西洋文明 雑話 [1]

キリスト教の象徴十字架神と共に歩む人生神の御言葉を聞く人生賜物を活用する人生万事相働きて益となる人生キリストの恵みを映す人生アリストテレスの学説アリストテレス時間の概念自然から人間へイデアの世界ユークリッド原論1ユークリッド原論2物の本質について1物の本質について2プラトン「饗宴」「ゴルギアス」「クリトン」「ソクラテスの弁明」ホメロス「イリアス」「オデュッセイア」ギリシア神話世界の始まり大地と天の子ゼウスの時代人間の誕生プロメテウスの贈り物4つの時代この空も飛べるエコーとナルキッソスへーローとレアンドロス人はなぜ働くのか旧約のイエスアウグスティヌス「ペラギウス論争」「神の国」「神のかたち」キリスト物理学のあゆみ17世紀における物理学の形成建築の歴史と方法パラディオと古代建築1パラディオと古代建築2ヴィトゥルヴィウス建築家の誕生古代から17世紀までの科学史身体をめぐる断章パスカルの精神機能パラケルススとアグリコラ鉱床学地球科学と磁石亜鉛黄銅/輝蒼鉛鉱/自然アンチモンモンテーニュ評言東洋の知恵西洋の知恵The Travels of Marco Polo
 

雑学の世界・補考   

十字架はなぜキリスト教の象徴なのか

十字架がキリスト教の象徴であるということは、常識的に考えると奇妙である。敵対する異教徒の中には、「彼らは、彼らに値するもの(死刑)を拝んでいる」と皮肉る人もいるが、なぜキリスト教徒は、教祖であるイエスを死に追いやった忌まわしい処刑の道具を、キリスト教の象徴として崇拝するのだろうか。イエスは、死後復活したのだから、十字架は、死の克服の象徴だと言う人もいるが、それならば、なぜ、釘とか槍といった他の処刑道具ではなくて、十字架でなければならないのかが問われなければならない。
1. コンスタンティヌスはなぜ公認したのか
実は、十字架がキリスト教の象徴になったのは、イエスが死んでから300年ほどたってからである。よく知られているとおり、キリスト教は、ローマ帝国では長らく迫害されていたが、313年にコンスタンティヌス1世(Flavius Valerius Constantinus − 以下、コンスタンティヌスと記す)によって公認され、後に国教にまでなった。十字架が象徴として認知され始めたのも、『新約聖書』が現在の形で成立したのも、キリスト教の基本的な教義が決まったのもこの頃である。どうやら、コンスタンティヌスに謎を解く手掛かりがありそうだ。
コンスタンティヌスは、ローマ帝国の西方副帝コンスタンティウスの子供で、母親がキリスト教徒ということもあって、もともと歴代皇帝と比べるとキリスト教には寛大だったが、彼自身は、キリスト教徒ではなかった。転機が訪れたのは、西方正帝マクセンティウスとの覇権争いの時だった。それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたコンスタンティヌスは、PとXを組み合わせたモノグラムの夢(一説によると白昼夢)を見て、これを新たな神の啓示と受け取り、そのモノグラムを兵士の盾に描かせたと伝えられている。
左のこのモノグラムは、キリストに相当するギリシャ語クリストス(χριστο?)の最初の二文字であるカイとローを組み合わせたもので、キリスト教を象徴する記号だった。ローは、ラテン文字のRに相当するのだが、ギリシャ文字の大文字は、ラテン文字のPと形が同じである。だから、コンスタンティヌスのようなラテン文化圏の人には、キリスト教のモノグラムは、PとXの組み合わせに見えたはずだ。
コンスタンティヌスが夢に見たこの記号が、いかなる願望の隠喩であったかは、精神分析学的に興味のあるテーマである。キリスト教のモノグラムは、ファルス(phallus)あるいはペニス(penis)の頭文字である(そして、睾丸の付いたペニスを横から見た形に似ている)Pにバツ印をつけた記号とも解釈できる。コンスタンティヌスにとって、それは去勢を意味する記号だったのではないだろうか。
なぜ、コンスタンティヌスが去勢の夢を見たのかは、後で考えることにしよう。その後、コンスタンティヌス軍は、数の上では圧倒的に劣勢だったにもかかわらず、マクセンティウス軍をミルヴィオ橋の戦いで破り、最終的に、コンスタンティヌスは、分裂していたローマ帝国を再統一して、ローマ皇帝となることができた。かくして、コンスタンティヌスは、キリストの神に感謝して、キリスト教を公認し、その後、キリスト教は、帝国内で急速に普及した。
こうした歴史的経緯を考えるならば、十字架がキリスト教の象徴になった背景には、イエスが十字架で死んだからという以上の理由があるようだ。去勢の記号としてのXを45度回転させれば、十字架になる。私がこれまで主張してきたように、キリスト教を、人類史の男根期に現れた去勢コンプレックスの宗教と位置付けるならば、なぜ十字架がキリスト教のシンボルとして選ばれることになったのかを理解することができる。
ローマ帝国では、長い間、十字架による磔刑が、死刑の方法として採用されてきたが、コンスタンティヌスは、これを廃し、絞首刑を採用した。ここからも、コンスタンティヌスが十字架に聖なる意味を見出していたことがわかる。328年に、コンスタンティヌスの母ヘレナは、エルサレムで聖十字架を発見し、その後、十字架に対する信仰が始まった。
コンスタンティヌスは、325年にニケア公会議を開き、父なる神と子なるイエスと聖霊は全く異なるとするアリウス派を異端として追放し、三位一体の教義を確立した皇帝としても知られている。三位一体とは、神にして人という両義性を帯びたイエスが、神と人の媒介となり、そしてイエスが処刑される、つまり媒介が消去(去勢)されることで、神と人とが一体となる(聖霊降臨)という教義である。これは、既に[論文編:三位一体とは何か]で説明した。
カトリックでもギリシャ正教でも、キリスト教徒は、よく指を使って十字を描く。その際、指は親指・人差し指・中指の三指を伸ばし、他の二本を折り曲げることで、三位一体を表す。このことは、十字を描くことと三位一体の教義には密接な関係があることを示している。
十字を描く時、手を、まず上から下へ、次に、カトリックでは左から右へ、ギリシャ正教では右から左へと動かす。どちらの場合でも、上から下に引かれる線は、天上の神と地上の信者を結び付ける媒介的な線、つまりイエスを表し、それに横線を引くことは、イエスの抹殺を表す。キリスト教徒は、十字を切ることで、イエスというファルス的存在を去勢するキリスト教の原点を反復し、神と人との一体を確認しているとみなすことができる。
2. 去勢がファルス崇拝をもたらす
去勢とは、ラカンの用語を使うなら、想像的ファルスの象徴的欠如である[c]。子供は、母にファルスが欠如していることに気が付き、母の想像上のファルスとなることで母の欲望を満たすことを欲望する。他方で、ペニス羨望を持つ母も、子供をそうした想像的ファルスとして所有することを欲望する。
[c] ラカンの用語法では、想像的対象の象徴的欠如が去勢(castration)であるのに対して、女性におけるペニスの欠如のような、象徴的対象の現実的欠如は、剥奪(privation)、子供が空想する乳房の喪失のような、現実的対象の想像的欠如は、挫折(frustration)と呼んで区別される。つまり、ラカンにとって去勢とは、文字通りペニスを切り落とす現実的欠如でもなければ、ペニスがなくなるかもしれないという想像でもなく、母のペニスになる想像が、父によって、言語的・象徴的に禁止されることなのだ。
この母子相姦関係は、鏡像的段階のナルシシズムの延長上にある。
近親相姦、ナルシシズム、母親の男根(ファルス)であることは、もしそれが実現すれば、そこでそっくりすべての欲望が終末に達し、何も欲望せず、何も他者に訴えず、そもそも言葉を使う必要がなくなることを意味する。これは人間にとっての一種の死である(ナルシス神話、鏡像段階の袋小路)。したがって、母親と子供の死の抱擁を妨げ、この想像的融合を断ち切る作用をするものが父の名なのである。
父の名(Nom du Pêre)とは、父から発せられる否(Non du Pêre)でもあり、想像的ファルスによる母子相姦を禁止する。去勢といっても、文字通り息子のペニスを切り取るわけではない。想像的ファルスが象徴的に欠如するだけである。欠如(する)を意味する英語の“want”が同時に欲望(する)という意味を持つことからわかるように、去勢によって作られる欠如が、欠如を埋めようとする欲望を可能にする。
欲望は常に欠如に向けられており、欠如を埋める相手を求めている。だから、性感帯は、身体の縁にある。性交において互いに触れ合うペニスと膣、キスにおいて互いに触れ合う唇や舌、授乳において互いに触れ合う乳首と乳児の口唇、排泄において触れ合う肛門と糞あるいは尿道と尿、視線が出入りする瞼の裂け目、声が出入りする耳たぶや口、これら性感帯に当たる身体の縁は、自分の身体に属すると同時に属さない両義的な性格を帯びる。
社会システムの境界に侵入する両義的存在者が、センセーションを巻き起こすように、身体システムの境界に侵入する両義的存在者は、エロティシズムを惹き起こすが、社会システムの秩序の体現者が、境界上の両義的存在者をスケープゴートとして排除するように、父は去勢により性的享楽を禁止する。
イエスも、いろいろな意味で、境界上の両義的存在者だった。神であると同時に人でもあり、ユダヤ教徒であると同時にユダヤ教徒ではなく、ローマ帝国の内部に存在すると同時に外部に存在した。その両義性ゆえに、スケープゴートとして、屠られることになる。キリスト教徒たちは、イエスを失うという去勢体験を経て初めて、イエスが自分たちのファルスであることに気が付いた。
去勢によってぽっかり空いた穴を、ラカンは対象aと名付ける。対象aは、欠如を埋めようとする欲動を惹き起こす。人々は、イエスの亡骸がなくなったことに気がつくと、聖十字架、聖釘、聖槍、聖杯、聖顔布、聖骸布といったイエスの欠如の痕跡を残す聖遺物を、対象aとして、追い求めた。特にヒトラーは、聖槍を手に入れれば世界を征服できるということで、ペニスと形状が似ているその聖遺物を渇望した。
日本武尊の伝説も、イエスの伝説と似ている。
日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺[木親]而視之、明衣空留而、屍骨無之。
日本武尊は白鳥となって、陵から出て、ヤマトの国を目指して飛んで行かれた。群臣たちが、そこでその棺を開いてみてみると、清らかな布の衣服のみがむなしく残っていて、屍は無くなっていた。
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
話をコンスタンティヌスに戻し、なぜ彼がが去勢の夢ないし白昼夢を見たのかを考えよう。フロイトによれば、人が夢を見るのは、願望を充足しようとするためである。同じことは白昼夢についても言える。
Der Inhalt dieser Phantasien wird von einer sehr durchsichtigen Motivierung beherrscht. Es sind Szenen und Begebenheiten, in denen die egoistischen Ehrgeiz- und Machtbedürfnisse, oder die erotischen Wünsche der Person Befriedigung finden. Bei jungen Männner stehen meist die ehrgeizigen Phantasien voran, bei den Frauen, die ihren Ehrgeiz auf Liebeserfolge geworfen haben, die erotischen. Aber oft genug zeigt sich auch bei den Männern die erotishe Bedürftigkeit im Hintergrunde; alle Heldentaten und Erfolge sollen doch nur um die Bewunderung und Gunst der Frauen werben.
これらの空想の内容は、非常にはっきりした動機付けによって支配される。白昼夢は、その人の利己的な野心と権力の欲求やエロティックな願望を満足させる情景や出来事なのだ。若い男では、たいがい野心的な空想が、恋の成就に野心をかけている女たちではエロティックな空想が抜きん出ている。しかし、男においてもしばしばエロティックな欲望が背景にはっきり現れる。すべての英雄的な行動と成功も、もっぱら女性たちの賞賛と好意を得ることを目指している。
男の場合、権力欲も性欲も男性ホルモンであるテストステロンの成せる業である。コンスタンティヌスは、権力への強い欲望を持っていたが、それは、女性にもてたいという欲望と同じであり、したがって、権力は、女性たちの欲望の対象であるペニスによって象徴される。当時、彼の軍は劣勢で、彼の野望は否定されようとしていた。それが、ペニスであるところのPにX(バツ)が付けられていた理由である。
ファルスは、去勢されることで、かえって欲望の対象になる。結局、コンスタンティヌスは、ローマ皇帝という象徴的ファルスとなることができたわけだが、それと同時に、イエス・キリストも真に普遍的なファルスとなることができた。
去勢されたファルスは、去勢されたことで無になるわけだが、それたんなる無であってはならず、普遍的な無でなければならない。去勢されたファルスは、ラカンのマテームでは、大文字の他者A(例えば、子供にとっての母)における欠如のシニフィアンSとして、S(A)と記される。ラカン研究者のリチャードソンとマラーは
S(A)は、数学の集合論における空集合、つまり一つも要素を含まない集合である
と言うが、これはどう解釈したらよいだろうか。
空集合は、{0}ではなくて、{φ}と記される。“0”は、ぽっかりと開いた穴の形をしていて、空を表すが、“1”や“2”と同様に、要素の一つとして扱われるので、{0}は空集合ではない。空集合であるためには、“0”から、数字としての特殊性を抹殺しなければならない。斜線は、その抹殺を意味する記号であると解釈できる。この空集合を表す記号は、ファルスのギリシャ語(φαλλο?)の頭文字と同じである 。イエスもまた、処刑されることで、肉的存在という特殊性を抹殺して、ファルスとして普遍的な存在となった。
3. キリスト教と仏教の共通点
イエス・キリストとともに、ガウタマ・シッダールタもまた、人類史の男根期に現れた去勢コンプレックスの宗教の開祖となった。キリスト教の象徴が十字架であるのに対して、仏教の象徴は、卍(まんじ)である。卍は、去勢の(したがって無の)象徴である十字が左に旋回する記号である。仏教以前では、太陽放射を表す記号として使われていたようだが、どちらにしても、それは男性原理を示す記号である。ちなみに、ガウタマ・シッダールタは、自分を太陽の裔と称していた。
卍には、左卍と、逆方向の右卍があり、右卍が力や理性を表すのに対して、左卍は、慈悲や愛を表す。ヒンドゥー教では、左旋回が太陽の動きとは逆なので、左卍は死を表すとされる。仏教を自発的去勢の宗教と特徴付けるならば、仏教には、左卍がふさわしい。右卍は、ナチスの鉤十字としても知られている。ファルスを断念した左の仏教とファルスすなわち「強い父親」を目指した右のナチスでは、方向が逆であるが、ともに去勢が出発点となっている。 
 
説教「神と共に歩む人生」創世記5章1節―32節

 

聖書
5:1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、:2 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
5:3 アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。4 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
5:6 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。7 セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。8 セトは九百十二年生き、そして死んだ。
5:9 エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。10 エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。11 エノシュは九百五年生き、そして死んだ。
5:12 ケナンは七十歳になったとき、マハラルエルをもうけた。13 ケナンは、マハラルエルが生まれた後八百四十年生きて、息子や娘をもうけた。14 ケナンは九百十年生き、そして死んだ。
5:15 マハラルエルは六十五歳になったとき、イエレドをもうけた。16 マハラルエルは、イエレドが生まれた後八百三十年生きて、息子や娘をもうけた。17 マハラルエルは八百九十五年生き、そして死んだ。
5:18 イエレドは百六十二歳になったとき、エノクをもうけた。19 イエレドは、エノクが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。20 イエレドは九百六十二年生き、そして死んだ。
5:21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。23 エノクは三百六十五年生きた。24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
5:25 メトシェラは百八十七歳になったとき、レメクをもうけた。26 メトシェラは、レメクが生まれた後七百八十二年生きて、息子や娘をもうけた。27 メトシェラは九百六十九年生き、そして死んだ。
5:28 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。30 レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。31 レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
5:32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。 
はじめに
本日は、今年最初の礼拝です。そこで、この1年を歩むため、わたしたちの信仰の姿勢を整えるお話をしたいと思います。すなわち、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であることについて、お話をします。本日の聖書の箇所は、ノアの洪水前のイスラエルの先祖たちの長生きの表と言われるものです。9百数十歳まで生きたとか、8百数十歳まで生きたとか、一番少ない人でも、3百数数十年生きたと書いてあります。初めて読む人は、びっくりするでしょう。でも、実は、この書き方で、人の真の人生は、万物の創造主なる神と共に生きる人生であることを実に印象深く、一度聞いたら忘れられない仕方でしっかり教えているのです。
1.9人の人が出てきます
さて、では、イスラエルの先祖の長生きの表は、どのような流れの中で語られているのでしょう。すると、神に造られた最初の人として、また、わたしたち全人類の代表として神の前に立っていたアダムがエデンの園で、神から食べてはいけないと禁止さてれていた木の実を妻のエバと一緒に食べ、造り主なる神に背いて罪人に転落してからのお話です。もうこのときには、アダムとエバは、罪人となりました。ですから、この箇所は、人間が罪人になってからのお話です。
では、このイスラエルの先祖の一覧表には、何人出てくるのでしょう。すると、9人です。厳密に言えば、10人ですが、32節に出てくるノアは、次の物語に続いていくので、外してよいでしょう。すると、アダムからレメクまで9人が出てきますが、それぞれの名前を見ておきましょう。まず、アダムからです。アダムとは、ヘブル語で、「人」、「人間」という意味です。アダムは、犬や猫や猿と違って、神に似て人格、心、知性感情意志をもつ尊い人間、価値ある人間として造られました。ですから、わたしたち人間は、犬や猫や猿のような人格のない動物と違って、神のかたちとして、人格をもつ、すぐれた、尊い、価値ある人間として、最初から区別されて造られたことを覚えましょう。
では、第2番目のセトという名前はどのような意味でしょう。すると、ヘブル語で、「授ける」あるいは「与える」という意味です。すなわち、セトは、神から、アダムとエバ夫婦に授けられ、与えられた子どもですので、神から授けれた子ども、神から与えられた子どもという意味で、セトと名づけられました。
第3番目の人は、エノシュです。エノシュは、ヘブル語で、「死すべき者」という意味です。すなわち、罪を犯した人間が、神による罰として死ぬべき者になったことを意味しています。第4番目の人は、ケナンですが、名前の意味は不明です。第5番目の人は、マハラルエルですが、名前の意味は、ヘブル語で「神の讃美」という意味です。神を賛美することを意味しています。
第6番目は、イエレドです。名前の意味は、ヘブル語で、「下る(くだる)」とか「下がる(さがる)」とか「下降する」という意味です。第7番目は、エノクです。名前の意味は、「従う者」という意味です。すなわち、神に従うことを意味します。第8番目は、メトシェラです。名前の意味は、「槍を投げる人」という意味です。槍を投げて狩をする人を意味します。そして、最後の第9番目の人は、レメクで、ヘブル語で、「強い者」という意味です。こうして、見ますと、名前には、それぞれ象徴的な意味があるかもしれません。
2.9人は皆桁外れの長生きでした
さて、以上のようにして、ここには、9人の人が出てきますが、これらの人々は皆桁外れの長生きでした。そこで、わたしたちは、だれでも、このイスラエルの先祖の長生きは、本当なのかと素朴に思うのです。
そこで、イスラエルの先祖たちの長生きについては、いろいろな理解の仕方が現れました。まず、文字通りの理解の仕方がありますが、その他にも、いろいろな理解の仕方が現れました。たとえば、ある人々は、この創世記5章の1年というのは、今日の1ヶ月の意味ではないかと考えました。また、ある人々は、創世記5章に出てくる人物は、個人を表しているのでなく、集団を表しているのではないかと考えました。すなわち、アダム、セト、エノシュというのは、日本流に言えば、佐々木家とか、鈴木家とか、佐藤家というように、アダム家、セト家、エノシュ家という風に、家、家族、一族全体、すなわち、集団の生存年数を表しているのではないかと理解しました。他にも、これらの年数は、何かを象徴しているのではないかと考えた人もいました。
こうして、いろいろな理解がなされてきましたが、文字通りに素直に、イスラエルの先祖たちは長生きしたと理解するのが一番よいと思われます。考えてみますと、わたしたち信者は、キリスト再臨の世の終わりには、二度と死ぬことのないキリストと同じ栄光の体に復活し、キリストと共に、また、キリストを遣わしてくださった父なる神と共に、そのとき完成する栄光の神の国で永遠に生きていくことを固く信じています。そのように、永遠に生きることを固く信じているなら、創造のときから時間的に近いゆえに生命力がまだ格段に強かったイスラエルの先祖たちが、数百年生きたことは、十分信じられでしょう。
聖書を見ますと、人間の寿命は、幾つかの段階を経て、今日の寿命になってくると言われます。まず、創世記5章のアダムからレメクまでのノアの洪水までの人々の寿命は、非常に長く、平均にすると750年ほどの長い寿命です。次いで、ノアの洪水からバベルの塔の出来事までは、4、5百年の寿命です。さらに、バベルの塔の出来事以後の寿命は、2百年前後です。そして、さらに、よく知られた詩編90編10節で、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と記していて、詩篇の作者は、人間の人生は、70年か80年と記し、今日のわたしたちの寿命と大体同じと言えるでしょう。
こうして、聖書は、幾つかの段階を経て、今日のわたしたちの寿命と大体同じと言える寿命になったことを記していますが、創世記5章の時代は、まだ、ノアの洪水前で、創造のときから時間的に近いので、人間の生命力が格段に強かったと考えられます。それゆえ、彼らは、驚くほどの長生きができたと思われます。
でも、ノアの洪水前のイスラエルの先祖たちが、創造のときから時間的に近かったので、生命力が各段に強くて、平均750年ほどの長生きをしても、だからと言って、彼らは、死ななかったわけではありません。人類の代表のアダムが禁断の木の実を食べて、罪を犯したことにより、神から永遠の命を受けることができず、逆に、アダムとアダムの子孫である全人類が、罪に対する神の刑罰により、必ず死ぬ者になったのです。
では、罪に対する神の刑罰によって死ぬ、惨めな者になってしまった人間が、死に勝利して、希望をもって喜んで生きる途は、ないのでしょうか。すると、あるのです。何と、神は、罪人になった人類をなお無償の大きな愛で愛してくださって、神を信仰し、神と共に人生を歩む者には、死に対する勝利の人生を、恵みとして与えてくださるのです。それゆえ、わたしたちは、罪人であっても、神を信仰し、神と共に歩むことによって、死に対する勝利の人生を希望と喜びをもって日々生きていけるのです。この大切な真理を教えるために、創世記5章が書かれたのです。
2.第7番目に出てくるエノクについての書き方が、他の8人と違います
さあ、そこで、わたしたちは、もう一度、創世記5章の書き方を、改めてよく見てみましょう。すると、そこに出てくる9人のうち、第7番目に出てくるエノクひとりだけ他の8人と違った書き方がしてあるのに、気がつきます。すなわち、他の8人の人は、何歳になったとき、だれだれをもうけた。そして、だれだれが生まれた後、何年生きて息子と娘をもうけた。それで、何年生き、そして、死んだという書き方で記されています。7番目に出てくるエノクを除く8人は、皆この書き方で記されています。そして、それらの8人についての一番の特色は、最後に、「そして死んだ」と言われていることです。
たとえば、6節以下のセトの場合を見てみましょう。「セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ。」と記されていますが、この書き方は、9節以下のエノシュと同じです。「エノシュは九十歳になったとき、ケナンをもうけた。エノシュは、ケナンが生まれた後八百十五年生きて、息子や娘をもうけた。エノシュは九百五年生き、そして死んだ。」で、書き方は、明白に同じです。数字は、人により少し違いますが、書き方は同じです。これは、実は、たまたま同じというのでなく、わざわざ意識的に同じに書き方で書かれているのです。
こうして、この書き方は、第7番目のエノクを除いて、第1番目のアダムから、第9番目のレメクに至るまで皆同じなのです。子どもを生んだ年や生きた年数は、個人差がありますが、書き方のパターンは皆同じです。そして、最後はどの人も、必ず「そして死んだ」という書き方です。
ところが、21節から24節に出てくるエノクの書き方だけが、わざわざガラっと違って書かれています。21節以下を見ますと、前半の部分は、「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後」までは、他の8人と同じ書き方ですが、その後、後半部分はガラっと違って、「三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」となっていて、他の8人に記されていた「そして死んだ」という言い方がありません。逆に、「三百年神と共に歩み」という言い方、また、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」という言い方が、なされていて、他の8人に言われていなかったことが、ひときわよく目立つように意識的に書かれています。
そして、これが、創世記5章で一番大事で、これがポイントなのです。そして、これに気がつくと、創世記5章は、意味がもうわかったも同然なのです。実は、創世記5章は、第7番目に出てくるエノクが、目立つように記されているのです。ですから、エノクが主役です。他の8人は、言わば脇役です。7という数字は、聖書において、完全や十分を表します。そこで、第7番目に出てくるエノクの生き方こそが、神に造られた人間の真の生き方として、十分であることを読者に巧みに印象深く教えようとしているのです。
3.エノクに注目しましょう
そこで、わたしたちは、他の8人の生き方と、エノクの生き方を比較してみましょう。大きな違いは何でしょう。すると、他の8人は、必ず最後に「そして死んだ。」と言われていることです。
では、その意味は何でしょう。すると、神に背いて、罪人になった人間は、罪に対する神の刑罰として、本当に死ぬ者になったことをとても強く強調しているのです。わたしたち人間は、最初から死ぬ者ではありませんでした。でも、エデンの園において、食べてはいけないと禁止されていた善悪を知る木の実を、人類の代表のアダムが食べて、神に背き、罪を犯したので、アダムもアダムの子孫であるわたしたち全人類も、罪に対する神からの刑罰として、死ぬ者になったのです。これらのことは、少し前の創世記2章と3章記されています。
そして、実際にその通りになり、罪に対する神からの刑罰としての死が、人類に入り込み、人類は本当に死ぬ者になりました。アダムは、930年生きました。でも、アダムの罪に対する神の刑罰として死にました。セトは、912年生きました。でも、セトの罪に対する神の刑罰として死にました。エノシュは、905年生きました。でも、エノシュの罪に対する神の刑罰として死にました。槍を投げる人という意味の名前のエネルギッシュで活力に満ちていたメトシェラは、何と、最も長く969年生きました。でも、メトシェラも罪に対する神の刑罰として死んだのです。
ですから、創世記5章で「そして死んだ。」、「そして死んだ。」と繰り返されているのは、わたしたち人間は、罪人になったゆえに、本当に死ぬ者となったことを読者にはっきり教えようとしているのです。 
すなわち、人間は、どんなに長く生きても、罪に対する神による刑罰としての死を免れることが決してできないことを印象深く教えようとしているのです。そこで、8人について「そして死んだ。」、「そして死んだ。」と繰り返されて、とても強く強調されています。
そして、さらに、創世記5章をよく見ますと、千年以上生きた人がいなのです。どんなに長く生きた人でも、千年以下なのです。最も長く生きたのは、27節のメトシェラですが、969年で、千年にはなっていません。では、どうして、千年以上生きられなかったのでしょう。すると、千年は、聖書においては、永遠と同じなので、千年以上生きることは、永遠に生きることと同じだからと考えられます。だから、千年以上生きることができなかったのです。
すなわち、罪人になったわたしたち人間が、この地上で永遠に生きることは不可能なのです。なぜなら、わたしたち人間の代表アダムが、エデンの園で神に背いたため、アダムとその子孫であるわたしたち人間は、永遠の命を神から与えられなかったからです。もし、代表アダムが、神の戒めを守り、食べてはいけないと禁止されていた善悪を知る木の実を食べなければ、アダムもアダムの子孫のわたしたちも、永遠の命を与えられ、死ぬことのない者とされ、神とのまじわりの中で永遠に喜んで生きていけたのです。でも、代表アダムの失敗により、子孫のわたしたちも永遠の命を受けられませんでした。永遠の命がないどころか、逆に、みじめな罪人に転落し、罪人としてこの世に生まれてきて、一生罪の中を空しく生き、最後は自分が犯した罪に対する神による刑罰として死んで人生が終わるのです。人間は、永遠に生きたいと思っても、罪ゆえに永遠には生きられないのです。それゆえ、最も長生きしたメトシェラでも、千年以下の969年であったのです。人間は、罪ゆえに永遠に生きることは不可能なのです。
そして、この点においては、今日のわたしたちも同じなのです。わたしたちも、生まれつきの全的堕落の真っ黒な罪人であるゆえ、この地上で永遠に生きることはできません。罪の支払う報酬としての死により、わたしたちの地上の人生もいつか終わるのです。
4.エノクの人生が、真の人生です
以上が、脇役の8人についての書き方の特色です。では、主役のエノクの特色は何でしょうか。そこで、わたしたちは、21節から24節に記されているエノクの箇所に注目しましょう。
すると、エノクには、他の8人について記していた「そして死んだ。」という言い方がありません。代わって、「神が取られたのでいなくなった。」という言い方がなされていて、エノクは、前代未聞の神からの破格の驚くべき大きな祝福として、死を経験することなしに、天国に移されたことを表しています。他の8人には、与えられていない祝福です。他の8人は皆罪ゆえに死んだのです。でも、エノクだけは違います。罪に対する神からの刑罰である死を経験しないで、直接、天国に移されたことは、前代未聞の破格の驚くべき祝福を意味しています。エノクは、神から大きな破格のよき報いを受けたのです。
では、どうして、エノクは、他の8人と違って、神から、前代未聞の破格の驚くべき大きな祝福、大きなよき報いを受けたのでしょう。すると、明白な理由があります。その理由は、エノクは、その名エノクが、「従う者」という意味を表すように、信仰によって神に従い、信仰によって神と共に歩み、信仰によって神との心満たされるまじわりの中で日々生きたからです。
すなわち、エノクは、信仰によって歩めば、いつくしみ深い神が、自分に対して、この世にあっても、かの世にあって必ずよい報い、すなわち、豊かな祝福を与えてくださることを信仰し、神を心から礼拝し、神に心から従って、神とのまじわりの中で、神に喜ばれる人生を日々歩んだからです。
そこで、創世記5章は、エノクが、神と共に歩んだことをわざわざ意識的に2回も繰り返して記し、強調して一番目立つようにしています。22節で「エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み」、また、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」と記しています。こんな短い箇所なのに、省略しないで、わざわざ意識的に目立つように「三百年神と共に歩み」、また、「エノクは神と共に歩み」と神と共に歩んだすばらしい事実が2回もわざわざ意識的に繰り返されています。これは強調です。
では、神と共に歩むとはどのようなことでしょう。すると、もちろん、神に体があるわけではありませんので、これは比喩的言い方です。すなわち、目に見えない真の神が存在されること、また、目に見えない真の神は、自分に対して、この世にあっても、かの世にあっても、必ずよい報い、豊かな祝福を与えてくださることを心から信仰して、神を礼拝し、神に従い、神とのまじわりの中で、神に喜ばれる人生を日々歩んでいくことを意味しています。
新約聖書ヘブライ人への手紙11章5節、6節を見ますと、エノクについて、次のように語っています。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」と言われています。
その意味は何でしょう。すると、エノクは、目に見えない真の神が存在されること、また、目に見えない真の神は、自分に対して、この世にあっても、かの世にあっても、必ずよい報い、豊かな祝福を与えてくださることを心から信仰して、神を礼拝し、神に従って、神と共に、神とのまじわりの中で人生を日々歩んでいたので、神は、エノクの生き方を喜んでくださり、それで、神は、前代未聞の破格の驚くべき祝福として、罪に対する刑罰としての死を経験することなしに、天国に移してくださったことを意味しています。
そして、さらに、エノクのところをよく見てみますと、エノクは、他の8人に比べると、短い地上の人生でした。エノクの生涯は、23節に記されているように、365年で、他の8人に比べると、とても短いのです。最も長いメトシェラの969年に比べると、3分の1ほどです。
でも、エノクは、神と共に歩みましたので、真の人生を歩んだのです。人の人生の決め手は、長い人生か短い人生かではなく、創造主なる神と共に歩んだ人生かどうかにあるのです。そして、この点において、今日も同じです。人の真の生き方は、わたしたちに命と人生を与えてくださった創造者なる真の神を信仰し、礼拝して、神との心満たされるまじわりの中で、神に喜ばれる歩みをしているかどうかによるのです。ですから、わたしたち一人ひとりも、今の時代のエノクとして生きていくことが大切なのです。創世記5章は、これを一番大切なメッセージとして読者に教えようとしているのです。
結び
こうして、わたしたちは、創世記5章は、読者も、エノクに倣い、神と共に歩む信仰の生き方をするようにとても印象深く一度聞いたら生涯忘れられない仕方で教えていることがよくわかり、聖書の余りのすばらしさに心打たれます。
そして、今日は、旧約時代は既に終わり、新約時代となり、神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストが出現しましたので、神と共に歩むということは、神が遣わしてくださった救い主のイエス様を信じ、イエス様を通して天の父なる神と共に歩むことを意味します。イエス様御自身が、「・・・わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」と言われた通りです。
そして、イエス様を通して、天の父なる神と共に歩む者には、イエス様が、死から復活したことにより、死に勝利する永遠の命が恵みとして与えられますので、神と共に、神との心満たされるまじわりの中で永遠に生きることができるのです。
それゆえ、この地上の歩みが終わっても、天国に移され、そこで、神との豊かなまじわりに生かされます。また、世の終わりには、キリストと同じ二度と死ぬことのない栄光の体に復活し、そのとき完成する栄光の神の国で、言葉に言い表せない喜びの中で、神と共に永遠に生きていきます。わたしたちクリスチャンも、確かに、死にます。しかし、キリストへの信仰により罪が赦されていますので、クリスチャンの死には、もはや罪に対する神の刑罰の意味はまったくなく、死は天国へ入るための門、永遠の命への通路の意味に変わります。
以上のようにして、本日の箇所を見ます。わたしたちは、一人ひとりが、今の時代の日本において、キリストを通して、万物の創造主なる神と共に歩む人の真の生き方をして、日々祝福をたっぷり受け、希望で胸を膨らませ、喜びをもって、この一年を歩んでいきたいと思います。聖霊が、わたしたち一人ひとりの内に豊かに働いて、神と共に歩む一年にしてくだるようにお祈りしたいと思います。 

説教「神の御言葉を聞く人生」ルカによる福音書10章38節―42節

 

聖書
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
はじめに
3月になり、春のおとずれを感じるようになってきましたが、寒さもまだ続いています。本日も、わたしたちは、みんなで心から神を礼拝し、豊かな祝福を受けたいと思います。
わたしの引退に伴い、わたしの奉仕も3月末までとなりました。そこで、3月を最終説教月間として、先週から説教させていただいています。聖書のいろいろな箇所から5回お話させていただきますが、首尾一貫した意図は、わたしたちの真の人生とはどのようなものかを、聖書に基づき5つの観点からお話します。
具体的には、第1回目は、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であること、第2回目は、真の人生は、神の御言葉を聞く人生であること、第3回目は、真の人生は、キリストから与えられている賜物を活用する人生であること、第4回目は、真の人生は、万事相働きて益となる人生であること、第5回目は、真の人生は、キリストの救いの恵みを映す人生であることです。これらのお話を順次していきます。
そして、先週、第1回目として、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であることをお話しましたので、本日は、第2回目として、わたしたちの真の人生は、神の御言葉を聞く人生であることをお話します。
それで、本日の箇所は、先ほど読んだところで、マルタとマリアの物語といわれるところです。そして、ここで、キリストは、「必要なことはただ一つだけである。」と堂々と権威をもって言い、人が生きていくときに根本的に必要なものは、救いを得させるキリストの言葉、すなわち、神の言葉を信仰をもって聞くことであると教えてくださいました。
人の言葉をいくら聞いても、人の罪を赦し、救いと祝福と永遠の生命を与えて、人を真に生かすことはできません。人の言葉と神の言葉であるキリストの言葉の間には、無限の質的断絶があります。キリストの言葉は、神の言葉で、人を罪の奴隷から開放し、救って、真の自由、生きる力、励まし、慰め、勇気、忍耐、希望、決断、人への愛、そして 死に勝利する永遠の生命までも与えて、人をこの世にあっても、かの世にあっても真に喜び生かす比類なき言葉です。
そこで、わたしたちも、神の言葉であるキリストの聖い御口から語られる比類なき神の言葉に教えられ、導かれ、支えられ、決して倒れることがないよい人生をこれからもみんなで歩んでいきたいと思います。できるだけ平易なお話ができればと思います。
1.キリストは、マルタとマリアの家を訪ねました
では、キリストが、「必要なことはただ一つだけである。」と言って、人が生きていくときに根本的に必要なものは、救いを得させるキリストの言葉、すなわち、神の言葉を聞くことであると教えてくださったのは、どのようなときでしょう。
すると、紀元30年ごろ、キリストが、十字架にかかり、人間の救いの道を開くため、イスラエルの中心地のエルサレムを目指し、イスラエル北部のガリラヤ地方から旅をして、途中で、ベタニヤ村のマルタとマリアの家を訪れたときです。
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」とありますが、「一行が歩いて行くうち」というのは、具体的には、キリストが12人の弟子たちを連れて、イスラエルの中心地のエルサレムを目指し、イスラエル北部のガリラヤ地方から旅をしていることを意味しています。
そして、「ある村にお入りになった。」とありますが、特に、村の名前は記されていません。でも、聖書の他のところから、マルタとマリアが住んでいた村は、ベタニヤ村という小さな村であることがわかります。ちなみに、ベタニヤ村は、エルサレムから東の方向に、約3キロほどの小さな村でした。3キロほどですから、1時間歩けば、エルサレムに行けます。
ですから、キリストは、エルサレムを目指す旅をしていましたが、その手前のベタニヤ村に立ち寄ったことになります。それは、マルタとマリアの姉妹を訪ねるためでした。マルタとマリアの姉妹には、ラザロという弟もいましたが、キリストは、この3人と前から親しい交流がありました。救い主のキリストと親しい交流があり、キリストが交流のためわざわざ家を訪ねてくださるとは、何と、救い主キリストはやさしいのでしょう。キリストは、今日も同じです。わたしたち一人ひとりを愛して、いくらでも親しい交流をもってくださるやさしいお方です。
2.マリアは、キリストの御口から語られる神の言葉に聞き入りました
さて、では、キリストが訪ねたとき、どんなことがあったでしょう。すると、姉のマルタが、大喜びして、キリストを迎えました。普通ですと、お客さんが来れば、一家の主人が出迎えますが、マルタがキリストを出迎えたことを見れば、マルタの父親と母親はもう亡くなっていたのかもしれません。そこで、一家を代表し、長女のマルタが、キリストと弟子たちを出迎えたのかもしれません。そして、マルタには、マリアという名前の妹がいました。
聖書にマリアという名前の女性は何人も出てきます。当時のイスラエルにおいて、女の子が生まれるとマリアという名前がよくつけられたようです。ちなみに、キリストのお母さんもマリアでした。また、このとき、キリストと一緒に旅をしていた婦人たちの中には、マグダラ町出身のマリアという女性もいました。そして、今、ベタニヤ村で、大喜びし、キリストを迎えたのも、マリアという女性でした。
さて、では、キリストが、マルタの家に迎え入れられてから、どうなったでしょう。すると、キリストがお話を始めました。お話を聞いた人々はだれでしょう。すると、マルタの妹のマリア、キリストの弟子たち、そして、キリストに従って一緒に旅をしていた婦人たちもいたでしょう。また、近所の人々もやって来ていたかもしれません。
キリストは、御自分が行かれるところどこでもそうでしたが、救いと祝福と永遠の生命をもたらす神の言葉を語りました。すると、妹のマリアは、キリストに一番近い足元に親しく座り、キリストの聖い御口から語られる言葉を一言も聞き逃すまいと、全身を耳のようにして、聞き入っていました。
この姿は、すばらしい姿です。当時のイスラエルにおいては、宗教の指導者がお話をするときには、椅子に腰を下ろして、お話をするのが普通でした。土曜日の安息日の会堂礼拝においてもそうでした。ですから、このとき、キリストも、椅子に腰を下ろし、お話をされたと思われますが、妹のマリアは、そのキリストに一番番近く、すなわち、足元に実に親しく座り、そして、キリストに自分の顔と心をしっかり向け、一心にキリストの御口から語られる一つ一つの言葉を集中して聞いていました。それで、マリアの心、魂、霊魂、精神は、キリストの御口から語られる一つ一つの言葉で、満たされ、潤されていました。
この姿はすばらしい姿です。女性も、キリストを通して、神の言葉に豊かにあずかる新しい祝福の時代を告げるものでした。実は、1世紀のイスラエルの社会は、家父長制で、典型的に男中心でした。何をするにも男が中心でした。宗教においてもそうでした。宗教の指導者からお話を聞くときもそうでした。通常は、宗教の指導者のすぐそばのよい場所に男性たちが座ったのです。女性たちは、男性たちの後ろや脇の、宗教の指導者からより遠いところに座って神の言葉を聞いたのです。
エルサレム神殿の礼拝も典型的に男性中心でした。神の臨在が約束された聖所の近いところは、男子の庭と呼ばれ、男性たちがそこに入り礼拝しました。女性たちは、男性たちが入る男子の庭の後ろ、すなわち、神の臨在が約束された聖所からより遠い婦人の庭というところに入って礼拝したのです。こうして、それまで、女性は、男性より、より遠いところで神の言葉を聞いたのです。
でも、救い主キリストが出現するに及んで変わりました。女性であっても、キリストに一番近いところ、すぐそばに親しく座って、心ゆくまで、キリストの言葉、すなわち、神の言葉が聞ける祝福の時代が到来したのです。
このマルタとマリアの物語を記しているルカによる福音書には、女性の物語が多いのです。女性が、キリストから豊かに祝福を受け、喜んで生きていく場面をわざわざ意識的にたくさん載せています。そこで、女性のための福音書などとも言われるくらいです。
たとえば、キリストの先がけの洗礼者ヨハネを生む母エリサベツの物語、キリストを生む母マリアの物語、ひとり息子をキリストに生き返らせてもらって喜ぶナインの町のやもめのお話、キリストと一緒に旅をして、キリストの伝道を喜んでお手伝いした忠実な婦人たちのこと、無くした銀貨を見つけて喜ぶ婦人のたとえ、貧しいやもめが、ごくわずかですが、心から神に献金を献げて祝福されたお話などは、ルカによる福音書だけが載せていることです。
どうして載せたのでしょう。それは、それまで、宗教において、男性の脇や後ろに追いやられていた女性が、救い主キリストの出現により、男性とまったく同じく対等、同等に、大切にされ、尊ばれ、一番そば近くで親しく、救いと祝福と永遠の生命をもたらす神の言葉を心ゆくまで聞いて、女性も心、魂、霊魂、精神が豊かに満たされ、潤され、喜びに満ちて大事な人生を歩んでいける豊かな時代が到来したことを教えるためです。
本当にそうです。人は、キリストから、神の言葉を聞くことにより、男も女も、神の愛により造られた真の人間に回復され、今日も、明日も、そして、永遠に喜び生かされるのです。あなたが男であれ、女であれ、あなたのすべての罪を恵みにより赦し、永遠の生命を与えて真に生かすのは、人の言葉ではなく、キリストの聖い御口から語られる神の言葉です。
3.マルタは、キリストに不満をぶっつけました
さて、では、妹のマリアが、イエス様の足元に座って、イエス様が語る神の言葉に聞き入っていたとき、姉のマルタは、それを見てどうしたでしょう。すると、妹のマリアが、いっこうに手伝おうとしないので、次第に腹が立ってきました。姉のマルタは、イエス様が来てくださったということで大喜びして、最高の接待をしてあげたいと思い、一生懸命かいがいしく働きました。そして、妹のマリアは、今は、イエス様のお話を聞いているが、そのうちに、自分を手伝ってくれると思っていたのでしょう。ところが、妹のマリアは、相変わらず、イエス様の足元に座り、御言葉を聞き続けました。さあ、そこで、姉のマルタは腹を立てました。
そして、姉のマルタは、イエス様に不満をぶっつけました。すなわち、妹のマリアが手伝おうとしないのは、イエス様が悪い。イエス様が、姉の手伝いをしなさいと言わないからだと考え、イエス様に不満をぶっつけました。
マルタは、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言って、キリストに不満をぶっつけました。この情景が目に浮かぶようです。日本流に言えば、お話をしている最中のイエス様のそばに、エプロンをつけた姉のマルタが、イライラしてやって来て、イエス様、妹は、わたしだけに接待をさせていて、自分は何もしないで、イエス様のそばに座ってお話を聞いているだけです。イエス様から、わたしを手伝うように、言ってくださいという姿です。目に浮かぶようでしょう。
姉のマルタの気持ちが40節前半に記されています。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが」とあります。「もてなし」というのは、もともとの意味は、奉仕、仕えるという意味です。そして、英語の聖書を見ますと、もてなしは、サービスとなっています。ですから、マルタは、自分は、イエス様に、最大限お仕えしたい、イエス様に最大限のサービスをしたいという気持ちで、忙しく立ち働いていたのです。そして、このこと自体は何も悪いことではありません。エルサレムを目指す旅をしているイエス様に、宿泊と食事を提供することは、とてもよいことです。
でも、マルタは、イエス様のために、あれもしてあげよう、これもしてあげようと考えて、行っているうちに、大切な心が、別のものに引きずられ、思いわずらい、心が混乱し、心のバランスを失ってしまったのです。そのため、自分を手伝おうとしないで、キリストの足元に静かに座って、神の言葉を喜んで聞いている妹のマリアに不満をもってしまいました。そこで、姉のマルタは、何と、救いと祝福と永遠の生命をもたらす神の言葉を語っている真っ最中のイエス様のところに、つかつかとやって来て、イエス様に不満をぶっつけて、神の言葉を語るイエス様の大事なみわざを中断させてしまったのです。
「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが」とありますが、「せわしく立ち働く」という言葉は、もともとは、引っ張られるとか引きずられるという意味の言葉です。ですから、姉のマルタは、イエス様のために、あれもしなければ、これもしなければと考えている間に、心が変な方向に引っ張られ、心が変な方向に引きずられてしまったことを表しています。
すなわち、自分が、イエス様の奉仕のため、イエス様にお仕えするため、イエス様へサービスするため、あれもこれもと一生懸命やっているのに、妹のマリアは何もしないで、イエス様の足元に静かに座って、御言葉を聞いているのはおかしい、御言葉を聞くことなど後回しにすべきである。イエス様も、イエス様だ、イエス様は、妹のマリアに、御言葉を聞くことなど2の次、3の次にして、姉のマルタのお手伝いをしなさいと言うべきであるという本末転倒した変な方向に心が引っ張られ、変な方向へ引きずられてしまったのです。
わたしたちは、人間的に考えれば、姉のマルタの気持ちがわからないでもありません。姉のマルタは、イエス様に対し、最高のもてなし、最高の奉仕、最高のお仕え、最高のサービスをしようと願って、そのようになったのです。
でも、実は、そこに姉マルタの大きな信仰的未熟さ、誤解、誤りがあったのです。どこがマルタの信仰的未熟さ、誤解、誤りだったのでしょう。すると、それは、わたしたち人間が、キリストに対して行える最高の奉仕、最高のお話仕え、最高のサービスは、キリストに対して、飲む物や、食べ物や、宿泊の準備をすることでなく、キリストが、救い主メシアとして語る、そして、そのためにこそこの世に来られた、救いと祝福を永遠の生命をもたらす神の言葉を、信仰をもって喜んで聞くことなのです。これこそが、わたしたちが、キリストに対して行える最高のサービスなのです。また、これこそが、キリストがわたしたち人間に求めるサービスなのです。これに取って代わるサービスなどないのです。このことを姉のマルタは、理解していなかったのです。
考えてみますと、キリストに対する奉仕、サービスはいろいろあります、でも、他のあらゆる奉仕、他のあらゆるサービスにまさる最高の、第一の、中心的な、そして根本的な奉仕、サービスは、わたしたちに救いと祝福と永遠の生命をもたらす、キリストが語る神の言葉を、喜んで聞くことなのです。
確かに、人の言葉は、わたしたちによい影響を与えることがいくらでもあります。キリスト教は、そのことを否定したりしません。わたしも、とてもよい影響を与えられた人の言葉があります。
中学2年生のときでした。友だちのひとりに文武両道の人がいました。その人は、勉強もよくできるし、スポーツもよくできる人で、人望篤く、生徒会の会長もしていた友だちでした。わたしは、すごいなあと思っていました。あるとき何気なく、その人の鉛筆入れを見ました。当時は、セルロイドでできた鉛筆入れでしたが、ふたに言葉が小刀か彫刻刀で彫ってあるのに気がつき何て彫ってあるのだろうと思って読んでみました。びっくりしました。何て彫ってあったと思います。「努力は天才を生む」と彫ってあったのです。わたしは、それを見たとき、すべてがわかった気がしました。そうだったのか。この人は、文武両道がよくできる人だけれども、何もしないできるのでなく、わたしの知らないところで、ものすごい努力をしているのだとわかったのです。それで、わたしは、そのときから、「努力は天才を生む」という言葉が大好きになり、自分の座右銘にして、わたしの自分の持ち物に、その言葉を彫って、繰り返し見て、何でも意識的自覚的に努力をするようになりました。その友だちには、いいことを教えてもらったと感謝しています。
こういうことはいくらでもあります。また、あっていいのです。キリスト教は否定しません。しかし、だからと言って、その言葉が、わたしに救いと霊的祝福と永遠の生命の恵みをもたらして、わたしを真に、そして、永遠に生かすというわけではありません。そんな力はまったくありません。
でも、キリストの聖い御口から語られる一つ一つの言葉は、違います。キリストの言葉は、神の言葉で、人を罪の力から開放し、救って、真の自由、生きる力、励まし、慰め、勇気、忍耐、希望、決断、人への愛、そして 死に勝利する永遠の生命までも与えて、人をこの世にあっても、かの世にあっても真に喜び生かす比類なき言葉です。キリストの言葉は、力ある神の言葉で、人の言葉と、無限の質的断絶があり、比類なき言葉です。神の愛と力に満ちあふれたキリストのこの言葉を聞かないで、人生をどうように生きるのでしょう。
4.わたしたち人間に必要なことは、神の言葉を聞いて生きることです
さて、キリストは、姉のマルタの誤りをやさしく諭し、正しいことを教えてくださいます。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」とありますが、この諭し方は、愛情とやさしさが十分感じられます。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」とありますが、「多くのこと」とは、多くの奉仕、多くのサービスのことです。すなわち、姉のマルタは、キリストに仕えしようとして、あれもしなければ、これもしなければと、多くの奉仕、多くのサービスをしようとしました。その結果、心が思い煩い、心が乱れ、心の平安とバランスを失ってしまったのです。「思い悩み」という言葉は、もともと、分かれるという意味の言葉です。すなわち、ひとつしかない心が、いくつにも分かれて思い煩っていることを表します。また、「心を乱している」という言葉は、心が混乱していること、また、心が平安とバランスを失っていることを表します。
考えてみますと、人が、キリストに対して行える最高の奉仕、最高のサービスは、多くあるわけでないのです。多くあるどころか、実は、ただひとつなのです。そして、それは、キリストが語る救いと祝福と永遠の生命をもたらす神の言葉を、信仰をもってしっかり聞くことなのです。これこそ、キリストに仕える最高の奉仕、最高のサービスであり、他のどの奉仕、他のどのサービスに取って代わることができないものです。自分は、他の奉仕、他のサービスをしているから、キリストが語る神の言葉を聞かなくてもよいということはないのです。キリストは、わたしたちにそのようなことを望まないのです。キリストが、わたしたちに望む最高の奉仕、最高のサービスは、キリストが語る神の言葉を、キリストのそばで、喜んで、しっかり聞いて、心に納めて、日々生きる力にすることなのです。
ですから、キリスト教信仰においては、聞くことがとても大切なのです。わたしは、若いときに読んだ1冊の本を思い出します。その本は、イスラエルの民の考え方とギリシャ人の考え方の比較をしているのです。
それで、内容は、大変興味深いことを言っているのです。ギリシャ人は、目に訴える美しさを追求した。それゆえ、美しい彫刻が発展した。ところが、イスラエルでは、目に訴える美しい彫刻は発展しなかった。なぜなら、イスラエルの民は、神の言葉を聞くことを一番大事にしたからである。それゆえ、ギリシャ人は、目の民族と言えるが、イスラエルの民は、耳の民族と言えるという内容でした。わたしは、なるほどと思いました。
本当にそうです。確かに、キリスト教信仰において、わたしたちを真に喜び生かす救いは、耳で、神の言葉を聞くこと、すなわち、キリストの言葉を聞くことから起こるのです。人の言葉をどれだけ多く聞いても救いは起こりません。今日は、言葉の氾濫で、いろいろな言葉がわたしたちの周囲にあります。政治の言葉、経済の言葉、社会に関する言葉、趣味や娯楽に関する言葉、スポーツの言葉など何でもあります。しかし、それら言葉をどれほど多く聞いても、わたしを罪から開放して、真の自由を与えることはできません。わたしに永遠の生命を与えて、死に対する勝利の人生を日々歩ませることはできません。さらに、わたしに天国と復活を力強く約束し、保証して、わたしを永遠の希望のうつにしっかり支えたりしません。人の言葉は、それらにまったく無力です。でも、キリストの言葉は、比類なき神の言葉であり、わたしたちを神とのまじわりに永遠に喜び生きる者に生まれ変わらせてくれるのです。
それゆえ、人はだれでも、マリアと同じく、キリストのすぐそばの足元に親しく座って、信仰をもって、聞くことを、人生において、いの一番に必要なこととして自分でしっかり選び取ることが大事なのです。それゆえ、マリアは、接待よりも、比類なき神の言葉を聞くという良い方を選んだのであり、だれも、これを取り上げることはできないのです。
「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」というキリストの御声は何と力強いのでしょう。わたしたちの耳にリンリンと響いてきます。「必要なことはただ一つだけである。」というのは、もともとの言い方は、「ひとつだけ、である、必要なことは」となっていて、「ひとつだけ」というのが、文の頭に来ていて、強調され、読者の心にスーッと入って来る書き方になっています。
本当にそうです。わたしたち罪人が、自分は、生まれてきて本当によかった、自分は生きてきて本当によかったと言える後悔のない真の人生を歩むために必要なことは、多くはないのです。ただひとつだけなのです。それは、あなたも、マリアと同じように、キリストの足元に親しく座って、あなたに救いを起こす比類なき神の言葉を信仰をもって聞くことです。他の何を、どれだけ、一生懸命やっても、救いはあなたに起こりません。他のいろいろな宗教の言葉を聞いても、あなたに救いは起こりません。世界に名だたる思想家の言葉を聞いても、あなたに救いは起こりません。テレビから毎日流れてくる言葉を聞いても、あなたに救いは起こりません。
でも、教会に来て、キリストの言葉、すなわち、具体的には、聖書の言葉を聞くとき、聖霊の豊かな働きと共に救いがあなたに本当に起こり、あなたは、よい人生を歩む者に変えられるのです。
ですから、人が、キリストの言葉を信仰をもって聞くことは、他の何ものにもまさる霊的に良いことなのです。「マリアは良い方を選んだ。」とありますが、マリアは、キリストに飲み物や食べ物を準備することよりも、霊的に良い方をしっかり選んだのです。もちろん、マキルタがキリストに飲み物、食べ物を準備したことは、悪いことでありません。しかし、だからと言って、救いをもたらしたりはしません。でも、キリストの足元に座って御言葉を聞くことは、罪の赦しと永遠の生命よりなる救いをマリアにもたらすので、間違いなく、霊的により良いものであり、さらに、最高に良いもので、これにまさる良いものはないのです。
したがって、いくら姉だからと言っても、妹のマリアが、キリストから御言葉を聞くことを取り上げるようなこと許されないのです。何よりも大切な救いを得させる、キリスト言葉を、人から取り上げたり、奪ったりは、だれにも許されません。「それを取り上げてはならない。」というのは、禁止のとても強い言い方になっています。人を真に生かす救いの言葉を人から取り上げてはならないのです。逆に、すべての人が聞けるようにするのです。
こうして、わたしたちは、キリストの足元に親しく座って神の言葉をしっかり聞いて、人生の目的や意味や価値を教えられ、心が豊かに満たされるマリアの姿を見るのですが、実は、マリアのその姿は、今日、わたしたちが、礼拝において、説教を通して、神の言葉である聖書の言葉をしっかり聞いて、人生の目的や意味や価値を教えられ、心が豊かに満たされるわたしたちの姿に重なるのです。マリアの姿は教会の姿であり、クリスチャンの姿なのです。礼拝で、みんなで聖書のお話を聞くことは、マリアが、キリストの足元に親しく座って、しっかり神の言葉を聞いているのと同じなのです。  
結び
以上のようにして、わたしたちの真の人生は、神の御言葉を聞く人生であることをお話しました。わたしたちも、キリストの聖い御口から語られる比類なき神の言葉に教えられ、導かれ、支えられ、何があっても決して倒れることがないよい人生をこれからもみんなで喜んで歩んでいきたいと思います。
 
説教「賜物を活用する人生」マタイによる福音書25章1節―30節

 

聖書
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21 主人は言った。忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
はじめに
3月も半ばになりました。寒い日もありますが、春のおとずれを感じます。本日も、わたしたちは、みんなで心から神を礼拝し、神から豊かな祝福を受けたいと思います。
わたしの引退に伴い、わたしの奉仕も3月末までとなり、3月を最終説教月間として、説教しています。わたしたちの真の人生とはどのようなものかを、聖書に基づき5回お話します。
第1回目は、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であること、第2回目は、わたしたちの真の人生は、神の御言葉を聞く人生であること、第3回目は、わたしたちの真の人生は、キリストから与えられている賜物を活用する人生であること、第4回目は、わたしたちの真の人生は、万事相働きて益となる人生であること、第5回目は、わたしたちの真の人生は、キリストの救いの恵みを映す人生であることです。これらのお話を順次していきます。
そして、すでに、2回終わりまして、本日は、第3回目として、わたしたちの真の人生は、キリストから与えられている賜物を活用する人生であることにつき、お話しいたします。
それで、本日の箇所は、先ほど読んだところで、タラントンのたとえといわれるものです。初めて聞く方は、タラントンというのは、何のことと思うでしょう。賜物のことです。キリストが、わたしたち一人ひとりに与えてくださっている賜物のことです。
今日、タレントという言葉がよく使われます。テレビのタレントさんが、今いっぱいいます。わたしは、テレビのあのタレントさんが好きだなどといいますが、そのタレントの語源が、ギリシャ語のこのタラントンで、もともと、賜物という意味です。与えられている良きものという意味です。
すなわち、何かができることを意味します。広い意味での能力や力のことです。能力というと、わたしたちは、すぐに、勉強ができることを思うかもしれませんが、それに限らず、広く、何かができること意味します。日本でも、あの人は、賜物があるなどというでしょう。賜物とは、何かよいこと、役に立つことをすることができることを意味します。そして、それが、聖書で用いられるときには、キリストからわたしたち一人ひとりに与えられている賜物を意味します。
人というのは、いろいろなよいこと、役に立つことができるのです。どの人にも、キリストは、ちゃんとタラントン、豊かな賜物を与えてくださっているのです。ですから、大切なことは、自分にも、キリストから賜物が与えられていることを心から感謝し、喜んで活用し、生かすことです。わたしたちを愛して、わたしたちを救うため、十字架で御自身を献げてくださった救い主キリストのために、自分も何かができる、自分もお役に立てる、そして、キリスト御自身から喜ばれ、豊かな祝福を受けるということは、最高に幸せです。これこそ、人の真の人生なのです。
1.わたしたちも、キリストが再び戻ってくる時代に生きています
さて、それで、まず、このタラントンのお話は、キリストのたとえ話であることを確認しておきましょう。すると、キリストのこのタラントンのたとえ話は、キリスト出現により神の国が始まりましたが、キリストは、十字架の死と復活を経て、天にお帰りになります。でも、また、世の終わりに、来てくださって、神の国を完成させてくだいます。
では、キリストが、天にお帰りになってから、世の終わりに再臨するまでの間、この世にいるクリスチャンたちは、どのように歩むのでしょう。すると、クリスチャンは、キリストから与えられているタラントン、すなわち、賜物を活用して、神の国を広げ、教会を建て、救いのよき知らせである福音を宣べ伝えて、キリストに喜ばれ、キリストから豊かな祝福を受けるように歩んでいくのです。
「天の国はまた次のようにたとえられる。」とありますが、「天の国」とは、神の国の別の言い方です。いわゆる天国のことではありません。わたしたちは地上の人生が終わったとき、天国に入れていただけますが、この天国を意味しているのでなく、神の国を意味しています。
ですから、「神の国」と言うべきところを、「天の国」と言ったのです。1世紀のイスラエルの人々は、神と言うべきところを、恐れ多いと考えて、神と言わないで、天と言い換えました。ここもそうです。ですから、「天の国」とは、神の国のことです。
そして、神の国とは何かと言えば、これまで何度も出てきましたように、神の支配を表します。神が、王さまとして支配することを意味します。今日、国というと、わたしたちは、国の面積をすぐにイメージして、アメリカは大きな国、日本は小さな国と思います。でも、先日テレビのクイズを見ていましたら、日本の方が、イギリスやドイツよりも大きいのですね。ただし、フランスよりは少し小さいですね。そのように、今日、国というと面積をイメージしますが、聖書の時代は、国というと、王がいてその国を支配するイメージをしたのです。
すなわち、国は、王がいてよい支配をするか、悪い支配をするかで決まったのです。旧約時代からのイスラエルの歴史を見ましても、よい王がいてイスラエルの民によい支配をして、イスラエルの民に幸せを与えた王は、とても少ないのです。そこで、イスラエルの民は、救い主が出現するときは、神が王となってよい支配をして、自分たちを幸せにしてくれることを待ち望んでいました。
そして、実際に、救い主キリストが出現したとき、キリストは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、ついに、神が王として恵みをもって支配する神の国が到来したことを力強く宣言してくださいました。「神の国は近づいた。」というのは、近づいたけどまだ来ていないとう意味でなく、神の国はついに来ました、ととうとう到来しましたという意味です。
それゆえ、キリストを救い主メシアと信じる人は、だれでも、神の国、すなわち、王である神の恵みの支配に入れられ、神の国の一員とされ、救いと祝福と永遠の生命を受け、神とのまじわりに日々心満たされて生きられるようになるのです。
今日もそうです。わたしたちも、キリストを信じて、すべての罪が赦され、神の国に入れられ、救いと祝福と永遠の生命を受け、神とのまじわりで、心、魂、霊魂、精神が満たされ、潤されて、日々、キリストを遣わしてくださった天の神をほめたたえながら歩みたいものです。
こうして、神の国、すなわち、神の恵みの支配は始まりました。でも、神の国の完成は、世の終わりにキリストが再びこの世に来られるとき、すなわち、再臨のときです。
そこで、キリストは、御自分が、十字架の死と復活を経て、天にお帰りになってから、世の終わりに再び戻ってくるまでの期間を、ある主人が長旅に出かけることにたとえて、お話をしたのです。
ですから、今日のわたしたちにもそっくり当てはまります。わたしたちも、キリストが天にお帰りになり、世の終わりに戻って来られる期間に生きているのです。
2.主人は、3人の僕に期待して、莫大なお金を預けました
さあ、そこで、タラントンのたとえそのものを見ましょう。すると、登場人物は、4人です。主人と3人の僕です。ある主人が、長旅に出かけることになりました。そこで、3人の僕を呼んで、それぞれに、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。
では、5タラントン、2タラントン、1タラントンとは、どのくらいの金額でしょう。すると、莫大な金額です。いくつかの説がありますが、5タラントンとは、5万日分の賃金総額、年数に直すと136年10ケ月分の賃金総額にあたると理解しておきましょう。すると、2タラントンとは、2万日分の賃金総額、年数に直すと54年8ケ月分の賃金総額にあたります。1タラントンとは、1万日分の賃金総額、年数に直すと、27年4ケ月分の賃金総額にあたります。
これは何を表すのでしょう。すると、この主人は、自分の僕たちを愛し、大切にし、目をかけ、信頼し、期待していたことを意味します。すなわち、主人の跡継ぎ息子でもなく、単なる僕、使用人にすぎないのに、5タラントン、5万日分の賃金総額、年数に直すと136年と10ケ月分の賃金総額にあたるもの、また、2タラントン、2万日分の賃金総額、年数に直すと54年8ケ月分の賃金総額にあたるもの、1タラントン、1万日分の賃金総額、年数に直すと27年4ケ月分の賃金総額にあたるものを信頼して預けてくれたのです。
たとえをわかりやすくするために、具体的な金額を考えて見ましょう。成人男子が一日働いてもらう賃金を仮に一万円にしておきましょう。すると、5タラントンは、5万日分ですから、5億円相当になるでしょう。2タラントンは、2億円相当になるでしょう。1タラントンは、1億円相当になるでしょう。1世紀においての5億円相当、2億円相当、1億円相当というのは今日以上に膨大な金額、莫大な金額です。
実に興味深いたとえ話ですね。キリストは、お話の名人ですね。聖書は興味深いですね。それから、どうなるのだろうとわたしたちは先を読みたいですね。神の言葉である聖書に教えられて歩む人生はいいですね。
3.2人の僕は、積極的にタラントンを活用しました
さあ、主人は長旅に出かけました。3人の僕はどうしたでしょう。すると、5タラントンを預けられた僕は、自分に向けられた主人の暖かい心をよく理解し、跡取り息子でもない僕に過ぎない自分に、5タラントン、すなわち、5万日分の賃金総額、年数に直すと136年と10ケ月分の賃金総額にあたるもの、今日で言えば、5億円ほどにもあたるものを、自分を信頼して預けてくださったことを思い、うれしくて、うれしくて、主人のためにがんばるぞと決心し、5タラントンを寝かせておかないで、積極的に活用し、生かしました。そして、何と5タラントンをもうけたのです。
15節後半から、16節に「早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。」とありますが、「早速」という一言が生きています。もともとは、「すぐに」という意味です。すなわち、5タラントンを預けられた僕は、主人の暖かい心を知って、うれしくて、うれしくて、感謝で、感謝で、すぐに、喜んで、5タラントンを積極的に活用し、生かして、商売を始めました。そして、主人が帰ってくるまで、一生懸命働いて、5タラントンをもうけました。この僕は、主人の信頼と期待にちゃんと応えました。5タラントンを元手にして、5タラントンをもうけて、10タラントンにするのには、相当な努力や工夫や知恵を尽くしたでしょう。並々ならぬ苦労もいっぱいあったでしょう。でも、倍に増やしました。主人に忠実な立派なよい僕でした。
では、2タラントンを預けられた僕は、どうしたでしょう。すると、2タラントンを預けられた僕も、自分に向けられた主人の暖かい心をよく理解し、子どもでもない僕に過ぎない自分に、2タラントン、すなわち、2万日分の賃金総額、年数に直すと、54年8ケ月分の賃金総額にあたるもの、今日で言えば、2億円ほどにもあたるものを、自分を信頼して預けてくださったことを思い、うれしくて、うれしくて、感謝で、感謝で、主人のためにがんばるぞと決心し、2タラントンを積極的に活用し 生かしました。そして、主人が帰ってくるまで一生懸命働いて、何と2タラントンをもうけたのです。この僕も、主人の信頼と期待にちゃんと応えました。主人に忠実な立派なよい僕でした。2タラントンを元手にして、2タラントンをもうけて、4タラントンにするのには、相当な努力や工夫や知恵を尽くしたでしょう。並々ならぬ苦労もいっぱいあったでしょう。でも、倍に増やしました。主人に忠実な立派なよい僕でした。
今日のキリストの僕であるわたしたちも、この2人のよい僕のようでありたいと思います。キリストから、自分にも賜物が与えられていることを喜び、感謝して、日本の地における神の国の拡大のため、教会を建てるため、救いのよき知らせである福音を宣べ伝えるため、賜物を積極的に活用し、生かし、用いたいものです。
では、1タラントンを預けられた僕は、どうしたでしょう。すると、だれも知らないところの地面を掘ってお金を隠しておきました。実は、聖書の時代においては、お金や金銀財宝の一番安全な保管方法は、人目につかない地面に穴を掘って入れて隠しておくことでした。こうしておけば、泥棒や強盗や盗賊から守られるのです。なぜ、こんなことをしたのでしょう。すると、少し後に、理由が出てきますので、そのときにお話をします。
さて、かなりの時間が経ちまして、主人が長旅から戻ってきました。そして、3人の僕たちと清算をしました。まず、5タラントンを預けられた僕が、主人から預かった5タラントンともうけた5タラントンを合わせ、10タラントンを差し出したので、主人は、とても喜びました。そして、言いました。お前は、忠実な役に立つ良い僕だ。よくやった。わたしがお前に預けた5タラントンを、倍にして、10タラントンにした。わたしの財産から見れば、お前に預けた5タラントンは、少しのものであるが、その少しのものに、お前は忠実であったから、今後は、わたしの財産のもっと多くのものをお前に任せえようとほめました。5タラントンの僕は、主人のそのお褒めの言葉を聞き、さらに、今後は、もっと多くのものを任せてくれるとの約束を聞いて、顔は、にこにこし、心は、喜びで満ちあふれたでしょう。
では、2タラントンを預けられた僕はどうしたでしょう。主人から預かった2タラントンともうけた2タラントンを合わせ、4タラントンを差し出したので、主人は、とても喜びました。そして、言いました。お前は、忠実な役に立つ良い僕だ。よくやった。わたしがお前に預けた2タラントンを、倍にして、4タラントンにした。わたしの財産から見れば、お前に預けた2タラントンは、少しのものであるが、その少しのものに、お前は忠実であったから、今後は、わたしの財産のもっと多くのものをお前に任せえようとほめました。2タラントンの僕は、主人のそのお褒めの言葉を聞き、さらに、今後は、もっと多くのものを任せてくれるとの約束を聞いて、顔は、にこにこし、心は、喜びで満ちあふれたでしょう。
これは、読者に何を教えているのでしょう。すると、わたしたちの主であるキリストが世の終わりに再臨されるとき、わたしたちは、キリストにお会いしますが、そのとき、わたしたちが、キリストから与えられている豊かな賜物をどのように使ったのかを、喜んで報告できるようにしなさいというメッセージであることは、きわめて明白です。
本当にそうです。確かに、わたしたちは、キリストから与えられている賜物をいろいろなことに使います。また、いろいろなことに使ってよいのです。自分の賜物を、自分の仕事のために、家庭のために、趣味のために、習いごとのために、ボランテアのために、スポーツのために、その他いろいろなことのために使ってよいのです。人生の全領域で、積極的にどんどん使ってよいのです。
でも、それだけで終わらないのです。神の国を広げるためにも、教会を建てるためにも、救いのよき知らせである福音を宣べ伝えるためにも、すなわち、霊的なもののためにも、永遠的な価値のもののためにも、朽ちないもののためにも。積極的に喜んで使うのです。そうすると、わたしたちは、再臨のキリストから、『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』と、お褒めの言葉を受け、さらに、豊かな祝福が与えられ、わたしたちは、喜びに満ちあふれるのです。
自分の賜物を、自分のことだけに使うのでなく、わたしたちを愛して、十字架で命を献げて、わたしたちのすべての罪を赦し、霊的祝福を日々いっぱい与えて、わたしたちの心を潤し、さらに、死に勝利する永遠の生命までも与えて、わたしたちの救いを未来永劫に保証してくださっているキリストのために、わたしたちも、お役に立つことができる、そして、キリストから喜んでいただけるとは、何とすばらしい人生でしょう。
キリストから、あなたは、「忠実な良い僕だ。よくやった。」とほめられたら、わたしたちの霊魂は、無限の喜びで満ちあふれるでしょう。楽しみです。みんなで楽しみにして、今、日本において、神の国を広げるため、教会を建てるため、救いのよき知らせである福音を宣べ伝えるために、賜物を心から喜んで活用しましょう。これは、決して無駄にならず、キの御心にかない、必ず、身に余る豊かな祝福を自分にもたらします。
4.1タラントンの僕は、全部取り上げられてしまいました
さて、では、1タラントンを預けられた僕はどうしたでしょう。すると、この僕について、一番長く書いてあります。その意味は、読者は、この僕のようにならないように注意しなさいという意味です。本当にそうです。
1タラントンを預けられた僕は、かなりの年月が経ち、長旅から帰ってきた主人に言いました。御主人さま、わたしは、あなたが、種を蒔かないのに刈り入れを命じたり、種を散らさないのに、収穫物をかき集めることを命じるほど人に厳しいお方、酷なお方であることを知っていました。
それゆえ、あなたが怖いので、あなたから預かったお金を一文でも減らしたら、激しく叱責されると思い、1タラントンを、人目につかない地面に穴を掘り、埋めて隠しておきました。でも、あなたがお帰りになったので、堀起こして、1タラントンを持ってきましたので、どうぞお受け取りくださいと言いました。
さあ、すると、主人は、激怒し、「怠け者の悪い僕だ。」と激しく叱責しました。「怠け者の悪い僕」とは、役に立たないよくない僕という意味ですが、日本流に言えば、主人は、「この馬鹿者めが」と声を荒げたということでしょう。
そして、さらに、主人の激しい叱責は続きます。もし、1タラントンを預けられた僕が、主人は蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めると、心の中で考えていたこと、そして、地面に埋めて隠すであろうことを、主人が知っていれば、主人は、1タラントンをその僕に決して預けず、最初から当時の銀行に預けて、利息を稼ぐ仕方にしていたと語り、この僕を信頼し、期待したのに、裏切られたしまったことを表明しました。
「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。」とありますが、1世紀に銀行などあったのでしょうか。すると、今日の銀行の原初形態のものがあったのです。もともとは、イスラエルの西隣の地中海沿岸のフェニキヤ地方から始まったといわれていますが、お金を預ければ利息がつく仕方が、イスラエルにも入っていたのです。
今日は、利息がメチャ低いです。わたしは、ときどき、近くの郵便局に手紙を出しにいきます。すると、貯金を勧めるパンフレットがたくさん置いてあります。たまにもらって見ますが、利息は1パーセント以下です。0.何パーセントです。本当に低いです。預けても変わりないと思うかもしれません。
でも、1世紀のイスラエルにおいては、それ相当の利息がついたのでしょう。しかも、1タラントンという当時としては莫大な額になります。さらに、主人が帰ってくるまでには、かなりに日が経っていましたから、なおさら、利息はたくさんついたでしょう。
そこで、主人は、この僕に2つのことをしました。ひとつは、1タラントンを取り上げて、5タラントンでさらに5タラントンをもうけて、10タラントンにした忠実な僕に、この1タラントンを任せました。
そのため、10タラントンを持っていた僕は、さらに与えられて豊かになりました。しかし、1タラントンを持っていた僕は、持っていた1タラントンを取り上げられて、何もなくなってしました。
また、主人と清算をしていたときは、夜であったのでしょう。そこで、この僕は、主人の家から外の暗闇に追い出され、外の暗闇で、悲しみ泣き、歯ぎしりをして悔しがることになります。でも、もう遅いのです。主人が帰ってきてしまい、清算が完了してしまいました。もう前に戻すことはできません。わたしたちもそうです。この世に生かされているときに、キリストのため、喜んで賜物を生かすのです。
では、どうして、3人のうち、この僕だけが、そんなことになったのでしょう。すると、この僕だけが、主人を理解していなかったのです。この僕は、主人は、種も蒔かないで刈り取りを要求する血も涙もない恐ろしい酷な方と理解したのですが、それは、事実に反す自分勝手な思い込みで、完全な誤解でした。
その逆です。この主人は、とても大きな愛のある主人でした。跡取り息子でもなく、単なる使用人の僕にすぎない者たちを、ちゃんと愛して、大事にして、目をかけて、信頼して、それぞれに、5タラントン、5万日分の賃金総額、年数に直すと 136年10ケ月分の賃金総額にあたるもの、また、2タラントン、2万日分の賃金総額、年数に直すと54年8ケ月分の賃金総額にあたるもの、1タラントン、1万日分の賃金総額、年数に直すと 27年4ケ月分の賃金総額にあたるものを信頼して預けてくれたのです。これらはどれも莫大な額です。1タラントンでも、実に莫大な額です。
それゆえ、本来なら、1タラントンを預けられた僕は、次のように言うべきでした。「御主人さま、あなたの跡継ぎ息子でもない僕にすぎないわたし、1タラントンも、わたしに委ねてくださることは、本当にありがたいことです。心から感謝いたします。御主人さまの信頼と期待に応えられるように、わたしは精いっぱいがんばります。御主人さまが帰って来られたときには、必ず、もうけをお持ちします。欠けの多い僕にすぎないわたしをこんなにまで心にかけてくださり、本当にありがとうございます」と、自分の顔を何度も地にこすりつけて感謝し、主人から委ねられた1タラントンを喜んで積極的に活用すべきだったのです。しかし、他の2人の僕は、ちゃんと主人の暖かい心を理解したのに、残念ながら、この僕だけは、理解せず、何ら活用せず、主人が帰ってくるまでのかなりの期間、地面に埋め隠して、何もしないで時を過ごしていたのです。これじゃ、だれが見てもまずいでしょう。主人は、この僕をもちゃんと愛して、1タラントンもの大金を委ねたのです。主人は、少しも酷ではないのです。逆に、愛がととても大きな主人なのです。僕をこんなに愛して、大事にしてくださる主人など、他にいないのです。
それで、わたしたちは、愛の大きな主人が、キリストを表し、また、3人の僕が、わたしたちを表していることが、容易にわかります。そして、わたしたは、1タラントンの僕でなく、5タラントン、また、2タラントンを与えられた僕をお手本として生きるように、教えていることがとてもよく伝わってきます。
本当にそうです。キリストの今の時代の僕であるわたしたちも、5タラントン、また、2タラントンを与えられたよき僕に習い、キリストから与えられている賜物を心から喜んで積極的に活用し、生かして、人の生き方がわからなくなっている今の時代の荒廃した日本において、信じただけで本当に救われるよき知らせである福音を熱心に宣べ伝え、真理の柱なる教会を一生懸命建て、神の国を力強く広げて、キリストから身に余る豊かな祝福をみんなで受けたいと思います。日本の真の希望は、クリスチャンにかかっています。
結び
以上のようにして、わたしたちの真の人生は、キリストから与えられている豊かな賜物を積極に活用する人生であることを見ます。わたしたちは、これまでもそうでしたが、これからも、福音を宣べ伝えるため、教会を建てるため、神の国を広げるため、キリストから与えられている豊かな賜物を惜しまず心から喜んで活用し、祝福をいっぱい受けたいと思います。聖霊が、わたしたちを賜物の活用に導き、促してくださるように祈りましょう。 
 
説教「万事相働きて益となる人生」ローマの信徒への手紙8章26節―30節

 

聖書
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
はじめに
3月も半ばを過ぎました。寒い日もありますが、春のおとずれも感じます。本日も、わたしたちは、みんなで心から神を礼拝し、神から豊かな祝福を受けたいと思います。
わたしの引退に伴い、わたしの奉仕も3月末までとなり、3月を最終説教月間として、説教しています。そこで、わたしたちの真の人生とはどのようなものかを、聖書に基づき5回お話します。
第1回目は、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であること、第2回目は、わたしたちの真の人生は、神の御言葉を聞く人生であること、第3回目は、わたしたちの真の人生は、キリストから与えられている賜物を活用する人生であること、第4回目は、わたしたちの真の人生は、万事相働きて益となる人生であること、第5回目は、わたしたちの真の人生は、キリストの救いの恵みを映す人生であることです。これらのお話を順次していきますので、お出かけいただければ感謝です
そして、すでに、3回終わりまして、本日は、第4回目として、わたしたちの真の人生は、いつくしみ深い神の摂理により、万事相働きて益となる人生であることにつき、お話しいたします。
万事相働きて益となるなどと言いますと、日本にだって、人生には無駄なものはない、どんなことも益になる、人は苦労はしておくものだという言い方もあるので、聖書だけが、教えるわけではない。人生に無駄なものはないという教えは、いつの時代の世界のどこにでもある教えではないかと思うかもしれません。
しかし、言葉は似ていても、聖書が教える万事相働きて益となるという教えは、他のものと全然違うのです。どこが違うかといえば、生ける真の神が、わたしたちを愛して、人間的にはマイナスと見えることも、万事相働きて益としてくださるので、日本で一般的に言われる、人生に無駄はないという処世訓とは全然違う聖書独自のすばらしい神の摂理の教えなのです。
本当にそうです。わたしたちは、キリストを信じて、救われ、永遠の生命の道を喜んで歩んでいます。でも、わたしたちの救いを妨げるいろいろな試練や苦しみが生じます。しかし、神は、わたしたちを愛して、摂理により万事相働きて益として、わたしたちの宝物のように大切な救いが、何があっても決して壊れず、わたしたちが、さらに、喜んで日々、救いの完成を目指して歩めるようにしっかり支えていてくださるのです。それゆえ、わたしたちは、これからも、みんなで安心して、救いの完成を目指す歩みをしていきたいと思います。平易にお話できればと思います。
1.恵みの仕掛けとして、祈りにおける聖霊の執り成しがあります
それで、本日は、ローマの信徒への手紙からお話をします。初めての方は、ローマの信徒への手紙とは、いったい何と思うかもしれません。聖書には、キリスト出現前に書かれた旧約聖書とキリスト出現後に書かれた新約聖書がありますが、ローマの信徒への手紙は、キリスト出現後に書かれた新約聖書の一部です。
書いた人は、パウロという1世紀のキリスト教の伝道者です。そして、ローマの信徒への手紙は、その名の通り、1世紀当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の首都のローマの都にあった教会の信徒に宛てた手紙です。紀元56年ごろ、ギリシャ南部のコリントという町で書いたと思われます。
そして、この手紙は、キリスト教信仰とは何かを順序よく力強く明白に教えています。そこで、このローマの信徒への手紙は、聖書全体を解く鍵、キーのようなものだと言われます。また、キリスト教信仰がぼやけたり、わからなくなってしまったときには、このローマの信徒への手紙を読みなさいとも言われてきました。
そこで、わたしたちは、力強いこのローマの信徒への手紙を見たいと思います。すると、本日の箇所で、神は、弱さをもつわたしたちを愛して、わたしたちの大切な救いが、何があっても、決して壊れず、完成を目指して喜んで歩めるように、2つの恵みの仕掛けを作ってくさったことを力強く教えています。
では、わたしたちの大切な救いが、何があっても、決して壊れず、完成を目指して喜んで歩めるように、神が、作ってくださった2つの恵みの仕掛けとは、何でしょう。すると、ひとつは、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しです。そして、もうひとつが、万事相働きて益となる神の摂理です。
そこで、ひとつづつ見ていきましょう。まず、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しです。考えて見ますと、わたしたち人間は、生まれながらの全面的堕落の罪人で、霊的なことがまったくわかりません。そのため、目に見えない真の神がいることさえ知りません。まして、目に見えない神の御心にかなう祈りなど、わたしたち罪人はできません。しかし、祈りができなければ、神からの祝福を受けることができませんので、困ります。
でも、大丈夫なのです。なぜなら、聖霊が、わたしたちの弱さを知って、わたしたちの祈りを助け、執り成して、天の神の御心にかなうようにちゃんと整えてくださるからです。26節と27節がそうです。
そこに、「霊」という言葉が、4回も出てきますが、「霊」とは、神の霊のこと、御霊のこと、聖霊を意味します。また、「弱いわたしたち」とありますが、もともとの言い方は、「わたしたちのもろもろの弱さ」という言い方で、わざわざ、複数形になっていて、わたしたちには、いろいろな弱さがあることを意味しています。
確かにそうです。わたしたちは、キリストを信じて、救われたとはいえ、一人ひとりが、いろいろな弱さをもっています。内側には、絶えず、罪との戦いがあります。また、外側からは、試練や苦しみが来ます。
でも、聖霊なる神は、そのような弱さをもつわたしたちに対し、うめくようにして、わたしたちに真に同情し、思いやり、わたしたちがどのような状況にあっても、わたしたちの祈りが、目に見えない天の父なる神の御心にかなって、聞かれて、豊かな祝福が受けられるように、自ら積極的に整え、執り成し、ちゃんと助けてくださるのです。
「弱いわたしたちを助けてくださいます。」とありますが、「助ける」という言葉は、一度聞いたら忘れられない言葉が使われています。「助ける」という言葉は、もともと、ギリシャ語では、17文字の実に長い言葉なのです。シュナンテランバノマイという17文字からなるとても長い言葉です。たぶん、聖書の中に出てくる一語で最も長い言葉と思われます。
合成語で、3つの言葉をくっつけて作った言葉です。シュナンテランバノマイのシュンというのは、一緒に、共にという意味です。シュナンテランバノマイのアンテは、向かい合ってという意味です。シュナンテランバノマイのランバノマイは、持つとか、持ち上げるという意味です。ですから、合わせると、向かい合って一緒に持ってくれるという意味になります。
すなわち、重いものを自分ひとりで持ち上げようとしても持ち上がりません。でも、だれかが、向かい合って、一緒に持ち上げてくれれば、持ち上がります。たとえば、子どもが、重いものをひとりで持ち上げようとしても、持ち上がりません。でも、やさしいお母さんがそばにやって来て、子どもと向かい合って持ち上げてくれれば、持ち上がるでしょう。そして、子どもは、持ち上がった、持ち上がったと言って、喜ぶでしょう。
そういう17文字の長い印象深い言葉がわざわざ用いられています。ですから、わたしたちは罪人で、いろいろな弱さがあり、霊的なことがわからず、内側には、罪との戦いがあり、外側からは、試練や苦しみが来ます。しかも、真の神は目に見えません。そのため、何をどのように祈れば、神の御心にかない、神から祝福が受けられるのかわかりません。こうして、わたしたち罪人には、目に見えない真の神への祈りは、重いのです。
ところが、聖霊は、自らの積極的に、わたしたちの弱さをうめくようにして、真に、そして、深く同情し、真に思いやってくださって、祈りの重さを向かい合って担ってくださるかのように、祈りを軽くし、わたしたちの祈りが、天の父なる神の御心にかない、祝福を受けられるように、整え、執り成し、助けてくださるのです。
うめくというのは、真の、そして、深い同情を表す言い方です。今日でもそうです。もし、だれかが、悲惨な境遇に置かれていれば、そばにいる人は、うめくようにして、その人に真に、そして深く同情するでしょう。
ですから、読者は、ここを読んだら、気持ちがとても楽になるでしょう。1世紀のローマの信徒も、気持ちがとても楽になったでしょう。自分は、罪人で霊的なことがわからない。しかも、神は目に見えない。それゆえ、いったい何をどのように神に祈ったらよいのかわからない。でも、聖霊が、まるでうまくように真に同情し、そして、親しく向かい合って、やさしく一緒に、持ち上げてくれるかのようにして、神の御心にかなうように祈りを自らの積極的に整え、執り成し、助けてくださるので、自分はどんなときでも祈れて、豊かな祝福が受けられ、何があっても決して倒れることなく、救いの完成を目指して歩めるのだ、大丈夫だと悟り、気持ちがとても楽になったでしょう。
クリスチャンは、祈りにおける聖霊自らの積極的執り成しがあるので、どんなときでも、試練のときでも、祈れるのです。そして、祈って豊かな祝福を受け、倒れることのないよい人生を歩めるのです。
では、聖霊は、どうして、積極的に執り成しができるのでしょう。すると、父なる神は聖霊の執り成しの思いをよく知り、聖霊の側も、父なる神の御心をよく知っているからです。すなわち、お互いに、よく知っているから執り成しが成り立つのです。
すなわち、わたしたちの心にある思いがどのようなものかをすべてご存知の天の父なる神は、聖霊の思いも実によく知っているのです。そして、聖霊が、うめくようにして、わたしたちクリスチャンに真に、そして、深く同情し、わたしたちの祈りが、父なる神の御心にかなうように整えようとする聖霊のその思いを知っていて、聖霊の執り成しを天の父なる神が受け入れるからです。
また、聖霊の側も、天の父なる神の御心を十分知っているので、クリスチャンの祈りを父なる神の御心にかなうように十分整え、執り成すことができるのです。「人の心を見抜く方は」とは、天の父なる神のことです。また、「聖なる者たち」とは、わたしたちクリスチャンのことです。わたしたちクリスチャンは、聖霊により罪から聖められていますので、「聖なる者たち」といわれます。
考えて見ますと、目に見えない真の神の御心にかなう祈りして、豊かな祝福を受けるということは、とても不思議なことです。わたしは、クリスチャンが目に見えない真の神にお祈りしている姿を目の前で見て、本当に驚いたことがあります。
わたしは、高校を終わって18才で宇都宮から東京に出てきて、1年間、サラリーマンをしていました。ロッキード事件で有名な田中角栄さんの目白のお屋敷のそばの家の部屋を借りていました。わたしは、日曜日は、お昼ごろ起き出して、近くの食堂に行くにが常でした。すると、いつも、お昼すぎに、男性1人と女性3人が、やって来るのです。そして、テーブルルを囲んで、楽しそうにお話をしているのです。わたしは、下を向いて食べていましたら、急に話し声がしなくなりましたので、どうしたのかと思って見ましたら、その人たちは、お祈りしていたのです。
わたしは、そのとき、正直びっくりしました。えー、この人たち、いったい何をしているのかと思いました。そのとき、わたしは、まだ、クリスチャンでなかったので、その人たちが何をしているのかがわかりませんでした。でも、後に、そうか、この人たちは、キリスト教徒、クリスチャンなのだ。それで、目に見えない神にお祈りをしていたのだとわかりました。確かに、他の人から見れば、何をしているのかと思われるでしょう。キリスト教の祈りは、不思議なものです。でも、それから1年後には、わたしも恵みによりクリスチャンとなり、今度は、他の人がわたしの祈っている姿を見れば、この人はいったい何をしているのかと思うであろう、目に見えない真の神に祈る者に変わりました。
そのときから、今日までの46年間の長きにわたり、良きときも悪しきときも、常に変わらず、目に見えない生ける真の神に毎日祈って、豊かな祝福をいっぱい受け、救いの完成を目指し、喜んで歩んできました。また、今も歩んでいます。これは、まさに、聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって、弱さをもつわたしの祈りにおいて、いつも積極的に執り成してくださっているからです。そして、このとは、もちろん、わたしだけでなく、皆さんも同じです。わたしたちは、聖霊自らの積極的執り成しという恵みの仕掛けにしっかり支えられ、祈りながら、救いの完成を目指し、みんなで喜んで歩んでいきましょう。
2.神の摂理により、万事相働きて益となる恵みの仕掛けがあります
さて、以上のようにして、父なる神は、聖霊自らの積極的執り成しという恵みの仕掛けにより、弱さのあるわたしたちをしっかり支え、救いの完成を目指して、歩ませてくださいますが、恵みの仕掛けは、それだけでなく、他にもあります。それは、何でしょう。すると、万事相働きて益となる神の摂理です。すなわち、主権者なる神は、クリスチャンのために、罪との戦い、試練や苦しみなどすべてを無駄にせず、無意味にせず、救いの完成のために益としてくださるのです。
28節がそうです。28節を読むと、これまでの口語訳聖書に親しんできた方は、あれ、今の新共同訳聖書は、少し、言葉が変わったと感じるでしょう。確かにそうです。これまでの口語訳聖書は、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」となっていて、神が主語になっていました。
ところが、わたしたちが、今見ている新共同訳聖書は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」となっていて、神が主語でなく、万事が主語になっています。
でも、神が主語でも、万事が主語でも、どちらでもよいのです。2つの読み方があるのです。そして、どちらをとっても、神の主権的摂理の支配を表していることに変わりはありません。そして、意味もいたって明白です。すなわち、罪との戦い、試練や苦しみなどが、人生にいろいろあっても、それらは決して無駄や無意味にならず、神の摂理の支配において、わたしたちの救いの完成のために益として用いられることを教えています。
万事相働きて益となる神の摂理の一番よい具体例は、旧約聖書の創世記37章から50章に出てくるイスラエルの先祖のヨセフの生涯です。ヨセフは、ヤコブの12人の子どもの一人でした。しかし、父ヤコブは、弱さのため、特に、ヨセフを偏愛しました。そのため、上の兄10人は、ヨセフに八つ当たりして、ヨセフをねたみ、あるとき、ヨセフをエジプトへの奴隷として売り飛ばしてしまいました。
ヨセフは、エジプトで、ひとりぼっちで奴隷として身を粉にして働きましたが、あるとき、主人の留守に、主人の妻を誘惑しようとしたという無実の罪を着せられ、捕らえられて牢屋に入れられてしまいました。これは、人間的に考えれば、ヨセフの人生は、これでもうアウトでした。この男は、主人の留守に、主人の妻を誘惑しようとして、捕らえられた最低の男として、見知らぬエジプトの地で、一生苦しんで終わることになります。
ところが、神は、ヨセフを愛して、牢屋のヨセフといつも共にいて、ヨセフを慰め、励ましてくださいました。そして、あるとき、ヨセフは、エジプト王の不思議な夢の意味を解き明かしたことが、きっかけで、7年間も続く大飢饉乗り切りのため、エジプトの総理大臣となって大活躍するのです。
その結果、カナンの地でも大飢饉で、食糧がなくなったため、ヨセフの兄弟たちも、父も、エジプトのヨセフのところに移住してきて、食糧を得て、命をつなぐことができました。そこで、イスラエル民族は、大飢饉で滅亡せず、全人類の救い主メシアのキリストが、イスラエル民族から後に出現することができます。
また、最も苦しみを受けたヨセフは、苦しみの中で、忍耐を学びました。また、苦しみの中で、いつも自分と共にいて、自分を慰め、励まし、希望を与えてくださった神の大きな愛を知り、生ける真の神への信頼が強くされ、信仰が非常に豊かになり円熟しました。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのです。また、試練は、当座は喜ばしいものではありません。でも、後になると、それによって鍛えられる者に平安という義の実を結ばせるのです。
また、ヨセフを奴隷に売り飛ばした兄弟たちは、自分の罪を知らされて、悔い改め、長い間失っていた良心の安らぎを回復することができました。また、父親のヤコブは、ヨセフを偏愛した自分の罪を反省したでしょう。
こうして、ヨセフは、試練と苦しみを受け、逆境に置かれました、でも、それらの試練と苦しみは無駄にならず、無意味にならず、すべてをご存知のいつくしみ深い神の摂理の支配により、人類全体とイスラエル民族とヨセフ自身とヨセフの兄弟たちとヨセフの父ヤコブの益とされたのです。
ヨセフが、人生で一番苦しかったのは、主人の留守に、主人の妻を誘惑しようとして、捕まった最低の男といわれ、しかも、だれ一人知り合いのいないひとりぽっちの孤独のエジプトで、牢屋に入れられたときで、人間的には、ヨセフの人生は、もうこれで終わりでした。
ところが、聖書、創世記39章を見ますと、「主がヨセフと共におられ」と2回も強調して書いてあり、ヨセフの人生において一番苦しいときに、神はヨセフを愛して、ちゃんとヨセフと共にいて、ヨセフの心に励ましを与え続けて、ヨセフが絶望して、ヨセフの信仰と救いが、壊れないように、しっかり支えてくださっていたことを、読者に実に印象深く教えています。
今日も同じです。日本において、クリスチャンは、100人にひとりで、数が少なく、キリスト教信仰は、日本社会において見えにくいのです。でも、神の目から見れば、日本の中心は、教会であり、クリスチャンなのです。そこで、人間的には、マイナスに見えることでも、神は、摂理において、マイナスだけで終わらず、それらのマイナスも、わたしたちの救いの完成のために役立ててくださるのです。転んでもただでは起きないという言い方がありますが、その言い方を借りれば、クリスチャンは、仮に転んでもただでは起きず、いろいろなよいものを掴んで起きるのです。神が、いろいろなよいものを掴んで起きるようにしてくださるのです。
3.神には、救いのすばらしい御計画があります
さて、そのように、神は、万事相働きて益となるようにしてくださるのですが、では、どうして、そこまでしてくださるのでしょう。すると、神には、救いの御計画があるからです。すなわち、神は、神を愛する者たち、すなわち、クリスチャンたちの何よりも大切な救いが、途中で壊れずに、世の終わりに完成するようにとのすばらしい御計画をもっているからです。
では、神がもっているすばらしい救いの御計画とは、どのようなものなのでしょう。すると、それは、わたしたちが、永遠の昔に、神の愛により、キリストによる救いへ予定されたことから始まって、世の終わりに、栄光のうちに、救いが完成するという御計画です。
29節と30節がそうです。ここで、パウロは、神には、救いについての御計画があることを読者に力強く教えています。永遠の昔に、神の愛により、わたしたちが、キリストの十字架の死によって救われるようにあらかじめ選ばれ、定められ、予定され、そして、歴史のあるとき、教会に導かれ、キリストのよる救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、救いに召し出され、キリストを信じて、神から正しい者と、すなわち、義とされ、そして、世の終わりのキリスト再臨のときに、キリストと同じ朽ちることのない栄光の体に変えられるという御計画です。
世の終わりに、わたしたちの体が、神の御子キリストの姿に似て、すなわち、神の御子キリストと同じ朽ちることのない栄光の体に変えられます。これで、わたしたちの救いが完成します。そのとき、わたしたちのために十字架で死んで救い道を開いてくださったキリストは、神の家を受け継ぐ長子としてあがめられ、わたしたちは、キリストの兄弟と呼ばれる誉れを受けるのです。これが、神がもっておられる救いのすばらしい御計画です。
「神は前もって知っておられた者たち」とは、わたしたちクリスチャンの別の言い方です。クリスチャンは、永遠から、神の大きな愛において、すでに知られていましたので、「神は前もって知っておられた者たち」といわれていますが、「前もって」とは、永遠の昔からという意味です。
また、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とは、世の終わりに、クリスチャンが、神の御子のキリストに似て、すなわち、キリストと同じく、朽ちることのない栄光の体によみがえらされるために、永遠の昔から、神により、わたしたちがあらかじめ、選ばれ、定められ、予定されていたことを意味します。
また、「御子が多くの兄弟の中で長子となられるため」というのは、神の御子のキリストは、へりくだって、わたしたちと同じ人間となり、わたしたちの兄弟となってくださったと言えるほどです。でも、だからと言って、誉れも、わたしたち人間と同じというのでなく、キリストは、神の家の比類なき長子、跡継ぎとして、何者にまさりて、ほめたたえられるのです。
ですから、わたしたちが救われるというのは、神の永遠の大きな愛に基づく確実なものなのです。それゆえ、何があっても、救いの完成を目指して、喜んで歩んでいけるのです。
そして、神の永遠の愛は、わたしたちが歴史の中で、教会に導かれ、牧師の説教を聞いて、救いに召されることにおいて実現します。30節に「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし」とありますが、「召し」というのは、わたしたちが、教会に導かれて、キリストによる救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、救いに召し出されることを意味します。
また「義とし、義とされた者たち」というのは、教会に導かれて、キリストによる救いのよき知らせである福音の説教を聞いて、キリストを信じて、救われ、神から、すべての罪が赦され、神から信仰ゆえに正しい者、すなわち、義と認められることを意味します。キリスト信じて、救われて、よい歩みをしているわたしたちが、今この「義とされた者たち」なのです。
そして、最後の段階が、「栄光をお与えになったのです。」といわれていることです。栄光を与えるというのは、世の終わりのキリスト再臨のとき、キリストと同じ朽ちることのない栄光の体、霊の体に変えられることを意味します。
そして、興味深いのは、「義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」と過去形で言われていることです。わたしたちが、キリストと同じ栄光の体によみがえらされるのは、世の終わりに将来、未来に生じることなのに、過去形で平気で書きました。これは、キリストと同じ栄光の体によみがえらされるのは、絶対確実なので、もう過去に生じたかのように、わざわざ過去形で書きました。この確信をわたしたちも、持ちたいものです。
こうして、わたしたちの救いは、神の永遠の愛からの大きな愛により、永遠の昔に救いへあらかじめ定められること、すなわち、予定されること、そして、歴史の中での救いへ召されること、信じて救われて義と認められること、そして、世の終わりにキリストと同じ栄光の体に復活して完成するという5つの段階が鎖のようにしっかりつながっているすばらしい御計画に基づいています。それで、ここは、教会により、黄金の鎖、ゴールデンチェインと呼ばれてきました。
ですから、わたしたちが救われるのは、神の永遠の大きな愛から始まるすばらしい救いの御計画に基づく絶対確実なものです。これ以上確実なものはないでしょう。それゆえ、わたしたちは、何があっても、決して、途中で、大切な救いが壊れることなく、救いの完成を目指して、日々安心して、神が摂理するこの世界で、この大地で喜んで歩んでいけるのです。
結び
以上のようにして、わたしたちの真の人生は、神の摂理による万事相働きて益となる人生です。いつくしみ深い神は、いろいろな弱さをもっているわたしたちをしっかり支えるため、恵みの仕掛けをいくつも作って、わたしたちが、救いの完成を目指し、日々喜んで歩めるようにしてくださっています。そのゆえ何があろうとも、わたしたちの大切な救いは決して途中で壊れません。栄光における完成を目指し、力強く歩んでいけます。わたしたちも、いつくしみ深い天の神の摂理により、万事相働きて益となる真の人生を、この21世紀の日本の地で、みんなで喜んで歩んでいきましょう。 
 
説教「キリストの恵みを映す人生」マタイによる福音書20章29節―34節

 

聖書
20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
はじめに
本日は、わたしの最後の礼拝奉仕ということで、礼拝の中で、さきほど聖歌隊が、わたしの好きな賛美歌234番(A)を歌ってくださり感謝です。この3月は、わたしの引退に伴い、3月を最終説教月間として、説教しています。それで、わたしたちの真の人生とはどのようなものかを、初めての方にもわかりやすく、聖書に基づき5回お話をする計画を立てました。
それで、もうすでに、4回お話しました。第1回目は、わたしたちの真の人生は、神と共に歩む人生であること、第2回目は、わたしたちの真の人生は、神の御言葉を聞く人生であること、第3回目は、わたしたちの真の人生は、キリストから与えられている賜物を活用する人生であること、第4回目は、わたしたちの真の人生は、万事相働きて益となる人生であることにつきお話しました。本日は、第5回目です。また、わたしの38年5ヶ月間の現役牧師の最後の説教になりますが、わたしたちの真の人生は、キリストの救いの恵みを映す人生であることにつき、お話をします。
わたしたちは、皆、罪人なので、神が遣わしてくださった人類のただ一人の尊い救い主キリストを信じ救われ、キリストによる救いの恵みを映す真の人生を喜んで歩んでいくことが、どの人にも必要です。
そこで、本日は、神が遣わしてくださったキリストを信じて救われ、キリストによる救いの恵みを映す真の人生に歩むようになった2人の盲人のお話をします。今日のわたしたちも、この2人の盲人のように、キリストによる救いの恵みを映す真の人生に日々喜んで歩んでいきたいと思います。わたしは、このお話が大好きです。
1.2人の盲人は、キリストに憐れみを求めました
さて、では、2人の盲人の救いは、いつ、どこで、どのようにして起こったのでしょう。すると、紀元30年頃、キリストが、弟子たちを連れ、エリコの町を出て、エルサレムを目指し、旅をしているときでした。エリコという町は、イスラエルの中心地である神殿があるエルサレムから、東の方に20キロほど離れた町です。ですから、距離的には、1日以内で、エルサレムに行けるところにありました。キリストは、このエルサレムを目指す旅の最中でした。
旅の最中と聞くと、今、日本でも、これから春の旅行シーズンになります。いろいろなところに行きたいですね。海を見たり、山を見たり、色とりどりのきれいな花を見たり、名所旧跡を訪れたり、海の幸、山の幸を食べたり、温泉に入ったりなどしたら、くつろいで、どんなに楽しいことでしょう。
しかし、キリストの旅は、そのような観光や物見遊山の楽しい旅ではありませんでした。目前に迫ったエルサレムでの十字架の死を目指す旅でした。次の21章が、キリストのエルサレム入城を記しています。そして、エルサレム入城は、キリストの十字架の死の5日前ですから、本日のエリコの町の2人の盲人の救いも、5日前であったかもしれません。キリストは、わたしたちの救いの道を開くため、目前に迫ったエルサレムでの十字架の死を目指し、エリコの町での宿泊を終わり、今、町を出たのです。このとき、キリストはどのような思いだったでしょう。
すると、多くの群集、人々が、キリストの後をついていきました。この時期は、イスラエルでは、昔の出エジプトを記念する過ぎ越しの祭りという大きなお祭りが近づき、内外から多くの人々が、神殿のあるエルサレムを目指して旅をして来ました。それらの人々も、キリストの後に従い、エルサレムを目指したでしょう。
また、キリストは、もうこのときには、イスラエルにおいて、よく知られた人物でしたので、キリストを一目見ようとして、エリコの町の住民たちも、たくさん出てきて、キリストについて行ったでしょう。こうして、多くの人々が、キリストに従って、エリコの町の門から出て行きました。当時、キリストが行くところ、行くところ、どこでも、人々が集まったり、人々がキリストの後についていったりしました。このときもそうでした。
さて、エリコの町を出たところの道端に、2人の盲人が座っていました。何のために、座っていたのでしょう。すると、そういう言い方が許されれば、物乞いをするために、座っていたのです。2人は、盲人、目の見えない人でしたので、働くことができず、道を通る人々からお金や物をもらって、日々の暮らしを立てていたのです。2人の盲人は、男性でした。何才であったのか、家族がいたのか、どうして目が見えなかったのか、生まれつきなのか、それとも、途中で病や事故で見えなくなったのかなど、いろいろな疑問が出るかもしれませんが、聖書は、それらのことは、特に記していません。
さて、ところが、この日に限って、何か、いつもと様子が違います。急に、付近がざわざわしてきました。そこで、どうしたのかと思いました。すると、今、評判のイエス様が、ここをお通りになっている、それで、多くの人々も、イエス様について歩いている、それで、ざわざわしていると知りました。
すると、2人の盲人は、どうしたでしょう。今、自分たちの前をイエス様が、お通りになっているということを聞くや否や、2人で、大声で、憐れみを求め叫び始めたのです。2人の盲人は、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めました。
「主」というのは、1世紀のイスラエルにおいて、宗教の指導者を尊敬して呼ぶ言い方でした。イエス様も、宗教の指導者と見られていました。そこで、2人の盲人も、イエス様を宗教の指導者を尊敬して「主」と呼びかけました。
でも、2人の盲人は、イエス様を、単なる宗教の指導者として呼びかけたのでなく、旧約時代からその出現が約束されていた偉大な力をもった救い主メシアとして呼びかけました。「ダビデの子」とありますが、「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫として出現してくる救い主メシアという意味で、救い主メシアの別の言い方です。
ダビデは、イエス・キリストより、ちょうど千年ほど前のイスラエルの信仰深い王様でした。それゆえ、神から愛され、ダビデの子孫から救い主メシアが出ることを約束されたのです。そこで、イスラエルの民は、約束の救い主メシアをダビデの子、すなわち、ダビデの子孫と呼んで、その出現を待ち望んでいたのです。
ですから、この2人の盲人が、イエス様をダビデの子と呼んだことは、この2人の盲人は、イエス様を単なる宗教の指導者と考えていたのでなく、旧約時代から約束されていた救い主メシアと考えていたことを意味します。そして、救い主メシアは、偉大な力をもっていて、自分たちの目を見えるようにすることがおできになると信じていたことを意味します。「わたしたちを憐れんでください」というのは、もちろん、目の見えないわたしたちを憐れんで、同情し、真に思いやって、見えるようにしてくださいという意味です。
では、どうして、この2人の盲人は、イエス様は、自分たちの目を見えるようにできると信じたのでしょう。すると、実は、イエス様は、もう、すでに、これまでに、イスラエル各地で、目の見えない人々の目を見えるようしてくださっていたことをうわさで聞いて知っていたからと思われます。
たとえば、少し前の9章27節から31節において、2人の盲人をいやして、目が見えるようにしてくださったことが記されています。また、15章30節において、目の見えない人々がいやされ、見えるようにされたことが記されています。
イエス様は、それまでに、たくさんの奇跡をして人々をいやしてくださいました。今日でいうハンセン氏病の人々をいやしてくだいました。中風の人をいやしてくだいました。口の利けない人をいやしてくださいました。手の萎えた人をいやしてくださいました。会堂長ヤイロの娘をよみがえらせてくださいました。
これらの奇跡によるいやしは、1世紀のイスラエル中に知れ渡っており、エリコの町の道端に座っていた2人の盲人も、もちろん、うわさで聞いて知っていたでしょう。特に、この2人の盲人は、自分たちと同じ盲人の目を見えるようにしてくださったとイエス様には、強い関心を持っていたでしょう。
この2人の盲人は、自分たちは、目が見えないということで、苦しい人生を歩んできたと思われます。目が見えないために他の人のように働けず、やむなく道端に座り、そこを通る人々からお金や物をもらって生きることのつらさを感じていたでしょう。ああ、この目さえ見えればと何回思ったでしょう。否、何回でなく、毎日思っていたかもしれません。それゆえ、聖書が、「二人の盲人が道端に座っていたが」と記すとき、この2人の盲人のつらい人生をよく理解しましょう。
新垣勉さんという盲人のクリスチャンの歌手がいます。きれいな声で、歌います。赤ちゃんのとき、助産婦さんが誤って、違う薬を目に入れたことが原因で、失明してしまいました。また、父親や母親との関係でも不幸な方でした。そのため、キリストに出会うまで、苦しみの人生であったことを御自分で語っています。
エリコの2人の盲人も、つらい思いをしていたでしょう。それゆえ、2人の盲人は、各地で、盲人をいやして、目が見えるようにしてくださったイエス様が、今、何と、自分の人生のエリアに入ってこられたとき、自分たちが、なすべきことを直感的に悟りました。それは、自分たちもいやしてくださるように、叫び求めることです。声を張り上げ、必死に、一生懸命叫び求めたでしょう。
すると、人々は冷たいものです。2人の盲人のつらさを理解せず、大きな声で叫び求める2人の盲人を、うるさいとして、2人の盲人を黙らせようと叱りつけました。「叱りつけて」とわざわざ記されていますので、人々は、大きな声で叫び求める2人の盲人に、腹を立て、お前たちは、うるさい、静かにしろ、黙れと、口々に怒鳴りつけたのでしょう。
では、2人の盲人は、どうしたでしょう。人々から怒鳴りつけられて、意気消沈し、シュンとして黙ってしまったでしょうか。いいえ、逆です。2人の盲人は、前よりも一層大きな声で、叫び続けたのです。求めなさい、そうすれば、与えられますとありますが、2人の盲人は、さらに、大きな声で叫び続けて、求めました。
ここに何があるのでしょう。そうです。自分も目がみえるようになりたいとの強い願いがあるのです。目が見えない苦しみは、もういやだ。こんなつらい人生はもういやだ。自分は見えるようになりたいとの心からの願いです。まさに、これは、魂の叫び、霊魂の叫びです。「二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。」とありますが、「ますます」というこの一語は、生きています。
イエス様に対する2人の盲人の確信の強さが、わたしたち読者の心に響いてきます。また、イエス様が、自分たちの前にいてくださるこの機会を逃してはならないという思いが、わたしたち読者の心にとても強く響いてきます。これは、もう、イエス様に対する信仰です。
こうして、2人の盲人には、キリストが、自分たちの前をお通りになるということが、救いのきっかけになりました。救いのきっかけは、人それぞれです。そして、人それそれぞれでよいのです。同じである必要はありません。いろいろなことが、きっかけとなります。
わたしが、聞いて、驚いたきっかけがあります。本人から聞きました。その人は、奥さんがクリスチャンでした。それで、奥さんが、近所の人々を集め、牧師を招いて、家庭集会を始めました。でも、ご主人は、キリスト教が嫌いだということで、出ませんで、隣の部屋で毎回お酒を飲んでいました。ところが、ふすま越しに、牧師による聖書のお話が聞こえてきます。それを何回も繰り返しているうちに、お話がわかるようになり、自分も家庭集会に出るようになり、教会にも行くようになり、救われました。わたしは、本人から証を聞いて驚きました。
また、もうひとつ驚いたきっかけがあります。これも、わたしが、本人から聞きました。男性です。その人が、高校生のときです。校門で、ビラが配られていました。自分ももらおうと思ったのですが、タイミングが合わず、もらえませんでした。教室に入ると、くずかごのそばに、ビラが落ちていました。他の生徒たちが、もらったビラをくずかごにたくさん捨てたのですが、たまたま、くずかごの外に何枚か落ちていました。それを拾って、読むと、聖書の通信講座の案内でした。そこで、興味を覚え、通信講座を始めました。また、その後、教会にも行くようになり、救われました。さらに、その人は牧師に召され、今、喜んで、人々に、キリストによる救いを宣べ伝えています。その牧師は、わたしは、くずかごに捨てられていた一枚のビラが、救いのきっかけとなりましたと、だれにでも喜んで証をしています。
ちなみに、わたしの救いのきっかけは、19才のとき、大学1年のとき、学内に聖書研究会があることを知ったことです。わたしは、そのとき、人生が最も不安定でした。わたしの心に大きな不安がありました。受験という目標がなくなり、何をしてよいかわからず不安でした。また、大学に入ったものの、経済的裏づけがまったくありませんでしたので、これから、いったいどうなるのかと毎日不安でたまりませんでした。
すると、学内で、聖書研究会の人々が、机を出して、聖書研究会に入ってくださいと勧誘をしていたのです。それを見たときに、わたしは、自分の人生を生涯にわたって、根本からしっかり変わらず支えてくれるものが、聖書にあるのではないか、キリスト教にあるのではないかと思ったのです。それで、わらにもすがる思いで、聖書研究会に入ったのです。さらに、教会にも行くようになり、救われました。ちなみに経済的なことは、アルバイトをしまくりましたが、いろいろな方法で支えられました。
キリストによる救いに導かれるきっかけは、人それぞれです。いつくしみ深い天の父なる神は、その人の人生において、きっかけを与えてくださるのです。大切なことは、与えられたきっかけを逃さないことです。
2.キリストは、本人たち以上に深く憐れんでくださいました
さて、この2人の盲人にとっては、自分たちの前をキリストが、お通りになることが、救いのきっかけでしたが、この2人の盲人は、このきっかけを逃すことなく、周囲の人々から叱り付けられても、ひるまず、さらに、大きな声で、キリストの憐れみによるいやしを熱心に叫び求めました。
では、キリストはどうしたでしょう。知らん顔をして、さっさと通りすぎたでしょうか。いいえ、違います。以前に、山上の説教で、求めなさい。そうすれば与えられますと教えたように、2人の盲人の求めたものを与えてくださるのです。
キリストは、ピタリと立ち止まり、2人の盲人を自分のそばに連れてくるように命じました。そして、そばに来ると、「『何をしてほしいのか』」と言われました。わたしたちは、これを見て、イエス様、「何をしてほしいのか」はないでしょう。盲人がイエス様に求めることは、ひとつだけで、見えるようにすることでしょう。それ以外にないでしょう。そんなこと、聞かなくてもわかるでしょうと思うかもしれません。
確かにそうです。イエス様は、この2人の盲人が、求めているものを知らなかったので、聞いたのではないのです。イエス様は、何でもご存知の偉大な神の子です。イエス様が、聞いたのは、2人の盲人が求めるものを知らなかったからでなく、求めているものが与えられたとき、イエス様から、恵みとして与えられたことを、2人の盲人が確信し、喜び、イエス様の御名を生涯ほめたたえて歩むためでした。
これに似たことは今日もあります。天の神への祈りがそうです。わたしたちが、神に祈るのは、神は、わたしたちが、必要とするものを知らないので、わたしたちが、神に教えてあげるためではありません。それを言うなら、神は、わたしたちが祈る前から、わたしたちが必要とするものをちゃんとご存知です。それにもかかわらず、わたしたちが、祈るのは、必要なものが与えられたとき、それは、神から恵みとして与えられたことを、わたしたちが確信し、喜び、感謝し、神の御名を心からほめたたえて、よい人生を歩むためです。
このときも同じでした。キリストは、もちろん、2人の盲人が、いやされて、目が見えるようになることを百も承知でしたが、2人の盲人が、いやされて、目がみえるようにされたとき、それは、自分たちの求めに応じて、ほかならぬ、キリスト御自身から恵みとして与えられたことを確信し、喜び、生涯、キリストの御名をほめたたえて歩むためでした。これは、キリストの愛の配慮でした。
でも、キリストの愛の配慮はこれだけではありません。まだ、他にもあります。すなわち、2人の盲人が、自分たちを憐れんで、目が見えるようにされることをキリストに求めたときに、キリストは、2人の盲人以上に、目が見えないつらさを、深く、はらわたから憐れんでくださったのです。
34節に「イエスが深く憐れんで」とありますが、「深く憐れむ」という言葉に注目しましょう。この「深く憐れむ」という言葉は、もともと、内臓から憐れむ、はらわたから憐れむという意味の言葉が使われていて、最も深い憐れみを表します。
実は、初めての方もおられるので言いますが、新約聖書は、もともと、ギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語に、憐れみを表す言葉が2つあります。
ひとつは、普通の意味で、憐れむことを意味します。そして、普通の憐れむという言葉は、2人の盲人が、キリストに対して、30節と31節で「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けたときに使われている言葉です。ですから、2人の盲人は、ごく普通の意味で、憐みを求めました。
ところが、34節で「イエスが深く憐れんで」といわれている「憐れむ」という言葉は、2人の盲人が使った言葉とは別の言葉の、最も深い憐れみを表す言葉、すなわち、はらわたから憐れむという言葉が、わざわざ使われています。そこで、聖書も、ただ単に「憐れんで」としないで、「深く憐れんで」と「深く」を追加したのです。
こうして、キリストは、目が見ないつらさを2人の盲人本人以上に、はらわたから深く憐れんで、助けてくださる愛の大きなやさしいお方であることが伝わってきます。
今日も同じです。わたしたちは、この世の歩みにおいて、いろいろなつらいことに出会い、キリストに、憐れみによる助けを祈りを通して求めますが、キリストは、わたしたちが願っている以上の深いはらわたからの信実な憐れみをもって、わたしたちをちゃんと助けてくださるのです。偉大な力を持ちながらも、わたしたちが願う以上のはらわたからの憐れみをもって、わたしたちをやさしく助けてくださるキリストと共に歩めば、あなたの人生は、大丈夫です。
さて、さらに、2人の盲人に対するキリストの愛の配慮が続きます。イエス様は、2人の盲人をいやすとき、御自分の御手を2人の盲人の目にあてていやしてくだいました。これも、また、愛の配慮です。もちろん、イエス様は、何でもおできになる偉大な神の子ですから、御手を触れなくても、いやせます。「目が見えるようになれ」と一言口から発するだけでいやしができます。否、一言も発せず、イエス様が、御自分の心の中で、2人の盲人のいやしを念じるだけで、いやしができます。
でも、イエス様は、それらをせず、御自分の手を2人の盲人の目にやさしく触れていやしてくださいました。それは、2人の盲人が、自分たちの目が見えるようになったのは、イエス様によってであったことを確信して、喜び、生涯感謝して歩むためでした。イエス様の暖かい御手が、自分たちの目にやさしく触れたから見えるようになれば、自分たちの目がみえるようになったのは、イエス様によってであることを、しっかり確信できます。
そして、イエス様の偉大な力は、2人の盲人の目が、イエス様の御手が触れたときに、すぐに、ただちに、即座に見えるようになったことにおいて豊かに現れました。1週間後に見えるようになったとか、1ヵ月後に見えるようになったとか、半年後に見えるようになったというのでなく、すぐに、ただちにです。
このことも、今日、似ています。わたしたちが、イエス様を、わたしたちの罪を赦してくださる救い主として信じれば、信じたそのときから、時を移さず、わたしたちは、恵みにより、直ちに、即座に救われるのと似ています。イエス様の救済力は、偉大で、実に、豊かで、効果が実に確実です。
それで、わたしは、説教の準備をしていて、思ったのですが、2人の盲人は、目が見えるようになったときに、一番先に何を見たでしょう。自分たちを大きな愛でいやしてくださったイエス様の顔を見たでしょう。そして、喜びに満ち溢れて心から感謝したでしょう。それで、イエス様の顔を一生忘れることはなかったでしょう。毎日、思い出して、心から感謝して、信仰の生涯を喜んで歩んだでしょう。
こうして、2人の盲人は、目が見えるようにされましたが、ここで、同時に、すばらしいことが生じました。それは、この2人の盲人は、肉眼が見えるようにされただけでなく、心の目も見えるようにされて、救われ、罪赦され、永遠の生命を受けたのです。2人の盲人は、すばらしい救いの真理が見えるものにされたのです。
どうして、そんなことがいえるのかと言うと、聖書にそう書いてあるのです。実は、34節で「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」とありますが、この「目」という言葉は、もちろん、体の目、肉眼を意味しますが、また、心の目を表すときにも使う言葉なのです。
ところが、33節で2人の盲人が、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言いましたその「目」とは、わざわざ違う言葉が使われているのです。すなわち、2人の盲人が、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言ったときの「目」という言葉は、体の目、肉眼しか表しません。こうして、聖書は、2人の盲人が、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言ったときの「目」と、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」というときの「目」を使い分けているのです。
その意味は何でしょう。すると、2人の盲人は、体の目、肉眼だけ見えるようになることをイエス様に求めたのですが、イエス様は、2人の盲人が、御自分のことを約束の救い主メシアと信じて、信仰をもって求めたので、2人の盲人の心の目も見えるようにして、罪をも赦して、救い、永遠の生命までも2人の盲人に与えたことを意味しているのです。そこで、聖書は、心の目も意味する言葉を、わざわざ使って、2人の盲人は、心の目も見えるようされて、救われたことを教えています。
こうして、2人の盲人は、キリストの救いの恵みを映す真の人生を歩み始めたのです。2人の盲人の人生を見れば、そこには、キリストの恵みが鮮明に映っているのです。そして、これこそ人の真の人生なのです。
今日のわたしたちもそうです。今日は、1世紀のように、奇跡はありません。でも、わたしたちも、心の眼がまったく見えない霊的な意味での盲人なのです。それゆえ、人の真の生き方が見えず、人生の道端にむなしく希望なく座っている者なのです。でも、人類のただひとりの救い主イエス・キリストが、今日、聖書を通して、御自分の方から、わたしたちに近づいてくださるのです。そこで、わたしたちも、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶことが必要です。また、「主よ、目を開けていただきたいのです」と願うことが必要なのです。
すると、キリストは、わたしたちが願っている以上のはらわたからの深い憐れみにより、わたしたちの心の目にやさしく御手を触れ、いやしてくださり、わたしたちの心の目を開いて、救いの真理が見える者、わかる者にして、わたしたちを罪から救い、永遠の生命まで与えてくださるのです。こうして、わたしたちも、キリストの恵みを映す真の人生に日々喜んで歩む者となるのです。
結び
以上のようにして、わたしたちの真の人生は、キリストの恵みを映す人生であることを教えられます。
わたしたちも、異教の地の日本に生きていますが、でも、キリストを信じて、救われ、キリストの豊かな恵みを映す真の人生を、みんなで、喜んで歩んでいきたいと思います。 
 
アリストテレスの学説

 

岩波版のアリストテレス全集の背表紙をザッと見てもらうだけでもわかると思うんですが、アリストテレスの興味関心は形而上学だけでなく自然学、天文学、生物学、気象学、論理学、ひいては心の哲学に至るまできわめて広い分野にわたっています。ですから、ソクラテス以前の自然学者達や、ソクラテス、それにプラトンといった人たちと較べて、「まとめる」っていう作業がきわめて困難です。それゆえ、アリストテレスの学説を、「何であるか」を問題とするプラトン的探究と、自然万有の原因を問題とする自然学的探究の二つに分類して解説し、最終的にそれらを総合してまとめるという方針でいこうと思います。
1、個物
先に、アリストテレスの学説を「何であるか」を問題とする探究と、自然万有の原因を問題とする探求の二つに分けて解説していくといいましたが、どちらの方向で探究を進めるにしろ、その探究のスタートとなるものは同一のものです。
つまり、仮に目の前に一本の木があるとして、それに対して、プラトン的な方向でその木が分有しているイデア的な要素を探究するにしろ、ソクラテス以前の自然学者的な方向でその木のアルケー的な要素を探究するにしろ、どちらもおおもとの探究対象は「その木」ですよね。
ですから、ここでは、このおおもとの探求対象について、アリストテレスがどのような考えを持っていたのか概観します。
我々のように生前からすでに歴史に埋もれてしまっている一般庶民に限ったことではなく、プラトンやアリストテレスのような哲学史上の超天才も、探究のスタートは木、椅子、山、海、家、財布といった身の回りにある感覚的な諸事物です。
そりゃね、いくら天才っていったって、オギャ〜って産まれた瞬間から「イデア!!」とか言ってるわけじゃないですからね。
で、それら様々な感覚的な諸事物から色々な考察を進めていくことになるわけですが、これら様々な感覚的な諸事物のことをアリストテレスは「個物」と呼んでいます。
ここで一つ注意して欲しいことがあるんですが、ここまでの記述を読んで、「ふ〜ん、アリストテレスは木とか石とか人とか椅子とか、そういうのを個物って呼んだんだねぇ」という感じで理解してしまうと、間違っている可能性があります。
問題なのは「木とか石とか人とか椅子とか」っていう部分です。
というのも、アリストテレスが「個物」とみなしているものは「この木」や「この人」「この石」であって、「木」「人」「石」ではないんですね。
なんか、「なに言ってるのかわかんねぇ…」って思っていらっしゃるかもしれませんが、「個物」っていう言葉の「個」っていう部分に着目してくれると理解の糸口がつかめるかもしれません。
つまり、アリストテレスが「個物」とみなしているのは、まさしく「個」なんです。わかりやすい話、指をさして「この木!」「この人!」「この石!」って言えるものが、アリストテレスのみなす「個物」なんです。
そして、いわゆる、「木」とか「人」とか「石」っていう一般的な概念(「これ!!」って指差せないものだと考えてOKです)については、アリストテレスは「個」「物」とみなさないんです。
ですから、さっきみたいに「アリストテレスは木とか石とか人とか椅子とか、そういうのを個物って呼んだんだねぇ」って言ったときに、この発言をした人が、「木」っていう言葉で「この木」のことを意味しているのであれば、この発言者の理解は正しいですが、「木」って言って一般的な「木」の概念を意味しているのであれば、それは間違いなんですね。
「なんでそんなところに差をつけるんだ?」と思う方もいらっしゃると思いますが、これねぇ、ちょっと論点先取になっちゃうんですが、アリストテレスは「個物」とそれら個物をまとめる一般的な概念とを、「実体」という観点からランクに差をつけるんです。
後々、もう少し詳しく書きますけど、アリストテレスは「この木」や「この人」のような「個物」のことを「第一実体」と呼び、それらの個物が属する「類」や「種」をあらわす一般的な「木」や「石」といった概念を「第二実体」と呼んで区別するんです。
ですから、ここでは、この「個物」と呼ばれているものを、感覚的に把握されるもので尚且つ「これ!!」と言えるようなものだと理解しておいてください(英語だったら「theがついているものか固有名詞で表現されるもの」っていう理解でもいいかもしれないですけどね)。
なんか、すごく大まかな感じのする説明ですが、それでも、だいたいこんな感じで理解しておけば、アリストテレスの「個物」について、大きくはずすことはないと思います。 
2、「何であるか」とは何であるか 

 

〜アリストテレスの『カテゴリー論』〜
アリストテレスの探究のスタート地点である「個物」の概念を概観したところで、ここからはアリストテレスによる「何であるか」の探究について言及しようと思います。
2-1、10のカテゴリー
どんな対象についてであれ、我々がその対象の本質について定義しようとするとき、我々は「AはBである」という形式の命題を用います。
この場合、当然のことながら、Aは主語、Bは述語ということになるわけですが、アリストテレスはこのBにあたる述語の部分に来る概念を10のカテゴリーに分けました(「カテゴリー」を扱う際には、主に『カテゴリー論』を中心に扱うのでカテゴリーの数は10としておきますが、同じアリストテレスの著作でも『形而上学』の中では、このカテゴリーの数は8つとされています)。
つまり、アリストテレスはある事物の本質を探究する前に、そもそもその事物の本質を記述する際に用いられる形式(「AはBである」)が、どれほど広い範囲に適応されているのかを検討し、その範囲のなかで本質として機能し得るものを取捨選択しようとしたんですね。
では、アリストテレスが諸事物を分析する際に用いる10のカテゴリーとはどのようなものなのでしょうか? 先ずは、以下にあげる引用文を見て下さい。
『カテゴリー論』第四章
どんな結合にもよらないで言われるものどものそれぞれが意味するのは、あるいは実体か、あるいは「なにかこれだけ」[量]か、あるいは「何かこれこれ様の」[質]か、あるいは「或るものとの関係において」[関係]か、あるいは「或るところで」[場所]か、あるいは「或る時に」[時]か、あるいは「位している」[体位]か、あるいは「持っている」[所持]か、あるいは「為す」[能動]か、あるいは「為される」[受動]かである。しかし、実体というのは、大ざっぱに言って、例えば人間、馬。「何かこれだけ」は例えば二ペーキュス、三ペーキュス。「何かこれこれ様の」は例えば白い、文法的。「或るものとの関係において」は例えば二倍、半分、より大きい。「或るところで」は例えばリュケイオンにおいて、あるいは市場において。「或る時に」は例えば昨日、昨年。「位している」は例えば横たわっている、座っている。「持っている」は例えば靴をはいている、武装している。「為す」は例えば切る、焼く。「為される」は例えば切られる、焼かれる。しかし上に挙げられたものどもは、それぞれがそれ自身としてただそれだけで言われることは、どんな肯定においても存しない、いや、これらのものどもの相互の結合によって肯定はできるのである。というのは肯定はそのすべてが真であるか、偽であるかと思われるのに、どんな結合にもよらないで言われるものどもの何ものも(例えば、人間、白い、走る、勝つ)、真でもなければ、偽でもないからである。
この引用文は『カテゴリー論』において、アリストテレスが10のカテゴリーをズラッと列挙している箇所です。これは岩波版のアリストテレス全集から取ったものなんですが、訳が古いせいもあって、「位している」っていうのがちょっと表現としてわかりづらいですよね。
ただ、これは、要するに、主語にあたるものの物理的な姿勢というか、状況のことだと考えればわかりやすいと思います。さて、これらのカテゴリーを簡潔にまとめると以下のようになります。
アリストテレスの10のカテゴリー
番号 カテゴリー  意味                具体例
1   実体     主語が何であるか        アリストテレスである
2   量       主語がどれほどの量であるか 中肉中背である(たぶん…)
3   質       主語がどのような質であるか  乾燥肌である(知らないですけど…)
4   関係     主語が他のものとどのような関係にあるか
                             アレクサンダー大王の教師である
5   場所     主語がどのような場所にあるか ギリシアの人である
6   時       主語がいつあるか        B.C.384-322
7   状況     主語がどのような状況にあるか リュケイオンの教壇に立っている
                             (そのときによって異なる)
8   状態(所有)  主語が(物との関係で)どのような状態にあるか
                             指輪をつけている(そうだったらしいです)
9   能動     主語が他のものに対してなにをしているか
                             学生に講義をしている している
10  受動     主語が他のものから何を被っているか (アカデメイアで)
                             プラトンに教えを受けていた けていた
このような仕方で、アリストテレスは「AはBである」という形式で述べられる内容を分類します。そして、これら10のカテゴリーの中から、主語に当たるAの本質を表しているものとして最も適切なものを特定するんですね。     
2-2、各カテゴリーの特徴

 

2-1で、探究の対象である事物Aを定義する際に我々が用いる「AはBである」という命題について、アリストテレスはそのBの部分を10のカテゴリーに分類したということを確認しました。この2-2では、分類された10のカテゴリーのそれぞれについて、その内容を確認してみましょう。
カテゴリー1…実体
いきなり結論みたいな感じになってしまうんですが、「AはBである」という形式の命題のうち、アリストテレスが主語であるAの本質を表現しているとみなしているのが、この「実体」のカテゴリーに分類されるものです。
アリストテレスは『カテゴリー論』第五章の冒頭で、以下のように述べて、この「実体」を「第一実体」と「第二実体」の二つに分けています。
『カテゴリー論』第五章
実体――それも本来的な意味で、そして第一に実体と言われ、また最も多く実体であると言われるものは、何かある基体について言われることもなければ、何かある基体の内にあることもないもののことである、例えば或る特定の人間、あるいは或る特定の馬。そして第二実体と言われるのは、第一に実体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種の類とである、例えば或る特定の人間は種としての人間のうちに属し、そして動物がその種の類である。だからそれらのもの、例えば人間や動物は実体としては第二と言われるのである。
まぁ、なんとも、例によって、非常に読みにくい文章ですが、この引用文で言われている主張を簡潔に要約すると、第一実体とは、1 で言及した「個物」のことです。アリストテレスは第一実体である「個物」について、「何かある基体について言われることもなければ、何かある基体の内にあることもないもののことである」という仕方で特徴付けていますが、この主張を簡潔に説明すると、「他の個物の述語として機能することも無ければ、個物が属している概念(第二実体)を主語とした文の述語になることもない」ということです。なんか、言い直すとよけいに混乱すると言われてしまうかもしれませんが、第二実体についてちょっと書いた後に、もう一度、具体例を使いながら詳しく説明しますね。
続いて、第二実体についてですが、ここで言われる第二実体とは、個々の個物が属している「種」のことです。つまり、個物である「アリストテレス」が属している「人間」という「種」が第二実体です。
さて、第二実体の概念が明らかになったところで、ここでもう一度、第一実体に戻りましょう。
先に私は、第一実体の特徴を「他の個物の述語として機能することも無ければ、個物が属している概念(第二実体)を主語とした文の述語になることもない」と言うふうに説明しましたが、ここでいわれている二つの特徴、すなわち、
(1)他の個物の述語として機能することがない
(2)個物が属している種(第二実体)を主語とした文の述語になることはない
の二つを、具体例を用いながらよりわかりやすく説明します。
先ず、(1)についてですが、「実体」のカテゴリーに分類される具体的な述語として、「アリストテレスである」という述語を使って検討してみましょう。
ある一つの探求対象、「この人」を定義する場合、我々は探究対象である「この人」の実体を主張する命題として、「この人はアリストテレスである」と主張することができます。
しかし、この「アリストテレスである」という述語は、他の個物、すなわち、アリストテレス以外の人物や物を主語にした場合は使うことができません。もちろん、「プラトンはアリストテレスである」とか「この椅子はアリストテレスである」とか言ったり書いたりすることはできますけど、これらの命題は間違ってますよね。
このように、「実体」のなかでも「第一実体」に分類されるものは、ある一つの個物以外のものの述語として機能することはできないんですね。
次に、(2)についてです。
第二実体について言及したときに、この第二実体のことを、個々の個物が属している「種」という仕方で定義しましね。それを考慮に入れた上で、(2)をもう一度みてみると、第一実体はこの第二実体を主語とした文の述語にはなれないということでした。これは、どういうことなのでしょうか?以下のような命題を考えてみましょう。
人間はアリストテレスである
この命題、明らかにおかしいですよね。当然のことですが、「人間」はアリストテレスだけじゃなく、ソクラテスやプラトン、そして、それ以外にも、たくさんの人がいるわけです。つまり、第一実体を第二実体の述語として用いてしまうと、明らかにおかしな命題が出来上がってしまうんですね。
さて、以上が「実体」のカテゴリーの説明です。「実体」は主語の本質を表すものであり、同じ「実体」のカテゴリーの中でも、「第一実体」と「第二自体」の区別があります。
「実体」以外の他のカテゴリーに関しては、後々問題になるということはあまりないんですが、この「実体」のカテゴリーだけは、後々、改めて言及する必要がありますから、頭の片隅にしっかりととどめておいてください。
カテゴリー2…量
次に、「量」のカテゴリーについて検討します。
アリストテレスは、この「量」を、『カテゴリー論』のなかで以下のように四つの仕方で特徴付けます。
『カテゴリー論』第六章
「量」は[1a]それの或るものは分離的なものであるが、[1b]それの或るものは連続的なものである、[2a]また或るものは、それの中にある部分が相互に位置をもつもので、それらから構成されているが、[2b]或るものはそのような位置を持たないものから構成されている。
この引用文中に書かれている[1a][1b][2a][2b]は、岩波版のアリストテレス全集に書かれているもの(これはあくまでも翻訳者が読者の理解の助けとなるようにつけたもので、もともとのギリシア語原文には書いてないですよ)ですが、アリストテレスは、一般に「量」を表すとされる「数」や「線」「面」といったものを以下の一覧表に示すような仕方で分類しています。
[1a]分離的…数、言葉
[1b]連続的…線、面、立体、時、場所(空間)
[2a]部分が相互に位置を持つ…線、面、立体、場所(空間)
[2b]位置を持たない…数、言葉、時
これら四つの区別のうち[1a][1b]は「分離」という観点からなされた区別であり、[2a][2b]は「位置の有無」という観点からなされた区別ですが、上述した「数」や「線」のような諸事物がなぜこのような仕方で分類されているのかはなんとなくわかりますよね。。
[1a]の分離的に分類される「数」の概念をみてみても、例えば「1」という数は他の「2」や「150」などの数とは分離していますよね。1は1ですし、2は2です。確かに、数直線というものはありますが、あれも、便宜的に直線として表しているだけで、あれは無限に分割可能な点が並んでいるだけで、幾何学的な「線」と同じように切れ目の無い連続体ではないんですね。
そして、このように考えると、[1b]の連続的という区別の規準もわかりますよね。「線」や「立体」「面」「時」といったものどもは、数直線の事例のように無限に分割されちゃったらどうしようもないですよね。仮に、無限に分割されてしまったら、それは、「線」や「立体」ではなく、ただの点になってしまいます。
もちろん、概念的なことを言えば、どんなものであれ、「ひろがり」を持つ以上は分割可能ですが、分割可能だからといって分割すると、それは「線」や「立体」として存在できなくなってしまいます。ですから、「線」が「線」として、「立体」が「立体」として存在している状態のことを考えれば、これは連続したものですね。
また、「位置の有無」という観点からなされた[2a]と[2b]の区別を見ても、[2a]に分類されているものは何らかの仕方で空間的な「ひろがり」を持っているので、立体Aのポイントαのような仕方で、その広がりの中のある特定の部分について「位置を持つ」と主張することができます。
しかし、それに対して、[2b]に分類されている諸事物は空間的な「広がり」を持たないものなので、「位置」と言われてもなんともしようがありません。
このような仕方で、アリストテレスは一般に「量」を表すとされる諸事物を分類し、大別したわけです。
アリストテレスの行う分類のしつこさにはほとほと感心してしまいますが、カテゴリーの一つとして分類された「量」を、さらにもう一回区別したところで、アリストテレスは、せっかく分類した「量」に対して、今度は、その「量」のカテゴリー全体を統括するような一つの最も特徴的な性質を示します。
『カテゴリー論』
しかし量に最も独特なことは、それが「等しい」とか、「等しくない」とか言われることである。というのは以上に言われた量のそれぞれは「等しい」とか、「等しくない」とか言われるからである、例えば物体は「等しい」とか、「等しくない」とか言われる。また数も「等しい」とか、「等しくない」とか言われるし、また時も「等しい」とか、「等しくない」とか言われる、しかし量でない残りのものどもは何ものも「等しい」とか、「等しくない」とか決して言われないと思われるだろう、例えば状態は「等しい」とか、「等しくない」とか決して言われないで、むしろ「同様な」と言われる。また白も「等しい」とか、「等しくない」とか決して言われないで、むしろ「同様な」と言われる。従って「量」に最も独特なことは、それが「等しい」とか、「等しくない」とか言われることであるだろう。
アリストテレスが示す「量」に最も特徴的な性質というのは、この引用文が示すように、「等しさ」で表現されるということです。
つまり、アリストテレスが示す最終的な「量」の概念というのは、途中、色々な仕方で区別されたりしましたけど、最終的には、「『等しさ』の概念で表現されるもの」なんですね。
カテゴリー3…質
「量」に続いて、今度は「質」について検討してみましょう。アリストテレスがこの「質」について言及しているのは『カテゴリー論』の第八章ですが、ここでアリストテレスは「質」の最も基本的な特徴として以下のように主張します。
『カテゴリー論』第八章
しかし、「性質」と私が言うのは、それに基づいて何か在るものが「これこれ様の」と言われるところのものである。
この引用文は、岩波版のアリストテレス全集から取ったものですが、この中では、「質」のかわりに「性質」という言葉が使われていますが、まぁ、これは、意味的な差ではなく解釈者の差ですから気にしないでください。
さて、肝心の「質」の定義についてですが、これに関しては、特別に説明を加えなくても、この引用文だけで、「まぁ、そうだよね…」ぐらいな感じで納得していただけるんじゃないでしょうか。「これこれ様の」っていう日本語が古くてわかりにくいという方がいらっしゃれば、「そのようである」ぐらいの意味で考えておけば大きくはずすことはないと思います。「色白」という質を持つ主語Aに関する文章であれば「色白である」という表現になりますし、カテゴリーわけをした図に描かれている「乾燥肌」という質であれば「乾燥肌である」という表現になりますからね。さて、「質」をこのような仕方で大きくまとめたアリストテレスですが、彼は「質」全体に関するこのようjな大きな定義を提出した後、この「質」をさらに四つに分けます。
この四つの区別は先に「実体」の項目であげた「第一実体」と「第二実体」の区別ほど重要ではないので、別に覚えなくてもいいと思いますが、一応、以下にその分類を書いておきます。
(1)性状、状態…知識や徳(性状)、熱、冷え、病気、健康(状態)
(2)能力…ボクシングができる、健康的である、etc
(3)受動的性質…甘さ、辛さ、酸っぱさ、暖かさ、冷たさ、白さ、黒さ、etc
(4)姿かたち…三角形、四角形、etc
こんな感じで、アリストテレスは「質」を四つに分類するんですね。この中で、(1)(2)(4)はなんとなく直感的にわかると思うんですが、(3)はちょっと「?」な感じですよね。なんで「甘さ」や「辛さ」みたいなやつが「受動的」なのか? 「甘さ」と「受動的」っていまいち結びつかないですよね。
これ、アリストテレスは、
「甘いもの」は「甘さ」を受け入れているから「甘い」のであってその意味で受動的だ
みたいな説明をするんですが、これねぇ、正直、私自身もいまいち納得いってないんですよね。後々、より詳しく説明しますが、アリストテレスはプラトンが主張する「イデア」の代りに「形相」という概念を取り入れるんですね。そして、この「形相」というやつが「質料」と呼ばれる諸事物の材料と結びつくことによって、「そのものはそのものとしてある」ことになるんです。
アリストテレスは諸事物がそのものとしてある仕組みをこのように考えるんですが、しかし、だからといって、「甘さ」などの性質について、アリストテレスが主張するような説明を受け入れてしまうと、あらゆる性質は「受動」にまとめられてしまうと思うんですよね。つまり、せっかく、性質を上に上げた四つに分類したのに、その意味がなくなっちゃうと思うんですよ。
正直、このあたりの問題について、私はちょっと適切な見解を出せる能力がないので、この「質」の四分類にまつわる問題に関しては、ただ単に、「アリストテレスは「質」を上にあげた仕方で四つに大別していた」と主張するにとどめたいと思います。
カテゴリー4…関係
続いて、四つ目のカテゴリー(まだ四つ目か…)である「関係」についてみてみましょう。この「関係」のことを、アリストテレスは以下のように語っています。
『カテゴリー論』第七章
しかし、「関係的」と言われるのは、それ自らまさにあるところのものが「他のものの」[あるいはより]であると言われたり、あるいはたとい何でもその他の仕方で「他のものとの関係において」あると言われたりするようなもののことである。
アリストテレスの文章はあいかわらず非常にわかりにくいですが、でも、ここにあげた引用文に関しては、意外と、「うん、まぁ、そうだろうね…」ぐらいな感じで、すんなり頭に入ってくると思います。つまり、アリストテレスは「関係」のことを、「あるものが他のものに対してどのようにあるか」というふうに考えているんですね。ていうか、これ、当たり前ですよね。なんか、自分で書いてて、「何をダラダラと書いているんだ…」と軽い自己嫌悪が起こっています。
『カテゴリー論』のなかで「関係」について書かれているのは、先に引用文をあげたときに示したように第七章なんですが、この第七章、他の章にくらべて長いんですよね。
アリストテレスのテキストの中では、色々と事例を挙げて、その事例が「関係」に属するものとみなすべきものであるのかどうかを検討しているんですが、その箇所に関しても、「関係」のもともとの定義である「あるものが他のものに対してどのようにあるか」ということを念頭においておけば、いきなり原典にあたっても、すんなり理解できると思います。そうですね、「関係」については、下手にゴチャゴチャ書くよりも、これぐらいにしておくのが無難でしょうねぇ…
カテゴリー5…場所
これまで、「実体」「量」「質」「関係」の四つを見てきました。『カテゴリー論』のなかで、これら四つの質は、それぞれ一個の章を割り当てて説明されていたんですが、ここから先の六つの質はものすごく短い第九章にまとめて収録されています。ですから、ここから先の「質」については、もう、本当に、場合によっては一行程度でサラッと説明していきたいと思います。で、「場所」についてですが、これは、もう、ただ、主語に当たるものがどこにあるのかを表すというだけのことです。
カテゴリー6…時
主語にあたるものがいつあるのかを表す述語。「アリストテレスはB.C.384-322を生きた人である」みたいなことです。
カテゴリー7…状況
続いて、「状況」です。これは、要するに、「主語がどのような状況にあるのか」ということを示すものなんですが、日本語で「状況」っていうとちょっと意味が広くてとらえどころがない感じがしますよね。ですが、ここでいわれる「状況」っていうのは、「主語の外見的な身体の状況」を意味します。岩波版のアリストテレス全集には、読者の便宜を図るためにカッコつきで[体位]という言いかえがなされていますが、要は、その主語に当たるものがどのような姿勢にあるかです。「立っている」こともあれば、「座っている」こともあるでしょうし、「寝ている」なんていうことあるでしょう。そういった、主語の身体的な状況、それを表す述語が分類されているのがこの「状況」のカテゴリーです。
カテゴリー8…状態(所有)
これは「主語が物に対してどのような関係にあるか」を意味します。アリストテレスの表現は色々とわかりづらいものがありますが、さすがにこの「状態」は、このままだと意味が全くわかんないので、「所有」という言い換えを括弧内に示しておきました。つまり、「Aは服を着ている」とか「Aは鉛筆を持っている」とかそういうことなんですけど、これを「状態」の一言で表現するのはさすがにきついですからね。
カテゴリー9…能動
この「能動」ですが、これに関してもアリストテレスはそれほど詳細な説明は行っていません。厳密に言うと、どうやらこの部分にテキストの欠損があるらしいんですよ。ですから、その部分に詳しい説明があるかもしれませんが、今となっては確認不可能です。それゆえ、現段階でこの「能動」のカテゴリーの意味について言えることは、先に示した表で書いたように、「主語が他のものに対してなにをしているか」ということだけですね。
カテゴリー10…受動
ただ、最後と言っても、実は、この「受動」も「能動」のときと同じ理由で、『カテゴリー論』のなかであまり詳しい説明がなされていないんですよね。ですから、この「受動」も表にあげた「主語が他のものから何を被っているか」ということ以上に説明の使用がありません。

さて、以上が10のカテゴリーの細かな説明です。
「カテゴリー」の概念を本格的に扱い始めた2-1の冒頭でも示したように、アリストテレスは、探究対象である諸事物を主語とした「AはBである」という形式の命題を分析し、分析の結果として提出した10のカテゴリーの中から、その事物の本質を表すカテゴリーを特定しようとしたんです。
結局、アリストテレスが諸事物の本質とみなしたカテゴリーは「実体」ということになるんですが、これって、ソクラテスやプラトンに関する議論をある程度知っている人にとっては、「あたりまえだろ…」って思いますよね。
当然、アリストテレスもアカデメイアでプラトンについて学んでいたわけですから、カテゴリーによる分析をしても、最終的に諸事物の本質を表すカテゴリーは「実体」になるであろうということは想定していたと思うんです。
ただ、それでも尚且つ、実際にアリストテレスはこのようなカテゴリーによる分析を実行したんです。
いったいなぜでしょうか?
その理由を特定するに当たって、このカテゴリーの分析によって諸事物の本質として退けられたカテゴリーとソクラテス以前の人々が展開した自然学的な探究の二つに着目してみましょう。
先にも示したように、「実体」以外のカテゴリーは諸事物の本質として退けられていたわけですが、ソクラテス以前の人々が自然学的なやり方で行ったアルケー探究の結論として提示した諸事物の本質を表す命題を思い出してみると、彼らの示した定義は、どれもみな、アリストテレスが諸事物の本質として退けたカテゴリーによる定義だということがわかるでしょう。
具体的に言うと、アナクシメネスによる諸事物の定義はアルケーである「空気」の濃度(アリストテレスのカテゴリーで言うところの「量」)でしたし、エンペドクレスの定義も四根とよばれる火、水、土、空気の混合状態(これもある種の「量」ですかね…)でした。また、現代的な観点からみて、恐らく最も自然学的な学説であろうと思われるデモクリトスの原子論をみても、そこでなされる定義は、アルケーであるアトムの形状(これは「質」ですかね)や並び方(これは「質」か「状況」なんですかね…)などに言及することでなされていました。 つまり、アリストテレスは、このカテゴリー分析を実行することによって、ソクラテス以前の人々が示したような諸事物に対する定義を、諸事物の本質である「実体」に言及していない定義として一掃したんですね。 
3、アリストテレスの四原因説 

 

〜アリストテレスの自然探究〜
アリストテレスの学説を、諸事物の「何であるか?」を問題とするプラトン的な本質探究と、諸事物の自然学的な原因を問題とするソクラテス以前的探求の二つに分けました。そして、2 では、アリストテレスのカテゴリー論を中心に検討することで、諸事物の「何であるか?」を問題とするプラトン的な本質探究について検討しました。
この3では、アリストテレスの学説を二つに分けたうちのもう一方、つまり、諸事物の自然学的な原因を問題とする探求について検討しようと思います。
3-1、「がある」と「である」
〜原因を「一」であるとする主張の否定〜
アリストテレスによる自然学的原因探求を問題とするにあたって、ここでは主に、そのものズバリ『自然学』というタイトルの著作をみながら検討していきます。 。
この『自然学』の冒頭で、アリストテレスは以下のように主張して、自然を探究する際に従うべき原理原則を示します。
『自然学』一巻184a10-
およそいかなる部門の研究においても、その対象にそれの原理、原因、ないしそれの構成要素があるかぎり、われわれがその研究対象を知っていると科学的に認識しているとかいうのは、これら[それらの原理・原因・構成要素]をよく知ってからのことである(というのは、普通われわれは、各々の対象事物の第一の原因、第一の原理を、その構成要素にいたるまで知り尽くしたとき、そのとき初めてその各々を知ったものと思っているからである)、だから明らかに、自然についての学[学的認識]の場合にも、先ず第一にわれわれのつとむべきはそれの諸原理に関する諸事項を確定するにある。
184b-
さて、ものの原理は、一つであるか、一つより多くあるか、そのいずれかあらねばならない。〜中略〜 ところで、「あるもの」[存在]について、それが一つであり不動なものなのではないかと詮索することは、自然を研究するもののすることではない。
185a-
だがとにかく、われわれ[自然学研究者]としては、自然によって存在するものども[自然的諸存在、自然物]のすべてを、あるいは少なくともそのあるものどもを、動くものであると前提しておきたい。
この引用文をみると、アリストテレスは、自然学を探究する際に従うべき原則として以下の三つのことを主張していると考えることができます。
1、「探究の対象について知るということは、探究対象の最も根本的な原理や原因を知ることである」
2、「自然的な事柄の原因は多である」
3、「探究対象である『自然物』とは『動くもの』のことである」
つまり、アリストテレスは「探究対象について知る」ということを「その対象の原因を知ることである」とした上で、『自然学』における探究対象である自然物を「動くもの」であると限定し、その自然物がそのようにあることの原因を「一」ではなく「多である」と主張しているんですね。
古代ギリシア哲学で「一」っていうと、どうしても、パルメニデスおよびそれに連なるエレア派の人々が思い浮かびます。
実際、アリストテレスも『自然学』のなかでパルメニデスやメリッソスの名前を出して、彼らのことを、自然物の原因を「ただ一つのもの」と考えた人々として解釈していますが、純粋にパルメニデス解釈という観点から言えば、アリストテレスのパルメニデス解釈は間違っています。
しかし、アリストテレスのパルメニデス解釈がどうこうという問題は別としても、アリストテレスが自然物の原因を数的にたった一つではなく複数であると考えていたことは事実です。
アリストテレスは先に示した三つの原則を遵守して、自然物の原因を「複数である」と考えているんですね。
ですが、仮に、アリストテレスの自然探究における原則を先に上げた三つのものとした場合、以下にあげる二つの問題が生じます。
(1)どのような理由で自然物の原因を数的に一であるとみなす主張を排除しているのか。
(2)アリストテレスが示す複数の原因とは具体的にどのようなものなのか。
これら二つの問題点のうち、まずは、(1)について検討してみましょう。
「原因は一である」という考え方を排除するに当たって、アリストテレスはまず、エレア派が問題とする「ある」という言葉に着目します。
アリストテレスは、われわれがこの「ある」という言葉を用いる状況を分析し、「ある」の意味を、量や性質を述べる場合に「何々である」という仕方で用いられる「である」(述定)と、そのものの実体などを述べる場合に「何々としてある」という仕方で用いられる「がある」(存在)の二つに分類します。
そして、アリストテレスは、このように「ある」には多様な意味があるという観点から、あらゆる状況における「ある」の意味を未分類にしたまま「ある」をあつかっているエレア派の人々を問題視しています。
つまり、アリストテレスは「ある」が持つ意味の多様性という観点から、自然物の原因が一つのものに収束していくことを論駁しようとするんですね。
ここからは、その論駁の手順をいくつかに分けてみてみましょう。
論駁1:「ある」を存在の意味でのみ用いることに対して…
仮に、「ある」が存在の意味でのみ用いられるならば、あるもの、たとえば鉄アレイに関する言及は以下のように複数のものが考えられる。
A:鉄アレイは鉄アレイとしてある(「実体」として存在する)
B:鉄アレイは5kgとしてある(「量」として存在する)
C:鉄アレイは硬さとしてある(「性質」として存在する)
この場合、一つの存在者である鉄アレイは三つの存在者である。
仮に、「ある」を存在の意味でのみ用いることが正しいならば、BやCは量や性質として存在することになる。
しかし、量や性質は実体なくしては存在しない。
それゆえ、「ある」を存在の意味でのみ用いることは、存在できない存在者を存在しているとみなさなければならなくなるという点でおかしなことになる。
以上のことより、「ある」を存在の意味のみで用いると不都合が生じる。
論駁2:自然物の原因(「あるもの」)が一であり、それが無限なものであるという主張に対して…
仮に、一つの原因が無限なもの出るならば、それはなんらかの量である。
しかし、量は実体に付帯するものであるから、無限なものは実体を必要とする。
それゆえ、仮に自然物の原因(「あるもの」)が無限であるならば、それは量としてもあり、実体としてもあるのであり、二つのものということになる。
よって、自然物の原因は一ではない。
また、仮に、自然物の原因である無限なものが、量ではなく実体だとすると、無限とは量であるから、無限なものは無限ではないことになる。
それゆえ、自然物の原因を一であり無限なものとみなすことは誤りである。
論駁3:自然物の原因である「あるもの」について「それは一である」とするとき、その「一」が連続的なものであるとする主張に対して…
仮に、原因である「一」が連続的なものであるならば、それは広がりを持つのであり、その意味で無限に分割できる。
それゆえ、連続的である「一」は無限に多になる。
よって、「原因」であるところの「あるもの」が連続的であるならば、それは「一」ではない。
論駁4:自然物の原因である「あるもの」について「それは一である」とするとき、その「一」が不可分であるとする主張に対して…
仮に、自然物の原因である「あるもの」が、不可分であるがゆえに「一」であるとするならば、それは不可分なものとしてある(存在)。
つまり、「不可分なもの」とは「不可分」という性質として存在しているものである。
しかし、性質としてあるものは、その性質が属する実体を伴っている。
よって、「不可分なもの」は性質と実体に別れることになる。
このことから、不可分なものは不可分ではないし、それが性質と実態であるという意味で一でもない。
論駁5:自然物の原因が一であるといわれるとき、それは複数の原因が存在しているけれどもそれらすべてのものが皆同じ仕方で説明されるがゆえに「一」であるとする主張に対して…
この場合、原因は説明という意味では「一」であるが、数的には複数であるから、一であるものが多でもあることになる。
よって、原因は「一」ではない。
さて、アリストテレスはここに示したような五つのやり方で、自然物の原因を数的に一であるとする考え方を退けています。
この一連の議論は『自然学』第一巻の第二章で展開されていますが、この箇所でアリストテレスは主に、エレア派の人々を論駁するという体裁をとっています。
先にも見たように、アリストテレスのパルメニデス解釈を、純粋にパルメニデス解釈という観点から検討した場合、アリストテレスの主張はちょっと受け入れがたいものがあります。
しかし、ここで展開される一連の議論は、自然物の原因を「数的に一である」とする主張に対する反論としては一定の効力を持っていますし、実際にアリストテレスはこの議論をもって、「原因はたった一つしかない」とみなす主張は論駁されたとしています。
これで、アリストテレスの自然探究における問題点のうち、一つ目の問題は解決したことになります。 続いて、先に(2)という仕方で示したもう一つの問題、すなわち、「アリストテレスが示す複数の原因とは具体的にどのようなものなのか」という問題を検討してみましょう。 
3-2、アリストテレスが示す自然物の原因 

