西洋文明

15世紀 ルネサンス / 42行聖書博物誌キリストに倣いてラテン語聖書自然学著作集幾何学原論ポリクロニコン神学大全物の本質について神の国ニュルンベルク年代記プトレマイオスの天文学大全 
16世紀 新しい世界観 / 建築についてプラトン全集新科学天体の軌道について人体の構造について哲学及び幾何学の卓越せる全集金属について世界地図帳随想録東方見聞録 
17世紀 近代科学への船出 / 星図大改革戦争と平和の法ルドルフ表世界2大体系についての対話方法叙説動物発生論リヴァイアサン空気に関する物理力学的新実験外国貿易によるイングランドの財宝神学政治論真空に関するマグデブルクの新実験振り子時計自然哲学の数学的原理(プリンキピア) 
18世紀 ヨーロッパ市民社会の成立 / ベーコン大著作法の精神エミールフィジオクラシー国富論(諸国民の富)政治哲学論集純粋理性批判化学要論牛痘の原因および効能に関する研究人口論 
19世紀 現代への架け橋 / 経済学及び課税の原理意志と表象としての世界法の哲学あれかこれか種の起源資本論夢判断放射線の研究一般相対性原理の基礎 
 

雑学の世界・補考   

 
15世紀 ルネサンス / 活版印刷術の発明

ルネサンス最盛期。ルネサンスの三大発明の一つ活版印刷術がドイツのグーテンベルクによって発明された。この技術は、15世紀末までにヨーロッパ各地に伝わり、主要な都市で活版印刷術による印刷が始まった。その15世紀中頃から世紀末までの約50年間に印刷された刊本は、特にインキュナブラ(Incunabula)と呼ばれている。インキュナブラという言葉は、ラテン語で「揺藍(ゆりかご)」を意味していたが、転じて「物の発達のはじめ」という意味で15世紀の印刷術を表現し、やがて15世紀刊本自体を意味する名詞として使用された。書誌学上、1501年以降に印刷されたものと区別されている。この発明は、書物の制作を従来の写本よりも迅速・安価にし、新しい知識や思想の普及に大きな役割をはたすこととなる。
1.ルネサンスとは  
15〜16世紀の欧州はルネサンス期である。ルネサンスは、再生・復興の意であり、教会権力と結びついていた封建的な体制から人間性を重視することを求め、思想や文学や芸術に古代ギリシャやローマ文化の復活を求める文化的な運動が展開された。文芸復興とか学芸復興と言われている。ルネサンスは、北部イタリアの都市が東方貿易で隆盛し、富を得た商工業者等が支配権を獲得したことを背景にイタリアで始まり、次第に欧州各国に市民の運動だけでなく宮廷文化としても広まった。  
ルネサンス発祥の地であるイタリアは地中海に突き出た半島の地の利から、11世紀末に7世紀以後続いたイスラムの地中海支配が衰えると海上交易ルートを確保した。イタリアは地中海交易の中心としてレヴァント貿易(東方貿易)で活況を呈した。レヴァント貿易とは、アラビア商人などによってエーゲ海沿岸からエジプトに至る地中海東部沿岸諸国にもたらされた胡椒をはじめとする香辛料や絹綿製品・宝石・陶磁器などの物産を内陸部と西方地中海沿岸・北海沿岸の国々へ転売し、東方へは銀や銅・毛織物・オリーブ油等をもたらす仲介貿易のことをいう。ジェノバやヴェネツェアは海洋貿易都市としてフィレンツェやミラノは手工業や流通の中心として商工業都市として繁栄した。富を得た大商人達は封建貴族との戦いに勝利し都市の支配権を獲得し、都市共和国を作り上げた。イタリアは、いくつかの王国、公国、共和国に細分化され、西欧各国とも争いの絶えない時代でもあった。北イタリアの共和国では、教会の権威から信仰と知識を分離し、新しい文化を作り出すために古代ギリシャとローマの文化を復興し、封建的な束縛から人間中心の考え方をもとにした自由と革新を様々な分野で展開した。古くからの歴史的建造物や彫像の研究が盛んに行われる様になり、絵画や建築技術に幾何学を取り入れた遠近法や調和の美を追究するようになった。ルネサンス初期は、各地で争いの続く時代でもあったが、マニュファクチュアの活発化それに伴った交易の拡大、大航海時代の幕開け、印刷術、鉱山冶金技術、聖堂や城塞・運河や橋梁等の設計建築技術、攻撃・防御用の軍事技術など様々な技術の面で活気を見せた時代であった。また、様々な知識の吸収に伴い知的満足を得られるような学問も次第に盛んとなってきた。 
2.ルネサンス期の軍事技術とダヴィンチの機械技術  
15世紀の欧州は、王位継承や異宗教間の利害関係などで戦争が繰り返された時代でもあった。大砲が戦争に用いられるようになり、中世の騎士道による形態の戦争と異なる新たな戦争の形を取るようになった。  
中世に手工業者たちは職業別にギルド(同業者組合)を作り相互扶助と技術の維持・伝承に努めていた。ギルド内部では親方、職人、徒弟の階層ができ、技術水準の維持が図られた。ギルドは次第に、権益保護のため新たな親方を制限しギルド制度を守ろうとし、自由競争が排除され次第に新技術の開発に乗り出さず技術の固定化や停滞をもたらした。ルネサンス期になると、王侯や都市支配者は支配を確立のため軍事技術を初めとする創意工夫に富んだ技術者を求めた。芸術を身に付け技術の革新を試みる新しい形の工学者(軍事技術者)が生まれ、ルネサンス期の技術と芸術の区別はなく、技術者は法王や貴族や支配者となった富豪達の経済的援助のもとで活躍した。援助を受けるには単なる絵画や彫刻の芸術家としてだけでなく、建築・土木・機械等の技術者であり科学にもたけた万能に秀でた工学者が求められた。  
ルネサンス期に活躍した一人としてレオナルド・ダ・ヴィンチを取り上げてみる。レオナルドは、芸術家であり技術者であり科学者でもあり、多方面で才能を見せた「万能の天才」ともいわれている。この時代は、武装や築城などの軍事に技術の重点が置かれていた。レオナルドも軍事顧問をした一人でもあり、「モナ・リザ」・「最後の晩餐」等の絵を描いた画家として名を知られている。絵画は少ないがそのかわり、レオナルド書いた手稿が5,000余枚見つかっている。そこには、芸術・科学・技術の多岐にわたる分野のスケッチと説明が記されている。その中でも機械に関することが多く残されている。軍事技術として、攻城機械・戦車・多銃身砲等の構想等がある。青銅騎馬像の製作に取り組んだ時は、馬のあらゆる姿勢を観察し、表面的だけでなく解剖による内部の観察も行っている。人体も同様で解剖により詳細な観察を残している。これらの記されている手稿は当時すでに使われていたであろう装置類をスケッチしたもの、自らの構想を描いたものもありレオナルドの研究ノートであろう。これらのことから見られるように、レオナルドは、自然を深く観察し、芸術でも科学も技術も重ね合わせたものの考え方をしていたことが判る。しかし、実際にレオナルドの着想が当時の機械技術にどのような影響を与えたかは定かでない。 
3.マニュファクチュアと活発化する生産活動  
中世の終わり頃に商品流通が活発化し始め、イギリスをはじめとした西欧諸国では毛織物業が盛んとなり、規模も拡大し毛織物のマニュファクチュア(工場制手工業)ができ発達した。それまでの手工業は、家内工業が中心で製品になるまで大部分の生産工程を扱っていた。商品流通が活発化すると市場拡大と共に経営規模も大きくなり、マニュファクチュア生産体制をとるようになった。最初は多数の手工業者を雇い入れ、個々が並列的に生産する体制であったが、次第に工場内で工程を分業化する生産体制により、生産性の向上をはかるようになった。様々な製造分野でマニュファクチュア生産体系が盛んとなり、生産工程は細分化されそれに携わる労働者の使用する道具は、多目的に使う道具から、分業化した仕事に適合した道具が多種作られるようになった。手工業の工作技術の蓄積としての機械式時計の製造技術は重要なものである。機械時計はいつどこで誰が最初に作り出したかは断定できないが、14世紀初頭には欧州各地で修道院の中で規則正しい活動を維持するために登場した。14世紀中ごろには次第に市民向けに公共の建物に塔時計として出現した。14世紀中ごろにはイタリアで定時法が取り入れられ共通の時間を得ることにより秩序のある体制がとられるようになり、定時法は次第に各国に広がっていった。14世紀末には錘駆動の時計に変わり渦巻きゼンマイで動かす時計ができ精度も向上し室内用小型時計も作られるようになった。16世紀初頭になると、採鉱と金属加工の優れていた南ドイツを中心としてギルドが結成され、時計は組織的に量産されるようになった。時計師たちの持っていた時計の製造技術は他の工業分野にも広がり、工作機械も改良・考案がされてきた。 
4.印刷術の発明  
印刷に必須なものは紙である。紙と印刷術はルネサンスにも多大な影響を与えた。紙は中国後漢の蔡倫が105年に書写材料の絹布の代用品として植物性繊維の紙を作った。この製紙技術はシルクロードを通り、13世紀になるとヨーロッパにも伝わり、製紙工場ができ、15世紀初頭にはヨーロッパ各国に製紙工場が設立された。製紙の原料は当初は亜麻や亜麻布のぼろを原料として作られていた。紙が増産されルネサンス期は情報の伝達手段として本が多く出版されるようになった。紙の普及により、エジプト特産のパピルスは10世紀に紙の使用が始まると共に姿を消し、中世書写に使用されていた高価な羊皮紙(parchment)も紙と置き換わった。紙に文字を記録することは、記された情報を早く広い地域に広げることを目的とし、限られた写本ではそこに限界がある。そこで大量印刷が考え出された。ドイツ・マインツのグーテンベルグ(Johannes Gutenberg:1400頃〜1468)は、金属活字づくりに挑戦し、活字用金属を発明し活字をつくった。活字印刷用インクも開発した。印刷機は広く用いられていた葡萄を絞る圧縮機を応用しプレス式の印刷機を開発した。1454年頃に最初の印刷「42行聖書」を発刊した。この後、1500年までに印刷工場はヨーロッパ各地に数百の工場ができた。  
この時代は、文化・思想の高揚期を迎えるルネサンス期に入り、宗教改革も迎えようとするとき、印刷した聖書が広く民衆に頒布された。活字印刷の発明は、書物を通して読み書きの能力や新知識が、一般大衆に広まっていった。様々な分野で多くの本が印刷出版され、それを読んだ人々の考え方に影響を与え諸科学の台頭と技術の広がりに影響を与えることになった。 
5.鉱山冶金技術と工作技術の進展  
イタリアは東方貿易で繁栄し、15世紀を過ぎるとドイツは鉱業が盛んとなり工業を中心として発展した。貿易で対価として支払う銀の需要が増加し、南ドイツの銀鉱山の採掘が盛んとなった。また、大砲等の兵器の製造や手工業者による金属需要の拡大などと共に鉱山開発が活況を呈した。マニュファクチュアで金属製の道具も多種でき、金属加工技術の発達も盛んとなり、機械時計の製作や鉄砲生産のための工作用機械も出現した。工作機械の発達が機械技術の発展の根底を支えた。金属需要の高まりは鉱山や冶金技術に関心が集まり、金属に関する著作や機械に関する著作が16世紀半ばに相次いで出版された。  
ルネサンス期の工学分野の主な著者と著作をあげてみる。  
V.ビリングッチョは、イタリアの冶金学者で金属の専門書として著作「ピロテクニア(火工術)」が出版され、冶金や鉱山業に影響を与えた。鉱石処理や金属の溶融法など冶金の方法が体系的に書かれている。取るようになった。  
G.アグリコラは、ドイツの鉱山学者、医者で鉱物学や地質学を研究した。「デ・レ・メタリカ(金属について)」全12巻の著作が死後発刊された。  
A.ラッメリは、イタリアの軍事技術者で、数学、軍事技術、土木技術を学び、「種々の巧妙な機械」を著した。後期ルネサンスを代表する機械図集である。当時の技術を知る重要な文献である。  
J.ベッソンは、レオナルドの後継者といわれフランス宮廷の技術者であるが詳しいことは不明である。「機械と器具の劇場」を著している。 
6. 交易の発達と大航海時代の到来と技術的知識の体系化  
ルネサンス期の15世紀は世界の広がりを新しく発見する地理的膨張の時代でもあった。イタリアを中心として地中海交易は盛んであったが、地中海沿岸と北海沿岸に限られ、中国・インドに至る交易は中継するアラビア商人にゆだねられていた。アラビアの仲介商人を介さずに直接の取引は欧州にとって非常な関心事であった。欧州に先駆けて中国の鄭和は、1405年から1433年の間7回にわたり、東南アジア海域、インド洋沿岸、アラビア、アフリカ東岸と遠征を行い、天文の観測から緯度を知り中国で発明された磁気コンパスを用いインド洋の大洋横断も行った。欧州でも、それまでの地図の空白域を知りたい欲求と、インドとの直接取引の可能性を探る事もあり、大西洋に目が向けられた。イタリアでは交易が盛んになり、中国よりも遅れたが磁気コンパスが作られ、海図の発達もあり、天文観測による緯度航法の確立、ルネサンス文化を生んだ探求心は欧州人の目を地中海から大西洋へと向けさせた。  
15世紀以前の欧州海域で使われていた船には、帆走船の形式として北方船と南方船があった。北方船は北海・バルト海沿岸の交易で使用され、一本マストで長方形の帆が風をはらんで進む船で追い風の航海に都合のよい船である。舵は船尾中央に取り付けられていた。南方船は、地中海で利用された三角帆が張られた船であった。15世紀にはいるとこれらの船の特徴を結集した船が登場し遠洋航海に耐えられるようになり、大洋へ向けた大航海時代の幕開けとなった。それまでの沿岸航法に変わり大洋航海をするには、方位を知ることは必要不可欠であった。方位を示す磁気コンパスは、中国で12世紀初頭に使用され始めていた。た。これは、鉄を天然磁石でこすり磁化した磁針を使用し、指南魚や指南針といわれ水に浮かべて使用するものであった。13世紀初頭には地中海域でも使われ始め、イタリアでは海図が発達し、航海用具などを製作する職人も出現し、乾式磁気コンパスへの改良が行われ、現在の方式の液体式コンパスが出る19世紀まで、航海を支える航海用具としてもっとも重要なものとなった。  
大航海時代の先駆けとして航海技術の発展に貢献したのは、ポルトガルのエンリケ航海王子(Henrique o Navegador:1304〜1460)である。学者や書物を集め航海術や地理学を研究する拠点を作り、航海術や船体や帆走技術の改善を行った。そこで、船員を育成し船を外洋用に改良し探検航海に向かわせ、アフリカ西海岸を南下する航路を開拓した。バーソロミュー・ディアスは、1488年にアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。その後、ヴァスコ・ダ・ガマは、1497〜1499年に喜望峰を回りインドまでの航海に成功した。ポルトガルはインド航路を開拓し貿易を独占し、首都リスボンは繁栄した。それまで交易で栄えていたジェノバやべネツェアは衰微することになった。イタリア・ジェノバ生まれのクリストファ・コロンブスは、イタリアの天文学者トスカネリが大西洋航路によるインド到達の可能性を示唆したことで(この頃の世界地図には南北アメリカ大陸はなかった)、スペイン女王イサベル1世の援助を受け、西に航路を取り、西インド諸島に到達した。その後南北アメリカ大陸の発見と太平洋の発見に結びついた。マゼランの指揮する5隻の船団は多大な苦難のもと1隻だけが世界一周を果たし、地球が球体であることを始めて実証した。その後も探検航海など続き、航路を開拓し交易や植民地の確保に乗り出すこととなった。  
磁気コンパスの指示する方向は北極星の方向に向くと信じられていたが、航海中に磁針の指示する方位の北よりの偏り(偏角)や磁針の傾く現象(伏角)があることが報告されるようになった。このような実地に起こった現象を説明するために、実験的方法の重要性を説いたのがウィリアム・ギルバート(William Gilbert:1544〜1603)である。ギルバートは、地球が磁石であると考え、球形磁石(小地球)を作り実験を行った。この実験から磁石の指極性、偏角や伏角の現象、磁石の吸引反発力、さらに静電気の性質も説明した「磁気について」(De agnete:1600)を著作し、後の電磁気学の基礎を築き電磁気学の祖といわれている。  
発達する技術のもとで、様々な問題点が生じ解決策が必要となった。例えば鉱山では、坑道の構築、坑内の換気・排水・搬出、そのための水車建造などのほかに地理学的・地質学的・鉱物学的知識が要求された。様々な知識の集積が必要となり、中世にできた教養的な学問を教える大学に対し、実践的な技術学を教える学問を教えることが必要とされるようになった。技術に関連した知識を学問活動に体系化したことが、科学や技術の進化に役だったといえる。   
 
