西洋文明 雑話 [2]

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雑学の世界・補考   

哲学者たちとバラ十字

「白い山の戦い」(1620)が発端となって三十戦争が勃発し、ドイツにおけるバラ十字運動の開花に終止符が打たれた。しかしながらバラ十字会の著作物はすでにヨーロッパ中に行き渡っていて、数多くの哲学者たちがそれらのメッセージに気づいていた。その中でもルネ・デカルトは最もたびたび言及されていた人物であった。秘伝主義の歴史家たちの多くが、デカルトを全く完全な意味においてバラ十字会員であるとしようとしていた。この状況に最も責任があった人物の一人は、アヴランシュ(仏北西部)の司祭であったピエール・ダニエル・ユエ(Pierre-Daniel Huet,1630-1721)であった。1692年にG・ド・ラ(G. de l’A)のペンネームでNouveaux Mémoires pour servir à l’histoire du Cartésianisme(デカルト哲学史に役立つ新回想録)を出版した。これはデカルトに関する暴露を主張していた諷刺本であった。ここでは我々は、デカルトがバラ十字思想をフランスに持ち込んだのであり、バラ十字会の視察官の一人であったと知らされるのである。ユエはまた、この哲学者は500年間生きることを保証されていたため、1650年に没したのではないのであり、むしろバラ十字会を指導するために自分をラップランド人たちの中に隠遁させたのだと主張した。全くありそうもないことが書かれたこの本は、デカルトに関するバラ十字伝説のあるものを生じさせた。もっと近年になって、シャルル・アダム(Charles Adam)もまた『デカルト全集』の中で、哲学者デカルトはバラ十字会員であったと主張した。  
ルネ・デカルト

 

三十戦争直前の時期に、ルネ・デカルト(René Descartes,1596-1650)はバラ十字会に関心を抱いていた。デカルトは1617年に軍隊に入隊し、その職業によってオランダとドイツに赴いた。デカルトはこの旅の間に、占星術や錬金術、カバラに興味を抱いた優れた数学者ヨハン・ファウルハーバー(Johan Faulhaber)と出会った。彼は1615年にバラ十字会員に捧げた本の最初のもののひとつだった『算数的神秘あるいはカバラと哲学の考察』の題名の本を出版したが、それは新しくて賞賛されるべき高尚なもので、それによると数が合理的に秩序だてて計算されるのであった。それはバラ十字の兄弟たちに誠意を持って謹んで献呈されていた。
ルネ・デカルトはまた、オランダ人医師で哲学者で数学者であったイサク・ベークマン(Isaac Beeckman)とも親交があった。彼が後者に向けて1619年に書いた通信はデカルトが秘伝主義科学にも、とりわけコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパとレイモンド・ルーリーに興味を抱いていたことを明らかにしている。おそらくデカルトは、ファウルハーバーとベークマンを通してバラ十字宣言書を知ったのであろう。デカルトの伝記作家アドリアン・バイエ(Adrien Baillet)は、デカルトが『バラ十字の兄弟たち』の名で数年間ドイツに設立されていた賢者たちの友愛組織によって保持されている特別な知識・叡智を褒め称えていたと伝えている。『彼は<真実>を探求する手段について最も関心があった時にそのことについて聞いたので特に感動した。このバラ十字への競いの気持ちが自分の中に感じられた』のだった。彼らによって刺激されてデカルトは自分の探求をはじめることを決意したのであった。
1619年の3月にデカルトはボヘミアへ向けて旅立ち、8月にその地に到着した。それからフランクフルトでスティリアのフェルディナンド王(Ferdinand of Styria)の戴冠式に参列した。ある歴史家たちは、デカルトはその機会に近くのハイデルベルグ城に旅したが、その訪問については彼の著書Traité de l’HommeとExperimentaに触れられており、宮殿の庭園にあるサロモン・ド・コーによる自動人形についての記述が見られるようである。この場所は広く知られていてあらゆる知識人たちが訪れていたので、おそらく我らが哲学者デカルトにとってもそうだったのであろう。さらにフランシス・イェーツ(Frances Yates)が指摘するように、ルネ・デカルトが晩年近くに抱いたハイデルベルグの宮廷への関心は、過去の栄華をデカルトが十分承知していたことに我々を思いおよばさせ、バラ十字思想のメッカのこの宮廷とデカルトとの関係はどのようなものだったのであろうかとの疑問が湧き起こってくる。
三つの夢

 

この時期ルネ・デカルトは学問に没頭していた。昔からどの学者も誰一人として解くことができていなかった数学的問題三題のうちの二題に解答を見出した。すなわちそれは、立方体を二倍する問題と内角を三等分する問題である。1619年の3月デカルトは友人イサク・ベークマンに、『あらゆるタイプの問題を解くことを可能にする全く新しい科学・・・数学を超えた普遍的方法を確立しようと研究しているのだ』と発表した。彼は精神の歓喜に満ちた高揚を感じ、すばらしい知識の基本を見出したことに完全に満足して幸福であった。デカルトは探求している事柄について11月9日に黙想していた。ウルム市近郊にいたその夜の事、デカルトは人生を混乱させることになった夢を三つ見た。最初の夢は、不思議な大学に向かって激しい風に押し流されて、そこで一人の男からメロンをもらう夢であった。デカルトはそこで目覚めると、この夢は悪霊の仕業だと恐れおののいて一心に祈り始めた。再び寝たところ、たちまち第二、第三の夢を続けて体験した。それらの夢の中で辞書と、叡智と哲学がちりばめられている詩集とが提示された。これを調べて次の言葉を偶然発見した。『私がたどるべき人生の道とは何であろうか?』
これらの三つの夢の解釈は多数のコメントをもたらした。多くの著述家たちが指摘してきているように、デカルトがこれらの三つの夢の中で体験した出来事は、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』の中のある挿話とよく似ていた。ルネ・デカルトは一つの急進的な体験をしていたことに気づいて、すぐさまそれを分析しようとした。彼はこれらの夢をたいへん重要だと判断したので、『Olympica』と題する本の中にひとまとめにして書き残しておいた。デカルトはこの夢の中での体験によって自分が正しい道におり、そして数学は、<創造>の神秘を理解するために必要不可欠の鍵であるとの確信を得た。カール・ユングの同僚マリー=ルイーズ・フォン・フランツ(Marie-Louise von Franz)によれば、デカルトの体験した啓示は、数によって伝達された原型の直観的理解に彼を導いたユングの集合無意識の打開であったと見ることができるのではないかと考えられた。デカルト自身もそれは『私の人生の中での最も重要な事柄』に関したものであり、自分が死に至るまでこの文献を手元に置くと言っていた。四年後の1623年にデカルトはパリ市に戻った。その時に彼の名前はバラ十字と関連付けられるようになったのであった。  
パリ市内の貼り紙

 

同じ年、パリ市内の壁々に『目に見える、そして目に見えない』バラ十字会の存在を知らせる貼り紙が貼り出された。ガブリエル・ノデ(Gabriel Naudé)は著書Instruction à la France sur la Vérité de l’Histore des frères de la Roze-Croix(1623)の中に、以下のように述べられているこの貼り紙の内容を提示した。『目に見える、そして目に見えない形で現在パリ市に逗留している我らバラ十字大学本部の代理人たちは賢者たちの心が振り向く至高の存在の恩寵により、我々が滞在することを選んだすべての国々の言語の話し方で、書物や象徴の助けを借りずに話す方法を教え、死の過ちから我々の同胞たちを救い出すのである。』この貼り紙は直ぐ二枚目が続いており、以下の抜粋のように述べられていた。『・・・しかしこれらの驚くべき知識を理解するに至るために我々は読者に警告するものである。我々は彼の思考を見抜くことができるのであり、単なる好奇心から我々に会おうとするものは決して我々と連絡を取り合うことはできないが、もし我々の友愛組織に名を連ねたいとの熱意ある固い決意にかりたてられているのであれば、我々はそのような人物には我々の約束の真実を発現させる、それによって我々は決して滞在場所を明らかにはしない。と言うのは、読者の決意の意思に結合した単純な思考は我々を知るのに十分であり、彼は我々の前に明らかになるのだからである。』
これらの貼り紙は相当な物議をかもし出した。ガブリエル・ノデは、『もし我々が国中に吹き荒れているこの突風の正確な出所を探求すれば、この友愛組織はドイツから国外へ迅速に広まったとの報告を見出すことになるであろう・・・。』と書いた。すぐさまバラ十字会員たちを攻撃する小雑誌が出回った。この友愛組織は世界中に36人の代理人を送り込んでいて、そのうちの6人がパリ市内にいるのだが、彼らと連絡を取るのは思考による以外の方法では不可能だと主張されていた。彼らは皮肉を込めて『見えざるものたち』と呼ばれていた。ガブリエル・ノデはEffroyables pactations faites entre le diable et les prétendus Invisibles(1623)(悪魔といわゆる『見えざるものたち』との間に交わされた恐るべき盟約)といったような刺激的な題名の著書によって、バラ十字会員たちへの攻撃を増加させた。しかしながら後年になってノデは、著書Apologie pour tous les grands personages qui ont été faussement soupconnés de magie(不当に魔法の疑いをかけられていた偉大な人物たちへの謝罪)が示すように、より友好的な態度へ転じた。
これらの貼り紙の出現がデカルトの帰国と同時に起こったという事実は何人かのパリジャンたちの想像力をかきたてるのに十分であった。首都パリ市内では、ルネ・デカルトはこの友愛組織の一員になったのである−そしてこの不可解な貼り紙は彼の仕業でさえあるのだとささやかれていた。噂の芽を摘み取るために、この哲学者は友人たちを一堂に集め、彼は『見えざるもの』ではないし貼り紙とも何の関わりもないことを示した。彼はドイツで実際にバラ十字会員たちを探したが、バラ十字会員には一人も出会わなかったと述べた。デカルトは真実を語ったのだろうか、それとも自分自身を守ろうとしていたのだろうか?真実がどうだったのであろうと、たとえ彼がバラ十字会員に出会っていたとしても、(これは可能であったと思えるが)当時の状況からして彼は沈黙を守っていたに違いないのである。
実際、この時代のフランスはバラ十字会員たちに対して全く友好的ではなかったのである。この点に関連してフランセス・イェーツは当時国中に蔓延していた「バラ十字の脅威」について話していたのであった。カトリック教会はプロテスタントの陰謀を密かに探り、バラ十字会を邪悪な組織だとみなしていた。貼り紙事件が起こった同じ年、ルネ・デカルトの友人にして哲学者で碩学の大修道院長マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne,1588-1648)は、バラ十字思想を猛烈に攻撃していた。彼はQuestiones celeberrimae in genesim...を出版してその中でルネッサンス期のヘルメス哲学とカバラに異議を唱え、それらを表象する様々なものに対しても同様に扱った。メルセンヌは特にイギリスのバラ十字会員ロバート・フラッドに対して欠点を指摘していた。実際、メルセンヌは自分が知らなかったことに対して恐れを感じていたし、彼の秘伝主義への理解には笑えるものがあった。彼は「目に見えざる魔法使いたち」がフランス中にはびこっていて邪悪な教えを広めていると想像していたのであった。
メルセンヌの親しい友人の一人、哲学者で数学者のピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi)もまたロバート・フラッドに敵対した。この同じ時期に、フランソワ・ガラッセ(François Garasse)はLa Doctrine curieuse des beaux esprits de ce temps(1623)を出版し、その中で「バラ十字教派とその秘書官ミヒャエル・マイヤー」を糾弾した。また1625年には、パリ市の神学教授陣はハインリッヒ・クンラスの『永遠の叡智の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae Aeternae)を公然と非難した。 
国際人ポリュビオス

 

ソフィー・ジャマ(Sophie Jama)が没頭していた、デカルトの三つの夢についての研究の中で彼女は、デカルトの生涯の中のこの挿話に立ち返った。これを行っている時にまだ出版されることのなかったデカルトの初期の論文 Tresor mathematique de Po1ybe 1e cosmopo1ite(国際人ポリビュオスの数学的財宝)を考察した。ルネ・デカルトはすべての数学的障害を解決しようと試み、この仕事は「世界中の学問のある人々、とりわけG.(ドイツ)国内でよく知られているF.R.C.(バラ十字の兄弟たち)のため」であることを示した。バラ十字宣言書の呼びかけに応じて本を出版した17世紀の他の思索家たちと同様に、ルネ・デカルトは疑問の余地なく心の中に同じ目的を抱いていたのだと、ソフィー・ジャマは感じていたのだ。ボヘミアの白い山の戦い以後の劇的な数々の出来事と、フランス国内で反宗教改革運動に従事していたカトリック教徒に蔓延していた分派主義が、デカルトにこの計画を急がせることになったのはまず間違いない。デカルトの友人ヨハン・ファウルハーバーがバラ十字会に献呈した著書 Mysterium arithmeticum...の目的とデカルトの論文の目的はよく似ていることをここに付け加えておこう。
デカルト自身は如何なるバラ十字会員にも出会ったことはないと否定しているが、デカルトがバラ十字の諸概念に固執していたことについてよく考えてみる必要がある。バラ十字宣言書の中の顕著な諸概念と、デカルトのOlympicaや他の著作を比較してみると、バラ十字の諸概念はデカルトにとって些細なものどころか、デカルトの哲学的思索をより豊かにしていることをソフィー・ジャマは著作の中で示している。ジャマはまた、デカルトがドイツでバラ十字会員には誰一人として出会っていなかったとしても、三つの夢などの予見的体験を通して<バラ十字>に出会っていたのではないかとまで示唆している。 
オランダ(Holland)

 

ルネ・デカルトはフランス国内を圧倒していた不穏な社会的動揺を不安に思っていた。そこで静穏の中で研究に没頭するため1628年にオランダのライデン市近郊に移った。ある確実な歴史的資料が、オランダ国内にバラ十字思想が急遠に広まったことを示している。前回の記事で述べたように、フリードリヒ5世が「白い山の戦い」(1620)の後に避難所を求めたのもまさにこの地であった。ファマ・フラテルニタティスは早くも1615年にオランダ語版 Fama Fraternitatis Oft Ontdeckinge van de Broederschap des loflijcken Ordens des Roosen-Cruyces(Gerdruckt na de Copye van Jan Berner, Francfort, Anno 1615)に翻訳された。この翻訳版には、アンドレアス・ホーヴァーヴェシェル・フォン・ホーヴァンフェルト(Andreas Hobervesche1 von Hobernfeld)がバラ十字会に入会を請うている一通の手紙が含まれていた。もともとプラハ出身のこの人物は、ハーグ市に亡命したフリードリヒ5世に随行してきたのだった。また、オランダにバラ十字会員が存在していたことは、アントワープ市の有名な画家ピーター・ポール・ルーベンス(Peter Paul Rubens)からニコラス・クロード・ファーブリ・ド・ペレシュス(Nicolas-C1aude Fabri de Peiresc)に宛てて書かれた手紙によってもわかっている。ルーベンスの1623年8月10日付の書簡には、バラ十字会員たちはアムステルダム市ですでに何年にもわたって活動していると書いてあった。しかしながらこの情報は、バラ十字会がハーグ市の一つの宮殿を所有していたというオルビウス(Orvius)の声明と同様に、オランダ国内でのバラ十字運動の真の発展を画くにはあまりにも不確かなものである。
しかし確実に言い得るのは、1624年に治安判事裁判所関係者の間で交わされた手紙の中で、ハールレム市のバラ十字会の集まりが糾弾されたことである。ライデンの神学者たちは、ある組織が現れて教会の清廉さについて議論していると嘆いていた。神学者たちはその一団が政治的および宗教的な問題を引き起こすと感じたのであった。そして翌年の6月に政務官が調査を命じた。オランダ宮廷はライデン市の神学者たちにコンフェシオ・フラテルニタティスの分析に取り掛かるよう依頼した。この調査はJudicium Facultatis Theologicae in Academia Leydensi de secta Fraternitatis Roseae Crucis という報告書になり、これによりオランダの役人はバラ十字会員を狩り出すこととなった。
そしてすぐに、鎌金術を行っていた画家のヨハネス・シモンズ・トーレンティウス(Johannes Symonsz Torrentius)がオランダのバラ十字会員たちの指導者であると明らかにされた。トーレンティウスは友人のクリスチャン・コッペンス(Christiaen Coppens)とともに1627年8月30日に逮捕された。法的措置が決定されるまでの5年間、この画家は苛酷な尋問を受け続けた。しかし苛酷な拷問にもかかわらず、彼はバラ十字会員であることを否定し続けた。それにもかかわらず火刑の判決がなされたが、その後すぐに20年の投獄に変更された。しかし彼にとって幸運なことに、ほんの2,3年投獄されただけだった。画家仲間の支援とイギリス王チャールズ1世の仲裁により、彼は1630年に釈放されてロンドンに居住することが許された。同じ年、ピーター・モルミウス(Peter Mormius)はライデン市で Arcana totius naturae secretissima, nec hacenus unquam detecta, a collegio Rosiano in lucem produntur (自然の秘密の全て)を出版した。この本はドーフィネ生まれのフランス人、フレデリック・ローズ(Frédéric Rose)によるバラ十字運動の発足について述べていた。この主題については今後また取り上げることにしよう。 
錬金術の誘惑

 

カトリック教会はこの時代、本当に魔法使いたちの紛れもない迫害をしていた。1610年には、ある終りのない裁判の後、ジョルダーノ・ブルーノはローマで生きながらにして火あぶりにされた。すぐその後、ガリレオも迫害された。デカルトは1633年にガリレオの非難を知り、地動説に基づいて宇宙を論じた『世界論』(Le Monde)を破棄しようと考えた。彼は用心するに越したことはないと感じたのだ。また、1637年に完成した『方法序説』(Discours de la méthode)の中では、あえて錬金術師や占星術師や魔術師たちの教理を「悪い教理」であると非難した。1640年7月付けの友人メルセンヌ宛ての手紙でも、デカルトは錬金術と、その秘教的言語を批判した。また三要素〜硫黄と塩と水銀〜の原理に異議を唱えた。しかしながらデカルトの手紙は、彼が錬金術に興味をもっていたことと、錬金術の諸原理.をよく承知していたことを示している。何年にも渡って彼がこの錬金術の科学に興味を抱いていたのは明らかである。このことに関してジーン・フランソワーズ・メラー(Jean-François Mai1lard)は、驚くべき素晴らしい事実に光を当てた。メラーは、デカルトが1640年頃に友人のコルネリウス・フォン・ホーゲランド(Cornelis van Hoge1and)の実験室で錬金術に没頭していたと報告した。このことに関して彼は、ある誘惑が避けられたのではなく、論理によって抑えられて中止されたのだったことを物語っている。結果的には、『方法序説』の著者の傾注は数学や幾何学、気象学や医学あるいは光学などの他の科学によってさらに拍車がかかっていった。
しかしルネ・デカルトは錬金術に興味を抱いていたにもかかわらず、その時代の秘教とは距離をおいていたことをここで強調せねばなるまい。デカルトは、類推や類似の理論、象徴主義によって思考することを拒否した。彼にとっては、明確で明瞭なアイデアかあるいは完全に分析できるような概念だけが「真の知識」へと導いてくれるものなのだった。それらは人間に生来備わっている数学的真理であり、人間に世界を理解させてくれるだろうと考えていた。デカルトは更に、もし我々が完全無欠と無限の概念を理解することができるとするならば、それは<創造主>が我々の中にそのしるしを入れたからであると考えた。
その上デカルトは最終的原因を拒絶したのであった。なぜなら彼は、<創造>と事物の目的を理解する試みの全ても拒絶したからであった。デカルトは、もし彼が物理学を形而上学に基づいたものにしていたとしたら、それは彼は我々のソウルの中にもともとある数学的真理は、自然世界を物理世界を通して説明できるようにしてくれ、人類を『自然の主人で所有者」にしてくれると考えたからだった。デカルトは神秘的な本質の自然界を洗練して自然界は自動機械の模型(モデル)に従った明確化した幾何学的塊りの一連のものであると考え、確実な数学的真理によって知られていて計測することもできる塊りからなっていると考えていた。この機械論的な<天地創造>の概念は、<自然>を、存在する万物の鍵と見て、人間が通じ合うことのできる生ける現実であるとしたパラケルススが提示した概念とは全く異なっている。それでもなお、デカルトのこの取り組み方は人類を回りくどい蒙昧主義の時代から近代科学知識の時代へと導き、人々は危険な先入観や過度の迷信から開放されていったのであった。
しかし、デカルトの考え方のいくつかの側面はバラ十字の考え方に近いものであることをここに言及しておこう。デカルトが不毛な思索を拒否し、『人生に大いに役立つ知識』を熱望したことは、ファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの根幹をなす要点を思い起こさせる。セルジュ・ユタン(Serge Hutin)はこう指摘している。『「秩序だてて疑うこと」、体験を強調すること、迷信と戦うことの必要性などについては、このような観点はバラ十字思想の一般的なものの見方に極めてよく合っている。』また多くの点で、とりわけ直観と推論がお互いに補い合う役割をしていることや松果腺の機能に関してはデカルトの思想は、近代バラ十字思想の理論に非常に近いこともここに記しておこう。ルネ・デカルトは文字通りの意味においてはバラ十字会員ではなかったが、それでもなお我々は、デカルトがその生涯の一時期にバラ十字会員に関心を抱いていたという範囲において、彼はバラ十字会員であったと考えたい。デカルトのこの関心は彼に哲学体系を完成させた成熟過程によるものだった。
奇妙なことにルネ・デカルトは晩年、バラ十字会の擁護者であった、不運な王フリードリヒ5世の王女エリザベスのたいへん親しい友人であった。事実、エリザベス王女はデカルトの弟子の一人になったのだった。哲学者デカルトが彼女に献上した著作の中には、『哲学の原理』(Principia,1644)や『情念論』(Treatise on the Passions)があった。三十年戦争を終わらせるウェストファリア条約(1644)が締結された後、王女はボヘミアの領地を取り戻し、デカルトを近くに住むように招いた。しかし不運にもこの哲学者はクリスティーナ女王に招かれたスウェーデン宮廷で1650年の2月にその生涯を閉じ、この計画は実現しなかった。 

 

バラ十字会は、イングランド国内で並外れた発展を経験した。しかしそれでもヨーロッパが社会的に落ち着いていた時期に起こったヘルメス思想運動よりは比較的控えめであった。しかしながらジョン・ドゲット(John Doget,15C)は、ヘルメス錬金術大全が英国に与えた影響の大きさと、キリスト教カバラ研究家のフランチェスコ・ディ・ジョルジ(Francesco di Giorgio)がヘンリー8世の時代に大いに名声を博したことを明らかにした。実際ヘンリー8世は、アラゴンのキャサリン(Catherine of Aragon, ヘンリー8世の最初の妃)と離婚するための議論に役立つ宗教上の文献をジョルジに探させて、あてにしていた。一方キャサリン妃のほうは、コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパに助けを求めた。トマス・モア卿(Sir. Thomas More, 1478-1535)がピコ・デラ・ミランドラの著作に熱中したにもかかわらず、ルネッサンスのヘルメス思想が英国に影響を与えたのはエリザベス1世の統治時代だけであった。その主だった支持者は、外交官で文人でジョルダーノ・ブルーノの友人であるフィリップ・シドニー卿(Sir. Philip Sidney, 1554-1586)、航海者で文筆家でヱリザベス1世の寵臣ウォルター・ローレー卿(Sir. Walter Raleigh, 1552?-1618)、数学者のトマス・ハリオット(Thomas Harriot, 1560-1621)、そしてジョン・ディー(John Dee,1527-1608)たちであった。コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの著作に強く影響を受けていたディーは、エリザベス朝ルネッサンスの真の指導者であった。ディーが秘伝主義の蔵書を豊富に所有しており、女王は彼の書斎を好んで訪れていた。
エリザベス1世の君臨期間に、今日のイギリス文学にも痕跡がみられるほどの秘伝哲学の論争が起こった。例えば、偉大な詩人エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser,1552?-1599)の『妖精の女王』や『四つの賛美歌』はルネッサンスの新プラトン主義とキリスト教カバラ思想に影響されていた。この運動には、クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe,1564-1593)などの反対の立場をとる者がいて、彼の戯曲『フォースタス博士の悲劇的歴史』(The Tragicall History of Dr.Faustus)はヘルメス思想を弾劾するものであった。この戯曲の主人公はアグリッパの弟子として悪魔的な魔術を行っている役であった。この劇は大成功を収め、また同じように成功した『マルタ島のユダヤ人』(The Jew of Ma1ta,1592)はユダヤ人批判を通じてキリスト教カバラ思想の欠点を指摘していた。ベン・ジョンソン(Ben Jonson, 1573-1637)も戯曲『錬金術師』(The Alchemist,1610)でヘルメス思想を攻撃した。一方ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare,1564-1616)は、マーロウの『マルタ島のユダヤ人』に応える形で『ヴェニスの商人』を書き反対の立場をとった。このシェークスピアの作品の中には、フランチェスコ・ジョルジの『世界の調和について』から影響を受けたと見られるものがある。また、『お気に召すまま』や『テンペスト(あらし)』(1611)を含むいくつかの他のシェークスピア作品もそうであったが、これらはコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの『秘伝哲学』(De Occulta Philosophia)から影響を受けていた。『テンペスト』はジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒ5世の結婚の祝祭期問中に上演された。バラ十字の歴史研究の大専門家フランセス・イェーツは、この劇は紛れもなくバラ十字宣言書であると考えていた。 
フランシス・ベーコン

 

バラ十字運動の発端について語る時、イングランドの大法官で哲学者であったフランシス・ベーコン卿(Francis Bacon,1561-1626)の名が頻繁に出てくる。ベーコンとバラ十字との関連を調査考察している数多くの著述家たちの中でも、非常に多くのバラ十字思想の著書を書いたジョン・ヘイドン(John Heydon)が一番最初であったが、彼の仮説はしばしば行き過ぎていた。ヘイドンの著書『世界の驚異へと導く道の聖なる案内人』(The Holy Guide 1eading the Way to the Wonder of the Wor1d,1662)は、『バラ十字会員の島への航海』(The Voyage to the Land of Rosicrucians)という物語を含むが、この物語はベーコン卿のニュー・アトランティス(New Atlantis)の翻案である。それはファマ・フラテルニタティスからの様々な要素を組み込んでおり、ベーコンが言及していた「ソロモンの館」を「バラ十字会員の殿堂」にするのに何の躊躇もしていないのである。2世紀後、ジャン=マリー・ラゴー(Jean-Marie Ragon)は著書 Nouveau Grade de Rose-Croix(1860)の中でフランシス・ベーコンの様々な観念を「バラ十字会または北の教養人」の源泉にしていた。また、大きな流れとなる程の大勢の著述家たちが、ベーコンがシェークスピア劇を書いたのであることを示そうと最善を尽くしてきている。これらの中で調査を最も徹底的に行ったのは、おそらく『ベーコンとシェークスピアとバラ十字会員』(Bacon, Shakespeare, and the Rosicrucians,1888)を書いたウィグストン(W.F.C. Wigston)であったと思われる。ウィグストンの考えは、ヘンリー・ポット夫人(Mrs. Henry Pott)の『フランシス・ベーコンと彼の秘密結社』(Francis Bacon and his Secret Society, 1892)や、その他数多くの著述家たちによって繰り返し述べられていた。しかしながら、いくつかの興味深い所見を別にしても、後者の思索はしばしば大胆すぎていた。 
神智学協会(The Theosophists)

 

神智学協会の会員たちは、とはいえそのような仮説にはたいへん好意的だったのであり、むしろ次から次へと豊かにして普及させた。このようにして、『師たち』(The Masters, 1912)の中ではアニー・ベサント(Annie Besant)が、フランシス・ベーコンはクリスチャン・ローゼンクロイツの生まれ変わりの一人であり、ハンガリーのラコーツィ王家が発生の起点であった、そしてサン・ジェルマン伯爵も属していた一つの入門形式の組織の系統の会員のうちの一人であったとの考えを提示した。ベサントの会員仲間の一人、マリア・ルーザック(Maria Russak)はすぐその後に、そのような考えを繰り返す連載記事を雑誌『ザ・チャネル』(The Channel)に載せた。同様の方針をもう一つの著作に見出すことができ、フリーメーソン会員で神智学会員とも親しかったレ・ドロワ・ユメー(Le Droit Humain, 正しい人間の意)によって出版された『バラ十字会員』(The Rosicrucians, 1913)の中では、クラーク(H. Clarke)とキャサリーン・ベッツ(Katherine Betts)がフランシス・ベーコンがバラ十字宣言書を書いたのだと主張していた。バラ十字運動におけるフランシス・ベーコンの役割についてのあらゆる説を普及させるのに最も貢献したのは、神智学協会員でベルギーの政治家フランツ・ヴィッテマン(Franz Wittemans)であった。彼の著書『バラ十字の歴史』(Histoire des Rose-Croix, 1919)は、興味深い諸要素と大変論争的な立場を混合したものを提示している。彼はここでウィグストンやポット夫人、スペックマン博士、E.ウドニー(E. Udny)や、某神智学協会員の説を繰り返していた。
ポール・アーノルド(Pau1Amo1d)もフランセス・イェーツも、ウィグストンの提示した論争点をやわらげて、もっと現実的な見解を採用した。この数十年間に亘るバラ十字の歴史研究家たちの様々な発見によって、バラ十字会の起源はよりよく理解されるように真になってきており、フランシス・ベーコンがファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの著者であったという考えは時代遅れのものとなってきている。しかしながら、このことは我々が17世紀のバラ十字運動の中にこのイギリスの哲学者を位置付けることを妨げるものではない。ある意味で、ベーコンは〈バラ十字の理想〉を普及させることに最も成功したうちの一人であった。ある人々がベーコンを17世紀のバラ十字思想における最重要人物の一人であると見なしたのはこのためであったことは、疑う余地がない。
更に、フランセス・イェーツは著書『バラ十字の啓蒙』(Rosicrucian Enlightenment)の中で、フランシス・ベーコンはあえて様々な点において17世紀のヘルメス思想から距離を置き、とりわけパラケルススの思想に反対の立場を取り、人間は小宇宙であるとする概念を拒絶したが、それでも依然としてバラ十字思想に強く影響され続けていたと述べている。バラ十字運動の真の支持者として、ベーコンは諸科学の改善計画〜それはすぐにロイヤル・ソサエティー(英国王立協会、すなわち英国王立学術協会の創設へとつながる)を通じて新たな表現を与えたのだった。 
『新機関』(Novum Organum)

 

フランシス・ベーコンの諸計画の元は父ニコラス・ベーコンにあったことは疑うべくもない。ヘンリー8世がローマ・カトリック教会から離脱した後、父ベーコンは大学改革の仕事に任命された。息子フランシス・ベーコンはエリザベス女王に説得を試みた後、諸科学を改革する計画にジェームズ1世を巻き込もうと試みた。ベーコンは著書『学問の促進』(Advancement of Learning,1605)の始めの方に次のような説得力ある王への献辞を載せた。「もし、ある君主が科学の要約を熟考されたり、あるいはその単純な要点をお飲みこみになられたり、あるいは学問を愛されてご賛助されるお時間を得るようにされたならば、それは正に偉大なことになると思えるのですが、特に王としてお生まれになった陛下が、学問の真の泉から知識をお飲みになっておられ、そう、むしろ、陛下ご自身の中に学問の源を持っておられたとすると、それはまさしく奇跡に他なりませぬ。そして更には、陛下のお心の中には聖なる知識と世俗の知識の財宝すべてが結合していることから、陛下はヘルメスのように三重の栄光を纏っておられ、それらは君主の力と区別できない程の偉大さであり、僧の啓示にも哲学者の知識にも劣らないのであることと存じ申しあげております。」ベーコンが設定した計画は、学問の復活だった。べ一コンは学問がもはや暇つぶしの思索の対象ではなく、人類に繁栄と幸福をもたらすための真の道具となることを望んだ。その著書の中で彼は、人類全体に最大の恩恵が得られるようにお互いの知識を交換し合うため、あらゆる国から学問のある人々が集う友愛組織の創設を提案した。この概念はファマ・フラテルニタティスの目的を思い起こさせる。 

 

フランシス・ベーコンは、諸科学を総合的に調査研究する公共団体の設立を望んでいた。そして合理的で秩序だてて機能している研究所の数々を見たいと願っていた。ベーコンの計画は、すぐその後に形成された数々のアカデミーの原型であったと言えよう。彼は古代からの演繹論理学を、新しい論理的思考法、つまり経験主義と帰納論理的なものに替えようと望んだ。学究者の態度を象徴的に表現するのに、彼は蟻と蜘蛛と蜂のイメージを使った。最初の蟻は蓄積し(経験主義哲学)、二番目の蜘蛛は網の中に封じ込め(合理主義哲学)、三番目の蜂はあちこちから花粉を集めてきて蜜を作る(二つの哲学の調和)のであった。『バラは蜂に蜜を与える』とロバート・フラッドも同様の象徴を使って述べていた。イギリスの錬金術師トマス・ヴォーン(Thomas Vaughan)もこのことを、ローマの詩人ウェルギリウス(Virgil)によると蜂たちには最高天から放射されている聖なる叡智のわずかな痕跡があると指摘していた(Anthroposophia theomagica,1650)。フランシス・ベーコンは、その根幹をなす著作『新機関』(Novum Organum,1620)ではアリストテレスの古代ギリシアの論理学を排除しようと望んでいた。彼の慎重さと気質に基づいて、著作の中には秘伝哲学的なものはほとんど許されていなかったことは疑うべくもないとここで述べておかなくてはならない。
しかしながら、フランシス・ベーコンは彼の学問の改革を押し進めることはできなかった。1601年にベーコンの支援者エセックス伯が女王の不興をかって失脚するという最初の不首尾があったにもかかわらず、ベーコンは新王ジェームズ1世の信頼を得た。1617年に国璽官となった後、翌年にはイギリスで臣下として最高の地位である大法官にまで登りつめ、ヴェルラム男爵となった。彼の出世は1621年に中断されたが、それはセントオールバンズ子爵になってすぐに、醜聞の犠牲となり権力ある地位から完全に排除されてしまったからであった。彼が『ニュー・アトランティス』(New At1antis)を書いたのはこの時期である。ベーコンは諸研究団体についてのアイデアを推進させることは出来なかったが、その心を生涯に亘って占めていた主題を理想郷の物語の形で繰り返していた。 
ニュー・アトランティス

 

この本は、ペルーを発って中国と目本に向けて航海しようとした旅行者たちを物語っている。悪天候により彼らの船は沈んだ。食料が底をつき、死が近いことを覚悟し始めた時、ついに見知らぬ島を発見する。彼らが島に到着し下船しようとすると、何人かの役人がやってきて、彼らの投宿に関して必要条件が書いてある巻物を渡した。もし彼らがこの国に上陸したいのであれば「異人館」に逗留することに同意しなくてはならなかった。この書類には十字に智天使ケルビムの翼のついた封印がつけられていたが、これはファマ・フラテルニタティスの終りにある表現を思い起こさせた。『エホバよ、汝の翼の下に』である。この島国はベンサレムと呼ばれており、知恵と知識を結合させて成功している一風変わった人々が暮らしていた。学問はこの国の住民にとって目的であるとともに国の社会構造の基本原理をなすものであった。人々は知識の『大いなる復興』を成し遂げていたようであった。彼らは「アダムの陥落」以前の天国のような状態を再発見しており、それはフランシス・ベーコンと一連のバラ十字宣言書が予見していたものであった。旅行者たちは『異人館』に逗留した。まもなく一人の外交官がやってきて、この国は「ソロモンの館」あるいは「天地創造の六日間の聖職者団体」によって統治されていると説明した。このほのめかしは、コンフェシオ・フラテルニタティスの中にある、時代の終末がやって来る前にバラ十字会員たちが『第六番目のろうそく』を灯す祝福された時を思い起こさせる。「〈ソロモンの館〉は・・・、物事の諸原因と秘密の運動を知り、可能な限りの物事の全てを認識するために、人間の王国の境界線を拡大させるという目的をもっていた。」この僧侶・科学者集団は巨大な研究所をいくつも持ち、科学と同様に農業、畜産、医学、機械学、芸術(絵画・彫刻・建築)などの研究に従事していた。そして研究の成果の恩恵は、繁栄と平和のもとに統治されたこの科学の楽園の全ての住民にもたらされていた。
『ニュー・アトランティス』の核心は、学問の豊かな科学の財産と島国ベンサレムでの暮らしの社会組織について述べていた。この比較的短めの文献は未完成のままであった。これは作者の死後一年すぎた1627年にベーコンの牧師であったウィリアム・ロ一リー(William Rawly)によってやっと出版された。この文献にもベーコンの他の著作にもバラ十字会員(Rosicrucian)という名前は出てこないが、様々な個所からバラ十字の影響を感じ取ることが出来る。この類似点については、多様な著作を通じてこのつながりを強調しつづけていたジョン・ヘイドンの指摘から免れることはできなかった。フランシス・ベーコンはファマ・フラテルニタティスが既に手稿の形で出回っていたことを知らなかったはずはない。ここで、ベーコンは1613年にバラ十字会の擁護者ジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒの結婚の祝祭に関係していたことを思い出さねばなるまい。実際、フランシス・ベーコンはこの時に余興として『神殿法学院とリンカン法学院の仮面劇』を着想していたが、これは結婚式の翌日に上演された。 
英国王立学士院(The Royal Society)

 

フランシス・ベーコンの没後何年もたたないうちに、諸科学を改革する彼の計画は、英国王立学士院(The Royal Society)に具体的手段を見出した(1660)。1645年には、内戦の真最中に、この学士院の創立をもたらした諸会合が開催されていた。この会合の中心となった参加者の中には、「白い山の戦い」の大惨事から逃げたプファルツからの避難民たちが多く含まれていた。その中には、テオドール・ハーク(Theodore Haak)や、プファルツ選帝公付き牧師であったジョン・ウィルキンズ博士(Dr. John Wilkins)などがいた。ウィルキンズはバラ十字宣言書(manifestos)に述べられている概念を熟知していた。ウィルキンズは、ロバート・フラッドとジョン・ディーの著作に影響を受けて書いた本『数学的魔術』(Mathematical Magick, 1648)の中に、ファーマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスを引用していた。このようなことから、この同じグループのメンバーであったロバート・ボイル(Robert Boyle)が、これらの会合について議論した書簡の中で、バラ十字会員たちを言い表すのに当時よく使われていた『見えざる大学』(Invisible College)という表現を使っていたことは、全く驚くにはあたらない。また、英国王立学士院の創設メンバーで錬金術の熱心な愛好家であったロバート・モーレイ(Robert Moray)が、トマス・ヴァーン(Thomas Vaghan, 1622−1666)の後援者であったことは、興味深い。ヴァーンはユージェニウス・フィラレテス(Eugenius Philalethes)のペンネームで、1652年に『〈声明〉と〈信条告白〉』(The Fama and Confessio)という題名でファーマとコンフェシオの英訳を出版した。
これらの思索家たちは、それまでの彼等の先輩たちからの哲学的そして宗教的遺産に終止符を打つことを望んでいたのであった。1660年にこのグループの諸会合から王立学士院が生まれた。フランセス・A・イェーツが指摘していたように、王立学士院の主たる目的は科学の発展であつたのだが、つまり普遍的改革あるいは博愛と教育を目的としていたのではなかったが、フランシス・ベーコン自身が触発されたバラ十字の理想の一部を採用した。トマス・スプラット(Thomas Sprat)は、その著書『英国王立学士院史』(History of the Royal society, 1667)の中ではこのことを理解していたと思われる。この本の口絵には、イングランド国王チャールズ2世の胸像が、王立学士院初代会長ウィリアム・ブラウンカー(William Brouncker)とフランシス・ベーコンの間に描かれている。哲学者の上にある翼は、バラ十字の語句『エホバよ、あなたの翼の陰の下に』を思い起こさせる。この版画を製作したジョン・エヴェリン(John Evelyn)は、もともとボヘミア出身であった。) 
コメニウス(Comenius)

 

王立学士院の創設に関わった人々の中には、ボヘミアのバラ十字運動に直接関わっていた著名な人物が数多く含まれていた。中でも最も魅力的な人物の一人に、チェコスロヴァキアの哲学者で教育者で著述家であり、むしろコメニウスとしてよりよく知られていたヤン・アモス・コメンスキー(Jan Amos Komensky, 1592−1670)がいた。コメニウスは21歳の時、生まれ故郷のモラヴィア(Moravia, チェコ東部)を去りハイデルベルク(Heidelberg, ドイツ南西部)へと移り研究を続けた。彼は次にフリードリヒ5世とエリザベス妃の戴冠式に出席した。コメニウスは生涯を通じてこのハイデルベルクの王と王妃を支持し、「白い山の戦い」(1620)の悲劇の後でさえもフリードリヒ5世が再び王座に復活する希望を抱きつづけていた。「白い山」の悲劇の後でコメニウスの家は焼かれて彼は逃げ出さなければならなかった。そしてその後すぐに妻子を失ってしまった。ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエと友人であったコメニウスは、バラ十字宣言書に詳細に述べられていた改革計画に熱心になっていた。彼の著書『世界の迷宮と心の楽園』(”The Labyrinth of the World and the Paradise of the Heart”, 1623)は、チェコスロヴァキアの偉大な古典文学であり、ある人々によると世界的古典文学でもあるが、この作品は彼がバラ十字思想にかけ続けていた希望を思い起こさせている。この本の内容は、一人の理想家が三十年戦争の勃発によって全ての期待を打ち壊されてしまった話である。第12章は「その巡礼者はバラ十字会員の証人となっている」と題されており、コメニウスはこの中で、1621年のフリードリヒ王の治世の終りに続いた大惨事とそして彼の失脚によって、バラ十字運動によって着手された改革計画について隠された表現で述べたのであった。友人アンドレーエの「クリスティアナポリス」やトマゾ・カンパネッラの「太陽の都市」の理想郷とは対照的に、コメニウスは科学や雇用など万事がうまくいかなくて、そこでは人が平安と知識つまり『心の楽園』を見出せる所は全くどこにもない都市を描いたのだが、これも理解できるのである。コメニウスは、全ての剣が鋤に、あらゆる槍が刈り込み鎌に打ち直される時が来ることを夢みはじめたのであった。  
汎知主義(The Pansophy)

 

この悲惨な時期によって、コメニウスは教育の重要性について深く考えさせられていた。バラ十字宣言書の中に描き出されていた普遍的改革計画の諸アイデアが多分、コメニウスが計画していた大宇宙と小宇宙の関係に基づく汎知(Pansophia)あるいは「普遍的知識」の体系を発生させるのに貢献したところが大きかったといえよう。その当時、コメニウスは彼の主要著書のうちの一冊、『万人に教えられた全ての事柄の普遍的芸術』(Didactica Opera Omnia or the Universal Art of Everything Taught to Everyone, 1627−1632)を書いていた。この文献は哲学的側面と神秘学的側面の部分と、そしてもう一つの教育学的手段とその道具について述べていた部分からなっていた。要するに、コメニウスは教育学を省察することだけに夢中になっていたのではなく、その成果にも関心を持っていたのだった。コメニウスは彼の理論を普遍的歴史の中に含め、そして彼は人間が〈アダムの陥落〉後に失ってしまった純粋さを取り戻すための解決策は教育にあると見ていた。それは人が永遠の生命.にむけて準備できる最良の手段であった。従って彼は全ての人間が、いかなる境遇であろうと、この教育を受けられることを望んだ。この著作の後にヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『勧告』(Exhortaion)という小論が続き、これはコメニウスによって提案された方法を全ての人々が採用するように奨励していた。
何年もの放浪生活を余儀なくされた後、コメニウスはハイデルベルグ大学の学友であったサミュエル・ハートリッブ(Samuel Hatlib)から教育的改革と博愛主義団体の組織作りの彼の計画に参加するためにイングランドへ行くようにと誘われた。フランシス・ベーコンに心酔していた二人は、白分たちがベーコンの『ニュー・アトランティス』を建設する任務を帯びているのだと感じていた。コメニウスはイングランドで『光の道』(”The Way of Light”,1641)を書いたが、バラ十字宣言書のテーマがあまりにも明白に表されていたので、ある歴史家たちからは『コメニウスのファーマ』と呼ばれていた。コメニウスは1660年にアムステルダムで出版された版の序文には、英国王立学士院の会員たちは〈イルミナティ〉であるとまで述べていた。  
光の大学(The College of Light)

 

1645年に開始して、コメニウスは彼の仕事の最高峰ともいえる『人類の諸問題改革についての普遍的協議』(The Universal Consultation on the Reform of Human Affairs)の起草に着手した。この著作の中心的概念となっているのはすなわち、繁栄と平和の時代を築くためには適切な改革が必要であるということで、これはバラ十字宣言書の基本的概念を思い起こさせる。この著作は七部に分けられることになっていたが(そのうちの二部が完成されたのみであった)、この数字の象徴的重要性はこの論文の範囲を超えている。この七つの部それぞれには接頭辞pan(Panegersia, Panaugia, Pansophia, Panpedia, Panglossia, Panorthosia, Pannuthesia)が付けられており、普遍性を強調していた。これらは人類に〈天地創造〉における自身の地位を省察させ、〈普遍的光〉を沈思黙考させ、〈普遍的叡智〉に接するようにさせ、〈普遍的言語〉を採用させ、全ての人々に教育を奨励するなどの独特の科学体系であった。彼はまた、新しい世界の組織として、それぞれの国々が三つの組織〜〈光の大学〉と〈聖なる評議会〉と〈国際的平和裁判所〉〜に直接指導されることを提案した。これら三つの組織は、何世紀も後に成立した国連やユネスコといった大きな国際的組織団体の原型となったといえる。ヤン・コメニウスはほとんどの仕事をなんとか完成させていたが、その完遂に至る前に没した。
バラ十字運動はコメニウスを通じて、教育を理解するための新しい方法を確立するのに貢献した。ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)は、コメニウスのことを『教育学におけるガリレオ』と評した。コメニウスに深く敬服していた教育学者ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)は、コメニウスを教育学、心理学、教訓学、そして学校と社会との関係学における先駆者だと考えていた。コメニウスは、その人道主義によって世界的に賞賛され尊敬されている。1956年の12月、ユネスコはコメニウスに公式に敬意を表明した。その時の総会では、コメニウスはユネスコ創設の時にこの組織のきっかけとなるアイデアを提議した先駆的な人物の一人であると紹介された。 
啓発(The Enlightenment)

 

お気づきのように、バラ十字宣言書には当時の哲学者たちが関わっていくようになり、ヨーロッパ文化の発展に一役買っていたのだった。この時代の後で、秘伝哲学と哲学と科学(学問)は道を分かち、一方では啓発思潮(Enlightenment)が、もう一方では啓蒙運動(Illuminism)が起こった。これらの接点において、後に西洋秘伝哲学派として長らく特徴付けられることになるいくつかの大きな流派が起こってきた。これ以前には秘伝哲学の支持者たちは、真に組織化された社会的運動ではなく緩やかな集まりを形成していたにすぎなかった。しかし今や、バラ十字会やフリーメーソンなどの入門儀式形式の組織が出現し、入門儀式を受けることができる数多くのロッジが組織された。  
 
グローティウス「戦争と平和の法」「献辞」「序論・プロレゴーメナ」

 

「グローティウスの略歴」1
フーゴー・グローティウスHugo Grotius; Huig van Groot(1583~ 1645)は、オランダ(ホラント州)、デルフトの裕福なプロテスタントの家に生まれた。父親はリプシウスについて哲学を学んだ教養人であった。当時のオランダは、ホラント州を主力とする北部七州にフランドル、ブラバントの二都市を加えたいわゆる「ユトレヒト同盟」が結成され(1579 年)、スペイン国王の支配を拒否する宣言が決議された(1581 年)直後であった。この宣言を契機として本格化した「オランダ独立戦争」は、ヴェストファリア条約(1648 年)によってオランダの独立が承認されるまで、約80 年間にわたって、断続的に行われた。したがって、グローティウスは、オランダ独立戦争の開始と共に生まれ、オランダ独立戦争の推移を外国から見つめながら、しかし、祖国の独立を目撃することなく、生涯を終え たことになる(ちなみに、南部諸州は独立戦争を拒否してスペインの統治下にとどまり、1815 年のウィーン条約でネーデルラント連合王国に併合された。しかし、1830 年にネーデルラント王国からの独立を宣言して、1831 年にベルギー王国となった)。
グローティウスは、早熟かつ天才的な少年で、すでに7 才の時にラテン語の詩を書いたといわれる。かれは、父親から人文主義的古典学およびアリストテレース哲学について教育を受け、12 歳でレイデン大学に入学した(大学入学前に、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を使いこなせるようになっていた)。大学では法律学を専攻した。そして、1598 年、15歳のとき、かれの才能を高く評価したフランス駐在オランダ大使によってオランダ代表団の一員に加えられて渡仏し、フランス国王アンリ4 世に拝謁した。そのとき、グローティウスは、アンリ4 世にラテン語の即興詩を献げ、アンリ4 世が「見よ、このオランダの奇跡を」Voilà le miracle de Hollande ! と賞賛して褒美を賜ったと伝えられる。グローティウスは、その後も単身フランスにとどまり、オルレアン大学で再度法律学を学び直して、1599 年に同大学から「両法博士」の学位を与えられた。
1599 年にオランダに帰国したグローティウスは、ハーグで弁護士を開業した。1601 年には、オランダ歴史編纂員に就任している。これが、グローティウスの最初の公職歴である(このときの研究成果は、「バタヴィア国家古事記」De Antiquitate Reipublicae Batavicae, 1610. として刊行された)。グローティウスは、その後、1607 年にホラント州財務訴訟官、1613 年にロッテルダム行政長官などの公職を歴任した。また、1613年には、航海および通商の自由について協議するために、オランダがイギリスに派遣した使節団の一員としてイギリスに渡り、イギリス国王ジェイムズ1世にオランダの複雑な宗教事情を説明して、オランダに対するイギリス国王の支援を求めている。
しかし、ホラント州では、1618 年に、総督マウリッツMaurits van Oranje(1567~1625; 1587 年総督就任) と最高指導者オルデンバルネフェルトJohan van Oldenbarnevelt(1547~1619)との対立が激化して、マウリッツによるオルデンバルネフェルト派(かれらは、オランダの宗教改革者アルミニウスJacobus Arminius, 1560-1609. の教説を支持する、いわゆるアルミニウス派と見られていた。アルミニウス派は、カルヴァンの予定説を批判し、人間の自由意思を容認する、いわばリベラルな改革派である。後に抗議派emonstrants とも呼ばれた)に対する弾圧が始まり、グローティウスもその一味であるとの嫌疑をかけられて逮捕された。そして、翌年、終身刑の判決を受け、ローフェシュテイン城に拘禁された。ところが、グローティウスは、1621 年に、妻マリアの機転でこの城から脱出し、いったんアントウェルペンに逃れた後、さらにパリに亡命した。
フランス国王ルイ13 世はグローティウスを保護し、かれに3000 リーブルの年金を約束した。しかし、この約束はほとんど実行されなかった。このため、グローティウスは、パリで、生活費にもこと欠く耐乏生活を余儀なくされた。そのような生活を送りながら書かれたのが、「戦争と平和の法・三巻」De iure belli ac pacis libri tres, Paris 1625. である。グローティウスは、その後1631 年に、いったんオランダに帰国するが、オランダはかれを受け入れなかった。このため、かれは、数ヶ月間オランダに滞在しただけで、ハンブルクに移住した。そして、1635 年以後ふたたびパリに戻り、駐仏スェーデン大使の職を得て、さらに11 年間パリで生活した。そして、1645 年に、任務修了の儀礼訪問のためスェーデンに向かう途中で海難事故に遭い、ロシュトックで死去した。
グローティウスには多数の著作があり、主著とされる「戦争と平和の法・三巻」のほかにも、次のような作品が知られている。「インディオについて」De Indis, 1604/1605(本書は、もともと、その一部が出版されただけであったが、その全体が、1868 年に、「捕獲法論」De Iure Praedae として刊行された。この書の第12 章が「自由海論」Mare Liberum である。「自由海論」は、その一部が1608 年に刊行され、1864 年に全体が発見された)、「キリスト教の真理について」De veritatereligionis Christianae, 1627(グローティウスが獄中にあったとき、中国やギニア、トルコ、ペルシャなどの非キリスト教国に出向く船員を主たる対象として、オランダ語で著した「真の信仰に関する証明」Bewys van den Waren Godtsdienst を改訂増補し、自らラテン語に翻訳して、パリで出版した作品)、「オランダ法学入門」Inleydinge tot de Hollantsche rechtsgeleertheit, 1631,「宗教事項に関する最高支配権について」De imperio summorum potestatum circa sacrea, 1647.
【注】
1. グローティウスの「戦争と平和の法・三巻」については、研究論文集として、大沼保昭編「戦争と平和の法」、東信堂、1987 年(補正版1995 年)があり、グローティウスの生涯およびかれの作品に関する解説に、柳原正治「グロティウス」、清水書院「人と思想178」、2000 年がある。これと比較すれば、「グローティウスの略歴」はいわば蛇足である。しかし、本文とくに「献辞」を読むためには、グローティウスの生涯に関する最低限度の知識が必要となる。そこで、本稿に、あえて蛇足を付け加えることとした。 
 
 「戦争と平和の法」目次

 

第一巻 

 

第1 章 「戦争とは何か。法とはなにか」
 1. 叙述の順序
 2. 戦争bellum の定義、および戦争という名称の起源
 3. 法は行為の属性として説明され、支配者的な法[支配者と被支配者との間の法]ius rectorium と平等者間の法ius aequatorium とに区分される
 4. [道徳的]資格qualitas としての法ないし権利は、権能facultas と適性aptitudo とに区分される
 5. 権能または厳密な意味の法ないし権利は、[自分自身または他人に対する]権力、所有権、債権に区分される
 6. 権能のもう一つの区分。通常の権能と卓越した権能
 7. 適性とはなにか
 8. 補完的正義iustitia expletrix と帰属的正義iustitia attributrix について。これらは、幾何学的比例と算術的比例によっては適切に区分されないこと。また、帰属的正義が共通のものに、補完的正義が個別のものにかかわるわけではないこと
 9. 法は規則regula と定義され、自然法ius naturale と意思法ius voluntarium とに区分される
10. 自然法の定義、区分、および本来自然法とはいわれないものとの区別
11. 本能は、それがほかの動物と共通のものであろうと、人間に固有のものであろうと、それによって、もうひとつ別の種類の法が作られるわけではない
12. 自然法はどのような仕方で証明されるか
13. 意思法は人法ius humanum と神法ius divinum とに区分される
14. 人法は、国法ius civile、それよりも狭い範囲の法、そしてそれよりも広い範囲の法すなわち諸国民の法ius gentiumに区分される。これらについての説明、また、これらはどのような仕方で証明されるか
15. 神法は普遍的[神]法と一国民に特有の[神]法とに区分される
16. 外国人がヘブライ人の[律]法によって義務づけられたことは、かつて一度もなかった
17. キリスト教徒はヘブライの[律]法からどのような論拠を求めることができるか。そしてそれはどのような仕方でか
第2 章 「戦争をすることが正しいとされるときが、いつかあるか」
 1. 自然の法は戦争と矛盾しない。このことがいくつかの論拠によって証明される
 2. 歴史による[証明]
 3. 一致した見解による[証明]
 4. 諸国民の法は戦争と矛盾しないことが証明される
 5. 福音の時代以前の神意法は戦争と矛盾しない。このことが、異論に対する解答とともに証明される
 6. 戦争は福音の法と矛盾するか。この設問のための予備的注意
 7. 否定的な見解のために、聖書から導き出される論拠
 8. 肯定する側のために聖書から導き出される論拠と、それに対する解答
 9. このことに関する初期のキリスト教徒たちの一致した見解が検証される
第3 章 「 戦争は公戦と私戦とに区分される。最高支配権の説明」
 1. 戦争は公戦bellum publicum と私戦bellum privatum とに区分される
 2. 自然法によれば、裁判[制度]が樹立された後でも、すべての私戦が非合法とされるわけではない。このことが、いくつかの範例を付して弁護される
 3. なんらかの福音の法によっても[すべての私戦が非合法とされるわけではない]。このことが、反対論に対する解答とともに[検証される]
 4. 公戦は盛式な戦争bellum publicum solemne と盛式度の低い戦争とに区分される
 5. 最高権力をもたない執政官magistratus の権威に基づいて行われる戦争は公戦か。そして、それはどのような場合か
 6. 国家の統治権potestas civilis は何からなり立っているか
 7. 最高権力summa potestas とはなにか
 8. 最高権力はつねに人民のもとにあるとする見解が退けられ、その論証に解答が与えられる
 9. 国王と人民の間にはつねに相互の服従関係があるとする見解が退けられる
10. 正しい見解が正しく理解されるために、いくつかの注意事項が示される。第一は、ことがらが等しくない場合に、類似の用語が区別されなければならないことについて
11. 第二は、権利と、権利を保有する仕方とが区別されなければならないことについて
12. いくつかの最高支配権summum imperium は完全な仕方で、すなわち譲渡可能な仕方で保有されることが明らかにされる
13. いくつかのものは不完全な仕方で保有される
14. いくつかの最高ではない支配権も、完全な仕方で三すなわち譲渡可能な仕方で保有される
15. いま述べた区別は、王国において摂政ないし後見人を任命するときの方法の相違から確認される
16. 最高権力はいかなる約束によっても失われない。ただし、その約束が自然法または神法に属するものであるときは、この限りでない
17. 最高支配権は、ときには、従属的部分と優越的部分とに区分される
18. しかし、この結論を、国王は、ある集会の承認がなければ、自らのいくつかの行為を認証されたものとすることを欲しない、ということから導き出すのは誤りである 
19. この結論は、その他のいくつかの範例からも、誤って導き出されている
20. 正しい範例  
21. 不平等な同盟条約foedus によって拘束されている者も、最高権力を保有することができる。このことが、反対論に対する解答とともに[明らかにされる]
22. そして、貢納の義務を負う者も
23. さらに、封建法によって拘束されている者も
24. 権利と権利の行使の区別。このことが、範例とともに[説明される]
第四章 「下位の者が上位の者に対して行う戦争について」
 1. 問題の性質 
 2. 自然の法によれば、上位者に対する戦争は、上位者が正規のordinarie 上位者である限り許されない
 3. それは、ヘブライの[律]法によっても許されていない
 4. なおさらのこと、福音の法によっても許されない。このことが、聖書から証明される
 5. また[このことが]、初期のキリスト教徒の行いによって[証明される]
 6. 下位の執政官が最高権力[者]に対して行う戦争は適法であるとする見解が、いくつかの理由および聖書に基づいて反駁される 
 7. もし必要性が最高度のものであり、ほかに避けようがないものである場合には、どのように考えられるべきか 
 8. 自由な国民には、その元首に対する戦争の権利が与えられる場合がありうる
 9. 支配権を放棄した国王に対して
10. 王国を譲渡しようとする国王に対して(ただし、この場合には、引渡しを妨げるためのみである)
11. 自らを明白に全国民の敵とした国王に対して
12. 委任の条項に基づいて[=委任の条項に違反したために]王権を喪失した後の国王に対して
13. たんに支配権の一部を保有するにすぎない国王に対して(国王のものではない部分を守るために)
14. もし特定の場合に抵抗する自由が[国民に]留保されているならば
15. 他人の支配権を簒奪した者に対して、どこまで服従しなければならないか
16. 他人の支配権を簒奪した者に対しては、なお継続している戦争の権利に基づいて、実力で抵抗することができる
17. あるいは、従前からの法ないし権利に基づいて
18. また、支配すべき権利をもつ者の委任に基づいて
19. これらの場合以外には、実力で抵抗することはできない。それはなぜか
20. 支配権を巡る抗争においては、私人がその裁定を引き受けてはならない
第五章 「適法に戦争をすることができるのは誰か」
 1. 戦争を[適法に]始めることができるのは、ひとつは、自分のもののために、本人が行う場合である
 2. あるいは他人のもののために[この場合には、補助者として戦争を行う]
 3. またひとつは、手段としてすなわち奴隷ないし臣民として 
 4. 自然の法によれば、何人も戦争[すること]を禁止されていない 
第二巻

 

第一章 「戦争の原因について。第一に、自分自身および自己の財産の防衛について」
 1. 戦争の正しい原因といわれるものは何か  
 2. そのような原因は、防衛、われわれの財産または[他人が]われわれに負っているものの回収、あるいは刑罰から生ずる
 3. 生命を守るための戦争は適法である
 4. ただし、それは攻撃する者に対してのみである
 5. 危難がたんなる風評としてではなく、確実かつ現在のものである場合
 6. さらに、四肢の安全のため
 7. とりわけ貞節のため
 8. 防衛をしないことも許される
 9. 公共のために大いに有用である人物に対する防衛は、ときには、愛の掟のために不適法とされることがある
10. キリスト教徒が、殴打、もしくはこれと類似の侮辱を避けるために、あるいは逃亡されないために[人を]殺害することは、適法ではない 
11. 財産を守るために人を殺害することは、自然の法によれば、違法ではない
12. それは、モーセの律法によって、どの範囲まで許されているか
13. それは、福音の法によって許されているか。その範囲はどこまでか
14. 防衛のために人を殺害することを許す国法lex civilis は、殺害の権利を与えるのか、それともたんなる不科罰性を与えるだけなのか。このことが、区別とともに説明される
15. 個人の闘争はどのような場合に適法とされるか
16. 公戦における防衛について
17. たんに近隣の者の勢力を弱めるためだけの防衛は適法ではない
18. 戦争の正当な原因を与えた者が行う防衛も適法ではない
第二章  「人々に共通に属するものについて」
 1. われわれに属するものの区分
 2. 所有権の起源およびその進展
 3. いくつかのものは所有物とされえない。たとえば、全体として、もしくはその主要部分として把握された海である。それはなぜか
 4. 占有されていない土地は、全体としての国民によって占有されているのでない限り、それを[現に]占有する個人に帰属する
 5. 野獣、魚、鳥は、法律によって妨げられない限り、それを占有する者に帰属する
 6. [個人の]所有物とされた物についても、必要なときには、それを利用する権利が人々にある。これは何に由来するのか
 7. その他の仕方では必要を回避することができないとき、人々はその権利を有する
 8. しかし、占有する者にとっての必要が[人々のそれと]等しい場合は、この限りでない
 9. さらに、原状回復が可能な場合には、原状回復の負担が付加される
10. 戦争[時]におけるこの権利の範例
11. 所有者の利益を損なわないかぎり、人々には、ある[個]人の所有物とされた物を利用する権利がある
12. ここから、流水に対する権利が生ずる
13. 土地および河川を通行する権利も。このことが説明される
14. 通過する商品に対して通行税を課すことができるか
15. 一時的に滞在する権利
16. 自分の居所から追放された者は、[他の任意の地に]居住する権利がある。ただし、その地の支配権に服することを条件とする
17. 荒蕪地を所持する権利。これはどのように理解されるべきか
18. 人間生活が要求する行為をする権利[ここから、行為に対する共通の権利の説明が始まる]
19. たとえば、必要な物を購買する権利
20. しかし、自分の物を売却する権利も、というわけではない
21. 婚姻を締結する権利。このことが説明される
22. 外人に対しても差別なく許されていることを行う権利
23. しかしそれは、なんらかのことが、恩恵に基づいてではなく、自然法に基づいて許されている場合だと理解されなければならない
24. ある国民との間に、かれらが自分たちの穀物をすでに契約した人々に[のみ]売り、その他の人々には売らないという契約が結ばれたとき、その契約は適法か
第三章 「物の原始取得について。そこでは、海および河川について[も説明される]」
 1. 原始取得acquisitio originaria は、分割または先占occupatio によって行われる
 2. ここでは、[たとえば、地役権や質権といった]無体権ius incorporale の承認のような、これとは別の方法による権利の取得は排除される
 3. 同じく加工specificatio[による権利の取得も]
 4. 先占は二重の目的をもつ。すなわち支配のためと所有のためである。その区別が説明される
 5. 動産の先占は、法律によって予めこれを無効とすることができる
 6. 幼児および精神異常者の所有権はいかなる法に基づいているか
 7. 河川は、これを先占することができる
 8. それでは、海はどうか
 9. かつて、ローマ帝国のいくつかの地方では、それ[海に対する先占]は認められなかった
10. しかし自然の法は、海のある部分、すなわちあたかも土地によって囲まれているような部分に対する先占を妨げない
11. そのような先占はどのような仕方で行われるか。そしていつまで継続するか
12. そのような先占からは、無害通行を妨げる権利は生じない
13. 海の一部に対する支配権も先占によって取得することができる。そして、それはどのような仕方でか
14. 海を航行する者に対しては、一定の事由に基づいて、通行税を課すことができる
15. ある国民に対して、一定の境界線を越えて航行することを禁止する協約pactio について
16. 河川の流れが変化すると領土が変わるか。このことが、区別とともに説明される
17. 河床が完全に変わる場合には、どのように考えられるべきか
18. ときには、河川全体がひとつの領土に帰属する
19. 放棄された物は、国民がそれに対してなんらかの一般的所有権を取得しているのでない限り、先占する者に帰属する
第四章 「放棄の推定およびそれに続く先占について。そして、なにが使用取得および時効と異なるのか」
 1. 本来の意味の使用取得または時効が、異なる国民ないしその支配者たちの間で生じないのはなぜか
 2. しかし、これらの人々の間でも、通例、長期間の占有が主張される
 3. その理由は、人間の意思の推定[=権利放棄の推定]に求められている。しかしその推定は、たんに文言だけから導き出されるわけではない
 4. むしろ、行為の結果から
 5. また、不作為からも
 6. 非占有と結びついた時間および沈黙は、どのような仕方で、権利の放棄を推定させるか
 7. 記憶の範囲を超える時間は、通常、そのような推定のために十分である。これはどのような時間か
 8. 何人も自己の[所有]物の放棄を推定されるべきではない、という異論に対する解答
 9.  推定がなくても、諸国民の法により、記憶にない昔からの占有に基づいて、所有権が移転すると考えられる
10. まだ生まれていない者の権利も、このような仕方で奪われうるか
11. 最高権力の権利でさえも、長期間の占有に基づいて国民あるいは国王によって取得されうる
12. 使用取得および時効に関する国法の規定は、最高権力の保有者を拘束するか。このことが、区別とともに説明される
13. 分離可能な仕方で、あるいは他に伝達可能な仕方で最高支配権と結合している権利は、使用取得または時効によって、取得または喪失される
14. 従属者はいつでも自由を取り戻すことができる、とする見解が退けられる
15. 純然たる権能mera facultas に属するものは、時間によっては決して失われない。このことが説明される
第五章 「人に対する権利の原始取得について。そこでは、親権について、婚姻について、団体について、さらに、従属者および奴隷に対する権利について[論じられる]」
 1. 子に対する親の権利について
 2. 幼児期の区分。そこでは、物に対する幼児の所有権について[も説明される]
 3. 幼児期をすぎて家族の中にとどまる期間
 4. その場合の子に対する懲戒権について
 5. 子を売却する権利について
 6. 幼児期および家族の中にとどまる期間を超えるとき
 7. [子に対する]親の自然的権力と国法上の権力の区別
 8. 妻に対する夫の権力について
 9. [婚姻の]不解消性および妻を一人に限定すること[単婚性]は、自然の法に基づいて婚姻の要件とされるのか、あるいはたんに福音の法に基づいているだけなのか
10. 婚姻が、親の同意の欠如のために無効とされないのは、もっぱら自然の法による
11. 福音の法によれば、他人の夫または妻との婚姻は無効である
12. 親と子の婚姻は、自然の法によって非合法かつ無効である
13. 兄弟姉妹間ならびに義理の親子間の婚姻、およびそれに類似する婚姻は、意思法としての神法により、非合法かつ無効である
14. 親等の遠い親族との婚姻は、これと同じではないと考えられる
15. 法律上内縁concubinatus という名で呼ばれているある種の婚姻は、可能であり適法である
16. ある種の非合法な婚姻も締結することができる。そして、[締結されれば] 有効である[=認証婚connubium ratum]
17. 多数者の権利[=多数決制]はいかなる社会にも見られる
18. [可否]同数のとき、どの見解が優越すべきか
19. いかなる見解が分割されるべきか、あるいは統合されるべきか
20. 欠席者の権利は出席者に付加される
21. いかなる序列が、同等者間に、さらには国王の間にさえ存在するか
22. ある物に基礎を置く社会では、各人がその物に対して有する持ち分に従って、その意見が決定されなければならない
23. 従属者[=臣民]に対する国家の権利
24. 国民は国家から離脱することができるか。このことが、区別して説明される
25. 国家のいかなる権利も、追放された者には及ばない
26. 養子に対する権利は合意に基づく
27. 奴隷に対する権利
28. この[奴隷に対する]権利には、どの程度まで生殺与奪の権が含まれているといえるか
29. 自然の法によれば、奴隷から生まれた者について、何が定められられなければならないか
30. 奴隷状態のさまざまな種類
31. 自発的に従属する国民に対する権利は、合意に基づく
32. 不法行為ないし犯罪から生ずる、人に対する権利 

 

第六章 「人間の行為による承継取得について。そこでは、支配権の譲渡ならびに[支配権に属する]財産の譲渡について[も論じられる]」
 1. 譲渡が[有効に]行われるために、与える側の者に何が必要とされるか
 2. 受領する側の者には何が必要か
 3. 支配権は、ときには国王によって、ときには国民によって譲渡されうる
 4. 国民の一部に対する支配権を、国民が、その部分の意に反して譲渡することはできない
 5. また、その部分自身も、極度の必要がある場合を除いて、自らに対する支配権を譲渡することはできない
 6. この相違の理由
 7. 場所に対する支配権は、これを譲渡することができる
 8. 国王は、利便または必要のために、支配権のある部分を正当に譲渡することができる、とする見解が退けられる
 9. 授封および質権の設定は譲渡の概念に含まれる
10. 下級の統治権iurisdictio を譲渡するためにも、国民の特別の合意、または慣習による国民の合意が必要とされる
11. 国王は、国民の世襲財産を譲渡することはできない
12. 世襲財産の果実である物と世襲財産とは区別されなければならない
13. 国王は、[国民の]世襲財産のある部分を質入れすることができる。それはどの範囲までか。また、それはどういう理由によってか
14. 遺言は譲渡の一種であり、自然法に属する
第七章 「法律によって行われる承継取得について。そこでは、[法定]相続について[論じられる]」
 1. 国の法律のいくつかは不正な法律であり、したがって所有権を移転しない。たとえば、難船した人々の財産を国庫に納入する[ことを命ずる]法律がそれである
 2. 自己の債権を行使するために他人の物を受け取る者は、自然の法によって、その物[の所有権]を取得する。それはいつ生ずるか
 3. 無遺言相続の起源。それはどのようにして自然から生まれたか
 4. 親の財産のあるものは、自然の法によって、子のために義務づけられている。このことが、区別によって説明される
 5. 相続において、子は死者の親に優先する。それはなぜか
 6. 代襲相続と呼ばれる、代位相続の起源
 7. 相続の放棄および相続人の廃除
 8. 私生子の権利について
 9. 子がいないとき、遺言も明確な法律も存在しない場合には、祖先の財産は、その財産の元の所有者またはその子に与えられなければならない
10. 新たに取得された財産は、最近親者に与えられなければならない
11. 相続に関する法律の多様性
12. 世襲の王位について、相続とはどのようなものか
13. もしその王位が分割できないならば、長子が優先される
14. 国民の合意に基づく世襲の王位は、[国民の合意に関して]疑義がある場合には、分割できない
15. その王位は、最初の国王の子孫を越えてまでは存続しない
16. その王位は、私生子には(そして私生子に限り)帰属しない
17. その[王位継承の]場合に、親等が同じであれば、男子が女子に優先する
18. 男子の間では、長子が優先する
19. そのような王位は相続財産の一部か
20. 王位については、王国が創設されたとき他の財産について行われていたのと同様の相続[方法]が定められたと推定される。王位が自由保有地のようなものだった場合
21. あるいは、封土のようなものだった場合
22. 血族による相続とは何か。その場合に、権利の移転はどのような仕方で行われるか
23. 男系血族による相続とはどのような性質のものか
24. 最初の国王との近親性をつねに考慮する相続
25. 息子が王位を相続しないようにするために、その息子を相続から廃除することができるか
26. ある国王が、自分のためもしくは子のために、王位を放棄することができるか
27. [王位の]相続に関する本来の意味の裁判権は、国王にも国民にも属さない
28. 父が王位に就く前に生まれた息子は、その後に生まれた者に優先すべきである
29. ただし、なんらかの定めによって、王位が移譲されたことが明らかな場合は、この限りでない
30. 長男の男子は、次男以下の息子に優先するか。このことが、区別によって説明される
31. 同じく、兄王の死後に生存している弟は、兄王の息子に優先すべきか
32. 国王の兄弟の息子は、国王の叔父に優先するか
33. 国王の息子から生まれた男子は、国王の娘に優先するか
34. 国王の息子から生まれた年下の男子は、国王の娘から生まれた年長の男子に優先するか
35. 国王の年長の息子から生まれた男子は、父の弟に優先するか
36. 姉妹の息子は兄弟の娘に優先すべきか
37. 兄の娘は弟に優先すべきか
第八章 「一般に、諸国民の法による取得といわれている取得[方法]について」
 1. 多くのことが諸国民の法に属するといわれているが正確にいえば、そうではない
 2. 池あるいは囲いの中の魚や獣は、自然法によって、所有物とされる。これに対して、ローマ法は、反対のことを言明している
 3. 獣は、たとえ逃亡したとしても、正しく識別することができる限り、それを[最初に]捕獲した者の所有物でなくなることはない
 4. 占有は道具によって取得されうるか。また、それは、どのような仕方でか
 5. 野獣は国王のものである。このことは、諸国民の法と矛盾しない
 6. その他の無主物の占有は、どのような方法で取得されるか
 7. 財宝は、自然に従えば、誰のものとなるか。この点に関する法律の多様性
 8. 島および沖積地に関してローマ法が言明していることは、自然的ではないし、諸国民の法に属することでもない
 9. 河川の中の島や干上がった河床は、自然に従えば、河川もしくはその一部を所有する者、すなわち国民のものである
10. 自然に従えば、畑地の所有権は洪水によっては失われない
11. 沖積地について疑義がある場合には、沖積地もまた国民のものである
12. しかし、畑地が河川以外の境界線をもたないときは、その畑地の所有者のものとなると考えられる
13. 河川敷および干上がった河床の一部についても、同じように考えられるべきである
14. 何が沖積地とされ、何が島とみなされるべきか
15. 沖積地はいつ[君主の]家臣vassallus のものとなるか
16. ローマ人がかれらの法をあたかも自然的であるかのように擁護する、その論証に解答が与えられる
17. 道路は、自然に従えば、沖積地[に対する所有権の取得]を妨げる
18. 子が母体にのみ従うのは、自然的なことではない
19. 他人の材料を加工してあるものが作られる場合のように、混合によって生じたものは、自然に従えば、共有物である
20. たとえ、その素材が悪意により占有されたものであっても
21. 物の価値に応じて、価値の小さい物がより大きい価値の物に吸収されるのは、自然的なことではない。そこでは、ローマの法学者のその他の誤謬についても注意が払われる
22. 自然に従えば、他人の土地に植物を植えたり、種をまいたり、建物を建てたりすることによって、共有が生まれる
23. 自然に従えば、[他人の物の]占有者は、果実を自分のものとすることができない。しかし、費用を請求することはできる
24. たとえ、かれがそれを悪意によって占有しているとしても
25. 自然に従えば、所有権の移転のために、引き渡しが必要とされることはない
26. これまでに述べたことの用例
第九章 「支配権または所有権はいつ消滅するか」
 1. 所有権および支配権は、その権利をもっていた者が死亡し、かつ相続人が存在しないとき失われる
 2. 同じように、家族に対する権利は家族が消滅することによって失われる
 3. 同じように、国民に対する権利は国民が国民でなくなることによって消滅する
 4. それは、[国民であるために]必要な部分が取り去られることによって生ずる
 5. 国民全体が取り除かれることによって
 6. [共通の法に従うというような]国民としての形態が失われることによって
 7. ただし、移住によっては生じない
 8. あるいは、統治の変更によっても消滅しない。そこでは、新たな国王または新たに自由になった国民によって占められるべき地位について[も説明される]
 9. 複数の国民が統合される場合はどうか
10. 一つの国民が分割される場合はどうか
11. かつてローマの支配権に属していて、譲渡されなかったことが明らかなものは、いま誰の手に属するか
12. 相続人の権利について
13. 勝利者の権利について
第十章 「所有権から生ずる義務について」
 1. 他人の物を所有者に返還する義務。これは何に由来するか、また、それはどのような性質の義務か
 2. 他人の財産から利得した者は、それを返還しなければならないという義務。このことが、多数の範例によって明らかにされる
 3. 善意の占有者は、物が滅失した場合には、返還の義務を負わない
 4. しかし、同人[善意の占有者]は、現存する果実を返還する義務を負う
 5. そして消費された物[果実も含めて]も。ただし、それが他人の物とわかっていれば消費されなかったであろうと考えられるときは、この限りでない
 6. かれが収取することを怠った果実については、返還の義務を負わない
 7. 同人は、すでに他人に贈与した物については、返還の義務を負わない。このことが、区別とともに説明される
 8. 購入したものを売った場合にも、[それが他人の物であっても]返還の義務を負わない。このことが、同じく、区別とともに[説明される]
 9. 他人の物を善意で購入した者は、いつ、その代金または代金の一部を留保することができるか
10. 購入した他人の物を売り主に返還することはできない
11. 所有者不明の物を所持する者は、何人に対しても、それを譲与する義務を負わない
12. 自然に従えば、恥ずべき原因のため、もしくはその他の原因のために与えることを義務づけられた物を受領したときは、その物を返還する義務はない
13. 重さや数や分量からなる物は、所有者の同意なしにその所有権を移転することができる、とする見解が退けられる 

 

第十一章 「約束について」
 1. 自然に従えば約束promissum から権利は生まれない、とする見解が退けられる
 2. 裸の[=無方式の]言明は拘束しない
 3. 自然に従えば、一方的な約束pollicitatio は拘束する。しかし、そこから他方当事者に権利が発生するわけではない
 4. そこから[他方当事者に]権利が発生するような約束とは何か
 5. 権利が発生するためには、約束する者について、理性の使用が求められる。そこでは、自然法と未成年者に関する国法とが区別される
 6. 自然に従えば、錯誤による約束は拘束するか。また、それはどの範囲までか
 7. 恐怖による約束は拘束する。しかし、恐怖の原因を与えた者は、約束した者を解放する義務を負う
 8. 約束が有効であるためには、約束された物が、約束する者の権力下になければならない
 9. 自然に従えば、邪悪な原因のための約束は有効か。このことが、区別によって説明される
10. 予め自分に[与えられることを]義務づけられた物を取得するために行われた約束について、何が考えられなければならないか
11. われわれ自身が有効に約束するための方法
12. 他人を介して有効に約束する方法。そこでは、指令の範囲を超えて行動する使節について[も説明される]
13. 船主および支配人の義務は、どこまで自然の法に由来するか。そこでは、ローマ法の誤りに注意が払われる
14. 約束が有効となるためには、受諾が必要である
15. 受諾は約束する者に知られなければならないか。このことが、区別によって説明される
16. 約束は、約束の相手方がそれを受諾する前に死亡したときは、それを撤回することができる
17. 仲介者の死亡によっても撤回されるか。このことが、区別によって説明される
18. 約束は、代理人によって受諾された後でも撤回することができるか。このことが、区別によって説明される
19. 約束された内容に負担を追加することができるのは、いかなるときか
20. 無効な約束は、どのような方法で有効化されうるか
21. 自然に従えば、原因を欠く約束は無効ではない
22. 自然に従えば、他人の行為を約束した者は、何について拘束されるか
第十二章 「契約について」
 1. 他者に対して有益な、人間の行為の区分。第一に、単純行為actus simplex と混合的行為actus mixtus の区分
 2. 単純行為は、純粋に恩恵的な行為と、相互の義務づけを伴う行為
 3. さらに、交換的行為とに分けられる。交換的行為は、ひとつは、[当事者間の利害を]調整する行為であり
 4. もうひとつは、ものごとを共通のものとする行為である
 5. 混合的行為には、主物に関するものと
 6. 附合によるものとがある
 7. これらの行為のうち、どれが契約と呼ばれるか
 8. 契約においては、公平性が要求される。まず第一に、先行行為に関して
 9. [事実の]認識に関して
10. 意思の自由に関して
11. 第二に、それが交換的なものである場合には、行為それ自体に関して
12. 第三に、契約の対象とされることがらに関して[公平性が要求される]。このことが説明される
13. 純粋にまたは部分的に恩恵的な行為については、どのような公平性がなければならないか
14. 売買において、物の価格はどのように決定されなければならないか。また、どのような理由に基づいて、その価格を正しく増減することができるか
15. 自然に従えば、売買はいつ完成するか。そして、所有権はいつ移転するか
16. いかなる独占が、自然の法または愛の掟に反するか
17. 金銭はどのような仕方でその通用力を得ているか
18. 自然に従えば、[賃貸物の]不毛を理由として、またそれと類似の理由に基づいて、いかなるものも賃料から差し引かれるべきはでない。もし最初の賃借人が賃貸物の使用を妨げられ、それが他の者に賃貸された場合はどうか
19. 正当な報酬は、どのような方法で増減されうるか
20. 利息の徴収はどの法によって禁止されているか
21. どのような利得は利息徴収の名に該当しないか
22. このことに関して、国法はどのような効力を有するか
23. 危険回避契約あるいは保険契約については、どのように判断されなければならないか
24. 組合についてはどうか。そこでは、組合の多様な種類が説明される
25. 海上航行組合について
26. 諸国民の法によれば、不公平なことがらについて合意がある場合には、その不公平性は、外部的行為に関する限り、考慮されてはならない。そして、これが自然的といわれるのは、どのような意味においてか
第十三章 「宣誓について」
 1. 宣誓iurisiurandum の力がいかに大きいかは、異教徒の意見からでさえも明らかである
 2. 宣誓しようとする場合には、たしかに、慎重な心構えが必要とされる
 3. 宣誓する者の言葉は、それを宣誓の受け手が理解したと信じられる意味において、[宣誓者を]義務づける
 4. 悪意によって誘発された宣誓から義務が生ずるのはいつか
 5. 宣誓の言葉は、その語の慣用上の意味以上に拡大されてはならない
 6. 非合法なことがらについてなされた宣誓は義務を生じない
 7. あるいは、それがより大きな道徳的善を妨げる宣誓であるとき
 8. あるいは、それが不可能なことについての宣誓であるとき
 9. その不可能が一時的である場合はどうか
10. 宣誓は神の名において行われる。そして、それはいかなる意味においてか
11. しかし宣誓は、神に関連して、他のものの名においても行われる
12. 偽りの神[の名]によって誓われたとしても、宣誓である
13. 宣誓の効果。宣誓から二重の義務が生まれる。ひとつは宣誓のときに、もうひとつはその後で。このことが、明確に説明される
14. 宣誓に基づいて、人および神はいつ権利を取得するか。神だけの場合はいつか
15. 海賊または暴君に対してなされた宣誓は神に対しては拘束されない、とする見解が退けられる
16. 不誠実な者perfidus に対して宣誓した者も、その宣誓を履行しなければならないか。このことが、区別して説明される
17. 宣誓者が神にのみ義務を負う場合には、宣誓者の相続人はいかなるものにも拘束されない
18. 宣誓が履行されることを望まない者に対して履行しない者、あるいは、宣誓がある性質ないし条件のゆえに行われ、その性質ないし条件が失われたために宣誓を履行しない者は、偽誓者ではない
19. 宣誓に反して行われたことは、いつ無効になるか
20. 上位者は、従属者が宣誓したことに関して、あるいは従属者に対して宣誓されたことに関して、どのような行為をすることができるか。このことが、区別とともに説明される
21. 「誓うな」というキリストの忠告は、本来、どのような宣誓に関するものか
22. 宣誓を伴わない信約が、慣習に基づいて宣誓の効力を有するのは、どのような場合か
第十四章 「最高支配権を保有する者の約束、契約、宣誓について」
 1. 原状回復の権利は国法に由来し、それが国王としての行為である限り国王の行為にも及ぶ、とする見解が退けられる。同じく、国王は宣誓に拘束されない、という見解も退けられる
 2. 法律は国王のどのような行為にまで及ぶのか。このことが、区別によって説明される
 3. 国王が宣誓によって拘束されるのは、あるいはされないのは、どのような場合か
 4. 国王は、無因の約束をしたことがらについて、どこまで拘束されるか
 5. 国王の契約に関する法律の効力についてすでに述べられたことの用例
 6. 正しい意味で、国王が従属者に義務を負うといわれるのは、自然に基づく場合のみか、それとも、国法によってもか
 7. [国王は]どのような仕方で、従属者の既得権を適法に奪うことができるか
 8. ここでは、既得権を自然法に基づくものと国法に基づくものとに区分する見解が退けられる
 9. 国王の契約は法律か。そして、それはどのような場合か
10. [国王の]包括相続人が国王の契約によって拘束されるのは、どのような仕方でか
11. 王位を継承した者がその同じ契約によって拘束されるのは、どのような仕方でか
12. そして、それはどの範囲までか
13. 国王の恩恵について、撤回しうるものとそうでないものとが、区別して説明される
14. 支配権の簒奪者が結んだ契約に、支配権のもとの保有者も拘束されるか
第十五章 「盟約および誓約について」 
 1. 公の協定conventio publica とは何か
 2. それは、盟約foedus、誓約sponsio、およびその他の合意pactio に区分される
 3. 盟約と誓約の識別、誓約は何に対して義務づけるか
 4. [アンティオキア王の使節]メニップスが行った盟約の区分が排除される
 5. 盟約は、自然の法(盟約はここから生まれた)と同じことを定めるものと
 6. それに何かを付け加えるものとに区分される。そして、その中のあるものは平等的である
 7. また、あるものは不平等的である。そして、これもまたいくつかに再区分される
 8. 真の宗教と無縁な人々との盟約は、自然の法によれば適法である
 9. それはまた、ヘブライの律法によっても、一般的に禁止されてはいない
10. また、キリスト教徒の法によっても
11. そのような盟約に関する注意事項
12. すべてのキリスト教徒は、キリスト教の敵に対抗して同盟することを義務づけられている
13. 複数の同盟者の間で戦争が行われる場合に、どの同盟者を優先的に援助すべきか。このことが、区別して説明される
14. 盟約は、黙示的に更新されたとみなすことができるか
15. 一方当事者の不誠実perfidium は、他方当事者を[盟約から]解放するか
16. 誓約が否認されたとき、誓約した者は何に拘束されるか。そこでは、カウディナの誓約[前321 年]についても[説明される]
17. 否認されない誓約は、告知および[相手方の]沈黙に基づいて義務を 発生させるか。このことが、区別して説明される。そこではルクタティウスの誓約[前241 年]についても[説明される] 

 

第十六章 「解釈について」
 1. 約束されたことは、どのような仕方で、外的に[たとえば、それに関する争いを裁判で解決することができるような仕方で]義務づけるか
 2. [約束の]文言は、他の推定が存在しない限り、一般的な意味に従って理解されなければならない
 3. 術語はその学問ars[上の意味]に従って
 4. 推定が用いられるのは、言葉の曖昧さや表現に矛盾がある場合か、あるいはそうせざるをえないという理由からである
 5. たとえば、主題の性質から
 6. 効果の点から 
 7. また、前後の関係から。たとえば、言葉の起源から、あるいはそれが使われている場所からでさえも
 8. このような推定に属するのは、動機に基づく推定である。これらは、いつ、そしてどのような仕方で使用されるのか
 9. 言葉の意味は、広義と狭義に区分される
10. 約束は、好意的約束、嫌悪的約束、混合的約束そして中間的約束に区分される
11. 国民もしくは国王の行為に関して、信義誠実に基づく契約と厳格法に基づく契約の区分が排除される
12. 上に述べた文言の意味および約束の区分から、解釈に関するいくつかの規則が形成される
13. 同盟者socius という名称には将来のものも含まれるか。それは、どの範囲までか。そこでは、ローマ人とハスドゥルバルとの盟約[前226 年]およびこれと類似の争論について[も説明される]
14. 一方の国民が他方の国民の許可なしには戦争しないという[盟約の]条項は、どのように解釈されるべきか
15. 「カルタゴは自由たるべし」という文言について
16. どのような合意pactum が人的で、どのような合意が物的と考えられるべきか。このことが、区別によって説明される
17. 国王との間で結ばれた盟約は、王位を追われた国王にも及ぶ
18. しかし、王位の簒奪者には及ばない
19. あることを最初に行う者に対してなされた約束は、もし複数の者が同時にそれを行った場合には、誰に対して義務づけるか
20. 自発的に生ずる推定。そのひとつは、意味を拡大する推定である。これはいつ生ずるか
21. そこでは、指示されたのとは別の方法で履行されるべき指令mandatum について[も説明される]
22. 他のひとつは、意味を限定する推定である。これは、たとえば、不条理な約束の文言から知られるような、意思に関する原初的な欠陥から生ずる
23. また、[約束の動機となった]唯一の原因の消滅から
24. また、[約束の文言に示された]対象物の欠如から
25. (直前で述べられた推定に関する考察)
26. また、意思と矛盾する事態の発生から。このような事態は、ことがらが適法でない場合に生ずる
27. また、行為の動機を考慮すると負担が過重であることから
28. さらに、その他の徴候から。たとえば、書面に記載された部分が相互に矛盾している場合
29. その場合に、どのような規則が守られなければならないか
30. 疑問がある場合には、書面[の作成および交付]は、契約の有効性のために必要ではない[と考えられる]
31. 国王間の契約の解釈は、ローマ法に基づいて行われるのではない
32. 条件を受諾する者の言葉と、条件を申し込む者の言葉のいずれが優先されるべきか。このことが、区別によって説明される
第十七章 「不法侵害による損害、およびそこから生ずる義務について」
 1. 過失は損害の回復を義務づける
 2. 損害とは、厳密な意味の法すなわち権利と抵触するもののことだと理解される
 3. 適性と厳密な意味の法すなわち権利は、両者が競合する場合には、慎重に区別されなければならない
 4. 損害は果実についても生ずる
 5. 得べかりし利益lucrum cessans についても。それはどのような仕方でか
 6. 損害を与えるのは、行為する者[作為者]である。第一次的作為者
 7. そして、第二次的作為者[=行為を命令または教唆する者]
 8. 同じく、なすべきことをしない者[不作為者]も。第一次的不作為者
 9. そして、第二次的不作為者[=説得すべきなのに説得しない者、当然告げなければならない事実を隠す者]
10. 回復が義務づけられるためには、[作為者または不作為者の]行為に関してどのような効果が必要とされるか
11. かれらは、どの順序で義務を負うか
12. この義務は副次的な損害にも拡張されなければならない
13. 殺人者の場合の範例
14. 他人に暴行を加えた者の場合[の範例]
15. 姦通者および姦淫者の場合[の範例]
16. 窃盗、強盗、およびその他の者の場合[の範例]
17. 詐欺または不正な恐怖[=脅迫]によって、約束の原因を与えた者の場合[の範例]
18. もし、自然に従えば正当な恐怖である場合には、どうなるか
19. 諸国民の法によれば正しいと考えられる恐怖の場合にはどうか
20. 国家の諸権力は、従属者が与えた損害によって、どこまで責任を負わされるか。そこでは、公的支配権[の保有者の意思]に反して、同盟者に対して行われた海上捕獲の問題[が説明される]
21. 自然に従えば、自己の動物または船舶によって生じた損害については、過失がない限り、義務を負わされない
22. 名声や名誉に対しても損害が与えられる。それはどのような仕方で償われるか
第十八章 「使節の権利について」
 1. 若干の義務は、諸国民の法から生まれる。たとえば、使節の権利である
 2. 使節の権利は、どのような人々の間で生ずるか
 3. 使節はつねに容認されなければならないか
 4. 危険をもたらす使節に対する防衛は適法である。ただし、刑罰を科すことは許されない
 5. 使節が派遣された相手方でない者は、使節の権利によって拘束されない
 6. 使節が派遣された相手方であれば、敵もまた[使節の権利に]拘束される
 7. また、使節に対して報復の権利ius talionis を行使することはできない
 8. この[報復の対象とされない]権利は、もし使節が望むならば、使節の随員に対しても拡張することができる
 9. さらに、動産に対しても
10. 強制権を伴わない義務の範例
11. この使節の権利はいかに重要であるか
第十九章 「埋葬権について」
 1. 同じ諸国民の法に基づいて、死者を埋葬する権利が生まれる
 2. それはどこから生じたのか
 3. 敵に対しても埋葬の義務がある
 4. 顕著な極悪非道の犯罪者に対してもか
 5. 自殺した者に対してもか
 6. この他に、諸国民の法に基づいて義務が生ずるものには、どのようなものがあるか
第二十章 「刑罰について」
 1. 刑罰の定義および刑罰の起源
 2. 刑罰は補完的正義に関係する。それはどのような仕方でか
 3. 自然に従えば、刑罰[を科すこと]は、特定の人に義務づけられているわけではない。むしろ、自然の法に関する限り、同じような犯罪を犯したことがない者は、適法に刑罰を要求することができる
 4. 刑罰は、人間のもとでは、神のもとでとは異なって、なんらかの利益のために要求される。それはなぜか、
 5. 自然に従えば、報復はいかなる意味で非合法とされるのか
 6. 刑罰の三重の効用
 7. ひとつは、犯罪を犯した者の利益のために。そして、この場合には、自然に従えば、誰でもが刑罰を要求することができる。以上のことが、区別とともに[明らかにされる]
 8. さらに[第二に]、罪が犯された相手方の利益のために。そこでは、諸国民の法に基づく適法な報復について[説明される]
 9. 同じく[第三に]、すべての人々の利益のために
10. 福音の法がこの主題に関して定めていることは何か
11. 福音中に表明されている神の憐れみから導き出された論証に対する解答
12. また、悔悛の機会が奪われるということから[導き出された論証に対する解答]
13. 刑罰の不完全な分類が退けられる
14. 諸国民の法によって許されている場合でも、キリスト教徒個人が刑罰を実行することは、安全ではない[=危険である]
15. あるいは、すすんで告発することも
16. あるいは、死刑にかかわる裁判官の職を望むことも
17. 刑罰のために人を殺害することを許容する人法は、殺害の権利を与えるのか、それともたんなる不可罰性のみを与えるのか。このことが、区別によって説明される
18. 内的行為[良心の法廷において裁かれる内心の行為]は、人間のもとでは罰することができない
19. 外的行為であっても、人間の弱さのために避けることができない行為は、罰することができない
20. 人間の社会がそれによって直接的にも間接的にも害されるわけではないような外的行為も、罰することができない。その理由が示される
21. 刑の宥恕は決して許されない、とする見解が退けられる
22. 刑法[が制定される]以前にはそれが許されていたことが明らかにされる
23. しかし、それは常にというわけではない
24. 刑法[が制定された]以後でさえも
25. 刑の宥恕が行われるための、是認しうる内在的原因[たとえば、他人のパンを盗む以外には食べるものがないような窮乏状態]は何か
26. 外在的原因[たとえば、自分の行為をよく理解できない者の場合には、法の側に罰する理由がなくなること]は何か
27. 刑の免除dispensatio は、それが黙示の例外規定という仕方で法律に含まれている場合以外には、正当な理由がまったくない、とする見解が反論される
28. 犯罪にふさわしい量刑
29. ここで、犯罪を誘発する諸原因が考察される。そして、それらが相互に比較される
30. さらに、罪を犯すことを抑制するはずの諸原因について[考察される]。そして、そこでは、隣人およびその他のいくつかのことに関する十戒の規定の段階について[も考察される]
31. さらに、この両者[=犯罪を誘発する原因と抑止する原因]に対する犯罪者の適性について、さまざまな観点から考察される
32. 応報としての刑罰は、犯罪によって生じた損害以上に拡大することができる。それはなぜか
33. 刑罰における調和的均衡に関する見解が退けられる
34. 刑罰は慈愛caritas に基づいて軽減することができる。ただし、より大きな慈愛がそれを妨げる場合は、この限りでない
35. 犯罪を犯すことの容易性は、どのように刑罰を誘発するか。同じく、犯罪を犯す習慣はどのように刑罰を誘発するか、あるいは刑罰を抑制するか
36. 刑罰を軽減するための慈愛の使用例
37. 以上のことがらと、ヘブライ人およびローマ人が刑罰について考察されることを望んだことがらとが関係づけられる
38. 刑罰のための戦争について
39. 未完成の犯罪のために行われる戦争は正戦か。このことが、区別によって説明される
40. 国王および国民は、自然の法に反して行われたことであるが、かれら自身およびかれらに従属する者たちに対して行われたのではないことのために、正しく戦争を行うことができるか。このことが説明される。また、自然に従えば刑罰を要求するために裁判権ないし統治権iurisdictio が必要である、とする見解が退けられる
41. 自然の法と、広く受け入れられている国家の慣習とは区別されなければならない
42. さらに、すべての人によって認知されているわけではない神意法とも
43. 自然の法に基づいて明白なことと、明白でないこととが区別されなければならない
44. 神に対する犯罪のために戦争を行うことができるか
45. 神に関する最も普通の観念、それはなにか。そしてそれはどのような仕方で、十戒の第一戒によって明らかにされているか
46. これらの観念を最初に侵害した者[=神を否定する教義を提唱した者]には、刑罰を科すことができる
47. しかし、その他の者には刑罰を科すことができない。このことが、ヘブライの律法を証拠として明らかにされる
48. キリスト教を受け入れようとしない人々に対しては、正戦を行うことはできない
49. たんにその宗教だけを理由として、キリスト教徒を残酷に取り扱う者に対しては、正当に戦争を行うことができる
50. 神法の解釈に関してひどく誤解している者に対しても、戦争を正当に行うことはできない。このことが、いくつかの権威および範例によって明らかにされる
51. しかし、自分たちが神だと考えるものに対して不敬な者たちに対しては、正当に戦争を行うことができる 

 

第二十一章 「刑罰の分担について」
 1. 刑罰は、どのようにして、犯罪に荷担した者に及ぶか
 2. 共同体またはその長rector は、従属者の犯罪に基づいて責任を負わされることがある。ただし、そのことを知っており、それを禁止することができかつ禁止すべきであったのに、禁止しなかった場合に限る。
 3. さらに、他の場所で犯罪を犯した者を受け入れることによっても
 4. その者を罰するか、あるいは引き渡さない限り。このことが範例によって明らかにされる
 5. 不幸な人々infortunati[たとえば避難民]のための請願権は、加害者には帰属しない。このことが、いくつかの例外とともに明らかにされる
 6. しかし、[すべての]請願者は、その事案が審理されている間、保護されなければならない。その審理はどのような法に基づいて行われるべきか
 7. 従属者は、どのような仕方で、その長の犯罪の共犯者となるのか、あるいは共同体の成員は、どのような仕方で、共同体の犯罪の共犯者となるか。また、共同体に対する刑罰と個人に対する刑罰とは、どのように異なるか
 8. 全体に対する刑罰権は、どれほどの期間存続するか
 9. 犯罪の分担delicti communicatio がないとき、刑罰が及びうるか
10. 直接なされたことと、結果として生じたこととの区別
11. 犯罪を動機として生ずること[=たとえば、犯罪者側の宣誓証人の責任]と、罪を原因として生ずること[=たとえば、犯罪実行者の責任]との区別
12. 正確にいえば、何人も、他人の犯罪のために、正当に罰せられることはない。それはなぜか
13. 親の犯罪のために子が罰せられることはない
14. 加害者の子に関して神が行ったことについて、解答が与えられる
15. その他の親族はなおさらのこと[罰せられない]
16. しかし、加害者の子および親族は、そうでなければもちえたであろうなんらかのものを、否認されることがありうる。このことが、範例とともに説明される
17. また、従属者を国王の犯罪のために罰することは、本来、できないことである
18. また、[犯罪行為に]同意しなかった個人を、全体の犯罪のために罰することもできない
19. 相続人は、それが刑罰としての刑罰である限り、被相続人に対する刑罰には拘束されない。それはなぜか
20. しかし、刑罰が他の種類の債務に転換された場合には拘束される
第二十二章 「[戦争の]不正な原因について」
 1. [戦争を]正当化する原因と[戦争の]動機となる原因との区別が説明される
 2. この二種類の原因を欠く戦争は、野蛮な戦争である
 3. 動機となる原因はあるが、正当化する原因がない戦争は、盗賊の戦争である
 4. いくつかの原因は、外見上、正当であるように装っている[が不正である]
 5. たとえば、不確実な脅威や
 6. 必要性のない利益や
 7. 女性の大群の中で拒否された婚姻[=女性が大勢いるのに、その中の一人との婚姻が拒否されること]や
 8. より良質の土地に対する欲望や
 9. 他人によって占有されている物の発見[=すでに他人が占有している物を、発見したと主張すること]である
10. 最初の占有者が精神異常者であるとしたら、どうなるか
11. さらに、従属している国民の自由への願望も、不正な原因である
12. また、他人を、その意思に反して、かつあたかもその者のためであるかのように装って、支配しようとする意思も
13. さらに、若干の人々が皇帝に認めた普遍的支配の権原も。そして、この権原が退けられる
14. ある人々が教会に認めた[普遍的支配の権原]も。そして、これも同じように退けられる
15. 同じく、神の命令がないのに、予言を完成させようとする意思も[=予言を完成させると称して戦争を行うこと]
16. 同じく、厳格な意味の法すなわち権利に基づくのではなく、それ以外のなんらかの理由に基づいて義務づけられていることも[不正な原因である]
17. 原因が不正な戦争と、どこかに誤りがある戦争との区別。および、両者の効果の相違について
第二十三章 「[戦争の]疑わしい原因について」
 1. 道徳的なことがらにおける疑いの原因はどこから生ずるか
 2. [心の命令が]たとえ誤っているとしても、心の命令に背いて、何ごとも行われてはならない
 3. しかし、判断は、ことがらからの推論によって、別の方向に導かれうる
 4. あるいは、権威によっても
 5. もし、重大な問題について[良心の命令と判断の]両方の側に疑問があり、しかも一方を選ばなければならないときは、より安全な方が採用されるべきである
 6. そこから、そのような場合には戦争が避けられなければならない、という結論が得られる
 7. ところで、戦争は、会談によって避けることができる
 8. あるいは、仲裁によって。そこでは、戦争当事者に関するキリスト教徒の国王の義務について[も説明される]
 9. あるいは、籤によってさえも
10. 戦争を避けるための個人の決闘certamen singulare は許されうるか
11. [平和条約の条項の解釈について双方から出された]疑義が同等の場合には、現に占有している者の方に、より有利な条件がある
12. 疑義が同等であって、いずれの当事者も占有していない場合には、そのもの[係争物]は分割されなければならない
13. 双方の側から見て正当な戦争というものがありうるか。このことが、多くの区別によって説明される
第二十四章 「正当な原因に基づく場合でさえも、安易に戦争に訴えてはならないという忠告」
 1. [戦争の]権利は、戦争を避けるために、しばしば放棄されなければならない
 2. とくに刑罰のための戦争権は
 3. とりわけ、侵害された国王によって
 4. また、国王は、自分自身およびかれに従属する者を守るためにも、しばしば、戦争を避けなければならない
 5. 善いことを選択するための賢明な規則
 6. 自由の追求と平和の探求との間で働く熟慮の範例。それによって国民の滅亡が避けられる
 7. 力においてそれほど勝っていない者は、処罰の要求を自制しなければならないか
 8. 残っているのは、必要のない限り、戦争に訴えてはならないということである
 9. たとえば、きわめて重大な原因があり、かつきわめて重大な動機があるのでない限り
10. 目撃された戦争の害悪
第二十五章 「他人のために行われる戦争の原因について」
 1. 戦争は、従属者のために、正当に行うことができる
 2. しかし、いつでも行うべきだというわけではない
 3. 危難を避けるために、無辜の従属者を人質として与えることができるか
 4. さらに、戦争は、対等な同盟者および対等ではない同盟者のためにも、正当に行うことができる
 5. そして、友人のためにも
 6. また、たしかに、いかなる人々のためにも
 7. しかし、あるいは自分自身の身を案ずる者、あるいは加害者の生命を[奪うことを]恐れる者は、戦争をしなくても、罪にはならない
 8. 他国の従属者を守るための戦争は正戦か。このことが、区別によって説明される
 9. 戦争の原因を識別することなく、同盟を結んだり傭兵になったりすることは、不正である
10. さらに、とりわけ、戦利品または賃金のために戦うことは、邪悪である
第二十六章 「他人の支配権の下にある者によって戦争が行われる場合の正当な原因について」
 1. どのような人たちが、他人の支配権の下にあるといわれるか
 2. もし、かれらが熟考することを許され、あるいは自由な選択権をもっているとすれば、かれらによって何がなされなければならないか
 3. かれらが命令され、しかも、その戦争の原因は不正であると信じている場合には、かれらは戦ってはならない
 4. かれらが[原因の正当性を]疑っているときはどうか
 5. この場合に、疑いを抱いている者を任務から外し、特別の税負担を課すことは、慈悲に適っている
 6. 不正な戦争において、従属者が武器を取って戦うことが正しいとされるのは、どのようなときか 
第三巻

 

第一章 「自然の法に基づいて、戦争においてどれだけのことが許されるか。その一般原則。そこでは、悪意ないし偽計および虚偽について[も説明される]」
 1. 叙述の順序
 2. 第一の原則。戦争においては、その目的のために必要なことがすべて許される。このことが説明される
 3. 第二の原則。[戦争の]正しさは、その開始[の原因]からだけでなく、戦争に伴って生ずる原因からも考察されなければならない
 4. 第三の原則。[戦争においては]その目的からは許されないいくつかのことが、結果として、かつ違法ではなく生ずる。これに対する注意事項が付け加えられる
 5. 敵に物資を供給する者に対して何をすることが許されるか。このことが、区別によって説明される
 6. 戦争において悪意ないし偽計dolus を用いるのは適法か
 7. 消極的な行為における悪意ないし偽計は、それ自体としては、許されないことではない
 8. 積極的な行為における悪意ないし偽計は、その行為を自由に解釈する人に対するものと、その行為をあたかも協約conventio に基づくものであるかのように解釈する人に対するものとに区分される。そして、前者の種類の悪意ないし偽計は適法であることが明らかにされる
 9. 第二の種類について、問題の難しさが示される
10. 言葉が[一般の使用法とは]異なる意味に受け取られるべきであると分かるような使われ方をしている場合には、そこで用いられている悪意ないし偽計がすべて不適法だというわけではない
11. 虚言が許されない行為とされるのは、その形式が他人の権利と抵触するからである。このことが説明される
12. また、幼児や精神異常者の前で嘘をいうことは許される。このことが明らかにされる
13. また、対話の相手ではない者が騙される場合のように、ある者を言葉の外で騙すことは許される
14. さらに、そのように騙されたいと思っている者と対話するときも
15. そして、話し手が[嘘をいうことによって]自己に従属する者に対する支配的権力を行使するときも
16. そして、おそらく、無実の者の生命またはそれと同等の何かを、われわれが、それ以外の方法では守ることができないときも
17. いく人かの著者が考えたように、敵の前で嘘をいうことは適法である
18. しかし、これは、約束の言葉にまで拡大されるべきではない
19. また、宣誓にまで拡張されるべきではない
20. しかし、敵に対しても嘘をいうことを避けるのは、いっそう気高いことであり、かつキリスト教的純真さにいっそう適うことである
21. あることが、われわれには許されているがある人には許されていないとき、それが誰であろうと、われわれが、かれをそのことへと強制することは許されない
22. しかし、自発的に提供された労働を利用することは許される
第二章 「諸国民の法によれば、どのよう仕方で、従属者の財産が支配者の債務のために義務を負わされるか。そこでは、復仇について[も説明される]」
 1. 自然に従えば、何人も、他人の行為により義務を負わされることはない。ただし、相続人はこの限りでない
 2. しかし、諸国民の法によって、支配者の債務のために従属者の財産および行為が義務を負わされる仕組みが導入されている
 3. 人を捕える[人質とする]場合の範例
 4. そして、物を捕える[報復拿捕の]場合[の範例]
 5. これが生ずるのは、[不正な裁判によって]権利が否定された後である。権利が否認されたと判断せざるをえないのはいつか。そこでは、判決の対象とされたことは、厳密にいえば、権利を与えるものでも、奪うものでもないことが明らかにされる
 6. しかし、生命は責任を負わされない
 7. この問題における、国法に属することと諸国民の法に属することとの区別
第三章 「諸国民の法に基づく正戦もしくは盛式戦争について。そこでは、宣戦について[も説明される]」
 1. 諸国民の法に基づく盛式戦争bellum solemne は、異なる国民の間に存在する
 2. たとえ国民が不正に行動するとしても、国民は、海賊や盗賊とは区別される
 3. しかし、国民と海賊および盗賊の地位は、ときどき、変化する
 4. [戦争が]盛式戦争の性質を備えるためには、その戦争を始める者が最高権力の保有者であることが必要とされる。このことは、どのように理解されなければならないか
 5. また、宣戦の布告denuntiatio も必要とされる
 6. 宣戦の布告について、何が自然の法に属することであり、何が諸国民の法に固有のことであるか。このことが、区別によって説明される
 7. 宣戦の布告は、あるいは条件付きであり、あるいは絶対的である
 8. 宣戦の布告に関して、諸国民の法にではなく、国法に属すること
 9. ある者[=君主]に対して布告された宣戦は、同時に、その従属者に対して、さらに同盟者がかれに追随する場合にはその同盟者に対しても、布告された[ものとみなされる]
10. しかし、従属者および同盟者自身が[補助者としてではなく本人として]考えられる場合には、そうではない。このことが、範例によって説明される。
11. 宣戦の布告は、いくつかの効果のために必要とされる。それはなぜか
12. これらの効果は、その他の戦争では生じない
13. 宣戦の布告と同時に戦争を開始することができるか
14. 使節の権利を侵害した者に対しても宣戦を布告しなければならないか
第四章 「盛式戦争において敵を殺害する権利、および身体に対するその他の実力[の行使]について」
 1. 盛式戦争の効果が一般的に説明される
 2. 「適法であるないし許される」licere という言葉は、犯罪性がないわけではないが、罰せられることなく行うことができるものと、たとえそれを行うことがある人の徳にはならないとしても、犯罪性はないものとに区分される。このことが、いくつかの範例を加えて[説明される]
 3. 一般的性質の点から考えると、盛式戦争の効果は、[ある行為が]罰せられることなく適法とされることに関係している
 4. なぜそのような効果が導入されているのか
 5. これらの効果に関する証言
 6. この[盛式戦争の]法ないし権利に基づいて、敵の境界内にあるすべての者を殺害し、攻撃することができる
 7. 戦争前に敵の境界内に入った者についてはどうか
 8. 敵の従属者は、他の領国の法がそれを妨げない限り、どの場所ででも、これを攻撃することができる
 9. この攻撃権は、児童および女性に対してさえも拡張される
10. また、捕虜に対しても。この場合に、時の制約はない
11. また、降伏することを望んでいるが受け入れられない者に対しても
12. さらに、無条件降伏した者に対しても
13. この権利が、報復や執拗な抵抗[に対する復讐]のような、その他の事案に適用されるのは誤りである
14. また、[この権利は]人質に対しても及ぶ
15. 殺害の対象が誰であれ、毒物を用いて殺害することは、諸国民の法によって禁止されている
16. さらに、武器またはある種の水[=泉]を毒物によって汚染することも
17. しかし、その他の方法で水を腐敗させることは禁止されていない
18. 暗殺者を使用することは諸国民の法に反するか。このことが、区別によって説明される
19. 婦女を陵辱することは諸国民の法に反するか
第五章 「破壊し、略奪することができる財産について」
 1.  敵の財産は、破壊し、略奪することができる
 2.  神聖物res sacra[たとえば、神殿とそれに付属するもの]でさえも。このことは、どのように理解されなければならないか
 3.  また、宗教物res religiosa[たとえば、墓地や墓]も。このことが、同じく注意事項を付して[説明される]
 4.  この[破壊、略奪の]場合に、どの範囲まで悪意ないし偽計が許容されるか 

 

第六章 「戦争において捕獲された物を取得する権利について」
 1. 戦争において捕獲された物の取得に関して、どのような自然の法があるか
 2. どのような諸国民の法があるか。これに関する証言が付け加えられる
 3. 諸国民の法によれば、動産が捕獲されたとみなされるのはいつか
 4. 畑地はいつか
 5. 敵に属さない物は、戦争によって取得することができない
 6. 敵の船中で発見された物についてはどうか
 7. われわれの敵が戦争においてわれわれとは別の者から捕獲した財産は、諸国民の法によって、われわれのものとされる。このことが、証言によって証明される
 8. 敵によって捕獲された財産はけっしてそれを捕獲した個人のものとはならない、とする見解が反論される
 9. 自然に従えば、占有権および所有権は、他人を通じて取得することができる
10. 戦闘行為actus bellicorum は、公的なものと私的なものとに区分される
11. [ 捕獲された] 畑地は、国民によって、あるいは戦争の名義人[戦争がその者の戦争とされている者]によって取得される
12. 私人の行為によって捕獲された動産は、捕獲した個人のものとされる
13. ただし、国の法律にそれと異なる定めがある場合は別である
14. 公的行為によって捕獲された財産は、国民または戦争名義人のものとされる
15. しかし、将軍たちには、そのような財産に対するなんらかの裁量権が認められるのが通例である
16. 将軍たちは、あるいは、それを国庫に納入するか
17. あるいは、兵士に分配する。それは、どのような仕方でか
18. あるいはまた、略奪することを許す
19. あるいは、他人に与える
20. あるいは部分に分け、ある部分は[ある者]に、ある部分は[他の者]にと定める。それは、どのような仕方でか
21. 捕獲物に関して犯される横領の罪
22. 捕獲物を取得するこの共通の権利に対しては、法律またはその他の意思行為によって、なんらかの変更を加えることができる
23. こうして、捕獲物を同盟者に与えることができる
24. そして、しばしば、従属者にも。このことが、陸上および海上のさまざまな範例によって明らかにされる
25. 上に述べられたことの用例
26. 戦争中の両当事者の領土外で捕獲された財産を、戦争の法に基づいて取得することができるか
27. われわれが述べたこの権利は、どのようにして、盛式戦争に固有の権利とされるのか
第七章 「捕虜に対する権利について」
 1. 諸国民の法によれば、盛式戦争において捕虜となった者は、すべて奴隷にされる
 2. また、かれらの子孫も
 3. かれらに対しては、なにごとも罰せられずに行うことができる
 4. 捕虜の財産は、たとえそれが無体物であっても、主人のものとなる
 5. そのように定められた理由
 6. こうして[=盛式戦争において]捕虜とされた者が逃亡することは適法か
 7. また、かれらが主人に抵抗することは適法か
 8. この権利は、すべての国民のもとでつねに維持されていたわけではない
 9. また、現在、キリスト教徒の間で維持されているわけでもない。それに代わるものとして、何があるか
第八章 「敗者[被征服者]に対する支配権について」
 1. 国家的支配権imperium civile(それは、国王のもとにあるときもあれば、国民のもとにあるときもある)も戦争によって取得することができる。そして、その取得の効果[について]
 2. 国家が消滅したときにその国民であった者に対する主人としての支配権imperium herile も、[戦争によって]取得することができる
 3. この二つの支配権は、ときおり、混同される
 4. 国民の財産[=国有財産]も、たとえそれが無体物であっても、[戦争によって]取得することができる。そこでは、テッサリア人の小書付chirographum Thessalorum の問題[=アレクサンドロスがテーバイを占領したとき、テッサリア国民がテーバイに対して負っていた100 タラントの債務を免除したことに関する法律問題]が論じられる
第九章 「復帰権について」
 1. 「復帰権」postliminium という言葉の起源
 2. どのような場合に復帰権が生ずるか
 3. 復帰権によって、あるものは返還され、あるものは取り戻される
 4. 復帰権は平和時にも戦時にも存在する。平和時のことについて何もいわれていないとき、どう考えたらよいか
 5. 自由な人間[もともと自由人であった者]は、戦争継続中に、いつ復帰権によって帰還することができるか
 6. かれは、どのような権利を取り戻すことができ、どのような権利を取り戻すことができないか
 7. かれに対する権利もまた回復される
 8. 自ら降伏した者が復帰権をもつことができないのはなぜか
 9. 国民は、いつ復帰権をもつことができるか
10. 復帰権によって帰還した者について、どのような国法の規定があるか
11. 奴隷は(逃亡奴隷でさえも)、どのような方法で、復帰権に基づいて取り戻されるか。買い戻された奴隷の場合はどのような仕方でか
12. 従属者は、復帰権によって取り戻されるか
13. 畑地は、復帰権によって取り戻される
14. 動産に関して、従来どのような区別が守られていたか
15. こんにち、動産に関して、どのような法の規定があるか
16. どのようなものが、[実際には復帰権がないのに]あたかも復帰権が欠けていないかのように取り戻されるか
17. [この原則は]従属者に関する限り、国法によって変更されている場合がある
18. 復帰権は、敵ではない者の間で、どのように守られていたか
19. こんにちでは、いつ、そのようなことが起こりうるか
第十章 「不正な戦争において行われることに関する忠告」
 1. 法が許していることを恥が禁止するといわれるのは、どのような意味においてか
 2. これ[=この格言]が、諸国民の法によって許されているとわれわれが述べたことがらに対して適用される
 3. 不正な戦争から生ずることは、内的不正義interna iniustitia[この世の法廷ではなく、神の法廷で裁かれる不正]に照らして、不正である
 4. これによって、どのような者が、そしてどの程度まで、損害の回復を義務づけられるか
 5. 不正な戦争において捕獲された財産は、捕獲した者によって返還されなければならないか
 6. あるいは、その財産は、それを所持する者によって[返還されなければならない]か 

 

第十一章 「正戦における殺害権に関する緩和」
 1. 正戦におけるいくつかの行為には、内的正義が欠けている。このことが説明される
 2. どのような者たちを、内的正義に従って殺害することができるのか
 3. 何人も、不運のために(たとえば、強制されて一方に荷担した者の場合)、正当に殺害されることはない
 4. また、(不運と悪意ないし偽計との中間にある)過失のために、正当に殺害されることもない。この場合の過失の性質が明らかにされる
 5. 戦争を始めた本人auctor と、かれに追随する者とは区別されなければならない
 6. さらに、戦争の本人自身に関して、是認することができる原因と、是認することができない原因とが区別されなければならない
 7. 死に値する敵に対してでさえも、しばしば、刑罰を正当に宥恕することができる。
 8. 無実の人間が、たとえ意図的でなくても殺害されないように、できるかぎりの注意が払われなければならない
 9. 子供[を殺害すること]は、つねに差し控えられなければならない。婦女および老人についても、重大な犯罪を犯したのでない限り、かれらを殺害することは、つねに抑制されなければならない
10. もっぱら聖職あるいは学問にのみ携わっている者についても、抑制されなければならない
11. また、農民についても
12. また、商人およびこれと類似の者についても
13. そして、捕虜についても
14. 公正な条件のもとで降伏することを望む者は受け入れられなければならない
15. 無条件に降伏した者についても、[かれらを殺害することは]抑制されなければならない
16. これは、かれらが以前に重大な犯罪を犯した場合を別とすれば、真実である。このことは、どのように理解されるべきか
17. 犯罪を犯した者についても、その数が多いことを理由として、[かれらの殺害を]差し控えることは正しい
18. 人質は、かれ自身が犯罪を犯したのでない限り、殺害されてはならない
19. 一切の無益な戦闘が抑制されるべきである
第十二章 「略奪およびその他のこれと類似のことがらに関する緩和」
 1. どのような略奪vastatio が正当か。また、それはどの範囲までか
 2. ある物がわれわれにとって有用であるが敵の権力外にある場合には、それを略奪することは抑制されなければならない
 3. すみやかな勝利に対する期待ないし公算が大きい場合には
 4. 敵が、自分たちの生活を維持する手段をどこか別のところにもっている場合には
 5. 物それ自体が、戦争を援護するのにまったく役立たない場合には
 6. これは、とくに、神聖物またはそれに付加された物について生ずる
 7. 同じく、宗教物についても
 8. このような緩和から得られる利点が注記される
第十三章 「捕獲された財産に関する緩和」
 1. 敵の従属者の財産は、戦争において捕獲されたものでも、債務[の弁済]と同じ仕方ないし限度で、保持されなければならい
 2. まして、他人の犯罪に対する罰のために保持されてはならない
 3. ここにいう債務とは、戦争において生じたものも含まれると理解されるべきである。その範例
 4. この権利を最大限にまで使用しないことは、人道に適っている
第十四章 「捕虜に関する緩和」
 1. 内的正義によれば、捕獲することができる人の範囲はどこまでか
 2. 内的正義によれば、主人は奴隷に対して何をすることができるか
 3. 無実の者[奴隷]を殺すことはできない
 4. 無慈悲な仕方で罰することはできない
 5. あまりにも重い仕事を課してはならない
 6. [奴隷の]特有財産は、どこまでが主人のもので、どこまでが奴隷のものか
 7. 奴隷が逃亡することは許されるか
 8. 奴隷から生まれた子は主人に拘束されるか。また、それはどの程度までか
 9. 捕虜が奴隷として使用されない場合には、何がなされるべきか
第十五章 「支配権の取得に関する緩和」
 1. 内的正義によれば、支配権の取得が許容されるのはどの範囲までか
 2. 敗者に対してこの権利を抑制することは、賞賛に値することである
 3. あるいは、かれらを勝利者と混合することによって
 4. あるいは、支配権を、もともとそれを保有していた人々のもとに残すことによって
 5. ときには、駐屯兵を置くことによって
 6. もしくは、租税その他の負担を課すことによってさえも
 7. この緩和から得られる利点が明らかにされる
 8. その範例。および、敗者のもとで生ずる国家形態の変更
 9. 支配権が勝利者のものとされなければならない場合でも、その一部が敗者に残されることは正しい
10. あるいは、少なくとも、なんらかの自由が
11. とりわけ、宗教における自由が
12. 敗者は、少なくとも、慈悲をもって取り扱われなければならない。それはなぜか 

 

第十六章 「諸国民の法によっては復帰権が認められないことがらに関する緩和」
 1. 内的正義は、われわれの敵が不正な戦争において他人から奪った物がすべて返還されることを要求する
 2. その範例
 3. そこからどのようなことが導き出されるか
 4. 従属する国民あるいはその一部でさえも、かれらが敵によって不正に捕らえられた場合には、もとの支配者に返還されなければならない
 5. 返還の義務はいつ消滅するか
 6. [戦争の正当性について]疑義がある場合には、どうしなければならないか
第十七章 「戦争において中立である者について」
 1. 平和な関係にある者からは、最高度の必要性がありかつその代償が支払われるのでない限り、いかなる物も取り去られてはならない
 2. 抑制の範例と、[聖書の記述その他から導き出される]いくつかの掟
 3. 平和な関係にある者が交戦中の者に関して負う義務とはどのような義務か
第十八章 「公戦において私的になされることがらについて」
 1. [公戦において]私的に敵に危害を加えることができるか。このことが、自然法、諸国民の法、そして国法の区別とともに明らかにされる
 2. 内的正義によれば、自己の費用で戦い、あるいは艦船を装備する者は、敵に関して何をすることができるか
 3. 自国に関してはどうか
 4. キリスト教的愛の掟は、かれらに何を要求しているか
 5. 私戦が公戦と混同されるのは、どのような仕方でか
 6. 命令がないのに敵に危害を加える者は、何に対して義務を負うか。このことが、区分とともに説明される
第十九章 「敵同士の間の信義について」
 1. いかなる敵との間でも、信義は守られなければならない
 2. 海賊や暴君に対しても信義が守られなければならない。このことを否定する見解が反論される
 3. そのような者[海賊や暴君]たちは刑罰に値するということから導き出された論証に、解答が与えられる。そして、かれらの行為があたかもそのような[海賊や暴君としての]行為である場合には、信義の遵守は顧慮されないことが明らかにされる
 4. 約束が脅威から生まれたことは、もしその脅威が約束した者に対して与えられたのでなければ、妨げとならない
 5. あるいは、もしその約束に誓いiuramentum が付け加えられているならば、たとえそれが海賊に対するものであっても[その約束は守られなければならない]。しかし、人間に関する限り、その約束を破ったとしても、罰せられることはない
 6. 同じことは、従属者と戦争している者[=君主]にも適用される
 7. [この場合に]従属者に対してなされた約束に関して、[君主が保有する]卓越した支配権のために、特別に困難な問題が生ずる。この問題が論じられる
 8. そして、そのような約束は国家の宣誓によって確認されることが明らかにされる
 9. あるいは、第三者が介在し、この者に対して約束された場合
10. 政体status publicus は、どのような仕方で変更されうるか
11. 脅威metus は、諸国民の法に基づく盛式戦争においては、[約束に拘束されることの]例外とはならない
12. 諸国民の法によって認められる脅威について、どのようなことが知られなければならないか
13. 信義は、不誠実な者に対しても守られなければならない
14. しかし、条件が欠けた場合にはそうではない。このことは、合意の当事者の一方が合意を守ろうとしない場合に生ずる
15. また、正当な代償[の要求]に異議が唱えられた場合にも
16. これは、任意のその他の契約から生ずる
17. あるいは、損害が発生した場合に生ずる
18. そして、もちろん、刑罰からも生ずる
19. これらのことは、戦争においては、どのような仕方で生ずるか
第二十章 「戦争を終結させる公的信義について。そこでは、和平の合意[=平和条約]について、籤引きについて、決闘について、仲裁、降伏、人質、質物について[説明される]」
 1. 敵同士の間の信義は、以下の順序に従って区分される
 2. 王政の国家においては、和平を結ぶ権利は国王にある
 3. もし、国王が幼児であったり、狂乱者や捕虜であったり、追放された者であったらどうか
 4. 貴族政または民主政の国家procerum aut populi status では、和平の締結権は多数者のもとにある
 5. どのような方法で、支配権あるいは支配権の一部あるいは王国の財産を、和平のために、有効に譲渡することができるか
 6. 国民またはその継承者は、国王によって締結された和平にどこまで拘束されるか
 7. 従属者の財産は、和平に基づいて、公共の利益のために[和平の相手方に]供与することができる。しかし、損害を賠償する負担が伴う
 8. すでに戦争中に失われた財産についてはどうか
 9. この場合には、諸国民の法に基づいて取得された財産と、国法に基づいて取得された財産とは区別されない
10. 公共の利益[のためになされた国王の行為]は、外国人のもとでも、承認されたものとみなされる
11. 和平[条約]を解釈するための一般原則
12. 疑わしい場合には、現状が維持されるべしという合意があるものと信じられなければならない。このことは、どのように受け止められなければならないか
13. すべてのことが戦争以前の原状に回復されなければならない、という合意がなされた場合はどうか
14. その場合に、自権者であった者がその後自発的に従属したときは、その者の自由は回復されない
15. [和平に関して]疑義がある場合には、戦争中に与えられた損害[の賠償請求権]は放棄されたものとみなされる
16. しかし、もちろん、戦争の前に私人に対して負っていた債務は放棄されない
17. 刑罰は、[和平に関して]疑義がある場合には、戦争前に公けに責任があるとされた刑罰でさえも、放棄されたものとみなされる
18. 刑罰に対する私人の権利[=処罰を求める権利]についてはどうか
19. 戦争前に公けに主張された[国王または国民の]権利で、それについて争いがあった[係争中の]ものは、容易に、放棄されたものとみなすことができる
20. 和平の後に捕獲されたものは返還されなければならない
21. 戦争中に捕獲されたものの返還に関する合意については、いくつかの原則がある
22. 果実について
23. 地域の名称について
24. 以前の合意との関係について。および、以前の合意によって妨げられることがらについて
25. 履行遅滞について
26. 疑わしい場合には、その条項を作成した者[の利益]と反対の解釈が行われるべきである
27. 戦争の新たな原因を発生させることと、和平を破ることとは区別されなければならない
28. 和平は、どのような仕方で、あらゆる和平に内在するものに反する行為[たとえば、戦争の原因がないのに相手国を侵略すること]によって破られるか
29. 同盟者が武力をもって攻撃した場合はどうか
30. それが従属者だった場合はどうか。そして、かれらの行為が[公的に]承認されているか否かをどのような仕方で判定しなければならないか
31. 従属者が他の者[君主]のために武器をとって戦う場合はどうか
32. 従属者が危害を受けた場合はどうか。このことが、区分して説明される
33. 同盟者が危害を受けた場合はどうか。このことが、同じように区分して説明される
34. 和平は、和平[条約]の中で命じられていることに反する行為によって、どのように破られるか
35. 和平の条項は区別されるべきか
36. 和平に罰則が付記されている場合はどうか
37. 必要性が[和平の遵守を]妨げる場合はどうか
38. 被害当事者が望む場合には、和平は維持される
39. 和平は、それぞれの和平に特有の性質に関することがらに反する行為によって、どのように破られるか
40. 友好amicitia という名で表されるものは何か
41. 従属者および追放された者を受け入れることは、友好に反するか
42. どのような仕方で、戦争を籤によって終結させることができるか
43. 決闘による場合にはどのような仕方でか。それは適法か
44. この場合に、国王の[決闘]行為は、国民を拘束するか
45. 誰が[決闘の]勝利者と判定されるべきか
46. 戦争を、どのような仕方で、仲裁によって終結させることができるか。この場合の仲裁は、上訴が認められないものと解されなければならない
47. [仲裁人の権限に]疑義がある場合には、仲裁人は法[ないし衡平]ius に拘束されるものと理解されなければならない
48. 仲裁人は、占有[物]について判定してはならない
49. 単純な降伏deditio pura[=無条件降伏]の効力とは何か
50. このような仕方で降伏した者に関する、勝利者の義務は何か
51. 条件付き降伏について
52. どのような者を人質として与えることができるか、また与えるべきか
53. 人質に対する権利とは何か
54. 人質が逃亡することは適法か
55. 人質を他の原因のために留置することは正しいか
56. 人質をとった者が死亡したとき、人質は解放されなければならない
57. 人質を提供した国王が死亡したとき、人質は拘束され続けなければならないか
58. 人質は、ときには、本人としての義務を負う。しかし、ある人質が他の人質の行為に基づいて義務を負うことはない
59. 質物の義務とはどういうものか
60. 請け戻しの権利はいつ失われるか 

 

第二十一章 「戦争継続中の信義について。そこでは、休戦、自由通行権、捕虜の請け戻しについて[説明される]」
 1. 休戦induciae とは何か。その期間は平和の名の下にあるのか、あるいは戦争の名の下にあるのか
 2. 休戦という言葉の起源
 3. 休戦[が終了した]後は、[戦争を再開するために]新たな宣戦の布告を必要としない
 4. 予め定められた休戦の期間は、どのように計算されなければならないか
 5. 休戦はいつから当事者を義務づけるか
 6. 休戦期間中にできることは何か
 7. 退却すること、城壁を修復すること、およびこれに類似したことができるか
 8. 占領することができる土地の区分
 9. より大きな力[=不可抗力]によって抑留された者は、休戦の終了時に帰還することができるか
10. 休戦に関する特別の合意について。そこから、通常、何が求められるか
11. 休戦に関する合意が一方当事者によって破られたとき、他方当事者は戦争を再開することができる
12. [休戦協定に]罰則が付記されている場合はどうか
13. 私人の行為によって休戦が破られるのはどのようなときか
14. 休戦協定の外にある自由通行権については、どのような解釈が採用されるべきか
15. 兵士milites という名の下にあるのはどういう人々か
16. 行くire、 来るvenire、出立するabire という言葉は、ここでは、どのように理解されなければならないか
17. [この解釈の]人への拡張について
18. 物への拡張について
19. 随伴者comes および国民gens の名の下にあるのは、[それぞれ]どういう人々か
20. 付与された自由通行権は、[付与者の]死亡によって消滅するか
21. もし、それが、付与者の望む期間に限定して与えられた場合はどうか
22. 安全は、領土の外でも認められなければならないか
23. 捕虜の請け戻し優遇favor redemptionis について
24. 法律によって請け戻しを禁止することができるか。このことが、区分して説明される
25. 捕虜に対する権利は譲渡することができる
26. 一人の者が、複数の者のために、身代金の支払いを義務づけられることもありうる
27. 捕虜の富裕度を知ることができないという理由で、[身代金に関する]合意を無効とすることができるか
28. 捕虜の財産のうち、どのような財産が捕獲者のものとなるか
29. 捕虜の相続人は身代金支払いの義務を負うか。このことが、区分して説明される
30. 他人を解放するために釈放された者は、その他人の死亡によって戻らなければならないか
第二十二章 「戦争における下位の権力[将軍あるいは執政官]の信義について」
 1. 将軍dux の種類
 2. かれらの合意は、どこまで最高支配権[者]を義務づけるか
 3. あるいは、[最高支配権者の]義務の動機となるか
 4. [最高支配権者の]命令に反する何かがなされた場合はどうか。そこでは、いくつかの区分が示される
 5. そのような場合に、合意の他方当事者は義務を負うか
 6. 戦争の将軍または執政官は、下位の者[=兵士または国民]自身に関して、もしくは下位の者のために、何をすることができるか
 7. 和平を締結することは、将軍の権限ではない
 8. 休戦を結ぶ権限が[将軍に]あるか。このことが[和平の締結の場合と]区別される
 9. 将軍は、どのような安全を、そしてどのような財産を、[休戦の相手方に]与えることができるか
10. そのような合意は、厳格に解釈されなければならない。それはなぜか
11. 将軍によって受け入れられた[敵方の]降伏はどのように解釈されるべきか
12. 「王または国民がよしとしたならば」という注意書きは[どのように解釈されるべきか]
13. 町を引き渡すことに関する約束は
第二十三章 「戦争における私人の信義について」
 1. 私人は敵に対して与えられた信義には拘束されない、とする見解が退けられる
 2. 私人は海賊や盗賊に対する信義にさえも拘束されることが明らかにされる。それはどの範囲までか
 3. これに関しては、未成年者も除外されない
 4. 錯誤は[信義から]解放するか
 5. 公共の利益から導き出された異論に解答が与えられる
 6. 先に述べたこと[信義を守る義務]は、牢獄に戻るという約束にも適用される
 7. 特定の場所に戻らない、武器を取って戦わないという約束[も同様である]
 8. しかし、逃亡しないという約束には適用されない
 9. 捕虜は[かれを捕虜とした者以外の]他の者に降伏することはできない
10. 私人は、約束したことの履行を、その[上位の]権力によって強制されるべきか
11. その種の合意に対して、どのような解釈を付け加えることができるか
12. 生命vita、衣服vestis、援軍の到来adventus auxilii という言葉は、どのように受け取られなければならないか
13. 敵のもとに戻ったということができるのは、どのような者か
14. [正当な援軍が来れば降伏しないという]条件付き降伏における、正当な援軍iustum auxilium とは何か
15. 合意の実行[方法]に属することは、条件にはならない
16. そのような合意のための人質について
第二十四章 「黙示の信義について」
 1. 信義は、どのような仕方で、黙示的に与えられるか
 2. 国民あるいは国王によって、その保護下に受け入れられることを希望する者の範例
 3. 会談を要請する者もしくは会談を許す者[の範例]
 4. しかし、これらの者には、会談の相手方を害さない限り、自己の利益の増進を図る自由がある
 5. 慣習によればあることを表示するような、無言の合図について
 6. 誓約の黙示的承認について
 7. 刑罰が黙示的に宥恕された[と考えられる]のはいつか
第二十五章 「結論、信義と平和のための忠告とともに」
 1. 信義は守られなければならないという忠告
 2. 戦争においては、つねに平和が目的とされなければならないという忠告
 3. そして、損害を伴う場合でさえも、和平が進んで迎え入れられなければならないという忠告。とくにキリスト教徒によって
 4. それは、敗者にとって利益となることである
 5. また、勝者にも
 6. そして、[勝利が]どちらのものか疑わしい場合でも
 7. 締結された和平は、最高の敬虔さをもって遵守されなければならない
 8. [著者の]祈願ならびに本書の結び
付属文書
 1.  ジョワンヴィルによって記述された、フランス国王聖ルイ伝、第89 章から1
 2.  国王聖ルイの命令に基づいてその息子に与えられた同王の伝記から、パリ市財務委員会議事録より2
【訳注】
 1. この文書には邦訳がある。伊藤敏樹訳、ジャン・ド・ジョワンヴィル「聖王ルイ」、ちくま学芸文庫、2006 年(伊藤訳では第137 節末尾の2 段落分、287、288 頁がこれに相当する)。
  2. この二つの付属文書は、いずれも、1642 年版から付加された。したがって、1642 年版および1646 年版にしか存在しない。ちなみに、一又正雄訳「グローチウス・戦争と平和の法」全三巻、酒井書店、1951 年(復刻版1996 年)には、この二つの付属文書は訳出されていない。
【付記】
グローティウスは、「見出し」の中で、「自然の法」ius naturae と「自然によって」ないし「自然的に」naturaliter の二語を、ほぼ互換的に使用している。しかし、この「全体の目次」の作成に際しては、ぎこちない訳文になることを承知の上で、念のために、naturaliter を「自然に従えば」などと訳出し、自然の法ius naturae および自然法ius naturale と区別した。 
   
「献辞」

 

ルイ13 世陛下
キリスト教徒のなかのキリスト教徒、フランスおよびナヴァラの国王陛下に1 
   フーゴー・グローティウス
諸王の中のもっとも卓越した国王であられる陛下よ、本書に陛下の尊いみ名をあえて記しましたのは、本書そのものへの自信や著者の自負心からではなく、その主題に対する確信からのことです。なぜなら、本書は、正義のために書かれたものだからです。この正義の徳こそ、まさに陛下のものであり、陛下は、ご自身の功績により、また人類の同意に基づいて、これほど偉大な国王にもっともふさわしい添え名を受けられ、いまやいたるところで、ルイという名に劣らず、正義王という呼び名によって知られています2。
ローマの将軍たちには、クレタやヌミディア、アフリカ、アジアその他の、征服した諸国民にちなんで贈られた称号が輝かしいものと思われました3。しかし陛下の称号は、それと比べて、いっそう高貴で輝やかしいものです。と申しますのは、陛下の称号は、陛下が、なんらかの国民、なんらかの人間に対する勝利者ではなく、いたるところで不正なことに敵対し、つねに勝利する者であることを示しているからです。エジプトの国王たちは、あるいは父を、あるいは母を、またあるいは兄弟を愛する国王と呼ばれたならば、それは偉大なことであると考えました4。しかしこれらは、陛下の名のいかにわずかな部分でしかないことでしょうか。なぜなら、陛下の名は、これらのことのみでなく、美しさや高潔さの表れと考えることができるすべてのことによって縁取られているからです。
陛下が、言葉ではいい表せないほど偉大であった亡き父王を讃え、父王に倣うとき、陛下は正しいのです5。弟君をあらゆる仕方で、しかし、なによりも陛下の範例によって教え導かれるとき、陛下は正しいのです。妹君たちに最高の婚姻を準備なさるとき、陛下は正しいのです6。陛下が、ほとんど葬られようとしていたもろもろの法律をよみがえらせ、ますます悪化する一方の時代に、できるかぎり抵抗されるとき、陛下は正しいのです7。陛下の善意を知らずに義務の限界を踏み越えた臣民から罪を犯す自由以外のなにものも奪わないとき、また、神の問題に関して陛下と異なる見解をもつ人々に対して暴力を加えないとき、陛下は正しく、同時に慈悲探いのです8。陛下が、抑圧された国民や苦難に直面している君主の重荷を、陛下の権威によって軽減し、運命のなすがままにさせないとき、陛下は正しく、同時に憐れ深いのです9。
陛下のこのような特別の慈悲心は、人間に許されたものとしてのきわみであり、神にも似たものです。そして、陛下のこの特別の慈悲心に対して、わたしは、この公けの献辞においても10、わたくし個人として、謝意を表わさないではいられません。なぜならば、天の星が、世界の大部分に光を注ぎ込むだけでなく、個々の生き物にもその力が注がれるのを許しているように、地上におけるもっとも恵み深い星であられる陛下は、君主たちを励まし、諸国民を助成することに満足されず、祖国において不正な扱いを受けていたわたしに対しても、守りと慰めがあるようにと望まれたからです11。
さらに、正義の世界を完全なものとするために、陛下には、これらの公的行為に加えて、純真無垢な私生活が備わっています12。これは、人々の賞讃のみならず天上の霊たちの賛嘆にも値するものです。なぜなら、陛下は、運命によって、罪を犯す無数の誘惑に取り囲まれた境遇の下に置かれているのですから。もっとも身分の低い庶民の中のどれだけの者が、またこの世の交わりを断った人々の中でさえもどれだけの者が、陛下と同じように、あらゆる罪から免れていることでしょうか。罪を犯す者のさまざまな実例が、もろもろの用務の間に、群衆の中に、宮廷において、これほど多数存在する中で、純真無垢な私生活を送られることは、なんと偉大なことでしょうか。実際、それは、陛下以外の人々の場合には、たとえ孤独な生活を送る者の場合でも、ほとんど見られないか、あるいは、しばしば、まったく見られないことです。これは、まさに正義王の名に値するばかりか、陛下がすでに在世中に、聖王の名、すなわち陛下の先祖シャルルマーニュやルイが、敬虔な人々の一致した意見に基づいてその死後授けられた名をも13、受けるに値することです。陛下は、同じ家系に属することによってではなく、陛下ご自身の権利に基づいて、キリスト教徒の中のキリスト教徒なのです14。
正義のいかなる部分も陛下と無縁ではありません。しかし、本書の主題に関する部分、すなわち戦争と平和の考察に向けられた部分は、特別に陛下のものです。なぜならば、陛下は国王であり、それもフランス国王だからです。この王国は巨大であり、恵まれた広大な国土はふたつの海にまで伸びています。しかし、もしこの国が他の王国を求めようとしないならば、この王国はいっそう偉大な王国です。何人の権利も武力によって侵害しないこと、古くからの境界線を乱さないこと、さらに、戦争中でも和平の仕事を遂行すること、そして、きるだけ早く終結させるという誓いを立てない限り戦争を始めないこと、これらは、陛下の敬虔さにふさわしいことであり、その崇高な地位にふさわしいことです。神が陛下をその王国へと召されるとき(ちなみに、陛下の王国よりもすぐれた王国はこの王国だけです)、陛下が、恐れずに、「わたしは、正義を保護するためにあなたからこの剣を受け取りました。いまこれを、いかなる者の血であれ、理由もなく流された血によって汚されたことがないまま、清浄かつ潔白な状態であなたにお返しします」ということができるならば、それは、なんと立派な、そしてなんと輝かしいことでしょう。また、それは、陛下の良心にとってなんと喜ばしいことでしょう。もしそういうことになれば、われわれがいま書物から求めている諸規則は、今後は、陛下の行為から、あたかも完璧この上ない範例から求められるかのように、求められることになるでしょう。
これは、それ自体、きわめて偉大なことです。しかし、キリスト教諸国民は、陛下に、それ以上のことをあえて求めています。それは、いたるところで武器が根絶され、陛下が発起人auctor となって、諸国家の間のみならず諸教会の間にも平和が回復されること、さらに、真の信仰そして純粋な信仰[が維持されていた]という意味でまさにキリスト教的時代であったとすべてのキリスト教徒によって認められている、あの時代の教えarbitrium に15、われわれの時代が従うことを学ぶようにすることです。数々の不和に飽いた人々の心をこのような希望へと奮い立たせますのは、最近、聡明さと神聖な平和を愛することにおいて並ぶ者のない大ブリテン国王と、陛下との間に結ばれた友好関係、すなわち、陛下の妹君のまことに幸先のよい婚姻による盟約です16。[諸国家および諸教会の間に平和を回復し、人々を原始キリスト教時代の教えに立ち戻らせるという]この仕事は困難な仕事です。なぜなら、日ごとに激しさを増す憎悪の中で、党派的な熱情がたきつけられているからです。しかし、これほど偉大な両国王にとっては、困難なことや他のすべての人々が絶望していること以上に、ふさわしい仕事はないのです。
平和の神、正義の神が、正しい王、平和を愛する王のために、他のすべての善いことと共に、この[困難な仕事をなし遂げたという]栄誉によっても、神の尊厳にもっとも近い陛下の尊厳をさらに増大させて下さいますように。                1625 年17 
[ 1] ルイ13 世Louis XIII( 正義王ルイLouis le Juste, 1601-1643; 在位1610-1643 年)は、ブルボン王朝第2 代目のフランスおよびナヴァラ国王。フランス国王アンリ4 世Henri IV(1553-1610; 在位1589-1610 年)とその妃マリー・ド・メディシスMarie de Médicis(1573~1642)の長男として生まれ、1610 年にアンリ4 世が暗殺された後、8 歳半で国王となった。しかし、統治の実権は摂政となった母親マリー・ド・メディシスにあり、ルイが13 歳になって戴冠式を行い、正式に国王に即位した後も、彼女が統治の実権を握り続けた。この母親の対ハプスブルグ政策の一環として、ルイ13 世は1615 年にスペイン国王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュAnne d'Autrich と結婚させられ、妹のエリザベトも、同年に、フェリペ3 世の息子フェリペ4 世(1605~1665;在位1621-1665 年)と結婚させられた。しかし、このハプスブルグ家との婚姻同盟は、国内の反ハプスブルグ勢力、すなわちプロテスタントおよびガリカニスムを主張するカトリック聖職者の反発を招き、国内政治の不安定化の要因となった。マリーの摂政時代は、コンデ公の反乱など有力貴族との抗争が絶えず、カトリックとプロテスタントの間の抗争も激しさを増す一方であった。さらに、マリーが、イタリアからマリーに随行してきたコンチーニConcino Concini(1575~1617)夫妻を重臣として用いたことも、貴族の反感を強めた。このため、ルイは、1617 年に、リュイヌ公ダルベールCharles d'Albert, duc de Luynes(1578~1621)と謀ってコンチーニを暗殺し、母マリーをブロワに追放して、親政を開始した。しかし、1621 年にダルベールが死亡すると、ルイは母親と和解し、母親を含む国王顧問会を組織して、国内外の諸問題の解決にあたった。ルイ13 世が当面した主要な国内問題は、国王の親族を含む有力貴族の反乱を押さえて、フランスを国王が支配する一つの国家に統合することであった。それに対する大きな障害となっていたのがユグノーの存在である。かれらは、有力貴族と結んでしばしば国王に反抗し、国内の数カ所でいわば国家内国家を形成していた。ルイは、顧問会の進言に基づき、1622年にユグノーの拠点の一つモンペリエを攻撃した。しかし、これを制圧することはできなかった。そこで、ルイは、かれらと和平協定を結んで(モンペリエの勅令édit de Montpellier)ナントの勅令を確認する一方で、ユグノー安全区をラ・ロッシェルおよびモントーバンの二箇所に限定した。フランスの統一国家への歩みは、1624 年に、顧問会の一員であり母マリーの相談役でもあった枢機卿リシュリューArmand-Jean du Plessis Richelieu, cardinal(1585-1642)が宰相に登用されると、かれの采配のもとで一段と加速された。ルイとリシュリューは、まず、ユグノーと結んで国王と対立していた貴族を制圧し、フランス国内の混乱に乗 じて送り込まれたイギリス軍を破った。そして、1629 年に、アレーの勅令édit de grâce d'Alés;paix de Alais を発布して、モンペリエの勅令によって認められていたユグノー安全区を廃止したほか、ユグノーの政治的権利を制限することに成功した。また、三十年戦争に際しては、ハプスブルグ家の勢力を弱体化させることに全力を注ぎ、あえてプロテスタント勢力の総帥スェーデン国王グスタフ2 世を支援した。1635年には、スペインに対して正式に宣戦を布告し、北イタリアのいくつかの都市をスペイン・ハプスブルグ家から取り戻したほか、ロレーヌ地方をフランス領とすることにも成功した。こうして、ルイ13 世の時代に、フランスでは、封建貴族の抵抗に終止符が打たれ、フランスが統一国家となった。しかし、国王がこの国家を統一的に支配するための行政機構の整備は、次の国王の仕事として残された。
三十年戦争において、ルイは、ハプスブルグ勢力の強大化を阻止し、ヨーロッパ諸国の勢力の均衡と国際情勢の安定化に貢献したことから、ヨーロッパ諸国間の紛争に対するよき仲裁者という評価を獲得した。ただし、後世の歴史家たちは、国内外でフランスの威信を高めた功績は、もっぱら宰相リシュリューの才覚に負うものであり、ルイ13 世の功績は、そのような優れた宰相を登用して、国政のすべてを委ねた点にとどまると評価している。ちなみに、三部会États généraux も、母親マリーが摂政であった1614/1615 年に開催されたのを最後として、フランス革命時の1789 年まで開催されなくなった。
グローティウスの献辞は、ルイ13 世の資質や業績について、きわめて慎重に言葉を選んで作られている。しかし、ルイ13 世の評伝と合わせて読むと、過大評価や露骨な阿諛追従とさえ思われる表現も見られる。これは、一つは、「献辞」というものの性質によるのであろう。しかし、また、「戦争と平和の法・三巻」の執筆当時、グローティウスがオランダから亡命し、フランスで保護されていたという事情によるものとも考えられる。さらに、そればかりでなく、国家の問題と宗教の問題とを切り離して、宗教から自立した統一的国家を樹立しようとしたアンリ4 世およびルイ13 世の統治に、グローティウスが大いに期待していたからでもあろう。また、スペイン・ハプスブルグ家の支配に対する独立戦争を継続中であった祖国に対する、イギリスおよびフランスの支援を確実なものにしたい、という思いもあったかもしれない。この献辞において、アンリ4 世やジェイムズ1 世がほぼ無条件に賛美されているのは、このような事情によるものと思われる。
この両王に対する評価と比較すると、ルイ13 世に対するグローティウスの評価はやや異なる。たとえば、グローティウスは、ナントの勅令を発したアンリ4 世を「言葉で言い表せないほど偉大であった」と表現する一方で、ルイ13 世に対する献辞の年号「1525 年」を1646 年になって書き加えている。1643 年に死去したルイ13 世に対する献辞の年号を1646 年になってわざわざ遡って書き加えた理由の一つは、グローティウスが、ルイ13 世の対ユグノー政策の強化や、スェーデン大使としてリシュリューと交渉した経験などから、少なくとも1625 年以後のルイ13 世の統治については、あまりよい印象を抱いていなかったからではなかろうか。ちなみに、1629 年の「アレーの勅令」は、1685 年のナントの勅令の廃止に道を開くものであった。なお、献辞に「1625 年」という年号を遡って書き加えたその他の理由については、訳注16 を参照されたい。
[ 2] 「正義王」Le Juste という添え名は、ルイ13 世の出生日(9 月27 日)が黄道十二宮の天秤座に属し、天秤座の標語が「釣り合い」・「平衡」であることに由来する(正義の女神は天秤をもっている)。したがって、この添え名はルイ13世の功績によるものではない。グローティウスは、献辞で、この添え名をキー・ワードとして、ルイ13 世の資質や功績をたたえている。しかし、それらはいずれも実態を反映しているとはいい難い。グローティウスは、むしろ、この献辞を通じて、自らが理想とする正義王の姿を提示し、あわせて「戦争と平和の法・三巻」を献呈するのにふさわしいルイ13 世像を創作しようとしている、と理解することができよう。グローティウスが、聖ルイをモデルとしてルイ13 世を理想化しているらしいことについては、訳注13 を参照されたい。
[ 3] 共和政期のローマでは、ローマの国威発揚に功績のあった将軍(たいていは執政官)に対して、元老院または国民が征服地にちなんだ添え名を贈る習慣があった。古代のギリシア人やローマ人は祖父母または両親の名前を子に継承させることが普通だったので、添え名は個人を識別するための標識としても役立った。グローティウスがあげている添え名の成立事情は次の通りである。クレタ島は、前69 年に、メテッルスQuintus Caecilius Metellus(c. 135~c. 50 BC)麾下のローマ軍によって征服され、メテッルスに「クレティクス」Creticus という添え名が与えられた。ヌミディアはユグルタ戦争(112~105 BC)によってローマの支配下に編入されたが、この戦争を指揮した、同名のもう一人のメテッルスQuintus Caecilius Metellus(c. 160~91 BC)に、「ヌミディクス」Numidicus という添え名が与えられた。また、第二次ポエニ戦争の指導者(大)スキピオPublicus Cornelius Scipio( 236~183 BC)には、「アフリカーヌス」Africanusという添え名が贈られ、マグネシアの戦い(190 BC)で勝利を収めたスキピオLuciusCornelius Scipio(前183 年頃没)には、「アシアティクス」Asiaticus という添え名が与えられた。
[ 4] 出典不詳。
[ 5] 1625 年の初版では、ここに、「陛下が最良の母君を、私人たちもそうする慣わしである以上に敬われるとき、陛下は正しいのです。」Iustus, cum MatremOptimam revereris plus quam vel privati solent; という文章が入っていたが、1631年版以降削除された。ルイの母マリーは、夫のアンリ4 世が暗殺された後、少年国王ルイの摂政となった。ただし、オリヴィエ・マルタンによれば、彼女は「理性の光も、困難な事態に必要とされる性格も、持ち合わせていなかった」という。マリーは、当初、アンリ4 世の顧問たちと相談しながら統治していたが、やがて、イタリア人コンチーニを重用するようになり、彼女に対する貴族の不信感と反発が強まった。これを見たルイは、盟友アルベールの助言に基づいてクーデタを敢行し、コンチーニを殺害するとともに、マリーをブロワに追放した(訳注1 に既述)。しかし、マリーは1620 年にブロワを脱出し、不平貴族を集めて反乱を起こした。この反乱は失敗に終わったが、このとき、リシュリューの説得が功を奏して、マリーは処罰を免れたと伝えられている。1621 年には、マリーとルイとの間に和解が成立し、マリーは宮廷に復帰した(彼女は、リシュリューらと共に国王顧問会の一員として国政に参加している)。ところが、マリーは、1624 年に宰相となったリシュリューの反ハプスブルグ政策に反対して、王弟ガストンらと共に、リシュリューの追放を画策した(1630 年)。ルイは、当初、この計画に賛成していたが、一夜にして意見を変えてリシュリューの追放に反対し、逆に、この陰謀事件に荷担した一味の貴族らを逮捕、処刑した。マリーもムーランに追放された。彼女は、これを契機として国政から完全に身を退き、その翌年、国外に亡命した。そして、ブリュッセル、アムステルダムを経て、イギリス、ドイツの宮廷を転々とし、ふたたびフランスに戻ることなく、1642 年に、旅行先のケルンで死去した。マリーの遺体はリシュリューの手によってフランスに運ばれ、サン・ドニの王廟に安置されたが、葬儀などは一切行われなかったという。グローティウスが、1631 年版以後、マリー・ド・メディシスに関する記述を削除したのは、このような、国王ルイと母親マリーとの関係の変化を考慮してのことであろう。
[ 6] ルイ13 世には、エリザベトElisabeth、クリスティーヌ・マリーChristine Marie、ニコラNicolas、ガストンGaston、アンリエット・マリーHenriette Marieの5 人の弟妹がいた。エリザベトは、ハプスブルグ家のスペイン国王フェリペ4世と結婚し(1615 年)、クリスティーヌ・マリーは、1619 年にサヴォワ公ヴィクトール・アマデウス1 世と結婚した。ニコラはオルレアン公の称号を保有していたが4 歳で夭逝し、その弟アンジュー公ガストンがオルレアン公の地位を継承した。ガストンは、1626 年に、リシュリューの提案を受け入れて、モンパンシエ女公マリー・ド・ブルボンと結婚し、マリー・ド・ブルボンの死後、ロレーヌのマーガレットと再婚した(1632 年)。末妹アンリエット・マリーについては、1624 年に、イングランド国王ジェイムズ1 世James I(1566~1625;在位1603~1625 年)の息
チャールズCharles(1600~ 1649;チャールズ1 世としてイングランド国王在位1625~1649 年)との間に婚姻協定が整えられた(アンリエット・マリーの結婚については、訳注16 を参照されたい)。そして、1625 年3 月にジェイムズ1 世が死去したため、6 月にイングランドに渡ったアンリエットは、新国王チャールズ1 世と結婚することになった。ルイ13 世が関与したのは、クリスティーヌ・マリーとアンリエッタ、およびガストンの結婚である。
[ 7] ルイ13 世は、1622 年に、モンペリエの勅令によってナントの勅令を確認した。この他にルイがどのような法令を復活させたのかはよくわからない。ルイ13 世の代表的立法は1629 年に公布された王令、いわゆる「ミショー法典」Le Code Michau である。この法典は、パルルマンの法令登録権を制限し、貴族が商業に従事することを認めたほか、裁判制度から贈与、婚姻にいたるまでの広範な領域を対象とした包括的法典(全461 条)であった。この法典はほとんど実施されなかったといわれるが、フランス法の法典化への道を開いたものとして、歴史的に重要な法典と評価されている。しかし、この法典の編纂が命じられたのは1627 年だから、グローティウスがこの法典を念頭に置いていたとは考えられない。
[ 8] ルイ13 世は、母マリーと弟ガストンのたび重なる反抗、反乱について、かれらを追放しただけで処刑はしなかった。また、ユグノーに対しても、少なくとも信教の自由を保障し、かれらが自発的に降伏した場合には、重罰や処刑を科していない。この点に、フランス国王の、政治と宗教を分離し、国家を宗教から切り離して統治するという考え方が表れている。しかし、宮廷内の権力闘争や有力貴族(これには、アンリ4 世の庶子たちも含まれる)の反乱に対しては、厳罰をもって臨むことも厭わなかった。オリヴィエ・マルタンは、ルイではなくリシュリューの施策としてではあるが、次のように指摘している。「リシュリューは、常に策謀や叛乱をしようと身構えている高級貴族層を挫くが、これに際して、かれは、確かにそれ自体では重大であるが、大罪人によってというよりは、むしろ軽い混ぜ返しの気持ちによって犯された行為を、峻厳に罰するという手段をもってした。たとえば、かれは、シャレ、両モンモランシー、サンク・マール、およびドゥ・トゥーを、ことに貴族層を怯えさせるために、そして、貴族層に、自身の王に服すべきときが遂に来ていることを鮮やかな諸例でわからせるために、斬首させた」(塙浩訳「フランス法制史概説」、創文社、1986 年、439 頁)。リュクス伯モンモランシーFrançois de ontmorency-Bouteville(1600~1627)も、1626年に公布された決闘禁止令に違反した罪に問われて処刑されている。したがって、ルイ13 世が慈悲深かったとするグローティウスの評言は、一般的に妥当するものとは解されない。
[ 9] ルイ13 世の外交政策を検証することができるのは、リシュリューが宰相となってからのことである。したがって、グローティウスの指摘するようなことが1625 年の段階で存在していたというのはかなり疑わしい。あるいは、アンリ4 世のとき、フランスがイギリス、オランダと同盟を結んで、ハプスブルグ家の支配するスペインに対抗したこと(1596 年)などを念頭に置いた記述かもしれない。
[10] 「この公けの献辞においても」hac quoque publica allocutione という言葉は、1625 年版では、in hac quoque publica allocutione と表記されていた。1631 年以降の版では"in" が削除されている。意味の上で違いはないが、"in" があった方が読みやすいと思われるので、あるいは1631 年版の誤植かもしれない。
[11] グローテイウスは、ルイ13 世の保護の下で約10 年間パリに滞在し、この間に「戦争と平和の法・三巻」を執筆・出版した。この間の事情については、第一部、(一)「グローティウスの略歴」を参照されたい。
[12] ルイ13 世の資質や、かれが少年時代に受けた教育については、少年期のルイの侍医であり、病弱なルイに終始付き添っていたジャン・エロアールJean Héroard(1551-1628)の「ルイ13 世の幼年期および青年期に関する日記」Journal sur l'enfance et la jeuness de Louis XIII(1601-1628), Paris, 1868. が詳細に伝えている。それによれば、ルイは、母親の愛情をまったく受けずに育ち、宮廷の女官たちによって、父王の庶子たちと一緒にときには笞によってしつけられ、およそ学問や芸術などとは無縁の教育を授けられた。その結果、ルイは、優しさと臆病、頑固さと周囲の人々の言動にきわめて敏感に反応する繊細な性質とを併せもった子供に成長した。かれの幼少時の遊びは戦争ごっこであり、長じてからの趣味はダンスであった。ルイの興味を引いた学問・芸術は、ダンスと音楽のみだったといわれる。しかし、他方で、ルイは、きわめて敬虔なカトリック教徒であり、自らの使命に忠実で、女性関係の醜聞とも無縁であった。アンヌ・ドートリッシュと結婚して20 年以上も子供に恵まれなかったのに、当時の国王には珍しく、ルイ13 世には庶子がいない。
[13] シャルルマーニュCharlemagne; Carolus Magnus(742~814;768~814 年フランク国王;800~ 814 年ローマ皇帝兼任)は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1 世バルバロッサFriedrich I, Barbarossa(c. 1122~1190;1152~1190 年ドイツ国王;1155~1190 年神聖ローマ皇帝)の強い要請により、1165 年に聖人に認定された。フランス国王ルイ9 世Louis IX(聖王ルイSaint Louis, 1215~1271: 在位1226-1270年)は、十字軍遠征中のチュニジア近傍で1270 年に病没し、1297 年に列聖された。ルイ9 世の10 代目の子孫がルイ13 世である。終生カトリック教会に忠実だったルイ13 世は、十字軍遠征の途中で死亡し、聖王と讃えられたルイ9 世の生き方にあこがれていたといわれる。なお、グローティウスは、1642 年および1646 年版「戦争と平和の法・三巻」の末尾に、ルイ9 世に関する記事を二つ収録している。一つは、ジョワンヴィルJean de Joinville(1224~1317)の「聖王ルイ言行録」Livre des saintes paroles et des bons faiz nostre roy saint Louys. の一節であり、もう一つは、パリ市財務委員会の記録中に保管されている、ルイ9 世の命令mandatumに基づいて作成され、長男フィリップに宛てられた「ルイ9 世伝」の一節である。
前者は、1258 年に締結された英仏国王間のパリ条約、およびその他の領主間の紛争に対するルイ9 世の考え方を述べたものであり、後者は、国王の任務が神の命令に従って平和を実現することにあり、戦争は、平和を実現するために、戦争に訴える以外に方法がない場合にのみ行うべきものであって、その場合でも、敵対しない者や損害を与えない者を攻撃してはならないこと、また、臣下の間に対立や抗争が生じたとき、国王は、まず双方の和解と協調に向けて努力しなければならないこと、などを説いたものである。グローティウスが、1642 年になって、なぜこの二つの記事を付け加えたのか、その理由は定かでない。しかし、ルイ9世に関するこの二つの記事の内容は、献辞の中でグローティウスが描き出している、平和に対するルイ13 世の姿勢や業績と酷似している。グローティウスは、ルイ13 世を語るとき、これらの伝記に記されたルイ9 世の姿を思い浮かべていたのではなかろうか。
[14] 「キリスト教徒の中のキリスト教徒」Christianissimus という尊称は、15世紀中葉以降、フランス国王に対して用いられるようになった慣用的尊称である。したがって、グローティウスは、この献辞における「キリスト教徒の中のキリスト教徒」という尊称がたんなる慣用にとどまらないことを強調しているといえよう。
[15] グローティウスは、「キリスト教の真理について」の中で、「真の純粋な信仰」とは、キリストおよび使徒たちの教えに忠実であり、それになにものも付け加えず、そこからなにものも差し引かずに、かれらの教えをそのまま信ずることだ、と述べている。したがって、グローティウスのいう「真の純粋な信仰」は、プロテスタント、カトリックの違いを越えて通用する概念となっている。このような信仰が維持されていた時代が「キリスト教的時代」ということであろう。一般的に「原始キリスト教時代」と呼ばれている時代が、ほぼこれに相当すると思われる。「教え」arbitrium という語は、「キリスト教の真理」で用いられている「規律」disciplina あるいは「教え」doctrina に相当すると考えられるので、この点を考慮して「教え」と訳した。ちなみに、グローティウスの「キリスト教の真理」は、公刊直後から高く評価され、広く読まれたが、それだけに、オランダでも、フランスでも強い批判に曝された。したがって、グローティウスのこの真摯な発言が、どれほど説得力をもちえたかは疑問である。
[16] イギリス皇太子チャールズは、父王ジェイムズ1 世によって、スペイン・ハプスブルグ家の王女マリア・アンナとの結婚が予定されていた。これには、マリアの持参金がイギリス王室の財政的窮乏を緩和してくれるという国王の計算が働いていたといわれる。しかし、議会はこの結婚に反対し、チャールズはプロテスタントと結婚すべきこと、スペインに対して宣戦を布告すべきことなどを列挙した請願書を起草した。これに対して、国王ジェイムズは、スペインを相手として戦争するためには戦費が続かないことなどを理由として、この請願を退けた。そして、1623 年に、国王の匿名使節をスペインに派遣して、スペイン王室の意向を確認させた。ところが、スペイン側は、チャールズがカトリックに改宗することなどの条件を提示したために、使節はなんらの成果もあげることができずに帰国した。そして、チャールズとマリアの婚姻約束は、その直後に解消された。このようないきさつを経て、すでに23 歳になっていたチャールズのために、急遽、白羽の矢を立てられたのが、ルイ13 世の末妹アンリエット・マリーである。この婚姻同盟は、バッキンガム公ジョージ・ヴィリエとリシュリューとの間で整えられ、イギリス議会の反対を押し切って実現された。チャールズは、議会に対しては、プロテスタントを擁護し、カトリック教徒に対する制限措置を緩和しないと約束したが、チャールズとアンリエットの婚姻契約には、それと正反対のことが書かれていた。イギリス国内におけるアンリエットの不人気はその後も続いた。
イギリスの内戦の直接のきっかけとなったのが、アンリエットに対する議会側の不穏な動向を懸念したチャールズが、兵を率いて議会に乗り込んだ事件にあったことはよく知られている。一方、アンリエットは、1644 年に、戦費調達のためと称してパリに脱出し、そのままフランスにとどまった。そして、1649 年に処刑された夫のチャールズ1 世と再会することもなかった。グローティウスは、少なくとも、かれ自身が「戦争と平和の法・三巻」に最後に手を加えた1646 年には、チャールズとアンリエッタの結婚に期待することができないことを知っていたはずである。そうだとすると、それにもかかわらずチャールズとアンリエットの婚姻に対する期待を表明した文章を削除しなかったのはなぜか、という疑問が生ずる。グローティウスは、献辞の中で、この婚姻同盟について二度繰り返して言及している。したがって、かれが、婚姻による英仏間の協調を心底願っていたことは確かであろう。そこで、グローティウスは、1646 年版で、献辞の年号「1625年」を書き加えることにより、この部分を削除しなくてもよいようにした、とは考えられないであろうか。なお、グローティウスは、イギリス国王ジェイムズ1世を、「聡明さと神聖な平和を愛することにおいて並ぶ者のない」国王と形容し、1603 年にジェイムズ1 世によって初めて使用され、イギリス国内で物議を醸した大ブリテンGreat Britain; Magna Britannia という言葉を早速採用している。これらは、グローティウスが、ジェイムズ1 世の統治に大きな期待を寄せていたことを示すものであろう。ジェイムズ1 世が死去したのも1625 年であった。ちなみに、ジェイムズ1 世には、王権神授説に基づく君主制論「自由な君 主制の真の法」The Trew Law of Free Monarchies と4 歳の息子ヘンリーのために書かれた帝王学の書「国王の贈り物」Basilikon Doron の二つの著作がある。
[17] この献辞の年号MDCXXV は、ルイ13 世の死(1643 年)後、1646 年版で初めて書き加えられた。その理由に関する訳者の推測については、訳注1 および16 を参照されたい。 
   