 

〜アリストテレスの四原因説〜
3-1では、アリストテレスが自然探究を行う際の基本的な立場を確認し、そのような立場から必然的に生じてくる二つの問題のうちの一つ目、すなわち、「どのような理由で自然物の原因を数的に一であるとみなす主張を排除しているのか」という問題について検討しました。この3-2では、もう一つの問題点である、「アリストテレスが示す複数の原因とは具体的にどのようなものなのか」という点について検討してみましょう。
3-2-1、「自然」の再定義
「アリストテレスが示す複数の原因とは具体的にどのようなものなのか」という問題は、主に『自然学』の第二巻と『形而上学』の第一巻で検討されていますが、主に『自然学』の方を主な考察対象にします。 す。
さて、『自然学』第一巻で、自然物の原因が数的に一であるということが退けられたことを受けて、アリストテレスは第一巻の段階でただ単に「動くもの」とされていた「自然物」について、よりくわしく再定義することを試みます。以下にあげる引用文をみて下さい。
『自然学』第二巻192b8-
「ある」と言われるものども[諸存在]のうち、その在るものは自然によって存在し、他の在るものはその他の原因によって存在する。自然によって存在するものども[自然的諸存在、自然物]は動物とその諸部分や植物や単純な物体、たとえば土、火、空気、水などである(というのは、これらおよびこのようなものどもをわれわれは自然によって[自然的に]存在すると言っているから)。そして、すべてこれらは、自然によってでなしに作られ存在するものどもにくらべて明らかな差異を示している。けだし、これら[自然的に存在するものども]の各々はそれ自らのうちにそれの運動および停止の原理[始動因]をもっている。そして、その在るものは、場所的意味での運動および停止の原理であり、在るものは量の増大・減少[成長・萎縮]の意味でのそれのであり、或るものは性質の変化の意味でのそれである。これに反して、寝台や衣やその他のこの類のなにものであろうと、たまたまそう呼ばれているその名前のものとしてのかぎりのすべては、すなわち技術によって存在するものとしてのかぎりのすべては、それ自らのうちに転化への何らかの衝動をも植えつけられていない、ただし、これらも、たまたま付帯的に石から、あるいは土から、あるいはこれらの混合からなるものとしての限りにおいては、そうした衝動をもっている、だがそれもただこのかぎりにおいてのみそうなのである。しかし、まさにこのことは自然なるもののなにものであるかを示している、すなわち、或るものの「自然」とは、これ[自然]がその或るもののうちに第一義的に・それ自体において・そして付帯的にではなしに・内属しているところのその或るものの運動しまたは静止することの原理であり原因であるとのことを示している。
アリストテレスの文章は、これが講義メモの類であったということを差し引いたとしても、メチャクチャ読みにくいですよね。ここに引用した箇所は『自然学』第二巻第一章の冒頭部分なんですが、ここも、まぁ、ひどいですね…
アリストテレスによる「自然物」の再定義は、基本的に『自然学』第一巻でなされた「動くもの」という定義をより詳しくするというやり方で行われています。
アリストテレスは先ず、自分が自然物とみなすものの事例として、動物、植物、土、火、空気、水といったものをあげ、これらの共通点として、「自分自身のうちに運動および停止の原理をもっている」ということを主張します。
引用文中でも言われているように、ここでいう「運動や停止」というのは、量の増大・減少や性質の変化なども含んだかなり広い概念です。
一般的には、たんに「変化」と言った方がわかりやすいかもしれません。
前に、どこかで(確か、パルメニデスの項目だったと思うんですが…)、古代ギリシア哲学で言われる「運動」の概念についてチョコッとだけ書いたと思うんですが、古代で「運動」っていうと、単純に「ものが動く」という「場所的な」もしくは「空間的な」変化だけじゃなく、性質の変化や状態の変化などとも関係しています。
実際、ソクラテス以前の項目をみていただけるとわかるんですが、ソクラテス以前のアルケー探究において、万物はアルケーと呼ばれる特定の諸事物から生じそこへと帰っていくものとして規定されていました。
そして、万物をそのようなものとして考えた場合、諸事物の性質は最終的にはアルケーとされるものの性質に還元されてしまいます。
それゆえ、諸事物の性質の変化(色の変化とか味の変化とか、色々ありますよね)を考えるときには、アルケーの数と性質はそれぞれの哲学者によって決まってますから、そのアルケーが性質とは別の部分でどのようなあり方をしているのかということを明らかにする仕方で検討されます。
具体例として、デモクリトスの提出した原子論を考えてみると、原子論において諸事物はデモクリトスがアルケーとするアトムの集合体として規定されていました。それゆえ、ある諸事物Aの色が赤から青に変わるとき、その変化は、その諸事物を形成しているアトムが動いて状態αから状態βへと変わる過程として記述されるんですね。
つまり、原子論における諸事物の性質変化の過程は、アトムの運動として解釈されるんです。
これと同じことはエンペドクレスにも見て取ることができます。
エンペドクレスは火、水、土、空気という四つのものをアルケーとし、それらが万物の生成と消滅を、愛と争いを原理とするそれら四つのアルケーの集合と分離として説明しましたが、このような考え方において、諸事物の生成消滅という変化は、アルケーの集合と分離という動きの過程として説明されます。
このように、古代ギリシア哲学において、「運動」というと諸事物の様々な変化とも密接な関係(極端な言い方をすると、「運動にに還元できる」という言い方もできるかもしれません)を持っているんですね。
ちょっと話がそれましたが、古代ギリシアにおける「運動」の概念を考えた場合、アリストテレスが主張している「自然物」の定義、すなわち、「自分自身のうちに運動および停止の原理をもっている」は、そのまま「自分自身のうちに変化の原理を持っている」と読みかえることができます。
さて、このような仕方で「自然物」の定義を述べた後で、アリストテレスは「寝台」や「衣」という具体例を挙げ、こういった人間によって作られた事物(アリストテレスはこれらの事物を「技術によって存在する限りのもの」という回りくどい言い方をしていますが、要するに「人間が作ったもの」という理解で問題ないと思います)はどう考えるべきかということに言及します。
この点について、アリストテレスは引用文中で「それ自らのうちに転化への何らかの衝動をも植えつけられていない、ただし、これらも、たまたま付帯的に石から、あるいは土から、あるいはこれらの混合からなるものとしての限りにおいては、そうした衝動をもっている、だがそれもただこのかぎりにおいてのみそうなのである」という、やたらめったらひねくった書き方をしていますが、要するに、人間が作ったものでもその材料が、アリストテレスが「自然物」とみなしているものであればOKということです。
さて、このように、それが人間によって作られたものであれ、自然界に存在しているものであれ、自分自身の内に「変化の原理」となるようなものを持っているものをアリストテレスは「自然物」とみなしているわけですが、ここで、アリストテレスはさらに、これら自然物のうちにある「変化の原理」を「自然」と呼びます。 つまり、アリストテレスにとって、「自然物」とは「自然」を持つものであり、この「自然」を持つがゆえに、「自然物」はそのようにあるということですね。 
3-2-2、「変化の原理」とは

 

〜「四原因」概観〜
3-2-1でアリストテレスによる「自然」の再定義を検討しました。
そして、アリストテレスはその「自然」を「変化の原理」であるとし、その「変化の原理」を持つものが「自然物」であり、その「変化の原理(運動の原理)」のゆえに「自然物」はそのようにあると主張しました。 た。
つまり、「自然物」がそのようにあることの原因として、アリストテレスは「変化の原理」を主張したわけですが、この「変化の原理」とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
これまでの部分ではまだこの「変化の原理」について具体的なことは主張されていませんでしたが、少なくとも、3-1で自然物の原因が一であるということが退けられていたということから、この「変化の原理」としてなにか複数のものを想定していたということは考えられます。
それに関して、先ずは以下の引用文を見て下さい。この引用文は岩波のアリストテレス全集に入っている『自然学』から抜粋したものですが、ここでは文章字体を変更することはないものの、わかりやすいようにレイアウトだけちょっと変えてあります。また、ここで言われている「原因」とは「変化の原理」のことですので、その点だけご注意ください。
『自然学』第二巻第三章
ところで、
(1)或る意味では事物がそれから生成しその生成した事物に内在しているところのそれ[すなわちその事物の内在的構成要素]を原因と言う、たとえば、銅像においては青銅が、銀盃においては銀がそれであり、またこれらを包摂する類[金属]もこれら[銅像や銀盃]のそれである。
しかし、
(2)他の意味では、事物の形相または原型がその事物の原因といわれる、そしてこれはその事物のそもそもなにであるか[本質]を言い表す説明方式ならびにこれを包摂する類(たとえば、一オクターブのそれは[その説明方式としては]一に対する二の比、ならびに一般的には[その類としては]数)、およびこの説明方式に含まれる部分[種差]のことである。
さらにまた、
(3)物事の転化または静止の第一の始まりがそれからであるところのそれ[始動因・出発点]をも意味する、たとえば、或る行為への勧誘者はその行為に対して責任ある者[原因者]であり、父は子の原因者[始動因]であり、一般に作るものは作られたもの、転化させるものは転化させられたものの原因であると言われる。
さらに、
(4)物事の終り、すなわち物事がそれのためにでもあるそれ[目的]をも原因と言う。たとえば、散歩のそれは健康である、というのは、「人はなにゆえに[なんのために]散歩するのか」との問いにわれわれは「健康のために」と答えるであろうが、この場合にわれわれは、こう答えることによってその人の散歩する原因をあげているものと考えているのだから。なおまたこれと同様のことは、他の或る[終わりへの]運動においてその終わり[目的]に達するまでのあらゆる中間の物事についても、たとえば痩せさせることや洗滌することや薬剤や医療器具など健康に達するまでの中間の物事についても、言える。というのは、これらはすべてその終わり[すなわち健康]のためにある物事だから。ただし、これらのうちでも、その或る物事[前の二つ]は行為であるが、他の或る物事[後の二つ]はそのための道具である[そして道具はさらに行為のための手段である]という差別がある。
ここに上げた引用文中の括弧つきの番号は、私がふったものではなく岩波版のアリストテレス全集にデフォルトでふられているものですが、わざわざ(1)〜(4)まで番号を振って提示されているように、ここで提出されている四つの原因こそが、一般的なアリストテレス関係の入門書や哲学史関係の本で言われている「四原因」というやつです。
これら四つの原因について、個別的な詳しい言及は後々がんばってやりますけど、ここでは、とりあえず、おおまかな説明だけやっておこうと思います。
先ず、(1)についてです。これは、いわゆる「質料因」というやつですね。一般に「質料」っていうと「重さ」っていう意味ですが、アリストテレスの言う「質料」って言うのは「材料」のことです。例えば「椅子」を作ろうとするとき、当然、そこには木であれ鉄であれ何がしかの材料がありますよね。その「材料」のことを「質料」と呼びます。
次に、(2)についてです。これは、いわゆる「形相因」というやつですね。(1)で「質料」のことを「材料」といいましたが、「材料」って、どんなものにもなるじゃないですか。例えば、「椅子」を作ることを考えると、(1)でも書いたように、「木」やら「鉄」やら色々考えられますけど、それらの材料って、別に「椅子」を作らなくても「テーブル」とか「本棚」とか「家」とか色々作れるじゃないですか。つまり、材料だけがあっても、それが何になるかは特定できないんですね。ですから、材料が何者かになるためにはそれを規定するものが必要なんです。その規定するものこそが、ここでいわれている「形相」なんです。
続いて、(3)についてです。これは、いわゆる「始動因」というやつですね。(1)と(2)で「質料」と「形相」について書きましたが、「質料」と「形相」がバラバラにあっても諸々の事物は生まれませんよね。これら二つのものが結びつく必要があります。「材料」である「質料」が「形相」と結びつくために動いていく。その「動き」の原因がこの「始動因」です。
最後に、(4)についてです。これは、いわゆる「目的因」というやつですね。(3)で「始動因」について書きましたけど、ただ動いたってダメですよね。なにごとも到達点を置いておかないとどこに向かうかわからない無軌道な動きになってしまいます。例によって「椅子」を作ることを考えてみると、「椅子の形相」と「椅子の質料」と「作るぞ!!」っていう「始動因」があっても、最終的に「こういうふうにしたいなぁ…」っていう椅子のビジョンみたいなものがないと、どんな椅子にすればいいかわからないので、椅子作りも始まらないし、椅子も完成しませんよね。この最終的な到達点が「目的因」です。
さて、ここにザッと説明したものが、一般にアリストテレスの「四原因説」といわれるものです。さっきも書いたように、これら四つの原因に対する個別的な言及は、後々、なんとか、死力を尽くして、やりますが、四つの原因の関係性だけはここで言及しておきます。
四つの原因を説明しているときになんとなく気づいた方もいらっしゃるかと思いますが、これら四つの原因は、究極的には「形相因」と「質料因」の二つに絞ることができます。
具体的に言うと、「質料因」以外の「形相因」「始動因」「目的因」の三つを一つにまとめることができます。
なぜ、まとめることができるのでしょうか?
「形相因」「始動因」「目的因」という三つの原因の基本的な性格を具体的な事例を取り入れながら考えてみると、「椅子」の「形相因」はその椅子をその椅子であらしめる原因、すなわち、「こういう椅子」の「こういう」にあたる部分、「椅子」の「始動因」は「こういう椅子が欲しいなぁ…」っていう製作者の気持ち、「椅子」の「目的因」は「こういう椅子がいいなぁ…」っていう椅子のイメージです。
さて、「椅子」という具体的なものを取り入れながらこれら三つの原因を考えてみると、この三つって同じものですよね。結局は、「こういう椅子」っていうイメージ的なものに行き着くんです。
アリストテレスが三つに分けて説明しているものを安易にまとめてしまうのはあまりいいことではないと思いますが、しかし、大体のもの(もちろん、常に例外はあります)に関しては、これら三つの原因をまとめることができます。
さて、以上がアリストテレスの四原因説を概観したものです。『自然学』第一巻から、この四原因説が登場してきた過程を振り返ってみると、アリストテレスはまず第一の手順として、「自然物」の原因が「数的に一」であるということを否定して複数の原因が存在することを示唆し、二つ目の手順として、「自然物」を「変化の原理」を持つものと規定し、最終的な三つ目の手順として、「質料因」「形相因」「始動因」「目的因」という四つのものを自然物の原因として提示したんですね。 アリストテレスの学説は実に多岐に渡っていますから、その学説にどこから切り込んで行くかによって現れてくるアリストテレス像は異なってきます。以上が四原因説の概観です。ここから先は、これら四つの原因について個別的により詳しく言及していきます。  
3-2-3、「質料因」解題

 

四原因説の大まかな説明が終わったところで、ここからは個々の原因について個別的に言及していこうと思います。
その手始めとして、この3-2-3では「質料因」について言及します。3-2-2でサラッと示したように、「質料」というのは「個物」と呼ばれる様々な諸事物の材料にあたるものです。
例えば、目の前にある「財布」であれば、その材料は皮や金属や布といったものです。
ですが、これらの材料は「財布」にもなることができますが、同時に「筆入れ」などの他のものにもなることが可能です。ですから、それらの材料が「財布」になるためには、「財布」の「形相」と結びつくことが必要であり、「財布」の「形相」と結びついて初めて「財布」という個物になるんでしたね。
アリストテレスが示すこのような仕組みを簡単な図で表すと以下のようになります。
ここまでは、3-2-2で示したことなんですが、問題なのはここから先です。
確かに、「財布」という個物が生じる仕組みだけを考慮すれば、この図で示した仕組みだけで十分なんですが、この図をよくよく見てみると、「財布」の「質料」である「皮」や「布」そして「金属」といった諸事物も、それぞれ「個物」であるということがわかるでしょう。
例えば、これら三つの「質料」のうち、具体例として「布」を考えてみると、「布」という「個物」は「糸」という「質料」が「布」の「形相」と結びついてできています。
さらに、この「布」の「質料」である「糸」も、糸よりさらに細かい「繊維」という「質料」と、「糸」の「形相」が結びついてできています。
そしてさらに、この「糸」の「質料」である「細かい繊維」も、それが仮にナイロン繊維である場合、その「ナイロン繊維」は「炭素原子」や「水素原子」などの「質料」と、「ナイロン繊維」の「形相」が結びついてできています。
もうなんとなくおわかりでしょうが、この関係は無限に続く可能性があります。
しかし、アリストテレスは、この無限に続く可能性がある「質料」の後退を止める究極の「質料」として、「第一質料」という概念を導入します。
この「質料」の後退と、「第一質料」の関係を図で表すと以下のようになります。
さて、ここに示した図のような仕方でアリストテレスの「質料」の概念を概観した場合、当然のことながら、究極の質料である「第一質料」が問題となります。
アリストテレスは、この第一質料について、『形而上学』のなかで以下のように主張しています。
『形而上学』第五巻第六章 つぎに、(二)それら自体において一つといわれる物事のうちでは、〜中略〜
さらに、(2)他の在るものどもの場合には、(a)それらの基体がその種において無差別であるがゆえに一つであると言われる。ただしここに無差別というのはそれらの種が感覚では不可分割的[無区分]なもののことである。ところで、なにものかの基体というのにも、そのものの終わり[完成状態]から見て第一のそれ[そのものに最も近い質料]をいう場合と、最も遠い[終極の]それを意味する場合とがある。だからして、酒が一つであると言われ、水がまた一つであると言われるのは、それぞれがその[最近の]種において不可分割的なものである限りにおいてであり、他方、油や酒やその他およそ溶解されうる液体がすべて一つであると言われるのは、これらすべてのものの終極の[最も遠い]基体が同一であるからである。すなわち、これらすべては水であるかあるいは空気であるかであるから。
しかし、(b)たとえ対立的な種差[差別性]によって相互には差別されえてもそれらの類は一つであるところのものどもも一つであると言われる。そしてこれらもまた、これらが一つと言われるゆえんは、種を異にするこれらのものの基体たる類が一つであるからというにある。たとえば、馬も人間も犬も、すべて[類においては同じ一つの]動物であるから、なんらかの一つのものである。そして実にこの場合もほぼそれらの質料が一つである場合[すなわち前記a]と同様である。すなわち、ときとしてはこのような意味で一つであると言われるが、ときとしてはさらに上位の類が同じであるのでそう言われる、すなわち、当のそれらがその類の最終の種であるとき、これの最近の類よりも一だん上位の類が同じである場合、たとえば[最終、最下の種としての]等脚三角形と等辺三角形とは、ともに[その最近の類では]三角形であるから、同じ一つの図形であるといわれるがごときである。ただしこの両者は[図形としては同一であるが]三角形としては同一ではない。
この引用文に関しては下手に詳しく説明すると逆にややこしくなるので、敢えて、細かな説明を避けて、この文章の意味するところだけを大づかみに説明します。
この箇所は、要するに、様々な諸事物についてそれが「一(同一)である」といわれる場合について、なぜそれらの諸事物が同一といわれるのかということを問題にした箇所です。
そして、アリストテレスは、複数の諸事物が同一であるといわれる場合について、以下にあげる二つの状況を想定し、この二つの事例において複数の諸事物は「同一」といわれると主張します。
(α):それら複数の諸事物が最も近い種において、同じ種の中に含まれている場合
(β):それら複数の諸事物が最も遠い基体において、同じ種の中に含まれている場合
この(α)と(β)は、このままの表現だときわめてわかりづらいですし、言葉で他の表現に言い換えても非常に理解しづらいんですね。
ですから、ここは敢えて、以下に示す図によって説明したいと思います。
この図では、「酒」「ジュース」「茶」の三つが「水」という一つの種に属しているという点で同一のものとされながらも、それと同時に、「サラダ油」「灯油」「硫酸」「ガソリン」といった「水」に属さないものどもが、「液体」という一つの大きなくくりに属するものとして、「水」に属するものと同一のものとされています。
この図のなかで、仮に、「酒」を基準にして考えた場合、(α)で言われている「最も近い種」とは「水」のことであり、(β)で言われている「最も遠い基体」というのが「液体」です。
そして、アリストテレスは様々な諸事物が互いに同一であるといわれるのは、この「最も近い種」が同一である場合と、「最も遠い基体」が同一である場合であると主張するんですね。
さて、「第一質料」を問題にしているのになんでこんなことをウダウダ言っているのかという話になりますが、この(α)と(β)でいわれているもののうち、(β)で言われている「最も遠い基体」というのが、アリストテレスの主張する「第一質料」なんです。
もちろん、私が作ったこの図では「液体」っていうのを「最も遠い基体」としていますから、「酒」を基準にしてなおかつこの図に従った場合、「酒」の「第一質料」は「液体」ということになりますが、必ずしも、「酒」に関して「液体=第一質料」という図式が成立するわけじゃないですよ。
実際、「液体」だって「質料」としていくつかの「分子」を想定できますし、それらの分子と「分子結合の緩さ」という「形相」が合体して「液体」が成立するわけですから、「酒」の「第一質料」を探求する際にはさらに遡ることができます。
でも、まぁ、便宜上ね、ここでは「酒」の「第一質料」は「液体」ということにしておきます。
さて、このように、アリストテレスは諸事物を構成する材料を「質料」と呼び、その「質料」をずっと遡って行き着く究極の「質料」として「第一質料」というものを想定して、その「第一質料」を「最も遠い基体」として定義付けたんですね。
「質料は材料だ!!」っていうところまではわかったけど、そこから先、「第一質料」とかが出てきてからよくわかんなくなったという方がいらっしゃるかもしれませんが、もし、この「第一質料」の概念がいまいちわかりづらいと思うのであれば、思いっきり簡略化して、「第一質料=材料の材料の材料の材料の……」みたいな感じで考えておいても、おおよそ間違いはないでしょう。 
3-2-4、「形相因」解題 

 

〜可能態と現実態〜
続いて、「形相因」について検討してみましょう。
アリストテレスにおける「形相」の概念は、通常の諸事物の「形相」という観点から「形相」を考える場合と、「生きているもの」の「形相」という観点から「形相」と考える場合で、少し、アプローチの仕方が異なります。
3-2-4全体を3-2-4-1と3-2-4-2に分けて、前者で通常の諸事物における形相の概念を、後者において「生きているもの」における形相の概念を検討していきますが、3-2-4-2の方で展開する議論はちょっとディープな感じになると思うので、「あんまり哲学臭いのはちょっとね…」という方がいらしたら、3-2-4-2は読み飛ばして、3-2-4-1で「形相」の概念をざっと確認するぐらいで次に進んでいただいてもけっこうです。
3-2-4-1、諸事物における「形相」 
〜可能態と現実態〜
諸事物の「形相」の概念は比較的簡単です。
3-2-2でアリストテレスが変化の原理として提示する四つの原因を概観したときに、「形相因」についても検討しましたが、ここで行う説明も基本的には同じです。
何を作るにせよ、そのものの材料は色々なものになる可能性を持っています。具体的にいえば、「椅子」を作るのと同じ材料で「テーブル」や「たんす」を作ることができますし、その材料の量さえ多ければ「家」だって作ることができるかもしれません。つまり、「材料(すなわち、質料)」は色々なものになる可能性があるんですね。
しかし、色々なものになることができる可能性のあるものは、そのままだと色々なの物になる可能性はありますが、結局何ものにもなれません(なんか、ここらへんの考え方は、現代社会の働かない若者あたりを論じるときにも使えそうです)。何ものにもなることができる材料を、実際に何ものかにするためには、材料があらかじめ持っていた多様な可能性を一つに限定していく必要があります。
例えば、「椅子」の材料として「木」や「金属」があるならば、「机」や「たんす」になることもできるそれらの材料の可能性を「椅子!!」という仕方で限定することによって、「木」や「金属」は初めて「椅子」になるんですね。
この「材料(質料)」が持っている可能性を限定するもののことを「形相」と呼びます。
様々な諸事物は、それを構成している「材料」と、その材料の可能性を「これになれ!!」という仕方で限定する「形相」とが結びついて初めて現実にそういう諸事物として存在することができるんです。
さて、ここまでの説明が、先に3-2-2で行った説明です。
「形相」というものの概念を大まかにご理解いただけたでしょうか。
つまり、「多様な可能性を持つもの」と「可能性を限定するもの」というのが、アリストテレスにおける「質料」と「形相」の基本的な考え方なんですが、アリストテレスはこれら二つのものと、それらが結びついた個々の諸事物のあり方を、ちょっと変わった概念を使って表現しています。
その概念とは、この3-2-4-1の小見出しにもなっている「可能態」と「現実態」という概念です。
3-2-4-1の最後に、これら二つの概念を概観しておきましょう。
(α)可能態
先ずは「可能態」についてです。
ついさっき、「形相」は「材料が持っている多様な変化の可能性を一つに限定するものだ」と書きましたが、「可能態」とは、この「色々なものになる可能性があるもの」すなわち「質料」のことです。
何度も書きますが、「質料」は「色々なものに変化する可能性を持っているもの」です。そして、この多様な可能性を持っているがゆえに、この「質料」、すなわち、「可能態」は「これ!!」という仕方で特定することができないんです。
わかりやすい話、「何ものでもないもの」を「これ!!」っていうことはできないですよね。
つまり、「可能態」とは、可能性は持っているけれどもその可能性が実現されていないという点で、「これ!!」ということができないものなんです。
実際そうですよね。目の前に「木」や「金属」や「ねじ」なんかがバラッとあって、それの全体を指して「これ何?」って聞かれても、「えッ…?」って言って終わりですよね。
もちろん、個々の「木」や「金属」に対して、「う〜ん、木…」とか「鉄…?」とか言うことはできますが、この場合の答えは「質料」という材料全体について答えているのではなく、「木」や「鉄」という個々の個物に対して答えていることになるので、「質料」に対する「これ何?」という問いの答えとしてはナンセンスです。
このように、「可能態」とは「質料」のことであり、その可能性が現実化していないという点で何ものともいえないものなんですね。
(β)現実態
さて、今度は現実態についてみてみましょう。
「可能態」を説明したときに、この「可能態」を「色々なものになる多様な可能性のあるもの」として定義しましたが、「現実態」とは、「可能態」の可能性が現実化したもの、すなわち、「質料」と「形相」が結びついた「個物」のことです。
少し前のことになりますが、『カテゴリー論』を取り上げてそのなかの「実体」のカテゴリーに言及したとき、そこで「第一実体」という言葉が出てきたことを覚えているでしょうか。
そのとき、この「第一実体」は
(1)他の個物の述語として機能することがない
(2)個物が属している概念(第二実体)を主語とした文の述語になることはない
という二つの仕方で特徴付けられていましたが、この「第一実体」の特徴はそのまま「現実態」の特徴としても当てはまります。
つまり、「椅子の形相」と「椅子の質料」が結びついた「この椅子」という「現実態」は、「あの机はこの椅子である」という仕方で他の個物の述語として機能するものではないですし、「椅子はこの椅子である」という仕方で「この椅子」という「個物」が属している概念を主語とした文の述語になることはできないということです。
このように、アリストテレスにおいては、「個物」「第一実体」「現実態」という三つのものが同一のものとしてイコールの関係で結び付けられます。
さて、以上が、個々の諸事物における「形相」の概念です。一般的に流通している『哲学入門書』や『哲学史』に関する書籍で説明されている「形相」の概念の説明は、おおよそこんな感じです。
ですから、アリストテレスの「形相」の概念を『哲学入門』的なレベルで大づかみにわかっていればいいよというかたは、次の3-2-4-2の部分は読み飛ばしていただいてかまいません。
ただ、先にも書いたように、アリストテレスの「形相」の概念は、通常の諸事物における「形相」の概念を説明しただけでは、その全体的な説明として不十分なんです。 以下の3-2-4-2では、一般の『哲学入門書』ではあまり説明されていないアリストテレスにおける「形相」のもう一つの側面である、「生きているもの形相」について言及しておきます。
3-2-4-2、「生きているもの」における「形相」 〜「魂」、この厄介なもの〜
ここで取り上げるのは「生きているもの」の「形相」についてですが、スタートとなる基本的な問いはきわめて単純です。つまり、
「生きているもの」の「形相」って何?
というものです。
3-2-4-1で展開してきた議論を踏まえれば、このと意の答えはきわめて簡単です。つまり、
「生きているもの」の「形相」は「生きているものの形相」だよ
と言ってしまえばそれで終わりです。
ところが、アリストテレスはこの「生きているものの形相」について、以下のように主張するんです。
『魂について』第二巻第四章b10-
ところで、魂は生きている物体[身体]の原因であり始原[原理]である。だが、原因や始原は多くの意味で語られるのであり、同様に魂は、すでに区別された仕方に応じて、三つの意味で原因である。すなわちそれは、(@)そこから動[運動変化]が始まる始原であり、(A)「それのために」という目的であり、また(B)魂をもつ身体の、本質としての原因である。さて、それが(B)本質としての原因であるということは、明らかである。なぜなら、本質[実体]とは、すべてのものにとって、それの「それであること」の原因であるが、生物にとってその「生物であること」とは生きていることであり、魂こそがこの生きていることの原因あるいは始原だからである。さらに、現実態は可能態にあるものの説明規定である。
この引用文はこれまで引用してきたものとは違って、岩波版の『アリストテレス全集』ではなく、京都大学出版会から出ている西洋古典叢書の『魂について』からの引用です。訳の新しさや訳者の努力とか、そういったことをすべて考慮したとしても、アリストテレスはもともとの文章が微妙な感じなので、本質的なわかりにくさは変わらないですね。
さて、引用文中で言われているように、アリストテレスは『魂について』のなかで、「生きているもの」における「形相因」「始動因」「目的因」という三つの役割を同時に果たすものとして、「魂」というものを提示するんです。
「魂」という一つのものが「形相因」「始動因」「目的因」という三つの役割を同時に果たしているという点については、3-2-2においてこれら三つの原因は一つにまとめることが可能だということに言及しておいたので、ここで改めて説明することは避けますが、とにもかくにも、アリストテレスが「生きているもの」の「形相」として「魂」という具体的なものを提示しているということは事実です。
一般の諸事物(無生物と思ってくれればいいです)の場合、「形相」は「そのものの形相」という言われ方をされていて、その「そのものの形相」が具体的に何なのかという点については明らかにされていませんでしたよね。なんとなくわかりにくい感じがするので具体的に言うと、「椅子」の「形相」は「椅子の形相」としか言われておらず、その「椅子の形相」が何なのかはわかりませんでしたよね。
ところが、この「生きているものの形相」に言及するに至って、アリストテレスは突然「生きているものの形相」として「魂」という具体的なものの名前を挙げるんです。
アリストテレスは、
「本質」とは、それがそれであることの原因である

生物が生物であることとは「生きている」ということである

生きていることの原因は「魂」である

よって、「生きているもの」が「生きているもの」であることの原因は「魂」である
という段階を踏んで、「生きているもの」が「生きているもの」であることの原因、すなわち、「形相」を「魂」であると特定するんですね。
しかし、このようにみてくると、当然のことながら「魂って何?」という問題が生じます。
この「魂」というものは、古代ギリシアにおいても常に問題になっている主題でしたし、現代においても「心」や「脳」というふうに名前を変えて、学問的な探究の中心問題として君臨し続けています。
そんな大きな問題である「魂」について、アリストテレスはどのように考えていたのでしょうか。
ここからは、アリストテレスの魂論について検討してみましょう。
古代ギリシアにおいて、この「魂」というものはもともと「生命原理」として考えられていましたが、ソクラテス以前の自然学者、ソクラテス、プラトンという段階を踏んだ考察を経て、単純な生命原理としてだけでなく、知性的な認識をつかさどる知的器官として認識されるようになりました。
実際、プラトンにおいて、「魂」は身体と明確に区別されたうえで不生不滅の存在とされ、身体に宿る前に普遍的実体である「イデア」を認識しているものとして定義されていました。
プラトンの「魂」に関する考え方は良くも悪くも哲学的(形而上学的といってもいいかもしれませんね…)なものでしたが、アリストテレスはそんなプラトンの考え方も踏まえた上で、それに独自の自然学的な考察も加えた自分なりの魂論を展開します。
その考え方は主に『魂について』と題された著作にまとめられましたが、この著作は西洋哲学の歴史上初めて「魂」(もっと言えば「心」)を主題としてかかれたもので、現代でいうところの「心の哲学」の発端と考えることもできます。
さて、この『魂について』(『霊魂論』と呼ばれることもあります)のなかで、アリストテレスは魂の機能を以下の表のような仕方で分類しました。
アリストテレスによる「魂」の機能分類
1 栄養摂取・生殖能力
「生きているもの」の発生や成長に関係する能力。植物の「魂」がもっている能力はこれだけ。
2 感覚能力
植物以外のすべての「生きているもの」、すなわち「動物」の「魂」がもっている能力。一般に五感といわれるが、それらの感覚のうち、すべての動物が共通して持っているのは触覚だけ。対象が発する特定の「形相」を「魂」が受け入れることによって、その「形相」が「質料」である「感覚器官」と結合し、感覚する能力だけを持っている可能態としての個々の感覚器官が「そのように見える目」「そのように聞こえる耳」という仕方で感覚器官として現実態になることで「感覚」が成立する。
3 欲求能力
「快」を求める
4 運動能力
身体の場所的な移動をつかさどる能力。3の「欲求能力」と5の「表象能力」があわさることで身体を動かす。
5 表象能力
表象を形成する能力。2の「感覚能力」と密接な結びつきがある。
6 思惟能力
「知性」と呼ばれる知的活動を行う能力。認識対象の「何であるか」をあらわすもの、すなわち「形相」を認識する。
ザッとこんな感じなんですが、6番目(ここに打たれている番号は便宜上振っているだけなので、特に、この順番がアリストテレスの学説に関係するということはありません)の「思惟能力」に関してはちょっと付け足して説明することがあります。
表の中では単純に「対象の形相を認識する」とだけ書きましたが、ここで言われる「対象」とは一般的な「個物」のことなので、認識するとき、「対象」は常に「質料」と「形相」が合体した状態になっています。
ですから、通常の認識方法では、「対象」の認識は感覚的認識と知性的認識の両方を使って「個物」を「個物」として、すなわち、「この財布」を「この財布」として、「アリストテレス」を「アリストテレス」として認識します。
しかし、ここで言われる「思惟能力」といわれる能力がつかさどる認識は、このような「個物」を「個物」として認識する認識ではなく、表の中でも書いているように、「個物」がもっている「形相」の部分を認識する認識なんです。
つまり、「質料」と一体化している「形相」の部分を、「質料」から分離させて認識するということです。
「質料」と「形相」を「分離」させることを「抽象」といいますが、この「抽象」による「形相」の認識とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
今、目の前に三つの財布があったとします。財布Aは迷彩柄のナイロン製の財布、財布Bは黒い皮製の長財布、財布Cはがま口型の小銭入れです。
仮に、我々人間が、「個物」を「個物」として認識する認識手段しか持っていなかったならば、これら三つの財布は「財布A」は「財布A」、「財布B」は「財布B」、「財布C」は「財布C」であって、それ以外の考え方を我々はしないでしょう。
しかし、我々は「財布A」は「財布A」というふうに個々の「個物」を別のものとして認識すると同時に、互いに別々の特徴を持つ三つの財布を「財布としては同じもの」という仕方で「同じもの」として認識することができます。
これが「抽象」による「形相の認識」です。
2-2でアリストテレスの10のカテゴリーを個別的に詳しく検討したときに、「実体」のカテゴリーの中にはさらに「第一実体」と「第二実体」の区別があるということに言及したのを覚えていらっしゃるでしょうか。
このとき、「第一実体」は個々の「個物」のことで、「第二実体」はそれらの「個物」が属している「種」のことだという仕方でこれら二つの実体の区別を説明しましたが、今問題となっている「思惟能力」による「形相」の認識とは、ここで言われる「第二実体」、すなわち、「種」を認識することなんですね。
さて、以上が、「魂」に関するアリストテレスの見解です。 アリストテレスは、人間をはじめとした「生きているもの」がまさしく「生きているもの」としてあるためには、先に表で示した6つの能力を持つ「魂」が「形相」として「身体」という「質料」と結びついていなければならないと考えたんですね。 
3-2-5、「始動因・目的因」解題 

 

〜自然物(人間を除く)における始動因と目的因〜
「質量因」と「形相因」を概観したところで、残る原因は「始動因」と「目的因」の二つです。
この二つ、分けてやろうか一緒にしようか悩んだんですけど、まとめてやることにしました。下手に分けると、「始動因」と「目的因」の結びつきが不明瞭になる感じがしましたし、まとまってた方が都合のいいことが多そうなんですよね… で、それにあたって、一つことわっておかなければならないことがあるんです。
「自然物(人間を除く)における始動因と目的因」という3-2-5の副題をみてもらうとなんとなくわかると思うんですが、ここで言及する「始動因」と「目的因」は人間以外の自然物にかかわる「始動因」と「目的因」です。
「始動因」と「目的因」について検討する際に、その考察範囲に人間という要素まで組み込んでしまうと、自然学的な観点からの言及に加えて、「倫理」っていう大きな分野が関係してくるんですよ。
ですから、ここで一気にまとめるにはちょっとしんどいですし、下手に一緒にしてしまうと話題が錯綜してしまってわかりにくくなってしまうので、ここではあえて、「人間」を除外した「自然物」における「始動因」と「目的因」について説明していきます。
3-2-5-1、「自然物」から「神」へ 
〜「不動の動者」という究極の原因〜
とうとう、「神」なんていう言葉が登場するようになってしまいました。
なんか、話がドンドン身近なところからそれていって、馴染みの薄い領域へ進んでいきそうですが、まぁ、哲学(それも古代哲学)ですからねぇ…、そこらへんはご了承ください。
さて、タイトル批判はこのくらいにして、ここから「始動因」と「目的因」について本格的に議論を進めていくことになるわけですが、その前に、先ずは、それらの原因の基本的な性格について確認しておきましょう。
3-2でアリストテレスが自然の四原因を提出した過程を概観したときに、我々は、以下のような段階を経て「四原因」が提出されたということを確認しました。
ステップ1:自然物がそのようにある原因は一つではない
ステップ2:「自然」が「自然である」ことの原因はその内に「変化の原理」を内在しているということである
ステップ3:「変化の原理」は「質量因」「形相因」「始動因」「目的因」の四つである。
ステップ4:よって、「自然」がそのようにあることの原因は「質量因」「形相因」「始動因」「目的因」の四つである。
つまり、アリストテレスの示す四つの原因は、諸々の自然物が自らのうちに内在している「変化の原理」として提示されたものだったんですね。
確かに、我々人間であれば、自らの内に「魂」もしくは「心」というやつを持っていますから、それを「変化の原理」、もっと言えば、今問題としている「始動因」や「目的因」として解釈することも可能です。
そして、現に、アリストテレスはこの「魂」というものを「生きているもの」の「形相因」であり「始動因」であり「目的因」であると解釈していました。
しかし、これ、「石ころ」のような他の自然物に関してはどうなのでしょうか。
この「他の自然物」というのはもっと簡潔に「無生物」と言い換えてもいいのかもしれませんが、「魂」を持たない「無生物」の場合は、それらのものの広い意味での「動き」をつかさどる「始動因」と「目的因」をどのように考えればよいのでしょうか。
この問題について、アリストテレスはきわめてシンプルな主張を展開します。
『自然学』第七巻第一章冒頭
動くもの[運動するもの]はすべて何かによって動かされるのでなければならない。
これです。このシンプルにしてものすごく強力な主張。この主張が「自然物」における「始動因」と「目的因」を解明するに当たって、強力な原動力になります。
さて、ここにあげた一節を「ビシッ!」と示した後、アリストテレスはさらに以下のように主張します。
『自然学』第七巻第一章
動くものはすべて何かによって動かされなければならないがゆえに、もし在るものが他の動くものによって場所的に動かされ、さらに、その動かすものが他の動くものによって動かされ、さらに、その動かすものが他の動くものによって動かされ、さらに、その動くものが異なるものによって動かされ、このように系列がどこまでもつづくとすれば、何か第一の[最初の]動かすものがなければならず、系列は無限へと進行してはならないのである。
つまり、アリストテレスは、「石ころA」が動いているのは別の「石ころB」がぶつかったからであり、その「石ころB」が動くのは「落ちてきた木の枝C」にぶつかったからであり、「落ちてきた木の枝C」が動くのは「強風D」が吹いたからであり……というふうに延々と原因と結果の連鎖が続いた先に、それ以上遡れない「運動の起点」が存在すると考えているんですね。
この「運動の起点」の概念についてですが、この「運動の起点」はあくまでも「運動の起点」ですから、自分自身が動いてはいけません。
というのも、「運動」に関するアリストテレスの基本的な考え方は先にも引用文としてあげたように「動くもの[運動するもの]はすべて何かによって動かされるのでなければならない」ですから、もしも、この「運動の起点」が自分で動いてしまったら、その「運動の起点」にもほかにそれを動かすものが存在しなければならず、その意味で、「運動の起点」は「運動の起点」にならなくなってしまいます。
ですから、この「運動の起点」は「動かないもの」すなわち「不動」でなければなりません。
また、この「運動の起点」は他のものの運動の原因ですから、「動くもの[運動するもの]はすべて何かによって動かされるのでなければならない」という大原則を掲げる以上、他のものを「動かす」 ものでなければなりません。
つまり、この「運動の起点」は、「不動」でありかつ「他のものを動かす」ものでなければならないんですね。
でも、これ、ちょっと「?」と思いますよね。
だって、自分は動かないのに他のものを動かすんですから。
当然、「どうやって?」っていう話になりますよね。
それに、そもそも、この「自分は動かないのに他人を動かす」なんていう不自然なものがどこに存在しているんでしょうか?
少なくとも、我々が生きている自然界では見たことないですよね。
仮に、超能力者のような得意な人物がいて、その超能力を使って他のものを動かすことができるとしたとしても、その人は「超能力を発動する」という仕方で広い意味で自分自身が動いているわけですからね。
アリストテレスの自然の定義を概観したときにサラッと説明しましたけど、古代ギリシアの「運動」の概念はもっと広く「変化」と捉えた方が適切な概念ですから、「超能力を使う」というのも、「超能力者」にとっては「使う前」と「使った後」という変化が生じているわけですから、このようなきわめて特殊な事例も「運動の起点」を表すものとして不適切です。
いったい、この「運動の起点」はどこにあるんでしょう?
さて、ここに、「運動の起点」をめぐって以下の二つの問題が生じることになります。つまり、
(α)「運動の起点」はどうやって他のものを動かすのか?
(β)「運動の起点」はどこに存在するのか?
の二つです。
この問題を解決するに当たっては、アリストテレスの宇宙論に言及しなければなりません。
単純な「動く」「動かされる」なんていう話題からやたらと話が大きくなってしまって、なんとなく話が胡散臭くなってきましたよね。
でも、これね、それぐらい大風呂敷を広げなきゃダメなんですよ。
ですから、「胡散臭い…」と思いながらもお付き合いください。
さて、アリストテレスの宇宙論ですが、アリストテレスは宇宙全体を以下に示すような構造で捉えていました。
○アリストテレスの宇宙の構造
同心円がずれてるとか色々と御不満な点はあるかと思いますが、図のクオリティに関しては目をつぶってください。
さて、ちょっとわかりづらいかもしれませんが、アリストテレスは宇宙全体の構造を内側から順番に「四元素の世界(火、空気、水、土)」→「月」→「下位惑星」→「太陽」→「上位惑星」→「恒星圏天球」→「第一動者」→「不動の動者(運動の起点)」という七層構造で考えていました。図がちょっとみづらいかもしれませんが、「不動の動者」は「第一動者」の外側に位置していて、この図ではちょうど、この同心円の外側に広がっている白い部分を指します。
また、ここで「四元素の世界」と言っている最下層の世界は、図の中では「火」「空気」「水」「土」という四つの具体的なもので示されています。
この四つの元素は図の中では「土」を一番下にして「火」を一番上にしていますが、実際には、これらは混ざり合っていて、これらの混合によって我々の感覚世界が生じるとされていました。
さて、話を「不動の動者」に戻しますが、この一番外側に位置しているものとしてあげた「不動の動者」というのが、これまで我々が「運動の起点」と呼んできたものです。
アリストテレスは、このようにたまねぎを真横にバッサリ切ったような同心円状の宇宙像を作り上げると同時に、「動く」「動かされる」の関係について、内側の同心円に位置するものは、その直近の外側にある同心円に属するものによって動かされると考えました。
具体的に言うと(上の図を見ながら読んでくださいね)、四元素(「火」「空気」「水」「土」)によって構成される諸事物が属している同心円は、その直近の外側にある同心円である「月」によって動かされます。また、この「月」はそのすぐ直近の外側にある「下位惑星」によって動かされます。そして、この「下位惑星」はすぐ直近の外側にある「太陽」によって…、という具合に、ここに示した宇宙のたまねぎ構造は「動く」「動かされる」の関係が一番下から一番上まで順番に連なっている構造なんですね。
そして、このたまねぎ構造が示された段階で、先にあげた(β)で示した問題は解決されます。
つまり、「不動の動者」と呼ばれる「運動の起点」は、たまねぎ構造の宇宙の一番外側に存在しているものなんです。
ただ、ここまでみてきても、いまだに(α)の問題は残っています。
ついさっき書いたように、アリストテレスの宇宙像における「動く」「動かされる」の関係は、下の同心円がすぐ上の同心円によって動かされるというものでした。
そして、この考え方でいくと、たまねぎ構造の一番外側の層である「第一動者」は、たまねぎ構造の外側にある「不動の動者」によって「動かされる」物でなければなりません。
しかし、「不動の動者」は「自分自身は動かないもの」です。
いったいどうやって「第一動者」を動かすのか?この問題はまだしっかりと残っています。
一旦、「第一動者」が動いてしまえば、後は、この「第一動者」が「恒星圏天球」を動かし、「恒星圏天球」が「上位惑星」を動かし…、という仕方で宇宙全体に「動き」が浸透していきます。
ですが、一番最初に動くものである「第一動者」が「不動の動者」によってどのようにして動かされるかは、この図だけでは解決しないんです。
ていうか、この図に限ったことではなく、この問題は自然学関係の著作だけをみているのでは、明確な解決は示されないんですね。
では、アリストテレスはどこでこの問題を解決させるのでしょうか。以下の引用文を見て下さい。
『形而上学』第十二巻第七章
そこで、或るものがあって、これは常に[永遠に]動かされつつ休みなき運動をしている、そしてこの運動は円運動である(このことはたんに言説においてのみでなく事実においても明らかである)。したがって、この第一の天界は永遠的なものであろう。だが、それゆえに、さらにこの第一の天界を動かすところの或るものがある。動かされ且つ動かすものは中間位にあるものであるから、動かされないで動かすところの或るものがあり、これは永遠なものであり、実体であり、現実態である。[では、どのような仕方で動かすか?]それは、あたかも欲求されるもの[欲求対象]や思惟的なもの[思惟対象]が、[欲求者や思惟者を]動かすような仕方で動かす、すなわち動かされ[も動きもし]ないで動かす。
これは、アリストテレスの『形而上学』から引用してきた一節です。
個人的に、アリストテレスの『形而上学』は人類が長い歴史のなかで生み出した最高の「睡眠薬」だと思うんですが、それでも尚且つ、アリストテレスの善著作の中でもトップクラスの重要度を誇る作品です。
結局、あれなんですよね、アリストテレスって、関心領域がものすごく広いんですけど、この『形而上学』の中ではそんなアリストテレスの広大な関心領域全般がメタなレベルで結晶化してるんですよね。
広範な領域をカバーしながらも尚且つ濃縮されているみたいな、そんな底知れないすごさが文章のいたるところから感じられます。
しかし、そんな「すごさ」を感じながらも読んでいると眠くなるのはなぜなんでしょう?
さて、著作に感じる個人的な感想はそれぐらいにして、引用文の主張を具体的に検討していきましょう。
この引用文のなかで、今我々が着目すべき箇所は、引用文の最後の部分、すなわち、「それは、あたかも欲求されるもの[欲求対象]や思惟的なもの[思惟対象]が、[欲求者や思惟者を]動かすような仕方で動かす」という部分です。
アリストテレスは「不動の動者」が「第一動者」を動かすやり方をこのように説明するんですが、ここで言われている「欲求されるもの[欲求対象]や思惟的なもの[思惟対象]が、[欲求者や思惟者を]動かすような仕方」とはどのようなやり方なのでしょうか。
仮に、目の前に一冊の本があり、Aさんがその本に書かれている内容に強い興味を持っていたとしましょう。そのとき、このAはどうするでしょうか。
当然のことながら、自分から手を伸ばしてその本を取り、その本を読み始めますよね。当たり前のことです。
また、次のような状況を考えてみましょう。
BさんがCさんに片思いをしていたとします。BさんはCさんのことが好きで好きでどうしようもありません。こんなとき、Bさんはどうするでしょうか。
当然のことながら、BさんはCさんに自分の気持ちを打ち明けるか、いきなり告白はしないとしても、メールのアドレスを聞いたり、自分から話しかけたりして、なんとかしてCさんの気持ちが自分に向くように行動しますよね。
まぁ、もちろん、好きだからこそ何もできないっていうことはありますけど、その場合でも、Cさんという人がいることによって、Bさんの心の中に自発的に様々な感情が湧き出していることは事実ですよね。
「不動の動者」が「第一動者」を動かす方法としてアリストテレスが提出する方法はこのような方法なんです。
つまり、「不動の動者」は自分からは動かないし何もしないんだけれども、「不動の動者」よりも一段下のところに位置する「第一動者」の方が「不動の動者」を欲して自分から動き始めるということです。
ここで言われる「欲して」という概念は「愛する」「欲求する」「知りたいと思う」など様々な概念を含んだかなり広い概念なんですが、とにかく、「不動の動者」は自分から何もしなくても欲求される対象としてただ存在しているだけで、「第一動者」に「動き」を生じさせることができるんです。
これで、(α)の問題も解決です。
「運動の起点」である「不動の動者」は自分が動かなくても、直近の「第一動者」がそれを求めてくれるので、宇宙全体に「運動」を引き起こすことができるんですね。
そして、アリストテレスにおいて、この「不動の動者」は宇宙全体の「運動」の起点となっているという意味で、究極的な「始動因」であるとされており、また、「第一動者」がそれを求めることで「運動」が発生するとされている点で、究極的な「目的因」でもあると考えられています。
さて、以上がアリストテレスの提示する「始動因」と「目的因」の概念です。
3-2-5-1の冒頭で示したように、「運動」に関するアリストテレスの最も基本的な考え方は「動くもの[運動するもの]はすべて何かによって動かされるのでなければならない」ですから、個々の自然的な諸事物にとって、その直接的な「始動因」や「目的因」は、それぞれの諸事物の直近にある他の自然的な諸事物です。
つまり、「石ころ」が動く「始動因」はそれにぶつかった「他の石ころ」ですし、「猫が走り回ること」の「目的因」は「目の前を走るネズミ」です。
ですが、この直近の「動く」「動かされる」という関係をドンドン遡っていくと、それら自然的な諸事物が属している、宇宙全体の構造としては最も下位に位置する「四元素の世界」とそのすぐ上に位置する「月」との関係や、さらにその上に位置する諸世界との関係にまで到達し、最終的には、ただ存在するだけで「第一動者」を動かし、宇宙全体に「運動」をもたらす「不動の動者」という究極の原因へと行き着きます。
アリストテレスは、この「不動の動者」という存在を、「運動」の究極の原因として存在者全体に間接的にとはいえ影響を与えているという点で、「神」という存在と同一視されています。
これまでみてきたアリストテレス以外の哲学者においても、何がしかの仕方で存在者全体に影響を与えるある種の超越的な存在がたびたび登場してきましたが、アリストテレス以前においてはそれらの存在者が明確に「神」と同一視されるということはありませんでした。
様々な擬人的な神々が多数登場するギリシア神話を見てもわかるように、当時のギリシア世界では多神教的宗教観が一般的でした。そのような、思想的な土壌にあって、クセノパネスのような例外的な人物を除いて、伝統的な宗教的要素から脱却して何らかの単一な存在者を「神」として打ち出すというのは非常に珍しいことです。
しかし、そういった一神教的な主張を展開する人が少ないということと、その主張の完成度が低いということは全くの別問題です。
実際、アリストテレスがここに示した「不動の動者」という「神」を導出してくる議論は、自然物という我々の身近なものから始まって少しずつ遡る仕方で展開されているため、対象となる事物の取りこぼしが少なく、議論全体の構造も極めて建設的で完成度が高いです。
そして、そのような高い完成度を持った「神」に関する議論は、長いときを経てキリスト教徒出会い、西洋の精神世界の基盤を気づくに当たって大きな役割を果たすことになります。
さあ、以上で、四原因すべてについての説明が完了したことになります。
これまでのところで、1ではアリストテレスの探究の出発点である「個物」について言及し、2ではその「個物」を「何であるか?」という観点から分析する方法として提示された「カテゴリー」について概観し、3では自然がそのようにあることの原因を探究するという自然学的な観点から提示された四つの原因について検討しました。
そして、これをもって、アリストテレスの学説を検討するに当たって、その最初に示した二つの大きな方向、すなわち、諸事物の「何であるか?」を問題とするプラトン的探究と、「自然」の「原因」を問題とするソクラテス以前の自然学者的探究という両方向からの大まかな検討が終了したことになります。
何度もいうように、アリストテレスの学説はその対象範囲が非常に広く、そのすべてを詳細に拾い出すことは不可能です(少なくとも今の私には無理です)。
ですから、学説全体に関する言及はここまでの検討をもって終わりにしたいと思います。
でも、実は、これまで言及してきた範囲のなかで、個人的に「ちょっと説明不足だったかな…」と思っているところがあるんですね。
ですから、次の4では、その「説明不足かな…」と思っている部分についてピンポイントで言及したいと思います。  
4、「第一実体」に関するアリストテレスの主張の問題点 

 

〜「第一実体」の三つの定義〜
2でカテゴリーの概念を検討したときに、アリストテレスの「実体」の概念は「第一実体」と「第二実体」の二つに分けられるということを概観しました。
しかし、ここで一つの問題が生じます。
それは、「そもそも実体って何?」というものです。
確かに、「実体」の特徴については「第一実体」と「第二実体」に区別されるという仕方で言及しました。
しかし、その特徴は理解できたとしても、その特徴をもつものが具体的にどのようなものであるのかという点に関しては、この『カテゴリー論』をメインとした考察ではそれほど詳しく言及しませんでした。
ですから、本来であれば、ここで「アリストテレスにおける実体とは何か?」という問いを立てて、それについて見当すべきなんですが、「実体」に関するアリストテレスの見解にはちょっと問題があるんですね。
何が問題なのかというと、結局、アリストテレスの「実体」に関する主張って、著作全体を通じて一貫してないんですよ。
『カテゴリー論』を概観したときには、「個物=第一実体」という図式と「個物が属している種=第二実体」という図式を提示しましたが、この図式もあくまで『カテゴリー論』の中で言われている図式であって、他の著作に目を向けると、ぜんぜん違うことが言われていたりするんです。
ですから、この4では、アリストテレスの著作全体を概観して、それらのなかで言われているアリストテレスの実体に関する主張、より厳密に言えば、第一実体に関する主張を紹介し、それらの著作相互間における「第一実体」の定義の違いを明らかにしていこうと思います。
(α)「個物=第一実体」という定義(『カテゴリー論』)
先ずは、『カテゴリー論』における定義を見てみましょう。
まぁ、みてみましょうって言っても、本当についさっき書いたばっかりですからね。
それをただ反復するだけです。つまり、『カテゴリー論』における「第一実体」の定義は「個物=第一実体」という定義です。以上!!
(β)「形相=第一実体」という定義(『形而上学』)
『カテゴリー論』で「個物=第一実体」という図式を作っていたのにもかかわらず、アリストテレスは『形而上学』のなかで以下のように語ります。
『形而上学』第七巻第七章1032b-
ここに形相というのは、各々の事物の本質のことであり第一の実体のことである
ね、これ、どうします…。『カテゴリー論』では「個物=第一実体」という図式を成立させていたのと同時に「個物が属している種=第二実体」という図式が成立していましたよね。
ここでいわれる「個物が属している種」っていうのは、「この椅子」「その椅子」「あの椅子」というものに対する「椅子」という概念のことですから、これ、すなわち、「形相」のことなんです。
つまり、アリストテレスは『カテゴリー論』の中では「形相は第一実体じゃない!!」といっていたのに、『形而上学』のなかでは「形相が第一実体だ!!」と言っているんです。
もう、なんか、思いっきり矛盾しているんですけど、現に、アリストテレスってそういうこと言うんですよね。
しかも、ここでやめておけばいいのに、アリストテレスは同じ『形而上学』のなかでさらに以下のようにも主張するんです。
『形而上学』第七巻十一章1037a-
さらにまた、霊魂が第一の実体であり、肉体が質料であり、そして人間または動物はこれら両者から成る普遍的な意味での結合体である、……
3-2-4-2でみたように、アリストテレスは「魂」を「生きているもの」の形相とみなしていました。そこまでは、まぁ、いいんですけど、この引用文中で言われているように、どうやら、アリストテレスはこの「魂」についても、それを「第一実体」とみなしていたようなんです。
もちろん、「魂」を「生きているもの」の「形相」とみなしていたわけですから、この「魂=第一実体」という図式も広い意味では先の引用文で言われていた「形相=第一実体」という図式の一つとみなすことができます。
しかし、仮に「魂」を「第一実体」とみなすのであれば、「魂」以外の他の「形相」はどうなるのでしょうか?
同じように、「第一実体」とみなすのか、それとも、「魂」は「魂」、「その他の形相」は「その他の形相」として別々に扱うべきなのか、その点がいまいち不明確なんです。
(γ)「不動の動者=第一実体」という定義(『形而上学』)
『形而上学』という著作はアリストテレスの思想全体が濃縮状態で表現されている著作なんですが、なまじ、その適応範囲が思想全体に広がっているだけに、この著作の中ではじつに色々なことがいわれます。
実際、(β)の項目で観たように、「第一実体」という一つのものについて、「魂=第一実体」といってみたり「形相=第一実体」といってみたり、様々な主張がなされるんですが、『形而上学』の中では、この「第一実体」についてさらにもう一つ別の定義が示されるんです。
『形而上学』第十二巻第八章1073a26-
そして(c)永遠的な運動は、或る永遠的なものにより、唯一の運動は、或る唯一のものによって、動かされねばならないからして、そしてまた、(d)我々の視界内には、第一の不動の実体がそれを動かすのだと……
このように、『形而上学』の中では、先にあげた二つの定義の他に「運動の起点」であるところの「不動の動者」までもが「第一実体」であるとされているんですね。
さて、ここにあげた(α)(β)(γ)で示したように、「第一実体」に関するアリストテレスの定義はかなり錯綜しているんですね。
こういった現実にぶつかった場合、我々としては、当然のことながらこの定義の錯綜状態をいかに解釈すべきかということを考えるんですが、諸々の研究書を呼んでみても、現段階ではこの錯綜状態に関する統一見解のようなものは見出せないようです。
例えば、『アリストテレスの第一哲学』と題された池田康男の著作では、この三つの定義の相違を、「相違」ではなく定義の「三層構造」として捉え、さらに、この定義の三層構造を「個物」を第一実体とする定義から最終的に「不動の動者」と呼ばれる「神」を第一実体とする定義へと移行していく過程であるとみなしています。
しかし、それに対して、アクリルや今道友信の著作に目を移してみると、この二人はアリストテレスにおける第一実体の定義に相違があることを認めながらも、自らのアリストテレス解釈としては、「個物=第一実体」という定義を厳守する立場を取っています。
また、ミネルバ書房から出版されている『西洋哲学史[古代・中世編]』のアリストテレスの項目では、アリストテレスによるプラトンのイデア論批判との関係から「形相=第一実体」という定義を、アリストテレスの第一実体の定義として採用しています。
このように、アリストテレスによる「第一実体」の定義は、その解釈に統一見解が存在していないだけでなく、それをどう解釈すべきかという解釈のやり方も錯綜しているんですね。
ですから、アリストテレスの「第一実体」には、そういった問題がまとわりついているということを指摘するにとどめておきます。でも、何かの気まぐれで、もしくは、なんらかの見えない強制力が働いて、アリストテレスの著作を読むなんていう羽目になったときには、「そういう問題があるよ」っていうことを心に留めておくと無駄に混乱しなくてすむかもしれませんね。
  
アリストテレス『自然学』における時間の概念

 

「〈より先・より後〉に関する運動の数」としての時間に関する試論
序 動について
アリストテレスは、哲学の歴史の中ではじめて体系的に時間を論じた人物と言うことができるであろうが、その時間論は『自然学』第4巻で集中的に語られている。その著作はタイトルが示す通り、自然(φύσις)を対象に取り上げて、その仕組みを、現代ふうに言えばその構造を、解き明かそうとしたものである。その際彼は自然を、動いたり変化したりするものに内在的な、動ないし変化の始原・原因と捉え(cf. 192b8-193a2)、そのような自然の根本問題として、文字通り自然の原理となるもの、および運動、場所(現代ふうに言えば空間)、時間などを取り上げている。ただし、その自然の捉え方からも分かるように、動および変化と自然は密接な関係を持っているので、自然についての哲学的探究は、動に関する考察を中心のひとつにして展開されると言っても過言ではない。ではその動とはいかなるものか。
アリストテレスはそれを、「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態にあることが動である」1(201a10-11)と定義する。
そしてそれに続けて動の例として、性質的変化、〔量の〕増大・減少、〔実体の変化としての〕生成・消滅、場所移動を挙げている。ただし、この4つのうち、厳密には実体の変化としての生成・消滅は動には含まれず、「性質・量・場所の変化」が動と規定される2。つまり、動と変化の関係は、動よりも変化のほうが意味範囲が広く、変化の中でも性質・場所・量に関わるものが動と呼ばれるのである。このように規定される動を、木製の机の制作を例に取って言えば、木材(=質料) は机(=形相)として実現される可能性を持っている、つまり、可能的に机であるというあり方(=可能態)をしているが、そのままの状態では机になり得るという可能性は発揮されない。しかし制作活動が始まると、木材の持っていた机になり得るという可能性が、可能性として現実化されているあり方(=完全現実態)へともたらされる。つまり動は、木材が有する机になり得るという「可能性」が、まさに可能性として十二分に、すなわち、あくまでも「可能態として」という資格において、現実化されているあり方のことを言う。したがって、机が完成して制作活動が終了してしまうと、木材の持っていた机になり得るという可能性が消失し、動はそこに存在しなくなる。アリストテレスにあって動は、可能態から完全現実態への移行ではなく、可能態そのものの完全現実態であると言えよう3。
自然はこのように理解された動をいわば通奏低音のように響かせているのであり、時間もまたその響きに包まれている。中心となる概念はあくまでも動や変化のほうであって、時間もその角度から眺められてくるのである。以下、彼の時間論の要点を考察してみたいが、あらかじめ記しておけば、私たちは彼の時間論に西洋古典学的あるいは文献学的アプローチを試みるのではなく、あくまでも私たちの関心事にしたがって、つまり時間論の立場から、難解な部分も多々含まれるその議論を検討してみたい。 
1 時間の定義  「〈より先・より後〉に関する運動の数」

 

まずは私たちの実感から出発しよう。私たちは時間が刻々と過ぎ去り、流れ去ってゆくと感じている。もしくは、物事が変化していることに気づいたとき、私たちはそこに時間が流れ去っているのを感じ取るというふうに言ってもよい。もしも時間が過ぎ去らなかったならば、物事は何ひとつ変わらないであろうし、逆に何も物事に変化がなかったならば、そこに時間があるとは感じられないであろう。あるいは、私たちはどこかへ移動しようとするとき、目的地に着くのにどれほどの時間がかかるか必ず考慮に入れるが、時間量を用いてその運動のあり方を示すこともよく行なわれることである。このように、総じて何かがどこかへ動いてゆくとき、あるいは、何かが変化してゆくとき、それには時間が必要だ、と私たちは捉えているのであって、変化や運動に必須のこの時間を消去することはできない。その点で、時間と変化や運動は不即不離の関係にあると言ってよい。とはいえもちろん、両者は同じものではなく、こう言ってよければ、時間は変化や運動が成り立つ場である。アリストテレスにとっても、事情は基本的には同じであって、性質的変化・量的変化・場所的変化としての動にとって──さらには実体の 変化としての生成・消滅にも──、時間は必須のものである。ただし彼は、次の2つの点で変化および動と時間は異なっていると考える。まず、変化や動は、変化しているもの、あるいは、動いているものにおいて認められるが、時間はどこにでも、どんなものにでも認められるという点(cf. 218b10-13)。次に、変化や動には遅速の違いがあるが、時間にはそれがなく、むしろ時間が遅速を規定するという点(cf. 218b13-18)である。もっとも、時間と動および変化が密接な関係にあるのは疑い得ない以上、アリストテレスは時間が「動の何か」(219a9-10)でなければならないと考える。そして時間経過の知覚の問題を論じた後(この点は後に取り上げる)、時間を「〈より先・より後〉に関する運動の数」(219b2)と定義するのである 。 (なお、時間の定義が語られる少し前の219a10以降、時間の問題は場所移動としての運動をモデルに考察されてゆくので、以下本論では κίνησις の訳語として動ではなく、運動を当てることにする)
このようにアリストテレスは、時間を運動との関係において規定しているが、そこには〈より先・より後〉という先後関係の要素と、数という要素が加味されている。したがって、この定義を考えてゆくには、その2つの要素について考察を加えることが肝要となるだろう。まずは数から見てゆきたい。
(1)運動の数
アリストテレスによれば、「運動の数」としての時間は、「数を持つかぎりにおいての運動」(219b3)であり、それゆえまた、「一種の数(ἀριθμός τις)」(219b5)だということになる。ただし彼は、数という言葉には2通りの意味があると言う。すなわち、「数えられるもの」「数えられ得るもの」としての数と、「それによって私たちが数えるところのもの」としての数である。まず、「それによって私たちが数えるところのもの」というのは、抽象的な数(2、3、4等々の自然数。ただし、1は数の単位であり原理であって数ではない4)のことで、「数えられるもの」「数えられ得るもの」とは、抽象的な数が適用され得る具体的対象の数量、たとえば10頭の馬とか10本の木、5人の人間などといった数のことを指す。この数は、いわばこのものはいくつあるか、といった問いに対する答えとして呈示されるものである。そしてアリストテレスは、「時間は数えられるものであって、それによって私たちが数えるところのものではない」(219b7-8)と述べる。実際、時間が抽象的な数であるとすれば、そのような数は馬にも人間にもそして運動にも適用可能で普遍的なものとなるので、わざわざ「運動の」という限定をつけることに必然性が感じられなくなってしまうだろう。とすれば、「運動の数」としての時間は、こう言ってよければ、「数えることのできる運動の数」である。
ここで、「数える」という作業を考えるならば5、たとえば馬の数を5頭、10頭と数えることは、馬と呼び得るもの、馬とはこれこれのものであるという定義に適うものがどれくらいあるのか、を数を用いて表わすということである。あるいは、馬という種に含まれる個体としての馬がどれほどあるか、を数によって示す作業であると言ってもよい。この場合、留意しなければならないのは、ものの数を数える場合、対象領域の構成要素が、少なくとも互いに明確に区別されなければならないという点、すなわち、まずもって不連続なものでなければならないということである。これに対して、対象が連続的なものである場合はどうなのであろうか。たとえば、水を数えるということは可能なのであろうか。液体である水については量を測るという言い方がなされるが、この測るという作業は、或る意味では数えるという作業に変換可能である。たとえば、水の量を言い表わすのにコップ3杯の水とかバケツで10杯という言い方をすることがあるが、これは水の量をコップやバケツの数を数えることで示したものである。水は固体容器に合わせた形を手に入れて、不連続な領域を形成することができるので、容器として使用できるものを「水の量を測る基準」つまり「水の量を数える単位」に取り、それがいくつあるか、を示すことによって水の量を表わすことができるようになるのである。このことは距離や長さ、面積等に関しても同様で、たとえば「数える単位」を歩幅に取れば、歩いて10歩のところ、などと言うことができる。こういった作業が意味するところは、連続している対象の場合、それに楔を打ち込んで対象を分節ないし分割することができるならば、その楔を打ち込むもの、対象の連続性を限定することができるもの──コップであるとか、歩幅であるとか──を「基準単位」として用いれば、対象を数えることができるということである。言葉を換えれば、数えるという作業は、対象が「基準単位」の何回の繰り返しで構成されているのかを示す作業という面を持つ。このように、連続量は何らかのものを「数える単位」として用いたとき、不連続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たしている。もっとも、変換装置、「数える単位」となり得るものは、数える対象と共通性を持っていなければならない。対象が液体であるならば、単位となるものは容積(嵩)を持っていなければならず、広さであるならば面積を持っていなければならない。つまり基準単位は、対象が示す連続性と数が示す不連続性という性格を併せ持つものでなければならないのである。このように見たとき、運動は通常、測定の対象であって、1つ2つと数える対象ではないのであるから、まずは運動を数えられ得るものに変換する必要がある。そのためには、まずもって運動を分節ないし区分する仕方を明確にしなければならない。それはどのようにして行なわれるのであろうか。 
(2)運動における〈より先・より後〉

 

数えることができるものに運動を変換するために、アリストテレスはまず、運動がそこで行なわれる場所の空間的な拡がりと運動および時間の間に、それぞれが示す連続性の点で依存関係があると考える。彼はこう述べる。
「 さて、運動体(動いているもの)は或るものから或るものへと動いてゆき、〔そこで運動が行なわれる拡がりとしての6〕どんな大きさも連続しているのであるから、運動は大きさに準ずる。すなわち、大きさが連続しているので、運動も連続しているのである。そして、運動が連続しているので、時間もまた連続していることになる。というのも、運動が行なわれた分だけ、それに応じて時間もまた常に、経過したと思われるからである。」(219a10-14)
この引用における運動は場所移動を意味しているが、その場所移動としての運動は、空間的拡がりが連続性を有しているがゆえに、それに応じた連続性を手に入れ、運動が連続しているがゆえに、時間もまたそれに準じた連続性を手に入れるとアリストテレスは考えている7。したがって、連続性に関して三者の間に繋がりが見いだされるならば、逆に区分や分割に関しても繋がりが見いだされるはずである。アリストテレスは続けて次のように述べる。
「 ところで、〈より先・より後〉はまず第一に場所〔事物を包み囲む空間的拡がり〕において成り立つ。そこでは位置関係によってそれが決まる。大きさ〔場所の空間的拡がり〕において〈より先・より後〉があるのだから、必然的に運動においても、大きさの場合と類比的に、〈より先・より後〉が成り立たなければならない。そしてさらに、時間においても〈より先・より後〉が成り立つのであって、それはそれらのうちの一方〔時間〕が常に他方〔運動〕に準じているからである。運動における〈より先・より後〉は、その存在主体8 について言えば運動であるが、しかしながら、その本質は別であって、運動〔と同一〕ではない。」(219a14-21)
すなわちアリストテレスは、〈より先・より後〉という先後関係の基盤を空間的拡がりにおける位置関係に見て、そのような空間的区分が運動における先後関係に受け継がれ、それがさらに時間にも受け継がれると考えている。ただし、空間的先後関係がそのまま運動における先後関係に引き継がれるわけではない。空間における先後は、基準点からの距離によって決まるので、事物の並置ないし布置による何らかの同時的秩序の形成を意味する。これに対して、運動における先後は順序を必要とするので継起的秩序となり、両者は必ずしも一致しない9。こう言ってよければ、空間的先後関係は、単なる回路図すなわち布置構造であり、運動的先後関係は、通過地点の順番をその回路図に記したもの、すなわち順序構造であると言えよう。このことを、たとえば自宅から大学の研究棟へ歩いて移動するという運動で考えてみるならば、その運動は目印となる地点によって区分される。すなわち、1まず4 4 4 、自宅から交差点のあるA地点へ移動、2次に4 4 4 、その交差点を右に折れて大学正門があるB地点へ移動、3その次に4 4 4 4 4 、正門から坂を登って研究棟まで移動、というふうに。運動全体はこのように3つに分節ないし区分され、それによって移動運動が持つ順序構造が明確化されるのである。つまり、運動は空間的拡がりが有する布置構造を基盤としてはいるものの、それを順序構造に変換したうえで、その先後関係を受け入れるのである10。とすると、運動に順序をもたらすのは、空間的拡がりではなく運動そのものだということになる。
先にも述べたように、アリストテレスにとっての動(運動)は、可能性が可能性として現実化されているあり方(完全現実態)のことであり、この動にはそれへと向かう目的が備わっている。今の例で言えば、私が有している研究棟に行くことができるというる可能性が、現に歩いているという活動において現実化されており、その活動の目的は研究棟に到着するということである。この目的を実現するために、運動に順序が導き入れられる。言葉を換えれば、目的達成のためには手順を踏まなければならないのであって、私は一挙にして研究棟へ行くことはできない。もし一挙にそれを成し遂げることができたとしたら、そこにはアリストテレスが考えるような運動や変化は存在しなくなるであろう。或るルートを通ることによってしか移動できないがゆえに、したがってまた、運動に楔を打ち込んでそれを先後に区分する目印が空間的拡がりの中に見いだされるがゆえに──ここに空間的布置構造が関係する──、目的達成のためには順序が必要となるのである。このことから分かるように、空間的拡がりの布置構造を順序構造へと変換させるのは、運動そのものが持つ目的へと向かう方向性である。この方向性による順序構造への変換に基づいて、運動における先後関係が規定され、その関係が少なくとも、「まず(1番目に)→次に(2番目に)→その次に(3番目に)」というかたちで数的なものであることができるようになる。運動の数としての時間が「数を持つかぎりでの運動」であるということは、その根本において「順序構造を持つ運動」という意味に解することが可能であろう。では、この運動における先後関係が、そのまま時間における先後関係となるのであろうか。
時間における先後関係、それは言うまでもなく、過去−現在−未来という時間様相の関係であり、時間に関わる日常の言葉のひとつを用いて表わせば、「かつて−今−いつか」という関係である。この時間的先後関係、それは端的に時間経過の問題と言ってよい。ところが、運動における先後関係は「まず−次に」「1番目−2番目」という関係であって、時間関係にはなっていない。したがって、空間的布置構造を運動の方向性が順序構造へと変換させたように、運動の順序構造を時間的なものへと変換させる装置が必要である。ここにアリストテレスにとっての〈今〉の位置が浮かび上がってくると考えることができる11。 
2 〈今〉について

 

(1)〈今〉の多様性
今の問題を考えるに当たって、アリストテレスは先ほど取り上げた依存関係を再び問題とする。あらかじめその大枠を記しておけば、「空間的拡がりとしての大きさ−運動−時間」という系列──これを系列Tと呼ぶことにする──をもとに、それにパラレルな系列として、「点−運動体−今」という系列──これを系列Uと呼ぶことにするが、これは系列Tより具体的な関係となる──を想定し、そして、両系列の各項の間に、「大きさ−点/運動−運動体/時間−今」という対応関係を見て、系列Tは系列Uによって認識されると考えている12。まずアリストテレスは次のように言う。
「 すなわち、先に述べたように、運動は大きさ〔場所の空間的拡がり〕に準じ、時間は運動に準ずる、というのが私たちの主張である。したがって同様にして、運動体は点に準じ、この運動体によって私たちは、運動およびその運動における〈より先〉と〈より後〉〔順序構造を構成するもの〕を識別するのである。そしてまた、運動体は(それが点〔のように小さなもの〕であれ、石であれ、他の何かそのようなものであれ)その存在主体について言えば同一であるが、その語られ方について言えば異なったものになる。それはちょうどソフィストたちが、リュケイオンにいるコリスコンとアゴラにいるコリスコンは異なっていると考えるのと同様である。このように、運動体は次々と違う場所にあるということによって異なっているのである。」(219b15-22)
ここでアリストテレスは、場所の空間的拡がりに対応するものとして点を取り上げ、運動に対応するものに運動体(動いている具体的な当のもの)を取り上げている。そしてさらに、運動が大きさに準ずるように、運動体は点に準ずると述べている。したがって、少なくともその個所で用いられている「点」という言葉は、抽象的な拡がりとしての大きさ、あるいは、拡がりを持たずに位置のみを有するもの、といった幾何学的な点ではなく、むしろ運動体が存在している具体的な場所、アリストテレスが挙げている例で言えば、リュケイオンとかアゴラがそれに相当し、空間的拡がりにおける具体的な「地点」を意味するものと言うことができる。それゆえ、運動の順序構造は運動体が通過する具体的な地点の順序として識別され、運動体そのものは同一性を保つものの、それがどこにいるのか、どこを動いているのか、という点では異なっていることになる。コリスコンという人物〔=存在主体のレヴェル、動いているものという規定を受け入れるレヴェル〕は同一であるが、その人物がいる地点〔=語られ方のレヴェル、運動体の具体的様相〕は異なっているのである。もっとも、これは先ほど述べたこと、すなわち、運動体は運動に内在している目的の実現という方向性に沿った順序を示すということと同じことを述べたにすぎない。ただ、ここで留意しておかなければならないのは、運動(系列T)を体現して運動体(系列U)と規定される存在主体は同一性を保つが──運動「体」は点のようなものでも石であっても構わないので多様である(系列U)──、運動が有する順序構造(系列T)は、その運動体が位置する地点(系列U)の順序として多様なかたちで識別される、という点である。つまり、系列Tは同一性を軸とした系列であり、系列Uはその同一性の現われ方や具体化における多様性の系列と考えることができよう。とすれば、運動そのものが持つ方向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれるのであるから、系列Tのレヴェルでは、時間そのものと関係する何かによって、運動の順序構造が過去−現在−未来という関係へと変換されると言えるであろうし、さらに、時間的先後関係を示し得る過去−現在−未来(系列T)は、系列Tの時間に対応しかつ系列Uの運動体に準ずる何らかの具体相によって、系列Uのレヴェルでさまざまなかたちで現われ、識別されるのではないかと考えることができる。すなわち、アリストテレスは上の引用に続けて、〈今〉および数あるいは数えるという要素を持ち込んでくる。
「 さらに、運動体には〈今〉が準じているのであって、それは時間が運動に準じているのと同様である(というのも、運動体によって私たちは、運動における〈より先・より後〉〔順序構造〕を識別し、そしてまた、〈より先・より後〉が数えられ得るものであるかぎりにおいて、〈今〉が成立するからである)。したがって、この場合においても、〈今〉の存在主体については同一である(というのも、運動における〈より先・より後〉〔順序構造〕がそれだからである)。だが、〔具体的な〕あり方は異なってくる(というのも、〈より先・より後〉が数えられ得るものであるかぎりにおいて、〈今〉が成立するからである)。」(219b22-28)
ここでアリストテレスが、点−運動体という系列Uのなかに〈今〉を含めているのは注意すべきである。つまり、この〈今〉もまた具体相を示すものと考えなければならない。言葉を換えれば、〈今〉が成り立つためには、その〈今〉は抽象的なものではなく、具体的なものでなければならないということである。このことは、引用にもあるように、〈より先・より後〉という先後関係にあるものの数を数えることができるということを意味している。もっとも、具体的な〈今〉が炙り出す先後関係は、運動の順序構造と同じではないだろう。運動体によって運動の順序構造が識別されるのであるから、運動体に準ずる〈今〉によって、時間における先後関係がそれと知られ、数えられ得るものになるであろう。ただし、アリストテレスが〈今〉の存在主体は同一であると述べている点には注意が必要である。〈今〉の存在主体とは、「今である」という規定を受け入れる当のもののことであリ、その点では〈今〉を支えるものである。アリストテレスはそれを運動における先後関係つまり順序構造と捉えている。運動は必ず順序構造を持っているのであるから、〈今〉の存在主体はしたがってその点で同一である。しかし、〈今〉そのものは具体的であるから、そのあり方、その具体的な意味内容(具体的な先後関係)は多様性を示すとアリストテレスは考えていると言えよう13。 
(2)変化を析出する〈今〉

 

ここで一端アリストテレスのテクストそのものからは離れて〈今〉について考えてみたい。先ほど挙げた自宅から大学の研究棟へと移動する例をもう一度呼び戻してみよう。このとき、自宅を出て歩いている私がそれぞれの地点でどのような状態にあるのか、あるいは、移動中のどんな状態にあるのかを考えてみたとき、それはたとえば、「自宅を出た」とか「交差点を渡った」「正門に着いた」等となる。ただ、この言い方に「今」という言葉を付け加えて、「今正門に着いた」「今交差点を渡った」などとなると、様子が変わってくる14。「今」を用いない言い方は、「到着した」とか「横断した」という事柄に光が当てられていて、それ以前・以後が示す事柄つまり運動のコンテクストに対する意識が希薄である。こう言ってよければ、移動運動を輪切りにしてその断面だけを引き抜いてきた点的な言い方になっている。これに対して、「今」を加えた言い方は、到着以前と以後、交差点を渡る前と後では何かしらの変化があるということへの暗黙の注意が含み込まれている。つまり移動運動のコンテクストへの意識が働いているのであって、とりわけ「今自宅を出た」と語る場合、その「今」と呼ばれた時点を境にして、それ以前は出かける準備をしていたとか、他の用事を片付けていたといった、移動運動とは別の文脈が暗に語られている。このように、「今〜した(している)」という語り方は、連続した運動に「今」という楔を打ち込むことで、その運動を「それまで」と「これから」(〈より先〉と〈より後〉)に暗に区分ないし分割し、そうすることによって両者の間の対比を何かしら浮き彫りにして、そこに変化があるということを析出する働きを持っている。〈今〉は変化の相を含み込んだものであり、変化があることを前提にして初めて成り立つものなのである15。アリストテレスもまたこのことを意識していたと考えることができる。彼はこう述べている。
「 〈今〉は或る意味では同じものとしてあるが、しかし或る意味では同じではない。すなわち、〈今〉は〔運動の〕別々の時点においては異なっているが(そしてこのことが、まさに「今であること」にほかならない)、しかし、〈今〉の存在主体に関しては同一である、というかぎりにおいて、そうなのである。」(219b12-15)
〈今〉が異なっているというのは、運動のさまざまな局面に関して、「今」という言葉を付加することができるということを意味しており、その場合、〈今〉の具体的な内容(運動体が何をしているのか、どんな状態にあるのか)はその都度異なっている。しかしながら、そのように〈今〉をいろいろに語り得るのは、運動が順序構造を所有しているがゆえであり、したがって、〈今〉はその存在主体のレヴェルでは同一性を保っている。すなわち、多様性系列Uに属する〈今〉は、同一性系列Tに立脚してそれに支えられることで、運動の多様な局面において変化の様相を析出し、それを浮かび上がらせる働きを有していると言ってよい。しかも、〈今〉は同一性系列Tに属する「時間」に対応しているのであるから、〈今〉によって析出されるその変化の様相は、時間における変化の様相を意味していると考えることができる。運動の多様な局面において〈今〉を語り得ることは、「時間」において「多様な今」を析出し、それによって時間の変化の様相を規定することに繋がるのである。すなわち、「運動がたえず次から次へと移り変わってゆくのと同じように、時間もまた移り変わってゆく」(219b9-10)のであり、「〈今〉は〈より先〉と〈より後〉を規定するかぎりにおいて、時間を規定する」(219b11-12)ことになる。〈今〉は運動の順序構造に依存することで、時間的先後関係を規定するのであって、これはすなわち、「時間は〈今〉によって連続的となるとともに、〈今〉において分割されている」(220a5)ということである。アリストテレスは次のように言う。
「 すでに述べたように、〈今〉は時間を連続させるものである、というのも、〈今〉は過ぎ去ってしまった時間〔過去〕と、これからやってくる時間〔未来〕を連続させるからである。そして、〈今〉は時間の限界16」でもある、というのも、〈今〉は一方の時間〔未来〕の始まりであり、他方の時間〔過去〕の終わりだからである。〔…〕また、〈今〉は可能的に〔時間を〕分割する。そして、〈今〉はそのようなものであるかぎりにおいて、常に異なっているが、他方、〔時間を〕一つに繋ぐかぎりにおいて、〈今〉は常に同一である〔…〕。」(222a10-15)
過去と未来の限界をなす〈今〉は、そこにおいて時間が過去と未来に分化するという点において、時間を分割して変化の様相を、すなわち、「時間における〈より先・より後〉」というあり方を具現している。それは多様性系列Uに属する〈今〉であり、同一性系列Tに含まれる連続した時間にさまざまな時点で楔を打ち込み、それぞれの局面で時間的先後関係を炙り出す。この意味において、それはその都度その都度異なる〈今〉と言うことができる。もちろん〈今〉による時間の分割は、たとえば紙を2つに切り分けるように、実際に時間を2つに分断して両者を別々のものとすることではない。それは現に行なわれている運動を2つに切り分けることができないのと同じであって──切り分けることができるとしたら、それは運動を止めて途切れさせてしまうことになる──、それゆえ、時間の分割はあくまでも可能的なものにとどまるのであり、むしろ時間の分節と言ったほうが適切であろう。しかし一方で、〈今〉において過去と未来が連続しているのであれば、「過去の限界」としての〈今〉と「未来の限界」としての〈今〉は同じものでなければならず、したがって、そのような〈今〉を分割することはできない17。とすれば、過去と未来を連続させる〈今〉は、同一性系列Tに支えられた〈今〉であり、それは運動の具体的な局面ではなく、運動が有する順序構造(運動の本質的要素)に立脚した〈今〉、アリストテレス的に言えば、その存在主体が運動における〈より先・より後〉であるところの〈今〉である。この運動が有する同一的側面に依存することで、〈今〉は時間の諸局面を連続させ、こう言ってよければそれを「時間」として統一し、まさに時間の同一性を保証するのである。しかしながら、運動が立脚している空間的拡がりの布置構造と運動そのものの有する順序構造が同じものではないように、運動の順序構造と時間における〈より先・より後〉も同じではないはずである。なるほど現代の私たちであれば、後戻りできないのが時間の時間たるゆえんであると考え、運動に可逆性を、時間に不可逆性をあてがうであろう。またたしかに、アリストテレスの考える〈今〉が異なり続けてゆくものであるならば、その点に、同じ今はないという意味で不可逆性のようなものを認めることもできるかもしれない。しかし、この点について、アリストテレスはただ、今は異なっていると述べるにとどめており、時間のいわば方向性については語らない。この運動の順序構造と違う時間の構造、その意味での時間に本質的な要素とは何なのか。そのためにはアリストテレスが時間経過をどのように捉えていたのかを見る必要があり、それが本論の最後の課題となる。 
3 時間経過と変容する〈今〉

 

〈今〉は運動体に準拠しているのであるから、それを異なったものにするのは、その〈今〉において生起している出来事(運動体の運動内容)である。たとえば、「今駅に着いた」と語られるときの今と、「今食事をしている」と語られるときの今が異なっているのは、その各々の今における到着・食事という出来事による。先ほど私たちは、「今〜した(している)」という言い方は変化の様相を炙り出すと述べたが、その変化は基本的に運動におけるものであるため、その意味で運動体にウエイトを置いている。そこでこの言い方を、今を中心にしたものに変えることができるとすれば、それは「……した(している)今」というかたちになるであろう。この言い回しにおいては、「……」の部分にそれぞれの今の具体的な内容が語られることで差異が示されることになるが、そうすることによって今が、運動における変化の様相を炙り出すものから、さまざまな運動を受け入れる器となり、運動の内容によっていろいろに染め上げられるものとなる。したがって、数多くの今、「今の数多性」がそこに炙り出されてくる。他方、〈今〉の存在主体は運動の順序構造なのであるから、到着した今と食事中の今に順序が引き継がれ、「より先の今」と「より後の今」という区別が成立する。この〈より先・より後〉の〈今〉は、「……した(している)今」というかたちで示される「今の数多性」を纏め上げる基本形式と位置づけられるものである。数多くの具体的な〈今〉は、運動の順序構造に従って、「より先の今」と「より後の今」に整理されるのである。この点にこそ、〈今〉が時間の先後関係を規定できるようになる土台がある。というのも、こういう言い方が許されるならば、そのような〈今〉からは運動体が抜け落ちているからである。すなわち、〈今〉は運動体から抽象される。
このように、運動における〈より先・より後〉という順序構造が〈今〉に引き継がれることで、逆に運動体が〈今〉から抜け落ち、それによって、〈今〉そのものに対して〈より先・より後〉の区別が認められるようになると、それは当然、1つ目の今、2つ目の今と数えられ得るものになるであろう。けれども、先後の区別を感知したとしても、それがそのまま2つ、3つと数によって規定されることにはならない、という点には留意しなければならない。言うまでもなく対象の差異に気づくことと、対象を数えることは同じではないからである。この数えるという作業についてアリストテレスが、それを行なうのは魂の働きつまり知性(νοῦς)であると考えている点は重要である(cf. 223a255-2618)。つまり、「より先の今」「より後の今」を「2つの今」と規定することができるとすれば、それは魂の働きによるということになるからである。言葉を換えれば、〈今〉の数を数えるという作業は、知覚や経験のレヴェルの問題ではなく、知的要素を多分に含んだ作業だということである。アリストテレスはこう述べる。
「 すなわち、両端にあるものは中間とは別ものであると私たちが考え、そして、〈今〉が2つあると魂が語る場合──ひとつは「より先の今」、いまひとつは「より後の今」──、まさにその場合に、私たちはそのようなものこそ時間であると言うのである。というのも、〈今〉によって境界づけられたものが時間であると思われるからである。」(219a26-30, 下線引用者)
「より先の今」と「より後の今」、およびその間にあるものがそれぞれ異なっている、と考えられるとき、知性は両端の〈今〉を数えて、2つであると規定する。すなわち、〈今〉の数を2つと数えるということは、漠然と違いを感じ取ることではなく、その〈今〉が異なっていることを「理解する」ということを意味する。アリストテレスにあっては、知性が〈今〉に関して先後の違いを弁別し、「より先の今」と「より後の今」を「2つの今」と規定することによって、その「異なる2つの今」で区切られたものが「時間」として現われてくると言うことができよう。とすれば、時間経過は実は経験の対象ではなく理解の対象である。それは〈より先・より後〉の2つの〈今〉について、まさしく〈今〉が〈今〉として異なっている、と理解することなのである。ただし、その「2つの今」は並置されたものではない。並置された〈今〉は、多様性系列Uに属する運動体Aと運動体Bの〈今〉が同時(共存)であるということを意味し、それは当然時間経過ではない。アリストテレスは「2つの今」をいわば右と左に「並べて」考えてはいないのであって、〈今〉がまさしく〈今〉として変容してゆくこと、そこに時間経過の意味を見いだそうとしているように思われる。すなわち、時間とは変容する〈今〉のことである。このように見たとき、知性は異なる〈今〉を「2つの今」として数えるのではなく、異なる〈今〉を「2つの今」として数えることのできる関係にあると考える、ないしは、そのような関係へと導き入れる、と言うことができる。そうすることによって、変容するしかない〈今〉、つまりは経過してゆく時間が、まさしく数的構造を有するものとして規定されることになるであろう19。
たとえば、過ぎ去った出来事(過去)が、数を用いて10年前の出来事とされたときに、おそらく現在と10年前との間に過ぎ去った時間が立ち現われてくる。また、これからの出来事(未来)について語るとして、それが数を用いて20年後の事柄であるとされれば、その20年後と現在との間に流れ去るべき時間が浮かび上がってくる。たしかにこの10年や20年という数量は太陽の運行によって規定されるものではあるが、しかし、アリストテレスの言う「運動の数」は、少なくともそのことだけを意味しているとは思われない。10年、20年と数を用いて時間を区切ることによって、そこに時間の厚みが出てくる、という点が重要なのであって、数を用いると、まさしく「現在との隔たり」が「意識化」されるのである。「運動の数」とは、運動体から抽象された「2つの今」によって限界付けられたものがまさしく基準単位となり──太陽の運行に従って「日の出の今」と「日の入りの今」で区切られるものを基準単位にすることは、ひとつのケースにすぎないのであって、その基準単位が具体的にどのようなものなのかはさして重要ではない(cf. 223a29-223b1)──、その基準単位がいかほど繰り返されるのかによって時間が数的に構造化され、それによってまさしく現在との隔たりが意識化されるのだ、ということを語っているであろう。
このように考えたとき、「運動の数」は、運動がいくつあるのかを数えることに重点が置かれているのではなく、さらには、数えるというかたちを取った運動量の測定に重心が置かれているのでもなく、運動の進行をまさしく時間の進行と考え──運動体から〈今〉を抽象してそれを〈今〉そのものの前後関係へともたらすことがそれにあたる──、それにまとまりや構造を与えてゆくこと──〈より先・より後〉の〈今〉を「2つの今」と規定することがその土台となる──ではなかろうか。こういう言い方が可能であるとすれば、多様な運動にまとまりを与え、それによってまさに過ぎ去るものとしての時間を、あるいは、変容するものとしての時間を、いわば理解可能にするもの、それが数なのである。
もちろん〈今〉が〈より先〉と〈より後〉に振り分けられたとしても、「より先の今」が過去のことであり、「より後の今」が未来のことであるということにはならない。なるほどアリストテレスは、時間に対して魂の働きの重要性を考慮に入れているのであるから、過去と未来がともに非存在の領域であるとすれば、その魂の働きによって、過去と未来が純粋に私たちの内面の問題として取り扱われる可能性はある。しかし彼は、これまで述べてきたことからも分かるように、過去と未来について多くを語らない。それは彼の時間論できわめて重要な位置を占めているのが、同一性系列Tと多様性系列Uが示す依存関係、および、その両系列間の対応関係だからである。したがって、空間的拡がりの布置構造が、運動の方向性を触媒として順序構造へと変換されるように、運動の順序構造を時間の数的構造へと変換させる触媒が必要となる。そしてその働きを担うのが、おそらくは数える知性(ないし数えるという作業)になるだろう。もちろんアリストテレスはそのようなことを明確に語っているわけではないが、彼の時間の定義は変容する〈今〉、経過する時間を、こう言ってよければ、意識の前景へと浮かび上がらせる装置になり得るものなのである。 

 

1 『 自然学』からの引用はすべて拙訳で、訳文中の〔 〕は訳者の補足である。なお、訳出に当たっては藤沢令夫訳に教えられるところが多かった。
2  第5巻225b7-9において、「動は必然的に次の3つである、すなわち、性質(ποιόν)に関するもの、量(ποσόν)に関するもの、場所(τόπος)におけるものである」と述べられている。また、同じ第5巻226a23以下も参照のこと。
3  動の定義の捉え方に関しては、藤沢訳97頁の訳注、Hussey, pp.58-60 および次の論考を参照。松浦和也「アリストテレスにおける時間の実在性」(『哲学』第60号、日本哲学会、2009年、249−262頁)。なお、動の定義の中で用いられている ἐντελέχεια を actualization(現実化)の意味にとるロスの解釈(Ross,p.537)は採用しない。
4 この点に関しては『形而上学』第5巻第6章1016b18、第10巻第1章1052b1-24を参照。
5 『 形而上学』第5巻第13章では、「量(ποσόν)」に関して、それが「数えうるときには、この数えうる量は「多プレートスさ」であり」、その「多さ4 4 というのは可能的に非連続的な部分に分割されうるものの場合」であるとされ、「限られた多さは数」であると述べられている(1020a8-13、出隆訳『形而上学』岩波文庫(上)、1965年、187−188頁)。すなわち、一般的には、数は限定された非連続量、と言うことができるだろう。また、数および数えることと測定することの関係については、Richard Sorabji,Time, Creation and the Continuum: Theories in Antiquity and the Early Middle Ages, Chicago: The University of Chicago Press, 2006 (1st published 1983), chap.7 等を参照。
6 Simplicius, p.119 および Themistius, p.57 により、大きさに関してこの説明を補う。
7  この三者の間の依存関係は、連続性の場合に先立って第3巻において、ἀκολουθεῖνという動詞は用いられていないが、無限なものに関しても適用されている。すなわち、「無限なもの(τὸ ἄπειρον)は、大きさと動と時間において、或るひとつの自然本性として同じものなのではなく、より後なるものがより先なるものに従って〔無限と〕言われるのであって、たとえば、動は、ものがそれに基づいて場所移動したり(κινεῖται)性質変化したり(ἀλλοιοῦται)量的変化をしたりする(αὐξάνεται)こと
  アリストテレス『自然学』における時間の概念─「〈より先・−254− より後〉に関する運動の数」としての時間に関する試論の大きさ〔が無限であると言われること〕ゆえに〔無限と〕言われるのであり、時間は動のゆえにそう言われるのである」(207b21-25)。
8  存在主体と訳した原語は ὅ ποτε ὄν で、この訳語は藤沢令夫に従っている。この語は『自然学』第4巻の時間論の個所に集中して登場してくるので、研究者の間でいろいろと議論がなされている。この ὅ ποτε ὄν が用いられている個所の解釈等については、Ross, p.598 etc.; Hussey, p.148f., p.152 のほかに、Rémi Brague, Du temps chez Platon et Aristote: quatre e'tudes, Épiméthée, Paris : Presses Universitaires de France, 1982, pp.97-144 ; Ursula Coope, Time for Aristotle: Physics IV. 10-14, Oxford Aristotle Studies, Oxford: Clarendon Press, 2008 (1st published 2005), pp.173-177 等を参照。
  また、土屋賢二「アリストテレスの時間論T」(『哲学雑誌』第87巻第759号、哲学会、1972年、163−185頁)および「アリストテレスの時間論U」(同誌、第89巻第761号、1974年、139−165頁)は、その考察の中心にこの語の哲学的解釈を据えており、きわめて刺激的な論考となっている。
9  すでにシンプリキオスが、大きさにおける先後は共存の関係にあるが、運動変化における先後は、先のものが消滅して後のものがそれにとって代わるという関係にあると指摘している(cf. Simplicius, p.121)。もっとも、アリストテレス自身も、そのことに気づいていたように思われる。おそらくそのために ἀνάλογον という語を用いたのではないだろうか。なお、運動は秩序・順序を持つので方向性を示すことになるが(これに対して、たとえば線分ABにはどちらに向かうのかという方向性がない)、
  この点に関しては次の論考を参照。Michael Inwood, “Aristotle on the Reality of Time”, in: Lindsay Judson (ed.), Aristotle’s Physics: A Collection of Essays, Oxford: Clarendon Press, 2003, pp.151-178 (reprint of 1st ed. 1991). ただし、インウッドが指摘している方向性は、本稿で後に言及する方向性とは意味合いが異なる。
10 この意味で〈より先・より後〉の存在主体は運動となる。なお、Ross, p.386, p.598 を参照。
11 〈 今〉の問題はアリストテレス時間論の核心部分をなすが、この〈今〉を文字通り中心に据えたアリストテレス時間論の解釈としては、主として以下の論考を参照。篠澤和久「アリストテレスの時間論──エネルゲイア論への一序説として──」(『倫理學年報』第41集、日本倫理学会、1992年、3−18頁)および「アリストテレスの〈今〉──『自然学』時間論の〈現在主義〉──」(『哲学の探究』第27号、全国若手哲学研究者ゼミナール〔現「哲学若手研究者フォーラム」〕、2000年、11−24頁)。
12  この依存関係はアリストテレス時間論の論理的支柱をなすものであるが、これについては、主として次の論考を参照。G.E.L Owen, “Aristotle on Time”, in: Jonathan Barnes, Malcolm Achofield and Richard Sorabji (eds.), Articles on Aristotle, Vol. III: Metaphysics, London: Duckworth, 1979, pp.140-158 (originally published in: Peter Machamer and Robert Turnbull (eds.), Motion and Time, Space and Matter: Interrelation in the History of Philosophy and Science, Columbus: Ohio State University Press, 1976) および、武宮諦「アリストテレスの時間論」(『山口大学文学会誌』第37号、山口大学文京都精華大学紀要 第三十九号−255−学会、1986年、17−38頁)、篠澤和久「アリストテレスの〈今〉──『自然学』時間論の〈現在主義〉──」、大木崇「アリストテレスにおける〈時間〉の定義について」(『古代哲学研究』第38号、古代哲学会、2006年、34−50頁)等。
13  ボストックは、アリストテレスの通常の手続きからすれば、時間はいろいろな意味で語られる、ということが言及されていてもよいはずなのに、〈今〉の多様性は言及されるが時間の多様性が言及されていないのは欠点であるとしている(David Bostock, “Aristotle’s Account of Time”, in his Time, Matter, and Form: Essays on Aristotle’s Physics, Oxford Aristotle Studies, Oxford: Clarendon Press, 2006, p.143;originally published in Phronesis, 25, 1980)。しかし、〈今〉は系列U、時間は系列Tに含まれる以上、多様性が語られるべきは〈今〉でしかないであろう。
14  以下の「今」に関する考察については、土屋賢二「時間概念の原型──プラトンとアリストテレスの時間概念──」(『新・岩波講座 哲学』7『トポス 空間 時間』岩波書店、1985年、36−67頁)の特に54−58頁から大きな示唆を得た。
15  それゆえ、変化が認められないような事柄には「今」を付加することはできない。たとえば、「人間は理性的動物である」という言い方は、人間とはいかなるものかを語ったもの、人間の本質を述べたものと言ってよく、現在においても、遥か彼方の過去も、そしてまた遠い未来もそのことに変わりはないであろう。ところが、この言い方に「今」という言葉を加えて、「今人間は理性的動物である」とすると事態は大きく変わってしまう。この言い方には、かつて人間は理性的動物ではなかったし、また、将来理性的動物でなくなることもあり得るということが、あるいは、過去や未来はどうかは分からないが、少なくとも今現在は人間は理性的動物なのだということが、暗に示されている。したがって、人間は理性的動物だということが常に変わらぬ真理であるとすれば、「今」という言葉をそこに付け加えることはできないのである(土屋、同論文、54−8頁を参照)。
16  限界については、『形而上学』第5巻第17章を参照されたい。そこでは、「ペラス〔限り、限界〕というは、まず、(一)それぞれの事物の窮ト ・エスカトン極の端、すなわち、そこより以外にはその事物のいかなる部分も見いだされない第一の〔最後の〕端であり、それのすべての部分はその端より以内に存在するようなその第一の〔最初の〕端である」(1022a4-5、出隆、前掲訳書、196頁)と述べられている。
17  第6巻に過去と未来の限界としての〈今〉について同様の議論があり、そこでは、〈今〉は過去と未来の端である以上(つまり、過去の終わりとしての端と未来の始まりとしての端)、同じものなのだから、分割不可能であると語られている(cf. 233b3-234a24)。
18  この個所全体は以下のように訳し得る。「魂および魂が有する知性以外の何ものも、その本性として数える能力を持っていないとすれば、魂が存在しないならば、時間も存在し得ない。もっとも、その場合でも時間の存在主体と呼ばれるものがあり、それは魂なしに運動であり得るようなもののことである。運動には〈より先・より後〉があり、それらが数えられ得るかぎりにおいて、そういったものが   アリストテレス『自然学』における時間の概念─「〈より先・−56−より後〉に関する運動の数」としての時間に関する試論時間なのである」。これは次のように解釈できよう。すなわち、時間は数えられ得るものとしての運動の数であるから、数える知性がなければ当然、時間は存在し得ない、ただし、運動の本質的側面は順序構造であるから──つまり、「まず−次に」であって、「1つ−2つ」ではないのであるから──、数える知性がなくても運動は存在し得る、この順序構造を数える関係へともたらしたときに、時間が姿を現わすのである、と。したがって、本論で後に触れるように、運動を時間へ変換するのは、数える知性である、と言うことができるであろう。この意味において、時間は知性に依存しているのである。
  この点については、Coope, op, cit., pp.159-172 も参照されたい。なお、「時間である」という規定を受け入れる存在主体は、運動の順序構造と言ってよい。
19  ここで私たちの脳裏に或る事柄が浮かぶ。それは音楽に関してのことであるが、音楽ではよく数を数えることによってリズムを取るということが行なわれる。音楽の進展は音響運動の展開とみなされることがあるが、その音響運動には言うまでもなく構造がある。その構造(たとえば拍節構造など)──これがアリストテレスにおける運動の順序構造に相当する──を実際に鳴り響かせる場面で、声に出す出さないはともかく、数を数えることによって、その音楽の時間的展開を分節化してまとまりを持たせてゆくことが行なわれる。つまり、音楽におけるリズムは、数と深い関係を持っていることが多いので、その音楽を数的に構造化する役割を担っているのである。アリストテレスの考える数の役割あるいは「運動の数」の意味は、これと類比的に考えることができるのではなかろうか。
本稿執筆のために使用したテクスト、注釈書、翻訳は以下の通りである。
<テクスト>
Ross, W.D., Aristotelis Physica, Oxford Classical Texts, Oxford: Clarendon Press, 1977 (reprint with corrections of 1st ed. 1950).
<注釈書>
Hussey, Edward, Arsitotle Physics: Books III and IV, translated with introduction and notes, Clarendon Aristotle Series, Oxford: Clarendon Press, 1993 (1st published 1983).
Ross, W.D., Aristotle’s Physics, a revised text with introduction and commentary, Oxford: Clarendon Press, 1936.
Simplicius, On Aristotle’s Physics 4.1-5, 10-14, trans. J.O. Urmson, Ancient Commentators on Aristotle, Ithaca/N.Y.: Cornell University Press, 1992.
Themistius, On Aristotle’s “Physcs 4”, trans. Robert B. Todd, Ancient Commentators on Aristotle, Ithaca/N.Y.: Cornell University Press, 2003.
<翻訳>
Carteron, Henri, Aristote : Physique, 2 tomes, texte établi et traduit, Collection des Universités de France, 京都精華大学紀要 第三十九号−257− 5e tirage, Paris : Les Belles Lettres, 1973 (1ère éd. 1926).
Hardie, R.P. and Gaye, R.K., Physica, in: W.D. Ross (ed.), The Works of Aristotle translated into English, Vol. II, Oxford: Clarendon Press, 1947 (1st published 1930).
藤沢令夫訳『自然学』(抄訳)(田村松平責任編集『ギリシアの科学』世界の名著9)、中央公論社、1972年。
出隆・岩崎允胤訳『自然学』(『アリストテレス全集』3)、岩波書店、1976年。
田中美知太郎他訳『自然学』(第1巻─第4巻)(田中美知太郎編『アリストテレス』世界古典文学全集16)、筑摩書房、1966年。  
 
自然から人間へ

 

世界を「考える」だけではいけないのか
次の2つの文章の意味の違いがわかるだろうか。多分わかる人が多いだろう。
A「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであり、重要なのは世界を変革することである」
B「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである;しかし重要なのは世界を変革することである」
AがオリジナルでBはAに手を加えたものである。Aは歴史上有名な経済学者・哲学者のもので、ただ手帳に書きつけられていたのを、その死後協働者であった友人が「こうではなかったか」と推測し手を入れたものである。ところで、多くの人が見るところ、あきらかにBはAを曲げた内容になっている。
Aは、世界をさまざまに解釈するだけでは十分でなく、世界を変革することを考えねばならない、との意味であるが、BではAにない反対の接続詞「しかし」(原語ではドイツ語aber)が挿入され、セミコロン(;)で前後が分けられている。つまり「解釈」ひいては「哲学者」にマイナスのイメージや意味を与える意図がこめられている。ただ、これは文章の文字通りの読み方を論じただけなので、仮にもしAの作者がもともとBのつもりで述べたなら、BはAをねじまげたどころか、意味をよりはっきりさせた功を認められるべきだろう。いずれにせよ、問題はAの哲学、世界観の中心を探ることに展開してゆくが、ここではこれ以上は述べず後にふれよう。ちなみにAはマルクス(1818−1883)、Bはエンゲルス(1829−1895)の文章である。 
『ソフィーの世界』260万部の意味するもの
ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』という哲学史の本が全ヨーロッパでとぶように売れ、日本でも翻訳(池田香代子訳、日本放送協会 1996)が発売以来9ヶ月の時点で150万部に達し、最終的に260万部まで行ったという。原題は「哲学史の物語」であるが、ソフィーというごくふつうの14才の少女を主人公とする「哲学史ファンタジー」として作られている。哲学の歴史が語られているにもかかわらず、仕立てはミステリー小説で読む人は引き込まれる。ただし、サルトルがあるのにハイデガーはなく、バートランド・ラッセルがあるのにヴィトゲンシュタインがないという奇妙な材料選択に対する批判は哲学者からありうるし、また全体的に北欧のプロテスタンティズムの雰囲気がただよっている点も、宗教ぎらいの哲学者は気にするかもしれない。この著者ゴルデル(高校の哲学の先生)の思想内容はおそらくヨーロッパの社民主義に近いといってよいであろう。
しかし、面白いのは、日本でこの『ソフィーの世界』を買った人々の中で、この一行でも読んだ人の割合は3割しかいないらしいということ、もう一つは訳者が、読者の感想として「哲学がわかった」というのが一通もなかったこともとてもうれしかった(!)、と述べている(杉並月刊広報No.48)こと、この2つである。実は、これらはすべて「哲学」の本質を言い得ている。人は哲学に限りなく「あこがれる」。「哲学」はフィロソフィー(philosophy)で、フィロ(philo-)は「あこがれ」「愛」「好き」、ソフィー(-sophy)は「眞智」の意味。ほんとうは何なのだろう、ほんとうはなぜなのだろう、どこまでも知りたい、この気持は恋愛(エロス)にも似ている。いや、実際、ギリシアでは知へのあこがれはエロスと共通なものであった。
けれども、ほんとうは何(あるいは、なぜ)なのだろう、という問いかけは答えらない。「ほんとうは〜」と云いだせば、追求は限りなく続く(なぜなら、原因にはそれの原因があるから。)。答はない。つまり、哲学は実用には役立たない。役立つべきでもない、窮極の眞理をある人がつかんだら、むしろ恐ろしいだろうから。だから、260万という数字は「あこがれ」を示し3割は「無用」の学を示しているのである。また読者が「わかるはずがない」というのはノーマルである。これは「わかってたまるか」というのではもちろんない。
哲学は考えようではほんとうは恐ろしい学問である。『ソフィーの世界』では、フィロソフィーの「ソフィー」を主人公の女の子が演じているのだが、ソフィーは‘sofia’ともつづり、女性名詞である。そして、文字通り「哲学(ソフィー)の世界」のファンタジーが演じられているのである。女の子が演じる優しいファンタジーの世界としての仕立てはうまく行っているが、でも、哲学自体が「ファンタジー」だとしたら?これはなかなか大変である。後に述べるが、ある人々のファンタジーがホラー・ストーリーになった例をあげよう。 
人が自分自身を知ることの歴史
ふつうわれわれが「哲学」というとき、そこに必ず人間や人生が主題としてかかわっている。人生の意味、人生の生き方、その社会、その道徳・倫理、その政治・経済の意味などである。だから自然科学者が哲学的であるということは、物理学者を除けば、あまりない。ところで、哲学が世界や自然の動きに対する驚きや好奇心から起ったこと、つまり「哲学」の原型が「自然哲学」であることを考えあわせれば、これはいささかおかしい。この関わりでいえば、ニュートン(1643−1727)を近代科学の祖であると考えるのはふつうであるが、これはニュートン自身が近代科学としての科学者であることを意味せず、むしろニュートンの時代の科学は、今日いう「科学」と異なる、というよりはむしろそうではなく哲学に入っていると考えた方がよさそうである。実際、ニュートン自身が「自然哲学」と言っているのであるから。
見方をかえれば、自然哲学の功績は近代の科学技術を生んだ点にある。その成功の根本理由はただ一つ、自然は人間にとってとどのつまり「外界」だからである。基本的に、観察してゆけば知識はおおむね高まってゆく。すると、人間を自然の延長で考えることもできる。たとえば医学で、流行のこと、予後のこと、有名な4体液理論、医術の本質など、ヒポクラテスはこの時代に一定レベルに組織化された科学的認識に達している。数学にしても、現代から見ると抽象的な無理数論など(まさに「理がなく」不吉とされた)がよく紹介されているが、そこから出発して社会的な応用まで達している。
そうなると、人間が自分についての哲学、つまりは人間についての哲学をもったのは、人類にとっては稀有な体験、いや、むしろ、偉大な体験であったろう。なぜなら、自分が自分について考えることはなかなかむずかしい。空高くある月の運動について多く知る人間が、自分に一番近くある「自己」が何であるかわからないというのは奇妙どころか、全く人間の不可解さに見合っている。
であるからこそ、ソクラテス(前470−前399)が、「汝自身を知れ」とアカデメイア(アテネの哲学堂をさす。「アカデミー」「アカデミック」の語源)の入口の看板に掲げた有名な哲学標語が哲学のテーマの窮極となるのであろう。これが窮極的であるというのも、今日現代においてさえ(というよりは、なおさらのこと)、「人間とは何か?」「人間は何のために生きるか?」「人間の生きがいとは?」は答えられていないからである。いや、この分では永遠に答えられそうもない。たった一行の命題が2500年どころか永遠に解かれそうもないのだから、やはり凄いのである。これを以って、哲学史は「ソクラテス以後」と「ソクラテス以前」(pre-Socratic)に分けるのである。「ソクラテス以前」とは人間もその中に含む自然哲学の時代のことである。 
詭弁とはマスコミのことだった
ソクラテスは「聖人」と考えられているが、人生の窮極の題目を掲げるものの、突然の悟りを開いたとか、神の啓示を受けたというのではない。ソクラテスの説く所は論理と理性による議論を辿っている。だからこそ議論はきびしい。人の感覚は本来あやふやなものである。人は意見をもつが、それはほとんどが思いこみや憶測であり、誤りがある。それも時には誤ることがあるという程度のものではない。すべて「意見」(opinion)なるものは憶測(ドクサ doxa)だとみて差支えない。あのオーソドクス(orthdox)の‘dox’の語源である。
ソクラテスはそうやって他の説をことごとく論駁していく。いつのまにか為にする議論(詭弁)のように見えてくる。為にする議論をする人をふつう詭弁家(ソフィスト)というが、アテネでは議論は眞理に達する道であると考えられていたから、ソフィストは格別に今日のような悪評を伴ってはいなかったであろう。客観的にはソクラテスもソフィストの一人であった。弟子プラトンの『国家』で見てみよう。有名なトラシュマコスとの論争である。
トラシュマコス「結局、政治の正義とは強者の利益に他ならない」
ソクラテス  「そうかな」
トラシュマコス「正義とは平等というのは受入れられない。それはウソだ。」
ソクラテス  「ところで君は船長が航海術を、医者が医術を誤ることもあることを認めるかね」
トラシュマコス「そういうこともあるだろうよ」
ソクラテス  「君は政治家は強者の利益を考えるもの、といっているのではないかね」
トラシュマコス「そうだ」
ソクラテス  「政治家も誤るかね」
トラシュマコス「もちろん、そういうこともある」
ソクラテス  「では、政治家が誤って人民の利益を考えることはないかね」
トラシュマコス(眞赤になって怒って)あなたは、航海術を誤る船長が依然として船長であり、医術を誤る医者が依然として医者である、とでもまじめにいいたいのかね」……
こうしてあやうくトラシュマコスの勝ちとなりそうであったが、実はソクラテスは巧みに論敵の無知と粗雑さをつき相手を敗北にまみれさせる。このようにして当代の人気ソフィストは自負心と虚栄心を傷つけられ次々と敗退してゆき、逆にソクラテスの熱狂的帰依者がギリシアの主要都市上流階級の子弟の中に増えてゆく。これは危険であった。アテネは民主政であり、人気ソフィストは今でいうマスコミの寵児、つまりは体制側権力ないしはその予備軍であったから。ついに紀元前399年ソクラテスは「不信心」にして「新しい神」を導入し青年を惑わす者として法廷に訴えられ、死刑を宣せられるに至る。
周囲の友人たちはソクラテスに申し開きを勧めるが、ソクラテスは理性と内なる良心の声にこそ従うのが人の眞に生きる道としてこれを斥け、毒にんじんの杯をあおぎ死地につく。人はただ「生きる」だけではない、「善く生きる」ものである、生きることだけならむしろたやすい、しかし、これでは人を腐敗させる力に追い付かれてしまう、と。このようにして、ソクラテスは少なくとも哲学史の記録の上で、理性と良心に殉じた最初の人となったのである。
だが、ソクラテスは宗教家でも宗教の祖でもない。宗教は人に人知を超えること、たとえば奇蹟を信じることを要求する。天国、来世、永遠の生命など。しかし、ソクラテスの説く所は、人は知れば知るほど自らが知る所は少ないことを知る、つまり、知れば知るほど語り出せない、こういうことであるから、その境地に達することは容易ではないにせよ不可能ではない。人知の及ぶ範囲内にある。
実際、知の戦略プログラムと考えることさえできる。トラシュマコスとの議論(闘論!)の中で、ソクラテスは相手を攻撃しているにもかかわらず、「それなら、君の考えはどうなんだ?」と切り返されても「そう簡単に答えられるものではないのだ、眞理は」と答えない。これをずるい論法と考えるかどうかは、見方にもよる。ただ、したり顔で眞理を説く者は「身のほど知らず」である。哲学する根本前提は、まさに『汝自身を知れ』ということに他ならない。これがおよそ人の生きるための哲学、つまりはそういう意味での「人生哲学」の始まりであり、また窮極でもある。
私とても、大学教師としてものを語るとき、詭弁家と映っていることが多いらしい。「詭弁です、あなたの言っていることは」と。しかし、大学教師はもちろん聖人でもなく人格者でもない。限りのある、そして誤ることもある当事者どうしであれば、そこは詭弁にならざるを得ないこともある。しかし、それを恐れてはならない。知恵に達するにはまずは共に語ることを怠ってはならない。 
「アカデメイア派」家元
哲学は「学」といえども、それは人の思いであるからさまざまな考え方がある。アカデメイア派はその中でもとび切り強い影響力を今日まで残す学派で、西欧の思想・哲学・学問そして宗教(キリスト教)・文化などこの流れのもとにないものはほとんどない。(とはいえ、全くないわけではない)。東洋における儒教と思えば、おおよその想像はつく。
「派」を「家元」と仮に言い換えてみよう。初代家元はこのソクラテス。初代の例にもれずソクラテスは著書を残さなかった。第二代はプラトン(前427−前347)で、初代のいわば生き写しである。現にプラトンは師の裁判の傍聴席に居た。そのあまりの衝撃と師への敬愛は彼の著(プラトン著)がほぼすべて師ソクラテスを主人公としていることでもわかる。そうなるとソクラテスとプラトンはどこからどこまでがそれぞれかという見分けはつかない。いわば「二個一」。けれども師の持っていた宗教性に近い激しい情念は彼の心身をとらえ、師ソクラテスが言っていた「眞の…」は形を変え、よく「プラトニック」というように、そのプラトン版である「イデア」(理想、理念、眞理、本質)には、激しさを内に秘めた静かな気概と退かない自信がこもる。だからこそ、主著『国家』(ポリテイア politeia)では、「結局、哲学者が国を統治するのが最も良い形態であること自体は間違いない。それが私の理論(イデア論)の帰結だ」と、危険ではあるがそれ自体としては認めざるを得ないことを言い得たのである。そうなると、眞理というのは凡庸なものでも甘いものばかりでもない。それは危険な面を併せもつ。つまりは哲学する者は「ファンタジー」どころか「こわいもの見たさ」を持たねばならない。なお、プラトンは以後も国政への関心やみがたく、自ら実践にもかかわったが、結果ははかばかしいものではなかった。「第七書簡」はそれである。
プラトンの「イデア」は英語では idea で、要するに「理想」、ないしは「理想の型」つまりは「理論」をいうと思えば近い。つまり、プラトンは「理論」(によって)という思考のタイプの発明者である。もちろん、見かけ上考えることは理論によらなくてもできる。例えば「経験」だけに頼る。ただし経験のみを持つとき、それは眞に「思考」するといえるか、ふつうはいわないであろう。動物はたしかに経験するが理論はもたないであろうから。もちろん、プラトン自身も経験する。たとえば「三角形」を。しかし、「三角形とは何か」と考え三角形のイデア(本質)に達すれば、今書いた三角形は用済みとなる。この幾何学の例でもわかるように、イデアに達すれば個々のものは消えるのがプラトンの考え方。しかし、個々のものは残って、経験と理論が行き来して発展するのが近代の科学である。
そうは言っても、「理論」それ自体の発明の威力、影響力はまさにぼう大にして巨大。西欧の哲学伝統自体がまさにこの「プラトン主義」を根っこにしている。逆にいえば、これからぬけ出すのが「反プラトン主義」の試みだが、理論によらず物の「何か」をつかむのは至難のわざである。ただし、絵を描くとき対象物の「何か」をつかむために理論を経由するだろうか、「配置」とか「構図」とか「構造」によってではないか、これはどうも「理論」とは違うらしいことはわかる。実際、理論でいい絵はかけない…。だが、これはここまでにしておこう。 
三代目アリストテレスの役割
第三代はアリストテレス(前384−前322)。第一代は宗教的神秘性さえ感じさせる人、第二代は哲人の境地まで達した哲学者。そしてこの第三代は、はっきり言って聖人でもなく哲人の風も相当消えているが、前人未踏の(そして以後も凌駕されない)諸学の体系の設定を単独でした、つまり、礎(いしづえ)を置いた人である。そのカバレッジは論理学(学問の基礎方法論)、形而上学(今でいういわゆる哲学)、自然学(物理学、化学、生物学、地学、天文学の範囲に重なる)、倫理学(社会哲学、道徳、経済思想)、政治学(政治哲学、政治経済学)、詩学(文学、美学)というように気が遠くなるほど広い。しかも、単に大言壮語でなく、反省されて微細(ディテール)についてもよく気が配ってある。
その根幹の一つを挙げれば「原因論」で、〜から生じる、〜を目的としている、〜という原理で動く、という思考がフル稼働する。善を目的とするなら「国家」や「社会」、あるいは「人格」、さらには「技術」が説明され、完成を目的とするなら生物の成長、動く原理なら物理学、原料(原質料)なら化学という風に。これらの考え方の一つ一つは誤っているものもあるが、思考の傾向(対象のつかみ方)は今日でもいつのまにか我々もおおむねそう考えている様式も多い。論理学に至っては「カテゴリー論」から始まる四部作『オルガノン』は思考のための「機関」とか「機械」とか「方法大全」という感じで、現代風にいえば精密を極める「思考論理プログラム集」であり、端的によくもよくもここまでと感嘆を禁じ得ない。一つ挙げれば、いわゆる「三段論法」(ソクラテスは人間である−人間は死す−ソクラテスは死す)もここに入っており、現代でもこれを疑う者はいない。
では、アリストテレスは博覧強記の人だったのか。つまり、広く書を読み記憶力が抜群だったのか。そうであっただろう。ただ、これだけでは「超物知り」だけに終り、第三代家元には、軽すぎて無理、だったであろう。一代目(初代)、二代目あっての三代目である。三代目といえば完成の世代であるが微妙な世代でもある。「守る」のか「次なる発展」を考えるのか。実はアリストテレスのプラトンに対する態度は微妙であったというのが、学会の定説である。プラトンに対してアリストテレスの答えようは次のX、Yの2通りありうる。
X:「そうですね」と答えていれば、守ったという説、
Y:「そうですか」「そうですかね」
と答えていれば、反対ないしは大幅修正(「発展」といううけつぎ方)したという説となる。アリストテレスは、X説なら文字通り史上初のプラトン主義者、Y説なら同じく反プラトン主義者となるから、「ね」と「か」の区別の意味は大きい。ただし、修正発展も守ったうちなら両者は対立は本当はしないのだが。後世ルネサンスの天才画家ラファエロの「アテネの学堂」をみれば、プラトンは天上の高きイデアをさし、アリストテレスは水平方向の地上の万物を指している、どちらが重要なのか?まさにこのテーマそのものである。いずれにせよ、2人の間は仲悪そうな感じはせず、対話は成立していそうである。そうならばホッとする。
たとえばアリストテレスの「原因論」はプラトンの「イデア論」の変型ではないか。つまり、ものの原因や根源はそのものの本質をなすから。「なぜ君はジョギングするのか」と問われれば、「健康のために」とその原因を答えるが、これはジョギングの本質が「健康」であるということと同じである。ただ、「原因」というと物を観察していればわかりそうだが、「本質」というと何やらむずかしい神秘的な「何か」を想像してしまう。とすると、「原因論」は「イデア論」とは別のことを言ったのだという説も成立しそうである。云々。
アリストテレスはどうもプラトンに向って「天上のイデアよりも、地上の万物のことを考える方が哲学にふさわしいのではありませんか」と言ったらしい。多分、現代人が投票すれば支持されそうな感もある。人間社会の政治・経済、環境etc.と考えてみると実際求められているものでもある。たしかに、アリストテレスは政治学、倫理学のような「実践学」(praxisプラクシス)の体系も作っている。「何であるか」が「理論学」(teoriaテオリア)なら、「何が善か」がこれの役割である。これが結構づくめと言えないのは次の通りである。 
「実践」の難しさと恐ろしさ
たしかに良き社会を作るのはそれ自体は誰も反対しない。問題は「いかにして」であろうか。これが大問題である。これについてはアリストテレスは触れていない。何が善かが定義されれば、方法は決まるのでは?しかし、アリストテレスはいう。善きものはさまざまに善きものであり、一つではない、と。例えば「足らざるを憂えず、等しからざるを憂う」は、平等が「正しさ」の内容をなすということだが(平均的正義)、しかし、現代風の例をとって、金持ちと貧乏人に平等な税をかけるのは却って不正義であり、比例的配分が正しさにかなう(配分的正義)、と。これをもってすれば、何が社会において善であるかは、自ら考えても少なくとも一通りではない。平等(正義)を一つとっても、いろいろな内容が成り立つのである。
となると、基準から方法が決まることは望み薄とならざるを得ない。基準1から方法1、基準2から方法2が決まるとしても、基準自体を決められない。というよりは、他の何らかの手段で方法1、2のどちらかをとることが決まれば、事実上逆に基準の方が決まってしまう。要するに、基準と方法は切り離せないことになるが、これは考えようによっては実に恐ろしい話である。「実践」ということはそれ自体悪いことではないが、社会の文脈の中におくと恐怖のストーリーも起りうる。
先に私は、A(マルクス)とかB(エンゲルス)とかの話をした。そこに戻ろう。A、Bの信奉者たちは社会を「変革」することをより強く提唱している。そして、実際そう実行した、正確にいうと、そう実際に試みたが、実現したのは恐ろしい全体主義的収容所列島であった。人の善意は疑わない。しかしながら善意のみの「ファンタジー」は「ホラー・ストーリー」に転化したのである。昔、ディズニーの映画に「ファンタジア」というのがあったが、その中にムソルグスキーの「はげ山の一夜」というホラー音楽があったことは忘れられない。 
ソクラテスは人類のエリートなのか
これで終ろう。ただその前に一言したいことがある。機能主義文化人類学を打ち立てたイギリスの人類学者フレイザー(1854−1941)は有名な『金枝篇』で次のように述べる。
−この祭司職の奇妙な規定は、古典古代のギリシアやローマにはその例を見ることができず、従ってそこから説明することはできない。説明のための資料を見出すためには、更に遠くの世界におもむかねばならない。このような慣習が未開時代の匂いをもち、そして帝国時代にまで残存して、ちょうどきれいに刈り込まれた芝生に突兀(とつこつ)として立つ自然の岩のように、その時代の洗練されたイタリアの社会の外にひとりきわ立っていたことを、おそらくは誰も否定はしないでおろう。その慣習の解明の希望をわれわれに抱かせるものは、その素朴さと野蛮性そのものである。人間の初期の歴史に関する近代のいろいろな研究は、多くの皮相的な相違はあっても、それをもって人間の心が最初の素朴な人生哲学を考え出したところの、根本的類似性を明らかにしたからである。(第一章森の王)−
少し解説しよう。「金枝」(Golden Boughゴールデン・バウ)とは、もともと、イギリスの光の風景画家といわれるターナー(1775−1851)の描いた金色に光り輝く森の枝である。この森は北イタリア山中のネミ湖畔にある。フレイザーのテーマは、この金枝は聖樹でありこれを守る祭司は森の王であるが、王も年老いて時満ちれば、聖樹から折取った金枝で弑逆されねばならない、かくて、「多くの共同社会において神聖な王は呪術師から進化したと考えられる」(序文)というものである。この未開性、野蛮性はしかしながら見かけ上のもので、ギリシアの(ソクラテスに代表される)人格的哲学の成立と対比・評価することがあってはならない、との含意は人をして納得させるものがある。ギリシア・ローマ文化の哲学的伝統を受けつぐ者だけが人類のエリートとされるべきではないとの指摘は正しい。
しかし、フレイザーの影響を大きく受けた後進マリノフスキー(1884−1942)は有名な『西太平洋の遠洋航海者』での冒頭近くで次のように述べている。このような大胆ななことがどうして言えるのか。
−評判も高く、学術的と太鼓判(たいこばん)を押されている研究でありながら、大風呂敷(おおぶろしき)の一般化を読者に示し、しかも著者が、いかなる実地の経験からそのような結論に達したかがぜんぜん説明されていないような例を引くのは、わけのないことである。観察を行ない、情報を集めたさいの状況を読者に知らせるための特別の一章はおろか、一節もないのである。−
痛烈である。フレイザーの研究の意義は大きいが、マリノフスキーはその研究方法については批判的である。しかも、フレイザーは本書の推薦の前書きを寄せているのだから、なおさらである。フレイザーはいわゆる書斎人類学者(アームチェア・アンソロポロジスト)であり、「未開社会」の研究に当ってヨーロッパ大陸を一歩も出たことがなかったのである。(ただし、マリノフスキーのこの段落がフレイザーを指すという証拠はないが、マリノフスキーのフレイザー批判とあまりにも平仄(ひょうそく)が合いすぎている。)レヴィ・ストロース(1908− )も『悲しき熱帯』で研究の徒労をなげきつつも、無駄の中から価値が発見されると論じている。研究者はよく旅行をし、そのはてにひとにぎりの貴重な事実を見出すものである。
−民族学者の仕事のなかで、冒険は格別の意義をもってはいない。冒険はたんに仕事に付随したものであり、道に迷った数週間あるいは数ヵ月という重荷になって、効果的な作業の上にのしかかってくるにすぎない。調査地で資料を提供してくれる人が、どこかへ行ってしまったために過ごす無為な数時間。空腹、疲労、ときには病気。そして調査といえばきまって、数ヵ月の労役のうちに、幾日もの日がなにもなすことなくむしばまれ、処女林のただなかでの危険な生活は、軍務のような様相を帯びてくる。……。(旅の終わり)−
そこである思想の眞実を証明する方法について少し考えよう。ソクラテスの場合、死ななくてもよかった。周囲が申し開きを勧めているのに対し、意固地になっていることは『クリトン』にある通りである。また、ソクラテスの弁明を読めば、彼の反論は政治的反論であって、訴訟の反証に向けられている。訴えた側の本意から見れば、ソクラテスがあまりに巨大になりすぎた点に理由が向けられ、ソクラテスはその述べた哲学の内容ゆえに訴えられたのでもなく、死を宣告されたのでもない。逆に死は方法として、彼の哲学的主張に磐石の証明を与えるために選ばれたとしたらどうだろうか。実際、ソクラテスが死ななかったとしたら?哲学解釈者たちは、ソクラテスはソフィストではなかったが、その差はぎりぎりだと言っている。要するに紙一重であり、ソクラテスもソフィストであったとしても少しもおかしくはない。だからソクラテスが死ななかったら、いわゆる「ソクラテス」の哲学はなかったであろう。ソクラテスの死がソクラテスの哲学とは別個に方法として選ばれたのだと思う。それが西洋哲学全体にとって「ソクラテスの死」が持つ格別の意味である。 
 
イデアの世界
  テオリア=心に観(み)ること セオリー(理念、理想)のはじめ

 

影絵の世界−プラトンの洞窟
真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透してゆく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときのみ現れるのであり、したがって、決して早くあらわれすぎることも、未熟な公衆しか見出さないということもない。これは、ある有名な哲学者のことばである。われわれ人類の行先も見えない混沌とした今日の世界では、これほどの客観的な真理にたいする信頼をみいだすことは難しかろうが、やはり、その日その時が来れば、われわれが一体どこに向かっているのかわれわれの誰にもわかるのだと思う。わずかであるが少し早く、私はそれを知りたい。われわれが来た道をふりかえり、これから何回かに分けて述べるように、さまざまにおもいなしてみれば、この哲学者のことばもよくわかる。真なるものとは何なのであろう。
真実の世界を求めそれを知ることが人間の幸福であるという確信は、人類に共通した普遍的なものである。その意味で、ヤスパースが人類の「枢軸の時代」とよんだように、古代は人類に巨大な贈物をした。一つはキリスト教、仏教などの「世界宗教」、いま一つは「哲学」(形而上学)である。ではいま、われわれの今生きて感覚している世界の背後にはよき真実の世界が有り、その世界がさまざまな形をとってわれわれの目前に現象として展開し、われわれはその現象世界しか見えない、という考え方をしてみよう。
プラトンはこのテーマにまことに美しい譬えを出した。人間は洞窟にとらわれた囚人であり、生まれてこのかたそんな境遇に居つづけているので、何を知ることもできない。あまつさえ、どういうわけか、この洞窟のなかでは一つの向きのほかは見ることができないよう手足と首をきつく縛られている。そこへ、洞窟の奥の壁の上に人形劇のような影絵の世界が美しく映し出されたとしよう。人間はこれを何とみようか。
プラトンの『国家』(ポリティア)第7巻を読んでみよう。
「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。
−地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ[ab]。彼らの上方はるかのところに、火[i]が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。
この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道[ef]が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなもの[gh]が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」
「思い描いています」とグラウゴンは言った。
「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」
「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。
「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部[cd]に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」
「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」
「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」
「そのとおりです」
「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」
「そう信じざるをえないでしょう」
「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」
「いいえ、けっして」と彼。
「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」
「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。
「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。
−彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。
そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」
「ええ、大いに」と彼は答えた。
プラトンのこの洞窟の譬えの目的は、後世の人々が、「現実」と「理想」(「理念」)、あるいは、第四次元、精神分析概念(ユング)、象徴、など千差万別に解釈している。さしあたりは、「このような囚人たちはさまざまな器物の影だけを真実のものと認めることになるだろう」、ということを示すことにあるであろうし、また、縛めを解かれてからも、「以前に見ていたもの(影)のほうが、いま指し示しているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないか」ということである。 
光の世界
この譬えはもちろんこれで終わるわけではない。囚人たちが縛めを解かれて、目が痛くなりながらも、自ら、光に向かって上へ登っていって上方の事物―「善」の「イデア」(アガトン・イデア)の世界―を観ることから、プラトンの『国家』のまさに最中心部分に近付くことになる。実際、プラトンの注釈者ショーリイも、イデアから「国家」が構成されてゆくここ(517C)が『国家』の最重要部分である、という注釈を付けている。
「それでは親しいグラウコンよ」とぼくは言った、「いま話したこの比喩を全体として、先に話した事柄に結びつけてもらわなければならない。つまり、視覚を通して現われる領域というのは、囚人の住いに比すべきものであり、その住いのなかにある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ。そして、上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは−とにかくそれを聞きたいというのが君の望みなのだからね−とらえそこなうことはないだろう。
ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたもうところだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことはといえば、それはこうなのだ。−知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあるゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この<善>の実相をこそ見なければならぬ、ということもね」
この「公私においても思慮ある行ないをしようとする者」とあるところに、理想国家としてのプラトンの「理想国」、国制としての「優秀者支配制」(アリストクラシー)が、できあがっている。当然、その支配者は哲学する者(哲人統治者)でなければならない。というのも、プラトンは、前に、哲学者をイデア論からはっきりと定義しているからである。
「では真の哲学者とは」とかれはたずねた。「どのような人だといわれるのですか。」
「真実を観ることを」とぼくは答えた、「愛するひとだ。」(475E)
影絵の世界から善のイデアの世界への上昇は、神秘的な幻想美の世界をわれわれに感じさせる。しかしプラトンは、むしろ、認識の確かさを表すためにこうしたのである。事実、真実を「観る」といい、真実を「知る」とは直接にはいっていない。「見る」ことが真実を「観る」ことにつながってゆくという確信がある。プラトンの認識論では、一貫して、視覚が他の感覚よりも信頼され重視されている。しかし、視覚はそれ自体で役に立つのだろうか。プラトンの洞窟の中では火がうしろで燃えているが、この火に意味がありそうだ。
前にこういっているのである。
「ところが、視覚とそれによってみられるものは、ほかに(なにかを)必要とするのだ、ということに君は気付いていない。」
「どうして気付きましょう。」・・・「いったい何なのです、あなたが必要だといわれているそれは。」
「それはつまり君が『光』とよんでいるものだ。」
視覚には光が必要である。一方、プラトンにとって「音」(音程)とは「調和」であったし、ある音程だけ離れている二音が美しく響き合うことも、規則正しく理解されていたが、聴覚に空気が必要であることは意識されていなかった。「光」はこのように特別の哲学上の役割を負ったのである。もちろん、光は太陽が与えるものであるから、光によって善のイデアを観ることができるなら、太陽こそ善のイデアがもたらしたものである。火とは太陽の機能なのであった。「この太陽こそ善の生みだしたものとぼくが云おうとしていたものだと宣言してくれたまえ」。こうして、ギリシャの明かるい風光から、プラトンの、永遠なるイデアの世界が生まれるのである。 
幾何学の精神
幾何学もイデアの世界への跳躍台である。今日のわれわれの学習体験からは、やや唐突かもしれないが、少し考えるとむしろ理解しやすいものである。「仮定」(前提)から「結論」へと「証明」を導いてゆく道は、完全に純粋な思考であって、ここにおいて人は「仮定」「結論」「証明」という純粋思考―厳密思考というより―の体験に触れるのである。紙に図形を書いているのは、思考を助けている仮のものにすぎないのであって、証明は思考そのものである。
たとえば、点は「位置があって広さがない」ものと定義される。現実に点を打つとこうはならないから、点は現実の世界には真のものとして存在せず、理想的な点、つまり、「理念」としてだけ存在する。さらに、実際の(正)四角形も四角形ではない。したがって、「四角形を書く」「四角形にする」という行為はありえない。ただ、「四角形がある」、だけである。しかも、われわれの観念の中では、四角形は永遠に変わることがない。二等辺三角形の両底角はいついかなる時であっても等しい、というのと同じである。
プラトンは、極めて重要な意味をもつ問答をしている。
「それ(幾何学)が知ろうとするのは、つねにあるものであって、時によって生じたり滅びたりする特定のものではないということだ。」
「それは容易に同意を得られる点です。」
「なぜなら、幾何学は、つねにあるものを知る知識なのだから。」
幾何学を学ばないものは哲学者になれない、したがって、良き支配もできない、人はこれを年齢的順序として第二学科として必修すべきである、というプラトンの真意がよくわかる。第一学科は最も年少のとき修めるもので、「数」である。プラトンにあっては、数は幾何学の図形ほど重要ではない。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」(第6章)で、数もイデアであるとして、師に論駁している。 
巨大な物ものさし
以後、世界の哲学も変転をくりかえした。しかし、幾何学の真理が永遠に不変であるように、プラトンの善のイデアもそのように不変のものである。プラトンは、こういうのである。世界の本質は善であり、それが本来の意味で―プラトンの譬えでは、医者が患者を治療するその医術によってだけ医者であるように―なされることが国家の正義である。プラトンの夢は挫折したがその情念は後世を支配し、プラトン以後、この「善」への信仰、正義信仰を中心にする、もろもろの本質主義、理想主義、理念主義が、西洋哲学の最大の伝統を形作るものとなった。哲学上広い意味で「プラトン主義」といわれているものであり、東洋人のわれわれが感じる西洋哲学の芳香はこれによるのである。
一言でいえば、プラトンは「理想」―内容はそれこそ千差万別だが―ということそれ自体の発明者であり、人類最大の哲学的預言者、幸福観念の発明者であった。
たとえば、キリスト教は、哲学的には、ユダヤ・ヘブライの民族一神教のプラトン主義による普遍化と考えてよい。逆に、プラトンの精神はキリスト教の出現をまって時満ちて完全なものになり、世界を変革する精神の哲学になったと云うのが、ヘーゲルである。その最終目標は「自由」自体である。そこで、「精神的宇宙の確信」としていわれるのが、次の有名のプラトンについてのことばである。
だが彼(プラトン)のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである。
理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。
「世界の切迫している変革の中心の軸」がキリスト教の出現であることはいうまでもないが、「理性的」とは宇宙理法であり、具体的には、「自由」である。ヘーゲルは、これを当時(19世紀初頭)のプロイセンによみこみ、当時流行していた浅薄な「心情」、「友情」、「感激」からではなく、理性的自由の実現として、「ドイツ国家」の統一建設の論議を呼号したのである。一言でいえば、ドイツ(ゲルマン民族)においてこそ人類の自由の精神的理想が実現する。そのように歴史が展開してきた―「世界精神」の発展―というのである。その完璧な理詰めに、まさに「ドイツ精神」を感ぜざるをえない。ヘーゲルからこれを転用した、「プロレタリア(無産階級)の解放」への歴史の歯車の必然的進行を説くマルクスの自然的理想主義も、プラトン主義である。もっとも、もともとプラトン自身には「進歩」「発展」の観念はないのだが。
また、キリスト教を「弱者の道徳」として、正義の内容の大転換に挑んだかのニーチェさえ、世界は「権力への意志」によって貫かれているということによって、「神の愛」が「権力への意志」に入れ代わっただけでいぜんプラトン主義の中にあることを、不本意にも、自ら証明した。ニーチェといえば、カッシーラーによれば、ナチスもプラトンの哲人支配の哲学の朋輩であるという。
批判や抵抗もしつようである。社会的、政治的問題を科学的関心を以て見たカール・ポパーは、ソクラテス、カントは批判せず、各継承者プラトン、ヘーゲルを厳しく批判する。その反プラトンの理由は、社会科学に本質主義―「そもそもドイツ人・・・は」という類の大言壮語―を最初に引きこみ、それによって不毛で無内容の「歴史主義」(ヒストリシズム)を作りあげ、世に危険や害毒(ファシズム、共産主義をさす)をながす元凶であったのは、プラトン、アリストテレスだという。だがまともな歴史家なら、ポパーのいうような歴史を書くことは不可能であろう。まともに歴史を読んだ科学者ならポパーの主張を無限定に受入れたりはしないだろう。
また、フェルディナン・ド・ソシュールらの構造主義も、言語には一切の通時的(時間を貫く)本質は存在しないとする。今世紀の知的反プラトン主義を代表し、我国でも相対主義者達に信奉者が多い。
結局、数理哲学者ホワイトヘッドの次の有名な表現があたっているのであろう。
「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格付けは、それがプラトンについての一連の脚注から成っているということである。」(「過程と実在」)
社会科学的にみれば、プラトンは、「善のイデア」から理想国制を構想し対照的に民主制をはじめ四つの国制(政体)を論じたが、人間にとってプラトンの論じたものの意義は何であるか。プラトンが潜主独裁(扇動政治)についで悪いと低く評価した民主制も、そのとおりの問題の様相を現代において見せている。他方、奴隷制がなくなっただけで、当時論じられた国制はすべて今日の地球上に存在するのだが民主制が比較的ましな制度であることは人類の一つの確信である。これらの事実や経験は矛盾するが、この矛盾のなかで人類は幸福を論じ、また求めている。プラトニスト、ホワイトヘッドはいう。
「古代世界の政治上の内紛に関して解決を見たものは、まだ何もない。プラトンの論じている問題は、どれも今日においてもなお生きている。」(「観念の冒険」)
いまなお、プラトンは人類の幸福の巨大な「ものさし」なのであり、その「理想」は、かってとはまたちがった形で、目的の巨大な執行力(実行力)を諸民族に対し発揮することになるであろう。議会的民主制の普遍化、市場合理主義の徹底、自由の世界宗教の力、自然科学的普遍主義、の諸力の連合である。もう世界は動き始めている。 
 
ユークリッド原論1

 

『原論』(げんろん、古希: Στοιχεία、英: Elements)は、紀元前3世紀ごろにエジプトのアレクサンドリアで活躍した数学者エウクレイデス(英語式には Euclid(ユークリッド))によって編纂された数学書である。論証的学問としての数学の地位を確立した古代ギリシア数学を代表する名著。英語の数学「Mathematics」の語源といわれているラテン語またはギリシア語の「マテーマタ」は「学ばれるべきことども」という意味であり、このマテーマタを集大成したものが『原論』である。
平面の初等幾何について述べられているのは1、2、3、4巻と6巻。 ただし、この内容はユークリッド本人の業績というよりは、それ以前にピュタゴラス学派等の貢献により、ユークリッドの時代より前から既に体系化されていた情報を再編纂したものである可能性が高い。また、5巻、12巻は当時のプラトン学派数学者エウドクソスの業績であるし、10巻、13巻は同じくプラトン学派のテアイテトスの貢献によりもたらされたものと考えられる。 よって、ユークリッド本人は主に既存の知識と最新の学術成果を付け加えて、『原論』を編纂したものと考えられる。14巻、15巻も存在するが、それらはユークリッドの時代より後になって付け加えられたものだと考えられている。ハイベア・メンゲ編纂の『エウクレイデス全集』では第5巻に14巻、15巻がスコリア(古注)とともに収録されている。
定義・公準・公理
『原論』ではいくつかの定義からはじまり、5つの公準(要請)と、5つ(又は9つ)の公理(共通概念)が提示されている。議論の前提となる点や線、直線、面、角、円、中心などの概念が定義され、次のような5つの公準を真であるとして受け入れることにより、作図の問題の基礎を明確にしている。
1. 任意の一点から他の一点に対して直線を引くこと
2. 有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
3. 任意の中心と半径で円を描くこと
4. すべての直角は互いに等しいこと
5. 直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さい場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側で交わる。
これらのうち5番目の公準については古代より、他の公理、公準に比して突出して複雑、自明とするには疑問とされていたが、この疑問により、近代に至ってこの公準が成立しないとする幾何学である非ユークリッド幾何学の発端となる。 さらに公準の後に次のような公理が示される。これはあらゆる学問に共通の真理として受け入れられるものであり、研究において常に参照すべきものとされている。
1. 同じものと等しいものは互いに等しい
2. 同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい
3. 同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい
4. [不等なものに同じものを加えた場合、その合計は不等である]
5. [同じものの2倍は互いに等しい]
6. [同じものの半分は互いに等しい]
7. 互いに重なり合うものは、互いに等しい
8. 全体は、部分より大きい
9. [2線分は面積を囲まない]
ただし[]で囲まれた公理は公理に含めないことがある。第5公理は第2公理から導かれる。また第9公理を現代的に言い換えると「異なる2点を通る直線はただ1本だけ存在する」となる。第9公理は幾何学に関するものなので、本来は公準に含められるものと考えられる。 
 
ユークリッド原論2

 

幾何学の源流はユークリッドによる 原論(Elements)である。漢訳名は幾何原本(前半6巻は1607年にマテオ・リッチと徐光啓により漢訳された)であるがここでは日本語版([6])に従って原論ということにする。原論には序文、前書きのようなものは一切存在しない。また、動機や計算例も書かれていない。ただ、定義、公理、定理、証明が続くのみである。全体は13巻で構成されているが、各巻の構成は以下の通りである。最初の6巻は初等平面幾何、次の3巻は数論、X巻は無理数論、最後の3巻は立体幾何学である。ここでは、原論の歴史と内容について概観することにする。
古代ギリシャ
紀元前9世紀頃から、古代ギリシャにはアテネやスパルタなどポリスとよばれる多くの都市国家が併存した。紀元前5世紀前半のペルシャとの戦争や紀元前5世紀後半から4世紀前半のポリス間覇権戦争が続いたが、一貫して、アテネはギリシャ文化の中心地であった。BC.387 年にプラトンはアテネに研究教育機関アカデミーを創設した。このアカデミーの入り口には「幾何学を知らざるもの、ここに入るべからず」と刻んであったという。 BC.338年にギリシャはマケドニアに統一された。マケドニアのアレクサンダー大王は広い領土を獲得したが、大王の没後、エジプトにはプトレマイオス朝が興った。エジプトのアレクサンドリアにはムゼイオン(図書館、研究所)が創設され、紀元後4世紀頃までギリシャ文化の中心であった。数学においても、紀元前には、ユークリッド、アルキメデス(生涯の大部分はシラクサで生活したと考えられている)、アポロニウス、紀元後には、ヘロン、パップス、ディオファントスなどが活躍した。
原論の成立
原論の成立に関わるギリシャ数学史の主な情報源は5世紀のプロクロスによる原論の注釈(日本語訳が [6]、 p.461に掲載されている)である。原論自身に何も書かれていないことと、原論以外の資料がほとんど失われている中で、この注釈は大変貴重な資料である([4]、[6] 参照)。それによると、原論はプラトンの創設したアカデミーにおける研究成果を集大成したものとされている。さらに、原論に先行する「原」原論を編集したというヒポクラテス、レオン、テウディオスのことが言及されている。なお、ユークリッドが原論を執筆したのはアレクサンドリアであると考えられているが、はっきりした根拠はないようである。
原論の伝承
原論の伝承には長い歴史がある([4]、[6] 参照)。原論が元々書かれたパピルス本は断片が残っているのみである。現存する最も古い(9世紀)写本は羊皮紙に書かれていている。さて、9世紀頃にはいくつかのアラビア語版が作られ、12世紀にはアラビア語版からラテン語版が作られた。バースのアデラード版(12世紀前半)やクレモナのゲラルド版(12世紀後半)である。原論が最初に印刷されたのは1482年のことである。印刷者はドイツのラトルトであり、内容は13世紀のカンパヌスのラテン語版であった。このラテン語版は既存の訳の編集ではないかと考えられている。ギリシャ語写本(テオン版)からのラテン語版も1505年のザムベッティ版を始めとして、16世紀にはコマンディーノ版やクラウディウス版などが出版された。ビリングスリーによる最初の英訳は1570年であった。19世紀になって、原形に近いと考えられている非テオン版の写本が偶然ヴァティカン図書館で発見された。デンマークの古典文献学者ハイベルグはこの写本に校訂を重ねて、現在流布しているギリシャ語テキストを作成した(1883年)。現行の英訳本はヒースによるものである(1908年)。また、日本語版[6]の出版は1971年である。
原論の教育史
各国におけるユークリッド幾何学の教育史も興味深いテーマである。1794年に出版されたルジャンドルの教科書 Elements de geometrie は原論を簡易化し、より理解しやすくしたものであったので、その後の初等幾何学教科書の多くの規範になった([3] 参照)。 
T巻
原論の第I巻は定義、公理、公準で始まり、三角形の合同、定規とコンパスによる作図、平行線の性質などの後、ピタゴラスの定理で終わる。定義は23個あり、次のような調子である。ここで、線という用語は曲線という意味で用いられている。
定義
点は部分をもたないものである.
線とは幅のない長さである.
線の端は点である.
直線とはその上にある点について一様な線である.
面は長さと幅のみをもつものである.
自明として受け入れられる性質を公理(axioms) または共通概念 (common notions)とよび、要請あるいは仮定されるべき性質を公準(postulate)とよんでいる。
公理
同じものに等しいものは互いに等しい。
等しいものに等しいものを加えれば、また等しい。
等しいものから、等しいものを引けば、残りは等しい。
互いに重なり合うものは互いに等しい。
全体は部分より大きい。
公理 1、2、3 は次のような演算のルールを述べていることになる。
公準
任意の点から任意の点へ直線を引くこと。
有限な直線を連続的に直線に延長すること。
任意の点を中心とする任意の半径の円を描くこと。
すべての直角は互いに等しい。
直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さいなら、この2直線は限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側において交わる。
以下、記号 T- 4 はT巻の4番目の命題という意味で用いる。最初の命題(I-1)は正三角形の作図である。次の命題(T- 2) は長さを移動する作図法である。
点 A と線分 BC が与えられたとき、正三角形 ABD をまず描き、辺 DB を延長して、B を中心として半径 BC の円との交わりを E とし、今度は D を中心として半径 DE の円を描き、直線 DA との交わりを F とすると、AF が A から長さ BC の点であるという作図法である。これによると、コンパスとは円を描く道具であって、長さを移す道具ではないとされていたことがわかる。
命題[I-29]平行線の2つの錯角は等しい。証明には公準5が用いられる。2つの錯角が等しくなければ、平行線でなくなってしまうという論法である。
命題[I-32]三角形の内角の和は2直角である。 上記のように平行線を引き、平行線の性質を使えばよい。
命題[I-35]底辺と高さの等しい平行四辺形の面積は等しい。2つの平行四辺形を合同な2つの三角形から共通な3角形を除いて別の共通な三角形を加えた図形と考えればよい。
命題[I-37]底辺と高さの等しい三角形の面積は等しい。T巻の最後にはピタゴラスの定理とその逆が述べられている。
命題[I-47]直角三角形において直角の対辺の上の正方形は直角をはさむ2辺の上の正方形の和に等しい。 その証明は次の図のように三角形の合同と面積を用いるものである。ピタゴラスの定理には他の証明も多く知られている。次のような並べ替えを利用した証明も面白い。
U巻、幾何算術(図形的代数)
命題[U-4]正方形は2つの正方形と長方形の2倍との和に等しい。れは (a + b)2 = a2 + 2ab + b2 の図形的説明である。
命題[U-14]2次方程式 x2 = ab の図形的な解法がの述べられている。証明にはピタゴラスの定理が使われる。ここでは、ab は長方形と考えられ、x2 は1辺 x の正方形の面積と理解されている。
V巻、円の幾何学
V巻では円に関する定理、円の中心の作図、円と接線、割線の定理が述べられている。
命題[V- 17]与えられた点から円への接線の作図法。ユークリッドの作図法は次のようなものである。点 A と円の中心 O を結び、円との交点に垂線を引き、円との交点を求め、その点と O を結ぶ直線と円との交点が求める接点になる(理由は三角形の合同である) 円周角を用いる作図など、別解もいろいろある。
命題[V-20]円周角は中心角の1/2である。
命題[V-31]直径の円周角は直角である。
命題[V-21]同じ円弧の円周角は等しい。
命題[V-35、方べきの定理]円 O 内の1点 P を通る直線と円との交点を Q、R とすれば、積 PQ・PR は直線によらず一定である。相似三角形を用いる証明ではなく、ピタゴラスの定理を用いて、等式
PQ・PR = 半径2 - PO2 を証明している。
W巻、円に内接および外接する図形
円に内接あるいは外接する3角形、正方形、正5角形、正6角形などを作図する方法が述べられている。
X巻、比例の一般論、Y巻、図形の相似
命題[VI-2]相似三角形の辺は比例する。辺の比を面積の比で考えればよい。
Z、[、\巻、数論
自然数、奇数、偶数、素数、合成数、正方数、立方数、完全数などが登場する。数は線分で表され、単位の倍数で測られる。最大公約数を求める効率的な方法であるユークリッドの互除法が解説されている(Z-2)。自然数 a、b の最大公約数を求めるのに、もし、a が b を割り切れば、a が a、b の最大公約数である。そうでないときは、大きい方から小さい方を引けば、いつかは最大公約数に達するというのが元々のユークリッドの互徐法である。例えば、24 と 15 で実行してみよう。15 は 24 を割らないので、24 - 15 = 9、15 - 9 = 6、9 - 6 = 3 となり、3 が最大公約数であることが分かる。
命題[[-20]素数の個数は無限である。現在の証明であれば、素数が有限個しかないとして、その個数を n とし、素数の集合を p1、...、 pn で表すという議論をするのであるが、一般の個数 n を用いるという習慣がまだ知られていない時代であったので、素数の個数が3個であるとして議論がされている。それでも証明の本質的な部分が失われていないのはさすがである。現代の証明を続ける。数 p=1 + p1... pn はどの素数よりも大きいので、合成数である。定義から、p は素数 pi では割り切れない。合成数は必ず素数で割り切れるので(Z-31)、これは矛盾である。
]巻、無理数
例えば、有理数 a の平方根が有理数であるのは a が平方数分の平方数であるときに限ることが示されている(]-9)。
]T巻、立体幾何学
最初に立体幾何の定義が述べられている。
定義
立体とは長さと幅と高さをもつものである。
立体の端は面である。
直線は交わる平面上のすべての直線と直角をなすとき、その平面と直角であるという。
平行な平面とは交わらない平面である。
角錐とは数個の平面によって囲まれ、一つの平面を底面とし、一つの点を頂点としてつくられる立体である。
]U巻、体積
とりつくし法により、角錐、円錐、円柱などの体積が求められている。 
 
物の本質について1

 

