蟹工船

蟹工船
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諸話 / 上田耕一郎「自己批判書」五〇年代の文学とそこにある問題世界共和国
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
蟹工船

 一
「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函館(はこだて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖(かたそで)をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫(ナンキンむし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波......。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。
この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。
「俺(おい)らもう一文も無え。――糞(くそ)。こら」
そう云って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天(はんてん)の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。
一人は黙って、その漁夫の顔をみた。
「ヒヒヒヒ......」と笑って、「花札(はな)よ」と云った。
ボート・デッキで、「将軍」のような恰好(かっこう)をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履(ぞうり)をひきずッて、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室を出入した。――用意はすっかり出来て、もう出るにいいばかりになっていた。
雑夫(ざつふ)のいるハッチを上から覗(のぞ)きこむと、薄暗い船底の棚(たな)に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五の少年ばかりだった。
「お前は何処(どこ)だ」
「××町」みんな同じだった。函館の貧民窟(くつ)の子供ばかりだった。そういうのは、それだけで一かたまりをなしていた。
「あっちの棚は?」
「南部」
「それは?」
「秋田」
それ等は各棚をちがえていた。
「秋田の何処だ」
膿(うみ)のような鼻をたらした、眼のふちがあかべをしたようにただれているのが、
「北秋田だんし」と云った。
「百姓か?」
「そんだし」
空気がムンとして、何か果物でも腐ったすッぱい臭気がしていた。漬物を何十樽(たる)も蔵(しま)ってある室が、すぐ隣りだったので、「糞」のような臭いも交っていた。
「こんだ親父(おど)抱いて寝てやるど」――漁夫がベラベラ笑った。
薄暗い隅(すみ)の方で、袢天(はんてん)を着、股引(ももひき)をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面(でめん)らしい母親が、林檎(りんご)の皮をむいて、棚に腹ん這(ば)いになっている子供に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、自分では剥(む)いたぐるぐるの輪になった皮を食っている。何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっていた。そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てくれるもののいない内地から来た子供達は、時々そっちの方をぬすみ見るように、見ていた。
髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、その附近の子供達に分けてやりながら、
「うちの健吉と仲よく働いてやってけれよ、な」と云っていた。木の根のように不恰好(ぶかっこう)に大きいザラザラした手だった。
子供に鼻をかんでやっているのや、手拭(てぬぐい)で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何か云っているのや、あった。
「お前さんどこの子供は、身体はええべものな」
母親同志だった。
「ん、まあ」
「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ......」
「それア何処でも、ね」
――二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。不機嫌(ふきげん)に、急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、梯形(ていけい)の自分達の「巣」に帰った。錨を上げたり、下したりする度に、コンクリート・ミキサの中に投げ込まれたように、皆は跳(は)ね上り、ぶッつかり合わなければならなかった。
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた、それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭(にお)いがしていた。
「臭せえ、臭せえ」
 

 

「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」
赤い臼(うす)のような頭をした漁夫が、一升瓶(びん)そのままで、酒を端のかけた茶碗(ちゃわん)に注(つ)いで、鯣(するめ)をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。
四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。
「......んだべよ。四カ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って......」
頑丈(がんじょう)な身体をしたのが、そう云って、厚い下唇を時々癖のように嘗(な)めながら眼を細めた。
「んで、財布これさ」
干柿のようなべったりした薄い蟇口(がまぐち)を眼の高さに振ってみせた。
「あの白首(ごけ)、身体こったらに小せえくせに、とても上手(うめ)えがったどオ!」
「おい、止せ、止せ!」
「ええ、ええ、やれやれ」
相手はへへへへへと笑った。
「見れ、ほら、感心なもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎(あご)で、「ん!」と一人が云った。
漁夫がその女房に金を渡しているところだった。
「見れ、見れ、なア!」
小さい箱の上に、皺(しわ)くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帖(てちょう)に鉛筆をなめ、なめ何か書いていた。
「見れ。ん!」
「俺にだって嬶(かかあ)や子供はいるんだで」白首(ごけ)のことを話した漁夫が急に怒ったように云った。
そこから少し離れた棚に、宿酔(ふつかよい)の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、
「俺アもう今度こそア船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で云っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。――又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」
こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ云っていた。
ハッチの降口に始め鎌足(かまあし)を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担(にな)った男が、梯子(はしご)を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、空(あ)いているのを見付けると、棚に上って来た。
「今日は」と云って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入(え)れて貰えます」
後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危く死に損(そこ)ねてから――前に何度かあった事だが――フイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山(やま)を下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片(きれ)のように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経(た)ったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。――彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、
「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが)
「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」
だが、だんだん声の低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投(ともえな)げにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。
その事を聞いていた若い漁夫は、
「さあ、ここだってそう大して変らないが......」と云った。
彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色ッぽく艶(つや)のない眼差(まなざし)を漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐(あぐら)をかいて、両手をはすがいに股(また)に差しこんでムシッとしているのや、膝(ひざ)を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。――朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追払われてくる者達だった。長男一人を残して――それでもまだ食えなかった――女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋(なべ)で豆をえるように、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼等はみんな「金を残して」内地(くに)に帰ることを考えている。然(しか)し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるッきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地(くに)へ帰れなくなる。彼等は、身寄りのない雪の北海道で「越年(おつねん)」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」――彼等はそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。
 

 

菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、笑談(じょうだん)を云った。
「お菓子(がし)めえか、ええ、ねっちゃよ?」
「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂(とんきょう)な声を出して、ハネ上った。「人の尻(しり)さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」
菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集ったことにテレて、ゲラゲラ笑った。
「この女子(あねこ)、可愛(めんこ)いな」
便所から、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬(ほっ)ぺたをつッついた。
「何んだね」
「怒んなよ。――この女子(あねこ)ば抱いて寝てやるべよ」
そう云って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。
「おい饅頭(まんじゅう)、饅頭!」
ずウと隅(すみ)の方から誰か大声で叫んだ。
「ハアイ......」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾(なん)ぼですか?」
「幾(なん)ぼ? 二つもあったら不具(かたわ)だべよ。――お饅頭、お饅頭!」――急にワッと笑い声が起った。
「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけ、面白いんでないか。何んぼ、どうやっても駄目だって云うんだ......」酔った若い男だった。「......猿又(さるまた)はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるッて云うんでねか。――三枚もはいてたとよ......」男が頸(くび)を縮めて笑い出した。
その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼(でかせ)ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆(ほと)んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きれたら有難い」と云っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。
漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸(たこ)」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。――それを何より恐れていた)
糊(のり)のついた真白い、上衣(うわぎ)の丈(たけ)の短い服を着た給仕(ボーイ)が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大(おんたい)、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄(おりかばん)」がいた。
「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。
漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺(くそつぼ)」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫(うじむし)のようにうごめいて見えた。――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭(ひげ)を気にして、始終ハンカチで上唇を撫(な)でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈(たかじょう)、鞋(わらじ)、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った泥溝(どぶ)だった。監督はじろりそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。――どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。
「一寸(ちょっと)云って置く」監督が土方の棒頭(ぼうがしら)のように頑丈(がんじょう)な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子(ようじ)で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。
「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲仕事(もうけしごと)と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若(も)し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈(はず)がないが、負けるようなことがあったら、睾丸(きんたま)をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。
「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭(さけ)、鱒(ます)と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。......それを今流行(はや)りの露助の真似(まね)をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする......」
監督は酔いざめのくさめを何度もした。
酔払った駆逐艦の御大はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあるランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面(まとも)から自分の顔に「唾」を吹きかけられた。
「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこの態(ざま)なんだ」
艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。
「やっちまうか......」
二人は一寸息をのんだ、が......声を合せて笑い出した。
 二

 

祝津(しゅくつ)の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧(ガス)の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫(こうぼう)を何海浬(かいり)もサッと引いた。
留萌(るもい)の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏(はさみ)のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐(ふところ)の中につッこんだり、口のあたりを両手で円(ま)るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内(わっかない)に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲(びょう)がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸(トン)に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ。――が、ぐウと元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度(たび)に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
波のしぶきで曇った円るい舷窓(げんそう)から、ひょいひょいと樺太(からふと)の、雪のある山並の堅い線が見えた。然(しか)しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー......と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺(ゆす)った。棚からものが落ちる音や、ギ――イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接(じか)に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ......と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿(つりざお)のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと滝になった。
 

 

見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具(おもちゃ)の船程に、ちょこんと横にのッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと起(た)ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする。
オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは硝子(ガラス)の細かいカケラのように甲板に這(は)いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑(すべ)った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒(こんぼう)をもって、大声で怒鳴り散らした。
同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者(できししゃ)が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。......波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶(ふか)のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭(か)けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘(ぱい)取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語でハッキリそういった。
カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子(しし)のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎(うさぎ)より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化(しけ)は止みそうもなかった。
仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻(あぶ)を追払う馬のように、身体をヤケに振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤(すす)けた天井にやったり、殆(ほと)んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり......中には、呆(ほお)けたようにキョトンと口を半開きにしているものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。
顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと瓶(びん)の角が光ってみえた。――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った。――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた。
「日本を離れるんだど」円窓を肱(ひじ)で拭(ぬぐ)っている。
「糞壺」のストーヴはブスブス燻(くすぶ)ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタ顫(ふる)えていた。ズックで覆(おお)ったハッチの上をザア、ザアと波が大股(おおまた)に乗り越して行った。それが、その度に太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、物凄(ものすご)い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシンとくる。――今では、船は、断末魔の鯨が、荒狂う波濤(はとう)の間に身体をのたうっている、そのままだった。
「飯だ!」賄(まかない)がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。「時化てるから汁なし」
「何んだって?」
「腐れ塩引!」顔をひっこめた。
思い、思い身体を起した。飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった。
塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたために、水洟(みずばな)がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった。
飯を食っていると、監督が入ってきた。
 

 

「いけホイドして、ガツガツまくらうな。仕事もろくに出来ない日に、飯ば鱈腹(たらふく)食われてたまるもんか」
ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ揺(ゆす)って出て行った。
「一体あいつにあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学生上りが、ブツブツ云った。
「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」
「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」
別な方から、
「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を尖(と)んがらした声だった。
「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」
皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。
夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の動揺を棚の枠(わく)につかまって支(ささ)えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。南瓜(かぼちゃ)のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、脛(すね)の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天(はんてん)、それに行李(こうり)などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が顫(ふる)えながら一瞬間溜(た)まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一人が行衛(ゆくえ)不明になったことが知れた。
皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚(さら)われたんだ」と思った。イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった。
「こったら冷(しゃ)ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」
監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。
時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛(びっこ)な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで、雨に会うのより、もっと不気味だった。
麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。
「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。「面白いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。
――今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜の闇(やみ)の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。
船長室に無電係が周章(あわ)ててかけ込んできた。
「船長、大変です。S・O・Sです!」
「S・O・S? ――何船だ 」
「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」
「ボロ船だ、それア!」――浅川が雨合羽(あまがっぱ)を着たまま、隅(すみ)の方の椅子に大きく股(また)を開いて、腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」
「一刻と云えないようです」
「うん、それア大変だ」
船長は、舵機室に上るために、急いで、身仕度(みじたく)もせずにドアーを開けようとした。然し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」
誰が命令した?「船長」ではないか。――が、突嗟(とっさ)のことで、船長は棒杭(ぼうぐい)より、もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。
「船長としてだ」
「船長としてだア――ア」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で抑(おさ)えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ。会社が傭船(チアタア)してるんだで、金を払って。ものを云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えの価値(ねうち)もねえんだど。分ってるか。――あんなものにかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には勿体(もったい)ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」
 

 

給仕は「今」恐ろしい喧嘩が! と思った。それが、それだけで済む筈がない。だが(!)船長は咽喉(のど)へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない? 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった。
「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切りゆがめて唾(つば)をはいた。
無電室では受信機が時々小さい、青白い火花(スパアクル)を出して、しきりなしになっていた。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」
係は自分の肩越しに覗(のぞ)き込んでいる船長や監督に説明した。――皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と顎根(あごね)に力をこめて、じいとしていた。
船の動揺の度に、腫物(はれもの)のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉(とびら)を隔てて聞えていた。
ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係は周章(あわ)てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それッ切りだった。もう打って来ない。
係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。
「沈没です!......」
頭から受信器を外(はず)しながら、そして低い声で云った。「乗務員四百二十五人。最後なり。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」
それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなく四囲(あたり)を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。――その船長は見ていられなかった。
........................
学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。その話にひきつけられていた。――然し暗い気持がして、海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭(せ)ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた。
「本当に沈没したかな」独言(ひとりごと)が出る。気になって仕方がなかった。――同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。
――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。
蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年の間も繋(つな)ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧(こいげしょう)をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに解(ほ)ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした。
然し、それでも全くかまわない。何故(なぜ)なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「秋(とき)」だったから。――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていない。それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。
利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。嘘(うそ)のような金が、そしてゴッソリ重役の懐(ふところ)に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千哩(マイル)も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑(ガラスくず)のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
.....学生上りは「糞壺(くそつぼ)」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
「他人事(ひとごと)ではないぞ」
「糞壺」の梯子(はしご)を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、
雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。
                  浅川監督。
と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼(は)らさってあった。
 三

 

霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目鰻(うなぎ)のように延びて見えた。
沖合四浬(かいり)のところに、博光丸が錨(いかり)を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。
網さばきが終って、何時(いつ)からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股(また)までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。
周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈(はず)がなかった、とブツブツ云っていた。
「独(ひと)り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」
学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団(ふとん)、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。それが始めて分ったとき、貨幣(かね)だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固(かたま)っていた。
函館(はこだて)を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝(ひざ)を立てて、お互に脛(すね)を指で押していた。何度も繰りかえして、その度(たび)に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。棚(たな)の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」
「んだべ。船医なんてんなものよ」側(そば)で聞いていた古い漁夫が云った。
「何処(どこ)の医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もんだった」坑山の漁夫だった。
皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。
「皆、寝たか――一寸(ちょっと)聞け。秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、唾(つば)をチェッとはいた。癖だった。
学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。自分が現に手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。
行衛(ゆくえ)の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった。捕(つか)んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った。
「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。
雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた。初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわめきが間を置くようになった。その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで直(す)ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から叩(たた)きつける音もしていなかった。こっちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、睾隠(きんかく)しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。
朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手を懐(ふところ)につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪(かぜ)をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。
 

 

風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で怠(なま)けているものを機械の枠越(わくご)しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。
「昨夜(ゆうべ)出されたきりで、ものも云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴(け)ってるんだよ」
学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」
其処(そこ)へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。寒い雨に濡(ぬ)れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜(ろくまく)を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしくない皺(しわ)を眉(まゆ)の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳(かん)のピリピリしているような眼差(まなざ)しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝(ふてね)をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
監督が甲板を棍棒(こんぼう)で叩いた。
「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
「こんなこと内地(くに)さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
「んさ。――こったら事って第一あるか」
スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は鶏冠(とさか)を立てた牡鶏(おんどり)のように見廻った。
仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山(やま)から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
「生命(えのぢ)的(まと)だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝(つ)いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生(え)きられないなんてな。――瓦斯(ガス)も恐(お)ッかねど、波もおっかねしな」
昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧(ガス)が一面に――然(しか)しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆(おお)いの裾(すそ)がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
もう海一面、三角波の頂きが白いしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章(あわ)て出した。
すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶(ゆおけ)のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の独逸(ドイツ)帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化(しけ)をおかして帰って来るのだった。
薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩(も)れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。
「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。
監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇(とま)っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには若(も)し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
 

 

それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命?」
「そうよ」
「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
何か云おうとした漁夫は吃(ども)ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。
皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛(さ)いなまれた。
夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動かない。眼も何かを見た瞬間、そのまま硬(こ)わばったように動かない。――その情景は、漁夫達の胸を、眼(ま)のあたり見ていられない凄(すご)さで、えぐり刻んだ。
又ロープが投げられた。始めゼンマイ形に――それから鰻(うなぎ)のようにロープの先きがのびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたたきつけた。皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままの恰好(かっこう)で横倒しにされた。が、つかんだ! ――ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に張った。こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた。
ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。夕方になるまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来た。どの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。一艘は水船になってしまったために、錨(いかり)を投げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた。他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だった。
監督はブリブリしていた。何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。皆は焼き殺すような憎悪(ぞうお)に満ちた視線で、だまって、その度に見送った。
翌日、川崎の捜索かたがた、蟹(かに)の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何んでもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。
朝早くから、機関部が急がしかった。錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆(いりまめ)のようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼれ落ちた。――博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。結氷の砕片(かけら)が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい身体(からだ)を見せて流れていた。が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてていた。と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった。船腹は白粉(おしろい)でもふりかけたように、霜の結晶でキラキラに光った。水夫や漁夫は両頬を抑(おさ)えながら、甲板を走った。船は後に長く、曠野(こうや)の一本道のような跡をのこして、つき進んだ。
川崎船は中々見つからない。
九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど。畜生!」デッキを走って歩いて、喜んだ。すぐ発動機が降ろされた。が、それは探がしていた第一号ではなかった。それよりは、もっと新しい第36[#「36」は縦中横]号と番号の打たれてあるものだった。明らかに×××丸のものらしい鉄の浮標(ヴイ)がつけられていた。それで見ると×××丸が何処(どこ)かへ移動する時に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった。
 

 

浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。
「これアどうしてバンとしたもんだ」ニャッと笑った。「引いて行くんだ」
そして第36[#「36」は縦中横]号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。川崎は身体を空でゆすりながら、雫(しずく)をバジャバジャ甲板に落した。「一(ひと)働きをしてきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、
「大したもんだ。大したもんだ!」と、独言(ひとりごと)した。
網さばきをやりながら、漁夫がそれを見ていた。「何んだ泥棒猫! チエンでも切れて、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」
監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながら、側を通って行った。そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。
すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。
「何んです」
見当外(はず)れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、「何んです? ――馬鹿。番号をけずるんだ。カンナ、カンナ」
大工は分らない顔をした。
「あんぽんたん、来い!」
肩巾(かたはば)の広い監督のあとから、鋸(のこぎり)の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った。――川崎船の第36[#「36」は縦中横]号の「3」がカンナでけずり落されて、「第六号川崎船」になってしまった。
「これでよし。これでよし。うッはア、様(ざま)見やがれ!」監督は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように哄笑(こうしょう)した。
これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。
行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫達は、そこだけが水溜(たま)りのようにポツンと空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直ぐ処置が出来るように取り纏(まと)めた。――気持のいいことではなかった。それをしていると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、覗(のぞ)きこまれているようなつらさを感じた。中積船が来たら托送(たくそう)しようと、同じ苗字(みょうじ)の女名前がその宛(あて)先きになっている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った。彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、然(しか)しむさぼるように、それを読んでしまうと、嫌(いや)なものを見てしまったという風に頭をふって、次ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった。
ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云った。その男は図体の大きい、北海道の奥地で色々なことをやってきたという男だった。もっと低い声で、
「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が云った。
「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」
「なア」最初のが云った。「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。他人(ひと)ごとでねえんだど」
隅(すみ)の方で、立膝(たてひざ)をして、拇指(おやゆび)の爪(つめ)をかみながら、上眼をつかって、皆の云うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた。「万事、俺にまかせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」
皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした。
博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。
彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、忽(たちま)ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまった。
――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう襟首(えりくび)をつかまれた子供より他愛なかった。一番遠くに出ていたし、それに風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。
が(!)こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった。
そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というものに渇していた彼等にとって、其処(そこ)は何とも云えなく魅力だった。それに親切な人達ばかりで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云ったり、髪の毛や眼の色の異(ちが)う外国人であるということが無気味だった。 
 

 

何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。
難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所とは、余程離れていた。
彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった。「帰ってきたくはなかった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」がその外にかくされていた。
丁度帰る日だった。彼等がストオヴの周(まわ)りで、身仕度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた。――中に支那人が一人交っていた。――顔が巨(おおき)くて、赤い、短い鬚(ひげ)の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出した。それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃになってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。
「貴方(あなた)方、金キット持っていない」
「そうだ」
「貴方方、貧乏人」
「そうだ」
「だから、貴方方、プロレタリア。――分る?」
「うん」
ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼等の方を見た。
「金持、貴方方をこれする。(首を締める恰好(かっこう)をする)金持だんだん大きくなる。(腹のふくれる真似(まね))貴方方どうしても駄目、貧乏人になる。――分る? ――日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)働かない人、これ。えへん、えへん。(偉張って歩いてみせる)」
それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した。
「働く人、これ。働かない人、これ。(前のを繰り返して)そんなの駄目。――働く人、これ。(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる、)働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好)これ良ろし。――分かる? ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(偉張る)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。――分る? ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って歩く」
彼等は漠然と、これが「恐ろしい」「赤化」というものではないだろうか、と考えた。が、それが「赤化」なら、馬鹿に「当り前」のことであるような気が一方していた。然し何よりグイ、グイと引きつけられて行った。
「分る、本当、分る!」
ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり出した。支那人はそれ等(ら)をきいていた。それから又吃(ども)りのように、日本の言葉を一つ、一つ拾いながら、話した。
「働かないで、お金儲(もう)ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好)――これ、駄目! プロレタリア、貴方方、一人、二人、三人......百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)強くなる。大丈夫。(腕をたたいて)負けない、誰にも。分る?」
「ん、ん!」
「働かない人、にげる。(一散に逃げる恰好)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉張る。(堂々と歩いてみせる)プロレタリア、一番偉い。――プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。――分る?」
「ん、ん!」
「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない人、これ。(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。(形相凄(すご)く立ち上る、突ッかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、フンづける真似)働かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国。――プロレタリアの国! ――分る?」
「ん、ん、分る!」
ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような足ぶみをした。
「日本、働く人、やる。(立ち上って、刃向う恰好)うれしい。ロシア、みんな嬉しい。バンザイ。――貴方方、船へかえる。貴方方の船、働かない人、これ。(偉張る)貴方方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似――それからお手々つないでをやり、又突ッかかって行く恰好)――大丈夫、勝つ!  ――分る?」
「分る!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり支那人の手を握った。「やるよ、キットやるよ!」
船頭は、これが「赤化」だと思っていた。馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これで――この手で、露西亜が日本をマンマと騙(だま)すんだ、と思った。
ロシア人達は終ると、何か叫声をあげて、彼等の手を力一杯握った。抱きついて、硬い毛の頬をすりつけたりした。面喰(めんくら)った日本人は、首を後に硬直さして、どうしていいか分らなかった。......。 
皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。彼等は、それから見てきたロシア人のことを色々話した。そのどれもが、吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこんだ。
「おい、もう止(よ)せよ」
船頭は、皆が変にムキにその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべっている若い漁夫の肩を突ッついた。
 四

 

靄(もや)が下りていた。何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、煙筒(チェムニー)、ウインチの腕、吊(つ)り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、頬(ほお)を撫(な)でて流れる。――こんな夜はめずらしかった。
トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。網が山のように積(つま)さっている間に、高さの跛(びっこ)な二つの影が佇(たたず)んでいた。
過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、フ糊でも溶かしたようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この身体では監督に殺される。然(しか)し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは淋(さび)し過ぎる。――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。
蟹の甲殻の片(かけら)を時々ふむらしく、その音がした。
ひそめた声が聞こえてきた。
漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。喧嘩(けんか)だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ......」という息声だけが、一寸(ちょっと)の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま蹲(しゃが)んだ。と、その上に、漁夫が蟇(がま)のように覆(おお)いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと咽喉(のど)につかえる瞬間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、撲(な)ぐられたような興奮をワクワクと感じた。
漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この頑丈(がんじょう)な男達が「女」から離されていた。――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。
............
床とれの、
こちら向けえの、
口すえの、
足をからめの、
気をやれの、
ホンに、つとめはつらいもの。
誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「えッ、畜生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。
漁夫達は寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠(ね)れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」――終(しま)いに、そう云って、勃起(ぼっき)している睾丸(きんたま)を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨(せいさん)な気さえした。度胆(どぎも)を抜かれた学生は、眼だけで隅(すみ)の方から、それを見ていた。
夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。――棚(たな)の隅にカタのついた汚れた猿又や褌(ふんどし)が、しめっぽく、すえた臭(にお)いをして円(まる)められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。
――それから、雑夫の方へ「夜這(よば)い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。
便所臭い、漬物樽(つけものだる)の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。
「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」
        ×     ×     ×
無電係が、他船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それで見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出した。すると、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――何時(いつ)でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。 
 

 

同じ蟹(かに)つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲(もう)けになる仕事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血の滲(にじ)むような日が滅茶苦茶に続く。同じ日のうちに、今までより五、六割も殖(ふ)えていた。然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った。仕事をしながら、時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた。不意を喰(く)らって、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆は敵(かたき)同志か、言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた。ものを云うだけのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。
監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた。燻(くすぶ)りかえっていた木が、又燃え出した。
「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。
船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用に金口(きんぐち)をトントンとテーブルにたたいて、分らない笑顔(えがお)で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫達がワッと事を起して、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えていた。
監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることを貼紙(はりがみ)した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上(しりあが)りに、目盛りをあげて行った。
人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく知っていた。――仕事が終って、丸太棒のように棚(たな)の中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う――、うめいた。
学生の一人は、小さい時は祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある「地獄」の絵が、そのままこうであることを思い出した。それは、小さい時の彼には、丁度うわばみのような動物が、沼地ににょろ、にょろと這(は)っているのを思わせた。それとそっくり同じだった。――過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、硝子(ガラス)の表に思いッ切り疵(きず)を付けるような無気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うなされているらしい突調子(とっぴょうし)な叫声が、薄暗い「糞壺」の所々から起った。
彼等は寝れずにいるとき、フト、「よく、まだ生きているな......」と自分で自分の生身の身体にささやきかえすことがある。よく、まだ生きている。――そう自分の身体に!
学生上りは一番「こたえて」いた。
「ドストイェフスキーの死人の家な、ここから見れば、あれだって大したことでないって気がする」――その学生は、糞(くそ)が何日もつまって、頭を手拭(てぬぐい)で力一杯に締めないと、眠れなかった。
「それアそうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先きで少しずつ嘗(な)めていた。「何んしろ大事業だからな。人跡未到の地の富源を開発するッてんだから、大変だよ。――この蟹工船(かにこうせん)だって、今はこれで良くなったそうだよ。天候や潮流の変化の観測が出来なかったり、地理が実際にマスターされていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈められる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たからこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ。......まア仕方がないさ」
「............」
――歴史が何時でも書いているように、それはそうかも知れない気がする。然し、彼の心の底にわだかまっているムッとした気持が、それでちっとも晴れなく思われた。彼は黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹を撫(な)でた。弱い電気に触れるように、拇指(おやゆび)のあたりが、チャラチャラとしびれる。イヤな気持がした。拇指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた。――皆は、夕飯が終って、「糞壺」の真中に一つ取りつけてある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少し温(あたたま)ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂(にお)いがムレて、ムッと鼻に来た。 
 

 

「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくねえで」
「んだよ!」
憂々した気持が、もたれかかるように、其処(そこ)へ雪崩(なだ)れて行く。殺されかかっているんだ! 皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。
「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、く、糞(くそ)、こッ殺されてたまるもんか!」
吃(ども)りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。
一寸(ちょっと)、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた。
「カムサツカで死にたくないな......」
「............」
「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」
「帰りてえな」
「帰れるもんか」
「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」
「んか ......ええな」
「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものもいるッてな」
「............」
「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンを外(はず)して、階段のように一つ一つ窪(くぼ)みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻(か)いた。垢(あか)が乾いて、薄い雲母のように剥(は)げてきた。
「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」
カキの貝殻のように、段々のついた、たるんだ眼蓋(まぶた)から、弱々しい濁った視線をストオヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が唾(つば)をはいた。ストオヴの上に落ちると、それがクルックルッと真円(まんまる)にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のように跳(は)ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さいカスを残して、無くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている。
「それ、本当かも知れないな」
然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいおい叛逆(てむかい)なんかしないでけれよ」と云った。
「............」
「勝手だべよ。糞」吃りが唇を蛸(たこ)のように突き出した。
ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。
「おい、親爺(おど)、ゴム!」
「ん、あ、こげた!」
波が出て来たらしく、サイドが微(かす)かになってきた。船も子守唄(うた)程に揺れている。腐った海漿(ほおずき)のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、組合った。――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、膝(ひざ)から下にチラチラと反映していた。不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。
「煙草無(ね)えか?」
「無え......」
「無えか?......」
「なかったな」
「糞」
「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」
相手は角瓶(かくびん)を逆かさに振ってみせた。
「おッと、勿体(もったい)ねえことするなよ」
「ハハハハハハハ」
「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も......」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者達には「工場」だとは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と云った。
その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと話に出てきた。「国道開たく工事」「灌漑(かんがい)工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「鰊(にしん)取り」――殆(ほと)んど、そのどれかを皆はしてきていた。
――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪(かぎづめ)をのばした。其処(そこ)では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱(しらみ)より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪(た)えられなくて逃亡する。それが捕(つか)まると、棒杭(ぼうぐい)にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴(け)らせたり、裏庭で土佐犬に噛(か)み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨(ろっこつ)が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終(しま)いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(きょうじん)な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅(すみ)に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸(やけひばし)をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。  
 

 

「やめた、やめた。――とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」
箸を投げる。が、お互暗い顔で見合った。
脚気(かっけ)では何人も死んだ。無理に働かせるからだった。死んでも「暇がない」ので、そのまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロの裾(すそ)から、子供のように妙に小さくなった、黄黒く、艶(つや)のない両足だけが見えた。
「顔に一杯蠅(はえ)がたかっているんだ。側を通ったとき、一度にワアーンと飛び上るんでないか!」
額を手でトントン打ちながら入ってくると、そう云う者があった。
皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そして鶴嘴(つるはし)のさきがチラッ、チラッと青白く光って、手元が見えなくなるまで、働かされた。近所に建っている監獄で働いている囚人の方を、皆はかえって羨(うらやま)しがった。殊(こと)に朝鮮人は親方、棒頭(ぼうがしら)からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。
其処から四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでも時々手帖をもって、取調べにテクテクやってくる。夕方までいたり、泊りこんだりした。然し土方達の方へは一度も顔を見せなかった。そして、帰りには真赤な顔をして、歩きながら道の真中を、消防の真似(まね)でもしているように、小便を四方にジャジャやりながら、分らない独言を云って帰って行った。
北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」と云っている。蛸は自分が生きて行くためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか! そこでは誰をも憚(はばか)らない「原始的」な搾取が出来た。「儲(もう)け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえってきた。しかも、そして、その事を巧みに「国家的」富源の開発ということに結びつけて、マンマと合理化していた。抜目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。
「其処(あこ)から生きて帰れたなんて、神助け事だよ。有難かったな! んでも、この船で殺されてしまったら、同じだべよ。――何アーんでえ!」そして突調子(とっぴょうし)なく大きく笑った。その漁夫は笑ってしまってから、然し眉(まゆ)のあたりをアリアリと暗くして、横を向いた。
鉱山(やま)でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯(ガス)が出るか、どんな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い都合にして、此処でもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に拇指(おやゆび)や小指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。女や子供はそんな事には然し眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた」彼等は無表情に、それを次の持場まで押してゆく。――その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動かした。
どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、艶(つや)のない黄色くむくんだ、始終ボンヤリした顔をしていた。日光の不足と、炭塵(たんじん)と、有毒ガスを含んだ空気と、温度と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、凡(およ)そ四、五年間位は打(ぶ)ッ続けに真暗闇(まっくらやみ)の底にいて、一度だって太陽を拝まなかったことになる、四、五年も!」――だが、どんな事があろうと、代りの労働者を何時でも沢山仕入れることの出来る資本家には、そんなことはどうでもいい事であった。冬が来ると、「やはり」労働者はその坑山に流れ込んで行った。
それから「入地百姓」――北海道には「移民百姓」がいる。「北海道開拓」「人口食糧問題解決、移民奨励」、日本少年式な「移民成金」など、ウマイ事ばかり並べた活動写真を使って、田畑を奪われそうになっている内地の貧農を煽動(せんどう)して、移民を奨励して置きながら、四、五寸も掘り返せば、下が粘土ばかりの土地に放り出される。豊饒(ほうじょう)な土地には、もう立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣りの人」がやってきて、始めてそれが分った。口の中から、半分嚥(の)みかけている藁屑(わらくず)が出てきたりした。  
 

 

稀(ま)れに餓死から逃れ得ても、その荒ブ地を十年もかかって耕やし、ようやくこれで普通の畑になったと思える頃、実はそれにちアんと、「外の人」のものになるようになっていた。資本家は――高利貸、銀行、華族、大金持は、嘘(うそ)のような金を貸して置けば、(投げ捨てて置けば)荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違なく、自分のものになってきた。そんな事を真似て、濡手をきめこむ、目の鋭い人間も、又北海道に入り込んできた。――百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものを噛(か)みとられて行った。そして終(しま)いには、彼等が内地でそうされたと同じように「小作人」にされてしまっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。――「失敗(しま)った!」
彼等は少しでも金を作って、故里(ふるさと)の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。――蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立てられて来たものが沢山いた。
積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽(おたる)の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太(かばふと)や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸(いっすん)」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤(のみ)の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。
――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断(しゃだん)」されていた。
苦しくて、苦しくてたまらない。然し転(ころ)んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな......?」
「殺されるのさ、分ってるべよ」
「............」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
トブーン、ドブーンとゆるく腹(サイド)に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶(てつびん)のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。
寝る前に、漁夫達は垢(あか)でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵(こたつ)のように各その端をもって、熱くしてからバタバタとほろった。ストーヴの上に虱(しらみ)や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭(にお)いがした。熱くなると、居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つまみ上げると、皮膚の脂肪(あぶら)ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。
「おい、端を持ってけれ」
褌(ふんどし)の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。
漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方の拇指(おやゆび)の爪で、爪が真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物に拭(ふ)くように、袢天(はんてん)の裾(すそ)にぬぐうと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱と蚤(のみ)と南京虫(ナンキンむし)に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛(すね)を這(は)い上ってきた。終(しま)いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。蛆(うじ)や蠅に取りつかれている腐爛(ふらん)した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。
お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費(らんぴ)を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費にはならなかった。(!)――身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続く、それで虱か南京虫が湧(わ)かない「筈(はず)」がなかった。
褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をしめたあとが、赤くかたがついて、腹に輪を作った。そこがたまらなく掻(か)ゆかった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけにかく音が何処からも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思うと――刺す。その度に漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。然し又すぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮癬(ひぜん)のように、ザラザラになった。 
「死に虱だべよ」
「んだ、丁度ええさ」
仕方なく、笑ってしまった。
 五

 

あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。
曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕をしていた大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見た。寒風の吹きさらしで、涙が出て、初め、よく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく「つかみ鼻」をかんだ。鼻汁が風にあふられて、歪(ゆが)んだ線を描いて飛んだ。
ともの左舷のウインチがガラガラなっている。皆漁に出ている今、それを動かしているわけがなかった。ウインチにはそして何かブラ下っていた。それが揺れている。吊(つ)り下がっているワイヤーが、その垂直線の囲りを、ゆるく円を描いて揺れていた。「何んだべ?」――その時、ドキッと来た。
大工は周章(あわて)たように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。
「又、やってやがる」大工は涙を何度も腕で拭(ぬぐ)いながら眼をきめた。
こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮び出てみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾(ぞうきん)切れでもひッかかったように、しばらくの間――二十分もそのままに吊下げられている。それから下がって行った。身体をくねらして、もがいているらしく、両足が蜘蛛(くも)の巣にひっかかった蠅(はえ)のように動いている。
やがて手前のサロンの陰になって、見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々ブランコのように動いた。
涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出た。大工は又「つかみ鼻」をした。それから横ポケットにブランブランしている金槌(かなづち)を取って、仕事にかかった。
大工はひょいと耳をすまして――振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音は其処(そこ)からしていた。
ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている唇から、泡(あわ)を出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が薪(まき)を脇(わき)にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好(かっこう)で、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな、大工は薪をちらっと見た。小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端にかかって、はねを飛ばした。
漁夫達は何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油の空罐(あきかん)を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼を開けて、起き上るまで、やけに罐をたたいた。脚気(かっけ)のものが、頭を半分上げて何か云っている。然(しか)し監督は見ない振りで、空罐をやめない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っている時のように、口だけパクパク動いてみえた。いい加減たたいてから、
「どうしたんだ、タタき起すど!」と怒鳴りつけた。「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿野郎」
病人は皆蒲団(ふとん)を剥(は)ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足先きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げて、階段を上がった。心臓が一足毎に無気味にピンピン蹴(け)るようにはね上った。
監督も、雑夫長も病人には、継子(ままこ)にでも対するようにジリジリと陰険だった。「肉詰」をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それを一寸(ちょっと)していると「紙巻」の方へ廻わされる。底寒くて、薄暗い工場の中ですべる足元に気をつけながら、立ちつくしていると、膝(ひざ)から下は義足に触るより無感覚になり、ひょいとすると膝の関節が、蝶(ちょう)つがいが離れたように、不覚にヘナヘナと坐り込んでしまいそうになった。
学生が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていた。一寸すると、そのまま横倒しに後へ倒れてしまった。その時、側に積(か)さなっていた罐詰の空罐がひどく音をたてて、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光りながら円るく転んで行った。仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとした。それが丁度、監督が口笛を吹きながら工場に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、
「誰が仕事を離れったんだ!」
「誰が......」思わずグッと来た一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。
「誰がア――? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻わした。それから、急に大声で、口を三角形にゆがめながら、背のびをするように身体をゆすって、笑い出した。 
 

 

「水を持って来い!」
監督は桶(おけ)一杯に水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、いきなり――一度に、それを浴せかけた。
「これでええんだ。――要(い)らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」
次の朝、雑夫が工場に下りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露(あら)わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で、
「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄(あさなわ)ヲ解クコトヲ禁ズ」
と書いたボール紙を吊していた。
額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫等は工場に入るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくものがない。後から雑夫長の下りてくる声をきくと、彼等はその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持場に流れて行った。
蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前歯を折られて、一晩中「血の唾」をはいたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩(たた)かれて、耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも他愛なくなった。時間がくると、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間クラクラッとした。
皆が仕舞いかけると、
「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞いだッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」
皆は高速度写真のようにノロノロ又立ち上った。それしか気力がなくなっていた。
「いいか、此処(ここ)へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに何時(いつ)だって蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事の性質(たち)が異(ちが)うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程ブラブラさせておくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化(くき)てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。んだから――んな心掛けだから露西亜(ロシア)の国がああなったんだ。日本男児の断じて真似(まね)てならないことだ!」
何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。
甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫等は興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振った。――あれだけだ。俺達の味方は、と思った。
「畜生、あいつを見ると、涙が出やがる」
だんだん小さくなって、煙にまつわって見えなくなるまで見送った。
雑巾切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように、相手もなく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪(ぞうお)に満ちた牡牛(おうし)の唸(うな)り声に似ていた。誰に対してか彼等自身分ってはいなかったが、然し毎日々々同じ「糞壺」の中にいて、二百人近くのもの等がお互にブッキラ棒にしゃべり合っているうちに、眼に見えずに、考えること、云うこと、することが、(なめくじが地面を匐(は)うほどののろさだが)同じになって行った。――その同じ流れのうちでも、勿論澱(よど)んだように足ぶみをするものが出来たり、別な方へ外(そ)れて行く中年の漁夫もある。然しそのどれもが、自分では何んにも気付かないうちに、そうなって行き、そして何時の間にか、ハッキリ分れ、分れになっていた。
朝だった。タラップをノロノロ上りながら、炭山(やま)から来た男が、
「とても続かねえや」と云った。
前の日は十時近くまでやって、身体は壊(こわ)れかかった機械のようにギクギクしていた。タラップを上りながら、ひょいとすると、眠っていた。後から「オイ」と声をかけられて思わず手と足を動かす。そして、足を踏み外(はず)して、のめったまま腹ん這(ば)いになった。
仕事につく前に、皆が工場に降りて行って、片隅(かたすみ)に溜(たま)った。どれも泥人形のような顔をしている。
「俺ア仕事サボるんだ。出来ねえ」――炭山(やま)だった。
皆も黙ったまま、顔を動かした。
一寸して、
「大焼きが入るからな......」と誰か云った。
「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ」
炭山(やま)が袖を上膊(じょうはく)のところまで、まくり上げて、眼の前ですかして見るようにかざした。 
 

 

「長げえことねえんだ。――俺アずるけてサボるんでねえんだど」
「それだら、そんだ」
「............」
その日、監督は鶏冠(とさか)をピンと立てた喧嘩鶏(けんかどり)のように、工場を廻って歩いていた。「どうした、どうした」と怒鳴り散らした。がノロノロと仕事をしているのが一人、二人でなしに、あっちでも、こっちでも――殆(ほと)んど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか出来なかった。漁夫達も船員もそういう監督を見るのは始めてだった。上甲板で、網から外した蟹が無数に、ガサガサと歩く音がした。通りの悪い下水道のように、仕事がドンドンつまって行った。然し「監督の棍棒(こんぼう)」が何の役にも立たない!
仕事が終ってから、煮しまった手拭(てぬぐい)で首を拭きながら、皆ゾロゾロ「糞壺」に帰ってきた。顔を見合うと、思わず笑い出した。それが何故(なぜ)か分らずに、おかしくて、おかしくて仕様がなかった。
それが船員の方にも移って行った。船員を漁夫とにらみ合わせて、仕事をさせ、いい加減に馬鹿をみせられていたことが分ると、彼等も時々「サボリ」出した。
「昨日ウンと働き過ぎたから、今日はサボだど」
仕事の出しなに、誰かそう云うと、皆そうなった。然し「サボ」と云っても、ただ身体を楽に使うということでしかなかったが。
誰だって身体がおかしくなっていた。イザとなったら「仕方がない」やるさ。「殺されること」はどっち道同じことだ。そんな気が皆にあった。――ただ、もうたまらなかった。
        ×     ×     ×
「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが、下まで聞えてきた。皆は思い思い「糞壺」の棚からボロ着のまま跳(は)ね下りた。
中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。この船だけは塩ッ臭くない、――函館の匂いがしていた。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。それに、中積船には日附の違った何通りもの手紙、シャツ、下着、雑誌などが送りとどけられていた。
彼等は荷物を蟹臭い節立った手で、鷲(わし)づかみにすると、あわてたように「糞壺」にかけ下りた。そして棚に大きな安坐(あぐら)をかいて、その安坐の中で荷物を解いた。色々のものが出る。――側から母親がものを云って書かせた、自分の子供のたどたどしい手紙や、手拭、歯磨、楊子(ようじ)、チリ紙、着物、それ等の合せ目から、思いがけなく妻の手紙が、重さでキチンと平べったくなって、出てきた。彼等はその何処からでも、陸にある「自家(うち)」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚の臭(にお)いを探がした。
....................................
おそそにかつれて困っている、
三銭切手でとどくなら、
おそそ罐詰で送りたい――かッ!
やけに大声で「ストトン節」をどなった。
何んにも送って来なかった船員や漁夫は、ズボンのポケットに棒のように腕をつッこんで、歩き廻っていた。
「お前の居ない間(ま)に、男でも引ッ張り込んでるだんべよ」
皆にからかわれた。
薄暗い隅(すみ)に顔を向けて、皆ガヤガヤ騒いでいるのをよそに、何度も指を折り直して、考え込んでいるのがいた。――中積船で来た手紙で、子供の死んだ報知(しらせ)を読んだのだった。二カ月も前に死んでいた子供の、それを知らずに「今まで」いた。手紙には無線を頼む金もなかったので、と書かれていた。漁夫が と思われる程、その男は何時までもムッつりしていた。
然し、それと丁度反対のがあった。ふやけた蛸(たこ)の子のような赤子の写真が入っていたりした。
「これがか」と、頓狂(とんきょう)な声で笑い出してしまう。
それから「どうだ、これが産れたんだとよ」と云ってワザワザ一人々々に、ニコニコしながら見せて歩いた。
荷物の中には何んでもないことで、然し妻でなかったら、やはり気付かないような細かい心配りの分るものが入っていた。そんな時は、急に誰でも、バタバタと心が「あやしく」騒ぎ立った。――そして、ただ、無性に帰りたかった。
中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んできていた。出来上っただけの罐詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を映すことになった。
平べったい鳥打ちを少し横めにかぶり、蝶(ちょう)ネクタイをして、太いズボンをはいた、若い同じような恰好(かっこう)の男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。
「臭い、臭い!」
そう云いながら、上着を脱いで、口笛を吹きながら、幕をはったり、距離をはかって台を据えたりし始めた。漁夫達は、それ等の男から、何か「海で」ないもの――自分達のようなものでないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。船員や漁夫は何処か浮かれ気味で、彼等の仕度(したく)に手伝った。
 

 

一番年かさらしい下品に見える、太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れた処に立って、首の汗を拭いていた。
「弁士さん、そったら処(とこ)さ立ってれば、足から蚤(のみ)がハネ上って行きますよ!」
と、「ひやア――ッ!」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。
見ていた漁夫達がドッと笑った。
「然しひどい所にいるんだな!」しゃがれた、ジャラジャラ声だった。それはやはり弁士だった。
「知らないだろうけれども、この会社が此処(ここ)へこうやって、やって来るために、幾何(いくら)儲(もう)けていると思う? 大したもんだ。六カ月に五百万円だよ。一年千万円だ。――口で千万円って云えば、それっ切りだけれども、大したもんだ。それに株主へ二割二分五厘なんて滅法界もない配当をする会社なんて、日本にだってそうないんだ。今度社長が代議士になるッて云うし、申分がないさ。――やはり、こんな風にしてもひどくしなけア、あれだけ儲けられないんだろうな」
夜になった。
「一万箱祝」を兼ねてやることになり、酒、焼酎(しょうちゅう)、するめ、にしめ、バット、キャラメルが皆の間に配られた。
「さ、親父(おど)のどこさ来い」
雑夫が、漁夫、船員の間に、引張り凧(だこ)になった。「安坐(あぐら)さ抱いて見せてやるからな」
「危い、危い! 俺のどこさ来いてば」
それがガヤガヤしばらく続いた。
前列の方で四、五人が急に拍手した。皆も分らずに、それに続けて手をたたいた。監督が白い垂幕の前に出てきた。――腰をのばして、両手を後に廻わしながら、「諸君は」とか、「私は」とか、普段云ったことのない言葉を出したり、又何時(いつ)もの「日本男児」だとか、「国富」だとか云い出した。大部分は聞いていなかった。こめかみと顎(あご)の骨を動かしながら、「するめ」を咬(か)んでいた。
「やめろ、やめろ!」後から怒鳴る。
「お前えなんか、ひっこめ! 弁士がいるんだ、ちアんと」
「六角棒の方が似合うぞ!」――皆ドッと笑った。口笛をピュウピュウ吹いて、ヤケに手をたたいた。
監督もまさか其処(そこ)では怒れず、顔を赤くして、何か云うと(皆が騒ぐので聞えなかった)引っ込んだ。そして活動写真が始まった。
最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京都......が、ガタピシャガタピシャと写って行った。時々切れた。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもしたように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パッと白い幕になった。
それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然しそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいい身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明しないこともあった。
西洋物はアメリカ映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。――野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊(こわ)されては、又立ち上り、一間(いっけん)々々と鉄道をのばして行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。 ――其処から起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。
「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百哩(マイル)の鉄道は、長蛇の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくして国富と変ったのであります」
重役の娘と、何時(いつ)の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。
間に、意味なくゲラゲラ笑わせる、短い西洋物が一本はさまった。
日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁士は字幕(タイトル)にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、
「嘘(うそ)こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
と大声を出したものがいた。
それで皆は大笑いに笑ってしまった。
後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。
最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。「勤勉」に働いている沢山の労働者が写っていた。
写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。
長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参って了(しま)った。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロドロに腐っていた。肌脱(はだぬ)ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いの喧嘩(けんか)が起った。 
それが十二時過ぎまで続いた。
脚気(かっけ)で、何時も寝ていた函館の漁夫が、枕を少し高くして貰って、皆の騒ぐのを見ていた。同じ処から来ている友達の漁夫は、側の柱に寄りかかりながら、歯にはさまったするめを、マッチの軸で「シイ」「シイ」音をさせてせせっていた。
余程過ぎてからだった。――「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着物と右手がすっかり血まみれになっていた。
「出刃、出刃! 出刃を取ってくれ!」土間を匐(は)いながら、叫んでいる。「浅川の野郎、何処へ行きゃがった。居ねえんだ。殺してやるんだ」
監督のためになぐられたことのある漁夫だった。――その男はストーヴのデレッキを持って、眼の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。
「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿でねえんだな。面白くなるど!」
次の朝になって、監督の窓硝子(まどガラス)からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に壊(こわ)されていたことが分った。監督だけは、何処にいたのか運良く「こわされて」いなかった。
 六

 

柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々和(なご)やかな円るい波紋を落していた。
午(ひる)過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜めに降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉(まゆ)と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。
「臭いね」綺麗な口髭(くちひげ)の若い士官が、上品に顔をしかめた。
後からついてきた監督が、周章(あわ)てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。
皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見られたもんでないな」
監督のペコペコした恰好(かっこう)を真似(まね)して見せた。皆はそれでドッと笑った。
その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄(うた)をうたったり、機械越しに声高(こわだか)に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声で喚(わめ)き散らしているのが聞えた。
給仕(ボーイ)が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビール瓶(びん)を一杯もっていた。顎(あご)で、ズボンのポケットを知らせて、
「顔を頼む」と云った。
漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」
「何しに来るんだべ?」
給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。
箸(はし)では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい味噌汁で、漁夫等が飯を食った。
「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」
「糞喰え――だ」
テーブルの側の壁には、
一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。
一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物(たまもの)なり。
一、不自由と苦しさに耐えよ。
振仮名がついた下手な字で、ビラが貼(は)らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻(わいせつ)な落書がされていた。
飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえって懐(なつか)しいものに、色々想(おも)い出していた。 
 

 

皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――もう夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴の踵(かかと)のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐(へど)が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの臭(にお)いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。
駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでいた。それは身体全体が「眠り」を貪(むさぼ)っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。
コック部屋の隅(すみ)には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、と吃驚(びっくり)した。
給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺(うかが)い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨(みじ)めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴(ぶため)々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲(もう)けのために「平気」で謀(たくら)んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。
二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな」
「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
「然しな......」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」
――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を叫んだ。
夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切る度(たび)に、大きな影がペンキを塗った、煤(すす)けたサイドに斜めにうつった。
「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて番をしてくれるそうだ――大部、コレやってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転(ころ)がっているようなカムサツカや北樺太など、この辺一帯を、行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレは支那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはここの会社が三菱などと一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドンドンやるようだど。
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうしてどうして、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。
「俺初めて聞いて吃驚(びっくり)したんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機(きっかけ)だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れたくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。――危いそうだ」 
 七

 

ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。丁度その下に漁夫が四人程居て、ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海までそれが下りれるようにしてやっていた。――よく危いことがあった。ボロ船のウインチは、脚気(かっけ)の膝(ひざ)のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の工合で、グイと片方のワイヤーだけが跛(びっこ)にのびる。川崎船が燻製鰊(くんせいにしん)のように、すっかり斜めにブラ下がってしまうことがある。その時、不意を喰(く)らって、下にいた漁夫がよく怪我(けが)をした。――その朝それがあった。「あッ、危い!」誰か叫んだ。真上からタタキのめされて、下の漁夫の首が胸の中に、杭(くい)のように入り込んでしまった。
漁夫達は船医のところへ抱(かか)えこんだ。彼等のうちで、今ではハッキリ監督などに対して「畜生!」と思っている者等は、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにした。監督は蛇に人間の皮をきせたような奴だから、何んとかキット難くせを「ぬかす」に違いなかった。その時の抗議のために診断書は必要だった。それに船医は割合漁夫や船員に同情を持っていた。
「この船は仕事をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、たたきのめされたりして怪我したり、病気したりする方が、ずウッと多いんだからねえ」と驚いていた。一々日記につけて、後の証拠にしなければならない、と云っていた。それで、病気や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見てくれていた。
診断書を作って貰いたいんですけれどもと、一人が切り出した。
初め、吃驚したようだった。
「さあ、診断書はねえ......」
「この通りに書いて下さればいいんですが」
はがゆかった。
「この船では、それを書かせないことになってるんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。......後々のことがあるんでね」
気の短い、吃(ども)りの漁夫が「チェッ!」と舌打ちをしてしまった。
「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いてやったら、飛んでもないことになってしまってね。――それが何時までも証拠になるんで、浅川君にしちゃね......」
彼等は船医の室を出ながら、船医もやはり其処まで行くと、もう「俺達」の味方でなかったことを考えていた。
その漁夫は、然(しか)し「不思議に」どうにか生命を取りとめることが出来た。その代り、日中でもよく何かにつまずいて、のめる程暗い隅(すみ)に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、何日も何日も聞かされた。
彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、日暮里(にっぽり)の周施屋から来たもので、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。
湯灌(ゆかん)をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱(しらみ)が周章(あわ)ててゾロゾロと走り出した。鱗形(うろこがた)に垢(あか)のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨(ろっこつ)が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌(ふんどし)もシャツも赭黒(あかぐろ)く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍(へそ)の窪(くぼ)みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周(まわ)りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。
「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が命を落すというとき、側にキット誰も看(み)てやった者がいなかったかも知れない。そのカムサツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたものがいた。
湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」
お湯を持ってくる途中、監督に会った。
「何処へゆくんだ」
「湯灌だよ」
と云うと、
「ぜいたくに使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。
帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時位、いきなり後ろから彼奴(あいつ)の頭に、お湯をブッかけてやりたくなった時はなかった!」と云った。興奮して、身体をブルブル顫(ふる)わせた。
監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て行った。――然し、皆は明日居睡(いねむ)りをしても、のめりながら仕事をしても――例の「サボ」をやっても、皆で「お通夜」をしようということにした。そう決った。 
 

 

八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、線香や蝋燭(ろうそく)をつけて、皆がその前に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間位坐っていた。片言のように――切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆に云われて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げている。終りに近くなるとそれが何人もに殖えて行った。
お経が終ると、一人々々焼香をした。それから坐を崩して、各々一かたまり、一かたまりになった。仲間の死んだことから、生きている――然し、よく考えてみればまるで危く生きている自分達のことに、それ等の話がなった。船長と船医が帰ってから、吃(ども)りの漁夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。
「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。――イヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかったか、と。確に山田君は殺されたのです」
聞いている者達は、抑えられたように静かになった。
「では、誰が殺したか? ――云わなくたって分っているべよ! 僕はお経でもって、山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等は、山田君を殺したものの仇(かたき)をとることによって、とることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。――この事を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う......」
船員達だった、一番先きに「そうだ」と云ったのは。
蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのように、ただよった。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居睡りをしているものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。一寸すると、漁夫達も一人、二人と眠り込んでしまった。――波が出てきた。船が揺れる度(たび)に、ローソクの灯が消えそうに細くなり、又それが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿が除(と)れそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じた。――サイドに、波が鳴り出した。
次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて行った。お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の外に、病気のもの三、四人で、麻袋に死体をつめた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、直ぐ海に投げるものに新らしいものを使うなんてぜいたくだ、と云ってきかなかった。線香はもう船には用意がなかった。
「可哀相なもんだ。――これじゃ本当に死にたくなかったべよ」
なかなか曲らない腕を組合せながら、涙を麻袋の中に落した。
「駄目々々。涙をかけると......」
「何んとかして、函館まで持って帰られないものかな。......こら、顔をみれ、カムサツカのしやっこい水さ入りたくねえッて云ってるんでないか。――海さ投げられるなんて、頼りねえな......」
「同じ海でもカムサツカだ。冬になれば――九月過ぎれば、船一艘(そう)も居なくなって、凍ってしまう海だで。北の北の端(はず)れの!」
「ん、ん」――泣いていた。「それによ、こうやって袋に入れるッて云うのに、たった六、七人でな。三、四百人もいるのによ!」
「俺達、死んでからも、碌(ろく)な目に合わないんだ......」
皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼んだが、前の日から蟹の大漁で、許されなかった。「私事と公事を混同するな」監督にそう云われた。
監督が「糞壺」の天井から顔だけ出して、
「もういいか」ときいた。
仕方がなく彼等は「いい」と云った。
「じゃ、運ぶんだ」
「んでも、船長さんがその前に弔詞(ちょうじ)を読んでくれることになってるんだよ」
「船長オ? 弔詞イ? ――」嘲(あざ)けるように、「馬鹿! そんな悠長(ゆうちょう)なことしてれるか」
悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に山積みになって、ゴソゴソ爪で床をならしていた。
そして、どんどん運び出されて、鮭(さけ)か鱒(ます)の菰包(こもづつ)みのように無雑作に、船尾につけてある発動機に積み込まれた。
「いいか――?」
「よオ――し......」
発動機がバタバタ動き出した。船尾で水が掻(か)き廻されて、アブクが立った。
「じゃ......」
「じゃ」
「左様なら」
「淋(さび)しいけどな――我慢してな」低い声で云っている。
「じゃ、頼んだど!」
本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。
「ん、ん、分った」
発動機は沖の方へ離れて行った。
「じゃ、な!......」
「行ってしまった。」
「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってしてるようでな......眼に見えるようだ」 
――漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、怒る前に、自分が――屍体(したい)になった自分の身体が、底の暗いカムサツカの海に、そういうように蹴落(けおと)されでもしたように、ゾッとした。皆はものも云えず、そのままゾロゾロタラップを下りて行った。「分った、分った」口の中でブツブツ云いながら、塩ぬれのドッたりした袢天(はんてん)を脱いだ。
 八

 

表には何も出さない。気付かれないように手をゆるめて行く。監督がどんなに思いッ切り怒鳴り散らしても、タタキつけて歩いても、口答えもせず「おとなしく」している。それを一日置きに繰りかえす。(初めは、おっかなびっくり、おっかなびっくりでしていたが)――そういうようにして、「サボ」を続けた。水葬のことがあってから、モットその足並が揃(そろ)ってきた
仕事の高は眼の前で減って行った。
中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せた。然し内心(!)心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが、かえって「サボ」が効(き)いてゆくのを見ると、若い漁夫達の云うように、動きかけてきた。
困ったのは、川崎の船頭だった。彼等は川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐに監督に当って来られた。それで何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい「出店」――その小さい「○」だった。
「それア疲れるさ。工場のようにキチン、キチンと仕事がきまってるわけには行かないんだ。相手は生き物だ。蟹が人間様に都合よく、時間々々に出てきてはくれないしな。仕方がないんだ」――そっくり監督の蓄音機だった。
こんなことがあった。――糞壺で、寝る前に、何かの話が思いがけなく色々の方へ移って行った。その時ひょいと、船頭が威張ったことを云ってしまった。それは別に威張ったことではないが、「平」漁夫にはムッときた。相手の平漁夫が、そして、少し酔っていた。
「何んだって?」いきなり怒鳴った。「手前(てめ)え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だんだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッて!」
そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。
然(しか)し、こういうようなことは、調子よく跳(は)ね上った空元気(からげんき)だけの言葉ではなかった。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。
――そんなことが「俺達に」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。
そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行った。今まで、残酷極まる労働で搾(しぼ)り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達の蛆虫(うじむし)そのままの生活がアリアリと見えてきた。
「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流行(はや)り出した。何かすると「威張んな、この野郎」と云った。別なことにでも、すぐそれを使った。――威張る野郎は、然し漁夫には一人もいなかった。
それと似たことが一度、二度となくある。その度(たび)毎に漁夫達は「分って」行った。そして、それが重なってゆくうちに、そんな事で漁夫達の中から何時(いつ)でも表の方へ押し出されてくる、きまった三、四人が出来てきた。それは誰かが決めたのでなく、本当は又、きまったのでもなかった。ただ、何か起ったり又しなければならなくなったりすると、その三、四人の意見が皆のと一致したし、それで皆もその通り動くようになった。――学生上りが二人程、吃(ども)りの漁夫、「威張んな」の漁夫などがそれだった。
学生が鉛筆をなめ、なめ、一晩中腹這(ば)いになって、紙に何か書いていた。――それは学生の「発案」だった。
      発案(責任者の図)
  A           B          C
  |         |          |
二人の学生 ┐ ┌雑夫の方一人  国別にして、各々そのうちの餓鬼大将を一人ずつ
        │ │川崎船の方二人 各川崎船に二人ずつ
吃りの漁夫 │ │水夫の方一人┐
        │ │         │ 水、火夫の諸君 
「威張んな」 ┘ └火夫の方一人┘
   A――――→B――――→C→┌全部の┐
    ←―――― ←―――― ←└諸君 ┘
 

 

学生はどんなもんだいと云った。どんな事がAから起ろうが、Cから起ろうが、電気より早く、ぬかりなく「全体の問題」にすることが出来る、と威張った。それが、そして一通り決められた。――実際は、それはそう容易(たやす)くは行われなかったが。
「殺されたくないものは来れ!」 ――その学生上りの得意の宣伝語だった。毛利元就(もうりもとなり)の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある「綱引き」の例をもってきた。「俺達四、五人いれば、船頭の一人位海の中へタタキ落すなんか朝飯前だ。元気を出すんだ」
「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっちは船長から何からを皆んな入れて十人にならない。ところがこっちは四百人に近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。十人に四百人! 相撲になるなら、やってみろ、だ」そして最後に「殺されたくないものは来れ!」だった。――どんな「ボンクラ」でも「飲んだくれ」でも、自分達が半殺しにされるような生活をさせられていることは分っていたし、(現に、眼の前で殺されてしまった仲間のいることも分っている)それに、苦しまぎれにやったチョコチョコした「サボ」が案外効き目があったので学生上りや吃りのいうことも、よく聞き入れられた。
一週間程前の大嵐で、発動機船がスクリュウを毀(こわ)してしまった。それで修繕のために、雑夫長が下船して、四、五人の漁夫と一緒に陸へ行った。帰ってきたとき、若い漁夫がコッソリ日本文字で印刷した「赤化宣伝」のパンフレットやビラを沢山持ってきた。「日本人が沢山こういうことをやっているよ」と云った。――自分達の賃銀や、労働時間の長さのことや、会社のゴッソリした金儲(かねもう)けのことや、ストライキのことなどが書かれているので、皆は面白がって、お互に読んだり、ワケを聞き合ったりした。然し、中にはそれに書いてある文句に、かえって反撥(はんぱつ)を感じて、こんな恐ろしいことなんか「日本人」に出来るか、というものがいた。
が、「俺アこれが本当だと思うんだが」と、ビラを持って学生上りのところへ訊(き)きに来た漁夫もいた。
「本当だよ。少し話大きいどもな」
「んだって、こうでもしなかったら、浅川の性(しょ)ッ骨(ぽね)直るかな」と笑った。「それに、彼奴(あいつ)等からはモットひどいめに合わされてるから、これで当り前だべよ!」
漁夫達は、飛んでもないものだ、と云いながら、その「赤化運動」に好奇心を持ち出していた。
嵐の時もそうだが、霧が深くなると、川崎船を呼ぶために、本船では絶え間なしに汽笛を鳴らした。巾(はば)広い、牛の啼声(なきごえ)のような汽笛が、水のように濃くこめた霧の中を一時間も二時間もなった。――然しそれでも、うまく帰って来れない川崎船があった。ところが、そんな時、仕事の苦しさからワザと見当を失った振りをして、カムサツカに漂流したものがあった。秘密に時々あった。ロシアの領海内に入って、漁をするようになってから、予(あらかじ)め陸に見当をつけて置くと、案外容易く、その漂流が出来た。その連中も「赤化」のことを聞いてくるものがあった。
――何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。「抜け目なく」万事好都合に! 然し、蟹工船の「仕事」は、今では丁度逆に、それ等の労働者を団結――組織させようとしていた。いくら「抜け目のない」資本家でも、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働者、手のつけられない「飲んだくれ」労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった。  
 九

 

監督は周章(あわ)て出した。
漁期の過ぎてゆくその毎年の割に比べて、蟹の高はハッキリ減っていた。他の船の様子をきいてみても、昨年よりはもっと成績がいいらしかった。二千函(ばこ)は遅れている。――監督は、これではもう今までのように「お釈迦(しゃか)様」のようにしていたって駄目だ、と思った。
本船は移動することにした。監督は絶えず無線電信を盗みきかせ、他の船の網でもかまわずドンドン上げさせた。二十浬(かいり)ほど南下して、最初に上げた渋網には、蟹がモリモリと網の目に足をひっかけて、かかっていた。たしかに××丸のものだった。
「君のお陰だ」と、彼は監督らしくなく、局長の肩をたたいた。
網を上げているところを見付けられて、発動機が放々の態(てい)で逃げてくることもあった。他船の網を手当り次第に上げるようになって、仕事が尻上りに忙しくなった。
仕事を少しでも怠(なま)けたと見るときには大焼きを入れる。
組をなして怠けたものにはカムサツカ体操をさせる。
罰として賃銀棒引き、
函館へ帰ったら、警察に引き渡す。
いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺されるものと思うべし。
                     浅川監督
                     雑夫長
この大きなビラが工場の降り口に貼(は)られた。監督は弾をつめッ放しにしたピストルを始終持っていた。飛んでもない時に、皆の仕事をしている頭の上で、鴎(かもめ)や船の何処(どこ)かに見当をつけて、「示威運動」のように打った。ギョッとする漁夫を見て、ニヤニヤ笑った。それは全く何かの拍子に「本当」に打ち殺されそうな不気味な感じを皆にひらめかした。
水夫、火夫も完全に動員された。勝手に使いまわされた。船長はそれに対して一言も云えなかった。船長は「看板」になってさえいれば、それで立派な一役だった。前にあったことだった――領海内に入って漁をするために、船を入れるように船長が強要された。船長は船長としての公の立場から、それを犯すことは出来ないと頑張(がんば)った。
「勝手にしやがれ!」「頼まないや!」と云って、監督等が自分達で、船を領海内に転錨(てんびょう)さしてしまった。ところが、それが露国の監視船に見付けられて、追跡された。そして訊問(じんもん)になり、自分がしどろもどろになると、「卑怯(ひきょう)」にも退却してしまった。「そういう一切のことは、船としては勿論(もちろん)船長がお答えすべきですから......」無理矢理に押しつけてしまった。全く、この看板は、だから必要だった。それだけでよかった。
そのことがあってから、船長は船を函館に帰そうと何辺も思った。が、それをそうさせない力が――資本家の力が、やっぱり船長をつかんでいた。
「この船全体が会社のものなんだ、分ったか!」ウァハハハハハと、口を三角にゆがめて、背のびするように、無遠慮に大きく笑った。
――「糞壺」に帰ってくると、吃(ども)りの漁夫は仰向けにでんぐり返った。残念で、残念で、たまらなかった。漁夫達は、彼や学生などの方を気の毒そうに見るが、何も云えない程ぐッしゃりつぶされてしまっていた。学生の作った組織も反古(ほご)のように、役に立たなかった。――それでも学生は割合に元気を保っていた。
「何かあったら跳ね起きるんだ。その代り、その何かをうまくつかむことだ」と云った。
「これでも跳ね起きられるかな」――威張んなの漁夫だった。
「かな――? 馬鹿。こっちは人数が多いんだ。恐れることはないさ。それに彼奴等が無茶なことをすればする程、今のうちこそ内へ、内へとこもっているが、火薬よりも強い不平と不満が皆の心の中に、つまりにいいだけつまっているんだ。――俺はそいつを頼りにしているんだ」
「道具立てはいいな」威張んなは「糞壺」の中をグルグル見廻して、
「そんな奴等がいるかな。どれも、これも............」
愚痴ッぽく云った。
「俺達から愚痴ッぽかったら――もう、最後だよ」
「見れ、お前えだけだ、元気のええのア。――今度事件起こしてみれ、生命(いのち)がけだ」
学生は暗い顔をした。「そうさ......」と云った。
監督は手下を連れて、夜三回まわってきた。三、四人固まっていると、怒鳴りつけた。それでも、まだ足りなく、秘密に自分の手下を「糞壺」に寝らせた。
――「鎖」が、ただ、眼に見えないだけの違いだった。皆の足は歩くときには、吋太(インチぶと)の鎖を現実に後に引きずッているように重かった。
「俺ア、キット殺されるべよ」
「ん。んでも、どうせ殺されるッて分ったら、その時アやるよ」
芝浦の漁夫が、
「馬鹿!」と、横から怒鳴りつけた。「殺されるッて分ったら? 馬鹿ア、何時(いつ)だ、それア。――今、殺されているんでねえか。小刻みによ。彼奴等はな、上手なんだ。ピストルは今にもうつように、何時でも持っているが、なかなかそんなヘマはしないんだ。あれア「手」なんだ。――分るか。彼奴等は、俺達を殺せば、自分等の方で損するんだ。目的は――本当の目的は、俺達をウンと働かせて、締木(しめぎ)にかけて、ギイギイ搾り上げて、しこたま儲けることなんだ。そいつを今俺達は毎日やられてるんだ。――どうだ、この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ」
「んだな!」
「んだな、も糞もあるもんか」厚い掌(てのひら)に、煙草の火を転がした。「ま、待ってくれ、今に、畜生!」
あまり南下して、身体(がら)の小さい女蟹ばかり多くなったので、場所を北の方へ移動することになった。それで皆は残業をさせられて、少し早目に(久し振りに!)仕事が終った。
皆が「糞壺」に降りて来た。
「元気ねえな」芝浦だった。
「こら、足ば見てけれや。ガク、ガクッて、段ば降りれなくなったで」
「気の毒だ。それでもまだ一生懸命働いてやろうッてんだから」 
「誰が! ――仕方ねんだべよ」
芝浦が笑った。「殺される時も、仕方がねえか」
「............」
「まあ、このまま行けば、お前ここ四、五日だな」
相手は拍手に、イヤな顔をして、黄色ッぽくムクンだ片方の頬(ほお)と眼蓋(まぶた)をゆがめた。そして、だまって自分の棚(たな)のところへ行くと、端へ膝(ひざ)から下の足をブラ下げて、関節を掌刀(てがたな)でたたいた。
――下で、芝浦が手を振りながら、しゃべっていた。吃(ども)りが、身体をゆすりながら、相槌(あいづち)を打った。
「......いいか、まア仮りに金持が金を出して作ったから、船があるとしてもいいさ。水夫と火夫がいなかったら動くか。蟹が海の底に何億っているさ。仮りにだ、色々な仕度(したく)をして、此処まで出掛けてくるのに、金持が金をだせたからとしてもいいさ。俺達が働かなかったら、一匹の蟹だって、金持の懐(ふところ)に入って行くか。いいか、俺達がこの一夏ここで働いて、それで一体どの位金が入ってくる。ところが、金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。――さあ、んだら、その金の出所だ。無から有は生ぜじだ。――分るか。なア、皆んな俺達の力さ。――んだから、そう今にもお陀仏するような不景気な面(つら)してるなって云うんだ。うんと威張るんだ。底の底のことになれば、うそでない、あっちの方が俺達をおッかながってるんだ。ビクビクすんな。
水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。――労働者が働かねば、ビタ一文だって、金持の懐にゃ入らないんだ。さっき云った船を買ったり、道具を用意したり、仕度をする金も、やっぱり他の労働者が血をしぼって、儲けさせてやった――俺達からしぼり取って行きやがった金なんだ。――金持と俺達とは親と子なんだ......」
監督が入ってきた。
皆ドマついた恰好(かっこう)で、ゴソゴソし出した。
 十

 

空気が硝子(ガラス)のように冷たくて、塵(ちり)一本なく澄んでいた。――二時で、もう夜が明けていた。カムサツカの連峰が金紫色に輝いて、海から二、三寸位の高さで、地平線を南に長く走っていた。小波(さざなみ)が立って、その一つ一つの面が、朝日を一つ一つうけて、夜明けらしく、寒々と光っていた。――それが入り乱れて砕け、入り交れて砕ける。その度にキラキラ、と光った。鴎の啼声が(何処(どこ)にいるのか分らずに)声だけしていた。――さわやかに、寒かった。荷物にかけてある、油のにじんだズックのカヴァが時々ハタハタとなった。分らないうちに、風が出てきていた。
袢天(はんてん)の袖に、カガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチから首を出した。首を出したまま、はじかれたように叫んだ。
「あ、兎(うさぎ)が飛んでる。――これア大暴風(しけ)になるな」
三角波が立ってきていた。カムサツカの海に慣れている漁夫には、それが直(す)ぐ分る。
「危ねえ、今日休みだべ」
一時間程してからだった。
川崎船を降ろすウインチの下で、其処(そこ)、此処(ここ)七、八人ずつ漁夫が固まっていた。川崎船はどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、お互云い合っている。
一寸した。
「やめたやめた!」
「糞(くそ)でも喰(くら)らえ、だ!」
誰かキッカケにそういうのを、皆は待っていたようだった。
肩を押し合って、「おい、引き上げるべ!」と云った。
「ん」
「ん、ん!」
一人がしかめた眼差(まなざし)で、ウインチを見上げて、「然(しか)しな......」と躊躇(ため)らっている。
行きかけたのが、自分の片肩をグイとしゃくって、「死にたかったら、独(ひと)りで行(え)げよ!」と、ハキ出した。
皆は固(かたま)って歩き出した。誰か「本当にいいかな」と、小声で云っていた。二人程、あやふやに、遅れた。
次のウインチの下にも、漁夫達は立ちどまったままでいた。彼等は第二号川崎の連中が、こっちに歩いてくるのを見ると、その意味が分った。四、五人が声をあげて、手を振った。
「やめだ、やめだ!」
「ん、やめだ!」
その二つが合わさると、元気が出てきた。どうしようか分らないでいる遅れた二、三人は、まぶしそうに、こっちを見て、立ち止っていた。皆が第五川崎のところで、又一緒になった。それ等を見ると、遅れたものはブツブツ云いながら後から、歩き出した。
吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。「しっかりせッ!」
雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて、大きくなって行った。皆の前や後を、学生や吃りが行ったり、来たり、しきりなしに走っていた。「いいか、はぐれないことだど! 何よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう――!」
煙筒の側に、車座に坐って、ロープの繕いをやっていた水夫が、のび上って、
「どうした。オ――イ?」と怒鳴った。
 

 

皆はその方へ手を振りあげて、ワアーッと叫んだ。上から見下している水夫達には、それが林のように揺れて見えた。
「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ!」
ロープをさっさと片付け始めた。「待ってたんだ!」
そのことが漁夫達の方にも分った。二度、ワアーッと叫んだ。
「まず糞壺さ引きあげるべ。そうするべ。――非道(ひで)え奴だ。ちゃんと大暴風(しけ)になること分っていて、それで船を出させるんだからな。――人殺しだべ!」
「あったら奴に殺されて、たまるけア!」
「今度こそ、覚えてれ!」
殆(ほと)んど一人も残さないで、糞壺へ引きあげてきた。中には「仕方なしに」随(つ)いて来たものもいるにはいた。
――皆のドカドカッと入り込んできたのに、薄暗いところに寝ていた病人が、吃驚(びっくり)して板のような上半身を起した。ワケを話してやると、見る見る眼に涙をにじませて何度も、何度も頭を振ってうなずいた。
吃りの漁夫と学生が、機関室の縄梯子(なわばしご)のようなタラップを下りて行った。急いでいたし、慣れていないので、何度も足をすべらして、危く、手で吊下(つりさが)った。中はボイラーの熱でムンとして、それに暗かった。彼等はすぐ身体中汗まみれになった。汽罐(かま)の上のストーヴのロストルのような上を渡って、またタラップを下った。下で何か声高(こわだか)にしゃべっているのが、ガン、ガ――ンと反響していた。――地下何百尺という地獄のような竪坑(たてこう)を初めて下りて行くような無気味さを感じた。
「これもつれえ仕事だな」
「んよ、それに又、か、甲板さ引っぱり出されて、か、蟹たたきでも、さ、されたら、たまったもんでねえさ」
「大丈夫、火夫も俺達の方だ!」
「ん、大丈――夫!」
ボイラーの腹を、タラップでおりていた。
「熱い、熱い、たまんねえな。人間の燻製(くんせい)が出来そうだ」
「冗談じゃねえど。今火たいていねえ時で、こんだんだど。燃(た)いてる時なんて!」
「んか、な。んだべな」
「印度(インド)の海渡る時ア、三十分交代で、それでヘナヘナになるてんだとよ。ウッカリ文句をぬかした一機が、シャベルで滅多やたらにたたきのめされて、あげくの果て、ボイラーに燃かれてしまうことがあるんだとよ。――そうでもしたくなるべよ!」
「んな......」
汽罐(かま)の前では、石炭カスが引き出されて、それに水でもかけたらしく、濛々(もうもう)と灰が立ちのぼっていた。その側で、半分裸の火夫達が、煙草をくわえながら、膝(ひざ)を抱えて話していた。薄暗い中で、それはゴリラがうずくまっているのと、そっくりに見えた。石炭庫の口が半開きになって、ひんやりした真暗な内を、無気味に覗(のぞ)かせていた。
「おい」吃りが声をかけた。
「誰だ?」上を見上げた。――それが「誰だ――誰だ、――誰だ」と三つ位に響きかえって行く。
そこへ二人が降りて行った。二人だということが分ると、
「間違ったんでねえか、道を」と、一人が大声をたてた。
「ストライキやったんだ」
「ストキがどうしたって?」
「ストキでねえ、ストライキだ」
「やったか!」
「そうか。このまま、どんどん火でもブッ燃(た)いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど」
吃りは「しめた!」と思った。
「んで、皆勢揃(せいぞろ)えしたところで、畜生等にねじ込もうッて云うんだ」
「やれ、やれ!」
「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ」
学生が口を入れた。
「んか、んか、これア悪かった。――やろうやろう!」火夫が石炭の灰で白くなっている頭をかいた。
皆笑った。
「お前達の方、お前達ですっかり一纏(まと)めにして貰いたいんだ」
「ん、分った。大丈夫だ。何時でも一つ位え、ブンなぐってやりてえと思ってる連中ばかりだから」
――火夫の方はそれでよかった。
雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。皆甲板に集った。「要求事項」は、吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。
監督達は、漁夫等が騒ぎ出したのを知ると――それからちっとも姿を見せなかった。
「おかしいな」
「これア、おかしい」
「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だべよ」
吃りの漁夫が、一寸(ちょっと)高い処に上った。皆は手を拍(たた)いた。
「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり......(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)......
 