   
「42行聖書」零葉 1455年頃

 

Gutenberg, Johannes.(1397?-1468)  
A Noble Fragment Being a Leaf of the Gutenberg Bible,ca.1455.  
本書は、印刷術の創始者グーテンベルクが発明した活版印刷術により、初めて印刷されたラテン語聖書として知られている。発行総数は160から180部と言われ、そのうち約4分の1が羊皮紙に、残り4分の3が紙に印刷された。現存するものは48部で、そのうち完本は21部とされている。一般的には「グーテンベルク聖書」として有名であるが、1頁が概ね42行で印刷されているため「42行聖書」とも呼ばれている。この零葉は、1921年にアメリカにあった不完全本がバラバラにされニューヨークで売りに出されたものの一つであり、旧約聖書レビ記の一部分で第23章の途中から第25章の途中までである。第24章では、「・・・目には目を、歯には歯を持って・・・」という有名なくだりの部分が含まれている。
グーテンベルク聖書  
(Gutenberg Bible) 15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を用いて印刷した世界初の印刷聖書。グーテンベルク聖書は当時もっとも広く流通していたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとしている。ほとんどのページが42行の行組みであることから「四十二行聖書(42-line Bible、42B)」とも呼ばれ、枢機卿ジュール・マザランのコレクションから発見された歴史的経緯から「マザラン聖書(the Mazarin Bible)」とも呼ばれる。羊皮紙に印刷されたものと紙に印刷されたものがあり、180部が印刷されたと考えられているが、現時点で存在が確認されているのは不完全なものも含めて48部である。日本では1987年に丸善が購入したものを慶應義塾大学が保存している。この印刷に用いられた活字は「四十二行聖書」の名称から「B42」と呼ばれている。  
貴族の子で腕利きの金細工職人であったグーテンベルクは活版印刷の技術を実用化に成功、マインツの実業家ヨハン・フストから資金を得て聖書の印刷に取りかかった。グーテンベルクは当時もっともよく読まれていたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとして選んだが、ヴルガータもさまざまな異本が存在したため、13世紀にパリ大学で校訂された「パリ本」をメインテキストとし、そのほかのテキストも適宜参照した。グーテンベルク聖書は現在流通している聖書とは異なっており、カトリック教会の歴史の中で正典からはずされた「エズラ書三」および「エズラ書四」および「マナセの祈り」を含み、各書の冒頭にはヒエロニムスの言葉が付されている。巻頭にはヒエロニムスがノラのパウリヌスにあてた手紙がおさめられているが、これは中世の聖書の伝統であった。グーテンベルク聖書は一見カラーに見えるが、本文そのものは黒色で単色印刷され、あとから飾り文字と飾り罫が手で書き加えられている。  
グーテンベルク聖書の印刷は、1455年2月23日に開始された。初め羊皮紙に45部印刷されたといわれる。羊皮紙版のうち、現存するものは完全なものが4部と不完全なものが8部の合計12部である。次に紙に135部印刷されたと考えられているが、紙版は完全なものが17部、不完全なものが19部現存している。  
グーテンベルク聖書は長らく忘れ去られていたが、1763年にフランスのフランソワ・ギヨーム・ド・ビュール(Francois Guillaume de Bure)がマザラン枢機卿のコレクションから「四十二行聖書」を発見。その重大な価値に気づいたことで、その存在が広く注目された。このことから「マザラン聖書」と呼ばれることもある。  
三十六行聖書  
行数から「三十六行聖書」と呼ばれる聖書もかつてグーテンベルクの手によって印刷された、あるいは「四十二行聖書」より早く印刷されたと考えられたこともあったが、現代の研究者たちはグーテンベルクから「DK」(ドナトゥス・カトリコンの意味)と呼ばれる活字セットを譲り受けたアルベルト・プフィスター(Albert Pfister)が1460年ごろ印刷を行ったものと考えている。「三十六行聖書」が「四十二行聖書」より後のものであるということを初めて示したのは19世紀の研究者カール・ディアッコ(Karl Dziatzco)である。「三十六行聖書」はわずか15部しか現存していない。  
 