アナトール・フランス、ルキアノス、さらにはモンテーニュらがこぞって礼讃していた、古代ローマのラテン語黎明期に書かれた、一篇の叙事詩。
ルクレティウスは、ウェルギリウスやホラティウス、オウィディウスにも影響を与えたローマ時代を代表する詩人であり、その現存する唯一の作品『物の本質について』は、エピクロス哲学の思想を現代に伝える最重要文献である。
「エピクーロスの著書は三百巻にも上ったといわれるが、今ではほとんど散佚しつくした。彼の思想を伝えている、まとまったものといえば、僅かにディオゲネース・ラェルティオスの「諸哲学者伝」中の「エピクーロス伝」と、このルクレーティウスの「物の本質に就いて」だけで、後者の方がはるかに多くの内容を伝えている」
さきほど「六冊」と書いたが、この一冊はもともと六巻に分かれていたものなのだ。とはいえ、たとえばホメロスの上下巻がもともと二十四巻の書物だったというのと同様、この場合の「巻」は、現代的には「章」と言い直すこともできるだろう。ルクレティウスは各巻の冒頭で、たいていエピクロスを礼讃している。
「恐ろしい形相を示して、上方から人類を威しつつ、天空の所々に首を見せていた重苦しい宗教の下に圧迫されて、人間の生活が、誰れの目にも明らかに、見苦しくも地上を腹ばっていた時に、初めてギリシア人の、死すべき一介の人間(エピクーロス)が、不敵にもこれに反抗して、目を上げた。彼こそは、これに反抗してたった最初の人である。神々のことを語る神話も、電光も、脅迫の雷鳴を以てする天空も、彼をおさえつけるわけにはゆかず、むしろ、かえって彼の精神の烈々たる気魄をますます、かきたてることとなり、その結果、人間として初めて自然の門のかたい「かんぬき」を破りのぞこうと望ませるようになった。従って、彼の精神の活潑な力は、何ものといえども征服せざるものなく、世界の果、火ともえる壁をうちこえて遠く前進し、想像と思索とによって、あらゆる無限の世界をふみ歩いた」
「かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然たる光明をかかげ得て、生命の喜びを明らかにしてくれたる、おお、ギリシアの民の名誉〔なるエピクールス〕よ、私はあなたの跡を追おうとする者である。そして、あなたの残した足跡の上に、私の足跡を今印しようとする者である。私があなたを模倣しようと念ずる所以のものは、あなたと競おうと思うが故ではなく、むしろただあなたを愛するが故に外ならない。いかで燕が白鳥と競おうか? 又いかで小羊が四肢を慄わし、力強い馬の勢に向って競争し得ようか? 父よ、あなたは真理の発見者であり、父らしい教えを我々に授けて下さる。卓抜せる人よ、あなたの書物(カルタ)から、例えば蜜蜂が花咲く小径に甘きを悉くすするように、我々も亦これと同じく、あなたの黄金の言葉を、恒久的生命を、常に得るに価いする黄金の言葉を、吸い取る者である」
ちなみに第五巻の冒頭では、エピクロスはヘラクレスよりも偉大であるといういささか無茶な比較までしている。
「ヘルクレースの功業がこれに匹敵すると考えたら、君は真の理性からおよそ遠く離れる者と云うべきだ。即ち、あの獅子ネメアにおける大きく開いた口が、又恐ろしいアルカディアの野猪が、我々に今どれほどの害を加えられようか。又、クレータ島の牛が、又レルナの毒気たる、毒蛇の群に囲まれたヒュードラに何ができようか。三つの体軀を有するゲーリュオーンの三つの胸の力に何ができるか。又、スチュンパーロス(の通れない沼地)に住む(銅の翼を持った怪鳥共)が、又ビストラの地やイスマラ山の近くで、トラーキア人のディオメーデースの、鼻から火を吹く馬が、我々にどれほどの禍をなし得ようか。我々の誰も行ったことのない、又異邦人も敢えて行く勇気の出ない大西洋の岸、厳しい海に近く、水の精ヘスペリデース達の輝く黄金の林檎を守って、樹の幹に巻きついている眼の鋭い、恐しいあの体軀巨大な蛇とても、何の危害を働き得ようか。その他この種の〔ヘルクレースの手に掛って〕亡された怪物共が、たとえもし征伐されなかったとして、生きていたところで、何の禍が行えようか。何もできないに違いない。今なお大地は森林に、大いなる山嶽に、深い林に、かくも多数の野獣に満ちあふれ、不安な恐怖に充ちてはいるが、かような場所を避ける力を我々は大概持っている」
さて、詩人なのに哲学? と、訝る向きもあるかもしれないが、そういう人はヘッセの「どんな民族もどんな時代も、彼らの教訓や知識の財宝をもっぱら詩の形で記録してきた」という言葉を思い出そう。しかも、まだまだ驚くにはあたらないのだ。ルクレティウスは「物理学の父」とも呼ばれている人物なのである。つまり、現代の学問分類に無理に当てはめようとすれば、これは自然科学の本なのだ。以下、無意味であるとは知りつつも、私見により、ざっくりと各巻に表題を与えてみる。 
第一巻 万物の根源としての原子について
さきほどルクレティウスがヘラクレスを否定していることを紹介したとおり、自然の法則を解き明かすということは、ギリシアからたくさんの神話を継承していたローマにとっては、神意を否定するということにほかならなかった。これは自然科学を説いた最初期の書物であり、歴史的に初めて叫ばれた「ノン」なのである。いや、正確にはエピクロスがその前にいて、さらに彼に影響を与えたデモクリトスなどまで遡れるのかもしれないが、現存している最初の「ノン」はこれだ、と言えるだろう。
「君のような人でさえ、やがていつか、占卜師どものすご文句におびやかされて、私から逃げ去ろうとつとめるようにならないとも限らない。実に、彼ら占卜師たちは、幾らでも多くの夢を、たちどころに捏造する術を心得ているからだ――生活の道をくつがえしうるような、また君の運命を、恐怖で動揺させうるような夢を。しかも、それは無理もない。なぜならば、人々がもし、心労にも或る一定の限界があるものだということをさとったとしたならば、宗教に対しても、また占卜師どもの脅迫に対しても、何とかして反抗することが、できるであろうからだ。しかし、現実のところ、死後の永遠の罰を心配しなければならないので、反抗する道も、力も、全くないのだから」
「精神の恐怖と暗黒とは、太陽の光明や、ま昼の光線では、一掃できないことは必定であり、自然の姿〔を究明すること〕こそ、また自然の法則こそ、これを取り除いてくれるに違いない。自然の先ず第一の原理は、次の点からわれわれは始めることとしよう。即ち、何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない、という点である。死すべき人間は、地上に、また天空に、幾多の現象の生ずるのを見て、その原因が、如何なる方法を以てしても、うかがい知ることができず、これひとえに神意によって生ずるのだ、と考えてしまうが故に、実はかくの如く、誰れしも皆恐怖にとらわれてしまうのである。従って、無よりは何ものも生じ得ず、ということを一とたび知るに至れば、ひいて忽ちわれわれの追及する問題、即ち、物はそれぞれ如何なる元から造られ得るのかということも、またあらゆる物は神々の働きによることなしに、如何にして生ずるか、という点もいっそう正しく認識するに至るであろう」
また、「君」という呼びかけからも察せられるとおり、これは友人メンミウスに宛てた手紙という体裁を採っている。つまり書簡体形式で、読者に理解してもらうことを第一に書かれているのだ。
「以上のことをよく理解し、信じてくれるならば、直ちに自然は自由であり、傲慢なる主人に左右されることなく、自然自身すべて自由勝手な独立行動をとっているものであって、神々とは関係がないということが判ってくるであろう。というのは、平和のうちに静寂なる日々と、平穏なる生活とを送っている神々の、神聖にして安らかなる心にかけて〔私は断言するが〕、宇宙を支配し得る程、無限に巨大なるものが誰れあろうか? 力強い手綱を手にとって、宇宙の深さを制御し得る程の力あるものが誰れあろうか?」
「例えば子供は眼の見えない暗闇の中では、おびえて何でも恐がるように、我々は往々少しも恐るべきいわれのないことに白昼恐れをなしている――それも、子供が暗闇の中で今にも起るかと想像しては恐がるものに較べて、少しも恐るべきいわれのないことに。であるから、心のこの恐怖、即ち暗黒は払拭する必要があるが、太陽の光や白昼の光線によるのではなくして、自然の姿と法則と〔を究めること〕によらなければならない」
さあ、内容について語ってみよう。まず、古代ギリシアにおいて、万物の根源をめぐる議論が繰り返されていたことを思い起こしてもらいたい。すなわち、「火(ヘラクレイトス)」「空気(アナクシメネス)」「水(タレス)」「土(ペレキュデス)」などなど、である。万物の根源に「原子」というものを最初に挙げたのはデモクリトスだと言われているが、それを継承・発展させたのがエピクロスで、ルクレティウスはここでその意見をラテン語に訳し、紹介しているのである。
「万物の本質は、事実、それ自体において、二つのものから成りたっているのである。即ち、物質〔原子〕と空虚とであって、この空虚の中に物質が存在し、この空虚を通って物質はいずれの方向へも運動する。物質が独立して存在しているということは、人間に共通な感覚が明示するところである。われわれが先ず第一に、この感覚に信頼をおいて、堅い基礎をきずかなければ、〔目に見えない〕かくれた問題に関しては、理性を以て何らかの解釈を打ちたつべき根拠は、全く得られないであろう。ではさらに、われわれが空虚と称する場処、ないし空隙が、存在しなかったとしたならば、私がしばらく前に述べたように、物質は何処にも位置を占めることが不可能であろうし、また何処においても、いずれの方向に向っても、動くことは全く不可能であろう。このほかに、物質とは全く区別され、空虚とも別個なりとも称し得る、いわば第三質として知られているようなものは、全くない」
「宇宙は完全に充実してもいなければ、そうかといって、完全に空虚にもなっていない以上、原子と空虚とは交互に分解し合っているのだ、ということは疑いの余地がない」
先に挙げたような他派の意見は、ここで紙幅を割いて、完膚無きまでに否定されている。じっさい、ルクレティウスの理論には、穴がぜんぜんないのだ。この説得力に立ち向かえるわけがない。古代ギリシアからつづいた論争はここで終止符を打たれた、と言っても言い過ぎではないだろう。
「原子は、私が既に説いたように、強固にしてかつ空虚を含有しないものである以上、これは恒久的なものであらねばならない。もし原子にして、恒久的でないとしたならば、万物は今までにことごとく、完全に無に帰してしまったであろうし、現にわれわれが眼前に見るところのものは、ことごとく無から再生して来た、ということになるであろう。ところが、私が先に説いたように、何ものも無からは生じ得ず、かつ一旦生じたものは、無に帰し得ないが故に、万物がそれぞれ最後の瞬間において、還元し得るところの、しかして新しいものを再生せしめる素材となり得るところの、不滅性をそなえた原子がなくてはならない。従って、原子は単一性をそなえて、強固なるものである。もしそうでなかったとしたならば、無限の過去から今まで、永代をへて保存されて来て、物を新たに再生させる力を持ち得る筈がない」
「間々重要となる点は、同じ原子が如何なる原子と、また如何なる状態で一所に保持されているか、如何なる運動を相互に与え合うか、また受け合うか、ということである。すなわち、同じ原子が天空を、海を、地を、河川を、太陽を、形成していることもあり、同じ原子が穀物を、樹木を、動物を、造ることもあるが、ただし、他の原子との混合の仕方が異なっていて、異なった活動の仕方をしているからである。なお、私のこの詩の中でさえ、多くの言葉に共通な、多くの「あるはべっと(エレメンタ)」を、あちらこちらに見うけるであろう。しかしながら、詩の行も、言葉も、意味の上においても、発音の音声上においても、互いに異なっていることは、君にも認めざるを得まい。「あるはべっと」は順序のみを変えただけでも、これほどの働きをなし得る。まして、諸物の原子なる「あるはべっと」は、これを基としてあらゆる多種多様なる物を生ぜしむるためには、これ以上複雑な着き方が可能である」
わたしは小学校で習う「分数の掛け算」の時点で理系の道を諦めた男だが、ルクレティウスが語っている内容が、高校の化学の授業で教わったものだということくらいは理解できる。つまり、現代人にとっては当たり前のようなことが書かれているのだ。いやいや、これは俄には信じがたいことだろう。忘れてはならないが、これは紀元前一世紀に書かれた、二千年も前の書物なのだ。
「極小があるとしなければ、如何に微小な物質といえども、すべて無限に部分から構成されていることになってしまうであろう。すなわち、物の半分には当然常にその半分があり、かくして分割には全く際限がなくなるであろうからである。そうなれば、物の総和なる極大の宇宙と、物の極小との間には、いったい何の差異があろうか? 全然差異を失ってしまうであろう。何故ならば、宇宙が全く無限であるとすれば、物質の構成されている微小の極なる部分も、また同様に無限だからである」
「自然は宇宙を維持するのに、宇宙に宇宙自身の限界をもうけ得ないようにしている。すなわち、自然は原子を空虚によって限らしめ、しかして一方空虚を原子によって限らしめ、かくの如く交互の錯列によって、宇宙を無限ならしめているからである。もしそうでなく、一方が他方を限らないとしたら、この両者のうちの一方が、依然単独で、無限にひろがって行くであろう。(ところが、私が先に説いたところであるが、空間〔=空虚〕は無限にひろがっている。したがって、もし原子の総和〔宇宙の物質部分〕の方が有限であるとしたならば)海も、陸も、かがやく天界も、人類も、神々の神聖なる体も、わずか一瞬時たりとも、存在は不可能となるであろう。何故ならば、莫大なる原子は自身の結合から遊離して、広大なる空間の中へ溶解して行くであろうからである。ないしは、遊離した原子が集合することが不可能となるからには、原子が結合して、何ものかを構成することにならないからである」
地球が丸いことさえ予想だにされなかった時代に、彼は宇宙の無限について語っているのである。もちろん、ラテン語の「spatium」が、英語の「space」やフランス語の「espace」同様、「空間」と「宇宙」の両方を意味する多義的な言葉であることは疑いようもないのだけれども。須賀敦子が『ユルスナールの靴』で書いていたことを思い出した。すなわち、「こんな人たちの苦悩を経て、現代科学は生まれたのだ。それなのに、私たちは無知に明け暮れ、まるですべてを自分たちが発明したような顔をして、新幹線なんかに乗ったり、やれコンピュータだ宇宙だといばっている。なんというまぬけだろう」。 
第二巻 原子の性質について
「物の総和は常に更新され、死す可き生物は、それぞれ相互に変り合って行く。一方には、人口の増加する民族があれば、他方には、減少して行く民族もある。そして、短い時の間に世代は変り、あたかも〔炬火継走の〕走者のように、生命という炬火を受け渡してはいるのである」
「太陽の光線が暗い家の中へさし込む時、観察してみたまえ。多くの微細な物質が種々な具合に、〔謂わば〕空間〔の如き空中〕を、光線を浴びて、騒然としているのを見るであろう。あたかも永遠の闘争にでもあるかのように、一瞬の休止もなく、群をなして戦い、格闘し、競り合い、頻繁に出会ったり、別れたりして飛んでいるのが見えるであろう。これによって、物の原子が宏大なる空間の中で、間断なく飛び廻っている様が想像できる。正にこのように、些細なことが大きな問題の例証を、知識への糸口を、与えて呉れることがあり得るものである」
読んでいるとすぐに気がつくことだが、ルクレティウスは同じことを何度も繰り返し、強調する癖がある。「であるから、繰り返し、繰り返し、私は言うが」というのが、口癖になっているほどだ。そして第一巻でさりげなく放たれた一言が、第二巻では新たなる根拠とともに反復される。
「物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作り直すのであって、如何なる物でも、他のものの死によって補われることのない限り、生れ出ることは許されない」
「死は物を亡ぼすと云っても、素材の原子を砕きつくすには至ることなく、ただ原子の結合を飛散せしめるに過ぎず、それより又他の原子とを結合せしめるのである。そして、その結果万物はこのようにしてその形態を変じ、その色を変え、感覚を受け、又一瞬にしてこれを放棄するということになる。従って、同じ原子が如何なる原子と、如何なる配合状態に結合されるか、如何なる運動を相互に与え合い、且つ受け合うかが重要だということが判るであろう」 
第三巻 精神・魂の性質・死について
魂(アニマ)だ。ソクラテスなども好んで用いた「エスカトロジーのミュートス(死後における魂の運命の物語)」などは、ここでは影も形もない。ルクレティウスは、あくまでも唯物論的な地平から、魂というものを捉えているのだ。
「此の性質〔魂(アニマ)〕はあらゆる身体の中に保持されていて、自身肉体の、守護者であり且つ肉体の生存の素でもあり、共通の根によって互いに執着し合い、破壊することなくしては引き離し難いものであると思われる。例えば香料の塊から、その香料の性質を破壊することなくしては、香気を取り去ることは不可能であるように、これと同様に全体を分解させることなくしては、肉体全体から精神も魂(アニマ)も取り出すことは不可能である。かくの如くに原子はそもそもの始めから相互に織り込まれて、与えられた生命を共有しているので、肉体にしても精神にしても、いずれも他の一方の助力なくしては夫々単独に感覚する能力がないことは明らかで、ただ共同の運動によってこの両者の間から感覚が起って、我々の肉体中に作用するようになる」
「魂は誕生するものであり、死の法則にも左右されるものであると考えなければならない。何故ならば、魂(アニマ)がもし仮りに外部から這入って来るものであるとしたならば、かくまでも密接に我々の肉体と連結している筈はあり得ないと考えなければならないし、又事実かくも密接に結合している以上、魂が無疵のまま無事に体外へ出て行くことも、又全筋肉、骨、及び手足から解け放れて行くことも不可能であると思われるからである」
ここから導き出される、死というものの性質は痛快だ。いつものことながら、説得力がありすぎる。これほど強固な論理に対して、いったいだれが反論できるというのだろう?
「精神の本質は死すべきものである、と理解するに至れば、死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなって来る。そして、四方八方からポェニー人〔カルターゴー軍〕が攻め寄せて来て、世を挙げて戦争の恐るべき騒擾に打ちのめされ、縮み上り、高い天空の下にうち慄えていようとも、人間が陸か海かいずれの支配下に陥る運命にあるのかと思い惑おうとも、そういう過去のことは一切この我々が悲しく感じた経験を持っているのではないように、結合して現在我々というこの一体をなしている此の肉体と魂(アニマ)とが分離を起して、我々という者がもう存在していなくなる未来においても、たとえ大地が海と混じ、海が天空と混じ合おうとも、我々にとっては――も早や存在していない我々にとっては――全く何も起り得る筈はないし、我々の感覚を動かし得る筈もないであろうことは明らかである。又、もし今仮りに精神の本質も、魂の力も、我々の肉体から切り離されてしまった後でも感覚するのだとしたところで、我々というものは、肉体と魂との結合、密着によって一体をなしてこそ始めて存在しているものである以上、〔遊離した魂が独自で感覚しようが〕この我々にとっては何の関係もないことである。又もし、時が我々の死後、我々の素材を掻き集めて、今現に配置されてある通りに再び元に戻して、も一度生命の光明を我々に与えてくれたとしても、我々の記憶が一旦破砕されてしまった以上は、こんなことは我々にとって何の意味もないことである。又、過去にかつて存在していた我々からは現在の此の我々に関係のあるものは何も〔残っていることは〕なく、又その過去の我々からは何の苦悶も残っていて現在我々を悩ますこともない」
「我々が取るに足りないことだと考えているよりも、更に取るに足りないことがあるとすれば、死は正にそれである」
合理的であることが詩心を奪い去ってしまうわけではないというのは、驚くべき発見だった。即物的な詩人、という奇妙な言葉が許されるとすれば、まさにルクレティウスこそ、それに相応しいと言えるだろう。
「世に伝えられて、冥府(アケロン)に在ると云われていることは、すべて此の我々の世に在ることなのだ。物語りに伝えられているような、タンタルスが悲惨にも、空中にぶら下っている巨大な岩を恐れて、空な恐怖に戦いているなどということはありはしない。むしろ、此の人生において、神々を恐れる理由のない恐怖が、死すべき人間どもを圧迫しているのであって、人々は誰れに当るかも知れない偶然の落下を恐れているに過ぎない。ティチュオスが冥府に横たわっているのを鳥が襲って、その巨大な胸から何か食いち切ろう、永久に捜しているなどということのあり得ないのは確かだ。その巨大なる体軀を拡げれば如何に広大であろうと、手足を伸ばせば九ユーゲラ〔面積単位〕はおろか、全世界をおおうほどであろうとも、永遠にティチュオスも苦痛を忍び得る筈もなし、自分の体から〔鳥共に〕いつまでも餌を与えて行き得るものではない。とはいえ、〔この世にも〕我々のティチュオスが現にいるのだ。愛欲に捕われて横たわっているところを鳥がつつき荒している――つまり、不安な恐怖が食いちぎっているか、又はその他別な欲のために、憂いが傷つけ荒しているのだ」
「たとえ君の好きなだけの多くの世代を生き抜いて完うすることが、よしんば出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているであろう。そして、今日一日で生命を終った人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過したとは云えないであろう」 
第四巻 映像について
「映像」というやや定義のわかりにくい概念と、精神とが語られている。
「精神自体が緊張して留意するもの以外は、精神が見落してしまうということは、何ら異とすべきではない。次に、我々が想像するのは、大部分微細なる証左から想像するのであって、我々は我々自身を錯覚に陥らしめたり、自ら自身を瞞いたりするものである」
だが、この巻でとりわけ興味深いのは、いささか唐突に現れる愛についての議論だろう。エピクロス哲学が「快楽主義の哲学」と呼ばれている理由が、これを読むとよくわかる。
「これが我々の愛(ウェヌス)である。これから愛(アモル)の名称〔即ちクピードー、欲望の意〕が生じている。これを基として、愛の甘いあの滴が心の中に注ぎ込まれ、それに続いて冷い心痛が起って来る。例えば、愛する相手がいなくても、その映像が眼前にあり、その人の嬉しい名前が耳に聞えたりする。然しながら、この映像は避くべきであり、愛を育むものは遠ざけ、心を他に転じ、集った液体はどんな肉体にでも注入し、とどめ置くことをせず、ひとたび一人の愛にまき込まれても、憂いや頑な苦痛を保持しないようにすべきである。何故ならば、初めの傷を新しい刺戟を加えてまぎらし、傷の新しい内に、移り気な愛で気まぐれな振舞いをして治療し、心の動きを他に転じ得ないならば、傷は活発となり、育むことによって痼疾化し、日毎に狂気はつのり、苦悩は悪化するばかりだからである」
「首尾よくいった極めて幸運な恋にさえ此のような禍が見うけられるが、不幸な、不成功の恋愛には、眼を閉じていても見えるくらい、禍は無数にある。従って、前もって用心し、私が説いたような方法を用いて、つり込まれないよう警戒するに起したことはない。というのは、恋愛の罠にかかるのを避けることは、かかって後罠から抜け出るのよりは、又愛の絆を断ち切るのにくらべれば、さして困難なことではないからである。然し、引っかかって、巻き込まれてしまった後でも、危険を避けることはできる。但し、君が君自身を妨げない〔愚図々々しない〕限り、又君が好きになり、得たいと思う女の持っている先ず精神上の欠陥、乃至は肉体の欠点を見のがさない限りは――である。即ち、色欲に盲目になると、それを見のがすものであり、女が実際は持っていない美点を、持っているもののように思い込んでしまうからである。であるから、多くの点で歪んだ醜い女が可愛らしいと思われたり、最も誉あるものと遇されたりしているのは、我々の見受けるところである。そして、甲は乙を笑い、乙が見苦しい恋に捕われているからとて、愛の神(ウェヌス)に気に入られるようにしたらどうだと罵りながら、哀れにも自分の方の極めて大きな失態は省みようとはしない者が間々ある」
つまり、叶わぬ恋に身をやつすくらいなら、溜まったものを他の相手に発散させてもらえ、と言っているのである。オウィディウスは『恋愛指南』を書いて、ローマの風紀を乱したかどで流刑に処されたというが、ルクレティウスがなぜ無事で済んだのか、さっぱり理解できない。
「ところが、然し、今容貌は如何に立派であろうとも、女の肉体全身から愛の力が発散されていようとも、女は他に幾らでもあることは確かだ。この女一人がいなかったとしても、我々はこれまで生きて来られたことは事実だ。この女のする事は、醜い女がすることとすべてに変りがないことは確かだ」
「愛を生ぜしめるものは習慣だからである。例えば、如何に軽くとも頻繁な打撃を反復して受けるものは、永い間には負けて、倒れ易くなるものである。石の上に落ちる水滴でさえ、永い間には石に穴をうがつのを見るではないか」 
第五巻 天体の法則、自然や人間、社会の起源について
さまざまなものの起源が語られている。
「仮りに我々〔人間〕が造り出されなかったとしても、それが我々にとって一体何の禍であろうか? 即ち、一旦生れ出て来たものは、甘い快楽が引き止めている限り、生命に止りたがるに違いないからである。ところが、生命への愛着を味ったことのない者、即ち生命を有する者の仲間に加ったことのない者は、生れ出なかったと云うことは何の痛痒も感じないわけではないか」
「ところで、仮りにもし私が物の原子の何であるかを知らないとしたところで、天空の運行そのものから見て、私は敢えてこう断言する、又その他多くの事実から推して、敢えてこう解釈する、即ち、世界は断じて神々の力によって我々の為に造られたものではない、と。世界には、実に多くの欠陥が具わっているではないか」
もちろん、ルクレティウスにかかれば、神話的な要素はいっさい消え失せる。これは神話に拠らない世界の起源を説いた、現存する最古の書なのではあるまいか。
「大地にも天空にも全然誕生の起源がなかったとしたならば、又これらが永遠の〔昔からあった〕ものだとしたならば、何故テーバィ人達の戦いやトローイアの滅亡の前にも他の詩人達がほかの事をも歌っていないのだろうか? 一体何処へ、人々の幾多の業績がそれほど頻繁に消え失せてしまったのか? 何処にも、栄誉を永遠に伝える記念碑に折り込まれて花を咲かしていないのは何故であろうか? 然し、私の思うところでは、宇宙は新しく、世界は未だ若く、生れ出たのがさほど古くはないからである。だからこそ、今に至るも未だに或る種の学芸は進歩をたどり、今になお発展を見ているのだ」
最初にも書いたことだが、神意を否定することなくして、科学は生じ得なかったのだ。たとえばクローン人間を作ろうとすることは、現代では倫理に反することとして禁じられているが、ルクレティウスが試みたのは、これに近いことだったのではないか、とさえ思う。
「このような現象を神々の仕業に帰し、のみならず、痛烈な怒りをも神々に持たしめたとは、おお、人類は不幸なるかな! 何たる大きな苦しみを彼らは自らの身に考え出したことだろう! 何たる深い傷を我々の身に、何たる涙を我々の後裔に造り出したことだろう! 又、頭を包んで頻りに参詣し、石〔の像〕に面することも、あらゆる祭壇に近づくことも、地上に平伏して神々の社殿の前に掌を拡げることも、四足獣の血を多量に祭壇に注ぐことも、誓言〔願がけ〕に誓言を重ねることも、決して敬虔の念ではない。敬虔の念とは、むしろ精神を平静にして万事を眺めることのできる態度に外ならない。頭上の宏大な宇宙の天界に、又輝く星をちりばめた上空(アエテル)に眼を向ける時、又太陽や月の進路が心に浮ぶ時、他の心配に既に圧倒されている心に又別な憂いが目ざめて頭を持ちあげ始め、種々な運行を以て輝く星群を廻転させるほどの巨大な力は、ともすれば神々の力ではあるまいかと云う気を起す。何故ならば、解釈の方法がないと云うことは、心を不安に陥れるもので、宇宙には果して生誕があったものかどうか、又それと同時に、宇宙の壁が間断ない運動の此のような労苦に耐え得る限度があるかどうか、それとも、神意によって恒久の生命を与えられて、永遠なるものとして、巨大な時の流れに乗って辷りながら、時の強力な力を無視できるものなのかどうか、を決しかねるからである」
また、世界の起源から社会の発生までを語る筆致は、かつてない疾走感を帯びている。生まれたての社会と比したときに生じる、ルクレティウスが生きたローマに対する嫌悪感は、そのまま現代にも通用するものだろう。
「〔戦場で〕何千という多数の兵士が軍章の指揮下に、唯だ一日にして斃されるようなことはなかったし、海の荒れ狂う波が船や人間を岩に打ち上げるようなことも見られなかった。その頃は、時に海が波を高めて荒れ狂うことがあったところで、又おとなしく空な威嚇を収めたところで、一向何の意味もなく、無駄な、何にもならないことであって、波を笑わせて、おだやかな海の狡猾な誘惑が瞞そうと誘っても、誰もこれに引っかかる者はなかった。無暴な航海の術は当時未だ知られていなかったからである。その当時は又、食料の欠乏が疲れ行く体を死なしめていたのだが、現今では此の反対で、有り余る豊かな食物が〔人間を〕殺している。その頃の人間は時として自分の身に毒を飲む粗忽な者もあったが、現今では人は巧みに他人に毒を盛っている」
「人類は絶えず徒らに又無駄に齷齪し、空疎なる心労に生命を費しているが、明らかにその理由は所有するということには如何なる限度があるかを知らず、又真の快楽は如何なる程度まで増大し得るかの範囲に全く無智であるが為である。そして此の無智こそ、徐々に生命を深い海の中へ持ち出し、戦いの大波を底から掻き立てて来たところのものである」
これもまた、すでに語られてきたことである。先にも見たとおり、同じことが新たなる根拠とともに繰り返されている。
「財宝も、高貴な生れも、又名家の誉れも、われわれの肉体にとってすら何の益にもならない以上、われわれの精神にとってもまた利するところは全くなしと断ぜざるをえない」
「誰でも真の理性を以て人生の生活方針を定めようとするならば、乏しさに甘んじて、心を平静に生活することこそ人間にとって此の上もない莫大な富なのである。乏しいと云うことには欠乏がないからである」 
第六巻 自然現象(雷、雨、地震など)の解釈について
自然現象の解釈、つまりいっそう実践的な神意の否定だ。ここに書かれていることの多くは、自然科学史を学ぶつもりで読むべきなのだろう。ヘクトパスカルがどうこうと意味もわからずに言っているわたしのような無学者は、早々に打ちのめされてしまう。だが、印象的な文章はもちろんあった。
「人々は、この宏大なる宇宙も或る終局の時、即ち崩壊は免れないということを信ずることを恐れている」
「より大きな河を以前見たことのない者には、どんな河でも一番大きな河に見えるものであり、樹にしても、人にしても巨大に見えようし、あらゆる種類のものでも、誰でも一番大きいと思って見たものはすべて、これ巨大なものと想像するものであるが、然し、天も地も海も一とまとめにしたすべてでも全宇宙の総和に較ぶれば無に等しいものである」
 
物の本質について2

 

ティトゥス・ルクレーティウス・カールス(Titus Lucretius Carus )はローマを代表するエピクーロス派の詩人で、作品には六巻からなる『事物の本性について』(De Rerum Natura)があります。 
文明の発展と人間の所有欲
ルクレーティウスの『事物の本性について』には、次のような文明批判が認められます。所有欲批判の立場は、作品の全体を貫くこの詩人の基本的立場です。むろんギリシアの哲学者エピクロスの立場でもあります。
「かくて(人類は)どんぐりを嫌い始めてきた。かくて、草や木の葉をうずたかく敷いたあの(古い)寝床は見捨てられるに至った。野獣の皮もまた蔑まれるようになった。
皮は、思うに、発見されたその頃ははなはだしい羨望を起こさせ、そのために初めてこれを着た者は、謀られて殺されるほどだったに違いなく、そのくせ皮は彼ら同志の間で多くの血を流して(奪い合い)引き裂かれて失われ、有益に使用され得なかったに違いない。したがって当事皮は、ちょうど今黄金や銀が人間の生活を心労を持って苦しめ、戦いをもって疲れさせているのと同じことをさせていたものであった。
してみれば、思うに、罪はいよいよ我々(人間)自身の方にあるだろう。すなわち、皮がなければ、寒さが裸でいた大地の子(原始人)を苦しめたことは事実であるが、しかしこの我々の場合には、身を守り得る平民の服さえあれば、紫に染めた高官の衣服も、金や大柄の模様をつけた衣服は、これをお欠くとも一向苦痛とはならないはずだからである。
であるから、人類は絶えずいたずらにまた無益に苦しみ、空疎な心労に生命を費やしているが、明らかにその理由は所有するということにはいかなる限度があるかを知らず、また真の快楽はいかなる程度まで増大しうるかの範囲にまったく無知であるがためである。そしてこの無知こそ、徐々に生命を深い海の中へ持ち出し、戦いの大波を底からかきたててきたところのものである。
しかし、太陽と月とは眠ることなく、宇宙の壮大なる、回転する天界に、自身の光を四方へ放って、人間どもにじゅうぶん教えこんだことは、一年の季節なるものは回ってくるものだということ、また諸現象はある一定の法則と、ある一定の順序とによって行なわれるものだ、ということであった。
やがて人間が堅固な塔をめぐらして生活を営むようになり、土地は分割され、分配されて耕され、あらゆる海は帆で走る船に満ち、やがて盟約を結んで味方と同盟国とをもつようになるや、詩人は功績を詩に歌って伝え始めるに至った。
また、文字が発明されたのは、さして古いことではない。このために、我々の時代は前の時代に起こったことを振り返って知ることができない、前時代の跡を示してくれる方法がないかぎり。
船、耕作、城壁、法律、武器、道路、衣服、その他この種のもの、人生の賜物、および人生のあらゆる奢侈一切、詩歌、絵画、さては精巧な立像をつくること、これらは実地と活発な精神の経験とが、一歩一歩と進歩をたどる人類に、徐々に教えてきたものである。
かくして、時は一々のものを徐々に出現させてくれ、理知がこれを光明世界へ現わしてくれた。なぜといえば、次から次へと別なものが順を追って明らかになってきたに違いなく、結局、学問技術の絶頂に到達するに至ったからである。」
上に引用した箇所とウェルギリウスの『農耕詩』第一巻の表現の関連がしばしば指摘されます。 
「聖婚」(ヒエロス・ガモス)(DRN 2.991-997)
ローマの詩人ルクレーティウスは、『事物の本性について』第2巻で、天と地の交わり(文学の伝統上、「聖婚」とよばれるテーマ)を次のように描いています。この描写は、ウェルギリウスの「春の賛歌」に影響を与えています。
こうしてわれわれはみな、天空の種子から生まれ出ている。
天空はすべてのものにとって等しく父であり、そこからしたたる
水の雫を、養いの母なる大地は受け取って
みごもったのち、豊かな穀物や稔り多い果樹、
そして人類を生む。また大地はあらゆる類いの野獣を生み、
食物を与える。すべてのものはそれで体を養い、
快い生を営み、子孫を増やす。(DRN. 2.991-997)
「ルクレーティウスでは万物を生み養うのは「大地」であり、他方ウェルギリウスでは、「すべての生命の芽を養い育てる」のは「天空の神」である。この違いは両詩人の自然観の相違を示すが、「聖婚」の全体的なイメージについては互いに似通っている。
さらにルクレーティウスは上の箇所で、大地が「快い生」(dulcem uitam [997])、つまり平和で穏やかな生活をもたらすことを強調していたが、ウェルギリウスもそのことを、「春の賛歌」の結びで語っている。」と。 
ルクレーティウスによる黄金時代解釈
古代ギリシアの詩人ヘシオドスの語る五時代説話において、遠い過去には神と変わらぬ黄金の族がいて、心に憂いなく、争いを知らず、あらゆるよきものに恵まれて暮らしていたことが言われます(109-120)。一方、現実は悲惨な鉄の種族の代であり、人は日夜労働と苦悩に苛まれている、と。ヘーシオドスによれば、人間の苦悩は、プロメテウスがゼウスを欺き、火を盗んだ事実に起因します。怒ったゼウスは火盗みの罰として、人間に様々な苦難をもたらしました(43-105)。ヘーシオドスはこのような神話を語りながら、人間がゼウスの正義を信じ、労働に励まなければならない理を説いています。この五時代説話のエピソードは、いわゆる黄金時代のテーマとして、後代の多くの詩人たちに様々な形で詩的着想を与えることになりました。ルクレーティウスとウェルギリウスもその例外ではありません。
ルクレーティウスは、教訓詩『万物の本性について』を通じ、エピクーロス哲学をローマ国民に紹介した詩人です。エピクーロスは宇宙法則を独自の原子論によって解釈しましたが、その狙いは心から苦悩を取り去ること、アタラクシアーを得ることにありました。人間世界の出来事に神の介入を認めることは、人を恐怖と苦悩に導く誤った考えの際たるものとされます。人間は正しい自然法則の理解によって、迷信を否定しあらゆる苦悩から解放されるだろうと述べます。
この詩人は、ヘーシオドスの黄金時代のテーマを導入し、エピクーロス哲学の正しさを効果的に訴えています。ヘーシオドスはゼウスの罰として過酷な労働が人々を苦しめると解しましたが、ルクレーティウスによれば、大地も原子の集積である以上、誕生、老化、死のサイクルを免れません。老いた大地がもはや多くを生み出さないのは当然です(2.1105-52)。実際、現実の農耕の困難については、次のように説明しています(2.1158-1174)。
「大地は自ら初めて人類のために、繁茂する穀物を、また豊かなる葡萄樹を、生み出してくれ、甘い果実とか、豊かな牧草とかを与えてくれた。これらの産物は今では、我々の労働を尽くしたところで、とうてい増加するものではなく、また我々の牛や農夫の労力を費しても、鍬を磨滅させても、我々の畑からはとうてい十分には産出してはくれず、畑がその実りを惜しむために、我々の労働をますます必要としている。今や、老いたる農夫は首を振り、嘆息を重ね、手の労苦も徒労に帰すると言っては嘆き、今の世を過去の時世と比べ、祖先の幸運をうらやみ、昔の世は―人それぞれの土地の持ち分は、今より遥かに狭隘であったのに―敬虔の念に篤く、狭小な土地でもきわめて安楽に暮らしていけたものだと、愚痴をこぼしている。また、衰えて、しぼんだ葡萄畑を耕す者も、同様に悲観し、時の動きを罵り、天を呪っていて、万物が徐々に朽ちていくのだと言うことを、また老衰のために疲労しきって、破滅に向かっているのだと言うことを解しない。」
これに対し、過去の人間にも現在の人間にも、変わらぬ共通点として「富や名声への欲望」が認められます。過去においては動物の皮、現在では緋色の衣や黄金が人間の欲望に火をつけ、戦争へと導いていきます(5.1423-24)。黄金のイメージによって人間の欲望を描くという手法(cf.2.24, 27, 28, 51)そのものに、斬新な要素は見い出せないものの、ここで注目されることは、一方ではエピクーロスを神と称え(5.8)、何ものにも動じない心の平静、すなわちアタラクシアーに対して黄金のイメージを付与している点です(3.1-13)。
「かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然たる光明をかかげ得て、生命の喜びを明らかにしてくれたる、おお、ギリシアの民の名誉(なるエピクーロス)よ、わたしはあなたの後を追おうとする者である。(中略)父よ、あなたは真理の発見者であり、父らしい教えを我々に授けて下さる。卓抜せる人よ、あなたの書物から、例えば蜜蜂が花咲く小径に甘きを悉くすするように、我々も亦これと同じく、あなたの黄金の言葉を、恒久的生命を、常に得るに価する黄金の言葉を、吸い取る者である。」
内面の平和は、暗黒に輝く黄金のイメージを与えられながら、ヘーシオドスの描く黄金の種族の生活を想わせます。即ち、ヘーシオドスによれば、黄金時代の人間は、「心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしていた」(『仕事と日』112-113)と言われていました。ヘーシオドスは、正義と労働に立脚した社会が現実世界で豊かさを実現すると考えたのに対し(「正義の国」の記述(225ff.)参照)、ルクレーティウスは、外界の悪条件がいかに人間を苦しめようとも、理性(ratio)を正しく用いるならば、心の平和(アタラクシアー)を楽しむことができると教えているのです。言い換えるなら、人間は理性の働きに基づいて、失われた黄金時代の要素を部分的に、すなわち内面において回復できると主張しているように考えられます。 
■愛を遠ざける話
例えば、ヘーローとレアンドロスの悲劇について、ウェルギリウスは『農耕詩』第3巻258-263で次のように言及しています。
「恐ろしい愛に身を焦がす、かの若者を想え。彼は真暗な夜更けに、嵐が吹き荒れ波立ち騒ぐ海峡を泳ぎ渡る。彼の頭上には天の巨大な門が雷鳴を発し、断崖に突き当たる波は引き返せと叫ぶが、哀れな両親も、まもなく嘆きのあまり死ぬことになる乙女も、彼を呼びとめることはできない。」(河津訳)
このエピソードは「人間にも動物にも愛は変わりなく襲いかかる」という考え (amor omnibus idem) を裏付ける具体例として語られています。
一方、詩人は先行する箇所で、「愛を遠ざける必要性」を強調しています。いわく、「家畜を愛や盲目の愛の刺激から遠ざけることほど、その体力を強める上で効果的な世話はない。」と。
この言い回しは、エピクロス派の詩人ルクレーティウスの表現(4.1052以下)をふまえています。
ウェルギリウスの場合、たしかに家畜の世話と関連づけて「愛は遠ざけよ」と述べていますが、初めに触れたヘーローとレアンドロスの例でもおわかりいただけるように、そうすることがむしろ不可能な現実を強調しているように思われます。この点がルクレーティウスとの相違点です。 
ルクレーティウスの幸福観
エピクロス派の詩人ルクレーティウスは、『物の本質について』(De Rerum Natura)と題する作品を残しています。その第2巻冒頭を樋口勝彦訳(岩波文庫)で見てみましょう。
「大海で風が波を掻き立てている時、陸の上から他人の苦労をながめていのは面白い。他人が困っているのが面白い楽しみだと云うわけではなく、自分はこのような不幸にあっているのではないと自覚することが楽しいからである。
野にくりひろげられる戦争の、大合戦を自分がその危険に関与せずに、見るのは楽しい。とはいえ、何ものにも増して楽しいことは、賢者の学間を以て築き固められた平穏な殿塔にこもって、高所から人を見下し、彼らが人生の途を求めてさまよい、あちらこちらと踏み迷っているのを眺めていられることである。
才を競い、身分の上下を争い、日夜甚だしい辛苦を尽くし、富の頂上を極めんものと、また権力を占めんものと、あくせくするのを眺めていられることである。
嵐、戦争、富と名声を求める争い(cf.第4巻では「愛欲」も)等、魂の平安(エピクロス派はアタラクシアとよぶ)を脅かす要素が「ない」ことが、すなわち「喜び」である、という理屈を述べています。(ギリシア語でアタラクシアは、苦しみが「ない」の意味です)
おお憐む可き人の心よ、おお盲目なる精神よ!このいかにも短い一生が、なんたる人生の暗黒の中に、何と大きな危険の中に、過ごされて行くことだろう。自然が自分に向かって怒鳴っているのがわからないのか、ほかでもない、肉体から苦痛を取り去れ、精神をして悩みや恐怖を脱して、歓喜の情にひたらしめよ、と?」
富や名声を求めてあくせくする人間はこのように批判されています。この点で、ウェルギリウスの「農耕賛歌」との関連が考えられますし、貪欲(avaritia)を批判する視点は、ホラティウスにも受け継がれています。
従って、肉体にとって必要なものは僅少にすぎなく、それも、それぞれの苦痛を取り除いてくれるものでさえあればいいのだ、ということがわかる。
また、よしんば豪奢な臥台をいくつもならべることができ、時には満足を覚えることがあろうとも、たとえ夜毎の酒宴を明るく照らすために、燈火を右手にささげている青年たちの立像が、幾多金色燦然として家中に飾られているようなことはなくとも、
客間が銀に光り、金に輝くようなことがなくとも、または鏡板をはめこみ、黄金を張った天井が、手琴の響きを返していなくとも、これ自然そのものが要求するところのものではない。
先行する箇所では、詩人の考える間違った生き方を暗闇にたとえていましたが、ここではそれが黄金のイメージで表されています。もちろん、痛烈な皮肉です。ちなみに、第三巻序歌では、心の不安、イコール暗闇に光りを与えてくれるエピクロスの教えが、やはり黄金のイメージで表現されています。 
これとは違い、柔い芝草の上に、小川のほとりに、高い樹の枝をひろげた下に、殊に天侯がほほ笑みかけ、一年の季節が緑の草に花をむすばせ、露をふくませる頃に、仲間をつどい、長々と横たわり、費用はかけずに楽しく身体を休めることはできるのだから。
それに、色あざやかな綴錦や、赤い紫の織物の上に、身を横たえている方が、貧者の毛布にくるまって寝ていなければならない場合よりは、(病気の〕高熱のとれ方がより早いわけではない。
ここで示される牧歌的な安らぎのイメージが、ウェルギリウスの「農耕賛歌」に反映していることが従来指摘されます。
ウェルギリウスが、この箇所を念頭においていることは、間違いないでしょう。しかし、両者を読み比べるとき、私たちは、後輩ウェルギリウスが両者の「相違」に目を向けるよう促している点に気づきます。 
死は我々にとって何ものでもない
古代ローマの詩人ルクレーティウスは『事物の本性』第3巻(830以下)で次のように述べています。
「精神の本質は死すべきものである、と理解するにいたれば、 死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなってくる。(中略)
結合して現在我々というこの一体をなしているこの肉体と魂(アニマ)とが分離をおこして、我々という者がもう存在しなくなる未来においても、たとえ大地が海と混ざり、海が天空と混ざろうとも、我々にとっては(もはや存在していない我々にとっては)まったく何も起こりうるはずはないし、我々の感覚を動かせるはずもないことは明らかである。」
この表現は「死は我々にとって何ものでもない。なぜかと言えば、我々が存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはや我々は存しないからである。」と述べたエピクルスの言葉を想起させます。別の箇所(894以下)ではこうも言います。
「さらにまた、よく人々のすることであるが、横臥して盃を手に取り、額には花冠をかざしては、心の底からこう言う『哀れな人間にとっては、この楽しみもはかないものだ。たちまち過ぎ去ってしまう。そして後では決して再び呼び戻すことは出来ない。』と。(中略) 『(死んでしまえば)もはや家庭が君を喜び迎えてくれることもなくなるであろうし、一番大切な妻も、かわいい子どもたちも、先を争って駆けつけて接吻をかちえようとすることもなくなるであろうし、君の心に無言の喜びを満たすこともなくなるであろう。君はもはや、繁栄の中に暮らすことも、君の財産を守ることもできなくなるであろう。かわいそうに』彼らは言う『たった一日の恐ろしい日が、生涯の報いを悉く奪ってしまうのだ』と。ところがこのことに関連して『これらのものを渇望する念ももはや君を捉えることがなくなるであろう』とまでは言おうとしない。」
ルクレーティウスは結論として「死を避けることは不可能である。」と前置きした上で、次のように述べます。
「未来が我々にいかなる運命をもたらすか、偶然の機会が我々をどのような目に遭わせるか、また、いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。また、生命を延ばしてみたところで、それによって死の時間を少しも減らすことにもならず、すなわち、我々が死の状態にある間の時を短くすることができるものではない。であるから、たとえ君の好きなだけ多くの世代を生き抜いて生を全うすることがかりに出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているだろう。そして、今日一日で生命を終わった人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過ごしたとは言えないだろう。」
「いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。」という考えは、ホラティウスの有名な詩句「カルペ・ディエム」に反映しているように感じられます。 
厳格で非情な死の定め
optima quaeque dies miseris mortalibus aeui prima fugit; subeunt morbi tristisque senectus et labor, et durae rapit inclementia mortis.
「哀れな死すべき生き物にとって、各々の最良の日々は いち早く逃げ去る。病気と悲しい老年と苦しみが後に続き、厳格で非情な死の定めが(生を)奪い去る。」 (ウェルギリウス『農耕詩』)
『農耕詩』第3巻は、家畜の飼育を主題としています。その初めのあたりで、詩人は上のように述べています。「厳格で非情な死の定め(直訳は、「厳しい死の非情さ」)が(生を)奪い去る。」という表現 は、個々の生が、いつかは滅ぶ定めにある点に光を当てています。 注目したいことは、この表現に続けて、次のように語られる点です。
semper erunt quarum mutari corpora malis: semper enim refice ac, ne post amissa requiras, ante ueni et subolem armento sortire quotannis.
「ところでその体を取り換えたいと思うものが常にあるだろうが、もちろんいつも取り 換えなければならない。そして後で失ったものを嘆くことのないように、毎年群れのために新しい品種をあらかじめ選ばなければならない。」(『農耕詩』)
ここでは、トーンが一転し、群(むれ)全体の「永続性」が問題となります。個々の家畜の命が はかないことを嘆くのではなく、いかにして淘汰の技術を成立させるかに詩人の関心は 向けられます。
このように、今見た6行の表現には、家畜の生命をめぐる2つの対照的な見方が凝縮して描かれていますが、この強烈なコントラストには、詩人のどのような意図が読みとれるでしょうか。
1つの手がかりは、ルクレーティウスの死生観との関連を考えることによって得られます。ウェルギリウスは、第2巻エピローグのいわゆる「農耕賛歌」(2.458-542)の中で、ルクレーティウスの自然観と幸福観に言及し、「事物の因果関係を理解し、すべての恐怖と、祈りを聞き入れない運命と、貪欲なアケロン(地獄)の 喧噪とを足下に踏み敷くことのできた者は幸いである。」と述べています 。
ルクレーティウスは、『物の本質について』(De Rerum Natura)第1巻262-264で、ある物の死から別の誕生を生み出す自然(natura )の営みについて、(エピクロスの)原子論の立場から説明しています。この考えを根拠にして、この詩人は死の恐怖が無意味なことを説いています。一方、ウェルギリウスの示す淘汰の技術(ars)も、基本的には「死は(新たな)生の始まり」という死生観を反映すると考えられます。これは、一種の「本歌どり」(=伝統の創造的模倣)です。
逆 に、ルクレーティウスが批判した「死は生の終わり」とみる考え(こう考えることで人々は、死の恐怖に苦しめられる)は、「厳格で非情な死の定めが(生を)奪い去る。」とみなす考え方と同じです。つまり、冒頭で見たウェルギリウスによる家畜の飼育の記述は、一方において、家畜の淘汰を行う技術について物語るとともに、他方では、死生観をめぐるルクレーティウスの考えを色濃く反映していることがうかがわれます。
この表現上の「仕掛け」は、『農耕詩』第2巻のエピローグ(「農耕讃歌」)で、詩人がルクレーティウスの死生観に言及していた事実と無関係ではありません。第2巻の終わりでは、質朴な農夫の生活が、富や名声を追求する都会の生活と対比的に描かれてます(この点をふまえて「農耕賛歌」と呼ばれる)。その中で、詩人は一見唐突に、ルクレーティウスの死生観に言及するのです。さらに、この死生観に対置して、「一方、田園の神々、パーンや、老いたシルウァヌス、ニンフの姉妹を知る者(=農夫)も幸いである。」と述べている点も注目されます(神を知る立場はルクレーティウスの立場と相いれない)。
では、なぜ農耕生活の賛美を行う箇所で、詩人はルクレーティウスの死生観に言及し、かつ、彼の示唆した幸福と農夫の幸福を対置しているのでしょうか。この問題については、多くの学者が色々な解答を与えてきましたが、私の解釈は、『農耕詩』における独創性の問題』において詳しく示しました。
唐突ですが、ここで『方丈記』の冒頭の言葉を思い出してもよいかもしれません。「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。」川はとうとうと流れる、だが、川面に落ちた花びらに目を落とすと、それは静かに下流に向かって流れていく。みなさんは個々の生命の有限性と生命の永続性の問題をどのように考えますか。ちなみに、ルクレーティウスは、個々の原子の多様性(原子はみな同じではない)を想定することにより、生物の固有性の問題を考えようとしました。 
 
テオプラストス『人さまざま』

 

リストテレスの弟子にして同時代人、テオフラストスによる愛すべき小品。
個人的には今までずっと「テオフラストス」と呼んでいたのだが、訳者による表記は一貫して「テオプラストス」となっていた。ちなみに綴りはラテン文字表記にすると「Theophrastos」。まさか別人とも思えないので、わたしなんぞがわざわざしたり顔で「テオプラストス」と呼ぶ必要もないだろう。「ソクラテス」にするか「ソークラテース」にするか、「ルキアノス」にするか「ルーキアーノス」にするかというのと、同じような問題だと思う。「テオフラストス」のほうが、英語やフランス語から借用した現代的な読みであることはまちがいないにしても。
じつは先に知ったのはラ・ブリュイエールの『カラクテール』のほうだったのだが、あれはこの一冊からアイディアを得たものだったようだ。いや、アイディアを得たどころではなく、ラ・ブリュイエールはギリシア語からフランス語にこのテオプラストスの作品を翻訳しており、そこに付け加えるかたちで、自作の17世紀版「当世風俗誌」を発表していたのである。『人さまざま』という見慣れた邦題のせいか、ちっとも気がつかなかった。直訳すれば「性格論」とでもなるこの本の仏訳題は「Les Caractères」、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』とまったく同じなのである。
「粗野とは、無作法きわまる無知と見られるだろう。そこで、粗野な人とは、およそつぎのようなものである。
すなわち、田舎の混合酒をくらって、民会へ出かけてゆく。
そして、香油の香りも、にんにくにゃあ及ばねえ、と公言する。
そして、足にはぶかぶかの靴をおはきだ。
そして、大きな声でおしゃべりをする」(第4章「粗野」より)
「裁判の陪審員となれば、その評決をさまたげ、一緒に劇を観れば、その見物を、宴席を共にすれば、その食事を、それぞれ妨げるのだが、そのさい彼の言うことはこうだ。おしゃべりに沈黙せよというのは無理というものです、とか、この舌は、動きがなめらかでしてね、とか、たとい燕よりおしゃべりだと思われましょうとも、黙っているわけにはゆきませんよ、とか」(第7章「おしゃべり」より)
ここで語られているのは、紀元前4世紀頃の悪徳の数々である。目次を列挙するだけで、どんなに愉快な書物かがはっきりとわかるだろう。すなわち、「空とぼけ」「へつらい」「無駄口」「粗野」「お愛想」「無頼」「おしゃべり」「噂好き」「恥知らず」「けち」「いやがらせ」「頓馬」「お節介」「上の空」「へそまがり」「迷信」「不平」「疑い深さ」「不潔」「無作法」「虚栄」「しみったれ」「ほら吹き」「横柄」「臆病」「独裁好み」「年寄の冷水」「悪態」「悪人びいき」「貪欲」。訳語の選択も、もう絶妙の一言に尽きる。ほとんどが現代にも当てはまることも、見逃してはならないだろう。
「また、子供たちの養育係相手に弓や槍の勝負をいどむと、相手がさながらその心得をもっていないかのように、きまってこの自分から学ぶことをすすめる。
さらにまた、風呂場でレスリングをやると、相当の心得があると見られたいばかりに、なんども腰をひねる技をやってみせる。
また、女たちが近づけばいつでも、小声でハミングしながら自分で自分の伴奏をつけ、踊りの練習をやってみせる」(第27章「年寄の冷水」より)
テオフラストスによるそれぞれの定義もおもしろい。たまに絶妙で、たいてい中途半端なのだ。ときには語の定義を大きく逸脱しているものもあり、笑いが絶えない。たとえば、「無頼」について。
「また、食事をしている最中に、わしは薬草のエレボロスを服用し、嘔吐と通じで体を掃除してもらったことがありますが、わしの排せつ物の中の胆汁は、ここにあるスープよりも黒い色でしたぜ、などと、その様子をくわしく話す」(第20章「無作法」より)
それは最低です。さらには、「いやがらせ」。
「さて、いやがらせを定義するのは、むずかしいことではない。すなわち、いやがらせとは、露骨で、無作法きわまる悪ふざけである。そこで、いやがらせをする人とは、およそつぎのようなものである。
すなわち、淑女に出逢うと、自分の外衣をまくしあげて、隠しどころを見せびらかす」(第11章「いやがらせ」より)
それは変態です。
ほとんど類語ともとれるような、似たような語がたくさん並んでいることにも注意したい。訳者がそれぞれの区別に苦心しているのもなんだか笑える。たとえば、「無作法」の以下の一節。
「いま眠りについたばかりの人のところへ、その人と無駄話をしたいばかりに這入っていって、呼びさます」(第20章「無作法」より)
これに付された訳注がすばらしい。
「同じようなへまは、たとえば「いやがらせをする人」も「頓馬な人」もやるが、前者は「わるふざけ」の気持から、後者は「一種の善意」からやることが多い。これに対して「無作法な人」は、まったくの無知にもとづく」(第20章「無作法」の訳注より)
同じような例は「けち」と「しみったれ」と「貪欲」の定義にも見られる。まじめな顔して「しみったれ」とか言うなよ。
「この章の「けち」と第22章の「しみったれ」、および第30章の「貪欲」とは、相互に重なる共通点があり、明確な区別は困難である。「しみったれ」と「けち」とはほとんど重なるが、テオプラストスの例からすると、強いて言えば、「しみったれ」の方は、いくぶん公的な事柄にかかわることが多く、出費の額が大きいときの「けち」とも見られる。しかし両者とも、「人をだます」ようなことはしない。これに対し、「けち」と「貪欲」の相異はむしろ明白で、「けち」は出費を惜しむが、「貪欲」は、収入を、恥ずべき仕方で、それも人をだますぐらいは平気で、あるが上にも増やそうとする悪徳」(第10章「けち」の訳注より)
この真剣さがたまらない。
ところでテオフラストスといえば、個人的にはすぐに、ある一冊の本を連想する。ジャリの『超男性』だ。あの小説の後半部の筋書きを思い出そう。そう、われらが「超男性」は、ほかでもないこのテオフラストスの記述に基づき、一日に可能な性交回数の記録を更新しようとするのではなかったか。超男性とその友人たちは、ギリシャ神話や『コーラン』、『千一夜物語』の例を挙げた末に、テオフラストスが伝えたとされるインド人の記録、すなわち七十回が歴史上の最高記録であると認定するのである。
ところが、である。残念ながら『人さまざま』のなかには、このような記録を語った文章はどこにも見出せなかった。テオフラストスの作品でほかに残存しているものは『植物誌』くらいなので(まさか!)、多くの断片か、ディオゲネス・ラエルティオスやアテナイオスといったほかの作家たちによる伝承に拠るのかもしれない。訳者による「解説」には、こんな一文があった。
「その断片(114)に、「愛は無為閑居の魂の病」というのがある。二百を超える膨大なる著作を書いた人にふさわしい言葉であり、またその言葉を証明するかのように、生涯妻帯せず、浮世の煩事に乱されることをさけた。かつて彼は、レスボス島とテネドス島の人たちが行う「美人コンテスト」にふれて、「生まれつきの偶然にのみ依存する美しさなどは、名誉に値するものではない。思慮分別が加わってこそ、美は善きものとなる。さもなくば、放埒へ導く危険物だ」、と語ったと伝えられるが(アテナイオス「食通たち」、第13章、610a-b)、その生涯の独身も、人柄の冷たさというよりは、人間の美しさの本質をよく理解した人の、賢明な拒絶ではなかったか」(「解説」より)
アリストテレスの弟子でもあるという点から、テオフラストスがエピクロス的な快楽主義を唱えるはずもない。上掲の引用文は、その証明ともとれるものだ。では、あの記録はいったいどこから? ジャリの創作、というのがいちばん説得力のある答えかもしれないが、断片や他作家の著作をあたって、しつこく探してみたいと思う。
古代ギリシアの風俗を知るのにうってつけの一冊であると同時に、古代ギリシアも現代も、人はそんなに変わっていないということが確認できる小品だった。 
 
プラトン「饗宴」 「ゴルギアス」「クリトン」「ソクラテスの弁明」

 

プラトン「饗宴」
「列席の諸君のうちには誰もたくさん葡萄酒を飲みたいという人が無いらしいから、酩酊について僕が真実ありのままをいっても大して不快を感じさせるようなことも恐らくあるまい。というのは、僕思うに、これだけのことは医術の上から僕に明らかになっている、酩酊が人間に有害なことは」
しかも、まだある。これだけでもかなり驚くべきことだというのに、なんとこの厳密さは、コロン(:)とセミコロン(;)にまで適用されているのだ。縦書きの日本語の文章に、これらの記号は存在しない。そこで訳者はこれを表現するために「黒い句点」と「白い読点」という、新たなふたつの記号まで作りあげているのだ。そこまでするか、と驚くばかりの、原文絶対主義である。残念ながらこれらをここで表現することはできないので、引用文中にそれらの記号があった場合には、本来の姿(「:」「;」)で記した。かなり面白い試みであることは間違いないので、興味がある方にはぜひ、じっさいにこの版を手に取ってみてもらいたい。
なんだか、なにひとつ褒めるようなことを書いていない気がするのだが、もうひとつ。この本には、本編よりも先に、訳者による40ページもの「序説」が付いている。その内容が、なんとこれから読もうとしている作品の要約も含んでいるのだ。正直、先に置く理由がまったくわからない。本編を読み終えてから開いたほうが断然いいだろう。ちなみに、その「序説」はこんな文章からはじまる。
「一般にギリシャ人の天才の著しい特色は、それがきわめて多方面だということである。この点においては世界史上彼らに比肩し得るものが無い。特に芸術の領域において彼らは最も驚嘆すべきものを遺したが、なかんずくその文学的作品は永久に燦然たる光を放っている」(「序説」)
現代の学問の分類がアリストテレスに依っていることは周知のことだが、アリストテレス以前の学問はいちいち分類などされていなかった。専門に特化していくばかりの現代の学問領域の狭さは、見直されるべきだろう。たとえば歴史学の教授が、専門とする範囲の時代・国の、当時主流となっていた哲学を知らない、といったとんでもないことさえ、日常茶飯事となっているように思える。
その文脈から考えると、この訳者の姿勢はすばらしいものだ。膨大な訳注を見ると、それがよくわかる。この人はただ古代ギリシア語から翻訳するというだけではなく、ドイツ語、フランス語、そして英語のありとあらゆる訳書・研究書を読み漁ることで、これらの訳注を用意しているのである。英語のできないフランス文学者や、フランス語のできない英文学者がいくらでもいるような現代にあっては、驚くばかりだ。訳者の面目躍如のためにも、これを無視することなどできない。ただ、それらの訳注も、自分のような一般読者にとっては不要なものがほとんどなのだけれど。
さて、ようやく『饗宴』である。これは過去に繰り広げられた饗宴(シュンポシオン)を、後年になってアポロドロスが友人に伝える、という構成を採っている。しかも語り手であるアポロドロスもその場に居合わせたわけではなく、アリストデモスから話を聞いたということになっているので、プラトンがいつになく話に客観性を持たせようとしているのがわかる。というのも、この作品は全体を三部に大別することが可能で、その三つ目がソクラテス礼讃に当てられているのだ。先回りして書いてしまうと、そこでは『プロタゴラス』などにも登場していたアルキビアデスが、自身の恋人たるソクラテスを褒めちぎっている。正直ちょっとしらける部分もあるのだが、ソクラテスの酒の強さや戦場での果敢さなど、本人の口に任せていては到底出てきそうもないことが話題となっていて、面白い。
「あなたから話を聴くとき、または第三者の口から貴方の話をきかされるとき(たといそれがどんなに拙劣な話し手でも、また聴き手が女だろうと、男だろうとまたは少年だろうと)、われわれはひとしく驚倒し、心を奪われてしまうのです」
饗宴というのは、ものすごく平たく言ってしまえば、古代ギリシア流儀の飲み会のようなもので、今回のこの饗宴は、悲劇詩人アガトンが競演(おそらくコンクールのようなもの)で勝利したことを祝って催されたものだ。アガトン、ファイドロス(パイドロス)、パゥサニヤス、エリュキシマコス、さらにはあのアリストファネスなど、参加者は大勢いて、そこにソクラテスが加わっている。そしてエリュキシマコスとファイドロスの提案によって、それぞれが順々にエロス(愛の神)を讃美しようということになるのだ。
さきほどこの作品は三部に大別できると書いたが、その内訳は「ソクラテス以外の話者による演説」と「ソクラテスの演説」、それから途中から飛び入り参加するアルキビアデスによる「ソクラテス礼讃」である。これまでわたしが読んできたプラトンのほかの対話篇とはぜんぜん趣が異なり、全体は会話の応酬として進むのではなく、ほとんどゴルギアス(弁論家)の領分と言ってもいいほどの長さで、ひとりずつが順々に演説を開陳していくのだ。「ソクラテス以外の話者による演説」は、プラトンを読んでいる気がしない。
そもそも話題をエロスと規定させたのは、「詩人のだれもこの神を讃える頌歌をつくっていない」というファイドロスの意見であった。そこでファイドロスから席の順番どおりに、エロス(愛)讃美が行われていく。その内容は玉石混淆で、興味深いことばかり語る話者もいれば、ほんとうにただ褒めてるだけ、という人もいる。
「今かりに何等かの方途によってただ愛者とその愛する少年とのみから成る都市または軍隊が出現したとする、そのとき彼があらゆる陋劣から遠ざかりかつ互いに名誉を競うこと以上に自分の都市を立派に統治する途はあり得ないであろう。またもしこのような人達が相携えて戦ったとしたら、たといその数はいかに少くとも、必勝を期し得よう、――全世界を敵としても、と私はいいたい。実際愛者なる男にとっては、その持場を離れたり、または武器を投げ出したりするところを愛する少年に見られることは、疑いもなく他の何人に見られるよりも遙かに堪え難いことであろう;また彼はそれよりもむしろ幾度でも死ぬことを願うであろう。ましてや愛する少年を見捨てて逃れたり、あるいはその危地に陥るのを見てこれを救い出そうともしなかったりするほど――エロス自らの与える霊感によって勇気づけられ、その結果生来の最勇者にも比肩し得るようにならぬほど、それほどの臆病者は、一人も無いのである」
ファイドロスの次の話者、パゥサニヤスは、エロスを唯一の神として無条件に讃美するファイドロスの姿勢をよしとせず、エロスという神には二つの種類があることを告げる。これがけっこう面白い。
「万人向きのアフロディテに属するエロスは真に万人向きのものであり、偶然のまにまに発動する:しかもこの種の愛に凡俗者流は惹きつけられるのである。ところがこの種の人の愛はまず第一に、少年に対すると同様に、婦人にも向けられる、次には恋に落ちた場合に、彼らは魂より以上に肉体を愛し、最後には、でき得るかぎり愚昧なる者を愛する、それはただ目的の達成をのみ眼中に置いて、その仕方が立派かどうかを意に介しないからである。だからこそこの種の人は、何事でも、それが善であろうと、その反対であろうと無差別に、ただ偶然のまにまに行うようになるのである。それはこのエロスが、もう一人の女神よりも遙かに年少で、かつすでにその生れの上からも女性と男性とにあずかる女神から出ているからである。しかるに他のエロスは天の娘(ウラニヤ)から出た者であるが、この女神は第一には、女性にあずからず、ただ男性のみにあずかり(これすなわち少年に対する愛である)、次には年長で、放縦に流れることがない。それだからこそこのエロスに鼓舞された者は男性に向うのであるが、それは彼らが生来強き者と理性に富める者とを愛好するからである」
少年に対する愛のほうが高い位置に置かれているのは、当時の風潮。ソクラテスも美男子アルキビアデスを恋人として扱っているし、成人した男と少年が愛しあうのはかなり一般的なことだったのだろう。なかなか想像しづらいけれど。
「悪しき者とは魂よりもさらに多く肉体を愛するかの卑俗なる愛者をいう:しかもその愛するのは永続する対象ではないから、彼自らもまた永続するはずがない。なぜならばその愛した肉体が花時を過ぎるや否や、あらゆる言葉と約束とを踏みにじって彼は急いで飛び去ってしまうからである。これに反して気高き性格を愛する者は生涯を通じて変ることがない、それは永続するものと融合しているからである」
「徳のために好意を示すことはいかなる場合にも美しい。これがすなわち天上の女神に属するエロスで、また自らも天上界の者(ウラニオス)であり、かつ国家にとっても、個人にとって多大の価値を有するものなのである、このエロスは、愛する者にも愛さるる者にも、徳を進めるために真剣に自分自身を顧慮することを余儀なくするからである。しかるに他種のエロスはすべてこれとは異れる万人向きの女神(パンデモス)に属する」
つづくエリュキシマコスの演説には、こんな一節があった。
「一切の犠牲や卜占術(マンテイケー)の支配する領域に属するもののごときもまた――それはすなわち神々と人間と、相互間の交通であるが――エロスの監護と治癒以外なんらのことに関するものでもないのである。なぜといえば、一切の不敬虔が発生するを常とするのは、人が端雅なるエロスの意に従わず、またあらゆる行動において彼を尊びかつ重んずることをもせずに、生前または死後の両親に対する態度においても、神々に対する態度においても、他方のエロスを尊重する場合であるからである。それ故に卜占術に負わされた務めは両種の愛を監視しまた治癒することである。さらにまた、卜占術は神々と人間との友愛関係の創造者である、それは神法と敬虔とに関するかぎり、人間社会における愛現象に通暁するが故である」
この「卜占術(マンテイケー)」なる語に付された訳注がとても興味深い。
「ギリシャには宗教生活の全領域に対する呼称が欠けていたために、かつ卜占術が実際的には古代宗教の最重要素を形成していたために、ここでは卜占術の定義が宗教全体を代表しているのである」(「訳者注」)
卜占術が宗教全体を代表するというのは、キリスト教登場以前の時代においては、ほとんどどんな場合にも通用することだったのではないだろうか。そういえばモンテーニュも、「古代の人々は、公私において、たいていのことを手がける場合に、占いに頼っていたのであったが、それらすべてを、われわれの宗教は廃止したのである」と語っていたではないか(モンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー1』)。エピクロス哲学の徒であったルキアノスが「偽予言者アレクサンドロス」を書いた理由も、なんとなく納得できる。
エリュキシマコスのあとにくるのは、あのアリストファネスである。なにが驚きって、この喜劇作家がプラトンの作品に登場し、しかも、とても面白い話をしていることだ。アリストファネスは喜劇『雲』のなかでソクラテスを嘲笑した張本人、それによって世間に悪しきソクラテス像を提示し、ゆくゆくはこの哲学者に死刑判決を下すことになった裁判を、間接的に準備したと目されても仕方がないような人物なのである。ソクラテスの弟子であるプラトンが、その作中でこの喜劇作家を魅力的な人物として描くということは、普通だったら考えられないことだ。ところがプラトンはこのアリストファネスに、ほかのどの人物よりも面白い演説をさせているのだ。
「まず第一に諸君が知って置かねばならぬことは、人間の本性(原形)とその経歴である。実際原始時代におけるわれわれの本性は、現在と同様なものではなく、まったく違っていた。第一に、人間の性には三種あった、すなわち現在のごとくただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったのである:そうしてその名称は今なお残っているが、それ自身はすでに消滅してしまった。すなわち当時男女(おめ)といって、形態から見ても名称から見ても男女の両性を結合した一つの性があったのである。けれども今はただその名称が罵詈の言葉として残っているに過ぎん」
ここからがさらに面白い。なんだかヒエロニムス・ボスの「快楽の園」でも眺めているような気分になる。
「次に当時各人の姿は全然球状を呈して、背と脇腹とがその周囲にあった。それから四本の手とそれと同数の脚と、また円い頸の上にはまったく同じ形の顔を二つ持っていた:そうして背中合せの二つの顔にただ一つの頭顱、それに耳が四つと、隠し所が二つ、そうしてその他はすべてこれに準じて想像し得る通りである。人は現在のように直立して、しかも欲するがままに前後いずれの方向へでも歩いた。が、それのみならず一たび急いで駆けようとする場合、ちょうど飜筋斗(とんぼがえり)する者が両脚を逆立てながら輪を描いて行くように、彼らはその当時具えていた八つの手足に支えられて輪を描きながら迅速に転って前進したものである」
やがてこの原初的人間は神によって切り裂かれ、男と女というふたつの性に明確に分けられるようになる。そしてもともとの属性に応じて、男を求める男もあれば女を求める女もあり、男を求める女もあれば女を求める男もあるというふうになるのだ。こういう楽しい話をアリストファネスに語らせるあたり、プラトンは底が知れない。
最後の話者はアガトンである。この五人目の話者によって「ソクラテス以外の話者による演説」は終了する。
「この神は巧妙なる詩人である:他をもまた詩人にするほどである:まことに何人といえども、一たびエロスが触れさえすれば、「たといかつてはムーサ神に無縁であった者も」きっと詩人になるのである」
そしてとうとうソクラテスの登場である。彼もまた演説をおこなうのだが、その方式はこれまでの人びとのような文字どおりの演説ではなく、やはり対話なのだ。ソクラテスは過去に外国の女ディオティマと繰り広げた議論を引き合いに出し、彼女から教わったことをひとつひとつ展開していく。
「誰でも智慧ある者はもはや智慧を愛求することをしないでしょう。しかし、他方、無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないものです。というのは、無知がはなはだ厄介なものであるゆえんはこういう点にあるからです、すなわち自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足していること、ちょうどその事に:ですから自ら欠乏を感じていない者は、自らその欠乏を感じていないものを欲求するはずもありません」
ディオティマの言葉という体裁を採ってはいても、ソクラテスの議論がどんどん本質的なこと、つまり真理に向かっていくのは、いつものとおりだ。人はなぜ愛を求めるのか、それは不死なるものへの憧れとして語られていく。
「いったいなぜ生殖を目指すのでしょうか。それは、滅ぶべき者のあずかり得るかぎり、生殖が一種の永劫なるもの、不滅なるものだからです。ところが不死は必然に善きものと共に欲求されなければならぬ、もし私達のすでに容認して来た通り、愛の目指すところが善きものの永久の所有であるとすれば。この考察から必然に出て来る結論は、愛の目的が不死ということにもあるということであります」
「不朽の勲功と同様の赫々たる名声とのためには人はすべてどんな事でも敢行する、しかも優れた人ほどいっそうそうである、と。それは彼らが不死を愛求するからなのです」
恋の相手により美しい者を選ぼうとすることも、自分の分身たる子孫をより美しい者として残したいという欲求にほかならない。そしてその相手に求められる美しさというのは、外面的なものよりも内面的なもののほうが価値が高い。姿のうえでのみの美は、唯一無二のものではないのだから。そしてそれを悟った者は、「愛の奥義」に通ずる糸口をつかんだことになる。その「愛の奥義」とは、以下のようなものである。
「地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになること」
訳注によれば、なんとこれが俗に言う「イデア論」だというのだ。もちろん「美における」という括弧付きのものではあるけれど。なんだ、簡単じゃないか! と一瞬思ってしまったものの、これが考えれば考えるほどわからなくなってくる。下手なことを書くとすぐに後悔することになりそうなので、解釈のためにはまず『国家』を読みたいと思った。『饗宴』ではほんのさわり程度しか語られていないので、わかったようなことを書くべきではないだろう。より深い理解への糸口は、きっとあの本のなかにある。
先述したとおり、このあとアルキビアデスが乱入してきて、話題は「ソクラテス礼讃」へと移る。 
プラトン「ゴルギアス」
『クリトン』を挙げながら、対話篇という形式は、相手が違う意見を持っているからこそ生きる、と書いた。『ゴルギアス』はその証明とも言える作品で、ソクラテスはまるで意見の異なる三人の相手と議論を交わすことになる。すなわち、弁論家であるゴルギアス、その弟子ポロス、そして新鋭政治家のカリクレスである。話はまず、カリクレスのもとに滞在している著名な弁論家ゴルギアスを、ソクラテスとその友人カイレポンが訪ねるところからはじまる。
「カリクレス:それは、本人にたずねてみるのがいちばんよいでしょう、ソクラテス。じっさいまた、この人にとっては、あなたが望んでいるそのようなことも、やはり弁論の腕前の見せどころの一つだったのですからね。
げんに、いましがたも、このなかに集まった人たちに、だれでもよい、好きなことを質問するように、とすすめて、どんなことにでも答えてみせようと言っていたところなのですよ。
ソクラテス:それは好都合だ。カイレポン、ひとつ君から質問してみてくれないかね、ゴルギアスに。
カイレポン:何をたずねようか。
ソクラテス:彼は何者であるかと。
カイレポン:なんだって?
ソクラテス:たとえばだね、彼が、かりに履物をつくるのを仕事としているとしたら、きっと、自分は靴作りであると、こう君に答えてくれるだろう。ぼくの言う意味が、わからないかね?」
カイレポンの質問は、居合わせた弟子ポロスによって答えられることになる。とはいえソクラテスは、ポロスは質問に答えていないといい、カイレポン対ポロスの対話はすぐさま終わる。
「ソクラテス:質問をうけたことがらに対して、ぜんぜん答えていないように思えるのですが。
ゴルギアス:それなら、もしよければ、君からポロスに質問してみたらどうだね?
ソクラテス:いいえ。もしあなたさえ、自分で答えてやろうという気がおありならば……。とにかく、わたしとしては、あなたに直接質問させてもらうほうが、ずっとありがたいのです。というのは、ポロスが練習をつんでいるのは、いまの話しぶりを聞いただけでも明らかなように、問答をとりかわして議論することよりも、いわゆる弁論術とやらのほうらしいですからね。
ポロス:いったい、どうして、ソクラテス?
ソクラテス:ほかでもない、ポロス、君はね、ゴルギアスはどんな技術を心得た人かというのがカイレポンの質問だったのに、まるで人からその技術にけちでもつけられたかのように、ゴルギアスの技術をほめたたえるばかりで、肝心の「その技術とは何か」という問いに対しては、いっこうに答えなかったからだよ」
こうして、ソクラテスとゴルギアスとの対話がはじまる。カイレポンは以降、ほとんどまったく登場しなくなる。『プロタゴラス』を読んだときにも思ったことだが、プラトンはソクラテス以外の登場人物たちに対して、けっこう冷たい。『プロタゴラス』では、青年ヒポクラテスの希望が前提にあって対話がはじまったのに、終わるころには彼は姿を消してしまっていた。もう少しからめてくれれば、物語性も増すと思うのだが。
「ソクラテス:ところで、どうでしょう、ゴルギアス? あなたは、ちょうどいまわたしたちがやっているような一問一答の形で、このまま話し合いをつづけてゆくことに同意してくださるでしょうか。そして、ポロスがやりかけたような、例の長い演説のほうは、また別の機会にのばすことにも? どうかあいなるべくは、あなたが、約束していることを裏切ることなく、問われたことがらに手短かに答えるというやり方をつづけていく気になっていただきたいものです」
「ソクラテス:わたしと同じ仲間の人間とは、どのような人間のことを言うか。それは、自分の言っていることに誤りがあればよろこんで反駁をうけるとともに、他人が間違ったことを言えばよろこんで反駁するような人間、しかし、どちらかといえば他人を反駁するよりも自分が反駁されるほうを歓迎するような人間です。つまり、わたしの考えでは、反駁するよりも反駁されるほうが、最も重大な害悪から他人を救いだしてやるよりも自分が救いだされるほうがいっそう善いのとちょうど同じ程度に、より善いことなのですから。重大な害悪と言うわけは、およそ人間にとって、いまわたしたちが論じているような問題について誤った考えをもつことほど重大な害悪はない、と思うからにほかなりません」
ソクラテスはプロタゴラスに対して採ったのとほとんど同じ方式で、ゴルギアスに「手短かに答える」ことを求める。じっさい、弁論家として登場するゴルギアスは、ソフィストとして登場したプロタゴラスに酷似している。「弁論術」と「徳」という、教えていることの違いはあれど、ソクラテスの質問の仕方もあのときとほとんど同じで、一般的なことからどんどん、本質的なことへと向かっていく。行きつく先は当然、弁論術とはそもそもなんなのか、という質問だ。
「ゴルギアス:わたしの言うのは、言論の力で人を説得する能力のこと、すなわち、法廷では裁判官を説得し、政務審議会や国民議会ではそれぞれの議員たちを説得し、また、その他のおよそ国民的集会のあるところ、あらゆるばあいに、言論を駆使して説得することのできる能力のことだ」
「ゴルギアス:よろしい。わたしの言うのは、こういう説得のことなのだ、ソクラテス。すなわち、それは裁判の法廷その他、大勢の人間が集まるばあいに効果を発揮するような説得であって、この点はついさきほどもわたしが言っていたところだ。そしてその説得は、正しいことがらや不正なことがらに関してなされるものである」
しかし、説得には二種類のものがある、とソクラテスは言う。それは、知識を与えるという意味での説得と、ただ信じこませるだけの説得である。
「ソクラテス:してみると、弁論術とは説得をつくりだす術だと言っても、その説得なるものは、どうやら、人にそれと信じこませるだけのことなのであって、正と不正の何たるかを知識として教えるような説得ではないわけですね?」
「ソクラテス:そうすると、弁論家が医者よりも説得力があると言うばあい、それは、そのことがらを知らない人が知っている人よりも知らない人々のなかで説得力をもつということになりますね?」
こうして弁論術の大家たるゴルギアスは沈黙してしまう。ソクラテスにかかれば、徳にせよ弁論術にせよ、結局は正と不正のなんたるかを教えられるか否かということに問題が還元されるのだ。
「ソクラテス:いったい、弁論家というものは、正と不正、美と醜、善と悪といった問題についても、やはり健康その他いろいろの技術の対象となることがらを扱うばあいと、同じ態度でいてよいのでしょうか。つまり、何が善であり何が悪であるか、何が美であり何が醜であるか、何が正しく何が不正であるかといったことがらそのものに対する知識なしに、ただ、そうした問題についての説得法だけを工夫して、それによって無知な人々のあいだで、じつは自分はその知識をもっていないのに、識者よりももっと知識があるように見せかけるというわけなのでしょうか。それとも、このばあいにはそうした知識が不可欠であって、将来弁論術を学ぼうとする者は、かならずあらかじめそれを知ったうえであなたの門をたたくのでなければならないのでしょうか。そうでないばあいには、弁論術の先生としてのあなたは、入門者に対してそうした知識はなにひとつ授けはしないけれども――それはあなたの仕事ではないわけですから――、ただ大勢の人間のなかで、そういったことがらを知らないのに知っていると思われるようにしてやり、じっさいはすぐれた人間ではないのにすぐれていると思われるようにしてやるのでしょうか? あるいは、そういった問題に関して真実をまえもって知っていてもらわなければ、入門者に弁論術を教えることはぜんぜん不可能なのでしょうか?」
だがここで、面白いことが起こる。最初に登場したポロスが、ソクラテスの質問の仕方はおかしいと言って、みずから対話の相手となることを名乗り出るのだ。こうして対話相手はゴルギアスからポロスへと変わる。
「ポロス:なんたることを、ソクラテス! いったいあなたは、弁論術について、ほんとうに、いまあなたが言っているような考えをもっているのですかね? それとも、あなたのつもりでは……。いや、そもそもゴルギアスが、弁論術をおさめた人間が正や美や善のことも知らないなどとは、ちょっと気がひけて認めるのをためらい、この人のところへ来る弟子にその知識がなければ自分が教えるだろうと同意したのを幸いに、そして、おそらくこの同意のために、あとに話に矛盾した点が出てきたのを幸いに……、そこがまさに、あなたの思うつぼなのだ。自分でわざとそういう質問のほうへ人を誘導しておきながらね」
ソクラテスは当然歓迎し、今度はポロスのほうがソクラテスに同じ質問をぶつける。それでは、あなたの考えでは、弁論術とはどんな技術なのか、と。それに対するソクラテスの答えは、いかなる技術でもなく、たんなる経験にすぎない、というものだった。そしてそれは、医術に対する料理法の関係に似ている、と言う。
「ソクラテス:ぼくはこの料理法のようなのを技術としては認めずに、たんなる経験にしかすぎないと主張する。なぜなら、それは、自分がほどこすものがどのような本質的性格をもつかについて、なにひとつ理論的説明を与えることができず、したがって、それぞれのばあいになぜそうなるかという原因を言うことができないからだ。ぼくとしては、いかなるものにせよ、理論的説明のないようなものに対して技術の名を与えるわけにはゆかない。こうした点についてもし君に異議があるならば、いくらでもぼくはそのための説明を与えよう」
ソクラテスによると、技術にはそれぞれ魂と身体を対象とした二種類の真正の技術がある。魂に対する「政治術」、身体に対する「身体の世話をする術」が、それにあたる。それぞれにはさらに二つの部門があり、「政治術」には「立法術」と「司法術」が、「身体の世話をする術」には「体育術」と「医術」がある。そして、この四つの真正の技術には、それぞれに対応した、たんなる経験にすぎない偽技術(おべっか)があり、それは「立法術」に対する「ソフィストの術」、「司法術」に対する「弁論術」、「体育術」に対する「化粧法」、そして「医術」に対する「料理法」だと言うのだ。
ここから、議論はさらに発展する。ポロスは、すぐれた弁論家は自分の意のままに政治をおこなうことができる実力者だというのに、彼らがおべっか使いとして見下げられているとでも言うのか、と、かつてない喧嘩腰でソクラテスに食ってかかるのだ。
「ソクラテス:もしだれかが何かのために何かをするとすれば、その人は直接自分がしていることを望んでいるのではなく、そのためにそれをしている、もう一つさきのことを望んでいるのではないか」
「ポロス:すると、だれかが自分の思いどおりに人を死刑にしてその行為が正しいとしたばあい、あなたはそういう人を惨めで憐れむべき人間だと思うのかね?
ソクラテス:いな。そうかといって、羨むべき者だとも思わない。
ポロス:たったいま、惨めだと言ったではないか。
ソクラテス:いかにもそう言ったよ、君、人を不正に死刑にする者のことをね。そういう者はさらにまた、憐れむべき人間でもあるのだ。これに対して、死刑にすることが正しいばあいには、そういう人を羨ましくはないと言っているのだ。
ポロス:不正に死刑にされて死んでいく者こそ、憐れで惨めだろうに!
ソクラテス:死刑にしたほうの者よりはましだよ、ポロス。また、正しく死刑にされた者よりも惨めさは少ない」
こうして、不正を受ける者と不正をする者の、どちらがより惨めなのかという、『ソクラテスの弁明』や『クリトン』にも見られたテーマが浮かびあがってくる。
「ソクラテス:おめでたき友よ、君が一所懸命になっているのは弁論術流の反駁の仕方なのだ。ちょうど、裁判の法廷などで相手を反駁していると信じている人たちがするようなね。というのは、法廷でもやはり、一方の組が相手側を反駁すると思われるのはどういうばあいかというと、自分たちが述べることがらの証人になってくれる有名人はたくさんいるが、これに対する相手側の証人は一人もしくは皆無といったようなばあいなのだから」
「ソクラテス:しかしながら、ぼくは、たとえこちらはぼく一人であろうとも、君に同意はしない。なぜなら、君は、ぼくが同意せざるをえないようなことは何も言っていないのだから。君がしていることはと言えば、ただ、偽りの証言をする人たちをわんさとぼくに差し向け、それによってこのぼくを、ぼくの大切な財産である「真実」から追放しようとつとめることなのだ」(245〜246ページ)
そして、ポロスもとうとうやりこめられてしまう。
「ソクラテス:人は弁論術を使って、まずだれよりも自分自身を告発しなければならぬし、さらには、身内の者たちでも、それ以外の親しい者たちでも、もし不正をおこなう者があれば、そのつどこれを告発して、その罪を包みかくさずに明るみに出さなければならない。罰を受けて健全になるために」
ここで、第三の対話相手、カリクレスが壇上に現れる。『ゴルギアス』が面白いのはここからだ、と言っても言い過ぎではない。ポロスの反駁が止んだ時点で終了してしまっていたら、これが特別な作品となることもなかっただろう。
「カリクレス:わたしをして言わしむれば、ポロスのやり方で感心しないのは、不正を受けるよりも不正を加えるほうが醜いということをあなたに容認したこと、まさにこの点である。なぜなら、この点に同意を与えたばっかりに、こんどは、彼自身が議論のなかであなたのために金縛りにされたあげく、すっかり口を封じられてしまったのだが、それというのも、彼が心に思っているとおりのことをそのまま口に出して言うのを恥じたからにほかならない。
まったく、あなたという人は、ソクラテス、真実を追究すると称しながら、そういうところへ話をもっていって、月並みな考えで俗耳につけ入ろうとする人なのだ。あなたの議論で言われていたことがらは、自然(ピュシス)本来の根拠にもとづいて立派なことなのではなくて、ただ法律習慣のうえで美風とされているだけなのだから」
「カリクレス:そもそも法の制定者というのは、思うに、世の大多数を占めるそういう力の弱い人間どもなのだ。だから、彼らが法を制定して、これは賞讃すべきこと、これは非難すべきことなどときめて、賞めたり咎めたりしているのは、要するに、自分たちの身の上を心配し、自分たちの利益をはかろうという目的からにほかならない。つまり、彼らは、人間たちのなかでも力のすぐれた人たち、自分の権利の優位を主張するだけの能力をもった人たちをおどかして、自分たちの持ち分がそういう人たちに侵されないように、欲ばるのは醜いことだ、不正なことだと言いたて、不正とはまさにそのように他人よりも多くを持とうと求めることにほかならぬと説く。思うに、自分たち自身は劣等な連中なのだから、平等の分け前さえあれば、それでじゅうぶん満足できるからだろう」
カリクレスの過激な思想は、19世紀になってニーチェに感銘を与え、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』を書かせたものである。彼は法律習慣・道徳観念を、弱者が保身のためにこしらえたものであるとして、徹底的に排斥していく。ソクラテスの姿勢そのものも、かつてない攻撃にさらされる。
「カリクレス:あなたもいいかげんにもう哲学から足を洗って、もっと人間の重大事に向かうならば、この真相がわかるようになるだろう。というわけは、哲学というものは、たしかに、ソクラテス、若い年ごろにほどよく触れておくだけなら、けっして悪いものではない。しかし必要以上にそれに打ち込んで時間をつぶすならば、人間をだめにしてしまうものだ」
「カリクレス:親愛なるソクラテス、どうかわたしの言うことに気を悪くしないでいただきたい、こんなことを言おうとするのも、あなたに好意をもっていればこそなのだから――あなたは、そんな状態でいることを恥ずかしいとは思わないのだろうか。
このわたしの見るところでは、そのような状態にあるのはあなただけでなく、一般に哲学にたえずますます深入りしていく連中はみんな同様なのだが。じっさい、かりにいまだれかが、あなたなり、あるいは、ほかのそういった連中のだれでもよいからその一人を、何の罪もないのに、悪いことをしたと言って逮捕し牢屋にひっぱって行ったとしても、さぞかしあなたは、なすすべもなく茫然とし、言うべき言葉もわからぬままに、ただ大口をあけていることしかできないだろう。そして法廷へ出頭したならば、あなたを告発する者がどんなにつまらない、やくざな人間だったとしても、もしその男が死刑を求刑する気になれば、あなたは死刑にされてしまうことだろう。
とはいえ、そんなことで、いったい、どうして知恵の名に値すると言えようか、ソクラテス? 「天稟すぐれた人間をひきとり、つまらぬ男にしてしまう術」がどうして「知」なのか。われとわが身をまもることもできず、最大の危険から自分をも何人をも救いだすこともできずに、敵どもから全財産を残らず巻きあげられるにまかせ、あげくのはてには、一国において文字どおりいっさいの権利を奪われた生活をおくるような、そんな人間にしてしまう技術がどうして「知恵」と言えようか」
カリクレスは辛辣である。ソクラテスがこれほどまでに力強い反論を受けるのは、なかなか見られないことだ。驚いたことに、このカリクレスは実在した人物ではなく、プラトンによる創作である、という見方が強いそうだ。捏造の論敵にこれほどの理論を開陳させ、しかもそれがニーチェまで生んでいるというのだから、先日も挙げたホワイトヘッドの言葉「ヨーロッパの哲学の伝統は、プラトンに対する一連の注釈から成り立っている」は、あくまで正しかったことになるのではないだろうか。
「カリクレス:人は、正しい生き方をするためには、自分自身の欲望を抑制するようなことはしないで、これを最大限にゆるしてやり、そして、勇気と思慮をもってその最大限にのばしたもろもろの欲望にじゅうぶん奉仕し、欲望の求めるものがあれば何でも、そのときそのときに、これを充足させてやるだけの力をもたなければならぬ。しかしながら、けだしこのようなことは、とても世の大衆のなしうるところではない。そこで、彼ら大衆は、それにひけ目を感じるがゆえに、こうした能力ある人たちに非難の矢を向けるのであるが、これも、つまりは、おのれの無能力をおおい隠そうという魂胆にほかならぬ。そして口を開けば、放埒は醜いことだと主張して、さきの話のなかでわたしが言ったように、生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを抑えつけ奴隷化しようとするわけだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから、しきりと「節制」や「正義」を賞めたたえるけれども、それは要するに、自分たち自身に意気地がないからなのだ」
ソクラテスは、今度はカリクレスを相手に対話を繰り広げていくが、カリクレスはこれまでの二人とは違って、なかなかすんなりとは同意してくれない。
「カリクレス:この人ときたら、いつまでたっても、つまらぬたわごとをやめるときはないのだろう! あなたにうかがいたいが、ソクラテス、そんないい年をしていながら言葉尻をつかまえることばかりに汲々としていて、あなたはいったい恥ずかしくないのかね? 人がちょっと表現の仕方を間違えれば、それをもっけの幸いと喜ぶようなまねをしていて!」
「カリクレス:ほんとうを言うと、ソクラテス、わたしはね、だいぶまえからあなたの言うことにうんうんとうなずきながら、じっと聞いていたけれども、しきりとこんなふうに思われてならなかったよ。さぞやこれでは、だれかがたとえ冗談半分にでも何かあなたの言うことを認めてやれば、あなたはきっと子供のように大喜びでそれにしがみつくだろう、とね」
ポロスも同じようなことを言っていたが、ソクラテスによる一問一答形式の対話の進め方がご都合主義的なものだということを、これほどまでに繰り返した論敵もそうそういないであろう。ところで、こんな質問があった。
「ソクラテス:では、さらに、かの荘重にしてすばらしい詩形式、悲劇の創作が熱心に心がけるものは何であろうか。それが真剣になってつとめているのは、君の見るところでは、どちらだと思うかね? 観客を喜ばせるということだけだろうか。それとも、観客にとって快いこと、気に入られることであっても、それが有害であるばあいにはそのようなことがらはけっして作品のなかで語るまいとつとめ、逆に、快くはないが有益であるようなことがあれば、観客が喜ぼうと喜ぶまいと、そういうことがらをこそ台詞のなかにも合唱隊の歌のなかにも織りこむようにしようとつとめるのであろうか。君には、悲劇の創作が心がまえとしてもっているところは、このどちらだと思えるかね?」
カリクレスの答えは「観客を喜ばせる」ということだった。残念ながらこの点にはまったく同意できないし、ソクラテスですら、さも自分もそれと同意見であるかのようにさっさと議論を進めてしまうのだが、ほんとうのところはどうなのか、立ち止まって考えてみてもいい問題だろう。古代と現代の考えかたの違いは大いにあるとはいえ、詩作や劇作を単なるおべっかとして見てしまうのはもったいないと思う。
「カリクレス:わたしには、あなたの言うことなど、まったくどうでもかまわぬのだ。これまでのことも、ただゴルギアスのために答えたまでなのだから」
「カリクレス:人をやりこめたくてたまらないのだね、ソクラテス」
カリクレスの意思は鋼のように固く、ソクラテスがどんなことを言っても、彼から真の意味での同意を得ることはできない。とうとうカリクレスは対話の相手となることを拒否してしまい、以後はソクラテスがひとりで、カリクレスならこう答えるという前提のもとに、議論を進めていこうとする。が、ソクラテスがいちいち同意を求めるものだから、カリクレスも結局は口出しをすることになる。
「ソクラテス:いや、君、よく考えてみたまえ、気高いとか、すぐれているとかいうことは、安全に救うとか、救われるとか、そんなこととは別のことがらではないだろうか。どれだけの期間生きながらえるかというようなことをくよくよ考えて、いたずらに生命を惜しんだりするのは、いやしくも真の男子たる者のなすべきところではないだろうからね。いや、そうした点については、いっさいを神にまかせ、女たちの言うとおり、何人も定められた死の運命をまぬがれることはできぬと信じて、考えるべきはそのつぎに来る問題、すなわち、いかにすればその定められた生の期間をできるだけ善く生きることができるかという問題なのだ」
直接プロタゴラスの名が挙がることはないが、ソフィストたちの矛盾も指摘される。それもやはり、不正を受けることと不正を働くこととの関係から逸脱したものではない。
「ソクラテス:ソフィストたちもやはり、ほかのいろいろのことにかけてはよく知恵のまわる人たちだが、この点については、どうも彼らのすることはおかしいと言わねばならぬ。なぜなら、彼らは、みずから徳の教師であると公言しているくせに、しばしば自分の弟子たちを非難して、弟子たちが彼らから恩恵を受けたにもかかわらず謝礼金を拒んだり、そのほかの礼をはらわなかったりして、自分たちに対して不正を働くといって詰ることがよくあるからだ。
しかし何が馬鹿げていると言って、いったい、こんな理屈にあわぬ話がほかにあるだろうか? 弟子たちが、先生によって自分のなかから不正を取り除いてもらい、正義の徳を身につけたうえで、すぐれた正しい人間になったというのに、彼らがもはやもっているはずのないその悪徳によって、こともあろうに不正を働くとは!」
「ソクラテス:人に善くしてやるのにもいろいろ種類があるけれども、そのなかでただ一つ、いま言ったようなことがらに関して善くしてやるばあいだけは、善くしてもらったほうの者の心にその恩を返したいという気持を起こさせるはずのものだから、そういう種類の恩恵を与えることによって人に善くしてやり、そのあとで相手から恩返しとして善いことをしてもらうとすれば、それは、自分の仕事がうまくいった証拠であると思われるし、もし恩返しを受けることがなければ、その逆ということになるわけなのだ」
ソクラテスは、自身の未来に対する予言ともとれるようなことも言っている。
「ソクラテス:しかしぼくは、これだけはよくわかっているのだ。もし、いつの日か、ぼくが法廷へ引き出されて、君の言うような危難にあうとしたら、そのばあい、ぼくをそこへ引っぱり出す者はきっと邪悪な人間にちがいあるまいと。なぜなら、罪をおかしてもいないのに法廷へ引っぱり出されるようなことは、善い人間ならばだれもしないだろうからね」
そしてとうとう、ソクラテスがカリクレスのような論理を排して、「善く生きる」ことに執着している理由が明かされる。これもまた、『ゴルギアス』の大きな魅力のひとつだ。『プロタゴラス』や『クリトン』などでは、「アポリア(行きづまり)」や相手からの同意によって終わっていた議論が、ここではソクラテスの死生観にまで広げられているのだ。
「ソクラテス:では、聞くがよい、世にもすばらしき物語を……と、ぼくは語部をまねて、この話をはじめよう。これを君は、きっと作り話(ミュートス)だと考えるだろうと思われるが、しかしぼく自身は、ほんとうの話(ロゴス)だと考えているのだよ。と言うのは、ぼくは、これからはじめようとしている話の内容を真実のことと見なして、君に話すつもりなのだからね」
その物語というのは、こうだ。人はその死後、アジアに生まれた者ならラダマンテュスに、ヨーロッパに生まれた者ならアイアコスによって裁かれる。死者たちは三叉路にて判定をくだされ、幸福者たちの住む島か、冥府タルタロスへと送られることになる。その際、ゼウスの決めた裁判のやりかたに基づき、死者たちはまったくの裸、魂のみの状態でその場に臨まなければならない。
「ソクラテス:死とは、ぼくの考えるところによれば、魂と肉体という二つのものがたがいに分離しあうということなのであって、それ以外のなにものでもない。そこで、この二つのものがたがいに分離したのちには、両者のどちらも、その人間が生きていたときにもっていたのとほとんど変わらぬ自己の状態を、それぞれそのまま保持しているわけだ」
「ソクラテス:かくして、死者たちが裁判官のところまでやって来ると、すなわち、アシアから来た死者たちならばラダマンテュスのところまでやって来ると、ラダマンテュスは彼らに停止を命じて、一人一人の魂をつぶさに観察するのであるが、そのさい、自分の見ている魂が何者の魂であるかは彼の知るところではない。いや、しばしば、ペルシア大王であろうと、その他どのような王や権力者であろうと、それとわからずにつかまえてみると、その魂にはなにひとつ健全なところがなく、誓いを破ったり不正をおかしたりしたために、さんざん鞭打たれて瘢痕だらけであるのを、まざまざと見てとるのである。これこそは、生前における彼の行為の一つ一つが魂のなかに消しがたく刻印したところのものなのだ」
さらにソクラテスによれば、タルタロスにおいても、現世と同じように、刑罰には二通りの種類がある。つまり、罰を与えることで当人を改善するためのもの、それから、改善の余地がないと判断され、さまざまな責め苦にあっているのを他者に見せることで、それを見る人々に心を改めさせるためのもの。そして後者、すなわち冥府における「見せしめ」の対象となるのは、権力者たちなのだ。
「ソクラテス:じっさいまた、ぼくは思うのだが、そういった見せしめとされる者たちのうち、そのほとんどは、前身が独裁者とか、王とか、権力者とか、国事を動かした指導者といった人たちなのだ。ほかでもない、これらの人たちは、自分が何でも自由勝手にできる身分にあるために、そのおかすところの罪過も他のだれよりも大きな、不敬虔きわまるものとなりがちだからである」
権力を持たない者には、それを持つ者ほどの罪を犯すことができない。権力を欲するカリクレスに、はたしてこの言葉は響いたのだろうか。ここまでくると、もう語るのはソクラテスばかりで、他の人々はだれもが黙ってしまっているのだ。
「ソクラテス:かのラダマンテュスが右のような人間をだれかつかまえたとき、その人間に関するほかのことがらは、それが何者であるかということも、どんな家柄の出であるかということも、いっさいラダマンテュスの知るところではない。ただ、邪悪な人間であるという事実だけがはっきりと彼にわかるのである。この点を見とどけたならば、ラダマンテュスは、治癒の見込みがあるかないかの裁定を示す標識をつけたうえで、この人間をタルタロスへ送る。そして、その人は、そこへ行きついたのち、そのような人間にふさわしい仕置きを受けるのである。しかし、ときにはまた、別の魂をしらべてみて、それが神の意にしたがい真実を守りながら一生を送った魂であることを見てとることもある。それは、ふつう一般の人の魂であるばあいもあるし、他のだれかの魂であるばあいもあるが、しかしぼくは、ここでつよく主張したいのだ、カリクレスよ。それは、とりわけ他の何者にもまして、知を愛し求めてきた哲学者の魂、その生涯においてみずからの本分を守り、よけいなことには手出しをしなかった哲学者の魂であることを。このような魂を見ると、ラダマンテュスは、心をよろこばせて、これを幸福者たちの島へ送ってやる」
「ソクラテス:だからぼくは、世の多くの人々の評価を気にかけるのはやめて、ただ真実を身につけることを習いながら、生きているあいだも、死ぬ時が来たら死んでゆくときも、ぼくの力のおよぶかぎり、ほんとうの意味ですぐれた善き人間であるようにつとめたいと思っている。そして、ぼくにできる範囲内で、他のすべての人々にも、そうするように勧めるつもりだが、とくに君に対しては、さきの君の勧めへのお返しの意味をこめて、この生き方をともにし、この競争に参加するように勧めたい。この競争こそは、ぼくをして言わしむれば、この地上でおこなわれるありとあらゆる競争の全部にも匹敵するだけの価値があるものなのだ。また、ぼくは、さきの君の非難へのお返しとして、ここで君を非難したい。ぼくがさっき話したような裁判と判決に君がのぞむとき、君は「自分自身を守る」ことができないだろうと。いや、君が裁判官のもとへ、あのアイギナの子(アイアコス)のもとへ行ったとき、彼が君をつかまえて引き立てようとするにおよんで、かの世における君は、この世におけるぼくにすこしも劣らず、「ただ大口をあけて、なすすべもなく茫然としている」ことだろうと」
最後にはご丁寧に、ソクラテス自身による議論のまとめが用意されている。
「ソクラテス:人は、自分が不正を受けることを警戒するよりも不正をはたらくことのほうを警戒して避けなければならぬ。人間がなににもまして心がけねばならぬのは、公私いずれにおいても、すぐれた人間だと思われることではなく、じっさいにすぐれた人間であるということだ。しかし、もし人がなんらかの点で悪しき人間となったならば、かならず懲らしめを受けなければならぬ。そして、そのことこそは、正しい人間であることについで第二番目に善きことなのである。すなわち、懲らしめられて罰を受け正しい人間となることが。また、あらゆるおべっかは、それを向ける相手が自分自身であれ他人であれ、少数の人間であれ大勢の人間であれ、すべてこれを避けなければならぬ。そして、弁論術もこのように、つねに正しいことに役だてるためにこそ用いなければならぬ。他のすべての行為と同じように」
まるきり要約のようなものになってしまった。正直、プラトンは感想を書きにくい。わかりやすい言葉で議論をどんどん進めるものだから、感想を差し挟む間もなく、議論の変遷ばかりが積み上がってしまうのだ。
だが、繰り返しになるが、ソクラテスの死生観が語られたという点で、この『ゴルギアス』はとても興味深い作品になっている。というのも、死生観ほど、哲学を根本的に支える要素となったり、それを揺るがす要素となるような、強大な力を持ったものもないからだ。『ソクラテスの弁明』では「死後の世界はわからない」と言っていたのと同じ人物が、ここでは、みずからの信じる死後の世界を語っている。輪廻をはじめとして、死後の世界がどうなっているのかという想像には、じつにたくさんの種類があるものと考えられるが、その一つ一つが、それぞれ違った哲学を生んでいるのかもしれない、と思った。ニーチェが放った「神は死んだ」という言葉は、彼自身の哲学のために、死生観の転換が迫られた結果なのではないだろうか、とも。死んだらどうなるか、という考えかたは、ただ宗教的なものとして扱うわけにはいかない、哲学におけるもっとも重要な要素のひとつなのかもしれない。 
プラトン「クリトン」
「クリトン:ソクラテス、いまからでもまだ間にあうのだが、君はぼくの言を容れて、自分を救うことをやってみないかね? ぼくにとって君に死なれることは、一つの災難にとどまらないのだ。ぼくがけっして二度と見つけられない、そういう知人を失うというだけではない。そういうことをおいても、なおまた、君のこともぼくのこともよくは知らない大多数の人たちに、ぼくは、金銭をつかう気になりさえすれば君を救うことができたのに、君のことをかまわないでしまったように思われるだろう。しかし友人よりも金銭を大事にしたと思われるなんて、これより不面目な思われようが何かあるだろうか。というのは、大多数の人たちは、われわれが熱心に望んだにもかかわらず君のほうが自発的にここから出てゆくことを欲しなかったのだと言っても、そんなことは信じないだろうからね」
対話篇という形式は、相手が違う意見を持っているからこそ生きるものなのだ、ということがよくわかった。というのも、このクリトンはそもそもソクラテスの信奉者の一人として登場してきているので、議論はほとんどソクラテスがクリトンの同意を得ることのみによって進み、まるで広がりを持たないのだ。ほとんどソクラテスの独白といってもよく、語られていることも『ソクラテスの弁明』においてすでに表明されていたことが多い。
「ソクラテス:大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ」
「ソクラテス:たとい不正な目にあっても、世の多数の者が考えるように、不正の仕返しをするということは、とにかく、どんなにしても不正をおこなってはならないのだとすると、そういうこともゆるされないことになる」
だが、プラトンはこの独白状況を放置したりはしない。ソクラテスはアテネの国法を擬人化し、今度はそれを相手に対話を進めていくのだ。国法が姿を現したら、きっとこう言うだろう、という前提のもとに、クリトンの薦める脱獄がどれほど避けるべきものであるかを説いていく。『プロタゴラス』のときにも思ったことだが、プラトンが描くソクラテスの論法は面白い。一見当たり前と思えることにしつこいほど同意を求め、しかも最後にいくつかの同意のあいだの矛盾を指摘したり、抽象的なものが擬人化されたりするので、読んでいて飽きない。
「いいかね、よく考えてごらん。もしおまえがこれを踏みにじって、その何かの点で誤りをおかしているならば、それは、おまえ自身に対しても、おまえの知人たちに対しても、なんの善い所業となるのか、ということをね。というのは、おまえの知人たち自身も、追放になって自分の国を奪われたり、財産を失ったりするような、危険な目にあうことは、ほとんど明らかだからだ。また、おまえ自身、まずいちばん近くにある国のどこかへ、というと、テバイでもメガラでも、どちらも善い法律や風習をもっているから、あそこへ行くとしても、ソクラテス、おまえはその国制の敵として迎えられることになるだろう。そして、自分たちの国のことを心配している人たちは、おまえを国法の破壊者と考えて、おまえに疑いの目を向けるだろう。そしておまえは、おまえの裁判をした人たちの考えに裏づけを与えることになり、あの判決を下したのは正当だったと思われるようにすることになるだろう。なぜなら、いやしくも国法を破壊するような者なら、若い者や考えのない者を破滅に導くにきまっていると、たぶん考えられるだろうからね。それではどうするかね? 善い法律や風習をもっている国とか、人々のうちでもとくに律儀な人たちなどには、避けて近づかないことにするかね? そしてそういうことをするとき、おまえには、人生がはたして生き甲斐のあるものとなるだろうか。それとも、どうかね? おまえはその人たちに近づいて、恥ずかしげもなく問答を交わすつもりなのかね? いったい何を論じてだ、ソクラテス? いや、それは言うまでもなく、ここで論じていたと同じこと、人間にとって最大の価値をもつものは徳であり、なかでも正義であり、合法性であり、国法であるというようなことをかね? そしてソクラテスという者の、その所業が、ぶざまなものに見えてくるだろうとは思わないのかね? とにかく、そう見えてくると、わたしたちは思わずにはいられないのだ」
最後に、さりげなくとても面白い一節があったので、引用しておく。
「ソクラテス:ここのところで、クリトン、ひとつ気をつけてもらいたいのは、これらのことに同意を与えていくうちに心にもない同意をすることのないように、ということだ。なぜなら、ぼくはよく知っているのだが、こういうことはただ少数の人が考えることなのであって、将来においてもそれは少数意見にとどまるだろう。だから、ちゃんとこう考えている人と、そうでない人とでは、いっしょに共通の考えを決めるということはできないのだ。おたがいに、相手の考える案を見て、軽蔑しあうにきまっているのだ。だから君も、よくよく考えてみてくれたまえ。君はぼくと共同してくれるか、どうか。ぼくと同じ考えをもてるか、どうか」
少数者、周辺的存在であるということは、サイードの知識人の定義を思い出させる。『夜の果てへの旅』のなかでのセリーヌの言葉を、予言しているかのようだ。「たとえ奴らが七億九千五百万人で、僕のほうは一人ぼっちでも、間違っているのは奴らの方さ」。権力に抗し、周縁から行われる批判のみが常に正しい。それは古代ギリシャも現代も、なんら変わることのない真理なのかもしれない。 
プラトン「ソクラテスの弁明」
この『ソクラテスの弁明』はプラトンの作品のなかで、対話篇のかたちを採っていない唯一のものだ(『書簡集』は除く)。ソクラテスは「青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンのたぐいを祭るがゆえに」告発され、死刑を要求されている。そして彼は、どうして自分がこんな的はずれな罪状をつきつけられることとなったのか、自分がどんなことをしてきたのかを、裁判官たちの前で語りはじめるのだ。
ソクラテスを動かす最初のきっかけとなったのは、先日『プロタゴラス』を紹介したときにも書いた、デルポイの神託だ。ソクラテスの友人カイレポンがわざわざデルポイまで赴き、「ソクラテスよりも知恵のある者がいるか?」という質問を投げる。巫女の答えは「だれもいない」というもので、自分に知恵はないと考えていたソクラテスは、この神託に困惑した。そして自分よりも知恵のある者を探し求めて、プロタゴラスをはじめとするソフィストのような連中を相手に、論戦を繰り広げることとなったのである。
「この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男も、わたしも、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があることになるらしい。つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです」
「そこでわたしは、神託にかわって、わたし自身に問いなおしてみたのです。わたしにとってはどちらが我慢のできることなのか、いまわたしは彼らのもっている知恵はすこしももっていないし、また、彼らの無知もそのままわたし自身の無知とはなっていないが、これはこのままのほうがいいのか、それとも、彼らの知恵と無知とを二つとも所有するほうがいいのか、どっちだろう? というのです。これに対してわたしは、わたし自身と神託とに、このままでいるほうがわたしのためにいいのだ、という答えをしたのです」
知者を名乗る連中を相手に、彼らの無知を悟らせるための論戦をつづけていれば、当然ながらたくさんの敵が生まれることとなる。ソクラテスを告発した首謀者たちは、「メレトスは作家を代表し、アニュトスは手工者と政治家のために、リュコンは弁論家の立場から」、ソクラテスを憎んでいたのだった。
「しかしじっさいは、諸君よ、おそらく、神だけがほんとうの知者なのかもしれないのです。そして、人間の知恵というようなものは、なにかもう、まるで価値のないものだと、神はこの神託のなかで言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソクラテスのことを言っているように見えますが、わたしの名前はつけたしに用いているだけのようです。つまり、わたしを一例にとって、人間たちよ、おまえたちのうちでいちばん知恵のある者というのは、だれであれ、ソクラテスのように、自分は知恵に対してはじっさい何の値打ちもないのだということを知った者がそれなのだと、言おうとしているもののようなのです」
ソクラテスは死刑についても、この「知らないことは知らない」という姿勢を貫き通す。『プロタゴラス』の詩歌に関する議論を読んだときにも思ったことだが、一貫性というのは知者の絶対条件で、ソクラテスの大きな魅力のひとつだ。
「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っている者はだれもいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、いっさいの善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです。そしてこれこそ、どう見ても、知らないのに知っていると思っているというので、いまさんざんに悪く言われた無知というものにほかならないのではないでしょうか」
論戦をやめることを約束して極刑を免れる、という考えに対しても、ソクラテスの意見は微動だにしない。
「わたしは、アテナイ人諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし君たちに服するよりは、むしろ神に服するだろう。すなわち、わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、けっして知を愛し求めることはやめないだろう。わたしは、いつだれに会っても、諸君に勧告し、言明することをやめないだろう」
プラトンを読んでいると、その現代性にいちいち驚いてしまう。まったく古びていないのだ。現代人に必要なことは、もうすべてプラトンが書いているのではないか、と思われるほどに。2500年前に書かれたなんて、到底信じられない。
「世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」
「わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、つぎのことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでも、魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭をつんでも、そこから、すぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけなのです」
これらの箇所を読んで、ケストナーの『飛ぶ教室』を読み返したくなった。すなわち、「金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら相手にしない」。まさかプラトンを読んでいてケストナーを思い出すとは思わなかった。
ソクラテスによる演説は、彼が思っていた以上の効果をあげたものの、結局は僅差で有罪が確定してしまう。ギリシャの裁判は面白い。投票によって有罪と決定されたあとに、刑量が裁定されるのだ。そして原告による提議(この場合は死刑)に対し、被告が別の刑量を申し出て、裁判官たちはそのどちらかに罪を決める。死刑は極刑にすぎる感があったので、被告(ソクラテス)がここで「拘留」や「罰金」、または「国外追放」を求めていたら、有罪判決とはいえソクラテスが命を絶たれることはけっしてなかったと推測される。だが、彼が求めたのは「市の迎賓館における食事」という、裁判官たちを挑発するようなものだった。
「それはしかし、善いものなのか、悪いものなのか、わたしは知らないと言っているものなのです。それなのに、そういうもののかわりに、それが悪であることをよく知っているものの何かを、わたしはとらなければならないのでしょうか。そういうものを、わたしの科料として申し出なければならないでしょうか」
「危険それぞれに応じて、あえて何でもおこない、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はたくさんあるのです。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう。諸君、死を免れるということではないでしょう。むしろ、下劣を免れるほうが、ずっとむずかしい。なぜなら、そのほうが死よりも足が早いからです」
下劣な目にあっても、下劣な方法をもってそれを逃れることはしない。ソクラテスの一貫性は、宗教的な陶酔さえ生むものだろう。500年ほど後のルキアノスの時代(紀元後2世紀)に、犬儒派や新プラトン学派が宗教的なものとなってしまったのも、無理のないことのように思われる。
「人間にとっては、徳その他のことについて毎日談論するという、このことが、まさに最大の善きことなのであって、わたしがそれらについて問答しながら自分と他人を吟味しているのを諸君は聞かれているわけであるが、これに反して、吟味のない生活というものは人間の生きる生活ではないと言っても、わたしがこう言うのを諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは、まさにわたしの言うとおりなのです、諸君。ただ、それを信じさせることが容易でないのです」
この『ソクラテスの弁明』は対話篇として書かれていない分、ソクラテスの思想が直接に伝わってきて、しかもその主題もより一般的だ。『プロタゴラス』のときのようなややこしい議論も、「アポリア(行きづまり)」もない。プラトンもよくここまで、身近な人の死の判決を、悲しみに陥ることなく書けたなあ、と思う。
「しかし、もう終りにしましょう、時刻ですからね。もう行かなければならないのです。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、だれにもはっきりはわからないのです。神でなければ」
ホワイトヘッドという哲学者の言葉に、「ヨーロッパの哲学の伝統は、プラトンに対する一連の注釈から成り立っている」という有名なものがある。 
プラトン『プロタゴラス あるソフィストとの対話』
『プロタゴラス』は、まだ三十台半ばで血気盛んなソクラテスが、プロタゴラスという老ソフィストに議論をふっかける、というものだ。友人に会ったソクラテスが、その直前に繰り広げられたプロタゴラスとの議論の内容を語る、という体裁を採っていて、話はさながら物語のように繰り広げられる。不思議な作品である。ソクラテスの代名詞のようになっている、老人の姿はここにはない。あるのは、ときには謙虚に、ときには生意気であることを自覚しながら、老ソフィストたるプロタゴラスに立ち向かっていく、若者の姿なのである。
話題の中心となるのは「徳(アレテー)とは人に教えられるものなのか」ということ、そこから遡って、そもそも「徳」とはなにか、という点にまで掘り下げられる。プロタゴラスが自分でも名乗っている肩書き「ソフィスト」とは、人にそれを教えることで生計を立てている者たちなのだ。「徳」については、あらかじめ「訳者まえがき」で簡潔に説明されている。
「徳(アレテー)とは、たんに現代の日本語でイメージされがちな道徳的高尚さ(人徳)を意味するだけではない。それは元来、ものが持つ固有の優れた性質を意味し、たとえば馬なら速く走る能力、ナイフならするどい切れ味というふうに、人間以外のものもそれぞれの徳を持っている。人間の徳も、たんに道徳的な性格だけでなく、勇敢さや優れた知力など、さまざまな能力を含み込むものであった」(「訳者まえがき」より。なお「徳」の語が単独で使われている場合には必ず「アレテー」とルビが振られていたが、最初の一回を除いて省略した)
先回りしてしまうと、『プロタゴラス』はすっきりしない作品だ。どうしてこうもすっきりしないのかは、この、話題の中心となっている概念それ自体が、日本語に単純に置き換えることのできないものだからなのかもしれない。わざわざ訳者が「まえがき」を用意して、これを伝えようとしているのには、大きな意味があるのだ。
「ソクラテス、いまのきみは、わがままな子どものようだ。だって、すべての人々が各自の力の及ぶ範囲で徳(アレテー)の先生であるというのに、自分には誰もそんなふうにはみえないと言い張るのだからね。しかしそれは、〔われわれの母語である〕ギリシャ語の先生は誰なのかと探しても、ひとりも見つからないのと同じことなのだ。わたしが思うに、職人の息子たちに専門技術を教えるのは誰なのかと探す場合でも、同じことがいえる。もちろん、そうした技術は自分の父親から学ぶものだね。しかしそれは、父親や父親の友人の同業者たちの力の及ぶ範囲での話だよ。さらにそれ以上のことを、職人の息子たちに教えてくれるのは誰なのかと探しても、ソクラテス、彼らの先生を見つけるのは容易ではないとわたしは思うのだよ。(もちろん、素人が相手なら、先生は容易に見つかるだろうがね。)徳(アレテー)であろうが他の何であろうが、これが実情だ。だから、人を徳(アレテー)へと導くことにおいて、われわれより少しでも優れている人がいるなら、それで満足すべきなのだよ」
「徳」を教えることを生業としているプロタゴラスに対して、ソクラテスは、それは教えられる類のものではない、と言う。そして、「徳」とはそもそもなんなのか、という問題に際して、その骨子として「知恵」「節度」「勇気」「正義」「敬虔」が挙げられる。プロタゴラスは「これら五つのものはすべて徳の部分ではあるが、それぞれに独自のものが対応していて、互いに連関性はない」と主張し、対するソクラテスは「それぞれが互いに密接な関係を持っていて、徳とはつまるところ一つのものである」と思っている。やがて議論が進み、最終的にはソクラテスが「徳とは知識のことである」という結論を、プロタゴラスにも(しぶしぶ)納得させることになるのだが、ここでおかしなことが起こってしまう。つまり、ソクラテスの主張のとおり、「徳=知識」となるならば、「徳」は教えることができるものとなってしまうのだ。ソクラテスは「おかしな答えになってしまったから、議論をもう一度初めからやりなおそう」と持ちかけ、プロタゴラスはそれを拒否する。こうして対話は終わってしまうのである。
人文書を読んでいると「アポリア」という単語を頻繁に目にする。「行きづまり」を意味するこの言葉は、どうやらプラトン作品の顕著な特徴らしく、本作品もその好例とされているそうだ。日本人が書いた人文書を読んでいて「アポリア」という言葉を目にすると、わざわざわかりにくい横文字を使うな、と思ってしまうのだが、ソクラテスが議論を「アポリア」に持ち込もうとする姿勢は面白い。『ソクラテスの弁明』で語られていた、彼が対話を試みることになったきっかけを読むと、ソクラテスがなんのために議論を行き詰まらせるのか、その一端を伺うことができる。
「あるときソクラテスの友人がデルフォイ神殿を訪れ、「ソクラテスよりも知恵のある者がいるか?」という伺いをたてました。巫女の答えは、「誰もいない」というものでした。自分には知恵がないと思っていたソクラテスは、この神託に困惑します。そこで彼は、自分より知恵のある人を探しました。しかし彼は、賢者と評判の人たちも、善美をめぐる大切な事柄については明確な知恵を持っていないことを発見します。しかも、彼らは、じっさいには知恵がないにもかかわらず、自分には知恵があると思い込んでいたのです。ソクラテスは、神託の真意を悟ります。ソクラテスが持っている知恵とは、知恵がないことの自覚だったのです。ソクラテスは考えました。人間はこの自覚にもとづいて、高慢な思い込みから逃れ、謙虚に本当の知恵を探し求めなければならないのだと」(「解説」より)
つまり、ソクラテスが議論をする目的には、論敵に自身の無知を悟らせるということも含まれているのだ。それはプラトンがこれらの対話を伝えた理由でもある。読者は「行きづまり」とそれに至った過程を突きつけられることで、自分で答えを探す必要に迫られる。過程はそのまま、援用されるべきその方法論として提示されているのだろう。
「プラトンにとって、哲学とは、紙の上に書かれた既成の理論や学説のことではなく、問題を批判的に考察して真理を探究していく知的営みそのものでした。ものを考えるということは、自分自身を相手に行なう対話なのであり、自分自身を批判的な吟味にかける営みなのです。哲学の書物は、読者のこうした批判的思考をうながすものでなければなりません。ですから、プラトンの作品では、正解が解説されるのではなく、正解を求めて試行錯誤する思考の過程が描かれることになります。ソクラテスが対話相手と繰り広げる議論を追いながら、読者もその探究に巻き込まれ、みずからの批判的思考を鍛え上げていく――プラトンの対話篇は、そのように読むべきものだと思います」(「解説」より)
現代の日本では、なんでもかんでも即効性とわかりやすい答えが求められるけれど、思索とはそういうものではないのだ。哲学書というのはこんなふうに、読者の思索を促すものであるべきなのだろう。文学についても同じことで、「あらすじ」を読んで小説がわかるのだったら、小説を読む理由などどこにもない。「あらすじ」以上のことが書かれていない小説は、小説とは呼ぶことができないとさえ思う。
ある詩歌について論じるように言われたソクラテスの答えは痛快である。彼はその詩の解釈を、プロタゴラスが沈黙するまで開陳してから、こう告げる。
「じっさいわたしには、詩歌について議論するというのは、低俗で卑しい人たちの催す酒宴にとてもよく似ているように思えるのです。そういう人たちは、教養がないものですから、酒盛りをするときに、自分の声と自分の言葉を使って、自分たちだけの交わりを楽しむことができません。そこで彼らは、笛吹き女に高い料金を支払い、笛の音という第三者の声のためにたくさんのお金を費やすのです。そして、その声を使って互いの交わりをするわけです。しかし、立派なよい人たちで、十分な教養を持つ人たちが酒宴を催す場合、そこには笛吹き女も、舞い女も、琴弾き女も見出すことはできません。彼らは、そんなくだらない子どもじみたものなどなくても、自分たちの声を使って、十分に自分たちだけの交わりを楽しむことができるのであり、たとえたくさんの酒を飲んでいても、秩序正しく順番に話をしたり、聞いたりするのです」
詩は文学である。文学に解釈を与えようとする試みには、断固として反対しなければならない。それは「あらすじ」を読み、それで小説を読んだことにしようとするのと同じことなのだ。文学は特定の解釈しかできないものではない。いつも好んで引用するアルベルト・マングェルの言葉をまたしても引くと、「キプリングの『少年キム』のあとに読む『ドン・キホーテ』と『ハックルベリー・フィン』のあとに読む『ドン・キホーテ』は別の本」なのだ。読者の気分や年齢などに応じて変わっていくものだから、文学は面白いのだ。画一的な答えなどどこにもない。詩に解釈を与えようとすることは、その広大な価値を無理に矮小化することにほかならない。
「だいいち、わたしたちは、詩人たちが述べていることについて、彼らに質問することができません。たくさんの人が話のなかで詩人を引用すれば、ある人たちは詩人の考えはこうだと主張し、またある人たちはいやこうだと主張して、決着をつけようのない事柄を論じるはめにおちいるでしょう。優れた人たちであれば、そんな会合にはさよならをします。そして、自分たちだけで、自分たちのものだけを使って互いに交わり、自分たちの言葉だけで互いにやり取りして、お互いを試すのです」
ソクラテスの姿勢は一貫している。正直、詩の解釈を長々と開陳しはじめたときには、彼が壮大な矛盾に陥っているとさえ考えてしまった。たとえば、『プロタゴラス』という本はこれこれこういうことを論じた本である、などと解釈を与えてしまっていたら、ソクラテスもプラトンも、いったいなにをやっていたのか、ということになってしまっただろう。彼は詩歌の解釈ということには、断固反対しなければならなかったのだ。解釈が終わって、ソクラテスが上述の言葉を吐いたときには、すっきりした。
それからもうひとつ、面白いと思ったこと。
「それでは、どんな人が悪い医者になるのだろうか? まず、医者でなければならないのは当然だが、それに加えて、よい医者でなければならない。なぜなら、そのような医者であれば、悪い医者にもなれるだろうから。これに対して、われわれのような医術の素人がしくじりをしても、われわれは決して医者になることなどないし、また大工になることも、他の何になることもない。そして、しくじりをしても医者になることなどないのだから、その人が悪い医者になることもないのはあきらかだ」
この箇所を読んで、ジョルジョ・アガンベンがメルヴィルの『バートルビー』について書いた論文(「バートルビー 偶然性について」)を思い出した。つまり「潜勢力の哲学」だ。記憶違いでなければ、アガンベンはこれをアリストテレス哲学からの借用と言っていた気がするのだが、二人の師弟関係を思えば、同じことをプラトンが書いていたとしてもなんの不思議もないだろう。興味が広がる。
また、プロタゴラスが語った人間たちの起源の挿話も面白かった。プロメテウスはギリシャ神話のなかでもかなり言及頻度の高い神ではあるが、このエピソードを読んだのは初めてだった。
「エピメテウスはそれほど賢くはなかったので、知らないうちに、理性を持たない〔人間以外の〕生き物たちのために、能力を使い果たしていた。だから人間の種族が、身支度の整わないまま、彼のもとに残されることになったのである。彼はどうしてよいかわからず、途方に暮れた。途方に暮れている彼のところに、プロメテウスが分配の点検にやって来た。そして、人間以外の動物たちはあらゆる点でうまくいっているのに、人間だけは裸で、履物も寝具もなく、武装もしていないことに気づいた。だが、すでに定められた日は近づいていた。その日になれば、人間も、大地のなかから太陽の光のもとに出て行かねばならないのだ。プロメテウスは、人間が身を守るための手立てを見つけようとしたが、どうしても見つからず、困り果ててしまった。そこで彼はしかたなく、ヘパイストスとアテナのもとから、技術を使う知恵を、火といっしょに盗み出したのだ。(というのも、火がなければ、だれもこの知恵を身につけたり、使ったりすることができないからだ。)こうして、彼はそれを人間に贈ったのである」
ちなみに手もとにある高津春繁による『ギリシア・ローマ神話辞典』のプロメテウスの項では、彼とエピメテウスは別の語られ方をしている。すなわち、
「彼は神神と人間とが犠牲獣の分けまえをきめようとした時、一方は骨を脂肪で包み、一方は肉と内臓とを皮で包み、ゼウスに選ばせたところ、神はだまされて前者を選んだ。かくして人間は一番良い部分を得ることとなり、ゼウスはプロメーテウスに対して怨みを抱くにいたった。つぎにゼウスが人間に火を与えなくなり、人間が困っている時、プロメーテウスはゼウスに秘しておういきょう(巨回香)草の茎の中にヘーパイストスの鍛冶場(あるいは太陽神)の火を盗んで隠し、持ち帰って人間に与えた。そこでゼウスはパンドーラーをヘーパイストスに作らせて、送った。エピメーテウス《あとで考える男》はプロメーテウス《さきに考える男》の忠告を忘れ、彼女の美しさに引かれて、妻とし、ここに人間のあらゆる災禍が生じた」(『ギリシア・ローマ神話辞典』) 
 
ホメロス「イリアス」「オデュッセイア」

 

ホメロス「イリアス」
非常に特殊な構成をした物語だ。トロイア戦争を題材にした叙事詩ではあるのだが、『イリアス』に描かれているのは壮大なトロイア伝説の一側面に過ぎない。話が始まるのはトロイア戦争末期、開戦から10年が経ち、アルゴス勢(ギリシャ連合軍のようなもの)の王たるアガメムノンがアキレウスの怒りを買うところである。戦争の発端となった事件、トロイアの王子パリスがアガメムノンの弟であるメネラオスの許から、その妻である絶世の美女ヘレネを奪うことはエピソードの一つとして語られるのみである。それに先立つ「パリスの審判」や様々な英雄たちの所業も挿話として紹介される程度で、現代の読者は注釈に依らざるを得ないだろう。登場人物の多さや挿話の数々を思うと、『イリアス』とはトロイア伝説一般に対する予備知識を持つ読者を想定して伝えられた叙事詩なのだとしか思えない。
トロイアの王子パリスがヘレネを得ることは「パリスの審判」においてアプロディテに約束されたことだった。トロイア戦争の火蓋を切ったのは、神々だったのである。人口を減らそうというゼウスの意図があり、ヘレとアテネがアプロディテに抱く嫉妬があり、そしてアガメムノンとプリアモスの政治的な利害関係があった。トロイア戦争は人々の戦争であると同時に、神々の戦争でもある。登場人物が多いのは、当然のことだ。
まずアキレウスがいる。『イリアス』の主人公は誰かと問われたら、このアキレウスである。アキレウスはアルゴス勢の英雄であり、他にはアガメムノン、メネラオス、オデュッセウス、ネストル、ディオメデス、大アイアス、小アイアス、パトロクロス、アンティロコスなどがいる。
トロイア側の英雄としては、ヘクトルがいる。トロイア王プリアモスの息子で、パリスの兄である。他にアイネイアス、カッサンドラ、アンドロマケなどがいるが、『イリアス』はトロイア戦争の中でも、アキレウスとヘクトルという二人の英雄の戦いに焦点を当てたものと考えて良いだろう。
神々もそれぞれの軍勢に分かれている。ゼウスは中心に立って他の神々を抑える役を買ってでているが、アルゴス勢寄りの神としてはヘレやアテネ、ポセイダオンやヘパイストス、またアキレウスの母である女神テティスなどが挙げられ、反対にトロイア勢を守護するのは軍神アレスにアポロン、アルテミスにアプロディテらである。個人的にはこういった神々のやり取りが非常に面白い。ゼウスの妻である女神ヘレが、夫の監督していない時間にアルゴス勢を助けるために彼を誘惑して臥所に招く箇所なんか最高である。第五歌ではトロイア勢を守ろうと戦場に降りたアプロディテが人間のディオメデスに切りつけられ、泣く泣く天界オリュンポスに帰ったりする。ゼウスは初め神々による戦争への介入を禁じていたのだが、第二十一歌においてとうとう許可を下す。神同士の戦いは凄まじい。トロイア側についた河の神クサントスが河を氾濫させアキレウスを溺れさせようとし、それを防ぐためにヘパイストスが河が残らず蒸発するほどの火を起こすなど。アルテミスが弟であるアポロンを叱りつける箇所も面白い。
トロイア戦争からは様々な文学が派生している。『オデュッセイア』の時に挙げたものと重複するが、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらのギリシャ悲劇から現代の作家たち(例えばクリスタ・ヴォルフの『カッサンドラ』)まで、トロイア戦争に参加した英雄の一人一人が、それぞれ小説の主題となるような人生を送っている。アイスキュロスの『アガメムノン』やウェルギリウスの『アイネイアス』、後にはラシーヌの『アンドロマック』などは戦争終結後に彼らが送った人生を題材にしており、また端役でしかないような人物にも非常に細かなエピソードが用意されていて、まだまだいくらでも文学が生み出せそうだ。例えば二十一歌でアキレウスに討たれるリュカオンは開戦直後、つまり『イリアス』よりも前にアキレウスによって捕まり、アポロニオスの『アルゴナウティカ』で描かれたアルゴ船の英雄イアソンの子孫に、パトロクロスによって売られ、さらに別の人物に買われた後にそこを脱走し、『イリアス』の時代になってようやくトロイアに帰還したのをアキレウスに討たれたのである。悲惨。
以下、それぞれの巻(歌)に付された見出しと共に目次を列挙する。
<上巻>
第一歌:悪疫、アキレウスの怒り
第二歌:夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイエテイアまたは「軍船の表」
第三歌:休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎討
第四歌:誓約破棄。アガメムノンの閲兵
第五歌:ディオメデス奮戦す
第六歌:ヘクトルとアンドロマケの語らい
第七歌:ヘクトルとアイアスの一騎討。死体収容
第八歌:尻切れ合戦
第九歌:使節行。和解の歎願
第十歌:ドロンの巻
第十一歌:アガメムノン奮戦す
第十二歌:防壁をめぐる戦い
<下巻>
第十三歌:船陣脇の戦い
第十四歌:ゼウス騙し
第十五歌:船陣からの反撃
第十六歌:パトロクロスの巻
第十七歌:メネラオス奮戦す
第十八歌:武具作りの巻
第十九歌:アキレウス、怒りを収める
第二十歌:神々の戦い
第二十一歌:河畔の戦い
第二十二歌:ヘクトルの死
第二十三歌:パトロクロスの葬送競技
第二十四歌:ヘクトルの遺体引き取り
以上、列挙してみて判る通り、ずっと戦っている。戦争の描写が延々と続く箇所も少なくなく、一歩間違えば退屈極まりない描写の連続となってしまうところを、様々な挿話がギリギリのラインで防いでくれる。上下巻合わせて、一体何人の兵を看取ったことか、誰か数えた人はいないのだろうか。戦いは続き、沢山の兵が消えていく。
続くと言えば、『イリアス』が終わってもトロイア戦争は終わらない。有名な「トロイの木馬」の話など、全く出てこない。そのくせ、同じホメロスによる(と言われている)『オデュッセイア』では、オデュッセウスの英雄的な策の一つとして木馬の計はきっちり紹介されている。『イリアス』と『オデュッセイア』の二つを結ぶ、今や失われてしまったホメロスによる作品があったのかもしれない。ちなみにローマ時代にクイントゥスという人物が書いた『トロイア戦記』は、ちょうどこの二つの作品を結ぶ空白を描いたものである。
最後に『イリアス』と『オデュッセイア』の違いについて。『オデュッセイア』が一人の英雄オデュッセウスを主題に置いたものであるのに対し、『イリアス』はアキレウス一人だけに焦点を当てているわけではなく、非常に多くの人と神が関わった壮大な戦争を中心に据えたものである。個人的な感覚としては、小説として読むなら『オデュッセイア』の方が遥かに勢いがある。けれども『イリアス』は『オデュッセイア』からは到底生み出せないほどの拡がりを孕んでおり、あらゆる物語の主人公たちが一堂に会したような赴きがある。つまり、豪華。『オデュッセイア』を読み返すなら、また最初の神々の会議から読むだろうけれど、『イリアス』はパラパラと拾い読みする気がする。例えばオウィディウスやブルフィンチを読むと神々のエピソードは断片的に描かれていて、それぞれの神の行なった事柄に詳しくなれても、彼らが集まったところを見ることはできない。『イリアス』には、すぐには価値が伝わってこないほどの、大いなる価値がある気がする。何年も経ったとき「ああ、読んでおいて良かったな」と思える一冊になる。 
ホメロス「オデュッセイア」
ギリシャ神話の知識があれば良いと書いたのは、登場人物の多くが神とその子どもたちだからだ。ホメロスに登場する人間は神の子孫であることが多く、アテネ、ヘルメイアス、そしてゼウスと、登場し発言もする神が非常に多い。ギリシャ神話を学んだ上で読み返せば、更に面白いだろう。とはいえ、充実した注がその労を補ってくれてもいる。
ホメロスに代表されるギリシャ文学が後世に与えた影響は計り知れない。まず神話があり、神々に続く人間たちの物語があり、そこから題材を得たギリシャ悲劇も生まれている。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらが書いた悲劇は直接的にはラシーヌなどに受け継がれ、現代においても色褪せない。ミラン・クンデラの『無知』は『オデュッセイア』を念頭に置いた「郷愁の叙事詩」であるし、カミュの『シーシュポスの神話』、クリスタ・ヴォルフの『カッサンドラ』など、例を挙げればきりがない。ギリシャ文学とは、あらゆる文学の出発点なのだ。
レーモン・クノーは全ての小説を「イリアス型」と「オデュッセイア型」に分けた。「イリアス型」とは時代や世界、国を中心とした文学であり、また「オデュッセイア型」とはその中に生きる個人に焦点を当てたものである。ホメロスはたった一人で、文学の形態として考えられるものを書き尽くしてしまったのだ。
ギリシャ文学特有の言い回しとして、神や人の名に枕詞がかかったり(「雲を集めるゼウス」など)、朝の到来が女神の比喩で描かれたりするのが(「朝のまだきに生まれ指ばら色の女神が姿を現す」など)、慣れてくると妙に楽しくなってくる。想像を越えるほど残虐な光景も多く、巨人キュクロプスにオデュッセウスが部下を食べられる箇所(まず頭を岩に打ち付け、脳漿を飛び散らしてから手足をもいで食べる)や、敵方に協力した山羊飼いを戒める箇所(鼻と耳とを切り落とし、陰部をむしり取って生のまま犬に食わせ、さらに手足を切断する)に驚かされる。戦いの情景は『イリアス』ほど多くはないが、それでも歴史小説好きの人を多いに喜ばせられる量だ。要所に組み込まれた様々な神や人のエピソードを、断片として読んでも面白い。要するに、どんな読み方もできるのであり、どんな読者をも喜ばせる力を持っているのだ。
以下、上下巻それぞれの内容を列挙する。内容を知るのを控えたい方はご注意。
<上巻>
第一歌:神々の会議。女神アテネ、テレマコスを激励する (テレマコス、アテネ)
神々の会議によって、カリュプソの島で足留めされているオデュッセウスを帰国させることが決議される。カリュプソの許へはヘルメイアス、イタケのオデュッセウスの屋敷にはアテネが遣わされ、この決議が知らせられる。女神アテネの忠告によって、オデュッセウスの息子テレマコスは、夫の不在を理由に母ペネロペイアに言い寄る求婚者たちと対決すべく奮起する。
第二歌:イタケ人の集会、テレマコスの旅立ち (テレマコス、アテネ)
自身の決意を伝えるべく、テレマコスはイタケの島の人々を集め、求婚者たちの悪行を訴える。だが求婚者たちの圧力は強大で、アテネはオデュッセウスの親友メントルに扮してテレマコスを助け、オデュッセウスの消息を訪ねるための船を準備する。
第三歌:ピュロスにて (テレマコス、アテネ、ネストル、ペイシストラトス)
オデュッセウスの消息を訪ねる旅に出たテレマコスが、ピュロスに到着する。ピュロスの王ネストルはテレマコスを歓迎するも、オデュッセウスの消息については知らず、スパルテの王メネラオスを訪ねるよう薦める。テレマコスの旅立ちに際してネストルは馬車を用意し、息子のペイシストラトスを同行させる。
第四歌:ラケダイモンにて (テレマコス、ペイシストラトス、メネラオス、ヘレネ、プロテウス、ペネロペイア)
スパルテはラケダイモンに住むメネラオスの屋敷に着いたテレマコスとペイシストラトスは、メネラオスとその妻ヘレネに歓迎される。メネラオスはトロイエ戦争の帰途、漂流先で出会った海神プロテウスより聞いたアカイア(ギリシャ)勢の戦士たちの消息を語るが、オデュッセウスに関してはカリュプソの島で生きているということしか判らない。またその頃イタケでは、求婚者たちがテレマコス殺害を計画し、母ペネロペイアはそれを耳にしてしまう。アテネは動揺するペネロペイアを眠らせ、ゼウスの許へと急ぐ。
第五歌:カリュプソの洞窟。オデュッセウスの筏作り (ヘルメイアス、カリュプソ、オデュッセウス、ポセイダオン、レウコテエ)
アテネからテレマコスに対する策謀を耳にしたゼウスは、ヘルメイアスをカリュプソの許へ遣わし、オデュッセウスの帰国を急がせる。ヘルメイアスは仙女カリュプソを説き伏せ、オデュッセウスの帰国の準備をさせる。完成した筏でオデュッセウスは海に出るが、ポセイダオンの引き起こす波によって阻まれ、筏は粉砕される。海神レウコテエは波に呑まれる彼を助け、オデュッセウスはパイエケス人の国に漂着する。
第六歌:オデュッセウス、パイエケス人の国に着く (オデュッセウス、アテネ、ナウシカア)
漂着したオデュッセウスを最初に見つけるのが王女ナウシカアになるよう、アテネが取り計らう。ナウシカアと出会ったオデュッセウスは身に降りかかった災難を語り、王女は母を通じて自身の父、王アルキノオスに協力を求めるよう助言する。
第七歌:オデュッセウス、アルキノオスに対面す (オデュッセウス、アテネ、ナウシカア、アルキノオス、アレテ)
少女に扮したアテネの助けで、オデュッセウスはアルキノオスの屋敷に到着する。オデュッセウスはナウシカアの指示通りに王妃アレテに嘆願し、アルキノオスは彼の帰国の手助けを約束する。
第八歌:オデュッセウスとパイエケス人との交歓 (オデュッセウス、アルキノオス、デモドコス)
アルキノオスは集会を催し、オデュッセウスを国許へ送ることを決議する。宴の席で楽人デモドコスの歌うトロイエ戦争の物語を聞いたオデュッセウスは落涙し、無理に参加させられた競技会では見事な腕を示す。デモドコスが歌うとオデュッセウスは再び涙を流し、アルキノオスは名もなき放浪者に素性を訊ねる。
第九歌:アルキノオス邸でオデュッセウスの語る漂流談、キュクロプス物語 (オデュッセウス、ポリュベモス)
アルキノオスの問いに応えて、オデュッセウスは自らの名を明かし、トロイエからの帰国の途上で何が起きたかを語る。巨人キュクロプスの一人ポリュペモスによって、部下の多くを食われたオデュッセウスがポリュペモスの目を潰したこと、それに激怒したポセイダオンが彼の帰国を邪魔立てするようになったことが明かされる。
第十歌:風神アイオロス、ライストリュゴネス族、およびキルケの物語 (オデュッセウス、アイオロス、キルケ、ヘルメイアス)
キュクロプスの国から逃れたオデュッセウスたちは、次に風の神であるアイオロスの支配するアイオリエに到着する。帰国の協力を求めると、アイオロスは一つの革袋をオデュッセウスに渡す。神の起こす快い順風に送られ、故国イタケが視認できるまでになると、オデュッセウスは安堵のあまり眠りに落ちてしまう。彼が眠っている間に、アイオロスの渡した革袋の中に秘密の宝が入っていると邪推した部下たちが袋を開け、袋の中に入っていた嵐に船が流され、アイオリエまで引き戻されてしまう。オデュッセウスが再び風の神に協力を仰ぐと、彼を神に疎んじられる者とし、島から追い出してしまう。次にライストリュゴネス族の島に着くが、巨人の彼らはキュクロプスと同様に人間を食べ、部下の多くを失ったオデュッセウスは命からがら逃げ出す。女神キルケの島に着くと、部下たちは彼女によって豚に変えられる。ヘルメイアスの助けを得たオデュッセウスのみは女神の術を逃れ、キルケに危害を加えぬよう誓わせ、部下たちを元の姿に戻してもらう。食糧の豊富なこの地で彼らは一年を過ごすが、出発を決めたオデュッセウスにキルケは、まず冥府に赴き彼の地にいる予言者テイレシアスに行先を訊ねるよう薦める。
第十一歌:冥府にて (オデュッセウス、テイレシアス、アンティクレイア)
キルケの指示の通りに冥府に赴いたオデュッセウスは、予言者テイレシアスより自身の未来を告げられ、既に世を去った母アンティクレイアの亡霊が、オデュッセウス不在のイタケの有り様を語る。次に高名な女性たちに会ったことを話すと、一旦話はパイエケス人たちの国に戻るも、アルキノオス王の催促によってオデュッセウスは尚も語り続ける。彼はアガメムノン、アキレウス、アイアスらのトロイエ戦争時の旧友に会い、またタンタロス、シシュポス、ヘラクレスら著名な英雄の姿も見る。
第十二歌:セイレンの誘惑。スキュレとカリュブディス、陽の神の牛 (オデュッセウス)
冥府から戻ったオデュッセウスたちは一旦キルケの島アイアイエに戻り、女神に指示を仰ぐ。オデュッセウスはセイレンたちの歌、恐るべき怪物スキュレ、魔の淵カリュブディス、陽の神エエリオスの住む島トリナキエのことを聞き、部下を鼓舞しながら船を出発させる。部下たちは悉くオデュッセウスの言いつけに従い難を逃れていたが、とうとうトリナキエにおいて空腹から言いつけを破り、エエリオスの牛を屠ってしまう。激怒した神エエリオスはゼウスに進言し、父神の雷によってオデュッセウスは船と部下たちを失い、漂流の末にカリュプソの島に着く。以上でオデュッセウスの漂流談は終わる。
<下巻>
第十三歌:オデュッセウス、パイエケス人の国を発ち、イタケに帰還 (オデュッセウス、アテネ)
話を終えたオデュッセウスは約束通りにイタケへと送られる。オデュッセウスは眠ったままイタケへと運ばれ、贈られた財宝と共にアテネの生み出す霧に包まれる。パイエケス人たちの船は怒り狂うポセイダオンによって石に変えられてしまうが、オデュッセウスは無事にアテネから求婚者たちの陰謀、テレマコスの所在、ペネロペイアの現状を聞く。オデュッセウスはアテネの助けで財宝を隠し、人に見つからぬよう老人に姿を変えられる。
第十四歌:オデュッセウス、豚飼のエウマイオスに会う (オデュッセウス、エウマイオス)
アテネの指示に従うオデュッセウスは、自身の忠僕エウマイオスを訪ねる。オデュッセウスは年内に帰国すると告げるも、豚飼は信用しない。
第十五歌:テレマコス、エウマイオスを訪れる (オデュッセウス、エウマイオス、アテネ、テレマコス、ペイシストラトス、メネラオス、テオクリュメノス)
アテネに帰国を促され、テレマコスはイタケに向かう。その途上、亡命者のテオクリュメノスを同船させ、自身は帰国後そのままエウマイオスの許へ向かう。その頃オデュッセウスはエウマイオスの過去を聞いている。
第十六歌:テレマコス、乞食の正体を知る (オデュッセウス、テレマコス、エウマイオス)
テレマコスを迎えたオデュッセウスは屋敷の状況を聞き、テレマコスはエウマイオスに命じて自身の帰国を屋敷のペネロペイアに伝えさせる。エウマイオスが出ていき、オデュッセウスとテレマコスが二人きりになると、アテネはオデュッセウスの姿を元に戻し、親子はついに再会する。帰国の報がもたらされた屋敷では、求婚者たちが殺害の失敗に気付き慌てるも、なおも新たな策を練り始める。エウマイオスが屋敷から戻るとオデュッセウスは再び乞食の姿に変えられる。
第十七歌:テレマコスの帰館 (オデュッセウス、テレマコス、エウマイオス、ペネロペイア、アンティノオス)
テレマコスは一人屋敷へ帰り、無事な姿を母ペネロペイアに見せる。オデュッセウスは遅れて町へ入り、屋敷では物乞いをする。求婚者の一人アンティノオスは彼に足台を投げつけるが、オデュッセウスは屈辱に耐える。
第十八歌:オデュッセウス、イロスと格闘す (オデュッセウス、テレマコス、ペネロペイア)
土着の乞食イロスがオデュッセウスに喧嘩を吹きかけ、返り討ちに合う。オデュッセウスは求婚者の一人エウリュマコスとも口論になり、椅子を投げつけられるが、テレマコスが戒め、求婚者たちは屋敷を去って帰宅する。
第十九歌:オデュッセウスとペネロペイアの出会い、足洗いの場 (オデュッセウス、テレマコス、ペネロペイア、エウリュクレイア)
オデュッセウスとテレマコスは広間の武器を隠す。オデュッセウスは乞食の姿のまま妻と対面し、ペネロペイアは窮状を訴える。彼は偽りの素性を語るも、オデュッセウスが近く帰国すると予言する。彼の乳母であった老女エウリュクレイアが乞食の足を洗ってやろうとすると、彼女は足の古傷から彼がオデュッセウスその人であると気付く。オデュッセウスはその口を封じ、ペネロペイアから翌日の弓の競技のことを聞く。
第二十歌:求婚者誅殺前夜のこと (オデュッセウス、テレマコス、テオクリュメノス)
眠られぬオデュッセウスにアテネが現れ、援助を約束し、ゼウスは吉兆を示す。翌朝テレマコスは求婚者たちにきびしく対応し、テオクリュメノスは彼らの最期が近いことを予言する。
第二十一歌:弓の引き競べ (オデュッセウス、テレマコス、ペネロペイア、エウマイオス、ピロイティオス)
ペネロペイアの企画した弓の引き競べが実施される。しかし求婚者の誰も、オデュッセウスの強弓を扱うことができない。オデュッセウスはエウマイオスとピロイティオスに自分の正体を明かし、自ら弓を試みて成功する。
第二十二歌:求婚者誅殺 (オデュッセウス、テレマコス、エウマイオス)
オデュッセウスは自ら張った強弓でアンティノオスとエウリュマコスを倒す。そしてテレマコスと二人の忠僕と共に、アテネの援護を受けながら求婚者たちを悉く誅殺し、不忠の山羊飼や女中たちを処刑する。
第二十三歌:ペネロペイア、乞食の正体を知る (オデュッセウス、ペネロペイア)
ペネロペイアは乳母から客人すなわちオデュッセウスが求婚者たちを討ち取ったことを聞き、広間で夫婦は再会する。容易に夫であることを信じられないが、二人しか知らぬ寝室の秘密をオデュッセウスが語ると、納得する。オデュッセウスは漂流中の出来事を寝物語に妻に語る。
第二十四歌:再び冥府の物語。和解 (オデュッセウス、テレマコス、ラエルテス)
求婚者たちの霊は冥府にてアガメムノンらに会う。オデュッセウスは老父に再会し、求婚者たちの親族は復讐のために立ち上がるも、ゼウスとアテネの裁定によって両者は和解する。 
 
ギリシア神話

 

世界の始まり  
世界の始まりはどのようなものであったのでしょうか。古代ギリシアの詩人ヘシオドスは、『神統記』(116以下)の中で次のように語っています。
「まず初めにカオス(混沌)が生まれた。つづいて広大な胸をもつガイア(大地、女神)が、すなわち、雪を戴くオリュンポスの頂きに住まう八百万の神々の、永遠に揺ぎない御座たるガイアが生まれた。また、路広き大地の奥底には、もやの立ちこめるタルタロス(地獄、男神)が誕生した。さらに、不死なる神々の中で、もっとも美しい神エロス(愛、男神)が生まれた。この神は四肢の力を萎えさせ、すべての神々と人間の内なる理性と思慮深い心とを征服する。」
つまり、世界の初めにカオスが誕生したこと、カオスが、ガイアとタルタロスとエロスの3人の子供を生んだことが語られています。
続いて誕生した神々について、ヘシオドスは次のように述べています。
「カオスからはエレボス(暗闇、男神)とニュクス(夜、女神)が生まれ、ニュクスからはアイテル(高空、男神)とヘメラ(昼、女神)が生じた。ニュクスがエレボスと情愛の契りを交わし身重となり、アイテルとヘメラを生んだのである。」
ここで、エレボス(暗闇)とニュクス(夜)はエロスの働きによって結ばれたと考えられますが、彼らは世界で最初の結婚をしたことになります。そして自分たちと異なる性質の子供(明るい昼と、光あふれる高天)を生んだわけです。この結果、世界には夜と昼、地下の闇と天上の光の区別が明確になりました。
このように、「世界の始まり」、「混沌」、「大地」、「光」、「闇」といったキーワードを意識するとき、私たちは「旧約聖書」の冒頭の言葉を思わずにいられません。
「始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒(やみ)が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が、「光あれよ」と言われると、光が出来た。神は光を見てよしとされた。神は光と暗黒との混合を分け、神は光を昼と呼び、暗黒を夜と呼ばれた。」(関根正雄氏訳)
しかし厳密に言えば、ヘシオドスの語る神話においては、大地を生み出したのは、絶対神ではなく、カオスとされていました(そのカオスを何が生みだしたのかは不明確にされています)。またヘシオドスにおいては、次に明らかなように、大地と天は同時に生み出された(=天地創造)ものでなく、大地が母として天(ウラノス)を生み出したとされます(126以下)。
「ガイアは、まず初めに、自分と同じ大きさのウラノス(天)を生んだ。星のきらめくウラノスを生んだのは、天が大地を覆い尽くし、不死なる神々にとって、永遠に不動の御座となるよう図ったからである。」
またヘシオドスによれば、ガイアは同時に高い山々と不毛の海ポントスを生みました。こうして世界には、天、地、海が勢揃いしたことになります。(つづきは「大地と天の子」参照)
ところで、ローマの詩人オウィディウスも、ヘシオドスにならって、世界の始まりをカオス(混沌)との関連で、次のように説明しています。
「海と、大地と、万物をおおう天空が存在する以前には、自然の相貌(そうぼう)は全世界にわたって同一だった。ひとはこれを「混沌」(カオス)と呼んだが、それは、何の手も加えられず、秩序だてられてもいない集塊にすぎなかった。」(『変身物語』第1巻、中村善也訳)
オウィディウスとヘシオドスは、世界の始まりに「混沌(カオス)」を認める点で共通しますが、オウィディウスにおいては、神(deus)が混沌に秩序を与え、天と大地と海を区分したとされます。それがどのような神であったかは曖昧にされていますが(「ひときわすぐれた自然」とも表現しています)、この神が「天空から大地を、大地から海を引き離し、濃密な大気と澄んだ天空とを分けた」のです。
「こうして、神は、定められた境界ですべてのものを区分したのだが、すると、たちまち、長いあいだ暗い闇に押し包まれていた星たちが、くまなく全天に照り輝き始めた。そして、どの領域にもそれぞれの生き物が住むようにとの配慮から、星と神々が天界を領有し、海は、銀鱗(ぎんりん)輝く魚たちに居住の場を与え、陸は獣たちを、動きやまぬ大気は鳥たちを、受け入れた。」
さて、このような世界の始まりについての記述を比較するとき、先に見た『創世記』の記述は、天地の創造主に言及する点において、ヘシオドスよりも、むしろオウィディウスの表現とより多くの共通点を持っているといえます。もっとも、オウィディウスの『変身物語』においては、ユピテル(ギリシア神話のゼウスに相当)を頂点とした八百万の神々の秩序が前提となっている点で、『創世記』の世界観とは根本的に異なっています。 
大地と天の子、そしてアプロディテの誕生

 

ガイア(大地)は息子のウラノス(天)とまじわって、多くの神々を生みます(大地と天のまじわりのモチーフについては、「ヒエロス・ガモス」参照)。大洋(オケアノス)、コイオス、クレイオス、ヒュペリオン、イアペトス(プロメテウスの父)、テイア、レイア、テミス(掟)、ムネモシュネ(記憶)、ポイベ、テテュス、そして末っ子のクロノスです(これらの12神をティタン族と呼びます。)
大地はつぎに、キュクロプス(円い目)とあだ名される恐ろしい怪物の息子たち、ブロンテス、ステロペス、アルゲスを生みました。額の真ん中に円い目が一つついている巨神たちです。つづいてコットス、ブリアレオス、ギュゲスといったヘカトンケイル(百の手)を生みます。肩からは百の腕が伸び、五十の首が生えているといった不気味で恐ろしい姿の巨神たちです。
ウラノスは実の子でありながら、キュクロプスたち、ヘカトンケイルたちを最初から憎み、生まれると同時にみな大地の奥に隠してしまいました。怒ったのは母親ガイア(大地)です。金剛の大鎌を用意するとウラノスへの復讐をティタンたちに訴えました。ひとりこれに応えたのが末っ子のクロノスで、大地は彼を待ち伏せの場所に隠し、大鎌を手渡しました。そしてウラノスがガイアとの交わりを求めておおいかぶさってきたとき、息子クロノスは、すばやく父の陰部を刈り取り背後の海原に投げ付けたのです。 流れる血潮を大地が浴びて生まれたのが、復讐の女神(エリニュスたち)と巨人(ギガス)たちでした。
ウラノスの陰部はしばらく海面に漂っていましたが、やがてそのまわりに白い泡が沸き立ち、そのなかからひとりの美しい乙女が生まれました。彼女は泡(アプロス)から生まれた女神ということで、アプロディテと呼ばれるようになりました(異説あり)。ローマ神話ではウェヌスと呼ばれる愛の女神です。 
ゼウスの時代