 

「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力に依るのだ」
続いて、火夫の代表が立ち、水夫の代表が立った。火夫の代表は、普段一度も云ったこともない言葉をしゃべり出して、自分でどまついてしまった。つまる度(たび)に赤くなり、ナッパ服の裾(すそ)を引張ってみたり、すり切れた穴のところに手を入れてみたり、ソワソワした。皆はそれに気付くとデッキを足踏みして笑った。
「......俺アもうやめる。然し、諸君、彼奴等はブンなぐってしまうべよ!」と云って、壇を下りた。
ワザと、皆が大げさに拍手した。
「其処だけでよかったんだ」後で誰かひやかした。それで皆は一度にワッと笑い出してしまった。
火夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄の長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょりかいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来たとき、「俺何しゃべったかな?」と仲間にきいた。
学生が肩をたたいて、「いい、いい」と云って笑った。
「お前えだ、悪いのア。別にいたのによ、俺でなくたって......」
「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです」――壇には一五、六歳の雑夫が立っていた。
「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。――ちょっとでも金のある家(うち)ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く......(声がかすれる。吃り出す。抑(おさ)えられたように静かになった)然し、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来るのです......」
それは嵐のような拍手を惹(ひ)き起した。手を夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、ソッと拭(ぬぐ)っている中年過ぎた漁夫がいた。
学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、捺印(なついん)を貰って歩いた。
学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。――陸の場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせた。ウソのように、スラスラ纏った。
「おかしいな、何んだって、あの鬼顔出さないんだべ」
「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな」
三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。――船長室へ押しかけた。
監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。
船長、雑夫長、工場代表......などが、今までたしかに何か相談をしていたらしいことがハッキリ分るそのままの恰好で、迎えた。監督は落付いていた。
入ってゆくと、
「やったな」とニヤニヤ笑った。
外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、ドタ、ドタ足踏みをしていた。監督は「うるさい奴だ!」とひくい声で云った。が、それ等には気もかけない様子だった代表が興奮して云うのを一通りきいてから、「要求条項」と、三百人の「誓約書」を形式的にチラチラ見ると、「後悔しないか」と、拍子抜けするほど、ゆっくり云った。
「馬鹿野郎ッ!」吃りがいきなり監督の鼻ッ面を殴(なぐ)りつけるように怒鳴った。
「そうか、いい。――後悔しないんだな」
そう云って、それから一寸(ちょっと)調子をかえた。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから」――だが、云うより早かった、芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬(ほお)をなぐりつけた。監督がハッと思って、顔を押えた瞬間、吃りがキノコのような円椅子で横なぐりに足をさらった。監督の身体はテーブルに引っかかって、他愛なく横倒れになった。その上に四本の足を空にして、テーブルがひっくりかえって行った。
「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」
芝浦は巾(はば)の広い肩をけわしく動かした。水夫、火夫、学生が二人をとめた。船長室の窓が凄(すご)い音を立てて壊(こわ)れた。その瞬間、「殺しちまい!」「打ッ殺せ!」「のせ! のしちまえ!」外からの叫び声が急に大きくなって、ハッキリ聞えてきた。――何時の間にか、船長や雑夫長や工場代表が室の片隅(かたすみ)の方へ、固まり合って棒杭のようにつッ立っていた。顔の色がなかった。
 

 

ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫が雪崩(なだ)れ込んできた。
昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。
「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところが! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストルさえ打てなかったではないか。皆はウキウキと噪(はしゃ)いでいた。――代表達は頭を集めて、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」と思った。
薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。――周章(あわ)てて「糞壺」に馳(か)け込んだ。
「しまったッ」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。
「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」
外のものも、「それアそうだ」と同意した。
「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」
「いや、いや......」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。
「国民の味方だって? ......いやいや......」
「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈(はず)があるか 」
「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰(つぶ)してしまった。
皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声を揃(そろ)えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。
タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラップを上ってきた。
呀(あ)ッ! 着剣(つけけん)をしているではないか! そして帽子の顎紐(あごひも)をかけている!
「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。
次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでも躍(おど)り込むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。
「しまった! 畜生やりゃがったな!」
芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度が初めて分った。だが、遅かった。
「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒(ばとう)されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。
――簡単に「片付いてしまった」
「俺達には、俺達しか、味方が無(ね)えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」
水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。
毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(もくよく)して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異(ちが)ってしまっていた。
「俺達の本当の血と肉を搾(しぼ)り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
皆そんな気持で作った。
「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」
「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見ろ!」
然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。
 

 

「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」
「そうだな」
「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」
「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。......うまくやったら、これア案外大丈夫だど」
「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」
「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」
そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!
 附記

 

この後のことについて、二、三附け加えて置こう。
イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功したということ。「まさか」と思っていた、面喰(くら)った監督は、夢中になって無電室にかけ込んだが、ドアーの前で立ち往生してしまったこと、どうしていいか分らなくなって。
ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」をやったりストライキをやった船は、博光丸だけではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。
ハ、それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事を惹起(ひきおこ)させ、製品高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。面白いことは、「あ――あ、口惜(くや)しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と、あの監督が叫んだということ。
ニ、そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験を担(にな)って、漁夫、年若い雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。
――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。
(一九二九・三・三〇)
 
小林多喜二1

 

(明治36年-昭和8年 1903-1933)日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ。
4歳の時に北海道・小樽に移住。生活は豊かではなかったが、伯父からの学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。
卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキに出会う。タキは父親が残した多額の借金により13才の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。
翌1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された。だが同時に警察(特に当時の特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。『蟹工船』『一九二八年三月一五日』および同年『中央公論』に発表した『不在地主』などがもとで拓銀を解雇(諭旨免職)され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ資金援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。
24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県・七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。
1933年2月20日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認・記録された。
新聞報道によると、2月20日正午頃別の共産党員1名と赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたが、同署水谷特高主任が取調べた結果自白した。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して外部からの材料を集めてから取調べようと一旦5時半留置場に入れたが間もなく苦悶を始め7時半にはほとんど重体になったので前田病院に入院させる処置を取り、築地署としては何の手落ちもなかった」との説明を行なっている。なお、小林多喜二死亡時の責任者は特高警察部長だった安倍源基で、その部下であった特高課長毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部中川成夫(後、滝野川区長、東映取締役)、警部山県為三(戦後、スエヒロを経営)の3人が直接手を下している。
警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。死に顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残され、千田是也が製作したデスマスクも小樽文学館に現存している。『中央公論』編集部は、多喜二から預かったまま掲載を保留していた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。最後の小説は、1933(昭和8)年1月7日に書きあげ、『改造』3月号に発表の「地区の人々」。評論は、『プロレタリア文学』2月号、プロレタリア文化』3-4月号に掲載の「右翼的偏向の諸問題」。
母思いで地下に潜入後も原稿料は母親に送り、死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と懇願した。 
 
小林多喜二2

 

1903.10.13-1933.2.20 (享年29才)
書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。
特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。
小林多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。
ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に記す。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」
貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は多大な影響を与えた。保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にし世間に国家の横暴を訴える決心をした。
彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。
「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」(自伝)
完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。
翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。
しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は腹をくくった。
ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。
そして運命の1933年2月20日。
非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が正義感から彼を取り押さえたという。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。
…まだ29歳の若さだった。
※ 3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。
彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。
「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」
警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。
特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。
彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが
“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”
と書き記した。
この国の文学界は沈黙を守ったのだ。どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。
多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。僕は墓石の裏側を見て絶句した。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」。昭和5年(1930年)といえば、『蟹工船』発表の翌年だ。多喜二は『蟹工船』によって警察にマークされ、5月に初めて逮捕されている。そして、墓を建立した3週間後に再逮捕&起訴されており(『蟹工船』で不敬罪)、翌年1月まで約半年間、多数の思想犯が送られた豊多摩刑務所に収容されている。つまり、多喜二は当局による弾圧を日増しに実感するなか、保釈の隙をぬって自ら“小林家之墓”を建てたのだ。そこには「いま建てておかないと、ペンを握り続ければ死ぬかもしれない」という覚悟が込められているように見える。墓建立の3年後、多喜二は絶命した。
※ 多喜二の訃報を聞いた中国の作家・魯迅は次の弔電を寄せた--「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」。
※ 後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている--「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」 
 
小林多喜二虐殺事件

 

1903年(明治36年)10月13日、小林多喜二(たきじ)は秋田県の貧農の長男として生まれた。4歳の冬、一家はパン工場を経営していた伯父を頼って北海道へ渡った。小林は伯父の援助で小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学した。
商業学校時代から、絵や詩などの創作をしていたが、高等商業学校へ入ると交友会誌に幾つかの小説を発表した。卒業後、北海道拓殖銀行に入り、その頃からマルキシズム、社会科学の勉強にのめり込み、労農運動に関心をもつようになり、作品もプロレタリア文学への指向を示し始める。
1921年(大正10年)に、プロレタリア文学は『種蒔く人』の創刊に始まり、1924年(大正13年)の『文芸戦線』の創刊、1925年(大正14年)の日本プロレタリア文芸連盟の結成へと次第に勢力を伸ばしていく。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)、その他、大正末期から昭和初めにかけて、世界恐慌による経済不況、農村恐慌が相次ぎ、社会不安が増大した。そんな時代を背景に、弾圧によって壊滅した共産党が1926年(昭和元年)、同志たちの手で密かに再建された。
1928年(昭和3年)2月、第1回普通選挙が行われた。共産党は、前年のコミンテルン・テーゼで大衆的公然活動の方針を打ち出していたので、徳田球一らの党員を労農党の候補者として立候補させ、8人の当選者を出した。この選挙のとき、多喜二は労農党候補の応援演説隊に加わって活躍した。
3月15日未明、田中義一内閣はいつの間にか復活していた共産勢力に脅威を感じ、共産党、労農党などの関係者約3600人を全国で一斉に検挙し、これらの団体の結社を厳禁した。この3.15事件で、小樽でも500人以上が逮捕された。
同年暮れ、多喜二は3・15事件をテーマにした小説『一九二八年三月十五日』を雑誌『戦旗』に発表した。編集部では検閲を通すため、かなりの削除、伏字をしたが、発売禁止になった。だが、秘密組織の配付ルートを通して8000部以上が売れ、大きな反響を呼び、多喜二の名は知られるようになった。
翌1929年(昭和4年)、多喜二が『蟹工船』を発表。『蟹工船』は帝国海軍に保護されてカムチャツカに出漁する蟹工船労働者たちの悲惨な労働の様子と労働者が組織的闘争に立ち上がっていく姿を活き活きと描いている中編小説。
8月、『読売新聞』紙上で多数の作家、評論家が『蟹工船』を「本年度上半期の最高作」として推薦した。単行本になると、当時としては驚異的な3万5000部が売れた。
2008年(平成20年)1月9日付けの『毎日新聞』東京本社版朝刊文化面に掲載された作家の高橋源一郎と雨宮処凛(かりん)の対談で、2人は「現代日本で多くの若者たちの置かれている状況が『蟹工船』の世界に通じている」と指摘。ワーキングプア問題と絡んで、『蟹工船・党生活者』(新潮文庫/1954)が異例の売れ行きを示している。新潮社では3月に7000部、4月に2万部を増刷したが、これは例年の5倍の発行部数だという。
同年、多喜二が非合法活動のため、北海道拓殖銀行をクビになる。
翌1930年(昭和5年)、多喜二は共産党員としてプロレタリア文学や党の文化活動をするため上京した。その後、治安維持法違反で半年間、刑務所に入れられ、出所するも弾圧がますます激化し、1932年(昭和7年)4月、宮本顕治たちとともに地下に潜ったが、この年は波瀾の年だった。1月28日、上海事変勃発。2月9日、東京市本郷区(現・東京都文京区/本郷区と小石川区が統合して文京区となる)で、前蔵相・井上準之助が「血盟団」の小沼正(おぬましょう)によって暗殺される(血盟団事件)。3月1日、満州国建国宣言。3月5日、三井合名(ごうめい)理事長の団琢磨が血盟団員により射殺される。5月15日、犬養毅(いぬかいつよし)首相が陸海軍将校によって射殺される。
宮本顕治・・・1908年(明治41年)10月17日生まれ。政治家。文芸評論家。1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学経済学部卒業。5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。1932年(昭和7年)4月、プロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに地下に潜る。
多喜二は住所を転々としながら小説や論文を次々と発表した。『改造』『中央公論』の原稿料は直接、杉並の借家に住まわせていた母親宛てに送らせていた。
多喜二は潜行中に白石ふじ子と結婚した。ふじ子は党員ではなく銀座の会社の事務員だった。特別高等警察(特高)は2人の結婚を知り、ふじ子を尾行して家に踏み込んだが、多喜二は間一髪で逃れた。ふじ子は逮捕され、会社もクビになった。
特別高等警察・・・大逆事件(幸徳事件)を契機として、1911年(明治44年)、警視庁に特別高等警察課が設置されたのが始まりで、その後、大阪、京都などにも増設され、1928年(昭和3年)には全国に配置された。これは1925年(大正14年)5月に施行される治安維持法に備えての設置で、共産主義や反体制の言論、思想、社会運動を弾圧した秘密警察。1945年(昭和20年)10月、敗戦直後、民主化を求める世論の中で、特高は治安維持法とともに廃止になった。
大逆(たいぎゃく)事件・・・1910(明治43年)5月、信州の社会主義者宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕された(明科事件)が、その逮捕者が社会主義者の幸徳秋水とつながりを持っている者であったことを利用して、政府が天皇暗殺の一大陰謀事件を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと計画を立て実行。これで26人が逮捕され、24人に死刑判決が下された。翌日には死刑判決を下された24人のうち、12人が無期懲役に減刑され、残りの12人が処刑された事件。
多喜二は警察のどんな拷問にも音をあげない強い男だったが、その反面、大声で話し、笑い、ふざけるのが好きな子どもみたいな性格だった。そういう人柄をふじ子やその他の多くの人々は敬愛した。そのため、多喜二は潜行生活は続けることはできたが、裏切り者のために逮捕された。
1933年(昭和8年)2月20日、多喜二は東京都港区赤坂でプロレタリア作家同盟(委員長・江口渙)の仲間である今村恒夫と会い、その後、共産青年同盟の責任者である三船留吉という男と会うはずだった。だが、待ち合わせの場所にいたのは三船ではなく築地警察署の特高刑事だった。三船は前年に逮捕されて以来、スパイになっていた。
その後、多喜二は築地警察署に連行され、丸裸にされて3時間以上に及ぶ執拗な拷問を受けた。このときの特高警察部長は安倍源基で、部下であった毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の3人が直接に手を下している。
多喜二はぐったりした姿で留置場に投げ込まれたが、ただならぬ様子に同房の者が看守を呼んだ。特高の連中もやってくる。多喜二は意識が朦朧とした状態のまま、警察裏にある築地病院に担架で運ばれた。だが、午後7時45分、死亡した。31歳だった。警察では翌日の午後までこの死亡を伏せておき、死因は心臓麻痺と発表された。
『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社/矢島裕紀彦/1996)によると、多喜二は1903年(明治36年)10月13日生まれ、ということなので、死亡時は満年齢では29歳だが、数え年齢では31歳ということになる。サイト「無限回廊」では戦前の事件に関しては数え年齢で表記しているので31歳ということになる。
ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし、次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。
翌21日夜、多喜二は母親・セキの東京都杉並区馬橋の家に運ばれた。左右の太ももは多量の内出血ですっかり色が変わり、大きく膨れ上がり、背中一面に痛々しい傷痕。手首にはきつく縛り上げられてできた縄の痕。首にも深い細長の縄の痕。左のコメカミ下あたりにも打撲傷。向う脛に深く削った傷の痕。右の人差し指は骨折、、、。
セキは変わり果てた息子の体を抱きかかえて揺さぶり叫んだ。
「ああ、痛ましや。痛ましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘だでや。子どものときからあんなに泳ぎが上手でいただべに、、、心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎがでぎるだべが。心臓麻痺だなんて嘘だでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息がつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、ああ、痛ましや。痛ましや」
同志たちは死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も警察を恐れて拒否した(「警察が付近の病院に遺体の解剖をさせないように圧力をかけた」と書いてある参考文献もある)。
多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官によって弔問客は次々と検挙された。宮本百合子も逮捕され、築地署に連行された。
宮本百合子・・・1899年(明治32年)2月13日生まれ。旧姓・中條(ちゅうじょう)。本名・ユリ。小説家。評論家。日本女子大学英文科中退。17歳のときの初作品『貧しき人々の群』で天才少女として注目を集める。プロレタリア文学、民主主義文学の作家として活躍。1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。翌1932年(昭和7年)、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚。
葬儀は3・15事件記念日の3月15日、築地小劇場で労農葬として執り行われることに決まったが、当日、警察によって江口葬儀委員長のほか、関係者が逮捕され、葬儀は取り止めになった。 
 
小林多喜二と近代文学

 

1 過去の文学に対する多喜二の態度
小林多喜二は治安維持法で起訴されて、一九三〇(昭和五)年八月から翌年一月まで、豊多摩刑務所で未決の生活を送った。始めての東京の秋を独房で迎えた多喜二は、北海道とちがって、いつまで続き、どこまで深くなるかわからない東京の秋に驚嘆し、有島武郎がいったという「東京の空を見て死にたい」という言葉を深い感慨をもって思い起している。有島は北海道を描いた作家で、中学(小樽商業)時代に文学に目を見ひらいたときから、多喜二に大きな影響をあたえた作家だった。あまりにも多忙な生活を続けてきた多喜二にとって刑務所は自分自身をふりかえり、これまでの生活と文学を根本的に検討する得がたい機会でもあった。このことと東京の秋の空に有島を思いうかべることとは無関係ではなかった。
刑務所でこれまであまり読まなかった古典的な作家を読んだことは、多喜二の思想と文学に新しい広がりと深まりをあたえた。バルザックとディッケンズをはじめて知った多喜二は、獄中からの手紙にその感動を率直にのべて、これまでの自分の作品は「綴方文学」にしかすぎなかったと繰り返している。これらの作家を日本のプロレクリア文学がほとんど知らずに来たということが、プロレタリア文学をこの上なく空虚なくせに、傲慢にさせたのだと多喜二はいう。過去の文学をアウフヘーベンするなどというが、真剣に学ぶことなしにどうしてそれが可能であるか。実際はただ単に否定という意味位にしか考えていなかったのだ。このように多喜二は、プロレタリア作家たちが過去に学ばず、現実にも深くはいって行かず、半分職業的に、惰性だけで書くようになる危険を問題にして、「ぼくたち自身の内にあるボス的意識」をきびしく批判した。
過去の文学に学ばず、これを安易に否定するのは、文学の問題をイデオロギーの問題に還元する態度と結びついている。こうした安易なィデオロギー主義は、プロレタリア文学に固定化、一般化、平均化の傾向を招かずにいない。多喜二はそれを「ボス的意識」と結びつけて批判したのである。出獄後の多喜二は、プロレタリア文学のこれらの傾向を批判する評論を、精力的にくり返して書いた。現実の豊富さから出発し、文学を文学として追及することをしないから、「われわれの作品を共産主義的に武装しなければならない」ということがいわれると、「党のスローガンをそのまま説明するような作品の傾向」が生まれる。
「作品の中に文字通り・スローガンを持ち込み、或いは取り上げられる題材を所謂尖鋭化した闘争場面に限定し、すべての生きた現実の多様性を抽象し、われわれの作家が持っている種々な特質を、その『質』の上でも『題材』の上でも狭く固定しようとした。そこに平均化の傾向が生れて来たのである。」このように多喜二は、どの作家の作品も似たような筋道をとって、同じ結着にたどりつき、取り扱われる人間も「われわれに都合のいい(!)人間」になってしまっていることを、鋭く批判した。
獄中の多喜二は、バルザックやディ。ケンズ等外国の作家たちばかりでなく、武者小路実篤についても数多くの手紙に書いている。多喜二は武者小路がひたすら自己を信じ、ただ自己にのみ忠実であることによって、まったく独自の芸術を生み出したことに感動した。武者小路の素朴な情熱、自己を素材にむき出しに、事もなげに奔放に表現する力を強調して、プロレタリア文学の作家たちが、ともすれば自己を見うしない、新しい流行にかぶれ、公式理論にもたれかかって、惰性的な小手先の仕事におちこみがちなことを批判したのである。
武者小路に感動する多喜二は、徹底して自分自身であることによって、徹底して共産主義者であり、プロレタリア作家である道をあるこうとした。多喜二が斎藤次郎にあてた手紙に、武者小路の「その妹」「友情」について「君が『今』もう一度これらの作品を読み返して見ることを僕は切に望んでいる」と書いたことは、斎藤が画をかく青年であり、自分の方向を定めかねて迷っていたことから考えて、多喜二が武者小路からうけつごうとしたものが何であったかを示している。一九二八年十月の手紙には斎藤が自分のどの画にも自信がもてず、また画が一作毎に変るのは「自分の本質」に対して盲目であるためではないかと指摘している。多喜二は斎藤が「自分の本質」をしっかりつかみ、自分自身のユニークな芸術をうちたてることを、くり返し望んで来たのである。多喜二の武者小路に対する感想も、この文脈の中でとらえるとき、その意味が明確になる。多喜二は武者小路からもっとも本質的なものを受けつぎ、プロレタリア文学においてそれを発展させようとしたのである。
多喜二が斎藤に対して「自己の本質」云々と書いたのは、「一九二八年三月十五日」を書きあげた直後のことであった。多喜二はこの手紙で、さまざまの画に、さまざまに心を奪われることの危険をいい、一人に「惚れこむ」ことの必要を説いた。「一人に! これがスローガンだ。モットウだ。そしたら、そこから君の道が出て来る。」 この多喜二が惚れこんだ一人の作家は志賀直哉であった。「一九二八年三月十五日」の背後には志賀直哉がいる。「一九二八年三月十五日」執筆中の多喜二は、当時刊行された改造社版の現代日本文学全集「志賀直哉集」(一九二八年七月刊)の巻頭言について、「まさに里見弥の『一刀一拝の芸術』『胎芸』の、至上の境地をつきぬけて、もう一つ上の至上に至っているという感じだ。精読を望む。」と一九二八(昭和三)年七月十五日に、斎藤にあてて書いている。
「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というようなものは全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思はないだらう。」これが直哉の巻頭言である。獄中の多喜二は、「一九二八年三月十五日」を書く以前に帰り、「新しい、まだ誰も知らなかったような作家として、そのような新しい誰もが今まで見ることがなかった作品」を書いて行きたいと念願した。この多喜二の心に去来するのは、直哉の文学を心に抱いて、ひたすら精進した当時の自分の姿であった。多喜二は自分の仕事を、文学として芸術として、きちんと自立したひとつの世界として確立してゆくことを求めた。ブルジョア作家だ、プロレタリア作家だ、文戦だ、ナップだ、等々というレッテルによって文学を考えることが、プロレタリア文学を堕落させる。新しく無名の新人が 「処女作を書く時のような気持」で出発しなおそうとする多喜二は、あの巻頭言のついている「志賀直哉集」を、わざく小樽の家からとりよせてくれるように、斎藤にあてて頼んでいる。
多喜二は獄中から直哉にあてて手紙を書き、これまでの自分の作品がいかに「粗雑な古ぼけた、薄っぺらなもの」であったかを、この上なくはっきり知ることができたと書いている。多喜二の手紙には直哉に対する深い敬意と親愛の情がこめられている。「急にわきたつような気持から」この手紙を書くのだといって、「此処で、手紙を書く気持を、私はどのように云っていゝか分りません。それは、まるで何かむさぼるような気持です」という。たしかにそれは、決して通り一ペんの気持ちで書かれたものではなかった。関西講演のあとで奈良の直哉を訪ねようとした矢先に大阪で逮捕されたのであった。出獄後の手紙でも、直哉上京のさいにあえなかったことを残念がっており、その後地下活動にはいる前に、奈良に直哉を訪ねて念願をはたしているのである。
多喜二と直哉、ふたりはどれほど遠く離れた世界に生きた作家であったろう。しかし多喜二は自分と直哉を結ぶ共通の世界を信じていた。それ故くり返して、自分の作品に対する直哉の遠慮のない批判を求めたのである。多喜二は直哉を文学の師として、それに導かれてここまで来たという思いがあった。獄中での直哉に対する感慨は、決してその場かぎ力のものではなかった。多喜二はいつも直哉をおもい、処女作以前の自分をおもって、ともすれば作品が粗雑になり、観念的になるのをいましめ、自己にむちうった。多喜二は常に前進し、作品の世界を拡大していったが、一方ではたえず直哉にもどり、直哉の目を保持し続け、その目で自分の作品を批判した。「一九二八年三月十五日」ばかりでなく地下生活の中で書いた最後の作品、「党生活者」にもはっきりと直哉の目は生きているのである。 
2 多喜二の転回点
プロレタリア文学運動の内部には、過去の文学をブルジョア文学として一挙に否定し去る傾向が根強くあったが、文学を階級的立場や作者のイデオロギーに還元するこの傾向に対して、多喜二は一貫して反対し続けた。過去の文学に学ぶことは、イデオロギー主義、政治主義、テーマ主義を克服して、文学を文学として、芸術として発展させること、人間を一面的にでなく、その根底から、全体的に把握し、観念としてではなく、具体的なたしかな形象として描き出す努力を意味する。
獄中の多喜二は鹿地亘にあてて、チェホフを「一般的命題」でかたづけずに「知る」努力をしてほしいと書いている。「正しい方向」とか「正しいイデオロギー」の強調によって、文学がそのセンチメントをうしない、読者の胸に訴えるものでなくなる危険を、具体的に橋本英吉の作品に即して論じ、「イデオロギーの百の純粋さと同時に、(そのイデオロギーが依ってもって育ち、肉付けするところの)プジコロギー(心理、情緒だ!)がそれに伴わなければならない」と強調したのである。そして「それのない作品は、労働組合の先生の方が、よりうまくやってくれる領分なのだ」といっている。
多喜二のこの考え方は、「一九二八年三月十五日」以前、その出発以来一貫している。一九二七(昭和二)年五月の小樽新聞に発表した「十三の南京玉」は「無産階級意識を(頭からではなしに)胸から把握」することを強調して、葉山岳樹の「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」の意味を指摘した。そして「プロレタリア文学は宣伝手段でなければならない」というような一面的な意見や、「唯物史観がそのまx芸術論におきかえられている愚な議論」が横行するプロレタリア文学の現状に対する鋭い批判をあびせている。一九二八(昭和三)年一月の「吹雪いた夜の感加」(「小樽新聞」)ではこの問題についてさらにつっこんで、次のように論じた。
トルストイの「復活」に関連して、「単純に、人間主義の作家だから、『馬鹿々々しい説法』である無抵抗主義の作家だから、というレッテルを貼りつけ、それだけの理由で黙殺するのは、結局何事もそれから学び得る所以ではない」と多喜二は主張した。コミュニズムのABCが表現されてさえいれば、ただちにそれをコミュニズムの芸術だとするのは、「コミュニズムのA、B、Cで安易な自慰をやる」ものだ。トルストイが「復活」で試みたあの社会の「えぐりだし」をコミュニストの態度でやるのが、コミュニズムの芸術である。そのなまなましい具体性において現実を暴露することに、「広いコミュニズムの芸術の未墾地」が横だわっており、「それは他の深い、尊敬すべき理論家、実際家にも与えられていない別のタアレント、芸術家の特殊性であると思う。」と述べた。多喜二は文学が政治やイデオロギーに還元されることに反対して、「芸術家の特殊性」、芸術の独自な存在理由を主張したのである。
磯野小作争議や小樽合同労組の争議を経験し、社会科学研究会に参加して、労働農民党や小樽合同労組の人だちとの接触を深めていった一九二七年は、多喜二にとって決定的な一年であった。この年、多喜二は労働芸術家連盟に加盟し、その分裂に際しては前衛芸術家同盟に参加した。一九二八年を迎えた多喜二は、その一月一日の日記に「思想的に、断然、マルキシズムに進展して行った。古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである。」「さて、新らしい年が来た。俺遠の時代が来た。我等何を為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ。」と害いている。この年二月の第一回普選のだたかいに、東倶知安方面の演説隊に加わるなど、多喜二は自分自身を政治運動の中へ大きくつき出して行こうとしていた。この新年早々の感動の中で、政治と文学の問題についてきびしい緊張を強いられながら、「吹雪いた夜の感想」を書いたのである。この個人的にも社会的にも激動する時代の渦の中で、多喜二は「防雪林」を書いた。それは多喜二の文学―−その思想と生活の転回点を示すものであり、その新しい出発を記念する作品である。
多喜二が葉山嘉樹の第一作品集「淫売婦」を読んだのは一九二六(大正一五)年五月のことであった。その時の感動を「『淫売婦』一巻はどんな意味に於ても、自分にはグァンー と来た。言葉通りグァンと来た。」と日記に書いている。多喜二が「防雪林」を書き、プロレタリア文学の道を歩きはじめるのに、この葉山との出あいは決定的な意味をもっている。「ブルジョアに対するプロレタリアの階級意識。生産階級の消費、有閑階級に対する反抗意識、搾取されている意識」こういうものが人道的に裏打ちされて、強烈に表現されていることに多喜二は圧倒された。それは「意識」としてはあった。けれどもそれ程「情熱的に」「具体的に」は出ない気持ちであった。
一九二九(昭和四)年一月、多喜二は葉山にあてた手紙に「今、不幸にして、お互に、政治上の立場を異にしていますが、−−貴方がマキシム・ゴーールキーによって洗礼を受けたと同じように、私は貴方の優れた作品によって、『胸』から生き返ったと云っていいのです。」と書いた。自分を本当に育ててくれた作品は「戦旗」の人たちのどの作品でもなく、実に葉山の作品と平林たい子の二、三の作品だったというのである。とこには文学、芸術を政治的立場やイデオロギ”ーの問題に還元することに反対して、文学、芸術それ自体の力を重視する多喜二がいる。翌年一月の「新潮」には、葉山の小説に「初めて襟首をつかまれたのだと云っていい」と書き、「それはまったく『逞しい腕』だった。葉山は日本の文学が今迄決して持だなかった『逞しい文学』をひっさげて登場してきた。その最初の作家だった。それはあらゆる『僕等』を振りまわし、こづきまわした。−−葉山の『海に生くる人々』一巻は僕にとって剣を擬した 『コーラン』だった。」と書いている。
「海に生くる人々」ははげしくあれ狂う海とたゝかう海上労働者の逞しい姿を描き出している。自然の暴威とたゝかう労働者は、同時に苛酷な搾取とたたかう労働者であった。葉山は自然そのもののような労働者を描き、本能につき動かされ、愛を求め、人間らしい自由を求めて夢想する労働者を描いた。観念としての労働者でなく、自然の中に生きる、肉体をそなえた労働者、怒り、たゝかうとともに、嘆き、かなしみ、あるいはよろこび、おそれる労働者を描いた。多喜二は「十三の南京玉」に見られるように、葉山の文学が「頭から」でなく、「胸から」人を動かすとごろにその芸術の独自の価値を見た。ふみにじられ虐げられて生きる人間の美しい感情が、はげしく逞しい反抗意識に結びついて、異常なほどに人をつき動かすのである。
多喜二のこの感動は、「チェルカッシュ」その他のゴーリキーを読むことで、さらに深められ、新しい世界にふみこんで行った。
「生活を嘆かない。金に頭を下けない。人生の弱い方面に頭をつっこまない。堂々と生きて行く。『人生がどうにもならないものなら、クヨ?くしたってなんのたしにもなるまい。」このゴーリキーに対する感動を、「こういう性格、こういう人生態度(圏点)、こういう筆致(圏点)…………これ等は悲惨な、無希望の、自己否定、自己苛責の、自然主義文学にとって大きな打撃であったろう。そして又同時に、浅薄な理想主義文学に対して、判然として道を示したことにもなる。」(一九二六年九月の日記)と述べた。
多喜二は秋田から北海道へ夜逃げしてきた数知れぬ貧農たちの息子のひとりだった。多喜二の内部には「貧農の子」としての記憶、その自覚、そのあつい火がもえくすぶっていた。銀行員としての生活は、多喜二にその火がもえあがるのを許さなかった。しかしその火は内部から多喜二の身をやき、いつかは激しくもえあがって、多喜二の身と心をやきつくさずにはいなかったのである。葉山やゴーリキーの文学は多喜二の魂をはげしくゆすぶった。そして北海道の大地にもえあがった労働者農民のたたかいは、多喜二の思想と生活をつき勣かして、多喜二を新しいたたかいの場所におし出した。多喜二は自分の内部にもえる熱い火をはっきりと自覚し、それに表現をあたえることで、自分自身を新しい場所につき出して行こうとした。「防雪林」はこの多喜二の転回点、新しい出発点を示す記念すべき作品であった。 
3 多喜二における「自然」の問題
「『世界意識』という神聖な病気」について、多喜二は一九二六年五月の「新樹」第九集に書いた。カフェーでビフテキを食べようとする。その瞬間、寒空に飢えている人を思ってしまい、食べることができない。笑おうとすると、笑えない多くの人の存在が彼の顔をひきゆがめてしまう。日向を歩いてゆくとき、日の光を一日も見ずに土の底にうごめいている多くのものを考える。この「『世界意識』という神聖な病気」は近代の知識人に共通する問題であり、近代文学の基本的な主題として、近代文学を発展させる原動力となった。それは近代社会の矛盾が人間疎外、自己疎外の問題として、知識人の意識に集中的にあらわれたのである。
日本の近代文学においては、知識人の内部矛盾の問題はまず理想と現実の矛盾としてあらわれた。北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋等はこの矛盾を追及して自然主義文学を生んだのである。やがてそれは社会と個人、社会と自然の問題を知識人内部の意識の矛盾、その分裂と二重性の問題として展開され、理性と感性、「頭脳」と「心臓」の矛盾相克が追及された。「自然の児」として生きるか、「社会の児」として生きるか、この矛盾を主題とした夏目漱石の「それから」は、日本の近代文学に新しい問題を提起したのであった。単に社会と自己の間の対立矛盾ではなくて’、自己内部の矛盾が主題とされたのである。「社会の児」たらんとする自己と、「自然の児」たらんとする自己が、一人の人間の内部に同時に存在する。心臓が求めるものを頭脳が拒否し、頭脳が求めるものを心臓が拒否する。漱石の「彼岸過迄」は「心臓(ハート)」と「頭脳(へッド)」が矛盾相克し、行動不可能になって立ちすくむ知識人の姿を描いた。
この近代知識人の矛盾、意識の分裂は、近代社会の矛盾が激化して、その悲惨な様相をあらわにし、プロレタリアートの自己主張、その解放の運動が時代をうごかしはじめたとき、いっそう深刻になった。漱石は「明暗」において小市民的知識人の生活を、社会の下層に生きる人々を描き出すことによって、新しい光で照らし出した。しかし一九一六(大正五)年、漱石の死によって中断されたこの作品では、この社会矛盾を自らの矛盾として追及する知識人は登場しない。多喜二の「『世界意識』という神聖な病気」は、社会矛盾の激化によってあらわにされた小市民的知識人の矛盾である。「それから」における「社会」は、人間の’「自然」を抑圧するものとしてあらわれた。それ放武者小結実篤は、漱石が「社会」と「自然」の矛盾にひきさかれて、立ちすくんでいるのを批判して、どこまでも自己の「自然」を強調し、この「自然」に即して「社会」をつくりかえることを主張したのである。
武者小路にとっては自己の内部矛盾や意識の分裂は問題にならなかった。あらゆる矛盾にうちかって発展する「自己の単一性と絶対性」が信しられている。そこに懐疑的でない、健康で逞しい武者小路の自己主張と行動性、素朴でむき出しな力強い文学が生まれた。しかし多喜二にはそのように、「自己」を信じ、「自己」を主張することができなかった。多喜二の「自己」は現実の暗黒に照らし出され、底辺に生きる人々の悲惨な現実を自らの苦悩としてになわなければならなかった。自己の幸福を求める心は、この現実の暗黒をおもう心と矛盾する。しかもこの現実の解放なくして多喜二の「自己」の幸福はないのである。多喜二の「自己」は現代社会の矛盾にひきさかれ、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれて、ひたすらその苦悩を深めていかなければならなかった。
多喜二は自分が貧農の子であり、「赤貧洗う、と云ってもまだるっこい生活」をしながらも、親類のおかげて高商を出て、銀行員としての小市民的な生活をしているところに、「あらゆる事件に打ち当っての矛盾、不徹底」の由来があると考えた。このことを多喜二は一九二六(大正一五)年九月の日記に書いているが、この自覚は葉山やゴーリキーにふれることによって、切実なものになったのであった。「その出発を出発した女」は日本の鏝底辺の暗黒に生きる少女の不幸を追求し、彼女を愛し、救おうとする安本の努力を、「自己をおもう心」と「世界をおもう心」の統一を求めるものとして描き出した。しかし安本の努力は空しかった。安本の努力が失敗に終ることを描くことによって、多喜二は個人の努力や善意によってはどうすることもできない苛酷な現実を描き出し、そこからお文と安本を新しく出発させようとしたのである。しかし一九二七(昭和二)年五月ごろからとりかかったこの作品は、十一月に中篇までで中絶し、「防雪林」が書きはしめられた。この時期の時代の激動が多喜二の思想と生活をゆり動かし、知識人としての「自己」をやきつくす火を激しくもえあがらせたのである。
「その出発を出発した女」の行きづまりについて、多喜二は「あまりに個人的に心理を開展して行くことが自分を不安にしたから」と書いている。そして同じ日の日記に「防雪林」について「原始人的な、末梢神経のない、人間を描きたいのだ。チェルカアソュ、カインの末裔、如き。そして、更に又、農夫の生活を描く。」 と書いている。これは多喜二の内部にもえる火がいかなるものであるかを端的に示す言葉である。「我等何を為すべきかではなくて、いかになすべきかの時代だ」というもえたつ思いが、「その出発を出発した女」を中断して、「防雪林」を書かせた。現実を変革するのは知識人限りない自己矛盾と自己苛責の苦悩ではなくて、虐げられた民衆の生きようとする本能であり、自然そのものである逞しいエネルギーである。
「防雪林」の源吉は、知識人としての多喜二をつき倒し、うちのめす「原始人的な、末梢神経のない人間」として描かれた。「その出発を出発した女」の安本や、多喜二自身の苦悩とは無関係な、逞しく行動的な人間である。源吉は無口な人間である。そして他の人間がワイワイいうばかりで結局何もしないでいるとき、「ノソ@くと出かけて行って、独りで、とてつもない大きなことを仕出かした」のである。彼の行動は「頭から」のものではなく、彼の本能=自然が彼にそれを強いるのであった。彼の怒りと反抗は、しいたげられ、収奪されつくす農民の生活から来るものであり、生きようとする本能=自然の欲求の爆発であった。
移住農民である源吉の父が、ようやく一人前の農地にした開拓地を地主に奪い取られようとしたとき、まだ幼かった源吉は、その地主の脛にかじりついてどうしても離れなかった。自然は万人に平等であるのに、法律は農民から土地を奪い、冷酷に農民をしめころす。自然の子である源吉は、このような法と権力を認めることができなかった。この小説が鮭の密漁からはじまっているのは、階級支記の道具であり、民衆から自然の富を奪って、飢えと貧困を強制する近代社会の根幹をなす、人為的な法の権威に対する「自然」の反抗が、この作品のテーマであることを示している。
「防雪林」の自然描写は逞しく雄大である。多喜二はゴーリキーの自然描写が「情熱的自然描写」ともいうべきもので、作者の主観が濃く出て、そこに作者の人生態度、世界観がはっきり出ていることに心を動かされた。とくに「チェルカカッシュ」の冒頭は「それだけで】世界文学にその価値を堂々と主張し得る名文だと絶讃した。「防雪林」の自然描写はこの「チェルカッシュ」を念頭におき、それに対抗しようとする抱負をもつものであった。多喜二は広大な北海道の原野を描き、氾濫のあともなまなましい石狩川を描いた。増水した石狩川に漕ぎ出し、激流に抗して奮闘する場面、密漁の鮭の頭を殴りつけ殴りつけする場面は、自然の巨大なエネルギーと自然そのままの逞しい人間が相うち、奔流となってもりあがるダイナミックな描写である。多喜二は巨大で無気味な自然を描き、この荒々しい自然の中に生きる人間を、大胆なタッチで描き出した。自然と人間のだたかいを通して、自然と人間はひとつになり、大自然の息吹きはそのまま源吉の息吹きとなって、作品全体にはげしく息づいている。
多喜二が描いた農民は、社会科学によって処理され、肉体のなまなましさや、不透明性を濾過された、観念としての農民ではない。多喜二の描いた農民は肉体をもった、自然としての人間である。自然の中に、肉体をもった人間として生き、働き、性欲につき動かされ、苦悩し、怒り、かなしむ。多喜二はその不透明な混沌たるエネルギーと情熱を描いた。社会科学が捨象する具体性において農民をとらえ、その生存の全体的様相を描き出した。そうすることで「防雪林」は芸術としての独自性を確立した。多喜二における「自然」の問題は、たんに自然描写の問題に倭小化されるべきではない。社会と人間をとらえる基本的な思想の問題であり、芸術を芸術として成り立たせる芸術のあり方の問題である。多喜二は人間を「自然」としてとらえ、近代社会における自然としての人間の疎外の問題を、たたかう農民を描くことによって追及した。こうして多喜二は近代文学の問題を正当にうけつぎ、それを発展させるものとして、プロレタリア文学の立場を確立した。それ故に多喜二は近代文学の遺産を全面的にわがものとする立場に立つことができたのである。
「防写植」を転回点として、プロレタリア作家としての道を歩きはじめた多喜二は、その後を一貫して人間の自然=肉体を描き、その土台の上に、社会を描き、解放闘争を描いた。「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「党生活者」などが芸術としての高い達成を示しているのはこのためである。多喜二は人間をイデオロギーに還元して観念化する傾向とたたかい続け、大地にしっかりと根をおろしたリアリズムの確立を目ざして努力し続けたのである。 
4 近代文学の新しい地平
「防雪林」を書いた多喜二の念頭には、有島武部の「カインの末裔」があった。この一九一七(大正六)年の作品によって、有島は作家として世に認められたのである。この作品は北海道の広大な自然の中に、自然そのままのような仁右衛門という農夫を描き出している。有島はこの作品について、仁右衛門は「自然から今掘り出されたばかりのような男」で、「人間と融和して行く術に疎く、自然を征服して行く業に暗い」と述べている。それにもかかわらず「生きねばならぬ激しい衝動」に駆りたてられて、「人からは度外視され、自然からは継子扱いされ」て苦しい生活を生きるのである。
「長い影を地にひいて、やせ馬の手綱を取りながら、彼は黙りこくって歩いた。」冒頭の文章である。冬が追ってはげしい風の吹く夕暮れ、立ち木一本生えていない大草原の心細いほどまっすぐな一本道を、赤ん坊を背負った妻をともなって、仁右衛門はよろよろと動いて行く。そしてこの作品は一年あまりの後、農場を追われた夫婦が、一頭の馬、一人の赤ん坊も「自然から奪い去られて」、吹きつける雪の中を何処へともなく歩き去ってゆくところで終っている。広大な自然の中で、彼等はいかにもちっぼけで惨めな存在である。有島は自然と人間を対立させ、人間を小さく惨めなものとして描いた。そして自然のままの人間である仁右衛門は、集団をなして社会的生活を営む村人だちとも対立して、孤立して生活する。仁右衛門は村人を軽蔑し、ひたすら本能の衝動に従って、エゴイスチックに生きる。仁右衛門が村の掟や約束に従わないのは、権力や地主の支配とのだたかいを意味するのではなくて、村人との共同や協力を拒否して、ただ自分勝手に生きるためである。自然と人間を対立させる有島は、個人と社会、人間の自然=本能と社会を対立させる。
「カインの末裔」は「自己を描出したにほかならない」と有島はいう。有島の地主制度、資本制変に対する批判はこの作品にもはっきりあらわれている。しかし有島はいかにして農民をこの苛酷な現実から解放するかを追及しているのではない。現実の農民の苦悩ではなくて、社会生活に虚偽を感じ、反社会的な破滅の道を志向しようとする、自分の内部にひそむ衝動を、仁右衛門という仮構の人物を通して表現したのである。社会の矛盾に敏感で、悲惨な生活にあえぐ人々をおもわずにいられない有島は、同時に自分の内部のエゴイズムを自覚して苦しむのである。そしてこのエゴイズムを絶対化して、このエゴイズムが人間の自然=本能であると考える。これは自然主義以来の思想であるが、有島にとって自己に志実に、自己の自然=本能に従って生きるとは、このエゴイズムに従って、排他的に、反社会的に、孤立して生きることであった。この時代の知識人の苦悩、「『世界意識』という神聖な病気」から、有島はこうして自己を救出しようとした。有島は一方で社会主義の到来を、当然な不可避なことだとしながら、ブルジョアの子である自分がその実現のために努力するのは、自己を偽るものであり、民衆の自己解放のためにも有害であると主張した。民衆は民衆自身によって、その自然=本能、エゴイズムによって解放されなければならぬ。ブルジョアの子である自分は破滅の道を歩くしかないというのである。
しかし人間の自然はそのようなエゴィズムとしてのみとらえられるべきであろうか。むしろ現代の社会制度、経済制度が、人間の自然を疎外してエゴィズムを生んだのではないか。自然は事物と事物を結びつけ、事物と人間、人間と人間を結びつけて、それぞれの個体を巨大な全体に統合する。たしかにそれはあらゆる矛盾、あらゆる闘争を内包する。しかしその矛盾、対立、闘争をつらぬいて、巨大な自然の統合の力、生成発展の力が働いている。武者小路実篤はこれを自然の意志、宇宙の意志、人類の意志と名づけ、自分の内部にそれが生きていることを信じた。武者小路は楽天的であった。自己を肯定し、自己を信じ、自由奔放に自己を主張した。武者小路も現実の暗黒、その矛盾、対立、闘争を見なかったのではない。しかしそれらを貫いて実現される巨大な調和を信じて、ひたすら自己を肯定したのである。有島もまたあらゆる矛盾を内に合みっつ発展する自然の生命を信じなかったわけではない。しかし現実の暗黒により強くひきつけられ、その矛盾、分裂を自分自身の問題として追及したのである。武者小路は自分の信念、信仰を語ることで現実をとびこえ、有島は階級対立の激化する社会の中で、ひたすら激化する知識人の自己矛盾を追及し、ついに自分自身をひきさいて破滅の道をあるいた。
「防雪林」の自然は人間を疎外し破滅させる自然ではない。現代の社会、国家権力、資本家、地主の支配は農民だちから自然を奪い、生活を奪い、人間を奪っている。源吉をつき動かす自然0本能の衝動は、それらの奪い取られたものを農民自身のものとして奪い返そうとするものであり、村人たちの歴史と生活にしっかり結びついている。仁右衛門が過去もなく未来もなく、何処からともなくあらわれて何処へともなく去って行く孤立者、漂泊者であるのに対して、源吉は処女地をきり開き、荒れた大地を耕して農地にした父たちの労苦と結びつき、同じ運命をになう村人たちのよろこびとかなしみ、その労苦の生活ともっとも深い所で結びついている。
源吉は北海道の大地にしっかり根をおろした農民として、大地と大地の富を奪うもの、恋人を奪い去りふみにじるものに対して、はげしい怒りを叩きつけた。その怒りはすべての農民の心の底にうっ積している怒りであった。源吉をつき動かす自然=本能は決して排他的なエゴイズムではなく、源告を村人だちから孤立させるものではなかった。この作品の冒頭の鮭の密漁の場面でも、源告は密漁した鮭を決してひとりじめにしようとせず、村人たちに配っている。それが源吉の自然な感情であった。自然をひとりじめにして農民たちから奪いとるものに対する、自然=本能の怒りが源告をつき動かしたのであったから。
たしかに自分だけの利益を追求する排他的なエゴイズムが現代の人間をかりたてていることは否定できない。しかしそれを自然=本能として固定化し絶対化することはできない。むしろそれは、現代の社会経済制度が人間の自然=本能を疎外することによってつくり出した社会的なものだということができる。このような社会に対するたたかいは、新しい人間と人間の結びつき、新し.い人間の回復を目ざすものである。多喜二が「防雪林」で描いたのは、このようなたたかいの原動力となる自然=本能であり、貧困と抑圧に苦しむ貧農ひとりひとりの、おしひしがれた生活と心の奥深くにもえくすぶっている熱い火である。
多喜二は内地を追われて移住してきた農民の故郷への熱い思慕を描き、土地に対する異常なほどの執着と懸命な労働を描いた。しかし彼等は故郷を追われ、土地を奪われ、辛うじて生きているという惨めな生活を強いられる。老人たちは宗教に救いを求め、若者たちは都会にあこがれて村を出て行く。都会に出た女たちは淫売婦に転落してゆく。源吉の恋人は都会に出て大学生にだまされ、妊娠して帰郷し、悲惨な自殺をとげる。多喜二はこの現実を深い愛情と、はげしい怒りをこめて描いた。この悲惨な生活のどん底から、彼等はもうどうにもならなくなって立ちあがるが、戦いは敗北に終り、残酷な拷問が彼等をうちのめすのである。
「防雪林」はしかし日本の農民の一般的な現実をありのままに描き出しただけのものではなかった。貧困と社会の重圧におしひしがれ、因習と法に縛られて運命に翻弄される農民のみじめさを描くだけでなく、そのみじめな生活の深奥にもえている熱い火を、源吉という人物を創造することで描き出した。それはまた、銀行員という小市民的生活の中で中途半端なぐずぐずした生活しか出来ぬ多喜二自身の内部にもえる熱い火、自然=本能の衝動の表現でもあった。「防雪林」もまた多喜二自身の「自己を描出したにほかならない」作品だということができる。
しかし「防雪林」は、「『世界意識』という神聖な病気」にむしばまれ、生活と意識、自己意識と世界意識の矛盾に苦しむ有島が、自分の内部のエゴイズムを自然=本能の衝動としてとりだし、他を捨象して描き出した「カインの末裔」とは本質的に異なっている。仁右衛門は農民の現実、その矛盾や苦悩とは無関係に、ただ有島の「自然=本能」の観念に具体的な形をあたえたにすぎなかった。それは有島がブルジョアの子であり知識人であることによって制約され、疎外された自然=本能であるにすぎず、北海道の原野をきりひらき、きびしい自然とにたかって生きてゆく農民とは、まったく異質のものであることをまぬがれなかった。
有島は社会矛盾が激化した時代の知識人として、時代の苦悩を一身ににない、新しい可能性を求めて苦しんだ。有島は「自然=本能」を強調することによって、知識人の限りない意識の分裂を解決しようとした。有島は自然を軸として人間と社会の矛盾を追及し、近代文学の新しい段階をきりひらいた作家だということができる。しかし有馬は自然=本能を根源的にとらえることができず、疎外された自然=本能を自己意識や世界意識と対立させ、知識、文化、社会と対立させたため、人間と社会の土台の上にダイナミックに全体的に描き出すことができなかった。本能と知識、自然と文化、生活と意識、自己と世界、自然と人間、自然ど社会等々が限りなく並列的に対立させられ、知識人の自己意識や世界意識、その知識性、社会性をきりすてるかたちで、その「自然=本能」を強調したのである。このような有島の思想と文学が非現実的であり観念的であって、知識人の矛盾を解決するものでないことはあきらかである。それは現実と自己を変革し、発展させるものでなく、現実の矛盾を固定化し、絶対化するものであった。
多喜二は同時代の知識人として、有島の苦悩を自分自身の苦悩として追及するところに、その思想と文学を発展させた。しかし自己をひき裂く生活と意識の矛盾が、銀行員という小市民的生活から来るものであることを自覚し、現在の生活によって自然=本能が疎外され、ねじまげられていることを自覚したとき、自分の内部にくすぶり続け、限りない自己矛盾にかりたてるものこそ、自然=本能の衝動だということをはっきり感じとった。自己内部の矛盾と分裂は、社会性や意識性をきりすてることによって解決することはできない。この矛盾を生み出す根源をあきらかにすることによって、はじめてそれは解決される。多喜二はそれが自然=本能と、それを疎外する社会=小市民的生活の矛盾であることを明かにした。自然=本能の衝動はそれを疎外する社会、小市民的生活、そこに生まれる小市民的な生活意識とたたかい続け、変革しなければやまない。多喜二は自然=本能の衝動を、このような変革のエネルギーとしてとらえ、そのもっとも直接的なあらわれを農民に求めて、源吉をつくり出した。この自然=本能は社会や知識や文化等々に対立させられるのではなく、新しい社会や知識や文化等々を生み出す根源的なエネルギーである。この多喜二の「自然=本能」の把握は、近代文学に新しい地平をきりひらくものであり、プロレタリア文学を近代文学史において、たんに政治的立場やイデオロギーによってではなく、文学自体の質的な発展として位置づけるものであった。 
 
小林多喜二『東倶知安行』

 

