  
多くの藩は財政破綻寸前で目先のことしか考えず、兵糧の備蓄は一応行われているが領民のための食糧の備蓄を行っていないことが飢饉を加速させた。藩は米を領内の飢饉の救済より、財政難のため年貢米を米価が高騰している大坂や江戸に売った。利益を挙げたが領内の飢饉の状況を悪化させた。このことを反省し領外へ米を輸出することをやめた藩もあるが、米に余裕がある藩まで輸出をやめたことで流通が止まる弊害が生じた。  
また、藩によっては幕府から預かっている城詰米(当初は兵糧用。後に非常時用。所有権は幕府にある)を幕府から江戸に送るように命じられた。財政難で家臣への俸禄の支払いなどに流用していたため、城詰米はなく、調達するため米を買ったことで米価が高騰した。ただ、江戸に送った米は商人の囲い米で流通が止まっていた。  
農村の要因  
米農家は収穫を優先し冷害に弱い品種を栽培したことで冷害の被害が大きかった。  
また、藩の政策で特産品の原材料の栽培が推進され米を栽培するよりも利益の高い商品作物を栽培する農家が増えた。商品作物の栽培に特化した農村では米を栽培せずに他の農村から購入した。ただ、商品作物は相場次第で損失を出しせっかく出た利益も農村で平等に分配されないこともあり没落して農村を捨てる者も多かった。  
商人の投機買い  
米の買占め、売り惜しみなど米を投機として商人が利用し囲い米が行われ米価を人為的に高騰させることで莫大な利益を得ようとした。  
米の奪い合い  
江戸や大坂など都市部の幕府直轄領では必要な米は輸入している。幕府は米価が高騰すると不穏な動きが出ることを怖れ、米確保に奔走し他藩と米を奪いあう形になった。  
隣藩のよしみで米を融通するが今度は送った方の藩が米不足になった藩もある。  
幕藩制の欠陥  
幕府は天明六年(1786年)に二分の一に、翌年には三分の一に酒造制限を強化し、酒の原料になる米を食糧として流通させた。しかし、幕府は米に余裕がある藩に飢饉で苦しむ藩へ強制的に余剰分を送るように命じるという権限と考え方がなかった。  
例えば、天明六年(1786年)は例年の三割程度の収穫減だが例年通りの収穫があった地域もある。幕府の命令で、強制的に米を流通させればこれだけの餓死者は発生しなかったはずである。  
過去の反省の欠如と無策による拡大  
伊予西条藩のように享保十七年(1732年)に起った享保の飢饉の反省からあらかじめ食糧を備蓄し、天明の飢饉では餓死者を最小限に留めた藩がある。白河藩は事前に冷害で凶作になると予測すると素早く動き、上方などから緊急に米を輸入し、隣藩の会津藩から米を譲ってもらうなど事前の対策を打ち餓死者を出さなかったことから藩主の松平定信の評価が急上昇した。  
彦根藩では御救小屋を設置するなど充分な対策を行った藩では被害は最小限に抑えられた。庄内藩は豪商本間光丘が献上した備荒籾二万俵のおかげで天明の飢饉を無事に乗り越えた。  
過去の反省から学び、飢饉に備えて食糧を備蓄するなど適切な策を採った藩では被害は最小限に抑えられている。被害が大きい藩では過去の反省が全く活かされず無策により被害を拡大させた。 
江戸打ちこわし  
剣客商売の十六巻より少し後の天明七年(1787年)五月二十日に江戸市中で米価高騰による打ちこわしが起こる。江戸では充分な米が確保されているにもかかわらず流通が止まり米価が高騰した。平年で百文で米一升買えたのが五月中旬には二合五尺しか買えず、町民達には死活問題であった。田沼意次が前年に老中を解任されたなど政権交代の過渡期であり、幕府に強力な指導者がいなかったことも対応が遅れたことも要因である。町地では家主らが自発的に困窮した店借人(借家人)を救済した。家主にとって店借人は家族同然である。商家では自発的に救済した店もある。米を囲い込んでいると打ちこわしの標的にされない予防策として行う店もあった。  
囲い米  
幕府は米の流通を促進すれば米価が下がるという目論みから天明四年(1784年)に米仲買人以外にも米の販売を自由化した。結果的には素人も囲い米に走るありさまで失敗した。  
町奉行所を通じて商人の囲い米の摘発を行ったが町奉行所の権限が及ばない旗本・御家人に預かってもらう方法や取締るべき町奉行所の役人に賄賂を渡す方法など摘発逃れを行った。  
町奉行所の不手際  
摘発逃れ以外にも奉行所の不手際が打ちこわしを招いた。天明元年(1781年)には若年寄田沼意知に命じ五千俵を支給、その後は毎年、町奉行所から御救い米が実施された。  
この年のみ町奉行所が御救い米の実施を拒み、囲い米の摘発強化などを民衆が求めても月番の北町奉行所の曲渕甲斐守が拒んだことで民衆の不満は頂点に達し打ちこわしを招いた。  
江戸打ちこわし起こる  
月番の北町奉行曲渕が町方の嘆願を無視したことが瓦版など町方のメディアを経由して一気に集まった。下層町民を中心に五千人ぐらいが参加した。5月23日に先手組が市中取締りに乗り出した。五日間に渡り商家八千軒、米屋九百八十軒が打ち壊しの対象になったと言われている。  
江戸の打ちこわしは組織だって行われたものではなく、代表者は存在しないが、盗みをはたらく者には自発的に制裁を加え、火の用心をしながら目的の商家だけを打ち壊すという規律されたものであった。そのため、町奉行所では打ちこわしを「米屋と町民の喧嘩」と解釈し、有名な事件の割には死刑になった者は誰もおらず、一人だけが遠島になった軽い処分だった。  
これを契機に大坂、京都、駿府など諸国三十二都市に打ちこわしが拡大した。  
その後  
老中水野忠友は二万両を限度に拠出し、御救い米を実施した。また、関東郡代の伊奈忠尊は公金貸付を通じて関東の農村の米穀市場に通じていたため、短期間で大量の米穀を買い集め、江戸町民の救済に務め六月には江戸の米価高騰が収まった。町奉行所の信頼は失墜し伊奈の人気が上昇し、訴訟は町奉行所ではなく関東郡代の役所に持ち込まれるほどだった。なお、米穀を買い集められた農村は米不足になった。  
偶然にもこの時期に松平定信が老中に就任したことが重なり、彼は民衆に温かく迎えられた。  
 
時代の食べ物

 

池波作品の特徴として食事のシーンが多いことが挙げられる。剣客商売でも小説に登場する料理をまとめた『剣客商売包丁ごよみ』が出版されているほどである。食事のシーンが登場人物の日常生活に実態感を持たせ、殺伐とした話をしている場面でも食事中が多く雰囲気を和らげる。  
料理を取り上げたエッセイが多数あるほど食通として有名な池波さんは作中、小兵衛に「剣客をやめて料理人の修行したほうがよかった」と言わせている。料理人になりたいという願望は池波さんの本音なのかもしれない。  
池波作品で安永時代の作品が多いのは田沼時代の自由な気風を好むという側面もあるが、現代の和食に通じる食文化がこの時代から整ってきたことも要因と考えられる。  
小説の少し前の明和年間(1764年から1761年)に入ると人々に経済的な余裕が生まれ、屋台や道端の店が増えた。さらに料理屋も料亭も登場し、気軽に外食ができるのもこの時代からである。そのため、 小説の人物を食べ歩きをさせるために安永時代の作品が多いのだろう  
小説の食事シーンで個人的に印象的なシーンは二つ。四巻・天魔で強敵・笹目千代太郎との立ち合いの場所へ向かう前に親子そろって鳩饅頭を食べて腹ごしらえをするシーン。果し合いの前に饅頭で腹ごしらえをするという意外性な組み合わせが印象に残った。  
もう一つは十四巻暗殺者で小兵衛が大治郎と饂飩を入れた鉄鍋を挟んでにらみ合うシーン。我が子の命が狙われている理由を大治郎との会話でわかる。そのことを興奮ぎみに話す小兵衛は、「何事にも動じず、冷静に対処する」という剣客としての心得を守り、何度も命を狙われているため特別なこととは感じず冷静な態度をとる大治郎に珍しくヒステリックになり、鉄鍋を挟んで親子がにらみ合いになる。  
大治郎から普段と変わらない冷静な一言で、食事は再開し、大治郎から冷静さを取り戻すように促されている。食事のシーンでなければ、殺伐とした雰囲気になっていただろう。食事のシーンが効果的に使われている。ちなみに親子がこれほど険悪な雰囲気になったのはこの場面のみである。  
ここでは剣客商売の時代の食を中心に江戸時代の食について紹介する。 
江戸時代の食事全般  
主食は?  
江戸御府内では米が主食である。武士の俸禄である一人扶持は成人男性は1日米五合で計算されている。平均的な食事量だったのだろう。おそらく、小兵衛たちもそれぐらい食べていただろう。健康志向の人や一巻女武芸者の弟子のいない頃の大治郎、下級武士、庶民のように経済的に苦しい家では麦飯を食べていた。  
地方では米に麦や雑穀を混ぜたものを食べて、米をご馳走だと考えていた。そのため、江戸に移り住んだ地方出身者は江戸に来て米ばかり食べることでビタミンB1不足から脚気になり、田舎に帰りと治ることから「江戸患い」という名前の奇病として知られていた。  
脚気は常時米だけを食べられる裕福な者に多い。十代将軍家治も脚気が原因で亡くなったとも言われる。「江戸患い」は玄米を食べる人には起こらない。  
普段の食事  
一汁一菜が基本で御飯に味噌汁、香の物におかずが一品つく。現在のように普通の家庭でも日常の食事に何品もおかずが並ぶようになったのは戦後の話である。三巻・嘘の皮で大治郎が村松伊織に言っているように大治郎の家では惣菜を欠くこともあった。黒白・下で紹介されている松代藩主真田信弘の朝餉は塩粥に梅干と香の物だけで禅僧のような暮らしだと池波さんは評している。  
秋山家も普段の食事は一汁一菜である。大名の普段の食事も一汁二菜か三菜と庶民と大差はない。武家は御家の体面や見栄を重んじるため、他家の者を招いた宴席や身内の祝い事などハレの日に贅沢な食事を出す。  
ただ、武家は親類と先祖の命日は魚肉は食べない精進日のため、何代も続く家では精進日が頻繁にあり、魚肉を食べられる日は限られる。  
豆腐と納豆  
江戸時代では食材の旬の期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があった。十一巻・小判二十両では小兵衛は夏は毎日豆腐四丁を食べるとある。江戸の一丁は上方の四丁に相当し、江戸の四丁だと上方の十六丁になる。江戸の豆腐一丁は56文から60文。  
単純に小説の記述に従い、60文の豆腐を毎日、四丁を食べていると計算すると月に約7200文と一両(当時の相場は銭6000文=金一両)以上も豆腐代に費やしていることになる。さすがに高すぎるため江戸の一丁と考えるのが自然だろう。  
豆腐好きは小兵衛に限った話ではなく、身分の上下に関わらず好まれ、小兵衛の孫・小太郎が生まれた天明二年(1782年)に大坂で様々な豆腐料理を紹介する『豆腐百珍』が出版され、翌年に続編が出された。江戸でも流通しただろう。  
納豆は一人前四文。文政年間(1818から1830年)は納豆と豆腐や葱を細かく切り、薬味を添えてすぐに味噌汁の具に使えるようにしたたたき納豆が一人分八文でよく売れたそうだ。  
野菜  
小説では小兵衛の妻・おはるの実家が百姓という設定のため、おはるの実家から旬の野菜が届けられている。  
野菜は青物と呼ばれていた。タンポポ、ハコベラなど野生種も青物に加えられていて人参、大根、里芋、茄子、胡瓜、冬瓜が飢饉に備えて栽培されていた。江戸で食べられる野菜は近郊農家が栽培したものである。おひたしか煮物、煮物、和え物にして食べる。  
十四巻・暗殺者で萱野の亀右衛門が練馬の百姓から届けてもらった大根を食べているが、練馬大根など名物野菜も江戸時代に生まれている。  
魚介類  
保存技術も輸送技術も現代と比べると乏しい中、小兵衛達が多くの魚介類を食しているのを意外に思うかもしれない。小説でも紹介されているように江戸前(江戸湾)は魚介類の宝庫であった。もちろん鰹や鯨、鮪など外洋魚や松前昆布、加工品は江戸前ではない。  
魚は膾(なます)、刺身、焼魚、煮物にして食べる。  
食べ物の好みにうるさくない小兵衛が小説では唯一嫌っていると紹介されているのが鰻である。上流階級は脂が少ない白身魚を高級な物と考え好んで食べ、脂の多い赤身魚は体に悪いとして嫌う上流階級の影響であるが、脂の多い魚は好まれずため価格が安い。  
そのため、小兵衛が鰻を嫌うのは当時の感覚としてはけっして珍しくない。小説の約二十年後には鰻をいったん蒸すことで余分な脂を落とし、たれをつけるという現在でも続いている料理方法が考案されると流行する。それ以前の料理法では鰻は脂分が多く、好みが分かれたのだろう。  
また、脂の多い鮪(まぐろ)は節約のために食べるようにすすめられ、余れば畑の肥料にされた。鮪が握り鮨のネタに使われたのは天保三年(1833年)の大漁によるものである。畑の肥料してもまだ余ったのか、よほど始末に困り、仕方がないから状態がよい部分を鮨にして売ったといわれている。当時の保存技術では脂が多い赤身魚は腐りやすいという衛生面のから敬遠されていたと考えられる。  
仕掛人・藤枝梅安の六巻『梅安影法師』の「三人の仕掛人」で梅安はなじみの料亭・井筒で鮪の脂身の刺身が出され、解せぬ顔をする場面がある。当時の料理屋で鮪は使われることはなく、まして鮪の脂身(トロ)にいたっては魚屋が捨てる部分とある。池波さんは子供時代、おつかいで葱鮪(ねぎま)にする大トロを買いに行くと魚屋から無料でもらえたというエピソードを紹介している。池波さんは大正12年生まれのため、このエピソードは昭和一桁代の東京での話だろう。  
健康志向の現代では海外でも鮪ブームが起こり、国際会議で鮪の漁獲量の割り当てや、取引禁止の是非など鮪の資源保全を議論している。時代が変われば物の価値が一転したわかりやすい例である。もっとも、江戸時代では魚は庶民にとって贅沢品だった。  
棒手振りなど行商  
又六が魚の棒手振りを鰻の辻売りと兼業でしている。棒手振りは厳密に言えば「振売り」で魚売りだけは「棒手振り」と呼ばれる。  
いつも決まった道順を決まった時間に通るため自宅で待っていれば料理の材料は買える。惣菜を振売りから買った。近隣の農家が江戸まで野菜の行商に来ることもあった。  
一人一人が扱う食品や種類は異なるが長屋の井戸端で近所の人と話しながら待っていれば料理の材料だけでなく、日常品もある程度揃うので便利である。惣菜売りは男性が多く女性が少ないため独身者が多い江戸だからこそ成立する商売のようで上方では少ない。  
一日何食食べるか?  
元禄年間(1688から1704)から江戸では一日三食が定着した。労働時間が夜に食い込んだことや経済的に余裕ができ、灯りを灯す家が増え、一日あたりの起きている時間が長くなったことが要因だと考えられている。  
享保六年(1720年)に生まれた頃の小兵衛の生国ではわからないが、同時代の八代将軍吉宗は一日二食を守っていた。  
酒  
小兵衛は八巻・狂乱で親友の牛堀九万之助に彼の好物の銘酒・亀の泉を柄樽に入れて土産にしている。  
酒は灘、池田、伏見、伊丹など上方の酒を輸入していた。天明の飢饉で酒の原料である米が不足し、天明六年(1786年)には酒造制限が半分、翌年には三分の一に制限され流通量が減少した。天明三年(1783年)からは新酒の値段が天明の飢饉の影響で十二両くらいから二十両に値上がりし、お得意先に配るのを配るのをやめたそうだ。  
一升から五升の酒は樽、それ以下は大きめの徳利を酒屋から借りるか自分で容器を持参した。大名家では酒は薬の意味合いか食後と決まっている。空腹時に酒を飲むのは酔いが回りやすいことが理由かもしれない。  
樽は酒屋からの貸し樽が多く、使えなくなるまで何度も再利用された。  
調味料  
味噌は自家製のものを作る家もあり、武家は屋敷は広いが金がなく出費を減らすために極力作っていたようだ。保存できるだけの場所がない長屋の住民は買い求める。一巻・剣の誓約では大治郎は味噌を買うという記述があることから一人暮らしのため味噌は作らなかったようだ。  
人気のあった味噌は仙台藩の祖・伊達政宗が味噌醸造所を作らせて増産させた赤色辛口の仙台味噌、江戸近郊で作られた麦麹を使った赤味噌の田舎味噌、江戸産の江戸味噌がある。  
醤油は上方の「薄口醤油」を江戸へ輸入していたが文化文政年間(1804から1829年)に江戸独自の食文化ができると江戸近郊で「濃口醤油」が作られ人気が出た。 
江戸の外食  
江戸の町は男性の比率が高く、独身男性相手に商売をする外食産業が起こった。小説の小兵衛達はよく不二楼や鬼熊酒屋、蕎麦屋など外食が多い。  
しかし、江戸で気軽に外食できるのは意外と遅く、小兵衛が江戸に出て、辻道場に入門した享保十六年(1731年)当時は予約なしで外食できる店は少なかった。  
初期の頃の大治郎のように経済的余裕がなければ外食は出来ないが、職人のように経済的に余裕がある独身暮らしの男性は家で作るのが面倒なので屋台などの外食ですませた。  
箸は文政年間(1818から1829)に引割箸(割り箸)が登場するまでは竹の箸を洗って使用していた。  
江戸の外食の元祖  
明暦の大火(明暦三年1657年)以降に開店した浅草寺門前の「奈良茶飯屋」が江戸での外食の元祖と云われ、緑茶で炊いた飯と一汁二菜の食事を出した。  
茶屋  
作中何度も登場する茶屋だが外食産業の元祖であった。都会の盛り場や観光地にある腰掛茶屋と街道筋にある立場茶屋が江戸時代以前からあり、道に敷物を敷いただけの簡単な作りであった。茶以外は団子、餅など菓子類しか出さず往来がある日中のみの営業だった。それでも商売が成り立つのは江戸中期に喫茶の習慣が定着したからである。  
建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724年)。焼失した劇場が防火建築の蔵作りに再建されると劇場前の茶屋も同様に防火建築にした。建物がある茶屋は水茶屋と呼ばれ、その後江戸の名所や盛場で水茶屋が生まれた。 小説の少し後の寛政年間(1789から1801年)には江戸府内に二万八千軒ほどあった。  
競争が激しくなると「茶汲み女」という看板娘を置くようになり、時代が連れると売春の温床になる。ついに茶屋とは名ばかりの店も出る始末に、幕府は何度も茶汲み女についての令を出した。また、 小説で登場する上野不忍池の湖畔の「出会茶屋」という密会専門の茶屋が明和安永年間(1764から1781年)にできた。  
料理茶屋  
二階建ての立派な建物の水茶屋は寄合、饗応から句会や碁会など趣味の集まりに使われるようになった。客の要望に応える形で酒や食事を出すようになり、料理が主体の料理茶屋に発展していった。当初は一膳飯屋として簡単な料理を出していたが 小説の黒白で波切が滞在した橘屋忠兵衛のように料亭と変わらないような料理を出す店もあった。料理茶屋といっても現代の軽食喫茶から料理屋、料亭まで幅広くあったようだ。  
副業のような形で料理を出す水茶屋に対し、料理が専業の料亭が明和年間(1764年から1761年)に登場した。一方で屋台や道端の店が増え、本格的な料理屋も登場した。  
嘉永六年(1853年)の『守貞漫稿』には天保から嘉永年間(1830年から1853年)に料理茶屋で会席風の食事が銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)とある。庶民の中では給金がいい部類に入る大工の手間賃一日分以上に相当するためけっして安い額ではない。小兵衛がなじみの不二楼での食事はこれぐらいか少し安いくらいの値段かもしれない。  
蕎麦と蕎麦屋  
小説では蕎麦屋は数十軒も登場する。一覧はこちらのページにまとめている。江戸時代より前は蕎麦掻や蕎麦煉りといって蕎麦粉を熱湯で練って餅状に汁をつけて食べていた。慶長年間(1596から1614年)に細長い蕎麦「生蕎麦」が登場し、元禄年間(1688から1703年)に小麦粉つなぎに使い「蕎麦切り」という現代の蕎麦と同じものに発展、安永年間(1772から1781年)に定着した。  
十四巻・暗殺者の中で小兵衛が稲垣忠兵衛への見舞いの品である菓子の蕎麦落雁を蕎麦屋の明月庵で買った。現代では蕎麦屋へ菓子を買いに行くことは珍しいだろうが、元禄までは菓子屋が副業として蕎麦屋やうどん屋を兼ねていた。 小説ではその名残がある店という設定なのだろう。  
寛文四年(1664年)に蕎麦屋の屋台が浅草で始まったといわれ一杯が六文、小説の時代である明和安永年間(1764から1780年)以降は十六文に定着した。十六文という一見、現在の感覚では中途半端な値段設定は明和五年(1768)に発行された四文銭の高い人気によるものと思われる。四文銭は鋳造直後は色が黄金に似ていることから高い人気を得て、物の値段に四の倍数が増えた。  
最初は蒸籠で蒸した「もり」だが上から汁をかけて食べる「かけ」に人気が出た。寒い時期なら「もり」より温かい「かけ」が好まれただろう。  
五巻・白い鬼で登場する上州屋が寒い中でも上州風のもり蕎麦しか出さない頑固な商売をしているとある。小説の頃は「かけ」が主流だったのだろう。  
居酒屋、煮売酒屋  
小説の「鬼熊酒屋」が印象深い居酒屋だが、もともと居酒屋は享保年間(1716年から1735年)に酒屋の店先での立ち飲みが元祖。酒の肴に田楽を売り出した豊島屋が立ち売りを発展させて評判となり、居酒屋や煮売酒屋が続出した。  
文政年間(1818年から1829年)の記録によれば居酒屋で酒二、三合に肴が二、三品食べると百文になるそうだ。鬼熊酒屋は「安くて旨い」と評判なのでさらに安いのだろう。寛政年間(1789から1800)には煮売酒屋が盛んなため、 小説の時代にはすでに成立していただろう。煮売り屋は昼間は飯屋を兼業している。「なん八屋」という酒の肴を特別なもの以外は八文という店もあり繁盛した。  
豊島屋では酒を安値で飲ませることで客を集め、大量に出た空樽を売ることで儲けを出した。空樽は再利用され、一樽約一匁(小説の時代の相場では銀六十五匁が一両のため六十五樽で約一両)で売れる。安値路線の鬼熊酒屋は空樽を売ることで経営を成り立たせているのかもしれない。  
時代劇では現代のように食卓の上で椅子に腰をかけて食べている。床机に腰掛けて横に食べ物を置いて手で持って食べるのが江戸時代では普通であった。時代劇では撮影上の都合が優先され現代風に変えたのだろう。 
剣客商売の後の時代に流行した料理  
天麩羅  
十六巻浮沈では滝久蔵が天麩羅蕎麦を扱っていない万屋の主に苦情を言うが印象的である。江戸に天麩羅が伝わったのは天明年間(1781年から1789年)といわれている。  
浮沈はが天明五年(1785年)の話であるため江戸に伝わったばかりの頃になる。天麩羅という新しい物を好む滝と頑固な商売をする万屋の主という対比がおもしろい。ただ、この時点で江戸に天麩羅蕎麦があるかは断定は難しい。  
天麩羅は屋台で材料を串に刺して揚げ、丼のたれを附けて食べる。一品四文から六文と庶民の手軽な食べ物として定着し、嘉永年間(1848年から1853年)には専門店まで登場した。  
握り鮨  
小兵衛達の時代には握り鮨はなく、少し後の文政年間(1818年から1829年)に考案され流行した。ネタは江戸前のものを使う。それまでの鮨は押鮨や一夜で作る飯鮨で宝暦年間(1751から1763年)に屋台寿司が登場し、天明年間(1781年から1789年)には50軒以上の鮨店があった。  
握り鮨はネタと酢飯の用意ができていれば、握るだけで簡単にできる。現在のファーストフードのような手軽な感覚で食べられていた。屋台の鮨は一個四文から八文で現在の数倍以上の大きさの鮨が食べられ一個食べれば満腹になるぐらいの充分な量だったことから、おにぎりに近い大きさだったのだろう。庶民が屋台で気軽に食べられる店が多かったが、店を構えた鮨屋はネタにこだわるなど高級志向になり、金三両もする高級鮨も登場した。  
今では寿司の中で人気の鮪が握り鮨のネタに使われたのは天保三年(1833年)、大漁で畑の肥料しても余ったのかよほど始末に困り、よい部分を鮨にして売ったといわれている。  
鰻と鰻丼  
嫌いなものがなさそうな小兵衛が唯一鰻だけは嫌っているとある。脂の多い魚は腐りやすく、脂が少ない白身魚を好んで食べる上流階級の影響だろう。小説で語られているように肉体労働者の食べ物として扱われていた。店を構えてる者は少なく又六がしているような蒲焼の辻売りが多かったのだろう。  
土用の丑の日に鰻を食べる習慣は鰻が売れなかった頃に、平賀源内が鰻屋に頼まれて作った宣伝がきっかけと伝えられている。平賀源内は田沼意次の支援を受け各地を調査した、田沼の私的な家来という説もある。 小説の時代には土曜の丑の習慣はまだ定着してなかっただろう。  
料理方法は江戸初期は鰻を串に刺したまま焼く蒲焼である。後に上方で腹を開いてから焼いて手ごろな大きさに切る料理法が江戸に伝わると腹を切るのは切腹を連想させるため江戸では背を開いて焼いて切った。元禄年間(1688年から1703年)に江戸で鰻屋が開かれた。  
小説の二十年後には鰻をいったん蒸して余分な脂を落とし、たれをつけて食べる方法が開発されると流行し、まさに鰻登りの人気になった。又六がもう少し後の時代に生まれれば商売は上手くいったかもしれない。  
鰻丼(鰻飯)は文化年間(1804年から1817年)に江戸堺町の芝居小屋の大久保今助が芝居を見ながら食べられるように考案し江戸で流行した。現代では信じられないだろうが江戸前の鰻が最高のもの。文政年間(1818年から1829年)には深川だけで鰻屋は22軒。値段は文政年間で蒲焼が高級なもので一皿200文から、安いもので172文。又六のような辻売りでは一串16文。鰻丼は一杯100文から150文、200文と人気が出るにつれ値上げしたようだ。  
作中、小兵衛が小川宅で鰻を食べるシーンがあるが明和安永年間(1764年から1780年)に鰻の蒲焼に飯を添えるようになったため、これを食べたのだろう。  
割り箸  
食べ物ではないが外食産業を大きく変えたものの一つに割り箸がある。現代では多くのお店で割り箸が使われている。  
海外の森林資源保護の観点や国内産の森林資源の有効利用という観点から割り箸の大半を占める海外産ではなく国内の間伐材を割り箸にし、国内の林業を助けようという活動や、割り箸を回収してチップボードや紙の原料などに再利用する活動が各地で行われている。(私事だが私も大学時代に入っていた環境サークルで割り箸回収を行い、再利用される工場の見学にも行った)  
割り箸は約200年前に登場した。鰻丼の流行で客は増え、従来使っていた竹箸など洗い箸では間に合わないということもあるだろう。案外、繁盛を妬む他の店から箸の洗い方が不十分で不衛生と難癖をつけられたのがきっかけかもしれない。「引割箸」と呼ばれる現代の割り箸の元祖である。文政年間(1818から1829年)には京、大坂でも使われたという記録がある。  
 
江戸の商売

 

外食  
外食の元祖  
明暦三年(1657)の明暦の大火以降にできた浅草寺門前の「奈良茶飯屋」が江戸での外食の元祖と言われ緑茶で炊いた飯と一汁二菜の食事を出した。  
茶屋  
小説に何度も登場する茶屋は都会の盛り場や観光地にある腰掛茶屋と街道筋にある立場茶屋が江戸時代以前からあり、道に敷物を引いただけの簡単な作りであった。  
茶以外は団子、餅など菓子類しか出さず人通りがある昼間のみの営業だった。  
建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724)のことで、劇場の火事で焼けてしまい劇場が防火建築の蔵作りに再建され、劇場前の茶屋も同様に防火建築にした。建物がある茶屋は水茶屋と呼ばれた。江戸の名所ではその後、次々と水茶屋が建てられ。 小説の少し後の寛政年間(1789から1801年)には江戸中に二万八千軒ほどあった。江戸中期に喫茶の習慣が定着したことも繁栄の背景にある。  
競争が激しくなると「茶汲み女」という看板娘を置くようになる。時代が連れると茶屋とは名ばかりの店も現れ、金を払い「茶汲み女」を連れ出す売春の温床になり幕府は何度も茶汲み女についての令を出した。また、 小説で登場する上野不忍池の湖畔の「出会茶屋」という密会専門の茶屋が明和安永年間(1764から1781年)にできた。  
料理茶屋と料亭  
二階建ての立派な建物の水茶屋では寄合、饗応の場や句会や碁会など趣味の集まりで使われるようになり客の要望に応える形で酒や食事を出し料理茶屋に発展していった。  
当初は一膳飯屋として簡単な料理を出していたが小説の黒白で波切が滞在した橘屋忠兵衛のように料亭と変わらないような料理を出す店もある。料理茶屋には現代の軽食喫茶のような店から料理屋、料亭と変わらない店まであったようだ。  
高級料理茶屋から本格的な料理を出す料亭が明和年間(1764年から1761年)に入ると屋台や道端の店が増え本格的な料理屋も登場した。  
嘉永六年(1853)の『守貞漫稿』には天保から嘉永年間(1830年から1853年)に料理茶屋で会席風の食事が銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)とある。庶民の中では給金がいい大工の手間賃一日分以上に相当し、けっして安い額ではない。  
蕎麦と蕎麦屋  
小説の外食先では蕎麦屋は数十軒も登場するなど最も多く、小兵衛たちは蕎麦を好んで食べている。江戸時代までは蕎麦掻や蕎麦煉りと言って蕎麦粉を熱湯で練って餅状に汁をつけて食べていた。  
慶長年間(1596から1614年)に細長い蕎麦「生蕎麦」が登場し、元禄年間(1688から1703年)に小麦粉つなぎに使い「蕎麦切り」という現代の蕎麦と同じものが出来、一巻が始まる安永年間(1772から1781年)に定着した。十四巻・暗殺者で小兵衛が稲垣忠兵衛へのみやげに蕎麦屋の明月庵で蕎麦落雁を買ったのは元禄までは蕎麦屋とうどん屋が菓子屋の副業という名残からである。  
寛文四年(1664年)に蕎麦屋の屋台が浅草で始まったと云われ一杯が六文、剣客商売の時代である明和安永年間(1764から1780年)以降は十六文に定着した。最初は蒸籠で蒸した「もり」だが上から汁をかけて食べる「かけ」が主流になった。寒い時期では温かい「かけ」が好まれたのだろう。五巻・白い鬼で登場する上州屋が寒い中でも上州風のもり蕎麦しか出さない頑固な商売をしているがすでに「かけ」が主流だったのだろう。  
小説の明月庵で「柚子切りの蒸し蕎麦」とわざわざ蒸し蕎麦と表記されているのも「かけ」が主流だったからだろう。他のメニューは江戸後期には天麩羅蕎麦、花巻(もみ海苔をかけた蕎麦)、玉子とじ、しっぽく(玉子焼き、蒲鉾、椎茸、くわいなどを乗せたもの)、御膳大蒸籠がある。  
十六巻・浮沈では滝久蔵が天麩羅蕎麦を扱っていない万屋の主に苦情を言うが、天明年間(1781から1789年)のはじめに大坂から来た利助が江戸に天麩羅を伝えたと言われている。流行の天麩羅を好む滝と頑固な商売をする万屋の主という構成だが時代考証がしっかりされていることを見つけるのもおもしろい。  
居酒屋、酒屋  
小説の「鬼熊酒屋」が印象深い居酒屋だが酒屋から派生したものである。酒の小売は客が持ってきた容器に入れて売る。酒は上方から仕入れている。家に帰るまで待ち遠しい客の要望に応えたようで享保年間(1716から1735年)に酒屋の店先での立ち飲みができるようにしたのが居酒屋の元祖である。酒の肴に田楽を売り出した豊島屋が立ち売りを発展させ評判となり、居酒屋や煮売酒屋が続出した。  
小説のすぐ後の寛政年間(1789から1800年)には煮売酒屋が盛んになった。小説の時代にも登場していても何ら不思議ではない。文化文政年間(1804から1829年)では酒一合20文から24文、32文程度。なん八屋という特別なもの以外は八文という店もあり繁盛した。  
時代劇では現代のように食卓の上で椅子に腰をかけて食べているが、小説の描写のように畳や床机に腰掛けて横に食べ物を置いて手で持って食べるのが普通。現代の店のように店内は明るくなく薄暗かった。  
ちなみに江戸時代では空樽は再利用され一樽約一匁(小説の時代の相場では銀六十五匁=一両であるから65樽で一両の計算になる)で取引された。そのため、豊島屋では酒を安く飲ませることで大量の樽をカラにして利益を得ていた。  
割り箸  
現代では当たり前の割り箸は約百九十年前に登場した。鰻の流行で鰻屋が従来使っていた竹箸など洗い箸では面倒になったのか、清潔志向が影響したのか「引割箸」と呼ばれる現代の割り箸の元祖が生まれた。文政年間(1818から1829年)には江戸京都大坂でも使われたという記録がある。  
和菓子  
少し前に団子を題材にした歌が流行し、串団子の数が四個から三個に変更した店もあったようだが元々は三個だった。宝暦明和年間(1751から1771年)で一串五個で五文だった。明和五年(1768年)に四文銭が発行されると鋳造時には黄金と色合いが似ているため人気が高く、その影響で値段設定に四の倍数のものが増えるぐらい定着し、団子も一串四個で四文に変わった。  
桜餅は小兵衛の隠宅から近い向島の長命寺門番山本新六が考案したもの。享保二年(1717年)に店を開き大流行した。小説には桜餅は出てこない。練羊羹は寛政元年(1789年)ごろ日本橋の菓子職人喜太郎が考案したと言われている。 
商売方法  
江戸の商売方法  
最近ではインターネットを使った通販や商品宅配サービスもあり、便利だが江戸時代でも直接店に行って買い物することが少なかった。  
江戸時代の商売方法は得意先の御宅まで商品の見本を見せて注文を聞いて届けるのが普通であった。代金の支払方法は掛売りが常識であった。盆暮れか節季に各店の者が代金の請求に回る。後払いでついつい多めに商品を買ってしまうこともあった。  
相手側が不意の転居や死亡、踏み倒しなど回収できないことへの保険として代金が割高である。落語の中では大晦日に請求に来た店の者と支払いを延ばそうとする長屋の者がやりとりする話があるのも掛売りという商売方法があるからである。  
ただ、掛売りをするのは信頼できるなじみ客に限る。新しい客と支払い能力のなさそうな客には当然現金一括払いである。財政が傾いている武家では高額の掛売りを断られることもあった。棒手振りはその日の売り上げで翌日の仕入れをするため毎回現金で支払う。  
ちなみに現代の信販会社のように同一人物への請求を代行し、一括で行うような商売はなかったようだ。  
画期的な商売方法現金販売  
現代の視点から見ると何でもないことだが江戸商業界に衝撃を与えた商売方法が始まった。延宝元年(1673年)に江戸に来た三井八朗兵衛高利が呉服を扱う越後屋(三井グループの元祖)を開いた。狭い店であったが、店頭にたくさんの商品を並べて現金販売を原則とし、大衆相手の多売薄利の商売をした。  
商品を持ち歩く手間と人件費を削減できた分を価格低下につなげて、現金販売で代金の回収がすぐにでき、資金の回転を早めることができた。  
客側も従来の商法では見本にある限られた商品の中から選ばなければならなかったが、店頭に足を運ぶ必要があるが、店には多くの品物が並び、しかも値段は安いとあって人気が出た。新しい商法に危機感を募らせた従来の店からの妨害に遭いつつも成功し、天和三年(1683年)に大きな店を構えた。  
日本での百円均一の元祖  
現代では定着した感もある百円均一店だが日本での元祖は江戸時代で享保八、九年(1723、1724年)の十九文均一店である。好評だったのか三十八文・十九文・十三文均一の店が登場しこれらの店を諸色均一商店と呼んだ。  
十九文均一店では木櫛、三つ櫛、離し櫛など女性物の小間物類を掛け値なしの現金販売で流行し江戸中に広まった。取り扱う品は小刀、はさみ、糸類、将棋の駒、三味線道具、鼻紙入れ、緒締(おじめ)、盃、塗り物、煙管、剃刀、人形、墨、筆など日用品から趣味のものまで様々。利益になるものは何でも置き買う人が多く繁盛したそうだ。  
現代の百円均一店とは異なり、保存技術が発達していないだけに生鮮食品は置いていない。機械による大量生産ができない時代に安定した商品供給ができたからこそ品揃えもよく繁盛したのだろう。商品の安値安定供給の裏には武士の内職があったのかもしれない。  
飛脚  
現代の郵便制度の元祖。作中、小兵衛が誰かを呼び出す手紙を届けるのは木母寺門前の茶屋の者、事件に関することは又六など登場人物に任せている。そのため、小説では江戸府内では飛脚は全く登場しない。  
十二巻・逃げる人では大治郎が剣友・橋本又太郎が追う敵を見つけたという手紙を田沼意次を通じて特別な飛脚を使い、橋本が寄宿先の京都の町医者北岡玄中宅へ送っている。四、五日で届くと大治郎は語る。継飛脚に便乗して届けてもらったと思われる。現代の郵便制度と同じで江戸から京都まで届けてそこからは現地の係りの者が個別に配達したと思う。  
飛脚は慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で、江戸と大坂を結んで公文書を届けた公用の飛脚が元祖。各宿場で用意された人夫と継馬を替えて運んだ。常設の飛脚は三度飛脚が始まりで、江戸から大坂城や京都の二条城に勤務する書院番士や城代とその家来宛てに家族が私信を家来を通じて届けていた。やがて毎月三度江戸と大坂を往復するようになり継飛脚が宿場で使う人馬を利用できた。大名も国許と江戸、大坂、京などを結ぶ大名飛脚を設立した。  
三巻・東海道・見付宿で大治郎が浅野忠蔵を窮地に追い込み宿場を取り仕切るなど悪事を働く玉屋の現状を小兵衛に知らせる手紙は大名飛脚ではなく、継飛脚の至急便を用いている。藩の公文書扱いとしているので幕府が用いる継飛脚ではなく、大名飛脚が正しい気がするがその辺は気にしないでおこう。至急便だけに早くつく。玉屋が取り仕切っている宿場から江戸に飛脚を出せば、検閲され、事が露見するという配慮なのかもしれない。  
民間の飛脚は寛永十六年(1639)ごろ三度飛脚の需要の多さから民間が参入。大阪城内の御用飛脚の名目を借りて営業し継馬の利用も認められ一般の書状や荷物も扱った。上方商人が江戸で出店を持つようになると商品の流通が増加し町飛脚業者が増加し寛文三年(1663)に幕府の認可を受け江戸・大坂・京の町飛脚業者が組合を結成した。  
江戸から大坂間は並で八日から一ヶ月、速達便は六日間、特急便は三日半で届く。料金は享保年間(1716から1735)では速達便が重さ百匁(375グラム)の書状で二両二朱、特急便は七両二分だそうだ。誰よりもいち早く情報を得ることが商売を成功させる秘訣だけに速達便か特急便を使うこともいとわなかったから特急便があったのだろう。  
十二巻・逃げる人では緊急を要する内容であるが、速達便や特急便がるため田沼意次に頼まなくてもよかった気もする。一刻でも早く知らせたいと友を思う気持ちが強いために最速の継飛脚を使ったと思いたいが、継飛脚は公儀が使うものだけに、無料か民間より安いと思われる。  
 
金貸し

 

百姓相手の金貸し  
江戸時代初期は年貢率が高く、年貢を支払えれば後は必要経費しか残らないため、田畑は担保価値がなく、家族を担保に借金をする以外方法がなかった。  
1660年代以降になると城下町整備など江戸時代初期から行われていた大型の土木工事が一段落し、年貢率は急速に低下した。生活に余裕が出てきたため、田畑に担保価値が生まれ、田畑を担保にできるようになった。借金の担保となった家族や田畑は貸主に自由に使われ、その利益で利子が支払われたため借主は元金さえ返せばよかった。  
質屋  
江戸では享保八年(1723年)に質屋組合を定め、明和七年(1770年)に質屋を二千戸に限った。新規参入を停止させる見返りに一戸につき月銀三匁五分(年42匁)づつ幕府に冥加金を納めた。質屋は借主が担保の品を預けて金を借りる。葵の紋がついたものは質入できない。担保の品が火事か盗難などの理由で紛失や焼失の場合は質屋は貸し金を損失し借主は物品を損失とした。  
質入期間は三ヶ月から八ヶ月。一ヶ月あたりの利子は享保年間(1716〜1735)の相場だと一両につき銀一匁六分、一分につき銭五十二文百文につき四文、天保年間(1830〜1843)の相場では百両以下は金一分につき八文、十両以下は十六文、二両以下は金一分につき二十文、金一分以下は百文につき一文である。  
二巻の不二楼・蘭の間では小兵衛は隠宅を構える頃、諸国修行中の大治郎への仕送りなどで手持ちの金が不足してきたため、御家人の横山鉄五郎から堀川国弘の太刀他二振りを質に入れ、三十両を金を借り、高利に苦労した。堀川国弘の太刀だけでも新品なら三十両で買える価値のあるものである。質を取るため質屋と思いがちだが、武士は表立っての副業を禁止され、質屋組合にも入っていない「闇金」だろう。  
小兵衛なら諸大名や旗本と親交があり、社会的信用もあったはずでわざわざ横山から借りる必要ないが、小兵衛と金貸しの横山との接点を作るための演出である。仮に小兵衛が質屋で享保年間の相場で借りたとしたら銀四十八匁と、金貨に換算すると約三分だが横山のところは法外な質を要求しているだけにそれ以上の高利だろう。  
素金(すがね。銀貨圏の上方では素銀)  
素金(上方では銀貨は主要通貨のため素銀)は担保をとらずに金を貸す金融業の総称。現代風に呼ぶなら消費者金融。質入をする物がない庶民が利用する高利貸し。利子は現代のように元金いくらで何%という表記ではなく何両で一ヶ月一分(分は一両の四分の一)という割合で示された。高利は二十五両で月一分(年換算で12%)、低利は四十五両で月一分(年換算で6.6%)で違法金利は二十両で月一分(年換算で15%)である。  
小兵衛に莫大な遺金を残して亡くなった浅野幸右衛門は担保や質をとった形跡はないので、素金と思われる。  
素金にはいろいろな種類がある。月済(つきなみ)貸しが毎月決まった額を、日済(ひなみ)貸しは期日を定め毎日決まった額を返済する。座頭が金を貸す座頭金も同様のものである。財政破綻した藩の中には大名貸しから借りられないため座頭金まで利用した。  
烏金(からすがね)と百一文  
又六のような棒手振りは朝に仕入れた商品をその日に売る。売り上げから翌日に仕入れの金と生活費を得る。しかし、商売が出来ない雨の日が続くか、売れ行きが悪いと翌日の仕入れの金がなく商売できないため烏金か百一文から仕入れの金を借りた。烏金は借りた翌日の朝までに元利を添えて返済、百一文は朝に百文借りて夕方までに百一文を返す。  
 
暮らし

 

貨幣  
三つの貨幣が独立して流通しているややこしい制度であった。  
金貨は小判(一両)と一分、二朱判が流通している。金貨は四進法を採用し一両=四分=十六朱になる。銭貨は寛永通宝(一文)と四文銭が流通していた。  
銀貨は非常にややこしく小説では登場しないが金属の塊として扱われ、匁という重さが単位で使う度に品質と重さを秤で計って使った不便な貨幣だった。各貨幣の為替相場は変動しいる。本編が始まった安永七年(1778年)の相場では一両=銀六十五匁=銭六貫(一貫=一千)文である。  
買い物  
江戸時代は小説の又六のように店を持たずに棒に商品を入れた桶をぶら下げて売り歩く棒手振はその日の売り上げの中から、翌日の仕入れをするため現金で買物する。  
一方、店では掛売りが基本。客が買い物をするたびに帳面へ記録し、盆暮れの年二回など決まった時期にまとめて請求する。江戸御府内の貨幣には藩札のような紙幣がない。庶民は多くの人が銭貨を使うため、持ち運びできる枚数に限りがあり不便である。  
クレジットカードで買い物する感覚だが信販会社のようにまとめて請求する商売はなかったようだ。各店が催促に行く。代金が回収できないことに備えての保険の意味で掛値で売られている。落語で晦日に掛売りの代金を回収する商家と支払いを待ってもらおうと粘る店子の攻防もこのような理由で起こる。  
店が価格表示をしている貨幣で支払うのが礼儀である。違う通貨で支払われば為替相場に基づいて計算しなければならないなど面倒だからである。  
食料品の買物  
江戸時代は又六のように店を持たずに棒に商品を入れた桶をぶら下げて売り歩く棒手振りが多かった。いつも決まった時間に来るので井戸端で長屋の隣近所と話しながら待っているとそれぞれ決まった時間に棒手振りが魚や野菜、豆腐、米など商品を持ってきてくれた。  
また、武家屋敷や商家などでは出入の棒手振りに注文をして届けてもらうのが普通である。  
家賃は?  
表通りに面する表長屋は住居兼店舗で裏長屋は表長屋の裏になる。一軒当たり九尺二間が平均。間口が九尺(約2.7m)と奥行きが二間(約3.6m)。三坪約9.9mに三尺との土間と三尺四方の流しと竈がある。水は共同井戸、トイレと井戸、ゴミ溜めは長屋の共同のものを使う。文政年間(1818年から1829年)までは月八百文から千文。  
二間から三間の裏長屋もあり万延元年(1860年)には四畳半二間で浅草馬町の長屋で一分二朱、文久元年(1861年)には本所回向院裏の長屋で中二階つきが一分二朱。  
棟割長屋はさらに安い。入り口しかなく奥も壁。時期はわからないが500文から老朽化したもので300文。家賃は日割りでもよかった。  
棒手振りの生活  
又六のようにいずれ店を持つことを夢見て棒手振りをしている人も多い。仲買人から商品を仕入れて市中を回って売りまわった。毎日決まった道順を回って行く。売上げから翌日の仕入れ分を残して日割りの家賃と生活費を捻出した。風雨の日には商売にならず、その分の稼ぎを取って備えておく。  
文政年間(1818年から1829年)の夫婦に子供一人の野菜売りの棒手振りの記録では600文から700文を元手に仕入れて売上げの翌日の仕入れ分を残して日割りの家賃と米代200文、味噌醤油代50文と250文の生活費を渡した。子供に小遣いを13文渡した。風雨の日は商売にならないのでそれに備えて100文か200文を蓄えた。  
独身なら外食する余裕もある。元手が足りない場合は日済賃から借りるが一日で百文につき二、三文の利息が付く高利貸しである。  
又六が大治郎に強くなるための修行を頼んだ際に渡した五両という大金を貯めるのには長い年月がかかっただろう。  
もっとも、倹約し大金を貯めた又六にとって小兵衛らの仕事を手伝えば淡々とした日々の暮らしから異なった世界が体験でき、しかもかなりの心づけをもらえるのだから十六巻浮沈でもうすぐ店が持てそうな金を貯めるのも容易ではあったかもしれない。  
 
民間の教育

 