 

ヘシオドスの「神統記」(テオゴニア)によれば、はじめにカオス(混沌)が生まれ、カオスからガイア(大地)、大地の奥底のタルタロス、エロス(愛)が誕生します。ガイアからはウラノス(天)とポントス(大洋)が生まれたとされます。
ガイアは息子ウラノスと交わって(「聖婚」)、ティタン族、ヘカトンケイル(百手巨人)、キュクロプス(一眼巨人)を産みます。ウラノスはヘカトンケイル、キュクロプスを憎み、生まれる片端からみな大地の奥(タルタロス)に隠しました。
ガイアはこれに腹を立て、子供たち(ティタン族)に復讐を行なうよう促します。母から大鎌を受け取ったクロノス(ローマ神話のサトゥルヌス)は、父ウラノスの生殖器を切り落とし、支配権を奪いました。
ところがクロノス自身、自分も息子によって将来滅ぼされる定めであると、両親(ウラノスとガイア)から聞いていました。それゆえ、妻レイアとの間に生まれた子供たち(オリュンポスの神族)、すなわちヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを次々にのみ込んでしまいました。
子を奪われて悲しむレイアは、末っ子のゼウスを出産する際、両親(ウラノスとガイア)に智恵を授けてもらいました。どうしたら(クロノスに)知られずに子供(ゼウス)を産むことができるのか、また彼女自身、自分の父親(ウラノス)の恨みと、クロノスがのみ込んだ子供たちの恨みをどうやれば晴らすことができるのか、と。
両親は彼女をクレタに送りました。そして、生まれた子(ゼウス)をガイア(大地)は腕に抱き、洞窟の中に隠しました。ガイアはさらに大きな石に産着をつけて、それをクロノスに与えたのです。クロノスは自分の子供であるとだまされて、それを手でつかみ取ると、腹の中に詰め込みました。その結果、クロノスは今までのみ込んだ子供をすべてはきだしました。ゼウスは兄弟を救出したわけです。
こうしてゼウスは兄弟の神々とともに、ティタン神に戦いを挑み、その争いはまる十年にも及びました。「辛い争いはいつ果てるとも知れず、またどちらの側にも決着はつかず、戦さの成り行きは等しく釣合のとれたままであった。」とヘシオドスは述べています。
このとき、ガイアは、タルタロスに幽閉されたものたちを味方につければ、神々は勝利を得ることができるだろうと述べ、彼女の勧めで、ゼウスとその兄弟は、タルタロスに閉じこめられたブリアレオス、コットス、ギュゲスといったヘカトンケイルたち(百手巨人)を解放し、ついに勝利を得たのです。ちなみに、ゼウスがヘカトンケイルから雷電を授かったのもこのときのことです。
上記のエピソードについて、アポロドロス(『ギリシア神話』、高津春繁訳)は次のように記述しています。
「ゼウスが成年に達するやオーケアノスの娘メーティス(=「智」)を協力者とした。彼女はクロノスに薬を呑むように与えた。薬の力で彼は先ず石を、ついで呑み込んだ子供らを吐き出した。彼らとともにゼウスはクロノスとティーターンたちと戦さを交えた。十年の戦闘の後大地(ゲー)はゼウスにタルタロスに投げ込まれた者たちを味方にしたならば勝利を得るであろうと予言した。彼は彼らの番をしているカムペーを殺してその縛を解いた。そこでキュクロープスたちはゼウスには雷光と雷霆(らいてい)を、プルートーンには帽子を、ポセイドーンには三叉(さんさ)の戟(ほこ)を与えた。神々はこれらの武具に身をよろい、ティーターン族を征服してタルタロスに幽閉し、百手巨人どもを牢番とした。しかし彼ら自身は支配権に関して籤(くじ)をひき、ゼウスは天空を、ポセイドーンは海洋を、プルートーンは冥府の支配権の割り当てを得た。」 
人間の誕生

 

ローマの詩人オウィディウスは、天地の創造について述べたあと、人間の誕生について、次のように述べています。
「しかし、今までのところ、これら(=魚、獣、鳥)よりも崇高で、いっそう高度の知的能力をもち、ほかのものを支配することのできるような生き物がいなかった。こうして、人間が誕生した。よりよき世界の創始者である。 あの造物主が、みずからの神的な種から人間を作ったのかもしれないし、あるいは、できたばかりで、上空の霊気から切り離された直後の大地が、もとは同族であった天空の胚珠(はいしゅ)を、そのまま保持していたのかもしれない。あとの場合、その大地の土くれを、イアペトスの子プロメテウスが雨水と混ぜ合わせ、万物を支配する神々の姿に似せてこねあげたことになる。 で、他の動物たちはうつむきになって、目を地面に向けているのにたいして、人間だけは頭をもたげて天を仰ぐようにさせ、まっすぐ目を上げて空を見るようにいいつけた。このようにして、先ほどまでは荒涼として形もはっきりしていなかった大地が、一変して、これまでは知られなかった人間の姿で飾られるようになったのだ。」(『変身物語』)
ギリシア・ローマ神話において、最初の女性は、「パンドラの誕生」をまたねばなりません。パンドラはプロメテウスの弟であるエピメテウスと結婚し、ピュラという名の娘を得ます。このピュラとプロメテウスの息子デウカリオンが結婚したころ、ゼウスは「大洪水」を起こしました(オウィディウスによれば、リュカオンを罰するためとされます。別の説明では、青銅の時代の人間の罪に激怒したためとされます。)。
このとき、プロメテウスはその子デウカリオンと妻ピュラにあらかじめ洪水の警告を与え、二人に箱船をつくらせました(アポロドロス参照)。二人は洪水から救われますが、ゼウス(ないしはテミスといわれる)によって、「大いなる母の骨を、背後に投げよ」と告げられます。
このなぞめいた言葉の解釈をめぐって、二人は途方に暮れます。とうとうデウカリオンはつぎのように言いました。
「わたしの知恵に誤りがなければ、『大いなる母』というのは、大地のことだ。そもそも神託というものは、神聖で、悪事を勧めるものではない。思うに、大地のふところに包まれた石が、神託のいう『骨』であろう。石を背後に投げよというのが、われわれへの命令なのだ。」(『変身物語』)
このとおり二人は石を拾って背後に投げると、デウカリオンの投げた石は男に、ピュラの投げた石は女になりました。
オウィディウスによると、「そういうわけで、われわれ人間は、石のように頑健で、労苦に耐える種族となったのであり、こうして、われわれは、みずからの出生の起源を証拠だてている。」ということです。 
人間のもつ技術(わざ)はすべてプロメテウスの贈り物

 

アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』の中に出てくる言葉です。プロメテウス(先に知る男)は天上から火を盗み、それを人間に与えたため、ゼウスに罰せられます。劇の中で、プロメテウスは、「人間どものみじめな様子」を哀れに思い、様々な技術を人間に授けたこと、彼らが「どんなに前は幼稚であったか」について、次のように述べています。
「彼ら(人間)はもともと、何かを見ても、ただいたずらに見るばかり、聞いてもさとるわけでなく、さながら夢の世界の幻のよう、命の限りを、ゆきあたりばったりに過ごしていった、また温かい煉瓦造りの家とても、材木の仕立てようとて知らずにいて、ちっぽけな蟻どものよう、地面の下の日も当らぬ洞穴の奥どに住まいしていた。
彼らにとってはあらしの冬も、花咲き匂う春の日も、また実りたわわな夏の日を見分ける定かなしるしとてもなく、ただ無考えに、なにもかもやっていたのだ、私が星辰の昇る時刻や、見分けとてもつけがたい、その没(い)る時刻を教えてやるまで。
ことにまた、気のきいた工夫の中でもいちばんの、数というもの、それも私が彼らのために見つけたものだ、またムーサの母なるまめやかな働き女、万象の記憶をとどめる文字を書きまた綴るわざも。
あるいは野生の獣を捉らえてつなぎ、くびきについて、働くようにも私が最初にしてやったのだ、人間たちの大変な骨折りを代わってやるよう。
また富貴を極める者の豪奢な荘厳にもと、馬どもを手綱にならして車につけた。白帆の翼に海上を翔(か)ける、船頭たちの乗り物を造ったのも、私にほかならない。」
すなわち、プロメテウス自身の言葉を借りて要約すれば、「人間どものもつ技術(文化)はすべてプロメテウスの贈物だと思ったがいい。」
しかし、これもプロメテウスが認めているように、「技術というのは、必然(の定め)に比すれば、はるかに力が弱いものだ。」という認識も示されます。
ゼウスによるプロメテウスに対する仕返しとしては、ヘシオドスの「パンドラの瓶(かめ)」の話(『仕事と日』参照)が有名です。
また、人間の技術の誕生と発展というモチーフに関しては、ローマの詩人、とくにルクレティウス(『事物の本性について』第五巻エピローグ)とウェルギリウス(『農耕詩』第1巻)、ホラティウスにおいて、それぞれ異なる文脈の中で重要な意義をもちます。 
4つの時代  

 

オウィディウスは、人間の時代を4つにわけて、歴史的変遷をあとづけています。黄金、銀、青銅の時代に続き、鉄の時代が訪れたとのべていますが、それは、欲望と争いに満ち満ちた時代です。ヘシオドスの『仕事と日』の五時代説話の描写と比べてみるのも一興です。
「黄金の時代が最初に生じたが、そこでは、懲罰者もいず、法律もなしに、おのずから信実と正義が守られていた。刑罰も恐怖もなかったし、銅板による公告にも威嚇的な言辞は読み取れなかった。哀願する罪人たちの群れが、裁判官の顔に恐怖をおぼえることもなく、罰し手などはいなくても、生活は無事であった。
生い育った山中で松の木が切り倒され、船につくられて、海へおろされ、異国へ旅することもまだなかった。人々はふるさとの海辺をしか知らなかったのだ。切り立った堀が都市を囲むこともまだなく、銅でつくられたまっすぐな喇叭(らっぱ)も、角のように曲がった号笛もなく、兜も、剣もなかった。兵士は不要であり、いずこの民も、安全無事に、おだやかで気楽な日々を送っていた。大地そのものも、ひとに仕える義務はなく、鍬(くわ)で汚されたり、鋤(すき)の刃で傷つけられたりすることなしに、 おのずから、必要なものすべてを与えていた。
人々はひとりでにできる食べ物に満足して、やまももや、野山のいちごや、やまぐみや、刺々(とげとげ)の潅木(かんぼく)にまつわりつくきいちごや、さらには、生いひろがった樫の木から落ちたどんぐりを集めていたのだ。
常春の季節が続くのだった。そよと吹く西風が、なまあたたかいその息吹きで、種もなしに自生した花々を愛撫していた。やがて、大地は、耕されもしないのに、穀物をさえもたらすのであった。田畑は、掘り返されないでも、豊かな穂先で白く光っていた。乳の河が流れるかとおもえば、ネクタルの流れが走り、青々としたひいらぎからは、黄金色の蜜がしたたっていた。
サトゥルヌスが奈落の底へ送られ、世界がユピテルの支配下に屈したとき、銀の時代がやってきた。これは、黄金の時代よりは劣っていたが、黄褐色の銅の時代よりは価値がまさっていた。ユピテルは、かつての春の期間を縮め、冬と夏、不順な秋と短い春という四つの季節で一年が終わるようにした。そして、そのときはじめて、大気が炎暑に焼かれて白熱し、また、風を受けて凝固した氷柱が、垂れ下がったのだ。家に住むことがおこなわれたのも、このときがはじめてだった。もっとも、家というのは、洞穴であり、密生した茂みであり、樹皮でつなぎ合わされた小枝であった。穀物の種子が長い畝に蒔かれ、若い雄牛がくびきに押さえられて呻吟したのも、これがはじめてのことだった。
このあと、三番目に、銅の時代の種族がつづいた。彼らは、気質がいっそう荒々しく、いっそうためらいもなく残忍な武器を手に取ったが、しかし、罪深いというほどではなかったのだ。
最後は、固い鉄の時代だ。いっそう質の劣ったこの時代に、たちまち、あらゆる悪行が押し寄せ、恥じらいや、真実や、信義は逃げ去った。そして、それらのかわりに、欺瞞、奸計、陰謀、暴力と、忌まわしい所有欲がやってきた。水夫は、風についてまだよくは知りもしないのに、吹く風に帆をあげた。今まで高い山にそびえていた木々が、船となって、嬉しげに未知の波を分けた。これまでは、日の光や空気のように共通の財であった土地に、用心深い測量者が、長い境界線で目印をつけた。
豊かな大地は、穀物や、当然与えるべき食糧を求められただけでなく、地中の深い内奥にまで、人間の手がのびた。大地が隠しもっていて、下界の暗がり近くにしまいこんでいた富までが、掘り出されたのだ。そして、その富が、諸悪を誘い出す源となった。今や、有害な鉄と、鉄よりも有害な金が出現していた。この両方を手だてとする戦争も発生し、血塗れの手が、鳴り響く武器をふりまわした。略奪が生活の手段となり、主人は客の、婿は舅の、安全を守らず、兄弟愛もまれなものでしかなかった。夫は妻の、妻は夫の、死を画策し、恐ろしい継母は、死を呼ぶ毒薬を調合する。息子も、早くから、父の寿命に探りをいれる。「敬虔」は、うちまかされて地にふし、最後に残った神である処女神「正義」(アストライア)も、殺戮の血に濡れたこの地上を去った。」 
この空も飛べる  

 

オウィディウスは、翼を発明したダイダロスについて、次のようなエピソードを語っています。
(略)そうするうちにも、ダイダロスは、クレタと、長い亡命生活とにいや気がさし、しきりに郷愁を誘われてはいたが、いかんせん、海に閉じこめられている。「陸と海とを封鎖することはミノスにもできようが、少なくとも空だけは開放されている。そこを通って脱出するとしよう。王には、すべてを領有できようとも、空だけはそうはいかぬ」こういうと、未知の技術に心をうちこんで、自然の法則を変えようとはかった。というのは、こういうことだ。いちばん小さいものから始めて、羽根を順次に並べてゆく。つぎつぎに長いものをつけ足してゆくと、集まった羽根は、傾斜をなして大きくなってゆくはずだ。むかしの田舎の葦笛が、大小不ぞろいな葦の茎を並べることで、しだいに長さを増していったのと、それは同じだった。つぎに、中央部を紐で、井底部を蝋で、つなぎあわせる。こうして出来あがったものを、少し湾曲させて、ほんものの鳥の翼に似せる。
少年イカロスも、父のそぱに立ち、みずからの危険のたねをいじくっているとはつゆ知らずに、嬉しそうな顔で、気まぐれな風に吹き飛ぱされた羽毛をつかまえたり、黄色っぽい蝋を親指でこねたりしては、おもしろ半分のふざけで父親のすばらしい仕事を邪魔していた。工匠ダイダロスは、仕事に最後の仕上げを加えると、みずから二枚の翼でからだの平均をとり、羽ばたきながら空中に浮かびあがった。息子にも指図を与えて、こういう。「よいかな、イカロス、なかほどの道を進むのだぞ。あまりに低く飛びすぎると、翼が海水で重くなる。高すぎると、太腸の火で焼かれるのだ。その両方の中間を飛ばねばならぬ。『牛飼い』や、『大熊』や、抜き身の剣をひらめかした『オリオン』などに目を向けるのではない!わたしのあとについて来るのだ!」飛び方の注意を与えながら、不馴れな未知の翼を肩につけてやる。仕事と忠告のあいまにも、ダイダロスの老いた頬は涙で濡れ、手も、父としての心づかいで震えていた。もう二度とはできないさだめの口づけを息子に与えると、翼で宙に浮きあがり、先に立って空を飛ぶが、あとからついて来る息子のことばかりが心配になる。高い梢の巣から、幼いひな鳥を大空へ連れ出した親鳥に、まるでそっくりだ。うしろについて来るよう励まし、命取りの災いな技術を教える。みずからの翼を動かしながらも、息子の翼のほうばかりをふり返っている。この親子の姿を、しなやかな竿(さお)で魚を釣っている漁師の誰かや、杖をもった羊飼いや、鋤(すき)の柄(え)によりかかった農夫が見つけて、仰天した。空を飛ぶことができるのは、神々にちがいないと信じたからだ。
すでに、デロスとパロスの島々を通りすぎ、ユーノーにゆかりのサモス島を左に、レビントスと、蜜に富むカリュムネの島を右手に見おろしていた。息子は、大胆な飛行を喜び始め、父の先導を離れる。天空へのあこがれから、あまりに高いところを飛びすぎた。間近に迫った強烈な太腸の光で、羽をとめているかぐわしい世がゆるみ始める。とおもうまに、蝋はすっかり溶けてしまった。少年は、むき出しになった腕をぱたぱたと動かすが、翼がないために、空気をつかむことができない。しきりに父の名を呼びながら、紺碧(こんぺき)の海に突っこんだ。この海が、彼の名をとってイカリア海と呼ばれている。いっぽう、哀れな父親はもう父親ではなくなっているわけだが---「イカロスよ、イカロスよ、どこにいるのだ?」と叫ぶ。「ああ、どこにおまえを探したらよいのだ?イカロスよ!」そういいつづけているうちに、波間に翼を発見した。われとわが技術を呪い、遺骸を墓に葬ったが、その島は被葬者の名によってイカリア島と呼ばれている。 
エコーとナルキッソス  

 

『ギリシア神話小事典』を見ますと、
「心の優しいニンフで、ゼウスがヘラの監視から逃れるのを助けた。女神のヘラはこのことを聞いて怒り、エコーが自分では口がきけないようにし、ただ話しかけた人の最後のせりふだけ繰り返すことを、彼女に許した。このためエコーは、美男で、うぬぼれ屋のナルキッソス(ナルシス)にうまく言い寄ることが出来なかった。ナルキッソスはエコーの話を退屈だと思ったのである。彼女は悲しみのあまり姿を消してしまい、今はただどこかの谷間か、丸天井のある場所にしか見当たらない。そういう場所で、呼びかけてやれば、エコーは返事をしてくれることだろう。」と説明されています。
では、美しいエコーの恋を拒んだナルキッソスの運命は、その後どうなるのでしょうか?彼は水に映った自分の姿に恋するあまり、死んでしまうのです(これは愛を侮辱した罰とされます)。彼の死体は消え、かわりに、黄色い水仙の花が見つかったといわれます。余談ですが、英語で水仙のことを narcissusといいます。
次に引用するのは、その最後の場面で、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』の一節です。少し長くなりますが、読んでみて下さい。最後のあたりでエコーが再び登場します。
「・・・食事ヘの思いも、睡眠への配慮も、彼(ナルキッソス)をその場から引き離すことはできなかった。木陰の草原に身を投げ出して、みち足りぬ眼で、偽りの姿を見つめている。そのみずからの目によって、自身が滅び去ろうとしているのだ。わずかに身を起こして、まわりの木々に腕をさしのべながら、つぎのように語りかける。
「おお木々よ、こんなに辛い恋をした者があったろうか。おまえたちは知っていよう。たくさんの人たちに、手頃な逢い引きの場所を与えて来たのだから。おまえたちの生涯は幾世紀にもわたるというが、その長い年月のあいだに、こんなにもやつれはてた誰かをおぼえているだろうか?わたしには、恋しい若者がいて、彼を見てもいる。だが、この目で見ている恋の相手が、いざとなると見当らないのだ。それほどまでの迷妄が、恋するこの身にとりついている。なおさら悲しいことには、わたしたちをへだてているのは、大海でもなく、遠い道のりでもなく、山でもない。門を閉ざした城壁でもないのだ。ただ、わずかばかりの水にすぎない!あの若者も、この胸に抱かれたいと望んでいる。こちらが水に唇をさしのべるたびに、彼も仰向けになって、ロをさしのべて来るのだ。ほんとうに、今にも触れそうになるくらいだ。愛するふたりを妨げているのは、ほんのちよっとしたものなのだ。おまえが何者であろうと、さあ、ここへ出て来るがよい!たぐいまれな美少年よ、どうしてわたしをあざむくのだ?追い求めるわたしを振り切って、どこへ去ろうというのか?わたしの姿、わたしの年齢が、おまえからにされるようなものでないことは確かだ。妖精たちも、わたしを愛してくれたのだ。やさしげなおまえの顔が、何かしら希望を与えてくれる。おまえに腕をさしのべると、そちらからも腕をのばして来る。笑えば、笑いが返って来る。こちらが涙すれば、おまえのほうでも泣いている−−それにも、しばしば気づいているのだ。うなずきにも、うなずきで答えてくれる。美しい口もとの動きから察するかぎり、言葉を返してくれてもいる。ただ、それがこちらの耳にとどかないだけだ!わかった!それはわたしだったのだ。やっと今になって、わかった!わたし自身の姿に、もうだまされはしないぞ!みずからに恋い焦がれて、燃えていたのだ。炎をたきつけておいて、その炎をみずからが背負いこんでいる。どうしたらよいのか?求められるべきか、求めるべきか?何を、いまさら、求めようというのか?わたしが望んでいるものは、わたしのなかにある。豊かすぎるわたしの美貌が、そのわたしに、貧しい身であるかのようにそれを求めさせた。ああ、このわたしのからだから抜け出せたなら!愛する者としては奇妙な願いだが、わたしの愛するものがわたしから離れていたら!悲しみのあまりに、もう、力は尽きて行く。余命は、いくばくもない。うら若い身で、滅んで行くのだ。が、死も恐ろしくはない。それによって悲しみを捨てさることができるからだ。愛するあの若者には、できることなら、もっと長生きをしてほしい。だが、今は、ふたりが仲よく、同時に死を迎えるのだ」
こういって、狂乱状態で、あのいつもの映像に向きなおると、涙で水をかき乱した。水面がゆれ動いて、姿がぼやけた。それが消えようとするのを見ると、こう叫んだ。
「どこへ逃げて行くのだ?とどまってほしい!無情な少年よ、恋するこの身を捨てないでくれ!手には触れられなくても、見つめるだけでよいのだ。みじめなこの狂恋に、せめてそれだけのを!」
嘆き悲しみながら、襟もとから着物をはだけた。裸の胸を、青白い手で打ちたたく。胸は、たたかれて、ほんのりと赤く染まった。よくあるように、青いところに赤いところがまじった林檎のようだとも、あるいは、房の色ををさまざまに変えてゆく葡萄が、未熟のころ、やっと薄赤い色を帯び始めたようだとも−−ともかく、そんなさまに似ていた。
ふたたび澄みわたった水の面に、それを見てとると、これ以上はもう耐えられなかった。黄色な蝋がささやかな火で、朝の霜が暖かい日ざしで、溶けて消えて行くように、恋にやせ細って、衰えて行く。見えない炎で、徐々にすりへらされて行く。もう、赤みをまじえた白い肌の色もなく、元気も、力も、これまでは魅力的だった外見も、消えた。かつてエコーに愛された肉体も、あとをとどめてはいない。
エコーは、しかし、このありさまを見たとき、怒りも記憶も消えてはいなかったにかかわらず、それでも、大そう悲しんだ。哀れな少年が「ああ!」と嘆くたびに、彼女は、こだま返しに「ああ!」とくり返した。彼が手でみずからの腕を打ちたたくと、彼女も、同じ嘆きの響きを返した。なつかしい泉をのぞきこんでいるナルキッソスの最後の言葉はこうだった。「ああ、むなしい恋の相手だった少年よ!」
すると、同じだけの言葉が、そこから返って来た。「さようなら!」というと、「さようなら!」とエコーも答えた。彼は、青草のうえにぐったりと頭を垂れた。おのれの持ち主の美しさに感嘆していたあのまなこを、死が閉ざした。下界へ迎えられてからも、彼は冥府の河にうつる自分を見つめていた。
彼の姉妹の水の精たちは、兄弟のために、髪を切って供えた。森の精たちも、嘆き悲しんだ。その喚きに、エコーが答える。すでに、火葬や、うち振られる松明や、棺が用意されていた。だが、死体が消えていた。そのかわりに、白い花びらにまわりをとりまかれた、黄色い水仙の花が見つかった。」
初め、エコーは相手の声を反復することしかできぬため、自分の思いを伝えることが出来ませんでした。これが悲劇の発端です。しかし最後の場面では、ナルキッソスが「ああ!」と嘆く声にこだましてエコーも「ああ!」と声を返します。ナルキッソスの最後の言葉「ああ、むなしい恋の相手だった少年よ!」とは、エコーの心そのままのせりふだったでしょう。エコーは、ナルキッソスが命を落とす最後の場面になって初めて、彼に本心を語ることができたというわけです。 
へーローとレアンドロス

 

セストスへ来たならば、ヘーローが灯りをかかげた塔を探しておくれ
表題は、岩波ジュニア新書『ギリシア人ローマ人のことば―愛・希望・運命』から採りました。以下はこの言葉に関する解説です。
「ヨーロッパとアジアを分けるへレスポントス海峡(今のダーダネルス海峡)をはさんで、セストスとアビュドスの二つの町が向かいあっていますが、セストスにある古い塔には、五世紀の詩人ムーサィオスが伝えるような悲しい伝説が秘められているのです。この塔には、へ−ローという乙女が住んでいました。美と愛の女神アプロディテに仕える巫女で、女神の生れかわりといわれるほどの美少女でしたが、ひたすら神に仕え、娘たちの娯楽に加わることもありませんでした。しかし、アドニスの復活を祝う名高い祭礼の日に、 遠方から大勢の若者が娘たちの美しい笑顔を目あてに集まってくるなかに、アビュドスからレアンドロスがやって来て、へーローと視線を交わすなり、二人は同時にエロス(恋の神)の矢に射ぬかれてしまったのです。陽が落ちるのを待ってヘーローに近づいた若者は、少女の美しさをたたえ、アプロディテに仕える者が恋知らぬままであってはいけない、と訴え、ついに愛をかちえます。そして、人目を忍んで逢うために、毎夜ヘレスポントス海峡を泳ぎ渡ってくることを誓います。塔の上からは、へーローが目印の灯りをかかげることを約束します。五キロ以上もの暗い海の道、泳ぎ疲って疲れきった恋人の体をへーローが抱きとって、海の塩気をぬぐってやります。寄りそって体を温めるまもなく、はや朝の光を恐れて恋人を帰さなければならぬのが辛いとはいえ、二人の歓びは大きなものでした。しかしやがて、舟乗りも舟を引き上げる嵐の冬がやって来ました。へーローはずいぶん迷いましたが、逢いたい一心にせかされて灯りをともします。それを見るや、レアンドロスもすさまじい音をたてる波間に跳びこんでいきます。しかし、海と空とが混じりあうような高波にもてあそばれ、そのうえ、塔の灯りも嵐に吹き消されて、目標を失ったレアンドロスはついに力尽きてしまうのです。海の黒い背をじっと見すえていたヘーローにも、白々と夜が明けてきました。そして、浜辺に打ち奇せられたレアンドロスの死体を認めるや、ヘーローは胸の衣を引き裂き、高い塔から身を躍らせて、死せる夫と一つになったのでした。」
このエピソードについては、ウェルギリウスも 『農耕詩』第3巻の中で言及しています。なお、ヘレスポントス海峡をレアンドロスが泳ぎ渡ったというのは作り話だという者に対し、詩人バイロンは自ら泳ぎ渡り、不可能でないことを実証したそうです。 
人はなぜ働くのか  

 

西洋の古典文学には、教訓詩とよばれるジャンルがあります。ギリシア文学ですと、ヘシオドスの『仕事と日』が代表的な作品です。文庫本の表紙には、こう記されています。「飢えをしのげるように神々が我々に与えたもの、それが仕事すなわち農耕である。こうヘシオドス(前8-7世紀頃)は説き、人間が神ゼウスの正義を信じ労働に励まねばならぬことわりを、神話や格言を引きつつ物語る。古代ギリシアのこの教訓叙事詩からは、つらい現世を生き抜く詩人の肉声が伝わってくる。」と。
「仕事は飢えをしのぐ手段である」という表現の背後には、「仕事をしなければ人間は飢える」という意味が読みとれますが、このように「働かないと食べていけない」というコンディションも、「働けば食べていける」というコンディションも、ともに神々、とくにゼウスが操っているとされます。有名なパンドラの物語の導入部で、「これももとはといえば、神々が人間の命の糧を隠しておられるからじゃ。さもなくばお前も、ただの一日働けば、後は働かずとも一年を暮らすだけの貯えが得られるであろうに。」と詩人は述べています。では、なぜゼウスは人間の命の糧を隠したのか、その理由を語るのが、パンドラのエピソードです。
「・・・ゼウスは、奸智のプロメーテウスに欺かれ、怒り心頭に発して、(命の糧を)隠し、人間どもに過酷な苦悩を与えるべく思案の末に、火をも隠してしまわれた。それをまた、イーアペトスの優れた子(プロメーテウス)が、人間どもの身を案じ、大ういきょう(ナルテークス)の茎のくぼみに入れ、雷火を楽しむゼウスの目を掠(かす)めて、明知のゼウスのもとから盗み取った。雲を集めるゼウスは怒って、プロメーテウスに仰せられるには、『知略衆にすぐれたイーアペトスの子よ、そなたは火を盗み、わしの心をたぶらかして得意の様子だが、それはそなたにも、この先生まれくる人間どもにとっても大いなる悲嘆の種になるのだぞ。わしは火盗みの罰として、人間どもに一つの災厄を与えてやる。人間どもはみな、おのれの災厄を抱き慈しみつつ、喜び楽しむことであろうぞ。』」
この罰として人間に与えられた災厄が、パンドーレー(パンドラ)という名の女性だったのです。「それまでは地上に住む人間の種族は、あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、人間に死をもたらす病苦も知らず暮らしておった。ところが女(パンドラ)はその手で瓶の大蓋をあけて、瓶の中身をまき散らし、人間にさまざまな苦難を招いてしまった。そこにはひとりエルピス(希望)のみが、堅牢無比の住居の中、瓶の縁の下側に残って、外には飛び出なかった。」
エルピス(希望)のみが瓶の中に残った点に関して、学者の間でも意見がわかれているようですが、素直に考えれば、人間は諸悪の中にあって希望のみを頼りに生きている、と解するのがよいと思います(松平説)。では、希望を頼りに生きるとは具体的にどうすることかといえば、冒頭で紹介したように、「神ゼウスの正義を信じ労働に励まねばならぬ」ということになります。たしかに「労働せねば人間が飢える」ことは必定です。この定めにゼウスの意志の反映を見出すのなら、同時に、「労働すれば飢えなくてすむ」事実にも着目し、ここに希望を見出し、ゼウスの意志の反映を知るべきでしょう。英語にNO PAIN NO GAINという言葉がありますが、わたしたちは、PAINにためいきをつくのか、GAINに希望をもつのか、選択の自由が残されています。
他方、プロメテウスの盗んだ火とは、現代流に言えば、文明生活の象徴としての火を意味するでしょう。ところが、人間が火を得たことは、はたしてよかったことなのかどうか、といえば、必ずしも善い面ばかりではなく、むしろ災いの多いことを私達はよく心得ています。たとえば、この点に関して、ローマの詩人、ホラティウスは、次のように述べています。
どんな行為も平気でやり遂げる人間は、禁じられた非道の行いへとまっしぐらに突き進む。大胆にもイアペトゥスの子(プロメテウス)は、悪しき奸計を用いて人類に火をもたらした。火が天の館から盗まれた後、困窮と新しい熱病の群れが大地を襲い、かつては遠ざけられ、ゆるやかに訪れた死の必然は、その歩みをはやめた。ダエダルスは人間に許されぬ翼をもって広大な空に挑んだ。ヘルクレスの功業は、アケロン(冥界)まで突き破ったのだ。人間にとって、困難なことは何一つない。人間の愚かさは、天そのものを乞い求め、我々の罪により、ユピテルが怒りの雷を投げ落とすことすら許そうとしない。(『詩集』1.3)
ここでは、プロメテウスの火盗みと同様、ダエダルスの天への挑戦(=翼をつけて飛行した)等が、人間の分を弁えぬ行為としてネガティブにとらえられています(なお、ユピテルというのは、ギリシア神話におけるゼウスに相当します)。人間によかれと思ってとったプロメテウスの行為は、あたかも「人間の愚かさ」の先駆をなすものとして語られているかのようです。
もっとも、今さらプロメテウスから得た火を天にお返しするわけにもいかないし、人間が数々の困難に挑戦する(ヘルクレスの功業も、普通はポジティブに解されます)行為を控えるわけにもいきません。このあたりのジレンマを、ホラティウスは描こうとしているようです。あとで見ますように、人が海に船を浮かべる行為も、大地に鋤を入れる行為も、ギリシア・ローマ時代においては、人間による「自然への冒涜」として把握されました。ヘシオドスの場合、今触れたジレンマの問題について、五時代説話を通して次のように表現しています(この説話が後世に与えた影響は甚大です)。
人間はかつて黄金の(種族の)時代を楽しんだが、やがて、時代は銀の時代、青銅の時代と退化し、今の人間は忌まわしい鉄の時代を生きているという話です。ヘシオドスは黄金の種族について、「これはクロノスがまだ天上に君臨しておられたクロノスの時代の人間たちで、心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしておった。惨めな老年も訪れることなく、手足はいつまでも衰えず、あらゆる災厄を免れて、宴楽に耽っていた。死ぬときはさながら眠るがごとく、あらゆる善きものに恵まれ、豊沃な耕地はひとりでに、溢れるほどの豊かな稔りをもたらし、人は幸せに満ち足りて、心静かに、気のむくにまかせて田畑の世話をしておった。」と描いています。
しかし、ヘシオドスによれば「今の世はすなわち鉄の種族の代」なのです。そして、「昼も夜も労役と苦悩に苛まれ、そのやむときはないであろうし、神々は過酷な心労の種を与えられるであろう、さまざまな禍いに混ざって、なにがしかの善きこともあるではあろうが。」といわれます。神々の与える心労の種は、上で見たプロメテウスの火盗みへの罰と響き合っています。一方、「なにがしかの善きこと」とは、パンドラの守ったエルピス(希望)を想起させるでしょう。ということは、労働にいそしむことこそ、人間に残された唯一の選択肢、ということになります。上に触れたように、労働というPAINにゼウスの罰の反映を見、(労働の結果としての)GAINに希望を見る、あるいはゼウスの正義の反映を認めることが必要だと詩人は示唆するわけです(ゼウスの正義とは、ここでは、仮にNO PAIN NO GAINの原理が正しいと認められるなら、その正しさ(のようなもの)を意味しています)。
実際、ヘシオドスは、鉄の時代にあってなお正しく生きること(=ゼウスの正義を信じて生きること)のできる可能性を信じています。例えば、次の「正義の国」の記述をご覧下さい。
異国の者にも同国の者にも、分けへだてなく、正しい裁きを下し、正義の道を踏み外さぬ者たちの国は栄え、その国の民も花開くごとくさきわうものじゃ。国土には若者を育てる「平和」(エイレーネー)の気が満ち、遥かにみはるかすゼウスも、この国には、苦難に満ちた戦争を起こさせようとは決してなさらぬ。正しい裁きの行われる国では、「飢え」(リーモス)も「災禍」(アーテー)もつきまとわず、人々は宴(うたげ)を催し、おのれの丹精した田畑の稔りに舌鼓を打つ。この国の大地は、命の糧を豊かにもたらし、山では樫(かし)の木が、その頂きに樫の実をみのらせ、幹の中頃には蜜蜂が巣くう。羊はその毛もふさふさと重たげに垂れ、女どもは父親に似た子を産む。人々は様々な幸(さち)に恵まれ、いつまでも変わることなく栄え、船を用いて海を渡ることもない、穀物を恵む耕地が、稔りをもたらすからじゃ。
この記述は、ローマの詩人ウェルギリウスが、『農耕詩』第2巻「農耕賛歌」を書く上で、じゅうぶん参考にしたと思われます。 
 
旧約のイエス

 

イザヤが見たイエス
「『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。』イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」
イザヤがイエスの栄光を見たとは、イザヤ書6章の出来事を指している。次のように記されている。
イザヤは、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。・・・『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主』(6:1,3)そのときイザヤは言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」。そのあと、イザヤは主から罪のきよめを受け、主の召しのことばがあり、イザヤがそれに応じた。そのとき、主は「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」と言われた。この6章10節のことばをヨハネ12章40節が引用していることからして、イザヤがイエスの栄光を見たという事件は、このイザヤ6章の出来事をさしていることは明白である。
このときイザヤはイエスの栄光を見たと、ヨハネ福音書は告げている。ということは、万軍の主とは、すなわち、イエスであるということである。イザヤがこの出来事に直面したのはウジヤ王の没年紀元前740年のことである。
イエスは復活の日、エマオ途上で弟子たちに「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」。そのとき、「あの日、イザヤが見た主は、このわたしなんだよ。」と話されたのだろうか。
アブラハムが出会ったイエス
「『あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。』そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。『あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。』イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」
ユダヤ人たちは、イエスがまるでつい昨日にでもアブラハムに会って来たような話し振りをするものだから、あざけって言った。「おいおい、あんたはまだ五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たとでもいうのか?」ここでは関係ないことだが、イエスは当時30歳ちょっとだったのに、「50歳にもならないのに・・・」と言われたところを見ると、どうやら相当老け顔でいらしたらしい。それはさておき、アブラハムという人物は紀元前2000年の人である。
すると、なんとイエスは言い返した。「まことに、まことにあなたがたに告げます。」これはイエスが特別大事なことをおっしゃるときに用いる言い回し。「耳をかっぽじってよく聞けよ」という意味。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる。」紀元前2000年より前からいると言われたのである。つまり、イエスはご自分がとーっても長生きだとおっしゃったのである。だからアブラハムのことはよく知っている、と。
創世記13章末尾から25章にかけてのアブラハムの生涯において、彼に親しく臨んで啓示をお与えになった方は、「主」また「主の使い」と呼ばれている。
イエスは復活の日、エマオ途上で弟子たちに「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」。そのとき、「あのかげろうが上る日、マムレの樫の木にいたアブラハムを御使いふたりと一緒に訪ねたのはこのわたしなんだよ。」とでも話されたのだろうか。
イエスと旧約のYHWH
最近、新約聖書を読んでいて気になるのは、主イエスと旧約の【主(YHWH)】が同一視されている文である。たとえば・・・
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」とあるなかで、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあるのは、旧約ヨエル書2:32の引用である。ところが、ヨエル書2:32では「 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。」とあって、【主】とはYHWHのことである。
モーセが出会ったイエス
「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」とイエスがおっしゃると、ユダヤ人たちはイエスを石打ちにしようとした。石で人を打つなんて、いたずらっ子みたいだ。「投げていいのはボールだけ」と、妻は子どもたちが小さいころよくそう言って叱ったものである。だが、笑い事ではない。石打ちは、死刑のひとつの様態で、現在もイスラム圏で行われている。イエス様が自分は2000歳超だよと言ったからと言って、なぜ死刑にならなければいけないか?
問題は、「わたしはいる」ということばである。日本語は時制の不明瞭なことばだから、この発言の問題性がピンと来ないが、問題はイエスはこのとき「エゴー・エイミ」という現在形を使われたことである。イエスが実際に使っていたことばは、おそらくアラム語であったから、アラム語の現在形だったろうけれど。もしイエスが「わたしはアブラハムが生まれる前からいた」というならば、たぶん「エゴー・エーメーン」とおっしゃるべきだった。なぜ、イエスは「エゴー・エイミ」と現在形でおっしゃったのだろう。
それは、イエスにとっては、過去も未来もなく常に現在であるからである。被造物である私たちには過去があり現在があり未来がある。私たちはかつていなかったが、今はおり、やがていなくなる。被造物は時の制約の下に存在する。(ただしこの世のことだけでなく、次の世における霊の永続性を考慮すれば、「やがていなくなる」は除かれる。)それなのに、イエスは「わたしはいる」とおっしゃった。過去も未来もなく、常に現在というのは、時を超越した神以外にはありえない。イエスは自分は時を超越した神だとおっしゃったことになる。
さらに連想されるのは、燃える柴の箇所でモーセに名を尋ねられたとき、【主YHWH】が自己紹介なさったことばである。「わたしは『わたしはいる』というものである。」
自分を永遠から永遠にいます神であるとすること、これはとんでもない冒涜だった。イエスが事実、神でなかったとしたらの話であるが。だが、イエスが事実、神であるとしたら、イエスに石を投げることこそが冒涜なのだ。人は、イエスは誰なのかという問いを前にして二つに分けられてしまう。
あのエマオ途上、主イエスは二人の弟子に旧約聖書を解き明かしつつ、「あの燃える柴のところでは、モーセはびっくりしてぶるぶる震えていたなあ。」と楽しげに話されたのだろうか。 
 
アウグスティヌス

 

1.生涯の概略 
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354-430)は、ヘレニズム時代末期(古代末期)の354年、北アフリカの小都市タガステに中産地主の父パトリキウス(後にキリスト者となる)と熱心なキリスト教信者(カトリック教徒)モニカの長男として生まれる。父はローマ人だが、母はベルベル人だった。アウグスティヌスにとって母語はベルベル語であり、彼はローマに憧れつつローマに反感を抱いていたと思われる。また彼が若い日に遊学したカルタゴという場所は、かつて地中海世界に覇を唱えたフェニキヤ人の植民地であって、ポエニ戦争では象に乗った英雄ハンニバルがローマに対して奮戦した。対岸にある帝都ローマに対するアンビバレントな感情は、後年、『神の国』に現れるローマ批判の背景のひとつと思われる。
16歳のときに北アフリカのカルタゴに遊学し、当時としては普通のことであったとはいえ、ある女性と同棲生活を始め、翌年には、17歳にして1児(アデオダトゥス)の父となる。ペルシアのマニ(215-275)という人物が創始したマニ教に入信し、熱心なマニ教信者になった。このあたりの経緯と解釈については、味わい深い山田晶『アウグスティヌス講話』を読まれたい。
マニ教は、典型的なインド・ヨーロッパ語文化の宗教で、世界は光と闇、善と悪の対立抗争する場であり、人間のすべての不幸はこの対立抗争にあるとして、人間の救いは、マニ教の聖者の教えを聞き、儀式に参加し、禁欲生活をすることによって自らの魂を肉体から解放することにあるとした。またマニ教は、旧約聖書に描かれた神を荒唐無稽で不合理、不道徳な神であるとして激しく非難していた。アウグスティヌスがマニ教に入信した理由については、様々に言われていますが、その理由の一つに、アウグスティヌスは、マニ教の教えによって自分の抑え難い欲望を克服しようとしたこともあるのではないか。アウグスティヌスにとって、「悪と罪の問題」は生涯の課題となる。
彼はその後383年、マニ教を頼ってローマ帝国の首都ローマに行き、一年後には、イタリア北部の町ミラノで、人々に立身出世を約束する修辞学教師となる。しかしここでアウグスティヌスは、マニ教の著名な教師に失望し、ミラノのキリスト教指導者司教アンブロシウスの説教を聴き、遂にマニ教を捨ててキリスト教の教会に足繁く通う。そして同じ頃、新プラトン派の書物を読んで、プロティノスの新プラトン主義を学ぶ。これはアウグスティヌスのキリスト教理解に大きな影響を与える。
やがて386年、「とりて読め」の声にしたがい、決定的な回心を経験して、全面的にキリスト教を信じ、洗礼を受けた。
その後、ミラノで10年余りにわたってマニ教を批判する活動を続けますが、故郷のタガステに帰ってからは、親しい友人たちと修道生活を始め、息子のアデオダトゥスがなくなった翌年、391年には、ヒッポの司教ヴァレリウスにその深い信仰と高い教養を評価されて司祭に叙階され、ヴァレリウスの死後396年には、その後任の司教に祝聖された。その後彼は牧会と著作活動に没頭。ドナトゥス派論争で教会・礼典論を、ペラギウス派論争で恩寵救済論を確定。『神の国』で歴史哲学を展開。
ゲルマン民族の一派のヴァンダル族によってヒッポが包囲されまさに陥落しつつあるとき、亡くなった(430)。

【カルタゴ】(Carthago)アフリカ北部、チュニス湾に臨む古代都市。紀元前9世紀頃、フェニキア人によって建設され、前6世紀にはギリシアを破って、地中海の制海権を獲得。紀元前146年、ポエニ戦争によって滅亡。その後、カエサルによって再興されたが、698年、アラビア人に破壊された。
【マニ教】(Mani)3世紀にマニ(215頃〜275頃)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教的二元論に、グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六、七世紀にはチベットから中国にまで達したが、しだいに道教に同化された。
【アンブロシウス】(Ambrosius、340-397)キリスト教の初代教父。聖人。ミラノの司教。アウグスティヌスをキリスト教に導き、またテオドシウス帝に民衆虐殺の非道を懺悔させた。アンブロシウス聖歌と呼ばれる讚美歌集も作った。  
アウグスティヌス年譜 

 

幼少・少年時代
354 11月13日、北アフリカのタガステに生まれる。父親パトリキウスは土地の名士(死の直前まで異教徒)、母親モニカ(Monnica)は熱心なクリスチャン。 幼時 重病になり、両親は洗礼(=死ぬ前の儀式として)まで準備するが、回復する。少年期 学校でスパルタ教育を受ける。ウェルギリウスをはじめとするローマ古典に親しむ。ギリシア語は不得意。ある時期にマダウラへ移る。
370 (16) マダウラの学校をやめ、しばらくタガステでブラブラする。ローマニアーヌスと知り合う(パトロン)。「梨を盗む」事件。その後、大都市カルタゴに移って弁論術の勉強を続ける。この前後に父親が死去。カルタゴで(?)ある女性と同棲を始め、息子アデオダトゥス(372頃-390以前)をもうける。
青年時代
373 (19) キケロ『ホルテンシウス』(散逸)を読んで感激し、「知恵を愛する」生を送ろうと決心する(=哲学への「回心」)。聖書は文体が拙劣だという理由で軽蔑する。  マニ教(キリスト教の異端的分派)の「聴聞者」となる(382頃まで9年間、形の上ではそれ以降も)。モニカは息子の行状を嘆く。 哲学の勉強を続け(独力でアリストテレス『範疇論』を読む)、一方でマニ教会に通い続ける。『美と適について』(381頃、散逸)を書く。学問(artes liberales)を一通りマスターする。
375 (21) タガステに戻り、文法と弁論術の教師となる。親友の死。
376 (22) カルタゴに移り、教師を続ける。
381年、コンスタンティノープル公会議、「ニカイア・コンスタンティノープル信条」の制定。
383 (29) マニ教の司教ファウストゥスに会って教義上の質問を向けるが、満足できる答えが得られず、マニ教に失望する。また学生にも失望(学級崩壊)。 カルタゴに来ていた母親モニカを振り切ってローマに渡る。ローマで懐疑主義哲学に接近する。教師を始めるが、学生が授業料を払わないので失望する。
384年、ローマ元老院のウィクトリア祭壇をめぐる論争(シュンマコスvs.アンブロシウス)。
384 (30) ローマ市長シュンマコスの推薦を受け、ミラノの弁論術教師に抜擢される。カルタゴ以来の友人アリューピウスと一緒にミラノに移住する。ミラノでまず司教アンブロシウスと面会する。シンプリキアーヌスとも知り合う。 モニカがミラノに来る。アンブロシウスの説教を通して、次第にキリスト教カトリック教会の教えを理解しはじめる(特に、聖書の「アレゴリー的解釈法」)。 モニカ、息子を正式に結婚させようとする。アウグスティヌス、長年の同棲相手と別れ、彼女をアフリカ(タガステ?)に帰らせる。 正式な結婚を取り決めるが、それが実行可能になるまで(相手が若すぎた)、とりあえず別の女をつくる。
回心
386 (32) M・ウィクトリーヌスによるラテン語訳で新プラトン哲学の書物(プロティノス他)を読み、惹かれる。シンプリキアーヌスを訪ね、ウィクトリーヌスがキリスト教に回心した時の話を聞かされる。次いで、ポンティキアーヌスから修道士アントニオスの話(アタナシオス『アントニオス伝』)、そして修道生活の話を聞かされる。 理想と現実の間で悩みつづけていたある日(8月1日前後)、隣の家から「取って読め」という声が聞こえたので、手元にあった聖書を開いて読む。それはパウロの手紙であった。アウグスティヌスは一瞬にして(正統)キリスト教に「回心」する(=「庭の場面」、『告白』8,8; 8,12)。 葡萄収穫の休暇を待って、母親およびアリューピウスと一緒に、ミラノ近郊の村カッシアークムにあった友人の別荘に引きこもって擬似修道院生活を始める。集中的な著作活動。休暇が終わると、正式に職を辞する(肺病の兆候があったのでそれをも口実にした)。
387 (33) カッシアークムを出てミラノに戻り、教会の洗礼志願者となる。復活節(4月24/25日?)、アリューピウスと息子アデオダトゥス(当時16歳)と共に洗礼を受ける。間もなくアフリカに帰るが、途中(オスティア)で母親モニカが死ぬ。アフリカに渡るのを中止し、ローマに行く。
388 (34) 夏を過ぎてからアフリカに戻る。カルタゴを経由して、秋のうちに故郷タガステに到着する。仲間(おそらくアリューピウスその他)と共に擬似修道生活を始める。
司祭時代
390 (36) ヒッポの司教ウァレリウスと市民たちの希望で、不本意ながらヒッポの司祭職を引き受ける(391年初頭かも)。
391 (37) 司祭としての仕事を開始するかたわら、ヒッポに修道院を建てて禁欲的修道生活を送る。
396 (42) この前後に司教となる。当初はウァレリウスとの共同司教、ウァレリウスの死(396?)の後はヒッポの単独司教。
司教になってから
398 (44) ドナトゥス派弾圧が激化。411年ごろまで、反ドナトゥス派の著作や活動(公会議への参加)を精力的に続ける。
400 (46) この頃『告白』を書く(397-401?)。
410年8月24日、アラリック率いる西ゴート族がローマを占領・略奪。
410/411 (56/57) ローマを逃れたペラギウス、ヒッポに滞在(アウグスティヌスは病気で不在)。ペラギウス派のカエレスティウスを巡って、対ペラギウス論争が始まる。411年、対ドナトゥス派公開討論(カルタゴ)、ドナトゥス派の禁止。
413 (59) 『神の国』執筆開始(徐々に公刊され、完成は426 年)。
418 (64) カルタゴ公会議(5月)。ペラギウス派、勅令によって禁止される。
420 (66) この頃『三位一体論』が完成(執筆は400年頃から)。この頃からアエクラーヌムのユリアヌスとの論争が始まる。
426 (72) 『神の国』全巻が完成。その一方で対セミ(「半」)ペラギウス主義論争が始まる。
427 (73) 『再考録』(Retractationes)を完成。
429年にヴァンダル族が北アフリカに侵攻し、430年夏、ついにヒッポを包囲。
430 (76) 8月28日、ヴァンダル族による包囲中のヒッポにて死去。 
2.ドナティスト論争

 

(1)その歴史的背景
広く言えば背景は、修道院運動と同じように、コンスタンティヌス帝の回心のもたらした状況にある。つまり、教会が帝国と手を握り、全体として堕落してしまったという認識である。修道士たちは、砂漠にのがれて修道生活をすることによって、その不満を表したが、ドナティストたちは、堕落した教会は教会ではなく、自分たちのように熱心・忠実なものたちの新しい群れこそ真の教会であると主張した。
(2)経緯
ドナティスト問題は、迫害時の棄教者をどのように教会に復帰させるべきかという課題から生じた。激しい迫害が起こったとき、迫害の終わったときに同じ問題に教会は直面した。迫害のときに信仰を捨てた者が、教会に回復することを希望したときどうするか?
カルタゴの司教座を巡る問題。
311年司教フェリクスはカエキリアヌスをカルタゴ司教に任職した。
しかし、フェリクスは、かつてディオクレティアヌス帝の迫害のとき、聖書、聖なる者を官憲に渡し棄教した者であった。
そこでヌミディアの司教たちは、フェリクスの任職を否認し、別にマリヨヌスをカルタゴ司教として選任した。さらに、マリヨヌス死後、学識と実行力を兼備したドナトゥスが公認とされ、厳格派を率いてドナトゥス派と呼ばれる。
ドナトゥス派は、1背教者の行なった礼典は無効であり、2自派の教会のみが真の教会であり、3ドナトゥス派に改宗する者は、再洗礼を受けるべしとした。
逆に、カトリックはどうしたか。ドナトゥス派からカトリックに移る者には再洗礼は求められなかった。洗礼は、その執行者の人物いかんではなく、事柄自体に有効性の根拠があるとされたからである。
社会的背景
実はこの論争には社会的背景がある。
カエキリアヌスの支持者はカルタゴとその周辺の総督領に集まっていた。他方、西方のヌミディア、モーリタニアではドナトゥス派が一般的だった。カルタゴとその周辺地域にはラテン化された大土地所有者や商人、軍人などが住んでおり、イタリアとの貿易で利潤を独占していた。
他方、ヌミディア、モーリタニアの人々は下層の農民たちであり、彼らの小麦をはじめとする農産物をカルタゴの支配層が安く買って、イタリアに売って巨利を得ていたので、反発があった。
しかも、ヌミディア、モーリタニアに住む下層民には従来からキリスト教徒が多く、彼らはローマ帝国の偶像崇拝を初めとする罪と戦ってきた。ところが、コンスタンティヌス大帝の改宗によって、カルタゴのローマの支配層たちが急激に改宗して教会に押し寄せてきた。そして、教会はこの世的になり堕落し始め、政治と経済の実権を持つ連中が、やがて教会でも実権を持ってしまうであろうということは眼に見えていた。こうした事態に対する反発が、ドナティスト派と一体となった。
ドナティストたちはやがて340年頃になると、暴力的手段に訴えるキルクムケリオーネスまでも出現した。彼らは殉教願望が熱狂主義になって、信仰をゆがめている人々に対する戦いで死んだものを殉教者とみなすようになった。
4世紀末、アウグスティヌスがカルタゴの司教に就任した時点では、教区ではドナティストが多数を占めていた。彼は、説得に努めるが功を奏さなかった。
411年カルタゴ会議で大論争。皇帝は統一命令を出し、ドナティストを異端と宣告する。ローマ当局は軍事力を行使して、虐殺と制圧が行なわれ、聖職者は追放、教会と財産は没収された。しかし、実際には、制圧はしきれず、最終的にドナティストが消滅するのは7世紀のイスラム教徒による征服後である。
(3)その神学的な意義・・・アウグスティヌスの洗礼論~教会論の確立
『洗礼論』
「背教者も教会に復帰し悔い改めて回心するならば、たとえ再び洗礼を施されずとも、前の洗礼の恵みが失われたなどと考えるべきではない。」
「洗礼を受けた人が教会の一致から離れても叙階された人が教会の一致から離れようとも、洗礼を施すサクラメント権を失わない。」
「世界で一なる教会に属する者に再洗礼を施そうと務めている人々が不敬虔なわざをなしていることである。また神与のサクラメントであれば、たとえ分離派におけるものであってもあえて否認しないわれわれが正しい態度をとっていることになる。」
問「異端者が有効な洗礼を授けうるか?」
答え
1 異端者による洗礼も有効である。理由は、教皇ステファヌスによって権威ある承認を得たから。これが権威による論証。アウグスティヌスは教会の公的決定を重んじる。その上で、アウグスティヌスの信仰は理解を求める。聖書からさらに論証していく。・・・・
2 「あなたがたはパウロの名においてバプテスマを受けたのか」ということばから、真のサクラメントの授与者は人としての司教ではなくキリストである。だから、司教個人の人格が汚れているか清いかは、サクラメントの有効性に何ら関係ない。
3 マルコから、聖職者の人格の正邪や正統か異端かは洗礼の有効さに影響しない。ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
4 ヨハネによれば、キリストこそ洗礼を授けるお方である。サクラメントはキリストがお授けになるのであり、執行している司祭は道具にすぎない。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
5 「ユダが洗礼を授けた人々も、実はキリストが洗礼を授けたのである。」トリエント公会議(16C)で確認され定式化された表現。
(4)「解放の神学」の観点から見るアウグスティヌスの限界
アウグスティヌスは、ドナトゥス派の問題の社会的経済的背景には気づかなかった。彼自身は収奪する側に属していたから。(類似のことをいえば、アンドリュー・マーレーという改革派の優れた器が有名だが、彼は南アフリカのアパルトヘイト政策の問題に気がついていたのか? Amazing Graceで有名なジョン・ニュートンは回心後も奴隷商人をしていて良心の痛みを感じなかったと、手紙のなかで自ら告白している。今日までラテンアメリカを食い物にしてきた米国の教会人が、ラテンアメリカの貧困層の苦しみを理解できないのと同じ。)
『解放の神学』の課題
支配階級が正統的教会に擁護されることになり、被支配階級がその正統的教会の欺まん性に対して反発するということがしばしば起こってきた。教会が権力と結ぶとき、教会が社会体制維持、民衆に目隠しをして社会の欺瞞を悟らせないための道具として用いられてしまうということが起こってしまいがちである。「宗教はアヘンだ」といった共産主義者のいらだちと反キリスト教政策の理由である。ソ連や東欧などの共産圏では徹底的にキリスト教は弾圧された。ラテンアメリカに対する米帝国主義の支配に対する抵抗の中から、「解放の神学」が生まれた。聖書はローマ書13章で地上的権威の積極的意義を片方で説くが、その悪魔性については黙示録13章、不当な貪りについてはヤコブ4章で説いている。 
 
アウグスティヌス「ペラギウス論争」「神の国」

 

1.ペラギウス 
(1)経歴
ペラギウス(360頃-420頃)ブリトン人 (古代イギリス人)の修道士、平信徒。キリスト教徒の家庭に生まれる。前半生は不明。380年頃ローマに法律を学び、成人してから洗礼を受け、聖書研究に励み、その徳を修めた生活と、ラテン語のみならずギリシャ語も解し神学的学識も深かった。その上、修道士的禁欲主義の提唱と実践によって、ローマで名声をあげる。パウロの手紙の注解書、「三位一体の信仰」を出版。彼の信奉者が増えローマで指導的なキリスト者とみなされた。ただし、異端者の書物にありがちなことだが、彼の書物そのものは今日に残されておらず、彼の批判者の書物の中の「ペラギウスはこう言っているが・・・」という引用を読み取れるのみであるから、その引用は歪曲されている可能性がある。
480年アラリックの率いるゴート族のローマ侵攻の際、多くの避難者とともに、ペラギウスと弟子カエレスティウスは対岸の北アフリカに来た。
(2)ペラギウスの思想
ペラギウス「デメトリウスへの手紙」16 ラテン教父神学P.L.xxxiii. 1110 (ベッテンソンp92)には次のようにある。「われわれはあたかも神が、ご自分の創造になる人間の弱さを忘れて、彼らにはたえられない命令を負わせたかのごとく語る。そして同時に、義なる方に不義を、聖なるかたに残忍性を着せている。それは第一に、神は不可能なことを命令されたと不服をとなえることにより、第二には人は自分の力でどうにもできなことのゆえにさばかれる、と想像することによってである。・・・・神は正しいからであるから、不可能な事を命令しようとは思われなかった。また、聖なる方であるから、人間の力でどうにもできない事のゆえに、人間をさばかれるというようなことはない。」
つまり、ペラギウスは、「神が我々に律法を授けられた以上、我々はこれを行なうことができる。」「完成が人間にとって可能である以上、それは義務である。」という。言い換えると、行なうことができるからこそ、神は我々に律法を授けられたのだと主張する。我々にできもしないことを命じ、それが守れないからということで罰するというのでは、神は正義ではないということになる。つまり、人間は自由意志でもって善を意志することができるという。
これはつまり、アダム以来、原罪を背負っているということを否定するということである。
「われわれは完全に発達した状態に生まれたのではなく、善と悪とをする能力をもって生まれた。徳も悪徳もなしに生まれたのであって、各個人の意志が働き出す以前には、神が与えられたもの以外は、何も人間の中にはないのである。」
「ペラギウスの所業」
1. アダムは死ぬべき者として創造されており、罪を犯しても犯さなくても死んだであろう。
2. アダムの罪は彼のみを傷つけたのであって、人類には及ばなかった。
3. 福音と同じように、律法も人を御国へ導く。
4. キリストの降臨以前に、罪を持たない人々がいた。
5.新生児は、堕落以前のアダムと同じ状態にある。・・・・
400年頃ローマ滞在中、ある司教がアウグスティヌスの有名な祈り「なんじの命じるところを与え、なんじの欲するところを命じたまえ」を引用するのをペラギウスが聞いて、アウグスティヌスは人間の自由意志を無にし、道徳的責任能力を否定していると考えて攻撃し、相当な数の同調者を得て、論争が巻き起こった。 
2.アウグスティヌスの救済論 

 

ドナティスト論争を通してアウグスティヌスの礼典論・教会論が明らかにされて行ったように、今度は、ペラギウス論争を通して、アウグスティヌスの救済論は内容を明らかにされていった。以下、主要なペラギウス論争文書から引用しておく。
(1)アウグスティヌスによる反ペラギウス文書
『罪の報いと赦しおよび幼児洗礼について』412年 / 人間はアダムの堕罪以後原罪を持つゆえに、神の戒めを守って義とされることはできず、救いのためには恩恵による以外ないこと、幼児も洗礼を受ける必要があり、人間が無罪であると考えるのは誤りである。
『霊と文字』412年 / パウロの教えに基づく恩恵論と義認論を論じる。アウグスティヌスは「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉を、律法と恩恵という意味に理解し、律法を重視するペラギウス主義を批判し、恩恵による救いと意義を論じる。
『自然と恩寵』415年 / ペラギウスが人間の意志の自律性と善悪をなしうる力を認め、神の恩恵なしに救いにいたることが可能だと説き、自然と恩恵を同一視している点を批判。恩恵は自然的本性を正しく導く働きをする。人間の自然本性はたしかに最初は罪も汚れもなく創られた。しかしこの人間の自然本性は、各人がアダムからこの本性を引き継いで生まれるため、いまや医者を必要としている。というのはそれが健全ではないからである。
『人間の義の完成』415年か416年 / 人間は自然にそなわっている自由意志によって罪のない生活をしうるという完全主義を批判する。
(2)アウグスティヌスにおける人間の罪と救い
1 原罪
ペラギウスは人間の前coram hominibusで人間を捕らえ、アウグスティヌスは神の前でcoram deoの人間を問題にするところに根本的な人間観の違いがある。
罪とは無知・無力である。無知とは人間は善悪の判断ができないことをさす。無力とは人間はたとえ善悪を判断できても、その判断にしたがって正しく生きられないことを意味する。
また、アウグスティヌスは罪を情欲と結びつけて理解する。人間は情欲に支配されており、意志の働きを抑圧してしまう。また、彼は、人間の陥りやすい罪として、高慢・傲慢を指摘する。
そして、情欲は、自己愛amor suiとなって現れる。自分の欲望のままに生きてしまう。
結局、人間は個々の行いが善い悪いではなく、その存在が根本的に罪に汚れている。木が悪いから、悪い実を結ぶのであるとする。つまり、原罪がある、と。
2 義認論
ペラギウスは、人間は本性に与えられている力によって、神の教えを守り、完全な義を獲得できるという。
他方、アウグスティヌスは、人間は堕落しているので、神の教えを守れない。そこで、神は人間に恩寵を注ぎ、義とする。「神の義とはそれによってわたしたちが神の贈物のおかげで義人とされるものであり・・」「神の義というのは、神がわたしたちに単に律法の戒めにより教えるだけでなく、御霊の賜物によって与えてくださるものである。」
3 カルタゴ16回司教会議 (418AD 5月1日)
本会議で8か条が採択され、その夏皇帝ホノリウスはペラギウスを異端としてローマから追放する。その後のペラギウスについて確かなことは知られていない。
1 原罪(第1条―第3条前半)。アダムは自然の本性によってではなく、罪のために死んだ。そのため生まれたばかりの幼児にも原罪はあり、罪の赦しのための洗礼が必要である。洗礼なしには永遠の生命を受けられない。これらの考えを否定するものは異端である。
2 恩恵について(第3条後半―第8条)。キリストによる神の恩恵で人は義とされ、また、罪を犯さないようにされる。この恩恵なしに、自由意志によって神の掟を守ることはできない。人間はみな罪をもっているがゆえに「罪を赦してください」と祈る。これは自分を卑下しているのではなく、実際に罪があるからである。 
3.神学史的見通し / 罪観と神学の三体系と自由意志論争 

 

(1)「罪観は神学体系にとってのアルキメデス点である」A.A.Hodge
人間における罪をいかに認識するかによって、三つの神学体系ができる。すなわち、人間の罪を聖書がいうままに深刻に捕らえ人間はアブノーマルだとするならば、恩寵によってしか救われようがないということになる。つまり、恩寵救済主義である。キリスト観は、神の御子贖い主ということになる。
逆に、人間には原罪はなく、道徳的にノーマルなものであるとすれば、自力救済主義になる。キリスト観は人間の模範者ということになる。
両者の中間に、神人協力説が来る。
自力救済主義: ペラギウス――――――ソッシニウス―――――自由主義神学
神人協力説:   中世ローマカトリック―――――アルミニウス主義
恩寵救済主義: パウロ―アウグスティヌス―――ルター・カルヴァン
(2)自由意志
神学的な焦点は「自由意志」。教理史で繰り返される論争。
堕落前のアダム・・・罪を犯さないことができるposse non peccare罪なき状態
堕落後のアダム・・・罪を犯さないことができないnon posse non peccare罪ある状態
恩寵を受けた人・・・善を意志することができるが、罪を犯さないことは完全にはできない状態
御国で・・・・・・・罪を犯すことができずnon posse peccare、善のみを意志することができる状態 
4.歴史哲学・歴史神学 / ローマ略奪と『神の国』 

 

(1) 執筆の背景
408年、ローマはゴート人に包囲された。アウグスティヌスはその報告を受けて、飢餓と疫病のために、ローマでは埋葬されない死体がごろごろし、人肉を食べるほどに窮していることを知った。410年8月24日、アラリックに率いられたゴート族はついにローマに侵入し、三日間にわたり略奪をほしいままにし、「永遠の都」と言われたローマの一部は焼失さえした。この大惨事に人々は非常に大きな衝撃を受けた。ローマから逃れてきたペラギウスがローマのある貴婦人にあてた手紙にこう言っている。
「それはつい先頃起こりました。そしてあなたご自身お聞きになったとおりです。世界の主人であるローマが、ゴート人の吹き鳴らすラッパの音と彼らの喚き声に脅えて、震え縮みあがったのです。いったい、貴族たちはどこにいたのでしょう。威厳のある確固として際立った人々はどこにいたのでしょうか。誰も枯れもが畏れに震えてひとかたまりに入り混じっていました。その家の者も悲嘆に暮れ、圧倒的な恐怖が私たちを飲み込んだのでした。奴隷も貴族も一つでした。同じ死の恐怖が私たちの間に蔓延していたのでした。」(ブラウンp15)
ローマはすでに帝都ではなかったが、なお西方社会の中心であり、帝国の文明全体のシンボルであり、帝国がキリスト教化されても帝国を守護する伝統的な神々が祀られた場所であった。アウグスティヌスは「東方の諸族はローマの没落を哀泣し、地の果てにいたるまで都会と田舎おしなべて、うろたえ、嘆いた。」と述べている。また、ヒエロニムスは「もしローマが滅びるとしたら、何が安泰でいられるというのでしょう。」(ブラウンp15)また、「世界の燈台は消えた。ローマ市の滅亡はやがて全人類の滅亡である。 」と哀しみの言葉を残している。
ローマが滅んだ理由をローマの伝統主義者たちは、キリスト教のせいだとした。キリスト教がローマの伝統的な神々をないがしろにした結果が、ローマ略奪であると。また、キリスト教徒たちがしばしば兵役を軽んじ忌み嫌ってきたことも非難の理由であった。伝統主義者たちは、共和制時代の古代のローマが理想の道徳的社会であったという「神話」をもって、帝国がキリスト教化されたところに問題があるとキリスト教を批判した。
永遠不滅の都と信じられていたローマの陥落という時代の転換期に、アウグスティヌスは歴史の問題について思索する。そして、ただローマの歴史のみならず、歴史における国家、正義、平和、それらを包括する神と人類の関係、教会の意義について考究する。 
(2) 構成と内容
アウグスティヌスは、これら異教の伝統主義者に対して立ち上がる。まず413年に1-4巻を公刊。その後13年以上もかけて執筆された。しかし、内容を見ると全体的な構想が当初から明瞭にあったことがわかる。
第一部(序論)異教徒のキリスト教批判へ反論
第1巻から第5巻
異教の神々を崇拝すれば人間社会は繁栄し、それを禁じたことがローマ衰亡の理由だとする人々への反論。ローマの衰亡は、キリスト教化される以前からのローマの不道徳が理由である。異教の神々は悪霊であり、悪霊はローマ人に正義も道徳も教えず、かえって悪行を助長した。キリスト教布教以前、神々が礼拝されていた時代にもすでに、戦争や災害は事実あった。
第6巻―第10巻:異教の神々への礼拝が死後の生の幸福のために有効だとする人々への反論
異教の神々は地上でも死後の生のためにも無益。悪霊礼拝批判。
弓削達はローマ帝国の道徳的退廃について、6章「悪徳、不正、浪費、奢侈、美食」とし、「ローマ人は全世界からあらゆる珍味を集めたが、放恣に疲れきった彼らの胃は、それを受け容れることができなくなったのである。ローマ人は『食べるために吐き、吐くために食べているのだ』というセネカの非難は単に過食の贅沢に向けられたものではなかった。全世界からかき集めた富を、奢侈と浪費に蕩尽している不健康な悪徳に対する文明批判なのである。吐いた汚物は、便所か路傍の小便壷に捨てられるか、あるいは道端に投げ捨てられる。不正によってかき集められた富は、こうして無駄に浪費されて行く。その汚物は、飢えた庶民の目の前に、日々投げ出されていたのである。」 ローマ末期の文化のもう一つの特徴は7章「性解放、女性解放、愛欲の文化」である。
第二部(本論)二つの国の展開としての歴史・・・聖書による歴史哲学
第11巻から第14巻:「神の国civitas dei」と「地の国civitas terrae」の起源
二つの国の起源、展開、終末についての聖書の教え。創造、天使の堕落、人間の創造と堕落、原罪論。
第15巻から第18巻:二つの国の展開してきた道筋
二つの国と二種の人間の起源、展開。ノアの洪水、アブラハム、イスラエルの歴史の意味と預言者。
第19巻から第22巻 究極の到達点
最高善、真の幸福、平和、秩序、正義。最後の審判が問題。神の国の永遠の平和について。
抜粋
「このようにして、二種の愛が二つの国をつくったのであった。すなわち、この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛amor suiであり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神への愛amor deiである。一言でいえば、前者は自己自身において誇り、後者は主において誇るのである。前者は人間からほまれを求めるが、後者では、良心の証人であられる神においてもっとも高いほまれを見出すのである。前者は、自己のほまれにおいてその頭を挙げるのであるが、後者は、前者の諸民族においては、その君主たちや、君主たちが隷属させている人々のうちに、支配しようと言う欲情が優勢であるが、後者においては、上に立つ者は、その思慮深い配慮により、そして服従する者は従順に従うことにより、愛において互いに仕えるのである。前者は権力をもつ者において強さを愛し、後者はその神にむかって『主よ、わたしの強さよ、わたしはあなたを愛する』というのである。」
「歴史は、あらゆる国家、人間の制度、人間のかかわるすべてのもの、時間と空間のすべてである。歴史のあらゆるところで、神の国と地の国、神への愛と自己愛が入り混じって存在している。ローマ帝国が地の国でもなければ、教会が神の国と同一でもない。…二つの国は不可視的なものとして存在している。(中略)
人間も人間の集団の歴史も、このふたつの愛の間をさまよっている。この世で、神の愛に基づく国をつくり、正義、平和、秩序を求めることはむずかしい。しかし、過去の過ちを探り、永遠の平和を求めて、地上の生活を続けていく。・・・・・それが人間の歴史である。
アウグスティヌスは歴史の起源と展開を問題にするだけでなく、歴史の終局から歴史の過去と現在をみつめとらえようとする。・・・・歴史の意味が問われる。」
5. アウグスティヌスの死とラテン的アフリカの終焉 

 

429年5月、南イスパニアのゲンセリック率いるヴァンダル族、総勢8万うち兵士2万人がジブラルタル海峡を渡った。彼らはアリウス派のキリスト教徒であり、戦の神が自分たちに味方していると信じていた。彼らはいたるところで略奪、暴行、殺人、放火をほしいままにした。ティアパの司教ホノラトゥスはヒッポのアウグスティヌスに手紙を書いた。このようなとき、教会の教師はどうすべきか。蛮族にむなしく殺されるよりは、信徒と教会のために逃避したほうがよいのか。と。アウグスティヌスはすぐ返書を認める。
「司教はいかなるときにも住民を見捨てたり、教会を捨てるべきではありません。困難と危険が切迫しているときに、司教たるものは人々のために苦悩を背負い、生命を賭して働くべきです。それなにしはキリスト者であることも、キリスト者として生きる意味もありません。たとえ民衆のために殉教することがあっても、愛に生き、愛に死ぬべきです。あなたは、目の前で男が殺され、女が凌辱され、教会が焼き払われ、略奪が行なわれている、蛮族の剣や拷問によって無残に生命を失うより逃げたほうがいい、と言う。そのとき、あなたは恐れている災いよりももっと恐ろしい災い、災いを恐れる怖れに陥っているのです。なぜ神のあわれみによって、怖れに向かい勇敢に戦おうとしないのですか。愛のゆえに死ぬよりも、愛なくして生きるほうがはるかに恐ろしいのです。魂の清さを失うことを、肉体に危害や屈辱を受けるにもまして恐れなさい。真の純潔は心に保たれるもので、暴力によって犯されるものではない。肉体が剣で殺されるよりも、心が悪霊の剣で殺されることを恐れよう。外的建物が焼かれるより、聖霊の宮が滅びることを余計に恐れよう。一時的死でなく、永遠の死の恐ろしさを思うように、人間がひとりでも町にいるかぎり、そこにとどまり、主の力によりその人に罪の許しを語り、慰めと励ましを与えるように努めてください。最後のひとりになるまで愛をもって仕え、愛によって生きてください。どんな危険に遭遇しても、恵み深い神が力と愛を備えてくださることを信じて祈りましょう。後略」
「船長はもちろん、水夫でさえも、船が危険なとき、そんなにたやすく船を見捨てることなどは夢にも思わないものです。」
そして、430年6月、ヴァンダル族はヒッポを包囲した。人々は飢餓と、恐怖と死の不安の中に過ごさねばならなくなる。「死の状況は絶望的に思われた。死は避難民であふれ、海からは遮断されていた。アウグスティヌスは病気にもかかわらず、信者たちの中にふみとどまることを望んだのであった。かかる試練は当然の罰であると考える。・・・しかし同時に彼は涙を流しながら、慰めの神に試練の軽減に同意されますようにと懇願する。」
同年8月、アウグスティヌスは熱病に倒れる。床に臥してから死ぬまでの十日間。彼は悔い改めのダビデの詩篇4篇を書き取らせ、それを記した紙がいつも見えるように壁に貼り付けた。そして、これを独りで読んでは、ひっきりなしに痛恨の泣き声をあげて、祈った。430年8月28日、76歳で生涯を閉じる。罪の懺悔と神への讃美以外はなにも口にすることなく、彼は息を引き取った。
包囲14ヶ月目にヴァンダル族はヒッポになだれ込み、町は占拠され破壊された。アウグスティヌスが40年間かけて築いたものは無に帰した。後に、最期までアウグスティヌスのそばにおり、彼の伝記作家となったポシディウスはいう「しかし、私は、彼から多くを得た人は、彼が、教会で話しているのを、実際に、見たり聴いたりすることができた人であり、とりわけ、彼が人々のあいだで歩んだ生涯のあり方に触れていた人だと思います。」 
 
「神のかたち」であるキリスト 

 

「1:26 神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。 1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」創世記1章26,27節
「1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」コロサイ書1章15-17節

コロサイ書1章における創世記1章の「神のかたち」開示を出発点として、キリストを中心として神の計画全体の理解に展望を開く。 
1.コロサイ書による創世記1章26・27節の「神のかたち」理解 

 

(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト論
創世記1章26,27節の人間創造の記事における「神のかたち」とは何を意味するのかについては、古代から多くの議論がなされてきた。創世記1章26節では、「われわれのかたちにおいて(WnmeÞl.c;B.、)われわれに似せて(Wnte_Wmd>Ki.)」と、ツェレムとデムートという二つの言葉が用いられ、七十人訳聖書ではツェレムはエイコーンeivkw.n、デムートはホモイオーシスo`moi,wsijと訳され 、ウルガタではツェレムはimago、デムートはsimilitudoと訳され 、英語訳では一般にツェレムはimage、デムートはlikenessと訳されてきた 。本稿では引用文を除きツェレムを「かたち」、デムートを「似姿」と訳すことにする。
エイレナイオス(130-200AD)は、創造における「神のかたち」は御子であると述べている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。 」またエイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の両手に譬える独特な聖三位一体の理解に基づいて、御子を「かたち」に聖霊を「似姿」に関係付け、神はこの両手でもって人間を造られたとし、「かたち」は人間においては、肉体 ・理性・自由・自律性といった本性に見出されるという。他方、聖霊が与える「似姿」とは、肉体の救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味する 。
オリゲネス(185-254AD)は、『諸原理について』第三巻で創世記1章26節のこれら二つのことばを区別して解釈している。すなわち、神が26節で「我々のかたち、我々の似姿にしたがって人を造ろう」と言いながら、27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、似姿については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、像(かたち)としての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)像としての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである 。」というのである。
オリゲネスが「神のかたち」について述べていることの中でさらに注目すべきことは、創世記1章における「神のかたち」とは御子であると述べていることである。「では、その像に似姿として人間が造られた神の像として、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブ1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハ14:9)という方である。 」
このように、オリゲネスとエイレナイオスが共通して述べているのは、創世記1章における「神のかたち」は御子であるということと、創造における人間は未完成であって、終わりの時に究極的な完成を見るということである。
また、アタナシオスも次のように述べている。「善なる方として(神)は、彼ら(人間)をご自分の像であるわれらの主イエス・キリストにあずからせ、ご自分の像にかたどり、似姿にかたどって彼ら(人間)を造られたのである。それは、このような恵みを通して、像―つまり私の言わんとするのは父の言(ロゴス)である―を認識して、(言)を通して父に関する概念を受け入れることができるようになり、創造主を知覚することで、幸福で祝された生涯を送ることができるためであった。」
そして、「福音主義神学」に発表して後、さらに確信が深まりつつあるのは、実はエイレナイオスとオリゲネス(追記 およびアタナシオス)の創世記1章の「神のかたち」に関する理解は、新約聖書そのものの創世記1章の「神のかたち」理解であり、アウグスティヌスより前の古代教会における一般的な理解だったのではないかということである。新約聖書記者・初代キリスト教会・古代教会における主要な関心事の一つは、キリストが受肉以前の旧約時代に生きておられ、さらに御父とともに永遠にいまし、旧約時代にも生きていましたお方であられるということであった。イエスが神であられる以上、それは当然のことであった。もしそうでなければ、ナザレのイエスは単なる新興宗教の教祖にすぎないことになってしまう。イエスご自身の言明においても、ご自分はアブラハムにあたかも昨日会ってきたように話された(ヨハネ8:58)。預言者イザヤはイエスの栄光を見たのだとも言われている(イザヤ6:1,ヨハネ12:41)。ヨハネ福音書冒頭にも、同17章のイエスの大祭司の祈りにも、ピリピ書のキリストの受肉についての記述にも、われわれは先在のキリストを見る。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。」ヨハネ1:1,2
「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」ヨハネ17:5
「 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、」ピリピ2:6
創世記1章26,27の「神のかたち」がキリストであるというコロサイ書の記述は、上述のような新約聖書の記述のひとつだということができようし、初代キリスト教会の旧約におけるキリスト理解のひとつであったと思われる。
ところが、アウグスティヌス(354-430AD)において「神のかたち・似姿」について、大きな理解の転換が訪れる。アウグスティヌスは、「かたち」と「似姿」の違いには関心を寄せず、むしろ「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という説を批判して、神が「我々のかたちにおいて」と言われているゆえに、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたということを強調する 。アウグスティヌスがこのように強調しなければならなかったことには背景がある。「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という理解の仕方では、「御子は御父に似ていないことになる 」のではないかという懸念があったからである。つまり、御子の神性が割引されて、御子は父と同質でなく、一段下の存在であるというアレイオス的「従属説」の異端に陥ることを警戒しているのである。
「少なくとも使徒以来、キリスト教史の中では、その教説によって千年もの間支配的であった人物は、アウグスティヌス以外にはない。 」とJ.ペリカンがいうように、アウグスティヌスの神学的権威がその後の教会において絶大であったため、御子が人間の創造における「神のかたち」であるという理解は、その後、長らく教会史のなかで封じられることになったと思われる。千年間どころか、事実上、アウグスティヌスは近代に至るまでカトリック・プロテスタントを問わず西方教会の歴史的信仰に立つ者たちにとって巨大な権威である。そういうわけで、創世記1章の「神のかたち」は御子であるというオリゲネスやエイレナイオスの理解は、中世・近世を通じて封じられてしまった観がある。
中世のスコラ哲学においては、自然と恩寵の神学の枠に合わせて、自然的賜物としての理性と意志の力がツェレム、超自然的賜物として神によって付加された賜物がデムートであるとされるといった解釈上の変化はあるが 、御子こそ「神のかたち」であるとは教えられない。カルヴァンは 、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠は薄弱であるといったことは論じているが、御子が人間創造における範型としての「神のかたち」であるという理解は改革者にあっても忘れられたかのようである。
18世紀以降近代の啓蒙主義的な前提に立つ聖書学は、聖書の権威からも解放されているから、アウグスティヌス的権威からも解放された。しかし、近代聖書学は、聖書が全体として統一性ある神の啓示だとは信じず、聖書を成す各巻はそれぞれの時代の文化や執筆事情を背景として成立した歴史的文書にすぎないことを前提としているので、聖書各巻は、それぞれの書自体として完結しているものとして読まれるべきであるとされる。したがって、コロサイ書1章で創世記1章を釈義するなどということは、近代聖書学者にとってはナンセンスなこととされてしまう。その後、K.バルトが示した男女の相互主観的関係の根拠が「我々」と自称される三位一体の神のかたちなのだという解釈は興味深いものであるし 、また創世記の書かれた時代的文化的背景からの解釈として、「王の『像』がその地にあっての王の権威と存在を代表しているように(ダニエル3:1,5)、神の『像』である人間は被造物世界における神ご自身の権威と統治を代表するかのように立てられている 」という聖書学者たちの見解は、近代聖書学の方法論のもたらした成果として意義あるものではある。しかし、近代聖書学のパラダイムでは、創世記1章の人間創造に際しての「神のかたち」が御子であるという理解を得ることはできない。
以上のように中世から近世にわたっては、キリスト従属説に対するアウグスティヌスの過度の警戒感によって、そして近現代においては近代聖書学が聖書啓示の統一性を否定したことによって、アウグスティヌスより前の古代教父たちが旧新約聖書から読み取っていた、(追記 いなむしろ、新約聖書自体が教えている)御子が人間創造における「神のかたち」であるという理解は封じられてきたと考えられる。 
(2)コロサイ書による「神のかたち」の開示
コロサイ書1章15節本文は以下の通りである。
「神のかたち・似姿」にかんする諸説を見てきたのだが、聖書の統一性・漸進的啓示を信じる立場に立つならば、パウロが記したコロサイ書1章15節「御子は見えない神のかたち」に依拠して、創世記1章の「神のかたち」は端的に御子を指していると理解するのがもっとも妥当であると思われる。
聖書啓示の統一性ということで我々が意味していることは、多くの記者の性格・能力・状況が用いられたにしても、唯一の著者である神がその多くの記者たちを十全な指導によって導かれたことのゆえに、聖書は全体として統一された書として成り立っているということを意味する。聖書啓示の漸進性というのは、神は聖書において真理を一度にすべてではなく少しずつ明らかにされたことを意味する。特に、旧約聖書においては暗示されるにとどまっていた真理が、新約において明示されているということである。
コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述が創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることは、次の二点から明白である。第一点は、コロサイ書1章15節は、創造論の文脈で語られているということである。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)幼い日から、律法に親しんだパウロが、創造について論じその中に「神のかたち」と記すとき、創世記1章26節、27節を念頭に置いていなかったと想定することは、ほとんど不可能である。コンツェルマンは、コロサイ書1章14節までの散文体が15節から詩文体に変化して20節までがひとつの讃歌となっていることを指摘し、この讃歌は、この手紙の著者の作ではなく、原始キリスト教会において用いられた讃歌の引用であるとしている 。F.F.ブルースもこの箇所がパウロのオリジナルではなく、原始キリスト教会共通の教えから受け容れたものの一部である と考えている。実際、キリストが神性・先在性をそなえた創造者・神を現す方であるという思想は、コロサイ書のみならずヨハネ福音書1章1−3節およびヘブル書1章2,3節にもあることを見れば、これが原始キリスト教会共通の教えであったという判断は妥当であろう。かりに事実そうであったとしても、パウロがこの讃歌を引用するにあたって、創世記1章27節の創造の記事を念頭に置いていたことは疑い得ない。
コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述が創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることの第二の根拠は、旧約聖書において詩篇やヨブ記も神の創造のわざに言及しているけれども、人の創造における「神のかたち」について述べているのは、創世記1章26,27節以外にはないということである。しかも、神の「かたち」という用語に注目すれば、コロサイ書はeivkw.nという語をあてていて 、これはパウロが常々用いていた七十人訳聖書が創世記1章27節で「神のかたち」に用いている訳語と同一である。以上の事実にかんがみれば、パウロが「御子は見えない神のかたちである」とコロサイ書1章15節を記したとき、彼の念頭に創世記1章26,27節があったことに疑いの余地はない。
では、コロサイ書1章の「神のかたち」である御子の役割とはなにか。御子は創造の代理者、保持者であり、目的であると、16,17節は語っている。大づかみにいえば御子は神と被造物の仲立ちの役割を担われる 。無限の超越者である神が、有限な被造物といかにかかわりうるのかということは、哲学的難問であるが、パウロは三位一体の第二ペルソナである御子が、有限な被造物との仲立ちを担当しているのだと語っているのである。
このように解釈したばあいアレイオス的従属説に陥るのではないかというアウグスティヌスの懸念を払拭しておきたい。彼は先に述べたように、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたと強調し、「もし御父が人間を御子の似像によって創られ、したがって人間は御父の似像ではなく御子の似像であるなら、御子は御父に似ていないことになる 」と推論して、御子のかたちにしたがって人が造られたとする説を批判したが、この推論には誤りがある。アウグスティヌスに対して、我々は、「人は御子のかたちに似た者として、したがってまた、三位一体の神のかたちに似た者として、造られたのだ」と応えよう。父と子と聖霊は本質において同一だからである。聖書は、人は御子の似姿として造られたと述べ、かつ、時には男は神の似姿でもあるとも呼ばれ 、それゆえ神の子どもたちは御父のように完全になることが期待され 、かつ、人は御子に似た者となることが約束されている 。御子に似ることは、父に似ることなのである。御子が人間の創造において仲立ちの役割を果たされたことは、御子が本質において御父に劣っていたことを意味するものではない。御父と御子と御霊は同質であり力と栄光を等しくされる。
なお「見えない神のかたち」は表面的には、プラトン的思想の影響下に成立したグノーシス思想のロゴス論に似ているが、両者は本質的に異なっている。そもそも「コロサイ人への手紙は、グノーシスが広がり始めた初期に、これとの神学的対決が開始された状況をわれわれに示し」てくれる書物である 。コロサイ書の議論を仔細に検討すれば、想定された論敵の思想は「すべての支配・権威 」といった天使たちの諸階級を構想し、諸天使への礼拝を求め 、キリストを諸天使のひとりとみなしていたと推定される。それゆえパウロはこれに対して、「王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」とキリストの絶対性を主張して、その論敵を一蹴している 。また天的なものを善、地的なものを悪とし、見えない霊を善、見える物質を悪とするのがグノーシス的二元論的世界観の基本的枠組みであり、物質を造ったデミウルゴスは悪い神であるとするのだが、コロサイ書は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの」すべてを造ったのは御子であると述べて、グノーシス的二元論を排している。そして、もう一つの決定的違いは、霊肉二元論に立つグノーシス思想にとってロゴスの受肉と受難はありえないのに対して、コロサイ書は神は御子の十字架の血によって平和をつくられた と述べている点である。
以上のようなわけで、コロサイ書1章15節における「神のかたち」はパウロと原始キリスト教会が常に親しんだ創世記1章に根ざしていることは明白である。ちなみに、H.リダボスも、コロサイ書1章15節の「神のかたち」という表現が、フィロンないしグノーシス主義の影響から出ているとする説は信用に値しない として、創世記1章27節に直接的に根ざしていると指摘する 。三位一体の神は、ご自分に似た者として人間を創造されるにあたって、御子が仲立ちの役割を担当されたのである。創世記記者によってすでに暗示されていた真理が、時満ちて、聖霊に導かれたパウロによってベールをはがされ、明示されたのである。 
(3)創世記1:27の邦訳について
ここで新改訳聖書第三版の創世記1章26,27節に少々触れておきたい。新改訳聖書第三版は、件の箇所を、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。(中略) 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と訳している。七十人訳聖書は、創世記1章27節の~yhiÞl{a/ ~l,c,îBを、katV eivko,na qeou/ すなわち「神のかたちにしたがって」と訳しているので、コロサイ書1章によって、<「神のかたち」は御子であり、その御子になぞらえて人は創造された>と理解できる。だが、新改訳聖書第三版は創世記1章27節の「神のかたちとして」という訳では、<人イコール「神のかたち」>ということになって、御子の創造における仲立ちの役割が見えない 。
これに対して、文語訳(明治訳)は「神の像の如くに之を創造り」と訳している。ここに重大な違いがある。新改訳第三版では、<人イコール「神のかたち」>という意味に取られるが、他方、文語訳は<人は「神のかたち」に従って造られた「神のかたち」の如きものである>という七十人訳と同じ趣旨になる。
翻訳のポイントは、~yhiÞl{a/ ~l,c,îBにおける前置詞Bをどう訳すかということである 。Bという前置詞のもっとも一般的な訳語は英語でいうinであるから「神のかたちにおいて人を創造された。」と訳すのがもっとも無理がない。実際、ほとんどの英語訳聖書はin the image of Godと直訳している。我々は、ほとんどの英訳聖書また日本の文語訳聖書がそうしているように、「神のかたちにおいて人を創造し」と訳すのがもっとも適切であると思う。
確かに神と御子は本質において等しく、御子のうちにこそ「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿ってい 」るのであるから、人が御子になぞらえて造られた以上、当然、御子を介して、父なる神のかたちでもあるので「人は神のかたちである」という表現も間違いではない 。しかし、コロサイ書1章の光に照らされて、御子の仲立ちとしての役割を知った我々としては、創世記1章27節は、「神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造し・・・」と直訳したほうが、コロサイ書による開示とも一致するので、より適切であると考える。しかも、「神のかたち」とは御子であり、従って、神はもともと人を御子に似た者として造られたという真理は、後述するように御子の受肉や我々の救済の理解にも無理なく連絡する。
聖書は自然的過程を経て成立した単なる文化的所産にすぎないと信じる自然主義者や理神論者にとっては、創世記釈義にコロサイ書を適用するのはナンセンスなことであろう。しかし、十全な指導によって旧新約66巻の聖書啓示を漸進的かつ統一的にお与えになった聖霊を信じる我々にとっては、コロサイ書による創世記1章のキリスト論的開示こそが、規範的釈義であると判断すべきであろう。 
2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈の必然性

 

創世記1章26,27節にいう「神のかたち」は御子であり、人は御子に似せられて造られたものである。つまり、御子は創造論的に神と人との仲立ちの役割をしておられる。本章では、おもにコロサイ書1章15節に基づいて、御子は創造においてのみならず、啓示と救済においても、神と人との仲立ちをされることを明らかにする。
さて、コロサイ書1章15節が「御子は見えない神のかたちである」と述べる、「見えない神のかたち」という表現はなにを意味するのであろうか。神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(1テモテ6:16)とあるから、人間は神に近づくことも、見ることもできはしない。人が神を見ようとすることは、たとえば好奇心に駆られた研究者が望遠鏡で太陽を見ようとするようなものである。御子は、人が見ることのできない超越者を「見る」ことができるようにしてくださるお方であるという意味で「神のかたち」である。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)ておられ、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」(コロサイ2:9)いるので、我々は御子を見るとき、御父を見ることができる。同様の思想は、ヨハネ福音書にも表現されている 。宇田進はコロサイ書1章15節に次のように的確な注解を付している。「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。 」
伝統的に、キリストの仲立ちとしての役割という言い方は、救済に関して言われることが最も一般的であるから、ここではその典型的証拠聖句はひとつだけ挙げるにとどめておく。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(1テモテ2:5,6)
このように啓示と救済において、御子が神と被造物の仲立ちの役割を果たすことができるのは、そもそも創造において御子が、神と被造物との仲立ちであられるからである。御子は、創造における神と被造物の仲立ちの立場を基盤として、啓示においても、救済においても、神と被造物の間に立って仲立ちの役割を果たされるのである。J.オアは御子が聖三位一体のうちの啓示の原理(the principle)であり、世界と人間の創造における啓示は、御子を通してなされたという趣旨を語っている 。またコンツェルマンはコロサイ書1章15節と18節後半が対応して、前者は創造の仲立ちとしてのキリストを叙述し、後者は救済の仲立ちとしてのキリストを叙述していると述べ、救済者は創造者と一つであるが故に、救済が可能であり、確実となるのだというのがこの讃歌の基本的思想だと解釈している 。
このようなわけであるから、神認識にあたってのキリスト論的集中というのは創造と保持における神と被造物との関係を基盤とした啓示のあり方からして必然である。御子は見えない神のかたちであって、見えないお方を見えるようにしてくださる唯一のお方であるからである。もしキリストを通さず哲学的思弁をもって神を知ろうとするならば、そこで見出された神は生ける真の神ではなく、スコラ学者たちが陥り、パスカルが非難した「哲学者の神」つまり抽象的な哲学概念としての神にすぎない。また、御子を介さずに生きた聖霊体験を求めようとする人は、暗い森の中をさまようことになる。なぜなら体験主義者は、その体験が神からのものなのか、それとも悪魔からのものなのかが識別できないからである。だから神認識に関しては、神論的集中とか聖霊論的集中ということはありえない。K.バルトは使徒信条を講解して、「キリスト教神学者たちが、造り主なる神の神学を抽象的・直接的に考案しようとした場合には、たとえ彼等がこの高き神を、どのような畏敬をもって考え・また語ろうとしても、いつも迷路に踏み入ったのである。そしてこれと同じことは、神学者が第三項の神学に、即ち第一項の高き神とは反対の体験の神学に、突進もうとした場合にも、起ったのである。 」と述べている 。
バルトの警告にもかかわらず、今日、ニューエイジ・ムーブメントの波に呑み込まれて、自由主義陣営の神学は包括主義から宗教的多元主義に突き進み、ますます第三項の体験の神学の暗い森に迷い込んでしまっている。我々は「霊性の神学」には一定の意義があることを認めるものであるが、人として来られたイエス・キリストを告白しない霊による神学は、ヨハネが警告するとおり 、反キリストの霊によるものである 。
イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」と言われたとおり、我々はただイエス・キリストを通してのみ、生ける神を知り、聖霊の満たしを経験することができる。
我々はコロサイ書1章における創世記1章のキリスト論的開示の一端を見たが、それどころか、復活の日、主イエスは旧約聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた 。旧約各巻をその記述された時代・文化・言語の文脈の中で解釈するという意味での歴史的文法的聖書解釈の意義を否定するわけではもちろんない。だが、特に霊感を受けた新約聖書記者またキリスト御自身が旧約聖書をキリスト論的に開示しているところについては、上記の意味での「歴史的文法的聖書解釈」は自らの限界を認める謙虚さが求められるべきであろう。 
3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する

 

神は、人を御子に似た者として創造された。オリゲネス、エイレナイオスに倣って、我々はこの理解を神の救いの計画全体の中に位置づけたい。「神のかたち」である御子を軸とするとき、創造、人間、キリスト、救済が、さらに予定と教会と終末的完成が一本の太い筋でつながっていることが明確に見えてくるであろう。
(1) 人間の尊厳のリアリティ
「人間の尊厳の根拠とはなんですか?」という問いに対して、筆者は伝道者となって以来、「それは神が人間をご自分に似た者に造ってくださったことです。」と答えてきた。聖書は「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:6)とか、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9,10)と教えているのだから、まちがった教えではなかった。しかし、質問者の表情は、『そうですか。でも、なんだかピンと来ないなあ』と語っていた。考えてみれば、神は人には近づくことも見ることもできないお方であるから、その神に似せて造られたという人間の尊厳も、やはりよくわからないということになる。それは、ちょうど哲学的手法で存在を証明された神が、単なる観念としての神であって、生ける神でないことに通じている。神が単なる観念に過ぎなければ、それに似せて造られたという人間の尊厳もリアリティに欠けるただの観念となってしまうのである。「いまだかつて神を見た者はいない」以上、いまだかつて人間の尊厳を見た者もいないのである。
だが、イエスが「わたしを見た者は、父を見たのです。 」と言われた通り、御子を見ることによって我々は父なる神を見ることができる。さらに、本来、人は御子イエスに似せて造られたものだということを知るならば、我々は、人間の尊厳をもリアルに知ることができるようになるだろう。我々は、キリストに出会うとき、神に出会うのみならず、自己と隣人とも出会う。「貧しい人にふれるとき、わたしたちは実際にキリストの身体にふれているのです。」というマザー・テレサのことばは、このことと深く関連しているであろう。 
(2)キリストの受肉の理解
創世記1章の「神のかたち」とは御子であるという理解によって、御子の受肉の出来事が正しく位置づけられよう。オリゲネスは、次のように講解している。「したがって、この方の像の似姿として人間は造られ、このため、神の像であるわれらの救い主は、その似姿として造られた人間に対して共感の情をもっていたが、人間が自分の像を捨てて、邪悪な者の像をまとったのを見て、憐れみの情に駆られ、人間の像を自分のものとして、(人間の)許に来たのである。 」また、エイレナイオスは、次のように言っている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(Tペト1:20)のであった。 」すなわち、創造における「神の似姿」は御子であり、御子は人がご自身に似ていることを見せるために受肉したというのである。
つまり、F.F.ブルースの言い方でいえば、人が御子に似せて造られたという事実が、後に御子が人となられたことを可能にしているのである 。受肉において御子が取った人性とは、堕落前の人性であり、その人性とは御子自身を範型として造られたものである。御子が人性をとったというのは、本来ご自身に似た者として造られた者の性質を帯びられたという事態であって、御子は似ても似つかぬものの性質を取ったわけではない。
キェルケゴールが、ヨーロッパ思想に伝統的なプラトン的二世界説を背景として、「永遠が時の中に突入した瞬間」というような言い回しで受肉を表現し、弁証法神学がこれを援用したので、現代の我々はある程度これに慣れてしまっている。たしかに「永遠が時の中に垂直に突入する」といったダイナミックな表現には、19世紀の汎神論化した自由主義神学において「自然と同質化された神」を打ち砕くという一定の功績はあったのは事実であるが、反面、そこでは神と人の異質性のみが強調されたあまり、創造論との関係における受肉の聖書的な理解を妨げてきたのではなかろうか。受肉とは、グレーゴル・ザムザが何の脈絡もなく、ある朝、突然毒虫に変身してしまった というような不条理な(absurd)事態を意味しているわけではない。むしろ、主の譬えを用いて言えば、受肉とはあの父親が放蕩息子に駆け寄って抱きしめ接吻してやまなかったという事態を意味しているのである。いかに豚の糞尿にまみれて悪臭を放っていたとはいえ、あれは息子であった。あの父親はゴキブリに駆け寄って接吻したわけではない。しかも、父は「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と言おうとする息子に最後まで言わせず 、その指に相続人の証である指輪をはめさせた。驚くべき愛。しかし、馬鹿げた(absurd)愛ではない。 
(3)聖化の理解
人は本来、御父と聖霊との愛の交わりのうちに生きる御子に似せて造られた者であった。それゆえ、人は神を愛し、また、互いに愛し合うべきものである。また、人は御子に似た者として造られたからこそ他の被造物を正しく統治する務めを担っていた。とはいえ創造の段階におけるアダムは「血肉のからだで蒔かれ 」たので無罪ではあったが未完成であり、善悪の知識の木の試練のかなたに「御霊に属するからだ」という完成体を目指す、「罪を犯さないこともでき、犯すこともできる罪なき状態」の自由意志を与えられていた 。
ところが、人は罪に堕ちて「神のかたち」に似ない者、つまり「罪を犯さないことができない状態」、すなわち、「救いを伴うどんな霊的善に対する意志の能力もみな全く失っ 」た状態に陥り、被造物を暴君的に支配するようになった。
しかし、受肉した御子の十字架の死と復活によって、信じる者は義と認められ、御霊を与えられ神の子どもとされた。神が、子とされた者たちに与えた聖化の目的とは、パウロが以下に述べるように、「神のかたち」である御子にますます似せられて行くことに他ならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)とあるが、造り主とはすなわち神であるから、「造り主のかたち(eivkw.n)」とは、すなわち「神のかたち」である御子を意味している。パウロは、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)とも述べている。
オリゲネスやエイレナイオスが創造における人間を未完成と捉え、我々の目指すのがいよいよ神に似せられることとしたのは適切であった。またエイレナイオスが、究極の救いにおいて肉体の救いを含めた全人的救いを視野に入れていたことも聖書的に正しいことであった。 
(4)「神のかたち」と教会の職務
人は、本来「『神のかたち』のかたち」つまり、「御子のかたち」として造られた。アダムにあって堕落してしまった人間の品性は腐敗しているので、人間を観察しても神に似たところを見出すことはむずかしい。しかし、我々は「神のかたち」であるキリストを知っている。真の神であられたが真の人となられたキリストのうちには、堕落の影響をこうむっていない真の人性がある。キリストの全生涯に、本来の人性が現れている。その内容はあまりにも豊かで一言では表現しがたいので、ここでは御子の品性については、御子の御霊の実すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を挙げるに留めておく。
また、アウグスティヌスとカルヴァンは、パウロがエペソ書とコロサイ書で人の再創造の目標について述べるところにしたがって、創世記1章における「神のかたち」が人間の資質のどの点を指しているかを解釈している 。救いの計画全体の中で「神のかたち」を理解しようとした聖書解釈の手法に、我々は学ばなければならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)「造り主のかたち」とはすなわち御子である。その御子キリストに似せられてますます新しくされて行くならば、その人は「真の知識ἐπίγνωσιs」に至る。また類似の表現がエペソ書にある。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)と、新しい人は「真理に基づく義δικαιοσύνhと聖ὁσιότηs」を身に着けると教えられている。この両節を総合すれば、「神のかたち」の内実は、真の知識と真理に基づく義と聖とであるということになる。我々は、真の知識と義と聖ですべてを尽くしていると考えるわけではないが 、これらが「神のかたち」の主な要素であることは確かである。
グリム&セイヤーによれば、「真の知識」とは「道徳また神にかんする知識」を意味し、義とは「誠実さ、徳、生活の純粋さ、まっすぐさ、考え方、感じ方、行動の正確さ」を意味し、聖とは「神に対する敬虔さ」を意味している。これらが、たしかに見えない神のかたちである御子キリストにおいて完璧に備わっていたことを私たちは福音書において知ることができる。時折、改革派神学において、「神のかたち」における、知識を預言者職に、聖を祭司職に、義を王職にそれぞれ必要な資質として関連付けて理解し、キリストの三職と教会・キリスト者の三職とを関係付けているのを見かけるが、美しい整理だと思う。
人は、本来、御子の似姿として、従ってまた三位一体の神の似姿として造られたものとして、神を愛し、互いを愛し、被造世界を正しく統治するように立てられた。御子によって再創造された者は、その本来の姿に立ち返って、神への愛と隣人愛に生き、被造物をみこころに従って統治する務めが与えられている。教会は世の光として、そのサンプルを世に提供する務めを担った共同体である。 
(5)予定から終末まで
「神のかたち」であるキリストに視点を定めるとき、さらに予定から御国の完成に至る神の計画全体をも見渡すことができよう。パウロはエペソ書1章4節で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」という。この一節は、ローマ書8章29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたち(eivkw.n)と同じ姿(συμμόρφους)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」と平行関係にある。「御子のかたちと同じ姿に予定された」というのは、「御前で聖く、傷のない者にしようと予定された」というのと同義であり、聖化の完成としての栄化を意味している。それは、罪を犯しえない自由意志を与えられた「善だけを行為するように、完全かつ不変的に解放され 」た状態である。
しかも、その聖化の過程においてキリスト者は孤立しているわけではない。キリスト者たちは、キリストの義のゆえに神の前に義と宣言された被告であるばかりでなく、御子の御霊を受けて神の子どもとされた者同士、つまり、互いに兄弟姉妹であるからである。キリスト者は御子イエスを長子とする兄弟姉妹の交わりつまり教会のなかで、その罪から清められ神への愛と隣人愛の実を結んでいく。そして、終わりの時、被造物は滅びの束縛から解放され、御子を長子とする栄化された神の家族は、御国を相続しこれを正しく治める務めが与えられる 。 
結論  

 

人間が創造において範型とされた「神のかたち」とは御子であるという理解は、宣教上どのような益をもたらすであろうか。第一に、この理解に立つとき、旧約聖書と新約聖書のつながりが、明らかになる。創世記1章26,27節の「神のかたち」が、神の御子を意味しており、人は神の御子に似た者として創造されたという理解は、旧約聖書と新約聖書の一体性を明確にする。
第二に、予定論・創造論・人間論・キリスト論・救済論・教会論・終末論の流れがキリストを一本の筋として簡潔に把握できる。神は神の民を世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、そしてきよい御子のかたちと同じ姿にしようと予定された 。神は、御子に似た者として人を創造なさったゆえに、創造論的にも啓示論的にも、御子は神と人および全被造物との間の仲立ちであられる。だからこそ御子は受肉して罪を贖って、救済論的にも仲立ちとなられた。御子の十字架の死と復活を根拠として義と認められた者は、同時に御子の御霊を受けて神の子どもとされ、キリストを長子とする兄弟姉妹の中で聖化の道をたどるが、その目標は御子イエスにますます似た者とされていくことにほかならず、それは終末における主の再臨と全被造物の更新において完成する。
我々は、以上に基づいて、たとえば次のように聖書の教えを語ることができるだろう。「天の父は、人間を御子に似た尊い存在として造ってくださいました。だから、罪に堕ちてしまっている私たちをご覧になってかわいそうに思われました。そこで、御子は、私たちを罪と死から救うために、二千年前、自ら人となって私たちの歴史の中に来てくださり、イエスと名乗られました。御子イエスは、私たちの身代わりとして十字架にかかって死に、三日目に復活して、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。御子イエスを信じる私たちは、神の子ども、神の家族とされたので、長子であるイエス様から目を離さないで日々ともに成長していくのです。」 
 
物理学のあゆみ

 

1 哲学の一部としての物理学 
1ー1 事物(世界)に対する合理的説明
ギリシャに先行する古代の自然観
人間と自然は対立していない。自然は客体ではなく主体である。人間と自然は主体と主体の関係であり、自然は法則に支配された一般的関係ではなく、誰によってそのような姿になったかという創造の物語であった。
ギリシャ哲学に於ける自然
紀元前6世紀頃のタレスとピタゴラスにはじまるとされるイオニア時代 すでに自然から人格的なものを引き離し、自然を客体として扱う。自然は秩序あるものであり、必然性をもつ。その自然は生成されたものとして、その原始を探究した。それを原理として存在するもの、または秩序を導きだそうとした。彼らの宇宙観、物質観はその後多くの人々に影響を与えた。
デモクリトス(紀元前5世紀後半)は小さな分割できない粒子、即ちカラの空間の空虚のなかを運動している原子(アトム)からつくられる宇宙を想像した。原子は不変なものであり、さまざまな幾何学的形をもち、これによって結合して世界のあらゆる異なるものを形づくる原子の能力が説明された。また原子の運動により、あらゆる目に見えるものの変化が説明された。空虚すなわち何も詰まっていない空(カラ)を哲学に導入したが、以前の哲学者の宇宙は常識の宇宙であり、物質の充満した宇宙であった。
アリストテレス(BC384−322)は王子アレキサンダーの家庭教師をしていたこともあるが、彼は人類最初の大百科全書家であり、彼は当時関心をもっていた自然と人間についてあらゆることを説明しようとした。
アレキサンダー帝国でのヘレニズム文化にあっては、ユークリッド(紀元前300年頃)の幾何学、アルキメデス(BC287−212)の力学(てこの原理と浮力)、さらにヒッパルコス(BC190ー120)の天体観測が知られている。
1ー2 アリストテレスの自然学
デモクリトス(BC460頃ー370頃)の原子説(大きさのあるものの不可分性、空虚の存在、霊魂の物質性)などを批判し排除した。唯一の根元物質の第一資料(プロテ・ヒュレ)に温・冷・乾・湿の4性質のうち2つが加わって火(温乾)、空気(温湿)、水(冷湿)、土(冷乾)の4元素ができ、これらの組合せで第2の変化(石や血)、さらにこれらの組合せで第3の変化(顔や手)が生ずると考えた。
彼は physica (自然学)のなかで、自然とはものの運動或は静止の原理・原因であるとし、空間(そこに入りくるものとそこから去り行くものとの両者いずれとも異なるある何物かである)、時間(前と後とに関しての運動の数である)、運動(運動を主体から主体への移り変わりと限定した上で、更にその運動を性質の変化と量の増減と場所の変化の3つに区別する。場所の変化すなわち移動なるものが今日われわれがいうところの運動)について考察し自然運動と強制運動に、さらに自然運動を2つに分類し、運動を次の3つに分類した。
秩序が乱されない運動、天球の回転運動(円運動)
地上の運動のなかで、ある乱された秩序を回復する運動
物体の強制的な運動で駆動力を必要とする運動
何故落下するのか。物体は主成分は土である。土は元来下の位置にあるものであり、土が元の位置に戻るために落下する。
落下する物体の重さが重いものほど落下時間は短い。また物体の落下に要する時間は物体を取り巻く媒質の抵抗に比例する。
第3の運動については、強制された運動ー自然に反するこの種の運動には原因がなければならず、従って原因がなくなれば運動は終わる。
馬車は馬が引くから動くのであり、馬のない馬車は動かない。接触しなければ力は作用しない。
速さは駆動力に比例し抵抗力に反比例する。
矢が弓を離れても飛び続けるのは駆動力者の力が媒質を伝わって矢に働くからである。
空虚な空間では運動に対する抵抗がなくなり、瞬時に移動しなければならない。そこにおいては物体はどの様に運動してゆけば良いのかを知らない(物がないので駆動力も伝わらない)ことになる。真空の否定 
1ー3 アリストテレス運動学の解釈と論理の破綻
プトレマイオス(2世紀)の「天文学大全(アルマゲスト)」
天動説 星の配列は地球・月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星・恒星天の順序とした。(ストア派の説の継承)
天体の運動理論は、本質的には等速円運動の組合せによって説明されなければならなかった。その1つは中心が地球からずれた離心円であり、もう1つは周転円であった。(ヒッパルコスの説の継承)
フィロポノス(6世紀) アリストテレスの「自然学」の注釈
大風でも石や矢をそれほど飛ばすことができないという事実を挙げて、アリストテレスの放物運動を批判した。彼は投げられた物体が運動を続けるのは、駆動者が動力を媒質にではなく、物体そのものに与えるからで、この”こめられた力(vis impressa)”が物を動かし続け、外からの抵抗がなくても、それ自体、次第に消耗し、やがて運動は止む。媒質は運動にとって抵抗としてのみ作用し、速さを遅らせる役割を担うと。
ビュリダン(1300ー1358)のインペトス(impetus)理論
物体に刻み込まれた動力をインペトスと呼び、これは本来、永続的・恒常的なものであって、抵抗によって弱められない限り、それ自身としては自然に消耗することはないと考えた。このインペトスは物体の速さが大きければ大きいほど大きく物体の質量に比例すると考えた。「自由落下では重さが動力として落体内にインペトスを次々に与える。それが集積して増大するのに物体の質量は不変だから、運動はだんだん速められるという。また宇宙の創成にあたって最初に神が天体にインペトスを与えたとすれば、天空には何の抵抗もないので、このインペトスは永久に保持され、天体の永久的な円運動が簡単に説明される。」とした。
コペルニクス(1473ー1543)の地動説 「天球の回転について」
「太陽は万物の王座を占めている。これこそ光であり理性であり宇宙の支配者である。ヘルメス・トリスメギストはこれを神の顕現と名付けている」とし、太陽中心説を「現象を救うため」の仮設的な理論とは考えていなかった。
地動説に対する反論の1つ、もし地球が回転しているなら、地上の物体は回転から取り残されて地球の外に放り出されるであろうということに対しては、彼は地球の自転は自然的で強制的でない運動であるはづだということにしている。また太陽をめぐる地球の回転は重さの本質と矛盾するとの意見に対して、重さは世界の中心に向かう作用ではなく、1つのものになろうとする物体の努力であるからと説明している。 
2 古典力学の成立過程 
2ー1 新天文学と実験科学
ケプラー(1571ー1630)の3法則
テイコ・ブラーエ(1546ー1601)は占星家として、天体運航表を正確にしたいとの目的から、16年にも及ぶ精密な遊星(惑星)観測を行っていた。
テイコの結果を引き継いだ助手のケプラーは火星の奇妙な運動に興味をもち、その詳しい分析の中から火星の軌道面と地球の軌道面の間の角度を決定し、交叉線上に太陽がくること、太陽は火星の軌道面上にあると同時に地球の軌道面上にあり、太陽は火星と地球の両方に共通する運動の中心であることを確かめた。このことから第1法則「遊星は楕円軌道を描き、太陽はその1焦点にある」と第2法則「遊星と太陽を結ぶ直線は、等時間に等面積を描く」をみいだし「新天文学」に発表(1609)した。
また8年後に第3法則「任意の2遊星が太陽の周囲を回転する周期の2乗は、太陽からそれらの遊星への平均距離の3乗に比例する」を「世界の調和」に発表(1619)した。
古い時代の哲学者の自然観が多くの観察を根拠とするよりはむしろ思弁に導かれた神秘主義的色彩が強かったのに対し、ケプラーは正確な観察事実に拠りつつ厳密な数学的推論の手法をもちいて3法則の発見に至った。
「観察事実に拠りどころを求めて法則を追求する」という物理学の性格の重要な手法を学ことができると朝永は述べている。
ガリレオ(1564ー1642)落体の法則 「新科学対話」
19才のとき振子の等時性を発見したといわれ、パドア大学に移って落体運動の研究を始めた。彼はアリストテレスの「同じ高さから物を落とすとき、重い物は軽い物より早く着地する」に対し「重い物と軽い物を連結すればどうなるか」と疑問を持った。
アリストテレスに従えば、いづれよりも重いからいづれよりも早くなければならない。他方で、一部は早く落下しようとしても他方は遅く落下しようとするから、その中間で落下する以外ではありえない。これは矛盾である。だからすべての物体の落下の仕方は重さには関係がないと考え、これを「実験」で追求しようとした(1604頃)。
直接的に材質の異なる球を落下させて実験してみたようであるが、より精密には斜面の実験によって、金属球が斜面を転がり落ちるとき、球が静止状態から出発するとき、その走行距離が時間の2乗に比例して延びてゆくことを発見した。彼は斜面を垂直にした場合においても現象は同じ筈だと結論し、また物体の重さにも関係のない自由落下における等加速度運動の概念に到達した。
彼は水平におかれた平板上の球は最初に弾かれたとすれば、その後はその速さを維持すると推論し、減速の原因がない限り物体は永久に運動し続けるという、ある種の「慣性の法則」を主張している(ニュートンの直線運動としての慣性の法則ではなく、彼のは円運動でのものである)。
放射体の運動が水平方向の等速運動と垂直方向の自由落下運動の合成であると言う仮定を確かめる実験を行い、弾かれた物体は放物線経路をほとんど外れていないと報告している。この実験は船のマストから落とした物体はマストのすぐ近くに落ちることの話として、地球が動いていても、地上の人はそれを感ずることができないことを示しており、地動説に対する反論への反論の根拠となっている。
ガリレオの物理学への功績は単に自然を観察するだけでなく、人間がわから積極的に自然にはたらきかける「実験的事実」にもとづいて自然の法則を認識することの重要さである。
彼は落体の法則を発見していながら、それが重力によるものであるとは考えず自由落下はアリストテレスの分類における「自然運動」であるとした。
ガリレオに対するローマ法王庁の告発と有罪判決(1633)
「被告ガリレオは、一部のものの教えた偽りの学説、すなわち太陽は世界の中心で不動、地球は動き、しかも自転するという学説を、真実であると信奉し、また弟子をとってこの説を教え、この説に関してドイツの一部の数学者と文通し、さらに「太陽の黒点について」なる書簡を出版し、そのなかでこの学説を真実であると詳説した。あまつさえ、それらの説に対して聖書に基づいてなされた反論に応酬しようとして、被告は聖書を自己流にこじつけて解釈した。以上が被告に対する告発の理由である。」「以上によって検邪聖者は、強い異端の嫌疑を被告にもたらした偽りの学説は聖書に違反するものだ、とかって宣告され明示されたにもかかわらず、被告はなおその学説を信奉し弁護してもよいと考え、かつそれを信奉した嫌疑がきわめて強いと判断する。従って、かかる犯罪者に対して教会法その他の法規において告示されている刑罰のすべてを招く結果になったことを判決し宣言する。」
運動量の概念については、例えばデカルト(1596ー1650)は「哲学原理」において「神が運動の第一原因であること、および宇宙において常に一定の運動の量を持つ、ということ。・・・」といい、3つの自然法則として、「自然界の第1法則:あらゆるものは、できる限り、常に同じ状態の中にとどまる。ということ、そして、ひとたび動かされたものはいつまでも運動を続ける。自然界の第2法則:すべての運動はそれ自体は直線的である。ということ。および、それゆえに、円運動するものは、その運動が描く円の中心から遠ざかろうとする傾向をもつ。第3法則:ある物体は他のもっと強い物体に衝突するとき運動を失わないが、反対にもっと弱い物体に衝突するときはそれに与えるだけ運動を失う」と
アリストテレスは真空を否定したが、実験的に真空を作って見せたのは、ガリレオの弟子のトリチェリーであった。(1643)
2ー2 ニュートンの力学
ニュートン(1643ー1727)の「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」は3巻からなっている。第1巻と第2巻は「物体の運動について」という題のものであり、第3巻は「世界体系について」となっている。ニュートンーは彼の著書をユークリッドの「原論」にならって構成した。すなわち、いくつかの定義から出発し、つぎに基本的な法則、いわゆる「運動の3法則」を掲げ、これを公理としていろんな定理を導き出した。彼は「万有引力」の法則を先の運動の3法則に加えることによって、ケプラーの見いだした惑星の運行についての現象論的3つの法則を完ぺきに導くことが出来た。
物質量(質量)とは物質の密度と大きさ(体積)をかけてえられる物質の測度である。この量は個々の物体の重量としても知られている。と言うのは後で述べるように、私は極めて精密にしつらえた振子の実験によって物質量が重量に比例することを見いだしたからである。(重力質量と慣性質量)
運動の3法則
法則1 すべての物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態をかえられない限り、そのままつづける。
法則2 運動の変化は、及ぼされる起動力に比例し、その力の及ぼされる方向に行われる。
法則3 作用に対し反作用は常に逆向きで相等しいこと。あるいは、2物体相互の作用は常に相等しく逆向きであること。
運動の変化とは運動量の変化のこと、すなわち運動量の時間微分、
運動量とは速度X質量で定義されるものである。
性質のわかった力のもとでの物体の運動は、その初期条件を与えることによって一意的に決定され、逆に運動を決定するには初期条件を与えねばならぬ。(運動の可逆性)
ニュートンは地球上の重力と天体の運動を決定する力とは同じものであることを発見した。(万有引力)
万有引力 二つの物体の間にはたらく引力で、その大きさは両物体の質量に比例し、その間の距離の2乗に逆比例する。
ニュートン力学はアリストテレスの時間・空間の一様性の概念を変えるものではない。また質量についてはデモクリトス流の原子論を基礎とし、その不変性を前提とした。 
3 近代物理学の展開と矛盾の拡大 
3ー1 熱学・気体分子運動論
カルノー(1796ー1832) 「火の動力についての省察」
彼は熱素説に立っていたが、「熱は運動の原因になることができ、しかもそれが非常に大きな動力を持つことを知らぬ人はいない。今日ひろく普及している蒸気機関が、そのことを誰の目にも明らかに証明している。」と。彼は「熱から動力が発生するとき、必ず高温から低温への熱の移動が伴う」こと、また「熱平衡状態の下では熱から動力を得ることはできない」ということ、および断熱膨張で温度が下がり、断熱圧縮で温度が上がるという事実に注目し、理想的な熱機関(カルノー機関)を考察し、これを越える熱機関は有り得ないことを示した。理想機関はまた可逆機関でもある。
クラウジウス(1822ー1888)の熱力学の2大法則
1 仕事は熱に、また熱は仕事に変わることができるが、そのとき一方の量は他方の量に常に比例する(ジュール(1818ー1889)は熱の仕事当量にかんする測定を1845年から1878年までの約30年にわたって行った)
2 何等かの変化を残さずに熱は低温物体から高温物体へ移ることはできない。この法則は可逆過程ではエントロピーは保存され、非可逆過程は必ずエントロピーの増加をもたらすというようにも表せる。
彼は熱素説にもとづいて作られた気体の諸現象にあらわれる諸性質を分子運動の立場から書き直そうとした。
マックスウエル(1831ー1879)は気体の諸性質を分子運動の結果として導く立場(統計的方法)をとり、気体の速度分布、エネルギー等分配則、ボイル・シャールの法則、アヴォガドロの仮説を導いた。
ボルツマン(1844ー1906)は非平衡状態にある分子集団が非可逆的に、一意的な平衡状態に達することの力学的保証をもとめ、平衡状態の条件からマックスウエルの分布関数を導き、また彼の導いたH関数が熱力学のエントロピーと関係していることも明かとなり、熱力学の第2法則の統計的証明がなされたと考えた。彼の導いたものはボルツマンのH定理と呼ばれている。
分子運動論者の前提は分子の衝突における力学的法則のほかに、確率論を併用している。それはまた「どのような条件のもとで力学系の時間的平均が力学系の空間的平均に等しいか」というエルゴード仮説でもある。
3ー2 電磁気学
天然磁石が鉄をひきつけたり、琥珀を摩擦すると小さな塵をひきつけたりすることは古くから知られていた。ギルバートの「磁石について」は1600年に出されている。1733年にデユ・フェーは電気に2種類あることを見つけた。(電気の2流体説)
1785年にフランスのクーロン(1738ー1806)によって「2つの同種に帯電した2球間の斥力は、その球の中心間の距離の2乗に反比例する(クーロンの法則)」が確かめられた。
1820年にデンマークのエルステッド(1757ー1851)によって「電流の磁気作用」が見いだされ、アンペール(1775ー1836)、ガウス(1777ー1855)およびオーム(1787ー1854)によって、電流の作る磁場と電流が導体を流れる仕方(磁極はそれと電流の流 れる針金とを結ぶ線に直角の方向に動かされる)との理解を定量的数学的に明らかにした。
1831年にイギリスのファラデー(1791ー1867)によって電磁誘導が発見され、1837年には近接作用論の立場からの電磁理論の基礎が確立された。(電磁場の概念)
1864年にスコットランドのマックスウエルは「電磁場の動力学的理論」を発表し、光の電磁理論(1861)と電磁波の存在を予言した。
1887年にドイツのヘルツ(1857ー1894)はマックスウエルの予言した電磁波(波長は66cm)の存在証明実験に成功した。
ニュートンは光は小さい粒子であると考えていたが、これに対しホイヘンス(1629ー1695)は光の波動説を唱えていた。光の波動説は光の「直進」「回折」「反射」「屈折」「干渉」「分散」などの諸性質をうまく説明できた。ホイヘンスは「真空」中にあっても光を伝える「エーテル」というものを考えていた。マックスウエルによって光が電磁波であることが明かとなったので、この波を伝える媒質としての「エーテル」の存在が問題となってきた。
マイケルソン(1852ー1931)とモーレー(1838ー1923)の実験(1887) 彼らは地球とエーテルとの相対運動を発見する目的で行ったが結果は否定的であった。エーテルが地球の表面に対して静止しているという結果となった。
3ー3 原子論と放射能の発見
イギリスの化学者ドールトン(1766ー1844)は1808年に「化学の新体系」の第1巻を発表し、原子論を系統的に展開した。以来イタリアのアボガドロ(1776ー1856)の分子論の提唱(1811)もあり、さらに気体分子運動論も一定の成功をおさめた。分子はいくつかの原子の結合体として理解され、物質の究極の粒子としての原子はこれ以上分割できないものと考えられていた。
1869年にドイツのヒットルフによって陰極線が発見され、1897年にJ.J.トムソン(1856ー1940)は陰極線が電子の流れであることを確認した。電子は全ての物質に含まれていることもわかってきた。真空放電の研究から1895年にはドイツのレントゲン(1845ー1923)がX線を発見し、それが大変短い電磁波であることも明かとなった。
1896年にはフランスのベクレル(1852ー1908)がウランの放射能を発見し、1898年にはフランスのキュリー夫妻(1859ー1906、1871ー1934)が放射性元素のラジウムとポロニウムを発見した。
原子は究極的に安定ではないものもあり、その構造が問題となった。1904年にトムソンは、プラスの電気を帯びた流体的物質が原子全体にわたって存在しており、そのなかに多くの電子が特別の配位をもって運動しているというトムソンの原子模型を提出した。
1911年にラザホード(1871ー1937)は、アルファ線と原子との衝突の実験を行い、原子はトムソン模型のようなものではなく、正電気をもった原子核のまわりを電子の群からなると考えた。しかし、そのような原子が安定に存在する理由はすぐには見つけることが出来なかった。
光あるいは紫外線を金属に当てるとき、金属内にあった電子が照射した光のエネルギーを吸収して外に飛び出る現象(光電効果)がある。これは光の波動論では説明出来ない。 
4 現代物理学の成立 
4ー1 相対性理論
マイケルソンとモーレーの実験結果にたいしローレンツ(1853ー1928)は「地球の運動方向を向いた腕が、他方の腕よりも (v/c)**2 だけ短くなると仮定すればマイケルソンとモーレーの実験結果は完全に説明できる。従って、個体は静止エーテル中を運動すると、物体の大きさにその影響が及ぶと考えなければならない(ローレンツ短縮の仮説)」とした。
アインシュタイン(1879ー1955)の特殊相対性理論(1905)
この理論はニュートン的絶対時空概念を根本から変革する画期的なものである。アインシュタインは一人でこの理論を作り上げたが、その正しさはその後いたるところで証明されている。それは次の2つの原理を基礎とし、これから導くことが出来る。
1 特殊相対性原理 互いに等速度運動をするすべての慣性系において、物理法則はいつも同じ形で成り立つ。
2 光速不変の原理 光は真空中を常に一定の速さcで伝わり、この速さは慣性系における光源および観測者の運動状態には無関である。
この理論は光の速度に近い速さで運動している物体に現れる一見奇妙な現象、「時計の遅れ」「長さの短縮」「質量の増加」などを予言し説明した。
一般相対性理論は1915に発表された。特殊相対性理論で扱うのは慣性系だけであったが。アインシュタインは、これを一般化し、加速系をも包括的に扱う理論を作り上げた。
1 一般相対性原理 加速度運動している系を含めて、すべての系で、物理法則の形は不変である。
2 等価原理 重力と加速系の見かけの力とは区別ができず、本質的には同じものである。加速度系というものはなく、あるのは慣性系だけであり、加速度系とみえるのは実は重力が加わった系なのであると。
この理論によると、光も重力によって曲げられ、重力のあるところでは時計はゆっくり進む。このことは実験的にも確かめられている。
大きな質量が一定の大きさ内の小さいところに集中していると、それが及ぼす強い重力のために、外から光が吸い込まれることはあっても、そこから外ヘ光は出ることが出来ないことも起こりうる。(ブラックホール)
4ー2 量子力学の成立過程
1900年にプランクの量子仮説は空洞輻射(黒体輻射)に関する光のエネルギー分布を説明するために導入されたものである。それはレリー・ジーンズおよびウイーンの両分布則を反対の極限として与えるような、いわゆるプランクの内挿公式が提案された。プランクは彼の内挿公式がどの様な仮定のもとに導かれるかを考察し、結論として、それは「力学的エネルギーの連続性」を放棄し、調和振動子のエネルギーをエネルギー要素 hνの整数倍に量子化された非連続的な値をとると仮定することにあることを 見いだした(量子仮説)。
プランクの導入した作用量子hは自然の不連続性を規定する革命的なものであった。このエネルギー量子の考えは1905年にアインシュタインによって「光量子」の主張として展開された。光の粒子説は「光電効果」を説明することができた。1923年にはコンプトン(1892ー1962)によってコンプトン散乱という現象が見つかり、光はエネルキー量子であるだけでなく運動量としても粒子であることが確かなものとなった。
1913年にデンマークのN・ボーア(1885ー1962)がラザホードの原子模型をつかって、原子核のまわりをまわる電子は、いくつかの許された軌道の上だけをまわるという「原子論」を提唱。そこでは電子の運動量の大きさと電子の軌道の1周の長さをかけたものはプランクの定数hの整数倍のなるものだけが許される(ボーアの量子条件)。電子がエネルギーの高い軌道から低い軌道に遷移するときに光を放出するとして、水素原子からの光の離散的スペクトラムを見事に説明した。
1923年にフランスのド・ブロイ(1892ー1987)によって、「ド・ブロイ波(物質波)」と呼ばれる電子にともなう位相波が提案され、それによって原子の中での電子の軌道の安定性が説明された。ド・ブロイ波は後にアメリカのデヴィソン(1881ー1958)、ガーマー(1896ー1971)らの電子線回折の実験(1927)によって、その実在性が立証された。
1926年にド・ブロイの物質波がどの様に伝わるかをきめる方程式はオーストリアのシュレーデンガー(1887ー1961)によって与えられた(シュレーデンガー方程式) 波動力学では物質波は複素数(波動関数)であらわされる。1925年にドイツのハイゼンベルグ(1901ー1976)はシュレーデインガーとは別の行列力学を提唱していた。シュレーデインガーは行列力学の内容は波動力学に包含されることをも明かとした。これらは全体として「量子力学」と呼ばれている。
4ー3 量子力学の認識論
光は電磁波として波であるとともに光量子としてエネルギー粒子であることとなった。電子は決まった質量と電価をもった粒子でありながら、同時にド・ブロイの波であることとなった。量子の世界における粒子性と波動性という物質の2重性は全ての物質に存在することが明かとなった。さらに、ハイゼンベルグが示した不確定性関係は物質についての人間の認識の限界を示すものではないかとの解釈も生まれ、認識論上の大きな争点となった。
ゲッチンゲン学派のボルン(1882ー1970)は1926年に波動関数にたいして画期的な「確率解釈」を提唱した。それは解釈というよりは「量子力学の確率規則」ともいうべきものであり、波動関数の絶対値が存在確率を表すとするものである。
さらにハイゼンベルグによって、1927年に量子力学における「不確定性関係」が提唱された。それは電子の位置と運動量を同時にかつ無制限に精確に確定することは原理的に不可能であり、その精度はプランクの定数 hによって特徴付けられる次の「不確定性関係」によって制約されている。
Δx・Δp≧h/2
1932年にブタペスト生まれのノイマン(1903ー1957)は量子力学に現れる不確定性関係は「隠れた変数」の存在によるものではないことを示した。
物質の粒子性と波動性という二重性、量子力学の確率規則と不確定性関係などに現れる量子の世界の特異な諸性質は、その成立の当初から解釈をめぐって論争となった。波動関数として表現される量子力学的状態と現象との関係は「観測の問題」につて鋭い対立をもたらしてきた。 
5 原子・原子核・素粒子の世界 
原子より小さい世界では量子力学が適用される。1911年にラザホードによって原子核が見いだされ、1932年にチャドヴィクはアルファ線をベリリウムに当てた際に放出される中性子が衝突して蹴飛ばされた反跳陽子を観測し、中性子を発見した。原子核は陽子と中性子によって作られていることがわかってきた。
1935年に湯川(1907ー1981)が核子と核子を引き付けている力として電子の200倍の質量をもつ中間子が交換されるとするモデルを提唱した。この中間子は1947年にパウエル(1903ー1963)らによって宇宙線の中に発見され、1948年には加速器によって人工的につくりだすことが出来るようになった。湯川は1949年に「核力の理論による中間子存在の予言」の業績によってノーベル物理学賞を日本人として初めて授賞した。
1928年にデイラック(1902ー1984)は相対論的電子論を作り上げたが、そこでは陽電子という電子の反物質の存在を予言することとなった。この陽電子は1932年にアンダーソンによって宇宙線の中で発見された。1955年にはセグレらにより反陽子も発見され、デイラックの「真空からの対生成」の理論は実験的に検証された。
1956年に坂田によって素粒子の複合モデルが提唱されたが、1964年にはゲルマンとツヴァイクによって素粒子のクオーク模型が提唱された。現在では更に改良され、標準模型として確立している。
1926年のハップルによる宇宙の遠方からの光の赤方偏移の発見、さらに1965年のベンジアスとウイルソンの宇宙背景輻射の発見を基礎とした膨張宇宙論は、素粒子・原子核の理論を基礎として150億年の宇宙発展の壮大な歴史を明かとしつつある。 
6 おわりに 
物理学の発展の歴史をみれば明かとなるのは、物理学は技術(実験技術ばかりでなく論理的数学技術を含め)と不可分に結び付いており、また事物の認識に関する哲学の影響を受け、哲学に影響を与えながら発展してきた。
科学者と呼ばれる職業的科学研究者によって行われるようになったのはまだ300年を数えるにすぎない。ギリシャ時代にあっては、科学は自由市民としての哲学者の思索の一部でしかなかった。その後も彼らは王侯貴族のサポートをうけた専門的助言者であったり、教会の僧侶であったりした。12世紀にヨーロッパ各地に大学が設置されるに及んで、彼らは教育者となり、17世紀頃になって物理学は大学での教授の対象となってきた。
自然科学、特に物理学は過去の全ての知識を包含し、新しい体系にまとめあげたものであると思われている。科学にはその様な側面があることは否定しない。しかし重要なことは科学は連続して発展してきたのであり、その際、科学の進歩には昔から絶えず積み上げてきた世界像や宇宙モデルがなくてはならなかったということである。それら(世界像や宇宙モデル)は部分的には証明できるが、部分的には神話的で証明が怪しいか或は全く欠けている箇所があるものである。
また理論は説明しようと考えた事実より広い範囲の物事を説明することを含むものである。従って実際に多くの科学者の仕事は観測・実験と既存の認識との矛盾の発見の歴史でもあるのである。科学の発展にとって重要なことは、何が今必要な「事実」なのかを見つけることであり、それは研究課題の設定であり、その課題の科学の発展における意義についての認識である。
さらに追加するなら、観察したことを解釈するに当たって伝統的な観念から抜け出すことは大変むずかしいということである。物理学は専門家集団によってなされてるとはいえ、やはり自然に関する人間の社会的認識活動の一部なのであり、そこで認識された体系は人間の頭脳に反映された自然の姿であるからである。 
 
17世紀における物理学の形成について
 ガリレオは、どのような影響を受けていたのか 

 