 
プリニウス「博物誌」第3版 1472年

 

Plinius Secundus, Gaius.(23-79)  
Historia Naturalis.  
プリニウスは、ローマの政治家、著述家。学問、特に博物学に関心が深く、彼の現存する唯一の著作がこの「博物誌」である。この原本は、古代ギリシャよりローマにいたる2,000点の書物より約2万件の事項を抜き出してまとめた一種の百科事典で、全37巻からなる非常に膨大な、しかもよく整頓された<理科全書>のようなものである。本書は、ローマン体活字の完成者であるフランス人ニコラ・ジャンセンの手によって、ヴェニスで印刷されたものである。19世紀末にイギリスで私家版印刷所を開設したW・モリスに影響を与えた。  
プリニウスの博物誌  
(Naturalis Historiæ) ローマの大プリニウスが著した書。全37巻。地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞、検証した事柄だけではない。怪獣、巨人、狼人間などの非科学的な内容も多く含まれ、学問的な体系を完全に成しているわけではない。  
古くから知られていたが、特にルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読され、引用されてきた。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上も珍重された。また、幻想文学にも影響を与えた。  
博物誌に記された怪物  
プリニウスが記した『博物誌』には、実在する生物に混ざって、ペガサス、ユニコーン、スフィンクス、マンティコア、サラマンダーといった有名なものから、コロコッタ、アンフィスバエナ、カトブレパスなど、あまり知られていないものまで、多数の怪物が記されている。  
アピス(Apis) 右腹に三日月型の白斑がある雄牛。エジプトの神牛。  
アンフィスバエナ(Amphisbaena) エチオピアに棲む双頭の毒蛇。  
エアレー(Eale) カバぐらいの大きさで、ゾウの尾を持ち、毛色は黒あるいは黄褐色で、イノシシの顎を持ち、どの角度にも動かすことの出来る二本の長い角を持つ動物。  
カトブレパス(Catoblepas) 頭をいつも地面に垂れ下げていて、その目を見た者は誰でも即座に絶命する。  
コロコッタ(Crocota, Corocotta) ハイエナと雌ライオンとの交配によって生まれる怪物。人間や牛の声を真似る。  
サラマンダー(Salamandra) トカゲのような形をした、全身を斑点に覆われている動物。  
スフィンクス(Sphinx) 毛が褐色で胸に一対の乳房がある獣。  
ドラゴン(Draco) インドに棲むドラゴンは象と戦う際に、体を巻きつけ、動けないようにする。  
トリトン(Triton) 半人半魚の姿をした海神。  
ナウプリウス(Nauplius) 船の形をした貝。  
ネレイス(Nereis) 半人半魚の姿をした海の精霊。  
バシリスク(Basiliscus) キュレナイカ(リビア王国東半)に生息する猛毒のトカゲの一種。その目で見られた者は即死、もしくは石化するといわれる。  
フェニックス(Phoenix) アラビアに生息し、大きさは鷲ぐらいで、頸まわりは金色、尾は青く、薔薇色の毛が点々と混ざり、体は紫。  
ペガサス(Pegasus) エチオピアに生息する翼の生えた角を持つ馬。  
マンティコア(Mantichora) エチオピアに生息し、顔は人間、体は獅子、尻尾はサソリのようで、人間の声を真似るという。  
ユニコーン(Monoceros) インドに生息し、馬の体、鹿の頭、象の肢、猪の尾を持ち、額の中央に黒く、長い一本の角が生えている獰猛な獣。  
レウクロコタ(Leucrocota) ハイエナの異種。ロバほどの大きさで、鹿の肢、獅子の首、尾、胸、穴熊の頭、割れた蹄、耳まで裂けた口を持ち、歯のかわりに一本の連続した骨がある。人間の声を真似る。  
 
 
トマス・ア・ケンピス「キリストに倣いて」初版 1473年

 