小説では教育について全く触れられていないが、小兵衛や大治郎など剣客は剣術だけでなく何らかの教育を受けているはずである。作中、大治郎は何度も手紙を出していることから読み書きができることはわかる。  
剣客でも読み書き算盤ができなければ困る。例えば、他の剣客から果たし状が届けられても、文字が読めなければ、誰といつどこで果し合いをするのかわからない。文字が書けなければ、その果たし状に書状で返事を求められても出せない。また、地理に関する知識がなければ果し合い先がどこにあるかわからない。  
算盤ができなければ金銭の計算ができない。特に道場主であるならば経営者としての才覚も求められ、算盤ができなければ、健全な経営ができないなど不便である。  
道場主としても一般常識と教養が必要である。大半の武士が命を懸けて剣を振るう機会がない時代だけに剣術の腕を磨くことより、優れた師匠の人格に感化され礼儀作法を身につけさせ人格形成にいい影響を与えることを目的に入門させる父兄もいる。一般常識がなく礼儀作法も知らない道場主の道場ではそういう目的で来る入門者は集まりにくい。  
さらに道場を広げようと思えば諸家からの支援が必要だが武家と交際する上で必要な教養と礼儀作法が身についていなければ彼らから敬遠され道場運営に支障が出る。  
江戸御府外で生まれ育ったおはるは農村部でしかも兄弟の面倒を見るのに忙しく小兵衛の妻となるまで寺子屋などで文字を教えてもらう機会がなく小兵衛に教えてもらい読み書きができるようになったとある。ここでは江戸時代の庶民の教育について考えてみる。  
民間任せの庶民の教育  
江戸時代には義務教育制度はないが、現代で考えられている以上に寺子屋などで教育を受けていて読み書き算盤はできたようだ。識字率については寺子屋の生徒数から嘉永年間(1848から1854年)の江戸府内では70から80%、江戸府内の農村部を除くと90%という推測結果もあり、かなりの高水準である。武家階級は、ほぼ100%といわれている。  
幕末の全国では男性40から51%、女性は15から21%と当時の日本の識字率は世界一といわれている。江戸時代全体で民間の教育施設が公儀より廃止させられたのは幕末の松下村塾の吉田松陰が国法を犯したとして処刑され、塾が閉鎖したぐらいだろう。  
公儀が強制せず、これだけの高い水準に達したのは長年平和な時代が続き、江戸時代中期から人々の生活に余裕ができたこともあるだろうが「読み書き算盤はできて当たり前」という認識が全国的にあったのだろう。識字率が高いことで庶民向けの出版文化が栄えた。  
なお、寛政の改革で出された異学の禁で朱子学以外教えてはならないように誤解しがちだが、幕府公認の学問は朱子学のみであるという内容である。庶民の教育は対象外である。ほとんどの藩は強制はされていないが幕府の方針に反し、朱子学以外を教えると幕府の不信感を買うと怖れて自主的に見習った。 
民間の教育機関の代表寺子屋(手習いとも言う)  
江戸では学校に「屋」と付けるのは嫌い「手習い」と言っていた。寺子屋の師匠は社会的地位が高く商家のように「屋」がつくことを嫌ったとも考えられる。ここでは一般的に使われている寺子屋と記述していく。  
寺子屋の数  
享保六年(1721年)には江戸市中に寺子屋の師匠は約800人、幕末には全国で一万五千から二万ほどの寺子屋があったと推計され寺子屋のない町や村はないとまで言われた。現代のような教員免許制度はなく教える場所も自由である。誰でも自由に開くことができた。師匠の裁量が大きな部分を占め、幕府と藩は援助も介入もしなかった。  
入門時期と就学期間  
現代のように就学期間や修める教育課程が決まっていないため入門する年齢と修学期間は入門者の自由だった。早い場合は五歳、普通は七か八歳で入門した。初午(二月最初の牛の日)を吉日として入学するのが通例だった。  
職人の親方に弟子入りするか、商家へ奉公に行くなど子供が働き始める時期になるまで通うため男子が十二、三歳、女子は十三、四歳まで通った。就学期間は六年ぐらいだろうか。  
女子は教育の仕上げと躾を兼ねて、武家か大店に女中奉公へ行くこともある。  
授業時間と休日  
師匠の自由裁量で授業時間は決められる。だいたい午前八時から午後二時まで。昼食は十二時。給食はなく、家に帰って食べるか持参した弁当を食べた。現代の学校のように全ての授業時間に出席する必要はなく、各家庭の都合により通える時間に通い、家の用事か御稽古事へ行く時間になると帰った。  
休日は毎月の1、15、25日の定休日と五節句、年末年始(12月17日から1月16日)は休みだが師匠の裁量次第で自由に決められた。  
入門料と授業料  
入門料と授業料は一律ではなく、生徒の親の社会的地位と経済状況に応じて、支払える額を支払う。江戸時代には教育費が家計を苦しめる心配はなかっただろう。  
寺子屋の師匠は「学は金銭で売るもの」と考えず、師匠という社会的な地位に誇りを持ち、金銭についてほとんど言わなかった。入門料は師匠にふさわしい額を近所から話しを聞き、親が判断した。二百文から三百文、余裕があれば二朱、大店なら一分を包んだそうだ。先輩に煎餅を配る習慣があり一枚五文ぐらいの煎餅を人数分用意した。  
道具類は机は貸してもらえたが、筆や半紙など消耗品は生徒各自で用意した。六月の畳替えや冬の炭代も負担になる。  
盆暮れや五節句には百文から千文程度を親が経済的地位に応じて礼金として持参した。教科書は寺子屋の備品を使う。  
教育内容と方法  
現代の学習指導要領に相当するものはなく、教育内容は師匠の裁量に任されている部分が大きい。最初にいろは四十八文字の読み書きと文字の意味、数字を教えた。短文の読書きを教え「名頭(人の姓の最初を漢字で書く)」、「名字尽くし」や手紙文と商用の送り状、請取状など実用的な文章ものを学んだ。  
地理に関する教育は江戸の寺子屋であれば、江戸の町名を読書きしながら「江戸方角尽」、江戸の町の生活の行事について習う「江戸往来」で江戸の地理や風習を学んだ。東海道のことは「東海道往来」、日本の地理は「国尽くし(アメリカなど外国ではなく山城、武蔵など旧国名)」を用いて地理を学んだ。  
その後、庭訓往来や漢文の基礎である千字文などを教えた。最後に百姓の子供には「百姓往来」、商人の子供なら「商人往来」と相場についての本、職人の子供なら「番匠往来」など親の職業に合わせた教科書を使い、入門者が将来就く職業に必要な知識を学んだ。寺子屋の教科書は七千種類(そのうち女性用は千種類あり)あり、寺子屋の備品で使いまわしされていた。  
生徒の年齢と親の職業が異なり、通う時間が生徒により異なるため一律に教えるのはではなく、個別指導を行った。庶民が武士の師匠に習うことはできたが、算盤の代わりに唐詩選や千字文など漢文を教える。学問好きの父兄の家以外か本人が学者を目指していなければ、生活と直結しない内容だけに通うことは少なかっただろう。礼儀作法を身につけさせるのも寺子屋に期待されていた事柄である。  
小兵衛ら剣客の子供には何を教えていたのかはわからないが道場を経営するなら算盤、諸国を修行するためには地理知識は必須でどちらも寺子屋で習ったのかもしれない。大半の流派の伝書は宗教や哲学の用語が多い難解な文章で、「本人以外見てはいけない」決まりのため、わからない箇所を他人に尋ねることもできない。  
一流を興せば伝書を作る必要があるが、文章を書けなければ後世に技を伝えることができない。剣客でも寺子屋で習ったはずだろう。  
幕府による道徳教育  
幕府は享保五年(1720年)に徳川吉宗は南町奉行大岡越前を通じて指導要領を高札にして下付し、道徳教育の実施を命じた。その二年後には「六論衍義大意」という中国の書物を要約した本を刊行し江戸の寺子屋の師匠に配布した。  
内容は「博打など犯罪を犯さないように」、「親孝行をしなさい」、「年長者を敬いなさい」など現代の学校での朝礼や道徳の授業で先生が生徒に教えるぐらいの常識的な内容が十条ある。これ以降、寺子屋で道徳教育を行うようになる。幕府は法律や常識を知ることで無知から起こる犯罪が減ることを期待したが寺子屋に経済的援助は行われなかった。  
師匠の収入  
師匠の収入は嘉永・安政年間(1848から1859年)には生徒百人いれば生活が楽で、二百人なら二十石取りの武士並(約十四両に相当か)といわれている。師匠は学は金銭で売るものと考えず師匠という地位を誇りに思うことから金銭についてはほとんど言わなかった。尊敬はされるが暮らし向きは楽ではないのが実情だろう。  
師匠は町民や商家の隠居が主だが武家や僧、浪人もいた。地方では郷士や名主の他に村役人が師匠になる。十六巻浮沈の金貸し平松多四郎のように副業でしているものもいただろう。また、教え子や昔の教え子が何かにつけて師匠に贈物をするなど結びつきは強い。  
試験  
自由な気風の寺子屋にも試験があったようだ。たまには試験をして上達具合を確かなければ緊張感が保てないのだろう。毎月数回、習った字を清書し読み方の試験をした。  
四月と八月に行われる席書という試験では師弟ともに礼装という大掛かりのものだった。また、演習や大演習という素読の試験もある。試験の成績優秀者には師匠から筆や半紙など褒美が与えられた。  
高等科  
希望者のみ高度な内容を教えた。男子には古状揃や実語教、童子教、三家教、四書五経など漢文を素読し、女子には女今川、百人一首、女大学、女庭訓往来、源氏物語などを教えた。学問所と違い師匠も内容がわからないためか解説はしなかったようだ。  
江戸時代では高学歴であっても、医者や学者を目指す者以外は直接的に役立たない。知的探究心を満たすという純粋に学問を楽しむ者達が教わったのだろう。  
幕府の昌平坂学問所  
幕府が設立した学問所。天明七年(1787)年9月から毎日開かれていた仰高門日講だけは袴を着ける必要があったが身分を問わず無料で開放されていた。講義は九時から十二時まで行われていた。一年間通い続けて、皆勤賞を取れば講師からお褒めの言葉をかけられたそうだ。  
最初の頃は物珍しさに行った者もいたかもしれないが、学問所で教える学問は官学である朱子学のみである。聴講した内容が直接暮らしに役立つものではないため、庶民が聞きに行くことは稀であっただろう。  
 
江戸の宗教政策

 

小説には宗教がらみの話は出てこないのが寺請制度は戸籍と同様の性格を持つため簡単に解説する。  
宗教者は寺社奉行の管轄になる。キリスト教を取り締まるために始まった寺請制度により、全ての人がどこかの寺の檀家という制度上の建前から全ての人が仏教徒である。しかしながら、徳川家康が日光東照宮で神として祭られているように仏教以外の宗教も許されていた。  
禁止された宗教は幕府に批判的で反体制と認定されたキリスト教など一部の宗教に限られ、それ以外に関しては信仰は自由だった。宗派の違いが原因で起こった宗教戦争や他宗教への迫害、魔女裁判などが行われていた同時代の欧州に比べはるかに自由だった。  
幕府は全ての宗教団体を組織化し、統制しようという強い姿勢もなかった。  
明治維新までは神道と仏教という明確な宗教の区分がなく、神仏習合という習慣があり、寺院と神社を兼ねている寺社も多い。  
例えば、小説では杉原秀の家の近くにある雉子の宮の別当は宝当寺のように同じ境内に神と仏の両方を祭っている寺社は珍しくなかった。  
幕府は朱印地、藩は黒印地という寺社領を与え租税徴収権の特権を保証した。また、除地という租税を免除した土地もあった。不輸不入など世俗権力から守られていた。 
仏教  
本寺制度  
仏教寺院を本寺(本山)と末寺の階級制度を設け本寺を核としてた宗派組織を作り全ての寺院僧侶を把握・統制した。  
触頭制度  
触頭は幕府又は藩からの伝達を触下へ通達し、触下からの訴訟を寺社奉行や本寺・本所へ取り次ぐ役目を負う。触下間の利益調整や統制を行った。制度内容からして本寺が行ったと思われる。  
寺請制度  
キリスト教徒ではないと証明する目的として発足し、全ての人はどこかの寺の檀家となりその証明書を発行してもらった。証明書のことを寺請証文と呼んだ。寛永十二年(1635年)頃より開始され、二年後の島原の乱以降は全国に拡大された。当初はキリスト教徒でないことを証明することに重点が置かれ寛文年間(1661から1673)までは寺院以外に村役人が証明書を発行していたこともあったようだ。同年間に寺請証文は「宗門改帳」として村単位で記載した。  
幕府は戸口や領民の実態制度を把握を目的に調査を実施し、村落や町単位で「宗教人馬書上帳」を戸口単位の人別帳を作成した。やがて、寺請証文が戸籍台帳に組み込まれ、婚姻や出産死亡など戸籍に変更がある場合は寺請証文も書き換え、引越しには現地の役人宛の「送一札」だけでなく引越し先にある寺院へ檀家寺が発行した「寺送状」など寺請証文を発行した。 
神道  
神社・神職の統制  
社頭、社領、社地といった宗教施設と宗教者の把握と組織化を行った。仏教同様に触頭制度に組み込んだ。神社禰宜神主等法度(神社条目)を遵守することを条件に朱印状などを発行した。  
法度の内容は五条で構成され装束に関することや位階という制度上の内容もあるが「神道に励み、神社を掃除し修理しなさい」や「社領の売買と質入の禁止」など極めて常識の範囲内である。  
幕府は神祓官領長吉田家に神職の装束認可権を与えたが、特定の執奏家がある神社は他の家に頼むことが認められていた。装束の許可申請に多額の費用がかかり絶対必要なことではないこともあり執奏家自体を不要とする神社もあった。幕府は吉田家の一元的神職統制よりも神社神職を組織化し把握できればいいという考え方のようだ。 
儒教  
儒教は宗教か思想のどちらなのか区別しにくいが孔子廟で孔子が祭られていることからも宗教性がある。幕府の官学だけに儒学は保護され、幕府立の昌平坂学問所や前身の弘文館に孔子廟が祭られ将軍が廟参している。毎年祭祀を行っていることからも儒教には宗教性がある。 
民間宗教者  
陰陽道や神事舞太夫、夷職など民間の宗教者は特定の宗教施設を持たず檀家場を廻り歩き、祈祷や御祓い芸能を行い初穂料を得ていた。幕府は各民間宗教者の本所を設けその職分を保障する免許状を発行させることで民間宗教者を把握した。本所には管轄する民間宗教者からの様々な礼金が支払われる。公家や大寺院を本所と定めることで彼らを経済的に助けようという意味合いを持つ。  
しかし、民間宗教者は習慣的に差別されて、人別帳が別にされたり住む集落を枝村と呼び差別した。差別はされたが幕府に公認されていたことになる民間宗教は明治政府の祭祀一致政策や風俗統制政策により否定され姿を消した。 
禁止されていた宗教  
キリスト教  
キリスト教が既存宗教を否定し、キリシタン大名の中には領内の他宗の信仰を禁止し、領内の寺社を破壊するなど排他的な行為があった。豊臣秀吉はキリスト教の教義を否定するのではなく、キリスト教徒が織田信長など多くの大名を苦しめた一向宗のような宗教勢力として台頭することを怖れ、禁止したようである。  
幕府は当初放任していたが、旧教徒国が布教を名目に各地を回り、国内の調査やキリシタン大名や幕府にやむなく随っている大名を扇動し内乱を起こさせることを怖れた。  
慶長十七年(1612年)に幕府直轄領にキリスト教の禁令を出し、翌年には全国に拡大させ、宣教徒を追放し信者に改宗を命じた。徐々に全国規模でキリスト教徒への迫害が広がり元和八年(1622年)に信徒五十五名を処刑し、翌年にはイギリス商館を閉鎖し、翌々年にはスペイン船の渡航を禁じた。  
寛永十四年(1637年)のキリシタンや浪人らによる島原の乱が起こり、幕府は鎮圧に苦労する。寛永十六年(1639年)には島原の乱を扇動したとされるポルトガル船の来航を禁じた。島原の乱以降は禁教政策が強化され、五人組制度や踏絵を実施し密告を奨励した。寺請制度で全ての人をどこかの寺の檀家にし宗門改めを行った。  
純粋な布教目的で来た宣教師もいたはずだが、幕府にとって宣教師の名を借りた諜報員と感じたようだ。大型船の造船を禁止し、日本各地から補給なしで海路からの江戸攻撃を不可能にする一方で、陸路からの攻撃を防ぐ目的で大井川に敢えて橋を架けず、幕府に無断で血縁関係を結び大名家同士が結束し、幕府に叛旗を翻すことを警戒するなど幕府は防衛に関しては些細な不安要素でも取り除く細心な姿勢だけにキリスト教禁止は幕府にとっては当然のことだった。  
不受不布施派  
日蓮宗の一派。日蓮宗の信徒以外からは布施を一切受け取らず、施しもしないという考え方。例え、相手が権力者でも信徒でなければ経済的支援を断るという政治権力を否定する排他的な教義。幕府の意に沿わないとして弾圧した。  
同派の京都妙覚寺日奥は文禄四年(1595年)に秀吉が営む法要への出仕の命を断り寺を退去し、慶長四年(1599年)に家康は日奥と受布施派を対論させ日奥の負けとし対馬に流罪、寛永七年(1630年)に同派と受布施派を対論させ不受不布施派を邪道とし、寺請制度から外し非合法組織となった。  
同派は表向きは受布施派に改宗したが、内信など密かに信仰が続けられ、明治政府により公認された。他の幕府公認の宗教が緩やかながら幕府の統制化に置かれている中で、権力者である幕府を否定した同派を幕府は許さなかった。  
 
医者

 

小説の小兵衛の親友小川宗哲は町医者である。この項ではこの時代の医者について考えてみたい。  
江戸時代の医者は現代のような免許制度なく、医術の心得がなかろう医者になろうと思えば誰でもなることができた。それだけ医術が信頼されていなかった裏返しでもある。  
医療水準は西洋に比べると解剖学の分野では劣るが、他の分野ではさほど大差はなく、東西関係なく伝染病の前には無力だった。また、宗教的なものが原因と考える迷信も残り、病気祈祷のための神頼みや厄払い、御札を用いる習慣もあった。  
江戸時代の医者の位置づけ  
江戸時代の医者というのは不思議な位置づけである。武士でないにもかかわらず名字帯刀が許されている。小兵衛の親友の「小川宗哲」や大治郎の剣友で医者の「横山正元」のように名字が公認され刀を挿させるのもこのような事情である。仮に犯罪で捕まっても庶民が入る牢屋ではなく、藩士や御家人、神官などが入る揚屋に入れられる。  
江戸時代の医者の多くが剃髪する。医者の服装に関する法律は存在しないため、剃髪を強制されているわけではなく、剃髪する正確な理由は不明である。蘭法医は剃髪しない。  
考えられる理由としては合戦の戦場にいる者は全て戦闘員と見なされ、従軍している医者は世俗の者ではない僧侶のように剃髪し、非戦闘員ということを表示した戦国時代の名残。世俗の者は相手の地位に応じた地位がなければ対面できないが、治療に支障が出るため剃髪し世俗の者ではなくなることで相手の地位や身分に関係なく対面し治療することができるなど様々な理由が考えられる。  
医者を開業するための資格はなく、医者になりたければ誰でも開業できた。名字帯刀の特権だけを目当てに医者になる者もいたようだが、江戸時代には医療がそれほど信頼されていない裏返しである。  
誰でも医者になれる江戸時代であったとしても腕のいい医者に患者が集まり、腕の悪い医者には患者が集まらない。医術の心得がない医者は患者が集まらず、廃業するのが関の山だろう。  
医者の修行  
誰でも開業できるが、医術を習得するには医者に弟子入りし、医学を学ぶ。師匠に腕を認められ、代診の期間を経て、師匠に独立を許された後に開業する。腕の未熟な弟子を世間の送り出すと師匠の評判にも関わるだけに相応の腕前がつくまでは独立を許さない。だいたい十年から二十年間修行を経て独立する。  
西洋の医学書を除けば、医学書の多くが漢文で記されていることから漢文を学ぶ意味も込めて四書五経を修める。幕医の子弟は幕府の医学館で学ぶこともあった。小川宗哲のように長崎で西洋医学を学ぶこともある。  
診療科  
内科は本道と呼ばれ他の科より権威があった。他には外科、眼科、口科(歯や喉、唇を診察)、針科(針を用いる)、児科(小児科)、産婦人科などがある。  
医者の種類  
小川宗哲や村岡道歩のような開業医である町医者、六巻・品川御匙屋敷で抜け荷を行っていた奥医師の山路寿仙のような幕府に仕える幕医、藩に仕える藩医がいた。幕医は開業しないが藩医は藩からの俸禄が少なく生活に困るため修行を名目に開業している。朝廷に仕えるのは医官である。  
儒学者を兼ねている医者は儒医と呼ばれた。儒学者が医者を兼業する理由は儒学者としての収入が少なく、医学書の大半は儒学書と同じく漢文で書かれているため、医学書を読むことができるからである。町医者でも幕医や藩医へ取り立てられることもある。 
診察方法と医療費  
小川宗哲達がどのような診察をしたのか考えてみる。  
現代のような健康保険制度はもちろんなく、医者が自由に値段を決めた。同じ診察内容でも患者の経済力に応じて値段を決めて支払ってもらい困窮した患者からはお金を取らないという 小説の小川宗哲のような医者もいただろうが、大半の医者はきっちりと請求する。貧しく医者にかかれない者も多かった。  
診察方法  
既往症や症状を患者から聞く「問診」、患部に触れてみて患者の反応から診断する「触診」、患者の目や唇、舌など顔色や挙動を見て診断する「望診」がある。排泄物も診断の材料にするようだ。「聞診」は呼吸音や動機、体臭から診断する。病気によって体臭が変わることもある。この四つが江戸時代では基本的な診察方法である。  
後藤艮山(1659から1732年)は既存の診察方法に「手足看法」と「候旨」、「按診」を加えた。「手足看法」は手足のむくみや腫れの有無を調べ、「按診」は臓器のある部分を指で押して内臓の沈殿や動きを調べた。「候旨」は背骨の曲がりや肉付き、片寄りがないかをみた。  
現在でも漢方を専門とする医者は現代医学と併用してこのような方法で診察している。  
薬  
現代の薬局にあたる薬種問屋で売っている薬を用いることもあるが、医者が病状に合わせて処方した薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬として用いる。  
医者以外でも簡単な怪我や病気なら昔からの言い伝えに基づき自生している薬草で治していた。  
診察料  
薬礼と呼ばれる薬代と併せて請求した。武士以外でも御典医、藩医に診察してもらうことはできたが高額になる。長田(永田)徳本という江戸時代初期の名医はどのような身分のものを診察しても18文しか請求せず二代将軍徳川秀忠を治療した折も18文しか受け取らなかった逸話が残っている。  
平均的な診察料は一分から二分、薬代が三日分で一分、七日分で二分になる。蘭法医の影響から診察料と薬料を別々に請求するようになった。  
往診料  
幕末では往診は初回は一分二朱、二回目から一分に加えて駕籠代が一里まで二分、二里で一両、五里で二両と高額になる。  
天明寛政年間(1782年から1801年)から支度料という名目で、乗り物代や弟子や従者の費用などを取るようになり、大名家では金二分から三分、旗本では銭三貫文から金一分一朱、大店なら銭四貫文から五貫文を請求した。飯時に来て御供の分まで弁当代を請求するあくどい医者もいた。  
大名の診察  
大名の命を救うと診察料と往診料以外に三人扶持から五人扶持が生涯支給されることがある。慶安三年(1650年)に大老の病を治した医者が千両というあまりにも高額な代金に受け取っていいか判断に困り幕府に御伺いを出したところ「大老の病を治したのだから」と計二千両の薬料を命じ受け取らせた話が残っている。  
町医者の経営  
小川宗哲が二巻不二楼・蘭の間で上方時代の話をしている。医者は儲けようと思えばいくらでも儲けられたようだ。  
金持ちの患者のみを診察し、不要な薬も使い、何度も診察できるよう徐々に快方へ向かわせるために薬を調整すれば簡単に金が貯まるのだろう。金持ち専門の医者は高額の謝礼が期待できない患者を即効性があるが副作用も強い薬を使うことで済ませることや、弟子に任せることがあった。  
小川は金を貯めることを生きがいとしたがある時「大金があろうともいずれは死ぬ」と悟り浪費に走り金を使い果たすと上方を去り江戸で開業すると金を避けるようになった。江戸では身分に関係なく丁寧に診察するため「本所の生き神様」と土地の者に慕われていることから貧しい者からは金を請求しなかっただろう。 
公立病院  
江戸時代でも公立病院の性格を持つ医学館と小石川養生所があった。  
医学館  
医学館は現代の医科大学に相当するもの。幕医を育成する目的で設立された。明和二年(1765年)に奥医師の多紀元至が医家の子弟育成を目的に私立の医学館を建てたが、天明六年(1786年)に全焼しや。  
幕府は江戸中の医者に経済援助を命じ再建、寛政三年(1791年)に幕府所管となり「医学館」と改称し藩医と町医者の入学を禁じた。天保十四年(1843年)に再び彼らの入学を許可した。  
医学館は現代の医科大学に類似し、基礎を学んだ学生が来館した患者を診察し所見(現代のカルテに相当)と処方箋を教授へ提出、教授が内容を確認し適切と判断すれば薬の調剤を命じた。医学生の教育が目的で患者の負担は一切なく、困窮した入院患者には食事を支給した。ただ、入院することは稀であった。  
小石川養生所  
小川笙生が医者にかかることができない困窮者救済策を目安箱に投書し、享保七年(1722年)に設立された。養生所の医者は寄合医師や小普請医師など御役についていない幕医であったが天保十四年(1843年)より町医者が担当するようになった。  
設立の主旨から貧窮者を対象し外来患者は最初の一年間だけ受け付けたがあまりにも多さに入院患者限定になった。費用は無料で衣服を支給することもある。死亡者には遺族に遺体を引き渡し身寄りのない者は回向院で葬られる。入院期間は当初は二十カ月までと決められていたが享保十五年(1730年)に十二カ月と短縮され期間が来れば強制的に退院させられた。  
経費は幕府の予算と拝領地からの収入で運営されている。経費の管理は同心がしていたが宝暦年間(1751から1764年)から勘定所の役人が担当し、経費が必要になる都度書類を書いて勘定所に提出して御金蔵から受け取るようになった。  
 
江戸時代の貨幣制度

 

小説で使われる貨幣のほとんどが金貨である。庶民は金貨を使う機会は少なく、小兵衛らに金貨を使わせることで経済状態が豊かであることを表す意味もあるが、江戸時代の三貨制度は複雑であり、読者への配慮という意味合いの方が強いだろう。実際の江戸時代ではご存知の通り金貨、銀貨、銅貨の三貨制度である。江戸時代以前に経済が発達していた上方では銀貨が中心に流通していた。大坂の陣で幕府が豊臣家を滅ぼし豊臣家が持つ金を回収し、幕府直轄地の金山から金の産出量が増えたこともあり、江戸では金貨を流通させたことで東日本は金貨が主に流通する金貨圏になり、国内で金貨圏と銀貨圏に分かれた。江戸では商業の中心地である上方から多くの物を輸入していたため、上方からの品の値段は銀で表示されることが多い。銀は明和二年(1765年)まで額面を記した貨幣はなく、秤で重さを量り、品質を確かめてから使う不便な貨幣だった。このページでは江戸時代の貨幣制度を解説する。 
江戸時代の貨幣制度  
買い物では高価な品の価格表示は銀、普段の買い物は銅貨と価格表示は分かれていた。金での価格表示は一両を超える高価なものに使われる。  
価格表示してある貨幣で支払うのが礼儀である。為替相場は固定ではなく変動制で、日に二回決められるため、その時点の相場を基に計算しなければならない。銀貨なら計量する手間があり、店にとっては迷惑な話である。  
価格表示してある貨幣の持ち合わせがなければ、買う側が両替商で両替して支払う。  
江戸時代全般を通じて流通した貨幣  
幕府は慶長六年(1601)から貨幣の鋳造を始めた。  
三貨のうち最も確立が遅かったのは銅貨。寛永十三年(1636年)に寛永通宝が鋳造される以前に幕府は銅貨を鋳造していたが流通量が少なく、銅貨不足で室町時代に明から輸入した永楽銭、私鋳銭や鐚銭の流通が流通していた。寛永通宝が全国的に流通し、銅貨不足が解消され、天和二年(1682)に寛永通宝以外の銅貨の流通を禁じたことで江戸時代の三貨制度が確立した。  
貨幣は貨幣の各名称に鋳造開始、もしくは改鋳開始の年号を用いて呼ばれる。小判なら慶長六年(1601)鋳造開始の小判を慶長小判、元禄八年(1695)に改鋳された小判を元禄小判と呼ぶ。額面は同一でも改鋳時期により品質が異なるため、改鋳前のものと区別するためである。  
ただ、一文銭である寛永通宝は何度も改鋳されるが、一文銭の代名詞という扱いなのか、改鋳時期に関係なく寛永通宝と呼ばれ続ける。  
金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座で鋳造された。金座と銀座のみが常設で、金座の長は後藤庄三郎、銀座は大黒常是が代々世襲する。銭座は臨時に設けられる。  
名称種類価値  
小判金金は一両=四分=十六朱。小判一枚の額面は一両。  
一分判金四枚で一両の価値。「分」は重さの単位である匁の十分の一にあたる「分」と区別をつけるため「歩」と表記されることもある。  
丁銀銀銀は秤量貨幣のため量りで重さを量って使用する。一枚約四十匁〜四十三匁。  
豆板銀銀一枚あたり四匁〜六匁。匁の十分の一が「分」、百分の一が「厘」  
一文銭銅一枚で一文の価値がある。寛永十三年(1636年)に鋳造開始された寛永通宝が江戸時代を通じて、一文銭の代名詞として呼称される。  
江戸時代の様々な額面の貨幣  
江戸時代初期の貨幣制度は現在の千円札と五百円玉に相当する額面の貨幣がないような不便な状態である。しかも、秤量貨幣の銀貨は秤で重さを量り品質を確かめてから使うという不便な貨幣だった。  
江戸中期からは商業が発展したこともあり、様々な額面の貨幣が登場する。特に秤量貨幣の銀貨は金や銅と同様に額面が定められている計量計数貨幣が登場したことで使いやすいものになった。  
ここでは名称と鋳造開始時期などを簡単に紹介する。定着したものは増鋳や改鋳が行なわれたが、品質が悪いなどを理由に定着せずに終わったものもある。「判」は金貨と南鐐(良質の銀と言う意味)に使い、普通の銀貨は「■■銀」というように呼ばれている。  
太字のものは小説の時代の江戸で流通していた貨幣である。  
名称鋳造開始時期種類額面  
五両判天保三年1832年金五両の価値がある。  
二分判文政元年1818年金一両の二分の一。  
一分判天保八年1837年銀銀貨の一分判。一両の四分の一。四枚で小判一枚と交換できる。  
二朱判元禄十年1697年金一枚で二朱の価値があり、携帯に便利。  
南鐐二朱判明和九年1772年銀金貨の額面を持つ初めての銀貨。額面は明記されていないが「以南鐐八片換小判一両(南鐐八枚で小判一両と交換)」と鋳銘されていることから実質的な額面は二朱。  
金属としては額面の価値はないが、幕府が額面を保証している補助貨幣。金貨と銀貨の統合を試みるなど画期的なものだった。  
一朱判文政七年1824年金一分の四分の一。一両の十六分の一。  
南鐐一朱判文政十一年1831年銀一朱の額面を持つ銀貨  
一朱銀嘉永七年1854年銀一朱の額面を持つ銀貨  
五匁銀明和二年1765年銀銀で初めての計量計数貨幣。「五匁」と額面が刻まれている。幕府の当時の公定相場は一両=銀六十匁のため、十二枚で一両と交換できる。  
当時の為替相場は一両=六十五匁前後で、両替商は五匁銀の額面を無視し、五匁銀に為替相場を立てるなど対抗し、定着せず七年後には廃止された。  
百文銭天保六年1835年銅「天保通宝」。素材は真鍮(亜鉛と銅の合金)。品質は悪く人気は低い。小判の形をしている。  
十文銭宝永五年1708年銅「宝永通宝」。将軍綱吉の命で無理やり流通させようとしたが品質が悪く、不評で綱吉死後廃止された。  
四文銭明和五年1768年銅素材は銅ではなく真鍮(亜鉛と銅の合金)と品質は悪い。  
しかし、鋳造時は黄金と色合いが似ているため人気が高く、物の値段に四の倍数が増えるぐらい定着した。  
藩札寛永七年1630年紙各藩が独自に発行した紙幣。発行した藩内のみ通用する。金札、銀札、銭札に加えて米や炭などの商品量を示すものもあった。  
寛永七年(1630年)に福山藩が文章記録上の最古だが寛文元年(1661年)に福井藩が発行したものが実在する最古のもの。  
江戸御府内には流通していいない。  
江戸時代の貨幣の材料  
現代の状況では想像もできないが、日本は江戸時代初期まで世界有数の金銀銅の産出国だった。16世紀中頃から17世紀初頭まで銀は世界産出量の三分の一を算出し、輸入品の支払いという形で銀や銅を輸出していたほどであった。採掘量は江戸時代初期にピークを達した。江戸時代の貨幣の材料は国内で賄えていた。  
あまり知られていないが金貨の小判には金以外に銀が、銀貨の丁銀には銀以外に金が特定の割合で含まれている。幕府が慶長六年(1601)に鋳造した慶長小判は金と銀の比はおおよそ8対2、慶長丁銀は銀792、金2、銅206の割合で含まれている。厳密に言えば合金貨幣である。合金貨幣は日本独自のもので、当時の世界最高水準の技術が用いられていた。  
改鋳  
江戸時代には何度も改鋳が行われている。改鋳により貨幣の材質を変えることで貨幣流通量を増減させ、物価を安定させようとする経済政策の意味合いで行われることもあった。  
ただ、ほどんとの改鋳の目的は財政難解消である。改鋳により貨幣の額面が同一でも、品質を落せば、額面と浮いた材料費の差額が利益になる。元禄八年(1695)の元禄の改鋳により鋳造された元禄小判は慶長小判二枚分の材料で三枚鋳造でき、元禄小判三枚鋳造すると単純計算で一両分の材料が節約でき、幕府に多大な収入をもたらす。  
また、同様の目的で、額面より品質が低い新貨幣を鋳造した。幕府は財政難に陥った江戸中期から後期にかけて、改鋳と新貨幣の鋳造がよく行われた。  
貨幣の為替相場は?  
幕府は物価安定のため、三貨の公定相場を定め、一定に保とうと目論んだ。剣客商売の一巻が始まった安永七年(1778年)の相場は金一両=銀六十五匁=銭六貫(一貫=一千)文だった。江戸時代初期の慶長十四年(1609)の公定相場は金一両=銀五十匁=銭四貫(一貫=一千)と、改鋳により貨幣の品質が低下などで銀貨と銅貨の価値が低下し、金貨の価値が上がった。  
しかし、両替両は公定相場を公然と無視し、日に二回相場を決めているため、実質的に変動相場だった。  
現代のように貨幣相場を利用して一儲けすることも可能であった。火附盗賊改の長谷川平蔵は自身の提案で設置された人足寄場の運営資金が幕府から充分に支給されず、銭相場で儲けた金を運営資金に投入した。おそらく、武家の中で貨幣相場に手を出した記録があるのは珍しいだろう。やはり長谷川平蔵は異色の存在である。  
 
法律と制度

 

江戸時代の家族に関する法律  
江戸時代の戸主権と親族に関する考え方  
基本的な考え方として戸主権がある。戸主は家族の扶養義務があり家族に対して絶対的な権利を持ち、行状が悪い家族を勘当や座敷牢に入れることができる。  
隠居後でも当主を勘当する権利があった。戸主が罪のある子供を殺害しても無罪だが逆に親殺しは引廻しの上磔、親に手傷を負わせただけでも磔になり、斬りつけただけでも死罪に処せられることからいかに戸主権が強いかわかるだろう。  
親、兄弟姉妹、叔父叔母、祖父母と三親等までが家族の範囲。当主とその妻以外の同居家族は「厄介」と呼ばれる。血縁関係はない継母の兄弟姉妹や先妻の子供であっても親類に当たる。血のつながりがない親族でも三親等以内の者との結婚になる近親婚は認められない。  
人別帳(戸籍)について  
戸籍には居住地、生国、年齢、菩提寺を書く。菩提寺を記入するのはキリスト教を禁止し全ての人をどこかの寺の檀家にする寺請制度から人別帳に発展した名残からである。  
男性は捺印し女性は印を持たない者は名のみ記した。妻は夫の戸籍、住み込みの奉公人は主の戸籍に入る。名主が戸籍の事務を扱い家主を通じて戸籍変更を受け付けた。引越しする場合は現住所の名主は人別送りの証文を発行し移住先の名主に現住所の人別帳から削除する旨を伝えた。  
結婚する場合は妻側の大家(家主)から妻の人別帳を、妻の檀家寺から寺請証文を受け取り夫側の家主を通じて名主に提出し夫側の人別帳に加えてもらい菩提寺に妻の寺請証文を発行してもらう。  
勘当  
勘当すると法的には家族関係は解消され扶養義務と縁座が免れる。家族が犯罪を犯せば家名に傷が付くだけではなく、犯罪によっては自分までも罰せられる縁座の対象になる。武家では御役御免や改易になることもあり、行状の悪い子供と戸籍上の関係を断っておくことは家を守る上で必要だった。  
勘当されると人別帳から削除され無宿人になる。手続をしなければ効力がなく、親類が協議後家主や五人組に知らせ名主へ届けた。  
名主が審理し納得できるようなら家主、五人組付き添いで月番の町奉行所へ届けを出した。奉行所では親が子供を勘当するというのは本人に反省を促す最終手段と考え、容易に許可しなかった。子供が更生する見込みがないと判断すれば許可し勘当帳に記載し届けを出した者は非番の奉行所にも同じ願書を届け勘当帳に記載してもらい写しを必ずもらい除籍の手続きを取る。天明二年(1782年)からは勘当と同時に除籍された。  
勘当された者が改心し更生した場合には勘当を取り消し再び親子の縁が戻り人別帳に記載された。家主五人組連印し名主が奥書した帳消願いを町奉行所に提出した。勘当を取り消すと二度と勘当はできないので慎重になる必要がある。  
駆落ち  
男女の道連れというのが現代での「駆落ち」の意味。江戸時代には失踪、家出など幅広い意味で使われていた。  
行方不明になった者が立ち寄りそうな場所を回り六度探しても見つからない場合は戸主は人別帳から削除し縁を切る久離帳外の手続きが取れる。方法と効力は勘当と同じ。  
無宿人  
勘当や失踪により人別帳から削られた人のこと。住居の有無は関係ない。  
全ての身分の者は人別帳に記載されている。武家なら上役、町民なら家主や名主などの支配下に置かれている。無宿人のみが誰の支配も受けない存在である。  
無宿人でも身元保証人である請負人がいれば江戸で暮らすことができた。無宿人の場合は出身国名をつけて呼ぶ。犯罪が原因で家を飛び出し無宿人になった者も多く、江戸には無宿人があふれ治安が悪化した。寛政二年(1790年)に火附盗賊改の長谷川平蔵が提案した無宿人の更正施設と授産施設である人足寄場を設置し幕府は無宿人対策に乗り出した。  
小説では十六巻浮沈の滝久蔵は徒士目付小村家に養子に行くことができたが富山藩で何か事件を起こし藩を追い出されている。当然、勘当はされているはずで無宿人のはずである。彼が御家人の養子に入ることはできないだろう。  
十二巻浮き寝鳥の老乞食は旗本溝口家の長男だったが勘当同然で駆落ちしている。おそらく戸籍から削除されたに違いないだろう。他にも無宿人とは明記されていないが無頼の徒や四巻鰻坊主の善空は元の名を捨てて他人になっている。おそらく無宿人だろう。  
相続  
家主を通じて名主に通報し手続きをしてもらう。相続は生存中に家主、五人組付き添いで町年寄の元へ行き町年寄帳に相続人の名前を登記した。  
遺言状は家督相続や遺産相続に効力を持ち、遺言者の自筆捺印と五人組の加判が必要で遺言状は町内に預けられ五人組立会いの下で開封された。  
相続人は男子のみで嫡子が原則相続し、子供がいない場合は妻が一旦家名を預かり親類と協議した上で改めて夫か養子を向かえ家を相続させる。妻もいなければ直系の親族の男子に継がせ、全くいない場合は他人を養子にし継がせた。  
相続税と贈与税に該当する税はないため浅野幸右衛門の遺金約千五百両と浅野の屋敷を相続した小兵衛には全く税金がかからなかった。もっとも、家屋を除き、相続できるだけの財産がある家は少ないだろう。 
婚姻・不倫・離婚に関すること  
婚姻の方法  
妻側の大家(家主)から妻の人別帳を、妻の檀家寺から寺請証文を受け取り夫側の家主を通じて名主に提出した。藩によっては許可制を採るところもあった。  
小説の大治郎が27歳、三冬が22歳で初婚と言うのは当時では晩婚と考えられていた。跡継ぎを早く得て御家を安泰させる観点から早婚を奨励した。武家社会では十歳も満たない子供同士の形だけの婚姻を行い成人後に嫁ぐこともあった。  
大治郎夫妻のように恋愛結婚(六巻・品川御匙屋敷で田沼意次が三冬を助けた大治郎に直接頼み小兵衛が強引に請けたので一応親同士が決めた形にはなっていたが)は少なく、親同士が決め結婚するまで相手の顔を知らないこともあった。そのため、天保年間(1830年から1844年)には芝居小屋見物などの名目で相手の顔を見るお見合いが流行った。知人に相手の風貌や評判などを調べてもらう陰聞きも行われていたそうだ。  
婚姻は武士は許可された時点、庶民は結納が済んだ時点で成立したとし、それ以降は「人妻」として法律上扱われる。現代の国際結婚に該当する他藩の者との結婚は一苦労で互いの藩庁の許可をもらい願書と寺請証文を添えて庄屋か名主に実印をもらい夫側の藩庁に提出し藩が審理後許可した。武家や大店の婚姻は持参金を持参する。  
三親等以内の者との結婚になる近親婚は不許可である。例え、血縁関係はない継母の兄弟姉妹や先妻の連れ子であっても親類に当たるとして認められない。従兄妹婚はお互いの経済状況がわかっているため武家を中心に多かったようだ。  
妻の財産権  
夫と妻の財産は別々に考えられ妻の財産権は確立されていた。平均寿命が短く死別が多く離婚も多いことが理由。『武士の家計簿』(著磯田道史新潮社)によるとこの本が扱った加賀藩士猪山家では夫と妻は別会計で家計簿には「妻から借金」と記載されている。さすがに利子はなかったようだ。  
後の時代では夫が罪を犯し財産を没収される闕所の刑に科せられても妻の財産は対象にはならない。  
不倫  
不倫は法律上「姦通罪」という犯罪行為であるが当事者間が内済として金で解決することが多い。訴えれば公になり当人の不名誉である。武家では当主の「家内不取締」を理由に減俸を命じれれる危険性もあり内済で済ませざるを得なかった。そのため、「気軽」に不倫が横行し「首代七両二分」という不倫の目安の相場まで庶民は知っていた。  
離婚する方法  
江戸時代は現代と異なり離婚に対し偏見は少なかった。死別が多いこともあるが命令婚が多く結婚生活が上手く行かないこともある。  
夫が離婚状を書かない限り離婚は成立しない。離婚状は「三行半(みくだりはん)」という定型文で構成されているが夫婦や親類など関係者で必要なことはそれまでに話し合われた上で出されるため離婚状は再婚免状に近い性格を持つ。婚姻時にあらかじめ離婚状を先渡ししておくこともあった。  
離婚すると妻の持参金を夫が返還する必要があり、屋敷や田畑を売ってでも返さなければならなかった。慰謝料を支払うこともあった。夫側の身勝手な理由では離婚することはできない。  
夫側に問題がある場合は妻側から離婚を申請できた。夫が十ヶ月以上行方不明になったことを大家と五人組が確認した場合は離婚が自動的に成立する。万一夫が戻ってきても離婚が成立するように夫の親族から離婚状を書いてもらうこともある。  
四年の別居で夫は離婚状を出し、互いの行き来が四年も途絶えてしまえば婚姻関係は事実上消滅とし離婚状なしで離婚が成立した。重罪を犯した夫や妻の衣服を無断で質入するような経済力のないなど明らかに夫に問題がある場合は妻の親が夫に離婚請求ができた。  
離婚調停が難航した場合は縁切寺や有力な武家屋敷、代官所、関所、名主の家に駆け込み保護された。駆け込み先で手続きをし離婚できた。縁切寺に駆け込んだ妻から理由を聞き、納得できる理由なら夫側を呼び出し離縁状を書くよう説得する。不成立なら妻を尼として寺に置き数年間過ごさせ離婚が成立した。妻にいじめられた夫が離婚を求めるが妻が承知せずに駆け込んだこともあったそうだ。 
 
武士の俸禄

 

武士の収入源である俸禄表示は大きく分けて五種類あり、「三十俵二人扶持」など混合して表示されることがあり、どれだけの収入があるのかわかりにくい。ここでは旗本・御家人の俸禄と計算方法について解説する。  
武士の俸禄  
武士の主な収入源は俸禄である。俸禄は家禄と職禄の合計で、家禄は先祖の功績によって決められている。足高制導入後は各役職の規定職禄以下の家禄の当主に家禄との差額分を在職中のみ支給した。蔵米取の旗本御家人の場合は札差に手数料を払って屋敷まで運んでもらうか金に換金してもらった。  
江戸中期に入ると家禄だけでは生活ができず、役職に就くことで役料を得て、どうにか暮らしていけた。出費の多い役職は、役職の出費に耐えられる裕福な旗本に任命することが多かった。俸禄は物価変動に対応しておらず、江戸中期から米安諸色高(米以外の物価)になり実質収入は減り借金に頼るようになった。  
藩士は国許から物価の高い江戸住みを命じられると二重生活になり多大な出費を強いられることもある。  
種類 / 表示と内容  
知行地取り  
「高■■石」と表示。石高×税率(幕府は二割から四割)と雑租。もっとも格式が高い俸禄の支給方法。知行地取りを「給足」それ以外を「無足」と呼び区別していることもある。食べる分以外の米は知行地で金に換算し収められる。幕府では計算上の便宜上税率は三割五分と設定している。書類上の石高と実際の石高が異なる。  
蔵米取り  
俵で表示。地方によって米俵に詰め込む量が異なるため幕府は一俵を三斗五升、百俵を玄米三十五石という基準を定めている。幕府は二月、五月、十月に支給する。  
現米取り  
「現米■■石」と表示。玄米で石高分支給される。現米取りを「切米取り」と呼んでいる。  
扶持米取り  
一人扶持は一日あたり玄米五合、年間で一石七斗七升を支給する。五俵より二升多いが、計算上は端数を削った五俵として扱われている。毎月支給される。  
金銭  
牢屋下男など身分が低い役人は金銭で支給されることがあった。  
俸禄別金額換算方法  
俸禄を金額に換算する方法は玄米一石=一両とし、他の項目について幕府の基準に基づくと知行取は税率を三割五分で計算し、石高×0.35税率、俵取りは俵×0.35、現米取りは現米、扶持米取りは人数×5(一人扶持は5俵)×0.35となる。  
なお、金は四進法で一分が四分の一両=0.25両、一朱が十六分の一両=0.0625両と金額換算をする場合は端数が生じる。  
知行地取百石=百俵=現米三十五石=二十人扶持=三十五両となる。御家人の家禄の定番の三十俵二人扶持は米換算で五十俵、金額換算で十七両二分になる。  
役高・足高制・役料  
低禄の有能な人物を要職に就ける場合は家禄を加増したが、四代将軍治世に財政難になると役料を規定し、家禄との不足分を役職手当てとして家禄を加増する形で支給した。しかし、退職後も家禄に含まれている役料分が減らされずに支給される弊害があった。そのため、元禄以降の庶務会計に低禄の者を多く採用することになり人件費が増加する原因になった。  
享保八年(1723年)に足高制が発足し、役職就任時のみ規定職禄と家禄の差額を支給するようになった。例えば、家禄千石の旗本が職禄三千石の町奉行に就任中は家禄千石と職禄と家禄の差額分である足高二千石が支給される。役料の規定がある役職に就けば家禄に関係なく役料が支給される。家禄が職禄以上で、役料が支給されない役職では収入が増えない。  
ただ、規定職禄で出費が賄える保証はない。「御役目貧乏」という言葉があったかわからないが、足高か役料が支給されても出費の多い役職に就いたため、無役の時より経済的に苦しくなる事態もあった。一方で役得の多い役職では職禄に関係なく収入が多いという矛盾がある。  
部屋住惣領の切米  
部屋住惣領(旗本の当主の嫡子。家督は継いでいない状態)の中には親が重職者なら御役に就いていることもある。在職中は職禄分の切米が支給される。最高は三百俵までと決められている。惣領の切米にも足高制が適用される。  
部屋住惣領の役職は在職中の父の役職を超えないのが通例だった。  
隠居料  
当主が家督を譲ると家督相続前に部屋住み惣領が役職についていた場合に限り、その時の切米の内足高を除いた分が隠居料として支給される。  
褒美・家禄の加増  
皆勤者や永年勤続、功績があったものには褒美が下される。旗本は百俵以下の者が重職者である「布衣(六位相当)」の役職に就任すると家禄が百俵に加増される内規があった。  
遠国(江戸以外の幕府直轄地)奉行は二百俵、勘定奉行・町奉行は五百石、御側衆は二千石に就任時に家禄が加増される。永年勤労や功績を挙げて加増されるがその機会は稀である。  
 