ガリレオの判決文 
皆さんは、ガリレオガリレイが宗教裁判にかけられたことはご存じでしょうか。その判決文が、どのようなものであったか、ぜひ読んでみて下さい。
『汝、フィレンツェのヴィンチェンツィオ・ガリレイの子、ガリレオ、70歳は、あるものどもによって教えられた誤った学説、すなわち、太陽は世界の中心にあって不動、そして大地は日周運動をするという説を真実であると考えたため、またこの説を教えこんだ弟子を持ったため、また同じことにつきドイツのある数学者と手紙のやりとりをしたため、また汝は、同学説を真実であると説明している『太陽黒点について』と題する、いくつかの手紙を印刷したため、またしばしば、聖書から取り出されて汝に対してなされた反論に対して聖書を自己流に解釈して答えたため、1615年、この聖省に告訴された。そしてそのさい、汝より汝の弟子に宛てて書かれたといわれる手紙の形式の書きものの写しが提出され、これにはコペルニクスの命題に従って、聖書の真の意味と権威とに反する様々な命題が含まれていた。
したがって当法廷は皇教閣下と当至高(しこう)にして普遍的な異端審問所の枢機卿猊下(猊下げいか:高僧に対する敬称)の命により、それより生じ神聖なる信仰にますます多く傷を付ける無秩序と損傷とを防ぐために、神学検邪官により太陽の静止性と大地の運動性との二命題が、次のように検定された。
太陽は世界の中心にあり、位置運動をしないという命題は、哲学的には不条理で誤りであり、形式的には明らかに聖書に矛盾するから異端である。
太陽が世界の中心になく不動でもなく、さらに日周運動をするという命題は、等しく哲学的には不条理で誤りで、神学的には、少なくとも信仰上は誤りであると考えられた。
しかし当時、汝を穏便に処置しようと考えたため、1616年2月25日、教皇閣下の前で開かれた聖省会議において、ベルラルミーノ枢機卿猊下より汝に、上述の誤った意見を全く放棄するように命じ、汝がそうすることを拒否すれば、聖省の委員に、上述の説を捨て、他人に教えず、弁護せず、論じぬよう命じさせ、この禁止命令に従わぬ場合は投獄すべきことが決められた。この命令の実施のため、翌日、上述のベルラルミーノ枢機卿猊下の邸宅において、猊下御出席のもとに、同枢機卿の穏やかな忠告と訓告ののち、当時の聖省の委員により、書記、証人立ち会いのうえ、全面的に上述の誤った意見を放棄し、将来、汝は話してでも書いてでも、その意見をいかなる仕方においても抱けず、弁護できず、教えられぬことを命じられた。そして汝は従うことを約束して、放免された。
そしてこのような危険な学説を根絶し、カトリックの真理に重大な傷がもはやつかぬよう、図書検閲聖省は命令を発し、このような説をとりあつかう書物を禁止し、これが誤りであり、聖書に全面的に反するものであることを宣言した。
ところが最近、フィレンツェで昨年印刷され、『ガリレオ・ガリレイの、オウトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』という表題で、その記述により汝が著者であることのわかる書物が現れた。そして、聖省に、この書物の出版により、大地の運動と太陽の静止性との誤った意見が日々根をおろし、流布されつつあると報じられた。そこで、同書を熱心に考察したところ、さきに汝に出された禁止命令の明らかな違反が発見された。というのは汝は同書においてさきに断罪され、汝の全面においてその旨、明示された上述の意見を弁護しているからである。汝は同書においてさまざまな根拠を用い、これを未解決のものであり、明らかに蓋然的(可能性のある問題として、仮説といっても良いか?)あることを説得しようと努めてはいるが、聖書に反することの明らかに決定された意見は、いかなる仕方においても蓋然的ではありえないがゆえに、それはきわめて重大な誤りである。
そこでわれわれの命令により、汝は当聖省に召喚され、審問を受けた汝は、宣誓のうえ、汝がその書物を作成し、印刷したことを認めた。
汝はまた、上述の禁止命令の発せられたのち、いまから約10あるいは12年前に同書を書き始めたこと、また汝は同書の印刷許可を要請しながら、汝がそのような説をいかなる仕方においても抱かず、弁護せず、教えないよう禁止命令を受けたことを汝に許可を与えるものに知らせなかったこと、を告白した。
また汝は、同書の書き方がその多くの箇所において、その誤った側のために提出された論証が、その有効性のため容易に論破されるよりも強制するような工合(ぐあい)に述べられていると読者に考えさせるような形で書かれていることを告白し、汝の意図とこのようにああいいれない、汝のいうのによれば、誤りに陥ったのは、対話の形式で書いたためであり、またたとえ誤った命題のためであろうとも、だれでもが自分の明敏さと、蓋然的なことについて巧妙で明らかな議論をするさいに、一般の人びとよりも鋭いことを示すことに感じる自然な喜びのためであると弁解している。
そして抗弁をなす適当な機会が与えられると、汝が宣誓し、聖省により罰せられたという汝の敵の中の中傷に対して弁解するため、汝に与えられたと称するベルラルミーノ枢機卿猊下の手で書かれた証明書を持ちだした。この証明書には、汝が誓絶したこともなく、罰せられたこともなく、ただ大地の運動と太陽の静止性との学説は聖書に反するもので、弁護することも抱くこともできぬという、教皇によって宣告され、図書検閲聖省によって公布された宣告が、汝に通告されたことのみが記されている。そして同証明書に禁止命令中の二つのことば、すなわち、教える、と、いかなる仕方においても、が記されておらないがゆえに、14あるいは16年の経過中に全く記憶がなくなり、またその理由から、その書物を印刷する許可を求めたときに、その禁止命令のことを黙っていたと、そしてこれらすべてのことを汝の誤りの弁解としていうのではなく、悪意からではなく、空しい野心からであるということを、信じてくれというのである。ところが汝がその抗弁として持ち出した証明書こそ、汝の罪をさらに重大なものとしただけである。というのは、同証明書には上述の意見が聖書に反することがいわれているにもかかわらず、汝はあえてその意見を蓋然的なものと考え、弁護し、説得したからである。また汝はその受けた禁止命令を知らせなかったから、巧妙にまた、あらゆる術策をつくして強奪した出版許可も汝の助けとなるものではない。
そしてわれわれは、汝がその意図について真実をすべていわなかったように思ったので、汝を厳重に審問することが必要であると判断した。そのさい、汝の告白したことを崩すことはなにもなく、また汝の上述の意図にかんして上述のごとく推断されたことを裏づけることはなにもなく、汝はカトリック信者らしく答えた。
そこで、上述の汝の告白、弁解、および見また考慮されるべき動機とともに汝の事件の本案をみ、また十分に考察し、われわれは汝にたいする以下のような最終判決に達した。
そこで、もっとも神聖なイエス・キリスト、またもっとも栄光ある永遠の処女、聖母マリアのお助けにより、聖なる神学の尊敬すべき師たち、またわれらの顧問である新旧両約の博士たちの忠告と見解とをもって法廷にあったわれわれは、その眼前で、一方において新旧両訳の博士、聖者の審問官カルロ・シンチェリ殿と、他方においてここにおり、上述のように審問され、起訴され、告白した罪人、上記、汝ガリレオ・ガリレイとの間で、なされた、そしていまもなされている申し立てにかんして、この書類において次のように述べる。すなわち、
汝、上記ガリレオは審問にさいして引き出されたことがらにより、また上記のように告白したことにより、当聖省から異端の深い嫌疑を受けたこと、すなわち、太陽は世界の中心にあり、東から西に動かず、大地が動き、世界の中心にないという誤っており、聖書に反する説を抱き、信じたこと、また聖書に反すると宣告され決定されたのちも、その意見を蓋然的なものとして抱き、弁護しうるとした嫌疑を受けたこと。したがって、汝は神聖な教理典範、また一般的・特殊的聖省令によって同様な罪人にたいし課し公布されたすべての訓戒と刑罰とを受けることを、われわれは述べ、いいわたし、判決し、宣告する。まず第一に、真摯な心情と汚れない信仰とをもって、上述の誤りと異端と、他の使徒伝来のカトリック教会に反する誤りと異端とを、われわれが告げる仕方、形式において、われわれの前で、誓絶し、呪い、嫌うことを条件として、汝が赦免されることをわれわれは喜びとっするものである。
そしてこの汝の重大で危険な誤りと違反とが、まったく処罰されないままにならないため、また将来、ますます慎重にし、同様な罪を犯さぬよう他のものの例とするため、われわれはガリレオ・ガリレイの『対話』の書物を禁じるよう、公に命令する。
われわれはわれわれの欲する期間、汝を当聖省内の正式の監獄に投じ、救霊のための贖罪の行為のため、今後三年間、毎週一回、七つの悔罪詩篇を唱えることを課する。上述の刑罰と贖罪の行為の全部あるいは一部を軽減し、変更し、撤回する権限はわれわれが保留する。
われわれはこのような仕方と形式で述べ、判決を下し、宣告し、説明し、命令し、そしてわれわれが用いうる、あるいは用いるべき他の仕方と形式でもそうすることを保留するものである。』
初めの方に「あるものどもによって教えられた誤った学説」といういいかたがあります。このことばから、裁く方の人々には「自然から学ぶ」という視点がなかったことがわかります。また、「真実」がガリレオの時代にどう考えられていたのかということもわかります。「太陽は世界の中心にあり、位置運動をしないという命題は、哲学的には不条理で誤りであり、形式的には明らかに聖書に矛盾するから異端である。」とかいてありますから、「真実」は聖書にあり、聖書と矛盾するものは異端だというのです。今読むと、ちょっと滑稽な感じがします。ですが、今でも、ある文章に権威を与え、真実かどうかを、その文章のみから判断するやり方は、ごく普通に見られることです。例えば皆さんは、教科書に書いてあればそれだけで「真実」だと思うでしょう。当時は、聖書が、皆さんにとっての教科書のようなものであったと思うと、裁判官の気持ちも少しはわかるのではないでしょうか。ガリレオの判決文は、「科学的」であるということはどういうことなのか、「自然科学」を学ぶことが、どのような精神を引き継ぐことなのかを考えるための、一つの良い材料になるのではないかと思います。
なお歴史を学んでいるだろう皆さんには、蛇足かもしれませんが、旧約聖書と新約聖書について触れます。ヘブライ人が書き残した伝説や神への讃歌、預言者のことばなどをまとめたユダヤ教の教典を、旧約聖書といいいます。イエスは、ユダヤ教の一派であったパリサイ派の人たちの偽善と戒律主義を激しく批判しました。そして、身分や貧富の差を越えた神の絶対愛を信じ、己を愛するように隣人を愛すべきことを説きます。キリスト教は、ペテロなどの使徒やパウロの異邦人への伝道によってローマ帝国内に広がり、信者の団体教会が生まれていきます。キリスト教は、現世の利益を求めるギリシア・ローマの多神教とあいいれず、また皇帝崇拝を認めなかったので、迫害を受けました。しかし3世紀ころまでに、下層市民層や奴隷の間に普及し、上流階級にも広がったのです。この間に、キリストの現行をしるした『福音書』、初代使徒の活動を述べた『使徒行伝』、および使徒の書簡などが集められて『新約聖書』が成立し、『旧約聖書』とともにキリスト教の教典となりました。
聖書を書いた人たちは、ギリシアの自然哲学を多分知らなかったのです。古くからの神話には、自然の現象について書かれている部分がたくさんあります。それに、自分たちが見聞きした自然現象が、神との関わりを持って、話の中で触れられます。そのようなことが、聖書の中にはあるのだろうと思います。普通の人が普通に見聞きした自然観では、自然の本当の姿とは、大分かけ離れております。目にした現象の原因を、なにも学ばずに「こういうことに違いない」と理解しても、間違っていることが多いのは、なにも聖書を書いた人の責任ではなく、誰しも、現代でも、そうなのです。ですから、いくらなんでも、ガリレオの時代まで、書かれてあることをそのまんま「真実」とは、行かなかったのです。ですから、聖書と、アリストテレスの哲学とを結びつけることがおこなわれたのですが、それについては、先で触れます。
私は、この判決文を読んで、判決文を書いている人の気持ちが、「おどおどしている」様に感じました。ガリレオは、当時まさに誰もが認める人でした。ですから、裁くに当たっても、後々自分の責任が問われることがないように…と、そんなことを気にしていたのではないかと思います。 
ガリレオは、どのような影響を受けていたのか 
ギリシャの自然哲学の伝わり方
ガリレオは、ルネッサンス後期という時代の中で、遠くギリシャのアルキメデスや、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに学びながら、当時の現代的な課題に取り組み、コペルニクスの立場に立つに至たりました。ギリシャから学ぶということは、ガリレオにとってはおよそ1500年前に学ぶということになります。日本でいえば古墳時代です。でも、私たちが、浮力について学ぶことは、アルキメデスの研究をたどることですし、落下していく物体が等加速度運動であることを学ぶことは、ガリレオの研究をたどることです。そう考えると、私たちも今から1500年前、400年前という古い時代の人の研究をたどっているのです。そこで扱われている自然の法則性は、昔も今もかわりませんから、自然についての正しい理解は、時代がたっても決して色あせることはないのです。
ガリレオを断罪した側の、ローマ教皇やカトリックの、自然認識は、アリストテレスの自然観であったといわれます。ガリレオの判決文でもわかるように、「アリストテレスの文の中に真実を見る」のですから、それを自然観と呼ぶのは間違いかもしれません。そのアリストテレスの自然観は、いつ、どのようにキリスト教と結びついたのでしょうか。実は、私は、「アリストテレスの自然哲学は、論理学同様、かなり昔からカトリックと密接であった。」というように素朴な理解をしていました。それは間違いでした。そのお話からします。
まず、ギリシャは皆さんご存じのように奴隷制社会の都市国家で、一部の人たちが自由で知的な生活を送ります。古代オリエントの統一という時代を経て、古代エジプト、メソポタミアなど、当時の文化は、ギリシャへも伝わっていました。ギリシャの哲学はごく一部の人のものでした。あの精神があの時代のヨーロッパのすべての人々のものであったわけではないのです。
続くヘレニズム時代は、民族の移動とともに、ギリシャにいられなくなったギリシャ人書物を持って東方に移住しました。このギリシャ人の文化が東方オリエント文化と出会い、影響しあい発展します。これは、ヘレニズム文化と呼ばれます。文化の主な担い手はギリシャ人でしたが、ポリス社会が崩れるとともに、ポリスや民族を大事にする考えや、ポリス社会での規範の意味がなくなったので、ポリスや民族の枠を越えて、世界市民主義や個人主義の性格を帯びていたそうです。世界市民主義とは、コスモポリタニズムの訳で、人類は普遍的な理性によって結びついており、皆平等で同胞であるとする考え方です。個人主義は、哲学や政治をあまり気にせず、個人の心の平安を求める思想基盤を生みました。ヘレニズムということばは、ドイツの歴史家がつくったことばで、“ギリシャ風文化”という意味です。ヘレニズムは、ユダヤ教やキリスト教の源泉となるヘブライズムと対置する概念として、ともにヨーロッパ文化の二大基調となりました。
ギリシャ語が共通語になりました。アレクサンドロスが東方遠征の途上で建設した約70にのぼる都市、アレクサンドリア市といいます。多くのギリシャ人が住みました。それとともに、ギリシャの文化が西アジアに広がりました。有名なのは、紀元前331年にエジプトにつくられた、アレクサンドリアです。そこには、ムセイオンという研究機関がつくられ、古代の自然科学の文献が集められ、研究されました。このムセイオンを中心に自然科学が興隆を極めました。
ヘレニズム時代に、ギリシャの文化は、さらに発展します。アリストテレスやプトレマイオス、アルキメデスなどがこの時代の人です。ギリシャ人の移動にともない、ギリシャの文化とともに自然哲学が東方に広がったことと、自然哲学の書物が、移動し、保存をされました。
ローマ帝国の時代に、建築土木技術が発達します。権力者・知識人はその知識を受け継ぎ発展させています。しかし、創造性ゆたかなギリシャのまねの域を出なかったようです。この時代とおして、学問の中心はアテネでした。西ローマは476年に分裂したが東ローマ(ビザンツ帝国)は、1000年あまり続きます。ビザンツ帝国ではギリシャの書物が図書館に集められ、またそれらはアラビア語に訳されてアラビアへと伝わりました。
一方、ヨーロッパでは、封建制度の発達と、キリスト教の権力の増大の中で、ギリシアの自然哲学は忘れられていったのです。十字軍以前の西ヨーロッパでは、ギリシアの自然哲学はまったくなくなっていたそうです。
イスラム勢力が、イベリア半島をその影響下に修めます。そこに、アリストテレスの自然哲学は、アラビアを経由して、あらためてヨーロッパに入ってきたのです。その当初カトリックは、アリストテレスを禁じましたが、それは10年と持たず、アリストテレスの自然観とカトリックの妥協がはかられます。スコラ哲学はアリストテレスの自然哲学と結びつくことでより完成度とその権威を増しました。禁が解けると、アリストテレスの自然哲学は必修科目になりました。
ギリシア以前の状態におかれた当時の人々にとって、アリストテレスの自然哲学が、いかに新鮮で、世界観を大きく変えただろうことは、大いに想像できます。 
ギリシャの自然哲学
6世紀の初め、イオニアの都市ミレトスを中心に自然哲学がおこります。自然哲学とは、自然現象を神話からではなく、合理的な思考に基づいて理解しようとする立場です。すべての物の大元は水で、物は水からできていると言ったのは、ミレトス出身のタレース(紀元前582頃から前497頃)です。彼は、日食の予言もしたと言われています。サモスで生まれたピタゴラス(紀元前582頃から497頃)は、数を万物の根元だとしました。ヘラクレイトスは、変化注目し、万物は流転すると言い、火を変化の象徴としました。アナクサゴラスは、世界ははじめ混沌としていて、知性により整理されて、今のようになったといいます。太陽は燃えている石であると言ったため、神に対する不敬罪に問われたそうです。原詩論的唯物論の祖とされるデモクリトスは、どんなものも等質でそれ以上分割することのできない原子(アトム)からなると主張しました。当時は、思考をすすめる上で議論をしました。議論する上で大切なのは、論理と味方です。相手を議論でうち負かす技術(弁論)と、相手をたてて相手を良い気持ちにし自分の味方を増やす技術(修辞)が発達しました。そんな中で、弁論で相手をうち負かしたら、勝った方が正しいという考えが生まれました。そういう考える人のグループをソフィストといいます。ソフィストということばの意味は“知恵のある者”だそうです。しかし、時には明らかに事実と違っていても弁論の技術で間違ったことを真実であると主張する(詭弁)ので、詭弁学派と呼ばれるそうです。代表的なプロタゴラスは、「人間が万物の尺度である」といい、普遍的な真理などないと言いました。それを批判したのがソクラテス(前469頃から前399頃)です。彼は、普遍的で客観的な真理は存在し、人間の知や行いはそれとあったものでなくてはならないと言いました。人に問いを発し、それについて議論しなにが正しいか明らかにする(問答法)により、普遍的な真理があることをアテネの人たちに広めようとしました。それがもとで民衆裁判にかけられ死刑になります。“悪法も法なり”といって、法に従ったのだそうです。ソクラテスの弟子プラトンは、われわれの目の前にある実際の世界は、真に実在するイデアの世界の影であるといいます。イデアとは何か良くわからないのですが、私には概念のことであるように感じます。“善のイデア”が最高で、イデアの世界をつくる、つまりイデアとイデアの関係が明らかになっているのだと思います。プラトンは、アカデメイアという一種の“学園”をつくります。ここで学んだのは、アリストテレスです。
アリストテレスは、自然を観察し、当時の哲学の成果にもよく学び、現実や経験を大事にし、プラトンのイデア論を克服し当時の自然哲学を集大成しました。万物は、火と水と空気と火の4つの元素からなることを言ったのはご存じでしょう。動物植物もよく観察しています。動植物がそれぞれの形を持つことを、「何々のためにこのような形をしている」というように、目的論的に考えました。ものの運動についても、観察をもとに、述べています。今から見ると間違いが多いのですが、自然の様子をよく観察し、当時としては論理的な自然観をつくりあげました。弁証法など自然以外の哲学も含めて集大成しました。ギリシャに続く、ヘレニズム時代とよばれる時代は、アレクサンドロス大王が、ギリシャを含めたヨーロッパからインダス川に至る広い地域にわたる大帝国をつくった時代です。このアレクサンドロスの家庭教師を務めました。後に、イスラム哲学や西洋観念論哲学へ大きな影響を与えました。
もう一人、ヒッポクラテスという、お医者さんを紹介します。病気の原因を科学的に解明し、“医学の父”と呼ばれています。ヒポクラテスの誓いの現代訳を引用しておきますが、これは、医者の倫理の原典として、今でも利用されているそうです。『医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。○私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。○頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。○純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。○結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。○いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。○医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。○この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。』読んでみると、今でも引用されるのがうなずけます。 
続くヘレニズム時代の自然哲学とローマの自然科学
エピクロス(前342頃から271頃)は、サモス島出身の哲学者で、快楽が最高の幸福で、心の平静こそ最高の快楽だとします。デモクリトスの原子論は、デモクリトスが書いたものは今はなく、ルクレチウス、「物の本姓について」という詩から知ることができます。ルクレチウスはエピクロスから影響を受けました。エピクロスに始まるこの禁欲を説くヘレニズム哲学は、エピクロス派と呼ばれます。後に、卑属化し、単なる快楽の追求に堕落しました。ゼノン(前335から263)は、幸福は心の平静にあるとし、禁欲を説きます。これは、ストア派と呼ばれ、エピクロス派とともに個人主義的哲学の中心となりました。
エウクレイデス(前300年頃)は、アレクサンドリアのムセイオンに学び、エジプトで発展した幾何学をもとに、平面幾何学を集大成しそれを「幾何学原本」にまとめました。アリスタルコス(前310頃から230頃)もサモス島出身で、地球の公転と自転、太陽中心説を主張した天文学者です。アルキメデス(前287頃から前212)は、シチリア島の出身でエラトステネス(前275頃から前194)は、地球を球形と考え、その周囲の長さを、夏至の日に太陽の見える角度が、場所によってどれだけ違うかを影の角度から測定し、旅人の歩数で距離を測り、一周の長さを測定。測定値は、およそ4万5000kmとした。ムセイオンの館長を努めた。
ローマ帝国時代の人々について触れます。プリニウス(23から79)は、ヴィスヴィオス火山噴火の観察中に殉職。項目数2万件、全37巻に上る「博物誌」を書いた。プトレマイオス(2C)は、アレクサンドリアで活躍し、地球中心の天動説を唱え、コペルニクス以前の宇宙観を完成させました。 
アリストテレスを受け入れる準備1200年代
十字軍。十字軍とは、カトリック教会が成立し、ローマを中心にその勢力をヨーロッパに広げ、キリスト教の聖地メッカを奪回するという目的で、イスラムへ軍をすすめたことを指します。その目的も変質しつつ7回にも及びましたが、結局、聖地奪回という当初の目的を達成することは出来ませんでした。
この十字軍の終わるころまで、西ヨーロッパは、教会の絶対的な権威のもとにありました。その状況を特徴的に言えば、科学的、芸術的活動の教会の勢力下への従属、書物に書かれた言葉の権威、現実主義的思考方法から離れ唯心的思考方法にのみ陥る、となるそうです。(ダンネマン)科学は、教会とその権力者に奉仕していました。
文法を学ぶのは、教会で使われる言葉を理解するためであり、修辞学を学ぶのは、教会で使う言葉で話をするためでした。数学は、数の神秘を、神秘的な解釈で広めようとしました。天文学の主な仕事は教会歴の確立でした。
その結果、中世初期には、春分点秋分点はおろか夏至冬至の考えもしらなかったそうです。
日時計もなかったのです。日時計が古代の文献からつくられ、観測がされるようになるのは13世紀になってからです。城や教会に備え付けられるようになったのは、やっと15世紀になってからでした。今日残ってる15世紀の日時計は、垂直板にグノーモンを取り付けた形をしています。
副葬品の中から見いだされる「秤」は古代ローマのものを手本にしていることがわかります。
要するに、カトリックが支配をしていた中世世界においては、ギリシャ時代の自然哲学的な知見は、ほぼ忘れ去られていたのです。
そのヨーロッパに、十字軍とともに、新しくにアラビアの文化が入ってきたのです。
アラビアの人々は、古代の最も重要な天文学書である『アルマゲスト』を知っていました。アラビアに追われたギリシア人から学んだのです。
ギリシャにおいて数学の初歩的な知識は大体において片づけられていて、エウクレイデスによって完全に概括されました。これに、アルキメデスやアポロニウスの研究が付け加えられました。この二人は、円錐曲線の重要な理論を基礎づけました。『アルマゲスト』には、平面及び球面三角法の基礎がありました。さらに、地球の大きさの決定や、地球の大きさと他の天体との比、恒星天の精密な場所の記述、精密な時間や位置の決定、食などの天文現象の予言、などの問題は古代において、とくにアレクサンドリア時代において、深く研究されていました。
これらの知識が、主に『アルマゲスト』によって伝えられたのです。アラビアの人々は、手本となったギリシャ科学を発展させ、豊かにしていました。ここには、インドからの新しい要素が付け加えられました。アラビアにおいても9世紀10世紀は、古代の文献を消化するにとどまっていました。アラビア語を使うオリエントの学者たちが自然科学や医学の分野で次第に独立し始めます。アラビア文献は11世紀にその最盛期を迎えます。
このアラビアから入ってきた古代の文献は、ヨーロッパの人々に影響を与えました。
イスラムの分裂に伴い、711年にスペインがイスラム教の領土となります。スペインにイスラム流の学校ができます。そのスペインへ、フランス、イギリス、中部ヨーロッパから、知識欲に燃えた人達がやってきて、学び、手に入れた知識を自分の国に持ち帰りました。アラビア人によって守られた精神的財宝が、ヨーロッパへと伝わり始めたのです。
ゲラルドは、プトレマイオスの天文学主著『アルマゲスト』を翻訳しました。(1175)
エウクレイデスの『階梯』、アリストテレスの書物も訳されました。
1200年頃には、アラビアの数学の知識もイタリアに伝えられました。
アラビア人の数学的な知識は、1200年ころピサのレオナルドによってイタリアに伝えられた。
ピサは、十字軍時代に生じたオリエントとの関係によって、レオナルドの時代にはイタリアで一番勢力のある商業都市になっていました。商業は、オリエントとヨーロッパを結ぶ形で、地中海地域が中心でした。商業貿易は実際的必要性から生まれ、物質的目的を追求しました。商業はあらゆる精神的進歩を、特に数学の分野において、実用化しようと試みました。レオナルドは、シチリア、ギリシア、エジプト、シリアを往復した商用旅行において、それらの国々で行われた計算法を研究し、『算盤の書(リベル・アキバ)』が生まれた。
自然科学の知識も同じころ伝えられ、錬金術や光学に精通する人々があらわれました。
アラビア人の手本によって、医学がサレルノによって、ふたたび科学に高められました。それまでのキリスト教国では、病気の治療は、宗教的迷信の支配にゆだねられていたのです。
光学の分野では、ヴィテロが、アルハゼンの所説をエウクレイデス及びプトレマイオスの立てた定律に結びつけて説明しました。なお後に、ケプラーは、ヴィテロの光学を研究し『ヴィテロへの追加(パラリポメナ)』を発表したのです。
マルコポーロは、北京にいたり、南はスマトラまで行きました。1275-92年の長きにわたり蒙古王に仕えます。その間あらゆるものを観察しました。石炭が燃料になることは彼によって一般に知られるようになりました。石油、墨、陶器、薬種、薬品、香料、染料木、藍、竹、綿、絹、動物…。
彼の旅行記は、地理的視野の拡大をふくめた、少なくない影響を与えました。
このように、この時期の科学の発達に、商業貿易の発達が大きな影響を与えたのです。商業貿易とともに都市が繁栄しました。都市において増大していく富力は、人々の精神的方面への関心を呼び覚ましました。富裕な諸都市は科学に対しても、理解のある自主的な関心を持って、不断の援助を与えました。中世の終わりあたって、その種の都市が、特にイタリアに発達しました。なかでも、ヴェネティア、ピサ、フィレンツェ、ジェノヴァが第一にあげられます。都市連盟の成立も、新しい精神の培養地となりました。
農奴制の没落、自然経済から、製紙法の輸入なども、精神文化の発展に寄与しました。
このように、新たな精神文化の発展は、アラビアから持ち込まれた、アラビア科学とギリシャ時代の哲学(自然哲学?)の影響と、探検航海によってもたらされた地理的視野の地球全体への拡大でした。 
アリストテレスの自然観
教育施設の面でも新しい時代にふさわしいものが求められました。
スペインにできたアラビアの学校を模範にし、ナポリ、サレルノ、ボローニャ、ついでパリ、オックスフォードおよびケンブリッジに大学が生まれました。もちろんこれらの大学も、初めはスコラ哲学的論争の場所でした。ですが、学者が修道院の束縛から解放されたことはのちのちのために大変意義あることでした。
中世の間、教会が科学活動に加えていた制限から脱するために、人々は二重真理の命題というものを考え出しました。これは、科学において誤りであると証明されたものでも、教会的関係においては真でありうるという説です。同じ人間が哲学者の立場で言うか、神学者の立場で言うかによって、哲学者として正しいと言う意見を主張しつつ、同じ人が神学者としてそれを断罪することができました。科学的な真理を認めない唯心論的なイメージもし、ずるい気もしますが、今でも信仰と知識を融和させようとする人や、知識と信仰を区別し、知識と相容れないものとして知識とは別に信仰をする人は、いるのですからそれとそう大きく違わないかもしれません。二重真理の命題は、科学が教会の束縛から脱するための、最初の試みであったと考えねばならない。
13世紀は皇帝と法王権とのはかない闘争の時代であした。一方では、十字軍の継続と、狂信的修道士の手による異端糾問の蔓延があり、他方では商業と産業、及び大学が繁栄し始めた。
精神的な活動の分野でも、教会の教義の権威的な支配のもとにありました。アリストテレスの論理学は、詭弁を弄する神学論争に役立つという理由から歓迎されていました。しかし、アリストテレスの自然科学的著述は、失われてしまっていました。
自然の観念もまた一個の漫画になりさがってしまっていました。初期の教会教父たちはまだ自然をある程度まで神の知恵の鏡とみていましたが、キリスト教が勢力を広げるとともに、自然に対する露骨な屈辱概念が根を下ろしました。中世の人間にとっては、自然とは、悪魔主義の暗い反映で、感覚的快楽で人間を誘惑し、超俗的なもののなかに根ざしている人間の道を、そらせるようにできていると思われたのです。
中世の世界観とは、概念とは要するに単なる名前であるか、それとも何か実際に存在するものなのかという論争に、端的に現れるています。実在論的にとらえると、星も、植物も、石ころも、すべての物体は、無数の精霊の活動の舞台でした。この、現実的な実態と見なされた概念が、今日の私たちの自然法則のような役割を演じていました。例えば、ケプラーの地球霊や世界霊にも見られます。現象を理解するときに、そこにある法則性の背景に何か実体的な存在を与えるのです。これは、人格的な扱いを受けるようになり、神秘主義を生みます。教会が、その支配の範囲を広げるときに、各地にあった宗教が、その地の自然と結びついたアニムズム的な要素を持っていたため、それとの戦いのなかで、自然の屈辱的概念が有効であったのではないだろうか。また、拡大に伴う自然破壊を宗教的に受け入れる方便であったかもしれません。
13世紀の初めに、ほとんど不意打ちに、瞬く間に行われたアリストテレスの自然科学的著述の普及が、どんな印象を与えたかは、容易に想像することができます。一部はアラビア語から、一部はギリシア語原点からくまれたラテン語訳によって全西洋に広まりました。ギリシア語原点は、後期十字軍の間にコンスタンティノポリスやオリエントの所々で手に入れることができたものです。
新しい啓示のように人々を捉えたアリストテレスの著述から、世界が教会の教えとはなんと違った姿で説明されていることを知りました。ここでは、世界は悪の化身でも、堕地獄の源でもなく、「理性的な目的と手段の相互に絡み合った、驚嘆すべき調和的組織」であり、その研究は思索する人間のもっとも立派な課題として立てられていました。
1209年に教会はパリにおいて、破門の刑によって、アリストテレスの自然科学的著述も、その注釈書も、公たると、私たるとを問わず、これを読むことを禁ずるという布告を出しました。アリストテレスが、キリスト教から禁止されたことは、日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。
しかし、この禁令は長くは続きませんでした。条件付きの禁止にあらためられたりしているうちに、1245にはアリストテレスが学位のために必要な書として指定された。これは直接にはアルベルトゥスの影響によるのであろう。彼は、アリストテレスのほとんどすべての書の注釈をつくった。彼の弟子のトマス・アクィーナスはアリストテレスの哲学と教会の教義とを巧みに総合して、スコラ哲学の最高の体系をつくりあげ、これが教会の公認神学説となるとともに、アリストテレスは絶対の権威に高められました。
つまり、13世紀に、キリスト教は、聖書をアリストテレスの自然観と矛盾の無いように解釈し直し、その後スコラ哲学へと発展させたのです。
スコラは、教会付属の学校を意味し、キリスト教会の教義にアリストテレスの哲学を結びつけて体系化したものをスコラ哲学といいます。トマス・アクィーナス(1255頃から74)の主著「神学大全」と、「哲学大全」があります。 
アルベルトゥス・マグヌスの自然観
アルベルトゥス・マグナスは1207年(1193年という説も)に生まれ1280年になくなった。彼は、予備教育をパドヴァで受け、ドミニクス教団の学校や、パリ大学で教鞭をとりました。パリではどの講堂も彼の聴講者の群れを、収容しきれないほどの人気を博しました。彼の人気からみると13世紀には知識欲に欠けてはいなかったが、それをみたすべき価値ある対象が欠けていたのでです。
アルベルトゥス・マグナスはアリストテレスの自然哲学を紹介しましたが、教会の信仰に反抗するものは、迫害と死にさらされた時代にあっては、彼独自の研究を多く期待することはできません。彼の意義は、人々が自然科学の分野で、再び古代の著述を基礎に求めはじめたこの時代に、アリストテレスの自然哲学をきちんと伝えた点にあります。 
ロジャーベーコンと何人かの人
ロジャーベーコン(1214?―1294)はオックスフォードに、ついでパリに学び、後にオックスフォードの教授になりました。
ベーコンは自然学の原典としてギリシア人(アリストテレス、エウクレイデス、プトレマイオス)、ローマ人(プリニウス、ポエティウス、カッシオドルス)およびアラビア人(アヴィケンナ(イブン・シーナ)、アルファーラービ)を利用しました。
ベーコンは、魔術の空虚さに関する著述の中で、魔法に対する信仰をたたいています。これが告発され、ベーコン晩年10年間拘禁されました。
ベーコンの『神学研究要項』をみると、「学問の研究に対する主要な障害は、あらゆる階級にゆきわたっているはなはだしい堕落である。聖職者階級の全体が高慢と淫蕩と貧欲に身をゆだねている。聖職者が集まると、在俗の人々に不快を与える。君候や領主たちは互いに圧迫し略奪しあい、戦争と課税で臣民を滅亡させる。国王はひたすら膨脹のみを策する。自分の画策が達せられさえすれば、それが正義によろうと、不正手段によろうと、あえて意に介さない。上層階級はただ美食と肉欲にふけり、人民はこの悪例を見て憤慨し、憎悪と離反に駆り立てられ、そうでなくとも、上流の悪例にならって堕落する。淫蕩と享楽は筆紙につくしえないほどに、はなはだしいものがある。商人の間には奸計、詐欺、底知れない不正が横行している。」とあり、昔の人間も今日とあまり変わらなかったことがわかります。
ベーコンは、アリストテレス同様、世界は空間的に有限であると考えていました。弁証論的論拠から、真空説も退けています。ベーコンにとり、諸科学の女王は神学でした。知識が聖書に矛盾すれば、その知識が間違っていると言うのです。このような制限はありますが、ベーコンは、科学の復興と、観察及び実験に基づく自然科学の確立を求めました。ベーコンは、科学にとっての三つの道として、経験、実験と証明をあげます。数学や、思考の形式的表現としての言葉も重要だといいます。「私たちは言葉が最大の印象を与えることを考えて見なければならない。ほとんどすべての不思議は、言葉によってなされた。最高の感激が言葉の中に示されている。したがって、深く思考され、いきいきと感受され、適当に評価され、力強く発せられた言葉は、非常な力を持つ。」
ベーコンは主著『大著作(オゾス・マユス)』のなかでは、まず一部で当時の一般の無知の原因を述べています。虚栄、権威信仰、旧来の偏見、および多くの誤った、不十分な諸概念。二部では、アリストテレスを中心に解説され、この哲学者の著述が完全無欠ではないことを言います。アリストテレスとキリスト教が結びついた直後からアリストテレスの記述が完全ではないことに気づいていたと言えます。三部では、聖書とアリストテレスを原典で読むことの重要性を指摘しています。四部では、天文学とその応用を含めて数学を取り扱う。ベーコンはユリウス歴の欠陥に気づき、法王に改正の議を提案しました。
五部では、アルハゼンに基づき、光学を論じています。放物線鏡による反射、および目の解剖と生理の説明は明晰で的確です。視覚が生ずる過程を脳までさかのぼらせています。そう考えることで、両眼において生ずる感覚的な印象が、ただ一個の知覚に融合されることが説明できるのだと考えています。ベーコンは球面収差を知っていました。天日とり球と凸面鏡についても論じています。ベイコンは凹面鏡の焦点が、球の中心ではなく半径の中点にあることを研究し、光が集中するのは点ではなく、小さな場所にすぎないと指摘。反射焦面本質が暗示されています。悪例の仕業だと思われていた蜃気楼は、自然的な原因によると書かれています。月及び太陽の直径を測る機械を記述しています。太陽は、地球の170倍だとしました。潮の満干が起きるのは、月光が垂直に落ちるとき、蒸気を吸い上げるためだとしました。星がきらきらするのも、この水蒸気のためであるとしました。反対側にも干満が起きるのは、恒星球が月光を反射し、その反射光が地球の反対側にあたり、同じ現象を引き起こすとしました。虹については、アリストテレスに基づいた説明があり、太陽が地平線から42度以上にのぼると虹が消えることも知っていました。太陽の光が、不規則な形の穴から暗室に差し込んだとき、円形の太陽増ができることについては、説明できませんでした。光は、有限の時間で伝わること、微粒子ではないこと、光の独立性を書いています。
「自らの経験(実験)によらなければ、より深い認識は不可能である。」という言葉で始まる第六部は、実験の科学にあてられています。実験は、理論を支え、理論を新しい帰結に導く最も重要な手段であるといいます。
結びの第7部は、科学の任務に関する考察です。科学は人類を認識に導くだけでなく、より高い道徳的目的にも導かねばならないといいます。
ベーコンは、数学を、そのほかの科学の入り口とよび、鍵とよびました。数学の根本的真理は、人間に生まれながらに備わっているといいます。数学を通らなければ、私たちは完全な真理に達することはできない。私たちがますます多く数学によって基礎付ができるほど、誤謬と疑念の度が少なくなる。…と言います。
ベーコンは、金属の貴金属化も信じているし、占星術も細大漏らさず説明をしています。“星占家は天を十二の「宮」にわける。おのおのの惑星(月と太陽も入る)は、自らその中で想像されたところの一つの「宮」をもつ。例えば獅子宮は太陽の宮。木星と金星は幸運の星。火星と土星は災難の星である。惑星の合、惑星が同じ宮に会合することは、大影響をきたす。そのような合は、王位の更迭、飢饉、及びそれに類する変事の前兆である。それは個々の人間にも影響を及ぼす。人間に意志までは決定しないが、天の力は身体に作用し、肉体と精神の密接な関係によっても、精神に影響する”という。
後にピーコは占星術に対して、一切の占いがまやかしであることを知ろうと思えば、星占い者と手相見に同時にうかがいを立てて、両者の言うことがちぐはぐであるのを見ればいいと言います。ルーッターも星占いは見え透いた嘘だと公言をしました。ピーコは、占星術の害悪について、哲学を破壊し、医学を損ね、宗教を覆し、迷信を生み、具像崇拝を助長し、風紀を乱し、天を誹謗し、人間を偏見と誘惑者の不幸な奴隷に落とすという。
医師のヨハン・ヴァイアーは、魔女信仰とそれに関連した魔女迫害を克服しようとしました。彼は、悪夢は体の状態の結果であって、悪魔の仕業ではないことを証明しました。彼は迷信的観念の成立に対して、女性の空想や、ヒステリーへの傾向の持つ役割を認識していいました。彼の信奉者は少なく敵は多かった。魔女と見なされた女性たちで、聖職者や、異端糾問官や、狂信的な群衆に迫害され、火あぶりにされるものは、18世紀まで後を絶たちませんでした。
時代のこういう欠陥のすべてに対して、薬となりうるものは、自然科学しかなかったのです。
錬金術や占星術や魔術、魔女信仰…。教会の狂信的なひとの、有害で恐ろしい鞭となった迷いから、自然科学的世界観の勃興のおかげで、開放されるのです。 
人文主義1300年代
ギリシャ・ローマ時代の古典を学ぶことを通じて、中世のキリスト教的な禁欲主義から脱し、人間のありのままの姿を肯定する、ルネッサンス期の思想をヒューマニズム(人文主義)という。人間の様ざまな欲望や裸の姿を肯定的に表現した、文学や評論や美術作品が創られた。
ダンテ(1265年―1321年 フィレンツェ生まれ)は、当時のイタリアの知識人に大きな影響を与えました。ダンテは、ローマの詩人から学び、宗教上の出来事や、宗教上の人物の活躍をつづった詩『神曲』を、庶民の言葉であるイタリア語で書きました。当時書物は、ギリシャの言葉で書かれるのが普通でしたから、一部の人しか読めませんでした。イタリア語で書いたことは、読者層を大きく広げたわけです。多くの書物が、ガリレオも例外ではなく、ダンテから大きな影響を受けたと言われます。ガリレオが科学の成果を「誰にでもわかるように書く」ことに気を配り、その多くをイタリア語で書いたことも、もしかすると『神曲』の影響かもしれません。
イタリアルネッサンスの時代は、それまで絶対であったカトリックの権威が大きく揺らいだ時代でしたが、そういう時代であっても、権威を批判することは、時には命がけであったに違いありません。その中で、たとえ真実ではあっても自分の意見を表明するにあたって、多くの人々が理解者であり、味方になってくれることが大切だったのです。
おそらく、ダンテがイタリア語で書いたことの意味には、そのあたりのことも会ったのではないでしょうか。
ボッカチオ(1313年―1375年) 『デカメロン』10人の男女が1日に一つづつ話をし、10日間で100の物語となったという形。人間感情が自然のままに物語られ、特に好色的な色彩が濃い物語だそうです。近代小説の先駆と言われることもあります。個人の生活が(といっても市民でしょうが)大事にされ、豊かさと自由が感じられます。
一方、1339年には、英仏間で百年戦争が始まり、ペストが全ヨーロッパに蔓延します。1375年には、オックスフォード大学で宗教改革が企てられました。1378年には、ローマ教会の権威にひびが入ろうとする芽が育まれ、「大分裂状態」が始まります。それまで絶対であった権威が、市民の声で揺らぎ始めたのです。
日本では、1397年に足利義満が金閣寺を建立します。「金でできた建物」の噂はヨーロッパにもまたたくまに伝わります。「金銀が輝く国」という幻想的なイメージは、ヨーロッパの人々に大きな夢を与えていました。 
観測天文学の復興
パオロ・トスカリネス(1397年フィレンツェ生まれ)は、観測天文学をヨーロッパに復興させた。フィレンツェの大会堂にグノーモン(日時計針)をつくる。グノーモンとはどのようなものだろうか。大会堂の地面から270フートの高さに一枚の板があって、その板に一つの穴をあけ、そこから一本の太陽光線が地面の上に落ちるようになっていた。その光の動きを観測するようだ。それは、太陽の子午線の通過を、秒まで正確に測定することができた。 
1400年代
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1519)やミケランジェロ(1475―1564)の出現は、イタリア・ルネッサンスに華やかな装いを与えました。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1519)はフィレンツェの近くで生まれた。ダ・ヴィンチについては、調査の対象が膨大であるため。別に調査しようと思います。
アラビア語の訳からではなく、ギリシャ語の原典からアリストテレスが読まれます。アラビア語のものは、原典をアラビア語に訳した人の解釈が入っていたのです。
クサのニコラウス(ニコラウス・クサヌス1401―1464)は、法王の命令でコンスタンティノポリスに赴き、貴重なギリシャの写本をイタリアにもたらしました。トスカリとも知り合いです。アリストテレスの原典もギリシャ語で知りました。エウクレイデス、アルキメデスなど古代の著述家から学び、数学、力学、天文学を研究しました。地球は一つの星で、自然界の一切のものと同じく運動しているといいます。「私たちは、運動しないものとの比較によってのみ、運動を認めるのであるから、地球の運動に気がつかないでいるが、地球が実際に運動していることはいまや明らかである。」と書いています。恒星が不動であることには気づいていません。「水が流れていることを知らず、岸も見ることがない火が、もし水上を流れにしたがって滑ってゆく船に乗っているとしたら、どうして船の動いていることに気づくだろうか。したがって、地球の上であろうと、太陽、もしくは他の星の上であろうと、そこにいる人には自分が不動の中心の上に立っていて、すべてのものが彼の周囲を回転するように見えるのだから、太陽へ、月へ、火星へと移れば、そのたびに彼は別の極を立てるであろう。」ただ、彼の主張は、観測や数学的推論よりも、一般的思慮に基づいている場合が多かったのです。彼の世界説は、真理から遠かったが、1000年の存続によって神聖化された「プトレマイオスの権威」を初めてゆりうごかし、さらに100年年後にコッペルニクスより始まる大変革の準備をしたといえます。
クサのニコラウスは、力学の問題も研究しました。あらゆる研究について、測定的方法をとることの重要性をとなえた最初の人でした。
水深器を発明しました。ウキにおもりを付けたおもりを沈め、そこに着くとウキがはずれて浮かび上がる仕組みです。この両方の運動に費やされた時間から、水深を計算しました。
植物がその養分を空中からとるか、土中からとるかを、秤を使って決定できるといいました。主旨と必要な土を秤量し、それを植物の生長とともに繰り返せばよいと。 
ニコラウス・コペルニクス
地動説で有名なコペルニクスは、1473年、ポーランドのクラコウに近いトルンにドイツ人を両親のもとに生まれました。クラコウの大学に入って医学を勉強し、カトリック教徒となりパドヴァ大学に留学を決意します。
パドヴァは、ヴェネチア共和国の都市です。ヴェネチア共和国は、東方との貿易で繁栄を極め、自由な空気と市民社会の活動力で比べる地域が他にないほどでした。パドヴァ大学は、ヴェネチアの大学としてパドヴァに1222年に作られた大変に古い大学です。「ボウ」といわれる、牛の頭蓋骨を大学のシンボルとしています。「ボウ」という愛称で呼ばれています。ガリレオの話でも、この大学はたびたび登場します。
コペルニクスが入学した当時のパドヴァ大学の医学部は、文字どおり世界の医学の中心であり、研究の最先端を常に切り開いていました。ここで、コペルニクスは活発な研究の雰囲気に充分に触れたはずです。
注目したいのは、コペルニクスがパドヴァに行く前に、ボローニャでギリシャ語とイタリア語を3年半みっちり勉強していたことです。ヨーロッパの片田舎から、文化の中心へ言って学ぶためには、言葉の学習が欠かせません。コペルニクスが、謙虚に学んでこようとしたことが、感じられます。
パドヴァの西方に、農産業の中心の町フェラーラがあります。この町も、イタリアルネッサンスの若々しい気分に満ち、大学を持っていました。
パドヴァの後、1503年にフェラーラの大学に移ったコペルニクスは、ドメニコ・ノヴァラ(1454―1504)という天文学者と出会います。どうやら彼との出会いがコペルニクスの関心を宇宙へと向けたようです。
1506年イタリアからポーランドに帰国すると、医者の仕事をしながら天体を観測し、地動説の考えをまとめた本『天体軌道の回転について』の準備を始めます。この本は、コペルニクスの死(1543年5月24日)の直前(1543年)にニュルンベルグで公刊されました。その表現には、宗教上の配慮から細心の注意が払われました。
疑問
1 カトリック教徒になることはコペルニクスにとってどのような意味があるのか、またパドヴァへの留学と関連があるのか。
2 ドメニコ・ノヴェラを宇宙の姿をどのように理解していたのか。
3 ドメニコ・ノヴェラがコペルニクスに与えた影響はどのようなものだったのか。
4 コペルニクスが大学で何を学んだのか。 
コペルニクスの地動説
地動説とは、太陽を中心に地球を含めた六つ(当時知られていた)の惑星が太陽の周りを回っているという学説(仮説)です。
当時、天体の観測は、正しいカレンダーの作成や、天体現象の予測に必要であったばかりではなく、東方にまで航海をするようになった船乗りにとって自分の位置を知るために、星の運行について知識はどうしても必要なものでした。
天動説は、地球を中心にしてすべての天体が地球の周りを回っているという仮説です。ギリシャの天文学者クラウディオス・プトレマイオスが天動説の代表のように言われます。プトレマイオスは2世紀の前半の頃の人で、当時のギリシャの天文学の成果をまとめて、『アルマゲスト』を書きました。『アルマゲスト』を訳せば「数学集成」となるそうです。
当時の宇宙像を見てみます。
まず、アリストテレスの宇宙像です。地球が中心にあり、その周りに水、その外に空気、火と、4元素の領域があります。その上は天空の領域で、元素としてはエーテルの世界。そこに、太陽、惑星、月、恒星の天球が、同心球状に取り巻いています。その順序は、地球に近い方から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順で、その外側に恒星の天球、恒星天があります。一番外側に回転運動の起動力である宗動天があります。
プトレマイオスは、アリストテレスの宇宙像を基本にしながら、見かけの天体現象と一致させるために、各天球をそれぞれいくつかの天球の複合体であるとし、各天球に固有の運動を与え、精密な数学的理論の裏付けを持つ宇宙体系にしました。ここで、天球は球でなくてはいけませんし、一つの球の回転は一定の速度であると考えられていました。プトレマイオスは、天球上の惑星の複雑な運動を記すために、円の上を回転中心とする円を考えました。これは、日本語では周転円と呼ばれています。
この、天動説の立場に立つ数学的理論は、コペルニクスの時代まで不動の権威でした。これには、観測の精度が上がるにつれて修正が加えられていました。やがて、周転円の中心を、円軌道上からずらすことも行われていきます。
プトレマイオスの数学理論は、宇宙の生の姿を現しているものではありません。宇宙の姿としてはアリストテレスの描いた宇宙像があるわけです。天球が動くことによって、星が複雑に動く、その点球の動きを数学的に表したものなのです。ですから、修正の結果、複雑に複雑にとなっていっても、それが星の運行を説明できている限り正しいと思われましたし、特に疑問は無かったのだと思われます。
ガリレオが偽金鑑識官の中で書いていることを見ると、火星が接近してきたときの火星の動きを、プトレマイオス派の学者たちは説明ができなかったようです。
コペルニクスの天動説は、数学的にシンプルです。コペルニクスの天動説も観測と一致はしていませんが、当時のプトレマイオスの天動説よりは良かったようです。また、火星の話との関係もわかりません。当時の天文学者の多くの理解は、数学的な仮説であるというものであったかもしれませんが、アリストテレスの宇宙像を大きく揺るがすものであったわけです。
疑問
1 コペルニクスは、観測の結果天動説の立場に立ったのか、天動説の立場で観測をしたのか。
2 プトレマイオスの修正の理論的な根拠はどのようなものだったのか。
3 プトレマイオスの修正に対する教会の立場、許容するときにルールのようなものはあったのか。
4 プトレマイオスの修正をしていた人は、どのような立場のどのような人達であったのか。 
コペルニクスの波紋
コペルニクスの説の影響は、当然の事ながら学者の間だけではありませんでした。
コペルニクスは、カトリックの僧侶でカノニコ(司教座聖堂参事会員)でした。コペルニクスの心配をよそに、本が出た当時、コペルニクスの説はカトリックの側からは、温かく迎えられました。教会内の多くの人は、コペルニクスの本を読み熱心に読み勉強をしたそうです。もともと信仰の問題を論じている『聖書』と自然現象の説明である太陽中心説が衝突するはずがありません。コペルニクスの説がカトリックの教義に抵触すると考える人は、当初は全くなかったようです。
宗教改革の闘志マルティン・ルッター(1483年―1546年)は、コペルニクスの説を全面的に否定し激しく攻撃をしました。カトリックを攻撃するルッターは、カトリックの一員が唱える説をも攻撃をしたわけです。本来、ルッターの矛先は、カトリック教会の人間的頽廃に向けられたわけですが、それが「教義の解釈」にすり替わったとも言えます。しかし、ルッターのいたウィッテンベルグ大学の数学天文学教授レティクスは、コペルニクス説を理解し賛成にまわり、コペルニクスの本の出版を推進しました。ルッターは、コペルニクスの説が理解できなかった可能性もあります。
この後、コペルニクスの説をめぐって、思想界が二つに分かれ激しく争うことになります。
思想界の論争を後目に、1492年には、クリストフォロ・コロンブスは、120人の船員と三隻の船で、苦しい航海の末、アメリカ大陸発見につながる航海を行いました。1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわってインドのカイカットに着きました。
コペルニクスの地動説が正しいと感じた商人や庶民は、地球も月のように球形であることを見抜き、上記のような航海を計画し実行します。地球が平らであると考えている人からの反発もあるわけですが、その反対を知恵と勇気で乗り越えた人達ともいえるでしょう。「コロンブスの卵」と言われる出来事は、思想界が議論している間に、実際に人々がどっちが正しいか確かめてしまったとも言えるわけです
庶民が宇宙をどのように見ていたのか知るよしもありませんが、宇宙像の変換があったに違いありません。千年以上権威であったものの変換が、人々の気持ちに与えた影響は、想像するだけでも楽しくなります。
疑問 
1 コペルニクス説に立てた人と立てなかった人の差に、何か共通するところが あるのだろうか。
2 現在でも、科学的な発見が一時的な話題になることはあるが、多くの場合生活とかけ離れている。コペルニクスの説は、当時の人であれば誰でも知っていたのか、それとも、やはりあるそうの人々の間で議論になっただけなのか。 
大航海時代
航海の拡大にともない、どのような技術的な要請があったのか、調査したいと思いますが、適当な資料が見つかっていません。事実だけ羅列をしてみます。
パルトロメウ・ディアスは、1487〜88に、喜望峰まで達しています。
ヴァスコダ・ガマは、1497〜99に、喜望峰をまわり、インドのカルカットに達しています。
コロンブスは、1492〜93の1度目の航海で、サンサルヴィアトル諸島に。1502〜02の4回目の航海で中部アメリカに達しています。
ガボットは、1497〜98に、北アメリカ北部に達しています。
カラブルは、1500〜02に、南アメリカサンタクルスに達した後、喜望峰をまわりインドまで達しました。
アメリカの名前のもとになった、アメリゴ・ヴェスプッチは、1501〜2に、南アメリカ沿岸を調べています。
そして、マゼランは、1549〜22に、マゼラン海峡をまわり太平洋に出てグアム諸島を経由し、フィリッピン諸島に着きます。マクタン島の主張に殺され、その後、部下は、喜望峰をまわり戻ってきました。
1473に生まれ1543年になくなったコペルニクスが、14歳の時、喜望峰に達し、20代の時にヴァスコダガマがインドに達しているのです。
西ヨーロッパに天文台がつくられ、天体観測がされ、精密な恒星の位置や惑星の位置を観測したのは、航海からの要請が大きかったはずです。だれが、航海になにを持っていったのか、誰が情報を提供したのか、知りたいものだと思います。 
イエズス会とは
ガリレオの思考を分析するにあたり、ガリレオ裁判は重要であり、それを理解するために、キリスト教の動きのいくつかを、簡単にでも知っておきたいと思います。
教団内部の人事をめぐる腐敗と堕落のなかで、イエズス会が誕生します。イエズス会をつくったのは、スペインの軍人イグナティウス・デ・ロヨラです。ロヨラは、フランス軍との戦いで重傷を負ってしまいます。その療養中に回心をして信仰の道に入り、清貧、貞潔と海外布教の誓願を立て、イエズス会を創設します。イエズス会では、軍隊的で厳しい規律ものとで激しい訓練をして、戦闘的な精神を会士に植え付け、禁欲、修行、異教折伏、海外布教をスローガンに掲げました。
イエズス会は、1540年にはローマ教皇パウルス三世によって正式に認知され、ローマ学院を創設することを許されました。ローマ学院(Collegio Romano)とは、イエズス会の宣教師を養成する大学で、神学研究とともに、自由七科を中心とする人文主義教育を重視したそうです。自由七科とは、文法・修辞(文章で表現するときに、言葉を飾って美しく巧みに言い表すこと)・論理の三科と、算術・幾何・天文・音楽の四科だそうです。今の言葉で言えば、文系理系と言うところでしょうが、算術・幾何・天文と並んで、音楽が入っています。三科が、人間世界での処世術の勉強、四科は聖書以外の紙の思し召しを知る方法を学ぶ、というような意味があるのではないかと想像をしてしまいます。
宣教師が海外での布教をするときには、キリスト教の教えの正しさを伝える上で、自然科学や思想上の知識も重要でした。特に中国では、当時のカレンダーが自然現象とずれてしまっていましたし、日食など天文現象の予測も不十分でしたから、それをただせることは、キリスト教がいかに真実であるかを示す絶好の材料であったのです。当時の中国は、こちらがわの世界の中心でした。その自負は大きいので、他の国からやってきた人の言葉を学習をしたりしません。中国に行った宣教師たちは、懸命に中国語を習います。聖書はもちろん、ヨーロッパから持っていって本を中国語に訳して布教に使っていたのです。
このような布教活動のために、イエズス会士たるものは、最高の思想・学術を修得すべく努力せねばなりませんでした。会も、教育活動に力を入れました。当時は、アジア地域までの船旅は、長く困難を極めました。イエズス会士は、困難な船旅にも耐える体力と、強い精神を持っていましたし、布教に必要な知識も併せ持っていましたので、イエズス会の勢力は、ヨーロッパだけではなく、広範なアジア地域へ広がっていきました。
イエズス会の創設に当たり、ロヨラを助けた同士7人の一人に、フランシスコ・ザビエル(1506―1552)がいます。ザビエルは、インド、マレー諸島と布教活動をして、1549年に鹿児島に上陸しました。ザビエルは、日本全国で布教活動を行おうと、京都に行き布教の許可を求めましたが、認められませんでした。
2年ほど滞在し、その間に本の様子を観察し、その様子を手紙で本国に送っています。
布教も認められず、日本の文化が中国の影響を強く受けている事を知ったザビエルは、中国での布教をめざし、単身中国に入りますが、広東の南方の島・上川島に上陸後、熱病にかかりなくなりました。
イエズス会の布教活動に伴い、コペルニクスやガリレオの考えが、アジアにもたらされました。
ドメニコ会は、キリスト教の正当な信仰を大切に守ることを目的としてできました。イエズス会と同じように、学問を価値あるもととして大切にし(重んじ)ます。ドメニコ会士は率先して、清貧つまり行いが清く正しく、富を求めることをせず、貧乏にも甘んじる生活を自ら行います。布教の仕方は、説教で異教徒を改悛させることに全力を尽くします。説教とは、聖書の教えを話して人を導くことです。異教徒とは、キリスト教ではない宗教を信じている人。改悛とは、今までの宗教を捨てキリスト教を信じるように、キリストの言葉や聖書の言葉で信仰に変化を起こさせることです。ドメニコ会士は、これに全力を尽くすことが神に仕えることだと教育されるのです。
この会の会士も、会の規律に忠実に、相手を説き伏せ信仰の道に入る(折伏:しゃくふく)活動に専念しました。
イエズス会士やドメニコ会士がガリレオを告発する様について、豊田氏はこのように述べています。「率直に言って、私はこういうことは、昔の物語ではなくて、将来も起こりそうな、いや今日でも起こりそうな気がして、そら恐ろしい気がするのである。」
疑問 
1 イエズス会の会士たちの熱意をささえていたのは、どのような気持ちだったのか。
2 イエズス会と商業活動との関係は。 
カレンダーの持つ宗教的な意味
コペルニクスも何十年にもわたり天体の観測をしています。当時、なぜ、天体観測が多くの天文学者の手によって行われたのか、そのわけを見ておきたいと思います。
まず、正確な星の運行を知るのは、船の位置を知るためには不可欠です。
日本でも緯度(北か南か)が違うと北極星の見える向きが変わるように、緯度については、恒星の位置がわかっていれば、その位置を測定することによって知ることができます。
しかし、経度(東か西か)は、星を見ただけではわかりません。緯度が同じで、経度が違っても、観測する時刻が異なれば、全く同じ配置の星を見ることになるからです。
経度を知るためには、時刻が正確にわからないといけません。時刻を知るためには、時刻とともに変化する現象を見つければいいわけです。規則的な振子の動きに連動した針の動きで時刻を示したのが時計ですが、当時はまだ振子時計は知られていませんでした。恒星の間を人を惑わすように動き回る惑星の運動は、時刻を知るための一つの候補です。ですから、いつ何時、惑星が恒星の中のどの位置にいるかをあらかじめ示してある「正確な表」があって、未来のある時刻にある場所(例えばパドヴァ)で、星はどのように見えているかがわかっていれば、星の観測をすることによって時刻がわかり、緯度を知ることができるのです。
しかし、当時はまだ充分ではありませんでした。惑星の恒星の中での位置の変化は、1日でもわずかですから、正確な時刻を知るためのわずかな惑星の位置の変化を観測することはできなかったのです。
ですから安全な航海をするためには、必ず陸地を見ながら進んだのです。
コロンブスの航海が、いかに困難なことだったか。自分の正確な位置を知ることはできなかったのです。
一方、教会サイドからみるとカレンダーが大変大事でした。
人々の生活は、今も昔も、農業に依っていましたから、教会が決める暦が、実際の気候の変動と少しでもずれてくれば、暦が不正確なことは誰の目にも明らかになります。これでは天命を知悉(知り尽くすこと。精通)していなけばならない天子の権威に関わるわけです。
グレゴリウス歴は、今日私たちが使っている暦法でです。この歴こそそローマ教会の強力な布教手段だったのです。逆に言えば、グレゴリウス歴を利用すると言うことは、ローマ教会の権威の傘下に入るという意味もあるのです。
プロテスタント諸国がグレオリウス歴を採用するのは1700年代になってからです。ギリシャ正教の強い支配下にあったロシアはソヴィエト政権が確立された1918年にグレゴリウス歴を採用せざるを得なくなったのです。
正しい暦を作るための天文学的な知識とデーターの収集は、教会の権威を保つためにはぜひとも必要だったのです。
Emendazion gregoriana 教皇グレゴリウス八世が、1582年に行った改暦で決められた暦法です。当時使われていたのは、ローマのユリウス・カエサルがつくったユリウス歴です。ユリウス歴は、天文現象との間に10日の差が生じてしまっていました。そこで、グレゴリウス八世は、ユリウス歴の1852年10月5日金曜日を、10月15日金曜日に改める旨、布告しました。ユリウス歴では4年ごとに1日の閏日を加える太陽暦です。これでは、1年の平均の長さは365日6時間より11分14秒短いのです。それを補うために、4で割り切れる年を閏年としました。しかしこれでは、閏年の入れ方が少し多すぎるのです。そこで、グレゴリウス歴では、4で割り切れても100で割り切れる年は閏年ではないとし、さらに正確にするため400で割り切れる年は閏年としました。一年の長さを秒単位で測れる位精密な天体観測が改暦には必要だったのです。 
自然の秘密のアカデミア
1560年、ジョヴァンニ・パチスタ・デラ・ポルタによって、ナポリに世界最初のアカデミアができました。会員の資格は、自然について何か発見したもの、が、デラ・ポルタ自身が魔法を使ったと言うので教会裁判に告発され、その無実が証明されたにもかかわらず、そのアカデミアは閉鎖させられてしまいました。
大学は、古来からの伝承を受け継ぎそれを述べるだけの教授たちの安住の地となり、自由で生き生きした精神は大学から失われようとしていました。そんな中、新しい、研究の組織が求められ初めた時代背景のあらわれです。
疑問 
1 ジョヴァンニ・パチスタ・デラ・ポルタは、どんな人か。 
知は力なり
1561年、イギリスにフランシス・ベーコンが生まれました。中世的学問の革新の一方の騎手として登場しました。彼は「知は力なり」という、「学問は自然に働きかけることを含むがゆえに、まず自然に従う必要がある。」と言いました。
ベーコンは、収賄をしたという理由で起訴されて、職をやめさせられ、罰金を払わされ、ロンドン塔に幽閉されました。そののち一部の罪を赦(ゆる)され郊外に隠棲(いんせい:俗世間を避けて静かに住むこと)、そこで著述に専念したそうです。
ガリレオの生涯と、晩年と似ています。 
ティコ・ブラーエ
ティコ・ブラーエは、日本では、あまり知られていません。チェコについても、もっと詳しい調査をしたいと思います。
ティコ・ブラーエは、1546年デンマークに生まれました。これは、コペルニクスがなくなった年です。ティコは、コペンハーゲンに学び、ライプチッヒ、ウィッテンベルグ、ロストックさらにバーゼルなどの大学に学びました。
当時のイタリアの文化からは離れて育ったことになります。
彼は、天文学の観測技術、測定値の誤差の処理法など、観測を重んずべき科学にとって、基本的な研究をこつこつと行いました。と同時に、フヴェン島のウラニブル天体観測所で、1576年から1579年まで20年間天体観測を続け、信頼度の高い膨大な観測データーを残しました。
プロテスタントで、理論家的ではありませんでした。「哲学」論争を行っていたルネサンスの思想家たちから離れて、地味だが、地動説の定式化に決定的な役割を果たす測定値の収集に孜々として努めました。
ティコは、若いケプラーにいち早く注目し、助手として招いきました。
チィコの死後、理論家ケプラーは、観測家チィコのデーターを自由に分析することができました。 
ジョルダーノ・ブルーノ
ガリレオが生まれる16年前、1548年ナポリの東北25キロ、ヴェスヴィオ火山の裏側にあるノラという古い町で生まれました。ノラは、古代にはテラ・コッタの壺の生産で有名であったと言われています。(テラ・コッタ:粘土を素焼きにしてつくった陶器)
ブルーノの父は一種の専業兵士で、訓練や戦闘の合間に農業をするという、貧しい生活をしていました。イタリアでは、貧困や私生児など、不幸な身の上の男の子に開かれていた栄達(高い地位に進むこと、出世すること)への道は聖職に就くことでした。それには、激しい修道生活(修道:宗教の教義つまり「真理と信じられて教えられている考え」や道義つまり「人の守り行うべき正しい道」を修めること。)が必要であり、難解な教義を幼い頃から学ばねばなりませんでした。
ブルーノは、十四歳の時ナポリに行き、人文学や弁証法(弁論によってあることがらを論証するときの論法)を習ったが、十七歳でドメニコ派の修道院(カトリックで修道士・修道女が、一定の規律のもとに共同生活を営み、修行を積む団体)に入りました。
ドメニコ会に入って11年目の1576年、理由はわかっていないが、異端審問所から召喚状(裁判所などが、被告人・証人など特定の個人に対し、一定の日時に一定の場所に出頭するよう命じること)が来ました。
なぜ、ブルーノに召喚状が出されたかについては、古くから多くの説があります。豊田氏は清水純一著『ルネッサンスの偉大と頽廃(たいはい)―ブルーノの生涯と思想』(岩波新書)説がもっともらしいという。
「欺瞞(ぎまん:人の目を欺きだますこと)と不誠実と奸計(かんけい:わるだくみ)と忘恩(ぼうおん:受けた恩を忘れること)と吝嗇(りんしょく:極度に物惜しみする様、けち)と情欲(異性に対する性的欲望)と、その他のありとあらゆる悪徳の跳梁(ちょうりょう:悪者などがはびこり、勝手気ままに行動すること)する」時代に対し、青年ブルーノが反時代精神を激しく燃え立たせたことは、むしろ当然すぎるくらいのことであったと思われます。また、人生経験に乏しい若者として、本来非合理的な宗教の教義に疑問を抱いたり、自分なりの批判を試みたとしても、何ら怪しむに足りません。
そんなことくらいで、あるいは、異端者的な傾向があるというくらいで、正式な告発ができるほど、イタリアは堕落していなかったと思われます。
ブルーノは、「ある日私は、他の神父たちも同席していた場所で、同じ会派に属するモンタルチーノと議論したことがあります」という記録を残しているようです。清水氏によれば「モンタルチーノは、ドメニコ会派に属していたが、かねがねイグナティウス・ロヨラを強く崇拝していたイエズス会親派の神父だったのである。彼は耳にした異端説を黙していることに良心の呵責(かしゃく:責めさいなむこと)を感じて、あるいはむしろ異端者のスパイ的摘発行為に聖なる使命を感じて、異端審問所に直訴したと思われるのである」。
つまり、ドメニコ会に批判的なひとに、そうとは知らず自分の気持ちを語ってしまったというわけです。それが、会と会の対立の絶好の材料となってしまったということのようです。
ドメニコ会もイエズス会もどちらも戦闘的な新興宗派であり、近いものほど憎いという下世話を地でいった感じです。
ブルーノは、身を隠しました。生命の危険を感じたからこそ逃亡したのであり、自らの世界観のためには死もおそれなかったわけではありません。火あぶりになったブルーノと、異端凄絶を行ったガリレオに比べ、ブルーノを英雄科する向きもありますが、それはブルーノの矛盾を拡張することになります。ブルーノは逃亡の途中、ドメニコ会の神父に会ったとき、教団への復帰をすすめられたようですが、鉄の規律を誇る教団に戻ることは、死を意味するくらい、恐かったに違いありません。
イタリアの各都市、スイスのジュネーブ、それからリヨンをへて、南フランスのトゥールーズに入り、反転し、パリに向かう。英物海峡を渡り、ロンドン、オックスフォードへと流浪の旅は続きます。各地で大学の講師の地位を渡り歩きました。
なぜこんなに渡り歩いたのか、追手はイタリアから国外までやってくることはないことはわかっていたはずです。
ブルーノは自意識過剰で各地の大学で自分の意見に合わない教授には罵詈雑言を浴びせ、土地の人々に対しても散々悪態をついたようです。
長い逃亡者の気のゆるみか、人間の弱さか、1591年、ヴェネツィアの貴族モチェニゴの招待に応じてしまいます。
ブルーノのねらいは、当時空席であったパドヴァ大学の教授のいすであったので、大学の宿舎に泊まり、時々ヴェネツィアに出かけモチュニゴの個人授業をしました。しかし、大学の職は得られずモチェニゴとの間の感情的なしこりを残しました。
モチュニゴの手によって異端審問所に告発されました。
初めは、ヴェネティアの審問所でモチュニゴを非難しましたが、不利を悟り、自己批判し教皇に自著を送ると申し出ます。ヴェネツア政庁も、真情を吐露し自己批判されると、その処置に窮しました。ローマ教皇庁からブルーノの身柄引き渡しの要求があったときは、一度はこれを拒絶しましたが、ローマの特使の切り崩し工作により、1年後には彼をローマに引き渡してしまいます。それから7年間、拷問に近い審問が行われます。有名な「宣告を受けている自分よりも、宣告を下している君たちのほうが真理の前にもっと恐れおののいているのではないか。」というブルーノの言葉には、このような背景があったのです。
鉄の規律の軍隊的組織の中で、裏切りや逃亡者に対して、残酷とも言える制裁が加えられるのは、宗教的あるいは未熟な政治組織の宿命なのでしょうか。火刑では叫び声を封ずるため口に舌枷までかけられたといいます。 
プロテスタンティズム
1378年には、カトリック教会の「大分裂」状態が始まっており、カトリック改革の必要は教会の内外で痛感されていました。
キリスト教の最高の規範は『聖書』であるが、教会の腐敗堕落が目に余るようになれば、キリスト教徒の中から直接『聖書』に教えを求め、教会権力にははっきりプロテストする姿勢が生まれてくるのは自然の成りゆきです。プロテスタンティズムと呼ばれるこの運動は、イタリアの外の欧州各地に澎湃として起こり、カトリック教会、より端的に言えばローマ教皇の権威に激しい揺さぶりをかけていました。
教会は自ら改革を考えざるをえなくなり、1512年から17年にかけて、第5回ラテラン会議を招集し、リフォルマ・カトリカ(カトリック改革)に踏み出しました。
ガリレオが生まれる直前、1545年から63年にかけて、トレトン公会議が開かれる。トレトン公会議は、一世紀に一回開かれるカトリック教会にとってきわめて重要な会議です。この会議は、プロテスタンティズムや近代思想の攻撃をうけた教会が、その防御のために招集された公会議で、新しい思想から教会を守るための公会議という特徴が非常にはっきりと現れているそうです。 
ガリレオ誕生
1564年2月15日、ガリレオはピサに生まれる。まず、ガリレオの「小天秤」を見てみたい。
『小天秤(ラ・ビランチェッタ)ガリレオ・ガリレイ
古代の著者のものを読む注意を払った人には良く知られているように、アルキメデスはヒエロンの金でできた王冠を盗んだ金細工師のごまかしを発見した。しかし、この偉大な人がそれを発見するさいに用いた方法については、今も知られないままになっているように思われる。何人かの著者は次のように書いている。彼は、等量の純金と純銀を前もって別々に水に浸した後、問題の王冠を水につけ、水面の上昇あるいはこぼれの差から、その王冠をつくっている金と銀の混合(ミスティオーネ)の割合を確認することができた、と。しかし、これはいってみれば非常に粗雑で精密さからほど遠いものである。この神のような人間(ディヴィーノ・ウォーモ)が行った神妙きわまる発見を彼自身の書いたもので読み、かつ理解した人にとっては、なおさらそう思われるのである。それらを読むと、他のすべての人々がいかにアルキメデスより劣っているか、そして、彼の諸発見に匹敵するような発見をそれらの人々が行う望みはいかに少ないか、非常にはっきりするであろう。私は、アルキメデスが水を用いる方法で盗みを見つけたという噂が広がり、たぶん当時の誰かある著者がそのことを書き残し、その中で、彼が噂で聞いたほんのわずかなことにいくらかつけ加え、それが後で信じられるようになった方法でアルキメデスが水を用いた、というようになった、のであると考える。しかし、これはまったくの虚偽(フェラチェ)であり、数学的な問題(コーゼ・マテマティケ)において要求される精密さ(エザテッツァ)を欠いていることを私は知っているので、水を使ってわれわれはいかにして二つの金属の混合(ミストーネ)の割合を正確に決定できるか、何度も考慮をめぐらしてきた。そしてついに、アルキメデスが彼の著書『水の中にある物体について』および『平衡状態にある物体について』の中で証明していることを綿密に読み返した後、われわれの問題を精確に解く一つの方法が私の頭にひらめいた。この方法は、アルキメデスが用いたものと同じである、と私は考える。それは非常に精密であるという点を別にすれば、やはりアルキメデス自身によって発見された証明(ディモストラツィオーニ)に基づいている。
この方法は、次のような天秤(ビランチャ)を用いるものである。その天秤の製作法(ファブリカ)と使用法を説明する前に、それを理解するのに必要なことがらを詳しくのべておこう。まずわれわれは、水中に沈めた固体(コルピ・ソルディ)は、空気中で測ったときより、その物体と同量の水の重さ(グラヴィタ)だけ軽い、ということを知らねばならない。これは、アルキメデスによって証明されているが、彼の証明は大変まわりくどい(アッサイ・メディアータ)から、これにあまり多くの紙面を使わないようにするために、この証明はわきにのけておこう。例として、一つの金のボールが水につかっているとしよう。もしそのボールが水でできているとすれば、それは全く重さを持たないであろう。なぜなら、水の中の水は上がりもしなければ沈みもしないからである。それゆえ、われわれの金[のボール]は、水中では、金の重さ(グラヴィタ)の[うち]水より重い分だけの目方(グラヴィタ)を持つことは明らかである。同じことは、他の金属についてもいえる。そして金属は、種々の異なる重さ(グラヴィタ)をもつから、水中での重さ(グラヴィタ)は異なった割合で減少する。例えば、金の重さ(グラヴィタ)は、水の20倍であると仮定しよう。そうすれば、金は明らかに水中では空気中におけるより、その全体の重さ(グラヴィタ)の1/20倍だけ重さ(グラヴィタ)が少ない。さて次に、金より重くはない金属である銀の重さが水の12倍であると仮定しよう。そうすれば、もし銀が水中で測られれば、1/12倍だけ軽くなるだろう。したがって、水中での金の重さ(グラヴィタ)の減少は、銀のそれより少ないことになる。なぜなら、前者の減少は1/20、後者のそれは1/12だからである。
そこへひとつの天秤に、ひとつの金属片をつるし、他方の腕に分銅(コントラペーゾ)を乗せ、空気中でつり合わせておこう。さて、もし我々が、その金属を水中に浸し、分銅は空気中に置くならば、その金属とつり合わせるために、我々は、上に述べた分銅を支点に近づけなくてはならない。例えば、天秤をab、その支点をcとしよう。そして、何かある金属片がbにつるされ、それが分銅dでつり合わせられているとしよう。もし、錘(ペーゾ)bを水中に浸すならば、aにおける空気中の重さdは、bより重くなるであろう。それゆえ、同じ分銅を使ってつり合わせるためには、分銅を支点cの近くに、例えばeに移動しなくてはならない。距離(ディスタンッア)acが距離aeの何倍になっているかという割合で、その金属は水より重いことになる。
そこで、bにおける錘は金であるとしよう。そして、これを水中で測ったとき、分銅はeまで戻されたとしよう。つぎに、同じことを非常に純粋な銀について行い、それを水中で測ったとき、分銅はfにいったとしよう。この点は、cにより近いであろう。実験が我々に示すように、銀は金より軽いからである。距離afと、距離aeの差は、金の重さ(グラヴィタ)と、銀のそれとの差と同じであろう。しかし、もし我々が金と銀のある混合物(ウン・ミスト)をもっているならば、この混合物は、部分的に銀であるから、純金より軽く、またそれは、部分的に金であるから、純銀より重いであろう。それ故、もし我々が、それをまず空気中で測り、次にそれを水に浸したとき、同じ分銅でつり合わせようと思うならば、我々は、その分銅を金の目印(テルミーネ)である点eより支点(テルペンディコロ)cの方に近く移動しなくてはならないだろう。それはまた、銀の目印であるfより遠いであろう。したがってそれは、目印eとfの間に落ちることになろう。距離efを分割するその比から、我々はその混合物を構成する二つの金属の比を正確に知ることが出来よう。例として、金と銀の混合物がbにあり、空気中ではdで分銅とつり合っていて、その混合物が水中に浸されたとき、その分銅がgにいったとしよう。私は今やその混合物を構成する金と銀は距離fgとgeの比と同じ割合で存在するということが出来る。しかしながら、我々は銀の目印で終わっている距離fgは、金の分量を示し、金の目印で終わっている距離geは銀の量を表示することを注意しておかなくてはならない。すなわち、もしfgがgeの2倍であるならば、上に述べた混合物は、金2と銀1から成り立っているだろう。他の混合物の分析においても、これと同様な順序でおこなえば、我々は素材の金属(センプリチ・メタリ)の量(クゥワンティタ)を正確に見いだすことが出来るだろう。
この天秤を制作するには少なくとも2ブラッチャ(116.8センチ)の長さの棒を用意せよ。棒が長ければ長いほど、その装置はより精密になる。その棒を中点でつるせ。そして、それが平衡状態になるよう両腕を調節(アジュスティーノ)せよ。それには、重くなった方(の腕)を細くすればよい。次に、純粋な金属が水中で測られたとき、それとつり合い[分銅が達する]点を一方の腕に印しづけよ。その際、見いだされる限り、もっとも純粋な金属の錘を用いよ。これがおこなわれた後、(二つの)純粋な金属に対する目印の間の距離が混合物に対する目印で分割される比(プロポルツィオーネ)を容易に求める方法を発見すると言うことが、まだ我々に残っている。これは、私の考えでは、次のような方法で達成される。
純粋な金属に対する目じるし(テルミニ、複数)の上に非常に細い鉄鋼の針金(コルダ・ディ・アッチャイオ)を一回だけ巻け。次に、それらの目印の区間に、やはり非常に細い、真鍮(オットーネ)の針金を巻きつける。そうすれば、その距離はたくさんの非常に小さな部分に分割されるだろう。例えば、私は目じるしeとfの上に鉄鋼の針金を二回巻き(それは真鍮と区別するため)、次いでeとfのあいだに全部を非常に細い真鍮の針金を巻きつけて埋める。そうすれば、区間efはたくさんの小さな等しい部分に分割されるだろう。私がfgとgeの比を知りたいときは、fgの中にある巻き数とgeの中にある巻き数を数えればよい。例えば、もしfgの中にある巻き数が40でgeの中にある巻き数が21でることを私が見いだしたとすれば、その混合体には金が40と銀が21に割合で含まれている、と私は言うであろう。
ここでわれわれは、数えるさい困難が生じることを注意しておかなくてはならない。なぜなら、高い精度の必要性から針金は非常に細いため、巻き数を見て数えることは不可能だからである。目はそのような小さな区間を見ると眩しくなる(アバリア)からである。それゆえ、巻き数を楽に数えるには、非常に鋭利な細身の短剣(スティレット)をとり、上にのべた針金の上をゆっくり(アダジオ)移動させよ。こうして部分的には針金のそれぞれの巻き山での手応えを媒介にして、われわれは容易に巻き数を数えることができるだろう。これらの数から、私が前に述べたように、われわれは、混合物を構成する純粋な金属の精密な量を知るであろう。しかしながら、それらの成分(センプリチ)は距離の逆比に対応していることに注意せよ。例えば、金と銀の混合物においては、銀に対する目じるしへの巻き数は金の分量を与え、金に対する目じるしへの巻き数は銀の分量を示すであろう。同じ事は他の混合物に対しても成立する。』
これだけ読んでも、ガリレオがいかに、過去から学んでいたのかが良くわかります。現時点までの研究では、ガリレオに影響を与えたであろう、ここの事柄を羅列するにとどまりました。さらに調査を続けるとともに、その関係も明らかにできればと考えています。 
 
建築の歴史と方法

 

はじめに / タイプとスタイル
建築は人間生活の容器であり、人間と密着しているため、人間そのものを考える場合と同様、大きく言ってその観方には二通りある。一つは、人間性の不変を信じることから、建築も同様に基本は変わらず、幾つかの基本的類型(「タイプ」Type)からなるはずであるとし、それらの類型の成り立ちやそれらの組み合わせ方の法則性に注目するもの(「共時的」捉え方)、もう一つは、人間生活の移ろい易さに注目し、それにつれて変化する建築の姿を様式(「スタイル」Style)として捉える観方(「通時的」捉え方)である。
通時的な捉え方は、西洋においては、「歴史」という概念が定着した18世紀以後の考え方であり、むしろ共時的な「タイプ」として捉えるのが、古くからの建築の一般的な観方であったということができる。産業革命が、人類文明は絶えず「進歩」すべきものであるという「進化」史観を人びとに植え付けたこともあって、近代においては、建築を固定的な「タイプ」に当てはめて考えるような観方は過去のものとなったかに見えるが、しかし建築は消費財とは違ってライフ・サイクルが長く、人間生活が変化したからといって直ちにそれに追随してスタイルが変わるわけではないし、建築創作に携わる人々も、多くの場合、その場限りのファッションとしてではなしに、より永続性のある新しい「タイプ」を創り出そうと努めてきているはずである。また建築が形作る生活環境、とりわけ都市については、歴史的な持続性と固有性が存在理由の大きな部分を占めており、その持続性を保証するものの一つとして、それぞれの都市を構成する建築の固有の「タイプ」がある。もとより建築はいつかは時代に追随して変わらざるを得ないし、建築のライフ・サイクルは都市のそれよりはるかに短く、そのときどきの姿は「スタイル」として我々の眼に映ってくるが、表面上のスタイルの変化にもかかわらず、その背後には、しぶとく生きつづけて都市の固有性を保証している建築の「タイプ」があり、それが失われたとき、もとの都市は存在理由を失うのである。
また別な言い方をするなら、通時的に捉えられた「スタイル」とは、建築が創り出されてきた様々な事情とはかかわりなく、「外側から」(「外在的に」)当てはめられた枠組みであるのに対し、共時的に把握された「タイプ」は、建築の内的特質とより深くかかわる(「内在的」な)捉え方であるということができる。なぜなら、建築の創作とは、基本的タイプの継承・再確認と新たなタイプの発見の作業に他ならないからである。もとより「スタイル」からも、その歴史的背景を深くつきつめてゆくことにより、成り立ちをかなり具体的に説明することはできるであろうが、その説明は精密であろうとすればするほど、建築固有の問題から離れてゆかざるを得ない。従って、一般的な「文化史学」の一領域としてならば、「様式史」としての(つまり「外在的」な)建築史は可能であり、大いに意味を持つが、われわれ建築創作の場(建築の内側)に置かれたものとしては、そうした外在的な「様式史」の枠内の「建築史」にとどまっているわけには行かない。「様式史」の見取り図を手がかりとしつつも、そこではどのようにタイプの継承がなされていたのか、あるいはどのような新たなタイプが生み出されたのか、またそれはどのような契機からであったかにも眼を配ってゆく必要がある。
しかし、「スタイル」が多くの類似する例から共通する様相を帰納的に導き出すことで比較的容易に得られるのに対し、「タイプ」は表層的な類似の背後にある共通した何らかの図式ないしは「構造」といったものであって、これが様々な状況のなかで働いて多様なヴァリエーションを創り出しているため、それを抽出するのは高度に演繹的な抽象作業、あるいはそれぞれの建築についての深い理解が必要である。むしろ対象とする建築群の類似性・相似性よりも、個別の建築それぞれの独自性、特異性の認識が重要となる。また抽象化の度合いによってタイプは様々な違った姿で現れるのだから、その見取り図は決して一通りではない。むしろそれは見る側の角度、視点を変えるたびに無限の変化をもって現われてくることだろう。あるいはそれは既成の様式史によって与えられていた見取り図からはみ出したり、それを突き崩してしまうような可能性すらあるのであって、むしろそれに対する一種の「批評」としての役割を果たすことになるはずであり、新たな歴史構築のための手がかりとなるべきものである。ここで目標とするのは「批評としての歴史」(あるいは「建築史批判」)である。
こうしたことからこのたびの講義では、通常の様式変遷の通史ではなしに、時代の前後にかかわりなく、建築におけるタイプの創成や人々のタイプに対する眼差しということにかかわるような幾つかのトピックごとに、話題を展開してゆくこととしたい。そのため時間的制約もあって(西洋建築の全体像の概略をわずか一学期間の講義で伝えることなど不可能である!)、ここでは体系的な様式変遷史自体には詳しく触れる余裕がないし、それぞれの様式の代表的な建造物を洩れなく取り上げることも目標とはしない。それらの知識取得については各自の努力に期待するしかない。この講義は諸君のそうした自主的な学習の手がかりとなるものを提供するだけであり、諸君がこれを批判的に摂取し、各自のやり方で肉付けされるよう望みたい。 
1 建築を「タイプ」でとらえる / 古典主義の観方
ウィトルウィウスの建築論
「タイプ」による建築の捉え方の典型的なものは、18世紀以前のいわゆる「古典主義」Classicismの建築観に見られるものである。「古典主義」とは過去のある時点での文化——たとえば古代ギリシア、ローマの文化——を理想とし、それを継承することを目標とする文化を指し、西洋建築においては、15、16世紀のルネサンスRenaissance期、17世紀から18世紀半ばにかけてのバロックBaroque、18世紀の新古典主義(ネオクラシシズム)Neoclassicismなどがそれにあたるとされるが、そうした傾向は他の様々な時期の文化にも見られることであって、それらの一般にいう「古典主義」が手本としていた古代ローマの建築自体の中に、すでに現われていたことであった。最古の建築理論書とされる古代ローマの建築家ウィトルウィウスMarcus Vitruvius Pollio (fl. 1C. B.C.) が著わしたとされる「建築十書」は、古代ギリシアの建築を手本とし、それらの各タイプに見られる様相から、すべての建築が従うべき「規範」を導き出そうとするものであった。
そこでは、古代ギリシアの神殿が円柱columnの形式によって三つのタイプ(ドーリス式Doric/イオニア式Ionic/コリント式Corinthian)に分類され、それぞれについて従うべき規範(その主体をなすのは部材相互および建物全体としての寸法比例proportionである)が経験的に導き出され、それが神殿建築のみならず、あらゆる用途の建築にも適用される原理とされるのである。この場合「タイプ」の認識は、構造材料(木、石、煉瓦など)と当時用い得た構造技術から現われたプライマリィな建物形態(長方形平面で壁と円柱で支えられ、切妻屋根をそなえた建物)が最初に前提され、そこに円柱の形状の種類によって分化したタイプが加わり、更に規模による分類、そしてそれら各タイプに固有の寸法比例が与えられ、それらの様々な組み合わせがまた新たなタイプを分化させるという仕組みになっている。ウィトルウィウスは必ずしもそうしたプロセスを明快に整理してくれてはいなかったし、彼の中では、古代人特有の神話的起源論と素朴な目的合理主義的思弁とが交錯していて、むしろその記述は混乱のきわみというべきだが、しかしそのことはかえって「タイプ」の生成のメカニズムとそのレヴェルの多様さ・複雑さを示すものと言ってよいであろう。技術的制約のもとで生まれた架構方式や形態、あるいは特殊な社会的要請から生じた平面形態などが「タイプ」となることもあれば、まったく別の動機から生じた装飾的細部が「タイプ」とみなされることもあり、そうした過程で三つの円柱形式そのものや、ドーリス式神殿の形態までがそっくりそのまま「タイプ」となってしまう。
こうした考え方は15世紀以降の西欧で再び取り上げられ、様々な解釈が付け加えられながら、19世紀まで生き続け、その間にウィトルウィウスの「建築十書」は建築理論の最高の典拠とされるまでになる。これは一見したところではきわめて保守的で固定的な考え方のように見える(事実、ウィトルウィウスは彼の時代に現われ始めていた新しい建築手法に対しては、一貫して批判的であり、300年以上昔の古代ギリシアの建築が最も優れていると頑固に信じ込んでいたようである)が、このようにして認識された建築のタイプは、やがて言語が文学活動の素材となる場合と同様、限られた要素と一定の「文法」に従いつつも、無限の展開を遂げることとなるのである。
百科全書派啓蒙主義者の建築理論
ウィトルウィウスはもとより、15世紀以降の古典主義の建築家や建築理論家たちも、自分たちが立脚するこうした「タイプ」のメカニズムに自覚的に触れたものは少なく、彼らの関心のほとんどは「規範」とその応用、あるいはそれからの逸脱手法(「邪道」)への戒めということで占められていたように見える。少なくとも、16世紀以降数多く現れる建築理論書のほとんどは、専ら「オーダー」の合理的起源の説明(こじつけ?)と用法論に終始していて、彼らが実際に創り出してきていた新しい「タイプ」や、あるいはいかにしてそうした新しい「タイプ」を創出するかといった具体的な問題には踏み込んでいない。近代以前の世界では、すべての事物は既知の宇宙的秩序の中に収まっているとの確信から、それらを絶対的「タイプ」として認識する以外の考え方は受け入れられず、現在のわれわれが考えるような相対化された「タイプ」概念は必要としなかったのである。そうしたなかで、17世紀フランスの建築理論家クロード・ペロォClaude Perrault (1613-88) が、そのウィトルウィウス注釈書のなかで、「オーダー」とその各タイプは必ずしも合理的理由から生み出された絶対的な存在ではなく、むしろ偶然のなかから生み出された(恣意的な)ものであるとしているのは、現代的な「タイプ」の理解につながるものとして注目されるが、そのペロォにしても、既存のオーダーのタイプから新しい「タイプ」を創り出そうという試みには否定的であった。
建築における「タイプ」の意義についてのはじめての体系的な論述が見られるのは、18世紀から19世紀にかけてのフランスの建築理論家クァトルメール・ド・カンシィAntoine-Chrysostôms Quatremère de Quincy(1755-1849)の幾つかの著作、なかでも1788年の「体系的建築百科事典」、及びそれを更に深めた晩年の「建築史辞典」である。
クァトルメール・ド・カンシィによる「タイプ」(類型)の定義は次のようなものである。——《「タイプ」という言葉は決して写し取られるべきものないしは完全に模倣されるべきものを指すのではなく、それ自体がモデルに対し何らかの規範として働くようなある要素を指す観念なのである。…モデルは美術の実際の制作のために要請されるものであって、それをそのままの形で再現すべき対象なのである。「タイプ」はそれとは逆に、各自がめいめいそれに基づいて作品を構想すべき対象であり、それらの作品は少しも互いに似てくるということはない。すべてが明確で所与の形であるのがモデルである。すべてが多少なりとも漠然としているのが「タイプ」である。かくて我々の見解によれば、「タイプ」を模倣しようとしても、そこに得られるものは、感情や精神によってしか把握し得ないようなもの以外でしかありえないということになる。…/いかなる国においても、規矩に基づいて構築するという技術は、すでにそれ以前から存在していた萌芽から生まれてきている。あらゆるものについて、先例が必要なのだ。いかなる分野においても、無からは何も生じない。そこで避けがたいこととなるのが、人類のあらゆる創意を応用するということなのである。かくて我々が悟るのは、すべてのものが、後代のあまたの改変にもかかわらず、常に明確に、感覚に対しても理性に対しても同様に明白に、その基本原理を保持してきているということだ。一種の核のごとく、その周りに次々と集まり組織化されてゆく発展形や派生形を従えるのであり、それらの形態はたやすくその核から生み出しうるものなのだ。…》(上記Dictionnaire historique d’ architectureからの引用。訳はprof.F)。
つまりカンシィのいう「タイプ」は、建築にとって一種の「原理」として働くようなものなのだが、しかしそれは必ずしも抽象的なものとは限らず、モデル(模写対象)ほど明瞭なものではないにしろ、そこから容易に形が抽出しうるような、かなり具体的なものであり、しかもそれは決して一つだけとはかぎらず、時と場合によって様々な「タイプ」が要請され、またそれらが様々に組み合わされて、新たな「タイプ」を生み出すような存在なのである。たとえば集合住宅の形式を考える際、「片廊下式」というのは古くから存在する「タイプ」であり、そこから様々な集合住宅のヴァリエーションが生み出されてきているし、今後もそれを基本とした試みが消えてしまうということはないだろう。また都市住宅における「中庭式住居」court-houseも、同様に強固な「タイプ」であり、風土や生活風習・建築様式の違いを超えて、世界中に見られる。そしてこうした具体化された「タイプ」をもとに建築を構想することができ、またそうしなければならないのが建築技術者である、とカンシィは主張しているのである。
こうしたラディカルな原理の追究とプラクティカルな具体的要求を両立させようとする思考方法は、18世紀のいわゆる「啓蒙主義」Illuminismeの申し子である「百科全書派」Encycolopédistesの人びとに典型的に見られるものであり、「近代精神」の夜明けにふさわしいものであったと言える。啓蒙主義は従来のあらゆる社会的・文化的常識を疑い、それを合理的に捉え直すことを目標としていたのであって、美術においても規範とされてきた「古典」を再度見直し、新たな古典主義を打建てることを目指していたのである。そうしたことから、この時代(18世紀半ばから19世紀前半)の美術を「ネオクラシシズム(新古典主義)」Neoclassicismと呼ぶ。そしてこうした考え方はこの前後の西欧の建築理論家たちに共通して認められるものであり、ネオクラシシズムの特徴と言ってよいであろう。
しかしそのすべてがカンシィほどの明晰さをそなえていたかといえば、必ずしもそうは行かず、たとえばイタリアの建築評論家(?--その乱暴な論理と通俗性からして、「理論家」とは言いがたい!)フランチェスコ・ミリツィアFrancesco Milizia (1725-98)は、同じく「タイプ」論から出発しながら(あるいはカンシィの受け売りか?)、それをプライマリィな幾何学的形態と強引に結びつけ、更には「建物はその用途を宣言しなければならない」として、それらの幾何学的形態を建物の社会的用途を示す表現手段としてしまうのである。これではカンシィがせっかく「モデル」と「タイプ」の区別を強調していたのに、それらを完全に混同していることになるのだが、同情的に見るなら、原理主義的急進思想と現実的な要請とを性急に結び付けようとする、大革命を目前にしたこの当時の人々の切実な想いを表わしているということもできるし、そうした過激さが一種の「批評」としての役割を果たしていたのだともいえよう。「タイプ」によって建築を捉えようとする考え方が古典主義に通有のものだとしても、カンシィの場合のようにそれを「モデル」とは峻別するような考え方は稀で、ほとんどの場合はその区別が曖昧なままであり、時にはそれらを同一視する通俗的な論理がまかり通ってしまっていた。その意味では、ミリツィアのタイプ論はこの時代を代表する典型的なものといえるだろう。
カンシィとほぼ同時代の建築家デュランJean-Nicolas-Louis Durand(1760-1834)が、ナポレオンが創設した新しい実学的高等教育機関エコォル・ポリテクニィクÉcole Polytechniquesで行なった講義録は、ミリツィア的な幾何学的形態による分類を詳細な見取り図ないしカタログの形で示したもので、形式合理主義の最たるものということができる。そこでは幾何学的形態が、「幾何学的」であるというそれだけの理由で、プライマリィなタイプを構成するものとして位置付けられ、現存する建築類型とはほとんど関わりなく、机上で構想されたその様々な空想的ヴァリエーションが示されることとなるのである。
このようなこととなった原因は、「タイプ」の発生・展開についての正確な歴史的認識が未熟であったことである。カンシィは「科学と哲学の主要な課題の一つは、それらの道理をきわめるためにも、起源と原初的動機とを探求することでなければならない」として、「タイプ」の考察にあたっての歴史研究の重要さを指摘していたのであったが、当のカンシィ自身も、建築の原初的形態については、従来の素朴な目的合理的解釈(洞穴的シェルターから「原始の小屋」へという考え方。後出のロージェの項を参照)の域を出ることができずにいたのであり、こうした幼稚な思弁は、やがて台頭するロマンティシズムにおしつぶされ、「タイプ」論の意義が見失われてしまうこととなるのである。 
2 モデルによるアプローチ / 「マニエラ」Maniera, 様式Style
ヴァザーリと「マニエラ」
前述のカンシィの記述のなかからも(カンシィ自身は必ずしも明言しているわけではないが)、「モデル」の模写が類似の形態的傾向、つまり「スタイル」を生成させるものであることはたやすく読み取ることができるだろう。もともと「古典主義」はその根本的動機を、古典(あるいは自然)の模写(「ミメーシス」mimēsis = μίμησις)というところに置いていたのであったから、古典主義も「スタイル」の枠から逃れることはできないことになるのだが、ただしその模写の対象となる「モデル」が、規範的な存在(歴史の評価を経て権威が確立された古典、あるいは宇宙的秩序を体現する自然)であることによって、「スタイル」の恣意性を免れているという自覚がそれを支えていたのであった。しかしモデルの規範性が疑われたり、あるいはその規範自体の権威が揺らぐような事態となったときには、古典主義は危機に瀕することとなる。実はカンシィの「タイプ」論は、そうした危機意識の中で、規範的「モデル」を普遍的な「タイプ」と読み替えることで出来上がったものということができるのだが、このような認識は、啓蒙主義という覚醒した近代的な意識によってはじめて可能となったものであり、それ以前の古典主義は、絶えずそうした危機にさらされていて、これに対処しようとして、一方では守旧的なアカデミズム、他方では極端な懐疑主義ないしは相対主義の間を揺れ動いていたのである。
イタリア・ルネサンス期の画家・建築家であるジォルジォ・ヴァザーリGiorgio Vasari(1511-74)は、13世紀末から彼自身が生きていた時代までの間に活躍していたイタリアの画家・彫刻家・建築家たちの伝記をまとめた尨大な「列伝」の著作で知られているが、この列伝の企図は、もともとヴァザーリが尊敬していたミケランジェロMichelangelo Buonarrotti (1475-1564) の伝記から発展したもので、当然のことながらミケランジェロの作品と作風に関する記述が最も充実しているのみならず、はじめて西欧の美術を歴史的パースペクティヴを通して通観したということ、さらにそこで展開されている美術作品評価の視点が、従来の建前的な規範主義とは異なるユニークなものとなっていることで注目される。
ミケランジェロは、言うまでもなく、レオナルド、ラッファエッロらとならんでルネサンスの「三大巨匠」の一人とされる存在であり、彫刻・絵画・建築いずれの分野でもそれまでの美術の常識を打ち破るような業績を遺し、すでに生前からきわめて高い評価を受け、「神のごとき大ミケランジェロ」Divino Michelangioloと呼ばれていた。しかしその時代を抜きん出た作風については、いまだに評価の視点の是非をめぐって論議が交わされているほどであり、位置付けが難しい。
ヴァザーリは従来ならば古典的規範からの逸脱とされるようなそうしたミケランジェロの手法を、むしろ規範にとらわれない自由さとして高く評価し、その特質を「マニエラ」manieraという言葉で言い表している。彼によれば作家はすべからく独自の「マニエラ」を持つべきであり、そうしたマニエラを磨くことが芸術の目標なのだという。イタリア語の「マニエラ」(英語のmannerに当たる)という言葉は用法が微妙で的確な訳語を充てることは難しいが、通常はむしろ否定的な意味(「くせ」ないし「何々風」の意)をこめて用いられることが多く、たとえば「マニエラ・テデスカ」maniera tedesca (「ドイツ風」の意)というのは、この当時のイタリア人たちが中世以来の北方のスタイルである「ゴシック」様式を軽蔑的に言う言葉であった。それがヴァザーリの場合は、作家の「個性」ないし「独自な手法」という意味合いの肯定的な言葉として用いられている。このことは、必ずしも全面的なものではないにしろ、古典的規範の権威が揺らぎ始めていたことを示すものであり、「タイプ」に代わって「スタイル」を重視する方向が現われたものと見ることができる。ヴァザーリではこれは主として作家個人に属するものとして用いられているが、もともとこの語には「スタイル」と同様なニュアンスがあり、やがてそれが一つの時代の美術の特徴を表わす言葉として用いられるきっかけとなったと考えられるのである。
ロマンティシズムと「様式」
1771年、21歳の若きゲーテJohann Wolfgang von Goethe (1749-1832) はラインのほとりの古都ストラスブールStrasbourg (ドイツ語圏の呼び名ではシュトラスブルクStrassburg) に旅行し、その地のゴシックの大聖堂(ノートル・ダム)Notre Dame de Strasbourg (Cathédrale, c. 1200-1365, 1439-.)を見て感銘を受け、「ドイツの建築について——エルヴィン・フォン・シュタインバッハの霊に捧げる」という小文をものした。この時期ゲーテは、友人の詩人シラーらとともに、いわゆる「シュトルム・ウント・ドラング」のスローガンのもとにドイツ・ロマン主義の文化運動に邁進しており、この評論(というよりは信条告白に近い)は、そのロマンティシズム的心情が最もストレートに表白されたものと考えられている。ゲーテはここでは、当時はまだ「野蛮な」様式であるとされていた中世の「ゴシック」の建築を、その建造に関わったドイツ人の工匠エルヴィン・フォン・シュタインバッハの高貴な「ドイツ精神」を体現した崇高なものとして評価し、ゴシック様式はドイツ人の高い精神性から生み出されたもので、その象徴なのだとしていた。実はこの数十年後、壮年期を迎えたゲーテは、イタリア・ルネサンス後期の古典主義、特にアンドレア・パッラーディオAndrea Palladio (1508-80) の建築に心酔し、ネオクラシシズムの方に鞍替えしてしまうのであるが、この若き日のゲーテの熱烈な民族主義的ゴシック礼賛は、次の世代に大きな影響を与え、やがて19世紀になって全ヨーロッパに広まるゴシック再評価のさきがけとなった。
このように「スタイル」を民族の特性や時代の精神の発露とみるような考え方は、ゲーテが信奉していた歴史家ヴィンケルマン(後出)が、古代ギリシアの美術をめぐって、それをギリシア人の民族的精神と結びつけて高く評価していたことに始まるが、その古典美術評価の方法がそのまま、「非古典的」とされていたゴシック美術の再評価に援用されているのである。そしてこれとはまた異なるプロセスがドイツ・ロマン主義の中心人物である批評家シュレーゲルFriedrich Schlegel (1772-1829) のゴシック論に表われてくる。彼は当初はヴィンケルマンの影響のもとに古典主義、特に初期ルネサンスの絵画・彫刻に傾倒していたのであるが、1806年にフランスからオランダ、ベルギィ、スイス、ライン地方を旅行してゴシック建築に感動し、その後は一貫してアンチ・ルネサンス(特に後期ルネサンスに対して)の立場をとることになり、後期のゲーテの「古典主義」を非難し続けることとなる。シュレーゲルによれば、天に向かってそびえるゴシックの建築は、ゲルマン精神を培ったヨーロッパの森の木々の姿を写し取ったものであり、そうした樹木と同様、高みをめざして成長してゆく力(aspiration)を表現するものなのであった。こうしたシュレーゲルの「ゲルマン的」ゴシック観は、やがてリヒァルト・ヴァーグナーRichard Wagner (1813-83)やニーチェFriedrich Nietzsche (1844-1900)らのゲルマン主義に受け継がれ、独特の観念的な芸術的風土を育てる素地となったと言える。
このように一つの論法が全く対照的な対象に適用されたり、あるいは同じ対象に対してでも、ある種の情緒の働きで全く違う結論が導き出されたりしてしまうのが、「ロマンティシズム」にありがちの現象である。だから同じゴシックであっても、フランス人によって取り上げられると、またかなり違った様相を呈することとなる。フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーVictor Hugo (1802-85) の眼に映ったノートル・ダム・ド・パリは、「ゴシック」のモニュメントであると同時に、「数世紀にわたる時代の堆積物」でもあって、鐘突き男クァジモドの哀切極まりない物語の舞台ともなるのである。建物からうける、ときには互いに相反するような、こうした様々な「印象」が、文学的描写や伝承などによって刺激され、それらの積み重なりが「スタイル」のイメージを創り上げている場合が多く、それは現代の研究者たちによる様式の論議にまで影響を与えている可能性がある。 
3 合理主義と「様式」
ロージェとロドリ
「啓蒙主義」の時期の建築理論がすべて「タイプ」論だけに立脚していたわけではない。徐々にブルジョワ市民社会が形をなしてくるにつれ、「前-進化論」(蓋然主義的合理主義)的なものの考え方が人々の間に広まってくる。イエズス会に属していたフランスの建築理論家ロージェMarc-Antoine Laugier (1713-69) の建築論は、一般にネオクラシシズムの建築理論の嚆矢とされているもので、17世紀の「バロック」によって「邪道」に陥っていたと考えられていた「古典主義」を建て直そうとする意図から書かれたと言う点では確かに啓蒙主義的な「ネオクラシシズム」の一翼を担うものであるが、しかしカンシィやミリツィアのような「タイプ」的視点は希薄で、むしろ古典主義の手法を合理的な「様式」として認めるというニュアンスが強く、「原始の小屋」から円柱形式が生まれたのであり、それゆえ円柱は壁付きではなく独立として扱われるのでなければならず、壁は付け柱などなしの平坦なものであるべきだといった、素朴な合理主義的原理を盾にとった記述が目立つ。その一方で、彼はゴシックのヴォールト架構の軽やかさと合理性を評価し、必ずしも古典的な空間類型にはこだわらない姿勢をみせる。彼はこうした俗耳に入りやすいテーゼによって、現存する建物の手法的「誤り」を次々と指摘してゆくのであるが、建築における様々な要素を統合してゆく方法については、「高貴なる単純さ」という以外の原理を示すことができなかった。つまるところその建築論は、深いメタフィジックを欠いた擬似合理主義的論理によって、ヴァザーリが言っていたような「マニエラ」(手法)を再整理しようとしたにとどまるといわざるをえない。
しかしこのロージェの著作は、かえってその通俗性ゆえに、フランス建築界と具体的な関わりをもつこととなったようにみえる。これが刊行された翌年、王命によりパリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴのための聖堂(サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂)建設の計画が開始され、建築家スフロJacques-Germain Soufflot (1713-80) が設計を任されるが、それはギリシア十字Greek Cross(十字形の各腕の長さが等しい十字形のことを言う。いわゆる十字架のように腕の長さが異なるものはラテン十字Latin Crossと呼ぶ)の平面で中央にクーポラをのせ、ファサードには巨大なギリシア神殿風のポルティコ(portico=玄関構え)を取り付けた姿で、外壁は平坦なまま、内部は均等に建て並べられた独立円柱群が水平な梁を支えているという、それまでの聖堂建築の常識を覆すようなものであった。そしてこれらの様相は、ロージェがその著書の中で力説していた手法にほぼ合致する。果たしてロージェの著作がスフロのデザインに影響を与えていたのかどうかははっきりしないし、ロージェの著作が刊行される十数年前からスフロはそうした手法を試みる機会を窺っていたとみられ、この一致はたまたま時期が重なっていただけとも考えられるが、結果的にロージェの「理論」はこれによって好適な実践例を得たことになり、その権威を高めることとなるのである。
こうしたフランスでの動きと並行して、イタリアでも同様な素朴合理主義的建築理論が現われている。ヴェネツィアのフランチェスコ会修道士カルロ・ロドリCarlo Lodoli (1690-1761) の建築理論がそれであるが、 これはロージェの場合よりも更に過激で、古代ギリシアに端を発する「オーダー」が「原始の小屋」すなわち木造の形態から始まりそれが石で模倣されたという歴史的過程がそもそも過ちの始まりであると決め付け、従って古代ギリシア以来の歴史上の建築はすべて、材料の本性とその形態が食い違うという誤りを犯しているのであるから、今後は石造や煉瓦造に最も適した全く別の形態を用いなければならないとするのである。当然のことながらこうした過激な原理主義は、それをそのまま実践しようとするものが現われることがないままに終わったが、しかしこれと同様な論理が、近代になってコンクリートや鉄などの新しい材料をどのように用いるかを考える際に、そっくりそのまま援用されることとなったという点で興味深い。
ゼムパーとヴィオレ・ル・デュク
19世紀ドイツの建築家ゼムパーGottfried Semper (1803-79) の様式論は、建築のみならず造形美術全般にわたる広い領域を視野に収めた精緻なものとして、20世紀初期まで高い評価を受けてきたものである。その特徴は美術の様式(特に装飾のそれ)の発生根拠を、素材とそれに用いられる道具・技術によって説明しようとする「物質主義的」(materialistische)な観方をとることにあるとされる。それはある意味では18世紀以来の合理主義的解釈の延長上にあるものと言えるが、より具体的かつ精密になっており、20世紀における「機能主義」的論理の先駆をなすものであった。たとえば、古代ギリシア建築の円柱に見られる溝彫りflutingは木材への装飾法として最も自然なものであり(古代ギリシア神殿の形はもと木造であったものを大理石で模倣したものと考えられている)、対称形や連続模様は織物技術から生まれたものだし、轆轤(ろくろ)の技術が完全な円形の造形を創り出した、というような説明である。こうしたゼムパーの教説が、近代の芸術家たちに与えた影響には測り知れないものがあるが、しかし現実の美術における手法の多様性は、素材や技術段階の制約には必ずしも縛られるものではなかったし、同一の表現形式が素材の異なる美術に現われてくる現象を説明できないこととなる。そして何よりもその理論は彼自身の建築作品によってしばしば裏切られることとなるのである。
ゼムパーとほぼ同時代に活躍していたフランスの建築家ヴィオレ・ル・デュクEugène-Emmanuel Viollet-le-Duc (1814-79)は、古建築の修復の仕事を通じて独特の理想化された合理主義的様式観を形成することにより、続く世代に大きな影響を与えることとなる。この時期ヨーロッパ各国では「民族の遺産」として古建築の保存修復事業にとりかかり始めており、ヴィオレ・ル・デュクは古い中世の城郭や聖堂などの修復工事を担当する中で、中世の建築、特にゴシック建築の研究に打ち込み、そこには古典建築とは異なる独特の合理的設計法が存在したとの確信を深め、それは現代の建築にも適用し得るものであると考えるようになる。彼がエコォル・ポリテクニィクで行った講義や厖大な「中世フランス建築事典」はその教説の集大成となっているが、そこにはゴシックの石積み技術や架構法の合理性、それを現代の鉄骨造に応用するアイデア、彼がゴシックの建物にあったと考える設計の際の二等辺三角形をもとにした「基準線」(“tracés regulateurs”)とその応用など、きわめて具体的かつ実践的な内容が盛り込まれている。こうした彼の思想は古建築の修復の際にもそのまま表われていて、過去の建築はその時代なりに合理的な考え方に基づいて造られているはずであり、そうした合理的方法は必ずや現代の我々にとっても有意義なものであるはずだから、対象のオリジナルな状態を可能な限り復元すること、またオリジナルな状態が不明な場合であっても、修復者がその様式を熟知しているならば、ほぼオリジナルなものと同等のものを創り出し得るはずで、古建築を単なる標本ではなく、現代に生きた建物とするためにも、様式的に首尾一貫した姿で修復しなければならない、と考えたのである。かくて彼が修復したピエルフォンの城Château de Pierrefonds (14世紀末の建設)には当初の存在が確認されない城壁や塔が付加され、ノートル・ダム・ド・パリはそのゴシック・スタイルを「完成」させるために、交叉部に尖塔が付け足された。当然のことながら彼のこうした修復のやり方は、後世になって厳しく非難されることとなるのであるが、彼以前の修復者たちは対象の様式などにはお構いなく、自分の時代の好みで修正を加えてしまっていたのであって、彼によってはじめて修復のあり方についての問題提起がなされたと言う意味で、きわめて重要であり、実際のところ我々がどこまで過去に介入し得るかという問題は、いまだ決着がついていないと言ってよいのである。 
4 様式史の展開
古物趣味と細部様式変遷史
18世紀以後の美術史において「スタイル」が重要な位置を占めることとなった最大の理由としては、美術品の真贋鑑定や時代判定の必要ということがあった。歴史学において対象とする事象の属する年代やその原因を正確に確定することが大前提であるのは言うまでもないが、美術史の場合にはそれが対象の価値評価(その芸術的価値よりも美術市場における価値!)を左右することとなりかねず、ある時代や特定の作家の「スタイル」をできるだけ厳密・詳細に規定しておくことが必要となるのである(現代の美術史学においても作品の真贋鑑定が主要な目標ないし前提の一つとなっていることに変わりはない)。
建築にもこの時期似たような事情があって、様々な地域の過去の建築スタイルについての正確な知識が求められるようになっていた。その事情とは、18世紀末以来、「古典主義」の権威が失墜し、それに代わって様々な過去の建築スタイルがファッション的に復活(リヴァイヴァルRevival)され、またときにはそれらがごちゃ混ぜに(折衷)されるという状況が起きていたことである。建築家や施主にとって、従来の古典様式だけでなくそれ以外の各種のスタイル変遷についての知識を身に着けることは、いかなる注文にも応じられるようにしておくために必要で、単なる教養の問題ではなく、切実な現実的課題となっていた。もとより純粋な学問的関心が全く働かなかったわけではないし、前に触れたヴィオレ・ル・デュクの場合のような修復のための研究の必要もあったが、近代の「建築史学」の始まりは主としてそのような実利的要請によるものであったと言える。そのためには、対象とする建築の本質的理解や評価を抜きに、まず徹底した表層的な観察に基づく比較・分類が行なわれる。古建築は長い間に様々な変更を蒙っている場合がほとんどで、建築物全体を綜合的に捉えることが難しいため、いきおい観察対象は建築の細部の様相ということになり、アーチの形状やくり型(moulding)の手法、あるいは微細な装飾技法などが、同一地域内でどのように変化してゆくかが詳細に検討され、そこで確認された傾向(たとえば、時代が降るにつれてアーチが先尖りになる、くり型の彫りが鈍くなる、輪郭線が複雑になる、etc.)を物差しとして、建物の建設年代や素性を鑑定しようとするわけである。
このような表層的建築細部様式変遷史の初期のかつ典型的な例としては、英国の建築家リックマンThomas Rickman (1776-1841) による「英国建築様式区分法試論」が挙げられる。ここではいわゆるノルマン・コンクェストNorman Conquest (1066) から16世紀までの間の英国の中世建築の様式変遷が、主として開口部アーチの形状の変化、装飾的細部の輪郭曲線の変化などによって細かく弁別されている。
リックマンのこの論文が発表されて十数年後、英国では「ゴシック・リヴァイヴァル」Gothic Revivalの風潮が広まり、その際、この様式区分が重宝されてすっかり定着すると同時に、その内容が更に詳細に検討され補強されて、英国独自の様式史の体系が出来上がった。
1860年代に入ってゴシック・リヴァイヴァルの波が峠を越すと、今度は異国趣味や各種の様式を折衷する「折衷主義」Eclecticismの時代となる。そのため様式史の関心の対象は、英国の建築だけではなく、全ヨーロッパはもとより、東洋の建築にまで広がる。ファガスンJames Fergusson (1808-86) の「建築史」A History of Architecture, 3 vols, London 1865/67 は、ちょうどこうした要請に応えるかのように現われた。これは当時普及し始める写真を原図にした精細な木版の挿図入りで、読むもののエグゾティシズムをそそるに充分なものであった。ファガスンは植民地インドや東南アジアにも滞在したことがあり、「世界建築様式史」の体系を創り上げるという野心を抱いていたようにみえる。そしてこの野心はやがてフレッチャー父子Banister Fletcher (1833-99) & Sir. B. Fletcher (1866-1953) の「比較建築史」によって現実化することとなる。この著作では、古今東西の建物が地域や様式区分ごとに(中国や日本の建築まで含まれている)詳細な図(白黒線画)によって示され、細部手法が比較可能なようにできており、建築学生や建築技術者にとってはまことに便利なハンドブックであったため、非常な人気を博し、その後幾度も版を重ね、増補がなされてきた。最新版は初期の線画図版の数が減り、代わって多くの写真図版が取り入れられ、また対象地域も全世界にまで広げられ、ヴォリュームも倍増していて、当初の編集方針とは全く別なものに生まれ変わってしまっているが、学生向けの簡便な建築史ハンドブックとしては、まだこれに代わり得るようなものは現われていない。
時代精神Zeit Geistとしての様式
ゲーテの項で触れたごとく、美術の様式をはじめて民族の精神性と結びつけて論じたのは、ドイツの歴史家(というよりは好古家antiquarianというべきか)ヴィンケルマンJohann Joachim Winckelmann (1717-1768) の「古代美術」であった。この著作の意義は、既知のギリシア民族の特性から美術の特質を論ずるのではなく、逆にその美術の方からギリシア民族の精神的特性を抽出しようとしたということであり、このことによってはじめて、骨董屋的真贋鑑定のなりわいから抜け出して、他の学問分野の援けを借りずに、美術自体の中から歴史を見出すという、「美術史学」の自立の可能性が生まれたということにある。従って彼にとって美術作品とその様式は、単なる物言わぬオブジェではなく、それ自体が人間と同様、生成・発展・成長を遂げるのみか、老化・衰弱・死滅することもあるような一種の有機体として捉えられていたということになる。
このような考え方は哲学者ヘーゲルGeorg Friedrich Hegel (1770-1831) に受け継がれて、美術の様式は「民族精神」Volksseeleの「根本的態度」Grundhaltungenの表出であり、それが時代の中で、「自己展開を遂げる世界理性の必然的な意識の諸段階」を経て成熟し、「時代精神」Zeitgeistを形成するという、独特のドイツ的・形而上学的な歴史哲学が出来上がる。近代ドイツの美術史学のほとんどは、こうしたヘーゲル的テーゼの上に築き上げられており、従ってその主たるねらいは、「様式」の「自己展開」の法則を見出すことに向けられ、更にそれを物差しとして民族の精神的段階を評価する(!)ことに努力が注がれるのである。こうした傾向に対しては抵抗が全くなかったわけではなく、美術史学の基本は美術の鑑賞であり、鑑識眼を磨くことであるという態度を堅持する学者もあった。バーゼル大学で美術史を講じた歴史学者ブルクハルトJacob Burckhardt (1818-97) はそうした一人で、イタリア美術を扱った著書「チチェローネ」は、まさに美術享受の楽しみを語ることを目標として書かれたものであった。しかしその彼にしても、美術が民族精神の表われであるという考え方から離れることはなく、名著「イタリア・ルネサンスの文化」は、イタリアの民族精神とその歴史的意義を説くことが主眼となっていたのである。 
5 近代美術史学と「様式」
ヴェルフリン史学とその系譜
ブルクハルトの門下からでたスイス生まれの美術史学者ヴェルフリンHeinrich Wölfflin (1864-1945)は、近代美術史学の大成者とみなされているが、それは彼が、ブルクハルト譲りの美術に対する豊かで精緻な鑑識眼と、ヘーゲル的な様式史のグランド・セオリィとを結び付けようとした点にあると言えるだろう。たとえば、初期の大著「ルネサンスとバロック」は、それまでルネサンス様式の堕落形式にすぎないとされていた17世紀バロックを独自の芸術的目標をそなえた独立した様式であると認め、かつその違いを弁別するための物差しとなるような概念を導入したものであり、その物差しは単にルネサンスとバロックの間の違いだけでなく、より広汎な美術の歴史全体にも適用されることとなるものであった。彼はその初版への前書きの中で次のように述べている。「この研究のテーマはルネサンスの解体である。それが意図するところはむしろ様式史への貢献であって、個別の芸術家論ではない。私の狙いとしたのは崩壊の兆候を調査することであり、またおそらくはその『狂態とカオスへの回帰』の中に、美術の営みの内幕についての洞察を与えてくれるような法則を見出すことでもあった。これこそが、白状するなら、私にとっては、美術史の真の目的とすべきものなのだ。」また第二部の「様式変遷の原因」の中では次のように言う。「様式を説明するということは、それを全般的な歴史脈絡の中に位置付けてやり、そしてそれがその時代の他の諸々の有機的存在と呼応し調和しつつ声を発する様を確認することに他ならないと言えよう。」(訳はprof.F。)
ヴェルフリンの後期の著作「美術史の基礎概念」は、その永年の研究成果のエッセンスとも言えるもので、そこでは彼は五つの対概念を駆使して、美術に表われるあらゆる現象を図式的に説明しようとしている。「線的」と例の“malerisch”、「平行線的・平面的」と「対角線的・奥行き的」、「閉形式」(「構築的」“tektonisch”)と「開形式」(「非構築的」“untektonisch”)、「合成的」と「混成的」、「明瞭性」と「曖昧性」という組み合わせがそれで、これらはそれぞれに美術の発展段階と対応するものであるとするが、これらは美術のある時点での状態を指し示しはしても、必ずしも時系列の中で一方から他方へという定常的ヴェクトルをそなえるとは言い難いし、またそれぞれの対概念が互いに完全に独立したものでもないため、この図式で実際の美術の分析を行なおうとすると、様々な局面で破綻を見せることとなる。ヴェルフリンは、美術はその内的契機によって自律的・必然的に展開するものであって、外的な契機はその展開の速度や規模にある程度の影響を与えるかもしれないが、しかしその自律的発展の趨勢そのものを消し去ることはできないという確信をもち続けていた。しかしある段階から別の段階への移行が常に同じ順序で起こるとも限らないため、やはりそこに美術の外側にある何らかの「定数項」のごときもの(たとえば「民族性」)が介在することを認めざるを得なかったのである。ヴェルフリンのこうした壮大な学説は、多くの重大な誤りが指摘されずには済まされなかったし、あまりにも「ドイツ的」な形而上学的歴史観(ア・プリオリな周期説や超越的な歴史的必然性への確信)が時としてその美的鑑識眼をふさいでしまうこともあったが、しかしその一方で美術史という学問の自立性についての確信を深めさせ、20世紀全般を通じて大きな影響を与え続けてきたことは否定できない。
ヴィーンの美術史学者リーグルAlois Riegl (1858-1905) の体系は、 ヴェルフリンが囚われていた周期説やそれにまつわりつく様式への主観的評価を克服し、純粋客観的な美術史を目指そうとするものであったが、様式の自律的展開の絶対的な法則を見出そうという、「全体論」的holisticな意図に貫かれていたことでは、同様であった。彼によれば、ある様式から別な様式への移行--たとえば「爛熟した」(とされる)後期ローマから初期中世の「プリミティヴ」な様式への移行、あるいは古典期ギリシア様式からヘレニズム期の様式への移り変わりなど--は、決して先行様式の「堕落」や技術的衰退、あるいは生命力の衰弱によるのではなく、「芸術意思」Kunstwollenの変化(場合によっては「発展」)の結果であるとする。この点で彼の様式観は、ゼムパー的「物質主義」とは真っ向から対立することになのであるが、その「芸術意思」なるものは、「触覚的」(haptisch oder taktisch)な世界把握と「視覚的」(optisch)な認識の両極の間にあり、歴史の中で常に前者から後者へと移行しようとし続けるという。そしてこの動きは「時代精神」と並行関係にあるものとして説明されなければならず、そこからはたとえば古代エジプトの世界観は「一元論的物質主義」であるはずだとする、現在のエジプト文化に対する我々の知識とは大きく異なる「偏見」が生み出されてしまう。ともあれ、ここでは「様式」の中に「芸術意思」を確認する際の方法が問題となるはずで、かつてのように形態的要素の相似や品質の比較による表層的な捉え方とは異なる、対象に対するある種の抽象化の操作が必要である。それは部分的ながら通時的から共時的捉え方へ(ないしは帰納的捉え方から演繹的捉え方へ)の転換を意味するもので、「様式史」の方法的体系の変質を物語るものに他ならないのだが、リーグル自身は必ずしもそのことに気づいていたようには見えない。
「様式」対「形式」/ 文化史的視点と心理学
リーグルの美術史の中に胚胎していた方法的変質とは、一つには美術における「形式」formの抽出という問題として捉えられる。それは「様式」の中に潜在するある種の恒常的な要素でかつそれを核として様式が「自己展開を遂げる」ことができるようなもの、一種の「構造」と呼んでもよいようなものである。端的に言うなら、これまで見てきたごとく「様式」がもっぱら形容詞でもって規定されているのに対し、「形式」は要素間の具体的な関係によって述べられるようなもの、ということである。さきに述べた「タイプ」とも若干の接点を有するかにみえるが、「タイプ」があくまで建築という特定のジャンルのなかで措定された、しかもその諸々の様式を縦断する概念であるのに対し、「形式」はある歴史的時間の枠内で美術の様々なジャンルを横断する(というより個々の作品に固有のそれの総和)概念であるという点で、決定的に異なる。
一方、「形式」という言葉が一般的に用いられる場合、そこには「内容」という観念が暗黙裡に前提されている。つまり「形式」は何らかの「内容」のための容器であって、それ自体としては意味を持ち得ないものというニュアンスがある。こうした考え方は古代ギリシアのプラトーン的「イデア論」、あるいはそれを修正しようとしたアリストテレースの「質料」(≒内容?)と「形相」(≒形式?)論以来の、西欧的な認識論に由来するもの、というよりその議論を粗雑に敷衍した結果なのであるが、これをめぐってはいまなお果てしない議論(たとえば「構造」か「力」か、といった類の議論)が繰り返されており、ここではそうした議論にまで立ち入ることは避けたいが、とりあえず、ここで言う美術における「形式」とは、そうした「形式対内容」というような通俗的図式で捉えられるものではなく、それ自体が美術の目標(「芸術意思」?)となっているようなもの、としておくより他はない。当然のことながら、この曖昧な概念規定は様々な混乱や誤解・曲解を招来することとなるのであるが、しかしこの概念が近代美術史学の隘路を切り開くための一定の役割を果たしたことは認めなければならない。
シュマルゾゥAugust Schmarsow (1853-1936) はヴェルフリンの絵画偏重のバロック解釈を修正すべく、バロックを性格付けている「形式」として「空間」Raum (=Space) という概念をそれに充て、空間の重ね合わせやあるいは相互貫入といった手法の展開によってバロックの特質を説明しようとした。これは形態や色彩、あるいは量塊といった目に見える要素を頼りにした従来の美術解釈を裏返し、それらによって包まれる空虚の方から捉え直そうとしたという点で、特に建築を考えるうえで、きわめて大きな意味を持つこととなる。
「空間」をテーマとした分析手法はこれ以後多くの研究者によって採用され、20世紀全般を通じて美術解釈のための主要なキィワードとなるのであるが、しかしこれは新たな曖昧さを導入する危険性をも孕んでいた。そのことは「空間」のみに限ったことではなく、「形式」を形成するような要素(たとえば「色彩」や「装飾文様」など)を抽出しようとする場合には避けがたいことであるが、美術の中では明確なかたちでその概念領域が規定できず、半ば必然的に心理的作用の結果として扱わざるを得ないこととなる。本来、美術の「内在的」な自律的展開を解明するために導入したはずの概念が、「心理」という外在的要因によって説明される逆説が生じるのである。事実、フロイトSigmund Freud (1856-1939) 派の心理学者たちは、美術はすべて心理学的に説明しうるとの確信を深め、甚だしい場合には、「精神病理」の症例として美術作品を用いることすら行なわれてきた。方法的には異なるが、ゲシュタルト心理学Gestaltpsychologieも同様に美術に関心を寄せ、造形美術の分析に積極的に取り組むこととなる。美術をはじめとする芸術活動一般が人間の知覚作用の上に成り立つ営みである以上、それが心理学の研究対象となるのは当然のことであるが、しかしこうした心理学的解釈にまつわる危険は、いわば後付けの説明であるものをあたかも創造の契機であるかのごとくにすり替えてしまうことであって、外部から操作可能なあるいは予見可能なプログラムとして美術を(そして人間そのものをも!)とらえるに至るのである。
このような他律的な芸術観に導きかねない心理学を忌避しようとするのが、あくまでも「文化史」的見地から美術形式を捉えようとする考え方である。イタリアの歴史哲学者クロォチェBenedetto Croce (1866-1952)は、 およそ芸術作品はそれ固有の「形式」を通して解釈されるべきものであるとし、「様式」による説明を拒否したが、心理的解釈を排除したときに分析に値する「形式」は、明確にそこに「芸術的」創作意図が存在しているような対象、つまり「芸術作品」の場合だけに限られることとなる。実際のところは「芸術」と「非芸術」とを厳しく弁別することは、きわめて困難な作業である。というよりも、「芸術」という観念自体が19世紀的(左翼思想家に言わせれば「ブルジョワ的」な)美学の産物であって、それ以前の西欧文化にはこうした区別は存在しなかったのであり、たとえばバロック期の美術についてそのような区別を後から押し付けることは無意味であるばかりか、不可能なことである。また特に時代を限らなくても、これまで西欧の美術史家たちが様式区分のための最も確かな物差しとしてきた建築について、それを経済的背景や社会的用途と関わりなく芸術作品と非芸術作品とに区別して扱うことの不合理さを考えてみれば、それは明らかなことであろう。しかし19世紀以来、無理にでもそうした区別を立てることによって、建築を「美術史」の対象に仕立て上げてきていたのである。そのことは “architecture” と “building” の語の使い分けにも見て取ることができ、前者が美的考慮を払って造られた美術作品 (works of Fine Art) としての建築を指し、後者はそうした考慮のない実用一点張りの建物(つまり非芸術品)を指すというような暗黙の諒解が、美術史のなかでは出来上がっていて、そうした通念は現在でも生き残っている。美術史は(そして建築史も)権力者・富裕者のためのものものでしかないという批判も、その意味では無視できない重みを持っていると言えよう。
しかしこうした矛盾にもかかわらず、文化史的「形式」観がそれなりの役割を果たしてきていることは認めても良いであろう。それは「形式」の抽出に当たって、再び内在的な「批評」の視点が導入されたことであり、美術史が無味乾燥な発展図式ではなく、魅力的な「作品批評」を通じて語られることとなったということである。イタリアの美術史家ロベルト・ロンギRoberto Longhi (1890-1970) やアルガンGiulio Carlo Argan (1909-92) らの著述はその好例と言える。そしてこうした「批評」的視点は、一般の歴史では「まだ評価が定まっていない」とされ直接的な論評が避けられがちな現代の対象についても、歴史的作品と全く同様に発言を可能にするのであって、そのことはロンギやアルガンがきわめて守備範囲が広く、過去の美術の細密で透徹した研究を行なうかたわら、常に精力的に同時代の美術もとりあげ(ときにはその運動にも参加し)、その意義を論じてきたことからも見て取ることができる。同様なことはフランスのフォションHenri Focillon(1881-1943) についても言えるところであるが、リーグルの熱烈な信奉者である彼の場合は、「形式」と「様式」とがほとんど重なり合うほどになってしまっているのではないかとの危惧を感じさせるものがある。
図像解釈と図像学
美術史家がいかに「形式」の即自的特質を強調しようとも、一方ではその形式が創りだす形態や手法は、見る者に必然的におそらくその即自的特質とは別次元の、ある種の「印象」ないしその結果としての何らかの「意味」を伝えずにはおかない。そのことが上に述べたような芸術解釈に心理学の介入を許す主たる原因となっているのであるが、一般大衆向けの美術批評の多くも、批評家自身の「印象」に基づいて、そこから作品の「意味」ないし「作家からのメッセージ」を抽出してみせることがその役割であると自認しているかに見える(いわゆる「印象批評」)。そしてここで重視されることとなるのが、そのような「意味」ないし「メッセージ」を伝える、つまりそれらを「表現」するための手法あるいは技巧(「形式」?)ということになる。これは「形式」論者が懸命に否定しようとしてきた「形式対内容」という議論のむしかえしに他ならないのだが、しかし美術が、いつの時代にあっても、あるときは政治的目的のために、またあるときは宗教的目的のために、そうした「意味」を通じて奉仕してきた事実は否定できないし、美術と社会とをつなぐ絆は、もっぱらそれらの「意味」が支えてきたのであってみれば、むしろ「形式」をそれが担う「意味」と対応させることによって、美術を解明すべきであるとする主張も成り立つ。ただしその場合の「意味」は、作家自身の言説とか印象批評や心理学的操作などによって抽出されたそれではなく、厳密な歴史的分析の中から見出されるのでなければならない。従って美術を取り巻くあらゆる歴史的状況が再び俎上にとりあげられ、美術がそれらの状況に向けて発していたメッセージを見出すことが目標となる。そのような美術研究の方法は、一般に「図像学」(イコノロジィiconology)と呼ばれる。
「イコノロジィ」の語のもととなった「イコン」iconとは、パソコンなどで用いられる「アイコン」と語源を同じくし、ギリシア語の「エイコーン」εὶκών(=figure, image)から出ている。キリスト教が広まってからは、主として典礼などの際に礼拝の対象となる「聖像」の意味で用いられてきた。初期のキリスト教では「偶像」崇拝を忌避することから、神やキリストは信者以外には意味不明なシムボル(たとえば「神」は空中に現われた手で表現され、キリストは魚、信者は羊などの姿で表わされる)で示され、そうした「判じ物」的描写の「絵解き」を行なうことが、キリスト教の教義を理解し会得させる方法となっていたのである。キリスト教会が東西に分裂した後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で行なわれたいわゆる「ギリシア正教」Greek Orthodoxでは、8世紀ころに偶像崇拝を認めるか否かで激しい抗争が起こり、一時期多くの聖像が破壊される事態(「イコノクラスム」iconoclasme)にまでなるが、こうした歴史的経過も手伝って、ビザンティン文化Byzantine Cultureやそこから派生したロシアや東欧の美術のなかでは、聖像の表現法などには極度に厳格な象徴的手法が定められることとなる。こうした聖像の象徴的表現法の研究から始まって、同様な象徴的表現(ときには抽象的な装飾図柄なども含む)一般の絵解き作業を「図像解釈」(イコノグラフィiconography)と呼び、美術史研究とは別種の分野として発展してきていた。「イコノロジィ」はこうした「イコノグラフィ」を更に拡張して、美術(のみに止まらずあらゆる文化現象)の中からそこに隠されている様々なメッセージを掘り起こそうとするとするものなのである。
ヴェルフリンとほぼ同世代のドイツの美術史家ヴァールブルクAby Warburg (1866-1929) は、そうした近代「図像学」の祖とみなされている。彼が助手のフリッツ・ザクスルFritz Saxl (1890-1948) とともにハムブルクに創設した「ヴァールブルク美術研究図書館」Die Kunstwissenschaftlich Bibliothek Warburgは、その後ロンドンに移され、やがてロンドン大学の中の「ウォーバーグ研究所」Warburg Institute として、多くの研究者を輩出することとなる。ヴァールブルクにとっては、美術のいかなる細部も必ずや何らかのメッセージと密接に結びついているものと考えられ、その意味を解き明かすために、あらゆる歴史史料が動員されることとなる。彼の口癖であったと言われる「神は細部に宿る」という言葉は、その研究手法をよく示している。ヴァールブルク門下の中でもこの図像学の方法を最も極端なかたちで突き詰めたのは、チェコ出身の美術史学者パノフスキイErwin Panofsky (1892-1968) であろう。その名声を高めることになった初期の論考「象徴形式としての透視図法」は、ルネサンス期に「発見」されたとされる透視図法perspectiveが、当時においてはそれを用いることが人文主義者のマニフェストの一形態となっていたのであって、単なる「視覚の科学」であるにとどまらず、象徴的役割を担っており、それゆえ必ずしも近代的な意味でのその「科学的」処理には縛られず、ときには一種の「魔術」的意味をすら帯びていたということを、深い史料の読み込みによって明らかにしたものであった。ここではもはや対象は狭義の「図像」の範囲を超えて、「形式」そのものの意義にまで迫っており、リーグルが目指していたものを図像学的方法によって獲得してみせたということができよう。その一方、彼の晩年の著作「ゴシック建築とスコラ学」は、中世のキリスト教神学の中心的体系とされる「スコラ哲学」の展開とゴシック様式の発展過程とを「並行関係」として捉えようとした野心的試みであり、示唆に富むが、同時にそこには図像学的方法の射程を超えた性急な思弁的「牽強付会」の危険性も垣間見えている。ゴシックにかぎらず、建築の具体的な姿を、スコラ学のような高度な思弁的体系と直接的に結びつけるための方法は、いまだ見出されていないのである。パノフスキィとは対照的なやり方で図像学的方法を用い、着実な成果をあげているのは、フランスの美術史家エミール・マールEmil Mâle (1862-1954)である。彼のフランス中世の宗教美術に関する厖大な論考は、一切の思弁を排しつつ、ひたすら緻密な対象の観察と史料的検証の積み重ねによって、中世美術の展開にまつわる生き生きとしたドラマを描き出すことに成功していた。
建築と記号論
「図像学」が対象とするのは、ある美術の要素が特定の意味と固定的に結びつくような現象、つまり「シムボル(表象)化」の現象である。絵画や彫刻の場合と違って、建築はあまりにも直接的に社会的要請と結びついているために、当初からそれは「用途」という意味において「シムボル化」されてしまっているのであって、そうしたあらかじめ社会的に要請された用途(それを的確に指摘すること自体も、過去のものについてはそれほどたやすいことではないが)以外の表象をそこから見出すのはかえって困難である。従来、建築において「図像学」が問題とされているのは、往々にして表層的な、宮殿建築における権力者への追従のための図像の解説や、さきに触れた「物語る建築」のような形で図像が用いられているものをあげつらっているに過ぎない。そうしたレヴェルでの論議は、マンハッタン島の超高層オフィスがアメリカ資本主義のシムボルだとするようなテロリスト的通俗批評と大差はない。建築における表象作用が問題となるのは、むしろ建築がそのような外からの固定的な意味の押し付けに抵抗し、建築固有のやり方で独自の表象機能を獲得するようなケースについてである。実際のところ、「物語る建築」が我々の関心を惹くのは、そのストレートな(本来的な)メッセージのゆえではなく、建築がそのように外から強引に意味を押し付けられ、硬直した姿を見せることよって、反語的に建築本来の表象機能への省察を迫るからに他ならない。従ってもし建築について「図像学」が意味を持つことがあるとすれば、それは、言語のそれと類似するような一種の「統辞法」syntaxがそこに認められる場合や、あるいは建築を構成する諸要素が少なくとも何らかの「記号」sign的役割を果たしているような場合であろう。そしてそのような現象に対する分析方法は、図像学というよりは「記号論」semioticsに属するものとなる。
つまり、「シムボル」は特定の形象(記号)が特定の意味と固定的な対応関係を持ってしまう現象(記号の「物神化」現象)であるのに対し、「記号」はそれ自身としては特定の意味的価値を有さず、記号相互の「関係」の中ではじめて意味を獲得するのであって、その関係態如何によって、様々な異なる意味を(ときには「無意味」という意味をも)担うことができるものを指すのである。建築が本来的に「シムボル」機能を背負わされているにもかかわらず、それとは異なる意味作用を発揮する場合があり得るということは、建築を構成する要素(そのすべてが「記号」となりうる)間の関係が、それ自体の中にその関係を否定するような契機を内在しているからに他ならない。したがって建築における自律的な「表現」とは、建築が自ら建築であることを否定するような逆説的状態(「脱構築」déconstruction現象)の中で、はじめて発現してくるということができるかもしれない。「脱構築」とは1960年代以降の認識諸科学における「ポスト・モダニズム」的主張の合言葉であるが、実はこの概念は、上述のように、建築を記号論的に考察する中で必然的に生み出されてくるものであって、他ならぬ建築がこの文化全般に及ぶ「ポスト・モダニズム」の発信源の一つとなっていたとも言えるのである。ともあれ、「記号論」はまだ年若い学問分野であり、方法的体系が整うには程遠い状態にある。従ってそれを建築のような複雑で多面的な対象に「応用する」のは容易なことではない。当面はむしろ、建築の方から部分的ながら記号論へ寄与するというぐらいの覚悟が必要であると言うにとどめる。 
6 モダニズム以後の建築史学
モダニストと建築史
19世紀後半の「アーツ・アンド・クラフツ運動」から20世紀の「モダニズム」へと移行する過程で、人びとの過去の建築に対する眼差しは大きく変化することとなる。建築家たちは過去の建築様式を「モデル」とすることを止め、新しい材料や技術に基づく「新たな様式」を創り出すことを目標に掲げる。19世紀末、過去の様式からの「分離・離脱」を合言葉とする、ヴィーンの若手建築家たちの「ゼツェッシォン」Secession運動(「分離派」と訳されている)で、その看板に担ぎ上げられた大御所の建築家オットー・ヴァーグナーOtto Wagner (1841-1918) は、“ARTIS SOLA DOMINA NECESSITAS” (「必要のみが技術を支配する」の意) のモットーのもとに、現代の必要性に合致した「合目的的」zweckmäßigな様式を確立すべきことを説いたが、それはゼムパー的な「物質主義」の再解釈であると同時に、ヴィオレ・ル・デュク的合理主義の拡張でもあった。
このような「新たな様式」をという声は、20世紀前半に至るまでのほとんどすべての建築家たちから発せられていたものであった。ヴァーグナー一派の装飾的な手法を激しく非難していたアドルフ・ロースAdolf Loos (1870-1933) も、求めらるべきものが「様式」であることを否定しなかったし、モダニズムの中心人物ル・コルビュジェLe Corbusier (Charles-Edouart Jeanneret, 1887-1965) は、複数形の「様式」の存在を認めることを「まやかし」であると否定した上で、「様式とは、ある時代のすべての産物に命を与え、かつその特徴的精神に由来するところの原理を統合したものである」とし、更に「現代は、日々その様式を固めつつある」と述べている。このことは、いかに彼らが過去の「様式」を否定しようとも、19世紀以来の美術史の様式観に染まっていて、それが「時代精神」を体現するものであると固く信じていたことを示す。コルビュジェがヴィオレ・ル・デュクの「基準線」の考え方をもとに自分の建築の構成法を編み出していたことも、実は「モダニスト」たちが、表向きは激しく批判していた19世紀的思弁に立脚していたことを暴露している。
そして彼らの創作の現場に立会い、それを記述し、位置付けようとしていた歴史家たちの場合も同様であって、近代の建築の新しい潮流を最初に歴史的評価の俎上にのせようとしたヒッチコックHenry-Russell Hitchcock (1903-87) とジョンソンPhilip Johnson (1906-) の著作は、「国際様式」と題されていた。ここでは新しい建築の意義は、もっぱらその外見的な様相--無装飾の幾何学的ヴォリューム、水平線の強調、ろく陸屋根、横長の窓、etc.--によって説明され、それがある種の「歴史的必然」に導かれて、世界中のあらゆる地域に共通する「国際的な」様式となったとするのである。
その一方で、歴史家たちは、「芸術意思」や「民族精神」といった19世紀的な様式解釈を脱して、より合理的なかたちで「様式」を説明する必要に迫られていた。建築家たちの無邪気な様式観(そこにはゼムパー的物質主義とヴィンケルマン的歴史観とがごちゃ混ぜに混在していた)では、近代とそれ以前との関係をうまく説明できないばかりか、建築教育の中における「建築史」それ自体の意義が否定されかねない状況となるからである。19世紀の間中、「建築史」は欧米の建築家教育のカリキュラムのなかで中心的な位置を占めており、製図の課題では歴史的建築の実測や作図、あるいはそのコピィが重視され、古代ギリシアの「オーダー」などはいつでもフリー・ハンドで描けるような訓練が課せられていた。しかしいまやそうしたフレッチャー的「様式的形態のカタログ」が意味をなさないことは明らかであった。建築史の体系は、すべてがモダニストたちの主張する方向へと「必然的に」収斂してゆく、合理性追求のプロセスとして、新たに組み立て直されなければならなかった。モダニズムを称揚する評論や「近代建築史」が比較的早く1930年代には出揃っていたのに対し、近世以前から近代までを通観するような西洋建築史の出現はそれよりかなり遅れざるを得なかったのである。
ヴェルフリンの直系の弟子で、後期バロックの研究からスタートしていた美術史学者ギィーディオンSiegfried Giedion (1888-1968) は、アカデミックな研究活動の傍ら、早くからコルビュジェらをはじめとするモダニストの建築家たちと交友を結び、彼らの活動を支援していた。1928年には、彼らが結成した「近代建築国際会議」Congrés Internationaux d’Architecture Moderne (CIAM=「シアム」と読む)の事務局長を買ってでるほどに深くモダニズムの運動にコミットしている。彼が第二次大戦開戦直後アメリカに招かれて、ハーヴァードの大学院の建築学コースで行なった講義録、「空間・時間・建築」は、近世から近代・現代までを新たな「空間手法」の開発という視点から(建築のみならず都市まで含めて)通観したはじめての著作となった。これはある意味ではモダニズムのための「御用歴史」であると言ってもよいもので、工業化社会の無限の発展を信じる楽天的な近代主義には、現在からみれば当然のことながら大きな偏りがあるし、キィワードのごとくにみえる「空間」という言葉の輪郭がさほど明確ではないなどの問題はあるものの、必ずしも様式史的評価に囚われることなく、歴史上の優れた建築の意義を具体的に説き明かしているという点で、いまなお意味を失っていない名著であるということができる。
ドイツで美術史学者として研鑚を積み、1930年代からは英国に渡って、ギィーディオンと同様、モダニズムの運動に関わることとなったペヴスナーNikolaus Pevsner (1902-1983) は、ギィーディオンの「空間・時間・建築」の2年後、中世から20世紀までに至る西洋建築の通史、「ヨーロッパ建築史序説」を刊行している。これはきわめて周到に既存の様式史の区分と位置付けを守りながら、それを「空間形式」の展開として解釈することにより、見事に近代までを語りおおせせている。現在に至るまでこれに匹敵するようなヨーロッパ建築の通史は存在しないため、多くの版を重ね、内容も幾度か改訂・増補がなされてきている。叙述は一見したところきわめて冷静・公平に淡々となされているかに見えるが、実際にはギィーディオン以上に強引に、近代に向かう「歴史的必然」を意識して全体が組み立てられており、その建築の解釈はやや平板である。また従来の建築史叙述と違って、「ヨーロッパ」に範囲を限定するとの意図から、古代地中海世界(古代オリエントから古代ギリシア、古代ローマまで)の建築は前置き程度にしか触れられていない。その結果、18世紀に至るまで西欧建築の中核をなしてきた古典主義に対する評価は、きわめて一面的なものとなってしまっている。しかしこれに代わりうるような簡便な通史が現われていない以上、学生向けの建築史入門解説は、まだしばらくはこれに頼らざるを得ないだろう。
ポスト・モダニズムと建築史
1950年代半ば頃を境として、モダニズムは色褪せはじめる。いまはこの間の事情に詳しく立ち入る余裕はないが、それまで世界のモダニズム運動をリードしてきたCIAMが1959年に解散してしまったことにもそれは表われている。進歩と合理主義を「歴史的必然」としてきたその理念が疑われ始める。やがてそれを支えてきた「巨匠たち」が次々と世を去ると、この趨勢は決定的なものとなった。懸命にモダニズムに随伴して、その意向に沿うような体系を創り上げることに入れあげていた「建築史」も、当然のことながら、批判の対象にされずには済まなかった。アメリカの少壮建築家ヴェントゥーリRobert Venturi (1925-) が1966年に発表した「建築における複雑さと矛盾」と題する小冊子は、それまでの「モダニズム御用建築史」に対して向けられた痛烈な批判であった。もとよりこれは正面切った学問的批評ではなく、客気に満ちた建築家の眼で恣意的に捉えられた歴史の一端にすぎず、その思いつき的な批評の視点も、厳密な評価に耐えうるようなものではない。しかし建築をもっぱら合理的な「無矛盾」の様式の産物として解釈しようとしてきた従来の建築史の観方に、鋭い一撃を加えることとなった。
ヴェントゥーリの批評の視点は、彼自身が明記しているごとく、当時の文芸批評の中で起こりつつあった「ニュー・クリティシズム」New Criticism にヒントを得たものである。これは文学作品の解釈にあたって、もっぱらその作品の伝えようとする「正しい意味」を解明すべく、テキストそのもよりは作家像や作品をとりまく周辺事情の掘り起こしに熱中していたかつての文学研究に対し、テキスト自体のなりたちを、その矛盾や曖昧さをも含めて、再検討しようとするものであった。ときにはそれが極端に走って、文学作品の中に用いられている単語や音韻の数値統計的分類によって作品の構造を解明したとするような、滑稽さを通り越した悲惨な「研究」まで現われたが、この運動を通じて、特に「詩」や詩的文体の構造、あるいは「不条理文学」、「ナンセンス文学」などに対する理解が深められたことは、高く評価すべきであろう。実際のところヴェントゥーリ自身は、さほど深く「ニュー・クリティシズム」の理論的射程を見極めていたとは思われず、むしろ彼が最も頼りとしていたのは、この前衛的な文学運動が起こる少し前の、その前哨的役割を果たした批評家ウィリアム・エムプソンの「曖昧さの七つの型」であったように見える。エムプソンはまことに洒脱なやり方で(題名自体がすでにラスキンの「建築の七灯」のパロディである)、有名な文学作品の中に見られる曖昧表現を型に分類して見せ、逆にそこから文学表現の奥深さを暗示しているのであるが、ヴェントゥーリもそれに倣って、「多義性」、「内と外」というような幾つかの側面から、歴史上の著名な建築に見られる曖昧さ、あるいは矛盾を取り出し、建前的に整合性を装ってきた建築解釈を揶揄している。そこからは何ら明確な建築的指針や理論が生み出されているわけではない。しかしそうした曖昧さ、あるいは明らかな矛盾が、何かしら不明な対象(それがどのような歴史的状況であるのかまではヴェントゥーリは明らかにしていない)に向けての「批評」となっていることだけは読み取ることができるのである。
ヴェントゥーリのこの著作が必ずしも彼自身の皮肉に満ちた作品を解読するための明快な手引きになっているとは言い難いし、なおのこと、これがその前後から現われ始めていた「ポスト・モダーン」Post-Modern的風潮の発信源であったわけでもない。「ポスト・モダーン」の芽はこうした知的認識とは別次元の、ある種の反動的な情緒の中から発生してきていたと見るべきである。しかしこれの中に含まれる既成の秩序への反逆ないし揶揄の姿勢が、怯懦なポスト・モダニストたちを勇気付けてしまったことは否定できない。ただしここで評価したいのは、そうしたファッション・リーダーとしての役割ではなく、それがアカデミックな建築史研究に与えた方法的衝撃の方である。それは私見によれば、建築にそなわる批評的機能の再認識ということであるように思われる(ヴェントゥーリがそのように言っているわけではない。これは私の解釈である)。多義性、あるいは表面的な矛盾は、抵抗感のない「本来的」な形姿とは違って、いわゆる「異化」効果をもたらすのであるが、そうした「非本来的な」異化作用は必ずや事物の本来的あり方に対する批評的意味を帯びるからである。少なくとも建築批評の領域に関する限り、その非本来的表現(この場合に「表現」という言葉が適切かどうかやや疑問だが)に着目したのは、ヴェントゥーリをもってはじめとするのである。この視点がどのような成果をもたらすかは、この後、様々なケースについて見て行くこととしたい。
ヴェントゥーリの著書が出たのと同じ年、イタリアの若手建築家アルド・ロッシAldo Rossi (1931-97) は「都市の建築」と題する著書を刊行している。これはその名のごとく都市論であるが、それは同時に都市を成り立たせる要素として建築を見るという、新しい視点からの建築論でもある。そしてその過程で、モダニズムの主導理念であった「機能主義」Functionalismを批判し、都市の歴史と永続性を重視するのであるが、その永続性を保証する要素として、クァトルメール・ド・カンシィの唱えた「タイプ」としての都市建築のあり方を再評価し、また都市の歴史を保存し伝えるものとしてモニュメント(歴史的建造物)の役割を強調しているという点で、モダニズムの素朴な進歩主義に対する根底からの重厚な批判となっている。この本は欧米ではギィーディオンの「空間・時間・建築」以後、最も広く読まれる建築書となり、多くの版を重ね、またほとんどの西欧言語に訳されて、現在に至るまで欧米の建築学生の必読書とされているものである。
ロッシのモダニズム批判は、ヴェントゥーリの場合のような真っ向からの(しかしややおどけた)「建築史批判」ではない。むしろそれらの軌跡を、その救いがたい過誤をも含めて、すべて歴史的経過として受け入れ、その余韻を楽しんでいるかのように見える。そのことは本書中に引かれているヴィオレ・ル・デュクやギィーディオンの文章、あるいはマルクスの文章などに対する、やさしさと共感に満ちたコメントからも見て取られる。しかしそのようなやさしさは、裏返せばある種の諦め、ないし絶望感の表われと見ることもできる。ロッシにとっての歴史は、もはやモダニストたちにとってのそれのような、ユートピア社会実現に向けての創作意欲を鼓舞するようなものではない。歴史は取り返しのつかない過ちと失敗の記録であり、それを隠蔽したり粉飾して大衆を欺いたりすることもまた、同じ過ちを繰り返すだけのことだという諦念が働き、突き放しているのである。「都市の建築」全体を貫いているのは、奥深い西欧的教養に培われた、都市と建築への限りない愛情であるといえるが、しかしそこには同時に、第二次大戦による破壊の悲惨な記憶があり、それがある種の悲哀に満ちた通奏低音のように、表面上はきわめて前向きな、都市と建築の可能性に対する信頼感に満ちた叙述の底に、癒しようのない悲観主義となって流れている。
ロッシの建築理論そのものは、いわゆる「ポスト・モダニスト」たちのふざけた大衆迎合とは一線を画し、知的な「ラツィオナリズモ」razionalismo(=rationalism 「理性主義」の意)を標榜するのであるが、実際に造られた作品には常にある種の悲哀をこめた諧謔性、ないし自己韜晦が顔をのぞかせており、モダニズム後世代の痛ましい喪失感を代表するものとなっているという意味で、やはり「ポスト・モダニズム」の流れの中にあると言わざるを得ない。こうしたロッシの悲観主義をどこまでわれわれが共有できるか、あるいは果たしてそれを共有すべきものなのかどうかについては、様々な議論があり得る。しかし確かなことは、どのように「楽観主義」ないし「現状肯定主義」を装ったところで、ロッシの悲観主義の原因となっている歴史的事実を隠蔽することはできないということである。そしてこうした悲観主義のなかでもなお、ロッシが建築を造り続け、また過去の建築が造られて来たすべてのプロセスに限りない共感を寄せていたことこそが重要なのであって、建築創作とその歴史を軽蔑するところからは、何物も生み出し得ない。 
 
パラディオが受けた古代建築の影響に関する研究

 

T研究の目的と方法
パラディオはルネサンス期に活躍し、多くの建築設計に携わり、「建築四書」を著したマニエリズムの建築家であった。マニエリズムは後期ルネサンスに属する。建築の分野では、人間性や個性を中心とした古代ローマ時代の建築を規範として創り出された建築様式をルネサンスと呼ぶ。
パラディオや他のルネサンスの建築家が、古代ローマの建築を規範とする上で最も重要な資料は、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスが建築についての考え方を記した「建築十書」という著書である。本研究では、パラディオの設計した建築や、彼の著書に、「建築十書」に示されるヴィトルヴィウスの建築に対する考え方がどのように反映され、また、どの様な箇所が引用されているか等を明確にしながら、パラディオの「建築四書」に、ヴィトルヴィウスや古代ローマ建築が、どのような影響をあたえたのか考察することを目的とする。
まず、パラディオが、どのような人生を歩んできて、どこを拠点とし、なにをしてきたのかを概観しながら、建築設計に関する知識を、どこでどのようにして習得したのかを明らかにする。また、「建築四書」やその他の文献から、パラディオの建築作品の設計上の特徴や独自性等について考察する。最後に、パラディオの「建築四書」及びヴィトルヴィウスの「建築十書」に示される内容について、比較検討する。 
Uパラディオの建築知識の背景について
パラディオの建築知識の背景として、ヴィトルヴィウスとの接点、ローマの旅行から学んだこと、その他、どのようにして建築の知識を得たのか考察する。
パラディオは1508年にパドヴァで生まれ、1524年から石工職人として働き、若干建築に関連する仕事を行っている。1538年、イタリアのパドヴァでジャンジォルジオ・トリッシノという人物に出会い、本格的に建築を学ぶこととなった。
トリッシノと出会う前、パラディオは6つの建築物に関わっているが、石工職人時代にトリッシノはパラディオになんらかの資質を見いだしていたと考えられる。そしてトリッシノはパラディオに建築教育を始める。ヴィトルヴィウスの「建築十書」を初めとする古典建築の手ほどきをし、高度の建築家教育を施した。
またパラディオはトリッシノと共に、1541年、1545年、1546〜47、1549年と、4度、ローマ旅行に行っている。旅行では、古代遺跡やルネサンスの古典主義建築に接し、古代の廃墟で実測研究を行い、また他の建築家の描いた図面と実際の現場を、見て確かめてコピーしたりした。このようにトリッシノは建築の学力面と実技面を教育していった。教育はトリッシノが亡くなる1550年まで続いた。
パラディオが手がけた建物の建っている場所は、ヴィチェンツァが61個と圧倒的に多く、その他、ヴェネツィアに15個、パドヴァに5個、ローマに3個、ヴェローナに4個、ウディネに5個、トレヴィゾに6個、ロヴィゴに1個、フェルトレに1個、ブレシアに2個、ボローニャに1個、ベッルーノに1個、場所がわからないものは12個となっている。即ちパラディオは、ほとんどの仕事をヴィツェンツァで行ったことになる。
即ち、パラディオは、ヴィトルヴィウスとの接点としては、1538年から1550年までトリッシノから学び、4回行ったローマ旅行からは古代ローマ建築のことを学んだ。また、ヴィチェンツァを中心に活動していた。 
Vパラディオの建築作品について
パラディオの建築作品の特徴を整理しながら、パラディオの建築に見られる古代ローマ建築の影響について考察する。
パラディオの建築作品で、パラディオが生涯で手がけた建物の数は117個あり、ヴィラが37個、パラッツォが28個、教会が25個となっている。即ち、パラディオが手がけた建築の内、ヴィラ、パラッツォ、教会の3種類の建築の合計は90個で、この3種類の建築で77%を占めている。また、残りの27個については、橋が6個、市庁舎が2個、門が1個、バシリカが1個、教会入口・付属装置が3個で、その他の14個は建築の種類が分からないものである。
ルネサンス建築の特徴は、古代ローマ建築の手法を基に、建物をつくっているところである。そこで、古代ローマ建築の影響がみられる部分としてオーダーと天井形状に注目し、考察する。
ヴォールト天井は、古代ローマ建築の住宅や教会堂建築によく使用されていた。しかし、中世建築では、特に住宅建築では、天井を用いないのが主流であった。ところがパラディオは、住宅や教会堂建築にヴォールト天井を用いている。そこで、パラディオのヴォールト天井の使用は、古代ローマ建築の影響を受けていたのではないかと推測した。
文献中にオーダーの使用について記述してある建築の数は32個であった。しかし、「オーダー使用」の記述が無くても、実際オーダーを使用していると考えられる建築は他にもあり、この数でオーダーが使用されている建築数について論じることはできない。
一方、天井形状が分かったものは29個あった。そのうち、「ヴォールト天井が使用されている」と記述してある数は、24個であった。天井形式が判明した建築の内80%がヴォールト天井であったことが分かる。
「オーダーが使用されている」と記述してある32個の建築を、建築種別に見れば、ヴィラが16個、パラッツォは12個、教会が1個、種類不明なものを含めてその他のものが3個である。また、「ヴォールト天井が使用されている」と記述してある29個の建築を、建築種別に見れば、ヴィラが11個、パラッツォが8個、教会は3個、種類不明なものを含めてその他のものが2個であった。
即ち、パラディオはヴィラ、パラッツォ、教会の3種の建物を多く手がけていた。この3種の建築はヴィラの数が若干多いものの、パラッツォ、教会を含め、だいたい均等にパラディオは手がけていた。ルネサンスのころの建築も、ヴィラ、パラッツォ、教会が多く建っていた。また、パラディオの建築の特徴の中で古代建築の影響がみられるのは、オーダーとヴォールト天井があった。 
Wパラディオの「建築四書」に見られる古代ローマ建築とヴィトルヴィウスの影響
ここでは、「建築四書」が、どのような構成になっており、どのような内容が書かれているか、また、パラディオがヴィトルヴィウスからどの程度の影響を受けたかどうか明らかにするために、パラディオがヴィトルヴィウスの「建築十書」からの引用と明記している箇所を調査した。また、その引用が「建築十書」のどの書・章なのかまとめた。更に、「建築四書」のどの様な内容が、「建築十書」を意識して書かれたものなのかを、具体的に明らかにするために、「建築四書」及び「建築十書」に示される内容から比較検討する。
「建築四書」は、計98章で構成されている。このうち42章・54箇所でヴィトルヴィウスのことを記していた。
(1)第一書
「第1書」は29章からなり、ヴィトルヴィウスのことが記されている数は16章・22箇所ある。
第1章は「建てはじめる前に考慮し、準備しておくべきこと」について書いてある。ここでは3つの事柄(森田慶一氏が言うところの「用・強・美」の問題)について記されている。第2〜6章は「建築材料」についてで、それぞれの材料の種類や性質などが書いてあり、ここでは第2章は木材、第4章は砂に関する記述がある。第9〜11章は「構造」についてで、古代の壁形式とその説明、壁厚の低減、石造建造物を建てるにあたり守るべき方法とやってはならないことなどが書いてあり、ここでは第9章に網目積みに関することが記述されている。第25〜26章は「戸口と窓」についてで、寸法の決め方、装飾の種類、つくり方などが書いてあり、ここでは第25章に戸口の高さと幅を決めるよい方法、第26章に出入口の装飾のつくりかたのことが記されている。第27章は「暖炉と煙突」について書いてあり、ここでは軟石に関することが記されている。第29章は「屋根」について書いてあり、ここでは屋根の変化に関することが記されている。
以上のことはヴィトルヴィウスが「建築十書の第1書第3章、第2書第1・6・7・8・9章、第4書第6章、第6書第3章」に掲載している内容を引用したものである。
第1書の中で特に注目する内容は、「オーダー」についての記述である。第12〜20章は「オーダー」について記されている。第12章に古代人が用いた5つのオーダー、第13章に円柱のふくらみと縮減、円柱の中間部分のふくらみ、第14章にトスカナ式オーダー、第15章にドリス式オーダーと隔柱式、第16章にイオニア式オーダーと正柱式、第17章にコリント式オーダーと集柱式、第18章にコンポジット式オーダーと密柱式、第19章に柱台に関することが、ヴィトルヴィウスの「建築十書の第3書第2〜5章、第4書第1・3・7章、第5書第3〜8章」に掲載されている。この中で、古代人が用いた5
つのオーダー、円柱のふくらみと縮減、円柱の中間部分のふくらみ、トスカナ式オーダーの内容は、ヴィトルヴィウスの建築十書から引用している。
パラディオはオーダーのことを述べているが、明らかにヴィトルヴィウスの述べていたオーダーを引用していた。しかし、パラディオはオーダーの種類によって、柱間形式を割り当てて記載している。しかし、ヴィトルヴィウスはオーダーの種類に応じて、柱間形式を割り当てるようなことは記載していない。パラディオは、オーダーに関しては、ヴィトルヴィウスを引用しつつも、独自の考察を組み込ませてながら、「建築四書」への記述を行っている。また、柱台に関することに関しても、ヴィトルヴィウスの建築十書から引用しているものの、柱台の高さの決め方に関することはパラディオの考えが記されている。
第7〜8章の「基礎や地盤」で、基礎の説明や性能、地盤の性能などについて、第21章は「ロッジァ、玄関、広間、脇部屋、それらの形」について、第22〜24章の「床と天井」で、ヴォールト天井の形式、床に使用される材料、天井の高さについて、第28章は「階段」について記述してある。ヴィトルヴィウスは「建築十書」に「基礎や地盤」、「床と天井」、「ロッジァ、玄関、広間、脇部屋、それらの形」について同様の記述はあるものの、パラディオの著書には、それからの直接的な引用は見られない。また、「階段」については、ヴィトルヴィウスの「建築十書」には何も記述されていない。
(2)第二書
「第2書」は17章からなり、ヴィトルヴィウスのことが記されている数は7章・10箇所ある。
第1章は「古代の建物において守るべき作法と儀礼」について書いてあり、ここでは、「建物の配分は、個人個人に応じて適切に適用する」ことに関する記述がある。第4〜7章は「アトリウム」についてで、各アトリウムの寸法や各アトリウムの説明を建物の例をあげながら書いてあり、ここでは、第4章にトスカナ式アトリウム、第7章に亀甲式アトリウムに関する記述がある。第11〜16章は「ヴィラ」についてで、住宅の各部、配置計画、図面の説明、特徴などが書いてあり、ここでは、第11章に個人住宅のこと、第12章に水のこと、第16章にヴィラの室にとってよい方角のことに関することが記されている。第17章は「さまざまな敷地に応じたいくつかの案」について書いてあり、ここでは、パラスタティカという角柱のことに関することが記述されている。
以上のことはヴィトルヴィウスが「建築十書の第1書第2章、第3書第5章、第4書第2章、第5書第1章、第6書第3・4・5・6・7章、第8書第4章、第9書第8章」に掲載している内容を引用したものである。しかし、第7章の亀甲式アトリウムについての内容はパラディオ独自の考えが記されている。また、第11章の個人住宅のことについては、ヴィトルヴィウスの著書から内容的に引用することにより、古代における住宅についての解説を行ったものである。
第2章は「脇部屋やその他の室の配置」について、第3章は「都市住宅の図面」について、第8〜10章は「広間」で、各広間について記してある。ヴィトルヴィウスの「建築十書」にも同様の記述はあるものの、パラディオの著書には、それからの直接的な引用は見られない。
(3)第三書
「第3書」は21章からなり、ヴィトルヴィウスのことが記されている数は5章・7箇所ある。
第1〜3章は「道路」についてで、道路の配置、道路の配置で配慮すること、道路のつくりかたの例の説明などが書いてあり、ここでは、「風向きで健康状態が変わる」ことに関して記されている。「道路」のことは、一部を除き、ヴィトゥルヴィウスの著書を参考にはしていない。
第16〜18章は「広場」についてで、広場の大きさ、場所、特徴、周囲の建物のことなどについて記されている。「広場」とは、ヴィトゥルヴィウスが述べる古代ギリシアと古代ローマの広場のことである。第19〜20章は「バシリカ」についてで、バシリカの特徴、設計した「バシリカ」と古代のバシリカの違いなどが書いてあり、第19章に古代バシリカの柱や柱廊に関する記述がある。第21章は「パラエストラとクシュストゥス」について書いてあり、ここではパラエストラとクシュストゥスの建て方や配置のことが記されている。
以上のことに関しては、ヴィトゥルヴィウスが「建築十書の第1書第6・7章、第5書第1・11章」に掲載しているものであり、ヴィトルヴィウスの著書から内容的に引用することにより、古代におけるこれらの建築や施設についての解説を行っている。
第4〜15章は「橋」についてで、橋の利便性、実例の説明、建造にあたり守るべき注意事項などが記されている。ところが、ヴィトルヴィウスは橋については記述していない。ヴィトルヴィウスは現代では考えられない様々なことを建築家の仕事として紹介しているし、古代ローマの建造物でも重要な位置を占めると考えられる橋造りに関する記述が無いのは、いささか驚きである。
(4)第四書
「第4書」は31章からなり、ヴィトルヴィウスのことが記されている数は14章・15箇所ある。
第1章から第5章までは、神殿の敷地や形式、割付けについて記されている。この中で、ヴィトルヴィウスのことが記されている箇所は第2〜5章で、神殿の形式や割付けのことが引用されている。
次に、第6章から最後の31章までは、一個一個の建築を挙げて、建築の説明や特徴、パラディオが描いた図面が掲載されている。その内、3つの実例は、「建築十書」が記された時代には建っていたと考えられるが、ヴィトルヴィウスの「建築十書」に記されている建物は1つもない。
残りの22個の実例は、ヴィトルヴィウスの死後に建設された古代ローマ時代の建築、1つの実例は、ルネサンスの建築である。この内、18個の実例は古代ローマ建築について記されている。この中でヴィトルヴィウスの名前が出ているものは8個ある。
また、ここでは、「神殿」という項目で様々な実例を挙げているが、その内、4つは神殿以外の建築である。即ち、第6章では古代ローマ時代の「バシリカ」、第16章では古代ローマ時代の「洗礼堂」、第17章ではブラマンテ設計の記念堂である「テンピエット」、第21章では古代ローマ時代の「教会」が、実例としてあげられている。ここでパラディオは、「建築十書」に記載された建築的内容と比較しながら、これらのことを記している。
第4書には、神殿の実例が多く記載されている。そのほとんどがヴィトルヴィウスの死後の建物であるが、パラディオは「建築十書」から得た知識と実例を比較しながら論じている。また、パラディオは、古代で言う神殿という建築を手がけはいないが、神殿の設計に関する考え方を、自分自身が係わった建物に取り入れている。
X「建築四書」に引用されていない「建築十書」の記述箇所
前途の建築四書の構成のところで、パラディオに引用された建築十書の書・章のことも触れたので、ここでは、パラディオが引用しなかった建築十書の構成について述べる。
ヴィトルヴィウスの「建築十書・第7書〜第10書」には、色や水、天体や建築器械のことが記されている。しかしパラディオの「建築四書」には、これに類似する記述はほとんど無い。このことは、ヴィトルヴィウスの時代では、色や水、天体や建築器械に係わることとも建築家が行う仕事であったが、パラディオの時代では、建築家の仕事とは考えられなかったことを示している。 
Y結論
パラディオの「建築四書」から、当時遺跡として残存していた古代ローマ建築の遺跡やヴィトルヴィウスの「建築十書」から多くを学んでいたことが分かる。また、パラディオは「建築四書」を著すに当たり、「建築十書」の内容を、頻繁に引用していた。事実、「建築四書」の98章のうち42章・54箇所にヴィトルヴィウスのことが記されている。パラディオの記述は、基本的にヴィトゥルヴィウスの「建築十書」に記される古代建築についての紹介をしながら、パラディオが示す当時の建築のあり方について言及する形式となっている。しかし、神殿建築などのように古代建築の紹介に終始した箇所もある。また、円柱の配置形式の様に、彼なりに解釈し、ヴィトゥルヴィウスとは異なった内容となっている箇所もある。また、建築十書ばかりでなく、彼が直接調査した建築の記述も多く見受けられる。
ただ、「建築四書」の内容は、かなり多くの部分で古代ローマ建築やヴィトルヴィウスの著書にふれており、古代ローマ建築を規範として、彼の記述を進めていったことは明らかである。
参考文献
森田慶一、「西洋建築入門」、東海大学出版、1971年
森田慶一、「建築論」、東海大学出版、1978年
森田慶一、「ウィトルーウィウス建築書」、東海大学出版、1979年
渡辺真弓、「ルネッサンスの黄昏(パラーディオ紀行)」、丸善株式会社、1988年
桐敷真次郎 その他、「建築史」、市ヶ谷出版社、1967年
福田晴虔、「パッラーディオ」、鹿島出版、1979年
桐敷真次郎編著、「パラーディオ「建築四書」注解」、中央公論美術出版、1986年 
 
パラーディオが受けた古代建築の影響に関する研究

 

平面計画について
1 研究の目的と方法
ルネサンス時代の代表的な建築家、アンドレア・パラーディオの「建築四書」に記載されている建物と、古代ローマ時代の建築家である、ヴィトルヴィウスが著した「建築十書」の建物の設計方法や平面計画に関する記述とを、比較検討し、ルネサンス時代の建築家パラーディオが、古代ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスの記した考え方に、どのような影響を受けているのか研究することを目的とする。 
2 「建築十書」と「建築四書」に示される室の比例関係に関する記述の比較
ヴィトルヴィウスの「建築十書」には、建築の材料や神殿形式等、さまざまなことについて記述されているが、住宅の平面に関しては、「アトリウム」に関して比較的詳しい記述がなされていた。また、「食堂」の長さは幅の2倍にするとあったが、パラーディオの示す住宅には食堂という室名は記されていない。ヴィトルヴィウスは「広間」の長さは幅の2倍より僅かに長い寸法とするという、若干曖昧な記述があった(6書第3章)。
ヴィトゥルヴィウスは「アトリウム(玄関)」の幅と長さについて、下記の比例関係を示している(Vitruvius §-3-3)。
1 幅:長さ = 3:5
2 幅:長さ = 2:3
3 幅:長さ = 1:√2
また、「建築十書」には、トゥスキア式、コリントゥス式、四柱式というアトリウムの形式は示されているが、上で示した比例関係のどれがその形式に当てはまるのかという記述は無い。
これに対しパラーディオは、「建築四書」の第2書第4章〜第7章でアトリウムについて、第2書第8章〜第10章で広間について記述している(パラーディオが示す室の名称については、後に記載する)。
パラーディオは、「トスカナ式アトリウム」において、幅:長さ = 2:3であると記している。これは、ヴィトルヴィウスの2の方法と同じ比例関係になっている。パラーディオの「四柱式アトリウム」は、幅:長さ = 3:5となっており、ヴィトルヴィウスの1と同じ比例関係になっている。更に、パラーディオの記した「コリント式アトリウム」と、「亀甲式アトリウム」は、幅:長さ=1:√2で、ヴィトルヴィウスの3の方法と同じ比例関係になっている(表1参照)。
即ち、パラーディオはヴィトゥルヴィウスの示した「アトリウム」の平面上の比例関係を、それぞれのパラーディオが示す形式に当てはめて記載していることが分かる。
「広間」に関するヴィトルヴィウスの記述は、先に述べたように曖昧なものであった。一方、パラーディオは「四柱式広間」については幅:長さが1:1、「コリント式広間」については幅:長さが3:5」記述がある。ところが、「エジプト式広間」に関しては記述がない。
「広間」に関しては、パラーディオは全くヴィトルヴィウスの記述を参考にせず、独自の比例関係を示していることが分かる。また、この他の室については、ヴィトルヴィウスの記述は無く、全てパラーディオの考えに依るものであることが分かった。 
3 「建築四書」の文書と図に示される室の比例関係に関する比較
パラーディオが、「建築四書」の中に記載している図面のことについて、記述していることを図面と照らし合わせながら、比較検討していく。
まず、「アトリウム」に関してパラーディオが記述で示す比例関係を表1にまとめた。また、アトリウムについての説明図に示される室の寸法を同表右にまとめた。これを比較すれば、「トスカナ式アトリウム」では、記述通りの比例関係でとなっている。尚、[P](ピエーデ)は当時の長さの単位で、1 [P] = 0.3564 mである。
45 [P]:67 1/2 [P]=2:3
(誤差0.000[P])
しかし、その他の形式の「アトリウム」ではかなり誤差が見られる。これに関して桐敷真次郎先生は、「パラーディオが図面と記述を不備のまま印刷したようである」と、図面が誤っていると解釈している。
35 [P]:52 1/2 [P]=3:5
(誤差 3 1/2 [P])
50 [P]:83 1/3 [P]=1:√2
(誤差 8.925 [P])
一方、パラーディオは、8個の住宅において、各室の幅と長さが単純な比例関係で求める設計手順を示している。その8個の個々の住宅の説明の中で述べている各室の比例関係を表2にまとめた。また、同時に、掲載されている平面図から読み取れる各室の寸法をその右に記した。
建物番号10の住宅では、「建築四書」の本文中には「大きい脇部屋」の平面上の比が3:5と記してあこる。一方、図からは幅18 [P]、長さ30[P]と読み取れ、これを計算すれば正確に3:5の比例関係となっていることが分かる。
パラーディオが、個々の住宅の説明の中で示した幅と長さの比例関係は、全ての建物の全ての室において、正確に図面で示される各室の幅と長さの比例関係に一致している。
また、パラーディオが使用している比例関係は、アトリウムの一部で1:√2という複雑な比を示しているが、他は1例を除いて全て1桁の整数比であることが分かる。例外の1例も、記述には、「正方形平面の1辺にその5/8の長さを加えて室の長さを求める」と記してある。即ち、パラーディオは、室の平面を決定する幅と長さの比は、基本的には1桁の整数比で考えていたことが分かる。 
4 「建築四書」に示される住宅各室の比例関係に関する分析
「建築四書」の第2書には、45棟の住宅について示されているが、その内34棟の説明図から、各室の寸法を読みとることができた。本稿ではこの34棟の住宅を分析対象とする。また、「建築四書」では、「アトリウム」、大中小の「脇部屋」、「ロッジア」、「小室」、「広間」、「中庭」という室名が記されている。本研究では、室名が判別出来る室についてのみ、分析を行うことにする。
「ロッジア」は建物の正面中央、または、正面全体に配置され、建物の玄関口になっている。これを抜けると「アトリウム」が配置され、ほぼ建物中央に「広間」や「中庭」が配置される。そして、これらの脇に大中小の「脇部屋」と「小室」がある(図1参照)。
分析の対象とした室は、「建築四書」の中で室名が明確に示され、確認のとれたものを対象とした。対象とした室は、全部で109室あり、その全てから幅と長さの実寸法を読みとり、比例関係を計算した。
前項で述べたように、パラーディオの記述には1例を除いて全て1桁の整数比であった。故に、図中に示された比例関係についても1桁の整数比を用いて、比例関係を表した。また、室の幅や長さが、1/2 [P]が最小単位であることから、一桁の整数の比例関係の誤差が1/2 [P]以下として、比例関係を求めた。全室109室の内、74室は誤差0、26室は誤差1/2 [P]以下、残りの9室についても、誤差が1 [P]以下で計算できた。そこで、ここでは全て一桁の整数の比例関係で設計されたと考え、比例関係を算出した。
表3は、算出した比例関係となっている室を有する住宅数をまとめたものである。この内、10%を超えるものは、1:1の24%、1:2の11%、2:3の11%、3:5の14%の4種である。一方、パラーディオは「建築四書」の中で記述している比例関係は7種類(表2参照)あるが、表3で10%を超えるものは、全てパラーディオの記述に見られる比例関係である。その他に関してはそれぞれ数パーセントの使用頻度であり、特例的な使用のされ方がなされていると考えられる。つまり、パラーディオが図中に示した各室の幅と長さの比例関係は、1:1、1:2、2:3、3:5の4種を基本としていることが分かる。
表4は、算出した比例関係となっている室を有する住宅数を、室の種類毎にまとめたものである。この表を用いて、各室における比例関係の使用頻度、またはその比例関係の使用の範囲について分析を行う。
まず「アトリウム」については、1:1、1:2、3:5、5:7、5:6、7:8の比例関係が使用されており、割合的には3:5の比例関係が多く使用されており(9例中3例)、ついで1:1の比例関係が多く使用されていた(9例中2例)。しかし、何れも使用建築数は僅かで明確なことは言えない。ただ、使用頻度の最も高い3:5という比例関係は、パラーディオが四柱式アトリウムの比例関係として示しているものである。逆に、パラーディオがトスカナ式アトリウムの比例関係として示している2:3の使用例は無かった。
「大きい脇部屋」については、1:2、2:3、4:7、3:5、5:8、5:9、8:13の比例関係が使用されており、割合的には3:5の比例関係が42%と、圧倒的に多く使用されており(26例中11例)、ついで19%の2:3の比例関係が多く使用されていた(26例中5例)。3:5という比例関係は、パラーディオが文書中でも「大きい脇部屋」の比例関係として最も多く示したものである。
「中位の脇部屋」については、1:1、2:3、3:4、4:5、5:6、5:7、6:7、8:9の比例関係が使用されており、割合的には1:1の比例関係が半数以上を占め(26例中14例、54%)、ついで15%の2:3の比例関係が多く使用されていた(26例中4例)。また、1:1という比例関係は、パラーディオが本文中に唯一示した「中位の脇部屋」の比例関係でもある。
「小さい脇部屋」については、1:1、2:3、3:4、4:5、5:6、5:8の比例関係が使用されており、割合的には38%の3:4の比例関係が多く使用されていた(13例中5例)。
「ロッジア」については、1:2、1:3、2:5、2:7、3:7、3:8、4:9、5:8の比例関係が使用されており、割合的には25%の1:2と2:5の比例関係が、他より若干多く使用されていた(16例中4例)。
「小室」については、1:1、1:2、2:3、2:5、3:5、5:7、6:7、7:9の比例関係が使用されており、割合的には31%の1:2の比例関係が多く使用されていた(13例中4例)。
「広間」については、1:1、1:2、3:5、5:7、7:9、6:7の比例関係が使用されており、割合的には46%の1:1の比例関係が多く使用されていることが分かった(13例中6例)。
「中庭」については、1:1、2:3、3:4、4:5の比例関係が使用されており、割合的には43%の1:1の比例関係が多く使用されていた(13例中6例)。
それぞれの室において、特に特徴的であると考えられるのは「大きい脇部屋」では3:5という比例関係が、「中位の部屋」では1:1という比例関係が多く使用されていることであろう。「ロッジア」は1:2か2:5、「広間」は1:1等、室毎に比較的多く使用される比例関係があることが分かる。 
5 全体のまとめ
本研究のテーマ「パラーディオが受けた古代建築の影響に関する研究〜平面計画について〜」を研究してきた結果、パラーディオは住宅の設計に関して、ヴィトルヴィウスの「建築十書」より、アトリウムについての比例関係のみ参考にし、他のものに関しては独自の比例関係を用いて住宅の設計を行ったことが分かった。
また、パラーディオは、単純な比例関係を用いて住宅の設計を行ったことが、彼の著書の本文中にも示されているが、実際、1:1や1:2,3:5等の比例関係を多く使用していることが分かった。
パラーディオは、室の種類によって、室の幅、長さの比例関係によく使用される比例関係があることも分かった。
参考文献
(1)桐敷真次郎編著、「パラーディオ「建築四書」注解」、中央公論美術出、1986年
(2)Andrea Palladio,The Four Books of Architecture(Dover Edition),New York,1965
(3)渡辺真弓、「ルネッサンスの黄昏(パッラーディオ紀行)」、丸善株式会社、1988年
(4)森田慶一、「ウィトルーウィウス建築書」東海大学出版、1979年 
 