序論・プロレゴーメナ

 

〔1〕 ローマの国法であれ、その他いずれかの国の法であれ、国家の法ius civile1 を註解によって説明しようとした者、あるいは要約して提示しようとした者は少なくない。これに対して、多くの国民の間もしくは国民の支配者たちの間に存在する法については、それが自然そのものに由来するものであれ、あるいは〈神の法によって定められたものであれ〉2、あるいは慣習や黙示の合意によって導入されたものであれ、これに取り組んだ者はわずかである。まして、これを包括的に、また一定の順序に従って論じた者は、いままでのところ一人もいない。しかしながら、もしこれが実現されるならば、それは人類全体の利益となるであろう。 
1-1. グローティウスは、ius civile とius gentium をローマ法学で用いられるのとは異なる意味で使用している。したがって、この邦訳では、ローマ法学において定着している「市民法」、「万民法」という訳語は避けた。グローティウスのいうius civile は、ある国民populus; gens ないし国家civitas の法である。また、ius gentium は慣習に基づいて諸国民の間で行われる法を指し、ローマ法源の一種である万民法とは異なる。
1-2. 〈〉印括弧内の 文は1631 年版で加えられた。 
〔2〕 実際、キケロー* は、諸国民、諸国王ならびに諸外国間の同盟条約や協定や協約に関する知識、つまり戦争と平和の法全体に関する知識を、これは卓越した知識であると語っている1。また、エウリピデース* は、この知識を、神事および人事の知識にまさるものとしている。すなわち、かれは、[へレネーをして]テオクリュメネスに対して、次のようにいわせているのである。
「人々ならびに神々の、現在および将来のことをご存じのあなたが、正義のなんたるかをご存じないとは、なんと恥ずべきことでしょう2。」 
2-1. キケロー「バルブス弁護論」第6 章[15]。ただし、グローティウスは、ここで、キケローの文章を微妙に変えている。キケローの文章は、「諸国民、国王たち、異国の諸民族との間の条約、協定、取り決め、また戦争と平和の法全体に関して、かれ[=グナエウス・ポムペイウス]には卓越した能力と傑出した知識がある」(宮城徳也訳「バルブス弁護」、「キケロー選集2」所収、岩波書店、2000 年、203 頁)というものであるが、グローティウスは、キケローの文章のpraestabilem〈 eius〉esse scientiam をpraestabilem hanc dixit scientiam と書き変えることによって、キケロー自身が、一般的に、「諸国民、諸国王、諸外国間の同盟条約や協定や協約に関する知識、約言すれば戦争と平和の法全体に関する知識は卓越した知識である」といったことにしている。postquam Discordia taetra Belli ferratos postea portasque refregit.
2-2. エウリピデース「へレネー」ver. 922-923。へレネーはここでテオノエに向かって語っているが、彼女が本当に批判したかったのは、テオノエではなく、その兄のテオクリュメネスである。この二人はプローテウスの解放自由人であった。岩波版「ギリシア悲劇全集」では、次のように翻訳されている。「父君の正しさを捨てて、正しくない兄君を喜ばせるなら、それは恥ずべきこと、神々の考えは今のこと先のことすべて知っているあなたが、何が正しいかは知らない、というのでは」(細井敦子訳「ヘレネー」、「ギリシア悲劇全集8」所収、岩波書店、1990 年、57 頁)。 
〔3〕 さらに、法のこの部門をあたかも空虚な名称1 以外にはなにもないかのように軽視する人々が、われわれの時代にいないわけではないし、過去にいなかったわけでもない。それだけに、この仕事はいっそう必要である。ほとんどすべての人が、トゥキュディデース* に引用されたエウフェムス* の「王や支配権を有する国家にとっては、[自らの]利益になることで不正なものは何もない」という言葉原1 を口にする。またこれと似た言葉に、最高の運命がかかっているときは、強いことが正しいことである2 とか、国家は不正なしには治めることができない3、という言葉がある。さらに、これに、諸国民あるいは諸国王の間に生ずる紛争は、たいてい、[軍神]マルスを裁定者とする、という言葉が付け加わる4。また、戦争はおよそ法とは縁遠いものであるという意見は、一般民衆だけが抱いているわけではない。学識があり分別を備えた人々の口からも、こうした意見を支持する言葉がしばしばもらされている。実際、法と武器とを対置させることほど、頻繁に繰り返されているものはないのである。たとえば、エンニウス* はこういった。
「法に基づいて争いを始めるのではなく、むしろ鉄の武器によって財物を取り戻そうとする5。」
またホラーティウス* は、アキレウス* の狂暴さを次のように描写している。
「自分に対して作られた法を否定し、なにひとつとして武器によって要求しないものがない6。」
さらに別の[詩]人は、開戦に際して、別の人物に次のようにいわせている。
「ここに、わたしは、平和と汚された法とを捨て去る。7」
〈老王アンティゴノス* は、敵の都市を攻撃しているかれのもとに、正義に関する著作を持参したある人物を嘲笑した8。また、マリウス* は9、武器の響きの前では法[の声]は聞こえない、と語った原2。〉10 あれほど内気な顔つき11 のポムペイウス* でさえも、あえて、「武装しているとき、どうして法を考えることができようか」といっているのである原3。
【原注】
1. この言葉は、トゥキュディデース「戦史」第6 巻[85]にある12。同様の考えが、同書第5 巻にもある。そこでは、当時優勢だったアテナイ人が、メロス人に向かって次のように話している。「この世の常識に従えば、正義というものは、双方が対等の関係にある場合に認められるものである。それ以外の場合には、強者はそのなしうることをなし、弱者は耐え忍ぶのだ13。」14
2. プルータルコス* によれば、リューサンドロス* は、自分の剣を示してこういった。「これをもつ者こそ、領土の境界について最もよく論ずることができるのだ15。」同じ著者によると、カエサル* は、「武器と法とでは、使うときが違う」と述べた16。セネカ*「恩恵について」 第4 巻には、「王たちは、ときには、とくに戦時においては、目をつむって見ないふりをし、多くの贈り物を与える。正しい人間といえども、一人では、多くの武力に支えられた欲望にすべて応えることはできない。立派な人間であると同時に立派な将軍であることは、誰にもできはしないのである17」と記されている18。
3. プルータルコスは、ポムペイウスが[シチリア北東部メッセーナの]マメルティーニ族に対して語ったこの考えを、次のように表現している。「諸君は、剣を帯びたわれわれに、法を読み聞かせることをやめないのか19。」また、クールティウス* は、第9 巻で20、「それほどまでに、戦争は自然の法をねじまげてしまうのだ」と述べている。21 
3-1.  実体を欠いた、言葉の上でだけ存在するものの意。このような表現の例として,グロノヴィウス* は、スエトニウス*「ローマ皇帝伝」ユリウス・カエサル77 の「国家とは無である。つまり名称だけであり、実体を欠いている」というカエサルの言葉をあげている。ちなみに、国原吉之助は、これを「共和国は白日夢だ。実態も外観もない。ただ名称のみ」と翻訳している(国原吉之助訳「ローマ皇帝伝」上、岩波文庫、1986 年、79 頁)。
3-2.  タキトゥス*「年代記」第15 巻1 に、「大きな領土を維持するには、消極的な方法ではだめである。兵力と武器を行使して戦いを試みるべきだ。最高の地位がかけられているとき、力は正義である」(国原吉之助訳「年代記・下」、岩波文庫、1981 年、234 頁)と記されている。これは、アルメニア戦役において異国出身のティグラネスによってアルメニア王位から放逐されたティリダテスが語った言葉である。グロノヴィウスは、これとの関連で、「より強い者にとって有益なものが法である」という文章をあげ、その出典をキケロー「国家について」第3 巻としている。しかし、この文章は、アウグスティーヌス「神の国」第19巻第21 章中に存在する。「心得違いをした人びとによってよく主張されるような、強い力を持つ者にとって有益であるものが法であるという、法についての誤った観念である」(服部英治郎訳「神の国(五)」、岩波文庫、1991 年、87 頁。訳文を一部変更)。そして、訳者服部は、この「法についての誤った観念」の例として、プラトン「国家」第1 巻12 の、「正義とは強者の利益である」とするトラシュマコス* の論をあげている。
3-3.  アウグスティーヌス「神の国」第2 巻第21 章に紹介されている、キケロー「国家について」(第3 巻。ただし、この部分のキケローの原文は現存しない)の一節。「このように語ってから、スキピオはいくらか立ち入って、詳細に、どれほど正義は国家に役立つものか、また、正義がなくなればどれほど国家に害になるかを説明したとき、その議論に加わっていた一人であるフィルスはそれをうけついで、国家は不正なしには治められないことは一般にいわれているのであるから、この問題をもっと詳細に論じ、正義についてくわしく語ることを要求した」(服部英治郎訳「神の国(一)」、岩波文庫、1982 年、129~130 頁)。ちなみに、グロノヴィウスは「神の国」第19 巻第21 章の「国家は不正によらずしては存続しえず、また統治もされえない」nisi per iniustitiam rem publicam stare aut geri non posse. をあげているが、これはアウグスティーヌスがスキピオ[=キケロー]らの議論を要約した文章であり、グローティウスの用語との適合性という点から見ても、適切な例とはいいがたい。
3-4. その例として、グロノヴィウスは、アレクサンドロス* がダリウスの使者に語った言葉、「さあ、帰って、ダレイオスに告げるがよい。貴王が失ったものも、今なおもっているものも、戦争の報酬である。次の日の運命が割り当てたものを各自が受け取り、それが両国の境界となるであろう」(谷栄一郎、上村健二訳・クールティウス「アレクサンドロス大王伝」、京都大学出版会、2003 年、109 頁)をあげている。
3-5. エンニウス「年代記」第8 巻「ハンニバル戦争について」の一節。ちなみに、この断片のPellitur 以下はゲッリウス「アッティカの夜」第20 巻10 に収められており、グローティウスはこれを利用した。現在知られている断片(「アッティカの夜」に収録されたものよりも2 行多い)の試訳を記しておく。
おぞましい不和の女神が、鉄の武具さらには戦争の門を開放した後、知恵が中央から退き、暴力によってことが行われる。正しい弁論家が退けられ、粗暴な兵士が愛される。洗練された言葉によって争うことはほとんどなく、悪しき言葉を交えて、お互いの間に敵意を増長させる。
訴訟を提起するのではなく、鉄の武器によって財産を取り戻し、さらに、王国を要求して、強固な武力をもって突進する。
3-6. ホラーティウスの文章は次の通りである(「詩論」ver. 119-122)。「もしも、あなたが評判の高いアキレスをふたたび登場させるのなら、[かれを、]行動的で激しやすく、情け容赦のない荒武者、己れの従うべき掟はないと宣言し、なにごとであれ剣に訴えて要求する者[として描きなさい]」(岡道男訳「ホラーティウス・詩論」、岩波文庫、1997 年、237 頁。ただし、引用に際して訳語を若干変更した)。したがって、ホラーティウスは、アキレスを描写するときにはこうしなさいといっているのであって、アキレスが、実際に、このように狂暴だったといっているわけではない。
3-7. ルカーヌス* は、カエサルがルビコン川を渡ったときにこの言葉を発したと伝えている。「カエサルが、渦巻く水を乗り越えて対岸に到達し、禁じられた地イタリアの野にしっかり立ったとき、『ここに』、とかれはいった。『わたしは、ここに、平和と汚された法とを捨て去る。運命の女神よ、わたしはあなたに従う。もろもろの盟約は直ちにここから遠ざかれ。われわれは、かつて、これらの盟約を十分に信頼した。しかし、いまや、戦争が裁判官として用いられなければならない』」(「ファルサリア」第1 巻225)。
3-8. プルータルコス「アレクサンドロス大王の運命または英雄的行為」(モラーリア24)9。グローティウスのいう「ある人物」とは「一人のソフィスト」のことである。
3-9. マリウスの言葉は、プルータルコス「対比列伝」マリウス28、同「王および将軍の金言集」(モラーリア15)マリウスにある。この言葉は、マリウスがキンブリア戦争で抜群の働きをした1000 人余のカメリア人にローマ市民権を与えようとしたとき、それはローマの法律に反すると反対されたのに対して、マリウスが答えた言葉である。
3-10. 「 老王アンティゴノスは」以下〈〉印括弧内の文は1631 年版から付加された。
3-11. グロノヴィウスは、「ポムペイウスが、集会に出るたびに、また重大なことを実行するときに赤面したこと」(セネカ「道徳書簡集」11:4)を指すとし、関連文献をいくつかあげて説明している。セネカ「道徳書簡集」11:4 には、「ポムペイウスの顔ほど内面を敏感に示すものはなかった。彼は大勢の前では赤面しなかったことがなかった。とりわけ集会のときはそうだった」とある(高橋宏幸訳「道徳書簡集I」、「セネカ哲学全集5」、岩波書店、2005 年、37 頁)。また、小プリーニウス* は、ポムペイウスの控えめな顔について語り(「書簡集」7:12 および37:2)、サルスティウス* は、ポムペイウスを、「顔は控えめであるが、心は向こうみずである」と評している(スエトニウス「著名文法家列伝」15)。
3-12. トゥキュディデース「戦史」第6 巻85 に、次のようなエウフェムスの演説の一節が記録されている。「僣主の座にある人間にとって、あるいは帝国を支配する国家にとって、道理は利益の代わりではなく、血縁は信頼の証拠ではない」(城江良知訳「歴史2」、京都大学学術出版会、2003 年、186/187 頁)。ちなみに、久保正彰はこの箇所を「独裁の座にある人間、あるいは支配権を牛耳る一国にとって、利得はすべての論理に優先し、また信頼に値せぬ者を身内に近づけぬことを則とする」と訳出している(久保正彰訳「戦史・下」岩波文庫、1967 年、113 頁)。
3-13. トゥキュディデース「戦史」第5 巻89。メロスはスパルタの植民市であったため、ペロポネソス戦争初期には中立を保っていた。そこにアテナイ軍が侵入してきて、アテナイとの同盟を強要した。メロスはこの要求に対処するために民会を開催することとしたが、アテナイの使節に、民会に先立って、少数の有力市民の前で アテナイとの同盟の必要性を説明するように求めた。このときのアテナイの使節の演説の一節がこの文章である。西洋古典叢書版では次のように翻訳されている。「正義は力の等しい者の間でこそ裁きができるのであって、強者は自らの力を行使し、弱者はそれに譲る、それが人の世の習いというものだ」(城江良知訳「歴史2」、前掲、75 頁)。
3-14. 原注1 は1642 年版から付加された。
3-15. プルータルコスは、「王および将軍の金言集」リューサンドロス6 で、アルゴス市民(ペロポネソス戦争で中立を維持した)の間で、アテナイにつくべきかスパルタにつくべきかを巡って意見の対立があることを聞いたリューサンドロスが、剣を抜き、「これを支配する者が、国境に関する紛争を最もよく解決することができるのだ」と語った、と伝えている。
3-16. プルータルコス「対比列伝」カエサル35。内乱の際に、ギリシアに移動したボムペイウスを撃つために艦隊の整備を急いだカエサルが国庫の金を引き出そうとしたのに対して、護民官メテルスはいろいろな法律を持ち出してそれを阻止しようとした。長谷川博隆訳によれば、そのときカエサルは、「武器と法律とは使う場合が同じではないと主張した」(長谷川博隆訳「カエサル」、村川堅太郎編「プルータルコス」世界古典文学全集23 所収、筑摩書房、1966 年、435 頁;ちくま学芸文庫版「プルタルコス英雄伝」下、1996 年、223 頁)。ただし、「武器と法律とは使う場合が同じではない」という言葉は、プルータルコスが、その後に紹介されているカエサルの言葉を要約した言葉であって、カエサルの言葉そのものではない。
3-17. セネカ「恩恵について」 第4 巻37。ここで、セネカは、次のような話を紹介している。マケドニア国王フィリッポス* の部下に、勇敢ではあるが貪欲な兵士がいた。あるとき、その兵士が、フィリッポスに、ある人の所有地を譲って欲しいと懇願し、フィリッポスはその願いを聞き入れた。これについて、セネカは、王者はときに、とりわけ戦争では、目を閉ざしたまま多くの贈り物を与えると指摘して、そのとき、フィリッポスが心中で「公正な人間も、一人では多くの強欲な兵士に対抗できない。立派な人間であると同時に立派な将軍であることは、誰にもできはしないのだ」とつぶやいた、と伝えている(小川正廣訳「恩恵について」、「セネカ哲学全集2」倫理論集II 所収、岩波書店、2006 年、339 頁)。
3-18. 原注2 は1642 年版から付加された。
3-19. プルータルコス「対比列伝」ポムペイウス10。ここで、プルータルコスは、次のような話を伝えている。反スッラ派の討伐を命じられてシチリアに進軍したポムペイウスは、将軍ペルペルナから引き渡されたシチリアの多数の都市に対して恵み深く接したが、メッセナの町にいたマメルティーニ人に対してだけは容赦しなかった。それは、かれらが、ポムペイウスが司法権を行使することはローマ人の古い法によって禁止されていると主張して、ポムペイウスの司法権の行使を認めようとしなかったからである。これに対して、ボムペイウスは、「剣を帯びている予に向かって法律を読み聞かせることなど、やめるがよい」と叱った(吉村忠典訳「ポムペイウス」、川堅太郎編「プルータルコス」世界古典文学全集23所収、筑摩書房、1966 年、375 頁;ちくま学芸文庫版「プルタルコス英雄伝」下、1996 年、74 頁)。
3-20. クールティウスは、「アレクサンドロス大王伝」第9 巻、第4 章5-7 で、インダス川まで到達したアレクサンドロスの軍隊がある都市を包囲したとき、「もう一つ都市を攻略しようと試みたが、守備兵の強い抵抗に遭って撃退され、多数のマケドニア兵を失った。ところが、あくまで包囲を続けていたとき、住民が身の安全に絶望して建物に火を放ち、妻子もろとも炎に身を投じた。住民は自ら火を煽り、敵はそれを消そうとするという、過去に例のない戦いであった。これほどまでに戦争は自然の法則をも逆転させるのである」と記している(谷栄一郎、上村健二訳「アレクサンドロス大王伝」、前掲、392 頁)。
3-21. 原注3 は1642 年版から付加された。 
〔4〕 キリスト教徒の著述家たちのもとでも、このような見解が数多くみられる。ここでは、多数の証言にかえて、テルトゥリアーヌス* の1「策略、凶暴、不正は、戦いという仕事につきものである」という言葉2 をひとつあげれば、それで十分としよう。このような考をつ人々は、きっと、〔ローマ〕喜劇のなかのつぎのような台詞を持ち出して、われわれに異議を唱えようとするであろう。
「あなたさまが、こういうはっきりしないものを、理性によってはっきりしたものにしようとするなら、それは理性を働かせて気違いになろうと努めるのと同じです3。」 
4-1. テルトゥリアーヌス「ユダヤ教徒駁論」第9 章(底本では第7 章と注記されている)。テルトゥリアーヌスの文章は次の通りである。「『拡大し栄えよ、前進し治めよ。』そして、[ダヴィデは]こうつけ加えた。『汝の平安と正義のために』[詩編45, ver. 4-5]。しかし、誰が、一方で剣を振り回して働きながら、他方で、すなわち、残念ながら、戦いという仕事につきものの策略や凶暴や不正を、平安と正義に反しないように行おうとするであろうか。」
4-2. 「不正は戦いにつきもの」propria negotia praeliorum という言葉は、1625、1631、1632 年版では「不正は戦争につきもの」propria bellorum negotia となっていた。本文のように訂正されたのは、1642 年版からである。底本のテクストは変更後のものを採用している。なお、テルトゥリアーヌスの言葉は、現代の普及版では、proeliorum である。
4-3. テレンティウス*「宦官」第一幕、第一場ver. 60-62。この言葉は、遊女タイスに夢中になったファエドリアに対して、かれの奴隷パルメノが語った言葉である。西洋古典叢書版(谷栄一郎訳「宦官」、「ローマ喜劇集5」テレンティウス、京都大学出版会、2002 年、246 頁)では、次のように翻訳されている。「恋にはあらゆる災いが詰まっています。侮辱、疑惑、喧嘩、休戦、戦争、また平和。こんな不確かなものを理性で確かなものにしようたって、それは理性的に発狂しようと努めるようなもので、得られるものはなにもありません」(ver. 58-63)。ちなみに、「古代ローマ喜劇全集5」(鈴木一郎訳「宦官」東京大学出版会、1979年、207 頁)では、「こういうもやもやしたした事に、きっぱり理屈をつけようと、するなあまるで思慮深く、気狂いになるみてえだよ」と翻訳されている。
〔5〕 しかし、もし法などというものがそもそも存在しないとすれば、法に関する議論をしようとしても無駄である。そこで、われわれの仕事が推奨に値するものであることを示し、あらかじめ防御を固めておくために、このきわめて重大な誤謬を手短に論駁しておかなければなるまい。ただし、われわれが一度に大勢の者を相手としなくてすむように、かれらに一人の代弁人を指定しよう。それには、カルネアデース* をおいて、他に誰か適任な者がいるだろうか。なぜならば、カルネアデースは、かれのアカデメイアの最高の地位に到達した人であったし、雄弁の力を、真実のためにも虚偽のためにも、同じように用いることができたからである。かれは、正義、すなわち、われわれが、いま、とくに問題としている正義に対する攻撃を企てた1。そして、その際に、次のような論拠以上に有力な論拠はないということを見出した2。すなわち、人間は自分たちの利益のために自分たちに対して法を制定したが、その法は習俗によって異なり、同じ人々の間でも時に応じてたびたび変化する。また、自然法というものは存在しない。なぜなら、人間もその他の動物も、すべて、自然に導かれて自己の利益へと駆り立てられるからである。それゆえ、正義などというものは存在しないか、あるいは、もしなにかそのようなものが存在するとしたら、それは、愚昧のきわみである。なぜならば、他人の利便をはかることは、自分自身の利益を害することなのだから3。 
5-1. グロノヴィウスは、この「正義に対する攻撃」は、大カトー* の時代に、カルネアデースがアテナイ市民の代表者としてローマに派遣され(前155 年)、ローマで行ったものであり、グローティウスは、本文中のカルネアデースの議論を、ラクタンティウス「信教提要」第5 巻、第14 章および第17 章から引用したと説明し、さらに、ラクタンティウスの記述は、キケロー「国家について」第3巻12 章の叙述に基づいている、と注記している(ただし、この部分のキケローの原文は現存しない)。正確にいえば、「信教提要」第5 巻、第14 章[版によっては第15 章]は、その前の「カルネアデースは、かれのアカデメイアの最高の地位に到達した人であったし、雄弁の力を、真実のためにも虚偽のためにも、同じように用いることができたからである」という文章の出典であり、第17 章[版によっては第16 章]は、「すなわち」以下のカルネアデースの論証の出典である。第5 巻、第14 章には、次のような文章がある。「カルネアデースはアカデメイア派の哲学者で、かれ自身の作品については何も知らない者でも、キケローやルキリウス* が賞讃しているところから、討論においてかれがいかに力強かったか、いかに弁舌さわやかであったか、舌鋒が鋭かったかを知ることができるであろう。……中略……かれが、アテナイの人々によってローマに使節として派遣されたとき、かれは、ガルバ* や戸口総監カトーといった、当時の偉大な弁論家を聞き手として、正義について雄弁に論じた。ところが、この同じ人物が 、次の日には、反対の議論によって前日の議論を覆し、前の日にかれが賞讃した正義を取り除いた。」
5-2. 「すなわち」以下、本節末尾までの本文は、ラクタンティウス「信教提要」第5 巻、第17 章[または第16 章]の文章をそのまま引用したものである。この中に有名な「カルネアデースの板」の話も出てくるので、ラクタンティウスが紹介しているカルネアーデスの議論全体を訳出しておく。「カルネアデースの議論の要旨は次の通りである。『人は自分たちの利益のために、自分たちに対して法を定めた。すなわち、法は習俗に応じてさまざまであり、同じ人々のもとでも、時代に応じてしばしば変化させられている。他方、自然法というものは存在しない。人間やその他の動物も、すべてのものは、自然に導かれて自己の利益へと駆り立てられる。それ故に、正義などというものは存在しないか、または、なにかそういうものがあるとすれば、それは愚昧のきわみである。なぜならば、他人の利便を図ることは、自分を害するからである。』そして、かれは、この議論をさらに進めてこういった。『支配の下で繁栄しているすべての国民は、全世界を支配しているローマ国民もまさしくそうなのだが、もし正しい国民でありたいと欲するならば、すなわち、他人のものを返還して、[自分たちの]家に戻らなければならず、窮乏と悲惨に身を投じなければならない。』そして、次に、かれは、すべてのものに共通のことがらを省略して、[人間ないし国民に]特有のことがらへと話題を進めた。『善良な人が』と、かれはいう、『逃亡奴隷または不健康で病気に汚染された家をもっており、かれだけがその欠陥を知っているとしよう。
そして、かれは、その欠陥の故に、それを売りに出した。かれは、逃亡奴隷または病気に汚染された家を売りに出していることを、買い手に秘密にしておくであろうか。もし、それを告白するとすれば、たしかに、かれは善い人である。なぜならば、かれは人を騙さないから。しかしながら、かれは愚か者だと判定されるであろう。なぜならば、かれはそれを安い値段で売るか、あるいはまったく売らないことになるからである。もし、かれがその欠陥を秘密にしておくならば、たしかに、かれは賢い人であろう。なぜならば、かれは、自分の利益を図っているからである。しかし、同じかれは悪人であろう。なぜならば、かれは人を欺くのだから。さらに、もし、かれが、誰かある者が、本当は金であるのに、真鍮だと思って売ろうとしているとか、あるいは、本当は銀であるのに、鉛だと思って売ろうとしているのを知ったとき、かれは、それを安い値段で買うために、黙っているであろうか、それとも、高い値段で買うために、[本当のことを]知らせるであろうか。高い値段で買う方を選択するのは、あきらかに、愚かなことだと考えられる。』これによって、かれは、正しくかつ善良とされる者が実は愚か者であり、賢いとされる者が実は悪人であることを理解してもらいたかったのである。しかし、人が貧しさに満足している場合には、そのようなことが、破滅を招くことなく行われうる。そこで、かれは、もっと大きな問題へと話題を移した。それは、生命の危険をともなうことなしには何人も正しい人ではありえない、という問題である。すなわち、かれは、こういったのである。『人を殺さないことや、他人のものをまったく奪わないことは、たしかに、正義である。それでは、もし、たまたま舟が難破して、かれよりも弱い人々の中の誰かが一枚の板につかまっていたとすると、この場合に、正しい人は、どうするであろうか。かれは、その人を板から突き落として、自分がその板にのぼり、それに支えられて脱出するのではなかろうか。とくに、海の真中で、証人が一人もいない場合には。もし、かれが賢い人なら、そうするであろう。なぜなら、そうしなければ、かれは、死ななければならないからである。けれども、もし、かれが、他人に手を下すよりも自分が死ぬ方を選択するならば、かれは本当に正しい人である。しかし、他人の命を惜しんで自分の命を惜しまない者は愚か者である。同じく、もし、自分たちの部隊が破れ、敵が追跡を開始したときに、正しい人が、負傷して馬に乗っている者にたまたま出会ったとき、かれは、自分が殺されるためにその者を見逃すであろうか。それとも、自分が敵から逃れるために、その者を馬から引きずり下ろすであろうか。もしそうするならば、かれは賢い人である。しかし、かれは、それにもかかわらず悪人である。もしそうしないならば、かれは、正しい人である。しかし、同人が愚か者であることは必定である。』こうして、かれは、正義を二つの部分に分割し、その一方を市民[国民]的正義iustitia civilis と呼び、他方を自然的正義iustitia naturalis と呼んだ。そして、その両方を覆した。市民[国民]的正義はたしかに賢明である。しかし、それは正義ではない。一方、自然的正義はたしかに正義である。しかし、それは賢明ではない。こういったことが、明確かつ有毒な仕方で論証された。したがって、マルクス・トゥッリウス[・キケロー]も、それを反駁することができなかった。」
5-3. 「利益に基づいて」utilitate は、1625 年版では、ラクタンティウスの文章と同じく「利益のために」 pro utilitateと表記されていた。本文の表記になったのは、1631 年版からである。1631 年版の誤植が踏襲されたということも考えられる。  
 

 

〔6〕 しかし、ここでこの哲学者がいっていること、またこれにしたがって、ある詩人が、「自然は、正と不正とを判別することができない」と述べていることは1、決して容認されてはならない。なぜなら、人間はたしかに動物であるが、しかし格別な動物であって、他のすべての動物とは大いに異なっており、その違いは、他の動物たちの種が相互に異なっているのよりも、はるかに大きいからである。この点に関する証拠は、人類に特有の多くの行動がこれを示している。さらに、人間に特有のものであるこれらの行動の間には、社会[的結合]への欲求appetitus societatis、すなわち共同生活への欲求がある。ただし、それは、どのようなものでもよいというわけではなく、平穏な、そして人間知性のありように応じて秩序づけられた、同類である人々との共同生活である。〈ストア派の学者たちは、これをオイケイオーシスoikeiwsi"2 と呼んだ原1。〉3 したがって、すべての動物は、自然によって、もっぱら自分の利益[を追求するよう]に駆り立てられるといわれていることは、人間を含めた一般的な意味で受けとめられる限り、承認されてはならないのである。
【 原注】 
1. クリュソストモス*「ローマの信徒への手紙に関する31 の説教」、「われわれ人間は、その本性にしたがって、[他の]人々と共に社会を[オイケイオーシン]作っている。野獣でさえ相互にそのようなものをもつのであるから、人間がなぜそうしないことがあろうか。4」同じ著者の「『エフェソスの信徒への手紙』第1 章に関する説教」を見よ。そこで、かれは、自然がわれわれに徳へと向かう種子を与えた、と説いている5。最高の哲学者でもあった皇帝マルクス・アントニーヌス* は、こういっている。「われわれが社会をもつように生まれついていることは、ずっと以前に[哲学者たちによって]明らかにされた。それとも、劣った者は優れた者のためにあり、優れた者はお互いのためにある、ということは明らかでないというのか6。」7 
6-1. ホラーティウス「風刺詩集」第1 巻、第3 歌「この欠点は誰にでもある」Omnibus hoc vitium est, ver. 113。筑摩版「世界文学大系」(. 鈴木一郎訳「風刺詩集」、世界文学大系67、「ローマ文学集」、筑摩書房、1966 年)では、表題が「あばたもえくぼ」と訳され、113 行目は、「世界の歴史や記録などをよくよく調べてみるならば、正義などという観念は、不正不義への恐れから出ていることを知るだろう。善を悪から区別したり、避くべきものと求むべきものとをわけたりするように、正と不正の判定は、自然にできることではない」(149 頁)と訳されている。
6-2. グロノヴィウスは、オイケイオーシスを、家族familia、家族的結合domesticatio, familiaritas domestica と言い直している。また、バルベイラックは、オイケイオーシスという言葉の使用例として、グローティウスがあげているクリュソストモスの文章の他に、ポリュフュリオス「肉食しないことについて」第1 巻7「おそらく、人間と人間との間には、たしかに、なんらかの自然的な親近性ないし連帯性(オイケイオーセオースoikeiwsew")が存在する」や、マルクス・アントニーヌス「自省録」第9 巻1「あらゆる存在は今までに存在したものと密接なつながりを(オイケイオースoikeiw")もっている」(神谷美恵子訳「自省録」改版、岩波文庫、2007 年、166 頁)、その他いくつかの文章をあげ、これらはすべて、アリストテレース「ニコマコス倫理学」第8 巻、第1 章の「たとえば、旅においても、人間どうしであればだれでも互いに身内のようにどんなに親しくするかを(オース・オイケイオンw" oikeion)、われわれは目にすることができるであろう」(朴一功訳「ニコマコス倫理学」、京都大学学術出版会、2002 年、355 頁:原文Idoi d! an ti" kai en tai" planai" w" oikeion apa" anqropo" anqropw kai filon.)という文章に 依拠したものと思われる、と注記している。オース・オイケイオンは、岩波版「アリストテレス全集」では、「どれほどお互いに身内の親しい者であるかを」と翻訳されている(加藤信朗訳「ニコマコス倫理学」、岩波書店、1973 年、251 頁)。
6-3. 〈〉印括弧内の文は、1631 年版から付加された。
6-4. クリュソストモスは、「ローマの信徒への手紙に関する32 の説教」(底本の注では「31 の説教」)、説教5 で、次のように述べている。「キリスト自身も、これ[自然ないし本性に反すること]が悪徳の原因であることを明言してこういっている。『不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える』(マタイによる福音書、24:12)。これと同じように、パウロも、ここ[ローマの信徒への手紙、第1章、第31 節]で、かれらを「約束を破る者、無情な者、無慈悲な者」と呼んで、かれらは自然の賜物をさえ裏切る者であることを示しているのである。なぜなら、われわれは、その本性上、相互に、一種の家族的親近感[オイケイオーシン]、すなわち野獣たちでさえ[同類に対して]お互いにもっているような親近感を抱いているからである。『すべての生き物[野獣]は、その同類を愛し、人間もすべて、自分に近い者[隣人]を愛する』(集会の書、13:15)。しかし、人間はその他の生き物以上に獰猛になった。パウロは、これらの証言によって、悪しき教えがこの世にもたらした秩序の乱れを、われわれに明らかにしているのである。」
6-5. 「『エフェソスの信徒への手紙』第1 章に関する説教」、説教2 の「第1 章14」に関する部分(底本の注は、説教1 の「第1 章16」に関する部分としている)で、クリュソストモスは、次のように述べている。「それでは、罪は暴力と抑圧の結果なのか、それとも不注意や大いなる怠慢の結果なのか、という問題を検討してみることにしよう。律法では『人を殺してはならない』と命じられている。ここに、どのような力、どのような暴力があるのだろうか。たしかに、人を殺すように自らを強制するためには、暴力を使用しなければならない。なぜなら、だれが好んで隣人ののどに刃を突き入れ、その手を血で汚すであろうか、そんな人間はいないからである。したがって、おまえたちは、これと反対に、罪は暴力と抑圧にかかわることがらであるという方が正しい、ということがわかるであろう。なぜならば、神は、われわれがお互いに愛し合わなければならないようにする魔力を、われわれの本性に植え付けたからである。『すべてのいきもの[野獣]は、その同類を愛し、人間もすべて、自分に近い者[隣人]を愛する』[集会の書、13:15]。だから、おまえたちは、われわれが、徳へと向かう種子を自然から受け取っていることを知るであろう。反対に、悪徳の種子は自然に反するのではないか。もし、後者が前者を凌駕するならば、それは、われわれがひどく怠慢であることの証拠に他ならない。」
6-6. 「自省録」第5 巻16。この引用文の後半は意味が取りにくい。「自省録」第5 巻16 では、引用文の前に、「それぞれのものは、それぞれがそのために作られているものへと向かって引かれる。そしてそれぞれのものがそこへ向かって引かれるものの内に、それぞれのものの目的がある。そして目的がある所に利益と善もまたあるのだ。したがって、理性的な生きものにとっての善は社会的連帯である」という文が置かれ、引用文の後に、「ところで、魂のないものよりは魂をもつものが、そして単に魂をもつものよりは理性的なものがすぐれているのである」という文章が置かれている(水地宗明訳「自省録」、京都大学学術出版会、1998 年、90、92 頁)。さらに、第6 巻14 で、マルクス・アウレリウスは、「大衆が嘆賞する事物の大多数は、最も一般的な項目に帰着せしめると、持力[ヘクシス]あるいは[植物的]自然によって保持されるもの、例えば石、木材、イチジクの木、ぶどうの木、オリーブの木である。また、もうすこしましな人々によって嘆賞されるものは、魂によって保持されるものに帰着する。例えば、羊の群れや馬牛の群れである。また、さらにいっそう洗練された人々によって嘆賞されるものは、理性的な魂によって保持されるものに帰着する。ただし理性的であるかぎりでの理性的な魂ではなくて、技芸に優れているとか、その他なんらかの学術に熟達しているかぎりでのそれである。あるいは、平たく言うならば、多数の奴隷を所有していることである。しかし理性的で国家的な魂そのものを尊重する人は、もはや他のいかなるものにも心を惹かれないで、自己の魂が理性的で社会的な性格をもっていることを、そしてそのように活動していることを、何にもまして大切に守り抜くのである。そしてこの目的のために同類者と協働するのである」と述べている(同訳書、108, 109 頁)。
6-7. 原注1 は、1642 年版から付加された。 
〔7〕 たしかに、他の動物のなかには、一部はその子孫に対する考慮から、また一部は自分と同類の他のものに対する考慮から、自分自身のある種の利益の追求をある程度まで緩和するものがある原1。しかし、これらの動物の場合には、それが、たしかに、外部的に認識できるなんらかの原理1 から生じていると、われわれは信ずる。なぜならば、これらの動物たちの場合には、このような行動と比べて決して困難ではない別の行動に関して、同じような知性が現れないからである。
これと同じことは、幼児についてもいえる。幼児の場合には、プルータルコスが賢察したように、いっさいの教育が始まる前にすでに、他人に対して善を行おうとするある種の性向が現れる2。このように、憐れみの心情はこの年齢で自然に現れ出るのである。しかし、成年に達した人間は、同じようなことがらに関しては同じように行動することを知り3、社会[的結合]へのきわだった欲求を備えている原2。また、そのための特別の道具として、動物のなかでただひとり言語をもっている4。さらに、人間には、一般的な原則に従って知りかつ行動する能力も内在していること、そして、この能力と一致するものは、〈もはや〉5 決してすべての動物の性質に合致するのではなく、人間の本性に[のみ]合致するものだということも、同じように認められなければならない。
【 原注】 
1.  古い諺に、「犬は犬の肉を食らわぬ」というのがある6。ユウェナーリス* はこういっている。
「[インドの]狂暴な虎は虎と[恒久的な]平和を保つ。野獣は[同じ]斑点をもつ同族には危害を加えない。7」
フィローン* には、「十戒」の第5 戒に関する註解の中に、すばらしい一節がある8。これを読みたいと思う者は、ギリシア語で読むことができる。しかし、それはかなり長いので、わたしは、これを一つの言語だけで、すなわちラテン語だけで引用しておこう。「[あなたたちは]人間なのだから、せめて、ものいわぬ動物たちの模倣者でありなさい。十分に教え込まれた動物たちは、恩に報いることを知っている。犬は家屋の番人である。いやそればかりか、主人が突然危険にさらされたときには、主人のために自分の命をも捧げる。羊の群れを託された犬は、群れの先頭を進み、羊飼いを危害から守るために、死にいたるまで闘うといわれる。恩に報いるという点において、人間が犬に、もっとも優しい動物がもっとも獰猛な動物に負けるとは、恥ずべきことの中でも最たるものではないか。もし、われわれが地上にある動物から十分な教えを得られないというのであれば、われわれは、空を旅する鳥たちのところにいって、かれらから、われわれがなすべきことを学ぼう。年老いたコウノトリは、飛ぶことができずに巣にとどまっている。そしてその子らは、陸と海のいたるところを(少し前のところで、わたしはそういった)飛びまわり、あらゆる場所で親鳥の食糧を捜し求める。親鳥はその年齢のゆえに、安息、飽食、さらには贅沢さえも当然のこととして亭受する。しかしその子どもたちは、孝行についての自覚から、また、いずれ自分たちが年老いたとき、自分たちの子どもから同じようにしてもらえるという期待をもって、旅の労苦を自ら慰める。こうしてかれらは、しかるべき時に必要な義務を果たし、受け取ったものを返すのである。なぜならば、かれらは、まだ幼少である一生の始めにも、またすでに年老いた一生の終わりにも、それ以外のものから食物を得ることができないからである。そのために、ほかならぬ自然を師として、かれらは、幼少であったとき養育してくれた老齢の鳥たちを養うことを学んだのである。このことを聞いて、親の世話をしない者や、その人だけはどうしても援助しなければならないか、あるいは他の誰にも優先して援助しなければならない人をないがしろにする者たちが、恥ずかしさのあまり、身を隠すのも当然ではなかろうか。とくに、かれらが援助するのは、なにかを与えるためではなく、むしろ返すべきものを返すためにすぎない場合には、なおさらである。なぜなら、子のもので、以前に親のものでなかったものはなに一つとしてなく、親は自分のものの中からそれを与えたか、あるいはそれを獲得するための手だてを与えたのだから。」鳩がそのひな鳥に対して行う並外れた世話については、ポルフュリオス*「肉食しないことについて」第3 巻9 を見よ。〈ブダイやハシナガサンマの同族仲間に対する関係については、カッシオドールス* 第11 巻4010 を見よ〉11。
2. マルクス・アントニーヌス第9 巻〔42〕「人間は他人に対して善を行うように生まれついている。12」また同巻〔9〕「土のなにかで、大地と結びつかないものをみつける方が、人類から切り離された人間を見出すよりも容易であろう。13」さらに第10 巻〔2〕「理性を使うものは、必然的に社会的交わりを求める。14」コニアのニケタス* は、「自然が、われわれの中に、われわれの同類との協調の精神を刻みつけ、植えつけた」といっている15。これに、アウグスティーヌス*「キリスト教の教えについて」第3 巻、第14 章16 を加えよ17。 
7-1. グロノヴィウスは、「外部的に認識できるなんらかの原理」を、神や神の侍女としての自然によってということ、と注記し、バルベイラックは、これは神自身のことを指す、このことは「キリスト教の真理」の記述から明らかだとしている。ちなみに、グローティウスは、「キリスト教の真理」第1 巻、第7 章で、次のように述べている。「[獣たちは]つねに同じように行動し、いっそう困難とはいえないことでも、けっして別のことはしない。このことから明らかなように、獣たちには発見する力や判断し決定する力が備わっていないのである。それ故、そのような行動は、必然的に、獣たちの行動を規律し、その効果を獣たちに刻み込む、外在的な原因ratio extrinseca から発することになる。そして、この原因こそまさに、神と呼ばれるもの以外のなにものでもないのである。」
7-2. プルータルコスは、4 人の男子の後に生まれた待望の女子に、母親の名を取ってティモクセナTimoxena と名付けた。しかし、ティモクセナは2 歳で夭逝した。その衝撃と悲しみを慰めるために、故郷カイロネイアにいる妻に書き送った「妻を慰める手紙」(モラーリア48)[2]の中に、次のような一節がある。「あの娘は、生まれつき驚くほどやさしく穏和だった。愛情に応えて喜びを表し、わたしたちを楽しませると同時に人間愛をも垣間見せてくれた。というのは、あの娘は乳母に対して、他の赤ん坊にも乳を与えて世話するように勧めただけでなく、お気に入りの道具や玩具にまでそうするように勧めたのだ。それは、まるで、人間愛によってみんなを自分の食卓に招き、自分がもっているすばらしいものを分け与え、それを一緒に喜びあうことを自分の何よりの喜びとしているようだった」(田中龍山訳「妻を慰める手紙」、「モラーリア7」所収、京都大学出版会、2008 年、323 頁)。
7-3. グロノヴィウスは、「これは野獣にはないことである。野獣がある一つのことにおいて同一の行動をとることがあるのは、自然の衝動がそれに駆り立てたり、あるいは嫌悪感がそれから遠ざけるからである」とした上で、キケロー「善と悪の究極について」第2 巻14(45)の次の言葉をあげている。「理性[=知性]は、ものごとの原因や結果を見抜き、類似点を抽出し、分離しているものを結合させ、現在と未来とを連結し、連続した生の全体像を思い描くことができます」永田康昭・兼利琢也・岩崎務訳「善と悪の究極について」(「キケロー選集10」所収、岩波書店、2000 年、99 頁)。
7-4. グロノヴィウスは、この箇所に続くべきものとして、キケロー「法律について」第1 巻9[27]の次の言葉を加えている。「人間は、声の統御や言語の能力をもつ。これは人間の交わりにおいてもっとも有力な仲介者となる」(岡道男訳「法律について」、「キケロー選集8」所収、岩波書店、1999 年、198 頁)。
7-5. 「もはや」iam という語は1631 年版から付加された
7-6. 「犬は犬の肉を食らわぬ」Canis caninam non est. この言葉は、ウァッロー「ラテン語論」第7 巻3 にある。なお、これはCanis canem non est. と表記されることもある。
7-7. ユウェナーリス「風刺詩」第15 編ver.163, 159。グローティウスは、「[インドの]狂暴な虎は虎と[恒久的な]平和を保つ」をver.163 から、それに続く「野獣は〔同じ〕斑点をもつ同族には危害を加えない」をver.159 から採用している。
7-8. フィローン「十戒について」23。ちなみに、第5 戒は「殺してはならない」である。
7-9. ポルフュリオスは、「肉食しないことについて」第3 巻23 で、自然はあらゆる動物に理性を賦与しているが、その理性の働かせ方は動物によって異なると指摘し、ヤマウズラと鳩とを比較して、次のように述べている。ヤマウズラのメスは、抱卵中オスとの接触を拒否する。そして、オスが近寄るときは、その卵を隠したり、壊したりする。しかし、鳩は、抱卵中もオスとメスが互いに助け合い、交代で卵を育てる。そして、雛がかえると、最初は共同で雛を育てる。さらに、その後メスが巣から長い間離れようとすると、オスはメスを嘴でつついてメスを巣に戻す。
7-10. カッシオドールスは、「雑考」第11 巻、第40 書簡で、平素は厳格な正義の実現が求められるが、教会の大祝日には、救いを考慮して、囚人に対する恩赦が行われるべきであると論 じている。その中で、カッシオドールスは、囚われの身となった者に慈悲を施すべきことを強調して、ブダイ(ベラ?)とハシナガサンマ(?)の例をあげ、次のように説明している。前者は、漁師の仕掛けたわなに捕らえられると、尾びれが外に出るまで少しずつ後退する。それは、その魚がわなに捕らえられたことを仲間に察知してもらい、仲間がかれを助けにくるようにするためである。また、後者は、とても賢い、そして早く泳ぐことができる魚で、その群れが網の中に入ると、一本のロープのような形にまとまり、群れ全体を後方に引きずって仲間を助けようとする。
7-11. 原注1 の初めから「ポルフュリオス「肉食しないことについて」第3 巻をみよ。」までは1642 年版から付加され、「ブダイや」以下〈〉印括弧内の文章は、1646 年版で付加された。
7-12. 引用句は、「自省録」第9 巻42 の末尾にある。ここでは、人が善を行っても、それは当然のことをしたまでのことであり、それに対して報酬を期待してはならないと説かれ、その理由が、「人間もその自然によって善行的であり、何らかの善行を行った場合には、自己の素質がそのために作られていることを行ったのであり、自己自身の果実を得るのであるから」(水地宗明訳、前掲、212 頁)と説明されている。
7-13. 「自省録」第9 巻9 で、マルクス・アウレリウスは、いわゆる「類は朋を呼ぶ」ということについて考察している。そして、「理性を欠く動物においてすでに、蜂の群居や馬牛の群れや子育てや、いわば恋のようなものが見出される。..... 他方で理性的な生きものにおいては、国制や友情や家庭や集会や戦争での条約や休戦協定がみられる」と指摘した後に、この節の末尾で、「人間が人間からすっかり切り離されている状態よりも、むしろ土のたぐいのなにかが、どのような土のたぐいのものとも結合していないのを、人はより早く見つけ出すであろう」(水地宗明訳、前掲、196 頁)と述べている。
7-14. マルクス・アウレリウスは、「自省録」第10 巻2 で、たんに[植物的]自然によって管理されている自分と、動物としての自然に従う自分と、理性的動物としての自分の役割とを比較検討し、「理性的な動物は、すなわち国家的社会的でもあるのだ。さてそこで君は[=マルクス・アウレリウス自身のこと]これらの準則を適用し、余計なことをなにひとつ行うな」(水地宗明訳、前掲、215 頁)と語っている。[植物的]自然、動物的自然、理性的動物の区別については、前節訳注6-6 に紹介した、「自省録」第6 巻14 の文章を参照されたい。
7-15. コニアのニケタス「イサーゴ・アンゲルス* について」第3 巻8。この言葉は、東ローマ皇帝イサキオス2 世(イサーゴ・アンゲルス)が、弟のアレクシオスによって廃位、幽閉させられる直前に、アレクシオスを含む会衆に向けて語った言葉である。なお、グローティウスは、ニケタスを「コマテスのニケタス」Nicetas Chomates と表記している。同じ表記が他の著者にも見られるが、正しくは「コニアのニケタス」Nicetas Coniates である。
7-16. アウグスティーヌス「キリスト教の教えについて」第3 巻、第14 章には、次のような文章がある。「この人々は、『あなたは、自分にしてもらいたくないことを他人にしてはならない』(トビト、4:16)ということは、民族の相違によって変わることは決してありえないことに気付かなかったのである。この考えが神の愛に結びつけられるとき、すべての悪念は消え、隣人への愛に結びつけられるときにすべての悪行はなくなる」(加藤武訳「キリスト教の教え」、アウグスティヌス著作集6 所収、教文館、1988 年、170 頁)。
7-17. 原注2 は1642 年版から付加された。 
〔8〕 ところで、われわれがすでに荒削りな仕方で述べたことだが、人間の知性と合致する方法で社会[的結合]を保護すること原1、これこそが、本来の意味で法という名で呼ばれるものの源泉である1。このような法に属するのは、他人のものを欲しがらないこと原2、もしわれわれが他人の財産を所持していたり、あるいはそこから利益を得たときは、これを返還すること、約束を履行する義務、過失によって与えた損害を賠償すること、人々の間で刑罰という報い[が与えられること]、である。
【原注】 
1. セネカ「恩恵について」第4 巻、第18 章「感謝の念を心に抱くことは、それ自体望ましいことであり、恩知らずは、それ自体避けられなくてはならないことである。このことを、あなたは知るであろう。なぜならば、恩知らずの悪徳ほど、人類の調和を引き裂き、破壊するものはないからである。実際、われわれが安全であるのは、われわれが互いの親切によって支えられているからに他ならないのではないか。われわれが、より充実した生活を営み、突然の攻撃に対してよりよく防衛することができるのは、ひとえにこのような恩恵の交換による。われわれを、めいめい孤立したものと想像してみよ。そうすれば、われわれは何になるであろうか。
動物の餌食であり、獣たちへの生け贄にすぎない。そして、もっも尊い血がきわめて安易に流されるであろう。なぜならば、人間以外の動物には、身を守るための十分な力が備わっているからである。また、放浪するものとして生まれ、孤立して生活を送るように定められたどの動物にも、武器が与えられている。しかし、人間が身につけているのは弱さである。人間には、他の動物を恐れさせる爪の力も歯の力もない。〔そのかわりに、神は〕ふたつのもの、すなわち理性と社会とを人間に与えた。それらは、人間を、他の動物からの危害に対して最も強いものとした。こうして、人間は、もし孤立した状態にあるならば、他のいかなる動物とも対等ではありえないのに、万物の支配者となったのである。社会は、人間に、すべての動物に対する支配権を与えた。社会は、地上に生まれた支配権を、自然の他の領域にまで移し、海までも支配するように命じた。また、社会によって、病気の猛威がくい止められ、老年の支えが準備され、悲しみに対する慰めが与えられた。社会は、われわれを強くし、われわれが、運命に対抗して、その助けを求めることができるようにする。人間から社会[的結合]を取り去ってみよ。そうすれば、われわれの生活の支えとなっている人類の一体性が切り裂かれることになろう。しかし、もしあなたが、恩知らずの心はそれ自体避けるられるべきものではないと論証するなら、社会が、人間から取り去られることになろう2。」3
2.  ポルフュリオス「肉食しないことについて」第3 巻「正義とは、他人の財産に手を出さず、害を加えない者に害を与えないことである4。」5 
8-1. 「社会[的結合]を保護することこそが、法の源泉である」という言葉について、グロノヴィウスは次のように注釈している。「人間は社会societas を欲する。それは、社会によって助けられかつ守られるからである。しかし、たとえ誰からも助けられず自己充足している場合でも、なお人間は社会を求めるであろう。かれにとって、会話は決して無益なものではないからである。それゆえ、人間は、他人と交わることによって利益を得ることになる。なぜならば、善はそれ自体に伝達性があり、あるいは少なくとも、それは他人に示されるべきものであり、喜びは、当然に証人を必要とするからである。誰かが、ひとたび他人を仲間として、また隣人として認めるならば、かれは、その他人に何かを分け与え、何かをしなければならない。また、逆に、仲間から同じ結果が得られることに固執してはならない。同居人を受け入れる者は、この者に寝室の一部を、配偶者を得る者は、これに寝床の一部を許さなければならない。最初に、孤独な生活を避けるための、そして相互に助け合うための、相互の忍耐力が人間に備わっており、次いで、それが、黙示的または明示的に締結された合意によって確認され、法に変化するのである。キケローは、『法律について』第1 巻5 で、こういっている。『わたしたちはどんな任務を目標として遂行するために生まれ、この世の光を仰いだのか、人間同士の結びつきとは何か、人間のあいだの自然な結合とは何か。……中略……これらの事柄が解明されてはじめて、法律と法の根源を見出すことがができるのだ。』」キケローの文章の訳文は、岡道男訳「法律について」、前掲、151 頁によった。また、ハインリッヒ・フォン・コクツェーイ* は、本節に対する註解において(Hugonis Grotii De Iure Belli ac Pacis libri tres Commentariis, insuper locupletissimis Henr. L. B. de Cocceii; Sub Titulo Grotii Illustrati antea editis; nunc ad calcem cujusque capitis adjectis, insertis quoque observationibus Samuelis L. B. De Cocceii, Tomus Primus, Lausannae 1751, p. 41: Ad Hug. Grotii Prolegom., ad §. 8.)、はじめに、一般論として、グローティウスは「普遍的な法」iura universalia として4 種類のもの、すなわち、社会的法ius sociale、広義の自然法ius naturae laxiori、神の意志に基づく神法ius divinum voluntarium、人間の意思に基づく諸国民の法ius gentium voluntarium を考えていると述べ、次いで、本節で取り上げられているのは、その中の「社会的法」であり、これこそが本来の意味の自然法ius naturae proprie であると指摘して、キケローの「法律について」や「義務について」、セネカの「恩恵について」や「怒りについて」などの文章を引用している。そして、その帰結として、「それ故、古えの人々にとって、一般的な原理とは、社会あるところに法あり、というものだった。」Generale igitur veteribus principium fuit : ubi societas, ibi ius est. と記している。このコクツェーイの文章から、「社会あるところに法あり」ubi societas, ibi ius という法格言が生まれたことは周知の通りである。なお、リープスは、ペーター・ランダウの教示によると断った上で、この法格言の出典として、プロレゴーメナ第8 節および第22 節に対するコクツェーイの註解をあげている(Detlef Liebs, Lateinische Rechtsregeln und Rechtssprichwörter,München 1982, S. 213.)。しかし、訳者が参照しえたローザンヌ版では、プロレゴーメナ第22 節に対する註解中には、「社会あるところに法あり」という言葉は存在しない。
8-2. この引用文の訳出にあたっては、小川正廣訳「恩恵について」、前掲、315 頁を参照した。
8-3. 原注1 は、1642 年版から付加された。
8-4. ポルフュリオスは、「肉食しないことについて」第3 巻26 で、大要、次のように述べている。「動物はいわば人間の仲間であり、ピュタゴラス* によれば、動物は人間と同じように魂を持っている。したがって、同類のものに対して不正な行為をやめようとしない者は、神を冒涜する者と考えられて当然である。また、動物を飼育することは、二重の意味で不正である、なぜならば、それは、もともとおとなしい動物を飼い慣らして殺害するからであり、さらにそれをわれわれが食べるからである。ソクラテースは『空腹は食事のための最上のソースである』といったが、ピュタゴラスは『誰に対しても不正を行わず、正義によって活気づけられることこそが、最も美味なソースである』といった。動物を食べないことは、食事に関して不正を行わないことだといえる。もっとも、これはある種の博愛であって、正義とは異なると考えられるかもしれない。なぜならば、われわれが正しい人という場合の正義とは、自分に危害を及ぼさない何ものに対しても危害を加えないことだからである。しかし、この『何もの』は、すべての動物にまで拡大されなければならない。というのは、正義の本質は、理性的なものが非理性的なものを支配し、非理性的な部分が理性的な部分に従うことにあるからである。もし、この原理が貫徹されるならば、人間は、他のすべてのものに対して無害となるはずである。」したがって、グローティウスが「正義とは、他人の財産に手を出さず、害を加えない者に害を加えないことである」と翻訳しているのは、ポルフュリオスの文脈からすると、やや外れていることになる。
8-5. 原注2 は、1642 年版から付加された。 
〔9〕 法のこの[本来の]意味から、もうひとつの、より広い意味が生まれた。というのは、人間は、他の動物にまさって、すでにわれわれが述べたような社会的[結合の]力をもっているだけでなく、判断力ももっており、これによって、現在ばかりか将来のことがらについても、なにが有益でありなにが有害であるか、いかなるものがそのいずれの結果を導きうるかを査定することができるからである。人間の本性に合致するとは、こういったことについても、人間知性のありように応じて正しく形成された判断に従い、恐怖や目前の快楽の誘惑によって堕落させられないこと、あるいは無分別な衝動に駆られないことである。したがって、そのような判断と明白に矛盾することは、自然の法すなわち人間本性の法にも反している、ということがわかる。 
〔10〕 さらに、各人あるいは各団体にそれぞれのものを与えるための賢い配分もまた、このような判断にかかわっている1。たとえば、各人の行為やことがらの性質が要求するところにしたがって、あるときはより賢い者をさほど賢くない者に優先させ、あるときは近親者を他人に、またあるときは貧者を富者に優先させるのがそれである原1。すでに昔から、多くの人々が、これを、固有のかつ厳格な意味で法といわれるもの[=権利]の一部とみなしてきた2。しかし、本来の意味で法と呼ばれるものは、それとは大きく異なる性質をもっている。
なぜなら、この本来の意味の法の性質は、すでに他人に属しているものがその他人に任されるようにすること、あるいは実現されるようにすることにあるからである。
【原注】 
1. この問題については、アムブロシウス* が「[教役者の]義務について」第1 巻で3 論じている4。 
10-1. これは、いわゆる配分的正義の問題である。アリストテレースによれば、配分的正義とは、「名誉や財貨、その他およそ国制を共有する人々に分け与えられうるかぎりのものに関する配分に見出される」正義である。グロノヴィウスは、これを「報酬ならびに役務または負担の分配が正しくおこなわれること」と説明している。
10-2. グロノヴィウスは、固有の意味の法と厳格な意味の法とを区別して、固有の意味の法を「法務官が付与し、そこから訴権が生ずる」法と説明し、厳格な意味の法を「ローマ法大全中に伝えられ、そこから訴権が発生する」法と説明している。しかし、グローティウスは、本節後続の本文で、配分の対象物が、もともと、配分される者に属している場合を想定し、この場合が、「本来の意味の法」に関係するとしている。したがって、グローティウスがいいたいのは、配分的正義が問題とされるのは、より広い意味での法に関してであり、「固有の法」や「厳格な法」は、アリストテレースのいう「交換的正義」もしくは「匡正的正義」(グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」、第1 巻、第1 章7 および8 節で、これを「補完的正義」iustitia expletrix と呼んでいる)と関係する、ということであろう。グローティウスは、別の箇所で、かれのいう補完的正義を「固有のまたは厳格な意味の正義」と表現している(第1 巻、第1 章、8)。したがって、iuris proprie stricteque dicti pars は、バルベイラックが注記しているように、「固有のかつ厳格な意味で法といわれるものの一部」と読まれるべきであろう。
10-3. グローティウスは、アムブロシウス「義務について」第1 巻とのみ注記しているが、バルベイラックやその他の注釈者は、これを限定して、第1 巻、第30 章としている。しかし、第30 章の主題は、「親切」beneficentia はどうあらねばならないかということであって、アリストテレースのいう配分的正義が問題とされているわけではない。アムブロシウスは、ここで、大略、次のように論じている(アムブロシウスの「親切」は霊魂の救済と関係づけられているが、霊魂の救済と関係する部分は除外する)。「親切という美徳は善意と気前のよさという二つの要素からなる。そして、それが徳として成立するためには、たんに与える者の善意・親切心だけでなく、行為が ともなわなければならない。さらに、与える者が与えられる物を正当に取得していることや、与えられる物が正当な目的のために使用されること、などの条件が満たされなければならない。また、人は、万人に与えることができるほど物持ちではないから、与える相手を選ばなければならない。その場合に、まず、家族、近親者(アムブロシウスの場合には、キリスト教信者は兄弟であり、近親者である)が優先される。さらに、与える相手の年齢や身体の強弱も考慮されなければならない。すなわち、高齢者や病弱者には、より多くの物が与えられなければならないのである。」グローティウスは、おそらく、アムブロシウスが指摘しているような事例を、配分的正義の問題だと理解しているのであろう。それ故、グローティウスにとって、配分的正義は、広い意味の法の問題ではあっても、「固有のかつ厳格な意味の法」の問題ではないのである。
10-4. 原注1 は、1642 年版から付加された。 

 

〔11〕 そして、このこと、すなわちわれわれがいま述べたことは、神は存在しないとか、神は人事を顧慮しないといった、最大の冒涜を犯さずには認めることができないことをあえて容認したとしても1、〈ある程度まで〉2 妥当するであろう。ただし、われわれには、反対のこと[=それを容認しえないこと]が、一部は理性によって、また一部は恒久的な伝統によって植え付けられている3。そして、これは、あらゆる時代にその存在が証明される数多の論証や奇跡によって確認される4。したがって、われわれは、創造主であり、われわれ自身とわれわれの持ち物のすべてを負っている神自身に対して、例外なく服従しなければならない。とくに、神は、自らが最善かつ全能であることをさまざまな仕方で示し、そうすることによって、神に服従する者に対して、最大の、〈しかも神自身が永遠であるところから〉5、永遠の報酬を与えることができることを示したのであるから、[われわれは]神に服従しなければならないのである。また、神がそれを明白な言葉で約束した場合には、なおさらのこと、神はそうすることを望んだと信じられなければならない。われわれキリスト教徒は6、疑問の余地なく信用することができるもろもろの証拠に基づいて、このことを確信している7。 
11-1. 「神は存在しない」および「神は人事を顧慮しない」とほぼ同じ表現が、キケロー「神々の本性について」第1 巻に見られる。キケローは、そこで、次のように述べている。「ほとんどの哲学者は神が存在すると主張してきた。たしかに、この考えがもっとも真理に近いように思われるし、自然を導き手とすれば、誰もがこの考えに導かれるであろう。しかし、プロータゴラース* はその可能性を疑問視したし、メーロス島のディアゴラース* やキューレーネーのテオドールス*に至っては、断じて神は存在しないと考えた。」(第1 巻1。訳文は、山下太郎訳「神々の本性について」、「キケロー選集11」所収、岩波書店、2000 年、4、5 頁による)。また、「じじつ、神々は人間界の出来事にまったく関与しないと考える哲学者は過去にいたし、現在もいる」とも述べている(第 1 巻2。同訳書、6 頁)。ただし、ここでは哲学者の名前をあげていない(翻訳者の山下は、「エピクーロス派の立場を指す」と注記している)が、第1 巻43 で、キケローは、「エピクーロス* は、不死なる神々の配慮と恩恵を否定することによって、人間の心から畏怖心を根こそぎ追い出した。すなわち、神々の本性がもっとも優れた、もっとも卓越したものであると認めながら、神には人間への好意は一切ないと主張した。つまり、神々のもっとも優れた、もっとも卓越した本性になによりふさわしいものまで否定したのである」と述べている(同訳書、84 頁)。また、エピクロスのラテン語版といわれるルークレティウス*「事物の本性について」第5 巻ver.146~165 でも、神は人間と関わりをもたないことが詠われている(ただし、キケローは、ルークレティウスには言及していない)。なお、グローティウスは、「「キリスト教の真理」第1 巻、第2 章および第6 章以下で、唯一の神が存在し、その神はこの世のすべてのことがらを司ることを強調しているが、これと反対の見解を主張する学者の名はあげていない。したがって、グローティウスと同時代の無神論者を特定することは困難である。
11-2. この限定の語〈ある程度まで〉は、1631 年版で初めて付加された。
11-3. 「一部は理性によって、また一部は恒久的な伝統によって植え付けられており」という文章は、初版では「われわれの心に植え付けられた光が、たとえわれわれが欲しなくても、われわれに強いるところであり」nobis etiam nolentibus ingerat lux animis nostris insita であった。本文のように改められたのは、1631 年版からである。なお、グローティウスは、「キリスト教の真理」第1 巻、第2 章で、次のような方法を用いて、神の存在証明を試みている。一つは、アリストテレース= トマス・アクィナス* を継承した方法で、何ものにも「始め」があるが、その「始め」を最初に与えたものはなにかと考えると、「始め」がないものに行き着かざるをえない、それが神である、というものである。これは、理性による論証の一つといえよう。また、神の存在は、古来、すべての人々が一致して認めてきたところである、という論拠もあげている。これは、恒久的な伝統による証明に相当する。たとえば、グローティウスは、「キリスト教の真理」第1 巻、第22 章で、伝統traditio という語をこの意味に用い、ホメーロス*、ギリシアの哲学者、ガリア人、インド人、エジプト人、ゲルマン人、カナリア諸島やアメリカの原住民、ストラボン*、ディオゲネス・ラエルティオス*、プルータルコスらの書をあげて、「霊魂は肉体を超えて生きる」ことがこれらの書において一致して認められていると指摘し、この命題を証明するための論拠としている。
11-4. グローティウスが「キリスト教の真理」第1 巻であげている奇跡は、歴史とくにユダヤ人の歴史に記録された様々な奇跡と、世界の開闢物語、洪水物語、病気や障害の治癒に関する物語、死者の蘇りに関する物語など、その記録が世界中に広く存在している奇跡である。グローティウスは、これらの奇跡は、人間の力を超えた、神にしかできないことであり、したがって神の存在を証明する証拠になるとしている。この他に、グローティウスは、神はなぜ人が罪を犯すのを許しているのか、しばしば善人が抑圧されるはなぜかなど、神の存在を否定する論に対する反論において、トマス・アクィナスの神の存在証明と同様の論証方法も採用している。
11-5. 〈〉印括弧内の「しかも神自身が永遠であるところから」は、1631 年版から付加された。グローティウスは、「キリスト教の真理」第1 巻で、神の属性として、唯一、完全、無限、永遠、全能、全智、最高善そしてすべてのものの原因、の8 個の性質をあげている。さらに、同書、第2 巻、第10 章では、キリスト教こそが真の宗教であり、キリスト教は他の宗教より優れているという主張の主要な論拠の一つとして、キリスト教は神を信ずる者に永遠の生命を約束する、という理由があげられている。
11-6. この一句「[われわれ]キリスト教徒は」は、1625 年および1631 年版では、「昔のヘブライ人たちに続いて、[われわれ]キリスト教徒は」quod post Hebraeos veteres, Christiani と記されていた。「昔のヘブライ人たちに続いて」という語句が削除されたのは、1632 年版からである。底本のテクストは、変更後の文を採用している。訳者は、この変更が「キリスト教の真理」の出版(1627 年)と関係しているのではないかと推測する。グローテイウスは、「キリスト教の真理」第5 巻でユダヤ教を取り上げ、主として民族性と普遍性の相違という視点から、ユダヤ教とキリスト教の相違を強調している。したがって、ここでも、ユダヤ教とキリスト教とを連続的に捉えるのではなく、両者を区別した方がよいと考えたのであろう。
11-7. 本節は、プロレゴーメナの中でもっともよく知られている一節である。ここで、グローティウスは、理性的自然法を神の領域から独立させるために、信仰の世界とどのように折り合いを付けたらよいかという難問に取り組んでいる。すでに多数の論者によって繰り返し指摘されているように、グローティウスは、基本的にスコラ神学の主知主義的伝統を継承しており、オッカム流の意思主義の立場には立っていない。したがって、グローティウスの自然法は、たしかに、人間理性に基づく法であって、神の意志に基づく法ではないが、グローティウスの考える人間理性は、究極的には神の支配に服している。そして、このような枠組みを維持しながら、自然法を、可能な限り、神や神法から自立化させなければならないというのが、グローティウスの基本的な思想であった。その具体的な法源論は、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第1 章で展開されている。 
〔12〕 そしていまや、これ[=神の存在に対する確信]が、あの自然的淵源とは別の、もうひとつの法の淵源となる。すなわち、神の自由な意思に由来するもの原1 がそれである1。われわれが神の自由な意思に従わなければならないことは、われわれの知性自身が、争いの余地がないほどはっきりと、われわれに命じている。すでに述べたように、自然法それ自体は、それが社会的なものであろうと2、あるいはより広い意味で自然法といわれるものであろうと、人間に内在する諸原理から現れ出るものであるが3、その自然法でさえも、これを正当に神に帰することができる原2。なぜならば、そのような諸原理がわれわれのうちに存在することは、神自身が望んだことだからである。この意味で、クリューシッポス* やストア派の学者たちは、法の淵源はユーピテル自身以外のところには求められない、といったのである。ラテン人の[用いる]「法」ius という言葉は、おそらくこのユーピテルJupiter という名に由来するということができよう原3。
【原注】 
1. それ故、裁判官マルクス・アントニーヌスは。第9 巻で、「不正をなす者は、不敬である」と述べたのである4。
2. クリュソストモス「『コリントの信徒への第一の手紙』第11 章、第3節に関する説教」には、「わたしが自然という場合には、わたしは神のことをいっている。なぜならば、神こそが自然の創造主だからである、」とある5。また、クリューシッポス「神について」第3 巻には、「なんらかのものごとの始まりまたは正義の起源は、ユーピテルおよび共通の自然以外には見出しえない。したがって、善および悪について論じようとする場合には、それが出発点とされなければならない6」とある7。
3. もしそうでないとすれば、〔語の〕切り離しによって作られたというのが、おそらく正しいのであろう。ちょうど〔骨を意味する古語〕ossum から骨os という言葉が作られたように、〔命令されたことを意味する〕iussumから法ius およびその〔古い〕属格iusis が作られ、その後さらに、PapisiiからPapirii が作られた(これについては、キケロー「〔友人への〕書簡集」第9 巻、第21 書簡を見よ8)のと同じように、iusis から[ius の現在の属格]iuris が作られた9 のである10。 
12-1. グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第1 章(15)で、アナクサルコス* の「神は、それが正しいから欲するのではなく、神が欲するがゆえに、それが法によって義務づけられるのである」という言葉を引いて、「神の自由な意思」libera voluntas Dei が、神法と人法ならびに自然法とを区別する基準であるとしている。もし、グローティウスが「神の自由な意思」を、自然を超越するものと考えているとすれば、本節で、「神の自由な意思」を法の源泉として一般的に述べているのは、バルベイラックが指摘しているように、いささか論理的整合性を欠くことになろう。ただし、グローティウスも、「われわれは、先に、自然法は神法と同じだということができる、といった」と述べて、本節では、神法が自然法と同じものと考えられていることを認めている。
12-2. グロノヴィウスは、「社会的なもの」を、「諸国民および人間の社会を維持し、整えるもの」と説明している。したがって、社会的な法とは、「人間知性に合致する仕方で社会[的結合]を保護」するための法ということになる(プロレゴーメナ第8 節)。ちなみに、アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第5巻、第6 章で、ポリーティコン・ディカイオンpolitikon dikaion は、「互いに自足することを目的にしながら、自由かつ平等な者として、生活を共にする人たちにおいて認められるものである。したがって、このような条件が欠けている人たちにとっては、人間相互の関係におけるポリーティコン・ディカイオンというものはなく、たんに、それとの類似性に基づくある種の正しさが認められるにすぎない。なぜなら、自分たち相互の関係を律するために法をもっている人たちの間にこそ、正しさもまた見出されるからである。法というのはしかし、不正がありうる人たちのところに存在するのである。事実、『法的正義(ディケー)』というのは、『正しいこと』と『不正なこと』の判定なのである」と述べている。そして、西洋古典叢書版「ニコマコス倫理学」では、この「ポリーティコン・ディカイオン」が「社会的な正しさ」と翻訳されている(朴一功訳、前掲、226 頁)。なお、より広い意味の法については、プロレゴーメナ第9 節で説明されている。
12-3. グロノヴィウスによれば、人間に内在する諸原理とは、「野獣には存在しないとされる正しい理性によって植え付けられたもの」をいう。なお、本文のこの箇所は、1625 年版では「必然的に現れ出る」necessario profluit となっていたが、1631 年版から、たんに「現れ出る」profluit と改められた。
12-4. 原注1 は1642 年版から付加された。「自省録」第9 章1 の初めの文章は次のとおりである。「不正を行う者は、不敬虔の罪を犯すのである。なぜなら、万有の自然は理性的な生き物たちの素質をお互いどうしのためになるように作って、彼らがお互いをその価値に応じて益し合うように、そして害し合うことは決してしないようにと計らったのであるから、自然のこの意思に逆らう者は、明らかに、神々のうちでも最も長老の方に対して不敬虔の罪を犯すのである」(水地宗明訳「自省録」、前掲、190 頁)。マルクス・アウレリウスは、神の自由意思についてなにも語っていない。したがって、この文章は、神の自由意思が法の淵源であるという主張の論拠としては適切でない。ただし、神が自然を支配し、その自然が理性を通じて人間に法を示すという論旨に関しては、本節のグローティウスの議論と矛盾しない。
12-5. クリュソストモスは、「コリントの信徒への第一の手紙」、第11 章、第3 節に関する説教のまとめの部分で(「説教」26:4)、神の定めや自然の秩序に反することが罪であると説き、その一例として、女が裸でいてはならないという掟をあげている。そして、女が裸でいることが[律]法に反するのは、それが自然に反しているからであると述べた後、「しかし、わたしが自然という場合には、それは神を意味している。なぜなら、神が自然を創ったからである。したがって、もしおまえたちがこの限界を踏み越えるならば、その結果、どんなに重大な不正が生ずるかを知るであろう」と述べている。
12-6. クリューシッポスの「神について」という作品は現存しない。グローティウスは、クリューシッポスの言葉を、プルータルコス「ストア派の自己矛盾について」(「モラーリア」72)9 から引用している。なお、この文章については、二種の邦語訳がある。中川純雄・山口義久訳「クリュシッポス」、「初期ストア派断片集4」所収、京都大学出版会、2005 年、201 頁、および、戸塚氏七郎訳「ストア派の自己矛盾について」、「モラーリア13」所収、京都大学出版会、1997 年、140 頁。
12-7. 原注2 は1642 年版から付加された。
12-8. キケローは、パピーリウス・パエトゥス宛書簡の中で、こう語っている。パピーリウス氏族gens Papirii の始祖は、「ルーキウス・パピーリウス・ムギッラーヌスLucius Papirius Mugillanus だが、かれは、ルーキウス・センプローニウス・アトラティーヌスLucius Sempronius Atratinus と共に、ローマ建設後312 年目(前443 年)に監察官になり、その前には、同人物と執政官を務めていた。ただし、当時君たちはパピーシウス氏族gens Papisii と呼ばれていた。かれの後、ルーキウス・パピーリウス・クラッススLucius Papirius Crassus(前336 年および330 年の執政官)までの間に、13 人が高位高官に就いた。ルーキウス・パピーリウス・クラッススは、『パピーシウス』と呼ばれなくなった最初の人だ。」高橋宏幸、五之治昌比呂、大西英文訳「縁者・友人宛書簡集 I」(キケロー選集15)所収、岩波書店、2002 年、411 頁。
12-9. グロノヴィウスによれば、原注3 で述べられているグローティウスの語源論は、スキピオ・ゲンティーリス* の「学説集のための起源論・単巻」に依拠している。ラテン語の法ius の語源については、本文および原注でグローティウスが紹介しているもののほかに、「学説集」第1 巻、第1 章、第1 法文(ウルピアーヌス*)中の「法ius の名称は正義iustitia に由来する」や、イシドールス*「語源録」第5 巻、第3 章、第1 節の「法は正しいiustum が故に、法ius と呼ばれる」などがある。しかしこれらは、いずれも言語学的に正しい説明とはいえない。現代の通説によれば、法という意味のius は、サンスクリット語の「健康・健全さ」を意味するyoh などと同じく、インド・ゲルマン語系の古語から派生したと考えられている。
12-10. 原注3 は1642 年版から付加された。 
〔13〕 これに加えて、神は、もろもろの掟1 を授けることにより、理性を働かせて考える精神の力が比較的乏しい人々にとってさえ、そのような諸原理それ自体がいっそう明瞭なものとなるようにした。そして、神は、われわれが、これとは異なる方向にわれわれを引きずろうとする衝動、すなわち、われわれ自身の利益や他人の利益をはかろうとする衝動の命ずるがままになることを禁止した。なぜなら、この衝動はかなり激しいものなので、神は、これを厳重に2 統御し、一定の範囲ないし限度内に押し込めようと欲したからである3。 
13-1. 原語はleges である。グロノヴィウスはこれを「十戒」と解しているが、ここでは、神がすべての人間に与えた掟(法)の意であろう。ちなみに、グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第15 章、第2 節で、神は人類全体に、三回法を与えた。一回目は人間が創造された直後に、二回目は大洪水の後に、三回目はキリストによるいっそう崇高な救済に際して、と述べている。
13-2. 「厳重に」addictius という語は、1632 年版では「厳しく」adductius と表記されていた。その他の版では「厳重に」addictius と表記されている。おそらく、1632 年版の誤植であろう。
13-3. 本節全体(および次節の「「正しいといえる」まで)は、1631 年版から付加された。 
〔14〕 さらに、聖史は、いくつかの掟からなる部分のほかに、すべての人間が同じ最初の両親から発したことをわれわれに教えることによっても1、少なからずあの社会的結合への性向affectus socialis を喚起している。フローレンティヌス* が別の意味で、われわれの間には自然によって確立された血縁関係があり、したがって、人間が人間を害するのは不正・不法である2 と述べたことは、この意味でも正しいということができる。〉3 人の間では、両親はあたかも神のような存在である原1。したがって、人は、両親に対して、無制限ではないが人間に特有の仕方で、服従しなければならないのである。
【原注】 
1. ヒエロクレース* の「[ピュタゴラスの]金言註解」には、[両親は]「地上の神」とあり4、フィローンの「十戒について」では、「[両親は]生命を授けることにおいて、本来の神に似た、目にみえる神」と記されている5。また、ヒエロニュモス* の第92 書簡には、[母と娘の関係は]「神と人との結合に次ぐ第二の結合である」とある6。プラトン* の「法律について」第11 巻には、「両親は神の似姿」とあり7、アリストテレース* は「ニコマコス倫理学」第9 巻、第2 章で、「神々に対するのと同じように、両親に対して敬意を示さなければならない8」と言明している9。  
14-1. 聖史historia sacra は、聖書に記された歴史を指す。人類はすべてアダムとイヴの子孫であるから、いわば同族であり、一体のものとみなされるという見解は、トマス・アクィナスにより、原罪論と関連づけて展開された。「神学大全」第2 部の1、設問81、第1 項で、トマスは次のように述べている。「アダムから生まれたすべての人間は、かれらが第一の親から受けとった自然本性において合致しているかぎりにおいて、一人の人間として考察されることができる、というべきであろう。それは政治社会の分野で一つの政治共同体に属するすべての者があたかも一つの体であるかのように見なされ、全共同体があたかも一人の人間であるかのように見なされるのと同じ意味においてである。ポルフュリオスもまた『種を分有することによって多くの人間は一人の人間である』とのべている。このようなわけで、アダムから出てきた多くの人間はいわば一つの体の多くの部分・肢体のようなものである」(稲垣良典訳、「神学大全12」、創文社、1998 年、236 頁)。グローティウスの記述は、トマスの議論そのままではないが、トマスの議論を前提としているように思われる。
14-2. フローレンティヌスは、「学説集」第1 巻、第1 章、第3 法文(フローレンティヌス『法学提要』第1 巻から採用された法文)で、次のように述べている。「われわれは、暴力および不法侵害から身を守る。なぜならば、この法[=万民法]に基づいて、各人が自らの身体の保護のためになすことは、すべて適法に行われたとみなされるからである。そして、自然がわれわれの間に一種の血縁関係を設定したのだから、人間が人間によって害されることは不正・不法nefas だという結論になる。」ただし、グローティウスが引用している箇所(下線部)には改ざんがあったと推定されている。
14-3. 〈〉印括弧内の文章(前節全体および本節の「正しいといえる」まで)は、1631 年版から付加された。
14-4. ヒエロクレースの作品はほとんど散逸し、その断章がストーバエウス*などによって伝えられているにすぎない。「地上の神」という言葉も、グローティウスが指示する文献中にではなく、ストーバエウスの「詞華集」第79 章、第53節にある。
14-5. フィローンの言葉は、プロレゴーメナ第7 節の原注1 で引用されている文章(「十戒について」23)のすぐ後に出てくる。ただし、フィローンの論旨は、両親は子を生むことにおいて神の召使いなのであり、召使いを尊敬しない者はその主人も尊敬しない者だ、というものであり、両親は目に見える神であるという主張を、フィローンは、大それた主張だとして非難している。
14-6. ヒエロニュモスは、ガリアに住むある母娘に宛てた書簡の中で(第117書簡、第2 節)、お互いにいがみ合っていて、しかも不品行の噂のある母娘に対して、こう述べている。「母と娘は愛情の代名詞です。そこには、自然の結びつきと相互の義務とが含まれています。そして、それらは、霊魂を神へと結ぶものにならって、最も緊密な人間関係を作り出すのです。ですから、もし、あなたたちがお互いに愛し合っているのなら、あなたたちの行動は、どのような賞讃も必要としません。しかし、もし、あなたたちがお互いに憎しみ合っているのなら、あなたたちは罪を犯しているのです。」
14-7. プラトンは「法律について」第11 巻、第11 章で、大要、次のように語っている。「神を崇拝するのには、慣習的に二通りの仕方がある。一つは肉眼ではっきりと見える神を敬う場合であり、もう一つは、神の似姿を像として建て、これを敬うことによって、本当の神が嘉せられると考える場合である。両親または祖父母が年老いて、家の中で横たわっている場合には、人は、炉端にそのような生きた像をもっていることになる。そして、その像は、神に愛されるのに最も効き目のある像である。したがって、これにしかるべき正しい方法で仕えるならば、その像は自分に最も大きな利益を与えてくれる像となる。」プラトンは、この章で、「両親は神の似姿」とはいっていない。この言葉は、グローティウスが読んだギリシア語版またはラテン語版「法律について」の中に存在するか、あるいはグローティウスの造語であろう。
14-8. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第9 巻、第2 章で、「神々に対してそうすべきであるように、親たちに対しても名誉を与えるべき」であると述べている(朴一功訳「ニコマコス倫理学」、前掲、409 頁)。ただし、ここでのアリストテレースの議論は、自分に注がれた愛情に対してお返しをする際に、お返しとして与えられるべきものが相手に応じてそれぞれ異なる、ということの論証を目的としている。そして、アリストテレースは、神に対する場合と、人間に対する場合とでは、お返しの仕方が異なり、両親の間でも、父親と母親に対するお返しの仕方は異なる、と述べている。
14-9. 原注1 は1642 年版から付加された。 
〔15〕 次に、約定したことpactum[合意・契約]を守るのは自然の法に属することであるから(なぜなら、人の間で相互に義務づけ合うなんらかの方法が必要とされたとき、これ以外の自然的方法を考え出すことは不可能だからである)1、このこと自体を淵源として、もろもろの国法が出現した。というのは、なんらかの団体を結成した人々、または一人もしくは複数の人間に従属した人々は、団体の多数の部分または権力を委譲された一人もしくは複数の者の決定に従うことを、明示的に約束したか、あるいは行為の性質から、黙示的に約束したものと理解されなければならなかったからである2。 
15-1. 「約定は守られなければならない」というルールは、古今東西を通じて見られるルールであり、いわば普遍的な道徳律である。この掟は、ローマ人によって法原則として採用され、中世ヨーロッパでは、封建制社会における騎士の道徳、すなわちキリストの兵士の道徳の中心に据えられ、カノン法の原則として定着した。たとえば、リベル・エクストラ(1234 年)のある法文の見出しには、「合意は、たといそれが裸の[すなわち無方式の ]合意であっても、守られなければならない」(Liber Extra, I. 35. 1. Rubrica: Pacta quantumcunque nuda servanda sunt.)と書かれており、第六書(1298 年)には「契約はその法律[上の効力]を合意から得ていると認められる」という法文(Liber Sextus, V, 13. 85 : Contractus ex conventione legem accipere dinoscuntur.)がある。グローティウスの議論の特徴は、「合意は守られなければならない」というルールを自然法の一部と考える点にある。このグローティウスの発想が、さらにプーフェンドルフ* らによって発展させられ、近代私法および国際法上の重要な法格言「合意は拘束する」Pacta sunt servanda. となったことは周知の通りである。
15-2. 本節の後半で、グローティウスは、国法が生まれるのは、人々が合意によって立法者を立て、その立法者の制定した法に従うことを約束したからだと説明している。一種の社会契約論であるが、バルベイラックは、「これ自体を源泉として、もろもろの国法が出現した」という文章に注記して、「いかなる種類の法といえども、それ自体において、国法以上に恣意的な法はない。しかし、その国法でさえも、その基礎においては、自然法の延長にすぎない。それは、すべての者が自分の約束したことを真摯に守らなければならないという、侵すべからざる自然の掟の結論にすぎないのである」と述べている。 

 

〔16〕 それゆえ、カルネアデースのみならずその他の人々までもが「効用は、いわば正義と衡平の母である」原1と述べているのは1、厳密にいうと正しくない。なぜならば、自然法の母は、人間の本性そのものだからである。人間の本性は、たとえわれわれがなにも必要としなくても、相互の社会的交わりsocietas を求めさせる。また、国法の母は合意consensus に基づく拘束ないし義務であるが、この拘束ないし義務はその力を自然法から得ている。したがって、自然はこの法[=国法]の曾祖母のようなものでもある、ということができる2。しかしながら、自然法には効用が加わっている。
というのは、自然の創造主は、われわれが個人としては弱く、生活を正しく営むために必要な多くのものを欠いていることを望んだので、われわれは、それだけいっそう、社会的交わりを大切にするように迫られることになったからである。さらに、効用は、国法の出現に対しても、その誘因となっている。すなわち、われわれがさきに述べた団体の結成または他者への従属は、なんらかの効用のために始められたものだからである。したがって、他人に法を命ずる者たちも、その法になんらかの効用を見込むのが通例であり、またそうしなければならないのである。
【原注】 
1. この一節について、アクロン*、あるいは誰か他のホラーティウスの古い註解者が、「これはストア派の教えに反する。かれ[ホラーティウス]は正義が自然的なものではなく、効用から生まれたことを示したいのである」と述べている3。この見解に反対するものとして、アウグスティーヌスが「キリスト教の教えについて」第3 巻、第14 章で論じているところ4 を見よ5。 
16-1. 引用文「効用は、いわば正義と衡平の母である」Utilitas iusti prope mater et aequi の出典は、ホラーティウス「風刺詩集」第1 巻、第3 歌ver. 98. である。鈴木一郎訳(前掲、訳注6-1 参照)では、「(人によっては『人間の短所はすべて同じだ』と頭の中で考える者もないわけではないけれど、ひとたび事実に接すれば、かれらは困惑してしまう。感情や平素の習慣が、出てきてこれを妨げる。)まさに正義[と衡平]の母である常識[効用?]なども、こうなれば、ちっとも役には立たぬのだ」(同書、149 頁)と翻訳されている。ちなみに、ホラーティウスの原文は、sensus moresque repugnant atque ipsa utilitas, iusti prope mater et aequi. である。
16-2. 自然が国法の曾祖母であって祖母でないのは、国法ius civile の母が「合意に基づく拘束ないし義務」であり、この「拘束ないし義務」の親は「自然法」ius naturae であり、さらにその「自然法」の母が「自然」natura だからである。
16-3. アクロン「ホラーティウス註解」ad v. Atque ipsa utilitas には、こう記されている。「真の効用は、たしかに、正しさと徳の母である。しかし、金銭的[効用]と見られるものは、それとは別である。それ故、そのような[金銭的]効用が正しさの母であるというのは、ストア派の教えに反する。[詩人は]正義が自然的なものではなく、[真の]効用から生まれたことを示したいのである。」したがって、グローティウスは、アクロンの論旨をやや歪曲しているといえよう。
16-4. アウグスティーヌスは、「キリスト教の教えについて」第3 巻、第14 章で、絶対的、普遍的な正義などというものは存在しないという見解を、慣習を素材として論駁している。この章で、アウグスティヌースは次のように述べている。「(叡智の光によって目覚めることができない者は、)変わることのない正義がいつまでも存続すべきであるといっても、こういう[人々が正しいと思っている]慣習consuetudo はすべての民族にとって異なっているのだから、いかなる正義も決して存在しないことは明らかであると思いこんでいる。一例をあげれば、この人々は、『あなたは、自分にしてもらいたくないことを他人にしてはならない』(「トビト」4;16)ということは、民族の相違によって変わることなど決してありえないことに気づかなかったのである」(加藤武訳、前掲、171~172 頁)。したがって、グローティウスは、アウグスティーヌスの文章の「正義」と「慣習」を、「法」と「効用」に読み替えて、アウグスティーヌスの主張を、「この見解に反対するもの」としている、ということになる。
16-5. 原注1 は、1642 年版から付加された。 
〔17〕 ところで、各国の法がその国の利益を顧慮するのと同じように、国と国の間でも、すなわちすべての国家の間または多数の国家の間でも、合意に基づいて、個々の団体の利益ではなく、その[総体である]大きな全体[=国際社会]の利益を顧慮する、ある種の法が生まれることが可能であった。また、それは、実際に生まれた。このことは明らかである。そして、これが、諸国民の法ius gentium と呼ばれる法である。われわれは、この法を自然法と区別する場合に、そのつどこの[諸国民の法という]名称を用いることとする。カルネアデースは、諸国民の間で行われる法について論じようとしたとき(というのは、かれの弁論は、戦争や戦争において獲得された物についても及んだのだから1)、この法に必ず言及しなければならなかったはずである。しかし、かれは、すべての法を自然法と個々の国民の国法とに区分することによって、法のこの部分を見逃してしまった。 
17-1. キケロー「国家について」第3 巻12。ただし、この部分はテキストが欠けており、その内容はラクタンティウス「信教提要」第5 巻、第15 章の記述などから知られる。後者によれば、カルネアデースは、法は効用に立脚しており、正義などというものは存在しないか、あるいは存在するとしても、それは愚昧のきわみだと主張したのに続いて、これを論証するために、もしローマ人が正義に従うなら、かれらが戦争で獲得したものをすべて返還し、自らは窮乏生活を送らなばならないはずなのに、実際は、異邦人の土地や財産や生命を奪って同胞を富ませる者が神のごとく賛美されている、と指摘している。ラクタンティウスが伝えるカルネアデースの議論の全体については、訳注5-2 を参照されたい。 
〔18〕 また、正義が、カルネアデースによって、愚昧の名を冠せられているのは誤りである。なぜならば、かれ自身が認めているように、国家においてその国の法に従っている国民が、その法に対する恭順のために、たとえ自分たちにとって利益となるなんらかのものを放棄しなければならないとしても、その国民は愚かではないからである。また、これと同じように、ある国民が、諸国民に共通の法を無視してまでは自分たちの利益を重んじないとしても、その国民は愚かではない。なぜならば、この両方の場合に、その理由は同じだからである。すなわち、現在の利益のために国の法を犯す国民は原1、自分自身とその子孫の恒久的な利益を保全する柵を引き抜く者であり、これと同じように、自然法および諸国民の法を侵害する国民は、かれらの将来の平安を保全する保塁を切り崩す者だからである。また、法を遵守することからなんらの利益も見込まれないとしても、われわれが、われわれの本性によって導かれていると判断する方向に向かうのは、賢明なことであって、愚かなことではないであろう。
【原注】 
1. まさにこの比喩を適切に用いて、マルクス・アントニーヌスは、第9 巻で、「君のなんらかの行為が、直接的であれ遠隔的であれ、共同生活の目的を目指すものでなければ、その行為は君の生活を分裂させ、これが統一的であることを許さず、かつ、国民のなかにあって別途に分派をなす者に劣らないくらいに、反乱的となるのだ」と語っている1。〈そして、第11 巻では、「人間は、ひとりの人間から切り離されたとき、人類全体から切り離されたとみなされざるをえない2」と述べている。〉3 同じアントニーヌスがいったように、たしかに、「蜂の群れに役立つことは、一匹の蜂にも役立つ4」のである5。 
18-1. 「自省録」第9 巻23 では、引用文「君のなんらかの行為が、直接的であれ遠隔的であれ、共同生活の目的を目指すものでなければ、この行為は君の生活を分裂させ、それが統一的であることを許さず、かつ、国民のなかにあって別途に分派をなす者に劣らないくらいに、反乱的となるのだ」の前に、「君自身が国家的社会的組織の一構成員であるように、そのように君の一つ一つの行為もまた、社会的生活の一構成要素たらしめるべきである」という文章が置かれ、引用文の後に、「あたかも共和国において、自分の分担の務めを果たさないことによって、社会的な協調から自己を離反させる人間のように」という文章が続いている(水地訳、前掲、200 頁)。なお、訳者水地宗明は、「国家的社会的組織」politikou susthmato" sumplhrwtiko" という語について、これは「宇宙という国家」を指す、と注記している(同訳書、201 頁、訳注5)。
18-2. 「自省録」第11 巻8。この節の前半で、マルクス・アウレリウスは次のように語っている。「隣の枝から切り離される枝は、同時にその木全体から切り離されないわけにはいかない。まさに同様に人間も、一人の人間から切り離されることによって、社会全体から脱落することになるわけだ。ところで枝の場合は、それを切り離すのは他者であるが、人間は隣人を憎み、嫌って避けることによって、自分で自分を隣人から分離するのであり、しかも彼は、そのことによって同時に共同体全体から自分を切断したのであることに気づかない」(水地訳、前掲、244 頁)。
18-3. 〈〉印括弧内の文は、1646 年版から付加された。
18-4.  「自省録」第6 巻54。この文はグローティウスの翻案である。したがって、ギリシア語原文が付されていない。「自省録」第6 巻54 の文章は「ミツバチの群れを益しないことは、[個々の]ミツバチをも益しない。」(水地訳、前掲、127 頁)である。
18-5. 原注1 は1642 年版から付加された。 
〔19〕 したがって、あの「法は、不正に対する恐怖から発明されたと認めざるをえない」1という言葉、そしてプラトンの著作で、ある〔対話〕者が、法は不正な侵害を受けることに対する恐怖から案出されたのであり、人はなんらかの力によって正義を尊重するように強制されるのであると説明していることは2、一般的には、真実でない。なぜなら、この説明は、たんに法の実現をいっそう容易にするために案出された制度や法律にかかわるものにすぎないからである。たとえば、自分たちだけでは弱い力しかもたない多数の人々が、力においてまさる人々によって抑圧されないために裁判所を設立し、これを共同の力で保持することによって、個人としては対等でない人々に対して、全体として優位に立とうとする、という説明がそれである3。そして、少なくともこの意味でなら、強者の欲するところが法であるといわれるのは4、適切なことだと認められる。すなわち、われわれは、法は、実力という侍女をもたないかぎり、その外的効果を発揮することができない、と理解しなければならないのである。〈ソローン* が、自分が偉大なことをなしとげたのは、「力と法とをひとしく一つの絆に結び合わせ5」て原1であった、と公言しているように。〉6
【原注】 
1. オウィーディウス* は「正当な理由があり、またその理由を守るだけの強大な武力をもっている7」と記している8。 
19-1. ホラーティウス「風刺詩集」第1 巻、第三歌(前出)ver.111。鈴木訳では、「正義などという観念は、不正不義の恐れから出ていることを知るだろう」と翻訳されている(鈴木一郎訳「風刺詩集」、前掲、149 頁)。
19-2. プラトン「国家」第2 巻2 では、グラウコンが、トラシュマコスを代弁する形でこう語っている。「自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただ、どちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪の方が、人に不正を加えることによって得る善よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして、法の命ずることがらを『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。……つまり、(正義)とは、不正を働きながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある(正しいこと)が歓迎されるのは、けっして積極的な善としてではなく、不正を働くだけの力がないから尊重されるというだけのことである」(藤沢令夫訳「国家」、プラトン全集11、岩波書店、1976 年、108 頁)。
19-3. プラトン「ゴルギアス」38 では、カリクレスが次のように語っている。「しかしながら、ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを念頭において、法律を制定しているのであり、またそれにもとづいて賞讃したり、非難したりしているわけだ。つまり彼らは、人間たちの中でもより力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちをおどして、自分たちよりも多く持つとがないようにするために、余計に取るのは醜いことで、不正なことであると言い、また不正を行うとは、そのこと、つまり他の人よりも多く持とうと努めることだ、と言っているのだ。というのは、思うに、彼らは、自分たちが劣っているものだから、平等に持ちさえすれば、それで満足するだろうからである」(加来彰俊訳「ゴルギアス」、プラトン全集9 所収、岩波書店、1974 年、114 頁)。
19-4. プラトン「国家」第1 巻12 で、トラシュマコスは、「正しいこととは、強い者の利益に他ならない」と主張している(藤沢令夫訳「国家」、前掲、34 頁)。なお、この主張については、「プロレゴーメナ」第3 節および訳注3-2 も参照されたい。
19-5. ソローン「断片」36-16。ただし、グローティウスは、この言葉をプルータルコス「対比列伝」ソローン15 から引用している。この断片の出典は、アリストテレース「アテナイ人の国制」第12 章5 である。「アテナイ人の国制」では、ソローンは、かれが行った負債の切り捨てと、いわゆる「重荷おろし」によって自由にされた人たちに対してかれがどのような配慮をしたかを説明し、「私はこれらのことを力もて、強制と正義とを調和せしめつつ成し遂げ、約束した通りに行ってきた」と語っている(村川堅太郎訳「アテナイ人の国制」、アリストテレス全集 17、岩波書店、1972 年、278 頁)。ちなみに、ブルータルコスの文章についても村川訳があるが、ここでは「彼自身述べているように、力と正義とを一緒に合わせて、実行した」と翻訳されている(村川堅太郎訳「ソロン」、世界古典文学全集23「ブルタルコス」所収、筑摩書房、1966 年、52 頁;ちくま学芸文庫「プルタルコス英雄伝」上、1996 年、122 頁)。
19-6. 原注1 は1642 年版から付加された。
19-7. オウィーディウス「変身物語」第8 巻ver.59。この言葉は、ミーノスがメガラを攻めた時、ミーノスのりりしい武将ぶりに心を奪われたメガラ王ニーソスの娘がつぶやいた言葉の後半部分にある。ニーソスの娘は、こうつぶやいた。「ああ、もしわたしに翼があって、空をよぎり、グノススの王の陣屋に舞い降り、わたしという者がいることをわからせ、愛をうちあけることができたら、また、わたしにどれほどの婚資を要求するかを知ることができたら、ほんとうにわたしは三倍も幸福になれるのだけど。ただ、父の城を要求されることだけは、こまるわ。祖国を裏切ることによって自分の願いを叶えるくらいなら、いっそのこと望みの結婚なんかすててしまってもいい! もちろん、寛大な勝利者の温情が多くの人々にとって敗北をかえって有利なものにすることがしばしばあるのだけど。殺されたわが子の仇を討とうというのだから、あの人がおこしたこの戦争は、たしかに正当なものにちがいない。それだけの正当な理由があるのだし、また、その正当さをあくまでもまもる強大な兵力を擁しているのだから、鬼に金棒というものだわ。どう見たって、わたしたちの敗色は濃い」(田中秀央・前田敬作訳「変身物語」、人文書院、1966 年、264 頁)。なお、この文章の邦訳は、中村善也訳「変身物語上」、岩波文庫、1981 年、309 頁にもある。
19-8. 〈〉印括弧内の文章は、1631 年版から付加された。 
〔20〕 しかしながら、法は、たとえ力を欠いているとしても、まったく効果がないわけではない。なぜならば、正義は良心に平安をもたらすが、不正は、プラトンが暴君の胸中について描写したように、良心に拷問の責め苦や引き裂かれる痛みをもたらすからである1。正義を是認し不正を非難するのは、高尚な人たちの一致した見解である。しかし、もっとも重要なことは、不正は神を敵とし、正義は神を友とするということである。たしかに、神はその審判を来世に留保している。しかし、神は、現世においても、しばしば、その審判の力を現わす。このことを、歴史上の多数の事例が2、[われわれに]教えている。 
20-1. プラトンは、「ゴルギアス」80 で、独裁者の魂の惨めさについて語り、「ペルシャ王でも、あるいは他のどんな権力者でも、それと知らずに取り押さえてみると、その魂には、なにひとつ健全なところがなく、むしろ、偽誓や不正のために、その魂はいたるところで鞭でひっぱたかれていて、その傷跡でいっぱいになっているのを見て取るのだ。……こういったありさまを見て取ると、ラダマンテュスは、その魂を見下げるようにして、まっすぐに牢獄の方へ送るのである。そして、その魂のほうは、そこへ着いたら、その魂にふさわしい責苦を堪え忍ばなければならぬことになっているのだ」と述べている(加来彰俊訳「ゴルギアス」、前掲、235~236 頁)。また、「国家」では、第9 巻全体を費やして、独裁者の悪しき性格や惨めな生き様について語り、不正な独裁者と正しい王とを比較して、独裁者は、「法と秩序から最も遠く隔たって」おり、愛欲という偽の快楽しか得ることができない。したがって、「真実の快楽を得ることのできる王が729 倍の快い生活を送る」のに対して、独裁者は、同じだけ「苦しく生きる」と述べている(引用部は、藤沢令夫訳「国家」、前掲、674~676 頁)。
20-2. そのひとつについて、訳注27-9 を参照されたい。 

 

〔21〕 ところで、多くの者が、個々の市民cives には正義を要求しながら、国民populus または国民の支配者rector については、それを余分なものとみなしている。この誤謬の原因は、第一に、かれらが、法に関して、法から生ずる効用以外にはなにも顧慮しないことにある。個々の市民の場合には、個人では自分自身を守る力をもたないのだから、法の効用は明白である。しかし、大きな国家civitas は、生活を正しく維持するのに必要なすべてのものをそれ自身のうちにもっているとみられるので、正義と呼ばれる、外に向けられた1 徳が必要だとは思われないのである。 
21-1. グロノヴィウスは、「外に向けられた」foras spectat の句を、「すなわち、正しい人は、自分自身のためよりも、むしろ他人のために正義を守る、ということ」と説明し、その出典をアプレイウス*「道徳哲学について」(「プラトンの教説について」第2 巻)に求めている。アプレイウスの文章は次の通りである(第7 節)。「しかし、[一般的意味の正義の徳を]所有する者自身にとって効用がある場合には、それは親切[という徳]である。しかし、それが外に向けられ、他人の利益を忠実に反映する鏡である場合には、それは正義[の徳]と名付けられる。」これに対して、バルベイラックは、たしかに、ここに「外に向けられた」という語が出てくるが、アプレイウスの文章は個人の徳の分類に関するものであり、グローティウスの論旨からすれば、むしろ、キケロー「国家について」第2 巻[第3 巻7]の「正義は戸外を眺め、そのすべてが顕著で卓越する」(岡道男訳「国家について」、前掲、114 頁)をあげるべきではないか、と注記している。 
〔22〕 しかしながら、法はたんに効用のためにのみ定立されるのではないという、すでにわたしが述べたこと1 を繰り返すまでもなく、いかなる国家も、いつか、自国以外の他国の援助を必要とする。そうしないでいられるほど強大な国家は存在しない。あらゆる国家が、あるいは通商のために、あるいはまた自国に向けて結束した多数の外国人の勢力に対抗するために、他国の援助を必要とする。だからこそ、われわれは、もっとも有力な国民や国王によってさえ、同盟が求められるのをみるのである。ところが、法を国境の内側に閉じ込めようとする人々は、この同盟の力をまったく認めない。まことにもって、法から遠ざかるやいなや、すべてのものが不確かになるのである2。 
22-1. 「プロレゴーメナ」第3 節ないし第6 節参照。
22-2. 「法から遠ざかるやいなや、すべてのものが不確かになる」という言葉は、キケロー「友人への書簡集」第9 巻、第16 書簡(パエトゥス宛)3 にある。ただし、キケローの書簡では、「法が見捨てられるとき」cum a iure discessum est, と記されており、「法から遠ざかるやいなや」simul a iure recessum est. とは記されていない。この句は次節[23]原注1 でも引用されているが、そこでは、キケローの言葉通りに引用されている。ちなみに、「キケロー選集」では、この箇所は「カエサルについては、恐れるべきことは何も見あたらない。ただひとつ懸念するのは、司法が蔑ろにされてしまったら、あらゆることが不確かになってしまう.....」と翻訳されている(前掲「書簡集I」、421 頁)。 
〔23〕 アリストテレースが、盗賊に関する注目すべき事例1によって証明したように原1、いかなる共同体も、法なしにこれを維持することはできないのだとすれば、たしかに、全人類からなる共同体、または多数の国民が互いに結合して作られる共同体も、法を必要とする。醜悪なことはたとえ祖国のためにでも行ってはならないと述べたあの人物も、これを認めている2。〈アリストテレースは3、自分たちの間では、支配権をもつ者でないかぎり、何人にも支配することを認めようとしないのに、外国人に対しては、なにが正しいこと[ius 法]であり、なにが不正であるかについてまったく意に介さない人々を、厳しく非難している原2。〉4
【原注】 
1. クリュソストモス「エフェソの信徒への手紙、第4 章に関する説教」には、こう記されている。「しかしそれでは、と、ある人がいう。いったいどうして、盗賊たちが平和に生活するのでしょうか。それは、いつでしょうか。どうぞ、わたしに教えて下さい、と。それは、もちろん、かれらが盗賊として行動しないときである。なぜならば、もし[略奪した]品物の分配に際して、かれらが正義の命ずるところに従わず、公平に分配しないならば、あなたは、かれらが互いに戦闘や抗争に陥るのを見るだろうからである。5」プルータルコスは、自分の子供たちのなかでもっとも鋭い剣をもつ者に王国を譲るといった、ピュロス* の言葉を引用し、これは、エウリピデースが「フェニキアの女たち」のなかで、「かれら[兄弟]は尖った鉄(剣)で家を分割する6」と表現したのと少しも違わないと述べ、さらに、次のようなすばらしい感嘆詞を付け加えている。「自分のもの以上のものを持とうとするかれの貪欲さは、それほどまでに非社会的かつ野獣的だったのだ7。」また、キケロー「書簡集」第11 書簡、第16 章には、「法が見捨てられるとき、すべてのものは不確かになる」とある8。さらに、ポリュビオス* 第4 巻には、「なぜならば、罪人や盗賊の私的な結合は、かれらの間で法が守られないとき、つまりかれらの間で信義が失われたとき、もっとも破壊されるのが通例だからである9」とある10。
2. またプルータルコス「アゲーシラオス*」には、「ラケダイモン人は、祖国の利益に自分たちの名誉の主要な部分をおいている。かれらは、スパルタの力を増すことができると思われるもの以外の法を知らないし、学びもしない」とある11。この同じラケダエモン人について、トゥキュディデースの第5 巻で12、アテナイ人が、「かれらは、自分たち相互のことや国の法に関しては、この上なく厳しく徳を行う。しかし、外国人に対してどのようであるのか。この点については多くのことがいわれうるであろうが、これを一言で説明すれば、かれらには心地よいことが名誉で、有益なことが正義とみなされる、ということになろう」と語っている。13 
23-1. この事例の出典として、注釈者は、ストーバエウス「詞華集」第10 章「不正および貪欲について」第50 節をあげている。そこには、アリストテレースの言葉として、8 人ほどの盗賊仲間が捕獲品を巡って互いに争い、まず4 人がそれを取り、次に2 人がそれを取り、最後に1 人がそれを取った、ところが、さらにそれを巡って右手と左手の間で争いになった、という話が記録されている(ちなみに、この断片は、岩波版「アリストテレス全集17」の「アリストテレス断片集」には収録されていない)。しかし、これが、どのような意味で「いかなる共同生活も法なしには維持されえない」ことの例証となるのかは、必ずしも明瞭でない。そこで、バルベイラックは、グローティウス自身がアリストテレースの作品名および該当箇所を指示していないこと、さらに、バルベイラックが調べた限りでは、アリストテレースの「ニコマコス倫理学」や「政治学」の中に、「いかなる共同生活も法なしには維持されえない」ことを明言した箇所は見あたらないことを理由として、グローティウスがここで言及すべきであったのはプラトンおよびキケローである、と注記している。ちなみに、プラトンは、「国家」第1 巻23 で、「国家にせよ、軍隊にせよ、盗賊や泥棒の一味にせよ、あるいは他のどんな族でもよいが、いやしくも共同してなにか悪事をたくらむ場合に、もし仲間同士で不正を働き合うとしたら、いささかでも目的を果たすことができるだろうか」と問い、「もしそういう人々が純粋一途に不正な者ばかりだったとしたら、お互いに手を出し合わずにはいなかっただろうからね。かれらの内には何ほどかの(正義)が存在していたことは明らかであり、その(正義)こそがかれらをして、自分たちが襲う相手に対してはたらく不正を、同時にお互いに対してまでも向けることを控えさせ、かくてこの(正義)のおかげでかれらは、当面の行動を果たすことができたのだった」と語っている(藤沢令夫訳、前掲、91、94 頁)。また、キケローは、「義務について」第2 巻11 節(40)で、「山賊一味の一人が仲間のものを盗むか奪うかすれば、その者は山賊団の中ですら居場所を失う。また、いわゆる海賊頭と呼ばれる者が衡平に略奪物を分配しなければ、仲間に殺されるか見放される。そればかりか、山賊にも法律があって、それに従い、守らなければならないのだという」(高橋宏幸訳「義務について」、キケロー選集9、岩波書店、1999 年、39 頁)と述べている。
23-2. 「あの人物」とは、キケローのこと。かれは「義務について」第1 巻45節(159)で、「というのは、中には非常に面汚しであったり、非常に恥さらしであったりして、そのようなことは祖国を守るためであっても、賢人は、決してしようとしないというほどの行為がある」(高橋宏幸訳「義務について」、前掲、219頁)と述べ、さらに「国家について」第3 巻、第22 章で、「じつに、真の法律とは正しい理性であり、自然と一致し、すべての人にあまねく及び、永久不変である。それは命じることにより義務へと召喚し、禁じることにより罪から遠ざける。……中略……この法律を廃止することは正当ではなく、その一部を撤廃することは許されず、またそのすべてを撤回することはできない。わたしたちは、元老院によって、あるいは国民によってこの法律から解放されることはできない。……中略……また、この法律はローマとアテーナイにおいて互いに異なることも、現在と未来において互いに異なることもなく、唯一の永久不変の法律がすべての民族をすべての時代において拘束するだろう」と述べている(岡道男訳「国家について」、前掲、123、124 頁)。
23-3. アリストテレースは、「政治学」第7 巻、第2 章で次のように述べている。「ただ力によって征服するだけなら、それは不正な仕方でもできることである。しかし他の知識の分野ではそうしたことはみられない。なぜなら医者にしても船長にしても、その仕事は患者や船員を説得したり強制することではないからである。しかるに多くの人は政治の術となると、奴隷に対する主人のような支配の術を思い浮かべるようである。そしてそれぞれが自分自身にとっては正しいことでも利益になることでもないと反対する、まさにそうしたことを他国人に行って恥じることがない。かれらはみずから自身のところでは統治が正しく行われることを求めるのに、他国人に対しては正しいことはなんら意に介さない」(牛田徳子訳「政治学」、京都大学学術出版会、2001 年、347/348 頁)。 
23-4. 〈〉印括弧内の文章は、1631 年版から付加された。
23-5. クリュソストモスは、「エフェソの信徒への手紙に関する説教」、「説教」9; 3 で、人々を相互に受け入れさせ、相互に結びつけるための絆が壊されるのは、金銭欲、権力欲、名誉心などのためであると指摘し、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイによる福音書、24; 12)という言葉を引いて、愛と反対のもののなかで罪ほど大きなものはないと述べた後、「それでは、どうして、盗賊たちでさえも平和でいられるのでしょうか、といわれるかもしれない。かれらはいつ平和でいられるのですか、わたしに教えてください、と。それは、かれらが盗賊の心をもって行動しないときである。というのは、もし、かれらが、獲物を配分する仲間同士の間で正義の掟を守らず、各人にその権利の主張を認めるならば、あなたは、かれらもまた、言い争いを始め、戦争状態に陥るのを見るであろうから」と述べている。
23-6. エウリピデース「フェニキアの女たち」ver.68. この言葉は、テーバイ王の未亡人で、実子オイディープスの妻となったイオカステーが、最初に、物語の前提となる状況を説明している部分にある。イオカステーは、自分とオイディープスとの間で生まれた息子たちが、父親を閂のかかる部屋に閉じこめたこと、そして、オイディープスが息子たちに呪いをかけたことを述べ、次のように独白している。「あの人は、ですから、この館の中でまだ生きています。そればかりか、わが身を襲った運命のめぐりにこころを狂わされて、父親にはあるまじき呪わしい言葉を息子たちにかけてしまったのです。この家の支配権は、尖った鉄を手にして奪い合え、などと」(安西真訳「ポイニッサイ」、前掲「ギリシャ悲劇全集8」所収、113 頁)。なお、底本のテクストには、グローティウスの訳語としてsanguiuante という語が記されている。訳者は、これがどのような意味の言葉なのか確認できなかった。あるいは、sanguinante の誤植かもしれない。もし、そうだとすると、本文は「血塗られた鉄」と翻訳することができる。しかし、原詩にも、次注に紹介するプルータルコスの文章にも、「血を流して」sanguinans に相当する語は存在しない。そこで、本稿では、原詩に合わせて、本文を「尖った鉄」と訳出した。
23-7. プルータルコスは、「対比列伝」ピュルロス9 で、次のように述べている。「アンティゴネーからは息子のプトレマイオス、ラーナッサからは息子のアレクサンドロス、ピュルケンナーからは息子のヘレノスが生まれた。これらの息子は武器を取れば勇ましく火のやうな気象に育て、生まれると直ぐピュルロス自身がさういふ風に鍛へた。息子の一人がまだ幼かつた時、王位は誰に遺すかと訊いたのに対して、ピュルロスは『お前たちのうちで一番鋭い刀を持つてゐる者に。』と云つたさうである。これは悲劇で有名な言葉、兄弟が『磨ぎすました鉄で家を分け合ふ』のと少しも違はない。貪欲の素質がこれほど露骨で野獣的だつたのである」(河野与一訳「プルターク英雄伝6」、岩波文庫、1954 年、18 頁)。グローティウスは、amikto" を「非社会的」insociabile と訳し、河野与一は「露骨で」と訳出しているが、いずれの翻訳も可能である。
23-8. この書簡については、前節の訳注22-2 を参照されたい。
23-9. ポリュビオス「世界史」第4 巻、第29 章4。この言葉はマケドニア王フィリッポスの言葉である。フィリッポスは、かつてアイトリア人と組んでキュナイタを劫略したイリュリアの将軍スケルディライダスが、十分な分け前をもらえなかったためにアイトリア人に対して恨みを抱いているのに着目し、アイトリア人を非難する言葉としてこのように語り、スケルディライダスを味方につけることに成功した。城江良知訳「ポリュビオス・歴史2」(京都大学学術出版会、2007 年、47 頁)では、次のように翻訳されている。「個人の悪行と国家の悪行は、そこから生じる結果の大きさと広がりが違うだけで、それ以外にはなんら異なるところはない。個人の場合でも、盗賊や泥棒の集団がつまづく最大の原因は、仲間どうしの信義を守らないこと、総じて言えば集団内の不誠実である。」
23-10. 原注1 は、「それほどまでに非社会的で、野蛮なのだ、と記している。」までが1642 年版で付加され、 〈〉印括弧内の「キケロー「書簡集」第9 巻、第16 書簡」以下末尾までの文章は1646 年版で付加された。
23-11. プルータルコス「対比列伝」アゲーシラオス37。スパルタ王アゲーシラオスは、度重なる敗戦の結果、エジプト国王配下の傭兵軍指揮官となった。しかし、自身はスパルタ政府から派遣された将軍であると主張し、エジプト王タコースの甥ネクタビネスが反乱を起こしてアゲーシラオスに助勢を求めたとき、スパルタの人々の意見を問い、その回答に従って反乱軍側に寝返った。グローティウスが引用している文章は、この事件を評して、プルータルコスが述べた言葉である。岩波文庫版「英雄伝」では、「スパルタ人は祖国の利益に名誉といふ事の第一の部分を宛ててゐるので、スパルタの力を増すと見做すもの以外に正義というものを学ばず理解もしない」と翻訳されている(河野与一訳「英雄伝 8」、アゲーシラーオス37、岩波文庫、1955 年、119 頁)。
23-12. トゥキュディデース「戦史」第5 巻、第105 章。この言葉は、アテナイ軍が非同盟のメロス島に侵攻した際に(前416 年)、領土を侵略する前に送られた交渉使節が、メロスの有力者たちを前にして行った演説の一節である。西洋古典叢書版では、次のように訳出されている。「ラケダイモン人というのは、たしかに同国人や祖国の法に対しては、比類ない徳性を発揮する。しかし他国人に対する振る舞いとなると、さまざまな言い方ができるであろうが、一言で表現すればこうなるだろう。快楽を美徳と見なし、利益を正義と同一視することにかけて、ラケダイモン人の右に出る者はいないと」(城江良知訳「歴史2」、京都大学学術出版会、2003 年、81、82 頁)。
23-13. 原注2 は1642 年版から付加された。 
〔24〕 われわれが、さきに、われわれとは別の意見をもつ者として言及した1 あのポムペイウス自身、スパルタのある国王が、国境を槍と剣で定める国家はもっとも幸福であるといったのを訂正して、最も幸福な国家は、正義を国境とする国家であると語っている2。この点に関して、かれは、別のスパルタ王の権威を利用することもできた。この国王は、勇気はなんらかの正義によって統御されなければならないが、もしすべての人間が正しければ、そのような勇気など必要としないであろうと語り、このことを論拠として3、正義を武勇に優先させたのである原1。〈ストア派の学者たちは、この勇気を、衡平のために戦う徳と定義している。〉4 また、テミスティウス* は、〔皇帝〕ウァレンス* に宛てた弁論の中で、弁舌さわやかに、英知の尺度に適う国王とは、たんに自らに委ねられた民gentes を考慮するだけでなく、全人類をも考慮に入れる者、テミスティウス自身のいい方に従えば、たんに「マケドニア人を愛する者」filomakedona" や「ローマ人を愛する者」filorwmaiou" であるだけでなく、「人類を愛する者」filanqr wpou" でもある原2、と論じている5。〈ミーノス原3 の名が後世の人々に嫌われたのは、かれが衡平を自分の王国の国境の範囲に限定したからに他ならない。〉6
【原注】
1.  アゲーシラオスは、ペルシア人の王が大王と呼ばれるのを聞いて、「もしかれがわたしよりも正しいというのでないならば、どうして、かれは、わたしより偉大なのであろうか」といった7。この言葉は、プルータルコスにある8。
2.  マルクス・アントニーヌスは、非常に巧みに、「アントニーヌスとしてのわたしにとって、国家と祖国はローマであり、人間としてのわたしにとって、それは世界である9」と述べている。ポルフュリオス「肉食しないことについて」第3 巻には、「理性に導かれる者は、〔仲間の〕市民に対して有害な行動をとらない。外国人およびすべての人間に対してはなおさらである。理性が前面に出れば出るほど、人は、いっそう神に似るのである10」とある11。
3. この人物については、昔の詩人の一節がある。「ミーノス* の桎梏のもとで、全島が嘆き悲しんだ。12」このことについては、キュリロス*「ユリアーヌス駁論」第6 巻をみよ13。 
24-1. プロレゴーメナ第3 節に、ポムペイウスが「武装しているとき、どうして法を考えることができようか」と語ったことが紹介されている。
24-2. 出典不詳。バルベイラックは、プルータルコス「スパルタ人の金言集」に記されているアゲーシラオスの逸話と、「対比列伝」ポムペイウスに記されている別の逸話を、グローティウスが記憶のうえで混同したものと考えている。「スパルタ人の金言集」アゲーシラオスには、アゲーシラオスが、スパルタの国境はどこまで広がるのかと問われて、槍を振り回し、「これが届く範囲だ」と答えたという話や、なぜスパルタには市壁がないのかと聞かれて、武装した兵士を指し示し、「かれらがスパルタの市壁だ」と答えたという話、あるいは、同じ質問に対して、「都市は石や木材の壁で囲まれるべきではなく、住民の勇気によって囲まれるべきだ」と答えた、という逸話が記されている。一方、「対比列伝」ポムペイウスには、これに相当する逸話は存在しない。国境に関するポムペイウスの逸話は、「対比列伝」ポムペイウス33 および「王と将軍の金言集」ポムペイウスに、アルメニア王ティグラーネスの息子ティグラーネスが降伏してきた後、その舅にあたるパルティア国王フラアテースが使節を送って、ティグラーネスの身柄の引き渡しと、ユーフラテス川を国境とすることを提案したのに対して、ポムペイウスは、「ティグラーネスの身柄は、舅よりも父親に属すべきであり、ローマ人は、正しいものを国境とするべきだと考える」と答えた、という話が伝えられているのみである。なお、グローティウスは、本節で、二人のスパルタ王を指示している。そのうちの一人「別のスパルタ王」はアゲーシラオスであるから(次訳注参照)、最初の「ある国王」は、アゲーシラオスとは別の国王でなければならない。しかし、この「ある国王」が誰を指すのかは不明である。バルベイラックが指摘しているように、「ある国王」もまたアゲーシラオスである可能性が高いといえよう。
24-3. 「別のスパルタ王」とはアゲーシラオスのことである。プルータルコスは、「スパルタ人の金言集」アゲーシラオスで、アゲーシラオスが「徳ないし勇気と正義とでは、どちらが優れているのか」と問われて、こういったと伝えている。「もし正義がなければ、勇気はなんの役にも立たないであろう。そして、もしすべての人が正しい人であるならば、勇気など必要としないであろう。」ただし、アゲーシラオスは、「武勇」militaris fortitudo という言葉は使っていない。なお、訳注24-7 も参照されたい。
24-4. 「ストア派の学者たちは」以下、〈〉印括弧内の文章は、1631 年版で付加された。この文章の出典は、キケロー「義務について」第1 巻、第19 節(62)である。ここで、キケローは、「それゆえ、ストア派が正しく定義しているように、勇気が美徳といえるのは、戦う目的が公正さにあるときなのである」と述べている(高橋幸宏訳、前掲、164 頁)。訳者高橋幸宏は、「ストア派の学者」の定義について、「このような定義について他の出典は知られていない。『トゥスクルム荘談話集』4・53 参照」と注記している(同訳書、165 頁)。「トゥスクルム荘対談集」4・53 では、キケローは、スパエルス* とクリューシッポスの名前をあげて、「勇気とは、物事に耐える際自然の基本原則に従順な魂のありようである。あるいは、身のすくむようなできごとに対して、耐えるにせよ、反撃するにせよ、確固たる判断を維持することである。あるいは、恐ろしいこと、恐ろしくないこと、まったく無視すべきことを区別し、確固たる判断を維持するための知恵である[以上はスパエルスの定義]。あるいは、簡単にクリューシッポス流にいえば、...... 勇気とは、物事に耐える知恵であり、苦難を耐え忍ぶ時に怖がることなく自然の基本原則に従おうとする魂のありようである」(木村健治・岩谷智訳、キケロー選集12、岩波書店、2002 年、254 頁)という見解を紹介している。さらに、クリューシッポスは、上級の徳として、思慮、勇気、正義、節制をあげ、勇気の下位の徳として、隠忍持久、剛毅、度量の大きさ、確固たる心、苦を厭わぬ心をあげて、「隠忍持久とは、正しく判断されたことに留まる知識である[別の箇所では、我慢すべきことと、我慢すべきでないことと、どちらでもないことの知識である、とも述べられている]。剛毅とは、われわれが屈しないということを知る知識である。度量の大きさとは、優れた人にも劣った人にも起こるのが当然であることに対して超然とさせる知識である。確固たる心とは、魂を打ち負かされぬものとする知識である。苦を厭わぬ心とは、課題を果たすことができ、労苦に倦み疲れない知識である」と定義し、さらに「勇気とは、さまざまなことがらを耐えるときに最高の法に従順な心のあり方である」と述べている(中川純雄・山口義久訳「クリュシッポス」初期ストア派断片集4、京都大学学術出版会、2005 年、162、167~168、176 頁)。
24-5. テミスティウス「弁論集」第10 篇。引用句は、帝位簒奪者プロコピウスの反乱を鎮圧した(366 年)ウァレンス帝に対して、テミスティウスが、369年の末または370 年の初めに、戦後処理の仕方について、とくにアリウス派に対する寛大な処置を求めて、コンスタンティノポリスの元老院で行ったとされる演説の一節にある。
24-7. プルータルコス「スパルタ人の金言集」アゲーシラオスには、アジアの人たちがペルシャの国王を大王と呼び習わしていることについて、アゲーシラオスが、「もしかれが、わたしよりも正しくかつ温和でないとすれば、どうして、かれがわたしより偉大なのだろうか」といった、と記されている。ただし、「対比列伝」アゲーシラオス23 では、この言葉は、訳注24-3 に掲げたアゲーシラオスの発言「もし正義がなければ、云々」を聞いて、「そういう説はペルシャの王が喜びそうだ」といった人々に対して、アゲーシラオスが答えた言葉とされている。
24-8. 原注1 は、1642 年版から付加された。
24-9. マルクス・アウレリウスは、「自省録」第6 巻44 で、「それぞれのものに有益なのは、自己の素質と自然に合致するものである。そして、私の自然は理性的で国家的社会的である」と述べた後、「アントニヌスとしての私にとっては、国家と祖国はローマであり、人間としての私にとっては、それは宇宙である。それゆえ、これらの国家に有用なものだけが、私にとって善なのである」(水地訳、前掲、123 頁)と記している。グローティウスは、宇宙kosmo" を「世界」mundus と翻訳している。
24-10. ポルフュリオスは、「肉食しないことについて」第3 巻27 の前半部分で、非理性的な行動や利得、貧しさが不正の源泉であると指摘し、神に似ることが人生の究極目的だとすれば、すべてのものに対して無害であることこそ、正しい人の道であり、最高度に神に似ることであると説いて、次のように述べている。「感情に導かれる者は、その子供や妻に対してのみ無害なのであって、仲間の同国人や外国人を軽視し、かれらを欺くことを意に介さないが、これは、かれらの非理性的な部分がかれを支配する結果である。これに対して、理性に導かれる者は、非理性的な部分を抑制することによって、仲間の同国人に対して、また、それにもまして外国人およびすべての人間に対して、無害な行動を保つ。したがって、かれは、感情に導かれる者よりもいっそう理性的であり、いっそう神に似ているのである。」
24-11. 原注3 は1642 年版から付加された。
24-12. キュリロスによれば、「古の詩人」とは、紀元前3 世紀のキュレネーの詩人カリマコス* のことである。キュリロスは、背教者ユリアーヌスをこのミーノスに譬えている。ただし、ミーノスを「その桎梏のもとで、全島が嘆き悲しんだ」と表現したカリマコスの作品名は確認されていない。
24-13. 「ミーノース」以下〈〉印括弧内の文章は、1631 年版で付加された。 
〔25〕 ところで、ある人々は、戦争においてはすべての法が停止すると考えているが1、こればかりは認められてはならない。戦争は、法を実現するためでなければ始められてはならないし、ひとたび始められれば、法と信義の枠内でしか行われてはならないのである2。デモステネース* が、戦争は、裁判によって強制することができない者に対して存在する、と語ったのは正しい3。なぜならば、裁判は、自らの力が劣っていると感ずる人々に対して有効なのであって、対等に振る舞うか、または対等と考える人々に対しては、戦争が選択されるからである。しかし、当然のことながら、戦争が正当であるためには、その戦争が、裁判が行われるときに通例求められる厳正さと比較して、決して劣らないだけの厳正さをもって行われなければならない。 
25-1. 「戦争においては、すべての法が停止する」については、プロレゴーメナ第3 節および第26 節を参照されたい。ただし、グローティウスの同時代人に、そのような見解を取る者があったのかどうかについては、よくわからない。
25-2. 「戦争は法の実現のために行われる」は、「戦争と平和の法。三巻」第二巻の主要テーマであり、「戦争においても、法と信義が守られなければならない」は、第三巻の主要テーマである。
25-3. バルベイラックの註釈によれば、ここでグローティウスが念頭においているのは、デモステネース「ケルソネーソス情勢について」(「弁論集」3)29 である。この演説は、アテナイの古くからの植民地で、アテナイに対する主要な食糧供給源でもあったケルソネーソス地方の情勢について、前341 年に、デモステネースがアテナイの民会で行った演説である。当時、ケルソネーソス地方への植民を組織していたディオペイテスは、アテナイ人の入植を認めないカルディア人を攻撃した。ところが、カルディア人はマケドニアのフィリッポスに保護を求めたため、ディオペイテスは、フィリッポスの領地であるトラキア沿岸部に出撃して、周辺を荒らした。これに対して、フィリッポスはアテナイに書簡を送り、ディオペイテスの行為は前346 年の和平協定に反すると抗議した。この抗議を巡って、アテナイ市民の意見が紛糾し、和平派は、ディオペイテスを処罰してフィリッポスの怒りをそらすことを強く求めた。そこで、デモステネースは、この演説によって、問題はディオペイテスをどうするかではない、アテナイ市民は国際情勢を冷徹に見極めて行動する必要がある、とアテナイ市民を説得しようとした。この演説の第28 および29 節で、デモステネースはこう述べている。「『ヘレスポントへ別の将軍をもう一人送れ』というのも、ちょうどそれなのです。もし、ディオペイテスがひどいことをしていて、船舶を連行して海賊的な行為をしているというのなら、ほんのちょっとした書き付けを出すだけで、アテナイ人諸君、すべてそういうことをやめさせることができるでしょう。法律はそういう罪を犯した者を弾劾告発することを命じているだけなのです。なにもそんなに多額の費用を使い、そんなに多くの三段櫂船を派遣してまで、われわれお互いを見張れなどとはけっして命じておりません。そんなことは狂気もはなはだしいことですからね。しかし、敵国に対しては、法律によって捕捉することもできないのですから、兵員を養い、三段櫂船を派遣し、戦時財産税を納める必要があり、また、それを避けることもできません。しかしわれわれお互いの間では、議決があり、弾劾告発があり、召喚船パラロスの派遣があれば、それでいいのです」(田中美知太郎・北嶋美雪訳「ケロネソス情勢について」、「デモステネス・弁論集1」所収、京都大学学術出版会、2006 年、184-186 頁)。 

 