『東倶知安行』は、一九二八年(昭和三)二月の第一回普選の選挙闘争の体験を描いている。経験の順序とすれば『一九二八年三月十五日』に先だつわけだが、作品としては『一九二八年三月十五日』のあとを受け、それをのりこえて新しい境地をきりひらこうとしたものである。
『一九二八年三月十五日』を書きあげたときの感動を多喜二はのちに『「一九二八年三月十五日」』(『若草』一九三〇年九月号)その他に書いているが、ひとりでじっとしていることができず、なにも知らぬ友人にコーヒーとビフテキをおごったという。それはただたんに力をこめた作品を完成したという感動であるにとどまらザ、この作品を書きあげることによって、自分が新しい場所に進み出たという感動でもあったとおもう。すなわち多喜二はこの作品によって、敵権力の前にはっきりとその姿をさらし、もはやひき返すことのできぬ場所にわが身をおいた。
『東倶知安行』には、はじめて実際運動に参加した青年の感動があふれるような清新さで描かれているが、それは『一九二八年三月十五日』によって、全体的な革命運動の一翼として新しい一歩をふみ出した作者の感動と重なりあい、それに支えられて、生きいきした文学的リアリティーを生みだしている。そこには『一九二八年三月十五日』を書きあげ、それを発表することによって作者自身のものとなった新しい自己発見の感動、歴史と民衆の広範なたたかいとしっかり結びつけられたという自覚とそれにもとづく新しい決意がある。
二月の選挙のあとで多喜二は『瀧子其他』を改作して『創作月刊』四月号に発表し、また三・一五直後の四月には『防雪林』を書きあげている。いずれも前年からとりかかっていた作品であるが、その末尾が放火、もしくは放火を暗示する形で終わっていることは偶然とは考えられない。『瀧子其他』の場合、前年九月のノート原稿『酌婦』では、窓の下をメーデー行進が通るところで終わっているのだから、この改作部分がとりわけて当時の作者の暗い心境を示していることになる。それは『東倶知安行』の末尾で、開票の当日、「私」が「老人」と場末のバーで飲んでベロべロになってしまうのと無関係ではない。
生まれてはじめて参加した選挙闘争の体験が、多喜二の生涯に決定的な意味をもつものであったことはたしかである。前掲文に多喜二はこの選挙のときいっしょになった「色々のタイプの人たち」について書き、「それ等がすベて全く新しい『驚異』をもって迫ってきた。われわれはそう何時でも、個々の経験に対して『驚異』という言葉を使える打ち当り方をするものではない」(傍点原文)、とのべている。しかしあらゆる努力にもかかわらず選挙は敗北に終わり、現実はますます暗黒にむかって進んでいった。そして多喜二には銀行員としての同じことのくり返しの生活が続いた。選挙の体験が切実であればあるほど、多喜二は焦躁感に苦しみ、ぬけだすことのできぬ中途半端な生活が耐えがたかった。三・一五はこのような多喜二をうちのめした。
「『残されたもの』の悲哀に溺れながら、『午前四時』を、循環小数のように繰りかえしている。ボヘミアンのライフだ。酔眼をしょぼしェぼさせながら、午前三時頃、カフェー・キリンのテーブルで=・=」(傍点原文)と多喜二は三月三〇日の斎藤次郎宛書簡に書いている。ここには挫折感にうちひしがれ、行くべき方向を見失って彷捏する小市民的インテリゲンチアの姿がある。弾圧で仲間たちを失って絶望的になった多喜二は、『防雪林』の末尾を組織的なたたかいに敗北した源青の放火で終わらせざるをえなかった。そのことによって、作者自身のおさえることのできぬ反抗と憎悪を、絶望的なままに投げつけたのである。
たしかに多喜二における社会主義への志向は、一時的な挫折や敗北によってかき消されてしまうようなものではなかった。選挙前の二月二日づけ新井紀一宛書簡には、自分は「必然的に」実際運動に参加していくのだと書き、「それは自分の生活、境遇、意識、文芸と離し切れない交互作用から来てい」ると告げている。多喜二は社会主義者として生きるしかなかった。しかもそうであればあるほど、自分自身のエゴイズムに苦しみ、挫折感におそわれ、懐疑と焦躁と絶望におちこんでいった。そのようなかれをつき動かし、新しい決意をもってたちあがらせたのは、獄中の同志たちの不屈のたたかいであり、ナップの成立であった。
蔵原惟人らのはげましのもとに、『一九二八年三月十五日』を書きあげた多喜二は、自分自身をはっきりと国家権力と対決する場所におき、そのことによって同じたたかいをたたかう数しれぬ人びととしっかりひとつに結びついたのである。この事命的連帯の真新しい感動のなかで、多喜二は、自分が長い孤独な彷復のはてに、ようやく自分のあるべき場所に到達したこと、自分がまさに真の自分として、歴史のまっただなかに、世界のまっただなかに立っていることを感じた。『東倶知安行』をつらぬくものは、この新しい自己発見の感動である。
『東倶知安行』を書きあげてまもなく友人斎藤次郎にあてて、「君が、自分の画のどれに対しても自信のもてないという事は、キット、内面的に見て、自分の本質が分らないからではないかと思う。又、君の描く画が、一作毎に変るのだとしたら、矢張り、本質への盲目から、そのことが来ているのではないかと思う」(一九二八年一〇月六日付)と書いている。多喜二はこのことばを、『一九二八年三月十五日』『東倶知安行』を書くことによって、はっきりと自分自身に到達しえたという自信のうえに立って書いたのである。
もとより多喜二における自分自身の発見は、同時にいたるところのすみずみで、労苦に耐え迫害に抗してたたかい続ける名も知らぬ無数の人々との連帯の発見であり、またこの民衆のたたかいを支える長い苦難にみちた相剋の歴史の発見であった。この発見の感動に貰かれることによって、多喜二は『一九二八年三月十五日』から『東倶知安行』 へとその主題を発展させた。 
『一九二八年三月十五日』ではもっばら警察内部のたたかいが描かれた。大衆からも仲間からもきり離されて、 ひたすら精神力だけを頼りに、極限的な苦痛に耐える孤独なたたかいである。しかしそれとの対決なしにはいかなる革命的思想も空語に終わるしかなかった。天皇制下の日本にあっては、それは避けることのできないもっとも本質的なたたかいであった。多喜二は拷問の場面を力をこめて描き、国家権力の本質をあばきだすと同時に、そのことによって自分自身の小市民性と必死にたたかった。それは獄中の仲間たちのたたかいと同様、外部の現実からきり離され、ひたすら自分自身の極限を見つめるたたかいであった。それがこの作品を重苦しく息づまるものにしている。
『東倶知安行』はこれとはまったく対照的に、選挙闘争というもっとも大衆的な場面で、広範な大衆との結びつき、運動を支える基盤の広さと探さを追求している。吹雪の平原を馬橇で突っ走る場面に象徴されるロマンティックな革命的情熱の高揚は、重苦しい拷問の場面とは対照的である。ここにはひろびろとした広がりがあり、ダイナミックな動きがある。ひとりの青年が中途半端な会社員の生活のわくを破って、躍動する運動の前面に出ていき、直接大衆に語りかけ、働きかける。そしてかれは同志を見いだし、自分自身を見いだす。
しかしだからといって作者は現実の暗い部分を見落としているのではない。『一九二八年三月十五日』と同様に、自分自身の小市民的意識と対決し、また運動そのものが内包する矛盾にも鋭い目を向けている。「私」は選挙のために組合に出入りしていることがわかれば、それだけで「首」になる銀行員だった。そしてその首には六人の親子がぶらさがっていた。しかし「私」は勤めのために表だった活動ができぬことを「運動への大きな『卑怯』」と考え、自分のエゴイズムを乾しく責めないではいられなかった。多喜二はインテリゲンチアの意識と生活の矛盾を追求し、それからの脱出の喜びを描いている。すなわちこのような「私」だったから、遊説隊に欠員ができてそれに参加することができたとき、その喜びは大きく、「出征軍人のように」興奮したのである。
倶知安行きがきまった夜、「私達」がいつも通る薄暗い小路を通る場面を多喜二は書いている。そこには淫売屋が二、三十軒も軒をならべ、「雪の遠慮もなく吹込む土間に、女がショールを首にまきつけて、袖に手をひっこめたまま、表を見て立っていた」。それは初期の多喜二がもっばら追求してきた世界である。出発の前夜の場面にこの情景をあえて挿入したのは、作家としての多喜二が過去への別れを告げているのだと思う。多喜二はこの救いのない暗黒の世界を追求して苦しみ続けてきた。むしろその苦しみによって社会主義へと進み出たのである。そこを巣立って、はげしいたたかいの場へ、光り輝く躍動の世界へ出発サる多喜二は、しかしそのたたかいが、この暗黒の世界に光明をもたらすものであることを、この短い場面で暗示している。ただありのままに経験を語っているように見えるこの作品は、対照の鮮かな、構成に苦心した作品なのである。
出発の朝の場面で、多喜二は沈下ケーソソの工事に行く人夫、駅のベンチに寝ている土工部屋から追い出されたと一見してわかる垢だらけの男を描いている。そして「物憂くあくび」をする駅員や、列車の中の朝鮮人労働者たち、これらの人びとが今朝は特別な意味をもって迫ってきたのである。「私」は自分をとりまく世界としっかり結びつき、どんな他人も自分と無関係なよそよそしい存在ではなかった。銀行の壁のなかで「蛆虫」のように受動的に、無意味に生きた青年が、その長い苦しい彷復のはてに、ついにその壁を破って明るい光のなかに出てきた。この作品のいたるところからあふれ出ているのは、人間的連帯の感動であり、さなぎのからを破ってとび出した人間の、ういういしいよみがえりのよろこびである。
かれは自分が世界に働きかける人間として、はじめて世界のまっただなかに立っているのを感ずる。かれは世界に手蒜ばサ。すると世界もかれに手を伸ばす。そしてかれは自分がはじめて本当の自分として生きているのを感ずる。かれは列車の窓から山のなかにはられたビラを見つけ、「目につく、目につく−・」と「子供のように」喜ぶ。一枚のビラにもそれをはった人たちを感じ、その人たちとの結びつき、またそれを見る人たちとの結びつきを感じるのである。
私は広間諒に集った群衆を見た。私ほ興奮してきた。1私ほ叫ぶ。と、あの無数の群衆がそれと一慧つり上ってくるのだ。それは本当だろうか。私はこう云う。と、彼等はそうしようと手をさしのべてくる。彼は「求めている。」私はそれが「何」であるか、そして、それは「どうすれは」獲得出来るかを云う。そこで、彼等は「そうだ」「そうだった」と云つて立ち上るのだ!だが、それほ本当に出来るだろうか!
はじめて演壇にあがる直前の興奮が、この文章の強い短いリズムを通して、直接に私たちに伝ってくる。私たちは「私」=作者の荒い呼吸の音をさえ聞くことができる。
こうした高揚がもっとも詩的な形象となってあふれ出ているのは、吹雪の平原を馬橋で突っ走る場面である。それはいかにも北海道らしい雄大な、そして荒々しくたくましい描写である。かれらは吹雪に声を奪われながら、無理に声をしばって思い思いに遠慮のない大声で、叫び、かつ歌った。荒れ狂う広大な大自然のまっただなかで、思いっきり解放された若い情熱は、吹雪がほげしければはげしいほど、いっそうはげしくもえあがったのである。しかし多喜二はこうした興奮を手ばなしで讃美しているのではない。吹雪のなかで道遠い、樺をひきかえす惨めな気持を多喜二は書いている。それは壷の象徴的な意味をもつ場面である。光明と同時に暗黒を描かずにいられないのが多喜二のリアリズムである。  
やらせておけば明日の朝までも演説し続けるという、目も見えず耳も聞こえぬ七十歳の老人のことを多喜二は書いている。こんな老人までもがこの運動を支えている。それはまさにひとつの「驚異」だった。かれは酔うとかならず幸徳秋水の昔話をした。十八歳の時から、こういう運動をやってきているのである。多喜二は大きな感動をもって、北のはてに雪に埋もれながら、七十歳になる今日までも、十人歳の日の情熱を失うことなくたたかい続けた老人の姿を描き出している。
この老人を飾る栄光はなにひとつない。金もなく地位もなく、目や写さえも奪われていた。そして余命もなにほどもなく、ついに革命の成就をその眼に見ることなく、空しく死んでいかねばならぬ。息子は老人に背いて家を出ていた。働きに出た娘は工場長におかされ、ストライキに破れてくびになり、いまは身を売って老人を養っていた。多喜二はこの悲惨な老人を通して、日本の解放運動の底辺にあるもっとも深い、もっとも真実なものにふれ、はげしくゆすぶられている。
「私のような小倒ロな人間は(私はかくさず云おう、実際この老人の前で何んの嘘が云えよう。)この何時目鼻がつくか分らない『何代がかり』の運動を、恐らくそう効目も見えず、又恐らく誰もそう高く『認め』てもくれないこんな所でしかも、こんなに大きな犠牲を払ってやって行ける本当の気持をもっているだろうか。」
多喜二は自分をこの老人の前におくとき、自分の覚悟がいかにうわついたものであるかを思いしらなければならなかった。自分は勝利を夢季て、レーニンのような「無産階級の『大立物』」になりたいと思っているのだ。もし一生かかって自分がそのまま埋もれ、前途の見通しもつかぬとしたらとっくに裏切ってしまっているのだ。多喜二は自分の内部にある革命にたいするロマンティックな幻想をあはきだし、中央に出て認められることを望む小市民的意識を鋭く追及している。
「私」はこの老人が「我等の島正」とよばれる「全国的な人気闘士」の代議士候補者とならんでいるのを「不思議に深い気持」で眺め、「理由が分らず憂鬱」になる。多喜二は解放運動の底辺を支える暗い現実を見つめ、表面にあらわれることのない無数の犠牲と労苦を、複雑な感動で感じとった。そして多喜二はそこに自分の進む道を見いだした。解放運動をその表面のはなやかさにおいて描くのでなく、それを支える暗い現実を追求サるリアリズムの道をえらんだのである。
政治的スローガンや革命的情熱の高揚に酔い、現実のリアリスティックな追求を怠る主観主義的傾向に対立して、多喜二はその文学的出発以来徹底してリアリズムの道を追求してきた。その努力が解放運動の現実と結びついて『一九二八年三月十五日』を生んだのだが、『東倶知安行』はその成果のうえにたって、さらに深く運動の内部にはいり、運動が内包する矛盾、その暗い部分にまで迫っていったのである。多喜二はこの矛盾から目をそむけることなく、矛盾を内部に卒みつつおし進められる運動の姿を追求するところに、その新しい道をきりひらいていこうとした。
敗北に終わった開票の日、家にじっとしていられずに小樽に出て来た老人と、場末のバーで酒を飲む、暗いなんともいえぬやりきれぬ場面でこの作品は終わっている。べろべろに酔った老人は、歩きながら「辛徳秋水」のことをなん度もくり返すが、「私」は老人が小樽に出て来た金は娘が身を売って得たものだと気がついて愕然とする。多喜二はこの悲惨な事実を悲惨な事実として描き出している。しかし多喜二はそれをひたすら解放運動の犠牲として、運動の非人問性を糾弾しょうとしているのではない。たしかにこの老人と娘の生涯は犠牲の生涯である。解放運動はかれらの苦しみをふやしこそすれ、へらしはしなかった。それは耐えがたい矛盾である。しかしこの矛盾のゆえに解放運動を否定するならば、結局において現状維持を肯定するブルジョア的ヒューマニズにおちいることをまぬがれない。それはこの現実をそのままにしておいて人間的でありうるという前提にたっているのである。多喜二はこの矛盾を矛盾として見つめ、犠牲の痛みに胸をえぐられながら、それでもなおたたかわれるたたかいに、複雑な気持で感動している。
多喜二は「人間的」ということを、たんに観念的に、センチメンタルにとりあげるのでなく、その深刻な矛盾において追求している。組合の委員長鈴本は「嬶(かかあ)」をぶん殴ってきたという。その妻はなにもなくなったから飯を炊く炭や石炭を貯炭場から盗んでくるという生活に耐えているのである。四人の子どもは喰うや喰わずでやせ衰え、学齢になっても学校へやることができない。電灯は三カ月前からとめられている。家族を犠牲にして運動に奔走する鈴本は非人問的であると責められなければならないか。
多喜二はこの鈴本や老人の生活と対比して、自分がしばりつけられている会社員生活を描き出している。立身出世して「人を使えるような」支店長になろうとする「意識」がかれらを支配している。そのためにはどんなことでもし、資本主義の発展椎持に全部の望みをかけているのである。同僚が首をきられようがどうしようが、いっさい知らぬ顔をしている「個人主義」、「勿事(ことなかれ)主義」がかれらのモットーである。多喜二は「彼等が『犬(傍点)』という名前で呼ばれていないことを不思議にさえ思う」と書いている。
しかし「私」は偽りの届け出をして、ほんのひとときその生活から脱け出しているにすぎない。もしもそれから全的に脱出しようとすれば、鈴本や老人の苦しみにかれ自身が直面しなければならない。多喜二はかれらの苦しみ、解放運動に内在する矛盾を、自身の問題として真剣に直視している。そこには資本主義社会にあって人間的に生きようとする人間の矛盾が、もっとも先鋭な形であらわれているのである。 
『東倶知安行』において多喜二が、はじめて実際運動に参加して直接大衆にふれ、新しく自分自身を発見した感動を描き、その人間的意味を明らかにしただけでなく、運動の底辺に生きる人間の苦しみをとらえ、それを解放運動の内包する矛盾として追求したことの意味は大きい。それは作者自身が生涯をかけてこの運動に参加しょうとし、それゆえその矛盾をみずからの矛盾として苦しんでいたからこそ可能なのであった。しかし多喜二はこの矛盾に苦しむ自身の生活をリアリスティックに追求するのではなく、それをとびこえることによって運動に参加しようとした。作者はその矛盾を鋭く描き出しながら、強引にそれをとびこえようとしている。この作品を貰くものはその飛躍の感動であるが、それは矛盾が矛盾として描かれることによって、いっそう強い感動として表現されている。しかし現実生活をとびこえた多喜二は、リアリストとしてもう一度現実に帰ってこなければならない。多喜二は「老人」の悲惨な現実を描くことでこの課題に答えようとした。そこに多喜二のリアリズムがあるわけだが、それを描いたこの作品の結末は、暗い中途半端なものになってしまっている。そこにこの作品の問題点が残っている。
たしかに日常生活からの飛躍と断絶なしには解放運動に参加することはできないであろう。しかしそれは日常生活の矛盾の発展としてのみ可能なのであって、日常生活からの飛躍と断絶と同時に、その連続が追求されなければならない。この点で『東倶知安行』における多喜二のリアリズムは不徹底であった。会社員としての生活の矛盾を徹底して追求し、それを内部から克服する可能性を探るかわりに、その醜さがひたすら「清算」すべきものとして、固定的に強調されている。解放運動の現実は、現実に生きる「私」の会社員としての日常生活とはひたすら対照的に、それからの離脱と隔絶の場所でのみ描かれている。多喜二は自分自身の日常生活の暗黒をとびこえることで、日本の現実をとびこえてしまった。それゆえ、革命運動が内包する矛盾を鋭くとりあげながら、しかもその内部に深くたちいり、日本の現実の全体的な矛盾との関係において、十分リアリスティックに描き出すことができなかった。それは多喜二がこの選挙闘争のあとで、挫折感に苦しみ、絶望的にならざるをえなかった事情と無関係ではないのである。
「私」は「島正」とならんだ「老人」の姿に「理由も分らず憂鬱に」なるが、多喜二はそこからさらに一歩進んで、この老人の内部につきいることができなかった。それゆえこの作品は解放運動の光と影を、その鋭い対照において照らし出すにとどまったのである。そこからこの作品のおちつきの悪い、中途半端な結末が出てきている。もしも多喜二がこの老人の内部にはいり、なにがかれをこのように生きさせるかを追求したならば、そこに日本の現実の矛盾が集中的に凝縮しているのを見たはずである。この老人の悲惨な姿に象徽的にあらわれた解放運動の矛盾と苦しみは、資本主義社会の矛盾と苦しみのもっとも尖鋭な、もっとも集中的なあらわれである。解放運動を支え、動かし、それを発展させるものは、日本の現実の矛盾と苦悩である。それゆえ解放運動の現実は、日本の現実を徹底的にあばきだし、そこに生きる人間の矛盾と苦悩をリアリスティックに追求することによってのみ、はじめて強固な現実性をもって描き出されえたのである。
『東倶知安行』は一九二八年九月に書きあげられ、『創作月刊』に投稿されたが、没になって掲載されず、一九三〇年になって『改造』十二月号に発表された。当時多喜二は獄中にあり、獄外の同志たちが残された家族の生活を心配して、この旧作を発表するように事をはこんだのである。多喜二はこの作品が雑誌に発表されることには反対で、この作品について「声変り時のニキビ中学生のように、この上もなく不愉快な、中途半端なものです」(一九三〇年十一月二十日付中野鈴子あて書簡)といっている。たしかにこの作品には、解放運動の現実をその内部から描き出すのでもなけれは、また自分の生活の矛盾を内部から徹底的に追求するのでもない中途半端さがある。会社員生活に自己嫁悪をおぼえ、離脱を願う青年が、運動の現実にふれて感動し、同時にその矛盾と苦悩にふれて暗い気持になる。結局それは解放運動を指向する小市民インテリゲンチアによってとらえられた運動の現実であり、その光明と暗黒であって、小市民的な観念性と感傷性を十分にまぬがれているとほいえないのである。
しかし多喜二ほ「何代がかり」の運動ということをくり返して強調し、広くて深い運動を支える底辺の現実に目を向けている。個人の力でほなくて、日本のいたるところのすみずみで苦悩に耐え迫害に抗してたたかう民衆の力こそ歴史を動かす力であることを、感動をもって描きだし、運動を広大な歴史的展望において把握しようとする地点にたっている。それは多喜二が明確に革命的作家として新しい一歩をふみ出そうとして、自分がはじめて実際運動に参加したときの経験を、新しい感動をもって描き出した作品であり、その中途半端な結末をも含めて、そうした多喜二の新しい出発を記念する作品となっている。
たしかに中途半端な結末に終わらざるをえなかったことはこの作品の欠陥であるだろう。しかし多喜二が革命的な高揚だけではなく、底辺にあってたたかう人間の悲惨ともいうべき現実に目を注いだことの意味は大きい。そこにリアリスト多喜二の鋭い目がある。多喜二は現実から目をそらすことによってではなく、いっそうそのリアリズムを徹底させ、日本の現実の陪黒に深くはいっていくことにょって、この作品の欠陥をのりこえようとした。すなわち次作『蟹工船』は、日本のもっとも暗い地獄的な現実を徹底して描き出し、あらゆる矛盾にもかかわらずおし進められる解放運動の必然性と、その人間的意味をあきらかにした。
『蟹工船』において多喜二ははじめて資本主義社会のもっとも残酷な搾取の場にたち、その最底辺で虐使される労働者の生活をリアリスティックに追求することによって、日本の現実とその解放のたたかいを、もっとも深いところから描き出した。この最底辺の地獄的世界から照らし出すとき、日本の現実のあらゆる矛盾と苦悩は、はじめてその総体的連関において、生きいきと立体的に描き出すことが可能となった。多喜二はプロレタリア・リアリズム確立の道を一歩大きくふみ出したのであるC
『東倶知安行』はそのような多喜二が、小市民的インテリゲンチアとしての自身に訣別し、労働者農民のたたかいに参加することによって、ゆるぎないプロレタリア・リアリズムへと到達しようとする、その新しい出発の過渡的な姿を示す作品である。のちに多喜二はこの作品を「その芸術的価値は別として、私には忘れられない作品である」(前掲「『一九二八年三月十五日』」)とのべている。それは労働者農民の「己れ自らの活動舞台」への登場と、「急進的な知識階級のホウハイとした合流」という歴史的事実を示しているというのである。しかしそれはたんにそこに描かれた歴史的事実のためばかりでなく、プロレタリア・リアリズムの道へと新しい出発を出発したプロレタリア文学運動の新しい出発の姿を示し、それが内包する矛盾を明らかにすることによって、プロレタリア・リアリズムの新階段を準備した作品として、その文学史的意味において、「忘れられない作品」なのである。 
 
帝国主義と文学 / 韓国で小林多喜二を読む

 

韓国日本語文学研究会にご招待いただき、講演の機会をあたえてくださったことに感謝します。
日本と韓国のあいだには日本による韓国領有、過酷な支配という悲惨な過去がある。それを忘れて、いま、韓国で日本文学について語ることはできない。それは過去の不幸な出来事ということはできない。「強制連行」や「従軍慰安婦」の問題について、いまの政府(当時)が責任を明らかにせず、その事実についてさえ明確に認めようとしないからである。
しかし、朝鮮や中国人民に対する過酷な抑圧と虐使の根柢には日本人民に対する同様な抑圧と虐使があった。また、売春の強要、性奴隷化は日本人女性に対してかつてながくおこなわれた。これが従軍慰安婦問題の基盤となったことは明らかである。小林多喜二はこれらの問題を追及し、事実を隠蔽する政府やジャーナリズムの欺瞞とたたかい、そのために、警察に検挙されたその日のうちに拷問で殺されるという最期をとげた。
多喜二は『蟹工船』(1929年『戦旗』5、6月号)に帝国主義的搾取の実態を次のように記している。
――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。[中略]「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。
この虐待の現実は強制連行の現実をまざまざと想像させる。『蟹工船』に付記として多喜二は「――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。」と記している。北海道は元来はアイヌ人が居住する蝦夷地だった。江戸時代には松前藩がおかれ、アイヌとの交易等に従事し、北海道と呼ばれるようになった。開拓移民が大量に移住し、急速に開発が進んだのは、明治になってからである。最初は没落した士族が屯田兵として移住していったが、やがて内地で行きづまった人々が大量に流入して行った。小林多喜二の一家が秋田から伯父をたよって小樽に移住したのは1907(明治40)12月下旬だったが、翌年一月から小樽区若竹町で第2期小樽港築港工事が開始された。一家はこの工事現場の近くに居住し、パン屋を開業した。小樽は北海道の物産、石炭,木材,農産物の移出港となり,同時に港湾を背景とする商業活動の中心地として発展した。特に日露戦争以後は本州,樺太,大陸との間の船舶の往来がさかんになり、商業活動が活発だった。この小樽の繁栄をささえるものは内地から移住してきた貧しい小作農民であり、苛酷な労働を強いられる監獄部屋の労仂者であった。
築港が埋立された、倉庫が立つ、レールが引かさる、文化が開けると云う。然しそこには、「監獄部屋」によって、封建時代の「人柱」のそれが、一分一厘も違わずそのままそっくりより巧みな近代的な方法でちアんとなされているのだ。鉄道が開通した、国道が開けた、そう云って提灯行列でもする、だが然し、そこの土には生きた人間の血と骨が、うずめられているのだ。
文明だ、進化だと云う−−(その実誰の文明だ、誰の進化か!)が、その底にいて、そいつを支えている人柱が、誰でもない「プロレタリアート」なのだ。文字通りそうなのだ。自分等のものゝ為でもないのに!
「人を殺す犬」(小樽高商校友会誌第38号 19216年8月稿)の改作「監獄部屋」(ノート稿)の一節である。多喜二は築港建設工事現場の近くに育ち、そこではたらく労仂者の現実、逃亡した労仂者がどんな目にあうかを見聞して知っていた。「監獄部屋」には次のように書かれている。
その時後から蹄の音が聞えた。
捕まった! 皆ギョッとして立ち止った。振りかえってみた。−−源吉だった。
源吉はズブ濡れの身体を糸捲きのように、幾回にもロープでしばられていた。その綱の端が、親分の乗っている馬につながれていた。馬が少し早くなると、−−ワザに早くするんだ−−源吉は奴凧のように身体を振って、でんぐり返った。そしてそのまま石ころだらけの山途をズルく引きずられた。絆天が破れて、頬や額から血が出ていた。その血が土にまみれて、ドズ黒くなっていた。
アメリカ映画で白人が黒人を虐待する情景としてこのような場面が見られるが、日本でそれがあったとは信じられない。しかし、この作品のもとになった「人を殺す犬」では逃亡した労仂者をに土佐犬をけしかけて殺す場面があり、これは『蟹工船』の前掲引用文にも見られる。この「人を殺す犬」は「あまり残酷なので出せない」と高商の占部教授が言ったことについて「これを出す出さないなんて、些々たることだ。出したからって、出さないからって、『現実にある』事実をどうする積りだ。」と日記(一九二七年三月二日夜)に記している。
『蟹工船』には、国のためだ、国際競争に勝つためだといって、極限まで苛酷な労働に追い立てられる労仂者が「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」「こんなこと内地クニさ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ。」「んさ。ーこったら事って第一あるか。」などと話し合う場面がある。「炭山ヤマから来た漁夫」は「生命エノヂ的マドだな!」「やっぱし炭山ヤマと変わらないで。死ぬ思いばしないと生エきられないなんてな。瓦斯も恐オッかねど、波もおっかねしな。」と言う。この男は夕張炭坑で七年も坑夫をしていたが、ガス爆発で危うく死にそこねてから坑夫が恐ろしくなり、鉱山ヤマを下りてこの船に乗り込んだのである。
「漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や鉄道敷設の土工部屋へ『蛸』に売られたことのあるものや、各地を食いつめた『渡り者』や、酒だけ飲めば何もかもなく、たゞそれでいゝものなどがいた。」と多喜二は書いている。蟹工船には内地で行きづまって北海道に流入し、さまざまな労働を経験した貧農や労仂者が集まっていた。蟹工船の現実は決して孤立した〈異常な〉世界ではなかった。日本資本主義の発展を根底において支え、その矛盾が集中している最底辺の一般的な現実であった。
多喜二は蔵原惟人に宛てた書簡にこの作品は「蟹工船とはどんなものかということを一生ケン命にかいたものではない」「資本主義は未開地、殖民地にどんな『無慈悲な』形態をとって浸入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、如何に、急激に資本主義的仕事をするか」を描き出そうとしたのだと述べている。
「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。」多喜二は監獄の囚人より苛酷なな労仂者虐待の実態をこのように記し。「殊に朝鮮人は親方、棒頭からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。」と記している。 
小樽には積み荷や築港工事の現場で働く多数の朝鮮人労働者とその家族が暮していた。、彼らの生活を身近に感じて育った多喜二にとって、数千人のの朝鮮人が虐殺された関東大震災は衝撃だった。犠牲者6600人といわれてきたが正確な数字はわからない。事件の発端は「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をする」との流言だった。警察はこの流言にもとづいて「鮮人中不逞の挙についで放火その他兇暴なる行為に出ずる者あり」として厳重な取締りを命ずる命令を各署に出した。流言は拡大し、「銃器・兇器を携(たずさ)えた鮮人約二百名、玉川二子(ふたご)の渡しを渡って市内にむかって進行中」などと報告され、警視庁は、不穏の徒があれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令をくだし、自動車、ポスター、メガホンなどによって朝鮮人来襲の報を全市にまきちらした。朝鮮人暴動の流言は警察と軍隊の通信網によってつたえられ、新聞も大活字で市民の興奮をあおりたてた。流言は流言をよび、だんだんと尾ひれがついて「社会主義者やロシアの過激派がうらで糸をひいているのだ」などと言われ、社会主義者も市民のテロルにさらされることになった。救援活動に尽力していた南葛の労仂者平沢計七や河合義虎らが殺された亀戸事件、大杉栄事件などがおこった。
この震災の朝鮮人虐殺事件を題材に越中谷利一は「一兵卒の震災手記」を書き、一九二七年九月の『解放』に発表した。千葉県習志野の騎兵連隊に属していて、帝都の治安維持のためということで、実弾を携行し、戦時武装で出動させられた体験にもとづく作品で、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載された。
ああどうしたならば殺すことが出来たのか?――自分の前によろよろと両手を合わして跪いた彼等、国を××れ、国を追われ、××と侮辱と虐遇の鉄鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき――彼等を、どうして此の××××××××突くことが出来たのか。
「一兵卒の震災手記」の冒頭の一文である。朝鮮人の多くは、民間で組織した自警団によって殺されたが、警察や軍隊はこの暴行を阻止するどころか、自らも命令を下して、銃撃し、銃剣で刺殺した。虐殺は何日もつづいた。「一兵卒の震災手記」の主人公は、震災後十日もたって、夜間、非常呼集でたたき起され、集団化した朝鮮人を包囲して、皆殺しにする戦闘に参加させられた。この事件の背後には朝鮮人に対して過酷な抑圧と搾取をおこなっていた日本人が朝鮮人の復讐、独立運動をおそれていたという事実がある。朝鮮人は東京の各地で追い立てられ、逃げ惑っているうちに集団化したのであるらしい。日本軍は彼らを一か所に追い込み、突撃命令を出して、皆殺しにする作戦をとった。まさに戦争だった。
越中谷は、自身の経験によってこの暴行を描いたという。前記引用文は作者自身の感慨であろう。××が多いが、これは戦後、可能なかぎり復元された『越中谷利一著作集』によったのである。当時はさらに伏字が多く、最後の二頁は削除されてしまっていた。この作品は一九二七年九月の『解放』に発表され、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載されたが、このときも、最後の二頁は削除されたままだった。
『戦争ニ対スル戦争』が刊行されたのは、一九二八年三月十五日の大弾圧の直後のことである。ながくつづく経済不況は金融恐慌に発展し、倒産と失業がひろがっていた。中国では国民革命が進行し、北伐がはじまっていた。これに対して、日本の軍部は住民保護を名として軍事干渉に乗り出し、中国に対する軍事支配に不況脱出の道を求めた。1927年の五月には山東省に出兵し、6月には東方会議で対支侵略の基本方針を定め、28年6月には、満州で張作霖爆殺事件を起こした。天皇の名のもとに侵略戦争を推進するためには、これに徹底して反対する社会主義者、共産主義者を抹殺しなければならない。こうして三・一五の大弾圧が強行された。
小林多喜二はこの大弾圧に抗してたたかう人々をを描いた「一九二八年三月十五日」によってプロレタリア作家としての道を歩きはじめたが、1933年治安維持法によって検挙され、苛酷な拷問で殺された。「国体もしくは政体を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的」とする運動に加入したものを「10年以下の懲役又は禁錮に処す」と規定する治安維持法は、震災のどさくさにまぎれてあおりたてられた朝鮮人や社会主義者に対する恐怖と反感を利用して、震災直後の1925年4月制定公布された。さらに3・15事件で恐ろしい共産主義の幻影を国民に吹き込んで、最高刑を死刑とする改悪を実現した。
治安維持法は3・15事件を機に全国的に拡充強化された特高警察によって反政府・反資本主義的な思想や運動に対する調査・弾圧を常時おこなった。治安維持法はしたことを取り締まるのではなくて、政府に反対する思想を持ち、反政府団体に加入すること、すなわち思想を取り締まったのだから、あらゆる進歩的な個人や団体が対象とされ、スパイはその周辺をかぎまわった。プロレタリア文学は資本家・地主とのたたかいを描く文学だったが、それは権力とのたたかい、治安維持法=特高とのたたかいとして展開された。 
小林多喜二は1921年に小樽高商(現小樽商大)に入学し、1924年に卒業した。関東大震災は小樽高商在学中のことで、1923年11月、関東震災義損外国語劇大会でフランス語劇メーテルリンクの「青い鳥」に一級下の伊藤整とともに出演した。この高商時代にロシア革命と大戦後にひろがったデモクラシーと社会主義思想の影響を受け、革命と芸術、ヒューマニズムと社会主義の矛盾を悩み、卒業後の作家的生活の理論的基礎を養った。
1924年、高商を卒業して北海道拓殖銀行に就職するが、1925年10月、多喜二の出身校小樽高商で、配属将校が軍事教練で近郊の天狗山で地震が起こり民情不安を機に無政府主義者が〈不逞鮮人〉を扇動して小樽,札幌両市の全滅を画策しているので高商生徒は在郷軍人会と協力して,この敵を絶滅すべしとの想定を与えるという事件がおこった。小樽高商の学生は労働団体や朝鮮人とともに抗議に立ち上がり,小樽高商の学生の運動は全国的な軍事教練反対運動に発展した。母校でおこったこの事件から多喜二に大きな影響を受けたはずである。
1928年2月の第1回普通選挙の選挙運動では多喜二がはじめて政治的な実際運動に参加したが、このときの経験を作品化した「東倶知安行」には、同じ車中の「北海道の奥地の炭坑か土工部屋(監獄部屋)からの帰り」らしい20人ばかりの朝鮮人について書いている。
春と秋――冬、北海道の大抵のどの汽車の中でも、私達は十人、二十人の朝鮮人の群を見ることができる。プロレタリアは故郷を持たない。その標本が朝鮮人だった。そして更にそこに民族的な**関係が入りこんで、文字通り彼等は「故郷」の代りに「風呂敷包」一つを何時でもブラ下げて移り歩いている。しかも、労賃が日本の労働者よりも安いところから、日本のプロレタリアは朝鮮人に団結の手を差出す代りに「敵」だとさえ感ずる。アメリカの労働者と日本の移民のように。
O市の合同労働組合には、朝鮮人の団体と日本人の団体を持てあまして、それに対する正しい指導を持ち得ずに、根ッから失敗した苦い経験があった。それは私もきいていた。――こゝにも我々が必ず手を触れなければならない、然し最大の困難を伴う未墾地があった。
汚い手拭で鉢巻きをした小柄な朝鮮女が、身体を紙挟みのように二つに折って、うなっていた。女は不意に黄色いものを前一杯に吐いてしまった。監督らしい日本人がいて、何処かへ売渡しに引張って行く処らしかった。朝鮮人が女が死にそうだから、なんとかしてくれ、と云ってるらしいが、監督は手前え達に、そんな****のことがしてやれるか、自惚れるなと言ってるらしかった。この様子をじっと見つめて報告した吉川は、朝鮮問題に「可なり鋭い、深い考え」を持っていて、レーニンの民族問題と階級闘争の相関々係などを、朝鮮の具体的な事実について話した。
「東倶知安行」は高商卒業後銀行員になり、不幸な境遇の田口タキに対する愛を通じて自分自身の問題として日本社会の暗黒に触れ、次第に社会主義への傾斜を強めていった多喜二が、1928年2月20日の第一回普通選挙の選挙運動に参加し、高揚する運動の波の中でこれまでの自分と訣別し、新しい生涯へふみ出そうとしたことを描いた作品である。この作品で多喜二は移動する朝鮮人労働者の姿を描き、朝鮮人問題をこれから解決しなければならない問題だと強調していたのである。
「東倶知安行」を書き上げて間もなく、次の言葉ではじまる「自分の中の会話」(『文章倶楽部』一九二九年一月号)を書いている。
大名と地主と武士、この三つを何百年前から両肩に背負わされて、厳丈なその肩がそれ故にセムシのように湾曲している秋田のドン百姓が、矢張りその子供であるがために、生まれる前から)已にそうと朱印を押された第百番目かの(!)不幸な子供を生んだ。
土地を奪われた農民は移住民となって後から後から津軽海峡を渡り、北海道の奥地へ吸いこまれていった。「雪の平原を歩いてゆくとき、その一人一人の足に、然し矢張り重い鎖が不気味に引きずられていたのを、ドン百姓の子供は母親の骨っぽい背に感じていた」という原経験が多喜二の生涯と文学の根柢にある。故郷を追われた貧農の子という自覚が田口タキと深いところでむすびつけ、「防雪林」や「不在地主」の移住農民たち、「その出発を出発した女」や「瀧子其他」の女たち、「蟹工船」の労働者たちを、まざまざと自分の問題として描き出させたのであろう。「東倶知安行」に書かれた故郷を追われて北海道の各地を移り歩く朝鮮人労働者に対する強い関心も、この土地をうばわれた移住民の自覚と結びついている。貧農の子としての自覚、その歴史性の認識は多喜二の世界を急激に深め、発展させた。
「『カムサツカ』から帰った漁夫の手紙」(『改造』1929年7月号)には北海道に移住してきて、その日その日の暮らしのためにさまざまな臨時の季節労働を転々とした末、ついにカムチャツカ迄出掛けて行くようになった漁夫の手紙という形態をとって、その苛酷な労働の実態を記述しているが、次のように書いている。
食うためなら、我々労働者は北極迄も行くでしょう。然しやっぱり樺太あたりへ行くのとは異い、函館の港を出るときは、さすがに背中が寒かった。デッキに一時間もつかまったきりだった。妻と二人で、内地から雪の深い北海道へ初めて移住してきた時のことが、頭ヘジリくとかえってきた。又!又俺達は北へ追われるのか、フトそんな気になると、いくら擂木(スリコギ)のような漁夫だって、何んか、こう、いても立ってもいられなくなるようです。たった風呂敷包一つ持った、薄汚い朝鮮人が北海道のどの汽車にも、必ず一人は乗っている、あれを憐んだことがあった。今度こそ、それがそのまゝ自分だと思わさるのです。
この作品でも「朝鮮人やアイヌは、丁度日本の労働者がアメリカで嫌われるのと同じように、嫌われてい」ると書かれている。その朝鮮人を憐れんでいたが自分もまた同じ身の上なのだと思うのです。帝国主義の搾取に故郷を追われ、遠くカムチャッカまで流浪していく自分と、祖国を追われて日本の北の果てまで流浪する朝鮮人の同類性を明らかにし、日本帝国主義は日朝両国人民の共同の敵であるとを多喜二は明らかにした。その日本の労仂者が朝鮮人労働者を疎外し、侮蔑し、敵視し、反目し合っている。 
プロレタリア作家としての出発点で朝鮮人労働者の問題に注目した多喜二は、自己の思想的成長を大きなと運動への参加を日本の大きな時代の動きのなかに描き出そうとした大作「転形期の人々」(未完)では、朝鮮人を具体的な個人の登場人物として描こうとした。この小説は壊れかけたアパートの改築にともない家賃の値上げ問題がおこり、これに反対するさまざまな過去をもつ極貧の居住者たちが、次第に力をあわせてたたかおうとする1000枚におよぶ大作として書きはじめられたが、その序篇だけで満州事変がおこり中断された。発表は『ナップ』1931年10月号から『プロレタリア文学』1932年4月号まで約430枚、なお死後に残された未発表の断稿約50枚がある。
小樽の街には三千人以上の朝鮮人が、それも手宮の街とその附近にゴミくとさゝり込んで住んでいた。ーー小樽で一番朝鮮人を使って、その安い賃銀で一番儲けている商業会議所の副会頭の言葉に従えば、それは「小樽の虱」だった!
岩城ビルには毎日のように、朝鮮人が子供を背負った細君をつれて汚い風呂敷包み一つ持って室を借りにやってきた。しかし、差配は部屋が空いていても、朝鮮人の家族だけは二階のきまった室以外には入れなかった。若い独身の李、家族持ちで四十近い洪、夕張炭山で七年も坑夫をしていたという陽、冗談を言っては自分から「ヘッゝゝゝ」と笑って皆をわらわせる金さんなどが今住んでいる朝鮮人だった。
「東倶知安行」では群としての朝鮮人が描かれたにとどまるが、「転形期の人々」では姓があり、それぞれの過去と個人的特徴を持ったさまざまな朝鮮人が登場し、家賃の値上げ反対の運動で貧困な日本人居住者とともに積極的に活動する。居住者の間の差別意識は強かったが、家賃値上げ反対ということでは利害が一致し、民族的差別意識を乗りこえた共同のたたかいが展開されることになると思われる序篇の展開である。
日本人労仂者と朝鮮人労働者の対立の問題はこの作品でも描かれている。「合同労働では朝鮮労働者の問題が瘤だって云ってたよ」と若くて日本人よりも上手な日本語を使う李が云った。李は朝鮮語のほうが日本語よりすらすらしゃべれなかったが、日本語がたどたどしい年長の洪や陽のために朝鮮語をまじえて熱心に説明した。港で働いている合同の労働者たちが、朝鮮人に対してハッキリした対策をたてゝくれないと、飢え死するッて組合へ云ってくるということだった。現場の親方は又それをいゝことにして、お前ら組合を出たら、朝鮮人をやめて使ってやると引ッ掛けてきているらしかった。理窟は簡単で、あくまでも朝鮮人労働者の賃金を日本の労働者と同水準に高める、そのために日本人労働者が朝鮮人労仂者がと一緒に全部結束して同じ賃銀を獲得すれば、問題は解決するのだが、それがオイそれと出来ないので困るというのだった。
陽は「夕張炭山やッぱり同し」「夕張炭山クミアイ無い。それでも同し。日本人みんなイヤがる!」陽は朝鮮語で早口に「困る、困ると云っていたのでは、何時までも困るんだ。日本の労働者も困るし、何時までも安い賃銀で馬小屋よりもモット汚いところに往んでいる朝鮮の労働者も困るんだ。やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という意味のことを云った。李はその朝鮮語を誰かに分られはしなかったかと思ってヒヤッとし、陽にモッと小さい声で語せと朝鮮語で云った。
民族的差別による朝鮮人労働者の低賃金と苛酷な労働は、日本人労仂者の低賃金や苛酷な労働条件の基盤であり、朝鮮人労仂者の解放なくして日本人労仂者の解放はない。資本は民族的な差別意識を利用して、労仂者を分裂させ、相共に植民地的労働条件に押し込めている。これは理窟としてはわかっているのだが、実際には民族的差別意識に支配されて実現は困難だ。陽の「やる方法がたった一つしか無いとしたら、オイそれと出来なくたって、矢張りやらなければならないんだ!」という言葉の意味は朝鮮の独立を実現する以外に解決はないということだろう。それだから李はこの言葉がこの言葉の意味がわかることをおそれたのだと思う。
多喜二はこの作品のつづきを書くことに執着し、49枚の書きかけの断稿が作者が地下活動中いつも身辺におき、書籍や原稿類をいれていた大型トランクのなかから、作者の没後に発見された。執筆途中で警察の手で殺されたことは返す返すも残念なことである。 
日本の社会主義者は朝鮮の独立運動を支援し、朝鮮人労働者は日本の社会主義運動を支援した。中野重治は1929年、昭和天皇の即位を祝う御大典のために強制送還される朝鮮人の同志に贈る「雨の降る品川駅」(『改造』2月号)を書いた。
辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する
李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母〔ちちはは〕の国にかえる
[中略]
君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼を思い出す
[中略]
君らは出発する
君らは去る
さようなら 辛
さようなら 金
さようなら 李
さようなら 女の李
行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ
ながく堰〔せ〕かれていた水をしてほとばしらしめよ
日本プロレタリアートのうしろ盾〔だて〕まえ盾
さようなら
報復の歓喜に泣きわらう日まで 君らは出発する 君らは去る
昭和天皇の時代のはじまりとともに日本の大陸に対する侵略政策は確立され、1928年3月15日の大弾圧は日本と朝鮮の解放運動の先頭にたつ人々を襲った。中野の詩はこの弾圧に対する怒り、解放を求めるはげしい感情のほとばしりであった。それは両民族の連帯と共同の記念碑的作品だった。
日本の中国侵略は植民地を拡大することによって、日本の資本主義の危機を打開しようとするものだったが、それは同時に、日本と朝鮮、中国の労仂者にますます苛酷な植民地的搾取を強いるものであった。多喜二は満州事変勃発後間もなく、1938年2月、文学者として帝国主義支配とたたかうたたかいの途中で治安維持法によって検挙され、警察の拷問で殺された。1928年3月15日の治安維持法による大弾圧で検挙された同志たちのたたかいを描いてプロレタリア作家として出発した小林多喜二はこの治安維持法によって殺された。多喜二の作家的生涯は治安維持法とのたたかいだった。多喜二と同じくあきらかに虐殺されたものは虐殺されたもの80人、拷問・虐待が原因で獄死したものは114人、病気その他の理由による獄死者は1,503人だった。しかし、日本人で死刑の判決をくだされたものは一人もなかった。これに反して朝鮮人で死刑判決をくだされたものは19人におよんでいる。朝鮮人に対する弾圧がいかにきびしかったかを示していると思う。日本人と朝鮮人はともに日本帝国主義のために植民地的搾取を受け、ともに治安維持法による弾圧を受けた。
多喜二が死んだとき、魯迅は次のような言葉を寄せた。
日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界(さかい)を描いた、又描きつつある。
しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。
同志小林の死は其の実証の一つだ。/我々は知っている、我々は忘れない。
我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。
朝鮮問題に則して魯迅の言葉をを読むならば、次のようになると思う。日本と朝鮮の人民はもとより兄弟だ。資本家階級はだまして互いに反目させ、対立・抗争させる。しかし、小林多喜二ら無産階級とその先駆達は、血を流してこの対立を乗りこえともにたたかう道を切り開いたのだ。多喜二はそのたたかいの途上に倒れた。我々はこの同志小林多喜二の道を受け継いで日朝両国人民の握手を実現するのだ。
これは1933年、朝鮮は日本の植民地であり、中国では日本の軍部が満州事変をはじめ、長い戦争に突入したときの言葉である。その後12年の戦争によってアジア諸国の人民は言語に絶する収奪に苦しみ、そして日本人民もその生活を根本から破壊されたが、1945年8月に日本帝国主義がついに倒れ、アジアの諸民族が独立を実現し、日本人民も帝国主義的抑圧から解放された。戦後60年、独立したアジア諸国は新しい共同によってさらに大きな飛躍を実現しているが、米国に追随する日本は過去の侵略の歴史を美化し、新しい諸国間の共同と発展に反対する勢力が支配しつづけている。いま、多喜二の道を受け継ぐということは、この勢力とたたかい、新しい共同と繁栄の道を切り開くことだと思う。 
 
伊藤整「得能五郎の生活と意見」一九四〇年の現実を生きる

 

「得能五郎の生活と意見」の冒頭は「一 空地耕作」で、得能五郎のある朝のスケッチから始まる。得能は毎朝、床のなかで三種類の新聞を熱心に読むのである。
「支那事變が四年続いている上に、ヨーロッパ戦争がノルウェイから、オランダ、ベルギイ、フランスと、次々に戦闘区域を拡げて行っているので、朝ごとに、次はどうなっているかという期待でもって新聞をひろげるのだ」
去年の九月に、ドイツがポーランドに侵入し、同時にイギリスとフランスがドイツに宣戦した。そして、今年の五月十日にドイツ軍は突如オランダ、ベルギイに侵入し、六月十四日にはパリに無血入城する。第一次大戦とはちがって猛烈な速度で事態は展開し、英佛は敗退をつづけた。やがて、日本は日独伊三国同盟を締結し、<仏印>に進駐し、米英との対立を決定的にして、ついに対米英戦争に突入する。
この作品は一九四〇年八月から翌年二月までの雑誌「知性」に連載された。この冒頭の朝は、一九四〇年五月十日から一週間のうちにオランダ軍が降伏して間もない日の朝のことである。伊藤がこの作品を書き始めたのはこの朝のすぐあとだった。もしかしたら、その頃のある日、その日の朝のスケッチからこの作品を始めたのであるかもしれない。
歴史はどう展開するかわからない。生活はどう変るかわからない。激動する歴史のただ中にあって、その歴史を生きる人間の<現在>を、くりかえされる平凡な日常生活において描いた点に、この小説の第一の特質がある。
「朝得能が眼を眼を覚ませば、どういうことがはじまっているかわからないのである」と伊藤は書いた。自分が眠っている間にも「砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が他国に殺到し、死にかけた人間が顔をゆがめ、国王は国を失い、弾丸の中に右往左往する人民がいる、という想念で得能は目覚めぎわの眼をぱちぱちさせる」。
同じ世界なのに、それは得能の生活とあまりにかけ離れていた。<支那事變>がはじまってから、「俺は今こうしていていいのだろうかという衝動」をしばしば受けるようになった。彼の日常生活はあまりに平穏だった。「自分の国の兵士たちが支那で戦い、毎日負傷したり、死んだりしているその同じ日、自分は、毎日八時間眠らなければ仕事ができないと言って、眠り足るだけ眠り、寝床のなかで三種もの新聞を隅から隅まで読みつくさないうちは起き出さないという朝寝の習慣を守りとおしている」のである。
電車に乗って見ても、周囲の街の様子を見まわしても、彼の身のまわりには平穏な市民的な現実しかない。激動する世界と日常生活があまりにかけはなれていて、現実をどうとらえていいかわからない。彼はただ、夢中になって新聞を読み、ラジオのニュースを聞きもらすまいとする。
「紙面の上段や中央辺に何段にも抜いた大見出しで『英国派遣軍引き揚げか』とか『仏政府一部移転』『惨たり聯合軍の敗戦』などと書いてある記事」にはリアリティが感じられなかった。むしろ、片隅に組まれた、敗退の理由を語ったフランス首相の演説などがの方が、得能の知りたいと思う戦争の実相をはるかによく伝えていた。「単なる新聞記者や軍事通の当て推量の言葉でなく、フランス首相の責任のある言葉として読むと、一つ一つが事実としての重さを持ってぴたりときまる」のであった。
この記事を得能は桜谷の問題で銀座に行ったとき、その途上で、家でとっている三種の夕刊と外にもう一つ買って読んだのである。
フランスのレイノオ首相は自国の敗戦の状況をつぶさに述べ、「しかし我軍の士気は全然衰えてはいない」とか「戦闘行為に対するわれわれの古めかしい観念は新時代の観念と相容れないものである」とかと述べていた。
「この二大国民、二大国家が滅亡するが如きことは断じて断じて有り得ざることである。若しフランスを救うために奇蹟が必要であるならば、余はフランスを信ずる故に奇蹟を信ずると言いたい」
得能はこの記事に衝撃を受けた。「自分の身体が深い淵にずーんと落ちてゆくように感じながら、そばの電柱に背をもたせてこれを読んだ」。得能はその言葉の真実性にうたれながら、一国の首相がこんなことを公開の席で喋っていいのかと思わずにはいられなかった。日本では「知らしむべからず、依らしむべし」というのが東方の政治の一つの理想型だと言われていた。得能自身にしても、真相をあまりに率直に語られたら不安になるのではないかと思われた。
得能は「自由主義」がもっとも盛んだったと言われる時代に育って来たが、レッセ・フェール思想が発生したり、それがフランス革命となって爆発したりした国などと較べると、「日本の自由主義などというものは、名目的なものにすぎないのかも知れない」と思うのである。
日本がひたすら手本としてきた英佛が破滅の危機に直面してもがいている。フランスでは、知識人も文学者も銃を持って戦いに参加しているという。そして、得能は桜谷の問題で、その別居した妻を銀座のバーに訪ねようとしている。銀座の街は平常と変わらない。
数寄屋橋の袂から見える朝日新聞社の電光ニュースは「ドイツ軍英佛海峡ニノゾムブーローニュニ迫リ、激戦中デアル」「前フランス軍総司令官ガムラン将軍ハ、自殺シタリトノ噂ヲ、フランス軍当局ハ否定シタ」というニュースにつづいて大相撲千秋楽の勝敗を伝えていた。
世界の歴史が一変するような激しい戦争の現実と、これまでと少しも変わらぬ平和な日常の風景が同居していて、そこに自分は生きている。一方の現実は新聞で読むばかりだが、それはもう一方の日常生活の現実性を疑わしいものにしている。自分は平和に見える今までどおりの銀座を歩いているが、その自分の安定性は根底から失われている。以前なら桜谷の問題は得能にとってもっと切実な問題だった筈だ。しかし、いまは桜谷をわがままだと思い、腹を立てている。あまりに「文学くさい」と思うのである。
「ふだんならば、人の一生のことに思われる友人の桜谷夫婦の事件も、昔読んだつまらぬ小説の一場面のように色褪せたものに思われ、張り合いがないのであった。」「君はまるで『のっぴきならない』とか、『救いようがない』とか言うよう現代文学の命題のような言葉を実現させるために、自分の生活を悲劇化しているようじゃないか」とでも浴びせかけたいところだと述べられている。 
桜谷は尚子という女と恋愛事件を起して、妻の房子と別れ、今はその尚子からも逃げ出して、一人で暮らしている。融という子はよそにあずけていて、その養育費を払っているのだが、近頃は収入がないので、房子に払ってもらうように頼んでほしいと得能に頼んで来たのである。
得能は桜谷の生活の形が「実に現代の小説にありふれた形とそっくり」で、「動きの取れない人生の問題」とまともに取り組んでいないのを不満に思った。「桜谷はそこを通り抜けた向うにふらふらと行ってしまって、ああいよいよ動きが取れなくなった、これが現代人の、どうしようのない生きる形だ、と、むしろそこに辿り着いたことに、満足を感じているのではないかとも思われるほど典型的な悲痛な顔をしている」それを得能は「赦せない」と思う。
桜谷のことは自分のことと別問題ではなかった。自分もまた、この「動きの取れない人生の問題」と直面することを避け、その前でおどおどしているだけではないのか。この苛酷な現実の前で、自分の文学、これまでの文学が、すべて色あせ、無力で、空虚なものになったと思われるのであった。
日本が中国に対する戦争を始めてから四年たっていた。最初は景気のよかった戦争も、戦争が中国全土に拡大し、軍事的にも経済的にも日本は行きづまって来た。戦争のはじめは「千人針を手にした少女や、老婆や、細君らしい女性たちを街頭で見かけることが、生活においての戦時色の主なものであったが、今はもっと違った日常生活の細かな部分にそれが及んで来て」いた。
去年頃から、紙の不足が問題になり、一昨年頃まで十二頁あった朝刊が今では八頁になった。毎週二回は朝刊四頁、一枚きりになった新聞もある。雑誌も眼に見えて頁数が減っり、今年の秋頃から用紙の現象は更に甚しくなるだろうと言われていた。また米が不足して外米が六七割も混入されたり、肉類が足りなくなったりした。得能は文筆で暮してきたが、それはもう続けられないかも知れなかった。戦争は外部の風景から、生活をおびやかす現実になって来たのだ。
この不安は一九四〇年八月一日発行の『知性』に掲載された冒頭の章「一 空地耕作」に書かれているが、一九四〇年十一月一日発行の『知性』に掲載された「六 再びマルブルウの歌」には、「昭和十五年の初夏の頃は、まだ米内海軍大将が総理大臣であったが、すでに近衛文麿公爵を中心に新体制運動がきざしかけていた」と書かれ、「今までの議会制度の欠陥が問題になり、……新体制促進同志会というものがつくられ、……小さな新聞や雑誌は廃刊をすすめられたり、進んで合同したり、各種の職業組合は統合して単一化する傾向が顕著だった」と書かれている。
「昭和十五年の初夏の頃」というのは、この小説の冒頭の、得能が<空地耕作>をはじめた頃のことだが、この冒頭の章を書いたときには、新体制運動はまだがどのように作家生活を脅かすことになるかは自覚されていなかった。
近衛が枢密院議長を辞職して新体制運動に挺身すると声明したのは六月下旬のことだった。七月二十二日に第二次近衛内閣(陸相・東条英機)が成立し、全政党が解散して、十月十二日に大政翼賛会が結成された。この間、「贅沢女狩り」や隣組制度の整備・強化、国民服令の公布など、国民精神総動員の名のもとに国民生活の統制が強化され、十一月十日には「紀元二千六百年」記念式典が大々的に開催された。こうして、<肇国の精神><八紘一宇><神ながらの道><臣道実践>というような神がかった言葉が氾濫し、<挙国一致><一億一心><尽忠報国><堅忍持久>が強調される時代が来て、あの対米英戦争に突入していくことになる。
この作品の時間は一九四〇年の五月から九月にかけてのことであるが、連載は『知性』八月号から翌年二月号までその他で、連載中にも情勢ははげしく変って、作者にも揺れ動きがあり、作品は統一を失っている。ここには作品を支える安定した思想的な立場も視点もなく、動揺と混乱ばかりがあるように見える。
物語は、ある一つの事件が終結し、あるいは一段落ついて、それを展望することのできる地点に立ったとき、はじめてそれは始まるのであろう。その点で、すべてが途中であるような「得能五郎の生活と意見」と、十二月八日を結末とする「得能物語」は性格と成り立ちをことにしている。なぜ、伊藤整はこのようなすべてが途中で、決着のつかぬ、統一のない小説を書いたのか。歴史のただ中を生きる人間を歴史のただ中で書きたかったからだと思う。歴史とはまさしく統一もなく、決着もつかないものではないか。そして、人生もまたそういうものではないか。
この作品を書いたとき、作者は歴史のただ中にいたのであり、未来がどうなるかはまったく分らなかった。思いがけないこと、まったく想像もつかぬおそろしいことが相ついで起った。今まで自分の手にあると思っていた思想や理論はこの現実をとらえるのに何の役にもたたない。すべては予想を裏切って展開した。英佛に学び、それを手本とし、自由主義を讃美してきた知識人たちは、自己の無力と空虚を思い知らなければならなかった。
まさに力がすべての時代だった。ヒトラーを讃美する声は巷に満ちていた。「この広大な東京市のいたる処で、人の集まったところはどこでも、ドイツ軍やヒットラア総統の話がでないということはない」のであった。
得能は「ヒットラア総統の演説は、実に政治を『我々』が理解しうるように、そして『我々』にいかにもと思わせるようにできている」と思った。そして、その演説がある毎に、なるべく詳しい翻訳を新聞や雑誌を捜して読んだ。ヒトラーの「我が闘争」の日本訳も読んで、「こんなに『素人』の我々が政治が分った思って読むこういう形が、本当の政治の実体なのだろうか」と思った。
「ヒットラア総統が、ドイツを復興して、現在のような素晴らしい国にしたということは、と得能は、以前ならば暗闇だと思った政治という世界を二三歩歩き出すように考えて見た。だがその辺で、彼はやっぱり「素人風」に躊い、自信を失って考えるのを打ち切った」
ここには、ヒトラーに心を動かされ、その理論と行動に敬服し、その方向に進み出そうとしながら、その一歩手前でためらい、自分の立場を定めかねている得能がいる。
「我々」という言葉がカギ括弧つきで記されていることに注意する必要がある。それは大正期のリベラリズムとデモクラシーに養われ、左翼の全盛時代にその理論に理解を示しながらも同調することができず、芸術の独自性を追求しつづけてきた文学愛好者の仲間たちである。この友人たちの間でも、ともすればヒトラーが話題になり、その影響が強まって行った。しかし、熱心にヒトラーについて喋っている彼等は、ふと、自分たちもヒトラーに熱中する民衆の一組なのだという「軽い反省の色」を浮かべ、「すこしぎごちなく感じ出した」。そして、「自分の気持のよく届かない隅々が、これらの話の隅々が、これらの話にはあるのを苦にしはじめたようであった」という作者の言葉が記されている。
ここには歴史の大波にはげしくゆれ動くの大都市東京の片隅で、自己を見うしない、未来に不安をおぼえる「知識人」たちが、親しい仲間たちだけでひっそりと語り合う姿がある。歴史は彼等をも変えていくであろう。作者である伊藤整自身をも変えていくであろう。何一つ安定したものはないのだ。そのことを自覚しながら、作者はこの歴史の大波と、その片隅に生きる自分たちの<いま>の姿を書き留めておきたかったのである。
今ではすべてが自明のことに思われる。ドイツは敗れ、ヒトラーは自殺した。ヒトラーは極悪無道の戦争犯罪人だ。ヒトラーに感心するなんて許されないということになり、こういう得能なり、伊藤整は反動的だということになるだろう。あるいは時局に追随したのだ、転向したのだと非難されるだろう。しかし、伊藤はこれが当時の自分の真実であり、この真実は時代の大波に埋もれて、後世になれば誰も記憶しているものはなくなると自覚して書き留めたのだと思う。
当時においてすでに、このような知識人は時代後れで、その不徹底さを非難された。やがては、その存在を許されなくなった。この得能らの会話が行われたのは一九四〇年の夏、フランスが降伏し、ドイツの英本土空襲がはじまったころのことであるが、この部分(「十 座談」)が発表されたのは、一九四一年三月一日発行の『文学者』『月刊文章』、四月一日発行の『新芸術』である。この会話の時と執筆の時の間に、日本は北部仏印に進駐し、日独伊三国同盟を結んでいた。大政翼賛会が発足して<新体制のバスに乗り遅れるな>が合言葉になり、「紀元二千六百年」記念式典が開催され、英語や、英米文化が排斥され、野球界から英語が追放されるということが相ついで起った。排外的ナショナリズムの渦が日本国民を押し流し、英米文化や知識人に対する攻撃は日ごとに強まり、伊藤整らの文学は植民地的知識人文学だと批判されるようになった。この時代の流れの中で、それに抗するように、時代に押し流される、混乱した知識人の日常の姿を書きつづったのであった。
戦後は、戦争に抵抗した人々ばかりでなく、戦争協力的だった人々も、一斉に民主主義の旗を掲げ、戦時下の知識人については、戦争に抵抗したか、協力したか、転向したかの観点からばかり論じられ、戦争に押し流され、混乱を生きたた大多数の知識人の実態は、隠蔽され、無視された。戦時下の作品の多くは絶版になり、もしくは大幅に改訂されて、人々の目に触れなくなった。戦時中には戦時中の支配的言論があったが、戦後には戦後の支配的言論があって、真実はその猛威のかげに隠される。
しかし、たとえ彼等の実態がどのように批判されなければならないにせよ、その実態を描き出すのが文学ではないだろうか。伊藤は戦時下の知識人の実態の隠蔽、抹殺に反対し、困難をおかして書き留めた「得能五郎の生活と意見」を、出来るだけ最初の性質を失わないような形で、戦後再刊する努力をしている。戦争に抵抗した立派な人の作品はたしかに大事だが、戦争に押し流された普通の人々、想像もつかぬ歴史の展開に自分自身を見うしない、途方もない混乱の中に、新しい可能性を探り求めた普通の知識人の実態を描いた作品はそれ以上に大事だと思う。 
得能五郎はこれまで自分を支えた西洋の文学や思想がその力を失って、また時代を席巻する新しい思想にも身をあずけることなく、何一つより頼むものなしにしに、この苛酷な現実を生きていかなければならなかった。
伊藤整は自分自身を戯画化した得能五郎という人物を設定し、「『現在』という、過去や未来の約束などから切断された自分の一部分に、内心まで入って調べて見たいのである」と記している。
これは「九 三十五歳の紳士」(一九四一年三月一日発行『文学者』に掲載)に記された言葉である。『知性』の連載は一九四〇年八月号の「一 空地耕作」から、「二 再び空地耕作」「五 マルブルウの歌」「六 再びマルブルウの歌」「七 トロイカ」とつづき、一九四一年の二月号の「十二 得能先生の登校」で六回連載を終っていた。四〇年の初夏、厳しい戦時下の情勢から空き地の耕作を思い立ち、友人桜谷のことから銀座のバートロイカを訪ね、秋になって講義のために大学へ行く。この六回の連載で、時間的経過としても一応この作品は終っていた。
この作品は連載中からさまざまな評判が高く、さまざまな批評を受けた。連載をおわって作者はこれらの批評に答え、自分の立場を明確にする必要を感じたのだと思われる。元来、この小説は『知性』連載と平行して、あるいはその終結後に、他の諸雑誌に書いた得能五郎を主人公とするいくつかの短篇ををあわせて一つの作品にまとめたものである。
最初に得能五郎が登場するのは、『知性』連載に先立って四〇年七月の『新潮』に発表された「鞭」である。この作品は短編集『祝福』に収録されているから、独立性の強い作品として意識されていたのであったろう。しかし、これを契機に得能五郎は伊藤整の作品世界の中心人物になった。それは、これからはじめとうとする連載の基本的立場を述べたものと考えることもできる。
「鞭」で伊藤は、自画像や自分のよく知っているものばかりを描いている岸田劉生に触れ、「自分の満足のために、自分の納得ゆくようにしか絵を描かない」友人の画家本田について書いている。本田は自分の絵をたのしみ、その絵は見るものを楽しませる。そこには独特のたしかなものがあった。しかし本田はほとんど無名なのだった。本田の絵には思想がないと言われた。本田は画壇の新思潮とか新流派には関心がなかったが、画壇で地位を占めているのは、西洋の絵の流派や時の画壇の動静には敏感で、意味ありげに先輩とつきあっている連中だった。画壇に対する得能の批判は、周囲の批評、新しい理論や思想にふりまわされて、ともすれば「仕事の心棒」がゆがみがちな自分の仕事に対する反省でもあった。今まで自分は周囲の眼ばかり気にして、むやみにちぢこまっていた。もっと、自分に自信を持ち、自分に根ざした文学を求める思いが強まったのである。
自分の現実からはるかにかけ離れた深遠な西洋の思想や文学を追い求めて煩悶し、焦燥し、絶望し、劣等感にさいなまれる文学は、あまりにも空虚で無力だった。戦時下の現実は切迫して、このまま文筆業をつづけることを許されそうもなかった。得能はいかに生きるかという問題に具体的にを直面し、この思いをいっそう強めた。
生活の必要から空き地を耕すようになって、近所の人々との新しい接触がはじまった。孤立した書斎の生活から外に出て、普通の人々との新しい関係がはじまったことによって、得能の文学世界は拡大した。大地を耕す共通の農作業によって、人々との関係は新しくなり、密接になった。得能もそうだが、近所の人々も、日本の各地から出てきた農村の出身者だった。農業を通して得能は人々の心に触れ、長い歴史を農民として生きて来た先祖の生活に触れ、心に触れた。こうした接触の中で、ふと耳にした農民が生活の中で生み出した言葉は、生命があり、新鮮だった。
これまで閑却されてきた普通の人々の普通の生活こそ、もっと重視されなければならない。得能は小説家である自分を戦時下に生きる普通の人間にとして自覚し、この新しく発見された自分を、これまでの文学的常識や慣習、文学的偏見から解放された眼で、描き出すとき、そこに新しい文学が生れると信じた。
そこに「『現在』という、過去や未来の約束などから切断された自分の一部分に、内心まで入って調べて見たいのである。一九四〇年の日本の首都東京に生活している、現代日本の知識階級人であり、小説家である三十五歳の、妻と二人の子供と、多くの友人とを持っている得能五郎なる人物の生活や考えかたや喜怒哀楽を、未知の人に話しても分るような形で掴んでみたいのである」という宣言が生れた。 
「九月にドイツがポーランドに侵入し、同時にイギリスとフランスがドイツに宣戦し………」そして、「今年の五月十日にドイツ軍は突然オランダ、ベルギイに侵入し、一週間のうちにオランダ軍を降伏させ………」どうか気を鎭めて読んで頂きたい。これは何も今年の五月や九月にヨーロッパで起こることの豫想ではありません。いまから十一年前、一九四〇年五月のヨーロッパのことです。
「伊藤整氏の生活と意見」の最初の章に、伊藤整は「得能五郎の生活と意見」を引用してこう書いている。「砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が他国に殺到し、死にかけた人間が顔をゆがめ、弾丸の中に右往左往する人民がいる(中略)もっとしっかり覚めないと、何か勘違いするぞという警戒心が湧く」これは「今、現在、一九五一年のあなたや伊藤整氏のことを書いているのでは」ないと念を押しながら、こうして書き写しているうちに、あまりそっくりそのままなので「どうしても今の自分のことを書いた文章のよう思えてならない」と言って「朝寝床の中で二時間もかかって三種の新聞をたんねんに読み、その間にも砲弾が破裂し、武装した兵や戦車が………」というのは、「実にこれは伊藤氏の現在の朝の目覚めぎわの状態そのままの描写である」と記している。
この最初の章が発表されたのはを一九五一年五月の『新潮』であった。以後、翌年十二月まで同誌上に十九回にわたって連載(五一年八月だけは休載)された。これはいうまでもなく、朝鮮戦争の最中だった。六(五一年十一月発表)には、停戦の交渉が七月から始められたが、九月にいたって成立が疑問視されはじめ、「史上最大のジェット機の戦闘」と言われる空中戦が行われるなど、かえって危機感が強まったと書かれている。この九月には「ロシアとシナを除く諸国と日本の講和条約」が成立し、日米間に安全保障条約が結ばれ、伊藤家からほど遠からぬ所にアメリカの「軍事基地の中心点」が設定されることになった。この結果「日本国の安全が保証された」のは喜ぶべき事だが、「伊藤整氏の安全を保証したことにならなかったのは遺憾な次第であった」と作者は書いている。新聞の論説によれば、朝鮮の空中戦の激化は、「日本にある軍事基地の空襲を可能にするということ」で、伊藤氏の身の危険はかえって切迫したものになっているのである。
「伊藤氏の生活と意見」はチャタレー裁判を生きる自分を戯画化した戯文だが、同時にそれは朝鮮戦争におびえる伊藤整氏を描いたものでもあった。米ソの対立は核戦争の危機をも予想させ、国内では共産党の弾圧があり、それに対抗して、地域人民闘争が展開されていた。平和主義に立つ全面講和論とアメリカに加担して再軍備を加速させようとする勢力ははげしく対立していた。民族の独立か対米従属かが緊急の課題として論じられ、国民文学論が提唱される時代であった。
「伊藤整氏の生活と意見」は、チャタレー裁判も、朝鮮戦争もどうなるかわからないままに、はげしく渦巻く事件の進行中に描かれた。それはいつどう発展するか分らなかった。いつ日本は戦争にまきこまれるか知れなかった。この新しい戦争は「得能五郎の生活と意見」をまざまざと現代に生きるものとしてよみがえらせた。
「伊藤整氏の生活と意見」一には「緊急に世界戦争の見とおしと、戦時生活についての有利な意見を得たいと考える読者には近日中に大量に印刷頒布される予定になっている『得能五郎の生活と意見』又の名『戦時生活指針』を買い求めることをすすめる」と記されているが、細川書店から「得能五郎の生活と意見」が再刊されたのは、一九五一年十月十五日のことである。この作品は戦争中も戦後も、それぞれの時代の政治的理由から訂正削除が加えられたが、細川書店版ではほぼ初版本通りに復原された。
朝鮮戦争の最中にこの作品が再刊され、出来るだけ初版通りに復原されたということは、この作品が現在において生きていると作者が信じていたからであろう。特に最後の章の戦争中も戦後も削除された部分が、「十二 得能先生の登校」に組みこまれた形ではあるが復原されたことは注目すべきである。新潮社版全集では初版本にしたがって「十三 得能少尉勇戦」として復原されている。
得能の父、得能五助は志願して下士官になり、日清戦争に従軍した後、北海道に移り住んで結婚し、一女を設けたが、再び日露戦争に召集された。旅順の戦いで功績をあげたが負傷し、入院して治療を受けた後、再び前線に出動して、奉天の戦闘に参加した。この戦争で金鵄勲章をもらい、少尉に昇進し、役場の収入役になった父は、得能が子供のころ、家内では絶対に戦争の話をしなかったが、陸軍記念日には学校に来て、戦争の体験を生徒たちの前で話した。
その後成人するにつれ、得能は父から遠ざかった。しかし、戦争がはじまり、知人が出征するのを見送るたびに、「やっと生まれたばかりの一人の娘(五郎の姉鈴子)を十歳も年下の妻のもとに残して出征した父の気持」を、「なまなましく思いやる」ようになった。父が出征したのは三十三歳、いまの得能より二歳年下だった。父は軍人としては間の抜けたところもあったようだが、偶然で命を助かり、手柄をたてた。二人の子の父親としての責任ある身となり、戦争の時代を生きることになって、同じく日露戦争という大きな戦争の時代を生きた父のことが「なまなましく」思いやられるようになったんである。
得能五助は二〇三高地の一角に穴を掘って伏せていた。「夜が明けて見たら、自分一人で、まわりにいるのは死人と怪我人ばかりなんだ。…………」その父の子が、いま三十五歳になり、昭和十五年に東京で生活している。若し父が外の何千人もの兵隊と同じように死んでいたら、自分は生れ得なかったのだ気づいた時、「無限の虚無の空間の闇を覗いた恐怖感」でぞっとなった。得能はその時、父の気持の実体の一端に触れる思いがしたと言う。「父は、あの焼け火箸に触れるような気持の中に、その夜を、また毎日を、妻と子を国においたまま、何ものにも生命を保証されぬ境に生きていたことをまざまざと思い描くことができた」と伊藤整は書いている。
この父を支えたのは「民族の生命への執着とでもいうような、鏡のように自分のそばにある個我以上の生命力」だったと得能は考えるが、これは必ずしも当時の父が自覚していたものではなかったと思う。支えるものがあろうとなかろうと、父は必死に生きて、得能はこの世に生れたのであるに違いない。それはひたすら生きようとする「生命への執着」であった。「民族の生命への執着」というようなことは外からつけくわえた観念であり、解釈だと思う。
父のたたかった戦争を知ろうとして、当時の戦史を手に入るかぎり集めて熟読していた得能は、父の姿を、父と同じ戦争をたたかった兵士たちと重ねあわせて想像した。自分の意志によらずして戦場に動員され、戦死したり、負傷したりした何十万の兵士たちの一人して父の生と死を思った時、「個我以上の生命力」である「民族の生命への執着」ということが思われた。この想像は、家族から引き離されて広大な中国大陸に動員され、自分の意志によらぬ戦争を、生命を危険にさらして戦っている何百万の兵士たちにひろがり、日露戦争から現代へと流れる「民族の生命への執着」というものがつよく感じられた。この大きな流れの中に自分は生命を得て、いまここにこうして生きているという思いに得能はうたれた。
こうして得能は<民族の一員>としての自覚にたどりつき、民族論の展開でこの作品は終る。もちろん、<民族>ということは当時の流行語であり、それが伊藤に影響をあたえていたことは事実であろう。だからといって、これをもって伊藤が時代に迎合したとか、転向したとかとばかりは言えない。この最後の章の後半は、<大東亜戦争>がはじまって民族意識が極度に高揚された時代に、時局をはばかって削除されなければならなかったのである。
削除された部分には、白人が書いた日露戦争観戦記が紹介され、得能の感想が記されている。英国人の新聞記者マクカラアの目に映った日露戦争は、「列国中の最年少児」であり黄色人種である異教徒の国日本が巨大なキリスト教徒の白人国家ロシアとたたかった奇妙な戦争であった。夜襲してくる日本軍の声は「万歳ツ!万歳ツ!」という「野蛮な調子の吶喊」であった。「得能は父五助の声もその中にまじっているような気がした」と記している。「彼の声は欧羅巴の同胞には無い声だ。基督教徒の唇からは出ない声だ。――凡そ人間からは出ると思はれない声である。迷信な回回教徒の都府で聞いた「アラア、イル、アラア!」「アラア、イル、アラア!」を想像させる声である。………」「彼の青白い顔は正しく東洋人の顔だ。――其声は仏人や独人の声ではない。白人種の血に渇する喚声である。………三千年来欧羅巴から圧し附けられてゐた不思議な奇怪な亜細亜人の声である」とマクカラアは記している。
日本人の欠点は蒙古式の出っぱった頬骨と、横幅広い鼻であると言うマクカラアは「日本人が其凸起した頬骨と扁平な鼻を突き出して、其を欧羅巴人が全く羨むやうに成る迄には、其処に鮮血の大海を漲らせなければならぬのであらう!」と書いていた。
白色人種が世界を支配する優秀民族で、黄色人種は支配さるべき劣等民族だというのは許すべからざる偏見であるに違いない。しかし、その偏見は生きているのだ。ヒトラーも公然とそう主張していた。自分があきらかに黄色人種であることを認めなければならなかった得能は、その自分が一生懸命に白色人種の文学を学んで来た意味を考えなければならなかった。自分は白色人種の思想や文学を理想とし、白色人種になろうとして来たのではないか。しかし、いくら努力しても白色人種にはなれないのだという事実に得能は衝撃を受けた。
民族の問題は戦争中にはしきりに強調されたが、それは日本民族が世界に冠たる優秀民族だと主張したのであって、伊藤整が提起したような角度からの問題提起は、公然と発表することがはばかられた。そして、戦後もこのような偏見や対立はひたすら否定されて、それを発表することができなかった。朝鮮戦争の時期になって、まがりなりにも講和が結ばれ、占領軍の言論統制が解除されて、ようやく、この部分を復原して出版することが出来たのである。朝鮮戦争における米軍にこのような黄色人種に対する蔑視はなかったか。その後、ヴェトナム戦争があり、いまは、イラク戦争が戰われている。あの九・一一以後何が起こるかわからない世界に私たちは生きている。朝鮮戦争当時は民族の危機が強調され、文化の植民地化が問題になって、民族の独立が叫ばれて、国民文学の主張も日本の文学界を動かしたのであった。いまは、日本は世界の経済大国になり、アメリカに対しても莫大な債権国である。アメリカはたしかに自国を神の加護を受け、世界を支配する資格のあるえらばれた民主主義国家であるとと信じ、アフガンやイラクの蒙昧な異教徒たちをを大量に殺戮している。朝鮮問題もどう展開するかわからない。日本は西欧社会の一員のようなつもりになって、ひたすらアメリカのに追随している。政治的、経済的にも、思想的、文化的にも、アメリカによる日本の植民地化はほぼ完成し、歴史は百八十度転回したように見える。しかし、いま、伊藤整の「得能五郎の生活と意見」が、復原版が刊行された当時と同じように、再び新しくよみがえって来るのを感ずる。私は得能と同じように、日露戦争の時代、そして、あの戦争の時代を生きた日本人のことを、いまにつながるものとして、もっと深く知りたいと思うのである。 
 