敵討ち

 

講談や時代劇ではよく題材にされる敵討ち(仇討ちともいう)は小説でも数編が登場する。追う側や追われる側の異なった立場での話しがある。  
敵討ちが「殺された被害者の親や子供・兄弟など親族や門弟、家来、友人が御上に代わり加害者を討つこと」というのは周知のことと思うが、全てが法律で認められるのではない。  
忠臣蔵は法律上の敵討ちではない  
忠臣蔵は一般的に敵討ちと考えられているが法律上の敵討ちとは異なる。浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけたことは明白であり、浅野は犯罪行為により公儀に裁かれた結果、切腹した。吉良は被害者であり、彼を討つのは筋違いである。現代に例えるなら、裁判で死刑判決を出され、刑が執行後に元死刑囚の遺族が被害者を殺すようなものである。  
討ち入りは喧嘩両成敗の原則を無視し、浅野だけを処刑した公儀への抗議が目的である。幕府は片手落ちの非を認めたのか赤穂義士の処分は殺人罪に適用される死罪ではなく、武士として誇りを保り自らの行為を自らが裁く「切腹」とし、実質的には無罪扱いである。  
敵討ちの「解禁」  
室町時代まで敵討ちは禁止されていたが、江戸時代に入ると禁止が解かれた。幕府は表向きには敵討ちを推奨していたわけではなく「届け出た場合には許す」という姿勢だった。ただ、武家は当主が殺害されると敵を討つまで子弟が家督を継ぐことが許されないという不文律の制度があり、家督を継ぐために敵討ちをしなければならない。  
敵討ちが存在するのは殺人事件が発生した場所を管轄する機関は自身の管轄の外へは警察権が及ばず追うことができない法制度の欠陥を補うためである。例えば、ある藩で起こった殺人事件の犯人が藩外に逃げてしまえば、藩の役人は追うことができない。「被害者の親族が御上に代わり犯人に制裁を加え、逃げ得を許さない」という意味合いが強く、敵討ちをする者はどこの領地でも通行が可能だった。  
しかし、小説の四巻・鰻坊主の善空こと津田庄之助は兄が敵の妻を犯したため殺された一件を藩がもみ消し「敵が津田の兄を一方的に殺害した」とした。姦通罪の規定上、敵が津田の兄を殺したことは罪にならない。藩の重役が事件をゆがめてしまうこともあるだろう。  
このように殺された側の方が非があるケースのように敵を恨むどころか同情する場合でも敵討ちをしない限り家督が継げない。敵討ちは当事者にとって迷惑な制度である一方で数々のドラマを生み出すものである。  
法律で許される場合  
敵討ちは例え親族が殺されても全てが法律上許されるとは限らない。かつての日本には尊属(自分より目上の親族。親、兄、祖父母、叔父、叔母など)、卑属(自分より下の親族。弟、妹、子、甥、姪、孫など)という考え方がある。  
そのため、尊属殺人は通常の殺人より刑が重かった。同じ親族でも殺された相手が尊属である親ならば敵を討つことは認められるが、卑属である子供ならば敵討ちをすることは法律上は許されない。どちらも同じ親族にも関わらず、本人との間柄だけで許されないケースがあるのは心情的に納得できないだろう。  
また、敵討ちに行く討手は殺された人物の血縁が濃い縁者がなる。全く縁者がいない場合は門弟や家来、友人、義理のある者が討手になることも許された(下記表参照)。武家以外では敵討ちのための殺人と確認されると無罪となるため事実上黙認されているようだ。  
なお、小説の二巻・老虎の山本孫介が息・源太郎の仇・森川平九郎善武を討ったケースは法律上の敵討ちではない。ただ、果し合いではお互い命を落すことを承知の上であり、万一相手を死なせても罪には問われないため殺人罪には該当しないため実質的には敵討ちになる。 
殺人罪に問われない殺人行為  
殺人罪に問われない殺人行為は敵討ちの対象にはならなかった。  
主、親、兄に手打ち、または彼らの命で家来に「上意討ち」にされた場合。  
封建制度は「下の者が上の者に無条件で従う」ということで成り立っている。戦国時代のように有能な家臣が無能な主に取って代わる主従が交代することは許されない。主や親、兄には絶対服従が原則である。  
武士は家来への生殺与奪権があり罪を犯した家来や家族を処罰することは権利として認めれていた。主、親など目上の者の殺害行為は通常の殺人罪より重罪で、目上の者への敵討ちを認めれば主殺しを容認することになり、封建制度の崩壊につながるため認められない。  
果し合いにより亡くなった場合  
果し合いは真剣勝負でどちらかが命を落とすことは了承済みの上で行われている。相手を殺してしまっても殺人罪には問われない。小説でも果し合いが原因で敵討ちを行う場合があるが非合法だと強調されている。  
もし、果し合いで亡くなった者の敵討ちを法律に反せずに行いたければ正々堂々と果し合いを行い、討てばいい。  
刑罰により処刑された場合  
法に基づき評定所や町奉行所など司法機関が死罪を宣告し執行人は刑を執行している。彼らは殺人罪に問われず敵として討つことはできない。  
重敵の禁止  
誰かの敵として討たれた者の敵を討つことは許されない。敵として討たれた当事者の縁者は心情的に納得できないかもしれないが、重敵を禁止しないと怨恨が果てしなく続くだけに禁止されている。  
敵の家来・奉公人になって討つのは禁止  
敵に近づく目的で敵の家来か奉公人になり機会を窺い討つというのは禁止されている。敵討ち目的であれ一日でも主従関係を結べば敵でも主になる。主殺しは封建制度に反する大罪でこれを認めてしまえば封建制度の根幹に関わるだけに認められない。  
戦死  
戦場は互いの主のため命懸けで戦っているため殺人罪には問われない。一騎打ちなど敵がわかっている場合でも認められない。合戦で合間見えた時に討つしかない、  
職務上必要なケース  
捕物で容疑者が激しく抵抗し、捕縛すれば多くの死傷者が出かねないケースではやむなく斬り殺すことが認められる。城内か屋敷内に不審者が入り込み、斬り捨てることもある。このように職務行為で行ったことは殺人罪に問われない。  
また、辻斬りなどに襲われて、自身と主や親、友人など守るために曲者を殺す行為も罪には問われないだろう。 
敵討ちの手続き  
通常の殺人事件でも「敵討ち」ということにし、罪を逃れようとする者もいた。敵討ちの手続きをしておけば、本懐を遂げた時に公儀が敵討ちによるものと確認するための余計な時間と手間がかからない。  
登録制度  
旗本・御家人なら上司である支配頭を通じて幕府へ、藩士は藩へ届けを出し許可を得て敵討ちの旅に出る。藩は幕府に届け出て、幕府は備付けの帳簿に登録する。事件が起こり、敵が判明している時は届出を代理人に任せて許可をもらうことも認められている。なお、仇討ちの旅に出ている間は、財政的に余裕があった江戸初期を除き停職扱いとなり、親族の援助で敵討ちの旅を続けた。  
浪人は所在地を管轄する幕府の行政機関(各町奉行所か代官所)、または領主を通じて幕府へ届け出る必要があった。  
本懐を遂げると登録済みだと検視役人に「仇討ち登録済み」という旨を伝え、登録先へ照会され、敵討ちによるものと確認されると釈放される。未登録の場合は証明されるまで牢に入れられて待つ。武士以外には法律上の敵討ちは許されず殺人犯として扱われるが敵討ちと証明されれば無罪釈放になるため黙認されている。  
仇人が死亡した場合  
五巻・手裏剣お秀で登場する野口一門の敵・杉原佐内が病死していたように、敵が死亡した場合は死んだという確かな証拠があれば帰参が許される可能性がある。  
敵討ちの成功率と最長期間  
『時代考証事典』によると現存する大半の敵討届けの成否欄が空欄で1%に満たないと考えられている。また、同書によるともっとも長い期間は陸奥の修験者の妻「とませ」が母の仇・源八郎を53年間追い続け仕留めたとある。  
敵討ちの意識  
江戸初期には財政的に豊かで留守宅への扶持も十分あり余裕を持って仇討ちの旅に出られた。しかし、中期以降になると武士道が形骸化し「酒の席の喧嘩」や「囲碁、将棋での争い」などつまらないことが原因による殺人事件が増加、敵討ちの届けも増加する。一巻・雨の鈴鹿橋の後藤伊織が上司の天野半兵衛に職場内のいじめに逆上し殺してしまったようなこともあっただろう。  
しかし、四巻・鰻坊主の善空こと津田庄之助は兄が敵の妻を犯して殺されたなど被害者に非があり敵を恨む気持ちがなくとも敵討ちをしない限り家督が継げない。津田の場合は兄は他人の妻を犯して殺されたのだから自業自得なのだが、藩の重役と関係があったのか兄の汚行をもみ消し敵が兄を殺したという処理がなされたのだろう。  
敵討ちは私事という考え方が定着し、届けを出すと停職になり俸禄が取り上げられる。御役目を務めていない者に俸禄を出すだけの財政面で余裕がなくなったのだろう。敵討ちの旅は親類・知人の援助に頼るしかなかったが本懐が遂げられずに長年経つと援助を頼みにくくなるだろう。  
本懐を遂げれば帰参し武勇が讃えられ十六巻・浮沈で登場する滝久蔵のよう加増されることもある。浪人なら忠臣蔵の中山安兵衛のように評判となり腕が買われ仕官の道が開けることがある。ただ、みっともない討ち方では体面上帰国するできず最悪帰参が適わないこともあったそうだ。  
四巻・夫婦浪人の高野十太郎の敵である村尾が公金横領犯など藩に関わる不正を犯し逃げた場合は藩からの経済的な援助や情報提供が期待できた反面、十一巻・助太刀で中島伊織が藩家老縁者である渡辺九十郎を討って帰参しても歓迎されなかったように政治が敵討ちに絡むことがあり大名や家老の縁者が殺人事件を起こしても被害者の親族へ金や役職を与えて「なかったこと」ということにして解決することもあっただろう。  
助太刀  
多くの作品では助太刀は誰でもなれるような記述があるが厳密に言うとなれない。本来は敵討ちを行う討手が女性や子供で、相手に勝てそうもない場合に限り縁の濃い者が監督と自身の敵討ちを兼ねて出る。本人同様登録が必要で同行している間は停職になる。  
敵に出会うと助太刀は脇役に回り、討手が危なくならない限り手出しをしないのが礼儀である。助太刀の力を借りて討つことは本来は不名誉なことである。  
しかし、敵が都合よく一人でいるとは限らない。果し合いで日時と場所を決めて立ち合うと敵が助太刀を連れ、返り討ちにしようとすることもあり、討手にも助太刀が必要である。 小説でも描かれているように助太刀は助太刀同士で戦うのが基本である。  
助太刀で有名になった流派  
剣客が関わった仇討ちは一巻・剣の誓約で紹介されているように、無外流の祖・辻月旦が杉山兄弟の敵討ちの助太刀をしたことが一躍有名となり流派が栄えるきっかけになった。池波作品の短編集『剣客群像』収録の「かわうそ平内」はこの敵討ちを題材にした短編作品がある。  
また、神道無念流の戸賀崎熊太郎は親の敵打ちを目的に入門してきた富吉を五年間で鍛え上げ、居合いを学ばせられるように知人を紹介し、門人を動員し仇を探し当て、天明三年(1783年)の神楽坂行願寺で行われた仇討ちを成功させた。戸賀崎は打ち損なえた場合に備えて高弟数名を配置していたほどだった。この仇討ちが『仇討農家功夫伝』という実録本が出たほどの評判となり、神道無念流が有名になった。  
 
武士の金融と借金

 

江戸時代の金融や藩、武士対象の金融機関について考える。なお、庶民相手の金貸しは別ページで解説している。  
幕府や藩の金融  
年貢収入の伸びが期待できず新たな収入源を得る目的や高利貸しに苦しむ領民を助けるため幕府や藩が金融業に乗り出した。  
拝借金制度  
幕府が無利息で災害救済などを目的に貸し出す非営利の制度。年賦で返済する。旗本は屋敷が全焼、大名は江戸屋敷、城(城持ち以外は陣屋)が全焼以外に国許での災害や財政難に場合に貸し出される。江戸初期の幕府は財政的に余裕があり、貸付金が返済の必要のない下賜金に替わることもあった。  
御三家や譜代大名に優先的に融資する政策的な意味合いがある。大名旗本から見れば「いざという時に幕府から金銭的な援助がある」という幕府が彼らを支える仕組みだが幕府財政に余裕がなければ貸し出しを停止した。田沼政権下ではこれを停止した時期があり、そのことで彼らの不満を招いたという見方もある。  
災害での屋敷修復費は旗本の場合は千石なら百両と石高の十分の一を上限に貸し出した。同様の趣旨で取替金制度があり、災害不足の出費を立て替える。  
公金貸付制度  
有利子融資制度。利子収入を目的としている。資金は幕府の財源や御用金として幕府の御用商人から御用金という一種の公債を強制的に上納させた金や寺社への名目金、豪商と豪農有志からの冥加金(一種の税金)を充て藩や旗本、豪農などに貸した。利子は一割前後でそこから御用金などの出資者への利息払いを除いた分が幕府の収入になる。  
田沼政権により始まった当初は対象が江戸町民限定であった。松平定信政権からは対象を農村部に広げた。幕府としては収入が一定ではなくこれ以上増収が見込めない年貢収入以外に収入の柱が必要な時期であり、公金貸付による利子収入は必要な政策を行う資金を集めるには優れた制度であった。  
天保十三年(1842年)には約二百六十万両が公金貸付金として使われた。単純に貸付金額の一割が幕府の収入になると計算しても年二十六万両の収入になる。幕府の年貢収入の二割程度に該当する。財政難の幕府を大いに助けたに違いない。  
御貸付金  
旗本・御家人限定の金貸し。年利4から5%と低利である反面、融資には審査があり緊急時には間に合わないという欠点があった。十カ年賦返済で毎年一月に返済する。  
御用金制度  
米価調整や財政補填、江戸城再建など各種土木事業費、長州征伐などを名目に集めたが実際は幕府の財政補填が主目的であり、半分は目的どおりに用いたがその他は財政補填や公金貸付金の資金にした。幕府の御用商人や時には直轄都市の町民、幕府領の農民から半強制的に上納を命じた。税金ではなく「借りている」という名目で年利3%の利息を加えて返還する決まり。  
「上納」という「自発的」に納める制度上、多額の上納者には上納金五千両につき銀二十枚、二千両で十五枚、千両で十枚が褒美にもらえる。銀一枚が四十三匁で一両=銀六十匁と換算すると0.7両程度の価値があり三千両で21両と0.7%が返って来る計算になる。三千両を上納し返還を求めなければ永代苗字が許される特典まであった。  
当初は約束どおり返還していたが天保14年(1843年)には御用金125万両の内55万両の元金と38万両の利子分が返済されなかったように返済されないこともある。財政難の幕末では返済をせずに相次いで御用金を命じた。  
江戸町会所  
寛政三年(1791年)に出した七分積金制度は町費を節約させてその節約分の七分(七割)約二万二千両を毎年積み立て翌年江戸町会所を設立し低利融資の事業を行った。地主の普請が対象で年利五%の十年年賦返済と低利であった。  
幕府が出仕した公金一万両は富豪商人に貸し付けた。利子収入から財政補填や貧窮した者への御救い米や災害被災者への御見舞金に充てた。  
猿屋町会所  
札差専門の金融。寛政元年(1789年)に旗本救済を目的に札差棄捐令が出され札差への借金を六年前までは無効それ以前の利息は一割二分にするよう命じ札差は約120万両の損害を受けた。札差は旗本達に借金の実績がないとして金を貸さないと抵抗し同年札差救済を目的に幕府が一万両を彼らに直接金を貸し十年返済猶予期間を設け二十カ年賦返済とした。  
足りない部分を勘定御用達商人が資金を出した猿屋町会所が補い会所が札差に年利8%で貸し札差は旗本らに年利12%で貸す制度になった。御用達商人からの資金は幕府が形式的に預かり会所に運用させることで公金としての性格を与え返済を確実なものと利益を挙げた。  
藩士への金融  
藩は藩士の申し出に応じて金を貸す。財政難で俸禄の一律削減を行った藩は削減分を名目上は「借りている」が返済されることはほとんどない。  
領民への金融  
担保がなく高利貸しから借りる以外方法がない領民の暮らしを安定させることを目的に相場より低利で貸し出しすことを行った藩もあった。領民は災害など不足の事大に陥っても藩から低利で金が借りられることは心強いことだった。  
会津藩は承応四年(1655年)に中国の隋の制度を模範とした福祉と金融を兼ねた社倉制度が行われた。藩が米を買い上げてそれを元手とし困窮農村の救済や災害救済、新規農民への食糧援助を行った。米で融資し貸す場合と与える二種類がある。利子は年貢納入の折に納める。利子収入も加わり初年の七千十五俵から十年後には二万三千俵にまで増え多くの農村に社倉が設置された。  
播州姫路藩では相互互助の金融制度の頼母子講を発展させた御国用積銀を発案し領民の中から加入者を募り毎年百匁を五年間積み立てさせ六年目から十年間にくじに当たった者に利子を支払う。積みたてた銀を災害救済など非常時の財源や借財の返済に充てた。  
商人へ貸付  
仙台藩は藩独自の買い米制度で得た利益を大坂の豪商や両替商に貸し付けて利子収入を得た。 
武家相手の金融業  
江戸時代当初は商人にとって、年貢収入という定期的に決まった収入が入る武家は社会的信用も高くリスクが少ない取引相手であった。しかし、江戸中期以降は財政難の家からの踏み倒しが増えて倒産するなど苦しんだ。  
明治維新により政府は藩の借金を肩代わりしたがその記録が『江戸時代』(大石慎三郎著、岩波新書)に掲載されている。天保14年(1843年)以前ならびに年号不明のものを旧債約1200万両とし破棄、天保15年(1844年)から慶応三年(1867年)までの中債約1100万両と明治元年(1868年)から明治五年(1872年)までの新債約1300万両を明治政府が引き受けた。  
計算上は約三十年で3600万両の借金があるが、幕府からの借金は肩代わりしないなど厳しい条件をつけているため、実際はさらにあるだろう。  
大名貸し  
大名専門の金融。江戸初期においては大名は社会的信用が高く、年貢収入という定期的な収入があるため有効な資金運用先として無担保で七分から一割という低い利子で貸した。大名貸しの店の主は貸した藩主から利息を受け取るだけでなく、禄米目録をもらい士分待遇を受けた。貸主は用人格待遇を受け、手代は手代扶持を支給され藩主から紋服や裃、熨斗(のしめ)、肩衣羽織など拝領し藩の特産品を贈られた。主人は藩主に高価な珍品など贈物を送ることで藩との関係を強化した。  
江戸中期に入り「お断り」と称して借金の未払いが続き、大名家の社会的信用が低下し大名貸しの倒産が続いた。悪質な大名一覧名簿と貸付を拒否する方法、催促能力を高める情報を共有し、危険な大名家へは複数の大名貸しが金を貸した。次第に年貢や藩物産等を担保に取り大名貸しの手代が藩の年貢収納に立会うだけでなく手代が直接農民から相当分の年貢を徴収することを認めさせたところもある。  
大名の信頼が落ちると百姓の方が信頼できるとして大名貸しは藩への借金を百姓を使って貸すことが増えた。ある藩は借金のため「藩の全領民が田畑を質に入れて借りた」ことにして借りたが返せず担保の藩の領地が大名貸しのものになり大名貸しが藩主になるという寸前で幕府が介入し大名貸しに無理やり譲歩させ異常事態を解消した。  
財政難がさらに深刻化すると貸主がいわゆる「御台所預かり」という形で貸主側が用人を送り込み藩財政を賄う場合もあった。  
知行地から借りる  
知行取りの旗本は知行地に借金を頼むことが多かった。知行地は納めるべき年貢から借金分を引いて収めれば確実に借金を回収できるだけに踏み倒される心配がない。知行地からの借金でも18%と、相場とあまり変わらない金利のようだ。領主が領民に頭を下げてまで借りる理由は他に借りられるところがない結果だろう。  
ある旗本は知行地の村々に台所預かりしてもらうようになった。領主である旗本に対して知行地の村々から当主の小遣いの削減から炭の使用量の制限、当主の生活から人員削減など被支配者が支配者に出した条件とは思えないぐらい厳しい。  
札差  
旗本・御家人の中で知行取り以外は札差から金を借りた。札差は支給される年貢米を旗本や御家人に取り次ぎ百俵につき金一分、売却の場合は100俵につき金二分と手数料を収入源にしていた。  
旗本らへの借金を業務にすることで儲けを大きくした。幕府は俸禄を年に三回に分けて支給するが札差はこの時に借金と利息分を引いた分を旗本らへ渡せばいいため回収が容易で安全性が高かった。安永七年(1778年)に札差組を改め、三町組、一町六組、一組五名にした。享保九年(1724年)に札差仲間が創設され年利15%以上の利子を取ることは禁止されたが謝礼金などの名目で法定以上の利子を取った。  
寛政の改革で札差棄捐令が寛政元年(1789年)に出された。六年前までの借金を無効にし、それ以後の利息を一割二分までに下げる改正を命じられ札差は約120万両の損害を受けた。札差は年末に借金を申し込みに来た旗本達に借金の実績がないことを理由に貸さなかった。  
同年札差救済を目的に幕府が一万両を彼らに直接金を貸し十年返済猶予期間を設け二十カ年賦返済とした。足りない部分を勘定御用達商人が資金を出した猿屋町会所が補い会所が札差に年利8%で貸し札差は旗本らに年利12%で貸す制度になった。御用達商人からの資金は幕府が形式的に預かり会所に運用させることで公金としての性格を与え返済を確実なものとした。利子収入の行方はわからないが出資者がもらったようだ。  
商人  
札差以外の商人が武士に金を貸した場合は俸禄や知行地を担保に採りにくく年貢米を担保にしても実際に町民が差し押さえることは難しい。裁判を起こしても借金問題を扱う民事訴訟の「金公事」は当事者同士が信用して貸したのだからとして嫌われている。  
武家の借金は踏み倒されることが多い。藩のように判決を下す側も踏み倒しをしていることもあり、貸手勝訴の判決を下せば出した側の借金も返すように迫られるため認めざるを得ないのだろう。  
武士に貸すのはリスクが大きく加賀藩では領民への利子が10〜12%に対し藩士は15〜18%と利子が高い。  
親戚  
『武士の家計簿』に加賀藩の藩士の債務先が掲載されている。江戸時代の一般的な藩士は平均年収の二倍の借金があると言われている。知行地の他に一方、親類や同僚が多く互いの経済状況がわかっているから融通し合うが18%も利子を取る。  
武士の縁組に家格や格式を重視するのは、親戚になれば同時に金融取引の相手にもなるだけに経済状況が同じぐらいの方が都合がよいと考えられている。相手の家の格式が低ければこちらが金を借りたい場合でも相手から借りられる金額が少なく、相手の方が高ければ自分の家の収入では融通できないような金額の借金を申し込まれれば大迷惑である。  
五常講  
二宮金次郎は小笠原藩家老服部家の財政再建を任せられ文政三年(1820年)に藩から借りた金を原資に「五常講」という金融制度を始め藩士救済に乗り出した。百人に一人三両百日期限で貸し出し、支払われない場合は連帯責任として一両なら名簿順に十人目までが一人七百文を出し返済させた。世界初の信用組合とも言われる。  
 
武士が経済的に苦しいわけ

 

小説でもよく貧乏御家人の話が出るので旗本と御家人を中心にお金の話を取り上げてみる。御家人の家禄の中で最も低い三十俵二人扶持でも金額に換算すると十七両二分になり庶民なら十両あれば暮らせる時代だけにそれなりの収入である。中には大店を超える高収入の家もあるがどうして経済的に苦しいのか考える。  
御家人の子供の身なりがあまりにもみすぼらしかったのか商家の子供にばかにされ無礼討ちにした話や借金が原因で夜逃げした旗本がいるほど困窮していたようだ。  
もちろん、低禄から出世し家禄が増えた家、収入相応に暮らした家、何代も付届けの多い役職を務めた家、先祖代々裕福な家もある。 
武家の家計を苦しめる原因  
石高制の欠陥  
金銭で支給してくれるなら物価変動を除けば価値が変化しないが身分が低い武士を除けば米で支給されている。江戸時代を通じて一石=一両と米の値段はほとんど変動しなかった。米と諸色(米以外の物)の物価が連動している時期は問題なかったが江戸中期に入ると諸色物価だけが上昇し、米の値段が変わらないため俸禄が実質目減りした。  
知行取りの場合  
知行取りの場合は表高と呼ばれる計算上の石高と実際の収穫である草高が一致しないことがある。例えば、知行地百石を与えられている家では表高と呼ばれる計算上の石高では百石の収穫があるが実際の収穫である草高は百石あるとは限らなかった。草高が表高の百石以上なら得だが百石以下なら損である。表高が御家の格式と軍役の基準になるため少なければ負担が増える。  
また、収入は収穫量に左右されるため毎年の収入が一定ではない。豊作の年は収入は増えるが凶作の年は激減するため安定性に欠ける。  
閏年  
旧暦では三年に一度閏年があり他の年より一ヶ月多い。毎月俸禄が支給される扶持米取りを除けば閏年でも通常の年と同じ収入で閏月分の支出を賄わなければならなかった。  
災害  
災害による損害は武家を大いに苦しめた。江戸時代には現代のような保険制度はなく誰も損害を補償してくれない。屋敷が全焼なら大名と旗本・御家人は幕府から石高の一割を限度に借りられるが借金には違いない。  
病気  
現代のように疾病手当てや保険制度がない時代なので病気になると支出は増加した。御役目を務めなければ役料や足高がなくなり収入が減るため体が動く限りは御役目を務めようと多くの者は考えた。そのため、武士は健康に細心の注意を払った。  
贅沢化  
江戸時代初期には合戦を経験した大名が多く驚くほど質素な暮らしをしていた。二代将軍秀忠が池田光成と初御目見えした時の食事は「蕪汁(かぶらじる)、おろし大根のなます、荒布(あらめ)の煮物、干魚の焼物」で庶民の献立と大差がない。また、江戸城内に登城した諸大名が弁当を持ち合い珍しい菜があれば交換して食べたそうだ。  
江戸時代初期は質素な生活をしていた武家は太平の時代が訪れると万事贅沢になり贅沢が「日常化」したことで出費が増えた。  
放漫経営と人員過剰  
収入額から支出額を決めて一年間の予算を立て年の終わりに決済するという考え方がこの時代にはほとんどなく収入に関係なく支出していく放漫経営で財政を破綻させることが多い。  
当主個人が贅沢をすることもあるが明らかな人員過剰と先祖代々から続く高禄の者が多すぎることが要因である。  
格式の維持  
武家は収入は多い反面、人件費が多く支出に占める割合は多い。家族だけで暮らすには十分な収入だが家禄に応じて合戦で連れて行く家来の数が決められ、外出時の供の数の上限が定められている。供を減らす分には問題はないそうだが「格式が低く見られる」という面子のために減らそうとはしなかった。  
家禄百俵(金額換算で三十五両)の場合は槍持ち一人と中間一人、下男下女を一人ずつ計四名を雇い彼らの衣食住は主が提供するので家来にかかる費用だけで九両程度になる。  
葬儀、法事  
大半の武家は戦国時代に活躍した先祖の功績により家禄を得ているため先祖を敬う心が現代よりも強い。先祖の百五十回忌というのも珍しくなかった。法事では格式を重んじるため多額の出費が必要になる。  
武家の交際費  
武家は大名旗本藩士に関係なく親族間が親密で付き合いが多い。情報交換や教育という面だけでなく親族が犯罪を犯せば縁座の対象になり、嫡子のいない家があれば断絶させないため親族間で協議し養子を探す。結婚や出産、元服など家族の人生の折り目の儀礼には親戚を呼んでもてなし、親戚の祝儀不祝儀には必ず何か贈る。  
他家を訪問する時は必ず土産を持参し、訪問された側は手土産を渡す。他家の家来が御使いに来れば心付けを渡すのが慣習である。一回あたりの金額が小額でも年間に換算すればけっして安い額ではなかった。  
経済的に苦しくなっても独断で廃止することは体面にも関わるとして交際費を削減するのは容易ではなかった。  
御役目に就いて家計を苦しめる  
現代なら就職すれば給料が支給され無職の時より収入が増え家計がよくなるのが普通である。江戸時代の旗本と御家人は持ち出しの多い役職に就いてしまったばかりに無役の時より家計を苦しめることがある。家禄がある家は無役でも収入がある。役職就任による出費で生活苦に陥り辞職するということもあった。幕府は持ち出しの多い役職を裕福な家に命じて就任させる。  
足高制により各役職の職禄が定められているが「これぐらいの収入があればこの役職の出費に耐えられる」という観点で作られていることもある。役職就任時に足高制に関係なく支給される職禄がない役職の場合は職禄より高い家禄の家では足高は適用されず、小普請金を払う必要はなくなるが収入は増えず、御役目に就いたばかりに出費が増えることもあった。また、新任者が先任者を料亭などで供応する悪しき慣習があり家計を大いに苦しめた。  
それでも御役目に就くのは無役で俸禄をもらっていることに後ろめたさを感じ、どんな役職でも御役目に就けば少なからず出世の望みがあると考えたからである。  
反対に町奉行所の与力や奥祐筆など俸禄が低い役職でも付届けが多いため裕福なこともある。大名が務める役職の中には幕府から公式な報酬がなく役得で付届けがあっても交際費などで消えてしまい赤字になることもある。  
小普請金  
旗本と家禄がある御家人のうち無役の者が属する小普請、寄合(三千石以上もしくは高位の役職を退職)は御役に就かずに家禄を支給される代償として小普請金を幕府に納める。幕府は百俵の者は一両二分(税率1.5%)、千俵の者は二十両(税率2%)など規定が定められた。七十歳の老齢で役職を退職した者は免除された。  
御貸付金  
旗本・御家人限定の金貸し。年利四分か五分(4から5%)と低利であるが審査に時間がかかり緊急時には間に合わないという欠点があった。十カ年賦返済で毎年一月に返済する。  
借金地獄  
知行地をもたない旗本・御家人は札差から借金した。札差は幕府からの俸禄である米を仲介して手数料を徴収し渡す役割。俸禄を仲介するため彼ら相手の金融に乗り出した。札差は支給される俸禄から借金を引いて渡せばよく回収が容易だった。  
『武士の家計簿』(著磯田道史新潮社)によると鳥取藩士の場合は年収の二倍の借金があるのが平均的とある。年収以上の借金がある家は珍しくないのだろう。この本によれば加賀藩の領内での藩士への利子は15%以上と庶民より高い。知行地を担保に取ることができずリスクが高いようだ。  
金が足りないから借金するのだが収入が増える見込みがないため結局、借金地獄に陥る。  
俸禄の支給停止  
幕府は深刻な財政難に陥ることはなく田沼政権など歴代政権による財政再建中でも俸禄を満額支給している。藩は簡単な経費削減方法として俸禄の一律削減を行った。二割、三割減は当たり前で俸禄を二割にする藩や俸禄の遅配が常習化することすらある。  
越前大野藩では藩主土井利忠が天保十三年(1842年)から行った改革の中で三年間に限り俸禄の支給を停止し成人一人につき一日四合を家族の人数分を支給する面扶持を藩主藩士に関係なく実施した。この間どうやって暮らしていたのかはわからないがその効果により財政破綻が解消された。  
多くの藩の下級藩士は俸禄の額が暮らしていくのに充分ではなく、減額など満足に支給されないため生活苦から出奔や自殺があった。出奔するも他の武家でも財政難のため新規に召抱える雇う余裕はなく有力者の縁故があるか剣術、芸術、算術など人より秀でた技能がなければ再仕官は極めて難しい。当てもなく浪人になり収入が全く無くなるより留まる方がまだましだったのだろう。  
二重生活  
国許にいる藩士が江戸詰めを命じられれば当主が江戸、家族が国許で暮らす二重生活で家計を苦しめた。 
収入を増やす方法  
俸禄以外に収入を得るなどして収入を増やした。  
付届けや役得  
江戸時代ではお世話になった人への礼金や祝儀、挨拶料という意味合いで付届けを渡すのが常識だった。領収書を発行することもある。付届けの多い役職は老中の秘書官の奥祐筆、坊主衆、勘定奉行、町奉行と町奉行所の与力、同心である。  
寛政の改革で賄賂を禁じると付届けまでやめてしまう者が続出し付届けをやめないように触れを出しているなど幕府公認である。  
商人の出入が多い細工頭、賄方、御納戸は業者からの付届けが多い。大奥の事務を扱う広敷方には大奥からの下され物が多い。代官は事務経費を担当地域からの収入で賄っていると凶作時には経費の賄いに困ったため元文二年(1636年)から勘定所より支払われ経費の余裕ができた。長崎奉行は貿易の利益を受け取り、代官か長崎奉行を務めれば一財産を築くとすら言われた。  
ただ、付届けや役得が期待できない役職では逆に持ち出しが多い。  
内職  
武士は名目上副業は禁止されている(名文化されているのか不明)のだが暮らしていけるだけの俸禄を支給していないという引け目もあるのか内職は黙認されている。米沢藩主上杉鷹山は藩政改革のため藩主自ら模範となり蚕(かいこ)を飼い奥女中に機を織らせ領民に養蚕や製糸、織物を推奨したように藩が積極的に推奨している藩があった。  
武士は経済的に困窮しているが屋敷は庭付きで農作物を栽培し内職をするのに困らない。無役の武士は時間を持て余し、御役目のある武士も休日の方が多い役職も多い。副業の内職に費やしている時間が多い武士もいただろう。  
内職は傘張りや植木、織物、蝋燭の製造などがある。個人でする場合もあるが組屋敷での集団内職も行われた。組屋敷は同じ役職の同じ組単位でまとまって屋敷が与えられ、役職に就いている期間だけ住んでいた。御役目では同僚であるため組単位で材料を共同購入し共同納品するため効率がよかった。青山百人町の傘張り、大久保百人町の植木などが有名だった。  
彼らは「手に職」があるおかげで明治維新で武士の身分を失っても転身にはさほど苦労はしなかった。簡単な屋敷の修理程度は金がないため自分達で済ませられた。旗本らの家来も内職をしていることもある。当主と家来が共同で内職している武家もあったかもしれない。  
副業  
御家人や下級藩士、御坊主衆にはすぐれた教養の持ち主がいた。代表格は小説の時代に活躍した「寝惚先生」「蜀山人」などの名前を持つ御家人の太田南畝である。彼は狂歌や詩文で名を馳せた当時を代表する文化人の一人である。彼は御徒から大坂銅座詰、長崎奉行所勤めをしていたが副業の方が有名であり、有名な料亭に出入し諸大名とも交際した。他の御家人達も歌舞音曲の名手や高い教養を持つ者がいた。  
武士は官僚化したとはいえ建前は軍人であるから公務の合間に武術の稽古をすることは奨励されている。公務に差支えがない程度に道場を構え師範になることや代稽古で収入を得ることは可能だった。平時は城を守る旗本の番衆の場合は四日から六日に一度の勤務のため休日の方が多く兼業できた。幕府講武所設置を提案した旗本の男谷精一郎は直心影流の道場を構える有名な剣客である。  
不動産収入  
幕府から拝領された土地と屋敷が二ヵ所以上ある場合は届けを出し、空いている屋敷を旗本や藩士とその家来や浪人、医者に貸し出し収入を得た。町地に屋敷を拝領した場合は町人にも貸し出せた。ただし、屋敷での商売は禁止されていた。さらに個人か家族名義で幕府に届けを出して町地の不動産を購入し他の者に貸し出し地代を得ることが可能であった。  
町地以外の屋敷は他の幕臣と届けを出し、許可を得て交換(相対替え)する形を取り交換した屋敷の差額を金でもらっていた。出世してお金のある旗本は江戸城に近い土地に屋敷を持つ他の旗本の屋敷を交換という形で購入した。  
投資による利子収入と金貸し  
経済的に余裕があれば商人に投資をして利子を得た。8%から10%の利回りになる。  
二巻不二楼・蘭の間で登場する横山鉄五郎のように御役目で得た金を元手に副業で金貸しをするものもいただろう。ただし、御家人が商人の名前で高利貸しをしていたことが発覚し追放されたこともある。本人の偽名ではなく武士ではない家族か知人を名目上の経営者にして行えば発覚しなかっただろう。  
 
江戸の災害

 

江戸時代でも様々な災害・天災が起こる。特に有名なのは明暦の大火(明暦三年1657年)で約十万人が亡くなったと伝えられている。  
また、剣客商売の少し前の明和九年(1771年)に起こった目黒行人坂の火事では死者一万から四万人と言われ、目黒から出火し浅草や千住辺りまで焼く大火事だった。目黒行人坂の放火犯を捕らえたのは火附盗賊改の長谷川平蔵宣雄(鬼平の父)でその功績から京都町奉行に昇進した。  
どの作品でも災害を忠実に取り入れると話が成立しなくなるため、当然ながら省かれている。数年に一度ぐらい大洪水で鐘ヶ淵に住む小兵衛の家は何度も被害を受け、数話に一度のペースで知り合いの家が火事で被災したというのでは作り手も読み手も気が滅入る。  
ここでは剣客商売本編の安永六年(1777年)から天明五年(1786年)とその前後に起こった江戸で起こった災害・天災を『江戸10万日全記録』(著明田鉄男、雄山閣)に記載されているものを中心にまとめた。まとめてみた。  
八年間という限られた期間でもこれだけの災害・天災があることがわかれば江戸時代のことが少しでもわかると思う。不謹慎かもしれないが実感がわくように小説の主な登場人物への予想される被害も考えてみた。  
また、天明年間(1781から1789)は災害・天災が多く起こり特に天明三年(1783年)の浅間山噴火の噴煙が太陽の光を遮ったことで冷害が起こり、川で堆積した洪水の被害が拡大し天明の飢饉が起こった。その影響で財政再建や100年後の幕府を見据えた斬新な政策を提案、実施した老中の田沼意次達の努力は報われることはなかった。  
江戸時代の気候は現代より気温が低い。地球温暖化の影響で現代と江戸時代の平均気温差がある。江戸時代の中で暖かい時期で2℃、寒い時期で5℃ほど低い。特に天明三年(1783年)の浅間山噴火の噴煙で太陽光を防いだことでこの時期は寒かった。安永三年(1774年)、同四年(1775年)、天明元年(1781年)の冬には隅田川が凍ったそうだ。川全体か一部かまで記載されていないが何事にも動じない小兵衛もさすがに驚いたかもしれない。 
水害  
小兵衛が住む鐘ヶ淵は大川、荒川、綾瀬川が合流する地点で小兵衛の家は大川(隅田川)を望む堤の下の一軒家と洪水が起これば真っ先に被害を受けそうな場所である。  
また、大治郎が住む浅草橋場や又六が住む深川も大きな被害を受けたと予想される。作中何度も登場する永代橋(中ノ郷と浅草を結ぶ橋)も何度も流された。  
日時被害と小説の主な登場人物への予想される被害  
安永八年1779年8月25日江戸で大風雨(台風のことか?)。洪水により和泉橋が落ち小日向と小石川が浸水。再建中の小兵衛の隠宅は完成間近だが被災する?  
安永九年1780年6月3日江戸で大雷雨。  
安永九年1780年6月26日江戸各川で氾濫。永代橋と新大橋が落ちる。関東各地で出水。民家が多く流される。前年に再建したばかりの小兵衛の家に大きな被害が出る?  
天明二年1783年8月4日江戸深川で大津波。洲崎や深川などに大被害をもたらし多くの水死者を出す。小川宗哲、又六ら本所深川に住む登場人物らが被災?  
天明二年1783年9月9日江戸で暴風雨(台風のことか)。大川氾濫。  
天明三年1784年6月17日江戸で大雨。千住・小石川・浅草で出水。江戸の水道である神田上水が切れる。大治郎宅被災?  
天明六年1786年7月10日江戸で未曾有の大洪水。永代橋と新大橋が再び落ちる。隅田川両岸周辺が浸水し、14日に再び浸水する被害をもたらす。秋山親子の家や不二楼、元長などで浸水被害?なお、この大洪水で田沼意次が進めていた印旛沼の開拓は失敗する。  
天明六年1786年7月16日江戸で洪水。青山、牛込など高地にある地域までも浸水する。江戸近郊は一面海の如しと言われるような被害を追う。小説の登場人物の多くの家が浸水する? 
火事  
江戸時代の特徴に火事が多い。小説の八年間だけを限っても『地図・グラフ・図解でみる一目でわかる江戸時代』では大火として記録されているのは二回、『江戸10万日全記録』での火事の記事は十回を越えている。多いため大規模な火事を紹介する。  
日時被害と小説の主な登場人物への予想される被害  
安永七年1778年2月12日本石町付近で出火。霊岸島、深川まで焼ける。  
天明三年1783年3月25日に霊岸島大火。4月8日深川大火、又六被災?4月23日南品川で大火。12月20日に江戸鳥越から出火し本所、深川まで消失。小川宗哲、又六らが被災?  
天明四年1784年1月3日青山、麻布辺りで大火。  
天明四年1784年12月26日八重洲河岸から出火し大名小路、新橋、数寄屋橋、木挽町、築地まで焼ける。神田御門内にある田沼意次の上屋焼失。 
地震・噴火・打ちこわし  
八年間という短い期間中に地震や浅間山の噴火があった。小説に六巻・品川御匙屋敷などで明治の剣聖山田次郎吉翁が関東大震災を予知したと語られたように、個人的には小兵衛が地震を予知したいう話があってもよかった気がする。小兵衛と大治郎も山田氏と同じ境地に達していた記述がある。  
また、果し合いの途中、敵の罠で危機に陥るが大地震が起こり助かるという話があれば面白そうだが池波作品の『真田太平記』の中で主人公お江が窮地に立つが偶然伏見大地震が起こり助かるという話が使われているだけに避けたのかもしれない。  
打ちこわしは浅間山の噴火による灰が川底に積もり大洪水をもらたしたことと空気中の灰が日光をさえぎることで冷害を招いたことが原因である。また、投機目的で米を買占めや藩が領民の食糧確保を怠るどころか高値の江戸などに米を売り利益を挙げたことなども打ちこわしの要因となった。  
平年は百文で米が一升程度買えたのが徐々に高値になり江戸市中での打ちこわしの直前の天明七年(1787年)5月17日には三合まで高騰し月番の北町奉行に御救い米の実施を求めるが断られたことで起こった。なお、打ちこわしについては別ページで詳しく解説している  
日時被害と小説の主な登場人物への予想される被害  
天明元年1781年江戸で五月に小児病、九月にリュウマチが流行する。  
天明二年1782年7月14日関東で大地震。江戸・小田原方面の被害が特に大きかった。小説の人物被災?  
天明三年1783年2月2日江戸で大地震。小説の人物被災?  
天明三年1783年7月6日浅間山の噴火。天明の浅間焼けと呼ばれる。死者二万人など直接的被害の他、江戸を含む周辺地域に灰が降り農作物など間接的被害をもたらす。噴煙が太陽光をさえぎり全国的に冷害をもたらし天明の飢饉を招く。  
川に積もった灰が後の天明六年(1786年)の大洪水の原因になったといわれる。  
おはるの実家関屋村にも灰が降り農作物に多大な被害を受ける?  
天明七年1787年5月20日昨年の大洪水の被害や冷害で全国的に大凶作で米価が高騰。投機目的の商人が米を買い占めでさらに高騰する。  
月番の北町奉行に前年まで行っていた町地への一斉の御救い米を実施を町民が求めるが断られ怒った民衆が江戸で打ちこわしを行う。  
市中取締りに長谷川平蔵ら先手組が治安出動。  
 
魚の棲む城  
平岩弓枝 「うおのすむしろ」と読む。田沼意次の生涯を描いた作品で、その人生を幼馴染みのお北、坂倉屋龍介らが支える。また、この作品は三人の青春群像といっても良いかもしれない。それはきっと、だんだんと年を取っているはずなのに、この三人が若いままのように思えてしまうためだろう。この三人に加えて、魚屋十兵衛という異質な人物が絡んでくる。田沼意次の昔からの一般的な評価は収賄政治で汚職にまみれた人物であるというものである。従来は悪役であるが、最近は正反対の視点から田沼意次を評価する向きもあり、本書もそうした流れにある。その流れで行くと、田沼意次はガタの来ている幕府の屋台骨を再建するために様々な方策を打ち出したが、志半ばで世を去ったということになる。そして、この後に来る松平定信は田沼意次の政治を全否定したため、幕府再建を台無しにしたということになる。この松平定信は、最初こそ期待されたもののすぐに見放されわずか六年でその権力の座からすべり落ちた。田沼意次という人物を正確に評価するのは、バイアスを取り払わなければ難しい。そのバイアスを取り除くのも、中途半端にするよりは本書くらいにした方がいいのかもしれない。でないと、その事跡というものに焦点が当りにくくなるからだ。田沼意次と松平定信という政治家の評価というのは、もしかしたら今後変わっていくものなのかもしれない。田沼意次の一つの不幸は、その在職中に天変地異が起きたことであろう。世の中が良くなるどころか、悪くなる一方の印象を与えてしまったのは、運の悪さなのかもしれない。もう一つの不幸は、成り上がりものであったことだ。すくなくとも譜代、とくに徳川宗家に連なる御三家や御三卿に憎まれていた節がある。これにひたすら足を引っ張られたという向きもあるだろう。本書では、田沼意次の息子・意知を斬った佐野善左衛門をそそのかせたのは松平定信であるとし、裏には御三家がいるという見方をしている。もしかしたら、そうなのかもしれない。そして、もしかしたら、田沼意次の評判の悪さというのは、こうした田沼の栄達を憎む者達によって作られたものだったのかもしれない。さて、題名については、本書の中で田沼意次に下記のように言わせている。「わしは、あの城と湊をつなげ、そのまま、大海へつなげたいのだ。海の彼方からさまざまの船が入津する。海からやって来る魚達のよりどころとなるような城に仕上げたい」もうひとつある。「いつの日か、さまざまの魚がこの湊へ入って来るとよいな。わしはその時、この城にいて、さまざまな魚を迎え、その話に耳を傾けよう。海を越えてやって来る者にとって、この城は魚たちのくつろげる場であるとよいのだがな」  
 