ヴィトゥルヴィウスの知的背景に関する研究

 

1.研究の目的と方法
1-1.目的
西洋の古代建築に見ることができるリファインメントやプロポーションなどの建築の美しさを構成する要素は、ヴィトルヴィウスの記した「建築十書」という書物に記されている。また、彼が示す建築に対する思想や技術は、一般に、古代ギリシア建築に関するものであると言われている。
しかし、ヴィトゥルヴィウスは紀元前1世紀のローマの建築家であり、彼の示す建築的な思想や技術が、実際にはどの様な知識に裏付けられたのか、明確とは言えない。そこで、本研究では、ヴィトルヴィウスが「具体的」に如何なる知識があったのかを明らかにし、ヴィトルヴィウスの著書の知的背景を探ることを目的とする。
1-2.研究方法
ヴィトルヴィウスが「具体的」に如何なる知識を有していたのかを明らかにするため、ヴィトルヴィウスの著書「建築十書」に記されている具体的な事項を抽出することとする。抽出する事項は、「建築」と「人物」、「比例に関する数値」とした。
「建築」においてはヴィトルヴィウスの建築物のあり方への考え、またその考えを述べている際に挙げている具体的な建築を「建築十書」の本文と「建築十書」の訳者である森田慶一の「註」から、「建築名、つづり、所在・・・」等の情報を取得する。その二つからとれない建築の情報を他の文献か抽出する。また、その他の文献を使い、「建築」の別名や具体的な所在、その建築の特徴等の情報を補足した。
「人物」においても基本的な進め方は同じである。しかし「建築十書」には、「名前」はあがっているが、詳細な情報が書かれている物は少ない。名前以外の情報が記載してあったとしても名前の他は、「職業」、「活躍した年代」ぐらいである。従って「建築十書」以外の文献からも「年代」や「出身地」、「対象にしている人物の功績」などのより多くの情報を取得する。
また、ヴィトゥルヴィウスは、建築を設計するに当たり、様々な比例関係で各部の寸法を決定していくという設計法を示している。このことからルネサンス以降、様々な比例関係が提案されており、最終的には無理数を使用した比例関係までパルテノン神殿に使用されているという研究までなされた。しかし、ヴィトゥルヴィウスの著書を一見する限り、その様な複雑な比例関係を記しているようには見られない。そこで、ヴィトゥルヴィウスが如何なる比例関係を著書の中で記しているか、調べることとする。
「比例に関する数値」は、「建築十書」内に出てくる「アストラガルスはトロキルスの1/8につくられるべき」など、分数等の数値を使用し比例関係(1:1/8)を示している場合や、「...は7部分に分けられ、そのうちで3部分が一番上のトルスになる」などの文章として比例関係(3:7)が示される場合がある。これらの比例関係やそこで使用している数値を調べることで、ヴィトゥルヴィウスが如何なる比叡関係を使用していたか、具体的に考察する。
以上に事項を、建築十書から調べ、これらの情報を統計的に分析したり、個々の情報について検討することにより、ヴィトゥルヴィウスはどの時代、どの地域の情報を得ていたか、どの様な数字や比例を使用していたかついて考察する。
使用するテキストは、参考文献の1)〜4)に示した4冊を使用する。主に使用するのは1)の森田慶一の訳書で、他の3冊の文献の記述と比較しながら、必要な情報を得ることとする。ヴィトルヴィウスの「建築十書」はラテン語で記載されており、それぞれの訳書の原書は、それぞれ異なるテキストが使用されている。4冊の訳書を使用することで訳者が参考にした原書の違いや、訳し方、訳註を比較検討することで、より正確でより多くの情報を得ることができると思われる。 
2.建築十書に掲載される「建築」について
2-1.「建築」に関するデータの収集
今回の研究では、建築十書に記載された建築名をデータとして収集した。建築十書には41件の「建築」が挙げられている。収集する情報は、「建築名」、建設年代(「時代」、建設された場所(「所在」)、「緯度・経度」、建築の「種類」、「平面形式」、「様式」等、13項目について調べた。
森田慶一の訳書には、「建築名」はラテン語の名称をカタカナで表記してある。従って、カタカナ表記とラテン語表記で、その名称を記録した。しかし、現在においてその建築が具体的に判明している場合、ヴィトゥルヴィウスが記した名称が、一般的な名称と言えない場合がある。その様な場合は、建築の英語名を別の資料から調べて記載した。
建設年代(「時代」)は、森田慶一の注釈や、その他のギリシアやローマ建築に関する著書から調べた。しかし、「建設年代」は、正確且つ明確に分かるものが少ないので、アルカイック、クラシック、ヘレニズム、ローマ4期に分類することにした。建築の建設年代が、森田慶一の注釈にヘレニズムなどと記載されている場合は、それを「時代」とした。しかし、西暦などで期さされている場合は、紀元前6世紀以前の建設年代はアルカイック、紀元前5から4世紀の間の建設年代はクラシック、紀元前3〜2世紀の間はヘレニズム、紀元前1世紀以降はローマとい「時代」に便宜的に振り分けた。
建設された場所(「所在」)については、建築の建設されていた場所の現代の都市名(現在は都市として存在せず、遺跡としてぞんざいしている場合は遺跡名)を記し、その都市(遺跡)のある現代の国名を「所在」データとして取った。また、その「緯度・経度」は、熊本大学の報告書に示された緯度経度のデータを使用した。このデータは、「緯度・経度」の「分」の部分を切り上げて記載してある。
また、建築の「平面形式」というのは、神殿の平面計画を示し、「様式」は建築に使用されておるオーダー(ドリス式、イオニア式、コリント式)を示している。
2-2.「種類」と「所在」による分析
表1は、「建築」数を、「種類」と「所在」別にカウントしたクロス集計表である。ヴィトルヴィウスは「神殿」、住居、記念碑、門、時計台、闘技場など、様々な多彩な建築について、事例を挙げていることが分かる。ただ、全「建築」41件の内、75%は神殿である。また、神殿に関しては、建築十書の第3、4書で細かいオーダーの比例関係や、発展過程などに深く自らの意見を記し、建築平面形式についても複数の例をあげ、説明している。このことから様々な建築において、ヴィトルヴィウスは特に神殿を重要視し、神殿についての知識を深く且つ多く有していたと考えることが出来る。
建築十書に掲載された「建築」の「所在」は、イタリアが最も多く、半数近く存在している。しかし、ギリシアやトルコをの合計数もほぼ同数あり、ヴィトルヴィウスが生活していたローマから遠く離れた地域の建築に関しても、十分な知識があったと推測できる。また、「所在」が判明していない1件を除き、全てこの3国にある「建築」であることも判明した。
次に「建築」の「種類」と「建築」の「所在」を照らし合わせてみる。イタリア、ギリシア、トルコのどの国も神殿が一番多く挙げられており、その傾向は全体の建築数の傾向と殆ど差異がない。
神殿以外の建築に関しては、イタリアの「建築」が比較的多く掲載されている。しかし、その掲載のされ方を見た場合、「キルクス-マクシムスの近く」などのように単に場所を説明するためだけに挙げている建築もある。一方、ギリシアの建築にはヴィトルヴィウスが建築の特徴やその建築がどのような意味を持っているのか説明している建築物がある、例えば、建築十書の第1書で「アンドロニコスの時計塔」を「風」が人体に与える影響について説明をする際に挙げている。この様に、神殿以外の「建築」に関しては、ギリシアやトルコにある「建築」に関する記載が、どちらかと言えば詳細であるように思える。
2-3. 「時代」と「種類」による分析
表2は、「建築」数を、「時代」と「種類」別にカウントしたクロス集計表である。建設された「建築」の「時代(建設年代)」に関してみれば、ヴィトルヴィウスはローマ時代の建築だけでなく、ヘレニズム期やクラシック期の建築の事例を比較的多く挙げていることが分かる。また、エフェソスの「ディアーナの神殿」は、ヘレニズム期に改築される前のアルカイック期の神殿について記している。この様な神殿については、書物等により学習したことが推測できる。また、神殿の「時代」別の数は、ほぼ全体の傾向と類似している。
2-4. 「時代」と「場所」による分析
表3は、「建築」数を、「時代」と「場所」別にカウントしたクロス集計表である。ヴィトルヴィウスが事例として挙げているイタリアの「建築」は、多くがローマ時代の「建築」で、その半数がヘレニズム期(便宜的に「ヘレニズム期」と呼んでいるが、正確にはローマの共和制期)のものである。また、ギリシアの「建築」は、クラシック期のモノが多く、トルコではヘレニズム期の「建築」が多く掲載されている。即ち、掲載されている「建築」の事例の多さは、その地域の度合いと比例しているように見える。
2-5. 神殿の「平面形式」に関する考察
ヴィトルヴィウスは第3書で、神殿の「平面形式」について、イン・アンティス式、前柱式、周翼式、擬二重周翼式、二重周翼式、露天式を挙げている。
イン・アンティス式、前柱式については、具体的な「建築」の事例を示していない。これらの平面形式の神殿は、イン・アンティス式の場合は、アンタの間に2本の円柱が立てられるディ・スタイル・イン・アンディスであり、前柱式では正面に4本の円柱が立てられる平面形式というように、小規模な神殿に使用される場合が多い。前柱式の事例は、第3書では掲載されないが、第1書でエレクテイオンの「カリュアーティデス」、即ち「カリアティッド」に係わる物語という文脈で登場している。このエレクテイオンは、複雑な平面形式をしているが、主要部分は正面6柱の前柱式である。
周翼式とはケラの周囲にペリスタイルを巡らした神殿の平面形式であり、重要な神殿の殆どが、この「平面形式」で建設される。通常、正面には6本の柱が並べられる。ヴィトルヴィウスはこの「平面形式」の事例として、ローマに建造されたユーピテル・スタトル神殿とウィルトゥースの神殿を挙げている。ユーピテル・スタトル神殿が改築された頃に、ヴィトルヴィウスは建築十章を製作しており、実際にこの建築や建設について見ていた可能性あると考えることが出来る。また、この建築の設計者として「ムーキウス」という建築家を挙げている。ムーキウスがどの様な人物か不明であるが、建築家として名前まで挙げているからには、ヴィトルヴィウスはムーキウスやその建築から、何かしろ学習していたと考えられる。
二重周翼式は、周翼式の周囲に、更にペリスタイルを巡らした平面形式であり、正面には8本の円柱が置かれるのが一般的である。また、この二重周翼式は、通常、巨大な神殿となる。ヴィトルヴィウスはこの「平面形式」の神殿の事例としてローマのクイリーヌス神殿、エペスス(エファソス)に建設されたケルシプロン作のディアーナ神殿(アルテミス神殿)を挙げている。
クイリナリスの神殿はローマでは珍しいドリス式の巨大神殿であり、唯一ヴィトルヴィウスが実際に見たドリス式神殿である可能性がある。一方、ディアーナ神殿の神殿は、ヘレニズム期に建設された正面幅が50mという巨大神殿が有名であるが、ヴィトルヴィウスが記した神殿は紀元前6世紀に建造された古い神殿である。地域的にも遠く、また、ヴィトルヴィウスが活躍した3世紀前には建て替えられていた神殿に関して記していることになる。従って、実際にはけして見ることに出来ない建築について、その建築の建築家名、建築の平面形式、様式まで記していることになり、明らかに著書等により学習した知識と考えることができる。
2-6. 「柱間形式」に関する考察
ヴィトルヴィウスは建築十書の第3書で、円柱の直径と柱間寸法との比例関係による形式分類(柱間形式)について述べている。円柱の直径に対して柱間(柱と柱の間隔)が1:1 1/2の場合を「密柱式」、1:2の場合が「集中式」、1:3の場合が「隔柱式」、1:3の比例関係以上の柱間寸法がある場合を「疎柱式」、1:2  1/4の場合を「正柱式」と呼んでいる。密柱式や集中式は、柱間の間隔が狭すぎてその間を人が通り抜けるのが困難であり、隔柱式ではエピステリウム(石造梁のアーキトレイブ)が壊れやすく、疎柱式では石造は無理で木の梁を使用するしかないと述べ、正柱式を美的にも構造的にも適当な柱間形式であると記している。
集中式の事例としてフォルトゥーナ=エクエストリスの神殿を挙げている。これは紀元前1世紀にローマに建設された神殿である。またヴィトルヴィウスは、正柱式の事例はイタリアには無いと述べ、正柱式の事例として紀元前2世紀後半、トルコのイオニア地方のてテオスと言う都市に建設された、リーベル=パテルの六柱式の殿堂(神殿)を挙げている。
古代ギリシア時代の建築、特にドリス式では、集柱式よりも狭い柱間が殆どであり、ギリシアの建築の柱間形式については比例的であったので、ヴィトルヴィウスはその事例を挙げてないと思われる。また、正柱式については、ヘルモゲネースというヘレニズム期の建築家の発明であり、8柱式の擬二重周翼式の発明者でもあると紹介しており、更に、実際神殿を設計する場合のモドゥルスの求め方まで言及している。
以上のことから、ヴィトルヴィウスは、ギリシアにおいて使用された柱間形式についても、またローマにおいて使用された柱間形式についてもよく知っていたことが分かる。また、柱間形式をつくり出す比例関係を使用した設計法については、正柱式においてのみ述べており、その参考となったのはヘレニズム期のトルコの建築であり、正柱式はローマには存在しないということから、柱間形式の設計法に関しては、少なくともローマ時代の設計法ではなく、ギリシア時代の建築を参考にしたと推測できる。
2-7.「時代」と「様式」による分析
表4は、「建築」数を、「時代」と「様式」別にカウントしたクロス集計表である。ドリス式の建築は4件あるり、アテネのミネルバの神殿(パルテノン神殿)、デルピー(デルフィ、ギリシア)の円堂(神殿に分類)は、共にクラシック期の神殿である。また、ユーノーの神殿(ヘラ神殿)は、時代が明確でなく、その名前しか分かっていないが、イオニア式の巨大神殿があることで有名なサモスという古くからあるギリシアの都市でにある神殿である。唯一、クイリーヌス神殿がローマにあった神殿であるが、「ローマで最も古い神殿」とあり、実質的にはその存在が確認されていない。即ち、ドリス式神殿に関しては、パルテノン神殿や円堂を中心に、ギリシアのドリス式神殿の知識が、ヴィトルヴィウスにとっては主なものであったと考えられる。
一方、イオニア式の「建築」は、9件の内6件がトルコにあるものであった。残り3件の内2件はアテネに建造された建築で、エレクテイオンとアンドロニコスの時計塔である。エレクテイオンについてはその建築について記載すると言うより、カリュアーティデス(カリアティッド)と呼ばれる女性像柱の謂われについて記載しており、アンドロニコスの時計塔については、時計のしての仕組みが主な記載内容であり、建築の規模も小さく、オーダーが使用されているのはポーチの部分だけである。残り1件はローマにある神殿で、柱間形式の事例として記載している。以上のことから、ヴィトルヴィウスは、イオニア式神殿に関する具体的な記述はトルコの神殿から得た知識が主なものであったと推測できる。
コリント式については、アテネにあるオリュムピウスの神殿のみが事例としてあげられており、これ以外の神殿についての知識は乏しかったように思える。
2-8. 「建築」に関してのまとめ
ヴィトルヴィウスの記載についての考察から、様式については、イオニア式に関してはトルコから、ドリス式に付いてはギリシアからその知識を学んでいたことが、おおよそ判明した。また、全般的に、ギリシアやトルコの建築だけではなく、ローマの建築にも言及していることが多い。ただ、ギリシアやトルコの建築に関しては、ヘレニニズム期とクラシック期の建築が多く示され、書物等により学習した知識であると推測できる。一方、ローマの建築は実際に見ており、具体的な事例として紹介したり、或いは、彼が学習した知識との比較検討する材料として記載しているように思えた。  
3.建築十書に掲載される「人物」について
3-1.登場する人物
建築十書の中で160名の人物名が挙げられている。その内、森田慶一による建築十書訳注に開設があり、その情報を元に参考文献14)、15)から更に詳細に知ることが出来た人物は82名である。 その大半が現在も知られている著名な人物である。例えば、アルキメデスはギリシア文明下のイタリアで名をあげた数学者であり、現在の高校数学の教科書にアルキメデスが生み出した「アルキメデスの螺旋」が掲載されている。また、ピタゴラスはギリシアの哲学者で現在も数学などで使われる「ピタゴラスの定理」つまり三平方の定理を考え出した。 
フィーディアスはアテネの政治家ペリクレスの命令を受けパルテノン神殿建設の総指揮を勤めた。他にもアテナ神殿、ゼウス神殿を手がけている。建築だけでなく彫刻家としても有名でゼウスの像やアマゾンの像などを作っている。次に、イクティノスはパルテノン神殿の建築家としてもっとも著名である。
また、建築十書にはその名が記載されているレオーニダス、ポッリス、デーモピロス、テオキュデース、カルピオン等は、出身地や職業など情報が記載しているだけで、それ以上の情報を得ることが出来なかった。この様な人物は33名であった。
残りは、「あまり有名でない○○な人物」として紹介されるなど、その名前しか分からなかった人物が45名あった。
3-2.人物の活躍した時期について
掲載されている人物の活躍した時期について、年代単位で判明した人物もいるが、世紀単位でしか分からない人物もいる。そこで、本研究では時代単位のデータも世紀単位に置き換え、世紀単位で分析することとした。その数は106名で、記載された人物の活躍した世紀ごとの人数を、表5に示す。
この表より、ヴィトルヴィウスが幅広い世紀にわたって活躍した人物について掲載していたことが分かる。特に紀元前4世紀に活躍した人物が多く掲載してある。紀元前1世紀のローマの建築家とされるヴィトルヴィウスは、本人が生きた何世紀も昔の人物を取り上げていることから、それらの人物から直接学んだのではなく残された書物や資料を使って研究していたことが分かる。
3-3.人物の活躍した場所について  
建築十書に記載されている人物に関する出身場所や活躍した場所を建築十書や参考文献を用いて調べ、表6に、国別に纏めた。
ヴィトルヴィウスが記載している人物の出身地や活躍した国は、ギリシアが46%と群を抜き、その次にイタリアとトルコが多く、どちらも同じく20%程度となっている。この三国で全体の9割を占め、あとの1割は複数の国に散在している。これは、ヴィトルヴィウスがギリシア出身の或いはギリシアで活躍した人物について、非常によく知っていることを示している。また、詳細に見れば、トルコはその地中海沿岸地方に、イタリアは南イタリアやシシリーなど、ギリシア人の国家が繁栄した地域で多くなっている。
また、大半がギリシア、トルコ、イタリアに集中しているが、南フランスやエジプト、イラン、イラク、リビアなどの広い範囲にまでその分布は及んでいる。これらの久野々人々は、イラクはバビロン人、イランはペルシアのダレイオス1世などという人物もいるが、エジプトはプトレマイオス王朝の人物、イスラエルの人物は明らかにギリシア人の名前であるなど、ギリシア人である場合もある。
即ち、ヴィトルヴィウスが紹介している人物の多くは、ギリシア人や、ギリシアの都市国家で活躍した可能性が読み取れる。つまりヴィトルヴィウスは、ギリシア的文化を非常に尊重し研究していたと推察することができる。
3-4 人物の職業、身分について
表7は、建築十書に掲載された人物の職業や身分について纏めたものである。建築十書が建築に関する書物にも関わらず、表7に示されるように、多方面の職業の人物が登場し、しかも建築家よりも画家・彫刻家、権力者、学者の方が多い。これは、ヴィトルヴィウスが、「建築家の知識は多くの学問と種々の教養によって具備され、この知識の判断によって他の技術によって完成された作品もすべて吟味される」とし、建築家にとっての様々な学問の必要性を説いていることに由来する。また、建築十書でも、建築に関連する「建築家」、「建築材料」「建築の歴史」「建築の設計法」「建築の構造」などばかりでなく、気候や色彩、水、星座や音楽、機械や武器などについても、建築家の必要な知識として記載しているからである。
一方、建築家については、エピダウロスのアスクレピオス神殿を建てたティーモテオスや、パルテノン神殿の建設にかかわったフィーディアスとイクティノス、ミネルヴァの殿堂のピュテオス、ドリス式よりもイオニア式を好み、八柱擬二重周翼式を発案し、リーベル=パテルの六柱式の殿堂を建てたヘルモゲネス、ウィルトゥースの神殿のムーキウスなど、神殿の建設に関わった人物が多く記載されている。パルテノン神殿は紀元前5世紀、アテネに建てられたドリス式神殿であり、アスクレピオス神殿やミネルバの殿堂、リーベル=パテルの殿堂は、4〜3世紀に建造された、トルコのエーゲ海沿岸に建設されたイオニア式神殿であり、ヴィトルヴィウスは、これらの神殿から多くを学んでいると推測できる。
ムーキウスは、唯一ローマ人であり、「シュンメトリアを技術の正統な定めに従って完成させた人」として賞賛している。つまり、ヴィトルヴィウスは、ムーキウスの建築作品ばかりでなく、その設計理論につても知識があったということであり、「ローマの先人」の建築や建築書についても学習していたことが推測できる。
3-5 人物についてのまとめ
以上の考察から、ヴィトルヴィウスは紀元前6世紀から紀元後1世紀に渡る幅広い世紀にわたって活躍した人物について掲載しており、特に紀元前4世紀、或いはその前後の世紀の人物から多くを学んだと考えられる。また、ヴィトルヴィウスが紹介している人物の多くは、ギリシア人や、ギリシアの都市国家で活躍した人物であり、ギリシア人から多くの知識を得ていたと思われる。
掲載している建築家も紀元前4世紀の人物を中心に、紀元前5世紀から3世紀の人物について記載しており、それらの建築家は神殿建築に係わった著名な人物ばかりである。このことから、ヴィトルヴィウスは本人が活躍していた当時の建築様式ではなく、紀元前5〜3世紀頃に建設された建築や建築様式を重要視し、建築について研究していたと考えられる。 
4.建築十書に掲載されている比例関係について
建築十書で記載されている数や比例関係をすべて抽出する。そして、そのデータが文章中で「○○を▲で分割したのち、■であて・・・」や「○を▲で割る」などのように文章によって比例関係が表されているものを「比例表記」。その他の「○を▲/■する」などの分数によって表されているものを「分数表記」の2種類に分類し分析を行った。尚、「○」は分割する部分などの名称で、「▲」や「■」は数字を意味している。
比例の関係の分析計の結果、全部で273件の比例関係のを見いだした。そのうち「分数表記」が226件、「比例表記」が47件であった。また、建築に関連する比例関係は、圧倒的に「比例表記」が多いことが分かった。
また、比例関係を一番簡単な比例関係に約分し、それを分数と帯分数の形で変換して、その分数や帯分数の分数部分でどのような数の分数が使われているのかを求めた。その結果、分数部分の分子が1で表される分数が多いことが分かった。また、その様な分数の分母は、大半が2や3の簡単な整数となっている。従って、ヴィトルヴィウスが示した比例関係は、整数対整数や、分数が使用される場合も、分子が1であり、分母も極めて単純な整数しかあらわれず、基本的には極めて単純な比例関係しか使用していないことが判明した。
ヴィトルヴィウスは、数学者であるピタゴラスやプラトンについても言及している。そのため、古代建築の比例関係の分析も、無理数などの複雑な数字が使用されている場合もあった。しかし、元来ヴィトルヴィウスは極めて単純な比例関係しかその著書には記していない。また、ヴィトルヴィウスは前章までの分析で、彼が提唱している比例関係を使用した設計法について、その知識の元は、クラシック期やヘレニズム期のギリシア建築が主要な情報源となっていることが推測できた。従って、際のギリシア建築における比例関係も、単純なものであったと推測することができる。 
5 おわりに
ヴィトルヴィウスの記載についての考察から、ヴィトルヴィウスの知識は、その多くはギリシアやトルコのヘレニズム期及びクラシック期の人物や建築から学んでいることが判明した。また、イオニア式に関してはトルコの神殿が知識の源となっており、ドリス式に付いてはギリシアの神殿、特にパルテノン神殿やデロフィの円堂が、知識の源のように思える。また、建築の設計に用いられる比例関係は、極めて単純なものしか使用されていないことも判明した。
参考文献
1) 森田慶一、ウィトルーウィウス建築書、東海大学出版会、S44
2) M.H.MORGAN, THE TEN BOOKS ON ARCHITECTURE, USA, 1914
3) F. GRANGER, LOEB CLASSICAL LIBRARY:VITRUVIU I DE  ARCHITECTURA, UK, 1931 & 1934
4) I.D. ROWLAND, T.N.HOWE, VITRUVIUS THE TEN BOOKS ON ARCHITECTURE, USA, 1999
5) STILLWELL, MDONALD MALLISTER The Princeton Encyclopedia of Classical Sites, USA, 1976
6) ロラン・マルタン、図説世界建築史第3巻、本の友社、2000 
7) 青柳正規、古代都市ローマ、中央公論美術出版、1990
8) JOHN TRAVLOS, PICTORIAL DICTIONARY OF ANCIENT ATHENS, USA, 1980 
9) Ernest Benn, BLUE GUIDE ROME, USA, 1956
10) Robin Barber, BLUE GUIDE GREECE, USA, 1987 
12) ROBERTSON, GREEK AND ROMAN ARCHITECTURE USA, 1929
13) ダイアナ・バウダー編、古代ギリシア事典、原書房、1994
14) Webster's Biographical Dictionary, G&C Merriam Company, 1980
15) 堀内清治編、熊本大学環地中海遺跡調査団 地中海建築 —調査と研究— 第一巻、日本学術振興会、1979 
 
建築家の誕生 / デミウルゴスの命運

 

1 デミウルゴス―ダイダロスとイムホテップ
今日のお話は、「建築家の誕生」という大袈裟な題をつけてしまいましたが、中身としては、私がこれまで少しばかり勉強してきたイタリア・ルネサンスの建築の一部をとりあげて、そこに垣間見られる建築家像をめぐり、当の建築家がその社会的役割をどのように考えていたのかを考えてみようということです。「社会的役割」などというと難しく聞こえるかも知れませんが、要は何をもって飯の種にするのかということだとご理解ください。とは申しましても、建築に関わる仕事の範囲というのは実に幅広く、その中のどの部分が本質だとか、軽々しく言うことはできませんし、また社会が変化すれば与えられる役割が変わってくるわけで、古今不変の建築家像などというものはあり得ないと考えるべきでしょう。ですから問題は、そのように目まぐるしく変わる社会にどのようにしてついて行くのか、つまりは建築技術者としてどのように世渡りをしてゆくのかということになります。しかしそれではどうも卑屈に聞こえてしまうので、なんとか理屈をつけて、自立した職能人としての主体性を保ちたい、平たく言えば体面を保ちたいという人間が出てくる。それが「建築家」と称される(あるいは自称する)存在なのだ、といえば建築家諸氏に叱られるでしょうか。ともあれ、私の見るところ、そうしたことを意識する輩が初めて現れてきたのが、15世紀のイタリア・ルネサンスであったということなのです。
もちろんそれとは違った意味で、つまり「世の中がどうであろうと、俺様は世の中を造り変えることができるのだ」という意識を持つ、誇大妄想的存在は大昔からありました。というよりはむしろ、そうした人物こそが「建築家」でなければならないと一般には考えられてきていたようです。古代神話に、超能力によって巨大な建造物を造った人物ないし神が出てくるのは、そうしたことのあらわれにほかなりません。ギリシア神話のダイダロス1は、とてつもない巨人だったとも言われますが、ミノス王2のために迷宮ラビュリントス3を建造したといわれ、のちには建築家の元祖に祭り上げられて、迷宮あるいは迷路は「建築的なるもの」の象徴とされています。ギリシア人はこうした存在のことを「デミウルゴス」(Demiurgus=造物主)と呼びました。
ダイダロスは架空の存在ですが、紀元前約2650年のエジプトのイムホテップ6は、実在した史上最古の「建築家」で、初期王国第三王朝二代目のファラオであるジェセル、あるいはゾセール(Djoser, or Zoser)とも呼ばれますが、その王のために、サッカラの階段状ピラミッドと、それに付属する葬祭殿複合体を設計したといわれています。イムホテップはエジプトの最高の神である太陽神ラーに仕える神官で、おそらく最高位の政治家でもあったと見られますが、彼の事績として最も有名なのがこのピラミッド複合体の建設なのです。彼がその設計者ないしは建設責任者であったことは、ファラオの名前とともにその名が墓碑に記されている7ことからも確かめられます。そして彼はその後神として祀られる存在となります。彼もまた「デミウルゴス」の一人となったわけです。
このピラミッドそのものは、おそらくジェセルよりもさらに古い時代にまで遡るとみられる、「マスタバ」(mastaba. アラブ語で「ベンチ」の意)というかまぼこ形の墳墓を核にして、その上に何度か増築して現在の姿となったことが確かめられていますし、葬祭施設の地下遺構もかなり古いものがあるようなので、どこまでがイムホテップの手になるものなのかはよく分かりませんが、発掘されて現在地上に見えている葬祭施設群は、明確なコンセプトで一貫していて、強固な一つの造形意図によって造られたことが感じられます。そしてその明確なコンセプトとは、「偽の建築」を創ることでした。
というのは、ここにある建築群はすべて外側の形ばかりで、中の空間がない模型のようなものなのです。少しずつ形が違って建ち並ぶ神殿のような建物のうち、写真にみえる右端のものと左端のものは、それぞれエジプトの南と北、つまり上エジプトと下エジプトの代表的な土着の建築の形式、南は細い丸太の骨組みに獣皮をかぶせた遊牧民の住居、北は葦束を用いた農民の家屋を抽象化して表現したものですが、どちらも外側の輪郭だけで内部空間はありません。周りの通路にはドアがあっても開かない偽の入口であったり、石造天井なのに木の根太を模倣した表現があったり、 地下に設けられた墓室の通路などでも、パピルスを編んで作るスクリーンのようなものを緑色のタイルを使って表現したりしています。 また本来なら壁より出張って作られるべき入口の枠を、逆にへこまして表現するようなこともしています。模倣と同時に高度に抽象化され単純化された表現が不思議なバランスを保って用いられています。
なぜこんなことになるかといえば、実はこれらの施設は、死後のファラオのためのものであって、生身の人間が使うものではないからです。生前のファラオは10年に一度、あるいは30年に一度とも言いますが、王権の再生を示すための "Heb-Sed" という儀式を行うことになっていて、死後のファラオもおそらく地下の世界でその儀式を行うはずであると考えられたのです。こうした死後の仮想の営みを表現するためには、建築はそれにふさわしく象徴的な姿、つまり建築そのものではなく「建築を表現する建築」でなければならなかった、というわけです。そしてこの施設は完成と同時に土で埋められ、人目に触れることはなかったと言われます。
これは驚くべき高度な、込み入ったコンセプトでありまして、現代の「ミニマリスト」などは、その足下にも及ばないものです。このような古い時代の建築について解説する際には、当時の技術的限界ということで片付けられることが多いのですが、私は古代エジプトの建築については、あるいは少なくともこのジェセル王の葬祭殿の建築については、当てはまらないように思います。たとえば、この建築に用いられている柱はすべて壁付きで、完全な独立円柱は見あたりません。このことは、まだ石造技術に不安があって、壁と一体の構法をとったのだと一般には説明されています。しかし壁を造っている同じ石材から、丸く出張った円柱の形を作り出すのですから、ずいぶん手間のかかるやり方をとったものです。鉄の工具がまだ少なかった時代ですから、おそらく青銅の鑿やたがねで仕事をしたはずで、とんでもない根気のいる作業だったはずです。この建築より古い石造建物はエジプトではほとんど知られておりませんので、当時の石造技術がどの程度のレヴェルであったかは推し量る術がありませんが、この手法を技術的限界だけで説明するのは、私には納得がゆきません。たといそこに技術的限界があったのだとしても、これらの高度な抽象表現や木造架構を石造で表現するといった比喩的な手法は、そうした技術的制約を超える次元で発想されたもののように思われるのです。
話が少々別なところに逸れてしまったようですが、申し上げたかったことは、「迷宮」にしろあるいはイムホテップの建築にしろ、建築を即物的な構造体のレヴェルに止まらせることなく、そこにより高次な内容を盛り込みたい、あるいは別な言い方をするなら、そうした即物的構造体としての建築に対して「批評」を加えたいという、高級な考え方がすでに建築の歴史の始まりの時期から見られたということでありまして、「建築家」と呼ばれるためのもう一つの要件には、自分自身の行使している技術に対して外から眺める目、つまり「自己批判の認識」ということがあったのではないかと考えるのです。  
2 中世の建築家像
話をもとに戻しますと、「デミウルゴス」がすべてそうした批評の認識を具えていたわけではなさそうで、「世界の七不思議」に取り上げられているような古代の巨大プロジェクトには、あまりそのような建築的批評の形跡は認められないように思われます。そしてこうした「デミウルゴス=建築家」というようなあり方は、古代世界特有のものだったようで、キリスト教化した中世ヨーロッパやイスラーム世界でも、あるいは漢代以後の中国でも、ほとんど見当たらなくなります。アラビアンナイトの中のアラディンの魔法の城のお話は、もはや人間がそうした役割を負うことができなくなったことの裏返しの表現なのでしょう。とりわけヨーロッパ中世では、建築技術者たちはつつましく神から与えられた技能の枠内に留まって、それを超えるようなコンセプトに挑戦しようとは考えなかったようです。総じて彼らは自分の行使する技能で世界を造り変えられるなどとは考えなかったようで、自ずと彼らの建築は、即物的構造体の表現やあるいは材質とか色彩それ自体の戯れの段階に留まらざるを得なかった、つまり「職人芸」の域に安住していたように見えます。従って彼らの職能の象徴は曲尺やコンパスであり、間竿や垂鉛であったりすることになり、彼らの墓碑には必ずと言ってよいほどそれらの図像が表されます。
これはフランスのシャムパーニュ地方ランスのサン・ニケーズ修道院聖堂 St-Nicaise, Reimsにあった、その聖堂を建設したとされるマスター・メーソン(石工の親方)、ユーグ・リベルジェ Hugues Libergierの墓碑で、現在はランス大聖堂に保存されているのを写し取った図です。実物はかなり大きな石のスラブで、2.78×1.3 mの大きさがあり、スラブの四辺に施された銘文によれば、彼は1263年に亡くなったとされます。その出で立ちはかなり立派なもので、貴紳が用いるようなケープを肩にかけています。実際、中世におけるマスター・メーソンの社会的地位はかなり高かったようで、これはその技能が高く評価されていたことと同時に、相当の財力を備えていたことにもよると考えられます。彼らは、王室などに仕える官僚的技術者は別とすれば、多くは現在で言うなら大きなゼネコンのオゥナーのような立場でもあり、現場での工事指揮のみならず、資材の調達や職人の手配まで請け負うのが通例でした。そのためには相当の資本力がなければやってゆけなかったのです。
その一方、彼はベレのような帽子をかぶり、右手には聖堂の模型、左手には長い間竿を携えていますし、周りにはスコヤ(square=曲尺)やコンパスが配されており、彼が技能の人であることを示しています。ベレ帽は古代ギリシア以来、技能職の階層の印とされていました。しかし建築にかかわる技能の世界は、もともと彫刻や絵画などとの境界が曖昧で、ともすれば建築技術の独自性がなおざりにされる傾向がたえずつきまといます。たとえば、13世紀初期のゴシックの力強さに対し、14世紀後半から15世紀初期にかけての末期のゴシックのあくどい装飾過多現象を比べてみれば、技能の世界の限界というのがそこに表れていると言えるでしょう。そこにさらに資本家的な才覚が要求されるとなれば、建築はその外側の様々な社会的・経済的要請、政治や権力者の威勢誇示などのために利用されやすくなり、それらに従属させられてしまう危険性を招くこととなります。
伝統的な技能の世界が安定している間は、そうした危険はさほど意識されませんが、ルネサンスのような、思想の枠組みが大きく変化し、社会の構造が揺らぎ始める時期には、その危険がたちまち頭をもたげ、顕在化することとなります。そしてルネサンス期に入っても、こうした職能の未分化の状態は続いておりまして、「最初のルネサンスの建築家」とされるブルネッレスキ Filippo Brunelleschi (1377-1446)ですら、フィレンツェ大聖堂のクーポラ建設に関わって、その資材運送の業務を請け負い、それで大損をして半ば破産状態となり、メディチ家の援助で何とか切り抜けたと言われます。ご存じと思いますが、メディチ家というのはこの当時のフィレンツェを事実上支配していた権力者です。ブルネッレスキは大変な自信家で、メディチ家から助けられながらその下風に立つことを潔しとせず、終始反抗していたようですが、しかし「建築」独自の目標がまだこの時期、社会的に明確に意識されていなかったために、彼の目指すところとは裏腹に、彼の創り出した新しいルネサンス建築手法は、その模倣者・亜流の手によって、むしろメディチ家をはじめとする権力者たちの威勢誇示の手段として用いられるようになってしまいます。ブルネッレスキは「透視図法」という新しいものの見方と幾何学的空間、それに古代ローマの建築手法を用いることによって、美術史家ジゥリオ・カルロ・アルガン Giulio Carlo Argan (1909-92)の言葉によれば、「中世的都市空間に対する批評」を行ったわけですが、その批評の新しさのみが表層的に受け入れられて、政治的に利用されることとなりました。古典建築手法が「批評性」ぬきで模倣され、「古典の模倣=ルネサンス」という通俗的な理解ができあがることとなります。ブルネッレスキが世を去ることとなる1440年代以後しばらくの間は、その意味で初期ルネサンス建築は「危機」の状況にあったと言うことができます。  
3 アルベルティとウィトルウィウス
当時このことを「危機」と感じていた者はあまり多くなかったと思われますが、レオン・バッティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberti (1404-72)18は、その数少ない一人でした。かつて政治的理由から追放されていたフィレンツェ貴族出身の知識人で、大変な早熟な人であったようで、二十歳の頃までにはすでに古典学者として頭角をあらわし、そのころにラテン語で書いて匿名で発表した戯作19が、しばらくのあいだ古代ローマ時代のものと間違えられていたという話があります。しかも学芸のみならず身体能力も抜群で、乗馬の達人であったとか、その場で大人の肩の高さまで跳び上がることができたというような、俄には信じがたい言い伝えまであります。いわゆるルネサンスの「万能の天才」の一人であったのでしょう。1424年には聖職に就き、1432年からはヴァティカンの教皇秘書官 Abbreviatore apostolicoとなって様々な外交的な任務もこなしていて、イタリア国内だけでなく、ドイツあたりにまで派遣されていたと言われます。1430年代頃からは、言語や文学、美術、数学、あるいは家政論や都市論など、様々な分野についての著述を始めており、中には動物に託した人間性論や犬と人間との関わりを論じたエッセェまであります。そして彼の著作として最も有名なのが、建築と都市について論じた「デ・レ・アエディフィカトリア」 De re Aedificatoriaというラテン語で書かれた大著なのです。
この著作は1451年頃までにはあらかた書き上がっていて、すでにその前後から手稿本の形で流布し話題になっていたようです。まだこの時期は活版印刷術が発明されていなかったので、活字で出版されるのは1485年になってからのことです。彼は建築には全くの素人だったはずですが、1440年代以後、幾つかの建築の設計にも関わったようです。これまで確認されているところでは、九つほどの建築の設計に関わったとされています。このDe re Aedificatoriaの著述と建築設計への関わりとでは、そのどちらが早かったのかは分かりませんが、1436年の日付のある《絵画論》イタリア語版序文には、ブルネッレスキに対する賛辞が記されていますので、かなり早い時期から建築の新しい動向には関心を持っていたと考えられます。ただし《絵画論》で扱われているのは、ブルネッレスキの創案になるとされる透視図法の数学的解明と、絵画を構成する線や色彩、陰影などの各要素についての考察で、建築には触れられていません。
アルベルティがこの De re Aedificatoriaを執筆することを思い立った背景には、アルベルティよりも先輩の人文主義者ポッジォ・ブラッチォリーニ Poggio Bracciolini (1380-1459)が、1414年にモンテカッシーノ修道院の図書室から、古代ローマのウィトルウィウス Marcus Vitruvius Pollio (c. 80-15 B.C.)による建築論 De Architecturaの完全な写本を発見して話題となっており、おそらくアルベルティもそれを読むことができたという事情があったと考えられます。De re Aedificatoriaの中には、「ウィトルウィウスによれば」という記述があちこちに出てくることからも、この著作がウィトルウィウスにヒントを得たものであったことは間違いありません。どちらの本も十書からなり、そのためウィトルウィウスの本などは「建築十書」というように呼ばれているのですが、アルベルティもそれを踏襲したと考えられるのです。そのようなわけで一般にはDe re AedificatoriaはDe Architecturaの注釈を目論んだものであるとか、ウィトルウィウスを下敷きにした古典建築手法の解説であるとか言われているのですが、これは少し違うのではないかと私は考えています。
同じ十書でも構成と中身は全く違います。どこがどう違うかいちいち説明しようとするときりがありませんので、表の方でごらん頂くとして、そこから言えることは、ウィトルウィウスの方は個別の建築知識の羅列・寄せ集めであって、ほとんど「理論」の体をなしていないのに対し、アルベルティの方は、一般的で自明の前提(公理)から出発して、順次に高次の理論的結論に導くという、周到な論理的体系によって組み上げられていたということです。ウィトルウィウスは唯一の古代の建築書ということで、その後建築における聖書のごとき地位に祭り上げられてしまい、いまなおこれをあたかも深遠な建築哲学の源泉であるかのごとくに論ずる人々が後を絶たないのですが、これはやや滑稽なことと言うべきでしょう。これが古代人の建築観をうかがい知るためのほとんど唯一の手がかりであるにしても、そのような扱いはかえって史料の歴史的価値を損ねるものです。
表1 ウイトルウィルスとアルベルティウイトルウィルス
なお、アルベルティの著書のラテン語題名 De re Aedificatoria をどのように訳すかですが、一般には《建築論》として通用しておりますけれども、これだとウィトルウィウスの De Architectura ―これは文字通り「建築について」ということなので、これとは区別がつきません。アルベルティがわざわざウィトルウィウスとは違った題名を選んだ意図が、これでは伝わらないことになります。私自身も適切な訳は見いだせないでいるのですが、強いて訳せば「構築術」ということにでもなるでしょうか。少々耳障りですが、ここでは原語のDe re Aedificatoria で通させて頂くことにします。
一方、アルベルティが「古典主義者」であったかどうかということについては、「古典主義」をどのように定義づけるかという問題もありますが、とりあえず一般に言われるように古典建築技法の模倣ということで単純に理解しておきますと、De re Aedificatoriaの叙述の仕方は、いささか紛らわしいものでして、実例として取り上げられている建築のほとんどは古代のものですが、必ずしもそれらを模範にすべきものとして扱っている訳でもありません。おまけにそれらの話の合間には、プリニウスの《博物誌》23などから拾ってきたと見られる荒唐無稽な話、たとえば、月の満ち欠けと頭の禿が関係があるとか、毒を持つ蝦蟇を地面に埋めておけば害鳥を遠ざけられるといった話が紛れ込んでいて、生真面目な読者を煙に巻いてしまいます。これでは古典建築はまるでお伽噺の世界のようで、およそ現実味がありません。たぶんアルベルティという人は諧謔・韜晦の名人で、しかつめらしく勿体ぶった物言いが嫌いだったのだろうと思われますが、しかしその語り口が、ウィトルウィウスをはじめとする古典建築に対する崇敬の気分を、かなりの程度まで相対化してしまうことも確かです。後で触れる彼の建築は、確かに古典建築技法を手がかりとしたものではあるのですが、これもやはりDe re Aedificatoriaの文体と同様、一筋縄では捉えられないところがあるのです。
もう一つ厄介なのが、彼の一見したところ悲観的な語り口です。この建築書には、実に多くの破滅的、破壊的な逸話が挙げられていて、都市は常に叛乱の契機に満ち、神殿は幾たびも焼け落ち、記念碑は倒れ、自然もまた悪意に満ちて人間の生を脅かしまして、辛うじて墓だけが、静かな憩いの場所として楽しげに語られますが、これとても豪華に飾り立てることを避け、注意深く中庸を守ることではじめて保証される静けさなのだというのです。一方での諧謔や韜晦の文体の陰には、もしかするととんでもない厭世主義者の絶望が隠れているのではないかと疑われてしまうのですが、実際、このDe re Aedificatoriaとほぼ同じ時期に書き上げていたと思われる Momus(「魔王」の意)という風刺的なおとぎ話がありまして、これはギリシア神話に出てくる英雄ヘーラクレースが、乱れきった人間社会を立て直すために、もう一度神々に下界へ降りてきてもらおうと、天上界へ出かける話です。しかし当のヘーラクレース自身も人間界での付き合いが長すぎたせいか、すっかりなまってしまっておりまして、ずっこけてばかりいます。道案内に頼んだ地獄の渡し守カロンの方が遙かにしっかりしていて、しばしば彼にたしなめられたり助けられたりしながら、珍道中をやらかします。しかし天上界に辿り着いてみると、神々の世界も同じように乱れきっていて、とても人間界を立て直すどころではなかったというのが結末です。教皇庁秘書官という高位の聖職者が、こうした手のつけられないブラック・ユーモアの持ち主であったというのは、人間性を回復したルネサンスらしいとも言えますが、それにしてもアルベルティの当時の社会に対する目はかなり辛辣なものであったと考えられます。  
4 都市と建築家 フィラレーテのスフォルツィンダ
しかしこうした苦い悲観主義を底に秘めた著作であるにもかかわらず、De re Aedificatoria は、当時の人々からは来るべき新しい社会の容れ物、都市や建築を作るための指南書=マニュアルであるかのごとく受け取られたようです。活字本が刊行される以前には、王侯たちは競ってこれを手写させ、さきほどご覧頂いたように、豪華な絵入りのものまでありました。アルベルティ自身も、ウルビーノやフェッラーラ、マントヴァなど各地の領主たちから、建築や都市整備などについて助言を求められ、実際に設計にも関わっています。更にはこれが刺激となって、他の建築家たちも競って建築書の著述を始めます。
1460年代から70年代ころにかけて書かれたとされる、アントーニオ・フィラレーテの建築書24は、ルネサンスにおける「理想都市論」のはしりとされるもので、「スフォルツィンダ」 Sforzindaと称する理想都市と、そこに造られるであろう建築群について述べたものですが、それらはアルベルティの指し示した建築や都市の造り方に従ったものであると明言しています。この著作は奇妙なお伽噺の形に仕立てられていて、架空のガッリスフォルマ Gallisformaという町で、そこの王様が港を建設しようとして土地を掘削させていたところ、かつてこの地を治めていた遙か昔の王の墓とその棺に収められていた「黄金の書」が発見され、それには都市を建設するための様々な指針が記されていて、それらはアルベルティが説くところに基づくものだったとされているのですが、王と彼に仕える建築家が額をつきあわせて、それをもとに「スフォルツィンダ」と称する理想都市の構想を論議するというのが筋です25。この名の由来はフィラレーテが当時仕えていたミラノの領主スフォルツァの名から採られたものでした。なお「フィラレーテ」というのは、自分で勝手に名乗ったペンネームで、本名はアントーニオ・アヴェルリーノといいます。ペンネームの由来はギリシア語で「徳=アレーテーを愛する者」という意味で、ずいぶんしょった名前をつけたものです。
現在までのところこの著述の底本とみなされているフィレンツェの国立古文書館にある手稿には、沢山の図が添えられ、それらの多くは奇妙なゴシック風の名残をとどめたキッチュなもので、どこまでフィラレーテの意図に忠実なものかは分かりませんが、それらが後の建築にかなり影響を与えた可能性があり、その後十八世紀に至るまで西欧の「理想都市」の定番となる、星芒形の都市配置図なども含まれています。アルベルティ自身は図を一切用いていなかったのですが、それらがアルベルティの理論に基づくものといわれてもいささか首をかしげたくなります。そしてもっとアルベルティとはかけ離れているのが、ここでは都市や建築の形態のみならず、都市を運営してゆくための法制や治安のシステムまで事細かに定められていて、刑罰の方式、拷問の様々なやり方やそのための施設にまで言及されているということです。このことから、ある研究者などは、フィラレーテが夢想癖のサディストであったとまで言っているのですが、彼がサディストであったかどうかはさておくとして、ここからは幼稚な「デミウルゴス」の姿が浮かび上がってきます。建築的なユートピアを構想するはずが、建築の外側の政治的判断の中に建築と都市の姿がおしこめられてしまっているのです。これはアルベルティが最も避けたかったはずのことでした。近代以来、「機能主義」という言葉が建築の最終目標としてもてはやされてきまして、一部の研究者は、フィラレーテをそうした「機能主義」の先駆であるとする向きもあったりするのですが、それはいかがなものでしょう。建築や都市が社会生活の容器である以上、その時代の要請する機能、あるいは「欲求」と言った方がよいかもしれませんが、それを重視するのは当然のこととではあります。しかし、もしそれが建築独自の目標を見失ったことへの言い訳として用いられていたのであれば、そこには時代への無批判な追随の危険が潜んでいることにもなりかねません。
アルベルティが提示しようとしていたのは、「モデル」ではなく「規範」の方であって、その規範の基礎となるべき建築独自の学問体系、つまり「建築学」の樹立を目指すものでした。アルベルティにとって許すことのできないのが、人間生活の永続的な容器であるべき建築や都市が、政治的恣意や時流に浮かされた欲望などによってねじ曲げられることであって、そうしたものから独立した、自立した技術体系として建築を位置づけようとすることであり、そのために中世の職人ではなしに、知識人としての建築家の出現が要請されなければならなかったのでしたが、アルベルティ亜流の「理想都市論」のほとんどは、それとは逆に、建築と都市を別の価値体系―政治や軍事などの考慮の下に従属させてしまっていたのです。  
5 アルベルティとウルビーノ
中部イタリアのマルケ地方の中心都市ウルビーノ Urbinoは、当時の領主であったフェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ Federigo da Montefeltro (1422-82)がアルベルティと親しく、その最も良き理解者であったため、アルベルティとは関わりが深かった土地です。アルベルティ自身はここに建築を造ることはしませんでしたが、現在マルケ国立美術館となっている王宮は、アルベルティの影響を受けた初期ルネサンス建築の傑作とされるものです。設計者はおそらくダルマティア地方出身のルチアーノ・ラウラーナ Luciano Laurana (?-1479)という建築家だとされていますが、彼の経歴についてはほとんど何も分かっていません。ここで話題にしたいのはこの建築のことではなく、「理想都市の図」という題でここの美術館に保存されている一枚の絵のことです。
これは縦が67 cm、横が2 m 38 cm という大きな板にテムペラで描かれたもので、「カッソーネ」 Cassone と呼ばれる大きな衣装箱などの側面を飾っていたものと考えられます。作者は不詳で、描かれている建築のスタイルなどから、王宮を設計したルチアーノ・ラウラーナではないかとか、ラウラーナの跡を継いでウルビーノの宮廷建築家となっていたシエナ出身のフランチェスコ・ディ・ジォルジォ・マルティーニ Francesco di Giorgio Martini (1439-1502)ではないかといった推測がありますが、いずれも確証を欠いています。近代以前の西欧絵画の中では、歴史画かあるいは宗教画の背景としてしか風景を描くことをしなかったものですから、こうした人物や物語性を抜きにした純粋な都市風景の絵というのは特異な部類に属し、それが何を表すのかについては様々な議論がありますが、ともかく現実には存在しない、まだ実現されるに至っていない理想的な都市風景であることは確かで、「理想都市の図」 La Città Idealeという題は後でつけられたものですけれども、そのように呼ぶしか仕方のないものでしょう。
こうしたイメージがアルベルティの建築観と直接に結びつくものなのかどうかは分かりません。しかしフィラレーテの「キッチュ」つまり「悪趣味」とは違って、正確な透視図法による町並の表現は清々しい印象を与え、アルベルティが示唆する新たな都市空間創出への期待をかき立ててくれるもののように見えます。このウルビーノのパネルと同類と思われる絵が、合衆国ボルティモアのウォルタース美術館に所蔵されています。こちらの方は大きさが若干違いますし、描かれている建物には明らかに古代ローマ風の円形競技場や凱旋門なども含まれてはいますが、その他の建物はウルビーノのものと似ていて、絵の技法も共通したところが多く、もしかすると同一画家の手になるものではないか、もしそうだとするとこれらは対にして制作されたものではないかとの憶測も生まれてきます。
一方、後者の方、つまりボルティモアのパネルの、古代ローマ風の建物を含む空想的都市空間を描く構図は、この前後から別のところでも目にするようになります。これはブリティッシュ・ミュージアムにある銅版画で、ブラマンテ32の原画による旨の書き込みがあり、博物館側は「様々な建物や柱廊、凱旋門のある街路」というような題をつけています。幾度も復刻された内の一枚らしく、中には左右裏返しのものもあるということです。それだけ人気があったということなのでしょう。従来は1500年頃の制作と推定されていたのですが、博物館の最近のカタログでは1475年頃かとしています。ウルビーノのパネルも同じ頃ではないかとされていますし、ブラマンテはこの頃はミラノにいましたが、もともとウルビーノの出身です。
そしてこれはもう少し時代が下って、1514年ころかと推定されるデッサンで、シエナ出身のバルダッサーレ・ペルッツィ Baldassare Peruzzi (1481-1536)のアトリエで制作されたとされるものです。やはり円形競技場が、ただし壊れかけた遺跡の姿で、それに凱旋門、更にはハドリアヌス帝の墓らしきものまで描かれています。ペルッツィは16世紀はじめにローマに出てきて、そのころローマで活躍を始めていたブラマンテから強い影響を受け、そのサークルの重要な一員でしたが、器用な人で、この頃から貴族たちの間で盛んになっていた古典劇、古代ローマの喜劇の復活上演のための舞台装置作りを数多く手がけていまして、この絵はおそらくそうした舞台装置のための下絵ではないかと推測されます。ペルッツィの弟子のセバスティアーノ・セルリオ Sebastiano Serlio (1475-1554)34は、はじめて豊富な挿図入りの建築書を造った人物として知られていますが、透視図法や幾何学を扱ったその第二巻に古典劇の舞台背景の図を載せておりまして、それらがペルッツィの下絵と似ていることから、これが舞台装置を意図したものであったことが確かめられるのです。そしてこうした都市街路風景は、16世紀を通じて演劇のための舞台背景として広く用いられたことが知られており、このジャンルが劇場舞台と深い関係を持つものであったことが推察されます。
ここまで来ると、どうしてもこのことを例のウルビーノのパネルに繋げてみたくなりますし、実際そのような仮説を提起した人がおりまして、1948年にリヒァルト・クラウトハイマー Richard Krautheimer (1897-1994)という学者が、ウルビーノのパネルがセルリオの「喜劇用背景」で、ボルティモアのものが「悲劇用背景」ではないかとしました38。しかしこの仮説は検証するための手がかりがどこにもないので、歴史的学説としては却下されてしまっています。ただ証明は不可能であったとしても、この仮説はルネサンス建築と演劇との関係についての魅力的な示唆を含んでおり、こんにちでもしばしば引き合いに出されて来ます。私流の解釈を付け加えさせて頂くなら、演劇という仮想の空間を通して建築をとらえるというルネサンス人の考え方が、そこに表れているのではないか、一旦フィクションの場に置いて建築や都市を見せるということは、そこに自ずからある種の「批評」の契機が働くことを意味する、と考えたい。そしてそれはアルベルティのDe re Aedificatoriaが目指していたことの一つ、つまりある種の神話的な文体の中で語ることにより、建築を突き放して見るということに通ずるものでもあったのではなかろうか、と申し上げたいのです。ウルビーノのパネルが果たしてアルベルティとどの程度まで関わりがあるのか、またブラマンテの銅版画が舞台背景と結びつくのかなど、様々な疑問は遺りますが、このように強引にこれらをつなげて考えることから、あまり語られることのないルネサンス建築の一端を理解する手がかりが得られるように思うのです。ここから言えることは、フィラレーテのような場合とはまた違った形でのアルベルティからの影響が浸透しつつあったということなのでしょう。  
6 パラッツォ・ルッチェッライ
フィレンツェのパラッツォ・ルッチェッライは、アルベルティが実際の建築設計に手を染めた最初の作品であると一般には考えられています。ルッチェッライはアルベルティの遠縁にあたる親戚で、当主のジォヴァンニ Giovanni Ruccellai (1403-81)はかなりの知識人で当時のフィレンツェ政界でも一目置かれる人物であったようです。いつ頃から計画が始まったかははっきりしませんが、アルベルティは1439年から40年にかけて、東西教会統一を話し合う宗教会議のためにヴァティカンの代表団に随行してフィレンツェを訪れており、おそらくそのときからルッチェッライとの接触が始まっていたと考えられます。それ以前の1435年ころにもフィレンツェを訪れていましたが、短い滞在だったのでまだルッチェッライの建築の相談にのるような話はできなかったでしょう。不動産登記の記録で見ると、工事は1446年から51年にかけて行われていたようで、これはルッチェッライが当時所有していた、ヴィーニャ通り Via della Vignaという街路に面して並ぶ、3軒の家を一つにカヴァーしてしまう、ファサードだけの工事で、アルベルティが内部まで計画したかどうかは分かっていません。
ルネサンスの都市住宅第一号とされたメディチ家の邸宅、パラッツォ・メディチと比べると、それに見られた重々しい砦のような石積み表現―いわゆる「ルスティケーション」rustication、イタリア語では「ブニャート」bugnatoと言いますが、そうしたこけ脅かしの表現もなく、平滑で規則的な石積み目地と付け柱のリズムのおかげで、軽やかな都会性を感じさせます。パラッツォ・メディチの方は1444年頃着工とされていますから、これら二つの建物はほぼ同時期に工事が進んでいたことになります。パラッツォ・メディチの方は、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ Michelozzo di Bartolomeo (1396-1472)というブルネッレスキの追随者の設計でしたが、彼はブルネッレスキよりも古典建築技法の模倣に熱心で、そのためかメディチ家ご贔屓の建築家となる人物です。もしかするとアルベルティは、それにルッチェッライにも、それと張り合おうという意識があったのかも知れません。それはともかく、こうした付け柱の表現はウルビーノ王宮中庭や例のウルビーノのパネルなどにも見られるものですが、古典建築では本来は室内空間の手法として用いられることが多く、外部のファサードなどではあまり例がありません。これは考えようによっては街路を内部空間と見なすという、新しい都市空間のとらえ方を示すものとも言えるかも知れませんが、一方では歴史的な用法に囚われないアルベルティのやり方があらわれたものとも言えるでしょう。
しかし問題なのが全体の構成です。立面図でごらんの通りファサードの右端は石積みがちぎれたような形で終わっていて、明らかな未完成の様相を呈しています。これには実は施主のルッチェッライが、工事を進めさせながら隣接する建物を買い足していったという事情が絡んでいるようで、サンパオレジ Piero Sanpaolesi (1904-80)というこの建物の修復を担当した研究者の推測によれば、最初は5スパンで計画されていたのが、途中で右隣の家を買い足したのでこのような形となったのだろうというのですけれど、これで左右対称の完結した構成にするためにはもう1スパン足して8スパンにしなければならないわけですが、しかし偶数スパンというのは入口が中央にこないのでどうも収まりが悪く、4スパンを足し全体を11スパンにしてようやく様になります。だとするとルッチェッライは全長40 m以上の長大なファサードを計画していて、それが何らかの理由で中断したのだということになりそうですが、その説明でも納得がゆかない部分があります。
それというのも、立面図を現在の建物平面と重ねて見ますと、最初の5スパンでも、平面図の建物区切りとはうまく一致しません。アルベルティは素人ですから、当然のことながら現場の指揮は別の人に委ねておりまして、ベルナルド・ロッセッリーノ Bernardo Rossellino (1409-64)という建築家が担当していました。1460年ころにこの建物を見学にきていた例のフィラレーテが記しているところでは、その時点では全く工事は行われていなかったと言います。アルベルティとルッチェッライがどのように考えていたのかは結局のところ不明なのですが、私の乱暴な推測では、いずれにしろアルベルティはこのファサードを完結した形で造ろうなどとは考えていなかったのではないかということでして、そのことはファサードのもう一方の端、北へ曲がる小路の角の部分でも、石積み表現が途中で千切れていることからも窺われます。これではまるで一時期流行ったポスト・モダニストの「デコン」、つまり「脱構築」と称してわざと未完成のように見せるやりくちと、同じことになってしまいかねないのですが、このあとみてゆくアルベルティの建築手法からして、そうした判断もあり得たことのように思われるのです。なお通りを隔てたところに「ロッジア・ルッチェッライ」Loggia Ruccellaiというのがあって、これもパラッツォと一緒にアルベルティが設計したものですが、これについてはまた別の考察が必要になりますので、本日は触れないことに致します。
さらに奇妙なのは、この規則正しい石積み目地が、実際の石積み目地とは一致しておらず、目地は後から刻み込まれたものだということです。使われている石は柔らか目の砂岩で大きさがまちまち、かなり不整形のものも混じっていて、本当の目地の方はスタッコで埋められ、ちょっと見には分からなくしてあります。2層目、3層目の窓アーチの部分に使われている石材の形を見て頂ければ、そのことがわかるでしょう。経験豊かなロッセッリーノがアルベルティに隠れてこのような常識外れのことをやるはずもなく、これはアルベルティの指示によるものとしか考えられません。
また初層の腰壁の、ベンチが設けられているその背に当たる部分には網目状の刻みがつけられていて、これはウィトルウィウスが記しているところの古代ローマのコンクリート型枠手法の一つ、Opus Reticulatum を表そうとしたものと考えられるのですが、Opus Reticulatum というのは、小さなピラミッド状の石の底面を見せて網目状に積み上げ、コンクリートを流し込むための型枠とするもので、その実例は当時でもローマ近辺の遺跡などで見ることができたはずで、アルベルティがそのことを知らなかったはずはないのですが、ここでは大きな一枚の石のスラブに網目模様を刻みつけているのです。
これらの奇妙な様相については、これまでのところ研究者たちは満足な説明を見いだせないでいるようです。私自身も納得のゆく解釈ができないままではありますが、憶測をたくましくするなら、これもアルベルティ流の、フィクションというフィルターを通して建築を表現するという、イムホテップのやり方にも通ずるような、一つの「批評」のあり方だったのではなかろうか、という仮説を立てているところです。
なお、このパラッツォ・ルッチェッライをめぐっては後日談があります。かつて教皇庁でアルベルティの同僚であった野心的な人文主義者で、教皇にまでのし上がりピウス二世となったエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ(Pius II, Enea Silvio Piccolomini, 1405-64, 教皇在位 1458-64)が、1462年から、パラッツォ・ルッチェッライで現場を担当していたベルナルド・ロッセッリーノを用いて、自分の郷里のコルシニャーノ Corsignanoというシエナ近郊の小さな村を、理想都市「ピェンツァ」Pienzaに仕立て上げようとしましたが、その中心の大聖堂前の広場に面するピッコローミニ家の邸宅、パラッツォ・ピッコローミニが、パラッツォ・ルッチェッライそっくりなのです。ピエンツァはアルベルティからの刺激によって実現した理想都市第一号として有名なもので、ルネサンス建築史の中では必ず取り上げられるものですが、本日は時間がありませんので詳しく触れることは致しません。ただこれがルッチェッライの家に見られたようなフィクショナルな性格は具えておらず、その分だけ、ピウス二世のあからさまな野心が浮き上がって見える、ということを申し上げるにとどめておきます。ついでながら、パラッツォ・ピッコローミニでは、腰壁のOpus Reticulatumは見当たりません。  
7 リミニのテムピオ・マラテスティアーノ
アドリア海岸の港町リミニは、ピウス二世の不倶戴天の仇敵で、一代の梟雄と言われた領主、シジスモンド・マラテスタ Sigismondo Pandolfo Malatesta (1414-68)が支配していた土地ですが、1450年頃、アルベルティは彼のために、ゴシック期建造のサン・フランチェスコ小聖堂 S. Francesco, Riminiの改造計画を引き受けています。シジスモンドはすでに1447年頃からこの聖堂を自分と妃のための墓所として改造する計画に取りかかっていて、フィレンツェから彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチォ Agostino di Duccio (1418-81)や建築家のマッテオ・デ・パスティ Matteo de' Pasti (?-1468)を招請し工事に当たらせていました。なおその妃というのは三番目で、前の二人の妃はいずれも不思議な死に方をしていて、これはシジスモンドが殺したのではないかというのがもっぱらの噂でした。それはともかく、1450年にはその計画が更に拡大され、自分たちの墓所のみならずリミニの町のすべての先人のためのモニュメント、つまり「パンテオン」に仕立て上げるべく、全面改造しようと目論みます。このことからこの聖堂は「テムピオ・マラテスティアーノ」Tempio Malatestiano、つまり「マラテスタの神殿」と呼ばれることになりました。アルベルティがどのような経緯でこれに関わることとなったかはよく分かりませんが、まだこの時期ピッコローミニは教皇とはなっておらず、シジスモンドとヴァティカン教皇庁は互いに利用しあっていたことから、アルベルティにおはちが回ってきたのでしょう。それにしても、類い希な容貌と高い教養に恵まれながら、欲望のためにはあらゆる裏切りや背徳・近親相姦も平然とやってのけるというシジスモンドの悪名は、すでに1440年代にはイタリア中に知れ渡っており、そのような施主の仕事を引き受けたアルベルティがどんな気持ちでこれにかかったのか、興味が持たれるところです。
実際のところ、シジスモンドは陰険な政治的策略や戦争にあけくれ、さほど積極的に工事を推進しようとした形跡はなく、1460年には工事を担当していたマッテオ・デ・パスティが、おそらくシジスモンドの命令で、そのころヴァルトゥリオ Roberto Valturio (1405-75)という学者によって書かれたばかりの軍事技術に関する著書をトルコのスルタンに送り届けるために、リミニを発ってしまった後は、建物は未完成のまま残されます。そのためアルベルティの計画の全容は不明で、1450年にマッテオ・デ・パスティが作った着工記念メダルがほとんど唯一の手がかりです。建築史家の関心は、このメダルに表されたファサードの特異な様相と大きなクーポラがどのようなものであったかということに集中していて、ドームが設けられたとした場合の平面構成の復原や、古代の凱旋門モティーフを用いたファサードの未完の上部がどのようなことになるのかといったことが熱心に論じられていて、特にキリスト教聖堂にそれとは無関係の凱旋門モティーフを採用したということが、特筆すべき話題として取り上げられるのが常ですが、本日はそのことには触れないことにします。
むしろ私の関心は、これは建築史の教科書にはほとんど書かれていないことですが、未完の状態で遺る現在の建物から見るかぎり、アルベルティが内部に手をつけた様子が見られず、おそらくアゴスティーノ・ディ・ドゥッチォの手になると見られる奇妙な装飾がそのまま遺っていますし、しかも古いゴシックの構造体をそっくり保存し、それをすっぽりと包むように造られているということの方です。平面図をご覧いただければ分かるとおり、アルベルティの指示で造られた外側の「殻」は、内側の既存部分の構造体のリズムとはほとんど無関係に出来上がっています。
これがアルベルティの意図するところであったことは、1454年に彼がローマからマッテオ・デ・パスティに宛てた書簡から明らかで、それには既存の部分にはできるだけ手を加えないようにということが、きわめて命令的な調子で書かれていました。その結果として、建物側面を構成する大理石の重厚な古代ローマ風アーケードの内側に、ゴシックのポインテッド・アーチ(pointed arch=先とがりアーチ)の窓が見え隠れするという、我々のルネサンス建築についての通念的理解をひっくり返してしまうような、不思議な光景が出現することとなりました。
ルネサンス=古典主義=アンチ・ゴシックという観念は、十六世紀には疑うべからざる一般的常識として受け入れられていて、「マニエラ・ゴティカ」maniera goticaないし「マニエラ・テデスカ」maniera tedesca、つまりゴシック風あるいはドイツ風という言葉は、これはドイツ=ゴート Gothの土地が野蛮なゴシックの本場であるという考えから出たものですが、それらは最大限の侮蔑の言葉でした。もしかするとまだアルベルティの時代にはそうした偏見は生まれていなかったのかとも考えられますが、少なくとも古典建築の様式の方がより優れたものであるという認識は、十五世紀にもアルベルティを含むほとんどすべての人文主義者たちの共有するところであったはずです。
こうしたテムピオ・マラテスティアーノの様相をどのように解釈するかは非常な難問で、今後の研究課題とすべきものですが、あえて私の意見を申し上げるとすれば、アルベルティがゴシック的様相をこのようなかたちで古典様式と対比させたことは、これまでくどいほど使わせて頂いた言葉ですが、そこに何らかの「批評」的意図の存在を感じる、という以上の説明が見つからないでおります。その「批評」がゴシックの方に向けられているのか、あるいは自らが用いていた古典様式の方に向けられているのか、これはどちらともとれます。というか、建築による「批評」というのは、もしそれが成功している場合には、言葉による批評の場合と違って、必ずやある種の両義性を伴うもので、それは厳しい自己省察の中から出てくるはずのものだからです。
さらに深読みを許して頂けるなら、ここにはアルベルティの歴史に対する考え方の一端が表れているように思われ、それは建築や都市が歴史を離れては存在し得ないということであって、新しい建築を造ることが過去の歴史を否定することであってはならない、ということではなかったか。そしてこのこととあわせて思い起こされるのが、De re Aedificatoriaの最終巻(第十書)が「修復」Restauratioと題されていたことです(もういちど表 1 を参照ください)。ウィトルウィウスにはそのような項目は見当たりませんし、しかもこれがきわめて論理的な積み上げ構造を具える著作の最終部分ということであってみれば、そこに何らかのアルベルティ独自の主張ないし結論がこめられているのではないかとも考えられるのです。
ところがこの部分だけを取り出して読んでみると、そこには利水や土木工事を含む様々な建設事業で逢着する問題への具体的対策や構造体の補修方法などが、淡々と述べられているだけで、こちらが期待するような一般的な指針は、どこにも見当たりません。さきほどウルビーノのパネルのことで引き合いに出したクラウトハイマーという学者は、この「第十書」はウィトルウィウスの著作の構成に倣うために加えた、「付け足り」にすぎないとして片付けています。実際、この著作が公刊される少し前の1481年に発表された、クリストフォロ・ランディーノ Cristoforo Landino (1424-78)というアルベルティに心酔していた人文主義者のある著作には「九書からなるアルベルティの建築書」という記述があり、当初は「十書」ではなく「九書」であった可能性も否定できません。そして第九書の最後の章は、建築家の資質と修練に関する意見が簡潔に述べられていて、これはこの大著の結論にふさわしいものです。ウィトルウィウスではこうした建築家の望ましい資質についての論議は、著作全体の冒頭の第一書で述べられていたもので、それによると建築家たるべきものは、数学から文学、音楽、天文学、植物学、法律などあらゆる分野に通じていなければならないとされていて、あり得ないようなスーパーマンとして建築家が定義されていました。古代人ウィトルウィウスは、やはり「デミウルゴス」の夢を捨て切れていなかったということなのでしょうか。それに対してアルベルティは、建築家はその建築に現在何が要求されているかを的確に理解できるということが肝要であり、そのための「建築学」が要請されているのであって、建築家がアルキメデースである必要もなければ音楽家である必要もない、と言い切っています。アルベルティがこの部分を著作の冒頭ではなくおしまいの方に持ってきていた意図は明白で、建築に要請されている事柄を体系立って示した上でないと、それを造る人間の資質を云々したところで始まらないからです。
しかしその一方で、この第九書の本題である「装飾」について語るときには、他の箇所では「すべきである」ないし「しなければならない」としていたアルベルティの叙述方法が、「過去の例ではこうであった」という形に変化しており、唯一絶対の美の法則があるなどとは言っておりません。そのことは、装飾、つまり建築の表現的な部分は、時代とともに変わりうるものだ、という突き放した認識を言外に含めているのだと考えられます。これまでアルベルティをはじめとするルネサンス建築の研究者の多くは、アルベルティがDe re Aedificatoria の最初の方で提示している「輪郭線」Lineamentisを重視する考え方とそれを決定するための「比例」のシステム(これは第九書で述べられてます)に注目し、それがピュタゴラースの神秘主義的比例理論から採られたもので、後に古典主義建築の大原理とされることになる「五つのオーダー」や「黄金比」絶対視の考え方がそこから生まれたと考えてきました。ルドルフ・ウィットコウアー Rudolf Wittkower (1901-71)が1949年に発表したArchitectural Principles in the Age of Humanismという著作はその代表的なもので、現代のルネサンス建築研究の大半はそこからスタートしていたと言っても過言ではないほどです。またこうした見方を裏付けるかのように、著者不明の「五つのオーダー試論」Codice dei cinque ordiniと題する小論文が、アルベルティの書いたものではないかという説が提起されていて、その内容とパラッツォ・ルッチェッライをはじめとする彼の作品の立面比例構成を比較検討したりする研究が盛んに行われています。ところがアルベルティ自身は、この第九書では、比例については、少なくとも個人のための建物などでは、それほどやかましく言う必要はなく、様々な手法があり得ると述べていたのです。
好奇心旺盛なアルベルティが、ピュタゴラースの比例理論に関心を寄せ、様々なところでそれを検証しようとしていたことは確かですし、「オーダー」についてもそれなりの敬意を払っていたことも間違いないでしょう。もしかしたら「五つのオーダー」の著者もアルベルティであったかもしれません。しかしそれは研究者たちが言うような、それらを「建築の根本原理」として絶対視するような方向ではなかったと見るべきでしょう。さめた、というよりもあのブラック・ユーモアの著作Momus を執筆するようなさめ切った知性の持ち主であったアルベルティは、そうした神がかりに囚われてしまうようなやわな人間ではなかったはずです。
第十書の「修復」の問題に戻りますと、私もかつて20数年前に書いた小論文では、クラウトハイマーの見方に賛同して、これを「付け足り」だと見なしていたのですが、近頃になって少し見方を変えてきました。といってもかなり苦し紛れの説明ですが、その解釈は以下のようなことになるかと思います。すなわち、第九書で示された、時代とともにある建築は、必然的に時代が移り変わるとともにその時代に合わせた「修復」が必要となるのだ、というメッセージがこの項の隠れた趣旨ではなかったか、ということです。つまり、超歴史的な世界像を提示するような「デミウルゴス」の否定です。この「修復」は、昨今の「文化財修理」などで問題とされる復原的修復のことではありませんし、「歴史的環境保全」と称して古い町並み景観をそのまま遺そうとするような、いっとき流行した「コンテクスチュアリズム」(文脈主義)とも違います。むしろ古い建築に新しい意味を付け加える、あるいはそれが持っていた歴史的イメージを転換させることによって、建築を存続させようというものです。私自身歴史研究者の端くれとして、現役時代は歴史的建造物の保存運動やそのための調査に明け暮れていたものですから、自戒の念もこめて申し上げているのですが、アルベルティがテムピオ・マラテスティアーノで過去の様相を遺したのは、むしろ現代の建築のありかたを再確認するためであって、歴史の認識があってはじめて現代が理解できるのだということだったのではないか、と今になって考え直しているところです。  
8 アルベルティの遺産
「建築家の誕生」という題で本日お話ししようと考えていた内容は、ここまでです。ただアルベルティが提示していたような建築家のありかたが、その後の歴史の中でどのように受け継がれたのかということについては、かなり問題が残ります。アルベルティ自身、こうした建築家像が定着できるかどうかには、必ずしも確信はなかったようです。それがDe re Aedificatoriaの悲観的な、あるいは半ばふざけたようにもとれる文体になって表れているとも言えるでしょう。実際、その後のヨーロッパ建築の歴史の中では、アルベルティ的理想を体現した建築家というのは、かなり時間をおいて断続的に、ごくたまにしか現れてきません。二十世紀にも「都市計画」と称して世界が改造できるかのような幻想を振りまいた、ル・コルビュジェのような「デミウルゴス」が現れていましたし、またモダニズム以後でも無邪気な巨大プロジェクトは後を絶ちません。
本日のためのポスターに用いられた建物の写真について触れておきますと、ご存じの方も多いかとは思いますが、これはアルベルティの作品ではありません。アルベルティよりも一世紀後のアンドレア・パッラーディオ Andrea Palladio (1508-80)の作品です。パッラーディオが数多く手がけたヴィッラの一つで、ヴェネツァの有力貴族フォスカリのための別荘57です。この写真を使った意味は、あるいはパッラーディオという建築家が、部分的ながらアルベルティの遺志を継ぐことを目指した一人ではなかったか、という私の想いからですが、何よりもこの建築における暴力的と言いたいほどの歴史的モティーフの扱い方を示したかったからです。この半円形の櫛型の窓は、古代ローマの大浴場で用いられていたもので、Finestre Termale つまり「浴場窓」と呼ばれるものですが、パッラーディオはそれを全く異なるコンテクスト、ヴィッラの主室の窓に用いることにより、このような力強い造形を産み出しているのです。それはあるいは、アルベルティがパラッツォ・ルッチェッライで目指していたことを、更に発展させたものとは言えないでしょうか。
白状すれば私のこれまでの主たる研究対象がパッラーディオの建築だったもので、手持ちの写真で使えそうなものと言えばこれぐらいしかなかったというのが正直なところです。最初は何とかしてパッラーディオまで話をつなげようと考えていたのですが、とても時間内では収まらないことに気づき、アルベルティの話題だけにしぼらせていただいた次第です。アルベルティの建築についても、取り上げることができたのが二つだけで、このほかの作品をめぐってもまだ面白い話題があるのですが、きりがありませんので、ここらで私の話を終わらせて頂きます。  
 
古代から17世紀までの科学史 / 『西洋科学史』シュテーリヒ

 

科学の成立はどのように準備されたのか
 「第3章 予備条件、発端、あけぼの / 史的序章」 
T 科学成立の一般的予備条件
人類が科学を成立させるためには、どのような条件が必要だったのだろうか。
まず、激烈な地殻変動が落ち着き、気候も温暖になる(氷期の終了)ことで、生活諸条件がゆるやかになることが、文明一般の成立にかんする自然的な予備条件となった。しかし、暖かい地方において成立した文明がやがてより寒冷な地帯へと広がっていく過程では、厳しい生活諸条件に挑戦していったことこそが、文明を発展させていくための拍車となったのである。
農業は種子と植物成体との因果関係にかんする理解を、牧畜は受胎と誕生との因果関係にかんする理解を、手工業は火の支配・道具の使用・各種加工材料の特質にかんする知識を必須のものにする。国家の枠組みのなかで社会的分業が大きく進展していく過程をつうじて、やがて、毎日の暮らしのことで頭を悩ませたりあくせくしたりする必要のない階層(司祭など)が生み出されてきた。これが科学成立のための社会的な予備条件となった。こうした階層に与えられた余暇こそが、創造的な精神活動が花開くことを可能にしたのである。
科学成立のための精神的な予備条件としては、言語および文字の成立をあげることができる。言語は精神的な交通のための最重要手段である以上、言語なしに科学の成立など考えられないし、文字ができてはじめて、一度かちえた知識を正確に固定して伝えることができるようになったからである。さらに、対象を数える技術が習得され、もののさまざまな量的側面が測定されるようになっていったことも、科学成立の精神的な予備条件として見逃すことができない。
こうして、一方では物財(文化的生活に必要な諸々の物質的手段)が集積・蓄積・保存されていく過程をつうじて、他方では、精神的な遺産(人類がそれまで経験したり、考えたりしたあらゆるもの)が集積・蓄積・保存されていく過程をつうじて、科学が成立するための条件が成熟させられていったのである。
U ギリシア以前の科学、科学的思考の前触れと発端
1、エジプト
ナイル西岸のゆたかな地帯は人類最古の文化中心の一つであり、紀元前2400年以前にはすでに高度な文化状態に達していた。古代エジプト人は青銅の加工を知っていたが、青銅製の生産用具による生産力の発展が社会的分業を大きく進展させることになった。生産的労働から解放された神官階層が生み出され、建築・数・医術など多くの知識に従事し保護するために、筆とインクを用いて紙(パピルス)に象形文字を書き付けるようになっていったのである。
エジプト人は、経済的な取引における必要から、諸々の物を数え、長さ・重さを測定する技術を発展させていった。10を基数とする数体系が築かれたものの、位どり法は知らなかった(1と10と100にそれぞれちがう記号を当てていた)。また、土地測量(ナイルの氾濫後、農民たちに課税単位となる農地を再分配するための測量)や建築術(穀倉や大ピラミッドの建設)に関連して、幾何の技術や知識を発展させていった。たとえば、農地を方形に区分するために必要となる直角は、長さ12単位の綱を各辺3:4:5単位の三角形にすれば得られることが、経験的につかまれていたのである。
エジプト人にとって、ナイルの洪水による1年ごとの区切りは死活の大事件であり、神聖な意味をもっていた。エジプト人は、このナイルの洪水を正確に予知するために、太陽の運行を観測して太陽暦(エジプト暦)を編んだのである。
エジプト人は、かなり多数の物質を知っており、それらの特質や調整法にかかわる知識を集めていた。金と銀と銅と錫(また青銅)、のちには鉛を知って、これらを加工した(紀元前2000年代には鉄も知られた)。医術面でも、数百の物質が医薬として知られていた。医術においては、実際の治療術はかなり高度に発達してはいたものの、肉体の構造や働き方にかんする知識は未発達であった。
2、バビロニア
ユーフラテスとチグリスという2つの河にはさまれた太古の土地は、まずシュメール人のもとで、また後にはバビロニア人の下で、初期の人類文化のもっとも輝かしい一中心となっていた。
バビロニアにおいては、60を基本とする数の体系が形成された。60という数は、2、3、4、5、10、12、15、20、30という合計10個の因数をもつから、この60進法はエジプトの10進法を上回る大きな利点をもっていたのである(現代における時間の計算や円周を360度に分割することも、源はバビロニアにある)。また、すでに位取りを知っていたことも、エジプトの数体系にまさる長所であった。
バビロニア人は、地上の過程はすべて天上の過程に支配されると信じたため、天の過程を詳しく洩れなく観察することが生死の関心事となった。このことが時間を精密に測るというもともとからあった要求と合流して、バビロニアの神官たちに何千年間も、天体とりわけ惑星の動きを細大もらさず観察しようと試みさせ、記録させる誘因となったのである。なかでも、太陽と月の食を予言できる能力はとくに重視されていた。
3、インド(略)  4、中国(略)
5、イスラエル
世界史上で、精神・事物の内的綜合としての歴史(たんに王や英雄の事蹟を称えるだけの歴史ではない!)を経験し、歴史の筆を起こした最初の民族が、ユダヤ人であった。こうした歴史的記録が、やがて旧約聖書として結実していくことになるのであるが、その最初のものは、紀元前12世紀頃にはすでに書かれはじめていたらしい。
6、東方を継ぐ者(総括)
科学の発展の流れの源流はギリシャにあるが、これもまたエジプトやバビロニアなど東方の古代文化民族を経てきたものである。しかし、東方には実地的知識はあったが、理論的・体系的な知識はまだ見られなかった。すなわち、個別例に関係し、個別例から得られ、個別例に限られ、相互には結びついていない知識しか見られなかったのである。個別的に観察され記録された諸事実を体系的に解釈したり研究したりして、それらの間に存在するかもしれない相互連関をたぐりだそうとする要求は、彼らにはまだ生じていなかったのである。 
古代ギリシャにおける科学の成立
 「第4章 ギリシア科学の誕生」 

 

歴史的な背景についての概説
古代ギリシャ人たちは、東洋の教師たちに多くを学びながらも、ただ経験知識を収集することから一歩進んで、“現象内やその背後に潜む普遍法則性”を問題にするようになっていった。古代ギリシャにおいてこのような科学が誕生した背景には、どのような歴史的条件があったのだろうか。
古代ギリシャの活動の歴史は、大きく上昇期(紀元前1100年ごろのドリア人進入から紀元前6世紀頃まで)、開花期(ペルシャ戦争への勝利、ペリクレスの黄金時代、紀元前399年のソクラテスの死まで)、衰亡期(アレクサンドロス大王の征服をつうじてギリシャ文化が東地中海全域へとひろまっていく、いわゆるヘレニズム時代)の3つの時期に区分される。科学の展開の歩みは、こうした一般的な経過に少し遅れて進行した。それは紀元前6世紀にようやくはじまり、他の分野では衰退の時期に入っていた紀元前4世紀に真の高点がくるのである。この間の消息についてヘーゲルは、ミネルヴァのフクロウは薄闇迫るころようやく羽ばたきはじめる、と表現している。
まず精神的中心地となったのは、イオニア人が移住した小アジア(トルコ沿岸)やエーゲ海の島々、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)といった植民地であった。これらの地は、交易に有利な地理的条件を備えており、交易によって富が蓄積され生活がゆたかになったことが、余暇を生みだし高い教養への要求を喚起したのである。交易・混血などをつうじて他の諸民族の言語・風習・宗教観などと深く接触したことは、硬直した宗教的伝統・習俗から脱することを大きく促した。こうして、小アジアのイオニア12都市の筆頭ミレトスにおいて、合理的・世俗的な考え方で全世界の成立(存在するものの全体)を説明しようとする試み(哲学)が起こったのである。イオニア人がはじめたこうした思惟は、しだいに大きく力強い潮流となっていった。これは、必然的に宗教的観念と衝突せざるをえないものであったが、ギリシャには(オリエント世界とは異なり)枢要な世俗的権力を握ってしまうような神官階級が存在しなかったために、宗教と哲学との闘争で宗教の側が圧倒的優位となることはなかった。
知識の素材が増えていくとともに、個々の分野がゆるやかに自立をはじめたが、諸科学が哲学から分化しきってしまうことはなかった。奴隷制を土台にしていた古代ギリシャ社会では、肉体労働は市民にふさわしくないと考えられていたために、道具や器具を使って精密な観測・測定を積み重ねていくということが積極的にはなされなかった。このため、古代ギリシャ人は、哲学や数学的な分野で大きな成果をあげた一方、天文学、物理学、化学など本来の自然科学では、それほど大きな成果をあげていない。ただし、医術はその例外であって、医術という職業は大きな尊敬を受けていた。
古代ギリシャにおいては、“真実”に近いとはどういうことか、という問題をめぐって、大きく2つの立場が存在していた。その第一はプラトンによるものであり、イデアのみが真の実在であって個々の事物はイデアの移ろいやすい影にすぎない、とみなすものである。プラトンはイデアを純粋に直観する哲学を重視し、現実的な自然の研究にはほとんど手をつけなかった。第二は、アリストテレスによるものであり、個々の事物こそが第一義的に真の実在であるとみなすものである。アリストテレスは、感覚器官が媒介する個別的な事象を土台とした経験主義者であって、いくつかの自然科学の領域で大きな業績を残した。 
T 数学
古代ギリシャにおいて、数学的な領域はどのような状態にあったのであろうか。
ミレトスの商人・政治家であったタレス(前624〜前546)は、エジプトやバビロニアを訪れ、そこに蓄積されていた多くの数学的知識を学んでギリシャにもたらした。彼は、エジプト人が土地測量などの必要性に規定されて経験的に見いだしていた諸々の規則を、直観的に普遍法則としてとらえ返したのである。タレスの弟子であったアナクシマンドロスもまた幾何に携わった。
同じく紀元前6世紀に生きていたピタゴラスは、宇宙の秩序が数的な諸関係にもとづくという自分の教えを伝え完成するために結社を設立した(観念と観念の対象となった事物との区別、認識内容とそれを表現した言語との区別がまだ明確でなかったような当時においては、“数”なるものと数えられた対象とが明確に区別されていなかったであろう)。直角三角形の各辺上にそれぞれ正方形を描くと、最長辺(斜辺)上の正方形の面積は他の2辺上の正方形の面積の和に等しくなる、というピタゴラスの定理はよく知られている。ピタゴラス派において、偶数と奇数の区別、割れる数と素数の区別がなされるようになり、三角数(点を規則正しく並べて正三角形となる数)と正方数(同じく正方形になる数)との考察によって算術から幾何へのひとつの橋がかけられた。
しかし、ギリシャでは位取り方やゼロが知られていなかったために算術はそれほど発展しなかった。一方、幾何の分野では、円の求積法、角の三等分、立方体の二倍法という“三問題”が特殊な役割を演じていた。これらは古代ギリシャ人の使っていた手段(コンパスと定規)だけでは解けないのであるが、解きようのない問題を何とか解こうと試行錯誤を重ねたことの副産物として、注目に値する一連の発見(三日月形平面の求積法など)がなされていったのである。この第三の問題には、かのプラトンも取り組んだことが知られている。彼が算術や幾何を純粋形相(イデア)の直観の訓練として捉え、教育と教養の基礎と考えていたことは、主著『国家』に現れている。
このほか、天文分野の研究でも知られるエウドクソス(前408年〜前355年頃)は、比例の研究を創始し、黄金分割の問題(ある線分を分割して小さい部分と大きい部分と線分全体との比に等しくなるようにせよ)に取り組んだ。メナイクモスは円錐の切断面について研究し、切り口の方向しだいで楕円、双曲線、放物線ができることを発見した。これは後世における数学の最重要分野の基礎をすえるものであった。
U 天文学
古代ギリシャにおいて天文分野はどのような状態にあったのであろうか。
ホメロスの昔から、ギリシャ人は、平らな円板としての大地が世界の中心にあり、そこに大空の丸天井が蓋をかぶせている、という世界像を抱いていた。このうち、平たい円板という観念の方は、まもなく揺らいでいくことになった(紀元前6世紀のイオニアの哲学者さえ、大地は支えなしで空間に浮かぶ球だと考えた)が、大地が世界の中心であるとの観念は、コペルニクスの時代まで強い影響力を保ち続けていた。しかし、ピタゴラス派はこの観念にも挑戦した。彼らは、大地を“中心火”(太陽というわけではない)の周りをめぐる一つの天体であるとしたのである。ピタゴラス派は、協和音の基礎にある数的関係(弦の長さと音程の関係)を把握することで音楽理論への道を拓いたが、彼らは全宇宙の調和もまた音楽的に理解すべきものだとした。すなわち、諸々の天体がそれぞれの軌道をすすむことによって“天体の音楽”が奏でられる、というのである。
アナクサゴラス(前488年〜前428年頃)は、世界の始まりについて、カオス(万物が混ぜこぜになっている無秩序な状態)にヌース(私たち自身の体内にある活動力とも同類の精神的な力)が浸みとおることで渦巻き運動が生じ、これにより外層と内層の二層が分化した、という純合理的な理論をつくった。さらに彼は、天体はたんなる物質塊であり、ただその回転によって輝いているにすぎない、と考えた。
プラトンは『国家』で、天文分野について算術や幾何と同様にイデアの直観の訓練になるものとの位置づけをあたえている。概して経験を重視する立場をとっていたアリストテレスも、天文の分野ではすべてを抽象的な命題から演繹して説明しようとした。たとえば、天体は自然によって自発的な運動をするように定められていないから、最小の運動力をもつ形すなわち球形なのだ、と論じている。
エウドクソスは古代ギリシャでは珍しいすぐれた観測家であり、惑星の周期についてかなり精密な計算をおこなった。しかし、彼は、全天体が静止した地球のまわりを回転するという立場にとどまったために、諸天体の複雑な動きを説明するために天球の数を増やしていかざるをえなかった。これにたいして、ヘラクレイデス(前388年〜310年)は、太陽や大型惑星は地球の周囲をまわると考える一方、小型惑星(金星と水星)は太陽の周りをまわると考ええうことで、ある程度まで大地中心的な体系を打ち破った。
V 物理学(自然哲学)
古代ギリシャ人は、自然にたいしてどのような観念を抱いていたのであろうか。
2つの点が注目に値する。第一点は、近代自然科学の重要な基本概念を、ギリシャ人が芽生えの形で示しているということである。より重要な第二点は、合法則的な秩序が自然を統べているという一般理念をはぐくみ育てたのだということである。
ギリシャ精神の実にさまざまな分野、すなわち哲学や科学のみならず学的著作にも、全存在のもっとも底には合法則的な秩序があるという理念が現れている。ギリシャ人の生活の中心要素であった偉大な悲劇作品は、運命は無慈悲でどうにも動かせないという観念に貫かれているが、これは、合法則的秩序があまねく自然にいきわたっているという理念と同質のものである。
イオニアの自然哲学者たちは、このような理念を土台に、世界を成立させているただ一種類の原質を(宗教的観念の手引によらずに)求めたとされている。タレスは水を、アナクシマンドロスは不定なもの(アペイロン)を、ヘラクレイトスは火を、アナクシメネスは空気を原質だとみなした、というのである。さらにエンペドクレスは、それ以前の思想家たちによって原質だとみなされてきた4つの存在物(火・水・空気・土)に世界構成の根底として同格の位置づけをあたえた(四元素説)。一方、レウキッポスと彼の高弟デモクリトスは、微小な構成素材としての原子という観念を持ち込み、この世界のあらゆる存在物は、同質の原子がさまざまな様式で集合したものであるとの説(原子論)を唱えた。
ギリシャにおいては、経験を基盤に推論することで科学が始まったが、実験(自然の経過へ積極的に干渉することを含めて一定の予備手段を講じ、一定の制約を人為的に設ける)にまでは至らなかった。医術などでは実験のような例が見られるが、これは例外的である。
W 生物学
古代ギリシャにおいて、生物にかんする研究はどのような状態にあったのか。
初期の思想家でも、エンペドクレスのように生物にかかわる問題を取り上げていた人は少なくない(アナクシマンドロス、エンペドクレス、アナクサゴラスなどは、すでに進化論的な思想を抱いていたともされる)。しかし、科学的な生物学の土台を据えたといってもよさそうなのは、やはりアリストテレスである。経験家であり体系家でもあるという彼の特性は、この領域においてこそ遺憾なく発揮されている。彼がこの領域で達成したものはその後2000年間乗りこえられなかったのである。
アリストテレスは、マケドニアの小都市スタゲイラに生れた(前384年)。アテナイに出てプラトンのアカデメイアへ入ったが、プラトンの死後は、各地を点々としたのち、マケドニアでアレクサンドロス大王の訓育にあたった。その後、アテナイに戻ってリュケイオンに学校を開いた彼は、アテナイにおける反マケドニア感情の高まりの影響でアテナイを去らざるをえなくなり、その翌年(前322年)に亡命先で没した。アリストテレスの著作は当時のあらゆる知識を包括している。
アリストテレスの動物学において特徴的なのは、あらゆる事物は何らかの目的をもって存在しているという合目的性の考えである。こうした考え方の根底には、質料(素材)と形相(形態)間の相互作用という考えがあった。これは、原素材である質料物質(何らの形をもたず、実在性ももたない)が形相によって刻印と形態をあたえられてこそ、それは実在するようになる、というのである。生物においては、素材(質料)である肉体を形成し駆りたてるもの(形相)が霊魂であるとされ、これにエンテレケイアという語があてられた。彼は、動物を部類(綱)や類(種)に分け、性と生殖、遺伝、養分、生長、適応について論じた。彼の仕事には少なからず誤りも含まれている(たとえば、脳の中枢機能を捉えそこない、脳を“血液を冷やす”仕掛けだと考える一方、心臓こそが内的知覚や知能の座だと考えた)が、その基本的な精神、すなわち、経験から出発し物質に即していこうとする研究の精神、即物的に先入主ではなく真実を追究する精神が、その意義を失うことはない。
アリストテレスが動物を対象にしておこなったのと同様のことを、テオプラストスが植物にたいしておこなった。彼は、植物を綱に分かち各構成部分を区別するとともに、何百もの植物を詳しく記載し、地理分布を調べたのである。彼は、人間のいろいろな性格を扱った本でもよく知られている。
X ヒポクラテス / 医学の父
古代ギリシャにおいて、医術はどのような状態にあったのか。
「医学の父」と称されるのはヒポクラテス(前460年頃〜前308年頃)であるが、彼が突如として登場したのではなく、あくまでもその背景には、多くの学派に分岐していた医術のゆたかな伝統があったことに注意が必要である(たとえば、ピタゴラス派から出たアルクマイオンは、解剖によって脳の中枢機能を認めるとともに、健康は諸器官が平衡状態を保つことであるという説をとなえたことで、“医学の祖”の名誉をヒポクラテスと争っている)。ヒポクラテスは、多面にわたって実り豊かな基礎医術の本を多く残した。これらの本においては、病気の現象・経過が正確に観察され記載されている。また、健康な生活法による予防を高く評価したことも大きな業績である。
Y 歴史記述の父祖たち
古代ギリシャにおいて、歴史にかんする記述はどのように発展させられていったのか。
『イリアス』『オデュッセイア』というホメロスの詩篇(前9世紀頃に成立)を歴史記述の筆頭に据えることは不当なことではない。それは、これら詩篇から初期ギリシア文明の姿(耕作の仕方、職人の仕事、家族生活、戦争・航海など)について多くを知ることができるからであるし、イリアスの物語がそれなりの史実性をもっているともいえるからである(シュリーマンによるトロイ発掘)。またボイオティアの詩人ヘシオドス(前8世紀)は、耕作や航海について忠告や規則を述べた教訓詩『仕事と日々』、世界創造前史としての神々の闘いや世界成立についての話をまとめた『神統記』で知られている。
真に“歴史記述の父”といえそうなのは、ハリカルナッソス出身のヘロドトス(前484年〜前425年)である。彼は、ペルシャ戦争を扱った『歴史』において、ギリシャ本土のみならずエジプト・オリエントについても前史から述べている。すなわち、これは事実上一個の(最初の)“世界史”といえるものなのである。その記述は、戦争や政治のみならず、文化・習俗にまで及んでいる。また、対立する両派にたいして公正であろうとする批判的慎重さ、運命は無慈悲なものでどうにも動かせないという歴史についての悲劇的な理解も特徴である。
ヘロドトスのすぐ次の世代であるトゥキュディデス(前456年〜前396年、アテナイ出身)は、ペロポネス戦争(全ギリシャの覇権をめぐるアテナイとスパルタとの戦争)について記述した。ヘロドトスに比して文化史的関心は薄いものの、批判的態度は著しく成熟しているし、悲劇的な基本的立場も共通している。  
ヘレニズム、ローマの科学
 「第5章 最初の継承者 / ヘレニズムの科学とローマの寄与」 

 

歴史的背景についての概説
古代ギリシャが衰退したのち、その科学的な成果はどのように継承されていったのだろうか。
アレクサンドロス大王の征服事業をつうじて、ギリシャ文明とオリエント文明との相互浸透がすすみ、いわゆるヘレニズムの文化が築かれた。アレクサンドロス大王によって築かれた大帝国は、後継者たちの争いのなかでいくつかに分裂していったが、エジプトを支配したプトレマイオスは、国家経済の発展に力を尽くすとともに、学術の振興にも力を注いだ。ナイルの下流に開かれた都市アレクサンドリアは、ムセイオン(大図書館を備えた研究施設。文学、天文学、数学、医学の4部門からなっていた)を擁し、科学の中心地として大きな影響力をもった。
ヘレニズムの科学の特質としてまず指摘できるのは、哲学から個別の諸科学が独立し、哲学者ならぬ専門の科学者が登場したことである。総合的な見方をする哲学者たちにたいして、科学者たちは分析的な見方を強めていく。専門的な性格をもって個別の素材に注目を向けた結果、科学的仕事の方法と技術とが問題にされ、みがきをかけられていくことになった。こうした過程には、ギリシャ人たちが、実際的な下地をもつエジプト人などと接触したことが大きく影響したといえる。
やがて、ローマが小都市国家からしだいに発展して、地中海世界の覇者として飛躍してくることになった。ギリシャ人は政治的にはローマに征服されたが、精神的にはギリシャがローマを征服した。ギリシャの宗教観念はローマに深く浸透し、建築術と文学ではギリシャのものが手本として崇められた。しかし、ローマ人は科学にたいしては、限られた関心しか払わなかった。とはいえ、ローマ帝国の建設と経営にかかわる分野、たとえば戦争や建築にかかわる技術、法律、歴史記述、地理、医学などでは、独自の素晴らしい成果をあげたのである。 
T 数学
ヘレニズム時代、とりわけ大きな関心の的となっていたのが数学であった。この分野でまずあげなければならないのが、紀元前300年前後に、ムセイオンの数学部長として活躍したユークリッド(エウクレイデス)である。彼の主著『幾何学原本』は、それまで集成されていた幾何にかんする知識を総合したものであり、少数の基本的な公理から厳格な手続きをつうじて多くの定理を導きだしていく演繹体系として構築されたものであった。ユークリッド幾何学の基礎は、19世紀まで本質的な点では論破されぬまま持ちこたえた。その後、非ユークリッド幾何学が登場したが、これはユークリッドの仕事が誤りであったことを意味するものではなく、よりいっそう包括的な脈絡のなかに位置づけられるようになったことを意味するものであった。
つぎに登場するのは、アルキメデス(前287年〜前212年)である。シケリア(シチリア)のシュラクサイ出身の彼も、アレクサンドリアで学業を修め、数学および力学の分野で大きな業績をあげた。数学の分野では、円周の測定、放物線や楕円に囲まれる図形の面積を計算するという課題などに取り組んだ。彼はきわめて大きな数を扱う複雑な計算問題を解くこともできたが、その根底には力学的発想を数学に結びつけるという着想があったらしい。力学の分野では、王冠が本当に純金であるか否かを確認せよ、という王に命じられた問題への取り組みをつうじて、いわゆるアルキメデスの原理(水に沈められた物体はその体積に相当する量の水を押しのけると同時に、その水量に等しいだけ重量が軽くなるという原理)を発見したことがよく知られている。また、彼は技師としての側面ももっており、力学の知識を利用して一連の発明をした(滑車、揚水装置、投石機、天球儀など)。テコの原理を定式化したことも有名である。彼の仕事は、数学的な認識方法を計画的に適用して自然力を活用し支配するという道を指し示したものだといえるが、こうした方向に沿って継承・発展させられることはなかった。それは、奴隷制を基礎にした古代的社会のもとでは、労働過程の技術的な改良がほとんど要求されなかったからである。
アレクサンドリアの数学者としては、このほかにも、物理学とのかかわりで数学を研究したヘロン(前60年頃)、円錐曲線(楕円・放物線・双曲線)の理論を体系づけたアポロニオス(前260年〜前200年)、『算術論』という著作によって“代数学の父”と称されるディオファントス(紀元3世紀)などがあげられる。
U 天文学
アレクサンドリアの天文学者のうち、第一に指をおらなければならないのが、紀元280年頃を頂点に活動したアリスタルコスである。彼は、自分独自の観測結果にもとづいて、地球から太陽までの距離と地球から月までの距離の比、さらに地球と月の大きさの比を算定し、太陽のほうが月よりも段違いの遠さにあること、(にもかかわらず太陽の見かけ上の大きさが月の見かけ上の大きさとほぼ等しい以上)太陽がきわめて巨大な天体であることを確認した。アリスタルコスは、太陽は静止し、地球はその周囲を円軌道でまわっているとの説を唱えた。地球が動いているにもかかわらず恒星の見え方が変化しない理由については、地球の軌道に比べて恒星球が非常に大きいため、との説明をあたえた。しかし、地球を動かす途方もない力はどこから供給されるのか、という疑問に答えられなかったこともあり、彼の説が広く認められるにはいたらなかった。
ヒッパルコス(前190年〜前120年)は、天文観測装置を発明・改良して精密な観測を積み重ねていった。彼は、すべての星の位置に法則的な変化があることを突きとめ、その原因について地球の地軸がふらつくコマのように回転しているからだという正しい説明をあたえた。彼は、惑星の公転周期、黄道の傾斜、地球から月までの距離などの天文学的大きさを精密に計算して天文学全体を確実な量的基礎の上に据えた。しかし、太陽中心説では精密な観測結果を矛盾なく説明することができなかったために、彼は太陽中心説を放棄した。これは、彼が天体の軌道は円形であるとの観念から抜け出せなかったからである(矛盾なく説明するためには楕円軌道を仮定しなければならない)。彼は、地球中心説(天動説)を土台に、地球が天体の円軌道の中心から少しだけずれている(離心円)という考えを取り入れて、天動説と惑星の運動にかんする精密な観測結果とを何とか調和させようとした。
古代における天文学の知識を体系的に整理したのが2世紀のプトレマイオス・クラウディオス(120年〜160年)である。彼の主著『アルマゲスト』は、17世紀にいたるまで天文学の基本書として絶対的な権威を保つこととなった。これは古い地球中心体系(天動系)を前提にしたものであり、惑星の複雑な動きについては、周転円の考え方(惑星が地球のまわりの円軌道を動きながら、さらにその軌道上で円運動をしているという考え方)を取り入れて説明していた。これは、現実の天体の動きの再現としては誤ったものであるが、見かけ上の運動を非常にうまく説明するものであった。
V 他の自然科学
ユークリッドは『光学』において、光の伝達と反射の基本命題について述べている。しかし、光の本性については、目から出て対象にぶつかる直線からなる、との誤った観念を抱いていた。これは、古代ギリシャにおいてすでに、後世の波動説や粒子説につながるような先駆的な思想が登場していた(エンペドクレスは光は発光している対象から出て空間を無限の速度で伝播するものとしたし、ピタゴラス派は、光は対象から発する微粒子として空間をすすんでいくと考えていた)のに比べれば、退歩であった。このほか、アリスタルコスは光と色についての著作をし、プトレマイオスは光の屈折や天文学におけるその意義についての研究をしている。
応用数学や力学で業績をあげたヘロンは、古代のすぐれた発明家として、アルキメデスと並んで知られている。彼においては、関心の重点が純粋科学から実地応用の問題へはっきり置き換わっている。自動装置、オルガン、水蒸気の利用などの発明をした。
紀元後1世紀頃から、錬金術なるものが姿をあらわしてきた。これは、たんに黄金作りを目的としたいかがわしいものとして軽視されるべきものではなく、物質の本質や構成にかんするギリシャ的な観念(4元素説にもとづく元素相互転換)と関連をもつものとして、すなわち、化学の前身として捉えられるべき側面をもっている。
ローマ人は、自然科学をあまり奨励しなかったが、プリニウス(23年〜79年)の『博物誌』は、それまでに獲得されていた知識を総合し、百科全書的にまとめあげたものとして、19世紀にいたるまで大きな権威を保ち続けた。
W 地理学
人類は意識の最初の夜明け以来、自身の活動範囲について何がしかの知識と観念をもってきた。征服戦争や海外交易、あるいは漂流などによって、人類の地理的視野は大きく広げられ、地理的な知識が蓄積されていった(この点では、フェニキア人やカルタゴ人が大きな役割をはたした)が、これらの知識をふまえて科学的な考察法と名づけてよいようなものの発端を作ったのは、やはりギリシャ人であった。アマクシマンドロスは最初の地図を作ったとされているし、ヘカタイオス(前550年頃〜)は世界についての著作を書いた。また、ヘロドトス『歴史』では、アジアや北アフリカの各地方や多数の民族が記載され、地理的連関が正しく指摘されている。マッサリア(現マルセイユ)出身のピュティアスは、ヨーロッパの西岸沿いに北に向かっての探検の旅を企て、北極地の近くまで到着した。
こうした古代ギリシャの遺産が、アレクサンドリアに持ち込まれ、発展させられていった。その先頭にたつのは、エラストテネスである。彼は、夏至の日の正午に、太陽と地面とがなす角度が南北に離れた2地点でどれほど異なるかを測定し、ここから地球の周囲を算出しようとしたことで知られている。また、プトレマイオスは、諸国についての他人の報告を批判的に総合して世界地図を作成した。これは、中世の間中、基準として利用された。
ローマ人は、征服によって、それまで各所に散らばって存在していた地理知識を集約して一般人の意識の前に開放した。ストラボン(前63〜後20)は、黒海からアルメニア、エチオピアまで旅し、晩年に包括的な地理知識の百科全書を書き上げた。これには政治的・歴史的な問題にくわえて、土地の侵食や沈下、地震、火山などの問題も扱われている。
X 医学
ヘレニズム時代、ローマ時代をつうじて、医術はいちじるしく高度なものへと発展していった。
ヘロフィロス(前3世紀半ば)は、人体解剖にもとづいて理論を組み立てた最初の人物である。彼は、心臓を精神の座とするアリストテレス以来の誤った説に引導を渡し、心臓と脳の真の機能を承認した。1、2世代遅れて活動したエラシストラトスは、生理学の創始者、比較解剖学や病理解剖学の創始者と見なしうる。彼は、解剖にもとづいて運動神経と感覚神経を区別し、心臓と血管系について研究したが、動脈は血ではなく空気で充たされている、と考えていた。
古代の解剖学や医学の全知識を統一し体系化したのがガレノス(129年頃〜199年)である。彼は実験をつうじて広い領域で新しい事実を発見した。動脈が空気ではなく血液を送っていることも証明した。また、夢について医学的に意義あるものとして注目を払った点では、近代の精神分析の先駆者ともいいうる。ガレノスの築いた体系は、19世紀にいたるまで大きな権威を保ち続けた。
このようにして古代の医学は、後世に全医学が発展していくための基礎となったのである。
Y 精神諸科学
1、歴史記述
ギリシャの伝統を受け継いだヘレニズム時代の多くの歴史家のなかでも、ポリュビオス(前280年頃〜)は一頭地を抜いている。彼の歴史書には、ローマの支配領域が拡大していく過程が反映しており、地中海の全民族がひっくるめて考察され、彼らの運命の史的曲折がローマを中心にして描かれている。また彼が、歴史を取り扱う方法的原則について熟考した上で、個人的なものでは律せられない作用連関を捉えようとし、特殊な各面をバラバラにではなく歴史の成り行きを全体として眺めようとしていることも重要である。
ポリュビオス以降、ギリシャ的な歴史記述はローマ的なものとますます密接に溶けあい、最後にはまったくそのなかに没し去ってしまうことになった。その過程における最後のギリシャ人であるプルタルコス(46年〜120年)は『対比列伝』を著したが、これは科学的な歴史記述というよりもためになる文学といったものである。
ローマ人の歴史家として名高い人物としては、キケロ、カエサル(『ガリア戦記』)、クリスプス、リヴィウス(『ローマ建国史』)、タキトゥス(『同時代史』『年代記』)などがあげられる。彼らは、たしかに不滅の傑作を残したが、歴史を取り扱う方法的原則の点では、ポリュビオスを超えるものはない。それどころか、タキトゥス以降は、歴史記述が修辞術と混ぜ合わされることによって、厳正さと信用度が損なわれていったのである。
2、言語学
古代ギリシャにおいては、修辞法が形成される過程で、言語の正しい使用規則についての研究はなされたものの、言語そのものの法則性や歴史性を考察する科学的な言語学は、発展しなかった。それは、ようやくヘレニズム時代になってさかんになってきたものである。ギリシャ人が異国の言語を学び知るようになり、ユダヤ人やローマ人などがギリシャ語を学び知るようになっていくなかで、異なる言語を互いに比較したり、言語一般というものを深く考察してみようという機運が生じてきたのである。重要な文献を翻訳する必要性、古い時代の著作の断章にかかわっての原典批判の必要性などに規定されて、言語学の学問的な視野は、一般的な文化論・文化史にまで及ぶようになっていった。また、ギリシャ語自体が古典時代からヘレニズム時代にかけてすでに少なからず変化を遂げてしまっていたことも、言語の問題に関心を向けさせるのに寄与した。
3、法律学
古代ギリシャ哲学は、法律の理論を内包するものであった。古代ギリシャ思想は、包括的秩序ということを中心においたものであり、“真であり正しい秩序、真理と正義(各々が分をわきまえること)”が問題とされていたのである。この理念は、ストア主義哲学による継承(全宇宙を支配する合法則性を強調、情欲を封じ込めて平静さを保つことを要求する)を媒介として、ローマ精神へと流れ込んでいった。
ローマの法律も、他のすべての法律と同じく、もともとは祭祀と一体のものであって、法律知識は聖職者に独占されていたが、しだいに世俗生活の一成分になっていった。最初の成文法である十二表法(前451年および前450年に制定)は、家族法・刑法・相続法に相当する内容を含むものであり、ローマ法の揺るがぬ基礎となった。これは、貴族が操作し支配していた初期の慣習法から、大衆とか大衆によって選ばれた役人とかによる立法への移り行きを示すものである。民衆から選ばれた最高の法官は執政官と呼ばれ、裁判および立法作業に携わった。しかし、皇帝時代(120年頃、ハドリアヌス帝から)には執政官の立法権限が奪われ、かわりに勅令が布かれるようになった。
ローマの法律科学の頂点は、2〜3世紀にある。この時期、まずガイウスが『法学提要』を著してローマ法全体の基本的要目を書き、パピアヌス、ウルピアヌス、パウルス、モデスティヌスといった大法律家たちがつづいた。彼らは、個々の事例を第一義とした。ローマ法は、思い思いに制定された一般的な条文を一本にまとめて陳列したものではなく、むしろ法律を創造する高度の技術というべきものであったのである。とはいえ、基本概念は明確な形で取り上げられないにしろ潜在はしていたのであって、ここから壮大な内的一貫性と斉美とをそなえた構造体が築かれていくことになった。
大法律家たちの著作は、ローマにおける法律の発展の第一の支柱となったが、第二の支柱としては勅令が存在した。東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌスT世(在位527年〜565年)は、この2本の柱をまとめて、統一された法文集をつくりあげた(第1部は勅令集、第2部は重要な法律家の見解をまとめたもの、第3部はこの全事業に携わった大臣トリボニアヌスによる民法にかんする教科書風の著作。のちに第4部としてユスティニアヌス帝の後継者たちの布告が追加された)。  
古代ギリシャ科学のイスラム文化圏への継承
 「第6章 もう1つの遺産 / イスラムの科学最初の継承者」 

 

歴史的背景についての概説
古代ギリシャの文化遺産は、3つの道を経て西欧に到達した。第一はローマとカトリック教会をつうじた道であり、第二はビザンティン(東ローマ帝国)を越えてきた道であり、第三は、イスラム文化圏をつうじてきた道である。それでは、イスラム文化圏においては、古代ギリシャの遺産がどのように継承されていたのであろうか。
イスラムの大帝国は、8世紀には中央アジアからスペインまでを支配下においた。住民たちは、政治的・軍事的には服従させられたものの、従来の信仰を継続することは容認された。しかし、イスラムの信仰を受け入れなかった場所も含めて、イスラム教の聖典コーランの言葉であるアラビア語が、帝国全域における共通の意志疎通手段となった。ペルシャ人、インド人、中国人、エジプト人、ユダヤ人など“異教徒”との接触をつうじて、さまざまな知識と教養がイスラム精神のなかに流れ込んでいった。そのなかでもギリシャの精神的富はとりわけ重要な位置を占めており、あらゆる知識財産がアラビア語の鋳型のなかへ注ぎ込まれていくことになった(ローマ・カトリック教会によって異端とされたネストリウス派キリスト教を信仰していたシリア人たちによって媒介された)。すでに850年ごろには、入手可能なギリシャの著作がほとんどアラビア語に翻訳されていたのである。イスラム文化は東西2つの中心地――東の中心がバグダッドであり、西の中心はスペイン――をもっていた。
アラビア人の哲学者たちは、異教の哲学を同化し、すべての知的遺産を一本の哲学体系にまとめようと試みた。しかし、彼らはその過程でイスラムの教義と異教の哲学とを調和させるという達成不可能な課題に直面させられることになった。 
T 数学
アル=フワーリズミーは、インド式の記数法(ゼロの発見を含む)を採用し、代数学についても著作をした。詩人としても有名なウマル・ハイヤーム(1038年〜1120年)は、あらゆる等式の一般分類を企てるとともに、代数と幾何学の両面から三次方程式を解いたことで、“中世数学の最高峰”と称される一書を残している。
U 天文学
イスラムの数学者がギリシャの知識とインド人の成果を統一したように、イスラムの天文学者も古いインド天文観測記録をギリシャの知識に結びつけた。アル・バッターニー(850年〜929年)は、41年間にわたって天文観測を積み重ね、一連の天文学的量をきわめて精密に定めた。
V 物理学と化学
アラビア人の自然哲学思想は、ギリシャ人によって敷かれた軌道の上を進んでいったが、いくつかの分野においては、在来の知識を超えて重要な新知識をかち得た。最大の業績があげられたのが光学の分野である。傑出した研究者としてアルハゼン(アラビア名:イブヌル・ハイサム)があげられる。彼は、光の屈折法則を確立し、光の本性について正しい見解(対象から発する何かが私たちの目に入る)を示した。また、曲面鏡の作用とかレンズの拡大作用とかいったものについても実験的に研究している。アルハゼンの著作は、後世のヨーロッパにおける光学発展の基礎となった。
イスラム文化圏においても錬金術がさかんにおこなわれたが、これは近代科学のある種の原則に徹頭徹尾従いつづけた最初のものであったといえる。その原則とは“吟味と発見”“自然そのものに問え”ということである。“実験”がおこなわれ、その経過がくわしく観察され、結果が詳細に記録された。根本となる理論や仮説はほとんど間違っていたが、この途上で無数の重要な事実(多くの物質の特質やその製法)が発見されていったのである。
W 生物学と医学
初めの数世紀において、博物学や動物学や植物学は、独自の研究分野としてはそれほどアラビア人の関心をひかなかった。たとえば植物の医薬作用への注目など、他の研究分野との関連で言及されている程度である。イスラム文化圏の西部に科学活動の重心が移動した後期の数世紀には、植物学がさかんになった。イブン・バイタル(1190年〜1248年)は、大冊の集成を書き、500種近い植物や薬種を取り上げた。同時代に、農業についての包括的な書も登場した。
イスラム世界は卓越した一連の医家たちを生み出した。当初はギリシャ人やネストリウス派のキリスト教徒が医師として呼び寄せられていたが、ギリシャの医知識が翻訳をつうじて浸透するとまもなく、アラビア人のすぐれた医師が登場してきたのである。そのような医師のなかでは、ラーゼス(アブー・バクル・ムハンマド・アッ・ラーズィー)がもっとも有名である。彼は、治療家としてすぐれていただけでなく、当時の全医学知識についての概論や膨大な医学百科全書といった著作を残している。およそ1世紀後に登場した哲学者アヴィケンナ(アラビア名:アブー・アリ・アル・フセイン・イブン・スィーナー、980年〜1037年)は、医学分野においてもラーゼスをしのぐほどの名声をかち得た。彼は『医学規範』という百科全書的な著作を残しているが、これは、医学の課題は何かという一般問題から出発して、重要な病気の診断や療法、予防や衛生、薬草などを体系的に説いていくものとなっている。
イスラム西方においても、すぐれた医師が多く登場した。大哲学者でもあったアヴェロエス(アラビア名:イブン・シュルド、1126年〜1198年)が残した百科全書的な医学書は、ラーゼスやアヴィケンナの著作と肩を並べるほどの権威を誇り、彼らの著作とともに中世ヨーロッパの諸大学における医学研究の基礎となった。アヴェロエスの個別の業績としては、網膜の機能を発見したことがあげられる(イスラムの医学者が最大の成果をあげたのは眼科学の分野であった)。
X 地理学
イスラム帝国の版図が広大であったことが、地理的な視界を大きく拓いていくことに寄与した。国土をよく統治するためには、それをよく知っておく必要があったから、新たな領土の天然状態や住民がくわしく調査され記録されたのである。また、アラビア人が海上・陸上にわたって活発に交易したことも、地理的視界の広がりを大きく促進した。9世紀の商人スライマーンは中国におもむいた。10世紀には、アル・マスウーディー(地理学と民俗学にかんする30巻に及ぶ百科全書を書いた)、アル・イドリースィーなど、広範囲を旅行して記録した一連の地理学者が登場した。イスラムの地理学者のうち最大の陸上旅行家は、14世紀のイブン・バットゥータである。彼は、北アフリカ、東アフリカ、西アジア、インド、中国、南ロシア、スペインおよび黒人の国々まで足をのばした。イスラムの学者のなかには山脈の形成などについて地質学的な説明を試みた者もいた。測量術も大きく発展し、正確な測量にもとづく地図も製作された。
Y 精神諸科学
1、歴史記述
イスラムは、自然科学の領域ではギリシャの知識の採用から出発したが、歴史記述の領域ではほとんど自力で重要な著作を生み出した。
9世紀のタバリーは、聖者や預言者たちの伝記から脱却して、人類全体の歴史へ目を向けた。タバリーの後継者となったのが、旅行家マスウーディーである。彼の百科全書的著作には歴史的な要素もゆたかにふくまれている。しかし、彼らの著作は、年代や人物や事件やエピソードをただ集めたレベルにとどまっており、総合が企てられていない。ビールーニー(973年〜1048年)の著作は、資料や伝承の批判的な取り扱いの点で、大きな進歩を示している。
14世紀にはイスラムの学問は衰退に向かっていったが、この世紀にもう一人の重要な歴史家イブン・ハルドゥーン(1332年〜1406年)が登場した。彼は、アラビア人とペルシャ人とベルベル人の歴史についての著作をなした。その序説では、歴史を書く方法を論じたり、人類社会の諸形態を一般的に論じたりしている。彼の歴史にかんする関心は哲学的なものであり、また社会学的なものでもある。
2、言語学者と百科全書家
イスラムにおける科学の歴史は、外国語文献の翻訳により精神的財産を継承することからスタートした。それゆえに、言語を科学的に処理するという仕事は避けてとおることができなかった。イスラム帝国の版図に、さまざまな言語や言語圏が包含されていたことも、科学的な言語学の成立・発展を大きく促す要因となった。8世紀には、最初のアラビア語の辞書と文法書が登場した。その後も同様の著作や辞典の類がつづいた。 
西欧中世の科学
 「第7章 保存と潜在 / 西欧中世の科学」 

 

歴史的背景についての概説
1、科学史上の中世の位置
科学の発展の歴史のなかで、西欧中世はどのような位置を占めるものであろうか。
科学の発展していく全過程は、大きく2つの主要期に区別される。その第一は、古代諸民族が据えた基礎から古代ギリシャ科学が発展し、ヘレニズムとイスラムがその遺産を継承・保存していった時期である。その第二は、15、16世紀に近世ヨーロッパ科学が輝かしく目覚めるところを起点に現代まで続いている発展の時期である。この2つの主要期の間、ことに11世紀から14世紀までの“中世”こそは、全発展の結節点であり転回点なのである。
2、阻害する力
西欧中世において、科学の発展を阻害した力としては、どのようなものがあったのだろうか。
中世の前半期において西欧の人々は、土地を耕し、しっかりした社会組織を築くという実際的課題で手いっぱいであった。4世紀におけるゲルマン民族の大移動、西ローマ帝国の崩壊という混乱を経て、8世紀以降にようやくカロリング朝(フランク王国)によって新たな政治的秩序がつくりだされたものの、社会的・科学的な発展状態からすれば、まだ処女地といってもよかったのである。数少ない教養人層(聖職者)が抱いていた精神的な力も、当初は科学の発展という課題にはつながりようがなかった。キリスト教にはギリシャ哲学(とりわけプラトンと新プラトン主義の哲学)が浸透し融合していたが、哲学はあくまでも神学に奉仕するものと位置づけられ、神学に従属させられていたのである。真理は啓示にもとづく信仰のなかにすでにあたえられているのであって、この真理を理性によって裏づけ、理解し、説明することによって、合理的な体系に仕上ていくことが哲学(スコラ哲学)の課題とされたのである。したがって、経験ではなく聖書の文句や偉大な教父・説教師の言葉こそが論証の根拠となった。これは、実験的な科学の育成を阻害してしまう態度であるが、古代からの膨大な知的遺産をともかくまずは取り入れ、消化する必要があったという点からすれば、内的必然性があったのだと理解しなければならない。このほか、太古の異教からの伝承による迷信(妖精、妖女、侏儒神、巨神、吸血鬼など)、それが聖書の伝承と混ざり合ったような迷信(悪魔・悪霊の大軍が人間を取り囲んでいる)の数々がはびこっていたことも、科学的な認識の発展を阻害した大きな要因であった。
3、保護と促進の力
しかし、12世紀になると、中世の精神的発展に驚くべき転回が認められるようになる。経済的・社会的な発展とともに、イスラムとの接触がおこなわれ、イスラムから古代ギリシャの遺産が大量に流れ込んできたのである。とはいえ、イスラムから移植された芽を巨木に育てていけるだけの土壌が、西欧の側にしっかりと準備されていたことに注目しなければならない。それでは、この準備に寄与したものとは、いったいどのようなものだったのであろうか。
まずあげるべきは、ローマの法律制度が及ぼした作用である。これは、西欧の人々に、法にもとづく永遠的秩序という不動の表象をあたえたが、事物の普遍的な秩序という理想は、科学的思想を育む前提条件の一つなのである。また、キリスト教会によって、まがりなりにも古代的な文化遺産が保存され継承されていたことも、やはり見逃すことはできない。科学的思想の準備という点では、修道院が実践的な労働に携わるようになっていたことが注目される。知識階層が、一般の人々にはすでに分かっている事実や手工業技術と直接的な交渉をもつようになったからである。さらに、スコラ哲学が空論的な議論に没頭していたことすら、ある意味で科学の発展を準備するものであったといいうるのである。それは、秩序ある厳密な思惟をおこなわせるように、西欧精神に数世紀にわたって論理的な教育をほどこした、という意味においてである。スコラ哲学において育まれた合理性が、自然や外的生活の現実面に向けられることによって、近代科学が成立したのである。
4、イスラム世界との接触、反訳時代
12世紀は翻訳の時代であった。イスラムの支配から解放されたスペインのトレド、あるいはシリアを主要な接触点にして、アラビアの科学書、アラビラ語に翻訳されていた古代ギリシャの文献をラテン語へ翻訳する事業が大々的におこなわれた。やがて、古代ギリシャの文献にかんしては、ギリシャ語から直接に翻訳されることが多くなっていった。こうして、13世紀末には翻訳事業はほぼ完結するにいたったのであり、とくにアリストテレスについては、西欧においてもほぼその全容をつかめるようになったのである。
5、大学の開花
イスラムを媒介にして古代ギリシャの知的遺産が大量に流れ込んできたことは、西欧の精神活動を大きく高揚させることになった。その一つの現れが、12世紀末になって突如として大学が出現したことである。それ以前は、高等教育機関は修道院などの宗教施設に限られていたが、古代ギリシャの知識が流入するにしたがって、法学校や医学校などの高等教育機関が形成されはじめ、やがてこれらが一つに総合されていくことによって“一般研究”機関としての大学が形成されていくことになったのである。13世紀には大学が続々と開設されるようになり、14世紀、15世紀になっても大学開設はいっこうに減らなかった。
6、中世の認識理想
12世紀以降における精神活動の高揚のもう一つの現れは、スコラ哲学が中世の頂点に達したことである。このスコラ哲学にこそは、中世における認識理想を追究するものであった。それでは、その認識理想とはそもそもどういうものであったのか。
それは端的には、真理の認識は(経験にもとづくものではなく)直観にもとづくものであり、真理は神のなかにある、というものであった。ここから、個別にたいして一般が高く尊重され、一元性と普遍性が追究されていたのである。しかし、12世紀以降、経験主義者であったアリストテレスの哲学が流入してくるとともに、認識構造の統一性を守ろうとして、大規模な一連の試みがはじまった。世俗的知識と宗教的知識、哲学と神学、知識と信仰をひっくるめて、包括的な統一性へはめ込んでいまう必要があったのである。中世における最高の神学者・哲学者であったトマス・アクィナス(1225年頃〜1274年)は、“二重真理”の説(理性の真理と信仰の真理とは、あたかも別物であるように食い違うこともある、との説)と同様の考え方で、信仰のために知識を退ける神秘派と闘った。彼は、理性の真理を擁護するとともに、信仰は超理性的であるが反理性的ではない、と主張したのである。まもなく、アリストテレスの著作は、スコラ哲学における絶対的な権威として(論証の根拠として)認められていくことになったが、結局最後には、アリストテレスが教えたような見方、つまり何よりもまず現実そのものに目を向けるということによって、中世の認識理想の支配が打破されていったのである。中世の思想は、すべてのうちに神の創造をみようとし、あらゆる個物が世界全一体のなかでそれぞれの目的をもって存在していると考え、この目的を追究しようとした。しかし、近代科学は、こうした(神の創造にかかわる)目的を問うことを放棄して、“どのように(方法)”を問うこと、機能の仕方を問うことに専心するようになったのである。  
T 数学と天文学
西欧中世において、数学はどのような状態にあったのだろうか。
12世紀まで、ヨーロッパでは数学の知識や能力が異常に低い状態にとどまっており、割り算が奥義とされるほどであった。これは、経済関係がほとんど自給自足的なものであり、計算能力が要求されなかったことが関係している。商人は、計算板(ソロバン)に頼っていた。こうした状況のもとで、レオナルド・フィボナッチは『ソロバンの書』(1202年)を著し、アラビア数字の体系を記述した。彼が紹介した新しい記述法や計算法は、なかなか広まらなかった。しかし、1世紀以上たって、イタリアにおいて、貨幣経済とか為替や小切手による現金なしの取引とか、銀行制度や利子計算とかがだんだん完備し、とくに航海がさかんになっていったことにともなって、新しい方法がしだいに採用されていくことになったのである。フィボナッチについては、方程式や数列の理論も手がけたことが知られている。彼の好敵手であったヨルダヌスは、イスラムの影響から独立した西欧数学思想の先駆者であった。
13世紀から14世紀にかけて、数学の問題を扱った学者はしだいにふえていったが、そのなかでも14世紀フランスのニコル・オレーム(オレスメのニコラウス)は傑出していた。彼は、国家経済を専門的に扱った最初の著作(『貨幣の変更について』)をラテン語とフランス語で書いたことでも知られている。これは、当時の通貨が不安定であったことが経済の混乱をもたらしたことをふまえ、これに実際的な対策をほどこす目的で書かれたものであった。彼は、数学の分野では函数とその図示法を扱った。これは、数学的な考察方法を自然現象に及ぼせるという着想、さらに、ある現象が変化するときその経過を図示できる、との着想を含んでいた点で、画期的なものであった。このほか彼は、天文学の分野ではプトレマイオス体系を批判的に検討し、占星術の迷信的な側面と闘った。占星術との闘いは、1世紀後のピコ・デラ・ミランデラによって、発展的に継承された。
U 物理学と化学
西欧中世において物理学や化学はどのような状態にあったのだろうか。
物理学を西欧で独立させる草分けとなったのは、ヨルダヌス・ネモラリウス(13世紀初期)であった。彼は、力学にかんする“ヨルダヌスの公理”(一定の重さを一定の高さまで持ち上げる力は、x倍大きな重さをx倍だけ低い高さまで持ち上げる)を発見した。
ペトルス・ペリグリヌスは『磁石にかんする書信』(1269年)を著した。これは、ヨーロッパにおいて磁石について書かれた最初のものであると同時に、自然科学史上の一里塚となっている。彼はこの書において、自身が実験によって獲得した知見を述べたのである。彼は、自然を研究するためには、手先の器用さ、手工をまめにやることが大切だと説いている。この点で彼は、ロジャー・ベーコンの師であるともいえる存在であった。
そのロジャー・ベーコン(1214年〜1292年)は、フランシスコ会の修道士であったが、当時の哲学思想を厳しく論難してフランシスコ会と対立したために、投獄され15年間も獄につながれた。釈放後まもなく亡くなっている。
彼の主著『大著作』は7つの章からなる。第1章は、誤りの原因(たとえば、アリストテレスの著作を絶対的な権威として妄信することなど)について、第2章は哲学と神学について、第3章は言語の研究にかんする問題(まずい翻訳ではなく原典にあたることの重要性)、第4章は天文学・数学・地理学とともに数学について、第5章は光学(レンズの研究)が論じられている。実験的科学について説いた第6章では、法則の発見には実験、その定式化には数学が必要だと主張され、認識した法則の実際的利用にかんする考え方も述べられている。終章では、道徳哲学こそあらゆる哲学分野の女王であり、その基盤は宗教のなかにこそある、とされている。このように、彼が実験と数学の意義を認めていたことは、高く評価すべきものである。
中世においては、それ以前の時代と同様に、科学的な化学が存在していたということはできないものの、錬金術の信仰や活動が流布したことや、産業分野での技術改良がすすんだことによって、科学的化学への数歩が踏み出された、ということができる。
V 生物学
西欧中世において、生物学はどのような状態にあったのだろうか。
中世ヨーロッパの人々は、耕作や飼養や狩にかかわりをもつヨーロッパ原産の動植物についてはよく知っていたであろうが、遠国の動植物にかんしては、荒唐無稽でいんちきな観念が風靡していた。人々は教化のための動物寓話の話を真に受けていた。しかし、ビンゲンのヒルデガルトのように、通俗的観念を脱して独自の観察をし、事実をありのままに記述しようとする科学的な態度をもった人も現れてきた。彼女の植物への関心は、医薬として利用するという問題と結びついたものであった。
シチリアに宮廷をもっていたフリードリヒU世(1194年〜1250年)は、1224年に最初の国立大学・ナポリ大学を創設した。彼は、動物界を偏愛し、『トリを用いる狩りの技術について』という図解本を著した。
アルベルトゥス・マグヌス(1193年〜1280年)は、トマス・アクィナスの師であり、アリストテレスの注釈書を著した。これによって、アリストテレスの著作の全範囲がはじめて一本にまとめて展望できるようになったのである。彼は「実験のみが確証する」という句を書いている。この「実験」とは、「体験」「経験」に近い意味であるが、近代的意味での正しい実験もおこなっている。彼は、自分の体験にもとづいて動植物をありのままに観察し、過程を正確に記載する能力を開拓した。
メーゲンブルクのコンラート(1309年〜1374年)は、ドイツ語で書かれた最初の自然科学書『自然の書』を著した。
W 地理学
西欧中世の人々は、どのような地理的視野をもっていたのであろうか。
各地方の聖地を訪ねる巡礼の旅がさかんにおこなわれたことや、聖地エルサレムを異教徒から奪還するための十字軍が企てられたことによって、中世の人々の地理的視野は大きく広げられることになった。
こうした地理的視野の拡大の流れをさらに飛躍させたのが、ノルマン人の旅行(故国の住みにくさから海外へ定住地を求め、アイスランド、グリーンランド、北アメリカにまで足を踏み入れた)であり、オリエントなどとの交易であった。ヴェネツィア商人のポーロ家の三兄弟は、1271年、ローマ・カトリック教会からの公使として、大都(現在の北京)にあるフビライ・ハンの宮廷まで旅した。彼らは中国に17年滞在したのち帰国し、末弟のマルコ・ポーロがこの旅を記録したのが『東方見聞録』である。
航海と貿易の拡大は、より正確な地図や海図への要求を高める。最初の正しい地図(実際に使える地図)は、13世紀ごろから地中海地方で作られるようになった、いわゆるポルトラノ(一定の型の海図。羅針盤の中心から放射する多数の方位線を特徴とし、作図が簡単で航路を直線で求められた)である。ロジャー・ベーコンも地図を作成し、西に向かってインドまで達する航路が発見される可能性について言及した。
X 医学
西欧中世において、医術および医学は、どのような状態にあったのだろうか。
中世の医学は科学的ではなく、民俗医学だった。薬草を扱う女性、まちがいない診断や処方を知っている“賢女”、あらゆる種類のいんちき医者が、医術をほどこしていた。医学的知識を保存し収集していたのは聖職者であり、病院の経営は修道会や僧院が行っていた。
しかし、イスラムの影響を受けたことで、医学は科学的な色彩を帯び始めた。12世紀には南イタリアのサレルノの医学校が指導的地位を占めるようになった。ここでは医学の全分野がおこなわれていたが、とくにさかんだったのは外科学である。フリードリヒU世は、この学校を助成するとともに、この学校の成績証明書がなければ医者を開業してはならぬとの訓令を出した。この学校の遺産を受け継いだナポリ大学は、医術知識をイタリア全土へ、そして他の国へと広めていった。
医学の分野で、13世紀におけるもっとも傑出した人物は、アルノー・ド・ヴィルヌーヴ(1240年〜1311年)である。錬金術師でもあった彼は、ベーコンと同様に、実験の価値と自然科学の意義とを認めていたのである。
イタリアでは、外科についで、これと密接な関連を持ちつつ、解剖学が発展していくことになった。ボローニャで医学を教えたモンディノ・デ・ルッチ(1275年〜1326年)は、教育目的の人体解剖をヨーロッパで初めて行い、“解剖学の革新者”と呼ばれた。彼の主著『モンディノ解剖学』は、近世はじめまで解剖学における基準図書の地位を占めた。
1348年の黒死病をはじめ、中世は何度も飢饉と流行病に襲われた。疫病の流行がくり返されていくなかで、公衆衛生を改善しようとする計画的措置が多くの場所でとられだした。
Y 精神諸科学
1、キリスト教歴史観
キリスト教は、西欧中世の人々の歴史観にたいして、どのような影響をあたえたのか。
近世の歴史意識をはぐくむ源となった中世の歴史観は、キリスト教歴史観であった。歴史は、創世記に描かれているような世界の創世と最後の審判とのあいだに横たわる巨大な救いのドラマであると捉えられたのである。5世紀の教父アウグスティヌスは、『神の国』という著作において、世界創世から最後の審判までの歴史はいわば善悪2つの国(よき報いをうける仲間たちの方に向かう人間集団と、罰をうける悪魔の方に向かう人間集団)の闘いである、との見方を提示した。彼は、世界が永劫に存在し万物が輪廻するという古代的歴史観に反対し、“キリストがただ一度だけ死んだ”ことを強調したが、これは、全体としての歴史が独自の意義を持ち、取り消しのきかぬものである、との観念につながるものであった。
2、教会史、年代記
中世においては、キリスト教教会の歴史が記述されるようになった。その発端となったのが、パレスチナのカエサリアで司教を務めたエウセビオス(263年頃〜339年)であった。彼は多くの資料を批判的に活用して、ローマ帝国内での厳しい迫害に耐えて勝利を収め、国家権力と和解に至るまでのキリスト教の歴史を、首尾一貫した発展の過程として描いた。彼はまた、325年までの世界史を表にまとめた“年代記”をも書いている。エウセビオスから2世紀ほど遅れて登場したヒエロニムスは、エウセビオスとは根本的には別の方向で教会史を構想した。彼は、教会が世俗的権力と手を握ったことこそ没落の始まりであるとみなしたのである。近代ヨーロッパの思想を支配する観念、すなわち展開(進化)という観念の根の一つは、これら初期の教会史にあったといえる。進歩の観念はエウセビオスに、文化の頽廃という観念(ルソーなど)はヒエロニムスにその根をもつということもできる。はじめは教会史の内に含まれていた世俗的歴史は、やがて独立して書かれていくようになった(とくに中世後期には年代記が大量に現れてきた)が、独立して書かれるようになったのちも、キリスト教的歴史観の枠外に飛び出してしまうことはなかった。
3、反訳家と文法家、百科全書家
中世には、多くの百科全書的著作が現れた。とくにトマス・アクィナス(1225年頃〜1274年)の『神学大全』は、たんなる神学の著述ではなく、生活と知識の全分野を扱ったものである。ロジャー・ベーコンの名でも(実際には門下の誰かによって編纂されたものらしいが)『哲学大全』なるものが残されている。
反訳はアラビア語・ギリシア語・ヘブライ語からラテン語へ、ラテン語からヨーロッパ各国語へとなされた。このことは、言語学への関心を高めずにはおかなかった。ロジャー・ベーコンは、古代言語の根本手研究が必要であると主張し、自分でも最初のギリシア語文法書を書いた。彼は、言語の系統関係を調べ、すでに比較言語学につながるような考えを抱いていた。
4、人文主義(ヒューマニズム)の起源
人文主義(ヒューマニズム)の動きはどのようにしてはじまったのか。
ヨーロッパ精神と古代精神の出会いである人文主義(ヒューマニズム)の入口に立っているのがダンテ・アリギュリ(1265年〜1321年)である。彼は、中世の思想と感情を申し分なく、また不滅の意義をもつ形で表現した。彼の主著『神曲』は、美しく豊かなイタリア語によって、過去のありさまや過去の人物を非常な透徹さでまざまざと描いてみせたものであり、言語の発達や歴史意識にも大きな影響を与えることとなった。人文主義が実質的に動き出したのはフランチェスコ・ペトラルカ(1304年〜1374年)からであった。彼は、古代ラテンの文学、芸術(とくにキケロとヴェルギリウス)を愛し、スコラ哲学や中世全体を猛烈にきらった。古代ラテンの科学的研究は、彼とともに始まったのである。ペトラルカの親しい友人であり、『デカメロン(十日物語)』の著者として知られるジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313年〜1375年)は、ギリシャの詩文を原文で読むためにギリシア語を研究した初めての西欧人であった。また、同じくペトラルカの友人でもあったサルタノ・コルッチョ(1331年〜1406年)は、原典批判やこの原則を古代の手稿に適用する方法を発展させるのに貢献した。
5、法律学
西欧中世において、法律および法律にかんする研究はどのように発展していったのか。
中世の法律の発展は、各国によって、概観できかねるほどに多面的である。ゲルマン諸民族は、ローマ帝国と接触してからは、自分たちの豊かで独自の法律の伝統にローマ法を加味していくようになった。イングランドでは、中世後期の何世紀かのあいだに法律が発展していくべき基礎が据えられた。これの一里塚として有名なのが、教会と貴族との権利を国王の権力の侵害から守ることを目的として1215年に制定された大憲章(マグナ・カルタ)である。教会の側では、聖書を基礎にして、教父たちの教えや宗教会議の決定からも汲み、ローマ法の法文からも採るものは採って、さらにかつてのゲルマン諸民族の法律的伝統をも加味することで、独自の法律をたててこれを発展させていった。教会法の成立とともに、これがローマ法と並んで大きな意義をもつものとして普遍的に通用するようになった。
11世紀から14世紀にかけては、ボローニャの法律学校が、法律研究にかんして全ヨーロッパの首都とでもいうべき地位を占めていた。そこで活躍した大法律家たちは、“註解者たち”と呼ばれている。彼らは、ユスティニアヌス法を註解しただけでなく、政治や経済が発展をとげた結果として生じてきた新しい生活の要求に法律を適合させはじめたのである。こうして、ローマ法はしだいに、世俗的権力と経済的に強くなった都市とが教皇権や教会と闘うとき、もっとも重要な武器のひとつとなっていった。
註解者たちの後を受けた新学派は、“評釈者たち”と呼ばれている。その開祖バルトルス(1314年〜1357年)は、ローマ法を実際の都市や教会の法律とねりあわせた。これがドイツなど中部ヨーロッパにおいて公法の基礎として受け入れられていくことになった。彼の門下のウバルディスは、有価証券法や国際私法など、経済の発展とともに生じてきた新しい法律分野を築いた。
ジョバンニ・デ・レニャーノは、キリスト教圏において戦争を法律的な角度から初めて扱った。彼の本は、国際法学の一つの土台石である。 
近代科学の開始
 「第8章 大復興 / 近代科学の開始」 

 