〔26〕 したがって、法は武器の間では沈黙するのだとしても1、その法は、国家の法や、裁判に関する法や、平和時に固有の法のことであって、その他の恒久的な法や、すべての時代に適用される法のことではない。プルサのディオ*は、敵と敵の間では、成文の法すなわち国家の法は効力をもたないが、不文の法すなわち自然が命ずる法あるいは諸国民の一致した見解によって定立される法は有効である原1、と述べている2。これは至言である。「わたしは、これらのものを、非難の余地のない敬虔な戦争によって求めなければならないと考える3」というローマ人たちの古い式語も、このことを教えている。ウァッロー* が記しているように4、同じ昔のローマ人たちは、戦争を急がず、けっして恣意的に戦争を企てたりはしなかったし、敬虔な戦争でなければ、いかなる戦争も行ってはならないと考えていた。カミッルス* は、戦争は、勇敢に戦われるのに劣らず、正しく戦われなければならないと語り5、〈アフリカーヌス* は、ローマ国民は、戦争を正しく始め、正しく終える、と述べている6。〉7 また、あなた方は、ある著者の作品に、「平和の法があるのと同じように、戦争にも法がある、」と書かれているのを読むであろう8。さらに別の著者は、ファブリキウス* を偉大な人物と称賛し、きわめて難しいことだが、ファブリキウスは戦争において清廉であり、しかも、敵に対する不正というものも存在すると信じていた、と述べている9。
【原注】
1. それゆえ、[アラゴンの]アルフォンソ[5 世]王* は、書物と武器のどちらに負うところが大きいかと尋ねられたとき、自分は書物から武器[の技術]と武器の法とを学んだ、と語ったのである10。プルータルコスは、「正しい人の間では、戦争に関するなんらかの法が存在する。勝利を追求するあまり、邪悪かつ不敬な行為から生ずる利益を拒否しない、ということであってはならない11」と記している12。 
26-1. 「武器の間では法は沈黙する」という言葉は、キケロー「ミロ弁護論」第4 章にある。ただし、キケローがそこで問題としているのは、いわゆる正当防衛の事例である。すなわち、キケローは次のように論じている。「もし、われわれの生命が何かの待ち伏せに、追い剥ぎなり対立する者なりの暴力に、また武器に出くわしたなら、身の安全を 確保するためにどんな手だてを用いようと、それはすべて真っ当なものだということだ。というのも、諸々の法律は武器の間では沈黙し、自分らを頼みとせよと命ずることもないからだ」(山沢孝至訳「ミロー弁護」、キケロー選集2「法廷・政治弁論II」所収、岩波書店、2000 年、350 頁)。なお、「プロレゴーメナ」第3 節も参照されたい。
26-2. プルサのディオ(ディオ・コッケイアーヌス)「弁論集」第76 篇。ディオは、この弁論で慣習について論じ、次のように述べている。「慣習は人の心に書き込まれているので、木板や石に刻まれた法よりもよく保存される。また、成文の法は敵に対しては効力をもたないが、慣習はすべての人によって守られる。」そして、かれは、その例として、戦争の敗者に対しても死者の埋葬が認められること、などをあげている。したがって、本文の記述は、グローティウスの翻案である。
26-3. この式語は、リーウィウス*「ローマ建国以来の歴史」第1 巻、第32章12 に記載されている。ローマでは、トゥルス王の死後、アンクス・マルキウスが国王に選出されるが、そのアンクスがまず行ったのは、「ヌマが平時における祭祀を創設したように、戦争の儀式を制定することであった。それは、戦争の遂行だけでなく、戦争の宣言もまた決められた儀礼に従って行おうとするものであり、手順そのものius[鈴木一州訳(岩波文庫)では、「掟」と翻訳されている]は、由緒ある民アエクィリ人から学び入れた。そしてそれは今も宣戦使が受けついで賠償請求res repetuntur[鈴木訳は、「財物返還」]に際して執り行っている。まず、使者は、賠償を請求すべき相手の国境まで来ると、頭に羊毛の紐を巻いて、こう言う。『聞け、ユッピテルよ。聞け、(相手国がどこであれ、その)国境よ、聞け、正義よ。私はローマ人民の公式の使節、正義と敬虔の使者としてやってきた。わが言葉に信義が宿らんことを。』このあとに、さまざまな要求が唱えられる。続いてユッピテルを証人としてこう述べる。『もし、これらの人間、これらの品物を引き渡せという要求が不当かつ不敬なものであるならば、この私が再び祖国の地を踏むことを許し給うな。』……要求したものが、(慣例上定まっていた日数の)33 日間を経過してもなお引き渡されないとき、使節は次のように戦争を宣言する。『聞け、ユッピテルよ、聞け、ヤヌス・クィリヌスよ、天上のすべての神々よ。そしてまた、地上と地下の神々よ、聞け。私はあなた方を証人として、かの人民の(ここでその民の名を挙げる)不当、不正を公にする。だが、本件についてはわが祖国において長老たちに諮ることとする。いかなる方法により我らの権利を回復するべきかを』。こう述べたあと、使節はローマに戻る。ただちに王は次のような言葉で、元老院の意見を求めることになる。『ローマ市民から選ばれた外交神官長pater patratus[鈴木訳は、「代理父」]が、古ラテンの外交神官長および古ラテンの民人に対して通告を行った賠償res[鈴木訳は、「財物」]、係争、主張について、考えを述べよ。返還されるべきものが返還されず、解決されるべき事が解決されず、通るべき主張が通らないままになっている』。王はいつも最初に意見を求める元老院議員に向かって、『いかに考えるや』と尋ねる。聞かれた相手はこう答える。『神聖かつ敬虔なる戦いによって勝ち取るべきである。私はそのように考え、その意見に一票を投ずる』。」(岩谷智訳「ローマ建国以来の歴史1」、京都大学学術出版会、2008 年、76 および77 頁。参考・鈴木一州訳「ローマ建国史・上」、岩波文庫、2007 年、87 および88 頁)。最後の一文「神聖かつ敬虔なる戦いによって勝ち取るべきである」は、鈴木訳では「正当かつ敬虔な戦を以て財物を求むべきだ」と翻訳されている。なお、グローティウスが引用する式語中の「これらのもの」eas res という語句は、現在の普及版たとえばロウブ版には存在しない。鈴木訳には「財物」という訳語があるが、鈴木訳の既刊分では底本について何も記されていないので、これがグローティウスの読んだリーウィウスの原文中に存在するのか否かについては確認できなかった。
26-4. ウァッロー「ローマ国民の生活」第2 巻(De vita populi Romani, II)。ただし、この作品は現存しない。グローティウスが引用しているのは、ノーニウス*「学識要覧」第12 巻1, V.「 フェティアーレス」Fetialesの項目に引用されたウァッローの文章の冒頭部分である。「学識要覧」では、この後に「不正な侵害を行ったと確認された人々に対して戦争を宣言する前に、フェティアーレスは、財物の返還ないし補償を求めるための4 人の使節を派遣した。かれらは代弁人oratores と呼ばれた」という文章が続いている。
26-5. リーウィウス「ローマ建国以来の歴史」第5 巻、第27 章6。この言葉は、カミッルスがファリスキ人の町ファレリイを包囲したとき、ファレリイのある教師が教え子を人質としてローマ軍に降伏を申し出たのに対する、カミッルスの返事の中にある。カミッルスは、そのとき、こう答えた。「このならず者め。おまえが恥知らずな任務を帯びてやってきた相手は、おまえと同じように恥知らずな国民や恥知らずな将軍ではない。われわれとファリスキ人との間には、人間の協約に基づいて作られる結びつきsocietas は存在しない。しかし、両者の間には、自然から生まれる結びつきが存在するのであり、これは将来も存続するであろう。平和についてと同じように、戦争についても法がある。そして、われわれは、勇敢に戦うことに劣らず、正しく戦うことも学び知った。われわれは、占領された都市においてさえ[武力の行使が]差し控えられる年齢の者を相手に、武器を取ったりはしない。われわれが武器を取るのは、われわれと同じく武装した者で、かつ、ウェイイにおいて、われわれから損害を被ったわけでも挑戦されたわけでもないのに、ローマの陣営を攻撃した、そういう者たちに対してである。」
26-6. リーウィウス「ローマ建国以来の歴史」第30 巻、第16 章9。アフリカーヌスの言葉は、カルタゴ側がハンニバルの到着を待つ間の時間稼ぎとして和平を提案したときに語られた。リーウィウスはそれを次のように紹介している。「わたしは、一つの希望を抱いてアフリカにやってきた。それが成就される見込みは、戦争の成果によってますます膨らんでいるのだが、その希望とは、本国に、和平ではなく勝利を報告することである。しかし、いま、勝利をほとんど手中にしているからといって、わたしは和平を拒否するつもりはない。和平を拒否しなければ、すべての諸国民が、ローマ国民は正しく戦争を始め、正しく終える、ということを知るであろう。」
26-7. 「アフリカーヌスは」以下〈〉印括弧内の文章は、1631 年版で付加された。
26-8. リーウィウス「ローマ建国以来の歴史」第5 巻、第27 章6(本節訳注5を参照されたい)。
26-9. セネカ「道徳書簡集」第120 書簡(ルキリウス宛)6。セネカは、この書簡で次のように記している。「同じファブリキウスは、ピュッロスの侍医が王に毒を盛ることを約束した時、ピュッロスに対して陰謀に気をつけるよう忠告した。同じ魂のなせる業だった。黄金にも屈せず、毒にも屈しなかったことは。わたしたちがこの大いなる人物について驚嘆するのは、かれが王の約束にも、王に背く約束にも折れることがなかったことだ。善き模範を堅持し、また最も困難なことだが、戦いにおいても清廉潔白を貫き、敵に対してさえ何か許されざる行為があると信じて、すでにみずからの誉れとしていた極貧の中でも富を毒と同じように拒否したことだ」(大芝芳弘訳「倫理書簡集II」、セネカ・哲学全集6、岩波書店、2006 年、365 頁)。なお、セネカのファブリキウス評を裏づける逸話は、ゲッリウスや、プルータルコスによっても伝えられている。たとえば、ゲッリウスは、「アッティカの夜」第3 巻、第8 章で、次のような逸話を紹介している。ピュロスがまだイタリアにとどまっていたとき、ピュロスの部下のティマカレス(またはニキアス)という者が執政官ファブリキウスのもとにやって来て、「自分の息子がピュロスの食事係をしているので、ピュロスを毒殺することは容易である。もし、殺害に成功したら、報酬を貰いたい」といった。ファブリキウスは、これを元老院に報告し、元老院は、以下のような手紙をもたせて使節をピュロスに送り、注意を促した。「ローマの両執政官はピュロス王にご挨拶申し上げる。われわれは、貴殿が不正な行為を継続しているために、心安からぬ思いをさせられ、貴殿を敵として戦うことを強く望んでいる。しかし、一般的な範例および信義に照らしてみたとき、われわれが貴殿を武器によって打ち倒すことができるようにするために、われわれは貴殿の健康を望むべきであると思われた。実は、貴殿の部下のニキアスがわれわれのところに来て、もしかれが貴殿をひそかに殺害したら、われわれから報酬を貰いたいといったのである。われわれは、そのようなことは望まないし、そのようなことのために、かれがなんらかの利益を期待することはできないだろう、と答えた。そして、同時に、もしそのようなことが起これば、諸国は、それが、われわれの助言に基づいて行われたことだと考えるであろうから、そんなことが起こらないようにするために、そしてまた、実際、われわれは、対価や報酬や奸計を用いて戦うことを望んではいないのだから、この一件を貴殿に通報しなければならないと考えた。もし、貴殿が身の回りに気を配らないなら、貴殿は身を滅ぼすことになるであろう。」そして、この手紙を受け取ったピュロスは、ローマ国民に感謝の手紙を送ると共に、捕虜として収容されていたすべての者に衣装を与え、ローマに送り返した。他方、プルータルコスは、「対比列伝」ピュロス20、21 において、この逸話の他に、次のような逸話も伝えている。ファブリキウスが、捕虜に関する使節としてピュロスのもとに派遣されたとき、ピュロスは友情と歓待の印として金を取らせようとした。しかし、ファブリキウスはこれを受け取らなかった。そして、その翌日、ピュロスは、ファブリキウスを驚かそうとして、会議の席に象を引き出した。しかし、このときもファブリキウスは少しも騒がず、「昨日は黄金がわたしを動かさなかったが、今日は象がわたしを動かさない」といった。こうして、ピュロスはファブリキウスの気位の高さと高潔さを知り、かれを尊敬するようになった。そして、ファブリキウスに捕虜たちの身柄を託すことにし、捕虜たちが身内の者と挨拶を交わしサトゥルヌス祭を祝った後に、また自分の方に送り返して貰いたいと条件をつけた。ローマの元老院は、後に残った者は死刑に処すると決議したため、すべての捕虜がピュロスのもとに戻った。……前者の逸話が、セネカのいう、毒に屈しなかったファブリキウスであり、後者の逸話が、黄金に屈しなかったファブリキウスである。なお、ゲッリウスは、この話を伝える人によって名前が異なっていることを指摘している。そして、ゲッリウスがティマカレスあるいはニキアスと呼んでいる人物を、セネカもプルータルコスも共に、「ピュロスの侍医」としている。ちなみに、キケロー「義務について」第1 巻、第14 章[40]では、この人物が「ピュロスのもとからの脱走兵」とされている。
26-10. アルフォンソ王の言葉は、アントーニオ・ベッカデッリ*「アルフォンソ王言行録」第4 巻19 にある。短い文章なので、全文を転記しておく。「あるとき、王は、武器と書物のどちらに、より大きな恩恵を負っているかと尋ねられた。そのとき、王は、自分は、書物から武器と武器の法とを学んだ、と答えた。」Cum aliquando rex interrogaretur, utrum ne armis an libris maiorem gratiam deberet, respondit, ex libris se arma, et armorum iura didicisse.
26-11. この言葉は、プルータルコスが「対比列伝」カミッルス10 において(本節訳注26-5 に紹介した事件の際に)、カミッルスが語った言葉として伝えているものである。西洋古典叢書版では、次のように翻訳されている。「戦争というものは、たいへんな不正や暴力的な行為によって遂行されるものだが、それでもなお、正しい人が戦うには掟がある。勝利にしても、神を恐れぬ人間が差し出す有利な条件を買ってまで求めるべきではない」(蓮沼重剛訳「英雄伝1」、京都大学学術出版会、2007 年、386 頁)。
26-12. 原注1 は、1642 年版から付加された。 
〔27〕 正義の自覚が戦争においていかに大きな力をもつか原1。このことを、歴史の著述家たちは、しばしば、勝利を主としてこの原因に帰着させることによって、いたるところで明らかにしている。そして、そこから、兵士の力は戦争の原因によって強められもし弱められもするとか1、不正に武器をとる者が無事に帰還することは稀であるとか2、よき原因には希望がともなう3、といった格言が生まれた。この他にも、同じ意味の格言がいくつかある。不正な志しが運よく成功を収めたとしても、それに心を動かされてはならない。なぜなら、たとえ行動のための何らかの力が、人事によくあるように、しばしば、他の原因の抵抗によってその効果[の発生]を妨げられるとしても4、原因の公正さが行動のための力、それも大きな力となっているならば、それで十分だからである。また、友好関係amicitia を築くことが個人の場合に必要であるのと同じように、国民にとっても、多くの場合に、友好関係を築くことが必要である。そして、この友好関係を築くためにも、戦争が安易にあるいは不正に始められたのではなく、かつ公明正大に行われたという評判は大いに有効である。なぜならば、法や正義や信義を軽視するような人々とは、だれも安易に手を結ぼうとはしないからである。
【原注】 
1. アッピアーヌス* には、ポムペイウスの語ったすばらしい言葉が記されている。すなわち、ポムペイウスは、「われわれは神々を信頼し、またこの戦争の原因を信頼しなければならない。この戦争は、祖国の国制を守るために、誠実かつ正当な目的をもって始められた戦争である」と語ったのである5。同じ著者によれば、カッシウス* は、「戦争における最大の希望は、原因の正しさにある」といった6。ヨーセフス*「〔ユダヤ〕古代史」第15 巻には、「正義が味方する者は、神が味方をする者」とある7。プロコピウス* の作品には、この見解を示す箇所が多数ある。その一つは、べリサリウス* がアフリカ遠征の途上で行った演説中にある。そこには、とりわけ次のような言葉がある。「勇敢さは、正義を戦友としない限り、勝利をもたらさないであろう8。」また、カルタゴから遠くない場所での戦闘を前にした、別の演説の中にもある9。さらに、ランゴバルド人がヘルリ人に対して行った演説中にも見出される。そこには、次のような言葉がある(ただし、原文の誤りをわたしが訂正した)。「われわれは神を証人とする。神の力は、その最小の断片でさえ、すべての人間の力に匹敵する。したがって、われわれは、神が、戦争の原因を斟酌し、双方にしかるべき戦争の結果を与えるであろうと信じることができる。10」この言葉は、その後まもなく、すばらしい出来事によってたしかに証明さ れた。同じ著者によれば、トティラ* は〔配下の〕ゴート人たちにこう語った。「暴力と不正に訴える者が、戦闘において栄誉を獲得することなど起こりえない。そんなことは決してない。戦争の命運は、各人の生き方に応じて各人に帰せられるのだ11。」ローマが占領された直後に、トティラは、同じことがらに関するもう一つの演説を行っている12。また、アガーティアス* は、[「歴史」]第2 巻において、「不正と神をないがしろにすることは、つねに避けなければならないし、また有害である。とくに戦場において戦争の命運が決定されるとき、それは最も有害である」と述べている13。また、かれは、このことを、別の箇所で、ダリウス*、クセルクセス* そしてシチリアにおけるアテナイ人に関する有名な事例によって証明している14。気が進めば、ヘロディアーヌス* 第8 巻に記された、アクィレイア人に対するクリスピーヌス* の演説も見ていただきたい15。トゥキュディデース第7 巻には16、ラケダイモン人は、かれらがピュロスその他の戦場で損害を蒙ったのは、提案された(仲裁)裁判の受諾を拒んだ自分たちの過ちによるものだと受け取めていた。そこで、後にアテナイ人たちが、数多くの非道な行為を重ね、かつ(仲裁)裁判を拒否したとき、ラケダイモン人に、より大きな成功の望みが呼び戻された、と記されている17。 
27-1. バルベイラックによれば、この格言の出典は、プロペルティウス*「哀歌」第4 巻、第6 歌ver.51, 52「兵士の力は、原因によって弱められもし、強められもする。正当な原因に基づかない限り、恥辱が武器を振り落とす」である。27-2. バルベイラックは、この格言の出典として、エウリピデース「エレクテウス」断片353「不正な戦いに赴いて、無事に帰ってきた者は一人もいない」(安村典子訳、「エレクテウス」、「ギリシア悲劇全集12:エウリーピデース断片」所収、岩波書店、1993 年、156 頁)をあげている。
27-3. バルベイラックは、この格言の出典を、ルカーヌス「ファルサリア」第7 巻ver. 349「よりよい原因は、天の加護を期待させてくれる」であると注記している。ルカーヌスによれば、この言葉は、ファルサリアの戦い(前48 年)を目前にしたポムペイウスが、兵士を激励するために行った演説中にある。
27-4. バルベイラックは、その一例として、タキトゥス「歴史」第1 巻、第83 節の「実際どんなに清廉潔白な動機も思慮分別をともなわないと、しばしば危険な結末を招く」(国原吉之助訳「同時代史」、筑摩書房、1996 年、58 頁)、という文章をあげている。
27-5. アッピアーヌス「ローマ史」第14 巻[=「内乱記」第2 巻]、第8 章51。この文章は、東方に逃れたポムペイウスが、カエサルの追求を目前にして、ポムペイウスに追随した元老院議員と全軍の兵士を前にして行った演説(前48年)の一節である。
27-6. アッピアーヌス「ローマ史」第16 巻[=「内乱記」第4 巻]、第3 章97。この文章は、内乱でポムペイウス側についたブルートゥス* とカッシウスが、前42 年のフィリッピの戦いを目前にして、小アジアのメラス湾(現在のサロス湾)で軍勢の点検をした際に、カッシウスが全軍の兵士の前で行った演説の一節である。ちなみに、この演説の末尾で、カッシウスは、「兵士諸君、さあ、前進しよう。そして、揺るぎない勝利への確信と清廉な熱意をもって、ローマ国の自由のために戦おう」と兵士たちに檄を飛ばしている。
27-7. ヨーセフス「ユダヤ古代史」第15 巻、第5 章3。この言葉は、ユダヤが大地震に見舞われたのを絶好の機会として侵攻したアラブ人に対して、これを迎え撃ったユダヤ王ヘロデが、兵士たちを激励するために行った演説(前31 年)中にある。ヘロデ王は、「もっとも、ある者は言うかもしれない。神聖なるものと正義とはわれわれの側にあっても、数と勇気はかれらの側にあるのではないか、と。しかしながら、お前たちの口からそのようなことを言い出すことは許されない。なぜなら、正義の味方をする者は神の味方をする者、そして神を味方とする者こそ、数においても、勇気においても敵をしのぎうるのである」と語った(秦剛平訳「ユダヤ古代史・新約時代編2」、山本書店、1980 年、249、250 頁)。
27-8. プロコピウス「ヴァンダル戦争」第1 巻[=「ユースティニアーヌス帝の戦争」第3 巻]、第12 章。グローティウスが引用している言葉は、531 年に、ベリサリウスが艦隊を率いてマルモラ海のヘラクレイアに寄港したときに行った演説の締めくくりの言葉である。
27-9. プロコピウス「ヴァンダル戦争」第1 巻[=「ユースティニアーヌス帝の戦争」第3 巻]、第19 章。この言葉は、531 年に、カルタゴ近郊に宿営したベリサリウスが、兵士たちの前で行った演説中にある。この演説で、ベリサリウスは、部下の兵士たちに、ヴァンダル人は強敵ではあるが、「われわれの側には、勝利へと導いてくれる数多くの利点がある。というのは、われわれは正義を手にしており、かつヴァンダル人はかれらの暴君を憎んでいるからである。神は、当然、正義を前面に押し出す側に味方する。そして、支配者に好感を抱いていない兵士は、勇敢な兵士の役割を果たす術を知らない」と語って、兵士たちを鼓舞している。
27-10. プロコピウス「ゴート戦争」第2 巻[=「ユースティニアーヌス帝の戦争」第6 巻]、第14 章9。ヘルリ人(西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルの出身部族)は、皇帝アナスタシウスFlavius Anastasius(c. 430~518; 在位491~518 年)の即位後しばらくおとなしくしていたが、3 年後に、ランゴバルド人に対して攻撃をしかけた。ランゴバルド側は、再三使節を送って戦争を 回避しようとしたが、へルリ人は聞き入れなかった。このため、三回目に送られたランゴバルドの使節は、次のように警告した。「もしヘルリ人がランゴバルド人に理由もなく戦争をしかけるならば、ランゴバルド人も、望むところではないが、必要に迫られて、攻撃してくる者を迎え撃つであろう。ランゴバルド人は神を証人として立てる。神は、その気になれば、ちょっとした息づかいで秤を傾けることができ、人間たちのすべての力を結集してもその力にはけっして及ばない。また、神は、戦争の原因に心を留め、それにしたがって双方の戦闘の帰趨を決定するであろう。」しかし、ヘルリ人は、この警告を無視し、ランゴバルド人に対して開戦することを決めた。ところが、双方の軍勢が互いに接近したとき、突然、ランゴバルド軍の上にだけ雲がかかり、ヘルリ軍の上空には一点の雲もないという状況が出現した。このため、ヘルリ軍はランゴバルド軍の動きを見ることができず、その戦いは、ヘルリ人側の一方的な敗北に終わった。グローティウスが「その後まもなくすばらしい出来事によってたしかに証明された」と述べているのは、このヘルリ軍の完敗を指している。なお、グローティウスが、「原文を訂正した」と述べているのは、「けっして…ない」ouper という語に関してである。この語は、グローティウス以前には、ou uper あるいはw" uper などと記されていた。グローティウスによるこの校訂は、現在もなお維持されている。
27-11. プロコピウス「ゴート戦争」第3 巻[=「ユースティニアーヌス帝の戦争」第7 巻]、第8 章。この言葉は、ナポリ攻防の際(543 年)に、トティラが自軍の兵士たちに語った言葉である。
27-12. プロコピウス「ゴート人戦争」第3 巻[=「ユースティニアーヌス帝の戦争」第7 巻]、第21 章。このとき(549 年)、トティラは、ゴート人全員を集めて、略奪や乱暴狼藉をしないように命じ、次のように語った。「すでにお前たちが手にしている財産を守ることができるか否かは、お前たち次第である。もちろん、その際に、正義が尊重されなければならない。もし、正義から外れるならば、ただちに、神がお前たちに立ち向かうであろう。............. 人間である裁判官のつとめは、たんに不正を抑制するだけである。しかし、神は、すべてのものをその支配下に置き、すべてのものに対する権限をもっている。なぜ[奪うのではなく]与えることが必要なのか。その理由を説明しよう。それは、お前たちの間で、また服従者たちに関して、お前たちが公正の義務を守るためである。そして、これこそが、お前たちに確かな幸福を得させるのだ。」
27-13. アガーティアス「歴史」第2 巻、第1 章。イタリアで略奪を繰り返していたフランク人やアレマン人などを討伐するために、ナルセス* はイタリアで兵士を徴募した。グローティウスが引用している文は、その兵士たちに対してナルセスが与えた訓辞の内容を、アガーティアスが要約して紹介している文章の一節である。
27-14. アガーティアス「歴史」第2 巻、第10 章。この章で、アガーティアスは、マラトンの戦い(前490 年)でダリウスが敗れたのは、かれがアジアの覇権に満足せずにヨーロッパまでも支配しようとし、公正でも正当でもない原因に基づいて遠征軍を派遣したからであり、クセルクセスがギリシア遠征を企てたとき(前480 年)、テルモピュライの戦い(8 月)で圧倒的勝利を収めたのに、翌月のサラミスの海戦で敗北したのは、ギリシア人が公正に行動し、自らの自由のために戦ったのに対して、クセルクセスは、傲慢かつ不正に行動し、軍隊と装備の 優勢を頼りにして、正しい忠告に耳を貸さなかったからだ、と説明している。また、ペロポネソス戦争の帰趨を決定する重要な作戦となったシチリア遠征(415-413 BC)において、スパルタの将軍ギュリッポスが勝者となり、アテナイの将軍ニキアスとデモステネースが敗者となったのは、アテナイ人がシュラクサイの人々に対して略奪、狼藉などの不正なことを行ったからだ、と述べている。
27-15. ヘロディアーヌスは、「歴史」第8 巻、第3 章5、6 で、次のように伝えている。初の軍人皇帝マクシミヌスCaius Iulius Verus Maximinus; Maximinus Thrax(c. 173-238;在位235-238 年)は、蛮族討伐で大きな成果をあげたが、元老院議員を始めとするローマの有力者たちからは嫌われていた。その結果、238年になると、ゴルディアヌス父子がアフリカで反乱を起こし、元老院もまた皇帝から離反した。このとき、アクィレイア市が元老院側についたため、パンノニアの軍団がアクィレイア市を攻撃した。しかし、この攻撃は失敗し、マクシミヌスは自らアクィレイア市に出撃して、武器を捨てて降伏するように勧告した。当時のアクィレイア市防衛指揮官の一人が元老院議員クリスピーヌスである。クリスピーヌスは、アクィレイア市民に徹底抗戦を説き、次のように語った。「他人のために戦う者は、戦争の結果がどうであれ、戦争のもたらす利益は自分たちのものではなく、他人のものであることをよく知っている。そして、かれらが危険を冒しているのに、勝利という最大の報酬は、他人が刈り取るであろうということも知っている。したがって、かれらは熱心に戦おうとはしない。しかし、祖国のために戦う者は、いっそう大きな神の恵みを期待することができる。なぜならば、他人の財産を獲得するために助けを求めて神に祈るのではなく、すでにかれらのものである財産を、安全に保持することが許されるように求めるだけだからからである。かれらは、戦闘に熱意を示す。それは、その戦闘が、他人の命令から生まれたのではなく、かれらのやむにやまれぬ心情から生まれたものだからである。また、勝利の果実が、すべてかれらのもの、かれらだけのものとなるからである。」
27-16. トゥキュディデース「戦史」第7 巻、第18 節には、こう記されている。「今回はアテナイの方が先に休戦条約を破ったという認識であった。というのは、前の戦争[前431~422 年のアルキダモス戦争]では、条約を侵犯したのはむしろ自分たちの方だった。つまり休戦期間中にテバイ軍がプラタイアに進攻したという事実、さらに前の協定[前445 年に30 年間の休戦協定が締結された]には、相手が裁定を求める意向を示している場合、武力に訴えてはならないと明記されていたにもかかわらず、自分たちはアテナイからの裁定付託の要求に耳を貸さなかったという事実があった。だから、自分たちが戦争で勝利に恵まれなかったのは、その報いを受けたのだと考え、ピュロスでの惨敗[ピュロスはペロポネソス半島南西部の港町。前425 年に、ここでスパルタ軍が破れた]やその他の不運を思い起こしたのである。しかし今回アテナイは、軍船30 隻をアルゴスから出撃させ、エピダウロスやプラシアイの一部領土ほか各地を荒廃させただけでなく、ピュロスを拠点とする略奪もやめようとせず、しかも休戦条約をめぐる対立点について見解の相違が生じるたびに、ラケダイモン人から裁定付託の要求が出されたにもかかわらず、それを認めようとしなかった。そのためラケダイモン人は、前回は自分たちの方にあった条約侵犯の罪が、今回はアテナイ人の方に所を移したと確信し、躊躇なく開戦を目指したのである」(城江良知訳、「歴史2」、前掲、232/233 頁)。
27-17. 原注1 は、1642 年版から付加された。 
〔28〕 わたしは、すでに述べたいくつかの理由から、諸国民の間になんらかの共通の法が存在しており、その法は、戦争に訴えるときも、戦争においても行われるということを、きわめて確実なことだと考えていたのであるが、さらに、わたしがその法に関する著作を決意したのには、多くの重大な理由があった。わたしは、キリスト教世界のいたるところで、蛮族でさえ恥ずべきことだと考えるような、戦争に対する身勝手さを見てきた。人々は、取るに足りない理由から、あるいはなんらの理由もなしに武器へと殺到し、ひとたび武器を手にすると、神法に対する尊敬も人法に対する尊敬も消え失せる。それは、あたかも一片の布告によって、あらゆる邪悪な行為に向けた狂暴さが解き放たれたかのようである1。 
28-1. 本節は、グローティウスが「戦争と平和の法・三巻」執筆の動機を記した箇所としてよく知られている。ここで、グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」の執筆を決意した動機を二つあげている。一つは、キリスト教の名の下に野蛮な戦争を繰り返しているヨーロッパの現状を打開すること。もう一つは、そのために、すべての戦争当事者が認めざるをえないような、戦争に関する法のルールを確立することである。ちなみに、「蛮族のもとでさえ見いだせないようなひどい戦争が、しかもごく些細な理由から、キリスト教徒たちによって行われている」ことは、すでにエラスムスによって指摘されている。エラスムスは、「戦争は、それを経験したことのない者にとっては甘美である」の中で、次のように述べている。「しかるに今日では、そこかしこで、いとも気易く、いかなることをも口実に設けて[戦争が始められ]、残酷immaniter かつ野蛮な[仕方で]戦争が行われている。それも、異教徒のみならずキリスト教徒までもが、俗人のみならず司祭や司教までもが、戦争を知らぬ若者のみならず幾多の難儀を経た老人までもが、また、その生まれからして付和雷同の性を余儀なくされる卑賤な民衆のみならず、その民衆の愚かで思慮のたらぬ軽挙妄動を知恵と理性とをもって沈静するのが努めであるべき王公までもが、好んでこの戦争を行っているのである」(月村辰雄訳「戦争は体験しない者にこそ快し」、二宮敬「人類の知的遺産23」エラスムス所収、1984 年、講談社、292 頁。ただし、引用に際して訳文を一部変更した)。なお、本節後半の文章については、プロレゴーメナ第3 節本文、原注および訳注、とくに訳注3-5 に掲げたエンニウス「年代記」の断片を参照されたい。 
〔29〕 このような非人間的行為を目にして、どの点から見ても悪人とはいえない多くの人々が、キリスト教徒の守るべき教えdisciplina は、とりわけ、すべての人間を愛すべしという点にあるのだから、キリスト教徒に対して、あらゆる武器[の使用]を禁止すべきである原1、と主張するまでになった1。ヨアンネス・フェルス* やわが同胞エラスムス* といった、教会および国家の平和をこよなく愛する人々も、ときおり、かれらの意見に傾いているのが見受けられる2。しかし、わたしが思うに、かれらの目的は、ある方向に行き過ぎたものを反対方向に曲げ戻すことによって、それを正しい範囲内に戻そうとする点にある3。ところが、過度に反対方向に向けようとするこの努力それ自体が、しばしば、あまり役に立たないばかりか、障害にさえなっている。なぜなら、そこには行き過ぎた点が容易に見出され、それが、真理の範囲内にある他の立言の権威までも失わせているからである。それゆえ、なにごとも許されないとか、あるいはすべてのことが許されるなどと信じられないようにするために、この両方[の主張]に対する治療法が提示されなければならなかった。
【原注】 
1. テルトゥリアーヌス「肉体の復活について」には4、「剣は、戦争で血塗られてこそ立派なのであり、[そのように使用されて]さらに立派な殺人[の道具]となる」とある5。 
29-1. グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第2 章5 節以下で、聖書の記述によれば一切の戦争、流血が禁止されているように読み取られる場合でも、それは自然法によって認められる正戦を否定するものではないことを論じ、とくに第8 節で、キリスト教徒に対して戦争あるいは武器の使用を禁止したものと一般的に解釈されている、旧訳および新約聖書の記述を逐一検討して、一定の戦争は聖書の記事と矛盾しないことを示そうとしている。グローティウスが第8 節で取り上げているのは、イザヤ書、II: 4、マタイによる福音書、V: 38、39、マタイによる福音書、V: 43、44、使徒パウロのローマの信徒への手紙、XII:17、同じくコリントの信徒への第二の手紙、X: 3、同じくエフェソの信徒への手紙、VI: 11、12、ヨハネによる福音書、IV: 1, 2、3 である。さらに第9 節では、この問題に関する初期の教父たちの見解を検討し、その最初の部分で、戦争それ自体とキリスト教徒が武器を執ることに反対する者として、オリゲネス* とテルトゥリアーヌスをあげている。ただし、グローティウスは、戦争の正しさを死刑の正統性と関連づけて論証しようとしているために、その論証の道筋が必ずしも明瞭ではない。
29-2. ヨアンネス・フェルス(ヨーハン・ヴィルト)の名は、「戦争と平和の法・三巻」では、ここにだけ記されている。グローティウスはフェルスの作品を指示していないから、グローティウスが何を念頭に置いてヴィルトの名を記したのか、その事情はよくわからない。バルベイラックによれば、ツィーグラー* の「グローティウス・戦争と平和の法・三巻註解」の中に、シエナのシクストゥス* の「聖なる図書館」に収録されたフェルスの文章があげられているとのことである。しかし、訳者はこの文献を確認できなかった。他方、エラスムスは、「格言集」に収められた小論「戦争は、それを経験したことのない者にとっては甘美である」や、「平和の訴え」あるいは「痴愚神礼讃」などにおいて、戦争それ自体を、人間の行為の中で最低、最悪の行為であると繰り返し非難している。「平和の訴え」には、「『哲学者の教説は数えられぬほどあり、モーセの律法はさまざまであり、王の布告はおびただしい種類にのぼる、しかし』と主は申されます、『わたしの教えはただ一つ、互いに愛し合えということのみである』。同じく主は、お弟子たちのために祈りの形式を規定なさいましたが、これによってまず一番に、キリスト教徒の和合ということをもののみごとに訓えられたのではないでしょうかしら?……それなのに、彼らが絶え間なく戦争をしてお互いに激闘し得るなどという意見に、誰が賛成できるでしょうか?血を分けた兄弟の腹に剣を突き刺したりして、私たちすべてに共通の父の御名を、あなたはどんなにして呼ぶつもりですか?……キリスト教徒がキリスト教徒と鉾を交えるなどとは、まったく世にも珍しい快事と申せましょう」(箕輪三郎訳「平和の訴え」23、岩波文庫、1961 年、40、41 頁)と記されている。また、「戦争は、それを経験したことのない者にとっては甘美である」では、ヒューマニズムおよび福音に忠実なキリスト教徒という視点から、戦争の愚劣さと非道徳性、非合理性が指摘され、徹底した非戦論が展開されている。ただし、エラスムスは、これらの作品の中で、キリスト教徒同士が武器を手にして互いに争い合うことは福音の教えに反すると説いてはいるが、しかし、だからといって、かれが、「キリスト教徒に対してあらゆる武器[の使用]を禁止すべきである」といっているわけではない。したがって、本稿では、本文のad quos accedere を「かれらの意見に賛同する」としないで、「かれらの意見に傾いている」と翻訳した。
29-3. グロノヴィウスは、この文章について、「これらの人々は、あらゆる戦争を否とするのではなく、戦争が、理由もなく、かつあまりに安易に行われてはならないと主張しているのだ」と注記し、セネカ「恩恵について」第7 巻、第22 章中の、「われわれは、ある種の事柄を過度に誇張して説くが、それは、そうした事柄を本然の姿に立ち戻らせるためである」(小川正廣訳、前掲、471 頁)という言葉をあげている。バルベイラックは、さらに、このような処理方法は「多くのモラリストによって頻繁に用いられている」と指摘している。
29-4. テルトゥリアーヌスは、「肉体の復活について」第16 章で、肉体を霊魂の容器もしくは道具だとする異端的見解を論駁している。その中で、かれは、容器や道具はその所有者の意図や資質に依存しないそれ自体の価値をもつが、肉体はそのような固有の価値をもたず、つねに、霊魂と共にあり、霊魂と共に人間の行動に参加するのだから、これを容器や道具と考えることはできないと説いている。そして、その際に、剣を道具の一例としてあげ、剣の固有の価値は人をよく殺傷する点にある、と指摘している。グローティウスが引用しているのは、このような文脈で語られている文章の一節である。したがって、この一節を、「[キリスト教徒に]あらゆる武器の使用を禁止せよ」という主張の典拠としてあげるのには、いささか無理があるといわなければならない。なお、グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第2 章、第9 節で、戦争に関するテルトゥリアーヌスの見解について詳細に検討しており、そこでは、「[キリスト教徒に]あらゆる武器の使用を禁止せよ」という主張に近い考え方(グローティウスは、テルトゥリアーヌスがそう考えているとは断言していない)の典拠として、「偶像崇拝について」第19 章の文章をあげている。
29-5. 原注1 は、1642 年版から付加された。  
〔30〕 それと同時に、わたしは、かつてわたしが公務において1 できるかぎり誠実に実践した法律学を、いま、私人として注意深く探求することによって助成したいと考えた。というのは、数多くのわたしの仕事によって飾られている祖国から不当に追放されたわたしにとって、いまなお残されているのは、この仕事だけだからである2。これまでに、多くの人々が、法律学に学問としての形態artis forma を与えようと試みた。しかし、誰もそれを達成することができなかった。たしかに、それは、従来十分に配慮されていなかったこと、すなわち定立されたことに由来するものと、自然に由来するものとを正しく分離しない限り、達成することができないのである。なぜなら、自然的なものは常に同一であり、容易に一つの[体系的な]学問ars にまとめることができるのに対して、定立されたことに由来するものは、しばしば変化させられ、また場所によって異なっているために、その他の個別のことがらに関する観念と同じく、[体系的な]学問の外に置かれているからである3。 
30-1. グローティウスは、1601 年、18 歳でネーデルラント歴史編纂官となり、1607 年にホーラント、ジーラント、フリースラント州の財務訴訟官に任命され、1613 年には、ロッテルダム市法律顧問(市代表)となって、遣英使節も経験した。しかし、1618 年に終身禁錮刑を言い渡されてローフェスタイン城に幽閉され、その後亡命したために、それ以後のオランダにおける公職歴はない。
30-2. グローティウスは、この文章を1625 年に、亡命先のパリで書いている。
30-3. 法を学問的な形態ars に整理して説明しようとする試み自体は、古代ローマ以来存在する。しかし、学問的形態ars とは何かという点については、時代によって考え方が異なる。グローティウスが学問的形態artis forma という場合には、人文主義のもとで生まれた学問像を前提としている。法に関する人文主義の学問像は、主としてキケローの作品に基づいている。キケローには、現在では失われてしまった「国家[市民]法を一つの学術に組み直すことについて」De iure civile in artem redigendo. という著作があり、これが人文主義法学に大きな影響を与えたことはよく知られている。なお、キケローは、「法律について」の中で、次のように語っている。「(マルクス)人間には何が自然によって与えられているか、人間の精神の中には最善のものがいかに豊富にあるか、わたしたちはどんな任務を目標として遂行するために生まれ、この世の光を仰いだのか、人間同士の結びつきとは何か、人間のあいだの自然な結びつきとは何か、これらの点は、ほかのいかなる種類の議論によっても明らかにすることはできない。じじつ、これらの事柄が解明されてはじめて、法律と法の根源を見出すことができるのだ。……中略……(マルクス)しかし、この議論ではわたしたちは、法一般と法律のすべての問題をひっくるめて扱わなければならないため、市民法とわたしたちが呼んでいるものは、いわば小さな狭い場所に押し込められることになる。じじつ、わたしたちは法の自然本性を解明しなければならないし、それを人間の自然本性に求めなければならない。また国々がそれに従って治められるべきである法律を考察しなければならないし、ついで、諸国民の、集成され記述された法と布告を取り扱わなければならないが、その中にわが国民の、いわゆる市民法もその場所をきっと見出すだろう。(クィントゥス)では、兄上、わたしたちが探求していることをあなたは深く掘り下げ、そして……当然そうすべきですが……根源に求めるということですね。別のやり方で市民法を教えている人たちは、正義の道よりも、訴訟の道を教えているということになります」(岡道男訳「法律について」第1巻5 et 6、前掲、191-193 頁)。 

 

〔31〕 もし真の正義の祭司たちが1、法律学の自然的かつ恒久的な部分について論じようとするならば、まず、自由意思から生じた部分を分離し、そのうえで、ある者は法律について、ある者は公租について、ある者は裁判官の職務について、ある者は意思の解釈について、またある者は事実の証明について論ずるようにすれば、その後で、それらのすべての部分を寄せ集めることによって、一つの全体corpus を作り上げることができるであろう2。 
31-1. 「正義の祭司」iustitiae sacerdotes は、法律家ないし法学者を指す。この言葉は、おそらく、ユ帝「学説集」冒頭のウルピアーヌス文「法の仕事に従事しようとする者は、まず第一に、法という名称の由来を知らなければならない。法の名称は正義に由来する。なぜならば、ケルスス* が優雅に定義しているように、法は善と衡平の術ars だからである。1. われわれが法の祭司sacerdotes と呼ばれるのは、その術の故である。なぜならば、われわれは、衡平[公正]と不正を区別し、適法と不適法とを識別し、たんに刑罰の恐怖によってのみならず、報賞をもって勧告することによっても善を実現しようと欲し、もしわたしの考えが間違っていなければ、見せかけの哲学ではなく、正しい哲学を追求することによって、正義に奉仕し、善と衡平の観念を明らかにするからである」(D. I. 1. 1. pr. et 1.)に由来する。
31-2. 本節でグローティウスが示している方法は、キケロー「法律について」の叙述方法と類似している。おそらく、グローティウスはこれを念頭においているのであろう。 
〔32〕 われわれが、実際に、どのような道を進むべきだと判断したか。この点を、われわれは、法律学のきわめて高尚な部分を含む本書において、言葉によってではなく、むしろことがらそれ自体によって明らかにした。 
〔33〕 すなわち、われわれは、第一巻で、まず[序論として]法の起源について述べた後、はたして正戦というものが存在す るのか、という一般的な問題を検討した。次いで、公戦と私戦の違いを知るために、最高支配権summum imperium1そのものについて説明しなければならないと考えた。つまり、いかなる国民が、またいかなる国王が完全な最高支配権を有するのか、誰が部分的にそれを有するのか、譲渡の権利とともに最高支配権を有するのは誰か、誰がそれ以外の方法で最高支配権を有するのか、ということである。さらに、これに続いて、他人の権力に従属する者が上位者に対して負う義務についても、述べなければならなかった2。 
33-1. グロノヴィウスは、これを主権ius majestatis と説明している。しかし、グローティウスのいう最高支配権summum imperium には、絶対性・不可分性という属性は認められない。したがって、この最高支配権は、ボダンらによって提示された近代的主権概念とは異なるものだと考えられる。「戦争と平和の法・三巻」を通じて見ると(とくに第1 巻、第3 章)、この言葉は、最高権力summa potestas あるいはたんに支配権imperium と互換的に用いられている。たとえば、グローティウスは、第1巻、第3章で「最高支配権について」説明しているが、この章には「最高支配権」の定義は存在せず、第7節で、最高支配権に相当するものとしての「最高権力」について、「その実行が他者の法によって制約されず、他の人間の自由意思によっては無効とされえない権力をいう」という定義が与えられている。
33-2. 第1巻の構成については、第一部「戦争と平和の法・三巻」全体の目次、第1巻の部分を参照されたい。 
〔34〕 第二巻では、戦争を発生させうるすべての原因を明らかにしようと試みた。そこでは、なにが〔すべての人々に〕共通の物であり、なにが[個人に]特有の物か、人の人に対する権利とはなにか、所有権からどのような義務が生まれるか1、王位継承の規範とはなにか、合意もしくは契約からどのような権利が生まれるか、盟約の効力および解釈とはなにか、私的宣誓あるいは公的宣誓の効力および解釈とはなにか、与えられた損害からどのような義務が生ずるか、使節の不可侵性とはなにか、死者の埋葬権とはいかなるものか、刑罰の本質はなにか、といった問題が幅広く追求されている2。 
34-1. この義務は、所有者が負う義務ではなく、他人が所有者に対して負う義務のことである。たとえば、善意または悪意の他人の物の占有者はその物および果実を返還しなければならないとか、他人の物によって得た利益は返還しなければならない、という義務である。グロノヴィウスは、そのような義務の例として、ユ帝「法学提要」の法文「もしある人が、所有者でない者を所有者と信じて善意で土地を購入したか、または贈与あるいはその他の正当な原因に基づいて善意で土地を取得したときは、自然の理によって定められたところによれば、[その土地から]収取した果実は、耕作および払われた注意に応じて、その者の所有に属する。したがって、もしその後所有者が出現して、その土地について返還請求の訴えが提起されたときは、かれによってすでに消費された果実について訴訟を提起することはできない。しかしながら、事情を知って他人の土地を占有した者には、同じことは許容されない。したがって、かれがその果実をすでに消費していたとしても、土地のみならずその果実の返還も強制される」(Inst. II. 1. 35.)をあげている。
34-2. 第2巻の構成および本節本文でグローティウスが記している述語の原語と翻訳については、第一部「戦争と平和の法・三巻」全体の目次、第2巻の部分を参照されたい。 
〔35〕 第三巻では、最初に、戦争において許されることはなにかという主題が取り上げられている。そこでは、行なっても罰せられないことや1、外国人の間でさえ法に適うものとして弁護されることと、そもそも罪悪ではないこと2 とが区別され、そこからさらに、和平の種類、そして戦争中に結ばれるすべての合意へと議論が進められている3。 
35-1. この不可罰性を、グロノヴィウスは、「死すべき人間である現世の裁判官によっては追求されないこと」と説明している。つまり、国法によっては罰せられないということである。たとえば、嘘をいうことは一般的には罪であるが、場合によっては適法とされる。その事例は、第3巻、第1 章、第6 節以下で詳細に説明されている。
35-2. グロノヴィウスは、これを「健全な良心に徒って行われ、神のもとで弁護されること」と説明している。つまり、いかなる意味でも罪にはならないということである。グローティウスは、消極的な悪意ないし偽計dolus、たとえば、相手が誤解しているときに本当のことをいわず、結果として相手を欺く場合には、それは悪徳malus ではないという見解を紹介している(第3巻、第1 章、第7 節)。35-3. 第3巻の構成については、第一部「戦争と平和の法・三巻」全体の目次、第3巻の部分を参照されたい。 

 

〔36〕 ところで、すでに述べたように1、これまで、この主題の全体を論述した者は誰一人としてなく、部分的に論述した者も、多くのことを他の人々の努力に残すような仕方でしか論じていない。それだけに、本書の価値はいっそう大きいと思われる。古代の哲学者には、この種の作品は存在しない。ギリシア人の作品も(アリストテレースが「戦争の権利」という題名の書物を著したが2)存在しないし3、初期のキリスト教にその名を献げた人々4 の作品も(それがあれば、大いに望ましいことだったのだが)存在しない。また、古代ローマ人の祭官団の法ius fetiale に関する書物5 も、われわれに、その法の名称以外にはなにも伝えていない。「良心の事案集」casus conscientiae と呼ばれる〔聴罪司祭のための〕事案集6 の編纂者たちは、他のことがらについて[それぞれの章を設けているの]と同じように、戦争や、約束[約定]や、誓約や、復仇について、[それぞれ]章を設けているにすぎない。 
36-1. プロレゴーメナ第1 節。
36-2. バルベイラックによれば、グローティウスは「戦争の権利」dikaiwmata polemon という作品名を、文法家アンモニウス* の「相互に関連するさまざまな言葉の意味の違いについて」から採用している。しかし、これはアンモニウスの誤記で、正しくは、「国の裁判所の判決」dikaiwmata polewn という作品である。そして、この作品は、ディオゲネース・ラエルティオスの伝える「アリストテレース著作目録」129 の「裁判所の判決」Dikaiwmata と同じものだと考えられている。一方、ラエルティオスの「アリストテレース著作目録」には、「戦争の権利」あるいは「戦争の法」という作品は存在しない。ちなみに、加来彰俊訳「ギリシア哲学者列伝・中」(岩波文庫、1989 年)では、「裁判所の判決」Dikaiwmata は「判例集」と翻訳されている(同訳書、37 頁)。
36-3. 1625 年版では、「ギリシア人のものも」の後に、「ローマ人のものも」neque Latinorum という語句があったが、この語句は、1631 年版以降削除された。その理由は定かでないが、あるいは、本節の後半で、ローマの祭官団法について言及されていることとの整合性を考えてのことであろうか。
36-4. グロノヴィウスは、「すなわち教父たちのこと」と注記している。しかし、この解釈では少し範囲が広すぎるように思われる。グローティウスは、おそらく、比較的初期のギリシア教父やラテン教父を念頭に置いているのであろう。
36-5. 祭官団の法については、キケロー「義務について」第1 巻、第11 章に、「実際、戦争の公正はローマ国民の軍事祭官法ius fetiale にもっとも神聖犯すべからざるものとして規定されている。そこから理解できるように、公式の原状回復要求、あるいは、事前の通告ないし宣言を経ないいかなる戦争も正当ではない」(高橋宏幸訳、前掲、148 頁)とあるほか、リーウィウス「建国以来のローマ史」第1 巻第24 章および第32 章、第30 巻第45 章、第32 巻第8 章に比較的詳しい記述がある。グロノヴィウスは、これをまとめて、「祭官[フェティアーレス]は、信義の女神の祭司であり、主として公的な信義を監督していた。したがって、法律に照らして、ある戦争を行うことができるか否かについての諮問が、かれらに対してなされた。かれらは、また、ローマ国民の使節となり、賠償を要求し、戦争を宣言し、同盟条約を締結した」と説明している。
36-6. 「良心の事案集」summa casuum conscientiae は、カノン法上の著作の一形式である。1215 年に開催された第四ラテラノ公会議において、「少なくとも年に一度、復活祭のとき、聴罪司祭に罪を告白し、許しの秘跡を受けなければならない」(決議第21 条)と定められたのを契機として誕生した。この決議により、神の前で罪とされること、すなわち良心に関する事案casus conscientiae について、聴罪司祭がどのように判断すべきかという問題が表面化し、この問題を解決するための手引きとして、「良心の事案集」が編纂されるようになった。初めは、「贖罪規定集」poenitentiales あるいは「告白者の手引き」summa confessorum などとも呼ばれていたが、やがて、「良心の事案集」という名称が定着した。「良心の事案集」は、とくにドイツその他の地域で、15 世紀にいたるまで、刑法典に代わる役割を果たしたといわれる。ただし、「良心の事案集」が編纂されるのは16 世紀前半までで、17 世紀には、もはや新たな事案集は編纂されていない。15 世紀末から16 世紀前半にかけて繰り返し重版された作品に、「アンゲルスのスンマ」Summa Angelica(初版1476 年)や「バプティスティヌスのスンマ」Summa Baptistiniana(初版1494 年)などがあり、16 世紀に出版され17 世紀初頭にも重版された作品に、「シルヴェステルのスンマ」Summa Sylvestrina(初版1518 年)がある。とくに、「シルヴェステルのスンマ」はヴィトーリアによって利用され(ちなみに、ヴィトーリア「最近発見されたインディオについての第一の特別講義」、「インディオについての、または野蛮人に対するイスパニア人の戦争の法についての第二の特別講義」の二作品については、工藤佳枝氏によるすぐれた翻訳がある。「中世思想原典集成20」、「近世のスコラ学」所収、平凡社、2000 年、161~335 頁)、グローティウスも、「戦争と平和の法・三巻」の中で、戦争、使用貸借、殺人、誓約、脅威、教皇、復仇、回復、埋葬などの言葉に関連して、「シルヴェステルのスンマ」に言及している。 
〔37〕 わたしは戦争の法に関する専門的な書物もみた。その一部は、フランチェスコ・ヴィトーリア* や、へンリクス・ゴリケモ*、ウィルヘルム・マテイ* のような神学者によって書かれたものであり原1、一部は、ヨハンネス・ループス* や、フランチェスコ・アリアス*、ヨハンネス・デ・リニャーノ*、マルティーヌス・ラウデンシス* のような法学者によって著されたものである。しかし、これらの著者たちは、おしなべて、このきわめて内容豊かな題材について、最少限のことしか述べていない。しかも、かれらの大半が、自然法に属するものと、神法に属するもの、諸国民の法に属するもの、国法に属するもの、さらにカノン法に由来するものとを、無秩序に混ぜ合わせ、混乱させてしまっている。
【原注】 
1.  これらの人々に、[その著作が]1609 年にローマで刊行されたヨハンネス・デ・カルタヘナ* を加えられたい1。 
37-1. 原注1 は1642 年版から付加された。 
〔38〕 これらの著者たちすべてにもっとも欠けているのは、歴史の照明である。最高の知識人ファーベル* は、「セメストリウム」のいくつかの章で1、この欠陥を補おうとした。しかし、それは、かれの目的の範囲内でのことであり、[そこでは]たんにいくつかの典拠があげられているにすぎない。同じことをもっと広範に行い、一群の範例からいくつかの定義を導きだそうとしたのが、バルタザール・アヤラ* であり、そして、それをいっそう進めたのが、アルべリクス・ゲンティーリス* である。わたしは、ゲンティーリスの入念な仕事が他の人々の助けになりうることを知っている。また、実際、それが、わたしの役に立ったことを認める2。しかし、かれの説明の仕方や、その順序、問題の区分の仕方、および種々の法の区別については、なお望みうることがないわけではない。それがなにかという点は、読者の判断に委ねたい。一つだけ指摘しておくと、かれは、意見が対立している問題の解決にあたって、しばしば、いつでも是認されるとは限らない少数の範例に従ったり、あるいは、解答responsa3 中に示された、最近の法学者の見解にさえも従っている。しかし、これらの解答の少なからざるものは、依頼人の利益のために作成されたものであって、衡平と善の性質に従って作成されたものではない。また、戦争は、その原因によって、正しい戦争とか不正な戦争といわれるが、アヤラは戦争の原因には取り組んでいない。一方、ゲンティーリスは、かれが最上位の類概念summa genus と考えたものについて、その概略を示したが、比較的よく知られ、またしばしば繰り返されている多くの論争点には、まったく触れていない4。 
38-1. ペトルス・ファーベル(ピエール・デュ・フォール)は、「セメストリウム」第2 巻の最初の数章で、自然法と万民法、君主に求められる憐れみの心、戦争の法(第3 章および第4 章)、戦争捕虜として奴隷にされる場合と奴隷身分からの解放、軍の刑罰などの問題を取り上げ、それを、ギリシア・ローマの歴史からさまざまな事例を引いて説明している。グローティウスが念頭においているのは、おそらく、これらの数章、とくに「戦争の法について」De iure belli と名付けられた第3 章および第4 章の記述であろう。
38-2. グローティウス「戦争と平和の法・三巻」とゲンティーリス「戦争の法註解・三巻」とを対比してみると、その構成および機能的・実証的論証方法などの点で、グローティゥスが少なからずゲンティーリスに依拠していることが読み取られる。なお、ゲンティーリスの所説とグローティウスの叙述との関係については、訳注38-4 に掲げた伊藤不二男氏の論考も参照されたい。
38-3. 解答responsa とは、現実に発生した訴訟事件について、訴訟当事者からの依頼に応えて法学者が作成した、書面による助言をいう。
38-4. 最上位の類概念summa genera という言葉が、具体的にどのような概念を指すのかはよくわからない。 おそらく、伊藤不二男「ゲンティリスにおける戦争の質量因」(「法政研究」第25 巻、第2/4 号、1958 年、429-448 頁)で検討されている、戦争の正当原因に関するゲンティーリスの分類概念(戦争の正当原因には、動力因、形相因、目的因、質量因があり、質量因は、神的なもの、自然的なもの、人的なものに分類される)や、かれの戦争概念などがそれに相当するものと思われる。なお、ゲンティーリスの自然法、諸国民の法、戦争などの概念、およびグローティウスが指摘している欠点については、この論考の他に、同じく伊藤不二男氏の「アルベリクス・ゲンティリスの国際法の観念」({法政研究}第22 巻、第2/4 号、1955 年、243-260 頁)および「「アルベリクス・ゲンティリスの戦争概念」(「法政研究」第24 巻、第1 号、1957 年、21-40 頁)によって、その概要を知ることができる。 
〔39〕 われわれは、なにかそのような、まだいわれていないことを見失わないように注意し、判断の根拠をも示すことによって、もしわれわれの見逃したことがあったとしても、それを容易に特定できるようにした。残っているのは、わたしが誰の助けを借りて、またどのような点に留意してこの仕事に着手したかということである。これを、手短に説明しよう。
第一にわたしが留意したのは、自然法に属することを、力を加えない限り誰も否定できないような、いくつかの確実な観念に関連づけて証明することである。というのは、自然法の諸原理は、〈もしあなたが正しい仕方でそれに注意を向けるならば、〉1 われわれが外的感覚によって認識することがらと同じ程度に2、すなわち、外的感覚は、感覚器官が正しく形成され、その他の必要なものが備わっているならば、われわれを欺かないが、それと同じ程度に、おのずから明瞭かつ明白だからである。それゆえに、エウリピデースは、「フェニキアの女たち」の中で、ポリュニケースをして次のようにいわせ、明らかにポリュニケースの側に正当な理由があった[彼女の言い分が正しかった]、といおうとしているのである。
「母上、わたしがお話したことは、決してまわりくどく分かりにくいものではありません。それは、衡平および善の準則に支えられ、無学な者にも博学な者にもひとしく明白なことなのです3。」原1
そして、エウリピデースは、そのすぐ後に、この発言を是認する合唱隊(この合唱隊は、女性たち、それも蛮族の女性たちからなる合唱隊である)の判断を付け加えている4。
【原注】 
1.  同じくエウリピデースは、ヘルミオネーが「この都では、だれも蛮族の風習にしたがって生活してはいないのです」と述べたのに対して、アンドロマケーに、「かれら[蛮族]にとって恥ずべきことは、ここでも決して非難を免れません5」と答えさせている6。 
39-1. 〈〉印括弧内の「もしあなたが正しい仕方でそれに注意を向けるならば、」という句は、1631 年版で付加された。
39-2. この文は、1625 年版では「外的感覚によって認識することがらよりもはるかに」multo magis quam quae sensibus と記されていたが、1631 年版以降、「外的感覚によって認識することがらと同じ程度に」ferme ad modum eorum quae sensibus と改められた。
39-3. エウリピデース「フェニキアの女たち」ver.494-496. この言葉は、オイディープスの呪いをかけられた二人の息子エテオクレースとポリュニケースとの間で起こった紛争について、両者が母親イオカステーに仲裁を依頼したとき、ポリュニケースが語った言葉である。岩波版「ギリシア悲劇全集」では次のように翻訳されている。「以上申し上げたことは、母上、それぞれみなあるがままの事実です。そこには、どんな表現の上での綾も織り込まれてはいません。でも、知恵のある者でなくとも、正しいことだと理解できたはずだ。そう私は思います」(安西真訳「ポイニッサイ」、前掲、145 頁)。なお、原詩には「衡平および善の準則に支えられ」という句は存在しない。これは、おそらく、グローティウスの翻案であろう。ちなみに、この引用文にはギリシア語原文が添えられていない。
39-4. 原詩ではコロス(合唱隊)の長が、「私になら分かりましたよ。私の生まれ育ったのがヘラスの地でないことは確かです。それでも、あなたの主張が正しいものであることぐらいは分かります」(ver.497-498.)と口を挟んでいる(安西真訳、前掲、145 頁)。ちなみに、大竹敏雄訳「フェニキアの女たち」では、コロス(合唱隊)が「このわたしにも、ギリシアの土地に生まれ育った者ではありませんが、それでも、あなたのおっしゃることは尤もだと思われます」と歌ったとされている(「ギリシア悲劇全集IV」所収、人文書院、1960 年、278 頁)。なお、この合唱隊はフェニキア人の女性たち、すなわち蛮族の女性たちによって構成されている。このことは、合唱隊が最初に登場するver.202-205 で、「テュロスの海を後にして、私はここへやってきた。ロクシアース様への捧げもの、ポイポス様のお社に仕える婢となるべき乙女として、ポイニーケー人の住まう島から送り出されて、やってきた」(安西真訳、前掲、123 頁)と歌われているところから明らかである。
39-5. エウリピデース「アンドロマケー」ver.243. この一文は、マケドニア国王の娘でテッサリアのプティーアーの王ネオプトレモスの妃となったヘルミオネーと、もとヘクトールの妻で、夫がアキレウスに殺害された後、ヘルミオネーの奴隷となったアンドロマケーとの間で、結婚生活に関して交わされた言葉の中にある。ヘルミオネーが「確かにおまえの言葉は慎み深いが、行いには慎みのかけらもない」というと、アンドロマケーは「またまた愛の痛みを心にしまっておれないのですか」と応じ、ヘルミオネーが「何と、女にとり愛ほど大切なものはないではないか」というと、アンドロマケーは「はい、ただしきれいな愛でなければだめですが」と答え、その後に、ヘルミオネーが「異国の仕来りなど、われらの国には無縁のもの」といい放つと、アンドロマケーが「異国であろうとなかろうと、見苦しいものは見苦しい」と切り返している(西村太良訳「アンドロマケー」、「ギリシア悲劇全集6」所収、岩波書店、1991 年、18、19 頁)。
39-6. 原注1 は、1642 年版から付加された。 
〔40〕 わたしは、この[自然]法を証明するためにも、哲学者原1、歴史家、詩人、さらには弁論家の証言を利用した。それは、かれらの証言が無差別に信頼できるからというわけではない。というのは、かれらの証言は、通例、学派や主題1や訴訟事件に奉仕するものだからである。しかし、時間や場所を異にする多数の人々が、同じことを、それは確実なことだと断言している場合には、その同じことは、普遍的原因に帰着させられなければならない。普遍的原因とは、われわれの問題に関していえば2、自然の諸原理から生ずる正しい結論であるか、あるいは、〔万人に〕共通のなんらかの合意であり、それ以外のものではありえない3。前者は自然法を指し、後者は諸国民の法を指す。両者の区別は、けっして証言そのものからでなく(というのは、著述家たちは、いたるところで、自然法という言葉と諸国民の法という言葉とを混同しているからである4)、ことがらの性質から認識されなければならない。たとえば、あることについて、それを確実な[自然の]諸原理から、確実な論証によって導き出すことはできないが、しかし、あらゆる場所でそれが遵守されていることが明らかな場合には、そのことの起源は、〔人間の〕自由な意思にあるという結論になるのである5。
【原注】 
1.  哲学者の証言を利用しない理由はなかろう。なぜなら、アレクサンデル・セウェルス* は、キケローの「国家について」や「義務について」をたえず読んでいた6 のだから7。 
40-1. バルベイラックは、「主題」argumentum という言葉に関連して、歴史家や詩人は、かれらが語ろうとする人物の性格を保つために、しばしば、その人物に自然法に反する格言をいわせていると注記し、その例として、「プロレゴーメナ」第3 節で引用されたトゥキュディデースおよびタキトゥスの文章をあげている。エンニウスおよびホラーティウスの文章についても、同じことがいえよう。
40-2. 「普遍的原因」causa universalis について、グローティウスは、「キリスト教の真理」第1 巻で、アリストテレース= トマス・アクィナスの方法にならって、神を「第一原因・普遍的原因」causa prima atque universalis と定義している(第23 節)。本節で「われわれの問題に関していえば」という断り書きが付されているのは、おそらく、それと区別するためであろう。
40-3. グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 章、第12 節で、この二つの証明方法を、「先験的」apriori、「経験的」a posteriori と呼んで区別している。
40-4. 諸国民の法(万民法)を自然法と同一視する見解は、すでにガイウス*に見られる。「自然の理がすべての人々の間に定める法は、すべての国民によってひとしく遵守され、すべての民族の用いる法として、万民法と呼ばれる」(「法学提要」第1 巻、第1 章、1)。また、アルベリクス・ゲンティーリスの国際法すなわち諸国民の法が、自然法であると同時に意思法でもあることについて、伊藤不二男「アルベリクス・ゲンティリスの国際法の観念」、前掲、245 ないし252頁を参照されたい。
40-5. グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 章、第14 節で、人法とは「人間の自由意思」に基づく法であるとし、人法を、一つの国家ないし国民の法と諸国民の法とに区分している。したがって、諸国民の法は「[人間の]自由な意思に起源をもつ法」として、自然法から区別されることになる。
40-6. アエリウス・スパルティアヌス他「皇帝伝」所収の、アエリウス・ラムプリディウス「アレクサンデル・セヴェルスの生涯」30 に、次のような記述がある。「軍事であれ政事であれ公務の後は、アレクサンデルはギリシア語の書物を読むことに公務以上に専念し、プラトンの『国家』をよく読んだ。ラテン語のものを読む際には、キケロの『義務について』と『国家』をもっとも好んだ。時には弁論家や詩人、中でもとくに、自分が知っていて尊敬もしていたセレヌス・サンモニクス* と、加えてホラティウスとを好んだ」(桑山由文訳「アレクサンデル・セヴェルスの生涯」[桑山由文・井上文則訳「ローマ皇帝群像」3 所収、京都大学学術出版会、2009 年、51、52 頁)。
40-7. 原注1. は、1642 年版から付加された 

 

〔41〕 そこで、わたしは、この二つの法と国法とを区別するのに劣らず、二つの法を相互に区別することにも、常に、特別の注意を払った。そして、もちろん、諸国民の法については、あらゆる点から見て真に法であるものと、あの原初的な法1 と同じように、せいぜい、いくつかの外的効果を生ずるにすぎないもの2、たとえば実力でそれ[=その法]に抵抗することはもちろん許されないとか、なんらかの利益のためもしくは重大な被害を避けるために、いかなる場所においても、公の力によってそれが保護されなければならないというようなものとを区別した。このような考察が、多くのことがらに関していかに必要であるかということは、本書の行論それ自体の中で明らかになるであろう3。さらに、われわれは、これに劣らず慎重に、厳格かつ固有の意味の法[=権利]に属するといわれ4、したがってそこから回復の義務が生ずるものと、ある行為が正しい理性のなにか他の命令に反するという理由で、それとは別の仕方で行為することが法に属するといわれる場合とを区分した5。なお、われわれは、すでに上のところで、このような法の多様性について、いくつかのことを述べておいた6。 
41-1. 「あの原初的な法」illum primitivum ius という言葉は、プロレゴーメナにおいては、この箇所でだけ用いられている。これが何を指すのか必ずしも明確でないが、おそらく、プロレゴーメナ第19 節で述べられた「恐怖から案出された」法を指すものと思われる。訳注41-3 を参照されたい。
41-2. グロノヴィウスは、「せいぜい、いくつかの外的効果を生ずるにすぎないもの」について、「理性によって強制されるわけではないが、習俗によってひとしく遵守されている法のことである。たとえば、自然は、不正な暴力に対して、わたしおよびわたしのものを守るように命じている。それ故、戦争が承認される。しかし、その戦争において、わたしがどのように行動することができるのか、武器とまっとうな策略だけしか用いてはならないのか、あるいは毒物を使用してもよいのか。こういったことを定めているのは、自然ではなく諸国民の法である」と注記している。しかし、この注は、自然法と諸国民の法との区別の説明であって、諸国民の法に二種類のものがあるというグローティウスの論旨には適合的でない。グローティウスがあげている事例については、次訳注41-3 を参照されたい。
41-3. バルベイラックは、「本書の行論それ自体の中で明らかになるであろう」という文章に対応する例として、「戦争と平和の法・三巻」第3 巻、第7 章、第6、7 節をあげている。たとえば、グローティウスは、第6 節で、不正な戦争において捕獲され奴隷とされた者が逃亡することは許されるかという問題を設定し、その奴隷が戦争継続中に同胞の下に逃亡する場合には、復帰権によって自由と財産を回復するが、同胞以外の者の下に逃亡した場合、または和平が成立した後に同胞の下に逃亡した場合には、元の主人が返還を請求するときに限り返還されなければならないと述べ、その理由を、不正な戦争による奴隷は逃亡しないという良心の拘束を受けるわけではないが、法ないし権利には、外的効果を生ずるにすぎず、内心の義務づけを伴わないものがあるからだ、と説明している。つまり、諸国民の法に従って奴隷とされた捕虜の復帰権postliminium に関して、本来の意味の法ないし権利と、たんに外的効果を生ずるにすぎないものとの区別があり、不正な戦争で奴隷とされた者が同胞以外の者の下に逃亡した場合、または和平が成立した後に同胞の下に逃亡した場合が、後者の例だというわけである。このグローティウスの説明に従えば、「たんに外的効果を生ずるにすぎないもの[=法ないし権利]」とは、内心の義務づけを伴わないもの[法ないし権利]のことだと理解される。
41-4. 「固有のまたは厳格な意味の法」は、ほぼ「権利」と同義と考えられる。この点については、「プロレゴーメナ」第8 節の他に、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第1 章、第5 節を参照されたい。ちなみに、この第5 節で、グローティウスは、「法学者たちは、権能facultas をその人自身のものsuum という名称で呼んでいる。しかし、われわれは、今後、それを固有のまたは厳格な意味での法すなわち権利ius と呼ぶことにする。この権利に含まれるのは、自由と呼ばれている、自分自身に対する権力や、家父権、主人権のような、他人に対する権力、そして所有権(これには、完全な所有権と、用益権や質権のような完全ではない所有権とがある)および債務に対応する債権である」と述べている。
41-5. この区分については、さしあたり、「プロレゴーメナ」第9 節および第10 節を参照されたい。
41-6. 「プロレゴーメナ」第8 節ないし第10 節。 
〔42〕 哲学者のなかでは、アリストテレースが第一人者の地位を占めている。アリストテレースは、その論述の順序から見ても、あるいは区分の精緻さや論拠の重みの点から考えても、その地位にふさわしい。願わくば、この第一人者の地位が、この数世紀の間に、専制君主の地位に転じてしまわなかったことを。というのは、いまや、アリストテレースが誠実に探究しようとした真理が、他ならぬアリストテレースの名によって抑圧されているからである1。わたしは、ここでも、またほかのところでも、昔のキリスト教徒の自由に従っている。かれらは、哲学のいかなる学派にも追随しなかった。それは、かれらが、いかなるものも認識されえないという、この上なく愚かなことを説いた人々2 に同意したからではなく、いかなる学派もすべての真理を認識したわけではないし、いかなる学派も真理の中からなんらかのものを認識しなかったわけではない、と考えたからである。こうして、かれらは、個々の哲学者および学派の間に散在している真理を拾い集めて一体とするならば原1、それこそが、真にキリスト教の教えを伝えるものにほかならないと判断したのである。
【原注】 
1. この言葉は、ラクタンティウス*「信教提要」第6 巻、第9 章にある3。ユスティーヌス* は、「第一護教論」において、「プラトンの教説がキリストの教えとまったく異なるからではなく、両者が完全には一致しないからである。この点では、その他の人々の教え、たとえばストア哲学者や詩人や歴史家の教えも変わらない。なぜならば、かれらは、いずれも、生まれながらに備わっている理性によって、理性に合致したものを部分的に認識し、そのかぎりで正しく語ったからである4」と述べている。テルトゥリアーヌスは、「セネカは、しばしば、われわれのものである[=われわれの側に立っている]」といっている5。また、テルトゥリアーヌスは、われわれに忠告して、すべての霊に関する資格証明書は、いかなる人間にもそれをもつ資格がなく、ただキリストにのみその資格がある、と説いている6。アウグスティーヌスは、書簡202 において、「キケローやその他の哲学者たちが推奨する道徳律は、世界中に広がりつつある教会において、教えられかつ学ばれている7」といっている。この点については、もし余裕があれば、同じアウグスティーヌスが、書簡56 で、プラトン主義者について、かれらは少し変わればキリスト教徒である、と述べているところを見よ8。さらに、「真の宗教について」第3 章9、「告白」第7 巻第9 章、第8 巻第2 章10 も見よ11。 
42-1. 「他ならぬアリストテレースの名によって抑圧されている」のが、具体的にどのような人物もしくは学説を指しているのか、この点は不明である。エラスムスは、「戦争は、それを経験したことのない者にとっては甘美である」の中で、次のように述べている。「雄弁もまた、初め、人々[キリスト教徒]から遠ざけられていたのみならず、むしろ隠されていたとするほうが妥当であって、次いでようやく公認されるにいたるや、異教徒を言い籠めるという口実のもとに、身のほど知らずの野望が頭をもたげ、この論戦の欲求は少なからぬ災厄を教会にもたらした。それが嵩じれば、今度はアリストテレスの出番で、ほかならぬ神学のただ中に、彼の一切合切が招来されたわけだが、その権威たるや、ほとんど当のキリストを凌いで崇め奉られるありさまであった。たとえば彼の言説がキリスト教徒の風儀に染まぬものであっても、その義はやわらげられて言葉巧みに釈明され、反対にわずかでも彼の託宣に論難を試みた者は、たちまち難詰の怒号を浴びせられた」(月村辰雄訳「戦争は体験しない者にこそ快し」、前掲、320、321 頁)。つまり、アリストテレースに依拠しながら発展したスコラ神学がカトリック教会において圧倒的な支配力をもつようになるのに伴って、アリストテレースの教説が絶対視されるようになり、その結果、福音の真理に立ち戻るべきであるというまっとうな主張が、アリストテレースの託宣に反するとして論難され、あるいは異端として断罪され、あるいは抑圧されているというのである。グローティウスの文章も、エラスムスの記述とほぼ同様に理解することができよう。
42-2. グロノヴィウスによれば、「いかなるものも認識されえないという、この上なく愚かなことを説いた人々」とは、キケロー「義務について」第1 巻2 およびディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」に記されているピュロン* や、へリロス* その他の懐疑派哲学者を指す[キケローは、さらにアリストーン* をあげている]。そして、グロノヴィウスは「かれらは、すべてのことがらを疑った。これについては、ディオゲネス・ラエルティオスのピュロン伝を見よ」と注記している。ラエルティオスの文章は次の通りである。ピュロンは「アナクサルコスの弟子になり、その人の伴をしてどこへでも出かけて行ったので、インドでは裸の行者たちとも、また(ペルシャの)マゴス僧たちとも交わりを結んだ。そしてこの経験から彼は、アブデラのアスカニオスが述べているように、ものごとの真理は把握できないということ(アカタレープシアー)と、判断の保留(エポケー)という形の議論を哲学のなかに導入して、まことに気位の高いやり方で哲学活動を行ったように思われる」(加来彰俊訳「ギリシア哲学者列伝・下」、岩波文庫、1994 年、151 頁)。したがって、グローティウスの「いかなるものも認識されえないという、この上なく愚かなことを説いた人々」は、ピュロンに代表される懐疑派の哲学者を指しているということができよう。ただし、岩波文庫版「義務について」の翻訳者泉井久之助は、「この人たちの学説はさまざまであり、ことにあとの二人[ヘリロスとアリストーン]はキケローがこの個所で義務論に関して推賞する学派のひとつのストア派に属しているが、しかもその教説がキケローによってここに一様に排撃されているのは、かれら三者の学説が徳に関して実践的な意味での積極性をもつものを説かなかったためであろうと思われる」と注記している(泉井久之助「義務について」、岩波文庫、1961 年、216 頁、註6)。また、岩波版「キケロー選集」、「義務について」の翻訳者高橋宏幸は、「三者に共通するのは、貧富、病気と健康といった外的、物質的なものを善悪の考慮に無関係とする点。したがって、現実の行為の選択にあたって、どちらが望ましいかという比較の余地がない」と注記している(「義務について」、前掲、131 頁、注3)。したがって、グローティウスの評言は、懐疑派の哲学に対するいわば通俗的な理解に基づくものだといえよう。
42-3. ラクタンティウス「信教提要」第6 巻、第9 章には、次のように記されている。「もし、誰かが、もろもろの個人および学派の間に分散している真理を拾い集め、それを一体のものにまとめるならば、かれの意見は、たしかに、われわれの意見と異ならないであろう。」
42-4. この文章は、ユースティヌス「第一護教論」ではなく、「第二護教論」第13 章にある。「キリスト教教父著作集」では、次のように翻訳されている。「わたしはキリスト教徒と認められることを願い、またあらゆる困難と戦いながらそれを告白する者です。それは、プラトンの教えがキリストのそれと異質であるからではなく、すべての点で類似してはいないからです。このことはプラトンにかぎらず、ストア派や詩人や作家の教えについても同様です。その理由を述べます。この人々はそれぞれに神のロゴス・スペルマティコスの部分によって、同類のものを見る場合には、正しいことを語ったのです。しかし他面で重要問題については相互に矛盾することを語っているので、揺るぎなき認識とか疑問の余地なき知識は、まだ有していないと思われます」(柴田有訳「(ローマの元老院にあてたキリスト教徒のための)第二弁明」、「キリスト教教父著作集I」ユスティノス所収、教文館、1992 年、156 頁)。
42-5. テルトゥリアーヌス「霊魂について」第20 節には、こう記されている。「セネカはしばしばわれわれの側に立っているが、そのセネカがいうように、われわれの中には、生命のすべての術と年齢の種が植え付けられている。そして、われわれの教師である神は、秘密裏に、われわれの素質を作り出す。すなわち、幼児期に植え付けられ、隠されていた種から、われわれの素質を作り出すのである。それが知性である。」
42-6. テルトゥリアーヌス「ユダヤ教徒駁論」第9 章。テルトゥリアーヌスの文章は次の通りである。「そこからキリストが生まれるのにふさわしい乙女は、ダヴィデの一族の種から出なければならなかった。このことを予言者は、次のように明言している。『エッサイの株から一つの新芽が萌えいで(新芽とはマリアのことである)、その根から一つの若枝が育ち、その上に神の霊がやどる。知恵と分別の霊、知識と神への畏れの霊、思慮と強さの霊。かれは、神を畏れ敬う霊に満たされる』[イザヤ書、XI:1~3]。キリスト以外のいかなる人間も、それらの霊のすべてについての資格証明書をもつ資格はないのだから、そして、確かに、キリストは、栄光と恩寵の故に若枝に譬えられているが、マリアを通じてエッサイの家系から出ているのであるから、キリストはここから出たものと判断されなければならない。」
42-7. アウグスティーヌス「書簡集」第91 書簡[ネッタリオ宛、 c.408/409]、第3 節。ただし、Migne 版では、「しかし、これらの道徳律は」Hi autem moresと記されていて、「キケローや他の哲学者たちが推奨する道徳律」Mores illi quas Cicero philosophique alii commendant とは記されていない。また、この第91 書簡全体でも、キケローの名前はあげられていない。しかし、キケロー「国家について」に言及している箇所はあり、グローティウスは、あるいはこれを踏まえて、「キケローや他の哲学者たちが推奨する道徳律」といったのかも知れない。
42-8. アウグスティーヌス「書簡集」第118 書簡[ディオスコロス宛、c.410/411]、第21 節。「ここからして、プラトン学派の哲学者たちでさえも、キリスト教の教えが認めないものを少し変更して、唯一の無敵の王であるキリストに敬虔な心で服従し、人間の体をまとった神の言葉を理解する必要がある[と感じていた]ことが知られる。というのは、神は、かれらが公言するのを恐れていたこと[=真理]を命じ、それがかれらによって信じられているからである。」
42-9. アウグスティーヌス「真の宗教について」序文、第4 節(グローティウスは第3 章と記しているが、それは、おそらく、グローティウスの使用した版が現在の普及版と異なるからであろう)で、アウグスティーヌスは次のように述べている。「もし、人々によってその名をたたえられている者たち[プラトンたちのこと]が再びこの世に戻って来て人々のあふれる教会と、見捨てられ荒廃した神殿とをまのあたりにするなら、また、今や人類が移ろい流れ去る財宝への欲望から離れて、永遠の生命への希望と霊的にして叡智的な財宝へと招かれ、馳せ参じているのを見るならば、おそらく、『そのことはわれわれがあえて人々に説こうとしなかったことである。われわれは彼らをわれわれの信仰と意思にひき入れるよりもむしろ彼らの慣習に従ったのだ』ということであろう。それゆえ、もしそれらの人々が再度われわれと共にこの世の生をおくることができるとすれば、彼らはきっと、だれの権威によって人間に対する救いが配慮されるかを知るであろう。そして、彼らはほんのわずかの言葉と内容を変えることによって、近年われわれの時代のきわめて多くのプラトン派の哲学者たちがそうであるように、キリスト教徒になることであろう」(芝泉昭男訳「真の宗教」、アウグスティヌス著作集2(初期哲学論集2)所収、教文館、1979 年、294 頁)。
42-10. アウグスティーヌス「告白」第7 巻、第9 章の冒頭には、「そこで、あなたはまずはじめに、わたしに、どのように『あなたが高慢な者を退け、謙遜なものに恵みを与えたもう』かを、また『あなたの言が肉体となり人の間に住んだ』ということになり、いかに大きなあなたの憐れみが人間に謙遜の道を示されたかを、明らかにするために、恐るべき傲慢の膨れあがっていたある人物を通して、ギリシア語からラテン語に翻訳されたプラトン派の書物を、わたしのために準備されました。その書物の中で、わたしはこれらの同じ言葉ではありませんでしたが、これと同じことが、種々さまざまな根拠により、説かれているのを読みました」(宮谷宣史訳「告白録・上」、「アウグスティヌス著作集5/1」、教文館、1993 年、344 頁)という文章があり、第8 巻、第2 章には、「わたしはシンプリキアヌスに、自分の誤りに満ちた経歴を語りました。かつて、ローマ市の修辞学者で、キリスト教徒として生涯を全うしたウィクトリヌスがラテン語に翻訳したプラトン派のある文書を読んだ、と話しますと、彼は、この世の諸原理に従い著されている他の哲学者たちの文書は虚偽と欺瞞に満ちているが、プラトン派のものにはさまざまな仕方で、神と神の言葉が暗示されている、とわたしのために喜んでくれました」(同訳書、380、381 頁)と記されている。
42-11. 原注1 は1642 年版で付加された。 
〔43〕 その他のことがらのうち、次のことは、われわれの目的と無縁ではないので、ついでにいっておこう。いく人かのプラトン主義者や、昔のキリスト教徒[の著述家]たちは原1、アリストテレースが、徳の本質はまさに情念ならびに行為における中庸にあるとした点に関して1、アリストテレースから離れているように思われる。しかし、それは、理由のないことではない。というのは、ひとたびこの命題が立てられると、アリストテレースはそれに引きずられて、気前のよさと倹約のような、性質の異なる徳を一つに結び合わせ、はったりと猫かぶりといった、決して同等の対応関係にはないものを[一括して]真理に対置し、さらに、快楽および名誉の蔑視2、人に対する怒りの欠如といった、実際には悪徳でないと考えられるものや、それ自体は悪徳でないものに対しても、悪徳の名を与えているからである3。
【原注】 
1.  ラクタンティウスは「信教提要」第6 巻、第15、16、17 章で、この問題を広範にわたって追求している4。カッシオドールスは、「情念によって動かされるのではなく、情念に呼応して動かされるとき、有益とか有害とかということになる5」と述べている6。 
43-1. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第2 巻、第6 章でこう述べている。「徳は情念と行為にかかわっており、情念と行為における超過と不足は誤っているけれども、中間は賞讃され、正しいあり方をしているのである。しかるに、賞讃と正しいあり方のどちらも徳にふさわしいことがらなのである。こうして、徳とは、中間を狙うものである以上、ある種の『中庸[メソテース]』なのである。」朴一功訳「ニコマコス倫理学」、京都大学学術出版会(2002 年)、73 頁。
43-2. 「快楽および名誉の蔑視」contemtum voluptatis et honorum という語句は1625 年版で用いられ、その後1631、1632、1642 年の版で「快楽の蔑視や名誉」contemtum voluptatis et honorem と改められたが、1646 年版でふたたびもとの表現に戻された。おそらく、誤植に気がついた、ということであろう。
43-3. アリストテレース「ニコマコス倫理学」第2、3、4 巻の記述によれば、アリストテレースが「気前のよさと倹約」をひとつの徳とするのは、その二つが相互補完的で、浪費と吝嗇に対して中庸だからである。また、「はったりと猫かぶり」を真理に対置するのは、真理が、言葉と行為によってことがらの本来の姿を明らかにする徳であるのに対して、本来の姿以上にみせるのがはったりであり、それ以下にみせるのが猫かぶりだと考えられるからである。さらに、「快楽の蔑視」が悪徳とされるのは、美しい音楽や優雅なものに対する野蛮な憎悪に関連してであり、「怒りの欠如」が悪徳でありうるのは、それが愚鈍や純重に由来する場合のことである。したがって、グローティウスの評言は、必ずしも、アリストテレースの真意を正しく伝えているとはいえない。なお、バルベイラックは、本節におけるグローティウスのアリストテレース理解について詳細な注釈を加え、グローティウスのアリストテレース理解が正確でないことを指摘している。これは、思想史上の観点からすれば興味のある指摘であるが、さしあたりグローティウスの文章を正確に読んでみようという本稿の目的の範囲からは逸脱している。また、グローティウスの引用が必ずしも原作品の文脈と一致していないのは、とくにアリストテレースの場合に限ったことではない。そこで、本稿では、バルベイラックの詳細な注釈には立ち入らないことにした。
43-4. ラクタンティウスは、「信教提要」第6 巻、第15、16、17 章において、ストア派や逍遙学派の説く徳が、実は徳ではなく、かれらの説く悪徳が、実は悪徳ではないことを論証しようとして、大要、次のように述べている。欲望、喜び、恐れ、悲しみなどの情念は、人間に植え付けられたものだから、ストア派がいうように、それを人間から取り去ることができるというのは正しくない。たとえば、かれらにとって快楽を抑制することは美徳であるが、もしかれらの教説が正しいとすると、ある人が快楽そのものに何らの欲望も感じない域に到達したとすると、その人にとって、快楽を抑制することは美徳ではないことになる(そもそも抑制すべき対象が存在しないのだから)。これは、かれらが、欲望を人間から取り去ることができると考えたことから生ずる矛盾である。また、逍遙学派は、人間の中に悪徳へと向かう情念が存在することを認め、それを緩和することが徳であると考えている。しかし、情念から悪徳が生ずるのは、情念そのものに原因があるのではなくて、情念を働かせる誘因にその原因があるのである。つまり、情念の働かせ方が問題なのである。たとえば、かれらは、勇気は徳であり、臆病、恐怖は悪徳であるという。しかし、これは正しくない。なぜならば、神を恐れ、神の前で臆病であることは決して悪徳ではないし、神に反抗するほどの勇気は勇気の極みであるけれども、それは決して美徳ではない。また、中庸が正しいとするかれらの教説も、正しいとは考えられない。たとえば、かれらは、欲望をほどほどに抑えることは正しいことだというが、神が与える永遠の生命を、死をも恐れずに求める欲望は、欲望の極みであるけれども、決して悪徳ではなく、むしろ美徳の極みであり、それをほどほどに抑制することこそが不正なのである。このように考えると、そこから、唯一の神の宗教を知らない者は、およそ徳のなんたるかを知ることができないし、その正確な限界も理解することができない、という結論が導き出される。
43-5. カッシオドールス「友情について」。この作品は、1588 年に出版された「カッシオドールス選集」に収録されている。しかし、その後、ピェール・ド・ブロワ* の作品であることが判明した。グローティウスが引用している文章は、ピェール・ド・ブロワ「キリスト教的友愛について、および神の愛と隣人の愛について・二論」の中の第二論文「神の愛と隣人の愛について」第49 章にある。Migne 版では、「それ故、われわれは、このような情念によって動かされることが有益であるとか、あるいは有害であるという判断はしない。なぜならば、これらの情念が心を動かすときに、あるいは試練あるいは誘惑が生ずるのは、そのときまで、心の中に、それに同意するものが不完全な形で存在していたからである」と記されている。なお、この引用文はラクタンティウスの議論とほぼ軌を一にしているが、アリストテレースから離れているか否かについては、かなり疑わしい。次節訳注44-2 に紹介するように、アリストテレースは、情念だけから生ずる行動は、それだけでは正とも不正ともいえず、そこに行為者の選択が作用するとき、初めてその行為が正であるとか不正であるといえるのだ、と説明しているからである。
43-6. 原注1 は、「広範にわたって追求している。」までが、1642 年版で付加され、「カッシオドールスは」以下の部分は1646 年版で付加された。 
〔44〕 しかし、この[中庸という]基礎が一般的に設定されているのは正しくない1。それは、正義の例から明らかである。アリストテレースは、正義に対立する過多および過少を、情念および情念の結果としての行為の中に見出すことができなかったので、過多と過少の両者を、正義の説明に用いられることがらそのもののうちに求めようとした2。しかし、第一に、そのこと自体が、ひとつの類から他の類への飛躍である(アリストテレースは、他のことがらにおいては、この点を正しく批判している)。さらに、自己の分よりも少なく受け取ることは、さまざまな事情から自分および自分に依存する者たちに対して責任を負っている場合には、たまたま、悪徳となることがありうるが、それが正義に反するなどということはありえない3。このことは明らかである。なぜなら、正義とは、そもそも他人の物に対する(欲望の)抑制のうちに存するのだから4。この欺瞞と類似しているのは、かれが、情念にもとづく姦通や怒りによる殺人を、本来の意味の不正に属するものとは認めようとしないことである5。しかしながら、不正の本質は他人のものの侵奪にほかならず、不正が貪欲から生ずるか、あるいは情欲や怒りや分別を欠いた同情心から生ずるか、あるいはまた、最大の侵害行為がそこから発生するのを常とするような、優越的地位に対する欲望から生ずるかは、重要なことではない。なぜならば、もっぱら人間社会が侵害されないことのみを考えて、それへの刺激となるようなものをすべて蔑視すること、これこそが正義の特質だからである6。 
44-1. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第2 巻、第6 章で、徳を「選択にかかわる性格の状態[ヘクシス・プロアイレティケー]なのであり、その本質はわれわれとの関係における『中庸[メソテース]』にあるということになるが、その場合の中庸とは、『道理[ロゴス]』によって、しかも思慮ある人が中庸を規定するのに用いるであろうような『道理』によって規定されたものなのである。すなわちそれは、二つの悪徳の、つまり超過に基づく悪徳と不足に基づく悪徳との間における中庸なのである。またさらに、徳が中庸であるのは、情念や行為において一方の悪徳は必要以上に不足し、他方の悪徳は必要以上に超過するのに対し、徳の方は中間を発見し選ぶ、ということによるのである」と説明している(朴一功訳、「ニコマコス倫理学」、前掲、74 頁)。そして、第3 巻、第5 章では、徳の一般的輪郭として次の5 点をあげている。「1 徳とは、中庸であること、そして2 徳は状態であり、特定の行為から生まれること、しかも3 徳はそうした行為を徳そのものに基づいてわれわれに行わせるものであること、さらに4 徳はわれわれの力の範囲内にあり、自発的なものであって、5『 正しい道理』が規定するような仕方でわれわれに行為させるところのものであること」(同訳書、116頁)。
44-2. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第5 巻、第5 章で、「また、正義とはある種の中庸であるが、それが中庸であるのは、他のさまざまな徳と同じ仕方によるのではなく、まさに中間を見出すことによるのである」(朴一功訳、223 頁)と述べて、正義と他の徳とでは中庸のあり方が異なることを指摘している。さらに、アリストテレースは、正義とは「他者との関係での正しさ」なのであって、「われわれの[心の]状態」を指す徳とは性質が異なり、「徳の全体とは別の種類の正義がある」こと(第2 章、同訳書、205 頁)、「正しいこと」とは「合法的なこと」と「公正なこと」を意味するが、前者は一般的な正義であって完全な徳にほかならないのに対して、後者は徳の部分であると分析し、徳の部分としての正義(たとえば、配分的正義や矯正的正義)について、「正義が中庸であるのは、中間を見出すことによるのである」と説明している。したがって、「正義」そのものと「中庸」との関係が、情念および行為の過多と過少とに関連づけて説明されていないというグローティウスの批判は、事実としては正しい。しかし、グローティウスは、アリストテレースが正義と他の徳との間に認めた性質の相違を、まったく無視している。
44-3. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第5 巻、第11 章で、自己の分より少なく受け取ることは、中間よりも少なくもつことであり、これは、不正な行為を身に受けることであるとし、「不正な行為を身に受けることも、不正な行為をすることも、どちらも低劣であるのは明らかである。しかしながら、それにもかかわらず、不正な行為をすることの方が、不正な行為を身に受けるよりも悪いのである。なぜなら、不正な行為をすることは、悪徳をともなっており、非難されるべきものであって、しかもその悪徳は完全かつ無条件なものか、あるいはそれに近いものであるが、他方、不正な行為を身に受けることの方は、悪徳も不正もともなっていないからである」(朴一功訳、250 et 251 頁)と述べている。また、「『品位ある人[エピエイケース]というのは、』より少なく取る控えめの傾向の人である」(第5 巻第9 章、同訳書、240 頁)とも述べている。したがって、アリストテレースは、「より少なく受け取ることが正義に反する」といっているわけではない。
44-4. 「正義とは、そもそも他人のものに対する(欲望の)抑制のうちに存する」という文章は、「ニコマコス倫理学」第5 巻、第1 章の記述と一致する。アリストテレースは、こう述べている。「われわれは、一つの意味では、社会共同体にとっての幸福ないしは幸福の諸部分をつくり出したり、それらを保護する性質のものを『正しいこと』というのである。そして、法は、たとえば……姦通をしたり、乱暴をはたらいたりしないような、節制ある人の行動を命じ……、同様にして他のさまざまな徳と邪悪に応じて、一方の行為を命令し、他方の行為を禁じるのであるが、……かくして、このような意味での正義とは『完全な徳[テレイアー・アレテー]』にほかならない。しかし無条件にそうなのではなく、『他者との関係における』完全な徳なのである。そしてこのゆえに、しばしば、正義は、さまざまな徳のなかでも最高のものと考えられており、……われわれはことわざにしながら、次のようにも言っている。すなわち『正義のうちにはすべての徳がつまっている』と」(朴一功訳、200~202 頁)。
44-5. アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」第5 巻、第2 章で、欲望の故に金を払って損をしてまでも姦通する行為や怒りにまかせて人を殴る行為は、「放埒」や「臆病」とも関係づけられるのであって、不正にだけ関係づけられるわけではなく、全体的な正義にかかわる問題であるとし、利得を得るために姦通するような場合が、固有の意味の正義すなわち部分的正義に属するのである、と述べている。また第5 巻、第6 章では、他者との関係において、ある人の正、不正が問題なるのは、その人の行為がたんなる情念に基づくだけでなく、そこに、自発的な選択(プロアイレンス)という要素が存在する場合であり、情念によって姦通する者や、盗みをはたらく者は、たしかに不正な行為をしてはいるが、それだけで不正な人だとはいえない、と説明している。アリストテレースは、正義と不正義、正しいことと不正なこと、不正な行為と不正な人とを、それぞれ区別しているが、グローティウスはこの区別を無視し、独自の「本来の意味の不正」の概念を設定して、これに基づいてアリストテレースを批判している。アリストテレースは、他人のものを盗むという行為や情念にもとづく姦通が不正ではない、といっているわけではないし、「ニコマコス倫理学」には、いかなる意味においてであれ、殺人が不正な行為ではない、などという記述は存在しない。
44-6. 本節で、グローティウスは、アリストテレース「ニコマコス倫理学」の正義論を引き合いに出しながら、アリストテレースの文章の複雑な論理構造をかなり強引に単純化して、独自の正義論を展開している。図式化していえば、グローティウスは、アリストテレースの一般的正義と特殊的正義を統合して、正義とは「人間の社会的結合を維持発展させる」ことに資するものを保護し、それを毀損しかねないものを抑制することだと考えた、ということになろう。 
〔45〕 話をもとに戻そう。たしかに、少なからざる徳の場合に、情念を抑制するという効果が伴うことは事実である。しかしこれは、情念を抑制することがあらゆる徳に固有のかつ恒久的な性質だからではなく、あらゆるところで徳が従っている正しい理性が、あるものについては限度を越えないように命じ、あるものについては極限にまで駆り立てるからなのである原1。たとえば、われわれが神を崇拝しすぎるということはありえない。なぜならば、迷信が罪であるのは、神を崇拝しすぎるからではなく、その反対だからである。また、われわれが、永遠の幸福bonum aeternum を希求しすぎるとか、永遠の罰を恐れすぎるとか、罪を憎みすぎるといったこともありえない1。〈それゆえ、ゲッリウス* が、その広がりを制限するいかなる境界線ももたず、大きくかつ膨張すればするほどそれだけ称賛に値するような徳がいくつかある2、と語ったのは正しい。また、ラクタンティウスは、情念について多くのことを論じた際に、次のように述べている3。「英知に基づく理性の目的は、これら[の情念]を抑制することにあるのではなく、」とかれはいう、「その原因を抑制することにある。なぜならば、情念は外部から動かされるものだからである。また、情念そのものに対して手綱をきつく引きしめる必要はない。というのは、情念そのものは、最大の犯罪においても微小でありうるし、犯罪をともなわなくても最大でありうるからである。」〉4 われわれは、アリストテレースを大いに尊重したいと思う。しかし、それは、かれが真理を探求するためにその師たちについて自らに許容したのと同じ自由をわれわれももつ、という条件をつけてのことである。
【原注】 
1.  アガーティアス第5 巻、べリサリウスの演説中に5、「心の動きのなかで、純粋かつ誠実なもの、義務と一致し選択されるに値するものは、そのまま完全に受け入れられなければならない。これに対して、悪に向かい悪に傾く結果となるものは、それがなんらかの役に立つのでない限り、まったく用いられてはならない。賢明さは、純粋かつ汚れのない善である。このことは、誰も否定しないであろう。しかし、怒りについては、活気をもたらすものは賞賛に値するが、限度を越えるものは避けるべきであり、また、それは損害をもたらす」とある6。 
45-1. ここまでの本文の記述については、訳注43-4 に紹介したラクタンティウスの所論を参照されたい。
45-2. アウルス・ゲッリウス「アッティカの夜」第4 巻、第9 章14。ここで、ゲッリウスは次のように述べている。「敬虔な」religiosus という言葉の"-sus" という接尾語は、もともと過剰を意味し、religiosus は過剰な宗教心、すなわち迷信という悪い意味の言葉であった。しかし、その後、「威厳と尊敬の念に満ちた」という、よい意味に用いられるようになった。他方、同じ"-sus" という接尾語がつく言葉でも、初めからよい意味をもっていた言葉もある。たとえば、「才能がある」ingeniosus、「職務に忠実な」officiosus、「美しい」formosus、「よくしつけられた」disciplinosus、「知恵のある」consiliosus、「勝利の」victoriosus、「能弁な」facundiosus がそれである。これらの単語の語幹が意味する徳の広がりは、いかなる限界によっても制限されず、それが大きくかつ膨張すればするほど賞賛に値する。
45-3. ラクタンティウス「信教提要」第6 巻、第16 章。ここで、ラクタンティウスは、逍遙学派が悪徳の存在を認めるのは正しいが、それを中庸によって緩和するのは誤りであるとし、その理由を、悪徳は生まれるのではなくて、われわれが情念を悪用することによって作られるのであるから、悪徳を緩和するためには、情念を抑制するのではなく、情念を働かせる原因を抑制しなければならないからである、と説いている。グローティウスが本文で引用しているのは、ラクタンティウスがこの結論を敷衍して説明している文章の一節である。
45-4. 「それゆえ」以下〈〉印括弧内の文章は、1631 年版から付加された。
45-5. アガーティアス「歴史」第5 巻、第18 章。引用文は、東ローマ帝国領内に進出したフン族との戦いを目前に控えた558 年に、ベリサリウスが行軍中の全兵士を前にして、兵士の間に見られたおごりと士気の弛緩を誡めるために行った演説の一節である。
45-6. 原注1 は1642 年版で付加された。 

 

〔46〕 歴史は、われわれの主題にとって二重の効用がある。なぜなら、歴史は、実例と判断とを提供してくれるからである。実例は、それが属する時代および国民が立派であればあるほど、それだけ大きな権威を有する。それゆえ、われわれは、古代のギリシアおよびローマの実例をその他のものより上位に置いた。また、判断も軽視されてはならない。とくに、歴史における多くの判断が一致する場合には。なぜならば、前述したように1、自然法はある程度までこれによって証明されるし、諸国民の法は、これ以外の仕方で証明されることがないからである2。 
46-1. プロレゴーメナ第40 節。
46-2. グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第1 章で、自然法ならびに諸国民の法の証明について論じている。そして、第12 節で、自然法の証明方法には、先験的証明と経験的証明の二つの方法があると指摘し、歴史における「一致した判断」は、その中の経験的証明に該当すると説明している。また、「諸国民の法」については、第14 節で、「不文の国法と同じ方法で、すなわち、継続的な使用と法に通じた人々の証言によって」証明されると述べている。 
〔47〕 詩人や雄弁家の見解は、それほど重要ではない。われわれはかれらの意見をしばしば利用した。しかし、それは、かれらの意見を利用することによって[われわれの論証の]信頼性を増強するためではなく、 かれらの言葉を借りることによって、われわれの言いたいことになんらかの飾りを付加するためである。 
〔48〕 われわれは、神から霊感を受けた人々によって書き記されたか、あるいは承認された書物[=聖書]の権威を、しばしば利用した。そしてその際に、旧約の律法と新約の掟とを区別した。旧約の律法は自然法そのものであると主張する人々がいるが1、この主張は明らかに間違いである。なぜならば、旧約の律法の多くは、神の自由な意思に由来するからである(しかし、神の自由意思は、決して真の自然の法と対立するものではない)。その限りでいえば、もしわれわれが、神がときどき人間を介して実現する神の法と人間相互の間の人の法とを厳密に区別するならば、そこから、[法に関する]正しい論証を導き出すことができるであろう。したがって、われわれは、この[旧約の律法は自然法そのものであるという]誤謬と、もうひとつのこれと反対の誤謬、すなわち、新約の時代以後、旧約に属するものはすべて無用になったとする誤謬2 とを、できるだけ避けるようにした。[後者の誤謬について]われわれは、次の二つの理由からこれに反対する。そのひとつはすでに述べたとおりである3。もうひとつの理由は、新約の本質が、旧約中で命じられた道徳的な徳に属することがらを、そのまま、あるいはそれ以上に命ずる点にあるからである4。われわれの見るところ、昔のキリスト教徒の著述家たちは、このような仕方で旧約の証言を利用した。 
48-1. グロノヴィウスは、「旧約の律法は自然法そのものであると主張する人」を、「たとえばボダンや、その他のユダヤ教に通じたキリスト教徒の学者のことである」と注記している。しかし、訳者はそれぞれの該当作品を確認することができなかった。ボダンは、「秘密の場所に隠された崇高なことがらに関する七人の討論会」第4 巻で、律法が絶対的であるというユダヤ人サロモの主張に対して、ボダンの見解の代弁者とみられる自然宗教派のトラルバに、「救いを得るためには、人間の心に植え付けられた自然法と自然宗教とで十分であるとするならば、祭儀や礼拝に関するモーセの律法がなぜ必要なのか、わたしにはその理由がわからない」といわせている。グロノヴィウスは、あるいはこの文章を念頭に置いていたのかもしれない。なお、旧約の律法を古代のヘレニズム世界に適合させることは、ユダヤ人哲学者の重要な課題であった。たとえば、アレクサンドリアのフィローンは、律法の中の道徳的な部分は自然法と同じものと考えてよいと主張して、律法の民族性を克服し、旧約の律法に普遍性を与えようとしている(「モーセの生涯について」第2 章、第14 節など)。
48-2. グロノヴィウスは、この見解がアナバプティスト(再洗礼派)のものであると注記し、バルベイラックは、ツィーグラー「グローティウス・戦争と平和の法・三巻註解」によれば、シエナのシクストゥスの「聖なる図書館」に、この見解をとる数名の再洗礼派の名が記されていると注記している。しかし、訳者は、その名前を確認することができなかった。ちなみに、「新約の成立後は、旧約に属するものがすべて役立たなくなった」という見解を最初に主張したのは、2 世紀のマルキオン* である。
48-3. 「プロレゴーメナ」第12 節ないし第14 節。
48-4. イエスは、自ら、「わたしが来たのは、律法や予言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成させるためである」(「マタイによる福音書」5: 17)といっている。また、グローティウスは、「キリスト教の真理」第4 巻、第6 節および第7 節で、旧約の律法と新約のイエスの掟とを比較対照し、この両者の関係は、「たとえば、ある王が、国民の間で激しい敵対があった後、平和を樹立するためにさまざまな法を廃止し、すべての人々に共通のそして完全な法を定め、かつ将来に向かって自らを正す者に対して、すでに犯した罪の許しを約束する」のと同じようなものだと説明し、「廃止された個別の法は、神を嘉する結果をもたらすことができず、常に維持されるべきものとは考えられない法である」として、律法の犠牲に関する規則、肉食に関する規則、日の計算方法に関する規則、割礼に関する規則などの例をあげている。 
〔49〕 さらに、旧約に属する書の意味内容を理解するためには、ヘブライの著述家たち原1、とくに祖国の言語や習俗を知悉している人々が1、少なからずわれわれの役に立つであろう。
【原注】 
1.  カッシアーヌス〔正しくはカッシオドールス〕は「聖俗文献提要」で2、そのように考えている3。 
49-1. グロノヴィウスは、その例として、マイモニデース* とその作品「迷える人々のための手引」をあげている。
49-2. カッシオドールス「聖俗文献提要」序文。カッシオドールスは、ここで、聖書は最初から最後までギリシア語で書かれていたと指摘し、ギリシア語に通じたアレクサンドリアのクレメンス* や、キュリロス、ヨハンネス・クリュソストモスらの著書をとりあげる理由を、「祖国の言葉で語られていることは、誰でも、より心地よく受け止める。そこからして、昔の教師たちがやったように、それ[ギリシア教父の著作を読むこと]により、新しい教師たち[ラテン教父]によっては完成されえなかったことが可能になるのである」と述べている。カッシオドールスは、ラテン語版聖書とギリシア語版「七十人訳聖書」のみを念頭に置いているので、「ヘブライ人の著述家」には言及していない。なお、バルベイラックは、ヘブライ語はすでに久しい以前から死語になっており、これを祖国の言葉とする著述家など存在しないし、タルムードが聖書解釈の参考になるとは思えないとして、グローティウスの見解に批判的な注を記している。
49-3. 原注1 は、1642 年版で付加された。 
〔50〕 わたしが新約を利用するのは、他のものからは学びえないこと、すなわちキリスト教徒に許されているのはなにかということを示すためである。しかし、多くの人々が行っているのとは反対に、わたしは、そのこと自体[=新約によって、ある行為がキリスト教徒に許されていること]と自然法とを区別した。ちなみに、わたしは、あの至聖なる掟において、たんに自然法が単独でわれわれに要求すること以上に神聖なことがわれわれに命じられているのは確実だ、と考えている1。また、わたしは、われわれに対して命令というよりもむしろ勧奨されていることがあれば、それを指摘するのを忘れないようにした2。それは、命令から逸脱することは不正nefas であり罰に値することであるが、最高のものを目指すことは高尚な意図の現れであり、それに対しては、必ずや、相応の報酬が与えられるであろうということを、われわれが知るようにするためである。 
50-1. グロノヴィウスは、「たんに自然法が単独でわれわれに要求すること以上に神聖なこと」に対する注として、「マタイによる福音書」第5 章、第20 節の「あなたたちの正義が律法学者やファリサイ派の人々の正義にまさっていなければ、あなたたちは決して天の国に入ることができない」という言葉を指示している。ちなみに、「あの至聖なる掟」とは、「十戒」のことである。
50-2. 「命令というよりもむしろ勧奨されていること」について、グロノヴィウスおよびバルベイラックは、これを、いわゆる「福音的勧告」consilium Evangelicum のことであると注釈している。いわゆる「福音的勧告」は12 世紀以降の神学において確立した概念で、清貧、貞潔(または独身)、従順の三つの徳目をその内容とする。グローティウスが「命令というよりもむしろ勧奨されていること」という場合も、これとほぼ同じ内容のことが考えられていると見てよかろう。ちなみに、新約聖書の掟の中に、すべてのキリスト教徒が守らなければならない命令praeceptum と、さらにより完全な信徒としての生活を目指す者のために与えられた勧告consilium とがあることを指摘し、はじめて両者を明確に区分したのは、アムブロシウスであった。アムブロシウスは、次のように述べている。「福音書の中で、人を殺すな、姦淫をするな、偽証するなと命じられている場合には、この命令は、その違反に罰が伴う命令である。しかし、これらの掟の命令を完全に果たした者に対して、『すべてのものを売り払って、主に従え』(「マタイによる福音書」第19 章、第18~21 節)と勧告されている場合には、これは、命令として課されているのではなくて、勧告として与えられているのである。……すなわち、かれは命令に拘束されているのではない。かれには選択の余地が残されている」(「寡婦について」第12 章73)。そしてさらに、「ルカによる福音書」第17 章、第9 および10 節の「命じられたことを果たしたからといって、主人が下僕に感謝するであろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをすべて果たしたら、『わたしたちはとるに足りない下僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」を引用し、命令を守るだけでなく、勧告をも実行する者こそが、天の報酬を求めることができるのだ、と述べている(「寡婦について」第12 章74)。 

 

〔51〕 教会会議の決議教令canones は1(それが正しいものである限り2)、神によって発布された一般的な掟が実際に生ずることがらに適用された事例を収集したものである。これもまた、神法の命ずるところを教示しているか、あるいは神が勧告することを奨励している。そして、これこそが、本当の意味での、キリスト教会の義務である。言い換えれば、キリスト教会の真の義務とは、まさに、神が教会に伝えたものを伝えられたとおりの仕方で伝えることにほかならないのである。とはいえ、初期のキリスト教徒、すなわちキリスト教徒という名の基準を十分にみたしていた人々の間で受け入れられていた慣習や、かれらによって称賛された慣習もまた3、当然に、[教会会議]決議教令と同等の効力をもっている。そして、この[決議教令および慣習の]後に、第二の権威が続く。それは、それぞれの時代に敬虔と学識とによってキリスト教徒の間で名声を博し、いかなる重大な誤謬も知られていない人々の権威である4。これが第二の権威とされるのは、これらの人々があたかも確実なことであるかのように大いに確信をもって述べていることは、聖書のなかで不明瞭と思われる箇所を解釈するのに少なからず重要だと考えられなければならないからである。この重要性は、一致した見解をとる者の数が多ければ多いほど、また、最初期の純粋な時代、すなわち、専制的支配やなんらかの野合が5 原初の真理を汚すことができなかった時代に近づけば近づくほど、それだけいっそう大きくなる。 
51-1. グローティウスは、教会会議synodus と公会議concilium とを同義語として互換的に用いている。したがって、この「教会会議」にはいわゆる「公会議」も含まれる。教会会議ないし公会議の決議条項はカノンcanones と呼ばれ、そこからカノン法という言葉が生まれた。カノンの原義は「すべてのキリスト教徒が守るべき規範」であるが、カノン法は、通例、教会会議ないし公会議が制定した教会の一般法、さらには教会が制定した一般法を意味する。本稿では、カノンを「決議教令」もしくは「カノン法」と翻訳した。ただし、グローティウスは、カノンを限定的に捉えている。したがって、かれがカノン法というとき、それは、通常用いられるカノン法・教会法と同義ではない。この点について、次訳注51-2 および51-3 も参照されたい。
51-2. 「それが正しいものである限り」という限定詞は、グローティウスが「カノン」を一般的な意味よりも狭く、厳格に解していることを示している。この点について、グロノヴィウスは、「これによって、[グローティウスは、]公会議がときどき誤りうることを確認している」と注記している。また、バルベイラックは、「これは、教会会議の決議教令がグローティウスの目的にとってあまり役立たないことを示すものである」として、次の4 つの理由をあげている。第1 は、キリスト教信仰が純粋に保たれていた初代教会時代については、公会議の記録がほとんど存在しないこと、そして、存在するいくつかのものについても、誤りや改竄が多く見られること。第2 は、教会会議ないし公会議の決議教令は、概して、教義に関する思弁的性質の事項や、教会内部の規律に関する事項について規定しているにすぎないこと。第3 は、教会会議ないし公会議は、理論上誤りうるだけでなく、実際にも、しばしば、誤りを犯したのだから、その決議教令の正しさを判定し、決議教令を正しく解釈するためには、結局、聖書に立ち戻らざるをえないということ。そして第4 は、現実の教会会議ないし公会議は、しばしば、皇帝の隠れ蓑としての役割を果たす聖職者や、地域の有力者の利益を代表する聖職者によって牛耳られ、その決議教令は、必ずしも、問題を正しく検討するのにふさわしい学識と能力とを備えた聖職者によって定立されていないこと、である。他方、グローティウスは、「カノン」を狭く解する理由を、「本当の意味のキリスト教会の義務は、神が教会に伝えたものを伝えられたとおりの仕方で伝えることにほかならない」と述べている。したがって、バルベイラックが指摘している理由は、グローティウスの基準をみたすような教会会議の決議教令はそう多くないことを説明するための理由として読まれるべきであろう。それは、結果として、「教会会議の決議教令はグローティウスの目的にとってあまり役立たないことを示す」ことになりうる。しかし、グローティウスは、たとえ少数であっても、本来の意味の教会会議決議は大きな権威を有するといっているのだから、バルベイラックの評言はやや適切さを欠いているといえよう。なお、グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第2 章、第9 節で、ニカエア公会議(325 年)、エルヴィラ公会議(300 年頃)、第一回トレド公会議(400 年)、第一回アルル公会議(314年)などの公会議名をあげ、その決議教令に言及している。
51-3. グローティウスが、ここで、具体的にどのような慣習を考えているのかは不明である。しかし、かれは「戦争と平和の法・三巻」第1 巻、第2 章、第9節13 で、「使徒の掟」Canones Apostolorum をあげ、これは教会のきわめて古い慣習であると説明している。「使徒の掟」は85 箇条からなる一種の教会法令集で、それ以前の教会の慣習法や最初期の公会議決議教令を収録しものである(この法令集は、もともと380 年頃に成立した「使徒憲章」Constitutiones Apostolicae の一部をなしていたが、西方においては単独で流布し、中世のローマ法大全やグラーティアヌス教令集の写本中にも挿入された)。したがって、グローティウスが「初期のキリスト教徒たちの慣習」というとき、かれは、「使徒の掟」のような、初期の教会法令集に収録された慣習法を考えていたと理解することができよう。ちなみに、バルベイラックは、初期のキリスト教徒を、無条件に、純粋で正しい信仰の持ち主であったとするグローティウスの見解に対して、それはあまりにも単純すぎると批判し、聖書に書かれていないことがらに関するかれらの判断や行動がそのまま法的規範となるわけではないと指摘している。そして、その例として、戦争に参加すること、訴訟をすること、公職に就くこと、宣誓をすること、商業に従事すること、再婚すること、利息を取って金を貸すことをあげ、初期のキリスト教徒の大部分は、これらを、してはいけないことだと考えていたが、理性的に考えても聖書に照らしても、これらはそれ自体が悪いわけではないのだから、かれらの判断は法的規範になりえないと述べている。バルベイラックの批判の当否は別として、おそらく、このような事例も「初期のキリスト教徒たちの慣習」に属すると考えることができるであろう。
51-4. グロノヴィウスによれば、第二の権威を有するのは、「教父ならびに教会の著述家たち、たとえば、アウグスティーヌスや、テルトゥリアーヌスおよびその他の人々」である。グロノヴィウスはラテン教父の名前しかあげていないが、グローティウスはギリシア教父の作品も多数引用している。
51-5. グロノヴィウスは、「専制的支配」dominatus について、「ローマ教皇の支配、すなわち教皇君主制のことである」と注記し、「グローティウスはガリアで執筆しているので、これを攻撃することを望まなかった」と補足している。また、「野合」coitio については、「同じ共犯者グループからなる公会議のこと。教父および教会著述家たちのこと」と注記している。グロノヴィウスは具体的な公会議あるいは教父の名前をあげていないが、おそらく、ローマ教皇首位権の確立に寄与した公会議、教父および教会著述家などを想定しているものと思われる。ちなみに、教皇首位権論の発端とされるのはニカエア公会議(325 年)である。 
〔52〕 この人たちのあとを継いだのはスコラ学者である1。かれらは、しばしば、その才能においていかに優れているかということを示している。しかし、かれらは、たまたま、すぐれた学術artes bonae というものを知らない不幸な時代にめぐり合わせた。したがって、[かれらの著作において]称賛すべき多くのことがらの中に、宥恕されなければならないことがいくつかあるとしても、それは少しも驚くことではない。しかしながら、倫理上のことがらについてかれらの見解が一致するとき、かれらが誤りを犯していることは稀である。その理由は、かれらが、他人の言説の中で非難されるべき可能性がある点を看取することに、きわめて鋭敏だからである。しかし、相異なる見解を熱心に擁護するときでも2、かれらは、その熱心さに関して、称賛に値する節度の範例を提供している。すなわち、かれらは、理由を示してお互いに論争するのであって、学問の名を汚し始めるところまで広まっている最近の習慣のように、無能な精神の恥ずべき産物である罵りをもって論争したりはしないのである。 
52-1. グロノヴィウスは、この「スコラ学者」を「『命題集』の教師ペトルス・ロムバルドゥス* 以降の学派のこと」と注記している。しかし、グローティウスはペトルス・ロムバルドゥスには言及していない。「戦争と平和の法・三巻」で引用ないし言及されているのは、ソールズベリーのジョン* およびトマス・アクィナス以降のスコラ学者である。
52-2. グロノヴィウスは、「相異なる見解を擁護する」diversa tuendi について、「対立する見解のそれぞれに有利な議論をすること」と注記している。 
〔53〕 ローマ法の学識を公言する人々には三つの種類がある。第一の種類は、その著作が、「学説集」、テオドシウス帝* およびユースティニアーヌス帝* の「勅法集」、そして「新勅法」の中に見出される人々である1。第二の種類に属するのは、イルネリウス* を継いだ人々、すなわちアックルシウス*、バルトールス* およびその他多数の、長く法廷を支配した人々である2。第三の種類に含まれるのは、人文主義の学問と法律の研究とを結合した人々である3。わたしは、第一の種類の人々に重要性を認める。なぜならば、かれらは、しばしば、自然法に属することを明らかにするための最良の論拠を提供してくれるし、諸国民の法についても、しばしば、自然法に対するのに劣らない証拠を提供してくれるからである。しかしながら、かれらは、他の人々と同じように、この二つの名称をしばしば混同している。そればかりか、かれらは、たかだかいくつかの国民の間の法にすぎないもので、合意に基づくのではなく、ある国民が他の国民を模倣した結果か、あるいは偶然に受け入れたにすぎないものを、しばしば、諸国民の法と呼んでいる。さらにまた、かれらは、しばしば、真に諸国民の法に属するものをローマ人の法に属するものと区別せず、両者を混同して論じている。このことは、たとえば、捕虜および復帰権に関する章から明らかである4。それゆえ、われわれは、これらを区別するように努めた。 
53-1. 第一の種類の人々は古代ローマの法学者である。ユースティニアーヌス帝の「学説集」Digesta; Pandectae(533 年)には、クィントゥス・ムキウス*、ラベオー*、サビヌス*、ケルスス、ユリアーヌス*、ポムポーニウス*、パピニアーヌス*、パウルス*、ウルピアーヌスなど、約39 名のいわゆる古典ローマ法学者の200 点あまりの著作から抜粋された9000 余の法文が、その出典を示して収録されている。グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」において、上記の法学者を含む多数の古典ローマ法学者とその作品に言及している。「テオドシウス法典」Codex Theodosianus(438 年)はテオドシウス2 世* によって編纂、公布された法典で、これには、コンスタンティヌス帝* 以降の勅法約3400 が、16 巻に分類されて収録されている。ユースティニアーヌス帝「勅法集」Codex Iustinianus(534 年)には、ディオクレティアーヌス帝* 以降の勅法から抜粋された約4600 の法文が、12 巻に分類、集成されている。また、「新勅法」Novellae は、ユースティニアーヌス帝の勅法を後の皇帝たちが集成した法典で、168 法文からなる。「新勅法」のラテン語訳版は「権威書」Authenticum と呼ばれ、これには134 法文が収録されている。そして、勅法集および新勅法の法文中でも、しばしば、法学者の名前があげられている(ただし、作品名は記されていない)。なお、グローティウスは、ユースティニアーヌス帝「法学提要」Institutiones Iustiniani( 533年)をあげていないが(その理由は、おそらく、「法学提要」には、法文の源泉とされた法学者の作品や法学者名が記されていないからであろう)、「戦争と平和の法・三巻」では、第2 巻、第3 章などで、「法学提要」の法文も利用している。
53-2. 第二の種類の人々は、中世のローマ法学者、すなわちイルネリウスに始まり、アーゾ* を経てアックルシウスに終わる註釈学派、およびバルトールス、バルドゥス* らに代表される後期註釈学派の人々である。グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」において、註釈学派についてはイルネリウスおよびアックルシウスに、後期注釈学派については、バルドゥス、バルトールス、チーヌス・ダ・ピストイア*、アルベリクス・デ・ロサーテ*、アレクサンデル・タルターニス*、ヤーソン・デ・マイノー*、その他多数の法学者に言及し、その作品を援用している。また、グローティウスは、これら中世ローマ法学者の他に、ホスティエンシス*、シニバルドゥス・フィエスキ*、グィレルムス・デュランドゥス*、ヨハンネス・アンドレアエ*、コヴァルビアス、パノルミターヌス* などの、いわゆる中世カノン法学者の著作も頻繁に利用している。
53-3. 第三の種類の人々は、いわゆる人文主義法学者である。人文主義法学は、16 世紀にアルチャート*、ビュデ*、ツァジウス* を先駆者として発展し、とりわけフランスで隆盛をみた。キュジャス*、ドノー* がその頂点をなす。かれらは、人文主義的古典研究の方法をローマ法に適用し、中世のローマ法学者たちが古代ローマ法に加えた不純物を取り去って古代の純粋なローマ法を復元することにより、本来のあるべき正しい法の原則を導き出すことができると考えた。このような手法はガリア風mos Gallicus と呼ばれ、伝統的な中世のローマ法学、すなわち注釈学派および後期注釈学派の法律学はイタリア風mos Italicus と呼ばれた。ローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」で、アルチャート、キュジャス、ドノー、ツァジウスらの著作を引用している。
53-4. 「捕虜および復帰権に関する章」とは、「学説集」第49 巻第15 章のことである。グローティウスは、たとえば、「戦争と平和の法・三巻」第3 巻、第9 章、第3 節で、「学説集」第49 巻、第15 章、第12 法文(トリュフォニヌス「討論集・四巻」)「戦時には復帰権が存在する。また、戦争で捕虜となり、和平協定の中で何も言及されていない者については、平和時においてもその権利が存在する。セルウィウス[スルピキウス・ルーフス]は、このように定められた理由を、ローマ人が、帰国の希望とは、[ローマ]国民にとって、果敢に戦うことへの復帰であって、平和の状態に復帰するのではないことを欲したからである、と書き記している」(D. 49. 15. 12. pr.)をとりあげ、「しかし、この理由は、ローマ人に特有のものであって、諸国民の法を構成することはできない」と述べている。 
〔54〕 第二の階層の人々は、神法や古代の歴史をなおざりにし、諸々の国王や国民の間の争いをすべてローマ法にもとづいて、また時にはカノン法を利用して、解決しようとした。しかし、これらの人々の場合も、その時代の不幸[な状態]が、しばしば、ローマ法を正しく理解する妨げとなった。もっとも、かれらは、それ以外の点では、衡平および善の性質を探り出すのに十分な巧みさを備えていた。その結果、かれらは、しばしば、法を定立する法創定者としては最良であるが、同時に、制定された法の解釈者としては劣悪である、ということになった1。しかし、かれらが、われわれの時代の諸国民の法を形成している慣習について証言している場合には、その証言は大いに傾聴されなければならない。 
54-1. グロノヴィウスは、この文章について、かれらは「なにが法であるべきか、ということに関してはこの上なく正しく論じたが、その際に、古代ローマの法律家の文章をねじ曲げ、」法文の適用を誤った、と注記している。 
〔55〕 第三の順位の教師たちは、ローマ法の領域内に閉じこもり、あの〔諸国民に〕共通の法にはまったく足を踏み入れていないか、あるいは、ごくわずかにしか踏み入れていない。したがって、かれらは、われわれの主題に対してほとんど役に立たない。しかし、二人のスペイン人、コヴァルビアス*とヴァスケス* は、スコラ学の精緻さとローマ法およびカノン法に関する知識とを結び合わせて、諸々の国民ならびに国王の間の紛争(について論ずること)も回避しなかった。ヴァスケスは大いに自由に論じ、コヴァルビアスは比較的控えめに論じている1。しかし、この二人の判断にある種の正確さが欠けているというわけではない。ローマ法およびカノン法の研究に、さらに歴史を導入しようと試みたのは、フランス人の学者である。かれらの中では、ボダン* とオトマン* が名声を得ている。ボダンの名声は一連のまとまった著作によるものであり、オトマンの名声は散発的な個別の設問によるものである2。かれらが提示する結論とその論拠は、しばしば、われわれに、真理を探究するための材料を提供してくれるであろう。 
55-1. グロノヴィウスは、ヴァスケスについて、「戦争と平和の法・三巻」第2 巻、第1 章、第9 節の記述を指示している。ここで、グローティウスは、君主の一身は神聖かつ不可侵であるから、君主に対する正当防衛として君主の生命を奪うことは許されないと説き、「無辜の人の生命に危害を加える君主は、そのこと自体によって、もはや君主ではない」とするヴァスケスの見解を、「正しいとはいえないばかりか、むしろ危険である」と評している。また、グローティウスは、同章、第10 節で、生命にかかわるほどの危害ではない場合でも、防衛のために加害者の生命を奪うことができるとする見解について論じ、コヴァルビアスの「人間の知性は、自然法について無知であることを許されない。自然の理性によって許されるすべてのことが、神のもとで、すなわちそれ自身が自然であるもののもとで、同じように許されるわけではない」という言葉を引いて、「われわれは、この言葉によって、用心するように教えられる」と評している。なお、コヴァルビアスの法律学については、グローティウス「戦争と平和の法・三巻」との関係も含めて、佐々木有司「コバルビアスと普通法」(佐々木有司編「法の担い手たち」所収、国際書院、2009 年、37 〜 89 頁)に、要領を得た優れた解説がある。
55-2. バルベイラックによれば、ここでグローティウスが念頭に置いているのは、ボダンの「国家論・六巻」と、オトマンの「著名設問集」である。グローティウスは、「戦争と平和の法・三巻」の中で、ボダン、オトマンの他に、いわゆるガリア風学派に属するドノー、デュアレン*、デュムーラン* らの著作も援用している。 

 

〔56〕 この仕事全体を通してわたしがもっとも力を入れて心がけたのは、次の三点である。すなわち、[概念や議論を]確定する場合に、その根拠をできるかぎり明瞭に示すこと、論述の対象を一定の順序にしたがって整理すること、そして、相互に等しいように見えるが実際には等しくないものを明確に区別すること、である。 
〔57〕 わたしは、たとえば、なにをすれば利益になるかということを教えるような、別の主題に属することについては、論述を差し控えた。なぜならば、そうしたことについては、政治学という、それに特有の学問があるからである1。アリストテレースは、これを正しい仕方で、すなわち、これを単独でかつ異質なものはなにも混入せずに論じている2。これに対して、ボダンは反対のことを行っている。すなわち、かれの場合には、この学問と法に関するわれわれの学問とが混同されているのである。ただし、わたしも、いくつかの箇所で、有用であることに言及した3。しかし、それは、いわば傍論としてであり、また、有用であることと正義の問題とをいっそう明白に区別するためである。 
57-1. バルベイラックは、グローティウスが「有用性」を政治学の基準としていることについて、次のように注記している。「正義のルールに反することを認めないのがよい政治である。国家の利益を唯一の原理とするマキャヴェッリ* 流の考えは誤った政治学であり、忌避されるべきである。しかし、政治の領域においても、正義と有用性はつねに二つの別のものである。このことは、まさに本書の主題に属することがらから一つの事例を取り出してみれば、容易に理解されるであろう。戦争を正当に行うためには、なによりもまず戦争に訴えるための正当な原因がなければならない。しかし、たとえどんなに立派な正当原因があったとしても、諸般の事情から、武器に訴えれば必ずや公共の利益が害されるであろうという理由に基づいて、武器を取ることが許されない場合がある。また、戦争によって得られるであろう利益よりも損失の方が大きいとわかっているときに、戦争に踏み切るのはよい政治の原則に反する」と注記している。
57-2. グローティウスは、ここで、アリストテレース「政治学」を念頭においていると思われるが、「政治学」では、政治学の学問としての性質について何も説明されていない。その説明は「ニコマコス倫理学」で与えられている。アリストテレースは、「ニコマコス倫理学」の最初の部分と最後の部分で政治学に言及している。かれは、まず、第1 巻、第2 章で、倫理学と政治学とは相互に関連し合っていることを指摘して、こう述べている。「政治学は国家のなかにどのような知識がなければならないか、また国家の各市民層はどのような知識をどこまで学ぶべきかを規定する。のみならずわれわれは、さまざまな能力のなかでも最も尊ばれるもの、たとえば統帥術、家政術、弁論術のような技術でさえも、現に政治学に従属しているのを見るのである。しかも政治学が、他の 知識を用いるだけでなく、さらには、人々が何をなし、何をさけるべきかをも立法するのであってみれば、政治学の目的は他のさまざまな知識の目的をも包含するであろうし、その目的こそまさに人間にとっての善であることになるだろう。なぜなら、たとえ目的が個人にとっても国家にとっても同じものであるにせよ、国家の目的の方が、それを達成するにしても、その成果を保全するにしても、とにかくより大きく、より完全であるように思われるからである。つまり目的の達成や成果の保全は、たしかに一個人にとっても望ましいことではあるが、しかし民族や国家にとってはいっそうすばらしく、かつ神的なことなのである。かくして、われわれの研究はこうした目的を目指しているのであって、一種の政治学なのである」(朴一功訳、前掲、6、7 頁)。そして、第10 巻、第9 章では、「政治学」の領域および目的と探求の方法を明らかにして、次のように述べている。「法はしかし、思うに、政治術の作品なのである。……われわれの先人たちは、立法に関する領域を未開拓のままに残した以上、むしろわれわれ自身がその領域について、したがってまた、国制全般についても考察を加えた方がよいであろうし、そのことによって『人間の事柄に関する哲学』が可能なかぎり完全なものとなるであろう。そこで先ず第一に、個別的な論題に関して先行の思想家たちによって適切に語られている事例が何かあるなら、そうしたものをわれわれは通覧し、次いで、収集されたさまざまな国制の事例に基づいて、どのような事柄が個々の国家を保全したり滅ぼしたりするのか、またどのような事柄がそれぞれの種類の国制を保全したり滅ぼしたりするのか、そしていかなる原因によってある国家は適切な仕方で治められ、また他の国家はそれと反対の仕方で治められるのか、こうした点についてわれわれは研究することにしよう」(朴一功訳、前掲、494、495 頁)。
57-3. ここでの「有用であること」quod utile est が、具体的にどのような場合を指すのかを確定することはできない。「有用性ないし効用」utilitas と法および正義との一般的な関係については、「プロレゴーメナ」第16 節および第22 節で説明されている。 
〔58〕 もし、誰かある人が、わたしの考察したことは、現代のなんらかの紛争、すなわち、すでに発生しているか、あるいはこれから発生するであろうと予測される紛争に関するものだと考えるならば、かれは、わたしに対して不正を働くことになろう。なぜなら、本当のことを告白すると、わたしは、ちょうど数学者が物体から隔たった図形を考察するのと同じように、法について論ずるとき、わたしの関心をあらゆる個別の事実から遠ざけたからである。 
〔59〕 叙述の仕方に関して、わたしは、読者の利益に配慮し、論ずべき多くのことがらにさらに多くの言葉を付け加えることによって、読者に不快な思いをさせないようにした。したがって、わたしは、できるかぎり簡潔で、かつ教えるのにも適した話し方をするように心がけた。こうすれば、公務にたずさわる人々が、一目見ただけで、通常発生する紛争の種類と、その解決を可能にするもろもろの原則とを把握することができるであろう。また、これらのことが認識されれば、かれらの課題に適した議論が容易となり、好きなだけそれを拡張することもできるであろう。 
〔60〕 わたしは、ときどき、古代の著者の言葉をそのまま引用した。それは、その言葉が権威をもって、あるいは特別の美しさをもって語られていると思われた場合である。ときには、ギリシア人の著者についてもそうした。ただし、それは、主として、文章が簡潔であったとき、あるいはわたしがラテン語でその優美さを表現することができるとは思えなかった場合である。しかし、どの場合でも、わたしは、ギリシア語を学ばなかった人々の便宜のために、ラテン語[訳]を添えておいた。 
〔61〕 わたしは、他の人の見解や著作を判断するとき、自由な姿勢でのぞんだ。この著作を手にするすべての人々が、これと同じ自由な姿勢をわたしに対してもとるように、切にお願いする。わたしが誤謬を犯していると忠告してくれる人があれば、わたしはただちにその忠告に従うであろう。最後に、もう一つお願いしたいことがある。それは、もし、わたしが、なんらかの、敬神に悖ることや、善良な慣習に反することや、聖書と矛盾することや、キリスト教会の一致した意見と異なることや、ある真理に反することを述べているとしたら、それはいわれなかったことにしてもらいたい、ということである。 
 
ガリレオの判決文

 

汝、フィレンツェのヴィンチェンツィオ・ガリレイの子、ガリレオ、70歳は、あるものどもによって教えられた誤った学説、すなわち、太陽は世界の中心にあって不動、そして大地は日周運動をするという説を真実であると考えたため、またこの説を教えこんだ弟子を持ったため、また同じことにつきドイツのある数学者と手紙のやりとりをしたため、また汝は、同学説を真実であると説明している『太陽黒点について』と題する、いくつかの手紙を印刷したため、またしばしば、聖書から取り出されて汝に対してなされた反論に対して聖書を自己流に解釈して答えたため、1615年、この聖省に告訴された。そしてそのさい、汝より汝の弟子に宛てて書かれたといわれる手紙の形式の書きものの写しが提出され、これにはコペルニクスの命題に従って、聖書の真の意味と権威とに反する様々な命題が含まれていた。
したがって当法廷は皇教閣下と当至高(しこう)にして普遍的な異端審問所の枢機卿猊下(猊下げいか:高僧に対する敬称)の命により、それより生じ神聖なる信仰にますます多く傷を付ける無秩序と損傷とを防ぐために、神学検邪官により太陽の静止性と大地の運動性との二命題が、次のように検定された。
太陽は世界の中心にあり、位置運動をしないという命題は、哲学的には不条理で誤りであり、形式的には明らかに聖書に矛盾するから異端である。
太陽が世界の中心になく不動でもなく、さらに日周運動をするという命題は、等しく哲学的には不条理で誤りで、神学的には、少なくとも信仰上は誤りであると考えられた。
しかし当時、汝を穏便に処置しようと考えたため、1616年2月25日、教皇閣下の前で開かれた聖省会議において、ベルラルミーノ枢機卿猊下より汝に、上述の誤った意見を全く放棄するように命じ、汝がそうすることを拒否すれば、聖省の委員に、上述の説を捨て、他人に教えず、弁護せず、論じぬよう命じさせ、この禁止命令に従わぬ場合は投獄すべきことが決められた。この命令の実施のため、翌日、上述のベルラルミーノ枢機卿猊下の邸宅において、猊下御出席のもとに、同枢機卿の穏やかな忠告と訓告ののち、当時の聖省の委員により、書記、証人立ち会いのうえ、全面的に上述の誤った意見を放棄し、将来、汝は話してでも書いてでも、その意見をいかなる仕方においても抱けず、弁護できず、教えられぬことを命じられた。そして汝は従うことを約束して、放免された。
そしてこのような危険な学説を根絶し、カトリックの真理に重大な傷がもはやつかぬよう、図書検閲聖省は命令を発し、このような説をとりあつかう書物を禁止し、これが誤りであり、聖書に全面的に反するものであることを宣言した。
ところが最近、フィレンツェで昨年印刷され、『ガリレオ・ガリレイの、オウトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』という表題で、その記述により汝が著者であることのわかる書物が現れた。そして、聖省に、この書物の出版により、大地の運動と太陽の静止性との誤った意見が日々根をおろし、流布されつつあると報じられた。そこで、同書を熱心に考察したところ、さきに汝に出された禁止命令の明らかな違反が発見された。というのは汝は同書においてさきに断罪され、汝の全面においてその旨、明示された上述の意見を弁護しているからである。汝は同書においてさまざまな根拠を用い、これを未解決のものであり、明らかに蓋然的(可能性のある問題として、仮説といっても良いか?)あることを説得しようと努めてはいるが、聖書に反することの明らかに決定された意見は、いかなる仕方においても蓋然的ではありえないがゆえに、それはきわめて重大な誤りである。
そこでわれわれの命令により、汝は当聖省に召喚され、審問を受けた汝は、宣誓のうえ、汝がその書物を作成し、印刷したことを認めた。
汝はまた、上述の禁止命令の発せられたのち、いまから約10あるいは12年前に同書を書き始めたこと、また汝は同書の印刷許可を要請しながら、汝がそのような説をいかなる仕方においても抱かず、弁護せず、教えないよう禁止命令を受けたことを汝に許可を与えるものに知らせなかったこと、を告白した。
また汝は、同書の書き方がその多くの箇所において、その誤った側のために提出された論証が、その有効性のため容易に論破されるよりも強制するような工合(ぐあい)に述べられていると読者に考えさせるような形で書かれていることを告白し、汝の意図とこのようにああいいれない、汝のいうのによれば、誤りに陥ったのは、対話の形式で書いたためであり、またたとえ誤った命題のためであろうとも、だれでもが自分の明敏さと、蓋然的なことについて巧妙で明らかな議論をするさいに、一般の人びとよりも鋭いことを示すことに感じる自然な喜びのためであると弁解している。
そして抗弁をなす適当な機会が与えられると、汝が宣誓し、聖省により罰せられたという汝の敵の中の中傷に対して弁解するため、汝に与えられたと称するベルラルミーノ枢機卿猊下の手で書かれた証明書を持ちだした。この証明書には、汝が誓絶したこともなく、罰せられたこともなく、ただ大地の運動と太陽の静止性との学説は聖書に反するもので、弁護することも抱くこともできぬという、教皇によって宣告され、図書検閲聖省によって公布された宣告が、汝に通告されたことのみが記されている。そして同証明書に禁止命令中の二つのことば、すなわち、教える、と、いかなる仕方においても、が記されておらないがゆえに、14あるいは16年の経過中に全く記憶がなくなり、またその理由から、その書物を印刷する許可を求めたときに、その禁止命令のことを黙っていたと、そしてこれらすべてのことを汝の誤りの弁解としていうのではなく、悪意からではなく、空しい野心からであるということを、信じてくれというのである。ところが汝がその抗弁として持ち出した証明書こそ、汝の罪をさらに重大なものとしただけである。というのは、同証明書には上述の意見が聖書に反することがいわれているにもかかわらず、汝はあえてその意見を蓋然的なものと考え、弁護し、説得したからである。また汝はその受けた禁止命令を知らせなかったから、巧妙にまた、あらゆる術策をつくして強奪した出版許可も汝の助けとなるものではない。
そしてわれわれは、汝がその意図について真実をすべていわなかったように思ったので、汝を厳重に審問することが必要であると判断した。そのさい、汝の告白したことを崩すことはなにもなく、また汝の上述の意図にかんして上述のごとく推断されたことを裏づけることはなにもなく、汝はカトリック信者らしく答えた。
そこで、上述の汝の告白、弁解、および見また考慮されるべき動機とともに汝の事件の本案をみ、また十分に考察し、われわれは汝にたいする以下のような最終判決に達した。
そこで、もっとも神聖なイエス・キリスト、またもっとも栄光ある永遠の処女、聖母マリアのお助けにより、聖なる神学の尊敬すべき師たち、またわれらの顧問である新旧両約の博士たちの忠告と見解とをもって法廷にあったわれわれは、その眼前で、一方において新旧両訳の博士、聖者の審問官カルロ・シンチェリ殿と、他方においてここにおり、上述のように審問され、起訴され、告白した罪人、上記、汝ガリレオ・ガリレイとの間で、なされた、そしていまもなされている申し立てにかんして、この書類において次のように述べる。すなわち、
汝、上記ガリレオは審問にさいして引き出されたことがらにより、また上記のように告白したことにより、当聖省から異端の深い嫌疑を受けたこと、すなわち、太陽は世界の中心にあり、東から西に動かず、大地が動き、世界の中心にないという誤っており、聖書に反する説を抱き、信じたこと、また聖書に反すると宣告され決定されたのちも、その意見を蓋然的なものとして抱き、弁護しうるとした嫌疑を受けたこと。したがって、汝は神聖な教理典範、また一般的・特殊的聖省令によって同様な罪人にたいし課し公布されたすべての訓戒と刑罰とを受けることを、われわれは述べ、いいわたし、判決し、宣告する。まず第一に、真摯な心情と汚れない信仰とをもって、上述の誤りと異端と、他の使徒伝来のカトリック教会に反する誤りと異端とを、われわれが告げる仕方、形式において、われわれの前で、誓絶し、呪い、嫌うことを条件として、汝が赦免されることをわれわれは喜びとっするものである。
そしてこの汝の重大で危険な誤りと違反とが、まったく処罰されないままにならないため、また将来、ますます慎重にし、同様な罪を犯さぬよう他のものの例とするため、われわれはガリレオ・ガリレイの『対話』の書物を禁じるよう、公に命令する。
われわれはわれわれの欲する期間、汝を当聖省内の正式の監獄に投じ、救霊のための贖罪の行為のため、今後三年間、毎週一回、七つの悔罪詩篇を唱えることを課する。上述の刑罰と贖罪の行為の全部あるいは一部を軽減し、変更し、撤回する権限はわれわれが保留する。
われわれはこのような仕方と形式で述べ、判決を下し、宣告し、説明し、命令し、そしてわれわれが用いうる、あるいは用いるべき他の仕方と形式でもそうすることを保留するものである。

初めの方に「あるものどもによって教えられた誤った学説」といういいかたがあります。このことばから、裁く方の人々には「自然から学ぶ」という視点がなかったことがわかります。また、「真実」がガリレオの時代にどう考えられていたのかということもわかります。「太陽は世界の中心にあり、位置運動をしないという命題は、哲学的には不条理で誤りであり、形式的には明らかに聖書に矛盾するから異端である。」とかいてありますから、「真実」は聖書にあり、聖書と矛盾するものは異端だというのです。今読むと、ちょっと滑稽な感じがします。ですが、今でも、ある文章に権威を与え、真実かどうかを、その文章のみから判断するやり方は、ごく普通に見られることです。例えば皆さんは、教科書に書いてあればそれだけで「真実」だと思うでしょう。当時は、聖書が、皆さんにとっての教科書のようなものであったと思うと、裁判官の気持ちも少しはわかるのではないでしょうか。ガリレオの判決文は、「科学的」であるということはどういうことなのか、「自然科学」を学ぶことが、どのような精神を引き継ぐことなのかを考えるための、一つの良い材料になるのではないかと思います。
なお歴史を学んでいるだろう皆さんには、蛇足かもしれませんが、旧約聖書と新約聖書について触れます。ヘブライ人が書き残した伝説や神への讃歌、預言者のことばなどをまとめたユダヤ教の教典を、旧約聖書といいいます。イエスは、ユダヤ教の一派であったパリサイ派の人たちの偽善と戒律主義を激しく批判しました。そして、身分や貧富の差を越えた神の絶対愛を信じ、己を愛するように隣人を愛すべきことを説きます。キリスト教は、ペテロなどの使徒やパウロの異邦人への伝道によってローマ帝国内に広がり、信者の団体教会が生まれていきます。キリスト教は、現世の利益を求めるギリシア・ローマの多神教とあいいれず、また皇帝崇拝を認めなかったので、迫害を受けました。しかし3世紀ころまでに、下層市民層や奴隷の間に普及し、上流階級にも広がったのです。この間に、キリストの現行をしるした『福音書』、初代使徒の活動を述べた『使徒行伝』、および使徒の書簡などが集められて『新約聖書』が成立し、『旧約聖書』とともにキリスト教の教典となりました。
聖書を書いた人たちは、ギリシアの自然哲学を多分知らなかったのです。古くからの神話には、自然の現象について書かれている部分がたくさんあります。それに、自分たちが見聞きした自然現象が、神との関わりを持って、話の中で触れられます。そのようなことが、聖書の中にはあるのだろうと思います。普通の人が普通に見聞きした自然観では、自然の本当の姿とは、大分かけ離れております。目にした現象の原因を、なにも学ばずに「こういうことに違いない」と理解しても、間違っていることが多いのは、なにも聖書を書いた人の責任ではなく、誰しも、現代でも、そうなのです。ですから、いくらなんでも、ガリレオの時代まで、書かれてあることをそのまんま「真実」とは、行かなかったのです。ですから、聖書と、アリストテレスの哲学とを結びつけることがおこなわれたのですが、それについては、先で触れます。
私は、この判決文を読んで、判決文を書いている人の気持ちが、「おどおどしている」様に感じました。ガリレオは、当時まさに誰もが認める人でした。ですから、裁くに当たっても、後々自分の責任が問われることがないように…と、そんなことを気にしていたのではないかと思います。  
 
ガリレオ・ガリレイにおける科学と宗教の問題

 

 [ローマ教皇庁の最終声明をめぐって]  
はじめに

 

科学と宗教をめぐる問題は古くて新しい問題である。自然学が自然科学となるための枢要な用件は、時間的・空間的に時代を支配したそれぞれの宗教を内在的に合蓄した自然学を、その宗教の支配から自然学を分離し、自然を数学のことばでいかにかたるか、という知的作業であったといっても過言ではない。
近代科学の創立者アイザック・ニュートンでさえ、その時代の宗教的呪縛から逃れることができなかったし、いやむしろ、かれは神の被創物である自然を探究することが少しでも神に近づくためであり、当時の支配的な神への対抗的で古典的なニュートンの特有な神を追求するなど、神学研究になみなみならぬ精力を注いだのである。
ニュートンの神学研究が当時の支配的な宗教の世界とは異端的な宗教であったとしても、ここで考察するガリレオのように社会から断罪・処罰されるようなことはなかった。それだけ市民的杜会的状況が成熟したと見るべきか、あるいは、コペルニクス、ジョダール・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、ガリレオなど、ニュートン以前の思想家・哲学春たちが、形態はさまざまだが、いずれも科学と宗教をめぐって社会的な制裁・断罪を受けながら苦悩にみちた闘いのもとで構築した哲学や科学に、ニュートンとかれの科学はその恩恵に預かっていると見るべきか。いずれにしても、ニュートンの科学と宗教が社会的制裁を受けることなく、近代科学の創立者の名をほしいままにできるのは、ニュートンの非凡な数学的・哲学的な能力にあったとしても、ブルーノやケプラーやガリレオの杜会的断罪と社会的犠牲の上に成り立っているといえる。
いわばニュートンの科学的業績とニュートン主義的世界像が形成されてきた背景には、上記のような先人の苦難に満ちた科学と宗教を巡る闘いがあったことを記憶しておかなければならない。
さて、ここで考察するのは、近代科学者の創立者アイザック・ニュートン(1642-!727)が生まれた1642年その年に死去した、近代科学の父ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)における科学と宗教の問題、いわゆる科学と宗教をめぐるあまりにも有名な「ガリレオ裁判」についてである。あにをいまさらとも思われるが、それというのもヴァチカン(Vatican)当局が、科学と宗教をめぐり永きにわたってかたりつがれてきた歴史的裁判「ガリレオ裁判」に対して、このたび「最終声明」をほぼ4世紀ぶりに出すにいたったからである。
ちなみに、ヴァチカンとは、ローマ市の西端のヴァチカノ丘にある教皇宮殿のことで口−マ教皇庁の別称でもあり、ローマ教皇の統治する独立国(129年成立)で面積4.4ku、人口約750人(1988年現在)である。(1)
現代の世界状況をみても、科学と宗教の問題は単なる科学と宗教の問題の領域におさまるものではなく、いまや国際政治の問題を左右するにいたって政治の問題であるからには、人間の生死にまでおよぶことさえまれではない。ヴァチカンの動向しだいで国際政治が大きく動いてきた歴史があり、現在もそうであるがゆえに、今回のヴァチカン当局(ローマ教皇庁)が、4世紀ぶりにガリレオ問題の歴史的裁判に最終決着をつけようとする姿勢に真撃に耳をかたむけるとともに、その最終声明にいたる経過と声明内容、その現代的意味、そして、そもそも「ガリレオ裁判」とはいかなるものであったのか、その歴史をさぐることにしよう。  
1 ガリレ才問題の再審発足の契機となった法王ヨハネ・パウロ2世の講演

 

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は1971年11月10日、ローマ教皇庁立科学学士院で開催されたアルバート・アインシュタイン生誕100年記念祝典の講演「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」のなかで、ガリレオ間題を再審する調査委員会を発足させることを表明した。
なにしろ法王の講演であるからには、私の要約に誤りがあってはならず、しかも歴史的・画期的声明であるので、読者にもその講演をぜひ読んでいただきたい。世知幸い現代杜会にあるわれわれは、仏教やキリスト教といった宗教にこだわることなく、また有神論者であろうが無神論者であろうが、何世紀にもわたり、そのときどきの時代の「現代杜会に生きるひとびと」に絶大な彰響カを行使してきた宗教界が、その世界では、もっとも困難とする「自已批判」をはじめようとする姿勢と言葉に、真剣に耳をかたむけなければならない。
なお、出典・訳文は『みすず』(1993.8.8みすず書房)の柳瀬睦男解説・川田勝訳による。 以下にそのあらましを示すことにする(2)。
法王ヨハネ・パウロ2世はまず、科学の基本的な任務は真理の探究である、純粋科学は知性的な人間をつくるのが要素であるので、それが技術的応周につながらなくとも、人類文化の不可欠な要素であるとしたあと、「基礎研究の自由」を説き、基礎研究は権力から自由であり、権力はその発展に協カすべきだとし、それば人類自身と、人類と万物の創造主たる神にたいする責務だとしている。基礎研究を応用した応用科学は、人類の愛の良心に基づかねばならず、「科学・技衛・良心」がそろってはじめて人類の真の善性と;なる自さらに、倫理を技稚に、人間を事物に、精神を物質の上位におくことが、創造主が人類に課した本質的意味である。これらのことを人類にたいして、十分に奉仕できるよう手助けするのが教会の役目であり、そのことによって教会が魔術的・迷信的な妄想を宗教から排除し、神についていきいきした認識をもつことができる。
第二点目は宗教と現代科学の協力を説く、宗教が信教の自由を保障するのと同様に、文化、特に科学がいかなるものからも自律的でなければならないことを承認する。アインシュタインの宇宙体系の学説は教会本来の領分を越えたことで、教会が判断すべきことでない、が、神学者が科学の新しい学説に学びそれを取り入れ、「料学の真理と啓示の真理の調和」を見いだすよう、教会は努カすべきだ。アインシュタインとガリレオはひとつの時代を課した偉大な科学者であったが、アインシュタインは讃えられているのにたいして、ガリレオは大いなる苦しみを味わったのだ。
しかも、その原因を作ったのは、ほかならぬ教会内部の人闇と教会機構であったと自己批判し、そのことが、信仰と科学とか対立するものだという恩考をひとびとに与えたのだ。そこで教会は神学者、科学者、歴史家が、「ガリレオ事件の真福」を協同で調査し、いずれの側の誤りであれ、その誤りを率直に認めることを求め、さらに、科学と信仰、教会と世界の調和を説いている。
第三点目は「ガリレオ事件」の本質、第4点目は「長い対立関係の率直かつ誠実な解決」をもとめる核心にせまる講演である。これは法王(教皇庁)の公式表明で重要な問題提起でもある。
"正当にも近代物理学の祖とされるガリレオは、信仰の真理と科学の真理が互いに矛盾することはあり得ない、と明確に主張しました。1613年12月21日にガリレオがカスッテリ(Benedette Caste11i)
神父に書き送った書簡には、「聖書と自然はともに神の言葉から発したものであります、聖書は聖霊の命ずるままに書かれたものであり、自然は紳の命令の忠実な実行者なのです」、と記されています。
第2ヴァチカン公会議の言わんとするところもこれと異なることはありません。「あらゆる知識の分野における学間的研究は、真実の学間的方法によるものであって、倫理の法則にしたがって行われるのであれば、けっして信イ卵に対立するようなことはないはずである。世俗は、現実と信仰の現実とは、ともに同じ神に起源をもつものであるからである」と説いている箇所には、ガリレオの表現との類似性さえ認められます。科学研究の精神の最も深いところで働くことによって、それを勅激し、その洞察力を導き、援助する創造主の存在にガリレオは気づいていました箏望遠鏡に関して、彼は『星界からの使者』(Sidereus Nuntius)の冒頭に慈悲深い神が与えたもうた啓示に導かれて、私は望遠鏡を考案しました。それを使ってこれらを発見し観察したのは、ついこの間のことであった、と記しているのです。(3)[途中省略]
ガリレオは認識論上の重要な規範を作り上げました。そして、それは、聖書と科学を調和させるための不可欠のものと認められています目彼は、トスカナ大公の母公・ロレーヌのクリスティーナ妃宛ての書簡の中で、聖書が真理であることを再確認してこう述べています。
「真の意味が理解される場合、聖書は誤ったことを決して語っているはずはない、と主張するのは非常に信心深くもあるでしょう。またそう主張するのが分別というものでしょう。しかし、しばしば、聖書の真の意味は奥深く隠れていて、言葉その
ものの意味が示すこととはかなり違っているのを、誰も否定できないであろうと、私は考えます」。(4)[途中省略]
ローマ教会の教導権は、聖書解釈の原則が複数存在することを認めています。事実、教会は、ビオ12世の回刺『ディヴィイノ・アフランテ.・スピリトウ』(Divio Afflante Spiritu)に示されているように、聖書にはさまざまな文学類型があること、したがってまた、それぞれの性格にふさわしい解釈があることを、明確に教えているのです。[途中省略]
これらの共通了解は立派な解決の出発点として、長い対立関係の率直で誠実な解決へと向かうにふさわしい心構えをつくるのに役立つでしょう。
教皇庁科学学士院については、ガリレオもその前進である由緒あるアカデミー会員として、ある程度の関係をもっているわけですが、優れた科学者たちの参加を得たこの科学学士院の存在こそは、人類や宗教の違いを越えて、すべての人々に対して、科学の真理と信仰の真理の間には深い調和が存在し得ることを証明する目に見える象徴となっているのです。
このように、法王ヨハネ・パウロ2世の声明は、教皇庁科学学士院にたいして、ガリレオ間題の再調査を命じたのである。ここでいうガリレオ問題とは、もちろん・地球は宇宙の中心に静止し、その他の天体は地球の周りを回るというアリストテレス・プトレマイオス主義者の天動説にたいして、ガリレオが、地球は太陽の周りを回る単なるひとつの物体にすぎないというコペルニクス主義者の地動説を援護し、それを著作等で論証したことに、当時のトマ教皇庁が異端とする判決を下したこと、また、この判決が4世紀間の永きにわたって、ローマ教皇庁の公式立場・見解とされたままになってきていることである。 
2 ガリレオ事件調査委員会報告

 

この法王の要請を受けた口一マ教皇庁は、1981年7月3日、ガリレオ事件調査委員会『16世紀から17世紀にかけてプトレマイオス主義者とコペルニクス主義者との間で行われた論争を研究する調査委員会』を設立した。組織委員長にガロ一ネ(Garrone)枢機卿が任命され、調査委員会には4つの専門部会が設けられた。各部会名と座長はつぎのとおりである。聖書解釈部門はカルロ・マルティー二(Car1o Martini)枢機卿、文化部門はポール・プパール(Pau1 Poupar)枢機卿、科学・認識論部門はカルロス・チャガス(Car1os Chagas)教授とジョージ・コイン(George Coyne)神父、歴吏・法律部門はミケーレ・マッカローネ(Miche1e Matrrone)視下、事務関係統括はエンリコ・デイ・ロヴァセンダ(Enrico di Rovasenda)神父である。
調査委員会は10数年間、当時の裁判記録と歴史的事実を掘り起こし、それらを当時の宗教文化状況に照らしながら総合的考察を行った。この調査研究の過程で、これに関する記録集・報告集を出しているが、これらの調査研究をもとにして、1992年10月31日、調査委員会の文化部門の座長ポール・プパール枢機卿(現在ヴァチカンの教皇庁の文化評議会・無信仰委員会議長)が、調査委員会を代表して、ヴァチカン宮殿内の科学学士院で、「ガリレオ事件調査委員会報告」を行った。
その講演の要約は次のとおりである。
専門部会の目的は、第ニヴァチカン公会議(1962-65)の精神のもとに、歴史的・文化的背景を考慮し、冷静・客観的に再考することとし、「何が起こったのか」「いかにしてそれは起こったのか」、なにゆえにそれは起こったのか」という3つの間題を掲げた。ヴァチカン秘密文書室資料、裁判記録(特にガリレオの尋問調書)、ベラルミーノ枢機卿のガリレオに対する確認書等をもとに、17世紀の文化的・哲学的・神学的背景に光をあてるとともに、トレント公会議布告教令や当時の聖書解釈の観点から、ガリレオの論点と立場および啓蒙期から現代までのガリレオ関係文献を再評価した。
まず、ロベルト・ベラルミーノ(Rebert Be11amino)枢機卿は、1615年4月12日付のカルメル会士フォスカリー二宛ての書簡で、コペルニクス主義者の天文学が、真なるものか、単に推測と蓋然的なものか、聖書の記述と両立するのかどうかを述べている。
仮にもし、世界の中心にあるのは太陽であって、地球は第3の天球に位置していること、そして、太陽が地球の周りをめぐっているのではなくて、地球は太陽の周りを回っているということを裏づける真の証明が見いだされるとすれば、これとは逆のことを物語っているかに見える聖書の記述を解釈するには、細心の注意をもって臨まなければならないということになりましょう。そして、この場合、私たちは、証明された当の主張の方が実は誤りであるのだ、などと言うのではなく、聖書の言わんとするところをよく理解していなかったのだと受けとめるべきでしょう。(5)
ガリレオは、地球の年周運動(公転運動)と日周運動(自転運動)の証拠として、海の潮汐現象や貿易風の存在を示すものの、その批判に対して反駁不可能な形で証明できなかったのだ。それが光学的・力学的に証明されるまでには、150年以上の歳月を要した。
したがって、「1633年の判決は相対的であり、変更不可能ではない」。事実、それが174!年に証明されると、ベネディクト14世は検邪聖省に初の『ガリレオ全集』に出版詐可を与え、1757年には、禁書聖省が太陽中心説支持の著作を禁書目録から除外することで、1633年の判決は「暗黙のうちに変更」された。その後の1820年代には、教皇庁の一部の神学顧間が地動説支持の著作を出版拒否したことで、いまだに1633年判決が有効であるかのような印象をもたれたが、ドミニコ会前総会長で検邪聖省のオリヴイエーリ(O1ivieri)神父がコペルニクスをひとつの学説と認め、1846年に新しい禁書目録が出版され適用された。結論として言えることは、新理論(コペルニクス主義的天文学)に対して哲学的・神学的に誤った評価がなされた原因は、当時の天文学の知識が過渡的状況にあり宇宙論に聖書解釈が混乱していたことである。その緒果、ガリレオは処罰され「大いなる苦しみを味わねばならなかった」(6)。
以上が調査委員会を代表したポール・プパール枢機卿の講演趣旨であるが、ここでガリレオ裁判に対する教皇庁の見解を明確に自已批判している。これを受けるかたちで現在のローマ教皇庁の最高指導者法王ヨハネ・パウロ2世が、1992年10月31日、教皇庁立科学学士院総会(アインシュタイン誕生100年記念祝典)で、最高責任者としてプパール枢機卿の調査報告を確認することはもちろん、法王自らガリレオ問題にふれ、それを教訓として、宗教家・哲学者の立場から、近年、発展著しい数学、物理学、科学、生物学などの現代科学と哲学・神学の関係がどのようなものでなければならないか、という非常にこんにち的な問題にまで言及していることに、われわれは注目すべきであろう。
これは歴史的・画期的声明であるので、つぎに詳細に見ていこう。 
3 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の最終声明 / 『信仰と理性の調和』

 

ここでは法王講演内容の感触に直接ふれていただくために・上記のポウル.プパール枢機卿講演と重複する部分を省略し・文意を変えることのない範囲で文章に手を入れてあるものの、講演内容を要約することなくその全貌をあげることにする。
"まず第1に、この教皇庁立科学学士院総会において、今日非常に重要な問題、数学、物理学、科学、生物学で生じた複雑性の問題が取りあげられたことを祝したいと思います。複雑性の問題の出現は、自然科学の歴史に、おそらくひとつの段階を画し、その重要性は、ガリレオの名前に関連づけられて記憶されている段階に匹敵するものでありましょう。ガリレオの時代には、自然秩序に対して単一のモデルが妥当することは明白であると思われていました。
ところが、複雑性の問題は、実在の豊かな多様性を説明するためには、数多くの相異なるモデルを用いなければならない、ということを意味しているのです。このことが認識されるや、科学者、哲学者、神学者たちは一つの問題をつきつけられました目素粒子的な存在や現象のレヴェルから始まる世界についての説明と、「全体は部分の総和以上のものである」という事実の認識とを、どのように折り合わせるか、という問題です。…現象を記述することと同じくらい、現象の解釈を考察する哲学が重要であることが分かります。たとえば、生物の発生を説明する、科学的レヴェルでの新しい理論を作り上げる場合のことを考えてみましょう。
正しい方法をもって、もっぱら科学の枠組みの中で、ただちにこれを解釈することはできないでしょう。特に、人間という生物、あるいはその脳を問題にする場合、科学理論によって、霊的な魂の存在を証明ないし否定したり、創造の教義の証明を与えたり、逆にその教義は無益であるとしたりすることはできないでしょう蓼解釈の仕事は哲学の努めであり、哲学が経験データの全体的な意味、さらには、諸科学によって集積された現象の全体的な意味を研究する学問であるのです。…真の文化は、ヒューマニズムや知識なくしては得られないのです。…ガリレオ事件はとうの昔に解決され、誤りはすでに確認されたことなのです。
しかし、この事件の背後には、科学の本質と信仰のメッセージ、双方に関わることですので、いつかまた再び同じような状況が起こる可能性があります。…複雑性の問題によって得られた方法は、この問題を解くための良い例となるでしょう。
ガリレオ問題には二重の問題があります。2つは認識論の次元で聖書解釈の問題です。 これにはさらに2つの問題があり、第1はガリレオがかれに敵対するほとんどの人々と同様に、自然現象へのアプ目一チと、一般にそのアプ回一チが要請する自然についての哲学的レヴェノレの考察をまったく区別しなかった、まさにそれが、反駁不可能な証明によって確証されない限り、コペルニクスの天文体系を仮設とせよ、という忠告を、拒否した理由であり、そうであればこそ、ガリレオが霊感を受けてその基礎を築いた実験的方法の確立が急務であったことです。
第2は地球が世界の中心であるという表現が聖書の教えと完全に合致するものとして、当時の文化に広く受け入れられ、聖書の記述は文字通り理解するなら、地球中心説を確証するようにも思われたことです。
ですから、当時の神学者たちの問題は、太陽中心説と聖書が両立可能か、ということでした。…当時の神学者たちは一体どうしていいのか分かりませんでした。・・コペルニクスの天文体系が引き起こした混乱は、かくして聖書学の認識論的反省を迫り、これは後に、現代の聖書学研究の中で豊かに実を結び、第2ヴァチカン公会議の教令『デイ・ウェルブス』(Dei Verbum)で是認され、新たな刺激を受けることになったのです。
第2は司牧的な次元です。教会の使命は自らの教えがどのような司牧的結果を生むかに注意し、教えは真理に対応する物だということです。
しかし、ここで問題になるのは、新しい科学的データが信仰の真理に矛盾すると思われるとき、そのデータをいかに判断するか、ということです。地球中心説が聖書の教えの一部であるかのように思われていた限り、コペルニクス説の当否を司牧的に判断することは困難なことでした。おそらくは、ものの考え方の習慣を一挙に乗り越えるとともに、神の民の教化を可能ならしめる新しい教授法を工夫すべきだったのでありましょう。
19世紀末から今世紀はじめにかけて、聖書学の進歩によって聖書と聖書の世界についての新しい理解が得られるようになりました。そしてこれらの知識を最も多くもたらしたのが合理主義的であったために、それらの知識はキリスト教研究にとって危険なものとみなされたのです。キリスト教の中には、信仰を守ろうとするあまり、確固たる根拠のある歴吏的結論を退けねばならないと考える人々もあったのです。これは性急かつ不幸な判断でした。…現代文化が、科学主義的な傾向を特徴とするならば、ガリレオの時代の文化的地平は、一元的であり、特定の一つの哲学体系を支持しました。文化の一元的な性格それ自体は、今日でも有用で望むべきことなのですが、まさにそれがガリレオ断罪をもたらすひとつの原因となったのです。
神学者の大部分は、聖書とその解釈の間に明確な区別を認めていませんでした。だからこそ彼らは、実は科学研究に帰すべき問題を、信仰についての教義の問題の中に持ち込むという誤りを犯してしまったのです。…啓蒙時代の幕開きから私たちの時代まで、ガリレオ事件は一種の「神話」となってきました。
この神話において形成された事件のイメージは、現実とはまったく掛け離れたものでした。このイメージによれば、ガリレオ事件は、科学の進歩に対する教会の拒否、あるいは、真理の自由な探究に反対する「教条的な」啓蒙主義を象徴するものだというわけです。
この「神話」は、すくなからざる文化的影響をもたらしました。そして、正しい信仰をもった数多くの科学者に、科学の精神とその研究の原則はキリスト教信仰と決して両立し得ない、という考えを植えつけてしまったのです。悲しむべき相互の無理解が、科学と信仰との間に根本的な矛盾があるとする考え方を生んだのです。近年の歴史研究によって与えられた説明によって、この悲しむべき誤解はすでに過去のものとなった、と述べることができるようになりました。ガリレオの時代には、いわば絶対的な物理的基準点とでもいうべきものを欠いた世界を創造することなど、思いもよらぬことでありました。
そして、当時知られていた宇宙を包み込んでいたものは太陽系だけだったので、この基準点は地球か太陽に置く以外にはなかったのです。今日、アンシュタイン以降、現代宇宙論の見方からすれば、どちらの基準点もかつてほどの重要性をもはやもたないのです。言うまでもなく、このことは論争におけるガリレオの正しさを否定するものではありません自それは、二つの不完全な、相対立するものの見方があったときに、それらを視野に合みつつも、そのいずれをも越えたいっそう広いものの見方が存在することを示しているだけです。私たちが得ることのできるもう一つの教訓は、知識の相異なる領域は相異なる方法を必要とする、ということです。
卓越した物理学者としての直感と、種々の方法を実際に編み出したガリレオは、なぜ太陽だけが、当時知られていた、いわば天文体系としての世界の中心として機能するかを理解していました。地球が中心であることを主張したときの、当時の神学者たちの誤りは、物理的世界の構造についての私たちの理解が、ある意味で聖書の文字どおりの意味によって決められている、と考えたことでした。
バロニウス(Baronius)が言ったとされる「聖霊の意図していることは、いかに天が動くかではなく、いかに天に行くかをわれわれに教えることである」。事実、聖書それ自体は物理的な世界の細部にまで関わるものではありません。それを理解するのは、人間の経験と推論の能力によるのです。知識には二つの領域があります。一つは、啓示にもとづく知識であり、もう一つは理性がそれ自身の力で発見できる知識です。特に、実験科学と哲学は、後者に属しています。この知識の二つの領域の区別は、矛盾と解されるべきではなく、またまったく無関係でもなく、接点を持っています。それぞれの知識にふさわしい方法論は、実在の相異なる側面を明らかにすることです。
科学学士院の主たる任務は、聖座が科学学士院の規約に明確に認めているように、科学に認められている正当な自由を尊重しつつ、知識の進歩を促進することです。…科学学士院の目的は、科学の現状とそれにふさわしい限界の中で、何が獲得された真理であるとみなされ得るか、あるいは、少なくとも、それを拒否することは軽率で不合理であるほどの真理の蓋然性があると考えられるものはなにかを見極めて、これを知らしめることです。…教会はその特別な使命として、深刻な問題に注意を払うとともに、問題の定式化と解決に努めなければなりません。…その深刻な問題とは、もはや単に天文学、物理学、数学に関係しているだけでなく、生物学や生物遺伝学など比較的新しい分野にも関係しているのです。
最近の多くの科学的発見と、それらの実現可能な応用は、人間や、その思想、行動に対してかつてないほど直接的な影響を及ぼし、人間存在の最も根底にある基礎を脅かすまでになっています。
人類の進歩すべき道には二つの方向があります。
一つは文化、科学研究、技術など、人間の水平的な視野の中にあるすべてのものや、創造を合むもので、それは圧倒的な速度で進歩しています。この進歩が、人間から完全に離れたものとなってしまわないようにするためには、同時に、良心の高まりと、良心を伴う行動とが前提とされねばなりません。
第二の進歩の方向性は、人が世界や自分自身を越えて万物の創造主たる神を仰ぎ見た時に、人間存在の最も深くにあるものに関わっています。人間の存在や行為に対して十全な意味を与えることができるのは、この垂直的な方向性のみです。なぜなら、これこそが、人間をその起源と終焉の中に位置づけるからです。水平方向と垂直方向というこの二つの方向性の申で、人間は、自らが霊的な存在であり、ホモ・サピエンスであることを十全に認識するのです。しかし、私たちの知るとおり、進歩は一様かつ直線的に起こるわけでもなければ、必ずしも常に正しい順序で起こるわけでもありません。
このことは人間の条件に影響を及ぼす混乱が存在することを示しています。科学者がこの二重の方向性を認識し、これを考慮にいれることが、調和の回復に貢献するのです。科学技術の研究に従事する人々は、科学技術が進歩するための前提として、世界はカオスではなく、「コスモス」であることを認めています竈すなわち彼らは、理解され検証され得る秩序や自然法則が存在すること、また、そうである以上、それらが精神と何らかの親和性をもつことを認めているのです。アインシュタインは、「この世で永遠に理解できないことは、世界が理解可能なことだ」とよく述べていたものでした自この理解可能性は科学技術の驚くべき発見によって裏付けられるところですが、このことを考えて見るにつけても、やはり私たちは、万物に刻印された超越的かつ根源的な意志の存在を想わざるを得ません。
みなさん、この演説を終わるあたり、みなさんの研究や考察が、人間的なものにいっそう敬意を払う調和のある杜会をこの世に作るための有用な指針を私たちに示すものとなることを心から望んでいます。聖座への奉仕に感謝します。神の恵みが豊かにありますように"(7)
以上がローマ法王ヨハネ・パウロ2世のガリレオ事件・断罪に関して公式に自己披判した願罪の「最終声明」である。先にも述べたように、法王講演のほぼ全文を載せたのは、この講演はローマ法王の公式見解つまりヴァチカン当局の科学と宗教に関する公式見解として、これまでと同様に、いついかなるときでも、科学と宗教をめぐる問題が登場するときには、ローマ教皇庁の公式態度として、今後数世紀に及ぶ来るべき「未来杜会」においても効力をもつ文書として扱われるからにほかならないからである。
法王講演の論点は一読すれば分かるように、10数年に及んだガリレオ事件調査委員会の調査・研究をもとにして、360年にわたり科学と宗教の分離の原因であった「ガリレオ神話」に頭を痛めてきた、カトリック教会に所属する神学者・科学者・哲学者を「救済」することとなったのである。が、この講演で法王は神の存在を認める立場から、現代社会における現代科学と宗教(信仰)の調和をつよく求めていることを忘れてはいない。 
4 法王のガリレオ復権の講演の背景はなにか

 

いくら科学と宗教をめぐる歴史的事件であるとはいえ、ガリレオ裁判の判決がくだされてから360年もたったいまごろになって、ローマ教皇庁がガリレオ再審を開始し法王の最終声明を行ったのはなぜか。現代科学技術の時代にあるわれわれには、なんとも不思議な現象であり、むしろ滑稽な話でもある。
ローマ教皇庁が再審を開始すると発表した当時(1979年)のヴァチカン発のマスコミ報道によると、ガリレオ復権を呼びかけた背景にはいくつかの要因が考えられている。(8) まず第1は、現代杜会での宗教離れ、特にカトリック離れの世界的な潮流に歯止めをかけたいという現実的な配慮からだ。ローマ・カトリックのお膝元のイタリアでも名目上90%がカトリックであるが、教会にはまったく関係をもたない世代が台頭しつつあることをあげている。そこで、科学と宗教の分離の重大な原因となったガリレオ事件・裁判が誤りであった、と明確に「自己批判」することで、教会と教義が非科学的であるという「神話」をなんとか払拭することで、現代杜会にカトリックの再生をはかりたい、という目論みがある。第2は、現代科学技術が日進月歩する現代にあって、科学と宗教の調和を唱える際、数百年に及ぶ「喉に刺が刺さった状態」のガリレオ事件に決着をつけないことには、科学と宗教の問題をどのように述べようとも説得力をもたないこと、さらに、現ローマ法王ヨハネ・パウ回2世の個人的な個性と行動力にあると見ている。
それゆえ、最近のヴァチカンは、詳しく後述するように、科学と宗教の共存を積極的に提唱するとともに、独自の天文台を作るのはもちろんのこと、聖書の創世記の思想とは根本的に相容れない、天文学上の理論「宇宙膨張説」さえも否定していないという。聖書に記述されていることとまったく異なる学間的理論がつぎつぎと登場する、そのたびごとに、かれらの万物の根本理念である聖書の記述内容の解釈を変えなければならないのであるから、なんとも苦しい立場である。
逆説的に言えば、それだけ、最近の天文学や宇宙論の発展がめざましいことを物語っているのだともいえよう。たとえて言えば、現代日本の代表的な艮主主義的政党である社会党が、最近の政治情勢の変化にともない、政権政党の一翼を担いたいがために、戦後一貫して保持してきた根本的指針・理念である自衛隊違憲、日米安保条約破棄、エネルギー問題等々の重要理念をかなぐり捨て始めている現状によく似ている。
蛇足ながら、冷戦構造が終焉したいまこそ、政権政党などに関与せず社会の政治思想を貫き通し、しかも国際的にも国内的にも支持が得られる情勢であるのに、とも思う。こちらは自ら苦しい立場を作ってしまったのだが。
話をもどそう。現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の行動カには目を見張るものがある。法王就任以来というもの、世界中を飛び回り布教活動に余念がないことばよく知られている。さらに、ガリレオが地動説を唱えた『天文対話』(1631)は、浅王と同国ポーランド人コペルニクスの『天体の回転について』(1543)を支持したものであった。法王にはガリレオ復権をはたすことで、コペルニクスをも復権させたいという意図があるともいわれている。
ガリレオ復権はよいとしても、当時の科学者、神学者、哲学者たちが、宗教的に異端とされてきた問題をどうするか、つまり、ガリレオ復権はガリレオだけにとどまるのであれば、教皇庁が唱える科学と宗教の調和という観点からしても論理的整合性がないという、これまた頭が痛い間題を抱えることになるのは必然である目現にイタリア国内での報道の中には、宗教裁判に示された中世教会の世界観と、そのもとでの裁判における判決・断罪のあらゆる見直しがなされなければ、ガリレオ復権も、一人の「有名人」だけが免罪されたところで、なんの意味もないという論調さえある。さらには、現在でも「危険な思想家」、禁書、破門者が存在するというから、なんとも致し方がないほどに内部矛盾を抱えているといえる。
もしかしたら、いつの日か、科学と宗教の調和をめぐる法王主導による一連の改革運動で、教会内部に熾烈な宗教論争が生じ、あらたな火種をつくることの可能性も無きにしもあらず、である。 
5 1663年6月22日のガリレオ才裁判における「最終判決文」