本郷御弓町の龍介の生家近くでお北に出会った。お北の生家も近くだ。お北が嫁入りして以来だから八年ぶりだ。その前に龍介はのぞまれて蔵前の坂倉屋に養子に行っている。他に幼馴染みにもう一人の龍助とお志摩がいる。  
三人とも旗本の家だ。龍介の速水家は二百石、お北の斉藤家も二百石、田沼龍助が三百石だ。  
この日、お志摩が嫁入りすることを知った。相手は本所の旗本だという。  
――田沼龍助は家督を相続して意次と名乗り、叙爵されて主殿頭となっていた。一方、龍介が養子に行った坂倉屋は豪商の中に入る札差だった。お北は菱垣廻船問屋・湊屋幸二郎のもとに嫁いでいる。湊屋は品川御殿山の麓にある。  
――嫁いだお志摩が戻されたという。妊っていたのだ。相手の名を言わないが、噂になっているのは田沼意次。  
だが、龍介は信じなかった。噂はお志摩が田沼家に女中奉公していたせいに違いなかった。それよりも、田沼龍助の隣に似合うのはお北だとずっと思っていた。  
そう思っていると、お志摩の家から男が出てきた。その後ろ姿には見覚えがあるような気がした。  
――田沼家の蔵米の御用を坂倉家が受け持つことになった。田沼龍助は九代将軍家重の小姓頭取となっている。  
その田沼龍助が坂倉屋を蔵宿にしようと思ったのは、いずれ龍介が坂倉屋の当主となった時に、自分を信じて金を用立ててくれると思ったからだ。我が友龍介なら自分を信じてくれるに違いない。  
お志摩が生んだのは女の子だった。  
――九代将軍家重は言語不明瞭で正確に聞き取ることができるのは側仕えの大岡忠光だけだった。そして田沼龍助はじっと将軍家重の言葉を分かろうと努力した。将軍がどれほど嬉しく、頼もしく思ったことか。  
――田沼龍助は坂倉屋龍介から去年の五月から白山権現周辺で起きている辻斬りの話を聞いた。この後も、凶行は続いた。そして、田沼龍助は辻斬りの犯人を確信した。  
――お北が身を寄せている家に田沼龍助が繁く通っているとの話を龍介は聞いた。二人が子供の頃から好きあっていることを龍介は知っていた。  
――大御所と呼ばれた吉宗が体調を崩している。ようやく実権が九代将軍家重に移ろうとしていた。言語障害に苦しみながらも家重は愚かな将軍ではなかった。  
小姓頭取の田沼意次には発言権はなかったが、幕閣が集まる席には家重が側に呼んだ。否応なしに政事を学ばざるを得なかった。幕府の目下の課題は米経済だった。  
米経済が成り立つのは、米価と他の値段が均衡を保つことだったが、五代将軍の頃から米価は下がりはじめ、逆に他の物価は下がらない状態が続き、武士が困窮することとなった。八代将軍吉宗は米価の引き上げ政策に苦闘したものの思うような成果が上がらなかった。  
九代家重の時代、米価政策と物価政策に翻弄されながら、なんとか財政を黒字に持ち込んだという状況である。危ういと田沼意次は考えていた。  
お上の台所はぼろぼろで、土台石が崩れかけているといってよかった。  
――西の丸の大御所吉宗の容態が悪化した。それまで九代将軍家重の治世は短いと計算していた幕閣諸侯は狼狽を隠せなかった。俄に将軍の側近に顔色を窺いだした。田沼意次にしてみれば不快の一言に尽きた。  
意次は将軍に対して良き家臣であらねばならないという自覚が今まで以上に強くなっていた。大御所吉宗が死去した。田沼意次三十三歳。  
――上方の魚崎で、お北は家族とともに樽廻船の魚屋十兵衛のところに身を寄せていた。亭主の幸二郎が中風を患い、魚屋十兵衛が別宅を提供してくれたのだ。鍼灸医もつけてくれて、ようやく効果が見え始めている。お北の子、新太郎は九つになっていた。  
そして、江戸に戻ることになった。江戸を留守にして八年。江戸の店は湊屋本家に乗っ取られていた。  
――田沼意次は一万石の大名になっていた。はじめて領地の相良に行くことになった。それに坂倉屋龍介も同行することになった。  
東海道鞠子の宿にはお北の一行がいた。魚屋十兵衛も同行していた。そして、この鞠子の宿でお北は田沼意次と久しぶりの再会を果たした。  
後日、田沼意次自ら魚屋十兵衛を訪ね、お北たちの世話をしてくれた礼を述べた。これをきっかけとして、意次と魚屋十兵衛との交流が始まった。  
――宝暦九年(一七五九)は田沼意次にとっての運勢の上り坂であった。同じ年、弟の田沼意誠が御三卿・一橋家の家老となった。  
――九代将軍家重が隠居し嫡男・家治が十代将軍となった。将軍の交替は自然に順調に運ばれた。そして、宝暦十一年九代家重が他界した。  
新将軍家治は米や倹約の他に幕府の財政改革はできないものかと訊ねた。言葉の裏には宝暦四年に起きた郡上一揆があるのを感じた。米以外に利益を増やそうとするのなら、とりあえずは「座」である。  
意次は坂倉屋龍介に家康の時代から百年の間に金銀がおびただしく海外に流出した話をした。銀は四分の三、金は四分の一が流出している。商売が下手だからそうなる...。  
田沼意次は加増されて一万五千石になった。  
――魚屋十兵衛が弁才船とはかなり異なる外見の船で江戸にやってきた。洋船の長所が取り入れられたものだった。  
――明和四年(一七六七)。田沼意次は側用人になった。四十九歳である。二万石に加増された。  
木挽町に屋敷を持ち、そこを私的な情報集めの席としていた。屋敷の主はお北だった。  
そのお北をお志摩が娘の登美をともなってやってきた。そして大奥への奉公を願った。田沼意次の手回しもあり、お登美の大奥への奉公がかなった。  
この時期意次が力を注いでいたのは、日本国中に通用する通貨だった。上方は銀勘定、江戸は銀勘定だった。意次はこれを重さに関係なく貨幣に表示された通用価値で使用できる通貨に統一することにしたのだ。  
明和六年。田沼意次は二万五千石に加増され、老中格として幕政の表舞台に立った。  
――長崎が賑やかになった。魚屋十兵衛は思った。銀の輸出を止め、中国が欲しがっていた銅に主力を変えた。阿蘭陀にも支払いはすべて金貨、銀貨としたことで、かつて失われた金銀以上の金銀が集まってきている。交易によって力を取り戻していた。  
――田沼の密命により魚屋十兵衛の七星丸が江戸を発った。蝦夷へ向かったのだ。これまでにない実態がもたらされた。  
――大奥へあがったお登美が一橋家の治済に見そめられ、一橋家に奉公することになった。  
幕閣は御三卿を直ちに絶家にしてしまっても良いという考えがあった。というのは家治には家基という嫡子もいたからだ。御三卿の存在意義は薄い。  
――明和九年(一七七二)。意次は三万石に加増となり、正式に老中となった。側用人は兼務である。この年、目黒行人坂の大火が江戸を襲った。十一月に改元し、安永元年となる。  
安永二年。お登美が男児を出生した。一橋豊千代、後の徳川家斉である。その直後、田沼意誠が死んだ。意誠が生前に当代の一橋治斉は策謀好きと言っていたのを思いだした。  
――安永三年。田安家が奥州白河松平家への養子縁組を断った。奥州白河松平家から田安家に定信を養子にと願い出ているのを田沼意次は承知していた。  
この件に関して将軍家治から聞いた話に意次は絶句する。それは田安定信が、白河へ断りをいれたのは、嫡男の家基が万一があれば自分はそれにかわるものだからというものだった。家治は激怒していたのだ。  
そもそも田安家は先代の家重の時にも将軍の座をあからさまに狙って、家重から睨まれていた家である。家治はその父の心を知っている。  
こうした中、お登美が大奥の実力者たちと懇意にしているという話が伝わってきた。一橋治斉の意を受けてのことだろう。  
田安定信は将軍家のお声掛かりとして、白河藩に養子に行くことになった。  
――家基が鷹狩りにいって風邪を引いた。そして急死してしまう。  
――安永九年(一七八〇)。田沼意次は将軍家治の許しを得て二十余年ぶりに相良へ国入りした。将軍のお声掛かりで築城の命が下りてから時間をかけて城を作らせた。領民を苦しめて作るようなものではないからだ。  
――田沼意次は蝦夷を詳しく調べさせることにした。この国の役に立つことなら何でもする決意だ。見栄を捨てて、実を取る。御用船が商売をして何がおかしい。さらには、海の向こうからの交易の船がやってくるのも期待していた。  
そして、蝦夷では我が国の商人がおろしやの商人と抜荷を働いていることが分かった。  
――田沼意次が相良に国入りした翌年、改元されて天明となった。同じ頃、協議されていた将軍家治の後継者として一橋家より豊千代が迎えられることになった。西の丸に移って家斉と名乗った。  
――天明と元号が変わってから気候が不順となり不作が続いている。そうした中、天明三年に浅間山が大噴火を起こした。飢饉が広がっていた。  
 
田沼意次・主殿の税  
佐藤雅美 宝暦十年(一七六〇年)頃からの、およそ四半世紀を一般に田沼時代という。収賄政治の権化と見られる田沼意次であるが、その発想するところは、かなりの先見の明の持ち主であったことが分かる内容となっている。幕府が弱体化するのは、金を唸るほど持っている商人から安定した税金を徴収しなかったことにある。政治状況が安定している中で、経済が発展すれば、市中に金が貯まるのは当たり前のことであるが、そこに目をつけなかった代々の幕閣の怠慢が徳川幕府の崩壊を導いたといえよう。この幕閣が如何に無能であったかは、田沼意次を蹴り落とした松平定信の改革でも分かるであろう。松平定信は、景気を冷え込ませることには天下一品の働きを見せたが、それ以上の能力は持ち合わせていなかった。そう考えると、天変地異が起きるという不運や、田沼意次の年齢的な制約がなければ、田沼意次が考えていたことは、画期的なものだったはずである。佐藤雅美の考えるように、田沼意次の評価はあまりにも低すぎたのではないだろうか。  
 
田沼意次は、将軍の日光東照宮参拝のために、なんとかして二〇万両をひねり出そうと考えていた。やがて、その目処が立ち、幕府あげての倹約をするも、江戸の街を火事が襲いかかる。そして、倹約に励んだ二十万両が火災のために消えようとしていた。  
田沼は消えようとした二〇万両を捻出するために、御三卿の取りつぶしにかかった。田安家を取りつぶすことによって十万石を収公出来ることになるというわけだ。田沼の思惑通りに事は運び、田安家の十万石は収公され、日光東照宮参拝費用の捻出に成功する。しかし、この事で田沼は後の政敵となる松平定信の恨みを買うことになる。  
日光東照宮参拝費用の捻出成功の論功が行われ、田沼は出生の階段を着実に上り始める。  
やがて幕府中枢での権力を握った田沼は抜本的な政策の見直しを考え始める。自分が後世において評価されるようなことをしたいと考え始めたのだ。  
そのため、印旛沼を埋め立てを考えたり、蝦夷の開墾を考えたりする。そして、これまで幕府が考えもしなかった、「税金」の徴収を考え始める。  
しかし、折り悪く、天変地異が続き、世間の状況は悪くなる一方であった。  
 
将軍たちの金庫番  
佐藤雅美 「江戸の税と通貨」→「江戸の経済官僚」改題。本書ではかつて書いた歴史経済小説の中の誤りを正直に認めて訂正している。こうした姿勢は好感が持てる。本書は江戸時代の経済通史である。なぜ小説家が?という疑問があるが、じつはこの分野の専門家がほとんどいないのだという。とくに経済史の流れを俯瞰する研究は絶無のようだ。学者になりたければ、こうした分野を研究するのがよいと思う。人がやっていないことをやるのが学者の一つの姿である。著者は「大君の通貨」「薩摩藩経済官僚」「幕末住友役員会」「主殿の税」といった歴史経済小説を書いている中で、江戸時代の経済、とりわけ通貨や税、財政がわかったのだという。江戸時代の経済官僚たちは経験と勘を頼りに経済のかじ取りを取ってきている。失敗も多かった。吉宗の通貨縮小策などがそれである。だが、思わぬことをしてのけている。いわば通貨の錬金とでもいうべきもので、「銀貨の金貨化」である。世界でもしてのけた国はない。この「銀貨の金貨化」へのプロセスが細かく書かれている。金本位制のもとで金銀の交換比率を固定化(為替レートでいえば変動相場ではなく固定相場ということ)し、幕府がこの比率の保証をしたというものである。基本的には兌換紙幣の考え方であるが、これを幕府の保証のみに焦点を当てると、不換紙幣の考え方にもなる。また、近年その概念が見直されているが、江戸時代は一般的に鎖国体制を取った。だが、海外からの情報は様々な形でもたらされたが、海外の船が日本に来なければ情報もやってこない。オランダが日本にやってきたのは日本に「銅」があったからだという。この点が非常に重要である。そして、江戸時代の貨幣経済を見るには、金銀だけでなく銅の動きにも注目する必要がある。  
以下順に見ていく。  
徳川家康の時代、日本はゴールドラッシュを迎えた。このためかわからないが、三代将軍家光は、収入の枠内で支出を考えることをせず、金銀を惜しみなくつかった。桁外れの浪費家だった。だが、この頃には金銀の産出が急減している。  
この家光の浪費は、経済観点からは大いにプラスに働いた。十七世紀後半に商品経済活動が活発化するのだが、その前段階でこの浪費があったからこそである。  
それでも四代将軍家綱の時代には六百万両残っていた。だが、家綱が死んだ時、遺産は百万両を切っていた。  
五代将軍綱吉は絢爛豪華な文化が花開いた元禄時代であるが、このころの幕府の金庫はからっぽになっており、財政難に七転八倒し始めることになる。  
綱吉の時代、勘定吟味役(のちの勘定奉行)に荻原重秀がいる。  
これが考え出したのが、ウルトラC級の財政資金の捻出方法であった。「貨幣の改鋳」である。  
貨幣の改鋳は金銀貨の価値(品位)を落とすことである。つまり金銀の含有量を減らすことである。  
本来の価値でいえば、旧貨幣と新貨幣の交換比率は3:2であるが、これを2:2にしたので、差額の1枚分が幕府の懐に入る。これが五百万両ほどになった。  
この五百万両も天災等によりあらかた使ってしまう。だが、その御蔭で好景気に沸いた。  
六代将軍家宣・七代将軍家継の代は新井白石が主導権を握った。白石は荻原重秀を目の敵にして、貨幣の価値を元に戻そうとする。この時に、貨幣論争が起きる。  
荻原重秀の主張はこうだ。「通貨というものは政府の保証があれば、材質などどんなものでもいいのではないか」。不換紙幣の考えに近い。筆者は「官府の印理論」と名づけている。  
だが、白石は聞く耳を持たず、貨幣価値を元に戻した。しかし元に戻ることでデフレが起きる。  
堀田正亮が老中になったころ、予算というものが組まれるようになる。総額十三万八千両である。  
歳入は百七十万両程あったが、幕臣への俸給などの抑制できない支出があり、こうした硬直性の高い費目以外を集めると、十三万八千両ほどしかなかった。幕府の財政は硬直化していたのである。  
ついで、筆者は田沼意次について、かつて書いた本「大君の通貨」の誤りを認めている。  
辻善之助氏の書いた「田沼時代」に書かれている内容を鵜呑みにしてしまい、あれもこれも田沼がやったこととして、田沼意次を経済通だと思ってしまったのだ。  
田沼意次の、すぐれた経済テクノクラートという評価や、貨幣経済をあおった重商主義者という評価の根拠はなにひとつない。  
開国志向を持っていたというのも眉つばである。この当時どの国も日本にはやってこず、開国をせまる国もない。条件が揃わない中で、開国を志向する理由がない。  
明和の一連の貨幣改革は川井久敬が行っている。この人物の行った貨幣改革こそが「銀貨を金貨に化けさせてしまう」というものだった。「南鐐二朱銀」である。  
これまでの銀貨は重さが一定ではなく、量って使用する「秤量貨幣」だった。  
川井は南鐐二朱銀に、金貨であるという「官府の印」を押したのだ。「以南鐐八片、換小判一両」。「定量貨幣」の創出である。  
定量だから使い勝手がいい。徐々に使われるようになり、銀貨が金貨に化けた。  
松平定信は、現在田沼が経済に明るいという評価を受けているために、相対的に評価を下げている。  
経済の側面からいうと、その通りで、経済には明るくなかった。絵にかいたような貿易有害論者であり、政権を握るとすぐに貿易縮小策を打ち出す。また、贅沢が物価高の原因と思いこみ、奢侈禁止令を発する。  
田沼時代の経常収支はトントンだったようだが、天災によって三百万両あったのが二百十万両に減っている。田沼失脚後、わずか二年数カ月で天災により百三十万両が消える。  
松平定信が老中首座になって、天明八年。剰余金は八十万両に減っている。  
定信は財政再建になんの糸口も見出せず、失脚する。続く寛政の遺老たちも「倹約」のスローガンのみで四半世紀を押し切った。  
剰余金は六十五万両に減った。  
十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。  
金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。  
結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。  
重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。  
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。  
安政六年(一八五九)。日本は米蘭露英仏五カ国と通商条約を結び三港を開港する。この時、小判の流出騒ぎが起きる。原因は金銀比価のちがいにあったと説明される。  
筆者は、そうだったのだろうと思っていたが、実は天保一分銀という銀貨を持っていたことに原因があったという。  
天保一分銀は「官府の印理論」が結実した通貨である。つまり、実質的に一分の価値を有さない銀だったのである。  
これを日本の交渉者が知らなかったため、幕末の通貨は大混乱の状態に陥る。  
だが、天保一分銀が実質的にその価値を有していないというのは長崎が把握していた。そしてそのことを江戸に伝えたが、江戸の交渉者は理解できなかったようである。  
結果として誤った為替レートで条約が結ばれた。本来、メキシコドル4:一分銀4:小判1のはずが、メキシコドル4:一分銀12:小判3となってしまったのだ。  
この誤りはすぐに日本側も気がついた。だが、相手がハリスだったのが不幸だった。  
筆者はハリスを「史上これほどうす汚い外交官はいないといってもいいすぎではない外交官」と評している。  
高潔な人格者で、唐人お吉の話などありうべからざる話という定説があるとすると看過できない。  
このハリスは私利私欲のために、日本の通貨と経済を大混乱に陥れているのだから。  
ハリスは老後の蓄えを残したい一心でやってきた「たのしい、ゆかいな外交官」だったのである。筆者が皮肉を交えて描いているのは、まさに守銭奴ハリスの姿である。  
そもそも幕府は開幕当初にミスを犯している。全国民から税を徴収する権利を確保しなかったのだ。  
その結果、幕府に限らず諸大名家も金に困る状態が続き、統治する側の全員が財政に苦しみ、統治される側の商人が潤うという奇妙で不思議な社会構造が出来上がった。  
幕府は商人に税をかけることを想定していなかった。だが、それでも例外的に課税した。三つに分けられる。運上金、冥加金、そして商品統制を認める代わりに納める種類の税である。  
 
幕府の政治2

 

はじめに  
合議体制の成立や中央銀行の設立、機械化・工業化の推進など、一般的に日本の近代化が始まったのは明治維新以降、つまり明治時代とされている。確かに明治維新は欧米列強に抑圧されてきたアジア諸国にとって近代革命の模範となった。また、その後、第二次世界大戦で敗戦国となった日本が高度経済成長を成し遂げ、世界の列強の仲間入りしたことは「アジアの奇跡」とも呼ばれてきた。その起点は明治維新にあるという文脈である。  
しかし、明治維新成功の背景に、その前段階である江戸時代に目を向けてみれば、労働生産性や教育水準の高さがあり、市場原理主義の浸透があり、マニファクチャーやギルド(組合)の成立があり、官(幕府)民(商人や職人)の仕事を明確に分けた公共事業の推進と民営化があるなど、すでに近代の合理的な考え方を受け入れる素地が備わっていたことは見逃せない。つまり、「近代化への助走」は、すでに江戸時代に始まっていたのである。  
今週からスタートするこのコラムでは、江戸時代に生まれた近代化の萌芽を政治・経済の両面から具体的に紹介していくものである。着目点は、近代的な発想、科学的・合理的な思考の基盤を江戸時代から拾い上げることにある。  
18世紀初頭、すでに人口が約100万人であったとされる江戸は当時世界最大規模の都市だった。ロンドンやパリが50万人前後であったことを見ると、必然的に政策面でも産業面でも都市生活の基盤が築かれていたと想像できる。おそらく都市生活を送るための最低限のインフラ整備はできていたであろうし、しっかりとした税制が敷かれていたであろうし、公共事業や民間事業も進められていたと思われる。また、各種の制度が敷かれ、それを推進したり、実施したりする担当者もいたであろう。もちろん、それらの決定機関、組織があったはずである。  
また、商人や職人が安全な都市生活を送ることができる警察機関は不可欠であるし、安全な生活を脅かす者や不正な行いをした者に対して刑罰を下す機関も不可欠である。  
たとえば都市生活のインフラ整備の一例として、水道整備がある。神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水の6上水による「江戸水道」は規模だけにスポットを当てれば、世界一であったと想像できる。江戸時代に誕生した神田上水と玉川上水は、17世紀中頃には地下式上水道としては、延長150キロという世界最大の上水道にまで発展した。これは誰かが都市生活者に役立つために行った事業、すなわち公共事業である。それほどの公共事業を推進するには、幕府の政策として事業を決定する機関が動いたであろうし、莫大な資金と組織的な労働力が必要であったことは容易に想像できる。  
また、徳川家康が日本の銀需要を支える石見銀山を幕府直轄領としたことも興味深い。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置されたのである。幕府は銀山のマネジメントを担う銀山奉行を派遣。その銀山奉行は山師(鉱山経営者)らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め、朱印船貿易の元手にもなった。石見銀山の開発は幕府の資金源の確保だけでなく、民間労働者の雇用促進の面からも近代的で合理的な政策であり、重要な事業だったのである。  
このように江戸時代にはすでに近代的合理主義が生まれ、マネジメントのしくみが機能し、幕府がつくった制度が稼動してことがわかる。多方面から江戸時代には学ぶべきことがある。それらは決して役に立たない雑学ではなく、経済や政治が向かう普遍的な側面を教えてくれるであろう。温故知新は、意外なことに新しい発想やブレイクスルーにもつながることがある。このコラムがそういった発想の突破口になれば幸いである。 
長期支配体制の確立  
「関ヶ原の合戦」に勝利して天下の覇者となった徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、長期支配体制の確立をめざした。徳川家康は中央政権を握ると、朝廷や公家への圧力、大名統制、身分制度の徹底、多様な人材の登用、江戸の整備など次々に大きな改革を手がけていった。家康・秀忠・家光三代のほぼ50年間に、徳川家が全国支配の体制を固めあげ、いわゆる徳川三百年の太平の基盤を築いていったのである。  
徳川幕府は、大名・徳川家を対象とした武家諸法度、天皇家や公家の行動を制約する禁中並公家諸法度、仏教教団や僧侶を統制する諸宗寺院法度と、相次いで基本的法度を発布し、政策を実施した。これらの原案はすべて徳川家康が考えたもので、家康は合戦における知将としてのみならず、政治家としても卓越した頭脳を発揮したのである。諸大名、朝廷と公家、寺院と僧侶を江戸幕府の支配下に置いて思うままにコントロールする。これは徳川家康が登場するまで、どの戦国大名も成し得なかった偉業である。  
注目すべき点は、徳川幕府が軍事力でそれを達成したのではないことだ。幕府の直轄軍は3万以下だったとされている。関ヶ原の戦いで家康が率いる東軍に参加したのは約10万。東軍に参加した諸大名が率いる軍隊のほうが徳川直轄軍よりも多かったということだ。幕府が成立した後も、幕府の軍事力はとてもコンパクトであったようだ。  
江戸時代の大名には、譜代大名と外様大名の分類があった。譜代大名は、豊臣政権のもとで家康が関東地方に移封された際に主要な武将に領地を与え、大名格を与えて徳川家を支えさせたことに由来する。関ヶ原の合戦以前から徳川氏に従い、取り立てられた大名である。外様大名は、関ヶ原の合戦直前、あるいは以降に支配体制に組み込まれた大名である。統制しなければならないのは、もちろん外様大名である。  
関ヶ原の合戦を終えた家康は、西軍の諸大名の所領の処分を徹底的に行った。宇喜多秀家の所領、備前岡山57万石が没収されたように、西軍に属した大名は、家をつぶされたり、領地を没収されたりした。家康は没収した土地を再分配した。まず、自己の直轄領を増し、戦功のあった大名に加増し、領地を大幅に移動した。井伊氏や本多氏ら徳川譜代の家臣は、これを機に独立の大名として扱われるようになった。  
コンパクトな軍隊しか持たない徳川幕府が、全国支配体制を確立するためには、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、土佐藩の山内家、米沢藩の上杉家、肥後藩の細川家、仙台藩の伊達家など、石高の大きな外様大名をいかに支配するかが重要である。そこで大名統制のために「武家諸法度」を発令したのである。大名を縛る法律である。  
2代将軍・徳川秀忠の名で出された最初の武家諸法度には、1.大名は領地と江戸に交互に勤めること2.新しい城づくりは禁止3.謀反を企てることの禁止4.大名は幕府の許可なく勝手に結婚してはいけない5.勝手に関所を設けてはいけない6.500石積み以上の船を所有してはいけない−などが記されていた。参勤交代を発布したのは、3代将軍・家光である。  
徳川幕府は、大名に領地を与え、各領地での独立採算の権利と領地の管理職を与えた一方で、巧みな法律によって支配したのである。大きな軍隊を持たない江戸幕府が「小さな政府」として機能したひとつの理由は、外様大名を上手にコントロールする制度をつくったからである。大名は藩の知事であり、社長でもあるが、すべてが徳川グループに所属するということである。外様大名は、かつては独立した企業のオーナーであったが、「関ヶ原の合戦」を契機に徳川グループに吸収され、そのグループ規定に従わざるを得なくなったということである。そしてその徳川グループは、当初は家康という突出した創業オーナーのマンパワーによるところが大きかったが、やがて個人から組織へと変貌を遂げるのである。 
幕藩体制  
江戸幕府の支配体制は「幕藩体制」と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。地方は将軍が任命・承認した大名が藩を形成し、支配していた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。この幕府(将軍)が藩(大名)をコントロールする幕藩体制は、見事に「小さな政府」を築いている。  
各大名は「武家諸法度」の遵守はあるものの、それぞれの領地においてある程度独立した統治機構を形成している。支配体制の基本となっているのは、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制だ。江戸時代前期の年貢徴収は、田を視察して、その年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する方法であった。  
田畑や屋敷に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算し、石単位で表示するこの制度は、わかりやすい「課税制度」といえる。そして石高は、そのまま大名や旗本の収入を表す点においては、徳川グループ各支社(藩)や家臣と呼ばれる徳川コンツェルン幹部の「売上高」「年商」「年収」とも読める。本部機能を持つ幕府は、徳川グループ各支社、幹部の「売上高」「年商」「年収」をチェックできるという合理的なしくみである。  
また、一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は大名の「財力」だけではなく「兵力」をも意味していたのだ。  
江戸に築かれた旗本の屋敷が質素であったのに対して、江戸初期に建てられた御三家(尾張、紀伊、水戸)および大名屋敷はいずれも豪華であった。これも石高があったからこそ。屋敷の豪華さで石高を誇ったのであろう。  
さて、徳川幕府の象徴といえば江戸城だ。築城工事は、家康の将軍任命の翌年、1860年に着手された。手始めは、城の基礎となる石材を運ぶ船の建造である。その船の建造を負担したのは、島津忠恒(初代薩摩藩主)、浅野幸長(初代紀伊和歌山藩主)、黒田長政(初代筑前国福岡藩主)など有力な外様大名28名であったという記録が残っている。この船が伊豆から巨大な石を一度に数個ずつ積んで、月に二回、江戸との間を往復したという。いずれも諸大名に課せられたミッションであった。  
また、その前段階の埋め立て工事も諸大名が担ったという。たとえば駿河台の神田山を崩した土で、日比谷の入江は埋められた。これらは徳川家に対する忠誠心を試すにも、家臣の労働力を使わずに城の基礎を築ける点でも、合理的な手法である。いわば「報酬を出さないアウトソーシング」である。  
蛇足だが、江戸の町を拓くために埋立てられた土地には、新たな地名がつけられた。その部分の工事を担当した大名の国名をとって尾張町、加賀町、出雲町など名づけられたところもある。ちなみに、漆喰で塗り固められた城の壁の原料となった石灰は、江戸西部にある村に命じて石炭岩を焼かせて、馬で運ばせたものだが、この道が現在の青海街道である。  
諸大名は自分の領地から農民を江戸に連れ出し、資金不足は家臣にも担ってもらい、また豪商から借金をしてでも整えなければいけなかった。それは軍役ともいえるだろう。領地を支給してもらっている、つまり石高をもらっている徳川家に対する奉公なのである。  
江戸城の建設と並行して、1604年には近江の彦根城を、その近隣7カ国の大名に命じて築かせ、1612年には駿河城を、1615年には名古屋城の建設を命じるなど、大名への課役はすこぶる大きかったようだ。江戸幕府の支配統制の本質は、巧みに大名を操ることにあったようだ。それは幕藩体制が築いた縦社会そのものである。 
幕府の官僚統制  
家康を征夷大将軍に据えた江戸幕府の官僚統制も、藩主をトップに置く各藩の支配統制も、封建的主従関係をベースにしている点では同じ構造である。  
1590年、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国の領主から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。150万石から250万石への加増であったが、家康にとって縁の深い三河の土地を失い、まだ拓けていなかった関東に移されたことは辛酸をなめる思いであったことだろう。  
関東に入った際、徳川氏の直轄領は江戸の周辺だけだった。しかし、その頃から家康は有力な家臣(上級家臣)を江戸から遠方の重要な支城に配置した。たとえば榊原康政(10万石)を上州館林に、井伊直政(12万石)を上州箕輪に、結城秀康(10万石)を下総結城に、本多忠勝(10万石)を上総大多喜に、大久保忠世(4万石)を相州小田原に配置した。彼らは謀反を企てないであろう支店長クラスであり、それぞれが軍隊を率いるリーダーであった。  
一方、およそ100万の直轄地には、伊奈忠次や大久保長安などの有能な家臣を「代官」などに据え、統治していった。その代官クラスは、主に武田・今川・北条の旧臣を登用した。つまり、かつてはライバルグループにいた途中入社の優秀な人材を抜擢したのである。これに意気に感じた途中入社組は徳川コンツェルンに忠誠心を誓ったことだろう。  
この統治の仕方は、家康独自の人材登用法の結晶である。家康は井伊や本多など、いわゆる「生え抜き」の武将によって強力な軍団を形成し、途中入社組のうち有能な行政官・財務官を側近に抱え、領国統治と財政を固めたのである。豊臣政権下で最大の領地をもつ徳川グループは最も強力な軍隊と豊かな行政・財政を築いていったのである。家康がやがて覇権を握った基礎は、こういった関東領地経営の成功があったからであろう。  
さて、江戸幕府を開いた家康は1605年、将軍の職を三男・秀忠に譲り、その後は大御所と称せられるようになる。政治の実権は大御所が握り、中央政権の法的な主権者は将軍ということになる。家康は「政権の主権者は代々徳川の本家が世襲するのだ」という伝統を早くにつくりあげてしまったのである。個人の資質でなく、将軍という役職が権威を示し、また徳川家が絶対的な権力を握っていることを諸大名に知らしめるこの手法は、統治の仕方として卓越している。これは徳川家の側近も諸大名も将軍の代が替わっても自動的に徳川家に臣従するというシステムだ。借家なら定期的に契約更新手続きがあり、プロ野球選手なら定期的に球団との契約更新が行われるが、徳川家と家臣、諸大名の関係は半永久的に継続されるのである。これも「小さな政府」を築くうえで重要なファクターのひとつである。  
江戸幕府設立初期に軍事・政治両面でキーマンとなったのは、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政といった「四天王」である。これら側近にとって、徳川家は代々の主君。よって四天王の子供たちも徳川家に仕えることになる。たとえば本多忠勝の息子、忠政は伊勢桑名藩の第二代藩主となり、のちに播磨姫路藩の初代藩主、かの姫路城主となる。つまり、家臣たちも徳川家から与えられた領地の領主の地位を引き継いでいったのである。これは家の継続・繁栄のためにつくられた徳川家のシステムと相似している。  
一方では、本多正信のように家康の側近として幕政を実際に主導する立場の者も登場する。家康から家光に至る徳川三代を描いた時代劇では、本多正信に代表される「吏僚派」と本多忠勝に代表される「武功派」の権力抗争がよく描かれるが、それはむしろ幕府に有能な人材が揃っていたことを物語っているといえよう。これは前述した家康の統治制が人材育成に大いに貢献したことを証明しているといえよう。家光によって大老に格上げされた土井利勝、酒井忠勝などが幕府の支配体制を確立していく。 
幕府の職制の特徴  
江戸幕府は外交権、行政権、徴税権を握ったばかりでなく、司法・立法権も掌握した。天下統一を果たした徳川氏にはもはや合戦の必要はなくなり、次に目指すのは安定した政治である。それを実施するには組織がいる。徳川幕府は、家康から家光に至る三代の間にコンパクトで合理的な組織をつくりあげていった。以下に紹介する職務の要職には主に譜代・旗本がついた。多くが複数月番制・合議制であった。  
最高司令官の「将軍」は、もちろん徳川家の男子が就任。会社でいえば「社長」だが、大御所となった家康などはさしずめ取締役会長か。非常時に置かれた最高職である「大老」は、堀田、酒井、土井、井伊各家から選ばれた。彼らはすべて10万石以上の譜代大名である。こちらは代表権を持つ副社長に該当するだろう。一般政務を統括する「老中」には譜代大名4〜6名がつき、当初は年寄と呼ばれた。常置される最高職で、大番頭・大目付・町奉行・勘定奉行・遠国奉行などを支配した。  
幕府の官僚機構を見ると、大名を監察するのが「老中」、それ以下の旗本・御家人を監察するのが「若年寄」、大名を監察する「大目付」、旗本・御家人を監察する「目付」、朝廷・西国を監察するために「京都所司代」という役職があてがわれていることから監察機構がしっかりしていることがわかる。  
老中が支配した職務のうち「大番頭」は江戸城警備隊長。旗本から任命される軍事部門のトップで、江戸城と江戸市中の警備を担った。「大目付」は大名を監察する役目。さらに老中の下には行政・司法の担当者が並ぶ。「勘定奉行」は天領の財政・行政、関八州の公私領・関八州以外の幕領の司法を担当。天領の経理・財務担当者であり、徴税と司法を担当する「郡代」と「代官」を管理した。  
「江戸町奉行」(町奉行)は、江戸の行政・司法・警察を担当。南町奉行と北町奉行が1ヶ月交替の月番制で、旗本より任命された。  
地方にある幕府の直轄都市(京都、大坂、駿府、長崎など8つ)には京都町奉行、長崎奉行などの「遠国奉行」が置かれ、それ以外の幕府の領地には勘定奉行配下の郡代や代官が派遣された。ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。  
注目したいのは、ひとつの役職が多くの職務を兼ねていたことだ。江戸町奉行は三千石が支給されるほどの高級官僚で、幕府官僚機構でも上位の役人である。彼らが管理した北町・南町奉行所は、現在の東京都庁と警視庁と裁判所の役目も持っていたと予想される。百万都市・江戸の治安を守っていたのは、現代の警察業務に当たる町奉行所の同心だが、それほど大きくない組織が警察権と裁判権と行政権のほかに消防や防疫など立法権まで兼ね備えていたことは、このコラムのテーマである「小さな政府」ぶりを物語っている。  
老中を補佐した「若年寄」も譜代大名から任命され、旗本や御家人を監察した。若年寄の下に置かれた「小姓組番頭」は将軍の雑用係、「書院番頭」は将軍護衛隊の隊長である。  
老中や若年寄が管理した多くの職務のほかに、将軍直属の職務もある。寺社・寺社領の監察を務めた寺社奉行は、宗教行政機関である。一万石以上の大名が就任したことから、三奉行の中では旗本から任命される町奉行・勘定奉行より格式は上である。京都所司代・大坂城代も将軍直属で、前者は二条城にあって老中に次ぐ要職。「将軍の代理」というニュアンスであろう。朝廷や西国大名の監視を務めた。後者は大坂城にあって大坂在勤幕府諸役人を統制し、緊急時には将軍に代わって軍事決定権を発揮できた。出世コースとして、大坂城代から京都所司代を経て老中に昇進するのが通例である。  
ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。書院番→仮奉行→遠国奉行(伊勢奉行)→江戸町奉行→普請奉行→寺社奉行→大名。ただし町奉行から大名になったのは、江戸時代を通じて大岡忠相のみである。 
 

 

直轄地の運営  
幕府の収入源のひとつに直轄地の金山や銀山の経営が挙げられる。しかも「民間でできることは民間に」のスローガンを先取りするかのように、鉱山に必要な山師の手配と上納金の集金だけは奉行が行い、採鉱の仕事は民間に委託していたという。中でも有名なのが佐渡・石見・伊豆などの鉱山(金山・銀山)の経営である。幕府の支配統制は直轄地の運営と適材適所の人材の採用によって実現できたことがわかる。  
佐渡金山は1601年に山師3人に発見され、すぐさま徳川幕府直轄の天領となり、その豊富な産金量は300年にわたる幕府の財政を支えた。家康は同年、毛利氏の旧領であった石見銀山も直轄領としている。石見銀山から産出された銀は、豊臣氏の朝鮮出兵の軍資金になったほどで、長い間日本最大の銀山であった。その石見銀山の奉行を務め、のちに佐渡奉行を経て勘定奉行に任じられ、年寄、老中に昇格し、伊豆奉行も務めたのが大久保長安である。かつて武田氏の家臣であった長安が家康から全国の金銀山の統括を命じられた理由は、彼とその配下の山師たちが湧き水の排水をコントロールする技術を持っていたからである。長安は武田領(甲斐)における黒川金山の鉱山開発や税務に携わっていたのである。  
石見銀山の採掘に携わり大量の銀を産出した長安のマネジメントは冴えていた。佐渡金山には二人の家臣を派遣し、一人には農民統制を、もう一人には銀山の管理をさせた。佐渡には幕府直営の直山(じきやま)と、山師が自分の資金で採掘して売上金の何割かを上納する自分山(じぶんやま)とがあった。長安は石見銀山や伊豆金山から優秀な山師を集め、彼らに米や炭、ローソクなどを支給したという。一方、自分山の山師には、坑道の差によって良質のところには産出の5割、それ以下の坑道には産出の3分の1、4分の1という率の上納を課した。フリーランスの山師にとって5割のマージンといえば大きな額だが、彼らは町人に義務づけられていた「人足役」や「伝馬役」といった町役を免除されていたので優遇政策といえなくもない。  
また、鉱山の産出が盛んになれば全国から多くの抗夫が町に集まるので、長安は町の入口に役所を設け、食料品や日常品などの物資を専売にし、売上げの1割の上納金を課した。こうして佐渡金山も上杉氏が支配していた時代と比較して、産出量が飛躍的に増えたとされている。  
石見銀山や佐渡金山から産出された銀や金は加工されて通貨となり、ポルトガル貿易商や東インド会社らとの活発な貿易を促進し、また家康が推進した朱印船貿易の資金にもなった。この頃に日本にも朱印船貿易家が登場し、鎖国政策が始まるまでアジアを中心に貿易が活性化したのである。  
直営方式が採用されたのは地下資源が豊富な土地だけではない。関東を主とする直轄地からの年貢高は富に大きかった。天領の石高は、関ヶ原の戦い以前は100万石ぐらいであったが、関ヶ原の戦いの後、西軍に属した諸将の領地を没収した中から直轄地に編入したものも多く、家康の晩年には200万石ぐらいに増加した。そして約1世紀後の元禄時代には400万石に達するのである。最初から多くの直轄地を抱えるのでなく、少しずつ増やしていったのは、システムが機能していったことと管理者の習熟があったからだろう。  
さらに幕府は江戸以外に京都・大坂・長崎・堺などの重要都市を直轄にして、商工業や貿易を統制し、貨幣の鋳造権もにぎった。経済統制を進めることで利益を独占しようという政策である。江戸幕府が誕生しても商業の中心が京都や大坂であったことは容易に想像できる。よって京都・大坂・堺を統制する必要があったのである。  
このように江戸以外の土地を直轄にし、優秀な奉行を派遣して支配させ、そこから確実に利益を上げていくのは「小さな政府」らしい合理的な方法である。さらに幕府は農村政策にも着手する。1648年に施行された「検地」の条令である。 
年貢という租税制度  
大名の支配統制と鉱山など直轄地のオペレーションの次に説明しておかなければいけないのが、農民統制である。農民が生産した米を大名が年貢として徴収し、大名は幕府に石高を申請し、上納金を納める。年貢収入が幕府の財政の基盤であったことを鑑みるなら、この制度こそが江戸幕府の支配統制の屋台骨といえよう。  
そのベースになる「検地」は、戦国大名が自分の支配地域で課税を行うための資料として土地の調査を行ったのが起源だ。織田信長も領国内で検地を実施していたが、初めて全国規模で検地を行ったのは豊臣秀吉である。いわゆる「太閤検地」の多くは、大名の自己申告であった。これによって全国的に石高制が認知されるようになる。  
太閤検地が画期的であったのは、土地の所有者でなく、耕作者(農民)を調査し、農民に課税したことである。これによって中間で搾取する武士が一掃された。流通業でいえば問屋をなくしたようなものだ。農民出身の秀吉らしい政策であった。この太閤検地を下敷きにしたものが、江戸幕府の初期の貢租(年貢)である。これは言い換えれば、幕府の租税制度である。  
幕府はすべての土地の価値を米の生産力におきかえる「石高制」を採用し、全国的な流通による諸年貢の換金、領主経済の維持を保証し、領主は検地によって石高を計算したのである。検地にはさらにもうひとつの大きな目的があった。その土地の広さを調査するばかりでなく、農民は検地帳に記名され、職業「百姓」として租税の負担者とされた。検地帳という名の「課税台帳」がつくられたのである。  
江戸時代初期の年貢徴収は、田を観察し、その年の収穫量を見込んで毎年年貢率を決定する方法が採用されていた。年間の石高から計算する方式なので、現在の税金の種類でいえば「総合課税」といえよう。このシステムを全国で機能するように推進したのは、大名と全国に派遣された奉行、代官である。幕府はごく少人数で各地に税務署にあたる組織をつくったのである。こういったしくみが徳川三百年を支えたのである。  
年貢のシステムはこうだ。領地の石高を村々に振り分け、村全体の石高として換算し、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う。そして幕府から派遣された代官や奉行、領地の大名の税務担当者がその村落の代表者から徴収し、幕府や大名に納めるのである。  
物事をあきらめるたとえとして「ここが年貢の納め時」と言うが、その裏には当時の農民の「なんとか年貢納入を回避したい」という赤裸々な心情が見え隠れしている。また、村単位で協同して米をつくらなければいけという姿から農耕民族の「村社会」の構図がくっきりと浮かびあがってくる。農作業をさぼると村全体に迷惑がかかることになるのである。  
徴収される年貢高に大きく影響を与えるのが、その領地が幕府直轄領か否かである。大名領では五公五民、つまり50%の収納率。これに対して幕府直轄領の場合、公定年貢率は四公六民、すなわち幕府の徴収は40%であった。  
しかし実際には、マネジメントを担う代官の数がかなり少ないため、徴税活動の浸透率が低く、40%の徴収率に達することは難しかったとされている。幕府の直轄地を「天領」と呼ぶのは、天(幕府)が収める領という意味だけでなく、年貢が少なくてすむから農民にとって有利だというニュアンスが込められているようだ。  
検地による年貢徴収制度にはメリットとデメリットがある。メリットは農民の管理がしやすいこと、課税制度が築けること、少数の管理者ですむことなどがある。「小さな政府」が稼動するには、やはりこういった課税システム、支配制度が必要であったということだ。デメリットは洪水や干ばつ、台風などでその年の実際の石高が大きく左右することだ。大名も農民も年によって収入が大きく変わるリスクを背負っていたのである。このことから江戸中期には、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法が採用されるようになる。 
陸路の整備と伝馬制度  
今週から数回にわたって江戸幕府の先鋭的な政策を紹介していこう。幕府の政策といえば、参勤交代の実施や武家諸法度・公家諸法度の発令、鎖国、大判・小判の改鋳などが思い浮かぶが、まずその前に江戸と地方都市を結ぶインフラ整備が必要である。江戸は幕府が開かれるまで辺境であったので、江戸市街の建設と交通網の編成は徳川家の重要な事業であった。と同時に交通網の整備は、経済の発展を促す先鋭的な政策でもあった。  
江戸への交通・輸送路は陸上交通が先に進み、のちに上方−江戸を結ぶ廻船など海上交通が生まれる。1603年、家康は諸大名を動員して神田山を崩し、現在の日本橋から新橋に至る地域の湿地を埋め立てて市街地を造った。その際、従来は西方台地を通過していた東海道をこの市街の中央に通したのである。これが現在の銀座通り、国道一号である。  
新たに架橋した日本橋を起点に、そこから36町を「一里」とし、一里ごとに五間四方の一里塚を造らせた。木を植えて旅人の休憩所、憩いの場としたのである。旅人は一里塚を目印にどれだけ歩いたのかを確認したのであろう。諸藩も江戸にならい全国に一里塚が設けられた。  
東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道のうち、最初に完成したのは、江戸と上方を結ぶ東海道・中山道だ。家康は一里塚に加え、各終点までの道程に約2〜3里(8〜12km)間隔で宿場町(宿駅)を設けた。当時の輸送の主力は馬であり、公用の物資を運ぶために設けたのが伝馬(てんま)である。伝馬とは、兵の移動や物資の輸送に備えて、宿場に乗り継ぎ用の馬や人足を置くこと、あるいはその乗り継ぎ用の馬のことを指す。公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送るこの伝馬制度は、実に合理的な方法である。  
物流に詳しい人なら、現在の佐川急便やヤマト運輸が行っているシステムと同じであることに気づくだろう。たとえば全国から東京都内に向けて送られた荷物は、一度品川の巨大な倉庫に集まる。物資は届け先によって渋谷区、世田谷区などに分類され、そのエリアの担当者が品川の倉庫までトラックで駆け、トラックに荷物を載せ、自分の地区へ戻る。これは家康が考案した伝馬制度を踏襲した物流システムである。  
各宿場には、一定の馬と人足を常備する問屋(とんや)が置かれた。東海道では当初、問屋の数は36であったが、だんだん公用の輸送・交通量が増え、1616年には75、1638年には100となったが、それでも足りずに宿場の近所の農村から人や馬が借り出された。このように宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。助郷役には報酬として賃銭が支払われたが通常賃銭の半分くらいにしかならず、遠い村から往復に1、2日かかってもその分は無償であった。また、幕府公用の旅行者は農繁期に多く、村では助郷役に差し出す農民が間に合わずに代わりに金銭を差し出すこともあり、村の財政は圧迫されたという。  
興味深いのは、公用の荷物は無料であったことだ。おそらく地方の大名が徳川家に送った手紙や物資のことであろう。公用であることを証明するために幕府は朱印状(伝馬朱印)を発行した。これを携帯していない者に対して、各問屋は公用の伝馬を出すことを禁じられたのである。商業が発達するまでは、幹線道路では公用の荷物の輸送が主であったようだ。  
では、こういった荷物の全工程の管理と権限を誰が持っていたのかと思って調べてみると、江戸の町年寄が担っていたことがわかった。さらに輸送を管理していた伝馬役は、現在の皇居前に当たる村の有力者であったようだ。つまり、民間に任せたのである。彼らは江戸城が完成した際に埋立地に立ち退きした村人だ。だからであろうか、伝馬役を手配する代償として新たな土地を与えられ、その名主になっていった。伝馬役が移り住んだ町は、大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町と呼ばれた。そうしてその周辺に伊勢商人などが進出して店を開き、問屋町が形成されていく。これが中央区日本橋に残っている「大伝馬町」「小伝馬町」の町名の由来である。 
水路・治水工事など公共事業  
江戸は日本の城下町としては特殊な立地であった。家康が江戸に入ってきたときには、城の目の前まで入江が入り込んでいた。つまり、農業にも城下町を築くにも適さないウォーターフロントだったのである。  
この土地に大名の屋敷を設けるには土地が小規模すぎたので湿地や海を埋立て、その土地に首都機能をもたせることになる。家康は、最初は城の近くに大名、旗本たちの武家屋敷を誘致し、日本橋から海へ向けての一帯を町屋にした。武家地は主に台地に、商人や職人の住む町人地は低地に向かって広がっていった。台地を通称「山の手」、低地を「下町」と呼んだ。余談だが、日比谷入江を埋め立てできあがった日本橋や京橋、銀座も「下町」ということになる。  
では、埋め立て工事が必要な土地にわざわざ城を構えたのはなぜだろうか?それは水運を利用できるというメリットがあったからだ。江戸の川や堀は水路の役割を果たし、経済面・治水面で大きく役立ったのだ。  
家康は、江戸に着いた月に江戸城本丸先と江戸湊を結ぶ船入り堀「道三堀」の建設に着手したという。江戸城建設のための資材を搬入するための水路である。トラックのない当時、城の建築に必要な巨大な石や木材は陸路では運べなかった。また、陸路より水上交通のほうが輸送量が大きく、コストは低いというメリットもあった。伊豆で切り出された石材や、駿河(現静岡県)、遠江(現静岡県)、三河(現愛知県)で伐採された木材は、外様大名が造った船に載せられ、そのまま城へ持ち込まれたのである。さらに小名木川を開削して、行徳の塩や船橋の野菜、米などの食料を確保するための水路を築いた。これは江戸城建設と城を核にしたインフラ整備といえよう。  
当時の江戸は、低地ゆえに水害に弱く、雨期にでもなると、常に洪水になやまされていた。家康は、下町を水害から守るために、昔からの平川と小石川を日比谷入江には注がせずに、ひとつにまとめて東方に流れている隅田川に落とす工事に着手した。本流を切り放すことで洪水を防ぐ策である。治水工事は政治力がなければ到底できないものだ。家康の実行力はたいしたものである。  
一方、下町では自然の河川をもとに堀をめぐらせ、物資の輸送に用いられた。魚河岸が日本橋に生まれたのは、日本橋が架橋された直後だ。徳川家に魚を提供するために摂津の国(現大阪府・兵庫県)から来た漁師たちは、家康から隅田川の河口の浅い場所を埋立て造成することを許された。彼らは魚群を追いこんで一網打尽にすれば漁法によって、徳川家に提供してもまだ余るほどの漁獲量を誇った。余った魚を人通りの多い日本橋通りで販売する許可を幕府からもらい、これが魚河岸の始まりとなる。当初は、それらの魚すべてが日本橋川を船で運ばれて河岸に荷揚げされ、売られたという。日本橋川とその支流の堀、各々の河岸は江戸湊の内港の役割を果たし、江戸の物流の中心となって江戸の経済を支え、発展していった。  
しかし埋立地には問題もあった。井戸を掘ると海水が湧き出るため飲料水を得るのが難しかったのだ。そこで家康は生活用水の不足を心配し、家臣の大久保藤五郎に上水道の建設を命じた。まず、小石川付近の流水を江戸城方面に引いて小石川を造らせた。これを発展させ、神田川の上に「水道」を渡らせたのが「神田上水」である。当時の水道は木製の水道管に真水を通したものだが、これが日本最初の水道事業である。井の頭池(現在の武蔵野市)を水源にし、小石川の関口で分水し、その後、湯島や神田の台地に沿って流れていたという。  
その後、江戸の人口が急増したので新たな上水が必要となり、多摩川の水を取り入れ、現在の新宿まで堀として流し、そこから暗渠となって江戸城虎ノ門に達する「玉川上水」が完成する。玉川上水は江戸だけでなく、途中の村でも飲料水や農業用水に用いられた。  
築城と治水と物流のために水路を開き、一方では飲用や農業用水の確保のために上水道を造った家康。江戸は彼の手腕によって住みやすい都市へと変わっていったのである。水路・治水工事、上水道工事など公共事業の実施は、政治家として見事な政策である。現代なら家康は「都市開発プロデューサー」といったところだろうか。 
糸割符制度と朱印船制度  
家康が実施した外交・貿易政策のひとつに「糸割符(いとわっぷ)制度」と「朱印船制度」がある。家康が東南アジア諸国との親善外交を進めるに至るには、いくつかの布石があった。1600年、オランダ東インド会社のリーフデ号が現在の大分県に漂着した。船長はイギリス人ウィリアム・アダムス。当時五大老の首座だった家康が大阪城で接見したものの、アダムスの帰国願いを聞き入れず、彼を家来にするために江戸へ連れて行った。  
アダムスは家康に外国の貿易のしくみや列強の状況を教えたことから外国使節の面談や通訳として重宝され、西洋式の帆船の建造も担うようになる。家康はアダムスに出会い、貿易に強い関心を抱いたのだろう。のちにアダムスは相模三浦郡の知行地を与えられ、旗本・三浦按針(あんじん)として数奇な人生を歩んだ。このリーフデ号の漂着をきっかけに、オランダ、イギリスが日本貿易に加わることになる。  
家康は1601年以降、安南(現在のベトナム)、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島に存在したマレー人王朝)などの東南アジア諸国に使者を派遣し、外交を始めた。そして1604年にスタートしたのが朱印船制度である。これは日本を出港する商人の船に海外渡航を許可する朱印状を与え、貿易を促すものだ。朱印状は、たとえるなら「貿易ビジネスマンに与えるパスポート」である。現在なら外務省の業務といえよう。  
当時、日本の貿易相手国といえば主にポルトガルとスペイン。特にポルトガルはマカオに拠点を築いて以降、中国産生糸を一括購入して日本に輸出し、利益を独占していた。生糸は当時の日本において最も重要な輸入品であったが、ポルドガル人が価格決定権を持っていたのだ。そこで家康が考案したのが、京都の豪商・茶屋四郎次郎をリーダーに任命し、京都、堺、長崎の裕福な商人に「糸割符仲間」を組織させ、値段交渉と生糸の一括購入を許する「糸割符制度」である。仲間で一括購入した生糸は商人に分配させ、それが京都・大坂・江戸に渡った。民間に価格交渉をさせ、その恩恵として商人に利益を与えるという特待制度だ。「関ヶ原の合戦」によって国内の経済が混乱し、販売不振に陥っていた力のある商人に向けて、家康は強力なビジネスのネタを提供したのである。これは経済活性化政策ともいえる。  
家康が特定の商人に独占的輸入権と独占的卸売権を与えた理由はそれだけではない。財力のある豪商が豊臣派の残党に軍資金を提供すれば謀反が起こる。豪商を支配下に置くにはまず彼らに利益を与えなければならない。こういう意図もあったのだろう。  
そして同年、朱印船制度をスタートさせる。朱印船は長崎から出航し、長崎に帰港した。朱印船貿易は幕府と深いつながりのある商人に限られていたが、大名や武士にも朱印状は与えられていたようだ。輸入品は、生糸、絹織物、砂糖、武具に使われる鮫皮や鹿皮など。日本からの輸出品は、銀、銅、鉄、硫黄、刀などであった。特に石見銀山で採掘された銀は、当時銀が不足していた中国マーケットに歓迎された。東南アジアでは決済手段として銀が使われたからである。  
朱印船貿易家として名高いのが、前出した「糸割符仲間」を集めたリーダーの茶屋四郎次郎である。当主は代々この名を名乗り、初代が徳川家の御用商人の一人となり、二代目が幕府御用達商人に出世し、三代目が朱印船貿易での特権を活かして莫大な資産を得た。三代目は長崎代官補佐役も務めた、いわば家康の貿易エージェントである。  
そして商人と幕府の間に立って朱印状の発行を取り次いだのが、金貨・銀貨発行の総責任者の後藤庄三郎である。伏見に設立された「銀座」の運営管理を任されていた後藤は、貿易面でも重要な地位にいた。朱印船貿易で銀の輸出を家康に進言したのはおそらく後藤であろう。彼はさしずめ幕府の財務長官といったところか。 
 