歴史的背景および時代精神の体現者
15世紀中ごろからはじまり16世紀に成就された変革が新しい時代を拓いた。あらゆる活動分野において、既存の統一や関係が爆破され、過去の時代の胎内にすでにはぐくまれていた新しい勢力が解放されていったのである。全世界にまたがる一大帝国という理念は衰退し、若い民族国家、連邦制の国家権力が成長してきた。同時に、教会の権力と世俗的な権力とが理想的に結びつくという理念も衰退し、この両者は分離していくことになった。国内商業やオリエント貿易による富の蓄積、貨幣経済と貿易経済の発展は、中世的な社会秩序と経済秩序を破壊した。
このような変革の宗教的および哲学的な背景としては、どのようなことが指摘できるだろうか。
まず、教会権力と世俗的権力が分離したのにも対応して、信仰と知識との分離がすすんだことを指摘することができる。スコットランドのドゥンス・スコトゥス(1268年〜1308年)の活動は、こうした作用を象徴的に示している。トマス・アクィナスが、神学の真理と哲学の真理との完全な統一を主張していたのにたいして、彼は両者が分離しうることを認めたのである。また、いわゆる普遍論争(普遍的なものは実在するのか、それとも単なる名称にすぎないのか、という問題をめぐる論争)においては、政治・経済・社会の面で中世の普遍的な権力に対して分立的な諸権力が勝ちを制していったのに対応して、普遍は単なる名称であるとする唯名論が普遍実在論(実念論)にたいして勝利を収めた。ここで決定的な役割をはたしたのは、ウィリアム・オッカム(1290年〜1349年)であった。彼は、個物が唯一の実在であり、普遍的なものは単なる名称にすぎないと主張することによって、知識と信仰との区別をいっそう完全なものにしたのである。この唯名論の勝利は、近代科学の成立にとって、最も重要な前提条件の一つとなった。ルネサンス期の哲学について注目すべきなのは、プラトン精神の蘇生である。新プラトン主義の哲学の主題は、“神と魂”ではなく、“人間と宇宙”であった。大宇宙(マクロコスモス)と人間の魂という小宇宙(ミクロコスモス)とは照応しているとされ、権威から独立した精神的個体としての人間がみずからをありのままに認識することが課題だとされたのである。
それでは、宗教改革やルネサンス(人文主義)といった精神的な潮流は、近代科学の成立に対して、どのような影響を持ったのであろうか。
これらの精神的な潮流は、スコラ哲学の権威、中世の全世界に反対したという点では、たしかに近代科学の発展を利した面がある。しかし、新しい権威(宗教改革の場合は聖書、人文主義では古代の著作)をむぞうさにもちこんで古い権威の代わりに据えたという点では、近代科学の発展を阻害する役割も果たしたのである。ようするに、近代の自然科学は、この両者によって推進されたり阻害されたりしながら独自の道を開拓していった“第三勢力”だったと捉えるべきなのである。一方で、精神諸科学については、人文主義者によって直接に推進されたということができる。
この時代、精神生活の変革にとって、決定的な意義を持ったのが、1450年ごろに発明された印刷術であった。このことによって、本がふえて安価になった。新しい思想、科学上の発見の普及を大きく促進されることになったのである。
このような新時代の精神について、その姿をさらに明確に示すために、こうした精神の体現者とでもいうべき二人の偉人をとりあげよう。一人はこの時代の発端にたつレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1591年)であり、もう一人はこの時代の終わりに登場したフランシス・ベーコン(1561年〜1626年)である。
イタリアの小村ヴィンチに生まれたレオナルドは、芸術、科学の全方面にわたって才能を発揮した。注目すべきなのは、彼が、古代の著作よりも古代の著者たちの教師であった自然そのものを知らなければならないとしたことである。近代自然科学が成果への門を開いた鍵は、実験と数学的考察法との結合であったが、すぐれた建築者・技術者・発明家であったレオナルドは、すでにこの結合の意義を発見していた。しかし、彼の研究と思想は著作としてまとめられることがなかったために、科学の発展にこれといった作用を及ぼさないままにおわった。
一方、イギリスのフランシス・ベーコン(1561年〜1626年)は、新しい道の告知者とでもいうべき存在であった。彼は、政治の領域でも科学の領域でも大きな野心をもっていた。科学の領域において、彼は、人類の知識と全体としての科学と諸科学すべての大復興をめざして『新オルガノン』を計画したのである。
この著作では、“自然を解明し知性をさらに正しく使用する術”が書かれている。その第一は、偽りの幻影や誤った概念を精神から一掃して、真理が困難ながらも入ってこられるようにすることである。こうした偽りの幻影を、ベーコンは有名な“イドラ(偶像)”の説の中でとりあげている。第二は、科学研究の正しい方法を確立することである。彼は、経験から出発し常に経験で足元を確かめながら知識を前進させていく帰納法こそ科学研究の正しい方法であると主張し、理性と経験の共同作業、思索力と実験力(探求力)の共同作業のあり方について論じた。
しかし、彼は当時の科学の業績(ケプラーやガリレオがすでに登場していた)に無関心であり、自身も自然科学の領域でこれという発見をしていない。また、数学の役割を認めなかったという点で、科学の新しい道の立案者としても不充分さがある。しかし、科学の哲学者として、近代自然科学の精神をあざやかに言葉としてまとめあげた点は、大きな功績であるということができるであろう。 
T 数学
16世紀において、ヨーロッパの数学はどのような発展の歩みをすすめていったのであろうか。
ヨーロッパ数学は、16世紀に本質的な一歩をすすめ、はじめて古代に達せられていた状態を越えてその先へゆくことになった。こうした新しい数学の形成において、まずもって指導的役割を演じたのはイタリア人であった。
タルターリャとカルダーノとは好敵手であり、三次方程式の一般解について、先取権争いを繰り広げた。四次方程式の解については、その後まもなく、カルダーノ門下のフェラーリによって得られた。こうしたなかで、方程式を解くために代入という方法(代数的なある表現を他の表現で置き換える方法)が発見されたことは、後世への発展にとって大きな意味をもつものであった。また、カルダーノが著書のなかで、いわゆる虚の量についてはじめて論じたことも重要である。
フランソワ・ヴィエート(1540年〜1603年)は、『解析術入門』(1591)において、それまで言語的に表現されていた代数計算を記号的な書き方にかえた。さらに、分数の横棒、根号、各種の括弧、プラス、マイナスの記号を使いこなして、長たらしい数学の表現を、純粋な“式”として書くことにはじめて成功した。彼の考案した記法は、後世の人たちにとって、この上なく貴重な武器となった。
16世紀末〜17世紀初めにおける数学史上の最大の事件は、対数の発見であった。2人の人物がほぼ同時に、そしてお互いに全く独立に、発見に到達した。2人とは、スイス人ヨースト・ビュルギ(1552年〜1632年)とスコットランド人ジョージ・ネーピア(1550年〜1617年)であった。ネーピアは十進法の基数である10を対数の根に使えば有利であると認めたが、彼の友人であるイングランドの数学者ブリッグスはこれに刺激されて自分で数表を計算した。これは近代数学のもっとも重要な武器となった。これなしには、たとえば天文学のものものしい計算などは、法外に時間を潰すのでほとんど実行不可能であっただろう。
U 天文学 / 新しい宇宙
天文学における大変革は、どのような過程で進行していったのだろうか。
ロジャー・ベーコンなど、中世後期の多くの思想家たちは、すでにプトレマイオス体系に対して批判的な見解をいだいていた。移行期の哲学者であるニコラウス・クサヌス(1401年〜1464年)もまた同様に、“地球は静止しているはずはなく、他の星々と同様に動かされている”という考えを手稿のなかで述べている。実際に古い世界体系をくつがえしてしまうためには、こうした思想レベルの転換の素地に、天の諸現象の細心な観測が結びつく必要があった。天文観測の活動を再びよみがえらせたのは、ウィーンで教授をしていたプールハバ(1423年〜1461年)と彼の弟子レギオモンタヌス(1436年〜1461年)の貢献であった。この2人の死後、さらにヴァルターによって観測が継続された。
ニコラウス・コペルニクス(1473年〜1543年)は、彼らの観測結果を基礎にしつつ、古代の思想家たちの説にも示唆を受けながら、太陽を中心として地球が動くという世界体系を打ち立てた。しかし、円運動に固執したために、理論と観測結果を完全には一致させることができなかった。そこで彼は、周転円に逃げ場を求めなければならなくなった(周転円の数を大幅に減らすことには成功した)。このことは、彼の体系に、従来の世界体系をくつがえすものというよりも、従来の体系を数学的に簡単に表現するための仮説にすぎないものとの印象を付与することになった。
ティコ・ブラーエ(1546年〜1601年)は、正確で根気のよい観測者であった。彼は、器具と方法に改良を重ねて、正確な観測データを蓄積していった。
ティコ・ブラーエの助手となったケプラー(1571年〜1630年)は、ブラーエが遺した観測資料をもとに、楕円軌道を採用することによって、理論と観測結果とを完全に一致させることに成功した。しかし、軌道が円(円は運動の自然な自然な形状であると考えられていた)ではなくて楕円であると主張することは、同時に、なぜ軌道がほかの曲線ではなく楕円なのか、という問題を提起するものであった。ケプラー自身は、物体を運動させ続けるには絶えず駆動力が加えられる必要がある、とのアリストテレス以来の観念から脱却することができなかったために、この問題を完全に解決することはできなかった。人類がこの問題を完全に解決するためには、ニュートンの登場をまたなければならなかったのである。
ガリレオ・ガリレイ(1564年〜1642年)は、望遠鏡で天体を観測し、月の表面がデコボコである(当時信じられていたように理想的に完全な球形ではない!)ことなどを観察することで、「地球は変転し不完全、天界は完全で永遠」というアリストテレスによる区別を否定した。彼は、天体観測を積み重ねていくことにより、木星の衛星、火星の齢など、コペルニクス説に有利な証拠をつかんでいった。しかし彼がコペルニクス説の正しさを強く主張する『天文対話』(1632年)を著したことは、教会との決定的な衝突を招いてしまった。
古い世界体系をくつがえす思想という点では、1600年に異端審問の火あぶりで死んだジョルダーノ・ブルーノも注目に値する。彼は、万有は無限であると宣言した。彼にとっては、私たちの太陽さえ、世界の中心ではありえなかった。彼は、世界は無数に存在し、それらがめいめい太陽をもっていると考えたのである。
この時代の天文にかかわる大きな出来事として、暦制改正がある。誤差の大きくなっていたユリウス暦にかえて、グレゴリウス暦が採用されたのである。この新しい暦は、1582年にカトリック圏で採用され、新教国は1700年ごろ、ロシアでは1918年に採用された。
V 物理学と化学
近代科学としての物理学は、どのようにその歩みを開始したのであろうか。
物理学の新たな目ざめは、数学と天文学よりも遅れた。近代物理学の戸口にたつ人物が登場したのは、ようやく16世紀末から17世紀にかけてのことであった。
ウィリアム・ギルバート(1540年〜1603年)は、磁石について実験的に研究し、電気についても一連の実験を記述している。オランダの軍事技術者シモン・ステヴィンは、1686年、物体の落下速度が重さによるというアリストテレス以来固執されていた説について、実験で反証した。彼は、静力学(力の合成にかんする「力の平行四辺形の法則」を発見)および流体静力学(液体内部の圧力関係を研究)を樹立した。
1564年、落ちぶれた貴族の子としてピサに生れたガリレオ・ガリレイは、科学的力学の開祖とされている。14世紀にオッカムの哲学に共鳴した一連の学者たちが、すでに物体の運動と落下について研究をはじめていたが、ルネサンス期に古代文献への関心が著しく高まったことによって、こうした研究は中断されてしまっていた。しかし、16世紀における経済や技術の著しい発展は、自然科学の新たな基礎づけを強く要求するようになった(たとえば、弾道の研究)のであり、このような要求に応えるかたちで登場したのがガリレイであったといえるのである。ガリレイは、運動についての新科学である動力学を確立するために、アリストテレス流の2つの偏見を追い払わなければならなかった。その1つは、物体はそれぞれの重さに応じた速度で落ちるという見解であり、もう1つは、物体を運動させ続けておくためにはたえず力の供給が必要だという考えであった。ガリレイは、こうした偏見を実験によって否定し、物体は重さが違っても同じ速さで、しかも等加速度で落ちることをあきらかにしたのである。彼は、この落体の法則をふまえて発射された砲弾の軌道について研究し、それが放物線であることをつきとめた。古代の数学者たちがつくりあげていた円錐曲線の理論が、ケプラーの惑星軌道についで、第二の応用分野を見いだしたのである。ガリレイは、また、流体力学の分野においては、物体の浮力は物体の形ではなく周囲の液に対する比重で定まることを証明しれいる。
ガリレイの方法として特記すべきなのは、実験からの帰納と数学的演繹とを結合していることである。こうした方法によって彼は、「何ゆえに」という中世的な問題の立て方に代えて、「どのように」「どれだけ多く」という問題を追及しようとした。彼は、応用数学家、“実用的幾何学”者であって、理論家とか体系家ではなかったのである。ガリレイの物理学をとおすことで、人類の眺める世界の姿は劇的に変化した。力学的(機械論的)世界観が姿をあらわし、“数学的に表式化されたただ一個の法則、これが全自然存在の基本事実である”という自然科学的世界像が形成されていくのである。
16世紀は科学的化学の前史であった。こうしたなかでは、冶金学のゲオルク・バウアー、薬剤学のパラケルススの活動が目を引く。また、ファン・ヘルモント(1577年〜1644年)が、空気のほかにも各種の気体物質が存在することを認めたことも注目される。
W 地理学 / 発見時代
経済の発展とヨーロッパ民族の活動意欲の目ざめは、十字軍の遠征よりも広大な領域を求めて広がっていった。ヨーロッパ人にとっての「大発見」時代がはじまるのである。このいわゆる「大発見」の時代は、どのようにしてはじまり、どのように進行していったのであろうか。
この先頭をきったのは、ポルトガルのエンリケ王子(1394年〜1460年)であった。彼は、イスラム勢力を南から囲むとともに、インドへの航路を開くために、アフリカ探検という問題に目をつけた。彼は、科学的な航海学校と天文台をたてた。
クリストファー・コロンブス(1446年〜1506年)は、西方へインドに向けて海路を進むという考えから、スペイン王室の支援を得て、1492年以来、合計4度の航海を企てた。この結果、バハマ諸島、キューバ、ジャマイカ島などを発見した(しかし、彼は最後までアジアの一部を発見したと信じていた)。その後、フィレンツェの地理学者アメリゴ・ヴェスプッチ(1451年〜1512年)は、ポルトガル人とともに南米へ数度の旅を企てた。彼の旅行記と業績にちなんで、新世界が「アメリカ」と名付けられたのである。ブラジルはポルトガルによって、南米のその他地域はスペインによって開発され、イギリス人、フランス人は北米に目をつけた。
一方、ポルトガルはアフリカを回ってインドへ行く航路を発見しようと試みつづけ、1497年には、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を周航してインドのカリカットについた。1519年、ポルトガル人マガリャエンシュ(マゼラン)は、スペインの援助で東から西へ世界一周に出発した。彼は、南米大陸南端とその南の島々との間にある海峡(マゼラン海峡)を通って大西洋から太平洋に抜けた。さらに太平洋、インド洋を横切り、喜望峰を迂回して大西洋に入って1522年に帰国(マゼラン自身は途中フィリピンで死亡)した。この航海によって、地球が丸いことが決定的に証明されたのであった。
16世紀のはじめから、ポルトガルは喜望峰から中国南岸までを勢力圏としてアジア貿易に君臨するようになった。一方、スペインはフィリピンを拠点にして、太平洋の多くの島々を確保した。さらに、大西洋から北極方面とシベリアをまわって太平洋にでる北東航路も探検された。シベリアは、陸路からはロシアの手で開発が進められていった。
こうして、16世紀から17世紀にかけて、この地表の大雑把な輪郭がほとんど全部、ヨーロッパ人に知られるようになっていったのである(なお“空白”として残されていたのは、アフリカ奥地、北米西部、南米原始林、内陸アジア、極地方であった)。地中海とその周辺諸国がそれまで世界政治と世界貿易で占めていた地位は、これらの発見で弱められ、経済の重心、文化や精神活動の重心は、大西洋に面したヨーロッパの外縁国家へと移っていった。また、こうした地理的発見によって、閉鎖的・固定的であった中世の精神界が、一般の意識からわきへ押しやられてしまった。このことが、近代科学を生みだす新精神の形成に決定的に寄与したのである。
発見は地図法の革命をもたらした。そのなかでは、メルカトルが円筒図法を考案し、これにもとづいた航海者用地図を出版した(1569年)ことが注目される。
X 生物学と医学
16世紀ヨーロッパにおいて、生物学はどのような状態にあったのだろうか。また、医学はどのような発展をとげていったのだろうか。
16世紀の生物学は、本質的に単なる収集と記載以上にでなかった。この点では、植物学者のほうが動物学者よりも材料をひろく集めやすいという利点をもっていた。
医学の分野では、イスラムから流入してきた古代の知識が同化されて以降は、古代の権威こそが進歩を妨げる要因となってしまっていた。14、15世紀には、こうした状況を打開しようとする試みが多数登場してくるが、古いものに引導をわたすと同時に新しい道をも指示するという偉業をなしとげたのは、16世紀のパラケルススであった。パラケルスス(1493年〜1541年)は、医学における古い因習を投げ棄てて教師としての自然に帰った。彼は、新時代の哲学・宗教の潮流を受け入れて人間を神の創造した万物の似姿(大宇宙に照応する小宇宙)としてとらえるとともに、ヒポクラテスを再評価した。
アンドレウス・ヴェサリウス(1505年〜1564年)は、外科教授としてガレノスの解剖学を教えていたが、それに飽き足らず、全人体の解剖について自分で研究し記載するようになった。その成果は、『人体の構造について』としてまとめられ、1534年に出版された。
アンブロアズ・パレ(1517年〜1590年)は、銃傷の焼き清め法(火器の普及につれて銃傷の治療が外科学上の大問題として浮上してきていた)に終止符をうつなど、外傷や骨折の治療法全体を改革した。
サンクトリウス(1561年〜1636年)は、実験という新方法を医学的科学にもちこんだ。彼は、とくに物質代謝を問題にし、秤竿にぶら下げた椅子に自分で座って発汗による体重の減りが他の排出より大きいことを実証した。脈拍計、温度計を発明したことでも知られる。
Y 精神諸科学
1、イタリアの人文主義
14世紀にはじまったイタリアの人文主義の動きは、どのように展開していったのか。
ボッカチョに続く世代のイタリア人は、人文主義研究に大いに活気と熱を傾けた。ギリシャ語の教師として活動したクリェソラロス(1350年頃〜1415年)の弟子ブルーニ(1369年〜1444年)によって、プラトンやアリストテレスの著作がイタリア語に翻訳された。コンスタンティノポリスからイタリアに来たギリシャ学者プレトン(1360年頃〜1450年)は、メディチ家時代のフィレンツェに新しいプラトン・アカデミーを建てることを提唱した。
フィレンツェのボッジョ・ブラッチョリーニ(1380年〜1459年)は、古代を再び自分たちの精神財産としてとりこむべく、古代の手稿、碑文、胸像、貨幣を収集した。古代の著書を介して古代に精通していたフラヴィオ・ビオンド(1392年〜1436年)は、イタリア各地の遺跡を再発見して、この世界の見取り図を描いていった。人文学者の活動に強い関心を寄せた教皇も多かった。ピウスU世を名乗ったシルヴィウスはその代表的な例である。彼は晩年になっても古代の遺跡を訪ね、手紙のなかで古代ギリシャ・ローマの詩文と哲学を賛美している。
ロレンツォ・ヴァラ(1407年〜1457年)は、ヘロドトスとトゥキュディデスの著書をイタリア語に翻訳するとともに、独自の批判的な歴史的研究をおこなった。フィレンツェのプラトン・アカデミーの学長であったマルシリオ・フィチーノ(1433年〜1499年)の著書もまた、15世紀をつうじて、人文主義的教化が深みと同時に科学的正確さを増してきたことをあらわすものであるといってよい。
2、アルプス以北の人文主義
イタリアにはじまった人文主義の動きは、アルプス以北の国々へ及んでいく過程で、どのような様相をみせるようになっていったのか。
ドイツ、オランダの人文学者は、いっそうきちょうめんで、芸術と美よりは知識と教育に関心を注ぐことのほうが多かった。人文主義のもとにドイツの精神主義が高まっていったことは、新しい大学の開設が続いたことにも反映している。
これら新大学のひとつで教えていたヨハン・ロイヒリン(1455年〜1522年)は、ドイツにおける古典研究の草分けである。彼は、ラテン語、ギリシャ語に精通しており、ヘブライ語についても研究・教育をおこなった。
エラスムス(1465年〜1536年)は、『痴愚神礼賛』などで中世的精神の狭さ、聖職者の規律の逸脱、スコラ的学問の不毛、宗教の身売り、教条の束縛をあばき、これらと闘った。しかし、宗教改革のような根本的な激動に対しては懐疑的であり、ルターとはしだいに激しく対立するようになった。彼は、教条に縛られず倫理面を重視するような単純な宗教性を求めた点で、18世紀啓蒙思想の先駆ともいえる。こうした精神が勝利を収めるためには、自然科学と提携することが欠かせなかったのだが、エラスムス自身は自然科学の意義を認めていなかった。彼の科学活動の重点は、50以上にのぼる古代の著書について、翻訳・注釈を自分でやったり監督したりして出版したことにこそあった。また、ギリシャ語の発音について独自の新しい方式(エラスムス式発音)を考案した。
ルターの友人であったメランヒトン(フィリップ・シュバルツェルト、1497年〜1560年)は、ルターの活動を人文主義運動と統一し、ドイツの教養と教育の方向を長く決定づけた。彼はとりわけ歴史研究、歴史教育を重視した。
3、歴史記述
人文主義運動の展開は、歴史記述の分野にどのような影響をあたえたのだろうか。
精神運動としての人文主義は、過ぎた時代への愛着にみちて沈潜することによって、歴史的感覚をいちじるしく成長させた。もちろん、関心は特定の一時代のみに注がれていたわけであるが、人文主義者が古典に関心をよせ、発見活動・出版活動にはげんだおかげで、歴史を即物的に、また史料に即して扱うための前提条件がはじめて整ったのである。
a、イタリア――マキャヴェリとグィッチャルディーニ
フィレンツェ人のニコロ・マキャヴェリ(1469年〜1527年)は、歴史の現象について、自然を見るのと同様の見方、すなわち、事物の彼岸にあるもの、現象の超越的(先験的)意味や目的をせんさくしない見方で見ようとした。しかし、実際の政治活動に役立てる(歴史から学ぶ)という実用主義に終始し、政治史以外の領域は眼中になかった。彼は、イタリアを強大な民族国家にするという実際目的の追求から、政治を宗教的その他の束縛から解放したのである。記述的歴史家としてマキャヴェリと並べられるグィッチャルディーニ(1438年〜1540年)は、歴史思想家としてはマキャヴェリに及ばない。
b、ドイツ
16世紀ドイツには、歴史記述の分野では、イタリアやフランスほどに有名な人物がいないが、資料に忠実なヨハン・フィリップソン(1507年〜1556年)の宗教改革史、真に歴史的な研究の最初の記録文書とされた『マグデブルク百人集』などが注目される。
c、フランス――コミーヌ、ボダン
この時代のフランスの歴史にかんする記述としては、外交官フィリップ・ド・コミーヌ(1445年頃〜1509年)による『回想録』(15世紀後半のフランス史)と国法学者ジャン・ボダン(1530年〜1596年)による『歴史認識の簡易な方法』がある。ボダンは絶対主義の法理論(王権神授説)をあたえた。
4、法律学――ローマ法の継受
ローマ帝国を標榜していたドイツ帝国において、人文主義的風潮を背景に、1450年〜1550年にかけて、ローマ法(古代のものそのままではなく、13〜14世紀のイタリアの法律家によって解釈されたもの)の全面的・本格的な継受がなされた。 
17世紀の科学
 「第9章 普遍数学 / 17世紀」 

 

歴史的背景についての概説
15〜16世紀以降における近代科学の発展の歴史をどのような観点から捉えていくべきか。
15世紀に科学の新時代が始まって以来、科学は一本にまとまった過程として発展している。したがって、科学全体に通用する時代区分を行うことはできない。個々の科学ごとに別々に扱うことはできるが、これでは個々の専門分野の歴史をただ羅列するだけになって、各個別科学が相互にあたえた影響がとらえられず、全体の連関にかんする概観を得ることができない。たしかに個々の科学はまちまちのリズムで動くが、決して互いに孤立しているわけではなく、一般的な精神運動というものがあって、それがどの科学にも自分の特徴を刻み付けているのである。こうした流れについての概観を容易にするために、以下は世紀ごとに区分していくことにする。なぜならば、世紀ごとの区分は、暦によって定められるだけのまったく任意のものというわけではなく、それぞれの世紀において一般的な精神運動を牽引した“主導的なもの”が存在すると考えることができるからである。
このような観点からは、17世紀は新しい数学的・力学的認識理想が定式づけられて広がっていった時代として把握できるし、18世紀は“自然と理性”というモットーで考察できる。19世紀には(18世紀にすでに準備されていた)進化思想が生物学と精神諸科学で爆発した。これら3世紀間の科学活動は華々しいものであり、それに比べると本書の記述は隙間だらけになるが、一定の主導思想にもとづいて少数の実例を選ぶことで、近代科学の特性や努力やおもな方向について、結局は一つの印象を与えるはずである。
1、新しい認識理想
16〜17世紀に自然研究の領域において確立されてきた新しい認識理想とはどのようなものであったのか。
新しい認識理想に対応した新しい方法を適用した点で、その化身ともいえるのがガリレイである。フランシス・ベーコンが経験と実験を信頼するという面を押し出したものの数学の意義を認め損なってしまったのに対して、ガリレイは実験よりもむしろ数学こそが重要なのだと考えていたふしがある。自然は数学的に解釈できるし数学的に解釈されなければならないという確信こそが、実験することの前提となっていたのである。
こうした理想や方法を体系化したのはルネ・デカルト(1596年〜1650年)であった。彼は、哲学における矛盾と混乱に満ちた情況を打開するためには確実な認識方法が必要であると考え、次の規則を自分に課した。
第一、それ自体として判明に認識されないどんなものごとをも真であるとしないこと。
第二、検討しようとする各難点を、多数の部分に分けること。
第三、思惟を正しく順序づけること、すなわちもっとも単純でもっとも捉えやすい対象からはじめ、徐々にもっとも複雑なものの認識に至ること。
最後に、どこにも見落としがないと確信できるほど完全に枚挙し、包括的に再検討すること。
こうしたデカルトの思想は、数学の理想から多大な影響を受けたものであった。デカルトは、無条件の明晰さ、確実さを熱望し、数学の場合と同様に、明白に確定された少数の原理や公理からすべてを演繹できるはずの科学を理想としたのである。
こうした思想は、生命の科学や精神的科学に対しても影響を与えていくことになった。これらの科学は当時、このような魅惑的な認識理想をもちあわせず、また確実であり成果を約束してくれる手続きを持たなかったため、この新理想を採用しはじめたのである。
しかし、この新理想は、ヨーロッパ人の世界観と生命観に重大な問題を提起するものでもあった。デカルトは思惟と延長(広がり)という二重の“実体”(デカルトの定義によれば、その存在のために他の何ものをも必要としないところのもの)の存在を主張したが、この両者が互いにどんな関係にあるかというのが容易に解決できない難問だったのである。これは、人間における肉体と精神(霊魂)の関係、また“実在”するものと人間の認識との関係の問題につながる。こうした問題を提起したという意味で、デカルトは“近代哲学の父”なのである。
2、新しい認識問題
デカルト以来提起されてきた新しい認識問題とは、どのようなものであったのか。
どんな自然物も、二種のまったく異なる面から問題にすることができる。一方は、何のためにそこにあるかという問題であり、もう一方は、それは何からなっているか、どんなふうにできており、どんな法則に従って行動するかという問題である。中世の思想では、第一の問いが優位を占めていた。これは、すべてを創造主たる神の意志に結びつけることで、比較的心の休まる閉鎖的宇宙観を可能としたが、われわれが対象を支配しようと企てる場合には、無力であった。このため、ケプラーやガリレイたちは、重点を第二の問いに移していくことになった。ここから、完全に精密な、量的な問いを発することが必要とされるようになっていったのであり、数学を自然に適用しなければならなくなっていったのである。この作業は、自然は数学的法則に従うという確信のもとに遂行されていくことになった。
このことは、“自然の内奥”に迫る正しい道が発見され、自然の本来の真の姿を捉えることが可能になったとの確信を呼び起こすと同時に、こうした方法によって得られた科学的知識がなぜ一つの知識となり得るのか、世界に対してどんな実際上の関係を持っているのかという重大な問題を提起するものであった。われわれの感覚が日々知覚しているこの世界の姿と、数学的自然科学の描くもうひとつの世界の姿とが、大きくかけ離れてしまっていることが、大問題として浮上してきたのである。ここから、人間の悟性の認識能力を検証する試みが行われるようになった。ジョン・ロックの著作はこの問題を解明しようとした一連の企てである。彼は、生得の観念などはなく、人間の精神は一片の白紙のようなものであると考え、すべてが経験を通して入り込むのであり、経験の入り込みうる唯一の通路は感覚であると主張した。ロックの提起は、感覚的経験に重点を移すものであったが、これはさらに、感覚的印象から出発して精神の中に築き上げられた体系は、実在の世界と何らかの関わりを持っているのか、という新たな問いを提起するものであった。こうした問題にバークリーやヒュームが取り組んだが、その間にも、感覚が描く世界の姿と数学的自然科学の描くもうひとつの世界の姿との溝はますます大きくなっていくようにみえた。しかし、ニュートン力学の形成など数学的自然科学がもたらした豊かの実りは、その基礎がゆるぎないものであることを確証しているようであった。こうした情況のもと、一方ではヒュームの論証から、他方ではニュートンの世界から印象を受けて一応の解決をみいだしたのがイマヌエル・カント(1724年〜1804年)であった。 
T 数学
17世紀の数学におけるもっとも重要な事件は解析幾何学の発見と微分積分法の発見であった。これらの発見はもともとどのような問題に関係していたのであろうか。また、これらの発見は、どのような方向に解決を見いだし、どのような成果をあげたのであろうか。
解析幾何学の根本思想は、デカルトが『方法序説』と並んで発表した『幾何学』に含まれていた。解析幾何学の本質は“幾何学の代数化”である。デカルトは、平面図形であれ立体図形であれ、方程式によって表現できることを明らかにし、幾何学の命題を計算から発見し証明する一般的な方法を発見したのである。代数方程式と幾何図形との間の明白な関係がつかまれたことは、数学者たちにとって比類のない利器の出現を意味していた。
一方、微分積分法への接近は3つの角度からなされた。1つは物理学、正確には力学である。力学は時間とともに変動する量を扱わねばならない。等速度運動ならば簡単な手段で数学的に処理できるが、変動する速度となると複雑になる。ここを扱うための一般的な方法が求められたのである。もう1つは、接線問題である。曲線の方程式が与えられている場合、各点での接線を計算できるような一般式、方向の法則といったようなものが存在するか、逆にこの法則がわかっているとした場合、原曲線の方程式をそれから手に入れることができるか、という問題である。残る1つは求積問題(曲線で囲まれた面積あるいは曲面で囲まれた体積の計算の問題)である。ケプラーは酒樽の容積をどうやって求めるかという問題に取り組んだが、これに刺激を受けたイェズス会の僧ボナヴェントゥラ・カヴァリエリ(1598年〜1647年)は、求積問題にさらに深く切り込んだ。彼は、面積は無限にたくさんの平行な線分の集団であり、体積は無限にたくさんの平行な平面図形の集団である、との着想を得た。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646年〜1716年)は、1673年に接線問題と求積問題の直接の連関を認め、1675年には微分積分法を発見、1684年に発表した。アイザック・ニュートン(1642年〜1727年)は、ライプニッツとは独立に、力学(より正確には運動論)から出発して、1665年に微分法を、1666年に積分法を発見したが、これは1704年になるまで発表されなかった。ライプニッツとニュートンの間では激烈な先取権争いが行われたが、ライプニッツの考え方のほうが一般性があり、表記の仕方も優れていた。この微分積分法の発見は、数学どころか精密自然科学にまで有力な武器を授けるものであった。時間や空間のなかを連続的に流れている現象を捉えるための数学的手段がついに手にはいったのである。
U 天文学
17世紀において、天文学はどのような情況であったか。
まず、観測機器の改良によって、新しい領域、新しい不思議が開けたことがあげられる。クリスティアン・ホイヘンス(1629年〜1695年)は、みずからレンズ磨きの術を習って改良を加えた望遠鏡により、ガリレイ以来、土星の2つの衛星と思われていたものが、輪にほかならないことを確認した(1655年)。こうして、球形をしていない天体が宇宙に発見されたのである。その後まもなくして、ジョヴァンニ・カッシニ(1625年〜1712年)によって、この輪が2つの部分からなることが確認された。カッシニは、17世紀の天観測上ぬきんでた地位を占める存在であり、精密な天文観測によって太陽系全体の大きさをかなり正確に計算した。
精密な天文観測は、光速度の測定も可能にした。ガリレイが発見した木星の衛星は、一周するたびに、太陽と反対側の空間に木星が作っている円錐形の影に入る。この衛星の食は一種の時計として、航海中の船の位置定めに利用されていた。ところが、オラウス・レーマー(1644年〜1710年)が精密に観測したところ、実際の食が想定される時刻より早すぎたり遅すぎたりすることがわかったのである。彼は、このズレについて、地球の公転にともなって木星との距離が短くなったり長くなったりすることにより、衛星からの光が地球にまで到達するのにかかる時間が変わるからだと考えた。レーマーは、このズレと地球の公転軌道の直径から光の速度を算定し、毎秒30万km以上という数値を得たのである。
天空の運動を地上の運動と同じ法則で律しようとした試みとしては、デカルトの渦動説がある。これは、感覚器官に知覚されるのとは別種の“原初的物質”の微小粒子が天空に満ちており、これがうず巻き状態で太陽の周囲を回転することで、周囲の惑星もまわるのだという説である。詳細な点については、ケプラーの惑星運動の量的法則と合致しなかったが、広く信じられていた。
V 物理学と化学
1、万有引力――ニュートン
科学史上の最大の人物の一人だといえるニュートンは、どういう問題にとりくんで、どういう成果をあげたのか。
彼が生涯をかけて取り組んだのは、微積分法・色の理論・重力理論と惑星運行への適用という問題である。彼は、これらの問題を若干24歳で提出し、概ねそれらを解いてしまった。
3つ目の問題に関しては、それまでにコペルニクスによって惑星が太陽の周囲を回っていることが示され、ケプラーによって惑星の軌道が楕円であることが認められていたが、どんな力が惑星や月を回転させるのか、なぜ楕円軌道上を動くのかという問題が残っていた。ニュートンは、落ちる物体を地上に引き寄せるのと同じ力が引いているために、月は空間の中にまっすぐ飛びださずに地球の周囲の軌道に引きとめられているのではないか、同じように惑星は太陽に引きつけられているために太陽のまわりをまわるのではないか、と考えた。彼は月の速度と地上の落下速度を計算することで、“かなりよく”合う結果を得た。同じ頃、ボレリやロバート・フック(1635年〜1697年)も同じ問題に取り組んでいた。フックは、万有引力が支配していること、物体は他の力によって曲げられぬ限り直進し続けること、引力は遠ざかるとともに減っていくこと(どんな関係で減るかには触れられなかった)の3つの原則から、惑星の動きを説明しようとした。ニュートンは、重力が距離の逆二乗の法則に従って減ること、それによって惑星の軌道が楕円になることが説明できることをまとめて『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』を執筆した(1687年)。
『プリンキピア』は3部構成になっており、初めの2部は一般命題を提出し、第3部ではこれらの命題を宇宙系へ適用している。これは、17世紀の数学的認識理想によって築き上げられた壮大な構築物であった。ニュートンにより、地上の物体も宇宙の物体も同じ法則に従って動くことが明らかとなり、はるかな宇宙の秘密を地上の研究を通じて探り当てる道が開けたのである。しかし、こうした成功の裏には、本質的なものへの問いを打ち切ってしまうという面があった。例えば、彼は質量に関して明確な概念規定をしていない。空間、時間、位置、運動といった全体の土台をなす根本概念についても、証明する必要のない自明の前提として出発点におかれているのである。
2、光学
17世紀には、それまでの幾何光学(光の直進、反射、屈折を律する数学的法則を研究するもの)にくわえて、物理光学も現れてきた。その中心題目は、光の伝達速度、色の本性、光そのものの本性であった。
光の本性の問題をはじめて決定的に前進させたのは、イエズス界のフランチェスコ・グリマルディ(1618年〜1663年)であった。彼は、一連の実験をつうじて光は波動であると考えるようになった。
ニュートンは、望遠鏡の視野に現れる虹色の光の輪を消すために研究を進めていた(彼はプリズムの実験から、太陽の白色光は7色を基本成分としていてそれ以上分解できないこと、それぞれ種類の光はそれぞれ違う程度に屈折することを明らかにした)が、光の本性という問題については、粒子説と波動説のどちらにも与せず、知られている現象の全てを説明するにはどちらの立場も不充分だという見解を持っていた。彼は、小さな粒子としての光が“エーテル”中に波動を引き起こす、と考えたようである。
クリスティアン・ホイヘンス(1629年〜1695年)は、『光についての論述』(1690年)で、あらゆる光現象について、光る物体が媒質(エーテル)に生じさせる規則的振動の広がりとして説明できることを示した。
3、ガス
気体は扱うことが難しいため、科学的研究は立ち後れていた。それでは、気体に関する科学的な研究は、どのようにその歩みを開始したのであろうか。
空気以外の気体の存在を認め、“ガス”という新語を創造することによって気体についての科学的研究を創始したのはファン・ヘルモント(1577年〜1644年)であったが、この分野でも精密な定量研究の口火を切ったのはガリレイであった。彼は、実験によって空気が重さを持つことを示したのである。しかし、彼にも解けない問題があった。トスカナ大公が、深さ40フィートの井戸から水をポンプで吸い上げようとしても、水は地下6フィートばかりから上がらなかった。相談を持ちかけられたガリレイには、それがなぜなのか見当がつかなかったのである。
この問題を解決したのがエヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608年〜1647年)であった。彼は、一端を封じた肉厚のガラス管に水銀を満たし、口の空いたほうの端を親指で押さえながら水銀の満ちた皿に浸し、指を離して口を開くという実験を企てた。すると、ガラス管内の水銀は、ある一定点までしか落ちてこなかった。ここから、“真空”がありうること、水銀の柱と釣り合いを保つのが大気圧であることが証明されたのである。水銀より軽い水を使えば、その柱はこれに応じてかなり高くならざるをえないこと、しかし40フィートまでは上らないことを示して、ポンプの“拒否”について説明した。トリチェリの実験を受けて、ブレーズ・パスカル(1623年〜1662年)は、大気圧が変わるにつれて柱の高さも変わるはずだと考え、山を登ると柱が低くなり下ると再び上昇することを確認した。
トリチェリやパスカルの実験とは独立に、オットー・フォン・ゲーリケ(1602年〜1686年)は有名な一連の実験を行った。彼は惑星は真空の中を動いているはずだと考え、真空を自分で作り出してみようと考えたのである。とくに有名なのは、“マグデブルクの半球”である。半径ほぼ半メートルほどの2個の半球を重ねあわせて、そこから自身の発明した空気ポンプで空気を抜いて中身を“真空”にしたのである。この両半球を引き離すには、両側から8頭ずつの馬が引く必要があった。ロバート・ボイルと助手のフックは、この空気ポンプの助けを借りて空気の重さや弾性についての研究をすすめ、気体が占める体積は―温度が一定なら―加えられる圧力に反比例するという法則を発見した。
4、物質の構造
17世紀における物質観とはどのようなものであったのか。
17世紀には、古代に展開されたものの中世ではほとんど問題にされなかった原子説(アリストテレス流の四元素説の陰に隠れていた)が復活の兆しをみせてきた。この説は、数学的に自然を説明しようという要求にかなうものと思われたのである。この説の再発見者として第一にあげられてよいのは、ピエール・ガッサンディ(1592年〜1655年)である。彼はあらゆる物質は原子からなり、原子以外には真空しかないと主張した。さらに、固体・液体・気体という三つの凝集状態について、原子の観念に立ちつつ、原理としては正しい推測を与えた。ガッサンディに限らず、17世紀の自然の大研究者たちは大半が原子説に傾いていた。とりわけ、ニュートンが原子間に作用する諸力についても言及していることが注目される。こうした人物の念頭にあったのは、あらゆる自然現象を、原子の運動と、原子から生じあるいはそれに作用を及ぼす力とに帰してしまう一つの理論を組み立てるという理想だった。
5、ボイル――科学的化学の初め
科学的な化学はどのようにして生成し、発展の歩みをすすめていくことになったのか。
やがて化学とよばれることになる領域において、古代から16世紀まで、人類は多くの知識を蓄積してきた。しかし、17世紀の初めには、化学には、行動予定表や出発点となる仮説、前進可能な方向を教えるようなものなど何もなかった。これをあたえたのがロバート・ボイル(1627年〜1691年)であった。彼はアリストテレスの四元素説や錬金術に懐疑を示し、それ以上分解できないもっとも単一で完全に均質な物質こそが元素なのだと考えた。彼は、元素を探せ、ただし実験によって探せ! との号令をかけた。ボイル自身、空気の研究のなかで、空気は呼吸や燃焼に必要な活性成分と他の成分の混合物であることを発見し、酸素の単離にも事実上成功した。
W 生物学=顕微鏡家たち
17世紀において、生物学の分野ではどのような発展がみられたか。
17世紀生物学におけるもっとも重要な成果は顕微鏡の発明によってもたらされた。顕微鏡が生体物質の研究に対してもつ意義をはじめて述べたのは、ロバート・フック(1635年〜1697年)である。彼は細胞そのものを発見し“細胞”という語そのものを初めて使った。アントン・ヴァン・レーウェンフック(1632年〜1723年)は、全生涯を顕微鏡による研究に打ち込んだ。細菌や原生動物を初めて発見したのは彼である。ヤン・スヴァンメルダム(1637年〜1680年)は、顕微鏡を使った昆虫の研究に全力を注ぎ、未分化な有機物質の内容物が入っているだけだと考えられていた昆虫の体内に複雑な構造が存在していることを示した。また、こうした小生物たちが生命のない物質が腐ったところから生じてくるという偏見を覆した。フランチェスコ・レディ(1626年〜1698年)も、肉の中にウジが生じるのはハエを肉から遠ざけておかない場合に限られることを実験で証明した。しかし、自然発生説の息の根は19世紀になるまで完全には止められなかった。マルチェロ・マルピーギ(1628年〜1694年)は、組織学の開祖であり、赤血球を発見し、皮膚の各層をも発見した。また動植物の胚や、分泌線の構造についても研究している。これらは医学に大きく寄与するものとなった。
X 医学
17世紀における医学はどのような状態にあったのか。
数学的・力学的な認識理想は、医学の分野においても認められる。生物体の機能を機械として理解し、物理や化学の法則からこれを導き出そうとするようになったのである。イアトロ物理学(医学に物理学を取り入れようとするもの)およびイアトロ化学(医学に化学を取り入れようとするもの)はここから誕生した。前者の先覚者はサンクトリウス、後者はシルヴィウスである。
ウィリアム・ハーヴェイ(1578年〜1657年)は、このどちらの学派にも入らない。けれども、彼は生物体の機能にも数学的原理を適用することで、画期的な発見に成功した。当時、血管中の血液の動きについては、血管中の血液の拍動を血液の律動的な往復であるとするガレノスの古い誤った考えが抱かれていた。しかし、ハーヴェイは、静脈が血液を一方向にしか通し得ないような構造をしていることからこれに疑問を抱き、血液の流れについての量的な検討を通じて、血液循環説を唱えるに至った。ハーヴェイ自身は、血液が毛細血管を通って動脈から静脈に移ることは見ることができなかったが、マルピーギが顕微鏡によってこれを確認した。
こうした物理学的・化学的なものの見方が広まると、各人の病気を認知しこれをなおすという医術の主眼目が失われる危険があった。臨床医家たちはこの危険に対抗した。トマス・シデナム(1624年〜1689年)は、個々の病気の病状を各時期に認知することを重視し、症状をこれらの時期に応じて区分した。また比較的簡単な薬剤を使って、病人の肉体が病気を相手にして行う自然な防護戦をもりたてようとした。17世紀の医者の身分は大きく4つに分けられる。最高位にあったのは、正規の医学を学んだ後に大学から医術実施の免許を受けた純医家である。少し職人的な性格を帯びる事項、ことに外科作業は外科医にゆだねられた。理髪医になると、さらに評価が落ちる“下級の外科医”だった。これ以外にも多数の自称医家がいた。大学での医学講義は旧態依然たるもので、ガレノスとアヴィケンナがあいかわらず権威であった。しかし、しだいに臨床訓練が実行されるようになり、定期的な臨床講義の体裁も整ってきた。
Y 地理学
17世紀において、ヨーロッパの人々の地理的視野はどのように広がり、また地理学はどのような発展を遂げていったのか。
17世紀の焦点は、プトレマイオス以来その存在が信じられていた南方大陸(南極を取り囲み、温帯や熱帯まで続いていると信じられていた)を探訪することだった。最初にこの問題を解明しようとしたのはスペイン人だった。1545年にはニューギニアが発見され、その後も太平洋でいくつもの島が発見された。1602年にオランダの東インド会社が設けられると、オランダ人が指導的役割を演じるようになった。この結果、南の大陸という信仰はかえりみられざるをえなくなった。もし南方大陸なるものが存在するにしても、それほど北にまで続いているものでないことがあきらかになってきたのである。
地理学者は地理的発見の成果を縦横に活用した。16世紀以降、見知らぬ国についての珍談奇聞から脱皮し、西欧の地理学に理論的基礎を与えようという動きが始まってきたのである。アピアヌス(『世界〔地理〕学』1524年)においては数学と測量が地理学の全てであったが、セヴァンティア・ミュンスター(1489年〜1552年)は国土や住民の記載に重点をおいた。ここですでに数理地理学と政治地理学の分離がはじまっていたわけである。さらに17世紀にはフィリップ・クリューヴァーにより歴史地理学が始まった。ベルンハルト・ヴァレン(1622年〜1650年)は、地球を全体として扱う一般地理学と個々の国土を扱う個別地理学とを区別した。さらに、一般地理学を絶対的(地形の問題)、相対的(経緯度、気候帯など)、比較的(地勢など)の3つに区分した。
Z 精神諸科学
1、人間の科学という理想
新しい認識理想は、精神諸科学に対してはどのような影響を与えたのか。
数学に模範を求めようとする姿勢は、精神諸科学の領域においてもみられた。しかし、こうした姿勢には、一面的で抽象的=演繹的な性格をもつという陰の部分があった事を見逃すわけにはいかない。自然科学者は実験家でもあったから、その誤りはある程度まで矯正された。しかし、精神科学の場合は、実験的方法が自然科学の分野よりも利用しにくく、広く行き渡らせることができないために、この方法による矯正がきかず、永遠不動の確実な少数の定理から出発して完結した体系を築きあげることができると素朴に信じられてしまう傾向があった。しかし、数学的な科学理念により、人間についての科学という表現や概念が初めて誕生することになったことは、重要な前進であったということができる。これは、つづく18世紀になってから、さらに広く展開されていくことになった。人間性そのものについての科学と人類の精神活動や社会活動の全分野についての科学を建設しようとする努力がなされるようになったのである。ここで重要な役割を果たしたのは、トマス・ホッブズ(1588年〜1679年)とジョン・ロック(1632年〜1704年)であった。
ホッブズは、力学的で数学的な自然解釈の方法を哲学と科学との全分野に一貫して適用しようと企てた最初の人である。彼の目的は“社会の物理学”であった。彼は、自己観察の結果、空間的な世界では物質的な物体とその運動のみが唯一の実在であり、これが人間の精神へ働きかける唯一の道は感覚器官との物的触れあいであると考えた。さらに彼は、こうして得られた感覚が物体のように結びつきあうことによって概念が生まれるとし、この観念連合の法則を力学的に捉えようとしたのである。観念連合の説は、その後200年にわたり、デカルトやニュートン流の自然解釈にぴったり対応する説として影響力を保ち、合理的な心理学の基礎となった。18世紀において重要な役割を演ずることになった社会契約の理念も、ホッブズが打ち立てたものである。ホッブズは自然状態の人間を一個の肉食獣のようなものだとし、自然状態にある社会では“万民の万人に対する闘い”が人類を支配すると考えた。社会生活を営むためには、破壊的な衝動を束縛する権力が必要となる。そこで、各個人は自決権を1つのものに譲り渡して、国家が成立したのだ、とホッブズは主張した。
ロックもホッブズと同様に、人間の本性や人類社会についての合理的科学という理念に貫かれていた。ロックはホッブズの思想に考察を加え、それを普及させたが、認識論において経験主義の代表者であったこと、立憲制をかかげる政治理論家であったこと、合理的なものの見方を主唱して宗教を根拠づけたり守ったりするために闘った点で、独自の意義をもっている。こうした意義は非常に大きく、ロックはニュートンと並んで、つづく18世紀にとってもっとも重要な教師となったということができる。この2人は、これまでの事実や理論を完結させるとともに、将来の科学が展開すべき方向を指し示したのである。
2、歴史記述
17世紀における歴史記述は、どのような特徴をもっていたのか。
端的には、資料を正確に処理し、活用しようとする努力が払われたことが指摘できる。フランスのアンドレ・デュシヌ(1584年〜1640年)やベネディクト会修道士たちは、芸術的に表現しようとするあまり生じてくる歴史の偽造に反対し、衒学的な忠実さで古文書を次々と発掘し、原典を正確に確認して膨大な辞典式の資料集にまとめる仕事にとりかかった。
『ブラウンシュバイク侯国史』を著したライプニッツもまた、資料の一句一画にも忠実であることを最も価値あることとし、歴史的な古文書には訂正を加えたりせず発見したままの姿で印刷せねばならないと強く主張したが、資料を相互に深く関連づけながら批判的に評価し整頓した点では、フランスの歴史家たちよりも優っていた。イタリアでは、ルドヴィーコ・アントニヨ・ムラトーリ(1672年〜1750年)が、イタリア中世の研究において、歴史編纂の歴史において、大きな業績を残した。
3、法学
17世紀において、法学はどのような状態にあったのか。
まず重要なのは、16世紀に形成されはじめた自然法の理念が十分な高さに達したことである。これは、つづく18世紀には法思想の全体を支配するに至る。自然法の理念そのものは古代ギリシャに起源をもっている(本稿の連載第5回を参照)が、これを世界史に影響を及ぼすような形で初めて打ち出したのはローマ人だった。ローマ帝国の拡大の過程で、それまで独自の法律をもっていた異民族をいかなる法によって支配すべきかという問題に直面したことが、人類の生活を支配する自然な法があるはずだとの観念を生みだすことになったわけである。16世紀以降に自然法の理念が復活してきたことについては、中世の普遍的秩序が解体していくなかで、諸々の主権国家の利害にもとづいた行動を律する法原理が必要とされたという事情を指摘することができる。また、基本的原理から具体的な法を導きだすという演繹的な発想をもっていたという点で、自然科学における数学的認識との間に密接で本質的なつながりを指摘することもできる。
自然法理念の先駆者としてはヨハン・オルデンドルプ(1480年〜1567年)の名があげられる。彼はアリストテレスに範を求めると同時にルター=神教的な動機にも貫かれて、“公正さ”について論じた。ヨハン・アルトハウス(1557年〜1638年)は、政治学を合理的な事実科学として基礎づけ、政治学を倫理学や法学から明確に区別しようとした。彼は、マキャヴェリやボダンと同様に国家の至上権を説いたが、彼らとは異なり、この権力は国民から分離しえぬ(一人の帝王に帰属させられない)と主張した。
フーゴ・グロティウス(1538年〜1645年)は、『海洋自由論』(1609年)や『戦争と平和の法について』(1625年)といった著作によって近代国際法の創始者とみなされている。彼は、人類は神によって与えられた理性によって共同生活には秩序が必要であることを教えられるのであり、その秩序にかかわる原理のエッセンスが自然法(成文化された法律制度の上にある一般的で普遍的な原理)にほかならないのだ、とした。この自然法の原則を個人関係だけではなく国家の関係にも適用した点に、グロティウスの歴史的意義があるわけである。
17世紀ドイツにおいて科学的な自然法を代表したのは、サムエル・フォン・プーフェンドルフ(1632年〜1694年)であった。彼については、法律論のなかでデカルトの幾何学的方法を正面から取り上げたことが注目される。 
17世紀までの科学史の総括と18世紀以降の展開への展望 

 

エジプトやバビロニアなど古代オリエントの大帝国は、国家を統治の必要性に規定されて、土地の測量や建築にかかわっての幾何、暦を定めるための天文観測など、実際的な知識を蓄積していきました。しかし、それらは、あくまでも個別的な事例にかかわってのものでしかなく、個別的に観察され記録された諸事実を体系的に解釈したり研究したりして、それらの間に存在するかもしれない相互連関をたぐりだそうとする要求は、まだ生じていませんでした。
古代オリエントにおいて蓄積された知識を学びながらも、個別的な事例を超えた普遍的な法則性に着目していくようになっていったのがギリシャ人でした。その背景としては、古代ギリシャ人たちが、交易をつうじて富を蓄積し、また奴隷制を土台にして生産的労働から解放されて精神的な余裕をもつようになったことや、言語・風習・宗教観などの異なる他民族と深く接触したことによって、硬直した宗教的伝統・習俗から脱するようになっていたことがあったものと思われます。古代ギリシャにおいては、諸科学が哲学から分化しきってしまうことはありませんでしたが、知識の素材が増えていくとともに個々の分野のゆるやかな自立は進行していきました。こうした知識を集大成したのが、アリストテレスでした。彼は、感覚器官が媒介する個別的な事象こそ真実の存在であるとして重視した点で、個々の事物はイデアの影にすぎないとみなしていた師プラトンと対照的な立場をとりました。
さて、古代ギリシャが衰退したのち、アレクサンドロス大王の征服事業をつうじて、ギリシャ文明とオリエント文明との相互浸透がすすみ、いわゆるヘレニズムの文化が築かれていくことになります。アレクサンドロス大王によって築かれた大帝国は、後継者たちの争いのなかでいくつかに分裂していきましたが、エジプトを支配したプトレマイオスは、国家経済の発展に力を尽くすとともに、学術の振興にも力を注ぎました。ナイルの下流に開かれた都市アレクサンドリアは、ムセイオン(大図書館を備えた研究施設。文学、天文学、数学、医学の4部門からなっていた)を擁し、科学の中心地として大きな影響力をもったのです。この時代には、哲学から個別の諸科学が独立し、個別の素材に対する科学的な仕事の技術が問題にされるようになってきました。こうした過程には、ギリシャ人たちが実際的な下地をもつエジプト人などと接触したことが大きく影響したといえます。やがて、小都市国家から発展したローマが、地中海世界の覇者として飛躍してくることになります。ローマ人は科学にたいしては限られた関心しか払いませんでしたが、ローマ帝国の建設と経営にかかわる分野、たとえば戦争や建築にかかわる技術、法律、歴史記述、地理、医学などでは、独自の素晴らしい成果をあげました。
古代ギリシャの科学は、さらにイスラムの大帝国へと継承されていきます。イスラム帝国は、8世紀には中央アジアからスペインまでを支配下におくことになりますが、この過程で、ペルシャ人、インド人、中国人、エジプト人、ユダヤ人など“異教徒”との接触をつうじて、さまざまな知識と教養がイスラム精神のなかに流れ込んでいきました。そのなかでとりわけ重要な位置を占めていたのが、古代ギリシャの遺産だったのです。すでに850年ごろには、入手可能なギリシャの著作がほとんどアラビア語に翻訳されていました。
一方、その頃の西欧の人々は、民族大移動と西ローマ帝国の崩壊以降に続いた混乱のなかで、ともかく土地を耕し、しっかりした社会組織を築くという実際的課題で手いっぱいの状態でした。西欧中世の思想は、キリスト教の決定的な影響のもとにありました。いわゆるスコラ哲学は、すべてのうちに神の創造をみようとし、あらゆる個物が世界全一体のなかでそれぞれの目的をもって存在していると考え、この目的を追究しようとするものだったのです。しかし、12世紀になって、経済的・社会的な発展とともにイスラムとの接触がおこなわれ、イスラムから古代ギリシャの遺産が大量に流れ込んできたことが、西欧の精神活動を大きく高揚させていくことになります。その過程で、信仰と理性の関係について様々な論争がたたかわされるようになり、結局はアリストテレスが教えたような見方、つまり何よりもまず現実そのものに目を向けるという見方が優勢になることによって、中世の認識理想が大きく揺らぎはじめることになったのでした。
15〜16世紀になると、国内商業やオリエント貿易による富の蓄積、貨幣経済と貿易経済の発展によって、中世的な社会秩序と経済秩序が大きく揺らぎはじめます。これに対応して、全世界にまたがる一大帝国という理念(“神聖ローマ帝国”なるものが存在していました)は衰退し、若い民族国家、連邦制の国家権力が成長してきました。同時に、教会の権力と世俗的な権力とが理想的に結びつくという理念も衰退し、この両者は分離していくことになったのです。このことは、信仰と知識との分離を決定的なものとしました。いわゆる普遍論争(普遍的なものは実在するのか、それとも単なる名称にすぎないのか、という問題をめぐる論争)においては、普遍は単なる名称であるとする唯名論が普遍実在論(実念論)にたいして勝利を収めたのですが、これは、近代科学の成立にとって最も重要な前提条件の一つとなるものでした。この時代の西欧精神における注目すべき二大運動として宗教改革とルネサンス(人文主義)があります。これらは、スコラ哲学の権威、中世の全世界に反対したという点で、近代科学の発展を利した一方、新しい権威(宗教改革の場合は聖書、人文主義では古代の著作)をむぞうさにもちこんで古い権威の代わりに据えたという点では、近代科学の発展を阻害する役割も果たしました。ようするに、近代の自然科学は、この両者によって推進されたり阻害されたりしながら独自の道を開拓していった“第三勢力”だったと捉えるべきなのです。一方で、精神諸科学については、人文主義者によって直接に推進されたということができます。この時代、精神生活の変革にとって、決定的な意義を持ったのが、1450年ごろに発明された印刷術でした。本がふえて安価になったことで、新しい思想、科学上の発見の普及が大きく促進されることになったのです。
このようにしてスタートした近代自然科学の精神は、17世紀にかけて明確な姿をあらわしてくるようになります。どんな自然物も、二種のまったく異なる面から問題にすることができます。一方は、何のためにそこにあるかという問題であり、もう一方は、それは何からなっているか、どんなふうにできており、どんな法則に従って行動するかという問題です。中世の思想では、第一の問いが優位を占めていました。これは、すべてを創造主たる神の意志に結びつけることで、比較的心の休まる閉鎖的な宇宙観を可能としていましたが、われわれが対象を支配しようと企てる場合には無力でした。このため、ケプラーやガリレイたちは、重点を第二の問いに移していくことになりました。ここから、完全に精密な、量的な問いを発することが必要とされるようになっていったのであり、数学を自然に適用しなければならなくなっていったのでした。この作業は、自然は数学的法則に従うという確信のもとに遂行されていくことになりました。こうして、17世紀において新しい数学的・力学的認識理想が明確に定式づけられ、これが自然科学の諸分野のみならず、精神科学の諸分野にも大きな影響を与えていく(ここではじめて人間についても科学が成立しうるという信念が確立された)ことになったのでした。
以上、本稿で紹介してきた古代から17世紀までの科学の歴史をざっと振り返ってみました。
この後、啓蒙の世紀といわれる18世紀においては、“自然と理性”というモットーが大きく掲げられていくことになります。自然の合理的秩序が発見され、人間の理性がもっている能力への確信が芽生えたのが17世紀であるとすれば、自然的なものと理性的なものの一致ということについての確信が揺るぎないものとして定着し、実際にその路線にしたがって各分野で大きな成果が次々とあげられていくのが18世紀だということができるでしょう。しかし、19世紀になると、資本制経済の発展につれて様々なレベルで社会的矛盾が激化してくるのにしたがって、理性主義は大きな疑問符を突きつけられることになります。ここから理性主義的な要素が後退して経験主義的な要素が大きな力をもってくるようになり、著しい細分化の傾向が支配的なものになっていくのです。一方、激動の社会情勢にも刺激されながら、18世紀にすでに準備されていた進化思想が生物学と精神諸科学で爆発していったことも重要です。 
 
身体をめぐる断章 内臓 / 人体のモノ化

 

内臓という意匠
16世紀スペインの解剖学者フアン・デ・バルベルデの医書に、甲冑と内臓を描いた挿絵がある(図1)。いわゆる剥皮人体の一種だが、トルソとして寸断された人体胴部が甲冑をまとい、内臓はあたかも甲冑の装飾と化してしまっているところが意表をつく。内臓の意匠とでも呼ぶべき作品だ。ときは近代解剖学の黎明期。バロックの奇想が解剖学書に思いがけない内臓の華を咲かせたというべきであろうか。
バルベルデ(1525−87)は、アンドレアス・ヴェサリウスが著した解剖学の金字塔『人体の構造について』を縮小したスペイン語版を1556年にローマで出版し、原書の挿絵3分の2を借用して、かつ訂正修正すべき箇所を指摘した。版型が小さく、簡潔にして平易な日常語を使ってコンパクトな解剖手引書に徹した同書は大きな人気を博し、イタリア語、ラテン語、オランダ語に翻訳されて15版を重ねるベストセラーとなった。
当然ながらヴェサリウスは、この後継者の成功を愉快には思わなかったらしい。彼はバルベルデを、解剖はおろか医学と基礎知識に無知で、金儲けのためにスペイン語で解説した、と酷評している。さらにバルベルデの師でヴェサリウスに師事したレアルド・コロンボも「バルベルデは無教養で生半可な人物であり、私からわずかな解剖学の知識を得たに過ぎない」と嘆いているが、本人は解剖学の祖ヴェサリウスに多大な敬意を払って追従しながら、独自のバロック的意匠を盛り込んで、解剖学書挿絵の新境地を開拓したのである。 
まずは内臓から
さて、西欧中世の医学は、アラブを経て12世紀に移入されたギリシア・ローマ医学を継承し発展していったのであるが、死体を不浄とみなす古代以来の見方は、医学の諸分野の中でも解剖学の発達に少なからぬ影響を与えたと思われる。何となれば、解剖学は死体がなければ実習や研究ができないからだ。現代では死後の自分の死体を解剖学実習のために提供することを生前に契約する献体のシステムがあり、さらに今では、献体された死体を半恒久的に保存するための処置をほどこし、そうした死体の各部分を自在に取り出して見本や研究材料にできる、ドイツで開発されたプラスティネーションという技術があることをご存知の人も多いであろう。しかし、誰しも自分の身体が、死後ばらばらにされるのを潔しとするには相当の覚悟がいる。そもそもプラスティネーションは、解剖用に献体する人の数がけっして多くはないために考案された苦肉の人体見本なのである。
死体に対する不浄観から、古代医学移入以降のヨーロッパでも数世紀にわたって解剖学者が直に執刀することはなく、より身分の低い執刀師に解剖させるのが常であった。さらに解剖される人体は罪人のものに限られ、処刑された死体が、各地に誕生し始めた大学医学部の所有するところとなった。絞首刑などに処せられる罪人は、即地獄行きの大罪を犯した者であるから、その身体をいかに解体しようとも、死後の道行きには関係なかったのだ。
しかし医学の進歩にしたがって、おのずと解剖にふさわしい死体が不足する。医学生たちは墓荒らしをして死体を盗み出し、解剖の練習をしたとされているが、それは彼らに限られたことではなく、人体の構造について正確な知識を得ようとしたルネサンス期の芸術家たちの中にも、解剖の死体を求めてさまざまな手段を講じる者がいた。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチが知られており、30体あまりを自ら解剖し、各段階各部分を素描に残した彼の功績は、医学史上きわめて重要であるとともに、芸術と医学の蜜月ともいうべき16世紀解剖学書挿絵の興隆をもたらしたのだった。
ここで、不法の解剖の現場を見つかってしまった医学生を描いたと見られている14世紀の写本挿絵を見よう。腹腔を開かれて地面に転がる死体を前に、刀と肝臓を手に振り返る人物が描かれ、その周囲にはすでに、摘出された腎臓、腸、心臓、肺が図示されている(図2)。医学部の先駆となったボローニャ大学の解剖学者モンディーノ・ルッツィ(1275頃−1326)による中世最初の解剖学書『アナトミア』によると、解剖医自身は執刀せず、不浄な死体に手を下すのはより身分の低い執刀師であり、自身は動物解剖からの類推によって人体の構造を把握していたことが明らかとなっている。しかし実際には、実習のために医師や医学生は執刀の経験をもっていたに相違あるまい。
この解剖学黎明期において、解剖の手順も定められていった。フランスの外科医ギイ・ド・ショリアック(1300−1368)は、モンディーノの実践的な解剖学書にもとづきながら、さらに解剖の順序を、1.「栄養に関わる部分」(腹腔の内臓)2.「霊的・精神的部分」(胸郭の内臓)3.「魂をつかさどる生命的部分」(頭蓋器官)4.「末端部分」(手足)と、4段階に定式化したのである。そこには動物的・欲望的魂、すなわち生命の維持や生殖に関わる魂を横隔膜の下におき、順次、愛などの感情をつかさどる魂は心臓に、神的あるいは精神的な、つまりより高次の魂は頭部にあるとするプラトン、アリストテレス以来の魂のありかについての思想が反映されている。しかし何より、その順番の根拠は腐敗にある。もっとも腐敗しやすい部分から解剖し、極力、腐敗による死体の破壊とそこから漂う腐臭による嫌悪感を免れようとしたのであった。私たちでも、食肉の臓物の腐敗のすみやかさは日常的に経験しているであろう。
ちなみに1、2は東洋医学で言う五臓(肝・心・脾・肺・腎)六腑(大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱)にあたる。儒教の教えが根付いていた日本でも、やはり死体を傷つけることに抵抗があったものの、オランダ医学(蘭学)を移入して解剖は腹腔から始められた。腑分けである。日本で最初に官許を得て人体解剖を行ない、絵図に示したのは、山脇東洋によって1754年に京都で行われた、やはり刑死体解剖の記録『蔵志』である。以降、誕生した日本の解剖絵図が西洋と大きく異なるのは、何より、それが彩色されていることだ。生々しい色を帯びた内臓がリアルに広げられ、もぎ取られた手足やその断片が散乱するかと思えば(図3)、口を歪ませ、無念の表情もあらわな頭部もある。解剖されてなお、自在にポーズをとり、毅然として立つ西洋の解剖図と比べると、死体はすでに肉の断片と化していながら、そこはかとなく生気が漂っているところが不気味だ。 
内臓の聖人
ヨーロッパの解剖人体が一種の威厳を保ち続けたのには、古代以来の人体そのものへの敬意と関心に加え、地上のあらゆる生物における人間の優位性、尊厳性という理念が作用していると考えられよう。ついでキリスト教は、まさしく人間を神の似姿とし、すべての動植物を統べる者と位置づけたわけであるが、そればかりではあるまい。古代以来、連綿として行われてきた人間の尊厳を剥奪するような拷問や処刑を「殉教」として位置づけ、むしろ逆に、聖性獲得への試練とみなす強靭で屈折した魂が、身体のあり方を方向付けたのではないだろうか。腐敗が人間のもっとも忌むべき末路であるならば、内臓摘出ほど聖性への近道はないことになる。
内臓を取り出されて殉教した聖人として最もよく知られるのは、エラスムスである。
ローマ帝国末期のディオクレティアヌス帝時代、シリアはアンティオキアの司教であったエラスムスは、迫害を逃れてレバノン山脈に逃れたが、まもなく捕らえられ、やがて南イタリアはカンパニアのフォルミアに移される。そこで、さまざまな軽度の拷問を受けたあと、ついに、腹を引き裂かれて内臓を巻轆轤(まきろくろ)で巻き上げられて殉教したという。落雷があっても彼の頭上は静穏であったために、とくにナポリ港を出入りする水夫たちの守護聖人とされ、また、嵐の前後に船のマストに起こる青い放電は「聖エルモの火」と呼ばれて尊ばれている。
エラスムスの殉教場面には、しばしば、長くごろごろと太い腸をぐるぐる巻き上げる大仰な「巻轆轤」が描かれるが、15世紀フランドルの画家ティエリー・バウツの描いた殉教図では、精巧な巻轆轤に横たえられた聖人が、細く切り裂かれた腹部から、これまた細い腸をするすると巻き上げられている(図4)。死の恍惚というより空ろにも見える彼の表情は、内臓を抜き取られる身体の空虚さゆえなのだろうか。バウツは他にも殉教者図を描いているが、いずれもリアリティを欠いており、スリムな人形のような人体は「痛み」という苦役からことごとく免れているようだ。
しかし、エラスムスの苦痛は並のものではなかったはずだ。長引く苦痛がないように一気に首を切り落とせばよいものを、エラスムスと等しく想像を絶する拷問のあげく、腸を引きずり出された聖人ウィンケンティウス(図5)について、かの『黄金伝説』の筆者ヤコブス・デ・ウォラギネは、つぎのように伝えている。
同じくディオクレティヌス帝の時代、スペインはサラゴサの助祭であったウィンケンティウスは、篤い信仰心と熱烈な説教ゆえに、州総督ダキアヌスの命によって、司教とともにバレンシアに連行され、まずは手足を思いっきりねじ上げられる。しかし痛みに屈するばかりかそれを至福として笑い飛ばすと、鞭と棍棒で打たれるという拷問が加えられ、さらに鉄の櫛であばらを掻きむしられた。身体のいたるところから血が噴き出し、肋骨がばらばらになり、内臓があらわれるのをものともせず、手加減をせぬようにと言い放つと、ひるむ刑吏たちを尻目に、自ら火格子に上ったウィンケンティウスは、自身の身を焼きあぶらせ、灼熱した鉄の針や釘に刺した。刑吏たちが火に塩を投げ込むと、塩は傷口に入って燃え立ち、彼の身体の各部分からは、ついに内臓がはみ出してぶらりと垂れ下がった。その後、つぎなる拷問に向けて身体を休めるよう柔らかな布団に寝かせられた彼は、ほどなく天に召されたという。しかし苦難はそれにとどまらない。遺体は野ざらしにされたのだ。しかし天使の保護を受けて、いかなる鳥獣もそれを食らうことはなく、さらに石臼をつけて海に放り込まれても、浜辺に漂着して手厚く葬られたという。ウィンケンティウスを待っていたのは、勝利の棕櫚と月桂冠をもって天上へと導く天使であった。
ウォラギネの記述は、いつものように執拗である。しかも身体を細切れにされた聖ヤコブスの場合と比べても、拷問の詳細はむごく残虐であり、強烈に痛みの感覚に訴えかける。しかしその拷問のあり方について、アウグスティヌスの言葉はきわめて示唆的だ。彼はつぎのように語ったという。
「彼は、きたえられるために苦しめられ、教えられるために叩かれ、堅固になるために突かれ、浄化されるために焼かれた」「わたしたちの前にくりひろげられるのは、よこしまな裁判官と残忍な刑吏と不屈の殉教者とがおりなす驚くべき演劇、残忍と柔和との抗争劇である」。
ローマ帝国期に繰り広げられたキリスト教徒の殉教は、ローマ人の好んだ「サーカス」とひとしく見世物であり、演劇なのである。そこに身をさらした殉教者たちの身体から流れ出る血と、そして鮮烈な内臓は死の劇場を彩る。興奮と熱狂の坩堝と化した身体の劇場からは、恐るべき屈強な信仰心が生み出されたのであった。 
公開解剖から死物展示へ
魂の浄化のために身を捧げた殉教者たちの姿が消えてなお、キリスト教世界には身体を痛めつけて聖性を高めようとする多くの聖人たちが連なったが、解体のスペクタクルを引き継いだのは拷問と処刑であり、そして公開解剖という新たな劇場であった。
刑死体を使っての公開解剖を最初に行ったモンディーノにつづいて、ボローニャやパドヴァ、モンペリエを初めとする屈指の大学医学部では、古代円形劇場にならった円形教室での公開解剖が通例となった。階段状の席をもつこうした教室での解剖のようすは、たとえば解剖学書の扉絵に描かれている。ヴェサリウスの『人体の構造について』の挿絵(図6)では、彼が、医学を志す者をはじめ並み居る観衆を前に、誇らしげに死体を見せている。最初の解剖部分である内蔵の解剖が扉絵を飾っているのだ。そして、腹腔からのぞかれた人体の恐るべき真実がそこにある。
まるで鳥の皮のような黄色の大網と、それを掻き分けたときに現れるピンク味を帯びた腸、胃や膀胱、また茶褐色の肝臓や結腸、緑色の胆嚢などの臓物の群れが血潮を浴びて波打つ。それは、滑らかな肌色の皮膚の下に秘められた汚濁の洞窟。人々は驚嘆し、嫌悪し、そして賛嘆する。実際に臨席している者ならば、色彩を見、さらに臭気をかいでいるはず。「敏速に、愉快に、正確に」とは、ヴェサリウスのモットーであった。モンディーノ以来、解剖は腐りやすい部分から四日間で、しかもできるならば気温の低い冬の時期に行われたが、この従来の方式はヴェサリウスによって改善され、骨格、筋、循環、内臓の各系を系統的に解剖することが提唱された。それでも腹腔からの解剖は定式である。ヴェサリウスの至言は腐敗と腐臭との戦いである解剖の極意を表しているのだ。
しかし解剖によって明らかとなったのは、医学的知識ばかりではなかった。かぐわしい生の内に潜むおぞましい実態。それは『伝道の書』の至言「空の空なるかな、しかしてすべては空なり」の思想に端的にあらわれている、生のはかなさである。扉絵の死体の背後で大鎌を持って嘆くように虚空を仰ぐ骸骨は、まさしくいま暴かれた真実を告げている。
同じく、17世紀オランダ医学の発達を告げるレイデン大学での公開解剖学のようすを描いた作品では、こうした「はかなさ」の思想がよりあきらかだ(図7)。観衆に混じった数体の骸骨は、「人はうたかたの泡のごとし」「われらは塵であり、影にすぎない」「最後には死が待っている」「生とははかなきもの」などと記した旗を持ち、解剖の公開が「メメント・モリ(死を思え)」の教訓劇でもあったことを示している。そこで神が創造した人間が腐臭と汚濁に満ちた存在であることをむごくも知らしめるのは、何よりもまず、内臓という臓器がもつ異様な形体と色彩、そして臭気だったのである。
刑死体を使った公開解剖が定着した頃、デカルトの人間機械論やハーヴィの血液循環説は人体を神の創造という信仰から切り離し、実験科学の素材に貶める道を開いていったように思われる。一方、顕微鏡の開発や注射液の改良、組織固定血管注入法の開発によってミクロな研究分析が可能となり、生体組織の保存と展示という分野が開かれていった。医学と芸術の新たな、そして最後の蜜月が訪れたのだ。薬剤師として出発し、医学のメッカ、レイデン大学で解剖学の学位を取得したフレデリック・ルイシュ(1638-1731)は、医業のかたわら、「解剖学陳列室」という奇想に富んだ死物展示を行い、王侯貴族からも称賛と驚嘆をあびた。実物は現存しないが、その一部は同時代の銅版画家によって版刻されて今日まで伝えられている(図8)。
木製の台には胆嚢と尿管から摘出した結石のあいだに、導管、血管が樹木のように生けられた内臓の堆積物が置かれ、その頂に胎児が虚空を仰いで立つ。左右の胎児はそれぞれ、死神の持物である鎌、そして腹膜網のハンカチを手にしている。組織固定血管注入法を完成させたルイシュは、生体組織を凝縮乾燥させて、生花のようにオブジェとして展示したのである。注入液の成分はタルク、白色ワックス(または脂肪)、辰砂(赤色結晶をなす硫化第二水銀)などを混合したものらしく、清浄液にはラヴェンダー油やテレピン油、保存液には67%のエタノールに黒胡椒を加えたと推察されているが、その秘密はいまだに明らかにされていない。まるで往時の画家たちの絵具が秘密裡に調合されていたごとくである。
「なぜ現世の事物を切望するというのか」「死は、無防備な子供でさえ容赦はしない」。版画にともなう銘文には、これらの「作品」が「メメント・モリ」「はかなさ」の趣向であったことを物語っている。しかしその背後に、人間精神の内奥に潜む残虐な好奇心が垣間見えるではないか。
ルイシュの作品をはじめとしたこうした「珍奇」な展示物は、好事家の蒐集にかかり、各地に存在したとみられる。しかしそれらは、理性と啓蒙の時代に瓦解したキリスト教信仰に代わって唱えられた人間倫理にもとるとして激しい道徳的非難を受け、闇に葬り去られたのであった。以降、飛躍的に進歩した医科学は、痛みなくして人体内部を治療し、患者にも見せる技術を獲得している。しかし痛みの欠如は、神に見離された人体のモノ化を加速しているように思えてならない。 
 
パスカルにおける「精神」の機能とその「偉大さ」について

 


パスカルが「無益にして不確実」であるとして批判したデカルトにおいて、「精神」とは世界に存在する2 つの実体のうちの1 つの名である。もちろんもう1 つは「物質」的実体であり、世界に存在するものは、神を除けば、この2 つの実体に尽きている。この2 つの実体は排他的に区別されているから、物質的実体、すなわち物体には精神的な機能は一切ない。したがって、デカルトの考えでは、あらゆる認識は、感覚的なものから形而上学的なものまで、すべて精神的なものである。
しかし、パスカルは存在論的にはデカルト的二元論をとっているものの、認識論的にはデカルトの言う「精神」的なもののうちに「心情」と「精神」を区別している。たとえば、『パンセ』のある断章(L308 ; B793)(1)では、「身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する」として、「身体」「精神」「愛」の三つの秩序を区別する。ここで「愛」と呼ばれているものは、同じ断章では「知恵」とも言い換えられており、この知恵は、「心情」が見るものだとされている。そして、この「愛」において優れた者としてイエス・キリストが挙げられていることからも、「心情」が宗教的なものを含む直感的な認識論的機能を持っていることが分かる。
そして、「精神」において優れた者としてアルキメデスが挙げられている(同断章)。『パンセ』中の「精神」という語の用法には少々揺れがあるが、一般的に、精神は推論を含む学問的認識の機能を持っていると言える。
もちろん、神による救済を求めるパスカルはこの三つの秩序のうちで「愛」を、すなわち「心情」の秩序を最高位とする。しかし、ここで関心を惹かれるのは、「精神」にも一定の偉大さを認めている点である(「しかし、世には肉的な偉大にのみ感心して、精神的な偉大などないかのように思っている人々があり、また精神的な偉大にのみ感心して、知恵のうちにさらに無限に高いものはないかのように、思っている人々がいる」(同断章))。本稿では、まずパスカルの心身論において精神とはどのようなものかを見たうえで(1.)、パスカルにおける「精神」の機能について明らかにし(2.)、その機能が「三つの秩序」のうちでどのような地位を占めるのかを検討して(3.)、精神の秩序に固有の価値とは何かを考察したい(4.)。 
1. パスカルの心身論
まず、パスカルの心身論を確認する。パスカルは心身問題について、理論的に踏み込んで記述してはいない。しかし、『パンセ』の中の「人間の不釣り合い」を述べた断章(L199 ;B72)から、彼が人間を精神と身体から構成されるものであると考えていることがわかる。この断章では、「無とすべてとの中間」にいる人間が、その両極端を理解できず、事物の終極もそれらの諸原理も知りえないことが述べられる。そして、事物の認識についてのわれわれの無力は、われわれ人間が、「霊魂âme と身体という、相反し、種類の異なる二つの本性から構成されていること」によって決定的になる、と言われる(ここで「霊魂」と呼ばれるものは、同じ断章のすぐあとで「精神esprit」と言い換えられている)。なぜなら、パスカルによれば、諸事物はそれ自身単純なものであるのに、精神と身体からなる複合物である人間はそれらを完全に知ることはできないからである。さらに、人間が物質からのみできている、という唯物論の主張を、「われわれのうちにあって推論する部分が、精神的以外のものであるということは不可能である」という理由で排除している。以上の記述から、パスカルにおいて人間は存在論的には精神と身体からなっている、つまり、彼は心身二元論を認めていると考えられる。
ただし、パスカルから見れば、精神や身体の本性、そしてそれらの結合の仕方は人間にとって完全に理解できるようなものではない。上述のように精神と身体の複合物である人間にとって精神や身体のような単純な事物の理解は完全なものにはならない。まして、それら単純な事物どうしがどのように結合しているのかを理解することもできない(2)。したがって、デカルトのように精神や身体の本質が「思惟」「延長」の明証的な観念(3)として
握されることも、心身の合一が「原始概念」として自明なものとして理解される(1643 年5月21 日付エリザベト宛書簡、AT III, 665)(4)こともない。
しかし、デカルトのような明証的な理解は到達不能なものだとしても、パスカルが心身の二元論そのものを認めていたことは『パンセ』のもう一つの断章からも明らかである。「奇跡と真理とは必要である。人間全体を、身体と魂とを説得しなければならないから」(L848 ; B806)。この断章では、「人間全体」が身体と魂からなっていることが前提されていると言える。ではその「人間全体」に何を説得するのか。『パンセ』の断章の多くは「キリスト教護教論」の構想の下で書かれたものである。つまり、「自由思想にかぶれた当時の社交界の紳士」たちによるキリスト教への攻撃からキリスト教を擁護し、さらに「進んでキリスト教の正しさを証明し、可能な限り読者を信仰のとば口に導く」(塩川, 2007, 143 頁)ことが目的となっていた。上に引用した断章では、この目的を果たすためには、「奇跡」によって身体を、「真理」によって魂(精神)を説得することが必要である、ということが述べられている。繰り返しになるが、パスカルは人間が精神と身体からなるということを、学問的な厳密性によって認めていたわけではないにしろ、それを前提としていたことは確かであろう。 
2. 精神の機能
2.1 「三つの秩序」
次に、「精神」という言葉でパスカルが意味していたことをできるだけ明確にしていきたい。まず、1. で見てきたように存在論上は身体との二元論を構成する精神であるが、『パンセ』中の「三つの秩序」について述べられた断章(L308 ; B793)では、身体と愛の秩序のあいだで、それらの中間の秩序に位置することになる。この断章では、冒頭で次のように言われる。「身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する。」身体、精神、愛の三つの秩序は、前二者のあいだに無限の距離を、後二者のあいだに無限大に無限な距離を隔てつつ存在する。これらの秩序は何を意味するのか。同じ断章の中で、まず、身体の秩序は物体や自然、王国や王侯たちやその財産に結びつけられている。次に、精神の秩序は思考やアルキメデスをはじめとする「偉大な天才たち」とその学問的業績に、愛の秩序は「知恵」や「心情」、「聖徒たち」、「イエス・キリスト」に結び付けられている。要約して言えば、身体の秩序は物体と俗世間の秩序であり、精神の秩序は理性的認識や学問の秩序であり、愛の秩序は宗教的な救済にかかわる秩序なのである。そして、身体の秩序における偉大さ(王侯であること、財産を持っていることなど)よりも精神の秩序の偉大さ(学問的知識を持ち、その「発明」を多くの人々に提供することなど)のほうがはるかに優れている。もちろん、これらの秩序におけるよりも愛の秩序における偉大さ(聖徒たちやイエス・キリストの偉大さ)のほうがさらにはるかに優れているとされることは言うまでもないだろう。
すぐに興味が惹かれるのは、存在論上の二元論と、この「三つの秩序」の関係であるが、明らかに、「三つの秩序」は、存在論上の秩序ではない。少なくとも、精神と愛の秩序に関しては、認識論的な秩序と言ってよい側面がある。というのも、精神の秩序は後で見るように推論の能力として学問的認識にかかわるが、愛の秩序は直観的な認識の機能をもつ心情とかかわるからである。
この「三つの秩序」において、宗教的救済にとくに強く結びつく愛の秩序が最も偉大とされるのは「キリスト教護教論」を構想するパスカルの意図から当然であるとしても、ではどうして精神の秩序に、身体の秩序より「無限の距離」によって表現されるほど差のある優れた価値が見いだされるのだろうか。この問題を考える前に、パスカルの言う「精神」の機能を明確にしておきたい。 
2.2 精神の機能
パスカルの著作の中の用語法では、「精神」という語は「理性」という語と関係が深い。しかも、パスカルにおける理性raison は、まさに推論するraisonner 能力である。このような点は、精神の機能として、知性や意志を数え、さらに情念の感受をも含めるデカルトの用語法とは大きく異なっている。精神を、推論する能力としての理性ととくに考える理由としては、次のように言うことができる。
まず、「精神」と「理性」との関係についてであるが、2.1 に引用した断章(L308 ; B793)で見たように、精神の秩序を代表する者は「アルキメデス」である。アルキメデスは、幾何学者として登場している。そして、パスカルの『幾何学的精神について』によれば、幾何学こそ、「推論の真の規則」(OCL, p. 349)を知り、それを守ることで、「誤らない」「もっとも卓越した」論証を行なうことのできる学問なのである。したがって、「三つの秩序」で言うところの精神とは、推論する能力であると言える。
また、フランス語では「理性」と「推論する」の二つの語は、上で挙げたように同一の言葉の名詞と動詞であるのは明らかであるが、『パンセ』のテキスト上でも、「理性」と「推論raisonnement」がそれぞれ、ある能力とその働きとしてとらえられている部分を見つけることができる。たとえば、断章L110 ; B282 では、われわれ人間が真理を知るのは、「推論によるだけではなく、また心情によって」であると言われる。その上で、「第一諸原理」を知るのは、「心情」によるのであって、「理性」はそれらを知るのにまったくかかわらない、ということが述べられる。すなわち、言葉の形が示す通り、理性は推論する能力なのである。以上より、精神は、推論する能力としての理性としての特徴を持っていると言えるだろう。なお、「第一諸原理」を知る能力としての「心情」についてはこの項の最後に述べる。
では、理性が行なうことのできる推論とはどのようなものか。『幾何学的精神について』においてパスカルが目指すのは「すでに見出された真理を論証し、その証明がまったく論破されないようにそれらの真理を明らかにする術」(OCL, p. 348)を示すことである。そして、そのための自分の方法について、幾何学を範として次のように述べている(OCL, pp.349-351)(5)。
(1)学問における「最も卓越した論証」を形成する理想的な方法は、ある論証に現われるすべての用語を定義し、すべての命題を証明することである。
(2)パスカルのいう定義とは、「論理学者が名目上の定義と呼ぶもの」「幾何学的定義」であり、既知の用語によって明白に記述できるものに、名称をつけることである。たとえば、「すべての二等分されうる数を偶数と呼ぶ」というようなものがこのような定義である。
(3)しかし、定義しようとすれば循環が起こるような語(6)が存在するから、(2)のような定義を論証に現われる語すべてに行なうことはできない。したがって、それ以上定義されることのない「原始語」が存在する。その例としては、「空間、時間、運動、数、同等」などが挙げられている。これらの「原始語」は、自然によってあらゆる人間に同様に与えられた観念idée pareilleを指示しているという。
(4)論証に現われる命題についても同様に、証明の及ばない命題というものがあり、それらは原始命題として他の命題の証明を行なう際の原理となる。
(5)したがって、幾何学における完全な論証とは、自然によって与えられる観念に直接結びつく原始語とそれによる定義、そして自然によってその正しさが保証される原始命題である原理を用いて順々に定理を証明していくことによってなされる。幾何学は原始語が示す対象を定義することができず原理を証明することもできないが、双方ともに「自然的な極度の明白さ」を備えているため、その必要がないのである。
以上のような推論によって幾何学的論証が構成される。しかしそれは同時に、理性の行なうことのできる最高度の論証でもある。パスカルによれば、「幾何学を超えるものは、われわれをも超えている」(OCL, p. 349)のであり、上の方法が人間の精神にとって最高のものなのである。
しかし、原始語や原始命題の「明白さ」は、推論の能力である理性によって知られるのではない。では、何によって知られるのか。先ほど、断章L110 ; B282 でのパスカルの記述を見た際に、「第一諸原理」を知るのは「心情」であると言われていたことを思い起こしたい。つまり、原理としての原始命題の明白さは、「心情」によって知られる。この断章では、原始語については言及されていない。しかし、「第一諸原理」の例として挙げられているのは「空間、時間、運動、数が存在する」「空間に三次元あり、数は無限である」というものである。これらの原理の中に現われる「空間(あるいは次元)」「数」などの語は幾何学の原始的な対象、すなわち原始語であろう(cf. Mesnard, 1976, pp. 87-88)。したがって、原始語も原始命題もともに、心情によって知られる。そして、心情による知り方を、パスカルは「直感するsentir」と言う(「心情は空間に三次元あり、数は無限であるということを直感する」(同断章))。
つまり、「精神の秩序」という表現における精神とは、推論によって真なる結論を導き出す能力であるが、そのためには、原始語や原始命題を直感する心情の協働が必要であるということになる。しかし、2.1 で見たように、心情は、宗教的救済にかかわる「愛の秩序」にとくに関係づけられていたはずである。精神の秩序と、愛の秩序の両方で働く心情は、それぞれ別のものなのか。そうではない。たとえば『幾何学的精神について』第2 部「説得術について」で、パスカルは神学的真理が証明によって知られるのではなく神自身がそれを魂のうちに置くことによって知られると述べる。そして、「神は神学的真理が心情から精神に入ることを望み、精神から心情に入ることを望まれなかった」(OCL, p. 355)と言う。神学的真理は、心情によって直感されるのである。また、断章L110 ; B282 では、「神から心情の直感によって宗教を授けられた人々」という表現があり、推論(理性の働き)による宗教への導きは、そのような神による心情への宗教の授与が行なわれるまで、別の言い方をすれば神によって「信じるように傾け」(L382 ; B287)られるまで「人間的なものにとどまり、救いには無益」(L110 ; B282)なものでしかない、と言われている。すなわち、キリスト教を真に信じること、信仰そのものも、心情の直感によって可能になるのである。
要するに、心情は直感する能力であり、直感の対象が神学的真理や信仰そのものの場合には愛の秩序において働き、また、直感の対象が学問の基礎となる語や命題の場合には精神の秩序において理性としての精神に協働するのである。さらに、自然学の場合、諸原理にあたるのは経験(実験expérience)(『真空論序言』, OCL, p. 231)である。経験を原理として、そこから理性による推論によって自然学の知識が結論されていく。では、このような精神の秩序の偉大さは、どのような理由によるものなのだろうか。次にこのことを考えてみたい。 
3 精神の地位
3.1 「精神の王国」
パスカルは自分の発明品である計算機をスウェーデン女王クリスティーナに献呈した際の手紙で、次のように書いている。
私をこの計画(女王への計算機の献呈;筆者註)へと促した真の動機は、私を等しく感嘆と尊敬の念で満たす二つの事柄、すなわち最高権力と堅固な学識science とが、陛下という神聖なお方の中でひとつに結びあわされているということにあるのでございます。それと申しますのも、権力であれ知識であれ、最高位にまで昇りつめた方々に対しては、私は格別な尊敬の念を抱くものだからであります。私の考えに誤りがなければ、権力においてと同様、学識においても頂点を究めた方々は、王者と見なしうるのであります。天分のあいだにも、身分のあいだと同じ位階が存在いたします。臣下に対する王の権威は、精神が自分より下位の精神に対して持つ権威の象徴にすぎないと私には思われます。すなわち上位の精神が下位の精神に対して行使する説得の権利は、政治的統治における命令の権利に相当するものなのです。この第二の支配権は、精神が身体よりも上位の秩序に属すものであるがゆえに、それだけいっそう高い秩序にあるとさえ私には思われます。さらに、政治的支配権が家柄や財産によって分かち与えられ、保持されるのと異なり、こちらはただ功績によってのみ分与され保持されるために、いっそう公正なものであると思われるのです。(OCL, p. 280)
ここでは、女王クリスティーナが世俗的権力と学識の両方を最高度に備えていることが讃えられてはいるが、引用の後半部からわかるように、学識の属する精神の秩序が、世俗的権力の属する身体の秩序よりも上位であることが強調されている。この手紙は1652 年6月に書かれたものであり、このときパスカルはいわゆる「第一の回心」(1646 年)を経ていたものの、パリで「社交時代」を送っていた。そのため、自身の学識とその結果としての計算機の発明を誇る心があったのは確かであろう。それでも、身体よりも精神の秩序をより高い地位にパスカルがおいていたということは間違いない。しかし、1654 年、パスカルは、「哲学者や識者savants の神」ではなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(L913)を感受したことによって、「決定的回心」を経験する。そして、この後に書かれた『パンセ』の断章では、2.1 で見たように、パスカルは精神の秩序の上に愛の秩序を置くことになる。すなわち、「決定的回心」によって彼は、精神の秩序に属する論証によって導かれる信仰ではなく、心情によって直感された愛の秩序に属する信仰に到達したのである。では、「救いには無益な」宗教しか与えない精神の秩序には、どのような価値があるのだろうか。愛の秩序から見れば、それは身体の秩序と同じく無意味なものなのではないだろうか。 
3.2 精神は必要か
ここで、精神あるいは理性と、信仰との関係についての、メナールとモロ=シールという二人のパスカル研究者の解釈を見てみよう。まず、メナールによれば、理性は信仰を与えることはできない。しかし、人間的に把握可能である限りの宗教的真理は、幾何学的方法によって、つまり精神によって把握可能である(Mesnard, 1976, p. 94)。すなわち、パスカルは『真空論序言』において、知識全体を、権威に基づく知識と、経験(自然学における原理)と推論に基づく知識に区別し、神学を前者に分類する。神学において、権威とは聖書の記述である。そして、推論の能力である理性のみを単独で神学の分野に用いることは禁じている(OCL, p. 231)。しかし、理性に権威が結びついていれば、正当なものとされるのではないか、とメナールは解釈するのである。すなわち、権威が提供するもの、いいかえれば聖書に訊かねばならないことは、原理である。そこから理性を用いて推論することで、啓示されたデータから潜在的に含まれているものを引き出すことができ、それが神学の発展である、とメナールは言うのである。もちろん、しかし、このような仕方ではキリスト教の原理を共有しない自由思想家を説得することはできない。そのためには、自然学が経験的事実をもとにするように、事実から始める。たとえば「人間本性の腐敗」という事実から、その事実を説明する仮説=キリスト教へとさかのぼる形で推論が行なわれるのである(7)。メナールの意見では、こうして、あらゆる人間的推論は同一のモデルに帰着する。2.2 でも引用したように、「幾何学を超えるものはわれわれを超える」(OCL, p. 349)。
これは精神の秩序の力を示すと同時に、その限界をも示している(Mesnard,1976, pp. 93-95)。逆に言えば、メナールの解釈では、精神の秩序は、「救いには無益」であるにせよ、神学を発展させる力や、非信者を理性的な推論によってキリスト教の信仰へと導く力を持つのである。
次に、モロ=シールの解釈でも、精神の秩序に属する理性によって愛する(神を愛する=信仰を持つ)ことはできない。しかし、彼は理性的なものの重要性をより強調する。彼によれば、人間の理性は、堕落によって恩寵を失った人間を導く唯一の「杖」のようなものである(Morot-Sir, 1996, p. 104)。具体的には、理性は、言語langage を用いることによって、人間の精神と身体に作用し、愛の到来に備えることができる(Morot-Sir, 1996, p. 166)。
このような主張は、モロ=シールによる、パスカルにおける心身問題への解釈に基づく。パスカルは、「自然は互いに模倣する。よい土地にまかれた種は、実を結ぶ。よい精神にまかれた原理は、実を結ぶ」(L698 ; B119)と述べる。これは、身体と精神が互いを似た形式を持っていると読むことができる。このことを裏付けるものとして、二つの断章からの記述が挙げられる。「われわれの頭の中には、その一方にさわると、その反対のほうもさわるように仕組まれた発条があるのではないか」(L519 ; B70)というものと、「人は、普通のオルガンをひくつもりで、人間に接する。それはほんとうにオルガンではあるが、奇妙で、変わりやすく、多様なオルガンである」(L55 ; B111) というものである。前者のテキストは、「頭の中」という表現によって、「脳」と「思考」のどちらもが指示されているように読める。後者では、人間全体が「オルガン」という機械に擬せられている。モロ=シールはパスカルが人間を単なる自動機械と考えていたということには懐疑的だが、それでも、言語という物質と思考からなる機械が、身体という機械と、理性という論理的な機械の双方に作用すると解釈する。そして、『パンセ』において構想される「キリスト教護教論」は、その言語によって精神と身体の両方に影響を及ぼして、自己愛のような憎むべき情念を憎むべきものと認識させ、そのような情念に基づいた行動をとらないようにさせることを目的としているというのである(Morot-Sir, 1996, pp. 83-166)。
メナールとモロ=シールの両者ともに、精神の秩序に属する理性に何らかの力を認めている。メナールの場合には人間の及ぶ範囲における神学的真理の把握と非信者への説得の力、モロ=シールの場合には言語を操って真の信仰が神に与えられるまでの準備をする力がそれである。しかし、パスカルにとって、神による救済、つまり、神がある人に真の信仰を与えるかどうかは、究極的には神の意志による(8)。メナールは、パスカルの考える信仰において「理性は心情なしには済ませられないが、反対に心情は理性なしでも十分である」(Mesnard, 1974, p. 166)と言う。パスカルによれば、推論や証拠、聖書、預言などの助けなしにキリスト教を真に信じる人々(L380 ; B284, L381 ; B286, L382 ; B287)がいて、その人々は神によって「心を傾けられている」ために、「もっとも効果的に信じている」(L382 ;B287)のである。モロ=シールも、信仰は理性の助けなしにも発現しうるが、そうでない場合には理性だけが信仰の準備のための唯一の道だとする(Morot-Sir, 1996, p. 166)。このように、信仰は最終的には神がその人の心を傾けることによってのみ得られるのならば、精神の秩序において理性を駆使して信仰の準備をすることに、どのような意味があるのだろうか。もちろん、この問題は信仰と理性の問題として、パスカルの神学に関する見解とともに別に検討する必要があろう。しかし、本稿では、信仰には本質的には不必要であるにも関わらず、三つの秩序の中で精神の秩序に中間の地位を与え、かつ、その秩序に属するものに「偉大さ」を帰したのはなぜか、ということに問題を限定して考える。 
4. 精神の秩序の偉大さ
4.1 秩序のあいだの「無限の距離」と「無限大に無限の距離」
2.1 で引用したが、パスカルは三つの秩序のあいだの関係について、次のように述べていた。「身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する」(L308 ; B793)。ここでは、われわれが知っている身体の秩序と精神の秩序とのあいだの関係が、いまだ知られない精神の秩序と愛の秩序のあいだの関係を表徴している、と言われている。パスカルの言う「表徴するfigure」とは、感知しうるものによって感知されないより本質的なものを表現することである(塩川, 2006, p. 66)。そして、秩序どうしのあいだにあるとされる「無限の距離」および「無限大に無限の距離」という表現は、もちろんレトリックである。しかし、数学者でもあるパスカルにおいて、「無限」という語は、秩序どうしのあいだの距離が非常に大きい、あるいはそれらが隔絶されている、ということを示すためだけに用いられているのではない。メナールによれば、このテキストは、身体の秩序と精神の秩序との関係が、精神の秩序と愛の秩序との関係と類比的であり、それぞれの前項と後項との比が無限大であるということを表現しているのである。すなわち、「身体の秩序/精神の秩序=精神の秩序/愛の秩序」であり、それらの関係を数で表わすとするなら両辺ともに、「1 / ∞」であり、「身体の秩序」「精神の秩序」「愛の秩序」は、言ってみれば、等差数列ではなく、等比数列に比するべき仕方で並ぶというのが、パスカルの意図だというのである(Mesnard, 1974, p. 72)。メナールの解釈は、身体と精神との両秩序の関係が、精神と愛との両秩序の関係を表徴するということをうまく説明すると考えられる。そして、パスカルは無限というもののパラドクシカルな性格をよく知っていた。一方では、無限に1 を足してもその性格が変わらないことから「有限は無限の前では消えうせ、純粋な無となる」(L418 ; B233)と述べている。この観点からは、身体の秩序は精神の秩序の前では無であり、精神の秩序は愛の秩序の前では無である。しかしながら、他方で、無限に小さいものが無ではない場合もある。パスカルはサイクロイドの研究によって、あるいは円の面積を無限に小さい三角形の無限の集合と考える伝統的な計算法によって、無限に微小な要素を無限に集めることによって、有限の面積ができることを知っており、それが、『パンセ』において「有限に等しい無限の空間」(L149 ; B430)と表現されている。このような視点に立てば、「1 / ∞」は無ではなく、したがって、精神の秩序も、愛の秩序に対して無限に小さいとはいえ何らかの価値を持つものであると言える。繰り返しになるが、愛の秩序に対し、精神の秩序の持つ価値は無限に小さいということは、一方ではその価値は無に等しいということである。しかし他方では、少なくとも1 / ∞の価値を持つものでもあり、無限の持つパラドクシカルな性格を認めるパスカルは、この両方の側面を認めていたと言えるだろう。 
4.2 精神の秩序で得られる真理
では、具体的には精神の秩序はどのような価値を持つのだろうか。3.2 で精神の秩序に属する理性と愛の秩序に属する信仰との関係を問題にした際、理性によって人間は人間の及ぶ範囲で神学を発展させることができるというメナールの解釈を見た。神学において推論によって発見されていく真理は、「救い」、宗教的救済に対しては無益なものであるかもしれないが、真理であることには変わりない。
同様のことが、数学や自然学などの学問全体についても言えるだろう。パスカルは、『パンセ』のある断章で、デカルトの機械論的自然学が、自然を「形状と運動」からなるということに対して、「それは真である」と判定するとともに、自然を構成する粒子がどのような形状と運動を持っているかについて詳述して「機械を構成してみせること」、つまり自然全体を説明しようとすることは「無益であり、不確実」であると批判する(L84 ; B79)。それでも、それに続くと考えられる「人間の不釣り合い」について述べた断章(9)の冒頭で、「自然的な認識がわれわれを導いていくところはここまでである。もしそれが真でないのならば、人間のうちに真理は存在しない」(L199 ; B72)と言うのである。この「人間の不釣り合い」の断章では、人間が無限大と無限小の中間にあり、「両極端を理解することから無限に遠く離れており」「事物の終極もその原理も」理解できないとされる。すなわち、パスカルから見れば、デカルトのように自然学の真理性の保証を明証的な観念、ひいては神による永遠真理創造説のようなものに求め、自然全体を一つの学問体系で説明しようとするのは誤りである。しかしながら、それでも人間のうちには、精神の秩序においても真理が存在する。それは、「心情」によって知られる原理、あるいは自然学の唯一の原理としての経験(実験)をもとに、理性による推論を行なって発見できる幾何学や自然学の真理である。
そして、このような真理は、愛の秩序に属する宗教的なものに対しても、けっして無ではない。『パンセ』断章L173 ; B273 は、「もしすべてを理性に従わせるならば、われわれの宗教には神秘的、超自然的なものが何もなくなるだろう。もし理性の原理に反するならば、われわれの宗教は不条理で、笑うべきものになるだろう」と言う。この断章の前半は、愛の秩序が精神の秩序を無限に超えていることを示している。しかしそれと同時に、断章の後半部分は、精神の秩序に属する理性が、愛の秩序に対しても無ではないことを示している。精神の秩序において心情と理性の協働によって得られる学問的真理は、宗教的救済にとって無益ではあっても、人間のうちにある真理であり、その限りでの価値を持つのである。 
結論
パスカルにおいて精神の秩序は、愛の秩序に対して無限小の価値しか持たない。しかしながら、それは同時に無限小なりの価値を持つものである。具体的には、原始的な命題、公理をもとに推論によって構成される幾何学や、経験(実験)をもとに推論される実証的な自然学の真理は、それが愛の秩序に属する宗教的救済には無益であるとしても、人間の力の及ぶ限りでの真理として固有の価値を持つ。デカルトのように学問を神の保証のもとに置くことはできないとしても、パスカルの幾何学や、実証的自然学は以上のような意味での真理性を保持するのであり、その意味で、精神の秩序には偉大さが帰されうるのである。

(1) パスカルからの引用は、ラフュマ全集版による。OCLと略記し、その後に頁数を示す。『パンセ』については、Lの後の数字がラフュマ全集版の断章番号である。また、それに併記して、ブランシュヴィック版の断章番号をBの後に示した。また、日本語訳については、『中公バックス 世界の名著29 パスカル』(中央公論社)および『パスカル全集』( 白水社)を参考にしたが、表現を改変した部分もある。
(2) 「人間は、身体が何であるかを理解できず、なおさらのこと精神が何であるかを理解できない。まして、身体がどういうふうにして精神と結合されうるのかということは、何よりも理解できないのである。」(L199 ; B72) さらにこの後、人間に精神と身体の結合様式が人間に理解不可能であることを述べたアウグスティヌスの言葉が、モンテーニュ『エセー』第2 巻第12 章から引用されている(Montaigne, 2009, liv. II, p.303)。
(3) よく知られている通り、デカルトの哲学において、ある観念が明証性(明晰判明性)を持つことは、それが真理であることを示している(『哲学の原理』第1 部第43 節など)。
(4) デカルトの著作の引用については、OEuvres de Descartes, publiées par Ch. Adam et P. Tannery(略称AT)による。ローマ数字で巻数を、続くアラビア数字でページ数を示す。また、註(2)で参照した『哲学の原理』(AT VIII)については、部数と節数を示した。
(5) 以下の議論の整理は、Khalfa (2003, pp. 131-133)を参考にしたが、叙述の都合上段落分けは筆者が変更した。
(6) 循環に陥る定義の一例としてパスカルは、真空の実験に関して彼がノエル神父と論争を行った際に神父が述べた、「光は光る物体の光体的運動である(La lumière est un mouvement luminaire des corps lumineux.)」という光の定義を挙げている。
(7) すなわち、人間の本性が腐敗している(L6 ; B60)という事実や、かつて人間にあった真の幸福が、今では「まったく空虚なしるしと痕跡」しか残っていない(L148 ; B425)という事実から、人間の堕落を説明するキリスト教という仮説にさかのぼるのである。
(8) たとえば、『恩寵文書』では、次のような表現をアウグスティヌス派のものであるとして支持している。「救いは、ただ神のみによる。栄光は無償のものである。それは欲するものにも走るものにもよらず、憐れみをお与えになる神による。それは〔人間の〕善き業によるのではなく、〔神の〕召し出しによる。」(OCL,p. 283, 〔 〕内は『パスカル全集』第2 巻の翻訳による)
(9) 断章L84 ; B79 と断章L199 ; B72 が続けて読まれるべき文献学上の理由があるということに関しては、Carraud (1992, p. 263)によった。 
 
パラケルススとアグリコラ

 

化学は日本人にとっては幕末オランダから輸入されたものです。全てのものにはそのものの歴史がつきまとっていて、深く理解し、新しい発展を志すときにはその歴史の理解が不可欠だと私は思っています。専門は有機化学反応機構といって化学反応の過程を細かく検討することでしたが、このような考えから原子論や錬金術から化学への発展の過程も大変興味があり多少研究しました。末期錬金術が近代化学に変身する過程に貢献した現場技術の役割にも注目しました。ここに載せましたのは、このような仕事の一つです。表題はいかめしいのですが、内容は推理小説のようなものですから、読んでくださればおもしろいと思っていただけるかも知れません。 
T.錬金術とパラケルスス
19世紀のフランスの著名な化学者ベルトウロ(M.Berthelot)はその著『錬金術の起源』の中で、化学は天文学・幾何学のように古代に発生してから現代まで、まっすぐに発展してきた学問ではなく、古代科学−−錬金術−−の形骸の上にうち立てられたところにその特徴があると述べている。錬金術は文字どおり金以外のものから金を作る術であり、その起源についてはこの本に詳しいが、地上の女との愛に夢中になった天使達がその代償として教えたという伝説は錬金術の持つ秘儀性を示している。ホール(M.P.Hall)もまたその著『錬金術』の中で、錬金術は「神」から直接人間に啓示されたものだとか山に降り立った2000人の天使が教えたものだという考えがあったことを述べている。中世において錬金術は一つの哲学、学問であるばかりでなく魔法でもあった。錬金術師が得た秘密はさまざまの寓意的象徴の中に隠匿されて表現され、言葉どうりに解釈してもまったく意味をなさないものであった。水銀、スズ、鉄、銅、鉛、銀、金は、それぞれ天上の水星、木星、火星、金星、土星、月、太陽に比定されて記述された。
ベルトウロによれば、錬金術の基本的理論が結びついているのは古代ギリシャのイオニア派、ピタゴラス派の哲学であり、特にプラトン派であったという。アリストテレスの師プラトンは著書テイマイオスの中で、基本物質−−諸始原(アルカイ)−−が4元素(空気、水、土、火)の形をとり、この4元素により、この世界はつくられていると考えている。4元素は互いに変わりあうことが可能なことも説いたが、それらはもともと唯一の基本物質アルカイの転化したものであるから当然であった。プラトンに先立つアナクシマンドロスも基本の始原としてト・アペイロンを想定している。これらの思想が、それ以後の元素変換の試みの哲学的根拠ともなった。テイマイオスには可融解性の“水”のうち、もっとも完璧で純粋なものが金であり、これにわずかばかり“土”を含んだものが銅であるとも記されている。このプラトンの思想は新プラトン主義者達に受け継がれていくが、1530年に公刊されたアグリッパ(C. von Agrippa)(1486〜1535)の大著『隠秘哲学』では神秘的色彩が濃厚となり、至高の完全なるもの−−アルケティプス−−霊界、天界、地上に順次実体として現れ、下位の実体はそれぞれに上位の実体に対応し、上位から下位のものへ、また下位から上位のものへと変動も出来、この変化は第五実体(キンタ・エッセンティア)によって媒介されるという。この第五実体はプラトンには見られなかったもので、4つの元素でできたものではなく、現実から距離をおいた神秘的実体であったから、その導入は錬金術を秘儀の魔法に導くものとなった。錬金術師の中には、金銀は多量の第五実体を含むものでこの第五実体を抽出して他の金属に付与すれば金銀が得られると信じるものもあった。
錬金術は形而上の世界にもその座を持ち、第五実体はいわば隠された力−−オカルト−−となり、第五実体に恵まれた人は魔力を持つのであった。今日でもオカルトを信じる人々にとって、錬金術はなお現実のものである。アグリッパよりやや遅れて生まれたパラケルスス(Philippus Aureolus Paracelsus:本名Theophrastus Bombastus von Hohenheim)(1493〜1541)もこの時代の風潮と無縁ではなかったし、彼の強烈な個性とふるまいは、その周辺に錬金術の神秘主義的側面をますます強調するものとなり、今日に至るまで、伝説はパラケルスス自身をも魔力を身につけた神秘の人としてしまっている。しかしながら彼の経歴や彼が著書に記述していることを良く洞察すると、本質的には過去の権威に囚われず、自力で新しい道を模索した醒めた人であったと思われる。
1493年スイスのアインジーデルンで生まれたホーヘンハイムは、1502年医師であった父ウイルヘルムに連れられて、オーストリア大公領ケルンテンの商都フィラッハに移った。この町はアドリア海におけるイスラム文化の受容点であったイストリア半島から騎行一日ほどのところにあり、諸国の錬金術師、鉱物学者の集散する町であった。種村季弘氏によれば、パラケルスス自身晩年の著作『この国ケルンテンの年代記ならびに起源』の中で「鉱山技術はこの国ではじめて習得され、それから他の国にもたらされた。・・・・・鉱業と医学に関する限り、ケルンテンこそは濫觴の地である」と記している。1509年父と同様に医学を志したテオフラストはおそらくこのフィラッハからウイーンに赴いたと推定され、その後一端フィラッハに帰省してから、1513〜1516年イタリアのフェラーラ大学に学び、ジョバンニ・マナルディ(Giovanni Manardi)に師事した。マナルディの学風は革新的で、空疎な解剖学的知識に陥ることなく、生きた植物や野草を採取して薬とし、患者を臨床的に観察して病状や治療処置を現場で考究するというものであった。これは後年医師としてのパラケルススの実証的な態度にかなりの影響を及ぼしているものと思われる。これ以後約12年にわたる遍歴時代が続くが、1515年シュウアッツを訪問し、錬金術師ジークムント・フューガー(Siegmund Fueger)およびその弟子たちから本格的に錬金術を学んだことは、フィラッハでの経験とともに、彼が植物系の医薬のみならず鉱物系の薬品を採用し、金属の変成にも関心を持ったことと深い関係をもつものであろう。後年1536年に著した『大外科学』の中でパラケルススは遍歴中「医学博士の許のみに限らず、理髪外科医、浴場主、経験を積んだ内科医、女たち、医療をこととする黒魔術師、錬金術師、僧院をも訪ね、貴人の家でも賤民の家でも、知性ある人の許でも無学文盲の許でも」訪れて教えを受けたと述べている。当時は理髪師が外科医を兼ね、身分的には下層に属していた。現在も理髪店のしるしとして普通に見かける赤帯と青帯を組み合わせたデザインもこの名残で、動脈と静脈を象徴している。このパラケルススの遍歴は、もはや形骸化した権威をはなれて、事実の中に真の知識を求めようとした若き日の彼の姿を物語っている。
ホーヘンハイムが明確にパラケルススを名乗ったのは30歳の時であるが、ギリシャ時代の名医ケルススを越えるものという自負に満ちた名称であった。その一生を通じて医師であった彼は錬金術についても、医薬への応用面では評価したが、いっこうに成果の見られない当時の錬金術そのものは軽蔑していたと思われる。『大外科学』の中でパラケルススは、「錬金術のなかで行われた探求において、彼等(錬金術師)はあまたの驚くべきことどもに直面し、日々長生きに役立つ薬剤に出逢い、とりわけ大いなる奇跡が経験されたところの薬剤や、なかんずく秘薬(チンクトウラ)と称されたものにめぐりあうことになった。しかるに日を追うにつれて、金属を変成させようと企むの徒がはびこってきた。」と述べている。 
U.「哲学の天国」と灰吹き法
錬金術を軽蔑したはずのパラケルススに錬金術の著作があるのは矛盾した話であるが、「哲学の天国」がそれである。この作品はK.ズートホフ、W.マッティセン(K.Sudhoff, W.Matthiessen)編のパラケルスス全著作集の14巻にも載せられているが、パラケルスス研究の権威ゴルトアンマー(K.Goldammer)教授によれば、に収容されているにもかかわらず偽典とされている。
しかしながらこの書を当時の錬金術書の一つの典型例として読んでみるとなかなか興味深いものがある。記述の様式は難解な表現を用いた当時の一般的な様式に則っている。一見、荒唐無稽とも思えるのであるが、それはその時代の様式として当然のことであり、じっくり検討してみると化学の母胎としてある種の合理性を感ぜずにはいられない。この書についての考察はもう少し後にすることにし、ゴルトアンマー教授の著書によってパラケルスス自身の元素観に触れておこう。それによると、「世界の創造は神のつくりたもうた原資料“大いなる神秘(mysterium magnum”を用いて行われ、火・水・風・土の4元素が生まれた。これがやがて大空・大地・水・空気の4つの生命領域によって取って換わられるが、この生命領域の根底には“万物の母”なる“コルプス(corpus)"が存在する。このコルプスには三つの種−−硫黄・塩・水銀−−があり、三つのコルプスはどの元素にも含まれ、本質的には力であり精神であるとされる。物質の中に存在する造形力 コルプスの割合を変化させることによって元素の変換も可能となる。また、金属にも生命が与えられ、その生命は七つの惑星に由来する。」こうパラケルススは考えていた。非金属を金に変えようと試みたり、あるいは自分はこの変換に成功したと称した多くの錬金術師をペテン師と断じたパラケルススは、錬金術は本来誤っていないのだが、正しい道は隠されていて容易に探り出せず、またそれを行う人が技術的にも未熟であるためにうまく行かないのだと考えていたようである。
さて「哲学の天国」は前述のごとくパラケルスス自身の著作ではないようであるが、パラケルススの著作と信じられたほどその基本的性格はパラケルスス的であり、また当時の錬金術著作表現の典型とも思われるので、少し長くなるが訳書から引用させてもらおう。
「この本では、錬金術をこれまでの方法とは異なった取り扱い方で述べよう。 この方法は、七つの規範によって、金属の七つの系列から導き出されたものである。実際この規範によれば、言葉を大袈裟に並べたてる必要はない。しかしこれらの規範を考察するに当たって、錬金術から切り離すべきものについては十分の言葉を尽くして述べることにしよう。その上、ここでは他の事物の多くの秘密も含まれよう。したがって、また古代の錬金術師や自然哲学者の記述や意見とは異なり、完全な証明と実験によって確かめられたいくつかのすばらしい構想と新しい操作が含まれる。
その上、この術においては、まだ良く知られていないし、十分な信頼も得られていないけれども、以下に述べることほど真実なことはない。多くの人々を貧困に追い込み、多くの人々の労働を無駄にした錬金術の欠点と困難の原因は、全くもって術者の手腕の不足、材料の量または質における不足か過剰である。この過不足のため、操作の途中で物質は浪費されたり、無に帰せられたりする。もし真の方法が発見されるならば、物質は変成の間、日々完成に近づくだろう。正しい道は用意に辿れるが、それを発見できる人はきわめて希なのである。」
「・・・・破壊は良きものを完成する。何故ならば、良いものは隠されているために外に現れないからである。良いものが自由にそれ自身の輝きを現しうるためには隠蔽を取り除かなければならない。たとえば、金属がその中で生成する山、砂、土、石などはこの種の隠蔽である。目に見える金属の一つ一つは、他の六種の金属の隠れ場所である。
火の元素によって、たとえば五種の金属、水星(水銀)、木星(スズ)、火星(鉄)、金星(銅)、および土星(鉛)のような不完全なものは、すべて打ち砕かれ、取り除かれる。これに対して完全な金属、太陽(金)と月(銀)は、この同じ火によって失われることはない。それらは火に耐えることができる。そしてそれと同時に、打ち砕かれた他の不完全なものから離れて、それら完全な金属はそれ自身の実体を現し、目に見えるものとなる。いかにして、またどのような方法でこのことが起こるかは、七つの規範によって求められる。」
ここでは、それぞれの金属は錬金術の常道に従って太陽、月、惑星で表現されている。個々の金属が他の金属の隠れ場であり、火によって金と銀とは他の金属から区別されるというのは現代風に表現すると、現実の金属は決して純粋でなく混在し、火の作用に対して、異なった挙動を示すから、高温での酸化反応における挙動の差を利用して金銀の分離が可能であることを述べているものと解釈できる。続いて重々しく
「しかし、まず最初に注意しておかねばならない。どんな読者も軽率に一瞥したり、一読しただけでは、この「七つの規範」を完全に理解することはできない。低い知性の持ち主は神秘・難解な主題を容易には読み取れない。これらの規範のどれも、少しばかりの議論が必要という代物ではない。・・・・・」
と述べたのち「七つの規範」が示される。これは上に挙げられた七つの金属のそれぞれについて、性質を錬金術風に記したもので、独特の比喩が使ってあるため分かりにくいが、その中の『第一の規範 水星の本性と性質に関して』は水銀について記されたもので、単純で理解しやすい。パラケルスス化学の一例として引用すると
「・・・・火の神、つまり火の仲立ちによって、すべての金属は水星からつくられる。一方、金属としては水星は不完全である。水銀は中途半端にしか生成しておらず、金属の最終形態である凝縮性に欠けている。その生成の中途の段階まで、すべての金属は水星である。たとえば金もまた水星である。しかし金は凝縮によってその水星的性質を失う。水星的性質は残っているのだが、それは生きておらず、その生命力は凝縮によって破壊される。」
と書かれてある。金属の中で珍しく液体の状態にある水銀は未完成の金属であり、他の金属に成長するものとされている。あるいはアマルガムは古くから知られているから、アマルガムを加熱したあとに、金が残るという事実の投影が個々にはあるのかも知れない。他の金属についての六つの規範に引き続いて『七つの規範から生じる若干の論説と補足』が記され、この中の『水星の凝縮に関して考えるべきこと』には水星(水銀)からいくらでも金、銀をつくる方法があることを次のようにほのめかしてある。だが、具体的には何も書かれていない。
「・・・・この方法によって、短時間に好きなだけの金と銀をつくることができる。長ったらしい説明を読むのは骨が折れるので、誰でも単刀直入に説明してほしいと思うだろうからそうしよう。次のように操作しなさい。そうすれば太陽と月を得、それによって君は大金持ちになるだろう。しかし、その方法を簡単に記述する間待っていてほしい。そうしてこれらの言葉を良く理解してほしい。そうすれば水星から太陽と月を作ることができるだろう。見出し、実行するのにこれほどやさしい、またそれ自体これほど有用な術は他にないし、またこれからもないだろう。太陽と月を錬金術によって作る方法はきわめて手っ取り早いものなので、これ以上本もいらなければ、念入りな解説もいらない。それは人が昨年の雪について書こうとするのと同様であろう。」
この表現はベルトウロが著書の中で原子論者デモクリトスの名をかたる偽デモクリトスや3世紀頃のゾシムスの時代には、錬金術の奥義は口頭でだけ連絡するように決められた部分があったようだと述べ、偽デモクリトスの書に「これらが金と銀をつくるのに必要なすべてである。何も忘れられていないし、蒸気と水の蒸発を除いて何も欠けてはいない。私は、私の他の著作品において十分にそれらを説明したので、ここではわざと省いたのだ」と書かれて詳細が記述されていないことを例に挙げているのを思い起こさせる。偽パラケルススの叙述もこの表現と軌を一にしている。
その後にふたたび太陽と月、すなわち金と銀の製法に関する謎に満ちた文章が現れるが、この文も錬金術の文章としては異常とは言えないのであろう。先にも述べたように錬金術は秘術であり、隠語を用いて書かれ、すべてを明らかにしないのが通例であったからである。ふたたび原文の日本語訳を引用しよう。
「・・・・きっと誰かが尋ねるだろう。それならば、太陽と月をつくることができるようなこの端的でやさしい方法とは何なのか、と。私どもの答えは、それはもう既に完全に、明白に七つの規範に述べられている。これを理解できない人をこれ以上教えようとしても、それは骨折り損というべきだ。そのような人たちに、この種の事柄は表面的にでなく、神秘的にではあるが、容易に理解できるということを納得させるのは難しい。
その術は以下のようである。あなたが天、または土星の球をつくり、その生命が地球の上を走るようにしたら、それをすべての惑星の上か、あるいはあなたの好きなだけの数の惑星の上に置け、その際月の割合が最小になるようにせよ。天または土星が完全に消失するまですべてを走らせよ。そうすると、これらすべての惑星の古い侵されやすい実体は死んだままである一方、新しい、完全な、侵されない実体を得るであろう。
この実体は天の精気である。これから惑星たちは再び実体と生命を受け、以前のように生きる。この実体を生命と地球とから取れ。それを保て。それは太陽(金)と月(銀)である。これであなたは術のすべてを、はっきりと、完全に知った。ましまだあなたがこれを理解しなくても、またそれに習熟していなくてもそれはよろしい。これは秘密の中に保つ方が良いのであり、公表しない方が良いのである。」
一読しても全く不可解なこの文章−−特に色を変えておいた部分(筆者)−−は現在のわれわれに、錬金術は所詮魔法であり、でたらめで理解できないものという印象を与えるのであるが、この中にも何ほどかの化学的真理が隠されてはいないのだろうか。前にも述べたように、パラケルスス(偽パラケルスス)によれば、惑星はそれぞれ水銀(水星)、スズ(木星)、鉄(火星)、銅(金星)、鉛(土星)と一体のものである。生命は空気によって維持され、また古代のエジプト人の宇宙観の中に「地球」を皿のようなものと見る思想があったことを思い起こすならば、「生命」を空気、「地球」を灰でつくった皿と解釈することもできるであろう。筆者のこの推定が妥当であれば、この部分は灰吹き法による金銀の分離を物語るように思われる。ベルトウロの前掲書によれば灰吹き法は錬金術師によって広く用いられていた方法であり、8世紀末のアルジャビル ゲーベル(Al-Djaber Geber)の実験の記述の中にも灰吹き法は見え、起源はギリシャの錬金術師の著作に及ぶという。現代風にいえば金銀は鉛と合金を作りやすいので種々の金属を鉛とともに熔融し、中に含まれる金銀を鉛中に抽出濃縮したのち、植物灰や動物の骨灰で作った皿に載せ、高温で空気を送って鉛をはじめ卑金属を塩基性酸化物とし、これを酸性成分を成分として含有する灰皿と反応吸収させると後に金銀が残る。これが灰吹き法である。銅や鉛の鉱石には一般に金銀が含まれており、例えば銅のかわ1トンから金が約20グラム、銀が200〜300グラム取れる。錬金術によって、まがい物でない金銀が得られるケースとしては、始めから存在してはいたが混在し、微量のために認知できなかった金銀が単離されてくるケースがもっとも確実な可能性を与える。その方法として灰吹き法が適切であり、偽パラケルススの文章も灰皿(地球)に入れた卑金属の上に鉛(土星)を乗せ、高温で空気(生命)を送って鉛とともに卑金属を酸化し、除去し尽くすと金(太陽)銀(月)が取れるということを述べているのだと理解すれば、この内容はあながち魔法使いの戯言とは言えず、化学の真理を錬金術風に表現していることになる。 
V.アグリコラのデ・レ・メタリカと灰吹き法
パラケルススの生まれた翌年ゲオルギウス・アグリコラ(Georgius Agricola:本名Georg Bauer)もザクセンのグラウハウで生まれた。パラケルススは1541年に亡くなっているが、アグリコラは1550年に大著デ・レ・メタリカを著している。この本は“デ・レ・メタリカ−−全訳とその研究−−近世技術の集大成”として1968年岩崎学術出版社から邦訳が公刊されている。三枝博音博士の労作である。この本によって当時の技術水準を検討すると、われわれは中世における理論と技術の跛行性に非常な驚きの念を抱かざるを得なくなる。
まずアグリコラの経歴を眺めることにする。アグリコラという名は本名のBauer(農夫)の意味をラテン語で表現したものである。パラケルススにも見られるように、名前をラテン風にすることは、当時、教養のある人たちの間で一種の流行であったと思われる。アグリコラは最初言語学者の道を歩み、ライプツィヒ大学のモゼラヌス(P.Mosellanus)教授に師事したが、1524年モゼラヌスが亡くなり、イタリアに遊学することを余儀なくされた。イタリアでは言語学のほか医学、化学を学んだが、この間に深められた鉱物学、地質学への関心から帰途ボヘミアのヨアヒムスタールに立ち寄ったばかりか、ついにこの地で医師として開業し、定住7年に及んだ。その間もっぱら鉱物学、岩石学の研究に励み、また言語に関心の深かったアグリコラはギリシャ・ローマの鉱山業に関する著作にも親しんだ。その後1530年頃ケムニッツ移り、以後この地にとどまった。デ・レ・メタリカが書かれたのもこの地であり(1550年)、後にはモーリッツ侯から同市の市長にも任命され、以後要職を歴任した。1555年11月21日カトリックの外的儀礼を守り通した彼は、新教徒との口論中脳卒中で倒れ、この世を去った。
アグリコラが知識としてどういうものを重んじたか、またどのような学習方法を実践したかについては彼自身がデ・レ・メタリカの序文の中に「私は私が見なかったもの、もしくは信ずべき人から実際に聞かなかったものはすべて叙述から除きました。ですから、私が見なかった、読まなかった、また聞かなかった、さらに試さなかったものは、一切書き込んでおりません」と記していることから推察できる。彼が書物の上の知識だけでなく鉱山業に詳しい人の話を聞き、自ら鉱山や冶金場を訪ねて鉱物学・岩石学と医術を結びつけようとしたことは、若き日のパラケルススがケルンテンで鉱山技術に接し、また遍歴中に錬金術を学び鉱物系の薬品を医療に取り入れようとしたのと非常に共通している。錬金術についてのアグリコラの見解もデ・レ・メタリカの序文に詳しい。
「・・・・私に不可解に思えますのは、ある金属を他の金属に変える術を持っていたあの錬金術師たちがいたということでございます。・・・・けれども、みながみなわけの分からぬものでございます。・・・・あの先生たちは弟子らに次のような教え方をいたします。まずつまらない金属をさまざまな溶解方法で破壊しておき、次にそれを何とかして元の物質に還す方法、さらにそれらの金属の中にある要らざるものを取りのけ、欠けているものをそこに入れ込み、こうしてそこから貴重なものたる金銀を作りだす、つまり精錬において砕いても溶かしても変わらないものを作り出すという術、これらの方術を授けるのでございます。彼らが実際にそれができるかどうかについては、私は決定いたすことができません。あのようにたくさんな著述家たちが成功すると申して、懸命になって私たちに確信させようとしていますのですから、これは彼らのいうことに信頼を置かざるを得ないということになるように思えるのでございます。しかしです、私たちが読んで知りました範囲でも、誰一人あんな方術によって金持ちになっていないのですし、そしてまた、私たちが自分で実見しましたところでも、至る所あんなにたくさんな錬金術師が過去にいましたし、また現にいまして、彼らの力と根のある限りを昼夜となく使い、山なす金銀を生み出そうとしておるのであります。それなのに、人がそれで金持ちになったということをついぞ見ないのでございますから、結局大いに疑ってよいものだと申せましょう。・・・・彼らの書きました書物、これにはプラトンやアリストテレスその他の名前が載せてありまして、質朴な人たちに対しては麗々しい表題が博学の見せかけの利き目を奏しているようにしてあるのですが、これが第一彼らの空虚さを露呈しているのでございます。なおこのほかに錬金術師の第二のグループがございます。この人たちは、つまらぬ金属の実質を変えたりなぞいたしませんで、それらを金や銀の色でもって着色いたしまして、新しい装いをさせ、本来のものとは違って見えるようにいたします。・・・・これらの錬金術師は人を欺くのですから、もちろん憎まれるだけでなく彼らの詐欺は極刑でもって報いられます。錬金術師の第三のグループも同様に狡猾な詐欺をいたします。この人たちは予め炭のうちに金か銀を忍ばせ、これをるつぼの中に投入します。こうしてあしらいものを混入しますと、それがある新しいものを不思議にもつくり出す力を持っていて、これで雄黄(ヒ鉱石)から金を、あるいはスズもしくはこれに類する金属から銀を、生み出せるのだという具合に見せかけます。・・・・」
パラケルススが錬金術師たちを軽蔑していたようにアグリコラもまた錬金術を詐術と見ていたことは明らかである。今日われわれが錬金術を批判するのは簡単であるが、この序文が書かれたのは正に錬金術が横行していた時代であり、その中にあってこのような論評を大胆に展開する彼の理性にまず驚嘆の念を禁じ得ないものがある。ゲーテもデ・レ・メタリカを愛し、その著“色彩論”の中で、「私たちはなお今日でもその書物の存在を驚嘆をもって見ている。というのは、その著述は、古い鉱山業と新しい鉱山業、そういったものの全体を包含していて、しかもその全体が私たちに一つの美しい贈り物として提供されているからである。アグリコラは1494年に生まれて、1555年に没した。だから、彼は新しく勃興しまもなくその最高の頂点に達し得たあの美術と文学のこの上もなく高く美しかった時代のうちに生きたのだった。」と述べている。その挿し絵である緻密な美しい273枚の木版画とともに、全編に流れる合理性に満ちた、克明な、かつ秩序ある記述が彼の精神に喜びを与えたのであろう。この本は前に挙げた神秘に彩られた「哲学の天国」とは全く異質なもので、二つの著作が同時代のものとは到底思えない。
デ・レ・メタリカは12巻よりなり、次の内容からなっている。1の巻は、鉱山に関する仕事および金属そのものに寄せられるいわれなき中傷に対する堂々たる弁護。2〜4の巻では鉱山業者が採鉱に着手するに当たって必要な知識から始めて、鉱脈の亀裂、継ぎ目、走り方を述べ、鉱抗作業者の役目に及んでいる。5の巻では鉱脈を掘ることおよび測量術、6の巻では鉱業の道具と機械が記され、7の巻以降で精錬のことが述べられている。7の巻では「試金」について、8の巻では鉱石の焙焼、粉砕、選鉱、V(か)焼などの熔融前の作業、9の巻では熔融の技術、10の巻では金から銀の、また金銀から鉛の分離の仕方、11の巻では銀と銅との分離が述べられる。最後の12の巻では鉱山の仕事に必要な薬品類たとえば塩、ソーダ、ミョウバン、瀝青、ガラスなどの製法が示される。その記述は精細を極め、金属精錬の方法にしてもいくつかの異なった方法が見られるときは、そのすべてについて記している。鉱石試験法について書かれた7の巻には、「金属含量を突き止めるための鉱石試験が、鉱石の熔解と異なるところは、ただ用いられる鉱石量が少ないことだけである。」と記され、当時の鉱業で行われていた灰吹き法について基本的なことはこの巻の記述で十分に理解できる。
まず鉱石試験に用いられるいろいろの器具について順を追って詳しく語られる。はじめに三種の試験炉−−鉄炉、煉瓦炉、粘土の炉−−について、続いてふいご、烙室、るつぼにについて説明される。烙室というのは粘土でつくられ、波形瓦を逆さまにした形をしていて、これをるつぼにかぶせ、操作中に炭などがるつぼの中に落ち込むのを防ぐ。るつぼには二種類あり、その一つが金銀鉱の中にどれくらい金銀が含まれているかを調べるのに用いられる。これは壺の形をしており、主な目的は鉱石を鉛その他の種々媒熔剤とともに熔かし、金銀を熔かし込んだ鉛の“かわ”と鉱滓とに分離することにある。現代風にいえば、ケイ酸あるいは軽金属の塩や酸化物を比重の小さい鉱滓に変え、金銀と合金化した鉛から分離するわけである。金銀を含んだ鉛は最後に灰皿にいれて強熱される。これが灰吹き法であるが、アグリコラは各種の灰および灰皿について詳しくつぎのように記述している。 
「灰皿は試験係が自分で作るものであるから、この製造に用いられる材料およびその方法について、2、3述べなければならない。・・・・灰は古ければ古いほどいい。従って骨とくに動物の頭蓋骨を焼いた灰は皿を作るのにもっとも適したものである。その次には鹿の角および魚の背骨の灰がよい。・・・・多くの人びとは混合灰を用いる。混合灰のうちでは骨あるいは魚の背骨の灰が1荷1/2、山毛欅灰が1、皮くずの灰が1/2という配合がいいとされている。・・・・しかし皮くずの灰と、羊と犢の頭蓋骨の灰と、鹿の灰を右と同率に配合したものからは、もっとずっといいものができる。最後にとびきり一等品は鹿の角の灰を粉末にしたものだけを用いて作った皿である。・・・・・」
鉱石試験に先立って、鉱石は洗鉱等の処理をされ、媒熔剤と混じて熔かされる。媒熔剤にはいろいろの種類があり、1媒熔剤自身がきわめて熔けやすいために、鉱石も簡単に熔けるもの 2鉱石自身に熱を持たせ、あるいは鉱石中に侵入する作用があるために、火の力を助けて不純物から容易に金属を分離させ、熔けた金属を鉛と混ずるもの 3鉱石を火力から保護して、その金属成分が燃焼しあるいは煙とともに炉外に逃げないようにするもの 4最後にまた金属を吸収する媒熔剤もある。と書かれ、1について
「最初に挙げた種類に属するものは鉛である。これはまた粒に作った粒鉛あるいは鉛に火を掛けて作った鉛灰として用いられる。その他鉛丹、鉛黄、密陀僧、窯鉛、方鉛鉱、銅がある。銅は焼くかあるいは薄板やヤスリくずにして用いる。さらに金、銀、銅、鉛の鉱滓、ソーダ、その鉱滓、硝石、焼明礬、礬油、加熱塩または熔解塩、炉の中で熔けやすい岩石類、熔けやすい石を精製した砂、柔らかな石灰石およびある種の白色頁岩などがある。最初に挙げたもの、鉛、鉛灰、鉛丹、鉛黄および密陀僧は特に熔けやすい鉱石の媒熔に適し、窯鉛は熔けにくいものに、方鉛鉱はもっとも熔けにくい鉱石の媒熔に適している。」
と記されている。
鉛だけでなくいろいろの鉛の化合物も用いられたことが分かる。操作としては、
「試験炉にまずるつぼを入れて、これを熱した、しかも良質の木炭で包む。・・・・次に火ばさみで焙焼皿をるつぼの下に入れて、皿が早く熱せられるようにるつぼの前部に赤くなった炭を一つ寄せる。焙焼皿に鉛を入れたら、火ばさみで皿を再び引き出す。皿が火力のために熱していたら、長さ2フィート直径1伏せの1本の鉄管で吹いて皿の中に落ち込んだ灰ないし炭屑を除去する。灰皿の場合もこれに灰あるいは炭屑が落ち込んだ場合には、同様の操作が必要である。次に火ばさみで鉛弾を1個投ずる。鉛弾が煙を上げ始める頃を見計らって、媒熔剤を加えた鉱石を紙袋に包んで投ずる。・・・・紙袋が燃え終わったら、小さな炭を火ばさみに挟んでそれで鉱石をかき混ぜ、鉱石が鉛に吸収されて、鉱石内に含まれた金属が鉛と混じ合うようにする。この混合が終わったとき、鉱滓のある部分は鉛を含み、焙焼皿の壁面に付着して一種の黒い輪形になるだろう。ある部分は金および銀を吸収した鉛の面に浮き出るが、これは速やかに取り去らねばいけない。
試験用の鉛は一片の銀でも含んでいてはならない。・・・・さらにまた火力のため鉛が消滅しかけると、金ないし銀の粒はその表面にいろいろな色を現す。そして鉛が残らずなくなると、金銀の粒だけが灰吹き皿に残るのである。」 
銅鉱石ではまず三角るつぼで銅かわとして分離されるが、かわの中に含まれた金銀はその後で鉛を加えて灰吹きされる。先に鉛を加える方法と後で鉛を加える方法の二つはこのように対象とする金属によって選ばれる。金属鉱石の種類によってどちらが適切か、事実に即して批判的検討が事細かに展開されている。その態度は正に現代のわれわれと比べても遜色のないものである。デ・レ・メタリカにおいては灰吹き法の記述をはじめどの巻の記述も事実に即して進められ、近代的な批判精神にみちみちている。中世的な神秘主義、あいまいさのかけらもなく、先の錬金術師の著作と比べるととても同時代の作品とは考えられない明晰さがみなぎっている。
アグリコラもパラケルススも共に自分自身の眼で見、耳で聞いたものから知識を得ようとした。偏見を抱くことなくいろいろの階層の人に接したという点では、むしろパラケルススの方が積極的であったと思われる。しかしパラケルススの関心は医療に重きが置かれ、接した人たちも理髪外科医、浴場主、内科医、女たち、医療をこととする黒魔術師、僧院の修道僧、その他であった。当時の医学の理論、技術はまだ未発達の段階にあり、迷信的要素の濃いものであった。まだガレノス以来の四体液説が信じられており、パラケルススの生涯はこの理論との戦いであった。彼は新しい理論を対置した。その“原理”は独創的ではあったが秘教主義的な四柱説−−哲学・占星術・錬金術・美徳(倫理学)−−の上に建設されようとしていた。このため彼自身が新たな、見方によってはよりいっそう深い迷妄の中に落ち込まざるを得なかったのである。こうして教祖的存在として多くの偽パラケルススを生み出し、彼自身も神秘の人として後生に伝えられるに至った。一方アグリコラの対象であった鉱業は、さまざまな鉱山の、特殊な条件の中で生まれた技術に工夫を凝らし、改良を加える過程を辿った。技術の正否は直ちに鉱山での作業の結果が応えた。アグリコラの記述の明晰さはこの技術の忠実な描写に基本を置いたことにある。先にも述べたようにアグリコラは単に描写に終始しただけでなく、事実に即した比較検討を行っているが、彼の頭脳には隠微な理論や独断的な解釈はなく、デ・レ・メタリカ序文に記されたとおりの錬金術批判が据えられていた。同時代に生きた二人の巨人に見られる驚くべき違いは、個人の能力の違いというよりも、空疎な理論から独立して事実の検証のなかに着実な進歩を重ねていく技術の持つ歩みの確かさと、まだ混迷から脱却できずひたすら古代からの幻影の枠の中で苦闘しつつ、空想を展開せざるを得なかった理論的思考とのギャップが、この中世の二冊の著書に特徴的に現れていると見られるのである。パラケルススも古代の四元素−−火・水・風・土−−に困惑し、三つのコルプス−−硫黄・塩・水銀−−を対置して、これが元素に含まれると考えて四元素説との妥協を謀った。三つのコルプスこそが本質的なものと信じたのだから、古代の四元素説との明確な訣別の一歩手前と見ることができる。この訣別は、若いときのパラケルススの観察に基づこうとする実証的な姿勢に由来するものと思われるのであるが、当時の実験水準ではこれを検討実証するレベルになく、理論的思考だけでは古代からの伝統の枠を脱することができなかったのであろう。当時においては現場は巨大な実験室の機能を果たし、現場の技術の進歩が突きつける現実が、古代に発する形式の枠内で右往左往する理論の空虚さを打破して、近代から現代に通ずる合理性、批判的精神を育てる母胎となり、近代化学の基盤を準備したのである。
ラボアジェ(A.L.Lavoisier)は その著にこう記している。
「われわれが、もともとギリシャ哲学者からとった自然界のすべての物体は三つ、または四つの元素から成り立つという偏見を取ろうとする傾向について、ここで注意を喚起したい。われわれが知るすべての物体を、この四元素がさまざまの割合になって構成しているということは、われわれが実験物理と化学について最初の知見をもつまで、長い間まったく想像の仮説であったのである。われわれは、まだ四元素が事実であることを見ていないし、またそれでシステムをつくってもいない。今日ではいろいろの事実があつめられている。それが仮説と一致しない場合は、仮説を捨てるべきであろう。いくら本当に、人間が“哲学の石”の威力を信じているといっても、それはきたるべき時代には消え去るであろう。」 
 
鉱床学

 

16世紀の鉱床学
有用元素または有用鉱物の濃集体(鉱床)がどうして出来るのか、という問題はすでに16世紀に人々の関心を集めていたようである。そのことに興味をもった代表的人物はドイツ人、G・アグリコラ(1494-1555)である。彼はドイツとチェコスロバキアとの国境にあるエルツ山脈の麓で生れ、生涯をそこで過ごした。ここには鉱山があったので、彼は鉱山の知識を身につけ、多くの有用鉱物を集めてそれを記載し、1546年に「デ・レ・メタリカ」という厚い本を書いた。この中で、アグリコラは天水が地下に流れ込み、温められて、地層の中の金属を溶かし、有用金属を含んだ液が出来、それが移動して地中のわれ目に侵入し、そこで冷え、金属が沈殿したという考えを述べた。また彼は冶金術、採鉱術のほか、鉱脈や鉱石についても詳しく書いた。種々の鉱物の結晶形、劈開、硬さ、比重、色等も記載した。アグリコラは理論面のことよりも、観察にもとずく正確な記述を大切にした。これがこの本を貫く特徴である。この手法はあとあとまで、ドイツ地質学の伝統として受け継がれ、ドイツには鉱床の成因を論じるまえに、正しい観察が優先すべきであるとする学風が培われた。 
17世紀の鉱床学
17世紀の半ばには、フランスの哲学者、R・P・デカルト(1596-1650)が地殻の下位には高温状態で重い物質がとじ込められており、その一部が上昇し、地殻のわれ目を満たして鉱床になったと考えた。この考えは、20世紀に入っても、アメリカのJ・E・スパー(1922)と、J・W・グレゴリー(1928)が同じような鉱床成因説を主張した。しかし熱水過程を無視した鉱床成因説はナンセンスだとして、葬り去られた。 
18世紀の鉱床学
18世紀の終りは地質学史上、特質すべき時代である。言いかえれば、「水成論と火成論との論争」の時代である。水成論の旗手はA・G・ウェルナー(1749-1817)で、この人はドイツの中央部サクソンに生れ、フライベルグ大学の教授を42年間も勤めたフライベルグ学派を代表する地質学者である。
ウェルナーの思想はすべての地質系統は原始海洋にはじまる水の力によって出来たというものだった。すなわち地球の創成期の海水は岩石の組成をすべて持っていたとし、化学的沈殿作用が多種類の岩石をつくり、海底の凹凸にしたがって、岩石の産状は複雑になったとした。彼は花崗岩も玄武岩もすべて水成岩だと考えた。ウェルナーは鉱床の成因も水成論で説明したが、この考えは多分ドイツの層状硫化物鉱床の産状、すなわち堆積岩の一部に層をなして産出する鉱床の観察から生れたものと考えられる。
一方、火成論の主唱者はスコットランドが生んだ天才地質学者J・ハットン(1726-1797)である。
ハットンは1785年から1788年の間に「地球の理論」第一巻と第二巻とを自費出版し、このなかで、陸地の構成物は分解するが、後に再び岩石に復元するものだと主張した。そしてこの過程に関する法則を導き出した。すなわち大地は隆起し、侵食され、侵食された物質は堆積し、堆積物は熱せられると花崗岩になると考えた。また鉱脈を火成岩の一種とみなした。
ハットンは火成論者と言われているが、これは正しい見方とは思われない。彼は水成岩と火成岩とを区別した人、すなわち地球の諸現象を科学的に正しく解釈した学者と位置づけるべきであろう。ハットンの「地球の理論」第三巻は手記のまま残された。ハットンの死後、彼の門弟のJ・プレイフェアー(1748-1819)は師の学説を解説し、これを1802年に出版した。これによってハットンの名声は一層高まる結果となった。それにしても、水成論者のウェルナーはハットンの死後20年も長生きをして活躍したので、再び水成論が横行の兆しを見せた。しかしウェルナーの学説は、かつてウェルナーの門弟であったK・ヴァンホッフ(1771-1837)によって否定され、水成論は敗退する。18世紀の鉱床成因論は、多分にこの論争の影響下におかれた。 
19世紀の鉱床学
19世紀に入って、詳しくは1847年にフランスのE・ド・ボーモンはフランス地質学会で注目すべき講演をした。その内容は次のようなものである。褶曲山脈には変成岩と火成岩が同居し、この部分にとくに鉱脈が多く存在すること、また火山作用は火山岩のほかに温泉や、硫黄などの昇華物をつくっている事実から、貫入岩体または噴出岩の冷却過程で大量の硫化物と酸化物の鉱床が出来たと考えた。また堆積岩の中にある銅の硫化物、鉄・マンガンの酸化物、石灰石等は水中における堆積の過程で沈殿したものであるとの考えから、鉱床には火成源と水成源の二つの種類があることを強調した。
19世紀には、変成分化作用によって鉱床が出来るとする成因論が台頭する。アメリカのT・S・ハント(1861)は変成岩が出来る過程で、有用金属の濃集が行われると主張した。すなわち微量の金属を含む堆積物は、花崗岩の貫入によって変成され、金属を放出する。放出された金属は花崗岩の中にとり込まれると考えた。この考えは交代鉱床の成因説の嚆矢である。19世紀には、このほかにもマグマ分化の初期の鉱床と熱水性鉱床とが認識され、定義された。アメリカのW・H・エモンスは近代鉱床学の創始者といわれている人であるが、コロラドの鉛鉱床を研究し、下降する地下水が斑岩の中の有用金属を溶かし、これが周りの岩石を交代して鉱床をつくったとした。この考えは古いアグリコラの思想と共通するものであるが、交代作用の概念を提案している点が重要である。
一方、ノルウェーのJ・H・L・フォークト(1858-1933)はニッケル、鉄の硫化物やチタンの酸化物鉱床を研究し、塩基性マグマ(珪酸に乏しく、鉄、マグネシウムに富むマグマ)が冷却の過程で分化する際に、有用金属を溶かしている液と、珪酸塩の液とにわかれ、両者は混合することなく、同一の岩体の中で固化し、早期に結晶化したものは液の中を沈降したと考えた。さらに、このようなマグマが貫入することによって、マグマの残液は、最後に、ある種の鉱脈をつくると考えた。こうして出来た鉱脈を「熱水性の鉱脈」とした。 
20世紀の鉱床学
20世紀は近代的鉱床成因論が開花した時代である。実に多くの鉱床学者が輩出し、多くの重要な業績を残した。
今世紀初頭には、アメリカの著名な鉱床学者であるJ・F・ケンプ(1859-1926)とW・リンドグレン(1860-1939)が登場する。ケンプは天水循環説を認めながらも、火成岩と鉱床とが密接に関係することを主張した。この考えはリンドグレンによって補強された。リンドグレンはマグマ由来の熱水起源説を提唱し、すぐれた教科書をかいた。以来50余年の永きにわたって鉱床学界に大きい影響を及ぼした。地下水の循環とマグマ性熱水の活動とは共に鉱床の成因にとって重要なことであると位置づけ、さらに地表での風化や堆積作用の中での金属元素の移動にも深い関心をよせた。リンドグレンの学説は中庸で偏ることがなく、そのために多くの学者に受け入れられた。
1919年は鉱床学の歴史の中でも画期的な年である。ノルウェーのC・W・カーステンスと日本の大橋良一が、ほぼ同時に火山岩に伴う層状硫化物鉱床の成因を述べたことである。
カーステンスの研究はノルウェーのカレドニア地方の古い含銅硫化物鉱床が対象だった。一方、大橋良一の研究は秋田県小坂鉱山の黒鉱鉱床であった。黒鉱鉱床は新第三紀中新世の若い鉱床である。いずれも火山岩層の一部に地層の堆積面と平行に、つまり整合的に鉱床が発達するもので、この種の鉱床の成因を次のように考えている。すなわち海底火山活動に関係して生じた金属塩を含む溶液が海底に沈積して鉱床が出来たとするものであった。この考えは現在の「層準規制型鉱床の海底噴気堆積説」の先駆である。
この翌年の1920年に、ドイツのライプチヒ大学のP・ニグリ(1888-1953)は「マグマの揮発成分」という本を書いた。ニグリは鉱物学の教授であったが、変成岩岩石学にも鉱床学にも造詣が深かった。ニグリは図2.2(略)のような絵をかいてマグマから熱水が出来る過程を説明した。同時に図2.3をつくって各種の金属元素がマグマから分離してゆく順位を示した。私の恩師である鈴木醇先生は1928年から二年間、ニグリの許に留学したので、私は折にふれニグリ教授の人柄を聞くことができた。ニグリはせん細な神経の持主で、何事にも厳密であったという。
二十世紀中期で特筆したいのはドイツのH・シュナイダヘン教授がC・R・ヴァン・ハイス(1900)やT・クルック(1914)の思想を継承して「鉱床とは一種の火成岩である」という立場から1944年に表7(略)を1949年に図2.4(略)のような火成岩と鉱床の成因論的分類を試みたことである。この分類は、マグマの冷却に伴ってマグマは分化し、つぎつぎに種々のタイプの鉱床が生成されるというもので、もっとも初期には超苦鉄質岩の中にクロムや白金の鉱床が、そして、もっとも晩期にはマグマから分離した熱水溶液によって金銀などの鉱脈が出来ることを示した。
シュナイダヘンは多くの鉱床学の教科書を世に出した。それらが与えた影響力も大きかった。彼は1950年代を代表する鉱床学者として位置づけられるだろう。すなわち1958年に「地球の鉱床」第一巻を、そして1961年にその第二巻を出版している。第一巻では正マグマ性鉱床(マグマの分化の初期の鉱床)をとりあげ、第二巻では、より分化の進んだペグマタイト鉱床をとりあげている。第三巻では熱水性鉱床が総括されるはずであったが、それを果たすことなく、事業半ばでシュナイダヘンは病没した。
シュナイダヘンは1952年に、構造地質学の巨匠、H・スティーレの生誕75年に当って「鉱床の再生論」を扱った論文を書き、スティーレに謹呈している。これは古い造山帯にできた鉱床が新しい造山運動によって若返るとしたもので、溶け易い鉱物が比較的低温で溶融するために、再生された若い鉱床が、古い造山帯に存在することもありうる、としたものである。
以上にのべたように、ニグリはマグマが固化する過程における温度と圧力条件に注目して鉱床の成因を論じたが、シュナイダヘンは、このことに加えて地殻で起きた構造運動や変成作用の条件にも注目して鉱床の成因を論じた。この点でニグリとシュナイダヘンの考え方、問題のとりあげ方はちがうのである。スウェーデンのS・ガベリン、ノルウェーのA・ポラック、フランスのE・ラガン達は堆積岩の中に含まれる微量の金属元素は、堆積岩が変成されることによって金属が濃集体をつくると考えた。古い変成岩類が卓越する北欧においては造山運動研究の一環として金属鉱床の問題がとりあげられたという地域の背景を感じさせる。
アメリカのA・M・ベートマンは1950年に「鉱床学」第二版を出版した。彼は永年にわたる幅広い経験を活かして実践的(探鉱に役立つ)鉱床学を進めた。とくにマグマ起源熱水説で種々の層状鉱床の成因も説明が可能であるとする立場をとった。
モスクワ大学教授V・I・スミルノフは、1969年に「鉱床地質学」を出版した。このロシア語版は地質調査所の岸本文男氏によって日本語にほん訳された。この本では鉱床の分類体系は鉱床の生成→発展→消滅という輪廻を基本概念にとり入れて、鉱床を九つのグループにわけている。この教科書の新版には「アルビタイト・グライゼン鉱床」がとりあげられ、鉱床の成因的分類は11のグループになっている。アルビタイト・グライゼン鉱床とは、花崗岩貫入体の頂部における後マグマ性の曹長石化作用(Nb,Zr,Thを伴う)と上位の被覆体に出現するグライゼン化(Be,Li,W,Snを伴う)による鉱床で、これらを従来の熱水性鉱床から区別している。また含銅硫化鉄鉱鉱床を黒鉱鉱床と一括して、前者は塩基性の、とくにソーダにとむ枕状溶岩の活動の末期産物であり、後者は酸性岩が卓越する高度に分化した火山活動の末期産物として位置づけられた。その結果、熱水性鉱床は(a)深成源、(b)火山源、(c)遠熱水性の三種類にわけられた。V・I・スミルノフは1960年代を代表する鉱床学の指導者の一人である。
ドイツのハイデルベルグ大学にいたP・ラムドールは鉱石の顕微鏡的研究に一生を捧げた。この人は1960年に「鉱石鉱物とその共生」と題する大冊の鉱石学の教科書をつくった。初版はドイツ語版だったが、1980年に英語で第U版を出版した。この本には地球上に産する、ほとんどすべての鉱石鉱物に関する記載と、それらの反射顕微鏡写真が収録されている。どの写真も実に見事で、見ていて飽きることがない。ラムドールは有名なドイツのライツ社と協力して、いろいろの反射顕微鏡の開発を試み、この分野でも大きな貢献をした。この巨匠は1984年に95才で亡くなった。この時代に、ドイツにはもう一人特徴ある鉱床学学者がいる。その人はH・シュナイダヘンの高弟の一人、H・ボーヘルトである。彼は師と同じ思想で鉱床をみた。ボーヘルトはたくさんのマンガをかいて鉱床の生成過程をわかり易く説明した。日本流に言えば、普及活動の模範を示した人である。
日本の鉱床学の黎明
日本での鉱床学研究は、どういう道すじを通って発達したのか、を概観してみよう。
そもそも、日本の地質学はその初期においては、欧米とくにドイツから輸入されたもので、欧米にくらべると100年も立ちおくれている。日本の鉱山の開発は佐渡金山や小坂銅山のように、江戸時代から採掘が行われたものもあるが、当時は詳しい地質調査は行われていない。
地質調査所の今井功氏(1966)によれば、日本の鉱山を地質学の専門家が最初に調査したのは、フランス人のF・コワニエで、この人は幕末に来日し、10年間日本に滞在し、生野鉱山の開発を指導し、明治7年(1874)に「日本鉱物資源に関する覚え書き」を残した。これが日本の地質と鉱床とを概説した最初のものである。
日本の地質学の黎明期に活躍した日本人は和田維四郎(1856-1920)で、この人は、東京大学の前身である東京開成学校の鉱山学校で学び、1873年にウィーンで開催された万国博覧会に協力し、日本各地から多数の鉱物標本を集めた。これが有名な「和田標本」で、今では到底採集することができない見事な鉱物や鉱石が含まれている。この貴重な標本は現在、三菱マテリアル株式会社が保管し、一部は大宮市にある同社の中央研究所に、また一部は兵庫県の生野町営鉱物標本館に展示されている。
明治10年(1877)、東京大学の設置と共に、東京大学に地質・採鉱・冶金科が開設された。初代の地質学の教授はドイツ人のE・ナウマンで、和田維四郎は助教授であった。和田は1878年に「本邦金石略誌」を著わし、二年後の1880年に「鉱物の晶形学」を書いた。ナウマンと和田は、日本の地質と鉱物資源の調査を進めるには、国費による大組織が必要であることを痛感して「地質調査所」の発足のために奮闘した。いろいろのいきさつはあったが、明治15年(1882)の2月13日に農商務省の一機関として地質調査所は設立された。
和田はナウマンの帰国後、東京大学の教授になり、同時に地質調査所の初代の所長を勤めた。日本人による「独立した地質学」に移行したのはこの時である、といってよい。
明治18年(1885)の東京大学の地質科の教授陣は、小藤文次郎(地質学)、原田豊吉(古生物学)、和田維四郎(鉱物学)であった。原田はドイツに8年間留学し、ミュンヘン大学で博士号を受けている。和田はベルリン大学で鉱物学を学び、小藤はライプチヒ大学で岩石学をF・チルケル(1838-1912)に学んでいる。日本の地質学はまさにドイツ地質学の輸入であった。この時代には東京大学には鉱床学講座はなかった。
1909年に東京大学を卒業した加藤武夫(1883-1949)は、明治専門学校(現在の北九州工業大学)をへて、1920年に東京大学の鉱床学講座の初代の教授になった。加藤はその後24年間にわたって教授を勤め、日本の鉱床学の発展に、とりわけ鉱床の分類体系化に生涯を捧げた。加藤もドイツのフライベルグ鉱山大学に留学している。加藤は鉱石顕微鏡学、熱水性の含金銀銅錫鉱脈、黒鉱鉱床、含銅硫化鉄鉱鉱床、接触交代鉱床等、ほとんど全ての型の鉱床を研究し、それらの成因的位置づけを明らかにすることに努力した。その成果を1927年にとりまとめ、「鉱床地質学」と題する教科書をつくった。この本は、その後の20年間に9版を重ねたが、1937年に内容を一新して「新版鉱床地質学」として出版された。これが日本人によって、日本語で書かれた最初の鉱床学の教科書である。この本は757頁に及ぶ大著で、鉱床学を専攻する学生には座右の書として愛読された。この本の中には多くの海外の鉱床が紹介されているが、そのほとんどすべては加藤が自ら踏査したものであると序文にかかれている。交通不便の当時の事情を考えると、これは驚異的なことといわなくてはならない。
加藤のほかに、日本の鉱床学の黎明期に活躍した人に、地質調査所の平林武(1872-1935)がいる。この人は黒鉱鉱床の研究に先鞭をつけ、この研究は秋田大学の大橋良一や、九州大学の木下亀城にひきつがれた。明治44年(1911)に開設された東北大学理学部にあった大湯正雄(1882-1921)は鉱床学に熱平衡論をとり入れ、阿武隈山地の変成鉱物や、カナダのサッドベリー鉱床を研究した。大湯の助手だった渡辺万次郎は、日立鉱山の研究をはじめ、日本の多数の鉱脈の研究を進めた。
昭和5年(1930)には北海道大学に理学部が新設され、その翌年に理学部に鉱床学講座が設置された。この新しい鉱床学講座には、加藤武夫の高弟である鈴木醇、渡辺武男が着任し、クロム鉱床や接触交代鉱床(スカルン鉱床)の研究を発展させた。
当時の鉱床学者は、誰をとってみても、幅広い分野を研究の対象とし、特定の研究テーマに偏ることがなかった。人材を育てるためには博識でなくてはならなかった。このような先覚者の指導をうけた二代目、三代目とも言うべき鉱床学の専門家は今や1,000名をこえ、今日の鉱床学研究を支えているばかりでなく、国内の鉱床はもとより、海外の鉱床の開発にも取り組んでいる。現在、海外で活躍しつつある日本の鉱床専門家は枚挙にいとまがない程で、1980年には海外鉱床の開発に参加している日本人技術者は2,111名に達している。
新鉱床に関する情報や、数々の研究成果は、世界の種々の学術雑誌に発表され、地球的規模での交流が行われている。とくに1905年にアメリカで創刊されたEconomic Geology、1951年に日本で創刊された「鉱山地質」、1966年にヨーロッパで刊行されたMineralium Depositaはこの分野での専門誌として大きな役割を果たしつつある。 
 
地球科学と磁石

 

海洋の磁気異常と地球磁石
忍法に長じた武将のことを忍将といいます。南北朝時代の楠木正成、安土桃山時代の真田幸村などは、知略に富んださまざまな戦術を駆使したことで知られる忍将でした。
西洋版の忍将としてまずあげられるのは、カルタゴの名将ハンニバルでしょう。カルタゴはフェニキア人が建てたアフリカ北岸の植民都市。紀元前3〜2世紀に隆盛をきわめ、地中海世界の覇権をめぐってローマと対立、3度にわたるポエニ戦争が起こりました。
第2次ポエニ戦争において、忍法にも通じる戦法により、ローマ軍をきりきり舞いさせたのがハンニバルです。海戦では不利と読んだハンニバルは、なんと象に軍事物資を積んで陸路をたどり、険しいアルプスを踏破してイタリアに進軍しました。
このアルプス越えにおいて、ハンニバルは傾斜のきつい山道を、酢酸と火を用いて歩きやすくしたと伝えられます。火で熱した岩盤に酢酸を注ぐと、岩盤はボロボロになり容易に粉砕できるようになるからです。もっともこれはハンニバルの創案ではなく、スペインの鉱夫の鉱石採掘技術をまねたものといわれます。
鉱石の採掘技術はルネサンス期になると急激に発達し、さまざまな金属が発見されるようになりました。鉱物学の父とも呼ばれる16世紀ドイツのアグリコラは、初の体系的な鉱物・冶金学書である著書『デ・レ・メタリカ(金属について)』の中で、当時、ヨーロッパでは鉱山用の羅針盤(方位磁石)が使われていたことを記しています。坑道を開削したり、地下の鉱脈がどの方向に走っているかを知るためのものです。
航海用羅針盤は32方位ですが、この鉱山用羅針盤は24方位です。円を4等分、8等分する航海用羅針盤は方位を表すには便利ですが、直角を3等分できないので24方位が採用されたのでしょう。 
天才数学者ガウスが発明した地磁気測定器
中世ヨーロッパでは磁石の針が北を向くのは、天の北極星が引き寄せるからだと信じられていました。1600年、イギリスのギルバートは、有名な『磁石論』を刊行し、このような占星術的な考え方や迷信を打破するとともに、実験によって地球は巨大な磁石になっていることを証明しました。彼は天然磁石(磁鉄鉱)は地球の産物であるから、磁石の針が大地の力(地磁気)に共感するのは当然のことと考えたのです。
磁石の指極性を利用した羅針盤は一種の地磁気センサですが、方位を知るのが目的であり、地磁気の強さについてはあまり関心がもたれませんでした。地磁気は場所によって強弱があることを最初に発見したのは、ドイツの探検家・博物学者フンボルトです。彼は18世紀末〜19世紀初頭の南米探検において、赤道に近づくにつれ地磁気が弱まることに気づいたのです。彼はこの事実を学会に発表するとともに、地磁気の世界的な同時観測の必要性を熱心に主張しました。オーロラを発生させる“磁気あらし ”もフンボルトの命名によるものです。無線通信もなかった時代において、フンボルトが磁気あらしに執着したのには理由があります。どうやら彼は地磁気の強弱は、地球規模の気象変化と関係があると考えていたようです。
フンボルトが地磁気に強弱があることを知ったのは、磁針の振れの周期に地方差があることからでした。なかなかの観察力ですが、この方法では精度が低いうえ、磁針の磁力の低下などによる誤差が生じ、地磁気の強さを正確に測定できません。そこでフンボルトと親交が深かった数学者ガウスは、図1のような精密な地磁気測定器を考案しました。
これは棒磁石の先に鏡を取り付け、その振動を離れた所から望遠鏡で観測する装置です。棒磁石が地磁気に対して平衡状態にあるとき、別の磁石を近づけると、磁力によって棒磁石に小さな振動が起こります。こうした振動の周期を測定することで、地磁気の強さを正確に求めることができます。 
プロトン磁力計によって海洋の磁気異常を発見
地磁気の強弱は大陸が大きく関与します。磁性粒子を含む岩石からなる巨大山塊は、周囲よりも強い磁気異常を示します。したがって広大な大洋では地磁気はほぼ一様とみなされていました。ところが、大洋にも微細な磁気異常があることが、1960年代になってから明らかにされました。これはプロトン磁力計という測定器が開発されたからです。
プロトン磁力計とは、プロトン(水素イオン)の核磁気共鳴を利用したもので、図2のように水の入った容器にコイルを巻いたしくみとなっています。コイルに直流電流を流すと磁界が発生、水(H2O)中のプロトンの磁気モーメントは、磁界の方向にそろいます。このとき電流を切断すると、発生していた磁界はなくなり、プロトンは地磁気に沿って、コマの首振り運動のような歳差運動をしながら減衰していきます。
コイルによって加えた磁界により、容器の中のプロトンはすべて同一位相で運動するので、その運動はコイル内で磁石が回転するのと同じような効果を示し、コイルに微弱な電圧が誘起されます。この電圧を増幅し地磁気の強さを測定するのがプロトン磁力計です。海洋においては船体磁気の影響をなくすため、船舶から数100mほどプロトン磁力計をロープで曳航し、測定が行われます。 
地磁気逆転を記録する海洋底の岩石磁気
大洋の磁気異常が初めて発見されたのは、1961年の太平洋北東海域においてです。陸上での磁気異常は複雑で特定のパターンはありません。しかし、大洋における磁気異常の強弱は、なぜか縞状パターンとなって観測されました。
そのころ登場した海洋底拡大説と結びつけ、この縞状パターンの謎解きに挑んだのは、ケンブリッジ大学のマシューズとヴァインです。
太平洋や大西洋の海底には、海嶺と呼ばれる長大な山脈があります。これはマントルから噴出した地下物質が形成したものです。地下物質の噴出が続くと、海嶺付近の地殻は新たに形成される地殻に押しのけられ、ベルトコンベアのように海嶺の左右に移動していくと考えられます。これが海洋底拡大説という仮説です。
地下物質が噴出して冷却するとき、図3のように地磁気によって岩石が磁化されます。これは岩石磁気と呼ばれます。一方、地磁気は過去に逆転を繰り返しているので、マシューズとヴァインは岩石に残る磁気は過去の地球の地磁気方向を記録すると考えました。
これはテープレコーダーのしくみとよく似ています。つまり、海嶺の左右に移動する海洋底はテープレコーダーの磁気テープで、海嶺は磁気ヘッドに相当します。もし、彼らの仮説が正しいのならば、海嶺の左右に展開される縞状パターンの磁気異常は、左右対称となっているはずです。そこで縞状パターンの幅を比較検討したところ、みごとに一致することが明らかにされました。こうしてマシューズとヴァインは、自らの仮説と海洋底拡大説とを同時証明するとともに、20世紀最大の科学成果の1つともいわれるプレートテクトニクス理論の確固たる基礎を築き上げることになったのです。 
 