 

これまで、ガリレオ裁判に最終決着をつけるローマ法王の講演を詳細に見てきた。そして、ヴァチカン当局が、この問題に最終的な決着をつけることになった背景をみてきた。
では、ローマ・カトリック教会は、4世紀前にガリレオ問題にどのような断罪を与えたのであろうか。が、当時のガリレオ裁判のプロセスはそう単純ではない。というのも、裁判であるからには、きわめて宗教、人間、杜会が幾重にも螺旋的な重層構造をなしていて、単なる地動説と天動説の対立といった学間的な話で片付けられるような悶題ではないからである。その実相に入りこむのは容易なことではないし、また、その余裕もない。そこで、今回の法王のガリレオ間題の最終声明で、なにが撤回されたのか、という見通しを明るくするために、4世紀前のローマ教皇庁のガリレオ裁判における「判決文」を詳細に見て行こう。時は1633牢6月22日水曜日の朝のことである。
ドミニコ会修遺院ミネヴァの聖マリア聖堂(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ)のなかの会堂で、ガリレオは、駿罪の意を表した白衣に身を包み、裁判官の前で、つぎのような「判決文」を聞くのである。
"汝、ガリレオ、フィレンツェ故ヴィンチェンツィオ・ガリレオの子、70才は、1615年、本検邪聖省に告発された。それは汝が、一部の者の教えた偽りの学説、つまり太陽は世界の中心で不動、地球は動きしかも日周運動するという学説を、真実であると信奉したことによるものであり、また弟子をとってこの学説を教え、この説に関してドイツの一部の数学者達と文通し、さらに『太陽の黒点について』と題する書簡を出版し、この中でこの学説を真実であると詳説したことによるものであり、あまつさえ、折りにふれて、この学説に対する聖書に基づく反論に応酬の際、前述の聖書を自己流にこじつけて解釈した。
これが告発の理由であった。そして、この告発とともに、汝の門人であった者宛てに書いたとされる手紙形式の文書の写が提出された。この文書には、コペルニクスの立場に従うさまざまな主張が展開されているが、これらは、いずれも聖書の真の意味と権威に違背するものである。
したがって、この聖なる法廷は、法王聖下、並びに至高にして全世界に及ぶ当異端審問宗教裁判所の諸枢機卿視下の命により、以上の誇点に由来し「聖なる信仰」をますます傷つけて止まない無秩序と毒害に対して、所定の裁判手続きを進める意図であったところ、太陽の不動並び地球の運動という二主張に関して、検邪審問の神学者により.次のような評定があった。
太陽が世界の中心でその場所から動かないとする主張は、哲学的には馬鹿げており偽りである臼また形式的には、明自に聖書に違背しているから、異端である。地球が世界の中心ではなく、不動でもなく、動き日周運動をするとの主張も、同様に哲学的に馬鹿げており偽りであり、神学的には、少なくとも信仰上誤りだと考えられる。
しかし、その当時には、汝を穏便に計らうことが望まれたために、1616年2月25日、法王聖下の御前で開かれた検邪聖省総会では、次のように決定された。ベラルミーノ枢機卿視下が、汝に対して、前述の偽りの学説を全く放棄するよう命ずる。
もし汝がそれを拒否すれば、検邪聖省の予審総主任が・汝に対し、前述の学説を放棄し、それを人々に教えず、弁護せず、議論してもいけないとの執行命令を課する。もし汝がこの禁止命令におとなしく従わないときは、汝を投獄せよと。この検邪聖省の命令を執行するため、翌日、前述のベラルミーノ枢機卿視下の館において、同狽下が臨席され、同視下が自らが穏やかに戒告された後、検邪聖省の当時の予審総主任神父により、書記と証人が立ち合う前で、汝に対して、前述の偽りの説を全く放棄し、今後はどのような形ででも、口頭でも、ないしは著述によっても、それを信奉し、弁護し、教えてはいけないという禁止命令が課された。汝は、服従を約束して、放免された。
そして、これほど有害な学説がすっかり根絶され、また、これ以上浸透してカトリックの真理に重大な障害とならぬよう、禁書聖省は省令を公布して、この学説を敢り扱っている書籍を禁書とし、学説それ自体が偽りであり、神聖な聖書に全く違背するものだ、と宣告した。
ところが最近、当ローマに一書が表れた。これは昨年フィレンツェで出版され、表題が『二大世界体系に関するガリレオ・ガリレイの対話』となっていたため、汝がその著者であると分かった。そのしばらく後で検邪聖省は、前述の書物の刊行によって、地球が動き太陽が不動だという偽りの説が、日に日に広まって行くとの通報を受けた日このため間題の書を入念に検討したところ、同書中に、先に汝に課せられた禁止命令に明白に違反している事実が発見された。
つまり汝がこの書物の中で、先に断罪され、また汝の面前で断罪された旨をはっきりと宣告された前述の説を弁護している。もっとも汝は前述の書物の中で、さまざまな趣向を凝らして、その説の当否を、どちらともつかぬような印象を作り出すことに努めており、はっきりした表現では、その説が正しいこともあり得る、としか述べていない。
しかし、聖書に違背すると宣告され、明示された説が正しいこともあり得るとは、決して考えられないから・これは非常に重大な誤りである。
このため、われわれの命により、汝は当検邪聖省に召喚された。そして当聖省において宣誓の上、取り調べを受けた結果、汝は、前述の書物をおよそ10年ないし12年前、つまり上述のように、命令が汝に課された後で書き始めたこと、この書物の出版許可を求めたものの、許可を与えた人々に対して、汝が閲題の学説をどのような形でも信奉し、弁護し、また教えてはいけないと、命ぜられていたことを、通告しなかったと自白した。
同様に汝は、この書物の多くの箇所で、虚偽の側を支持するものとして持ち出された数々の議論が、読者によって容易に論駁されるどころか、却ってその適切さのため、読者がどうしても確信してしまうように恵図されたものだ、と考えられそうな形式で書かれている点をも自認した。
しかし汝は、この書が対話形式で記されている事実を挙げ、誰しもが、だとえ偽りの説のためであったとしても、巧妙でもっともらしい議論を案出すれば、自分には明敏な知性があると思い込み、しかも自分が挫人よりずっと賢明なことが立証されたとして、当然自己満足を覚えるものだと申し立てて、汝自身の意図とは全く無縁な過失に陥ってしまったと弁解した。
さらに汝は、自身の抗弁を準傭する適当な機会が与えられると、ベラルミーノ枢機卿視下自筆の確認書を提出し、この確認書は汝の敵が中傷によって、汝が検邪聖省の処罰を受け、宣誓の上放棄したのだと非難したことから身を守るために、手に入れたものであると言い張った。確認書には、汝が宣誓の上、放棄したことも、処罰を受けたこともなく、ただ法王聖下が仰せ出され、禁書聖省が布告し汝に伝達されただけであり、その布告には、地球が動き太陽が不動だとの学説は、聖書に違背するものであるから、弁護しても信奉してもいけないとある、と言明されている。
ところがこの確認書には、禁止命令中の二箇条、すなわち、「教えて」はいけないことと、『どのような形でも』いけないとの二つ命令について、何も述べられていないことから、汝は、14年ないし16年も時が経過した間に、その二箇条についてのすべての記憶を失ってしまい、そのために汝の書物を出版する許可を求める際、この禁止命令について全く触れなかったのだ、とわれわれが当然信じなくてはならないかのように申し立てた。しかも汝は、これらすべてのことを申し立てたのは、汝の過失を弁解するためでなく、これらすべてのことが、悪意というよりは、むしろ自惚に基づく野心によるものであったと書き留められるよう願ったためだ、と申し述べている。
しかしながら、汝が抗弁のために提出した確認書は、汝を一層罪深くしただけである。つまり確認書には、前述の説が聖書に違背すると述べられているにもかかわらす、汝はその説を論議し、弁護し、その上、同説が正しいこともあり得る、と論じることさえ敢えてしたからである。また汝が術策によって狡滑なやり方で無理矢理に手に入れたこの出版許可証も、何ら汝の助けとはならない。それは汝が、汝に課せられた禁止命令のことを、申し出なかったからである。
その上汝が己の意図について残らず、ありのままに申し立てていないと思われたので、われわれは汝を厳重に審問することが必要だと考えた。汝は、この審間において、ひとりの立派なカトリック教徒らしく答えた。
したがってわれわれは、上述の汝の自白と弁解と共に、汝の申し立ての非理並びに正当に理解し考慮されるべきすべてのことを、理解し、塾考した上で、汝に対する下記の最終判決に達した。…
われわれは、汝、前述のガリレオが、裁判において提示された事由により、また汝が上述のように自白したところによって、当検邪聖省の判断では、汝自身に極めて強い異端の嫌疑をもたらした。つまり太陽は世界の中心であって東から西へ動くものではなく、また地球は動き世界の中心ではない、という偽りで、神聖なる聖書に違背する学説、および、ある説が聖書に違背すると宣告され明示された後でも、この説の正しいことがあり得ると信奉し、弁護してよいと信じ、信奉した極めて強い嫌疑をもたれたことである。したがって汝は、かかる狙罪者に対し、聖なる教会法とその他の一般および特殊の法規において課され、告示されている譲責と刑罰のすべてを招く結果となったと述べ、申し渡し、判決し、宣告するものである。
しかしわれわれは、まず第1に、汝が誠意ある心情と偽りのない信仰心とをもって、われわれが汝に示す形式に則り、カトリックおよび使徒的ローマ教会に違背する前述のもろもろの過誤と異端並びにその他すべての過誤と異端とを、われわれの眼前で宣言の上、放棄し、呪い、嫌悪するとの条件付で、汝の上述の罪状を許すことに溝足を覚えるものである自なお、汝のこの重大で毒害を及ぼす過誤と違狙とが、全く処罰されずに済むことがないように、また今後、汝が一層慎重となり、かつ他の者が同様な罪を犯すことを差し控えるその見せしめとなるように、『ガリレオ・ガリレイの対話』なるこの書を、一般布告により禁書とするよう、ここに命ずるものである。
また、汝には、われわれより追って沙汰たるまで、当検邪聖省の法規通りの牢獄に入るよう申し付け、さらに汝に身のためとなる苦行として、向こう3年間は週1回、『悔罪詩篇』七篇を反復読調するよう命ずる。ただし、われわれは、上述の刑罰と願罪の苦業のすべてあるいは一部を軽滅、変更ないし撤回する権限を留保するものである。
それ故われわれは、ここに示されたやり方と形式をもって、また別にもっと良いやり方と形式があれば、われわれは当然それを用いることができ、またそうしてよいのであるから、そのやり方と形式でも、述べ、申し渡し、判決し、宣告し、命じ、かつその留保をするものである"(9) 
6 ガリレオ裁判と『天文対話』

 

以上が1633年6月22日、ガリレオに宣告された最終判決のほぼ全文である。教会権力の権威を随所にちらつかせた、非常にもったいぶった言いまわしには呆れるばかりであるが、裁判の判決文というのは、いつの時代でもこんなものかも知れない。が、この判決文はガリレオが裁かれるに至った経過を、教会権力側から見た歴史的・論理的「事実」として詳細に描いているという点では、みごとな文章である。逆説的に言えば、当局が、教会権力を思う存分に振りかざさなくては裁けなかったということは、ガリレオが『天文対話』で示したコペルニクス説に基づく宇宙論の主張・論点が、敵の支配的イデオロギーを十分に加味しつつ、その論理を引っ繰り返していくという、実に巧妙な手法・論法を用いたことを物語っている。
さて、ガリレオの主要な著作には、『運動について』(1590)、『星界の報告』(1610)、『太陽黒点についての手紙』(1613)、『海の満干についての議論』(1616)、『彗星論争』(1619)、『偽金艦識官』(1623)、『インゴリの論争に答える手紙』(1624)、『天文対話』(1632)、『新科学対話』(1638)などがある。が、上記の「判決文」が詳しく述べているように、ガリレオが裁判・判決という悲劇を被る要因となったのは、『天文対話』である。この著作は、アリストテレス・プトレマイオスの地球中心説を、コペルニクスが『天体の回転について』(1543)で提起した太陽中心説を支持・援護し、宇宙観の「コペルニクス的転換」を推し進めることになった古典中の古典である。そこで、ガリレオ裁判との関わりで『天文対話』を簡単に振りかえることにしよう。
『天文対話』は、現代では、よほど科学史、特にこの時代の科学や宗教に関心がなければ、ほとんど読まれることはない。それというのも、近代科学は、後期ガリレオの『新科学対話』と、それを発展させて地上の現象と天上の現象を統一的に体系化したニュートンの物理学の思考的枠組みさえあればよいし、現代科学は、相対性理論や量子論の思考的枠組みさえあれば、それで事足りるからである、が、現代的観点からいえば、相対性理論や量子論が時代を画する大事件であったように、『天文対話』は、それ以上に、科学の世界ばかりか、ひとつの科学の理論が杜会的事件を巻きおこすという歴史的大事件でもあったのだ。
『天文対話』は対話形式で書かれている。かれはガリレオ以前のノレネスサンス時代の著述形式で、当時すぐれた音楽理論家であったガリレオの父の『古代と現代の音楽についての対話』や、この無限宇宙論を唱えたばかりに、火炙りの処刑にされたジョルダーノ・ブルーノの『無限・宇宙と諸世界について』なども、対話形式である。(10)
その対話には3人の人物が登場する。サルヴィアチ、シムプリチオ、サグレドである。サルヴィァチはガリレオ自身でコペルニクス説の支持者、シムプリチオは伝統的なアリストテレス・プトレマイオス説の支持者、サグレドはどちらにも加担しないが学問的には良識をもった人物日この3人の対話は4日間にわたるが、1日目はアリストテレスの伝統的な宇宙観が述べられ、敵の思想をまず十分に披灌し、それに対して、敵のことばで敵を刺す論述で、一貫してスコラ自然学の批判である。2日目はアリストテレスの地上の運動論批判。3日目はアリストテレスの天文学批判。 ここでガリレオは金星の満ち欠け、木星の衛星、太陽黒点などの観測事実をあげ、天上界の不変性を退ける。
4日目は、ガリレオが、地球が運動する根拠として自信をもって論ずる「潮汐現象」である。ガリレオの潮汐現象の説明は、歴史の皮肉であるが、上記の法王講演にも抽象的に触れられているとおり、全くの誤りである。潮汐は、地球の日周運動と年周運動との合成で起こるとしたものである。
これはニュートンの万有引力説までまたなければ説明できないことであった。 本書の目的と総論をガリレオのことばでいえば、こうである。
3つの主要な間題が論じられる。第1になされる経験はすべて大地の運動性を結論するには不十分な手段であり、したがって、大地が運動するとしても静止するとしても等しくこれに適合しえるものであることを示すのに努めましょう。そしてこの場合、古代には知られなかった多くの観察を明らかにしたいと思います。第2に天界の諸現象が検討されましょう。そしてコペルニクスの仮設が絶対的な勝利者となるようにこれを強力にし、また新しい思弁をつけ加えましょう。これは自然の必然性のためでなく、天文学の容易化のために役立つでしよう。第3に巧妙な幻想を述べましょう。もう何年も以前に、わたくしは大地の運動を認めれば海の満潮という、これまで解けなかった間題が、若干はあきらかになるだろうといったことがありました。…わたくしは大地が動くとすれば、この問題が納得しうるようになるということを明らかにするのがよいと考えました…。(11)
とにもかくにも、ガリレオは地球の回転を示す「決定的証拠」とした潮汐現象の解釈では誤りを犯したものの、自らが唱える宇宙観が歴史的な革命性をもっていることを、はっきりと意識していた。
『天文対話』は、われわれ現代人にはなんともまわりくどい文章である。が、一読すればわかるように、単なる自然の研究者の論文といった無味乾燥なものではなく、そこにはイタリア・ルネスサンスの息吹を十分に貯えた科学性・文学性・芸術性で満たされていることを知るはずである。『ガリレオ裁判』の著者サンティリャーナにいわせれば、「そこにはガリレオのすべてがある」。
物理学者、天文学者、文士、論争家の姿があり、現代版ソクラテス流の間答も復活させ、あらゆる面で伝統的なアカデミズムの世界と決別し、ルネスサンスの対語形式を用い、プラトン学派の内的質を復活させたのだ。さらに、それ以前のかれの論考、『星界の報告迎、『太陽黒点についての手紙』などで、個別に論じられてきたものを、それらに内通する論理の謎ときをやったのだという。(12)
さて、ガリレオは、『天文対話』でコペルニクス説を支持したガリレオの新しい宇宙観が、教会の基盤である聖書の記述内容に違背する、との理由から、異端・断罪の刻印を押されたのは当然としても、もうひとつの大きな要因は、教会権カを取り巻く複雑な人間関係にあった。この種の事件に関しては時代を問わない現象で、現代でもよくある話である。『天文対話』に登場するゴリゴリの伝統的なアリストテレス主義者のシムブリチオに、次のようなことを語らせたのである自つまりこれまでの長い対話を通じて、自分の考え方が誤りであったことがほっきり分かった。
が、これまで私が自分の説のよりどころとしてきたのは、「もっとも学識があり、もっとも有名なその人の前では、沈黙しなければならぬ人によって教えられたもっとも堅個な学説」をもっていたからである。(13)
ここでシムプリチオが述べる学識者の学説の言明とは、誰が読んでも、当時の法王ウルバヌス8世の学説とみなされた。これがローマ教皇庁と法王ウルバヌス8世を激怒させる原因となったのである。法王ウルバヌス8世は法王になる前は、バルベリー二枢機卿と呼ばれ、新しい科学や考え方に非常に理解を示すとともに、さまざまな場面でガリレオを支援していた。いわばガリレオとは友好的な関係にあった目ガリレオはかつて法王が枢機螂の時代、『太陽黒点についての手紙』などを献上するなど、ふたりの関係はいわば相思相愛の関係にあった。
が、『天文対話』の記述で法王を馬鹿にしたという風評、またそれを扇動するガリレオの敵対者の圃策などがあり、法王のメンツをつぶすこととなり、法王・教皇庁とガリレオの関係は泥沼状態に入って行く。
さらに、『天文対話』と直接には関係ないが、上記の現法王ヨハネ・パウロ2世の最終講演で言及されている、「1613年のベラルミーノ枢機卿との約束を守らなかった罪」が、ガリレオが宗教裁判にかけられる法的根拠の根本原因であるともいわれる。それはつぎのような次箪である自たしかにガリレオは、当時の法王パウルス5抵の命令でベラルミーノ枢機卿から警告を受けていた。
が、その警告はかなりおだやかなものであったが、ガリレオ自身、この警告をベラルミーノ枢機卿にわざわざ文書で書いてもらっていた。
"余、口ベルト・ベラルミーノ枢機卿は、ガリレオ・ガリレイ氏について、中傷的な樽が伝えられ、同氏が、余の手許で、放棄することを誓い、さらに、彼のためになる罪科をもって・処罰されたといわれていることを耳にし、またこの件で、事の真梱を述べるよう要請を受けたことから、以下の通り宣言するものである。余は法王が発し給い、聖なる禁書聖省が公表した布告だけを彼に通告し、その中には、コペルニクスのものとされる教説、つまり地球は太陽の周りを動き・太陽は世界の中心にあって静止し、東から西へ動かないという教説は・聖書に違背するため、弁護し、また信奉することも罷りならぬと述べられている旨、申し伝えるまでであった。以上のことを証拠として、1616年5月26日・余は自筆で本確認書を記し、これに署名するものである"(14)
ところが・ガリレオ裁判で教皇庁が証拠文書としてだしてきたものは、次のような文書である。
"1616年2月26目、火曜日。ベラルミーノ枢機卿視下はその常住の邸宅に上記がガリレオを呼ばれ、上記枢機卿視下、ドミニコ会の検邪聖省委員・セジツィ殿の前で、枢機卿から上記意見の誤りを訓告され、これを棄てるよう訓告された。ひき続いてすぐ、わたくしと証人の立合いのもとに、枢機卿狽下もまだおれらたが、上記委員はかれに、教皇閣下と全検邪聖省との名により、太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話して書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命ぜられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。
この禁止命令に上記ガリレオは同意し、従うことを約束した。
証人として、上記枢機卿の家に一員であるノレスとモルガルド立ち合いのもとにローマ、上記邸宅で執行"。(15)
この文書がガリレオ裁判の決定的な証拠文書とされたのである。が、この文書は偽造文書であると、現代の歴史家は結論する。
その理由として、この文書が作られたときの証人がいない、印章がない、枢機卿の署名がない、正式の記録の体裁がない等々をあげている。これに反論するガリレオは、ベラルミーノ枢機卿に書かせた文書を持ち出して免罪であると申しでて、誤解を解こうと努力するが、その努力は無益に終わったのである。これらのことを考慮すると、ガリレオ裁判は、教皇庁がこの裁判を陰謀によってデッチあげたのだとも考えられるという(16)。 
7 ガリレオの晩年

 

さて、裁判後のガリレオは、最後まで自宅軟禁状態のまま、その生涯を終わるのであるが、この間のガリレオの研究心は衰えること知らない。
本稿はその場ではないから詳細を述べることはできないが、近代科学の基礎を作ることになった、かの有名な『新科学対話坦の執筆に、はやくも判決直後の1633年12月に取りかかっている。自宅のアルチェトリに引きこもって、執筆の日々が続き、1635年6月には、厩稿がほぼ完成する。
そして、1638年7月、『新科学対話』はオランダで出版される。この聞のガリレオは、不幸の連続の日々であった。ガリレオの世話をすることが生涯の生きがいであった、最愛の娘の修道女マリア・チェレステが34才の若さで発病後6日目にして急死する(34年4月)。
『新科学対話』執筆が終盤に近づいた37年7月には、持病の緑内障が悪化し、左眼の視力を失い、38年1月には、完全に失明する。
ガリレオが10数年かけて完成した『新科学対話』こそ、近代科学の源泉である。『天文対話』がイタリァ・ルネッサンスの芸術性と精神性を十分に取り入れた文学的・芸術的な文体で、壮大な字宙観の転換を論じたのにたいして、『新科学対話』は、もはや世界観などの間題に言及することなく、自然研究の本質を具体的に単刀直入に記述している。その分だけ、炉天文対詰』に見られたような情緒性を欠いており、無味乾燦なものになっている。ここに、近代科学の祖と言われる原型が誕生することになる。最近の科学史家がガソレオ・ニュートンの恩考的枠組み、つまり近代科学が現代杜会における功罪とりわけ罪の部分を語るとき、必ずとりだされるのが、いわゆる「ガリレオ間題」である。
その原型がガリレオの『新科学対話』にあることはいうまでもない、これは、別の機会に論ずるべき重要閤題である。(17)晩年のガリレオは、最初の伝記を書いた当時17才のヴィヴィアー二、のちに「トリチェリーの真空」で歴史に登場するトリチェリーに口述筆記をさせ、数学論争をさせては楽しんでいた。1642年1月8日。ガリレオ死去。 
8 『ガリレオ・ガリレイの裁判記録』の公闘・出版

 

これまでわれわれは、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、1972年11月10日、ガリレオ復権を呼びかける講演からはじめて、1981年に設置されたガリレオ調査委員会の調査報告、およびこの報告を基に1992年10月31日、ヨハネ・パウロ2世がガリレオ裁判の無罪を主張した最終声明によって、ガリレオが最終的に復権した経緯を見てきた。
この20年間、ヴァチカン当局は、自ら4世紀前のガリレオ裁判関係資料の探索・研究にあたり、1984年、『ガリレオ・.ガリレイの裁判記録』を公開・出版した。この裁判記録は一部のガリレオ研究者には自明のことではあっても一般的には公式には公開されていなかったものである。
この裁判記録は、原記録が手書きであるため細心の注意のもとに「その忠実さ、誌みやすさ、鷹大な資料の再吟味」を心がけていること、また、「これにまさるガリレオ裁判関係の資料はもうない、といわれるほどの決定版」であるという。(18)
この裁判記録関係文書には、当時の政治情勢がからんだ物語がある。1800年代のはじめにナポレオン1世がイタリアに攻め入ったとき、ヴァチカンから裁判記録を含む多量の資料がパリに持ち去られ、その後ルイ18世の命によってローマに召喚されたというのである。ローマ、パリ、・ローマへと政治的な旅をすることになったヴァチカンの厖大な資料のなかには焼却・.売却されたものがあったというが、この裁判記録文書だけは、当初から特別扱いであったらしく、1843年10月21日、ようやくヴァチカンに戻ったのである。
さて、1633年のガリレオに対する判決内容の要旨は、先に述べたように、異端であること『天文対話』を禁書とすること、投獄すること、それに瞭罪をすることであった。
これらの判決がどのように解禁されたのであろうか。1734年には墓の建立が、1741年にはガリレオの全著作の再版許可可が、正式に文書で示されていた。ちなみに、この墓は、1737年、ガリレオの最期を見とった弟子のヴィヴィアー二の遺言により、その子孫が建立したもので、現在、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあり、あのルネスサンスの巨匠ミケランジェロの墓の向かいにある。
そういえば、ガリレオは・ミケランジェロが死んだ1543年2月18日の3日前の15日日に生まれた。ミケランジェロの生まれかわりである。また、禁書命令は、1664年に暗黙理に、1757年に完全に禁書目録から除外された。そして、最後に残っているのが、ガリオ裁判のやり直しがあったかどうか、つまりガリレオ無罪を宣言した文書があったか、ということである。
それはいうまでもないことで、これまで一度もされずにいたのである。その無罪宣告が公式に出されたのは、先に見てきたように、ローマ法王ヨハネ・.パウロ2世が最終声明を行った、1992年10月31日である。実に360年ぶりのことである。これでガリレオはローマ・カトリック教会のなかに完全に復権を果たしたわけだ。何をいまさらとの感があるが、これが長き伝統のあるキリスト教という宗教の持つ負の側面なのかもしれない。
時間を多少もどすと、教会がガリレオ復権を求める「運動」のさきがけになったのは、20世紀最大の教会史と言われる「第2ヴァチカン公会議」(1662-65)である。この会議でなされた議論の結果は、『現代世界憲章』として文書にまとめられているが、現代の科学・技術の進歩や杜会の動向に憤応した形でカトリック教会を刷新しようとするものである。(19)
数世紀前のガリレオ事件によって、科学と宗教は分離・対立する、という観念をもたらしたことを憂慮するカトリック教会が、この歴史的汚点の反省のうえにたって、現代の科学と宗教をなんとか調和させなければならない、という意図がある。
この運動の行く先が、ヨハネ・パウロ2世のガリレオ復権の呼びかけに終着したことはいうまでもない。 
9 現代における科学と宗教

 

本稿の冒頭にも述べたように、科学と宗教の閥題は古くて新しい間題であることを再確認することができる、これ裏で長々とガリレオにおける科学と宗教の間題、とりわけ歴史的に有名なガリレオ裁判から復権までの経緯を詳細に追いかけてきた後にも、この思いはますます強くなっている。
17世紀ヨーロッパで誕生した近代科学が成立する背景には、キリスト教が多大な影響力をもったとは、もはや科学史の常識である。現代の科学は日進月歩で発展しつつあり、とりわけ天文学の世界では、遇去100年の出来事がわずか10年のなかに凝縮されて「進歩・発展」しているのが実態である。
それにともなって、科学と宗教の調和・統一をめざすカトリック教会にとっては、現代科学と宗教をいかに統一的に解釈するかというシンドイ仕事を課せられる。科学の理論的枠組みが転換すれば、そのつど、新たな聖書解釈を余儀なくされる。これは、ガリレオ問題の処理の失態という汚点を繰り返さないためにも、また、教会離れのはげしい現代人をローマに引き寄せていくためにも、神学者は現代科学と聖書研究の両立をめざす研鑽の日々が続く。
その実、ヴァチカン当局は、1988年、『PHYSICS, PHILOSOPHY, AND THEOLOGY:A COMMON QUEST FOR UNDERSTUNDING 、1988』〈邦訳、G・コイン他編『宇宙理解の統一をめざして』柳瀬睦勇監訳、1992)を刊行した。本書は現代科学研究と神学研究の両方から、現代の最先端の科学にせまり論じ解釈する。しかし、宗教界の伝統的な認識に加担することない、きわめて「学問的な研究論文集」であるという。(20)
ここでは、本書の各論を論ずる余裕はないしその場でもない。あらためて別稿で論ずるものであろう。そこで、おもな項目を示すだけでも、カトリック教会の強い危機意識が読みとれるので簡単に触れておこう。
第1は、科学と宗教に関する歴史的かつ現代的な考察の以下の各論文である。ただし括孤内は著者名である。
『科学と神学とはいかにかかわるか』(イァン・G・バーブ)、
『自然科学と創造神の信仰一歴史的考察』(ヱルナン・マクマレン)、『ニュートン・パラダイムと無神論の起源』(マイケル・J・バックレイ)、『自然神学は可能かユ(W・ノリス・クラーク)、『ヘブライ語聖書における創造』(リチャード・J・クリィフォ一ド)。
第2は、認識論と方法論を考察する以下の論文である。
『科学と宗教における知識と経験一われわれは実在論者でありうるか』(ジャネット・ソスキス)、『物理学、哲学、紳誘』(マリー・B・ヘッセ)、『観察、啓示、ノアの子孫』(ニロラス・ラッシュ)。
第3は、哲学的・神学的見地より見た現代の物理学と宇宙論を考察する以下の論文である。
『現代宇宙論から科学と宗教の対語へ』(ウィリアム・R・シュテーガー)、『量子世界』(ジョン・C・ポーキングホーン)、『量子過程としての宇宙の創造』(クリス・J・イシャム)。
実に興味深い論考ばかりである。現代の科学と宗教の問題は、もはやこの二つの領域を飛び出し、哲学や政治哲学をも射程に入れた世界観・宇宙観、さらには個々人の人生観の問題にもおよんでいる。
この本の監訳責任者のイェズス会司祭で上智大学教授・柳瀬睦男氏(物理学)によると、本書の特色は、第1に、物理学、宇宙論、哲学、神学の問題が、その専門家の立場から議論されていること、第2に、ヴァチカンの指導原理に基づいた護教的なものでなく、純粋に学問的な議論がなされていること、第3に、上記の各分野の統一的な世界像を探求していること等々であるという。(21)
たしかに、例えば、クリス・J・イシャム『量子過程としての宇宙の創造』などを丹念に読むかぎり、キリスト教の教義である「無から創造」の間題と、宇宙のビッグ・バン理論や宇宙膨張説、あるいは最近のホーキングの理論などとの融合間題を説得的に論じている。こうしてくると、現代の神学者は、教義や教説をただ単に唱えるだけでは、その存在が保障されず、現在の最先端の理論物理学や宇宙論の察がいやおうなく求められている。 その意味では神学者のなかにも、専門的科学の研究者の誕生という科学技術の細分化、科学の専門性と似たような役割分担が生じていることがわかる。
したがって、神学者に課せられた仕事は、現代科学の動向とともに際限なく続くだろう。 
10 ガリレオの「新しい科学」の革命性と科学史の課題

 

本稿の目的は、「ガリレオ復権」という歴史的な事態を、教皇ヨハネ・パウロ2世の最終声明から出発して、その意味と歴史的考察をすることであった。そのあらましは理解されたとも思う。これを書きはじめるまえに、裁判関係の著作はもちろんだが、これまで専門書のある大学や図書館に行く時間的余裕もない私が、個人的に買い集めてきたガリレオ関係の文献や17世紀科学革命期の文献・著作に、手当たりしだいに当たっては「通勤電車のなかで」、あれこれ考えてきた。
そこで、本稿の目的とはそれるが、ガリレオの科学史上の位置について多少触れておくことにしよう。ガリレオが近代科学の創始者とされる根拠は、晩年の著作『新科学対話』にあり、ここでガリレオは新しい科学、「機械学と力学」を作ったのである。今日ではお馴染みの概念であるが、この新しい科学の革命性は、科学史の分野に止まらない、新しい学問的・精神的基盤をガリレオがはじめて構築したことにある。学問理念の新しさこそが本質的なのである。この学間的新しさとは、スコラ・ルネスサンスの学問が人文的であるのに対して、その対立・抗争から脱却し、人文学や数学のみの数学でなく数学とは区別された。さまざまな機械技術(望遠鏡、顕微鏡、寒暖計、振り子時計等々)と結合した「実験的科学」を作り上げたことにある。つまりガリレオの新しい科学はそれ以前のルネスサンスの精神とは全く別の学問的所産であったのである(22)。
ルネスサンス巨匠ミケランジェロの死んだ年に生まれたガリレオであるが、それまで支配的なスコラの学間と決定的に異なる学閥理念を定式したのだ。ガリレオの科学史上の位置は、その意味で、古代・中世の自然観と近代の自然観の境界にあり、「彼の自然観をアリストテレス以来の生物的自然観と対照するにあたって、単に自然的事物と、その秩序をいかなるものと見るかという、いわば自然学と物理学の対象の捉え方の違いではなく、それ以上に、自然法則とはなにか、なにを明らかにするものなのか、さらには自然法則における真理とはなにかという点で、つまり自然学と物理学事態の捉え方において、彼と彼以前の学者とは立脚点に根本的な相違があることを忘れてはいけない」のだ。(23)
こうして近代科学の原点となったガリレオの自然観・世界観は、いま思わぬ所で批判の対象に曝されている。近代の近代産業社会を作り上げてきた産業資本主義体制の負の側面が明らかになるにつれ、その礎となっているガリレオの学悶理念を再考察するという動きが活発である。
つまり、近代杜会を問い近代を超克すべきという学問的間いかけである。詳論の場でないが、例えば、「科学が生活から遊離したのは、ガリレオによる自然の数学的・実験的理念である」(フッサール)とか、「科学者の体制に対する妥協の産物だ」(ブレヒト)とか、「人間の個性を遇小評価し、それを最終的に追放した罪をガリレオは犯した」(マンフォード)といった批判である。(24)
近代科学の創始者が、このような厳しい批判に曝されるとは、なんとも歴史的皮肉でもある。それだけ、近現代産業杜会が矛盾を抱えていることを物語っている。が、その矛盾を克服し新たな杜会を構築しようと一歩でも踏みだそうとすれば、われわれは、近代科学の創始者ガリレオや、その創立者であるニュートンの科学とニュートン主義的世界像に立ち入らざるを得ないのである。
その任務は主要には、現代科学技術の在り方を問う生活者と現代科学を外から冷静に問う科学史家にある。フッサールの生活世界の復権を射程にいれた科学技術の再構築が今こそ求められているとき、生活者と科学史家が共同的な相互交流を真剣に果たすべきである。(25) 
おわりに

 

科学と宗教の問題は時代を問わない。現代はまさに新興宗教がはびこっている。ガリレオ裁判に関する資料を読み考えながら、本稿の目的であるガリレオ復権のことはもちろんだが、わたくしの脳裏には、常に現代のさまざまな宗教と人間の問題とそれがもたらす杜会的抗争に関する諸問題があった。現代の新興宗教がはびこる時代的状況をどのようにとらえるかは各人の自由だが、少なくとも、それを自覚的・客観的に冷静に見つめようとするとき、過去の時代の科学や社会と宗教の関わりと、それが結果として、われわれ後生の人間になにをもたらしたのか、を考察することが、やはり意味のあることといわねばならない。
ふり返ってみると、このような、科学と社会の問題や科学史のことを、少なくとも自覚的に考えるようになったのは、1960年代から70年代の特異な社会的事態であるヴェトナム戦争と大学闘争下における市民運動、それに1980年代当初、高田馬場にあった「寺子屋」での講座「力学的世界の系譜」に参加し、そこで知り合い教えを受けた先輩・友人たちとの交流にある。
さらには、その直後に関係した日本大学物理学教室・科学史研究室とそれにつらなる科学史家たちとの交流にある。そのときどきで養われた科学や社会に対する見方は、現在も続行中である。
そればかりか、そのときどきで、思いやりに満ちた教えや示唆を受けた人たちに対して、自らの非力を顧みず、なんとか応えねばならない、という一種の使命感のようなものが、ますます強くなっていることに気付く。これはいつ実現するかもわからない、果てしない仕事となるであろう。
(注)
(1)新村 出編『広辞苑』第4版、岩波書店、1991年
(2)教皇ヨハネ.パウロ2世「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ一ガリレオ裁判をめぐる口−マ教皇庁の見解」柳瀬睦男解麗、川田優訳(『み すず』、みすず書房、1993年)年8月号)。p.28-33 今回の法王声明に関する引用・要約はすべて、この資料に基づいている。
(3)ガリレオ『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫、1976年)。p.14
(4)青木靖三編『ガリレオ』(平凡社、1976年)、p. 207-211
(5)斎藤 洋「科学のメッセージとしての『撫からの創造』−ベラルミーノの『手紙』に寄せて(1)」(『思想』岩波書店、1993年5月号)、p.86一109
(6)ポール・プパール枢機卿「ガリレオ事件調査委員会報告」(注2)と同書。P.34-38
(7)教皇ヨハネ・パウロ2世「信仰と理性の調和」(注1と同書)。P.39-46
(8)「350年後のガリレオ再審」(『誌売新聞』、1980年12月8日朝刊)。
(9)サンティリャーナ『ガリレオ裁判』武谷三男監修・一ノ瀬幸雄訳(岩波書店、1973年)。p.583-589
(10)ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙と諸世界』清水純一訳(現代思想社、1969年) 拙著「ジョルダーノ・ブルーノの無限宇宙論」(東京家政学院中高等学校紀要「ばら」第38号、1992年3月号)
(11)ガリレオ・ガリレイ『天文対話』上、(青木靖三訳、岩波文庫、1975年 )。p.15
(12)注(9)と同書、p.348-369
(13)ガリレオ・ガリレオ『天文対話』下(青木靖三訳、岩波文庫、1994年)。P.255
(14)伊東俊太郎『ガリレオ』(講談杜、1985年)。p.54-55
(15)音木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1976年)。p.85
(16)注(14)と同書、p.59-60
(17)佐々木力「ガリレオ・ガリレイ−近代技術的学知の射程」(科学革命の歴史構造』上、岩波書店、1985年)、P.143-239
(18)渡辺正雄編『ガリレオの斜塔』(共立出版、1987年)、p228-241
(19)第ニヴァチカン公会議『現代世界憲章』(カトリック中央協議会、中央出版社)
(20)G・コイン『字宙理解の続一をめざして』(柳瀬睦男監訳、南窓杜、1992年)
(21)同上、p.405-410
(22)下村寅太郎「ガリレイに於ける"Nuove Scienze"について一近代科学の精神史的問題として」(『科学基礎論研究』1954年9月号)。また、同氏の「近代科学としての『カ学』の精神史起源について一ガルイに於けるNuove Scienze U−」(『科学基礎論研究』、1955年1月号)
(23)山本義隆『重力と力学的世界』(現代数学杜、1981年)、P.48
(24)注(14)と同書、p.3一15。また注(17)と同書論文を参照。
(25)佐々木 力『近代学問理念の誕生』(岩波書店、1982年) 
   
方法序説・書評1

 

【1】 ヨーロッパの近代精神と科学の方法論を確立したとされる、あまりにも有名な古典。
デカルトの『方法序説』は複数の出版社から訳書が出ているが、私が今回利用したのは上記の岩波文庫版の1997年新訳である。かつて私は19歳の時に、同じ岩波文庫の旧訳でこの作品を読んでいる。しかし当時は集中力と理解力の欠如のため、十分に理解することができなかった。こんど使った新しい訳書は、文章も平易であり、何よりも活字が鮮明なので、その点は読みやすかった。が、字が読みやすいからといってそれだけ理解しやすくなるわけではないのが、この種の本のつらいところである。翻訳で130ページたらずであるが、やはり、けっこう頭も時間も使って読まねばならなかった。 
第一部:探求に至る経過
【2】 理性はすべての人に備わっており、その用い方さえ正しければ、真理に到達することができる。しかし既存の学問(スコラ哲学)は「真らしく見えるにすぎないもの」を扱うだけであり、前例と習慣に拘束された思考にすぎず、わたしを満足させることはなかった。そこでわたしは、「世界という大きな書物」の探求にのりだした。 
第二部:理性を用いるための規則
【3】 真理について哲学者たちの見解は対立し、同一の事項に関し地域によっても意見が異なる。これはこれらの見解が習慣や実例による偏見に基づいている、不確実な知識だからである。「賛成の数が多いといっても何ひとつ価値ある証拠にはならない」(26ページ)。そこで既存の諸見解を一旦は放棄し、理性の導きに従って探求をすすめる必要がある。ただし、この懐疑は自分の思想の範囲内において行い、国家・社会の改革の問題には立ち入らないものとする。
理性を正しく用いるための規則として、わたしは次の四つを確立した。
(1) 明証性の規則(「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」)。
(2) 分析の規則(「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」)。
(3) 総合の規則(「わたしの思考を順序にしたがって導くこと」)。
(4) 枚挙の規則(「すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること」)。
この規則を数学に適用しようとする試みは、数的な順序と量を線として想定すること、およびこれらを記号で示すことを通じて、成功した。そこで次に、哲学に適用する番である。 
第三部:探求している間の当座の格率
【4】 しかしその前に、「理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、……当座に備えて、一つの道徳を定めた」(34ページ)。わたしは、第一に「わたしの国の法律と慣習に従う」。第二に「どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、……一貫して従う」。第三に「わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させる」。これらは真理の探求を継続するための一時的な方針であり、行為についての懐疑論を回避するための方策である。 
第四部:魂と神の存在証明
【5】 理性を正しく用いて世界を探求するにあたって、まず、少しでも疑わしい考えはすべて廃棄し、あたかもそれらが偽であるかのように取り扱わなければならない。感覚・幾何学・目覚めているときの思考といったものもその例外ではない。しかしながら、「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」(46ページ)。従って「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(同)。わたしの本性は考えることであり、その際、考えているわたしとは身体・物体に依存しない魂(精神)である。すなわち、考えるということが、わたしが存在するということの意味である。
ところで、わたしが考える魂として存在することが真であるならば、ある命題についてわたしが明晰かつ判明に捉えるとき、その命題は真であると言える。わたしは感覚的対象たる物体について真なる考えをもつこともあり、偽なる考えをもつこともあるが、前者は私の精神に由来し、後者は無に由来する。ところが、わたしはまた完全性について考えるとき、わたしの持っている完全性についての考えをもつこともあり、わたしの持っていない完全性(全知・不死など)についての考えをもつこともある。このうち後者はわたしが持っていないのであるからわたしに由来していないし、ましてや無にも由来しない。それゆえ、わたしの考えるこれらの完全性の観念は、実際にこうした完全性をすべて所有している何ものかによって与えられ、わたしの精神において不完全に分有されているということになる。この完全性を有する存在が、神である。以上のことをわたしは明晰かつ判明に理解する、ゆえに神は存在する(命題A)。
神が存在することによって、わたしの精神が明晰かつ判明に捉えたことが真であるというさきの条件が保証される(命題B)(*1)。
*1 命題Aと命題Bは相互に依存関係にあって循環論法に陥っている。これがいわゆるデカルトの循環である。 
第五部:自然学概論
【6】 世界の生成について、わたしたちの住む世界とそっくりな想像の空間を舞台として仮説を展開する(*2)。次に人体について、特に心臓の働きと血液の循環に関する説明。人間を精密な機械から区別するものは、言語と理性の使用である。
*2 これは、スコラ哲学者との対立と宗教的な迫害を懸念してのものであろう。 
第六部:本書の刊行にいたる事情
【7】 わたしはかつて、自分の研究を公表することでその成果を他人に伝達し、共有できる利益があると思っていた。しかしその後、わたしはこの考えを翻すに至った。というのもわたしの経験は、他人の反論はわたしの利益にならないこと、わたしの研究もまた、他人に曲解されてその利益にならないことを示したからだ。わたしは反論に応えることによって平穏を乱されたくはない。
それにもかかわらず、このたび本書(方法序説)を刊行するに至ったのは、もっぱら以下の理由による。第一に、自分の研究を隠している、という悪評を防ぐため。第二に、平穏な研究の時間を与えてくれるよう他人に知らしめるため。 
【8】 このように要約してみると、なぜ本書を理解することが難しいか、その理由の一端がわかってくるように思う。デカルトは本書で、近代的科学の方法論的基礎づけを行おうとしているわけであるが、そこにいう科学とは、数学・倫理学・形而上学・物理学・解剖学など多岐にわたる学問分野を含んでいる。しかし現代人である私たちは、多かれ少なかれ自分の専門分野に知識が偏在している傾向にあるため、デカルトが論じていることの一部は理解できても、他の部分についてはまったく門外漢たらざるを得ない場合が多い。そのため、ともするとなじみのない用語に困惑させられ、デカルトが論じようとしていることの本筋をつかみ損ねるのではないだろうか。たとえば私にとっては、第三部の道徳の問題は非常になじみがあるし、第四部の形而上学、第二部の数学も、なんとかついてゆける。しかし、第五部の心臓と血液の循環についての記述はちんぷんかんぷんであった。高校までに習った生物学の知識をすっかり忘れてしまっているから、心室とか大静脈とか言われても、具体的なイメージを伴って理解できないわけである。  
【9】 さて、『方法序説』がさほど大きくもない分量の中で扱う問題のうち、現代人にとって最も重要かつ興味深いのは、いうまでもなく形而上学を扱った第四部であろう。しかしながら、魂と神の存在証明について論じたこの部分は相当に抽象的で難解であるので、この点についてはデカルトの言いたいことを上記要約のとおり理解した、というところで満足しておいて、私としては第三部について考察しておきたい。
第四部の前提をなしていて案外軽視されやすいのではないかと思われる第三部は、道徳について扱っている。といっても、それは未だ道徳や倫理学の基礎と呼ぶにはあまりにも未成熟なもので、実際には、デカルト自身が哲学的探求を行っている間に従うよう心がけた日常生活の準則、という程度のものでしかない。おそらくデカルトの本心は、形而上学上の懐疑論を突きつめるにあたって、その懐疑的立場の実践という難しい問題を回避したいという点、つまり現実問題としてスコラ哲学やキリスト教道徳との衝突を避けたかったというところにあるのであろう。そのため、デカルトが掲げる三つの準則はいずれもきわめて穏便で、現状追認的な要素を有している。デカルトはその後も、道徳に関してこれ以上の探求を行っていないから、要するにあまり関心がなかったものと思われる。
しかし私が興味深いと思うのは、ここで「当座の道徳」という発想が現れていることである。デカルトは形而上学の規則については根源的な懐疑を要求するが、ここから社会改革を展望することはしない。その動機は上記のとおり、単に道徳を深く探求する意欲をあまり持たなかったので、この甚だ不十分な格率で満足できたという点にあるのであろうから、もし問われればデカルト自身は、自分には関心がないだけで、道徳のこれ以上の探求が不必要なわけではないと言ったかもしれない。デカルトもまた宗教的な迫害を恐れたのであるから、社会の改革の必要を多少なりとも感じていなかったはずはないだろう。デカルトが「当座の」道徳というとき、それはやがて「真の」道徳によって克服されるべきである、というニュアンスを含んでいる。従って、もし道徳の本質について明晰かつ判明に理解できれば、それに基づいて社会を改革することも許容するという可能性に、デカルトの態度はつながっていくのであろう。討論のうまい弁護士が必ずしも良い裁判官になるわけではないという第六部の主張(91ページ)もまた、このことを裏付けているように思える。
だが、私がここであえて「当座の道徳」という考えを強調したいのは、それは「真の道徳」の主張にむしろ優るのではないかと思っているからだ。  
【10】 もはや『方法序説』の問題を大きく逸脱することになるのだが、道徳とは結局いつでも、その時代・その社会における人々の間の対立利益を相互に調整し社会の紐帯を維持するための当座のものにすぎず、またそれで十分なのではないだろうか。道徳とは現に生きている人々の間に「折り合いをつける技術」にほかならず、そこには厳密な意味での「真なる道徳」・「偽なる道徳」といったものはないのではなかろうか。これは目指すべき道徳がないとか、現状が維持されればよいとかいうことではない。ドグマからの演繹によってよりも、私たちの日常的利益の相互調整によってこそ、私たちはより巧みな(真の、ではなく)道徳の諸準則に到達しうる、という方法論の主張である。価値相対主義とは、絶対的価値が失われたのちの思想の抜け殻なのではない。それは、いつ終わるとも知れぬイデオローグたちの論争の支配から私たちの生き方を解放しようとする、ひとつの生活の技術(art)として理解すべきなのだ。価値相対主義に基礎をおく民主政治において、討論、という手続がとりわけ重要性を持ってくるのは、討論が真理到達のための手段だからというよりも、討論という手続を通じてこそ私たちの利害をお互いに納得のいく形で調整できるからなのである。  
【11】 道徳について、より強い興味を示したデカルト以後の近代哲学者たちは、ある意味ではデカルト的立場の延長線上にあることではあるが、真理に到達したという自信のため、道徳に関してデカルトのような慎重さを失っていったように見える。たとえばカントの道徳論は、「たとえ明日世界が滅ぶとしても、刑罰は執行されるべし」との毅然たる命題に到達した。だが、この断定的な調子のもつ魅惑的な響きから少し距離をおいて、落ち着いて考えてみると、現代社会においてこのような格率は明らかにunacceptableであると私は思う。  
このように考えると、デカルトの本心に沿った理解ではないかもしれないが、道徳論に関して当座の格率で満足することを述べた第三部には、ある意味でデカルトの健全な態度が現れていて、支持に値する。むろん、デカルトが実際に挙げた三つの格率は、現代社会の道徳の規準としては甚だ不十分であり、しかもこれをどれほど精緻化したとしても真の道徳にたどりつくわけではない。だが、ともかくも道徳を真理探究と区別するという態度を採用した点で、結論においてデカルトを評価することは可能であると、私は考えるのである。
 
方法序説・書評2

 

1637年、オランダのレイデンでフランス語による一冊の書物が出版された。書物の題名を『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』と言い、通常は短く『方法序説と三試論』などと呼ぶ。著者は四十がらみのフランス人、ルネ・デカルト。
意外に思われるかもしれないが『方法序説』は、デカルトにとって印刷物としては最初の書物である。デカルトは『方法序説』以前にも、『音楽提要』(1618)、歿後遺稿集で読まれることになる未完の作品『精神指導の規則』(1628)、ついに出版を断念した『世界論』(1633)など、種々の作品を書いたがこれらは生前に出版されなかった。
書名からわかるように『方法序説と三試論』の全体は大きく四つの部分から成る。それぞれの部分はしばしば独立して読まれる。ここで言及する邦訳書も、冒頭の『方法序説』を訳出した書物であり、本稿もまた言及の範囲を『方法序説』に限定する。三つの試論――『屈折光学』『気象学』『幾何学』――については別に機会を設けて扱う予定である(これら『方法序説と三試論』の邦訳は白水社版の著作集に収録されている)。
さて、書名の『方法序説』とはどういう意味だろうか。原題をフランス語で、Discours de la méthode と言う。discours とは、「話」という程の意味である。この書名についてデカルトは、メルセンヌに宛てた手紙の中で「方法論」(Traité de la méthode)とせずに、「方法の話」(Discours ...)とした意図を語っている(1637年03月)。つまり、方法について「教える」のではなく、ただそれについて「話す」という意味で Discours という語を選んだのであると言う。この「教える」と「話す」という態度の違いは、知識を切り売りした古代ギリシアのソフィストと問答を重ねるソクラテスの違いを想起させる。デカルトはどういうつもりで話すことを選んだのか。『方法序説』第一部に次のような断りがある。
「……わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである。教えを授けることに携わる者は、教える相手よりも自分の知性がまさると見るのが当然だ。どんなに小さな点においても誤るところがあれば、その点で非難されることになる。けれども、この書は一つの話として、あるいは、一つの寓話といってもいが、そういうものとしてだけお見せするのであり、そこには真似てよい手本のなかに、従わないほうがよい例も数多く見られるだろう」
「わたしはこのようにした」という方法を話すことは、「このようにすると巧くゆく」と教えることではない。昨今巷に溢れるハウトゥ本の多くは後者の意味での方法を教えるものだが、デカルトがむしろ「従わないほうがよい例」さえもあると警告していることからもわかるように、彼が言う方法とはそのようなものではない。これはデカルトの目指すところから考えても当然である。本書で論じられる方法が、なにについての方法であるかといえば、冒頭に掲げた正確な書名にも記されているように「理性を正しく導く」ための方法である。理性(raison)とは、デカルトの用法に従えば物事を「正しく判断し、真と偽を区別する能力」のことだ。そのような能力である理性をどうしたら正しく使うことができるだろうか? その方法についてデカルトが考え、実践したことを本書で語ろうというのである。本書の読者もまた、自ら理性を正しく働かせることによってデカルトの主張の真偽を判断することが求められているのであって、これを無批判に従うべきマニュアルとして受け取ってはならない。マニュアルに盲従することほど思考から遠いものはないのであってみれば。
では、デカルトは物事の真偽をどのように見分けようと言うのか。それは懐疑を通じて確実な知識を探求することによって、である。つまり、少しでも不確実だと思われる判断、信念を捨て去ることだ。多数の人が賛同している意見も問題ではない。事の真偽は、賛成者の多寡で決まるものではないのだから。疑いうることの一切を疑った果てに、なおも疑えないものはあるか。デカルトはある、と言う。それが「考えるわたし」である。すべてを偽と考えようとする間も、そう考えるわたしが存在することは疑い得ない真理である。これがかの「哲学の第一原理」つまり「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(Je panse, donc je suis)である(cogito, ergo sumは上記仏文のラテン語訳)。この場合の「存在する」とは、あくまでも考えるわたしについて言われているのであって、身体についてではないことには注意が必要である。「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も内とは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない」、「このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない」とデカルトが記しているように、身体と精神を区別するデカルトにとってより確実に存在するのは精神である。
ところでこの、デカルトによる身体と精神の区別――いわゆる心身二元論――には、カトリックの教義に馴染む護教的な側面と、合理主義的な側面とがともにあることを見落としてはならないだろう。そもそも肉体/霊魂〔精神〕という区別はキリスト教のものである。実際デカルトは『省察』(1644)の冒頭に付されたソルボンンヌの神学者に宛てた書簡において、『方法序説』の延長上にある『省察』が、無信仰者に対して神が存在することと、人間の精神と身体が別のものであること(つまり、霊魂=精神は肉体が滅びても滅びないこと)を哲学的に論証する企図のもとに書かれた書物であると明言している。また他方、デカルトが哲学の第一原理において表明するのは、人間は理性が把握するもののみに確実な知識の基礎を見る、言ってしまえば、人間は理性が知りうることをしか確実には知り得ない、という態度である。単に「明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、わたしの判断のなかに含めないこと」という規則だけを読めば、「明晰・判明」とはどういうことか? それは「悟り」のように言表しえない一種の神秘主義なのではないか? と読まれかねないが、これは自然の背後に「隠された性質」(qualitas occulta)を措定するスコラ的な自然観に対する批判でもあることを忘れてはならない。
「完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかない」――デカルトは人間精神の限界をこのように見積もる(余談になるが、この言葉はただちにストア派のエピクテートスを思い起こさせる)。われわれはわれわれ以外の事物、たとえば世界や他者に対して力を及ぼすことはできる。だが、それらの事物は決して完全にはわれわれの力の範囲内にない。誤ってはならないのは、これが諦念ではないということだ。むしろそのようでしかない精神によって人間は何を知り得るか? それがデカルトの出発点であり原動力である。事実、デカルトは三試論や『世界論』をはじめとした諸著作において、神、宇宙、自然、人間についての知識を探究し続けた。人間精神が知りうるすべてのことに関して確実な知を探究すること、それが知を希求するという語義を持つ哲学(philo-sophia)の本来の営為だとすれば、哲学史上に現れる固有名の研究をする哲学学だけが哲学ではないことは明白である。『方法序説』は、そのような哲学の射程を明確に宣言する書物である。 
 
科学史雑話

 

1 大気圧の発見からボイルの法則へ 
自然は真空をきらう
「空気は重さをもち、圧力を及ぼしている」といえば、今では誰でも「あたりまえではないか」というだろう。だが、これはわずか三百数十年前に誕生した、比較的新しい考えなのである。それ以前の人たちは、「自然は真空をきらう」というアリストテレスの説を後生大事に守って、大気圧によって生じる現象をすべてこの考えで説明しようとしていた。例えば、ふいごの口をふさいで、把手を拡げようとしてもなかなか拡がらないのは、もし拡げられると真空が生じるが、「自然は真空をきらう」から拡がらないのだ、というのである。このような考えでも、当時は、自然現象の精確な観察から論理的に導かれたものだ、とかたく信じられていた。例えば、物体の落下速度は、空気などの媒質の抵抗が大きいほど遅くなるから、媒質の密度に反比例するだろう。もし真空が存在するのならば、その密度は0だから、抵抗は0となり、速さは無限大になる。だが、無限の速さは不可能だから、真空は存在しないことになる、という論法である。もちろん、この議論の誤りは、日常の現象の観察結果を無条件で真空中の運動に適用して、そこでの速さを無限大と認めた点にある。そして何よりも、「自然は真空をきらう」という目的論的な自然観で自然をとらえている限り、自然現象の正しい理論を生むはずはなかったのである。
トリチェリの唱えた“空気の海”
やがてヨーロッパでは、近代市民社会が形成されてゆく過程で、商業資本主義が勃興してきたため、目的論的世界観は合理主義的世界観へと転換を迫られつつあった。そのために、現象のもとになっている原因は何かという点に目を向け、その原因を実験によって明らかにしようとする態度が生まれてきたのである。また、商業技術が著しく発達してくると、実際にアリストテレスの説では説明のつかない現象も数多く現れてきた。
揚水ポンプの現象がその一例である。この頃、金属の需要の増大によって鉱山業が発達し、鉱坑は地下深くまで掘られるようになってきた。そのため深い所から水を汲み上げる必要が生じたが、約10m以上の深さになるといつもポンプは働かなくなった。井戸掘職人からこの現象を聞いたガリレイは、「自然が真空をきらう」ならば水はいくらでも上がるはずであり、アリストテレスの考えではこうした現象を説明できないことに気づいたのである。そこでガリレイは、上端をつるしたロープや鉄の棒があまり長くなると、それ自身の重みでちぎれてしまうのと同じように、水柱も約10m以上にもなると水自身の重みで切れてしまうのだ、と考えた。そして、自然が真空をきらう抵抗力には限度があり、その力に打ち勝ちさえすれば真空は可能だと推論したのである。
真空の問題は、ガリレイの弟子トリチェリによって、新たな局面を迎えた。トリチェリは水の13。6倍の密度をもつ水銀を用いて、その上がり得る高さを測定したのである。実験の結果、ガラス管内の水銀は約76cmの高さで止まり、管の上部に“空所”を生じた。この“空所”こそ、今まで誰も見たことのない真空だ、とトリチェリは考えた。しかも、水銀柱が宙に停止する原因を初めて大気の重さに求めたのである。彼はこのことを、次のように表現している。「われわれは、いわば空気の大洋の中にひたって生きている」と。
トリチェリの実験は人びとの関心の的となり、“空所”をめぐって議論が続出した。当時は、“空所”には希薄な空気が満ちている、などと主張する真空否定論者が多かった。“空所”を真空と認め、水銀が宙に停止する原因を大気の重さに求める説が受け入れられるためには、まだまだ多くの実験と新しい考えが必要であった。その頃、1人の天才が彗星のごとく現われた。その人の名は、ブレーズ・パスカルである。
大気圧を証明したパスカル
パスカルは巧みな実験をして、問題となっている隙間には、知覚し、認識し得るような物質は何一つないと結論を下した。つぎに彼の関心は、水銀が下降して隙間を残す原因はいったい何なのか、という方向に移っていった。内心では、トリチェリの“空気の海”の説に同意していたが、自然学では実験こそが真の師であるという信念をもっていたパスカルは、あらゆる反論にも耐え得る確かな証拠を示そうとして、さまざまな実験を工夫した。その中でも、大気圧の考えを確証づけたのが、次の2つの実験である。1つは“真空中の真空”とよばれている実験だ。J字形とまっすぐな管とを接続したガラス管に水銀を満たして、水銀槽中に倒立させるこの実験は大気圧のかかっている場合と、そうでない場合をものの見事に対照させている。もう1つの実験は“ピュイ・ド・ドームの実験”とよばれている。水銀柱が宙に停止する原因が大気の重さならば、高い山の山頂に置いた水銀柱の高さは、山麓に置いた場合よりも低くなるはずだ。この仮説を検証するために、義兄ペリエに頼んでピュイ・ド・ドーム山で行ったのがこの実験である。
パスカルは大気圧の問題をより一般化し、流体の平衡の問題として論じた。彼は静止流体の研究を進めて、ガラス管の口から流れ出す水を防ぐのに必要な力は、水の高さにのみ比例することを示した。そして、その力の大きさとして、今でいう全圧力を定義していたのである。また圧力の伝わるしくみを説明しようとして、「流体のある部分に加えられた力は、流体の連続性と流動性のために容器のあらゆる部分にくまなくゆきわたる」という原理を提示している。
彼はこれらの原理を用いて、水圧器の平衡や、アルキメデスの原理などを説明したのである。こうして、今まで「自然は真空をきらう」と説明されてきた現象を、流体の平衡の理論を用いて、ことごとく大気の重さに帰したのである。
ボイルの法則と粒子観
空気は大気圧を生じるという現象の他に、弾性という性質をもっている。当時、空気に膨張する性質があることは、ぺしゃんこにした魚の浮き袋をトリチェリの“空所”に入れると、ふくらむことなどから知られていた。ボイルは性能のよい空気ポンプを使用して、トリチェリの実験で水銀柱が上昇する原因は、外部の気体の圧力にあること、また空気が弾性をもつことなどを示した。しかし、真空を否定する説は依然として根強く、水銀柱は目に見えない糸(funiculus [フェニキュラス] とよばれていた)によってつるされているといった反論も現れた。
この批判を反駁するために数々の実験を行ったが、有名な“ボイルの法則”を導いた実験もそのうちの1つである。その実験で、空気を圧縮する場合は、J字管の短いほうの端をふさいで水銀を入れ、左右の水銀柱の高さが等しくなるように空気を出し入れしてから、長い方の管へさらに水銀を注ぎ込む。一方、膨張の場合には、水銀槽に両端の開いた細くて長いガラス管をゆっくり垂直に沈めてゆく。上部に少量の空気を残して上端を封じたのち、そのガラス管を少しずつ引き上げる。どちらの場合も、水銀柱の高さの差から求めた空気の圧力はガラス管内の空気の体積に反比例することが定量的に導かれたのである。
原子論的自然観が再び勢いを盛り返しつつあった当時、ボイルは空気に弾性のあることを説明するのに、粒子論的な空気モデルを頭に描いていた。つまり、空気を羊毛のような粒子が互いに重なりあったものとみていた。そして、その粒子をバネのように自ら再び伸びようとするものと考えていたのである。
江戸時代にもあった空気の概念
大気圧の概念が生まれるためには、空気が物質であることを、明確に認識する必要があった。実はガリレイと同じ頃、日本にも空気の存在を明らかにした人がいたのである。たくあん漬の考案者(貯え漬がなまったとする説もある)といわれ、また小説『宮本武蔵』では武蔵の師として登場する沢庵和尚がその人である。沢庵は著書『東海夜話』の中で、空気は目に見えないから存在しないように思うが実際にはあるのだと述べ、その証拠として次のような例をあげている。「子供が遊ぶ竹鉄砲では、かんで柔らかくした紙玉を竹の筒の前後に入れて、後の玉を突くと、後の玉が前の玉へ届く前に“はっし”と鳴って前の玉はとび出てゆく。これは、その玉の間には空気が満ちているからだ」。
この「竹鉄砲」は今では小学校4年の「空気でっぽう」という教材で取り上げられ、子どもたちは空気の伸び縮みを学習している。ボイルが「空気が目に見えないという理由でこれを無視してはいけない」と主張する数十年前に、すでに沢庵和尚がこれを喝破していたのは、なんと興味深いことではないか。 
2 神経を伝わるもの

 

神経は精気を流す
「精気」(pneuma)という言葉をご存じだろうか。ギリシア時代の末期ガレノス(A.D.130〜200)という生理学者は動物が生きていくためには三つの精気が必要であると考えた。肺を通して空気中からとりこんだ生命精気、この生命精気から脳でつくられる動物精気、さらに肝臓で血液からつくられる自然精気である。精気ははじめ、霊魂と同じような非実体的なものとして考えられていたが、ガレノスのときにはすでに物質的実体としてとらえられていた。
さて、今回の話で取り上げられるのは上の三つの精気の中の動物精気である。動物の特徴である“動き”と“感覚”をもたらす動物精気は、脳から神経の管を通って体の各部へ行き仕事をする、とガレノスは述べている。
この、神経を精気が伝わるという考えは17世紀に至っても見られ、デカルト(1596〜1650)もそうした考えの持ち主であった。彼はハーヴィ(1578〜1657)の血液循環説にヒントを得て、動物は一種の機械のようなもので、ちょうど水道管の中を水が流れていって、いろいろな装置を動かすように、脳にたまっていた精気が神経の管の中を流れていって筋肉をふくらませたり、のばしたりして体を動かさせるのであると考えた。もちろん、神経は横断面を作ってみれば中が空でないことはわかる。デカルトも、神経の中は沢山の繊維からできているが、その隙間を通り抜けるほどの小さな粒子から精気ができている、と述べている。いかにガレノスの考えが強く影響していたかがわかるだろう。しかし、精気を粒子としてとらえているところは、当時の粒子論的な物質観が入りこんでおり、時代の変化を知ることができる。
無頭ガエルの実験
18世紀になるといささか事情が変わってくる。スコットランド生まれのアレキサンダー・スチュアート(1673〜1742)という生理学者が無頭ガエルを用いて、次のような実験を行った。そのカエルをつるし、切り取った部分から小さな針で脊髄を極めてゆっくり押した。すると、垂れ下がっていたカエルの肢が収縮した。同様のことを2〜3秒間隔をおき数回繰り返しても反応は同じであった。
もし、ガレノスやデカルトのいうように精気が脳から流れてくるのであれば、この場合には説明がつけにくい。現代の私たちであれば、この現象を反射と呼んで、あたりまえのこととしてかたづけてしまうであろう。スチュアートは、まだガレノス説の影響を受けていた。彼はこの現象を神経の管の中に充満している液体、つまり動物精気を圧縮したことに起因していると考えてしまった。
ところが、ステファン・ヘールズ(1677〜1761)も似たような実験を行っている。ただ、彼の場合には、皮膚を針でついている。これは現在私たちが酸のついたろ紙を用いて行うのと同様の実験であり、結果も同じように、その刺激物を取り除こうと肢を動かすのであった。この現象は、精気の流れでは説明がつきそうもない。
また、ロバート・ホワイト(1714〜1766)というスコットランドの医学者も、実験で切り取ったカエルの心臓やその他の筋肉がしばらくの間動くことや、頭を切り取っても30分ぐらいは生きつづけ、適当な刺激さえあればその器官を動かすこともできると述べている。ただ、彼も筋肉を動かすものが何であるのかをはっきりとは示していない。しかし、当時、ぽつぽつ電気についての知見がたくわえられてきており、彼も電気によって筋肉が動かされうることを知っていたようである。
生物と電気の関係
この電気によって筋肉が収縮することを学問の世界へもちこんだのは、イタリアのボローニャ大学のルイジ・ガルバーニ(1737〜1798)であった。18世紀の中ごろは、電気を生みだすための起電機の改良に多くの科学者の関心が集まっていた。電気を蓄える装置であるライデンびんがライデン生まれの物理学者ムッセンブルック(1692〜1761)によって発明されたのもこのころである。
ガルバーニは1786年の夏、起電機につないでいないカエルの肢の筋肉が、起電機がスパークするたびに収縮することを発見し驚く。それまで起電機につないでいたカエルの肢が収縮するのは知っていたが、こんなことは初めてであったからだ。彼はそのときの状況をつぶさに調べ、筋肉収縮に必要な条件が何であるかを知るために、条件をいろいろに変えて実験を繰り返した。その結果、実験用カエルの神経に金属がふれていること、およびカエルの筋肉が電気の良導体によって地面につながっていることが必要であると考えた。もちろん、電気がスパークすることも必要条件であった。
ところが、1786年9月20日、彼はもっと重大な発見をする。カエルを鉄板の上におき、脊髄を貫いている金属の棒をその鉄板に押しつけてみた。すると筋肉が収縮したのである。つまり、電気のスパークを起こさなくても、筋肉が動いたというわけである。彼は結論を急がず、いろいろな金属を使ったり、実験の時刻をいろいろと変えてみた。それでも結果は同じであった。彼は動物体の中で電気が起きた以外に考えようがないとして、動物電気を発見したと報告した。神経はこの動物電気をひきつけ、体の各部分へ送る役割をもっており、その内部は電気を伝えるための特殊な物質からできており、外側は油性の物質でできているとまで説明している。
ガルバーニの考えはすぐに同じイタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタ(1745〜1827)によって厳密に検討され批判を受けることになる。ボルタはいう。ガルバーニの実験では、2種の異なった金属の接触によって生じた電気によるのか、動物電気によるのか不明確であると。ボルタは2種の異なる金属で電気を起こしうることを知っていたからである。
彼は、私たちが現在よく行う銅・亜鉛ピンセットでの神経刺激実験と同様のことを行い、筋肉収縮を起こさせることに成功している。こうして動物電気という考えを否定する。
ガルバーニとボルタの論争はガルバーニ側に甥のジョバン・アルディニが加わり、金属を使わず、筋肉と神経だけの接触でも収縮が起こることを示して反論した。この両者の論争は、ボルタの電池の研究が有名となり、それとともにボルタ側の勝利に終わる。しかし、動物電気の発生を否定したボルタも、今日からみれば誤っていたわけである。
神経伝達のしくみ
19世紀に入ると、脳や脊髄に関する実験的研究が進み、反射の経路がだんだんと明らかにされてきた。このこととガルバーニらの研究とが関連して、脳からの精気の流れという考えはかなり後退した。しかし、ドイツの有名な生理学者のヨハネス・ミュラー(1801〜58)などは、興奮が神経を伝わる速さがあまりにも速いので、物理学や化学の法則では説明がつかないものが流れているのであろう、と考えてしまっている。
この興奮の伝わる速さをうまく測定する方法を生み出したのは、ミュラーの弟子にあたるヘルムホルツ(1821〜94)である。彼はエネルギーの保存則を考えたことで有名だが、ガルバーニの研究にヒントを得て、神経を電気で刺激することを考えついた。神経筋標本をつくり、神経の2か所を電気刺激し、それぞれの場合に筋肉が収縮するまでの時間をカイモグラフで調べ、その差を測り速さを計算している。その結果、興奮の伝わる速さがいつも一定であることを見い出す。これは大切な発見である。なぜなら、もし、興奮が何か液体のようなものの流れであるとすれば、速さは必ずしも一定にならないからである。
現在の興奮伝達のしくみを明らかにする糸口をつくったのは、デュ・ボァ・レーモン(1818〜96)である。やはりミュラーの弟子である。当時、マッテウッチ(1811〜68)は神経には電流が流れないという考えを発表していた(1840)が、ミュラーはこの追試をデュ・ボア・レーモンに命じたのである。はじめ筋肉の縦断面や横断面を電流計で測定し、両者に電位差があることを見い出す。この見解をさらに神経にまで拡張し、神経でも両断面に電位差があると考える。そうして、神経を伝わる興奮というのは、電流自体ではなく、電流の強さの変化によって生じる電気的緊張状態であると述べ、今日の説に近づいている。
その後、彼の弟子ベルンシュタイン(1839〜1919)などによって、このしくみに関する説は発展させられていくが、これに関連してノーベル賞候補にまでおされる業績をあげた加藤元一(慶応大学)の研究(カエルの神経を用いて、刺激の伝わり方が一定であることを示した。いわゆる不減衰説)もあったことを付記しておこう。 
3 熱とは何か

 

“熱”ということばは、私たちにとってなじみ深い日常用語である。しかし、「熱とはいったい何なのだろうか」と改まって尋ねると、正確に答えられる人はあまり多くないようだ。今回は、この熱の本質が明らかにされてきた過程をみていくことにしよう。
熱の運動説と物質説の登場
熱の本質を科学的に説明しようとする試みは、17世紀に始まる。このころは、粒子論的自然観を背景にして、ニュートン力学的な自然観がまさに花開こうとしていたときであった。粒子論者のボイル(1627−91)、フック(1635−1703)、それにデカルト(1596−1650)もまた、物体を構成している微粒子の振動こそ熱にほかならない、と考えていた。「手をこすると暖かくなるのは、手をつくっている微粒子が運動するからだ」というデカルトの主張は、この時代思潮の代表といえよう。しかし、当時は思弁的色彩が強く、実験的根拠にも欠けていた。
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパでは産業が活発となり、工業はめざましい勢いで発展していた。なかでも、製鉄業を始めとする金属工業やガラス工業など火を使う工業では、生産が拡大するにつれて燃料の石炭の需要が激増してきた。その需要に応えるため、炭坑では“火で水をくみ上げる”ニューコメンの蒸気機関が大活躍していた。
こうした熱を利用する工業や技術の発展とあいまって、熱に関する科学的研究も本格化してくる。このころ、新興勢力として登場した化学者のなかから、熱を物質とみる考えが生まれてきた。変化する現象にもかかわらず恒常的な実体的物質を想定するのが得意な彼らは、熱現象の担い手は熱の粒子だと主張したのである。もっとも彼らは、初めのうちは温度と熱の区別が曖昧で、温度は熱の粒子の量を示しているにすぎないと考えていた。
熱と温度の区別
熱と温度の違いをはっきりさせて、熱学の基礎を築いたのは、ブラック(1728−99)である。彼よりも少し前に、ファーレンハイト(1686−1736)が正確な温度計を作っていた。ちなみにわが国では、1768年平賀源内がオランダ製品をまねて初めて和製温度計を製作して、寒熱昇降器と名づけている。
ブラックは以前、天秤を用いる定量分析的手法で“固定空気”(二酸化炭素)を発見していた。彼はこの定量的手法を熱学にもちこもうとした。「温度の異なる同質量の水と水銀をまぜても、初めの温度の中央値を示さない」という報告をみたブラックは、さっそく温度計を使って、もっと精密に実験をやり直してみた。彼はその事実を、水と水銀では“保有しうる熱の量”(熱容量)が違うと考えると説明がつく、と主張した。つまり、出入りした熱の量=熱容量×温度変化という関係で熱の移動を説明しようとするのである。
さらにブラックは、今でいう潜熱の現象こそ、熱と温度の違いを説明するものだと考えた。実は、彼の住むグラスゴーではウイスキー産業が盛んであり、蒸留の過程で生じる潜熱の現象はよく知られていた。彼はまず、氷と、これと等しい質量の0℃の水を大きな部屋に放置してみた。すると、水は30分で4度上昇したが、氷は融けきるのに10時間もかかり、そのあいだ温度は上昇しなかった。氷に与えられた熱はいったいどこに消えたのだろうか。ブラックは、この熱が失われたのではなく、水の中にかくされていると考えて、“潜熱”と名づけた。熱を物質と考えるブラックにすれば、熱は移動することはあっても消滅するはずはないと思ったのだろう。今日でも使われている“熱容量”とか“潜熱”ということばは、熱を物質と考えていた時代の名残りを示している。なお、有名なワットはブラックから潜熱の考えを聞いたため、ニューコメンの蒸気機関を改良するヒントをつかんだのである。
ブラックのおかげで、熱物質説は多くの支持者を得ることができ、やがてラボアジェ(1743−94)の手でさらに洗練されたものに仕上げられていく。ラボアジェは、熱粒子を“熱素(カロリック)”と命名し、酸素や水素など他の32の元素とともに、元素の一つと考えた。この頃になると、加熱前後で物体の質量を測定しても変わらないことから、熱素は重さのないことがわかっていた。さらに、熱素は物質である以上、他の原子と同様不生不滅であり、保存されるという考えが行きわたった。
摩擦熱の実験
熱の物質説を主張するのは主に化学者であったが、18世紀でも一部の物理学者は熱を物体微粒子の運動と考えていた。やがて、熱の運動説を初めて実験的に立証しようとする人が登場する。その人はラムフォード(1753−1814)である。
彼はミュンヘンの兵器工場で大砲の中ぐり作業を監督しているとき、砲身が短時間で非常に熱くなるのに驚いた。以前から熱素説に疑問をいだいていたラムフォードは、この現象を実験に移し、鈍い穴あけ器を金属円筒に押しつけて、その円筒を馬の力で回転させた。すると、大量の熱が発生するではないか。空気から熱素が与えられたからだという熱素論者の反論に対して、円筒を水につけても熱は発生し、水が沸騰することを示して、次のように熱素論者は反駁した。「運動が続く限り、この熱は枯渇しない。孤立した系が際限なく供給できるものは物質ではなく、運動と考えるほかない」と。ちなみにラムフォードは、熱心な熱素論者であり断頭台の露と消えたラボアジェの未亡人と結婚したことをつけ加えておこう。
彼の実験は大きな反響をよんだが、支持者はデービーとヤングのわずか二人だけであった。というのも、熱の運動説は摩擦以外の現象にはそれほどうまく適用できるとは思えなかったし、何よりも定量的扱いを欠いていたためである。そこで、熱と力学的仕事との関係を定量的にとらえ、熱量が保存しないことを明らかにする方向に目が向けられていく。
熱とエネルギーの関係
こうした状況で、エネルギー保存則が発見されるのは、もはや時間の問題であった。事実それは、ジュール(1818−89)、マイヤー(1814−78)、それにヘルムホルツ(1821−94)たちの手によって別べつに発見された。
ジュールは、当時発明されたエンジン(電池で動かすモーター)が蒸気機関にとって代わるのではないかと期待して、その効率の改善を研究していた。彼はエンジンが動いているとき、導線に熱が発生するのに気づいた。しかし彼はまだ、電池の化学反応によって熱素が表面化したために熱が発生したのだと思っていた。ところが、磁場の中でコイルを回転しただけで、熱が発生するのではないか。すると、コイルを動かす力学的仕事以外に、熱の原因は見あたらない。熱は物質ではなく運動によって発生するのだから、熱と力学的仕事とは等価だ、と彼は結論を下したのである。そこで彼は、分銅の力で水を攪拌するあの有名な実験などから、熱の仕事当量を求めた。
一方マイヤーは、自然界の諸作用は宇宙の根源的な力によるという当時の自然哲学に心酔していたため、思弁的にエネルギー保存則に達した。彼にはこんなエピソードが残っている。彼の数少ない理解者の一人、ヨリー教授は「もし君の考えが正しいならば、水をかきまぜただけで、水を温めることができるのではないか」と尋ねてみた。このときマイヤーは何も答えなかったが、数週間たってからヨリーの所にとんできて、こう叫んだ。「先生。そうです!その通りなのです」。マイヤーは、フラスコに水を入れ、これを一生懸命かきまぜると、水温が上昇することを確かめたのである。
力学的仕事と熱の等価性が示されると、以前から知られていた力学的エネルギー保存則は、エネルギー保存則へと拡張されていく。やがてケルビン(1824−1907)は、原子・分子の運動エネルギーと位置エネルギーの和を内部エネルギーと定義して、エネルギー保存則をつぎのように定式化する。「系の状態変化に伴う内部エネルギーの差は、外部から加えられた仕事と熱量の和に等しい」。ここにいたって、「熱とは何か」という長年のなぞにもようやく終止符が打たれた。熱は、物体から物体へ移動する内部エネルギーの形態の1つだったのである。
その後、熱の運動説は分子運動論から統計力学へと発展していく。また熱輻射の現象が契機となって、エネルギーは離散量(エネルギー量子)であることが示され、今日にいたっている。この説は他日に譲ろう。 
4 生物を分類する目的

 

リンネの「二十四綱」
江戸時代の終わり近く、1835年に宇田川榕庵が著わした『植学啓原』という書物の第1巻に「第十八図 林娜氏二十四綱」という図がのせられている。これはいうまでもなく、リンネ(1707〜78)の Systema Naturae(自然の体系 1735)で彼が示した植物分類の図表を紹介したものである。宇田川榕庵(1798〜1846)といえば、江戸時代においてヨーロッパの近代科学を紹介し、その啓蒙に努力した菌学者として高く評価され、最近では、彼に関する研究が活発である。榕庵の生物学分野における活躍の様子は矢部一郎氏(立正大)が特に詳しく研究されている。矢部氏によって『植学啓原』の現代語訳(講談社)もなされているし、上記の図の紹介も彼によるものである。
さて、このリンネの「二十四綱」とは何であろうか。植物を二十四の綱に分類したものであるが、その基準がふるっている。彼は植物のおしべの数を基準にし、第1綱はおしべ1本のもの、第2綱は2本のものというように、第13綱までもうけ、さらにそのあとは、おしべとめしべの相対的位置や大きさで第23綱までつくり、最後にいわゆる花をもたない植物を一括して第24綱とした。コケやシダはここに入ることになる。今日の分類と比べるとかなりのへだたりがあるし、リンネ自身もこの分け方に満足していたわけではない。しかし、彼以前のものに比べると、分類しやすくなり、当時の人々には便利なものとして愛用されたようである。
おしべを基準とした理由
では何故にリンネはおしべの数などを分類の基準としたのであろうか。また、彼以前にはどのような基準で分類がなされていたのであろうか。もともと物や事柄を分類するというのは、それらが量的に増大し、整理をする必要上から起こってきたものであり、人間の便宜上のものである。したがって、分類の基準も実用的なものが多い。植物についていえば、薬用、食用などというグループ分けがあげられよう。榕庵がリンネの分類法、広くはヨーロッパの植物学における分類法を紹介したころ、日本では中国から伝えられていた本草学的な分類が主流であり、この場合にはほとんど実用的なものであった。
ヨーロッパで実用的分類から離れた形の試みがなされたのは、古くギリシャ時代、アリストテレス(B.C.384〜322)の弟子テオフラストス(約B.C.372〜B.C.287)であり、植物を喬木、灌木、亜灌木、草本に区分している。しかし、その後は実用的な分類が幅をきかせちたようである。ようやく、16世紀になり、植物に関する観察資料も豊富になると、客観的な基準で分類する動きが見られるようになった。たとえばイタリアのチェザルピーノ(約1519〜1603)は果実と種子を基準にして、15のグループに分類しているという(1583年『植物について』)。彼はピサ大学で哲学と医学を修めたといわれており、植物に関してはアリストテレスの影響が強くみられ、植物のもつ霊魂(アリストテレスは生物の基本的原理として三つの霊魂の存在を考えた。一つ目は植物的霊魂で生殖、栄養を、二つ目は動物的霊魂で感覚、運動を、三つ目は理性的霊魂で人間の理性をそれぞれつかさどるとされた。)の活動と関連づけ、生殖、とくに結実器官に注意をむけたようである。
リンネはこのチェザルピーノを真の分類学者として尊敬していた。しかし、チェザルピーノが果実を重視し、花は単に果実の保護のためにあるものとして軽視したのに対して、花に注目した。リンネ以前に花に注目した人としては、花びらの数で分類したバハマン(1690)、花冠の形で分類したトゥルヌフォール(1694)があげられるが、リンネはこれらの考えとも異なり、花びらも単なる飾りであり、植物にとって最も大切なものは花の中でもおしべであると考えた。
それは、彼がおしべの先端につく“花粉”が生殖にとって重要な役割をはたしていることを認めたからである。ただし、はじめのころは今日のように花粉を生殖に際しての雄の役割とする考えでなく、花粉の中に植物体が入りこんでいるという前成説を信じていたのだといわれている(中村禎里氏『生物学の歴史』河出書房新社)。
分類する目的
おしべの数を基準にして植物分類を行ったリンネは、動物に関しても分類している。この場合には6つの綱(四足獣類、鳥類、両生類、魚類、昆虫類、蠕虫類)をたてているが、ギリシア時代のアリストテレスのものとあまりちがいがない。むしろ簡単になっている。
アリストテレスは、『動物の発生』という著書の中で次のように動物を分類している。まず血液の有無で、有血動物と無血動物にわけ、次に生殖の方法によって細分している。有血動物では胎生(人類、胎生四足類、鯨類)、卵胎生(軟骨魚類)、卵生(鳥類、卵生四足類、無足類)、不完全卵生(魚類)、無血動物では不完全卵生(軟体類、軟殻類)、蛆生あるいは自然発生(有節類)、無性生殖または自然発生(殻は類、その他)という区分けである。
彼が分類の基準とした血液の有無、生殖法、運動のしかたなどは、いずれも客観的なものであり、実用的な目的があっての分類でないことが知られる。ではアリストテレスにとって何が目的であったのだろうか。そのことは同様にリンネにも、あるいはチェザルピーノにも問いかけられることがらである。
先に、ものを分けることの必要性が実際的便宜から起こるのであると述べたが、上記の人たちの行為はそれに該当しない。それに関してはリンネが24綱の分類法を提出した著書名『自然の体系』にヒントがある。つまり彼は自然の体系を求めたのであった。もちろん、18世紀のころまでにはヨーロッパ人の世界進出は目ざましく、ヨーロッパ以外の国ぐにから珍しい動植物が集められ、生物に関する情報量は増大し、有用な資源生物の調査という実際的要請もあって、分類学が急速に進展したことは確かである。しかし、それだけが目的であれば、客観的な分類法でなくてもよいであろう。
リンネにとって、自然の体系を求めることは神に仕えることでもあった。リンネは神が生物を創造したことを信じていた。とすれば神がどのようなプランで生物を創造したか、そこにどのような秩序が存在するのか、それを知ることは神に近づくことを意味しているのであった。そのためには神が重要であると考えたであろう器官を分類の基準にする必要があったのである。
アリストテレスの場合でも、自然の体系化が目ざされたのである。アリストテレスによれば、自然界には神を頂点として、人間、動物、植物、無生物という段階があるという。人間も動物も植物も神の完全性、永遠性に近づくことを目的に生活する。永遠性を得るためには個体を維持し、種族を維持しなければならない。生殖はその目的を達成するための1つの行為であり、生物にとって重要なことがらである。彼が生殖方法を重視して動物分類を行ったのも、彼なりのこうした論理が働いていたからである。
分類と学名
ところで、生物を分類するのには、それぞれの生物種に正式な名称がつけられていなければならない。学者により、あるいは国により、同じ生物に対して異なった名称がつけられていると、ときには同じものを重複して数えたりすることが起こる。この問題に取り組んだのは、16世紀、スイスの植物学者カスパル・ボアン(1560〜1624)であった。
彼はバーゼルの医者の息子で、バドヴァで学び、その後ドイツ、イタリア、フランスなど各地の植物を調査し、多くの新種を発見したといわれている。彼はこうした研究を通して植物名の共通化を考えるようになり、1623年著書『植物一覧表』で約6000の種にすべての同意名を列記し整理を試みた。さらに、彼はそれぞれの植物に属の名と種の名をつける。いわゆる二名法を考えだした。
また、ドイツのユンク(1587〜1657)ははじめに属名を表すラテン語の名詞、そのあとに種名を表すラテン語の形容詞をつけることを提案している。
私たち人類につけられた学名は Homo sapiens(ホモ・サピエンス)であるが、いずれもラテン語であり、前者がヒト、後者が“すぐれた”という意味をもっていることはご承知のとおりである。この学名はリンネによってつけられたものであり、リンネは、ボアンやユンクの考えを発展させ、こうした二名法を学界の正式な命名法として採用し、この名称を学名とすることを確立させた(1753年)。以来生物の種には必ず学名が付せられることになり、生物の分類学の進歩に貢献することとなった。
ところで、この学名は一度正式に決められると変更が許されない。そのため誤りとわかっていても訂正されないものがある。イチヨウの学名を調べてみよう。Ginkgoとかかれているであろう。これは銀杏(Ginkyo)からとったもので、yとgがミスプリントされたそうである。話は脱線するが、この種のミスは目をつぶればよいが、われわれ人類の学名は誤っていないであろうか。本当に人類はホモ・サピエンスといえるのであろうか。最近における人類の活動にはそれに値しないものが存在するように思えてならない。
それは何が目的で分類学を行うのかという今回の問題と同様に、私たちは何のために、誰のために科学的活動をするのかという問題にも関連しているのである。近代科学の受容に尽した榕庵の努力をむだにしない日本のあり方をさぐる必要があるといえよう。 
5 酸とアルカリ

 

酸・アルカリの語源
化学の世界で重要な位置を占める酸・アルカリの概念は、紆余曲折を経ながら今日に至っている。
人類は古くから、柑橘類の果汁や酸など、すっぱい味のする物質があることを知っていた。この物質は、その味もさることながら、金属を腐食したり、ミルクを凝固するといった特別の性質があるため特に関心がもたれ、「酸(acid)」とよばれてきた。この言葉は、ラテン語の acere(すっぱい)という語に由来している。中世の錬金術師たちは、黄金や不老不死の妙薬のもとになる“賢者の石”を探していたとき王水や硝酸などの強酸を発見し、酸の仲間を増やしていった。
一方、酸と反応してその働きを弱める物質もまた、昔からわかっていた。それは、脂肪を落とす洗剤として使われていた木灰の中にあった。木灰の汁を煮つめてできた粉末の物質は、舌をさす特有の鹹 (から) 味があり、アラビア人によって「アルカリ(木灰の意味)とよばれていた。この物質を強熱すると、灰の一部は気体(主に二酸化炭素)となって消え、さらに強いアルカリ性物質が残る。当時の人たちは、加熱した後に残る部分はもとの灰よりも堅固な物質だと思い、ギリシア語の basis(基礎)」にちなんで base(塩基)と名づけた。今日、酸の対概念には塩基を用いるが、水に溶けやすい無機塩基はアルカリともいっている。
やがて、錬金術師の黄金の夢がうすれるにつれて、化学の目的は医薬をつくり、不足している元素を体内に投入して病人をなおすことだ、と主張する医化学者 (イアトロケミスト) たちが現れてくる。彼らは酸とアルカリを重視した。例えば、シルビウス(1614〜72)などは、人体を酸とアルカリの微妙な平衡状態にある化学系と考えて、このバランスがくずれたときに体調の変化をきたすと主張するのであった。
この頃はスミレなどの草花の汁が酸・アルカリの同定に使われている。ちなみに、今の小学生たちは、地中海沿岸でとれるリトマスゴケの青色色素から作られたリトマス紙を用いているが、第二次大戦中は、このリトマスゴケがわが国に輸入できなくなり、ヨコサルオガゼで代用したというエピソードがある。
酸の粒子はとがっている?
実用的色彩の強かった化学も、17世紀に入ると自然科学の一分野としてしかるべき地位が与えられるようになり、酸・アルカリも、なぜそうした性質を示すのかという点にまで目が向けられていった。ボイル(1627〜91)やレメリらは、当時流行の粒子観に基づき、粒子の大きさや形状で酸・アルカリの性質や現象を説明づけようとする。例えば、酸は先のとがった針のような粒子からできているため、舌を刺激してすっぱく感じるのだとか、金属の粒子の間に入り込むから金属は溶けるのだと主張した。一方、アルカリはといえば、これは多孔質の固体であり、酸の粒子がこの穴に入るから酸の性質が失われるというのである。
こうした機械論的な説明はまだ概念的なにおいが強く、代わって、化学的特性を備えた元素という概念で酸・アルカリを説明しようとする一派が次に現れてくる。彼らこそ、今日の化学者の直接の先祖といえる。
酸素を含む酸、含まない酸
産業革命によって大量に生産された布を漂白するのに、石灰水が使われるようになってきた。石灰の研究から、固定空気(二酸化炭素)が発見され、それが端緒となって、水素、そして酸素が見つけられた。この酸素が炭と結びつくと炭酸ができ、硫黄と結びつくと亜硫酸、そして燐とならば燐酸ができる。どうも金属以外の物質がこの気体と化合すると酸になるようだ。そこでラボアジェ(1743〜94)は、すべての酸は酸素からできていると考えた。「酸素(oxygen)」は、酸をつくるもとという意味で、彼が命名したものである。なお、「酸素」という和訳は、江戸時代の学者、宇田川榕庵の著書『舎密開宗』に初めて登場した。
ラボアジェの説では、塩酸も酸である以上は酸素を含まなければならない。彼は塩酸が未知の元素の酸化物であり、この酸化物(塩酸)がさらに酸化されて生じる気体を「酸化塩酸」と名づけた。ところがデービー(1778〜1829)は、この気体を加熱した木炭上に通したり、酸素を含まない化合物と反応させたりして酸素を取り出そうとしたが、どうしても酸素は得られなかった。デービーは、「酸化塩酸」は単体だと考えて、塩素という名前に変えた。彼はまた、塩素と水素を混合して火花をとばすと塩酸が合成できることから、塩酸は酸素ではなくて水素を含むと考えるようになった。こうして、酸素を含まない酸もあることがわかり、ゲー・リュサックによって、酸には「酸素酸」と「水素酸」があるという見解が発表された。
その後、酸化カルシウムのような酸化物が酸と反応して無水の塩と水が生成することに注目したデュロンは、酸の中の水素と酸化物の酸素とが結合して水が生じたと推測した。さらにリービッヒ(1803〜73)は、有機酸の塩基度の研究から、一塩基酸は金属と置換される水素を一原子、二塩基酸ではそうした水素を二原子もっていることに気づいた。このような事実から彼は、酸とは水素の化合物であり、その水素原子は金属によって置換されるという仮説を提出したのである。
イオン説の登場
1800年に発見されたボルタの電池は、化学界に大きな影響を与えた。水溶液を電気分解すると、元素説による今までの考え方では説明のつかない現象が出てきた。例えば、右図のような装置で電気分解を行うと、右側に硫酸が現れる。硫酸はもともと左側にあった(当時、Na2SO4 は硫酸と水酸化ナトリウムの化合物と考えられていた)はずだから、右へ移るとき、どうして途中のアルカリで中和されなかったのだろうか。この疑問は、イオンの概念により初めて明確な説明が与えられるのだが、初期のイオン説では、電圧を加えたときだけイオンが生じると考えられていた。
こうした説に対しアレニウス(1859〜1927)は、電圧を加えなくても、電解質分子はイオンに解離しており、そのイオンが独立分子のように行動するという仮説を唱えた。例えば、塩酸を電気分解するとイオンになって、陰極に水素、陽極に塩素を発生するが、電圧を加えなくても水中で両イオンに解離しているというのである。そうすると、酸の性質を示すのは水素でなく水素イオン(H+)だ、という考えが生まれても決して不思議ではない。彼は、酸とは水溶液に水素イオン(H+)を放出する化合物であり、塩基は水酸化物イオン(OH-)を放出する化合物だと、新教育課程では高校生も学習する定義を下した。
アレニウスの酸・塩基の定義を使うと、酸や塩基の強さを論じることができ、定量化への道が開けたものの、残念ながら水溶液以外の溶液では、酸・塩基を論じることができない。それに、何よりも大きな問題はH+の存在である。H+は水素の原子核(陽子 (プロトン))であって、この正電荷の高密度なイオンが水溶液中に単独に存在するとは考えにくい。やがて、水がH+を受けとってヒドロニウムイオン(H3O+)になっていると解釈されるようになる。この考えを発展させたブレンステッドとローリーは、他の物質にH+を与えることのできる物質を酸、H+を受けとることのできる物質を塩基と定義した。この理論は、水以外の溶液にも使えるだけでなく、従来の酸・塩基の概念をも包括している。
いままでの定義をみていると、酸の定義の主役として水素が関与していたことがわかる。では、BF3のようなものは酸とはいえないのだろうか。こうした疑問からルイスは、水素に頼っていた従来の説を一掃して、配位結合する場合の電子対受容体を酸、電子対供与体を塩基と定義するのである。
例;BF3(酸)+:NH3(塩基)→BF3ーNH3
ルイスの説は、ブレンステッドらの定義をも含みこんでしまい、さらに広い範囲で酸・塩基概念を使用できるという点で、より一般化された理論といえよう。
ルイスが定義した酸・塩基の反応を調べていると、互いに結合しやすい2つのグループのあることがわかってきた。そこでピアソンは、酸・塩基には硬・軟の2つの種類があるという考えを提案した。硬い酸・塩基とは、原子や原子団が分極しにくい酸・塩基のことであり、H+、Mg2+などが硬い酸、OH-、F-などが硬い塩基の部類に入る。この硬い酸と塩基同士が反応すると、極めて安定なイオン結合性の化合物をつくるのである。
このように、酸・塩基の概念は学問の進歩とともに、移り変わってきたのである。 
6 細胞説の成立

 

しばしば生物細胞の中で一番大きなものは何であろうかという問答がなされることがある。そのときに用意される答がダチョウの卵である。卵といっても日常語のたまごではなく、その中に入っている卵細胞である。卵黄を大量に含んだ卵が1つの細胞であることを納得するのに時間のかかる人も多くみうけられる。細胞といえば、すぐタマネギの表皮で見たものを思い出すからであろうか。
私たちのこうしたとまどいは比較的短時間の学習で解消される。解消されるといってもある意味では押しつけによってそうした常識を植えつけられるのかも知れない。全ての生物のからだは細胞からできているのだという常識から卵も細胞であるという常識を演繹的に導きだす人がおおかたではなかろうか。
しかし、そのあたりに科学教育上の観点から再考せねばならぬ問題がかくされているような気がする。
顕微鏡下に見るもの
中学を卒業するまでに「理科」の授業で、植物の葉などを使って生きもののからだのつくりを顕微鏡下で見る機会があるであろう。とくにタマネギの表皮ではいくつにも区分けされた模様を明確に知ることができる。同様な経験をいくつかの植物体でえた子どもたちがいたとしよう。はたして、この子どもたちはすなおに卵も細胞であることを納得するであろうか。
この子どもたちと同様な状況が17世紀の顕微鏡学派とよばれる人たちにもあてはまるのではなかろうか。17世紀といえばガリレイやデカルトたちの登場した時代、近代科学の誕生期である。自然現象を理性を通して解明しようという風潮の見られたときであり、前世紀に現れた顕微鏡もそのための武器として即座に利用されることになった。物理学者ボイルの助手であったR。フック(Robert Hooke、1635〜1703)、あるいはイギリスの医者N。グルー(Nehemiah Grew、1641〜1712)、イタリアの解剖学者M。マルピーギ(Marcello Malpighi、1628〜94)たちはそれぞれに目的をもって顕微鏡下に生物の姿や、そのつくりを追った。
たとえばフックはコルクが水に浮いたり、弾力があるなどの原因をさぐる目的でその内部構造を調べた。その結果が今日、しばしばいわれる“細胞の発見”となったのであるが、植物体のつくりの基本単位をさぐる意識はなかったため、コルクだけでなく、それに似た性質をもつもの、たとえばニワトコの髄、ニンジン、コボウなどの切片をつくって観察したものの、生物学的に発展させず、物理学的観点での一般化を試みてしまった。
フックにくらべると、グルーやマルピーギはより生物学的であった。これは彼らがいずれも医学畑の人であり、解剖学の伝統の中に位置していたからであろう。その彼らが顕微鏡を武器にして顕微解剖学という新分野を開いた。1672年の『植物の解剖』(グルー)、『植物解剖学』(マルピーギ)の2つの著作はその記念樹でもある。
グルーの著作は1682年のものが現在復刻され入手しやすくなっているが、そこに描かれた解剖図はまことにすばらしいスケッチである。ただ気にかかるところは、細胞の壁があたかも織物のたて糸、よこ糸であるかのように描かれているものがあるからである、実際、彼はそのように細胞を理解していたようだ。
マルピーギは植物を対象としただけでなくご存知の昆虫のマルピーギ管という名称からもわかるように動物にも広げており、植物と動物の類似性にまで話しを展開しようと努力したが、技術的な限界もあって細胞説を生みだすまでには至らなかった。動物の組織というものは見にくいものである。
情報の集積
17世紀の顕微鏡学派による先駆的研究は結局、生物体の本性をえぐるところまでには至らず、しばらく生物学者たちの関心事が他へむけられたこともあって中断した形であった。18世紀はリンネの分類でも代表されるように、生物界の秩序をさぐるなどマクロ的な研究が盛んであった。
19世紀に入ると事態は一変した。生物学者たちは再びミクロのレベルへ関心を示しはじめた。その要因として考えられることはアミチらの努力による顕微鏡の改良等研究技術の進歩もあげることができるが、物理学、化学の分野での進展、とくに分子・原子概念による自然現象の解釈が進んだことが影響を与えているように思われる。物質にみられる基本単位という考えを生物体にもあてはめ、生命現象を物理科学の方法で解明しようとする、いわゆる還元論の傾向が現れてきたのである。
生物体の基本的単位は何であろうか。顕微鏡学派によってスケッチされた細胞がそれにあたらないのであろうか。そのことを確かめるためには、まず細胞が1つ1つ独立した存在であるかどうかということを知ることである。その役割をはたしたのがドイツのトレビラヌス(G。R。Treviranus、1776〜1837)やフランスのデュトロシェ(H。J。Dutrochet、1776〜1847)たちである。トレビラヌスは1805年に植物体の切片をあらっぽく扱うと細胞がばらばらになることを示しており、デュトロシェは1824年に硝酸で煮るとばらばらになることを報告している。これらは今日の塩酸を用いて根端などをばらばらにして観察する技術の先駆をなしているわけである。いずれにせよ、細胞が1つ1つ切りはなされることは、グルーのような考えの否定になるし、研究対象が組織というレベルから細胞というレベルへ移ることにもなる。
細胞レベルの研究となれば、当然その内容物や構造に関心がむけられる。観察技術の進歩と相まって、まず大きな前進となる発見がR。ブラウン(Brown、1773〜1858)によってなされた。彼はスコットランドの植物学者であり、18世紀以来の伝統をうけついで分類学、特にオーストラリアの植物相についてすぐれた研究をしていた。そうした中でラン科の植物細胞中に彼の言葉を借りれば、“1個の円形の領域”、“はっきりした粒状の領域”すなわち核を見出した。すでに1781年にF。ホンタナによって動物細胞中に核がみることが見出されていたが、十分注目されなかった。
ブラウンはラン科以外の植物(ただし種子植物)についても核の存在を確かめ一般化している。このあたりの手続きは理科の授業においても大切なことであり、タマネギだけですますべきでないと思う。できれば、動物細胞の中の核の観察も試みさせてほしい。
細胞説の提唱
ブラウンによる核の発見を意味あるものに高めたのはドイツのシュライデン(M。J。Schleiden、1804〜81)であろう。しばしば細胞説の提唱者としてこのシュライデンと後述のシュヴァンがとりあげられることに対して、批判する人がいるが、それらは時には愛国主義的発想であったり、シュライデンの名誉欲の強さに対する非難であったりする場合がある。細胞説を“細胞が生命活動の基本単位である”という形で定義をすると、彼らの役割は大きくなるのである。生命活動の基本単位であるからにはそれら細胞がどのようにして出来てくるのかまで論及しなければならない。彼らはそれをやっているのである。
シュライデンはブラウンの発見した核と細胞形成とを関連づけた。当時の結晶学の知識を活用し、結晶の成長がなされるのと同様な様式で細胞は核を源にして新生されると解釈をしている。これは今日からみれば大きな誤りを犯したことになるのだが、細胞形成という問題に人びとの関心をむけさせたことは意義があったといえよう。
とはいえシュライデンのみでは細胞説の提唱者として彼が名をとどめることはできなかったと思う。というよりもシュヴァンこそ高く評価されるべきである。T。シュヴァン(T。Schwann、1810〜82)は消化酵素の研究、発酵の研究など幅広い活躍をした人物であるが、非常に温和な人柄でシュライデンとは対照的であったと言われている。1838年シュライデンが語った植物細胞核の話を聞いたシュヴァンは自分が観察した神経細胞との類似性に気づく。その場合、単に核があり、細胞の壁があるという形態上の類似だけではだめで、細胞形成も同じような方法でなされることが確かめられなければならなかった。彼はそこでいろいろな動物を観察し、カエルの幼生のえらにある軟骨細胞やコイの脊索の細胞で新しく細胞が形成されるところをスケッチした、彼にとってはシュライデンの説が正しく思われ、1839年『動物・植物の構造ならびに成長の一致に関する顕微鏡的研究』を公にし、いわゆる細胞説の提唱を行ったのである。
細胞形成に関する真の姿は19世紀の末まで明らかにされなかったが、シュヴァンの説は植物と動物の境界を大きくとりはらい、植物学、動物学という分野を生物学という1つの分野にまとめあげる役割をはたしたのであった。私たちはこうした歴史的過程の中に、子どもたちがもっているタマネギの細胞とニワトリなどの卵との間の壁をとりはらう手だてを見出すことができるのであろう。 
7 気体の発見

 

空気は元素か
俗に「空気のような存在」という言葉があるように、大気中で生活している私たちにとって、空気はあってなきがごとき存在である。今回は、そんな空気の正体をつきとめようとして、窒素や酸素などの気体を次つぎと発見していった過程をたどることにしよう。
ギリシア時代以来、土・水・火とともに空気は物質を構成する元素と考えられていた。この考えは中世へと引き継がれたが、果実の発酵の際に生じる“空気”や、鉱山で発生しろうそくの炎を消す“空気”など、大気とは若干性質の違った“空気”があることもわかってきた。ヘルモント(1579-1644)は、大気に似たこれらの物質を、ギリシア語の「混沌(カオス)」にちなんで、“ガス”と呼んだ。もっとも彼は、実験によって大気と“ガス”との違いを究明するまでには至らなかった。
気体の性質を調べるには、まず、とらえどころのない気体を捕集する必要がある。メイヨー(1643-79)やヘールズ(1677-1761)が水上置換法によってこの難問を解決した。ヘールズは気体の性質よりも物質に含まれている“空気”の量の方に関心があり、貝殻・種子・石炭などを加熱して、発生する気体の体積を測定したのである。
当時は一般に、空気は元素だという考えが強く、気体の性質の違いは、空気に含まれている不純物のせいにされた。そのために、大気と異なる気体も、ヘルモントが名づけ親の“ガス”ではなくて、“人工空気”のように“空気(エアー)”という言葉がつけられたのである。
石灰石に潜んでいた“空気”
気体の化学は、ブラック(1728-99)によって新たな扉が開かれる。彼は、制酸剤として医療用に使われていた炭酸塩の研究が機縁となり、石灰の性質を調べるようになった。当時は、布を漂白する時間を短縮するために石灰石が、また、建物の壁の原料として石灰岩が使われていたのである。
石灰石を焼くと泡が出て、重さは40%も減る。酸と反応しても同じ現象が起こる。ところが石灰石を焼いてできた生石灰だと、酸をかけても発泡しない。ブラックはこれを、石灰石の中に固定されていた“空気”が加熱や酸によって放出されるから、と考えた。そして、この“空気”を“固定空気”(二酸化炭素)と名づけ、反応前後の物質の重さを天びんで測定して、その存在を証明した。また、“固定空気”は木炭の燃焼や発酵から得られる気体と同じであり、石灰水を白濁する性質があることも明らかにしている。そして、大気中に放置した石灰水が白濁することから、大気中には“固定空気”が含まれていると判断を下したのである。
こうして、空気以外の気体がはっきりと姿を現し、捕えどころのない摩訶不思議な存在であった気体は今や、固体や液体と結合する物質の一種であることがわかってきた。
フロギストン説と新しい気体
ブラックの時代では、その気体が燃焼や呼吸に際してどのようなふるまいを示すかが、気体の一般的な識別法であった。その燃焼理論といえば、シュタール(1660-1734)らの唱えたフロギストン説が有力だった。可燃性物質はフロギストン(燃素)という元素を含みフロギストンが逃げて、あとに灰を残すのが燃焼だというのである。
やがてキャベンディシュ(1731-1810)がこのフロギストンとおぼしき気体を発見する。今日の水素である。彼は金属に希硫酸を作用させて、金属に含まれている“空気”を調べていた。発生した気体は水やアルカリにとけず、大気中ではよく燃える点で“固体空気”とは明らかに違う。さらに彼は、気体識別の新たな手段として密度を測定し、この気体が大気に比べてずっと軽いことを示した。
“可燃性空気”と名づけられたこの気体は、軽く、また燃えるために、フロギストンだと信じられたのも無理からぬ話しであろう。
同じころラザフォード(1749-1819)は、空気の入った密閉容器中で炭素質物の物質を燃やし、生じた“固体空気”をアルカリ液に吸収させたあとでも、まだ気体が残ることに気づいた。この気体は支燃性がなく、ネズミはその気体中の中では死んでしまう。ラザフォードはそれを“有毒空気”(窒素)と呼んだが、フロギストン論者はフロギストンが飽和しているから物は燃えないのだと考えて、“フロギストン化空気”と呼ぶことにした。
酸素の発見
次に、フロギストン説が崩壊するもとになった気体(今でいう酸素)が、熱心なフロギストン論者のプリーストリー(1733-1804)によって発見された。彼はあるとき、レンズで太陽光線を集めて酸化水銀を加熱して、そのとき発生する気体の中にろうそくを入れてみた。何と、ろうそくが激しく燃えるではないか。てっきり、同じ燃え方をする“脱フロギストン硝石空気”(N2O)だと考えたが、新気体は支燃性がすこぶるよく、また呼吸に適している点で、これではなさそうだ。性質からいえば、むしろ大気に似ている。早速、一酸化窒素を用いて、大気と同じかどうかを調べてみた。水中に倒立させた容器に大気を入れ、さらに一酸化窒素を加えていくと容器内の大気の容積の1/5まで水位は上昇した。一方、大気のかわりに新発見の気体を入れて同じ実験をすると、水位はいくらでも上がる。おまけにこの気体中のネズミは、大気中にいるときよりも長生きする。彼はこの気体を、フロギストンの含まれていない良質な“空気”とみなして“脱フロギストン空気”と名づけ、大気を構成する成分の一つと考えた。
ちなみにプリーストリーは、“固定空気”の研究から今日のソーダ水を発明し、いまではビタミンC不足が原因とわかっている壊血病に苦しむ当時の船員の薬用飲料水としてすすめ、有名なクック船長の探検船で試飲されたといわれている。
同時代に、燃焼を研究していたラボアジェ(1743-94)は、フロギストン説とは違う考えをもっていた。物が燃えるのは、空気の一部が吸収されるからだというのである。彼はその気体を探索中に“脱フロギストン空気”のことを聞き、これこそ求める気体だと直感して新たな実験にとりかかった。まず、フラスコ内で水銀を加熱して酸化水銀を作る。フラスコ内の空気は約1/5の体積を失い、後に残った気体は呼吸にも燃焼にも適していない。つぎに酸化水銀の重さを測り、別の容器に移してさらに高い温度で加熱した。例の“脱フロギストン空気”が発生して、酸化水銀は水銀に戻り、その重さが減少した。生じた気体を最初の容器に入れると、元の空気と同体積になり、性質も空気と違わなかった。
こうしてラボアジェは、物質と空気中の酸素との結合が燃焼にほかならないと結論を下したのである。プリーストリーは、約600℃に加熱するだけで還元される酸化水銀から、酸素を見つけながらも、終生フロギストン説を堅持しつづけたのに対して、ラボアジェがこの気体を用いてフロギストン説を打破したのは皮肉というほかはない。このころには、水が酸素と水素との化合物であることも明らかとなり、ギリシア以来の四元素説は、遂に近代的な元素観に席を譲ったのである。
不活性な気体“アルゴン”
19世紀の末に、もはや研究ずみと思われていた大気から新たな気体が発見された。その発端は、レーリー(1842-1919)による気体密度の精密測定である。彼は、すべての物質の原子量は水素の整数倍だというプラウト仮説を検討中に、大気から酸素を除去して得た窒素が、化学的に生成した窒素よりも、密度が約1/1000小さいことに気づいた。やがてレーリーは、ラムゼーとともに新しい気体の単離に成功して、この差の原因をつきとめた。大気中の窒素を電気放電で酸化したのちに、窒素よりも密度の大きい不活性な気体が、微量残ったのである。スペクトル分析をすると、今までにないスペクトル線を検出した。この気体は、“働かない”というギリシア語にちなみ、“アルゴン”と命名された。
つづいてクリプトン、ネオン、キセノンと、不活性な気体が大気中から続々とでてきた。周期表には希ガス元素として新たな一族がつけ加えられ、その性質も電子の閉殻構造として理論的に裏づけられた。ところが、反応するはずのない希ガスの化合物(XeF4など)が合成され、世界中の化学者を驚かせたのは、今からほんの40年前のことである。 
8 呼吸とは

 

生命精気の取り込み
鼻をつまめば息苦しくなる。そうした経験から人々は直感的に生きるのに必要な何らかのものが鼻を通して体の中に取り込まれるものだと考えるであろう。おそらく古代の人々もそうであったと思う。
ギリシア時代になると、いくつかの理論が登場する。心臓で暖められた血液を冷却するために空気を肺へ取り込んでいるのだという説も出れば、生物が生きる活力を与えられる生命精気なるものを取り込んでいるのだという考えも現れた。
こうした説は、いくらかの修正を受けながらも、長い間人々の思考の中に生き続けてきた。上記の生命精気を取り込むという説は、生命精気という言葉を酸素に置き換えれば、今日の考えと大筋においては違わなくなる。ただ酸素は取り出して、その諸特性を示しうるし、実在を証明することができるのに対して、生命精気は人前に示しえない。生命精気の考えを支持発展させたガレノス(Galenos、 約129-約200)は、それを物質的実体であると考えていたようであるが、それを実証する手段を持ち合わせていなかった。もちろん、手段があっても実証しようとしたかどうかは別である。
生命精気が具体的に物質との対応において考えられるようになったのはルネッサンス期以降であろう。12世紀になるとアラビアからヨーロッパへ錬金術が入り込み、新プラトン主義と結びついてパラケルスス(Paracelsus、 P。A。、 1493-1541)に代表される生命観が登場する。ちなみに彼は新プラトン主義でよく用いられた大宇宙、小宇宙の考えに基づき、人体を小宇宙になぞらえ、体内の臓器と惑星とを対応させ、病状の判断や治療方法を考えている。ところで、アラビアから伝えられた錬金術では万物の根源となる元素としてギリシアからの四元素(火・空気・水・土)説では不十分だとして可燃性のもとになる硫黄、流動性のもとになる水銀という原理を考えた。パラケルススはそれに可溶性のもとになる塩を加え、いわゆる錬金術における三原理説を作り上げた。パラケルススは、そのうちの硫黄が生命力を持った空気の成分であると考えた。この生命力を持った空気が物を燃やし、生命を維持するのであろうという。ただし、硫黄のほかに補助的に硝石が必要であるとも考えている。
硝石様物質の取り込み
17世紀になると、パラケルススが補助的に必要だと考えた硝石が重視されてくる。パラケルススの後継者の一人イギリス人のフラッド(Fludd、 Robert、 1574-1657)は1619年に出版した『超自然宇宙誌』で生命力を持った空気の成分が硝石性であるという考えを述べているという。また、前回登場したヘルモント(Helmont)も生命精気と硝石が似たようなものであると考えている。硝石を燃やし、そこから出てくる気体の中では、確かに物がよく燃えるし、動物も長く生きる。こうした経験が上記のような考えを生み出させたのであろう。
イギリス人のメイヨー(Mayow、 John、 1640-1679)もまた硝石を重視した一人である。彼はボイル (Boyle、 Robert、 1627-91) やフック (Hooke、 Robert、 1635-1703) などの研究によって明示された空気の弾力性の原因を、この硝石から出る気体、いわゆる硝石様物質と関連づけている。彼によれば、空気には隙間があり、その隙間に硝石様物質の粒子が入り込んでいる。この粒子に弾力性があるために、空気全体にも弾力性が出るのだという。
その証拠として、彼はこんな実験結果を示した。水槽の上に立てたガラス鐘内で物を燃やすと、やがて水槽の水がそのガラス鐘内へ昇っていく。これはガラス鐘内に入っていた空気から硝石様物質が使われてしまい、弾力を失う結果である。動物を使った次のような実験からも示される。水を満たした水槽の上に膀胱膜をピンと張り、その上にネズミを乗せ、上からガラス鐘を被せておく。しばらくすると膀胱膜がガラス鐘内へ吸い込まれ、膨れ上がる。これについてメイヨーは次のように説明する。ガラス鐘内の空気中の硝石様物質が動物の呼吸によって取り込まれてしまい、弾力を失い、外側の大気圧との関係で膀胱膜が吸い込まれたのであると。この説明からも分かるように、メイヨーにとって、呼吸とは硝石様物質の取り込みであった。なお、ボイルやフックも動物が生きるのには空気が必要であり、空気中の有効成分が硝石様物質ではないかと考えていたようであるが、それを実験的に確認するのに失敗したという。
脱フロギストン空気から酸素へ
メイヨーの研究はある意味で現在の酸素の発見であり、それに基づく呼吸作用の解釈に近づいていたものであった。しかし、その後、人々に十分認められることなく、17世紀末から18世紀初頭におけるイギリス科学界の衰退とともに忘れられた。
17世紀末からドイツでは医化学派と呼ばれる一派が台頭してきた。いわゆる錬金術派の硫黄・水銀・塩の三原理を重視する立場にたつものである。その中の一人ベッヒャー(Becher、 Johann Yoachim、 1635-82)は硫黄の原理に相当するものに「油性の土」という名をつけ、これがあらゆる可燃性物質の中に含まれていて、燃焼はこれが他の物質と分離する現象であるとした。彼の後継者のシュタール(Stahl、 Georg Ernst、 1660-1734)はこれを受けて、1703年に「油性の土」にフロギストン(phlogiston)という名称を与えた。いわゆるフロギストン説の登場である。『化学の基礎』(1697)は彼の代表作であり、この中でフロギストンの理論が展開されているという。
18世紀も半ばになると前回の「気体の発見」でも知られる如く、気体に関する研究が活発になってくる。これにはその当時からの産業革命など社会的背景が関連していることは想像に難くない。その気体の研究にフロギストン説が大きくかかわり、この説に基づく現象の解釈が流行した。
前回登場したイギリスのプリーストリ(Priestley、Joseph、1733-1804)もその一人である。彼は動物の呼吸には空気をフロギストン化する性質があると論じている。フロギストン化するということは、空気がフロギストンで飽和されるという意味である。従来から物の燃焼と動物の呼吸の類似性が気づかれていたが、フロギストン説でも同様に扱われ、フロギストン化された空気の中では動物は長く生きられないと考えられた。
このプリーストリが1774年10月にパリを訪れ、、ラボアジェ(Lavoisier、 Antoine Laurent、 1743-94)に「フロギストンを失った空気」、いわゆる脱フロギストン空気の発見の話をした。これがきっかけとなってラボアジェによる酸素の発見がもたらされることになる。これらについては前回の記事をお読みいただくことにして、ここでは呼吸に関連する話に限定しよう。
1777年5月3日ラボアジェは科学アカデミーで、“極めて呼吸に適する空気”という論文を発表している。その中でプリーストリのフロギストン説に基づく呼吸の解釈の矛盾点を指摘しながら、水銀の酸化実験と動物の呼吸実験を比較し、プリーストリの言う“脱フロギストン空気”がまさに“動物の呼吸に適する空気”であり、物の燃焼や動物の呼吸の際には、これが空気中から使われるのだということを定量的に示した。彼はこの論文ではまだ「酸素」という言葉を使っていないが、同年9月5日づけの論文では“脱フロギストン空気”に変えて「酸素」という名を提唱している。彼はこの気体が酸を作り出す成分と考えてそのような名を与えたわけだが、酸の元は本来「水素」であることはご承知の通りである。
呼吸における二酸化炭素
ところで、ラボアジェの研究で大切なことは上記の論文中で明らかにしていることであるが、動物の呼吸に際して二酸化炭素が排出されることを実験的に示していることである。
彼はフランス・スズメをガラス鐘内に閉じ込め、約1時間、スズメの呼吸の様子を観察している。スズメは55分で死亡し、ガラス鐘内の空気ははじめの約60分の1減少していた。これは水銀をフラスコ内で燃焼させたときの5分の1の減少に比べるとはなはだ少ない数値である。あとに残った空気の中ではローソクは燃えないし、新たに動物を入れてもすぐに死ぬ点では、水銀の実験の場合と同じである。ただ、石灰水を白濁させる点では、水銀の場合とは異なっていた。
ラボアジェはこのあとに残った空気を苛性アルカリと反応させてみた。すると体積が6分の1近く減少し、さらにアルカリがその腐食性を失い、酸で発泡するという性質に変化した。これは1761年にブラック(Black、 Joseph、 1728-1799)が発見した固定空気(fixed air)の持つ性質と同じものであった。ラボアジェは固定空気という言葉の代わりに、“白亜から得られる酸”という意味から「白亜酸」という名を与えた。今日の二酸化炭素(炭酸ガス)も時代により、人によりさまざまに呼ばれてきたのである。
その後、1780年にラボアジェはラプラス(Laplace、 Pierre-Simon、 Marquis de、 1749-1827)と共同でより精密に呼吸に際しての酸素の取り込み、水及び二酸化炭素の生成を定量的に測り、また熱の発生量も測定し、動物の熱は体内の養分が燃焼するときの化学反応熱に由来するものであり、呼吸と燃焼は本質的には同じ現象であると考え、“呼吸とは体内における緩やかな燃焼である”と論じた。もちろん、これは現在からみれば、あまりにも短絡的な類比であるが、呼吸現象の解明を一歩前進させた彼の功績は大きなものであった。
呼吸の本質
呼吸が体内でのエネルギー獲得のための働きであるという本質的な理解は20世紀を待たなければならなかったが、19世紀はラボアジェの研究と現在の研究とを結びつける重要な時期であった。この時期に動物ばかりでなく、植物でも上記のような酸素の吸収と二酸化炭素の排出が行なわれていることの実証がなされたことである。18世紀にもヘールズ(Hales、 Stephen、1677-1761) 、プリーストリ、インヘンフース(Ingenhousz、 Jan、 1730-1799)、スヌビエ(Senebier、 Jean、 1742-1809)などによる先駆的研究があったし、19世紀に入るとその延長としてソシュウル(Saussure、 Nicolas Theodore de、 1767-1845)による定量的研究(1804)が見られるようになる。しかし、植物の場合には光合成があるため、呼吸だけのガス交換の定量化がむずかしく、なかなか植物の呼吸と動物の呼吸の同一性が認識されにくかった。それを可能にさせたのが1850年のガリュウ(Garreau、 Lazare、 1812-?) の研究であったという。今、その詳細を知らないが、光合成が行なわれている最中での呼吸に伴うガス交換の測定方法を編み出したようである。
また、微生物の行なう発酵現象の解明が呼吸の本質の理解に関わっている。19世紀はその発酵現象を含めて微生物に関する研究が進展した時期である。さらにエネルギー概念の成立も不可欠である。これに関しては他の機会で取り上げられているのでここでは省略するが、いずれにせよ、いろいろな分野の研究が進み、それらが総合化されることによって一つの現象の本質が見えてくることが科学史の上ではしばしばあるものである。
こうして今日では細胞というレベルでの呼吸作用の全貌がほぼ明らかにされるようになった。呼吸とは生命精気を取り込む働きであるという考えから呼吸とはミトコンドリアでの ATP 生成作用であるという理解への道のりは、他の知識獲得の場合と同様、長く、そして曲がりくねったものであった。 
9 電気と磁気の関係

 

電気と磁気の関係といえば、はじめてその関係を示したエールステッドの実験を思いうかべる人も多いだろう。導線に電流を流したとき、導線のそばに置いた磁針がふれるという今では小学生にもおなじみの実験である。今回は、この実験が当時の科学者たちに投げかけた大きな波紋の行方をみてゆこう。
電気と磁気は関係がない?
電気と磁気の歴史は、古代ギリシアの頃から始まる。磁気に関しては、鉄を引きつける石(磁鉄鉱)が、不思議な石として知られていた。そして、この石の産地小アジアのマグネシアにちなんで、“磁石”(マグネット)という語が生まれた。またこの石は、木片にのせて水に浮かべると一定の方角を指す特殊な性質をもつので中世の遠洋航海に貴重な役割をはたした。
一方、電気現象についても、装飾品の琥珀を摩擦すると羽毛などを吸いつける点で、昔から人々の注意をひいてきた。“電気”(エレクトリシテイ)という語は、琥珀のギリシア名であるエレクトロンに由来している。
このように、古くから知られていた電気と磁気とは互いによく似た性質があることが、しだいにわかってきた。そうすると、両者の関係に目を向ける人が現れるのは当然といえよう。実際、両者の関係を示唆する現象として、落雷の際に羅針板が狂う現象を見つけた人もいたが、電気と磁気との関係についての“決め手”をつかむには至らなかった。16世紀の代表的科学者ギルバートなどは、電気と磁気は互いに関連のない異質のものだとまでいっている。静電気のみが電気だと考えられていた時代では、両者の関連を見い出しにくかったのも、無理からぬ話であろう。
電流が磁針を動かす
1800年にボルタの発明した電池は、電気と磁気の関係を明らかにする端緒となる。ちなみに、日常よく使われている乾電池は、明治25年、わが国の屋井先蔵が世界で初めて作り出したものである。
さてエールステッド(1777〜1851)は、このボルタの電池を使って導線に電流を流し、導線の周囲に置いた磁針がどのような影響を受けるのか調べていた。彼は、導線内やその周囲には熱や光の効果があるのだから、必ずや磁気的作用も存在するに違いないと信じていた。というのも、すべての自然現象は根源的な一つの力の現れだというドイツ自然哲学を信奉していた彼にすれば、光・電気・磁気などの現象は相互に関連をもつはずだったからである。当初彼は、磁針が導線と平行方向の力を受けるだろうと予想して、磁針を導線と垂直に置いてみた。磁針は少しも動かない。ところが、たまたま磁針の位置を導線と平行方向に置くと、磁針は動くではないか。磁針に作用する力は、引力や斥力ではなくて、導線と直角になるように向ける力だったのである。こうしてみると、大学の講義実験中に偶然発見されたといわれるこの実験は、決して偶然ではなく、むしろ彼の自然観からすれば当然の帰結だったことがわかるだろう。
磁針のふれからオームの法則へ
1820年に行われたエールスラッドの実験は各方面に大きな影響を与えた。この実験を利用して導かれたオームの法則もその一つである。「導体でも電流に対して抵抗を示すはずだ」と考えていたオーム(1787〜1854)は、磁針に作用する力の大きさと導線の長さとの関係を、ねじり秤を使って調べようとした。クーロン以来おなじみのねじり秤は、弱い回転力を測定するには、うってつけの装置であった。いざ実験を始めると、一定にしなければいけない起電力が、ボルタの電池では一定にならない。そこでオームは、この電池にかえて、その頃ゼーベックの発見した熱起電力を用いることにした。やりなおしの実験の結果、(X:磁気作用の強さ、x:ターミナルにつないだ導線の長さ、a・b は定数)という関係式を得た。彼は、磁気作用の強さ X は電流の強さを表していると考えていた。そして、実験からaは起電力に、b は回路の不変部分によって決まる定数であることが明らかになった。すると X は電流、a は電圧、b+x は抵抗を示していることがわかるだろう。こうしてオームの法則が導かれ、混乱していた電流や電圧の概念を明確にする基礎となったのである。
磁気と電気で表したアンペール
ニュートン力学の直線状に働く引力や斥力に慣れ親しんでいた科学者の目には、エールステッドの実験で磁針に作用した力が異様な力として映った。そこで、この新しい現象を何とか数学的に表現しようとする動きがフランスで現れる。数学の盛んだったフランスでは、どんな科学にも数学的表現を与えねばならないとする気風が強かった。その中心人物は、電流の単位アンペア(A)にその名を残しているアンペール(1775〜1836)である。彼はまず、正電気の流れる方向を電流の方向と定義し、今でいう“右ねじの法則”を次のように表現している。「観測者の足元から頭の方へ電流が流れるものとしよう。顔を磁針の方に向けたならば、N極のふれる向きは、観測者の左手の方向である。」
アンペールは、電気と磁気の関係をユニークな発想で考えた。すなわち、電気と磁気とは相互に関連しているのだから、磁気作用をもすべて電流でおきかえて、基本法則を定立すべきだというのである。彼は、物質を構成している分子内の微小円電流が電流の基本単位になっているという構想を描いていた。確かに、電流の流れているソレノイドは1本棒磁石と同じ磁気作用を示すのだから、彼の考えもあながち奇妙とはいえないだろう。それに、磁性を電子の運動に帰着しようとする今日の理論からみれば、筆者はアンペールの鋭い洞察力に感嘆せざるを得ない。
電磁気現象の基になっているのは電流だと考えたアンペールは、ニュートン力学的な方法にならって理論を構築しようとする。すなわち、質点に対応して電流要素を考え、その電流要素同士に作用する直線的な遠隔力をもとにして、“電気力学”を打ち建てたのである。この理論は、平行な2本の導線に作用する引力と斥力の実験によってその妥当性が示された。ただ残念なことに、まもなく発見される誘導電流を含めることができなかった。
電磁誘導と場の概念
電気と磁気の関係を数式化しようとする動きに対して、ほとんど数学を使わずに数々の発見をなしとげた人がいた。それは、“真理のかぎだす特別の鼻をもつ男”とよばれたファラデー(1791〜1867)である。彼の発見の秘訣は、自然界のさまざまな現象や作用の間には密接な関連があり、それらは相互に変換されて統一されるべきだという自然観にたって、豊かな想像力や鋭い直観力を最大限に働かせた点にあるといえよう。
彼の最大の発見は、何といっても電磁誘導の発見である。彼は「電流から磁気が生じたのだから、磁気から電流が生じるはずだ」とか「静電気の誘導作用のように、電流からでも電流を発生できるはずだ」と考えて、電流の発生に取り組んでいた。そして1831年、鉄の輪に巻いた2組のコイルの一方を電池と接触・切断する際に、他方につないだ検流計の針が瞬間的に動くことに気づいたのである。引き続いて電池を使わずに、上図のような装置を用いて電流の発生に成功した。この時も検流計の針は、棒磁石を鉄心から離したり、接触したりする際に動いたのであった。
ファラデーは、この電磁誘導の現象を、“磁気線”という概念を導入して、「導線が磁気線を切れば電流を生じる」と解釈した。“磁気線“とは、今でいう磁力線のことであるが、彼はこの線が媒体や空間に存在していると考え、視覚的・直観的に電磁気現象を把握しようと試みたのである。
このファラデーの“場”の考えは、その後マックスウェルの方程式となって花開いた。さらに、マックスウェルの理論から予言された電磁波をヘルツが実験的に証明し、場の理論の正しさが認められ、今日に至っている。
最後に、電磁気現象が最初に実用化された機器である電信機にまつわるエピソードを一つ紹介しよう。当時の電信機は、電流が流れると磁針がふれることを利用していた。1845年に、この電信機が殺人犯を捕えた。機関車ほど速いものはないと思われていた当時、列車に乗った犯人は、「もう大丈夫」と安心しきっていた。ところがあにはからんや、電報を受けとった警官が、終着駅で待ちかまえていたのである。これにはロンドン子も目をまるくし、電信機に対する認識を新たにしたということである。 
10 酵素とは何か

 

「酵素」という言葉
中学の理科や高校の生物の教科書を紐解くと、“酵素”という言葉に出会うし、学校以外でもいろいろなメディアなどを通して、その現象や実体よりも先に言葉が私たちの頭に入りこんできている。このことは何も“酵素”に限ったわけでなく、“エネルギー”、“原子”、“電気”など数え上げればきりがないほどである。しかし、多くの場合、それらの言葉を使う人にその中味を正してみると的確な返事をもらえない。はたしてそれでよいのであろうか。理科教育をどう考えるかによってその評価は異なるであろうが、筆者のように探究的な学習を勧めたいものには好ましくない状況に思える。
さて、本稿は教育論が主眼ではないのでこれ以上深入りはせずに、話を先に進めよう。
そもそも“酵素”という言葉は、いつ、どのようにして作られたのだろうか。『生物学辞典』(岩波書店)で、「コーソ」という項目をひくと、英語・フランス語で enzyme、フランス語で ferment、diastase、ドイツ語でEnzym、Ferment と書かれている。ここで注目していただきたいのは enzyme と ferment という二つの言葉が同じ「コーソ」に当てはめられていることである。逆に英和辞典でこの二つの単語をそれぞれ調べてみると、いずれも“酵素”という訳語が登場する。実は、ここに酵素概念が成立してくる歴史が秘められている。
この二つの言葉のうち、古いのは ferment の方である。もともと ferment には“発酵”という意味もあるように、古くから人々が関心をもってきた発酵現象に関連して登場した言葉であり、ときには“発酵素”と訳したり、“酵母”そのものを意味させることがある。17世紀に活躍したファン・ヘルモント(Helmont、 Jan Baptista van、 1577―1644、 ベルギー)は“生命作用あるいは化学作用を行なう活力”という意味で ferment という言葉を用いているが、この場合でも“発酵素”と邦訳するのが一般的である。
これに対して enzyme は19世紀も後半に登場した言葉である。すなわち、1876年(文献によっては1878年とするものもある)にドイツの生理学者キューネ(Kuhne、 Willy、 1837―1900)がはじめて提唱したものである。では、彼はどのような理由で新しい言葉を提唱したのだろうか。そのためには時代をいくらかさかのぼる必要がある。
発酵は一種の触媒作用
発酵現象は古くから人々に知られ利用されていたものであるが、科学的研究の対象とされたのは比較的新しい。18世紀の末にラヴォアジェ(Lavoiser、 Antoine Laurent、1743―1794、フランス)がアルコール発酵の定量分析を行い、糖がアルコールと二酸化炭素に分解する作用であると述べて以来(1789年)、化学者の追究が盛んになる。しかし、発酵現象や腐敗現象に関してはさまざまな説が登場し、19世紀中葉には、いわゆる“発酵論争”が展開されることになる。
この項のタイトルに掲げた“発酵は一種の触媒作用”説を持って登場するのがスウェーデンの化学者ベルツェリウス(Berzelius、 Baron Joens Jakob、1779―1848)である。彼は1837年の論文でその説を提唱しているが、“触媒”という概念自体も彼が生み出したもである。もちろん、こうした考えはいきなり生まれたものではなく、それなりの背景があった。
1812年にロシアの化学者キルヒホッフ(Kirchhoff、 Gottlieb Sigismund Constantin、 1764―1833)が、デンプンを弱酸で煮るとブドウ糖に分解するが、そのとき酸は量・質ともに少しも変化しないことを見出している。また、1816年にはイギリスの化学者デービィ(Davy、 Humphry、 1778―1829)がアルコールの蒸気が白金線の存在下では常温でも酸素と結合することを確かめ、なお白金には何らの変化がないことを報告している。これら化学分野での触媒現象の知見と相まって、生体現象においてもこれに類似したことがらが見つかってきた。
例えば、先のキルヒホッフは1815年にムギから抽出した粘液性成分が常温でもデンプンをデキストリンと糖に変えることを実験で示しているし、さらに1833年にはフランスの化学者ペイアン(Payan、 Anselme、 1795―1871)とペルソー(Persoz、 Jean Francis、 1805―1868?)がオオムギの芽から取り出した特異な物質が酸よりも能率的にデンプンを糖化することを見出し、この特異物質と酸との機能における類似性を指摘している。
この特異物質は彼らによってギリシア語のディア・スタシス(分離・分解という意味)に由来するジアスターゼという名称が与えられるが、生体内に少量しか存在しないのにその作用は大きい点が注目されることになる。すでに1831年に唾液中のプチアリンの糖化作用がルークス(Luchs)によって、また、1836年に胃液のペプシンが細胞説で有名なシュヴァン(Schwann、 Theodor、 1810―1882、ドイツ)によりそれぞれ発見されており、いずれも少量で大きな作用をもたらすという共通性も示されていた。ベルツェリウスはこれらをふまえて“発酵も一種の触媒作用である”と定義づけることになったのである。
酵母の役割
しかし、話はそう簡単に収まるものではない。ペプシンとかジアスターゼなどは生体から取り出しても化学反応を“触媒”するが、アルコール発酵にはどうしても“生きた酵母”が必要であった。1840年前後にはその酵母が“一種の単細胞生物”であることが認められたから話が複雑になった。
ベルツェリウスの触媒説を批判しながらも発酵を一種の純粋な化学作用であると主張したリービッヒ(Liebig、 Justus von、 1803―1873、ドイツ)と、生きた生物の働きの存在の下でのみ発酵が起こると考えたパスツール(Pasteur、 Louis、 1822―1895、フランス)の論争はあまりにも有名である。この両者の論争を経て、はじめて今日の酵素の概念が出来てくるのである。
では、この両者は“酵母”の役割をどのように考えていたのであろうか。リービッヒは、酵母は生きている時には発酵を起こさせない。酵母が死んで糖液の中へ卵白様物質を出す。すると糖の分子が振動を起こし、その結果、糖が分解し、アルコールが出来てくる、と考えた。
これに対して、パスツールはどう考えたのであろうか。彼の発酵に関する研究は、アルコール発酵ばかりでなく、乳酸発酵など幅広いものであり、また、その間に微生物学の誕生にかかわる貢献もしていることから知られるように、酵母のみでなく、広く発酵微生物の役割を論じることになる。彼にとって、発酵は微生物の生理過程の現われとして捉えられるのであった。
ところで、パスツールは研究中に大事な発見をしている。それは“パスツール効果”である。発酵を起こさせようとするとき、空気があると微生物は盛んに増殖するがアルコールが出来てこない。逆に空気を断ち切ると微生物の増殖は緩やかになり、アルコールが出来てくる。彼はこの発見を踏まえて、1876年に“発酵は無気状態での生命活動である”と結論する。
無機的酵素と有機的酵素
これより先、パスツールの見解に対していろいろな反論が展開されていた。その中で注目されるのはトラウベ(Traube、 Moritz、1826―1894、ドイツ)が1858年に示した“発酵は無機的酵素によって生じる”という考えである。無機的酵素というのは、すでに紹介したジアスターゼやペプシンなど生物体から抽出しうる ferment につけられた名であり、これに対して酵母など発酵微生物に存在すると考えられている ferment には有機的酵素という名が与えられた。
このトラウベの考えを支持したのがベルテロ(Berthelot、 Pierre Eugene Marcelin、1827―1907、フランス)である。彼はビール酵母の浸出液から抽出した物質がショ糖をブドウ糖と果糖に分解することを見出し、酵母の中にもジアスターゼやペプシンと同じような ferment があることを示した。彼はこれを根拠に発酵は微生物の生理作用と関連しているとしたパスツールの考えに反対し、有機的酵母も無機的酵母と同じような作用をしているのであろうと主張した。
こうした論争の中で、1876年キューネが二種類の ferment の混乱を避けるために、生きた細胞内で生命に関係ある化学反応を起こすものにのみ ferment という名を与え、ペプシンやトリプシン、あるいはベルテロが発見したインベルターゼなどに対しては、酵母中の ferment に似ているという点でギリシア語で“酵母の中の”という意味をもつ enzyme(en・…中に、zyme・…酵母)なる名称を与えるよう提案した。
やがて、1897年ブフナー(Buchner、 Eduard、 1860―1917、ドイツ)により、無機的酵素と有機的酵素の同一性が示されることになる。彼はガラスの粉末で細かく砕いた酵母からの抽出液により生体外で発酵現象を起こさせることに成功し、その有効成分に対してチマーゼという名を与えた。もちろん、現在ではチマーゼが複数の酵素から成り立っていることは知られているが、彼の研究によって一応発酵論争には終止符が打たれ、キューネの提唱した enzyme によって ferment という言葉も置き換えられることになった。なお、酵素の名の語尾に-aseがつけられていることが多いが、これは1883年に Duclaux の提案になるものである。
ところで、現在私たちは酵素がタンパク質であることを知っているが、そのことが明らかになるのにはタンパク質自体に関する研究が進歩する必要があった。すでに先に登場したトラウベもそうした考えを持っていたようであるが、人々を説得させるには至らなかった。それが可能になるのは20世紀になり、タンパク質の精製技術が進歩したことによる。1926年にはサムナー(Sumner、 James Batcheller、 1887―1955、アメリカ)がウレアーゼなる酵素をはじめて精製することに成功し、また、1930年にはノースロップ(Northrop、 John Howard、 1891−1987、アメリカ)がペプシンを結晶化し、それがタンパク質であることを示すなど、徐々に“酵素はタンパク質”という考えが受け入れられることになる。教科書にはこうした経緯を省略した結論が示されている場合がほとんどであるが、生徒達がこうした歴史的流れを知ったときには“酵素”を含め、さまざまな科学概念に対して新たな視点や考えが生まれるのではないか。そう期待したい。 
11 落下運動の解明

 

「運動を知らない者は自然を知らない」という古い格言がある。古来より自然学者は、運動こそ自然を理解する鍵と考えて、運動と、運動の原因となる力との因果関係を求め続けてきた。今回は、古代からの自然学をようやく断ち切り、科学革命を引き起こす直接的契機となった落下運動を取り上げて、その探究のあゆみをひもとくことにしよう。
物の本性は静止である
アリストテレス(384-322B.C.)は、奴隷や牛馬が物を押したり引いたりする運動を注意深く観察して、力と運動とはどういう関係にあるのかを考えた。そこで、物の本性は静止であり、運動している物体には絶えず力が働いているという結論を下した。彼のいう運動には、力が物体に内在するために自然に生じる運動(自然運動)と、他から力が加わって生じる運動(強制運動)とがある。
石が落下する運動は、代表的な自然運動である。では、なぜ石は下へ落ちるのだろうか。アリストテレスによれば、石にとって“自然な”場所が地球の中心付近にあるため、その場所に帰ろうとして落下するというのである。また、その時の加速については、あたかも家に帰ろうとする人の足取りが自分の家に近づくにつれて速くなるように、石もまた“自然な”場所に近づくほど速くなる、と目的論的な説明を与えている。
一方、同じ落下運動でも、投げられた石が落ちてゆくのは、手から石に力を加えたのだから強制運動になる。すると手から離れた石はいったい何に押されているのだろうか。手を離れた石に接触しているものは空気しかない。そこで、「自然は真空を嫌う」と信じていたアリストテレスは、石が手から離れた瞬間、手と石の間に生じる真空状態を防ごうとして、その部分に周囲の空気が流れ込んで、その空気がたえず石を押し続けるのだ、といささか苦しい説明をしている。
物に「込められた力」
アリストテレスの運動論は、放物運動の説明でまず破綻をきたした。6世紀のフィロポノスが批判の口火を切り、14世紀にビュリダンを始めとするパリの自然学者が、アリストテレスの学説に挑戦した。14世紀といえば、ヨーロッパでは大砲がさかんに使われ、その弾道理論が要求されていた時期である。弾丸や投げられた石のような物体は、空気に押されるのではなく、むしろ空気に抵抗されながら運動している、とビュリダンたちは反論するのである。では、なぜ弾丸や石は動き続けるのだろうか。力を加えた際、物体内に力が入り込み、その力が物体を推進するために運動は続く、というのが彼らの新しい学説である。もっとも、この“力”は、今でいう力と概念とはいささか違って、エネルギーや運動量の考えに近い。下図は、彼らが考えた弾道図である。“込められた力”によって動く弾力の軌跡は直線と考えていた点が、今日の私たちからみると興味深い。ちなみにわが国では、「改算期(1659)」のなかに初めて放物線に近い小銃の弾道が登場した。
さらにビュリダンたちは、放物体での説明を落体の加速の問題にまで拡張した。すなわち、物体の重さがとりもなおさず物体自身に働く力となり、落下している間にその力が累積されてゆくため、物体内に取り込んだ力はますます増大するというのである。このような彼らの考えは、今日の慣性概念に一歩近づいたものといえよう。
慣性概念の成立
慣性概念は、コペルニクスの地動説を整合的に説明する必要性から登場してきた。当時天文学者のみならず、天体の運行表を利用して遠洋航海する船員たちもまた、地動説に関心をよせていた。ところが地動説に対して、次のような批判が加えられた。もしほんとうに地球が動いているならば、私たちはその動きを感じるはずだし、何より塔から落とされた石は地球から取り残されるため、西よりに落ちるだろう。しかし、そんな事実はない。こうした反論に対してブルーノは等速で動いている船のマストから落とした石がマストの真下に落ちる現象をこう説明する。船と石は一つの力学系であり、系全体が同じ運動をするときには、その系内での運動は系が静止している場合と同じだ。したがって、地球が動いているとしても、静止しているときと同じ地上の運動現象が生じても、何ら、さしつかえないではないか、というわけである。
ガリレイ(1564-1642)は、水平面や斜面上での物体の運動を調べて、慣性運動では外力を作用し続ける必要のないことを明らかにした。たとえば、なめらかな面に物体をのせたとしよう。斜面だと物体は重力によって加速運動するが、水平面だと重力による速度変化は生じないから、永遠に動き続けるというのである。電力場での運動を論じるガリレイにとって、水平面とは重力による運動が生じない面、つまり地球と同心の球面にほかならない。彼は地球が太陽を中心に円運動すると信じていたから、こうした円運動こそ外力を加えなくても維持する慣性運動だと考えた。
デカルト(1596-1650)は、理想的な抽象的幾何学的空間を頭に描いてみると、ガリレイのいう円運動にはやはり外力が作用していることがわかったので、等速直線運動でなければ慣性運動にならないことを指摘した。
落下速度は何に比例する
慣性概念を獲得したガリレイとデカルトは、落下運動の理論にもその“慣性”概念を適用した。まずガリレイは、巧妙な実験を考案して、落下運動が等加速運動であることを明らかにする。今の中学生なら、さしずめストロボ写真を使うだろうが、当時は満足な時計さえない時代だった。実験的手腕に優れていた彼は、摩擦を少なくした斜面上に円球を転がし、同時に穴をあけた容器から水を流す一種の水時計を用いて球の落下時間を測定した。落下距離が落下時間の2乗に比例するという実験結果を得たので、ガリレイは落下速度が落下距離に比例すると仮定して、この事実を証明しようとした。彼の仮説が誤っていることは、現代の中学生でもわかるだろう。もっとも、後年になって彼はその誤りに気づき、落下速度は落下時間に比例すると改めている。
ガリレイと同じ頃、全宇宙の自然体系を数学的に構築しようとするデカルトは、ベークマンと一緒に落下運動の究明に取り組んでいた。彼らの課題もまた、落下距離が落下時間の2乗に比例するという関係を導き出すことだった。ガリレイは落下運動の生じる原因を追求しなかったが、この二人は地球が物体を瞬間瞬間に引きつけているから落下運動が起こると考えた。そして、この引力の概念と慣性の概念、それに“極限”という数学的手法を用いて、落下距離と落下時間の関係を演繹的に証明したのである。ところが2人とも次図を使って議論しているのだが、ベークマンはAB軸を時間軸、デカルトはこれを空間軸と解釈していた。もちろん間違っているのはデカルトの方だが、彼は終生この誤りを正すことはできなかった。類推のみに頼って自然を探究する場合、思わぬ落とし穴のあることを示すよい例である。
物体は、この図でAからBへ落ちているとしよう。AB上の各点での速度は、その点から斜面AC上に引いた線分の長さDE、BCで表わされるというのが、デカルトとベークマンの考えである。
万有引力の発見
そして、ついにニュートン(1643-1727)が、アリストテレス以来続いてきた落下運動をめぐる議論に終止符を打った。彼は万有引力の法則を発見して、落下運動を生じる力は地球と物体とが引き合う力にほかならないことを明らかにしてくれた。まず彼は、微積分という新しい数学的手法を使って、距離の2乗に逆比例し、質量の積に比例する万有引力を仮定すれば、ケプラーの3法則が導出できることを証明した。しかし、地球と物体との間に万有引力が働いているという事実は、どうすれば確かめることができるだろうか。そこで彼は、月と地球との間に働く万有引力が、とりも直さず、月の公転運動を生じる求心力だと仮定してみる。地球から月までの距離は地球の半径の約60倍だから、月の求心加速度は、地上の重力加速度の になるはずである。事実、この値は、月の周期と地球から月までの距離から求めた値とぴったり一致した。
ニュートンは、この万有引力の概念と、彼の名がつけられている運動の3法則とを使って、地上から天体に至るすべての運動を体系的に説明づけることができた。彼が樹立した新しい力学は、やがてオイラーやラグランジュらの手により、さらに精緻な解析力学として定式化され、近代科学の礎石になった。 
12 光合成の発見

 

「光合成」という言葉
私の手元に、昭和13(1938)年出版(初版は昭和6年)の石川光春著『生物学大観』(内田老鶴圃)という本がある。何気なしにページをめくっていると、“新陳代謝の生理”という項の中で“光力的合成”という言葉を見つけた。新陳代謝という言葉自体も古めかしく感じられるものであり、今日では物質交代という言葉に置き換えられているが、この光力的合成も面白い言葉だと思った。脚注にPhotosynthesis、 Photosynthese という言葉があるので、今日広く用いられている光合成と同じものであることがわかった。光力的合成という言葉が当時一般に用いられていたのか、他の著書を調べていないので詳しくはわからないが、光合成という言葉が未だ定着したものになっていなかったことは確かである。 もともと、Photosynthesis という言葉は バーネス(Barnes、Ch。R。、1858〜1910)によって1898年に作られたそうである。それが光合成という訳語に定着したわけであるが、それがいつであるか。昭和18(1945)年の坂村徹の『植物生理学』(裳華房)にはすでに“炭素同化作用・・・…光合成作用とも称せられる”となっている。
さて、ここでは植物学用語の起源を考察するのが目的ではないので、これ以上深入りはしないが、坂村の表現でも明らかなように、はじめは炭素同化作用といわれていたのが、ある時期に光合成作用とも言われるようになったのである。それには、それなりの歴史的背景があるはずであり、そのあたりに焦点をあててみようというのが今回の目的である。
炭酸同化の発見
それでは炭酸同化の発見はどのようになされたのであろうか。植物の栄養問題に関しては古くはギリシア時代のアリストテレスの説がある。植物は根に口があり、土の中の栄養分をその口から吸収して成長するというのである。
アリストテレスの説は長く信じられたが、17世紀になるとドイツのユンク(Jung、J。、1587〜1657)が植物は土の中から必要なものだけを吸収するという修正説を『De plantise doxoscopiae physicae minores』(1678年、彼の死後門弟たちによる出版)において提唱しているという。なお、ユンクは1622年にドイツで最初の学会を創った人物としても有名である。
同じ17世紀にベルギーのヘルモント(Helmont、J。B。、1577〜1644)はアリストテレスの説を大きく変える考えを示している。有名なヤナギの実験によって植物の栄養源が水であることを主張した。錬金術派の彼にはもともと水が生物の根源物質であるという考えがあり、そのことを証明するのに適した実験を計画し、実行したのである。その後、再び土の成分が重視されてきたが、なかなか空気中の二酸化炭素が栄養源として注目されるには至らなかった。
二酸化炭素が栄養源であると考えられるようになるためには、いくつかの先駆的知見の集積が必要であった。第一は、二酸化炭素なる物質が空気中に存在するということである。これは1750年代にイギリスのジョセフ・ブラック(Black、J。、1728〜1799)によって発見される。第二は、植物体が何らかの形で空気とかかわりあっていることの認識である。これは古くから漠然とは知られていたが、それをイギリスのヘールズ(Hales、S。、1677〜1761)が実験的に確かめた(1727年)。第三は、植物体の構成成分の認識である。18世紀末から19世紀初頭にかけて化学の進歩がなされ、植物体中に炭素が多く見出された。
実際にはこの三つが全部そろわないうちから植物が二酸化炭素を栄養源としているという考えが生まれている。あとで登場するインヘンフース(Ingenhousz、J。、1730〜1799)が1796年にそのような考えを述べたと言われているが、直接の資料に接していないので詳しく述べることはできない。
この問題を定量的実験で確認したのがソシュウル(Saussure、N。T。、1767〜1845)である。1804年に論文『植物に関する化学的研究』の中で次の事実を発見したことを報告している。すなわち、二酸化炭素を混ぜた一定量の空気中に植物を入れておくと、その空気中の二酸化炭素量が減り、酸素量が増える。その間に植物体は成長するが、成長した植物体を乾燥して成分量を測定してみると炭素量が増えている、などである。
この実験結果は空気中の二酸化炭素を材料にして植物が成長していることを明らかにしたわけであるが、それが栄養摂取の唯一の方法だという証明にはならない。当時は植物体を作り上げている炭素の源を、土壌中の腐植に求める考えも見られていた。ドイツの農耕家ターエル(Thaer、A。、1752〜1828)はアリストテレスの考えを復活させる形の腐植質に含まれる炭素化合物が植物体を作るのに用いられているという考えを発表していたが(1792年)、化学界の大御所、スウェーデンのベルツェリウス(Berzelius、B。J。J。、1779〜1848)がそれを強く支持したため、この考えの方がむしろ植物の唯一の栄養源であるとする傾向が見られていたのである。
植物体に含まれる炭素の源は空気中の二酸化炭素か、それとも土壌中の腐植か、この論争に終止符を打ったのはフランスのブサンゴー(Boussingault、J。B。J。D。、1802〜1887)やドイツのクノップ(Knop、W。、1821〜1891)たちによる水耕法や砂耕法の研究であった。根から炭素の供給がなされないような条件下での実験によって、空気中の二酸化炭素が吸収され、栄養となることがはじめて証明されたのである。
それをさらに確実にするのはドイツのザックス(Sachs、J。、1832〜1897)であり、植物体へ吸収された二酸化炭素が、デンプンになることを実験的に証明し、1862年、炭酸同化作用に関する知見を集大成した。学校の理科でしばしば行われる「ヨード反応」による葉でのデンプン検出実験はザックスの考案したものをベースにしたものである。
光の役割
次に炭酸同化作用と光のかかわりは、どのようにして明らかにされたのであろうか。ここで、先に登場したインヘンフースが再登場することになる。
1779年に彼は『植物に関する実験、日光の下で普通空気を浄化し、暗所や夜間では毒する植物の偉大な力の発見』という論文を公にしている。この表題にある普通空気(Common Air)という言葉は、いわゆる空気を指しており、当時、わざわざこうした断りがなされたのは、いろいろな新しい気体が発見され始めており、これらにもAir という言葉がつけられていたためである。
インヘンフースは1772年にイギリスのプリーストリ(Priestley、J。、1733〜1804)が行った実験を注意深く検討した。プリーストリは脱フロギストン空気(Dephlogisticated-air、すなわち、のちの酸素)の発見者として有名であるが、植物体からこの空気が出て、呼吸や燃焼で悪化した空気を浄化することを明らかにした。ただ、その場合、植物体をガラス鐘の中で何日も育てていたので、脱フロギストン空気の発生には植物が成長することが必要であると考えてしまった。
これに対して、インヘンフースは何百回もの実験の結果、プリーストリの考えを修正し、植物体の上記の働きは数時間でも起こるのであり、必要な条件は植物の成長ではなく、光が当たっていることであると結論する。彼はブドウの葉を1枚、1オンスの大きさのガラス瓶に入れ、日当たりのところへ1時間半ほど置いておくだけで、空気が浄化されるとさえ述べている。
また、そのような働きが緑色部分でのみ起こり、緑色でないところに日光を当ててもだめで、逆にその場合や暗所に植物体を置いたときには、むしろ、もっと空気が悪化することを確かめている。
こうした一連の発見は植物栄養源に関する研究の歴史において一つの大きな飛躍点となるものであった。ただ、フランスのラヴォアジェ(Lavoisier、A。L。、1743〜1794)による酸素の命名以前のときであり、フロギストン説の枠の中で考えられたので、彼の発見したことの意味を正しく位置づけることはできなかった。ラヴォアジェの研究ののち、インヘンフースは自分のこの研究を再吟味し、先に述べたように1796年には植物の栄養と結びつけた考えを発表したようである。しかし、彼にとっては光が何故に必要なのか、緑色部分でないと何故だめなのかを理解することはできなかった。
上記の日光が必要条件というとき、光そのものが必要なのか、日光の暖かさが必要なのか、が問題になる。その点に言及したのがスイスのセネビア(Senebier、J。、1742〜1809)である。彼は緑色植物によるガス交換が二酸化炭素と酸素の交換であることを明確にしたが、緑葉を二酸化炭素の溶けた水の中に入れて光を当て、酸素の発生を確かめる実験などを通して、日光のうち、暖かさが必要なのでなく、光そのものが必要であることを示した(1788)。
光に関して、より進んだ研究が見られたのは19世紀も後半になってからである。その一人はドイツのエンゲルマン(Engelmann、T。W。、1843〜1909)で、光をいろいろな波長に分け緑葉に当て、どの波長で最も炭酸同化作用が活発であるかを明らかにしている(1882)。
このような方向へ研究が進められるようになった一つの背景は、エネルギーという考えが見られるようになったからであろう。特にマイヤー(Mayer、J。R。von、1814〜1878)たちによるエネルギー保存則の発表が大きく働いているように思われる。彼は炭酸同化作用を緑色植物による光エネルギーの化学エネルギーへの転換であると意義づけている(1845)。
かくして、炭酸同化作用は光合成という概念に置き換えられる。さらにバクテリアによる化学合成作用の発見も、光合成という言葉を生み出すのに一役を担っているのである。
なお、植物の栄養学説の歴史に関しては以前、“Great Experiments in Biology"
Maruzen Asian Edition (1955) という原典集が出され、その中の“photosynthesis"
の項にはここで取り上げたヘルモント、プリーストリ、インエンフース、ソシュウル、エンゲルマンなどを含め、この研究にかかわった人たちが発表した論文の重要な部分を英語で紹介してくれている。また、真船和夫著『光合成と呼吸の科学史―古代から現代まで』(星の環会、平成11年)にも光合成の歴史が詳しく紹介されている。その他、ダンネマン著『大自然科学史』(三省堂)の中の17世紀ごろからを扱っている巻にも比較的詳しい紹介がある。それらを参考にされることをお奨めする。 
13 電子の発見