 

新田開発と農業制度  
江戸時代に年貢の増収を図る目的で幕府や各藩は新田開発を奨励した。行政サイドからすれば開発奨励・農業振興策、平たくいえば「農地開拓」だが、耕地とともに集落が形成され、水路や街道の整備もセットになっているので「地域開発」と表現してもよいだろう。新田は巨額の利益(石高)を生み出すとともに、人口増大をまかなうために主食の米が必要になったという見方もできるだろう。新田開発は、国と自治体が同時に行った食糧増産計画という文脈からも語れそうだ。  
新田開発は、江戸時代初期、享保の改革が行われた1720年頃、幕末直前にあたる1840年頃の3つのピークがある。江戸時代初期には役人や農民の主導で湖や潟、浅瀬などの埋め立てや干拓が実施され、陸地が増えて耕地となった。そもそも江戸の町の多くが埋立地であったことを鑑みれば、各藩は江戸にならったともいえよう。また丘陵地帯や台地など内陸地でも開発は進められた。こうした新田開発によって江戸時代初期に全国で1800万石だった石高(つまり国民総生産)は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い成果をおさめた。特に関東、東北、中国、九州などでは湖沼や潟が開発され、農地が増えた。  
このような大規模な新田開発は、開発申請者に勘定奉行が許可し、工事が始められた。新田が完成して数年間は年貢が免除されるという特権もあったという。  
興味深いのは、官営の新田と民営の新田が共存したことだ。幕府の直轄領や藩の所有地の開拓は当然公共事業だが、農民たちが独自で開発するのは民間事業である。「首長は民のために土地を耕す。農業をしたい者は自力で開発しろ」という江戸時代の土地開発は、とてもわかりやすい政策だ。幕府や藩がすべての地域開発を計画的に進めれば、それは無味乾燥した社会主義に陥る。モチベーションの高い農民はやる気をなくすだろう。  
官営の新田は、幕府天領の代官が許可して行われる「代官見立新田」と、藩が主導で行う「藩営新田」があった。前者は天領なので幕府がオーナーである。農民は雇われる立場にあり、代官は年貢の10分の1の収入を得た。「藩営新田」は藩が農民に農地開発に必要な資材を提供して新田を開発させるかわりに数年間の年貢の免除を保障した。官営の新田で著名なのが、干拓と治水を含む利根川水系開発だ。資料によれば65年の歳月を費やしたという。  
民営の新田には、下位の武士である土豪たちが資金を出し、周辺の農民を雇って開発した「土豪開発新田」、農民たちが村全体で資金と労力を提供して開発する「村請新田」、資金力のある大都市の商人が開発し、小作農を雇って耕させる「町人請負新田」があった。  
幕府の財政危機から脱却するために徳川吉宗が実施した「享保の改革」では、幕府は次のような新田開発を促した。天領の内で大名領と入り組む場所であっても新田になりそうな土地があれば五畿内(摂津、河内、和泉、大和、山城国)の場合は京都町奉行に、西国・中国の場合は大坂奉行所に、北国・関八州は江戸町奉行所に願い出るように――。  
この政策は、幕府が資金を負担することなく、民間資金を導入することで年貢地の拡大を目論むものである。そのかわりに開発地の一部を出資者が所有することを許可し、開発者は地主として小作料を徴収できる。つまり農地のオーナーになれるということだ。このしくみは「税金を低く設定するから、この地に支社を出してくれ」「土地を格安で提供するから、この地に工場を建ててくれ」といった国が設ける「経済特区」とそっくりである。  
この時代に開発されたのが、関東ローム層地帯にあり、水に乏しかったことから農業にはきわめて不適切であった武蔵野の台地である。幕府が有能な農業技術者を派遣し、武蔵野の土豪が開発した。こうして関東平野が拓かれていったのである。  
しかしながら弊害も少なくなかった。新田開発ブームに便乗した無計画な開発による水害である。水脈を加工したことで洪水が起こり、新田が崩壊するケースも各地で見られたという。江戸時代の事業も大きなリスクが伴ったという教訓のひとつである。 
貨幣鋳造機関の設立  
徳川幕府が確立した貨幣制度の基本は、金貨・銀貨・銭貨の3種類の貨幣を定める三貨制度である。貿易によってもたらされた様々な中国銭の国内流通に加え、江戸時代より前は貨幣が私鋳されていたので、質の悪い貨幣など様々な種類の貨幣が出回り、それらが流通することで取引に問題が生じていた。  
また金山・銀山で採掘された金銀も産地ごとに質的な差があり、これも取引に支障をきたす要因であった。こういった状況から家康は天下統一の具現策のひとつとして、全国どこでも通用する均一の質の貨幣に統一する必要があったのだ。見方を変えれば幕府による「貨幣の発行権」の独占である。  
幕府は金座、銀座、銭座と呼ばれる貨幣鋳造機関を設立し、それぞれの貨幣を鋳造させた。これらは明治に誕生した国営の造幣局とは概念が異なる。金座、銀座、銭座は、幕府から特権を与えられた町人(特権商人)によって構成される請け負い事業だったからだ。現在でいうところのアウトソーシングである。  
これらを幕府の役人である勘定奉行が厳しく監督し、鋳造された貨幣は原則として幕府勘定所へ上納された。マネジメントは幕府の役人が担い、実際の作業は民間が請け負うという仕事のしくみは、幕府直轄領の金山・銀山の運営システムとよく似ている。これぞ「民間にできることは民間に」を実践する小さな政府の政策である。  
家康は1601年、全国流通を目的とした慶長金銀を制定した。金貨鋳造の中心となった人物が彫金工芸師・後藤庄三郎光次である。後藤は「大坂冬の陣」で徳川軍の尖兵として活躍した人物だ。金貨鋳造と鑑定・検印を行った金座は、家康が1595年、江戸に後藤を呼び、小判を鋳造させた時に始まる。幕府設立後は勘定奉行の支配下に置かれ、江戸本石町に役宅(現在でいう公邸)が設置された。  
当初は駿河、京都、佐渡にも金座は置かれたが、幕末まで続いたのは京都と江戸のみである。家康に抜擢された後藤庄三郎は御金改役(ごきんあらためやく)として金貨の鑑定と検印を行い、実際の鋳造は小判師と呼ばれる職人が担当した。幕府から金貨製造の許可を得た小判師たちは後藤家が居住する金座役宅の周辺に自宅を構え、品質や納期などすべて後藤家がマネジメントし、自宅で作業した。小判師たちが鋳造したのは原判金だ。これが後藤の役宅で検定され、後藤家の極印(五三桐の打刻)がなされたものだけが貨幣として認められたのである。  
後藤庄三郎光次は単なる金商ではなく、幕府の経済政策担当者のような存在であった。そもそも小判の鋳造を提案したのは後藤であった。以前より太閤秀吉が使う大判は金額が大きすぎ、商売で使うには不便であり、大判の1/10の価値にした小判を使えば流通が栄えると提案したのである。幕府は庄三郎のプランをすぐに理解し、後藤家による新貨幣の製造がスタートした。朱印状の発行も後藤が家康に取り次いだとされていることから、貿易にも明るい才人であったのだろう。  
興味深いのは、原判金の鋳造に必要な材料は小判師たちが自身で調達したことである。フリーランスの小判師たちは自己責任で金・銀商人から金を買い入れるか、幕府直轄の金山から入札して入手したという。やがて管理の徹底と小判師の分散化を防ぐために、1698年には後藤家の敷地内に鋳造施設が設置され、以降江戸での金貨製造はこの金座のみで実施されるようになった。  
貨幣鋳造機関の中で金座は特に厳しい管理、統制を受けていた。複数の作業員による相互監視体制、職人採用時の誓約書の提出、家柄の限定などである。  
一方、銀貨の鋳造が行われた銀座は、家康が1601年に京都・伏見に設立したのが起源である。銀貨は堺の両替商・湯浅作兵衛が世襲で鋳造した。湯浅は徳川家から大黒常是という姓名を与えられ、銀貨には大黒家の極印が記された。  
もとはといえば「物価が混乱しているのは銀貨が不安定だから。良質の銀貨を発行して欲しい」と銀貨発行を提案したのは、摂津国平野の豪商で大津代官の末吉勘兵衛である。伏見の銀座は大黒家が仕切り、前出した後藤庄三郎光と末吉勘兵衛一族がリーダーとなって管理した。銀座も勘定奉行の支配下にあったが、金座同様、商人による請け負い事業であった。 
公募による貨幣鋳造機関の開設  
江戸時代に機能した金座・銀座は貨幣の鋳造を担う民間機関であると同時に発行機関の役割、改鋳による通貨調整役も兼ねていた。現在でいうなら造幣局と日本銀行の一部分の機能をこれらが担っていたのである。実にコンパクトに仕上がった組織といえよう。  
金座は小判師の鋳造した原判金の鑑定と検印を行う金貨製造・管理センター、銀座は銀貨製造・管理センターである。銀座は当初、伏見、駿河、大坂に設置されたが、伏見の銀座は1608年に京に移され、駿河の銀座はのちに閉鎖される。大坂の銀座は生野や石見などの銀山から鋳造用の銀を買い集め、京に送る役割を担っていたようだ。やがて銀座は江戸と京都の二ヶ所のみとなり、のちに江戸のみに集中するようになる。金座・銀座とも勘定奉行が厳しく管理したものの、民間の請け負い事業である。  
一方、銅を鋳造した銭貨の寛永通宝を全国に広めるために1637年、幕府が全国に設置した貨幣鋳造機関が銭座だった。金座・銀座と異なり、銭貨を必要とする場合に限り一時的に開設されたもので、当初は幕府から銭貨鋳造に関する独占的な特権を与えられた商人で組織された。金座・銀座同様、勘定奉行の支配を受けたが、開設期間が短く、請け負い人が著しく交替したので、取り締まりは穏やかであったようだ。通貨調整のための短期集中の請け負い事業なので、金座・銀座ほど重要視されていなかったということだろう。  
銭座は江戸では寛永通宝の鋳造を浅草と芝で行い、その後は本所(現在の墨田区の一部)や深川にも設立された。糸割符制度によってポルトガル船の輸入生糸を独占的に一括購入した京の商人たちが銭座の設立を申請し、1700年に寛永通宝の鋳造を行ったという記録が残っているように、銭座の経営は公募によるものだった。幕府が業者を探して打診したのでなく、公募であったことに着目したい。  
幕府は請け負い業者を闇雲に探すリスクを回避できるし、町人にとっては銭座経営の機会が均等に与えられたことになる。封建時代にあって画期的で民主的な方法だ。とはいうものの、請け負ったのは、銅山経営者、貿易商など全国の有力商人がほとんどで、その背後で操っていたのは各地の大名であったようだ。銭座の利益の一部は幕府に上納されたが、銭座経営の利益は大名の資金源にもなっていたのだ。  
しかし、やがて国産銅の減退が顕著になり、貿易用銅の確保のために銅生産がコントロールされるようになる。統制が強化された明和期(1764〜1771年)以降は、幕府の命により金座・銀座が銭貨の鋳造を兼ねるようになる。1772年には、金座・銀座以外の銭貨鋳造は原則として禁止された。これも幕府による通貨統制政策である。  
こうして通貨調整が行われ、金貨・銀貨・銅貨による三貨幣制度が定着していったわけだが、同時に大きな矛盾となる制度も生まれた。幕府は上方で流通していた雑多な銀を、銀貨の一定した丁銀・小玉銀に統一したのである。丁銀・小玉銀とは銀の秤量による貨幣で、重さを量って使う貨幣である。一方の金貨はその枚数によって交換価値を計る表記貨幣。この秤量貨幣(銀貨)と計数貨幣(金貨)の併用が江戸時代の貨幣制度のユニークさであり、また問題点でもあった。  
金・銀・銭(銅)貨という、単位も性格もまったく異なる貨幣が併存したことで、銀貨を重用していた上方と金貨を重用していた江戸との取引に混乱が発生したことから両替商が発展し、やがて三井や住友といった財閥が生まれる要因にもなったのである。  
金本位・銀本位の視点から見れば、幕府は素材価値の高い金を貨幣制度の中心に据えようとしたようだが、国際決済手段として広く認められていたのは銀であった。金本位制と銀本位制はまったく異なるパラダイムである。幕末に大量の金貨が海外に流出したのは、国内外の貨幣に対する価値のギャップによって生じたという見方もできるだろう。  
ちなみに現在、江戸金座の跡地に建っているのが日本銀行である。そして日銀もまた金座・銀座同様、政府から独立した法人で、公的資本と民間資本によって成り立つ組織である。 
複数の職務を兼ねた町奉行と民間への委託  
幕府で行政を担ったのは、老中や大老、大目付や三奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行)などの職に就いた少数の武士だが、これら幕府官僚で最も激務だったのが江戸町奉行である。奉行所所在地から北町奉行・南町奉行町奉行と呼ばれた二人の江戸町奉行は、現在でいうなら東京都知事、警視総監、消防総監、東京都地方裁判所所長を兼任したような役職であった。奉行所は御番所、御役所とも呼ばれた。市役所や役場というより地方裁判所に近い場所である。  
江戸町奉行はサラリーマンのように毎日登城し、老中の指示を受けたり、他の官僚と折衝したりしたほか、江戸における殺人や放火など刑事事件の訴訟事務を行い、さらに1ヶ月交替で江戸町人からの訴訟を受けつけた。こちらは民事訴訟の受理である。  
幕政の重要事項の決定や裁判を行った、評定所と呼ばれた場所がある。老中、大目付、目付、三奉行などが毎月6回出席し、その都度案件を処理した場所だが、ここで中心となったのは三奉行である。江戸町奉行は評定所のメンバーとして国政にも関与したので、訴訟事務と行政事務をこなし、裁判官も務め、さらに法務大臣も兼ねた官僚ということになる。江戸町奉行として名高いのは、南町奉行の大岡越前守忠相、北・南両奉行を務めた遠山左衛門尉景元(遠山金四郎景元=「遠山の金さん」のモデル)、幕末の優れた幕僚・小栗忠順(上野介)などがいる。彼らがいかにスーパーマン的な仕事をこなしたのかは想像に難くない。  
元禄時代に江戸が人口100万人都市であったことを見ると、様々な問題が発生していたと想像できる。町奉行にはそれぞれ与力、同心が部下として配置された。与力は都市行政の各部門の中間管理職。同心は与力より格下の役人で、現在なら一般の警察官といったところか。  
江戸の都市行政を担う奉行所のスタッフは与力・同心を合わせても300人に満たなかったとされている。さらに行政の一部門である治安、具体的には市中の取り締まりにあたったのは20名ほどに過ぎなかったようだ。これでは100万人都市の治安を守れるはずもなく、実際には同心の下に岡引き、その子分の下引きが江戸の治安維持に大きく貢献していた。  
そして驚くべきことに、奉行所は各町に置かれた名主(町役人)に各町の行政事務の処理を委託していたのである。江戸町奉行を東京都知事に置き変えるなら、知事は一部の行政事務を民間に委託し、都市行政を遂行したということになる。  
名主は一人あたり、平均7〜8町、約2000人以上の町人を担当していたようだ。彼らは役料をもらい、奉行所からの伝達、火事場での火消人足の手配、奉行所に提出される訴状や届書のチェック、町内のもめごとの調停など多岐にわたる仕事をした。いわば区長や町長のような存在だ。名主の上に3人の町年寄がおり、奉行所とのパイプ役を果たしていた。名主は各主組合に入り、組合内の名主を監視し、伝達事項を伝えた。不正を未然に防ぐためにお互いの町の行政事務をチェックさせたのである。江戸の行政はこのように民間人を使っていたので官僚組織がコンパクトになっていたともいえよう。  
また町入用と呼ばれる行政にかかる費用は幕府でなく、民が負担していた。このシステムは税金に近いもので、地主が所持する家屋敷(不動産)の規模に応じて徴収された金が町入用に使われたのである。名主の役料も町入用によって賄われた。土地を持っている市民が行政にかかる費用を負担してくれれば幕府の持ち出しはない。幕府にとってベストな選択である。  
このような都市行政のあり方を鑑みると、江戸の町人がいかに行政に参加していたということがわかる。そして幕府が巧みに町人をコントロールしていたという構造も見えてくる。現在でも当番制で夜回りを行っている町内会があるが、これは江戸時代から続く市民の自衛手段であると同時に、行政の仕事を市民が自主的に担っている例ともいえる。ともあれ、江戸の行政は町奉行が奮闘して成り立っていたということである。 
江戸 住宅とゴミ問題  
江戸時代中期以降の江戸の人口構成は、武家人口50万、町人人口50万とされている。江戸の面積の約70%が武家地と呼ばれる武家の居住地であった。50万人の町人が残り30%の土地で暮らしていたということは、必然的に町人の家は小さくならざるを得なかったのである。江戸(東京)の一般市民は400年前から「うさぎ小屋」に住んでいたということだ。  
人口の多さだけでなく、江戸の地価は高額であったこともあり、家賃の滞納や共同施設の必要性などさまざまな問題が生じたようだ。人口密度の高い江戸の中心部と、農村地である周辺地域の店賃の格差は4〜5倍にのぼっており、中心部では空き店舗が多く、また店賃の滞納も少なくなかったようだ。このような問題が発生したことで、民事制度や都市政策が進んだと推測できる。  
町人たちが住まう典型的な住宅として時代劇や落語に登場するのが軒を連ねた長屋だ。狭い土地ながらこの長屋には都市生活を営むための多くの工夫がほどこされており、驚かされることが多い。地主は表通りに面した部分の土地を商店に貸し、その裏には裏長屋を建て、持ち家のない人々に貸し付ける町屋経営を行っていた。  
ひとつの土地を用途に分けて貸し出すという、現在では当たり前となっている不動産業の発想は、この頃に生まれたのだろう。また長屋には共同の厠(トイレ)や井戸、長屋の住人が使う水道などが設けられていたというから、集合住宅の基礎となるインフラ整備が行われていたことがわかる。  
武士と町人が暮らす江戸は「生産地」ではなく、巨大な「消費地」である。各地から運ばれてくる食料、道具類、着物などどれをとっても消費目的の品ばかりだ。さらに多発する火事や地震によって大量の建築廃材が排出されていたと想像できる。100万もの人口が暮らすなら大量のゴミも生じていたであろう。では、ゴミ問題はどのようになっていたのであろうか。江戸時代の庶民の暮らしを記した資料を漁ってみると、江戸ではゴミを処理する埋立地が設けられていたことが記されている。  
幕府が市中に出したお触れ(幕府の公告)に「ゴミを下水に捨てることを禁じる」というものがある。ゴミ捨て禁止の場所には、下水・会所・川などが挙げられている。1648年に発令されたお触れが最も古い資料だが、それ以前の記録が発見されていないだけかもしれない。ともあれ、幕府もゴミ問題の解決に取り組んでいたことの証明である。1655年のお触れには、「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てること」「ゴミを運ぶ船の運賃は町々で少しずつ負担すること」や「地域ごとにゴミ回収船がまわる日を決めよ」といったことが記してある。  
船賃を町が負担することは別にして、町々のゴミを船(現代は回収車)が集めてゴミ捨て場に運ぶ・・・これは自治体が実施している現代のゴミ回収と同じシステムである。幕府がゴミ問題と正面から取り組み、練り上げた都市政策を実施していたことが見えてくる。武士が50万人も住んでいたことから自分たちのためにもこういった政策が必要だったのだろう。  
ところで「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てる」のお触れにある「永代嶋」とは現在の東京都江東区に該当する地域のことで、当時は隅田川に沿って多くの洲があり、それが島のような地形をしていたため永代嶋(島)と呼ばれていたという。地元の町人が幕府に請願し、永代浦干潟にゴミ捨て場を設置し、埋め立てを始めたのが始まりだ。  
当時から問題解決策をひねりだす市井のアイディアマンはどこにでもいたということか。しかし、わずか3年で6万坪のゴミ埋立地となり、ゴミ捨て場は深川越中島(江東区)後方に移されている。蛇足だが、永代浦干潟の埋立地にはのちに深川佐賀町にあった材木問屋の多くが移り、「木場」と呼ばれるようになる。  
大江戸ウォーターフロントでは、このように猛スピードでゴミ捨て場が生まれ、埋立地となっていったのである。幕府にとってはゴミの処理と同時に新たな領地が人工的に誕生したことになるが、都市にとってゴミ問題は政治レベルでの大問題であることは江戸も東京も本質的には同じであるようだ。 
 

 

江戸 弱者のセーフティネット  
100万人都市・江戸は巨大な消費都市であったことから、江戸に行けば「仕事があるかもしれない」「生活が今より豊かになるかもしれない」と考え、多くの人々が流入し、その一部が無宿者や浮浪者となるケースも見られたという。彼らを潜在的犯罪者と見なして警戒する幕府は、たびたび「旧里帰農令」を発するとともに、1790年には石川島(現在の中央区)に町奉行管理下の「人足寄場」を設置した。  
旧里帰農令とは、松平定信が老中在任期間に主導して進めた「寛政の改革」で実施された政策で、地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させ、江戸から農村への人口移動を狙ったものだ。江戸を起点に見れば「働かない者は田舎へ帰れ」といった強烈な政策だが、地方を起点に見るならば過疎対策、人材確保対策でもある。現在、Uターン希望者や転入希望者に奨励金や住まい(借家)を与える制度を設けている地方自治体があることを鑑みれば、今にしてみれば旧里帰農令は画期的な政策であったといえよう。  
一方の人足寄場とは、無宿人、浮浪人を石川島に設置した宿場に集め、更生させる自立支援施設のことだ。「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が老中・松平定信に提言して実現したもので、これも「寛政の改革」で実施された政策である。初代の管理者には平蔵が就いたが、以降は町奉行が担った。300〜400人の軽罪人を約3年間収容し、彼らが新たな犯罪に走る前に身柄を拘束し、劣悪な生活環境での重労働を強いることで、無宿人でいることの不利を自覚させ、無宿人を減少させる目的もあった。  
自立支援のプログラムは、大工、建具製作の訓練、単純軽作業や土木作業の指導や講義などだ。現在の刑務所で行われている、工芸品や家具などの刑務作業とよく似たシステムで、労働に対する手当を支給し、手当額の一部を強制貯金し、3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付して更生資金に充てさせた。また、収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を、農民には田畑、大工になる者には道具を支給したという。この制度は現在でいうところの「弱者のセーフティネット」であり、これもまた画期的な政策といえよう。  
余談だが、人足寄場は幕府からの運営資金が不足したため、長谷川平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に投資したり、大名屋敷跡地を有力商人に資材置き場として賃貸したりするなどして稼いだ利益を人足寄場の運営資金に投入したという。施設の運営資金を生み出す手法は「鬼平犯科帳」では描かれていないが、平蔵には捕物だけでなく経営者や投資家の手腕もあったようだ。  
「寛政の改革」では、相互扶助の制度も生まれている。名主役料や上下水道の維持経費、鐘役(鐘を叩いて時刻を知らせる仕事)、木戸番(町境に設けられた木戸の番人)、ゴミ回収、祭礼などに使われていた町費を節約し、その7割に幕府からの援助金1万両を加えた基金「七分積金」を設け、災害時の救済やハシゴ、手桶などの購入費用、道路や橋の修繕などに使われたのだ。  
町入用節減額の10分の7を積金したことから「七分積金制度」と呼ぶ。しくみだけを見れば、町々の積金と幕府・富裕町人(主に地主)の出資金を資本とし、非常の時の救済に充てると同時に、町からの申請により名主、地主、拝領地主(武家)へ低利で貸付ける公庫制度ともいえる。この貸付制度はその利子収入によって救済資金の増資をはかるものであったが、同時に拝領町屋敷の地主(下級武士)を含む小地主層を保護するためのものであった。  
幕府からすれば「公庫制度」だが、町人側からすれば目的は別にして現在の「互助会」のシステムに似ている。これらの事務が執行されていた「町会所」では、孤児、未亡人、負傷者らに米銭も支給していたという。町会所は救済目的の公民館といったところか。この町会所の設立によって江戸の市民は不時の災害から救われたという記録が残っている。  
また幕府による救済が制度化したものとしては、火災や水害、地震などの被害者に米を支給したり、「お救い小屋」を建て、住まいを提供したりしたことが挙げられる。これなどは地震にあった地域に地方行政や国が仮設住宅を建てる、現在の復興制度の起源といえよう。江戸時代に生まれた優れた政策のひとつである。 
江戸 消防制度  
「火事と喧嘩は江戸の華」とは、時代劇や時代小説でよく聞く言葉だが、約100万人が暮らす大都市・江戸にとって、火事は都市機能をマヒさせ、多くの人命を奪いかねない重大事だった。武家にとっても大名屋敷が焼けると、復旧に莫大な費用がかかるので大きな脅威だった。1657年の大火では江戸の町の約60%が焼失し、江戸城の本丸・二の丸・三の丸と天守も焼け、天守はその後、再建されることはなかった。死者は10万人に及んだとされている。  
3代将軍家光は、6万石以上の大名16家を4組に編成(1万石について30人の人足)する「大名火消」に消防活動を行わせていた。これは若年寄の配下に属する組織で、江戸城や大名屋敷を家事から守る、いわば徳川家私設の消防隊だ。4代将軍家綱は、1657年の大火の反省から最初の公設消防「定(じょう)火消」を設置した。4人の旗本に「江戸定中火之番」を命じ、飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町に火消役の屋敷をつくり、与力や同心を付属させ、火消人足を常駐させて火事が起きたらすぐ出動できるように準備したのだ。これが現在の消防署の元である。  
それでも大名屋敷中心の消防組織であったため、町屋を家事から守るまでには至らなかった。そこで、1718年に8代将軍徳川吉宗の命を受けた江戸南町奉行大岡越前守忠相が町人のための本格的な消防組織として創設したのが「町火消」である。これが時代劇に登場する、お揃いの半纏を身につけた「いろは48組」だ。  
町奉行が消防団の設立を命令し、町奉行支配下の警察組織「火消人足改」(のちに火付盗賊改と統合。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が長官)の与力・同心の管理下にあったとはいえ、町火消は幕府から「足留め金」と称する、わずかな金額が支給されるだけで、実態は町人が費用を自己負担する自衛的な消防団であった。「足留め金」とは、火事はいつ起きるかわからないので、火消人足は所属する組の近くにいるよう遠出が禁止されていたことから命名されたとされている。  
町火消の費用を町人が負担したと前述したが、町内会が一戸一戸をまわって集金したお金でなく、どうやら大店の主人がスポンサーとなり、保険のつもりで町火消の頭にお金を渡し、日常的に彼らの生活の面倒をみていたようだ。商人や地主にとって自分の店や貸している長屋が家事で焼失することは大きな痛手だ。火事になったときに助けてくれる町火消と日ごろから親しくしておくことがリスクヘッジにつながったのだろう。現在なら警備会社に支払う必要経費のようなものである。  
こうして見てみると、江戸の消防面での都市政策は、大きな枠組みは官僚がつくり、運営は民間に委ねるというやり方であったようだ。また町人からすれば「自分の身は自分で守る」という意識が強くあったのだろう。都市生活には行政によるインフラ整備のあとで、必ずそのシステムを維持するランニング資金・メンテナンス資金がつきまとう。幕府が命令しなくても需要と供給が生まれ、取引が発生したということだ。  
ところで、消火活動だが、当時のそれは風下にあたる家を鳶口や刺股といった道具で壊し、延焼を防ぐなどの破壊消防が主であった。屋根の上に上ることも多かったので、火消人足には鳶や大工といった専門職が就いた。江戸中期にオランダから「龍吐水(りょうどすい)」と呼ばれる小さなポンプが伝来したが、水圧が低く放水量が少なかったため消火に貢献することは少なかったようだ。  
これらはいわば消防のソフト面からのアプローチだが、ハード面でも工夫はあった。1657年の大火をきっかけに幕府は、瓦屋根や土蔵造りといった防火構造を奨励し、井戸の開発や水溜桶の設置を命じ、防火目的の空き地である火除(ひよけ)地を設定した。1723年には、「火の見やぐら」の設置が義務づけられ、2人ずつ番人を置くこととなった。  
瓦屋根や土蔵造りを奨励するために幕府は武家・町人の身分に応じて無利息の10年月賦で金を貸したほか、町屋に対しては5年間租税を免じた。現在なら省エネ物件や地震対策物件、屋上緑化建造物に有利な融資を行う住宅制度のようなものである。これなどは近代国家に不可欠な制度で、江戸時代の画期的な政策といえよう。 
江戸 「時の鐘」  
落語や怪談噺に出てくる「草木も眠る丑三つ時」。丑三つ時は、江戸時代の時間の表記だ。干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00〜2:30)、丑二つ(2:30〜3:00)、丑三つ(3:00〜3:30)、丑四つ(3:30〜4:00)と数えた。丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。  
時刻を報じる鐘「時の鐘」が都市政策の一環として設置されたのが江戸時代である。当然のことながら暦は時計という概念が浸透する前から存在した。日本では中国から伝わった暦法を長い間用いてきたが、江戸時代に日本独自のものになった。当時の時刻の取り方は「不定時法」と呼び、日の出と日の入りを基準に昼と夜のそれぞれを六つに割って一刻(いっとき)と定めた。  
したがって一刻は季節によって長短が生まれた。  
1626年、江戸城から近い本石町(現在の日本橋)に鐘楼が建てられ、鐘役が鐘を鳴らして時刻を知らせたのが「時の鐘」の起源である。石垣の上に四本足の楼が建てられ、大型の梵鐘を吊るし、一定の時刻になるとその時刻の数の鐘(たとえば現在の午後6時に該当する暮れ六つなら6回)を叩いたのだ。  
よく混同しがちなのが火の見やぐら。こちらは消防や自衛のために町ごとに置かれた詰所(番屋)に常駐する番人が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組んで一段高い場所に置いた見張台で、火事や洪水が発生したときに半鐘を鳴らす場所でもある。鐘楼は消防には使われず、あくまでも「時の鐘」を叩く目的のためだけに設置された建造物だ。浅草寺や目白不動にも設置されたので、お寺の梵鐘にも見えるが、寺院が管理したわけでも町人の自主管理でもなかった。これは後述する。  
本石町に鐘楼が建てられる以前は江戸城で太鼓を鳴らして時刻を知らせたが、さすがに江戸市中には届かなかったようだ。その後、浅草、上野、芝など9ヵ所に鐘楼が建てられ、順次鐘の音をリレーして時を知らせたという。江戸の街区拡大とともに、「時の鐘」の数も増え、最終的に15ヵ所となった。音で時刻を知らせる時計が大江戸に15個設置されたというわけだ。  
「時の鐘」は江戸以外の城下町や京都、長崎などの都市にも設置された。  
鐘楼の運営は意外なことに町人ではなく、幕府の管理下に置かれていた。鐘楼の設置場所、「鐘役銭」の徴収額、徴収範囲、鐘楼の建設・修理、鐘を鳴らす鐘役の交代など、すべて管轄の奉行所の許可が必要であった。鐘役銭とは「時の鐘」の運営費のことで、時の鐘が聞こえる範囲にある町の住民から1所帯月額銭4文を徴収した。言うなれば「時報税」といったところか。鐘役は名跡相続による世襲制で、幕府が命じた者がその仕事に就いたという。世襲制の公務員のような職種である。  
こうして幕府は「時の鐘」という都市生活に欠かせないシステムをつくり、管理したという。江戸の人々はその政策のもと、統一した時刻報知によって生活を営んでいたのである。これは武家や町人に統一された時間の認識が必要になったことを物語っている。これを専門に書いた書物はないが、国の近代化に必要なOSのようなものである。徳川コンツェルンやその支社長のもとで働くサラリーマンである武家は、江戸城へ登城する時間が決められていただけに正確な時間を知ることは不可欠であった。また町人にとっても納品の時間や仕事の終わりの時間を知らせてくれる「時の鐘」は重要であったと想像できる。  
江戸では木戸を閉める時間も幕府によって決められていた。これは強盗や火つけに対する防犯上の政策だ。町境に木戸番と呼ばれる施設が設けられ、木戸の見張りをした。不審者を町に入れないための工夫である。木戸は夜の四つ時(午後10時)を知らせる「時の鐘」を聞いて閉鎖され、以降は左右の潜戸から通行させた。その際には必ず拍子木を打って、次の木戸に通行人が向かうことを知らせたという。これも「時の鐘」システムが機能していなければできない仕事である。 
勘定奉行荻原重秀の貨幣改鋳  
江戸時代の経済政策といえば、まず改鋳と年貢率のアップが思い浮かぶだろう。前者は貨幣制度、後者は税制の分野となるが、両者は物価の変動、好不況と連動している。江戸時代の物価は、常に米価と連動した。年貢米収入に依存する幕政としては米価が最大の関心事であったといっても過言ではないだろう。米価が高すぎると庶民は困窮するが、米を換金して生活費にあてる武士は潤う。米価が下がると庶民の生活は楽になるが、換金率が低下するので武士の生活は苦しくなる。米価が下がり、物価が上がると、武士にとって「収入は減るが、支出は増える」という最悪の事態になる。つまり、米価は武士と庶民の為替レートだったのである。  
米価が低落しはじめたのは、「生類憐みの令」で名高い五代将軍綱吉の頃だ。四代将軍家綱の時代に、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にも及んだ「明暦の大火」が起きた。このため江戸の復興事業に莫大な資金が投じられた。また、三代将軍家光まで続いた、各地の金山・銀山における「ゴールドラッシュ」が落ちついた時期でもあった。さらに家綱の葬式、綱吉の将軍即位で出費がかさみ、加えて綱吉の母・桂昌院と綱吉が寺社の新改築などで浪費したことで幕府の財政は赤字に転落していた。  
そこで財政建て直しのために貨幣改鋳政策が行われたのだ。当時の勘定奉行は荻原重秀。長い間実行されていなかった検地を四代将軍家綱の代に行い、世襲代官制の弊害を提言した人物だ。将軍の座についたばかりの綱吉は荻原の提言を受け入れ、世襲代官を一掃し、これを機に代官の官僚化が始まる。出世街道をのぼりはじめた荻原は、次に佐渡奉行に任ぜられ、生産量が落ち込んでいた佐渡金山を排水溝の掘削によって再生させる。また佐渡の大規模検地にも着手し、年貢収入を8割アップさせる。こうした手腕が認められ、荻原は勘定奉行に出世し、綱吉から経済政策を一任された。  
荻原は大幅な財政赤字から脱出するために、市中に流通する貨幣量の増大を目指して、1695年、慶長金銀を改鋳し、金含有量を減らした元禄金銀をつくった。当時からすれば天才的な発想である。家康のつくった金貨、銀貨を回収して、金や銀の含有量を減らして貨幣を増やせば、増やした分は幕府の収入になる。その時の差益は金貨450万両、銀貨456万両。合計約1000万両(2兆円)とも500万両(1兆円)ともいわれている。慶長小判が発行されてから約100年後のことだから、経済規模は大きくなり、商取引に使われる通貨の需要は高まっていたと想像できる。それを見越して流通する通貨の量を増やすのは、経済をより発展させるためのひとつの方策である。もちろんインフレという副作用が伴うことは、経済に精通した荻原なら見通していたことだろう。  
この経済政策の評価は二つに分かれる。ひとつは改鋳により経済が混乱し、物価が高騰したので「改鋳は失策」という見方。もうひとつは、インフレ率はさほどアップせず、庶民の生活への影響は少なかったものの、商業資本と富裕層がストックしていた大量の慶長金銀の実質購買力が低下し、幕府は改鋳差益金によって財政赤字を縮小できたという評価だ。  
歴史書には、元禄時代は戦国時代以来の経済発展をもとに庶民生活が著しい向上を遂げ、様々な文化(元禄文化)が花開いた時代と記してある。その一方で、経済成長の軸から見れば、高度経済成長がひと段落し、低成長へと移行した転換期ともいえる。元禄の改鋳は、物価対策というより幕府の財政赤字を補うために用いられた経済政策だった。  
同じ時期、幕府は経済活性化対策として寺社造営や土木普請など、様々な公共事業を展開している。ケインズ理論を先取りするような経済政策だ。この波に乗ったのが、かの有名な紀伊国屋文左衛門(紀文)と材木商・奈良屋茂左衛門(奈良茂)だ。特に紀伊国屋は同時の老中・柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀に賄賂を贈って接近し、頻発した江戸の火事による再建工事を受注したとされている。彼らは幕府の公共事業を請け負うことで巨額の利益を得たのである。これは現在にも通じる、経済政策の負の側面である。 
江戸中期の課税制度と物価上昇  
五代将軍綱吉の時代に米価が低落しはじめた要因は米の生産量にあった。幕府や諸藩は、米=「石高」を維持、あるいはアップすべく新田開発に励み、また農業技術が向上したことで米の生産量が増えていった。江戸時代初期に人口が増加したとはいえ、総需要を供給が上回れば米は余る。  
米が余れば米価は下がる。幕府の財政のうち主だった収入は、米を売って金に換えることだったので、米価が下がれば当然財政は苦しくなる。さらに米以外の商品が値上がりすれば、インフレによる収入増加は見込めない。  
これに追い打ちをかけるように、江戸で大火、関東で元禄地震、東南海で宝永地震、利根川の洪水など大災害が続き、幕府の赤字財政は減らなかった。綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀は、幕府天領の佐渡金山のテコ入れ策や全国の酒蔵に50%の運上銀をかけるなどして収入の増加に努めたという。  
運上銀とは農業以外の商売にかかる税金、営業税のことだ。職種によって額は決められていた。たとえば生産物の運送を担う船を買って運送業を始める場合、その船賃でなく、運送業という職種自体に決められた営業税が必要だったということである。これは商売を営むための鑑札料と考えるとわかりやすい。もともと商店は店の間口に応じた棟別銭を徴収されていたが、商人や製造業者はこれに加え、商札(商業鑑札)を買い取るというスタイルで運上銀を納めた。  
記録として残っているものだけで、大店商札、中店商札、小店商札、魚問屋札、魚商札、醤油手造商札、醤油荷売札、紺屋札、塩売札、薬商札、鍛冶札、油店札、傘札、水車屋札、竹木商札、竹細工商札、桶屋札、瓦焼札、産物仲買札、材木問屋札、酢手造札、茶手商札、諸商人宿札などがある。塩や竹、油など漢字から業種・業態を察することができるだろう。  
運用銀は諸藩でも採用され、特産物の生産にかかわる者も課税されたという記録が残っている。たとえば江戸時代に肥料として重用された干鰯(ほしか)だ。鰯から油をぬいたカスで、佐伯藩(現在の大分県)の浜で生産された干鰯は特産品だった。綿の栽培に効果があると評判を呼び、干鰯が全国市場で販売されるようになると、佐伯藩はそこに目をつけ、生産と流通の両面から利益を得ようとした。干鰯を生産する干浜に運上銀をかけ、原料の鰯を獲る網、漁船にも税金を課せ、さらに漁獲量に応じて課税したという。佐伯藩では船に対しても「船役」という税を課している。  
各藩の運上銀の徴収の仕方はこうだ。藩の指定する判屋に税金を納め、そこで支払い済みであることを記した紙片をもらう。納税したことを証明するために「判」を押したことから判屋と呼ばれたようだが、その判は収入印紙のような存在であったと想像できる。判屋は現在なら税務署派出所といった位置づけだろう。  
さて、江戸中期の物価だが、元禄時代から物価は上昇を続けている。元禄文化が花開き、芝居や浮世絵、行楽や花火などのエンタテイメントが盛んになったことを考えると、庶民の生活水準が向上したことがわかる。商業が活性化し、多くの庶民が経済活動に関与するようになると、貨幣は活発に流通する。そこで生活関連商品の需要が供給を上回るようになる。  
しかし当時はまだ機械や技術は導入されていないので、生産量は急には増えない。品不足が生じる。それに乗じて不正な利益を得ようとして価格の値上げを図る動きが始まったことは容易に想像できる。これは商人がモラルをなくしたとも解釈できるが、商人が頭を使って営業活動を開始したとも分析できる。そもそも商売とは利潤をあげることを目的にしているので、生活必需品が不足すればそれらの商品を高く販売しようと考えるのは当然の流れ。だから物価は上がる。  
物価上昇を抑えるための新たな政策が登場したのは綱吉の死後、約10年後のことだ。「元禄バブル」が弾け、幕府はもはや丼勘定で財政を運営できない危機に面していた。ここに登場したのが紀伊藩主から将軍となった吉宗である。吉宗が実行した「享保の改革」は幕政改革であると同時に重要な経済政策が含まれていた。 
 

 