小林多喜二・作品

 

『防雪林』
未発表のまま残された最初期の作品。後に幾つかの情景が『不在地主』に転用されたが、未だプロレタリア文学の手法、連帯や共闘の思想を深めてゐない時期の作品『防雪林』は、北海道の貧農らの苦しい生活を描いた自然主義の流れを汲む作品だ。より高次の社会主義運動への理念を持たない為『防雪林』は放棄されたと考へられる。しかし、名作である。北海道の厳しい大地から生まれたやうな荒々しい言葉遣ひと自然描写の圧倒的な生命力。何よりも主人公源吉の人物造型。奥底に闘争心を秘めた独立不覊の男源吉の行動は非凡人或いは超人と形容したい凄みがある。最後の壮絶なる場面に、現代の読者も唸るだらう。この傑作を未定稿として看過してはならない。
『一九二八・三・一五』
プロレタリア文学の旗手、小林多喜二の誕生を告げた出世作。運動に投じた人々の諸相が描かれ、信念の強さと弱さが主題であつて、プロレタリア文学といふ枠では捉へきれない名作。そして、当時の特高による拷問の証言であり、作家の行く末を暗示した不吉な作品とも云へるが、不思議と暗さはない。
『蟹工船』
日本プロレタリア文学の金字塔。資本家の手下としての職権を濫用する監督に、虫けらのやうに酷使される労働者たち。逃げ場のない地獄絵図と化した蟹工船に、読者は知らずと救済を求め出すに違ひない。思想や階級の柵を超えた迫真の作で、寧ろ団結や教化の件が野暮に感じた。
『不在地主』
情景や着想において『防雪林』との共通点があるが、改作を施した決定稿といふ位置付けは当て嵌まらない。多喜二の視点が小作争議へと注がれた全く別の作品である。貧農と都市労働者が共闘する後半は全きプロレタリア文学である。断章的な細切れの叙述により感情の昂揚を排し、理知的な作品になつたが、人物描写は狭小となつた。多喜二の理念と野心は理解出来るが、現代に訴へる力があるのは『防雪林』の方だ。
『独房』
壁に囲まれた囚人生活を描いた作品であるが、陰湿な想念を伴ふ独房を描かうとはしない。理念高い共産党運動の結果入獄したのであり、逆境を笑ひ飛ばす。ユーモアと不屈の意志を持ち続け、未来への希望を捨てない。楽天的過ぎる姿勢故に、独房で飼ひ馴らされる危険を孕んだプチ・ブル的作品と非難を浴びたとは云へ、イデオロギーを超えた名作である。
『党生活者』
最後期の作品である『党生活者』は小林多喜二の真の代表作と云ひたい。自然主義的作品『蟹工船』はゾラのやうな陰惨な描写で読み手に覚醒を促すが、それが巨大な反帝国主義運動となるには継続的かつ広範な展開が必要である。国家権力からの圧力を受け、共産党の活動は困難を極めた。軍需工場で酷使される労働者への働き掛けを仲間を通じて行ふ地下潜伏活動の諸相を描く『党生活者』では、仲間に危害が及ぶのを懊悩し、母との今生の別れを決意する主人公の内面的な逡巡に深みがある。その最たるものが、窮地を救ひ同居までして主人公の為に身を危ふくする女に、世界観の違ひから次第に齟齬を感じる件だらう。結果、女を生活の為に利用した格好だが、非情な世界の中に生きる難題を描くのは新境地だ。綺麗事で欺いてはならないのだ。人間的な弱みを曝け出す小林多喜二の作品は紋切り型なプロレタリア文学とは一線を画す。 
 
雑話

 

中国から見た日本・雑話 / プロレタリア小説が人気
このほど中国紙『東方時報』は、金融危機による景気減速が日本社会にもたらした変化についての記事を掲載した。
日本東方出版社が出版したマルクスの『資本論』をもとに改作された漫画は歳末と年初の飛ぶように売れる本となった。東方出版社はこの本の読者を30歳以上の人と位置付けした。今回の金融危機による打撃はターゲットの人々にとって最も大きいからである。この本は初版は2万5000冊を印刷され、市場に出回ってから10日以内に売り切れとなり、しかもベストセラーと見なされるに至った。
この漫画が描いているのは19世紀のあるチーズ工場のストーリーである。資本家のロビンはこの企業の経営者であり、彼は利益のみを追求していたが、厳しいビジネス競争の中で苦しい立場に立たされた。ロビンは剰余価値を追求することと搾取される従業員に同情を寄せることの間で苦痛に感じ、気持ちの上でもあがいていた。
『資本論』だけでなく、かつてのプロレタリア文学の名作『蟹工船』もまた注目されるようになった。プロレタリア文学の代表的作家と見なされた著名な作家小林多喜二の小説『蟹工船』は1929年に上梓され、約80年間経って小林多喜二の死去75年後の今日、この小説は日本で再度人々に注目されることになった。
この小説を出版、発行した新潮社の統計データによると、08年来、この本の販売部数は急増し、4月に7000冊を再版し、その後また5万冊を追加印刷し、聞くところによると引き続き追加印刷する可能性がある。このほか、昨年出版社2社が小説の漫画を出版した。
「『蟹工船』ブーム」という言葉は2008年の日本の十大流行語に入選した。解雇の危機に直面している企業の従業員は往々にして自分の境遇を『蟹工船』の中のシーンと対比し、同感しているのである。09年、映画『蟹工船』も公開上映されることになっている。長野県には『資本論』勉強会があり、もっぱらマルクス主義の理論を学ぶことを模索しており、最近彼らはまた時事と結び付けて、「世界的恐荒の勃発と金融資本主義の破産」などのテーマについての討論をくり広げている。  
お金とは何かを明らかにしたマルクス
他人がどのようにして金儲けをしているかは大いなる謎である。あの人はどうやって金儲けをしているのだろうと思うことはよくある。それ以上に、いったいどうやったらお金をうまく稼げるのだろうかと思うことがある。
そういう思いにとらわれる人はこの『資本論』を読むとよい。すると、金のある人は金を元手にして金儲けをするが、金のない人は汗を出して金儲けをするしかないという、ごく当たり前のことを教えられる。もちろん、前者が資本家であり、後者が労働者である。
また、物を売り買いして金儲けをするのはおかしいと思う人がいるかもしれない。なぜなら、物々交換とは同じ値打ちのものを交換することである。それなら、お金で物を買うときも品物の値打ちと同じ価値のお金を払うべきだ。それなのに、仕入れ値に利益を上乗せして物を売るのは正直ではない。こんなふうに思う人はこの本を読めばよい。商人はけっして利益を上乗せして売るようなインチキをしているわけではないことがこれを読めば分かる。
ものの価値とは何だろうと考えることもあるだろう。例えば、ゴッホの絵はあんなにへたくそなのに何億と値が付く。それは、あの絵を欲しがる人が多くて、しかも金に糸目を付けない人がいるからだろう。しかし、ゴッホが生きていたときには何の価値もなかったものが、どうして今ではあんなに価値があるのだろうか。そんな疑問を持った人にもこの本はおすすめだ。
また、政府がどうしていつまでも景気を回復できないでいるのか知りたい人も、これを読めば多少の参考にはなるだろう。すくなくとも、資本主義経済では物の値段は人間の思い通りにはならないこと、人ではなく物がこの社会を支配していることが分かるだろう。
それらのことをマルクスは、商品というものの存在を分析することから解明していった。
たとえば靴は履き物として使うほかに別の物と交換する道具として使うこともできると言ったのは、アリストテレスだ。これは要するに物々交換のことを言っているのであるが、物々交換専用に作られたものが商品であり、物々交換の進んだ形が貨幣経済だ。
そこでマルクスは、同じ価値の物同士の交換である物々交換の分析から出発して、商品とはなにか、貨幣とはなにかを明らかにしようとした。そこから出発して、最終的に資本主義経済を解明しようとしたのがこの本である。
しかし、最近では『資本論』を読もうとしても、本屋で見かけることもむつかしくなった。社会主義や共産主義の失敗があきらかになった現代では、マルクスの書いた『資本論』などはその失敗の原因のようなものだと思われて誰にも読まれなくなっている。
しかし、実は『資本論』とは社会主義や共産主義の教典ではないし、左翼活動のバイブルでもない。
この本は、商品とは何か、商品の価値とは何か、労働とは何か、お金とは何か、利潤とは何か、資本とは何かが明らかにしたものである。しかし、それだけではなく、資本主義社会がどれほど人間を不幸にしているかをも明らかにしている。その意味では、糾弾の書である。
つまり、『資本論』とは、近代経済の仕組みを分析した学者の研究書であるだけでなく、資本主義が如何に非人間的であるかを明らかにした書物なのである。
ところが、『資本論』を手に入れていざ読もうとしても、とても読めたしろものではないことがすぐに分かる。内容が難しいのだけでなく、そもそも何が書いてあるか分からないのだ。
本当のことを言うと、難しいのは最初だけである。一番よく出回っている新日本出版社の新書本でいえば、一冊目だけが難しい。しかもその最初の第一章と第二章だけが難しい。さらに、第二章の内容は第一章の内容の言い換えでしかないから、第一章さえ乗り越えればよいのだ。そうすれば後は小説でも読むように読めるだろう。
この第一章が難しい原因の一つが日本の翻訳書だ。英訳ならまだ分かるように訳してある。ところが、日本語の訳はどれもこれもひどい直訳で、見たこともないような漢字の熟語がつぎつぎに出してきて、わけの分からないものにしてしまっている。
もっとも、マルクスも言い方も分かりにくいことが多い。例えば、第一章商品の第一節の題名は、「商品の二つの要素:使用価値と価値」となっているが、使用価値と価値を分けて考えるとはどういうことか。そもそも、使用価値は価値の一つではないのかと言いたくなる。初っぱなから分かりにくいのだ。
実は、マルクスのいう「価値」と「使用価値」は別物なのだ。それは本文を読んではじめて分かることである。それでは不都合だということでフランス語版では「使用価値と交換価値つまり本来の価値」と変えてある。では、マルクスの言う「価値」とは交換価値のことかというとそうでもない。
たとえば、机の値段は何で決まるか。それは机の使用価値かと言えばそうではない。どんな机もその上でものを書いたり読んだりするのに使うという点では変わらない。だから、基本的に使用価値ではどの机の値段も差が付かない。ものの値段、つまりものの価値を考えるときには使用価値は考えてはいけないのだ。
では、机の値段の違いは何から来るかと言えば、その机をつくるのにどれだけ手がかかっているかだろう。いい材料を使えば高くなるが、そのいい材料も探してくるのに手間がかかる。こういうふうに、その机を作るのにどれだけ労力がかかっているかで価値は決まる。これを労働価値と呼ぶ人もいる。マルクスにとっての商品の「価値」とは、まさにこのことである。
しかし、マルクスはこれを単に「価値」と呼んでいるので注意がいる。
逆に、机の使用価値は、それを作るにのどれほど手が掛かっているかとは関係がない。いくら手が込んだ机でも、使い方は同じだからである。
しかし、その机は実際に市場で何円の価値があるかとなれば、別の考え方を導入する必要がある。つまり何円の価値があるかと言うことは、何円のお金と交換できるかということである。そこで交換価値という考え方がでてくる。
このように考えると、商品には使用価値と「価値」と交換価値があることがわかる。資本論の中でもこの三つの価値が論じられるのだが、その順番は使用価値、交換価値、価値となっている。
この中で注目すべきは、この「価値」の概念が広まるためには、人間が平等であるという考え方が広まる必要があるということだ。だから、奴隷制労働に基づいていた古代ギリシャのアリストテレスには、この「価値」の概念が分からなかった。
しかし、マルクスは、この「価値」の概念を広めた貨幣経済の発達が、人間の平等という考え方を広めるのに貢献したとも言っている。
貨幣経済では金さえあれば何でも買える。貨幣経済とは商品をお金に交換することである。お金に代えられるということによって、さまざまの商品の違いはなくなってしまう。商品は全て平等なのだ。なぜなら、お金は平等だから。
お金が平等なのは、労働が平等だからである。労働が平等なのは、人間が平等だからである。こうして、貨幣経済の発達と、人間の平等とは共に発展したのである。人間が平等になったのは、貨幣経済が発達したからなのだ。
そもそも、価値の大きさを決めるのが労働時間の長さである以上、それが誰の労働であるかを区別するのは意味がない。価値でありさえすれば、それがどこの馬の骨が作った価値であろうと価値に変わりはない。恋に貴賤の上下はないというわけである。
この分析の中では、商品の価値の分析と労働の分析が平行して行われていて、それが分かりにくいところだ。しかし、労働が「価値」を作り出している以上は、この二つの分析が平行して行われるのは当然のことなのである。マルクスにとっては「価値」の研究をするということは、とりもなおさず労働の研究をすることである。だから、マルクスが労働のことをあれこれ言い出したら、これは価値のことつまりお金のことを言っているのだと思いながら読むといい。
この本では「形態」という言葉がしょっちゅう出てくる。これもこの本の分りにくさの原因の一つだ。この言葉は「あるものがそのもの自体としての意味だけでなく、別のものとして意味を持っている」あるいは「別の物としての役割を果たす。あるいは機能を持つ」ということを言いたいときに出てくる。
たとえば、商品は利用される物としての役割だけでなく、「価値」としての役割もある。そういう場合に、商品の「価値の形態」「価値形態」という言い方をする。逆に、その本来の役割は「自然形態」と呼ばれる。しかし、日本語で理解する場合には、「形態」という言葉を省略して考える方が分かりやすいことが多い。
また、「何々の現象形態である」という言い方もしきりに出てくる。この場合は、「何々を表す役割を持っている」あるいは「何々の表れとしての意味をもっている」ということである。
実際、この本は有名な本ではあるが、読まれることの少ない本でもある。その第一の原因は、上でも言ったように、日本語の読みやすい翻訳書がないことである。どれもこれもマルクスが軽蔑したガチガチの直訳ばかりなのだ。
特に最初の方で、Abstraktionという単語を直訳したことが諸悪の根元になっているようだ。ドイツ語のAbstraktionは英語で言うabstractionだが、これを辞書の訳語どおりに「抽象」と訳すとわけが分からなくなる。例えば、第一章第一節のdieAbstraktionvonihrenGebrauchswertenを「商品の使用価値からの抽象」(岩波文庫など)と訳しては何のことか分からない。
確かに、最新の小学館の独和大辞典でもAbstraktionは1抽象[化],抽象作用.2抽象的な概念としか載っていない。しかし、これは名詞だから、それに対応する動詞がある。それはabstrahierenで、独和大辞典には他動詞として「抽象化する」という意味の他に、自動詞として「(von以下を)度外視する」「断念する」「無視する」という意味が載っている。
ここから、名詞であるAbstraktionには「度外視すること」「断念すること」「無視すること」という意味があることがわかる。すると、上の文は「商品の使用価値からの抽象」の他に、「商品の使用価値を度外視すること」という意味があることがわかる。そして、この方が文脈に合致するから、これがマルクスの意図する意味だと推測できるのである。
したがって、資本論の多くの和訳のうちで、この個所を「抽象」と訳しているものは避けるべきだろう。「抽象」を使わずに「商品の使用価値の捨象」と、昔の哲学用語である「捨象」を使って訳しているものがある。これなら読めるのではないか。「捨象」とは要するに「捨てること」だと思ってよいからである。
ちなみに、ここでマルクスは「商品の使用価値を無視することによって、商品の交換価値が明らかになる」と言っているが、なぜそうなるかは上に既に書いたように、「価値」と使用価値とは関係がないからである。
色々ある和訳書の中では、わたしの知る限り、大月書店の「マルクス・エンゲルス全集」(文庫本にもなっている)が比較的に優れている。これも直訳であるが「抽象」ではなく「捨象」を使っており、また前後の脈略を意識して訳されており、一番整然とした日本語になっている。
古本屋でよく見かけるのは新日本出版社の新書版のものだが、大月書店のものより新しいにもかかわらず、訳が荒っぽく日本語の質はむしろ低下している。それなのに訳語に困ったら大月書店の訳語を利用してさえいる。訳語の統一も同じ訳者の担当範囲でさえなされていないことがある。
例えば、620頁で「法律的」、622頁で「法則」、623頁で「規則」と訳されている言葉はすべてGesetzかその派生語であり、同じ文脈で使われている。特に「法律的」は意味不明だ。
くだけた日本語に訳されているものとしては、「世界の名著54マルクス・エンゲルス」がある。ただし、この訳は独訳の難しいところを英訳から直訳しているところが多くあるし、例の個所で「抽象」を使っているなど、わけの分からない部分も多い。
書店で新刊本としてよく見かけるのは岩波文庫だけだろう。しかし、これは避けた方がよい。何と言っても古すぎる。
しかし、結局、『資本論』の場合も英訳で読む方がはるかに簡単だ。よい英訳や仏訳がたくさんある。しかも、そのうちのいくつかはインターネット上で公開されている。だから、読みにくい和訳の解読に時間を浪費することはないのである。英訳ならどんどん読めるのだ。もちろん、ドイツ語もある。
ドイツ語のはスキャナ読み取りのもある。但し、読み取りミスがある。第一章について、前者のタイプミスを後者によって修正してわたしが使用したものはここ。
そのうちでも特に仏訳は、最初の仏訳のあまりの直訳ぶりに業を煮やしたマルクス本人が手を加えたものだと言われており信頼度が高い。
しかし、日本語の訳書でも、第一章さえ乗り越えてしまえば、あとは何とか読める。第三章以降は普通に読めると言ってもいい。哲学的なのは最初だけなのだ。
ここに公開する『資本論』は「第一章商品」の意訳である。これなら大体のことは誰でも分かると思う。少なくとも日本語として読めるはずだ。
『資本論』はそれ以前の経済学の内容を全否定したものではなく、それを土台にして書かれている。だから、『資本論』はマルクス主義者でなくても、経済学を学びたければ是非読んでおきたい古典中の古典である。もちろん、経済学に取り組むのにもっと手頃な入門書はあるだろう。『資本論』自身の解説書もたくさんある。しかし、結局は本物に立ち戻るしかないのだ。
HicRhodus,hicsalta!「ここがロードス島だ。ここで跳べ」(イソップ寓話集の中で、ロードス島でなら高く跳べると言い張る走り高跳びの選手に、ある人がいった言葉。『資本論』第4章「貨幣の資本への転化」第2節「一般的定式の諸矛盾」の末尾に引用された)なのである。 
吉本隆明の2000年以降の活動
2001年9月11日アメリカ同時多発テロに関して、2002年『超・戦争論』という書物を刊行し、アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、特に「自由」という観点からいえば「両者とも自由にたいして迷妄である」とし、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べた。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」ともしている。また「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない。それは断言できる」と述べている。
2003年『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞した。
2008年には「試行」上で1997年の終刊まで執筆した『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から出版された。
また同年には、『蟹工船』が60万部のベストセラーになったことに関連して、情報技術の興隆、格差社会、ワーキングプアについて論じ、「物事や人間を党派に分けて判断するという感じ方が、全般的に崩れ」たことを評価し、しかし同時に「いいものはいいし、悪いものは悪いという原則もなくなった」「この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、と言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。もし、もっといい方向を探し出そうとするなら、変化の兆候をよく見極めることが重要」と述べた。
また同年に、かっての1980年代の埴谷雄高との消費社会に関する論争をふりかえり、現在を、「消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術により、(1980年代の)情況判断はさらにわたしの思考力を超えて劇的に展開した」「ことに科学的には少しの思いつきを追ったに過ぎないと思えることが莫大な富の権力にむすびつきうるという事態の怖さを見せつけた」「地域の空間と時間の無境界化に対応したり対抗したりする思考や思想も私たちはもっていない」「情報科学と交通理念は、グローバルな独占支配の手段以外にこれを変更することができない第二の天然自然と化しつつある」と述べた。そして、日本の現状を、「ここ3、4年前から日本国は第二の戦後期(敗戦期)に転化しつつある」「しかも日本国の(第二の)戦後は完全に戦後を絶たれたと断言してもいい」「戦後も戦中も戦前も、『未来』と一緒に切断された」と述べている。 
 
小林多喜二における民衆

 

「小林が生きていたならば……そこに集まる僕らの思いはみな一つでありました」
多喜二が虐殺された二月二十日を記念した、数年前の多喜二祭で、壷井繁治氏がよみあげた「二月二十日」の中に、こんな一節があった。
けれど、「小林が生きていたならば……」という思いは、そこにあっまった壺井氏たちだけでなく、多喜二を知るほどのものが、みな一様にいだかずにはいられぬ感想である。とくに、困難な情勢のとき、どうしたらいゝかに迷うとき、「小林が生きていたならば……」といまさらのようにおもうのである。
江口渙氏は、小林多喜二全集の月報に、一九三一年、作家同盟が第四回(臨時〕大会で、歴史的な方向転換をしたときにはたした、多喜二の役割について述べているが、第三同大会は、同盟内の内部対立のために、議場がすっかり混乱してしまい、ついに役員選出が未了に終るという状態だった。このとき、小林多喜二は、八ヶ月ぷりに豊多摩刑務所からでてきたばかりであったが、この全く感情的になってしまった内部対立の克服のために尽力し、その結果、中央委員会は多喜二の批判をうけいれて正しく自己批判を行い、反幹部派との感情的対立をといて、第四同〔臨時〕大会で大きく方向転換を行い、「組織活動と創作活動との弁証法的統一」というスローガンをかゝげたのであった。
この大会によって「われわれの芸術運動が第一にプロレタリアートの文化教育活動の部分として認識され」「第二にはプロレタリアートとブルジョワジーとの決定的な闘争を
成功的に戦いぬくために、労働者階級の多数者を獲得しなければならないプロレタリアートの課顆を己れのプログラムとしなければならないということ」が明確にされたのである。
作家同盟は工場・農村内に文化サークルをつくり、労働者階級の多数者を捧得するという仕事に全力をあげてつきすゝむことになった。この方向転換は、後でのべるように、日本のプロレタリア文学運動にとって、劃期的な意義をもつものであったが、このことについて、江口氏は前掲小文で、
「あのときのアドヴアイスは、小林だからこそできたのだ。われく中央委員会も小林のアドヴアイスだからこそ、すべての行きがゝりと感情を捨てゝ気持よく受け入れたのだった。また、反幹幹部派も、小林に封する尊敬から、それまでの行きすぎた反対派的行動を是正したのである。小林多喜二はそれほど作家同盟会員から信頼されていたのであった。」と述べている。
小林多喜二は、この第四回臨時大会で、作家同盟の書記長にえらばれ、一九三一年の十一月に、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が創立されるにあたっては、中野・壷井・中條等と共に中央協議員として、戦争とファシズムに反対してたゝかうプロレタリア文化運動を、農村・工場内の文化サークルにがっちりと根をおろしたものにするために全力をあげた。
一九三一年は、日本が中国侵略に公然とのりだした年であり、ファシズムの脅威が次第に露骨になって来た年である。一九三二年二月からはじまった、コップに対する大弾圧は、プロレタリア文化連動の指導的メムバーを根こそぎうばい去っていったし、同年五月の、作家同盟第五同大会は、官憲によって解散させられるという状態だった。
このようなファッショ的大弾圧は、作家同盟内部にも、日和見主義的・敗北主義的傾向を生み出したのであるが、あやうく逮捕をまぬがれた多喜二は、宮本顕治・杉本良吉等と共に、地下の非合法活動に移り、外に対しては、戦争とファシズムに対して強固にたゝかう組織として作家同盟を再建強化することにつとめ、内に対しては、同盟内の日和見主義的・敗北主義的傾向を容赦なくえぐりだして、これを徹底的に批判克服することにつとめた。
この時期における多喜二の理論的活動は全くめざましいものであった。困難を極めた地下活動の多忙な生活の中から、あいついで発表された諸論文は、当時の文学運動を正しい方向におし進めたばかりでなく、今日の運動にとっても、はなはだ豊富な教訓にみちているが、今はそれについて詳述することはできない。
小林多喜二は非政治主義的な文化主義に対しては決定的に対立した。「文学運動の方針は文学活動自体のなかから独自には生まれるものではな」く、「階級闘争の実践的任務〔それはたゞ現実の政治の正しい認識をまって把握される〕によって規定される。何故なら、それが文学運動をも規定する主線〔ゼネルライン〕であるから。」多喜二はこのことをくりかえし強調した。戦争とファシズムの嵐の中で、これに抗してたゝかう、国際的な、又、国内的なカムパニアの一翼として、日本の文学運動が発展させられなけれはならぬことを強調したのである。
だがかれは、口のさきだけ、紙の上だけで闘争方針を論じ、景気のいゝアジ・プロ的活動をすることに反対し、「仮りに「たった一つのサークルを作ることに成功したならば百の闘争方針書に勝る!」といえる」といって、アジ・プロ活動が、組織的活動と結合して展開されることを要求している。同時にかれは、文学連動が政治活動に解消されることに反対して、「創造的活動の強化を強調」した。もちろん、「それは飽く迄も現実の階級的任務に従属された創造的活動であ」った。
「それは現実の闘争の中から素晴しい闘争の経瞼を反映して現れようとしている新しい働き手」の活動を強化発展させ、「闘争の中からの創造附活動を強化するために掲げられた」のであった。多喜二によって「組織的活動と創造的活動の弁証法的統一」というスローガンは、いっそう深められ、発展させられた。
多喜二は「「組織活動」ということを全体の闘争から切り離して、例えばサークルに出掛けて行くとか、或は手懸りがあるとか、或は〔外にいて〕如何に運用するかとか、何等かの意味での「技術的なもの」とし」て理解する形式的理解を克服するために、同盟員の(とくに重点企業内)サークルへの「配属」を問題にした。
組織的活動が単に如何に組織をうまく動かし且つ拡大するかというばかりでなく、そのことが同時に現実の闘争の豊富な経験と、労働者生活の直接の雰囲気の獲得に役立つものとするためにも、この配属の問題が断行されなければならぬ。だから、こゝでは実践の上で、組織的活動と創作的活動が統一されるのである。これが弁証法的活動である。(「闘争の「全面的」展開の問題」) 
小林多喜二は、正しく政治と文学、組織的活動と創造的活動の弁証法的統一の問顧を提起し、同盟の活動を指導したばかりでなく、自分自身、身を以てこの困難なたゝかいにとりくんで、その実践の中から「沼尻村」「党生活者」「地区の人々」という、すぐれた作品を生み出していった。これらの小説は、戦争とファシズムに対する、困難きわまりないたゝかいを、具体的に描き出していった主題の積極性において、他に類例を見ないすばらしいものであったばかりでなく、その創作方法においても、一段と深められ高められて、新しい境地をきりひらいてゆこうとしたのである。
特に「党生活者」のもっている意義は重大である。「党生活者」を批判するのに、笠原との関係の非人間性というような側面ばかりをとりあげて、この作品が、倉田工業という、軍需工場内部での困難をきわめたたゝかいを、実に具体的に追求していった意義を見落すなら、その批判は片手落ちであることをまぬがれないだろう。
一九三三年二月二十日、築地署の特高課員にとらえられ、即日、残忍な拷問によって虐殺されたことは、たゞ単に、日本の警察の残虐さ、野蛮さを示すばかりではない。多喜二の活動が、支配階級に対して、どれ程大きな打撃をあたえていたかということを示している。
多喜二は、どんな困難な情勢にあっても、屈服することを知らなかった。情勢が困難であればある程、そこから起ちあがってたゝかってゆくために、あたらしい活動の方法、あたらしいたゝかい方を見出だしてゆくのであった。そして、これこそ正しい道であり、なしとげねはならぬと知ったならば、萬難を排してつき進んでゆく勇気をもっていった。このような多喜二の不屈の精神と勇気に満ちた実践力ーその革命家的態度こそ多喜二の文学を、一作ごとに高めてゆき、深めてゆく、創造的エネルギーの源泉になっていたのである。だが多喜二は、もともとこのような偉大な作家であり、革命家であったのだろうか? 
今日は淋しい。
自分が思想的に、存在理由を多くのものゝ間に主張することの出来ないことを知った。ハッキリした態度で世の中を見れない、イツでもあやふやだ。自分が自分としての存在を主張し得る程「ユニック」な思想をちっとでも持っているか? そしてこの事はすぐ自分の芸術上のことにもくる。
もっとく自分達は生活に対して「イージイ」だ。寺田達の ことが考えられた。− 信念がほしい! 仕事の上の熱情と根気が慾しい、何より! (一九二六年五月二十八日の日記)
この世の生活事実を考え体験してきたら、矢張りこの世の中を見る態度が色々に分れる。人生はついに循環小数の中から出れない。闇があるから光がある、そして人は闇と光の中をグルグル廻って歩いている。四を三で割って行って、恰かも四が何時か立たないかと望んでいるかのように。けれどもやっばり何時まで行っても、三三……である。(同年六月七日の日記)
一九二六年の、このころの日記をよむと、これが多喜二の、あの虐殺される前、僅か七年たらずの時期にかゝれたものであるということを、いったい誰が信ずることができるだろうか。多喜二は、一九二七年の末には「防雪林」をかき、一九二八年には「一九二八年三月十五日」、一九二九年には「蟹工船」「不在地主」をかいて、二九年の末には、
来年は何をするか? 然し我々にとっては、来年はどうなるか、という事が第一のことだ。何時、どうなるか、それが分らないのだ。−我々は、だから書けるときには死物狂いで書いて置かなければならないし、云える間は一時に百のことでも云っておかなければならない。ーで、来年も若し書ける「幸福」が与えられていたら、大いに書きまくろうではないか。(「来年は何なするか」)と述べている。
この文章を、前に引用した日記の文章とくらべて見よう。そうすれば、この三年間に、多喜二の上に一体何ごとがおこったかを理解することができるだろう。驚くべき思想変革ではないか。しかも、この思想変革が、多喜二にとって、こんくとわき出てつきぬ創造力の源泉となっている。この変革は一体何によって可能となったのか?
小林多喜二は小樽高商を卒業して、拓植銀行の銀行員となった。だから、かれはたしかにインテリゲンチャであった。前に引用した 日記の一節は、インテリゲンチャとしての多喜二の苦悩をあらわしている。だが、インテリゲンチャであった多喜二は、また、秋田の食うに食えない貧農の息子であった。
「防雪林」「蟹工船」「不在地主」は「転形期の人々」などには、内地をくいつめて、夜逃げ同然に北海道へ移住・出かせぎにきた人々のみじめさをえがきだしているが、多喜二の一家も、亦、そのようにして秋田から北海道へやって来たのであった。
多喜二が北海道の貧農・プロレタリアートを、内地でくいつめた、どん底のどん底にあえぐものとしてえがきだしたのは、正しいことであったが、この理解は、かれの生いたちそのものから出ている。だから、かれの作品には、ひとつのはかない夢をもって、北海道へ移住して来は来たものの、その夢をむざんにもうちやぶられて、前にもまさる悲惨な運命にあえぎながら、もうこれ以上、どこに逃げ出すこともできぬところにおいつめられ、あの生きるに生きられなかった、そこから夜逃げして来なければならなかった内地に、いゝ知れぬ望郷のおもいをそゝぐ人々の姿が、ものすごい迫力で読者の心に迫って来るものがすくなくないのである。
多喜二の一家はこうして北海道へ移住して来たのであり、「転形期の人々」「地区の人々」にえがき出された、小樽の労働者町、貧民窟、淫売町がごたくとかたまっている地区のかたすみでパン屋をして、やっとのことで生きてゆく貧乏生活をしていたのではあるが、多喜二は、親戚の世話で商業学校から高商へと進んだ。
だが人の世話で、その家の手伝をしながら学校へやってもらうということは、少年期から青年期へかけての多感な多喜二にとって、どれほど屈辱的な、たえがたいことであったか知れない。多喜二のこの社会の矛盾に対する認識、人民解放の熱情は、決してインテり的な、書物から学んだり、観念的な同情から生まれたものではなくて、かれの生活から生まれ出たものなのであった。
一九二七年三月、かれは恋人、田口タキにあてた手紙に、
本ばかりよんで、社会主義とはこんなものだ、とか、調子に乗るのは、所謂、頭からの社会主義者である。が、胸から、胸の奥底から、心臓から、どうしても社会主義者にならずにいられないのがある。
と書いている。このことばほど、かれのその後、死にいたるまでつらぬきとおした社会主義の本質をいゝあらわしたことばはないだろう。だが一九二七年二月七日の日記には、
生活の方では、相変わらず不安定だ。「雪の夜」(圏点)の中でもその事には一寸触れているが。社会主義者として、自分の進路が分っていながら、色々な鮎で、グヅくしている自分である。マルクスの「資本論」でも読んでみたい気がしている。が、それの 根本的な処に疑いをもっている自分は、結局、社会主義的情熱を永久に持てぬ人間のように思われる。
と書いているのである。かれは、日本の国の中でも、北海道という、資本主義的搾取の上に、さらに、植民地的搾取の重った土地に、貧乏人の子として生まれ育ったのである。たとえ、かれが高商を出て銀行員になったとしても、かれの民衆に対する感情が、決して、プチブル的な、人道主義的同情にとゞまりうるものでなかったことは前に述べた。かれは民衆を愛したのであり、何とかして、この悲惨な状況から解放しようとしたのである。
どん底のどん底の、そのまたどん底であるような、ヒューマニスト然としているプチデル・インテリゲンチヤは、何だかんだともったいぶったことはいゝ、同情はしても、しかし、本質的には愛することの決してない、悲惨な境遇にあった婦人、田口タキに対して、同情ではなくて、本当の愛情をそゝぎ、何とかして、その悲惨な境遇から救いだそうとしたことが、多喜二の民衆に封する感情をもっとも端的に語っている。
だが、頭の中だけでなく、現実に、この悲惨な運命から解放しようとするとき、たったひとりの女を救いだすことでさえ、実に困難なことであった。現実を知れば知るほど、努力すればするほど、その困難さはいっそう身にしみてわかるのであった。多喜二は、
「師走」を書くときも、古くは「駄菓子屋」を書くときも、自分の意識は「救い」だった。そういう生活に一導の光明を与えたいと思う気持だった。「曖昧屋」も最後はそういうことの暗示を与えて終らせてある。然し、今度それ等を書き直しているうちに、事実は反対の方へ行くのだ。救い出そうとするとそれが、こんな生活の場合うそのように思われる。
「師走」の改作では、哲夫でお恵を助けようと思ったのに、書いて行っているうちに−言いかえれば、自分でその生活を生活してゆくうちに、どうしてもプログラム通りにはならないんだ。「曖昧屋」の改作の場合も同じだ。(一九二六年八月十五日の日記)
といっている。
こゝにはリアリスト小林多喜二がいる。ここから、この節の冒頭に引用した述懐がわいて来たのであるし、又、社会主義者になるべき自分を感じながら、容易には社会主義者に移行出来ないという矛盾が生まれたのである。
「人間が生きてゆく事がどんなことであるか分っている人がそうあるだろうか?」「師走」で郁子がいうこのことばは、多喜二の初期の小説をつらぬくものであった。豆撰工場や火山灰工場の言語に絶した苛烈な搾取。石炭ガラをひろい、こぼれた豆をひろい、そんなにしてはたらいても、それでも生きてゆくことができない。このようにして、淫売というもっとも悲惨な境涯におちてゆく女たち。多喜二はこの悲惨な現実をどうすることもできずに見つめておらねばならぬ。田口タキとの悲惨な恋愛から生み出された、「その出発を出発した女」「最後のもの」「瀧子其他」は、日本の小説の中では批判的リアリズムの文学として一段ときわだった位置をしめている。
だが、多喜二の民衆に対する前に述べたような愛情は、いつまでも、多喜二がこのような批判的リアリズムの限界−、ブルジョア的リアリズムの限界にとゞまっていることを許さなかった。多喜二自身が予感していたように、かれは、おそかれはやかれ、社会主義者ーそれも「頭からの社会主義者」ではなくて、「胸から、胸の奥底から、心臓から、どうしても社会主義者にならずにいられな」かったのである。
かれは社会主義に関する本や、社会主義的な小説もよんでいたが、しかし、かれに社会主義者としての道を、はっきりと、確信をもって進んでゆかせたのは、そのころ、小樽商業会議所の会頭をしていた磯野進の農場、空知郡富良野農場の小作争議が、小樽の労働団体と共同闘争委員会をつくって勝利した事件である。この闘争から直接材料をとって書いたのが「不在地主」であるが、「不在地主」の十二章以下の部分が、事実だけを、ずばりずばりと書いて、しかも異常に緊迫した空気をまぎまざと読者に実感させるのは、はじめて、このような闘争に参加した作者の、異常なまでに高い感動に支えられているからである。
この部分が、「中央公論」に発表される際に全部削除されたとき、多喜二は「前半は実にたゞ、あすこへの踏石であり、用意でしかない程、私はあすこに力を注いで書いたということは分って頂けることゝ思います」と、編集者にあてた手紙で書いている。
伴の女房も演壇に立った。−日焼けした、ひっつめの百姓の女が壇に上ってくると、もうそれだけで拍手が割れるように起った。そしてすぐ抑えられたように静まった。−聴衆は最初の一言を聞き落すまいとしている。
伴の女房は興奮から泣き出していた。一 泣さ声を出すまいとして、抑え/\て云う言葉が皆の胸をえぐつた。ーあち、こちで鼻をかんでいる。
「……これでも私達の云うことは無理でしょうか?ー然し岸野さんは畜生よりも劣ると云われるのです。」拍手が「アンコール」を呼ぶように、何時までも続いた。誰か何か声をはりあげていた。(「不在地主」十四)
うちひしがれ、うちのめされ、「畜生より劣る」といわれる生活にたえて来た百姓たちが、今、自分の足で立ちあがり、労働者と腕をくんで力強くたゝかっている。しかもそのたゝかいは、小樽全市民の支持を得て、ついに大勝利をおさめた。この事実が多喜二をどれはど興奮させたかは、容易に想像することができるだろう。
一九二七年三月十四日、はじめて、この争議の演説会へいったとき、多二喜は、演説会へ行く前と、かえってからと、二通も田口タキに手紙をかいている。一通は、この小作争議について簡単に説明し、「僕は行って見ようと思う。身体検査をされても平気だ。すべて虐げられている者等だ。それを世間は、この.ブルジョア社会はいやが上にも虐げようとする。俺はじっとしていることが出来ない。これから行ってくる。では、」(傍点は引用者)と結んでいる。第二便は、
演説会へ行ったが、満員で入れず、表には武装した巡査が何十人も立って居り、入れないでいる人々が何百人も立ち去りもしないで表にいるのだ。そしてそういう労働者の多くが如何に進歩してきたか、ということは、その立話でも分る。 マルクスあたりの言葉などを使っていた半纏の男もいた。兎に角僕は興奮して帰ってきた。何んでもやっぱり磯野が警察に金を出して、ウマくやっているそうだ。では又ねえ。というのである。
同じことは、三月十四日の日記にも書かれている。多喜二はこの争議をきっかけにして、小樽の労働運動に直接くわゝつてゆき、同時にプロレタリア芸術運動にも積極的なつながりをもちはじめたのである。 
「不在地主」を発表してから、小樽の仲間たちは、多喜二のことを「不在作家」とよぴだした。そのことに関連して、多喜二は次のように述べている。
自分は何故今まで「朝鮮」と「台湾」から偉大な「不在作家」が出ないか、と思っている。朝鮮と台湾からこそ、自分は「北海道」 や「樺太」をフッ飛ばしてしまうような「不在作家」が出ることを信じ、又出なければならないことを信じている。−−「其処にこそ」資本主義最後の段階たる帝国主義の、眼を覆うような事実がある。それを生血のしたゝるビフテキのような具体さを持って、えぐり出す作家はいないか。ー自分はそれを待っている。
小林多喜二は一九二八年から虐殺されるまで、僅か四、五年の間に、あいついでプロレタリア文学史上に輝く作品を発表し続けたが、それらの作品は、いずれも、小樽を中心とした労働者運動、農民運動の中から生み出されていったのである。
磯野農場の争議のとき、「拓植銀行にいて、磯野側の情報も入手しやすい立場にあったので、労農闘争委員会の希望に應じて、度々、その会合に出席して情報資料の提供をした」(「全集」第二巻「解題」)
同じ年六月の小樽港湾労働者の争議がおこったときには、ビラつくりの手つだいをしたりしている。翌二八年二月の総選挙には、毎日、銀行の仕事が終ると組合へまわって選挙の手つだいをしたばかりでなく、直接東倶知安方面へでかけて應援演説をしたりもしているし、又、「蟹工船」をかくにあたっては、小樽の海員組合の北方海上倶楽部で発行された「海上生活新聞」の編集に加わっていた。
三・一五、四・一六の弾圧を、自分自身、運動の渦中にいるものとしてうけとめ、とくに、四・一六では自身も亦、検束され、家宅捜索を受けているのであるが、一九二九年の・一六以後、この年の九月前後まで、これらのあいつぐ弾圧によって、壊滅に瀕した小樽労働組合の再建に直接加わって尽力したのであった。
私の作について、東京の批評家は古いとか、新しいとか、ウルサク云う。然し私は云って置こう。私は「現実に」働いている労働者と一緒にいる。−−モガのテンポと、モボの明快さは東京のカフェー・プロレタリア作家にまかして置くとして、そして又それらはカフェーのテーブルでプロレタリア作品を批評するという偉大な枇許家達に委かしておくとして、少くとも自分はその労働者の成長と一緒に成長するということだ。その内容も形式も! (傍点小林)
然しこのことは、何んでも頭の中だけで急速にお先っ走りするテンポニストには、遺憾ながら、まるで鈍い牛の歩みかも知れない。だが、そんなことはどうでもいゝ。− 行き語るか、「大衆の現実」との矛層についてだけ簡畢にのべておこう。
行き詰らないか、これからの一作々々を見て貰おう。労働階級それ自体が、行き語らない限り、俺は行き語らないぞ、自分はこう豪語して置こう。(一九二九年十月「断片を云う」) 
「傲慢な爪立ち」という小文で、多喜二は「もし私に一つの『芸術的主張』があるとしたら、それは同時に私たちの所属している「ナップ」の芸術的主張であるわけです。」「何より私たちに具体的な目標を示してくれているのが「ナップ」なのです。それは遅れているものの髪の毛をつかんで、ずり上げてくれる。」と述べているが、多喜二はもっとも忠実にナップの方針にしたがい、これを実践していった。
多喜二は自分を「動いている」作家の型に属していると考えるといっているが、かれの作品は一作ごとに成長し、発展していった。それは労働者階級の成長と共に成長し、プロレタリア文学運動の発展と共に発展していったのである。そして、ナップの方針はもっとも激烈な階級闘零の渦中に、労働者とともに全力をあげてたゝかっていた多喜二によってこそ、もっともゆたかに具体化されたわけであった。
こゝで、私は、多喜二の作品の発展について、又、その「大衆性と大衆化」の問題を中心とした、今日、国民文学の確立を目ざすわれわれにとってきわめて重大でありながら、しかも今まであまり問題にされなかった理論的な活動について述べなけれはならないわけだが、すでに紙数も超過しているので、ナップの基本的な方針である「プロレタリア前衛の離船」と、自然成長性ー「大衆の現実」との矛盾についてだけ簡単にのべておこう。
「防雲林」と「不在地主」を比較してみるとすぐわかることだが、「不在地主」は「防雪林」にくらべて、問題にならないほど広い視野に立ち、積極的な主題を追求している。 
「防雪林」では農民たちが、何故、今年の冬に限って闘争に立ちあがったかは明瞭でない。貧農の苦しみというものが、一般化されて描き出されている。そして、そのたゝかいは自然成長性に委ねられて、明確な指導がなされていないのである。そのため、警察による弾圧にあうと、このたゝかいはひとたまりもなくくずれ去ってしまう。階級的憎悪にめざめた源吉の、地主に対する放火は、アナーキスティックなたゝかいであり、問題の本質的解決からは程遠いものだといわなければならない。
これに対して、「不在地主」は明瞭に前衛の観点に立ち、日本の農民蓮動を唯物弁証法的に描き出そうとしたものであった。作者は、「中央公論」の編集者にあてた手紙で、この作品の意義として、A、何より「資本主義が支配的な状態のもとの農村」をえがいたということ。B、単に小作人の惨めな生活を描くのでなく、「農民と移民の閲係」「青年訓練所と農民」「相互扶助会と農民」「銀行と農民」「軍隊と農民」「徴兵と農民」といったふうにきわめて大きなスケールでえがき出し、小作人と貧農とは如何に惨めな生活をしているかということではなくて、如何にして惨めか、又、どういう位置に、どう関連されているかを明かにしたこと。C、「農民」と「労働者」の協同を描いたということ。D、それぞれ農村の一つ一つのグループを代表する「人間」として、登場人物を描いたこと。−−をあげている。たしかに、これらのことを「不在地主」が追求したということは、農民文学にとって、エポック・メーキングなことであったのである。
だが、われわれは、「不在地主」にくらべれば、問題にならぬほど不十分な現実把握をしかしていない「防雪林」の方に、はるかに強い迫力を感ずるのである。これは一体何故であろうか。それは「不在地主」では、農民、及び農民運動が、こういう問題もある、こういう問題もある、といった工合に、外部からさまぐに観察され、分析されて書かれたことによる。多喜二は、「蟹工船」が説明化の傾向におちいったことを自己批判して、
「説明化」の傾向として考えられる根本的なものは労働者的でないというところから来ている。何故そうかといえば、近代のプロレタリアートが周囲にまき起るあらゆる事物に対しして、「単純に」「的確に」 −−従って素ぼくなものいゝのうちに複雑な内容を物語るとき、そのプロレタリアートの「心臓」をわがものにしていないプロレタリア作家が、極めて不自然な努力によってそれに近づこうとし、−−結局が「説明」と「無理」をゴテくと持ち廻り、矢張り本物でなかったことを、それ自体として示すことになる。だから「カニ工船」の持っているさ末性やかいじゆう性は単純にそれだけのものではなしに、明かにこのような意味から問題にされなければならない。−−プロレタリア文学の恐るペき邪道である。
と述べているが、この自己批判は、「不在地主」の十一章以前にもあてはまるであろう。「防雪林」が、ともかくもあれだけの迫力をもつことができたのは、この作品が外側からの説明化をまぬがれて、農民の中に芽生え、成長した階級的意識を農民自身の内側から、一途に追求しきっているところにある。すなわち、階級闘争が、たとえ不十分な形でしか描かれなかったにもせよ、外側からもちこまれたものとしてではなく、農民の生活の内側から、必然的にそう発展せざるを得ないものとして、リアリスティックに追求されていたからである。
「前衛の観点」「主題の積極性」「現実の唯物弁証法的把握」はそれ自体としては非難されるべき点はすこしもない。今後ますます発展させられ、強化されねばならぬプロレタリア文学のかがやかしい理論的遺産である。然し、問題はこのような創作方法が、観念的に使用されるときに、現実のリアリスティックな追求をはゞんで、観念的な現実の解繹におちいってゆく危瞼性をふくんでいた点にある。それは作品の一様化を生み出し、文学の発展をおしとゞめることになったのである。
日本の革命運動の課題を文学の課題とする場合に、大衆の生活、当面している具体的な、特殊な運動それ自体のリアリステイックな追求を通じて、その内側から大衆自身の成長発展を通じて、描き出してゆくということをしないで、一般的な課題をそのまゝ現実のたゝかいにあてはめて、上から、観念的に描いていったところに、「前衛の観点」と民衆の現実との矛盾が生まれ、プロレタリア文学の一様化を招いたのである。
革命運動の発展は民衆の生活それ自身の内部にある矛盾の発展に基礎をおいているのであるから、民衆の生活の矛盾それ自身の発展をリアリスティックに追求することなしに、民衆のたゝかいを外側から描いたとしても、そのたゝかいを根底から、リアリスティックに、迫力あるものとして描き出すことができるはずはなかった。
「前衛を描け」というスローガンの場合にしても、「前衛」を民衆の生活、民衆のたゝかいのもっとも深いところで結びついているものとして、民衆の生活それ自身の中から描き出してゆかなければならなかったのである。
多喜二が「傲慢な爪立ち」の中でのべているように、「ナップ」の方針においつこうとして「爪立った」姿勢で自分の文学を発展させていったことは、かれの文筆活動の中にも、今のべたような「前衛的観点」と「民衆の現実」との矛盾を内在させることになった。多喜二はこの矛盾を克服するために全努力Jで傾けたのである。そしてこの矛盾を克服することは、大衆の中での活動、「組織的活動と創造的活動との統一」労働者出身の文学活動のはたらきての抜擢、養成、報告文学活動の強化等々によってのみ可能であった。
多喜二はこのことをかれの生涯かけて実践したのであり、理論的活動の発展ばかりでなく、その創造的活動の発展にも、明かにこの矛盾を克服するための努力のあとを指摘することができるのである。特に、未完の大作「転形期の人々」およぴ「沼尻村」「地区の人々」は、多喜二が到達しょうとしていた新しい段階を示唆するものである。多喜二の小説の発展を、そのテーマの発展からたけでなく、創作方法の発展として追求することは、現在、特に重要であるが、又、別の機会に譲りたい。 
 
『蟹工船』と現代

 

激動の二〇〇八年はいつまでも人々の記憶に残る年となるだろう。北京オリンピックもアメリカの大統領選挙も遠い過去のことに思われる。それほど激しい時代の動きだ。アメリカ発の経済危機が全世界を揺り動かし、初の黒人大統領オバマが生まれた。日本でもトヨタや日産、ホンダなどの自動車、その他、ソニーやキャノンなどの大企業が大量クビキリを強行し、仕事と同時に住まいも失った労働者が大量に生み出された。この勢いはさらに加速され、〇九年はもっと大量の失業者が路頭に迷うおそれがあるという。
この年、一九二九年、世界大恐慌の年に発表された『蟹工船』がにわかに売れ始め、三〇万、四〇万と爆発的に売り上げを伸ばして人々を驚かした。新潮文庫の『蟹工船』は今年だけで60万部を売り上げたという。特設売り場が設けられ、大々的に売り出される様子が新聞、テレビなどでさまざまに報道され、『蟹工船』ブームともいうべき現象が生まれた。
2006年に白樺文学館多喜二ライブラリーが東銀座出版社から刊行した漫画版『蟹工船』も話題を呼んだが、さらにイーストプレス版、宝島版、講談社版が相次いで刊行され、新潮社からもコミック『蟹工船』が刊行されて、若者たちの間にさまざまな形で浸透していった。正社員の長時間労働や日雇い派遣の劣悪な労働など、苛酷な現場の実態をさして「蟹工船」とか「カニコー」とかという言葉が使われるるようになり、「蟹工船」は2008年の新語・流行語大賞のトップテンにえらばれた。
『蟹工船』は北洋漁業船団が出港する時期にはしばしばテレビでも話題になり、記念切手になるなど、その名は比較的知られていたが、作品を読んだ人は少なかった。特に若者たちはその名も知らぬものが多く、小林多喜二はすでに現代と無縁な過去の作家だった。
多喜二には熱烈な支持者がいて、いまも全国各地で多様な記念集会が開かれている。こんな作家は珍しいが、参会者はほとんどみな、青春の一時期に多喜二と出会い、生涯忘れることのできない大きな影響を受けたと思われる人々で、年々高齢化は避けられない。〇三年に広い九段会館大ホールを満員にして、没後七〇年生誕一〇〇年を記念する集会が開かれた時、その盛況に驚くと同時に、多分、これが最後の大集会になるのではないかと思った。しかし、豊島公会堂で開かれた民主文学会主催の没後七五年「多喜二の文学を語る集い」は前売り券があっても入場できないほどの盛況だった。この五年の間に新しい事態が始まっていたのだ。
この集会では、若い作家の浅尾大輔(三八才)が司会し、小樽商大と白樺文学館の「蟹工船エッセーコンテスト」に入賞した山口さなえ(二五才)と狗又ユミカ(三四才)が報告する青年トークが人気を集めた。山口が演壇から「私はもし今、多喜二が生きていたら惚れていると思います」と言ったのにはおどろいた。山口が強調したのは多喜二の「優しさ」だった。狗又も多喜二を「アニキ」というか、いつまでも、「いいお兄ちゃん」という感じの存在だと、コンテスト受賞作品に記している。
山口も狗又も派遣社員として、理不尽な解雇を繰り返され、職を転々する不安定な日々を過ごした。会社も同僚も労働組合も労働基準監督署も信じられなかった。非正規社員を理由に,あらゆる不当な扱いが正当化された。いつ解雇されるかわからない不安、社会に対する不信と絶望で神経障害に悩み、自殺を企てたりもしたが、団塊世代の大人たちはしっかりしろとはげますばかりだった。
ふたりとも漫画がきっかけではじめて『蟹工船』を読んだが、会社の利益ばかりを追求して、労働者の肉体と生命を破壊し、「糞紙」のように使い捨てにする現実は、形はちがっていても現代と同じだった。このままの生活をつづけていては、年をとるにつれて雇ってくれるところもなくなり、路頭に迷って死ぬのではないかと不安だった狗又は、「俺あ、キット殺されるべよ!」「馬鹿! 今、殺されているんでねえか!小刻みによ」という作中の会話に自分の現状をはっきりと自覚させられた。
いまは暴力的な浅川のような存在はなく、敵が誰なのか見えないが、目に見えない誰かによって一人一人撃ち殺されているのが現代だと、山口も強調する。派遣や請負という不安定な雇用条件のため、『蟹工船』のように団結することもできず、バラバラに孤立させられ、格好の標的になっている。しかし、こんな絶望的な自分たちを、多喜二は決して頑張れと励ましたりはしないで、朝までも話を聞いて、やはり最後に『蟹工船』の結末と同じように「彼らは立ち上がったーーもう一度!」と書き付けるのではないか。その優しさに「惚れた」のだと山口はいう。
この青年トークでは司会の浅尾をはじめ山口も狗又も、多喜二を「多喜二さん」と呼んでいた。かつて多喜二は仰ぎ見る不屈の革命戦士であったが、いまは「惚れた」とか「兄貴」とか言われ、「多喜二さん」と親しみを込めて呼ばれる。そして、その優しさにひかれて、作中の労働者の悲惨な現実に共感し、自分だけが苦しいのではないと思い、連帯を求めて、一人でも参加できる新しい形の労働組合に参加したというのだ。
驚きは、繁栄と近代化をほこる世界第二の経済大国、いまの日本の若者たちが、肉体を破壊され、死に追い込まれる『蟹工船』の労働者に、自分たちの現実を見ていることだ。1975年生まれの雨宮は、『毎日新聞』〇八年一月九日の高橋源一郎との対談で「『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました。」述べて、『蟹工船』ブームのきっかけをつくったとされるが、新しい単行本『蟹工船』に解説を書き、派遣会社の手で全国から集められた最も近代的なトヨタやキャノンの派遣工たちが、全国から周旋人の手で集められた『蟹工船』の労働者たちと、いかに同様な苛酷な働かされ方をしているかを一つ一つ事実を挙げて解明している。
いまの若者たちは『蟹工船』の悲惨な現実に共感するが、労働者が団結して勝利を獲得するとは信じていない。ただ、死に追い詰められる虚無と絶望のどん底からの脱出、人間的な優しさと結びつきを求めて、新しい形の組合に参加しはじめたのだ。一方で、社会に対する絶望はひたすら破壊を求める思想となり、関東自動車の派遣工社員が無差別に通りがかりの人々を殺傷した秋葉原事件などを生み、戦争を美化する右翼思想への傾斜をも生んだ。
1975年生まれの雨宮処凜は、大学受験に失敗して、リストカットと家出を繰り返し、二一歳で右翼団体に入会、愛国パンクバンドでボーカルとして活動した。その後、右翼を離れ、同世代を代表する作家、評論家、運動家として、現代が生んだ貧困層、生活も職も心も極度に不安定なプレカリアートの問題に取組んでいる。『ロスジェネ』創刊号(2008年6月)の「バブル崩壊後のW焼け野原〃にて」に右翼との関係について書き、右翼にしか居場所を見つけられなかった当時を回想し、右傾化する人々の言葉にもある現代の生きづらさに耳を傾けてほしいと述べている。
超左翼マガジン『ロスジェネ』は、一九七〇年代に生まれ、バブルが崩壊した一九九〇年代に就職期を迎えたロストジェネレーション、就職超氷河期世代の自己主張として創刊された。創刊号の巻頭には「ロスジェネ宣言」を掲げ、「『丸山真男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)で評判になり、『若者を見殺しにする国−私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社)を出版した赤木智弘を招いて、共産党員で編集長の浅尾大輔と対談させている。右翼か左翼かというイデオロギー対立を超えて、「反貧困」という旗の下にあらゆる勢力を結集しようとしているのだと思われる。
この世代は一方的にアメリカを美化し、社会主義を悪とする思想が支配する時代に育った。小林多喜二を知らないだけでなく、戦争の時代に平和を求め、労働者の解放を求めた運動について一切知らず、共産党は悪としか思わなかった。彼らはいかなる理論や党派の支えもなく、ただ、死に追い詰める現実に対して「生きさせろ!」と叫んで反撃を開始したのである。(雨宮『生きさせろ!難民化する若者たち』太田出版)「生きさせろ!」は『蟹工船』の「殺されたくないものは来れ」と同様に、ぎりぎりに追い詰められた労働運動のゼロ地点、原点である。繁栄を誇る経済大国日本がそのような場所に若者たちを追い込んでいるとは信じがたいが、昨年末以来の大量解雇の現実はこの残酷な事実をまざまざと見せつけている。
「バブル崩壊後のW焼け野原〃にて」を書いたとき、雨宮は戦後の焼け野原を意識していたのだろうか。私たちも戦時中は軍国主義の教育を受け、戦後になるまで多喜二を知らなかった。東京の町は廃墟と化して、どこまでも赤茶けた焼け跡が続いていた。肉親も、住居も失った戦災孤児や、大陸からの引揚者、国のために死ぬつもりだった元特攻隊員など、住居とともに心の拠り所もうしなった人々が、飢餓に苦しみながら焼け野原をさまよっていた。これが戦争だった。この戦争に反対し、働く人々のために命をかけて戦った人々がいたと知ったのは驚きだった。獄中の政治犯は1945年の10月10日に解放され、小林多喜二の作品が粗末な紙に印刷されて次々に発売された。
戦後の私たちは生きるためにはたたかわなければならなかった。激しいインフレの時代だった。物価は日に日に高騰し、たちまち何倍、何十倍になった。米よこせ、住居よこせ、仕事よこせの運動があり、賃上げの闘争があった。「生きさせろ!」「殺されたくないものは来れ」というのは戦後の運動、私たちの青春の原点でもあった。これらのたたかいの先頭には解放された共産主義者がいて、人民民主主義革命の旗を揚げていた。多喜二は不屈の革命戦士であり、仰ぎ見るべき偉大な英雄だった。しかし、米ソの対立が激化し、レッドパージがあり、朝鮮戦争があって、日本の左翼は後退した。ソ連の社会主義は崩壊し、アメリカの属国になった日本は高度経済成長をつづけて世界第二の経済大国になった。青年たちはひたすらアメリカの後を追い、独立の精神を失った。そして、バブルが崩壊し、就職超氷河期がやってきたのだ。
おどろくべき低賃金で世界最大の輸出産業を支えてきたトヨタやキャノンの派遣工、期間工などが、今度は大量に、失業保険その他の保障もなしに職を奪われ、宿舎も追われて、年の暮れの路上に放り出された。まさに「生きる」ためにはたたかわなければならない。次第に全国的な連携を強め、活動を強めてきたロスジェネ世代は、反貧困ネットワークなどが中心になって「年越し派遣村」の運動を始めた。この世代は導く理論や政党、経験ある指導者を持たずに、手探りで「生きる」ための活動を実践している。理論もなく、経験も乏しいこの運動がどれほどの成果をあげられるだろうか。しかし、この若者たちの周囲に自民・公明を含む各政党、対立していた労働諸団体など、広範な勢力があつまって、新しい運動をつくり出している。対立ではなくて、連帯と協力が新しい時代を開く。『蟹工船』はこの新しい運動の原点を示す作品として、ひろく国民の間に共感を呼んでいるのだ。  
 
小林多喜二の今日における意義 / 宮本百合子

 