 

電子レンジ、電子ソロバン、電子ライターなど、私たちの身の回りには“電子”ということばが氾濫している。このことばは、ギリシア語の琥珀(elektron)に由来しているが、1891年、ストーニーによって初めて使われたときには、自然界に存在する可能性のある“最小の電荷(電気素量)”を意味していた。今回は、ストーニーの“電子”が、どのような過程を経て素粒子として認められたのかを、その直接の契機となった陰極線の研究に的をあてて、しらべることにしよう。
陰極線の発見
18世紀に入ると、美しい紫色を呈する真空放電の現象が人びとの注目を集めた。やがて18世紀も半ばを過ぎたころ、ガイスラーは水銀ポンプとガラス管を改良して、この紫色が縞状に光る程度の真空度を得ることに成功した。この装置を用いたプリッカーは、真空度を上げていくと、陰極に近いガラス壁が緑色の蛍光を発することに気づいた(1858年)。ヒットルフ(1824〜1914)は、この蛍光を発するガラス壁と陰極との間に物体を置くと物体の影が生じることを観察し、陰極から出ている放射線が蛍光の原因だと考えた(1869年)。そこで、この放射線はゴルドシュタインによって“陰極線”と名づけられた。
陰極線は粒子か波動か?
陰極線の正体とは、いったい何なのだろうか。荷電粒子なのか、はたまた波動なのか。当時の科学者たちは、この問題をめぐって論争を続けた。荷電粒子説を唱えた代表的人物としては、クルックス(1832〜1919)があげられよう。陰極線がガラス管に入れた羽根車を回転させることを発見した彼は、当時盛んだった気体分子運動論に立脚して、陰極で負電荷を受け取った気体分子が陰極線だと主張した。もっとも、この分子が普通の気体分子といささか違う点は認めていたとみえて、“物質の第4状態”という表現を用いている。
一方、波動説をとる立場の科学者たちは、“エーテル”の振動が陰極線だと考えた。“エーテル”とは、光を伝える媒質として17世紀に導入されたが、当時は電磁気作用をも伝えるとみなされた。波動論者は、静電場をかけても陰極線は曲らないというヘルツの実験や、金属の薄膜を陰極線が通ることを示したレーナルトの実験を自説の根拠としていた。また、ファラデーやマックスウェルの唱えた“場”の理論が、理論的に波動説を支持すると考える科学者も少なくなかった。
ところでX線は、ヘルツやレーナルトの実験を追試中にたまたま放電管の近くの蛍光物質が光ることに注目したレントゲンが発見したものである(1895年)。この発見は陰極線の研究に拍車をかけ、数年後、周知のように2説の論争は荷電粒子説に凱歌があがった。このときに中心となって活躍した人物が、J・J・トムソン(1856〜1940)である。では、どのようにして彼は、陰極線の正体が荷電粒子であることを明らかにしたのだろうか。
陰極線の比電荷がわかる
トムソンは、波動説の根拠の1つであるレーナルトの実験を、何とか粒子説で説明づけようと考えた。陰極線を原子大の粒子とみなす限り、粒子説で説明しにくいのは確かである。そこで彼は大胆にも、陰極線の正体は原子よりずっと小さな荷電粒子だと、いままでだれも思いつかなかった仮説を設定した。
この仮説を検証するためには、まず陰極線が荷電粒子であることをはっきりさせておかねばならない。というのも、「荷電粒子と陰極線関係は、ライフルを発射したときの弾丸と光との関係のようなものだ」と反論する科学者もいたからだ。トムソンは、磁石で曲げた陰極線を検電器に導いても確かに負電荷が検出されることを示して、荷電粒子そのものが陰極線にほかならないと主張した。
もう1つ、彼の頭を悩ませたのが、先述のヘルツの実験である。荷電粒子ならば、当然、静電場の影響を受けるはずだ。この点に関して、彼はつぎのような解釈を試みた。つまり、陰極線によって気体分子が電離されると、電極付近にはその反対荷電をもつイオンが集まる。そのため電気的に中和されて実際は電場が存在しないことになる、というわけだ。さっそく、気体分子を少なくするために真空度をあげて実験したトムソンは、わずか2Vの静電場で陰極線を曲げることに成功した。ただしこの成功の影には、電球づくりのためにエジソンらの改良した真空技術があったことを見落としてはなるまい。ちなみにエジソンは、京都の竹がフィラメントの材料に適していることを知って、その竹を使った電球(右)を1881年の電気博覧会に出品している。
こうしてトムソンは、陰極線が荷電粒子であることを明らかにしたものの、この粒子が原子に比べて小さいという点に関しては、決め手を欠いていた。そこで、陰極線粒子の質量を測定するのが困難な以上、まず比電荷※(質量/電荷)を測定しようと試みた。荷電粒子に磁場をかけたときの粒子の運動からmv/e(vは粒子の速度)の値が得られた。つぎにvを求めなければならないが、彼は2つの方法でそれを得ている。静電場をかけて陰極線を偏向させる方法は高校の物理でもおなじみなので、ここではもう1つの方法を紹介しよう。陰極線を固体に衝突させたときに発生する固体の温度上昇と、陰極線の総電荷量とからvを求めるやり方である。すなわち、各粒子の運動エネルギーがすべて温度上昇に結びつくと仮定すれば、固体の熱容量を用いて、全粒子の運動エネルギー( Nmv2)が求められる。総電荷量は、粒子数と電荷との積(Ne)だから、両者の比をとってmv2/eがわかる。この値をmv/eで割ってvを算出するという巧妙な方法である。
得られた比電荷は、予想どおり水素イオンの比電荷のわずか千分の一であり、しかも放電管の気体や極板の種類には無関係だった。トムソンは、陰極線の本性である荷電粒子こそ、すべての物質原子に含まれているという確信を得て、この粒子を“微粒子(orpuscle)“と呼ぶことにした。だが、この結果から“微粒子”が原子より小さいと、即断はできない。水素イオンと“微粒子”の電荷が同じくらいかどうか、わからないからだ。そこで、トムソンが“微粒子”の電荷の測定へと向かうのは、いわば当然の成りゆきといえよう。
原子よりも小さい粒子
陰極線粒子の電荷は測定するのがむずかしいために、トムソンは金属板に紫外線を照射したときにとび出す荷電粒子を陰極線粒子の代用として使った。比電荷が等しいこの2種類の粒子は、どちらも同じ粒子にちがいないと彼は信じていた。では、この粒子の電荷をどのようにして求めればよいのだろうか。
彼は、過飽和水蒸気の入った容器に荷電粒子をあてたのちに水蒸気を急激に膨張させると、イオンが核となって霧が生じる現象(ウィルソンの霧箱)を利用することにした。この膨張比から霧の全粒子の重量がわかる。粒子1個の重量は、自由落下する速さにストークスの法則を適用して求めた。このとき、1つの霧粒子には1つの荷電粒子が付着していると仮定すれば、全荷電粒子数が算出できる。また霧の総電荷量は、霧に電圧をかけたときに流れる電流を利用している。
こうして得られた電荷は、水素イオンの電荷と同じオーダーであった。その値と比電荷の値とから、陰極線粒子の質量は、水素イオンよりもずっと小さいことがわかった。このようなすばらしい発見をしたトムソンは、1899年、「原子よりも小さな質量をもつものの存在」というタイトルで講演を行って、確信に満ちた口調で「原子は多数の“微粒子”から成っている」と言明している。
翌年、最小の電荷と考えられていた水素イオンの電荷と、陰極線粒子の電荷の等しいことが示された。ここに至って、かつて電気素量という意味をこめたストーニーの造語である“電子”が復活して、トムソンの“微粒子”は電子と呼ばれるようになった。
ヨーロッパで発見された電子は、さっそく日本にも紹介された。明治38年(1905年)に近藤耕蔵の著した『電気学講義』では、陰極線は電気を帯びた“極微物体(電素)”だと結論が下されている。
20世紀に入ると、電子の電荷や質量の精密測定、そして原子の構造の研究が進んだ。その過程で現れた質量の速度依存性は相対性理論を、また電子が粒子性と波動性とを示すという矛盾は量子力学を発展させたのである。 
14 遺伝子発見への道

 

ノーダン・メンデルの法則
遺伝に関した話の中でメンデルがしばしば登場することは衆知のことであるが、“ノーダン・メンデルの法則”という言葉を知っている人はそれほど多くはないと思う。
アメリカの遺伝学雑誌“Jour。 Heredity”の1914年の巻でフランス人のアペールが上記のような表題で論文を書いている。これによれば、ノーダンは雑種の研究で分離の現象を見出し、メンデルはそれを数式で示したのであるという。
つまり、今日、メンデルの法則としてまとめられているうちの一つ「分離の法則」を発見したのがノーダンだというのである。
ノーダン(1815-1899)はフランスの植物学者であり、1850年代から盛んに植物の交雑実験を行っている。当時、ヨーロッパの各国では植物の交雑実験が活発であった。その理由の一つは実際上の品種改良にあったが、もう一つは種の変化性をめぐる問題解決に関するものであった。神によって創造された生物の種は不変であると長らく信じられていたものが、必ずしもそうではないのではないかという疑問が生まれつつあったのである。ノーダンは後者に主眼を置いて研究を進め、その結果を1862年にアカデミーに報告、その翌年“植物の雑種性について”(1863年)と題した論文で公にしている。
この論文の中で、交雑植物の第二代目に分離の現象が見られることを示した。
雑種第一代目は普通、単一(親のどちらか)の性質のものであるのに、第二代目には交雑に用いた二つの植物の性質が現れる。これはまさに分離の現象であるが、実はそのこと自体は、彼以前にイギリスのナイト(Knight, T. A. 1759〜1838)が1823年に、同じくイギリスのゴス(Goss, J.)らが1824年に、またフランスのサジュレ(Sageret, A. 1763〜1861)が1826年に、さらにドイツのゲルトナー(Gatrner, C. F. von、1772〜1850)が1849年にそれぞれ見出しており、ノーダンはこの現象を説明する段階で先駆者たちよりも、よりメンデルに近づいていたのであった。すなわち、ノーダン以前の人たちが、分離の現象を有性生殖との関連で論じていなかったのに対して、ノーダンは卵や花粉の中に、“種の本質”が存在していて、それが次代に受け継がれ、発生の過程で優性な方の性質が現れてくると説明したのである。読み方によっては、この“種の本質”を今日の“遺伝子”と考えれば、メンデルに決してひけをとらない説であるということになる。フランス人たちが母国愛からか(?)、ノーダンとメンデルの名前を並記したのには、それなりの理由があったのである。
遺伝単位をさぐる動き
上記のようにノーダンも遺伝を担う“何物か”があることを予想していた。親の性質を子に伝えるものは何であろうか。この問題は古くからの人々の関心事でもあった。
18世紀にフランスのモーペルテュイ(Maupertuis, P. L. M. de、1698〜1759)という学者がこの問題に関して、優れた考えを提出している。1744年に著した『生身のヴィーナス』という書物の中で、遺伝現象を粒子論の立場から説明した。彼はもともと物理学に関心を持った学者で、当時、物理学の世界で勢いを持ち始めていたニュートン学説を信奉し、自然現象を粒子間の作用としてとらえていた。それを生命現象に当てはめたのである。
モーペルテュイが遺伝現象に関心を示した動機は、黒人のアルビノを見たことにあるようである。後に多指症の遺伝を家系調査して発表している(1751)。
彼によれば、両親の生殖液中に遺伝にかかわる粒子があり、これが子どもの段階で混ざり合い、その中で同じ器官を作る粒子どうしが集まって、その器官を作っていくのだという。まだ、十分に熟した遺伝学説ではないが、遺伝現象を粒子論の立場で説明しようとしたことは、後の“遺伝子”概念を生み出すのに一つの先駆的役割を果たしたと言えよう。
その後、人々は種の変化という問題に関心をもつようになり、遺伝の問題も現象を追うことに力が注がれた。モーペルテュイの着想がより具体化するのは、前節で述べたノーダンの時代、言い換えれば19世紀の中葉であり、メンデルにおいてである。
メンデル(Mendel, G. J. 1822〜1884)に関しては多くの紹介がなされており、読者の先生方も衆知のことと思うので、ここでは深入りすることをさけ、ノーダンとの比較を通して、何故にメンデルが高く評価されるのかを述べるに留めよう。
ノーダンの論文(1863年)とメンデルの論文『植物雑種に関する研究』(1865年発表、1866年印刷)を比較して、まず目につくのは前者の記述形式が当時の園芸家や博物学者たちによるものと同様、記号や統計的手法をほとんど用いていないのに対して、後者、すなわち、メンデルのものには、それらが多く用いられていることである。当時としては、これが生物学関係の論文であるとは考えにくい記述形式であった。
統計的処理をしたメンデル
すなわち、ノーダンは実験結果を大まかな数で示してはいるものの、それを統計処理にかけることをしなかったのに対して、メンデルは統計処理をして、実験結果の意味するものを考えたのであり、数学的、物理学的方法を採用したのである。
こうした方法論上の違いが、何故に二人の間に見られたのか。それについては彼らの教育歴、あるいはフランスとオーストリアにおける学界の風潮などを詳しく調べないと何とも言えないが、しばしば語られていることは、メンデルが若いころから物理学や数学に興味を持ち、大学でその分野を勉強し、それらに精通していたからであるということである。そのことは研究材料の選び方にも現れている。ノーダンの論文にはいろいろな植物が材料として登場するが、メンデルのものでは有名なエンドウと後のミヤマコウゾリナとその種類は少ない。その中でも法則化に成功したのはエンドウであり、ミヤマコウゾリナでは失敗している。
ところで、ノーダンの研究では、いわゆる“戻し交配”というものがある。“戻し交配”というのは雑種第一代のものと、はじめ、交配に用いた劣性の親がたのものとを交配することである。ノーダンはこの交配ではじめの両方の親の性質を持ったものがほぼ半数ずつ生じることを報告している。この現象は、遺伝を担う何らかのものが存在することを予測するのに好都合である。ノーダンもそう考え、意を強くしたように思われる。以前、筆者は中学生を対象に、交配実験の結果からドライラボ式に遺伝単位の存在を考えさせる授業を試みたことがある。そのとき、メンデルの実験のように、雑種第一代、第二代の結果を示すかわりに、この戻し交配の結果を用いてみた。数少ない調査であったので、正確なことは言えないが、この方が遺伝単位の存在に気づく可能性が大きかったように思う。
しかし、ノーダンとメンデルで、もう一つ大きな違いがあったと言われている。ノーダンは先の“種の本質”、言いかえれば遺伝物質が、一つの細胞の中で対立するのでなく、個体全体のうち、ある部分には一方の親のもの、別の部分にはもう一方の親のものが存在し、お互いに競合していると考えていたようであり、メンデルのように一つの細胞内で競合しているとした考えと異なっていた。
遺伝子の登場
メンデルは細胞レベルで遺伝現象を考え、それを数量的に扱うことによって、遺伝単位の存在を証明した。彼はその単位に“要素”(Element)という名を与えている。この“要素”が後にデンマークのヨハンセン(Johannsen, W. L. 1857〜1927)によって“遺伝子(gene)”という名に変えられる(1909)。しかし、その間にも遺伝単位に関してはさまざまな名称のものが登場している。
1865年に、メンデルが先の論文を発表しても、ほとんど学界では顧みられなかった。1900年の再発見までの間に登場した遺伝単位をあげてみると、イギリスのダーウィン(Darwin, C. 1809〜1882)によるジェミュール説(1868年『飼育動物・栽培植物の変異』)、ドイツのヴァイスマン(Weisman, A. 1834〜1914)の提唱したデテルミナント説、オランダのド・フリース(De Vries, H. 1848〜1935)の細胞内パンゲン説などがある。
この中でもド・フリ−スの細胞内パンゲン説に、今日の遺伝子概念の本質をなすものが織り込まれていると言われている。この説はダーウィンのジェミュ−ル説を発展させたものであった。ダーウィンのジェミュール説というのは、さまざまな遺伝的性質を担い、自己増殖もするジェミュールなる粒子が生物体内に存在し、発生の過程で細胞から出て、それぞれ特定の部位で働き、さらに生殖細胞にも入って、次代へ受け継がれるというものである。この説自体は実証的なものではなく、逆に実験的に否定される部分も出てきたが、ド・フリースは当時存在していたその他の遺伝単位説とも比較検討し、このダーウィンの考えが最も合理的であるとし、否定された部分は外して、彼なりに修正した説を提唱した(1889)。その場合、粒子の名称としてジェミュールを用いずに、パンゲン(Pangen)という言葉を用いた。パンゲンは、核の中で二分裂によって増殖し、細胞質中へ出て、さまざまな働きをする。遺伝現象もすべてパンゲンの働きによる。ダーウィンのジェミュールが、細胞の外へ出て行くのに対して、ド・フリースのパンゲンは細胞内に留まり働くのであった。
やがて、1900年にこのド・フリース自身をはじめ、ドイツのコレンス(Correns, C. E. 1864〜1933)や、チェルマク(Tschermak, E. von. 1871〜1962)によってメンデル法則が再発見されるに及んで、当時盛んになっていた染色体研究の成果と結びついて、メンデルの考えた遺伝単位としての“要素”は染色体上に存在することが明らかにされるようになる。すなわち、アメリカのサットン(Sutton, W. S. 1876〜1916)は減数分裂における染色体の行動とメンデルの指摘する“要素”の行動とが一致することを見出し(1903年)、またドイツのボベリイ(Boveri, T. 1862〜1915)はウニの多精子受精の研究から染色体中に遺伝質が含まれていることを確信した(1902年)。なお、1910年代からアメリカのモーガン(Morgan, T. H. 1866〜1945)のグループがショウジョウバエを使って精力的な研究を行い、遺伝子が染色体上に線上に配列していることを明らかにしたことは読者もご存知の通りである。
その後、研究者たちは遺伝子の物質的基礎を染色体に求めた。一時は、染色体中に多く存在するタンパク質こそ遺伝物質であるという考えさえ生まれた(例えば、東京大学の遺伝学者藤井健次郎)。今日、遺伝物質として認められている核酸(DNA)がタンパク質に比べ、染色体中では少ないという事実とタンパク質は生命体にとって重要な物質であるという当時の認識が影響したのであろう。
今回取り上げた内容に限定して一冊で日本語で紹介されたものは見当たらないが、中村禎里著『生物学の歴史』(河出書房新社、初版、1973年)の該当部分が参考になる。ノーダンに関しては、Roberts, H. F.“Plant Hybridization Before Mendel”Hafner Publishing Co., 1965 に詳しい。 
15 近代原子論の形成

 

原子・分子概念は、今では科学を学ぶ者にとって欠くことのできない重要な概念である。ところが、この原子・分子概念が多くの化学者に認められるようになったのは、今からわずか100年余り前のことにすぎない。今回はこの近代的な原子論がどのようにして形成されたかを、18世紀以降の化学界に焦点をあてて、たどってゆくとしよう。
18世紀の化学界
18世紀の化学界といえば、前世紀にニュートンらが唱えた原子論的自然界で物質の性質を究明しようとする思潮が強かった。18世紀も終わりに近づくと、ラボアジェ(1743−94)が分析によって得られる最終物質こそ元素であるという近代元素観を確立して、根強く残っていた古代の元素観を一掃した。それによって、近代化学の誕生を告げることとなった。
18世紀末から19世紀初頭にかけて化学界では“定比例の法則”が論議を呼んだ。ラボアジェらも暗黙のうちに認めていたこの法則を、プルーストが正式に宣言するや、たちまちベルトレーは溶液・合金・ガラスなどを例にあげて反論を開始した。8年間も続いたこの論争はプルーストの勝利に終わったが、原子論と関係深いこの法則が話題になったことはやがて登場するドルトンの原子論に注目を集める下地をつくった。
近代原子論の創始者−ドルトン
ドルトン(1766−1844)といえば、化学者のイメージが浮かんでくる。しかし、最初は化学者ではなく、気象学の研究から手をつけたのであった。気象観測をしているうちに大気に関心をもったドルトンは、大気の均質性や気体の溶解現象などを、「単体は粒子からできていて、この粒子が原子である」という考えで説明しようとした。また熱心な熱素論者でもあったドルトンは、まわりに熱素を伴った原子が互いに砲丸を積み重ねたように接触しあっていると考えていた(図1で、栗のいがが熱素の集まりを表している)。
やがてドルトンは、この原子論が化学結合にも適用できるのではないかと考えるようになった。そして1804年に、“沼気”(メタン)と“生油気”(エチレン)を分析して、一定量の炭素と化合している水素の割合が、“沼気”では“生油気”の2倍であることを見つけた。彼は、この“倍数比例の法則”の発見によって、化学現象に原子論が有効であることを示した。よく、ドルトンは定比例や倍数比例の法則から原子論を帰納したといわれるが、むしろ原子論という自然観で演繹的に倍数比例の法則を得たというべきであろう。
こうして原子論の有効性に自信をもったドルトンは、化学的分解・合成が諸原子の分離・結合にほかならないことを明言した。さらに、原子論を実験的事実と結びつけるためには、原子の相対的重量(原子量)や、いくつの原子が集まって1つの最小粒子(化合物)を構成しているか、を明らかにしなければならないと主張した。ところがいざ原子量を求めようとすると、やっかいな問題が立ちはだかっていた。原子量は、化合物の化学式と重量組成がわかってはじめて算出できるのに、実験からは重量組成しか得られないからだ。この難問をドルトンは、どう解決しようとしたのだろうか。今から考えると乱暴な話だが、2つの元素A、Bからなっている化合物で、1つの化合物しか知られていないときの化学式はABだというのである。たとえば、当時では水素と酸素の化合物として水しか知られていなかったので、水の化学式は今の元素記号で表せばHOということになる。では、2つの化合物がわかっているときはどうかといえば、その化学式の1つはAB、もう1つはA2BもしくはAB2だというわけである。
ドルトンがこの原子論を『化学の新体系』(1808)で発表したところ、たちまち化学界には一大センセーションがまき起こった。
世界的な大化学者となってからも、ドルトンは家庭教師で生計をたてながら、つましい市井の一庶民として生涯を過ごした。彼には次のようなエピソードが残っている。フランスのある学者がドルトンの家を訪問すると、鼻たれ小僧に算数を教えている人がいた。いぶかしげに、「ドルトン先生ですか」と尋ねると、ドルトンは、「はい、そうです。この子の算数を直すまでしばらく待っていてください」と答えたそうである。いかにもドルトンの人柄がしのばれる話ではないか。
ゲー・リュサックの法則
ドルトンの原子論は、発表当時はまだ仮説的色彩が強かった。なかでも最大の弱点は、原子量を決める方法が見つからなかったことだ。ドルトンの方法では、いかにも観念的すぎる。この解決の鍵をにぎる法則が、1809年にゲー・リュサック(1778−1850)の手で発見された。それは、同温同圧のもとでは、反応する気体および生成した気体の容積が互いに簡単な整数比をなすという、気体反応の法則である。ちなみにゲー・リュサックは、1804年、気球に乗って当時としては最高の7000mの高さにまで上昇し、高層での温度や湿度を測定した英雄でもあった。
原子論に賛成する化学者は、この法則こそドルトンの原子論を支持する実験的事実だとみていた。ところが肝心のドルトンは、死ぬまでこの法則に反対しつづけた。なぜなら、この法則を彼の原子論で説明しようとすれば一定体積中に含まれる粒子数は同じか、もしくは簡単な整数比となるはずだが、そんなことは絶対にないとドルトンは信じていたからである。というのは、たとえば水蒸気と酸素の比重を測定して比べてみると、酸素のほうが大きい。ところが水の化学式はHOだから、同体積に同数の原子を含むとすれば、水蒸気は酸素よりも水素原子分だけ比重が大きくなるはずで、事実と合わない。したがって、同体積中には酸素原子のほうが水の粒子よりも多く含まれていなければならないというわけである。水素や酸素などの単体の気体粒子は1個の原子だと信じていたドルトンにすれば、こう考えたとしても無理はない。
一方ベルセリウス(1779−1848)は、ドルトンのかなり恣意的な化学式の決定法を破棄して、ゲー・リュサックの法則で原子量を算出しようとした。そのために、気体元素は同体積中に同数の原子を含むと仮定してみた。たとえば図2のような反応では、水素と酸素のみが同体積で等しい原子数を含むとしよう。すると、水蒸気の化学式はH2Oになる。このような、実験的に根拠をもついくつかの方法を使って、ベルセリウスは2000種類にものぼる化合物の定量分析を行い、精確に原子量を求めた。こうして原子論の推進に大きく貢献したベルセリウスは、私たちが現在使っているアルファベット式の原子記号を初めて提唱したことでもよく知られている。
だが原子論は、当時の化学者がすんなり受け入れたわけではなかった。定比例や倍数比例などの実験事実は認めるが、原子論は仮説でしかないというデービーの態度が、当時の大部分の化学者を代表していた。
同体積には同数の分子しかない
ドルトンの原子論とゲー・リュサックの法則とを矛盾なく結びつけて、近代原子論をめぐる論戦に一応の終止符をうったのが、アボガドロ(1776−1856)である。彼は、ベルセリウスの仮定した気体原子数の考えを拡張して、まず「すべての気体は、等温等圧だと同体積中に同数の粒子を含む」と仮説した。そうすると、たとえば、図2から明らかなように、生成した水蒸気の粒子が酸素と同じ体積中に含まれなければならなくなり、実験事実とは違ってくる。そこでアボガドロは、誰でもよく知っているように、単体の気体は2つの原子が結合した分子からできているというもう1つの仮定を置いた。すると図3のように、はじめの仮説とも矛盾なく、しかも気体反応の容積関係をも巧みに説明できるではないか。もっとも、単原子分子が知られている現在では、この分子仮説も少し訂正しなければならない。
アボガドロの仮説によると、数多くの気体反応の実験的事実を説明できるだけでなく、原子量を算出する場合の手がかりも得られる。すなわち、気体の比重を測定すれば、それはとりもなおさず気体分子の比重でもあるから、たちどころに分子量が求められる。しかも、単体の気体分子は同種の2個の原子からなっているので、その原子量は容易に得られるのである。このように、アボガドロの仮説はすばらしい考えであったが、その重要性が正しく認識されたのは、なんとアボガドロの発表から半世紀も経た1860年のことであった。 
16 化石とは何か

 

「化石」という言葉
「化石」と言う言葉を『広辞苑』で調べてみると“(fossil)地質時代に棲息した動植物の遺骸、または、その跡が堆積岩などの中に残されているもの”と書かれている。これは私たちが一応承知している定義であるが、この文頭にある英語のfossilをオクスフォード辞典で調べてみると必ずしも上記のような意味ばかりでなく、“obtained by digging; found buried in the earth”というような意味もあり、広く地中から掘り出されたものを指す言葉であることが知られる。
もともと fossil の語源はラテン語の fossio (掘ること)とか、fossilis(掘り出された、発掘された)であり、古くは上記のような広い意味で使われていた。例えば、16世紀のドイツの鉱物学者アグリコラ(Georg Agricola、1494〜1555)はfossilを分類しているが、アンモナイトや矢石のほか岩塩、大理石、石灰岩などもその中に含めて扱っている。同様な例はアグリコラよりいくらか後のドイツのゲスナー(Conrad Gesner、1516〜1565)にも見られ、fossil の中に黄鉄鉱や石斧まで含めている。
これに対して日本語の「化石」では上記のような広い扱いは見られていない。もともと「化石」という言葉は中国から導入されたものと思われるが、江戸時代の小野蘭山(1729〜1810)の書いた『本草綱目啓蒙』(1803)の中で石蝦、石蛇、石魚などの記述があり、その文中で「化石」という言葉が用いられている。
この『本草綱目啓蒙』の基になった中国明代の李時珍(1518〜1593)の著した『本草綱目』(1596)にも石蛇、石燕、石蟹などの記述があり、すでに「化石」という言葉が使われているという。その字の示すごとく、“石に変化したもの”という意味のみが考えられる言葉であり、ヨーロッパの人たちが化石に対して与えた言葉とは対照的であるのが興味深い。その背景にはヨーロッパ人と中国人における化石に対する認識の相違が存在するように思われる。
「化石」の成因
では、化石とは一体何なのであろうか。どのようにして生じたものであろうか。その点についての人類の認識の変遷をたどってみよう。
人類が化石の存在に気づき始めたのがいつごろであるかを知ることは出来ない。しかし、文献の上ではすでにギリシャ時代のものに化石の記事が見出されており、それが生物に由来するものである、と考えられていたようである(ダンネマン『大自然科学史』2巻、三省堂、1947年による。本書は全12巻で新版は1977年から1979年にかけて出版されている)。一方、中国でも3世紀ごろの文献に、松の木の化石のことが記載されており、早くから化石の存在が知られている。5世紀の道元著『水経注』にはツバメのように見える石のカキの一種が石燕山にあるという記述があるという(ニーダム『中国の科学と文明』第6巻「地の科学」思索社、1976年による。本書は全11巻)。
さて、問題はその化石の成因である。中国では、その後8世紀ごろにも化石について論じた文献があるようだが、12世紀の朱熹による『朱子全書』でかなりはっきりと化石の生物起源説が述べられている。“私は高い山において、しばしば岩に埋もれたスイショウガイやカキの殻を見たことがある。古代にはこれらの岩は土や泥であり、スイショウガイやカキは水中に住んでいた”と。(ニーダムによる)。
ところがヨーロッパでは、中世になって化石が地中に存在する形成力によって作り出されたのだという説が登場する。ときには星や宇宙からくる神秘な力が作用して化石が生まれるのだとも言われた。この考えは18世紀にも影響をもっていて、有名なベリンガー事件を引き起こす。すなわち、上記の考えを支持していたベリンガー(Johann B。 A。 Beringer、 1667〜1740)は自説を証明するために、化石の発掘を続けるが、自分の名前が刻まれた化石を掘り当て、それまで掘り出された化石が人工物であり、いたずらされたものであることを知る事件である。
一方で、ヨーロッパでもすでに16世紀には何人かの人たちが化石の生物起源を認めていた。例えば、レオナルド・ダ・ビンチ(Leonard da Vinci、1452〜1519)は高山に見られるカキの化石などを観察して、それらがかつて海中に生息していたものであることをノートに書き残している。また、フランスのパリッシイ(Bernard Palissy、1510〜90)も同様に1580年に貝化石がかつて海中に生息していたものであると述べている。このほか、アレッサンドリ(Alessandro degli Alessandri、1520年に提唱)やフラカストロ(Girolamo Fracastoro、1517年に提唱)なども同様に化石の生物起源説をとっていたが、全体から見れば少数派に属しており、多くの学者たちは自然の戯れとか、地中の形成力による非生物起源のものという考えを抱いていた。前項で紹介したアグリコラも部分的には生物起源の化石を揚げているが、一方で未だ形成力のようなものも信じていたと言われる。
17世紀になると、化石の生物起源説は力を持つようになる。これは科学全体の神学思想からの脱却も影響していると言えよう。また、ヨーロッパの鉱山業も盛んになり、地質学上の知見、化石に関する資料の集積がより的確な考えを生み出すことを可能にさせたものと考えられる。例えば、ライプニッツ(G。W。 Leibniz、1646〜1716)は魚類の化石が一ヶ所に多く見出されたことから、それが偶然の戯れで出来たのでなく、湖水などが埋まって、そこに生息していた魚たちが埋められ、化石となったのであろうと推測したし、「細胞」の研究で有名なロバート・フック(Robert Hooke、1635〜1703)も化石と活木との構造を顕微鏡で比べてみて、そこから化石が生物起源であることを有名な『ミクログラフィア』(1665年)の中で認めているし、化石の研究によって地球の歴史を解くことが出来るとも述べているという(『地震に関する論文』1705年)。
こうして18世紀に至るまで先のベリンガー事件のようなものを除いて、ほぼ化石の生物起源説は定着するようになる。
「化石」は進化の証拠
化石が生物起源であるとすると、何故に海に住む貝の化石が山頂から発掘されることがあるのだろうか。こうした疑問とともに人々は地表が変化しうることを認めるようになり、その要因をさぐることに関心を向けた。
近代的地質学の創始者といわれたドイツのヴェルナー(Abraham Gottlob Werner、1750〜1817)は地球上の岩石はすべて水中での堆積作用によって出来たものであるという考えを提唱した。これは一般に水成説(『テリアメド』1755年)と呼ばれているものであり、多くの支持者を生み出した。
これに対して、イギリスのハットン(James Hutton、1726〜1797)は不整合の地層を発見し、ヴェルナーのようにすべて水の働きによる堆積のみで岩石が出来るのでなく、地球内部にある高熱の作用でも岩石が作られ、それらによって堆積した地層に変化を与えうるのであることを主張した(いわゆる火成説。『地球の理論』T・Uを1795年、Vを1899年に出版)。この論争は最終的にはハットン側の勝利に終わり、19世紀を迎える。
19世紀になって、地質学にとっても化石の問題にとっても重要な発見がなされている。それはスミス(William Smith、1769〜1839)による“地層同定の法則”の発見(1817年)である(『生物化石によって同定された地層』1816年出版)。彼はその二年前の1815年に最初の色つき地質図を完成させているが、各地の地層を観察しているうちに、一定の地層には、それぞれ特徴のある化石が含まれていることを見出し、この化石を手がかりにその地層の年代を決めることが可能であるとした。これは今日の標準化石の考えへと繋がる。
また、スミスはこの観察を通じて、古い地層にいくに従って現存の生物と異なった形態の生物化石が見出されることに気づいていたようである。
いっぽう、こうした地質学上の新知見を神学思想と結びつけようとする動きも見られていた。18世紀以来続いていた生物種の不変説を信じる人たちはノアの洪水の伝説をも利用して化石はそのような地表の大激変により滅びた生物の遺骸であるという説を展開する。その代表者は著名なキュヴィエ(Georges Cuvier、1769〜1832)である。キュヴィエ自身は優れた比較解剖学者であり、化石の研究者であった。特に1812年の『脊椎動物化石骨の研究』は有名であり、これらの研究から絶滅種化石の存在を認めたキュヴィエは、上記のような天変地異説を提唱する。ただ、彼自身は、天変地異のたびに新しい生物が創造されたと言ってはおらず、彼の弟子たちが拡張解釈したようである。
絶滅種化石の存在を別の角度から捉えたのはラマルク(J。B。Lamarck、1744〜1829)であった。彼の場合にはキュヴィエのように生物種の急激な交代として考えずに、ゆるやかな変化としてみている。言い換えれば、生物の進化の考えを証拠だてるものとして化石を位置づけている。ここにキュヴィエとラマルクの宿命的対立が生じることになる。
その後、スミスの地質学を発展させたライエル(Charles Lyell、1797〜1875)の著書『地質学原理』(三巻、1830〜3)に刺激されたチャールズ・ダーウイン(Charles Darwin、1809〜1882)がビーグル号航海などで得た知見を基に進化論を展開し、その際にも化石をその証拠として取り上げたことは有名であるが、皮肉なことに、ライエル自身は上記の著作第一巻でラマルクの進化論を否定していたのである。如何に種の不変という考えが人々の心に深く宿していたかがわかるであろう。もちろん、ライエルはその後、ダーウインの進化論が一般の支持を得るに及んで自分の考えを訂正している。
なお、化石の研究は主として古生物学の分野で進められているが、この古生物学では生物の進化が一定の方向に向かっているという定向進化説(オルソジェネシス)が有力であった。その中でもウマの進化を研究したコープ(Edward Drinker Cope、1840〜1897)の研究が有名である。一時、この考えは否定的であったが、最近ではダーウインの自然選択説への批判に伴って再び注目されているようである。 
17 原子は実在するか

 

今日では、原子が実在していることに疑問をいだく人は、ほとんどないといってもよいだろう。ところが19世紀の終りごろに、原子が実在するかどうかをめぐって、激しい論争がくり拡げられた。当時、E。マッハは「原子」と聞くたびに、「あなたは一つでも原子を見たことがあるのですか」と問い返したという。今の生徒なら、何と答えるだろう。そのころの科学者のなかには、返答に窮する者も少なくなかったようだ。では、どのようにしてこの論争に決着がつき、今日のように、目に見えないはずの原子が実在すると確信されるようになったのだろうか。
力学的自然観の危機
ニュートン力学が成立して以来、物理学では粒子の力学的運動によって自然現象を説明しようとする力学的自然観が主流を占めていた。19世紀に入ると、熱がエネルギーの一形態であることがわかり、それに伴ってエネルギー保存則が成立した。さらに1865年には、現象の変化の方向を規定するエントロピー増大の法則が登場した。19世紀に誕生した熱力学は、この2つの法則を基礎にして展開されたが、力学的自然観とはいささか異なる面をもっていた。すなわち、原子という仮想的実体を想定せずに、温度・圧力などの測定可能な量で全体の系を包括的に記述しようとする点である。当時、力学的自然観に立脚した気体分子運動論が低迷していたのを尻目に、熱力学は状態変化・溶液・化学平衡などの分野で着々と成果を積み重ねた。そのために、原子にかわってエネルギー概念が科学者たちの注目を集めた。
やがて、エネルギー概念を中心にしてあらゆる自然現象を説明しようとする一派が登場してくる。エネルギー論者(Energetiker)と名づけられたその一派は、力学的自然観に対して挑戦状をたたきつけた。その急先鋒は、オストワルド(1853-1932)である。彼は、「科学の任務は仮説的な像を設定することではなくて、現実に測定可能な諸量を関係づけることだ」と主張した。さらに彼はいう。力学の方程式は時間を反転させることが可能であるにもかかわらず、現実には老人が子どもになったり、木が種子に戻ったりはしない。力学的自然観では、こんな簡単なことさえ説明できないではないか。オストワルドは、エネルギー一元論を目ざすあまり、物質や力の概念を用いずにエネルギー概念だけで今までの法則を定式化しようと企てた。
このようなエネルギー論者の主張は、「知覚することができず、実証もされない原子・分子は、科学から排除すべきだ」と考える哲学者E。 マッハの実証主義と結びつき、哲学的にも強固な支持を得て拡がっていった。
原子論を死守したボルツマン
原子論の砦となって、エネルギー論者の攻撃に対抗したのが、ボルツマン(1844-1906)である。気体分子運動論から出発したボルツマンは、時間の不可逆性の問題が、力学的自然観の最大の難問だと痛感していた。彼はまさしく、この問題を解決することに生涯をかけたといってもよいだろう。早くも22歳のときに、「熱理論の第2法則の力学的意義について」という論文で、純粋に力学的にエントロピーを定義しようと試みている。1872年には有名なH定理を提唱し、状態変化が非可逆であることを気体分子の衝突過程にもとづいて数学的に証明した。すなわち、無秩序さの度合を意味するH関数を考えると、非平衡状態にある系では時間がたつにつれて、常にH関数の値が減少する方向に現象が進むというのである。しかも、H関数の符号を変えた値が熱力学のエントロピーに対応すると考えた。
ところが、力学の可逆性をもとにしていながら、いつの間にか非可逆性を導いているこの証明を、数学的手品のごとく感じる人も少なくなかった。そこでロシュミットは、つぎのような鋭い反論をあびせた。系が平衡状態に達したときに各分子の速度をいっせいに反転させるとすれば、たちまち非平衡状態に逆戻りするではないか。この批判は、ボルツマンに理論の再検討を迫った。やがて彼は、この問題を解く鍵が確率的解釈にあることに気づく。今まで決定的と思われていた現象は、実は確率が極めて高いことを意味するにすぎなかったのだ。ボルツマンは、決定論的・因果的な力学的自然観の殻を打ち破り、非決定論的・確率的な力学的自然観を提出して、ようやく原子論の危機を切り抜けたのである。しかも、彼の一連の研究は統計力学の成立となって実を結んだ。
ところが、ボルツマンが原子論の正当性を懸命に主張したにもかかわらず、エネルギー論者の攻撃は止まなかった。いかにボルツマンでも、原子が実在することを彼らに認めさせるのは容易でなかったようだ。
一方、こうした論争とはおかまいなく、19世紀末には電子や放射線が発見され、原子の実在はしだいに確実なものとなっていく。
ところで少し前ではあるが、筆者らは大学生たちに、核分裂におけるエネルギーと質量との関係を尋ねたところ、物質が消滅してエネルギーに転換すると考えている大学生が多いことに驚いた。彼らは、物質がなくてもエネルギーが存在すると考える点では、19世紀のエネルギー論者と同様の誤りを犯しているのではなかろうか。
分子が実在する証拠 / ブラウン運動
20世紀に入って、ブラウン運動の研究が、原子が実在することを証明する決め手となった。ブラウン運動は、植物学者ブラウン(1773-1858)が、1827年に顕微鏡で花粉が受精する様子を観察中に発見した現象である。翌年、この現象を「植物の花粉に含まれている微粒子について、…」という論文にまとめて公表した。ブラウン運動を説明している本のなかには、「ブラウンは花粉が不規則な運動をすることを発見した」とあるが、それは全くの誤りで、花粉はそのような運動をしない。花粉に含まれているでん粉粒などの微粒子が花粉から出てきて不規則に動くのが、ブラウン運動である。いろいろな物質を細かい粒子に砕いて顕微鏡で観察したブラウンは、有機物のみならず岩石のような無機物でも、この種の運動が生じることを見つけた。面白いことに彼は、スフィンクスの破片までも調べている。
この発見から80年近くたって、アインシュタイン(1879-1955)は、媒質分子の熱運動によってブラウン運動が生じることを統計力学を駆使して理論的に証明し、その運動の数式化を図った。分子の熱運動の説明だと、こうなるだろう。媒質に浮かぶ微粒子は各瞬間ごとに非常に多くの媒質分子に衝突されているが、その衝突はデタラメに起こるので、ある瞬間に微粒子が受けとる運動量はつり合わない。この不均衡のために、粒子が動くというわけだ。では、彼が導いた方程式は、どのようなものだろうか。ここでは、一つだけを紹介するとしよう。多くの粒子の変位の平均をとれば、その値は時間や温度の平方根に比例し、粘性や粒子の半径の平方根に反比例するというのが、彼の導いた方程式である。この結果は、分子の衝突は不規則なために、ある時間に粒子が移動する距離(変位)の分布が、偶然誤差の分布と同じになることを示している。
ペランの実験
アインシュタインの方程式をいざ実験で確かめようとすると、技術的な難問が控えていた。大きさのそろった球形粒子を作り、その半径を精密に求めることが困難なのである。だがペランは、黄色の色をしたガンボージ樹脂を水でうすめたのちに遠心分離器にかける方法を考案して、ほぼ同じ大きさの粒子を作ることに成功した(1908年)。さらに彼は、この乳濁液を1滴スライドグラスに落とすと、やがて水が蒸発するにつれて粒子が1列にならぶことなどを利用して、粒子の半径も求めた。つぎに、碁盤状の格子を内蔵した限外顕微鏡でガンボージ粒子のブラウン運動を観察しながら、同一粒子の30秒ごとの位置を方眼紙に写しとったのである(下図)。
こうして多くのデータを集めたペランは、平均の変位と、測定時間の平方根との関係を調べてみた。すると、アインシュタインの予言どおり、両者の間にはきれいな比例関係が認められた。しかも、この式の比例定数を使ってアボガドロ数を算出すると、今まで別の方法で得られていた値ともぴったり一致したのである。
最後まで原子論に反対していたオストワルドも、こうした事実を突きつけられて、ついに分子の存在を認め、原子論者とエネルギー論者との論争は終止符が打たれた。 
18 大陸は移動したか

 

まえがき
科学の歴史を紐解くと、発表当時はあまり注目されなかったり、たとえ関心を持たれたとしてもあっさり否定されてしまったりしたものが、後になって再認識されるようになったという学説がいくつか見受けられる。科学史の研究者にとってはその原因なり、背景なりを探るという意味で大変興味ある歴史事例となる。例えば、遺伝学の分野でのメンデルの研究、あるいは進化論でのラマルクの考えなどが挙げられるであろう。メンデルの場合には彼の論文形式が当時の生物学者には理解しにくいものであったことが一因とされている。また、ラマルクの場合には進化の要因論が不十分であったためである。
さて、ここに取り上げるウェゲナーの大陸移動説も、上記のような事例に挙げられる。以下、いくつかの著作を参考にしながら、その動態をさぐってみよう。
前史
ウェゲナー(Alfred Wegener、1880〜1930)が大陸移動説を著作の形で公にしたのは1915年の『大陸と海洋の起源』(都築秋穂・紫藤文子訳で岩波文庫、上・下として1981年に出版されている)においてである。しかし、大陸が移動したという考えは彼以前から断片的に見られていたのである。
ヨーロッパの人々が大航海時代に世界の各地へ進出し、それに関連して世界地図が作られるようになった。17世紀から18世紀にかけて、ほぼ大陸の輪郭が明らかになっていた。その過程で気づかれたのが、アメリカ大陸とアフリカ大陸との海岸線の形がよく似ていることであった。このことをいち早く取り上げたのがフランシス・ベーコン(Francis  Bacon、1561〜1626)であった。彼は1620年の『新機関』なる著作で学問の方法やあり方を論じる中で一つの例としてこの両大陸海岸の類似性を取り上げたという。ただ、その類似性の原因は論じていない。
この後、1688年にはプラセ(P。Placet)がアメリカ大陸とアフリカ大陸とが、かつて繋がっていたという考えを示していた。これに対して博物学者として有名なフランスのビュフォン(G。 L。 comte de Buffon、1707〜1788)は1749年に両大陸の移動説を否定し、大西洋はかつてアトランティス(プラトンの著作に出てくる伝説の島)が沈み、そのあと海流により削られてできたものであるという考えを示した。このような考えは当時の天変地異説の影響によるものであるとも言われる。
移動でなく、削り取られて大西洋が出来たのではないかという考えは1800年にフンボルト(Alexander von Humbolt、1768〜1859)によっても提出されている。彼は大西洋がかつて一つの大きな河底であり、時代とともに両側が削り取られたのであると述べた。
19世紀に入ると、地質学もようやく科学の仲間入りを果たすことになり、地層の様子や化石の意味などの理解が進み、これらに関する知見も増加した。その中で、上記の問題にかかわる研究がいくつか現れた。一つは1858年のスナイダー(A。Sneider)の化石の研究である。彼はアメリカとヨーロッパの石炭紀における植物化石を調査し、それらが非常に類似していることから、大陸がかつては陸続きであったのではないかと考えた。また、19世紀の末、オーストリアの地質学者スエス(E。Suess)はアフリカ、南アメリカ、オーストラリア、インドなど主として南半球の地層群を調査し、それらが非常によく一致していることに気づき、これらの大陸がかつてはお互いに繋がっていたのであろうという考えを示し、この元の大陸ともいえる陸塊を研究地であるインドのゴンドワナに因んでゴンドワナ大陸と名づけた。
このように大陸移動にかかわる考えは何回か現れたのであるが、それぞれに十分なる論拠がなく、ニュートン以来の伝統的な考えである地球の成立過程(はじめ熱かった地球が冷え固まり、その過程で陸地等の凹凸が出来たというもの)を信じる人々が多い状況の中では、ほとんど支持を得るに至らなかった。
ウェゲナーの着想
20世紀になり、いくらか状況に変化がもたらされた。地質学の研究も進展し、大陸移動説に有利な証拠となる山脈の比較調査も現れたが、より大胆な説は地質学者でないところからもたらされた。それがウェゲナーのものである。
ウェゲナーは気象学や地球物理学を専門としていた人物である。また、学生時代には天文学を学んでいる。そのような人物がなぜ大陸移動の問題に関心を向けるようになったのであろうか。そのあたりも科学史家にとって触手の動くところである。彼は1911年にアフリカと南アメリカでの動物の類似性に関する論文を読んだ。その類似性の理由についてその論文では、かつて両大陸を繋ぐ陸地があったのではないかということが挙げられていた。ウェゲナーはそれに疑問を抱き、それがきっかけで、この問題の解明へと向かったようである。
そこで、彼は、それまで得られていた両大陸に関する知見を整理してみた。両大陸の海岸線の類似性、両大陸の古生代の植物化石の類似性、などを説明しうる考えとは何であろうか。大陸は垂直方向にのみ動くのではなく、水平方向にも動きうるはずである。これが彼の主張であった。
そうなると大陸が水平方向に動きうる状況を説明しなければならない。彼はまず、1915年の著作でこの問題を取り上げた。それまで海洋の底と大陸とは同じ性質のもので、単に凹凸の違いによって海になったり、陸になったりしているのだと考えられていた。これに対してウェゲナーは、海洋の底と陸とは違う性質の地殻からできているのではないかという仮説を立てた。その証拠として取り上げられたのが、海洋底の地形や等高線の様子であった。大陸から海洋底へは決してなだらかでなく、ある地点で急激に深くなっているのであった。
大陸は、海洋底地殻に浮かぶ別の地殻である。これが彼の大胆な仮説である。この仮説なしには大陸の水平方向への移動は考えにくいというのである。彼は大陸を造る地殻が、主として珪素(シリコン)とアルミニウムからなる花崗岩質で出来ているところから、大陸地殻をシルアと呼び、珪素とマグネシウムから成り立つ海洋底地殻のシマと区別した。そしてシマは長い時間には流体のような働きをするのであろうと考えたのである。
ウェゲナー説への反応
ともかく、大胆な説であるし、地質学者でもない彼の提唱である。いろいろな形で反応が見られた。多くの正統派の地質学者たちは半ば嘲笑的な形で否定した。日本にも大正時代に紹介されたが、ほとんどの人が十分な検討をすることもなしに、否定の立場を取ったといわれている。
もちろん、ウェゲナーの説を支持する人々も現れた。1927年に南アフリカの地質学者アレキサンダー・デュ・トワ(Alex。L。Du Toit、1878〜1948)は「南アメリカと南アフリカの地質学的比較」という論文でウェゲナーの考えにとって有利な証拠を提出したし、同年オランダのシビルも移動説を支持した。1920年代から1930年代にかけて移動説をめぐっての議論はにぎやかであった。しかし、ウェゲナーの説の最大の弱点が、大陸を移動させるエネルギー源が何であるかについて十分説明し得ていないことであった。
これに関連してケンブリッジ大学のジェフリース(Harold Jeffreys、1891〜1990)は、地球物理学の立場から、地殻とマントルの硬さから計算して、大陸を動かしうるだけのエネルギーが生じないことを指摘し、ウェゲナーの説に決定的な打撃を与えた。以来、この大陸移動説は急速に姿を消すことになった。
科学史の世界ではいったん葬り去られた学説が、まったく別の関心事から得られたデータによって再登場してくることがある。この大陸移動説もまさにこの事例であった。それも皮肉なことにこの説に大きな打撃を与えた地球物理学者たちの研究からである。
1950年代から60年代にかけて大陸移動説が再び取り上げられることになったきっかけの一つは地磁気に関する研究である。古い地層の岩石に残っている磁気を調べた結果、地域によって北極、南極の方向が異なっていた。これは陸塊の移動を考えないと説明がつきにくい。いっぽう、海洋底の観測も活発になされ、その結果、大洋の中央に位置する海嶺の状況が、音響測深法の導入によって詳しく得られ、海嶺の中央に大地溝があることが知られた。また、温度測定器によってその地点が他の地点に比べて熱いことも知られ、マントルからの熱が上昇していることが考えられるようになった。さらに、この中央海嶺に対応する大陸辺縁地域での深発地震の震源位置が、大陸側へ入るほど深くなっていることも知られた。これらを総合的に検討すると、マントルの大きな対流が考えられ、それによって大陸の移動もうまく説明がつくようになった。なお、このマントルを暖める熱源は地核の放射性物質によると考えられている。
こうして、ウェゲナーの大陸移動説は約30年ぶりに復活したのであるが、その後、1960年代に提唱された「海洋底拡大説」(マントル対流が上昇する中央海嶺部に新しく海洋の地殻が形成され、マントル対流が沈む側では海洋の地殻も沈むという考え)がさらに1970年代になり、「プレートテクトニクス」なる仮説へと発展し、大陸移動に関する研究は新局面を迎えることになる。 
19 スペクトルの謎

 

「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」という聖書の冒頭のことばや、わが国の“天の岩戸”の伝説にみられるように、光は古くから書物や伝説に登場してきた。当然、自然学者の主要な研究対象にもなったが、今世紀に入ってもその正体をめぐって議論が闘わされるなど、たえず光は科学史をにぎわせてきた。今回は、光をめぐる話題のなかでも、中学生になじみ深いスペクトルの話に的をあてて、スペクトルの発見やその後の研究の跡をたどるとしよう。
光の色
すでに古代ギリシアの頃から、自然学者は虹のように白色光が色づいて見える現象に大きな関心をもっていた。この時代に、光の色や、天然のスペクトルといえる虹に言及した代表的学者はアリストテレスだろう。彼は、白(光)と黒(闇)との混合によってさまざまな色が生じると考えた。虹については、大気中の水滴が鏡となって太陽を反射した現象が虹だと、いささか奇妙な説明をしている。
中世に入ると、レンズを使った拡大鏡や眼鏡、そして17世紀の初め頃には望遠鏡が発明された。こうした光学器械の発達に伴い、光の屈折の問題がクローズアップしてきた。
屈折光学を始めとする光学現象をはじめて機械論的に取り扱おうとしたのは、デカルト(1596−1650)である。彼は、スネルが実験的に得ていた屈折の法則を今日のような形で表現したことでも知られている。デカルトは、光の正体を、発光体から空気や透明な物質を媒介として私たちの眼に伝わる運動だと考えて、その運動状態が異なるから色が違うといった説明を展開した。たとえば、白色光がプリズムによって屈折するときに、光の働きを伝える微細な物質(球体)が、速く回転させられると赤に、遅い回転が与えられた場合は紫になるという。この考えにも表れているように、さまざまな光の色は白色光の性質が変化して生じるというのが、当時の光の色に対する一般的な考えであった。
虹の不思議
なぜ、互いに色順が反対の2つの虹ができるのか。また、どうして虹はいつも決まった高度にアーチをえがくのだろうか。こうした虹の不思議をも、デカルトはみごとに解明した。彼は、図1の水滴中で、ABCDEとFGHIKEの経路を通って屈折・反射した太陽光線が、それぞれ虹を生じると説明した。そして、水滴表面のさまざまな点に入射する光線のうちで、どの角度の光線が最も多く私たちの目に達するのかを、数学的に求めた。すると、約41〜42度と51〜52度の高度に虹ができる計算結果になり、観測事実とも一致した。
なおデカルトは、水を満たした大きなガラス瓶を水滴にみたてて人工虹を観察しているのも興味深い。しかしさすがの彼も、なぜ虹はさまざまな色を呈するのかという点は、思弁的な説明しか与えることができなかった。
プリズムを使った実験
ニュートン(1642−1727)は、1666年に、プリズムで白色光が色づくという当時広く知られていた現象を観察してみようと思いたった。窓にあけた小穴から暗くした部屋に日光を導き、プリズムを通って壁に映る色帯に見とれていた。ところがふと、色帯の全長に比べて幅がかなり短いことに疑問をいだいた。光の入射する穴は丸いのだから、像も円形になるはずではないのか。彼は、プリズムの厚さが各部分で異なることや、窓にあけた穴の大きさ、そしてガラスの不均一さなどがその原因ではないかと調べてみたが、どうもそれらが原因でないとわかった。そこで、図2のような巧妙な装置で決定実験を試みて、原因を突きとめようとした。2番目の小穴(g)を通った単色光が、2つ目のプリズム(abc)によってどのくらい屈折されるかを調べようというのがこの実験のねらいである。最初のプリズム(ABC)を紙面に垂直な方向が軸になるようにして回転させて、つぎつぎにいろいろな色が小穴(g)にくるようにしたところ、色によって屈折の度合いが異なった。たとえば、紫色の光線(N)は、赤色の光線(M)よりもずっと上の壁に像を落としたのである。
つづいてニュートンは、いったん分散させた光を、レンズとプリズムで再合成すると白色光に戻る実験にも成功して、つぎの結論を得た。白色光は均一な光ではなくて多くの異なった色の光線から成っており、各光線の屈折率がみな違うために、プリズムを通った白色光は細長い色帯になると。彼はこの色帯を“スペクトル”と名づけた。古来より謎に包まれていた虹の色を、ニュートンがこの理論でうまく説明したことはいうまでもない。
光学の分野でも、こうしたすばらしい成果を収めたニュートンではあるが、一つの考え違いをしていた。当時やっかいな問題になっていた屈折望遠鏡の色収差は、レンズによる光の屈折がつねに分散を伴う以上、原理的に除去できないと判断したことだ。もっとも、レンズの代りに凹面鏡を用いて反射望遠鏡を製作したあたりは、ニュートンの発明の才がいかんなく発揮されているというべきであろう。当時ニュートンの学説は絶大な影響力をもっていたため、色消しレンズを作る試みは、18世紀半ばまでなされなかった。
不可視光線の発見
ニュートン以後しばらく停滞していたスペクトルの研究は、19世紀に入るやいなや、がぜん活気を帯びてきた。1800年にハーシェル(1738−1822)は、いろいろな色のフィルターを通して太陽を観察中に、フィルターを通る光の量と、肌に感じる暖かさとが平行関係にないことに気づいた。わずかの光しか通過していないときでさえ、暖かく感じることがある。色によって運ぶ熱の量が同じでないと推測したハーシェルは、色帯と色帯の外にそれぞれ温度計を置いて、同一時間内に室温に比べてスペクトルの各部分での温度上昇がどう違うかを比較した。紫色から赤色の方にいくにつれて上昇の度合いは大きくなった。そして赤色からはずれた部分にも温度計を置いてみた。すると驚いたことに、ここでも室温より温度はかなり高くなるではないか。彼は目には見えないが熱を伝える光線が、赤色の先にも届いていると結論を下した。
ハーシェルといえば、赤外線の発見よりもむしろ、自作の大型反射望遠鏡で天王星を発見した(1781年)ことで名高い。なお、天文学が本職のハーシェルは、十何時間もぶっ通しで鏡から手を離さずに仕事をすることがあったが、そんなときには妹が口まで食べ物を運んだり、「ドン・キホーテ」や「アラビアン・ナイト」の小説を読んで聞かせたというエピソードも残っている。
さて、赤外線が発見されると、人々の眼は紫外部に向いた。早くも1801年にリッターが、シェーレの見つけていた塩化銀の黒変現象を利用して、紫外領域でもこの化学変化が起こり、可視光線の部分よりも紫外部で特にこの作用が強いことを見つけた。
しかし、こうした不可視光線が可視光線と同種の光線だと認められたのは、反射・屈折の法則にしたがい、また干渉を生じることなどが明らかにされてからのことであった。
スペクトルに黒い線がある
不可視光線の発見と時を同じくして、スペクトルに潜む別の謎が表面に現れてきた。今でいう、フラウンフォーファー線の存在である。ウォラストンは、丸い小穴ではなくて狭いスリットを通して、日光のスペクトルを観察してみた(1802年)。すると色帯には、いく本かの黒線があるではないか。白色光が何色の色から成るかに関心を示した彼は、スペクトルの色を区分する境目が黒線だろうと、都合のよい解釈を下してすませてしまった。
やがてフラウンフォーファー(1787−1826)が、自作の色消し付き屈折望遠鏡を使って詳細に日光のスペクトルを観察したところ、無数の黒線があることを見つけた(1814年)。こうなると、ウォラストンのような解釈は成り立ちにくい。だがフラウンフォーファーもこの黒線の原因を説明できなかった。彼の発見から半世紀のちにようやく、黒線は太陽を構成している物質の吸収線だとわかった。
こうしたスペクトルの研究は、やがて分光学として確立され、今日に至るまで化学や天文学の分野などで、物質の分析に大きな威力を発揮しているのである。 
20 地震

 

古代人の地震観
地震と言えば鯰(ナマズ)、古くから日本で言い伝えられているこの地震の原因説を知らない人はまずいないであろう。最近の地震の際にもナマズを含め、いろいろな動物の行動が注目された。
こうした地震の原因説は洋の東西を問わず存在する。北欧の神話では、地下の洞窟に居られる神が毒虫に目を刺され、その痛みでもがくために地震が起こるのだと説明されているそうである。人間にとって不可知な事柄はおおかた神や悪魔のなせる業にする傾向があった。これは神話的、呪術的自然観の下で生活していた古代人にとってはやむを得ないことである。
ところで、ナマズは神でも悪魔でもない。れっきとした動物である。その点が北欧の神話と趣を異にしている。これに関連して次のような説がある。
中国では古くから陰陽説が人々のものの考えや生活のあり方に影響を与えていた。地震についても同様であり、地震というのは陰なる地に閉じ込められていた陽なる大気が地表へ飛び出すときに起こる現象であるという(このことは中国の古書『易経』に記述されているという)。この説がいつの間にか陰なる水の中にすむ陽なる魚が暴れる現象へと作り変えられてしまったのであろう。その魚がナマズになった理由もあるのだろうが、読者の皆さんの調査におまかせしよう。
注目していただきたいのは、古代中国人の地震に対する考えかたが、すでに論理的体裁を整えているということであり、それ以前の神話的、呪術的自然観の時代から一歩前進しているということである。
ついでだが、古代中国には地震学の歴史の中で大きな栄誉となる事柄がある。それは世界で最古の地震計が張衡(78〜139)によって作りだされていることである。“陽嘉元年(132年)、張衡はまた「地震風見」を作った。それは精製した鋳銅からなり、酒がめに似ていて直径は8尺であった。”
いっぽう、西欧世界でもギリシャ時代になると、いくらか理論的な地震説が現われている。アナクシメネス(Anaximenes、BC、525ごろ死亡)は土の塊が凹んだところへ落ちる現象であると述べ、土の運動に原因を求めている。また、アナクサゴラス(Anaxagoras、B.C.約500〜428)は地中で水が激しく流れ落ちるために起こる現象として、水の運動を原因としている。
さらに、アリストテレス(Aristoteles、BC。384〜322)は地下にあった蒸気(プネウマ)が勢いよく地上へ吹き出すために起こるのが地震であると説明しており、これは中国人の考えによく似ていて興味がある。それにしても、当時の四元素説(万物は火・気・水・土の四つの元素から成り立つ)に登場する元素のうち、水、土、気の三つが原因として持ち出され、如何に四元素説がギリシャ人の思考を強く支配していたかが知られる。
ローマ時代になるとセネカ(L。A。Seneca、B.C.4〜A.D.65)がアリストテレスとアナクシメネスの説を合わせたような考え、すなわち、地下の空洞にあった蒸気が地上へ飛び出したあとへ、上部の地面が落ち込んだときに起こるのが地震であるという説を述べている。これはいわゆる、後の陥没地震と呼ばれるものに相当している。
中世から近代へ
中世になると、アラビアの著名な科学者アビセンナ(Avicenna、イブン・シーナともいう。979〜1037)も地震についての考えを述べているそうである。彼の場合には地面が隆起する際に生じる勢いが伝わって地震になるという。これは陥没地震に対応して構造地震と呼ばれることになったものである。
こうしたさまざまな説も具体的な証拠も出せないまま17世紀を迎える。17世紀といえば近代科学が誕生したときであり、実証精神が高揚していた。そのようなとき、例のロバート・フック(Robert Hooke、1635〜1703)が地震に関心を示し、さまざまな観察記録を残している(『地震に関する論文』1705)。彼は地震によって大地が隆起すること、あるいはその逆に陥没すること、そのほか、大地の変形、破壊、溶解などの現象を揚げているが、こうした観察はその後の地震学の発達にとって重要な一つの証拠となった。
しかし、それにもかかわらず、事実に立脚しない想像力豊かな説がいろいろ流布していた。例えば、地震は地球内部での突然の爆発であるというような考えも見られた。
こうした状況をいくらか進展させたのが18世紀イギリスの地質学者、地震学者ミッチェル(Johan Michell、1724〜1793)であろう。1755年リスボンを大地震が襲った。この地震にはライプニッツ(G。W。Leibniz、1645〜1716)やカント(I。Kant、1724〜1804)も大きな関心を示したようであるが、ミッチェルもこれに刺激され、地震についての研究を開始した。彼は、地震がどこで、どのような状況で起こるかを詳しく調べ、その結果を1760年に公表している(Philosophical Transactions of the Royal Society of London、Vol。LI、pp。566〜74。この論文は“A Source Book in Geology 1400〜1900、Harvard に収録されている)。
彼はこの論文で、地震が同一の場所でくりかえし起こること、火山の近くではしばしば起こること、激しいときには火山が噴火すること、地震のとき、大地がゆれるが、それが波となって周囲へ伝えられること、などの事実をあげ、地震は突然の爆発などではなく、火山の熱によって地中にあった水が熱せられ、それが蒸気圧となって周囲を圧迫し、地震という現象をもたらすのだと論じている。はからずも四元素説の四元素のうち、残された「火」がミッチェルによって地震の原因として取り上げられたわけである(もちろん、四元素説の「火」の概念とは異なるが)。
彼がこのほか、震動を感じる時刻を記録することによって震源地を推定しうると考えていたようであるが、それが可能になるのには精度のよい地震計の出現や地球科学の進展を待たねばならず、それは約100年後に現実のものになる。
近代地震学の誕生
19世紀の前半はまだまだ地質学の立場から地震の研究がなされていた。そのために地震の原因を地質現象と結びつけ、すでに紹介した陥没地震、構造地震のほかに火山地震を付け加え、3種類の地震原因説が採用されていた。
しかし、19世紀の末には状況に変化が見られるようになる。それには地震が多発する日本という舞台がかかわることになる。1880(明治13)年2月22日、横浜を中心にして関東地方をかなり強い地震が襲った。当時、東京大学工科大学で地質学を教えていたイギリス人のミルン(John Milne、1850〜1913)もこの地震を体験し、早速、地震研究の必要性を認め、この年世界で最初の地震学会(日本地震学会)を創設した。これには当時、お雇外国人教師として活躍をしていたメンデンホール(T。C。 Mendenhall、1841〜1924)やユーイング(J。A。Ewing、1855〜1935)たちも含めて、日本の科学者を中心に約100名が参加した。
この中で特筆すべきことはユーイングとの協力でミルンが三方向の振動が記録できる地震計を作り、1884(明治17)年から継続して地震の記録をとることができるようになったこと、及びユーイング自身自作の水平振子地震計を用いて、地震波に縦波(P波)と横波(S波)があることを見出したことである。
ミルンやユーイングとともに早くから地震学の研究に携わっていた関谷清景(1854〜1896)はユーイングの地震計を改良して強い地震でも信頼し得る記録をとることに成功し、また協力者の大森房吉(1868〜1923)も微動に対しても高感度の地震計(大森式水平振子地震計)を作り、初期微動開始時刻を捉えることから震源地を推定するための数式を編み出した。
このように地震学は日本を舞台にして科学界の中にその足場を築いていったが、その糸口を作ったミルンはその後イギリスに戻り、ワイト島に測候所を建て、観測に当たった。彼は地球深部を伝わる地震波の速さを測ることを目ざしたが成功しなかった(1906年)。
この研究は地震波を利用して、地球の内部構造を知ろうとする動きの始まりであった。
ミルンの失敗後3年経って、ユーゴスラビアのモホロビッチ( Andrija Mohorovicic、1857〜1936)がこれに成功し、地球内部を伝わる地震波が表層を伝わるそれよりも早いことを知り、地表から30〜50kmのあたりに地表より硬い層があるという考えを提唱した(1909)。
その後、イギリスのオールダム(Richard Dixon Oldham、1858〜1936)とドイツのグーテンベルグ(Renno Gutenberg、1889〜1960)がさらに深部に別の境界面があることを見出し(1913)、これによって今日知られている地殻、マントル、核の三つの部分の存在が確認された。このうち、オールダムはアッサムでの1897年、1900年の二回の地震を調査し、P波とS波を明確にし、地球の中心に核が存在することを明らかにした(1906年)。
こうして、地震を一つの手がかりにして地球の内部を知ることができるようになり、物理学的手法を駆使した地球科学の発達がもたらされた。また、それが逆に地震発生の仕組みの理解にもつながることになった。まだ、正確なことはわかっていないが、マントルの対流、プレートテクトニクスなどの言葉を用いてそれらが語られるようになったのはご承知の通りである。 
21 原子の構造

 

原子は最小の粒子でない
今世紀初頭に明らかになった原子の構造は、今日では中学校の教科書にも登場している。原子の構造の解明にα線の散乱実験が大きな役割を果たしたことはよく知られているが、ではこの実験からただちに、中心に核をもつ原子模型が考えられたのだろうか。今回は、α線の実験からどのようにして今日のような有核原子模型が成立したのかを、探っていくとしよう。
物質が原子よりもさらに小さな粒子から成ることは、電子が発見されたころから予想されていた。というのも、電子は水素原子よりもはるかに小さな質量をもち、しかもすべての物質に含まれていそうだったからである。つづいて、放射能が原子の内部で起こる変化に起因することが認められてくると、原子が構造をもつことは確実になってきた。分割されないはずの原子(アトム)が構造をもつ!−原子論を信じていた科学者たちは大いに動揺した。事実、これは当時の物質観の根底をゆるがす大問題であった。
原子模型の登場
1903〜4年ごろに、原子の構造を示す模型がいくつか登場する。それらは、原子の中心に核をもつものと、そうでない模型に大別できる。核をもたない模型を唱えたのは、ケルビンとJ.J.トムソン(1856〜1940)である。
ケルビンは、18世紀の物理学者エピヌスの電気一流体説(正負の電荷は一種類の電気流体の過不足によって生じるという説)に従って、非常に小さな“electrion”(今日の電子にあたる)なるものから成る“エピヌス流体”を想定した。そして、陽電荷の球体内部をこの“electrion”が自由に動き回っているのが原子にほかならないと考えた。
J.J.トムソンの模型は、ケルビンの模型をさらに精緻化したものである。J.J.トムソンもまた、原子は、一様に正電荷を帯びた球体の内部に電子を含んでいると考えた。その電子は陽電荷球の中で同心円上に同じ間隔で並んで、回転しているというのである。彼は、この電子系が、陽電荷球と電子、それに電子相互のクーロン力の下で力学的に安定となる条件を数学的に検討した。すると、電子の全体の数がふえるに伴い、何重ものリング上に配列された電子の配列パターンには周期性が現れた。物質の化学的性質を原子の構造で説明できないかと思っていたJ.J.トムソンは、この模型が元素の原子価や周期律に関係していると主張した。
一方、こうした無核原子模型に対して、わが国の長岡半太郎(1865〜1950)はつぎのような疑問をもった。陽電荷球の内で電子が自由に動いていて、はたして、支障は生じないのだろうか。電荷もまた物質的存在だという物質観を抱いていた長岡には、2つの物質が同一場所を占めるとは考えられなかった。では、陽電荷球から電子を離すとすれば、電子はどのように配置されるのだろうか。このとき長岡は、マックスウェルが土星の周囲を回転している衛星の力学的安定性を論じていたことを思いだした。そこで、土星の衛星を電子になぞらえた有名な土星型原子模型を提出したのである。こうして宇宙の姿から極微の世界を類推できたのも、小学生時代に教師から教わった自然の斉一性という自然観が彼に大きな影響を与えていたからといわれている。
長岡とは別にペランも、太陽を陽電荷に、惑星を電子に対応づけた有核原子模型を唱えていた。二人とも宇宙の姿から原子の構造を類推している点は興味深い。
これらの模型のなかでは、学界の大御所J.J.トムソンの模型が多くの支持を得ていた。ところが、思わぬ方面からこの模型に火の手があがった。α線の散乱実験がそれである。
α線の散乱とラザフォードの模型
α線の正体を追求していたラザフォード(1871〜1937)は、写真乾板に写るα線の像が空気中ではぼやけるのに、真空中ではぼやけないことに気づき(1906年)、これはα線が空気中で散乱させるからだと解釈した。彼はこの現象に興味をひかれ、α線の進路に金属箔を置いて、散乱されるα線の角度分布を調べた。α線が蛍光物質に当たると閃光を発することがわかっていたので、蛍光板に生じる閃光を顕微鏡で観察して、α粒子の曲がり具合を測定してみた。すると、α粒子は角度にして数度屈曲され、その度合いが金属箔の厚さや原子量に比例することがわかった。あるときラザフォードは、放射能の実験を練習していた研究生マースデンに、何気なく「金属の表面から直接反射されるα粒子があるかどうかを調べたら、面白いだろう」と声をかけた。早速マースデンは、ガイガーといっしょに下図のような装置を工夫して実験に着手した(1909年)。90度程度の大角散乱があれば、すぐに感光板で察知できるという、単純な実験である。
いざ実験してみると、何と20000個に1個の割合でα粒子は大きく曲げられているではないか。しかも金箔の厚さはわずか0。00004cmである。この報告を聞いたラザフォードは、その驚きをこう述べている。「あなたがたが15インチの砲弾を1枚の紙切れに向かって発射したら、それがはね返ってあなたがたに当たるくらい、私にとっては信じがたい出来事であった」と。
さて、実験家肌のラザフォードにとって、この現象を理論的に説明するのが難問であった。折よくJ.J.トムソンが、荷電粒子は物質の薄膜を通過するときに、どのように散乱されるかということについて理論を提出してくれていた(1910年)。それは、先述したJ.J.トムソンの原子模型の中を荷電粒子が通るときに、各電子からの力を受けてすこし屈曲し、その屈曲が積み重なって全体として大きな散乱角を生じるという多重散乱理論である。ラザフォードが、J.J.トムソンの原子模型に基づいたこの理論を使ってα粒子の大角散乱の生じる確率を計算してみると、その確率は小さすぎて実験結果と一致しない。困ったラザフォードは、α粒子が原子と一回衝突するだけで曲げられるという単一散乱の考え方で、この結果を説明できないかと考えた。そのためには、J.J.トムソンの原子模型のままでは都合が悪い。一回の衝突でα粒子を大きく曲げるには、かなり強い電場を原子内にもつ模型が必要だ。ラザフォードは、荷電粒子に力を及ぼす部分が原子の中心のごく小さな領域に集中し、その周囲を、中心電荷と反対の電荷が一様に分布する原子模型を仮定した。このときα粒子は、高速で太陽に近づくすい星のような軌道を描く。新しい原子模型による散乱理論でα線の大角散乱のみならず、α線の小角散乱やβ線の散乱も説明できたのは、マースデンの実験から2年ものちのことであった。ただこの時点では、彼の原子模型は仮説の域を越えず、その完成はボーアまで持ち越されたのである。
ところで、ラザフォードの原子模型は長岡らの有核原子模型を発展させたものだとよくいわれるが、核の大きさが極めて小さい点で、従来の有核原子模型とは決定的に違う。ラザフォードはJ.J.トムソンから強い影響を受けたという説がもっぱら有力である。
ボーアの理論
ラザフォードの模型を知ったボーア(1885〜1962)は、原子核が異常に小さいことに注目して、原子の質量と放射能は原子核に、また原子の物理的・化学的性質は周囲の電子群に由来していることを早くも看取していた。しかしラザフォードの模型は、以前から指摘されているように大きな難点をもっていた。というのは、古典電磁気学では、加速運動している電子はたえず輻射エネルギーを放出し、徐々に失速してしまうからだ。ボーアは、プランクらの“エネルギーの不連続性”という主張を採用して、この難点を何とか解消できないかと四苦八苦した。やがて、スペクトルの波長の間に成立する関係(バルマー系列)に手がかりを得たボーアは、大胆な仮説を唱えた。ある特定の軌道上を運動する電子は輻射エネルギーを放出せず、レベルの異なる状態に移るときのみエネルギーの放射・吸収が起こるというのである。そして彼は、原子核のまわりをクーロン力を受けて電子が回転しているという原子像を描いた(1913年)。このような有核原子模型が提出されて、ニュートン力学とは違った法則が支配するミクロの世界の扉が開かれたのである。 
22 太陽系の解明

 

「落ちつかない星」の発見
大気汚染で夜空に星をあおぐことが出来なくなった地域が多い現代と比べて、古代では人々の頭上にきらめく星の数は、無数であったであろう。人々は、その星たちを自分たちの想像の世界に引きずり込み、さまざまな姿に作り変えた。すなわち、星座の創造である。
古代メソポタミア時代には黄道にそって12の星座が作られていた。ギリシャ時代になるとその数も増え、天文学者として有名なプトレマイオス(Ptolemaios、140ごろ活躍)の著した『アルマゲスト(天文学体系)』には48の星座が載せられているという。現在では、南天の星座も加えられ、星座は88を数えている。
星座を創り上げる星たちは、いつも決まった位置関係で天空に輝いてくれた。季節を知る手段として、人々は星座の位置を毎日克明に記録し、暦学を生み出すに至る。しかし、その間に特異な動きを示す星どもを見出した。エジプト人たちは、それらを‘落ちつかない星’と名づけた。また、今日の金星を“朝の星”、木星を“輝く星”、土星を“雄ウシ・ホルス”、火星を“赤いホルス”と呼んでいたそうである。バビロニアでもこれらの星への関心は見られていた。最も目立った金星には“ニン・ダル・アン・ナ(天界の華麗なヒロイン)”という名がつけられ、女神としても崇められていた。ともかく、この時代には既に5つの惑星(火星・水星・木星・金星・土星)が知られ、神話と結びつけられて解釈されていた。
惑星の軌道が規則的に観測され出したのは紀元前750年ごろとされている。惑星の周期も推定されるようになり、土星が59年、金星が8年などの記録がある(セレウコス王朝時代)。
ギリシャ時代になると、これらの惑星や月、太陽が地球に対してどのような位置関係にあるかが検討された。それは周期の大きさから考えられ、最大周期を持つ土星が最も遠く、一年間に12回も回転する月が最も近くにあるとされ、月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星という配列が決められた。
ギリシャ人たちは、さらにその距離を考えた。すべて宇宙を数の調和と考えたピタゴラス(Pythagoras、B.C.582ごろ〜497ごろ)学派や、その影響を受けたプラトン(Platon、B.C.427〜347)はそれらの距離の比を求めた。プラトンはそれぞれの星を地球から1:2:3:4:8:9:27の比の距離にあると仮定したという。今から考えれば実に滑稽である。
ケプラーの夢
しかし、プラトンを笑うわけにはいかない。16世紀になり、地球中心説から太陽中心説へと宇宙観が転換し、その議論がやかましかった17世紀においても、プラトンの思想の影響を受けつぎ、惑星の問題を論じた学者がいた。それはヨハネス・ケプラー(Johann
Kepler、1571〜1630)である。ケプラーはドイツの貧しい家庭に育ったが、才能を認められ大学まで通うことができるようになる。
学生時代から宇宙論に関心を示し、特にコペルニクス(N。Copernicus、1473〜1543)の太陽中心説(宇宙の中心は地球でなく、太陽であるという考え。彼は太陽を尊重する思想の新プラトン主義の影響を受け、また、神が創造した宇宙は単純の構造であるはずという考えに基づき、太陽を宇宙の中心に位置づけた。)に魅せられ、その支持者になる。その際、彼は宇宙の構造について思いをめぐらした。惑星の数は地球を含めると6つである。彼はなぜ惑星が6つしかないのかを考えた。そういえば、かつてプラトンは、正多面体の数は無限ではなく、正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体の5つに限られているということを指摘していた。ケプラーはそのことと惑星の数とを比べてみた。もともと彼は宇宙の構造を幾何学的に捉えるプラトン思想の影響を強く受けていた。
惑星の軌道となる各天球の間に支えがないと宇宙は安定しない。その支えとなるものを正多面体と考えると、ちょうど正多面体が5つ、軌道となる天球と天球の間も5つ。上の数の問題はたちどころに解決したのであった。これは彼にとって大きな発見であり、喜びであった。
彼は、この考えを『宇宙の神秘』(1597)(大槻真一郎・岸本良彦共訳、工作舎、1982年)と題する著書にまとめ公表した。この書物は第1部と第2部とからなり、前者で構造の問題が、後者で惑星の運動の問題が扱われている。では、ケプラーはまったくのプラトン主義者で古代人の思想の枠の中に浸っていた人物であろうか。それは読者も知るごとく否である。この第2部では近代科学の精神を採用し、観測事実を重視し、惑星の速度が太陽より遠くにあるときには小さくなることを問題にし、その解明に向かう。しかし、『宇宙の神秘』ではそれをなし得ていない。
『宇宙の神秘』を読んだ天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546〜1601)は彼を助手として招いた。ケプラーが29歳のときである。これによりケプラーはティコが集めた多くの天文学上の観測データを利用することができ、それを駆使して有名な第1法則(惑星の軌道は楕円であり、その焦点の一つは太陽)と第2法則(太陽と惑星とを結ぶ線は、同じ時間には同じ面積を描くように動く)をものにする。コペルニクスでさえ惑星の軌道は円運動であるというギリシャ時代からの考えの影響を受け、それを「信じて」いた。ケプラーも同様であったので、楕円であることを発見したとき、自分は神を冒涜してしまったと嘆いたという。しかし、第2法則を見出し、神の創造物にすばらしい法則があることで安心したとも言われている。いずれにせよ、これらの発見を1609年『新天文学』を通じて公にした。これは天文学に革命をもたらすものであった。ケプラーにとってあのプラトン的発想はすばらしい夢であったのかもしれない。彼の遺作『夢』と題する月旅行物語(空想科学小説)があることを付け加えておこう。(この本は渡辺正雄・榎本恵美子訳『ケプラーの夢』として講談社から出版されている。)
太陽系の拡大
ケプラー、ガリレイ(Galileo Galilei、1564〜1642)、そしてニュートン(I。Newton、1642〜1727)らの努力によって、太陽中心説の宇宙像は確立された。しかし、恒星は遥か遠い天球に固定されているという考えはそのままであった。
宇宙をさらに拡大し、今日のような宇宙観を生み出す糸口となる活動が現われるのは18世紀後半になってからであった。イギリスの天文学者ウイリアム・ハーシェル(Sir William Herschel、1738〜1822)はもともと音楽師であったが、少年のころから魅せられていた天文学に関心を示し、余暇を利用しては口径15cmの反射望遠鏡を自作し、それを用いて恒星の観測を行なった。当時、恒星の運動が学界の関心事であった。ハーシェルは1781年観測中の“恒星”の中で、円形の天体を発見した。もし、彗星であれば周辺がぼやけているし、軌道も楕円形であるはず。この天体の軌道は円形に近い。さらに土星より外側にあることも判明した。実はこれが第7番目の惑星であった。既にこの星は17世紀に“恒星”として記録されていたものであったが、ハーシェルの望遠鏡はそれを覆すだけの性能を持っていたのであった。ご存知のように天王星は太陽からの距離が土星の場合の約2倍、約84年かかって公転している。
この星には、はじめイギリスのジョージ三世の名がつけられようとしたが、ギリシャ神話のウラヌス(天王星)が当てられることになったそうである。
ハーシェルのこの発見は、人々をさらに天空に引きつけさせることになった。ハーシェル自身も天体観測を続け、天の川が何百万という恒星から成り立つこと、太陽がこの恒星系(銀河系)の中心に位置する一つの恒星であること、また、この銀河系に似た星の集団があることなどを論じた。なお、彼はこの集団に島宇宙という名を与えている。このようにハーシェルはそれまでの宇宙像を大きく変え、また拡大もさせた。もちろん、この中で太陽が銀河系の中心に位置しているという考えが誤りであることはご承知のとおりである。
海王星、そして新惑星X
ハーシェルの活躍もさることながら、ニュートン力学を基に天体力学の分野が進展していた。1799年に『天体力学』(全5巻、1799〜1825)を著したラプラース(P。S。M。de Laplace、1749〜1827)はその面での代表者であるが、それを引き継いだのはフランスの天文学者のルベリエ(Urbain Jean Joseph Leverrier、1811〜1877)である。彼は天体間の引力の計算をしているうちに、水星の実際の動きと計算上のそれとにずれがあることを知り、これはおそらく未知の惑星が存在するために違いないと考えた。そして直径1600km、太陽からの距離が3040万kmのところにその惑星が存在すると予想をたて、これにバルカンという名をつけたが、結果としては実在しないことがわかった。水星が太陽から5800万kmの位置にあるので、もし、実在していればさらに太陽に近い惑星。はたしてどんな特徴を有していたか。
しかし、同じようなことが天王星の軌道計算の場合にも見出され、天王星の外側に未知の惑星があると予想され、ルベリエはその大きさ、位置を計算した。この場合には既に数ヶ月早く、イギリスのアダムス(J。C。Adams、1819〜1892)が同様の計算をしていた。
ルベリエはベルリン天文台のガルレ(J。G。Galle、1812〜1910)に依頼した。ガルレは1846年の夜、その星を発見している。大洋の神ネプチューン(海王星)はこうして第8番目の惑星として記録されたのである。
ネプチューンの発見で天王星の軌道計算がうまくいったのではなく、まだ、ずれが見られていた。当然、天文学者たちは同じような思考で未知の惑星の存在を仮定することになる。それを実行したのがアメリカの天文学者ローエル(P。Lowell、1855〜1916)であった。彼も天王星の軌道計算から、その未知の惑星の位置を計算し、この星に対してXという名を与えた。しかし、彼にはそれが発見できず、死後14年経って、同じアメリカの天文学者トンボー(C。 W。 Tombaugh、 1906〜)によって発見され、冥王星(プルート−)と命名された。1930年のことである。
こうして、天体力学と望遠鏡の力によって太陽系の仲間は次々に増えていった。ケプラーがはじめ信じた幾何学に基づく宇宙構造は、彼自身の見出した諸法則を糸口にもろくもくずれ去ったのである。 
23 「1m」はどうして決めた

 

「キロキロとヘクト出かけたメートルが、デシに追われてセンチ、ミリミリ」ということばが、かつて生徒たちに口ずまされたことがあった。今日の中学生たちはそんなことを口にしなくても、メートル法にすっかり慣れ親しんでいる。ところが、理科の時間には大抵お目にかかるメートル法の単位も、その歴史となると案外知られていないのではなかろうか。今回は、長さの単位であるメートルを取り上げて、その歴史をたずねるとしよう。
地球を規準に
長さの単位の基準として古くから用いられてきたのは、人体のある部分の長さである。わが国の「尺」や「寸」も、そのルーツをたどれば、「尺」は指をひろげたときの親指と中指の先端までの手幅、「寸」は親指の幅に由来するといわれている。インチ、ヤード、フートなど、この種の単位はきわめて多い。人体以外では、大麦の粒の大きさや、トナカイの角の枝を見分けられる距離を基準にした単位もある。これらは、地域の生活の様子を反映していてなかなか興味深い。面白いところでは、タバコをつめたパイプに火をつけてから煙が出るまでの間に舟が進む距離で定めた「パイプ」という単位があったという。
生活の範囲が限られていた時代だと、地域で勝手に決めた単位でも大して支障はなかったが、異なる単位を使う地域同士の交流がさかんになるとそうはいかない。国際間の貿易や科学・工業がめざましい発展をみせた18世紀には、とりわけ、単位が不統一なために弊害が起こってきた。また、兵器などの器械の製造や精密測量の分野では、単位が高い精度をもつことも要求された。こうした状況のなかで、いくつかの国は、単位の統一に真剣に取り組みはじめた。
とりわけ単位の統一に力を入れた国は、フランスである。1790年に、国際間の単位統一を唱えたタレーランの提案がフランス国民議会で承認されるや、政府は新しい単位系を作り上げる任務をパリ科学学士院にゆだねた。ラボアジェ、ラグランジュ、ボルダといった当代一流の学者が、長さの単位として、1秒を振る単振子の長さ、赤道の全周、もしくは子午線全周の4千万分の1の三案のうち、どれが適切かを検討した。その結果、振子の場合は時間の単位が関係しており、また赤道の長さは測量が困難なために、結局、赤道と北極間の子午線の長さの千万分の1を長さの単位とすることに落ちついた。そしてこの単位には「寸法」を意味するラテン語の“metrum”にちなみ、“mtre”という呼び名が与えられた。さて、一口に子午線の測量といっても、これは一大事業である。イギリスやアメリカの協力が得られなかったフランスは、やむなく単独で子午線の測量に着手した。
苦難の連続の子午線測量
子午線の測量にはダンケルクからバルセロナまでの距離が選ばれ、ドランブルとメシェンらがその任にあたった。時あたかもフランス革命最中の1792年、彼らは二隊に分かれ、パリをあとに測量の旅へと出発した。持つものは、ボルダの発明した経緯儀、信号灯などの測量器具一式と、身の安全を保証するはずの“お墨付”である。中でも自慢の種は、1秒の精度を誇る最新式の経緯儀であった。
さて旅に出た彼らには、政情が不安定な折柄、測量上の労苦のみならず、数々の思いがけない災難が待ちかまえていた。たとえば、北側を担当したドランブルは、あるとき塔に巻いた標識用の布が王家を示す白色であったために反革命分子かと疑われ、あわてて白布の一部に青と赤の布を重ねた三色旗を仕立てて、この危機を切り抜けたという。一方スペイン領を含む南側を担当したメシェンも、一時は亡命同然の身の上になったり、果ては機械の事故で大怪我を負う始末であった。
出発から6年を経た1798年、苦難の旅にも終止符が打たれた。測量の結果、赤道から北極までの子午線の長さは5130740トワーズとなり、1メートルが3ピエ11。296リーニュと算出された。さっそく、この長さを表示する板状のメートル原器が白金で作られた。この原器は、その保管場所である共和国文書保管所にちなみ、“アルシーブの原器”と呼ばれるが、この原器はのちにメートルの歴史上重要な役割をはたすことになる。
国際メートル原器の登場
こうして定められたメートル法は、十進法で、しかも長さの2乗が面積、3乗が体積の単位になるなど、かつてない合理的な単位系であった。にもかかわらず、フランス国内でもその普及は遅々として進まなかった。今日の日本でさえ、いまだに酒や米の単位に「合」や「升」が愛着を持たれていることを思えば、当時のフランスでも民衆の習慣を変えることがいかに困難であったか推察できよう。
国際的にみても、メートル法は容易に普及しなかった。だが、1851年のロンドン万国博から1867年のパリ万国博にかけてフランスの行った宣伝が功を奏し、メートル法採用への気運が国際的に盛り上がる。相ついで国際会議が召集され、1870年にはメートルの定義にも新たな決定が下された。すなわち、国際メートルは、“アルシーブの原器”の現状の長さに定めると。実はこの決定は、長さの基準が地球という自然物から人工の原器にかわったことを示す重要な決定だったのである。これも、地球の大きさ・形状などの研究が進み、地球が単位の標準には適切でないことや、赤道から北極までの子午線の千万分の1が正確にはメートル原器と等しくないことなどがわかってきたからである。ちなみに、“アルシーブの原器”と、今日知られている子午線の長さから求めたメートルとの差は、わずか0。023%であることを付け加えておこう。
さて、人工の原器が国際メートルの標準器となる以上、原器をできるだけ不変に保つ必要がある。そのため、新たに“アルシーブの原器”の長さに等しく作られた国際メートル原器には衆知が結集された。材料は白金90%イリジウム10%の合金を使い、断面は図のようにX型で、原器を支える棒の位置まで決められた。原器の保管も、ヤード・ポンド標準器を火事で台無しにしたイギリスのような不詳事件(1834)を起こさないために、厳重をきわめた。わが国の原器も、以前は8つの扉の奥に大切に保管されていたという。
だが、これでメートルの歴史が終わったわけではない。人工の原器である以上、どうしても不変性についての危惧がつきまとう。不変性を普遍性、それに高い精度を備える標準器が追い続けられた。そして、再び、自然界にあるもの、それも原器とちがって形のないものが、新たな標準器として脚光をあびてきた。光である。
光の波長が長さの基本に
光の波長を長さの基準にする発想は、マックスウェルが著書『電磁気学』(1873)の中で初めて披露したが、まもなく光波干渉法を用いたメートル原器の温度係数の測定が試みられている。本格的に光波長に基づくメートルの定義が論議されるのは、国際度量衡委員会がこの研究をマイケルソンに依頼した1892年の頃からであろう。マイケルソンは、彼の考案した干渉計でメートル原器の長さと光波長とを比較してカドミウム赤色光の波長を求め、光波長でメートル原器の長さを再現できる見通しは充分にあると報告した。
やがて同一同位元素の分離や製造技術、それにスペクトル解析の進展とあいまって、光波長でメートルを定義する機も熟してきた。さて問題は、どの原子の光を選ぶか、である。明るさや実現の容易さに加えて、純粋な単色光でなければならない。この条件に合う光として、ソ連はカドミウムの赤色光、アメリカは水銀の緑色光、ドイツはクリプトンの橙色光をそれぞれ推薦した。慎重な検討の結果、クリプトンに軍配が上がった。1960年、この決定に従いメートル原器による長さの定義は廃止され、代わってその原器に等しい長さが次のように定義された。「メートルはクリプトン86の原子単位2p10と5d5との間の遷移に対応する光の真空下における波長の1650763。73倍に等しい長さにする」(注)と。ちょうどこのころ、日本の原器が、消えゆく運命を知らずに、目盛線の引きなおしのためパリへお里帰りしていたのは皮肉というほかない。
新しい定義によって、メートルの精度は10-7から10-8へと上がったが、レーザー光の出現などで、この定義の変更される日が早晩やってくるかもしれない。こうしてみると、メートルの定義も、時代とともに移り変わって今日に至っているのである。 
24 天気現象研究の足跡

 

古代人の考え
風が吹いたり、雨が降ったり、さらには雷鳴が轟いたりする現象は古くから人々の関心事であった。彼らはそれらがどうして起こるのか、その実体は何なのか、その時代に得られる知見をもとに、それぞれの解釈を下していた。その場合、彼らが考えた宇宙像が解釈の幅に制約を与えていた。閉ざされた宇宙像を描いていたヘブライ人たちは宇宙の果てに風倉や雨倉を想定し、そこから風が吹き、雨が降ってくるものだと考えていた。
ところで天気現象を対象とする学問は気象学である。この英語はmeteorology であるが、その語源はギリシャ語でμετα(間に)とαειρω(あげる)が合わせられたものである。すなわち、空中に浮かんでいるものを研究対象とする学問という意味である。この言葉はギリシャのアリストテレス(Aristoteles、B.C.384〜322)の著書『気象学(meteorologica)』で用いられている。彼によれば、流星(meteor)、隕石(meteorite)、彗星、さらには天の川までも含めたものが研究対象であった。これも当時の知見の制約を受けていた例といえよう。アリストテレスの宇宙論によれば宇宙は天上界と地上界(月下界)に分かれていた。その境は月であり、その月より下の現象を気象論として扱っており、天の川も、彗星も月下界のものとして捉えていたのである。
では、アリストテレスは風や雨をどのように理解していたのであろうか。既に彼以前から風が空気の流れであるという考えは見られていた。ただ、それがどのような実体からなるかについては一元素説を唱える人たちと四元素説を唱える人たちによって異なり、前者は風の実体と雨の実体が同じであると考えていたし、後者は異なる実体からなるとしていた。アリストテレスは後者に属する人物であり、地上には2つの種類の蒸発物があって、一つは湿ったもの(水蒸気)、もう一つは乾いたもの(煙など)であるとし、それらが太陽の熱と地中の熱などによって運動するのであると論じている。彼によれば風は土から出た乾いた蒸発物が、ある大きさの塊となって大地のまわりを動くものであった。
この他、アリストテレスは北風や南風が吹く理由、あるいは風の日周変化などの理由を彼なりの論理で展開している。例えば、エテシアと呼ばれる7月の終わりから吹く強い北風が夏至や冬至、あるいは夜間に吹かない理由を次のように説明している。
“このことの原因は、太陽が近くにあると蒸発物の生じるよりも先に(大地)を乾かすことにある。しかし、太陽がほんの少しでも退いていけば、蒸発と熱との釣り合いが回復されるので、凍った水は溶かされ、また自分の熱と太陽の熱とによって乾き切った土はいわば煙と香気を放つことになる。またこの風が夜に吹かないのは、夜の冷のために氷が溶けるのが抑えられるからである”(『アリストテレス全集』)。
いっぽう、中国においても古くから気象に関心が向けられていたようである。古代中国では自然現象が陰陽説に基づき説明されており、例えば、雷は陰と陽がお互いに自らをぶつけ合うために生じるものであると考えていた(准南子、B.C.120年ごろ)。風や雨については、“風は天の気であり、雨は地の気である。風は季節に従って吹き、雨は風に応じて降る。天の気は下降し、地の気は上昇する”(計倪子、B.C.4世紀ごろ)などの記述があるという(ニーダムによる)。
こうした古代の人々の論理的な説明のほかに、実際に気象を観測する動きも見られていた。B.C.5世紀には既に雨量計や風向計が現われている。しかし、それらによって天気の予想をすることはデータ不足、理論の不備などから無理なことであった。
観測機器の進歩
17世紀になると、大気に関する知見も増え、トリチェリ(Evangelista Torricelli、1608〜1649)、パスカル(Blaise Pascal、 1623〜1662)たちによって気圧という概念が提出され、それを測定する気圧計が発明された。この気圧の研究に関連して登場する人物にドイツのマグデブルグ市長であったゲーリケ(Otto von Guericke、1602〜1686)がいる。ゲーリケは気圧の測定を連続して行い、同一の場所でも時間に伴い変化すること、特に気圧の急激な降下が示されたあとに暴風となること、などに気づいた。これは天気を予測する一つの目印となることであり、重要な発見であった。
気象を調べるのには気圧計のほかに、風力や風向を知る装置が必要である。風向に関しては古代から見られていたが、装置として改良が加えられ、中世では風見鶏、矢羽根などが現われている。いっぽう、風力計であるが、17世紀になると、ロバート・フック(Robert Hooke、1635〜1703)が簡単な風力計を発明している(1667年)。長方形の板に風が当たり、その強さに応じて板が吹き上げられる。吹き上げられた角度で風の強さを知るわけである。その後、19世紀になるとロビンソン型風力計が登場し、回転回数で風の強さを知る方法が採用される。
さらに気温と湿度も気象観測には不可欠の資料である。温度計に関してはガリレイ(Galileo Galilei、1564〜1642)が手がけたことは有名である。彼のものはガラス球とガラス管をつなぎ、中に空気と水を入れたもので、空気の膨張の度合いでガラス管中の水が上下する仕組みになっている。そのあと、1631年フランスのレーが水の熱膨張を利用した温度計を、さらに1640年ごろ、イタリアのフェルディナンドがアルコールの熱膨張を利用したものを作り出し、便利さを増した。
湿度計の発明も例のフックに負っている。毛髪湿度計の原理であるが、彼の場合には毛髪の代わりにカラスムギの毛を用いたと言われている。今日のような乾湿球湿度計は1825年ドイツのアウグストによって発明された。
中国では17世紀に出された『圖書集成』に気体温度計の図が載せられており、ガリレイのものに似ているという。東西の交流が行なわれていたことを示すものなのか、独立に考えだされたものなのか、詳しい検討が必要であろう。同じ書物に鹿の腸を利用した湿度計も見られているそうである。
中国と言えば、治水に力を入れたことは衆知のことである。洪水に悩まされること度々であったことだろう。こうした実際面から組織的に雨量を測定することも行なわれた。15世紀の明代には全国に雨量計が設置されていたし、時代とともに、いろいろ改良された雨量計が現われている。(いずれもニーダムによる)
近代気象学の動き
上述のようなさまざまな観測機器が現われ、気象に関するデータが集められ始めると、それらから一般化を試みることが可能になる。つまり、天気の予報がなし得るということである。その場合、今日の天気予報のやり方でも知られるように広範囲にわたる天気図が必要になってくる。最初の天気図が作られたのは17世紀イギリスのエドモンド・ハレー(Edmund halley、1656〜1742。彗星の発見で有名)による風の系統図であると言われている。彼は船乗りたちの航海日誌をもとに大西洋、インド洋、太平洋における風向きを調べ、貿易風、季節風の存在を見出した(1686年)。もちろん、現象論だけでなく、物理学的知見が増すと、理論化の試みもなされる。同じイギリスのハドリー(George Hadley、1685〜1768)は、ハレーが説明できなかった貿易風の吹く方向(北半球では北東から、南半球では南東から)について地球の自転と熱帯の炎熱による空気の置換の結果として現われるものだという説を唱えた(1735年)。
科学的な天気予報の始まりはスコットランドのウイリアム・リード(1791〜1858)であるという(シンガー『科学思想の歴史』による)。彼は1831年からカリブ海でハリケーンの進路を調べている。これをもとにアメリカのモーリ(Mathew Fontaine Maury、1806〜73)が精力的な研究を行い、莫大な気象学上の資料を収集し、やがて国際的な研究組織を作らせるまでになる。1872年には国際会議が開かれ、ここに気象学は一つの科学の研究分野として成立した。
こうなると、単に観測データをもとに、過去の経験と照らして天気を予報するというだけでは十分でなく、さまざまな天気現象の因果関係、しくみなどを明らかにする必要が出てくる。つまり、理論化である。
20世紀に、この面で活躍するのがノルウエーのビヤークネス(Jacob Aall Bonnerie Bjerknes、 1897〜1975)とその父である。この父子は第一次世界大戦中、ノルウエーの全土に気象観測所を設け、そこから得られるデータをもとに、“極前線”なる理論を導き出した。すなわち、熱帯気団と極気団の二つの気団の存在を明らかにし、その境界線に“前線”という名称を与えた(1919年)。二つの気団はこの前線で雲を生じ雨や雪を降らせるのである。
彼らの研究の背景には物理学、とりわけ流体力学と熱力学の発達があった。地震学の進歩が物理学に影響されていたのと同様、この気象学にも物理学の理論が大きく貢献しているのである。
今日では気象用のロケットや人工衛星などから莫大なデータが得られるようになり、なおかつ、そのデータもコンピュータによって短時間で処理されるようになり、気象学は一段の進歩を遂げている。毎日のテレビに映る気象衛星からの雲の画像は人々に気象現象への関心を高めさせている。
ところで、日本で気象学が開始されたのは1855(安政2)年であり、オランダ人によって導入されている。明治時代になり、1875(明治8)年、東京気象台が創設され、観測が開始されている。特に台風の襲来が多い日本のこと、台風に関する研究が盛んに行なわれたが、その中でも大正の末、1926年に台風の中の気圧、風、降水、気温の平均的分布を調べ、台風の最盛時における定常状態保持の仕組みを論じた堀口由己の「極東台風論」はビヤークネスたちヨーロッパの学者たちの提唱する学説と対立するものであり、この分野における日本の研究レベルの高さを示すものでもあった。彼はこの論文の功績で1927(昭和3)年に学士院賞を受賞している。 
25 電気分解とイオン

 

今日、電気のない生活は想像もできないくらい、私たちは電気文明に浸りきっている。この電気文明も、その源をたどれば、今から180年前に発明されたボルタの電池に端を発しているといってもよいだろう。というのも、この電池によって初めて、人々は連続して流れる電気を得ることができたからである。ただそのしくみは、柱状に重ねた銀板と亜鉛板の間に、塩水でぬらした厚紙をはさんだだけの簡単なものであった。今回は、この電池を使って見つけ出された電気分解の現象に的をあて、その機構が明らかにされていった跡をたずねてゆこう。
電気分解の発見
ボルタの電池をイギリスで初めて組み立てたニコルソンとカーライルは、針金と金属板との電気的接触を良くするため接触点に水をたらしたとき、針金の周囲に小さな泡が発生することに気づいた。そこで二人は、ボルタの電池の両端につないだ針金を水の中に浸してみた。すると、一方の針金から気泡が発生し、他方の針金は黒ずむではないか。この気体は水素、針金が黒ずむのは酸素が発生したためとわかり、彼らは電流によって水が酸素と水素に分解されたのだと結論を下した。
電池のこうした働きがわかるや、いろいろな化合物の電気分解が試みられた。なかでも特筆すべきは、デービー(1778−1829)によるカリウムの発見であろう。化合物中で元素を結合している力は電気的な力だと信じていたデービーは、強い電流さえ流せば、どんな化合物でも分解できるに違いないと考えた。1807年、化学薬品ではどうしても分解できなかったアルカリ性物質を、当時としては最大級の250個の電池を使って電気分解しようと試みた。飽和水溶液だとうまくいかないので、固体にわずかの湿り気を与えて直接に溶融と分解をやってみることにした。すると、陰極に金属光沢をもつ水銀とよく似た小さな丸い粒が現れるや、直ちに明るい光を放ち燃え出した。このときデービーは、嬉しさのあまり、実験室をとび回ったという。
では、デービーは電気分解がいったいどのようにして起こると考えていたのだろうか。まず、陽金属面がその付近の溶質分子の電気的に負の部分を引きつけて遊離させ、正の部分を反発する。この正の部分が隣接分子を分解して負の部分と結合し、以下同様に分解と再結合がくり返されていくというのが彼の考えである。当時はこのように、極のもつ引力や斥力が電気分解の原因だと思われていた。
やがて、デービーの弟子ファラデー(1791−1867)が、こうした考えを打破するとともに、電気分解に新たな局面を切り開く。
電気分解の法則
ファラデーは、まず、ボルタの電池からの電気や摩擦電気などが質的には同じであることを、電流の磁気作用や電気分解の作用を用いて証明してみせた。その過程で、磁針の振れが電気量の増加に伴って大きくなることにヒントを得て、電気分解される物質の量が電気量に比例することを実験的に明らかにした。そして彼は、この関係を使い、同一の電気量で分解される物質の量を比較しようと考えた。だが、肝心の電気量を測定する装置がない。実験には天才肌のファラデーは、さっそく、白金を封じ込んだ長い管内に希硫酸を満たすように設計された巧妙な装置を考案した(下図)。この装置を回路に入れると、分解されて管内に捕収された気体の量が、回路を流れた電気量に対応するというわけだ。実験の結果、同一の電気量で析出される物質の量と水素の重量との比(彼はこの値を電気化学量と呼んだ)が、つねに化学当量に一致することがわかった(1834年)。
こうして電流のもつ働きを詳しく研究したファラデーは、従来の電気分解の説明に疑問をいだき、つぎのような説を展開した。電流によって物質の化学的親和力が変化を受けて分極し、電流の径路にそって分極した粒子の分解と再結合が進行していくと。すなわち、電気分解の原因を、極からの引力・斥力ではなくて、粒子の存在している場所での電流の働きに求めたのである。そしてファラデーは、分解物質のうち極へ向かうものを新たに“イオン”と名づけた。これは、ギリシア語の“ienai”(行く)にちなんだものだが、現在のイオンの概念とはいささか異なっている。他にも彼は、“電極”“電解質”“陽イオン”“陰イオン”など、現在の中学生にもおなじみの多くの用語を新たに定義した。
イオンの移動速度は異なる
ファラデーの活躍していた19世紀の初め頃は、商業圏の拡大に伴って実用的な電信への要望が高まり、電気には大きな期待が寄せられていた。ところが、電気を使った電信を実用化するには、分極のため起電力がすぐに低下するボルタの電池に代わる、安定な電池が必要であった。1837年、ダニエルは、電解質溶液を隔壁で仕切った二液式の電池を発明し、産業界の要望に応えた。ちなみに、わが国に業務用の電信が始まったのは明治2年である。当時の電信代は、かな一文字につき銀一分で、これだけあれば米が4升あまり買えたという。ところでダニエルは、隔壁で区切られた電解質溶液の両極付近の濃度を測定し、電気分解が進むにつれてその濃度が変化することを見つけた。
この濃度変化をさらに精密に測定したヒットルフは、イオンの移動速度に違いがあることを指摘し、相対的な移動速度が全析出量に対する移動量の比(輸率)に相当すると主張した(1853年)。さらに、交流を用いて電解質溶液の電気伝導度を測定していたコールラウシュはイオンの移動速度そのものを求めようと、つぎのような考えを展開した。まず、電気抵抗の原因は、独立に移動するイオンの受ける接触摩擦にあるとみなせば、うすい濃度の溶液では、その摩擦は水分からだけと考えてよい。そのため、各イオンはそれぞれ一定の抵抗を受けて運動するが、ファラデーの法則によると、そのイオンは種類に無関係な一定の電気を運ぶと思われる。したがって、電気伝導度は両イオンの速度の和に比例するはずだ。コールラウシュは、このような考えに基づき、自分の測定した電気伝導度とヒットルフの得た輸率を組み合わせて、個々のイオンの速度を知ることができた。電気分解の主役であるイオンが独立して運動すると考えていた点で、コールラウシュはほぼ今日のようなイオンの概念に達していたものの、電場のない溶液中でもイオンが存在しているとは思ってもみなかったようである。
電離説の登場
コールラウシュの理論を進め、電解質溶液の理論を今日のような形に仕上げたのが、アーレニウス(1859−1927)である。稀薄溶液の電気伝導度を測定していたアーレニウスは、1883年、溶質分子は外部から電圧を加えなくても、電気を運ぶ“活性分子”とそうでない“非活性分子”に分かれているという新説を唱えた。そして、この“活性分子”数の全分子数に対する比を“活性係数”(今日の電離度)と定義し、この値が無限大稀釈においては1になると主張した。だが、こうした考えに基づく学位論文が最低の評価でパスしたことからもわかるように、当時の反応は冷たかった。「安定な化合物の食塩が水にとけるとすぐに分解するのはおかしいし、遊離したとしても、塩素特有の色や臭いを発しないのはどうしてか」といった疑問をいだく科学者が少なくなかったからだ。確かに、電気伝導の側面からだけでは、電圧が加わって初めて化合物が電離するのだという考えを完全に否定することは困難であった。
自説を裏づける確かな証拠を求めていたアーレニウスは、1886年、浸透圧に関するファント・ホッフの研究を知り、これこそ電離説の正しさを証明していると看破した。ファント・ホッフによると、多くの無機物では PV = i RT( i >1)の関係が成立し、 i という異常係数が入ってくるという。この i こそ、水に溶けた電解質分子が電離して溶質分子の数を増やしていると考えればうまく説明がつくのではないか、とアーレニウスは考えた。さっそくこの i を、自分の電離説における解離度と、それとは全く別に凝固点降下の法則を使って算出したところ、両者の値がぴったりと一致した、“活性分子”は、とりもなおさずイオンであり、確かにそのイオンは溶液中に初めから存在していたのである。 
26 人類の先祖

 

失われた環
“私は、遠い未来においては、さらにずっと重要な研究にたいして、いろいろな分野が開かれるであろう。……人間の起源と歴史にたいして、光明が投じられるであろう。”
これはチャールズ・ダーウイン(Charles Darwin、1809〜1882)が彼の名著『種の起原』(1859)の最後の章で語った言葉である(岩波文庫の日本語版、八杉龍一訳から)。彼は『種の起原』ではこれ以上人間の問題には立ち入っていない。当時の社会情勢が彼をそのような態度にさせたのであろうが、当然、生物進化論の提唱は人間をも含めてのものであり、この問題をめぐって議論が展開されることになった。
ダーウインの説を支持したトーマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley、1825〜1895)は1863年に『自然における人間の位置』を、また、ドイツにおいていち早くダーウインの説を受け入れたヘッケル(Ernst Haeckel、1834〜1919)は1868年に『自然創造史』をそれぞれ著し、類人猿などとの比較を通して人類進化の問題を論じたのであった。
ダーウインはそれらを受けて、ようやく1871年に人間の起原の問題に立ち入り、『人間の由来および雌雄選択』という著作を公にし、人類が下等な動物から由来したものであることを、形態上の比較から論じたり、どのような仕方で進化したのかを述べた。
こうした動きから人々は人類の祖先を探し求めることになる。ヘッケルは人類に最も近いものが類人猿であると述べ、この両者をつなぐ動物の存在を暗示した。彼はこの動物(いわゆる「失われた環」)がおそらく東南アジアで見つけられるであろうことを示唆し、この動物に対してピテカントロプス・アラルス(Pithecanthropus alalus、pithec=サル、anthrop=ヒト、alalus=言葉のない)という名称さえ与えた。
ヘッケルの本を読み、“失われた環”の話に魅せられた一人のオランダ青年がいた。アムステルダムの解剖学者デュボア(Eugene Dubois、1858〜1940)がその人である。デュボアは1887年職を辞してスマトラ島へ渡った。しかし、目ざすものは見つからず、ジャワ島へ行く。1891年ジャワ島中央部トリニールでようやく人骨を発見、1893年までそこで発掘を続け、その結果を一冊の本にまとめた。彼はこの人骨こそ、ピテカントロプスであるとして、これにピテカントロプス・エレクトス(Pithecanthropus erectus、erectusとは「立つ」という意味であり、全体では「直立猿人」という意味)という名を与えた。
もちろん、直ちに彼の説が受け入れられたのではない。1895年ライデンの学会でデュボアが自説を発表したときには反対論が多く見られた。デュボアは晩年自説を翻して、彼の発見したものは頭骨などが進化した類人猿のものであると主張したそうである。
“南の猿人”を求めて
ヘッケルは東南アジアに人類の祖先が見出されることを予言し、それがデュボアによって証明されたが、ダーウインは別の場所を指摘していた。彼はつぎのように述べている。
“私たちは当然の帰結として、それならば私たちの祖先が狭鼻猿類の幹から分かれたときの誕生地はどこであったかという問題につきあたる。人類がこの幹に属していたという事実は、人類が旧世界に生息していたことを証明している。そして、オーストラリアでも大洋島でもなかったことは地理的分布の法則から推測しうる。世界のどの地方でも、現存のホ乳類は同一地方の絶滅種と密接な関係を持っている。アフリカにはかつてゴリラとクロショウジョウとに密接に類似した絶滅猿が生息していたことは事実であろう。この二つの種は今日人類に最も近い種類であるから、私たちの祖先はほかの大陸よりもアフリカ大陸に住んでいたという方が事実らしい。”(ダーウイン『人間の由来』第6章「人間の類縁と系統について」より)
このように、ダーウインはアフリカから人類の祖先の化石が発見されることを上記のような論理で予測していたのである。
この予測は1920年代になって、ようやく現実のものになった。1924年南アフリカで人間に近い小型の頭蓋骨が発見された。これを調査した南アフリカの解剖学者ダート(Raymond Dart、1893〜1988)はそれが直立歩行していた動物であると推測し、これに“アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)”と名づけ、人間の祖先であるという論文を発表した(1925年)。
ダートの考えに対しては批判のほうが大きかった。ただ、南アフリカのブルーム(Robert Broom、1866〜1951)だけはダートの考えを支持した。1925年といえば未だ化石人類についての研究は緒についたばかりであった。これより少し前、1921年に中国の周口店の洞窟でZdanskyが人のものに似た臼歯の化石を発見、さらに1927年にはカナダのブラック(D。 Black)が臼歯を発見し、これにシナントロプス・ペキネンシス(Sinanthropus pekinensis)なる名を与えた。その後、1929年には中国の人類学者でブラックの協力者裴 (ペイ) 文中がはじめて頭蓋骨を発見し、これがジャワのピテカントロプスに似ていることを確かめた。これが糸口になってデュボアの発見に対しての論争も一挙に解決し、化石人類の研究は軌道に乗ることになる。
アウストラロピテクスについてはその後忘れられていた。しかし、ブルームは1930年代の末から再び発掘調査を行い、1936年、1938年にそれぞれアウストラロピテクスのものと思われる化石を発見した。その化石人類は600ccほどの脳容積を持ち、直立歩行をし、狩りをしていたことも証拠だてられた。
人々はアフリカでの化石人類の発掘に情熱を燃やすことになる。アウストラロピテクスとは「南の猿人」という意味であり、Australis=南、pithecus=無尾猿類の二つの言葉をつなげたものである。1939年にブルームが発見したものにはパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)という名が、また同じブルームが1947年と1950年に発見したものにはパラントロプス・クラシデンス(P。 crassidens)という名がつけられているが、いずれもアウストラロピテクスの一種であると考えられている。
いっぽう、東アフリカでも化石人類を求める研究者がいた。1931年以来調査をしていたリーキー(L。S。B。Leakey and M。D。Leakey)は1959年タンザニアのオルドワイ峡谷からアウストラロピテクスの一種と考えられる頭骨化石を発見、これにジンジャントロプス・ボイセイ(Zinjanthropus boisei)と命名した(Zinjiは東アフリカ)。その地層は約165万年前のものであると考えられたが、これよりもさらに10万年も古い地層から1961年以来化石が次々に発掘され、ルーキーは1964年これらにホモ・ハビルス(Homo habilis)という名を与えた。Homoといえば、今日の人類Homo sapiensと同属ということになる。ちなみにジャワのピテカントロプス、北京のシナントロプス、いずれもHomo属である。
ダーウインが予言したアフリカの化石人類に関する研究はその後も続き、発掘される地層の年代も徐々に古くなり、約300万年前のものから見出されている。なお、最近の研究ではアウストラロピテクスは400万年以前から存在していたこと、その後、先のブルームが発見した体格ががっしりした主として菜食のパラントロプスの仲間と、細身のホモ属に繋がる(?)グループに分れたと考えられている。その後者がリーキーの名づけたホモ・ハビリスであり、この二つのグループは少なくとも100万年間は共存していたという(スミス、サトマーリ共著、『生命進化8つの謎』)。
現代人への道
ダーウインとヘッケルの予言によって、アウストラロピテクス(猿人)とピテカントロプス(原人)が見出された。しかし、ピテカントロプスから現代人までの間には未だ道のりがあった。この間の“失われた環”に位置するものは何か。
話はさかのぼり、1856年、ドイツのデュッセルドルフ市に近いネアンデルタール渓谷で一つの古い骨がフールロット(Fuhlrott)という高校教師のもとに届けられた。翌年ボンの学会で発表したとき、ほとんどの学者はそれを原始人類の骨とは認めなかった。しかし、イギリスの解剖学者キングはこれを人骨と認め、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と名づけた(1864年)。
この骨をめぐっての論争も長く続き、1901年ドイツの解剖学者シュワルベ(Schwalbe、1844〜1916)が認めたことで終止符が打たれる。この間、同じドイツの高名な医学者ウイルヒョウ(Rudolf Virchow、1821〜1902)などはその骨をクル病に罹って変形した老人の骨であると決めつけたと言われている。ネアンデルタール人の復元図を見たとき、ヨーロッパの人々が自分達の祖先と考えたくなかったのであろう。
1868年には南中央フランスの小村レ・ゼジーのクロマニヨン岩陰遺跡で、現代人とほぼ同じ形の人骨が発掘され、いわゆる新人のクロマニヨン人の登場となるが、そうなるとネアンデルタール人も人類の仲間として認めたヨーロッパの人類学者たちの中には、クロマニヨン人はヨーロッパ人の祖先、ネアンデルタール人はアジア人の祖先であると主張したものもいる。神・人間・自然(動物・植物・鉱物など)を明確に区別するキリスト教思想に育まれたヨーロッパ人たちは人類をもいくつかの階層に区別したかったのであろう。人種という概念が登場してからは白色人種、黄色人種、赤色人種(アメリカの原住民)、黒色人種という階層差別さえした。人間と動物を同じ仲間ととらえる仏教思想の中で育った日本人では、こうした問題に対する感性に違いがあるのだろうか。
なお、最近では分子進化学的研究分野も進展し、さらにDNA分析も詳しく行われるようになって、地球上に存在する生物間の類縁関係やそれらがお互いに分れた時代などをかなり正確に知ることができるようになった。人類が類人猿の仲間と袂を分かったのは今から500万年前という数字も出ている。そうなるとかつて人類の祖先と考えられたラマピテクスはそれよりも古い800万年前ごろの地層から発掘されているので矛盾する。これも後の1978年に南アジアで新たにラマピテクスの化石が発掘され、調査結果からそれがオランウータンの祖先であることが明らかになって解決した。  
27 原子は不変か

 

鉄や鉛のような金属を金に変えることはできないだろうか。これは古代から人々の夢であった。とりわけ中世の錬金術師たちは、この夢を追い続けた。残念ながら彼らの夢は実現しなかったが、彼らの得た物質や化学変化の知識がもとになり、18世紀には近代化学が花開く。近代化学においては、物質はすべて不変な原子から構成されているという物質観が支配的であり、原子の変換などは頭から否定されていた。だが、こうした近代化学の物質観も、やがて放射能の発見などが契機となり、危機に陥る。今回は、放射能の発見に的をあて、原子の不変性がくずされていった過程を探ってゆこう。
ウランの発見
1789年といえばまだドルトンの原子論が登場していない頃だが、この年、のちに彼の考えを揺るがす物質が発見された。ウランである。ドイツ人のクラプロートは、ピッチブレンドという黒色の鉱物を王水で溶解し、さらにカセイカリで中和したときに生じる黄色い沈殿物の中に、未知の金属が含まれていることを見つけた。つづいて、黄色の酸化物をアマニ油とねったのちに炭素ルツボ内で強熱・還元し、金属光沢をもつ黒い粉末を得た。当時世間は天王星(Uranus)の発見に沸いており、クラプロートはこの新惑星にちなみ、新しい元素を“ウラン(Uran)”と名づけた。ただ、彼が手にしたものは、実はウランの酸化物であり、金属ウランはペリゴーの手で1841年に初めて単離された。
やがて、X線が一大旋風をまき起こしていた19世紀末に、ウランが人々の注目をあびるようになった。
日光にあてなくても感光する
X線は真空放電管の螢光を発するガラス壁から放射されていたため、ポアンカレは、強い螢光を放つ物質を調べれば、X線のような放射線が見つかるだろうと予言した。もちろん、今日の私たちからみれば、この推論は正しくない。だが、ウランの化合物を使ってこの考えを確かめていたベクレル(1852−1908)は、ポアンカレの予言が的中していることを見つけた(1896年)。黒い紙で包んだ写真乾板上にこの物質を置き、日光をあてたのちに乾板を現像したところ、ウラン塩の像がくっきり写っていたのである。りん光体は日光にあたると光を発するが、ベクレルはこの光が新しい放射線を含むことに確信をいだいた。ところがあるとき、天候が良くなかったのでウラン塩とともに引き出しに入れておいた乾板を、現像してみて驚いた。ウラン塩の濃い影が写っているではないか。ウラン塩から出る放射線は、日光と無関係であった。よくこの発見は偶然だといわれるが、反射光や屈折光によっても同様の作用を示すかいなかを調べていたベクレルならばこそ、こうした現象に気づくことができたといえよう。
さてベクレルは、ウラン塩の作用を調べてみて、つぎのことに気づいた。ウラン化合物でさえあれば、りん光を発するかいなか、結晶か、溶融物か溶液かにかかわらず、同じ作用を示すのだ。そこで、この放射線がウラン元素によるのではないかと考えたベクレルは、金属ウランを使ってその作用を調べてみた。金属ウランは、モアッサンが最新の電気炉を使って、単離に成功したばかりのものであった。乾板の黒化の度合いや検電器のはくが閉じる速さの違いで放射線の作用の強さを比較したところ、はたせるかな、金属ウランのほうが強い作用を示した。ベクレルは、ウランの示す新しいタイプの現象を“不可視りん光”とよんだ。
驚異の元素 / ラジウム
ベクレルの発見に注目した数少ない科学者のなかに M。キュリー(1867−1934)がいた。彼女はウランの示す作用を定量的に測定しようと、新たな方法を用いた。それは、放射線が空気にあたって流れる微少な電流を、夫P。キュリーの発明した水晶ピエゾ電気計を利用して求めようというものである。実験の結果、ウラン化合物の活性は含有されるウラン量にのみ比例しており、彼女はベクレル同様、放射線はウラン原子に起因すると考えた。またM。キュリーは、トリウムも同様の性質をもつことを見つけ、この新しい性質を“放射能”と名づけた。
ところが、ウランとトリウムの化合物の放射能を調べていた M。キュリーは、妙な事実に出くわした。ピッチブレンドやシャルコリットなどの鉱物の放射能が、金属ウランよりも強い値を示す。今までの考えからすれば、ありえないことだ。人工的にシャルコリットを合成してみたが、この場合の放射能は金属ウランよりも弱い。そこでM。キュリーは、天然のこうした鉱物には、ウランやトリウムよりもはるかに強い放射能をもつ未知の元素がごく少量含まれているからだと解釈した。早速キュリー夫妻は、放射能を唯一の手がかりとして、今日の定性分析のような方法で、ピッチブレンドから未知の物質を分離しようと試みた。半年後の1898年7月、ビスマスと一緒に残った物質が、ウランより400倍強い放射能を示した。彼らはこの物質に含まれている元素を、彼女の祖国ポーランドにちなみ“ポロニウム”と名づけた。さらに半年後、今度はウランの900倍強い放射能をもち、バリウムと類似の化学的性質を示す物質の分離に成功した。スペクトル分析の結果、今までの元素にないスペクトル線が現れ、その強度は放射能が強くなるに伴って増加した。この新しい元素は、“ラジウム”と命名された。
だが、元素と呼ぶには余りに少ないラジウムの量であり、元素と認めない科学者も少なくなかった。多量のラジウムを得るには何トンものピッチブレンドを要する。幸い、ウラン工場が、陶器のうわぐすりや螢光ガラスに使うウランを取り出した残りかすを数トン譲ってくれた。M。キュリーは、ラジウムの精製のために、独力でこの鉱石の山に取り組んだ。それは、根気と力のいる単調な仕事のくり返しであった。数年たって、手にしたラジウム塩は約0。1g、原子量は225。93と求めることができた。このラジウム塩はウランの100万倍もの放射能をもち、不思議な性質を示した。ある夜、夕食中にあかりが消えたとき、P。キュリーがポケットから取り出したラジウムが青い光を放ってテーブルを照らしたというエピソードは、この性質の一端を示していよう。当時としてはエネルギー保存則に反するかの如く、不断に光と熱を発するラジウムは、まさに驚異の元素であった。
放射性変換説の登場
ラジウムの出現によって、放射能の研究はめざましい進展をみる。早くも1899年、ラジウムの放つ放射線には数種類の放射線が含まれていることが判明し、ラザフォード(1871−1937)は透過能の小さいほうをα線、大きいほうをβ線と呼んで区別した。このβ線を磁場で曲げ、それが負電荷を帯びていることを示したキュリー夫妻は、負の電荷をもつ粒子がラジウムから連続的に放射されていると考えた。またキュリー夫妻は、ラジウム塩の周囲の物質が一時的に放射能を示す現象を見つけ、この現象を誘電放射能と呼んだ。一方ラザフォードは、トリウムから気体状の放射性物質(エマネーション)が生じていることに気づき、このエマネーションこそ誘導放射能の正体だと主張した。
こうした放射性物質が示す現象を統一的に説明する理論を、先頭になって押し進めたのはラザフォードとソディである。彼らはあるとき、水酸化トリウムをろ過したあとのろ液のほうが放射能が強いことに驚いた。一方、水酸化トリウムの放射能は弱くなっている。彼らは、ろ液からトリウムとは異なる放射性物質を分離し、トリウムXと名づけた。ところが時間がたつと、トリウムは放射能を回復するのに、トリウムXは逆に放射能を失っている。彼らはトリウムからトリウムX、トリウムXからトリウム・エマネーション、さらに誘導放射性沈殿物へと変換するのではないかと予想した。一時的放射性物質の放射能が減衰する割合を調べると、それは、それぞれの物質に固有である。また強力な磁場でα線を曲げてみると、α線は正電荷をもつ物質粒子であることも分かった(1902年)。そして、ラザフォードとソディは、『放射性変化』(1903年)という論文で原子変換の系列図を示して、つぎのように主張した。放射性物質は他の物質へと変換しており、それに伴って放射線が放射されると。原子はもはや不変の存在ではなくなった。さらに、1919年、ラザフォードはα線を窒素の原子核に衝突させ、酸素原子が生じていることを見つけた。しかし、ラザフォードらの考えが認められるためには原子の構造がさらに解明されなければならなかった。
こうしてみると、中世の錬金術師たちの夢も、まんざら荒唐無けいだと笑うわけにもいかない。 
28 生態系とは何か

 

「生態系」という言葉
「生態系」という言葉が日本ではじめて使われたのは1895(明治28)年である。東京大学で植物学を講じた三好学(1861〜1939)がヨーロッパ留学から戻り、『欧州植物学輓近之進歩』を著し、植物学を植物生理学(Pflanzenphysiologie)、植物形態学(Pflanzen-morphologie)、植物分類学(Pflanzensystematik)、植物生態学(Pflanzenbiologie)に区分したのである。その最後に“生態学”なる言葉が見出される。
ところで、それぞれに付されているドイツ語を見ていただこう。彼が“生態学”とした元の言葉には今日広く知られている“ecology(生態学)”らしきものは入っていない。彼は“ココニ言ウ所ノPflanzenbiologie ハ通常一般ニ動植物学ノ総称スル所ノBiologie(生物学)トハ其意味ヲ異ニセルヲ以テ、予ハ新ニ植物生態学ノ訳語ヲ作リ、”という注釈を加えている。もし、現在、植物生態学を英語で言えば、Plant ecology になる。
ecologyをドイツ語では kologie という。この言葉を作ったのはドイツの生物学者で進化論でも著名なヘッケル(E。H。Haeckel、1834〜1919)である。彼は生物学を形態学と生理学に大別し、後者をさらに Arbeitsphysiologie と Beziehungsphysiologie(関係生理学)に分け、この関係生理学の中に分布学と生態学を位置づけたのである。ここで言う生態学は今日の個生態学に当たるもので、動物、特に問題となる動物と接している動植物との仲間または敵としての関係を研究する学問という定義がされている(1869年)。すなわち、ダーウィンが取り上げた生存闘争における諸条件の相互作用を研究対象とするものと言えよう。
このように外国語でも日本語でも、「生態学」という言葉は今日的用法とはいささか異なった形でこの世に生を受けたのであった。
「生物共同体」という考え方
明治35年に面白い表題の著書が出された。それは上記三好学の著した『植物生態美観』である。私の手元にあるものは大正元年に改訂出版されたものであるが、その序に次のような文が載せられている。
“「生態美観」とは明治三十五年に初めて用いた言葉で外国の書物や本邦の著述においても、まだ斯様な見地から植物の美観を論じたもののあることを聞かない。全体植物の真の美観は、自然の生態に照らして観察すべきことで、生態を離れては真の美観を知ることは出来ない。”
これは植物を個として扱うのでなく、集団または環境との係わりで眺めることの必要性を示唆したものとして興味が持たれる。こうした個体レベル以上で生命現象を捉えようとする試みは遠くギリシャ時代からの自然誌的研究の中や、下って18世紀の植物地理学的研究の中に見出すことができるが、特に19世紀のはじめに行われたフンボルト(A。von Humboldt、1769〜1859)による研究は重要な位置を占めるものである。
フンボルトといえば彼の名を冠した海流がある。南アメリカの西海岸を流れる“フンボルト海流”がそれである。このことからも知られるように、彼はアメリカ大陸の探検を行い、その旅行記を著している。ダーウィンがその旅行記に魅せられ、それに倣って『ビーグル号航海記』(1839年)を出版したことも有名である。
このフンボルトが世界各地を見て、その相観(Physiognomy)の違いに気づき、いく種類かの相観(型)を作って世界を区分することを提案している(1806年)。この相観という概念は今日の生活型(life-form)なる概念の源をなすものであり、やがて植生研究へと発展させられることになり、19世紀末にはデンマークのワーミング(Warming、1841〜1924)によって植物にも社会が存在するという考え(植物群落)が生みだされることになる(1889年)。ワーミングによって今日の植物生態学が作りあげられたという評価があることから見れば、その源となったフンボルトの位置も高く評価されてよいであろう。生態学者の沼田眞は、“生物の世界の空間的法則をうちだしたもの”としてフンボルトを称えていた。
18世紀後半になると上記ワーミングのほかにも自然界のつながりに眼を向け、統一性を考えようとする動きがいくつか現れている。その背景が何であるかは明らかではないが、とりあえず、いくつかの例を紹介しよう。
例えば、ドイツのメビウス(K。A。Mbius、1825〜1908)は人工真珠の研究家で有名だが、海岸の岩礁で固着生活をしているカキの研究を通して、一つの場所に集まり生活している動物たちの間に相互関連のあることを見出し、それら相互集団に対して“生物共同体(Bioznose、 英語では biocoenosis)”なる名称を与えた(1877年)。
また、アメリカのフォーブス(S。A。Forbes、1844〜1930)は1887年の論文(The Lake as a Microcosm)で湖を一つの小宇宙として捉え、その中に生息する生物はすべて何らかの形で関連しており、一まとめにして研究することの必要性を指摘している。彼もメビウスと同様、応用生物学(農業害虫と天敵)の研究者であったようである。そのことと自然界を一つのつながりとして認識する態度との関連性が存在するかどうか目下のところ明らかでないが、興味のわくところである。
さらに、ロシアのドクチャエフ(V。V。Dokuchaev、1846〜1903)も生物共同体の考えを発展させ、無機的要素も加えたつながりとして geobiocoenosis なる概念を提出しているという。オダムによれば、次で取り上げる生態系の考えとほぼ同じであるという(1972年)。
「生態系」概念の提出
では、その「生態系」という概念はどのようにして出されてきたのであろうか。「生態系」を英語では ecosystem という。この造語者はイギリスの生態学者タンズリー(A。G。Tansley、1871〜1955)であり(1935年)、それを日本語で「生態系」としたのは沼田眞である(1948年)。
ワーミングにより提案された群落概念はその後、多くの研究者により採用され、ヨーロッパ、アメリカで群落の調査が盛んに行われた。アメリカのカウルズ(H。C。Cowles、1869〜1935)はミシガン湖の砂丘で植生の調査を行い、群落が遷移するという考えを明らかにした(1899年)。これは生物の社会が動的なものであるという見方をもたらしたもので、その後の生態学の動きに影響を与えるものであった。これに刺激されたのが同じアメリカのクレメンツ(F。E。Clements、1874〜1945)である。彼はいくつかの群落遷移を研究し、1916年にはそれをまとめて『植物の遷移』なる著作にして公表、群落遷移の様子を一般化した。彼によれば群落も一つの生物体と同様に成長、成熟などが見られ、極相(Climax)がその成熟期であるという。
彼の考えは比較的明解であったので学界に受け入れられ、動的生態学などと呼ばれ、広まっていった。もちろん、その後、いくつかの点で批判を受けるが。
いっぽう、群落の考えは動物学者たちにも関心を持たれた。アメリカのシェルフォード(E。V。Shelford、1877〜1968)もその一人で、シカゴ周辺の動物群集を研究していた。彼は1913年に食物連鎖なる概念を提案しているが、この考えは1927年にイギリスのエルトン(C。S。Elton、1900〜1991)が彼の著『動物の生態学』(渋谷寿夫訳、科学新興社、1968年)の中でさらに強調することによって学界に広まることになった。
ところで、生態学は植物生態学と動物生態学がそれぞれ独立に発展してきていた。その間では未だ真の生物共同体の考えは生み出されにくい。これに先鞭をつけたのが先のクレメンツであった。彼は遷移の一つの基本概念としてバイオーム(Biome)という生物社会の基本単位を考えた(1916年)。
このバイオームの中には無生物要素が含まれていなかった。この点を指摘し、それらを含めて一つの基本単位を考えたのがタンズリーである(1935年)。彼が名づけた Ecosystem が今日多くの人に用いられているが、実は彼より早く、同様な考えを提出していた人がいる。それはドイツの森林生態学者、応用昆虫学者のフリーデリクス(K。Friederchs、1878〜?)である。彼はフォーブスの考えを森林に当てはめ、森林が一つの有機体であるとして、これにHolozonなる名称を与えた。この Holozon の考えを水界に当てはめ、Biosystem と名づけたのは陸水学者のティーネマン(A。Thienemann、1882〜1960)であり、急速に“生態系”なる考えが広まっていった。
なお、このティーネマンはエルトンたちの提唱した食物連鎖の考えとを合わせて、湖水中の生物を生産者、消費者、還元者の三つのグループに分け、Biosystem の中での物質循環の様子を明らかにする試みを行っている(1939年)。
今日、この「生態系」、特にカタカナの「エコシステム」という言葉は理科の教科書ばかりでなく、広く一般の書物、時には新聞、雑誌などでお目にかかる。言わずもがな、環境問題がやかましくなって、それとのかかわりで生態学が注目されるようになったからである。なお、生態学の英語 ecology のカタカナ「エコロジー」は学問の名称というよりも、いわゆる「環境主義」運動に関連して使われることが多い。
いずれにせよ、日本の生物学の中でも他の分野に比べ生態学は立ち遅れていた。もし、三好学が真の意味で「生態学」という言葉を作っていたら事態はどう変わっていたであろうか。 
29 物質文明の歩み / 含炭素物質を中心にして

 

人類は、天然の物質とその物質から得られるエネルギーをもとにして、物質文明を築き上げてきた。そして今日、私たちはその物質的な豊かさを享受している。反面、科学・技術の発展が、環境汚染やエネルギー危機といった事態を招来したことも事実であろう。
今回は、現在の物質文明を築いた科学・技術の発展の歴史を、その発展と深い関わりをもつ木炭や石炭などの含炭素物質の側面からたどってゆくとしよう。
人類と森林
太古の時代、人類は森の木の実や動物を食糧とし、森の木を燃やして暖をとりながら生活を営んでいた。やがて、森を焼き、その跡に農作物を作る農耕生活が始まる。こうした人類がその後に大きな発展をとげたのは、石器に代わって鉄製の道具を使うようになったからだが、この鉄を得るにも森林が重要な役割を果たしていた。というのも、鉄は、木炭のような還元性の強い物質と高温で反応させてはじめて得ることができたからである。
時代とともに、建築物や燃料へと木材の需要は増加した。なかでも、農耕や狩猟用の道具から武器へと、その用途が広がっていた鉄に、多くの木材を必要としていた。14世紀ごろ、連続して鉄を得ることのできる木炭高炉が登場し、鉄の生産性も大いに上がった。鉄の増産に伴い、当然、木炭の消費量も多くなる。当時は、鉄1トン得るのに木炭だと5トン、原木だと50トンは必要だったという。おまけに、産業が発達し、船舶の資材、レンガ・ガラス製造などの燃料に多量の木材が欠かせないものとなってきた。そのため、16世紀の終わりころになると、木材の需要が森林の再生能力を上回り、森林資源が枯渇し始めた。とりわけ鉄の生産量が多いイギリスではこの傾向が著しく、人々は木炭に代わりうる物質を求めた。人々の目は、石炭へと向いたのである。
木炭から石炭へ
17世紀に入ると、石炭の豊富なイギリスでは、家庭や醸造業・レンガ製造業などの燃料に石炭が使われ始めた。だが、ガラス工業や製鉄業のように、石炭を使うとなると、製造技術まで大きく変えなければならない産業も少なくなかった。とりわけ、その需要が増大していた製鉄業では、石炭が使用できるかどうかは死活問題であった。当時、石炭を使ってできた鉄は、硫黄分が多くて使いものにならない鉄であった。まず1709年、ダービーが石炭を蒸し焼きにしたコークスによって銑鉄を得て、この問題を解決する鍵を提供した。そして、コートがコークスを熱源にして銑鉄中の炭素を燃やす方法(パルド法)を開発し、それまでは木炭によってのみ可能であった錬鉄をはじめてコークスを使った炉から得ることに成功した(1783年)。2世紀近い移行期を経てようやく、製鉄の分野においても木炭は石炭へとバトンを渡したのである。もっとも今日でも、石炭がない代わりに廃材となるゴムの木が多いマレーシアでは、1961年に木炭高炉が建設され、大活躍しているという。
さて、石炭が主要なエネルギー源になると、新たな技術上の問題もクローズアップしてきた。その一つは、炭坑における排水の問題である。これは、従来の動力源であった風・水・動物に代わって登場した蒸気機関が見事に解決した。また、石炭の輸送も頭の痛い問題であったが、水上では運河、陸上では木製のレールを敷いた道路を整備して石炭の輸送に当たった。こうしてイギリスではいち早く石炭への転換を進めた。その結果、石炭・鉄・蒸気機関といった物質や動力源が産業革命を促進する大きな原動力となったのである。
ところで、木炭から石炭への転換は、たんに燃料、すなわちエネルギー源の転換だけでなく、物質的にも新たなる局面を切り開く端緒となった。
石炭から染料ができた
冶金に用いるコークスは石炭を乾留して得られるが、このときの副産物として石炭ガスとコールタールを生じる。石炭ガスは照明用の燃料に道が拓け、最初は紡績工場での夜間作業のための明かりに、次いで街灯へと進出した。一方、どす黒いコールタールは、やっかいな廃物として処理に困っていた。ところがこのコールタールこそ、有機物の宝庫だったのである。分留技術の発展にともなってナフタリン、フェノール、アニリン、ベンゼンと、生物体には存在しないような有機物が続々と分離された。このころになると、有機化合物は人工的に合成できることがわかってきたので、香料・医薬品・染料などの貴重な天然有機物を合成しようと夢見る化学者も少なくなかった。
パーキンもそうした一人であった。彼は1856年、マラリヤの特効薬キニーネを合成しようと試みていた。残念ながらその試みは失敗に終わったものの、その過程でパーキンは思いがけないものを見つけた。それは、アニリンの酸化物を重クロム酸カリウムと混ぜてできた固体をアルコールに溶かして得た紫色の溶液であった。彼はふと、これが染料になるのではないかと考え、白い絹に染めてみた。すると、見事に美しい紫色に染まるではないか。早速パーキンは、全財産を投げうって世界最初の合成染料工場をロンドン郊外に建て合成染料の大量生産に第一歩を踏み出した。1862年のロンドン万国博ではヴィクトリア女王が、“モーブ”と名づけられたこの染料で染めた衣裳をまとい、人々の注目を浴びたという。この年(文久2年)、わが国でも京都の井筒屋忠助が、このアニリン染料を手に入れて、植物染料の紫根に代えて紫染したといわれている。
パーキンの成功は偶然的色彩が強かったが、1870年ころになると、化学者たちは染料の構造を解明しながら計画的に染料を合成しようと考えた。そのため、有機化学の基礎研究をも重視する政策を推し進めたドイツが、次第に染料王国へとのし上がってきた。一方、合成染料の大量生産によって、天然の染料製造業者は大打撃をこうむった。インドでは天然藍の栽培業者は没落し、わが国の徳島の藍も影響を受けたことはよく知られている。
合成染料に端を発した有機合成化学は、さらに医薬品、香料、爆薬へと広がり、合成物質の時代の幕開けを告げた。今世紀になって石炭は石油へと首位の座を譲ったが、人工化合物の用途は増加する一方であり、現在の私たちはまさに合成物質の海の中で生活しているといえよう。
循環する炭素
薪、木炭、石炭そして石油と姿・形は変わりこそすれ、いずれも炭素を主体とした物質であり、その起源はすべて植物体である。この植物体は、大気中の二酸化炭素を固定して有機物を作り出している。19世紀初期では、ソシュールらがこの事実を実験的に確かめていたにもかかわらず、次のような考えが支配的であった。植物体の炭素の主要な供給源は、植物が腐ってできた“フムス(腐植土)だ”と。こうした考えは、無機物と有機物の間を「生命力」という神秘の壁で隔てていると考えていたリービッヒは、著書『農業化学』(1940)のなかで、植物体の炭素はすべて無機物である大気中の二酸化炭素に由来する、と主張した。なお彼は、有機界と無機界との間の物質循環という考えに立脚して、化学肥料を提案している点は興味深い。植物体の炭素の問題は、やがてブサンゴーやザックスらの実験的研究によって決着がついた。
現在では、こうした生物活動と関連した炭素の循環も、さらに地球レベルの空間・時間的スケールで把握されるようになった。このマクロな立場から今日の炭素の循環を眺めるとどうだろうか。私たちは、植物体から長い年月を経て作り出された天然の資源である化石燃料の多くを一瞬のうちに酸化してしまっている。一方、人工的に合成された有機物は天然有機物とは異なる性質をもち、分解者が存在しないために循環の環からはずれる物質も少なくない。また、人工の有機物はその毒性のため、生物体の生存に影響を与えていることも事実である。炭素の循環の立場から見れば、人間社会を大きく変革してきた科学・技術の発展は、大自然にも大きな影響を与えていることがわかる。
私たちは、こうした物質文明の歴史のなかから、これからの科学・技術についてどのような示唆を得ることができ、またその示唆をどのように未来へ生かせばよいのだろうか。 
30 人間にとって科学とは何か

 

もう一つの科学史
これまで29回にわたり、本シリーズのタイトル通り、“科学の歩みところどころ”、それも、主として科学の内面に焦点をあて、それぞれの分野での科学者の知的好奇心がどのような過程で満足されてきたのか、科学者の発想、研究方法や研究材料、器具とのかかわり、ときにはその時代の思想の影響などを紹介してきた。この場合、科学が発達すること、科学者の知的好奇心が次々と満たされることを良いこととして取り上げる傾向が強かった。しかし、最近では事態がいささか変化し、科学の発達をそのまま素直に喜んでもいられない。公害や環境破壊などから、あるいはエネルギー・資源、人口問題などから、科学文明というものへの問い直しが求められている。その場合、よく耳にするのが反科学論である。はたして公害や環境破壊の元凶が科学それ自体なのであろうか。
この問題を検討するためには、単に科学の内面のみに視点をおいてその歴史を眺めるのでなく、科学とそれを取り巻くさまざまな条件、状況とのかかわり、つまり科学と社会との関連にも視点をおいた歴史を跡付ける必要がある。前者を内的科学史というのに対して、後者を外的科学史という。今回は最終回にあたるので、この外的科学史を取り上げ、それに関するいくつかの事例を通して、皆さんに“人間にとって科学とは何か”をお考えいただきたいと思う。
科学と科学技術
そこで、本論を展開するにあたって、しばしば混同され、そのために議論に食い違いを生じる科学と科学技術の違いを明確にしておこう。すでにこれまでの紹介で、おおよそ科学の何たるかを理解していただけたであろうと思う。科学はその英語“science”の語源であるラテン語の scientia(知る)からわかるように、人間の知的活動であり、近代科学は17世紀におけるヨーロッパ人の思想的変革から現れたもので、あくまでも人間の“考え方”、特に自然に対する“考え方”の一つである。これに対して科学技術はそうした科学的活動を通して得られた知識(科学知識)を応用して生み出された自然などへ働きかける一つの“手段”である。それを混同して、科学=科学技術として捉え、反科学論を展開する人がいる。そのような人は“科学的思考”さえ否定するのだろうか。そうなると、反動として非合理的なもの、オカルト的なものへの復帰を肯定する考えまで現れてしまう。そうでなく、科学技術に視点をすえて公害問題などを検討すれば、その技術がどのような形で使われているかという点で議論が展開しうることになり、本質を読み取ることができるようになると思う。
科学と社会とのかかわり
そこでまず、科学上の理論や学説が社会にある影響を与え、逆にそれが科学のあり方を決めるという事例を紹介しよう。
19世紀後半、ダーウィンが進化論を展開し、その要因論として自然選択説を提唱すると、それを人間社会にいきなり当てはめた議論がなされるようになった。ダーウィンの自然選択説では生物間で生存闘争が行われることが説かれていたが、その考えを人間社会に当てはめ、人種あるいは民族、国家ごとに生存闘争が起こり、優れた人種などが生き残り、劣った人種は滅びることになるという考えまで飛び出した。
これに関連して登場するのが遺伝子概念の歴史のところで紹介したゴールトン(F。Galton、1822〜1911)である。彼はダーウィンの進化論に刺激され、遺伝の問題に関心を示し、特に人間の能力が遺伝的であるかどうかを家系調査を基に検討し、その結果、遺伝説を抱くようになる。そのことと、ダーウィンの自然選択説とを結びつけ、イギリスの人種改良の必要性を痛感し、これを解決するための学問の設立を訴えた。いわゆるユーゼニックス(Eugenics)の提唱である(1883年)。
この考えは直ちにアメリカ、ヨーロッパ、そして日本へも伝えられ、活発な議論が展開されることになった。アメリカでは園芸学協会がはじめ関与し、やがてユーゼニックスの研究組織を作っていくが、特に人種問題、移民問題とかかわって早くから断種法まで作るほど活発になる。ただ、遺伝学者は、はじめのころは積極的に参加したが、思ったほど人間の遺伝問題が簡単でないことと、後にこの問題にドイツのナチスが関心を示したことが加わってか、手を退くものが多くなった。
日本でも明治の末に学界で盛んに議論されたが、アメリカほどの現実的な問題もなく、理念的な運動が展開された程度であった。ただ、この運動の流れの中で人間の遺伝研究の重要性が指摘され、後に国立遺伝学研究所が設立されることになる。これは科学の発達に社会からのインパクトがあるという一つの事例であると言えよう。これに似た例としては今日の環境問題とのかかわりで国立公害研究所、後の国立環境研究所の設立など、環境科学の発展を挙げることができる。
ところで、今日の社会はいわゆる工業化社会である。日常生活の中に科学技術が深く根をおろしており、それが経済のあり方、さらには政治のあり方にも大きくかかわっている。また、逆に経済や政治からの要求で科学研究や科学技術開発のあり方が決められることにもなる。とりわけ多くの研究費が必要となる研究・開発分野、いわゆる巨大科学ではその傾向が強い。その多額の研究資金を提供しうるのは国家や企業などだからである。
そうした流れの中で公害や環境破壊などのデメリットの面が生じたのであるとすれば、そうしたデメリットの面が生じないような科学技術のあり方を探る、言い換えれば、何のための、誰のための科学技術であるのかを考えることが必要になる。
科学者の社会的責任と科学啓蒙
それを考えるのは何も科学者や技術者だけの問題ではない。広く、一般の人々も考えるべきことである。そのためには科学者や技術者は、自分達が知りうる科学上の知見や実状を出来るだけ広く一般の人々に知らせることが、その社会的責任として大切なことである。最近、話題になっている遺伝子工学(遺伝子組換技術、クローン技術など)にも、他の例と同様にメリット、デメリットの両面が見られ、特にデメリットの面では核兵器の開発に匹敵するものがあると言われている。メリットの面としては医薬品などの大量生産化などがあるのに対して、デメリットの面では新しい未知の微生物などが生まれ、生態系や人体に悪影響を与えないかという危惧がある。これをめぐって議論が展開されているが、一般の人々が判断するためには、それらの実状がどうであるかを知る必要がある。それは科学者や技術者に任せておけばよいという論もあるが、かつての原爆の悲劇を考えれば、その論は成り立たないであろう。科学を一部のものの中に閉じ込めておくことは危険である。
この例からもわかるように科学知識の正しい啓蒙(最近ではこの言葉は差別用語といわれ、「啓発」という言葉に置き換えられる傾向にあるが、ここではもちろん、差別意識はない)がいかに大切であるかが知られよう。先に紹介したユーゼニックスの流れの一つとして、近年、アメリカを中心に IQ の遺伝性をめぐっての論争が一卵性双生児を用いての研究成果などを踏まえて出された IQ の遺伝説に賛成する学者とそれに反対する学者の間で展開された。アメリカでは特に人種問題とのかかわりで議論が盛んであった。賛成派は白人集団と黒人集団のそれぞれの IQ テストの平均値をとり、白人の平均値の方が黒人のそれより高いというデータを示して主張した。反対者は IQ テストそのものが白人社会に適したものであり、黒人が不利になるなど問題点があることを指摘した。
これも科学と社会とのかかわりを見る事例といえよう。その場合、科学者としては何が真実であるかを広く人々に知らせる責務があるが、上の事例では時には同じ資料や同じデータを使って両論に分かれるという事態さえ生じている。となると、何が真実か、という点が問題になる。得られたデータをどのように読みとるか、それはまさに科学の方法の問題である。一般には科学は客観的に結論を導き出すものであり、手続きさえ間違えていなければ、同じデータからは同じ結論が導き出されると考えられている。しかし、時には研究者の思い込み、先入観が災いすることがある。最近では、科学は必ずしも客観的ではないという意見さえ登場している。
それはともかく、心すべきことはあやふやな結論を引っ提げてそれを人間社会に適用したり、実用化したりすることは避けるということである。それも科学者や技術者の社会的責任である。
最終回にあたって
以上、もう一つの科学史として科学と社会とのかかわり、いわゆる外的科学史についていくつかの事例で紹介した。
理科教育が、科学的思考を身につけ、これまでの科学上の知見を文化遺産として受け継ぐことに一定の役割を果たしてきているが、今日のように、「人間にとって科学とは何か」という根本的問題が問われる時代には、上記のことに加えて、今回取り上げたような視点で科学を捉えることも必要であり、そのために理科教育が積極的な役割を果たしてほしいと思う。以前、アメリカの高校で取り上げられた HOSC (History of Science Curiculum for High School) という科学史事例を扱った教材はこの面にも力を入れたものであり、筆者も大いに活用させていただいた。このHOSCを含めて、こうした科学 (science) と技術 (technology) と社会 (society) の関係を学ぶ教育としてSTS教育なるものが登場して久しい。主として、大学の教養課程などで実践されているが、高校などでも是非取り上げてほしい分野である。 
 
「人と細菌 17〜20世紀」ピエール・ダルモン / 書評

 