新井白石の経済政策と紀伊藩主・徳川吉宗の実績  
江戸時代中期、五代将軍・綱吉から七代将軍・家綱に至る時代は、幕府が財政赤字と物価上昇に苦しめられた時期だ。幕府最初の改鋳(元禄金銀と宝永金銀あわせて2500万両)によって一時的に差益を幕府にもたらした勘定奉行・荻原重秀は六代将軍家宣側近の新井白石とソリが合わず、新井は「物価が上昇したのは荻原の無策」「商人から賄賂をもらっている」といった内容の上申書を六代将軍・家宣に提出したという。荻原は寺社造営や土木普請など公共事業の発注にあたり、紀伊国屋文左衛門(紀文)から賄賂をもらっていたという記録があるので、新井の指摘はあながち間違いでもなかったようだ。荻原を追い落とした新井白石は、貨幣の含有量を元に戻すよう主張し、綱吉の時代に発行された金銀(元禄金銀)を回収し、正徳金銀を発行する。市場の貨幣量を減らすために貨幣の純度を元に戻すという政策だ。しかし、改鋳量は21万両と少なく、市場への影響力はなかった。  
新井白石が実行した政策に「海舶互市新例」がある。これは国際貿易を制限するために制定した法令だ。新井は国内通貨量のうち金貨25%、銀貨75%が海外に流出したと計算し、長崎貿易における輸出規制を実施した。この政策の意図は金銀の流出に対する防衛策であるとともに、国産品の推進つまり産業の活性化にあった。輸入品のメインは、綿布、生糸、砂糖、絹織物などだった。それを国産品でまかなうように転換しようという政策である。また綱吉時代の放漫な財政感覚を引き締める目的もあったのだろう。それでも、物価上昇を鎮静化する決定的な経済政策とはなり得なかった。将軍の権力は衰退し、幕臣における譜代派と新参派の対立もあり、財政改革は進まなかった。  
やがてまだ幼い七代将軍・家継が病死。後見人であった吉宗が八代将軍となり、新井白石を左遷し、「享保の改革」を実行するわけだが、その前に紀伊徳川家から初の将軍を迎えるにあたり、吉宗の何が高く評価されたのか、その手腕を見ておこう。紀伊藩は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家が藩主として治める親藩だ。家康の10男・頼宣が初代藩主で、彼の孫にあたる吉宗は紀伊藩五代藩主である。のちに八代将軍となり、「幕府中興の祖」と仰がれるが、吉宗は紀伊藩主時代から政治手腕を発揮していた。見方を変えれば、紀州藩で成功した手法を幕政でも使ったということがいえる。  
兄である三代・四代藩主が相次いで亡くなったことから、吉宗は22歳で紀伊藩主となった。当時の紀伊藩は、江戸の大火で焼失した江戸屋敷の再建、将軍の訪問を迎えるための新御殿の建設、相次いで他界した先代藩主の葬儀費用などが重なり、財政難に直面していた。初代藩主頼宣が幕府から借り入れた金10万両も未払いのまま残っていた。追い打ちをかけるように1707年には、地震と津波が紀州南岸を襲い、大きな被害が生まれていた。  
吉宗が紀伊藩主として実行した財政の立て直し策は、藩政機構の簡素化と質素倹約の徹底であった。家柄にとらわれず有能な人材を登用しつつ、給料の一部を藩に差し出す「差上金」と呼ばれるスタイルによって家臣の給料を事実上カットし、リストラ(約80人の家臣を解雇)によって人件費を節約した。こういった賃金カットやリストラを実行すると、家臣の不満が爆発するのが世の常なので、吉宗は和歌山城の門外に「訴訟箱」を設け、不満を吸収し、同時に改革の提案を募った。これがのちの「目安箱」制度の起源である。  
その一方で、吉宗は水利事業や新田開発によって米の増収を図り、特産品(みかん、材木、醤油)の販路の拡大を試みた。こうして幕府から借用していた10万両を返済。現在に置き換えるなら、新知事が府政や県政にメスを入れ、職員のリストラを決行し、財政の収益アップに成功したということだ。こういった藩主としての実績をもって吉宗は将軍になり、「享保の改革」を実行するのである。 
「享保の改革」倹約と増税  
八代将軍・徳川吉宗は在任期間(1716〜1745年)に多くの政策を打ち出し、江戸幕府始まって以来最も大きな幕政改革を遂行した。年号から「享保の改革」と呼ばれている。詳しく調べてみると、「享保の改革」は前半(1716〜1730年)と後半(1730〜1745年)とでは内容が異なる。前半に遂行した改革あるいは手をつけなかった分野を後半で修正し、転換を試みたのである。その中から財政危機に直面していた幕府を救うために実行された財政政策を中心に見ていこう。それらは綱吉が浪費や米価の下落で生じた「元禄バブル崩壊の後始末」という側面を併せ持っている。  
吉宗の財政政策を語る前に人材登用について説明しておこう。これも改革のひとつで、諸改革を実行するにあたり吉宗は前政権下で影響力のあった新井白石を解任し、新たな人材を登用した。見方を変えれば将軍の側近が政治を司る時代が続き、将軍が無能な名誉職となっていたのを是正したということだ。現在に置き換えるなら、総理大臣ではなく、各省の役人が陰で総理大臣を操っていたようなものである。吉宗は将軍就任の翌年、財政をあずかる勝手掛老中に京都所司代の水野忠之を任命。水野は「享保の改革」の前期を支える財政大臣である。同年、大岡忠相(大岡越前)を町奉行に抜擢し、首都江戸の改革と都市政策に着手した。大岡はさしあたり東京都知事兼最高裁判所判事兼法務大臣といったポジションか。  
吉宗の人材登用制度は「足高(たしだか)の制」と呼ばれる法令に顕著にあらわれている。従来の各役職は基準の石高を満たしていないと就任できなかったが、基準の禄高(給与)以下の者が役職に就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補い、その職を辞すれば元に戻すという画期的な制度である。能力はあるが家柄が低いために要職に就けないという人材のミスマッチを解消することと、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため幕府の財政負担が軽減できることがメリットである。現在なら「能力主義」の採用と人件費アップの抑制を同時に実行するようなものである。  
こういった吉宗の考え方によって要職に登用された人物として名高いのが大岡忠相と、吉宗時代後期に勘定奉行として辣腕をふるう神尾春央(はるひで)だ。また、吉宗時代に紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意次は、十代将軍・家治の時代に老中まで出世する。民間人では、治水や用水の改修工事で才能を発揮した田中丘隅がいる。田中は河川管理の責任者「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として幕府の治水事業に携わった。民間登用の「治水大臣」である。  
では、吉宗が実行した財政政策を見ていこう。まず手をつけたのが「倹約令」を発令して消費を抑えることと増税だ。財政危機を克服するために「支出を少なくし、収入を多くする」とは、ごく当たり前のことだが、これを制度化したのは吉宗の手腕だ。しかし質素倹約は両刃の剣で、倹約を意識することで幕府の丼勘定は是正できるが、内需拡大にはつながらないというマイナス要素もある。消費意欲を減退させる政策は、吉宗が試みた改革のあらゆる面にあらわれている。  
吉宗は年貢収入の増大を図るために河川敷や山林までを含む強引な新田開発を開始した一方で、年貢率を「四公六民」「三公七民」から「五公五民」(収穫の半分を年貢として納め、残りの半分を農民のものとする)に引き上げた。増税プランとして一定期間年貢を固定しつつ徐々に切り換えて増額する「定免(じょうめん)法」を実行。後期には出来高のうち翌年の再生産部分を残してすべて年貢として徴収する「有毛検見取(ありげけみどり)法」などの新税制を採用し、幕府財入を大幅に増大させる。  
吉宗が実行した「痛みを伴う構造改革」はまず農民が犠牲を強いられたようだ。しかし新田開発によって米が増えれば米価がさらに下がり、武士は生活が苦しくなるという矛盾が生じる。吉宗が米価対策に着手するのは将軍就任期間の後期のこと。米価対策は改めて説明するが、吉宗が増税に力を注いだことから、改革の優先順位は財政増収にあったことがよくわかる。
「享保の改革」上米の制と定免法  
吉宗が初めて実施した増税プラン「定免(じょうめん)法」は、幕府の収入を安定させるための年貢徴収法である。従来は年毎に収穫量を見てからその年貢量を決めていたが、定免法は過去数年の収穫率の平均から年貢率を決めるシステムなので、豊作・凶作にかかわらず一定の年貢を納めることになった。凶作の年は年貢の大幅減が認められることもあったという。過去数年の平均より豊作であれば農民は年貢量が減るのでメリットがあるが、実際には「享保の飢饉」が続き、豊作は叶わなかった。飢饉は皮肉なことに幕府にとっては安定した収入をもたらす結果となった。  
この政策には二つの側面がある。ひとつは農民への搾取が激しくなったこと。この時期に一揆が増えていることから農民の不満が増したと想像できる。これは歴史の教科書が記す見方である。もうひとつは収穫高を増やす努力が実れば、農民の利益は増えるというメリットである。仮に収穫の半分を年貢として納めたとしても生産できる米の絶対量が増えていけば余剰が増えるということになる。不安材料は、日照り・干ばつ・洪水・台風だ。農業はリスクに満ちた職業といえるだろう。  
このほか吉宗が試みた制度に「上米(あげまい)の制」がある。これは米を納める見返りに大名の参勤交代の江戸在住の期間を半減させる制度だ。幕府は大名に一万石に対して百石の米を納めさせた。各地の大名から集めた米は幕府の増収に貢献したが、実施されたのは1722〜1730年と8年間に過ぎず、定着するには至らなかった。大名にとっては上納米を差し出せば江戸滞在費が半減となるので、江戸での滞在費も半減したはず。その収支を計算してみれば、多くの家来を連れて江戸まで行った地方の大名にとっては滞在費が半減されるほうがありがたいことだったのかもしれない。  
享保の改革の仕上げ時期には、年貢増徴を推進した勘定奉行の神尾春央が辣腕をふるった。「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったことで名高い人物だ。1744年には自ら中国地方に赴任して年貢率の強化、登記されず年貢設定がされていない隠田の摘発などを行った。神尾が発案した「有毛検見取(ありげけみどり)法」を採用する藩もあった。これは毎年の作柄、出来高を調べて農民の余禄を見逃さない所得税型の課税法だ。さらに課税の対象ではなかった河川敷や山林も「新田」と見なして年貢を課したという記録が残っている。  
倹約令とこういった過酷な課税が合わさり、幕府の年貢収入は167万石に増えた。さらに飢饉対策費として諸大名に貸し付けた金を督促して1742年には完納させた。こうした増収、回収によって、享保の改革の末期には、幕府の収入は180万石にまで上がった。この石高は江戸時代を通して最高記録である。幕府の財政を再建するという目標は達成され、吉宗は名将軍と謳われたわけだ。  
しかし、もうひとつの大きな課題である米価の安定、つまり物価の調整・安定はどのようになっていたのであろうか。米価は五代将軍・綱吉の時代から下落し続け、米価がそのまま収入に反映する武士は大いに困窮していた。  
1730年に発効された「買米(かわせまい)令」は、幕府が市場の米を買い上げて貯蔵し、米価の引き上げを促す法令だ。諸藩や有力商人も強制的に従わされた。これは市場に流通する米の量を減らして米価を引き上げ、武士階級を救済すること、彼らの購買力を高めて景気回復を図ることを目的としている。また、飢饉に備え米を備蓄しておく囲米を奨励し、市場に米が出まわらないよう促し、諸藩に対する江戸・大坂への廻米・蔵屋敷の米売却の制限・禁止などの措置が取られた。米の流通量が減れば米価は上がる。よって武士階級の収入は上がる。米の流通量をコントロールしようとした幕府の狙いは、この一点に集中していた。 
物価安定のための株仲間の公認と設立推進  
米価下落と物価高に対処するために徳川吉宗が実行したのが株仲間公認と株仲間設立の推進である。1721年、幕府は江戸市中のあらゆる商人・職人に同業者仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。当時、談合による価格操作が物価上昇のひとつの原因になっていたからだ。  
政策の中身を紹介する前に株仲間について少し説明しておこう。もともとは同業の問屋によるごく私的なグループであった。さかのぼれば、信長や秀吉が推進した「楽市楽座」が起源となる。各地の戦国大名が広げた城下町には、新興商業者を育成し、経済の活性化を図る目的で、税の減免など規制が緩和された「楽」な市場が生まれた。いわば戦国大名が築いた「経済特区」である。信長が築いた近江国の安土と金森の楽市楽座は、のちに「近江商人」を生み出す土壌となった。  
江戸幕府も楽市楽座路線を継承したものの、問屋業者が増えたことで、同業者組合が自然発生し、やがて彼らがカルテルを形成し、価格操作を行うようになっていた。株を所有することでメンバーとして認められたことから株仲間と呼ばれた。株は金銭によって売買された。余談だが、力士が引退後も日本相撲協会に残って「年寄」と呼ばれる身分となり、大相撲の発展のために働く際に必要となる証書を「年寄株」と呼ぶ。売買価格が1億円とも2億円ともされているが、このシステムも現代まで継承されている株仲間のひとつといえよう。  
さて、江戸時代の商業に目を移してみれば、問屋がイニシアチブを握っており、主に輸送・保管を担っていた。主流は、荷主から委託された荷物を販売して口銭(販売手数料)と倉敷料(保管料)を得る荷受問屋である。  
これに対して自己勘定で売買する仕入問屋も発展し、材木、米、薪、炭、油、竹など取扱商品別に分化していった。大坂では、商品の産地ごとに専門化した荷受問屋である国問屋が生まれ、これを中心に商品別に専門化した仕入問屋中心の流通組織へと転換していった。これらの問屋が同業者組合をつくり、メンバーの推薦を受け、株を買うことで仲間に参加したのである。  
株仲間は金銭債務の保証の機能も持つようになる。問屋の取引の多くが信用取引、つまり商品を引き渡した後、「節季払い」や「二季払い」など一定期間を経てから代金は決済された。株仲間の問屋が荷主と値段を決めて購入した荷物が届けられなかった場合、株仲間全員がその荷主との取引を停止した。このように問屋を中心として商業は、急速に高度なシステムをつくりだしていったのである。  
株仲間の発展により、彼らが流通機構を支配していったので、幕府は脅威になることを恐れ、規制の対象としていたが、享保の改革では、株仲間を統制すれば物価も統制できるという方向に動き、株仲間を公認したのである。  
1723年、吉宗の求めに応じて江戸南町奉行大岡忠相は、北町奉行諏訪頼篤と連名で七条からなる「物価引き下げに関する意見書」を提出した。江戸の経済政策を担う大岡は、物価上昇の原因のひとつである、株仲間の談合による価格操作を監視し、さらにコントロールできる株仲間を結成させ、経済統制をしようと考えたのである。  
幕府は信用取引の安定を図るために自主的に結成された株仲間を「願株」、流通統制のために幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。よって株仲間の公認とは「願株」の公認を指し、株仲間の推進とは「御免株」を増やすことである。公認された株仲間は、上納金を納めるかわりに販売権の独占といった特権を認められた。  
大岡は、塩や醤油など生活必需品を扱う商人に問屋・仲買・小売ごとの御免株を結成させ、相場書(商品価格表)を提出させた。価格が高騰した際にはその理由を報告させた。江戸の御免株では理由がわからない時は、京都や大坂に調査員を派遣し、調べさせるとしたまである。 
大岡忠相の物価統制策  
南町奉行・大岡忠相が提案し、吉宗が承諾した、株仲間を活用した物価統制は、京都、大坂、奈良、堺などの都市でも同時に実行された。江戸の物価を統制するには、京都や大坂から入る物資の流れを把握しなければいけない。そこで大岡は浦賀奉行に江戸に入る積み荷の量を毎月報告させた。海路で江戸に運ばれる物資を、その通過ルートである浦賀でチェックさせたのである。また、大坂奉行には諸国と江戸へ送った全物資リストをつくって報告するよう依頼した。  
しかし大坂奉行が「煩雑すぎてできない」と返答したので、大岡は主要11品目の江戸への出荷量に限定し、リスト送付を求めた。大岡が実務に優れているのは、積み荷の起点(大坂)と通貨点(浦賀)と終点(江戸)の数字を把握しようとしたことだ。江戸の船問屋に到着した積み荷をチェックすれば、買い占めや売り惜しみ、ひいては物価高騰を水際で防げると考えたのである。  
大岡の斬新な提案は大筋認められ、老中から大坂町奉行と浦賀町奉行に「毎月の出荷数字を報告せよ」という命令が下った。大岡は1725年、関東から江戸に入ってくる生活必需品の調査にも着手する。しかし流通の各段階でのデータを把握しただけでは、物価高騰の対策にはならない。どうしても商人の取り締まりが必要だった。  
この課題を解決するために大岡が目をつけたのが、江戸の問屋商人が元禄時代に結集して結成した通称「江戸十組問屋」。実質的には「二十二組問屋」で、その内訳は取扱いアイテムごとに区別されていた。たとえば綿買次問屋、油問屋、江戸組毛綿仕入積問屋などで、仲間の総人数は347名に及んだ。二十四組問屋には取締方、惣行事、大行事、通路人などの役員があり、仲間定法を定めて全体を管理していた。  
これに呼応して大坂でも「二十四組問屋」が活動していた。この十組問屋と二十四組問屋の関係は、注文主と買次人の間柄で、その商品を運搬するのが廻船問屋という構図が成立していたのである。これにより上方と江戸を結ぶ貨物船の菱垣廻船は、十組問屋・二十四組問屋の定雇船という位置づけになっていった。大岡は彼らを管理・統制できれば大きな成果があがると考え、問屋に台帳を提出させ、物価を監視した。蛇足だが、この大坂と江戸を結ぶ定期船の運営を担った商人が財を築き、明治時代に阪神財閥へと成長していった。特に灘の酒を江戸に運ぶ仕事は「ドル箱」であった。  
大岡の取り締まりにはこんなエピソードが残っている。1724年に油の値段が高騰した。大岡は油問屋を奉行所に呼び出し、価格高騰の要因を問い詰めた。その結果、油問屋が価格操作をして過分な利益を得ていたことが判明したので、その分を没収した。処分を受けたのは41名。幕府は搾油業者が西国に集中し、流通過程で独占性が高まり、それが価格操作を容易にしているとみて、関東近郊での菜種の作付けを奨励し、売り先も確保した。  
大岡は米問屋仲間を再編成して、米価調整にも挑んでいる。消費者からすれば米価は低いほうがありがたいが、江戸の消費経済は一年ごとの参勤交代で江戸にやってきて滞在する武家の膨大な需要に支えられていた。米価が上昇すれば米を換金して生活費に充てている武家の消費力がアップし、ひいては町人側の利益にもなるという考え方だ。  
1730年には、上方からの米を8人の米問屋に独占的に荷受させるというお触れを出す。大岡は再編成された米問屋組織を活用して、米価を引き上げようと計画したのである。このような努力によって物価対策は悪質業者の摘発という効果はあがったものの、米価の引き上げは期待したほどの成果があがらず、市場の流通量を調整するだけでは限界があった。米価の引き上げには金融政策の転換が必要だったのである。 
 

 

大岡忠相のレート是正  
南町奉行・大岡忠相が株仲間を推奨し、問屋商人に台帳を提出させ、米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇に大きな影響はなかった。この要因には関東と関西で本位貨幣が異なっていたことが挙げられる。  
江戸を中心とする関東経済圏は金貨を重んじるのに対し、大坂・京都を中心とする関西経済圏は銀貨を重んじる経済であった。当時の経済の中心地は大坂だったので、金貨より銀貨が強く、銀貨の金貨に対する交換レートが高かった。その結果、交換差額の分だけ江戸の物価は高くなったのである。  
金貨は両、銀貨は匁(もんめ)、銅貨(銭貨)は文(もん)を基本単位としており、1700年に幕府が定めた公定相場は「金1両=銀貨60匁」であった。しかし資料に目を通してみると、大岡が南町奉行を務めていた時代(1717年〜1736年)には、「金貨1両=銀貨43〜50匁」で流通していたことがわかった。銀貨は公定レートの2割以上も高く、大坂の商人が江戸に商品を運べば、商品の粗利以外に交換差額という利益を手にしていたことになる。  
だから両替商が富を蓄えたわけだが、反対に江戸の商人は大坂商人から商品を買うと利益が少なくなったということだ。江戸の商人が適正な利益を得ようとすれば、公定レートの2割から3割アップ分を販売価格に乗せざるを得なくなる。つまり、江戸の物価は上昇する。反対に金貨が強くなれば、江戸で販売する商品は安くなり、江戸の物価は安定する。金の銀に対する価格レートの切り上げは、江戸に多くの安価な物資が入ってきて、物価が安定することを想定した大岡の悲願であった。  
少し遡って元禄時代に当時の勘定奉行・荻原重秀によって遂行された「元禄改鋳」を思い出してもらいたい。金貨・銀貨の質を落として、その分発行量を増やし、差額分が幕府の懐に入るという画期的な手法である。当時は幕府の支出が増大し、年貢収入が頭打ちになっていた時代。  
また貨幣の原料となる金銀の生産量が伸び悩んでいたので、貨幣の金銀の含有量を減らすことは得策であった。また、あまり知られていないが、経済通の荻原重秀は金よりも銀の価値の下がり具合の方を大きくすることで、金の銀に対するレートを切り上げようとしたようである。  
「元禄改鋳」によって幕府の利益は増えた。これが最大の目標であったので成果はあったといえるのだが、質を落としたことで当然のことながら貨幣の価値は下がり、商業界は混乱した。荻原の金融政策を激しく批判し、荻原を幕府から追い出した新井白石は、金融引締め政策を断行。  
1714年、幕府は新井の提案を受け入れ、「元禄改鋳」を回収し、貨幣の質を慶長金銀のレベルにまで戻した「正徳金銀」を発行した。良質になった分、市場の流通量は不足気味になった。そうするともともと強かった銀が再び勢いを増し、江戸の物価は上昇した。  
江戸の物価が上昇することに耐えられない大岡忠相は1718年、江戸の両替商に対して、公定相金(1両=銀貨60匁)にするよう指示した。しかし両替商は市場価格を無視して公定レートにすれば2割以上も損することがわかっているので激しく反発し、一斉に店を閉めたといわれている。  
そこで大岡は「1両=銀貨55匁」というレートを提示して妥協点を見出そうとしたが、両替商は納得しなかった。大岡は仕方なく相場の動向に任せることにした。まるでアダム・スミスの言うところの「神の見えざる手」に任せるという判断を一度はしたようだ。この頃から経済人が完全に市場経済をリードする時代に突入したといえよう。  
そもそも新興都市であった江戸の両替商には上方を本店とする者が多く、銀相場が下がれば本店だけでなく上方の問屋、流通業者すべてが利益を損なうことになる。両替商は上方商人全体の既得権益と自由経済を守るために抵抗したのであろう。 
『国富論』より早い金融政策「元文改鋳」  
「享保の改革」の大きな命題のひとつは、米価を下げ、物価を安定させ、武士の生活を豊かにすることであった。しかし米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇の抑制効果がなく、また南町奉行・大岡忠相が両替商に肯定レート「金1両=銀貨60匁」に戻すよう依頼しても拒まれた背景があり、幕府内に「元禄改鋳」を手本とした貨幣改鋳案が浮上した。  
貨幣改鋳による銀相場の強制的な引き下げによって江戸の物価を安定させようと試みたのである。1736年に行われた「元文改鋳」は「享保の改革」の後期に行われた重要な経済政策であり、近代経済学の基礎にあるマネーサプライを学ぶ最良のサンプルといえよう。  
大岡忠相は次のように考えた。質を落として貨幣の流通量を増やし、金貨よりも銀貨の価値の下がり具合を大きくすることで、銀中心圏の上方から金中心の江戸に価格の安価な商品が入ってくるようになり、物価が安定する。また換金のために市場に放出される米の流通量も減り、米価下落の大きな要因を取り除くことができる、と。こうした流れを見ていくと、大岡が吉宗に提案し、ようやく実行することが決まった1736年の「元文改鋳」は、幕府の収入アップのための方策でなく、あくまでも物価対策であったことが見えてくる。  
江戸時代中期にすでに世の中(市中)に出回るお金の量(通貨供給量)を調節して、物価の安定をはかり、経済の動きを調整する金融政策の理論が練られていたことはとても興味深い。経済学史では、経済学がひとつの学問分野として確立されるようになったのはアダム・スミスの『国富論』(1776年刊行)に始まるとされている。それよりも先に日本ではインフレやデフレ対策が行われていたということだ。  
1736年、大岡は改鋳を告げる町触を発した。慶長金銀の質を100とすると、改鋳金貨の品位は60、銀貨は58に引き下げられた。金よりも銀の品位を引き下げることで相対的に金を強くしようとしたのである。こうして大量の新貨幣が発行された。しかし改鋳後、銀のレートは49匁に上昇した。質が下げられた新銀貨が発行されたことで、良質な旧硬貨が退蔵、すなわちタンス預金になってしまったのである。  
旧貨が金融資産として保有されると新銀貨との引き換えは進まず、市場に出回らなくなる。その結果、流通する銀貨が少なくなり、銀貨の価値が上がったということだ。相場は乱高下し、経済はしばらく混乱した。大岡は両替商が銀相場高騰を操作したと見て、数名の両替商を投獄した。権力の行使といえばそれまでだが、強引な手法を選ばざるを得ないところまで大岡はいらだっていたということだろう。  
実は「元文改鋳」が実施された1736年、大岡は突然、寺社奉行に"栄転"している。寺社奉行という職位は三奉行の筆頭格なので昇級といえるのだが、両替商に対する弾圧が他の幕臣の目に余り、改鋳によって打撃を受けた両替商や上方の商人たちが幕臣に大岡を町奉行から外すよう圧力をかけたのではないか、と歴史家は分析している。大岡は吉宗が抜擢した優れた行政マンで実績も多く、簡単にクビにもできない。つまり、"栄転"という形をとった左遷であったのかもしれない。  
さて、「元文改鋳」の効果があらわれるのは1741年頃だ。おそらく新貨幣が流通するのにそれなりの時間が必要だったのであろう。幕府の強い姿勢もあって銀相場は次第に下落し、よくやく「金1両=銀貨60匁」という公定レートに落ち着き、米価や物価も安定した。この時代には1737年に勘定奉行に就任した神尾春央が同時進行で推進した年貢増税政策が功を奏し、幕府の財政にもゆとりが生まれていた。元文金銀はその後1818年まで82年間改鋳されることなく流通した。結果として元文改鋳は江戸期の改鋳で最も成功した例に挙げられている。
「享保の改革」の都市政策 目安箱の設置と小石川養生所の設立  
「享保の改革」は財政と物価の安定政策、米価の上昇や金銀交換レートの是正など金融政策が主眼であったが、ほかにもいくつかの画期的な政策が実施されているので、まとめて記しておこう。  
将軍・徳川吉宗が1721年、庶民の要求や不満などを書いた投書を募るため江戸城の評定所の門前に設置した「目安箱」は、「直訴箱」「訴状箱」とも呼ばれ、都市政策や福祉政策に大いに役だった。もともと吉宗が紀州藩主時代に実施し、大きな手ごたえをつかんだ政策のひとつだ。  
幕臣の投書は当初許可されていたが、間もなく禁止され、町人や農民だけが投書した。幕政に対する意見を集め、社会事情を収集する制度を設けた将軍は吉宗以外にはおらず、彼がいかに庶民の生活感覚に敏感であったか、言い換えればマーケティング感覚に長けていたのかがわかる。  
しかもこのシステムを運営するのにコストも組織も必要ない。吉宗自身が目を通し、即刻対応すれば「小さな政府」なら十分機能する。ところで、投書の内容は、ほとんどが役人の不正を訴えるものであったらしい。今も昔も役人は贈賄や使い込みをしていたということの証明であろう。  
さて、この目安箱を通じて誕生したのが無料の医療施設「小石川養生所」である。町医者の小川笙船が江戸の貧困者や身寄りのない者のために施療所の建設を求める意見書を投書し、それを読んだ吉宗が南町奉行・大岡忠相に施設の検討を命じ、大岡が小川と面談して、薬草園であった小石川御薬園内での設立を決定した。その場所は現在、東京大学理学部の付属施設「小石川植物園」となっている。  
養生所の収容人数は40名。建設費の金210両+銀12匁と毎月の運営費は幕府の財政から捻出され、医師は小川ら7名の医師が担当し、与力、同心らがスタッフとして参加した。開設当初は薬草の実験台にされるのではないかという不安があり、庶民は養生所をあまり利用しなかったが、大岡が江戸町内の名主を呼んで施設を見学させ、風評を払拭したことで入院患者は急増した。  
「見学会」を実施したところが彼の優れた点である。小石川養生所は下層民対策として機能し、幕末まで約140年あまり江戸の貧民救済施設として利用された。「格差社会」も政府による「社会福祉行政」や「セーフティネット」という概念も江戸時代から存在していたということである。  
ところで、小石川御薬園内の約150坪の土地と、小石川養生所内の約180坪の土地を無償で借りてサツマイモの試作に励んだのが、かの青木昆陽である。八丁堀の与力屋敷を借りて儒学を講義していた青木を大岡が抜擢し、幕府の肝いりでサツマイモの試作を命じたのである。大岡は享保の大飢饉によって米が収穫できなかった教訓から、凶作の時や痩せた土地でも収穫できる作物の開発に目を向けていた。  
昆陽はサツマイモの効用を大岡に伝え、その必要性を感じた大岡が幕府の土地を提供したのである。そこで得られた苗は、栽培法とともに江戸周辺の農村に広く配られ、各地に根付き、凶作時に多くの人々の命を救うことになる。「小石川養生所」とサツマイモは命を救うという点において共通している。どちらも「享保の改革」の中で埋もれがちな話題だが、都市政策と深くつながる政策といえよう。  
ともあれ、町奉行が地場産業、特に農業育成に協力し、幕府が支援したことは富に興味深い。これも消費人口が100万人を超える世界最大の都市であった江戸ならではの取り組みといえよう。ちなみに青木昆陽はサイマイモの栽培による飢饉の回避が認められ、幕臣となり、のちに寺社奉行に昇進した大岡の配下とした活躍した。この青木昆陽の弟子が『解体新書』で知られる前野良沢である。 
株仲間の奨励による法人税獲得  
江戸時代の三大改革「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は、米を中心とする〈重農主義〉的政策だが、江戸時代中期に老中として幕政を主導した田沼意次は、過去に例を見ない〈重商業主義〉的経済政策を実施した。「享保の改革」と「寛政の改革」の間をつなぐ田沼時代(1767〜1786年)と呼ばれる20年間は、まるで16世紀の欧州のように自由主義経済の発展を促すもので、日本の経済史の流れの中では異質に見える。その後に「寛政の改革」を主導する松平定信に政策、人格とも否定され、日本史では「田沼=悪人」「賄賂政治家」というイメージがつきまとうものの、実は田沼は現在の自由主義や拝金主義につながる多くの新しい経済政策を行っていのだ。  
田沼意次は名門出身ではないが、異例の出世を果たした稀有な人物だ。父は紀州藩の足軽だったが、8代将軍・徳川吉宗が将軍就任に際して登用され、江戸の幕臣に加えられた「紀州組」の一人だ。田沼はのちに9代将軍となる家重(吉宗の長男)の御側御用取次(現在なら教育・雑用担当兼秘書)に抜擢され、家重の将軍就任後に1万石の所領を与えられる。家重は父・吉宗とは反対に病弱だったため、大御所となった吉宗は、孫の家治に期待をかけた。1751年に吉宗が亡くなると、凡庸な家重は老中に政治を任せたが、将軍就任期間は短く、1760年、家重が隠居し、長男の家治が家督を継いだ。  
10代将軍・家治が重用したのが田沼意次だ。家重の死後も、家治は田沼を信頼し、田沼は破竹の勢いで昇進。1767年には遠江相良藩(現在の静岡県牧之原市)の初代藩主となる。家治は田沼の新しい政治感覚を高く評価したようだ。田沼は1769年に老中格になり、幕府の閣僚として幕政改革を手がけるようになる。その彼が採用したのは重商業主義経済政策だ。  
具体的には、株仲間の積極的な公認、銀座の専売制の実施、貨幣制度の見直し、鉱山の開発、外国貿易の拡大、ロシアの脅威と貿易を意図にした蝦夷地の開発計画、下総国印旛沼の干拓の着手などだ。この結果、幕府の財政は改善し、景気は上昇した。この大雑把なラインナップからでも、彼が「農業」でなく「商業」に軸足を置いていることがよくわかる。失敗に終わった政策もあるが、まるで初期資本主義経済の基盤づくりをするかのようなものばかりだ。  
では、田沼の政策をひとつずつ見ていこう。株仲間の結成は、「享保の改革」において物価上昇を抑制する目的で大岡忠相が推進したものだ。これに対し田沼が同業者組合の設立を奨励したのは、幕府の現金収入増と商業者の競争力を高めるためであったようだ。株仲間でも幕府の庇護を受ける株仲間ではなく、商人が自主的に結成する「願株」を奨励し、塩や醤油、銀座など特定の産業には、専売制などの特権を与えるという「アメ」を見せて競争心をあおった。その見返りとして「ムチ」もあった。運上金、冥加金(上納金)を税として徴収したのだ。「商人の市場への自由競争を歓迎しよう。努力すれば市場は独占できる。  
しかし、税金はきっちり払ってくれ」という、とても現実的な政策だ。吉宗の時代に新田開発はほとんど終了し、年貢を増やそうとしても限界があった。農民からの租税、つまり年貢収入だけでなく、大きな勢力になってきた商人から法人税を取れば、幕政はもっと潤うはず。だからもっと商業を重んじ、商人が増えるような政策を実施する。これは理にかなった道筋だ。また、商人からすれば、質素倹約、我慢を強いられる社会より、努力をすれば大きな財を築くこともできる社会のほうが魅力的に映ったはず。  
このように商業を重んじたことで、町人や役人の拝金主義が進む。そこから賄賂が横行するようになったことから、田沼には「賄賂政治家」というイメージがつきまとう。また、都市部において商業が活性化したことで農民が都市部に流れ込み、農村の荒廃が進むという「負」の面もある。賄賂にまみれた老中であったことが反対勢力のデマだったのか、事実だったのかは定かではないが、田沼が先見性に富んだ経済通であったことだけは確かだ。しばらく彼の政策を検証していこう。 
専売体制の整備と長崎貿易の拡大  
田沼意次が実施した株仲間の推奨は、直接税中心の税制に、間接税や流通税を導入したという点において画期的であった。そして株仲間公認政策は都市の商工業者のみならず、農村の商人に対しても在方株(農村部の株仲間)の公認という形で進められた。江戸中期には農民の中から商業活動を展開する者が登場し、彼らは在郷商人と呼ばれるようになっていた。いわば兼業農家だが、彼らも株仲間をつくり始めたのだ。都市と農村に同一の租税方法を適用した点も田沼の目新しさだ。  
さらに田沼は、御用商人に銅、鉄、真鍮、朝鮮人参、ショウノウ、朱などアイテム別に幕府直営の座を結成させた。金座や銀座と同じように、幕府主導で銅座や鉄座をつくらせたのである。株仲間との決定的な違いは、株仲間が税金徴収の対象となる組合で、基本は自由競争、運営は株仲間に任せていたのに対し、座は幕府による製造・販売を独占する制度であることだ。つまり座は幕府直営のビジネスで、利益は幕府の財政に直結したというわけだ。かつてのたばこ専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社だと考えればわかりやすい。  
田沼は1780年、真鍮座を、次いで大坂に鉄座を新設している。ともに江戸や大坂にある銀座と同じ扱いとし、専売制であった。こうしてみると、専売制は産業育成というよりも幕府の収入アップの意味合いが強いことがよくわかる。  
たとえば1782年、幕府は朱座(大坂)以外での朱(赤色の顔料)の売買が絶えないため、輸入品は長崎から、琉球産は薩摩から朱座へ送るよう命令し、朱座での専売を厳命している。「これは幕府直営のビジネスだから、決められた座で販売するのが正規ルートで、それ以外は認めないぞ」という警告である。  
それぞれの座は製造・販売を独占したが、幕府直営の販売所拠点には、「会所」と呼ばれる事務所兼販売所もあった。たとえば石灰の産地である八王子や上野国(群馬県)に「石灰会所」をつくり、石灰の独占販売をした。昔からある食品添加物で、漬物やアク抜きなどの用途で使われ、漬け物や草木染めなどに用いられた明礬(みょうばん)は、江戸、大坂、京都、堺の4カ所に設立された「明礬会所」が独占販売した。ただし幕府は会所からも税金を徴収したという。  
各藩もこれらのしくみをまねて、藩の直営ビジネスを開始した。たとえば仙台藩は、仙台、気仙沼、石巻に「国産会所」を設置し、仙台藩の特産品の独占販売を行っている。富山藩は売薬の専売を開始、長州藩は火縄の他国売買を禁止して扱い商人を指定し、専売制を始めている。  
ところで、幕府のビジネスとしてユニークなものに、こんな記録が残っている。1765年、幕府が中国向け輸出品のフカヒレ増産のため、新たにサメ漁を始める者には当分の間、税金を免除するというものだ。当時は鎖国中ではあったが、中国の公認船とポルトガルの貿易船は長崎に出入りできた。それにしても、フカヒレといえば中国が本家だと思い込んでいたから、江戸時代に幕府が中国にフカヒレを輸出していたとは驚きだ。  
そんな直営ビジネスのひとつの窓口となっていた場所が長崎だ。田沼は長崎港を拡張し、港に出入りする船から工事費をきっちり徴収している。そして長崎貿易の拡大にも力を注いだ。幕府の貿易政策は鎖国体制の確立以来、国産の金銀の減少に対応する形で、規模を縮小してきた。しかし、田沼はこの方針を大きく転換し、貿易による金銀の輸入、つまり外貨獲得を図ったのである。  
そのために輸出品となる銅や海産物を扱う銅座や俵物会所(海産物取り扱い事務所)を設け、銅山の開発や海産物の増産を奨励したのだ。記録では富山藩に中国への輸出用食用クラゲをつくらせ、長崎まで届けさせている。だから前述したようにフカヒレ増産のために税金免除まで考案したのである。後世で「賄賂政治家」「悪名老中」と呼ばれる田沼意次だが、これほどの経済通を幕臣から探すのは難しいだろう。江戸時代に外貨獲得を図り、特産物の増産を推奨したとは驚きである。なぜなら、それは16世紀から18世紀にかけて重商主義を唱えた西欧の著名な経済学者の理論そのものだったからだ。 
 

 

統一通貨への布石  
田沼意次は貨幣改革にも挑んでいる。彼は吉宗が進めた「質素倹約」政策は消費を冷え込ませることを知っていた。だから貨幣経済を普及させ、米相場の乱高下を解決し、同時に市中に流れる貨幣の流通速度を統制して、経済を活性化しようとしたのだろう。さらに東西で異なる貨幣体系の統一を試みようとしていたようだ。商業の発展を重んじ、内需拡大を図った田沼が試みた貨幣改革は、次のとおりだ。  
江戸時代の貨幣を見ると、金貨は大判や小判のようにちゃんと貨幣の形をしているが、一方の銀貨は塊を刻んだだけのものであることがわかる。それは大坂で流通していた丁銀や豆板銀が、形に関係のない重さを量って使う貨幣(秤量貨幣)だったからだ。「江戸の金、大坂の銀」と呼ばれるように、それぞれ主に使われる地域も異なっていた。しかも商業の中心地である大坂で使われる銀が金より強いことで、金をメインに使っている江戸の物価は高くなりがちだった。大岡忠相は変動相場制の為替レートを無視して両替商に公定レートを守らせ、金と銀の為替相場を安定させようとした。これは異なる貨幣体系があることを前提とした政策である。  
これに対し田沼は金貨を中心とする貨幣制度を考えていた。ひょっとしたら統一貨幣の発行までもくろんでいたのかもしれない。1765年、試みとして重さを5匁(約18.75グラム)に固定した「五匁銀」を発行した。「五匁銀12枚=金1両(小判1枚)」と固定することで、銀相場にふりまわされないようになると見込んだようだ。また銭の代用にもなる。これが金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨だ。しかし当時の実勢レートは、小判1両に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後だったので、銀をメインに扱う者に有利となり、両替商たちの反対によって広く流通することはなかった。両替商が反対した理由は、額面が固定されると、銀貨の秤量手数料が取れなくなるからだ。こういった事情から、五匁銀はほとんど流通しないまま、1768年に使用が停止された。  
1768年には、鉄銭の不人気を打開する目的で真鍮製の大形銭「寛永通宝四文銭」を発行した。そして1772年、江戸幕府始まって以来の画期的な貨幣が発行された。「発明」といってもいいだろう。銀座に命じてつくらせた「南鐐二朱銀」は、銀でできた金貨であり、金貨の二朱に相当する銀貨でもある。銀が含まれているが名目貨幣である。南鐐とは良質の銀という意味。2.7匁の重さしかないが、「重要なのは貨幣の価値である」というメッセージだったのだろう。  
また、五匁銀が普及しなかった反省もあり、銀の純度を上げる一方で、貨幣に「8枚で小判1両に交換できる」と表記した。それは重さではなく、交換価値そのものを表現したもので、両替商も取り扱いやすい。こうすれば金貨と銀貨の為替レートは固定される。つまり、まるでEUにおけるユーロの統一のように貨幣体系は統一される。これが実現すれば、江戸の物価高は解消でき、東西の流通はもっと活性化する……。こうした田沼のビジョンから、彼が政治家としても経済学者としても卓越したセンスを持っていたことがわかる。  
南鐐二朱銀は秤量貨幣になじんでいた関西にも徐々に浸透し、丁銀や豆板銀といった秤量貨幣を少しずつ駆逐していった。田沼は「金貨本位制」を採用したのだ。これを契機として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の「計数銀貨」が発行された。このまま進めば明治になるまでに統一貨幣ができたはずなのだが、田沼を追い落とした松平定信は、南鐐二朱銀を丁銀に改鋳したことで、田沼の貨幣改革は空中分解してしまう。幸いなことに南鐐二朱銀はのちに発行が再開されたが、悪名高き田沼の貨幣改革を引き継ぐ者は登場せず、統一通貨「円」の登場は半世紀後となった。 
蝦夷地の開拓  
田沼意次は蝦夷地の開発に着手しようとし、幕府の資金で調査隊を送り込むなど莫大な投資をしている。蝦夷地と本州はそれまでまったく交流がなかったわけではない。寒冷地であることから米の収穫ができなかった松前藩が藩財政を維持するため、蝦夷地をいくつかに分割し、「場所」と名づけ、主だった家臣を知行(管理者)に任命し、アイヌとの交易を認めていた。「場所」の線引きは松前藩が行ない、実際のビジネスは商人の手に委ねられた。松前藩は商人から税金を徴収するというしくみだ。これを「場所請負制」という。もともとは家康が松前藩に交易の独占権を与えたことにある。こうしてみると、場所請負制は松前藩による"植民地制度"ともいえる。  
当時の幕府はアイヌの人々が直接ロシア人と貿易を開始するのではないかと懸念し、蝦夷地をこのまま松前藩に任せておくことはできないと考えていたようだが、田沼が蝦夷地に着目した理由はそれとは異なる。大きく分けると、ロシアの南下政策への対応と土地の有効活用だ。当時の日本は鎖国中であったが、ポルトガルと中国船だけは長崎に出入りできた。ロシアが植民地を求めて南下政策を取ろうとしていることは、長崎にやってくる欧州商人を通じて幕臣の耳に入っていた。  
事実、当時ロシア船は頻繁に日本海までやってきていた。だから真っ先にロシアが制圧してくるはずの蝦夷地を国防のために開拓しておこうという意図があったのだろう。1771年にアイヌがウルップ島のロシア人を攻撃して追い払ったという記録が残っていることから、ロシア人は現在の北方領土に上陸していたことがわかる。彼らはロシア政府の人間ではなく、動物を捕獲して毛皮を得ようとするハンターだったが、寒冷地で農作物が育たないロシアが国策として資源のある土地を求めて南下してくるのは時間の問題であった。  
田沼は蝦夷地を調べるために10名から成る探検チームを結成し、送り込んだ。この調査隊に参加したのが探検家の最上徳内である。彼は地理やアイヌの風俗を調査し、千島や樺太まで探検している。択捉やウルップ島へも渡り、ロシア人とも接触し、交友を築いている。間宮林蔵が蝦夷地の測量に挑んだのは、この20年後である。  
さて、田沼の蝦夷地開拓だが、重商主義政策はここにも色濃く反映しており、彼は防衛だけでなく、輸出向けの海産物を蝦夷地で量産させようと考えていたといわれている。ロシアと国交を結び、貿易で利益をあげ、結果としてロシアの脅威から日本を守ろうと考えていたようだ。しかしもうひとつ、田沼は松前藩と手を組んで蝦夷地を開拓し、北方貿易の利権を確保し、私腹を肥やそうとしたに過ぎないという見方もある。知恵の働く田沼のことだから、それくらいは考えていただろう。  
どちらにしても海外との貿易を縮小していた時代に、反対にロシアと貿易をしようと考えた田沼の「逆転の発想」は、保守派からはまったく理解できなかったはず。仮に日米修好通商条約前に日露修好通商条約が田沼のもとで結ばれていたとしたら、その後の日本史は大きく変わっていただろう。  
田沼失脚後、松平定信は蝦夷地開発を中止したが、蝦夷地近海に頻繁にロシア艦船が現われたことから、蝦夷地の警備に本腰を入れざるを得なくなる。1799年、幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府の直轄地とし、ついで1807年には西蝦夷地(北海道の日本海・オホーツク海側)も直轄地として、松前奉行を置き、蝦夷地の管理を始める。結果論だが、田沼が着目したことをあとからなぞったような展開であった。 
田沼意次の終焉とその遺産  
株仲間の奨励、座を中心とする専売制の実施、改鋳、長崎貿易の拡大、輸出特産物の育成、蝦夷地の開発など、田沼意次が行なった幕政改革はほとんど成功している。1770年には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録。景気は回復し、田沼が手厚く保護したことで蘭学が花開いた。  
田沼の幕政改革は、農業中心の社会から商業中心の社会へ橋渡したことに意義がある。特に貨幣の重さでなく、額面の金額こそが貨幣の価値だとする貨幣改革は、欧州で生まれる経済学の基礎と同じ視点にある。海外との貿易を重んじ、海産物などの加工品といった付加価値の高い商品を輸出し、外貨を稼ぐという政策などは今日の日本経済のあり方を先取りしていたかのようだ。日本における初期資本主義の形態がこの頃に生まれたと見るべきだろう。これは大きな遺産である。  
田沼が失脚した最大の要因は、岩木山、浅間山の噴火に始まる「天明の大飢饉」(1782〜1788年)に対し、有効な対策がとれなかったからだとされている。これをきっかけに、急激な改革を好まない保守派の反発が爆発したというわけだ。「重商主義政策によって疲弊していた農村部が、さらに打撃をこうむったのは、田沼の政治が悪いからだ」という論理である。飢饉は自然災害だが、農村部が疲弊していたのは確かに重商主義政策が要因だ。日本に商業が定着し、貨幣が力を持つようになり、経済構造が大きく変化する時期と重なったのである。  
「天明の大飢饉」とは、江戸時代に起こった最大の飢饉。当時、東北地方は天候不良、特に冷害により農作物の収穫が激減していた。これに拍車をかけるように、1783年に岩木山と浅間山が噴火し、各地に火山灰が降り、農作物に壊滅的な被害が生じた。重商主義が裏目に出て、飢饉は全国規模に拡大した。  
被害は東北地方を中心に、推定で数万人の餓死者が生まれ、疫病が流行。最終的な死者数は全国で30万人とも50万人とも推定されている。現在の感覚でいえば300万人から500万人の規模だ。農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、治安が悪化。江戸や大坂では米屋の打ち壊し事件が勃発した。  
このとき田沼がとった政策は、全国の米が余っている地域に向け、「東北地方に米を売り惜しみするな」というものだった。皮肉なことに米価は高騰し、買い占めや高値での売買がはびこった。これは米が少なくなったから価格が上がり、相場を見計らって大儲けしようとする者が出たという、ごくシンプルな市場原理だ。諸藩は財政維持のため、米を大坂の市場に送った。商業と物流の中心地・大坂が相場を決める場所で、高値で買い取ってくれたからだ。田沼のライバル、松平定信はこの機に大坂で米の買い占めを行なった。彼は吉宗の孫だが、養子に出され、1783年、つまり「天明の大飢饉」の最中に陸奥・白河藩藩主となった。  
飢饉に直面し、食料救済措置を迅速に行ない、白河藩で餓死者は出なかったとされている。歴史の教科書には書かれていないが、松平定信は会津藩の松平家からも1万石を取り寄せ、大坂で買い占めた米とあわせて、東北地方には米を送ることなく、白河藩内だけで消費した。領内から一人の餓死者も出さなかった松平は名君と謳われ、危機管理能力が高く評価され、これが幕閣入りの布石となる。  
田沼意次と松平定信は正反対の資質を持っている。田沼は開明派で、身分にとらわれない実力主義に基づく登用を試み、杉田玄白や前野良沢など蘭学者や平賀源内などの才能を重んじた。庶民には倹約でなく、消費を推奨した。金の匂いに敏感な「俗っぽさ」にあふれた経済通である。一方、松平は身分制度や朱子学を重視し、質素倹約を推奨した。重農主義に軸足を置く保守派で、海外との貿易など意識しない人物である。江戸時代の合理主義という文脈からすれば、田沼はまさにそれを実践した人物。賄賂政治家というレッテルは消えないが、彼の政策は先見性にあふれている。 
「寛政の改革」の経済政策  
田沼意次の失脚後、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中首座となる。白河藩主として飢餓対策に成功したことが、抜擢された大きな要因だ。この政権交代は、田沼の重商主義を批判し続けた松平ら保守派のクーデターともいえる。  
松平定信は老中在任期間中に「寛政の改革」と呼ばれる幕政改革を進めた。祖父・吉宗が推進した「享保の改革」を踏襲したもので、現在に置き換えるなら緊縮財政だ。経済政策と相場はともに「弛緩」と「緊張」を繰り返すというが、田沼の重商主義から対極の重農主義に移ったことは、その定説どおりである。それにしても質素・倹約と農業を重んじる政策は、時代が逆まわりしたかのような様相だ。田沼の斬新な政策のもとで進んだ初期資本主義経済は、ここでしばらく停滞する。松平が実施した諸改革が期待した成果をあげることがなかったのは、すでに商業が大きな力を獲得し、市場原理が機能しはじめていたからだ。  
松平は株仲間や専売制を廃止し、特権商人を抑制した。一見規制緩和に思えるが、同業種の仲間による共同仕入れや流通整備がやりにくくなり、商人にはむしろ規制となって経済は停滞する。また田沼が蘭学を重んじたのに対し、松平は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学以外認めず、幕府の役人の登用も朱子学を学んだ者に限った。これを「寛政異学の禁」と呼ぶ。さらに出版も厳しく統制し、かの歌麿の浮世絵を世に広めた版元の蔦屋重三郎は罰金を徴収されている。  
その一方で農政と御家人救済には一定の効果があった。主な政策に棄捐令、旧里帰農令、囲米と七分積金がある。棄捐令は、財政難に陥った旗本や御家人を救済するため、6年以上前の債務破棄と借金の利子の引き下げを命じるセーフティネット法令だ。江戸居住が義務づけられていた旗本・御家人は、土地や現米、給金をもらっているとはいえ、江戸では何も生産しない消費者。物価が上がれば生活は苦しくなる。寛政の改革で帳消しになった旗本や御家人の借金の額は約120両。  
現在の金額に換算すると約1兆円。幕府の年間支出とほぼ同額だったようだ。この制度によって大きな打撃を受けたのが、武士に支給される米の仲介を仕事とした札差だ。彼らは米の仲介による手数料を取り、給米を担保に高利貸しを営んでいた。いわば「米の両替商」であり、「武家専門の街金」だ。札差は、この制度によって利益が激減したので、旗本や御家人に貸し付けを行わなくなる。  
旧里帰農令は江戸へ大量に流入した地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させるUターン政策。囲米は諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に倉庫を築かせ、穀物の備蓄を命じたもので、自らが体験した飢饉の教訓から得たリスクヘッジである。七分積金は町単位で積み立てる共済のようなしくみだ。町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府が支給する1万両を加えて基金とした。基金は主に水桶やハシゴの費用、橋の掛け替え修繕費などインフラ整備に使われた。これは吉宗が将軍時代に南町奉行・大岡忠相が実施した政策の延長にあるものだ。  
一方、棄捐令によって打撃をこうむった札差を救済するため、幕府は浅草・猿屋町に「猿屋町御貸付金会所」を設置した。これは困窮した札差に経営資金を融資する幕府の機関で、会所設立に出資したのは江戸の豪商だった。旗本・御家人を救済する法令の次に、札差を救済する法令が出されたことには矛盾する点があるが、札差が倒産すると武士に金を貸す民間機関がなくなることから苦肉の策といえよう。  
しかしこの政策はヒットした。札差が困窮すると武士が困窮し、最大の消費者である武士が貧しくなると、商人も共倒れとなることから、会所は札差に積極的に貸し出しをしたのだ。幕府にとっては、財政を切り崩さず、豪商の資金で札差を救済でき、さらに旗本・御家人も救えるとあって好都合の制度となり、猿屋町御貸付金会所は明治維新まで継続して運営された。松平定信の経済政策の中では、最大のヒット作といえよう。 
米沢藩  
江戸時代の幕藩体制は、徳川幕府と親藩・譜代・外様の諸藩で構成されている。幕府の改革は大名の改革であり、徳川家の直轄地である江戸の改革でもあった。諸藩藩主の位置づけは、全員が徳川氏の傘下であるが、江戸城勤務が命じられた幕臣以外は、いわば自治体の長として各藩の経営に専念した。幕府が300年も続いた理由のひとつに、諸藩が年貢と参勤交代という義務を遂行していれば、それ以外は藩主に藩政を委ねたことにある。直轄地は奉行や代官が高級官僚として派遣されたが、それ以外は「地元の政治は大名に一任する」という自治権を重んじたのだ。これが「小さな政府」が成立した条件のひとつである。一部の藩には名君や名家老がおり、他の藩の手本となった。  
では、名君・名家老の藩財政改革をしばらくのあいだ、ひもといてみよう。まず、米沢藩から始めよう。1767年、上杉鷹山(ようざん)が17歳で藩主となったとき、藩の財政は破産寸前であった。家臣が多く、彼らの人件費が大きな負担となっていた。また前藩主・上杉重定が名家の誇りから贅沢な生活を続けたことも拍車をかけた。鷹山は上杉重定の養子である。藩主となった鷹山が手掛けたのが、産業・財政に強い部下の重用(いわば改革ブレーンの抜擢)、倹約、帰農の奨励、特産物の育成など民政事業だ。  
当時は「天明の大飢饉」の最中で、東北地方には多くの餓死者がいた。鷹山は、非常食としてタラノキ、コシアブラ、ハリギリ、チョウセンニンジン、トチバニンジン、ウドなどが食べられることを藩内にアナウンス。自らも土地を耕した。今日、米沢の名産となっている山菜だ。さらに米沢藩の特産物であったコウゾ、漆、ロウを10年間で5倍以上の生産量にする計画を立てた。コウゾは和紙の材料、漆は漆塗に欠かせない原料だ。また洪水や雨に強い桑の栽培を推奨し、桑をエサにして育つ養蚕を盛んにし、織物の普及に励んだ。  
同時に飢饉の際に厳しい年貢の取り立ては農民のモチベーションの低下につながるとして、年貢の取り立てを緩和する一方で、生産高の多かった農地の代表者に褒賞を与えた。その一方で、飢饉に備え、米の備蓄も行なった。また、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにする「五什組合」と呼ばれる農民相互の扶助組織を結成させた。さらに農地の復興のため離村した者を呼び戻し、農業以外の収入として、手工業技術の導入にも力を注いだ。  
彼は危機管理対策と産業振興を同時に行なったのである。次に財政改革とリストラに着手する。まるで大阪府の橋下知事のような展開だ。江戸藩邸の一年間の経費1500両を200両に切り詰め、人事を刷新した。この際、側近だけで決断したことに異論を唱えた反対派を処罰し、リストラにも成功。そして学問所を藩校・興譲館として再興し、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これは教育改革、人材育成の方策だ。新田の開発、河川の改修、橋の掛け替えなど公共事業は、武士が先導して行なった。  
老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実も実践した。鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。また育児資金をつくり出し、子供を育てられない貧しい農民にこれを与えることにした。さらに働けなくなった老人は、「口減らし」のため、しばしば野山に捨てられたが、鷹山は70歳以上の老人は村で責任をもっていたわり世話するよう年金制度を編み出した。  
これらの政策によって、鷹山が晩年の頃には黒字となり、破綻寸前の藩財政は立ち直り、借金も返済したという。上杉鷹山は政治家として一流で、今日まで名君と謳われている。こういった改革に幕府は口を出すことがなかったのは、いわば地方分権が確立していたということだろう。鷹山が国政に参画していれば、幕政改革はもっと大胆に進んでいたかもしれない。 
 