小林多喜二全集第一回配本を手にしたすべての人々が、まず感じたことは何だったろう。これで、いよいよ小林多喜二の全集も出はじめた。そのことにつよい感動があった。つづいて、小林多喜二全集の編輯は、実に周密、良心的に努力されていて、ただうりものとして現在刊行されている各種の全集類とは、まるで趣をことにした実質をもっていることを、当然のことながら新しい意義でそれぞれの心と行動の上にうけとる思いがある。直接編輯にあたって、解題を書いている手塚英孝は、小林多喜二がプロレタリア文学の領域に活動した時期、最も親しい仲間の一人であった。小田切進は、小林多喜二をふくむ日本の人民解放運動とその文学運動の成果を最もよく今日と明日の歴史の発展のうちに生かそうとしている若い世代の代表である。小林多喜二全集は、世代の発展的意欲の表現として、思いもかけない人々からの協力をうけながら発刊の運びになった。
小林多喜二が虐殺された一九三三年二月からきょうまでの十五年間、全集刊行のことは忘れようにも忘れられなかった。小林の死の直後日本プロレタリア作家同盟と日本プロレタリア文化連盟とは、小林多喜二全集刊行委員会を組織した。各団体から委員が出て、作家同盟からは、小林の死、その葬儀をとおしてほんとうに同志らしく行動した江口渙をはじめわたしをもふくむ数人の委員があげられた。刊行基金として、予約募集の仕事がはじめられた。その頃の金で全額五十円ぐらいであったろうか。予約募集は決して不成功ではなかったにかかわらず、刊行事務はちっとも進行しなかった。一九三三年と云えば、プロレタリア文化運動に集注破壊の向けられた年で、小林多喜二の虐殺は、ファシズム権力の兇猛さで、国内にも国外にも心からの憤怒をよびおこした。が、その一面プロレタリア文化団体は、小林多喜二の死によってうけた震撼と恐慌によって崩壊を早めつつあった。文学団体が機関誌さえも順調に刊行できず、団体解散の理由を、直接治安維持法の暴力によるものと明言し得ないで、指導者と指導理論の批判に藉口(しゃこう)するために汲々としている雰囲気の中で、小林多喜二全集刊行がどうして実現しよう。客観的にも主観的にも全集刊行は不可能であった。十五年もの間、小林多喜二全集が刊行されなかったという事実は、その十五年間に、日本のすべての人民の運命が、どんなに無惨な天皇制ファシズムのくびきの下につながれていたかという証左である。
一九四五年の無条件降伏によって、一応ファシズム権力は退場したように見えた。けれども日本の社会の実質がどれほどファシズムの無思想性と反歴史性に毒されているかという証拠は、民主主義運動と同時に、一部の人々が精力的に小林多喜二の生涯と文学に対して、歴史的基準のない「批判」を横行させた事実に見られる。この三年間に、反小林多喜二の慣用語として、主体性を云い、人民的民主主義の方向を抹殺して、個人を云い自我を云いたてた人々は、現在、その人々の目にもあきらかなように、反動的農民組合の分派が、自分たちを主体派とよび、労働組合の分裂工作が民主化同盟とよばれていることについて、どんな感想を与えられているだろうか。
小林多喜二の生涯と文学とは、民主主義陣営の間においてさえも、まだ全面的な正常さでうけとられていると云えない。それは、最近行われた「小林多喜二的身構え」という言句をめぐる論争の性格を検(しら)べて見てもよくわかる。小林多喜二は人民解放史と文学史との上にうけとられているというより、もっと生々しく、現代の心理のなかに生きている。不幸にして、その心理は、日本人民がファシズム権力にひしがれつづけて来た被抑圧的屈従の複雑なコムプレックスをふくんでいる。その心理的コムプレックスには率直にふれそこから解放されようとしないで、「文学理論」で饒舌に表現するよくない習慣ものこっている。
全集の普及は、わたしたちすべての人民が、歴史における運命を一歩前進させるための足がかりとして小林多喜二の生涯と文学とを、あらゆる角度から多面的に摂取するための何よりの機会である。
〔一九四九年二月〕 
 
 

 

 
 

 

 
三木清  

 

マルクス主義哲學について / 三木清
 特にその宗教論及び自然辯證法の主張について
 
三木清 (1897-1945) (西田左派を含めた上での)京都学派を代表する哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。
はしがき
最近「三木哲學」批判として現はれた文章は十指をもつて數へることが出來ない、私の眼に觸れただけでも左の通りである。
土田杏村『理想』四月號
服部之總『思想』五月號
織田二郎『マルクス主義併究』五、六月號
川内唯彦 寺島一夫『プロレタリア科學』六月號
妙法寺五郎『科學文化』六月號
服部之總 栗原某『思想』七月號
大村哲夫『批判』七月號
これ等の批評家たちは殆ど凡ての場合、所謂「三木哲學」がマルクス主義と如何に相違してゐるかを示さうとした。そして彼等の多くにとつては、マルクス主義と相違するといふことは直にそれが誤謬であるといふことを意味するのである。だがこれ等諸君の努力は無駄であつた。諸君が聲を大にして叫ばれるところのものは、もともと明白なことであつて、今更取り立てて云ふを要しなかつたことであるからである。私の哲學とマルクス主義とを同一視することの出來たのは、ただわいわい連か若くは自分で哲學もマルクス主義も嘗て根本的に研究したことのない者かに限られてゐた筈である。不幸にしてこのやうな無智な連中はその數があまりに多かつたかも知れない。然しながら、本當に學問があり若くは學問的に研究することを知つてゐる者は、私の哲學がマルクス主義のそれと同一でないといふことを最初から認識してゐた筈である。彼は私のどの數頁を吟味することによつても、このことをいつでも確認することが出來る。私は私の従來の著作のいづれに於ても私の根本的態度を變更したことがなかつた。
私の根本的態度といふのは何處にあつたか。第一に私は最初からマルクス主義の上に立つて他の諸問題をその見地から論究したのでなく、却つて自分自身の哲學上の立場からマルクス生義そのものを問題としてこれを取扱つたのである。このことと關係して第二に、私の態度はマルクス主義を主張するといふよりも寧ろこれを辯護するといふ傾向をもつてゐた。かくて私がマルクス主義者と呼ばるべきでないことは明かである。なぜなら殺人者を辯護する者が必ずしも殺人者でないと同じやうに、マルクス主義を辯護する者が必ずマルクス主義者であるわけでない。蓋し私はマルクス主義の立場に立脚してマルクス主義を擁護したのでなく、却つて私自身の哲學的立場からしてそれを辯護したのである。そしてこの二つのことが全く違つた二つのことであるのは明瞭である。
それでは何故に私はマルクス主義を辯護することに傾いたのであるか。私はわが國の思想家、哲學者たちが、マルクス主義と云へぱ淺薄なものとしてこれを輕蔑し、若くは何か恐しいもの、觸れてはならないものとしてこれを敬遠し、かくてそこには無視と默殺とが支配してゐる状態に對して大なる不滿足、否、反感乃至反撥をさへ感じたのである。苟も學問に忠實なる者にとつては、それが如何に彼の徒來の考へ方に反對であらうとも、それが如何に危險に見えようとも、それに近づいていつて親しくそれを研究することは、彼の義務でなければならない。且つ私はどのやうな思想でもそれが人々を動かし歴史を作りつつあるものである限り、そこには必ず何等かの眞理が含まれてゐるのでなければならぬ、とかねて信じてゐる。かくして私はマルクス主義のうちに含まれる眞理内容を闡明することに努力して來た。そしてこのことはまた私自身の哲學の發展にとつても少からぬ利益をもたらしたことと思ふ。
凡そ學者であるためには學問上自分の立場をもたねばならぬ、これが私の學に志して以來の願ひである。ヨーロッパに於ては學者と呼ばれるほどの者はつねに何等かの自己の立場を有するに反して、日本の學者は往々にして博識博學のみをもつて能事終れりとなす風のあるのを、私はひそかに歎いてゐる者である。私は絶えず自分自身の哲學を求めて歩いて來た。その途上に於て優れたものに出會ひ、一時はそれに心を奪はれてしまふこともありはしたが、然しいつでも究極はそこに留まることが出來なかつた、なぜならそれは遂に自分自身のものでなかつたからである。このやうにして私は或る時は西田哲學に、他の時はハイデッガーの哲學に、力強く引摺られていつたが、然しまたそれらのものから勇敢に立ち去つてゆくことを知つてゐた。マルクス主義もまたかくの如き私の哲學的旅に於て出會つたひとつのものに過ぎないのである。私ほもとよりそれから多くを學んだ。然し私は結局マルクス主義者ではないのである。
若しひとが私をマルクス主義者であると云へば、それは何を意味するか。今自分の故郷を求めて旅する一人の男が東京へやつて來て、見聞せんがためにそこに暫く滯在してゐるとする。街で彼を見かけた人は恐らく彼をもつて「東京市民」であると考へるであらう。これは自然である、なぜなら實に多くの東京市民は東京で生れた人々ではないからである。然しながら、他の多くの人々が、よしその郷里は東京でないにせよ、東京に定住してゐるのに反して、彼はつねに彼の故郷を目差してゐるが故に、彼は眞實には東京市民とは呼ばれることが出來ない。單に現前の事實を見て全體を見ることを知らない者が、彼をそのやうに呼ぶに過ぎない。私がマルクス主義者と呼ばれること、恰もこの男が東京市民と呼ばれるが如くである。かく呼ぶところの者は、單に事實を見て事實の「意味」を認識し得ない者か、若くは單に個々のものを知るのみで「全體」を知らない者かである。
私はマルクス主義から多くのものを學んだ。然しそれを鵜呑みにしたのでは決してなく、却つてつねに批判的に攝取した。それ故に私はマルクス、エンゲルス、レーニンなどを「教父」(Kirchenvater)の如くに取扱ふ教會的マルクス主義に封していつも反對して來た。丁度中世の神學者たちにとつて「聖トマス曰く」「聖オーガスチン曰く」と云ひさへすれば凡ての問題の解決となつたやうに、ただマルクスやエンゲルスやレーニンの言葉を持ち出しさへすればそれで問題は片付けられるもののやうに信じてゐる獨斷的マルクス主義者に對して私は戰つて來た。私の従來の諸論文に於てそれ等の人々を引用するよりも更に一層多く所謂觀念論者或ひはブルジョア哲學者を引用してゐることは、誰でも容易に氣付き得るところであらう。事實、私はマルクス主義からのみ學んだのでなく、却つて他のものからその幾倍、幾十倍を學んだ。それだから私は昨年「プロレタリア科學研究析」の創立にあたつてそれに參加した一方、他方ではまた最近「プラトン・アリストテレス學會」(Platon-Aristoteles Gesellschaft)の設立のために努力しつつあるのである*。
*プラトン・アリストテレス學會は上智大學教投クラウス(Kraus)氏などと協力してこしらへた。ギリシア、ローマの古典的文化の研究及び普及のために國内的、國際的に活動することを目的とする。本年九月からその活動を開始すベく準備中であつた。因みに私はこの間プロレタリア科學研究所から脱退した。
かくて如何にして私の哲學がマルクス主義哲學と等しくあり得ないかは明かであらう。私自身の思想はなほ未だこれを十分に體系的に展開し得るまでには至つてゐないが、然しひとがこれを「三木哲學」と呼んで他のものから區別し得る程度には確固たる形を具へてゐるのである。この哲學は、マルクス主義が唯物論であるのに反して、唯物論でさへないのである。私はこれを「存在論」と稱してをり、ギリシアの古典哲學の傳統をひくものである。──私は極めて多くのものをアリストテレスから受け容れた。──然し私の存在論的立場は、ギリシアのそれとは異つて、「人間學的」であることを特色とする。更にまたマルクス主義者が辯證法の適用の普遍性を主張するのに對して、私はそれ等の適用が一定の存在の領域にのみ制限されてゐると説く。このやうに既に最も根本的な且つ最も一般的な點に關して、私はマルクス主義と一致し得ないのである。
それにも拘らず、私の哲學が現代の他の諸哲學に對して有する特色は、他の諸哲學が概ねマルクス主義に對して何等の結合點をももたないのに反して、私の哲學は、固より一定の限界内に於てではあるが、マルクス主義的學説を權利付けることが出來るところにある。かかる結合點が存在するが故にまさに、私自身またマルクス主義から學ぶことが出來たのでもある。そして私はマルクス主義の諸根本思想に對して私自身の立場から、世界的文献の間に伍して、極めて特色ある、獨自なる解釋を與へ得たと信ずる。この點自らひそかに誇りと感じてゐるところである。
私は今ここに自分の立場を詳細に展開し、且つそれとマルクス主義との間に於ける差異を一々論述することが出來ない。ここに與へられるのはその一、二の、しかも專門的、哲學的な問題に這入らない、從つて甚だ不完全な不滿足な見本であるに過ぎぬ。寧ろここでは凡てがただ輪廓的に且つ常識的に語られるだけである。 
宗教について
先づ最初に云つておかう。私は元來宗教的傾向をもつた人間である。私はこのことを單に斷言するのでなく、私の著書『パスカルに於ける人間の研究』がそれに對する立派な證據を與へてゐる筈である。そこにはパスカルに對する私の解釋を通じて私の宗教的感情が流れてゐる筈だ。そしてこの私の宗教的な氣持こそが私を究極に於てマルクス主義者たることを不可能ならしめるところのものの一つである。
マルクス主義の宗教論が、若しこれを文明批評として見るならば、多くの眞理を含んでゐることは爭はれない。現代の宗教界の墮落の事實に對しては、正直に事物を觀察し得る者である限り、何人もこれを否定することが出來ない。教會または寺院宗教家は自分で搾取してゐるか若くは搾取してゐる者の代辯者であるかである。然しながらそれは「宗教」がさうなのであらうか。否、そのやうな事實は、寺院や僧侶のうちに實に「宗教」が死滅してゐるがために生じてゐるのではないか。眞に宗教を目的として生活してゐる宗教家がなく、宗教を手段として生活してゐる宗教家のみであるからである。そこには宗教の名のみがあつてその實が失はれ、その形骸のみが存在して、その生命が死滅してゐるがためである。
苟も眞に信仰ある宗教家が存在するならば、彼は宗教界の現状に對して、はたまた現在の社會状態に對して口を緘して傍觀することは出來ないであらう。
眞の宗教家はつねに貧しき者の味方であつた。そして自分は乞食の生活に甘んじ、與へることを知つて取ることを知らなかつたのである。ところでマルクス主義者は云ふ、宗教は死滅する、と。私の問題は主としてここにあるのである。マルクス主義者が「宗教は阿片である」と云ふとき、若しそれが宗教の現状に對する批判の言葉であるならば、私はこれを認めざるを得ない。更にまたマルクス主義者が現在に於ける人類の解放は宗教によつてなされることが出來ないと云ふならば、この點もまた私は恐らく認めてもよいであらう。然しながら宗教は死滅するといふマルクス主義唯物論の根本的主張に對しては、私は到底贊成することが出來ないのである。
私は云ふ、宗教は時代に應じてその形態を變化する、然しそれは死滅しはしない。例へばキリスト教の歴史に於て、宗教改革によつてプロテスタンティシズムといふ新しい形態が生じた。プロテスタンティシズムが資本主義社會といふ社會の新しい形態に相應したものであるといふことは、多くの人々によつて説かれてゐるところである。キリスト教は舊教から新教といふ形態を採るに至つたが、然しそれは死滅したのではないのである。近代資本主義社會への轉形期、即ち哲學史上所謂啓蒙時代に於ても盛んに無神論が宣傳された。けれども宗教は今日に至るまで存續してゐるのである。いつたい既に數千年この方存在して來たところの、從來の文化に於ける最も重要なる要素或ひは勢力の一つであるところの宗教が無くなると云はれ得るためには、何等か極めて有力な根據があるのでなければならぬ。然るにマルクス主義がそのために主張するところはなほ私を説得せしめるに足りない。
私は他の場合に既にマルクス主義が哲學上の實證主義的傾向を帶びてゐること、そしてその點に於て私の同意し得ざることを述べた。マルクス主義に於ける實證主義はその宗教論に於ても明かに現はれてゐる。普通に實證主義の代表者として知られるコントが人間歴史の發展の段階を神學的、形而上學的、實證的の三つに分つたとき、その主意は昔は宗教的神話的觀念の助けを借りて説明されてゐた自然の諸現象が今日では實證的な合理的な自然科學によつて讒明されるに至つたといふ風に考へ、これをもつて人類の歴史の進歩の方向を示すものと見倣したところにあつた。郎ち宗教は未發達な科學にほかならない、從つて科學が發達すれば宗教は自然と消滅する。いまマルクス主義の宗教否定の思想のうちにはその一要素としてこのやうな考へ方が含まれてゐる。マルクス主義者は考へる、宗教が神秘的に表象し、神秘釣に解決してゐるところの問題をば、科學は合理的に把握し且つ合理的に解決することが出來る。それ故にマルクス主義的科學の出現した後に於てはもはや宗教の存在する餘地はない。嘗てライプニッツは美をもつて知識の低い段階であるとした。即ち科學が明晰判明なる表象であるのに對して、美とは混亂せる、曖昧なる表象のことである。そこで近世美學の祖と云はれるライプニッツ學派の人バウムガルテンは「感覺論」を意味する”Aesthtica”といふ名前のもとに於て美を論じ、そしてこの語が現代歐洲語に於ける「美學」といふ言葉の源となつてゐる。ところでマルクス主義者は美をもつて科學の低い、未發達の段階であるとは考へてゐない。藝術は科學からどこまでも獨立に存在するものであり、從つて後者の發達によつて前者は消滅させられるものではない、と彼等は見做してゐるのである。然しながら若し科學の發達によつて宗教が死滅するものであるとするならば、何故に、まさにその同じ理由によつて藝術も消滅しないであらうか。なぜなら美は、これを科學的に云へば、要するに假象(Schein)にほかならないからである。科學の發達にも拘らず、なほそれとは獨立に藝術が存在するとするならぱ、それはまさに人間の「本性」のうちに美を創造し美を享受する能力が具つてゐるからである。藝術に關係するところの、このやうな「自然的な」人間の能力をひとは普通に「感情」と呼んでゐる。そしてマルクス主義者と雖も藝術が感情とつながつてゐることを認めてゐるのである。科學が「思惟」のことであるに反して、藝術は思惟の能力とは區別される感情のことである。科學と藝術とが相互に區別され、各々獨立に──固よりこの獨立性は絶對的でない──存在してゐるのは、人間の本性そのものに於ける思惟と感情との自然的な區別に基礎をもつのである。それでは宗教はこのやうな意味に於て人間の本性のうちにその自然的な基礎をもたないであらうか。
マルクス主義はこの問に對して否と答へる。そしてそこにマルクス主義の宗教死滅論のひとつの根據がある。マルクス主義によれば宗教はどこまでも「社會的な」起源のものであつて、それは人間の「本性」に於ける「自然的な」基礎をもたないものである。階級間の對立、一階級の他の階級の搾取、生産の無統制、市場の存在、そのほか生産の弱小等々、マルクス主義は凡て社會的なものに宗教の根源を見出さうとしてゐる。若しこのやうな社會的状態にして絶滅されるならば、即ち若し階級對立もなく、搾取もなく、市場の盲目的なカも在在し得ざる社會にして實現されるならば、宗教は必然的に死滅してしまふ。なぜならそこにはもはや宗教を成立せしめる何等の社會的基礎も存在しないからである。原因が無くなれば結果はおのづから無くなるの理である。
人間と人間との對立、或ひは社會に於ける階級間の對立がもはや存在しない社會を假定してみよう。そこにもなほ社會と自然、寧ろ人間と自然との間の對立乃至矛盾は依然として存在するに相違ない。人間と自然との對立のうち最も重大なものは「死」である。死は我々の如何ともなし得ざる我々の自然である。しかも生のあるところ死は到るところに刻々にこれに件つてゐるのである。人間の生活にして死といふ問題を含んだものである限り、宗教は社會に於ける「社會的」矛盾の消滅と共に消滅すべきものとは思はれないのである。
なるほど宗教は社會的である。それは社會的に制約せられ、社會性を擔つてゐる。然しそれだからと云つて、宗教は徹頭徹尾社會的に制約されてゐるといふことは出來ない。このことは藝術や科學の場合を考へて見れば分る。マルクス主義は藝術の階級性について語る。けれどもそれだからと云つてマルクス主義は藝術がどこまでも社會に於ける階級對立にその基礎をもち、かくて階級の對立なき社會の到來と共に消滅するなどとは主張しないのである。
藝術について主張され得ないことが何故に宗教についてのみは主張され得るのであるか、私は理解することが出來ない。宗教は明かに社會的、從つてまた階級的な制約を擔つてゐる、しかしそれは人間の本性そのもののうちにも同樣に深く根差してゐる、と私は考へる。宗教のかくの如き「自然的な」根差の深さについて知るためにはただ偉大なる宗教家の魂の告白たる書物を讀めばよい。オーガスチンを、ルーテルを、パスカルを。そしてまた親鸞を。
實際マルクス主義者たちはあまり「宗教家」(homo religiosus)を研究してゐないやうだ。そして彼等はただ宗教の外面的な、社會的、政治的な事實にのみ注目してゐる。然しながら「藝術家」を離れて藝術が理解出來ないのと同じやうに、眞の「宗教家」を除いて宗教を知ることは不可能である。私はマルクス主義者がエレミヤ、パウロ等の偉大なる宗教家を研究することを勸める。そのとき彼等は宗教が眞に人問の本性のうちにその根源をもつてゐることを認識するであらう。凡ての人間が藝術的創作をなし得ないからとて藝術が虚妄であるわけでない。世間の多くの人間が宗教に於て、ただ社會的な原因から生じ、從つてまた社會的に解決され得るところのもの、例へば貧困、の解決を──現世に於てでなく、彼岸に於てさへ──求めてゐるに過ぎないからと云つて、眞の「宗教家」の宗教が凡てまたさうであるとは云ひ得ないのである。
尤も次のことを注意しておかねばならぬ。私は宗教が二つの方面若くは要素、即ち社會的要素と自然的要素とを含んでゐると考へる。然しながらこれら二つの要素がいつの時代に於てもつねに平等に我々にとつて問題になつてゐるわけでない。凡て人間はそれぞれの時代に於て、存在のうちに含まれるただ一定の方面若くは要素をのみ問題にするやうに餘儀なくされてゐる。そしてかく「問題にされた」要素がそれぞれの時代にとつてその存在に於て「顯はになつてゐる」方面であり、これに反してその存在に於ける他の諸要素はおのづからそのとき「埋沒」してしまつてゐるのがつねである。これは私の根本思想のひとつであるが、今これを先づマルクスの『資本論』に於て取扱はれてゐる「商品」を例として説明してみよう。マルクスの分析に從へば、商品には二つの要素が含まれてゐる。使用價値と交換價値とがこれである。そしてなほ彼の敍述からして、我々は使用價値が商品に於ける「自然的な」要素であり、そして交換價値がそれの「社會的な」要素であるのを知ることが出來る。ところでマルクスはその『資本論』に於て一旦先づ商品のうちに含まれるこれら二つの要素を明かにした後に、次に商品からその使用價値の方面を捨象して、その後はただ交換價値についてのみ論述してゐる。『資本論』に於ては商品の交換價値から出發してその全運動が敍述されてゐるのであつて、最初に商品の一要素として示された使用價値の方面は全く捨象されてしまつてゐる。これは如何なる理由によるのであらうか。蓋し「資本家的な」生産の仕方が行はれてゐる社會に於ける商品の「優越なる存在の仕方」を規定するものは、その交換價値である。これに於てそのとき商品の存在は「顯は」になつてゐる。これに反してその場合、それの使用價値は、私の言葉を用ゐるならば、「埋沒」してゐるのである。それは實に「埋沒」してゐるのであつて、決して全く「無い」のでもなければ、無くなつてしまつたのでもない。なぜなら若しも商品なるものにして、使用價値を全く含まないとすれば、それが社會に於て──資本家社會であつても──苟も交換されるといふことは全然あり得ないことでなければならぬからである。使用價値は無いのでなくして、ただ埋沒して顯はでないだけである。宗教についてもまた同樣のことが語られねばならぬであらう。宗教のうちに含まれてゐるところの「自然的な」要素は、なるほど、現代の社會に於ては埋沒してしまつてゐる。否、むしろ埋沒することを餘儀なくされてゐる。そこにはそれの社會的な要素のみが顯はである。然しながら宗教の自然的な本質は、要するに單に埋沒してゐるのであつて、決して無いわけではないのである。それだから、それは一定の時代に於て、一定の關係のもとにあつては、必らずや再び顯現すベきものである。マルクス主義者が宗教をただ單に社會的な起源のものと考へてゐるのは、恰も商品を單に交換價値と見做して、それが同時に便用價値であることを忘れてゐるのと同樣である、と私には思はれるのである。
誤謬の出發點はマルクス主義者に於ける宗教に對する理解の不十分にある。私は今それを一々ここに指摘することが出來ない。なぜなら、そのためにも全宗教論を展關することが必要であるからである。ここではただ一二の例をもつて滿足しよう。例へば、マルクス主義者は宗教をもつて本質的に「彼岸主義」であるとしてゐる。云ふまでもなく「超越」といふことは宗教の本質に屬してゐる。しかしこの超越は彼岸主義とは直ちに同一ではない、それのみならず、宗教に於ては、超越(Transzendenz)の反面には必ず内在(Immanenz)がある。神は單に超越的としてでなく、同時にまた内在的として考へられる。宗教は凡て現實を逃避して彼岸の世界を求めるのではない。寧ろ現實に對する最も熱烈な鬪爭をも宗教は要求してゐるのである。次にマルクス主義者は宗教をもつて單に「觀念論的」であると見做してゐる。この見方もまた不十分である。宗教にあつては、本來、ただ所謂「靈魂」が問題になつてゐるのでなくして、却つてそこでは人間の「全存在」が問題になつてゐるのである。靈魂と雖も、それが人間の「全存在」の問題と關係して問題となる限りに於て初めて宗教的な一意味をもつのである、と云はれなければならぬ。 
自然辯證法について
自然辯證法について、この問題がその性質上要求するやうな廣汎な且つ嚴密な取扱ひをすることほ今は許されてゐない。ここでは單にそれについて暗示し若くは結論を述べることだけをもつて滿足せねばならぬ。けれども暗示でなく説明が、結論でなく論據が一層重要であることは固より云ふまでもない。
自然の辯證法といふことがマルクス主義にとつて大切な位置を占めるといふ理由は明かである。第一に自然はその哲學的唯物論の基礎と信ぜられてゐるからである。然らばマルクス主義者たちは「自然哲學」の意味で自然辯證法を説いてゐるのであらうか。さうではない。蓋しマルクス主義者によれば、哲學なるものは方法論につきる。方法論以外に別個獨立なものとしての哲學はあり得ない。從つてマルクス主義は「自然科學」のほかに「自然哲學」のあることを許さないのである。かくしてマルクス主義は自然辯證法を實に自然科學の方法論として要請し、自然科學者たちが唯物辯證法に從つて研究することを要求する。否それのみでない、彼等は自然科學の現在到達した諸結果そのものが唯物辯證法に合致し、これの正當さに對して證明を與へてゐる、と主張するのである。ところでこのやうに「科學」以外に「哲學」の別個な存在を認めず、何よりも自然科學に結びつき、そこに於て自己の哲學的主張の正當さの證明を見出さうとする要求のうちに、我々は明かに哲學上の「實證主義」の傾向を看過し得ない。
さて現代の自然科學的研究の諸結果は唯物辯證法にとつて有利なものであるであらうか。遺憾ながら疑問なきを得ない。寧ろ自然科學者の大多數は反對の意見であるやうに見える。ソヴェトロシヤに於てさへこの問題については自然科學者の凡ての同意があるわけでない。自然科學と辯證法に關するデポーリンとステパーノフとの論爭に際して、「機械論者」と見做されたステパーノフの側には多くの自然科學者たちが立つてゐたのである。この場合我々は、「それは自然科學者が辯證法を知らないからだ」と云つて、問題を片付けてしまつてはならない。自然科學者たち自身が、その研究の成果が辯證法に合致するものと認めてゐない以上、我々はなほそこに問題が横たはつてゐることを考へざるを得ない。私は近代自然科學と辯證法的方法との間の乖離はかなり深い處に根差してゐるのではないかと思ふ。近代自然科學はその根源的な起源を自然に對する人間の實踐的な支配といふところにもつてゐる。單に自然を眺め見るのでなく、これに働きかけてこれを變化する目的から自然科學は生れた。自然科學は「生産し」ようとするのである。然るに自然科學のこのやうな目的はかの有名な言葉”voir pour prevoir”で表はされてゐるやうに、「豫見する」、「豫測する」といふことが出來るに至つて初めて十分に達せられ得るであらう。自然科學に於て求められる所謂「自然法則」なるものは、このやうな目的に適したものでなければならぬ。これが、私の見るところに依れば、近代自然科學がその方法に於て「機械論的」であり、その法則の機械的法則であるところの最も重要な理由である。機械論と云ふのは、一言で云へば、「質を量に還元する」といふことにある。そこからして近代の自然科學は數學化といふことを自己の意圖としたのである。
科學的思惟のかくの如き性質は、例へば、べルクソンの如き哲學者たちによつて既に明瞭に指摘されてゐる。ベルクンンによれば、我々の科學的知識は純粹に知るために知るのではない、却つて物を作るために、それから利益を引き出すためにのみ、知らうとしてゐるのである。この意味に於て思惟は凡て質的なものを量的なものに置き換へる。それは、ペルクノンの言葉を用ゐるならば、時間的なものを空間的なものに、或ひは純粹持續を空間化された時間に還元する。然るにベルクソンに從へば、眞の實在即ち純粹持續は純粹に質的な、それ故に各々の瞬間に於て異質的なものである。實在は、質的なものを量的なものに還元して認識することをその本性とする「思惟」によつては把握されず、ただ「直觀」のみがそれを理解し得ると彼は考へた。ベルクソンの思想のうち今の場合重要なのは、物を作り若くは物を變化することをその内在的な目的とする科學的思惟は、その本性上質的なものを量的なものに還元するといふこと、且つこのことは特に未來を「豫測し」得るために必要であるといふこと、を彼が説いた點である。
ところで辯證論者はかくの如く質を量に「還元する」といふことは正しくないと考へる。このことをデボーリンの如きは彼の所謂機械論者に對する論爭の中で繰返し述べてゐる。辯證法的な關係に於ては量から質への轉化若くはその逆が語られ得るのみである。そこにはつねに「轉化」または「中斷」、「飛躍」といふが如き概念が含まれてゐるのであつて、これらの概念は云ふまでもなく「還元」といふことと相容れない。「飛躍」や「中斷」などといふことは或る還元出來ぬものの存在することを表現してゐる。
今若し自然科學に於ける法則が辯證法的な關係を現はすものであるとせよ、そのとき最も不幸なことは、かくてはその法則によつては何等の「豫測」も眞の意味に於てはなし得ないといふことである。丁度マルクス主義の社會科學に於て、社會革命の到來の必然性を辯證法的に論述したとしても、しかしその辯證法によつて、我々は何年何月何日にまさにかくの如き革命が起る、と「豫測」することは出來ないのと同じである。然るに自然科學の求めてゐるのはまさにかかる嚴密な意味に於ける豫見である。例へば、今日天文學は何年何月何日何時何分に日蝕が起るといふことを正確に豫測し得る状態にある。これはまさしく天文學の法則が「機械的」であるがためである。
若しそれが「辯證法」であつたならば、このことは不可能であるであらう。辯證法に於ては豫測といふものが本來の意味では行はれない。例へば今現在の社會を分析して、そこに必然的なる「矛盾」の存在することを發見したとする、かかる矛盾にして存在する以上、この社會は必ずや變化し、このままで存續することは出來ない。即ち社會の變化の必然性は辯證法的に認識することが出來る。けれどもその變化の到來する時間、空間的位置を豫斷することは辯證法には許されてゐない。換言すれば、辯證法は將來について「見通し」を與へるものであるが、將來を「豫測」せしめるものでない*。更にまたそれは來るべき社會が如何なるものであるかを豫測せしめることも出來ない。蓋し辯證法的な變化は要するに「飛躍」であり、「綜合」即ち矛盾の統一として現はれるのであつて、かくの如き綜合乃至統一に於てはつねに嘗て存在しなかつたところの「新しいもの」、それ故に豫測し得ぬものが生れると考へられてゐるからである。
*拙稿「辯證法に於ける自由と必然」(『思想』昭和四年十月號)には、この點について詳しく論じておいた。
かくして辯證法を自然科學の方法論として要求することの困難は明かになるであらう。即ちかかる要求は自然科學をしてその本來の最も重要な性質のひとつであるところの「豫測」といふことを放棄せしめることになる。然るにかくの如き放棄はまさに自然科學的知識が物を作り用し、物を變化せしめるための知識であるといふことを斷念せしめることとなり、そしてこのことは「生産」または「生産力」といふものを最も重要視するところのマルクス主義の根本思想と矛盾することになるであらう。
辯證法的自然觀はへ−ゲルがその自然哲學の中で敍述したところである。そして自然哲學はへーゲルの體系の中に於ける弱點(Wundepunkt)と從來見做されて來た。この思辨的な自然哲學こそへ−ゲルの哲學をその當時沒落せしめるに至つた最も重大な原因のひとつであつたのである。ところでデポーリンの如きはかくの如きヘーゲルの自然哲學を新しい形で復活せしめようとしてゐるかの如くに見える。この企圖と雖も、固より、若しそれが「自然科學」以外に別個な「自然哲學」の存存を認める立場に立つならば、全く無意味なことでなく、却つて多くの興味を喚び起し得るものであらう。然るにこのやうな意味での「自然哲學」の存在を認めようとはしないマルクス主義者が辯證法的自然觀を樹立しようとしてゐるのは、私には理解し難きことである。私は自然辯證法がむしろマルクス主義にとつて一つの重大な傷口であるのではないかを恐れる。
さてマルクス主義者たちが現代の自然科學の諸結果をもつて自己の唯物辯證法のために有利な證據を與へるものと幻想するに至る理由は次の點に隱されて含まれてゐる。彼等は第一に、辯證法と「有機體説」(Organologie)とを、第二に、辯證法と「微分法」(Infinitesimalmethode)とを區別してゐない。私の考へでは、これらの區別は甚だ大切であるにも拘らず、從來殆ど注意されてゐないのである。第一の區別については、私は既に簡單に取扱つておいた*。第二の區別についても、私は最近論文を發表したいと考へてゐる。蓋し微分法に於ては變量が問題となるところから、このものは辯證法と混同され易いのであるけれども、兩者は嚴密に區別されねばならぬ。私は今ここにこのあまりに專門的な問題に立ち入ることはしないで、ただ次の事實に注意しておかう。マールブルク學派(ヘルマン・コーヘンを頭領とする)の如きは、辯證法やへ−ゲルを形面上學的であるとして排斥しつつ、別に微分論理を打ち立てようとした。コーヘンの如きは微分論理の立場から『純粹認識の論理學』を書いてゐる**。そして最も注目すべきことは、コーヘンを初めとしてマールブルク學派の人々は、微分論理こそ近代の自然科學に最も確實な基礎を與へるものであると考へたといふことである。
*拙著『社會科學の豫備概念』の中に於ける「有機體説と辯證法」なる論文參照。
**私はこの大著の一部分を譯して雜誌に連載したことがある。追つて單行本として刊行される筈になつてゐる。
ここに於て我々には辯證法の妥當範圍について論及することが必要であらう。然るにこの問題についても私は既に私の意見を述べたことがある*。そのとき私は形式論理學と云はれてゐるものの固有なる領域が「本質存在」であるに對して、辯證法にとつての固有なる領域は「現實存在」であるといふ風に規定しておいた。私はここでは哲學的な議論に這入ることなしに、ひとつの實例をとつて簡單に私の意味するところを示さう。
*拙稿「形式論理學と辯證法」(『理想』本年四月號)參照。
極めてよく知られてゐる例をとらう。今コツプの水を次第に熱して行く場合、それは、五十度に熱するも八十度に熱するも、九十度或ひは九十九度まで熱するも、依然として液體である。然るにそれを百度まで熱するとき、水はこれまでの液體の状態から突如として變じて氣體になる。これは辯證法に云ふ量から質への飛躍的な轉化の例として最も屡々好んで用ゐられるところである。ところで自然科學者たちはこのやうな場合、これを辯證法的に理解してゐるであらうか。化學者によれば、水とはH2Oである。即ち酸素と水素との合成物である。それが液體であらうが、それが氣體にならうが、水は水としてH2Oで表はされる。これは自然科學の目標とするところが質的なものを量的なものに還元するにあるからである。また水をH2Oでもつて表はすのは水を作るといふ見地からも大切であるとされねばならぬ。かくの如く自然科學者はマルクス主義が辯證法的過程を見出すところに何等の辯證法をも認識しないのである。
然しながら我々はこの例をもまた一つの辯證法的なものとして理解し得ないのではない。他の見地からはそのことが可能である。即ち我々は質を量に還元するところの自然科學的立場を去つて、むしろ質を認める立場に立たねばならぬ。そのためには我々の「感性」に權利を認めなければならぬ。私が「現實存在」といふのはこのやうに感性的な存在である。蓋し人間の感性にとつては水と蒸氣とは明かに質的に異つたものであり、前者が後者になることはひとつの飛躍的變化として映ずるのみである。
ところでここに云ふ「感性」は單に知的なものと理解されてはならぬ。人間の感性は、その現實に於ては、私が「状態性」と呼ぶところのものとつねに結び付いてゐる。換言すれば、我々が現實の生活に於て出會ひ、知覺されるところの事物は、單に「對象」であるのでなく、却つてつねに或る氣分、或る感じ等、一般に我々の生とそれが交渉する意味を直接に擔つてゐるところのものである。それは、私の用語に從へば、「對象的存在」ではなくして「交渉的存在」であるのである。かくして例へば、我々は我々の生活に於て、單にバラの花なる對象を見出すのでなく、「愛らしい」バラの花に出會ふ。これに反して或る他の花は「憎らしい」花としてあるのである。このやうに存在するものは直接に凡て生と交渉するところの意味をもつてゐる。そしてそれによつて初めて事物はその辯證法的性質を擔ふに至るのである。存在は人間の生活の中へ織り合はされてゐる限り辯證法的である。人間の生活を捨象するとき、そこには辯證法はない。從つて私がこれまで屡々主張して來た通り、辯證法の固有なる領域は人間の生活である。これまで或る哲學者たちが辯證法をもつて「思惟の論理」とせず、「感情または意志の論理」と見做したといふことも、若し辯證法の行はれる範圍が私の云ふ「對象的存在」でなく、「交渉的存在」であることを考へたならば、あながち理由のないことでもないであらう。このやうにして私が辯證法の妥當範圍として規定したところの「現實存在」は單に感性的存在であるのみならず、また「交渉的存在」であるのである。
マルクス主義は辯證法の存在に對する制限されることなき普遍的な妥當を主張する。これに反して私は辯證法の妥當し得る範圍を主として現實存存に限定する。從つて例へば、本質存存の領域に對して或ひはまた對象的存在の領域に對しては、辯證法は本來の意味に於ては妥當し得ないのである。ところで自然科學に於て取扱はれるところの「自然」なるものは、私の云ふ「對象的存在」の領域に屬する。それ故にこのやうな自然に關しては辯證法はその研究の方法とはなり得ないのである。
昭和五年九月三日 豐多摩刑務所に於て 三木清
戸澤檢事殿 
 
新しいコスモポリタン / 三木清

 

ナチスの文化彈壓はあまりにも有名である。それは一つの世界史的事件であると云ふことができるかも知れない。我々は機會ある毎に、この人もドイツから追はれてゐる、あの人ももはや大學にゐないといふことを見出して、ただ驚くばかりである。この十數年來日本で名前の知られてゐたドイツの哲学者で現在なほ母國の大學で活躍してゐる者はどれほどあるであらうか。
歴史を繙くと、殉教者と稱せられるものがある。日本の歴史には比較的少いにしても、西洋の歴史にはそれがなかなか多いのである。
然るに今日その西洋において、あのナチスから迫害を受けた人々の中には殉教者といふべき種類の人間が見當らないやうである。彼らは母國を離れて、或ひはアメリカへ、或ひはイギリスやフランスへ、或ひは北欧へ行つた。彼等は現代のコスモポリタンである。我々は彼等において殉教者でなく、寧ろ新しいコスモポリタンを見るのである。彼等の中には、例へばトーマス・マンの如く、母國に對して抗議を續けてゐる者もなくはない。しかしそれらの人々においてさへ感ぜられるのは、殉教者の意志であるよりもコスモポリタンの感情である。誰が祖國を愛しないであらう。如何なるコスモポリタンが母國を懷かしまないであらう。それは人間の自然の感情である。この人間的自然的關係を離れて政治史的歴史的關係において見るとき、彼等は結局コスモポリタンである。
然るにかやうなコスモポリタンは單に彼等のみではない。現在ドイツに留まつてゐる知識人の中にも同樣のコスモポリタンは多いのである。一時はナチスの代表的哲學者であるかのやうに騷がれたハイデッガーの如きも、ヘルダーリンに關する彼の最近の論文を讀んでみると、彼もまた新しいコスモポリタンの一人である事が感ぜられる。沈黙してゐるコスモポリタンに至つては更に多いであらう。そしてそれはドイツのみのことではない。ロマン・ローランも、ジイドも、ヴァレリイでさへ、或る意味ではコスモポリタンであると云ふことができるであらう。彼等も現代の新しいコスモポリタンである。
コスモポリタンとは何であるか。コスモポリタンとは政治への信頼を失つた人間のことである。世界史上における代表的なコスモポリタン、古代的世界の末期に現はれたストアの哲學者達がすでにさうであつた。彼等の世界主義(コスモポリタニズム)は政治への信頼の喪失から生れてゐる。新しいコスモポリタンの政治に對する不信はいはば普遍的である。彼等は現代の政治に對して懷疑的である。しかも彼等自身何等かの政治のシステムを持つてゐるわけではない。一定の政治のシステムに對して絶對的な信仰を抱いてゐる者、コムミュニストの如きは屡々殉教者のタイプを示してゐる。彼等新しいコスモポリタンは自由主義者と呼ばれるのがつねである。しかし彼等の自由主義は政治のシステムであるのではない。彼等を文化主義者と名附けることも正しくない、なぜなら、もし文化主義が政治主義に對立するものであるならば、かやうに政治主義に對立するといふ理由で文化主義は一つの政治のシステムであるのみでなく、それは一定の政治のシステム──例へばいはゆる「文化國家」の理念──と容易に結び附き得るであらう。彼等にも何等かの政治的幻想があるに相違ない。彼等は政治に對して無關心であるどころか、つねに最大の關心を寄せてゐるのである。しかも彼等は、自己の抱く政治的幻想乃至理想が恐らく決して現實の政治的勢力となり得ないことを自覺してゐる點において、政治への信頼をもつてゐない。そのうへ彼等は、誰もが政治に關心せねばならぬやうな状態をもつて人類の大きな不幸と考へてゐるであらう。
もちろん彼等のコスモポリタニズムをいはゆる天才の孤獨と理解して片附けることができない。なぜなら、かやうなコスモポリタニズムは若干のすぐれた藝術家、思想家にのみ屬するものでなく、今日の世界のインテリゲンチャに多かれ少かれ共通するものであるから。我々は同樣のコスモポリタンを日本のインテリゲンチャにも見出し得たのである。
日本のインテリゲンチャはコスモポリタンであるといふ非難はすでに久しく日程に上つてゐる。そして人々は、彼等のコスモポリタニズムが彼等に特有な歐化主義に、彼等の無思慮な西洋崇拜に基くもののやうに云つて、彼等を非難した。しかしこの見方は淺薄である。なぜなら、かやうなコスモポリタニズムは單に我が國においてのみでなく、西洋においても見出されるものであるから。このコスモポリタニズムの本質は、すでに云つたやうに、政治に對する普遍的な懷疑であり、日本のインテリゲンチャにおけるコスモポリタニズムも本質においてこれ以外のものではなかつたのである。彼等はまさにコスモポリタンとして單なる歐化主義者、單なる西洋崇拜家に止まつてゐない筈である。彼等は少くとも西洋のものと同等に日本のものを好んでゐたであらう。また我々は彼等の人間的自然的な感情がまことに日本的であるといふこと、彼等が祖國に對してまことに人間的自然的な愛を抱いてゐるといふことを疑はない。しかし問題はそこにあるのではない。
現代のコスモポリタニズムの世界史的意義について考へてみることは興味のある、そして恐らく重要な問題である。しかし我々はここでは特に日本のインテリゲンチャにおけるコスモポリタニズムについて注意を喚起するに止めよう。それが本質においては西洋崇拜とも祖國愛とも關係のないことについてはすでに述べた。それは根本的には政治への信頼の喪失を意味してゐる。ところで今囘の支那事變は彼等をしてそのコスモポリタニズムを克服せしめたであらうか。言ひ換へれば、彼等はこの事變を機會として政治への信頼を囘復したであらうか。我々の問うてゐるのは單に、彼等が例へば現政府の政治を信頼してゐるかどうかといふやうなことではない。彼等が一般に政治への信頼を囘復したかどうかといふこと、從つて例へば、たとひ現政府の政治には反對するにしても他の政治には信頼し來るやうになつたかどうか、或ひは自ら進んで一定の政治のシステムを持ち得るやうになつたかどうかといふことである。しかもまた注意すべきことは、政治への信頼はつねにただ現實の一定の政治の方向乃至システムに對して決定的に同意するか反對するかにおいて現はれるといふことである。もし彼等のコスモポリタニズムがいかなる政治によつても救はれないものであるとすれば、人類の歴史は不幸な段階に入りつつあると云へないであらうか。それとも彼等はついに歴史の落伍者に過ぎないのであらうか。いづれにしても、我々はこのコスモポリタニズムの行方に現代の政治そのものの行方についての一つの指標を見出すことができるであらう。
この頃、戰爭と文化の問題について色々論ぜられてゐる。しかし實際は、戰爭と文化といふ問題はむしろ一義的な問題でしかない。本格的な問題は却つてつねに「戰後の文化」の問題であり、文化人がこの際最も眞劍に考へておかねばならぬ問題はそこにある。そしてもし戰爭と文化といふ問題が何等か困難な問題であるとすれば、それは戰爭は政治の一つの延長であるといふ意味において、現在政治と文化といふかねての問題が最も鋭く提出されてゐるといふことのためである。そしてこの問題は、政治に對する信頼の喪失から生じてゐたコスモポリタニズムが今日このとき如何に處理されるかといふことにおいて謂はば一つの極限的な問題に達するのである。
昭和12(1937)年11月「文學界」掲載  
 
新宣傳論 / 三木清

 

支那事變以來、日本が外國に對して宣傳下手であるといふことが種々問題にされてゐる。宣傳の意義、必要などについて、われわれはあらためて考へ直さねばならなくなつて來たのである。
いつたいプロパガンダといふ言葉は、一六三三年ローマン・カソリック教會によつて使用されたのが、その初めであるとせられてゐる。しかし宣傳といふものが現在のやうな特徴をもつて現はれるやうになつたのは更にずつと新しくナポレオン時代のことである。殊にあの歐洲大戰は宣傳發達の歴史においても劃期的な重要性をもつてゐる。
かくの如く宣傳は近代的現象に屬する。それは輿論といふものの場合に類似してゐる。そしてそのことは、宣傳が起り宣傳が必要になるのは、根本において、大衆の政治的重要性の増大と關係のあることを示してゐる。宣傳は常に大衆を相手とし、また特に輿論を統制するために行はれる。そこで日本人が宣傳下手であるとすれば、原因は日本の社會及び政治が近代化されてから、國際的世界に入つてから歴史の淺いことによるといへるであらう。日本では宣傳は自家廣告などといつて輕視され、輕蔑される風がある。しかしこれは我々日本人のうちに残存してゐる封建的意識に過ぎないと見られ得る。自分の行動が正しくありさへすればそれで好いとひとはいふ。まことにさうであるが、他面それはまた獨善に陷り易く、かつ自分の行動にとつて大衆といふものの有する意義を考へないことでもあるのである。自家廣告は美徳でないにしても、われわれの間で「運動」と呼ばれてゐるもの即ち權力或ひは權力を有する個人に對してひそかに自己を推薦することなどに比しては、大衆の前で公然と行はれるだけ罪が輕いといへるであらう。そのうへ宣傳と廣告とは區別されねばならぬ。廣告も或る程度暗示の技術を用ゐるにしても、その讀者である大衆は廣告主の目的の何であるかを知つてゐるのが普通である。廣告を見るとき、われわれは廣告主がそれによつてわれわれの購買の習慣を刺激しようと欲してゐることを知つてゐる。もちろん廣告も宣傳に近づき得る。そしてこの場合には廣告主は自分の目的を隱しながら讀者に自分の欲するやうな影響を與へようと企てるのである。かくの如く、宣傳にあつては宣傳者の實際の目的が讀者或ひは聽衆には知られてゐないのが普通である。これはその目的の善惡とはさしあたり無關係である。善い目的にしても、それを實現するためには、大衆に對して先づそれを隱しておくことが必要な場合もあるであらう。次に廣告と宣傳との相違は、國家の如き團體は自分を廣告するとはいはれないことにおいても認められる。すなはち固有な意味での宣傳の主體は政黨、教會、國家などの團體であり、その自己保存及び自己主張のために宣傳は行はれる。宣傳を必要とするのは、本來、個人でなくて團體であるといふ意味においても、宣傳は社會的なものである。
宣傳においては實際の目的が讀者或ひは聽衆に對して隱されてゐるのがつねである。從つて上手な宣傳といふのは、それの宣傳であることさへもが分らないやうなものである。宣傳は普通には暗示の技術によつて、知らず識らずの間に大衆に影響を與へ、彼らのうちに一定の觀念、意見、態度を作り出さうとする。しかもその際、宣傳者自身はどこまでも意識的、計畫的である。けれどそれが大衆の側においては知られてゐないといふ點で、宣傳は神話や傳説の形成と類似するであらう。宣傳とはいはば近代的な神話乃至傳説の形成の近代的な方法である。しかし神話や傳説が民衆の間から自然生長的に生ずるに反して、宣傳においては宣傳者自身が同樣のものを目的意識的に作り出さうとする。そこに兩者の差異がある。民衆の間に自然的に生長しつつある神話乃至傳説を計畫的に養ひ育てるといふ場合、宣傳の效果は速かで大きいであらう。宣傳の意義を理解するためには神話や傳説の意義を理解しなければならぬ。前者も後者と同じく社會統制の機能を有し、何よりもそのために必要とせられるのである。統制の時代がまた宣傳の時代であることは、われわれの目前に見る通りである。統制が必要である限り宣傳も必要である。
宣傳は神話や傳説の形成に類似するものとして單に知的なものであり得ないであらう。しかし他方それは單に大衆の情意に訴へるものであると考へるのも間違つてゐる。かくの如きはむしろ煽動のことである。宣傳は煽動と異なり一層知的なものでなければならぬ。煽動が瞬間的な效果に集中するに反して、宣傳は一層持續的な效果を求める。從つて宣傳は間に合はせにでなくて平素から行はれることが大切である。宣傳は知的なものであるといふ點において啓蒙に近づく。上手な宣傳はそれの宣傳であることが分らないやうにするといふことからも、宣傳は少くとも外面上は啓蒙の形をとることが必要であらう。けれども宣傳と啓蒙とは混同されてはならぬ。啓蒙が主として知的啓蒙であるに對して、宣傳は一層情意的な、一層暗示的な形をとる。啓蒙は大衆の間に批判的精神を喚び起すに反し、宣傳は却つてかやうな批判精神を抑へて統制を行ふことを目的としてゐる。啓蒙の結果は神話に對して破壞的に働くに反して、宣傳の意圖はむしろ神話を養ひ育てること、新しい神話をそれ自身の仕方で作り出すことにある。
神話をただ過去の時代のものと考へることは間違つてゐる。ナチスの指導者の一人ローゼンベルクの『二十世紀の神話』は全くの宣傳の書である。宣傳と啓蒙とは相反する作用をなし、歴史は兩者を共に必要とするのである。他の宣傳を無力にするには啓蒙は重要な手段である。また先んぜられた他の宣傳に對抗するための自己の宣傳は一層多くの啓蒙的要素を含まねばならないであらう。しかし啓蒙だけで宣傳と同じ效果が得られるやうに思つてはならぬ。すべてかやうなことは今度の事變における對外宣傳についても考慮すべきことであらう。
著述家は讀者を頭において書かなければならない。これは一つの平凡な規則である。けれども我が國の著述家にあつてはこの平凡な規則の行はれてゐない場合が案外多いのではなからうか。
日本人が宣傳下手であるといふこともそれと同じ事情に基いてゐる。宣傳とは自分の行動を社會的に評價することである。人間の實踐は本質的に社會的である限り何らかの宣傳はつねに必要であるといへるであらう。思想も行動的である場合宣傳的であることを要求される。
宣傳の反對は獨善である。宣傳下手といはれる日本人には獨善的な所が多いのではなからうか。宣傳がつねによいとはいへないが、しかし獨善の弊害もなかなか大きい。獨善は封建的なものである。獨善的なところがあつては近代的な宣傳には成功し得ない。宣傳するためにはともかく大衆の中へ降りて來なければならぬ。大衆といふものが發達するに從つて宣傳も重要になつて來るのである。
獨善的態度の據りどころが「心情の倫理」であるとすれば、政治の倫理はかやうな心情の倫理に止まり得ない。心情の倫理の立場から宣傳を輕蔑するのは政治の本質の理解の不足に基くといへるであらう。政治的動物としての人間はつねに宣傳的である。
宣傳が大衆の心理を掴まねばならぬことはいふまでもないであらう。この心理は社會的、歴史的に制約されてゐる。それはその國の政治、知的教養の水準、特に習性的になつた思惟や感情の傾向などによつて規定されてゐる。從つて我々が外國に對して宣傳を行ふ場合には、それぞれの國において宣傳の方法を別にしなければならぬのは當然である。民主主義国に對する宣傳と獨裁國に對する宣傳とはおのづから異ならねばならぬ。宣傳は普遍的な論理に訴へる以上に大衆の現實に有する心理に食ひ入ることが大切である。宣傳される内容が普遍性を有するものであるにしても、宣傳そのものはそれぞれの場合に特殊的なものでなければならない。
宣傳とは誇張することだと考へて宣傳を嫌ふ者があるのは單純に過ぎるであらう。宣傳は啓蒙とは異り情意に訴へる點がある限り誇張も必要である。しかし宣傳においては煽動とは異り一層持續的な效果が求められる限り誇張することは却つて反對の結果を招くことがある。宣傳は大衆の中へ中へと降りれば降りるほど有效である。宣傳される内容が純粹に非合理的なものであるならば、宣傳はもとより成功しないであらう、しかし宣傳は合理的なものをただ合理的に傳へるだけでは足りず、むしろどこからともなく大衆の間に神話が出來てくるのに似たところをもたねばならぬ。
かくして宣傳の意義と必要とを理解するためには、最も基本的には、自分を社會においてあるもの、世界においてあるものとして把握することが必要である。かやうな社會乃至世界の感覚或ひは意識なしには宣傳は理解されない。しかもそこでは大衆といふものの重要性がつねに理解されてゐなければならぬ。固有の意味における宣傳とは政治的存在としての團體が一方自己自身に對し他方その政治的環境に對して自己保存乃至主張のために行ふ社會統制の技術の一つである。
昭和12(1937)年11月9〜11日「大阪朝日新聞」掲載  
 
知性人の立場 / 三木清

 

我々が求める自由は、現状維持の口實としての自由ではない。革新のための自由である。革新のために自由に探求し、革新のために自由に討議する、この自由を知性は要求する。自由主義として自由を排するとき、現状維持派に利せられることなしとしない。
アジアの統一は、過去の傳統の統一ではない。今や日本の問題は何一つとして支那の問題と無關係でなくなつた。對支文化工作の指導精神と云つても、國内文化のそれと別のものであり得ない。日本の問題の一切を擧げて大膽にも支那の問題と一つに結び附けたところに、今次の事變はアジアの統一を成就した。かくてアジアの統一は、現在の問題の統一である。
歴史は人間の解決し得る問題のみを人間に課する。日本の知識階級はその前に提出された問題の大いさに欣喜雀躍して然るべきである。
蒋介石は支那の民族的統一の波に乘つて現はれた政治家である。彼は民族主義の哲學の表現である。支那の民族的統一の完成に先立つて、日本が蒋介石政權と戰はねばならぬといふ歴史的運命におかれたといふことは、民族主義に止まつてこれを越えることなき限り二十世紀の思想であり得ないといふ、世界史の精神の啓示でなくて何か。
我々の同胞は、幾千となく、幾萬となく、大陸へ渡つてゐる。彼ら支那を見るべし、彼ら支那を知るべし。戰爭は一種の洋行である、戰爭もまた文化的意義を持つてゐる。嘗てこれほど大量の日本人が一度に洋行したことはない。しかもこれらの人々は血みどろの貴い體驗を通じて學ぶのである。日本精神の發露は支那を認識することであつた。この嚴然たる事實から東洋文化史の新しいペーヂは始まる。
從來日本のインテリゲンチャにとつてコンミュニズムもファッシズムも自由主義ですらも主としてただ紙上の理論として外國から輸入されたものであつた。今や日本のインテリゲンチャにとつて思想はただ現在の日本に課されてゐる現實の問題の解決を通じてのみ可能となるに至つた。我々がどれほど獨創的であり得るかが、日本の運命とともに試練される時が來たのである。しかも日本の問題を解決し得る思想は支那の問題を解決し得る思想であり、やがて世界の問題を解決し得る思想である。問題の深さに戰慄すべし、問題の大いさに挑戰すべし。
それにしてもこの二十年來、日本のインテリゲンチャの動搖はどうだ。右から左へ、左から右へ、文字通りに右往左往する。知性の自律なくして知識階級といふものはあるか。知性の自律なくして良心といふものはあるか。良心なくして人格といふものはあるか。日本精神の問題も、東洋のルネサンスの問題も、日本の世界史的使命の問題も、個人の良心といふ、いとも小さい問題に集中する。
知識階級の協力が問題になりつつある。知識階級は協力すべし。だが協力は飽くまで知性の立場からの自發的な協力でなければならぬ。協力が就職運動であつたり、協力が單なる轉向であつたり、協力が私黨化であつたり、協力が官僚主義の再生産であつたりしてはならぬ。
時はあらゆる不純なものを清掃するであらう。歴史は常に清潔檢査を行つてゐる。
昭和13(1938)年7月「知性」掲載  
 
事實の確認 / 三木清

 

最近東京では煙草飢饉で、私ども喫煙者には苦勞の種となつてゐる。その原因について、責任の地位にある某官吏は、或る新聞記者の問に答へて「かやうに東京で煙草の品不足を來たしたのは靖國神社大祭で地方から參拜のため上京した者が多かつたためだ、新合祀者の遺族だけでも三萬人からあるのだから」と言つてゐる。
夕刊でこの記事を讀んだとき、私は笑ふべきか怒るべきかを知らなかつたのである。煙草の拂底は東京だけに限らないやうだ。現に私はこの頃暫らく鎌倉にゐたのだが、あそこでも煙草を手に入れるのに難儀した。東京での品不足の原因が靖國神社大祭のための上京者にあるといふのもをかしな話である。戰死者の遺族は皆愛煙家なのであらうか。遺族といへば、喫煙の風習のない婦人や子供が先づ我々の眼に浮かぶのである。
某官吏の右の談話は恐らく洒落のつもりであらう。困難な状況にあつて洒落をいつて濟ませるといふのは、これまで餘りにも尊重されてゐる腹藝といふものの一つであらう。だが腹藝では事實を處理することはできないのである。
この時局に煙草などについて不平をいへる義理でないことは我々も承知してゐる。ただ我々の希望するところは、事實を事實として認め、腹藝などはよして、ありのままの事實を正直に知らせて貰ふことである。品不足は煙草のみに限られてゐない。食糧だけはどんな場合にも大丈夫だといはれてゐたのに、今ではその食糧も問題になつてきたのである。それは腹藝で片付くことであらうか。
事實を事實として認めるのでなければ、ほんとの對策は立たない。責任者に先づ必要なのは事實の確認である。そして國民に對しても先づ事實を確認させることが眞に國策に協力させる所以である。腹藝でやつてゆかうといふのは、國民の協力など必要でないと考へることにほかならぬ。
昭和16(1941)年10月28日執筆紙不明 
 
南方から歸つて / 三木清

 

南方から歸つて考へることは多いが、特に學問に關係のあることで、二三の感想を書いてみたい。
先づ私は知識といふものの必要を痛感したのである。さしあたり語學の知識である。フィリッピンでは英語だけでは十分でないが少くとも英語ができなければ第一線の仕事はできない。現にあちらで第一線に立つて最もめざましく活動してゐる人のひとりは、アメリカで幼稚園から大學までやつたといふ人である。この人は、フィリッピン人も、アメリカ人よりも英語がうまいといつて感心してゐるほど英語に堪能であるがそれでゐて日本精神といふものもしつかりと掴んでゐるのである。初めは單なる通譯のやうに見えたが、その人がいつのまにか本尊と見えるやうになり、本尊はかへつて影が薄れるといふ有樣であつた。私の如きも、むかし學校で英語を習つたことを今度ほど有難く思つたことはないのである。
英語は敵國の言葉であるからといつて、その學習を排斥する者があるが、かやうな狹い量見で大東亞の建設などできるものではない。それは第一線の現實を知らない觀念論に過ぎぬ。ところがこの種のいはば「後方の觀念論」ともいふべきものが、種々の方面になほ存在してゐることは、遺憾である。我々はもちろん日本語だけでやつてゆけるやうな日が早く來ることを期待してゐる。しかしそれまでには、いろいろ困難な現實と戰はねばならず、戰ふためにはあらゆる武器を利用しなければならないのであつて、語學の知識はかやうな武器の一つである。
すべての觀念論はけつきよく自己滿足もしくは自己陶醉に過ぎない。ところが戰ひにはつねに相手がある。相手を撃破しあるひは説得するためには、相手に通ずる言葉が必要である。今度南方の宣傳戰あるひは思想戰に從事した、責任感のある者の誰もが切實に感じたのは表現の問題、つまりどのやうに表はせば日本の思想を敵にあるひは原住民にわからせることができるかといふことであつた。これは單に語學の問題でなく、また實に論理の問題である。論理といふものも言葉、「言葉の言葉」である。日本精神といひ日本的世界觀といふものは、日本人同志の間なら、論理を介しなくても、感情だけでわかるかも知れない。しかし前線において異民族を相手にして、敵の思想を撃破して日本の思想を滲透させるためには、論理がなければならぬ。論理を無視することがあたかも日本的であるかの如き議論は、これも前線の現實を考へない「後方の觀念論」である。戰爭の現段階において、世界を相手に呼び掛ける必要がいよいよ大きくなつてきた時、日本の思想は世界に通ずる言葉即ち論理を持たねばならぬといふことがいよいよ切實に感じられるのである。日本的世界觀といふものも、戰ふ世界觀として、論理を持たねばならぬ。さうでないと、それはせいぜい武力の後からついて行くだけで、武力と並んであるひはこれに先んじて戰ひ得る力を持たないのである。
私が南方において特に必要を感じたといふのは實證的知識である。何をするにしても、實地の調査と研究に基く知識が必要なのである。フィリッピンでは、アメリカ人の調査や研究がいろいろあるにしても、アメリカ的な觀點といふものがあるので、日本の思索の立場においては足りないものが多く、そのまま使へないものが多い。すべての實踐は實證的知識を基礎としなければならぬ。そこで現地においては調査研究が何よりも必要なのであるが、かく實證的であることは日本の學問においても大切である。
ところが從來日本の學問はかやうな實證的研究をとかく輕視するといふ傾向があつたのではなからうか。もちろん學問には實證性と共に論理性が要求されるのであつて、科學性といふものは實證性と論理性との統一として成立するのである。ところが現在では、學問においてかやうな科學性よりも思想性が問題にされてゐる。かやうに思想性が問題にされるといふことは、今日學問においても世界觀的變革が問題になつてゐるとき、理由のあることである。しかしながら、ただ思想性だけを問題にして科學性を問題にせず、特に實證性を無視するといふことは、これも前線の現實と一致しない「後方の觀念論」といふものである。私が戰場において經驗したのは近代戰といふものの假借なき非情性であつた。日本が當面してゐる嚴しい現實は、甘い觀念論、浪漫的な形而上學で乘り切れるものではないのである。ところが近來かやうな觀念論的形而上學的傾向が著しく濃厚であるのは、反省を要する。學問の世界にもいはゆる質實剛健の精神がなければならないのであつて、そしてこれは何よりも實證的研究を重んじる精神である。
私はもちろん單に知識だけを尊重しようといふのではない。戰場を見てきた者の誰が、實踐の必要を感じなかつたであらうか。そこには觀念だけではどうにもすることができない冷酷な現實がある。戰ふ日本が必要とするのは實踐的人間である。私は、日本の知識階級には一般に鬪志が足りないといふことを痛感したのである。思想と實踐とは一致しなければならぬ。
そこに乖離がある場合、その弱點を異民族はつねに容赦なく鋭敏に感知するといふのが、前線の現實である。口先でどれほど立派な事を言つても、實行が伴はなければ、異民族はついて來ない。いくら聲を大きくして日本的精神主義を説いても、その人の實際の生活が米英的唯物的享樂的であつては、思想も思想の用をなさぬ。戰ふ日本はむしろ默々として働く人間を必要としてゐるのである。
その人の思想だけを問題にして、その人の生活を問題にしないといふのは、敗北主義の一種である。ところで思想と實行とが一致しないといふ場合、その人間に缺陷があるといふばかりでなく、その思想にも何か缺陷があるのではないかどうか、反省の要があるのである。つまりその思想があまりに觀念的であつて、現實を處理するに役立たないといふやうなことがあるのではないか。即ちこの場合にも思想の實證性が問題である。
自分の思想の試金石を自分の生活に求め、その思想でさしあたり自分の生活の諸問題を解決することができるかどうかを檢證しなければならぬ。それは思想の理想主義的性質を剥奪することではなく、却つてそれほど我々の生活そのものが世界史的現實となつてゐるのであり、それほど我々は歴史的實踐的であることを要求されてゐるのである。「ここも戰場だ」といふ自覺をもつて、あらゆる種類の「後方の觀念論」を克服しなければならぬ。
昭和18(1943)年2月 日附および執筆紙不詳 
 
親鸞 / 三木清

 