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ロベルト・コッホが結核菌とコレラ菌を相次いで発見したのは1882、83年のことである。19世紀を代表するコレラと結核が、細菌により発症し蔓延することが解明され、多くの疫病(伝染病)が同じようにそれぞれに固有の細菌により起こることが次々に明らかになった。所謂「病原細菌学」の確立である。これは医学史上の革命であったが、一般庶民にとっても病原細菌を眼で見られるようになったことは、疾病観念の転換を促すものだった。疫病は可視化されたのである。今日鶏インフルエンザが東南アジアや西欧で猛威を振るいだしても、我々が比較的安穏でいられるのは、ヒトへの感染が低いこともあるが、病因ウィルスをTV 等で確認できるからであろう。
だが、疫病が可視化されるまで、病因学は長く暗い迷妄のうちにあった。19世紀後半まで、疫病は瘴気によって起こるのか、直接接触によって起こるのか、遺伝や体質によるものか、など諸説乱立し、互いに譲らぬ論争が繰り広げられていた。
本書は、病原細菌学あるいは微生物学が19世紀第3四半期に確立し、疫病の撲滅に応用されるまでを、詳細にかつ多角的に論じた大著で、全39章、総頁数806にも上る。私の能力からも紙幅の都合からも全てを網羅的に書評することはできないので、全体の構成をやや詳しく示すことは逆に読者の便宜となろう。 
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さてパストゥール革命以前は、病原細菌学あるいは広く微生物学の観点からは「前史」でしかない。胎動はルネサンス期に起こる。「コペルニクス的転回」が天体望遠鏡の発明で果たされたのと対をなすかのように、顕微鏡の発明は科学者の関心を「小宇宙」、微小なものへといざなった。ガリレイも17世紀初頭に複式顕微鏡を開発したというが、後世の微生物学との関連で特筆大書されるのは、オランダの顕微鏡観察家アントニー・ファン・レーウェンフック〈1632-1723〉である。彼は単式顕微鏡で「後の1世紀半にわたる全部の顕微鏡観察家たちよりも多くのものを発見している」 からである。彼は生業としてラシャ屋を営んでいたが、1660年に従兄の後を継いでデルフト市参事議会門衛に就き、その後測量技師とワイン検量士に任命されて生活が安定し暇を得る。いわば趣味としての顕微鏡観察に明け暮れ、身近なものを手当たり次第に観察した。鼻毛、歯石、大便、精液など自分の身体から得られるもの、シラミ・ダニ・ノミなどの小昆虫、雨水、鉱石、食品、動物など全くアトランダムに対象を選んだという。彼はそれらの対象に合うようにレンズを造っただけでなく−彼は「レンズのストラディヴァリウス」と見なせるかもしれない−顕微鏡解剖術を会得した。
彼の最大の発見は、そばを流れる運河の水の中や彼自身の歯石のなかに、あるいは動物やヒトの糞の中に原生的な極微動物を発見したことだった。例えば歯石に見出したものは、後世で云うバクテリア、球菌、線条菌、螺旋菌の類であった。こうした功績から後世の人々は彼を「最初の細菌学者」と呼び、著者も微生物学の始まりを彼に求める。
だが注意深く読むと著者の主張には矛盾がある。つまり総序では、「それでもレーウェンフックはそれら(極微動物)に病気を引き起こす力があることを信じて疑わない。なぜなら極微動物は極めて健康な人間から排出される流動物の中にも、それから人が毎日摂取する水や食物の中にも見つかるからである」と語るのであるが、第2章では、「だが彼はいついかなる瞬間にも極微動物が病因論の中で一定の役割を果たしうると思い当たることはなかった。それに極微動物がまったく健康な人の口や内臓を満たしているのだから、どうしてそのような想定が彼に可能だろうか」と、前言を否定している。この決定的矛盾を著者はどう言い訳するのだろうか。私には全体の文脈から判断して、レーウェンフックを病因学の先駆と見なすには無理があるように見える。前記引用文にある「健康な人の排泄物に極微動物がいること」が、どうして病気と結びつくのか、著者もレーウェンフックも合理的な説明を与えていないからである。(第1章、第2章)
18世紀になっても顕微鏡観察は好事家たちのひそやかな楽しみでしかなかったが、何人かの学者はさまざまな病気の原因を極微動物のせいにした。だがそこには実験上の基礎がないので瘴気の理論と同じ想像世界のものだった、という。(第3章)
ところで17世紀頃から再燃し、果てしなく続いた論争が「自然発生」問題であった。(第5章) つまり命はどのようにして誕生するのか、という神学的な装いをもった問題である。イギリスのハーヴェイはその著作の中で「動植物は、自然発生であれ、他の有機存在からであれ、すべて体内やその一部から、あるいはその排泄物の腐敗を通して誕生する。」と述べている。これに対して汎種論がある。この理論によれば、世界には「種細胞ジェルム」1)が広くばら撒かれており、それが体液と微妙に接触・結合して命をつくるのだ、という考えであった。一群の博物学者や顕微鏡観察家−レーディ、ヴァリスニエリ、ジョブロ、ベイカー、レーウェンフックの実験と観察は、自然発生説に打撃を与える。同じ文脈でニーダムに挑戦したのがスパランツァーニ(1729-1799) であり、彼こそパストゥールの師にふさわしい人物であり、実験により自然発生説を失墜せしめるに十分な功績を残したのであるが、当時は評価されなかった。
ところで「種細胞ジェルム」は病気と関わるときには、「病原種細胞」ないしは「伝染性病原種細胞seminaria contagionum」となり、これが悪性の熱病を引き起こすと唱えられた。この説を16世紀イタリアで説いたのはフラカストーロであり、本書では「生物伝染説」と呼んでいるが、一般には「コンタギオン説」と呼ばれるものであろう。それはともかく、この学説はイタリアでとくに大衆の支持を得たようであり、優れた学者が輩出する。とりわけ私が注目したいのはベルナルダン・ド・サン􀀀ピエールで、彼は著作『自然の調和』の中で次のように語る。2)
私が思うに伝染病の大部分は、流体の中に生息し身体にはりついて、身体から身体へと接触を介して移動する極微動物のせいだと見なすことだとできる。確かにこれらの伝染病はいずれも動植物の繁殖にとって重要な、温暖で湿潤な気候のもとに発生する。そのような病気はまた、どんな種の繁殖にとっても不利な、酷暑・酷寒の中でしか鎮静しない。もっぱら大気の腐敗から発生してくる病気の方は、接触を介して伝染することはない。それが秋の熱病や沼地に起こる熱病である。その他の病気、例えば皮膚病、疥癬、ハンセン病〔・・・〕は程度の差こそあれ、接触によってしか伝染せず、その原因となるのは変質した体液によって生き、普通の下着にも付着している、目に見えない極微動物にちがいないと思われる。
ここには中途にミアズマ説が顔を覗かせているが、全体としては極微動物を介する接触伝染説が雄弁に語られている。この説はブルトノー(1771-1862) を経てヤーコブ・ヘンレ(1809-1885) へ継承されるが、そこには実験などの裏付けがないので受け容れられない。著者が「本当の先駆者」と呼ぶのはダヴェーヌとヴィルマンである。炭疽3)の研究に専念したダヴェーヌは、同僚のレイエとともに炭疽で死んだヒツジの血中に「糸状の小物体」を発見する。彼らは同じ頃のパストゥールの酪酸発酵素に関する研究に触発されたというが、ともかくその桿状菌が災禍の原因物質に違いないと確信し、これを「炭疽バクテリディ」と命名した。
同じ頃、パリの病院でヴィルマン(1827-1892) が結核研究に取り組み、数匹のウサギに結核感染させる実験を行い、その伝染性を明らかにした。しかも後述との関連で重要なことは、結核は消化管からも感染すること、瘰癧は局所的結核であることなどを証明したことである。(第7章)
1) «germe»[ 􀀀rm] は現代フランス語では、生体の萌芽、植物の胚芽、複数形では、微生物、細菌、病原微生物などを云うが、ここは微生物学の確立以前であるので、訳者は「生物の原基形態」を意味する「種細胞」なる語を、川喜田愛郎氏『パストゥール』から借用して当てたという。
2) 真に残念なことに著者はこの著作の出典註をつけていない。巻末の文献一覧を探してもB。 サン􀀀ピエールの項目が見当たらないので、いつ、どこで刊行されたのは不明である。
話は前後するのだが、病気ことに流行病の原因を病原種細胞に求めるコンタギオン説よりも、人口に膾炙したのはミアズマ説、本書で専ら「瘴気説」と云われる考えであった。それは2000年も昔にヒポクラテスが唱えた説であり、人々の感性にもよく適合してパストゥール革命以後も信じられたようである。瘴気は、本来は動植物の腐敗から生じ、病気を起こさせるガス状の流体とされたが、大地の裂け目、淀んだ水、墓場からも発散されるという具合にどんどん拡大解釈された。その典型はマラリヤであり、mal=悪い、aria=空気、つまり「悪性の空気」という原義であり、とくに夕方から夜にかけて沼地から発散される毒性の強い空気が、この厄病を起こさせると長らく信じられていたのである。医者は季節ごとの大気の変化と病気の関係を熱心に探り、瘴気の存在を確認しようとした。4) 1879年にパリに発生した疫病(具体的には明示されない)と1882年の腸チフスは、ともにモンマルトル墓地の掘り返しによる瘴気の発生に原因があるではないかと疑われた。
瘴気説は拡大解釈されただけではなく、面白いことにパストゥールによる大気中における種細胞の存在を証明するための実験とその結果が、「一時期瘴気と微生物とのあいだの神聖な同盟関係」を強化すらしたことである。19世紀第3四半期になるとパリの不衛生はいよいよ抜き差しならぬ状態になり、人間排泄物の腐敗と悪臭、その典型としての貧民の不衛生な住宅が、瘴気を発生させる根源だとして指弾されるのである。5)(第6章)
3) 炭疽(病)とは、炭疽菌の感染によって起こる人獣共通感染症で、ヒトの病型には皮膚炭疽、腸炭疽、肺炭疽があるが、自然感染の95% 以上が皮膚炭疽である。ウシなどの草食獣に較べてヒトは比較的抵抗性が強いと云われる。ヒト及び動物の自然感染は偶発的に摂取・接触した芽胞が原因であり、炭疽菌が個体から個体へと直接伝播することは殆どないという。[国立感染症研究所学友会編、2004、p150] ヒトの罹る肺炭疽もしくは吸入炭疽は、「羊毛選別者病」とも呼ばれ、ヒツジやヤギの毛を選別する作業者が、獣皮や毛に付着する炭疽菌の芽胞を吸入することにより発症するという。[トニー・ハート、2006、p100]
4) 19世紀初めのフランスの医者オザナンは、炎症性の病気は春に多く、下痢・赤痢・胃熱は夏に、あらゆる種類の熱病は秋に、カタルと風邪は冬に多いという。パリの死亡統計を纏めた19世紀半ばのフランスの医者トゥレビュシェも、主要な病気死亡をさまざまな観点から分析しているが、月別変動にも注意を向けていることに私はかつて違和感を覚えたが、それもこうした文脈に置いてみれば納得できる。[Trébuchet、 1849]

5) ある医者は、自分の患者が産褥熱に罹った原因を、トイレと下水を繋ぐ鉛管に開いた穴からもれる悪臭だと推論した。これを受けて著者は「当時はこうした議論のせいで下水道直結式水洗便所が大いに恐れられた」いうが、これは論理的に考えても事実の点でも疑問があるので後段で改めて考えたい。
次いで本書では悲劇の人、イグナツェ・フュレップ・ゼンメルワイス(1818-1865) が紹介される。ウィーン総合病院に勤務していた彼は、多くの妊産婦が産褥熱には罹って死亡するのを見てさまざまな処置を試みるが効果がない。友人医師の死から突然ひらめいた彼は看護婦や医師たちに塩素消毒の徹底を指示し、この病気の死亡率を大きく引下げることに成功した。だが上司の教授のねたみを買って解雇されただけでなく、彼の研究も学会では認められず不遇のうちに47歳で死ぬ。この部分は読み物としてはたいそう面白いが、本筋からは逸脱していると思える。というのは、叙述の流れとしてここでは病因としてのミアズマ(瘴気)説に対置される、汎種論的病原種細胞ないしは生物伝染説、あるいはコンタギオン説が語られるべきところなのだが、ゼンメルワイスは産褥熱の原因について、「腐敗中の有機物質」とりわけ「生きた有機物から出てくる血膿の混じった分泌物」を指摘するものの、「いくつかの講演のなかで微生物のことは一言も語っていない」からである。ついでに云えば著者自身も産褥熱の原因6)を医学的に説明してはいないので、なおさら本筋との関連が稀薄に思える。
6) 産褥熱puerperal fever、 fièvre puerpérale とは、分娩によって生じた子宮、膣、外陰部の創傷が細菌感染して発症した病気の総称で、外陰炎、膣炎、子宮内膜炎、骨盤結合織炎、骨盤腹膜炎、血栓性静脈炎などがある。通常産褥10日目までに2日間以上に渡り38℃ 以上の発熱をきたす。起炎菌はグラム陰性桿菌が主で、グラム陽性球菌、嫌気性菌も多い。局所の感染からリンパ行性に蔓延し、腹膜炎、敗血症などを起こすことがある。抗生物質の発達により最近では本症での母体死亡は0。002% 以下となった。[最新医学大辞典、2000、p647]  
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以上の布石の上に本題が展開される。第2部及および第3部の主人公はパストゥールであり、彼の研究と業績を軸に微生物学、細菌学が語られる。
フランス本国ではパストゥールが政治的に利用されたためにパストゥール神話が生まれ、随分と出鱈目な言説も目に付くという。また近年まで未公開だった彼のノートが明るみに出たこともあって、彼の協力者エミール・ルーの低すぎる評価を正すという意味でのパストゥール伝説修正の動きもあるようだ。だが、我々外国人読者にはそのことに深入りする必要も意味もない。
パストゥールは医学の人ではない。そのことが彼を偏見から自由にし、次々と偉大な発見に導いたのかもしれない。彼はストラスブール大学理学部から1854年にリール大学理学部教授兼学部長に転じ、さらに57年にはパリの高等師範学校理学研究科長へと鞍替えしている。この間の彼の研究はもっぱら発酵学に集中したようである。当時は化学界の大物ふたり、ドイツのリービヒとスウェーデンのベルゼリウスが化学反応への信仰を樹ち立てており、パストゥールの目指した生気論、発酵現象は省みられなくなっていたが、彼は実業界の要請もあって発酵の仕組みの解明に取り組み、次々と酵母菌を発見してゆく。1858年(1857?) にはリールで乳酸酵母を発見しその純培養に成功する。1860年には酪酸発酵の研究中に、酸素が必要な「好気性ビブリオ」と、これを嫌う「嫌気性ビブリオ」の二種類の微生物を発見する。食酢のなかには酢線虫がいることは知られていたが、パストゥールはこれとは別の微生物、ミコデルマ・アセッティ=酢酵母を発見する。これがアルコールを食酢に変える働き手であることを見抜き、その純培養に成功し食酢産業に計り知れない富の源泉を約束する。
1860年英仏通商条約によって、フランス産ワインはイギリスに輸出され市場を獲得する筈だったが、予想に反した結果を招いたのは、輸送によりワインが劣化し酸敗したためであった。ナポレオン3世の委嘱を受けたパストゥールは、ワインの酸敗はこのミコデルマ・アセッティの働きであることを承知していたから、その抑制方法をあれこれこれ試行錯誤したあげく、ワインを55℃ で1分間熱処理する保存方法を開発した。(第10章)
パストゥールの酵母研究は一個の必然としてかの「自然発生」の難問に彼を導く。スパランツァーニの実験以来1世紀が経過していた。この時代自然発生説の大御所は、ルーアン大学医学校教授兼博物館館長を務めていたフェリクス・アルシメード・プーシェ(1800-1872) であった。パストゥールは大気中の種細胞が菌や微生物などの有機物を発生させるに違いないと考え、実験を繰り返した。彼は、パリ天文台地下室の空気やアルプス山中の空気を、殺菌したフラスコに採取して実験を行い、大気中の種細胞の濃度が場所により濃淡の差があることを見出した。ある時は殺菌したフラスコにビール酵母を、ある時は血液、尿、牛乳のような腐敗し易いものを入れて、恒温器に置いておく。だが数日経っても汚濁や汚染が生じないことを確認する。どうやらプーシェとパストゥールの論争は1862、63年頃には決着がついた模様である。つまり生命あるいは種細胞は無からは生じないこと、生命の源には空気中に存在する種細胞が関与していることが明らかになったのである。科学アカデミーもパストゥール説を認める。(第9章)
だが、種細胞は病気とどのような関係があるのか。1863年ナポレオン3世に謁見したパストゥールは、「私の抱いている大それた願いは腐敗と伝染を惹き起こす病気の原因を突き止めることに尽きます」と決意を語る。
最初に彼が取り組んだ病気がカイコ病(微粒子病)であった。フランスはイタリアと並んで西欧では養蚕の盛んなところだが、19世紀半ば頃からカイコ病が流行していた。養蚕業者は汚染されていないところから種を取り寄せて凌いだが、第二帝政期には日本を除くほとんどの地域でこの病気が猛威を振るっていた。1865年には日本幕府が健康な種をフランスに送ったが、やはり第2世代にはこの病気が現れてしまった。−実際は最初の種も微粒子病に冒されていたことが後に判明する−。パストゥールは全く養蚕の知識がなかったので現場を見て歩き、農民からの聴き取り調査を繰りかえし、彼らのそばに実験室を設けて研究に打ち込んだ。農民はこの病気が瘴気に因るもので、カイコのペストかコレラに違いないと信じていた。カイコ病は、幼虫の体に黒胡椒のごとき黒い染みが現れ、幼虫から蛾になるまでどこの段階でもカイコを襲い死に至らしめる。パストゥールは顕微鏡観察でそれらが微粒子によるもので、それは養蚕室の埃にたくさん居ることを突き止める。消毒が行われ成果を挙げたのだが、ある標本には微粒子病とは違うカイコ病が広がっているのを確認し、その追究に乗り出す。それが軟化病とよばれるもので、この病気のカイコの消化管に一種のビブリオが棲息していることを発見した。彼は健康な蛾のみを繁殖用にまわし、そうでないものは製糸用にまわす選別法を農民の伝授し、養蚕業を救ったのである。彼はカイコ病研究を公刊し、またその功績により勲章を授与される。(第11章)
病気は大気中などに散在する病原微生物により起こるのではないか、という考えは実際に医療の現場で活動する医者によっても共有され始めた。エディンバラ大学、後にグラスゴー大学に転じた外科医ジョゼフ・リスター(1827-?) は、外科手術後に傷口が化膿しやがて壊疽となって命を落とす患者を前に、これは大気中や死骸から出る種細胞によるのではないかと考え、傷口を石炭酸で消毒し包帯を施しよい結果を得る。これは1世紀前にかのゼンメルワイスが行っていたものだった。だがリスターはゼンメルワイス同様に医学界で評価されなかった。パリの勤務医アルフォンス・ゲランも壊疽を防ぐ方法として、空気を遮断する綿入り包帯を考案し、実施してそれなりの好成績を収めていた。医学アカデミーは門外漢が病気や病因について語ることを許さない雰囲気に満ちていたが、なかにはセディヨー博士のようにパストゥールの研究を肯定的に評価する学者がいた。彼は1879年の講演でパストゥールの外科学への貢献を認め、これまで各人が命名していたバクテリア、バクテリディー、ビブリオ、ウィルスなどを一括して「細菌microbe」と呼ぶことを提示した。(第12章)
細菌学の扉は開かれようとしていたが、これを完全に押し開けたのがパストゥールとコッホによる炭疽研究である。炭疽は前述のように西欧の農場で猛威を振るいウシとヒツジに甚大な被害を及ぼしていた。レイエとダヴィーヌが炭疽で死んだヒツジの血中に「小さな桿状菌」を見つけていたが、1850年ごろには彼らはそれが病気の原因だとは考えなかった。だがパストゥールの研究に触発され、「炭疽バクテリディー」はビブリオの仲間ではないかと考え、病気との関連を実験で明らかにしようと10年間苦闘したが、人を納得させるに十分な論証は得られなかった。この隘路を打開したのがコッホとパストゥールである。コッホは1875年にこの問題に挑み、二枚のガラス板に挟んだ小さな窪みのなかで炭疽菌を培養し、顕微鏡観察でそれが激しい勢いで細胞分裂し増殖するさまを見た。別の方法で純培養したこの桿状菌を健康なハツカネズミに注射すると24時間で炭疽により死亡した。この細菌叢はやがて星座の如き芽胞の集合体となり、炭疽菌よりもはるかに強い毒性を長く持つことが分かった。コッホは翌年この研究成果を学会誌に発表した。パストゥールも農商務相の委嘱を受けて1877年に炭疽研究に関わる。彼は一徹なドイツ嫌いであったがコッホの先の論文は評価して、その実験を再現し、炭疽が血液の中の無定形の化学性毒素に因るものだという通説を実験によって覆した。彼は生理反応の仕組みを解明して云う。炭疽菌は好気性で酸素がなければ生き延びられない、だから赤血球から酸素を奪う、すると赤血球は窒息し黒変し、それで血液や内臓が炭化する、と。彼はまた血球の凝集を菌の分泌作用の結果だと見抜き、後に「細菌毒素」と名づけられる。(第13章)
だが炭疽の伝播とその防疫は不明である。パストゥールはシャルトル近郊7)に研究基地を構え二人の助手を使ってその解明に尽力する。伝播の仕方は、炭疽で死んだ動物の死骸を埋めた地表には炭疽の芽胞が出ており、これを知らずに食べたウシやウマが、消化管にちょっとした傷があるとそこから感染することが判明する。さらに多くの失敗と試行錯誤を経てパストゥールらはワクチン開発に成功するのだが、その動物実験には逡巡があった。つまり毒性の強いワクチンでは動物が死んでしまうからである。この時、併行して探求していた鶏コレラでの偶然の結果が役立つ。苛性カリで中和され殺菌されたニワトリの筋肉ブイヨンの管理を、助手シャンベルランが失念したのだが、休暇から戻ったパストゥールがこれをニワトリに接種すると、ニワトリは不快を示すがコレラに罹らない、次に毒性の強い培養液で試すとこのニワトリは死んでしまう。これにヒントを得たパストゥールはさまざまな培養液で実験を繰り返し、終に弱毒化されたワクチンを造るのに成功したのである。これはまさしく著者が云うが如く、細菌馴致技術の完成であった。偶然得られた鶏ワクチンではあるが、その偶然を見逃さなかったのはパストゥールの慧眼であった。
この経験が炭疽ワクチンにも活かされてムロンの牧場で大がかりな公開実験が行われる。1881年5月5日、ヒツジ20頭、牝ウシ5頭などにワクチンが接種される。5月17日には2回目のより強いワクチンが接種され、さらに5月31日には致命的なワクチン接種がなされる。同時に対照実験動物にも同じワクチンが接種される。不安と焦燥の48時間が流れたあと吉報がパストゥールに届く。実験は見事に成功を収めた。ワクチンを接種された動物は元気だったが、対照実験動物は地に斃れてしまった。彼は一挙に栄光の階段を上り詰める。レジヨン・ドヌール一等勲章が授与されたのである。(第14章)
7) 細かいようだがパストゥールの研究基地が、「シャルトル地域にあるサン􀀀ジェルマン􀀀ラ􀀀ガティーヌにあるマヌーリ牧場」に置かれたとあるが、この地名は少なくとも現在の地図には見当たらない。これはもしかして、シャルトル市西方にあるサン􀀀ジェルマンルガィヤールSt-Germain-le-Gaillard の間違いではないかと思われる。  
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パストゥールとコッホにより開拓された細菌学は、独仏を中心に19世紀末には大きく開花する。ドイツは細菌の同定技術に優れ、フランスは弱毒化で名人芸を誇る。第15章では主にフランスの微生物学派の研究者の経歴や人となりが、第16章では彼らの日常生活が語られる。パストゥール、コッホのほかエミール・ベーリング、エミール・ルー、アルベール・カルメット、アレクサンドル・イェルサン、メチニコフ、シャンベルランなどが登場人物であり、それぞれに個性的で起伏に富んだ人生行路を歩むところが面白いのだが、本稿では学問上の功績との関わりで言及するに止めたい。
細菌学のヒトの病気への応用は未だ手つかずのままだったが、先陣を切ったのはコッホである。1882年に顕微鏡で結核菌が芽胞を出して繁殖するさまを観察し、それを培養して実験動物に接種して病気を再現すること、つまり同定に成功した。確かに前述の如く1860年代後半に、ヴィルマンがウサギの動物実験で結核(というよりも労咳、より正しくは肺癆phthisie)の伝染性を証明したが、彼はその正体を突き止めてはいなかった。肺癆はそれまでは熱病に分類されており、その病因は古来より種々唱えられてはいたが、この頃優勢だったのはパリ大学医学部ペテール教授の説で、それは遺伝性の、体質的な「病弱性」による疾病の一つであった。コッホは細菌同定の有名な三原則(本書では三つのテストとなっているが、普通は三原則と云われる)を主張する。1病変部に病原菌が存在することの確認、2その病原菌の培養、3動物への培養菌接種によるもとの病変の再現、である。
彼はこれを1883年に発表しセンセイションを惹き起こした。パストゥールとコッホは1882年9月にジュネーヴ国際会議で顔を合わすが、両者の間にはナショナリズムも災いして軋轢が生じた。この段階では両者は冷静に互いの研究を評価する気持ちにはなれなかったようである。それはともかく、パストゥールはその間も独自に極めて実際的な研究に取り組んだ。それが産褥熱と豚コレラの研究であった。産褥熱の細菌を顕微鏡観察で発見し、ゼンメルワイスの仕事を知らずに消毒の重要性を認識するに至り医者や看護婦にその実践を求めた。豚コレラは一種の腸チフスであるが、その病原菌をウシのブイヨンで培養・分離し、弱毒化されたワクチンづくりに成功した。
19世紀前半の最大の災厄は恐らくコレラの世界的流行だろう。8) 1848−54年にヨーロッパを襲った三度目の世界的流行のとき、イタリアのパチーニ(1812-83) がS 字状の微生物を発見しているが、それを病因に関連づけようとするのは1879年のことである。だが彼は同定することはできなかった。1865年にパストゥールらもパリ市立病院でコレラ患者の血液や糞便を検査するが、微生物を発見できなった。1883年エジプトで大流行が起こると、仏独はすぐさま調査隊を派遣した。パストゥールは医者ではなかったので調査隊の頭に据えることに異論が出て準備は滞った。現地アレクサンドリアで仏独調査隊はそれぞれ独自に調査に当たったが、ドイツ隊のコッホがコレラ患者の糞便中に大量のコンマ菌を見出したのに対し、フランス隊は発見できず、コッホ説を退け血液検査に集中したという。ドイツ調査隊はエジプトからコレラの本場インドに足を伸ばし、そこで死体解剖とその鏡検、病原菌の生体分析と行動研究、殺菌テスト、土・水・大気調査、疫学研究などを行った。こうしてコンマ菌(コレラ菌)が同定されると同時に、水や下着などを介して伝播する疫学的解明もなされた。(第17章)
8) 著者は、コレラが1830年に初めて「インドというゆりかご」を離れて突如移動を始め、世界的流行を惹き起こしたというが、これは誤りである。周知のように最初の世界的流行は1817−18年である。但しこのときはまだコーカサス山脈を超えてヨーロッパに侵入することはなかった。ロシア、北欧、さらに西欧全体に波及するのは、1930年の世界的流行である。差し当たり[見市雅俊、1994]を参照せよ。パリへの波及は1932年春であるが、これについては[大森弘喜、2004]を参照せよ。なお本書ではpandemie、 pandemicを「汎流行」と訳出しているが、これは読者になじみのない用語であり−手元の『広辞苑』と『大辞林』には「汎流行」は載ってない−通常の「世界的流行」と訳出したほうがよいだろう。
19世紀を代表する結核とコレラの二大疫病でコッホの後塵を拝したパストゥールだが、動物病の研究では上述のように炭疽、鶏コレラ、豚コレラなどの解明に成果を挙げていた。その延長線上に狂犬病研究がある。狂犬病は確かにフランスでは滅多に見られなくなった病気だが、当時のロシアなど途上国では未だに犬に噛まれて命を落とす例が少なくなかった。感染した犬に噛まれると5〜6週間の潜伏期間の後、その箇所に痛みとかゆみを覚え、やがて突発性の発熱、水を飲んだり見たりすると喉頭が痙攣し−狂犬病の古名「恐水病hydrophobie」はここに由来する−光や風も恐れるようになり、聴覚・視覚の幻覚症状が現れ、精神錯乱のうちに3、4日後に死ぬ、恐ろしい病気である。9) この恐怖心が多くの迷信を生み−例えばイヌに噛まれた人が四足で歩いたりベッドの下に隠れたり、牝ウシ、ブタ、イヌに噛まれた人はそれぞれ噛んだ動物の叫びや動作をまねる等−その原因も、「想像力の興奮」とか、閉じ込められたイヌの性的抑圧に由来するなど諸説があった。
1879年にピエール・ヴィクトール・ガルティエが、ウサギがイヌよりも接種を受け容れ易いことを見抜き、狂犬病に罹ったウサギの唾液を健康なウサギに接種して伝染させたと発表した。彼はまた狂犬病の病原体は口腔・咽頭部粘膜にあると推定した。
パストゥールは獣医プーレルの協力を得て実験を繰りかえすうちに、狂犬病の棲息源は口腔・咽頭部ではなく、神経系とりわけ延髄にあることを突き止め、実験でこれを確認する。この病気の研究上の障碍は潜伏期間が5週間と長いことであったので、彼は病原体を直接イヌの大脳に接種することを考え、助手のE。 ルーに手術を任せた。2週間でイヌは発病し、潜伏期間は半分に短縮された。狂犬病の病原体は余りにも微小であり、当時の顕微鏡ではパストゥールをもってしても発見できなかった。だが彼はウサギの脳髄で病原体を培養するという大胆な方法を考えつき、これをデリケイトな仕方で弱毒化し、狂犬病ワクチンをつくることに成功した。だが治験の必要があった。彼は後援者の一人であるブラジル皇帝に、恐ろしい手紙を出し、死刑執行直前の囚人にそのワクチンを試したいとまで訴えている。だが思わぬ偶然から彼は治験の機会を得た。10歳の少年がイヌに噛まれて狂犬病の症状を呈し始めているので助けて欲しいと、パストゥールの許に主治医からの頼みがあった。パストゥールは最初はもっとも弱いワクチンを、その後は徐々に強いワクチンを、最後には「一日苗の骨髄」を少年に接種する。不安と苛立ちの40日が過ぎ、少年はすっかり回復した。かくて1885年8月20日は記念すべき狂犬病征服の記念日となった。(第18章)
9) 狂犬病のフランス語«la rage» は、「激怒、狂躁、激痛」の意味を表すが、それはまさしくこの病気の症状そのものである。
微生物学あるいは病原細菌学が着々と地歩を築き、コッホやパストゥールが社会的栄誉を受けると、これを嫉みその説に反対する人々が最後の抵抗を試みた。ドイツでは、細胞病理学を異所性や異時性に還元していっそう不可解な説をこしらえ上げたフィルヒョウ(ウィルヒョウ)(1821-1902)や、独特の環境論で流行病とくにコレラの発生と土壌の関係を論じたペッテンコファーがそれである。イギリス医学会は、概して瘴気説の立場を固持していたが、例えばインド衛生局長のカニンガム博士は、一貫してコレラの伝染性を否定した。だが、それは純粋に学問的立場によるというより、コッホが見抜いたように経済的動機に影響されたものであったろう。10)
フランスではパリ大学医学部ペテール教授の回りに反パストゥール陣営ができる。その矛先はパストゥールの開発した狂犬病ワクチンに向けられた。彼らは成功例を貶め、失敗例を過大に吹聴し、その有効性を否定しようとした。だがペテール教授は自ら実験の労をとることなく、文学的言辞で皮肉と批判を繰り返すだけであり、パストゥールは「あなたが私どもにいくつかの実験結果を知らせてくれるようになったら議論に参加したい」と一蹴した。11) もはや誰の眼にも勝敗の帰趨は明らかであった。伝統的な瘴気説と旧套墨守の臨床医学は病原細菌学の前に崩壊したのである。(第19章)
10) コッホは云う、「カニンガム博士やインドの国立機関がそう主張するのは、大英帝国の真珠であるインドを世界市場から孤立させたくないからである」と。これに関連して云うなら、国際衛生会議では、1851年の第1回パリ会議以降一貫してコレラ防疫が議題となるのだが、大英帝国は半世紀に亘りコレラの伝染性を否定し、病因としての瘴気説を支持し続けた。それはひとえにヒトとモノの自由な流通を疎外してはならない、という経済的自由主義ないしは自由貿易が国是であったからである。[N。 ハワード・ジョーンズ、1975]を参照せよ。
11)「巨人たちの一騎打ち」と題されたこの部分は、1887年7月の医学アカデミーでのパストゥール陣営とペテール陣営の論争を、直接引用文で叙述しているのだが、その出典が明示されていないのは残念である。ずっと先の方にある『フィガロ』紙だろうか。またたびたび引き合いに出されるペテール教授の著作は、巻末の文献一覧を探しても見あたらない。彼は主要論文を公表していないのだろうか。
狂犬病ワクチンを求めて世界各地から高等師範学校のあるユルム街に、押し寄せた。パストゥールは医者ではないので接種は彼の片腕のグランシェ博士が行い、彼は遠来の患者を接待したという。このためユルム街の研究所はますます手狭になり新研究棟の建設が望まれたが、パリ市議会はパストゥールが王政主義者であることに難色を示し、その監督権を求めようとしたので一悶着があったが、結局、研究所は公教育相の管轄下に入ることになり法人格も得た。建物建設のための寄付金はフランスのみならず外国からも寄せられた。ボンマルシェ百貨店創設者の寡婦ブシコー夫人は見ず知らずのパストゥールの寄付要請に、100万フランの小切手を与えたという。「貧者の一燈」も枚挙に暇なく、また感動的な逸話に満ちているが割愛する。こうして1888年パリ15区デュトー通りに新パストゥール研究所が開設され、教育と研究そして治療の殿堂となった。これに倣ってフランス国内だけでなく、世界の主な都市に、さらにフランス植民地の都市に−サイゴン、安南、ハノイ、チュニス、アルジェなど−同種の研究所が設置され、疫病の研究と治療に貢献する。(第20章)
19世紀末から20世紀初頭にかけて微生物学あるいは狭義の細菌学は、相次いで重要な発見をなし、人類に福音をもたらした。ジフテリアは別名「クループ」とも呼ばれ、12) パリでも地方都市でも、ドイツの主要都市でも、幼児死亡の首位を占めていた。本来の偽膜性喉頭炎であれば、典型的な症状として咳や嘔吐によって羊皮様の膜が吐き出されるが、これが困難な場合は気管支を切開したり、献身的な医者のなかには自分の口を当てて嚢腫を吸い出そうとした。後者の場合は医者が感染し命を落とすことも珍しいことではなかった。先ずクレープスが偽膜のなかにバチルスを発見し、その10年後にレフラーがこれとは別途に顕微鏡観察で桿菌を見つけその同定に成功する。彼ら二人の名前をとって「クレープス・レフラー菌」と命名された。これを受けてパストゥールの弟子二人ルーとイェルサンは、一連の実験研究でその「毒素」を突き止める。この研究を継承し発展させたのがコッホの弟子ベーリングであった。助手北里柴三郎の協力のもとにベーリングはジフテリアの血清研究に打ち込み、終に1890年には完成し、92−94年の間に2万人の子どもがジフテリアから治癒した。同じ頃コッホは後述する事件で苦杯をなめていたから弟子の成功を快く思わず研究所から追放してしまう。だがベーリングはその功績を認められて1901年にノーベル賞に輝く。破傷風の血清研究と開発では北里柴三郎が主導的役割をつとめた。彼は破傷風菌の純培養に成功し、感染のメカニズムを明らかにした。
腸チフスも19世紀を代表する病気で多大の犠牲を出していた。フランスでは結核、小児病、心臓病についで高い死亡率を記録している。1880年にエベルス(エベルト)により腸チフス菌が発見されたが、同定はできずにいた。これを成し遂げたのがヴィダルで、彼は「血清診断法」を確立した。20世紀初めにはその継承者らにより、腸チフスワクチンが開発されている。ところで、著者は、腸チフスの猛威がオランダ、ドイツとくにイギリスでは比較的に軽微なのは、「この病気の毒性がおそらく気候のせいで二から三分の一まで弱まっている」 からだ、と云うのには少なからず疑問を覚える。これでは著者が批判してきたヒポクラテス主義に回帰してしまっている。後述の細菌との闘い、つまり公衆衛生的な改善とも矛盾するだろう。(第22章)
12) それはスコットランドの方言で、子どもがしつこい咳をしつつ苦しい呼吸をするときに、鶏がなく声に似ているところからきた擬声語である。
さて、著者に云わせれば「微生物学における最大の錯覚」がコッホのリンパ液開発であった。コッホは1882年に結核菌を発見し、その後血清もしくはワクチンの開発に努力を傾注していたが、1890年の国際医学会議の席上、「生体内で結核菌の侵攻を食い止める」物質を発見したことを表明し、センセイションを引き起こした。世界も歓呼をもって彼を賞賛した。だが彼はその組成を決して明らかにしなかった。最初の治験では結核の進行を食い止めることにはそれなりの効果が認められた。ベルリンには世界中のジャーナリスト、結核患者、医者が押し寄せホテルは満杯となった。帝都はいまや「奇跡の都」と化した。リンパ液は品薄となり、投機が横行し、ヤミで儲ける医師まで現れる始末であった。だが興奮の後に幻滅が生まれた。リンパ液の投与を受けた進行性結核患者の中に再発する事例や、気管支炎など余病を併発して死亡する事例がでた。外国からも悲劇的結果が伝えられるに及び、リンパ液の使用中止を求める声が上がった。やがて一転してジャーナリズムは医者の職業倫理を問題にし始める。コッホ自身もその効能を否定し、1891年初頭にリンパ液の正体は「結核菌の純培養から抽出したグリセリン・エキスである」ことを告白した。(第21章)
コッホが十分な治験も経ないリンパ液を、結核治療の特効薬のように発表した背景には、細菌研究における仏独間の先陣争いと個人的な嫉妬が絡んでいた、と著者は云う。ドイツは細菌発見ではフランスに先んじたが、ワクチン開発では遅れを取っていた。ドイツ宗務・公教育相がコッホに圧力をかけて、ベルリン医学会議での治療薬開発の発表を急がせたという。 個人的な事情としては、弟子ベーリングによるジフテリア血清開発への嫉妬があった。自尊心を傷つけられたコッホが功をあせり、冒険にでたとの説である。
ところで、著者は「当時結核は人口の四分の一、いくつかの統計では三分の一もの人々の命を奪っていた」と述べているが、これは飛んだ勘違いか、重大な誤植かであろう。19世紀末のパリでは年間平均1万人程度の結核死亡を数えるが、その死亡率は人口10万人あたり400〜500つまり0。4%〜0。5% である。A。 カルメットがフランスで最初の無料結核療養所を開いたリールもまた、結核が猖獗をきわめる都市であったが、結核罹患率は2。4%(人口25万人、結核患者6千人)、結核死亡は総死亡の25% である。[R。 H。 Guerrand、 1985、 p79]13) ここでも著者は出典を上げていないが、きちんとした統計データに依拠すべきであろう。
しかしコッホのリンパ液は決して無駄ではなかった。再び結核菌への挑戦が開始される。結核菌は蝋様のねっとりとした物質で身を守っており難攻不落であることが判ってきた。またそれまでは呼吸器疾患と見なされ、コッホも勘違いしていたのだが、ベーリングやカルメット、ヴァレの研究により乳児期に、腹部のリンパ節に止まって後、肺に転移して病変をつくることが判った。大袈裟に云えばヨーロッパ・アメリカの研究機関がこぞって結核撲滅の方法を研究したが、容易にワクチンをつくることはできなかった。カルメットとゲランはコッホの実験結果に注目した。一度結核感染したモルモットは注入箇所にわずかな潰瘍が形成されるだけで、数日後にはそれも壊死するというものである。二人は子ウシの実験で「初感染」したものはその後結核感染に強い耐性を示すことを見出した。彼らは、グリセリンを5% 混ぜたウシの胆汁をジャガイモに浸し、その上でコッホ菌を継代培養させて毒性を失わせる、だが皮下反応では感作能力を示す、そうしたバチルスをつくり出した。これが名高いBCG、 Bacille de Calmette–Guerin である。第一次大戦中に子ウシに試され好結果を得たBCG ではあるが、ヒトの乳児への治験が行われたのは1921年になってからであり、かの「リューベックの事件」後になってその効果が認知され、今日のように普及するのである。カルメットとルーは奇しくも1934年相前後して力尽きて逝去する。(第23章)
13) この点から判断して上記の文章は、「人口の」ではなく「総死亡の」四分の一の誤りではないかと思われる。
ヨーロッパでの細菌研究が一段落したこともあり、研究者の視線は外に向けられる。それはヨーロッパの二度目の対外膨張、新植民地主義と符節を合わせている。その限りでは植民地帝国主義とヒューマニズムの邂逅とも云える。本書では熱帯における代表的病気の考究が叙述されるが略言するに留めたい。マラリヤは前述の通り瘴気説を代表する病気であったが、住血原虫が原因で起こること、メスのハマダラカが宿主であることが、ラヴランにより証明される。また、睡眠病はツェツェバイの腸の中に住む病原微生物トリパノゾーマが原因で起こることが判明する。西インド諸島から北米さらにアフリカ大陸に広がった黄熱は、フィンライによって熱帯シマカが原因と判明する。本書には明記されていないが、熱帯シマカは宿主であって病原体はアルボウィルスの一員である黄熱ウィルスである。[トニー・ハート、2006、p39] 中世ヨーロッパで猖獗をきわめたペストが香港に姿を現したのは1894年であった。14) パストゥール研究所のイェルサンはルーの命を受けて現地に赴き、困難な状況のなかペスト菌を発見した。同じく日本政府から派遣された北里柴三郎は、著者によれば発見した肺炎双球菌をペスト菌と思い込んだという。イェルサンは血清をつくり、広東でペストに罹った若者に接種し絶大な効果を発揮した。(第24章)
14) マクニールによれば、ペストの常在地はヒマラヤ上流域で19世紀初頭には汚染と非汚染の境界はサルウィン河上流域であったが、1855年雲南省の叛乱を鎮圧するために派遣された政府軍が無知だったためペストに感染し、中国に持ち帰り各地に広めた、と疫学的推測をしている。「マクニール、1985、p141」
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第T篇が微生物学と病原細菌学の歴史であるとするなら、第U篇は病原細菌学をめぐる公衆衛生の歴史である。著者はこれに「細菌汚染との闘い」という表題をつけている。「かつては礼儀作法の問題であった清潔さが公衆衛生の問題となる」のだが、衛生の要請は往々にして贅沢や経済的繁栄と衝突する。但し、著者が「細菌学の時代とともに公衆衛生の大事業が始まる」というのは、明らかな事実誤認であろう。これについては後述する。
第4部は「水の呪い」とおどろおどろしい表題がついているが、要は「きれいな水を求めて」の苦闘の歴史であり、主な舞台はパリである。パリの飲用水は19世紀初頭までは、セーヌ河から取水され砂利と石炭で濾過された水か、湧水を引いた公共噴水泉であったが、人口が増加するに従い水需要が増大すると、ウルク運河の水が利用されるようになる。19世紀半ばに人口が100万人を超えるのに対応して水供給総合会社が設立され、遠くセーヌ河、ロワール河上流域から導水される。本書の主題との関連では、ウルク運河の水は云うに及ばずデュイとヴァンヌ両導水路の水も、見た目は澄んで冷たく飲んで美味しいのだが、すでに取水源で大腸菌などを含んでいたという。衛生学者らはそれゆえ水の浄化に挑み、消毒やさまざまな濾過法が試みられたあげく、19世紀末にオゾン処理法が開発されて飲み水の安全が確保されるようになった。
パリの、そして恐らくはフランス主要都市の水事情に特有なことは、個人消費よりも公共的消費が際立って多いことである。1880年時、パリの1日当たり水供給35万􀀀の内訳は35% が個人用、65% が公共用である。著者は水の需給構造にはあまり関心を示さないが、それは公衆衛生
の観点からもっと考究されてよかったのではないか。確かに著者も供給会社と契約し家庭に水を引くのは利用契約が掛かることを指摘しているが、私はそれ以前に建物の構造上の制約に伴う経済的理由があると考えている。19世紀までの古いタイプの庶民向けアパルトマンには、調理用の流しも、況や浴室、シャワー室などはなかったので、各戸に水を引くためには改築する必要がある。15) さらに使用した水が増えてくれば排出設備も必要になる。少しの排水なら道路に捨てればよいが、まとまった廃水は折から整備された地下暗渠の下水道(後述)に排出しなければならない。それらの改築工事費用はかなりの額に上る。更に本管接続料金も毎月掛かる。「上下水道」と一括りで呼称されるように、それは一体化されたシステムなのである。改築の経済的負担は建物所有者や家主に改築を躊躇わすに充分であった。−もともと割高なパリの家賃に転化するなら借家人の反撥と抵抗を招くのは必死である−。水消費のこの特有な事情がその公的消費を増やす。パリ市民は外で食事をし、用便を済ませ、公衆浴場で身体を清潔にする。加えて水は道路清掃にも大量に使用されるのである。(第25章)
15) 19世紀パリの多くのアパルトマンで水まわり設備が不備であったという事実には、我々と基本的に異なる調理・食事様式と、パリの社会的分業の程度、すなわち家庭生活の外部依存の程度も関与していたと思われるが、この点に関しては[大森弘喜、2003]を参照せよ。
パリでも地方都市でもトイレの不備は際立っていた。大都会で人間排泄物の処理ほど厄介な問題はないかもしれない。「フランドルの肥料」と云われるくらいだから、フランス北部では屎尿が発酵された後、肥料として農業に利用されていたようだが、果たしてパリではどうだったか。著者は1875年の乾燥人糞の生産量は30万hl というが、それがどれほどの重みを持っていたかは不明である。愚考するに、さほど商売上のウマミはなかったのではないか。でなければ汲取り人が汚物をセーヌ河などにたびたび不法投棄する事件など起こらなかったろうし、ボンディの森に投棄された屎尿が溢れ出て耐えがたい悪臭を放つこともなかったろう。パストゥールが心配するように、人間排泄物には1􀀀当たり8万個の病原菌とさまざまな寄生虫が棲息している。農学者は惜しむが衛生学者や細菌学者はその迅速な排出を奨める。パリに20世紀初頭まで残る固定式便槽こそ悪臭と伝染病の源であり、その改善が種々試みられる。可動式便槽、ソニュル方式、濾過桶、ムラ便槽などであるが、いずれも切り札とならない。(第26章)
公衆衛生の観点からは水洗便所がもっとも清潔であり、疫病予防に効果的であるのは、昔も今も異論がないだろう。そこで行政当局はパリ都市改造事業の眼目として暗渠式下水道の整備を断行し(著者の云う「ベルグランの剣の威嚇」)、下水本管への接続を促し、やがては義務化する。だが建物所有者や家主はこれに抵抗する。汚水を大きな下水導管でセーヌ河に排出するのは、この河をドブに変えることだから、市民の間にも反発があったのは頷ける。それがいわゆる「分離方式」−別途汚水専用の導管をセーヌ河に併行して造り、英仏海峡へ排出する−の提唱になるのだが、その工事は途方もない費用を要すること明白で廃案になる。結局パリの下水道直結方式=「何もかも下水道へTout-à-l’égout」が普及するのは第一次大戦後、イギリスにおよそ半世紀遅れてのことである。(第27章)
さて、その理由をどう説明するか。著者は農学者、家主、医者、市民の反対連合が水洗化に抵抗したと云い、第27章に「下水道直結方式の一大恐怖」という表題をつけて、そこにある合理性を認めているようだが、本当にそう云えるのか。著者は、イギリス人医師の発言16)やイギリスの医学雑誌『ザ・ランセット』の記事を引用しつつ、下水道のガスや臭気が家庭内に入り込むのは危険であるだけでなく、それがパリ市民に恐怖を与えている、と云う。また前述の脚注5)にあるように、下水道の悪臭が産褥熱の原因だと指摘する医者もいた。だが、暗渠式下水道が市民に恐怖を与えているとは思えない。昔ながらの固定式便槽が溢れ垂れ流し状態となっていることの方が、はるかに臭くて危険に違いない。建物所有者と家主らが便所の水洗化に反対する最大の理由は、前述の通り経済的な負担増であり、さらにその背景にある私的所有への公権力介入への反撥であると私には思える。
セーヌのドブ川化を防ぐ方法が撒布式下水処理であり、パリにはたまたまジェヌヴィリエに広大な空き地があった。下流住民の悪臭への苦情はあったが、この方式は下肥として野菜栽培にも有利に作用するかに見えた。だが時を経るに従いその不都合がはっきりする。パリの下水排水量が年々増加し、それに伴い新規に撒布場を確保するのが難しくなってきたからである。さらにある種の蔬菜にとって、水肥えはいつもは要らないし、生野菜にとっては細菌汚染が心配されたからである。(第28章)
16) フランスの下水道には換気装置がないし、家々には遮断装置やサイホンさえないので、下水道から逆流する瘴気と細菌を吸い込んでいると、イギリス人医師は批判するという。細かいようだが文中の「サイホン」‘siphon’は読者に誤解を与えかねない訳で、この部面では「防臭用排水管のS 字管」のことである。
この難問を解決するのが生物学的浄水場である。液体部分を腐敗槽に流し込み細菌で分解し、濾床では硝化作用をもつバクテリアにより硝酸塩に変えて無害化する。第一次大戦前夜にはこの方式が完成し、きれいな水を求める闘いは完了するという。(第29章)
第5部は「きれいな空気を求めて」と題され、産業公害からヒトの習慣・礼儀作法の無思慮が槍玉に挙げられる。パリは一面では工業の街でもあり、石鹸・蝋燭・肥料・皮革などの工場が立ち並び、そこから排出される質の悪い石炭煙が空中に漂い停滞し、呼吸器疾患をつくりだす。死亡率上位を呼吸器系疾患−肺結核・肺炎・気管支炎など−が占めるはそのためである。(第30章)
第31章から34章までが結核の蔓延と空気との関連が叙述される。埃は細菌の媒介物であり揺りかごである。一昔前の日本人同様フランス人もしきりと痰を吐いた。それが乾燥して埃に運ばれて結核を感染するので、当局は痰を吐くこと禁じ、また民間にも「客痰反対同盟」などが結成される。痰壷が初めて出現するのは1896年のことだが、当然評判が悪い。始末する人はその不潔さに辟易する。我々日本人に驚きなのはフランス人がハンカチに痰を吐き、それをポケットなどに仕舞い込んで何度も使用するというくだりである。不潔極まりなく、結核感染源のひとつとなる。17)(第31章)
17) ハンカチをフランス語では‘mouchoir’と云うが、それは動詞‘moucher’から来ている。つまり「洟をかむ」ための道具である。著者もその不潔さを自嘲を込めて、「ずっと以前使い捨てハンカチ(鼻紙)を発明した日本人が、鼻水を後生大事に身につけて保存しているヨーロッパ人を見たら馬鹿にしたかもしれない」という。英語の‘handkerchief’ は、ハンカチ、襟巻き、頭巾などの意味で、「洟をかむ」意味はないようだ。
マカダム式道路−スコットランド人マカダムが発明した、細かく砕いた石と砂をローラーで固めた道路−が結核菌を含む埃を舞いあげるとしてここで非難されている。衣服に付いた細菌とくに結核菌が室内に入ってヒトに感染させるからである。そこでパリでは木の舗装道路、コルク舗装、ガラス舗装など試みられるが、切り札となったのは1902年に登場したタール舗装であった。(第32章)
住居も感染源の一つで、靴底に付いて室内に撒き散らされる病原菌の45% が結核菌だという。とくに床、壁掛け、ソファなどが結核菌の巣窟だと指摘される。1902年に真空掃除機が発明されて居住空間の埃除去は解決されたという。(第33章)
だがパリの結核死亡率は20世紀初頭になっても低落しない。著者は、デュメニルのガルニ調査や衛生記録簿などの調査から、パリには不衛生住宅や街区が存在しており、高い結核死亡を記録している、だがパリ市当局の住宅改善命令や居住禁止命令が奏功して結核死亡率を10% も減少させることに成功した、などと賞賛している。(第34章)
だがここには多くの点で事実誤認があるので指摘しておこう。第一に、「1906年からベルティヨンによって創設されたパリの家々についての衛生記録簿」とあるのは、かのCasier Sanitaire des Maisons のことを指していると思われるが、この創設者はP。 ジュイラであり、それは1894年である。ついでに云うと著者はこのジュイラの有名な著作や論文に眼を通していない。この部分はJ。 クセルゴからの孫引きらしい。第二に、「結核死亡率が10% も減少した」というのはE。 カシューの論文に依拠したもの言いだが、これも当たらない。第一次大戦前にはパリに所謂「結核感染地区」が7つあるが、これは減少するどころか第一次大戦後には二倍余になっている。結核との本格的な闘いは実は第一次大戦後に開始されるのである。それは既に示唆したように、建物所有者が不衛生の箇所の建築改善に従おうとしないからである。その理由はいろいろ挙げることができようが、彼らが公権力の私的空間への介入を受け容れないためである。仮令罰金を科されようと……。さらに大がかりになる水まわりの改築・改善にはそれなりの費用負担が生じるからである。
「危険な場所、危険な職業」がいくつか挙がっているが、第6部「細菌の媒体」と内容が重なるのが屑屋である。1880年代パリにおよそ5、500人を数える屑屋はよく組織された職業であり、よく云えば「パリの胃袋」の最終処理人であったが、彼らの自宅兼仕事場はまさに不衛生の極みであり、さまざまな病原菌の巣窟であった。パリの結核死亡率が大体400前後であるとき、彼らのそれは1000前後の高率に達していた。だが第一次大戦前後には次第に郊外へと追いやられてゆく。もう一つ「ぼろ切れ」のような結核循環に組み込まれたのが洗濯女であるが、割愛する。(第36章)
最後に動物の危険、人間の危険が説かれるが、これは現在の途上国の実情そのものであり、一つ一つの駆除というよりも全体としての都市衛生設備の構築によってしか駆除できない問題であることが分かる。(第37、38、39章)
エピローグではペニシリンなど抗生物質の発見により、難病のいくつかが治癒可能となり、またストレプトマイシンにより結核が克服されたことが指摘される。だが感染症はなくならない。それは著者が云うように「体質の転換か、麻薬の使用、性的自由などにより出現したのかもしれない」 
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大掴みでこの大部な書物を要約的に紹介した。第T篇が細菌発見に至る医学史であり、第U篇が公衆衛生史に属する。19世紀末に確立する病原細菌学が、17世紀オランダのレーウェンフックに淵源を発するとは新鮮な驚きであり、この辺りの叙述は見事である。17世紀から20世紀初頭までおよそ300年に亘る微生物学・細菌学の歴史を描いた類書は少ないので、本書の刊行は大変に意義深いと思われる。我が国には川喜田愛郎氏の『近代医学の史的基盤』上下という素晴らしい書物があるが、やや専門的であるのに対し、本書は私の如き門外漢でも分かり易く面白く読めた。その前提で注文を云うなら、現代の読者に馴染みの薄い病気については、簡単な説明が注記に欲しかった。何度か出てくる産褥熱も、結局その症状も病因もどこにも説明がない。パスゥールは消毒の必要性をすぐさま認識し、関係者に徹底させたらしいが、その病原菌を発見したかどうかも定かではない。
本書の圧巻はやはり第2部および第3部のパストゥール革命と微生物学の確立の部分であろう。豊富な資料を駆使してパストゥールの活躍が詳細に描かれており、大変に面白い。冒頭に記したように結核菌やコレラ菌の発見ではコッホに先んじられたけれども、パストゥールは決して狭い意味での細菌学には縛られていない。彼の偉大さは因習や狭い学問的常識に捉われずに、自由に発想したことにある。理学出身だったことも幸いした。さらに、カイコ病、食酢やワインの発酵、炭疽、狂犬病研究で示されたように、実際的な関心と問題に取り組んだことも彼の素晴らしい長所に挙げられる。本書ではパストゥールの手紙などが随所に織り込まれ、その事情が浮き彫りになる。反面、事の本質から逸れてしまう印象を受けたが…。
さて幾つかの感想めいた論評を云うなら、第一に、医学と公衆衛生学との関連でやや歴史的・論理的理解に疑義がある。著者は「細菌学の時代とともに公衆衛生の大事業が始まる」と云うが、これは事実に反する。イギリスでもフランスでも既に19世紀初頭から公衆衛生的事業が始まっていることは、著者自身の叙述にも明らかである。フランスでは七月王政期ランビュトー知事の下で暗渠下水道の事業が始まり、オスマン知事の下で完成したことは周知のことだし、イギリスでもかのチャドウィックによる衛生工学的都市改造が実行された。公衆衛生事業の論拠は何か、と云えば優勢になりつつある瘴気説であった。もう一つの病因学説、コンタギオン説あるいは生物伝染説は、折から勃興してくる産業ブルジョワジーの経済的自由主義とは相容れなかった。なぜなら、コンタギオン説に依拠する衛生施策は、隔離と消毒であったが、とくに隔離は自由な経済活動を阻害し人権を抑圧するものとして忌避されたからである。本書で云うように、自然発生に関わる汎理論も瘴気説を掩護したから、19世紀末まで公衆衛生事業は瘴気説に依拠していたと云ってもよいかもしれない。
理論的に考えても、公衆衛生学は医学を基礎にしているが、決して医学の僕ではない。医学は厳密科学であり、病気の因果関係が学問的に立証されねば手術も処方もできないが、公衆衛生学は医学的立証が不充分であっても、何らかの対策を講じることができる。その限りでは疫学に準拠していると云ってよいだろう。本稿を執筆している今、インフルエンザの特効薬タミフルを服んだ少年たちが、高いところから飛び降りるなど異常行動をする事件が相次いで、その因果関係をめぐり厚生労働省の見解は右往左往している。すなわち医学的には因果関係がない、と否定したかと思うと、その翌日には、否定はできない、調査する、10歳代の服用は差し控えよ、などと声明を出している。確かに医学的に云えば厳密な因果関係は立証できないので、タミフルを有罪とはできないのだが、疫学的観点では因果関係が疑われればタミフルは嫌疑濃厚であり、その使用を中止することが上策なのである。
つまり、公衆衛生事業はけっして細菌学の確立を待って始まるのではないのである。この点の事実認識と理論的無理解があるのだろうか、第U篇の叙述はやや散漫で纏まりを欠く印象を受けた。
第二に、出典注記に関して問題が多い。パストゥールの宿敵で本書にたびたび登場するパリ大学教授ペテールの論文・著作などが一点も明示されない不思議、同様にドイツの大気論者ペッテンコッファーのそれも注記がない。『フィガロ』などの新聞記事で済まされているのは頂けない。彼らが著作・論文を全く公表していないとも思えない。現代の医学史家アッカークネヒトの有名な論文が参照されてないのも残念である。その出典注記の仕方も不完全であり、著者名が明記されていないものが多い。
さらに第U篇では多用される公衆衛生の二つの専門雑誌、Annales d’hygiène publique et de médicine légale『公衆衛生及び法医学年報』と、Revue d’hygiène et de police sanitaire『衛生および衛生警察誌』がごちゃ混ぜになって記載されており混乱をきたす。すなわち、本書ではAnnalesd’hygiène publique et de police sanitaire と、Revue d’hygiene publique et de police sanitaire となっている。
第三に、著者の歴史論理を形づくる上で忽せにできない点での不正確さが気になる。一つは前述したがレーウェンフックを「病因学の先駆」「最初の細菌学者」と呼ぶことへの著者の矛盾した記述である。二つは、パストゥールが最初に乳酸酵母を見つけた年が、「1858年[ママ1857?]」と記述されていることだ。これは科学史上忽せにできないことではないか。「?」は恐らく訳者が付けたものだろうが、是非正確な年次を特定して欲しい。これは細かすぎる疑問だが、p621 のクロ地方を走る鉄道が「マルセイユ􀀀リヨン鉄道」とあるが、恐らくはPLM 鉄道、すなわち「パリ􀀀リヨン􀀀地中海鉄道」の路線であろう。
最後に、翻訳はこれほど大部なのに殆ど誤訳らしいところがなく、実に読みやすい。訳者の力量に感心するとともに、その労に感謝する。だが二、三、気がついた箇所を指摘しておきたい。p564 他で目につく「県参事会、市参事会」は恐らくConseil général、 Conseil de Paris の訳語かと思われるが、「県議会、市議会」の方が良いのではないか。p480 他の「アントワッペン」は明らかなミスで、英語風に「アントワープ」か、現地語の「アントウェルペン」かにすべきだろう。地名で疑問なのは、p495「フランクフルト􀀀ユーバー􀀀マイン」で、これは地図を探しても見当たらない。
「フランクフルト􀀀アム􀀀マイン」とは違うのか。単純な誤植はp572、オスマン知事の「在位1953-1970」で、これは1世紀ずれている。
こうした点を割り引いても、本書がフランス医学史と公衆衛生史研究を一層推し進めたことは間違いない。 
 
何が生物学を独自なものにするのか

 

What Makes Biology Unique? Ernst Mayr
訳者まえがき / 本書は、Ernst Mayr が晩年(2004 年)にCAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS から出版した生物学論に関するエッセイ集である。原題は、“What Makes Biology Unique?:Considerationson the Autonomy of a Scientific Discipline”。Mayr は2005 年に他界しているので、亡くなる1年前に出されたことになるが、著者Mayr は実に1904 年生まれであるから、この著書はちょうど百歳になった年に出されたものということになる。
Ernst Mayr(1904−2005)は、1904 年7 月5 日にドイツに生まれ、1926 年にベルリン大学を卒業。同大学にてPh。D を取得後、アメリカ自然史博物館による南太平洋の生物調査に参加、1931 年に同博物館に就職しその後アメリカに渡っている。1953 年よりハーバード大学教授になり、同大学の比較動物学博物館の館長も務めた。
その間、Mayr は、鳥類の分類学的地理学的研究から始め、現代進化論確立の立役者の一人として活躍した。後年は、分類学の再興を目論んで「進化分類学」を主張し、またダーウィン進化論擁護の論陣を張り、一方で科学史や科学哲学に批判的な視点から、独自の生物学論を展開した。
今日においても、1930 年代から40 年代にMayr らが創設した進化の“総合学説”は現代進化学の基礎であり、また、Mayr が定義した「生物学的種概念」も今日の生物学者が基礎とする種概念として生きつづけている。もちろん、“総合学説”や「生物学的種概念」に批判がないわけではない。しかし、そうした批判といえどもMayr の理論を踏まえたものという意味で、Mayr の諸説は多くの生物学者に共有されていると言うことができる。
本書は最晩年に出されたMayr の生物学論であり、同様の主旨の著作が1997 年にHARVARD UNIVERSITY PRESS から“This is Biology:The Science of the Living World”という表題で出されている〔八杉・松田訳『これが生物学だ』1999 年、シュプリンガー・フェアラーク東京〕。その主旨とは、一言でまとめれば、生き物を対象とした科学には独特の問い方・答え方があり、そのためには従来の物理的な科学とは異なる概念的枠組みが必要である、ということになるだろう。
この生き物の探求における概念枠組みをMayr が論ずるとき、Mayr のダーウィン進化論についての科学史的科学哲学的な解釈が重要な役割を演ずる。とっぴな連想かもしれないが、ちょうどそれは、哲学者廣松渉にとってのマルクス論と比べられるかもしれない。
廣松にとって、マルクスの哲学は近代の真っ只中から生まれていながら、その近代を超えるものを内包していた。Mayr にとってのダーウィン進化論も、近代の真っ只中から生まれていながら、その近代生物学を超えるものを内包しており、現代生物学の思想の重要な糧になっているというものである。マルクスもダーウィンも、19 世紀のまん真ん中の西欧を生きたということは偶然ではないかもしれない。
生物学は、一枚岩の科学ではない。物理科学的な方法論で押し通せる分野と、生物科学的な独自の概念枠組みが必要な分野とがある。もっと広く言えば、つまり自然科学は一枚岩ではない。これを、遅れている分野がまだ統一されていないからだと考えるなら、それは物理還元主義と言われることになるだろう。本当は、生物学には自律的な存在意義があり、それは物理科学には解消されないと考えるべきなのである。
20 世紀最高の進化生物学者と言ってもいいだろうErnst Mayr は、生物学の独自性について幾度となく説き聞かせるように述べ続けた。しかし、その主張は、その分野から外へと広く浸透することはなかったようだ。いまだに、いや、いまやますます科学は一つというイメージが人々の頭の中に漠然と根を下ろしているのではないだろうか。
訳者が本書を訳出しようと思ったのは、生物学が一枚岩であるかのような誤ったイメージを打破する一助になることを願ってのことである。Mayr の主張に触れることによって、誰もが多くの示唆を得られることと思う。
訳文中の〔 〕は、訳者が挿入したものである。
はしがき
本書は、生物学において論争の的である諸概念についての、私の最後の概説になるだろう。私にはすでに、これらほとんどすべての問題についての出版物がある。いくつかのテーマについては、複数の論文を発表してきた。実際、私の著作目録を分析すれば、私が64冊もの出版物で種問題を議論し、また、おびただしい数の論争に参加してきたことが明らかになる。ただ、私がいま本書で述べることは、手直しされていて、より成熟した考えのものになっている。私は、自分がこれらの論争のすべてを(あるいは、ほとんど大部分を)解決したと信じるほど楽天的ではない。しかし、いくつかのかなり混乱していた論点を明快なものにしたのだとは、ぜひ思いたいものだ。
私に理解できないのは、ほとんどの科学哲学者が科学哲学の諸問題をなぜ論理学によって解決し得ると信じているのかということである。かれらの果てしない議論は、「科学哲学」誌の全号に記録されているが、それらはこれが解決に至る最良の方法ではないことを示している。一種の経験的なアプローチ(例えば、目的論についての第3章と還元〔主義〕についての第4章を見よ)が、より良い方法であるように思えるのだ。
実際、この私の判断は一つの筋の通った問いを提起する――科学哲学の伝統的なアプローチは、本当に可能な最良のものなのかどうか。もし生物学の哲学の展開を目論むならば、この可能性に立ち向かわねばならない。伝統的なアプローチは、生物学は物理的科学と厳密に同じような科学であるという前提に基づいている。しかし、この前提には疑問を呈すべき多くの証拠がある。このことは、生物学の哲学の建設のためには科学哲学の従来の伝統的なアプローチとは異なるアプローチを選択した方がよいのではないか、という難しい問いを提起する。この問いに答えるには、生物学の概念枠組みの深い分析と物理学の概念枠組みとの比較が必要である。このような分析と比較は、いままで決してなされなかったように見える。それをすることが、この本の主要な目的である。
この仕事をしている間に私は、生物学のいたるところに例えば種問題や選択の本性や還元の使用やその他いくつかの問題に関した多くの解決されていない論争があるということに気づいた。さまざまな物理的科学と比較した生物学の地位という問題を論じる前に、これらの問題を明確にしておくことが必要である。生物学のいくつかの主要な理論の反対者の中には、その基礎理論を拒絶するために小さな問題についての不明確さを逆手に利用する者がいるかもしれない。こうしたことはとくに、しばしばダーウィン主義全体を一まとめにして起こった。東アフリカの湖に棲むシクリッドの爆発的な種分化と、生きている化石における表現型の安定性との間の矛盾のように、進化現象にはいまだに不明なところがいくつもある。しかし、基本的なダーウィン的パラダイムの妥当性は今日しっかりと確立しているので、もはやそれに疑義を差しはさむことはまったくできないのだ。
とはいえ、これまでの論争的な問題については、第5章から11 章で行った批判的分析がいくつかのあいまいな論点をはっきりさせるのに役立つだろう。一見したところでは、これらの各章の話題をいっしょに提示することは、異質なものの混乱状態を産み出すように見えるかもしれない。しかし、より詳細に見れば、各章ごとの帰結は進化全体の理解にかなりの助けになるということが分かると思う。生物学の歴史と哲学の課程を教えている人々は、「ダーウィン主義の成熟」と「自然選択」と「人間の進化」についての各章がとりわけ役に立つことだろう。これらの章はまた、『進化とは何か』(Mayr、2001)で論じたこれら主題の扱いをも補足している。
序 論
私の父は大きな書庫を持っていた。職業は法律家だったけれども、彼の主要な関心は歴史と哲学に、とりわけドイツの哲学者であるカントとショウペンハウアーとニーチェにあった。ただ、ヘッケル(ベルトレッツェル)が哲学者に入らないならばだけど、私はいかなる哲学書も読まなかった。いはいえ、我が家では、哲学というものはいつも大きな敬意をもって扱われていた。哲学は、才気あふれる父方の独身の叔母のお気に入りの読書であった。
しかし、PhD 取得試験の哲学分野のための準備をしたとき初めて、私は実質的に哲学に出会った。ベルリン大学では、PhD を取得するために哲学の試験に合格しなければならないのだ。私は哲学史のコースとカントの『純粋理性批判』のセミナーを取った。率直に言って、私は本当のところ哲学とはおよそ何なのか理解しなかった。私は、哲学の何の分科で受験したいか提出する機会を与えられ、実証主義を希望して受験した。私は十分に準備ができたので、Aの成績で通過した。
勉強の結果、私は、伝統的な科学哲学は生物学との関係がもしあったとしてもほんのわずかしかない、という結論を下した。どの哲学者がもっとも生物学者の助けになるかをたずねたとき(1926 年頃)、私はドリーシュとベルグソンを教えられた。その1 年半後にニューギニアに出発したのだが、私が2年半の間熱帯地方をあちこちと持ち歩いたのは、これら二人の学者の主著だけだった。夕方、鳥の皮はぎに忙しくないとき、私はこの二人の本を読んだ。その結果、ドイツに帰るまでに、私はドリーシュもベルグソンも私の探索の答えにはならないという結論を下した。二人はともに生気論者であり、例えば“生命力”visvitalis というような神秘的な力に基づいた哲学は、私には役に立たないのだ。
しかし私は同じように、伝統的な科学哲学にも失望した。それはすべて、論理学と数学と物理科学を基礎とし、生物は機械に過ぎないというデカルト的帰結を採用していた。このデカルト主義には私はまったく不満だったし、また一方跳躍進化説に対しても不満だったのだ。私は他のどこへ向かうことができただろうか?
つづく20 年間かそこいらの間、私はあまり哲学を顧みなかった。しかしそれでもやがて、分類学理論とより一層そうなのだが進化生物学の研究が、私を哲学に連れ戻した。生物学のより理論的な分科において出会った新しい概念と原理が、生物学の本物の哲学のための良い出発点になるかもしれない、という漠然とした感じを私は持つようになった。しかしここで、たいへん用心深くならねばならなかった。私は、生気論のような罠に陥りたくなかったし、『判断力批判』でのカントのような目的論者にもなりたくなかった。ニュートンの自然法則と相容れないようなどんな原理や原因も受け入れないという決心を、私はしていたのだ。私がそこに哲学を見出すことを望んだ生物学は、まがい物でない本物の科学とみなされるものでなければならなかった。
20 世紀には『生物学の哲学』という題の本がかなりの数出版されたけれども、表題通りの中身なのはほんの一部だけだ。例えばルース(1973)やキッチャー(1984)やローゼンバーグ(1985)やソーバー(1993)の作品は、生物学的な論点や理論について論じているが、物理学の哲学の著作と同様の認識論的枠組を使用している。例えば生物集団とか二元的な因果関係(説明)とかいうような生物学の自律的な側面についての適切な扱いをそこに見い出そうとしても、無駄に終わるだろう。物理科学の哲学の方法論の多くが生物学の哲学にも使用できるとしても、生物学独自の課題を無視することは、難しい溝を放置したままにしていることになる。その基本的な哲学のゆえに、それらの本はデカルト主義と言われている。生物学の哲学を探求していた人たちは、基本的な精神として生気論的かあるいはデカルト哲学的かのいづれかの著作の間での選択をするしかなかったのである。
私はあまり本腰ではない野心だったが、その溝を埋められるような本を書こうとした。しかし、私は哲学の素養が不足していることを思い知った。その上、私の頭は、系統分類学や進化論や生物地理学や生物学史の未完成の研究のことでいっぱいだった。私は疑いもなく、自分が心に描いていたような生物学の哲学を作り上げるのを試みる立場にはいなかったのだ。
その代わりに私にできたことは、同様の本を執筆するのにまさに適任の哲学者のための基礎として役立つだろう一連のエッセイを書くことだった。私はこの20 年間、そうしたエッセイを書いてきた。ときに初期の版は、より練られたものに取り替えられた。実際、この本の12 の章のうち、4つ(第1、4、6、10 章)の他はみんな初めの出版からかなり手直ししたものである。章の表題だけを急いで見た読者は、この本が何の関連もないテーマの寄せ集めであるという誤った判断をするかもしれない。しかし、これから私が各章の簡単な説明において述べるように、こうした判断は当たっていない。
生物学史家というものは、独特の難しい立場にある。生物の世界を扱う分野はたくさんあった―生理学、分類学、医学関連の発生学―そこでは、その後生物科学の立派な構成成分になった研究がなされていた。しかし、18 世紀から19 世紀初期までは、それらは、生物学として結局は認められるようになる一まとまりの科学の一部分とはまだ見なされていなかったのだ。
分類学に偉大なる隆盛を導いたのはリンネだったけれども、生きている生物に意識を向けさせたのは本当のところはビュフォン(Roger 1997)であった。生物学という言葉は、1800年ごろ3人の研究者によって別々に創出された。しかしそれは、すでに存在していた分野ではなく、これからなろうとしている何ものかを表現していた。ついに19世紀になって、約40 年の間に生物学のすべての主要な部分が確立された。次の名前と年代が、その発展を示している。 K。E。フォン・ベア(1828)、発生学; シュワンとシュライデン(1838−1839)、細胞学; J。ミュラーとベルナール(1840 年代−1850 年代)、生理学; ダーウィンとウォレス(1858−1859)、進化論; メンデル(1866、1900)、遺伝学である。生物学はこの40 年の間に、科学の独立した分科として発展した。しかし、20 世紀の後半になるまで生物学は、科学の中で優位を得ることはなかったのである。
各章のねらい
第1章 一つの科学と諸科学
第1章で私は、生物学がたとえ物理科学にはないいくつかの特性を持っているとしても、それは真正な科学であるということを示す。しかし、肝心なことは、化学や物理学のような典型的な科学の必要不可欠な特質を生物学も持っているということである。生物学を主題とした科学哲学の分科の展開を試みることが是認されるのである。
第2章 生物学の自律性
しかし、生物学がたとえ本物の科学だとしても、他の科学には見られないいくつかの特質を持っているということを私も気づいた。つまり、この章では、生物学が自律的な科学であることを示す。残りの10 章で、生物学の哲学を研究したいと望む者ならだれでもが理解しなければならない生物学のさまざまな側面について議論する。それらの章において到達する結論は、生物学の本物の哲学の基礎を強固なものにするだろう。
第3章 目的論
生物学は、その理論枠組みから“宇宙論的目的論”が排除されるまで、真正な科学とはみなされなかった。したがって、“目的論的”という言葉が自然における5つの異なる種類の現象やプロセスのために使用されていたということを明らかにすることは、きわめて重要なことである。それらの現象やプロセスは互いに入念に区別されねばならないのである。“目的論的”と伝統的に呼ばれる現象やプロセスのうち4つについては、納得のゆく経験的な説明が可能である。それらは、自然法則によって完全に説明されるのである。しかし、5番目のものつまり“宇宙論的目的論”の存在については、いまだに証拠は見い出されていない。
第4章 分析か還元主義か?
20 世紀の半ばまで、物理主義者の重要な哲学的信念というものは、申し分のない説明をするためには現象は最小の構成成分に還元されねばならないというものであった。これは一般に、説明ということは組織のもっとも低いレベルにおいてだけでなされ得るという意味に理解された。この結論は、生物学者にとってはとりわけ困りものだった。なぜなら、組織のもっとも低いレベルへの還元ということは、生物学を捨て去り、もっぱら物理現象を相手にすることになったからだ。しかし、この章で私は、こうした還元ということは必要でないというだけでなく、実際まったく不可能であるということを示そうと思う。還元が支持されたということは、一部それを分析のプロセスと混同した結果であったのだ。分析ということは現在もそして今後もつねに、複雑なシステムを研究するには重要な方法であるだろう。他方、還元というものは根拠のない仮定に基づいており、科学用語からは取り除かれるべきだ。
第5章 現代の考え方におけるダーウィンの影響力
チャールズ・ダーウィンは、現代生物学のパラダイムが基づいている多くの概念に寄与した。それらのいくつかは長年議論の的になり、いまなお何人かの進化論者によって反対されている。したがって、生物学の自律性についての十分な理解は、ダーウィニズムの分析なしにはなされない。実際、現代生物学は、概念的に大いにダーウィン的であるのだ。以前の著作で私は、現代生物学の思考へのこのダーウィンの寄与の叙述を試みたが、生物学の哲学への重要性はたいへん大きいので、この分析を再びとり上げることは歓迎されるべきだろう。
第6章−ダーウィンの5つの進化理論
ダーウィンは一生、進化についての自分の理論を“私の理論”というふうに単数形で書いていた。しかし、いまやまったく明白なことだが、ダーウィン進化論のパラダイムは互いに独立した5つの理論から成り立っているのである。各理論の独立性を見分けそこなったことは、不幸にもダーウィン自身と彼の追随者にいくつかの誤解をもたらした。もしもダーウィンの5つの理論の本性を理解しないなら、生物学の自律性について十分に理解することは決してできないだろう。
第7章 ダーウィン主義の成熟
有力な進化論者が今日ダーウィン主義の基本的な構成要素とみなしている一連の思想と理論は、1859 年のダーウィンのオリジナルな提案といまなお著しく似ている。しかし、大半は似ているとはいえ、まったく同じというわけではない。とりわけ、ダーウィンは、“彼の理論”(単数形)が実際は5つの別々の理論の複合体であるということを理解しなかった。それらの5つの理論は、別々の時代に他の進化論者たちによって受け入れられたのであって、最終的に約80 年間の議論の後、「自然選択」が最後に受容されたのである。もちろん、「進化」そのものの受容が、他の4つの理論の受容の前提条件である。しかし、それら4つの理論それぞれの妥当性は、他の3つの理論の妥当性とは独立している。たとえ自然選択や漸進主義を拒否した人でも、種分化の理論は持つことができる。ダーウィン進化論における論争の多くは、4つのダーウィン理論それぞれの妥当性が他の理論の妥当性とおおむね独立しているという発見を無視したことに起因していたのである。
第8章 選択
この理論(あるいは一群の諸理論)は、いくつかの理由から、もっとも長い抵抗を受けた。実際、この理論についてのわれわれの現代的概念は、多くの点においてダーウィンのもともとの見解とは異なっている。たとえば、われわれは今日、選択を積極的な選択というよりもランダムではない排除のプロセスとみなしている。そしてこのことがますます、多くの逸脱した変異体の生存を促進すると思われるようになっている。さらに、われわれはもはや、変異と排除とを単に互いの対立物だとはみなさず、変種の産出とそれに続く排除の段階を1つのプロセスの2つの段階だとみなし始めている。そこには、進化プロセスの中での変異の役割についての少なからぬ不明確さが残るけれども、しかし、選択ということが進化的変化のほとんどいかなる場合にもはたらくということについては、もはや議論の余地はない。それゆえに、選択のすべての局面についての知識は、進化論の十分な理解のための基礎であるのだ。
第9章 トーマス・クーンの科学革命は起こっているのか?
この200 年間に生物学がいかに変化したかには、並々ならぬものがある。最初に1828年から1866 年の間に生物学の正当な科学としての確立があり、それからダーウィン革命があり、さらに遺伝学と新しい分類学の創出があり、最後に分子生物学革命があった。哲学者は、これらの変化の本性について深い関心をいだいている。それらの変化は漸進的であったのか、あるいは多くの科学革命の中で起こったのか? そして、もし後者ならば、それらの革命の本質は何だったのか? この200 年間における概念の変化の本質を理解しない限り、現在受け入れられている生物学の科学としての本性は理解できないのである。とりわけこの章で私が答えようと試みたのは、科学革命についてのクーンの概念は生物学によって支持されるのか否かという問いである。
第10章 種問題のもう一つの見解
たとえどんな生物学の分科に関心を持とうとも、種を研究の対象にすることを避けることはできない。種は、生物地理学の、分類学の、そしてすべての比較生物学的な分科の主要な単位である。進化は、種レベルにおける不可逆的変化によって特徴づけられる。生物学における種のこの傑出した重要性を考えると、種のほとんどすべての面についていまだにこんなにも多くの意見の不一致と不明確さがあるということに、私はほとんど恥ずかしさを禁じ得ない。種問題ほど近年多くの論文が書かれ、それでいてこれほどにも意見の一致が得られないことは、生物学の問題では他にはないのである。種の起源と本性を解明することに挑まなかった生物学の自律性についてのどんな議論も、不完全であったはずだ。私自身の記述は、この長年持続し一見解決しないような問題の根拠に焦点を合わせ、解決のためのいくつかの提案を行う。
第11章 人間の起源
ダーウィンが気づいた衝撃的な結論の一つは、次のようなことであった。ヒトという種は、ほとんどの人が信じていたように生物の世界の他のものとはまったく異なる何かなのではなく、その一部なのだ――本当は、人間の祖先は類人猿なのである、ということであった。この結論は、比較生物学と化石の記録に基づいてすでに当然のことになっているけれども、今日では分子生物学によって千倍というほどに確証されている。とりわけ興味深いことは、われわれの祖先の生活史を含む“歴史的物語”の提示によって、かなり説得力のあるヒト科の歴史を復元することが可能であるということだ。この章で示すシナリオは大部分推論に基づいているが、それらは、化石と分子生物学からの大量の証拠に対してテストし得る。私が提示した新しい“歴史的物語”は、くり返しテストされねばならないだろう。しかし、その大きな強みは、多雨林にいたチンパンジーに似た祖先がホモ・サピエンスに進化したさまざまな段階のまとまりのあるたいへんもっともらしい説を提供できるということだ。信頼できそうな復元を可能にすることが、生物学のまさに自律的な特徴なのである。それは、純粋に物理学に基づいた説明では提供することが決してできない、人間の歴史を再構成するためのしっかりとした基盤を産み出す。
第12章 われわれはこの広大な宇宙で一人きりなのか?
この問いは2000 年以上もの間、問われつづけてきた。近年の宇宙探査の当然の成り行きとして、宇宙のどこか他のところにあり得る文明との接触を試みる、明確な研究プログラムが発展した。このプロジェクトを考えた人たちは、たやすく2つのグループに分けられる。一方は楽天的な人たちで、ほとんど全部物理学関係の科学者とりわけ天文学者からなる。彼らは、地球外知的生命体の存在の探査は成功の期待が持てると確信している。もう一方は悲観的なグループで、大部分生物学者からなるが、彼らはこのような探査にはまったく望みがないという一連の根拠を提出している。この章で私は、なぜ成功の見込みがかくも低いかということについての、ふつう天文学者がかえりみない生物学的根拠を提出する。  
第1章 一つの科学と諸科学

 

生物学は科学である――この言明について議論の余地はない、それとも、あるのだろうか? この主張に関する疑問が、科学についてのさまざまな広く受け入れられている定義の間の重要な相違によって示唆されている。科学の包括的で実際的な定義は、次のようなものだろう。「科学とは、観察、比較、実験、分析、総合、概念化によって、世界についてのより良い理解を得ようとする人間の努力である。」他に、「科学とは、一まとまりの事実(‘知識’)とそれらの事実の説明を可能にする概念である」という定義もあるだろう。さらに、他にもたくさんの定義がある。最近出した本で(Mayr 1997:24-44)私は、「科学とは何か?」という問いについての議論のために1章20 頁を充てた。
科学という用語は、自然科学以外の非常に多くの人間の営為にも使用された。たとえば、社会科学、政治科学、軍事科学、またもっとかけ離れた領域であるマルクス主義科学、西側科学〔=ブルジョア科学〕、フェミニズム科学、さらにはキリスト教科学、創造主義科学といったようなものにも使われたので、いろいろ困難が生じる。これらすべての組み合わせにおいて、科学という言葉は紛らわしい包括的な意味で使われている。他方、同様に誤解を招じかねないのは、それとは対極的な見方、すなわち科学という言葉を数学を基礎にした物理学に限定する一部の物理学者や物理主義哲学者の判断である。議論の余地のない科学とそれに隣接した分野の間に境界線を引くことがいかに困難で、実際不可能なように見えるということは、大量の文献によって示されている。この多様性は、歴史的遺産なのである。
科学は、人々が世界について“いかに?”と“なぜ?”という問いを問い始めた無文字の時代に起源したと言うことができる。哲学者がギリシャや小アジアと南イタリアのイオニア人の植民地において行っていたことの多くは、萌芽的な科学であり、アリストテレスの仕事は生物学の科学のたいへん立派な始まりであった。しかし現在むしろ受け入れられている見方は、ガリレオやデカルトやニュートンによって特徴づけられる16、17 世紀のいわゆる科学革命が今日科学と呼ばれるものの真の始まりであったという見方である。その時代には、まだ無生物と生物の世界のほとんどの現象が自然的原因の用語では説明されておらず、依然として神がすべてのことの究極の原因とみなされていた。しかし、やがて世俗的な説明がはるかに広く採用されるようになり、それが正当な科学であるとみなされるようになった。この科学は主に、力学と天文学という2つの分野を扱っていた。驚くべきことではないが、その時代、科学という概念はこれら2つの物理的科学の概念であったのだ。ガリレオにとっては力学が支配的な科学であり、それは数百年間そのまま続いた。
知的生活が中世の後に復活したときには、われわれが今日科学と呼ぶものに対する言葉は存在しなかった。実際、現代人が科学と呼んでいるものに対する英語の‘science’という言葉は、非常に遅く1840 年になってヒューエルによって導入されたのであり、16、17、18 世紀の科学革命の時代には、科学というものは、学者によって非常に広くもまた非常に狭くも考えられていた。
哲学者ライプニッツは、広い概念の典型であった。彼とその支持者にとって、「科学とは、体系的にかつ高い確かさで知られた一群の教義であった。それは、より低い確かさで理解されるだけの‘意見’や、教義よりむしろ実践を伴う‘芸術’と対照をなした」(Garber and Ariew 1998)。このように考えられた科学というものは、自然科学、自然誌(医学、地質学、化学を含む)、数学、形而上学や神学的文書、西洋史、そして言語学までも包含した。この科学のきわめて広い概念化は、Geisteswissenschaften というドイツ語にいまだに生きている。英語圏の国々で‘humanities’〔日本語ではこれを人文科学と訳し、ふつう「科学」をつけている〕に含まれるすべてのものが、ドイツ語の文献ではGeisteswissenschaften〔精神科学〕と呼ばれるのだ。
これには、古典学、哲学、言語学、歴史学の研究が含まれている。結果として、ドイツでは自然科学とGeisteswissenschaften という2種類のWissenschaften〔科学、学問〕が認められた。実際、本当の科学というものに、上記の人文科学のいくつかの科目を含める正当な理由はあるのだ。それらは、自然科学と類似した方法を使い、類似した原理を採用している。このことは、2種類の科学の間のどこに境界線を引くかといった議論を引き起こした。進化生物学は概念化と方法論において歴史科学といかに似ており物理学といかに異なるかを考えるなら、自然科学と人文科学との間に明確な線を引くことが非常に困難で、実際ほとんど不可能であるということは、驚くに当たらない。たとえば、“機能生物学”と“進化生物学”の間に一線を画し、“機能生物学”を自然科学に、“進化生物学”を歴史科学に帰属させる人がいてもいい。
物理主義
一つの極端は、ガリレオ(1564-1642)の科学である。彼の時代には、一つの科学つまり力学という科学(天文学を含む)だけが存在した。このため、ガリレオは、科学というものを特徴づけるとき力学の知識に基づいて行った。力学に比肩し得る科学が他にはなかったので、ガリレオは自己の“科学”(=力学)の特徴づけに2組のまったく異なる特性、つまりどんな本物の科学にも当てはまる特性と力学のみに当てはまる特性とが含まれているのだということを理解しなかった。たとえば、力学では他のほとんどの科学と比べて数学が非常に大きな役割を演ずるが、ガリレオはその特殊性を理解しなかった。それ故に、ガリレオの科学のイメージにおいては、数学が支配的な役割を演じていた。彼が強く主張したことは、次のようなことだった。自然という書物は、「まず第一にその言語を認識し書かれている文字を読むことを学習しない限り、理解できない。それは数学の言語で書かれており、その文字は三角形とか円とか他の幾何学図形なのである。それなしでは一つの言葉を理解することも人知を超えたことになるし、それなしでは暗闇の迷宮を彷徨うことになる」(Galileo 1632〔この文章は、実際は1623 年の『偽金鑑識官』にある〕)。実際、最初は力学と比べられるような科学は他に何もなかったのだから、まったく当然のことだが、他のだれによってもいかなる区別もなされなかった。なぜなら、。ガリレオやニュートン、そして“科学革命”時の他のすべての大物たちにとっては、数学を基礎にした物理学が科学というものの手本になった。この物理主義的な解釈が、科学哲学者の思考を支配したのである。そして、この状態がその後の350 年間そのまま続いた。不思議なことに、これらの世紀においては、いまや他の科学も存在するということが、科学についての議論の中で一般にまったくかえりみられなかった。それどころか他の科学は、物理学の概念枠組みの中に押し込められたのである。数学が依然として、真の科学の目印であった。カントは次のようにいって、この意見を保証した。「いかなる科学であろうが、数学を含むような科学だけが本物の(richtig〔真の〕)科学である」。そして、物理学と数学に対するこのはなはだ誇張された評価が、今日まで科学を支配したのである。もしカントが正しいというのならば、ダーウィンの『種の起原』(1859)の科学上の位置は何だったのだろうか? そこには一つの数式もなく、ただ一つの系統図(幾何学図形ではない)があるきりなのだ。こうした考えはまた、ダーウィンの考え方に影響を与えた一流の哲学者(たとえば、ヒューエルやハーシェル)の科学哲学でもあった(Ruse 1979)。いまだにいく人かの現代の科学哲学者が、古典的な物理科学の概念枠組みに厳密に基づいた『生物学の哲学』という本を出版している(たとえば、Kitcher 1984、 Ruse 1973、 Rosenberg 1985)。それらは生物学の自律的な側面(第2章を見よ)を無視している。
そう、神はこの世界の創造者であった。直接にあるいは法則を通して、神は存在し生起するすべてのことの原因であった。ガリレオとその追随者にとって、科学は宗教の代替物なのではなく、その不可分の一部であった。このことは、16 世紀から19 世紀の前半まで事実であったし、カントを含むその時代の偉大な哲学者たちによって受け入れられていた。しかしそれでも、18 世紀から19 世紀初期に精力的に展開した科学は、それまで神の存在に訴える必要があった現象に対して次々と、自然的な説明をくわえることができるようになった。ついには、科学における数学の支配的な役割についてのガリレオの主張には、口先だけの同意が払われるのみになった。
物理主義はこの100 年間にかなり緩やかになったが、その後でも、物理主義が生物学の哲学のためにどのように確固とした基礎を提供し得るのか疑問である。物理学史家は伝統的に、1920 年代の物理学における大発見(量子力学、相対論、素粒子物理学など)の重要さを過大視してきた。たとえば、歴史家のペイズはこんなふうに述べた。アインシュタインの理論は、「現代の男女の非生物的自然についての考え方を完全に変えてしまった」。しかし彼は考え直してそれが誇張した言い回しであったことを悟り、「実際のところ、‘現代の男女’というよりも‘現代の科学者’と言った方がいいだろう」と訂正した。本当のところは、それは「物理学関係の科学者」と言った方がずっといいだろう。なぜなら、アインシュタインの理論は、他分野の科学者たちにはまったく影響を及ぼさなかったのだから。実際、アインシュタインの貢献を十分に認識するには、物理学的な思考様式と数学の特殊な科目の教育を受ける必要がある。アインシュタインの相対論とはそもそも何なのかということについて、現代人の10 万人に一人くらいは何らかの洞察を有しているだろうと推定することさえ、大いに楽天的である。本当のところ、1920 年代の物理学のほとんどの大発見は、生物学に何らはっきりした影響を与えなかった。
諸科学の増殖
16 世紀に始まった科学革命には、他のいくつかの科学の出現が伴っていた。たとえば、宇宙論や地質学のような歴史科学とか、心理学や人類学や言語学や文献学や歴史学のような伝統的に人文科学の一つとみなされていたようなさまざまな分野である。それらはすべて、その後の世紀に徐々に科学的なものになった。こうしたことは、いずれ生物学という名で一体のものとなる研究に特に当てはまった。
紀元前4 世紀にアリストテレスは、生物学への、とりわけその方法論と原理に貢献をなした。その後古代ギリシャ時代および、ガレノスとその学派によって補足的な興味深い発見があったが、生物学は16 世紀まで多かれ少なかれ休止状態のままであった。しかし、2つの遠く離れた領域において、いくつかの貢献があった。一つには、16 世紀以来、医学校で解剖学と発生学と生理学において前進が始まっていた。同じ時期に、もっとも広い意味での自然誌が、レイやダーハムやペイリーのような自然神学者によって、あるいはビュフォンやリンネのような博物学者によって、またおびただしい数の素人ナチュラリストによって促進された。
このように、17、18 世紀における生物の世界の学究たちは、医学校と博物学者(自然神学)仲間の両方で、生物学の科学のための基礎を積極的に築いた。けれども、生物学のような分野が存在したということは、歴史学者と哲学者によってほとんど例外なく無視された。『判断力批判』(1790)においてカントは、ニュートンの法則と原理の助けを借りて生物の世界の現象を説明しようとしてまったく不首尾に終わったとき、生物学的な過程に目的論を使うことによって自らのジレンマを解決した。他のほとんどの哲学者たちは、単純に生物学の存在を無視した。科学とは物理学のことだ、と彼らは単純に述べた。もっと最近のウィーン学団からヘンペルとネイゲルまでのそしてポパーとクーンまでの科学哲学者の著作は、厳密に物理科学に基づいており、物理科学に適用可能だった。C。P。スノーが〔自然〕科学と人文科学の間の溝を非難したとき、彼は実際は物理科学と人文科学の間の溝を描写したのである。彼の議論において、生物学はどこにも言及されていない。ごく最近1970年代、80 年代に、さまざまな哲学者(たとえば、Hull 1974、 Ruse 1973、 Sober 1993 )が本質的に物理科学の概念枠組みに基づいた生物学の哲学の本を書いた。もちろん、彼らは日頃、生物学よりむしろ論理学と数学の教育を受けていたのである。
いく人かの研究者は、この物理科学(しばしばデカルト主義と呼ばれた)の独占状態から脱け出した。なぜなら、これらの厳密な物理主義的試みは、生物学の哲学の適切な基礎にはならないということを悟ったからだ。しかし、彼らの提案もまた求められるような解答ではなかった。なぜなら、彼らは超自然的な力(生気論と目的論)に訴えたからであった。この生気論的アプローチの最後のよく知られた代表者は、ベルグソン(1911)とドリーシュ(1899)であった(第2章を見よ)。たとえこれらの学者が、生気論は根拠の薄いアプローチだと感づいたとしても、彼らにはより良い解答を見出すことは出来なかった。私の場合には1950 年代に、生物学に固有の概念ではなく本質的に論理学と数学に基づいた生物学の哲学へのいかなるアプローチも満足できるものではないということが明白になった。解答は生物学から到来しなければならなかったが、それを見出すために生物学は何をしなければならなかったのだろうか?
なぜ生物学はちがうのか?
遺伝学やダーウィン主義〔進化論〕や分子生物学のような華々しい発展があったにもかかわらず、生物学は物理主義的科学の一分科として扱われつづけた。数人の哲学者だけが、力学はもちろんすべてのガリレオ後の科学は、2つのタイプの属性から成っているということを理解した。1つは、すべての本物の科学が共有している特性であり、そこには“説明原理”(Mayr 1997)に基づいた知識の組織化と分類が含まれる。もう1つは、科学の特殊な分科あるいは科学群に固有な特性から成るものである。力学の場合にはそこに、数学の特別な役割と、自然法則を基にした理論と、生物学で見られるよりはるかに大きな決定論と類型的思考と還元主義への傾向があるだろう。これら力学特有の性質はいずれも、生物学の理論形成にはなんら重要な役割を果たさない。
科学哲学というものが創られ始めたとき、哲学者たちは明らかに、哲学に関する限りはすべての種類の科学は同等であるということを当然のことと思った。これが、ガリレオやカントや実際ほとんどの科学哲学者が、力学を基礎にして発展した哲学を何ら変化させずに生物学に適用した理由である。そして、同じ指針が、たとえば人類学や心理学や社会学などその他すべての科学に使われた。したがって、いまむしろ必要なことは、その科学の基本原理と構成要素が力学の説明によって、もっと広くは物理学の説明によって十分にカバーされるかどうかを確認するために、それぞれの科学を慎重に分析することである。この研究課題に対する最初の寄与として、私は生物学に関する仕事を行った。その結果は、次の第2章「生物学の自律性」で提示する。  
第2章 生物学の自律性

 

生き物の世界についての個別の科学―生物学―が認められるまでには、200 年以上の時間と3組の出来事が必要であった。それらの出来事は、以下に示すように3種類ある。すなわち、(A)ある種のまちがった原理の否定、(B)物理学のいくつかの基本原理が生物学には適用できないということの証明、(C)非生物の世界には適用できない生物学のいくつかの基本原理の独自性に対する理解、である。この章では、これら3種類の出来事の展開を分析する。生物学の自律性という見方を受け入れるには、これらの分析を行うことが必要である。生物学の自律性への初期の支持としては、アヤラ(1968)を見てほしい。
いくつかのまちがった基本的仮定の否定
この表題の下に私は、その後まちがいであることが明らかになったいくつかの基本的な存在論的原理について論じる。かつてほとんどの生物学者は、物理科学の法則によって支持されず最終的には妥当でないと分かったある種の基礎的な説明原理を容認していた。そのために、生物学は物理学と同じランクの一つの科学とは認められなかった。これと関係する2つの主要な原理は、「生気論」と宇宙的「目的論」の信念である。これら2つの原理に妥当性のないことが証明され、またより広くには、生き物の世界の現象に物理主義的自然法則と対立するようなものは何もないということが証明されたとき、生物学をもはや物理学と同等の正当な自律的な科学として認めないいかなる根拠も存在しなくなった。
生気論
生命の本性すなわち生き物の属性は、哲学者たちにとってつねに難題であった。デカルトは、それを単に無視することによって解決しようとした。生物は現実に一つの機械に過ぎない、と彼は言ったのだ。他の哲学者たち、とりわけ数学や論理学、物理学、化学に基礎を持つ人たちは彼に追随する傾向があり、生物と非生物にはまるでちがいなどないかのようにそれらを扱った。しかし、これは大部分の博物学者を納得させるものではなかった。
博物学者たちは、生き物には非生物的な自然に存在しないある種の力がはたらいているということを確信していた。彼らの結論はこうだ。惑星と恒星の運動がニュートンによって重力と呼ばれた魔術的な不可視の力によって支配されているのとまったく同じように、生物における生命の運動などの現象はLebenskraft あるいはvis vitalis と呼ばれる不可視の力によって支配されているのだと。このような力を信じた人々が、生気論者と呼ばれた。
生気論は、17 世紀初期から20 世紀初期まで広く流布した。それは、デカルトの粗野な機械論に対する自然な反動であった。アンリ・ベルグソン(1859−1941)とハンス・ドリーシュ(1867−1941)は、20 世紀初期の傑出した生気論者であった。しかし、もういかなる擁護者も見出せなくなったとき、生気論の終焉がやって来た。それには2つの要因が大きく与っていた。第一に、Lebenskraft〔生命力〕の存在を実証するために行われた文字通りいく千もの出来の悪い実験の失敗であり、第二に、遺伝学と分子生物学の方法を使った新しい生物学によって、科学者たちが伝統的にLebenskraft に訴えていた問題がすべて解決できたことである。すなわち、Lebenskraft という考えはまったく無用なものになったのである。
しかし、生気論を嘲笑するのは非歴史的な態度というものであろう。ドリーシュのような一流の生気論者のいくつかの作品を読むと、生物学の基本的な問題の多くは生物を一つの機械にすぎないとみなすデカルト哲学によってはまるで解決され得ないという点で、生気論者に同意せざるを得なくなるのだ。特に、発生生物学者たちはいくつかの非常に挑戦的な問いを発した。たとえば機械は、多くの種類の生物ができるように、失われた部品をいかにして再生できるのか。機械は、いかにして〔生物のように〕自己を複製できるのか。また〔生物なら〕接合子を産み出すために配偶子が融合するように、2つの機械は、いかにして1つに融合し得るのか。
生気論者の批判的な論理は申し分のないものであった。しかし、いわゆる生気論的現象に科学的な答えを見出そうとした彼らの努力は、すべて失敗した。そんな力は文字通り存在しないということが最終的に完全に明らかになるまで、何世代もの生気論者たちがLebenskraft の科学的な説明を見出そうとしていたずらに骨を折った。それが生気論の最期であった。
目的論
第€ÿÕÿîÿÕ¸¬ÿ二の妥当性を欠く原理は目的論である。生物学が物理学と同等な科学として認められるためには、目的論が生物学から排除されなければならなかった。目的論は、定められた終着点や目標に自動的に導かれるように見える自然の過程についての説明を試みる。ある生物種の受精卵の成体への展開〔発生〕を説明するために、アリストテレスは第四の原因すなわちcausa finalis〔目的因〕を持ち出した。結局のところ、終着点や目標に導かれる宇宙のすべての現象のために、この原因が発動されたのだ。『判断力批判』においてカントは最初、生物学の世界をニュートンの自然法則を使って説明しようと試みたが、この努力は完全に失敗した。挫折した彼は、Zweckmässigkeit(適応性)というものをすべて目的論に帰した。もちろんこれは何の解決にもならなかった。広く支持された進化学派、たとえばいわゆる定向進化論者は、目的論によってすべての前進的な進化現象を説明した。彼らは、生物的自然においては完全へと向かう固有の努力(「定向進化」)が存在するということを信じたのだ。これにはラマルクの進化理論も含まれ、定向進化説は“進化的総合”以前には多くの支持者を得ていた。しかし、哀れなるかな、かくなる目的論的な原理の存在を示す証拠はかつて一つも見出されなかったし、遺伝学と古生物学の諸発見がついには宇宙的目的論の信用をすっかり失墜させてしまった。目的論のより詳しい議論については、第3章を見てほしい。
生物学とは何か
この問いに答えようとするとき、われわれは、生物学が機械論的(機能的)な生物学と歴史的な生物学という2つのかなり異なった領野からなっているということに気づく。機能生物学functionnal biology は、生物のすべての活動についての生理学、とくにゲノムも含んだ細胞内の全過程を扱う。これら機能的な過程は究極的に化学と物理学によって、純粋に機械論的に説明され得る。
生物学のもう一つの分野は、「歴史生物学」historical biology である。歴史的な知識は、純粋な機能的過程を説明するのに必要ではない。しかし、歴史的時間の次元を伴う生物の世界の全局面を説明するにはなくてはならない。これには、今日われわれが知っているように、進化に関連するすべての局面が含まれる。この領野が進化生物学である。
生物学のこの2つの分野はまた、もっとも頻繁に問われる問いの本質もちがっている。確かに両分野とも、より一層の分析に必要な事実を得るために“なにが?”という問いが問われる。しかし、機能生物学においてもっとも頻繁に問われる問いは、“いかに?”であり、進化生物学においては、“なぜ?”という問いが問われる。もちろん、進化生物学においても、たとえば、種はいかに増加するのか?というように、“いかに?”という問いがときに問われるので、この相違は完璧というわけではない。しかし、後で見るように、その答えを得るために、とくに実験ができないような事例では、進化生物学はそれ自身の方法論、すなわち「歴史的物語」historical narratives(暫定的なシナリオである)という方法を発展させた。
生物学の本性を本当によく理解するには、生物学のこれら2つの分野の際立った相違を知らねばならない。実際、物理科学と生物学のもっとも明確なちがいのいくつかは、この分野の一方にのみ、つまり〔機能生物学に対してではなく〕進化生物学の方にだけ当てはまる。
現代生物学の出現
ほぼ1730 年から1930 年までの200 年間は、生物学の概念枠組みにおける根本的な変化の舞台となった。1828 年から1866 年までの時期はとりわけ革新的であった。この38 年間に現代生物学の2つの分野―機能生物学と進化生物学―が確立された。けれども、生物学はその後もずっと、カルナップ、ヘンペル、ネーゲル、ポパーからクーンまでの科学哲学者たちからひどく無視されつづけた。生物学者はもはや生気論と宇宙的目的論を拒絶していたのだが、生物学の純粋に機械論的な(デカルト的な)哲学にも不満だった。しかし、たとえばヨナスやポルトマンやフォン・ユクスキュールなどの著作を見れば分かるように、このジレンマからの脱出を試みた者は決まって、ほとんどの生物学者には受け入れがたいいくつかの非機械論的な力を持ち出していた。結局、解決には2つの要求が満たされなければならなかった。それは、第一に、物理学者のいう自然法則と完全に適合していなければならないということ、第二に、いかなる魔術的な力に訴える解決も受け入れられないということであった。生物学の素養がない哲学者によっては一つの解決も見出され得ないということが明白になったのは、ほとんど20 世紀の中頃になってからだった。実際、そんな哲学者の試みはなかったのだが。
生物学という自律的な科学の発展のためには、さらに2つのことがなされねばならなかった。第一に、物理科学の概念枠組みの批判的分析の遂行が必要であった。そしてその結果、物理科学の基礎原理のいくつかは生物学にはとても適用できないということが明らかになった。それらの原理は排除され、生物学に適した原理に取り替えられねばならなかった。第二に、生物学は、非生物には適用できないいくつかの付加的な原理を基盤にしているのか否かということを吟味する必要があった。このことは、当時だれもが想像したよりもはるかに基本的な科学の概念世界の再構成を要求した。1859 年のダーウィンによる『種の起原』の出版が、実際、生物学が自律的な科学としてついに確立するに至った知的革命の始まりであったということが明らかになった。
生物学には適用できない物理主義的理念
19世紀の半ばまではほとんどの生物学者にも広く受け入れられていた物理科学の基本概念の多くが生物学には適用できないということの発見において、ダーウィンの思想は特に重要である。生物学が物理科学といかに異なるかということを理解する前に、私はここで、生物学には適用できないことを論証しなければならない4つの基本的な物理主義的概念について議論したい。
1. 本質主義(類型論)
ピタゴラス学派とプラトン以降、世界の多様性についての伝統的な概念は、世界は限られた数の明確に境界を画され変化することのないイデアeide すなわち本質から構成されているというものであった。この立場は、類型論あるいは本質主義と呼ばれた。つまり、見かけ上無限に見える現象の多様さは、実際は、それぞれ類class を構成する限られた数の自然種natural kinds(本質あるいは類型)から成ると言われていた。各々の類の成員は、あらゆる点で等しく、不変で、他のいかなる本質を持ったものともはっきり隔たっていると考えられた。したがって、変異は本質的なことではなく、偶然であった。本質主義者は、この概念を三角形を例にして説明した。すべての三角形は同じ基本的な特徴を持ち、四角形や他のどんな幾何学図形に対しても明確に境界が画されている。三角形と四角形の中間というものは考えられない。
したがって、類型学的思考では変異というものを受け入れることができず、人種という誤った概念を生じさせた。コーカソイド、アフリカ人、アジア人、イヌイットというのは類型論者にとっては、他の民族集団から顕著に異なりはっきり区別される類型である。この思考様式は、人種差別を導く。ダーウィンは類型学的思考を完全に退け、その代わりに今日「個体群思考」populatoin thinking と呼ばれるまったく異なる概念を使用した(下記を見よ)。
2. 決定論
決定論的なニュートンの法則の受容の帰結の一つは、ニュートンの法則には変異や偶然の出来事のための余地が何ら残されていないということであった。高名なフランスの数学者であり物理学者であったラプラスは、現在の世界とそのすべてのプロセスについての完全な知識があれば、未来を無限に予言することができると自慢した。しかし物理学者でさえ、ラプラスの自慢話の妥当性を論破するに足るランダムさと偶発事というものの発生にすぐに気づいた。厳密な決定論と完全な予測可能性の否定が、生物学において非常に重要な変異と偶然の現象の研究ための道を開いたのである。
3. 還元主義
ほとんどの物理主義者は還元主義者であった。彼らは、一つの系を説明するという問題は、原理上その系を最小の構成要素に還元すればすぐに解決されるのだと主張した。それらの構成要素の目録を完全なものにし、各々の機能を決定すれば、組織のより高いレベルで観測されるすべてのことを説明するのも容易な仕事になるだろうと、彼らは主張した。還元主義の妥当性についての詳しい考察は、第4章を見てほしい。
4. 生物学における普遍的な自然法則の欠如
論理実証主義の哲学者、また物理学と数学出身のすべての哲学者は、自分たちの理論を自然法則に基礎づけており、それ故、その理論はたいていは厳密に決定論的である。他方、生物学においても規則性はあるが、さまざまな研究者(Smart 1963、 Beatty 1995)が、その規則性は物理科学の自然法則と同様なものであるのかどうかを厳しく問うている。この論争において一致した答えはまだ得られていない。確かに、生物学での理論構成において、法則というものは小さな役割しか演じない。生物学の理論形成において法則があまり重要でない主な理由は、たぶん生物学的な系においては偶然とランダムさがより大きな役割を演ずることにある。加えて、生きた系では多くの現象が一回的であることと、出来事が歴史的本質を持つということも、法則が小さな役割しか持たない理由である。
進化生物学では、一般化のほとんどが確率論的本性を持つゆえに、理論のテストにポパーの反証理論を適用することはできない。なぜなら、生物学では普通のことだが、ある法則に対する見かけ上の反証という特定のケースはいつもそうなるわけではなく、例外であるかもしれないからだ。生物学のほとんどの理論は、法則にではなく概念に基づく。そのような概念の例としては、選択、種形成、系統発生、競争、個体群、刷り込み、適応性、生物多様性、発生、生態系、機能などがある。
物理科学の基礎をなす上記の4つの原理が生物学には適用できないという発見が、生物学は物理学と同じものでないという洞察に多くの貢献をなした。これら生物学に不適切な理念をとり除くことが、生物学の正しい哲学の発展の最初のそしてもっとも困難なステップであった。
生物学の自律的な特徴
生物学の自律性の発展の最後のステップは、いくつかの生物学固有の概念や原理の発見であった。
生きた系の複雑性
この〔人間の生に関わる、ミクロとマクロの間にある〕中間宇宙mesocosmos においては、巨大分子や細胞から成る生物学的な系と複雑さを比肩し得るような非生物的系は存在しない。生物学的な系では、統合のすべてのレベルでたえず新しい属性群が発現するので創発特性emergent properties に富んでいる。言葉の厳密な意味での還元ということが不可能でも(第4章)、これらの系のより良い理解のためにはほとんどいつも分析が助けになる。生物学的な系は開放系である。したがって、エントロピーの原理は適用できない。その複雑性によって、生物学的な系は、生殖、物質交代、複製、調節、適応性、成長、階層的組織化というような能力を豊かに持っている。非生物的世界にはそのようなものは存在しない。
もう一つの生物学固有の概念は、「進化」evolution である。確かに、ダーウィン以前でも、地質学者は地球表面の変化について知っていたし、宇宙論者は宇宙の変化とくに太陽系の変化の可能性に気づいていた。しかし概して、世界は一定不変のもの、すなわち天地創造の日以来変化しなかったものとみなされていた。19 世紀の半ば以降、科学が生き物の世界の進化の普遍性に気づいて以来、この見方はすっかり変わってしまった(第7章)。
「生物個体群」biopopulation という概念の採用が、今日おそらく非生物と生物の世界のもっとも基本的なちがいと見られていることの原因となっている。非生物的世界はプラトンの類classes、本質essences、類型types から成っている。そこでは各類の成員はまったく同じであり、見かけ上の変異は“遇有的”なため問題とされない。それに反して、生物個体群では個体はすべて唯一性を有しており、個体群の統計的な平均値は一つの抽象に他ならない。60 億の人間に一人として同じ人はいない。全体としての個体群はその本質によって異なるのではなく、統計的な平均値によって異なるだけなのだ。個体群の属性は世代から世代へと漸次的に変化する。世代から世代へと徐々にだが絶えず変化する個体群の集合として生き物の世界を考えることは、類型論者の考え方とはまったく異なる世界の概念をもたらす。ニュートン主義的な不変の法則という枠組みが、見たところまるで必然的であるかのように物理学者を類型論者にさせる。ダーウィンはむしろさりげなく生物学に個体群思考population thinking を導入したが、これが物理科学に伝統的な類型学的思考typological thinkingとはまったく異なる概念であるということが理解されるには長い時間がかかった(Mayr 1959)。
個体群思考や個体群というのは、法則ではなく概念である。生物学の理論はたいてい概念に基づいているが、物理科学の理論は自然法則に基づいている。これは、生物学といわゆる精密科学とのもっとも基本的なちがいの一つである。生物学のさまざまな分科の理論の重要な基礎になっている概念の例としてはたとえば、なわばり、メスの選好、性選択、資源、地理的隔離などがある。確かに、適切な言い換えによってこれらの概念のいくつかは法則として表現され得るが、それらはニュートンの自然法則とはまったく異なる。
さらに、すべての生物学的過程は、非生物世界のすべての過程と一つの点で基本的に異なる。前者は「二重の因果関係」dual causation に従うのである。純粋に物理学的な過程と対照的に、これら生物学的な過程は自然法則によってばかりでなく「遺伝的プログラム」genetic programs によっても支配されているのである。この二重性は、非生物的過程と生物的過程の明確な区分を十二分にもたらすものだ。
このおそらく生物学のもっとも重要な判別上の特質である二重の因果性は、生物学の2つの分野〔機能生物学と進化生物学〕の属性である。私が二重の因果性について述べるとき、もちろんそれはデカルトの身体と精神の区別についてではなく、すべての生物的過程が2つの因果性に従うという顕著な事実について言っているのである。その一つは自然法則であり、これは精密科学の世界に起こるすべてのことを偶然とともに完全に支配する。
もう一つの因果性は遺伝的プログラムから成るもので、これは生物の世界の大きな独自の特徴になっている。生物の世界には、ゲノムに含まれている遺伝的プログラムによって多少とも支配されていないような現象や過程は一つも存在しない。いかなる生物にも、このようなプログラムに影響されない活動は一つも存在していない。一方、非生物的世界にはこれに匹敵するようなものは何もないのである。しかし二重の因果関係が、生物学の自律性という命題を支持する唯一の生物学的属性というわけではない。実際その自律性はおよそ6、7個の付加的な概念によって補強されている。以下でそれらのうちのいくつかについて議論する。
ダーウィンによって導入されたもっとも斬新でもっとも重要な概念は、たぶん「自然選択」natural selection である。自然選択は簡潔でいかにも説得力のあるプロセスであるのに、1858 年以後、進化論者に広く受け入れられるのになぜほぼ80 年も要したのかはほとんどなぞである。確かに、時とともにその過程はいくらか修正された。自然選択は厳密
に解釈すればどう見ても選択の過程ではなく、むしろ排除と、他と差のある繁殖の過程であるということを知ることは、いくらかの生物学者にとってかなり衝撃的なことだろう。
どの世代においても最初に排除されるのは、もっとも適応していない個体である。より適応した個体は、生き残りと生殖のためのより大きな機会をもつ。
何がより重要か、変異か選択か?ということについて、長年議論が闘わされてきた。しかし、もはや議論の余地はない。変異の産出と真の選択は、単一のプロセスの分けることのできない部分である(第8章)。最初の段階で、変異が突然変異と組み換えと環境の作用によって産み出され、第2の段階で、変化している表現型が選択によってより分けられる。
もちろん、性選択の間にも実際の選択が起こっている。自然選択は生物進化の駆動力であり、非生物的自然では決して見られないプロセスを表している。このプロセスによってダーウィンは、自然神学者の議論でたいへん重要な“デザイン”〔という観念〕を説明できるようになった。すべての生物が見たところ互いにそして環境に完全に適応しているという事実が、自然神学者においては神の完全なるデザインによるものと考えられていたが、ダーウィンはそれを自然選択によって同じようにうまく、本当には一層うまく、説明し得ることを示した。これは、宇宙的目的論の原理に対する決定的な論駁であった(第3章)。
進化生物学は歴史科学である
それ〔進化生物学〕は、概念枠組みと方法論が精密科学とたいへん異なる。すなわち進化生物学は大体において、恐竜の絶滅、人間の起源、進化的に新しいものの起原、進化の傾向と速さの説明、生物の多様性の説明といった一回限りの現象を扱う。法則によってそれらの現象を説明する道はないのである。進化生物学は、“なぜ?”という問いの答えを見出すよう試みる。進化上の問いに答えを得るには、ふつう実験は適切でない。恐竜の絶滅や人類の起原についてわれわれは実験をすることはできないのである。歴史を対象とする生物学の研究では実験が使えないので、注目すべき新しい発見的方法、すなわち「歴史的物語」historical narratives という方法が導入された。理論形成の多くで科学者は推測から出発し、その妥当性を入念にテストする。それとまったく同じように、進化生物学では科学者は歴史的物語を組み立て、その後その説明上の価値をテストするのである。
約6500万年前の白亜紀末期に起きた恐竜の絶滅にこれを適用して、この方法を例示してみよう。初期の説明的物語では、恐竜は免疫が獲得できなかった、とりわけ感染性の強い伝染病の犠牲者になったという説が提唱された。しかし、このシナリオに対して多くの重大な異論が提起され、それは新しい提案すなわち、絶滅は気候の激変によって引き起こされたという説に置き換えられた。ただ、気候学者も地質学者もこのような気候上の出来事にいかなる証拠も見出すことができず、この仮説も放棄されねばならなかった。しかしながら、物理学者ウォルター・アルヴァレスが恐竜の絶滅は地球に小惑星が衝突した結果引き起こされたという仮説を提唱したとき、すべての観察がこの新しいシナリオに適合したのだ。このアルヴァレスの理論は、ユカタン半島に衝突によるクレーターが発見されたとき、さらに一層強化された。その後の観察でも、この理論に対立するようなものは一つもない。
歴史的物語という方法は、明らかに歴史科学の方法論である。実際、進化生物学は科学として、多くの点で精密科学よりも精神科学Geisteswissenschaften によく似ている。精密科学と精神科学の間に境界線を引こうとすると、この線は生物学の真ん中を貫通し、機能生物学は精密科学に属し、進化生物学は精神科学に分類されることになるだろう。ちなみに、これは科学の古い分類の弱点を示しており、そのような分類は物理科学と人文科学には熟知しているが生物学の存在には無知な哲学者によってなされたものであった。
観察は、物理科学においても生物科学と同様に重要な役割を演ずるが、物理科学と機能生物学でもっとも頻繁に使用される方法は実験である。一方、進化生物学では歴史的物語をテストすることと、さまざまな証拠を比較することがもっとも重要な方法である。この方法は、物理主義的な科学においては、地質学や宇宙論のようないくつかの歴史に関わる分科でのみ使用される。歴史科学における歴史的物語の重要な役割は、これまで哲学者によってほとんど完全に無視されてきた。他方、生物科学においては比較解剖学や比較生理学から比較心理学まで、歴史的物語よりもおそらく比較ということがさらに重要でかつより頻繁に使用される方法論であると指摘するのは重要なことである。このことはまた、分子生物学にも当てはまり、比較ということはこの分野の研究でもなくてはならない。実際、ゲノム学の多くは塩基対の配列の比較から成っている。
偶然
自然法則というものはふつう、物理科学においてかなり決定論的な結果をもたらす。しかし、自然選択も性選択もそのような決定論を保証することはない。実際、進化過程の成り行きはたいてい、多数の偶発的な要素の相互作用によって決まる。機能的および適応的成り行きに関して、偶然は変異の産出という点でよくはたらく。減数分裂の最中、還元分裂において偶然は交差と染色体の動きの両方を左右する。奇妙なことだが、自然選択の理論においてもっとも頻繁に批判されたのは、この偶然の側面であった。たとえば地質学者のアダム・セジックなど何人かのダーウィンの同時代人は、いかなる説明においても偶然に訴えることは非科学的であると表明した。実際のところ、ダーウィン革命の特質はまさに変異の偶然性にある。今日でもなお、進化過程における偶然の役割については多くの議論がある。もちろん、最終的な決定権はいつも選択が持っている。
全体論的思考
還元主義は物理主義者の公然たる哲学である。すべてのものを最小の部分に還元し、それらの属性を決定する。そうすれば、あなたは全体系を説明できるのです。しかし、生物学的系においては、たとえば遺伝子型の遺伝子間のように部分間の相互作用がたいへん多く、最小部分の属性を完全に知ることができても必然的に部分的な説明しか得られない。
遺伝子型の遺伝子間、遺伝子と組織の間、細胞と生物の他の構成要素の間、生物とその非生物的環境の間、さまざまな生物どうしの間といったすべてのレベルで見られる相互作用ほど、生物学的過程でその特質を表しているものは他にない。自然全体や、生態系、〔生き物の〕社会集団、一個体内の器官に、もっとも際立った特性を与えるのは、まさにこの部分間の相互作用である。ただ、第4章で指摘するように、還元主義の哲学を拒絶することは分析を攻撃することではない。入念な分析を通さずに複雑な系を理解することはできない。しかし、分離された構成要素の属性と同じ程度に、構成要素の相互作用を重視しなければならない。より小さな単位がより大きな単位にいかに組織化されるかということが、より大きな単位の属性にとって決定的に重要である。還元主義者が無視してきたことは、この組織化の側面とその結果生じる創発特性である。
中間宇宙への限定
人間の知覚可能性の面から見れば、世界は三つに区別され得る。一つは小宇宙、すなわち素粒子とそれらの組み合わせから成る原子内の世界である。第二は原子から銀河まで広がる中間宇宙mesocosmos、第三は宇宙的次元の世界である大宇宙である。細胞生理学ではときに電子と陽子が関わることがあるとしても、全体的に見て生物学に関係があるのは中間宇宙だけである。私の知る限り、20 世紀の物理学による偉大な発見のうち生き物の世界の理解に貢献したものは何もなかった。
観察と比較は人文科学においてもたいへん重要な方法であり、したがって、生物学は物理主義的科学と人文科学の間の重要なかけ橋の役割をはたす。生物学の哲学の基礎は、心と意識の説明にとってとりわけ重要である。進化生物学は、これらの説明において人間と動物の間に基本的なちがいはないということを明らかにした。進化的思考と、偶然と一回性の役割の認識は、今日人文科学においても高く評価されている。
このことは、生物学の哲学を物理科学の概念枠組み内で構築しようとした初期のすべての試みが、なぜかくも失敗したのかということを説明する。生物学は今日了解されているように本当はきわめて自律的な科学であり、生物学の哲学は細胞−分子レベルでの厳密に物理化学的な説明と対立するわけでないことも認めながら、第一には生き物の世界特有の性質に基づかねばならないのである。
自律的な生物学は物理学と統合できるか?
ガリレオ以後の200 年間、統一された科学というものがあった。それは物理学であった。問題を引き起こすような生物学はなかったのである。しかし、統一された科学を安心して信じることは、生物学の出現とともに次第に困難になっていった。この困難は広く十分に認識され、科学の統一を企てるための全体的組織化が開始された。これを成し遂げる方法は還元であった。この観点は、この世界のすべての形ある現象は「最後には物理学の法則に還元できる物質過程に基礎づけられている」(Wilson 1998:266)という確信に基づいていた。しかし、この主張は生物学に対するずさんな分析に基づいており、その自律的な構成要素を無視していた。このような還元が可能なのは、生物学の全理論が物理学と分子生物学の理論に還元できるときのみであるが、それはできないことだ(第4章を見よ)。ウィルソンは、このような還元を可能にする仕組みとして“符合”consilience〔知の統合〕ということを考えた。実際、彼は「符合は統一への鍵である」(1998:8)と主張した。そして、「符合は物理学の法則への還元によって成し遂げられるはずである」と言う。これは美しい夢ではあるが、生物学の自律的な特徴の中で物理学の法則と統合できるようなものはおそらくない。科学の統合の試みは、あたかも“モルガナのお化け”〔蜃気楼〕を探すようなものである。ことわざで言われるように、“リンゴとオレンジを一つにすることはできない”。
この結論は多くの帰結をもたらすのでたいへん重要である。その一つは、生物学の哲学を物理科学の概念枠組みに基づいて築くことはできないということである。また、生物学の哲学をいわば分子生物学といった生物学の一分科の説明によって表現することはできない。むしろこの哲学は、この章で示したように、生き物の世界全体の事実と基礎概念を基盤にしなければならない。
われわれには他のすべての科学についても同様の分析が必要であり、それによってさまざまな科学が共有しているものを決定することができる。しかし、この章で生物学について示したような分析は、いまだ他の科学においては着手されていない。
人間の理解にとっての生物学の重要性
1859年〔ダーウィンの『種の起原』の出版〕までは、人間は基本的に他の創造物とちがうということがほぼ完全に合意されていた。神学者と哲学者と科学者は、この点では互いに完全に同意していた。ダーウィンによるすべての種の共通の祖先からの由来の理論とその人間への適用は、根本的な変化をもたらした。その後、ヒトという種は霊長類の仲間であり、そのようなものとして科学研究の正当な対象であるということが理解された。この新しい洞察の帰結は、人類学、行動生物学、認知心理学、社会生物学の現代の発展に認められる。
おそらくもっとも衝撃的な発見は、ヒトのゲノムがチンパンジーのものと信じられないほど似ているということであった(Diamond 1992)。しかしまさしく、チンパンジーとの比較が人間についてのより良い理解を導いたのである。たとえば、チンパンジーも人間と同様の攻撃的な行動を見せることがあるという発見以後、多くの人間が生まれつきひどく攻撃的な行動の傾向を持っているということはもはや否定できなくなった。さらに、利他行動も霊長類の中で広範囲に起こっていて(de Waal 1997)、この由来が人間の利他主義の理解を容易にする。霊長類との比較によって明らかになったのは、人間を動物と同じ方法を使って研究するのが完全に正当化されるということである。したがって、人間の哲学の一部は生物哲学と融合できる。  
第3章 目的論

 

目的論的思考以上に生物学に深い影響を与えたイデオロギーは、おそらく他にはない(Mayr 1974、1988、1992)。さまざまな形で、それはダーウィン以前の支配的な世界観であった。適切なことだが、最近のいくつかの生物学の哲学では、目的論についての議論がかなりのスペース(10−14%)を占めている(Beckner 1959、 Rosenberg 1985、 Ruse 1973、 Sattler 1986)。この究極目的論的な世界の見方は、いくつものルーツを持っていた。すなわち、多くのキリスト教徒の千年王国の信仰や、啓蒙運動によって促進された進歩への熱狂、〔ラマルクのような〕変遷論的transformationist な進化説、より良い未来へのみんなの希望といったことが、それには反映している。しかし、このような究極目的論的な世界の見方は、広く採用されたいくつものWeltanschauunngen〔世界観〕のうちの一つに過ぎなかった。
世界についての3つの概念
はるかに複雑な像を大まかに単純化して見れば、ダーウィン以前の時代には世界の見方はおそらく3つに区分することができる。
(1) 比較的最近創造された一定不変の世界。これは正統的なキリスト教の教義であるが、1859 年までには、少なくとも哲学者と科学者の間ではその信憑性の多くが失われた(Mayr 1982)。この見方は、近年プロテスタントの一部の原理主義宗派によって復活させられている。
(2) 永遠で一定不変あるいは反復する世界であり、決まった方向や目標を示さない。デモクリトスとその追随者が力説したように、このような世界でのあらゆることは偶然または必然によって起きるが、偶然の方がはるかに重要な要因としてはたらく。この世界の見方には目的論の余地はなく、すべてのことが偶然か因果的な仕組みに帰せられる。それは変化を許容するが、その変化は方向性を持たず、進化というものではない。この見方は、科学革命と啓蒙主義の時代にはいくらか支持を獲得したが、19 世紀までごく少数派のままであった。しかし、17 世紀から19 世紀までにかなり顕著な分裂が起き、厳格な機械論者の間ではあらゆることが純粋に運動と力という観点から説明され目的論的な言語の使用はいかなることであれその正当性を否定されたが、その反対者―理神論者、自然神学者、生気論者―はみな多かれ少なかれ目的論を信じた。
(3) 世界の第三の見方、それは目的論者の見方であり、世界は長期にあるいは永遠につづくが向上するかまたは完全へと向かう傾向を有するものとしていた。このような見方は多くの宗教に存在し、未開の人々の信仰(たとえば、旧ゲルマン人のワルハラ神話)に広く行き渡っており、キリスト教においては千年期や復活という観念によって表現された。理神論の興隆の間、科学革命の後、啓蒙主義の時代には、神の法のはたらきを通して世界は常に完全へと向かって発展するという信念が幅広く存在した。“自然”がもつ進歩や究極目標へ向かう内在的傾向に対する信頼が存在したのだ。こうした信念は、神の手に対する信仰はないが、常に完全へと向かう世界の前進的な傾向を信じる人々によっても共有されていた(Mayr 1988:234-236)。それは宇宙的目的論の信念である。
目的論的思考は、キリスト教がその支持の主要な源泉であったが、古代ギリシャ人とキケロ〔古代ローマ人〕の初めから18、19 世紀までずっと、哲学においてもその影響力を拡大しつづけた。Scala Naturae〔自然の梯子〕という概念、すなわち完全さの階段(Lovejoy 1936)は、自然物の配列における上昇するあるいは前進する連鎖への信仰を表していた。進歩と改善への信念を表現しない哲学者はほとんどいなかった。それはまた、ラマルクによる進化の変遷transformationist 理論ときわめてよく適合し、ほとんどのラマルク主義者は宇宙的目的論者でもあったということはおそらく正しい。進歩の概念は、ライプニッツとヘルダーとその追随者たちの哲学において、そしてもちろんフランスの啓蒙主義の哲学者たちの間でとくに強かった。
T.H.ハクスレーが「『種の起原』を最初に読んだときもっとも強い」印象を受けたことは、「一般に理解されているような目的論がダーウィン氏の手によって致命的な打撃を受けたという確信であった」(Huxley 1870:330)。しかし、ハクスレーの予言は当たらなかった。おそらく非ダーウィン的進化理論のうちでもっとも普及したのは定向進化説であり(Bowler 1983:141-181、 1987)、進化の傾向は非適応的なものでさえ内在する欲求のはたらきによるということを主張した。定向進化論者の議論はワイズマンによってうまく論破されたが(Mayr 1988:499)、定向進化説はドイツにおいてばかりでなくフランス(Bergson 1911)、アメリカ(Osborn 1934:193-235)、ロシア(Berg 1926)でも大いに流行りつづけた。
そのわけはこうだ。種が不変でないこととすべての生物が共通の由来を持っていることのダーウィンの例証が進化の受容を不可避なものにしたとしても、ダーウィンの提案した進化の仕組みである自然選択説は、進化論者の中での彼の反対者にとってひどく気に入らないものであったのだ。したがって、彼らは反ダーウィンの戦略として考え得るいかなる仕組みにもしがみつこうとした。その中の一つが定向進化説であり、このきわめて究極目的論的な原理は、1940 年代の進化の総合説成立まで実際消失することがなかった。〔1940 年代になって〕シンプソン(1944、 1949)、レンシュ(1947)、J。ハクスレー(1942)は、とくに化石記録をより入念に研究すると定向進化論者が主張するような完全な定向進化的な系列はまったく存在しないということを示した。また、いくつかの見かけ上過度に見えるつくりは相対成長的な発達によって説明でき、最終的に、定向進化的な力によると仮定された形質のなかにいくつか有害なものがあるという主張は根拠がないということが示された。
これらの研究者はさらに、定向進化を説明できるような遺伝的メカニズムは存在しないということを明らかにした。
ダーウィンの支持者も反対者も、ときにダーウィンを目的論者に分類した。たしかに彼の経歴の初めの頃はそうだったが、進化的変化のメカニズムとして自然選択説を採用した後には目的論を放棄したというのが本当のところである。それが幾人かの研究者の主張のように1850 年代ほどに遅かったか、あるいは幾人かの歴史家の研究が指摘したようにすでに1840 年代初期に起きていたのかは重要なことではない。ダーウィンはとくに後年、手紙のなかでときに言葉づかいに不用意なところがあったが(Kohn 1989:215-239)、『種の起原』においては目的論を支持したということはまったくない。私は以前に進化生物学、とくにダーウィンの文書における目的論の興亡についてかなり充実した歴史を提示した(Mayr 1988:235-255)。
自然における全般的な終局目的性を説明するメカニズムの証拠を見出す努力は、すべて不成功に終わった。あるいはそれが生物界で見られる場合は、厳密に因果的に説明された(下記を見よ)。結果として、1940 年代の進化の総合説成立時までには、有能な生物学者のなかで進化におけるあるいは世界全体における究極目的因を信じる者はいなくなった。
しかし目的因は、素人にとっては自然選択という一見ひどくでたらめでご都合主義の過程よりずっともっともらしくて、感じがいい。そんなわけで、目的因の信念は生物学の内部でよりも外部でより大きな支持があった。たとえば、1859 年以後の100 年間に進化的変化について論じた哲学者のほとんどすべてが、確かに究極目的論者であった。ダーウィンのもっとも近くにいた3人の哲学者―ヒューエルとハーシェルとミル―もみな目的因を信じていた(Hull 1973)。ドイツの哲学者E。フォン・ハルトマン(1872)は究極目的論の強力な擁護者であり、ワイズマンをして猛烈な応戦に駆りたてた。フランスでは、ベルグソン(1911)がéan vital〔生命の躍動〕という形而上学的な力を仮定した。ベルグソンはその究極目的論的本性を否定したけれど、その影響を考えるなら他の何ものでもない。ダーウィン以後の哲学における究極目的論の歴史についてはコリングウッド(1945)がその端緒を開いたが、まだ書き加える余地がある。ホワイトヘッドとポランニー、そして多くの小物の哲学者たちもまた究極目的論的であった(Mayr 1988:247-248)。
しかし、進化や自然全体についての究極目的論的解釈の〔生物学内での〕否定によって、哲学の問題としての目的論が消えることはなかった。デカルト主義者にとっては、どんな形であれ目的論的過程を引き合いに出すことはまったく考えられないことであった。数学と物理学出身の彼らには、非生物的自然の見かけ上終点指向的な過程と生物的自然の見かけ上目標指向的な過程を区別できるような手持ちの概念は何もなかった。ネーゲル(1961、1977)がとくに明白に示したように、彼らはこのような区別をすることが形而上学的で非経験的な考察への扉を開いてしまうということを恐れたのであった。彼らの議論はすべて無生物の研究に基づいていたので、真に目標指向的で見たところ合目的的な過程は生物的自然においてだけに起こるという、アリストテレスに由来しカントによってはっきり確証された広く行きわたった見方は無視されたのだ。このゆえに、(物理主義的な)哲学者は生物的自然の研究と生物学者の知見を無視した。その代わりに彼らは、そのすぐれた論理的能力を発揮するために目的論を使用したのだ。なぜそんなことになったのかは、ルースによって説明されている。「哲学者を目的論に駆り立てるものは、人は生物学をまったく!知る必要がないということ、少なくとも一般にそのように考えられているということ、である……哲学者は、彼らの新スコラ学的な研究において方向をそらされるような経験的な要因を欲しないのである」(1981:85-101)。仲間の哲学者に対するこのからかいのイロニーは、そう述べたルース自身がさっそく生物学者の書いた目的論の文献を無視し、生物学を無視していることが知られている3人の哲学者の著作を概説することに専念したというところにある。けれど、そうしたことはルースひとりというわけではない。哲学の分野では、論理学というもっとも鋭い武器で目的論問題を解決しようと試みる論文や著書が次から次へと出版されつづけている。そこでは、目的論という言葉と結びついた現象の多様性がまったく無視され、またもちろん、生物学者がそれを指摘した文献も無視されてしまっている。
哲学者の困難のいくつかは、過去の偉大な哲学者の著作の誤った解釈に起因している。
たとえば、アリストテレスはしばしば究極目的論者として記録され、宇宙的目的論はアリストテレス的見方だとみなされている。グリーンが、アリストテレスの「目的因」telosは「人間あるいは神の」目的とは関係がないということを指摘したのはまったく正しい。
「アリストテレス的な自然において宇宙的目的論を優位にさせたのは(新プラトン主義の助けがあってだが)、ユダヤ−キリスト教の神であった。このような全面的な目的は、アリストテレス(の哲学)とちょうど逆のものである」(Grene 1972:395-424)。現代のアリストテレスの専門家(Balme、 Gotthelf、 lennox、 and Nussbaum)は、アリストテレスの一見そう見える目的論は生き物の個体発生と適応の問題を扱っていて、その見方は著しく近代的であるという点において意見が一致している(Mayr 1988:55-60)。カントは、非生物的世界に関する限りは厳格な機械論者であったが、当時(1790 年代)の生物学が未発達な状態にあったために説明できなかった生物的自然のいくつかの現象に対しては目的論を暫定的に採用した (Mayr 1991:123-139)。しかし、その後200 年もたって、カントの一時的な見解を究極目的論の妥当性の根拠として使用することは馬鹿げたことだ。
哲学文献における目的論の分析が不満足な状態にある理由は、今日明白である。実際、哲学文献における目的論問題の扱いは、科学哲学をどのように行わないでいるのかを示しているとさえ言うことができる。少なくともこの50 年間に相当数の科学哲学者が目的論について書いたが、それらの分析は、こうした分析にとって「最良であることが知られている」、あるいは少なくとも唯一信頼できる方法であることが知られている論理学と物理主義の方法に基づいていた。目的論はほとんどあるいは完全に生物の世界と関係しているのに、これらの哲学者は生物学者の意見を無視したのだ。
彼らは、「機能」function という言葉が2つの非常に異なった現象群を指示し、「プログラム」program という概念が目標指向性の問題に新しい観点を提供するということを無視した。彼らは、近接的な因果関係と進化的な因果関係の区別、静態的な(適応した)系と目標指向的な活動の区別を混同した。目的論問題について大量の哲学文献が存在するが、目的論をいまだ単一の現象として扱っている近年の書物や論文はまったく役に立たない。宇宙的目的論、適応性、プログラムされた目標指向性、決定論的自然法則の意味のちがいを認識しない研究者は、目的論問題の解決に対して価値ある貢献はまったくなさないのである。
伝統的哲学者の主要な努力は、あらゆる叙述と分析から目的論的言語を排除することであった。彼らは、「カメは卵を産むために岸へ泳ぐ」とか「モリツグミは冬をのがれるためにより暖かい気候帯へ渡りをする」というような文に反対した。確かに、「何が?」と「いかに?」で始まる問いは物理科学の説明で十分である。しかし、生物科学においては1859 年以降、第三の種類の問い、「なぜ?」が問われ答えられなければ説明は完全なものにはならなくなった。この問いのなかで求められているのは、進化的因果関係とその説明なのだ。
進化に関わる「なぜ」という問いを排除する者はすべて、生物学研究の広い領野への門戸を閉ざすことになる。それゆえ、進化生物学者にとって重要なのは、「目的論的」ということが何を意味しているかを明確に述べた上で、「なぜ?」という問いが分析に新しい形而上学的要素を導入するものではないこと、因果的分析と目的論的分析の間の対立は存在しないことを証明することである。私は他のところで(Mayr 1988:38-66)、「目的論的という言葉の多数の意味」について詳細な分析を提示したが、ここでは少なくとも私の所見の要点を示さなければならない。ネーゲル(1977)とエンゲルス(1982)は、私の見方のいくつかを批判した。エンゲルスの論文は、ドイツ語で書かれた目的論問題のもっとも完全な論述である。下記の記述には、これらの研究者の反論に対する私の解答が含まれている。それをする前に、私はここで最近の文献で混乱を引き起こす要素になったいくつかの前提を整理しておきたい。これによって、私は次のような主張には妥当性がないということを示せるだろう。
(1)「目的論的な言説と説明は、科学において立証不能な神学的あるいは形而上学的教義の承認を含意する」。この批判は、昔は、とくに18 世紀と19 世紀初期には本当に妥当なものだった。ベルグソンとドリーシュを含む現代までずっとつづくほとんどの生気論者に対しても妥当なものである。しかし、目的論的言語を使用するダーウィン主義者には当てはまらない(下記を見よ)。
(2)「非生物的自然に対しては同じように適用できない生物学的説明は、物理化学的説明への拒絶を惹き起こす」。これは根拠のない反駁である。なぜなら、現代のすべての生物学者は細胞−分子レベルの物理化学的説明を受け入れているし、さらに、以下に示すように生物個体における一見目的論的に見える過程は厳密に物質主義的に説明できるのだから。
(3)「未来の目標が現在の出来事を導くことはあり得ないのだから、目標指向的な過程は因果性と対立する」。この反論は物理主義者によってしばしば持ち出されるが、物理主義的な概念や理論の古典的枠組みには存在しないプログラムという概念を適用しそこなったことに起因するものである。
(4)「目的論的説明は、法則としての資格を得なければならない」。実際には、目的論的説明に法則を入れ込む試みは、混乱だけを導いた(Hull 1982:298-316)。
(5)「『目的』telos というのは、終点でも目標でもどちらでも意味する。それらは同じものだ」。それに反して、進化生物学者にとっては、目標としての「目的」と終点としての「目的」には大きなちがいがある。もし人が自然選択あるいはもっと広く進化の全過程は目的を持つのかどうかを問おうとするなら、どちらの目的のことを考えているのかが明確になっていなければならない。
「目的」telos という言葉は、哲学文献において2つのたいへん異なる意味で使われてきた。アリストテレスは、ある過程が開始されたときに通常予期される目標というように、非常にはっきりした目標をもつ過程を表すためにそれを使用した。たとえば、受精した卵の「目的」はそれが発生した結果の成体である、というように。理神論的目的論者にとっては、宇宙的目的論も明確な目標――すなわち、創造者によって心にいだかれ神の法則によってもたらされる究極的な完全無欠の世界――を持っていた。しかし、「目的」はまた、単に終点指向的な過程の終結を指すために使用されたこともある。たとえば、豪雨の「目的」は雨が止むときであるとか、昼は夜の「目的」であるといったようにだ。自然法則によって引き起こされる過程はすべて遅かれ早かれ終点に至るが、この終結のために通常目標指向的な過程の目標として使われる「目的」という言葉を使用することは、誤解を招きかねない。非目的論的過程の終点は、いわば「後に来る」posteriori 現象である。パース(1958、 vol。Z、 p。471)は、“目的論的”という用語は無生物の世界での自然過程に適用する言葉としては強すぎると悟った。そこで、彼は、「最終状態へ向かう傾向を表現するために、finious という用語を考案してもよい」と言い出した。
多くの科学哲学者は、目的論の問題は、機能の言葉で目標指向性を説明することによって― ― すなわち、目的論的な表現(Wimsatt 1970:1-80) を機能の表現(Cummins 1975:741-765)に書き換えることによって――解決され得ると考えた。このような言い換えは、ヘンペル(1965)、ネーゲル(1961)やその後の多くの研究者にも潜在的に含まれている。
彼らが、ネーゲルがしたように機能という用語に6つの意味を認めようが、ウィムサットがしたように10 の意味を認めようが、これらすべての提案は、機能という語は生物学において2つの非常に異なる意味で使用されており、目的論的な分析においても注意深く区別されねばならないことを認識していなかったという致命的な欠陥を有している。ボックとフォン・バーラート(1969:269-299)は、機能という語がときに生理学的過程に対して使用され、ときに生き物の生活環の特徴の生物学的役割に対して使用されるということを示すことによって、この事態をみごとに明確にした。「たとえば、アナウサギの脚は移動の機能を持っている……しかし、この能力の生物学的役割は、捕食者から逃れるためかもしれないし、食物源へ向かっていくためかもしれないし、(あるいは)つがい相手の探索で動き回るためかもしれない」というわけだ。器官の生理学的はたらきや他の生物学的特質の記述は、目的論的ではない。実際、大部分物理化学的説明に言い換えられる。それらは近接要因によるものである。目的論的側面の分析に関わるのは、構造や活動の生物学的役割である。このような役割は進化要因によるものである。こういうわけで、私の記述では、特徴や過程の生物学的役割に関するときは機能という言葉の使用が注意深く避けられている(13 頁を見よ)。
目的論のカテゴリー
ほとんどの哲学者は目的論を単一の事象として扱ってきた。これは、目的論的という用語がいくつかの基本的に異なる自然現象に適用されてきたという事実を無視している。こうした事情の下では、目的論の一元的な説明の追求がこれまでまったく成果をもたらさなかったということは驚くに当たらない。ベックナー(1959)は目的論を、機能、目標、意図という3つの用語で特徴づけられる3種類に区別できると考えている。この提案はいくらか現象の整理に役立つけれど、機能という用語の多義性のためにうまい解決を提示することはできない。ウッジャー(1929)もまた目的論的という語のさまざまな意味を調べ、いくつかのカテゴリーを認識する試みをしたが、それ以上は分析を進めなかった。そこで私は、哲学と生物学の文献にある目的論的という用語のすべての使用法を入念に検討して、5つに区分するよう提案する。私の提案の主要な特徴の一つは、機能のカテゴリーを真正な機能的活動に分け、生物学的役割を持った特徴の歴史に対応して適応性のカテゴリーを付加することである(Bock and von Wahlert 1969 を見よ)。したがって、私は、目的論的という語が使われているさまざまな過程や現象を下記のように5つに区別する。
(1) 終点指向的過程Teleomatic processes
(2) 目標指向的過程Teleonomic processes
(3) 合目的的行動Purposive behavior
(4) 適応的形質Adapted features
(5) 宇宙的目的論Cosmic teleology
これら5つの過程や現象のおのおのは基本的に他の4つとは異なり、それぞれまったく異なる説明を必要とする。目的論の「一元的説明」unitary explanation を見出そうとした幾人かの哲学者の試み(そのほとんど!)は、それゆえまったく思いちがいをしていたのだ。かつては目的論的と呼ばれたすべての自然現象についての科学的研究は、目的論という主題から昔ながらのなぞを奪ってしまった。伝統的に目的論的と呼ばれているこれら5つの現象のうち4つは科学によって完全に説明できるが、第5の宇宙的目的論は存在しないものだということが、今日了解されている。このような目的論の概念の明確化は、生物学はいかなる神秘的属性も持たない真性の科学であるという結論に大いに貢献したのである。
終点指向的過程
何人かの哲学者は、「さまざまな条件下で終着点へ向かって持続する」過程や、「過程の最終状態が初めの属性によって決定される」(Waddington 1957)過程を目的論的と呼んだ。これらの定義は、終着点を持つ非生物的自然のすべての過程を含むだろう。たとえば、川は海に流れ込むので目的論的と言わねばならないだろう。このような過程を生物の本当の目的指向的過程と同じカテゴリーに位置づけることは、大いに誤解を招く。
物理的世界のすべての事物はその状態を変化させる能力を与えられており、その変化は厳密に自然法則に従う。それらは、外的な力あるいは条件によって――つまり自然法則によって規定された自動的なし方でのみ、終着点指向的である。私はこのような過程を、それが自動的に達成されることを表すために「終点指向的」teleomatic と呼んだ(Mayr 1974)。すべての終点指向的過程は、潜在力が使い尽くされるとき(たとえば、熱せられた鉄の塊が冷めるとき)、あるいは外的な障害にあって過程が止められるとき(たとえば、落下しているものが地面に衝突するとき)終点に至る。重力の法則と熱力学の第2法則は、終点指向的過程をもっとも頻繁に支配している自然法則の一つである。
アリストテレスは終点指向的過程を生物に見られる目的論的過程から明確に区別し、前者を“必然によって”引き起こされるものと言った(Gotthelf 1976)。これらは大部分パース(1958)が“finious” と呼んだ過程である。それらは終着点は持つが、決して目標は持たない。「何のため?」(wozu〔何のため〕?)という問いは、そこにはそぐわない。どんな目的で雷はあの木に落ちたのかとか、何の目的で洪水や地震は何千人もの人々を殺したのかなどということをたずねることはできない。
放射性崩壊は終点指向的な過程であり、プログラムでは制御されない。ウランの塊は、他と同じ物理法則に律せられて放射性崩壊をするだろう。それはきわめて特殊でしばしば唯一であるプログラムとは対照的である。自然法則は、それがはたらきかける物質の固有の属性と相互作用をする。異なる物質は異なる属性を持ち、冷却の速さは物質ごとに異なるだろう。しかし、同じ物質のどんなサンプルも同様に持つ固有の属性は、コード化されたプログラムとはまったく異なるものである。これは分子レベルではまったく正しい。ある一つの巨大分子は固有の属性を持っているが、それ単独ではプログラムにはならない。
プログラムは、分子と他の有機成分との組み合わせによって形成されるのである。
予測ということは、プログラムを特徴づける基準ではない。もし手から石を離したら、それが地面に落ちることを私は予測できる。それゆえ、エンゲルス(1982)に言わせれば、地面に落ちることはプログラムされていて、終点指向的過程と目標指向的過程にちがいはないということになる。これは、ネーゲル(1977)が放射性崩壊に言及したときと同じ議論である。こうした議論がいかに誤解を招きやすいかを一つの例―山のどこかで、落石が人を殺す―で示そう。エンゲルスは、この石は人を殺すように“プログラムされて”いたと言わねばならないだろう。しかし、自然法則によってもたらされるごく一般的な最終的状態は、プログラムにコード化された非常に特殊な目標とはまったく異なるものである。もちろん、プログラムの存在が自然法則と両立しないことは決してない。プログラムの翻訳と実行の最中に起こる物理化学的過程のすべては、厳密に自然法則に従う。しかし、情報と命令の役割を無視することは、不可避的にプログラムに対するもっとも誤解を生みやすい記述に結果する。情報と命令に言及することを慎重に避けながら、コンピューターというものを厳密に自然法則で説明できるだろうか?
目標指向的過程
目標指向的teleonomic という用語はさまざまな意味で使われている。ピッテンドリフ(1958)がこの用語を導入したとき、彼は厳密な定義をせずに提出した。その結果、さまざまな研究者、たとえばデイビス(1961)、シンプソン(1958)、モノー(1970)、キュリオ(1973)が、それをプログラムされた機能または適応性の意味で使用した。私は、目標指向的という用語をプログラムされた活動という意味に限定し(Mayr 1974)、いま次のような定義を与えている。「目標指向的な過程や行動とは、進化するプログラムの作用によって目標指向性を持つ過程・行動のことである」。それゆえ、目標指向的という用語は過程や活動の目標指向を含意している。それはまさに究極要因に関係する。それは細胞レベルの発生過程でも起こるし、生物の行動においてもっとも顕著に見られる。「目標指向的な……行動は、生物の世界ではたいへん広範囲に及んでいる。たとえば、渡り、採餌、求愛、個体発生や繁殖に関するすべての局面に関連するほとんどの活動は、目標を定位することに特徴づけられる。目標指向的過程の発現はおそらく、生き物の世界におけるもっとも特徴的な性質である」(Mayr 1988:45)。ピッテンドリフと私は目的論的teleological という用語の代わりに目標指向的teleonomic という用語を導入したと、ときに言われる。しかし、これは正しくない。むしろ目標指向的teleonomic という用語は、目的論的teleological というきわめて異質なものの混ざった用語の5つの異なる意味の中の1 つだけを指す用語なのだから。
私は初めの提案(Mayr 1974)の中で、目標指向的という用語を、求められた目標を実現するように固定された人工物(たとえば、細工されたサイコロ)のはたらきも含むように拡張してよいと主張した。この拡張された用語使用は批判を受け、いまでは私は人工物は単なる類似物でしかないと考えている。実際、目標指向的活動は遺伝的プログラムの所持に依存する。
すべての目標指向的行動は、2つの構成要素によって特徴づけられる。1つは“プログラム”によって導かれること、もう1つは行動や過程を統御するプログラムの中で“予見される”いくつかの終着点や目標や終端の存在に依存していることである。この終着点は、(発生における)体制、生理的機能、(渡りにおける)地理的地点への到達、行動における“完了行為”(Craig 1916)だろう。個々のプログラムは、到達した終着点の選択価によって絶えず調整される自然選択の賜物である。
目標指向性の定義のキーワードは、遺伝的「プログラム」である。プログラムの存在を認識する際に重要なことは、プログラムは(A)物質的な何かであり、(B)目標指向的過程の開始前に存在する何かであるということである。このことは、目的性と因果性との間に対立はないということを示している。進化するプログラムによって統御された目標指向的過程の存在は、生物学における二元的な因果関係、すなわち一つは(物理科学と同様に)自然法則に起因し、もう一つは(物理科学では見られない)遺伝的プログラムに起因する因果関係の根拠になる。
プログラムは、「それを目標へと導いている過程(あるいは行動)を制御するようにコードされたあるいは前もって準備された情報」というふうに定義できる。プログラムには目標の青写真だけでなく、「青写真の情報をいかに使用するかという命令も」含まれている。プログラムは所与の状況を記述したものではなく、一組の命令なのである。
プログラムという概念を受け入れることは、遺伝学に通じている生物学者やコンピューターのはたらきに通じている科学者にはとくに困難をもたらさないように見える。しかし、目標指向的過程を制御するようなプログラムは、非生物的自然には存在しない。伝統的な科学哲学者は論理学と物理学ばかりに精通しており、ネーゲル(1961)の著作で十分に証明されたように、プログラムの本質を理解するのに大きな困難があった。
生物のゲノムや細胞におけるプログラムのようなものの存在の推測は、はるか19 世紀に遡って生物学の文献に見出し得る。E。B。ウィルソンは、受精卵の卵割が起こるきわめて目的論的な様子を記述した後で、こう続けている。「このような結論には、目的論とか目的因とかいう神秘的な教義を含まないようにすることが必要である。それは、卵割を決定する要因は程度の多少はあれ卵割に先行し全般的な形態形成過程をもたらす卵の基礎的組織と密接な関係がある、ということのみを意味している。この組織の本性はほとんど知られていないが、われわれは、それが卵の中身のある種の物質の配置を伴うメカニズム上の仮定の下でのみ研究を続け得るのである」(Wilson 1925)。目的論に関する古典的文献ではほとんど一貫して誤解されているので、目標指向的活動の目標は未来にあるのではなくプログラムにコードされているのだということを再度強調するのは重要である。このようなプログラムの遺伝子的―分子的基礎について、それらが生得的であるまたはある程度生得的であるということより以上のことを述べられるほど、十分な知識は現在ない。プログラムの存在は、プログラムの担い手の活動のふるまいの中に発現することから推測される。生物におけるこれら遺伝的プログラム(=究極要因)の存在は、生物の過去の進化の歴史の中ではたらいた近接要因の結果である。
プログラムに相応する概念は、はるか古代に遡ることができる。何と言ってもアリストテレスの「形相」idos は、ジャコブ(1970)とデルブリュック(1971)が指摘したように、今日われわれが遺伝的プログラムに帰する属性の多くを持っていた。ビュフォンの「内的鋳型」moule interieur や、ライプニッツ、モーペルチュイからダーウィン、へリング、ゼーモンまでの生まれつきの記憶に関する多くの推論もそういうものだった。これらの思想家の直観は信頼できるものだったとしても、遺伝的プログラムが正当な科学的概念と認められるには、ゲノム内のDNAの本性の理解が必要であった。
目標指向的プログラムの研究は、それが数種類に区別できることを明らかにしている。
遺伝子型のDNAに完全なる命令が備わったプログラムは、「閉鎖プログラム」closed program と呼ばれる(Mayr 1964)。昆虫や下等無脊椎動物の本能行動を支配するほとんどのプログラムは、おおむね閉鎖プログラムと思われる。一応は閉じたとされているプログラムに新しい情報がどの程度組み込まれ得るかは、まだ分かっていない。一方、「開放プログラム」open programs と呼ばれる別のタイプのプログラムがある。それは、学習や条件付け、その他の経験を通して獲得された付加的情報が生涯を通じて組み込まれ得るようなし方で形成される。高等動物のほとんどの行動はこのような開放プログラムによって支配されている。その存在は、特別な専門用語は導入されなかったが、動物行動学者には久しく知られていた。幼いガチョウのひなの追従反応という有名なケースでは、開放プログラムが用意するのは“後について行く反応”であって、追従される特定の対象(“親”)は経験によって(“刷り込み”によって)付加されるのである。開放プログラムは高等動物の行動プログラムではたいへんよく見られるが、無脊椎動物でも個体の経験を利用して開放プログラムを完成させることがしばしばある。たとえば、単独性のハチにおける適した食物や潜在的な敵や巣の場所などの認知に関して見られるものがそうである。
目標指向的活動を支配するプログラムは、最初、もっぱらゲノムのDNAに関してだけ考えられた。しかし、そのような遺伝的プログラムに加えて、「体性プログラム」somatic programs を認識することも有益かもしれない。「たとえばシチメンチョウの雄がメスにディスプレーをするとき、そのディスプレー運動は細胞核のDNAに直接支配されているのではなく、むしろ中枢神経系の体性プログラムによって支配されているのである。確かに、このニューロンのプログラムは、遺伝的プログラムの命令の部分的な支配の下に、発生時につくられたものだ。しかし、いまやそれは独立の体性プログラムなのである」(Mayr 1988:64)。体性プログラムは発生において特に重要である。個体発生の各段階は関連する環境とともに、いわば、発生の次のステップの体性プログラムを表している。四足獣の胚の鰓弓のように反復説の証拠として列挙された胚の構造のほとんどは、おそらく体性プログラムなのである。それらが自然選択によって取り除かれなかった理由は、それが引き続き起こる発生に大いに干渉しているからだろう。体性プログラムの存在と役割は、少なくともクライネンベルク(1886)以来の発生学者には理解されなかった。さまざまな種類のプログラムははっきりした境界で分離されているわけではない。すべては生物の過去の進化の歴史の間にはたらいた近接要因の結果であり、すべては究極要因の概念に結び付けられる。
情報科学からプログラムという用語を取り入れることは、擬人化ということではない。
情報学者の「プログラム」と生物学者の遺伝的・体性的プログラムはほぼ同等である。その定義にはプログラムの起源ということはまったく関係がない。起源は、すべての遺伝的プログラムのように進化の産物であるか、あるいは開放プログラムの後天的情報である。閉鎖系であろうが開放系であろうが、それは遺伝的であり得るし、また、個体の一生の間に獲得された付加的情報が遺伝的なプログラムの命令に追加されるなら、それは体性的であり得る。
プログラム概念に対して起きた反論は、それでは反射も目標指向的活動になってしまうであろうということであった。なぜそれではいけないのか? 反射の中には疑いなくそうしたものがある。シェリントン(1906:235)は、適応行動としての反射の意義に十分気づいていた。彼はこう言った。「反射の目的は、昆虫や花の彩色の目的と同様、自然の探求の正当で緊急の対象であるように思える。生理学者にとって重要なことは、反射はその目的が分らなければ生理学にとって本当には理解できないということである」。まぶたは明らかに、危ないものや障害物が目に接近するとき反射によって閉じるようにプログラムされている。
多くの反射において同様の適応的機能は明白である。医者がよく用いる膝蓋腱反射のような反射は、心音が心臓のはたらきにとって意味がないように、単にある種の神経の無意味な属性のように見える。神経生理学者が、よく知られた反射にどんな可能な適応的意義があるかを分析するなら、それはたいへん有益だろう。
目標指向的活動の指向性は多くの仕組みによって――もちろんまず第一に、プログラム自体によって実行される。しかし、プログラムは、前もって完全につくられた形式の単なる展開を誘導するのではない。それは、内的外的障害を見込まねばならない多かれ少なかれ複雑な過程を絶えず制御している。たとえば、個体発生時の目標指向的過程は、たとえ一時的だとしても逸脱の危険にたえず直面している。ウォディントン(1957)は、そのような逸脱を修正する恒常性の仕組みの頻度と重要性に、まったく正しくも注意を喚起した。
それらは事実上、発生の適切な道づけを保証しているのである。
負のフィードバックは、発生だけでなく他の多くの目標指向的過程においても重要な役割を演じている。しかし、それは目標指向的活動の本質なのではない。以前に私が指摘したように、「目標を追求する行動の真に特徴的な側面は、目標に到達する精度を高めるメカニズムの存在ではなく、むしろこの目標追求行動を開始させる、すなわち“惹き起こす”メカニズムの存在にある」(Mayr 1988:46)。
思考する生物の合目的的な行動
幾人かの哲学者は、目的論的過程の模範的な実例として人間の意図と合目的的行為をあげた。これは、目的論の議論に目的や意図や意識などの概念を導入し、それを人間心理学の一側面にしている。しかし、この分野は大いに論争の余地があり、それゆえ目的論の初期の扱いでは(Mayr 1992)私は合目的的行動を議論から除外した。
その後、動物行動に関する最近の多くの研究から、私は自分がまちがっていたことを納得した。明確に目標指向的な合目的的行動は、広く動物に、とりわけ哺乳類と鳥類によく見られ、目的論的と呼ばれるに十分な資格がある。カケスのいくつかの種は、秋にどんぐりや松のたねを隠し、冬の終わりに自然界の食物資源がほとんど枯渇すると(非常に正確に覚えている)その隠し場所に戻り、この食物を回収する。動物行動に関する文献は、明確に合目的的で入念な計画性を示す動物行動の記述に満ちている。もう一つの有名な例は、ライオンの雌のハンティングの戦略である。アタックの準備に際して群れは2つの集団に別れ、一方が獲物の背後に回り逃げ道をふさぐのだ。こうした合目的的な計画作成において、人間と思考する動物の間に原則的なちがいはない。
適応的形質
生物の適応性に寄与する形質は、哲学文献では通常目的論的系あるいは機能的系と呼ばれた。この呼び方はともに誤解を招きかねない。これらの形質は固定的な系であり、目的論的という言葉は私が以前に指摘したように(Mayr 1988:51-52)運動を含まない現象には適切でないように思える。
目的論的系という呼び方は、第2の理由でも誤解を招きやすい。この呼び方は古い哲学文献において、これらの形質が自然界のある種の目的論的力によって生じたという仮定の下に採用された。この仮定は、各形質の有用性は神によって与えられたものだという信仰とともに、おおかた自然神学の遺産であった。この考え方は、ドーキンスによって彼の素晴らしい著書『ブラインド・ウオッチメーカー』(1986)の中でとりわけ効果的に反駁された。イマニュエル・カントの目的論についての関心の中心は、適応的形質であった。18 世紀の末期では利用できる生物学の知識が乏しかったため、彼は因果的な説明を提供できず、適応性をおそらく神の手を意味する目的論的力のせいにした(Mayr 1988:57-59、 1991)。
しかし、1859 年からは、そのような敗北主義は必要でなくなった。ダーウィンは、一見目的論的な進化的変化や適応的形質の産出が単に変異的variational 進化の結果であるということをわれわれに教えた。変異的進化とは、世代ごとの大量の変異の産出と最も適応的でない表現型の排除後に残る個体の確率的な生存とから成る。このように適応性とは、前もっての目標追求というよりもむしろ後から実現する結果である。こうしたわけで、目的論的という言葉を適応的形質に適用するのはまちがいである。
また、それを機能系と呼ぶのも、機能という言葉の二つの意味が混同されるのでやめるべきである。実際、機能系という用語を使う人たちの多くは、これらの形質の生物学的役割とこの役割の遂行によるそれらの効果に言及していた。近接要因と究極(進化的)要因は、機能主義の議論においてしばしば混同された。マンソン(1971)とブランドン(1981)は、適応的形質に関連して、あるいは“何のために?”という問いへの答えに関連して、目的論的あるいは機能的言語よりも適応主義の言語をなぜ優先すべきかという理由をうまく述べた。
適応的形質の特性の一つは、それが目的論的活動を遂行することができるということである。それらはいわば、目標指向的プログラムを執行する器官である。したがって、私は、それらはおそらく体性somatic プログラムとみなすこともできるということを示唆した(Mayr 1988)。
生物学者を“なぜ?”という問いに導くのは、他の何よりも適応的形質の存在である。
それが使用された生物学の第一の領域は、生理学的研究においてであった。ハーヴェイは、何が血液循環ということを思いつかせたのかと問われたとき、こう答えた。「私は、なぜ静脈に弁があるのかと不思議に思ったのだ」と(Krafft 1982)。明らかにそれは血液の一方向の流れだけを許すので、ほとんど自動的にこのことは循環という仮定を導いたのだ。器官の未知の機能に関する“なぜ?”という問いを問うことで、次から次へと生理学的な発見が生じた。このような“なぜ?”と“何のため?”という問いは最終的に、生物学の他の分野においても同じように実り多いものになり、この方法の発見的価値は決して汲み尽くされてしまうことはない。
宇宙的目的論
19 世紀以前、世界の変化は進歩へのそして常に増大する完全さへ向う内的力や傾向に起因するという信念が、あまねく行き渡っていた(上記を見よ)。ギリスピー(1951)やグラッケン(1967)、私(1982)は、このイデオロギーがもつ非常に大きな力を記述した。1876 年に至っても、K。E。フォン・ベアは、「世界とりわけ生物の世界を、より高い目標へ向う傾向をもち理性によって導かれる発展の結果とみなす」(1876)人々に喜びを与えるために、究極目的論の承認を熱烈に懇請した。自然選択説に対する最も断固とした反対者は目的論者であり、目的論的な進化理論(定向進化説など)は20 世紀の初めまで優勢であり続けた(Kellogg 1907; Mayr 1982; Bowler 1983、 1987)。
世界が新しくも不変でもないということが理解されつつあったときに、究極目的論的に見える変化のために3つの説明のカテゴリーが提出された。
(1)これらの変化は、進化の計画者のはたらきに因っている(有神論的説明)。
(2)これらの変化は、個体の遺伝子型内の目標指向的プログラムに類似した内蔵プログラムによって導かれる(定向進化的説明)。ダーウィン以後の多くの研究は、このような宇宙的プログラムは存在しないし、宇宙の進化の不規則さはプログラムの存在と両立させるにはあまりに大きすぎるといった証拠を提供した。実際、進化の総合説の時代(1930 年代から1940 年代)までに、定向進化理論への支持はすべて姿を消してしまった。
(3)宇宙的目的論は存在しない。世界には進歩や完全さへと向かう傾向は存在しない。
世界の歴史の経過の中でどんな宇宙の変化や傾向が観察されるとしても、それは自然法則と自然選択のはたらきの結果である。この第3の説明は観察された事実とよく合うので、他の2つの説明を引き合い出す必要はなくなる。
宇宙的目的論の否定は、一つの未解決の問題を後に残している。すなわち、生物進化に見られる一見上向きの傾向をいかに説明できるか? 最も下位の原核生物(バクテリア)から、核をもつ真核生物、後生動物、温血性の哺乳類と鳥類、ついには精密な脳と話す能力と文化を持つ人類への進歩について、何人もの研究者が次々に論じた。定向進化説の擁護者たちは、このことは、生物的自然に究極の目標はないかもしれないが進歩へと向かう内的な力はあるということの反論の余地のない証拠だと飽くことなく主張した。一方、こうした仮定は必定のものではないということを示したのは再びダーウィンであった。すべての個体群で世代から世代へとはたらく自然選択のプロセスは、実に、たえずより良く適応した種の出現を助けるメカニズムなのである。それは新しいニッチや適応帯への侵入を有利にする。そして、種間競争の最終的結果として、進んだタイプとしてもっとも良く表されるものの発展を助ける。記述的には、もっとも原始的なバクテリアから人類までのさまざまな段階で起きたことについて疑問の余地はない。ただ、これを進歩と呼ぶのが正しいかどうかは、いまも議論の的になっている。しかし、これだけははっきりしている。自然選択は、生物進化の道筋を説明する満足のいく説を提供し、超自然的な目的論的力に頼る必要をなくさせたのである。そして、進化における前進や進歩の発生を受け入れる人々は、それを目的論的力や傾向の所産ではなく、むしろ自然選択の所産とみなすのである。
目的論の今日の地位
以前は非常に不均一に見えた“目的論的”というカテゴリーから前述した4つの物質的過程を取り去ると、後には何も残らない。これは、宇宙的目的論が存在しないことを示す。
4つの一見目的論的過程―すなわち、目標指向的な過程、終点指向的な過程、自然選択による適応性の達成、合目的的な行動―が厳密に物質的現象であるという認識は、目的論から昔の神秘性と超自然的含意を取り去ってしまった。生物的自然には適応性(カントのZweckmäsigkeit〔合目的性〕)というものがあるが、ダーウィンはその起源を物質主義的に説明し得ることを示した。実際多くの生物的過程や活動にははっきりと目標指向的なものがあるとしても、超自然的な力を導入する必要はない。なぜなら、目標というものはその活動を指示するプログラムにすでにコードされているからだ。こうした目標指向的過程は、原理的に物理化学的な要因に還元し得る。つまるところ、非生物的自然には、重力や熱力学の法則のような自然法則の作用に単純に起因する目標達成型のプロセスがすべて存在する。4つの認められた目的論的過程には、未知の未来の目標から遡ってはたらくようなものは一つもない。後戻りする因果関係というのはないのだ。これは、以前にしばしばなされた因果的説明と目的論的説明は対立するという主張を打ち破る。そのような主張はもし宇宙的目的論が存在するなら正しいかもしれないが、今日科学が容認している4種類の目的論については妥当でない。
目的論と進化
ダーウィンが自然選択の原理を創り上げた後、この過程は支持者によっても反対者によっても目的論的であるかのように広く解釈された。進化自体、“改善”や“進歩”(Ayara 1970)に導くだろうから、しばしば目的論的過程とみなされたのだ。このような解釈はおそらく、ラマルク的進化の変遷的パラダイムの枠組みの中では決して不合理ではないかもしれない。
しかし、究極の目標を持たずいわば各世代ごとにあらためて開始するダーウィン的進化の変異的性質を十分高く評価するなら、それはもはや理にかなった見方ではない。せいぜいのところ、自然選択過程は、パースの“finious”な過程の定義に適合するかもしれない(Pierce 1958、 Short 1984)。しかし、自然選択がどれほどしばしば生物を致命的な窮地に導くかを考えると、また進化の間にどれほど頻繁にその賞与が変化するかを考えると、進化的変化が不規則なジグザグ運動に帰着する以上、方向性のある進化のいかなる型にも目的論的という呼び名を使用することは著しく不適切と思われる。確かに自然選択は最適化の過程であるが、明確な目標を持たず、制約の数と偶然の出来事の頻度を考えるとそれを目的論的と呼ぶのはひどく誤解を招くことになるだろう。適応におけるいかなる改善もまた目的論的過程ではない。なぜなら、所与の進化的変化が適応性に貢献するかどうかは、完全に事後に決定されるからである。進化における自然選択と最適化について書かれた最近の本(Duprè1987)に寄稿した15 人の著者の中で、目的論的という用語を使用した者は誰もいなかった。
このことは、進化の解釈で目的論的言語に出会うときに忘れてはならない(O'Grady )。
種は遺伝的完全性を守るために隔離機構を進化させたと研究者が述べるとき、それは他種個体との交雑を回避する個体が、交雑したものよりもより大きな繁殖成功を獲得するということを単に意味するだけだ。つまり、交雑しないという遺伝的素質が繁殖成功という恩恵をもたらしたということである(Mayr 1988)。自然選択はその世代の個体の属性に対処する。長い世代のつながりを遡って見るといかにもそう見えるとしても、自然選択は決していかなる長期的な目標も持たない。哀しいことに、いくらかの研究者はごく最近の文献においてでさえ、進化に目的論的能力を賦与しているように見える。最近の1985 年に至っても、J。H。キャンベルは次のように述べた。「生物は進化する能力を増進するために特別な構造を進化させ、それらの構造が進化過程の範囲をけた外れに拡張するということがますます明白になっている。それでもやはり、機能というものは、とくに進化過程に適用されたときには基本的に目的論的概念である」(Campbell、 1985)。マンソン(1971)が正しく指摘したように、目的論的という言葉のこのようないい加減な使用は、適応主義の言語を使うことによって容易に回避することができる。  
第4章 分析か還元主義か?