Thomas A Kempis.(1380?-1471)  
De Imitatione Christi.  
本書は、修道士がキリストの教えに従って生活すべきことをすすめた書で、キリスト教の古典として聖書をのぞけば、おそらく本書ほど広く読まれた本はないであろう。ラテン語の原文は何千回も出版され、世界各国語に訳された。本書の著者については、数百年の間、多くの学者たちによって議論がたたかわされてきたが、現在ではドイツの神秘思想家で聖職者であるトマス・ア・ケンピスというアウグスティヌス会の修道士とされている。本書には「誰がこれを言ったかと詮索しないで、何を言ってあるかに注意せよ」とあり、著者が不明であることは、また著者の本望とするところである。従って、原著の著作年も不明である。展示の書は、アウグスブルクの印刷者、ギュンター・ツァイナーによって最初に印刷されたものである。 
「キリストに倣いて」  
(キリストにならいて、De imitatione Christi) トマス・ア・ケンピスによって書かれた本で、カトリックのクリスチャンの霊性の本として識字階級に広く読まれた。ラテン語訳は匿名で1418年ごろに出された。他の著者説もあったが、現代ではケンピスの著書とみなされている。「キリストに倣いて」は、14世紀から15世紀の神秘的ドイツ・オランダ学校の文書であり、宗教改革前のカトリック・キリスト教のもっとも偉大なディヴォーションの手引きの一つと認められている。イエズス会は公式に訓練で使用する。ローマ教皇を中心とするカトリック教会だけでなく、多くのプロテスタントもこの本に高い評価を与えており、ムーディ出版が出している。  
ジョン・ウェスレーとジョン・ニュートンは、回心に影響を与えた著書としてあげている。ゴードン将軍はこの書を持って戦場に赴いた。  
評1  
「キリストの模倣」「キリストに倣いて」と訳される。キリスト教信仰書として広く読まれる霊想書。トマス・ア・ケンピスの著とされる。  
(Thomas a KEMPIS, 1379-1471)は、ドイツのケルン司教区に属する町ケンペンで生まれた神秘主義者であり、兄弟団とよばれる修道会に入り、共同生活を営んでいた。敬虔な修道士として生涯を神に捧げた人である。ラテン語の手写本は300種以上、同印刷本は、2000種以上もあり、同世紀中に、独、仏訳が出版され、19世紀には近代語訳が出た。1596年ににローマ字和訳本が出ている。『コンテンツスムンヂ』なるラテン語原文(Contemptvs Mvndi)のローマ字翻訳である。  
明治以降は、多くの和訳(由木訳、池谷訳、呉・永野訳)が出版され親しまれた。信徒にも分かり易い文章に加え、霊性の深さが親しまれた理由である。原典はオランダ語の4巻である。各巻別々に書かれて流布した。第1-2巻は、黙想書。第3-4巻は、主(Dominus)としもべ(Servius)または弟子 (Discipulus)との対話の形で、「全てを捨てよ、そうすれば、お前は全てを見出せる。欲情を捨てよ、そうすれば、お前は平安をも見出す。」(3:32)と教えている。  
「たとえ、うわべだけで聖書の全てを知り、あらゆる哲学者の説を知っても、神の愛と恵がなかったならば、その全てに何の益があろうか」(1:1)と説く。もともと修道者を対象に書かれたものである。しかし一般信徒にも愛読され、古典的名著の一つとされている。内容は「霊的生活の有益なる勧め」、「内的生活の勧め」、「内的慰安について」、「聖体に関する敬虔な勧告」の4部からなっている。霊性を深める「信仰」というより「信心」の書、というほうがよいかもしれない。歴史的にも貴重な本。  
評2  
15世紀ドイツ修道院で一生をすごし黙想と祈祷の修練をしたケンピスのこの本を読むと、私は恥ずかしくなる。とてもキリストにならえないと思う。例えば学問があり聡明と思われようと私の言葉を読むなという「空しい世間的な知識にたいする戒め」とか、「読書よりむしろつつましい祈りによって得られる自由な心の卓越性」とか、「他人の生活を好奇心で訊ねさぐるのは避けるがよいこと」「やたらな批判を下すのを避けること」などは、心に突き刺さる。  
大いなる安らぎを求める4ヵ条は、1自分の意図より他人の意図をおこなう2自分の所有が他より多いより少ないほうを選ぶ3いつも他人より低い地位を選ぶ4神の御心が欠けず成就するよう祈るだが、とても出来そうも無い。ケンピスが戒めるのは被造物たる人間の自愛・傲慢・虚栄・無限な欲望であり、被造物の空しさから永遠の神への愛と服従であり、己を低くする謙遜さである。自己否定(克己)とあらゆる欲望の捨離である。  
ケンピスの思想には、自然(人間の自性)と神の恵みとは相反するものという認識がある。自然は克服されるのを欲せず、超克され自発的に制御されるのを好のまない。ところが神の恵みは自己の抑制に努め、感覚的なものに抗い、克服を望み自身の自由ばかり行使しない。自然は自分の利益のため骨を折る。ところが神の恵みは自己利益より、多くの人の役立つことをする。自然は屈辱や軽蔑を恐れるが、神の恵みはイエスの御名のため酷い仕打ちを喜びとして耐える。自然は欲深で、与えるより貰うことを喜び、私有を好む。神の恵みは情け深く人とわかちあい貰うより与える。自然は自分の肉体や気を散らす快さを求め、神の恵みは肉の欲求を憎み、うろつきまわることを避ける。  
ケンピスの思想はキリストにならい、苦難と受難の中、自己反省と改善の決意で「脱自然」の道を行こうとする。自然支配・自然の克服(人間本性の自然の克服)がある。それは近代の人間中心主義、自然欲望主義とは相反するだろう。それが近代の科学技術の自然支配・克服と裏表の関係にあることである。人間が神になり自然支配・克服に乗り出しだ現代の傲慢さを見たときケンピスはなんというだろう。  
評3  
トマス・ア・ケンピスは、中世の思想家であり、カトリックの司祭。この本は、表紙の紹介文によると、「聖書についで最もよく読まれた書物」であるとさえ言われているそうです。若干誇張が入っている気がしなくもありませんが。  
この本には、難しい神学用語などは出て来ません。「霊の生活に役立ついましめ」「内なることに関するすすめ」「内面的な慰めについて」「祭壇の秘蹟について」の全4章からなり、徹底的に敬虔な信仰の何たるか、自らを滅し、世俗との関わりを断ち、キリストにならうものとなる事の大切さを説いています。  
本書を一貫しているのは、「神との関わりのない人生、単なる被造物に依り頼む人生が、いかに空しいか」という事です。その意味では、キリスト者の基本姿勢を記した書物であるとも言えますが、むしろキリスト者でない方にも、大いなる心の平安を与えてくれる本だと思います。世間との関わりに疲れてしまった時などは、本書の第3章などは、特に大きな慰めになるのではないかと思います。  
が、「被造物とは一切関わるな」「苦行を求めなさい」的な論調が、どうも私には引っかかります。この本は、中世当時のカトリックの修道士向けに書かれたそうなので、現代の(しかもプロテスタント信徒の)感覚で軽々しく感想を言うものではない事は承知しているのですが、それにしても「被造物とは一切関わるな」というのは、承服しかねます。  
そもそも聖書は「神にのみ心を向け、被造物とは関わるな」などとは教えていません。神は人間に対し「生き物を全て支配せよ」(創世記1:28)と言われました。さらに「極めて良かった」(同1:31)被造世界にあって、唯一「良くない」と言われたのは、「人が独りでいること」(同2:18)であり、だからこそ人を男性と女性に創造されたのです。神は別に「神だけ拝み、俗世を避け、山にこもって仙人のように苦行を積め」などとは言われておらず、人間に「被造物との関わりの中で生きよ」と言われている事は、聖書が証していると思うのです。  
この事について、山室軍平は「平民の福音」の中で、分かりやすいたとえで説明しています。曰く「人間の世渡りは、水車のようなものである。水車が全て水の中につかれば流れて用をなし難く、さりとてまたすっかり水からはね出しては、回る事さえかなわない。人間も同じで、その身はこの世にありて、心には神を仰ぎ、この世の罪咎を恐れて山に逃れるような真似をせず、この世の罪咎を討ち滅ぼすために戦うのである」。こちらの方が、私の感覚にはぴったり来るように思えるのです(とは言え別な点では、山室の論調もそれはそれで過激なんですが(笑))。  
ま、もっともこの本が出た頃には、プロテスタントは存在しませんでしたし、既に書いた通り、この本は修道士向けに書かれたそうなので、仕方のない事かも知れませんが。実際、トマス・ア・ケンピスの後100年くらいには、宗教改革が起こってしまう訳で。  
聖句も多数引用されていますが、プロテスタントでは外典扱いされている書物からも結構引用されてます。日本語は古めかしいのですが、美しい文体だと思います。中盤からのキリストと信徒、弟子との対話形式の展開は、長さを感じさせずに読ませてくれる工夫です。  
この本に書かれている通りに生きようと思ったら、そんな事は絶対不可能なのですが(「キリストにならって生きよ」と言われ、そんな生き方が人間に簡単にできるのなら、キリストが十字架にかかる必要などなかったのではありませんか)、この本を通して心の平安を得ようという読み方であれば、この本は多くの心の糧を与えてくれると思います。何より、「神に心が向いていない人生がいかに空しいか」が、よく味わえる本だと言えましょう。  
 
 
「ラテン語聖書」 1478年

 

Biblia Latina.(with additions by Mewnardus Monachus)  
ドイツの印刷業者、アントン・コーベルガーによって印刷されたラテン語聖書。コーベルガーは、初期印刷術において最も成功したニュルンベルクの印刷者である。最盛期の1485年頃には、100人の植字工と印刷工を使い、24台の印刷機を操って200種以上の書籍を印刷した。彼は、1475年に最初の聖書を印刷し、全部で15点の聖書を印刷出版しているが、本書はその第3番目の「ラテン語聖書」である。  
 
 
アリストテレス「自然学著作集」 1482年

 

Aristoteles.(B.C.384-22)  
Opera de naturali philosophia.(with additions by Petrus Antonius Sforzantes)  
アリストテレスは、ギリシャの哲学者。古代ギリシャにおける自然学は既にソクラテス以前の哲学者たちにおいて理論的な発展をみていたが、アリストテレスは、その思弁的な傾向に詳細な自然観察による科学的アプローチをとりいれ、近代自然科学の方法論的基盤を築いた。ラテン語版アリストテレス著作集としては、1479年にアウグスブルクで刊行された4巻本があり、「オルガノン」と「自然学」を収録している。本書は2番目の印刷本であるが、アリストテレスの自然学に関する論文を集めたものとしては最初の著作集である。印刷者のフィリッポ・ディ・ピエトロは、西洋古典を中心に1474年からヴェニスで印刷を始め1482年頃には活動を終えており、本書は晩年の作である。 
アリストテレス1 
(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人と見なされる。また、その多岐に亘る自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。イスラーム哲学や中世スコラ学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。名前の由来はギリシア語の aristos (最高の)と telos (目的)から。  
 