 

岡山藩  
「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、東軍勝利のきっかけとなった小早川秀秋が立藩した岡山藩。秀秋は子供に恵まれなかったため、東軍の武将として大きな功績をあげた池田輝政を本流とする池田氏が岡山藩主となる。名君と謳われた池田光政は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主を務めた大物外様大名で政治家だ。  
しかし大名の宿命として、幕府から与えられた藩に「国替え」を命じられれば、従わざるを得ない。大名は徳川家から藩主に任命され、各藩に派遣される形だ。しかし三つの藩で藩主を務めた政治家は珍しい。現在なら兵庫県、鳥取県、岡山県の知事に続けて就任したようなものである。  
池田光政は岡山藩主を務めた10年間で藩の改革を成功させ、明治まで続く池田氏支配体制を確立した。光政の政治の基本は、質素倹約、教育の充実、新田開拓、産業振興、有能な人材の登用だ。最も有名なのが、1641年に全国初の藩校「花畠教場」を開校、同時に庶民のための「手習所」を藩内数百カ所につくり、のちに統一して1670年に日本最古の庶民の学校「閑谷学校」を開校したことだ。  
閑谷学校は藩立の学校としてスタートしたが、藩主が代わった場合でも学校が存続するよう特別に「学校領」を設け、藩財政より独立させた。学校所有の田畑や林から得た収入で学校の運営をまかなえるようにしたのである。施設の建築費と人材募集は藩が行ない、いわば「県立学校」としてスタートさせ、軌道に乗れば第三セクターの機関が「私立学校」として独立採算で運営していくという方式だ。これは世界的にも画期的なシステムである。  
光政は学問好きの大名だったので、学問の大切さを理解していたのだろう、庶民の子供らに勉学をすすめ、役人や富豪の子供には月15日は学校に通うことを義務づけた。藩主の命令となれば、半ば義務教育である。江戸時代初期にこれほど教育に力を注いだ大名はいない。江戸幕府が藩主の個性や自治権を尊重していたということだろう。  
現在、岡山県が「教育県」と呼ばれるのは、寺子屋、私塾、高等女学校の数が他県より多く、大学・短大の設置数(人口10万人当たり)が全国第6位と高い水準にあるからだが、実はその基盤を築いたのが光政なのだ。彼は家柄は無視し、有能な人物を抜擢した。陽明学者・熊沢蕃山を番頭に招き、零細農民の救済や治水事業分野と藩校「花畠教場」の運営を任せたのも光政の手腕だ。  
光政の政治によって岡山藩の藩政は安定し、発展したが、大藩ともなれば支出も大きく、光政の長男で第2代岡山藩主となる池田綱政が光政から家督を継いだ頃には、財政難に見舞われていた。綱政が手がけたのは、農村再建だ。当時、岡山藩は洪水が多発し、米の収穫量が激減していた。そこで綱政は、児島湾を干拓し、百間川や倉安川の治水工事など公共事業を手がけた。これらの公共事業が藩内で雇用を生み出し、洪水の被害を回避できる新田を得た農民が米生産増量に努め、農政政策は成功した。積極的な公共投資などで経済を支えるケインズ理論と重農政策がミックスしたものだ。  
綱政は造営事業にも熱心で、1700年、のちに日本三大名園と呼ばれる「後楽園」を造園している。光政・綱政親子の補佐役として重用された津田永忠が土木事業で才能を発揮し、百間川の開削や閑谷学校の建設、新田開発も津田が責任者として実施した事業。津田はこれらの成功が認められ、郡代(十万石以上の代官)に出世し、前出した後楽園の造園に着手した。 
熊本藩  
熊本藩は、「関ヶ原の戦い」で戦功をあげた加藤清正が52万石を得て築いた藩。名城の誉高い熊本城を築城したのが清正だ。その後、加藤家の断絶により小倉藩から細川忠利が入封し、廃藩置県まで細川家が藩主を務めた。  
熊本藩の財政は常に危機的状況にあった。ひらたくいえば「貧乏藩」だ。特に4代将軍細川宣紀の時代に、飢饉、イナゴの大発生、洪水、疫病、台風がたて続きに起こり、40万両近い借財を抱えた。現在の金額に換算すると約320億円。今なら夕張市のように「財政再建団体」に指定されるだろう。  
そのような緊迫した状態の中で、実兄で5代目藩主の宗孝が急死したことで6代藩主となった細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革を遂行する。後に名君と謳われる重賢は、米沢藩藩主上杉鷹山の手本になった政治家である。  
徳川吉宗が大岡忠相を抜擢したように、重賢はまず堀勝名を筆頭奉行に抜擢する。堀は反対派を抑えて6人の奉行に権限を集中させた。組織改革を行ない、部門別マネジメント制を敷き、命令系統の再構築を試みたのである。  
奉行に任命された堀は、大坂に向かい、当時の国内最大の豪商・鴻池家に借入を申し出る。しかし鴻池は要請を拒否。熊本藩に返済能力はないと見たからだ。堀はすぐさま米問屋と両替商を兼業する加島屋に交渉する。江戸時代の「大名貸し」は、表向き信用貸しであったが、実際には蔵米が担保になった。堀は熊本藩の年貢を加島屋に渡すことを条件に資金を得る。堀は財政再建の手腕が認められ、のちに家老まで出世する。  
重賢は質素倹約を推奨し、江戸藩邸の費用に限度額を設定。米だけに依存することに限界を覚えていた重賢は、殖産興業を命じる。生糸、ロウソクの原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料になるコウゾなどを専売制に切り替え、藩が強制的に買い上げた。それらの原料を仕入れた藩は、加島屋から借りた金を資金にして建設した藩営工場で和紙やロウソクなどに加工し、大坂の加島屋を通じて藩外に輸送し、大きな収入を得た。重賢は、製造業の振興と流通整備をやってのけたのである。藩がメーカーとなり、加島屋がブローカーとなって、商品を流通させる方法は画期的だ。この改革によって財政は好転していく。  
重賢は財政改革のみならず、教育や法制改革も実施した。熊本城内に藩校「時習館」を開き、許可さえ得れば身分に関係なく入校できるようにした。さらに現在でいう「奨学金制度」を導入し、人材育成に力を注いだ。また、医学校「再春館」も設立した。のちに熊本医学校を経て熊本大学医学部となる。ちなみに熊本県の薬品メーカー「再春館製薬所」は「再春館」にちなんで命名されている。また、1883年に熊本県で生まれた、「日本細菌学の父」北里柴三郎は熊本藩校「時習館」、熊本医学校を経て、現在の東大医学部に進んでいるので、重賢は「日本細菌学の父」の父ということになる。  
さらに重賢は行政と司法を分離し、刑法を改定した。それまでの刑罰は、死刑か追放刑しかなかったが、懲役を設けて厳刑制度をつくり、罪人の社会復帰を容易にした。この「刑法叢書」は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本県から多くの人材が法曹界に採用された。  
このように幅広い分野で改革を実施し、貧乏藩を再興した細川重賢の政治家としての手腕は現在も高く評価されている。細川家は明治に入り、侯爵の位につき華族となる。ちなみに、第79代内閣総理大臣の細川護熙氏は、細川家第18代当主。熊本県知事から「日本新党」代表として衆院選に立候補して当選。閣僚を経ずに首相になった。政界引退後は、陶芸家として活躍している。その育ちの良さから「殿様」と呼ばれたが、廃藩置県がなく、細川家が藩主のままであったなら、間違いなく本当に殿様になっていた人物である。 
薩摩藩  
外様大名の中で加賀藩(102万石)に次ぐ石高90万石を築いたのが薩摩藩だ。薩摩藩藩主は、鎌倉時代に当地の守護に任じられた島津氏だ。島津氏は江戸幕府が開かれて以降に琉球王国を服属させ、いち早く中国との貿易を開始したことから、もともと貿易のセンスがあったようだ。奄美産の砂糖で利益をあげていたという。  
しかし、藩内の土壌が農作に向かない火山灰層であったため、実際の石高は半分程度だったといわれている。薩摩藩ほどの大きな藩の財政が苦しかった理由は、台風や火山の噴火など災害を受けやすい立地であったばかりでなく、幕府の大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出され、大きな出費が生まれていたからだ。徳川コンツェルンの命令で、徳川氏の領土の土木工事をさせられたのである。もちろん、これは外様大名が資金や武力を蓄えられないようにするための戦略である。  
石高は大きいが、実態は「貧乏藩」だった薩摩藩の藩制改革に着手したのは、10代藩主島津斉興(なりおき)と、11代藩主島津斉彬(なりあきら)だ。斉興が藩主となった当時、500万両にも及ぶ莫大な借金を抱え、破綻寸前だった。現在の金額に換算すると約4000億円。  
完全に「財政再建団体」である。斉興の部下である家老の調所広郷は、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いとした一方で、琉球を通じて清と密貿易を行ない、利益をあげた。大島や徳之島で収穫できる砂糖を専売制にして財政改革を進め、250万両の蓄えができるまで財政は回復する。調所広郷は、財政の救世主でありながら、データィーな側面も併せ持っていたようだ。  
その斉興と調所を失脚させたのが、斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれ、育った島津斉彬だ。11代藩主となった彼が打ち出した政策は、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大に加え、当時としては画期的な事業、工場群の建設だった。調所が蓄えた資金を洋式の藩営工場の設立に投資し、鹿児島城下の磯地区に工場群を築いたのだ。のちに「集成館事業」と呼ばれた政策だ。  
建設された工場は、造船・製鉄・銃砲・電力・紡績・ガラス・食品・出版・医療など多伎にわたる。これらの工場は地場産業の育成という側面と、「富国強兵」政策を同時に具現化したものともいえる。驚くべきは、造船や溶鉱炉、ガラス製造やガス灯製造など当時の科学技術の最先端が集まっていることだ。少し古いたとえだが、鹿児島城下の磯地区は「シリコンバレー」のような様相だったのだろう。  
斉彬は軍備にも力を入れ、オランダから軍艦「咸臨丸」を購入し、海防の強化を図った。また、独自に西洋帆船「伊呂波丸」、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、徳川幕府に献上した。これだけの政策をひとつの藩が実行したのだから、江戸時代は政策面では藩の自治が守られ、藩自体が「小さな政府」であったことがうかがい知れる。  
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用したのも斉彬だ。ちなみに、「日の丸」を日本船章にしようと幕府に提案したのが斉彬である。さらに斉彬は現在でいうところの「知事ネットワーク」をつくり、福井藩、宇和島藩、土佐藩、水戸藩、尾張藩らと常に情報交換し、幕政にも積極的に口を挟んだ。このトレンドがのちに倒幕の動きへつながっていくのである。  
斉彬は鎖国政策の廃止とともに国防の意識も高かったようだ。それにしても、藩主が工場建設に投資するとは、時代を見通す眼力に優れていた人物である。幕末に薩摩藩が新型の蒸気船や鉄砲、大砲を大量に保有できたのは、斉彬が「集成館事業」によって製品を販売し、財力を蓄えたからである。 
土佐藩  
土佐藩は、「関が原の戦い」の際に東軍についた山内一豊が徳川氏から与えられた領地だ。藩政が確立したのは、二代目藩主・山内忠義の時代。奉行の野中兼山に命じて「寛永の藩政改革」を推進し、それが成功したことで藩の財政システムができあがったのだ。  
兼山の評価は、二つに分かれる。ひとつは比類のない政治家で、土佐藩の経済的基盤を形成した名家老とするもの、もうひとつは藩政を支配して領民の反発を招いた極悪人というものだ。  
外様大名である土佐藩山内家は、徳川氏から大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出されていた。また、地理的な条件から参勤交代にかかる費用が莫大であったため、増収策に熱心であった。熊本藩や薩摩藩のように借金の多い「貧乏藩」ではなかったが、支出が多かったのだ。  
兼山の藩政改革で効果があったのは、まず新田開発だ。土佐藩は水田が少なく、山間部は畑で占められていたので、米が不足していた。兼山は「関が原の戦い」以前の旧領主・長宗我部氏時代の在郷武士で農民扱いになっている集団を新田開発に取り立て、年貢の徴収に当たらせた。民間からの役人登用だ。それは新しい領主となった山内家を嫌う彼らの不満を解消することと、農民支配、新田開発による増収を一度に実現できる策だった。  
次に効果的だったのが、港湾の改修、堤防の建設、用水路建設など治水事業と木材の育成・販売だ。築港によって藩内の特産物を船で諸藩に運ぶことが可能になり、また藩外から商品を受け入れることが容易になった。特に長崎から取り寄せた砂糖は、土佐藩には貴重品だった。  
森林経営から得た利益は、藩の財源にあてた。兼山が優れていたのは、木材を港に集めるために先に河川を改修したことと、むやみな伐採による山の荒廃を防ぐため材木業者にルールを定めたことだ。トラックのない江戸時代、伐採された木材は上流から下流に流された。川が輸送ルートだったので、河川改修が先に行われたのである。兼山は同時に植林を推奨した。台風の多い土佐における植林は防風林となり、海岸の土砂崩れ防止のためにも必要であった。高知県産の材木、特にヒノキと紙が現在ブランドになっているのは、兼山が導入した「森林の管理」という考え方が浸透したからである。  
また、捕鯨、陶器、養蜂、鰹節などの技術の移入を積極的に進め、専売制を強化した。土佐の捕鯨は江戸時代から有名だが、実は紀州の太地で生まれた組織的な捕鯨法が手本だ。鯨はビジネスになると見込んだ兼山が、捕鯨法を"技術輸入"したのが始まりである。養蜂は、ミカン、レンゲ、ビワなど蜜源が豊富な地域に適しており、土佐の暖かい気候は養蜂に最適だった。現在、高知県の養蜂は特産物となっている。ほかに茶、漆、油菜などを専売制にして藩で買い上げ、転売して利益をあげた。これらの政策によって藩財政は好転し、明治維新にいたるまで土佐藩の経済的基盤となった。  
その一方で、兼山には多くの反発が集まった。過酷な税の徴収、米価の統制、米の売り惜しみの禁止、贅沢の禁止などの政策が領民に不満を植えつけたのだ。また、茶や鰹節、油や野菜の専売制の強行によって、漁民・商人・職人のいずれもが苦境に立たされることになった。  
二代目藩主・山内忠義が隠居後、兼山は彼に不満を持つ家老によって弾劾される。藩政改革は成功したが、個人的な恨みを買ったということだ。いつの時代も本質的な部分は変わりないようだ。 
鎖国と貿易 古伊万里  
江戸幕府の外交政策といえば、三代将軍家光がポルトガル船の来航を禁止した鎖国政策が有名だ。政府が民間の自由貿易を規制することは「小さな政府」の方向に反するが、世界貿易機関(WTO)やFTA(自由貿易協定)のない時代、欧州列強による貿易目的の侵略が横行していたことを考えると、鎖国の意味は変わってくる。ポルトガルやイギリス、オランダ、スペインなど当時の列強の植民地にならなかったのは鎖国政策があったからだとする意見もある。  
また、鎖国するまでの日本は輸入大国で、金銀が大量に海外に流出していたので、貿易量を規制して流出を阻止するしか術はなかったという見方もある。当時の日本は世界屈指の金銀の産出国であったため、金銀の純度の高い貨幣を鋳造していた。貿易を行えば、金銀が流出するのは当然のこと。  
さらに、将軍はもとより幕臣に外交能力がなければ、余計な外交をして経済が混乱するより、外交をしない政策が国内市場への介入を少なくする方策であったともいえる。江戸時代に国家の存亡にかかわるような事件がなく、平和が長く続いたので、産業と金融が発展し、近代化の基盤となったのは事実である。  
貿易を規制したとはいえ、実際には以下の4つのチャンネルで貿易は行われていた。1.長崎・出島−オランダ船、中国船の窓口。幕府の直轄地で幕府の管理で貿易が行われた。2.対馬−朝鮮との窓口。対馬藩の宗氏が対朝鮮外交・貿易の仲介者となった。3.薩摩−薩摩藩・島津氏が琉球を支配したことで、琉球を通じた貿易が行われた。4.蝦夷−松前藩による蝦夷地での北方貿易が盛んであった。  
なかでも長崎・出島ルートは、日本の特産物を諸外国に届ける貴重なルートだった。たとえば江戸前期に肥前国(現佐賀県)で焼かれた古伊万里の皿の破片が、メキシコで見つかっている。古伊万里の研究家が調査した結果、その文様から1660年〜1680年頃に有田で生産された磁器であることが判明。では、古伊万里は、どうして国交のなかったメキシコまでやって来たのだろうか?じつはこの謎には、中国と台湾とフィリピンが深くかかわり、謎を解くカギはスペイン人が握っていた。  
その美しさからヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器の生産国である中国は、明から清への移行期間、民間貿易を禁じる海禁令(1656年〜1684年)を発令した。そこで肥前国の磁器の産地では、中国製品の代用品として輸出向け製品がつくられた。当時の日本は鎖国状態だったが、オランダ船と公認の中国船のみ長崎への来航が許されていた。1647年には、中国商人によってカンボジアへの伊万里の輸出が始まり、台湾経由でフィリピンにも運ばれた。1659年にはオランダ東インド会社がハノイ(ベトナム)に納めた。これが人気を呼び、1659年から中東やヨーロッパへ大量の日本製磁器が輸出された。  
当時日本とスペインは直接の交易はなかったが、フィリピンとメキシコはともにスペインの植民地だった。公認の中国船が長崎から台湾まで古伊万里を運び、次にジャンク船が台湾からマニラへ製品を届ける。それを購入したスペイン人がマニラからメキシコまで伊万里を運んだのだ。  
スペインの貿易船は当時、マニラで香辛料や絹を積み、太平洋ルートでメキシコに運んでいた。その船に古伊万里も載せられていたのだろう。そしてメキシコのスペイン人が、中国製品の代用品として古伊万里を使用。その破片が埋められた。メキシコで見つかった古伊万里の破片は、こういった貿易ルートを物語っている。  
鎖国状態であったとはいえ、世界の貿易は活況を呈し、日本の製品も海外に輸出されていたということだ。 
 

 

朝鮮通信使と朝鮮外交・貿易  
朝鮮王国が江戸幕府に派遣した公式の外交使節団を「朝鮮通信使」という。秀吉の朝鮮出兵によって断絶していた国交を回復し、捕虜を返還したのが家康だった。家康は外交に積極的で、中国(明)や朝鮮との貿易は必要不可欠と判断していたようだ。また、貿易面で朝鮮への依存度の高い対馬藩にとっては、国交回復は悲願だった。対馬藩が仲介し、家康は朝鮮の使者と面談。朝鮮通信使を受け入れることを決定した。1607年以降、1811年まで幕府は計12回、朝鮮通信使を受け入れている。  
朝鮮通信使は将軍の交代や世継ぎ誕生の際、将軍家を祝賀するためにやってきた。ルートは釜山-対馬-瀬戸内海-大坂-淀と航行し、淀から陸路を行列。京都から東海道をわたって行列したことから、行列自体が庶民の娯楽となり、ひいては将軍の権威を誇示するために利用された。鎖国政策を敷いてからは、直接中国大陸文化にふれることりできる貴重な機会となった。  
当時の日本人は「再び朝鮮半島を攻撃されると困るので、朝鮮通信使が貢物を持って将軍の機嫌をとりに来る」と考えていたようだが、韓国では朝鮮通信使を「日本は韓国の先進学問を学ぶために懸命だったので、使節団は外交使節としてのみならず、先進文化を日本に伝播する役割を果たした」と位置づけている。事実、茶道、儒教、書道、水墨画、易、暦、建築、漢方、陶芸など、朝鮮半島から伝わってきたものばかりだ。  
実は朝鮮出兵の際に日本に連れ去られた儒教家や陶工は、日本では手厚い待遇を受けていた。茶器や陶器をつくりだす陶工は大名によって保護され、各地に焼き物の窯が開かれた。朝鮮通信使が来日し、捕虜の返還を求めた際、拉致されている陶工の多くが、日本に留まることを望んだという。朝鮮では儒教思想による身分制度によって陶工が最下位に位置づけられ、奴隷のような労働を強いられていたからだ。  
一方、対馬藩は釜山に建設した「倭館」と呼ばれる日本人居留地で外交と通商を行なった。幕府から許された特権を最大限に活用したのだ。外交官と商人が混在していたことが倭館の特徴だ。倭館に居住を許された日本人は、対馬藩から派遣された館主、代官、書記官、通訳、彼らの使用人、仕立屋、酒屋、医学留学生などだ。館主、代官、書記官は、対馬藩の貿易担当役人だが、それ以外は民間人である。常時400〜500人滞在していたと推定される。この倭館が外交と交易の場となった。  
江戸時代前期、朝鮮は、朝鮮人参(高麗人参)、トラ皮に加え、中国産の生糸、絹織物などを日本に輸出していた。中国のシルクは高級品として日本の貴族、大名に好まれていたが、日本船は中国(明)への入港を拒否されていたため、朝鮮から購入せざるを得なかった。対馬藩は倭館で中国-朝鮮-日本というルートの中継貿易を営み、巨額の利益を得た。  
しかし、18世紀に入ると日本国内で絹生産の技術が向上し、中国産の絹の輸入は減少した。また、朝鮮側が門外不出としていた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、国内で朝鮮人参の栽培が始まったため、朝鮮人参は日本に輸出されなくなったという。対馬藩にとってそれは大きな痛手だった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏した。  
さて、幕府が対馬藩の交易にどれだけ関与していたのかといえば、実は深くタッチしていなかった。対馬藩や倭館は幕府の直轄領ではないので、いわば「経済は自由にしろ」という状態。対馬藩は、幕府にメリットとなる朝鮮通信使の窓口という国の仕事と、藩の財政を安定させるための交易を同時に実現していたのである。 
富興行  
江戸時代にブームを迎えたものに富興行がある。富くじ、富札、富突など呼称は異なるが、同じ内容だ。寺を普請するための資金集めの方法として行われた宝くじのことである。寺社が寺社奉行に出願し、許可を受けて開いた。  
当初は、江戸、京都、大坂の3カ所に限られ、回数も規制されたが、1820年から1830年頃の最盛期には、江戸市中での興行は15ヶ所20の寺社にまで広がり、興行回数は年間120回も開催されていたという。  
富興行のシステムはこうだ。興行主(寺社)が数千枚から数万枚の木製の富札をつくり、それに番号をつける。富札店(札屋)が興行主(寺社)から、番号が記された富札を買い取る。富札店はその仕入れ値に数割の利益を乗せて市中で販売する。寺社奉行に申請する必要があったため、定価はつけられたが、賞金額と需要によって富札は上下した。  
一等賞金は、1000両(千両富)、500両(五百両富)、300両(三百両富)、100両(百両富)などさまざまなタイプがあり、札数が膨大な数にのぼるときは、番号に、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神といった組をつけ、それぞれに番号をつけた。たとえば「梅の267番」が当たったときは、松と竹の同番号の札にもいくらかの褒美金がつけられることがあった。  
購入者は、市中で購入した富札(木札)を木箱に納め、同じ番号を記した紙札をもらう。当選番号を決める「富突」の日に、僧侶が箱の札をかきまぜ、側面の穴からキリで木札を突き、刺さった木札の番号を読み上げる。当選した紙札を差し出せば、その人が当選者というしくみである。  
富札は高額で庶民が気軽に買えるものではなかった。たとえば、千両富(一等賞金が1000両=約1億2000万円のくじ)では、富札の料金が1枚1分(約3万円)だった。このため1枚の札を数人が共同して購入した。これは「割札」と呼ばれるもので、購入者は仮札をもらう。2人で購入した仮札は「半割札」、4人で購入した仮札は「四人割」と呼ばれた。  
実際には、寺社奉行が公認した千両富は少なく、百両富が主流だったようだ。しかし、公認の富札以外に非合法の富興行が盛んに行われ、そこでは千両富が発売されたという。幕府が取締を強化したのは言うまでもない。  
当選者が手にする金は、たとえば千両富が当たったとすれば、100両を普請代として興行主(寺社)に進呈し、100両を富札店にお礼として差し出した。そのほか諸経費と称して、40〜50両を興行主(寺社)や富札店に渡した。だから実際に当選者のもとに入るのは700両ほどだ。おそらく最ももうかったのは興行主だろう。  
当時は火災が多かったので、焼失した寺社が再建の費用を捻出するため、富興行を開くケースが多かったという。東京の目黒不動や湯島天神は、特に有名であった。その一方で、富札を購入するために借金を重ねる庶民が増え、それを防止するため、最初に千両富のみ禁止された。そして「天保の改革」期の1842年、水野忠邦によって全面禁止令が出された。  
富札の禁止は「博打の禁止」と紙一重だが、水野はほかにも芝居小屋(中村座、市村座、守田座)を江戸郊外(浅草)へ移転したり、寄席を閉鎖したりするなど、庶民の娯楽にも制限を加えた。特に歌舞伎への弾圧は厳しかった。  
幕府は、問題がなければ庶民の好きなようにさせたが、こと風紀が乱れるような傾向が見えると、直接介入し、規制したようだ。 
往来手形とお蔭参り  
江戸時代、一般庶民が旅行する際に、必ず所持しなければならなかったのが「往来手形」だ。現在のパスポートに相当するものである。さらに、これとは別に関所を通る際には「関所手形」が必要で、通過するごとに提出した。  
往来手形を発行するのは、一般庶民の場合、自分の菩提寺、自分の住む地区の名主、庄屋、組頭などだ。手形には、所有者の住所・氏名、女性の場合は戸主との続柄、発行した寺の檀家であることや、その地区に在住していること、旅行の目的などが記されていた。また、途中で行き倒れた時は旅宿の世話を、病死の場合は、その土地の習慣での処置を依頼し、ついでの折に連絡してくれるよう記してあった。  
また、江戸から出る女性は身分にかかわらず、「往来手形」とは別に「女手形」と呼ばれる関所手形を必要とした。また、江戸の各藩邸の女性が旅に出る際には、この女手形を幕府留守居に発行してもらう必要があった。幕府留守居とは、幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。幕府の留守居は老中の配下で、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を担った。現在なら高級官僚である。  
一方、諸藩の留守居は、藩主が江戸藩邸に不在の場合に藩邸の守護にあたったほか、江戸城につめて幕府から示される様々な法令を入手したり、幕府に提出する上書の作成を行なったりした。彼らは幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしていたという。各藩の外交官のような存在といえよう。  
女性の旅人は、その幕府留守居が発行した手形に記載された身体の特徴と相違がないか、髪をといてまで調べられたという。女性が厳しくチェックされたのは、決して「九ノ一」(女性忍者)を捕えるためでなく、人質として江戸に居住させた諸大名の妻女らの逃亡を阻止するのが目的だった。江戸時代は、藩主の妻や母、娘が各藩の江戸邸宅に住むよう強制されていた。いわゆる「幕府の人質」だ。藩主は幕府に人質をとられているため、クーデターを起こせなかった。しかし、彼女たちが極秘に江戸を逃れることができれば、藩主が謀反を起こす可能性が高くなる。そこで、江戸の各藩邸の女性が旅に出るには、幕府は厳しいチェックを行なったのだ。  
こういった関所は、箱根のような要所に限らず、主要街道に設けられ、全国に53を数えた。また、同じ目的で海路のチェックも行われており、当初は伊豆・下田の番所、江戸中期以降は相模の浦賀番所が「海の関所」の役割を担った。このように規制はあったものの、旅はレジャー化していった。  
江戸時代に入ると、五街道をはじめとする交通網が発達し、庶民にとって旅行が大きな娯楽となった。最も有名なのが「お蔭参り」と呼ばれた伊勢神宮への参詣だ。巡礼と観光が一緒になったような旅である。庶民の旅には前述のように厳しい規制があったが、伊勢神宮参詣なら許される風潮だったので、「お蔭参り」が大ブームに発展したのである。当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担だったので、「お伊勢講」という特殊な積立てが考案された。  
講の所属者はお金を出し合い、それを合わせて旅費に当てた。代表として誰が行くかは「くじ引き」で決まったが、講の全員がいつかは当たるよう配慮されていた。農民の場合、「お蔭参り」は農閑期が利用されたので、同じ時期に全国から伊勢神宮に数万人もの旅人が集まったという。  
この「お蔭参り」の経済効果は大きく、街道沿いの物価が高騰したほか、京都や松坂など都市の流行りの着物を土産にする旅行者が急増し、商業が一気に活性化した。またガイドブックや旅行記に該当する本が発売され、「お蔭参り」は江戸時代の庶民が「一生に一度は経験したい」一大レジャーへと成長した。 
おかげまいり(お蔭参り)の意義  
始めに「おかげまいり」とはいったい何かを考える必要があると思われる。一言でいってしまえば「近世日本において周期的になんどか繰りかえされた、伊勢神宮への集団的な巡礼運動である」。これは、ほぼ60年おきに繰り返されて明治に至ります。以下にその行なわれた年を記載してみます。  
前期  
(1) 1650年 (慶安3年)  
(2) 1705年 (宝永2年)  
(3) 1718年 (享保3年)−−−一部地方の運動にとどまる。  
(4) 1723年 (享保8年)−−−一部地方の運動にとどまる。  
中期  
(5) 1771年 (明和8年)  
後期  
(6) 1830年 (文政13年・天保元年)  
末期  
(7) 1867年 (慶応3年)−−−但し これは「ええじゃないか」であって「おかげまいり」ではない。  
このような全国的な運動が起こった理由・原因には多くの説があるが、当時「富士講」という富士山への登山が盛んだった事と同列のものと考える。苦しい日々の生活のなかから、「一生に一度は伊勢神宮の参拝を」と考えたのであろう。それが60年毎に発生しているというのが重要で、民衆が「そそそろ祖父や祖母に聞いていた『おかげまいり』の時期かな。」と思っている時にある地方で『おかげまいり』が発生したならばそれに参加しようとする気持ちになってしまうのは致し方ない。日々の仕事や生活の苦労から逃れ、良く言えば「現世の苦労を離れ、来世の幸せを願う」気持ちを成就させ悪く言えば「物見遊山・ただで旅行できる」機会が与えられる。参加しない理由は健康であるならば無いであろう。「伊勢神宮へ参拝できる」その意義も見逃せない。普通の状態であれば、「地主」や「庄屋」などの裕福な家庭でなければ参拝できない・その楽しい話ばかりを聞かされていた一般の人々にとって、「自分にも参加できる」という事がどれほど魅力的だったか今の我々には想像できない程であったろう。  
当時幕府は仏教を主な宗教としていた。そのなかでいかにして「『伊勢神宮』への参拝」が生まれてきたは非常に興味深い。民衆のなかでは、神も仏もほぼ同じ位置を占めていたように思う。その中から神に対する『伊勢神宮』−おいせまいりが台頭してきたのはこの『おかげまいり』によるところもあるであろう。その部分については以下の文章を参照してみたい。  
「とはいうものの、『信仰を同じくする』とはいっても、それはもとから同じであったという意味ではなく、広く『神』の信仰としては共通するものがあったとはいえ、『伊勢信仰』として明確に統一された国民信仰が最初から存在したものでなく、繰りかえされる『おかげまいり』の集団運動のなかで、統一されつつあったのである。真宗の僧侶や信徒にたいする攻撃も、その運動の一環としてあらわされたものである。神仏しゅじゅ雑多な信仰に生きている民衆のなかに、伊勢神宮の『おふだ』が降ることによって、民衆の信仰が、統一した民族的宗教を形成する方句へ導びかれていくのである。しかしその統一を推進するものは、けっして『天皇の祖先神』という神格の尊さではない。民衆の現実生活の内部から溢れてくる民族的統一をもとめる力である。民衆の生活を破壊にみちびいている、幕藩封建政治の矛盾にたいする民衆の抵抗のエネルギーそのものである。慶応『ええじゃないか』のころに流行した、『御蔭世直しくどき節』は、このような民衆意識の成長をよく語っている。」  
民衆の信仰の対象としての『神』が、『おかげまいり』のような当時の藩幕体制を超えておこなわれた各地の民衆の交流によって高められてきたという意見は非常にすぐれたものであると思っています。そして、『統一された民族的宗教』の存在が近代明治以降の民衆の中に脈々と受け継がれてきたのである。それが、民権運動の基底にあったであろう。  
それでは、なぜこのような民衆による運動は国を動かし、政治を動かす原動力に(当時は)ならなかったのであろう。それは、たとえば『百姓一揆』を考えればわかりやすい。個別の地方的な『一揆』は、あくまでその地方のみでの活動であり、それ自体では『藩幕体制』をゆるがすようなものにはなりえなかったのである。幕府は基本的にはその構成要素である個人がそれぞれの藩から抜ける事を禁止しており違反する者を重罪人として取り扱っている。そんななかで、『おかげまいり』は、『藩幕体制』を合法的に抜け出る一方策であった。(但し、幕府は『おかげまいり』を肯定していたわけではい。それを規制した場合に起こるであろう『民衆の力』を恐れた為と思われるが)確かに、こういった民衆運動を利用して『藩幕体制』に対しての反乱を企てる事は可能であったろう。ただ、それには『指導者』が必要であった。この部分については、以下の文章を参照していただきたい。  
日本封建時代の宗教事情を見ると、仏教は広く民衆のあいだに普及していたけれども、それは多くの宗教に分裂しており、また仏教教団そのものが、全体として強く封建支配機構に組みこまれていたから、仏教が広範な民衆の解放要求を統一的に表現することは困難であった。ところが神道にかんしては、幕藩封建支配がこれをかならずしも十分に政治的に掌握することができず、それが反幕府的思想をふくんでいたことは、のちに神道とむすびついた国学思想が、倒幕の理論となったことを見てもあきらかである。とくに伊勢信仰は、まえにのべたように、中世いらい村落共同を基盤とする神祇信仰の伝統とむすびついており、近世初期から広く農民、市民のなかに拡がりつつあった。このような伊勢信仰が、民衆の封建制の束縛からの解放を要求する闘争の心理的よりどころとなったことは、理由のあることであった。わたしは国学思想は、むしろこのような民衆の心理を反映して、発生してきたものと考えるぺきだと思う。封建制から民衆を解放するための、なんらの思想も理論もほかに与えられていない時代に、民衆がこのように、支配階級の守護神を変じて、自らに解放を与える神とすることを考え出したのは、すばらしい創見であったというべきであろう。問題は、このような民衆の自発的な宗教的開放運動を、だれが、どのような方向に指導していったかということである。  
ここで、慶応3年(1867年)の『ええじゃないか』を考えてみる。この『ええじゃないか』は、その行為、民衆が主体になっていた点からは、それまでの『おかげまいり』と同じようにおもわれるが、どうもこの運動は『勤皇の志士』達による意図的な運動であった事がうかがえる。詳しくは、藤谷俊雄著の「おかげまいり」と「ええじゃないか」を参考にしてもらいたい。この時の『ええじゃないか』の混乱にのって『大政奉還』へと社会が動いたと思われるのであるが、しかし『勤皇の志士』達による運動の利用の仕方は単純に社会を混乱させるだけにとどまってしまった。指導者がいなかった所以であろう。この時、大塩平八郎のような武士階級でありながら民衆の力を利用しようとする勢力が存在したならば(大塩平八郎が真に民衆を理解しえたかどうかは別として)明治のあり方自体がもっと違ったものになったであろう。  
しかし、『おかげまいり』の存在理由を否定するのは誤った考えであろう。民衆はそのみずからの行動によっては社会を動かせる可能性を見出したし、藩の枠を超えて活動する術をも学んだ。時代を、社会を動かせる自分達の力を肌で感じ取った。この感覚に外国からの様々な文化が融合する事によって10年後の『自由民権運動』が民衆の間からも興ってきたと考えるのである。 
公娼制度と遊郭  
江戸時代の公娼制度の特徴のひとつが、散在する遊女屋を特定地域に集合させたことだ。つまり、遊郭の設置である。これが現代にまで至る「ソープランド街」の起源だ。  
公娼制度は、江戸が大都市に変貌する際に避けて通れない事情から生まれた都市政策の一環であった。家康は江戸に幕府を開くにあたり、三河から大勢の家臣団を引き連れてきた。彼らの住む場所を確保し、水道を引いたり、橋を掛けたりするインフラ整備を急ピッチで進めるため、関東一円から人足が集まった。つまり、ゴールドラッシュのように多くの男性が江戸に集まったのである。江戸初期の人口の男女比は、圧倒的に男性が多かったことは容易に想像できる。娯楽のない時代に、彼らが息抜きに求めるのは、当然「飲む」「打つ」「買う」だ。そういったニーズに対応するように、初期の江戸では遊女屋が点在して営業を始めた。  
一方、幕府は江戸城の建設と武家屋敷の整備を進めた。そのため、庶民や遊女屋もたびたび移転を強制された。都市開発が国民の生活より優先することは、近代国家の証ともいえよう。しかし、あまりにも頻繁に移転を命じられた遊女屋の経営者たちが幕府に遊郭の設置を陳情。数年かかってようやく受理されたのである。  
幕府は1617年、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、「吉原」と命名した。そこは当時の海岸に近い地域で、葦の茂る僻地だった。葦が茂る原っぱの「葦原」が転じて「吉原」となったようだ。  
このとき幕府は、いくつかの規制を経営者たちに加えた。具体的には、江戸市中にはいっさい遊女屋を置かないこと、遊女の市中への派遣の禁止、建物や遊女の着物を地味にすること、営業は日中に限ることなどだ。これらの条件を遊女組合が認めたことで、江戸の公娼制度はスタートした。  
幕府は、遊郭を公認する見返りとして経営者から冥加金(上納金)を受け取ることができ、まとめて管理することが可能になった。一方、遊女屋の経営者は市場を独占できるメリットがあった。また、大御所家康の終焉の地、駿府城城下にあった遊郭が移転されたという記録も残っている。まるで産業移転である。  
やがて江戸の中心地はどんどん郊外に拡大し、かつて僻地にあった「吉原」にまで迫るようになった。そこで、幕府は1657年、浅草日本提下に移転を命じた。この際に「新吉原」が営業できる土地は5割増しとなり、夜の営業も許可された。吉原は、江戸の一大産業になっていたのである。  
吉原は「1日に千両落ちる」といわれたことから、現在の価値にして約1億円もの金が動いたことになる。材木ビジネスで巨額の富を築いた紀伊国屋文左衛門や両替商などの豪遊ぶりは江戸の話題を集めるほどで、吉原の市場規模と飲食や着物などを含めた経済効果は相当な額に達したと想像できる。こうして国内最大規模を誇る遊郭が誕生し、江戸市中の最大の歓楽街となった。また、京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。吉原が繁盛することで、幕府への上納金も増えたが、市場ニーズがあることから非公認の遊女屋も増え続けた。  
特に人々が多く集まる歓楽街や宿場町が大きくなるにつれ、非公認の遊女ビジネスは広がりを見せた。吉原以外の非公認遊女屋が集まる歓楽街を「岡場所」と呼び、幕府にとっては大きな問題となっていった。何が問題かといえは、冥加金(上納金)が取れないことと、風紀が乱れることだ。また、幕府公認の吉原からすれば営業妨害に他ならない。吉原の経営者組合は、町奉行所に頻繁に取り締まりの強化を求めた。  
このようにして幕府と非公認ビジネスの追いかけっこが本格的になる。最も厳しくなるのが「享保の改革」期間。町奉行の大岡忠相は将軍吉宗からの命令で、組織的な摘発作戦を開始したのであった。 
江戸の「風営法」岡場所の取り締まり  
幕府は吉原でのみ遊女商売を許可し、それ以外での営業を禁止していた。江戸初期の銭湯には性的なサービスを提供する湯女(ゆな)が常駐する「湯女風呂」が非合法で営業し、一時期は元吉原と競合する勢力になっていた。新吉原の完成以降、禁止令が発令された。  
一方、人々が多く集まる歓楽街や宿場町で、遊女商売は広く行われていた。そうした場所は「岡場所」と呼ばれた。「岡」は、脇、外を表わす言葉なので、吉原の外、吉原から見て脇の場所といった意味があったようだ。吉原を「公娼」とするなら、岡場所は「私娼」だ。  
吉原は、格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりがあったが、岡場所は、さほど優れた遊女がいないために、代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されていた。吉原で遊ぶには、現在の価値でいえば10万円以上必要だったが、岡場所なら1万円で遊ぶことができた。つまり、大衆のニーズに合わせた市場経済が自然に生まれていたのである。そういう意味では、百貨店とスーパー、コンビニ、ディスカウントショップが共存している現在の構造と同じだ。しかし、吉原の経営者たちからすれば、岡場所は営業妨害にあたる。吉原から税金を取って公認の遊郭とした手前、幕府は権威を保つため、岡場所の取り締まりを強化した。  
八代将軍・吉宗は、南町奉行の大岡忠相に江戸市中の遊女取り締まりの強化を命じた。幕府は1718年、「江戸日本橋から半径40キロ以内の各街道の宿場では、旅籠屋一軒につき飯盛女の数は2名まで」と定めた。飯盛女とは食事をまかなう女性のことだが、当時の旅籠屋は飯盛女になりすました遊女の職場であった。つまり、岡場所である。幕府は、遊女の数を限定することで、宿場町における遊女取り締まりを強化したのである。現在なら「風営法」の改定だ。  
対象となった宿場は、江戸市中では品川宿、内藤新宿、板橋、千住などだ。甲州道中の内藤新宿に至っては、見せしめの目的で廃宿にまで追い込まれた。  
大岡忠相は、町触で奉行が巡回し、岡場所を摘発すると警告している。摘発の対象は、遊女、事業者、派遣業者、遊女を住まわせている家主、場所を提供する茶屋などだ。関係者からの密告も奨励し、前出した関係者の密告については本人を免罪とする「裏取引」とでもいうべき特例処置も記している。町奉行が警察署と裁判所を兼ねていたからこそできた特例処置だ。  
大岡忠相は、本所松坂町(現・墨田区)や三田同朋町(現・港区)で遊女を摘発し、事業者を処罰。町名主も監督不行届きとして罰金を課せられた。さらに1722年には、遊女商売の業者たちの家屋や家財を没収する旨の町触を出した。  
つまり「差し押さえ」である。そして江戸有数の岡場所として知られた護国寺門前の音羽町(現・文京区)を摘発し、遊女商売を営んでいる家屋の撤去を命じた。こちらは要するに「強制撤去」だ。このように幕府は、わずかな人数で「風営法」を改定し、差し押さえ、強制撤去といった手法で非合法ビジネスを摘発していったのである。  
余談だが、のちに深川仲町に芸事を披露する芸者が登場し、吉原から客を奪ってゆく。芸者は明治時代に繁盛するが、大正時代に「ダンスホール」や「カフェ」を名乗る店の女給に客を奪われ、女給はやがてバーのホステスによって駆逐される。1946年、GHQによってすべての公娼が禁止される。1957年に売春禁止法が発令されるまで非合法で売春が行われていた地域は「青線」「赤線」と呼ばれた。青線の代表には、新宿ゴールデン街、横浜・黄金町があり、現在もわずかだが、その面影を残している。 
 

 