亜鉛と黄銅/輝蒼鉛鉱/自然アンチモン 

 

亜鉛と黄銅
亜鉛は西欧では認知が遅れた金属である。その辺の事情がヨハン・ベックマンの『西洋事物起源』(1780-1805)には次のように書かれている。
この金属についてわかりやすい説明をしたのはテオフラトゥス・パラケルスス(Theophrastus Paracelsus)である。彼は1541年に死亡している。しかしながら、私はこんなに長い間、少なくとも錬金術師と呼ばれていた人々が、亜鉛を忘れていたとは思わない。私は、錬金術師たちが亜鉛によって銅に色がつくということで大いに希望を抱いたため、故意に意味不明瞭に説明し、他の名称を用いて秘密にしようとしたので、彼らの著書に亜鉛を見つけることができなかったのではないかと思っている。−中略−
亜鉛という名称はパラケルススの本に初めて出てくる。彼は、この金属が従来知られていたものとは別のものであるが、その性質はよくわからず、鋳造できるが展性はなく、カリンティア(Carinthia)だけに産すると明言している。では彼は、アルベルトゥス・マグヌスの時代でさえも知られていたゴスラーの亜鉛を知らなかったのだろうか[注]。1550年頃に本を書いたゲオルギウス・アグリコラはゴスラーの亜鉛について語っている。だが彼はこれをliquor candidus(雪白の液)、ドイツ語でConterfey(模造品)と呼んでいる。−中略−
これらの不完全な説明からみると、亜鉛は16世紀中葉でさえも稀少な金属であり、当時、大コレクションの部類に入ったアグリコラのコレクションのなかにも入っていなかったことがわかる。
[注] Paracelsi Opera. Strasb. 1616,fol. 私は、ここに主要なる一節を書き示そう。亜鉛について  もう一つの金属、亜鉛は一般には知られていない。これは、他の多くの金属が混じっているが、別個の、起源を異にする金属である。これは三つの流体原則を有するため熔融可能であるが、展性がない。その色は他の金属の色とは似ていないし、他の金属と同様の製造方法によるものでもない。だが、私は、その「最終物質」(ultima materia)を知らない。というのも、「生きた銀」(argentum vivum)と同じようにその性質に特異性があるからである。これは混合物を形成しないため、他金属と組み合わせることができず、完全に単体のままである。
かくも西欧での認知が遅れた亜鉛であるが、その実、意外と古い歴史を持っていた。ここでは亜鉛製錬の技術と歴史の一端に触れてみた。
黄銅から始まった
考古学的には亜鉛の歴史は、亜鉛としてではなく銅と亜鉛の合金である黄銅から始まった。知られる最古の黄銅遺物はインドのロータル(Lothal 2200-1500calBC頃)出土のZn6wt%のものとされる。亜鉛濃度が6wt%程度では見た目には銅とそれほど変わりがないので、意図して作られたものとは考えにくい。
亜鉛鉱石のカラミンは加熱によって分解し、酸化亜鉛となる。これを炭と一緒に加熱すると酸化亜鉛は還元されて亜鉛となるが、このときの温度は亜鉛の沸点を超えた温度であるため、亜鉛はガスとして生成する。この亜鉛ガスを冷やして凝縮すると金属の亜鉛が得られるのであるが、この亜鉛ガスを金属の銅と合わせると亜鉛ガスは銅の中に浸透して行き合金を形成する。このような黄銅の製法をセメンテーション法という。
ロータル出土の黄銅はセメンテーション法で作られたものと考えられている。現在云われているセメンテーション法の製法の概略は、ルツボに銅の小片と亜鉛鉱石と炭素源を入れ、封をして加熱する。亜鉛鉱石が還元され、生成した亜鉛ガスが銅片に吸収されて黄銅となるというものである。はたしてロータルの黄銅はこのようにして作られたのであろうか。
銅と亜鉛の混合した鉱石の製錬によって黄銅ができるという話もある。亜鉛鉱石を含む銅鉱石の製錬、または銅鉱石と亜鉛鉱石を混ぜての製錬を想定した場合、還元されやすい銅鉱石の還元が進み、次いで亜鉛鉱石の還元が進むと考えられる。この鉱石同士の製錬でも、還元されてできた銅に亜鉛ガスが浸透することになるので、セメンテーション法といえる。(炉の温度上昇の速度から考えて、銅鉱石の還元が不十分な状態で亜鉛鉱石の還元温度に達すると思われるので、生成した亜鉛ガスの大半は飛散してしまい、実際には低い亜鉛濃度のものしか得られないと思われる。)
ロータルで黄銅ができたのは、この鉱石同士によるセメンテーション法によるものではないかと思う。黄銅の始まりが銅と亜鉛鉱石というのは飛躍しているように感じられる。
銅鉱石の製錬過程で亜鉛鉱石がどのような形で加わったかについて、炉材やルツボの材料として亜鉛鉱石が偶然に使われたという想定を見かけたが、この時代ともなると高温にさらされる炉材などは選別された材料を使っていたと思われるのでこれは考えにくい。
例えば古代インドのナーガールジュナ(Nagarjuna)の言として、
「亜鉛鉱石を発酵した米水、ナトロン(天然の炭酸ソーダ)、精製バターと一緒に温浸し、羊毛、貝殻虫の分泌した樹脂状物質、硼砂と混合したものを坩堝に入れて密閉して焼くと錫に似たエッセンスが得られる」。
という亜鉛製錬に関する引用文がある。これをみると亜鉛の製錬には関係しない物質も含まれており、試行錯誤の跡が伺われる。このようなことから、銅製錬の過程で亜鉛鉱石を加えた可能性も考えられよう。これが銅製錬でなく、銅熔錬時でもよいのではあるが。
亜鉛鉱石(カラミン)が特殊な土であることは、偶然にでも加熱・還元されたとき、発生した亜鉛ガスが空気中の酸素と結合して酸化亜鉛の白い煙となることで分かる。火に投じることで白い煙を出すような物質を、特別なものとして見られていた可能性は十分考えられよう。
黄銅から亜鉛へ
現代の中国で16世紀の技術のレトルト炉が雲南省と貴州省で今なお稼働していた。調査に加わった中国貨幣博物館所属の周衛栄(Zhou Weirong)の報告(1996)によると、中国における亜鉛の製錬の始まりは16世紀以降で、黄銅製造のセメンテーション法から派生した中国独自のものであるとしている。
この中国で使用されたレトルトは、セメンテーション法で使われていたルツボと大差なく、周衛栄氏の説は納得できる。おそらくルツボの下側を加熱したとき、ルツボの上部に亜鉛が凝縮されたのを発見し、亜鉛製錬に至ったと推定される。
ただし、亜鉛の発見が黄銅の製造に結びついたか否かは別の問題かもしれない。「亜鉛−その不思議な生い立ち」に次のような記述がある。
1546年に刊行された金属製錬の百科全書デ・レ・メタリカにある記述を思い起こしてみると、「ゴスラー(ドイツ中部)の鉛製錬炉の内壁の割れ目に使い道のない白い金属(カウンタフェイ、にせものの意味)がとれる」、また「シレジア(チェコスロバキアとポーランドにまたがる地方、後日水平蒸留亜鉛の生産地となる)の溶鉱炉の壁でジンカムがとれる」とあるが両方とも金属亜鉛であることは間違いない。
同じくゴスラー工場の鉱山事業報告書(1617年)に再び鉛溶鉱炉の壁に金属が堆積するが役に立たない金属であると書かれている。したがって少なくとも1617年までは亜鉛はまだ錬金術師の興味の対象としての需要しかなかったようである。しかし黄銅(真鍮)製造の原料として亜鉛をインドから輸入しはじめたのはザワールでの亜鉛生産が劇的に増加した16世紀とクラドックは言っている。したがって欧州では16〜17世紀には一方では東方から亜鉛を輸入している最中に他方ではゴスラー、シレジアの溶鉱炉の壁で金属亜鉛が採れながら100年以上ものあいだ役に立たぬ金属扱いをしていたということになる。
亜鉛を用いて黄銅を作る場合、銅の融点は亜鉛の沸点より高いので先に銅を溶かし、次いで亜鉛を入れなければならない。逆にすると亜鉛は全て蒸発してしまうことになろう。
なお、周衛栄(1996)は『天工開物』では亜鉛を「倭鉛(wo yuan)」としていたが、当時の正確な亜鉛の漢字は「(wo yuan)」であり「倭鉛」の実態は鉛であると報告している。
また、周衛栄(2000)によると、中国で黄銅を指す「鍮石(tutty)」という言葉は仏教経典の音訳語として外国から入ってきたもので、鍮石(toushi)はペルシャか西方の他の国から伝わり、10世紀の五代時代には製造方法を習得したとされる。
インド北西部のザワール(Zawar)で亜鉛製錬の遺構が発掘調査されており、ザワールでは13〜18世紀の間亜鉛製錬が行なわれ、大規模製錬は15世紀には始まったとされる。ザワールでは飢餓、マラッタ族の反乱その他間接的な原因で1820年には亜鉛製錬が放棄された。したがって、調査された製錬遺構は18世紀末から19世紀初頭頃のものと思われる。
ザワールの蒸留炉は、燃料(木炭)は下ではなくレトルトの上部に乗せて燃焼させるので、燃焼が活発になると穴空き粘土板の下から吸い込まれる空気量も増加するのでコンデンサーの冷却が強化され、コンデンサーの温度上昇を防止するという合理的な構造となっている。
このような蒸留方法を下方蒸留(distillation-by-descending)」と呼び、ラテン語にもサンスクリット語にも技術用語として残っているほど古くから確立されていた技法であるそうだ。
この合理的な蒸留方法が当初から行なわれていたとは思えず、インドにおいてもセメンテーション法から亜鉛製錬が発見され、これが下方蒸留法に発展していったものと想像される。
黄銅の色
セメンテーション法で得られた黄銅は、丹銅に分類される亜鉛濃度(4-22wt%)にほぼ匹敵する。丹銅の色合いは、Zn5wt%程度で銅赤色、Zn10wt%で黄色味を帯びた赤色、Zn20wt%で淡紅色を呈するとされる。亜鉛の量がさらに増しZn30wt%前後になると緑味を帯びた黄色を呈し文字通り黄銅となる。Zn35wt%になると黄金色、Zn40wt%になると赤味を帯びた黄金色となる。
こうしてみると初期の頃のセメンテーション法で得られた黄銅は丹銅と呼べるものであり、黄金と比較されるような色合いのものではなかった。したがって、セメンテーション法で作られた黄銅は、丹銅と呼ぶほうが言葉から受ける誤解が少ないと思う。もっとも、セメンテーション法での最高到達濃度(28wt%)での色合いは、金銀合金の緑味を帯びた黄金色と同じか近いものであり、銀より高価に取引されても不思議はない。
なお、遺物で亜鉛濃度が数%程度のものは色合いが銅と変わらず、古代において意味を成さなかったと考えられる。つまり銅と区別されなかったであろう。したがって、セメンテーション法による黄銅作りの失敗作の可能性も考えられるが、大半は単に不純物として混入したものではなかろうかと思う。
亜鉛鉱石
古代に利用された亜鉛鉱石はカラミン(Calamine)といわれる。一般にカラミンは異極鉱(Hemimorphite Zn4Si2O7(OH)2・H2O)とされるが、古くは異極鉱、菱亜鉛鉱(Smithsonite ZnCO3)や水亜鉛土(Hydrozincite Zn5(CO3)2(OH)6)などの亜鉛鉱石を区別することなくカラミンと呼んでいたようだ。これらの鉱物は閃亜鉛鉱(Sphalerite ZnS)の酸化帯に生成された二次鉱物で、混在している場合もある。
中国では亜鉛鉱石を炉甘石と呼んでいたが、その正体は次のように異極鉱や菱亜鉛鉱ではなく水亜鉛土であったようだ。しかし、中国においてもこれらの亜鉛鉱物を区別することなく炉甘石と呼んでいたようである。
炉甘石はすでに唐代には真鍮(黄銅)をつくる原料として知られていた。白い粉をかためたような粗しょうな鉱石で、当時の人々は金属元素の亜鉛を含むことなど知る筈もなかった。崔ム(さいほう)の外丹本草に「銅一斤、炉甘石一斤を共に錬れば鍮石(真鍮)一斤半を得る。これ即ち石中から半分のものが採り出されるためだろう。」と述べている。かくのごとく中国人は亜鉛という元素の顔は見ずして真鍮という合金を作り出していたのであった。
炉甘石の名の起源は、この石がよく銅の製錬所の熔鉱炉の炉ばたに山積みされていたことと、この石を舐めると舌の味蕾を収斂して甘みを感じるから炉甘の名が附けられたのである。
炉甘石が眼病に効くことがわかったのは、いつ頃のことかわからないが、初めて本草書に記載されたのは、明の劉文泰(りゅうぶんたい)の本草品彙精要(1505年)である。それから六十五年を経て、李時珍が本草綱目(1570年)にこれを載せた。時珍はこの石が既載であることを知らず、自著が最初の記載と思っていたらしいのである。
炉甘石を科学的に研究したのは十九世紀から二十世紀のはじめ頃、西洋人の支那研究が盛んだった頃で、ブラウン・スミス・ハンブリイおよび張(チャン)らは炉甘石を菱亜鉛鉱(炭酸亜鉛ZnCO3)に同定した。一部に異極鉱(カラミン、珪酸亜鉛鉱)に同定した人もあったが、米人バーボーBarbourは1922年北京のサンプルについて含水炭酸亜鉛即ち水亜鉛土(ハイドロジンサイト)とした。このように炉甘石の本質については一定の見解がなかったのである。
然るに1952年、名古屋大学山崎一雄教授は四川省産炉甘石(現井上目洗薬本舗井上清七氏提供)を分析され、水亜鉛土Hydrozincite Zn5(CO3)2(OH)6を主成分とし、他に微量の夾雑成分をふくむことが判明し、前掲バーボーの水亜鉛土説が正しいと証明された。
現在の亜鉛の主要鉱石である閃亜鉛鉱が何時頃から使用されたのか不明であるが、インドのザワールではすでに使われていたようだ。『日本の鉱山』によると、
「閃亜鉛鉱は500-600℃に加熱すると、自燃して酸化亜鉛となり、一部は硫酸亜鉛に変化する。Sの多くはSO2ガスとなって発散する。焼鉱:鉱石に適当な空気を与え、常に鉱石を攪拌しつつ過熱すると、鉱石中のSは8-10%までは自燃するが、これ以上のSを除去するには900℃位まで温度を上昇せしめなければならないので燃料を用いる。」
とあり、『金属製錬技術ハンドブック』には、
「閃亜鉛鉱は他の硫化鉱に比べてかなり酸化速度が遅い。これは酸化によって鉱粒の表面にできたZnOが、ZnSよりも密度が小さいために容積が大きく、硫化鉱粒の表面を厚く覆って焙焼が進み難くするからである。また着火点もかなり高い。粒径が0.1mmの硫化物の着火温度を示すと次のようである。黄鉄鉱325℃、磁硫鉄鉱430℃、黄銅鉱430℃、方鉛鉱554℃、閃亜鉛鉱647℃。」
とある。閃亜鉛鉱が通常黒い色をしているのは含まれる鉄分によるといわれる。選鉱された亜鉛鉱石に含まれる鉄分が多いと、鉄分がレトルトの珪酸分と反応して熔け、穴が開くなどの問題があるようだ。
銅や鉛の製錬においては、閃亜鉛鉱はスラグに入って粘り、ついには固まって銅や鉛の製錬が不可能となるので嫌われて事前に取り除かれていたようである。
ちなみに閃亜鉛鉱を焙焼して亜鉛鉱石とする特許が1758年に欧州で最初に亜鉛製錬を行なったチャンピオン(W. Champion)によって取得されているそうだ。
セメンテーション法雑感
セメンテーション法による黄銅の亜鉛濃度は実験により最高28wt%とされるが、32とか33wt%まで達成したという記述も見られる。セメンテーション法において亜鉛を吸収した銅(黄銅)が熔融すると、融けた黄銅が炉底に溜まるなどにより、亜鉛蒸気との接触が激減して実質的に限界に達すると考えられる。酸化亜鉛が実質的に還元される温度が950℃以上という記述も見られ、このことから、例えば亜鉛濃度が33wt%の黄銅の融点は酸化亜鉛の還元温度を下回っており、セメンテーション法だけでは説明しがたいと思われる。この場合、ルツボの一部に凝縮した亜鉛が混じったなどのことが想定されよう。
この最高亜鉛濃度が28wt%という値を根拠にして、遺物の亜鉛濃度が28wt%以上のものをして亜鉛を加えたものとされるのを目にする。しかし、ルツボに凝縮した亜鉛が混じった可能性も考えられるので、この判定方法で亜鉛を使ったと断言はしがたいと思う。亜鉛の出現時期については、金属亜鉛の遺物を持ってするしかないと思われるが、残念なことに亜鉛は酸化しやすいために遺物が残りにくい。亜鉛製品遺物については常に年代論争がつきまとっているようだ。
ところで、セメンテーション法において、固体の銅中における亜鉛の拡散について「亜鉛−その不思議な生い立ち」では
セメンテーション法は、坩堝のなかで酸化亜鉛が1000℃付近で還元されて、亜鉛蒸気が発生するすぐ側に銅の粒が待っていて、瞬時に亜鉛蒸気を吸収してしまった1000℃での固体の銅のなかの亜鉛の拡散速度も極めて早いので、銅の表面に亜鉛が偏析することもなく、金属銅は亜鉛蒸気用のコンデンサーの役割をする極めて良好なアブソーバー(吸収器)であり、亜鉛の歩留りは極めてよかったと考えられる。
とあるが、固体の銅中における亜鉛の拡散係数が特別に大きいということもないようであり、拡散係数が10-12(m2/s)でも拡散距離は一分間で10μm、一時間で100μm程度であることから表層に偏析したのではないかと思われる。もっとも銅の表層は熔けた黄銅で覆われているとも考えられるので、液相への亜鉛の拡散は早かったのかもしれないが。
もし偏析したとすれば、亜鉛濃度が28wt%という値も普通には達成しがたいチャンピオンデータではなかろうかと思われる。セメンテーション法による黄銅の製造自体、1000℃付近での数十℃を温度計なしにコントロールしなければならないという製法である。
乾式亜鉛製錬の概要
蒸留法による亜鉛製錬の概要を『金属製錬技術ハンドブック』から以下に抜粋した。
酸化亜鉛を還元して金属にするのは、酸化亜鉛が比較的安定であるのと、亜鉛の沸点が低いので還元によって生成した亜鉛蒸気を凝縮させねばならないなどの点で、他の卑金属酸化物の還元と異なっている。工業的に行なわれているのは、酸化亜鉛を炭素で還元する方法だけであってこの還元は水平レトルト・垂直レトルト・電気炉・溶鉱炉の中で行なわれる。
この場合の総合された反応は次のように示される。
ZnO(s) + C(s) = Zn(g) + CO(g)
しかし実際には次の二つの反応が同時に起こっているものと考えられている。
ZnO(s) + CO(g) = Zn(g) + CO2(g) -----(1)
K2 = pCOZn*pCO2/pCO
CO2(g) + C(s) = 2CO(g) -----(2)
K3 = pCO/pCO2
この反応で亜鉛蒸気とCOガスと少量のCO2ガスとができて、凝縮器で液体亜鉛として捕集される。−中略− 図のA線はZnO(s)に平衡にあるガス中のCO2/CO比と温度との関係を示している。与えられた温度でA線以下の組成のガス混合物であると、
Zn(g) + CO2(g) = ZnO(s) + CO(g) -----(3)
の反応は起こらない。逆にA線以上の組成のガスであると、その組成がA線に達するまで(3)式の反応が起こってZnO(s)が生成する。
B線は(4)式の液体亜鉛と平衡にあるガスからZnO(s)が生成するためのCO2/CO比と温度との関係を示している。
ZnO(s) + CO(g) = Zn(l) + CO2(g) -----(4)
K7 = pCO2/pCO
すなわち亜鉛の凝縮温度範囲での(4)反応の平衡定数と温度との関係を示している。このB線から知られるように、亜鉛の融点の419.4℃でZnOの生成を防ぐためには、レトルトを出るガス中のCO2/CO比は5×10-5(0.0025%CO2)以下でなければならない。またコンデンサの温度が550℃の時は、CO2/CO比は3.2×10-4(0.016%CO2)以下でなければならない。
またレトルトを出るガスの温度は、CO2含有率を少なくするためにはA線上でできるだけ低く保たなければならない。同時に金属亜鉛が装入物中に凝縮しないようにするためには、A・B両線の交点840℃以上でなければならない。たとえばレトルトを出るガスの温度が900℃でZnOと平衡しているとすると、図からCO2/CO比は約0.012すなわち0.6%CO2に相当する。
C線は固体炭素と平衡にあるガス混合物の組成と温度との関係を示している。−中略− 与えられた温度でC線以上のCO2/CO比の組成のガスは、CO2+C→2COの反応によってCO2が減少する。固体炭素がないときにはC線以上の組成のガスも安定である。他方C線以下の組成のガスは、2CO→CO2+Cの反応によって炭素を沈殿してCO2を増加する傾向にある。
このように図のA・B・C線によってレトルトとコンデンサのいろいろな部分の必要な条件を知ることができる。 −中略− 一気圧の下で最低の還元温度は、900℃である。C線の右でAB線の下は炭素の沈殿が起こる領域であるが、同時にZnOの沈殿は起こらない。しかし炭素の沈殿する反応の速さが遅いので、実際上では炭素の沈殿は起こらない。−中略− 以上平衡論的に論じたが、酸化亜鉛の還元は最低900℃以上で行なわれるのでこの温度以上に熱する必要があり、亦この反応は吸熱反応であるから反応を維持するためには外熱を加えねばならない。
前述のように酸化亜鉛の炭素による還元は(1)、(2)式の二つの固体とガスの反応が同時に起こっているものであり、一方の反応に必要な気体を他の反応が与えているものであるから、この両反応は同じ速さで進行することが望ましい。いずれかの反応が遅れると、全体の反応速度はその遅いほうの反応速度によって支配されることになる。前にも述べたようにZnO+CO→の反応が早いならば、レトルトを出るガスの組成は図のA線の組成に近くなり、C+CO2→の反応が早いならばC線に近くなる。研究の結果によると還元所要最低温度の900℃の直上ではC+CO2→の反応が遅い。しかし実際行なわれているような1000〜1300℃の温度では、両反応はほとんど同じ速さで行なわれているとみてよい。
またこの反応はZnO+CO→の反応の場所とC+CO2→の反応の場所が異なっていると、これらのガスの拡散が問題になってくる。それで装入物の粒度・鉱石と石炭の気孔度のようなことが気体の反応速度に影響してくる。 
輝蒼鉛鉱
メソポタミアやギリシャ・ローマ、ヨーロッパの古い世界観によれば、天上にある星辰に対して地上の物質は従属関係にあった。人間の内なる肉体や精神は、外なる自然物のありようと呼応していた。
それゆえ天体の運行を観察しその相を読むことは地上の出来事を解析することであり、人間の運命を占うことに繋がっていた。
空に7つの主たる天体(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)があるように、地上には7つの主たる金属(金、銀、銅、水銀、鉄、スズ、鉛)が存在する(cf. No641)。当然しかあるべき神理であった。
しかるに13〜16世紀にかけてのどこかの時点で、ヨーロッパでは周期表XA族の3つの半金属、砒素、アンチモン、ビスマスのレグルス(金属質)が、次々と公に知られるようになった。それは単なる新金属の発見に留まらず、新しい精神の発見と呼んでもいい視野の広がりをもたらす星々だったといえる。
古い7つの金属に対してこれらがどんな位置を占めているのか、その性質が何で、人間とどんな相互作用を持つのか、物質と世界の成り立ちを説明する原理は見直しを迫られるのか否か、こうした探求が錬金術師と呼ばれるきわめて瞑想的な人びとによって進められたのは感慨深いことである。
とはいえ砒素やアンチモンと比べると、結果的にビスマスは錬金術的香気に乏しい物質であった。アグリコラの著書から窺えるように、この金属(半金属)は鉱夫たちによって古くから実践的に知られたが、一般には長い間、鉛やスズと混同され続けた。固有の性質が明確に示されたのは18世紀半ばのことで、それというのもビスマスに薬効が見出されず、医学的な興味を惹かなかったからである。ビスマスはスズ細工師がスズを白くし響きをよくするために用いる程度のマイナーな用途しかなく、化学者の間でも研究がなおざりにされていたのだ。(その後、次硝酸ビスマスは消化器官の潰瘍や慢性胃炎の治療薬として用いられた)
ヨーロッパの歴史にビスマスが登場するのは15世紀半ばである。1450年頃、グーテンベルクの発明した印刷機の活字にビスマスの合金が使用された。ただ、その鋳造法は秘密にされ、地金がどうやって得られたのかも分からない。もちろん鉱夫や冶金師たちは知っていたに違いない。
ゲルマン国立博物館に、ビスマスの地金に彩色した金属器が何点か収蔵されているが、これらは 1480年頃に作られたものとみられている。ビスマスについて記された最古の文献は 1505年にフライベルクで書かれた鉱山書で、すでに知られている金属として「Wysmuderz ビスムデルツ」の名が挙げられている。16世紀には白く美しいビスマス装飾細工の需要が増え、ニュールンベルクでは1572年までに専門職が現れて、1613年にギルドを結成した。
アグリコラは「デ・レ・メタリカ」第9書に、ビスマスのさまざまな精錬法を記している。また「ベルマヌス」では、古代には知られていなかったと思われるいくつかの金属の一つに bisemutum があり、plumbum candidum (白い鉛=スズ)とかnigrum (黒い鉛=鉛)と呼ばれているが、実は別の、第三のものだ、と教えている。ちなみにNo.149に述べたが、同時代のパラケルスス(テオフラストス)は、通常の黒色ではない白色のアンチモンについて記し、この物質はマグネシアまたはビスマスと呼ばれ、スズに親和性があり、黒いアンチモンに混ぜると銀を増量する、とした。(cf. No.525 付記1)
そして17世紀、アルバロ・アロンゾ・バルバ神父は「冶金術」(1640年)に次の見解を述べるのである。
宝石や金属の成長が星辰の影響を受けて進むという古いテーゼに対して神父は、「この従属と対応の関係は不確かである。金属が7種だけだとする考えも同じく不確かなものだ。地中にはまだ知られていない金属が何種類も存在していると考えるべきだ。数年前、ボヘミアのスドノス山地で、スズと鉛の中間的な性質だが、どちらともはっきり区別できる金属が発見された。世間が見逃しているこうした金属はほかにもあるに違いない。一方、もしかりに金属と惑星の間に従属と対応関係があるとしても、現在では新しい望遠鏡によって7個以上の惑星が存在することがはっきりしている…(cf. ガリレオによって木星の衛星が報告されていた)」
17世紀になってもビスマスとスズ系(シロメ)金属との混同は続いていた。
フランスの化学者ニコラ・レムリー(1645-1715) は、ビスマスは「硫黄性のマルカジット(マーカサイト)で、スズ鉱山に産する。一般に砒素を多量に含む不完全なスズと考えられている。」「またビスマスによく似た別の種類のマルカジットがあり、亜鉛と呼ばれる。マルカジットは金属の排泄物あるいは金属のしみ込んだ土状の物質である。スズ細工師(シロメ加工職人)はスズにビスマスと亜鉛を混ぜて見栄えをよくする」と書いた。のちにはビスマスが天然の産物ではなく、「イギリス人が人工的に作ったスズのレグルスだと信じられている」「優れた錫ガラス(スズのレグルス、実はビスマス)はスズ、酒石、硝石から作られる」とつけ加えた。
当時のフランスではビスマスは(スズも)専らイギリスから輸入されるもので、国内に産地がなかったのだろう。実情は、コーンワルのスズ精錬業者がスズを硬くし光沢を増すために、わざと天然のビスマスを加えたスズ製品を作っていたということらしい。
かたやドイツのカスパー・ノイマン博士(1683-1737)は、「ビスマスの鉱石はザクセンのシュネーベルクに大量に産し、ボヘミアやイギリスにもかなりの量が出る」と述べているから面白い。ノイマンはスズのレグルスと天然のビスマスの化学的性質の違いに言及した。
18世紀の中頃になると、いくつかの化学的研究が発表され、ビスマスの固有の特徴が知られるようになった。
C.F.ジョフロワ(1728?-1753)はビスマスと鉛の挙動を比較し、古来金や銀を灰吹きするのに鉛を用いたのと同様、ビスマスが銀の灰吹きに使えることを確かめた(ちなみに金剛砂などの不純物を含む金の灰吹きには大量のビスマスを用いるとよいことが経験的に知られていた)。彼はビスマスと鉛の10の類似点を数え上げたが、同時に両者が明白に区別できることを示した。
画像の標本は輝蒼鉛鉱。BiS2。硫化ビスマス。輝安鉱(硫化アンチモン)と同じ原子配列で、アンチモンがビスマスに置き換わったものに相当する。外観や性質は輝安鉱に似ており、中間物も存在する。
ビスマスは和名に蒼鉛というが、この金属は別に青いわけではない。むしろ白く、やや赤みを帯びる特徴がある。輝蒼鉛鉱と輝安鉱とを比べても、前者は後者のように青味を帯びることがない。この場合の「蒼鉛」の意味は、色の褪せた(明るい)鉛といったところだろう。
付記
16世紀初、アグリコラは、コバルトから作るガラス着色剤ザッファー Zaflre (cf.サフロ鉱)はビスマス(鉱石)から作られるものと信じていた。ずっと後、J.A.クラーマー(1710-1777)は、「試金術要論」に、ビスマスと砒素、コバルトの親縁性について述べた。「ビスマスはつねに砒素によって鉱石化されている。昇華によって砒素が発生することがそのことを示している(cf.上述のように硫黄性の鉱石の存在も知られていたが -sps)。ビスマス鉱石にはコバルトのようにガラスを青色に着色する土が含まれている。ビスマス鉱石を「ビスマスのコバルト」と呼んでも差し支えないと思われる。ビスマス鉱石にはコバルトに含まれるのと同じ原質が、程度こそ違え、必ず含まれていることを考慮に入れるとなおさらそう言ってよいだろう」
パラケルススは医術の基本を哲学と天文学とアルケミー(錬金術)、そして医師倫理においた。
「奇蹟の医の糧」に言う、「鉄とは何か、火星である。火星とは何か、鉄にほかならない。…火星を知るものは鉄を知る、鉄を知るものは火星が何であるかを知る、火星と鉄とを知るものは樹脂とは何か、またイラクサとは何かを知る。そうだ、異なるもののなかに同じであるものを知る者、それが哲学者だ」「スズ、銅、金、鉄はどこから成長し、どのように成長するのか、それらは何をなしうるか、どんな病気に苦しまねばならないか、それらに何が起こるか、こうしたことを知れば、人間のある身体部分について知ることが出来るのだ」
彼にとって錬金術とは、「金をつくったり銀をつくったりする」ことでなく、「アルカナをつくってそれを病気に適用」し、病にある人を救うことだった。それは錬金術が完全な金属として金を想定し、ほかの金属は不完全な「病気の」(金の形相を欠いた)状態にあるとみなしたことに対応している。錬金術師が卑金属を金に変える作業は、金属を治療して完全なものとする行為であった。彼にとって、大いなる作業(アルス・マグナ)は、医薬の成就にあり、哲学・天文学の知識に照らして、その薬効を発揮させることだった(同じ物質が、時刻により星の影響により、異なる薬効を示すと考えた)。アラビア語に起源をもつ「エリクシール」は、偽ゲーベルにおいて病気の金属を癒して金や銀に変容させる薬だったが、パラケルススは長寿を実現する万能薬として捉えた。
9世紀以降のアラビア錬金術が硫黄と水銀をすべての物質を構成する2大元素とみなしたのは、ひとつに水銀の医学的効果の重要性が認められたからである。水銀は溶融性、受容性を示す女性原理とされ、対して可燃性の硫黄が男性原理としてもう一方の象徴となった。(この原理の伝統はプトレマイオス時代に遡る)パラケルルスはこれを古い(誤った)哲学とみなし、硫黄、水銀、塩の3つがあって金属は成長するとした。
太陽と金との相関はヨーロッパでは古代から明白と考えられていた。フォーブスによれば、「この輝く黄色の金属は、たいへん早くから太陽と結びつけられ、16世紀になってさえもアグリコラは、川砂の中に見出される自然金が太陽によって大地から抽出されたものだという考えと闘わねばならなかった」「その神秘的かつ哲学的な(しかしのちにはより物質的な)想像上の諸性質は、初期の化学と錬金術の原動力であった」と書いている。1602年、ボローニャの靴職人、カッシャローロはパデルノ山で太陽の色をした石を発見し、卑金属を金に変える賢者の石を作るマテリアたると信じた。太陽石と名づけられたその石は、ある操作をしてV焼すると暗闇の中で明るく光った。 
自然アンチモン
アンチモンの硫化物である輝安鉱が古くから用いられたことはすでに述べたが、金属アンチモンもまた紀元前に遡る歴史を持っている。ただしその時代に、ほかの金属と性質の異なるユニークな物質として認識されていたかどうかは定かでない。
日本聖書協会訳の聖書列王紀下9-30 に、「エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いてその目を塗り、髪を飾って窓から望み見た…」と記された個所がある。このテキストは 1600年前後に成立したドウェイ版では、「…イゼベルは顔をスティビック石で塗り…」、とあり、スペイン語の現代訳では「アンチモンで眼を塗り」と訳されているそうだ。
同様にエレミア書4-30 「荒らされた女よ、あなたが紅の着物をき、金の飾りで身をよそおい、目を塗って大きくするのは、なんのためか」とある箇所も、ドウェー版、スペイン語現代訳でそれぞれ、スティビック石、アンチモンと具体的に化粧品名が示されている。ヘブライ語でプーク(puk)と指されるこの眼化粧は、(少なくとも17世紀初には)スティビック石=輝安鉱だと解釈されたわけだ。遠国から輸入するほか手に入らなかったため、化粧料に用いるさまざまな鉱物顔料の中でももっとも高価な成分だったという。
この訳には疑義も示されているが、眉墨に硫化アンチモンを用いる風習は、実際、ギリシャ・ローマを通じて維持された伝統であって、中東〜中央アジアで広く用いられる コール/コホル kohl (色をつけるの意)と呼ばれる眉墨には今でも輝安鉱を混ぜた粉末が使われるという(方鉛鉱の粉末や有機系の黒色染料も用いられる。ちなみに古代エジプト人は方鉛鉱と輝安鉱を区別せずに(出来ずに)用いたようである)(付記6)。
エーベルス(1837-1898)の医学パピルス(BC16C)には輝安鉱を指すとみられる語(スティミ stimi )が何度も出てくる。
一方金属アンチモンだが、古代エジプトの遺跡から硫化アンチモンの眉墨やアンチモンと鉛を成分に持つ黄色ガラスに加えて、金属質の数珠玉が出ている。ただその利用はむしろ例外的だという。
またメソポタミアのテルロー遺跡からは金属アンチモンの花瓶らしき器が出土している。この器を分析したベルテロ(1827-1907)は、痕跡量の鉄を含むほぼ純粋なアンチモンであることを確認し、古代カルデア人は金属アンチモンを知っていたと結論した。
しかし後世のギリシャ人やローマ人は、この黒灰色の金属がどうすれば得られるか知っていたとしても、ほかの似た色の金属と区別することが出来なかったらしい。プリニウスやディオコリデスは、これを鉛の一種、熱し過ぎると溶け出してしまう鉛、として記述したと考えられている(付記5参照。なお、プリニウスが火によって得られるとした「2種類の鉛」は、鉛と錫を指すとの説もある)。そしておそらく中世期を経たヨーロッパ人は金属アンチモンに関する知識をすっかり失っていた。
ヨーロッパ世界で初めてアンチモンの分離法を示した書物は、1540年にヴァノッキオ・ビリングチオ(1480〜1539)が書いた 「火工術」(De la pirotechnia) だという。アグリコラは「発掘物の本性について」の中で、「スティビウムはるつぼ中で精錬されると、著述家たちが鉛に認めているような、本物の金属としての資格を十分に持つ。精錬の際、ある量を錫に加えると、書籍商の合金が製造され、これから書物を印刷する者たちが使用する活字がつくられる」と書いている。
そして金属アンチモンの調製法を示したのが、トルデンの「アンチモンの凱旋車」である。出版されたのは1604年だが、その主張に従えば、ベネディクト派の僧侶、筆名バシリウス・ヴァレンティヌスが1450年になした書を編纂したものだ。16世紀には金属アンチモンの存在は明白であったわけだ。(付記1参照)
ここでアンチモンの語源だが、ギリシャ語やアラビア語に遡るといわれるが、はっきりしたことは分からない。
ギリシャ語説は、アンチ(〜でない)+モノス(単独の)に由来するといい、自然界では通常化合物(例えば硫化物の輝安鉱)として産することによる、との説明がある。
しかしこれはアンチモンの語が18世紀頃まで輝安鉱を指していたことを無視する点で眉唾である。単離したアンチモンはアンチモン・レグルス(金属質)と呼ばれて区別されていた(ちなみに、純粋な砒素は「アルセニクのレグルス」であり、かつて不完全な錫とみなされていたビスマスの純粋物は「錫のレグルス」と呼ばれた cf.No.641 注1)。(付記2参照)
別の説明として、アンチモンが水銀と同様に合金となりやすい性質を持つこと(〜単独でない)を指したのが語源ともいい、こちらの方がまだ説明としていいようである。
また俗説に「ある修道会で豚にアンチモンを与えたところ、豚がよく育った(その毒性によって駆虫効果があったらしい)ので、栄養失調の修道士(モンク)にも与えてみたが、あにはからんや僧は死んでしまった。そのためアンチ・モンク(アンティ・モイーネ)と呼ばれるようになった」という話もあるが、後づけのトンチ的付会だろう。ついでに言うと、歴史的にアンチ・モンクにふさわしいのはむしろ砒素かと思われる。
なおフェルスマンは、修道僧の精神に悪影響を及ぼすという理由で反修道僧という言葉から名づけられた、と上に類似の説を紹介する一方、アンチモン(輝安鉱)はその針状の結晶が複雑な植物の花に似ていることから中世期にアンチモニウムと名づけられた、と書いている。そのもとの植物とは何か、私は言うことが出来ない。
アラビア語起源説は、輝安鉱を指すアラビア語 al-athmud アル・アッタムドがヨーロッパで転化してアンチモン/アンチモニウムになったというものである。またやはり輝安鉱を指す mesdemet メスデメットは、古代エジプトの語メセデム mśdmt; に由来し、ギリシャ語のスティミstimi の語源でもあるとみられているが、ここからスティビウムの語が出たという。
アラビア世界で輝安鉱が知られていたことは疑いないが、金属アンチモンについてはよく分からない。錬金術の父ジャビール・イブン・ハイヤーム(8世紀)は金属アンチモンをよく知っていたというが、証拠となる文献が何で、その書がヨーロッパに紹介されたのかどうかがちっともはっきりしない。
自然界で金属アンチモンが見出され、記録されたのは、ヨーロッパでは1748年のことで、スウェーデンの化学者(鉱山技師)アントン・フォン・スヴァブ(1703-1768)が、同国ヴェストマンランド地方のサーラ銀山から得たものだった。彼はこの鉱山で採れる「砒素パイライト arsenical pyrite」 が、自然アンチモンであることをつきとめた。(余談だがスヴァブは当時スウェーデンの宝と称賛された科学者で、珍しい蛍光鉱物 Svabite に名を残している)
その後はスウェーデン外でもいくつかの産地で「石英質母岩中に」自然アンチモンが見出されるようになった。
自然アンチモンは擬似立方晶または板状の結晶をなすが稀、粒状〜葉片状のへき開を示す塊状で産するのが普通である。明るい錫白色で、きらきらとよく光り、展性がなく脆い。ろうそくの火に熔ける。表面には酸化物であるバレンチン鉱などがふいていることが多い。
熱水脈として、しばしば安砒鉱(付記3)などの砒化物や輝安鉱などの硫化物、ときには銀鉱を伴って産する。たいていの環境条件で硫化物を形成する傾向があり、自然アンチモンはむしろ珍しいが、カリフォルニアのカーン郡トム・ムーア鉱山では150kg の大塊が見つかっている。輝安鉱は一般に低温生成物と考えられ、これを伴う場合はまた辰砂、鶏冠石などの低温生成鉱物を伴うこともある。
アンチモンは漢字で表記すると安質母尼で、アンチモニーの当て字だと思う。字面はなんだかおどろしく、錬金術めいた香りが漂う気がする。尼になった心きよらでやさしき母上の秘密の薬物。
付記
後にアメリカ大統領となるフーバー夫妻が英訳した「デ・レ・メタリカ」の脚注に、ヴァレンティヌスに関するコメントがある。
「バジル・バレンタインは一般にいくつかの錬金術書の著者として知られている。それらの書物が出版されたのは17世紀初以降のことである。実際に彼自身が書いたと考えられるのは、「アンチモンの凱旋車」1冊だけで、成立は1350年以降さまざまな説があるが、15世紀末から16世紀初より早いとは考えられない。この書物は、硫酸と塩酸、アンチモン硫化物を用いた金及び銀の分離、アンチモン硫化物からの金属アンチモンの還元、鉄を用いて硫酸塩から銅を沈殿させる方法、さまざまなアンチモン塩類の発見に関して初めて記述したものとされている。バレンタインに帰される書物の内容は、その成立年代以前にすでに記述され、いずれもよく知られていた事柄であった。我々(フーバー)は、それゆえ、この著者が冶金学の歴史に真に貢献したといえるかどうか疑わしいと思っている。」
またC.G.ユングは、ヴァレンティヌスは、パラケルスス(1493/94-1541)のアルケウス Archeus(宇宙霊)の概念、星辰と四大霊に関する説を受け継いでいる、と指摘している。
アンチモンが元素(またはレグルス/金属質)を指す語として公に用いられたのは、1787年にモルヴォーがまとめた新命名法が初めてだという。これはラボアジェの親友ビュケがアンチモンの語をその金属質に用いるよう主張したことを受けたものらしい。(元素記号 Sb はスティビウムに由来し、19世紀にスウェーデンのベルツェリウス(1779〜1848)が採用した)
アンチモンの砒化物(AsSb)はアレモンタイト Allemontite と呼ばれたが、これはほかの砒化物やアンチモン鉱物との混合物であった。現在(AsSb)の鉱物はスティブアルセン(安砒鉱) stibarsen と呼ばれている。アレモンタイトの名は、バレンチン鉱の原産地、フランス・ローヌアルプスのアレモンに因む。
フェルスマンは、アンチモンや砒素は年代の新しい若い地層に見出されると言っている。
プリニウスの博物誌に、「同じ銀山から石化した泡と表現すべきものが見つかる。不透明で白い輝きがある。スティミ、スティビ、アラバストルム、ラルバシスなどと呼ばれている。2種類あってオスとメスに分かれる」とあり、また、スティミを「牛糞を塗った炉の中で焼き、母乳で焼き戻した後、雨水を加えて乳鉢で砕く。この濁った液体を銅製の容器に入れて、ソーダで精製する。…乳鉢の底の沈殿には多量の鉛が入っていると考えられて、捨てられる。容器中の濁った液は布をかぶせて一晩おいた後、沈殿を取り出して天日で干し、固形物とする。布をかぶせて少し湿気が残るようにする。これを再び乳鉢でひいて小さな板を作る。この過程で大切なのは鉛にならないように焙焼を加減することである。」と述べている。この沈殿物はしっくいに混ぜて眼のこう薬に用いられた。捨てられる「鉛」は実際には牛糞によって酸化物が部分的に還元されて生じた金属アンチモン(レグルス)である、と言われている。
コール(kohl/ Cohol)は、アラビアでは輝安鉱をすり潰してコリリンという液体に混ぜて化粧品にしたことに由来する。この化粧品はアルコールと呼ばれた。後にヨーロッパではブドウ酒を蒸留して得た酒の主要成分がアルコールと呼ばれ、バラなどの花から香気成分を抽出するのに用いられた。14世紀、ルペスキッサのヨハネスは後者のアルコールを第五元素と呼び、天界の本質的成分であって優れた治癒力を持つとした。そして太陽たる金をアルコールに溶けた飲用の金はさらに優れた医薬だとした。
やがてアルコールは(薬草や鉱物などの)物質から他の第五元素(クイントエッセンス・生命霊気)を分離抽出する作用があると考えられるようになった(cf.No.658補記)。バレンティヌスらは、輝安鉱からの生成物にアルコール(ブドウ酒精)を作用させて、医薬用のチンキを得た 。
眉墨(コール)は顔を美しく見せる化粧の効果もあったであろうが、もとは邪眼除けのための化粧だったという。すなわち、眼の周りを黒くし、醜くみせることによって嫉視、視線の集中を避けたのである。 
 
モンテーニュ評言

 

『エリック・ホッファー自伝』
雪に閉じ込められそうな予感がしたので、仕事のない日を過すために十分な読物を用意しなければならなかった。1000ページぐらいの本で、厚くて活字が小さく、挿絵のないものであれば何でもよかったのだ。古本屋でそんな本が見つかり、1ドルで買ったが、表紙には『ミシェル・ド・モンテーニュのエセー』と書かれていた。随想(エセー)が何かは知っていたが、モンテーニュについてはまったく知らなかった。
雪についての予感は当り、閉じこめられている間に、私はほとんどおぼえてしまうまで、モンテーニュをくりかえし3回読んだ。『エセー』は何百年も前のフランス貴族が自身のことを綴った本だが、読むたびに私のことが書かれている気がしたし、どのページにも私がいた。モンテーニュは私の考えの根底にあるものを熟知している。彼の言葉は的確で、ほとんど箴言調である。このとき、私はすばらしい文章の魅力といったものを知ったのだ。サンホアクィン・ヴァレーに戻ったときには、私がモンテーニュの引用なしには口を開けなくなっていたが、まわりの同胞たちもそれを気に入ってくれた。
『ツヴァイク全集』「モンテーニュ」
自由で惑いのない彼の思想が最も役に立つ世代は、たとえばわれわれのように運命によってうずまく世界の激動のなかに投出された世代なのである。戦争と権力と専制的なイデオロギーが一人一人の生活をおびやかし、さらにその生活の内部では個人の自由という最も貴重なものがおびやかされるといった集団狂気のの時代に、いつまでも心の奥底の自我に忠実であろうとするのには、どれほど勇気と誠実さと決心が必要であろうか。それを知っているのは、そのような時代を、震撼された自己の魂のうちに体験しなければならない人だけである。[....]
モンテーニュの叡智と偉大さは、経験をつみ試練を受けた人間となってはじめて評価できるものである。[....]『エセー』を、私がはじめて手にしたのは二十歳のときであったが、正直のところ当時の私は、それを読んでも何の役にも立てることもできなかった。
『ハズリットの世界』
モンテーニュこそエッセイの創始者である。作家が一人の人間として自分の感ずるままを語る勇気もまたモンテーニュに始まる。勇気は人間的な強さから出てくる。それ故、彼にはその勇気を持つことを可能とさせるに十分な観察の確かさと真実性があったに違いない。彼こそは真の意味で独立独歩の人であった。すなわち、他人に盲従せず、自分自身の眼で物を見る力が彼にはあった。偏見や見せかけ、知ったかぶりは彼には無用であった。ペンを手に取る時、彼は自分を哲学者、学者、弁舌家、道徳家のどれにあたるかを思案するようなことはしなかった。そのすべてが彼であった。およそ人に伝えるに値すると彼が考えたことは、それを飾らずありのままに語った。その時その場に応じて、自分がどのような役を演ずることになろうと構わず、勇気をもって語った。一つの問題をとり上げる時、よくある評論家のように抽象的な意見を述べ立てたりはしなかった。彼がしたことは自分がとりあげた事柄の真実をつかむことであって、それを説くことではなかった。物知りをてらう学者先生でもなく、また独断偏屈に陥る頑固者でもなかった。すべての知らなければならないとか、すべては自分の予期したとおりに、望みどおりに、なるとは彼は決して考えなかった。人間とその生き方を語る時、かれはその見たとおりに語った。先入観や抽象的な教義に頼ることはなかった。他人のことを語る前に彼はまず自分を語った。文学の批評においても彼は他人の作った特定の基準や体系によって作品を比較することはせず、ただ自分の好き嫌いを正直に述べた。人には物事を優劣を判断することはできるかもしれないが、それを他人に説くことはおかしなことなのだ。ひとことで言えば彼こそは、人の意見を変えるためでなく、物事の真実によって自分自身を納得させるためにペンを取った最初の文人であった。彼を読む時、われわれは作家としてのモンテーニュと、人間としてのモンテーニュと、そのいずれに魅せられるのだろか?そのいずれでもなく、その両方が一つになってわれわれを魅了するのである。彼の文章には力だけではなく、限りない誠実さと正直さがある。人に何かを押しつけたり隠し立てたりしたり、もったいぶったりごまかしたりということは絶対にしなかった。彼には、自分の言うことの正しさを証明しようという姿勢など毛頭なく、いわんや他人の誤りを証明しようというケチな気持ちなど勿論ない。彼は自分の考えを混じり気なく語ることによって、その心の奥底をわれわれに見せてくれる。その語り方は、生徒を自分と同レベルの愚か者にすることしか考えない説教好きの無能な教師とは違って、思索と観察を通して生きてきた、ものわかりのよい哲人、友人のする語り方である。人生とは楽しく、生きるに値するものだという、ただこの一事を彼はわれわれに知ってほしいと願っていた。このような作家は、掃いて捨てるほどあり余る物知りや学者先生より、どんなに偉いか知れない。見かけだけは大層立派な題をのせた本など彼の前ではまるで役に立たない。エッセイという文章道を史上はじめて自分の方法とすることによって、彼はその道に似つかわしい生涯を送った。すなわち、書く時と同じ勇気と正直さをもって世間の低俗な因習と偏見を振り払い、それらの拘束を踏みにじる精神をわがものとしたのである。人間と人生を正しく判断したいと望む者は、モンテーニュの中に、それの必要なすべての鍵を見いだすであろう。
『パスカル全集』「ド・サシ氏との対話」
パスカル氏は、自分が最も常に読んだ書物はエピクテートスとモンテーニュとであった旨を述べ、これら両思想家を大いに賞賛した。 (中略) 一人(エピクテートス)は人間の義務を知りその無力を知らぬため高慢に陥り、他(モンテーニュ)は無力を知り義務を知らぬため卑怯に堕してしまいます。
『フローベール全集』書簡
「モンテーニュを読み返しています。僕にはあの男と同じ点が実に沢山あること、まさに不思議なくらいですよ!これは偶然の一致か、或いは、十八才の時,丸一年というもの彼しか読まず,存分に腹に詰め込んだせいでしょうか?それにしても,僕の感情がその極微な点に至るまで非常に繊細に分析してあるのには、愕然としてしまうことしばしばです。我々は、同じ好み、同じ意見、同じ生活態度、同じ偏癖を持っています。彼以上に讃嘆する人物はありますが、彼ほど、好んでこの世に喚び出し、対話を交したい気になる人物は他にありません。」
「モンテーニュをお読みなさい、ゆっくりと落ちついて読んでごらんなさい、心が鎮まりますよ。〔…〕けれども、子供のように楽しむために読んだり,野心を持った人のように、知識をますために読んだりしてはなりません。そうではなく、生きるために読むのです。〔…〕はしからはしまで読み、終わったらまた始めから読んでみるのです。」
「歓喜は大きく拡げなければならぬが、悲哀はできる限りけずりとらねばならぬ。」『エセー』
こういう気質を私は、確かに、モンテーニュのうちに発見する。私が、べつにモンテーニュから教えられたものではなく、この気質は彼自身のものでもあれば、また私自身のものでもある。したがって、私に先だって彼がそう言っていなくとも、私は、このような言葉は書けるのだ。
「私はこの方面では、この世にプラトンがいるのを知らなかった以前から、プラトン主義者であった」『エセー』と書いている。このようなわけで、私もまたモンテーニュ主義者であったわけである。
『モンテーニュについて』アンドレ・ジイド
(ジイド・原注)「私が前世においてそれを書いたように思われるほど、これはほんとうに私の思想と経験とにぴったりと合うのである」とエマスンは『エセー』について言っている。
「暖炉の側から」西田幾多郎
私は近頃モンテーン(モンテーニュ)に於て自分の心の慰藉を見出すやうに思ふ。彼は豊富な人間性を有し、甘いも酸いもよく分かつてゐて、如何なる心持にも理解と同情を有つてくれさうな人に思へる。彼自身の事を書いたといふ彼の書の中に、私自身のことを書いたのではないかと思はれる所が多い。彼の議論の背後に深い、大きな原理として掴むべきものがあるのではない。又彼の論じてゐる事柄は、何人の関心でもあるやうな平凡なものであるかも知れない。併し彼は実に具体的な人生其者を見つめてゐるのである。掴むことのできない原理を掴んでゐるのである。 (中略)
モンテーンは実に心の広い人であつた。あの人には如何なる心の秘密も打ち明けることができ、如何なる心持にも同情してもらへるやうな気がする。
「フランス哲学についての感想」西田幾多郎
なお、西田幾多郎は「フランス哲学についての感想」において、フランス哲学の直観的な面を指摘しつつ、モンテーニュについて、次のようにも言っている。「元来芸術的と考へられるフランス人は感覚的なものによつて思索すると云ふことができる。感覚的なものの内に深い思想を見るのである。 (中略)
「サン」sens は、一面に於て内面的と考へられると共に、一面に社会的、常識的とも考へることができる。概念に制約せられない直観である。それは自己自身を表現する実在、歴史的実在に対する「サン」である。さういふ意味に於ては、かかる立場から、世界を見るのは、モンテーンが先駆をなしたと云ふことができるであらう。彼は実に非哲学的な哲学者である。日常的問題を日常的に論じた彼のエッセーの中には、時には大げさな体系的哲学以上の真理を含んで居る。歴史的実在の世界は日常的世界である(そこが哲学のアルファでもオメガでもある)。彼の描いた自己は日常的世界に於て生きぬいた自己である。併しそこからはすぐパスカルの「パンセー」の世界にも行ける。彼は偉大な凡人である。モンテーンがフランス人にかういふ物の見方考へ方を教へたとも云へるであらう。」
『世界文学体系 モンテーニュ 解説』落合太郎
西田哲学の西田先生が『エセー』を読んでみたいとおっしゃった。わたしは八冊本のドイツ訳とヴィレーの三冊本を持参した。源氏は須磨、明石まで読めば、およその見当がつくという俗説がある。モンテーン(先生の発音)を読むのにわるいかも知れんが、はじめに何から読んだらいいか、と言われるので、やはり第一巻で「子供の教育」、第二巻で「書物について」、第三巻では「三つの交わり」「ウェルギリウスの詩句」「人相」などがよろしいでしょうと申し上げた。まだ一っ二つあったように思う。数日後お目にかかったら、いやどうも、モンテーンという人はまったく珍らしい人だ。最上の意味で物わかりのいい人だ。類のない人だ。どうもありがとうとおっしゃった。「マルクスゆゑにいねがてにする」と歌におよみになったくらい、弁証法論議のやかましかった当時である。先生も肩のこりをすこしはほぐされたであろうか。三つの交わり」の中の書斎と散歩の話もたいへん面白いといわれた。西田先生も、歩きまわりながら物を考える方であった。
『ニーチェ全集』「反時代的考察」
わたしが誠実という点でショーペンハウアーと同等にみている、むしろ彼より高い位置を与えている著作家はただの一人しかいない。それはモンテーニュである。実際、こうした人間が物を書いてくれたおかげでこの世に生きる楽しみが増えたのだ。少なくともわたしは、このうえなく自由で力強いこの精神を知って以来、生きがいが一つ増えたと言っていいので、彼がプルタルコスについて語っている言葉はそのまま現在のわたしの心境を言い現わしているのである。「彼に一瞥を投げると、たちまちわたしは脚か翼が新たに生えてくるのだった。」もしこの世を安らかに住みなすという課題を出されたなら、わたしは彼と結んでその解決に当たるだろう。ショーペンハウアーは、誠実のほかにさらに第二の特性をモンテーニュと共有している。人の心を晴れやかにする本物の明朗さがそれである。他人には明朗を、自身には智慧を。
「ロバート・ピピン教授へのインターヴュ」
ニーチェがまず知ろうとしたことは、モンテーニュがどのようにしてあれだけ深い懐疑主義と「人間的、あまりに人間的」なものに対してパスカルの絶望や諦めや、ラ・ロシュフーコーの冷やかな軽蔑に陥ることもなく、人間の弱さと挫折に対しての洞察力を持つことができたのかということである。モンテーニュこそ、ニーチェが最も重要と考えていた自由で快活、そして思いやりと徹底して誠実な精神の持ち主であった。
「パスカルの『パンセ』」
さて、パスカルが自分の大敵として対峙したのは、モンテーニュである。パスカルはたしかに不落である。が、モンテーニュはあらゆる作家のなかでもっとも攻略しがたい一人である。霧をけちらそうとして、そのなかに手榴弾を投げこむようなものだ。モンテーニュは霧であり、ガスであり、流動する陰険な元素である。彼は推理しない、巧みにとりいり、魅惑し、感化する。たとえ推理することがあっても、それは議論によって説得しようというのではなく、もっと別のことを企んでいるものとこちらは覚悟すべきである。ここ三百年間のフランス思想の流れを理解したければ、モンテーニュこそ知らねばならぬもっとも重要な作家であるとさえ言える。ポール・ロワイヤルの人たちには、モンテーニュの影響はあらゆる意味で好もしからぬものだった。彼を殲滅する意図をもってパスカルは彼を研究したが、そのパスカルの一生の終末に書かれた『パンセ』には、比喩や単語のつかいかたに至るまで、まるでモンテーニュからくすねてきたような文章が次々と見つかるのである。
『モンテーニュ』ピーター・バーグ
さらに、彼が老荘哲学の信奉者として解釈されるのもほとんど時間の問題にすぎない。実際、彼は、その相対主義や自然への信頼や死の受容の点で、ほとんど老荘哲学の信奉者のようである。
『哲学者たちについてのプロポ』アラン
「数多くの本を読んだ後でモンテーニュを読んでみたまえ。諸君は語られたことのみならず、語るその仕方にも魅了されるだろう。」
『小さな哲学史』アラン
また別の本から、「モンテーニュはこの(宗教的な哲学の)長い夜の果てに出現した曙光である。古代の教養に培われた彼は、論理学がしかける罠をねばりづよく徹底して疑うことで掌握し、人間であることに耐え忍んでよく死ねとさとしてくれるストアの叡智にゆるぎない判断でしたがうことによって、判断だけを、つまり神なき人間をふたたび描きだした。想像力、迷信、先入見、情念に立ち向かう驚嘆すべき精神力は、『エセー』のなかに脈々と流れている。『エセー』は体系もなければ証明への熱狂も見あたらない、おそらく唯一の哲学書だろう。」
『現代思想としてのギリシア哲学』古東哲明
ギリシア哲学の進む道の一つの結論にストア哲学があるが、古東哲明著『現代思想としてのギリシア哲学』の中に「ストア哲学」の記述があり(モンテーニュについては触れていないが)、その中で「最古のエチカ」、そして「未来のエチカ」としての「ストア哲学」が言及されている。著者は、ストア哲学には、善悪を超えてすべてを受け入れようとする海のような広大な「海溶エチカ」があり、そこに「最古のエチカ」を見、それは「未来のエチカ」でもあるという。そこには、その後大きな力を持つことになる一神教を基底にもつ「選別エチカ」、つまり「西洋近代の排他装置」の閉塞的な展開を突き崩そうという思いがある。佐々木敏光のモンテーニュへの思いもそれに重なる。
『師弟問答 西田哲学』西田幾多郎/三木清
上記のモンテーニュの簡単な紹介で「ギリシア・ローマ古典の深い読書を通じ東洋の自由に満ちた知恵と通底する面も多い。」と書いたが、西田幾多郎は三木清との対話で「本当の出発点は現実からでなければならない。現実は主観的で客観的であり、時間的で空間的であり、現実の世界とは動く世界である。」と述べ、さらに「今までのものの考え方は、主観客観のどちらかから出発しているのだが、主観客観を包む理論がなくてはならぬことになる。そう考えると、近世の主観客観が対立しているような立場よりも元へ戻った方がよくはないか。ギリシアには主客の対立が発達しなかった。その意味で幼稚ともいえるが、両方を含んだ岐れる前のものがあったのでギリシア哲学にまで帰ってみなけりゃならんと思うね。」と言っている。このことはモンテーニュを読むことと重なるようにも思える。
『思い出袋』鶴見俊輔
そのころ大学町を歩いていたとき、見知らぬ初老の男が近づいてきて「クリスマスには約束があるか」ときく。ないと答えると、それではコネチカットにある私の家に泊まりに来てくれ、迎えに来る、という。彼は小学校の校長で、[・・・] 彼には、私を招く理由があった。哲学が趣味で、あれこれ古典を読んでみたが、世界の四大哲人とされている中で、孔子がどう考えてもプラトンやアリストテレスと並ぶ哲学者とは思えない。君はどう思うか、とういうのだった。私はハーヴァード大学哲学科に入ったばかりで、まさにプラトンやアリストテレスを読む日常だった。私には答えられなかった。八十六歳の今なら答えられる。「あなたは、モンテーニュをどう思いますか」と、問いによって答える方法である。まし彼が、モンテーニュなどは西洋哲学史においてさえたいした哲学者ではない、と答えるならば、問答はそこで終る。彼が別の答えを出すならば、問答はそこから新しく始まる。その探求は、彼にとって西洋哲学史の問い直しへの道をひらくだろう。
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人
たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれは、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもいれば、ストア派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それはけっして混乱した印象を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからではなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして彼の思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。
「たいせつな本」石田衣良
初めてエッセイ集をだした記念に、随筆の王様を紹介しよう。モンテーニュの『エセー』である。400年以上も昔の、フランスの片田舎で書かれたエッセイの、どこがおもしろいのかといわれても、困ってしまう。実際手にとれば、うまいソバでもたぐるようにつるつると読めてしまうのだからしかたがないのだ。ゆとりのあるとき、このエッセイの一冊を片手に寝そべるほど穏やかな満足は、ほかにちょっと見あたらないとぼくは思う。例えばこんな調子である。「可愛らしさにすぎないものを力と呼んだり、鋭いだけのものを堅いといったり、または美しいだけのものを良いといったりしないように、誰でもいくらか用心しなければならない」
ネットと映像の(いいかえればノイズ情報と表面だけの)21世紀に、これほどしっくりくるなんて、このおじさんはなかなかやるなあ。いい声をしたすぐれた人から、気楽なおしゃべりを、ふたりきりでゆっくりきく。この親密さこそエッセイの醍醐味(だいごみ)なのだ。こんなふうにいうと、昔はのんびりしていたからだという人もいるかもしれない。だが、16世紀後半のフランスは、ペストの流行と宗教戦争による大乱世の最中だった。エイズと新型インフルエンザ、終わりなき自爆テロが、ありふれたニュースになった現代とすこしも変わらないのである。
それになにより「理由なく城を固守するために罰せられること」とか「三人の良妻について」などという絶妙な題名がついていたら、誰でも読んでみたくなるだろう。岩波文庫で全6冊の長大なエッセイで出会うのは、「私のことよりほかには何も目ざしませんでした」というモンテーニュの驚くべき誠実さなのだ。
人の心がいかに変わらないか。また、それがどれほどの幅の広さと深さをもつものか。気軽につきあううちに、いつのまにか人間の素晴らしさに心打たれている。エッセイになにができるのか、これはその証明のような本である。 
 
東洋の知恵

 

若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけおもしろい人生を送ったのだから、もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。(守屋洋『逆境にとらわれず、のびやかに』)
ひとりで遊ぶ癖をつけること。(守屋洋『逆境にとらわれず、のびやかに』)
自遊人・自由人 (出典、誰かのはずだが、誰でもよい)
この世のなかで、思い通りにならないことが、常に十のうち七、八もある。(天下、意の如くならざる事、十に常に七、八なり)(『十八史略』)
君子も窮することあるか。君子固(もと)より窮す、小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)す。(孔子『論語』)
川の上(ほとり)にありて曰(いわ)く、逝(ゆ)くものは斯(かく)の如きかな、昼夜を舎(お)かず。(孔子『論語』)
君子は和して同せず、小人は同じて和せず (孔子『論語』)
天地と我と同根、万物と我と一体 (『碧巌録』)
山川草木悉皆成仏 (仏陀悟りの時の言葉)
尽十方世界は是れ一顆の明珠である (道元『正法眼蔵』) 
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖 (『般若心経』)
 心に差障り(こだわり)がない、差障り(こだわり)がないから、恐怖もない
赤肉団上(しゃくにくだんじょう=肉体)に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。(『臨済録』)
随所に主(しゅ)と作(な)れば、立処(りっしょ=立つところ)皆真なり (『臨済録』)
大用現前、軌則を存ぜず (『碧巖録』)
 自然は人工的な規則などとは無縁な、大用現前(眼の前で現象している自然そのものは大きく働いている)があるものであり、人間の判断や規則が及ばないものである。
明珠掌(たなごごろ)に在り (『碧巌録』)      
 本当の自分、生れつきの能力は、すでに自分の中にある。  
犀の角のようにただ独り歩め (『スッタニパータ』)
この世において、非難されずにいた者は、どこにもいない。(『法句経』)
わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたしは自己に帰依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒しめをたもて。その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅するであろう。(「ブッダ最後の旅」)
「アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、--誰でも学ぼうと望む人々は--」(「ブッダ最後の旅」)
私は、いま、お前達に告げよう 諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。(「ブッダ最後の旅」) 
自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自分をよくととのえたならば、得難き主を得る。(「真理のことば(ダンマパダ)」)
諸行無常/あらゆるものは変化し移り続ける。諸法無我/人として独立して存在するものはない。涅槃寂静/悟りの境地の心は静かである。(「三法印」) 
神とはこの宇宙の根本をいうのである。(西田幾多郎)
自分の体は、死ぬまで地球の材料をレンタルしているにすぎない。(レンタルの思想)
坐禅するということは、大自然に生かされた自分を実証することであるが、その自分はいつもの自分ではなくて宇宙とぶっ続きであり、宇宙いっぱいが自分ということである。(澤木興道)
坐禅は宇宙いっぱいとスイッチのつく法である。(澤木興道)
ようサトリの背比べする奴がある。背比べするならサトリでないことは明らかである。(澤木興道)
哲学者や宗教家の最後のねらいは、この無情(山川草木)の説法を聞くという処にあるのではなかろうか。宇宙いっぱいが、一切経であり、宇宙いっぱいが仏である。(澤木興道)
よう『これは大事なもんで』というが、じつは大事なものか。何も大事なものなんてありはせん。死んでゆくときには、みんなおいてゆくんじゃ。(澤木興道)
だれでもみんな、メイメイもちの穴からのぞいた世界からみておるもんな。そしてこのメイメイもちの見方、考え方を、みんながもちよるもんじゃから、世の中にはモメ(ごと)がおこる。(澤木興道) 
乞食でも笑うことがあり、億万長者でも泣くことがある。なあに、大したことはないんじゃ。(澤木興道)
別嬪だってヘチャだって、死んでしまえばみんな同じこっちゃ。別嬪の骨だから上等で、エライもエラクナイもみんなありません。(澤木興道)
死んでから、人生を考えれば、どうでもよかったのである。(澤木興道)
「堂々たる自己の坐り」をもつこと、そのとき「どちらにどうころんでもいい」という絶対的な宗教の坐りがあります。(澤木興道)
つまり一生の坐りとしての坐禅であり、生と死、迷いと悟り、我と一切とが分れる以前のところへドッカリ坐る、仏法としての坐禅です。不生不滅、不垢(ふく)不浄、不増不減の坐禅です。(澤木興道)
人生とは矛盾である。『あいつあんなことをしやがった』といいながら、実は自分自身もしたいことであったり・・・(澤木興道)
差別のわからぬのはバカだし、差別が気になるのは凡夫だ。(澤木興道)
しかしいま坐禅をするということは、その心識(あたま=余計な考え)を手放す。すると落っこちる。考えていたことがふっと消えてしまう。そこに天地一杯の生命が現成する。(澤木興道)
坐禅してよくなると思っている。そうじゃない。「よしわるしを忘れる」のが坐禅じゃ。(澤木興道)
人生に失敗はない。愚痴があるだけだ。(板橋興宗) 
不幸のはじまりは、人と比べることにあり、人間の不安は後先を考えるから。(板橋興宗)
むだを堂々とやる! 禅の極意 (板橋興宗)
落ちこんだら、じたばたせずに、じっとしていればいい。(有馬頼底)
(坐禅により)自分が宇宙になってしまわにゃいかん。(加藤耕三)
思うて詮なきことは思わず (関牧翁)
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。(正岡子規)
前にも申し上げましたが、人がすぐ誰のために生きるか、何のために生きるかと、価値の根本を外に求めるのは間違いです。オレが生きているということは、今ここに生きているのが根本なのだ。[・・・]だから何のために生きているかといえば、オレが生きるために生きるのだ。いまオレが生きているのがすべてです。いま生きていることが最高価値なのです。 [・・・たとえ寝たきり老人になったとしても・・・]つまり自分がもう少しいいところへと考えるのではない。ただ、今、ここ。糞まみれの寝たきり老人でありながらも、これが私の天地一杯、私のすべてなのだ。わたしにとってこれが一番大事なのだ、最高価値なのだという狙いです。(『正法眼蔵』)
心身一如 (「坐禅儀」) 
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆる動がるれ {『梁塵秘抄』)
なにせうぞ くすんで 一期は夢ぞ ただ狂へ (『閑吟集』) 
無心(=自我の執着から離れること、何ものにも束縛されない心) (『伝心法要』)
無為(=無作為、作為のないこと) (老子・荘子・等)
「無為」為スナカレ これは何もするな、ってことじゃない。余計なことはするな、ってことだよ。あんまり小知恵を使って次々と、あれこれの事を起こすな、ってことだよ。そこに私たちの知らないタオの力が働いてる、と知ることだ。われらを運ぶ大きな流れがあると知れば小さな怨みごとなんて、 流れに流してしまえるんだ。(『タオ/老子』)
放下著(ほうげじゃく=放っておけ、執着するな) (『従容録』)
莫妄想(まくもうそう=妄想すること 莫(なか)れ) (『伝燈録』)
本来無一物 (六祖慧能)
外、一切善悪の境界に向かって心念起こらざるを名づけて坐となし 内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす (六祖慧能)
無一物中に無尽蔵あり 花あり月あり楼台あり (蘇東坡)
足るを知る(知足) (『仏遺教経』『老子』)
帰りなんいざ 田園まさに蕪(あ)れなんとす (陶淵明「帰去来の辞」) 
心遠地自偏(心遠ければ地自づから偏なり) 採菊東籬下(菊を採る東籬の下) 悠然見南山(悠然として南山を見る) 山氣日夕佳(山氣 日夕に佳く) 飛鳥相與還(飛鳥 相與に還る) 此中有眞意(此の中に眞意有り) (陶淵明「飲酒二十首」)
山林に自由存す (国木田独歩)
渓声便(すなわ)ち是れ広長舌 山色あに清浄身に非ざらんや 夜来八万四千の偈 他日如何が人に拳似(こじ)せん (蘇東坡・道元『正法眼蔵』「渓声山色」)
山河大地日月星辰(しょうしん)これ心なり。(道元『正法眼蔵』「身心学道」)
三界唯心 (道元『正法眼蔵』「三界唯心」)
いはゆる有時(いうじ)は、時(じ)すでにこれ有(いう)なり、有はみな時なり。... しかあれば、松も時なり、竹も時なり。(道元『正法眼蔵』「有時」)
たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見え取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。(道元『正法眼蔵』「現成公案」)
放てば手にみてり (道元『正法眼蔵』「弁道話」)
大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす (道元『正法眼蔵』「行佛威儀」)
生死のなかに仏がある。(道元) 
ただわが身をも、心をも、はなちわすれ、ほとけのいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。(道元『正法眼蔵』「生死」)
仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむる。(道元『正法眼蔵』「現成公案」)
いたずらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり。かなしむべき形骸なり。(道元『正法眼蔵』「行持」)
まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし。(道元『正法眼蔵』「弁道話」)
而今(にこん、今、現在)の山水は古仏の道現成なり。(道元『正法眼蔵』「山水経」)
春は花 夏ほとぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり (道元『傘松道詠』)
落ちやすきは命葉なり。たとえ、百年の齢を保つというも、わずかに三万日に過ぎざるなり。(螢山禅師)
いのちは時間 いのちは自分が使える時間  (日野原重明『いのちの時間』)
無用の用 (『荘子』)
日に一キヨウ(穴)を穿つに、七日にして混沌死せり。(「人間はだれしも七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり呼吸したりしているが、この混沌にだけはそれがない。ひとつ試しに穴をあけてやろうじゃないか。」と) (『荘子』) 
禍福は門なし、唯だ人の招く所なり。(『春秋左氏伝』)
蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争い (『荘子』)
蝸牛 角上 何事をか 爭ふ,石火 光中 此の身を 寄す。富に 隨ひ 貧に 隨ひ 且(しば)し 歡樂せん,口を開きて 笑はざるは 是れ 癡人。(白楽天「酒に對す」)
天鈞に休(いこ)う (『荘子』)
価値判断を中和した境地(天鈞=てんきん)にくつろぐ 価値観を超越した境地に立つ 無功徳 (功徳を越えた世界。小さな見返りを期待しない。) (『景徳伝燈録』)
無所得(所有を離れた、所有こだわらない自在。) (禅語)
東山(とうざん)、水上を行く(動(水)・不動(山)という対立をこえた世界。) (『雲門広録』 平田精耕『禅語辞典』より)
吾れ少(わか)くして 賤(いや)し、故に 鄙事(ひじ)に多能なるべし。(孔子『論語』)
人知らずして慍(いきど)おらず、亦(ま)た君子ならずや。(孔子『論語』)
学びて思わざればすなわちクラし、思いて学ばざれば殆(あや)うし。(孔子『論語』) 
遇と不遇は時なり (『荀子』)
争気有る者とは、ともに弁ずる勿れ (『荀子』)
名を盗むは貨(か)を盗むに如(し)かず (『荀子』)
肝(きも)は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。(『旧唐書』)
常人は故習に安んじ、学者は聞く所に溺るる。(『商君書』)
跛(つまだつ)者は立たず。自ら矜(ほこ)る者は長からず。(『老子』)
大愚なる者は、身を終うるまで霊(さと)らず。(『荘子』)
ひとつひとつの薪は燃えつきてしまうが、火は永遠に燃えつづけてゆくのだ。(『荘子』)
いつだったか、わたし荘周は、夢で胡蝶となった。[・・・]はて、荘周が夢で胡蝶となったのであろうか、それとも胡蝶が夢で荘周になったのでのであろうか。(『荘子』)
知るものは言わず、言うものは知らず (『荘子』) 
強梁なるものはその死を得ず (『荘子』)
「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師(空海)の筆の道にも見えたり。(芭蕉『許六離別詞』)
一、我(われ)事(こと)において後悔をせず。一、神仏は貴し、神仏をたのまず。(宮本武蔵「独行道」)
行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せじと存じ候。(勝海舟)
おれなどは生来(うまれつき)人がわるいから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。上がった相場も、いつか下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときがあるものさ。その上り下がりの時間も、長くて十年はかからないよ。[・・・]その上り下がり十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ。おれなども現にその一人だ。おれはずるいやつだろう。横着だろう。しかしそう急(せ)いても仕方がないから、寝ころんで待つのが第一さ。西洋人などの辛抱強くて気の長いのには感心するよ。(勝海舟『氷川清話』)
主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といっても、道には大小・厚薄・濃淡の差がある。しかるにその一をあげて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。人が来てごうごうとおれを責めるときには、おれは「そうだろう」と答えておいて争わない。そしてあとから精密に考えてその大小を比較し、この上にもさらに上があるだろうと思うと、実に愉快でたえられない。(勝海舟『氷川清話』)
人を集めて党を作るのは、一つの私ではないかと、おれは早くより疑っているよ。人は皆さまざまにその長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいから、あらゆるものを包容して豪も不都合はない。(勝海舟『氷川清話』)
生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ。(勝海舟)
面白きことも無き世を面白く (高杉晋作)           
人間の力なきことと真理の無限無窮なる事とを知る者は、思想のために他人を迫害せざるなり。(内村鑑三『基督信徒の慰め』) 
学生期、家住期、林住期、遊行期 (四住期)(特に「林住期」(壮年期後半、家庭から離れ、林に住む時期)の重要さ。) (インド古代伝統思想)
示ニ云ク、仏々祖々皆本(もと)は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪行(あくごふ)もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡(ち)もあり。然レども皆改めて知識(=指導者)に従ひ、教行(=教えと修行)に依リしかば、皆仏祖と成りしなり。(『正法眼蔵随聞記』)
尽く書を信ずれば書なきに如かず (『孟子』)
生は寄なり、死は帰なり (『淮南子』)
「人間は大地の根源から生まれてくる。生を享けているこの世は仮の宿にすぎない。死はまた生まれてきた根源に帰っていくだけのこと。だから嘆くこともないし、悲しむこともないのだという。」(守屋洋)
直木は先ず伐られ、甘井は先ず竭(つ)く (『荘子』)
独座大雄峰(独り大雄峰に座す)(独り大雄峰として座す、独り大雄峰になって座す) (『碧巌録』)
邯鄲(かんたん)の夢(盧生は五十年の栄華も一炊の夢と悟る。) (『枕中記』)
世間が 頭のいいやつを褒めるもんだから ひとはみんな 利口になろうとあくせくする。  (...) 世の中が 生きるに必要のないものまで やたらに欲しがらせるから みんな心がうわずってしまうんだ。  (...) そうんなんだ 無用な心配と心配と余計欲をふりすてりゃ けっこう道はつくもんだ、行き詰っても――。(『タオ/老子』)
ぼくらはひとに 褒められたり貶されたりして、びくびくしながら生きている。自分がひとにどう見られるか いつも気にしている。しかしね そういう自分というのは 本当の自分じゃあなくて、社会にかかわっている自分なんだ。 (...) たかの知れた自分だけど 社会だって、たかの知れた社会なんだ。 (...) 社会の駒のひとつである自分は いつもあちこと突き飛ばされて 前のめりに走ってるけれど、そんな自分とは違う自分がいると知ってほしいんだ。(『タオ/老子』) 
自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然
自ら処する(対処する)ところ超然(ものにとらわれない) 人に処するところ藹然(あいぜん・好意をもってやさしく) 有事(ことがおこったとき)斬然(ざんぜん・きっぱりと) 無事(何もないとき)澄然(水のように澄みきっている) 得意(の時は)澹然(たんぜん・あっさりと) 失意(の時は)泰然(ゆったりと) (崔銃「六然」)
人生の大病は只だこれ一の傲(ごう=傲慢)の字なり。(王陽明『伝習録』)
至道(しどう)無難。唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。(至道、つまり仏心・悟りは難しいものではない。分別して、取捨選択することさえ避ければよい。) (『信心銘』)
不動とは、うごかずという文字にて候。不動と申し候ても、石か木のように、無性なる義理(意味)にてはなく候。向うへも、左にも、右へも、十方八方へ動きたきように動きながら、卒度(わずか)も止まらぬ心を不動智と申し候。(不動心 心を一カ所に止め置かない。止まらない、とらわれない心は動かない。) (沢庵『不動智神妙録』)
心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな (沢庵)
煩悩即菩提 (仏教語)
文字(もんじ)習学の法師の知り及ぶべきにあらず。(真の仏法は経論の文字だけを 習学したような学者先生からは決して学ぶことはできない。) (道元『正法眼蔵』「弁道話」)
生(しよう)も一時の位(くらい)なり。死も一時の位なり。(道元『正法眼蔵』「現成公案」)
八大人覚(覚めた人の八つの悟り) 小欲 知足(足るを知る) 楽寂静(静かな所で好んで修証する) 勤精進(精進を勤める) 不忘念(正しい心、坐禅の心を保つ) 修禅定(禅定を修める) 修智恵(知恵を修める) 不戯論(余計な戯論はしない) (道元『正法眼蔵』「八大人覚」)
仏となるのにまことにたやすい道がある。もろもろの悪を作らず、生死に執着する心がなく、一切衆生のために、憐れみ深く、上を敬い、下を憐れみ、なにものも厭う心なく、願う心なく、心に思う心なく、憂いもなければ、それが仏[如来如去]である。このほかに思いはかることはない。(道元『正法眼蔵』) 
心はたくみなる画師の如く 種々の五陰をえがき 一切世界の中に 法として造らざる無し。心の如く仏も亦しかり 仏の如く衆生も然り 心と仏と及び衆生とは 是の三差別無し。諸仏は悉く 一切は心より転ずと 了知したまう 若し能く是の如く解らば 彼の人は真の仏を見たてまつらん。心も亦是の身に非ず 身も亦是の心に非ずして 一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず。若し人もとめて 三世一切の仏を 知らんと欲せば 応当に是の如く観ずべし 心は諸の如来を造ると。(「華厳唯心偈」)
慧可。「心を落ち着かせてください」 達磨。「心を持ってきなさい」 慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」 達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。 慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」(筑摩書房祖堂集)
鶴は千年、亀は万年、我は天然 (天然とは、お任せするということ。) (仙崖・江戸期の臨済宗禅僧)
生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も (一休宗純)
心頭を滅却すれば、火自ずから涼し (甲斐の恵林寺の快川禅師(かいせん)、原詩は中国六世紀の杜筍鶴(とじゅんかく))
啓天愛人(天を敬い人を愛す) (西郷隆盛)
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。(『西郷南州遺訓』)    
老驥伏櫪 志在千里 烈士暮年 壮心不已(やまず)(老いた駿馬は飼桶につながれていても千里を走る気持に変わりはないし、激しい気性の志士は年をとっても意気盛んな心は抑えられない。) (曹操「歩出夏門行」)
人生意気に感ず、功名誰か論ぜん(人生は人間同士の意気に感じて事を為すのだ。 功名などは問題ではない) (魏徴「述懐」)
人生の福境禍区は皆想念より造成す。(幸福不幸もすべて心の持ち方から生まれてくる。) (『菜根譚』) 
天地は永遠であるが、人生は二度ともどらない。人の寿命はせいぜい百年、あっというまに過ぎ去ってしまう。幸いこの世に生まれたからには、楽しく生きたいと願うばかりでなく、ムダに過ごすことへの恐れをもたねばならない。(『菜根譚』)
人間の心は宇宙と同じようなもの、そのなかに、すべての宇宙現象が生起している。すなわち、喜びの心は瑞祥を下す星や雲、怒りの心は雷鳴や豪雨、思いやりの心はそよ風や甘露、きびしい心は炎天や霜にあたる。人間の心に起こるこれらの現象も、起こったかと思えば消え、からりとしてわだかまりを残してはならない。そうすれば宇宙の現象とそっくり合致することができる。(『菜根譚』)
逆境にあるときは、身の回りのものすべてが良薬となり、節操も行動も、知らぬまに磨かれている。順境にあるときは、目の前のものすべてが凶器となり、体中骨抜きのされても、まだ気づかない。(『菜根譚』)
小人からは、むしろ憎まれたほうがよい。取り入ってこられるよりも。まだましだ。君子からは、むしろ厳しく叱責されたほうがよい。見放されて寛大にあつかわれよりも、はるかまし。(『菜根譚』)
人間は所詮あやつり人形にすぎない。ただし、あやつる糸をしっかりと自分の手に握りしめておけば、一本の乱れもなく、引くも伸ばすも、行くもとどまるも、自由自在、すべての意思で行うことができる。いっさい他人の指図を受けなければ、身は俗世にあっても、心も俗世を超越できるはずだ。(『菜根譚』)
幸福は求めようとしても求められるものではない。つねに喜びの気持ちをもって暮らすこと、これが幸福を呼び込む道である。(『菜根譚』)
真空は空ならず。執相は真にあらず。破相もまた真にあらず。(仏家のいう「まことの真」とは、大いなる実体であって、たんなる「空」ではない。現象に執着すれば実体を見失い、現象を無視しても実体はつかめない。) (『菜根譚』)
この山河さえ、やがて微塵となって砕け散るのだ。まして、ちっぽけな人間など、あとかたもなく吹きとんでしまう。人間の肉体はもともと泡の影のようにはかないもの。まして功名富貴など、影のまたかげにすぎない。だが、すぐれた英知を持たなければそこまで悟りきることはできないのである。(『菜根譚』) 
 
西洋の知恵

 

苦悩や落胆を味わった末、にもかかわらず笑う、これが真のユーモア精神。(デーケン『千年語録』)
何も望まない 何も恐れない 私は自由 (カザンザキス)
どんな荒れ狂う嵐の日にも時間はたつのだ。(シェイクスピア『マクベス』)
もしぼくが、たまたま道徳論を書かねばならなくなったとしたら、ぼくが書くべき第一のものは上機嫌についてであろう。(アラン『幸福論』)
堂々と生きること、自分の心に激しい苦痛を与えないこと、そして伝染によって、大げさな悲劇的なことばによって、他人に苦痛を与えないことである。(アラン『幸福論』)
人生の小さな不幸について、それを吹聴したり、見せびらかしたり、誇張したりしないことである。(アラン『幸福論』)
しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。(アラン『幸福論』)
人生には不愉快なことがらが多い。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない。(ルノワール(画家))
何も後悔はない Je ne regrette rien. (苦難に満ちた生涯の晩年(40代)の歌) (歌手エディト・ピアフの歌)
どんな人生にも トラブルはあるさ ただ心配すると 倍にしちまう 心配しない ハッピーにいこう (Bobby McFerrin) 
みどりの森がよろこびの声をあげて笑い 川がえくぼをつくり笑い流れるとき 空もわたしたちのはしゃぎに和して笑いころげ 緑の岡もそのこだまをかえし笑うとき (ウィリアム・ブレイク「笑いの歌」)
万象の光り輝く世界に出てくるがよい。そして、自然を師とせよ。(ウィリアム・ワーズワース『抒情歌謡集』)
特に肝心なのは、順境にあっていい気にならず、逆境にあってくよくよせず、楽しむ時に度を過さず、怒った時にカッとなって粗暴に陥いらないことは、哲学から得られる功徳の最大なものだと私は考える。(プルターク『倫理論集』)
なにか人助けをするのでもないかぎり、他人のことを考えて自分の人生を無駄にするのはやめなさい。誰々はこれからどうするつもりなのか。また、あの人は何を言っているのか。なぜそう言ったのか。そして、何をたくらんでいるのか。そんな他人のことばかりを考えていたら、君の心はそれだけでふさがってしまい、君自身はそれだけでふさがってしまい、君自身が何か有意義なことをするチャンスをなくしてしまうだろう。私たちは、そのような当てのない思考を続けてはいけない。(マルクス・アウレリウス『自省録』)
敵に対する最大の復讐というは、 自分が相手のようにならないことだ。(マルクス・アウレリウス『自省録』)
それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、じつに肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。(エピクロス『教説と手紙』)
われわれは、日常の私事や国事の牢獄から、われわれ自身を解放すべきである。(エピクロス『教説と手紙』)
亡くなった友人にたいしては、悲嘆によってではなく、追憶によって、共感を寄せようではないか。(エピクロス『教説と手紙』)
われわれは、哲学を研究しているように装おうべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、真の意味で健康であるということなのであるから。(エピクロス『教説と手紙』)
水とパンで暮しておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる。そしてわたしは、ぜいたくによる快を、快それ自身のゆえではないが、それに随伴していやなことが起るがゆえに、唾棄する。(エピクロス『教説と手紙』) 
十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分ではない。(エピクロス『教説と手紙』)
わたしは、決して、多くの人々に気に入られたいとは思わなかった。なぜなら、一方、何がかれらの気に入るかはわたしにはわからなかったし、他方、わたしの知っていたことは、かれらの感覚からは遠くへだたっていたからである。(エピクロス『教説と手紙』)
隠れて、生きよ。(エピクロス『教説と手紙』)
この世の誰一人として不幸を経験せずにいつも過せる者はいない。(キケロ『人生の幸福について』)
多忙な人間には何ごとも十分成し遂げることは不可能である。[...]実際多忙な人にかぎって、生きること、すなわち良く生きることは最もまれである。(セネカ『人生の短さについて』)
この世に何一つとして、自分の所有物だといえるものはないんだ。時間だけなんだよ、これぞ自分のものといえるのは。(セネカ『ルキリウスへの手紙』)
どうしたら我々はこの不安(あと人生の残りの時間がどれだけあるかという不安)から逃れることができるのか? それはただ一つ、人生を未来に置いて運んでゆくのでなく、ただいま自分自身に集中させることによってだ。未来に依存する者には、現在は無意味になってしまうからだ。[...]だから、わがルキリウス君、急いで今の君の人生を生きるがいい、そしてどの一日もが自分の人生であると思いなさい。このような心構えで生きる者、毎日を全部自分の全人生として使いこなす者は、あらゆる不安から自由です。(セネカ『ルキリウスへの手紙』)
我々は現実そのものによってよりも、想像によって苦しめられることの方がよほど多いのだ。(セネカ『ルキリウスへの手紙』)
要するにわれわれの求めているのは、いかにすれば心は常に平坦で順調な道を進み、おのれ自身に親しみ、おのれの状態を喜んで眺め、しかもこの喜悦を中断することなく、常に静かな状況に留まり、決しておのれを高めも低めもしないということである。これがこころの平静ということである。(セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」)
また、心はいつも同じ緊張のうちに抑え付けておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい。[...]心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、すこしでも解放されて休養すると、再び活力を取り戻すであろう。(セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」) 
何か崇高な、他者をしのぐような言葉を発するには、心の感動がないかぎり不可能である。[...]正気であるかぎリ不可能である。心は[...]かつては自分から恐れて登らなかった高みへ引き立ててゆくべきである。(セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」)
もし君が本気で心の中にしっかりと刻みこまれる何かを得たいと願っているんだったら、一定の巨匠のもとに留まって、彼らに養ってもらわなければだめだ。どこにでもいるということはどこにもいないということだからね。(セネカ『ルキリウスへの手紙』)
本当の自由とは、中傷など気にもとめず、わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし、目に見えるさまざまなことに思い煩わされない精神を持つことである。(『セネカ わが死生観』「賢者の不動心について」)
世論に左右されて行動する人たちは、中傷と侮蔑の渦巻く中で暮らすことを覚悟しておかなくてはならない。覚悟ができていれば、ことはいくらか軽く感じられるものであるから。(『セネカ わが死生観』「賢者の不動心について」)
人間の偉大は彼が己の悲惨を知るからこそ偉大である。(パスカル『パンセ』)
人間は考える葦にすぎない。自然界で最もかよわいものであるが、それは考える葦である。(パスカル『パンセ』)
神を知ることから神を愛するに至るまでの何と遠いことか! (パスカル『パンセ』)
わずかな事が我々を慰める。わずかの事が我々を悲しませるのであるから。(パスカル『パンセ』)
人は己を知らなければならない。それは真理を発見するのに役立たないにしても、少なくとも生活をととのえる上に役立つ。そして世にそれくらい正しいことはないのだ。(パスカル『パンセ』)
心情は、理性の知らない、それ自身の理性をもっている。(パスカル『パンセ』) 
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。(パスカル『パンセ』)
人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである。(パスカル『パンセ』) 
もう秋か。 −−それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、−−季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。(ランボオ『地獄の季節』)
すべてを疑え(晩年、好きな標語な何かと娘に問われたときのマルクスの答え) (カール・マルクス)
人間の先入見は、ひとそれぞれの性格にもとづき、その人の状態と密接に結びついているため、これを克服することはおよそ不可能である。これにたいしては、明白な証拠も分別も理性もまったく影響を与えることができない。(ゲーテ『箴言と省察』)
ある種の欠点は、その人の存在にとって不可欠である。(ゲーテ『親和力』)
すばらしい人生を築きたいと思ったら、過ぎ去ったことを気にせず、腹を立てないようつとめ、いつも現在をたのしみ、とりわけだれも憎まず、先のことは神様にまかせること。(ゲーテ『詩集』「エピグラム風うに」)
心の底から出たものでなければ、けっして心から心へ伝わるはずがない。(ゲーテ『ファウスト』)
詩的作品は理知でつかめなく、測りきれなければきれないほど、よりよい。(エッカーマン『ゲーテとの対話』)
やたらに定義したところで何になるものか!状況に対する生き生きした感情と、それを表現する能力こそ、まさに詩人を作るのだよ。(エッカーマン『ゲーテとの対話』) 
「何をそんなに考えていらっしゃるんでしょう。人間は決して考えてはなりません。考えると年をとるばかりです。・・・人間は一つのことに執着してはなりません。そんなことをすると、気狂いになります。」(ゲーテ『イタリア紀行』馬車に同乗した一大尉の言葉)
知者がすでに千年も前に答えている問題を、無知な人は改めてまた得意げに提出するのだ。(ゲーテ『箴言と省察』)
生きることの目的は生きることそれ自体である(ゲーテ) あなた自身を探しなさい。そうすれば、すべてを見つけることができるであろう。(ゲーテ『格言と反省』)
自分自身の心を支配できないものにかぎって、他人の意志を支配したがるものだ。(ゲーテ『ファウスト』)
愚かなものも賢いものもどちらも害にならない。半分ばかな者と半分賢い者がもっとも危険である。(ゲーテ『親和力』)
無知な人間が何でも知っていると言う。多くを知れば知るほど、疑問も多くなる。(ゲーテ『格言と反省』)
肉体は、一つの大きな理性である。統一した意味を具えた一つの多様体であり、戦争であるとともに平和であり、畜群であるとともにそれを見守る牧人である。私の兄弟よ。君が「精神」と名付けている君の理性でさえも、君の肉体の道具なのだ。肉体という君の大きな理性に仕える小さな道具であり玩具なのだ。君は「自我」と自称して、この言葉を誇りとしている。けれども、もっと偉大なものがあり──君はその存在を信じようとしないが──それは、君の肉体であり、肉体の持つ大きな理性なのだ。この理性は、自我という言葉を口にしないが、しかし実は自我の振る舞いを遂行するものなのだ。(中略) 私の兄弟よ。君の思想と感情の背後には、一人の強力な支配者、一人の知られざる賢者が控えている。──その名が、本当の自己という奴なのだ。君の肉体の中に、その者は住んでいる。その者は、君の肉体なのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)
否、事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ。(ニーチェ『権力への意志』)
真理とは、それなくしてはある特定の生物種族が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。(ニーチェ『権力への意志』)
やむをえざる必然的なものは、私は傷つけはしない。運命愛は、私の最も内奥の本性である。(ニーチェ『この人を見よ』) 
二種類の平等。―― 平等欲は、次のような仕方で現れることがある。つまり、他の人を全部自分のところにまで引きずり下ろしたがるか(ケチをつけたり、闇に葬ったり、妨害したりして)、あるいは他の人全部と一緒に自分を引き上げたがるか(称賛したり、援助したり、他人の成功を喜んだりして)、そのいずれかである。(ニーチェ『人間的あまりに人間的』)
必要な一事。 ――人が持たねばならないものが一つある。生来の軽やかな心か、芸術や知識によって軽やかにされた心か、である。(ニーチェ『人間的あまりに人間的』)
腐敗した善から立ちのぼる臭いほどひどいものはない。(ソロー『森の生活』) 
支那を知るようになってから、わたしは怠惰が大体から言ってひとびとに可能な最善の一つであるとみなすようになったことを告白しなければならない。われわれは精力的であることによっていくらかのことを成就しているが、はたして結局のところ、われわれの成就することが価値のあるものか、疑わしくなりかねない。(バートランド・ラッセル『懐疑論』)
つまり、実際のところ真理の発見にいたる第一段階は、自分はまだ十分な認識には達していないのだ、ということを認めるべきである。自分を正しいと思うこむ病気(the blight of cocksurenesse)ほど確実に知的成長をとめてしまうものはない。100人の良識のある人の九九人までが、そうした病気でだめになってしまう。しかも奇妙なことに、彼らの大半は、その病気におかされていることに気づいてさえいないのだ。(パース『草稿断片』)
ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。(フランクル『新版 夜と霧』)
強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。(フランクル『新版 夜と霧』)
哲学の目的は、思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学の仕事の本質は、解明することにある (『論理哲学論考』ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)
思想は、それだけ取って見ると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない。あらかじめ確定された諸概念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない。(ソシュール『一般言語講義』)
<他者>は私にふり向き、私を問ただし、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負わせる。(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』) 
無限なものはふたつしかない 宇宙と人間の愚かさだ そのうち宇宙につては私にはわからない (アインシュタイン)
「逆説の10カ条」       
1.人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。
2.何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
3.成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。
4.今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
5.正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。
6.最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7.人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8.何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。
9.人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
10.世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
(ケント・M・キース「それでもなお、人を愛しなさい」)  
あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(『新約聖書』「マタイによる福音書6章」)
「また、なぜあなたがたは兄弟の目の中の塵に目を付けるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。兄弟に向かって『あなたの目の塵を取らせて下さい。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。兄弟たち、まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすればはっきり見えて、自分の兄弟の目からも塵を取り除くことができます。」(『新約聖書』「マタイによる福音書7章」)
イエスは朝早く神殿に入ると、律法学者やファリサイ派の人々が、女を連れてやってきた。姦通の現場で捕らえられた女である。彼らはイエスに言った。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法にある。あなたはどう思うか。」イエスは答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 これを聞いたものは、一人また一人と立ち去り、女が残った。イエスは女に言った。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 (『新約聖書』「ヨハネによる福音書8章」)
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。(『新約聖書』「マルコによる福音書」8章36節)
しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(『新約聖書』「マルコによる福音書10章」)
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(『新約聖書』「コリント書I13章」) 
 
The Travels of Marco Polo

 

  [Book 3 / Chapter 1]
Of the Merchant Ships of Manzi that Sail Upon the Indian Seas
Having finished our discourse concerning those countries wherewith our Book hath been occupied thus far, we are now about to enter on the subject of INDIA, and to tell you of all the wonders thereof.
And first let us speak of the ships in which merchants go to and fro amongst the Isles of India.
These ships, you must know, are of fir timber.[1] They have but one deck, though each of them contains some 50 or 60 cabins, wherein the merchants abide greatly at their ease, every man having one to himself. The ship hath but one rudder, but it hath four masts; and sometimes they have two additional masts, which they ship and unship at pleasure.[2]
[Moreover the larger of their vessels have some thirteen compartments or severances in the interior, made with planking strongly framed, in case mayhap the ship should spring a leak, either by running on a rock or by the blow of a hungry whale (as shall betide ofttimes, for when the ship in her course by night sends a ripple back alongside of the whale, the creature seeing the foam fancies there is something to eat afloat, and makes a rush forward, whereby it often shall stave in some part of the ship). In such case the water that enters the leak flows to the bilge, which is always kept clear; and the mariners having ascertained where the damage is, empty the cargo from that compartment into those adjoining, for the planking is so well fitted that the water cannot pass from one compartment to another. They then stop the leak and replace the lading.[3]]
The fastenings are all of good iron nails and the sides are double, one plank laid over the other, and caulked outside and in. The planks are not pitched, for those people do not have any pitch, but they daub the sides with another matter, deemed by them far better than pitch; it is this. You see they take some lime and some chopped hemp, and these they knead together with a certain wood-oil; and when the three are thoroughly amalgamated, they hold like any glue. And with this mixture they do paint their ships.[4]
Each of their great ships requires at least 200 mariners [some of them 300]. They are indeed of great size, for one ship shall carry 5000 or 6000 baskets of pepper [and they used formerly to be larger than they are now]. And aboard these ships, you must know, when there is no wind they use sweeps, and these sweeps are so big that to pull them requires four mariners to each.[5] Every great ship has certain large barks or tenders attached to it; these are large enough to carry 1000 baskets of pepper, and carry 50 or 60 mariners apiece [some of them 80 or 100], and they are likewise moved by oars; they assist the great ship by towing her, at such times as her sweeps are in use [or even when she is under sail, if the wind be somewhat on the beam; not if the wind be astern, for then the sails of the big ship would take the wind out of those of the tenders, and she would run them down]. Each ship has two [or three] of these barks, but one is bigger than the others. There are also some ten [small] boats for the service of each great ship, to lay out the anchors, catch fish, bring supplies aboard, and the like. When the ship is under sail she carries these boats slung to her sides. And the large tenders have their boats in like manner.
When the ship has been a year in work and they wish to repair her, they nail on a third plank over the first two, and caulk and pay it well; and when another repair is wanted they nail on yet another plank, and so on year by year as it is required. Howbeit, they do this only for a certain number of years, and till there are six thicknesses of planking. When a ship has come to have six planks on her sides, one over the other, they take her no more on the high seas, but make use of her for coasting as long as she will last, and then they break her up.[6]
Now that I have told you about the ships which sail upon the Ocean Sea and among the Isles of India, let us proceed to speak of the various wonders of India; but first and foremost I must tell you about a number of Islands that there are in that part of the Ocean Sea where we now are, I mean the Islands lying to the eastward. So let us begin with an Island which is called Chipangu. 
マンチの商船のことインドの海際に帆
何で私たちの書籍がこれまで占領されてかれている国に関する我々の談話を終え、我々は現在、約インドの件名に入力すると、そのすべての驚異のあなたを教えています。
そして、最初私たちは商人がインド諸島の中をあちこち移動している船の話しましょう​​。
これらの船は、あなたが知っている必要があり、モミの木である。 [1]彼らは持っているが、1つのデッキ、それらの各々は商人が自分の使いやすさ、自分自身に1を持つすべての人に大幅に従う前記いくつかの50または60のキャビンを、含まれていますけれども。 船はかれらが、1つの方向舵が、それは4本のマストのhath、そして時には彼らは、さらに2つのマスト、喜びで彼らは船と積み荷を降ろす必要があります[2]
[また彼らの船の大きいmayhap船が岩の上で実行するか、空腹のクジラのブローのいずれかによって、浸水するべき​​場合に強く、組み立て板張りで作られたインテリアの一部の13区画またはseverancesを(しなければならないように持っている夜は彼女のコースの船がクジラの横に戻ってリップルを送信し、泡を見ているクリーチャーは、それはしばしばいくつかの部分で食い止めるものとすることにより、そこに浮かんで何か食べるものがあり、前方に突進を作る空想するときのために降り懸かるのofttimes、船)。 このような場合には必ずしも明確では保持されますビルジにリークフローに入る水、そしてダメージがどこにあるか確かめ持つ船員、それらの隣接にそのコンパートメントから空の貨物は、板張りのために非常にうまく装着されている水1区画から別のものに渡すことはできません。 そして、彼らは漏れを止めて、船荷証券を交換する。 [3] ]
留め具は、良い鉄釘のすべてであり、双方は、他の上に置か1厚板二重であり、厚板の外側とインチカシメそれらの人々は、任意のピッチを持っていないため、投げたが、彼らはまた別の問題で両側を塗り付けるされていません、ピッチよりもはるかに優れた彼らが認めた、それがこれです。 あなたは、彼らはいくつかの石灰といくつかのみじん切り麻を取る見て、これらは、彼らが特定の木油と一緒にこね、および3を徹底的に合併されたとき、彼らはどんな接着剤のように開催しています。 そして、この混合物を用いて、彼らは船を塗るん。 [4]
彼らの偉大な船の各々は、少なくとも200船員[そのうちのいくつか300]が必要です。 彼らは一つの船は胡椒の5000または6000のバスケットを実施しなければならない[と彼らは今より大きくなるように、以前に使用]は、大きなサイズの確かされています。 そしてこれらの船に乗って、彼らはスイープを使用しない風がないときには、知っている必要があり、これらのスイープは、それらをプルすると、それぞれに4船員を必要とするように大きいです。 [5]すべての偉大な船はそれに接続されている特定の大吠えまたは入札を持っています。これらは、唐辛子の1000バスケットを運ぶのに十分な大きさであり、個々に50または60の船員を運ぶ[そのうちのいくつかは、80または100]、そして、彼らは同様に櫂によって移動され、彼らは彼女をスイープなどのような時に、曳航によって彼女を大きな船を支援使用されている[または場合でも、風がビームに多少ある場合、彼女は、帆の下にある、風が後進ではない場合には、大きな船の帆は、入札業者の風を取るために、彼女はでしょうそれらを実行する]。 各船には2つの[または3]これらの樹皮を持っていますが、一つは他のものより大きいです。 いくつかの10 [小]それぞれの偉大な船のサービスのためのボート、アンカーをレイアウト魚を捕まえる、乗って物資を持って来るために、などもあります。 船は帆の下にあるとき、彼女は彼女の側に投げられたこれらのボートを運ぶ。 と大入札は次のような方法で彼らのボートを持っています。
上のように、別の修復が望まれているとき、彼らは、さらに別の板に釘、そして、船は仕事の年だったと、彼らは彼女を修復したい場合、それらは最初の2つ以上のサード板に釘、そしてコーキングと同様にそれを支払うそれが要求されるように年々。 それにもかかわらず、彼らは唯一の一定の年数のためにこれを行うと、あるまで6は板張りの厚さ。 船は彼女の両側に6枚の板、他の上のいずれかを持って来たとき、彼らは、公海上で彼女以上を取らないが、彼 ​​女が続く限り、惰性のために彼女を利用した後、彼らは彼女を壊す。 [ 6]
今私は大海時およびインド諸島の間で航海する船について話しましたことを、私たちは、インドの様々な不思議を語るに進みましょう、しかし、何よりもまず、私はあることに島の数について説明してくれなければなりません我々は今ある大海のその部分では、私は東進に嘘諸島を意味する。 だから私たちはChipanguと呼ばれる島で始めてみましょう。
1.↑ 1.0 1.1 Pine [Pinus sinensis] is [still] the staple timber for ship-building both at Canton and in Fo-kien. There is a very large export of it from Fu-chau, and even the chief fuel at that city is from a kind of fir. Several varieties of pine-wood are also brought down the rivers for sale at Canton. (N. and Q., China and Japan, I. 170; Fortune, I. 286; Doolittle.)
NOTE 2.--Note the one rudder again. (Supra, Bk. I. ch. xix. note 3.) One of the shifting masts was probably a bowsprit, which, according to Lecomte, the Chinese occasionally use, very slight, and planted on the larboard bow.
2.↑ Cite error: Invalid tag; no text was provided for refs named note_2
3.↑ 3.0 3.1 The system of water-tight compartments, for the description of which we have to thank Ramusio's text, in our own time introduced into European construction, is still maintained by the Chinese, not only in sea-going junks, but in the larger river craft. (See Mid. Kingd. II. 25; Blakiston, 88; Deguignes, I. 204-206.)
4.↑ 4.0 4.1 This still remains quite correct, hemp, old nets, and the fibre of a certain creeper being used for oakum. The wood-oil is derived from a tree called Tong-shu, I do not know if identical with the wood-oil trees of Arakan and Pegu (Dipterocarpus laevis).
["What goes under the name of 'wood-oil' to-day in China is the poisonous oil obtained from the nuts of Elaeococca verrucosa. It is much used for painting and caulking ships." (Bretschneider, Hist. of Bot. Disc. I. p. 4.)--H.C.]
5.↑ 5.0 5.1 The junks that visit Singapore still use these sweeps. (J. Ind. Arch. II. 607.) Ibn Batuta puts a much larger number of men to each. It will be seen from his account below that great ropes were attached to the oars to pull by, the bulk of timber being too large to grasp; as in the old French galleys wooden manettes or grips, were attached to the oar for the same purpose.
6.↑ 6.0 6.1 The Chinese sea-going vessels of those days were apparently larger than was at all common in European navigation. Marco here speaks of 200 (or in Ramusio up to 300) mariners, a large crew indeed for a merchant vessel, but not so great as is implied in Odoric's statement, that the ship in which he went from India to China had 700 souls on board. The numbers carried by Chinese junks are occasionally still enormous. "In February, 1822, Captain Pearl, of the English ship Indiana, coming through Caspar Straits, fell in with the cargo and crew of a wrecked junk, and saved 198 persons out of 1600, with whom she had left Amoy, whom he landed at Pontianak. This humane act cost him 11,000l." (Quoted by Williams from Chin. Rep. VI. 149.)
The following are some other mediaeval accounts of the China shipping, all unanimous as to the main facts.
Friar Jordanus:--"The vessels which they navigate to Cathay be very big, and have upon the ship's hull more than one hundred cabins, and with a fair wind they carry ten sails, and they are very bulky, being made of three thicknesses of plank, so that the first thickness is as in our great ships, the second crosswise, the third again longwise. In sooth, 'tis a very strong affair!" (55.)
Nicolo Conti:--"They build some ships much larger than ours, capable of containing 2000 butts (vegetes), with five masts and five sails. The lower part is constructed with triple planking, in order to withstand the force of the tempests to which they are exposed. And the ships are divided into compartments, so formed that if one part be shattered the rest remains in good order, and enables the vessel to complete its voyage."
Ibn Batuta:--"Chinese ships only are used in navigating the sea of China.... There are three classes of these: (1) the Large, which are called Jonuk (sing. Junk); (2) the Middling, which are called Zao; and (3) the Small, called Kakam. Each of the greater ships has from twelve sails down to three. These are made of bamboo laths woven into a kind of mat; they are never lowered, and they are braced this way and that as the wind may blow. When these vessels anchor the sails are allowed to fly loose. Each ship has a crew of 1000 men, viz. 600 mariners and 400 soldiers, among whom are archers, target-men, and cross-bow men to shoot naphtha. Each large vessel is attended by three others, which are called respectively 'The Half,' 'The Third,' and 'The Quarter.' These vessels are built only at Zayton, in China, and at Sinkalan or Sin-ul-Sin (i.e. Canton). This is the way they are built. They construct two walls of timber, which they connect by very thick slabs of wood, clenching all fast this way and that with huge spikes, each of which is three cubits in length. When the two walls have been united by these slabs they apply the bottom planking, and then launch the hull before completing the construction. The timbers projecting from the sides towards the water serve the crew for going down to wash and for other needs. And to these projecting timbers are attached the oars, which are like masts in size, and need from 10 to 15 men to ply each of them. There are about 20 of these great oars, and the rowers at each oar stand in two ranks facing one another. The oars are provided with two strong cords or cables; each rank pulls at one of these and then lets go, whilst the other rank pulls on the opposite cable. These rowers have a pleasant chaunt at their work usually, singing La' la! La' la! The three tenders which we have mentioned above also use oars, and tow the great ships when required.
"On each ship four decks are constructed; and there are cabins and public rooms for the merchants. Some of these cabins are provided with closets and other conveniences, and they have keys so that their tenants can lock them, and carry with them their wives or concubines. The crew in some of the cabins have their children, and they sow kitchen herbs, ginger, etc., in wooden buckets. The captain is a very great Don; and when he lands, the archers and negro-slaves march before him with javelins, swords, drums, horns, and trumpets." (IV. pp. 91 seqq. and 247 seqq. combined.) Comparing this very interesting description with Polo's, we see that they agree in all essentials except size and the number of decks. It is not unlikely that the revival of the trade with India, which Kublai stimulated, may have in its development under his successors led to the revival also of the larger ships of former times to which Marco alludes. 
1. ↑ 1.0 1.1 パイン[マツシネンシス]は[まだ]カントンでとFO-KIENの両方造船のための主食木材。 そこ福Chauからそれの非常に大規模な輸出であり、その都市でさえチーフ燃料はモミの一種である。 松林のいくつかの品種もカントンでの販売のための川をダウンします。 (N.とQ、 中国 、 日本 、I. 170;フォーチュン、I. 286;ドリトル)
注2 -再び1舵をメモします。 (スープラ、BK。I. CH。19。注3)をシフトマストの一つは、おそらく非常にわずかルコントによると、中国人はたまに使う、バウスプリット、、で、左舷船首に植えられた。
2. ↑ エラーシテ:無効タグを、テキストが付きREFに対しては提供されなかったnote_2
3. ↑ 3.0 3.1 水密区画のシステムは、我々はラムージオのテキストに感謝しなければならないそのうちの説明については、欧州の建設に導入された私たち自身の時間では、まだ海上航行ジャンクでなくだけでなく、中国人によって維持されている大きな川クラフト。 (。。。25ミッドKingd IIを参照してください; ブラキストン 、88; Deguignes、I. 204から206)。
4. ↑ 4.0 4.1 これはまだ麻、古いネット、槙肌に使用されている特定のクリーパーの繊維、かなり正しいままです。 木材油がトン-酒と呼ばれるツリーから派生してアラカンとペグー(Dipterocarpusツメガエル )の木油木と同一の場合、私は知らない。
["何木材オイル"の名の下に行く日に中国でするElaeococcaオゴノリのナッツから得られる有毒油です。それははるかに絵画やコーキング船舶に使用されます。 " ( ブレトシュナイダー、シーッボットディスクの Iの電話4。。。) - HC]
5. ↑ 5.0 5.1 まだこれらのスイープを使用しシンガポールを訪問ジャンク。 (J.ケガニアーチII。607。)イブンBatutaは、それぞれに男性のはるかに大きい数を入れます。 、古いフランスのガレー船木製manettesまたはグリップと同じ目的のために櫓に接続されていた、それは把握することが大きすぎる木材のバルク、偉大なロープがで引っ張って櫂にアタッチされていたその下に自分のアカウントから見られるように。
6. ↑ 6.0 6.1 当時の中国の海上航行船舶は欧州のナビゲーション内のすべての一般的であったよりも明らかに大きかった。 マルコはここに200(またはラムージオで300まで)マリナーズ、商船用確かに大規模な乗組員のことを話すが、彼 ​​はインドから中国に渡った船は​​700魂であったこと、Odoricの声明で暗示されているほど大きくないボード。 中国のジャンク船によって運ばれた数字は、まだ時々莫大である。 彼が上陸した人、 "2月、1822年、カスパー·海峡を通って来る英語艦インディアナ州のキャプテンパールは、、、難破ジャンクの積荷と乗組員とに落ち、彼女はアモイ残っていた相手と、1600のうち198人を救ったポンティアナックでこの人道的行為は彼に11000 リットルを要した。 " ( チンからウィリアムズによって引用された。議員 VIは149。)
以下は、中国海運、主要事実に関するすべての全会一致のいくつかの他の中世のアカウントです。
修道士Jordanus: - "彼らはキャセイに移動船は非常に大きなものとなり、かつ船体以上百キャビン時、彼らは10帆を運ぶ追い風であり、彼らは非常にかさばり、3で作られている厚さ厚板のため、最初の厚さは、我々の偉大な船、第二十文字、第三再び縦にになっていること。真実では、 "非常に強い浮気をTIS!" (55。)
ニコロ·コンティ : - "彼らは、5本のマストと5つの帆を持つ2000吸い殻(vegetes)を含むことができる我々よりもはるかに大きく、一部の船を、構築、下部はに嵐の力に耐えるためには、トリプル板張りで構成されている。それらが公開されています。そして船が区画に分割されているので、一部が粉々になったことがあれば残りは良い順番のままで、その航海を完了するには、血管形成を可能にすること。 "
イブンBatuta: - "中国船が中国だけの海を航行に使用されている....これらの3つのクラスがあります。Jonuk(sing.ジャンク )と呼ばれている、(1)大型(2)まあまあ、これらは蔵王と呼ばれ、(3)小型、いわゆるKakam大きい船のそれぞれが12帆から3ダウンする必要がありますこれらは、マットの種類が織り込ま竹ラス成っている;。彼らが低下することはありません、それらはブレースアールこのような方法や風のような帆が緩い飛行が許可されている場合はこれらの船のアンカー。各船は射手アールのうち誰が、1000年の男性、すなわち600マリナーズと400人の兵士の乗組員を持っている、ターゲットの男性。吹き、クロスかもしれない-弓は男性ナフサを撮影する。各大型容器がそれぞれ呼ばれる3つの他、 "半分"が参加します'、三'と'クォーター。' これらの船は、中国の、そしてSinkalanまたはSin-UL-SIN(すなわちカントン)で、Zaytonでしか構築されていますこれは、彼らが構築される方法です。彼らは木の非常に厚いスラブで接続する木材の2つの壁を構築し、すべてこのように速く、その食いしばり巨大なスパイクで、それぞれが2つの壁は彼らが下部板張りを適用し、これらのスラブで統一されています。長さは3キュビトであり、その後の建設を完了する前に船体を起動します。ティンバーから突出水に対する辺は洗いに下って行くために、他のニーズのための乗組員を提供しています。そして、これらの突出した木材にサイズがマストのようなもので、それらのプライ各10〜15人の男性から必要オールを、添付されています。ありこれらの偉大な櫂と、互いに対向する2つのランクの各櫓スタンドで漕手の約20櫂が2強いコードやケーブルが提供され、各ランクは、これらのいずれかでプルして、他のランクが上に引っ張りながら、行くことができます反対側のケーブル。これら漕手はLa 'ラ!ラ' laを歌って、通常の仕事で楽しいchauntを持っている!必要なときに我々は、上記に言及した3入札も櫂を使用し、曳航大きな船。
"各船の4つのデッキが構築され、そして商人のためのキャビンやパブリックルームがありますこれらのキャビンの一部はクローゼットと他の便利さが提供され、それらのテナントは、それらをロックすることができるように、彼らはキーを持って、彼らと彼らの妻を運ぶ。前とするとき、彼は土地、射手と黒人-奴隷行進;または妾はキャビンのいくつかの乗組員は自分の子供を持っている、と彼らは木製のバケツにキッチンハーブ、生姜などをまく船長は非常に偉大なドンです。槍、剣、ドラム、ホーン、トランペットと彼。 " (IV. ppに91 seqq。と247 seqq。組み合わせ。)ポロさんとこの非常に興味深い記述を比較すると、我々は、彼らがサイズやデッキの数を除き、すべての必需品が一致していることを参照してください。 それは、フビライは刺激インドとの貿易の復活はマルコが暗示する昔の大型船のまた復活に導いた彼の後継者の下で、その開発に有することができることはまずありません。  
  [Book 3 / Chapter 2]
Description of the Island of Chipangu, and the Great Kaan's Despatch of a Host Against It
Chipangu is an Island towards the east in the high seas, 1500 miles distant from the Continent; and a very great Island it is.[1]
The people are white, civilized, and well-favoured. They are Idolaters, and are dependent on nobody. And I can tell you the quantity of gold they have is endless; for they find it in their own Islands, [and the King does not allow it to be exported. Moreover] few merchants visit the country because it is so far from the main land, and thus it comes to pass that their gold is abundant beyond all measure.[2]
I will tell you a wonderful thing about the Palace of the Lord of that Island. You must know that he hath a great Palace which is entirely roofed with fine gold, just as our churches are roofed with lead, insomuch that it would scarcely be possible to estimate its value. Moreover, all the pavement of the Palace, and the floors of its chambers, are entirely of gold, in plates like slabs of stone, a good two fingers thick; and the windows also are of gold, so that altogether the richness of this Palace is past all bounds and all belief.[3]
[Illustration: Ancient Japanese Emperor. (After a Native Drawing; from Humbert.)]
They have also pearls in abundance, which are of a rose colour, but fine, big, and round, and quite as valuable as the white ones. [In this Island some of the dead are buried, and others are burnt. When a body is burnt, they put one of these pearls in the mouth, for such is their custom.] They have also quantities of other precious stones.[4]
Cublay, the Grand Kaan who now reigneth, having heard much of the immense wealth that was in this Island, formed a plan to get possession of it. For this purpose he sent two of his Barons with a great navy, and a great force of horse and foot. These Barons were able and valiant men, one of them called ABACAN and the other VONSAINCHIN, and they weighed with all their company from the ports of Zayton and Kinsay, and put out to sea. They sailed until they reached the Island aforesaid, and there they landed, and occupied the open country and the villages, but did not succeed in getting possession of any city or castle. And so a disaster befel them, as I shall now relate.
You must know that there was much ill-will between those two Barons, so that one would do nothing to help the other. And it came to pass that there arose a north wind which blew with great fury, and caused great damage along the coasts of that Island, for its harbours were few. It blew so hard that the Great Kaan's fleet could not stand against it. And when the chiefs saw that, they came to the conclusion that if the ships remained where they were the whole navy would perish. So they all got on board and made sail to leave the country. But when they had gone about four miles they came to a small Island, on which they were driven ashore in spite of all they could do; and a large part of the fleet was wrecked, and a great multitude of the force perished, so that there escaped only some 30,000 men, who took refuge on this Island.
These held themselves for dead men, for they were without food, and knew not what to do, and they were in great despair when they saw that such of the ships as had escaped the storm were making full sail for their own country without the slightest sign of turning back to help them. And this was because of the bitter hatred between the two Barons in command of the force; for the Baron who escaped never showed the slightest desire to return to his colleague who was left upon the Island in the way you have heard; though he might easily have done so after the storm ceased; and it endured not long. He did nothing of the kind, however, but made straight for home. And you must know that the Island to which the soldiers had escaped was uninhabited; there was not a creature upon it but themselves. Now we will tell you what befel those who escaped on the fleet, and also those who were left upon the Island. 
Chipanguの島の説明し、それに対するホストのグレートカーンのデスパッチ
Chipanguは大陸から1500マイル遠い公海で東に向かって島である;。そしてそれは非常に大きな島[1]
人々は、白い文明、とよく好まれている。 彼らは偶像崇拝者であり、誰に依存しています。 、彼らは自分の島でそれを見つけるために[そして王はそれをエクスポートすることはできません、そして私は、彼らが持っている金の量が無限であることを伝えることができます。 それがメインの土地から遠くであり、したがって、それは彼らの金はすべてのメジャーを超えて豊かであることを渡すために来るのでまた]いくつかの商人が国を訪問する。 [2]
私はあなたにその島の領主の宮殿についての素晴らしい事を教えてくれます。 あなたはそれがほとんど、その値を推定することがないでしょう〜だからという、私たちの教会はリード線を使用して屋根のあるのと同様に、彼は純金と完全に屋根のある偉大な宮殿のhathことを知っている必要があります。 さらに、すべての宮殿の舗装、その室の床は、石、厚い良い2本の指のスラブのようなプレートで、金で完全であり、そしてまた、Windowsは完全になるように、金のこの宮殿の豊かアールすべての境界とすべての信念を過ぎています[3]
[イラスト:古代日本の天皇。 (ネイティブ描画した後、。ハンバートから)]
彼らはまた、多額の罰金、ラウンド、白のものと全く同じくらい貴重なバラ色であるが、豊富に真珠を持っています。 [この島では死者の一部が埋設されているものと、焼かれています。 本体が焼けている場合、彼らはそのような者が、カスタムであるため、口の中でこれらの真珠のいずれかを入れます。]彼らはまた、他の宝石の量を持っています[4]
Cublay、グランドカーン今reignethは、ずっとこの島にいた巨大な富のを聞いて、それの所有権を取得するための計画を形成した。 この目的のために、彼は偉大な海軍、馬や足の偉大な力で彼の男爵の2を送った。 これらのバロンズができ、その勇敢な男性でした、そのうちの一つはABACANや他VONSAINCHINと呼ばれ、彼らはZaytonとKinsayのポートからすべて自社で秤量し、海に出す。 彼らは島に到達するまで、前述の彼らは出航、そして、彼らはそこに上陸し、開かれた国や村を占領したが、任意の都市や城の所有権を得ることに成功しませんでした。 そして、私が今しなければならない関係のように、災害が発生し、それらをbefelそう。
あなたは、一方が他方を助けるために何もしないであろうように、はるかに悪い意志それら2バロンズの間があったことを知っている必要があります。 そして、それは偉大な怒りに吹いた北風が生じたことを渡すために来て、その港が少なかったために、その島の海岸に沿って大きな被害を与えた。 それは、グレートカーンの艦隊がそれに立ち向かうことができなかったので、一生懸命吹いた。 そして首長がそれを見たとき、彼らがいた場所船が残った場合、全体の海軍は滅亡するだろうという結論に至りました。 そこで、彼らはすべてのボードに乗って出国する帆を作った。 しかし、彼らは彼らが彼らが精一杯にもかかわらず、陸上に駆動されている小さな島に来た4マイル程度行っていた時、そして艦隊の大部分はように、難破し、力の大群衆は滅びたこの島に避難した約3万人の男性が、そこだけ脱出した。
これらは食べ物がなくてもあったため、死んだ人のために自分を開催し、何をすべきかを知っていた、と彼らは嵐を逃れていたとして、船のようにわずかなことなく、自分の国のための完全な帆を作っていたのを見たとき、彼らは偉大な絶望にあった彼らを助けるために後戻りの兆候。 そして、これがために力の指令で2バロンズ間の激しい憎悪であった、あなたは聞いたことがあるように、島に残された彼の同僚に戻り、わずかな欲求を示したことはないエスケープ男爵のために、彼は簡単かもしれませんが嵐がやんだ後にそうしている、そしてそれは長くはありません耐えた。 しかし彼は、この種の何もしなかったが、まっすぐ家のために作られた。 そして、あなたは兵士が逃げてきたため島は無人島たことを知っている必要があります。存在しているクリーチャーは、その上にありませんでしたが、自分自身。 今、私たちは何が艦隊で脱出した人々、また、島に残された人々をbefelを教えてくれます。 
1.↑ 1.0 1.1 +CHIPANGU represents the Chinese Jih-pen-kwe, the kingdom of Japan, the name Jih-pen being the Chinese pronunciation, of which the term Nippon, Niphon or Nihon, used in Japan, is a dialectic variation, both meaning "the origin of the sun," or sun-rising, the place the sun comes from. The name Chipangu is used also by Rashiduddin. Our Japan was probably taken from the Malay Japun or Japang.
["The name Nihon ('Japan') seems to have been first officially employed by the Japanese Government in A.D. 670. Before that time, the usual native designation of the country was Yamato, properly the name of one of the central provinces. Yamato and O-mi-kuni, that is, 'the Great August Country,' are the names still preferred in poetry and belles-lettres. Japan has other ancient names, some of which are of learned length and thundering sound, for instance, Toyo-ashi-wara-no-chi-aki-no-naga-i-ho- aki-no-mizu-ho-no-kuni, that is 'the Luxuriant-Reed-Plains-the-Land-of- Fresh-Rice-Ears-of-a-Thousand-Autumns-of-Long-Five-Hundred-Autumns.'" (B.H. Chamberlain, Things Japanese, 3rd ed. p. 222.)--H.C.]
It is remarkable that the name Nipon occurs, in the form of Al-Nafun, in the Ikhwan-al-Safa, supposed to date from the 10th century. (See J.A.S.B. XVII. Pt. I. 502.)
[I shall merely mention the strange theory of Mr. George Collingridge that Zipangu is Java and not Japan in his paper on The Early Cartography of Japan. (Geog. Jour. May, 1894, pp. 403-409.) Mr. F.G. Kramp (Japan or Java?), in the Tijdschrift v. het K. Nederl. Aardrijkskundig Genootschap, 1894, and Mr. H. Yule Oldham (Geog. Jour., September, 1894, pp. 276-279), have fully replied to this paper.--H.C.]
2.↑ 2.0 2.1 The causes briefly mentioned in the text maintained the abundance and low price of gold in Japan till the recent opening of the trade. (See Bk. II. ch. 1. note 5.) Edrisi had heard that gold in the isles of Sila (or Japan) was so abundant that dog-collars were made of it.
3.↑ 3.0 3.1 This was doubtless an old "yarn," repeated from generation to generation. We find in a Chinese work quoted by Amyot: "The palace of the king (of Japan) is remarkable for its singular construction. It is a vast edifice, of extraordinary height; it has nine stories, and presents on all sides an exterior shining with the purest gold." (Mem. conc. les Chinois, XIV. 55.) See also a like story in Kaempfer. (H. du Japon, I. 139.)
[Illustration: Ancient Japanese Archer. (From a Native Drawing.)]
4.↑ 4.0 4.1 Kaempfer speaks of pearls being found in considerable numbers, chiefly about Satsuma, and in the Gulf of Omura, in Kiusiu. From what Alcock says they do not seem now to be abundant. (Ib. I. 95; Alcock, I. 200.) No precious stones are mentioned by Kaempfer.
Rose-tinted pearls are frequent among the Scotch pearls, and, according to Mr. King, those of this tint are of late the most highly esteemed in Paris. Such pearls were perhaps also most highly esteemed in old India; for red pearls (Lohitamukti) form one of the seven precious objects which it was incumbent to use in the adornment of Buddhistic reliquaries, and to distribute at the building of a Dagoba. (Nat. Hist. of Prec. Stones, etc., 263; Koeppen, I. 541.) 
1. ↑ 1.0 1.1 + CHIPANGUは中国JIH-PEN-KWE、日本の御国は、名前JIHペン、日本で使用される用語ニッポンNiphonまたは日本は 、弁証法的変化、意味の両方となっている、中国語の発音であることを表し"太陽の起源"、または日、立ち上がり、太陽から来る場所。 名前Chipanguは Rashiduddinによっても使用されます。 私たちの日本はおそらくマレーJapunまたはJapangから取られました。
["名前日本経済新聞 ( '日本')は、第一公式に西暦670年に日本政府によって採用されているようだ。その時間の前に、国の通常のネイティブ指定が正しく、中央の省の一つの名前がヤマトだった。ヤマトとO-MI-くに 、それが'、グレート8月の国"であり、今でも詩と純文学に好ましい名前です。日本では、インスタンスの学習長さと雷鳴の音がそのうちのいくつかの他の古代の名前を持つ、 東洋 "豊かな-リードプレーンズ-ランド·オブ·フレッシュライスです-芦ノ湖-和良-NO-カイ安芸無ナガ-I-ho-が安芸無みず-ho-が無くに 、 ·耳·オブ·サウザンド·Autumnsオブロング五百Autumns '"(BHチェンバレン 、 日本のもの 、第3版P 222。) - 。HC]
それは、名前Niponは 10世紀から今日になって、 イフワーン-AL-サファでは、Al-Nafunの形で、発生したのは驚くべきことです。 (JASB XVII。白金。I. 502を参照してください。)
[私は単にジパング、日本の早期地図作成に彼の論文では、Javaとではない日本であることをミスタージョージCollingridgeの奇妙な理論に言及しなければならない。 Tijdschrift対ヘットK. Nederlで(Geog.ジュール。月、1894年、頁403から409。)氏FG Kramp( 日本またはJava?)、。 Aardrijkskundig Genootschap、1894氏とH·ユールオールダム(。Geog.ジュール 、9月、1894年、頁276から279)は、完全にこの紙に答えた- 。HC]
2. ↑ 2.0 2.1 簡単に貿易の最近の開口部までの日本での豊かさと金の低価格を維持したテキストで言及させます。 (BK II。chを参照してください。1〜図5の点に注意してください。)Edrisiはシラの島で金(または日本)犬の首輪はそれで作られていたように豊富であったことを聞いていた。
3. ↑ 3.0 3.1 これは確かに古かった"糸"、世代から世代へと繰り返される。 我々は、アミヨによって引用中国の仕事に見つける: "王(日本)の宮殿は、その特異な構造のため顕著であるそれは臨時の高さ、広大な建造物であり、それは9話を持っており、すべての側面に輝く外観を提示します。純粋な金で。 " (Mem.濃レシノワ 、XIV 55。)ケンペルでも似た話を参照してください。 (H·デュ·ジャポン 、I. 139。)
[イラスト:古代日本のアーチャー。 (ネイティブ図面から。)]
4. ↑ 4.0 4.1 ケンペルはKiusiuで、主に薩摩程度、大村湾で、かなりの数で発見された真珠のことを話す。 何ルコックから、彼らは豊富であることが今ではいないようだと言います。 (Ib. I. 95;。 アルコック 、I. 200)無宝石はケンペルが言及されていません。
バラ色の真珠はキング氏によると、スコッチ·真珠の間で頻繁に行われ、かつ、この色合いのものは、パリで最も高い評価を受けて後期のものである。 このような真珠も多分古いインドで最も高く評価された、赤真珠(Lohitamukti)フォームそれは仏教の聖遺物箱の装飾で使用すると、仏舎利塔の建物で配布するために現職だった7貴重なオブジェクトのいずれかの。 (Nat.シーッPRECストーンズなどの、263;。ケッペン 、I. 541)  
  [Book 3 / Chapter 3]
What Further Came of the Great Kaan's Expedition Against Chipangu
You see those who were left upon the Island, some 30,000 souls, as I have said, did hold themselves for dead men, for they saw no possible means of escape. And when the King of the Great Island got news how the one part of the expedition had saved themselves upon that Isle, and the other part was scattered and fled, he was right glad thereat, and he gathered together all the ships of his territory and proceeded with them, the sea now being calm, to the little Isle, and landed his troops all round it. And when the Tartars saw them thus arrive, and the whole force landed, without any guard having been left on board the ships (the act of men very little acquainted with such work), they had the sagacity to feign flight. [Now the Island was very high in the middle, and whilst the enemy were hastening after them by one road they fetched a compass by another and] in this way managed to reach the enemy's ships and to get aboard of them. This they did easily enough, for they encountered no opposition.
Once they were on board they got under weigh immediately for the great Island, and landed there, carrying with them the standards and banners of the King of the Island; and in this wise they advanced to the capital. The garrison of the city, suspecting nothing wrong, when they saw their own banners advancing supposed that it was their own host returning, and so gave them admittance. The Tartars as soon as they had got in seized all the bulwarks and drove out all who were in the place except the pretty women, and these they kept for themselves. In this way the Great Kaan's people got possession of the city.
When the King of the great Island and his army perceived that both fleet and city were lost, they were greatly cast down; howbeit, they got away to the great Island on board some of the ships which had not been carried off. And the King then gathered all his host to the siege of the city, and invested it so straitly that no one could go in or come out. Those who were within held the place for seven months, and strove by all means to send word to the Great Kaan; but it was all in vain, they never could get the intelligence carried to him. So when they saw they could hold out no longer they gave themselves up, on condition that their lives should be spared, but still that they should never quit the Island. And this befel in the year of our Lord 1279.[1] The Great Kaan ordered the Baron who had fled so disgracefully to lose his head. And afterwards he caused the other also, who had been left on the Island, to be put to death, for he had never behaved as a good soldier ought to do.[2]
But I must tell you a wonderful thing that I had forgotten, which happened on this expedition.
You see, at the beginning of the affair, when the Kaan's people had landed on the great Island and occupied the open country as I told you, they stormed a tower belonging to some of the islanders who refused to surrender, and they cut off the heads of all the garrison except eight; on these eight they found it impossible to inflict any wound! Now this was by virtue of certain stones which they had in their arms inserted between the skin and the flesh, with such skill as not to show at all externally. And the charm and virtue of these stones was such that those who wore them could never perish by steel. So when the Barons learned this they ordered the men to be beaten to death with clubs. And after their death the stones were extracted from the bodies of all, and were greatly prized.[3]
Now the story of the discomfiture of the Great Kaan's folk came to pass as I have told you. But let us have done with that matter, and return to our subject. 
またChipanguに対するグレートカーンの遠征の来たのか
彼らは脱出のどんな可能な手段を見なかったためにあなたが、島、約30,000の魂、私が述べたように、死んだ人のために自分を押し続けた時に残された人々を参照してください。 とグレートアイランドのキングが遠征の一部がその島によって自分自身を保存していたかのニュースを持って、他の部分が散在して逃げたとき、彼は正しかっ嬉しい休会でした、そして、彼は一緒に彼のすべての領土の船、などを集めそれらを進め、海が今少しIsleに、冷静であること、およびすべてのラウンドそれ彼の軍隊を上陸させた。 とタタール人は彼らがこのようにして到着を見て、全体の力がどんなガードがボード船を(非常に少ないような仕事に精通した男性の行為)に残されていなくても、上陸したとき、彼らは飛行のふりをする聡明さを持っていた。 [今すぐ島の真ん中には非常に高かった、と彼らは別のことで、コンパスとフェッチ一本道で敵が彼らの後を急いでいた一方で]をこのように敵の船に到達するために、それらの乗り込むことに成功した。 彼らは反対に遭遇していないために、これは彼らが、簡単に十分でした。
かつて彼らが搭乗していた彼らは偉大な島のために直ちに量る下持って、彼らと島の王の規格やバナーを運んで、そこに上陸し、そしてこの賢明な彼らは首都に進出。 彼らは自分のバナーは、それが戻ってきた独自のホストだったので、彼らにアドミタンスを与えたことを想定前進を見た何も悪いことを疑っていない都市の守備隊、、。 タタール人は、すぐに彼らが持っていたとして、すべての船べりを押収し、きれいな女性を除いて存在していたすべての人、そして、彼らは彼ら自身のために保たれ、これらを追い出した。 このようにグレートカーンの人々は都市の所有権を得た。
偉大な島と彼の軍隊の王が艦隊と都市の両方が失われたことを感知すると、それらは非常に投げ落とされた;それにもかかわらず、彼らは持ち去られていなかった船のいくつかのボード上の大きな島に逃げた。 そして王はその後、市内の包囲にすべての彼のホストを集めて、誰が行くんや出てくることができるようにstraitlyそれを投資した。 内であった人たちは7ヶ月のために場所を開催し、グレートカーンの言葉を送信するためにすべての手段で努力した、しかし、それは無駄にすべてだった、彼らは知性が彼に運ば得ることができなかったことはない。 そこで彼らが見たとき、彼らは自分たちの生活は脇に置いておくことを条件に、彼らは自分自身をあきらめ、もはや持ちこたえることができなかったが、それでも彼らは島をやめてはならないということ。 そして、私たちの主の1279年にこのbefel。 [1]グレートカーンは、彼の頭を失うことになるdisgracefully逃げた男爵を命じた。 そして、その後、彼は良い兵士がすべきように振る舞ったことがなかったため、死刑にする、島に残された人、また、他の原因となった。 [2]
しかし、私はあなたにこの遠征に起こった私が忘れていた素晴らしいものを、教えなければなりません。
あなたは、カーンの人々は偉大な島に上陸したと私はあなたに言ったように開かれた国を占領したとき、彼らは降伏を拒否した島民の一部に属する塔を襲撃し、彼らは断つ、不倫の初めに、以下を参照してください8を除くすべての駐屯地の長は、これらの8には、それは不可能な、任意の傷を負わせることが判明! さて、これは彼らが彼らの腕の中で、外部からは全く見せないようなスキルで、皮膚と肉の間に挿入されていた特定の石のおかげであった。 そしてこれらの石の魅力と美徳は、それらを身に着けていた人たちは鋼鉄によって滅びることはできなかったようなものであった。 だからバロンズがこれを知ったとき、彼らは男性がクラブで殴られて死ぬように命じた。 そして自分が死んだ後の石はすべての体から抽出され、大いに珍重された。 [3]
今すぐグレートカーンのフォークの挫折の物語は、私があなたに言ったように渡すようになった。 しかし、私たちはそのことで行っていることができ、我々の主題に戻ります。 
1.↑ 1.0 1.1 Kublai had long hankered after the conquest of Japan, or had at least, after his fashion, desired to obtain an acknowledgment of supremacy from the Japanese sovereign. He had taken steps in this view as early as 1266, but entirely without success. The fullest accessible particulars respecting his efforts are contained in the Japanese Annals translated by Titsing; and these are in complete accordance with the Chinese histories as given by Gaubil, De Mailla, and in Pauthier's extracts, so far as these three latter enter into particulars. But it seems clear from the comparison that the Japanese chronicler had the Chinese Annals in his hands.
In 1268, 1269, 1270, and 1271, Kublai's efforts were repeated to little purpose, and, provoked at this, in 1274, he sent a fleet of 300 vessels with 15,000 men against Japan. This was defeated near the Island of Tsushima with heavy loss.
Nevertheless Kublai seems in the following years to have renewed his attempts at negotiation. The Japanese patience was exhausted, and, in 1280, they put one of his ambassadors to death.
"As soon as the Moko (Mongols) heard of this, they assembled a considerable army to conquer Japan. When informed of their preparations, the Dairi sent ambassadors to Ize and other temples to invoke the gods. Fosiono Toki Mune, who resided at Kama Kura, ordered troops to assemble at Tsukuzi (Tsikouzen of Alcock's Map), and sent ... numerous detachments to Miyako to guard the Dairi and the Togou (Heir Apparent) against all danger.... In the first moon (of 1281) the Mongols named Asikan (Ngo Tsa-han), Fan-bunko (Fan Wen-hu), Kinto (Hintu), and Kosakio (Hung Cha-khieu), Generals of their army, which consisted of 100,000 men, and was embarked on numerous ships of war. Asikan fell ill on the passage, and this made the second General (Fan Wen-hu) undecided as to his course.
"7th Month. The entire fleet arrived at the Island of Firando (P'hing-hu), and passed thence to Goriosan (Ulungshan). The troops of Tsukuzi were under arms. 1st of 3rd Month. A frightful storm arose; the Mongol ships foundered or were sorely shattered. The General (Fan Wen-hu) fled with the other Generals on the vessels that had least suffered; nobody has ever heard what became of them. The army of 100,000 men, which had landed below Goriosan, wandered about for three days without provisions; and the soldiers began to plan the building of vessels in which they might escape to China.
"7th day. The Japanese army invested and attacked them with great vigour. The Mongols were totally defeated. 30,000 of them were made prisoners and conducted to Fakata (the Fokouoka of Alcock's Map, but Fakatta in Kaempfer's), and there put to death. Grace was extended to only (three men), who were sent to China with the intelligence of the fate of the army. The destruction of so numerous a fleet was considered the most evident proof of the protection of the gods." (Titsingh, pp. 264-265.) At p. 259 of the same work Klaproth gives another account from the Japanese Encyclopaedia; the difference is not material.
The Chinese Annals, in De Mailla, state that the Japanese spared 10,000 or 12,000 of the Southern Chinese, whom they retained as slaves. Gaubil says that 30,000 Mongols were put to death, whilst 70,000 Coreans and Chinese were made slaves.
Kublai was loth to put up with this huge discomfiture, and in 1283 he made preparations for another expedition; but the project excited strong discontent; so strong that some Buddhist monks whom he sent before to collect information, were thrown overboard by the Chinese sailors; and he gave it up. (De Mailla, IX. 409; 418, 428; Gaubil, 195; Deguignes, III. 177.)
[Illustration: Japanese in fight with Chinese. (After Siebold, from an ancient Japanese drawing.)
"Or ensint avint ceste estoire de la desconfiture de les gens dou Grant Kaan."]
The Abacan of Polo is probably the Asikan of the Japanese, whom Gaubil calls Argan. Vonsainchin is perhaps Fan Wen-hu with the Chinese title of Tsiang-Kiun or General (elsewhere represented in Polo by Sangon), --FAN TSIANG-KIUN.
We see that, as usual, whilst Marco's account in some of the main features concurs with that of the histories, he gives a good many additional particulars, some of which, such as the ill-will between the Generals, are no doubt genuine. But of the story of the capture of the Japanese capital by the shipwrecked army we know not what to make: we can't accept it certainly.
[The Korea Review publishes a History of Korea based upon Korean and Chinese sources, from which we gather some interesting facts regarding the relations of China, Korea, and Japan at the time of Kublai: "In 1265, the seed was sown that led to the attempted invasion of Japan by the Mongols. A Koryu citizen, Cho I., found his way to Peking, and there, having gained the ear of the emperor, told him that the Mongol powers ought to secure the vassalage of Japan. The emperor listened favourably and determined to make advances in that direction. He therefore appointed Heuk Chuk and Eun Hong as envoys to Japan, and ordered them to go by way of Koryu and take with them to Japan a Koryu envoy as well. Arriving in Koryu they delivered this message to the king, and two officials, Son Kun-bi and Kim Ch'an, were appointed to accompany them to Japan. They proceeded by the way of Koje Harbor in Kyung-sang Province, but were driven back by a fierce storm, and the king sent the Mongol envoys back to Peking. The Emperor was ill satisfied with the outcome of the adventure, and sent Heuk Chuk with a letter to the king, ordering him to forward the Mongol envoy to Japan. The message which he was to deliver to the ruler of Japan said, 'The Mongol power is kindly disposed towards you and desires to open friendly intercourse with you. She does not desire your submission, but if you accept her patronage, the great Mongol empire will cover the earth.' The king forwarded the message with the envoys to Japan, and informed the emperor of the fact.... The Mongol and Koryu envoys, upon reaching the Japanese capital, were treated with marked disrespect.... They remained five months, ... and at last they were dismissed without receiving any answer either to the emperor or to the king." (II. pp. 37, 38.)
Such was the beginning of the difficulties with Japan; this is the end of them: "The following year, 1283, changed the emperor's purpose. He had time to hear the whole story of the sufferings of his army in the last invasion; the impossibility of squeezing anything more out of Koryu, and the delicate condition of home affairs, united in causing him to give up the project of conquering Japan, and he countermanded the order for the building of boats and the storing of grain." (II. p. 82.)
Japan was then, for more than a century (A.D. 1205-1333), governed really in the name of the descendants of Yoritomo, who proved unworthy of their great ancestor "by the so-called 'Regents' of the Hojo family, while their liege lords, the Shoguns, though keeping a nominal court at Kamakura, were for all that period little better than empty names. So completely were the Hojos masters of the whole country, that they actually had their deputy governors at Kyoto and in Kyushu in the south-west, and thought nothing of banishing Mikados to distant islands. Their rule was made memorable by the repulse of the Mongol fleet sent by Kublai Khan with the purpose of adding Japan to his gigantic dominions. This was at the end of the 13th century, since which time Japan has never been attacked from without." (B. H. Chamberlain, Things Japanese, 3rd ed., 1898, pp. 208-209.)
The sovereigns (Mikado, Tenno) of Japan during this period were: Kameyama-Tenno (1260; abdicated 1274; repulse of the Mongols); Go-Uda-Tenno (1275; abdicated 1287); Fushimi-Tenno (1288; abdicated 1298); and Go-Fushimi Tenno. The shikken (prime ministers) were Hojo Tokiyori (1246); Hojo Tokimune (1261); Hojo Sadatoki (1284). In 1266 Prince Kore-yasu and in 1289 Hisa-akira, were appointed shogun. --H.C.]
2.↑ 2.0 2.1 Ram. says he was sent to a certain island called Zorza (Chorcha?), where men who have failed in duty are put to death in this manner: They wrap the arms of the victim in the hide of a newly flayed buffalo, and sew it tight. As this dries it compresses him so terribly that he cannot move, and so, finding no help, his life ends in misery. The same kind of torture is reported of different countries in the East: e.g. see Makrizi, Pt. III. p. 108, and Pottinger, as quoted by Marsden in loco. It also appears among the tortures of a Buddhist hell as represented in a temple at Canton. (Oliphant's Narrative, I. 168.)
3.↑ 3.0 3.1 Like devices to procure invulnerability are common in the Indo-Chinese countries. The Burmese sometimes insert pellets of gold under the skin with this view. At a meeting of the Asiatic Society of Bengal in 1868, gold and silver coins were shown, which had been extracted from under the skin of a Burmese convict who had been executed at the Andaman Islands. Friar Odoric speaks of the practice in one of the Indian Islands (apparently Borneo); and the stones possessing such virtue were, according to him, found in the bamboo, presumably the siliceous concretions called Tabashir. Conti also describes the practice in Java of inserting such amulets under the skin. The Malays of Sumatra, too, have great faith in the efficacy of certain "stones, which they pretend are extracted from reptiles, birds, animals, etc., in preventing them from being wounded." (See Mission to Ava, p. 208; Cathay, 94; Conti, p. 32; Proc. As. Soc. Beng. 1868, p. 116; Andarson's Mission to Sumatra, p. 323.) 
1. ↑ 1.0 1.1 フビライは、長い日本の征服した後、hankered、あるいは、少なくとも、彼のファッションの後に、日本の主権者から覇権の承認を得ることが望ましい持っていた。 彼は1266年には早くも、しかし完全に成功せずに、このビューの手順を取っていた。 彼の努力を尊重し最大限のアクセス細目はTitsingによって翻訳され日本の史料に含まれ、これらはゴービル、デ·マイヤで与えられ、ポティエの抽出物中には、これまでのところ、これらの3つの後者のように細目に入ると中国の歴史を持つ完全に準拠しています。 しかし、それは日本の年代記は、その手に中国の史料を持っていたことの比較から明らかなようである。
1268、1269、1270、および1271では、フビライの努力は少し目的に繰り返されていて、、、この時点で誘発された、1274年に、彼は日本に対して15000男性と300隻の艦隊を派遣した。 これは大きな損失と対馬島の近くに敗北した。
それにもかかわらずフビライは交渉で彼の試みをリニューアルしましたように次の年のようです。 日本人の忍耐力は1280年、彼らは死に彼の大使の1を入れて、排出され、されました。
"モコ(モンゴル)がこれを聞いや否や、彼らが日本を征服するためにかなりの軍隊を召集した。彼らの準備の通知をする場合は、Dairiは神を呼び出すためIZEする大使や他の寺院を送った。カーマに居住Fosiono土岐胸は、 kuraが、Tsukuzi(オールコックの地図のTsikouzen)でアセンブルするために軍隊を命じ、送信...宮古への多数の分遣隊は、すべての危険に対してDairiとTogou(相続人見かけ)を守るために....第一月に(1281年の)モンゴル人は、100,000人の男性で構成Asikan(NGOソウ- HAN)、ファン文庫(ファン·ウェン-HU)、Kinto(Hintu)、および彼らの軍隊の将軍Kosakio(洪チャアムkhieu)は、名前が付けられ、に着手しました戦争。Asikanの多数の船は通路に病気になった、これは彼のコースのように未定(ファン·ウェン-HU)第二全般を行いました。
" 第七艦隊が月全体Firando(P'hing-HU)の島に到着し、Goriosan(Ulungshan)にそこから渡さTsukuziの軍隊が腕の下にあった第三の月の第一恐ろしい嵐が起こりました;。モンゴル船は沈没したり痛んで粉砕された少なくとも苦しんでいた船に他の将軍と一緒に逃げ一般(ファン·ウェン-HU);。誰もこれまでそれらのどうなったのか聞いたことのないGoriosan下に着陸していた10万人の軍隊が、さまよっていた。規定なしで3日間程度であり、兵士たちは、彼らが中国に脱出する可能性のある船舶の建物を計画し始めた。
"7日目 。日本軍が投下と非常に精力的にそれらを攻撃した。モンゴル人は完全に敗北した。それらの30,000は、囚人作らFakata(ケンペルのでアルコックの地図のFokouokaが、Fakatta)に行われた、死にそこに置く。グレースは、軍の運命のインテリジェンスと中国に送られた人、(3人)のみに延長されました。それほど多く艦隊の破壊神の保護の最も明白な証拠と考えられていた。 " ( ティチング 、頁264から265。)pで。 同じ作業クラプロートの259は日本の百科事典から、別のアカウントを与える;違いは重要ではありません。
デ·マイヤ、日本人は奴隷として保持中国南部、の10,000または12,000を免れている状態で、中国の史料、。 ゴービルは奴隷作られた7万Coreansと中国語をしながら、30,000モンゴル人が殺されたと言う。
フビライは、この巨大な狼狽を我慢するいやがってたし、1283年に彼は別の遠征のための準備をしました、しかし、プロジェクト興奮強い不満、彼は情報を収集する前に送信される一部の僧侶は、中国の船員によって船外に投げ出されたように強い;そして彼はそれをあきらめた。 ( デ·マイヤ 、IX 409、418、428; ゴービル、195;。Deguignes、III 177)
[イラスト:中国語との戦いにおける日本。 (シーボルトの後、日本古来の図面から。)
"それともensint avint ceste estoireデラdesconfitureデ·レ氏族堂グラントカーン。"]
ポロのAbacanはおそらくゴービルはアルガン呼び出し日本人のAsikanです。 Vonsainchinは、 おそらく、Tsiang-Kiunまたは一般の中国語タイトル(他Sangonでポロで表される)と温家宝-HUのファンです- FAN TSIANG-KIUN。
我々はいつものように、歴史のそれと主な機能の同意の一部にしながら、マルコのアカウントは、彼はのようないくつかの良い多くの付加的事項を、与えることがわかり悪くなる将軍との間で、間違いなく本物です。 我々は確かにそれを受け入れることができませんしかし、私たちが作るものではありません知っている難破軍による日本資本の捕獲の物語。
[ 韓国レビューは、我々 はフビライの時に中国、韓国、日本の関係について、いくつかの興味深い事実を収集し、そこから韓国語と中国語の情報源に基づいた韓国の歴史を出版: "1265年では、種子がまかれていることにつながったモンゴル人による日本の侵略未遂。交流市民、チョI.、皇帝の耳を得たこと、そこに北京への彼の方法を見つけた、と、モンゴルの力が日本の隷属を確保すべきことを彼に告げた。皇帝好意的に耳を傾け、その方向での進歩を作ろうと決意した彼はそのため日本への使節としてHeukチュクと殷洪を任命し、交流の道で行くと同様に日本に彼らと交流の使節を取るように命じた。交流に到着し、彼らが配信この王へのメッセージ、そして2職員、息子くん-biとキム禅は、彼らは京歌っ県Koje港を経由して進行した。日本に同行するために任命されたが、激しい嵐によって撃退された、王は北京に戻ってモンゴルの使者を送った。皇帝が病気に冒険の結果に満足しており、日本にモンゴルの使者を転送するように彼を発注、王への手紙でHeukチュクを送られた。彼はメッセージを日本の支配者に配送するようにすると、彼女はあなたの提出を望んでいない。モンゴルの電力が親切でフレンドリーな性交を開くことや欲望に向かって配置されている"と言ったが、あなたは彼女の後援を受け入れるのであれば、偉大なモンゴル帝国が地球をカバーします。 ' 王が日本に使節を使用してメッセージを転送され、日本の首都に到達すると、実際の天皇....モンゴルと交流の使節に伝え、彼らが5ヶ月残って....、顕著な無礼で治療された.. 。そしてついに彼らはどちら皇帝や王にすべての答えを受信せずに解雇された。 " (II. ppに37、38)。
このような日本との困難の始まりであったが、これはそれらのエンドです。 "翌年、1283年には、皇帝の目的を変更した彼は最後の侵略に彼の軍隊の苦しみの全体的な話を聞くための時間を持っていた;不可能彼は征服、日本のプロジェクトを放棄する原因に交流のうち、何より、自治、団 ​​結の繊細な条件を絞って、そして、彼は、船の建造物や穀物の貯蔵のための順序をcountermanded。 " (II.頁82。)
しばらく彼らの日本では、北条家のいわゆる"リージェンツによって"彼らの偉大な祖先に値しない証明頼朝の子孫の名前で本当に支配世紀(西暦1205年から1333年)、以上、その後だった鎌倉名目裁判所を保ちつつ、リエージュ大名、将軍は、空の名前よりも少し良くすべてその期間だったので完全に彼らは実際に京都で、九州での副知事を持っていた全国のHojosマスターがあった南西、遠くの島々へMikadosを追放するのは何も考えなかった。彼らのルールは彼の巨大な領土に日本を加える目的でクビライによって送信されたモンゴル艦隊の撃退によって記憶に残 ​​るとしました。これは13世紀の終わりにあった日本が外から攻撃されていなかった時以来。 " (BHチェンバレン 、 物事日本 、第3版、1898年、頁208から209。)
この期間中、日本のソブリン( ミカド 、 天皇 ) があった: 亀山天王(1260;退位1274年、モンゴルの撃退)、 ゴー·宇陀天王(1275;退位1287); 伏見天王(1288;退位1298) ; とGo-伏見天王。 北条時宗 (1261年);;北条Sadatoki(1284)shikken(総理大臣)は、北条時頼 (1246)であった。 1266年にプリンスコレ-yasuさんと1289で久·アキラは 、 将軍に任命された。 - HC]
2. ↑ 2.0 2.1 。ラムは、彼が任務に失敗していた男性がこのような方法で死刑にアールゾルザ(?Chorcha)と呼ばれる特定の島に送られたと言う:彼らは新たにflayed水牛の皮で、被害者の腕を包む、それがタイト縫う。 この乾くようにそれはとてもひどく、彼は何の助けを見つけないので、移動することはできず、彼の人生は悲惨で終わることを彼に圧縮します。 例えばローマ法王Makriziに、Pt:拷問と同じ種類のは、東アジアにおける様々な国の報告されている。 V。 電話。 108と、ポッティンジャーなどロコでマースデンによって引用。 またカントンの神殿で表されるように、仏教の地獄の拷問の間で表示されます。 ( オリファントの物語 、I. 168。)
3. ↑ 3.0 3.1 調達不死身のデバイスと同様に、インドシナ諸国では一般的である。 ビルマ人は時々 、このビューで皮膚の下に金のペレットを挿入します。 1868年のベンガル·アジア協会の会議で、金と銀のコインはアンダマン諸島で実行されていたビルマの囚人の皮膚の下から抽出されていた、ことが示された。 修道士Odoricはインド諸島(どうやらボルネオ)のいずれかで練習のことを話す、そしてそのような美徳を有する石はおそらく、竹で見つかった、彼によると、Tabashir呼ばれる珪質コンクリーました。 コンティはまた、皮膚の下でそのようなお守りを挿入するJavaでの習慣について説明します。 スマトラのマレー人は、あまりにも、 "負傷しているからそれらを防ぐことに、彼らは爬虫類、鳥類、動物などから抽出されたふりをした石、"一定の有効性に大きな信頼を持っている ( アヴァ 、電話208 へのミッションを見てください;。 キャセイ 、94; コンティは、p 32;。procなどのSoC Bengさん 1868年、P 116;。。。スマトラ 、p にAndarsonのミッション 323) 
   
 

 

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