第一章 人間 愚禿の心
親鸞の思想の特色は、佛教を人間的にしたところにあるといふやうにしばしば考へられてゐる。この見方は正しいであらう、しかしその意味は十分に明確に規定されることを要するのである。
親鸞の文章を讀んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豐かなことである。そこには人格的な體驗が滿ち溢れてゐる。經典や論釋からの引用の一々に至るまで、悉く自己の體驗によつて裏打ちされてゐるのである。親鸞はつねに生の現実の上に立ち、體驗を重んじた。そこには知的なものよりも情的なものが深く湛へられてゐる。彼の思想を人間的といひ得るのは、これに依るであらう。生への接近、かかる現實性、肉體的とさへいひ得るものが彼の思想の著しい特色をなしてゐる。しかしながら、このことから親鸞の宗教を單に「體驗の宗教」と考へることは誤である。宗教を單に體驗のことと考へることは、宗教を主觀化してしまふことである。宗教は單なる體驗の問題ではなく、眞理の問題である。眞理は單に人間的なもの、主觀的なもの、心理的なものでなく、飽くまでも客觀的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。もし宗教が單に體驗に屬するならば、それは單なる感情、いな單なる感傷に屬することになるであらう。かくして宗教は眞に宗教的なものを失つて、單に美的なもの、文藝的なものと同じになる。親鸞の教がともすればかくの如き方向に誤解され易いことに對して我々は嚴に警戒しなければならない。もとより親鸞の思想の特色が體驗的であること、人間的であること、現實的であることに存することは爭はれない。そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。内面性とは空虚な主觀性ではなく、却つて最も客觀的な肉體的ともいひ得る充實である。超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、眞の内面性は存するのである。
   五濁惡世の衆生の    選擇本願信ずれば
   不可稱不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり
或ひは
   彌陀のちかひのゆへなれば
   不可稱不可説不可思議の
   功徳はわきてしらねども
   信ずるわがみにみちみてり
といふ二種の和讃はこの趣を現はすであらう。
親鸞の文章には至る處懺悔がある。同時にそこには至る處讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相應じてゐる。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら單なる懺悔、讃歎の伴はない懺悔は眞の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。親鸞はすぐれて宗教的な人間であつた。懺悔と讃歎とは宗教の兩面の表現である。親鸞の文章からただ懺悔に屬するもののみを取り出して、彼の宗教の人間的であることを論ずる者は、彼の思想を單に美的なもの、文藝的なものにしてしまふことであつて、未だ宗教的人間の如何なるものであるかを知らざるものといはねばならぬ。親鸞における人間の問題はどこまでも宗教的人間の問題、宗教的人間の存在の仕方の問題でなければならぬ。懺悔は單なる反省から生ずるものではない。自己の反省から生ずるものは、それが極めて眞面目な道徳的反省であつても、後悔といふものに過ぎず後悔と懺悔とは別のものである。後悔は我れの立場においてなされるものであり、後悔する者にはなほ我れの力に對する信頼がある。懺悔はかくの如き我れを去るところに成立する。我れは我れを去つて、絶對的なものに任せきる。そこに發せられる言葉はもはや我れが發するのではない。自己は語る者ではなくて寧ろ聽く者である。聞き得るためには己れを虚しくしなければならぬ。かくして語られる言葉はまことを得る。およそ懺悔はまことの心の流露であるべき筈である。しかるにまことの心になるといふことは如何に困難であるか。自己を懺悔する言葉のうちに如何に容易に他に對して却つて自己を誇示する心が忍び込み、また如何に容易に罪に對して却つて自己を甘やかす心が潛み入ることであるか。
   淨土眞宗に歸すれども
   眞實の心はありがたし
   虚假不實のわが身にて
   清淨の心もさらになし
と親鸞は悲歎述懷するのである。煩惱の具はらざることのない自己が如何にして自己の眞實を語り得るのであるか。自己が自己を語らうとすることそのことがすでに一つの煩惱ではないか。親鸞が全生命を投げ込んで求めたものは實にこの唯一つの極めて單純なこと、即ち眞實心を得るといふこと、まごころに徹するといふことであつた。信仰といふものもこれ以外にないのである。煩惱において缺くることのない自己が眞實の心になるといふことは、他者の眞實の心が自己に屆くからでなければならぬ。そのとき自己の眞實は顯はになる。われが自己の現實を語るのではなく、現實そのものが自己を語るのである。ここに知られる眞實は冷い、單に客觀的な眞理ではない。この眞實にはまごころが通つてゐる。まごころは理性ではなくむしろ情のことである。我々は人間的眞理を二と二との和は四であるといふ數學的眞理を知ると同じやうに知らうとするのではなく、またそれはそのやうに知られるものでもない。 
親鸞の文章を讀んでむしろ奇異に感じられることは、無常について述べることが少いといふことである。これはとかく感傷的な宗教のやうに考へられてゐる彼の思想においてむしろ奇異の感を懷かせることであるが、しかしこれが事實であり、また眞實である。そしてそこに彼の思想の特殊な現實主義の特色が見出されるのである。
もとより諸行無常は現實である。そしてそれは佛教の出發點である。この世における何物も常住のものはない。すべては生成し消滅し變化する。かくして我々の頼みとすべき何物もないのである。生老病死は無常なる人生における現實である。かかる無常の體驗が釋迦の出世間の動機であつた。むじょうはさしあたり佛教の説ではなくて世界の現實である。常ないものを常あるものの如く思ひ、頼むべからざるものを頼みとするところに、人生における種々の苦惱は生ずる。無常は現實であると知りながら、その認識を徹底させることのできないところに人間の迷ひがあり、苦しみがあるのである。かくして佛教は諸行無常の自然的な感覺を諸行無常の徹底した智慧にまで徹底自覺せしめようとするのである。かくして諸行無常はいはば前佛教的な體驗から佛教的な思想にまで高められる。人間の現實を深く見詰め、佛教の思想を深く味はつた親鸞に無常感がなかつたとは考へられない。しかも彼はこの無常感にとどまることができなかつたのである。何故であるか。
無常感はそのものとしては宗教的であるよりも美的である。果敢ないものは美しい。美には何か果敢なさといふべきものがある。「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」と『徒然草』の著者は書いてゐる。いつまでも生きてこの世に住んでゐるといふことが人間のならひであつたら、實に無趣味なものであらう。老少不定、我々の命がいつ終るといふ規定の全くない世であるが、そこが非常に面白いのである、といふのである。無常は美的な觀照に融け込む。佛教は特に平安朝時代の文學においてその唯美主義と結び附き、かつこれに影響を與へたのである。かくして無常感は唯美主義と結び附いて出世間的な非現實主義となつた。『方丈記』の著者の如きもその著しい例である。
これに對して親鸞はどこまでも宗教的であつた。宗教的であつた彼は美的な無常思想にとどまることができなかつた。次に彼の現實主義は何よりも出家佛教に滿足しなかつた。無常思想は出世間の思想と結び附く。これに對して彼の思想の特色は在家佛教にある。無常の思想はもとより單に美的な觀照にとどまるものではない。それはしかしより高い段階においても觀想に結び附く。藝術的觀照から哲學的觀想に進む。佛教における無常の思想は我々をここまでつれてくる。しかし美的な觀照も哲學的な觀想も觀想として非實踐的である。これに對して親鸞の思想はむしろ倫理的であり、實踐的である。淨土眞宗を非倫理的なものの如く考へるのは全くの誤解である。親鸞には無常の思想がない。その限りにおいても彼の思想を厭世主義と考へることはできない。
親鸞においては無常感は罪悪感に變つてゐる。自己は單に無常であるのではない。煩惱の具はらざることのない凡夫、あらゆる罪を作りつつある惡人である。親鸞は自己を愚禿と號した。「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓となす」といつてゐる。承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあつた。親鸞もその一人として僧侶の資格を奪はれて越後の國府に流された。かくして、すでに僧にあらず、しかしまた世の生業につかぬゆゑ俗にあらず、かくして禿の字をもつて姓とする親鸞である。しかも彼はこれに愚の字を加へて自己の號としたのである。愚は愚癡である。すでに禿の字はもと破戒を意味してゐる。かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と稱したことは、彼の信仰の深い體驗に基くのであつて單に謙遜の如きものではない。それは人間性の深い自覺を打ち割つて示したものである。
   賢者の信をききて、愚禿が心をあらはす。
   賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
   愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。
と『愚禿鈔』に記してゐる。
外には悟りすましたやうに見えても、内には煩惱の絶えることがない。それが人間なのである。すべては無常と感じつつも、これに執着して盡きることがない。それが人間なのである。彌陀の本願はかかる罪深き人間の救濟であることを聞信してゐる。しかも現實の人間は如何なるものであるか。
   「まことに知んぬ、かなしきかな愚禿鸞、愛欲の廣海に沈沒し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず。眞證の證にちかづくことをたのしまざることを、はづべし、いたむべし」 
罪悪の意識は如何なる意味を有するか。機の自覺を意味するのである。機とは何であるか。機とは自覺された人間存在である。かかる自覺的存在を實存と呼ぶならば、機とは人間の實存にほかならない。自覺とは單に我れが我れを知るといふことではない。我れは如何にして我れを知ることができるか。我れが我れを知るといふとき、我れは我れを全體として知ることがない。なぜなら、我れが我れを知るといふ場合、知る我れと知られる我れとの分裂がなければならず、かやうに分裂した我れは、その知られる我れとして全體的でなく却つて部分的でなければならぬ。從つてその場合、自覺的な我れよりもむしろ主客未分の、從つて無意識的な無自覺な我れが、從つて知的な、人間的な我れよりも、實踐的な、動物的な我れが却つて全體的な我れであるとも云ひ得るであらう。 
機といふ字は普通に天台大師の『法華玄義』に記すところに從つて、微・關・宜の三つの意味を有するとされてゐる。それは先づ第一に機微といふ熟字に見られる如く微の意味を有する。弩に發すべき機がある故に、射る者これを發すれば直ちに箭が動く。未だ發現しないで可能性としてかすかに存するすがたが微であり、機である。可能的なものは未だ顯はではなく含蓄的に微かに存在するのである。しかし可能的なものがひとりでに現實的になるのではない。弩が機發するのは射る者があつてこれを發するからである。しかしこの可能性は單に靜的に含蓄的であるといふことではない。機は動の微、きざしである。將に動かうとして、將に生ぜんとして、機である。第二に、機は機關といふ熟字に見られる如く關の意味を有する。關とは關はる、關係するといふことであつて、一と他とが相對して相關はり、相關係することである。衆生に善あり惡あり、共に佛の慈悲に關する故に、機は關の意味を有するのであり、即ち教法化益に關係し得るもの、その對者たり得るものの意である。もし衆生がなければ、佛の慈悲も用ゐるに由なく、衆生ありてまさに慈悲の徳も活くことができる。應は對の義。一人は賣らうとし、一人は買はうとし、二人相對して貿易のことがととのふ如く、衆生は稟けようとし、佛は與へようとし、相會ふところで攝化濟度のことが成るのである。これが喰ひ違ふと攝化のことはととのはない。そこで第三に、機は機宜といふ熟字に見られる如く、宜の意味を有してゐる。關係するものの間に丁度相應した關係があることをいふ。例へば函と蓋とが、方なれば方、圓ければ圓、格好相應して少しもくひちがひのないやうに、無明の苦を拔かんと欲せば、正しく悲に宜しく、法性の樂を與へんと欲せば、正しく慈に宜し。衆生に苦あり、恰も佛の拔苦の悲に宜しく、衆生に樂なし、恰も佛の與樂の慈に宜しく、佛の慈悲はよく衆生に相應してゐるのである。機は教法化益を施すに便宜あるものの意。かくして機と教、機と法とは相對する、兩者の關係は動的歴史的。
その機は何等かの根性を有する故に根機と稱せらる。一切の衆生、過去・現在の因縁宿習を異にし、その面貌の異る如く、その根性別なり、從つて教法を蒙るべき機として千差萬別なり、しかるに教法化益もし機に乖けば、その益あることなし、故に佛は千差の方便を盡し、萬別の教法を施せり。性得の機。機は可發の義で、衆生の心に法をうくべききざしあること。
時機──機の歴史性、
『大無量壽經』は
「時機純熟の眞教」なり。末代に生れた機根の衰へた衆生にとつてまことにふさはしい教である。時機相應。聖道自力の教は機に合はずして教果を收めることができぬ。淨土他力の一法のみ時節と機根に適してゐる。
機と性との區別 動的と靜的。
○時機相應
「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ、機にそむけるなり。淨土眞宗は在世正法、像末法滅、濁惡の群萌、ひとしく悲引したまふをや。」
「もし機と教と時とそむけば、修しがたく、入りがたし。」『安樂集』に依る。
「當今は末法にして、これ五濁惡世なり。ただ淨土の一門のみありて通入すべき路なり。『安楽集』に依る。
「その機はすなはち一切善惡大小凡愚なり」
○惡人正機
「これも惡凡夫を本として善凡夫を傍に兼ねたり。かるが故に傍機たる善凡夫なを往生せば、まはら正機たる惡凡夫いかでか往生せざらん。しかれば善人なをもて往生す、いかにいはんや惡人をやといふべしとおはせごとありき」『口傳鈔』第十九章 聖典
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや惡人をや。しかるを世のひとつねにいはく、惡人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この條一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、彌陀の本願にあらず。しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、眞實報土の往生をとぐるなり。煩惱具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、惡人成佛のためなれば、他力をたのみたてまつる惡人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして惡人はと、おほせさふらひき。」『歎異鈔』三章 文章  
第一部 宗教的意識の展開 / 第一章 人間性の自覺と宗教
第一節 結論
親鸞の思想は深い體驗によつて滲透されてゐる。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』の如き一種の韻文、また假名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信證』についても、言はれ得ることである。『教行信證』はまことに不思議な書である。それはおもに經典や論釋の引用から成つてゐる。しかもこれらの章句が恰も親鸞自身の文章であるかの如く響いてくるのである。いはゆる自釋の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の體驗を語つてゐる。『教行信證』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、單に自己の教の典據を明かにする爲に擧げられたのではなく、むしろ自己の思想と體驗とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の讀み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥することなく、親鸞獨自のものを示してゐるのは當然のことであらう。『教行信證』は思索と體驗とが渾然として一體をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛へた藝術作品でさへある。實に親鸞のどの著述に接しても我々を先づ打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豐かな體驗の深みから溢れ出たものにほかならない。
かやうにして屡々なされるやうに、彼の教を體驗の宗教として特色附けることは正しいであらう。しかしその意味は嚴密に規定されることが必要である。宗教を單に體驗と解することは宗教から本質的に宗教的なものを除いて「美的なもの」にしてしまふ危險を有してゐる。實際、親鸞の教において體驗の意義を強調することからそれを單に「美的なもの」にしてしまつてゐる例は決して尠くはないのである。親鸞はすぐれて宗教的人間であつた、彼の體驗もまたもとより本質的に宗教的である。ところで宗教的體驗の特色は「内面性」にある。親鸞の體驗の深さはその内面性の深さである。彼の抒情の深さといふものもかくの如き内面性の深さにほかならない。 
第一章 人間性の自覺

親鸞の思想は深く人間性の自覺に根差してゐる。どこまでも生の現實に即いてゐるところに彼の教の特色がある。彼にとつて生の自覺は法の自覺と密接に結び付いてゐる。

人生の經驗において我々の心を打つものは無常である。世の中のものは移り變つて、常のものといつては何ひとつない。すべては時の流に現はれては過ぎてゆく。この事實が無常と呼ばれる。この事實を佛教では「諸行無常」といつてゐる。しかしこの事實はむしろ佛教以前のものであり、さしあたり我々の生の體驗そのものに屬してゐる。我々は人生の行路において或ひは災禍に見舞はれ、或ひは病氣に襲はれ、或ひは近親の死に會する、そして我々は無常を感じる。この無常感はひとを佛道に入らせる動機である。ひとは生の體驗において佛教の説くところが眞實であることを理解するのである。我々の無常感はもとより佛教の影響によつて強められ、深められてきたであらう。しかし無常は我々の原始的な體驗に屬し、佛教にとつてその説の出てくる基礎經驗である。佛教は生の現實におけるこの基礎經驗から出てこれを思想にまで高めたのである。佛教が無常の體驗から出發したといふことは釋迦の出家の動機として傳へられる物語によつても知られるであらう。太子悉達多は老人、病者、死者を見て世間の無常を感じ出家するに至つたといはれてゐる。我々の生において原始的に經驗される無常感は佛教によつて教説にまで高められた。
かやうにして「一切の行は無常なり」とは佛教が最初に掲げる教條である。行とは有爲法をいひ、有爲法とは造られたものを意味する。一切の有爲法はもろもろの因縁によつて造られたものとして移りゆくものである故に行といはれる。もろもろの因縁によつて作られたすべてのものは生滅變化するもの、時間的に存在するもの、即ち無常のものである。無常は一切の有爲法のすがたである。このすがた、即ち有爲のものの有爲相は生と滅との二つの相に分たれる。あらゆるもの(行)は生じ、そして滅するものとして無常である。しかしそれはまた三つの相に分たれることができる。それはまづ始めを有し(起)、次に變易し(異)、そして遂に滅する(盡)。起と異と盡とは無常のものの移りゆく三つのすがたである。しかしそれはまた生と住と異と滅との四つに分たれた。或るもの生じ(生)、生じをはつてその或るものとして止まり(住)、やがて變じ(異)、ついで亡びる(滅)のである。ところで佛教に依ると、ものが無常であるのは、ものが因縁によつて生じたものである故である。無常は佛教の根本思想である縁起説の歸結である。縁起説の深い意味はものの無常のすがたにおいて體驗的現實的に理解されることができるであらう。
我々は世間の一切のものが無常であることを感じる。山も河も、草も木も、人も家も、無常ならぬものはない。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまることなし。世の中にある人と住家とまたかくの如し。玉敷の都の中に、棟を竝べて甕を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年破れて今年は造り、あるは大家滅びて小家となる。住む人もこれにおなじ。處もかはらず、人もおほかれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。又知らず、假の宿、誰が爲に心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。その主人と住家と、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顏の露に異ならず。或は露おちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。」親鸞とほぼ同時代の人鴨長明はかくの如く世間無常を敍してゐる。我々の住む世界も我々自身も共に無常である。佛教によると、依報である世間も正報である世間も、世間は全て無常である。正報とは衆生をいひ、依報とは衆生がそれに藉つて住む世界をいふ。我々はつねに世界に依つて生きてゐる。この國土、この家、この衣服、この椅子を除いて我々の生活は考へられない。かかる世界は我々にとつて道具の意味を有してゐる。佛教ではかくの如き世界を「器世間」と稱してゐる。依報といふのはかかる器世間にほかならない。世間には衆生世間と器世間との二種世間があり、正報と依報とに相當する。器世間に屬すると考へられるのは、花瓶とか茶碗とかの如き普通にいふ道具のみでなく、家の如きものも、また庭園、更に國土といふ如き普通に自然といはれるものもまたこれに屬してゐる。器とは「衆生の受用する所なるが故に名づけて器となす」といはれてゐる。*
*『往生論註』卷下
我々の生によつて關心され、生と交渉するものとして自然も器の意味を有する。それはもとより自然科學的に見られた自然、すなはち單に客觀的に對象的に捉へられた自然ではない。山や河、草や木の如きものも我々が生の關心において受用するものとして家屋や家具と同じく我々にとつて道具の性格を有するであらう。自然も我々の生に缺くことのできぬ要素であり、生の聯關のうちにその契機として入つてゐる。衆生世間と器世間とは一つの世間に結び付き、主體とその環境といふやうに密接に聯關するのである。そしてまさにかくの如く我々によつて關心され、受用されるものとして我々の住む世界のものは無常と考へられる。無常は單なる變化と同じではない。私が庭前に見る花は純粹に客觀的に見る場合にも變化する。しかしかやうに見る場合、私はその變化において何ら無常を感じないであらう。どのやうな生滅變化も、單に客觀的な自然必然的な過程として把握される限り、無常感を惹き起すものではない。庭前の花は單なる花としてではなく、愛らしい花、驕れる花、淋しい花として、要するに生の關心によつて性格づけられた花として、その散りゆくのを見て我々は無常を感じるのである。單に必然的な變化は無常ではない。もとより單に偶發的なものもまた無常とは考へられない。我々はその生滅變化が必然的であるものにおいて無常を感じるのである。しかしそれは自然必然性ではなく、むしろ運命必然性である。自然必然性が單なる必然性であるに反して、必然的なものが同時に偶發的であり、偶發的なものが同時に必然的であるところに、運命あるひは宿命といはれる必然性がある。 
 
「座談會」の感想 「ことば」について / 三木清

 

西田博士のお話を聽いていまさらのごとく博士の思想の深さに心をうたれた。博士の最近の思索の根本をなす絶對否定の辨證法、すなはち瞬間的な、媒介者といふものなき、非連續的な辨證法が、特にペルゾーン(人格)の問題を考へるにおいて、格別に強力なものであるといふことがわかつたのは、私にとつて今度の座談會の大きな收穫のひとつであつた。
カントは人格について哲學的に最も深く考へたひとといはれてゐるが、しかし、彼の人格の概念はなほ理性といふもの、この普遍的なものを媒介として考へられてをり、從つて眞に獨立な人格といふものは考へられない。この點においてライプニッツのモナドの考へはすぐれてゐるやうにも見えるが、しかし、ライプニッツでもモナドとモナドとの結合はなほ對象的に考へられてをり、眞に内面的な結合とはいひがたい。
ただしかし、私にはまだ十分に理解することのできなかつたこともある。博士は自己と他者との關係を「呼びかける」といふふうに規定されたが、これは私には特に興味深く感ぜられた。そしてもしも自己と他者とが連續的であるならば、兩者のあひだに呼びかけるといふ關係が眞に成立し得ないことは、全く博士のいはれたとほりであらう。しかし、また、絶對他者が呼びかけるには、「ことば」(ロゴス)が必要なのではなからうか。「ことば」を離れて呼びかける關係を考へれば、神秘主義に陷る危險をまぬがれないであらう。今日「辨證法神學」が神秘主義に反對して「ことば」の最も大切な意義を強調してゐるのも理由のないことではないと思はれる。
西田哲學のいはゆる「絶對無」の辨證法では、かくのごとき「ことば」は如何に説明されるのであらうか。この「ことば」の問題をもつて、われわれは眞に現實的な「歴史」の問題のなかへ初めて踏みこむことになる。このやうな「ことば」は、他の次元で考へれば、やがて文化の問題になる。しかるに文化の問題となると、ヘーゲル的な、媒介を重んじ、連續を含む辨證法も何等かの仕方で認められねばならぬやうに見えるが、どうであらう。ところで、第一次の「ことば」と第二次の「ことば」とは如何なる關係にあるのであるか。そこに文化の問題の核心がいひあらはされる。次ぎの機會にこれらの事柄について博士の示教を得たいと思ふ。 
 
河上肇博士の共産陣營離脱について / 三木清

 

この獄中獨話は共産主義理論に反對といふ譯ではありませんね。河上さんが書齋に歸るといはれることは、もともと學者肌の人で政治家ではない人だから、不思議でも何でもありません。あそこまで行かれたことが却つて不思議なくらゐです。河上さんの根本的生活感情は人道主義であつてマルクス主義的ではありません。これは河上さんに限らず、年のいつた人は誰でも若い人のやうに單純な唯物論者にはなり得ないからです。過去の教育や生活のためですね。日本人が一般的にいつて思想上動搖性に富むのは、一つは西洋思想の輸入以來の文化的傳統が淺く、思想的訓練を缺くからだらうと思ふ。この問題は大したことはありますまい。(談)
昭和8(1933)年7月7日「讀賣新聞」 
 
諸話

 

上田耕一郎「自己批判書」  
宮地コメント 
No.1宮本顕治は、謎のNo.2・3 査問と「自己批判書」公表事件によって、党中央役員向けの脅迫と恫喝の最大効果を挙げようとした。そして、常任幹部会員・幹部会員・中央委員全員というトップレベルから一挙に逆旋回させる作戦でのメイン・ターゲット(主要標的)にしたのは、兄弟同列ではなく、No.3の上田耕一郎の方だったと考えられる。「自己批判書」の『前衛』掲載順序を、不破・上田という順にしたのは、弟の党内地位の方が幹部会委員長で上だったからにすぎない。
日本共産党をユーロ・ジャポネコミュニズムへの急接近から逆旋回させる上で、宮本顕治が最初から狙ったのは、「自己批判書」の公開だった。なぜなら、2人の査問だけでは、何を問題にしたのかが、常任幹部会員で構成した2・3査問委員会以外に分からないからである。2人の「自己批判書」を、理論誌『前衛』で全文公表することこそ、その『前衛』を必ず読む中央役員百数十人・党本部勤務員800人にたいする脅迫効率が最大になる仕組みだった。
ただし、この事件の謎を解明するためには、2人の「自己批判書」内容を分析する以外に、同年発行の『日本共産党の六十年』(1982年)の関連個所、日本共産党のユーロコミュニズムへの急接近とそこからの離脱・逆旋回の経過データ、イタリア・フランス・スペイン共産党のDemocratic Centralism放棄の経過データ、田口富久治教授ら学者党員による民主集中制批判の動向を総合的にとらえ、その中で、この謎を位置づけることが必要であろう。
この事件の謎解きが、なぜ重要なのか。それは、もし、宮本顕治による逆旋回クーデターが成功していなければ、日本共産党は、ユーロコミュニズムの動向、国内・党内動向によって、反民主主義的なDemocratic Centralismという犯罪的組織原則を完全に放棄し、民主主義政党に転換していたにちがいないからである。資本主義国において、唯一生き残っているレーニン型共産党という時代錯誤的な存在はなくなっていたからである。さらに、今や空想的社会主義の性質を持つ革命綱領を廃棄することによって、他党派の共産党にたいする警戒心を解き、他党派との選挙協力協定を結び、民主的な政権を樹立する具体的な展望が開けていたと確信するからである。
逆旋回遂行のための4連続粛清事件において、この上田・不破査問と「自己批判書」公表事件は、そのキーポイントになる。これは、党中央トップ内における逆旋回作戦である。それにたいし、(1)学者党員・出版関係党員らへのネオ・マル粛清、(2)民主主義文学同盟グループ、平和委員会グループ・原水協グループという共産党系大衆団体グループ党員らへの粛清、(3)東大院生支部党員らへの粛清などは、中間機関レベルでもなく、すべて基礎組織レベルの党員にたいする粛清だった。Democratic Centralismは、完全な上意下達の組織原則に変質している。逆旋回の時点では、すでに、宮本私的分派・側近グループ体制になっていた。よって、そのような体質の組織においては、まず、トップを制圧し、上から逆旋回させるというクーデター作戦こそが、宮本顕治にとって、キーポイントになった。
上田・不破兄弟の「自己批判書」内容に共通するのは、民主集中制の規律問題である。自由主義、分散主義、分派主義とは、民主集中制からの逸脱・規律違反現象である。宮本顕治は、2人の自己批判論調を通じ、党中央役員百数十人と党本部勤務員800人にたいして、民主集中制の規律を厳守するよう、逸脱する者は査問だとする脅迫と恫喝を加えた。
そのタイミングは、ユーロコミュニズム3党がDemocratic Centralism放棄を指向し、批判的な見直しを開始している時期、そして、日本共産党内の学者党員や出版労連関係党員たちに多数のユーロコミュニズム賛同者=民主集中制批判者が出現してきた時期と一致している。1978年初版の田口富久治『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店)は、このジャンルの著書として、驚異的な重版を重ねていた。党中央発行の雑誌『世界政治資料』は、毎号のように、数本ものユーロコミュニズム諸党の論文を翻訳・掲載していた。それは、党本部内にも、ユーロコミュニズムの動向支持・紹介者が、上田耕一郎だけでなく、多数派として台頭し、一握りの「ごますり」「茶坊主」からなる最高権力者私的分派勢力を、張子の虎にする勢いを示した。党員たちも、それらの文献・記事を競って読むようになった。
これらの瞬間、スターリン主義者・宮本顕治と私的分派・側近グループらは、党本部内で、浮き上がった。彼の硬直した民主集中制の規律強化路線は、「ごますり」「茶坊主」たちの横柄な態度によって象徴されるように、古臭い党体質と軽蔑されるようになってきた。宮本顕治と彼への盲従的忠誠派は、党本部内において、見掛けだけの最高権力保持グループになり、実態は少数派に転落しつつあった。
また、共産党系大衆団体グループ内でも、党全体のユーロコミュニズム支持という雰囲気の中で、宮本私的分派は、少数派になっていた。ユーロコミュニズムのいま一つの指向は、スターリンのベルト理論を全面拒絶するだけでなく、その誤りの理論的根源であるレーニンの政治の優位性理論をも否定することだった。レーニンは、革命運動における政治・政党活動の優位性を一面的・過度に強調する誤りを犯した。彼は、その内実として、(1)あらゆる革命運動分野におけるボリシェヴィキ、共産党の優位性、(2)政治と文学との関係における共産党の指導権確立、(3)共産党系大衆団体にたいする共産党の絶対的指導権獲得を主張した。
ユーロコミュニズムは、マルクス・レーニンのプロレタリア独裁理論の放棄、Democratic Centralismの組織原則の放棄だけでなく、レーニンのその理論をも一面的な誤りとして批判し始めた。そして、共産党と大衆団体との関係は、レーニン型から脱皮して、対等平等の関係に転換すべきと主張した。日本における民主主義文学同盟グループ、平和委員会グループ、原水協グループ、その他グループは、それぞれの分野における日常体験から、宮本顕治のスターリン主義的ベルト理論の押し付けにたいして、強い反発と批判を強め、彼の大衆団体にたいする干渉・人事介入指令から離脱し、党中央からの自主・自立指向を目指すようになっていた。
彼は、スターリン主義的粛清者として、六全協以降、彼を批判する大量の党員を党内外排除する党内犯罪を遂行してきた。日本共産党が、ユーロコミュニズムの指向と同じく、Democratic Centralismを放棄するようになったら、彼の犯罪にたいする批判が噴出するだけでなく、フルシチョフによるスターリン批判と同じ事態が発生する危険があった。国家権力を握ったマルクス主義前衛党における最高権力者は、おしなべて、表向きの権勢を誇示する姿勢にたいし、その内面では自己の地位保全に汲々とする、小心な臆病者である。党内分派闘争の経験が豊富であり、その中で、少数派転落の悲哀も味わってきた宮本顕治は、ユーロコミュニズムとの関係、それを支持する党内動向から、自分たち私的分派が、少数派に転落し、今度は彼らが排斥される危険を察知した。
そこで、彼は、日本共産党の逆旋回クーデターを決断した。それは、少数派・毛沢東ばりの奪権闘争の性質を持った。私が、ユーロ・ジャポネコミュニズムからの逆旋回の手口を、クーデターと名付ける根拠は、3つある。
〔根拠1〕、宮本顕治は、民主集中制の見直し・放棄指向からの逆旋回をする手法として、通常の党内討論によって多数派の説得をする手段を意図的に排斥した。彼ら民主集中制堅持・絶対擁護の少数派は、4連続粛清事件で、「民主集中制批判者」「大衆団体私物化分子」「反党分子」排斥をする4連続の一大キャンペーンを、『赤旗』『前衛』『文化評論』『民主文学』という党内宣伝武器をフル活用し、暴力的に批判・異論者を粛清する手口を使った。しかも、1978年から85年まで、8年間ものキャンペーン期間中、彼らは、レッテルを張り付けた党員たちや同調者にたいして、機関銃の銃弾のように、たえまなく、長短の論文・記事を発射し続けた。
その批判論文・記事の内容は、口汚いレッテル貼りに止まらず、ありとあらゆる詭弁術を使い、ウソ、事実関係の歪曲をちりばめたレベルになっていた。彼らが常用する詭弁術の一例は、相手の主張・論理を意図的に捻じ曲げておいて、それに打撃的・レッテル貼り的批判を加えるという手口である。『赤旗』しか読まない党員たちは、大量の一方的情報を鵜呑みにするしかなく、判断をすべて党中央に依存し、自主的思考を喪失したタイプに改造されていった。
〔根拠2〕、党中央役員百数十人・党本部勤務員800人内において、実質的な少数派に転落しつつあった最高権力者私的分派が、強引な手法で、党中央内に巣食うユーロコミュニズム派=民主集中制批判派を弾圧し、査問し、「自己批判書」を書かせたやり方である。その査問も、No.2・3が26年前の無名だった時期に執筆・出版し、18年前にNo.1が絶版にさせた著書の内容・出版行為が誤り・規律違反だったとする、異様な異端審問裁判まがいの行為だった。さらには、再び多数派権力を奪い返すために、その全文を公表し、見せしめにするという誌上処刑のような手口を使った。
戦後日本共産党史上、被除名者個人にたいして、党中央側が断罪的文書を発表したケースはいくらでもある。しかし、2人のような形で、トップレベルの個人に、26年前の“誤り”に関する「自己批判書」を書かせ、その全文を公表させるという異様な形態は一度もない。党史上、前代未聞の出来事である。これは、まさに、少数派に転落しつつあった逆旋回クーデター派が、管制高地にいる打倒対象者にたいして、誌上・公開処刑をしたとも言える性質の違法・犯罪行為である。同時に、この事件は、それを公表させたNo.1の異様な心情=少数派転落の恐怖と抱き合わせのおぞましい心理を、あぶり絵のように浮かび上がらせるものになっている。
〔根拠3〕、党中央内における奪権闘争だけでなく、基礎組織党員にたいする4連続粛清事件によって、学者党員、出版労連関係党員、3つの大衆団体グループ党員、東大院生支部・教職員支部党員たちにたいする脅迫と恫喝という4連続キャンペーンを通じ、日本共産党全党における宮本顕治の多数派権威と絶対的権力を再確立する手法を使った。
これらの経過は、実質的な少数派・宮本顕治による奪権の党内クーデターと規定できる。クーデター手法によって、打倒すべき多数派とは、(1)民主集中制見直し・放棄指向の党中央内、および全党内の勢力、(2)共産党系大衆団体におけるレーニンの一面的な政治の優位性理論・スターリンのベルト理論の否定と党中央からの自主・自立を指向する勢力だった。ただし、多数派といっても、個々ばらばらで、かつ、雰囲気的なレベルに止まっていた。それにたいして、宮本顕治の最高指導者私的分派・側近グループは、意図的に作られた強固な分派だった。それを解体するには、目には目、歯には歯、分派には分派で立ち向かうしかない。雰囲気的な多数派が、少数派の最高指導者私的分派に対抗しうる分派の結成に動くのにしては、Democratic Centralismと分派禁止規定とを結合させたレーニンの呪縛が、当時の日本共産党内では強すぎた。
1970・80年代当時のヨーロッパには、地続きのソ連・東欧10カ国のすべてが絶望的停滞に陥っているという情報が大量に流れ込み、スターリンの4000万人粛清犯罪データが一段と克明に暴露される状態になっていた。それらの認識は、ユーロコミュニズム諸党内に止まらず、国民全体が共有するレベルになってきた。そこから、ユーロコミュニズムにおけるレーニンの呪縛が、緩み、批判され、ほどけかかっていた。それは、日本共産党員と日本国民のレベルと対称的だった。
彼の逆旋回クーデターが見事に成功したおかげで、日本共産党は、21世紀になっても、資本主義国において、Democratic Centralismという党内民主主義を抑圧・破壊する組織原則を持つ唯一の政党として、生き残れることになった。しかし、その反面、1980年をピークとして、党勢力PHN(党員P・赤旗日刊本紙H・日曜版N)は、それ以後27年間も、歯止めのない減退を続けることになった。8年間に及ぶ、宮本顕治の逆旋回クーデターと4連続粛清事件キャンペーンは、党内で成功しても、日本国民・有権者にたいして嫌悪感を与え、嫌いな政党世論調査における政党拒否率のトップとなっている。それにより、PHNのすべての指標で減り続けることになった。彼の逆旋回クーデターは、党外にたいして逆効果を生み出すという皮肉な、あるいは、しごく当然な結末をもたらした。 
上田耕一郎「自己批判書」 

 

宮本顕治が、批判・異論者を党内外排除する口実は、いつも2つである。(1)横断的水平的交流を厳禁している民主集中制に違反し、所属機関・細胞を越えて、党中央批判・宮本批判の分派活動、2人分派・3人分派活動をしたというねつ造口実、(2)ありとあらゆるテーマを党内問題の枠に押し込め、すりかえて、彼が審問官として党内問題と断定したテーマを党外にもちだしたとでっち上げることである。
上田耕一郎は、「自己批判書」において、最大の誤りが、党内問題を党外の出版物にもちだしたという民主集中制違反だったと、自己規定している。これは、『戦後革命論争史』の内容・出版という具体的行為について見れば、宮本顕治の常套手段としての詭弁術の押し付けである。
そもそも、2つのファイルに転載した、第20回大会のスターリン批判めぐる国際理論戦線(不破執筆)と国内理論戦線の動向(上田執筆)、その他の各章・(注)を読んでも、日本共産党問題を当然含むとしても、著書全体は、「党内問題」の範疇を越えている。それらは、当時の日本の論壇、『中央公論』『世界などの』各雑誌や左翼陣営全体が討論したテーマだった。それが党内問題でなかったとなれば、宮本顕治の詭弁も、2人の「自己批判書」の論理も、根底から崩壊する。
このファイルを(宮地作成・編集)とした意味は、「自己批判書」が、数字だけの〔目次〕だったのを、私の判断で、〔小目次〕として小見出しをつけ、また、文中のいくつかを黒太字にしたことである。(〜回目)は、私が挿入した。ただし、文言については、一切訂正・加筆・削除などをしていない。
この本文とともに、14の(注)を見ても、このテーマを、党内問題と断定するのは、完全な誤りであり、宮本顕治のでっち上げ査問である。不破・上田らが、弟は国際理論戦線、兄が国内理論戦線を分担執筆し、討論し合うシーンは、26歳と29歳で、まだ無名だった兄弟の連携情景として、ほほえましいものがある。ただ、その本文・(注)内容は、石堂清倫ら5人が持ち寄った膨大な資料、討論内容のメモがなければ、その年齢と知識では到底書けなかったレベルにある。もっとも、論文内容には、スターリン批判直後だけに、評価の甘さや一面性がある。よって、その面に関する「自己批判書」内容には、納得できる。
上田・不破「自己批判書」は、党中央の弁明(「赤旗主張」)によれば、『日本共産党の六十年』出版に合わせて、兄弟が、自主的に反省し、公表したことになっている。しかし、それは、田口富久治批判キャンペーンと連動した民主集中制の引き締め・規律強化方針の一環、および、ユーロコミュニズムのDemocratic Centralism放棄傾向との絶縁という逆旋回路線の一環であることは明白であろう。
これらは、年表的データである。そこの(宮地注)に書いたが、宮本顕治の鋭い嗅覚は、ユーロコミュニズムに急接近しつつも、その多種の会談・相互訪問を通じて、ヨーロッパのすべての共産党が、Democratic Centralismを放棄し、マルクス・レーニン主義とも断絶し、社会民主主義政党に転換していく方向を嗅ぎつけた。彼は、スターリン主義者として、日本共産党の最高権力者として、日本共産党が崩壊するか、それとも、スターリン批判のように、自分が党全体から批判・責任追求されるのではないかという恐怖に打ち震えた。
逆旋回の決断は、徐々に形成されていった。その決意の、日本における最初の現れが、(宮地注)にある中野徹三教授の査問・除名と田口富久治教授批判の大キャンペーンである。国際関係におけるヨーロッパ3党との絶縁の現れは、1978年以降、共同コミュニケ・共同声明という会談結果の発表形式をしなくなったことである。 
『戦後革命論争史』についての反省 / 「六十年史」に照らして

 

党創立六十周年を記念して昨年末刊行された『日本共産党の六十年』は、党内外に大きな反響をよびつづけている。
とくに戦後の党史については、新しく詳細な総括的叙述がおこなわれたこの『六十年史』の発表を機会に、私は、はじめて党の中央役員に選出された第九回大会(一九六四年十一月)のあと絶版措置をとった私の著書『戦後革命論争史』(大月書店、上巻は一九五六年十二月刊、下巻は五七年一月刊)について、その問題点と誤りとを、改めてあきらかにしておきたい。
というのは、この著作が、その絶版後も、戦後の党史や革命運動の理論史をとり上げた論評などに時に引用されることがあったし、今後もありうるからである。また最近、私の著作のなかの叙述が、誤った主張の合理化に持ち出された例も生まれている。二六年前の著作ではあったが、絶版措置が必要だったこの書のもつ誤りをあきらかにしておくことは、現在幹部会副委員長という職責にある私の果たしておかなければならない責任、本来はもっと早く果たしておくべきであった責任であると思う。 
1、理論的内容、とくに精算主義的評価
当時私は、東京の中野区の党組織に属して活動していたが、三回目の結核の療養期を利用して、大月書店の『双書戦後日本の分析』のなかの一冊としてこの本を書いた。鉄鋼労連の書記をしていた弟の上田建二郎(不破哲三)とも討論し、彼が全二十一章のうち四章を分担執筆したことは、「はしがき」でふれてあるが、いうまでもなく最終責任は私にある。
「戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書」(はしがき)としてのその理論的内容については、第八回党大会(一九六一年七月)の綱領採択ののち、上田、不破両名が『マルクス主義と現代イデオロギー』(大月書店、六三年十月刊)の上・下巻それぞれの序論で、反省点をあきらかにしたことがある。上田は、両翼との偏向との闘争におけるあいまいさ、理論活動におけるきびしい党派性の弱さという二つの思想的弱点について、不破は、社会主義革命という戦略上の誤った見地、民主的改革の理論と戦術についての一面性、二つの戦線での闘争の把握という三つの理論的弱点についてのべた。
しかし『日本共産党の六十年』発表を機に、今回、改めて読みなおしてみると、『戦後革命論争史』で私が展開した内外情勢の分析や展望についても、その後の四分の一世紀にわたる現実の歴史の発展、日本共産党を先頭とした日本の革新勢力の闘争の前進そのものによって、きびしい批判と検証を加えられた多くの問題をふくんでいたことが、当然のことではあるが、痛いまでによくわかった。
二、三をあげておけば、日本共産党の「六全協」(一九五五年七月)、ソ連共産党第二十回大会(五六年二月)の直後などという藉口を許さないような、平和共存への楽観的展望、ソ連、中国とその党にたいする過大評価と期待があり、日本社会党の反共分裂主義や統一戦線の展望についての甘い評価などなどがある。
なによりも大きな問題は、戦前、戦後の日本共産党の党活動の歴史的意義、理論活動をふくめたその積極的役割にたいする精算主義的評価があった(第1回目)という問題である。
『日本共産党の六十年』は、たとえば二七年テーゼや当時の統一戦線問題にかんする評価、あるいは戦後の第四回、第五回、第六回党大会の評価にみられるように、そこにふくまれていた弱点や誤りについては大胆な自己分析的指摘をおこないながらも、それらが果たした積極的役割と歴史的意義とを、事実にもとづいて明確に評価する態度をつらぬいている。
ところが私の『戦後革命論争史』は、理論的弱点や方針上の誤りと私が考えたものを指摘するのに急で、その結果、全体として党活動と党史を精算主義的にみる誤り(第2回目)におちいっている。たとえば戦前の党についても、丸山眞男の戦争責任論に関連して「反戦闘争を組織しえなかった共産党の政治指導の責任」を問う(上巻、八一ページ)文章があり、戦後米軍占領下に「民族の完全な独立」をかかげた第六回党大会についても、その意義を評価しつつ、反帝闘争を組織する決意を欠いた指導部の「弱さと臆病」を指摘した文章(上巻、四五ページ)がある。統一戦線問題でも、その失敗の主な責任を日本共産党の側のセクト主義に求めて社会党の反共分裂主義にみないという傾向の文章が随所にあるのも、同じ精算主義的発想のあらわれ(第3回目)である。
『論争史』の序「戦後日本革命論争の再検討」のなかの「国際的な水準にたいして、というより日本の現実にたいする日本マルクス主義の大きな立ちおくれは争う余地のない事実であろう」とか、「運動の前進に比較して、政策と理論の立ちおくれはきわだっているといわざるをえない」という文章に鮮明にしめされているように、当時の私は、理論の分野や方針上にあらわれた弱点や誤りと私が考えたものを指摘することによって、戦後の党史を、全体としては失敗と誤謬の連続とみなし、日本の共産主義運動を立ちおくれの典型としてえがきだそうとする史観に立っていた。
ここには、若かった私の未熟さと理論的傲慢さがあったことを認めざるをえない。しかし、より重要なことは、こうした史観は、戦前、戦後の党史の評価として誤っていただけでなく、党綱領採択とその後の日本共産党の、理論的、実践的前進を、まったく説明できないものであったことである。 
2、出版それ自体が誤りで、分派主義的立場
こうした史観におちいった原因は、当時の私が、党的見地に立てず、分派的見地に立っていた(第4回目)という、より深い問題と結びついていたと思う。
その意味では、『マルクス主義と現代イデオロギー』上巻の「序論 六全協後の思想闘争の教訓」でのべた私の反省は、きわめて不十分なものであった。それはもっぱら「私たちの思想闘争には中間派的弱点が現わ」れていた(上巻、二ページ)点にむけられていたが、この反省じしんがなお「中間派的」、自己弁護的なものにとどまっていた。『戦後革命論争史』という著作のもっとも本質的な問題点は、その執筆自体が、誤った分派主義的立場の産物であった(第5回目)という点にある。
すなわち、『戦後革命論争史』執筆のもっとも大きな誤りは、二十年前の私の反省がまだふれるに至らなかった点、党外の出版物で、党史を論評し、五〇年問題の総括や綱領問題の討議に参加し、影響をあたえようとした、私の誤った態度(第6回目)にあった。
この本が書かれた時期は、「六全協」の翌年の一九五六年の後半で、党内で五〇年問題の総括、綱領問題の討議が進行しはじめていた時期であった。『六十年史』をひもとくと、五六年四月の六中総で「五〇年問題の全面的な解明の努力の必要」が指摘され、九月の八中総で「第七回党大会の開催を決定し」、十一月の九中総で、「党大会準備のため、『綱領』『規約』の各委員会とともに『五〇年以後の党内問題の調査』の委員会を設立することを決定」している(一四八ページ)。
「党章草案」が採択されたのは翌五七年九月の第十四回拡大中央委員会総会であり、「五〇年問題について」という総括文書が採択されたのは五七年十月の第十五回拡大中央委員会総会だった(一五一ページ、一四九ページ)から、それ以前に書かれた私の著書のなかの綱領問題、五〇年問題についての分析、叙述、主張に、その後の全党的到達点からみて、少なくない逸脱や誤りをふくんでいることは、いうまでもない。
たとえば『論争史』は、『六十年史』が「戦後党史上の最大の誤り」とした徳田派による党中央委員会の解体という問題についても、それを批判しつつも、「解党主義」という明確な見解をとることができていない。逆に統一会議の結成をも「分裂を固定化させた誤り」(上巻、二〇二ページ)とし、原則的党内闘争、すなわち「臨中指導下に結集して、正しい節度ある党内闘争によって中委の分裂その他の指導部の誤りを正すべきであった」(同、二〇三ページ)と書いている。
しかし、こうした不正確な叙述、誤った主張の一つひとつを、今日指摘することが、私の果たすべき責任ではない。これらをふくむ自己の主張を、党の民主集中制にもとづく、自覚的規律にしたがって、私がのべたかどうかという、日本共産党員の基本にかかわることこそが、中心問題であった。
中央委員会は、一九五六年六月の七中総で、綱領問題の全党討議の必要をみとめ、十一月の九中総で「綱領討議にさいしての留意事項」という方針を採択している(『六十年史』、一五〇ページ)。そして七中総決議以後『前衛』で綱領問題にかんする個人論文を掲載しはじめ、五七年二月号では綱領問題の特集をおこない、五七年九月から特別の討論話としての『団結と前進』を五集まで発行して、「民主集中制にもとづく自覚的規律ある全党討議」(一五一ページ)が組織されていった。
ところが、私は党員でありながら、『団結』や『前進』には、1篇も論文を提出することなく、いちはやく『戦後革命論争史』を書き上げ、党外で出版することによって、五〇年問題の総括と綱領問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった。五六年十一月十五日の日付をもつ「はしがき」には、その意図が公然とのべられている。
「国内でも日本革命の見とおしについての、おそらく戦後はじめてといってよい広範な討議がおこなわれようとしている時に、一一年間の戦後論争の総括を提出することについても、いろいろな批判があるかもしれない。しかしこの事が、今後の進路を定めるための広範な討議にたいする私の参加をも意味することとなり、またたくさんの欠陥にもかかわらずその討議の参考資料として少しでも役立ちうるとしたならば、望外の事びである」
当時の党の諸決定を調べてみると、この著書を出版したこと自体が誤り(第7回目)であった。
当時、党中央委員会は、集団指導と民主主義を強調しながらも、党員が自由主義、分散主義におちいることをつよくいましめていた(六中総決議…一九五六年四月)。九中総(五六年十一月)の「綱領討議にさいしての留意事項」は、つぎのように決定していた。
「綱領についての意見は、個人であると機関であるとにかかわらず、中央委員会に集中する」
「綱領問題の討議も他のすべての党内問題の討議とおなじく、規約で定められている党内集会や発会議、党の刊行物で討議される」
論文「共産主義者の自由と規律」(「アカハタ」、五六年十二月二十八日)は、「理論および政策の分野で、党の団結と統一にとって有害な論議が一部の同志によって党外へもち出されていること」などを批判し、春日正一統制委員会議長の論文「自由主義に反対し正しい党内闘争を発展させよう」(「アカハタ」五七年四月五日)は、具体的な実例として、当時党の指導機関の構成員だった人びとの問題として、大沢久明同志ほかの『農民運動の反省』の出版、武井昭夫の『中央公論』座談会での党批判をとりあげて、きびしくその誤りを指摘している。
さらに常任幹部会の「綱領問題の討議について」(五七年六月十八日)は、東京都委員会の『日本革命の新しい道』と、党員による『日本共産党綱領問題文献集』の発行が、九中総決定に反したものであること指摘し、全党に民主集中制にもとづく綱領討議を訴えている。
当時のこれらの方針、決定からみても、五〇年問題と綱領問題について、個人的な総括と個人的見解とを、いちはやく党外の出版物で提出した私の著書『戦後革命論争史』は、党規律を守らず、党の決定に反して、自由主義、分散主義に走ったものであることは明白であった(第8回目)と思う。 
3、分散主義、分派主義、自由主義の誤り
私は、党規約を自覚的に守る義務をもった党員として、綱領問題について意見があれば、『前衛』や『団結と前進』に論文を提出すべきであったし、その権利は十二分に保障されていた。ところが私はそういう態度をとらず、党外で、綱領問題、五〇年問題を勝手に論ずる著作を出版する態度をとり、しかもそれが党規律や党決定に違反していることを意識していなかった。こうした態度をとったのは、当時の混乱期における私の思想的状況に原因がある。
一つは分散主義(第9回目)である。
ここで五〇年問題における私の活動にくわしくふれるつもりはないが、「六全協」前後かなりの期間、私は、事実上、一定の理論的傾向をもつ一つの党員グループのなかにいた。大月書店の『双書 戦後日本の分析』も、このグループの企画によるもので、綱領討議をも意識した特定の理論的潮流を代表した出版企画でもあった。このグループのなかには、あきらかに分散主義があった。
当時ひろくみられたこうした分散主義は、容易に分派主義に転化、発展する重大な危険をもっていたし、事実上分派主義におちいりつつあった。そのことは、ほとんどが反党活動に走り除名された、このグループのその後によって、事実で証明されている。
もう一つは自由主義(第10回目)である。
当時の私は、五〇年問題から「六全協」にいたる経験、そしてフルシチョフ秘密報告によるスターリン批判によって、依拠するものは自分の思考しかなく、党や党の指導者への無批判的追従はいっさいしまいと心に誓うようになっていた。この心的状態は分散主義、分派主義と結合して(第11回目)、党の決定についても、これをないがしろにしやすい傾向をはらんでいた。
『論争史』のなかのつぎの一節は、その危険をしめしていた。
「こうした立ちおくれの原因が、マルクス主義理論の過去の諸欠陥については異論があるとしても、少なくとも最近数年間の理論家のがわについては、善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできても、もっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった臆病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人たいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導的理論にたいする無批判な追従の傾向としてとりあげなければならない」(上巻、四ページ)
もちろん党の決定、方針についても、それを実践しつつ、それが現実に合致しているかどうかを、真剣に検証、分析することは、その決定をおこなった党機関とその構成員はもちろんのこと、党員理論家だけでなく、すべての党員にとって、義務的なことである。しかし、その際の意見の提出は、党規約にもとづき、民主集中制の組織原則にもとづいておこなわれなければならない。党は、民主集中制の全的な発揮によってのみ、より正しい認識に到達しうるからである。
ところが先に引いた私の叙述は、党員理論家個人が、党の決定や方針を「誤り」と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもつて自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。集団的決定を重んじ、党の組織原則を守りながら、意見をいうことの重要性は、言及されていない。言及されないだけでなく、私自身が自由主義、分散主義の傾向、事実上の分派主義に深くおちいっていたこと(第12回目)は、この書全体がしめしている。
もちろん、理論的な研究の自由は、最大限に保障されればならないし、党の発展の条件としての党内民主主義は十分に尊重されなければならない。党員理論家の研究の自由は、注意深い扱いを必要とする多くの問題がよこたわっているが、それにもかかわらず党規約にしめされた民主集中組織原則にもとづく党員理論家の自覚的規律の厳守は、どんな場合でも、最大限に守られなければならない。
戦後三六年におよぶ私の党生活をふりかえってみて、この本を書いた頃の私は、みずから自覚してはいなかったが、かなり危険な地点に立っていた時期であったと思う。私が、党員としての軌道をふみはずさずに活動をつづけろことができたのは、安保闘争をはじめとする党と日本の勤労人民の闘争の歴史的な前進のなかで、新しく多くのことを学ぶことができたからだった。
理論の面でも、日本の国家的従属の問題その他について、まずまず誤った態度をとるに至ったそのグループとの対立がひろがり、多くの論争をせざるをえなくなっていった経過もあった。こうして私は、第八回党大会前、綱領草案が発表されたとき、それを支持する理論的見地に立つことができるようになっていたし、またそのグループの少なからぬ人びとの党からの離反から、民主集中制の組織原則の重要性をいっそう痛感するようになっていた。
この一文を草するのは、古い問題をむしかえしたいためではない。内外情勢が大きな転換点に立ち、その理論と政策の自主的、創造的な発展も求められ、党全体がこの分野でも重要な前進をなしとげつつある今日、党員理論家の研究の自由とその前提としての民主集中制の組織原則との関係が、改めて問題とされる実例が、二、三生まれているからでもある。
私は、私自身の経験から、党員理論家が、組織原則を守る党的積極性をもつことと、党全体の政治的、政策的前進に積極的に貢献することが、実は不可分一体のものであることを痛感しており、この一文がそのことの一つの教訓として役立つことを願っている。 
『戦後革命論争史』(抜粋) 

 

1、第二〇回大会と日本共産党
以上二章にわたって、第二〇回大会・八全大会を中心とする国際的なマルクス主義理論の動向を紹介したのは、本書の課題であるわが国の革命理論にたいしても、それが決定的影響を及ぼしつつあるからにほかならない。第二〇回大会後の日本のマルクス主義理論戦線は、国際理論戦線の新しい発展の助けを借りて、自己の理論の検証と発展の新しい一歩をふみだす。しかしそれは五〇年から五五年までの時期のような直結的展開ではありえなかった。というのは今回は、かつての国際的指導としてではなく、各国のマルクス主義にたいする自主的な発展の強い要請が問題の提起そのもののなかにふくまれていたからである。
したがって、今までとくに無批判的な追従の傾向におちいりがちだっただけにわが国のマルクス主義の新段階はけっして平坦な道ではなかった。それは自己批判やためらい、混乱や沈黙をともなった、苦痛の多い過程を必要とし、諸外国のマルクス主義のような一挙に解きはなたれた盛観をただちに呈することができず、まず提起された諸命題の正しい摂取の段階をへて、ようやく新しい胎動をみせはじめていく。以下この章では、大会後約八カ月間の理論戦線の動向を概観することとしたい。
まず日本共産党中央委員会は第二〇回大会の一カ月ののち五中総の決議として『ソ同盟共産党第二〇回大会について』(『アカハタ』五六年三月二四日号)という声明を発表したが、内容は第二〇回大会の諸結論の要約と六全協の正しさの再確認にとどまり、とくに積極的な内容をもつものではなかった。党の機関紙誌上での討論もまだ意識的には開始されず、前章でみたような諸外国の共産党がみせた活発な反応といちじるしい対照をみせていた。
四月には六中総が開かれ、六全協の基本方針にもとづく党の任務についての報告と各分野の活動方針案が発表されたが、やはりまだ第二〇回大会の成果は具体的にはとりいれられていなかった。ようやく討議が開始されたのはフルシチョフ「秘密報告」が発表になったのちの六月末からで、七中総の決議『独立、民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について』が参院選挙投票の直前に発表され、新綱領の問題の一節「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分の改訂の必要をみとめ、サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会をつうじて「民主主義的民族政府」を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきたことを明らかにしてからであった(注1)。
この決議は資本主義諸国の共産党の平和的移行の態度表明にならって、革命の平和的発展を否定していたそれまでの方針を転換したものであったが、戦後単独講和にいたるまでの七年間について、アメリカ帝国主義の軍政を理由として「国会をつうじての革命の可能性」を否定していた点は、のちにさかんな党内討議の対象となった。
しかし決議が、若干の問題を残しながらも日本革命の中心的政治目標として民族解放民主統一戦線を基礎とし民主党派によって構成される「独立・平和・民主主義のための政府」の平和的な樹立をかかげ、その政府の任務として「国民の民主主義的制度と権利の確立、国民生活の安定」ならびに「サンフランシスコ条約・日米安全保障条約・日米行政協定の改訂もしくは廃棄」をあげ、この政府が終局的には日本の独立を平和的にかちとりうるし、ついで社会主義への平和的移行の出発点となることを指摘したことは、まだ概略にすぎないとしても日本革命の政治路線についての正しい方向を国民の前に明らかにし、さらに少なくとも理論的な政治路線のうえでは社会党・労農党との革命における長期的な協力関係をはじめて可能にしたもので、非常に重要な意義をもつものであった。
日本マルクス主義の新しい理論的前進は、これ以後この七中総決議を契機として、国際理論戦線の成果を摂取しながらしだいに開始されていく。 
2、労農派の活躍
右のような事情によって、第二〇回大会をめぐる討論はまず共産党の外側で、主に『中央公論』『世界』の二つの総合雑誌の誌上で活発に展開されていき、しかもこの討論のなかでは、幾人かの例外をのぞいて沈黙を守っていた共産主義理論家のかわりに、従来スターリン主義および日本共産党をきびしく批判しつづけてきた山川均・向坂逸郎らを先頭とする労農派理論家が一せいに見事な進出をみせ、さかんな論陣をはったことが大きな特徴であった。
まず第二〇回大会全般をあつかったものとしては、向坂逸郎の論文『社会主義の古くして新しきもの』(『世界』五月号)が、大会の諸結論のうち、革命の平和的発展の可能性・平和共存・資本主義の現状分析をほぼ承認して、すぐれた解説をおこなった。このなかで向坂が日本共産党の「新綱領」の改訂を要求し、日本社会党の「議会主義」的偏向をいましめたことは時宜に適した正しい主張であった。ただかれが、現在の時期を第一次大戦後の時期から類推して「相対的安定期」と規定したことは、「直接的に革命的な条件のもとにあるとは考えなとことが正しいとしても不正確である。たとえば英・仏のスエズ侵略一つをとってみても現在がけっして「相対的安定期」ではないことば立証されている。
このほか大会の全般的問題を扱ったものとしては、『フルシチョフ・ミコヤン演説を読んで』(『中央公論』四月号)、座談会『問題は何か』(『世界』五月号)、『スターリン批判以後』(『世界』六月号)、福田歓一・気賀健三の論評と討論『ソ連の変貌』(『世界』七月号)などがあるが、いずれもジャーナリスティックな角度からとりあげられた解説的・啓蒙的記事が多く、大会の正確な意味を探り出し、つきとめようという努力がマルクス主義理論家と社会民主主義的あるいはそのほかの政治学者・社会学者たちとによって共通な広場でおこなわれたという積極的現象があらわれたわりには、大きな成果はみられなかった。とはいえ、これらの記事には日本の論壇が第二〇大会を一致して歓迎し、新しい時代の誕生を一致して予感していた実状がよく表現されていた。 
3、社・共の統一について
ようやく六月ごろから、日本の論壇にも第二〇回大会の諸結論を基礎として、日本に固有の諸問題を独自に追究していこうとする論究があらわれはじめる。以下、テーマ別にその追求のおおまかな展望をまとめておきたい。
まず第一のテーマは、共産主義と社会主義、したがってまた共産党と社会党との新しい関係についての問題である。この問題を最初に正面からうけとめたのは山川均である。
山川はまず短い論評『ソ連はどう変ったか』(『中央公論』四月号)で、第二次大戦後「ソ連体制がつぎつぎに新しい地域を吸収して膨脹することにによって社会主義の世界が形成される」時期は終りを告げ、「社会主義の世界は、ソ連体制が膨脹することによってではなく、異った独自の道で社会主義に移行した国が、自主的に、しかも緊密に連携しこれらの国々の間に資本主義的な国際関係とはちがった社会主義的な新しい国際関係を創造し発展させることによって形成されてゆくものとみなければならない。
現在まだソ連体制に従属している衛星諸国も、次第に自主性をもち、ソ連との間に正常な社会主義的な国際関係が成立する方向に進むものと思われる」こと、このことと関連して迂余曲折はあってもコミンフォルムは解体されて共産党と社会党インタナショナルの諸党派を包括する新しい国際的機関が創設される方向へ近づくことが予想されると指摘した。用語に混乱はあるが、当時としては卓見というべきである。
この新しいインタナショナルへの展望の一つの裏づけとして、山川均が編集人に名をつらねている『社会主義』四月号はユーゴの理論家ヴラホヴィチの『新しいインタナショナル』の提唱を訳載しているが、このなかでヴラホヴィチは、国際組織の問題は、すでに社会主義諸国家群が形成されている今日では、労働運動が権力獲得の準備時代にとどまっていた時期とはちがったふうに提起されねばならぬこと、コミンフォルムも第二インタナショナルも、新しい時代に古い形式を復活させようとした無益な試みであったこと、現在必要な協力形態は社会主義への道の多様性を基礎としながら「社会主義実現のために戦うあらゆる組織や組織運動や政党をふくむもっとも包括的な広範な連合」であることを主張していた。山川の展望は若干の誤謬をもふくめてほぼこれと一致していたのである。
この問題は、座談会『革新政党』(山川均・大内兵衛・石上良平・高橋徹)(『世界五月号』のなーかでいっそうくわしく展開され、第二〇回大会では過去の人民戦線時代とちがって、「社会民主主義政党それ自身の存在理由を積極的に認めて、それが社会主義革命遂行の一つの主要な勢力となりうる」とされたとみられ、改良主義・修正主義とははっきり区別されねばならぬこと、この社会民主主義と共産主義との統一戦線の気運は今後世界的に起ってくると予想されることを確認し、さらに日本の革新政党の行動の統一をめぐる諸問題を、社会党と共産党の欠陥、両党の階級的基盤の弱さと膨大な小ブル中間層をもつ日本の社会構造との関連、農民層の獲得、国民の政治心理の動向、二大政党と社共両党など、今まであまり追求されたことのない新しい具体的な問題がひろく究明の対象とされた。ここでふれられた諸問題は今後より正確な科学的究明を必要とするものである。
この間イギリス労働党左派の理論家G・D・H・コールの論文『果して一線を画すべきかき社会民主主義者と共産主義』(『世界』七月号)が紹介されて、かなりの反響をよんだ。コールは四月七日に「社会主義と共産主義とのあいだに何ら共通点もないことを断言する」という行動統一の拒否によってソヴェトの政策転換にこたえた社会主義インター執行局の声明を反ばくし、共産主義と社会民主主義は重要な点において異なってはいるが、少なくとも四つの点、すなわち、(1)生産手段の社会的所有の実現、(2)人民のための福祉国家の樹立、(3)不労所得の一掃、(4)労働者階級の指導力の承認においては意見が一致していること、社会主義インターが主張している議会主義と暴力主義の無条件的対立は無意味であることを説き、社会民主主義の立場から第二〇回大会の意義を認めて、共産主義者と社会民主主義者とが「資本主義と帝国主義と反動」とに対抗する統一を築きあげる日が近づきつつあると主張したのである。
二つの座談会『議会主義と革新政党』(都留重人、志賀義雄、勝間田清一、羽仁五郎)(『中央公論』六月号)、『日本における社会民主主義と共産主義』(伊藤好道・岡田春夫・志賀義雄・猪木正道・清水慎三)(『世界八月号』は、前者は小選挙区制反対のなかで実現された社共の統一行動を基礎とした現実的討論、後者はコール論文を出発点として日本革命の戦略論におよんだ理論的討論が主題であったが、現実的にも理論的にも日本では社・共・労の三つの革新政党の行動の統一がいろいろな問題をふくみながらも成熟しつつあることを率直に示した企画であった。
ことに後者の討論のなかで、(1)当面の闘いの主目標の一つが民族独立にあること、(2)社会党は独立と社会主義とを同時に達成すべきものとし、共産党はまず民主主義をつうじて社会主義へとするちがいはあるが、実践的には対独占資本闘争という点では三党とも同一であることの二点があらためて再認識されたことは少なからぬ収穫であった。これらの一連の政党幹部の参加する座談会では、現在の統一のための主な障害は、社会党の「共産党とは一線を画する」という態度にあるが、これは戦前からの頑固な右翼社会民主主義の反共理論と、もう一つは共産党のがわの誤謬の反映として、主として労働運動の過程で戦後歴史的に形成されてきた共産党不信論との公約数であること、共産党にたいしてもっとも望まれたものは革命の平和的発展についての態度の明確化と方針の一貫性であることなどが明らかにされた。前述した共産党の七中総決議はこれらの要望の一つにこたえたものということができる。
ついで山川均が先の自己のテーマを歴史的に追求した力作『国際主義の新しい課題−社会主義運動の戦線統一のために』(『世界』八月号)が発表された。山川は、戦前の第二インター・第三インターの分裂の歴史的反省をおこない、第二〇回大会によって「ソ連の側が責任を負わなければならない戦線統一への障害はとり除かれ」国際プロレクリアートの統一の新しい希望が生まれてきたとのべ、その見とおしとして「そこで将来に考えられるインタナショナルは、すでに社会主義政権の樹立されている国々の党、資本主義国における党、植民地的な状態、またはそういう状態から新たに解放されたいわゆる後進地域の党という、異った条件のもとにある三つのグループの社会主義政党を包容しうるものでなければならないのであって、これは過去のどのインタナショナルよりも、はるかに複雑な内容と複雑な問題をもつものであって、したがって弾力性のある組織を必要とすることにもなる」とのべた。
山川のこの論文は、新インタナショナルの提唱という部分をのぞけば、その基調はトリアッティの「多数中心体制」の理論と似かよった方向をしめしていると同時に、日本共産党の創立参加者でありながらその後別個の方向を歩いてきた山川じしんの経歴をになって、戦前の日本の革命運動の再評価をもおこなおうとする今後の意図をもうかがうこともでき、重要な問題を提出した論文であった。
その後『社会主義』五周年記念号は、ほとんど誌面の大半をついやして山川均をかこむ社会主義運動史の座談会を掲載したが、このなかで山川は、共産党側から主張されてきた多くの非難を論ばくしながら、労農派と共産党をマルクス主義運動のなかの二つの流れとしてとらえ、組織論から戦略論にまでいたる広範な分析をおこなって両者の相違を明らかにし、日本の社会主義運動史の独自の展開を試みている。山川の評価の正否には多分の問題が残されているが、戦前のプロレクリア運動史の本格的再検討がすでに日程にのぼっていることについては、疑いをいれる余地はない。
社共の統一行動の問題については、『前衛』一二月号のアンケート『共産党と社会党の協力』は重要な位置をしめる。ここにしめされた率直な意見は、前途の曙光をわれわれに認めさせるものであった。しかし一二月に労農党の社会党への合流が決定されたことは、社共両党の関係に若干の変化をもたらした。労農党の入党は、一面社会党内の統一勢力を強めるとともに一面石橋内閣成立後ふたたび新しい意味をもってきた二大政党制の方向を強めることによって社共の統一戦線の実現を遠ざける可能性をももっている。労農党の合流がおこなわれる五七年一月の社会党大会を一つの転機として、社共両党の関係はまたつぎの局面にはいるものと考えられよう。 
4、日本帝国主義復活
日本帝国主義復活の問題について最初に討論をよびかけたのは、五四年来、軍国主義復活清問題について論陣をはっていた豊田四郎であった(『日本帝国主義は復活しつつあるか…一つの問題提起として』―『前衛』五月号)。豊田は、ドイツ共産党の綱領的宣言が依拠したドイツ帝国主義復活の事実の経済的過程を、ユルゲン・クチンスキーの著書によってかなりくわしく紹介したのち、日本帝国主義の復活過程を分析し、ドイツのようにすでに現実に復活したとの「性急な結論をくだすのはきけんである」といいながらも、工発生産水準の異常な増加、生産の集中と独占体の強化、商品輸出と資本輸出の増大などの指標から「当面、筆者は、日本経済の現状に、植民地経済的要素とならんで、復活しつつある帝国主義諸関係が前面にでていることをみとめないわけにはいかない」として、共同研究の必要をよびかけ、「戦後一〇年の経済過程を『従属再軍備』という固定化された公式で灰色にぬりつぶす占領制度=カベの理論」(具体的にはかの『岩波講座』(注5)をはじめとして一般的であった理論をきすと思われる)の早急な克服が必要であると主張した。
豊田の問題提出とならんで、帝国主義復活の政治的過程を明らかにしようとした試みが井上清によっておこなわれた(『鳩山内閣諭』―『中央公論』六月号)。井上は鳩山内閣を「アメリカに従属しながらも帝国主義的自立をもとめている」二面性をもった政府とし、吉田派をアメリカ帝国主義の「日本における番頭」として特徴づけ、日本の独占資本は「まだ帝国主義的自立をなしとげるというにはほど遠いが、すでにその傾向を生じており、それは、だんだん早く発展するであろう」と論じた。
右に提出された視角から、日本のアメリカ帝国主義の従属性の評価、さらには現代帝国主義の特徴という問題がふたたび検討の対象となってきたのは当然である。『中央公論』(七月号)の特集『日米関係の再検討』と、『世界(一〇月号)の討論『現代帝国主義』(有沢広已・都留重人・小椋広勝.石川滋・名和統一)はそれぞれのやり方でこの問題を発展させようとしたものである。
後者は、レーニンの「帝国主義論」の分析が、四○年をへた今日の情勢にあって、どのような修正ないしは新しい規定を必要とするかというテーマを追及した討論で、出席者の豊富な問題意識によってさまざまな問題が拾いあげられていたが、この節の主題に関係するテーマでは、名和統一が西ドイツと日本をはっきりと「独占が支配する経済は、とりもなおさず帝国主義である」と断定をくだしたことが注目された。また都留重人は強大な資本主義国による弱少資本主義国の「従属化の問題は、帝国主義の新しい発現形態の問題として、私たちがもっと究明すべき点」だとのべている。政治的にも経済的にも、日本の「従属」構造の理論的解明は日本帝国主義復活の問題の焦点として、今もっとも緊急の任務となっている。 
5、戦後史の問題
遠山茂樹らの『昭和史』にたいして亀井勝一郎が提出した疑問に端を発した論争は、第二○回大会を契機として新しい展開をしめし、そのなかから戦後史のかなり根本的な再評価について積極的な立論をおこなった遠山茂樹の二つの論文が生み出された(『現代史研究の問題点』−『中央公論』六月号、『戦後史をどう受けとるか』―『世界八月号』。
遠山は第一の論文では、戦前の歴史を主題としてはいたが、六全協の決議にそって、現実の共産党の立場と、歴史的に可能な変革のコースに立つ「あるべき前衛の立場」とを区別し、両者の混同が『昭和史』のなかにあったことを自己批判しつつ、現代史研究の客観性は後者に正しく立脚することによって成立するとのべ、『昭和史』の科学的自己批判の焦点として戦前の共産党の戦略から戦術を引き出す力を欠いていた「弱さと幼さ」の具体的な実証にとりかかることを宣言した。
遠山はこのような反省のうえに立って、まず第二論文で戦後史についての重要な自己批判をいくつか提示した。
(1) 「民主化の時期」の積極的意義――「解放軍規定」のアンチテーゼとしての清算主義におちいらぬためには、その歴史的根拠としての国民の解放実感の実体を探らねばならぬ。その実体として遠山は当時帝国主義的利益の範囲内でも、日本の民主化をおしすすめる一定の歴史的条件が存在した国際情勢の諸要因と、革命的情勢ではなかったが、それに「近似した」条件が存在した国内条件との二つを示唆した。
(2) 憲法の積極的意義――こうした民主化の時期に制定された新憲法は、帝国主義的要求の反映にもかかわらず、本質的には反ファッショ共同綱領としての「ポツダム宣言の延長として理解すべき性格」をもっていた。以後この憲法に書かれた政治的自由の内容は、国民の力で闘いとられて今国民の手中にある。
(3) 平和運動の理論――今日の政治における中心的目標は、戦後期のすべてをつうじて社会主義か資本主義かの問題ではなく、平和と民主主義を強化するための「社会主義国と資本主義国の平和共存」の実現にあった。日本の平和運動の目標もまたここにあり、占領制度下という特殊条件からくる鋭さと困難さをもってしても例外ではなかった。
以上の三点の自己批判から、遠山は、新憲法の成立は帝国主義政策の一環であるとする従来のマルクス主義的立場から出てくるものは戦術的手段としての憲法擁護闘争でしかなかったとし、実は憲法擁護は「国際的には平和共存の実現に寄与し、国内的には民主主義を樹立するための日本の政治課題の焦点」であると結論した。かれの立論は戦後日本の「土地改革や労働立法などの重要な諸措置の進歩的要素を無視した」というソヴェト東洋学誌主張の自己批判をさらに一歩進めて、問題の所在の一つの焦点をえぐり出したものというべきである。
また五月の歴研大会では、五一年以来、歴史問題にたいする民族主義的カンパニアによってかなりの混乱をひきおこした事実にたいして、ねずまさしらによって共産党に属する歴史学者の責任究明がおこなわれ、石母田正の自己批判も発表された(第二篇第五章注13参照)。これは戦後史の評価にも大きくつながるべきものである。
戦後史はこうして今、かなり根本的に書き改められなければならないことが明らかとなってきている。戦後の解放で大きく右に揺れ、コミンフォルム論評で右翼偏向を自己批判して道に大きく左に揺れ、第二〇回大会でもう一度極左偏向を自己批判しなければならなかった日本マルクス主義は、戦後一一年たってみたび、戦後の出発点を科学的に見なおす必要に迫られているのである。 
6、日本マルクス主義の批判
六全協・第二〇回大会・フルシチョフ「秘密報告」と共産主義と共産党をめぐる重大問題がこの一年間ひきつづいて起ったため、わが国のジャーナリズムでは共産主義批判や日本共産党批判が意識的にとりあげられる傾向が強まり、このテーマを扱った論文や著書が数多くあらわれた(6)。
なかでも、もっとも流行したものは第二期の日本共産党の極左冒険主義の誤謬をついたジャーナリスティックな批判で、大井広介の著書がその代表的なものである(7)。大井らの共産党批判は、党外からの事実にもとづく率直な批判としての積極的意義も若干あったが、日本共産党の戦後の歴史を、一面的に誤謬の連続として描きだした点において、理論書ではないとしても危険な清算主義を生む母胎としての役割をはたすものであった。
一般的にいっても、誤謬がとくに大きなものであった場合には、その克服は容易に逆の極端の清算主義におちいりやすい。おかされた誤謬の性質と範囲を正確に見きわめ、その期間に党が達成した基本的な成功の評価と緊密に結びつけてその比重を見きわめることは、もっとも経験ある共産主義者でさえもつまづきやすい困難な課題である。日本共産党の極左冒険主義の誤謬の批判も、当時の歴史的条件からきりはなされ、かつまたその期間でさえ党がおこなっていた独立をめざす反帝国主義の英雄的な闘争、民主主義を擁護し、勤労者の生活権を擁護するためのねばりづよい日常闘争、ある程度まで広範な層を結集しえた平和擁護闘争などの諸成果を無視してあつかわれるならば、批判そのものも不正確なものに転化するばかりか、ただちに階級敵を利する役割を果すものとならざるをえないのである。
たとえば斎藤一郎の『戦後日本労働運動史』(五六年八・九月刊)は、労働運動史という複雑な課題を共産党の誤った指導という基本的観点で整理したもので、こうした清算主義的傾向の一産物であった。また戦前戦後のマルクス主義を新しい観点から整理しようとする労作が小山弘健によって相ついで発表されたが、いずれも日本マルクス主義の歴史を「神山理論」の勝利の歴史として描きだした主観主義的なものに堕していた(8)。
これらの共産主義批判のなかで未開拓の分野に独自のメスをふるって新しい問題を提出していたものは、亀井勝一郎・丸山眞男・篠原一・久野収・鶴見俊輔らであった。マルクス主義とは別の立場に立つこれらの人々の批判に共通していた特徴は、マルクス主義の批判を、その理論の方法論や、あるいは理論のにない手として共産主義者の認識方法や、発想方法の欠陥を分析することによって果そうとしたことである。こうした特徴はその批判に一定の成果と限界とをともにあたえるものであったことは見やすい道理であろう。
亀井はまず文学的手法を駆使して戦前の党史を回顧しながら、日本共産党の思考方法の特徴的欠陥として、第一に、日本固有の国民的伝統・風習・性格や日本固有の諸条件についての「日本の内部そのものからの発想」の欠如、第二に、日本の知識人に特有の「外国盲従」主義、第三に、日本人的性格のあらわれとしての「極端な潔癖性と生命がけ主義」「価値判断における無類の性急さ」などを、日本共産党のセクト主義と公式主義の心理的根源として指摘し、さらに具体的に山川イズムの再評価をはじめとして戦術問題にかんするいくつかの疑問をも提出した。
丸山の労作は、第二〇回大会のテーマそれ自体の追求はしばらくおいて「スターリン批判をめぐる各国共産党の論議を素材として、現実の政治過程に対するマルクス主義者の思考方法に日頃感じていた若干の問題点を指摘」し、「コミュニストが依拠するマルクス主義の思考法にも閉ざされた完結性からの“自由化”を要求」しようとしたものであった。
かれは、コムミュニストの思考法のなかに、個人崇拝の根源論議に見られるように歴史的・具体的究明よりも、究極原因にさかのぼってしまう「遡及法的論理」、これとは逆に「ついにその正体を暴露した」というように本質目的からすべてを流出させて論ずる「本質顕現的思考」、理論とテーゼを尊重するあまりに政治心理の非合理面の認識を拒否してしまう「合理主義」、すべてを資本主義制度や社会主義制度に還元してしまう「基底体制還元主義」などの固有の非科学的思考傾向がふくまれていることを、くわしく指摘した。
篠原は、前掲『昭和史』や井上清・鈴木正四の『日本近代史』にはいわゆる「政治過程」(ポリティカル・プロセス)、つまり議会外勢力・圧力集団・政党・議会・政府などの諸集団の複雑な相互関係をつうじて「政策決定」がおこなわれる「立体的な螺旋的な循環の過程」がほとんど描けておらず、これは「日本のマルクス主義者の現代史研究に欠けている重要なポイント」でここから多くの「独断」が生まれるものと批判した。こうしてかれは歴史学者の任務として、「政治過程」の具体的分析と平行して、経済構造・資本構成の研究、政治的エリートの政治的行動様式・思想構造の実証的分析、「現代政治における大衆の理論的把捉」などが必要だとし、「もっと精巧なレンズ」をとよびかけた。
久野・鶴見は「日本共産党の思想」をすぐれた創意によって分析し、日本の唯物論はその特有の歴史的条件のためにマルクス主義を主として「演繹的方法」によってのみ受けつぎ、その結果「生活の細部にわたっての」現実認識を欠いた「大局的唯物論」としての性格が強く、正しい「弁証法的唯物論」にまで成長していないと批判した。そして日本共産党の今後の課題として、理論を「検証可能の領域(テスタビリティー・ゾーン)にひきもどして」その正否を検するという能力を身につけることを要請した。
これらの人々の日本マルクス主義にたいする誠実な批判は、現代のマルクス主義にあらわれている一部の否定的現象が、マルクス主義の理論体系に内在している本質的欠陥であるかのようにいうかたむきがあるとしても、われわれに深刻な反省を迫るものであった。今後の日本マルクス主義が、その創造的活動によって、どれだけ理論的有効性と指導性とをとりもどしていけるかが、実はこれらの人々の批判の有効性をも判定することとなるであろう。 
7、農業問題
第一章でもふれたように、第二〇回大会後、党内討議の前進の結果、ソヴェト東洋学誌主張が、日本の「土地改革」の「進歩的要素」を無視したことを自己批判したこともあって、六全協後、「われわれの陣営にあった二つの意見、マックの農地改革はどんな重大な変化ももたらさなかったという意見と、マックの農地改革によってわが国の農村には封建的残存物は基本的にはなくなったという意見は、ともに誤っていた」という紺野与次郎などの折衷的見解は地を払い、いわゆる「国際派」の見解が正しかったことが一般的に認められてきた。
共産党の六中総(四月)が決定した各分野の活動方針のうち、『当面の農民運動の方針』(『前衛』臨時増刊『日本共産党の任務と方針』)は、農地改革の結果、寄生地主的土地所有が排除されて「農民的土地所有」が拡大され、「農民は新たにアメリカ占領支配と独占資本の収奪にたいする要求を中心として」闘っており、土地改革の任務はなお残されているとはいえ、当面の闘争の重点は税金闘争・価格闘争・営農資金闘争などにあることを明らかにした。土地改革や土地管理組合の評価、運動の組織論や戦術論などにかなりの相違はあるにしても、この方針の基本思想が、第一章であげた常東総協の方針と基本的には同一方向のものとなっていることに争いの余地はないものであった。
さらに八中総(九月)は「新綱領」の農民問題の規定の再検討と改正を提起し、六中総の方針案にもとづく農業・農民問題の理論的討議を全党によびかけた。
なお、六中総の方針案については、方針が一八〇度の「コペルニクス的転回」をとげたにもかかわらず、過去の政策についての自己批判が目的意識的に提起されておらず、その結果常東の闘争の経験も科学的に摂取されておらず、闘争の戦術、組織の形態などにおいて不十分な点が残っていることを批判し、いくつかの問題を提出した遊上孝一の批判が発表されている(『農民運動方針(案)への批判』―『前衛』一〇月一二一号)。
さらにこの時期には農業理論の基礎分野において、はやくもいくつかの論争点が提起された。
(1) 農民の階層区分の再検討――この問題はまず一柳茂次によって提出された(『日本農民の階級規定の基本問題』―農民運動研究会編『新しい農民運動』五六年七月刊所載)。一柳は、現在の土地所有の基本形態は分割地農民的土地所有ではなく「農民的土地所有」であり、農民経済は「小商品生産」として成立しており、搾取関係は直接的生産関係での収奪から「流通過程での独占資本または国家にたいする関係」としてあらわれていることをまず確認したのち、従来一般的だった階層区分論、富農・中農・貧農・雇農というような区分は、こうした農村の現状にあてはまらぬドグマとなっていると主張した。
かれはドイツのエルスナーの「勤労農民階級」という理論に手がかりを求めつつ独占資本の直接的収奪に全農民がさらされているかぎり、日本農民は「ひとつの階級、勤労選民階級を形成する」とし、日本の農業賃労働の特殊な性格から旧来の古典的な「貧農・雇農」規定はあてはまらず、また日本の貧農経営の自然経済的性格からいって、「独占資本と勤労農民の階級対立のなかで貧農層こそもっとも革命的なエネルギーをもつという従来の理論を実証することはむずかしいときわめて大たんな論証をおこなった。
こうして一柳は、日本の勤労農民の分解過程は、典型的なブルジョア化とプロレクリア化ではなく、一般的には「小ブルジョア的経営に停滞したままでの富裕化」という上向傾向と、「雑多かつ分散的な農業外賃労働につながる貧困化」という下向傾向とであり、双方とも反独占の農民運動のよりどころとなるという結論をみちびいている。
この結論は、常東での長い実践的経験の慎重な理論化であっただけに、従来の理論と根本的に対立した新理論として今後の農業理論の分野における一つの論争の対象となるものと思われる。
大沢久明・鈴木清・塩崎要祏『農民運動の反省』(一一月刊)のうち鈴木清の書いた「第五章・今後の農民運動」は、過去の運動のセクト的傾向の反省という点では一柳と同じ出発点に立ちながら、「中農層」こそ帝国主義と独占資本の収奪という「農民としての矛盾を集中的にうけている」し、共産党は「資本主義的な独立自営農民の経営改善の要求を支持し激励すべきであるという新しい見解を発表している。この見解については一柳がただちに、全勤労農民階級の要求を中農要求にわい小化し、その結果として依然として「貧農依拠論」を雑居させているものとして批判した(農民運動研究会編『独占資本とたたかう農民運動』―五六年一二月刊―の第六章)。
さらに『変革期における地代範疇』(山田盛太郎編、五五年度土地制度史学会の報告―五六年九月刊)で、従来の自己の農業理論の一応の自己批判をおこなった井上清丸が、現在土地をめぐる闘争が後景にしりぞいていたとしても「土地問題はいぜんとして民主主義革命の課題解決の根底に横たわって」おり、「貧農ないし半プロ層の土地欲求の満足」こそ「自由な農民的土地所有実現の現段階的特徴」であると主張していることをみても、第二期における農業理論上の対立が今なお変形しつつ底にひそんでいることがわかる。
(2) 土地所有の規定――農地改革による変化の本質について、第二期の論争につづいて改革後の自作農的土地所有の性格規定があらためて問題になっている。詳論ははぶくが「農民的土地所有」(一柳)、「分割農的土地所有」(栗原百寿『農業問題入門』)、「基本的性格は地主的土地所有」(小池基之)(9)などの相対立する見解がすでにあらわれている。『とりわけ変革期における地代範疇』で山田盛太郎が土地制度史学会の討議の結論としてつぎのようにのべたことは、今後「半封建論者」の新しい有力な論拠として適用されるかもしれない。
「畢境するに、今次の農地改革においては半封建的、地主的土地所有は、独占資本による農業危機の解決として、極めて大巾に解体再編されはしたが基盤から一掃されたのではなかった。したがってまた、改革後における土地所有の性格を、封建的土地所有の解体から成立する自由な農民的土地所有、または分割地的土地所有の概念を以って律することをえない。」(同書四三九ページ)
(3) 協同化の見とおし――反封建理論の転換とともに、現段階における「生産の協同化」を日本農業の近代化をおしすすめ、「将来の社会主義的農業を指向するもの」として評価しようとする見解が生まれた(10)。これにたいしては前記農民運動研究会の」一柳茂次・遊上孝一らが全面的に反批判をおこなっている(前掲『独占資本とたたかう農民運動』)。
以上のほかに、人民民主主義論について(11)、恐慌理論と景気循環の反省について(12)、マルクス主義哲学の反省について(13)、ならびに社会主義の発展法則の解明(14)などの論究がおこなわれているが、これらの問題もすべて論争の口火がきっておとされたという段階で、今までのべてきた諸問題についてと同様に、日本革命論争の現段階は、本格的展開を今後に残しているというべきであろう。 