紀元前384年、トラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生。スタゲイロスはカルキディケ半島の小さなギリシア人植民町で、当時マケドニア王国の支配下にあった。父はニコマコスといい、マケドニア王アミュンタス3世の待医であったという。幼少にして両親を亡くし、義兄プロクセノスを後見人として少年期を過ごす。このため、マケドニアの首都ペルラから後見人の居住地である小アジアのアタルネウスに移住したとも推測されているが、明確なことは伝わっていない。判っているのは、前367年、齢17か18にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメイアに入門したということである。修業時代のアリストテレスについては真偽の定かならぬさまざまな話が伝えられているが、一説には、親の遺産を食い潰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、除隊後に医師(くすし)として身を立てようとしたがうまく行かず、それで結局プラトンの門を叩いたのだと言う者もいた。いずれにせよ、かれはそこで勉学に励み、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒としてアカデメイアの門に留まることになる。アリストテレスは師プラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進を指導することもあったと想像されている。紀元前347年にプラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る。アリストテレスが学園を去った理由には諸説あるが、デモステネスらの反マケドニア派が勢いづいていた当時のアテナイは、マケドニアと縁の深い在留外国人にとって困難な情況にあったことも理由のひとつと言われている。その後アカデメイアは、6世紀に東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(在位 527年 - 565年)によって閉鎖されるまで続いた。  
紀元前347年、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅となった。アリストテレスは弁論術、文学、科学、医学、そして哲学を教えた。  
教え子アレクサンドロスが王に即位(紀元前336年)した翌年の紀元前335年、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設した(リュケイオンとは、アテナイの東北の、アポロン・リュケイオスの神域たる土地を指す)。弟子たちとは学園の歩廊(ペリパトス)を逍遥しながら議論を交わしたため、かれの学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれた。  
アレクサンドロス大王の死後、アテナイではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年、母方の故郷であるカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、紀元前322年に死去している。  
思想  
アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。ほとんどが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため簡潔な文体で書かれている。さまざまな経緯を経て、ロドス島のアンドロニコスの手に渡り、紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、われわれに残されている記述はアリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。  
キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。  
アリステレスは、「論理学」があらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。  
論理学  
アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく弁証論を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。  
アリストテレスの死去した後、かれの論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。  
自然学(第二哲学)  
アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐に亘る。  
プラトンはイデアこそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した個物が基本的実在であるとした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実や感覚に根ざしたものとなっている。  
アリストテレスの宇宙論は同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星等が、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール(エーテル)」から構成される。そして、「アイテール」から成るがゆえに、これらの天体は天球上を永遠に円運動しているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「第一動者」こそが「神」であるとした。  
アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。 その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種に亘る生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシューケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシューケーは生物の形相であり(『ペリ・プシューケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシューケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。  
さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。  
形而上学(第一哲学)  
原因について / アリストテレスは、かれの師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個物から遊離して実在するとした考えを批判し、師のイデアと区別して、エイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。アリストテレスは、世界に生起する現象には「質料因」と「形相因」があるとして、これらを二者に分け、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分け、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。  
範疇論 / アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。  
倫理学 / アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、かれの著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。  
政治学 / アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的動物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。  
文学 / アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。  
後世への影響  
後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く、偉大なものであった。かれの多岐に亘る学説は、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。  
例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、デモクリトスの「原子論」「脳が知的活動の中心」説に対する、アリストテレスの「4元素論」「脳は血液を冷やす機関」説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。  
さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。  
ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も忘れてはならない。例えば、エドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している。  
著作  
アリストテレスは、紀元前4世紀に、アテナイに創建された学園「リュケイオン」での教育用のテキストと、専門家向けの論文の二種類の著作を著したとされているが、前者はいずれも散逸したため、今日伝承されているアリストテレスの著作はいずれも後者の専門家向けに著述した論文である。 
アリストテレス2 
(B.C.384-322) 世間一般で最も有名な哲学者というとたぶんソクラテスだと思うんですが、それに負けず劣らず有名なのが、このアリストテレスです。  
やっぱり、あの〜、あれですよ。フジテレビ系列で放送した『トリビアの泉』の影響が強いと思うんですよ。もともと、「アリストテレス」という言葉の響きにインパクトがある上に、全国に発信されるテレビ番組のオープニングで「人間は本性的に知ることを欲する」なんていう言葉をガンガン放送された日には、そりゃ、否が応にも知名度は上がりますよね。  
このアリストテレスの知名度は今日の日本に限ったことではなく、古代のギリシア世界、および、その後の西洋世界においてもアリストテレスという名前は哲学史上の大メジャーとして知られていました。  
ていうか、ちょっと前の西洋世界ではプラトンやソクラテスの名前よりもこのアリストテレスの名前のほうが知られていたようです。  
実際、トマス・アクィナスの主著『神学大全』の中で使われる「哲学者」という言葉は、哲学者一般のことではなく「アリストテレス」個人のことをさしています。  
つまり、トマスの生きていた時代あたりでは、「哲学者=アリストテレス」という図式が成立するぐらいメジャーな存在だったんですね。  
そんな哲学史上の大メジャーであるアリストテレスですが、メジャーというだけあって、その著作量もプラトンと肩を並べます。  
今日まで残存しているアリストテレスの著作は、プラトンの対話篇のように完成された作品ではなく、もともとアリストテレスがアカデメイアなどで行った講義の際に用いるメモとして残されていたものを、後々、アンドロニコスという人がテーマごとに編集したものです。  
現代では図書館で検索すると『アリストテレス全集』と銘打たれた著作がひっかかりますが、この一般に『アリストテレス全集』と呼ばれている一連の著作群は、アンドロニコスが編集したものなんですね。  
日本で出版されている『アリストテレス全集』の赤茶色の著作群を一目でも観たことのある人はわかると思いますが、あの分量から想定されるように、当然、このコンテンツの記述量もかなりのものになるであろうということは想像できますよね……。  
アリストテレスの生涯  