 

複雑な現象というものは、より小さい構成要素にバラバラにして個々に研究しない限り十分には理解され得ないという信念は、もっぱらの常識である。この研究法は、イオニア派の哲学者が早くも自然現象を4つの基本元素―地、水、気、火―に還元したときに原理上採用され、それ以来ずっと分析ということが哲学と科学の伝統になった。解剖学者は全体としての人体は研究せず、それを構成要素の臓器、神経、筋肉、骨に分解してそのはたらきを理解しようとした。組織や細胞といった次第に小さくなる構成要素を研究するためには、顕微鏡が使われた。さらにもっと低いレベルに、さらにもっと小さい構成要素にと分析を進める努力は、最初は主にそれがこうした発見的方法であるということで動機付けられていたのである。
生物学の歴史の多くは、この分析的研究法の勝利の物語である。生物全体の多様性は、生き物が種に分けられて初めて捉えられた。シュワンとシュライデンの細胞説も、植物と動物が同じ基本的構成要素すなわち細胞から成るということを示した点で、そのような成功の一つであった。生理学は、主要な器官を細胞や巨大分子へと最大限綿密に分析することによってもっとも重要な知見をなし得た。分析の同様な成功は、生物学のいかなる分科においても示し得る。この絶え間ない成功の歴史のために、分析の発見的重要性は疑いを持たれることがなかった。
機械論者は、生気論に反対して、すべてのものは物理学と化学の用語で説明されたなら後には何も残らないということを示すために、あらゆる生物現象をもっとも低いレベルの構成要素に分析するよう要請した。このことは、生理学者のブリュッケとデュボア・レーモンとヘルムホルツによる「生物の世界においても共通の物理化学的な力以外には何もはたらかないという真理を広めるための」有名なベルリン宣言で最高潮に達した。彼らはその主張を力というものに限定し、システムや概念、さらにプロセスには適用しなかったのだが、それにもかかわらず、この研究法の説明力はたいへん説得力があるように見えたので、ナチュラリストのワイズマンでさえいくつかの生物学的過程を「分子の運動」によるものと気軽に語ったほどだ。
その後、生物学的現象を化学と物理学の用語で説明しようとする場合、このプロセスは分析とは言わず「還元」reduction と呼ばれた。この用語は、その後の出来事が示しているようにかなり誤解を生んだ。還元主義者たちは彼らの反対者を反−還元主義者と呼んだが、これもまた適切な用語ではなかった。なぜなら、反対者の多くは、分析を有用な情報をもたらすもっとも低いレベルに進めるだけの非還元主義者であったからだ。とはいうものの、彼らはもちろん還元主義者ではなかった。生物的自然のすべてのものは“原理上”化学と物理学に還元され得るという科学的還元主義者の信念は受け入れなかったし(Mayr 1988)、科学におけるすべての事象は有機体のもっとも低いレベルにおいて十分理解され得るという信念も受け入れなかったのだ。
還元主義者と非還元主義者の両陣営とも、時が経つにつれてかなりドラスティックに変貌した。生気論がなお活発で、それがドリーシュ、ベルグソン、J。S。ホールデン、スマッツ、マイヤー=アービッヒなどの有名な著者らによって奨励されていた間は、すべての非生気論的な生物学者は多かれ少なかれ還元主義的な信条を取り入れた。しかし、生気論がすたれてしまってからは、厳格な還元主義の信念はますます物理主義者に限定されるようになり、ほとんどの生物学者は全体論的な有機体説を採用するようになった。彼らは建設的な分析は受け入れたが、より極端な還元主義の形態は拒絶した。
ただ、20 世紀になってもずっと、哲学者はほとんど一貫して分析と還元を混同しつづけた。しかし、還元主義者が主張したような、部分のすべてを、たとえ最小の部分にでも分離してしまうことが、ほとんどのシステムの完全な説明に十分というわけではないのである。完全な説明のためには、さらにそれらの部分間の相互作用の理解が必要なのだ。T。H。ハクスレーがずっと以前に指摘したように、水を水素と酸素に分割したら水の流動性は説明できない。
複雑な系におけるより高次のレベルの相互作用を研究する方法は、全体論的アプローチと言われる。それは、哲学者と物理主義者といくらかの生物学者が「生物学を物理学と化学に還元しよう」とするさまざまな試みと対立するものである。
どんな現象といえどもその十分な説明のためには最小部分への完全な分解とそれら部分の特性の説明が必要なだけだ、という還元主義者の主張がもし真実だったら、科学の各分科の重要性はそれが最小部分のレベルに近ければ近いほどより大きいというものだ。言うまでもなく、科学のより複雑な分科の研究者はこの主張の中に、自らの分野の重要性を高めるための化学者と物理学者の策略だけを見た。ヒラリー・パットナムが正しくも述べたように、「(還元主義が)産み出すものは、‘より高次のレベルの’科学の軽視と一体となった物理学への崇拝である。原理的に可能と想定されているものへの心酔は、実際的なものに対する、そして「実践」practice の現実の構造に対する無関心と相まっている」(1973)。
還元主義者の対抗意識は諸科学の間だけでなくその科学内部にも存在した。分子生物学が生物学の他のすべての分科に取って代わろうとしていると思われた時代に、生化学者ジョージ・ウォルドが言ったことには、分子生物学を生物学の特定の分野あるいは異った種類の生物学と思ってはいけない、「それは生物学全体なのだ」(Wald 1963)。還元主義者の同様な不遜な心情において、ある哲学者は、「古典的な生物学の研究も価値があるかもしれない」(しかし、ただ「かもしれない」というだけだ)(Schaffner 1967)と恩着せがましく認めたものだ。このような表明を聞くと、ある時期、還元主義についての議論がかなり激しいものになったのは驚くにあたらない。
しかしいま振り返ってみれば、たとえばルース(1973)やローゼンバーグ(1985)の扱いのように、還元主義の問題がなぜ生物学の哲学においてかくも主要な構成部分になっていたのかは不思議にさえ思える。ハルが適切に述べたように、「生物学の哲学にとっては、生物学が化学と物理学に還元され得るかどうかよりももっと大切なことがきっとある」(1969b:251)からだ。
分析と還元の概念の決定的な相違は何だろうか? 分析の実践者は、複雑なシステムの理解はそれをより小さい部分に分解することによって促進されると主張する。人体の機能の研究者なら、最初のアプローチとして人体を骨と筋肉と神経と諸器官に分解する。しかし、彼らは還元主義者による次のような2つの主張はしない。その主張とは、(A)分解は“もっとも小さな部分まで”−すなわち、原子・素粒子まで進められるべきであるということと、(B)そのような分解は複雑なシステムに対する完全なる説明を提供するだろうということ。これは、分析と還元の間の基本的なちがいを明らかにしている。分析は、それによって有益な新しい情報がもたらされる限りにおいてのみ下向きに続けられるが、“最小の構成要素”がすべての解答を与えるとは主張しないのである。
還元の種類
還元についての文献を読むと、還元という用語の使い方の雑多さにびっくりするし、かなり動揺する。やがて、さまざまな種類の還元の仕分けが必要であることがはっきりして、実際何人かの著者がそれを試みた。この問題は、論理学と、哲学の他の分科と、生物学以外の科学のさまざまな分科において取り上げられている。もっともよく知られているのは、熱力学の力学への還元の試みである。ポパー(1974)は、物理科学における還元の限られた成功を、しかしおおかたの失敗を、みごとに記述した。私自身の叙述では、生物学に関わらない還元の議論はすべてわきに除けておくつもりだ。還元主義のより専門的な扱いに関しては、ホイニンゲン=フェーン(1989)を見てもらいたい。
分析
解明の最初のステップは、分析と還元を明確に区別することである。分析の方法は、程度の差はあれ複雑なシステムをその構成要素に分解し、もしそれが生産的ならば分子レベルにまでずっと下っていくことから成り立つ。このことは、それぞれの構成要素に個別の研究の機会を与える。それは、肉眼による解剖から顕微鏡使用へ、器官生理学から細胞生理学へと至った連続する歴史の進路であった。ただ、分析は役に立つのと同じくらいに、その適用において重大な限界を持っている。生物学においてもっとも厳密な意味で適応可能であったのは、近接要因の研究のみであった。シンプソン(1974)とレウォンティン(1969)が示したように、物理化学的アプローチは進化生物学においてはまったく実りがない。生物学的な組織化の歴史的側面は、完全に物理化学的還元主義の埒外にある。分析が還元と異なるのは、分析によって明らかにされたシステムの構成要素はシステムの全属性の完全な情報を提供する、という主張をしないという点にある。というのは、分析はシステムの構成要素間の相互作用を完全には記述しないからだ。分析は複雑なシステムの研究にとってきわめて発見的な方法であるが、それを還元と呼ぶのは誤りであろう。
説明的還元
厳密な還元の提案者は、次の2つのうちの1つ、あるいは両方ともを主張する。
(1) より高次のレベルの生物学的現象は、その一つ下のレベルの構成要素に分析されない限り理解され得ない。この過程は、純粋に物理化学的な構成要素とプロセスのレベルまで下降しつづける。
(2) この論法の帰結として、最低レベルの構成要素の知見はすべてのより高次のレベルの再構成を可能にし、それら高次レベルの理解を余す所なく提供するということも主張される。還元主義者のこれらの主張は、全体は部分の総和以上のものではない―創発特性というものは存在しない―という確信に基づいている。
経験は、還元主義者のこれらの主張はごくまれにしか確証されないということを示した。
その失敗の理由をいくつか列挙しよう。
複雑なシステムの研究において重要なことは組織化ということである。分析のより低レベルへの下降は、前のレベルの分析の説明力をしばしば低下させる(Kitcher 1984:348)。
腎臓を構成するすべての分子の一覧表が与えられたとしても、腎臓の構造と機能を推論することはできないだろう。
この議論はまた、複雑な生物学的システムにとってばかりでなく非生物的システムにとっても当てはまる。もしハンマーというものの本性と機能を理解したいなら、力学の適切な法則を適用すべきである。もしもそれに次ぐ低いレベルでハンマーを分析しようとし、たとえば握りの部分がどんな種類の木でつくられているかを特定しようとして顕微鏡でこの木の構造を研究したり、握り部分の構成成分を分子、原子、素粒子へと化学によって下降しつづけたとしても、「ハンマー全体として」の属性の理解には何一つ付け足されるものはないだろう。実際、握りは(今どきのハンマーのように)プラスチック、あるいは丈夫な軽金属で作られている場合もある。ハンマーを構成し、その機能の説明を可能にするのは、握り(柄)とハンマーの頭の結合体なのだ。
統合の一つ低いレベルへとシステムを下降分析することによってより良いより完全な理解へ自動的に導かれる、という主張がいかにまちがっているかを十分に示した例を、幾千もあげることができる。現に、下降分析の過程においてはいつも、分析があと少しでも下に進められるならシステムの全体としての意味が壊されてしまうというレベルに遅かれ早かれ到達するのである。
一番現実をよく見ている物理学者は、固体物理学や素粒子物理学の華々しい前進が中間世界のわれわれの概念に実際は何のインパクトも与えなかったということを認めている。
これは還元主義者にとってかなり痛みの伴う告白である。彼らはかつて、もっと大きな粒子加速器が建設できればすぐにでも世界の未解決の謎のすべてが解決されるだろうと、たいへん声高に主張していたのだ。実際のところ、陽子、ニュートリノ、クォーク、電子、その他どんな素粒子の余す所ない知識があったところで、生命の起源や個体発生時の分化や中枢神経系の精神活動の説明に少しも助けにならない、ということは今日まったく明らかである。これに対立する主張が意気込みすぎの還元主義者によってしばしばなされるが、それには何ら根拠がない。
このことは、分析が‘時折’「上向きの解明」を生み出すことを否定するものではない。
たとえば、ワトソンとクリックによるDNAの構造の発見が、DNAの2つの主要な特性―複製と情報伝達の方式―の説明を可能にした。
説明的還元主義の一貫した失敗は、生物学的分析においては別のアプローチを取らねばならないということを示している。それは、(A)すべての生物学的システムは秩序あるシステムであって、その多くの属性はこの組織化に負っており、単に構成要素の化学的−物理的属性のためではないという洞察、(B)より低次のシステムの属性に必ずしも還元できない(それでは必ずしも説明できない)より高次のシステムの属性をもった組織化のレベルが存在するという洞察、(C)生物学的システムは、物理主義者の還元主義的分析では接近できない歴史的に獲得された情報を蓄積しているという認識、(D)創発ということがしばしば起こるという認識、に基づいているべきである。複雑なシステムにおいては、そのシステムの構成要素の知識によっては表せない(予測できない)属性がしばしば創発するのである。
創発
創発emergence とは、複雑なシステムにおける予期されない特徴の出現のことであるが、生物学の哲学においては長い間大いに議論の的になっている。それは本当に出現するのか? もしそうなら、何がそれを惹き起こすのか? それは必然的に、形而上学的あるいは超自然的な要因を暗示するのではないか?
マンデルバウム(1971:380)が指摘したように、各種の要素からなる全体はその構成要素には認められない諸属性をもっているという見方は、19 世紀の中頃から広く受け入れられている。その原理はすでにミルによって述べられていたが、ルイス(1875)は問題の綿密な分析を提示したばかりでなく、この現象に「創発」emergence という用語を提案した。
また、グージ(1965)、マンデルバウム(1971)、アヤラとドブジャンスキー(1974)、マイアー(1982:63、863)によって、この問題についての有益な取り扱い方が提示されている。
ロイド・モーガンはその著書『創発的進化』(1923)で、この概念をとくに一般に広めた。
ポパー(1974:269)にとってこの用語は「予期できそうにない進化上のステップ」を表していて、それゆえに創発という用語は、生命や心、人間の意識の進化的起源に関連して特に頻繁に使用された。
還元主義者と非還元主義者(=全体論者)のもっとも決定的な違いは、創発に対する受けとめ方にある。還元主義者にとって、全体はその部分の総和以上のものではない。それは創発特性というものを持っていない。全体論者にとっては、統合のより高いレベルでの特性と作用様式は、分離された構成要素の特性と作用様式の総和によって完全に説明できるというものではない。この考え方は、「全体は部分の総和以上のものである」という古典的な言明においてよく表現される。創発という用語が何か形而上学的なものを暗示しているように信じられて、この現象のためにいくつかの他の用語が導入された。たとえば、ローレンツ(1973)による「ひらめき」fulguration やシンプソン(1964)とドブジャンスキー(1968)による「構成主義」compositionism である。
長い歴史の間に、「創発」という用語はさまざまな哲学的観点を持つ著者たちによって採用された。これはとりわけ生気論者に流行ったが、ベルグソンや他の人たちの著作から明らかなように、彼らにとってそれは形而上学的原理であった。この解釈は彼らの反対者のほとんどによって共有され、J。B。S。ホールデン(1932:113)は、「創発の教義は、……科学の精神に根本的に反している」と述べた。創発に対するこの反対は、創発が単純な機械論的説明と対立しているとすぐに分かるような3つの属性をもつことに起因している。すなわち、第一に、本物の新しさ−つまり、それまで存在していなかったある特徴やプロセスが生み出されること。第二に、この新しさの特徴は量的でなく質的であり、それは以前に存在していたいかなるものとも似ていないこと。第三に、創発は、宇宙の状態の理想的で完全な知識に基づいてさえ、それが起こる前には実際にばかりでなく原理的にも予測できないこと。
創発の擁護者は、それが広範囲に発生することで立証されるように、このプロセスは自然の内在的属性であるとありのままに見なすべきだと力説した。彼らは、複雑なシステムがより単純な構成要素から成っている場合は、いつでも新しい属性が創発し得ると指摘する。これはすでにミルとルイスによって示され、T。H。ハクスレーが、水素と酸素という2つの気体の化合物である水の「液体性」の創発を引例したことで広く知られるようになった。1950 年代、創発を受け入れたニールス・ボーアもまた、創発の原理の実例として水を使用した。水の形成の場合のような分子レベルでの予期せぬ属性の創発は、創発が経験的な原理であって形而上学的なものではないということをとりわけ説得的に示す。これはまた、もう一つの簡単な例―握りと頭を連結したときの「ハンマー」という属性の創発によっても示し得る。
創発主義に対する還元主義者のよくある反対の一つは、創発によっては何も新しいものは生み出されないということである。しかし、この主張は半分だけ真実であるに過ぎない。
確かに新しい物質が生み出されるわけではない。ハンマーは、握りと頭という分離された構成要素と同じ物質から成る。しかし、それでもやはり何か新しいものが握りと頭の相互作用から生み出されたのだ。木製の握り自体もハンマーの頭も、ハンマーの機能を(いかなる効率をもってしても)遂行することはできない。2つが一緒になるとき、ハンマーの属性が「創発する」のである。そして、この新たに付加された相互作用が、分子レベルから上へと創発されたすべてのシステムの決定的な属性で「ある」のだ。創発は、それまで関連のなかった構成要素の新たな関係(相互作用)によって生じる。実に、このような関連性の重要さを考慮に入れないことが、還元主義の基本的な失敗の一つなのである。ハンマーの頭と握りの関連性は、それらが組み合わせられない限り存在しない。同様なことは、複雑な生物学的システムにおけるすべての相互作用に当てはまる。分離した構成要素を扱うだけでは、それらの相互作用については何も分らない。そして、生物の世界におけるこうした相互作用は、(無性生殖のクローンを除く)すべての生存する個体にとって唯一的であるから、還元主義者の主張はその唯一性によって反駁されるのである。
実際に仕事をしている科学者にとって、何か質的に新しいものの創発は日常的に遭遇する事実である。彼らはこの現象に困難を感じない。なぜなら、より高次のシステムの属性は構成要素の属性にばかりでなくそのシステムの秩序にも起因する、ということを知っているからである。何人かの著者は、新しい表現型はとびとびのステップによって分離されているのだから創発はダーウィンの漸進的進化の理論と対立すると主張した。しかし、この反論は、表現型の漸進性と個体群の漸進性を混同することから起きているのだ。重要なのは進化的変化は個体群において起こるということであり、関連した表現型のいくらかの不連続性を考慮するのは的外れである。
進化上の創発がいかなる形而上学的根拠ももたない経験的現象であることは、今日きわめてはっきりしている。この原理を受容することは、それまで進化プロセスの機械論的説明に対立するように見えた現象を説明する助けになるのだから、まことに重要である。それはまた、進化プロセスでの新しい形質の起源を形而上学的原理に訴えるどんな必要性も排除する。
理論還元
説明的還元主義が、哲学者に推奨されたただ1種類の還元ということではなかった。実は彼らの多くは、「理論還元」theory reduction と呼ばれた還元の様式を支持したのだ。
還元のこの様式は、科学の一つの分野の理論と法則は、科学の何か別のより基礎的な分野、とくに物理科学で定式化された理論と法則の特殊な例にすぎないという主張に基づいている。この信念によれば、生き物の世界で観察されるすべての規則性(“法則”)は、物理科学の法則と理論の特殊例にすぎない。したがって、科学哲学者の任務は、科学の統合を達成するために生物学の理論を物理科学のより基礎的な理論に「還元する」ことなのである。
科学者たちは概して理論還元にほとんど興味を示さなかった。それは主に科学哲学者たちの関心事であったのだ。実際、彼らがもっとも大きな関心をもったのは、還元のその様相である(Hull 1972)。古典的な取り扱いはネーゲル(1961)によってなされた。理論還元はさらに、シャフナー(1967、1969)とルース(1971、1973、1976)によって盛んに促進され、ローゼンバーグ(1985)によってやや慎重に推進された。決定的な反論は、ハル(1974)とキッチャー(1984)とキンケード(1990)によって提出された。
理論還元の手順は通常次の通りである。「もし(組織化の高次レベルに関する)理論T2がそれ自身の基本用語をもっていないなら、すなわち、もし(より低次レベルに関する)理論T1の概念装置が理論T2を表現するに十分ならば、理論T2は理論T1に還元される」。
強い還元の条件をより簡潔に述べるなら(Ayala 1968)、科学のより特殊な分野をより基礎的な分野に還元するために、以下の2点が示されねばならない(Nagel 1961 による)。
(1) より特殊化した科学の法則と理論のすべては、より基礎的な科学の理論的構成物の論理的帰結であるということ。これは「導出可能性」derivability の条件である。
(2) この還元が成し遂げられるためには、より特殊化した科学の専門用語のすべてがより基礎的な科学の用語で再定義可能でなければならないということ。
これは「接続可能性」connectability の条件である。
接続可能性の仮定は、生物学理論の還元に関しては特別な困難に出会う。なぜなら、生物学の概念枠組みは物理科学の概念枠組みとまったく異なるので、生物学用語を物理学や化学の用語に変換できる可能性はほとんどないからだ。生物学のさまざまな分野の著作の用語解説をよく調べれば、何千とまではいかないが何百ものこうした変換可能性のない生物学用語に出会う。少しの例をあげるだけだが、たとえば、テリトリー、種分化、雌の選好、創始者原理、刷り込み、親の投資、減数分裂、競争、求愛行動、生存闘争などである。
生物学概念のこの変換不可能性は、すでにウッジャー(1929:263)が知っていた。その後、とくにベックナー(1959)がそのことに注意を喚起し、多くの例を列挙した。
還元主義の哲学者たちはよく、メンデル遺伝学を分子遺伝学に還元する試みを通して、彼らの主張を裏付けようとした。しかし、ハル(1974)ととりわけキッチャー(1984)は、この試みがいかに不首尾に終わったかを示した。理論還元を不可能にするのは生物学の用語だけというわけではない。物理学や化学の法則と接続可能な生物学の一般法則化はごくわずかしかないという事実もまた、理論還元を不可能にするのである。また、複雑な生物学的システムに関わる法則の少なさも、一つの特殊な困難をもたらしている。こうしたすべての証拠を見て、ポパー(1974:269、279、281)は次のような結論を下した。「一つの哲学として、還元主義は失敗した企てである……われわれは創発的な新しさの世界に生きている。通常、どんな先行する段階にも完全には還元できない新しさの」。
理論還元がときにうまくいきそうになるのは、近接要因の生物学においてだけである。
他方、歴史的な進化理論の原理は決して物理学や化学の法則に還元できない。幾人かの還元主義者の主張に反して、これは生物学に対してよく言われるいかなる未成熟ということとも関係がない。実際、この40 年間に分子遺伝学によって得られた新しい洞察は、前よりもさらにはっきりと還元を不可能なものにした。
還元主義の失敗の帰結
ルースが「今日の偉大な生物学者の多くは、なぜ生物学上の還元主義者のどんな種類の命題にも断固として反対するのか?」(1973:217)と問うたのは、そんな何年も前のことではない。今日、その答えは明白である。それは、これらの生物学者が、科学哲学でその当時幅を利かせていた物理主義者たちよりも生物学の諸問題の本質をずっと良く理解していたからである。還元主義の本性、とくにそれが分析といかに異なるかがより良く理解された後、科学哲学において還元主義の人気は急激に衰えた。
還元と哲学
還元についての私の扱い方は、科学者としてのものである。科学哲学者なら、科学哲学の法則、論理、概念装置についての議論に基づいて、この問題をもっとちがったやり方で扱うだろう。そうしたアプローチの典型的な例は、ローゼンバーグ(2001)の「歴史科学における還元主義」である。ほとんどの科学者は、そうした「哲学的」取り扱いが現象やプロセスの理解に何を付加するのか分らないし、還元は、構成要素の相互作用を考慮しそこなうことによって約束したことを実現できない。結局それは、いかなる生物学の哲学の構築においても無視することができるのである。  
第5章 現代思想におけるダーウィンの影響

 

文明化以降の人類の歴史のどの時代も、特定の観念やイデオロギーによって支配されていた。このことは、古代ギリシャにとって真実であるように、キリスト教やルネッサンス、科学革命、啓蒙運動といった時代、そして近代にとっても真実である。さて、それでは、現代の支配的な観念の源泉は何なのか、これは厄介な問いである。この問いは別の言い方で問うこともできる。たとえば、どの書物が現代の思考にもっとも大きなインパクトを与えたか? 当然、まず最初に聖書があげられねばならないだろう。マルクス主義の破産が宣告された1989 年以前なら、確かにカール・マルクスの『資本論』が二番目にあげられただろうし、それは今なお世界の多くの地域で支配的な影響力を持っている。ジークムント・フロイトは支持されたりされなかったりだ。アルベルト・アインシュタインの伝記作家であるアブラハム・パイシュは、アインシュタインの理論が「現代の男女の非生物的な自然現象についての考え方を深く変化させた」と熱烈に主張した。ただ、パイシュはこう言ったあとすぐに、それが誇張であると認め、「実際は、‘現代の男女’と言うより‘現代の科学者’と言った方が良いだろう」と訂正した。なぜなら、アインシュタインの貢献の真価が分るためには物理主義的な思考様式と数学的技法の教授を必要とするからだ。本当のところ私は、1920 年代の物理学における偉大な諸発見が一般の人の思考に何か影響を与えたということを疑わしく思っている。しかし、ダーウィンの『種の起原』(1859)についてはは事情がちがう。聖書を別にすれば、現代のわれわれの思考にこれよりも大きな衝撃を与えた書物は他にない。私はこうした評価が正当であることを示したいと思う。なぜなら、ダーウィンは他の誰よりも世界の世俗的説明の受容に貢献しただけでなく、驚くほど多くの点でこの世界の本性についてのわれわれの思考に大変革を引き起こしたのだから。
第一次ダーウィン革命
世界についての考え方は、ダーウィン以前は物理学によって支配されていた。ビュフォン以来、生物的自然が哲学者の思考において次第に重要なものになってきたとはいえ、生物学が科学の一分科として認められるまで、生物的自然が適切に組織化されることは不可能であった。そして、このことは19 世紀の半ばまで起こらなかった。この組織化にはまったく新しい観念、つまり生物学由来の観念が必要であったし、確立していた科学も哲学もそれらを受容する用意はまったくなかった。その受容にはイデオロギー上の革命が必要だったのだ。結局そうなったのだが、実際これはたいへんドラスティックな革命であった。
この革命は、普通の人の世界観に、前の数世紀で生じたよりももっと多くの―もっとドラスティックな―変更を要求した。このことがよく見過ごされる理由は、伝統的にダーウィンが単なる進化論者とみなされていることにある。もちろん、彼は疑問の余地なく進化論者であったが、それに加えて世俗的な科学を確立したのは明確にダーウィンであった。1860年代、「ダーウィン主義」という言い方は、世界とその変化の超自然的な起源を拒絶する者を表した。それは自然選択の受容を必要としなかった(Mayr 1991)。世俗的な科学の導入が最初のダーウィン革命であったのだ。
新しい時代精神へのダーウィンの貢献
神を讃える科学を世俗の科学に置き替えることによって、ダーウィンは19 世紀の思考に深大な変革をもたらした。しかし、ダーウィンによる衝撃は、分岐進化(共通の由来)と世界における人間の位置(霊長類からの由来)を含意する、進化と進化的思考の帰結に限られていたわけではなかった。それは一連の新しいイデオロギーも含んでいた。一つは目的論のような昔からの概念に対する反駁であり、一つは生物個体群というようなまったく新しい概念の導入であった。全体としてそれらは、現代人の思考に真に革命的な衝撃をもたらした。
進化はいかなる自然研究者にとってもごく明白な現象なので、19 世紀の半ばにいたるまでほとんどあまねくそれが拒絶されていたことは、少々謎である。遺伝学者ドブジャンスキーが正しくも述べたように、「生物学においては、進化の観点から見るのでなければ何事も意味をなさない」。このことは間違いなく非機能的生物学のすべてにとって正しい。確かに、ダーウィン以前にも進化の提案者は存在した。ビュフォンに始まり、ジャン・バティスタ・ラマルクによる綿密な進化理論さえあった。しかし、1859 年に至るまで、すべての非専門家およびほとんどすべての博物学者と哲学者でさえ、今までどおり安定した不変の世界というものを受け入れていた。進化は誰にとっても明白であるのに、なぜ1859 年に至るまで広く受け入れられなかったのか? 一見明白なことの受容を妨げたものは何だったのか?
19 世紀初期の時代精神Zeitgeist の構成要素であるいくつかの基礎的なイデオロギーと概念が、進化論のより早い受容を妨げたのだということが、私の熟考した結論である。それらの要因のいくつかをここで議論してみたい。
世俗的な科学
聖書の中のあらゆる言葉を字義通りに受け入れることが、19 世紀初期のすべての正統的キリスト教徒の一般的な見方であった。この世界のすべてのものは、いまこうしてあるように神によって創造されたという。自然神学はそれに次のような信念を付け加えた――創造の時期に神はさらに、素晴らしくデザインされた世界の完全なる適応が維持されるよう一そろいの法則を制定した。ダーウィンは、この信仰の3つの主要な構成要素すべてに挑戦した。彼はこう主張した。第一に、世界は一定不変のままであるというより、むしろ進化している。第二に、新しい種は特別に創造されるのではなく、共通の祖先から由来する。第三に、各々の種の適応は自然選択のプロセスによって絶えず調整されている。ダーウィンの理論においては、生き物の世界の進化の全プロセスにおいて神の干渉や超自然的力のはたらきは必要ない、とりわけ自然選択の全プロセスにおいてはそうだ。ダーウィンによる進化論の提案は、こうして神によって支配された世界を自然法則にしたがって作動する厳密に世俗的な世界に置き換えることであった。
驚くべきことに、共通の由来によって進化する世界というダーウィンの提案は、1859 年以後博物学者と哲学者の大多数によってほとんど即座に受け入れられた。これはイギリスにおいてばかりでなく、大陸、とくにドイツ語圏の国々とロシアにおいてそうだった。進化の原因に関する論争はその後80 年間つづいたけれども、進化の観念はほとんど瞬く間に受け入れられたのであった。この転換の素早さについては、ダーウィン自身が『起原』で進化に関する圧倒的な量の証拠を示したということが大きな要因になっている。本当のところ、ダーウィンはもっと多くの証拠をあげたのだが、そのことは普通ダーウィンの伝記では言及されない。彼は、自然選択でなら容易に説明されるが特殊創造説のどんな説明もまったく受けつけず、またいわゆるインテリジェント・デザインでも説明できないおよそ50 か60 の生物学的現象を提示した(Darwin ( 1859 : pp。35、95、133、139、186、188、194、203、399、406、413、420、435、456、469、478、486 とその近くの多くのページ)を見られよ)。
共通の由来と人間の位置
ダーウィンの共通の由来説は、生物の種類のリンネ式階層性と比較解剖学者の知見についての説明を提供したため急速に受け入れられた。しかし、共通の由来説はまた、ビクトリア朝のダーウィンの同時代の人びとの多くにひどく不快な一つの帰結をもたらした。それは、人間の祖先は類人猿であるというのだった。もし人間が類人猿から由来したのなら、人間は生物の世界の外側に存在するのではなく、実際にはその一部になるからだ。これは厳密に神人同形論的哲学の終焉であった。ダーウィンはホモ・サピエンスHomo sapiens の独自な性質について問わなかったし、近代の進化論者もまたそうだったが、動物学的に人間は特殊な進化をした類人猿にほかならない。実際、現代のすべての研究が、人間とチンパンジーの途方もない類似性を暴きだした。われわれは遺伝子の98%をチンパンジーと共有し、タンパク質の多く―たとえばヘモグロビン―はまったく同一である。また近年、意識や知性、人間の利他行動の本性といった問題を扱う人間についての哲学的研究において、われわれはもはやこうした人間的な能力の起源がわれわれの類人猿的な祖先にあるということが明白になった。進化によって人類は多くの独自な性質や能力を獲得してきたが、それはまちがいのないことなのである。
個体群思考
ここで次に、ダーウィンによる理論化の哲学的基礎を分析しよう。生物的自然の研究者には進化はごく明らかであるのに、この明白な事実が受容されるようになるまでになぜこうも長い時間を要したのか? 一つの個別な事例についてこのことを調べてみよう。ダーウィンのもっとも独創的でもっとも重要な新しい概念は、自然選択の概念であった。哲学者ばかりでなくほとんどの生物学者でさえが、これほど長い間この理論に敵対したのはなぜだろうか? その時代の概念枠組みと、とりわけ類型思考のほぼ普遍的な受容―ポパーが本質主義と呼んだもの―がこの遅れの原因であった、というのが私の主張である。この種の思考法はプラトンとピタゴラス学派の人々によって導入されたものだが、彼らは、世界は実在(「形相」eide)の限られた数の類class から成り、事物の類の各々の類型type(本質)だけが実在性を持っていて、これらの類型に見られるうわべの変異はすべて取るに足りないものであり問題にならない、と仮定した。プラトンの類型(あるいは形相)は、不変であり、時間を超越し、他の類型に対してはっきりと境界を画されているとみなされた。こうした類型思考は、物理科学者にあまねく採用された。なぜなら、たとえば核子や化学元素のような物質の基礎的実体はすべて実際不変であり、互いにはっきりと境界を画されているからである。
ダーウィンは、生物の多様性に関してこうした叙述を退けた。その代わり彼は、今日「個体群思考」population thinking と呼ばれる思考様式を導入した。生物個体群において実際同じ個体は2つとないし、一卵性双生児でさえ同じではない。このことは60 億人の人間についても当てはまる。現実にあるものはそれぞれ異なる個体間の変異なのであり、
この変異から算出された統計的な平均値は抽象物である。こうした見方はまったく新しい哲学概念であり、自然選択理論を理解するためにきわめて重要であった。この概念がいかに斬新なものであったかは、ダーウィン自身がときに類型思考に逆戻りしてしまうときがあったことからも見えてくる。これが、新種の起源の問題をダーウィンが解決できなかった理由であったのだが。
個体群思考は日常生活においてもたいへん重要である。たとえば、人種差別の主な源泉は個体群思考を適用しないことにある。チャールズ・ライエルやT。H。ハクスレー(Mayr 1982)のようなダーウィンの仲間の多くは、個体群思考を採用せず、生涯にわたって類型論者のままであった。その結果として、彼らは自然選択を理解することも受け入れることもできなかった。類型思考はこの時代の思考法にしっかりと根を下ろしていたのだから、1930年代に自然選択概念が最終的に進化論者に広く採用されるようになるまで、80 年もかかったのは驚くにあたらない。
遺伝的プログラム
生物世界と非生物世界の基礎的な相違の一つである生物個体群という概念には、ダーウィンが大きく貢献した。もう一つの、同様にもっぱら生物世界に使われる概念である遺伝的プログラムgenetic program は、細胞学と遺伝学と分子生物学が十分発達するまで発想され得なかった。それは、生物の活動および個体内のはたらきの二重の因果関係の源泉になっている。
おそらく物理学者の非生物世界と生物学者の生物世界のもっとも大きな相違は、すべての生物に見られる二重の因果関係にある。物理世界で起こるどんなことも、重力や熱法則あるいは物理科学が発見した他の多くの自然法則によってもっぱらコントロールされている。それらの法則はあらゆる物質の属性を記述するのであり、生物個体とその部分でさえ物質として非生物的物質と同様にそれらの法則に従うのである。生き物の研究において物理科学の法則は、細胞と分子のレベルにおいてとりわけ明白に見られる。生理学の理論形成はほとんど自然法則に基づいている。しかし、生物はまた第二の原因群、すなわち遺伝的プログラムからもたらされた情報にも従う。遺伝的プログラムに左右されない生物の活動や運動、行動は存在しない。このプログラムは各生物個体の遺伝子型から成るが、それは数十億年間にわたる世代ごとの自然選択の所産である。構造上の法則と遺伝的プログラムからのメッセージは同時にかつ調和して作用するが、遺伝的プログラムは生物だけに出現する。それは、非生物世界と生物世界の間に絶対的な境界線を引く。
ナチュラリストはもちろん数千年間この基礎的な差異に気づいていたが、その説明は妥当なものではなかった。彼らは、生命が「生命力」vis vitalis という生気論の魔術的力に因ると考えようとしたが、結局そのような力は存在しないことが確認された。それは最終的に、20 世紀の細胞学と遺伝学と分子生物学の諸発見によって可能になった。科学はついに、生命の自然主義的な説明を提供したのである。
究極目的論
ここで、19 世紀前半の哲学において支配的だったもう一つの概念に話しを転じよう。哲学者のイマニュエル・カントは、『判断力批判』(1790)でニュートンの物理主義的哲学に基づいて生物学の哲学を展開しようとしたが、それは呆れるほど失敗した。結局彼は、生物学は物理科学とは異なっており、われわれはニュートンが使用していない何らかの哲学的要因を見出さねばならない、という結論を下した。実際カントは、アリストテレスの第四原因すなわち目的因(目的論)にそうした要因を見出したと考えた。それゆえ、カントは、進化的変化(実際は彼はそのようなものとして認識していなかったが)ばかりでなく、彼がニュートンの法則で説明できなかった他の生物学的なすべてのことを目的論に帰した。このことはドイツの19 世紀哲学にかなりの悪影響を及ぼした。なぜなら、カントの後継者によるすべての哲学において、目的論への根拠のない依存が重要な役割を果たしたからだ。
ダーウィンの偉大な功績は、カントが目的論に訴える必要があると考えた現象をすべて自然選択で説明できたことであった。アメリカの偉大な哲学者ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、死の約1 年前の私との会談で、ダーウィンのもっとも大きな哲学的功績はアリストテレスの目的因を論破したことにあると思うと述べた。自然選択の純粋に自
動的なプロセスは、世代ごとに豊かな変異を生み出し、常に劣った個体を取り除き、もっとも適応した個体を選び出す。1859 年以前には目的論でしか説明できなかったすべてのプロセスおよび現象を、この自然選択のプロセスは説明することができる。現在でもわれわれは自然界の4つの目的論的なプロセスや現象を認めるが(第3章を見よ)、それらは化学と物理の法則によってすべて説明できる。一方、カントが採用したような宇宙的目的論は存在しない。
偶然の役割
ダーウィン以前には決定論が支配的な哲学であった。ラプラスが自慢したように、もし宇宙のすべてのものの正確な位置と運動が分れば、世界で起こる未来の出来事を詳細にわたって予言することができるだろう、というのである。ラプラスの哲学においては偶然や偶発事が入る余地はなかった。ダーウィンもこうした決定論にまったく口先だけだが支持をしていた。彼は、宇宙の偶然的プロセスにはすべて原因があるというその時代の通常の信念を受け入れていた。しかし、ニュートンの物理法則は遺伝的変異を十分に説明するものではなかった。そこでダーウィンは、当時一般的に受容されていた獲得形質の遺伝の原理を利用した。彼が言うには、家畜はより豊かな食餌を取っているので野生動物よりも変わりやすく、こうして生み出された変化は遺伝する。彼にとってすべての突然変異は観察可能な原因の結果であった。自然に生じる突然変異という概念は、ドフリースによって生物学に導入される1890 年代までなかったのだ。
ダーウィン的変異はニュートンの自然法則に基づくものではなかったので、同時代の哲学者には受け入れられなかった。そうした変異体は偶然の現象あるいは偶発事とみなされた。物理主義的哲学者であるハーシェルは、自然選択を軽蔑的にめちゃくちゃの法則と呼んだ。こうした批判は彼ひとりではなかった。ケンブリッジの地質学者セジックや他のダーウィンの批判者は、進化の要因を偶然に頼っているといってダーウィンをたしなめた。
ダーウィンは、眼のような完全な器官が偶然によって起源したことをいかに信じることができるか?、と繰り返し問われた。科学的説明の中に偶然が次第に受け入れられていった歴史の綿密な分析は、いまだに十分でない。現在、進化における偶然は自然選択のプロセスの2段階の特質の一部であると理解されており(第7章)、自然選択の第2段階の選択や排除のプロセスは、第1段階のランダムな変異によるポジティヴな寄与を利用することができる。
ほぼそれと同時に、19 世紀半ば、偶然の重要性が物理科学においても発見され、ダーウィンによる偶然の称揚はまもなくそれほど厳しく批判されることはなくなった。現代の著者が偶然の変異について語るとき、分子的な駆動力の存在は否定しないが、そうした遺伝的変異が生物の適応上の必要性への反応であるという主張は否定する。そうした反応は決して起こることはなく、分子生物学は獲得形質の遺伝は存在しないことを示した。ダーウィンに確信はなかったが、彼が多くの生物学的現象の偶然的性質を受容可能な概念にした偉大なパイオニアのひとりであったことは確かだ。
法則
ニュートン的な科学哲学においては、一般に理論は法則に基づいていた。ダーウィンはおおむねこの見方を受け入れていた。実際、『種の起原』の中では非常に自由に「法則」lawという言葉を使用しているのが分かる。ともかく規則正しく起っているように見えるいかなる原因や出来事も、ダーウィンは法則と呼んだ。しかし、私は、進化上の規則性を法則と呼ぶことの正当性を否定する現代の哲学者たちにむしろ同意する。なぜなら、こうした規則性は、物理学の法則のようには物質の基礎を取り扱わないからだ。それらはいつも空間と時間が限定されていて、常に非常に多くの例外を伴っている。このことがポパーの反証可能性原理が進化生物学に通常適用できない理由であって、それは例外によってはおおかたの規則性の一般的な妥当性が反証されないからなのである。
進化生物学には自然法則は存在しないという結論をもし下すなら、生物学の理論はいったい何を基盤にし得るのか?と問われるにちがいない。今日広く採用されている見方は、進化生物学の理論は法則よりもむしろ「概念」concepts に基づいているというものである。
科学のこの分科は確かに理論を基礎づけるための豊かな概念を有しており、たとえば自然選択、生存闘争、競争、生物個体群、適応、繁殖成功、雌の選好、雄の優位性といった概念があげられる。これらの概念のいくつかはちょっとした努力で擬似的な法則にたぶん転換することができることを私は認めるが、そうした“法則”がニュートンの自然法則とは非常にちがう何ものかであることに疑問の余地はない。結局、自然法則に基づいた物理学の哲学は、概念に基づいた生物学の哲学とは非常に異なるものであるということになる。
ダーウィン自身はこのちがいにまったく気づいていなかった。とはいえ、自然法則よりもむしろ概念に基づいた理論形成の新しいやり方を導入したのは、他の誰よりもまずそれはダーウィンだったのである。
ダーウィンの方法
ダーウィンは何よりもまずナチュラリストであった。彼の好んだ方法もまたナチュラリストのものであった。ダーウィンは一連の観察をし、その証拠から推論を繰り広げた。彼はこの研究方法を帰納的方法であるとみなし、自伝に自らをベーコンの真の後継者であると記録した。しかし、ダーウィンの著作のいく人かの研究家―たとえば、ギゼリン(1969)
―は、この研究方法は仮説−演繹的なものとみなした方が良いと考えた。実際、おそらく真実にもっとも近いのは、ダーウィンはプラグマティストであり、最良の結果を出せると思える方法ならどんな方法でも使用したと言うべきだろう。ダーウィンは非常に鋭い観察家であり、観察が彼のもっとも生産的な研究方法であったことは疑うまでもない。しかし、彼はまた巧みな実験家でもあり、とりわけ植物の研究では数多くの実験を行った。すべてのナチュラリストがそうであるように、ダーウィンがおそらくもっとも頻繁に使用した方法は、比較の方法であった。
時間
物理科学でもっとも広く使用された方法は、実験である。進化研究においてダーウィンは、地質学と宇宙論を除いた物理科学の大部分では問題とされない要素、すなわち時間的要素に対処しなければならなかった。過去の生物学的な出来事を実験することはできない。
恐竜の絶滅のような現象や他のすべての進化上の出来事は、実験的方法では近づきがたく、まったく異なる方法論を必要とする。それがいわゆる歴史的物語と言われる方法論である。
この方法では、過去に起ったことの想像上のシナリオがその帰結に基づいて展開される。
その後、このシナリオからあらゆる種類の予測が行われ、歴史的物語が正しかったかどうかが決定されるのだ。ダーウィンは、この方法を生物地理学的な復元において特にうまく使用した。たとえば、仮説された昔の陸橋のうちどれが現在の分布状態から支持されるのか、どれが支持されないのか?というようなことである。
歴史的物語の方法の重要性は、哲学者たちによって久しく見過ごされてきた。しかし、過去の出来事の成り行きを扱うときはいつも、それは必須の方法なのだ。この方法の生産性を考えたとき、科学史家によってそれがどんなに無視されてきたかは驚くほどだ。たとえば、ビュフォン、リンネ、ラマルク、ブルーメンバッハは、歴史的物語をどれほど多く利用しただろうか?
これまでの著書の中で私は、ダーウィンの思想の哲学的基礎に言及し、ダーウィンを偉大な哲学者の一人と呼んだ。これは一般に採られている観点ではない。ダーウィンは古今を通じてもっとも偉大な哲学者の一人だとはいえ、彼の生物学の哲学は、論理学や数学や物理科学に基づく哲学と根本的にひどく異なるので、その哲学的特質はこれまで見過ごされてきたのである。
要約
さて、ダーウィンが現代人の思考に貢献したことどもを要約しよう。彼は、キリスト教の教義に基づく世界観を厳密に世俗的な世界観に置き換えた。また、彼の著作は、それまで支配的であったいくつかの世界観、たとえば本質主義、究極目的論、決定論や、進化の説明のためにはニュートンの法則で足りるといった見方の拒絶に役立った。彼は、それらの反駁された概念を、生物個体群や自然選択や、偶然と不確実さの重要性、時間的要素(歴史的物語)の説明的重要性、倫理の起源のための社会集団の重要性など、生物学の外へも広がる重要さをもつ多くの新しい概念に置き換えた。現代人の信念体系のほとんどすべての要素は、ともかくもダーウィンの概念的革新のあれこれに影響されている。彼の著作全体が、生物学の急速に発展しつつある新しい哲学の基礎である。すべての現代西洋人の思考がダーウィンの哲学思想によって深い影響を受けているということは、疑いのない事実である。  
第6章 ダーウィンの5つの進化理論

 

ダーウィンは根っからの理論家であり、大きいものから小さいものまで多数の進化理論を打ち立てた。しかし、彼は自らの進化理論をいつも“私の理論”というふうに単数形で呼び、種が不変でないことと共通の由来と自然選択を単一の分割できない理論として論じた。モーリッツ・ワグナーが自然選択を採用しなかったために彼の見事に説得力のある地理的種分化理論(と隔離の重要性)をダーウィンが拒絶したことを発見したとき、私は若い進化論者としていかに衝撃を受けたかをいまだに覚えている。私のヒーローであるチャールズ・ダーウィンは、私がまったく非論理的だと思えることをいかに行うことができたのだろうか? ダーウィンの進化パラダイムにおけるさまざまな理論の独立性を彼自身が認識しそこなったことが、分岐の原理についての彼の議論に困難をもたらした(Mayr1992)。
私は最近、ダーウィンがこのことを認識しえなかったことが1859 年以降の進化生物学における果てしない論争の主要な原因の一つになったという結論に達した。しかし、今ではもう、ダーウィンのパラダイムがいくつかの主要な独立した理論から成る、ということはすっかり明確になった(Mayr1985)。驚くほどのことではないが、進化論者たちはそれらの理論の妥当性について意見が一致せず、互いに対立する学派を形成した。1930 年代と40 年代に進化的総合が成し遂げられるまでほとんど80 年間、それらの学派は互いに反目しあったのだ。
ダーウィンの多面的な理論を分析することによって、私はダーウィンのパラダイムが5つの主要な独立した理論から成るという結論に至った。それらの理論が本当に互いに“論理的に独立した”ものであるということは、いく人かの最近の著者によって確証された。
ある一人の学者が、このひとまとまりの5つの理論のうちのいくつかを受容し同時にいくつかを拒絶しているということが、これらの理論の独立性をおそらくもっとも良く立証している(表6。1)。
私はここでは、ダーウィンの5つの理論のたいへん詳細な分析(Mayr 1985)を(いくらか修正して)簡単に述べるだけである。それらの5つの理論についてのさらに詳しい情報は、この論文を参照されたい。
表6。1 進化論者によるダーウィン理論の受容
          共通の由来 漸進性 個体群的種分化 自然選択
ラマルク       否定   肯定   否定   否定
ダーウィン     肯定   肯定   肯定   肯定
ヘッケル      肯定   肯定   ?     部分的
新ラマルク主義者 肯定   肯定    肯定   否定
T. H. ハクスレー  肯定   否定   否定   (否定)
ド・フリース     肯定   否定   否定   否定
T. H. モーガン   肯定   (否定)   否定   重要でない
ダーウィン主義は単一の同質の理論ではあり得ないということについての、とりわけ的を射た一つの理由が存在する。それは、生物進化が時間における変遷と(生態的地理的)空間における多様化という2つの本質的に独立なプロセスから成っているということである。この2つのプロセスは、最低限2つのまったく独立したきわめて異なる理論を必要とする。それでもダーウィンに関する著述家たちがほとんど決まってそれらさまざまな理論の組み合わせを単数形の「ダーウィンの理論」というふうに述べたのは、大いにダーウィン自身に原因があった。ダーウィンは、進化説自体を「私の理論」と呼んだだけでなく、自然選択による共通の由来説をも、まるで共通の由来と自然選択が単一の理論であるかのように「私の理論」と呼んだのである。
ダーウィンのさまざまな理論を区分けする試みは、彼が『起原』の第4章で自然選択の下での種分化を論じ、多くの現象とくに地理的分布の現象を本当は共通の由来の帰結であるにもかかわらず自然選択の結果だとした事実によって妨げられた。そういうことなので、私は、ダーウィンの進化の概念枠組みを彼の進化思考の基礎を形成する主要な理論にばらばらに分離することがぜひとも必要であると思う。便宜上、私はダーウィンの進化パラダイムを5つの理論に分割した。もちろん、他の人がちがった分け方を選ぶこともあり得る。
ダーウィン以後の著者がダーウィン理論に言及するとき、彼らは下記の5つの理論のうちのいくつかを組み合わせたものをいつも考えていた。ダーウィン自身にとってそれら5つの理論とは、進化それ自体と共通の由来と漸進説と種の増加と自然選択であった。人によっては、これら5つの理論は実際論理的に分離できないひとまとまりのものであり、ダーウィンがそういうものとしてそれを論じたのはまったく正しかった、と主張するかもしれない。しかし、こうした主張は私が他で示したように(Mayr 1982b:505-510)、1859 年直後のほとんどの進化論者、つまり種の可変性の理論を受け入れていた著者たちが進化自体以外のダーウィンの4 つの理論のうちの1つあるいはいくつかを拒絶したという事実によって論破される。このことが、5つの理論は1つの不可分の全体ではないということを示しているのである。
進化それ自体
これは、世界は不変でも永遠に循環するのでもなく、着実にある程度方向性をもって変化していて、生物もそれに合わせて変遷しているという理論である。19 世紀の前半、とりわけイギリスにおいて、世界は本質的に不変でありまだあまり時間も経っていないという信念がどれほどなお流布していたかを思い描くことは、現代人にとってはなかなか難しい。
チャールズ・ライエルのように、地球の年齢の古さと生物絶滅の絶え間ない進行に十分気づいていた人々さえほとんどが、種が変遷するということを信じるのを拒否した。進化の信念はまた、種の可変説とも呼ばれた。
進化それ自体は、現代の著者にとってはもはや説というものではない。それは、地球が太陽の周りを回っているのであってその逆ではないという事実と同じほどに明確な事実だ。
正確に年代を定められた地層に含まれている化石記録によって立証された変化が、われわれが進化と呼ぶ事実である。進化それ自体は、他の4つの進化理論が依拠する事実的基礎である。たとえば、共通の由来によって説明される現象のすべては、もし進化が事実でなかったら意味をなさない。
共通の由来
ガラパゴスの3種のマネシツグミの事例が、ダーウィンに重要な新しい洞察をもたらした。その3種が南米大陸の1つの祖先種から由来したのは明確だった。この結論から、すべてのマネシツグミは共通の祖先から派生した―さらに言えば、生物のすべてのグループは1つの祖先種から由来した―と仮定することまでは、ほんの小さな一歩であった。これがダーウィンの共通の由来説である。
「共通の由来」common descent と「枝分れ」branching という2つの用語は、進化論者にとっては正確に同じ現象を表しているということが強調されねばならない。ただ、共通の由来は過去に遡る観点を、枝分れは未来向きの観点を反映している。共通の由来という概念はダーウィンのオリジナルでは決してなかった。ビュフォンはすでにウマとロバのような近縁関係についてその概念を考えていた。しかし、彼は進化を認めていなかったので、この考えを体系的に展開することはなかった。他にもダーウィン以前のかなりの数の著述家が共通の由来ということをところどころで示唆していたが、歴史家はこれまで共通の祖先という考えの初期の支持者について詳しく調べてはいない。これはラマルクによっては明らかに支持されなかった理論であり、彼は“塊り”masses(高次分類群)の時折の分裂ということを提案したけれど、種の分裂と規則的な枝分れということは決して考えなかった。
ラマルクは、自然発生と、系列ごとのより高次な完全性の段階へ向けての個々のたて方向の変遷ということから、多様性を演繹した。彼にとって、由来とは各系統発生系列内部の直線的なものであって、共通の由来という概念とは無縁なものであった。
ダーウィンの理論のうち、共通の由来ほど熱狂的に受け入れられたものは他になかった。
ダーウィンの他の理論は、そのような大きな直接的な説明力をもたなかったというのがおそらく正しい。自然史においてそのときまでは気まぐれであったり無秩序に見えたものすべてが、いまや意味を持ち始めたのだ。オーウェンや比較解剖学者たちの原型というものは、いまや共通の祖先からの遺産として説明することができた。リンネ式階層全体が急にすっかり論理的になった。なぜなら、各高次分類群はもっとずっと遠い祖先の子孫たちから成るということがいまや明白になったからである。それまでは気まぐれに見えた分布パターンが、いまや子孫の分散ということで説明できるようになった。『起原』でダーウィンが列挙した進化の証明のほとんどすべては、実際には共通の由来のための証拠である。孤立していたり逸脱したタイプの由来の系列を確定することが、『起原』以降のもっとも流行った研究プログラムになったが、比較解剖学者と古生物学者の研究プログラムの大部分はほぼ今日まで残されたままである。共通の祖先に光を注ぐために、比較発生学の研究プログラムも流行した。厳密な反復説を信じなかった人たちでさえ、成体では消失してしまった胚の類似性をたびたび発見した。それらの類似性は、たとえば原索動物と脊椎動物の脊索や、魚と陸上四足動物の鰓弓のようなものだが、共通の過去の名残りと解釈されるまではとても不可解なものだったのだ。
共通の由来説の説明力以上に進化の急速な受容に役立ったものは他になかった。じきに、見たところ互いにたいへん異なる動物と植物さえが共通の単細胞の祖先から派生し得るということが例証された。「すべての植物も動物も、命が最初に吹き込まれたある一つの形態から(由来した)」(『自然選択』p。248)とダーウィンが示唆したとき、彼はすでにこのことを予言していた。細胞学(減数分裂、染色体の受け渡し)と生化学の研究は、形態学と分類学における共通の起源に関する証拠を十分に裏付けた。真核生物と原核生物が同一の遺伝暗号を持っていることを立証し、したがってこれらのグループの共通の起源についてもほとんど疑問が残されていないということは、分子生物学の勝利の一つであった。高次分類群間、とくに植物と無脊椎動物の門の間にはなお確証されねばならないつながりが多くあるとしても、今日地球上に見出される全生物が生命の単一の起源から由来したということを疑うような生物学者は、おそらく今や一人もいない。
共通の由来説の適用が強力な抵抗に出会った領域は、ただ一つしかなかった。それは由来の全系列に人間を含めることであった。同時代の風刺漫画から判るように、他の霊長類からの人間の派生ということ以上にビクトリア朝の人々に受け入れられなかったダーウィン理論はなかった。しかし、現代においては、人間の由来は化石記録からきわめて十分に確証されているだけでなく、人間とアフリカの類人猿の生化学的および染色体上の類似性はたいへん大きいことが分っているので、両者の形態と脳の発達がなぜこんなにも異なっているのかがまったく不可解なほどなのである。
漸進説対跳躍説
ダーウィンの第3の理論は、進化的変遷はたえず漸進的に進行し決して跳躍することはないということであった。あの時代のほとんど誰もが本質主義者であったということが分かっていなければ、ダーウィンの進化漸進説の主張は決して理解できないだろうし、この理論への強い反対も理解できないだろう。化石記録によって証拠が提供された新種の出現は、新しい起源つまり跳躍によってのみ起り得たというのだ。しかし、新種は完全に適応していたし、適応していない種がたびたび生まれたという証拠はなかったので、ダーウィンは代替案を2つだけ考えた。完全な新種は全知全能の創造者によって個別に創造されたのか、それとも、こうした超自然的なプロセスを受け入れないなら、新種は既存の種から適応が保持された各段階を経てゆっくりしたプロセスによって漸進的に進化したのか。ダーウィンが採用したのはこの2番目の代替案であった。
この漸進説の理論は伝統からの思い切った飛躍であった。新種の跳躍的起源の理論は、ソクラテス以前の哲学者からモーペルチュイやいわゆる天変地異説の地質学者の中の進歩主義者までに存在した。この跳躍主義者の理論は本質主義と調和していたのだ。
ダーウィンによる進化の完全な漸進主義理論―種だけでなく高次分類群も漸進的変遷によって出現する―は、すぐに強い抵抗に出会った。ダーウィンのもっとも近しい友人たちでさえそれには不満であった。T。H。ハクスレーは、『起原』出版の前日に次のようにダーウィンに書き送った。「あなたは、“跳躍なしの自然”Natura non facit saitum という考えを無制限に採用することによって無用な困難を背負ってしまった」(Darwin F。1887:2、27)と。ハクスレーやゴールトンやケリカーや他の同時代人がダーウィンを説得したにもかかわらず、彼は進化の漸進性を執拗に力説した。ダーウィンはこの概念の革命的な本性に十分気づいていたのだ。ラマルクとジョフロア〔サンチレール〕を除いて、生物の世界の変化について考えたおよそすべての者が本質主義者であったし、跳躍ということに頼っていた。
ダーウィンの漸進説への強い信念の源は、あまりはっきりしていない。問題はいまだに十分分析されていない。もっともありそうなのは、漸進説はライエルの斉一説の地質学から生物世界への拡張だというものである。ライエルがそのような拡張をしなかったことはブロンによって正確に批評された。もちろんダーウィンは、漸進説の主張のための厳密に経験的な根拠を持っていた。家畜の品種についての研究、とくにハトについての研究や動物育種家とのやり取りが、ゆっくりした漸進的な選択が最終産物にどれほど顕著なちがいを生じ得るかを彼に確信させた。このことは、ガラパゴスのマネシツグミとゾウガメの彼の観察とよく一致していた。それらは、漸進的変遷の結果としてもっともうまく説明されたのだ。
最終的に、ダーウィンは 、むしろ小さなステップのゆっくりとした累積を強く主張するための教訓的な根拠を持った。彼は、自然選択による進化的変化を「観察する」observe ことができるはずではないかという反対者の議論に対し次のように答えた。「自然選択は、わずかだが継続的な好ましい変異の積み重ねによってもっぱらはたらくので、大きいあるいは急な変化を生み出すことはできない。それは非常に短くゆっくりとしたステップによってのみはたらき得る」(『起原』P。471)。ダーウィンの中に個体群思考が全面的に出現したということが、彼を漸進説に強く固執させるようになったのだということは、ほとんど疑いがない。進化は個体群において起りそれをゆっくりと変移させるという概念―これはダーウィンがだんだんと信じるようになったことだ―を採用するなら、たちまち自動的に漸進説を採用することも強いられるのである。漸進説と個体群思考はおそらく、ダーウィンの概念枠組みにおいては元来独立した構成要素であったが、しかし結局、それらは互いに強化し合うことになった。
ナチュラリストが漸進的進化の主な支持者であった。彼らはあらゆるところで地理的変異に出会ったのだ。結局、遺伝学者も、ごく小さい突然変異や多元発現と多面発現の発見によって、同じ結論に至った。その結果、ゴールドシュミットとシンデウォルフによる継続的な反対があったにもかかわらず、漸進説は進化的総合の中で完全なる勝利を祝うことができた。
個体群的進化として漸進説を定義することで―これはもともとダーウィンが考えていたことだが―、われわれは次のように言うことができる。あらゆる反対にもかかわらず、ダーウィンは最終的にこの3番目の進化理論に関しても勝利を得た。漸進説の明確な例外には、(異質四倍体のような)異種交配なしに生まれ得る安定的な雑種や細胞内共生(Margulis and Sagan 2002)がある。
漸進説の理論では、変化の起る速さについては何も言わない。ダーウィンは進化がときに非常に急速に進むということに気づいていたが、アンドリュー・ハクスレー(1981)が最近まさに正しく指摘したように、完全なる停滞の時期もあり得る。「その間はそれら同じ種がどんな変化もこうむることなしに存続している」。『起原』のよく知られた図表で(p。117の向かい側)、ダーウィンは、1つの種(図中F)を1万4千世代の間あるいは一連の全地層を通してさえ変化させないままにした(p。124)。漸進性と進化速度が別個のものであることの理解は、断続平衡理論の評価にとって重要なことである(Mayr 1982C)。
種の増加
ダーウィンのこの理論は、生物の莫大な多様性の起源を説明することに関係している。地球上には、500 万から1000 万種の動物と100 万から200 万種の植物が存在すると見積もられている。ダーウィンの時代にはこれらの数のほんの一部分しか知られていなかったが、なぜこんなにも多くの種が存在し、それらがいかに起源したのかという問題はすでに存在していた。ラマルクは、『動物哲学』(1809)で種の増加の可能性を問題にしなかった。彼にとって、生物の多様性は他と異なる適応によって生み出されるものだった。新しい進化系列は自然発生によって生じると彼は考えた。ライエルの定常状態の世界では、種の数は一定であり、新種は絶滅してしまったものに代わって導入されるものだった。一つの種をいくつかの娘種に分離するといういかなる考えも、こうした初期の著者には存在しなかった。
種の多様化の問題に答えを見い出すにはまったく新しいアプローチが必要であり、ナチュラリストだけがその発見のための適所にいた。カナリア諸島のL。フォン・ブッフ、ガラパゴスのダーウィン、北アフリカのワグナー、アマゾンとマレー群島のウォレスがこの試みのパイオニアであった。それまで進化思想を占有していた垂直的次元に水平的(地理)次元を加えることによって、彼らはみな、地理に対応する(異所性の)種や発端の種を発見することができた。しかし、それ以上に、これらのナチュラリストは、種形成の考えうるすべての中間段階のたくさんの異所的個体群を見い出した。ジョン・レイやカール・リンネ、そのほか無次元的立場の研究者(地方のナチュラリスト)にそうした印象を与えた種間の明確な不連続性はいまや、地理的次元を組み込んだ種間の連続性によって満たされたのである。
もし種を単に形態的に異なる型として定義すると、種の増加という現実の問題を避けることになる。種分化問題のより実際的な定式化は、生物学的種概念(K。ヨルダン、ポールトン、シュトレーゼマン、マイアー)が展開されるまでは不可能だった。そのときついに、現実の問題は同時的に存在する種間の生殖隔離の獲得にあるということが分ったのだ。時間次元での一つの系統発生系列の変遷(その後明示されたような漸進的な系統発生進化)は、多様性の起源には何の光も照らさない。では、それをするのは何なのだろうか?
ダーウィンは、生涯にわたって種の増加の問題に取り組んだ。ガラパゴスのそれぞれ異なる島に新しい3種のマネシツグミを発見してはじめて、ダーウィンは完全に首尾一貫した地理的種分化概念を展開した。その時期の彼の考えは、もっぱら動物学の文献から引き出されたもののように見える。
しかし、やがてダーウィンは、とくに友人の植物学者フッカーを通して植物の多様さに精通するようになった(Kottler 1978、 Sulloway 1979)。ただ、この新しい情報は事態を複雑にするように見えた。ダーウィンが理解していなかったことは、植物学者は変種という用語を動物学者のように地理的品種(亜種)としては使わず、まったく異なる種類の変異体に使用していたということであった。植物学者にとって変種とはよく、個体群内の個々の変異体(“形”morph)のことであった。そのときまで地理的品種である(動物の)変種は発端の種であったので、ダーウィンは植物を含めてどんな変種もそれが当てはまると考えた。それによって、植物の個々の変種は発端の種になったのである。ダーウィンによる地理的な変種から個々の変種へという用語法の拡張があるまで、種分化は地理的なプロセスであった。しかし、同一地域に共存しているいくつかの個々の変種がもし同時に異なる新種になり得るならば、そのとき種分化は同所的プロセスであることになる。そこでダーウィンは、彼の新たな「分岐の原理」に助けられて同所的種分化の新しいシナリオを展開した(Mayr 1992)。ダーウィンのシナリオは見たところたいへん説得力があったので、1860年代以降、分岐の原理に基づく同所的種分化が、地理的変種(亜種)の隔離に基づく地理的種分化と同じほどに流布することになった。分岐の原理の種分化プロセスへの適用は複雑であり、私はその説明のために特別な分析をしている(Mayr 1992)。『起原』におけるダーウィンの種分化の扱いは、種と種分化についての彼の混乱を明らかにしている。この問題は、1940 年代の総合説までは解明されなかった。
ダーウィンはウォレスと共に種の増加の問題をはじめて具体的に述べたという栄誉に値するけれど、彼が提案した解答の多元性が、まさに今日までつづくまったく終わることのない絶え間ない論争をひき起こした。最初、1870 年代から1940 年代は、同所的種分化がおそらくより普及した種分化理論であった。とはいえ、いく人かの著者は、とくに鳥類学者と、強い地理的変異を示す他の分類群の専門家は、もっぱら地理的種分化を強く主張していた。しかし、ほとんどの昆虫学者とさらにはほとんどの植物学者は、地理的種分化を認めてはいたけれど、同所的種分化がより一般的でより重要な種分化のあり方であるとみなしていた。1942 年以降は、異所的種分化がおよそ25 年間多かれ少なかれ勝利を得たが、その後、同所的種分化のよく分析された事例がとくに魚と昆虫で非常に多く見い出されたので、今日、同所的種分化がしばしば起きたことにもはや何の疑問も呈されないのである。
古生物学者は概して種の増加の問題をまったくかえりみなかった。たとえば、G。G。シンプソンの著作にはその議論は一つも見い出されない。古生物学者は最終的には種分化を自らの理論に組み入れたが(Eldredge and Gould)、彼らの結論は現生の生物を扱う人たちの種分化研究に基づいていた。
『起原』出版後145 年間、種分化がなおもかくのごとく問題である理由は3つある。第1 に、進化研究の非常に多くの場合と同様、進化論者は過去の進化プロセスを分析し、推論によって結論に至らざるを得ないことである。その結果、歴史的継起の再構成で出会うよく知られた困難のすべてに遭遇することになる。第2の困難は、遺伝学の進歩にもかかわらず、われわれは種分化の最中に遺伝的に何が起きているのかについてほとんどまったく無知であることだ。第3に、さまざまな種類の生物がさまざまな環境の下で起こす種分化には、かなりちがった遺伝のしくみが伴っているということが明らかになってきたことである。
1970 年代のかなり予期せぬ発見が、それ以降の同所的種分化の幅広い受容に役立った。
私が1963 年に指摘したように、同所的種分化の成功は、2つの新しい要因すなわちニッチ選好と配偶者選好の同時的な協同がある場合にだけ可能である。同所的種分化に対する私のかつての反感は、これら2つの選好が自然選択に対してばらばらにはたらくだろうという私の仮説に基づいていた。しかし、とくにカメルーンのカワスズメ科の魚についての近年の研究によって、2つの選好が結び付けられ得るということが示された。たとえば、もし雌が特定の採食ニッチをもつ雄―底生動物食者―を選好し、しかも雄の表現型によってこの選好を示している雄を選ぶならば、この共同の選好は新しい同所的な種を急速に生み出すことができる。つまり、この2つの選好の分離した遺伝という私の仮定は、妥当ではなかったのだ。私が知る限り、哺乳類や鳥類の同所的種分化の例は一つもない。しかし、昆虫の寄主特異的な集団においてはおそらくたびたび起きている。たとえばカミキリムシ科やタマムシ科などの科内の近縁種の地理的な分布範囲の地図を描くことが、一つの答えを提供するだろう。
自然選択
ダーウィンの自然選択説は、彼のもっとも革新的でもっとも斬新な理論であった。それは進化的変化のメカニズム、とりわけこのメカニズムが生物の世界の見かけの調和と適応をいかに説明できるかを論じた。それは、自然神学の超自然的説明の替わりに自然的説明を提供する試みであった。この自然のメカニズムのためのダーウィンの理論は比類ないものであった。ソクラテス以前の哲学者からデカルト、ライプニッツ、ヒューム、カントまでの哲学文献全体において、それに似たものは何一つなかった。それは自然における目的論を、本質的に機械論的説明によって置き換えた。
わたしは、第5章で自然選択の詳細な分析を提出した。重複を避けるため、この章では選択の2、3の側面だけに話しを限る。ダーウィンにとって、そしてその後のすべてのダーウィン主義者にとって、自然選択は2段階で進行するものであった。変異の産出と、選択と排除によるその変異の仕分けである。
わたしは自然選択説をダーウィンの第5の理論と呼んでいるが、それは本当は諸理論の小さい束である。そこには、生殖上の余剰の絶え間ない存在(過剰多産性)の理論、個体差の遺伝性の理論、遺伝の決定因子の離散性、その他いくつかの理論が含まれている。これらの多くはダーウィンによって明示的には述べられておらず、彼のモデル全体の中に潜在している。しかし、それらはすべて選択の個体群的な本性と適合している。すべての選択は個体群の中で起り、世代から世代へ個体群ごとに遺伝的構成を変化させる。これは、生殖隔離された個体を通しての跳躍進化の不連続的性格とまったく対照的である。しかし、いつも無視されているのは、連続的進化でさえも世代の継続にしたがってやや不連続的であるということだ。世代ごとに、その世代の選択の標的になるよう引き出される個体によって、まったく新しい遺伝子プールが再構成されるのである。
自然選択説はダーウィンの全理論の中でもっともひどい抵抗を受けた。いく人かの社会学者が主張したように、自然選択説が19 世紀前半のイギリスの時代精神、産業革命、アダム・スミスやその時代のさまざまなイデオロギーの必然的帰結だということがもし正しいならば、自然選択説はほとんど誰からもすぐに受け入れられたことだろうと思われる。本当のところはまさに逆だ。自然選択説はほとんどあまねく拒絶されたのであった。1860 年代においては、ウォレス、ベイツ、フッカー、フリッツ・ミュラーなど少数のナチュラリストだけが一貫した選択主義者と呼ばれ得た。ライエルは決して自然選択説を相手にしなかったし、公然と自然選択説を擁護したT。H。ハクスレーさえそれにはっきりと不快感を示し、おそらくそれを実際信じてはいなかった(Poulton 1896、 Kottler 1985)。1900年以前、イギリスでもどこか他所でも実験生物学者でこの説を採用したものはただの一人もいなかった(ワイズマンは基本的にナチュラリストであった)。もちろん、ダーウィンでさえ全面的な選択主義者ではなかった。というのは、彼はいつも用不用のはたらきや環境の偶発的な直接的影響を考慮していたのだ。断固とした抵抗の最たるものは、自然神学のイデオロギーのもとで育った人たちに現れた。彼らは、神によってデザインされた世界という観念を捨て去りその代わりに機械論的プロセスを受け入れるということがまったくできなかった。より重要なことは、自然選択説の首尾一貫した適用はすべての宇宙的目的論の拒絶を意味したことである。セジックとK。E。フォン・ベアは、目的論の排除に対し特に明確な抵抗を示した。
自然選択は、超自然的な起源を持ち得るいかなる目的因の拒絶を意味するだけでなく、生物の世界におけるすべての決定論をも拒絶する。自然選択は、G。G。シンプソンがそう呼んだように徹底的に“ご都合主義的”opportunistic であり、“間に合わせの修繕屋”tinkerer である(Jacob 1977)。それは上述したように、いわば各世代ごとの引っかき傷から出発する。19 世紀を通してずっと、物理科学者は決定論的な見地を持ちつづけており、自然選択のような非決定論的なプロセスは容易には受け入れがたかった。物理学者がダーウィンの“めちゃくちゃな法則”にいかに強力に反対したか(F。Darwin 1887:2、37; Herschel 1861、p。12)を理解するには、その時代のもっとも良く知られた何人かの物理学者が書いた『起原』についての批評(Hull 1973)を読みさえすればよい。ギリシャ時代から現代まで、自然の出来事が偶然によるのかあるいは必然によるのかという果てしない議論がつづいている(Monod 1970)。奇妙なことに、自然選択に関する論争においては、そのプロセスはしばしば“純粋な偶然”として(ハーシェルや他の多くの自然選択の反対者)か、あるいは厳密に決定論的な最適化プロセスとして記述されている。しかし、どちらの部類の主張者とも、自然選択が2段階の本性を持っているということと、その第1段階では偶然的現象が支配し第2段階は決定的に反偶然的本性を持っているという事実を見落としている。セウォール・ライトがたいへん正しく述べたように、「ランダムなプロセスと選択的なプロセスが互いに絶え間なく影響し合うダーウィン的プロセスは、純粋な偶然と純粋な決定論の中間なのではなく、その帰結においてどちらからも質的にまったく異なっている」(1967、p。117)。
進化それ自体は誰もがごく早期に受け入れたけれど、一貫した選択主義者になったのは最初は少数の生物学者とごく少数の非生物学者だけであった。このことは進化的総合の時代まで当てはまった。代わりに、他の人たちは究極目的論や新ラマルク説や跳躍説を採用した。自然選択に関する論争は決して終わったわけではない。進化論の文献では今日でさえ、選択と適応の関係が熱心に議論されており、“適応主義プログラム”を採用すること―つまり生物の種々の形質の適応的な意味を探ること―がはたして妥当かどうかに疑問が呈されている(Gould and Lewontin 1979)。しかし、本当にわれわれの前にある問いは、自然選択が今日進化論者によって単に広く採用されているかどうか―この問いに対してためらうことなく肯定的に答えられる―ではなく、むしろ現代の進化論者の自然選択概念がいまだダーウィンの概念のままなのかあるいは著しく修正されたものなのかということである。
ダーウィンが最初に自然選択説を練り上げていたとき、彼にはまだ自然神学の精神の中でほぼ完全な適応を産み出すことが可能であると考える傾向があった(Ospovat 1981)。しかし、より深い思索と、生物の構造と機能における多数の欠陥についての理解―おそらくとくに、完全性を産み出すメカニズムが絶滅と両立しないこと―が、彼の選択に対する主張を弱めることになった。それゆえ、彼が『起原』で要求したことは、「自然選択は、各々の生物各々の生き物を、生存闘争しなければならない同じ土地に棲んでいる他の生物と同じくらい完全かあるいはわずかにより完全にするだけだ」(p。201)ということであった。今日われわれは、自然選択にとって完全さを実現すること、あるいはもっと現実に即して言うならばいくらかでも完全さに近づくことを不可能にする多くの制約が存在することを一層良く知っている(Gould and Lewontin 1979、 Mayr 1982a)。
ダーウィンの5つの理論のそれぞれ異なった命運
今では、上で議論したダーウィンの5つの理論それぞれのその後の命運を簡潔に述べることができる。進化それ自体は、共通の由来説と同様にごく早く採用された。『起原』の出版から15 年以内に進化論者にならなかった有能な生物学者はほとんどいなかった。それに対して漸進説は闘わねばならなかった。なぜなら、個体群思考は、ナチュラリストでないものが採用するにはとても難しいような概念であったからだ。今日でさえ、断続平衡の議論においては、個体群思考の核心をいまだに理解していないことを示す著述も一部見受けられる。重要なのは個体の突然変異の大きさではなく、進化的に新しいものの導入が、個体群へのそれらの漸進的な取り込みによって進むのか、それとも新種や高次分類群の創始者になる1 つの新個体の産出によって進むのかという問題である。
種の増加の理論が、最初にウォレスとダーウィンによって言明されたように進化理論の本質的で実際不可欠な要素であるということは、今日当然とみなされている。しかし、種の増加がいかに進むのかは今だに論争の的になっている。異所的種分化、とくにその特殊な型である周縁的種分化(Mayr 1954、1982c)がもっとも一般的な様式であるということは、多くの人々に想定されている。植物においては、倍数体による種分化が一般的であるということも同様に受け入れられている。同所的種分化や側所的種分化のようなその他のプロセスがどれほど重要なのかは、なお論争がつづいている。
最後に、自然選択についてだが、現代の生物学者がダーウィン主義について語るとき通常それが意味するこの理論の重要性は、今日ほとんど誰もがしっかりと受け入れている。
それに対抗する理論―終局目的論、新ラマルク主義、跳躍説―は徹底的に論破されてしまったので、もはや本気で議論されることはない。現代の生物学者がダーウィンとおそらくもっとも異なっているところは、ダーウィンと初期の新ダーウィン主義者がしたよりもはるかに大きな役割を確率論的プロセスに割り当てていることにある。偶然は、自然選択の第1 段階、つまりこれまでにない遺伝的に新規の個体の産出に役割を演ずるだけでなく、それらの個体の繁殖成功を決定する蓋然論的プロセスでも役割を演ずる。にもかかわらず、1859 年と2004 年の間にダーウィン理論になされたすべての修正を見ると、ダーウィンのパラダイムの基本構造に影響を及ぼすような変化は一つもないということが分かる。ダーウィン・パラダイムは誤りが証明され何か新しいものによって置き換えられねばならない、という主張を正当とする理由は何もない。1859 年のダーウィンが145 年後にもほぼ妥当とみなされるようになったことは、ほとんど奇跡のように私の心を打つ。そして、この並外れた安定性のために、ダーウィン・パラダイムは生物学の哲学の正当な基礎として、またとりわけ人間の倫理の根拠として広く受容されていることが認められるのである。  
第7章 ダーウィン主義の成熟

 

ダーウィンは、1859 年に『種の起原』でダーウィン主義の基本原理を細部にわたって提示したが、生物学者がダーウィン主義を受け入れるのにはその後80 年を要した。なぜかくも長い間、進化生物学に大きな不協和が存在したのかについてはあまたの理由がある。おそらく主要な理由は、ダーウィン主義の概念そのものが時とともに変化し続けたことであり、さらに、さまざまなダーウィン主義者がダーウィンの5つの理論(第6章を見よ)のさまざまな組み合わせを支持したことだ。『一つの長い議論』(1991)において私は、さまざまな時期に多少とも流行したダーウィン主義という言葉の9つの異なった用法を記述した。そのような年代順の扱いだけが、ダーウィン主義の概念の歴史を正当に評価することが可能である。
ダーウィン主義の成熟の諸段階
進化生物学の最初の80 年間になぜこうした不協和が存在したのかは、いまや明らかである。はじめは、ダーウィン主義とは単に反創造説を意味した。進化論者が、進化的変化は自然的原因によるのであって神のはたらきによるものではないという説を採用したならば、それだけで彼はダーウィン主義者と呼ばれた(Mayr 1991、 1997)。科学を非宗教的な試みと見なしたなら、その人はダーウィン主義者ということになった。したがって、T。H。ハクスレーやチャールズ・ライエルのような自然選択の反対者でも、ダーウィン主義者と呼ばれた。19 世紀にはダーウィン主義という用語に多くの意味があったということは、驚くにあたらない。
1859−1882
1859 年以降のはじめの何年かは、進化生物学にとってかなり混乱した時期であった。確かに、ダーウィンの5つの進化理論のうち、「進化する世界」と「共通の由来」という2つの説は、ほとんど至るところですぐに受け入れられた。しかし、残りの3つの説は世に普及しなかった。とりわけ「自然選択」はきわめて少数派の見方であった。
転成説と2つの変遷説がダーウィンの変異的進化説よりもずっと普及していた(Mayr 2001)。ダーウィンは種分化の研究に見切りをつけてしまい、変異の本性と起源を解明する彼の膨大な努力は不首尾に終わった。獲得形質の遺伝がほとんど至るところで受容されていた。ダーウィンは自然選択と同時に獲得形質の遺伝を採用した。それは新しい変異が広く存在することを説明するのに役立ったし、自然選択の優位性を妨げるものでもなかった。大部分のナチュラリストは、こうした自然選択と獲得形質の遺伝の組み合わせを受け入れた(Plate 1913)。
1883−1899
1883 年にオーギュスト・ワイズマンが―彼はダーウィン以後のもっとも偉大な進化論者であったのだが―獲得形質の遺伝への反論を刊行し、アルフレッド・ラッセル・ウォレスや他のダーウィン主義者がそれに追随した。コレンスが適切に指摘したように、ワイズマンは一般理論化によってメンデルの発見への道を準備したのだ。ロマネス(1894)は、獲得形質の遺伝を含まないこの新しいダーウィン主義に対して「新ダーウィン主義」neo-Darwinism という用語を創りだした。近頃の何人かの歴史家は進化的総合から生まれた理論の合成物に新ダーウィン主義という用語を使っているが、これは正しくない。新ダーウィン主義とは、ワイズマンによって修正された(獲得性質の遺伝にいかなる余地も与えない)ダーウィン主義の呼称である。
1900−1909
グレゴール・メンデルの研究が1900 年に再発見されたとき、遺伝の法則を含む遺伝学という新しい科学がダーウィンの時代以来激しく続いた進化上の大論争に解答を提供するだろうと、多くの人が期待した。
しかし、進化にもっとも関心のあった指導的なメンデル遺伝学者たち―ユーゴ・ド・フリース(メンデルの“再発見者”の一人)とウイリアム・ベイトソンとウィリヘルム・ヨハンセン―は残念ながら、ダーウィンの考えのかなめである自然選択を否認した。ド・フリースはまちがいなく代わりに跳躍説を採用した。彼によれば、新しい種は大きな遺伝子突然変異によって1 回のジャンプ(跳躍)で生じるという。この跳躍説は、1900 年からおよそ1915 年まで進化遺伝学を支配した。不幸にも、進化的変化のこのメンデル的突然変異説は遺伝学者によって広く受け入れられたため、いく人かの“メンデル主義者”には支持されなかったとはいえ、ほとんどのナチュラリストによってメンデル主義の名のもとにそれは進化の遺伝理論とみなされた。しかし、ナチュラリストは概して漸進的進化と個体群的変異を信じていたので、跳躍説的なメンデル主義はまったく受け入れられず、このことが進化論者たちの間に橋渡しができそうにない溝を創りだした。
ダーウィンの時代以来あるいはその前からでさえ、生物の個体群を観察したことのある人たちは、新種の起源はたいてい漸進的なプロセスであることを理解していた。そうしたナチュラリストは突然変異説とは何の関わりも持たず、その代わりにジャン・バティスト・ラマルクが19 世紀の初期にはじめて明確に表現した漸進的進化の概念をしっかり保持していた。漸進説はラマルクの変遷説で説明されるので、これらのナチュラリストはラマルクの信奉者になったのである。
ただ、メンデル主義者が唯一の同時代の遺伝学者ということではなかった。ニルソン=エーレやバウアー、キャッスル、イースト、またロシアのチェトヴェリコフのようなメンデル主義ではない人たちもいて、彼らは小さな突然変異と自然選択の起きることを受け入れていた。しかし、当時ナチュラリストたちはド・フリースと彼の追随者たちの跳躍説に対する攻撃にもっぱら集中しており、これら漸進主義的な遺伝学者のことを無視した。全体的に見て、自然選択の役割を強調したダーウィン説の解釈は、遺伝学の初期のこの時期(1900 年代初期)には人気がどん底にあり、しばしばその死を宣告された。
1910−1932
遺伝学という新しい科学は、新しい方法論と新しい理論枠組みを発展させ、メンデル主義者の転成説から脱却した。それはニューヨークのコロンビア大学のT。H。モーガンの実験室で1910 年頃に始まったもので、新世代の遺伝学者たちは初期のメンデル主義者の見地を否定する発見に至った。ショウジョウバエ(Drosophila)を使った実験でそれらの研究者は、ほとんどの突然変異は個体群の漸進的変化を可能にするほどに十分小さく、突然の跳躍は必要ではないということを発見した。じきに、メンデル主義者の跳躍説は時代遅れだとみなされるようになった。1915 年から1932 年にかけて、数理集団遺伝学者のフィッシャー(1930)とライト(1931)とホールデン(1932)は、ほんの小さな選択上の利点をもった遺伝子がやがて集団の遺伝子型に組み入れられるのが可能であることを示した。系統発生的進化が今や新しい遺伝学の用語で説明することが可能になった。残念ながら、ほとんどのナチュラリストはこうした発展に疎く、なおも初期メンデル主義者の反漸進主義と闘っていた。
フィッシャーと彼の同僚たちによっておおよそ統合された理論によれば、進化とは集団内の遺伝子頻度の変化と定義され、その変化は小さくランダムな突然変異の漸次的自然選択によってもたらされるとされた。1932 年までに、遺伝学者の反目しあうさまざまな学派の知見に一つの合意が達成された。それは、数理集団遺伝学者とダーウィン主義選択論者との総合であった。もっとも偉大な代表者にちなんでフィッシャー的総合と呼ばれるこの総合は、進化生物学の2つの主要な問題の1つ、適応性の問題を解決した。適応性は、実際―ダーウィンが信じていたように―あり余るほどの変異にはたらく自然選択の結果である。不幸にも、1920 年代末のこのフィッシャー的総合は、多くの歴史家によって生物多様性に関連する第二の総合と混同されてしまった。
生物多様性の起原の説明
適応は進化の物語の半分に過ぎない。進化生物学は2つの別個のプロセスに関わっているのだ。1つは一定の個体群内における継時的な系統発生的進化であり、もう1つは種の起源とその増加である。フィッシャーとライトとホールデンは主に、一つの集団が環境の変化につれていかに進化するのかを明らかにすることに興味を持った。進化生物学のこの部門は「向上進化」anagenesis の研究と呼ばれてきた。一方、ナチュラリストは、生物の多様性と、新種が親種からいかに枝分れするのかを明らかにすることにより強い興味を持った。生物多様性の起源というこの研究は、よく「分岐進化」cladogenesis と呼ばれる。
言い換えれば、数理集団遺伝学者は進化の垂直的すなわち“時間”的次元(一定の集団の継時的な変化)に関わり、ナチュラリストは進化の水平的すなわち地理的次元(ある時間での新種の産出)におおむね関わった。
1937−1947
この第二の大きな進化上の問題―種の増加あるいは生物多様性の起源―は、フィッシャー的総合では未解決なままであった。遺伝学者の方法はいつも1つの集団、1つの遺伝子プールの研究に限られていたため、彼らには種分化を説明するができなかったのだ。フィッシャー的総合は、メンデル遺伝学と自然選択の対立を解決したが、数理遺伝学と生物多様性の対立には取り組むことができなかった。フィッシャーとライトとホールデンは生物多様性の起源の問題に気付き、とくにライトは明確ではなかったとはいえそれに言及したが、彼らは個体群の地理的位置と隔離が演じる役割を理解しているようには見えなかった。
ドブジャンスキーの『遺伝学と種の起原』によって1937 年に始まった第二の総合が達成したことは、生物が一方では一つのものがたえず継時的に変化するのに対し、他方ではいかに一定の時間でかくも多くの多様な種類に増殖するのかの説明を提供したことであった。
実のところ、ヨーロッパのナチュラリストは分類学と自然誌の研究によって、1920 年代にはすでに生物多様性の起源の説明をしていた。それらのナチュラリスト−分類学者によれば、一つの種の2つの個体群が互いに物理的に分離し、この空間的隔離の間に不妊の障壁か行動上の不和合性(隔離機構)の進展によって生殖的に隔離されるようになるとき、種分化が起る。地理的隔離は、ときには物理的な障害物(新しい山脈や海の入り江)によって起り(二所的種分化)、ときには創始者個体群が種の以前の分布範囲を超えて確立されることによって起る(周縁的種分化)。もし地理的に隔離された個体群が大きな分岐能力を持っているなら、新種が親種から枝分れするだろう。二所的種分化も周縁的種分化もともに地理的種分化と呼ばれている。
種分化についてのこれらの考えは、実験遺伝学者には知られないままであった。一方、ナチュラリストも同じように、遺伝学の新しい発展に対する無知のため進化の十分な理解に到達できないでいた。彼らは、フィッシャーと彼の同僚たちがずっと以前に論破した初期メンデル主義者の跳躍モデルに依然反対していたのだ。シュトレーゼマンやレンシュやフランスの動物学者のようなナチュラリストは、ド・フリースによる巨大な遺伝的飛躍を受け入れることができず、その後の遺伝学によって発見された小さな突然変異も知らなかったので、漸進的進化を説明するためにラマルク主義に回帰してしまった。ナチュラリストは(私自身も含めて)、変異は現在の身体の各部の用不用によって起こり、それらの獲得“形質”は子孫に伝達され得るというラマルクの考えを受け入れた。ほとんどのナチュラリストは跳躍論者の誤りに対して選択説をしっかりと擁護しながら、変異についての時代遅れのラマルク的説明も保持したのだ。かように、遺伝学と分類学にともに大きな進歩があったにもかかわらず、実験遺伝学者とナチュラリスト−分類学者の間には誤解による深い亀裂が存在した。いく人かの数理遺伝学者はライトの“風景モデル”が地理的種分化説の解明に寄与したと考えているが、関連する理論の批判的分析からはこの主張は支持されていない。
この亀裂は、最終的に1940 年代の“進化的総合”によって橋渡しされた。先に述べたように、それ以前に初期の総合、すなわち遺伝学とダーウィン主義の総合が存在した。私はそれをフィッシャー的総合(数理集団遺伝学の起源)と呼んだ。これは、遺伝学者の書いた歴史では後期のドブジャンスキーの総合(生物多様性の起源)とたびたび混同されてしまった。この初期の(“フィッシャー的”)総合は、単一の遺伝子プール、単一の集団、遺伝的変異、適応の起源を扱っている。これは生物多様性の問題の解決には何ら貢献しなかった。
変異と適応にとりわけ興味があった遺伝学者と、生物多様性の起源に興味があった分類学者の間の亀裂は、相変わらず存続していたのだ。
実際には(今日、遺伝学者が抱いているような)進化の微小突然変異的解釈とナチュラリストの進化の考え方の間には、もはや何らの対立も存在していなかった。しかし、遺伝学者は特定の個体群のみを扱っていて、生物多様性の起源の領野は彼らの方法論では歯が立たなかった。そのために、遺伝学者とナチュラリスト(分類学者)との間にはまだ少なからぬギャップが存在していたのだ。1937 年にドブジャンスキーが『遺伝学と種の起原』を出版してこのギャップの橋渡しが始まった。ドブジャンスキーは経歴を考えれば申し分なくこの仕事に適任であった。少年時代からずっとナチュラリストであった彼は、ロシアで生物学の教育を受け、そこで個体と地理的変異に興味を持ち、甲虫(テントウムシ科Coccinellidae)の集団における種分化に関心を抱いた。27 歳のときアメリカに来て、T。H。モーガンの研究室に入り、そこで現代の進化遺伝学に十分精通するようになった。これら2つのたいへん異なる影響の幸運な成果が、1937 年に出版された『遺伝学と種の起原』という著作であった。この本は遺伝学者とナチュラリストに、彼らの進化理論は完全に両立できるものであり、個体群における系統発生的進化(向上進化)と生物多様性(種、種分化、大進化)の起源(分岐進化)の研究という進化生物学における2つの主要な分野の総合は可能であるということを示した。2つの領野のこの総合は、マイアーの『分類学と種の起原』(1942)、ハクスリーの『進化・その現代的総合』(1942)、シンプソンの『進化の速度と様式』(1944)、さらにステビンズの『植物の変異と進化』(1950)、ヨーロッパ大陸でのB。レンシュ(1947)において仕上げられた。
1940 年代のこの総合は、主に生物多様性の起源と意義を扱った。いかに、なぜ新種が生じるのか、というわけだ。すべての個体群はいつでも十分に適応していなければならず、このことが種の継時的変化というものを説明する。しかし、一つの個体群が適応を維持するために新種の産出を必要とすることはない。新種が生れるメカニズムは、遺伝学者が研究した適応性を維持するメカニズムとはとても異なるメカニズムを要請する。
進化的総合のもう一つの重要な達成は、1930 年ごろはまだ広く保持されていた3つの非ダーウィン的進化説に対して本物のダーウィン主義者の共同戦線を打ち立てたことであった。その3つとは、ラマルク主義(いまだに多くのナチュラリストに受け入れられていた)と跳躍説〔シンデウォルフ(1950)や、ゴールドシュミット(1940)と彼の“有望な怪物”によって奨励された〕と定向進化説(進化におけるいくつかの種類の目標指向的・目的論的構成部分への信念)である。総合説以後、これらの3つの理論は、本格的な進化論の議論ではもはや役割を果たすことはなくなった(Mayr 2001)。
1947 年に進化論者たちが総合説を祝うためのシンポジウムでプリンストンに集まったとき、彼らは、本当に合意が広く達成され、それに先立つ50 年間の激しい論争がいまや歴史の問題になったのだということに気付いた。ただ、2つの陣営の間には一つだけ深刻な不一致が残されていて、それは選択の対象に関することであった。ナチュラリストにとってはダーウィンにとってそうであったようにこれは個体であったが、遺伝学者にとっては、計算を簡単にするのが一つの理由だったがそれは遺伝子であった。実のところ、これはかなり重要なちがいである。というのは、それが集団遺伝学者の還元主義的な傾向を示しているからだが、総合の主要な立役者、とくにナチュラリストは強く全体論的な見方をしていた。総合以前でさえ私は、ほとんどのナチュラリストと同じように全体論者であったのだ。私にとって進化とは丸ごとの生物個体に関係しており、全体としての生物が選択の標的であった。もちろんこれはダーウィン主義の伝統であった。総合の間、私の全体論的思考とは実は折り合いが悪かったが、私自身「進化とは遺伝子頻度の変化である」という遺伝学者の標準公式を使用したことを認める。しかし、私はその後多年にわたってこの矛盾を十分意識しなかった(Mayr 1977)。実際、総合であるにもかかわらず、(還元主義者であれ全体論者であれ)進化の定義が、遺伝学者とナチュラリストの間の不一致の重大な要点であり続けた。ナチュラリストにとって進化は遺伝子頻度の変化以上のものであり、それは適応性の獲得・維持であり、新しい生物多様性の起源なのである。
1950−2000
総合の後すぐに分子革命が到来したが、それは生物学の歴史における真に革命的な出来事であった。まずアベリーが1944 年に、遺伝物質はタンパク質ではなく核酸から成ることを示した。次にワトソンとクリックが1953 年にDNAの構造を発見し、それがDNAのはたらきを説明することを可能にした。彼らの発見は遺伝的な分析に決定的な新しい次元をもたらし、いままで未解決な非常に多くの問題を解決した。最後にジャコブとモノーが1960 年に、DNAにはさまざまな種類があり、とくに構造遺伝子のはたらきをコントロールする特定の調節DNAなるものがあることを示した。これらの発見は当時の支配的な見方を激変させたので、当然、ダーウィン主義にも激烈な影響がもたらされるものと考えられた。
実に分子生物学は、われわれの進化の理解に数え切れないほどの重要な貢献をなした。それは遺伝暗号が、原始的なバクテリアから多細胞の高等生物まで基本的に同じであることを示した。このことは、現在地球上に存在する生き物すべてが一つの起源から由来したことを証明する。分子生物学はまた、情報はもっぱら核酸からタンパク質へ伝達され、タンパク質から核酸へは伝達されないことを示した。これが、いかなる獲得形質の遺伝もありえない根拠である。
ゲノミクス
分子革命の進化生物学への最大の衝撃は、遺伝子配列の比較研究であるゲノミクスから到来した。それは、多くの遺伝子が非常に古いものだということを示した。たとえば、いくつかの哺乳類の遺伝子が脊索動物以外の動物の遺伝子に認められるし、原核生物の遺伝子にさえ認められる。ゲノミクスは、単一塩基対の置換の影響や非コード化DNAの挿入の影響、水平伝達による遺伝子の移動、遺伝子とその染色体上の位置の多数の変化すべての影響についての研究を可能にする。ヅッカーカンドルとポーリングによる分子時計の考案は、進化研究の方法への巨大な貢献であった。ゲノミクスは進化遺伝学の主要な分科に発展しつつある過程にある。それは少しの言葉では論じることができないので、関連する文献を紹介する(Campbell and Heyer 2002)。
分子革命は2つの理由でとりわけ重要である。それは、20 世紀の初期には無視されていた古典的生物学のいくつかの部門、たとえば発生生物学や、遺伝子生理学のさまざまな側面を復活させた。分子的な方法と理論を採用することによって、それらの領域は蘇生し現代的な生物学に近づいた。さらに、おそらくもっとも興味深いもう一つの展開は、分子生物学を通して多くの物理学者と生化学者が進化に興味を持つようになったことであった。
このことは、以前はほとんど互いに理解し合っていなかった生物学の分科の間に非常に活発な橋渡しをもたらした。かように、分子生物学は20 世紀に起った生物学の統合に重要な貢献をなした。「エヴォルーション」や「アメリカン・ナチュラリスト」あるいは他の進化学雑誌のほとんどどんな最新号を見ても、進化論の問題の解決に分子的な方法がいかに大きな貢献をしたかが分かる。
しかし、大部分の分子生物学者の遺伝子中心的なアプローチは、いくつかの不一致を引き起こした。たとえばいわゆる中立進化は、多くの分子生物学者は進化の重要な様式とみなしているが、ナチュラリストは無視している。というのは、中立な遺伝子は表現型では見ることができないからである。
ゲノムにおける塩基対の配列は、生物の類縁関係や系統発生に莫大な情報を提供する。
基準になる形態学的形質は系統発生研究のはじめから使われているが、信頼できる系統史を提供するにはときに不十分であった。分子生物学の方法は、生物の多くのグループの系統史の革命的な再構成を可能にする豊富な情報を供給したのである。
今日のダーウィン・パラダイムの強靭さ
1940 年代(進化的総合)から現在までの期間は、生物学に大きな進歩があった時期であり、そこには分子生物学の起源と華々しい興隆が含まれている。人はきっと、分子生物学がダーウィン主義の徹底的な修正を余儀なくするだろうと予想したかもしれない。しかし予期に反して、そのようなことは起きなかった。1940 年代に進化的総合の間に産み出されたダーウィン・パラダイムは、いかなる重大な修正もなしに、その後の50 年間、自らに反対するすべての攻撃を食い止めることができた。このことは、進化的総合の間に採用されたダーウィン・パラダイムが本質的に妥当なものであると注意深く信じてもよいことを示唆している。基本的なダーウィンの公式−進化は遺伝的変異と、排除と選択によるその規制である−は、十分包括的に自然に起り得るすべての事に対処し得る。新しい進化理論(パラダイム)の探索は、いまや無駄な企てのように思える。この50 年以上ほとんど毎年、ダーウィン主義に深刻な誤りや手落ちがあると主張する新しい論文や書物さえが出版された。著者は新しい理論あるいは諸理論を提供し、それが誤りを正し欠落を埋めるだろうと主張した。哀れなるかな、それらの提案で建設的であったようなものは一つとしてなかった。今日の古典的ダーウィン主義はいつもその正しさが裏付けられ、考えられた改善や修正に反論することが可能であった。このことは、ダーウィン主義が十分な完成に近づいていることを私に暗示する。もちろん、多数の非コード化DNAの機能のようにいまだに未解決の多くの難題が存在しているが、残っている難題の解決が基本的なダーウィン・パラダイムにどの程度顕著な影響を及ぼし得るのかは疑問である。
近年の進化生物学における主要な論争、たとえば適応の重要性、偶然の役割、個体群思考、進化の漸進性、進化速度の安定性などは、遺伝子ではなく個体と個体群に関係している。異なる種類の遺伝子つまり構造遺伝子と調節遺伝子が存在するというジャコブとモノーの発見でさえ、ダーウィン理論に影響を与えなかった。ダーウィン・パラダイムの強靭さの主要な2つの理由は、おそらく還元主義の失敗と基礎的なダーウィン主義の単純さにある。
現在のダーウィン主義
この記述は、1859 年以来、とりわけ1920 年代以来のダーウィン主義の歴史をきわめて簡潔に要約したものである。私は最近、総合説の歴史についていくつかのより詳細な物語を出版し、その中でいく人かの遺伝学者と歴史家の記述に含まれているいろいろな誤りや不正確な点について論じた(1992、1993、1997、1999a、1999b、2001)。とくに、何人かの歴史家が1920年代のフィッシャー的総合を1940年代の総合と混同していることを私は指摘した。
1940 年代に展開されたダーウィン主義説に、われわれは何という名称を当てたらよいだろうか? まちがってそれはよく「新ダーウィン主義」neo-Darwinism と呼ばれた。しかし、この用語選定は明確に誤りである。新ダーウィン主義とは、1894 年にロマネスによってソフトな遺伝なしの(すなわち獲得形質の遺伝という信念なしの)ダーウィン・パラダイムに与えられた用語であるが、これは1920 年代以降のすべてのダーウィン主義に当てはまる。新しい進化理論、すなわち向上進化と分岐進化の理論の総合の産物は、進化の総合学説と呼ばれた。本当のところ、最良の解答はそれを再び単にダーウィン主義と呼ぶことだろう。実際、それは本質的にダーウィンのオリジナルな理論であり、種分化の適切な理論を持ち、ソフトな遺伝は含んでいない。ソフトな遺伝は100 年以上前に論破されているので、もし単なるダーウィン主義という用語に戻るとしても誤解は生じ得ない。なぜならそこにはダーウィンのオリジナルな概念の本質的要素が包含されているのだから。とくに、それはダーウィン・パラダイムの要点である変異と選択の相互関係を含んでいる。長い成熟の時期の後に現代進化論者によって採用された進化論パラダイムが、もっとも単純にただ「ダーウィン主義」と呼ばれるべきことをそれは保証している。  
 
生命雑話

 

人間の中にあるヒト / 生命誌の考え方 
私たちは今、人工物に囲まれて暮らしています。そのほとんどが科学技術の産み出したものです。コンピュータ、携帯電話、テレビ、ジェット機。人工物は新しいものをどんどん取り入れていきます。けれども生きものに関する技術は少し違います。なぜなら生きものは、人類がこの世に登場した時にすでに身の回りに存在しており、以来長い間、私たちは衣・食・住、すべての中で生きものを活用し、仲間としてもつき合ってきたので、その中で培われた「知恵」があるからです。科学技術が作り出す世界と、古来の経験で支えられる日常感覚との間のずれが大きくなると、多くの人がそこに不安を感じます。しかし、このずれをどうしたらよいかについての答は出されていません。すでに生活の中に入っているさまざまな生物関係の技術たとえば臓器移植、体外受精などの生殖技術、なかでもクローン技術、遺伝子組換え技術も、どのように使ったらよいのかという判断が、的確になされないままに使われているのが現状です。その解決のために一つ一つの技術を取り上げて、社会的・法的・倫理的な検討をしようと言っても、今やその倫理も社会も確たる価値観を持っているようには見えないので混乱します。実は、ここにあげたさまざまな技術のうち、遺伝子組換えやクローン技術は、それ自体新しい生物研究に有効な不可欠など言った方がよいかもしれません技術であり、生物学ではそれを駆使した研究から生きものの新しい姿を探り、新しい価値観を探りつつあります。その現場にいると、生きものってこういうものなんだということが毎日感じとれると言っても過言ではありません。古来の知恵に支えられた価値観を大事にしながら、なおそれに縛られず新しい知識をとり入れて、より納得のできる新しい価値観を探したい。今、生きものの研究をしている人の強い気持だと思います。一人でできる毎日の研究は小さなことです。私のところの研究も、後で紹介するように小さなムシや水の中の藻のDNAを調べています。けれどもそこで、ムシのことだけにのめりこんでしまってはつまりません。そこから生きものの本質を読みとり、自然・人間・人工(ここではとくに科学技術)の関係をきちんと考え、とくに人間をみつめ直せるところが面白いのです。生きものの研究をしていると、常に「神は細部に宿る」という言葉が浮んできます。青臭いようですが、このような小さな生きものの研究を通し、自然とはなにか、人間とはなにか、人間はどこから来てどこへ行くのかと問うてみたいのです。人間は誰しもこのような問いを心の奥に持っている。それが、文学や芸術を産み、哲学などの学問を作りあげてきたわけです。ここでは科学という切り口からこの問題に入って行きたいと思います。
現代の自然を見る眼 / 地球が入る
人間の好奇心が、物の見方、つまり「観」という形で知として体系化されていった対象は、宇宙と人間だったと言えます。どこの世界にも古代から、特有の宇宙観、人間観がありました。そこには何かの秩序があるとされ、宇宙はマクロコスモス、人間はミクロコスモスとして捉えられていたのです。天体については、紀元前六世紀にすでにピタゴラスが世界は球形であり、惑星は回転する透明の球体にはりついて太陽の周囲を回っていること、その外側にある透明の球体に多くの星がついていることを示し、宇宙を体系化しています。それに対応する体系が人体にもある。ダヴィンチの描いた図は、それを表現しています。ところで、その間にある地球という存在。今私たちが宇宙と人間の関係を考える時に必ずその間に入り、しかも近年では地球環境問題などで毎日のように話題になる地球を一つのまとまりとして捉え、地球観をもつことはなかったように思います。踏みしめている大地としては実感されはしても。それが、明らかに変ったのは、やはり一九六一年にソ連がヴォストークを打ち上げ、「地球は青かった」の名言と共に宇宙にポッカリ浮ぶ星としての地球を見た時でしょう。以来、アポロ計画で月からの地球を見た宇宙船の乗員が口をそろえて、「生きていることを感じさせる球体」と表現する地球観を私たちも言葉や映像を通じて共有できるようになりました一口絵_一。一方、これはあまり嬉しいことではないのですが、地球環境問題が起き、先進各国で使われた化学物質が、極地でも検出されるとか、熱帯雨林の消失が地球全体を覆う大気の二酸化炭素量に関わるなど、地球を一つとして考えざるを得ない現象がつきつけられています。こうして今では、宇宙・地球・生物。人間というつながりとして自然を捉え、そこから私たちの「観」----物の見方、考え方を作りあげていかなければならないという感覚ができ上りました。この新しい総合的な見方は、二十世紀の私たちがはっきりと持つことのできたものです。
宇宙誌・地球誌・生命誌・人間誌
そこで登場するのが科学です。古代ギリシャ以来体系化に努めてきた宇宙や人間について、そしてもちろん地球についても今科学が多くの情報を提供しています。まず、地球上には多様な生命体が存在し生態系を作っていること、これ抜きで地球は考えられません。今のところ、私たちが知る限りでは地球は生命体の存在するただ一つの星なのですから。しかも、生態系を作る多様な生物はすべて共通の祖先から生れ、ヒトもその一つであることを現代生物学は示しました。原始の地球で生れた最初の生命体を作った物質は、宇宙空間に存在する物質とつながっていることも明らかになりました。つまり、宇宙、地球、生物、人間は実体として一つながりであるという現実を踏まえたものが現在の自然観です。
ところで、今宇宙はピタゴラスの描いたような固定化したものとして捉えられていないことは多くの方が御存知でしょう。百数十億年前、ビッグバンが起り、その直後のインフレーション(膨張)を経て、物質とエネルギーに満ちた超高密度、超高温の宇宙ができて以来、その中で数千個と言われる銀河が生れました。その銀河系(120億年ほど前に誕生)の一つに太陽系が生れ(四六億年前)たのです。これが今科学が描き出す宇宙の歴史物語、つまり宇宙誌の一端です。このような壮大な物語ができるには、相対性理論はもちろんですが、量子論が不可欠だったというのが興味深いことです。ミクロの世界をつきつめていくと、その先にマクロの世界である宇宙が見えてくるところに、自然の面白さがあります。四六億年前に生れた地球上で、三八億年ほど前に生命体が誕生、そこから多様な生きものが生じ、その中でヒトが生れ、今ここに私たちがいるのです。ヒトは、生物の一種ですが、その特徴として、文化や文明を持つ、そのような存在になった時を人間と呼び、またそこにも歴史があります。ここでは、文献に現れた歴史ではなく、残された化石や遺跡、人体そのものなどから人間の歴史が読みとけるようになってきたことも含め、宇宙からの流れで人間を捉えるという意味で人間誌と仮称しておきます。ここで図1_1を見て下さい。宇宙誌の中に地球誌があり、その中に生命誌があります。そこにヒトがいる。ここまでは自然です。一方、ヒトが文化・文明をもち、人間としての生活を始めて以来、そこには人工の世界ができました。この世界は今どんどん大きくなっています。実はその時、その相手に生命。地球。宇宙という世界があることを認識し、それとの対応を考えながら新しい世界を作っていく必要があるはずです。なぜなら人間は、自然の一部であるヒトでもあるからです。ところが、これまでの私たちは、そのような意識なしに勝手に人工世界を作ってしまったので人工と自然の間に葛藤があるーーそれが環境問題や人間関係のきしみとして現れているのです。ですから、これらの問題を個別に制度や技術で解決しようとせずに、自然の総合的理解を基本に生きるという選択をする他ないと思います。"誌"という見方の重要性を指摘したいと思います。
複数の時間の中で
私たちは日常、時計を見ながら、時間の単位、時には分や秒の単位で時を刻む生活をしています。手帳には年の単位の予定が書いてありますが、それ以上先のことはあまり考えずに暮らしています。もちろん時には一生を考え、子どもや孫の将来を、心配することもありますが、それは滅多にないこと。近年、地球環境問題が厳しく問われるようになり、今の暮らし方は未来に大きな借りをつくっていると言われるようになりましたが、遠い先を考えることはなかなか難しいようです。エネルギーについての論文に、石油の可採分の残存量に触れた部分があり、これまで残りは後三〇年分と言われ続けてきたが、二二〇年分あることは確かだと書かれていました。この数字がどこまで正確か専門家でない私にはわかりません。ここで考えたいのは三〇年なら大変だけれど、二二〇年なら安心という認識がそこに見えたことです。四六億年という長い地球の歴史の中で生じた化石資源を、たかだか二、三百年で使ってしまうことの異常さは宇宙・地球・生命という流れの中に人間を置いてみれば、誰もが気づくことであるはずなのに。宇宙・地球・生命に関する時間の流れを図1_2に、大きな括りでまとめてみました。人類の誕生が百万年、現代人は十万年の単位で考えるべき事柄であり、文明は一万年の単位になるでしょう。そして今、二十世紀の終りを迎えて千年紀や一世紀を考えようとしています。百年は人間の一生に匹敵します。そして、身体は、一年、一月、一週間、一日というリズムを刻んでいます。一方、科学は今や、ナノ秒(千億分の一秒)という短い時間の現象も捉え、事実、私たちの体は、そのような時間で動く物理現象、化学反応で支えられています。このような時間は、空間にも対応しています。広大な宇宙。今も膨張しつつある宇宙の果を見ようという壮大な計画は、今、ハワイのマウナケア山に建設された直径八・二メートルのレンズを持つ光学赤外線望遠鏡「すばる」によって現実になろうとしています。百数十億光年離れたところからの光が見られるということは、百数十億年前、つまり宇宙の始まりを見ることになるはずです。わくわくします。とんでもなく大きな時間と空間が実感できるのですから。そして地球の大きさも私たちは実感できるようになってきました。今や小さな世界も研究が進んでいます。生物についていえば、細胞・DNA。タンパク質・糖。その世界ではナノ秒で事が進んでいます。生きているという現象が、次々とこれらの働きで解明されており、生物を扱っているとその大きさや時間が実感されます。このような複数の時間、さまざまな大きさの空間を実感させてくれるのが、現代科学です。そして多くの人がそれが実感できるようになることが自然・人間・人工(科学技術)の関係を考える時、とても大切です。私は今科学が果すべき最も大事な役割は、あらゆる人がこの感覚をもてるようにすることだと思います。現代の社会問題を解く鍵はここにあるとさえ思っています。その場合、科学自体が複数の時間や空間を組み込んだ〃誌"になって行きます。
進歩という概念
時間は、これからもしばしば問題にします。というのも、現代社会における自然と人工のずれは、もっぱら時間のもつ意味の違いにあるように思うからです。十九世紀以降の社会は、進歩を基本の価値観としてきました。そこでは、一つのものさしで測ってどちらが優位にあるかを比べるのですが、その時主として問題になるのは量です。そこで、いかに効率よく均一なものを生産するかが競われました。効率とは、時間を切ることです。物にとって大切なのはその構造と機能。それがどのような経緯で生れ、どんな過程を経て生れてきたかなどはどうでもよいことです。科学は生物さえ、機械とみなしてその構造と機能を解明することに専念してきました。それゆえに明らかになったこと。たとえば、現代生物学が基本に据えるDNAの発見などは、それが行なわれた時代に居合わせたのは幸運と思うほど素晴らしいことです。しかし、そうは言ってもDNAは単なる物質です。物質に、生命のすべてを帰するわけにはいきません。DNAを基本に用いながら、たとえば、ヒトはどのようにしてヒトになってきたのかというような「過程」を知ってこそ、生きものとしての本質に近づけるのだと思います。そもそも進歩という概念が生物には合わない。アリとフクロウとサクラを一列に並べてどちらが優れているか順位をつけようとしても無理です。それぞれに特徴がある。「多様さ」こそ生きものの真髄です。表1_1に生物のありようと進歩を旨とする現代社会のありようがいかに違うかをまとめました。生物ももちろん止まってはいません。常に動いている。そのダイナミズムたるやみごとなものです。ただ、それが一方向へ向って進んでいくことはない。さまざまな試みをして多様化していくのです。そのありさまを「展開」または「発展」と呼ぶことにします。近年、sustainable developmentという言葉が使われますが、ここでのdevelopmentがまさにそれ。よく日本語で持続的開発と言われますが、適切でないと思います。展開か発展。自らの内に持つものを望みの方向に伸ばしていくのです。
ヒトと人間
こうして、長い時間と多様化の中で自然・人間・人工(科学技術)について考えていく時の中心になるのは、生命誌とその中にあるヒトと人間の関係だと思います(図1_1斜線部分参照)。まず、生きものを知り、その中でのヒト、そしてヒトと人間の関係を知ることです。これまでは、昔生物としてのヒトが誕生し、それが文化・文明を持つ人間になったと言ってきましたが、もちろん、現代人の中にも生きものとしてのヒトの部分が確実に存在しています。環境中のさまざまな化学物質がホルモン様物質として作用し、生殖作用に影響するのも、がんにかかるのも、アレルギーを起こすのも、皆、ヒトという生物の体のしくみが外来物質に反応したり、内部で変化したりした結果です。どんな文明社会になろうとも、ヒトという部分ーーー他の生きものたちと共通の四〇億年近い生命の歴史をもつ部分を背負っているのだという認識が重要です。話はかなり大げさになりましたが、これまでに述べた意識で始めた生きものの研究が生命誌です。実際の研究は、DNAを中心にした研究であり、生命科学とつながったものですが、視点が違います。現代科学が生物を機械のように見てDNAに還元するのはけしからん、生物は全体的なものだと言って、東洋思想をもち出して批判しても建設的ではありません。科学の特徴である積み上げ方式に従い、先人の成果を一〇〇%活用しながらそれを乗り越えていくのが最も面白いはずだと思っています。
総合の知・文化としての生命研究
大げさついでに、生命誌の狙いーーというより願いーーをあげておきます。学問と日常、別の言葉を使うなら知識と知恵の一体化です(図1ー3)。生物は人類誕生以来つき合ってきた仲間です。それについては日常の体験の中で知ったことがたくさんある。直観でわかることもある。他の生きものの生き方から学ぶことも多い。それとDNAを基本にした生命システムの学問的理解とは重なり合うはずです。こうして生れるのが知恵であり心でしょう。生命誌は、専門家としろうと、研究者と生活者などの区別なしに、誰もが当事者です。あなたも生命誌の当事者と自覚していただきたいと願います。それは、生命誌が文化として社会に存在するということでもあります。音楽や美術・文学が、もちろん専門家はいるけれど、それを誰もが楽しみ、自らもそれに参加しようとするものとして存在するのと同じように。科学はこれまでそうではなかった。これは悲しいことです。科学そのものが文化として存在できるようにしたい。それも"科学"から"誌"への移行にこめた気持です。生命誌の問いは、私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのかです(口絵_)。これは恐らく人間の文化を産み出す基本でしょう。その意味でも生命誌は文化として、他のあらゆる活動ーー学問や芸術などーーと関心を共有し、何かを共にできる「知」です。学問と日常が一体化し、生活者としての私と研究者としての私が乖離せずに仕事ができるという意味で「総合の知」もしくは「智」と呼んでよいと思っています。 
生命への関心の歴史 / 共通性と多様性

 

ヒトが地球上に登場した時には、現存生物はすべて存在しており、自然は多彩な姿を見せていました。これらは、動くもの、美しいものとして私たちの祖先の気を引いただけでなく、衣・食・住、さらには医療に用いるためにその性質を充分知る必要がありました。なかには毒を持つものや危害を加えるものもあり、詳細かつ正確な情報が必要でした。狩猟採集時代の終り頃(今から三〜四万年前)には呪術的な意味をこめたみごとな動物像が壁画に描かれています(図2_1)。六万年ほど前にネアンデルタール人が死者を悼んで花を手向けたのではないかと思わせる跡がシャニダールの洞窟内で見出されたと言うのが事実なら、すでにその時には死について考えるようになっていたはずです。つまり、ここで考えようとしている、私とはなにか、私はどこから来てどこへ行くのかという問いにつながる精神的な活動がすでにそこに見られるわけで、まさに「人間」であったと言えるわけです。このようにして私たちの祖先は、現代風に言うなら、生物の多様性と生物がもつ生命という共通性、そしてその先にある「私」という存在に関心を向けるようになりました。常に生物への関心の通奏低音として流れ続けているのはこの共通性と多様性(そしてその先にある〃私"という意味を常に汲みとって下さい)への関心であり、それが生命誌のテーマです。この関心を体系化し、現代科学につながる学問を作ったのはギリシャ時代の思索家たち、ここではとくにプラトンとアリストテレスに眼を向けます。図2_2はラファエロの「アテナイの学童」に描かれているプラトンとアリストテレスです。ギリシャの賢人たちの中でもとくに後世に大きな影響を与えた二人の手に注目して下さい。プラトンは天を指差し、アリストテレスは腕を前に差し出し掌を地に向けています。プラトンはイデア論で自然界を説明しました。物とは独立に存在する不変のもの、イデア(眼には見えない)によってさまざまな生物がきまるというのです。つまり不変で唯一のものこそ重要だという考え方です。天を指している所以です。それに対して弟子のアリストテレスは事実と観察を大切にしました。生物についても多くの観察記録を残し、動物学の始祖とか古代・中世を通じて最高の生物学者と言われています。とにかく地上にいるさまざまなものを観察することが知の始まりという気持の表現がアリストテレスの手に表れています。もちろんアリストテレスは、多様性だけに関心を持ったのではありません。生きものを生きものたらしめている「プシュケー」(生命または霊魂とされる)があり、それが植物と動物と人間では違っている、簡単に言えば後の方ほど高等だというような整理をしています。自然の階梯があるとして。ただアリストテレスは、変ることに関心があるのです。共通と多様への関心は、別の切り口から見ると変らないものと変るものへの関心といえます。こうしてみると、やはりアリストテレスは生物学者の祖と言うにふさわしいことがわかります。眼の前にある多様なものを正確に観察し、そこから共通性を見出そうというのですから。また生物の変るところに眼をつけているのですから。いずれにしても、生きものを見るための二つの基本、多様性と共通性を鍵に、生物研究と、それに伴う生命観の変遷を簡単に追っていきましょう。
博物誌から分類学ヘ
ヨーロッパの中世は、いわゆるスコラ哲学の時代、アリストテレスの示した観察の精神は忘れ去られ、専ら神学上の解釈、先達の著作の解釈などに眼が向けられていたので"生物研究"の立場から見ると実りのない時代だったと言えます。しかし、十四、五世紀になると、十字軍や東方貿易によって外の世界を知った人々が、単なる思弁のための思弁を止め眼を外に向け始めます。ルネサンスです(ラファエロの絵もこの時に描かれました)。十六世紀から十七世紀、航海術の発達でヨーロッパ列強が世界へと出かけて行き、生物に関する情報や標本が持ち込まれるようになり、研究書もたくさん出版されました(図2_3)。頂点は十八世紀、それまでは貴族のものであった博物誌の情報が庶民層にも伝わり、他国の標本など買えない普通の人々が身近な生物の観察をするようになり、生物の種類だけでなく習性なども調べられました。今もこの伝統は引き継がれています。こうして、世界中から集められたさまざまな標本や身近な生きものが分類され整理されていったのです。十八世紀、スウェーデンのリンネによって現在も使われている二名法と呼ばれる分類法が出されました。多様な生物の整理です。
解剖学から生理学へ
共通性への関心は、直接生命とはなにかという問いへとつながります。きっかけは、生命が失われること、つまり死への恐れとふしぎであり、したがって最大の関心はほかならぬ人間に向けられました。多様性が人間以外の生きものたちの生き方を知ろうとしたのとは対照的で興味深いことですが、それと同時に、本来生きものの理解に必要なコインの両面であるはずの多様性と共通性へのアプローチが、関心の持たれ方がまったく違う形で始まったことは、生命の本質の理解にとっては望ましいことではなかった、両方が一緒に考えられていたらよかったのにと思います。しかし、歴史を変えるわけにはいきません。事実を追っていきましょう。死と人間という切り口で生命の実態に迫ろうとして行なわれたのは解剖です。もっとも、人体解剖は禁止されていましたから他の動物を調べてそこから類推するわけですが。この流れで名前があがるのがローマで活躍したガレノスとその後継者であるアラビアのアヴィケンナです。当時は、ギリシャ以来の生気論が主ですから、ガレノスはプネウマ(風、空気という意味)が身体のあちこちに出入りすると考えました。プネウマは空気中に充ちており、呼吸で体内に運び込まれ血液で各部へ運ばれそこで活躍します。たとえば、肝臓の中のプネウマは成長と栄養を司るというように。プネウマが霊魂のはたらきをする場所は、脳、心臓、血液などとされ、それらに注目が集まりました。十三世紀になると、少しずつ人体解剖がなされるようになりましたが、ガレノスの影響が強く、誤りもそのまま踏襲されていました。それを打ち破ったのが、イタリア、パドヴァ大学のヴェサリウスです(図2_4)。それまで教授自らが執刀することはなかったのに彼はそれを行なったのです。解剖と言いながら、先達の書を鵜呑みにしていたそれまでと違い、まさに科学です。なぜ彼にそれができたのか。当時のパドヴァが自由で、研究用死体が手に入ったこと、ティツィアーノという画壇の巨匠が図版の作成に協力し、出版の技術と熱意も一流だったという多くのことが重なってのことです。新しいことは、決して唯一人の人、一つの分野の力で生れるものではありません。まさに高レベルの文化があったということです。これはもちろん現在にも通じることです。こうして生れたのが歴史的書物『人体の構造について』(一五四三年)です。
人体そのものの構造が具体的に見えた……そこから、それがどのようにはたらくのだろうかという疑問が生れ、人体を機械とみなすようになっていきます。そして百年後、まずハーヴィが『動物における、心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』(一六二八年)を著し、その後暫くしてデカルトが人間機械論を展開するわけです。ハーヴィは、観察を重ねたうえで仮説を立て、それを定量的な検証で実証していくという近代科学の方法を生物研究に取り入れた人としても歴史に残ります。ハーヴィ、デカルトによって、共通性を探るミクロの旅に拍車がかかりました。多様性を探る旅が、本当に海を渡るマクロの航海であったのに対して、こちらは実験室の中でミクロへミクロヘと入っていく航海です。その航海を豊かなものにしたのが顕微鏡。肉眼では何も見えない池の水を顕微鏡の下に置くと、なんとも奇妙な形の生きものたちが見えてくるというので皆で我も我もとのぞくようになり、一種のファッションにまでなったようです(図2_5)。今では顕微鏡をのぞくと言うと白衣を着た生物学者というイメージに変ってしまいました。もう一度呼び戻したい流行です。ところで、ミクロの旅でアマチュアが多様性を楽しんでいるなか、マルピーギ、フック、レーウェンフックなどの研究者が小さな世界に存在する微細な構造を調べ、次々と新しい発見をします。フックは、コルク切片を見ると小さな袋の集まりに見えることをみつけ、それをcell (小さな個室)と名づけました。細胞の発見です(まだその重要性には気づいていませんが)(図2_6)。
生物学の誕生
ところで、十九世紀初めに大きなことが起きました。ギリシャ以来二つの道を歩いてきた多様性と共通性への関心を一つにまとめようという動きが出たのです。多様性への興味から生れた博物学は、分類学へと進み、ミクロの世界に眼を向けるようになりました。一方、解剖学・生理学など医学と関連し、主として人間を中心に研究が進められてきた共通性への研究もまたミクロの世界の細胞へとたどりついてみると、それは人間に限らず他の生きものの生き方にもつながることがわかってきたのです。この流れの中、十九世紀の初めに二人の学者がほぼ同時に、そして独立に同じ言葉を提案しました。「生物学」です。普段は深く考えずにこの言葉を使っていますが、生命研究の歴史の中ではとても大事な意味をもっています。この言葉を作ったのは、フランスのラマルクとされていますが、ドイツのトレヴィラヌスも同じ頃に同じ提案をしていました。ラマルクは博物学者、トレヴィラヌスは医学者です。多様な生物を対象にしてきた博物学と人間を扱いながら生命の基本を問うてきた医学生理学の両方から同時に同じ言葉が出てきたのは偶然ではありません。多様と共通を別々に見ていたのでは生命の本質には迫れない、両者の関係を知ることこそ重要だという意識が出てきたのでしょう。生物学の始まりについては、動物学と植物学が統一されたという見方や物質と精神の分離に対してそのいずれでもない生命という概念がこの時代に現れたことを反映しているという解釈も出されています。いずれにしても、総合的な見方が必要という考え方が出てきたことに違いはありません。生物学という言葉に重要な意味がこめられていること、言葉は大事なものだということを心に止めて下さい。ここで考えなければならないのは、生物学が結局、総合的なものにはならずに細分化されているのはなぜかということです。実は生命誌はそれから二百年ほど経過したところで、彼らとまったく同じことを考えて提出している言葉です。生命の本質を見る総合的視点は学問の中で常に求められてきたものなのです。ただそれを現実にするには具体的な方法が伴わなければならない。願いをこめながらですが、今は、それがあると思っています。それをこの講座で話したいのです。
細胞説の登場
生物学という新しい考え方を支え、以後の生物学の方向を定めたのが「細胞説」です。フックがコルクで細胞をみつけて以来、多くの人がさまざまな生物を顕微鏡観察しましたが、動物ではなかなか細胞がつかまりませんでした。しかし、一八三〇年代、ドイツのシュライデンが植物について、シェヴァンが動物について、細胞が基本単位であるという論文を出しました。細胞説です。すべてに共通。大発見です。顕微鏡下で根気よく観察すると分裂すること、細胞の中にはいつも黒い構造体があること(「核」のこと)などもわかりました。一八五五年、病理学者フィルヒョーは「すべての細胞は細胞から」という名言で、細胞は次々と新しい細胞を産み出し連続するものであることを示すと同時に、その頃までなんとなく信じられていた自然発生の考え方を否定しました。細胞を調べていけばいいらしいぞ:…・現代生物学の出発点です。
ところで、生物学は多様と共通を結ぶ方向を出そうとした提案だったのですが、実際の研究は共通性の方向へ傾きました。というのも十九世紀半ばすぎ、しかもほとんど時を同じくして共通性へと研究を向ける事柄が次々と登場したからです。第一陣は、先ほどのフィルヒョーの細胞こそ生命の基本という保証です。
進化論
顕微鏡の下から生れた細胞説に対して博物学、つまり自然の観察からも重要な概念が出ます。進化論です。ダーウィンとウォーレスの論文は、自然選択というメカニズムにより「生物は長い時間をかけて世代を重ねる間に形質が変化し、構造も複雑になり、それと共に多くの種に分れた」と述べています。進化という概念はこの時初めて出されたものではありません。ギリシャ時代から、生物は"不変"という考えのほかに"変る"という考えも存在していました。前に生物学の提唱者として登場したラマルクは、進化論を明確に唱えた最初の人でもあります。彼は、生物は本来、より大きく複雑になるよう決められており、使った部分は進化し、使わない器官などは消えていくという用・不用説を出しました。ただ、進化論、つまり変化するという考え方を、神の創りたもうた秩序ある世界とどうすり合わせるかに誰もが悩んだのです。そのような流れの中でダーウィンの「種の起源」が出版されたのが一八五九年。その頃のイギリスは、産業革命の結果社会変化が激しくなり、それへの適応が重要という考えが出始め、社会に進化論を求める機運がありました。もちろんキリスト教からの批判が厳しかったのは当然とは言え、ダーウィンは、若い頃ビーグル号に乗って、まさにマクロの航海に出かけ多様な生物を観察しましたし(図2_8)、英国で盛んな家畜や栽培植物の育種の観察体験も豊富でしたので、進化を考えざるを得なかったのでしょう。しかし一方で、時代もあった。このように科学も社会と関係して動いていくのです。
遺伝の法則の発見
もう一つの大事な共通性への道が遺伝の法則の発見です。オーストリアの僧メンデルがエンドウマメのかけ合わせの実験から、生物の性質を決める「因子」があることを発見しました。親の性質が子どもに伝わることは昔から気づかれており、家畜の改良などと関連して、実用上遺伝への関心はありました。けれど、生物には無数ともいえる性質があり、親子でも似ているところもあれば似ていないところもあるというように複雑なので学問として体系化はされていませんでした。そこヘメンデルが性質を決める「因子」があり、その有限個の因子の組み合わせで生物の性質がきまるということを示したのですから、なんとか調べられそうだということになったわけです。この因子は後に(一九〇九年)遺伝情報をもつ因子という意味で「遺伝子」と名付けられます。生物学で法則と呼べるものが出された最初という意味でもこの研究には大きな意味があります。もっとも、それが評価されたのは彼の死後二十世紀になってからのことなのですが。
生化学への道
生物の共通性へ向けての研究の流れをもう一つあげる必要があります。生化学です。細胞を観察すると中に何かが詰まっているように見えたので、生物を作りあげている物質を追う作業が始まります。そこで大きな役割を果したのはパストゥール。ワイン業者から樽によって品質が違うのはなぜか調べて欲しいと言われ、調査したところ、発酵には生きた酵母が必要だということがわかりました。「発酵は、微生物が物質を取り込みながら増殖していく生理過程の中で起きる生物現象である」。その後(一八九七年)ブフナーが酵母の抽出液でも発酵が起きること、つまり酵素がはたらいていることを示し、生物体で起きている現象を化学反応で解明していく生化学が生れます。実は、パストゥールと同じ頃、一八六九年に、ミーシャーが白血球(外科患者の膿汁)から一〇%もりんを含む酸性の物質を見出し、機能はまったくわからないままヌクレイン(核からとれた物質)と名づけていました。後にDNAとわかる物質です。タンパク質(酵素)とDNAという生物にとっての二大基本物質が取り出されたわけです。パストゥールはまた、生物の自然発生を実験によって決定的に否定しました。まず、完全滅菌したスープの中に空気やチリが入ると微生物がふえて腐ることを示した後、同じスープをS字型の首をもつフラスコに入れると腐らないことを示しました。一八六〇年です。細胞説、進化論、遺伝の法則、生化学……生物は共通の構造や物質から成っていること、生きものは生きものから生れその性質を子孫に伝えていくものであることがわかってきた、しかもそれがほとんど同じ頃、さまざまな分野から独立に生れてきたことは興味深いことです。歴史とは面白いものです(図2_9)。
生殖と個体発生
共通性と多様性という切り口で生命理解の歴史を見てきましたが、実は、このどちらとも関連しながら、日常的な生きものの観察とつながり、しかも「性」や「個」という、生命にとって本質的な問題を含んでいる現象を扱ってきたもう一つの歴史があります。発生学です。個体が生れ、成長、老化、死と経ていく過程を追う現在の発生生物学につながるものです。発生についても、始まりはアリストテレスです。彼は「女性(メス)の月経血、ニワトリの場合は黄身に男性(オス)から生命力、つまり精液が注入されると赤ちゃんの素ができる」と考えました。そこに霊魂が入って人間ができていくというのです。その後、キリスト教社会では観察から離れ、自然発生説に傾くわけですが、十七世紀になって顕微鏡観察が始まると精子が発見されます。精子は動きまわるので、その中に子どもの素が入っているのでらんはないかと考える人が出てきました。しかし卵の方が大きい、これを観察するとこちらに小さな人の形が見えるという人もいて、どちらに生物の素が入っているかの論争がなされました。精子、卵のいずれにしても、あらかじめ小型の動物が存在しているという考え方ですからこれを前成説と言います。これには生物は神様の力で創られたものでそれが精子や卵に宿っているという気持も影響していたでしょう。もっとも、いくら観察してもそのような形はどこにも見えないと主張する人もいました。「後成説」です。十九世紀に入り、ここでも現代生物学への曙の時代が始まります。ベアが、一八二七年に初めて哺乳類の卵を観察します。一八七五年にはウニで卵と精子の融合、受精が観察されました。受精卵は分割を始め、胚になります。ベアは、このようにしてできた胚がある時期、哺乳類でもトリでもトカゲでも区別のつかない姿になることをみつけました。ここでも共通性が浮び上ってきます(図2_10)。発生研究ではもう一つ大事な仕事があります。一八九一年、ドリーシュが、ウニの受精卵が二つに割れたところで、二つを分離して飼ったところ、どちらからも小さいながら完全なウニができたのです。これは、生物における部分と全体を考えさせる面白い実験で、事実ドリーシュはその後むしろ哲学的思考に入っていきます。このように、発生は、生きものそのものを見ていく最も日常感覚に近い分野です。また個体を見るという点でも興味深い分野です。
大急ぎで見てきた研究の流れ、二十世紀に入る前の状態をまとめてみますと、_多様性よりも共通性、_生命から物質へ一機械論一、_観察より実験、という方向が明確に見えます。これがあったからこそ科学としての生物研究が急速に進展するのです。そしてこれは、社会の動きとも重なっているのに気づかれたと思います。ただ少し先走っていうなら、これが生命の本質を忘れた機械優先の社会にもつながってしまうので、その辺に注意しながらこの流れを追ってください。 
DNA(遺伝子)が中心に / 共通性への強力な傾斜

 

前回でまとめた方向に拍車がかかった形で私たちの世紀は始まります。これまでの歴史と違い、この世紀に入ると、一年から数年の単位で注目すべき成果が出てくるというぺースで研究が進み、今や毎日追いかけていても間に合わないほどの速さになっています。このような動きの中心にあるのは、一九五三年のDNAの二重らせん構造の発見です。少し先走って言うなら、そこで、地球上のあらゆる生物はDNAという物質を基本に牛きているということが人々(少なくとも生物研究者)の共通認識になります。大腸菌も象も基本的には同じという生物の見方は、共通性の極と言ってよいでしょう。それは、私たちにとてもたくさんのことを教えてくれました。二十世紀、実はこまかく、言うと一九七〇年代までは、普遍性の徹底的な追究に向けて走ったと言えます。そこで得られた素晴らしい成果を評価しながらも普遍性のみを追ったための問題点を考えるのが生命誌です。そこで、DNAに向ってさまざまな分野の研究が収斂する様子を図3_1にしたがって追って行きます。遺伝学、細胞学、生化学、微生物学、そして物理学(この関与が興味深い)などなどです。
遺伝学の世紀
二十世紀は、よく遺伝学の世紀と総括されます。メンデルの法則は発見当時は評価されず、一九〇〇年に三人の研究者によって同時に再発見されました。二十世紀半ばにDNAの二重らせん構造の発見があり、世紀が終ろうという今、一つの生物のもつ全DNA、つまりゲノムの構造分析(ヌクレオチド解析)がバクテリアではいくつか終り、ヒトのそれもあと数年で完成の見通しが立ったのですからこの言い方は当っています。しかしそれは決して遺伝学という閉ざされた学問の中で行なわれたことではありません。相手は生物、知りたいのは生きているとはどういうことかなのであり、それを知るための最も鋭いメスが「遺伝子」という言葉のまわりで使われたのです。遺伝子は、単に遺伝という現象を具現化するだけの因子ではなく、生命現象のすべてを支えています。ですから生きるということに関心のある人は遺伝子に興味を持たざるを得ないわけです。
まず、細胞学を見ます。すべての細胞が細胞から生じる機構を探っていた細胞学は、細胞分裂の観察から染色体を発見し、体細胞では染色体は二本組で存在し、生殖細胞(卵と精子)にはその一本ずつが入ること、受精でまた二本組になることを明らかにしました。子どもは、父親と母親から一本ずつの染色体を受けとるわけです。ここで、二十世紀遺伝学の元祖と言ってよいモーガンが登場します。彼は発生学者でしたが、一八八六年にド・フリースが発見した突然変異に注目します。これを利用すれば"実験"ができる。ショウジョウバエで幸い白眼の変異体がとれ、続いて朱眼、翅退化型などもとれたのでそれらのかけ合わせをしたところ、複数の遺伝子が行動を共にすることがわかりました。遺伝子は染色体にのっていると考えてたくさんの遺伝子の染色体上での位置をきめました。遺伝子地図をつくったのです。ある遺伝子の変化がどの形質の変化につながるがが解析され、メンデルが抽象概念として出した遺伝子が染色体上の因子という実体として捉えられたのですから画期的な研究です。モーガンがショウジョウバエを研究対象に選んだのは小さくて扱いやすく、二週間という早さで世代交代をするからです。能率のよい実験を重んじる現代生物学の先駆けです。彼はまた、染色体が分裂時に切断されることにも気づき、これが親の性質がそのまま子どもに移らず、いろいろ混り合う原因だとしました。一九二七年、彼の弟子のマラーがX線を用いて人工的変異を起こせることを見つけ、"遺伝子が物質である"ことがより確かになりました。物質といえば、ブフナーが酵素(タンパク質)反応で生命現象が動いていることを示したことは先に述べました。一九三五年、ビードルとテータムはショウジョウバエより更に扱いやすいアカパンカビを用いて、一つの遺伝子が欠落したために普通の栄養分では生えないカビが、ある一つの酵素が作る物質を入れてやると生えてくることをみつけました。遺伝子が欠けていたので酵素が作れなかったということは、一つの遺伝子が一つの酵素を作っていることの証しです。こうして二十世紀前半、染色体上の遺伝子(DNA)と酵素(タンパク質)、つまり"二つの重要な物質で生命現象を語れる"土台ができたのです。
物理学者の関心分子生物学の誕生
同じ頃、物理学者が生命に関心を持ち始めました。その代表がボーアとシュレディシガーです。量子力学でミクロの世界まで統一的に理解できることを知った彼らにとって、未知の世界は生命でした。物体は常にエントロピーが増大する(簡単に言えば壊れる)方向へ動くはずなのに生命は秩序を作り出す。何か新しいことがそこにありそうだと考え、ボーアは「光と生命」という講演をし、シュレディシガーは『生命とはなにか』を出版しました。エンドウマメやハエなど"生物"という具体的存在ではなく"生命"の本質を問う物理学者の関心の持ち方は、その後の生物学に大きな影響を与えます。ボーアに刺激された若い物理学者デルブリュックが、遺伝学を勉強し、遺伝子のはたらきの解明こそ鍵だと考えます。一九三八年、米国に渡った彼は、そこで大腸菌に感染するウイルス、つまりファージの存在を知り、これこそ遺伝の物質的基礎を調べる最良の系と考えて実験を始めます。
遺伝子の実体がDNAとわかる
ファージはDNAがタンパク質の殻を被っているだけの簡単な構造をしており、それだけでは生きられません。しかし、大腸菌の中へ入れば自分と同じものを作る。その時実際に入るのはDNAだけなので、これが遺伝子とわかりました。その後、あらゆる生物の遺伝子はDNAとわかり、大腸菌とファージを用いた研究は決して大腸菌のことがわかるだけでなく、全世物に共通な現象を知るための「モデル系」だという意識を生物学者が持ちます。これは二十世紀の生物学の特徴です。従来生物研究は自分の好きなもの、たとえばチョウならチョウを研究するものでした。しかし、遺伝学がショウジョウバエ、アカパンカビ、大腸菌と材料を変えてきたのは、それぞれの人がその生物が好きだからではなく、遺伝現象の解明に最適の生物はなにかという視点からの選択でした。。それがデルブリュックという物理学者の参入でより明確になりました。生命とはなにかを知るには遺伝現象を知るのが最もよい、遺伝現象を知るには大腸菌、ファージ系が最もよいというわけです。ですからDNAこそ重要だとわかれば、関心はDNAという物質(分子)に向くのは当然です。こうして、生物学研究は多様性を離れ共通性に向いたというだけでなく、生物のモデルが解ければよい、いやDNAが大事なのなら生物そのものは脇に置いてもよい、DNAのはたらきを解くことが大事だという方向へ進みました。分子牛物学の誕生です。これは、生物学を科学として洗練されたものにし、研究成果もぐんぐん上る魅力的な学問にしていく素晴らしい効果をもたらしますが、一方で生物学から生物を消すというふしぎなこともしたのです。私自身後でここに問題ありと感じるわけですが、この時点ではどうしたって魅力の方が大きく見えました。カッコよかったのです。当時はDNAそのものを自由に扱えはしなかったので、デルブリュックら(ファージグループ)は、変異株を使いDNA(遺伝子)の「情報」を知る実験をしました。ファージ・グループの中で交わされた会話は「その実験はそれ以上その問題を考える必要がないようなものかね」「私にとっての天国は、毎日完璧な実験を考えて、それを一度だけやることだ」(ハーシー)。"考える"がこの分野の特徴でした。"モデルで考える"。これはまさに物理学の方法です。
実は、同じ物理学者で、まったく別の方向からDNAに近づいているグループがイギリスにありました。結晶物理学者ブラッグが、通常結晶しないと考えられている天然物も結晶構造をもつと考えたところから研究は始まりました。最初は毛髪のタンパク質から始め、一九三〇年にはDNAに手を出していました。X線回折で得られる写真はだんだん改良され、一九五〇年頃には明らかに規則的な構造があることを示す写真が撮れるようになりました。「情報」に対し「構造」に注目した地道な歩みです(図3_4)。
DNA二重らせん構造の発見
「情報」学派と「構造」学派。どちらも重要だが、どこかまだ核心をつかんでいない状態の中、両者を結びつける青年が現れます。ファージ・グループの中核の一人ルリアの最初の大学院での教え子だったワトソンが、化学者ポーリングがタンパク質の構造を決定したことに刺激され、DNAの構造を知ることが大事だと考えてイギリスに行きます。その意気やよしですが、彼は面倒なX線を用いた実験はやらずに、研究室でちょっと変り者とされていたクリックと議論ばかりして周囲の顰蹙を買っていたようです。ところが、このお喋りの中で、彼らはDNAの構造の本質を見つけ出し、ブリキの模型をいじりまわして、ついにDNAの二重らせん構造を発見します。一九五三年です。今では専門外の方も御存知のこの構造、二つの鎖が分れて、お互いに新しい相手を作ると前とまったく同じ構造のものが二つできるという、まさに遺伝子そのものを思わせる性質を持っていました。こうして、「構造」の中に遺伝子「情報」が入っており、生物としての「機能」につながっていくことがわかり、ここで本格的に物質に基盤を置いた生命現象の解明が始まります。
DNAを基盤にした生物研究
DNA研究は、これだけで一冊の講座ができるほどで、たくさんの本がありますし、残念ながら詳細に話す余裕がありませんので簡単にまとめます。
DNAは、「複製する」「タンパク質合成のための情報を出してはたらく(この場合、単にタンパク質を生産するだけでなく、必要な時に必要な場所で必要なタンパク質を作るという調節のための情報もあり、これが生物を生物らしくしている)」「変る(これには、生殖細胞での場合と体細胞での場合があり、前者は子孫に伝わって延いては進化につながり、後者は一個体での病気や老いに関わる)」の三つの機能を持っています。三つしか持っていないと言ってもよいかもしれません。しかし、この機能がすべて、DNAという分子だからこそできることであり、しかもこれで、私たちが生きもののふしぎと感じる巧妙な現象の基本をすべてまかなっているのですから、やはりDNAは面白い物質です。くどいようですが、DNAは物質です。これが生きているわけでもなんでもない。しかしこれが細胞の中ではたらき始めると魅力的なことをやってくれるわけで、物質なのについ面白いなどという形容詞をつけてしまいます。遺伝子に生命現象のすべてを還元し説明しつくそうと研究者が張り切ったのは当然です。
組換えDNA技術の開発 / 第二期分子生物学
一九七〇年代初め、DNA研究に革命が起きます。ある生物のもつDNAの中から特定の遺伝子を取り出して、プラスミドと呼ばれる小さなDNAに組み込み、それを大腸菌などの微生物の中でふやす「組換えDNA技術」とDNAヌクレオチド配列を知る「分析技術」が開発されたのです。望みの生物の望みのDNAを手にしてその性質を調べられる。もうモデル生物などと言わなくとも、ヒトでさえ、ほんの少しの細胞があればそこからDNAを取り出し、研究できます。DNAの組換えと分析という方法のおかげで免疫、発生、脳など、それまで複雑でDNAと結びつけた研究ができなかった現象の研究がぐんと進みました。免疫抗体の遺伝子、体の形を決める遺伝子、細胞間のコミュニケーションを司る遺伝子、脳の神経伝達物質をつくる遺伝子、がんの遺伝子などなど……あらゆる生命現象に関わる遺伝子が単離されその性質が調べられています。実は最近では必要な遺伝子を手に入れるだけだったらPCR法と、言って機械の中に欲しいと思うDNAをほんの少し、原理的には一分子入れておけば図3_7のようにしてどんどんふやしてくれる方法があり、大腸菌に入れるという面倒なことは不要になりました。技術は進み、研究も盛んで、毎日面白い発表がある。研究者にとってこれほど魅力的な環境はありません。しかも人間の病気の遺伝子がみつかれば治療にもつながるだろう。単に研究として興味深いだけでなく、有用性も出てきました。ますます、遺伝子さえ研究していけばすべてがわかるという気持になりました。とくに、がん遺伝子の研究は期待を持たせました。最初にがん遺伝子が発見された時はこれで決まり、がんを追いつめたと思わせました。ところが実は、がん遺伝子はたくさんあり、しかもそれは本来細胞増殖の調節に関わる複雑な現象の一つとわかってきました。当然のことながら、がん抑制遺伝子も登場します。巧みに調節を受けながら増殖していた細胞の遺伝子に少々変化が起きる。生きていることを支える細胞増殖の調節が狂ったのががん、つまりがんを知ることは生きていることを知るのと同じということになります。そこで、アメリカのがん研究のリーダーの一人ダルベッコが、一九八六年に、ヒトゲノム解析の提案をしたのです。ゲノムとは、一つの細胞の核内にあるDNAのすべて。ヒトゲノムはヒトを支える生命現象のすべてを担当するわけです。遺伝子を一つ一つ調べていても複雑な現象はわからない、全体を見よう、遺伝子をシステムとして見ようという新しい方向をめざした提案です。第三期の分子生物学への移行と言えます。DNA研究が少し変化していく様子が感じられます。一個の遺伝子への還元ではなく、たくさんの遺伝子がつくりあげるシステムのはたらきを見ていこうというのですから。生物のダイナミズムに迫れそうな気がします。それにしても、前世紀までの千年以上かけた歴史と比べてなんと速いテンポでしょう。十年で大変化です。まさに大変ですが、とても大事なところなので追いかけて下さい。折角研究の側がこれだけ変化しているのに、社会の理解は一昔前の遺伝子還元論に止まっていたのでは、ずれが起きるだけでなく、研究をうまく進められませんし、技術も使えません。これは、社会にとってマイナスです。新しい道探しにつながる動きが出ていることに注目していただきたいのです。 
ゲノムを単位とする / 多様や個への展開

 