(1) 『アカハタ』にも五六年六月二六日号から解説『ソ同盟共産党第二〇回大会の諸問題』が連載されはじめ、『前衛』にも八・九月号に『ソ同盟共産党第二〇回大会報告・決議の学習要綱』が掲載された。
(2)(3)(4) イギリス、ドイツのデータにつき、省略
(5) 経済軍事化の過大評価にたいして最初に批判をくわえたのは井汲卓一の『循環における独占法則』(『世界経済評論』五六年九月号)であるが、これにつづいて内田穰吉も、「日本経済軍事化の定説」の再検討を提唱し、この定説は「あやまりであり、行きすぎである」と結論している(『経済評論』五七年一月)。
(6) そのうち理論問題をもふくむ代表的なものをあげると、特集『日本共産党の新展望』(『知性』六月号)、向坂逸郎『日本共産党を評す』(『社会主義』七月号―『社会主義―古くして新しきもの』所収)、『ソ連の変貌と共産主義の将来』(『中央公論』臨時増刊)、福田歓一『スターリン批判をどう受けとるか』(『世界』七月号)、亀井勝一郎『革命の動きをめぐって―現代史の七つの課題(四)』(『中央公論』一〇月号)、丸山眞男『スターリン批判の批判』(『世界』一一月号)、篠原一『現代史の重さと深き』(『世界』一二月号)、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(五六年一一月刊)。
(7) 大井広介『文学者の革命実行力』(五六年四月刊)、『左翼天皇制』(五六年一○月刊)、『代々木共産党は徒党だ』(『文芸春秋』五六年一一月号)、これに類するものとして三浦つとむ『共産党』 (五六年一一月刊)などがある。なお、戦後の共産党史に取材した小説には窪田精『ある党員の告白』、井上光晴『書かれざる一章』、杉浦明平『細胞生活』、金達寿『日本の冬』などがある。ほかに新聞記者のみた共産党史として村上寛治『日本共産党』(五六年一二月刊)も出版された。
(8) 小山弘健『日本マルクス主義史』(青木書店五六年四月刊)、『日本資本主義論争の現段階』(青木書店五六年一二月刊)。
(9) 小池は、農地改革後の「自作農的土地所有」を「一面において地主的土地所有の対立物で」であるが、けっして「自由な農民的土地所有」ではないという二面性格をもっており、なお「基本的性格」は「地主的土地所有」であるとし(『農地改革と土地所有の性格』―『変革期における地代範疇』所収)、別の論文では「土地所有の地主的非農民的形態」とよんでいる(『戦後における土地所有の基本的視点』―『経済評論』五六年一二月)。
(10) たとえば寺島泰治『農地改革と階級関係の変化』(『前衛』五六年八月一一九号)、宮坂五郎『農地改革と長野県における農業の資本主義的発展』(『前衛』五六年一二月一二三号)。
(11) 『現代社会主義講座』(東洋経済新報社刊)第五巻および第六巻に掲載された編集委員会の自己批判、野々村一雄『社会主義的国際協力の転回点』(『経済評論』五七年一月号)。
(12) 杉田正夫『マルクス主義経済分析の新しい発展―戦後景気循環論争』(『アカハタ』五六年一一月一四・一五・一九日号)、井汲卓一『戦後景気循環の研究』(日本評論新社五六年一二月刊)。
(13) 座談会『マルクス主義はどう発展するのか』(古在由重・久野収・鶴見俊輔、『中央公論』五六年八月臨時増刊号)、『日本のマルクス主義』(同上、『中央公論』五六年一二月号)、三浦つとむ『この直言をあえてする』(学風書院五六年五月刊)。
(14) 『現代社会主義講座』 (全六巻、東洋経済新報社刊)、『社会主義講座』(全八巻、河出書房刊)。 
『日本共産党の六十年』(抜粋) 

 

1、六全協後の党内状況、1956年〜58年
また、五〇年問題の実情と極左冒険主義の誤りの深刻さがはっきりするにつれ、党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流があたらしくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則からはずれ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外にさまざまの形であらわれた。五〇年問題にかんして党中央が開催した会議、集会でも、東京その他の地方の会議でも、参加者が責任の所在の究明を要求して、会議が混乱する場合が少なくなかった。さらに、この間、不当な非難や処分などをうけて傷つき、あるいは党の状態に絶望的になって離党する党員も少なくなかった。壊滅した支部(細胞)も数多くみられた。
また、「六全協」でえらばれた中央委員の一員である志田重男、椎野悦朗らが、党の分裂の時期に、党生活のうえで党の幹部としてゆるすことのできない堕落行為をおこなっていたことがあきらかになった。志田は、党の調査をうけるまえに任務を放棄して逃亡し、逃亡の理由が政治的意見の相違にあるかのようにいつわって反党分派を組織し、党のかく乱をくわだてた。党中央は、志田を除名し、その策動を粉砕した。椎野も党の調査を拒否し、敵対的態度をとったため除名した。 
2、第7回大会政治報告における党分裂5つの教訓、1958年
大会は、政治報告のなかで、一九五〇年の党の分裂とその後の事態について、詳細な総括をおこない、党分裂の直接、最大の原因が、当時の政治局多数による、規約にもとづかない指導的幹部の排除工作と中央委員会の一方的な解体にあったことを指摘し、この不幸な分裂の経験から、つぎの五つの教訓をひきだした。
(1) いかなる事態に際会しても党の統一と団結、とくに中央委員会の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的な任務であること。
(2) そのために、家父長的個人中心指導や規律を無視する自由主義、分散主義をきびしく排し、いかなる場合にも規約を厳守し、規定されている大会その他の党会議を定期的にひらき、民主集中制と集団指導の原則をつらぬくこと。
(3) 中央委員会内部の団結とともに、中央と地方組織との団結のために最善の努力をはらうこと。
(4) 党の分裂が大衆団体の正常な発展を破壊したにがい経験にたって、いかなる場合にも党の内部問題を党外にもちださず、それを党内で解決する努力をつくすこと。
(5) 党の思想建設と理論を軽視する風潮を一掃し、党中央を先頭に全党が、マルクス・レーニン主義理論の学習を組織し、党の政治的、理論的水準を向上させるために努力すること。
大会はまた、戦前敵に屈服して党と進歩的人士を裏切り、戦後長期にわたって党かく乱の犯罪的活動をつづけてきた伊藤律の除名を確認した。 
3、民主集中制批判者たち、田口富久治批判、1978年
この間、袴田転落問題を利用した反共攻撃のなかで、日本共産党の民主集中制にたいする非難が、そこに一つのねらいを定める形でおこなわれてきたこととも関連して、すでに第十四回党大会でも指摘されていた論壇などの一部論者による民主集中制論が、無視できない否定的役割をはたしていた。これらは、日本共産党の民主集中制が、近代政党なら当然の、もっともすぐれた組織的特質の一つであり、前衛党として不可欠のものであることをなんら理解せず、民主集中制を批判したり、分派や派閥の事実上の容認につながるよう規律をゆるめることを主張したり、行動では少数が多数に従うとしてもその党の方針にたいする批判の自由を保障するのが民主的政党としてあたりまえだと主張するなどの傾向をもっていた。
これらにたいしては、不破哲三「科学的社会主義か『多元主義』か」(『前衛』七九年一月号)、「前衛党の組織問題と田口理論」(同八〇年三月号)、関原利一郎「前衛党の組織原則の生命」(「赤旗」評論特集版七七年十一月七日号)をはじめ、多数の理論的労作が深い批判的解明をおこなった。
そこでは、民主集中制批判者たちの議論が、日本共産党の民主集中制論が五○年間題をふくむわが党の痛苦の経験のなかからうみだされた日本における科学的社会主義の運動の理論と実践の到達点だということをみずに、ただあれこれの外国の例を基準にして党の組織論を批判していること、ロシア革命の過程でいろいろな時期にレーニンがのべた言葉、とくにロシアの科学的社会主義の潮流が小ブルジョア的潮流と一つの党のなかに連合していた時代にレーニンがいった「批判の自由と行動の統一」という命題を、そのままいまの共産党の基準にすることによって、わが党を小ブルジョア的潮流をふくむ共同戦線的な党にひきもどす議論であること、共産党内の民主主義を論じるのに、これを日本の社会における民主主義の問題と事実上混同し、われわれは国家のない未来社会を望んでいるのだから、われわれの運動の組織も未来社会と同じ原則でつくられなければならないというバクーニン流の議論となっていることなどを、深く詳細に解明した。これらの理論的成果は、世界の共産主義運動にとっても先駆的意味をもつものであった。 
『日本共産党の七十年・年表』(抜粋) 

 

1975年
9・20日〜28 イタリア共産党代表団(アルフレド・ライクリン指導部員)が来日、9・22〜24党代表団(団長・西沢富夫常任幹部会委員)と会談、9・29共同コミュニケを発表
10・12〜19 フランス共産党代表団(団長ポール・ロラン政治局員)が来日、10・13〜14、18党代表団(団長・西沢富夫常任幹部会委員)と会談、10・20共同コミュニケを発表
11・15 フランス、イタリア両共産党、自由の問題などで共同宣言
12・14 スペイン・イタリア両共産党共催のスペイン人民との国際連帯集会(ローマ)に西沢富夫常任幹部会委員らが出席 
1976年
2・4〜8 フランス共産党第二二回大会に党代表団(団長・松島治重常任幹部会委員)が出席
3・27〜31 スペイン共産党代表団(団長・カリリョ書記長)来日、3・28〜29党代表団(団長・宮本委員長)と会談、3・31共同声明を発表
4・4〜10 フランス共産党マルシェ書記長来日、4・5宮本委員長とマルシェ書記長が会談、4・10共同声明を発表
4・27 不破哲三論文「科学的社会主義と執権問題―マルクス・エンゲルス研究」の「赤旗」連載開始(〜5・8)
6・29〜30 ヨーロッパ共産党・労働者党会議(ベルリン)
7・28〜30 第一三回臨時党大会、「執権」問題、「自由と民主主義の宣言」などを採択
(宮地注)、3党を含むヨーロッパのすべての共産党が、70年代に、プロレタリア独裁理論は誤りだったと、公然とその放棄宣言したこととの関連(?)。日本共産党だけは、放棄せず、プロレタリア独裁→プロレタリアートの執権→労働者階級の権力と訳語変更して、隠蔽・堅持中。「自由と民主主義の宣言」は、ユーロ・ジャポネコミュニズムを象徴する内容となった。
学者党員中野徹三札幌学院大学教授は、不破「執権」論文にたいして、あくまで「独裁」とする訳語が正しいとする学術論文を発表した。それにたいして、日本共産党は、他の論文・問題も合わせて、「党内問題を党外にもちだした」規律違反として、彼を査問し、除名した。 
1977年
1・10〜19 党代表団(団長・不破書記局長)、イタリア訪問、1・10〜11イタリア共産党代表団(団長・ジェラルト゜・キアロモンテ指導部員)と会談、1・20共同声明を発表
(宮地注)、このような共同コミュニケ、共同声明の発表は、1977年が最後である。以後、その共同形式はなくなっている。
3・2〜3 イタリア、フランス、スペイン三党書記長の会談(マドリード)、共同声明発表
11・7 関原利一郎論文「前衛党の組織原則の声明」を「赤旗」評論特集版に掲載
(宮地注)、この論文は、党中央による第1回目の学者党員・田口富久治批判だった。彼は、1976年7月、「朝日夕刊」に、フランス共産党のデュヴェルジェ理論を紹介したコラム記事『さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利』を発表した。それにたいして、党中央は、彼を個別に党内批判・詰問をした。彼が、その事実上の査問に屈服しないので、党中央は、その内容にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表した。「関原利一郎」とは、榊利夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームである。その後も、1977年、彼は、雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』を掲載した。そこで、彼は、ユーロコミュニズムの理論内容、傾向をさらに詳しく、肯定的に紹介した。 
1978年
4・19〜23 スペイン共産党第9回大会に党代表団(団長・戎谷春松常任幹部会委員)が出席
12・5 『前衛』七九年一月号に不破哲三論文「科学的社会主義か『多元主義』か―田口理論の批判的研究」発表(民主集中制論など)
(宮地注)、これは、第2回目の田口富久治批判だった。彼が、1978年3月、上記雑誌論文も含めた『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店)を出版した行為と著書内容にたいする、田口富久治批判大キャンペーンの開始である。それは、同時に、日本共産党によるユーロコミュニズム批判、とくに、イタリア、フランス、スペイン3共産党のDemocratic Centralism見直し→放棄方向にたいする全面否定という性格も併せ持っていた。 
1979年
3・30〜4・3 イタリア共産党第一五回大会に党代表団(団長・西沢副委員長)が出席
5・9〜13 フランス共産党第二三回大会に党代表団(団長・村上副委員長)が出席 
1981年
7・28〜8・1 スペイン共産党第一〇回大会に党代表団(団長・西沢富夫副委員長)が出席
12・29 イタリア共産党、「十月革命に始まった社会主義」は「推進力をつかいはたした」との決議発表 
1982年
1・31〜2・17 西沢副委員長、仏、伊、ノルウェー、デンマークを訪問。2・3〜7フランス共産党第二四回大会に出席、2・10イタリア共産党ベルリングエル書記長と会談、共同発表をおこなう
12・9 宮本議長、『日本共産党の六十年』を発表、12・25単行本の初版発行
(宮地注)、この内容には、(1)六全協後から1958年前後における、民主集中制からの逸脱としての自由主義・分散主義批判、分派活動批判と、(2)1978年前後における民主集中制批判者たちへの反批判があった。その両者を、民主集中制絶対擁護のテーマで結合したのが、謎の上田・不破査問と「自己批判書」公表事件である。上田・不破査問は、12月までの間に行われ、「二人の反省が常幹で討議され、承認されたのは昨年(82年)十二月」(「赤旗主張」83・9・25)であった。それから8カ月後、中央委員会は、『前衛』83年8月号で、上田・不破「自己批判書」を公表した。 
1983年
1・4〜11 スペイン共産党代表団(団長・カリリョ執行委員)来日、1・5、8、10宮本議長と会談、1・11スペイン共産党との会談についての新聞発表
2・27〜3・11 党代表団(団長・西沢富夫副委員長)、伊共産党大会出席のためイタリアを訪問 
1984年
2・29 イタリア共産党のベルリングエル書記長、スペイン共産党への連帯を表明
3・7 仏、スペイン共産党、両党関係発展の共同声明
8・25〜29 フランス共産党代表団(団長・マクシム・グルメッツ政治局員・書記)が来日、8・27党代表団(団長・立木洋国際委員会責任者)と会談 
1985年
2・14〜18 党代表団(団長・立木洋常任幹部会委員)、フランス共産党第二五回大会に出席、2・12イタリア共産党のアレッサンドロ・ナッタ書記長と懇談
9・15〜24 党代表団(団長・金子書記局長)、イタリア共産党のアレッサンドロ・ナッタ書記長と会見 
3つの共産党によるDemocratic Centralism放棄経過 

 

コミンテルン型共産主義運動のヨーロッパにおける終焉 
イタリア共産党――大転換
一九七六年、党大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。
一九八一年、「十月革命に始まった社会主義」は「推進力をつかいはたした」との決議発表
一九八六年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
一九八九年、第十八回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。
一九九一年、第二十回大会、左翼民主党に転換した。同年十二月、少数派が共産主義再建党を結成した。
一九九六年、総選挙で中道左派連合政権が誕生した。左翼民主党二一.一%、共産主義再建党八.六%の得票率で、「オリーブの木」全体では、三一九議席を獲得した。
一九九七年、第二回党大会における党員数は六十八万人で、このうち女性党員が二八.五%を占める。 
フランス共産党――民主主義的中央集権制放棄
一九七六年、第二十二回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。
一九八五年、第二十五回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制されなくなる。
一九九四年、第二十八回大会で、民主主義的中央集権制を放棄した。賛成一五三〇人、反対五十二人、棄権四十四人という採決結果だった。
一九九六年、第二十九回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図る。機関紙「ユマニテ」は、第二次大戦直後は四〇万部あった。しかし、六十年代から八十年代まで、十五万部、一九九七年では、六万部、二〇〇一年は四万五千部に減少している。
二〇〇〇年三月、第三〇回大会で、一層の改革を進めるために、七つのテキストを決定し、それへの党員の意見表明は三万人以上に上った。
二〇〇二年六月、総選挙第一回得票率は、四.九一%であり、それは一九九七年総選挙得票率九.八八の半分に激減した。フランス下院議席は、三五議席から、二一議席に減った。これらの結果は、「ルペン問題」の影響があったとはいえ、フランス共産党史上最大の敗北だった。
二〇〇三年四月、第三十二回大会で、党史上初めて対案が提出され、四十五%の支持を得た。党改革派が主流だが、反対は二派で、党改革への異議提出派である。党員数は、一九七九年七十六万人、一九九六年二十七万人、二〇〇三年十三万人へと、一貫した党員減退を続けている。 
スペイン共産党――3分裂
一九八三年、親ソ派、カリリョ派、ユーロコミュニズムを党内民主主義の徹底化にまで深化させることを主張する新世代派に三分裂した。
一九八九年、その後の再建活動の中で選挙ブロックとしての統一左翼を結成する。その年の総選挙で統一左翼は九.一三%を獲得した。一九九三年総選挙では九.五七%獲得した。
一九九一年、民主主義的中央集権制を放棄した。
二〇〇〇年三月、総選挙で、統一左翼は一九九六年の二十一議席から八議席に後退、大敗した。 
 
五〇年代の文学とそこにある問題 / 宮本百合子

 


十二月号の雑誌や新聞には、例年のしきたりで、いくたりかの作家・評論家によって、それぞれの角度から一九四九年の文壇が語られた。その一年に注目すべき作品を生んだ作家たち、明日に属望される新人も、作品に即してあげられた。
これらのしめくくりは、しかし、去年という三百六十五日の間にわたしたちが生活と文学との肌身へじかにうけて生きて来た激しい暑さ、さむさ、ほこりっぽい複雑さのいろいろを、その深さ、その多面なひろがりそのものにおいて整理したものであると言えたであろうか。少くともわたしは、どこかくさびのぬけた概括が多かったと感じる。そこにあるはずの問題がちゃんとおもてにとり出して、うけるだけの扱いをうけていないように思える。去年の花床として、見わたしておもてに見える高低だけ言われている土のなかには、その花が咲いたら面白いだろうと思う球根が、いくつか放ったらかしになっている。そんな風にも感じる。そして、この感じは、まとめて表現しにくいままに、案外ひろく人々の心のどこかでは感じられている実感ではなかろうかと思う。
一九四九年は、いい年でなかった。戦後四年めになって、日本の社会と文化とは、権力がのぞんでいる民主化抑圧の第四の時期を経験した。ワン・マン彼自身が国際茶坊主頭である。茶坊主政治は、護符をいただいては、それを一枚一枚とポツダム宣言の上に貼りつけ、憲法の本質を封じ、人権憲章はただの文章ででもあるかのように、屈従の鳥居を次から次へ建てつらねた。
おととしの十二月二十日すぎに、巣鴨から釈放されて、社会生活にまぎれこんで来た児玉誉士夫、安倍源基らの人々の氏名経歴を思い出して見れば、それにつづく一九四九年の権力が、そのかげにどんな要素をよりつよく含むようになったかということはおのずから明白でなければならない。過去三年間の経験では、まだ日本の人々の間に民主的な生活感情が確立しかねていたうちに、既成の勢力は全力をつくして、一応はびこることに成功した。一九四九年が、国内的に誰にとってもいい年でなかったという現実は、日本の民主主義運動のやりかたや、解放運動の科学的な理論の骨格そのものについて沈潜した再検討を必要とする人々の気持のモメントともなっている。
この荒い波は、直接間接文学に影響を与えずにいなかった。言論機関としてのジャーナリズムがつよい統制、整備のもとにおかれたのは一九四八年からだったが、その方法は、昔からみると比べものにならず技術的であった。ゴロツキ新聞の排除、用紙配給の是正、購読者の要求への即応という掘割をとおって、戦後の小新聞は、民主的な性格のものをふくめて、大企業新聞に吸収された。そして、一九四九年の秋の新聞週間には「新聞のゆくところ自由あり」と、記者たち自身にとってもけげんであろうような標語が示された。日配の解体、再編成は、集中排除法という経済面から強行されて、三ヵ月以上にわたった出版界の経済封鎖の過程では、大出版企業者をのぞく、すべての出版事業がいちじるしい危機にさらされた。こんにち揺がない大出版企業の代表者たちが、文化上どのような性質をもつ存在であるかということは、渡米ラッシュの各界代表選出にさいして、出版界だけが人選にゆき悩んでいる実状に語られている。
一九四九年度の文学現象の特質は、このつくられた恐慌の裏づけぬきに観察されない。「所謂戦後派と言われたヨーロッパ的小説方法の実践者の運動が、出版景気の減退に伴って不利になって来た」(日本文芸家協会編『創作代表作選集』第四の序文――伊藤整)不利は、物的事情にとどまらず、業者とその気分に雷同する一部の作家間に、もうアプレ・ゲールでもないだろう、と咲きのこりの昼顔でも見るような態度をひきおこした。皮肉なことは、戦後派とよばれた近代文学同人たちの大部分が、前年の下半期から一九四九年をとおして、インテリゲンチャとしてそれぞれに着目すべき社会的文学的前進を行っていたことである。個人主義の開花時代の近代ヨーロッパの文学精神を、日本で窒息させられていた「自我」「主体」の確立の主張の上に絵どる段階から成長して来て、日本の社会現実のうちで自我を存在させ発展させるそのことのためにも、日本ではすべての市民に共通な基本的な人権の擁護が必要であることが把握されはじめた。世界ファシズムと戦争挑発に対する抵抗を組織することが、世界人民の歴史の課題であり、世界文学につながる日本の文学の新しい世紀の精神であることが実感されて来て、そのための実践も着手されていたのである。
したがって、出版恐慌を理由として、これらの戦後派の先輩たちがジャーナリズムの上にうけた不利――すなわち、社会的文学的発言の範囲の縮小の本質は、とりもなおさず、理性に立つ現実探求の精神の主張、国の内外のファシズムと戦争挑発に対する抗議と抵抗の削減であった。
この方法が成功したことは、一部の作家にとって、寒心すべきことでもなかったし、未来のために警戒するべきことともうけとられていない。むしろ、既成勢力の安定感として感じとられている。『群像』十二月号の創作月評座談会で、林房雄が、深刻ぶり、ということについて語っている気分、ポーズに、はっきりあらわれている。自己陶酔と独善にうるさい覚醒をもとめてやまない近代精神、理性へのよび声そのものが、この種類の作家たちには気にそまない軽蔑すべきことであるのだろう。
過去三年の間、戦争に協力したという事情から消極な生活にあった作家群が、一九四九年に入ってからは、顔をそろえてぞっくりと登場した。むかし『新潮』などの慣例であった月評座談会の形式が『文学界』その他に新しい文学行政的顔ぶれで復活した。その席では、二十世紀のこの時期に動いている世界社会の苦悩、相剋、発展へのつよい意欲とその実験にかかわる文学の、原理的な諸問題について究明される態度は全く消された。印象批評と放談のうちに、ジャーナリズムと読者とに対するある種のデモンストレーションが行われ、批評は個々人の印象批評にとどまった。よかれ、あしかれ、日本の民主主義文学の運動にふれたり、それをまともに論議したりすることは、語り手自身のファッション・ショウめいているそのような場面ではもう流行はずれ(アウト・オブ・ファッション)の気風がつくられた。民主的評論家は沈黙し、ジャーナリズムが釣り出した新人でない若い作家のための場面のゆとりは奪われた。次の戦争に利用することのできる八千五百万の人口と計算されているその日本の人民の数のうちに在りながら、野暮な詮議はどこかのひと隅へおしこんで、望月のかけるところない群々の饗宴がつづいた姿だった。(民主主義の文学運動が一九四九年に入ってのびのびと展開しなかった理由には、このような外部からの事情にからんできわめて複雑で、興味の深い研究課題が内在している。それは、こんにちの政治と文学、政治の優位性と云われるもの、性格に関する問題であって、その点は別項でふれて見たい。) 

前年までの肉体文学は、よりひろい風俗文学、中間小説とよばれる読(よみ)もの小説の氾濫に合流した。これらの文学は、戦争中、こぞってそのほとんどが戦争肯定をしていたように、きょうはきょうなりのなまぐさい風のまにまに、こまかく深く考えること無用。自分から頭と心を働かして現実を眺めること無用。ラジオの娯楽版、大人と子供の世界をひたす漫画とともに、愚民教育の掘割の幅をひろげた。一九四九年に、この近代擬装エナメルの色どりはげしいギラギラした流れの勢が、どのように猛烈であったかについて『人間』十二月号の丸山真男・高見順対談の中で、高見順が次のように云っている。
「芸術家の方も自重しませんと……。終戦後のわれわれの恥を云えば、作家の態度が、一種のセンセーショナリスムをねらうみたいになってしまってね。人の魂に小さな声で囁きかけてゆくのでは駄目で、往来の真ン中で、わあッと大声をあげる式でないと、声が聴えないのです。そのかわり大きな声をたくさん出せればいいわけです。明治以来こんなことは、はじめてでしょう。こんなに作家が大声をあげれば、あぶく銭がとれるのも、初めてのことでしょう。」「菊池寛と大臣の台所の費用が同じだと云って、文士も偉くなったとほめられたものでしたが、今は大臣以上ですからね、大きな声を出しさえすれば……。」
風俗小説が、その世相複写の一定の限界に達してくれば、それらの作者の生活範囲での種さがしと、センセーショナルな事件をあさる職業心理はさけがたいだろう。一九四九年は、この面でも、これまでの文学の場面にはなかった奇怪なモデル出入りが発生した。その代表的なものは井上友一郎の「絶壁」に関連する事件であった。一般の読者は自然にあの一篇の小説をよんだ。そして、なぜこの節は「晩菊」にしろ、女の肉体の老いと社会的野心或は金銭の慾のくみ合わせが、その本質の陳腐さにかかわらず、作者の興味をひくのだろうかと、人工的な照明の下にあやつられている「絶壁」の男女の姿を眺めたにすぎなかったと思う。ところが、不思議なことに、その作品のモデルだとみずから名乗って作品のその醜さが当事者たちの名誉を毀損する、法律に訴えると、ジャーナリズムに大きな声をあげた男女の作家があらわれた。
他人にわからない文壇生棲間のもつれでもあってのことだろうが、この全く非文学的なセンセーションは作者が希望するしないにかかわらず「絶壁」を問題作とする一助となり、モデルであると名のり出た人々を脚燈の前に立たせた。
センセーショナリズムに対して抵抗を失った風俗文学の条件反射は、人情と芸大事の宗匠、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)や久保田万太郎などまでをいつかその創作のモティーヴのとらえかたにおいて影響しているように見える。由起しげ子の小説「警視総監の笑い」のモデルであったという老紳士が鎌倉で自殺した事件がおこった。鎌倉に住む作家で、その老紳士と交際のあったらしい里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)、久保田万太郎に『読売』がインタービューしたとき、作家の立場として、由起しげ子の小説と結びつけてさわぎにすることの間違いは力説されなかった。久保田万太郎は、「近く『あきしお』という小説をかいてその人の霊に捧げようと思う」と語り、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)は、「その死がなんのためだかわからないが、『沖』という小説を近く発表する」と各自、事件につながる自作予告をした。
センセーショナリズムは、内剛外屈の吉田内閣が民主化すてながしの一九四九年度筋書として極端にまで使用した方法でもあった。政治と文化とを一貫して、世相を押しきったこのような潮流は、一九四九年度の毎日文化賞の準備調査、読売新聞社の良書ベスト・テンの調査などで、諸々批判のおこっている永井ものがトップをしめ、「宮本武蔵」や「親鸞」「風とともに去りぬ」「細雪」「流れる星は生きている」などが多くの票を占めるという結果をもたらした。毎日文化賞の準備調査では、文学の部で「親鸞」がトップであったが、詮衡委員会は「中島敦全集」をおした。
ところで、注目されることは、いわゆる風俗文学の作者たち、中間小説と称するよみものがかけないものは文学上の半人足であるとするような作家たち自身が、他の半面では、いわゆる純文学とよばれて来た本当の文学に恋着を示している点である。これらの作家たちは、月評や文学談のなかでは、文学の本質がわかっている文学者として自身をあらわそうとしている。そのために、こんにちの文学の現象はいっそう混乱して、商業ジャーナリズムの大半を占め、紙数をより多く占めて発言している中間作家、風俗作家の文学論が、さながら文学論であるかのようにあらわれている。
私小説を否定しながら、純文学を語るこれらの人々は、広津和郎の「ひさとその女友達」に対する林房雄の評を見てもわかるように、政治臭をきらうことで共通している。中間小説が、社会小説であり得ないこの派の作家たちの本質に立って。
しかしながら、そのまた他の一面ではファシズムに反対し、戦争挑発をしりぞけるための「知識人の会」に名をつらね、作家そのものの道に立って平和を守ろうとする川端康成の提案を支持してもいるのである。
高見順との対談で丸山真男が「物質的な面ではそうですけれども(文士も偉くなった)社会的な価値とか、役割とかではやはりアウト・ロウ的でしょう」と云い、高見順がそれを肯定して「全然アウト・ロウです」と答えているのは、高見順にとっては自然な答えであったにしろ、中間小説作家たちの現実でもないし、実感でもないだろう。社会性を失った「純文学」とよばれる創作方法に対して、林房雄、富田常雄を筆頭とする中間小説の作家たちは、「純文学とか大衆文学とかいう色わけがなくなってしまうのが当然」であるとして、現在自分たちの書いている文学が「大衆の生活にたのしみを与え、豊かにし、また生きてゆく上でのなにか精神のよりどころのようなものを提供するこそ」目標であり「『罪と罰』『ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるにちがいないと確信する」人々である。これらの人々に新聞社は、講和問題に関するアンケートなどもおくっている。『読売新聞』の集めた範囲で作家たちの答えは全面講和の要求だった。
批評家は、一九四九年のこの錯雑混沌とした文学と文学者のありように対して、どうして、ただ押しまくられているしかなかったのだろうか。「また、いつかはそれをやりとげないでは(「罪と罰」やその他の作品に通じる道がひらける、ということ)結局、羊頭をかかげて狗肉を売るそしりをまぬかれないだろう」(文芸家協会編『現代小説代表選集』第五――田村泰次郎)というのなら、まず文学そのものとして狗肉である現在のジャーナリズムへの商品を一応ひっこめることから実行されるべきこと。大衆の運命は性の欲望と肉体の好奇心のうちだけで存在しているのではないということを認識すること。精神のよりどころを与えるというならば、作者自身が、従順な奴隷八千五百万とよばれている人口のうちにこめられていることを自覚して、ファシズムと戦争挑発に反対署名し、全面講和要求に署名したとしても、ジャーナリズムを通して強力にすすめられているエロティシズムの愚民政策の選手であることの矛盾について、はっきり日本の人民のために指摘してもよかったろう。
それが不可能であったということには、一九四九年において批評家自身、社会的問題と文学的問題とを統一的に把握しきらなかったという事実を告げることであると思う。
中野好夫は『新日本文学』十二月号に、一九四九年を次のように回顧している。
「過去一年をふりかえってみて私としてもっとも強い関心を感じることは、個々の法令、個々の規則ということよりも、それらの禁圧的法令、規則の脊後を通じて一貫している最近の政治動向そのものについてである。」「ここ一年以来の民自党政府のやり方には、もはや反共のラインをこえて、人間としての権利そのものへの侵犯としかみえないものがあらわれている。」「最近は、私自身の関するせまい職域の限りでも、いわゆるレッド・マークとか、学問の自由というような新しい問題まで発生してきている。」「学問の自由を剥奪することがいかに危険なことであるかは、先年来すでに苦しい経験ずみであるにもかかわらず、今日またしてもこのような問題がくりかえされなければならないということは、正直にいって情ないとでもいうより他はない。」「しかし問題は実はこの具体的事実の一つにあるのではないのである。このような、わかりきった情ない問題を、その一尖端として水面に露出させるところの見えない水面下の暗礁こそ問題なのである。」「だがわたしは絶望はしない。もしわれわれが本当に人間として基本的なものだけは守り通すという決意をもち、それが実践のためには牢獄と死をさえ辞せないだけの強い意志だけあれば、必ず我々はこのようなお調子にのった今日の右翼攻勢を粉砕しうる時はくる。」しかし、「戦術的には従来の共産党諸氏のやりかたには、与し得ない」として、左右両翼の反作用の時を、袖手傍観しないで促進するためにもと、世界人権宣言に改めて深い関心をよせている。
一九四九年の社会政治現象に対してこのような態度を示している中野好夫が、どうして、商業化している文壇的な創作月評座談会などで、弱気にならずにいられないのだろう。誰がよんでも、護持派の文学論法であり、それは彼の戦争協力、「大人の文学」論、人間と文学との基本的権利の抹殺行動につながる林房雄の論法に、だまって肯くという態度を示さなければならないのだろう。林房雄は、『群像』十二月の座談会で宇野浩二の「文学者御前会議」にふれている。
「一般に日本の私小説作家というものは、文学のために人生をすてている。だから女房のことでも、昔の借金のことでも、何でも文学にして売る。一番ひどいのは宇野浩二の『文学御前会議』で、あれは文学のために人生をすてた大作家の末路だ。」(以下略)「文学のために人生をすてているんだから、その致命的なものは、どうにもならない。中野さん、あなたはこれからも批評家として行くわけですが、このことは重要なことですよ」
中野 ……(肯く)
「文学者御前会議」につれて林が人生と云っているものが、まともな人生を意味するなら、宇野浩二のあの文章は、日本人の人生そのものに関して圧巻であった。昔、宇野浩二が書いた小説に、菊富士ホテルの内庭で、わからない言葉で互によんだり、喋ったりしながら右往左往しているロシアの小人(こびと)たちの旅芸人の一座を描いたものがあった。植込みや泉水のある庭のあちこちを動いたり、その庭に向っている縁側を男や女の小人(こびと)が考えたり、話したりして、彼らの人生をまじめにいそしんでいる姿が、宇野浩二一流の描写力で哀れにもユーモアにみちて描かれていた。
「文学者御前会議」は、宇野浩二のその小説をほうふつさせる。フランス文学者であり、アンティ・ファシストであり、アヴァンギャルドである豊島与志雄が、時代ばなれしたフロックコートの裾をひるがえし、シルクハットはなしで電車にのる描写から、すでにペソスがにじんでいる。行きついた場面では、すべての事のはこびが活人形(いきにんぎょう)を動かすようである。他人と比較されることのない風変りな日常習慣のうちで、人柄のある聰明さにかかわらず奇矯な癖をもっている天皇の動作、きいた風な宮のとりなし。かしこまってそこに連っている歌人・文学者たち一人一人の経歴が文学史的に細叙されているにつけ、つつしんでいる作者の描写が精密であればあるほど、そこにゴーゴリ風のあじわいが湧いて、読者は、全情景、登場人物などのすべてが、自分たちと同じ人間としての等身大をもっていない一つの世界のできごとを見ている感じにとらえられる。みんな小さく、いやにくっきり、ぎくしゃくかしこまっているなかに広津和郎が立って話しはじめると、急にそれは並の人間の体と声とに感じられる。この変化も宇野浩二の描写力のはからざる効果である。
若い評論家の藤川徹至はこの「文学者御前会議」を『アカハタ』の上で粗末に批難した。窪川鶴次郎の「偽証の文学」では、宇野浩二のリアリズムの矛盾をついている。その矛盾をふくみつつも、林房雄が、「文学者御前会議」をもって宇野浩二の私小説作家の末路としたのは、なおそのリアリズムに林房雄の欲しないゴーゴリ的な日本の人生の現実が造形されているからにほかならない。本来の日本(ジャパン・プロパア)のユーモラスであり腹立たしい人生が見せられたからである。佐藤春夫の「人間天皇の微笑」に対して林房雄は罵らないだろう。これらにはいかなる人生もないから。いわゆるふちの飾りしかないのだから。
文学らしい言葉で云われている林房雄のみことのりに、だまって肯く英文学者を前において、彼は更に首相の息子吉田健一の「英国の文学」を、推薦している。吉田健一は「イギリスの文学はイギリス人の生活のふち飾りとして、レースの如く美しくあらわれて来るという意味のことをかいていた。ところが、日本の私小説作家で、人生の方が文学のふち飾りでライフ・プロパア(本来の人生)が無視されている。僕が日本の私小説作家に大いに反対するのはそこなんです」
ステファン・ツワイクは伝記文学者として多くの仕事をしたが、彼の代表作「三人の巨匠」の中でもディケンズ研究は、最も重く評価されている。ディケンズの天才は、イギリスのみならず世界文学のほこりであるけれども、あれほどの彼の大天才もイギリス流の現実への妥協で終ったために遂に大成するに到れなかった、と云っている。そして、イギリスの独特な資本主義発達の過程はシェクスピアを生んだ環境そのものでディケンズの天才の羽根をおらせた。ゴールスワージーは、魅力ある作家だったけれども、彼の文学にも終点は「人生はこうしたものだ」“Life is such a thing”という言葉がある。ふち飾りである文学が、人類の歴史の進歩に大きく作用する力はなかった。十九世紀のイギリスのロマンティシズムがレルモントフに影響し、サッカレーやディケンズのリアリスムがトルストイなどに作用したにしても、その結果あらわれたロシアの六〇年代の小説と評論は、それが本来の人生の問題につき入っていたからこそ世界精神につよい響をつたえた。戦前、ヴァレリーの「ドガに就て」を訳して、名訳といわれた吉田健一という名を思いおこすと、こんにちの「英国の文学」だの、父親の代弁として、ユーモアのないところに思想はなく、だから文学はないという風なくちのききかたも、何となく中間小説作家流の本来の人生(ライフ・プロパア)の姿を語っているようでもある。
英文学者の中野好夫が、英国の文学は、人生のふち飾りなりの論に一言も交えず私小説反対に話の糸をつないでいるのは遺憾である。中野好夫は、牢獄も死も覚悟して、「意見と発表の自由に対する権利」をふくむ「人間として基本的なものだけは守りとおす決意をもって」いるのだから、社会的現象である文学の話で、意見をあらわしていいと思う。
中野好夫に意見と発表の自由に対する権利を十分発揮させなかったのは、彼の「私小説」否定のコンプレックスである。私小説の否定論そのものの本質、展望が、現在のところではまだ歴史性に立って確信的に把握されていないからであろうと思われる。
同じことが、同じ原因で三好十郎の「小豚派作家論」にあらわれていると思う。彼独特の発声法で、中間派作家とその作品を罵倒しながら、最後には、ひいきの尾崎一雄を、その「『アミ』がいくらか古めかしく」純粋になってしまって現代生活の流れに浮いた「アクタモクタの全部は尾崎のアミに引っかからなくなっている」という不平はとなえた方がよい、としている。はためにみれば、そもそも文学をはずれて繁栄している中間小説と、私小説がひとしお煮つまって一種のエッセイ風の作品となっている尾崎一雄の文学とを同列に語ることさえ、謂わば荒っぽいセンスである。「私小説の否定」というきょうの文学のやわたしらずの中で、三好十郎もまた吐くのは反吐(へど)という姿にある。「では誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげることができるだろう? 田村泰次郎のアミがそれだなどと言う人があったら、失礼ながら私はひっくりかえって笑わなければならぬ云々」「戦争を自分のなま身でもって生き、通過して来た上で、作家としての自我と仕事を確立して行こうとしている人間」の言葉として、「田村が作家として意図しているところは、なっとく出来るし、なっとくしてやらなければならぬ。しかしあとがいけない」と田村の独善的な自己肯定にふれるならば、田村泰次郎一派の人々のいくらか文壇たぬき御殿めいた生きかたそのものや、そのことにおいていわれている文学的意図は、はったりに堕している事実や一方で彼がファシズムに反対し平和を守る側に立っていることでは大岡昇平の文学や「顔の中の赤い月」(野間宏)、「にせきちがい」(浜田矯太郎)とどんな実際関係にいるかという、花形一つの身にあつまっている矛盾、分裂の諸関係を彼のためにも、読者のためにも客観的に整理して示さなければならないのではなかろうか。
だが、「誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげることができるだろう?」(傍点筆者)という、私小説ではない新しい文学への要求は、その中に、新しい社会的な創作が生れる方法として追究されなければならないものをふくんでいる。文学が現実を「ホントにしゃくいあげる」ということは、どういうことだろうか。現代のアクタモクタの全部を片はじから、手にあたるもの耳にきくもの、しゃくい上げることがホントに人生に向って何かを掬いあげた文学であると云えるならば、三好十郎が田村泰次郎その他を小豚派という必然は失われる。こんにちの社会と文学の話として、なっとくしようとすれば、田村泰次郎が、きょうのすべての彼自身の現実について修正声明ぬきに、その意図として「『罪と罰』『ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるに違いない」と確信しているということから見直されるわけだろう。「罪と罰」やそれにつづく諸作は、その名を彼にあげられるにふさわしく、今日、彼の読者層をなしている人々にひろくよまれている作品である。(同じ読者層は必ずといってもいいくらい「親鸞」だの、「この子をのこして」だの、「細雪」だのをよんでいるであろう。彼はその面にはふれない。)彼とその一派が羊頭をかかげて狗肉を売らない日を招来しようとすれば「ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァリー夫人」にはじまる十九世紀の自然主義からロシアの批判的なリアリズムを通じてレマルクが「西部戦線異状なし」から「凱旋門」に至ったヨーロッパ――フランス、ドイツの恐ろしい三〇年間の社会と文学のいきさつを追求してみなければならないことを意味する。そして、世界の歴史と文学とはもう「凱旋門」をくぐりぬけてしまっている。そこにどんな人民の苦悩があったかは中共の女捕虜に対する日本兵の暴虐をテーマとしてかいた人こそ、よくその事実を実感しているにちがいない。
批評家は現代文学の全体とその作家たちに切実であるべき「問題を、おこさなかったという問題」をもって一九四九年を通過せざるを得なかった。 

それならば一九四九年という年は、福田恆存の概括にしたがって「知識階級の敗退」の年であったのだろうか。「かつての自然主義隆隆とまったく同様、ちょうど三年にして衰退しはじめたのであります。平林たい子のことばをもじっていえば、戦後、凱歌を奏しつつひきかえして来た知識階級は、一九四九年にいたってふたたび、そのおなじ道を旗をまいて敗走しつつあるといえます」「一九四九年の諸事件はリトマス試験紙をさしこんだかたちであります」そして、「わかったことは、かれらは赤くも青くもないという一事です。正味は、酸性でもアルカリ性でもありはしない。ただの水にすぎません。」
この評論家の文章は、おそらく彼と同じ程度の教養をもっている科学その他の専門分野の同年輩人をおどろかせる言葉だろうと思う。塩と水さえあれば、ともかく命がつなげる。人類の集落は、いつもきっとただの水のほとりにこそ原始集落をつくった。知識階級が、それをのむことが出来、それでかしぐことのできるただの水であった、というのが真実なら、むしろこんにちの日本のまじめな人たちは、それを欣快と思うだろう。ジャーナリズムの一九四九年型花形には青酸っぽい現象が少なからずあるのだから。
労働組合のすべての人にきいてみたいと思う。一九四九年度の公安条例。九原則。人員整理、失業とのたたかい、越年資金闘争のすべては「その大部分がいかにもあいまいで、うそではないにしても、ほんとの程度がわからないといったものであります」という種類の社会現象だったろうか。二十五万人の女子大学生と男子大学生にきいてみたい。日本の人民の独立に関する一つの問題としてあれほどみんなが関心をもった大学法案、二十七名の中立的な学者たちが反対署名した非日委員会問題、「南原の線を守る」という表現がある意味では常識となって来ているほど広汎に人事院とりしまり規則に反対している人々の群。
「南原の線」は、彼がワシントンの占領地教育問題の会議で行った演説の内容をつたえられてからは、平和を確保しようとする日本の全面講和の問題に対する一般の人々の態度のなかへも延びて来た。それらが、福田恆存にとって、「自覚せる実践をしいられるほど決定的なモメントをもっていないことです。」「すなわち八月十五日の天皇の放送ほど決定的ではない。」というのは、どういうことであるのだろうか、と。
「中共の確定的勝利」は、地球上もっとも大きい人口をもつ中華人民共和国の誕生によって、日本人民をこめるアジアの未来の運命の方向が決定的に変革された人類史上のできごとである。そういう内容のことがらを、政府の労働者階級抑圧のためのねつ造が大きく作用している下山、三鷹、松川、平の事件などと並べ、その大部分がいかにもあいまいで、うそでないにしても、ほんとの程度がはっきりしないと、していることは、こんにちの知識人の常識の底をわっている。日本の人民は国内国外のできごとについて、事実を明白に知る自由を妨げられている。そのことへの抗議としてならば、わけもわかるが、あいまいであるというのが評論家自身かいている中共の確定的勝利そのことに対して云われているのは、そこにひとにはわからない皮肉がこめられている次第でもあろうか。
世界には、きょう、少く見つもって六億の男女が平和を擁護し第三次の戦争を挑発するファシズムに反対して民族の生活と文化の自立を確保しようとしている。ファシズムによる第二次大戦は、破壊の残虐と痛苦で人類の心臓を出血させた。そして、きょうになってみれば、生命を奪われ生活を破壊されたものは、どこの国においても人民の老若男女、子供であったことが、いよいよ明瞭である。
日本のなかでの帝国主義のもとで、今日の権勢が暴政であることを感じつつあるのは、労働者・勤人や学生ばかりではない。中小商工業者の破滅とラジオ、新聞をふくむ文化、学問への抑圧はどれも一つ同じ原因から発している。河合栄治郎の公判記録が、『自由に死す』というパンフレットになって刊行された。彼のような穏当な学究さえも彼の理性が超国家主義と絶対主義に服従しないで立っているという理由で起訴され裁判された。河合栄治郎が学者としての良心の最低線を守ろうとした抵抗の精神は、人事院規則に対する南原の線を守る人たちの抵抗でもある。
日本の平和擁護のための運動に対して傍観的であり、あるいは嘲弄的であるのは、福田恆存一人ではない。福田恆存がそこに加っていないということで日本の「平和を守る会」や「知識人の会」が、その動機と行動において、ほんとの程度がわからないという客観的よりどころにはなりようもない。
「メダカはカタマルのが好き」というある作家の言葉は一九四九年度にも民主的な動きへの嘲弄の道具につかわれて来た。しかし、どんな孤高の人が、輸送船の中へカタメテつみこまれなかったろうか。ジャングルの中にカタメテすてられた部隊から、一人はなれた人の飢餓と苦悩の運命の終焉が、カタマって餓死した人々の運命とその本質においてどうちがったろう? 最悪の運命の瞬間に、八千五百万の利用できる人々としてカタメられることを拒絶するために、カタマル人民、メダカの精神とその発言のうちに現代史のヒューマニズムがある。
外面の卑下と内面の優越をもって「であります」調の私的評論が流行したのも一九四九年の一現象であった。個人としてそれらの人々がどのように歴史の現実をうけとり、それを表現し、そのことによって、進んでゆく歴史と自分との関係を、おのずから客観の証明のもとに浮き上らせてゆくことは、もとより各人の自由であると思う。
だけれども、社会と文学との諸問題について、「同時代に対する少しぐらいの盲点をおかしても、むしろ現代の論理を把握する技術として、創造への道を提示する」(「批評の盲点」瀬沼茂樹)批評があってよいし、なくてはならないのは、事実ではないだろうか。「現代において、現代の真の意味から文学を判断することは生やさしいことではなくても、日常批評においても、仮りに私が一定の歴史的立場からする批評とよぶものを貫徹することが必要である」(同上)
福田恆存のように一九四九年を、「知識階級の敗退」の年と概括することは、日本の内部に実在する民主的勢力の実際のうごきをあっち側に立って見ての一方的な見かたになる。一九四八年の下半期から四九年にかけて、基本的人権の防衛に関する生活実感の高まりと民族の自立のための統一戦線の必要の実感は、一九三三年以後の人民戦線運動のころよりも、深くひろく、肉体的になっている。それは、アジアにおいての日本が、世界人類に対して独特な苦しい良心的立場におかれているという事実に立っている。朝鮮が隷属からときはなされ、中華人民共和国が確立し、アジアの半植民地、植民地のすべての土地に民族自立の運動がおこっていて、それぞれに成功に進みつつあるとき、自身としては武器をすてている日本人民が、全アジアに対して、小さいけれども強い毒をふくんだ矢じりのようなものとして仕上げられようとしていることについての苦痛と抵抗とである。
一九五〇年代の日本の人民的な諸活動の骨髄は文学をふくめて、このカリエスをどのように治療してゆくかという課題に向わないわけにはゆかない。日本の現代文学は、この角度から、世界文学のうちに何かの意義をもつものであるか、或は、空文の憲法をもち、天皇というシムボルをもつ屈従の民のはかない気まぎらしの智慧の輪あそびと饒舌にすぎないものであるかを検討されなければならないときになっている。 