アリストテレスって、学説の部分はすごく大きく取り上げられるんですけど、それに較べてその「生涯」に関する部分は意外と取りざたされない哲学者ですよね。  
プラトンやソクラテス、それにカントあたりだとエピソードが多いっていうこともありますけど、けっこう「生涯」の部分もクローズアップされるじゃないですか。  
アリストテレスも、アレクサンダー大王の家庭教師になったりした人ですから、色々とエピソードはあるんでしょうけど、なぜか、あんまりアリストテレスの生涯は注目されない傾向にありますよね。  
たぶん、資料が残されていないとか、そういう理由もあるんでしょうけど、それでも、ちょとさびしい感じはしますよね。  
そんな、「生涯」に光があてられてこなかったアリストテレスですが、このコンテンツではアリストテレスの人生を大きく四つの時期に分けて紹介しいこうと思います。  
1、幼年期〜青年期  
アリストテレスはB.C.384年にアテナイのはるか北方にあるスタゲイラというド田舎で生まれました。  
プラトンやソクラテスが活躍し当時のギリシア世界における文化的な中心地であったアテナイを現代の東京とすれば、このスタゲイラはどこでしょうね。  
仙台とか札幌とかだとちょっと都市の規模が大きすぎる感じがします。  
ていうか、秋田、青森、盛岡といった県庁所在地にしてもちょっと規模がデカいかもしれません。  
どのへんでしょうね。横手市とか、一関市とか、弘前市とか(ん?弘前は規模的には青森よりデカいか…?)、そんな感じの地方都市が例えとしてはちょうどいいかも知れませんね。  
このアリストテレス、生まれはド田舎ですけど家庭環境はすこぶる良好だったようです。  
まぁ、さすがにね、プラトンほどの名家というわけにはいきませんけど(ていうか、そもそもド田舎なので良家といえるほど由緒正しい家柄がなかったのかもしれません)、父親のニコマコスはマケドニアの王であるアミュンタスという人と長年の友人であり、かつ、この人物の主治医でもありました。また、父親だけでなく、母親であるパイスティスという人物も医者の家系の娘だったらしく、アリストテレスの家庭は父方をたどっても、母方をたどっても経済的には昔からかなり恵まれていた家柄だったようです。  
ここで、父親の「ニコマコス」という名前に「ん?」とひっかかる方もいらっしゃると思いますが、それはちょっと後に置いておいて、ここはアリストテレスの生涯に関する話題を続けます。  
そんな、いわゆる「いいとこ」の家庭に生まれ育ったアリストテレスですが、子供の頃のアリストテレスは父親のつてでマケドニアの宮廷などにも出入りしながら、学のある両親のもとで、それ相応に高度な教育を受けていたと考えられます。  
アリストテレスの幼年時代に関してはあんまり資料がないので、「彼が両親から高度な教育を受けた」ということに関しては、あんまりはっきりしたことは言えないんですが、彼が残した著作の中に明らかに解剖学的な知識があったであろうと思われる箇所があるので、そういった知識をどこで身につけたかということになると、恐らく、若い頃に医者である自分の父親から得たのであろうと考えるのが一番妥当だと思うんですね。  
確かに、アリストテレスは後々アカデメイアでも一定の時期を過ごしていますが、アカデメイアと解剖ってあんまり結びつかないんですよね。  
ですから、ここは、アリストテレスは、幼年期から青年期にかけて、ある一定以上の医学的な知識を獲得していたと考えておくのがよいでしょう。  
このように、比較的恵まれた子供時代を過ごしたアリストテレスですが、アリストテレスの両親は彼がまだ若い頃に死んでしまいます。  
両親二人の死因はわかりませんが、両親の死後、アリストテレスはアリストテレスの姉夫婦のところに預けられます。  
NHKの朝ドラなんかだとここら辺から主人公がドンドン不幸になっていきますけど、幸いなことに、アリストテレスを預かることになった義理の兄であるプロクセノスはなかなかの好人物であったらしく、アリストテレスにちゃんとした教育を施し、彼を一人前の青年に育て上げます。  
このように、アリストテレスの幼年時代から青年時代までをザッと概観してみると、確かに、両親との死別という不幸はありましたが、全体的に観て、おおむね幸せだったと考えていいでしょう。  
別に、いじめられたとかそういう暗いこともなく、マケドニアの王宮に出入りしながら暮らしていたぐらいですからね。  
しかし、この後、父親の仕事上の関係もあって自然と構築されたマケドニア王宮との親密な関係が、アリストテレスの残りの人生に大きな影響を及ぼしていくことになります。  
2、アカデメイアでの生活  
両親と義兄夫婦から高度な学問的教育を施されたアリストテレスは、17歳になったとき、生まれ故郷のド田舎スタゲイラを離れ、花の都アテナイに向かいます。  
長渕剛でしたっけ、歌の中に♪死にたいくらいに憧れた、花の都大東京♪っていう歌詞がありますよね。  
アリストテレスがアテナイという都市に憧れを抱いていたのかどうかは定かではありませんが、とにかく、アリストテレスは家業である医者を継がずにアテナイに行き、プラトンの開いたアカデメイアの門を叩きます。  
ここで一つ問題なのは、なぜアリストテレスがアカデメイアに入学(?)したのかという点です。  
確かに、アカデメイアは当時としてもある程度の名声を獲得していたようですが、この頃のアテナイにはアカデメイア以外にも学校が存在し、それらの学校との評価を較べると、アカデメイアはそれほど有力な教育機関ではなかったようです。  
実際、当時おそらく最も大きな勢力を持っていたであろうと思われる学校は、イソクラテスという人物が開いた修辞学校でした。  
ですから、普通に考えると、アカデメイア以外の学校に入学していてもおかしくないはずなんですが、なぜか、アリストテレスはアカデメイアを選びました。  
この選択の理由はいくつか考えられますが、アリストテレスはアテナイに出向く前に、前もってプラトンの記した対話篇に触れていたのかもしれません。  
年代的に言えば、アリストテレスが産まれた段階ですでにプラトンは40代ですからいくつかの対話篇は世に出ていたでしょうし、哲学者としての能力を買われてシケリアに招かれるぐらいですから、その名声も他国にまで轟いていたのでしょう。  
ですから、仮に、アリストテレスがプラトンの著作に触れて何らかの知的影響を受け、そのことのゆえにアカデメイアの門を叩いたのだとしてもさして不思議はありません。  
さて、アカデメイアに到着したアリストテレスですが、そこに学頭であるプラトンの姿はありませんでした。  
プラトンの生涯について概観した箇所を見ていただけるとわかるんですが、アリストテレスがアカデメイアにやってきたちょうどその時、プラトンはシケリアのディオンとディオニュシオス二世の求めに応じて、二回目となるシケリア旅行に旅立った直後だったんですね。  
そんなプラトン不在状況のアカデメイアだったんですが、アリストテレスはそんなこともおかまいなしにアカデメイアに入学します。  
そして、翌B.C.366年、シケリアから失意のどん底で帰郷したプラトンとアリストテレスは始めて顔を合わせることになります。  
アカデメイアでのアリストテレスの生活は、プラトンの三度目のシケリア旅行などもあってアカデメイア自体のちょっとした動乱はあったものの、基本的には平穏なものだったと考えられます。  
さて、師匠であるプラトンが帰還したことでようやくアリストテレスの学究生活も軌道に乗ってきたわけですが、プラトンの帰郷後、アリストテレスはこのアカデメイアでメキメキと頭角を現し、最終的には師匠であるプラトンから「知性(ヌース)」という異名で呼ばれるほどの人物になります。また、アカデメイアに入学してある程度の年月がたち、アリストテレスが比較的「先輩」的なポジションに立つようになると、彼は後輩たちからも信頼を集め、学生としてではなく、教師として教える側の立場にも立っていたそうです。  
アリストテレス自身も充実した学究生活を送ることができるアカデメイアの生活に満足していたと考えられますが、B.C.347年、アリストテレス37歳の年に、プラトンがその80歳の生涯を閉じます。  
そして、このプラトンの死に呼応するかのようにアリストテレスもまた同じ年にアカデメイアを去っていきます。  
ただ、ここで一つ問題なのは、アリストテレスがアカデメイアを去った時期です。  
具体的に言うと、アリストテレスがこのB.C.347年という年にアカデメイアを去ったのは間違いないんですが、アリストテレスがプラトンの生前にアカデメイアを去ったのか、プラトンの死後にアカデメイアを去ったのかという点について意見が分かれているんです。  
西洋古典叢書の『ニコマコス倫理学』を翻訳した朴一功は、アリストテレスはプラトンが死ぬ前にアカデメイアを去ったとしていますし、講談社学術文庫に収録されている『アリストテレス』を書いた今道友信は、プラトンが死んで次の学頭選挙でスペウシッポスが選ばれたことを受けてアリストテレスはアカデメイアを去ったとしています。  
なんとなく、アリストテレスがアカデメイアを去ったことの理由付けだけをみてみると、今道友信が主張するように、プラトン死後の学頭選挙などが絡んでいた方がわかりやすいですけど、朴一功が主張する「プラトンが死ぬ前」説にもそれなりの根拠があるんです。  
アリストテレスの幼年時代を概観したときに、アリストテレスが父親の職業上の関係でマケドニア王宮と深い関係を持っていたということを示しましたよね。  
朴一功の側の人たちは、このマケドニアとの深い関係がアリストテレスがアカデメイアを去った主な原因であると考えるんです。  
この当時、マケドニアはギリシア地方の北方に位置するテッサリアを攻め落とし、アテナイにとって大きな脅威となっていました。  
しかも、それに輪をかけるように、プラトンの死の前年にあたるB.C.384年にマケドニアはカルキディケ半島の中心都市オリュントスを攻め落とし、アテナイに取ってはまさに「今そこにある危機」になっていたんです。  
当然、そんな社会情勢ではアテナイ国内の反マケドニアの気運は高まります。  
「そして、アリストテレスは自分がマケドニア王家と深い関係を持っていることを自覚し迫害を受ける前に早々にアテナイを脱出したのだ。」  
アリストテレスがアテナイを去った時期について朴一功の側に立つ人は、このような当時の政治的、もしくは、軍事的状況を根拠にして、アリストテレスはプラトンが死ぬ前にアテナイを脱出したと主張するんですね。  
ですから、これら両陣営の争いに首を突っ込むことなく、とにかく、B.C.347年、プラトンが死んだ年にアリストテレスはアカデメイアを去ったとだけしておきましょう。  
3、放浪の時代(アッソスからミュティレネへ)  
プラトンの死、アカデメイアの学頭選挙、マケドニアのギリシア侵攻、アテナイ国内における反マケドニア機運の高まりなど、理由は色々考えられますが、とにもかくにもB.C.347年に、アリストテレスは同じアカデメイアの学友クセノクラテスとともにアテナイの地を去りました。  
そして、ここからアリストテレスの放浪生活が始まります。  
アリストテレスはアテナイを去った後、小アジアのアタルネウスに向かいます。  
当時、このアタルネウスはヘルミアス(ヘルメイアス)という人物が僭主として取り仕切っていたんですが、このヘルミアスは奴隷から身を起こした後アカデメイアで学んでいた人物で、アリストテレスとはアカデメイア時代に親交があったらしいんですね。  
当然、アカデメイアで学んでいたぐらいですから、ヘルミアスは哲学にも理解があり、アタルネウスにやってきたアリストテレスを、自分の支配下にあるアッソスという町に住まわせ、そこで哲学をするのに十分な環境を整えてくれたそうです。  
そんなヘルミアスの好待遇もあって、アリストテレスはこの地に三年の長きにわたって滞在します。  
アカデメイアを去った後、学究生活という面では不安定な立場にあったであろうと思われるアリストテレスにとって、アッソスにおける三年間という時間は非常に有意義なものだったでしょう。  
しかし、そんな幸せな状況にあったアリストテレスは、B.C.345年にアッソスからレスボス島のミュティレネへの移住を余儀なくされます。  
先にも書いたように、アッソスが位置しているのは小アジアという地方なんですが、当時、この小アジアは東方にあるペルシアという超大国の脅威にさらされていました。  