髪結い床と銭湯の営業権と株  
江戸時代に繁盛した髪結い床(現在の理髪業)と銭湯は、ともに幕府から営業権を与えられたサービス業である。共通しているのには、営業権が株として売買されたことだ。  
雑用をこなす召使を抱えていた武士と異なり、庶民は自分で髪を整えることができなかった。庶民が、マゲを結い、ヒゲをそることを専門の職人に依頼するようになったのは、近世に入ってからだ。  
江戸に男性の髪結い床が登場したのは、家康の入府からすぐのこと。江戸は男性の比率が高く、また庶民は自分で月代(前額側から頭頂部にかけて半月形にそりおとした成人男性の髪形)を整えることができなかったため、専門の職人が料金をもらって仕事をするようになったのだ。地方では村で抱えられ、「床」と呼ばれる仮店で営業を行なった。  
そこから「床屋」という呼び名が生まれた。江戸では、当初は高札場(お触れを掲げたれ、法令の発令を告知したりする施設)の番所に願い出て営業権を得ていた。そして幕府は1659年、髪結い床に鑑札を発行し、一町に一床と定めた。鑑札とは営業権を示す札のことだ。現在も特定の川では、釣りをする際に鑑札が必要とされている。  
髪結い床には二種類あり、道具を持って得意先に出張して仕事をする職人は「廻り髪結い」と呼ばれた。彼らは得意先と年季契約し、おもに大店に抱えられていた。つまり、スポンサーがついていたのである。主人の理髪料は1回百文前後、従業員の理髪料はその半分程度の料金を取った。酒一升が二百五十文だったことと比較すれば、悪くない料金である。  
一方、市中の仮店舗で商売をする職人のうち、番所や会所で営業する者は「内床」、橋のそばや辻で営業する者は「出床」と呼ばれ、町の見張り番や出火の際の役所への駆け込みなどが役として課せられた。いや、むしろ「見張り役をするのに好都合の場所である橋詰や辻で店を開くなら、営業権を与えよう」という条件であったようだ。ユニークなのは営業権を与えてもらうかわりに、町の公の仕事も担わされたことだ。幕府からすれば、幕府の危機管理部門に協力してくれるボランティアである。役人を使うのでなく、庶民をタダで使うとは、「小さな政府」ならではの発想といえよう。  
ところで、髪結い床の収入は利益率が高く、とても安定していたため、営業権が株として高額で売買された。高いものでは七百〜八百両する場合もあった。一人で数株を所有する裕福な町人もいたという。享保年間になると、江戸市中に1000以上の髪結い床があったという。おそらく江戸の人口が爆発的に増えたため、営業権も多く発行されたのであろう。  
江戸時代の銭湯もまた営業権を得て店を開いた。江戸時代後期には一町に二軒ほどはあったというが、それ以前は銭湯の数はごくごく少なかった。その理由は家事の心配と燃料費の高さがあったからだ。特に江戸は木造住宅の密集地が多く、出火すれば広い範囲に被害が及ぶことから、幕府は限られた者にしか営業権を発行しなかった。しかし、一部の武家屋敷を除けば、ほとんどの家に風呂はなく、宿屋ですら客は銭湯に通ったほどだった。ニーズはあるが、店自体は少ない。そのため銭湯の営業権は「湯屋株」と呼ばれ、江戸の豪商の投資対象としても好まれたという。入浴料は蕎麦の半額程度の料金であったが、客が多かったため、安定した経営が営めたようだ。  
興味深いのは、髪結い床も銭湯も営業権が株として高額で取り引きされたことにある。幕府は予想していなかったことかもしれないが、アダム・スミスのいうところの「神の手」に任せておけば、経済は勝手によい方向に展開していくと考えていたようだ。そういった意味では、江戸時代は商業を中心とした資本主義がいち早く動き出した時代といえよう。 
大坂の商業 蔵屋敷と蔵元、掛屋  
豊臣政権が全国支配を完成させた頃から、大坂には有力商人が在住するようになった。江戸に幕府が成立し、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大坂に留まった。幕府は大坂に遠国奉行を置き、諸荷物の監察や幕領の年貢徴収を行なった。  
大坂は水運の便利さから物資の集散地として栄えた。各藩は蔵屋敷を大坂に設置し、自国産品を現銀化した。銀に替えたのは、金より銀のほうが価値が高く、また関西は銀が主要貨幣だったからだ。蔵屋敷とは、幕府や大名・旗本などが年貢米や特産品を売りさばくために構えた倉庫を兼ねた屋敷のこと。  
江戸、長崎、大津など、交通の要所である商業都市に設置されたが、やはり商業の中心地・大坂に集中した。1670年代には80、1840年代には125の藩の蔵屋敷があり、小藩や大名以外のものを含めると600近くはあったとされている。  
それらの蔵屋敷で年貢米の売却が行なわれたため、江戸時代を通じて大坂は米の集積地となった。当初、蔵屋敷は有力商人を表向きの名義人としていたが、実質的には各藩の藩士が管理する形態が多かった。蔵屋敷の運営は藩から派遣された蔵役人が担ったが、除々に指定した商人に管理を請け負わせるようになった。つまり、業務委託である。  
請け負った商人は、名義人である名代、蔵元、掛屋などに分類される。名代が蔵元を兼ねる場合もあった。蔵元とは、蔵屋敷の品物の管理・売却を行なう実務責任者のことだ。名代のほか、米問屋や両替商など有力な商人が任されることも多かった。掛屋は、売却代金などの管理・出納を行なう役職で、金融・為替を扱う両替商が任命されるケースや、蔵元が兼ねるケースがあった。  
蔵元・掛屋は売買の際に手数料を取ることが許された。また、藩に損害を与えず、必要な出納にいつでも応じることを条件に、藩から預かった資金を自由に運営することが許された。それを元手に投機を行なって莫大な利益をあげる商人もいた。この構造は、顧客から預かった資金を自社の裁量で国債を買ったり、投資をしたりするなどして運用する、現在の証券会社や銀行と同じである。  
では、蔵元や掛屋の手腕はどこで問われるのか。それを説明するには、先に蔵米の売買の仕方と流通を知っておく必要がある。蔵元は、まず入札の期日と払い下げ量を公示して米仲買を集めて入札させた。落札者は保証金を納め、その後、7〜10日以内に掛屋あるいは蔵元に残り代金を払って、受領書にあたる銀切手を引き取り、それを30日以内に蔵屋敷に差し出し、米切手と交換した。持参人が米切手を提示すれば、蔵屋敷は記載された量の米を渡さなければならなかった。  
ただし、蔵屋敷側には30日〜1年の猶予が与えられていた。米仲買は、米切手を譲渡することも換金することもできた。小切手や商品券と同じである。蔵元はすでに保証金を手にしているので、藩から預かった資金とともに運用して大きくを増やすことができた。また、米価はたえず上下していたので、高い時期に販売し、米価が下がっている時に渡せば、その差額分は蔵元の利益となった。余った米をさら売買することもできたし、換金することもできた。つまり、蔵元や掛屋には為替を読む力と相場師の才覚が必要だったのである。  
優れた商人のなかには、複数の藩の蔵元や掛屋を兼務する者もいた。有名な蔵元が「淀屋」だ。淀屋は材木商から生糸貿易商を経て蔵元となった。掛屋を兼ね、財政が悪化している大名に金を貸し付ける大名貸しで財を成した。「大名金融」である。  
大名貸は表向きは信用貸しであったが、実質は蔵米が担保となっていた。それは藩の年貢米である。大名貸しは、来年入荷の米と引き換えに、金を貸すこと。藩がつぶれることがなければ返済はされるわけだが、大きなリスクもあった。蔵元や掛屋としての契約を打ち切られる可能性を常に抱えていたのだ。また、一方的な債務の繰り延べも行なわれた。特に薩摩藩のように財政危機に陥っている貧乏藩に大名貸しをすれば、借金を踏み倒されるリスクがつきまとったのである。 
大坂の商業 整備された先物取引所「堂島米会所」  
1697年、対岸の中之島から堂島に米市場が移転し、それ以降、幕末まで堂島といえば米市場を意味するようになった。堂島は、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場と並び大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。そして1730年には、それまで禁止されていた米会所が堂島に開設された。  
米会所とは、米の取引所のことだ。幕府は、それまで「米切手」の売買や「延払い」による取引が米価の高騰につながるとして、米会所の開設を承認していなかった。米切手とは、諸藩の蔵屋敷が蔵米の所有者に発券した米の保管証明書で、米の所有権を示す証書である。保管している蔵や扱う商人の名前、米の量などが、偽造を防ぐために特殊な字体で書かれていた。  
その用途はこうだ。米仲買人は落札した蔵米を蔵屋敷に保管させ、米切手を受け取る。ここで蔵米の所有権が移転する。当初は発行後30日以内に米の蔵出しを行なうことが義務づけられていた。しかし、次第に流通証券としての性格を持つようになり、為替の代用品として決済に使われるようになり、転売されるようになっていった。一方の延払いとは、売買契約の際、代金をすぐに払わずに、ある期間後に払うことだ。幕府は、この米切手と延払いによる取引を禁止していたのである。しかし、享保の改革が成功し、米価が下落したのを見て、幕府は開設を認めた。要するに規制緩和だ。  
米会所の売りや買いの注文は、手指による符丁で行なわれた。この伝統は近年まで証券取引所にも引き継がれていた。米会所で行なわれた取引は、正米(しょうまい)取引、帳合米(ちょうあいまい)取引、石建米(こくたてまい)取引の3種類。正米取引が、米切手を売買する現物取引である。公認の米仲買株を有する者(現在でいう会員)のみ参加が許された。米仲買人は、米問屋の注文や投機目的で米切手を売買した。  
1年を春・夏・冬の3期に分け、藩の蔵屋敷が発行する米切手を米仲買の間で取引する。決済は銀による即日(のちに4後)支払いであったため、その資金を融通する入替(いれかえ)両替と呼ばれる金融業者が出入りした。入替両替は、米切手を担保に高金利で米仲買に資金を貸し付けた。借り手は、米価が上がると担保に入れてある米切手を売却し、借財を返却した。また、米価が下落し、米切手を流してしまう借り手に対して、入替両替は質に取った米切手を市場で売却し、それで元利決済した。  
帳合米取引は、筑前、広島、中国、加賀米のうち、ひとつを対象にした先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、期限までに売り方と買い方が最初の売買と反対の売買を行ない、差金決済による取引が帳簿上だけで行なわれた。これが現在の基本的な先物市場のしくみを備えた「世界初の先物取引市場」だといわれている。  
たとえば、ある問屋が正米取引で米切手を手にした場合、現米を手にするまでに米価が下落すると損をしてしまう。そこで、米切手を買うと同時に、同量の帳合米を売っておく。万一、米価が下落しても、帳合米を買い戻せば損失が出ないことになる。こうした先物取引のしくみを生み出した堂島米会所は、当時世界最先端の市場メカニズムであったと想像できる。  
帳合米取引が大きな単位で取引されたのに対し、石建米取引は小規模な帳合米取引といえる。米会所では、石建米取引はさほど重要な取引ではなく、帳合米が中心となって取引されていたが、幕末に近づくにつれて米の先物取引の中心は帳合米から石建米へと移っていった。  
堂島米会所は、幕府の経済政策と同じくらい、いや、ある面ではそれ以上に江戸時代の経済をリードする重要な存在であった。米会所に集まる商人たち、すなわち蔵元、米問屋、米仲買人、入替両替などによって独自の市場メカニズムができあがり、商業のしくみをつくりあげていったのである。 
大坂の商業 年貢米を担保とした金融「大名貸し」  
各藩の蔵屋敷が集まり、堂島米会所が先物取引市場を繰り広げた大坂は、諸藩の資金調達先でもあった。大坂が江戸時代の「金融センター」の役割を担ったのは、大坂に年貢米が集積され、蔵元や掛屋、両替商などが集まっていたからだ。大名に対して行なわれた、年貢米を担保とした貸しつけを「大名貸し」と呼ぶ。現在なら地方自治体が民間金融機関から借金をするようなものである。  
大名貸しは、販売予定の年貢米を担保とした融資なので、大名からの実際の返済は大坂に届けられる年貢米あるいは年貢米の売却代金で行なわれた。しかし、借りる側と貸す側両者に大きなリスクがあった。大名にとっては、米価の低下と凶作が最大のリスクだ。凶作の場合、需要と供給のバランスが崩れ、米価は上がるものの、販売できる絶対量が激減するので、返済額に届かなくなる。その不足額は文書で支払い計画を記した「証文貸し」で繰り越しされ、大名は元利金を複数年にわたって分割返済した。ある領内が飢饉に見舞われても、その藩の大坂の蔵屋敷には米が備蓄されていたのは、飢饉に苦しむ農民に配給することなく、返済にあてられたからである。  
貸し付ける側のリスクとは、大名の債務破棄、すなわち踏み倒しである。事実いくつかの藩が多重債務に陥り、債務破棄を懇願している。藩の財源を年貢米でまかなっている限り、飢饉が起これば米の収穫量が減り、返済が滞ることになる。大名が備蓄米を農民に配給しなければ、農民が餓死して耕作者のいない田畑が生まれ、さらに財政収入が悪化する。そして返済が滞るという悪循環に陥る。  
そういう事態を回避するため、金融業者のなかには藩財政の再建に協力する商人もいた。まるで政策と金融のコンサルタントである。藩の資産運用まで手がけた商人がいたとしても不思議ではない。江戸時代にそういう職業も自然発生的に生まれてきたことは、とても興味深い。  
ところで、この大名貸しという金融事業によって大坂最大の両替商となったのが鴻池だ。鴻池は蔵元や掛屋の業務をしながら両替商を営んだ。その利益で大和川流域に鴻池新田を開き、大地主にもなった。現在なら、不動産事業への進出である。当時の鴻池に「資産運用」という概念はなかったと思われるが、実に優れた投資の仕方といえよう。地主になれば、遊んでいても定期収入が得られるからだ。  
大名貸しのほかには「浜方先納」と呼ばれる融資が行なわれた。これは堂島米会所に所属する米仲買や両替商が、大名所有の米切手を担保に実施した貸し付けである。商人からからすれば、年貢米を担保とした大名貸しより、さらにリスクの高い融資だ。米切手は米の所有権を示す紙に過ぎず、また米価が暴落すれば回収できなくなるからだ。よって浜方先納は高金利であった。  
幕末にかけて財政危機に陥ったいくつかの藩は、債務を抱えたまま、明治維新を迎えた。その際、明治政府は旧藩の借金のうち半額近くを帳消しにするよう商人に認めさせ、しかも返済を長期の公債による分割支払いとした。この政策によって、大坂の多くの両替商が経営不振に陥った。明治政府にとっては廃藩置県によって誕生した地方自治体への救済処置であったが、金融業者には反対の結果となった。これがなければ、金融を基盤とした阪神財閥の数はもっと多く生まれていただろう。また、少数ではあるが、両替商で蓄えた資金とノウハウを銀行業に注ぐ商人も誕生した。 
大坂の商業 サブプライム大名を支配した大坂商人  
大名の財政は、年貢米を換金してくれる大坂商人に支配されていたといっても過言ではない。歴史の教科書には「鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで武士が政治を司る時代が続いた」と記されているが、江戸時代の大名の財政を左右したのは、まぎれもなく大坂商人であった。その大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていた。  
このことは、江戸時代の構造的な特徴を顕著に表わしている。戦国時代の大名は、収入(年貢米や金・銀、特産物など)を拡大させるために、隣国に攻め入り、領土を拡大し、その財産を奪った。もちろん、今日に至るまで「土地=財産」であるから、土地を略奪することが財産を増やすことであり、また収入を増やすための大名の基本的な仕事であった。これは戦国大名のシンプルな成長政策といえよう。  
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉もすべてこの政策を貫いた。しかし、家康が江戸に幕府を開き、幕藩体制が固まるにつれ、大名は略奪という本来の生産手段と仕事を失い、領土の政治を行なうしか仕事はなかった。大名や幕僚には政治家や役人としての役割があったが、大多数の武士は単なる「消費生活者」に過ぎなかった。  
元禄期に入ると経済システムが整い、また人口も爆発的に増え、支出が増加していく一方で、年貢増収は頭打ちとなっていった。正確にいえば、年貢収入は一定だが、支出が増えていったのである。プライマリーバランスを均衡させるには、歳出を税金でまかなうしか方法はない。そこで、幕府や藩は、商人から税金を取ることを考えた。つまり、増税である。  
しかし、大名はローカル資本だけでは財政を運営できなくなっていた。当時は予期せぬ飢饉が年々も続き、米が不作になり、年貢米収入が激減したほか、幕府からの天下普請と呼ばれる公共事業への参加、冠婚葬祭や新たな将軍が誕生するたびに支出が生じていた。そこで、大名は主に大坂の商人から借金をして財政を運営することが日常的になっていた。すなわち、諸藩は「財政赤字」だったのである。しかも収入が伸びないまま借金を繰り返せば、それは永遠に完済できない。利息分だけでも支払えばマシな方で、元金の返済には手がまわらない大名も多くいたようだ。  
借金踏み倒しで名高いのが、肥後熊本の細川家だ。アメリカ発の金融危機を例に挙げるなら、細川家は確実に「サブプライム」(信用度の低い層)である。信用度ゼロの大名の噂は、大坂商人の間で広まり、誰も貸し付けをしなくなった。ザプライム大名への貸し渋りが始まったのである。なかには大名の債権者である商人がその領土に出向き、農民から年貢を直接取り立てたり、代官に年貢徴収を厳命したりすることもあったという。ザプライム大名は完全に大坂商人に支配されていたといえよう。  
大名の信用が下落し、大名貸しのリスクが増えるにつれて、商人は米などの現物がない限り、大名に金を貸さなくなった。武士はさらにひもじくなり、商人の資金は大坂や江戸など大都市の金融市場に集まるようになる。  
たとえば三井財閥の始祖・三井高利は松坂で金融業を営み、大名貸しで財産を築き、その資本をもとに江戸に進出した。「現金安売り掛値なし」の呉服屋「三井呉服店」は、町人をターゲットにした小売業として大きな成功を収めた。大名への販売は売掛けであったし、また焦げ付くことが予想された。だからその売掛けの焦げ付きは原価に加算されて販売され、高額になっていたが、町人相手の着物の販売を現金のみにしたことで、店頭価格を引き下げることが可能になった。  
こういった論理的かつ戦力的なマーケティング思考は、当時の商人はすこぶる長けていたようだ。そして何も生産せず、ただ消費するだけとなった江戸時代の武士は、商人にとって大きな投資先ではなくなった。商人は自身の新たなビジネスに投資するようになっていった。ご存知のように、幕末に残された最大の投資先は、江戸幕府と官軍のどちらかであった。武力でなく、経済が時代を牽引する時代が到来したのは、当然の成り行きであったといえよう。 
 

 

御用金令の乱発  
幕末の幕府の財政は、悪化の一途をたどった。金の海外流失、外国人の殺害にともなう賠償、黒船来航に備えた軍備の増強、沿岸防備、度重なる江戸城の火災、二度にわたる長州征伐などがその原因だった。江戸城の火災は、反幕派による放火であった。  
慢性的な財源不足と突発的な支出を補填するために幕府が発令したのが、御用金令だ。御用金とは、幕府や諸藩が財政上の不足を補うため、町人・農民らに対し臨時に上納を命じた金銀のことだ。いわば幕府や諸藩の「特別会計」である。発令の名目は、幕府財政融通、米価調節費、江戸城再建費、海防費、長州征伐軍費の調達など様々だ。  
年貢とは異なり、本来は利子付きで年賦返済する借上金であった。つまり、民間からの借り入れである。その利子は年利2〜3%という超低利で、返済も長期の年賦返済だった。しくみは国債と似ているが、異なるの信用度だ。利子が支払われたのは最初の数年間のみで、幕末になるにつれ、利子はもちろん、元金もほとんど償還されなくなっていった。  
実質は、半強制的な献金である。当初は大坂や江戸の豪商に対して課せられたが、やがて大坂の富裕町人や一般町人、さらには農村の富裕層にも命じられるようになった。その浸透ぶりは、貨幣経済の発達により、消費しかしない武家階級が、経済活動のプレイヤーとして資金を動かせる層となった町人たちの支配下に置かれていったことを物語っている。  
有力商人が集まる大坂での御用金徴収を総括していたのは、東西両町奉行だった。奉行所は普段から大坂町人の資産・商売の状況を把握しており、そのデータに基づいて個々の町人への御用金額を決定していたという。奉行所が、警察署や裁判所のみならず、税務署や市役所の役割を果たしていたことには驚きである。ひとつの組織がジャンルの異なる複数の業務を並行してこなしていたことがわかる。まさに「小さな政府」だ。  
やがて豪商たちは、返済されない金を上納し続けていけば、すぐに破綻してしまうため、御用金徴収に盛んに抵抗するようになり、幕府の権威は失墜していく。幕府に上納するくらいなら、官軍に投資して、官軍が政権を取った暁には新政権御用達の業者に指名してもらおうと考える商人が登場してもおかしくない。一方、戦略家として頭角をあらわしたのが三井家だ。幕府への御用金を減額して分納することに成功し、なおかつ横浜貿易の関税収入の一部を商品担保貸し付けに回す業務を幕府から承認してもらったのである。  
ところで、イギリスと手を組んだ薩摩藩・長州藩の財政はどうなっていたのかといえば、江戸から離れていることが幸いし、密貿易によって財政を支えていた。イギリス商人から軍艦や武器を購入する費用は、密貿易で得た利益である。一方、御用金徴収によっても財政の立て直しができない幕府の内部には、フランスからの外債を軍事費にあてようとする動きもあった。しかし、最終的には外債で軍事費を調達しても償還が困難になると判断したのである。  
余談だが、江戸城の無血開城の前に、密かに地中に埋蔵されたと伝えられる「徳川埋蔵金」は、幕府が町人から徴収した御用金だったとされている。大政奉還当時、勘定奉行を務めていた小栗上野介が財政責任者であったことから、「小栗が幕府の金を持って逃げ、赤城山に埋めた」と噂されたという。幕僚を引退した小栗は上野国(群馬県)で隠遁生活を送りながら、埋蔵金を掘り起こすチャンスをうかがっていた。その金で幕府を再興する計画を持っていた・・・・・・と、このような徳川埋蔵金伝説にロマンを感じる人は現在も少なくない。 
幕末の経済状況  
サブプライムローン問題が表面化する前年の2006年1月までFRB議長を18年務めたグリーンスパン氏は、サブプライムローンに端を発する世界金融危機を「100年に1度の信用の津波」と表現した。その言葉を借りるなら、400年も続いた江戸時代の幕末とは、まさに「400年に1度」の大転換期であったといえる。では、幕末の財政はどのような状態にあったのか?幕府の手に負えない財政危機や金融危機が起こったのだろうか?  
鎖国をしていた時代の日本は、規制により貿易額こそ大きくなかったものの、輸入超過状態にあった。しかし国内から金が流失し、江戸幕府の財政を圧迫し続けていた。そもそも幕府が鎖国政策を始めた一因に、国内の金銀銅の流出阻止という目的があったわけだが、幕府の意図に反して、国内の金は国外に流出し、海外への所得移転が起こっていた。これに米価の下落が重なり、幕府は貨幣の改鋳を繰り返した。その貨幣が銀の使用量が少ない悪幣だったため、幕府の信用が低下したとされている。  
勝海舟は回想録で「幕末期には幕府の金庫は底をついており、新たな財政政策もないまま、破綻寸前にあった」と記している。財政危機は、実質的な開国にあたる横浜港の開港から得られる収益によっても持ちこたえることはできなかったのである。  
開国すると同時に、日本の輸出は爆発的に増加した。特に生糸は、その品質の高さから外国商人が買いあさった。さらに米国で南北戦争が勃発して、綿花の国際価格が急上昇し、日本の綿花も買い占められた。当時、中国が輸出規制をしていたため、中国産の代用品として陶磁器や漆器が盛んに輸出されていった。  
当時の日本は国内で完全需給体制下にあり、手工業の生産力では対外的な需要を急にまかなうことはできなかった。製品が輸出用のものばかりになると、国内の流通物資は減少する。そのため諸物価は高騰した。反対に、欧米で大量生産された廉価な綿製品が国内に入ってくるようになると、国内の木綿加工産業は壊滅的打撃を受けた。これは国内生産の野菜より中国生産の野菜のほうが安価であるのと同じ現象だ。  
国内の生産農家は、価格競争では中国産に勝てない。それと同じ構造で、開国前に綿製品は絹製品に次ぐ高級品であったが、開国後にはその価値は一気に暴落した。そうすると、当時の農業、製造業、流通業、小売業はすべてが打撃を受けたということになる。反対に金融業は、大名の貸し倒れというリスクはあるものの、業界としては活性化していったと予想できる。  
そういう状況にあって、金銀の国際レートとの差が、国内の混乱とインフレに拍車をかけたと読むべきだろう。開国前の日本国内の金銀レートは、約1対5だったのに対して、国際相場は1対13だった。つまり「銀高金安」である。その結果、外国商人は、大量の洋銀(メキシコドル)で日本の金貨を買いあさり、海外で売り払って利ザヤを稼いだ。また、日本の銅価格も国際標準よりはるかに安かったために、日本の製品はいとも簡単に外国商人に買い占められてしまった。開港地付近は開港特需にあやかることができても、それ以外のほとんどの地域はインフレに苦しめられたのである。  
物価の高騰、地場産業の低迷、これに米の不作が重なれば、諸藩の大名がやり場のない不満を抱くのは当然のこと。だから下級武士や豪農あるいは商人までもが、倒幕の主体となっていくシナリオがこの頃にすでにできていたということだろう。特に自立できる経済基盤を構築してきた薩摩と長州にとって、幕府の政策は地方経済を圧迫するものに過ぎなかった。薩摩は、密貿易や琉球の植民地化によって、貿易のうま味と経済のグローバル化の流れをすでに察知していた。一方の長州は、瀬戸内海の流通網や港の整備によって藩の財政をまかなってきたが、それも横浜開港によって大きな損害をこうむっていた。 
インフレ対策と問屋保護  
財政危機に陥っていた幕府は、貿易面でも大きな問題に対峙せざるを得なかった。1859年から列強諸国との貿易が始まった。原則として幕府の役人は関与せず、日本人商人と港に居留する外国人商人との間で自由貿易が行なわれ、交易の9割は横浜港だった。横浜港の原型となった神奈川湊には、東海道の宿場・神奈川宿があり、幕府の直轄地だった。その対岸の横浜村に港が開かれたのは、幕府が監視しやすいという理由もあったのだろう。  
圧倒的な輸出超過で始まった交易が1866年には輸入超過に転じる。その理由は、輸入品の税率が、20%から5%に引き下げられたからだ。つまり関税が下がったのである。関税は、歴史的には古代都市国家における手数料に始まり、ヨーロッパでは内国関税、国境関税というような変遷を経て、今日では一般に「輸入品に課される税」として定義されている。これは輸入する国が定めた法律に従って運営される。  
幕府が列強諸国と結んだ条約には関税自主権がなく、諸外国との協議で税率を決めるシステムをとっていた。しかし、幕府は1866年、兵庫の開港期限を延長するかわりに関税率を下げ、自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃することを記した改税約書に調印したのである。構造改革ではなく、単なるバーター政策だ。  
この関税引き下げによって外国商品がどっと安く国内に流れこんできたのである。そして安い商品が大量に国内に流通したことで急激な物価高が発生する。インフレの背景には、輸出の流通システムの崩壊がある。生糸や茶などの輸入品は人気が高かったため、商人は農家から生糸や茶を買い付け、問屋を通さずにそのまま横浜へ直送した。国内の流通は、商品が問屋に集まった段階で一度商品の流通量は調整される。商品が大量すぎると下落するので、蔵に保管して仲買へ渡す量をコントロールする。  
しかし、輸出に関しては歴史が浅いため、そういった慣習はなく、商人は問屋を通さずに横浜へ送った。それがどんどん売れたので、商人は全国の産地に出かけ、輸出用の生糸や茶を買い漁り、またどんどん輸出した。そうすると生糸と茶の巨大消費地である江戸や京都、大坂では品薄状態になり、価格が高騰。それに連動して生活必需品が数倍に値上がりしたのである。  
一方、海外から安い綿織物や毛織物が大量に入ってきたことで、相対的に値段の高い国内の綿織物はまったく売れなくなり、綿織物業、紡績業、綿花の栽培農家は大きな打撃を受けた。  
物価が上がり、国内の綿織物関連は壊滅状態。これでは庶民の生活は苦しくなるばかり。同時に江戸の問屋も大きな打撃を受けていた。そこで、幕府は1860年に「五品江戸廻送令」を発令する。インフレ対策と江戸の問屋の保護を目的とした貿易統制法令である。(1)雑穀(2)水油(3)蝋(4)呉服(5)生糸の5品目は、いったん江戸の問屋を通さないと輸出できないとするものだ。  
雑穀や水油、蝋など海外諸国でも生産できる品目がリストに挙がっているのは、当時、清(中国)で勃発した巨大な反乱「太平天国の乱」にイギリスとフランスが介入したことで需要が急増したからである。国内の生産者からすれば、いわば「特需」だが、これに生産供給が追いつかず、国内の物価を押し上げる大きな圧力となっていた。  
五品江戸廻送令は、インフレ抑制策としても江戸問屋の保護としても効果はすぐに表われることはなかった。列強各国の商人は「自由貿易を妨げる」と強く反発し、幕府に撤回するよう要求した。一方、国内の商人は法令を無視し、直接横浜港へ商品を送り続けた。ここから「幕府・江戸問屋」対「外国商人・国内商人」という対立構造が見えてくる。 
徳川家と朝廷・公家のスポンサー  
物価の高騰、金の海外流出などにより、幕末の日本は大不況に陥った。そして幕府の財政は危機に直面した。約15万人の兵士を送ったとされる長州征伐の資金は、農民や商人に課した「御用金」でまかなわれた。つまり幕府の資金調達は、民間頼りだったのである。  
一方、政治の表舞台は京都の朝廷に移っていった。歴史学者は誰も指摘していないが、当時の徳川家と朝廷・公家の自己資本率を比較してみると興味深いことがわかってくる。おそらく経済的に安定していたのは、朝廷・公家のほうであろう。彼らは物価の高騰や金の流出とは無縁の世界で生活していたからだ。  
薩長同盟による倒幕の実現性が高まったとき、彼らが政治的支柱として推したのが朝廷だった。朝廷の政務にあたっていたのは、天皇、摂家(せっけ)、清華家(せいがけ)など朝議出席メンバーである。摂家とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)のことだ。彼らは天皇家に奉仕することを職務とする貴族で、幕府の支援も受けていた。清華家とは、五家に次ぐ家格で、九家(久我、三条、西園、徳大寺、花山印、大炊御門、今出川、醍醐、広幡)が該当した。  
彼らは幕府からそれぞれ300〜1700石の家禄を与えられていた。鎌倉時代の公家は荘園管理権が経済的基盤であったが、江戸時代の公家は幕府から与えられた家禄が収入であった。また、代々伝わる家業、たとえば歌道・書道などがある公家は、家元として全国の弟子に免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた。  
たとえば幕末の朝廷権力の復活を背景に明治維新に功績を残した岩倉具視や三条実美は公家である。岩倉は下級公家であったが、朝廷に仕えていた。いわば宮内庁の職員である。急進派の公家である三条にしても幕府から与えられた土地があり、安定した収入があった。  
一方の徳川家は直轄統治地域である江戸、京、大坂などから徴収する石高が主な収入であった。しかし、そこから禄高(給料)を支払わねばならなかったため、米価格の乱高下は財政に大きく影響した。また、各藩の財政も苦しかったため、幕府を支援するどころか、自身の借金返済で汲々としていた。  
1867年に徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還を発表。これを受けて明治天皇が新政権の樹立を宣言。政権の形態は雄藩連合だ。この時点でも徳川家は日本一の大大名であったが、慶喜は新政府のメンバーから除外された。この時点で旧幕府は反対勢力となったわけだが、軍隊の数はまだ勝っていた。勝敗を分けたのは軍資金の多さである。資金調達能力と言い換えてもいいだろう。  
明治維新の際に官軍は、商人から借金をして武器を調達したが、貸す側からすれば信頼できる朝廷や公家が背後にいるという安心感があったのだろう。また、幕府に対する不信感、失望感の大きさが官軍を支援する動機づけになったともいえる。1868年、官軍は東海道、東山道、北陸道と三方面に分かれて江戸を目指した。薩長を中心とする22藩の藩兵、およそ5万人が行軍したのだから、宿代、食費、武器代など相当な経費がかかったと想像できる。  
資金を調達したのは、京、大坂の商人約130人であった。その合計はおよそ300万両だ。三井は単独で25000両も提供したとされている。明治政府の実質的なスポンサーは、三井をはじめとする商人であった。諸大名も官軍に寝返り、江戸攻撃に率先して赴く豹変ぶり。旧幕府の生き残りである徳川家は、こうして江戸城に孤立し、ついに無血開城へとつながっていくのである。 
明治維新で活躍した留学経験者  
大政奉還によって幕を閉じた江戸幕府。新政府は1867年、王政復古の大号令を発令。これにより武家政治を廃止し、朝廷に政治が戻ってきたことを宣言した。翌年、明治天皇が「即位の礼」を挙げ、元号は慶応から明治へと改められた。  
岩倉具視ら急進派公家と薩長の討幕派によって徳川家は新政府の運営メンバーから除外され、薩長出身者が新政府推進の主導権を握ることになった。  
ここで注目したいのが、明治維新で活躍した人物に幕末から明治初期に欧米に赴き、政治や工業の発展を目の当たりにして帰国した者が多いことだ。  
幕府や諸藩は、日本より進んだ欧米の諸制度を吸収しようとして、多くの留学者を派遣していた。幕府の少数の開国派には先見性があったし、薩摩・長州両藩の武士たちは日本を変えるには海外にヒントがあると確信し、自らの意志で海を渡った。幕末は革新と保守が競って新たなシステムづくりを模索した時期といえよう。また動乱のなかで下級の武士たちにも政治の表舞台に立つチャンスが与えられた時代でもあった。  
長州藩士の吉田松陰が講義をした私塾「松下村塾」の門下生であった伊藤博文は、長州藩の下級武士出身である。同じく長州藩の井上馨らとともに、1863年に藩主から留学の命を受けた。洋行費は藩主から一人200両が支給され、不足分は借金で補った。実質的には密航であったが、伊藤や井上など長州藩の5名の若者は上海経由でイギリスに渡った。伊藤はのちに初代内閣総理大臣に就任。井上は第二次伊藤内閣で外務大臣を務めたほか、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に貢献した。また、三井財閥と親しく、「三井の大番頭」として経済界でも活躍した。  
1865年には、薩摩藩の森有札と五代友厚がイギリスへ留学した。森はその後、アメリカにも留学し、帰国後、初代文部大臣に任命された。100年以上前に「英語を日本の共通語として採用しよう」と提案した超先見派でもあった。一橋大学の前身である私塾「商法講習所」を開設するなど教育分野で輝かしい業績がある。五代は欧州帰国後、明治政府の参与職外国事務掛となり、役人として大阪に赴任。造幣局を誘致し、初代大阪税関長に就任。大阪を基盤とする多くの企業の創業にかかわり、大阪商工会議所初代会頭を務めた。  
教育者、思想家として名高い福沢諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の次男として生まれた。彼は江戸時代には活躍できなかった人物の一人だろう。1860年、遣米使節団の随行船・咸臨丸艦長の従者として乗船し、初めて渡米。その帰路に香港、シンガポール、マルセイユ、リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリン、リスボンなどに寄り、見聞を広げている。1867年に再渡米し、アメリカで多くのことを学んだ。帰国後、教育活動に情熱を注いだ。また、明治4年には岩倉具視率いる岩倉視察団が欧米に派遣された。政府の要人と留学生から成る総勢107名の中には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文のほか、のちに思想家、ジャーナリストとして活躍する中江兆民や、三井財閥の総帥となる団琢磨もいた。  
このように動乱の幕末に欧米に留学した者たちが議会や憲法の設立、教育改革、殖産産業に深くかかわっていった。江戸時代の最後に彼らのような人物が生まれたことが日本にとって幸いだったといえよう。400年も続いた江戸幕府は封建制度をベースとし、徳川コンツェルンが巧みな統制を敷いたことで安定した時代が長く続いた。それは藩の自治を認める多様性に富んだ政策であったといえる。しかし、その末期にいち早く海外に学ぶべき文化を見つけたのは、残念ながら徳川家でなく、長州や薩摩といった地方の武士と留学生たちであった。  
しかし、幕府には学ぶべき政策や改革は多くあった。それらは現在でも決して古臭くはない。むしろ普遍性に富んだ政策が欧米に先駆け、江戸時代の日本で実施されていたことに大きな意味があるというよう。  
 
幕府の政治3

 

荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度 
はじめに  
米帳合取引・荻原重秀・新井白石・田沼意次・松平定信・海保青陵・山片蟠桃・本多利明・平賀源内・杉田玄白。江戸時代は面白い時代だと思うようになってきた。1640年から1853年まで鎖国をしていて、ほぼ完全に自給自足の時代。そしてそれは「コメ自由化反対」を主張する「尊農攘夷」信仰者が憧れる、自給自足の社会だった。その自給自足の時代にあって、1600年ごろの人口が1、000万台、1720年を2、600万台とすると120年間で2.6倍の増加があり、これが幕末には約3、000万人になっている。日本列島でこのように人口が増加したということは、大雑把に言えば国内総生産GDPが3倍になった、ということだ。  
幕藩体制とは、各藩が独立主権国家のような政治体制だった。「地方の時代」とか「道州制度」を主張する人にとっても憧れの時代なのだろう。しかもコメの流通制度や田沼意次の経済構造改革は現代でも、これを理解できない人がいるくらい進んだものだった。まだまだ探せば秘密があるに違いない。あの時代に経済規模を3倍にした秘密とそれに伴う社会・文化の変化が。そのような思いから「大江戸経済学」とのタイトルを立ち上げてみた。江戸時代をタテにヨコに切ってみようと思う。切り方と切った後の処理が勝負になる。「趣味の経済学」を基本にユニークな論法を展開しようと思う。いつもながら、私の個人的な趣味へのお付き合い、よろしくお願い致します。  
荻原重秀の貨幣改鋳  
江戸時代に大きな経済改革が2度あったと考える。これは歴史の教科書が教える改革とはまるで違う。江戸時代の3大改革として、(1)8代将軍吉宗指導の「享保の改革」(18世紀前半)、(2)松平定信指導の「寛政の改革」(18世紀末)、(3)水野忠邦指導の「天保の改革」(19世紀半ば)が取り上げられるが、ここでは違った面から江戸時代の経済改革を見ていくことにする。先ずトップバッターは通貨政策で先進的な考えを持っていて、その政策を実行した幕臣経済官僚の勘定組頭荻原重秀の登場から。  
荻原重秀(1658-1713)(万治元-正徳3)時は5代将軍綱吉の時代、元禄の華やかな町人文化が咲き誇っていた頃、しかし幕府の財政は赤字続きで破綻寸前だった。その時御側用人柳沢吉保の命を受けて、勘定組頭荻原重秀は財政再建へ取り組むことになった。そこで重秀が考えたのは貨幣改鋳だった。慶長小判の金含有量を減らし、出目を稼ぎ、通貨を拡大すること。つまり小判10枚を回収して、これを改鋳して15枚として流通させる。これで幕府の財政は潤うと考えた。こうした貨幣改鋳政策は4代将軍家綱の時代にも幕府内で検討されたが、時の老中土屋数直の反対「邪(よこしま)なるわざ」として葬られている。しかしこの時は、重秀のそれまでの仕事ぶりから柳沢吉保・将軍綱吉の信頼もあって実施されることになった。これが1695(元禄8)年。  
幕府はこの改鋳の目的を「刻印が古くなって摩滅したため」と説明した。もちろん本当の目的は品位の高い慶長小判を回収して品位を落としたものに改鋳し、出目の獲得を狙ったものだった。慶長小判が86%の金品位だったものを、56%に減じたもの。これで出目は大きく、銀の改鋳と合わせて、全体で500万両にも及んだと試算される。  
これが幕府の財政再建に大きく貢献するのだが、もう一つの効果があった。それは通貨流通量拡大による景気刺激だった。徳川幕府が成立し、戦国のすさんだ世から安定へ歩みだし、米の生産も伸び、豊かになり始めていた。綱吉の「生類哀れみの令」もこうした世の中の安定期から生まれたもので、単に行き過ぎた動物愛護ではなかった。  
これ以前は殺伐とした時代で、生活に困って子供を捨てたり、気に入らない子供を捨てたりすることがあったし、人間や牛馬が年老いたり病気になったりすると、まだ息のあるうちに野山に追放して自然に死ぬのを待つような風習さえあった。屍も野ざらしのままだった。綱吉はこれらを取り締まろうとする。この時期は人間も含めた「生類」、つまり生きとし生けるもの全てを大切にし、平和を築こうとの時代だった。日本人全てが自分の「墓」を持つようになるのはこの時代からだった。こうした時代の「生類哀れみの令」であった。  
こうして世の中が安定し、生活が豊かになり、経済が拡大してくるとそれに伴った通貨も多く必要になる。今日の経済用語で言う「成長通貨」が必要になる。重秀の貨幣改鋳はこの「成長通貨」の役割も果たしたわけだ。  
こうして幕府の財政も立ち直り、経済も順調に伸びるかのように見えたが、ここで思わぬ弊害が出てきた。それは江戸の消費物価が異常に高騰してきたことだった。  
金・銀・銭の三貨体制  
ここで江戸時代の通貨の特異性について知っておく必要がある。江戸時代の通貨は三貨体制といって、金・銀・銭の3つからなっていた。金は俗に小判と呼ばれるもので、金を主体とした鋳造通貨であり、1両は4分、1分は4朱という4進法の通貨だった。ところが銀は金と違って、一定の純度の銀塊そのものが何匁何分(10進法)と秤で計って使われる、秤量貨幣であった。金と銀が高額貨幣であるのに対して、銭は銅(のちには鉄の場合もあった)を主材とする少額貨幣で、貫・文(一貫は1、000文)という単位で数えられていた。いわゆる「寛永通宝」というのがそれである。  
ところで銭は全国的に通用したが、金と銀はそうではなかった。金は江戸を中心とする関東・東国経済圏で、銀は京・大阪を中心とする上方・西国経済圏で通用した。したがって江戸の消費者物資を上方・西国から買うということは、金を基本的な通貨とする経済圏が銀を基本とする経済圏から物資を買うことになる。この場合他の条件を一定とすれば、通貨=銀に対して、通貨=金が強くなればなるほど、江戸には多くの物資が流入して来ることになる。逆に通貨=銀に対して、通貨=金が弱くなれば江戸には物資の流入が少なくなり、江戸の消費物価が高騰することになる。そこで江戸により多くの消費物資を集めて、市民生活を安定させようと思えば、通貨=銀に対する通貨=金のレートを切り上げればいい。あるいは通貨=金に対する通貨=銀のレートを切り下げればいい。これは今日の国際貿易における為替レートの原理と同じである。荻原重秀もそのことに気づいた。  
金・銀・銭は本来独立した別個の通貨であって、相互のレートは日々相場がたって、絶えず変動していた。その相場が大体この程度で安定して欲しい、という公定相場を幕府が最初に決めたのは1609(慶長14)年7月のことだ。それによると、金1両は銀50匁、銭4貫となっている。しばらくはこれに近い相場の動きだったが、農民・町民が豊かになってくる寛文・延宝(1661-1681)ころには、金1両が銀60匁というのが安定相場になっていたようだった。重秀の貨幣改鋳は小判の改鋳と同時に、銀も改鋳している。  
重秀の貨幣改鋳、初めは大きな抵抗があった。幕府が一方的に通貨=銀に対する通貨=金の品位を下げたのだから、日本の経済を握っていた上方商人が抵抗した。重秀は1700(元禄13)年11月、幕府の支払いにあたっては金1両を従来のように銀50匁の公定相場ではなく60匁の計算にするので、世間もそれに習うように、と触れている。それによって銀高相場を引き下げようとした。これは通貨=銀の20%の切り下げになる。通貨=金の品位が下がったうえに、さらに銀の切り下げになるので、上方商人は納得しなかった。重秀は幾度となく幕府の政策を徹底させようと指示するが、上方商人の抵抗は収まらない。そこで今度は通貨=銀の改鋳を行う。  
銀の含有量を50%、40%、32%と下げていき、ついには20%にまで及んでいる。このことは当然金銀相場にも反映し、江戸にあっては、宝永6、7年に金1両につき銀が60匁であったが、正徳元年には64-55匁、正徳2年には76-81匁までに低落した。大阪の場合も同じで、正徳2年には金1両につき銀80匁余となっている。従来の公定相場より60%も銀を切り下げたのだから、上方・西国経済圏は大きな打撃を受けた。  
このような重秀の政策に対して新井白石が攻撃してきた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと3度。「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまで詰め寄って、1712(正徳2)年9月11日、重秀罷免に成功する。  
重秀の実力を認め、その政策を信頼して任せていた柳沢吉保はすでに隠居し、将軍は6代将軍家宣に代わっている。ここにおいて荻原重秀の先進的な金融政策は終わることになる。白石によって勘定奉行を罷免された重秀はその翌1713(正徳3)年死没。殺害されたとの噂もある。  
新井白石(1657-1725)(明暦3-享保10)は重秀の政策を批判していた。1712年、重秀を失脚させた後を受けて「改革」を行う。その方向とは、重秀の逆を行く政策だった。小判は以前の含有量に戻す。慶長小判と同じに戻したのだから量は減った。通貨流通量を減らしたのだからデフレ=不況になった。白石の政策の基本は「倹約」。今で言う「くたばれGNP」だ。初めは町人も歓迎したが、景気が悪くなりすぐに人気がなくなった。経済政策に関して新井白石は無能であった。1716(享保元)年4月将軍家継没。同年5月白石罷免。その後吉宗の「享保の改革」が始まる。  
貿易用貨幣 
徳川幕府は朝鮮とオランダだけと正式に貿易していた。そして貿易の決裁には丁銀を用いたが、重秀の貨幣改鋳により品位が下がると、朝鮮から丁銀の受け取りを拒否される。このため重秀は1710(宝永7)年、朝鮮人参輸入のために「人参代往古銀」と呼ばれる、朝鮮貿易専用の銀貨(品位80%)を鋳造した。  
人参代往古銀はその後1714(正徳4)年の改鋳で品位が引き上げられた為、鋳造中止になる。しかしその後1736(元文元)年の改鋳により品位が引き下げられたため、再び鋳造されたが、18世紀後半、意次の時代には、生糸や朝鮮人参などの国内供給体制が整ったため、「人参代往古銀」はその役割を終え、鋳造中止となる。  
荻原重秀の先進性  
通貨流通量を増やし経済を成長させる政策は「成長通貨は日銀の買いオペによって供給する」という今日の金融政策と一致する。それ以上に先進的なのは、「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する重秀の答え「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」  
これは小判を貴金属としてではなく、「信用に裏付けられた貨幣」と考えていたことで、それは「金本位制」ではなく「管理通貨制度」の考えだ。重秀以降も金本位制は維持されていく。明治維新後も兌換紙幣発行という形で金本位制は続く。日本が金本位制を捨てるのは、1931(昭和6)年12月高橋是清が大蔵大臣になったとき。しかその後もアメリカのドルは、1オンス35ドルで交換される。これが1971年8月まで続く。実に200年以上も前に重秀は管理通貨制度を考えていたことになる。アダム・スミスが「国富論」を出版したのが1776年、日本で翻訳されたのが1882年。ヨーロッパで経済の問題が「倫理学」から独立しやっと「経済学」ができた頃だ。重秀の先見性には驚くほかはない。新井白石という抵抗勢力によってその改革がうち砕かれた、とはいえ重秀のような先見性をもった経済官僚がいた、ということは経済学をかじり始めた者としてとても嬉しい。経済学に関しては日本人が自虐的になる必要は全くない。  
元禄時代の官僚vs平成時代の官僚重秀は初めから通貨政策の知識を持っていた訳ではない。試行錯誤を重ねながら深く理解していった。学者・エコノミストのようなブレーンもいない。白石のように将軍に3度も罷免要求を出す抵抗勢力など、わずかに柳沢吉保と綱吉が元気なうちはそれでも仕事に専念できたであろうが、その後の気苦労たるや、想像を絶するものだったろう。一方今日の官僚はどうか。なかには改革を拒み、影の抵抗勢力と結び、改革者の足を引っ張り、古い組織体を守るため、官僚のトップが改革者と差し違えることさえある。「これで組織を守った」と胸を張る官僚に比べ、重秀の情熱に感動せずにはいられない。 
田沼意次と、その協力者たち 

 

多方面にわたる改革  
田沼意次(1719-1788)(享保4-天明8)荻原重秀の改革が挫折して、約半世紀後新たな改革者が登場する。「田沼意次と、その協力者たち」だ。歴史の本では「田沼時代」という表現を見かける。「田沼意次と、その協力者たち」とのタイトルにした。それは、この改革は確かに田沼意次が中心になり、意次がいたからこそ進んだ改革なのだが、意次は独裁者でも賄賂政治でもなかった。何よりも意次の人柄のせいか、多くの協力者・ブレーンがいたのが特徴だからだ。  
足軽の小倅だった田沼意次がその実力を認められて、御側用人として、老中として多くの改革を進める。意次の実力とその協力者たちの知恵があれば賄賂など関係なかった。後に反田沼反動派が流した風説に惑わされることなく「田沼意次と、その協力者たち」の取り組んだ改革を振