このような一九四九年のはげしい渦に対して、民主主義文学運動は、それ自身を十分に展開しなかったし、現代文学の諸課題に向って展望的に作用することが非常に弱かった。この理由は何だったろう。反動攻勢という手近い返答が、解答のすべてではないと思う。
一九四六年のはじめに「新日本文学会」が組織され、民主主義文学運動が着手された。当時、日本の民主主義革命そのものの特殊な性格、すなわち、これまでの封建性、絶対主義に対するブルジョア民主革命をおしすすめる過程に、当面の革命が成熟してゆくという特殊な歴史的条件は、見とおされていなかったわけではなかった。人民民主主義革命への道における労働者階級の主導的な役割が、否定されているような理解はもちろんなかった。けれども、文学運動の面では、新日本文学会の創立大会でも、その後につづく第四回までの大会でも、民主主義文学運動の背骨としての労働者階級の文学の性格と方向とは、明確に規定されなかった。それには次のような原因があった。昔のプロレタリア文学運動の時代は、日本のすべての解放運動が非合法におかれていたために、たとえば『戦旗』は階級的な文化の文学雑誌であるとともに、その半面では労働者階級の経済、政治の国際的な啓蒙誌でもあった。『ナップ』『プロレタリア文学』もそれに似た性格をもたずにいられなかったし、プロレタリア文化連盟は、地下におかれた階級的組織の氷山が、わずかに合法の水面に尖端を出した姿としての性質をもった。サークルにしても、そうなった。
当時のこのようなプロレタリア文化・文学運動が佐野・鍋山の転向のあおりによって息の根をとめられた一九三三―三四年ごろ、プロレタリア文化・文学の組織に属していたすべてのものが、検事局製の運動の自己批判というものを押しつけられた。それは従来のプロレタリア文化・文学運動は、その指導者であった蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治らの政治主義的偏向によって、文化活動から政治活動へ追いこまれ、創造力を枯渇させ云々という筋であった。
その後の十余年間に、文学に心をよせる人々が読むことのできた文学理論的な書物と云えば、主として、当時の反プロレタリア文学の筆者たち、林房雄、山田清三郎、亀井勝一郎その他の著作だった。社会主義リアリズムの問題さえもその階級的な要点を歪曲されたまま読まれるしかなかった。
民主主義文学運動という声とともに、一部から反小林多喜二論は、反特攻隊精神と同性質のものであるかのように繁昌し、それとのたたかいに忙殺された。民主主義文学運動の中に、労働者階級の使命を明らかにして、おのずからプロレタリア文学の伝統のどの部分が継承されなければならないか、という点を押し出すことは、そのたたかいの中にとかされた。一つには、もとのプロレタリア文学時代活動した人々が、当然民主主義文学運動を提唱することになったから、ある意味では、かえって、「昔のプロレタリア文学ではないもの」を要求する空気にひかれたこともある。これらの人々の内部に同じような要求もなかったとは云えないと思う。
民主主義文学がもとのプロレタリア文学とちがうところは、階級の問題もただテーマ小説としてかかず、「内から書く」民主的ヒューマニズムに立つところだとされた。一九四七年の夏ごろ、文学サークル協議会の指導者の一人だった島田政雄は、日本の労働者階級、勤労者の現実では、労働者階級の勝利、社会主義社会を展望する社会主義的リアリズムの創作方法を云々するのは尚早であって、「人民的リアリズム」を提唱すべきであるという段階論を発表したりした。
この発言は、一九四七年の二・一ストとよばれている時期の前後に日本の勤労生活者の文化水準は半封建的でおくれているから、文学の創造をいうよりもダンスが直接にそれらの人々の文化欲求をみたすものであるという考えが一部におこった。この期間、実際には勤労する人々の中から、いくたりかの詩をかき、小説をかき、戯曲を書く人々が生れていた。この間、大衆の健全な娯楽、階級的な文化の一般的啓蒙、あらゆる角度と種類からの労働者階級の文学、民主主義文学の創造と普及とは、必ずしもそれぞれの特殊性を有機的にいかすくみ合わせで組立てられてもいなかったし、動かされてもいなかった。
一九四八年の秋以後、中国の人民民主主義革命は勝利に近づきつつある、そして、それは勝利するということが、世界の目にあきらかとなった。
おもしろいことは、日本の進歩的な人々の感情の一部には、中国革命に対しては、ソヴェト同盟の社会主義社会の建設に対するよりも、東ヨーロッパの人民民主主義に対するよりも、ずっと寛大さがあるということである。一部の人々の間には中共に対するトスカさえあると云えると思う。
帝国主義のレンズが集中している上海に入った中共の解放軍が、その行動の実際で日本の新聞にさえ一行のデマゴギーを報道流布することを許さなかった事実は、真によろこばしい、そして敬服すべきことだった。沈毅、純朴な若い中国の人民のまもりてたちを思いみることができた。
中国人民の独立の近づきつつあることは、日本の国内情勢に微妙な反応を与えた。一方の力は、日本を防壁として確立させるために一層積極の方法を押しすすめはじめた。それに反して、労働者階級は、そして民主的な人々は、中国の解放を、アジアの民主勢力の決定的なプラスと見たのは正当であり、世界民主勢力のより一歩の勝利と見たのも正当であった。
同時に、一部には、何かの錯覚めいた性急さが湧いた。国内の反民主主義的な圧力、抑圧に抵抗しずにいられない客観的な必然がより一般的に生じたとともに、日本の民主勢力の攻勢が何かのたかまりをもてば、どうやら中国の勝利につれて何かのゴールに、達しでもしそうな気分が浮動した。国内の情勢をはかる場合、プロレタリアートの先進部隊としての役割が改めて重大関心の焦点となった。
民主主義文学運動が、その本来の性質にふくんでいる人民としての政治的要素、階級文学としての政治性は、ここにおいて一九四八年末から一九四九年にかけ、一つの複雑で貴重な試煉を経なければならないことになった。
一九四六年から四七年にかけて日本全国にストライキの波が高まっていた時期、民主主義文学運動は、労働者階級とともに一般的に勤労者を包括した形をとり、組合の文化部は民主主義文化・文学に対して、ストライキとの連関で、文化動員を主とした。経済的・政治的活動に全生活と精力を集注する大部分の組合員と、その一部にはいわゆる文学趣味も滲透している文学サークルの人々との間に、同じ働く人々ながら、現実に向う感情には、いくらかのくいちがいも生じた。一九四六―七年、日本の全産業面に労働組合が組織され、そこに党細胞が公然と活動しはじめたことは日本の労働者、勤労者すべてにとって全く新しい歴史のはじまりであった。そして、この期間は同時に、戦時中最悪の労働条件に虐使されて来た勤労男女が、基本的な人権と労働の権利にたって、インフレーションとたたかいながら、日本の労働条件を半植民地の低さから解放しようと奮闘した。外にあらわれた形では大小のストライキ続きだったこの一九四六―七年に、しかし勤労しストライキする人々の間から、「太陽のない街」は一つも書かれなかった。『勤労者文学作品集』の内容は、この事実をかたっている。
永い戦争の間、八絋一宇精神にしたがえられて、「日本が勝つためには」と追いつかわれて来た働く人々の間からは、スパイ制度と憲兵の活動によって、労働者階級として読むべき政治的な書物は根こそぎ奪われていたし、働く人々の日常からの判断としておこる当然の戦争に対する疑問や批判も、刑罰をもって監視されて来た。
したがって、八月十五日までは勤労動員で奴隷的労働をしていた青年労働者たちが、三ヵ月ののち、そこに出来た労働組合の青年部員と組織されたにしても、その気持がすっぱりと階級の意識と階級の規律とにつらぬかれた青年労働者として転換しないのはやむを得ないことであった。組合の政治教育、文化・文学教育も、政治教育はとくに活溌ではあったが、それとても自分のところの組合組織の確立、ストライキ、他の組合のストライキの応援と、職場の活動的な分子ほど、彼の二十四時間は寸刻のゆとりもなかった。この種の事情は産別宣伝部で発行した『官憲の暴行』という各職場からのルポルタージュをよむと、誰にしても諒解せずにはいられない。
この重大な時期に民主主義文学運動の中軸としての労働者階級としての文学は、小市民をふくむ一般勤労者の文学とどうちがい、どのような方向をもつべきかということが明瞭にされなければならなかった。ところが、文学の領野にも、戦禍はまざまざとしていた。当時はプロレタリア作家として歴史的な存在意義をもつ小林多喜二を否定的に評価する傾向とたたかうことが『新日本文学』の一つの主な任務であった。また一般的にはそのころの『近代文学』が主張していた個人の自我の確立の提唱と民主主義にさえも示される政治不信の気分を、正常な社会と文学の関係への認識におき直す仕事があった。したがって、この時期、文学と政治の問題は、十数年以前の昔にさえさかのぼって、文学における政治の優位についての理解から語り出さなければならない有様だった。そして、働く人の間から生れる作品は、題材も主題も働く人々の生活から湧いたものであっても、当時の大規模に展開されつつある労働者階級としての動きはその作品の中につかまえられなかった。やがてこれらの職場からの作品の日常性への膠着が、注意のもとにてらし出されはじめた。もとから小説をかいていたプロレタリア文学時代からの作家たちは、何しろ十余年間、書きたく話したいテーマについて口かせをはめられていたのであったから、各人各様に、先ず書かずにいられない題材によって、云わずにいられないテーマを描きはじめた。「妻よねむれ」にしろ「私の東京地図」にしろ、「播州平野」「風知草」ことごとく、その種のモティーヴに立ち、作品の本質も戦争による人民生活の破壊、治安維持法が行って来た非人間的な抑圧への抗議であった。それぞれの角度から日本の民主革命に結びついた。「五勺の酒」はこれらの作品のなかで独特な意味と問題とをもつ作品であった。 

労働者階級の歴史的任務の性格をひきぬいた「人民的リアリズム」の創作方法についての論が、文学サークルそのものの指導者から云い出されていたような職場の文学の空気はそのままなりに、一九四八年の後半期、中国の人民革命の勝利の見とおしとともに、日本の民主主義文学の立場からの科学的な検討や分析なしに、これまでの作品活動――徳永、宮本、佐多などをこめて――は労働者階級にとって役ないものだというようなおおざっぱな発言がおこった。
注目すべきことは、この文学的でないばかりか政治的でさえもない発言に応じて、専門文学者と職場作家との間に、一部の文化活動家とサークル員の側からの対立感情が醸成されたことである。「人民的リアリズム」論に無批判だった文学サークルの一部は、文化活動にしたがう一部の人々とともに、人民的リアリズム論者そのものをふくめて、いわゆる専門作家とその作品への無根拠な否定に従事した。一九四八年の日本民主主義文化連盟第二回「文化の会」および、ひきつづいてもたれた新日本文学会第四回大会は、この種の傾向のひとり舞台の観があった。そこでは作家・評論家によって、文化・文学について具体的な討議がされるよりも、特殊な、文化活動家と名づけられる人々の、その人たちの理解での政治的発言が圧倒した。
これは、明らかに普通でない空気であった。まじめに文化・文学の運動にしたがい、創作もして行こうとしている人々は、民主主義文化・文学運動の内をかき乱している不安、無規準、得たいのしれない政治性に影響されて、自分たちの活動の基準をどこにおいたら、たたかれないで育つことができるのかを思い迷うこころもちにもおかれた。
一九四九年に、職場の労働者作家は、ストライキをかけ、職場の作家の指導力が発揮されなければならないと云われたとき、過去二三年のうちに新しく職場から生れて来た若い作家たちのある人々は「自分がいまかきたいことと、書かなければならないこと」との間にある、実感の不調和に苦しんだ。そのひと一人一人としての労働者、および作家の成長の過程で、今すぐにもかきたいことは、労働者作家としてストライキを書かないということはあり得ないとされる「書かなければならないこと」と一致しない。ストライキの時代には、ひまがなくて、その人として書きたいと思いながら書けずにいたことを今書こうとする時間をもてば、もう一般情勢は中国革命の達成、労働者の主導的任務の強調におかれている、そのくいちがいもある。また一九四六―七年にかけて労働者階級によって経験された広汎な闘争が、前述のような戦争中の階級意識の剥奪をとりかえすために十分な政治教育が間に合わなかったために、経済主義的にならざるを得なかった。社会の生きた関係の微妙さは、一九四五年冬以後は共産党が勤労人民の合法政党として公然と存在し、組合内の党細胞の活動が自由であったけれども、一方、労働者の自主的な階級政治への認識や経験が失われているという戦後的条件と結びついて、職場の大規模な闘争は、必ずしもそれに参加した一人一人の労働者の階級的人間性をゆたかに高めたことにはならなかったということも観察される。したがって、いま書きたいことは、むしろもっと以前のおそらくは戦時中のことであり、階級としての闘争の文学はいま書かなければならないとは分っているけれども、実感のうちにまだ十分発酵する時間を経ていないという事情もおこった。
民主主義文学運動全体として、この政治的性急さによってかき乱され、不安にさせられてがたついている状態をどう整理して、前進すべきであろうか。一九四九年の民主主義文学の運動は、このための自己批判や勉学や不快な圧迫との抵抗のために各人が各様に異常な精力を費すこととなった。
文学における政治の優位性という理解は、正しく具体的にされる必要に迫られた。なぜならば、政治が文学に優位するという社会文化現象の基盤についての理解は、政治活動にしたがっているある種のものが、文化・文学運動に何かの命令する権能をもっていることを意味するかのような場合を生じたから。そして、他の一面では、現代の社会感情と文学のおもしろくてまた危険でもある現象として一つの事実が発見された。それは文学における政治の優位という正常な理解に反対して、プロレタリア文学時代から、「主人もちの文学」とののしって来た人が、きょう民主主義の立場に立つ特定の作家に悪評を加えようとするときには、全く、誤って理解された政治の優位性の発動による非現実的であり、非文学的でもある評言の断片か、ききづたえかを、そのまま自分の文章の中にとってよりどころとするという奇妙な現象がおこったことである。文学における政治の優位、別のことばで云えば、文学の階級性の確認とその発展の方向についての革命的認識――を否定する作家・評論家が、こんにちでは、民主陣営にある文学と政治の優位性に関する歪曲を利用して、民主主義文学運動を非難するという現実が見られる。 

日本の民主主義文学運動の方針やその具体的な成果が、日本の民主革命の現実の課題との関連で判断され、評価されることがないなら、その判断や評価はそもそも何であろう。
毛沢東の発言は、日本の民主陣営にこのんで引用され、文学運動についてもしばしば引かれるのであるが、きょうの国際関係で、中国文献の自由な翻訳権が日本の人民に許されないことは、民主主義文学にとって思うより以上の障害となっている。中共勝利とともに国内に流布した中共関係の文書の中には、かつて特務機関として奥地の情報を集めていた文書があり、獄中で検事局からの諮問に答えて上申した文書がある。それらは、侵略国日本が中国人民と中共からかすめとった収奪物でなくて何だろう。注意ぶかい読者には、一人の筆者が、ある場面では中共の農業政策に関して官僚報告めいた文書を発表し、他の場面では中共の文化啓蒙運動・文学政策についてかき、またちがった婦人雑誌の中では柔かい筆でインドネシアあたりの少女の物語をかいているのを発見しているであろう。
趙樹理の作品の紹介も、日本の文化・文学の現実ときりはなされて、民主主義文学の最もかがやかしい典型であるかのように一部から推奨されている。文学サークルの一部に共産主義の文学は寓話になってゆくものだ、という考えかたも導き出されている。
人口の大部分が文盲である中国民衆がいきなりソヴェト社会に入ってゆく独特な社会・文化条件の下で趙樹理の作品がもつ意味は、日本の天皇制文化に加えて無良心な商業ジャーナリズムの肉体文学、中間小説の氾濫に毒されている日本の人民の文化的条件の中で趙樹理の作品のもつ意味とは、同じであるにありようもないのが実際であろう。小型の小説、寓話的な小説、よんでもらってきく人にも、たのしい小説。きょうの出来ごとがもう小さい小説となって出るような小説。それらすべてがあってよいし、必要でもある。しかしこのことは、日本の民主主義文学で趙樹理のような作品だけがかかれなければならず、そのほかは小ブルジョア的な作品であるというような結論はみちびきだされないのである。日本の労働者階級が民主革命の途上で自身の文学の成果として造型してゆかなければならない諸階級との関係は、多くの複雑さを必要とするものである。
政治の優位性の問題は、今日まで四年間の苦しい経験によって、イデオロギーの問題から、創作の現実過程、評価の実際の基礎となってきた。プロレタリア文学運動の初期に、芸術と政治・政治の優位性が提起された時代には、政治の優位性の素朴な理解は、直接その論を主張した人々の実践に反映してよい結果も悪い結果もその人たちによって刈りとられた。けれどもこんにち、政党、組合その他の大衆団体がそれぞれの面で文化・文学活動を行っているとき、あやまられた政治の優位性の理解は、それぞれの場面での指導の官僚化と革命の課題からの逸脱をもたらす。一九四九年において、民主主義文学者の大部分は、自分たちを一つの政治的成長におしあげずにはいられなかった。すなわち、文学における政治の優位性のあやまった発動を克服するためには、作家一人一人が日本の民主革命の課題と諸階級間の関係をはっきりつかんで、その角度からめいめいの創作を発展させ、他の人によって書かれるおびただしい種類の文学作品を評価してゆく能力をもたなければならないという現実を学んだのであった。中華人民共和国の新しい国旗の上に輝く一つの大きい星とそれをかこんで輝く四つの小さな星の美しさをよろこぶばかりではなく、日本のごたごたした社会情勢のうちに、やがて次第に輝きをましてゆくべき一つの星と四つの小さな星との文学をその正当な位地づけで認めることこそ、文学における政治の現実的な優位性であることを学んだのであった。
このような日本の革命の課題に立って民主主義文学運動をみたとき、その小説を労働者が書いたから、革命の主力である労働者階級の文学であると決めることはまちがいであることが分る。作家の偶然の出生によって階級性を云々することの誤りは、すでにプロレタリア文学運動の初期に論議されたことであったが、こんにちから明日へかけての激しい歴史の動きの中では、世界あらゆる国々で、ファシズムと戦争挑発に抵抗を感じる進歩的な人々の階級移行がはじまっている事実が着目されなければならない。民主陣営が、その経済闘争や政治闘争の場面で、労働者、農民、小市民、中小商工業者、民族資本家までを含めた人民の統一戦線をよびかけながら、文化・文学の面に対したときだけは、小市民層の(学者、文化人、作家、芸能家その他をも含む)消極的な面だけをとりあげて叱咤、批難することがあるとすれば、ピカソをも包括する文化の民族的な線を学ぶというたてまえはどうなるだろう。小市民層は、労働者階級に奉仕することにしか使命はないとする考え方のあやまりであることも明瞭である。一つの階級が他の階級を自身の奉仕におくという考え方は、労働階級は資本家階級に奉仕すべきものであるという資本主義的な考え方の裏がえしにすぎない。どこの国でも一定の資本主義文化の発達したところでの革命的な文学運動は、常にその主力である労働者階級の社会的文学的発展とのつながりで、農民・小市民の文化文学の実質が、どのように小市民自身の解放に役立つものとして成長するかということに大きい関心を払われているのである。 

現代文学は、もうしなびてしまった私小説のからから、どのように新しい成長をとげるかという共通のもがきをもっている。中間小説の作家が、その作品を希望しているような社会的な内容をもつ小説としてゆくためには、不自然なほど過重に性の興味をもりこんだ世相反映の創作方法とはちがった現実観察の角度と創作方法をもたなければならない。それは、どうして発見されるだろうか。丹羽文雄が主体性ぬきの現実反映のリアリズムからぬけ出て、少くとも歴史の前進する角度をふくんだドキュメンタリーな作品へ進もうとして、一九四九年にはその素材の選択そのものにおいて、まず歴史的なふるいわけが必要であることを発見したと思われる。「塩花」から「牛乳と馬」にすすんでいる豊島与志雄の前進は、明日へどうはこばれてゆくであろうか。多くの人々の上に、その作品と他の面での市民的意思表示との間の発展的な矛盾があらわれている。或いはあれとこれとの間にある距離があらわれている。鎌倉で「平和を守る会」が発足した時、川端康成のよんだ平和宣言は人々の心を打った。「絵志野」とあの文章との間には、それぞれに偽りでないこの作家の一つの情感が貫き流れている。けれども、それは一人の作家を貫いて、あちらとこちらに流露している人間的情感としてだけ止るのだろう。中野重治の「五勺の酒」に含まれている多くの問題は、彼の『議会演説報告集』の内容とどのように連関しているかということについても、わたしたちはもっともっとよく知らなければならないと思う。民主主義文学運動は、自身のグループを一つの文学流派として存在させるだけでは意味がないと思う。過去のプロレタリア文学は、単なる一流派ではなくて、各国においてその国の労働者階級の階級的自覚とともに、文学全体の認識に多くの新しい水平線をひらいた。文学における階級性、作品に対する個人の印象批評から客観的な評価のよりどころをもつように飛躍したこと、文学の創作方法を、人民の歴史のすすみゆく段階にしたがい、世界文学に共通する展望で語りうるようになったことなどがある。
創作方法の新しさということもいろいろな角度から試みられているけれども、いわゆるヨーロッパ的創作方法の実験も、日本の民主革命の過程の現実の中では、模倣の小箱はくだけてしまうものだろう。伊藤整のように、ジェームズ・ジョイスの文学を深く理解した作家が、より若い世代のヨーロッパ文学の手法追随に対してむしろ警告的であるのも注目される。日本では、一九三三年以後の社会と文学の形相があまり非理性的で殺伐であったために、その時期に青年期を経たインテリゲンチャの多くの人が、その清新生活では主として人民戦線のフランスに亡命した形があった。野間宏にしろ、加藤周一にしろ。それらの人たちは、いま日本の民主革命の中にその精神において帰還している。野間宏が、ジイドやヴァレリーの言葉からぬけでて――ヨーロッパ的小説作法(ブルジョア民主主義のアヴァンギャルドの手法)を、日本の民主革命の課題にそった人民の言葉で人民の生活を描こうとしている昨今の試みは、すべての人に期待を抱かせている。彼が一応のスタイルをこわして、ヴァレリーの言葉から、日本庶民の理性の暗い、理性によって処理されない事象と会話の中に突入している生真面目さを、ただ日本語の不馴れな作家の時代錯誤とだけ云いすてる人はないだろう。
民主革命の長い広い過程を思えば、その課題の必然にしたがって文学はますます批評家の好みによって点づけされたり、文学流派の堰によってあちらとこちらとせきわけられるものでもなくなってきつつあると思う。一人の作家が一寸背丈を高くするために、一寸だけ他の誰かをおしつけてよいものでもないと思う。文学は、大いに研究されるべきものとなってきていると思う。歴史の意志をうつす能力としての才能についても、今日科学者の能力が人類の幸福の助けとなるべきものとして評価されていることがまちがいでないならば、どうして文学の才能だけが病的であったり、自己破滅的であったりすることを納得できよう。文学の才能だけは、アルコールの中毒くさかったり、病理的な非情のするどさでもてはやされたりする畸型的な面白がられかたは、文学そのものの恥だと思う。若い作家三島由紀夫の才能の豊かさ、するどさが一九四九年の概括の中にふれられていた。この能才な青年作家は、おそらくもうすでに、彼の才能のするどさ、みずぎわだったあざやかさというものは、いってみれば彼の才能の刃(は)ですっぱり切ることのできる種類のものしか切っていないからだということを知っているであろう。彼は今日からのちどのようにして、どこで彼の刃そのものをより強くきたえる材料を見出してくるだろうか。彼はどういうモメントで、あえて冴えた彼の刃をこぼす勇戦を示すであろうか。これらのすべてが研究されなければならない。
民主戦線ではその広さと、そこに包括される社会活動の部面が多様であるにかかわらず、他の一面ではこれまで社会各層がもたなかった互いの共通語をもつようになってきている。労働者階級のファシズム反対という声と、学者たちが学問の自由のために叫ぶファシズム反対の声は、国内的にひとつ響きにとけあうばかりか、国際的にこだまする声である。
文学は文学者と文学愛好家だけのもちものではなくなってきている。私小説からの歴史的な脱出の戸口は、文学の外のこのような場所にある。したがって文学の創作方法は、科学の定理のように抽象されることは決してありえないし、それでこそ文学の文学である人間性があるのだけれども、歴史の進行の方向と階級間の関係についてのより客観的な把握は、おのずから文学の創作方法も、個々の作家のテムペラメントにだけ頼るものではなくなってくる。
批判的リアリズム、一九一七年以後のプロレタリア・リアリズム。それから一九三二年以後の社会主義的リアリズム。この三つの創作方法は、日本の民主革命の広い凹凸の多い戦線にとって、それぞれの階級の進みゆく歩幅につれて新しい文学を生み出してゆくよすがであろう。桑原武夫が、民主主義文学であるならばそれは社会主義的リアリズムの手法をもつべきものであるとして、「宮本百合子論」の中に、スタインベックのソヴェト紀行をあげていた。社会主義的リアリズムは、労働者階級の勝利と社会主義社会への展望にたっているから、当然労働者階級の文学の創作方法であり、党員作家の創作の方法でありうる。けれども、たとえばスタインベックのダイナミックな手法が、彼の旅行記の中でソヴェト社会の建設の姿を典型的につかむことに成功しているにしろ、彼がブルジョア・デモクラシーとプロレタリアートの階級的独裁の本質的なちがいを理解せず、自国の金融資本の独裁をみずにスターリンの独裁を云々していることは、スタインベックが、社会主義的リアリズムを把握していないことを示している。
一九五〇年代において民主主義文学運動は、どのように日本の民主革命の道にひびく人民の声々を伝えることができるだろうか。現代文学のさまざまなコムプレックスをどのように発展的にときほぐして、日本の人民の文学の歴史を世界史の中に意義あるものとさせうるだろうか。 
 
「トランスクリティーク」「世界共和国へ」「世界史の構造」柄谷行人

 


柄谷行人という人の名前をはじめて聞いてから相当長い年月が経つが、正直に言うと「食わず嫌い」の状態が最近まで続いていた。一つには、おそらくかつての(今となってはもはや「新」ではなくなってしまった)「新左翼」の系譜を引く人だろうという先入観があり、それならおおよそのことは読まなくても見当がつくし、もう飽き飽きした、というような思い込みがあった。ときおり何となく気になることがなかったわけではないが、とりあえず敬して遠ざけておこうという気分が続いていた。
そんな私が、オヤ意外に面白そうだと思ったきっかけは、冷戦終焉直後の時期に、ある雑誌インタヴューで、彼が次のような発言をしているのを眼にしたことである。
「ぼくはよくわからないことが一つあるんですけれども、正直に言うと、僕はスターリン主義とかになんの怨みもないんです。いっさい被害を受けていないわけ。多少被害を与えたことはあるが(笑)。……だから、人が共産党を恨むのがよくわからないわけね(1)」。
ある世代――ごく大まかにいって、一九五〇‐六〇年代くらいの時期に自己形成した人たち――の間では、一時期マルクス主義なり左翼運動なりに惹かれたことがあり、その後、「裏切られた」とか「振り回された」という思いを抱くようになった人が少なくない。そうした思いがルサンチマンとなって、共産党やソ連に対する憎しみの情に結晶しているという例も数多い。私自身、同じ世代に属しているので、そうした感情は理解不能というわけではなく、他人事ではないとも感じるが、いつまでもルサンチマンを引きずっているのは見苦しいのではないかという気がして、「いい加減にしろ」と言いたい気持ちに駆られたりする。常日頃そういう感覚をいだいていたので、柄谷が「僕はスターリン主義とかになんの怨みもないんです」とスッキリ言いきるのに爽快な印象を受けた。かつて何らかの形で左翼運動にコミットした経験を持つ人が、それに幻滅をいだくというのは自然な成り行きだが、誰彼に対する悪口の形でそれを引きずり続けるのはあまり生産的ではない。そうした非生産的な態度が広まっている中で、それと一線を画そうとする姿勢に共感するものを覚えた。
こうして興味を感じだしたのだが、直ちにその著作を読み出したわけではない。柄谷は多作な人だが、どこからどう手を付けてよいのか分からないという状態がその後も結構長いこと続いた。そういう中で、「世界共和国へ」は新書本という体裁から、わりと読みやすそうに思え、内容的にも私の手の届く範囲にありそうな気がしたので、とりあえず手始めにこれを読んでみたのは二〇一〇年のことである。ちょうどその年に「トランスクリティーク」の文庫版と「世界史の構造」があいついで刊行され、これらがいわば三部作をなしている――柄谷自身の歩みの順序としては、先ず「トランスクリティーク」の初版(二〇〇一年)があり、それを練り直したもののうち簡略版が「世界共和国」(二〇〇六年)、より本格的に論を展開したものが「世界史の構造」(二〇一〇年)となる――ということを知ったので、それらをも読んだのは二〇一一年から一二年にかけてのことである。本業の合間を縫って片手間かつ断続的に読んだため、どこまで精密に読み取れたかはいささか心許ないが、とにかく三冊を通して読むことで、ある程度のイメージが形成されてきた。
以下では、私の読み取り得た範囲での議論の骨格とそれに対する若干の感想と疑問を書き記す。私は柄谷の他の著作はほとんど読んでおらず(2)、そのため、かなり偏ったイメージになってしまうかもしれないが、とにかくこの三冊が近年の柄谷の代表的な業績だろうという想定の下、これらにしぼって論じてみたい。なお、私の関心が柄谷の関心と全面的に対応しているわけではないことから、柄谷自身の理論構成に密着するのではなく、むしろ我流のまとめ方をすること、また三冊の間の微妙な差異は立ち入らず、基本的に三者をまとめて一体として論じることを、予め断わっておきたい。また、この三部作とりわけ「世界史の構造」については多数の論評が出ているようだが、既存の批評と私の観点をつきあわせるのは、それ自体独立した大作業になってしまうので、ここではそうした問題には一切立ち入らず、もっぱら自己流の観点からの読解に集中する(以下、典拠を示す際には、「トランスクリティーク」をT、「世界共和国へ」をS1、「世界史の構造」をS2と表示する)。 

三著はそれぞれ構成を異にしているが、敢えて乱暴にまとめるなら、これまでの世界史を独自の視角から再構成し、その上に立って今後の展望を出そうとする試みと言えるだろう。そこで先ず、柄谷流の世界史再構成について考えてみたい(3)。
三著の各所で繰り返し提示されている基本的図式は、交換様式の四分類論である。四つのうち最初の三つは、A互酬(贈与と返礼)、B再分配(略取と再分配)、C商品交換(貨幣と商品)となっている。そして、四番目にDとして、名前の与えられていないもう一つの交換様式(柄谷はこれをXと表示している)があることになっている。この四分類論に立って、ネーション、国家、資本主義、アソシエーションをそれぞれA、B、C、Dと対応させるというのが次のステップである。そして、いわゆる近代社会においては、C(資本)が主導的ではあるものの、それはB(国家)によって支えられており、また互酬原理への希求を幻想的に吸収する装置としてのA(ネーション)も不可欠であるので、結局、資本=ネーション=国家が三位一体のような関係にあるとされる。
この四元的図式のうち第四のものを後回しにして、最初の三つだけに着目するなら、類似の議論はこれまでにもいくつかあり、比較的分かりやすい。たとえばポラニーの経済人類学や、それを独自に改鋳した岩田昌征の比較経済体制論などがすぐ思い浮かぶ。個々の点では論者ごとに微妙な差異があるとはいえ、とにかく類似の点に着目して三元論的に考えること自体は、わりとありふれた発想ということができる(もっとも、狭義の経済を問題にする場合には、《市場か指令(再分配)か》という二元論が優越しているが、三元論はそうした二元論のもつ視野の狭さを克服しようとする試みといえる)。私自身も、種々の先行業績に学びながら、ある種の三元論的な構図で社会経済体制を捉えようとしてきたから(4)、柄谷の図式のうちのA・B・Cについては特に抵抗感なく、すんなりと受け取ることができる。
柄谷に特異なのは、これら三つに加えて、第四の原理を想定し、四つの交換様式を論じている点にある。これはこれで興味深い問題提起である。だが、問題は、このDなるものとA・B・Cとが同一平面に並べられるものなのかどうかという点にある。柄谷の記述では、二つの座標軸をもつ平面上で、四者がそれぞれ一つの象限と対応させられるような形になっている。しかし、他面では、この第四の原理は歴史的に実在するものではなく、むしろ理念だという説明も各所でなされている。理念といっても、単なる空想や虚妄ではなく、歴史上いろいろな形で人々を突き動かしてきたし、今後もそれが期待されるという論の運びであり、それはそれで理解できる。だが、歴史的に実在したものと、そうでないものとは本来異なる次元にあるはずであり、それらを同一次元上に平面的に並べることには疑問を覚える。
むしろ、三角錐のような形で図式化してみてはどうだろうかという思いつきが、読んでいて私の頭に思い浮かんできた。底面の三角形はA・B・Cの三元論とし、現実の様々な社会はどれも三つの原理の何らかの混合だと考えれば、現実界はこの三角形の中を動くことになる。その上で、どのような混合が「よりよいか」を判断するための基準を、この底面と直交する軸で考えると、三角錐の構図ができる(図解参照)。柄谷のいう第四の原理をこのようなものと位置づけるなら、それは最初の三つの原理と同じ平面に並ぶものではない。この軸は、価値判断のために立てられた軸であり、これに沿って高低を判断することができるが、その判断はあくまでも相対的なものであり、どこかで完成するということはない。目標としてのDはいわば無限遠点であり、現実にそこに到達することはありえないが、そこへの接近の度合いを測ることはできる。
いま書いたのは私の思いつきだが、柄谷図式をこのように修正することは、柄谷がカントを援用して強調する「統整的理念」と「構成的理念」の区別とも整合するように思われる。「構成的理念」とは理性に基づいて社会を暴力的につくりかえようとするもの(ジャコバン主義)であるのに対し、「統整的理念」とは、「無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような場合」を指すとされ、「決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづけ」るとか、「けっして実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてありつづける」、などと書かれている。この区別はうなずけるが、だとしたら、なおさら、第四原理は、実在する三原理と同じ平面には位置づけられず、それと直交する軸上の無限遠点と表わした方が適切なのではなかろうか。この疑問には、後でまた立ち返ることにしよう。
さて、巨視的な世界史は、Aが主導的だった氏族的社会、Bが主導的だった社会(これはアジア的・古典古代的・封建的の三種に分かれる)、そしてCが主導的となる資本主義社会という風に区分されるが、資本主義社会については、更にその中での歴史的諸段階が論じられている(S2第四部第一章)。ここで主要な発想源となっているのは宇野経済学(5)の方法だが、宇野弘蔵が重商主義・自由主義・帝国主義という三期の区分を出したのに対し、柄谷は帝国主義的政策と自由主義的政策が交互に支配的となる循環的変化を想定し、重商主義・自由主義・帝国主義・後期資本主義・新自由主義という五期の区分を提示して、宇野理論に一定の修正を施している。
この修正で重要なのは、ただ単に段階の数が三期(宇野)か五期(柄谷)かという数字の違いではなく、前者が一方向的な発展を想定するのに対し、後者は循環的変化を念頭におくという違いである。宇野段階論は、どれほど明示的かはともかく、帝国主義段階を「資本主義最後の段階」と想定し、その後は社会主義の時代になるはずだとの想定があった。だからこそ、宇野経済学はその理論的精緻性にもかかわらず、「資本主義最後の段階」がこんなにも長引き、社会主義への世界的移行がいつまでも実現しないのはおかしいではないかとの疑問にさらされざるを得ず、そのことが学派の衰微の一因となったように思われる。それとは別だが、一部の論者が使っている「後期資本主義」という言葉づかいも、「前期」に対する「後期」ということだから、「この後はもうない。これで終わり」という含意がある。これに対し、柄谷流の循環論をとるなら、どこかが最後ということはなく、これから後も様々な段階の交代が繰り返される可能性があり、少なくとも理論的には資本主義は永続しうるということになりそうである。もっとも、柄谷自身はそのように明言しているわけではない。この点は将来展望と関わるので、後で改めて立ち返ることにしよう。 

これまで見てきたように、柄谷は近代社会の基本構造を《資本=ネーション=国家》の三位一体構造と捉えているが、この構造がどのようにして超克されるか――それと表裏をなして、これまでの社会主義の欠陥をどこに見出すか――の探求が彼の主たる課題といえるだろう。超えるべき相手が三位一体構造をなしていることとと対応して、超克の展望も三つの側面から考える必要がある。国家の対内的側面とりわけその支え手としての官僚機構、資本と貨幣、国家の対外的側面(ネーションという範囲)、の三者である。以下、この三つを順次見ていくことにしよう。
先ず、国家権力および官僚制について。
ソ連をはじめとする既存の社会主義やその背後にあると想定されたいわゆるマルクス=レーニン主義を批判しようとする際、それらを「国家社会主義」と特徴づけ、そこに最大の問題性を見出す議論は枚挙にいとまがない。その種の既存社会主義批判は一種のステレオタイプをなしているとさえ言える。柄谷も、ある個所では、それに近い発想と見える議論を提示している。たとえば、次のような一節である。
「これまで資本主義に対してなされてきた闘争には重大な欠陥があることがわかる。その一つは、資本主義を国家によって抑えようとするものである。それは可能なことではあるが、国家を強力にすることに帰結する。……われわれは国家の自立性について警戒しなければならない。資本主義の揚棄は、それが同時に国家の揚棄をもたらすものでなければ、意味がないのだ」。
これ自体は分かりやすい議論だが、これをいうにとどまるなら、「国家の自立性について警戒」しさえすればよいという、安易な精神論にもなりかねない。ソ連を「国家社会主義」として非難する左翼は、古くから数多い。彼らはそれに対置して、「国家主義的でない社会主義」を理想とするが、その「国家主義的でない社会主義」なるものがどのようにして可能となるかを考え抜いていないのが通例である。柄谷の議論が興味深いのは、そこからもう少し踏み出そうとしている点にある。たとえば、彼はロシア革命後に国家が死滅するどころかきわめて強大な国家になったのは、「必ずしもボルシェヴィズム(レーニン主義)のせいだけではない」とし、外敵から革命を守ろうとするなら、それは国家的でなければならない、と指摘している。ここには、レーニンと共産党を「国家主義的」と非難するだけでことたれりとする安易な発想への批判的姿勢が感じられる。
レーニンだけでなくマルクスも、バクーニンらのアナキストから「国家主義者」として批判されてきた。しかし、柄谷によれば、マルクスは共産主義を「自由なアソシエーション」の実現と考える点では、むしろプルードンに近かった。にもかかわらず、マルクスが政治革命の必要性を唱えてプルードンと対立したのは、マルクスが国家主義者だったからでなく、「資本主義経済が法制度や国家政策によって護られている以上、少なくとも一時的に、それを停止する必要がある、そのために国家権力の掌握が必要である、と考えた」のだという。究極的には国家は消滅するが、短期間の「プロレタリア独裁」が過渡的なものとして許容される、というのがマルクスの展望であり、これは国家の自立性に対する警戒が足りなかったという欠陥をもつが、ともかく彼が国家主義者だったことを意味しない、と柄谷は論じている。
マルクスにせよ、レーニンにせよ、究極的展望に関していえば国家主義者ではなく、国家の死滅を期待していた(レーニンが「国家と革命」で、われわれは目標に関してはアナキストと変わらないと書いていたのは周知のところである(6))。その一方、「一時的」「過渡的」にもせよ「国家権力の掌握」「プロレタリア独裁」が必要だと彼らは考えたのだが、その「一時的」「過渡的」な権力が実際には長期にわたって肥大し続けたというのがその後の歴史だった。とすると、ただ単に彼らを「国家主義者」として批判するだけでは足りず、「一時的」「過渡的」であるはずのものがどうして強大化し続けたのか、それを防ぐにはどうしたらよいかを考えねばならないということになる。
この問題に関して柄谷が強調しているのは、国家というものは他の国家に対して存在しているのであり、そうした対外的側面を無視して一国内だけで国家を廃棄することはできないという点である。パリ・コミュンにせよ、ソヴェト・ロシアにせよ、外敵に対して自己を防衛しようとするなら、自らを国家として強化せねばならなかった、というわけである。この論点は、一国社会主義の不可能性――裏返していえば、世界革命の必要性――として、かつての「新左翼」が強調したところであり、それだけとってみるなら「古典的」な様相を呈しているように見える。しかし、「世界革命」――もっといえば「世界同時革命」――という言葉は、今となってはいかにも古めかしい極左空論主義を思い起こさせる。柄谷自身も、一方で、国家の廃棄は一国内だけではありえないことを強調しつつ、他方で、「世界同時革命」は非現実的であることを認めているように見える。それに代えて彼が提示しようとしているのが「世界共和国」論ということになるが、これについては後で立ち返ることとして、ここでは、一国内での国家権力の問題に関わるもう一つの論点を取り上げておきたい。
柄谷によれば、マルクスは国家の集権的な権力を否定しながら、同時に、多数のアソシエーションを総合する「中心」を求めていた。多数のアソシエーションがあるなら、それらを結びつけるために「中心」が必要だというのは当たり前のような話だが、その「中心」なるものが往々にして「周辺」に対する権威的支配をもたらしやすいことを想起するなら、単純に「中心」の必要性を指摘するだけで議論を終わらせるわけにはいかない。ここで問題となるのが、権威と自由の関係である。柄谷はこの問題を、「中心があってはならない」と「中心がなければならない」という二つの命題のアンチノミー(二律背反)と描いている。このアンチノミーを解決するものは、一つの新たなシステムなのだ、というのだが、ではその「新たなシステム」とは具体的にどういうものかという疑問がわく。
これに続く個所には、目覚めた少数の指導者(前衛)と大衆という構図は避けられないとした上で、「大事なのは、まるでそのような二元性がないかのように言いつくろうのではなく、それが不可避であることを認めた上で、それが固定化しないようなシステムを考案することである」とあり、関連する注では、「われわれが考えるべきなのは、知識人の指導、代表制、官僚制を不可避的なものとして認めた上で、その位階的固定化を阻止できるようなシステムを見出すことである」とある。これはレーニン的な前衛党論を諸悪の元凶として批判する一部の傾向から距離をとり、前衛とか官僚とかを全面否定することなく、かといってそれが固定化するのも避けようとする志向と見ることができる。次のような個所も、それを裏付けている。
「バクーニンのようなタイプのアナーキストは、一切の権力や中心を否定する。そこには、抑圧から解放された大衆は、おのずから自由連合によって秩序を作り出すだろうという暗黙の仮定がある。しかし、プルードン自身がいったように、決してそうはならない。逆に、それは強力な権力を招来するのだ。また、諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提した上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ」。
「マックス・ウェーバーがいったように、官僚制は、分業の発展した社会においては不可避であり、また不可欠である。それをただちに否定することはできない。むしろ、われわれは、アソシエーションや代表制も官僚制をもつことを認めなければならない。そして、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲が存在することを認めなければならない。ただ、それらが現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである」。
これらの主張は重要な論点に触れている。自称「反権力」主義者が、実際には既存の権力を嫌っているに過ぎず、自分のまわりに新たな権力構造をつくりあげてしまっている例は、いやというほどたくさんある。それに比べれば、権威と自由の二律背反に眼を向けた上で、それに解決を与えようとする柄谷の試みには、共感できるものがある。だが、彼が「解決する」とか「システムを考案する」「システムを見出す」という場合、それは具体的にどういうことなのかと考えると、あまりはっきりした回答を見出すことはできない。これは解決というよりもむしろその希求、あるいは信仰の類ではないかという気がしてくる。かつての「新左翼」の一部には、一方における前衛党の絶対化(スターリニズム)、他方における前衛党否定論(古典的にはアナキズムだが、一九六〇年代末の流行語でいえば「ノンセクトラディカル」)をともに批判し、前衛党と大衆の二元性は不可避だとしつつ、しかし自分たちは「反スターリニズム」を掲げている以上、その位階制的固定化を阻止できるはずだと考える傾向があった。しかし、実際には、その信念は現実化せず、結果的にはスターリニズム同様の前衛党絶対化へと行き着いた(さかのぼるなら、レーニンやトロツキーも同じように考えていたはずであり、それが意図せざる結果としてスターリニズムを生みだしたのではないか)。この運命をどう避けることができるのかが最大の問題として残る。
柄谷はこの問題に対してある種の回答らしきものを呈示している。人事におけるくじ引き制の提唱がそれである。能力差を認める以上、選挙による選抜なしでは済まされないが、それが固定的な権力を生まないようにするためには、くじ引きと組み合わせるべきだというのである。たとえば連記投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶ。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。くじで当選したものは自らの力を誇示することができず、落選したものも代表者への協力を拒む理由がない、というわけである。
この発想はたしかに興味深いものであり、ある程度までは現実性もあるかもしれない。実際、陪審員や裁判員は抽選で選ばれる。最近一部で注目されている「熟議民主主義」は、有権者名簿から無作為抽出で選ばれた人たちのうち自発的に参加する人たちによって熟議を組織し、その意見を政治に反映させようとする(但し決定としてではなく、一種の諮問として)。入学試験において実力選抜の要素とくじの要素を組み合わせることは――大学教育学部附属小学校の入学試験をおそらく唯一の例外として――実際に採用されている例は多分ないだろうが、理論的には可能ではないかと思われる。とはいえ、これで本当にうまくいくかどうかは未知数であり、いろいろな疑問もありうる。これまでの実践例もきわめて少ないし、柄谷の叙述もごく短いものであり、一つの思いつきの域を出ないという印象を免れない。
より大きな疑問は、このように具体的な解決策を提示するのは、カントの用語法で言うなら「構成的理念」になってしまうのではないかという点である。「統整的理念」の観点に立つなら、強いて具体的な解決法ないし処方箋を出すのではなく、ただ単にある方向への接近を目指すという方がスッキリするように思われる。先の引用個所の一つに即していえば、「それら〔諸個人の能力の差異や多様性と権力欲〕が現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである」というのではなく、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲は否定しがたいし、それらが固定化し、権力化する趨勢も避けがたいが、あたうる限り固定化・権力化を避けようと無限に努力し続けるべきだというのが「統整的理念」ではないだろうか。 

次に、資本と貨幣について。
前節の冒頭で、これまで資本主義に対してなされてきた闘争の重大な欠陥の一つとして「資本主義を国家によって抑えようとするもの」を柄谷が挙げていることを引用したが、それと並ぶ「もう一つの欠陥」として挙げられているのは、「社会主義運動が、生産点における労働者の闘争を根底においてきたこと」という点である。というのも、生産点においては、労働者は資本と同じ立場に立ちやすく、政治的・普遍的な闘争に立ち上がるのは困難だからである。むしろ、労働者は消費者でもあるという事実に眼を向けるなら、労働者階級が自由な主体として資本に対抗して活動できる場は流通過程にある、というのが柄谷の主張の一つの柱となっている。より具体的には、消費者=生産者協同組合や地域通貨・信用システムなどの形成によって非資本制的な経済を自ら創りだすことがその目標とされる。もっとも、ここには、「たとえそれによって資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である」という但し書きがついている。協同組合や地域通貨・信用システムの発展は、やがては「資本主義の超克」にまで行き着くのか、それともそこまではいかないが、「資本主義とは異なる経済圏」をいわば部分システムとして創出することでよしとするのか、という疑問がわく。この点については後で立ち返ることにしよう。
とにかく協同組合の重視という論点が、一つの重要な柱をなしていることは明らかである。これは生産点重視の伝統的なマルクス主義と比べるなら異彩を放っているようにみえる。もっとも、伝統的・正統的マルクス主義という系譜を離れて、より広く様々な社会運動全般の中で考えるなら、協同組合重視という発想はそれ程孤立したものとは言えないだろう。「マルクス主義者は、旧ユーゴスラビアのチトー主義者を例外として、一般に生産者=消費者行動組合を否定しないまでも軽視してきた」とあるが、では旧ユーゴスラヴィアの実験――これは「ソ連型社会主義」とは大いに内実を異にするにもかかわらず、結果的にはほぼ時を同じくして退場した――をどう評価するのかという問いが思い浮かぶ。また、「否定しないまでも軽視してきた」とあるが、「軽視」と「重視」の差は程度の問題ではないか、「重視」するつもりだったのがいつの間にか「軽視」になってしまう可能性をどう考えるのか、といった疑問もわく。実際、一九二〇年代のソ連では協同組合を「きわめて重視」し、その発展を通して社会主義に至ろうとする発想も有力だった(代表的論者はブハーリン)。「軽視」では駄目だ、「重視」しなくてはならないというだけでは、こうした歴史に対する有効な批判にならないだろう。
柄谷はまた、協同組合を重視する一方で、その「限界」にも触れている。「協同組合は、資本が及ばないような領域や消費協同組合としては十分に成立するし、有効でありうる。ただ、それによって資本制企業を圧倒することはありえない」、「協同組合的な企業は、資本制企業の間で、競争に耐えることができない」といった指摘もある。
では、どうしたらよいのか。「国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとってかわるべきだ、とマルクスはいうのだ。とはいえ、法的規制その他、国家による支援がなければ、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタリアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えた」。「こうした変革は、個々の企業内での闘争によってではなく、国家的な規模で、法制度を変えることによってしかできないのである」。これは前節で見た国家権力掌握の――少なくとも「一時的」な――肯定と呼応する。
こうして、国家権力掌握の必要性が指摘されているわけだが、それは「国家によって協同組合的生産を保護育成する」のとは似て非なるものだ、国有化と労働者の共同占有は似ているように見えるが本質的に異なる、と柄谷は力説する。株式会社の協同組合化こそが社会主義であり、国有化はそれとは縁遠いというのである(付け加えるなら、そのような歪曲はエンゲルスに端を発するものだとされ、レーニンやスターリンよりもむしろエンゲルスの国有化論こそが諸悪の元凶だというのが彼の主張のようである)。協同組合と国有化を似て非なるものとし、前者は善、後者は悪と峻別するのは、気持ちの上では分からないではない。だが、柄谷自身、協同組合の全国的発展のためには「国家による支援」が不可欠だと書いていたのは上に見たとおりである。とすると、国家による協同組合「育成」はよくないが、「支援」はよいということになりそうだが、「育成」と「支援」はどうやって区別できるのだろうか。悪名高いソ連の農業集団化にしても、建前としては自発的な協同組合としてのコルホーズ(集団農場)を国家が「支援」して一挙に広めようとする政策だった。「農業の国営化、あるいは集団農場化」と無造作に一括した個所があるが、集団農場は制度的には決して国営ではなく、協同組合という建前になっていた。そんな建前はフィクションに過ぎない、表向き協同組合であっても、実質は国営と大同小異だろうという批判は、結果論的にいえば当たっている。だが、それをいうなら、柄谷のいう「国家による支援」が同様の運命をたどらない保証がどこにあるのかという疑問が出てくる。
協同組合の重視は、代替貨幣論とつながっている。協同組合的アソシエーションは個々の独立性を保っていなければならず、社会全体を「一工場」のようなものにしてしまってはならない。もし「一工場」になってしまうなら、その内部では「交換」は存在せず、貨幣も存立の余地がないが、独立性を保持した協同組合の間では、それらの関係を取り結ぶ媒体としての貨幣を単純に否定することはできない。こうして貨幣が必須のものとなるが、他方で、貨幣が資本に転化することは防がねばならない。そこで、資本に転化しないような代替通貨、そしてそれにもとづく支払い決済システムや資金調達システムが不可欠だ、ということになる。
ここにあるのは、「貨幣はなければならない」と「貨幣はあってはならない」のアンチノミーである。このアンチノミーは、前節で取り上げた「中心があってはならない」と「中心がなければならない」のアンチノミーと似たところがある。「中心」に関するアンチノミーの指摘が国家社会主義とアナキズムの双方に批判的であることとのアナロジーでいえば、貨幣に関するアンチノミーの指摘は、貨幣廃止を目指した指令型経済と貨幣を永続化させる市場経済の双方への批判と位置づけることができる。
問題は、このアンチノミーは解決されるかという点にある。柄谷は、ソ連などの現存社会主義は「資本に転化しない貨幣」の創出を目指さなかったと考えているようだが、それは当たらない。レーニンの「一工場」論はあくまでも一時期、観念の世界で構想されたに過ぎず、現実のソ連経済が「一工場」のように運営されたわけではない。実際のソ連経済においては、個々の国有企業は独立採算制の原則に立って運営され、企業間の交換は貨幣に媒介されていた。もっとも、そこにおける「独立採算」の内実をめぐっては膨大な議論があり、「企業の独立性」をめぐっても議論が絶えなかったが、ともかく「一工場」化することはなく、従ってまた貨幣も廃絶されなかった。
貨幣死滅論を本気で実現しようとする実験は、ロシア革命直後および一九三〇年代初頭に――そして後世の例でいえば、ポルポト期のカンボジアで――ごく短期間試みられた後に、直ちにその非現実性を露呈させ、貨幣存続論が優位を占めたというのが、現存社会主義の歴史である。そこにおける貨幣は、市場経済における貨幣とはその機能を異にし、「受動的な貨幣」などと呼ばれることがある(これは「市場社会主義」を志向する立場から、その「受動性」を不完全性と見なす用語法)。これはある意味では「資本に転化しない貨幣」の試みと見られなくもない。もちろん、実際にはその試みは成功しなかったが、それは単にその課題が意識されなかったからではない。課題が意識されても実際には成功しないということは大いにありうることである。ところが、柄谷は現存社会主義がこうした課題を意識していなかったのように捉えて批判しているが、これは批判として皮相だという印象を免れない。 

各論的検討の最後として、ネーションについて。
これまで見てきたように、一つの国の枠内で国家権力を超えようとしても、他の国家に対して自己を防衛する必要がある限り、国家をなくすことはできない。また、協同組合の組織化も「国家の支援」を必要とする以上、国家というものを無視するわけにはいかない。結局、国家権力(その対内的側面)にせよ、資本と貨幣にせよ、それを本当に超えようとするなら、他国との関係という壁にぶつかる。そこから、社会主義革命は一国だけではありえない、それは世界同時革命としてのみ可能だ、という認識が導かれる。
「世界同時革命」というスローガンは、かつて「新左翼」の一部で盛んにもてはやされたことがある。柄谷もある意味ではその発想を受け継いでいるように見えるところがある。とはいえ、観念の世界でならともかく、現実問題として「世界同時革命」――「主要国」ないし資本主義先進国における同時革命――なるものが可能だというのは、いくら何でも空論的だろう。柄谷もそこまで言っているわけではない。では、どう考えているのか。
柄谷によれば、一八四八年の革命はまさに世界同時革命だったが、その後、その条件はなくなった。そして一八四八年敗北以降のマルクスは、歴史段階の「飛び越え」に対して非常に慎重になり、「永続革命」という考えを否定するようになった(7)。ところが、トロツキーはマルクスが否定した「永続革命」を引っ張り出し、それがレーニンにも影響した。十月革命時にトロツキーとレーニンはヨーロッパの「世界革命」が続くことを期待していたが、当然ながらそれは起こらなかった。世界革命が起きない以上、革命政権は他国の干渉から自己を防衛するために強力な国家機構を再建せねばならず、党=国家官僚の専制的支配体制がまもなく形成された。その意味で、革命が裏切られたのはスターリンによってではなく、十月革命において既に裏切られている。マルクスが「永続革命」を否定し、歴史的段階の「飛び越え」を否定したことに対する、そうした挑戦(毛沢東を含む)は全般的に失敗に終わった。
これは、それだけとってみればもっともな指摘に見える。マルクス的な発展段階論を前提し、かつ一国的な観点から考えるなら、発展段階の「飛び越え」が不可能だというのは当たり前の話ともいえる。これまでにも、多くの論者がそうした観点からソ連や中国の「後進国革命」はもともとうまく行くはずがなかったのだという批判論を提起しており、これはとりたてて新しい議論ではない。だが、一八四八年のマルクス、一九〇五年のトロツキー、一九一七年のレーニンとトロツキーは、いずれも一国的な枠内で革命を考えていたわけではない。「後進国」における革命が「世界革命」につながることによって「先進国」における社会主義革命に支援されるという期待がそこにはあった(8)。そのような期待が現実的か非現実的かはもちろん別問題であり、今日から見れば非現実的だったという評価が自然である。柄谷によれば一八四八年革命敗北後のマルクスは「飛び越え」と「永続革命」を否定したというが、仮にその主張が正しいとして、それは「飛び越え」=「永続革命」=「世界革命」という図式の放棄というよりも、その図式の実現可能性に関する悲観論を意味するように思われる。そうした観点を突き詰めていうなら、およそ革命は不可能だ――一国における社会主義革命も不可能だし、世界同時革命も非現実的だ――という悲観的見解になるだろう。基本的に同じ展望を共有する人たちが、その展望の実現可能性に関して楽観論と悲観論に分かれる――あるいは同じ人が楽観論と悲観論の間で揺れる――というのはよくあることだが、その分岐は情勢判断に関わる相対的な度合いの問題であって、思考の枠組み自体が違うということではない。そして、一般に革命家というものは高揚期には非現実的な楽観論と期待感に突き動かされるが、低迷期には慎重論ないし悲観論に傾くものだと考えれば、一九世紀のマルクスと二〇世紀初頭のレーニン、トロツキーの間にそれ程決定的な断絶があるとはいえない。
それはともかく、「永続革命」(「=世界革命」)に関する悲観論ととれる記述をする一方で、柄谷は「世界同時革命」のヴィジョンは消えてしまったわけではないとも説いている。一九六八年の諸運動もある意味では世界同時革命だったし、現代においてもネグリとハートのいう「マルチチュード」の世界同時反乱はそれに当たるという。この意味で、「世界同時革命」の観念は今も残っている。しかし、それははっきりと吟味されたことがない。むしろ、だからこそ神話として機能する。われわれは失敗を繰り返さないために、それを吟味する必要がある、と論が進められる。
この個所は二通りに解釈することができる。第一の解釈は、「世界同時革命」は現実政治的にいえば挫折するしかないが、その観念は「神話」として生き残り、「インパクト」を永遠に与え続ける、というものである。これはいわば「見果てぬ夢」を目指したシジフォス的な努力をいつまでも繰り返していくほかないということになる。他方、第二の解釈は、これまでの失敗の歴史を吟味するなら、今度こそは成功することができるというものである。これはある種の終末論的展望ということになる。この二つの解釈のうち、どちらが柄谷の本意なのだろうか。
この点を更に追究するためには、柄谷が世界同時革命について考える上で最も参考になるとしているカントの「世界共和国」論――それへの柄谷の独自な解釈――について検討しなくてはならない。
カントの永遠平和論はしばしば非現実的な理想論と見なされているが、柄谷によれば、カントのいったことは「自然の狡智」を通して実現されたという。一九世紀末の帝国主義の時代に支配的となったのは大国の覇権争いであり、その結果が第一次大戦だったが、その未曾有の破壊の経験から国際連盟が登場した。その国際連盟は無力で第二次大戦を防ぐことができなかったが、その結果として国際連合が形成された。この国際連合も無力だが、それを嘲笑して無視し続けるなら、世界戦争になるだろう。それは新たに国際連合を形成することにつながるだろう。こうして、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムよりももっと残酷なリアリズムが潜んでいる、と論じられている。
この議論を図式化すると、《諸国家連邦の構想→その無力さの帰結としての世界戦争→国際連盟→その無力さの帰結としての世界戦争→国際連合→その無力さの帰結としての世界戦争→新たな国際連合……》という連鎖になる。これはどこかで「世界共和国」が完成して終わるのではなく、世界戦争の何度もの繰り返しという無限の循環になるかもしれないし、また、その破壊規模が次第にエスカレートするなら、何度目かの世界戦争で人類が滅亡してこのサイクルが閉じられるということになるかもしれない。いずれにせよ、このようなサイクルは「自然の狡智」を意味するかもしれないが、それが「世界共和国」という究極目標にたどり着くという結論を意味するわけではないように思われる。
柄谷の「世界共和国」論はそれ自体としては抽象度の高い議論だが、同時に、より具体的なレヴェルで、国連を重要な手がかりとする議論も提起されている。もっとも、現にある国連をそのままの形で強めればよいというのではなく、むしろその性格の変化を前提した展望を出そうというのが、彼の考えのようである。複雑で膨大な連合体である国連システムは、第一に軍事、第二に経済、第三に医療・文化・環境などの領域からなるが、第三の領域は第一・第二と違って、歴史的に国際連盟・国際連合に先行している場合が少なくない。つまり、元来は別々に国際的アソシエーションとして生成してきたものが国連に合流することでできあがった。また、この第三領域では、国家組織(ネーション)と非国家組織の区別がない。たとえば世界環境会議に諸国家と並んでNGOが代表として参加しているように、ネーションを越えたものとなっている。このような現実を踏まえ、国連を新たな世界システムにするためには、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠だ、と論じられている。
このように論を進めた上で、結びに近い当たりでは、次のように述べられている。
「世界同時革命は通常、各国の対抗運動を一斉におこなう蜂起のイメージで語られる。しかし、それはありえないし、ある必要もない。国連を軸にするかぎり、各国におけるどんな対抗運動も、知らぬ間に他と結びつき、漸進的な世界同時的な革命運動として存在することになる」。
一斉の蜂起ではなく漸進的な運動という主張は一応分かる。文字通りの「同時革命」=一斉蜂起よりは、その方が現実的だろう。だが、それはベルンシュタインのいうような永遠の運動なのか、それともある種の窮極目標が現世で実現しうると考えているのか、この点が最大の問題である。節を改めて検討しよう。 

これまでの三つの節では、国家権力と官僚制、貨幣と資本、ネーションという三つの角度から柄谷の議論を追ってきた。どれも興味深い問題提起であると同時に、疑問もつきまとう。柄谷の議論が体系的である以上当然ながら、興味深い主張にせよ疑問点にせよ、三つの角度ごとに別々の話になっているわけではなく、むしろ一つのテーマが形を変えて繰り返されている観がある。そこで、最後に、柄谷の議論に関する最大の疑問をまとめて考えることにしよう。
これまでも触れてきたように、柄谷は「統整的理念」と「構成的理念」を区別し、前者に自己の拠り所を見出そうとしている。そして、「統整的理念」とは決して現実に達成されるものではなく、ただ徐々にそこに近づけばよいということが各所で指摘されている。としたら、実践的には、無限の改良を試み続けるという意味での改良主義になるのではないかという気がしてくる。第二節で掲げた図において、三角錐OABCは実在領域であるのに対し、Dは無限遠点だとするなら、Dそのものが現実化することはありえず、ただ少しでもDに近づくように試み続けることしかないというのが、一つの自然な解釈のはずである。ところが、柄谷の文章の中には、あたかもDそのものの実現を期するかの記述もあちこちにあり、その点の理解に苦しむ。これは、ある種の革命主義的発想がなお残っているのではないかと感じさせられる。
「世界史の構造」の本文最後の段落を全文引用してみよう。
「互酬原理にもとづく世界システム、すなわち、世界共和国の実現は容易ではない。交換様式A・B・Cは執拗に存続する。いいかえれば、共同体(ネーション)、国家、資本は執拗に存続する。いかに生産力(人間と自然の関係)が発展しても、人間と人間の関係である交換様式に由来するそのような存在を、完全に解消することはできない。だが、それらが存在するかぎりにおいて、交換様式Dもまた執拗に存続する。それはいかに否定し抑圧しても、否応なく回帰することをやめない。カントがいう「統整的理念」とはそのようなものである」。
この引用文の前段は、交換様式A・B・Cは――従ってまたネーション・国家・資本は――「執拗に存続」し、「完全に解消することはできない」という内容になっている。末尾の「統整的理念」という言葉も、A・B・Cが完全に消滅はしないということを前提しているかに見える。問題は、その間に挟まれている「交換様式Dもまた執拗に存続する」という個所である。これは「交換様式Dへの志向も執拗に存続する」と言い換えてよいのだろうか。もしそう言い換えてよければ、Dそのものが全面的に実現することはないが、それでも、それに近づこうとすればよいという、改良主義的な発想になる。だが、そうではなくて、いつの日かDそのものが実現するはずだという革命主義的な発想であるかのようにも解釈することができる。
先の引用文の少し前の方には、「早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる」という個所がある。「資本主義は終わる」という言葉は、Cが――そして含意としてはそれに伴ってAやBも――終わりの日を迎えるという終末論的な発想を想起させる。第一節で見たように、柄谷による資本主義の歴史段階論は、資本主義が永続しうるという理論であるかにも見える一方、はっきりそう明言されてはいないという両義性があったが、ここへ来て「資本主義は終わる」と言われると、どうやら「終わり」があると考えているようだという気がしてくる。別の個所には、「シュミットの考えでは、ホッブズ的観点から見れば、国家の揚棄はありえない。だが、それは国家揚棄が不可能だということにはならない、ホッブズのとは別の交換原理によってのみそれが可能だということを、彼は示唆しているのである」とあり、これは「国家揚棄」が現実に可能だという主張であるように見える。こういうわけで、ネーション・国家・資本は執拗に存続し、完全に解消することはできないという展望と、どこかの時点でその解消・超克が実現するという展望とが奇妙に同居しているという印象が生じる。
より具体的な方策に即していうなら、人事におけるくじ引き制、経済活動における協同組合の拡大と代替通貨の実験、国際面では国連改革(特にNGOの活発化)といった構想が提起されていることはこれまで見てきたとおりだが、これらの方策は、現実的であると同時に改良的だという特徴を持っている。部分的な実験としてであれば、これらの方策を取り入れることは可能であり、現にあれこれの形である程度まで実践されている。だが、それらが部分的な実験にとどまることなく、資本=ネーション=国家に全面的にとって代わることができるかどうかと言えば、未知数というほかない。
カント流の「統整的理念」という考え方を重視し、既存社会主義の轍を踏むまいとするなら、机上で立てられた全面的解放の理念を現実界に実現しようなどという発想を捨てて、むしろ改良主義に徹してもよいのではないかと思われてくる。ところが、柄谷はそうは考えていないようである。そのことは社会民主主義への辛い評価によく現われている。社会民主主義には資本と国家を揚棄するという展望など全く存在しないとか、資本=ネーション=ステートの外に出るという考えを放棄しているといった指摘が随所で繰り返されている。社会民主主義が資本=ネーション=ステートを揚棄しないというのはその通りだろう。だが、それは社会民主主義者自身が公然と認めていることであって、そう指摘したからといって何の批判にもならないのではなかろうか。
「統整的理念」の立場とは、それそのものを現世に実現するというのではなく、ただ無限に近づこうという試みを意味するはずである。だとするなら、社会民主主義も、「揚棄しないから駄目だ」ではなく、「揚棄しない」ことをわきまえた上での一つの努力――前進もあれば後退もある――として評価することができるのではないだろうか。もっとも、一口に「社会民主主義」といっても様々な潮流があって、その内実を一義的に規定することはできないし、ヨーロッパ以外の諸国ではそもそも社会民主主義運動はあまり有力ではないから、社会民主主義に全てが託せるなどというわけではない。ここで問題にしたいのは、社会民主主義それ自体の評価ではなく、柄谷の社会民主主義評価には、どこかしら革命主義的発想の残滓のようなものが感じられるということである。
柄谷はとりわけ「トランスクリティーク」においてカント由来のアンチノミー(二律背反)という概念を重視しているが、それに倣っていうなら、「改良にとどまるのではたりず、革命をこそ目指さねばならない」という命題と「革命は不可能であり、改良にとどまるほかない」という命題もアンチノミーの関係にあり、これこそ社会変革に関わる最大のアンチノミーといえるのではないだろうか。おそらくこのアンチノミーに解決はないだろう。ただ、とにかくそうした問題の所在を提起した点に柄谷の功績があるとは言えるかもしれない。 

(1)「海燕」一九九三年一二月号
(2)小文は別として、一冊の本となっているものでこの三部作以外に読んだのは、「柄谷行人 政治を語る(聞き手・小嵐九八郎)」図書新聞、二〇〇九年だけである。この本は対話調であるため、分かりやすいというメリットがあり、柄谷という人の軌跡を一通り知るには便利だが、あまり本格的に論を展開したという感じのものではない。
(3)「世界史の構造」序文の末尾に、「私がここで書こうとするのは、歴史学者が扱うような世界史ではない。私が目指すのは、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することである」とある。つまり、著者自身、これは通常の意味での「歴史」ではないと明言していることになる。原史料に基づく歴史記述を一次的研究、そうした一次的研究に依拠した記述を二次的研究とするなら、ここで行なわれているのは、いわば三次的研究ということになる(ここで一次・二次・三次というのは、それらの作業の性質の違いに関わり、どれが高級か低級かということとは関わらない)。私自身は、自分の専門のフィールドでは一次的研究、それ以外のフィールドに手を伸ばすときには二次的研究を課題としており、ここで行なわれているような三次的研究をどう受けとめてよいかには戸惑うところがあるが、とにかく通常の意味での歴史研究ではないが、歴史に関する「超越論的解明」ということで理解しておきたい。
(4)塩川伸明「現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔」勁草書房、一九九九年、七九‐八八頁、「冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか」勁草書房、二〇一〇年、一五六‐一六一頁。前者における三元論はもっぱら経済体制論の枠内での議論だったが、後者ではそれを多少拡張しようと試みた。
(5)マルクス経済学の系譜にあまり馴染みのない人が増えつつあるだろうことを念頭において、簡単に説明するなら、宇野経済学とは宇野弘蔵を創始者とする学派で、一時期日本のマルクス経済学の中で強固な位置を築いた。マルクス経済学のもう一つの有力な学派として講座派という系統があり、歴史学や政治学への影響という点では講座派の方が強力だったが、東京大学の経済学部および社会科学研究所をはじめとする東日本の経済学者の世界では宇野派が講座派を圧倒していたというのが私の記憶である。柄谷は東大経済学部の出身なので、学生時代に宇野経済学を学んだと自ら語っている。私自身は本格的に経済学を学んだわけではないが、若い時期にかじった経済学は宇野経済学だったので、その意味では柄谷の論の運び方に馴染みがある。
(6)「レーニン全集」第二五巻、四七〇‐四七一頁。
(7)ここでいう「飛び越え」論とは、資本主義がまだ発達していない「後進国」が資本主義段階を「飛び越え」て、社会主義へと至るという展望を指し、「永続革命」論とは、「後進国」における革命がブルジョア革命にとどまることなく、社会主義革命へと連続的に発展するという考えを指す。
(8)「世界史の構造」には、レーニンとトロツキーが十月革命時に「世界革命」、とりわけドイツ革命の勃発を予期していたというのは「本当だとは思えない」、という個所があるが(S2四四三‐四四四頁)、これは無理な議論である。確かに、後世の観点から見れば、当時の状況で「世界革命」を期待する方がおかしいだろうが、それは距離を置いた冷静な観察者の視点であり、当時の熱狂の中では、レーニン、トロツキーは本当に世界革命到来を期待していたというのが歴史的現実である。「それは本当だとは思えない」というのは、自説をレーニン、トロツキーと区別するための強弁と響く(ついでにいえば、マルクスのザスーリチ宛て書簡の解釈もかなり強引である)。なお、「世界共和国へ」には、レーニン、トロツキーはヨーロッパの「世界革命」がロシアの後に起こることを期待していたという記述がある(S1一九六頁)。こちらの方がずっと素直な記述である。
(9)これに続く個所には、それは一時的に全社会的な危機をもたらすが、そのとき非資本制経済が広範に存在することがその衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるだろうとある。これはこれで分からないではない。かつてロシア革命や中国革命のとき、それらの国では、非資本制経済――というよりもむしろ前資本主義経済――が広範に存在していたことが衝撃吸収の役割を果たしたからである。だが、いうまでもなく、それは理想の社会主義社会につながったわけではない。ロシアや中国のような「後進国」ではなく、高度に資本主義の発達した「先進国」で協同組合などによって非資本制経済が広がっていればよいのだというのが柄谷の主張かもしれない。だが、それでうまく行くということが論証されているわけではなく、これは単なる願望の表明に過ぎない。 
 

 

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