DNAの見方の変化前回でDNA中心に徹底的に共通性に傾斜した研究の歴史を追いました。これをもう一度括り直すと、
(1)DNAが情報(記号)としてだけ見えていた、一九六〇年代まで
(2)DNAを物質として操作でき、遺伝子が手に人った時代(一九七〇年代から八○年代半ばまで)
(3)DNAを遺伝子のセット(システム)であるゲノムとして見る時代(一九八○年代半ばから)
となります。今は(3)に人りつつあるところで、遺伝子への還元、共通性への傾斜は崩れつつあると言ってよいでしょう。研究の結果からもそれがわかってきました。たとえば、
DNAを物質として分析したりはたらかせたりして、多細胞生物での研究が進んだ結果、DNAのはたらきは決して大腸菌と象(原核生物と真核生物、単細胞生物と多細胞生物という差があるが、一九六〇年代、「大腸菌での真実は象でも真実だ」と言われた)では同じではないことがわかった。ヒトの遺伝子を大腸菌の中へ入れてもそのままはたらきはしない。共通性を踏まえたうえでもう一度DNAの側から多様性に迫る必要が出てきた。
DNAを詳しく調べるとその中に明確に遺伝子と言えない部分がたくさんあることがわかった。スペーサー、イントロン、偽遺伝子、くり返し配列など。これも生きていることと関係があるに違いない。DNA=遺伝子ではない。全体を見なければならない(図4_1)。
これはほんの一部ですが、とにかくDNA=遺伝子とした単純な遺伝子還元論では生物はわからないことが明らかになってきたのです。
ところが、社会の側には、どうも遺伝子祀り上げの風潮が見られ、次のような問題が感じられます。
DNA研究が盛んになるにつれ、遺伝子で何でもわかり遺伝子を操作すれば何でもできるという遺伝子決定論が社会に蔓延してきた(むしろ専門家でない人の中で)。
過剰な遺伝子への期待、遺伝子決定論の考え方が、生物研究で用いられるDNA関係の技術の危険視につながり、専門家と社会の間に大きな認識ギヤツプが生れている。
DNA研究とは直接関係ないが、生殖技術・臓器移植などで、次々と新しいケース(技術の開発というより応用)が生じ、その背景には機械論的自然観があり、それと遺伝子への還元とが重なり合う。
前回で、生物研究はDNAを物質として操作できる時代に入り活気を呈したけれど生物なしでも生物研究ができる時代になったとも言えると述べました。そのマイナス面が出て来ている感じです。これはまずい。これをなんとかしたい。だいぶこれで悩みました。その結果、遺伝子を単位とし、遺伝子の集まりとしてゲノムを見るのではなく「ゲノムを基本単位として見る」という切り口を出そうという考えに達しました。これが生命誌になります。ゲノムを単位にすると何が違ってくるのか。とても大きなことなのでていねいに説明します。
ゲノムを単位とする
ゲノムとはなにか。具体例で考えます。あなたの体は、六〇兆から一〇〇兆個と言われる細胞でできています。その中にある核内のDNAがゲノムです。ここで、あなたという存在の始まりに戻ると、たった一個の受精卵。それが分裂を重ねて今のあなたになったのですから、すべての細胞は受精卵と同じDNA(ゲノム)を持っているわけです。受精卵のDNAは、半分を父親、半分を母親から受け継いたものであり、両親のDNAは更にその親から続いてきたものです。こう考えるとあなたのゲノムは、祖先をたどって人類の祖先につながり、更には地球上に最初に登場した生命の起源につながります。つまり、ゲノムには、生命誕生以来の長い歴史(三八億年以上とされる)が書き込まれているのです。ゲノムを知ることは歴史を知ることになります。"誌"(ヒストリー)です。
もちろんゲノムを分析すればその構成成分として遺伝子があり、それはたくさんの情報を与えてくれます。あなたのゲノムの中でも、この遺伝子は父由来、これは母由来などの区別があるわけですし、それぞれの遺伝子のはたらきを知ることも大事です。そのうえで、遺伝子でなくゲノムを単位とすることの意味を説明します。さまざまな生物で、同じ機能を示す遺伝子を比較すると、それらは基本的に同じ構造をしていると考えてよいことがわかってきました。表4_1は、糖分解に関与するグリセルアルデヒド三りん酸デヒドロゲナーゼの構造ですが、重要な部分はどの生物でも同じとわかります。恐らくこれは生存のために不可欠な酵素なので、大腸菌、好熱性細菌などがこの世に登場した二〇億年以上前から存在し、あらゆる生物の中で活躍してきたのでしょう。つまり遺伝子は"ヒトの遺伝子""大腸菌の遺伝子"というより、"ある酵素の遺伝子""あるホルモンの遺伝子"という方が適切です。もちろん、長い間に少しずつ差は出ますが、やはり遺伝子の特徴は共通性です。このような遺伝子が、ある組み合わせで集まり、それ以外に機能しないDNAもためこむなどして一つのセットを構成してゲノムとなるとこれはまぎれもなくヒトゲノム、大腸菌ゲノムと一つのまとまりを示し、しかも多様性を示します。しかも同じヒトでも、一人一人持っているゲノムが違う(例外は一卵性双生児)わけで個別性があります。DNAという共通の物質であり、共通の遺伝子を組み合わせながら、多様や個別をつくり出すのがゲノムです。
更にゲノムの面白いところが見えてきます。あなたのゲノムは、ヒトゲノムという言い方もできるし、あなたのゲノムとも言えるということです。生物研究の場合、難しい問題の一つに階層性があります。分子、細胞、組織や器官、個体、種などです。DNAやタンパク質などの分子が集まって細胞を作りますが、細胞には単なる分子の集合体とは違う、全体としての性質があり、それは一つの単位として存在します。細胞の集まりである器官、器官の集まりである個体。それぞれ上の階層の部分であると同時にそれ自身全体性を持っているわけです。ところでゲノムは分子ですが、細胞内には必ず存在し、その細胞の基本をきめます。器官や組織特有のはたらきもゲノムが決め、個体や種の基本的性質をきめているのもゲノムです。つまり、階層を下から上までグッと串刺しにしているのがゲノム(図4_2)。こんなものはこれまで知られていません。これを通して生物の全体像が見えて来そうな気がします。もう一つとても大切なことがあります。自然界に存在するDNAは、必ずゲノムという姿をしているということです。イヌが歩いていればそこには必ずイヌゲノムがあります。一方、遺伝子が遺伝子として自然界に単独で存在することはありません。実験室のガラス容器の中にゲノムから単離した形であるのが遺伝子です。科学は本来自然を理解するためにあったはずですが、どうも専門家のいる研究室の中での分析になってしまい、自然や日常と遠くなりました。そこにいるイヌのゲノム、アリのゲノムヘの興味が大切です。DNAはミクロの世界のもので肉眼では見えませんが、ゲノムとなって発現すれば、イヌやアリという見える形になるというのも面白いことです。全体という点も指摘しておきたいと思います。全体性、生物を考える時にこれほど重要な視点はないと言ってよいでしょう。日常はいつもこれで見ています。科学がなんとなくうさん臭い眼で見られるのは、部分を切りとり、分析、還元に専念しているように見えるからだと思います。しかし、全体、全体とお題目を唱えても、科学としてそれに迫る方法論がなければしかたがありません。とりあえず分析でわかることを追おう、そこからも充分興味深いことがわかるのだからということになります。ところで、ゲノムは全体でありながら一〇〇%DNAであることがわかっているのですから分析可能です。すでに微生物では、大腸菌、枯草菌、酵母などの16種以上、それに線虫(図4_3)も全ゲノムのヌクレオチド解析が終っています。そこで、ゲノムを構成している基本原理、つまりある種の構造を探る準備が整いました。現存する最も簡単な細胞はマイコプラズマですが、これが持っている遺伝子の数が一〇〇〇個、大腸菌では四七〇〇個、ヒトでは一〇万個。遺伝子が多様化し新しいゲノムができる過程が見えてくるでしょう。事実、微生物の中でもゲノム構造の多様性があることがわかっています。ゲノムの全体像が見えてもヒトのような複雑な生物が、それでわかったということにはならないでしょうが、充分興味深いことはわかると期待できます。
共通性と多様性を結ぶ
生物の本質を知るには共通性と多様性を同時に知りたいのだけれど、その方法がないために長い間、共通性を追う学問と多様性を追う学問が独自の道を歩いてきたと言いました。ところが、ゲノムを切り口に用いれば、両者をつなげる見通しが出てきたのですから、興奮します。プラトンとアリストテレス以来の願いが叶う……やや大げさですが、そう言ってもよいと思います。では、多様性を追ってきた博物学、分類学は今、どのような状態になっているでしょう。分類学の祖リンネの書いた『自然の体系』(一七三五年)には九〇〇種ほどの生物種があります。今、私たちが手にする生物分類表には約一五〇万種が取り上げられています。二五〇年でこれだけの数の新種をみつけ同定したのですから、たいへんな成果とも言えます。しかし、研究者の好みや地域などのせいで、生物によってはほとんど研究されていないものもあります。地球上に果してどれだけの生物種があるのか。現代なら博物学はこのような問いを持って当然と思いますが、つい最近までそのような問いはなされなかったというのも生物学の歴史として興味深いことです。ここで注目すべきは、ニューヨーク自然誌博物館のアーウィンらが、パナマにあるスミソニアン野外研究施設で行なった調査です。熱帯雨林の昆虫はあまり陽のささない地面にはおらず林冠にいるので、アーウィンは一九本の樹木を選び三シーズンにわたり下から殺虫剤を次きつけ、下に置いたビニールに集まってくる昆虫を調べました(図4_4)。すると、なんと既知のものは四%しかなかった。ここから逆算すると、昆虫は全体で三〇〇〇万種いることになります。実は多様性を誇るのは昆虫で、全体の五三%を占めており、これを調べるのが全体の数に最も近くなるわけです。それまでは自分の好みで研究をしていた博物学者がなぜ今になって地球全体の様子を知ろうとし始めたのか。二つの理由があると思います。最初に述べたように、人類が宇宙に飛び出し、地球を一つの星と考えるようになったこと、一方、環境問題から、生物種がどんどん消滅しているという報告があり、今のうちに調べておかなければ消えてしまう生きものがあるという気持になったことがその理由でしょう。この概念がない間は全体を調べようという気持は起きなかったのだと思います。多様性の宝庫と言えば熱帯雨林、そこの調査が行なわれたわけです。以来多くの研究者がその重要性に気づき、東南アジアなどでも研究が進められました。カリマンタン島では昆虫類が五〇〇〇万から八○○○万種いるというデータが出ました。多様性について何も知らなかった……人間、あまり生意気なことを言ってはいけないという反省材料です。現在、多様性の研究はとても興味深い展開をしています。アーウィンの方法は、標本蒐集にはなるけれど、実際に熱帯雨林の中で生きものがどのように暮らしているのかはわかりません。林冠は低いところで四〇メートル、高いと七〇メートルもあるのでなかなか到達できません。そこで、さまざまな工夫がなされていますが、京都大学教授だった故井上民二はツリータワーとウォークウェイ(樹登り用の梯子と樹間をつなぐ橋)をみごとに設計し、マレーシア・サラワク州で生きた熱帯雨林、ダイナミックに動いている熱帯雨林を捉えることに成功しました(図4_5)。ここでは彼らの仕事を詳細に紹介する余裕がありませんが、送粉共生(おしべはほとんど昆虫が運ぶ)、種子散布共生(鳥や哺乳類が種子を運ぶ)、被食防衛共生(植物が化学防衛をしたりアリとの共生をする)、栄養共生(キノコ類と植物が共生しお互いに栄養分を与えあっている)などについてみごとな成果をあげました。それについては、井上民二著『生命の宝庫・熱帯雨林』(NHKライブラリー)を是非読んでいただきたいと思います。実はこれは人間大学のテキストとして書かれたのに、井上さんが事故で亡くなり放映されなかったものです。熱帯雨林まで行かずとも、足元の地中や海中も多様性の宝庫で、今、それぞれ研究が始まっています。生物の多様性については、まだこれから調べることがたくさんありますが、おおよその種の数はわかり、多様性が保たれている様子を知る「方法」も手に入りました。科学としては、方向が見えこれからぐんぐん成果が出るところに到達したと言ってよいと思います。一方、共通性については、地球上の全生物はDNAを基本としているということがわかったのですから、今やどちらも来るところまで来たと言ってよいでしょう。ここで、それぞれの道を極めることも必要ですが、そろそろ両者をつなげられないか。ここでゲノムの登場です。多様な生物のゲノムはどうなっているか。最も簡単なデータとしてゲノムサイズを見ます(図4_6)。予測通り、簡単な生物であるバクテリアや菌類はゲノムサイズが小さく、複雑になるほど大きくなっています。それは、地球上にその生物が登場した順番になってもいます。生物の多様化は、共通の祖先からだんだんに新しい生物が生れてきた、つまり"進化"と重なる、誰が見てもわかることです。ただ、ここで進化という言葉を使うと悩ましいことになります。ダーウィンの進化論が有名で、彼は自然選択が進化の要因だと言ったものですから、今でも多くの人が、これにこだわっています。そしてダーウィンは間違っている、私の考えが正しいと述べて、新しい進化論を提出し論争しています。、私はここで進化という現象に関心を向けますが、論を提案するつもりはありません。ダーウィンの時代はキリスト教社会の中で進化という概念自体が説(theory)だったのです。十九世紀初めに細胞説(cell theory)が出されましたが、今では生物がすべて細胞という単位から成ることは認められていますので、"説"はとれました。進化も今では事実として認められています(もちろん、キリスト教原理主義はこれを認めませんが、ローマ法皇も一九九八年にダーウィンを認める白書を出しました)。つまり、進化も論でなく、実験・研究の結果を検討する学の時になっているのです。ところで、ダーウィンの時代は、変異が起きた場合、それがある環境の中で形態的に有利であると、それが集団の中に広まって進化につながると言ったわけです(日本語では突然変異と言いますが、これが事情をよく現わしています。ある日突然変った形や色のものが現れる、という気持です。しかし今では計画的に変異を起こせます。しかも変異はDNA内ヌクレオチドの変化だということもわかっています。変異でよいでしょう)。ダーウィンの自然選択は、常識に合う見方です。しかし、変異はDNAに偶然起きるのであって、ほとんどの場合は、よくも悪くもない(中立)か、悪いかです。たまたま起きた変化が素晴らしい性質を示すなどということは滅多にありません。悪いものは消えますから、残るものの多くは中立の変異ということになります(中立変異説)。選択の前にまず偶然があります。つまり、DNAの変化、個体が誕生するか否かの選択も含めての個体の変化、集団の変化という三段階の変化があって初めて進化が起きます(表4_2)。変異は他でもないDNAに起きるのですから、それを分析して研究を進めることができます。分子進化学です。分子進化学を追っていくと、さまざまな生きものがどのようにして今の姿になってきたか、多様化してきたか、お互いの関係はどうかがはっきりします。もちろん、生物の歴史はDNAだけで追えるものではありません。個体の変化、集団の変化を追うことが大切で、形態の変化や化石情報が重要です。後で出てきますが、カンブリア紀の大爆発と言って六億年ほど前に、これでもかこれでもかと言うように形づくりをして見せた生物たちがいるのですが、そのほとんどは消えてしまったので、これは化石でしかわかりません。一方、サカナのひれと私たちの脚の関係は、形態研究とその背後にあるDNAの変化からわかってきます。幸い、ゲノムには過去のDNAの変化が蓄積されています。ですから、基本はDNAの変化に置き、当面ゲノムに残った歴史を追い、形態や化石とも関連をつけていこう、というのが生命誌の方法です。
遺伝子重複と混成
ところで、進化につながる変異はなにかを考えなければなりません。変異というと多くの方は……ATGC……と並んだヌクレオチドが一つ変化することをイメージなさるでしょう。放射線が当って・…-ATGC--:のTがCに変ってしまうとーACGC-になります。DNAは、ヌクレオチドの並びがアミノ酸を決めるので、それが変化するとタンパク質の性質が変ります。それでたとえば、ショウジョウバエの赤眼が白眼になってしまう。その程度のことは起きます。しかし、眼の色が変ってもショウジョウバエです。新しい生物の誕生には、どう考えてもDNAの量がふえる必要があります。大腸菌と同じような単細胞生物から出発してヒトまできたのですから。ゲノムを調べてみると「遺伝子重複」があります。いくつもコピーがあれば、その中のどれかが古い遺伝子の性質を保ちながら新しい遺伝子を作っていくことができます。また、「遺伝子混成」は重複した遺伝子たちがあれこれ混り合って新しい遺伝子を作ることを言います。
重複と混成の証拠として遺伝子ファミリーがあります。図4_1にあるヒストン遺伝子はその一例です。もう一例、酸素を運ぶ役割をするヘモグロビンのタンパク質部分、グロビンもファミリーを作っています(図4_7)。私たちのヘモグロビンはαとβと呼ぶ二つのタンパク質がα二本、β二本の計四本集まってできています。これらを作る遺伝子は図4_7に示すように仲間が集まってクラスターを作っています。ところで、魚類ではグロビンはタンパク質分子一つ(アミノ酸約一五〇)です。この遺伝子が重複して二つになり、一方の構造が少し変化しαとβができました。その後α2β2という形で四つ集まったヘモグロビンができました。五億年前の魚類ですでにこのヘモグロビンが使われています。こうして酸素を運ぶ効率があがってきたわけです。その後、哺乳類で、βの中からγという変りものが生じ、胎児で使われています。α2β2の方が酸素を運ぶ能力は高いのです。霊長類になった時にδ、さらに胚ではたらくεが生まれました。グロビン仲間で面白いのは、φ、偽遺伝子と呼ばれ、DNAとしての構造はグロビンとそっくりなのにまったくはたらきがありません。仲間の中であれこれ変っているうちにはたらきのないのができてしまった。失敗作です。ゲノムの面白いところは、こういうものも遺伝子と同じように残しておくところです。ここでも歴史がわかるわけです。もう一つ面白いのは、マメの中にレグヘモグロビンというグロビンとほとんど同じ構造のものがあることです。マメでは根粒菌がちっ素固定をするので酸素が邪魔。それを除くためにグロビンがはたらいています。細菌にも同じ仲間がありますのでグロビンの起源は古いものでしょう。それ以来の長い歴史が私たちの体の中にあるわけです。このようにゲノムに注目するとDNAという共通なものを踏まえながら多様性と関係性を追うことができ、将来はフィールドでの生物たちの生き方の変化(たとえば共生化)の背景にどのようなDNAの変化があるかを追えるところまで行くだろうと思います。ゲノムを調べていくと共通性と多様性の両方に眼配りしながら生きものがどのようにして生れ、またお互いにどのような関係にあるのかを見ていくことができます。つまりゲノムを単位にすると、日常、全体、多様、関係、時間、歴史など、生物にとっては重要なのに遺伝子の科学の時代には見えなかったもの、むしろ科学が意図的に消していたものが浮び上ってくるのです。もちろん、実際に進化が起きるには、こうしてできた個体が環境との関わり、とくに新しいニッチが与えられることなどが重要なことは言うまでもありません。ゲノムを単位にするとどうしても"誌"になるのは、前に述べた諸性質を記述すると数字や専門用語では語り切れないものがあり、恐らく歴史物語を語ることになると思うからです。しかも、先にあげた、多様、全体__はいずれも日常私たちが生物に対して抱いているイメージと重なるので、数字や専門用語よりも日常語の方がうまく表現できるだろうと思います。 
自己創出へ向かう歴史 / 真核細胞という都市

 

ゲノムを単位にして考えると自然界にいる生きものそのものの全体性や多様性が見え、私たちが生物を見る日常感覚と重なってきます。学問の見方が日常と重なるのはとても大事なことだ。私はそう考えています。生物の特徴は当りまえですが、"生きていること、そして子孫を作っていくこと"でしょう。ところで、生物はすべてDNAを基本にして生きているということが明らかになってから、生きていることも子孫を作ることも共にDNA(遺伝子)のはたらきで説明することになりました。DNAは二重らせん構造(図5−1)をしており、自分とまったく同じものを作る自己複製能力を持っています。でも、日常感覚から言うといつも同じものが作られるという捉え方には抵抗があります。ヒトからはヒトが生れ、イヌからはイヌが生れるという意味では同じものかもしれないけれど、一人一人、一匹一匹違うじゃないかという気持です。歴史を見る場合も複製に重点を置くとDNA(遺伝子)は生命の起源の時から今に到るまであらゆる生物の中に入り、その一部が今私の中にあるのだから、個体は遺伝子の乗り物に過ぎないという考え方になり、それにも抵抗があります。日常私たちは自分にこだわりすぎて、広い視野に欠けることがよくあります。ところが、DNA(遺伝子)に注目すると、四〇億年近い昔から続いているものが今私の中にあり、地球上の他の生きものたちともそれを共有していることになるわけですから、長い時間、広い空間の中に自分を置き、大らかになれます。この見方は大いに意味があり、私は好きです。でもここで、個体は遺伝子の乗り物にすぎないとして、生物が遺伝子に操られているかの如くに考えてしまうと、自分にとって一番大切な「私」が消えてしまい、それはやはりおかしい。DNAのおかげで手にすることができた大らかな気持をもった上で、もう一度私という存在を考えるのが最も生きものらしいと思うのです。
自己創出する生命体
ここで図5_2を見て下さい。一番下にあるのは受精卵、ここから個体が生れます。個体発生です。発生は英語で言うとdevelopment。自分の持っている能力を展開していくことです。写真の現像もdevelopmentですが、この場合フィルムに撮ってあった映像が見えるようになってくるわけです。隠れていたものが顕在化する。隠れているのは受精卵の中にあるゲノムであり、それがさまざまなはたらきをして個体を作りあげ、それが成長、更には老化し死に到るところまでの面倒をみるわけです。発生途中で、生殖細胞(精子と卵)が生じ、これは体細胞と違う道を歩みます。受精してまた新しい受精卵を作り、そこから次の個体が生れるのです。つまり生殖細胞(一倍体)は、永遠の命を持っていると言えます。これを生命の歴史の中で見直すと一倍体細胞は本来、無性生殖で死のない生命を貫いていたものだということに気づきます。個体を作っていた体細胞はある時期が来ると死に、その中に入っていたゲノムは消えるわけですが、生殖細胞に入ったゲノム(通常ゲノムはニセットあり、二倍体〈ティプロイド〉と呼ばれているが生殖細胞には一セットしかなく一倍体〈モノプロイド〉と呼ばれる)が、もう一つ別の生殖細胞のゲノムと合わさって、また新しい個体を産み出すわけです。ここで生れた個体は生殖細胞を提供した個体の子どもであり、ここで遺伝が起きます。しかも、このようにぐるぐると個体を作り続けているうちにゲノムには変化が起きますから、進化につながります。ここで気づいて下さったでしょうか。生物を語る時に最も重要とされている進化と遺伝は、「細胞内にあるゲノムのはたらきで個体を作っていく、つまり発生する」という現象の中に組みこまれます。生きものの基本は個体であり、個体をつくるからこそ遺伝も進化もあるというわけです。ここでもう一つ大事なことは、出発点となる細胞、つまり受精卵の中にあるゲノムは、いつも必ず新しい生殖細胞二つの組み合わせで産み出されるものであり、これまでそれと同じものがこの世に存在したことは決してないということです。このようにして、発生を基本にした自己創出系という見方をすると、唯一無二の存在としての私を中心に置きながら、遺伝や進化も含み、それゆえに前に述べた長い時間と広い空間もきちんと取り込んだ考え方ができます。しかも、個体の発生と系統の形成というように、生命現象を創出系という切り口で見ると、時間と空間の感覚が不可欠になります。ところで、図5_2は、一倍体細胞は本来、無性生殖をする単細胞として存在したものであり、そこでは「創出」でなく複製だったことを示しています。それと関連して性と死の問題が重要ですが、それは回を改め、まず自己創出系はどのようにして登場したかを見ていきます。
生物の歴史年表
生物界は五界に分けられます。モネラ界(バクテリア)、原生生物界(原生動物、藻類など単細胞生物)、菌界(きのこ、かび、地衣植物など)、植物界、動物界です。このうちモネラ界は原核単細胞生物であり、もちろんそれはそれとして多様な生き方を獲得し、今も生態系の中で、とくに分解者として役立ってくれています。しかしこれは多細胞化する能力は持ちませんでした。それ以外の四つの界は真核生物であり、原生生物界はそれの単細胞、その他は多細胞です。もし真核細胞が登場しなければ私たち自身も存在しませんでした。そこで私は、真核細胞の登場こそ生命の歴史の中で最大のイベントではなかったかと思っています。ここで、前述のそれぞれがこの世に登場した時を入れた生命体の歴史年表を作ってみました。生命のみごとな歴史の図解は口絵_に紹介しましたが、その中でもまたとくに重要な事柄を抜き出したものです(表5_1)。まず生命の起源、ここで自己複製系が登場しました。現存生物ではバクテリアがその子孫、これが登場するまでにも太古の海の中でさまざまな試みがあったことが知られていますが、ここではとにかくDNAを基本にした自己複製する細胞(つまりゲノム)が生れたところに注目すると、三八億年ほど前とされます。無生物系から生物が生れたのですから、たとえようもない大事件ですが、生命誌では起源そのものは扱わず、すでに生れた原核細胞のゲノムから細胞の基本的性質はなにかを追いかけることによって、起源につながっていく情報を得る方法をとります(バクテリアについては、全ゲノムの分析が次々と出始めていますので、原核細胞でのゲノムのはたらき方は近くわかってくるでしょう)。
最初に登場した原核細胞の歴史に果した役割は大きく、とくに次の二つは重要です。一つは一五億年ほど前に真核細胞を産み出したことです。もう一つは、地球環境の創成です。最初に生れた細胞は恐らく海に溶けていた養分を利用して暮らしていたと思いますが、徐々に養分も少なくなり、自分で創り出す必要が出てきました。その中で糖を分解してエネルギーを取り出し、それをATPという物質のエネルギーとして蓄える反応を工夫しました。人間も含めて、現存の生物すべてがこの方法でエネルギーを確保し、利用しているのですから、これは生きものにとって大事な工夫です。また、エネルギー源を太陽に求めるものが生れました。光合成です。最初は光合成に必要な水素がたっぷりあったので問題はなかったのですが、そのうち、水を水素源として利用するようになり、その結果廃棄物として酸素が蓄積していきました。酸素は有機物と反応して変化させるので有毒です。恐らくここでたくさんの生物が死滅していったと思います。生きるために必要な光合成を進めれば酸素は蓄積してしまう……生きるということは即ち廃棄物を出すこと、環境を変えることなのです。一部の生物が、それを乗り越え、酸素を上手に利用する生き方を獲得しました。呼吸です。生物の一つである人間が現在抱えている廃棄物問題も早く解決する必要があります。
真核細胞の登場
私は真核細胞の登場が、自己創出系へと向う生物の歴史の中で最大のイベントだったと思っています。真核細胞と原核細胞では同じ細胞と言ってもまったく違います。まず大きさ、原核細胞は数μmですが真核細胞は一〇〜一〇〇μmで体積にすると千倍以上になります。これだけ大きな細胞は、酸素の濃度が高くなければ生きていけません。一八億年前には酸素濃度は二%ほどになり、オゾン層もでき、紫外線がカットされたようです。その他の特徴は、核がありその中にゲノムが染色体という形で入っていること、ミトコンドリアや葉緑体という細胞内小器官があること、内膜が細胞内全域に存在すること、細胞骨格と呼ばれる繊維状のタンパク質が細胞内に張りめぐらされ、細胞構造を支えると同時に細胞内での物質輸送のための道路になっていることなどです。それと同じ仲間のタンパク質が染色体が二つに別れて子孫の細胞にきちんと入るようにそれを引っ張っていくという仕事もします。ゲノムについて言えば、真核細胞のゲノムの中にはスペーサーとかイントロンと呼ばれる、DNAが遺伝子として作用する時には不用な、一見無駄な部分がたくさんあるのです。原核細胞の場合、イントロンはなくゲノム内に遺伝子以外のDNAはほとんどありません。同じ細胞という名ですが、その複雑さは格段の相違です。例えるなら原核細胞は工場(この細胞はそれぞれの代謝に特徴があり、鉄やイオウを利用するものなどさまざまです)、真核細胞は都市でしょう。全体に指令を出す核、エネルギーを生産するミトコンドリア、ハイウェーの役割をする細胞骨格などなど、多くの機能をもつ器官の集まりです。人間社会の工場や都市がここから学ぶことがありそうです。こうして見てくると、こんな複雑な変化がいったいどうやって起きたのか。幸い、現存生物のゲノムに歴史が残っているので、そこから少しずつ解きほぐしていく他ありません。実は真核細胞には三個所にDNAがあります。核とミトコンドリアと葉緑体(藻類や植物)です。それぞれのDNAから同じ遺伝子を取り出して比較すると、大枠、核の遺伝子は古細菌、ミトコンドリアは酸素を利用してエネルギーを効率よく生産できる真正細菌、葉緑体は光合成細菌であるシアノバクテリアから枝別れしますので、それぞれの起源がそこにあると考えられます。実は細菌には真正細菌(大腸菌のようなバクテリアの仲間)の他に古細菌と呼ばれる仲間がいます。これは温泉のような高温の場所、塩分の濃いところ、イオウのある所など、常識では生物が棲めそうもないところにいる面白い細菌です。メタン菌もこの仲間です。今あげたような条件は、太古の地球を反映しているような気がするので、現存の細菌よりも古いというイメージで命名されましたが、今ではそうではないことがわかっています(図5_4)。どうも、私たちの体を作る細胞の元は、この古細菌らしいのです。ただ、大きさが合いませんし、内部構造の複雑さも説明しようとすると、いくつかの細胞が融合して大きくなった細胞を真核細胞の起源と想定するのがよさそうです。そのうちの細胞のあるものは、アクチンや微小管タンパク質など、細胞骨格その他に必要な遺伝子、あるものは染色体づくりに必要なヒストンなどのタンパク質の遺伝子というように、さまざまな遺伝子が持ち込まれたと思います。マルギュリスは、スピロヘータが運動性のあるタンパク質を持ち込んだという仮説を立てています。仮説ですが、ちょっと興味深いところがあります。というのもスピロヘータの構造と真核細胞内の細胞骨格や中心体、精子の尾などに構造上の共通性があるからです。このような大型細胞の中に、ミトコンドリアや葉緑体が共生したとして大雑把に真核細胞のでき方がわかりましたが、ここから三五億年前から一五億年前という大昔の海の様子を思い浮べてみましょう。もし地球外から見たら、地球には生物は何もいないように見えたでしょう。しかし海の中ではさまざまな細胞が懸命に生きていた。しかも、それぞれ特有の代謝能力を持つ工夫が大いになされていたのです。なかでも光合成能力は最も強力なもので、大気環境まで変えました。そこで増えてきた酸素を巧みに利用してエネルギーを効率よく生産する能力を得た細胞があり、これまたもう一つ強力な仲間となったわけです(理論的には嫌気状態で発酵によってATPを作っている場合の一八倍の効率)。この強力部隊のうち後者だけを共生させたのが動物細胞、両方を共生させた素晴らしい細胞が植物細胞へとつながっていくわけです。つまり真核細胞は、細胞の融合と共生とででき上ったと考えられます。最近環境問題などで生物間での共生が話題になりますが、私たちの身体をつくる細胞ができ上る時に、すでに共生が重要な役割を果していることに注目して下さい。
藻の世界から見えた太古
現存の真核細胞で単細胞のまま存在しているのが藻類と原生生物です。私たちは、ここに真核細胞誕生の様子を解く鍵があるだろうと考え、藻を調べました。すると面白いことに、細胞同士が食べて、食べて……のくり返しで現存の多様な藻ができ上ってきたこと、しかもこの世界では現在も、食べて、食べて……が行なわれていることがわかってきました。
藻は、水中で生活し光合成する生物の総称です。コンブ、ノリやミドリムシなど。なじみのものがたくさんあります。まず緑藻のミトコンドリアの遺伝子(COX1という部分)を分析したところ、図5_5のような系統樹が描けました。単細胞、多細胞、群体性などによってきれいに別れ、しかも、陸上植物は緑藻が複雑な体制を作り出す以前の単細胞藻類時代にすでに独自の道を歩いて行ったらしいという興味深いこともわかりました。ここでちょっと眼を引くのがミドリムシです。名前が示すように、動きまわるのに光合成をするので、植物学者は植物(ミドリムシ藻)とし、動物学者は原生動物のミドリムシとしています。DNAの分析から、細胞としては、原生動物とわかりました。ところで、ミドリムシの葉緑体を見ると、他の緑藻や植物のそれが二重膜なのに、三重膜に包まれています。そこで、葉緑体の遺伝子を調べたら、これは緑藻と同じ。真核細胞になってから、緑藻をパタリと食べたのではないかと考えられます。食べられた藻の核やミトコンドリアは退化し、葉緑体が残った。このままなら四重膜のはずですが、二枚が融合したのでしょう(図5_6)。系統樹で、ミドリムシの近縁にトリパノゾーマという眠り病を起す怖い寄生虫がいるのが気になります。他の藻では、近縁にマラリヤ原虫が近くにおり、これは藻の中で葉緑体が退化したものとわかりました。マラリア原虫には葉緑体DNAの名残りがあり、これを活用してマラリア用の薬の開発が計画されています。DNAから藻と寄生虫という意外なつながりが見えてきました。
どうしても眼に見える生物に注目するため、三八億年前から一五億年前までの二〇億年以上という長い期間を無視してきました。単細胞では化石もほとんど残りませんし。けれども、ゲノムに残された歴史を読むと、当時の生物たちが食べたり食べられたり、その結果共生して新しい能力を次々と獲得しながら懸命に生きていた過程が見えてきます。しかも面白いことに、今もそれと同じことが地球のあちこちで起きている。もちろん今は、安定した生態系ができ上り、大型生物もたくさんいますから、太古の海のようにそこから新しい生物が生れてくる可能性はないでしょう。しかし、もし、人間がバカなことをしたり、未曾有の天変地異などで地上から大きな生物が消えるようなことがあったら、海の中の小さな細胞からもう一度やり直して新しい生物が生れてくるだろう。こんなことも考えさせてくれます。
さて、このようにして生れたわれわれの祖先はその後多細胞化し、多種多様な形や暮らし方をする生きものになります。分裂した細胞が離れずに一つにまとまるには、細胞同士の接着が必要ですし、ただくっつくだけでなく細胞間コミュニケーションが大事です。これは興味深いテーマです。粘菌は条件によって単細胞で生きたり多細胞化したりする興味深い生物で、ここに細胞がどのように集まりお互いに対話し分化していくかの基本がありそうです。粘菌のゲノム分析も始まり、多細胞化の謎解きが行なわれています。しかも、ここに個体という概念が生れますから、それに伴って、性や死などという単細胞の時には問題にならなかった現象が登場します。これは次回で扱います。多様化で興味深いのはカンブリア紀の大爆発(図5_7)、六億年ほど前にこれでもかというように多様な形態の試みがありながらそのほとんどは絶滅してしまったことがわかっています。化石に残る五つ眼の生きもの、背腹の区別もっかないふしぎな生きものなど、今生きていたらさぞ面白かろうというものばかりです。なぜここで爆発があったのか。これも知りたいことです。次の大きなできごとは、陸上進出。水が不可欠の存在が水と離れて暮らす決断をする(生物の話はつい擬人化してしまうのが困ったことです)のは大変なことだったでしょう。その間に起きたことで、人間である私たちがどうしても関心を持つのは脳の生成と発達です。そして人類誕生。もう一度ここで口絵_を見直して下さい。この話を順を追ってゲノムから読みとる歴史として語るにはまだデータ不足です。しかし、このような大きな流れを意識して研究成果を見ると、部分だけでなく全体が見え、何を知りたいかがわかってきます。自己創出系の基本は真核細胞の中にすべて入っているという視点からここに重点を置いて話してきました。細胞は生命の単位でもあり、ここに注目すると生きる基本が見えることに気づいていただきたかったのです。最後に、自己創出などと言うけれど、日常自己という時は、こんな生物的なものを考えているのではないと言われそうです。その通りです。けれども、二〇億年以上かけて、とにかくゲノムとして唯一無二のものを作る系ができ上り、それができたからこそヒトも生れてきたという事実は、「私」を考える時の基本になると思います。 
生・性・死

 

ここでもう一度図5_2に戻ります。生命誌では生きることの基本を一つの個体が生れて一生を送り、死んでいく過程に置きます。DNAが研究の中心に置かれるようになってから、DNA=遺伝子、生きることの基本は遺伝と考えられている節があります。個体は遺伝子の乗り物であるという言葉はその代表です。しかし、そうではないでしょう。やはり、生きものの基本は個体。個体が生きることをくり返す中に、子孫が続いていくという巧みなシステムがあるわけです。もちろんこれは視点の違いにすぎません。鎖の輪は鎖のためにあるとも、輪が一つ一つあるからこそ鎖があるのだとも言えるわけですから。両方の見方をしなければ実態は見えません。ただ、自己複製でなく自己創出だと考えると自ずと個体に眼が向きますし、この方が生物らしさを見ることになると思います。
二倍体細胞の出現
真核細胞の出現こそ生命の歴史の中で最大のイベントだと言ってきましたが、それは少し言葉足らずでした。最初にできた真核細胞は、一倍体細胞と言ってゲノムを一セットしか持っていません。生きていくにはこれで充分です。現存する生物では、酵母などの菌類、クラミドモナスなどの藻類、アメーバなどの原生生物がこれで、どれも単細胞です。アサクサノリ(褐藻)は、やはり一倍体細胞で細胞がたくさん集まってはいますが、私たち多細胞生物と違って、集まった細胞の間ではお互いにやりとりがありません。栄養分すらそれぞれ独立にまかなっています。どうもこの仲間はこれ以上の進展はできなかったようです(図6_1)。ところで、一倍体の真核細胞は「接合」して一体化する能力を持っています(前回でも述べましたが、生殖細胞である精子と卵は一倍体で、これが接合し受精卵になるのです)。こうしてできるのが二倍体細胞、つまり、一つの細胞の中にゲノムを二セット持っている細胞です。私たちの体は、この細胞でできています。二倍体細胞になると、細胞間に連結構造ができ、。お互いに物質や情報のやりとりをするようになりました。そうしている間に、それぞれの細胞が少しずつ役割分担をしていくようにもなっていったのです。今私たちが日常眼にしているほとんどの生きもの、多細胞生物はこうして生れたものです。ここで細胞としての進化は終ったように思います。原核細胞から真核細胞への変化の時、細胞と細胞が融合したり、細胞が細胞を食べるなどして、複雑な構造を作っていきました。しかし、この細胞はお互いに対話をして多細胞化はできなかった。そこで二つの細胞が融合(この場合、専門用語としては接合という言葉を使います)して、二倍体細胞を作ったところ、これが細胞間の対話をみごとにやってのける存在となり、多細胞化をしたのです。こうして生じた二倍体細胞は、それぞれが個性を持ちながら、決して勝手なことをせずに必ず話し合いをします(因みに、この種の話し合いがうまくできなくなった二倍体細胞としてがん細胞があり、このような細胞は自分の生命を失うのでなく、個体、つまり多細胞として存在する他の細胞たちを死に到らしめる恐ろしい存在です)。そしてもはや二倍体細胞は融合はしない。体の中で細胞同士が融合などしたら困ります。細胞として確立した存在。これが二倍体細胞です。ゲノムプロジェクトが進み、今、原核細胞のバクテリア、真核単細胞、つまり一倍体細胞の酵母、二倍体細胞で多細胞を作っている線虫のゲノムのヌクレオチド配列がすべて解読されました。この三つがそれぞれゲノムとしてどのような共通性と違いとを持っているか、解明されるのが楽しみです。
性と死
こうして、同じ細胞でも原核細胞、一倍体細胞、二倍体細胞(この変形として三倍体などの倍数体もある)の三種類あることがわかりました。ところで、ここで興味深い現象がみられます。細胞はどれも分裂してふえていきますが、原核細胞、一倍体細胞はほぼ無限にふえる能力を持っているのに、二倍体細胞は、ある回数ふえると死んでしまうということです。バクテリアや酵母菌には、本質的には死がなかったのに、ここで死という概念が登場します。
そこで二倍体細胞では、有性生殖という方法___つまり、一度一倍体細胞になり、その接合でもう一度新しい二倍体細胞として甦るという方法が工夫されました。性の様相が比較的簡単な生物で見られる例としては、ボルボックス(オオヒゲマワリ)があります。これは、単細胞の藻であるクラミドモナスが集まった集合体ですが、環境条件が悪くなると、その中の一部が生殖細胞化し、そこから新しい個体が生れるのです。このような形が、体系化されたのが、現在の多細胞生物の有性生殖の始まりであり、原理的には今も変っていません。つまり、生あるところに必ず死があるという常識は、私たちが二倍体細胞からできた多細胞だからです。本来、生には死は伴っていなかった。性との組み合わせで登場したのが死なのです。逆の言い方をするなら死をもつ二倍体細胞がなんとかして続いて行こうとして工夫したのが性だと言ってもよいかもしれません。有性生殖は、無性生殖と比べて相手を必要とするだけ不便です。しかし、二倍体細胞の死を救うためにはそれが必要だったので面倒をいとってはいられなかったのでしょう。すると、ここでどうしてもなぜ死を伴う二倍体という選択がなされたのかと聞きたくなります。この辺りは、なぜ二倍体細胞は死ぬのかという問いへの答がないので正確な答はわかりません。ただはっきりしていることは、私たち人間を含めて、地球上の生物の多くは、二倍体細胞の多細胞生物として存在し、有性生殖をし、その結果、細胞の死だけでなく個体の死を存在させるような生き方をしているという事実です。そしてこうまでして得たかったものはなにかと言えば多様化ではないか、そう思います。
死という面から見た生物
一倍体細胞には死がないと言いましたが、それは逆に言うといつも増殖を続けていなければならないということで、これもなかなかたいへんです。周囲に栄養分がなくなったり条件が悪くなれば生きていけません。本質的な死はないけれど、結局殺されることになります。常に増殖し続けることなどできませんから。そこで、栄養状態が悪くなった時、二倍体状態になって胞子になるなど休止状態に入る例がアメーバなどで見られます。しかも、二倍体になれば、一方のゲノムのどこかに損傷が起きてももう一方のDNAがはたらいているので細胞全体としては機能を失わずにいられます。細胞として安定というわけです。二倍体自体の利点といえば、この安定性です。こうして、二倍体多細胞生物が生れてくるわけですが、多細胞生物では、それを構成している細胞のはたらきが、死という面から見て三種類に分れます。まずは、生殖細胞と体細胞。この二つは役割がまったく異なります。体細胞は、一つの個体を創りあげ、それの一生の間をはたらくものですが、生殖細胞は次の世代へとつながります。卵と精子が一体となって新しい個体を始めるわけで、この系列をたどれば、いわゆる死は存在しません。今あなたを構成している体細胞の元は受精卵、つまり両親の卵と精子の合体によって生れたものですから、あなたという存在として生殖細胞は生き続けたことになります。また、あなたの生殖細胞も次の世代の個体へとつながる……前に、一倍体細胞には死はないが、時々二倍体細胞になって休止をすると言いましたが、その眼で見れば、一つ一つの個体は細胞のお休みの時とも見えるわけです。体細胞の中にも死という面からみると少し違った性質の細胞が混じっています。増殖のできる細胞と増殖できず自分の役割を果したら死ぬものとです。前者を幹細胞と言い、個体が続いている間分裂をして新しい体細胞を供給します。幹細胞とそこから生れて分化する細胞になるものとの違いをDNAレベルで見る研究も行なわれています。このように、生殖細胞、体細胞(幹細胞と完全分化細胞)の三種類の細胞が混在して個体としての生命、更には次世代に続く種としての生命を維持しているのが多細胞生物です。分化した細胞、たとえば、表皮細胞、血液中の赤血球細胞などは一〇〇日程度で死んでいくことで、体全体の生命を維持していくのです。生と死の混在です。
生を支える積極的な死
体細胞が、体を作りあげたり、それを維持していく中で、細胞の死が重要な役割を果している場面がたくさんあるということがわかりましたが、それ以上に、積極的な死とでも呼ぶべき現象があります。アポトーシスと呼ばれるこの現象は、細胞のゲノムに必要な時に死ぬようにという指令が予め書き込まれており、それに従って細胞が整然と死ぬという現象です。これの役割には二つあります。一つは、その時点で生体にとって不要である細胞を除くことで全体の制御に役立ちます。例をあげると、発生の時の形づくりがあります。実験例として、チョウの翅の形成の時に起きるアポトーシスを紹介します。サナギの中で作られる際チョウの翅は、最初からでき上りの形になっているわけではありません。大雑把な形が作られ、その後、外側の不要の細胞は死にます。ところでチョウの翅は、りん粉で覆われていることはよく知られています。電子顕微鏡で(図6_2)、ソケットと呼ばれるサヤに刺さってきれいに並んだりん粉が見えます。この一つ一つが細胞です。チョウの場合りん粉に色がついていますから、一つ一つの細胞を区別して、その運命を追うことができます。この利点を生かして、翅のでき方の研究をする中で、形づくりにおけるアポトーシスの役割が見えてきました。アゲハチョウの尾状突起の部分などみごとに翅の形が切りとられていきます。ヨモギトリバというボロボロのうちわのような翅(かわいそうなことを言うようですが、まさにその通りなので)をもつ蛾(図6_3)の場合もやはりアポトーシスでこの形をつくっていくことがわかりました。これは、もちろん私たちの体の形づくりでも使われている方法です。神経系ができ上る時も同じです。たとえば運動神経が伸びて体の各所の筋肉細胞と接続する必要がありますが、体中で大量の接続を作らなければならず大変です。その場合特定数の神経を伸ばすのではなく過剰に送り出します。その中で無事相手の細胞と接続を形成できたものは生き残り、うまくつながらなかったものは死んで消えていく。これは脳内の神経細胞の結合でも行なわれます。うまくつながらずに脳細胞の八五%を失うところさえあるなどというデータを見ると寒気がしますが、でき上ったもので一生を暮らすのに充分な量ができるようになっています。一見いい加減な方法に見えますが、考えてみればこれほど確実な方法はありません。重要な系だからこそこのような方法がとられるのでしょう。神経系だけではありません。内分泌系でも免疫系でも不要のものは、自らが死ぬという形で全体をうまく機能させます。つまり、細胞は体を維持するために生き続け、時には分裂するわけですが、その中に上手に細胞死を組み込んでいるのです。
アポトーシスのもう一つの役割は、本来自分の細胞であるのに、異常をきたして他の細胞、ひいては個体に害になるような細胞を除去することです。免疫系は、外来の異物に対処するシステムですが、最初につくられる免疫細胞には、自己の細胞に反応するものも含まれています。これを除去しておかないと、自己免疫疾患になってしまいます。ここでもアポトーシスが役割を果します。もう一つ、自己の細胞でありながら、自己破壊的に変化した細胞、つまり腫瘍細胞も除去されます。腫瘍化して増殖しようとする細胞の力とアポトーシスという死滅の方向へのはたらきとが闘うわけですが、ここで興味深いのは、細胞自体にとっては生きる方向である増殖が個体にとっては死への方向であり、細胞の死が個体の生の方向だということです。日常感覚では、生と死は対立するものであり、生はよいもの死は悪いものと位置づけられるわけですが、このように細胞のレベルで見ていくと、それほど単純ではないようです。むしろ、生のための死もあり、生と死は入れ子になって生きることを支えていると捉えたほうがよさそうです。ところで、通常アポトーシスと言われている現象の中でも、一度分化した後、それ以上再生能力を持たない心臓細胞や神経細胞が老化し、それが不要細胞として取り除かれる場合が見られ、ここでは細胞としての再生がありません。つまり、これまで述べてきた、生のための死というより、まさに個体の死につながっていく細胞死と見えます。田沼精一はこれを、アポビオーシス(生から離れること)と名づけ、生を支えるアポトーシスと区別しています。ここでは個体の死ですら積極的に行なわれていると見えます。生物全体からみると個体を除くことも重要ということでしょうか。今後それぞれの死の機構が解明されていくと、全体像が見えてくるでしょう。
C・エレガンスという生物
このようなテーマを考えるのに最適の生物が図4_3に示した線虫の一つ、体長数ミリで体中が透明なC・エレガンスです。この生物は、受精卵から出発して、体中の細胞すべて----と言っても約一〇〇〇個がどのようにしてでき上っていくかが調べあげられています。図に見られるように、下皮、神経系、筋肉、生殖細胞などが、どのようにできていくか、まったく個体差なしに細胞分裂パターンができ上っていきます。そして興味深いことに、その中の特定の一三一個の細胞が特定の時に死にます。アポトーシスです。線虫の細胞はいずれも分化した後は役割が明確で増殖能力を持たず、三週間ほどの寿命しかないので、成体を作っている全細胞が死に向う様子を追うこともできます。線虫については、全ゲノムの解析ができました(多細胞では初めて)ので、細胞死、更には個体死という全体を見ていく一つのモデルとして興味深い対象です。
細胞の寿命
分化して、分裂能力を失った細胞の寿命に関して、線虫の興味深い変異体があります。本来、二〇日ほどの寿命なのに、その変異体は一ヶ月は生きる。細胞分裂の速度、発生過程が遅いので、代謝速度が下っているのかもしれませんが、変異を起した遺伝子はわかっています。また、成虫になれずに幼虫のままで一ヶ月ほど生きる変異体もあります。こちらは、老化の原因の一つとされている活性酸素を分解する酵素(スーパーオキシドディスムターゼやカタラーゼ)の活性が高いのですが、成虫になることを止めているメカニズムは解けていません。哺乳類でも活性酸素は問題になっており、ここにあげた酵素の活性は加齢とともに低下するとされていますので、これらは細胞の寿命、ひいては個体の寿命に関連しているかもしれません。一方、再生能力のある系での寿命では、分裂回数での有限性が問題になります。すでに四〇年ほど前にL・ヘイフリックがヒトの皮膚細胞を培養し、五〇〜六〇回以上は分裂しないことを示しました。年齢の違う人の細胞を使うと若い人の細胞の方が分裂回数が多く、遺伝性早老症の人の細胞は一〇〜三〇回しか分裂しないこと、培養の途中で細胞を凍らして数ヶ月おいた後、また培養すると、合計で五〇〜六〇回分裂することなどから、細胞には寿命があるということになったのです。更に興味深いのは、皮膚の細胞を培養した時の分裂回数と、その動物の寿命とに関連が見られるということです(図6_4)。最近、染色体の両端にテロメアと呼ばれる部分があり、それが細胞の寿命に関係していることがわかってきました。テロメアは、Gが多い六塩基配列(たとえばヒトなどの哺乳類ではTTAGGG、ゾウリムシではTTGGGG)がくり返しているDNAとタンパク質とから成る構造です。このくり返しは数百回から数千回にも及びます(図6_5)。大腸菌など原核細胞のゲノムはDNAが環状で安定です。ところが、ゲノムが染色体構造をとっている生物では、DNAは直線状になっているので、細胞分裂の度、つまり複製をする度に端が全部写せない危険があります(編み物を思い出すでしょう。輪で編んでいけば、同じ日数で続けていけますが、直線で往復編みをしているとうっかり端を落とします)。そこで両端のテロメア構造が、この部分が、分裂の度に短くなる。一回の分裂でくり返し分二〇個分くらい減ってしまうようです。DNAを複製する酵素(DNAポリメラーゼ)は、下手な編み手らしいのです。そこで、テロメラーゼという、この部分を修復する酵素が登場するのですが、体細胞ではこの活性がほとんどみられず、がん細胞には高いことがわかりました。テロメラーゼをつくる遺伝子は、体細胞に分化するとこの活性を抑えるメカニズムがはたらき、がん化でその抑制がはずれると考えると、この現象は理解できます。テロメラーゼ活性をコントロールすればがん細胞を抑えたり、老化を防げたりするのか……、ふとここで古来の願望であった不老不死などという言葉が頭をよぎりますが、おそらく生命のしくみはそれほど単純なものではないでしょう。詳細に調べがつくと、なるほどこのようにして生と死があるのかということを納得することになるのだろうな。長い間、生物研究とつき合ってきた感覚はそう言っています。
性はなぜあるか / 唯一無二の個体
すでに述べたように、二倍体細胞はどうしても若返させなければならず、そこで性が工夫されたのですが、性には、思いがけぬ効用がありました。実は、有性生殖をする時にはその過程で、ゲノムがふえ、それが新しい細胞に分配される過程があるわけですが、その時に行なわれる減数分裂と呼ばれるメカニズムの中に、ゲノムのセットを混ぜ合わせるという作業が入っているのです。こうして、新しく生れた個体は、多様化します。減数分裂と聞いただけで顔をしかめる方があるでしょう。生物学の時間に悩まされたメカニズムです。言葉で説明するより図を見た方がわかりやすいので、図6_6を眺めて下さい。多様化は、生物にとって非常に重要で、大きく三つの意味を持っています(表6_1)。一つは、とにかくさまざまな試みをすることで新しいものを産み出していく可能性を持つこと、この多様化がなければ、私たち人間が生れてくることもなかったでしょう。もう一つは、さまざまな環境変化への対応です。均一化していると、適応しにくい環境が到来した時に消える危険性があります。どれかが生きのびるよう多様化しているのが安全です。更に具体的に、有害なものを捨てていくという考え方も出されています。ゲノムに起きる変化の中には、有害なものが少なくありません。無性生殖では、この変化がすべて子孫に受け継がれますので、図6_7のように有害な変化がそのまま残り蓄積してしまいます。一方有性生殖では、有害な変化をもたない方のDNAをもつ子孫がふえていきますし、DNA組換えによってこの変化を持たない生殖細胞ができ、そこから生れた個体は、その有害性からは自由になれます。このように多様化という視点は重要です。しかし、とくに人間に眼を向けた時、それ以上に興味深いのは、単なる多様化ではなく、実は有性生殖で生じる個体は、それまでにないまったく新しい組み合わせのゲノムを持つということではないでしょうか。実は、一倍体細胞までの段階では「個」の概念は持てません。その中でのゲノムのありよう、また細胞の存続のしようは、DNAとして存続すればそれでよいという形になっています。しかし、有性生殖ででき上った受精卵から誕生するのは、まさに個体であり、しかもそれは発生の過程まで含めるなら、他には。類例のない、まさに唯一無二の存在となります。自己創出系です。このようにして、生、性、死というテーマがお互いに絡み合ってこそ、生きているという現象が存在することがわかりました。生きていること、まさにプロセス(過程)です。ここで私たちが日常考える死に眼を移します。たとえば、最近は、臓器移植のための臓器提供者が必要となったことから、脳死の判定がなされた場合、生前に臓器提供の意志が表明してあり、しかも家族も同意した場合には、その段階で臓器が摘出できるということが法律で定められました。そこで議論になったのが、脳死は人間の死であるかということです。臓器移植のためには、そこで法的な死の決定が必要であることはもちろんです。しかし一方で、生命を失うということは、これまで述べてきたような過程の一つなのです。一瞬で決められるものではない。したがって法律的にどこで死とするかという約束事と、一つの個体の死がいかなるものであるかということとは別と考えるほかないように思います。脳死であっても心臓死であっても、身近な人の死を瞬間のものと受け止めることは、ほとんど不可能でしょう。ここで述べたような生きものとしてのヒトが持っている生、性、死に関する歴史を踏まえ、まずプロセスとしての死という認識を体の奥に入れたうえで、約束事としての死と判断をする以外に脳死を認める道はないと思います。「脳死は人の死か」という問いをしてしまうと、議論はあやまります。「心臓死は人の死か」と問われたら、「そうだ」とは言い切れない。身内の亡くなる時のことを考えればわかります。ただ、長い間の体験で、現代社会の約束事としては心臓停止の時を死亡時刻とするということを多くの人が認めているというだけのことでしょう。臓器移植、とくに心臓移植という行為がなければ、今脳死について考える必要はないわけです。もし、それを医療行為として認めるのなら、脳機能停止の時を死亡時刻とする場合もあることと、プロセスとしての死という認識とが、自分の中でうまく噛み合ってくれるかを検討することです。そのような経過でしか先は見えてこないと思います。 
オサムシの来た道

 

図5_2で述べたような形で生きものを見ていく生命誌の研究は、主として個体発生と系統発生(遺伝・進化)を追うことになります。そこで、以下研究例をあげながら物語の一部を語ります。最初は系統発生、多様化を誇る昆虫の一つであるオサムシに登場してもらい、彼らが歩んできた道を聞きます。オサムシは、体長一〜五センチの甲虫の一種、世界に約七〇〇種います。主としてアジアからヨーロッパにかけて分布し、とくにヨーロッパの種は美しいので、「歩く宝石」とも呼ばれています(日本の種は黒っぽいものが多く残念)。歩くという形容詞が示すように、後翅が退化していて飛ばないのが特徴です。日本には、五五種ほどいますが、そのほとんどを手に入れ、お互いの関係を調べました。
分子系統樹
DNAの特定部分(実際に使ったのはミトコンドリアのND5と呼ばれる遺伝子。形には直接関係がなく、比較的変化の速度が大きく、種内での変化のように数千万年程度の時間を追うのに適している)を抽出し、その塩基配列を比較しました。すると、それぞれの種が共通の祖先から分れて、現在に到るまでの間にそれぞれの種で蓄積した塩基の変化がわかり(図7_1)、変化数が大きいほど分れた時期が古いと言えます。この簡単な原理を用いてそれぞれの種の関係を書いたものが分子系統樹です(ここではオサムシという一つの種内での変化ですが、もちろんこれは生物全体の系統樹づくりに使えます)。塩基分析という客観性の高いデータから系統がわかり、しかも、塩基の変化速度を仮定すれば、実際に系統が分れた時期がわかるのがこの方法の利点です。
オサムシの分子系統樹が示す進化の姿
図7_2が日本のオサムシの分子系統樹です。ここに書いた名前はすでに形態(最初は体全体の形、その後交尾器の形が用いられた)によって分類、命名されたものです。ここでわかるのは、大雑把に見れば、DNAを用いた分類と形での分類は一致するということです。しかし、思いがけない違いも見られるので、それを探りながらオサムシの進化を追います。
進化は徐々には起らない
オオオサムシに注目すると、近畿地域、西日本地域、東日本地域の三域に大きく分れます(図7_3)。このように一度に分れるのを一斉放散と言います。その後、それぞれの中で、また小型の一斉放散が見られる。その結果祖先型に近いヤコンオサムシ、新しく現れたオオオサムシ、アオオサムシ、ヒメオサムシなどが、それぞれの地域に登場します。たとえば、西日本で見ると、高知県と長崎県の両方でヒメオサとオオオサが並んで現れています。実はここに見られるヒメオサとオオオサは両方共DNAで見れば同じ仲間なのです。けれども形はヒメとオオと名づけられているように明らかに違い、高知と長崎のオオオサムシ同士、ヒメオサムシ同士が仲間に見えます。ですから、形での分類はそうされてきたのです。なぜこのように、DNAは同じなのに形が違ってくるのか、一方、DNAが違うのに形がまったく同じものが違う場所に現れるのか。つまり、DNAで調べると、形が似ていても近い仲間とは言えないこともあり、形は違うのに仲間だったりするわけです。
ここで、こんな仮説が立てられます。このムシのDNA(ゲノム)が取り得る形はほぼ決まっている(生きものが取り得る形をきめるボディ・プランがあるという考え方は、次回の形つくりのところで述べます)。たとえば今、大きく三種類の形がとれるとします。そして、三種類の中のどの形を取るかを決める鍵になる遺伝子があり、そこがA型の方向にはたらくとA、B型の方にはたらくとBという形ができ上るとします。長崎と高知にいたオオオサムシの仲間はどちらも、オオオサ型にもなれるし、ヒメオサ型にもなれる能力を秘めているわけで、そこでヒメオサ行きの方向を決めるように遺伝子がはたらく(このような役割をする遺伝子を調節遺伝子と言います)とヒメオサに、オオオサ行きへと方向が決められればオオオサになるわけです。時にはスイッチのはたらきが悪くてうまい形がとれず絶える仲間もいるかもしれません。このように違う場所で、まったく同じような進化が見られるという例は、これまでにも報告されており、平行進化と呼ばれています。ここでのヒメオサとオオオサも平行進化です。その背景では調節型の遺伝子がはたらいているに違いないと思うので、このようなはたらきを、オサムシ研究を中心になって進めた大沢省三が、「タイプ・スイッチング(スイッチを入れて型を変える)」と名付けました(図7_4)。実際にスイッチの役割をする遺伝子がまだわからないのでこれは仮説ですので実証が必要です。このような眼で、オサムシ全体の系統樹を見直してみます(図7−2)と、四〇〇〇万年前にオサムシが一斉放散したことがまず分ります。昆虫全体の進化と合わせると、二、三億年前に登場した昆虫の中のゴミムシの仲間から出たオサムシの祖先がこの頃爆発的に生れたと思われます。オサムシの故郷はチベットあたりと考えられていますが、四〇〇〇万年前というと、ちょうどヒマラヤ山脈が造られていた頃。ダイナミックな地殻の変動と時を同じくした登場です。そして、一五〇〇万年前頃に、それぞれの亜種の中で、またまた一斉放散が起きています。その中で、とくにオオオサムシでは、平行進化も見られたわけです。これを、平行放散進化と大沢は名づけています。これまで進化というと小さな変異が積み重なって連続的に変化すると考えられてきました。また同じ仲間が暮らす場所が変ることによって違ってくる、異所的分化に眼が向けられてきました。しかし、オサムシという小さなムシの全体像を見てみると、そうではないらしいのです。おそらくこれはこのムシに限ったことではなく、生物に見られる進化の基本的な姿だろうと思います。進化の基本はDNAの変化です。小さなDNAの変化は常に、連続的に蓄積しているでしょう。しかしそれがすでに形の変化になって表に現れ、自然選択にかかるというようなことはそうしばしばあるものではありません。環境が大きく変化する、ニッチが変るなどがあった時、蓄積されたものが一斉に現れ試される(大きな例がカンブリア紀です)。そのような不連続の変化が目立ちます。もちろん徐々の変化もあるでしょうが。それともう一つ、平行進化に見られるように進化は何でもありではなく、ゲノムの側にこれができるというポテンシャルがあり、それが具体化されていくものだということです。
少々面倒な言葉が並びました。けれども、素直に考えてみると、なるほど、生きものってそうなってるだろうなと思わせる性質です。地球上の多様性の六〇%近くを引き受けている昆虫も基本型は、頭、胸、腹の三部分に別れていて、六本の脚があり頭に触角。これは変りません。この形づくりの基本の遺伝子は、昆虫の祖先が誕生した時にすべて整っていたのでしょう。これが、ゲノムの持つポテンシャルです。もちろん、DNAは変化しますから、ゲノムも変っていきますが、全体として昆虫の形を崩すようなものではありません。つまり、形としての全体性を壊すことはないわけです。それが機会を待っている。環境条件がよくなればあれもこれもやってみるわけです。オサムシの場合も、西でも東でもヤコンやらヒメやらアオやら、どれもこれも現れて生き続けてきているのは、これまでそれだけのムシたちが生きられる環境が日本にあったからでしょう。進化は、まず生物の側の変化していく力があれこれの可能性を試みる(変化はまずDNAに起きますが、それが直接進化につながるのではなく表現型としての試みが必要です)、そしてその結果生じた個体が環境の中で試されるという組み合わせであり、従って大きな変化は環境の大きな変化のある時に一斉に起きるというあたりまえのことが見えてきました。そしてあたりまえと思えるからこそ、恐らく自然の一部である生きものはこうやって生きているのだろうなと思います。
他の生物に見る平行進化の例
生きものはこうだろうなという思いは、平行進化という現象が、他の生物でもすでにいくつか報告されているのを知って、更に強くなりました。一例が南米のドクチョウで見られます。アンデス山脈を挟んだ一帯は、氷河時代の激しい気候変動で、飛び地がたくさんできたのですが、それぞれの飛び地に、まったく同じ紋様のチョウが見られるのです。それぞれ独立に進化したとしか考えられないのに、なぜこのようなことが起きるのかふしぎに思われてきました。一九九四年にオサムシと同じようにミトコンドリアDNAの分析をした結果、形態(紋様)では同じと分類されていてもDNAの系統樹では離れていることがわかり、平行進化と考えられたのです。ヒメオサとオオオサの場合と同じ説明ができます。もう一つ、大変興味深い例が、アフリカの湖にいるカワスズメ(サカナ)で見られます。アフリカ大陸を大きく東西に引き裂く大地溝帯にできた湖であるタンガニーカ湖は、世界最古と言われます(二〇〇万年)。そこには約二〇〇種のカワスズメがいますが、DNA解析によってこれらは皆、湖の誕生時にいた数種の祖先から生じたものとわかりました。一方、その南東にあるはるかに若い湖、マラウィ湖(七〇万年)にも多様なカワスズメが生存しており、その種類はタンガニーカ湖をはるかに上回る五〇〇種ほどです。ところがこの湖のサカナたちは、一系統に属し、どうもこの湖ができた時にタンガニーカ湖から移ってきた一種から始まったのではないかと思われます。多様化はこの湖の中で起きたもので、タンガニ:カ湖とは独立の歴史を歩んだことになります。ところで、この二つの湖のサカナたちを、形や紋様で分類し比較すると両者がピタリ。マラウィ湖ではたった七〇万年(進化の時計で測ると非常に短い時間です)の間に、一種からこれほど多様化し、しかもタンガニーカ湖のものと同じパターンを示したのです。少し時間をずらして。平行進化が起きているわけです。これを解釈しようとしたら、前にオサムシで述べた、ゲノムの中にある種のパターンがあり、ニッチを得られればそれをすべて試みてみるという考え方そのままではないでしょうか。カワスズメは、繁殖、摂食、子育てなど行動に特徴があり観察研究がなされていますので、これから興味深いことがわかってくると思います。生命誌研究館でも水槽で飼って、子育てなど楽しく観察しました。、平行放散進化と考えられる例は、まだまだたくさんありますが、ここではこの程度にしておきます。
マイマイカブリが語る日本列島形成史
再び、オサムシの系統樹にもどり、日本固有種マイマイカブリを見てみます。カタツムリを食べるちょっとどうもうな仲間です。DNA分析による分類が、それが棲息している地域とみごとに平行して、北から南へと棲み分けられています。地面を這うムシだからこその棲み分けと言えばそれまでですが、その境は何を意味するのか、これはDNAは教えてくれません(図7_6)。ここに、思いがけない情報がとび込んで来ました。古い岩盤に記された磁気の方角の分析から日本列島形成史を研究している地質学者が、この境目は、まさに日本ができてきた経緯を反映していると教えて、下さったのです。二〇〇〇万年前、日本列島は、アジア大陸の端の一部でした。地殻変動で大きな塊が大陸から離れ、最初は大きく二つに折れました。一五〇〇万年ほど前です。これは、マイマイカブリの系統樹が二つに分れた時と一致します。その後の多島化を追っていくと、八つの島に八つのマイマイカブリ亜種が分れていく様子がピタリそれと重なります(図7一7)。みごとな一致。生物研究者と地質研究者は驚き、次に喜びました。データが一致したと。けれども、よく考えてみると当りまえです。ムシが乗っていた地面が動いたのですから。それが「自然」というものです。自然を見つめれば、地面とムシが一緒に見えてくるはずです。ところが、私たちは学問を細かく分けて、生物学、地質学とし、それぞれの専門家を育て、独自の研究を進めているのです。しかし、オサムシが、日本列島形成史を語ってくれたのをきっかけに、生命誌は、生物だけに注目するのでなく、生きものとそれが関わり合うものーー生物側から見れば環境ですが、生物と環境というより、まとめて自然と呼ぶ方がよいように思いますーーまで見ていくものになりました。あたりまえのことというと、どこか否定的な響きがありますがとんでもない。あたりまえのことを見ていくことこそ本質を見ることなのだと実感しています。自然は日本に限るものではないのはもちろんです。一種類の生物で、世界全体を見ることができたら面白い。そう考えて、世界のオサムシと地球の大陸形成虫との関わり合いを解く研究を始めました。二億年前、地球上には巨大なパンゲア大陸がありました。大陸が移動し始め、オーストラリア、北・南米が分れた後、ユーラシア大陸に現在のインド半島が衝突しヒマラヤ山脈が形成された四〇〇〇万年前、まさにその頃、その場でオサムシが誕生し、ヨーロッパヘ、アジアヘと広がって行ったのです。その後、ベーリング海峡が凍結している時期に北米大陸へ渡り、そこから南米のチリを南下してオーストラリアヘ。どうも、オサムシの旅はこのように続いたようです。小さなムシで地球全体の形成を語れるなどとは初めは思っても見ないことでした。世界の研究は現在進行形です。
ところで、この研究の生命誌らしさはもう一つあります。ここであげた一〇〇種一〇〇〇頭を超えるオサムシたち。この材料を集めるのは大変です(図7_8)。もちろん研究者自身も採集しますが、すべてを自分で採ることはできません。適切な時期に適切な場所へ行くための情報を手に入れるだけでも大変です。そこで活躍して下さったのが、全国の昆虫愛好家。自然の中でのオサムシについての知恵袋のような方ばかり、六〇人ほどのネットワークができ、ニュースレターで情報交換を行なってきました(図7−9)。科学は専門家のもの。成果は社会の人々に教育・普及。啓蒙という形で伝えていくというのが常識です(以前は、これも行なわれず研究成果は専門家の中にだけ閉じ込められていました)。けれども、生命誌では、それは止めようと思います。教育・普及・啓蒙は禁句にして、皆で知識や知恵を共有できるようにするのが本来の姿だと思うからです。
フナムシはどうだ
系統樹づくりはオサムシに限りません。もう一例、甲殻類でダンゴムシの仲間、フナムシ(海岸にいる)での系統樹を紹介します。日本には五種おり、ミトコンドリアDNAの分析は、やはり基本的には地域による棲み分けがありながらおそらく海洋性も持つために海流などでの移動を思わせる結果も見えます。フナムシで、時々おかしなデータが出ることがあります。北海道。東北にいるキタフナムシが東京湾内にいる。外湾はまったく違う種です。東京湾以外にも内湾は近くのものとはずれていて、外国産種と重なる例が見られます。このデータの狂いの秘密は、恐らく港への船の出入りではないでしょうか。つまり、オサムシは占い時代の日本列島の動きを教えてくれたのに対し、フナムシは人間の社会活動を反映しているわけです。進化のメカニズム、何千万年の、長い間に起きた進化の実態、人間の社会活動などなど……雑多に見えますが、皆関係がある。これこそ自然を知るための研究だと思います。単なる現象の観察ではなく、生物とはどのような存在なのかという本質に迫りたいので、進化のメカニズムを知ることは重要テーマですが、そこだけに入りこんでしまわないように気をつけています。専門家だけでなくアマチュアとも協力すると新しいことが見えてきて楽しいのです。このような形で研究を進めていくことで、生命の歴史物語を少しずつ作っていけると思い、楽しみながら仕事をしています。どんな材料で何をやると面白そうか、一緒に考えて下さい。 
ゲノムを読み解く / 個体づくりに見る共通と多様

 

生命体の大きな流れを追うには、特定の遺伝子に注目して分子系統樹を描いていくという方法を用いることができます。藻類を用いての真核細胞の生成、オサムシを用いての動物(昆虫という節足動物を例として9の登場や移動など、私たちが実際に行なった研究例でその一部を見てきました。ところで、この歴史の全体像を追うもう一つの方法として、個体づくり、つまり発生を追うという道があります。道があるというより、これまでにも何度も述べてきたように、生きものの基本はなんと言っても個体であり、それがどのようにしてでき上り、暮らしていくかを追うことこそ研究の基本です。ダーウィンの進化論では自然選択が重要な要素で、変異が起きた時、環境に適応できるかどうかが大事だという見方をしています。しかし、それ以前により厳しい選択があります。ある変異が起きたために個体が作れないのでは生れてくることすらできません。一個の遺伝子のはたらきとしてはより強くはたらく方へ変ったとしても、ゲノム全体で一つの個体を作ろうとした時に、それが邪魔になったらそれは個体としては生れてこられない。まず大事なのは生れてくることです。逆に言えば、生れてきたということは、個体として存在し得るという保証です。
ところで、オサムシのところでタイプ・スイッチングという考え方を出しました。生きものの形を決めるスイッチ役をする遺伝子があると。ショウジョウバエでは、一万二〇〇〇個あるとされている遺伝子のうち、体の形を決める基本の遺伝子はごく少数で大部分は遺伝子のはたらきや細胞間の相互作用を制御する遺伝子だとわかってきました。まさに、スイッチです。
個体の誕生
二倍体細胞は、多細胞化の能力を持っているわけですが、多細胞には細胞壁をもつ細胞の集まりである菌類と植物、細胞壁のない動物という二種類があります。植物型の細胞壁のある細胞の集合体の場合、たとえば、葉、茎、根のような構造体を作っても、それぞれが、さし葉、さし木などで元の植物に戻るというように、比較的独立性の高い細胞集団になっています。それはそれで興味深いのですが、ここでは、多細胞の特徴がより明確に出ている動物の方に注目します(言い訳を少し。植物を脇に置くのは本当は心苦しいのです。まずここで述べたように植物は、一つ一つの細胞がある種独立性を保ち、また全能性を保ちながら、なおそれぞれ葉、茎、花などの分化もするので、この時ゲノムはどのようにはたらいているのか興味深く、研究館でも関心を持っています。また、動物との共生関係、生態系、環境などを考えると植物の力は大きく、生きものの歴史の中でも重要な役割を果しています。けれども今回は植物にまで手を伸ばすのは無理なので涙を呑みます)。
それにしても、たった一つの細胞(受精卵)から一つの個体ができ上っていく様子は、魔法のようです。しかも、一見同じように見える細胞から、チョウが生れたりカエルが生れたりするのですから。今では、その基本はゲノムの中に書き込まれていることはわかっています。そこで、チョウやカエルなどそれぞれのゲノムがどのようにしてそれぞれの生物を作っていくのかを調べたくなりますが、行きあたりばったりに五〇〇〇万種もある生物を調べあげていくわけにもいきません。ここで、少し整理をする必要があります。多様な生きものそれぞれに特徴がある一方、生物には共通性があり、ゲノムを追っていくと、地球上にその生物が現れてきた順番、つまり進化にしたがって共通性の上に多様性を加えてきたことがわかっていますので、個体ができ上る過程にも、この見方をあてはめます。つまり、個体の様子が、だんだんに複雑化していくことと、ゲノムが複雑化することを対応させながら、個体のでき方を見ていくのです。そこで、ゲノム(実際にはRNA)分析で作った動物誕生の経緯を見ると、まず動物は菌類に近いことがわかります(図8_1)。ここでどんな細胞が多細胞のもとになったのか、大きなテーマでまだ答はみつかっていませんが、図8_2で見ると、立衿鞭毛虫が一つの候補のように見え、確かにこの細胞は群体を作ります。
しかも動物の分類表でその始まりのところにいるカイメンには、この鞭毛虫ととてもよく似た細胞があります。京大の宮田研究室では、動物に不可欠なシグナル伝達系(細胞間コミュニケーション、環境への対応などすべてに必要)や形づくりのための遺伝子のほとんどがすでにカイメンで整っているというデータを出しています。宮田さんはこのあたりに出発点がありそうだと睨んでいるようですし、私も興味をもって、細胞の接着分子の遺伝子でこの辺を追おうとしています。
クラミドモナスという光合成をする単細胞生物もこれと似ており、四個、八個、一六個、三二個と集まって共に動きます。一つ一つの細胞の鞭毛は別々に打ちますが、方向がきまっているので一方向へ動きます。この集まりを作っている細胞はどれも分裂すると新しい集まりを作れる、その意味でどの細胞も等価です。一方、クラミドモナスの仲間の細胞が五万個ほど集まったボルボックスになると鞭毛が協調して動き、しかもその集合の中の特定の細胞しか、次のボルボックスを作れません。この集まりを壊すと、一個一個の細胞は死んでしまう。つまり、細胞間の協同作業と、役割分担という私たちの体と同じようなことが始まっています。粘菌にしても、ボルボックスにしても現存の多細胞生物の直接の祖先であるか否かは別として、多細胞の始まりを想像させてくれます。
細胞の接着と細胞間コミュニケーション
多細胞生物をつくる細胞が新しく獲得した性質は、お互いが接着することと細胞間コミュニケーションです。カイメンや栄養状態が悪くなりアメーバ状態を止めて集合する時の細胞性粘菌などですでに接着がみられます。それまでは、分裂した細胞はお互いに離れて独立に暮らしてきたわけですが、ここに来て細胞が一緒にいるという状態ができます。こうして発見されたいくつかの分子の中で最もよく知られているのがカドヘリン。今では、さまざまな生物で、同じ物質が接着の役割をしており、しかもそれは単なる物理的な接着だけでなく、情報伝達の役割もしていることがわかってきました。生物が面白いのは、構造とはたらきとが常に関連していることです。接着剤は接着剤、情報伝達は情報伝達となっていない。分子でもこうなっているので、生きものの単位である細胞は構造の単位でありながら機能の単位であるというみごとさをもつのです。私たちが作る機械はこうなっていません。ここに学ぶことがあるはずです。カドヘリンにはE・N・Pなど今では一〇種類ほどが知られており、同種のカドヘリン同士しか結合しません。興味深いのは、カドヘリンがいつでもはたらいているわけではないということです。外胚葉には、Eカドヘリンがあるのですが、そこから細胞が離れて中胚葉ができないと、心臓や肺などはできません。事実、外胚葉から離れる細胞ではEカドヘリンが消え、その後Nカドヘリンが生じて来ます。したがって、たとえば胚から肝臓と網膜部分を取り出し、バラバラにして再び集めると、肝臓は肝臓、網膜は網膜で集まります(図8−3)。カドヘリンは、でき上ったものの特異性を保つだけでなく、発生の途中でそれぞれの臓器ができていく過程も支えているのです。そこで一つの質問は、いつからカドヘリンの遺伝子が登場したかということです。粘菌ではどうか。多細胞の中で最も簡単な構造をしているカイメンではどうか。これらの生物たちが、動物の体づくりの基本を考える大事な鍵を握っています。こうして、生命誌では、思いがけない生物が重要な生きものとして浮び上ってきます。この謎解きは今挑戦中です。
秘密兵器は受容体
カドヘリンが単なる糊ではないことがわかりましたが、細胞にはそれ以外にも相互のコミュニケーションをする装置があります。大別して、三種類(図8_4)。第一は、隣接細胞間での物質のやりとりで、この時に用いられるのがギャップ結合です。図に描いたように細胞膜の間にコネキシンと呼ばれるタンパク質が入りこんで二つの細胞をつないでいます。こうして細胞はすべてつながりながら、物をやりとりします。
二つめは、ある細胞が分泌した物質が血流などの体液によって流れ、離れた細胞にも影響を与える場合です。内分泌系(ホルモン)による制御はこうして行なわれます。この場合、制御される細胞の側に受容体があることが重要です。受容体によってホルモンの作用を受けた細胞ではさまざまな反応が起き、隣接細胞との間にギャップ結合を作って物質を送りこんだりします。こうしてホルモンの影響は遠くの細胞に及び、しかもその付近の細胞に行きわたります。
もう一つ、神経系による情報伝達があります。神経細胞は、特徴のある形(図8_5)で、長い神経線維を電気信号が走って体中に外界の刺激や脳からの指令を伝える役割をしていますが、この信号も最終的に相手の細胞に伝わるところでは、神経伝達物質を出して相手細胞の受容体を刺激するわけです(図8−6)。神経細胞の細胞体で合成された物質は神経末端まで運ばなければなりません。一メートルを越える距離、どうやって物質を運ぶか、この秘密を示すみごとな写真をお話の時にお見せしたいと思います。このように、それぞれの細胞に特定の受容体ができることは、それぞれの細胞が特定の役割をもつことであり、ここに細胞の役割分担、つまり分化がみられるわけです。分化は、細胞間のコミュニケーションとのセットで起きています。こうしてみると、私たちの体は"モノ"でできているということを実感します。小さな小さな物質の微妙な構造の違いを巧みに使って、お互いを区別したり、話し合ったりするのですから。私たちはよく、生きものを"モノ"のように扱ってはいけない、というような言い方をします。その意味はよくわかる。けれども一方で、生きものが、"モノ"が持っているみごとな能力を使っているのだということに驚き、そこに眼を向けないと、人工物をどのように作るかという基本の考えができ上りません。化学物質の使い方など、この延長上で考える必要があります。多細胞生物の秘密兵器は膜を通過して存在する共通の構造体に帰する。発生、分化、内分泌系、神経系、免疫という複雑なはたらきはほとんど同じメカニズムで行なわれているのです。そこで、受容体、カドヘリン、ギャップ結合、イオンチャネルなどを構成している物質の構造を見るとよく似ています。これらは恐らく、真核細胞(二倍体細胞)が誕生した時に持っていた物質を作る遺伝子が重複し、その中のどこかが変化するという方法で生れただろうと想像できます。そこで最初に生れた真核細胞にあらゆる可能性があったと考えたくなります。だから生きものなんて大した存在ではないと言うつもりはありません。むしろ基本構造は単純なのに、それを用いて多様な姿を見せるところがすばらしい。そこで、このメカニズムがちょっと狂うと面倒なことになります。たとえば、受容体の微妙な変化が細胞増殖の制御を変えて、細胞をがん化させますし、免疫系でそれが起きると自己免疫という面倒なことが起きます。巧妙さと同時にもろさも持っているこのようなシステムを作りあげてきた過程(系統発生)、生物そのものが生れてくる過程(個体発生)、その背後にあるゲノムの変化を関連づけながら追っていくことが、生命の本質に迫る一つの道だろうと思うのはそのためです。ここにボディ・プランという考え方が出てきます。
シートを作る
多細胞生物のさまざまな形はすべて、細胞が並んだシート(上皮)からできていることがわかります。必ず隣とくっついていないと落ち着かないという細胞が集まると、閉じたシートを作ることになる。このようなシートを出発点とした生物の形づくりの基本をウニに見ることができます(図8_7)。これでとにかく消化管ができるわけで、生物は食物をとり、細胞内に栄養分をとりこんで生きていく一つの形となります。次に、上皮シートの一部が凹んで外側が融合すると細長い管ができ、それが神経管になります(図8_8)。ここにあげた例はナメクジウオですが、消化管と神経管のあるこの形は、私たち人間でも同じです(神経管は脳のはじまりと考えられています)。こうして大雑把に言うと、上皮というシートが、折れ曲ったり、凹みを作ったり、時にはその一部がはがれてまた別のシートを作ったり(血管や生殖器などはこうして作られる)していけばほとんどの生物の形はできますので、重要なのは、シートにならずにはいられない細胞の性質であり、どんなに複雑になろうとも基本は変らない。これが生物の面白さであり、ここでまた、真核細胞あっての私たちであり、ウニやナメクジウオあっての私たちだと思うわけです。
形づくりを追う / ヒドラに見る基本
シートから形を作ること、細胞間でコミュニケーションをとりながら分化し、全体として一つの個体をつくっていくこと、その中で生殖細胞を特別に作り有性生殖をして次世代を作っていくこと。このような多細胞生物の基本を腔腸動物のヒドラで見ます(図8−9)。ヒドラは、五〜一〇ミリほどの大きさで、一〇万個ほどの細胞から成り、細胞の種類は六種類(人間だと六〇兆個二○○種類)。内胚葉、外胚葉の二胚葉性(二枚のシート)で、主として外胚葉からできる外層は表皮、筋肉細胞、刺細胞があり、主として内胚葉からできる内層は、腺細胞(消化酵素を分泌)と消化細胞(一種の筋肉細胞だが食物の吸収に関わる)、外層と内層にまたがって神経細胞があります。この間に間細胞と呼ばれる特別な細胞が見られる。これは、「幹細胞」で、ここから図に描いたような神経細胞、刺細胞、腺細胞、更には生殖細胞まで産み出します。小さいくせに生意気にもちゃんとしているじゃないと思ってしまう。ここで生意気にもなどと言うところが、不遜なのですが。
幹細胞は体づくりの中で興味深い存在です。細胞死のところでも述べましたが、体をつくる細胞がそれぞれの役割に分化し、はたらきを終えると死ぬという運命の中で、幹細胞は新しいものを生み続けます。よく知られているのが皮膚です(図8_10)。表皮細胞は角質化してはがれ落ちますが(アカ)、内部にある幹細胞が分裂し、その一部が表に出て暫くはたらいた後、また死んでいくというわけです。幹細胞は一生の間、新しい皮膚を供給するわけで、その意味では個体が生きている間は不死です。6回で、生と死が入れ子になって存在することを見てきましたが、形づくりと維持の中での生と死を細かく見ていくと興味深いことがあります。その一つが再生。トカゲのシッポは再生しますし、プラナリアは切っても切っても再生します。プラナリアの場合、幹細胞が体中に分布しており、条件が悪くなると自分で体を切って無性的に増殖することも知られています。私たちは、怪我をした時に皮膚や骨が再生してくる程度であり、複雑化の代償としてその種の生命力は失ったと考えざるを得ません。生きものとしての能力をどのようなところで見るかによって、どの生物がうまくできていると考えるかが違ってくるわけです。第1回で複数の時間を持つ大切さを言いましたが、それは複数のものさしを持つことでもあります。プラナリアってすごいんだと思うものさしも大事です。
体づくりの遺伝子
生きものの形は多種多様ですが、ボディ・プランとしてみると思いがけない共通性があるというのが、今急速に進んでいる研究から感じることです。おそらく、体の基本構造を支える遺伝子のはたらきを探り、更にその先の多様性に向う部分ではたらく遺伝子を探るという二段構えで研究を進めていけば、ゲノムの進化と形づくりとが関連づけられるだろう。研究者は今そう思い始めています。一つ一つの生きものの形づくりと生きもの同志の関連とが同じところから追えるようになった。まさに、生命誌の視点が生きてきています。
体づくりのさまざまな試みとして有名なのが、約六億年前に起きたカンブリア紀の大爆発と言われる時期ですが、遺伝子はこの時期には増えておらず、九億年前にすでに遺伝子の大爆発があり、動物特有の遺伝子のほとんどができてしまったというデータがあります。その後は、既存の遺伝子をいかに組み合わせてネットワーク化していくかという変化によって多様性を生んできたと考えられるわけです。最大の一斉放散で、遺伝子と形づくりの関係が少し見えてきた興味深い話です(図8_11)。
前後軸・背腹軸・分節
形づくりの基本は、前後、背腹、左右の軸です。まず生じたのが前後軸。ヒドラですでに前後は決っており、動物にとって最も大事なのは頭、胴、尾を決めることのようです。プラナリアになると背と腹がきまる。この辺りの遺伝子のはたらきは次々と解明されつつあり面白いのですが、ここでは省略します。前後、背腹のきまった後、それに沿った位置情報が生じ、それに従ってどの辺りに何をつくるかがきまっていきます。私たちが日常眼にする動物のほとんどを占める脊椎動物(サカナ、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類)と節足動物(昆虫や甲殻類など)の体は体節によってつくられていきますが、そこにも驚くほどの共通性が見られます。そこで、全体像が最もよく解明されているショウジョウバエを例に体づくりを見ていきます。図に見られるように、ショウジョウバエとマウス、ヒトでの形づくりを支配しているHOX遺伝子は、マウス、ヒトで同じ遺伝子の組が四つ重なったという以外同じであり、そのはたらき方がまったく同じ(図8_12)。これがわかった時は、研究者は皆んな驚きました。ハエもヒトも同じなんて。でも今ではこれから形づくりの基本が解けそうだぞと張り切って研究しています。
生きものづくりをするのは鋳掛け屋
多細胞生物すべてに共通の形づくり、脊椎動物と節足動物に共通の形づくりが見えてきたということは、その基本はかなり保守的に続いてきたことを意味します。脊椎動物についてみると、胚の段階ではほとんど区別ができず、そこから徐々に独自の形ができ上っていくことは昔からよく知られていました。形の基本を決める骨格を見ると、その変化がよくわかります。人間の脊柱は、図8_13のように頸椎(七個)、胸椎(一二個)、腰椎一五個)、仙骨(五個)、尾骨(三〜五個)となり、首と腰はよく動きます。この形の始まりは魚類、同じ骨が頭のすぐ下から尾まで並んでいます。次いで両生類、陸に上って四肢をもった脊柱は一部が肢とつながるようになりました。次いで爬虫類では頸のところの肋骨が短くなり頭が動くようになりました。哺乳類では腰の部分の肋骨が短くなったことがわかります。こうしてみると、ほんのすこしの変化が形やはたらきの変化につながっていく様子が見え(図8_14)、ここでも共通性をもちながらうまく多様性を出していくことがわかります。形づくりの研究者は最近、同じ遺伝子がはたらいているぞという発見からそろそろこんな風に違うぞというところへも眼を向けようとしています。同じで違うという生物の本質を見ようという気持の現れでしよう。そこで、細かなところを見ていくとまたまた面白い。形態学、発生生物学、解剖学など生物の形をよく見ている研究者は口を揃えて、一番面白いのは、そしてもしかしたら人間にとって最も大切な変化は顎ができたことだと言います。最初の魚には顎がなかった。エラで水をこし、そこにあるプランクトンなどを食べていたのです。無顎類です。そこに顎ができて有顎類となります。昔、生物の分類でこれを聞いた時は顎に深い意味があるなどとは教えられず、無題類、有顎類と覚えさせられたので、面白くありませんでした。研究者になって外国の教科書を読み、顎ができて初めて動物は積極的に生きることになったのだと書いてあるのを見て、これを教えてくれれば、生物学がもっと好きになったのにと思ったものです。
ところで、最近になって顎はもっと面白いと教えられました。顎は、エラから変化します。詳細は面倒な骨の名前、神経の名前を使わないと語れませんので、概要にしておきます。図8_15は顎がエラからできてきた模式図です。立派な顎。そしてこの先があります。顎の関節がだんだん音を伝える役割を持ち、哺乳類ではこれが中耳になるのです(図8_16)。しかも、この付近にはたくさんの神経が走っていますから、顔や頭(脳)を作る方向への変化が起きていきます。ここでリチャード・オーウェンの描いた脊椎動物の原型を見ると面白い(図8_17)。これは頭で考えたものですし、原型の動物がいるわけではありません。ただ、肋骨がズラッと並んでいる脊椎動物が、それをうまく変えてエラヘ、そして顎や耳へと鋳掛け屋仕事をしていく様子が思い浮かびます。
私は、生物が鋳掛け屋だということがとても気に入っています。なんとかやりくりしていくところがなんとも楽しい。決して前の存在を否定したり、徹底的に壊したりせずにきたので、生きものは皆んな仲間となっているわけです(だから面倒なのだと思う方もあるかもしれませんが)。そして、その記録をゲノムに残しているのです。この陰ではたらく遺伝子を追いかけることで形とゲノムがつながっていくのがこれからの研究です。  
ヒトから人間へ / 心を考える

 

長い生命の。歴史の中で「私」という存在を考える作業は、バクテリアとも共通項をもっというところから始まり、唯一無二のゲノムをもつ個体を産み出す自己創出系としての二倍体多細胞生物までたどりついたわけです。多細胞生物はまた、免疫系を通して他を排除し自己を確立していますし、神経系で外からの情報に対応した反応をしながら自己を創っていきます。
こうして、私の中に、何層も何層もの重なりがあり、どの層もそれぞれ「私」にとって大切な意味を持っています。出発点として共通性に眼を向けることは、思想としても、環境問題への対処などの実生活でも重要なことです。他の生物に具合の悪い環境は私にも具合が悪いということですから。しかし一方、やはり私たちは、共通性の上にあるヒトの特徴は何かを知りたいと思いますし、またそれを知らなければ、人間を知り、人間の生き方を探ることはできません。人間となると、最も興味深いのは脳のはたらきであり、更にはそれとつながる心の問題です。生命科学でも、脳研究は重視され、脳の構造や機能の研究が盛んに行なわれています。とくに、記憶、学習、意識などの高次機能を是非知りたいという気持が強い。ここにこそ人間らしさが秘んでいると思うからです。けれども、脳、しかもその高次機能だけに眼を向けると、これまで見てきた、他の生きものとのつながりが見えにくくなります。そこでまず、ヒトが特徴ある脳を持つに到った経緯を、二つの面から見ようと思います。一つは、霊長類の中で、ヒトが他の仲間と違う存在になってきた経緯を見ること、もう一つは、脳が生命の歴史の中で、いつ頃どんな風にできてきたのかという経緯を追うことです。こうして、脳だけを特別扱いせずに、体の一部としての脳、他と関連した脳という位置づけをしたいのです。
二足歩行から始まったヒト
他の生物とヒトを並べて特徴をあげていくと、まず二足歩行があげられます。ゲノムで比較すると、霊長類の中でも最も近いのがチンパンジー、分子系統樹で見ると四五〇万年ほど前に分れたことがわかります(図9_1)。DNA分析、化石、地質学などを総動員すると、アフリカの東にある大地溝帯が八○○万年ほど前に生じることによって、その東側と西側の気候が大きく変り、東側はサバンナ、西側は森林のまま残り、サバンナに出て行くことになった仲間がヒト化への道を歩いたのだろうという物語りができます。サバンナで起きた最初の変化が直立二足歩行だったろう、今ではヒト化への道の始まりはここにあるという考え方が強くなっています(図9_2)。最初の挑戦をした仲間、アウストラロピテクスについては、三五〇万年前の若いメスが、これまでになく完全な(というより最も不完全でない)化石として発見され、それは二足歩行をしていたとされます(図9−3)。ルーシーと名づけられたこのメスは、二〇歳ほどで亡くなったらしいのですが、腰の骨を調べると、どうも腰痛があったようで、御苦労さまと言いたくなります。もっとも、これが私たちの直接の祖先ではありませんが、とにかく二足歩行への道は始まりました。二足歩行がなぜ重要か。それが、今私たちが文化を持ち、ついには科学技術によって人工の世界に住むに到る始まりだからです。人間の特徴には、二足歩行の結果自由になった「手」があります。脚としての役割から解放された手の構造は、親指が他の四本の指と向い合い、指の関節も細かく動くようになり、いわゆる「器用な手」になったのです。頭がしっかりした脊柱の上に載ったので脳が大きくなれた(その中で大脳が大きくなり、その中でも前頭葉が発達した)ことも大事です。もう一つは喉の構造。鼻だけでなく喉でも空気の出し入れができる構造になったために、空気を吐くことができ、そこで複雑な音声が出せ、言葉が話せるようになったわけです。喉がものの飲み込み専用でなく息を吐くところにもなったために、お餅で喉をつまらせるなどという困ったことも出てきたわけですが、言葉の恩恵には変えられません。また、視覚が重要な感覚になり、顔の前に二つ並んで立体視のできる眼で、空間をしっかり認知していきます。しかも、幸いその眼は、色を見ることができるので、一つ一つの物の区別もよくできます(図9_4、9_5)。ちょっと横道にそれますが、私はヒトになって、色がなんとうまく戻ってきたものかと感心します。実は、脊椎動物が誕生する前に、眼で光を感じる、役割をする視物質の遺伝子も多様化しました("も"と言うのは、この時さまざまな遺伝子が多様化したからです)(図9_6)。赤(波長の長い光)を感じる視物質を作る遺伝子がまず分岐し、次いで短波長の紫、更に青、緑用の遺伝子が分れ、最後に弱い光を感じる視物質ロドプシン遺伝子が分れます。カラフルな世界が見えるだけの準備は整ったわけです。ところが、哺乳類が現れた後、その中で緑と紫の視物質遺伝子を失って二色性になってしまうのです。夜行性だったので、色を見る必要がなく不要なものは消えてしまったということでしょうか。夜行性のサルの仲間には一色性のものもあります。しかし幸い、ニホンザル、類人猿、そしてもちろんヒトも赤、青、緑の三色性になった。もし、たまたま一色性のままだったら芸術のあり方などもずいぶん違っていたことでしょう。ここで述べた能力、つまり手、脳、言葉、視覚が総合化されたものが、生きものとしてのヒトの能力の特徴です。手だけでもない、脳だけでもない、すべてが連動しています。一方、走る、泳ぐ、飛ぶなどの能力を見ると、大したことはない。このような能力でははるかに優れている他の生きものがいるサバンナや森で生きて行こうとしたら、ヒトに特有の能力を活用するほかありません。それが、技術を持ち、社会をつくるということになるわけで、現代科学技術社会は、まさにその延長上にあります。自然と人工を対比させ、人工があまりにも多くの問題を抱えているので、科学技術を否定する動きも出ますが、数ある生物が、それぞれ特徴ある暮らし方をしている中で、人間は、お前は技術を使って上手に暮らせよと言われているのです。ですから科学技術を否定するのでなく、上手に使っていく工夫をするのがヒトとしての筋ではないか、私はそう考えます。
脳とはなにか
人間の特徴をこうして総合的に見るのですが、なんと言っても興味深いのは脳です。脳研究の多くは構造と機能、とくに意識などの高次機能に集中していますが、生命誌の立場からは、次の四点に関心があります。第一は、生物の歴史(進化)の中で脳はどのように生れてきたかを追うことです。第二は発生を見ること。ヒトの脳の発生を見ると、歴史の中で脳が誕生してきた様子を見ることができます。こうして脳における共通性と多様性を調べられるわけです。第三は、脳の中でどのような反応が起きているかを見ることです。脳も細胞でできており、その中の物質のはたらきで動いているのですから。第四は脳のコラム構造です。脳にはコラムという単位がありこれが組み合わさって複雑化すると考えられています。このような見方をするには、積極的な意味があります。脳の高次機能だけを見ていると、脳と身体とが別のものに見えてきます。とくに体全体を動かす情報系としてのゲノム(DNA)に対して、そこからはある程度自由な脳の情報系(身体の外にさまざまな装置、つまり人工の世界を作っていくわけですから)が独立に存在するという形で、脳と身体が関係づけられる。この見方は、脳とゲノムを対立させ、自然と人工を乖離させます。そこで体の一部として生れてきた脳とはなにかというところから考えてみたいのです。その延長上で本当に私たちにとって望ましい社会ーーもちろんそれは他の生きものにとっても望ましいということを含めてーーを考えたいのです。
外に反応し外にはたらきかける
生物の特徴は、内と外があることです。ここは自分のテリトリーだぞということをいつも主張しています。細胞一個でも、また細胞が集まった組織でも。心臓と肺が混り合うなどということはありません。もちろん個体でも個体の集団でも。少し大げさな言葉を使うならアイデンティティでしょうか。これが狂うと困ることが多い。がん細胞は、生きているということを考えるうえで興味深い存在であり、生と死のところでもその特徴をあげましたが、ここでの見方でがん細胞を見るとアイデンティティを失っていると言えます。肺や腸で生じたがん細胞は本来肺細胞、腸細胞ですが、困ったことにそれが他の組織へ移動してそこでふえてしまうことがあります。転移であり、これほど厄介なものはありません。自分は肺の細胞なのだというアイデンティティがないからです。とにかく私は私ですとして内と外とをしっかり区別してもらわなくては困る。しかし、これが閉じた内では生物でなくなります。常に外に反応し外にはたらきかけるという状態にないと生きているとは言えません(余談になりますが、最近これが上手にできない人がふえていませんか。生きる基本を失っては困る。それに人工世界が影響しているのだとしたら、やはり見直さなくてはいけないと思います)。ゾウリムシは(ゾウリムシでさえと言いたいのですが、生命誌を研究しているとゾウリムシの能力に敬服せざるを得ないのでそうは言いません)エサに近づき、有害物質(実験では酸などを入れる)があるとそれを避けます。藻の一つである鞭毛藻は光合成をしますので当然光受容部位をもっており、その附近に光を反射したり遮蔽したりする眼点と呼ばれる構造を持っています。色素顆粒なのですが、いくつかの藻を観察すると、パラボラアンテナのような形に並んだり、更にはレンズで光を集める、まさに眼のような構造のものまで見られます(図9_7)。どうしてこんな構造ができたのかよくわかりませんが、ダーウィンが進化を考える時に、眼のような構造がそれでできるかどうか説明が難しいと悩んだ話を思い出しますと、生物は思いがけないところで思いがけないことをやってのけるものだと感心します(感心しているだけでなく、ここを解きたいのですが)。また、視物質の一つであるロドプシンは、すでに細菌の段階から存在し、光のエネルギーを細胞が利用できる化学エネルギーに変えるはたらきをしています。視覚という私たちにとって重要な情報処理に与っている分子は、そのために作り出されたものではなく、細菌が光に反応して生きる基本物質として使っていたものなのです。あり合わせを使う鋳掛け屋精神はここでも健在です。多細胞生物になると、物質が拡散していくだけでは情報伝達のスピードが不足であり、神経系が登場することは、ヒドラで見ました。神経細胞の軸索を通して情報を送り、最後のところは化学物質を送るという方法はヒトでも同じで、使われる物質の種類が二〇〇ほどに増えるというだけです。
脳の誕生
ヒドラでも神経系はありますが、神経細胞が一ヶ所に集まった中枢としての脳はありません。これが登場したのはいつか。すでに脳を持っている生物で発生の様子を追うと、神経管という構造ができ、その前方が膨れて脳ができていくのがわかります(図9_8)。最前方部が大脳、やや後が小脳、それに隠れたように存在する脳幹。とにかく神経管が脳の出発点だとすると、これがいつ登場したかに興味が向きます。すると、思いがけないことに、ホヤが浮び上ってきます(北国を旅すると、旅館で出てくるホヤです)。およそ六億年前に地球上に現れた、原索動物、成体になると海底の岩について動かないので脳があるとは思えないのですが、卵から生れたばかりの幼生は、カエルのオタマジャクシと似た姿で尾を振って泳ぎます(図9_8)。神経管は外胚葉由来の上皮細胞のシートが円筒形に巻いたものです(図8_8参照)。この細胞が各部分でそれぞれ独白の増殖と分化(神経細胞やグリア細胞など)をして、増殖の盛んな場所が脳になっていきます。このメカニズムは、ヒト、トリ、ホヤでそれぞれ脳ができ上っていく様子を追うとすべてに共通であり、ホヤの時期に脳形成の基本はできていたと言ってよいことがわかります。幼生には、平衡器官である耳石(細胞一個)と網膜細胞(二個)があり、上下感覚と光の方向を脳に伝えているのです。そこで五〇メートルもの海底から海面の方へ泳いでいくわけです。ところで、ホヤの幼生の神経管では神経体節が一つですが、その後の進化の過程で神経体節が重複し、神経管が長くなり、神経管の各部で細胞がそれぞれ特有の増殖、分化をし、構造が複雑化していきました。遺伝子でも、複雑化の基本は重複だったことを思い出して下さい。既存のものを重複でふやし、その一部を変化させて新しい機能を獲得していくという方法論が生物の基本のようです。今も初期の脳をそのままに残していると考えられるのが、ナメクジウオ。体づくりにはたらくホメオボックス遺伝子のうち、脳に関連するHOX3という遺伝子のはたらきをナメクジウオと脊椎動物(マウス)とで比べた結果、ナメクジウオの脳胞(脳にあたるところをこう呼ぶ)に脊椎動物の中脳にあたる構造があるとわかりました。脳といえども体の一部、体全体の秩序をきめる遺伝子のはたらきで作られているのです。神経体節が重なったために各部分が自由な大きさをとれるわけで、魚類、鳥類、哺乳類のように動きまわることが大事な仲間では運動を司る小脳が発達するという特徴が出ましたし、ヒトでは大脳が巨大になったのです、神経管の各所が膨らみ神経細胞の塊、つまり脳ができるわけですが、そこにどのような神経があるか、今人間に備わっているものを見ると、生物の歴史の中で脳がどのようにして生れ、脳は何のためにあるのかがわかってきます(図9_9)。脳から出ている神経は一二本(脊椎動物に共通)、三群に分けられます。一群は、嗅神経、視神経、内耳神経ですべて頭にある感覚器の神経です。第二は、三叉神経、顔面神経、舌咽神経、迷走神経とその副神経で、実はこれは8回で述べた魚の鰓から進化してきたものです。第三は、脊髄神経。こうしてみると、脊椎動物の前の方がふくらんで頭ができてきた意味がよくわかります(図9_10)。一つは、嗅覚、聴覚、視覚(鼻と、耳と眼)という三つの重要な感覚器官を体の前の方に集めその近くで入ってくる情報をできるだけ素早く、また。正確に処理しそれを体の各所に伝え、的確な対応をするということです。脳の大切な作業はこの情報処理です。もう一つは、魚類の鰓から始まって顎ができ、顔ができていったという、前回で述べた形づくりの。歴史を踏まえたもので、積極的に食物をとるところから始まる生きるための基本の構造です。第三群の神経は、脊髄神経の延長にあたり、骨格と筋肉から成る体壁(それに内臓が包まれているのが私たちの体)を支配しています。こうしてみると頭は、体の延上長として、体全体が巧みに外部に反応し、積極的に行動する方向へと進化してきた結果、体の一部として生れたものだということがよくわかります。脳を体と切り離して考えることは難しい。それが生命誌の視点です。鰓には第一から第六までありますから、転用してできた器官(鰓器官)はたくさんあり、顔のほとんどがそこからできました。なんと都合よく魚類の時代にたくさんの鰓を作っておいてくれたものかと思い、ちょっと鰓を見る眼が変りました。
中枢神経は末梢神経によって育てられる
生物が、より的確で迅速な判断を必要としてきた結果、体の前の方に神経を集め、しかも既存の鰓を使って巧みな役割分担をさせたというところまでわかりました。ところで、このような神経系がどのようにしてできてきたかを知るには、ヒトでの脳のでき方を見るのがよいと思います(図9_11)。ヒトは受精後二八〇日の間にこの歴史をたどるからです。二二日目に神経管(ホヤにあった脳の始まり)が生じ、脳ができ始めます。四九日目になると前脳、中脳、菱脳(後の小脳)、延髄ができ、神経細胞を作り始め、五〇日目には前脳がふくらんで大脳が大きくなり始めます。こうして二ヶ月目までに基本ができ、後はそれぞれが大きくなっていくわけです。出生までに神経細胞はでき上ってしまい、その後数はふえますが、大事なのは神経細胞間の配線であり、それは、遺伝的にでき上ったものだけではまったく不充分で、誕生後に外から入った刺激によってできていきます。赤ちゃんが、一ヶ月ほどすると眼でものを追うようになり、二ヶ月になると手もそちらへ動くようになるのは日常眼にするところです。その頃の赤ちゃんが、自分の握りこぶしを上にあげてじっと眺めているのは可愛いものですが、こうして視覚と運動とが統合されて初めて日常の行動ができるようになっていくわけです。つまり、中枢神経は体全体を統合する人間の中心ですが、それは一方的な統合、命令ではなく、感覚器官から入り末梢神経を通して入ってきた情報によって作られていくという逆の関係も大事です。脳は、感覚器官や末梢神経によって育てられると言っても過言ではないでしょう。私たちの脳の基本は、このような背景で作られたものであり、現在も、この基本から逃れてはいません。
哺乳類になっての脳の急成長
脳の進化を見ると、魚類、両生類、爬虫類までは、体重に対する脳重量がそれほど変りません。動物によってどこが発達するかは環境との関係で決まりますからそれぞれ違いますが、総体としての脳は変っていないわけです(図9−12)。それが大きく変るのが哺乳類です。体重との比で脳が大きくなる。それは主として大脳半球の成長であり、爬虫類の脳には見られない新しい神経細胞が生れてきます。新皮質の誕生です。旧皮質、古皮質と呼ばれる爬虫類時代から続いている皮質は嗅覚入力が主体であるのに対して、新皮質は視覚、聴覚、触覚、体感覚(筋肉や関節の知覚)を受け、しかも脳幹、延髄という脊椎動物のすべてに共通の部分のはたらきを支配する上位制御系を作っていきます(哺乳類が進化してきた七〇〇〇万年ほどの間にこのような変化があったのですが、この間に他の生物で脳容積を増加したのは鳥類だけで、なかでもカラスは大きいと聞くと、そう言えば街を我がもの顔で動きまわっているのは哺乳類、とくに人間とカラスだなどとおかしな納得のしかたをしてしまいます)。哺乳類の中でも霊長類がとくに大脳皮質を発達させ、またその中でもヒトが・…:となるわけですが、ここへ来るとまさにヒトに特有の問題になり、生物学としてのデータは少なくなります。人類学、考古学、心理学など多くの学問の助けを借りないことには考えることができません。しかもまだ、それぞれの分野で明確な考え方が出ていない……皆で仮説を立てて考えているところです。実は、学問としてはこのような状態にある時が最も面白いのですが、まとめて話すのは難しくなります。
とにかく、ヒトでは大脳新皮質部分が格段に火きく、それが人間特有の高次機能につながっていることは確かです。そこで、細胞が増えるのは、神経細胞をつくる細胞が、分裂回数をふやすのだろうと考えてみます。藤田哲也はこれをコンピュータシミュレーションして、ヒトの大脳の細胞の分裂回数を二回減らすとマカク(ニホンザル、アカゲザルなど)、一〇回減らすとマウスと同じ大きさになることを示しています。もっとも細胞数がふえるだけでは意味がありません。独自の機能を持たなければならないわけです。そこでこれもまたヒトとチンパンジーやマカクとで比較してみます。機能を見るには、領野の種類と大きさを見る必要があります(図9_13)。領野は、大脳皮質を構造と機能によって区分したもので、ヒトの場合四八あり、たとえばその中の一七野は視覚の第一次中枢であり、霊長類の誕生以来ヒトまでほとんど変っていません。一方、ブローカ野(運動性言語野)にあたる四四と四五領野、高次の言語処理に関わる四七領野や三七領野はヒトにはあるが、オランウータン、マカクには存在しないことがわかっています。また各領野で受けとり処理した情報を総合化する前頭連合野は、ヒトに最も近いチンパンジーでもヒトの三分の一ほどしかないことがわかっています。とくに近年、長期記憶の中から必要なものを引き出してきて一時ためておき、そこからいくつかの事柄を連関させて使っていくワーキングメモリーという機能が連合野の四六野にあることがわかり、ここもヒトで特段に発達していることが明らかになりました。これはほんの一部。こうして大脳の構造と機能を対応させた研究が進み、脳の全体像が見えてくると期待します。けれども、まだ見通しは立ちません。他に、ここででき上るネットワークの性質を解く研究など、さまざまな研究が必要です。領野は、コラムと呼ばれる単位(細胞集団)を持っていることもわかってきており、領野が生れたり、大きくなったりするのは、単位であるコラムが重複し、それが変化したり組み合わさったりするのだという考え方が出ています。これを聞くとすぐに思い出すのがゲノムです。これも最初ほんの少しあった遺伝子群が一部重複し、それが変化したり組み合わさったりして複雑化してきました。恐らく脳も同じだろう。これは私の予測です。生物は鋳掛け屋という基本は脳にもあてはまると思うからです。
心はどこにあるか
心は脳の機能である。これが生物や人間を研究している人の多くが考えていることです。脳という複雑な対象を研究するのも、そこにこそ、人間の本質を解く鍵があるからと考えているからでしょう。私も、脳の機能には関心がありますが、その前に知りたかったのが、脳がどのようにして生れてきたかということでした。そして、脳は、生物が地球上に誕生して以来試みてきた、ある環境の中でできるだけ上手に長く生き続けようとする試みの中から自ずと生れてきたものだということがわかりました。しかもそれは、脳という独立した存在ではなく、常に体の一部としてさまざまな選択をしてきたのだということもわかりました。脳は体と離れて体を支配しているものではなく、常に体からのメッセージを受けとめています。しかも体からのメッセージは、環境(外部の物質や光や他の生きものたち)からのメッセージを受けて出されたものなのです。ヒトの脳は、なぜか二〇万年近く前の新人と言われる段階で急速に前頭葉を発達させましたが、それでも、ホヤから引き継いでいる古い脳はそのまま生きています。決してそれを捨ててまったく新型の脳を作り出したわけではありません。古い脳は、体の機能と密接につながっています(図9_14)。急速に発達した新しい部分と古い脳とはせめぎ合うており、自分の脳の中をきちんと整理できていないところに問題があるように思います。こう考えると、心を脳の機能と言ってしまうことに抵抗が出てきます。脳もそれ以外の身体もすべて含めた私という存在の機能が心なのではないか。心は、もちろん自分自身にも向きますが、外のものにも向きます。他の人間、他の生きもの、いや生きもの以外のものにも向けられます。ですから、心は、そのような関係の中にあるような気がします。自分との間、犬との間、時には大事にしているお皿との間。お皿そのものに心があるとは思いませんが、私の心は自分とお皿との間にあると思えるわけです。ヒトに特有の大脳皮質、しかもその中の前頭連合野に注目して高次の精神活動から心を考えていくことは重要で、現在の脳研究に期待するところ大ですが、このような形で考える心も、なんだかホンワカしていて悪くないと思います。その考え方が正しいか正しくないかという固い話は抜きにして。
脳のはたらきに見る可塑性
生物の長い歴史の中にヒトを位置づけ脳を他の体の部分と関連づけて見ることによって、脳と心の一側面が見えてきました。ここで、人間が言葉を話し、芸術を創り出し、科学や技術を産み出したこの過程に脳の機能がどのように関わり合っているのかを知って、人間の本質を見つめたいという気持が更に強くなりました。ホヤから続く枠の中にありながら、大きな可塑性を示すのが大脳、とくにヒトの脳特有の前頭薬であり、そこで何が起きているのかは本当に知りたいことです。ゲノムも長い眼で見ればかなり柔軟性があり、鋳掛け屋をしますが、個体の一生に関しては、それほどの幅は持ちません。そこに大きな柔軟性を与えるのはやはり脳。ブロノフスキーは「私たちはヒトとして生れ人間になっていく」と言っていますが、この過程こそ、生命誌の次のテーマです。現在進行中の脳研究から新しい素材が出てくるのが楽しみです。 
生命の流れと技術 / たとえばクローン

 

ここまで、地球上の生物の四〇億年近い歴史を追い、生物界がどのようにできてきたか、さまざまな姿を見てきました。ある時には行きあたりばったりに、ある時はしぶとく生き続けてきた八千万種とも言われる生きものの中に、最新参者としてのヒトを置いてみると人間とはどのような存在かが少しずつ見えてきました。そこでこの回から、ヒトはどこへ行くのかというテーマの方に移ります。過去は事実を語ればよいのですが、未来は難しい。ただ、これまで述べてきた生命誌の延長上で考えたいと思います。長い時間、広い空間で考え、共通性と多様性の関係を身につけた生き方がよいと思うのですが、現在の社会はそうはなっていませんから、移行の期間、悩ましい問題がたくさん出てきます。
生きものに操作を加える
生きものを知るには「実験」が必要です。とくに、一九七〇年代以降DNA組換えや核移植など遺伝的な操作が研究上、不可欠になってきました。また、特定の遺伝子をはたらかないようにしたマウスを作りその結果欠けた機能からその遺伝子のはたらきを知るなど、個体の性質を変えることも大事な研究法です。このような遺伝的操作は、研究だけでなく、遺伝子組換え生物(具体的にはバクテリアや農作物など)やクローン動物などを産業用に作るためにも使われています。実は、操作と言っても、結局は生物の力を借りずに生物をつくることなどできるはずもありませんし、生物づくりのルールに反するようなものは存在できるはずもないのです。ただ、変化の時間を速めていることは確かであり、生物にとって大切なのは時間であると考えている生命誌の立場からは、そのチェックの必要性を感じます。しかしDNAがあらゆる生物の基本物質であることを強調するあまり、あたかもすべてがDNA(遺伝子)で決まってしまうかのように考え、そのDNAを操作するとはとんでもないことだというのはおかしいと思います。生命誌は(というより現代生物学はと言ってよいでしょう)、安易な遺伝子決定論を否定します。これまでにも、生物は決して遺伝子ですべてが決定してしまうような単純なものでないことを示してきました。とはいっても、DNA操作の意味、とくにその結果できた生物を、研究室内だけでなく日常に持ち込むことの影響は考えるべきことです。対象となる技術はいろいろありますが、ここではクローンを取りあげます。これは、生物の本質を考えるために、日常技術としてどのように用いるべきかの判断という点でも意味のある技術だからです。
クローンとはなにか
クローンというと、一九九六年に誕生したクローン羊のことを思い出す方、クローン人間を思い浮べる方が多いでしょう。もちろん最後にはその問題の検討をしますが、話を正確にするために、まずクローンとはなにかという基本から入る必要があります。クローン。「無性生殖(栄養生殖)でふえた遺伝的性質がまったく同じ一群の個体」と辞書にあります。なんだかわかりにくい書き方ですが、分裂でふえていくバクテリアは、すべて同じゲノムを持つ、つまり遺伝的資質がまったく同じ一群の個体、クローンです(図10_1)。また、植物の場合、自然界では有性生殖をしていますが、さし木をすれば、元の木とまったく同じ性質で、しかもお互いも同じという植物をたくさん作れます。実はクローンというのはギリシャ語で小枝という意味なのですが、図10_1を見るといかにも小枝のように見えますので、それが語源か、さし木を考えてのことかはわかりません。このように、そもそも無性でふえる生物や植物ではクローンは決して特別のものではありません。問題は動物です。動物の場合、受精卵が分裂をして個体を作っていく初期に、たとえば二つに分れた細胞が何かの拍子でそれぞれ独立し、それぞれから個体ができることがあり、こうしてできた一卵性双生保はクローンです。人間の場合もある割合で一卵性双生児は生れます。しかし、ある程度発生が進むと体をつくる細胞はそこから一つの個体を産み出す能力、つまり全能性を失います。もちろん動物でも、前に紹介したプラナリアのように、切っても切っても再生してくるような場合は体中に全能性をもった幹細胞が分布しているのでしょう。だんだん複雑化していくにつれてそのような能力は失われてきたわけです。なぜ動物では全能性が失われていくのか。全能性を失うとはどういうことなのか。生命誌を考えるうえでの基本図である図5_2を見ると、全能性を保っている生殖細胞は生き続けるのに、それを失った細胞は死への道を辿るわけですから、生と死を考えるにあたってもこれは是非考えたい本質的な問いです。
体をつくる細胞はクローン
動物のクローンを実験的に作ったのは、英国のJ・ガートン。一九六六年にアフリカツメガエルの卵から核を抜き、そこにオタマジャクシの小腸上皮細胞の核を入れたところ、七二六回の試みのうち三一個の卵からオタマジャクシが生れ、四四はカエルにまでなりました(図10_2)。オタマジャクシでは、まだ体の細胞も完全に分化していないかもしれないので、次に、カエルの皮膚や肺などの細胞の核を移したところ、オタマジャクシは生れましたが、カエルにはなりませんでした。その後、マウスではどうしても成功しないなどという問題をはらみながらもカエルの実験を踏まえて、動物の体細胞は分化後受精卵と同じゲノムを持っていると考えるのが妥当とされています。つまり、肺細胞、皮膚細胞などに分化した細胞も、自分のはたらきに不必要な遺伝子は捨ててしまうのではなく、すべて持っている。何らかの方法で、それぞれの細胞に不要な遺伝子ははたらかないように抑えているのだというわけです。そこで、はたらきを抑えている鍵をはずしてやれば、またゲノムのすべてがはたらきはじめる場合があるということです。私たちの体をつくっている細胞ーー大人だと六〇兆個ほどと言われますーーはすべて、自身の出発点である受精卵とまったく同じゲノムを持っている、つまりクローン細胞なのです。脳の中の神経細胞も足の裏の皮膚細胞もクローンですが、それぞれ自分の役割に従ってはたらいています。これから見ても、同じゲノムを持つことがすなわち表現する性質が同じということを意味しないことは明らかです。
まったく同じゲノムを持ちながら、基本的性質の異なる生殖細胞、体細胞、その中の完全に分化しておらず増殖能のある幹細胞(第8回で皮膚の幹細胞を紹介した)と完全分化してその役割を果したら死んでいく細胞の二種類があることは何度も述べましたが、複雑な生物になるほど幹細胞が少ないように見えるので、哺乳類では、成体からのクローンづくりは難しかろう、恐らくできないと多くの人が考えていたのでした。
クローン羊誕生
ところが、英国のI・ウィルムットらが羊で成体(妊娠中の六歳のメス羊)の体細胞(乳腺細胞)から取り出した核を未受精卵に入れるという方法でクローン羊を誕生させたので皆が驚きました(図10_3)。彼らは、二七七回の核移植で二九個の正常な胚を得、これを代理母の子宮で育てたところ、そのうちの一匹が生れ、ドリーと名づけられました。こうして研究を追っていくと、クローン羊の誕生は、生物の本質を知る大事な情報で、キワモノではないことがわかっていただけると思うのですが。もっとも、ウィルムットは薬品の生産を狙ってこの技術開発に取り組んでいる研究所にいます。具体的には、ヒトの遺伝子(実例として血液凝固因子)を羊の受精卵の中に入れ、ヒトの遺伝子をもった羊(トランスジェニック羊)を作り、そのミルクの中に血液凝固因子を出させようというものです。血友病の薬として必要なこの因子は、本来人間がつくるものですから、ヒトの遺伝子を用いてつくる以外方法がありません。現在は、ヒト遺伝子を組み込んだ大腸菌をタンクで培養し抽出するという方法をとっています。しかし、この方法では、バクテリアでヒトの遺伝子をはたらかせるのが難しいこと、物質を取り出すのが大変なこと、バクテリアを培養するタンクの管理が必要なことなど面倒がたくさんあります。羊のミルクを用いる方が有利です。問題は、ヒトの遺伝子を的確にはたらかせる羊をつくるのが大変だというところです。そこで、一度そのような羊を作った後は、それと同じ羊を何頭でも得られるようにしたい。ここからクローン羊の計画が始まったわけです。つまりこれは、基礎研究、応用研究の両方からみて、共に、研究の王道を進んで生れた画期的な成果と言えるのです(応用の方は、実用は、まだこれからですし、それをどのように使うか、または使わないかは、今後決めることです)。
ヒトクローンの議論
ところで、クローンという言葉は、一般にはこのようには受け止められてはいません。まず思い浮べられるのはクローン人間。事実、クローン羊誕生が報じられた時の反応の多くは、ヒトクローンをどう考えるかということでした。たとえば、クリントン米国大統領は、ドリー誕生のニュースを知るとすぐにクローン研究を一時停止し、国家生命倫理諮問委員会に検討を求めました。委員会は、倫理的にではなく安全性の面から現在の技術ではヒトクローンを作るべきではないという報告を出しました。
この対応は、多くのことを考えさせます。まず、クローン羊誕生が直接クローン人間に結びついたということです。これには、次の二つの背景があるように思います。クローンは、孫悟空が自分の毛から小猿をたくさんつくり出す例など、古くから「そんなことができたらいいな」という気持で語られてきました。一方最近では同じフィクションでもヒットラーのクローンづくりのような恐ろしげな話が主体になってきました。そして、一九七八年、ロービックが『人間のクローン』という本を実話として書いたのです。ある富豪が自分の複製を作るというこの話は、専門家による検討の結果、創作と判明しますが、この本がこの年に出版されたことには意味があります。英国で体外受精児が誕生した年なのです。ヒトの受精卵を体外で作り出せるとなれば、クローンも現実味を帯びてくるわけで、ロービックの本をありっこないと言下に否定することはできないところに来たのです。もう一つの背景は、すでに何度も触れてきたように、二十世紀後半に遺伝子研究が急速に進展したために、すべてを遺伝子に帰してしまう、遺伝子決定論が広がったことです。DNA研究者は実態を知っていますので、決して遺伝子決定論にはなりません。DNAが生物にとって非常に重要なはたらきをしていることは確かですが、その素晴らしさは、むしろ一つの遺伝子が一つの性質を決めてしまうというような単純なはたらき方をしていないところにあるのです。ところがどういうわけか動物行動学や進化論などDNAを直接扱わない学問の中で遺伝子決定論的論調が強くなっており(それまであまりにも遺伝的側面を無視しすぎていたことの反動のように思えます)、それがDNA研究と変に混り合って社会に出て行きました。以来、浮気や幸福の遺伝子の話が登場し、日常会話では会社の遺伝子などという例えもよく使われます。DNA研究者にはどうしても使えない使い方です。一卵性双生児の例でわかるように、まったく同じゲノムを持つ個体であるクローンがまったく同じ性質を示すということはありません。ですから、体外受精と遺伝子決定論が結びついて、現実味を帯びて語られるクローン人間像は、否定しなければなりません。
生殖技術の一つ
私はヒトクローンの作成に意味を認められませんし、それを望みませんが、そうは言っても、この技術が生物の基礎研究、家畜の応用技術を越えた意味を持っていることは確かなので、ヒトクローンの問題を考えてみます。まず、羊で成功したら人間でも体細胞の核を用いたクローンができるのかということです。実は、これまで哺乳類ではクローンはできないと考えられてきたのは、マウスを用いた研究が成功しなかったからです。ところが、羊での成功後、次々とウシやマウスでクローンが誕生しています。これを見ると、ヒトでも可能だろうと考えるのが妥当でしょう(もちろん種によって違うことはあるので一〇〇%ではありません)。
ところで、ヒトクローンを作ることを否定する根拠はどこにあるのでしょうか。米国の委員会の判断にある安全性がまだ確保されていないという理由も重要ですが、もしそれが乗り越えられたとしても作らないという根拠を考える必要があります。それに対してある答を出した例としてフランスの国家倫理諮問委員会があります。「遺伝情報が同じなら個人として同じということにはならないが、そうは言っても生れてくる人間の遺伝的素質の不確定性は人間の一回性、唯一性を支える重要な要素である。これをあらかじめ確定したものとするクローン技術は人間の基本を侵害する。また、無性生殖によるクローン人間の作成は家族の概念を混乱させる。生殖不能のカップルが子どもを得る手段としてこれを用いることも生れてくる者に対する倫理として許されない」という考え方です。みごとだと思いますが、ここには、キリスト教、とくにカソリックの考え方が反映しているように思います。けれども、欧米社会といえども、キリスト教だけで判断はできない状態にあります。たとえば家族の概念は変化しています。ヒトのクローンのような問題は、できることなら世界で共通の基準を作ることが望ましいので、異なる価値観をもつ人の中で検討をしなければなりません。米国が倫理的な判断を先のばしにしたのは生殖技術そのものについて、いやそれ以前に中絶の可否について長い間議論があり、それに対する答が一つという状況になっていないからです(中絶に関して保守的な共和党、やや許容的な民主党という政治的立場との関連で選挙結果を左右するほどです。またフェミニストの立場もあります)。つまりこの問題は、クローン是か非かという話ではなく、生殖技術、つまり受精卵を体外でつくり出すことを始めてしまったというところに戻る議論なのです。それ以前に中絶や人工授精などがすでに行なわれていること、今では子どもは授かるものでなくつくるものになっていること、そこまで戻って考えなければならない議論です。人工授精児、体外受精児はすでに誕生しているわけですし、受精卵についても、法律上の夫婦間の生殖細胞でつくるのではなく、卵と精子のさまざまな組み合わせでつくられている状況で、クローンだけを否定するのはなかなか難しいというのが実情でしょう。その悩みが米国の判断に現れています。体外受精において法律上の夫婦間の受精以外は認めないという日本産科婦人科学会の取り決めを破った医師は、必要とする人がいる以上それに応えるのが専門家の役割だと言っています。そうなると、その選択の一つとしてクローンもあり得ることになります。つまり、子どもの誕生を、「授かる」という感覚から「つくる」という行為の結果に持っていった時にすでに私たちは、ある方向に向って歩き出したことになるわけです。元へ戻ることは現実的ではないとすると、生殖技術を日常化している私たちの生き方の中にクローンもとりこんで考えなければなりません。ですから、クローン人間はキワモノではなく、生きものとしての人間を考える生命誌にとっても重要なテーマになってきます。すでにさまざまな宗教、フェミニズム、ホモセクシャルなど多様な立場からの意見が出されていますが、生物学によって遺伝子決定論を否定するとかえってクローンづくりを否定しにくくなるという状況下、先のフランスのような社会的判断が必要です。
遺伝子治療と診断
他にも、遺伝子に操作を加える技術として遺伝子治療があげられます。これは生殖細胞の遺伝子を変化させるのではありませんし、新しい個体を産み出すのではなく既に存在している人の一部を治療するのですから、生殖技術よりも人間の基本に関わる問題点はより少ないと言えます。本質的には薬剤投与と変らないとも言えますから。ただ将来的には何を病気と考えるかという問いにもつながります。幸いまだこの治療法はそれほど一般化していない状態ですから、長い生命の歴史の中での人間を考えた時に、その治療をどのように使っていくか(将来的には当然生殖細胞を、云々することも出てくるでしょうから)は考えておく必要があります。遺伝病に関連して、受精卵で診断をして出産を決める出生前診断があります。これは、厳しい考えを要求されます。まず出生の選別があり、これは通常の中絶より更に厳しいものです。健常とはなにか、病気とはなにか、更には障害とはなにかという問題になります。ところで、ゲノムには必ず変異が起きます。この変異が個体を作れないようなものでしたら消えてしまいますが、二倍体のうちの一方がきちんとはたらいていたり、まあまあはたらきは悪いけれど全体としては大丈夫という場合にはそれは残り、子孫に伝わります。ですから、ヒトのゲノムに平均一〇個ほどのはたらきの悪い遺伝子が入っている状態が普通なのです。この一〇個が、現在の社会生活ではそれほど困らない欠陥だったり、近視(どうも私はこれを持っているようで小学校の時にもう近視、長女は気をつけたつもりなのに幼稚園で近視になりました)のように眼鏡やコンタクトレンズでまあまあ困らないというものだったりすれば幸いですが、時に重い病気や障害につながることがあります。それに対しては治療や不便をなくす努力をしなければなりませんし、また実際の場ではどこまでを病気と考えるかというのはなかなか難しい問題でしょう。でも大事なのは皆そういうものを持っているという認識です。それを基本にして考える社会にしておかなければ遺伝子診断はとんでもない選択につながりかねませんし、遺伝子治療も何でもやろうになりかねません。生命誌研究館をつくったのは、ここで述べたような生きものの本質についての認識を皆が持つ社会にしたいからです。人間についての知識がふえ、技術の可能性がふえればそれだけ、人間とはなにか、生き方としてどのような選択をするのかということを、深く考えなければならないのだとつくづく思います。生命誌の研究が考えるための素材になることを願っています。 
生命の流れと技術 / ホルモンを考える

 

前回は、DNAの操作(分子そのものとしての操作だけでなく核移植という形も含めて)という人間の行為を通して、私たちの行き先を考えました。今回は、人間が直接生きものを操作したのではなく、人工の世界が思いがけず私たちの行方に関わってきたという例を考えます。近年、内分泌撹乱物質(環境から体内に入りこんでさまざまな異常をひき起すホルモン様物質)が、難問として私たちの前に出されました。これは、生物研究と直接関わるものではなく、むしろ、工業、なかでも化学工業がつくり出した物質の問題なのですが、そこで起きているのはクローンと同じように生物研究者にとって、生きものの本質を考えさせる現象ですし、人工の世界の一つとしての化学物質を生物の側から見ることが大事だという問題提起としてとりあげます。今回も、内分泌系とはなにか、ホルモンとはなにかというところから入ります。クローンと違って、これは日常少しはなじみのある言葉でしょう。男性ホルモン、女性ホルモン、甲状腺ホルモン、ステロイドホルモンなど、その詳細なはたらきはわからなくても、どこかで名前を聞き、なにか体の調節に関わっているらしいという感じはお持ちだと思います。まず内分泌系の位置づけを見ます。
ホルモンの役割
私たちの体ではたらいている系には、循環器系、消化器系、免疫系、神経系、内分泌系があります。このうち、神経系と内分泌系が、多細胞生物の全体性を成り立たせる細胞間コミュニケーションに関わります(免疫系も細胞間コミュニケーションで成立しており、個体の維持に重要な役割を果していますが、外からの異物に対して免疫系特有の細胞が反応し、抗体を作るなど、特有の系を作っていますので、通常の細胞間コミュニケーションとは独立に考えることにしています。そうは言っても後で述べるように内分泌系とも関わってきますが)。これは8回で触れ、生体内でのコミュニケーションは、化学物質を用いていることを指摘しました。この化学シグナルと呼ばれるものには三種類あります(図11_1)。
・体細胞のほとんどが一種から数種分泌する局所性化学仲介物質。名前の通り、近くの細胞に迅速に結合するかさもなければ破壊されてしまうのでこの名がついています。
・集団化した内分泌細胞が出すホルモン。血流を通じて全身の標的細胞に行き渡る。
・神経細胞が標的細胞との間に作った化学シナプスで分泌する神経伝達物質。
つまり、全身に拡散し、各種細胞が適切にはたらいて体が一体となって活動するように調節するのがホルモンです。これは血流で薄められますので、極く低い濃度ではたらくのが特徴です(一〇万分の一%よりも低い濃度)。実はこの三種類の伝達に使われる分子は共通のものが多いのですが、シグナルが標的に達する速度と標的の選択のしかたが違います。ホルモンのはたらきと神経伝達物質とを比較すると(図11_2)、ホルモンは血液の中を流れて行きますから、自らが特定の細胞に向うことはできません。受けとる側の細胞にある受容体が自分に合ったホルモンを引きつけるのです。ですから、外部から入ってきたホルモン様物質が血液中を流れていれば、それが受容体に引きつけられ反応を起してしまうことは容易に想像できます。この二つの系は関係しており、神経系の調節で分泌されるホルモンのはたらきは二つに分けられます(図11_3)。でき上った体が適切にはたらくための恒常性の維持と発生の過程で必要な時期に短期間はたらいて体づくりを進めることです。後者でよく知られているのがオタマジャクシがカエルになるために不可欠な甲状腺ホルモンです。これがなければいつまでもオタマジャクシのまま、たった一つの物質が大きな変化をもたらす鍵になっていることがよくわかる典型例です。ホルモンの大切さと、もしそこに異常が起きると面倒なことになりそうだということがわかります。
受容体に注目
ホルモンは体中を移動し、受容体があるとそれと。反応して作用するので、受容体との組み合わせが重要になります。染色体ではXYの雄型で男性ホルモンは充分分泌されているのに、受容体がはたらかないために、表現型は雌になってしまう場合があります。たった一個の遺伝子の欠損で受容体が異常になるこの現象は人間にも見られ睾丸性雌性化症候群と名づけられています(図11_4)。ところで、ホルモンとホルモン受容体は、原則として一対一の関係にあるとされていますし、それだからこそ体が恒常性を保ち、秩序だったはたらきをするわけですが、女性ホルモン(エストロゲンと総称)の受容体の場合、少々異なる構造のものも受け入れてしまう性質があります。なぜ女性ホルモンはそうなっているのかという意味は、よくわかりませんが、もしかしたら、女性ホルモンの作用は、子孫づくりに不可欠なので、ホルモンの構造の方に少々の異常があってもその機能が失われないようになっているのかもしれません。この性質を活用して、すでに一九三八年に合成エストロゲン(ジエチルスチルベストロール)がつくられ産婦人科で夢の薬として使われました。とくにエストロゲン分泌が不足して流産しやすい女性にこれを与えると大きな効果がみられたのです。ところが、これを投与した母親から生れた女性には、子宮頚がん、膣がんの危険性が高いこと、男女含めて内性器の異常が高率で発生することがわかり、この種の使用はなくなっています。発生の時期のホルモン作用の微妙さを示す例であり、体の一部の構造やはたらきがわかったからと言って、局所的な有効性に惹かれて体内での物質の動きを人為的に変えることが、結局全体としてはマイナスになる場合が少なくないことを教えてくれる例です。生きものは、ある種いい加減(少々構造が変っていてもいいと言うのですから)でありながら、いい気になってそれに便乗することは許さない厳しさがあるのだと実感します。内分泌撹乱の危険性が疑われる物質の多くが、女性ホルモン様のはたらきをするものであるのは、これまで述べてきたような事情からです。一万、男性ホルモン(アンドロゲンと総称)の受容体に結合する物質は、今のところ二種類(農薬のピンクロジリンとDDTの代謝産物)の二つだけです。こちらは結合はするけれど、体内へ入ってホルモンとしてはたらくことはありません。はたらかないのに受容体には結合するわけですから、正規の男性ホルモンの結合を邪魔してうまくはたらけないようにしてオスになることを抑えてしまうわけで、これも困ります。つまり今のところ、内分泌撹乱物質の多くは、生物をメス化する方向にはたらくわけです。
主として性ホルモン様物質による発生の異常とメス化が問題になっているのはこのような理由からなのです。
脳への影響
性ホルモン様物質による発生の異常とメス化、実はこれが脳にも現れます。というのも、性を決める要素は複数あるからです。第一は性染色体です。人間の場合、染色体は四六本、二倍体ですから二三対で、そのうちの二二対はまったく相同の染色体の組み合わせですが、性染色体だけは違います。女性の場合、X染色体が二つXXですが、男性では一つがY染色体でXYとなります。体はまずメスとして作られ、Y染色体上の遺伝子がオスに必要な物質を作りオス化する。単純に言うとこのようになっています。ここで活躍するのが性ホルモンで、前にXYの染色体を持っているのに表現型としてはメスになる場合があるという例をあげました。第二の要素は内分泌系で、さらにもう一つ大切な要素があります。
脳です。男性と女性では(他の動物のオスとメスでも)、理性、感性共に違いがあるのは日常なんとなく感じていることですが、近年、男女で脳に違いがあることがわかってきました。脳の性差研究は、ラットの性中枢の一部(視束前野)を調べたところシナプス数に雌雄で違いがあり、しかもその違いはアンドロゲンのはたらきできまってくることがわかったところから盛んになりました。カナリアは脳内にさえずり中枢があり、そこは雄の方が大きい(さえずるのは専ら雄ですから)のですが、生れてすぐの雌ヒナにアンドロゲンを注射すると雄並みの大きさになるのです。最近では、電子線や磁気を用いて外から脳のはたらきを測定できるようになりました(非浸しゅう性測定法)ので、人間の脳のはたらきの研究も進んでいます。ブローカ野という、言語に関する部分のはたらきを見たところ、男性は左脳だけがはたらいたのに対し、女性の場合、左右の脳のその部分の活動が高まったという実験例は興味深いものです。左右脳を結ぶ神経繊維が通っている脳梁も女性の方が太いということで、これは、男女のものの考え方の違いと関連しているかもしれません。
このような差がいつどのようにして生れるのか。人間の場合、男児では、妊娠初期から精巣からのアンドロゲンの分泌が始まり、ほぼ最後まで大量のアンドロゲンが分泌され続けることがわかっています。もちろん、女児にはこれはありません。他の動物での実験なども勘案すると、恐らくこの時に脳の性も決まるのではないかと考えられますが、今後の研究が必要です。染色体、性ホルモン、脳(これにも性ホルモンが関係)に続いて最後の要素はもちろん誕生後の生活環境です。「女の子らしくしなさいね」「男の子でしょう。しっかりしなさい」。親は、女の子らしさとは何か、男の子らしさとは何かがそれほどよくわからないまま、ついこの言葉を使います。これも、考え方や行動に影響するであろうことは日常の体験で思うことです。さてそうなると、次に気になるのは、内分泌撹乱物質の脳への影響ですが、残念ながらデータ不足です。ラットで胎仔の時から誕生直後まで、ダイオキシンにさらしたところ、雄の子どもの血中のアンドロゲン濃度が低く、成熟後雌の行動をしたという報告がありますが、事例研究や実験の必要があります。ただ、これまで見てきたことを総合すると、私たちの日常を便利にしてくれるということでありがたく使っているさまざまな化学物質をホルモンの関係で見ていく必要があることは確かということは言えます。しかも、単に内分泌系だけでなく、神経系、免疫系との関わりも見たり、体全体を作る細胞たち一つ一つのはたらきとそれらのコミュニケーションを通して体全体を見ることも大事です。
ホルモンとDNA
ホルモンが受容体に結合して引き起こす変化は具体的にはなにかとなれば、やはりDNAのはたらきです。ホルモンが受容体と結合した後の、反応は、大きく二つにわかれます。一つは、受容体が細胞膜にあり、これにホルモンが結合するとそこから内部の酵素活性を高める指令が出て、ドミノ式に情報が伝わり、最後にDNAに伝わった情報に従ってタンパク質が合成されるというタイプです。多くの情報はこうして伝わりますが、もう一つ、受容体が細胞の内部(核や細胞質)にあり、ホルモンと受容体との複合体が直接DNAに結合して指令を出すという、女性ホルモン、男性ホルモンを含むステロイドホルモンの仲間に特有のタイプがあります。ということは、内分泌撹乱物質もこれと同じはたらき方をしているのでしょう(図11_6)。ですから、このようなはたらきとの関係で内分泌撹乱物質への対処を考えていくことも必要です。内分泌撹乱物質のなかには、発がん性など直接遺伝子に影響する性質をもつ物質もありますが、急性毒性も含めて従来考えられてきた意味での有害物質と違って、分解性も比較的よいという物質もありますので新しい視点からのチェックをしなければなりません。最後に、内分泌撹乱物質の影響が疑われる現象をいくつか事例としてあげておきます。アメリカフロリダ州のアポプカ湖に近くの農薬工場からのDDTなどが流れこみ、それが抗アンドロゲン作用を持っているために、そこに棲むワニの生殖器が正常の半分から四分の一の大きさになってしまったという例は御存知の方も多いでしょう。逆に海産巻き貝のイボニシなどでは雌に異変が見られています。フジツボ対策として船底に塗られた有機スズの影響で雌にペニス様の構造や輸精管ができたという報告です。ヒトについても、この五〇年間に成人男性の精液一ミリリットル中の平均精子数が一億一三○○万から六六〇〇万へと半分近くに減ったという報告があります。しかも精液量も二五%減少というのですから、大きな変化です。変化はないという報告もあって、今のところ結論は出ていませんが、精子形成に性ホルモンが関わっていることは確かですので、マウスなどでの実験も含めて実情とそれへの対応を考える方向で研究が始まっています。この場合、影響の現れ方が種によって違うであろうことも配慮する必要があります。
これからどうするか
性や生殖に影響するとなると、これは直接人類の未来に関わります。そこで、先進各国の政府や国際機関がこの問題をとりあげて検討していますが、その基本姿勢は科学的証拠が弱く、分らないことが多いというところにあります。もっとも、だから大騒ぎするなというのではなく、これから研究を進めなければならないということではあります。これは、正論ですし、ただ騒ぐというのは無意味ですが、生命誌の立場からは、個別のデータを越えたもっと大きな問題として考えなければいけないのではないかという気がします。効率一辺倒で、大量生産を続けている限り、いくら科学的データを集めてみても対応の方法はないと思うからです。人間も化学物質でできているのですから化学物質を敵にするという話ではありません、しかも、天然に存在する物質なら問題がないというものでもないのです。生物は限度を超えるのが嫌いなのです。それについては、まとめて次回で考えます。これからどこへ行くのかを考えるにあたって、クローンと内分泌撹乱物質という、今話題のテーマを例としてとりあげて考えてきました。これ以外にも生きものの関わる技術の問題はたくさんありますが、時間の制約もありますし、タイプの異なる二つで代表させました。この二つの中には考えるべき課題がたくさんあり、それを真剣に考えれば、方向が見えてくると思ったからです。基本はまず、私たちも生きものであり、私たちはどこへ行くのかという時の私たちは、人間だけでなく生きもの全体を含めたものだというところに置くこと。それが大事です。したがって問題を指摘し、技術を批判し、倫理で判断するという方法ではなく、生きものにとってこの技術はどういう意味があるのかということをじっくり見るところから始めよう、そういうやり方で考えてみました。
環境問題に携わっている方からみたら生ぬるく見えるかもしれません。でも、こうして見ていくと、生きものとはどういうものか、生きものの一つとしての私はどういう存在かが見えてくる……そして少し大らかな気持になって、皆で何か新しい方法を考える。結局これが一番よい方法ではないかと私は思っています。もちろん、安全、倫理、法などで否とすべきはその判断をしなければなりませんが、その前に、政治家も企業の人も生活者も皆でこの感覚を共有したい。生物研究をしてきた私の願いです。そこで始めたのが「生命誌研究館」なのです。研究館では、これからを考えるために、これまでをじっくり見ようというわけで、ゲノムに書かれた記録を読むという自然科学の研究とその理解を深めるための表現法の研究という新しい試みをしていますが、そこには音楽も絵も文学も踊りも日常生活も皆とりこんでいます。一例をあげると、今テーマにしているのは「生命樹」です。古来、さまざまな地域の人々が生きていることの持つ力、自分を包み込んでくれる大きな世界をイメージした時描いたのが樹だったというのは興味深いことです。古代インドの生命樹からDNAで描く分子系統樹まで、思いは同じだと思っています。こうして生命を、そして人間を素直に見て行きたいのです。 
生命を基本とする社会

 

生命誌という見方で生きものを見ると人間が長い時間をかけてでき上ってきたヒトという生きものであり、地球上の全生物とつながっているということと同時に、多様な生きものの中でのヒトの特性が見えてきました。その特性を生かして文化を産み、文明を育ててきたのが人間なのですから、文化や文明の一部である科学や科学技術を否定するのは、生命誌の立場ではありません。しかし、現代科学技術は人間がこれまでに見てきたような存在であることを前提にしてできてはいないので、ここで、生命誌から見えてきた生きものの姿をまとめ、それを考慮した社会づくりを考えます。
共通するパターン
これまで見てきた生きものの姿に共通するパターンをまとめてみます(表12_1)。
積み上げ方式 原始の海に存在した分子から原核細胞ができ、それの共生で真核細胞、それが集まって多細胞…とにかく積み上げてきました。外から見た様子よりもむしろ、ゲノムを見た方が、DNAが重複していく積み上げがよく見えます。脊椎動物の起源を探るためにナメクジウオを調べているホランドは、ここにはホメオボックス遺伝子クラスターは一個しかないことを見つけました。ショウジョウバエでは一個、マウスやヒトでは四個あるので、脊椎動物誕生の時、四倍にふえ、新しい構造が作れるようになったと考えています。これはホメオボックスだけでなく、多くの遺伝子で見られます。そこでホランドはこの時ゲノム全体が重複したのではないかという大胆な考え方を出しています。ヒトゲノムの解析が進めばこの辺がはっきりするでしょう。生命の歴史の中にはかなり大がかりの変化をする時があるようで魅力です。別の言い方をするなら鋳掛け屋方式です。とくに真核細胞になってからは"捨てる"ということをほとんどしません。
内側と外側がある 最初に外と内を作ったのは脂肪分子の並んだシャボン玉のような膜。これで細胞ができます。細胞が集まってシートを作り、また内と外を作りました。こうして、私という独立の存在でありながら、常に外と関わり合っているのが生きものなのです。環境問題は生きもののこの性質ゆえに存在するので、外は内と同じくらい大事だという認識が大事です。ポイと捨てれば関係ないとはならないようにできているのです。
情報によって組織化され、しかも、独自のものを産み出す(自己創出系) 細胞が構造の単位であると同時に機能の単位でもあるので、部品でありながら自分で構造を作っていきます。受精卵という一つの細胞から自らの力で自分を作っていくみごとさ。その情報の基本はゲノムにあり、それはすべての個体で独自であることに注目すると、自己創出系という言葉が生物の本質を表現する最も重要な言葉に思えます。
情報のかきまぜで複雑化、多様化がおきる ゲノムの面白いところは、積み上げのところで述べたように重複させ、変化させ、更には混ぜ合わせる(その中で重要な役割をするのが有性生殖)などして次々と新しいものを作っていくことです。こうしてでき上ったものは、もちろん環境の中でテストされますが、ヒトが対で持っている遺伝子の数から見て、受精でできる組み合わせは一〇の三〇〇〇乗あります。この値は宇宙に存在する原子の数、一〇の八○乗個をはるかにはるかに上まわります。
偶然が新しい存在につながる 遺伝子の重複、更に増えたDNAの複製の時に起きるミスコピーなどで情報が変化することなど、いずれも偶然に起きた変化がもとになって新しい能力が生じ、新しい個体が生れます。
少数の主題で数々の変奏曲を奏でる 積み上げ方式、情報のかきまぜなど、これまで述べてきた方式で多様化していますので、基本は意外と単純です。これは細胞の受容体のところでも述べました。シートが元になって形を作っていく時も、輪、らせん、放射形などとパターンは決まっていますので、生物の形を見ると同じものがあちこちに見えて面白いのです。
常に作られたり壊されたりしている(代謝) 複雑に組織化され、常に動いている生物というシステムが成り立つには、一つ一つが安定では困るわけです。仕事を終えた分子は分解し、また必要なものを組み立てなおす。体の中の分子の七%は常に代謝しているので、活発に動いているところは、二週間もすれば一〇〇%新しい分子に変ります。細胞も代謝します。肝臓、腸、皮膚の細胞は活発に変るところ、神経などはあまり変らないところです。
循環が好き 体内をグルグル回る血液がその象徴ですが、生物全体で見れば生と死の循環もあります。情報も円を描いているので自分で調整し修正することになります。一直線に進む場合は、歯止めがききにくい。現在の科学技術にはこの傾向があり、そこが生物と合わないところです。循環は、もちろん物質にもあてはまります。自然界では、資源と排泄物、生産と消費などが厳然と区別されることなく相互に交換されています。
最大より最適が合っている 鉄やカルシウムが不可欠だからといって過剰になれば毒になります。マンモスは大きくなりすぎたとはよく言われることです。どうも今人間は、富や力など大きければ大きいほどよいという価値観で競っているような気がしますが、バランスを保つことの大切さを生物のありようから学びたいものです。
あり合わせ 周囲に順応し、周囲にあるものを活用していく生き方が随所に見られます。たとえば、さまざまな生きものの眼の水晶体を調べると、その素材はさまざまです。とにかく結晶化して透明になるタンパク質であれば何でもよいというわけです。このような柔軟性があったからこそこれだけの能力を獲得し、続いてきたのでしょう(表12_2)。
協力的な枠組みの中で競走している 生きものは生きることに懸命です。自分のためになることは積極的にとり入れていきます。しかし一方、生物界は、共生で象徴されると言ってもよいことが、調べれば調べるほどわかってきました。個体のレベルだけでなく、細胞や分子のレベルでも共生が重要であることは、これまで見てきた通りです。寄生者は宿主を殺してしまっては自滅になるわけですから。
生きものは相互に関係し依存し合っている ヒトももちろんこのネットワークの中に入っています。環境問題というのは理屈で考えるものではなく、一人一人がこの感覚を持つこと、私はこれを生きもの感覚と呼んでいますが、その感覚で行動の判断ができなければ相互関係を壊すことになります。以上のような生物の特徴を、もう少しまとめてみると、次の七つの面が見えてきます(表12_3)。
・多様だが共通、共通だが多様
・安定だが変化し、変化するが安定
・巧妙、精密だが遊びがある
・偶然が必然となり、必然の中に偶然がある
・合理的だがムダがある
・精巧な設計図は積み上げ方式で作られる
・正常と異常に明確な境はない
こうして並べてみると、お互いに矛盾することを抱え込んでいます。しかし、それだからこそダイナミズムが保たれている。矛盾に満ちたダイナミズムこそ生きものを生きものらしくしていると言えます。現代社会は、すべて合理的に進めようとした結果、却ってニッチもサッチも行かなくなっているような気がします。生物から学ぶ社会づくりの基本はこの辺にありそうな気がします。
生命を基本にする知
矛盾に満ちたダイナミズム。これを楽しむことができる社会づくりをしてみたいというのが、生きものの歴史を追ってきての気持です。そこで、私たちの「知」の体系の基本に生命を置いてみます。ところで、生命を基本の知とするという捉え方は、決して新しいものではありません。ヒトがこの世に登場した時は、周囲にいる先輩の生きものをよく知り、その仲間として懸命に生きていたに違いないのですから。そこを出発点として、知の歴史を簡単に追ってみます(表12_4)。最初は、生命を基本とする神話の時代です。人と自然とが一体化しており、人々は全体を感じ、関係を見ていたはずです。多様性が世界を織り上げ、情報は物語として伝えられていたでしょう。身体ですべてを感じ、時には第六感も重要なはたらきをしたでしょう。生活の基盤が狩猟・採集から農業へと移るにつれて、自然を管理する感覚が芽生えできたとしても、やはり人間は大きな自然の一部として存在していたと思います。その中から、現代の科学につながる動きとして登場するのがギリシャの学問、ここでは知を支えるものが「理性」になり、これが現在にまで続きます。ギリシャでは、プラトンとアリストテレスに象徴される、自然哲学と自然誌という形で、普遍性と多様性という自然理解の基本が整理されてきます。そこでは、自然界を秩序あるものとする存在として神が意識されますが、まだこの時点では人と自然との一体化の中に神も存在しています。それが、中世になり、キリスト教の世界になると、神、人、自然が独立してきます。神の創造物としての人と自然、そこでは人間は特別の存在として他の生物を支配する位置を与えられます。その中で、自然哲学、つまり自然界に法則性を見出し、それを統一的に理解するという知の形が強力に進み、自然の多様性そのものを楽しむ自然誌は脇役になっていくのです。自然哲学の延長上に近代になって科学が登場し、現代はついに科学が神の代りをするところまで来ていると言っても言い過ぎではないでしょう。神は退き、人は、自然を征服し利用する対象として捉え、そのための手段として科学技術を進めます。科学技術は、人間を自然の脅威や面倒から解放し、人間の生きもの離れ、自然離れを目的とするかのように人工物を産み出してきました。今では、私たちの日常は人工物の中で営まれています。その快さを楽しむ私たちですが、近年、環境破壊、つまり外の自然の破壊が大きな問題になってきただけでなく、人間の内なる自然も破壊されつつあると思わせる現象が目立ってきました。合理性だけを求めて進めてきた人工社会が、生命誌で追ってきた三五億年を越える生きもののつくる世界と合わないことが見えてきたのです。こうなった時、生きものとしてのヒトにすばやい変化を求めても無理です。自然に合わせながら、ダイナミズムを楽しむ生き方をするには、人間のヒトという部分、つまり自然の一部である部分を認めることから出発しなければなりません。しかも、人工世界を作ることも人間らしい営みなのですから、自然・人・人工が一体化したものにしなければならないわけです。これを結びつける基本は、ちょっと我田引水ですが生命になると思います。それは、神の支配のもとに人が自然を支配するのでもなく、理性を基本にした科学ですべてを解決しようとするのでもなく、もう一度、素直に生きるということでしょう。私はこれを新しい神話の時代と位置づけています。私たちがまた自然の内部に入りこむのです。ただここではっきりしておかなければならないのは、新しい神話の時代は、決して過去に戻ることではないし、また、ギリシャ以来の知を否定することでもありません。生命誌は、DNA研究を基本にしていますが、それを多様性につなげていき、そこで物語を作っていこうとしているのであってこれまでの過程は、新しい神話づくりへ向うプロセスだったと言ってよいと思います。これまで蓄積した知は、すべて活用します。ここでもう一つ大事なのは日常性です。DNA研究も日常性との連続があってこそ、また各人のコスモロジーにつながってこそ意味があるわけです。
生命を基本にする社会づくり / ライフステージ・コミュニティに向けて
生命誌研究の成果を社会づくりに生かそうというのが締めくくりになります。そこで、これまでに得られた生物に関する知識を生かすことになりますが、個別の知識の活用の前にもう一度社会の基本を確認しなければなりません。遺伝子組換え技術もクローン技術もある面では活用することになるでしょう。けれども、それを現在のような進歩一辺倒の社会で使うのはまずい。どのような社会にするかを決めてから技術の使い方を決めなければなりません。そこで、出てくるのが循環型社会。これはまさにその通りだと思います。しかしこれもなお、技術の側からの発想であり、人間から考えることになっていません。そこで、人間の側から考えた時にどうなるか。「一人一人の人間がその一生を思う存分生きることができる社会」。これ以外にないのではないかと思います。しかし、一人一人の人間などと言ってしまったらどう対処してよいかわかりません。好みも違い、何を幸せと思うかも違うのですから。そこで、社会としては、誰もが求める基本を支えることに徹する以外ありません。それにはどうするか。そこで選んだのが「ライフステージ」という言葉です。これは、人間の一生を段階的に見ていく見方を表わす言葉として作りました。参考になるのは発達心理学です。胎児期、乳児期、幼児期、学童期、思春期、青年期、壮年期、老年期。もう少し別の区切り方もあるようですが、要は人間の一生を成長に伴ってある時期に分け、それぞれの時期にしなければならないことは何か、与えられなければならないことは何かを考え、それに見合う社会システムを作っていくことです。こうすれば、一人一人のニーズに応える社会になるはずです。
具体的に医療で考えるとはっきりします。医療は病気の治療(予防、診断も含めて)にあたる分野で、医療の近代化は人間を見るのではなく病気を見ることから始まったと言われます。それまでは、身分の高い人、裕福な人は診療するけれど貧しい人は医療の対象にならないとされていたのに対し、病気という点では同じなのに人で区別するのは医の本質にもとるとされたのです。これは確かに重要ですが、それが行き過ぎて病気を持つ人は一人一人違うということが無視され、病気を血圧、血糖値などの数値で捉え、その値を正常値にすることが医療になってしまいました。ある人がどのような遺伝的背景を持ち、どんな家族の中でどんな生活習慣のもとに暮らしてきたか。それを知らずに病気の判断はできません。一生を見守ってくれる家庭医-----もちろん移動の激しい現代ですから、実際に一人の家庭医というわけにはいかないでしょうが、記録が続いていくシステムでそれはカヴァーできます。そして、その個人としての正常からのずれによって医療の必要性を判断し、専門医に送ればよいわけです。医療に限りません。教育ももっと個人に対応できるシステムが作れるはずです。ライフステージという考え方の利点の一つは、健常者と弱者、正常と異常という区別のなくなることです。通常社会の中で弱者とされるのは、乳幼児、老人、病人、身障者などです。しかし、ライフステージという視点で見ると、これはステージの一つです。一人として、乳幼児、老人、病人にならない人はいない。身障もそうです。いつ誰がどのような状態になるかわかりません。このようなステージは必ずあるものとして社会システムを組み立てるのは当然で、福祉社会と改めて言うものではないことになります。
ライフステージ社会は、過程、多様性、質という生物の基本に眼を向けることになりますので、生産システムも当然生産から消費、廃棄までを含めた循環型になります。図12_2にこのような社会を示しました。これを図示すると図12_3になります。第一象限は経済を追求する現代文明社会、現在はほとんどここで事柄が進んでいます。都市です。それに対して地域性があり、自然が豊かで人情が厚い第三象限は、時に憩う場です。こうして現代社会は、日常のほとんどを第一象限、それに少しのゆとりを与える場としての第三象限で成り立っています。しかし、地域性や自然を生かしながら、しかも経済性を成立させる産業はないのでしょうか。第二象限です。農林水産業は明らかにここに入る産業です。ところが現在の農業は第一象限で工業と張り合っていくことを求められています。そのために環境破壊がますます進んでしまう。第二象限の農業そのためには遺伝子組換えも上手に使いこなす新しい技術への取り組みが必要です。もう一つの象眼、第四象限は、文明を充分に使いこなしながら、人の心にも配慮するというところで、医療、教育はここに入ると思います。このようにして全体に広がった社会を作っていくには、自然・人間についての知識を充分に生かすこと、また生きものの本質から価値観を探ることが重要だと思います。生命誌はバイオヒストリー。一五〇億年前からの大きな時間の流れの中で生物全体を見てきました。ライフステージは、人間の一生という時間を見ていく。もちろんその一生は生命誌の中にスッポリ入っているものでもあります。最初に述べたように、複数の時間を意識しながらその中での生命を見ていくと、そこから私たちの生き方が見えてくると思います。 
 

 

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