高校の世界史の授業を思い出してもらいたいんですが、当時のペルシアといえば超ド級の大国でしたよね。  
しかし、ヘルミアスはそんな超大国の圧力にも屈せず、持ち前の政治力で、西の大国マケドニアとの関係を強化し、なんとかアタルネウスの独立を維持していたんです。  
でも、やっぱり、ペルシアの側から見たら、そんな小国の僭主なんて邪魔なだけじゃないですか。  
当時、ペルシア王だったアルタクセルクセスは、目の上のたんこぶであるヘルミアスを排除すべく、アタルネウスの地に刺客を送り、ヘルミアスを捕虜にしてしまいます。  
ペルシア側がヘルミアスを捕虜にした理由としては、当然、目の上のたんこぶ的な存在を排除するという意味もあったんですが、もう一つ、裏の理由として、ヘルミアスが関係を強化しようとしていたマケドニアの情報を探るという目的もあったようです。  
ていうか、個人的には、恐らく後者の理由の方がメインだったと思うんですよね。  
当時のペルシアの勢力を考えれば、ちょっと気合を入れれば小アジアの小国なんて一掃できたと思うんですよ。  
むしろ、国力的なことを考えると、ペルシアにとって本当の脅威となり得るのは、小アジアの背後にあるマケドニアでしょう。  
さて、捕虜にされてしまったヘルミアスは、最終的に絞首刑にされてしまいます。  
この事件を受けて、保護者であるヘルミアスを失ったアリストテレスは仕方なくレスボス島に移住したんですね。  
レスボス島のミュティレネに移住したとき、アリストテレスはすでに40歳になっていましたが、この年、アリストテレスはヘルミアスの姪にあたるピュティアスという女性と結婚し、二人の子供をもうけます。  
また、この地には後にアリストテレス最大の弟子となるテオプラストスがいました。  
暖かい家族と優秀な弟子に囲まれて、ミュティレネでの学究生活は、アッソスにいたときほどの充実感はなかったものの、アリストテレスにとってある程度満足のいくものだったと考えられます。  
アッソスとミュティレネで、アリストテレスは主に生物学的な探究を行い、このときの探究結果は『動物部分論』などの著作にまとめられ、今日に伝えられています。  
さて、ミュティレネの地で学究生活を送っていたアリストテレスですが、B.C.342年、そんなアリストテレスのもとに、時のマケドニア王フィリッポス二世から、「息子であるアレクサンドロスの教育係になってほしい」という要請が届きます。  
アリストテレスとマケドニアとの間には幼い頃から密接な関係があったので、アリストテレスはこの要請を受けて早速マケドニアの地に向かいます。  
アリストテレスがマケドニアに着いたとき、アレクサンドロスは14歳でした。後にアレクサンドロス大王として全世界にその名をとどろかす人物と、後世、万学の祖として知られる天才がここで始めて顔を合わせることになります。  
マケドニアでのアリストテレスの生活ぶりはいまいちよくわかっていませんが、アリストテレスは自分をマケドニアに招集したフィリッポス二世が暗殺され、アレクサンドロスが20歳の若さにして王位を継承したB.C.336年までマケドニアに滞在します。  
即位から二年後のB.C.334年、アレクサンドロスはギリシアと同盟関係を結び、マケドニアとギリシアの連合軍を率いて小アジアに攻め込んで、有名な東方遠征を開始します。  
しかし、このとき、アリストテレスはすでにマケドニアの地を後にしていました。  
アレクサンドロスの東方遠征が始まる一年前のB.C.335年、アリストテレスは再びアテナイの地に戻ります。  
アリストテレスがなぜここで再びアテナイに戻ったのかは定かではありませんが、当時のアテナイは、アレクサンドロスの代理として実質的にギリシア地域を支配していたアンティパトロスの統治下におかれていました。  
つまり、アリストテレスがアテナイを去ったときにアテナイの人々が「今そこにある危機」として実感していた事態がある意味では現実化していたわけです。  
しかし、このときのマケドニアによる実質的な支配は、一方的な占領という形式のものではなく、一応、同盟関係に基づくものだったので、アテナイにもアリストテレスが離れたときほど「反マケドニア」の雰囲気はなかったようです。  
アテナイに到着したとき、アリストテレスは49歳。  
この後、アリストテレスはこのアテナイの地で、自らを初代学頭とする新たな学園を作り、その学園でただひたすら研究生活に打ち込むことになります。  
4、リュケイオンの創設と死 〜二度目のアテナイ生活〜  
12年ぶりにアテナイに戻ったアリストテレスですが、自分がかつて学んだアカデメイアに再び戻ることはありませんでした。  
その理由としては、当時のアカデメイア(このときの学頭はアリストテレスがアテナイを去ったときに一緒だったクセノクラテス)が研究の方向性を哲学ではなく数学的な方向に向けて大きくシフトしていたからだといわれることがありますが、本当のところはわかりません。  
アリストテレスは、アテナイに戻った後、郊外にいくつかの建物を借り、そこにアカデメイアとは別に「リュケイオン」と呼ばれる自らの学園を作ります。  
アリストテレスはこの学園の歩廊をプラプラ歩きながら、学園に集った弟子達と共に哲学談義を繰り広げていたそうです。  
古代ギリシア語で(現代ギリシア語だとどうなんだろう?)「歩廊」のことを「ペリパトス」といいますが、リュケイオンの人々がこの「歩廊」で哲学をしていたことから、後々、アリストテレス学派の人々は「ペリパトス派」と呼ばれるようになりました。  
再び安住の地を得たアリストテレスは、かつてアカデメイアで行っていたように、新しい学園で講義をしながら充実した学究生活を送ります。  
リュケイオンでアリストテレスが行った講義の内容はよくわかっていませんが、12年の放浪生活の最中にも学問的な研鑽を積んでいたアリストテレスの講義は、アカデメイア時代に行っていた講義よりも広さにおいても深さにおいてもさらにいっそう充実したものになっていたと思います。  
しかし、そんなアリストテレスの学園生活も長くは続きません。  
アリストテレスがアテナイにやってきたB.C.335年から12年後のB.C.323年、アテナイの地にマケドニアのアレクサンドロス大王が遠征の途中に病死したという知らせが届きます。  
先にも書いたように当時のアテナイは、マケドニアのアンティパトロスが、トップであるアレクサンドロス大王に代わって代理統治している状況でした。  
そんな状況下にあって、統治されている国に統治している国のトップが死んだという報告が届いたらどうなるでしょうか?  
当然、統治されているアテナイ国民の側からしたら、「やった〜!!!!!!」的な状況になりますよね。  
そして、「やった〜!!!!!!」の次に来る行動は「あいつらを追い出せ!!!!!!!!!」ですよね。  
当時のアテナイでもこれと同じことが起こってしまいます。  
アレクサンドロス大王死去の報を受けて、アテナイの民衆の間に、かつてアリストテレスがアテナイを後にしたときと同じような反マケドニアの機運が再び高まります。  
そんな中にあって、アレクサンドロス大王の家庭教師を務めていたアリストテレスはアテナイの民衆から格好のターゲットにされてしまいます。  
まぁ、厳密に言うと、「ターゲットにされる」というところまではいかなかったみたいなんですが、アリストテレスの周囲(もちろん、リュケイオンの学生とかは別ですよ…)では明らかに「あいつってさぁ…」みたいな雰囲気が漂うようになっていたらしいです。  
そして、ついに、アリストテレスはエウリュメドンという神官によって、「不敬神」の罪で訴えられてしまいます。  
この告発は、アリストテレスがかつてヘルミアスを讃える歌を作ったということを理由になされたものだったんですが、まぁ、はっきりいって、言いがかりです。  
結局、ソクラテスが裁判にかけられたときと同じように、政治犯的な行動を実際には取っていないんだけれどもあらかじめ処理しておいたほうがいいだろうと思われる人物に対して、表向きなんとなくもっともらしい罪をでっちあげて告発し、最終的には死刑にしてしまおうということですね。  
この告発を受けて、アリストテレスは自分の身に迫る危険が現実化してきたことを深刻に受け止めて、アレクサンドロスの悲報が届いたのと同じB.C.323年中に、リュケイオンのすべてを愛弟子であるテオプラストスに託し、アテナイからエウボイアのカルキスに旅立ちます。  
このカルキスという土地はアリストテレスの母親であるパイスティスの故郷です。  
カルキスに移住したとき、アリストテレスは61歳になっていましたが、この移住の翌年、B.C.322年にアリストテレスは62歳の生涯を閉じます。  
アリストテレスの死因は「病死」とされています。移住してすぐに死んだことを考えると、恐らく、アテナイを出るときにはもうすでにアリストテレスの体は病魔に蝕まれていたんだと思います。  
アテナイを去るとき、アリストテレスは、自らの身におこった告発事件をかつてソクラテスの身に起こった事件になぞらえて、自分がアテナイを去る理由を「アテナイ人たちが、哲学に対して再び同じ過ちを犯すことがないように」と説明したと伝えられています。  
この伝承が真実かどうかは定かではありませんが、こうやってアリストテレスの生涯を追いかけてみると、アリストテレスはソクラテスやプラトンと同じようにアテナイという土地で哲学に専心しながらも、最後までそのアテナイという土地に根を下ろすことができなかった哲学者だといえるでしょう。  
スタゲイラ→アテナイ→アッソス→ミュティレネ→マケドニア→アテナイ→カルキス、様々な土地を転々としながら自らの学説を完成させていくアリストテレスの生涯は、ある意味、プラトンやソクラテス以上に当時の社会状況に翻弄された人生だったと見ることができるでしょう。しかし、そんなふうに世の中に翻弄されながらも、アリストテレスの作り上げた学説は、それ以後の西洋世界に圧倒的な普遍性を持って絶大な影響力を与えていくことになります。 
万学の祖/アリストテレス3  
プラトンがソクラテスの弟子だったように、アリストテレスはプラトンの弟子である。ただ師プラトンと異なっていたのは、師プラトンがソクラテスの問いに答えを見つけようとしたのに対し、アリストテレスはやがて師プラトンのイデア説と対立する考えを提唱する。哲学・数学・自然学・論理学・政治学などの幅広い研究を行い、種々学問を体系づける。古代ギリシャ哲学全体が、アリストテレスの巨大な影に覆われている、と言っても良いかもしれない。このアリストテレスの哲学とは、どのようなものだったのだろうか?  
まずは、アリストテレスの人生を簡潔に振り返ってみよう。アリストテレスは、ソクラテスの死後15年ほど経った紀元前384年に、北方マケドニア地方のカルキディア半島のスタゲイロスと言う町に生まれた。父ニコマスはマケドニア宮廷に仕える医者だったが、こうした環境はアリストテレスに影響を与えていると考えられる。17歳でアテナイに上京し、プラトンの開いたアカデメイアに入学した。この時、プラトンは既に60歳。アリストテレスは、ここで20年ほど過ごす。アリストテレスが37歳の時に、プラトンが80歳で亡くなる。アカデメイアは、プラトンの甥であるスペウシッポスが第二代学頭として後継者となった。アリストテレスは、(後に3代学頭となる)友人かつ弟子のテオフラストスの故郷レスボス島に移住し、生物学の研究に取り組む。  
その後、故郷マケドニアのフィリッポス王に招かれて13歳の皇太子(後のアレクサンドロス大王!)の家庭教師に就任し、3年間教授した。カイロネイアの戦いに勝利したマケドニアは全ギリシャの覇権を確立したが、フィリッポス王が暗殺されるとアレクサンドロスが20歳で即位した。このアレクサンドロス大王が、オリエント世界全体を含む世界帝国を建設し、ギリシャが世界を席巻する新しいヘレニズム時代の幕を開けるのである。アリストテレスはアテナイに戻り、マケドニア宮廷の支援の下、紀元前335年、町の東郊外に学園リュケイオンを創設した。アリストテレス自身はあまり話しが上手くなく、そのために綿密な講義草稿を準備した。これが、今日のアリストテレスの著作の大部分として今日に伝えられることになる。  
アレクサンドロス大王が東方遠征中に急死すると、アテナイの町では激しい反マケドニア暴動が起こった。身の危険を察知したアリストテレスは、学園を弟子の(前述の)テオフラストスに委ねて、自らはエウボイア島のカルキスに亡命する。紀元前322年没。  
このように、アリストテレスの生涯は、アカデメイアでの20年に及ぶ修行時代、アレクサンドロスの家庭教師時代も含むギリシャ各地の遍歴時代、リュケイオンでの学頭としての教育&研究時代の3つに分けられる。よって、アリストテレスの哲学を一枚岩のように考えるのではなく、若き日の修行時代から晩年時代の境地に至るまでの、その成長をの跡を辿るようなアリストテレス考察が正しいのかもしれない。  
残念ながら、共和政ローマ時代に親しまれていた優雅な文体のアリストテレスの著作の多くは失われていて、学園の学徒向けに書かれた講義草稿を基にした難解な著作集の方が現在に伝えられている。そんな訳で、アリストテレスの哲学は難解だと思われている。アリストテレスの著作とその学問体系は多岐にわたり、哲学者でもない僕のような凡人にはとうてい読み得ないし、理解し得ない。  
論理学には、「カテゴリー論」「命題論」「分析論前書」「分析論後書」「トピカ」「ソフィスト的論駁」、理論学の自然学には、「自然学」「天空論」「気象論」「生成消滅論」「霊魂論」「自然学小論集」「動物誌」「動物部分論」「動物発生論」「動物運動論」「動物歩行論」「小品集」「問題集」、同じく理論学の数学(ただし著作は現存しない)、神学の「形而上学」。また実践学としての行為学に「ニコマコス倫理学」「エウデモス倫理学」「大道徳学」「政治学」「家政学」、同実践学の制作学に「弁論術」「詩学・文芸創作論」…と言う風に、幅広い広がりがある(※ただし未完の作や後代の偽作も存在する)。正に「万学の祖」と言われるに相応しい体系構造である。また、叙事詩や箴言風の文体ではなく、論文に近い体裁の著作は古代ギリシャの哲学史上、アリストテレスによって初めて本格的な形をとった(※例えば、タレスやソクラテスはそもそも著作を残さなかったし、プラトンは対話篇と言う特異な戯曲形式を使ったし、ピタゴラス派の奥義は教団内部の秘密だった)。  
※これだけ多くの学説があるが、現代の学問的水準からすると、誤謬だらけである。特に、自然学理論においては、彼の学説はまったく過去のものである(例えば、天動説に基づいた天文学や生物の自然発生説は、その典型的なものである。)。しかし、アリストテレスが今も尚優れた学者として認知されているのは、その時代の限られた観測技術・方法を用いて理論を組み立てていった、着眼点や洞察のその思考の道筋が優れているからである。顕微鏡も望遠鏡も無い時代に、自然を観察して、例え自分の説に合わない事象であっても、観察結果の方を優先した。旧来の思弁的独善ではなく、彼はあくまでも観察事実に忠実な経験主義を貫いた。  
アリストテレスは、人間の思考が働く場面を「作る」「行う」「見る」の3つに区分し、学問も3つに分類した。彼は、「理論学」と人間の行為に関わる「実践学」を区別し、理論学は「自然学」「数学」「神学」に分類し、実践学には「倫理学」「政治学」がある。アリストテレスは、それらの学問分類に先立つ分野として「論理学」を、多くの学問に共通する道具(オルガノン)と位置づけた。  
実践学は、人間の行為や社会現象を扱うので、数学のような厳密性は得られず、経験的なものが重きをおかれ大雑把な認識が得られれば十分とした。アリストテレスの学問分類は、対象の特質に応じて認識の厳密さを変えている。アリストテレスのこの学問観は、その後微妙な変型を蒙りながらもストア派やエピクロス派にも継承される(※現代の我々の社会も理系・文系の区別がされているが、このような分類はアリストテレスにまで遡るのである)。  
アリストテレスの哲学の中で、最も特徴敵なのは徹底した"方法論"の意識である。観察事実、常識、学説を拾い上げ、分析しながら、絶えず論述の順序や考察の限界に留意する。場合によっては、独自の造語も作り出すのだ。こうした叙述は、学問的な探求が踏まえるべき手続きをきちんと示している。  
以上のように、アリストテレスの学問を全てにわたってここで論じるのは無理なので、主要(と思われる)な論点をいくつか取り上げる。まずは「第一の哲学」と呼ばれる問題(※形而上学にて取り扱う論考)。感覚の対象となり、運動変化の相にある「自然」を対象とする問題の論及は「第二の哲学」と呼び、それよりももっと普遍的な学問を「第一の哲学」として構想して、「第二の哲学」と区別している。  
"すべての"人間が、"知"を求める。動物は"感覚"(※五感の中の触覚)を備えたものとして生まれ、植物は"栄養"機能(※新陳代謝と物質交替により自己を維持する)と"生殖"機能(※同じ種を生産する)を本質とする。人間の場合は、動物の持つ感覚から記憶が生まれ、記憶を基にして経験を獲得する。更に、技術や知識をも駆使して生活環境を変化させながら生きていく。これが人間である。技術は経験から発生し(例えば楽器の演奏の練習、外国語の習得etc.)、経験を欠けば技術は役に立たないかもしれない。しかし、経験が豊富な人よりも、技術知を心得ている者の方を、我々は「知恵ある者」と考える。なぜならば、"技術"は事柄の根本を教えるが、"経験"しその理由を教えないからである。「訳(※根拠や原因)が分かる」ことによって、他人の自らの知見を伝達する事ができるのである。アリストテレスは、このようにして、学問・知識・技術が成り立つ場面を狭く明確にとらえようとしている。  
こうした知識観には、重要な問題点がある。第一に、学問や技術は"個別"ではなく"普遍(カトルー)"に関して成立する。「この薬はあの人には効いたが、この人には効かなかった」と言う経験ではなく、「このような体質には、この薬が効く」と言う普遍的な法則を把握することが、学問や技術なのである。そして、この普遍を把握するために、統計や確率の手法が取り入れられるのである(※例えば天気予報なんかもその一つ)。毎年1万人が交通事故で亡くなったとすれば、来年もそのぐらいの人が亡くなると全体的な傾向の推測はできるが、しかし、「明日、私が交通事故に遭うかどうか」と言う一回限りの個別の出来事の推測は立てられない。それは、胡散臭い占いの領域の話である。第二に、言葉にできないものは知っているとは言えないと言う見方。何故なら、学問や技術はすべて論証と説明の体系を持っているからである。一方で、自転車の乗り方などは、知識ではなく経験を通して得たものであり、本人が体を動かすことでしか体得できない「分かっているが説明できない知識」である(※習うより慣れろ)。彼は、このように"技術・学問"と"経験"を区別した。  
知の追求たるべき"技術、学問"だが、もともとは生活を便利にするための実用目的だった(※例えば生活に必要な技術=実学、もう一つは娯楽の技術)が、実利を離れて自己目的的性格を持った抽象的な学問へと成立した(※例えば数学)。アリストテレスは、これを第三の知識とする。こうした学問が生まれるには、「生活の余裕(スコレー)が無ければならない」(スコレーは、スコラ(学校、哲学)、スクールなどの語源)と考えた。日常生活の時間を、誰のためでもなく自分自身のために用い、自分の目標を実現していくための時間、これがアリストテレスのスコレーであ、自由人の証である。つまり、彼が言いたいのは、人間は自分を取り巻く世界の諸現象がいかに成立しているのか、その根拠・原因を尋ねずにはいられない存在であること、そう言う人間観=知識観を持っていたのである。  
アリストテレスが考える、学問本来の原因探求が目指すべき究極の根拠は何か。かれは、それを4つの類型に収束させる。第一は「質量因」=何でできているのか、第二は「形相因」=それは一体何であるか=本質、第三は「始動因」=それが何によって生まれているか、第四は「目的因」=何を目指して生み出されたのか。これらを「四原因論」と呼ぶ。例えば、茶色の机があれば、質量因は"木材"であり、形相因は"茶色の"ではなく"机"が本質であり、始動因は"職人"であり、目的因は家具としての用途…と言うことになる。。 さて、「それがいったい何であるか」はその物の本質である。コップの本質は、木製とか金属製とかプラスチック製とか、白いとか黒いとかには何の関係も無い。凹みに液体を入れておけることがコップの本質である。タイヤは丸くなければ転がらない。そのように物の本質は、形・形態を媒介にして重なっているのである。このように、アリストテレスは事物を一般に"形相(エイドス)"と"質量(ヒュレー)"の両面から二元的に把握しようとする視点をもっていた。彼によれば、形相と質量からなる個物が「実体(ウーシア)」である(ウーシアについて後で詳述)。  
机やコップは人工物だが、アリストテレスは「自然とは何か」を論ずる。自然は、人工や不自然と対をなすが、自然の実在をわざわざ証明するのは意味が無い。自然と人工の区別は、人間の世界認識で前提となるもので、日常ですでに了解されている最も基本的な枠組である。アリストテレスによれば、自然は現象を説明するための根拠である。自然は、"事実概念"であり、"方法概念"でもある。  
「自然によって存在するもの」は、動植物や土、火、水、空気などの元素を意味し、「自分のうちに運動変化と静止の出発点・原理(アルケー)を持っている」点で人工品とは異なる。例えば、机は職人の手が入って初めて完成するが、病人は医者が薬を処方するにしても病気が治るのは体に備わっている治癒力である。人工物とちがって、始動因が初めから備わっているのである。花の種も卵にしても同様である。そして、卵も花の種もその向かうべき目標(終着点)が、初めから定められている。生育は、自己実現をした時点で静止する。また、すべての生物は同種の子孫を複製して後に残す。翻って、人工物は時間の経過と共に秩序は解体して、自ら再生することはない。自然は運動変化しながらも、全体として見れば絶えず同一の秩序を反復再生する円環、サークルをなしている。  
アリストテレスの第二の哲学についてざっと見たが、次に第一の哲学について。先述したように、ありとあらゆる「存在するもの」を正にその存在するものとしての限りに考察する普遍的学問を、アリストテレスは構想している。究極的には"神"を対象とする「神学」とも言える(※「形而上学(メタフィシカ)」は、この困難な試みである第一の哲学に関する論考)。「存在」の問題を取り扱うにあたり、アリストテレスが提起した重要な概念は"カテゴリー(範疇)"と言う考え方である。例えば、「僕の幅1メートルの白く軽い机」があるとする。これらは、「分量」や「所有」、「実体」などいくつかのカテゴリーに分けられる。カテゴリーは複数(※10とも言われる)あるが、重要なのは"実体"とそれ以外のカテゴリーとの区別である。実体とは、それについて語るのに他の前提を必要としない「それ自体として存在する」と言えるものである(=ヒュポケイメノン=もとに置かれている物の意味)。赤いリンゴが5つ欲しいとする。八百屋で「赤いのください」では何の事か分からない。トマトだって赤い。「5つください」では、何が5つ欲しいか分からない。常識で考えれば、「リンゴを」と言うかリンゴを指差して「赤いの5つください」と言う順序でなければ買い物はできない。順番は、この逆ではない。リンゴが、この"ヒュポケイメノン"である。そのような安定した物の世界を物として成立させている構造が、"実体(ウーシア)"である。アリストテレスは、さらに"実体とは何か"と言う探求を行う。実体を規定する候補を4つ(本質、普遍、類、基体)挙げ、それについての分析を加えていったのである。  
次に、アリストテレスの実践哲学の方法論としての倫理学(エートス/エシックス(倫理)の語源)を論考する。第一に、人間の行為はすべて個別的である。個別性に伴う揺らぎ・不確定性の意味を見据える必要がある。なので、第二に人間的な事柄の研究に当たっては過剰な厳密さは期待できない。大雑把な傾向や法則性が理解されれば、良しとしなければならない。直角を求める仕方は、数学者と家具職人では同じではない。この両者を混同するのは、そもそも「教養」が欠けているのである。そして第三に、実践は「善い人は何であるか」を知るのみならず、善い人に"なる"ことを目指すのである。  
もう一つ大切なのは、彼の倫理学は、政治学と密接不可分な関係の点である。人々は神々や動物と違って単独では生存し得ないので、生活の必要に応じて様々な規模の社会共同体が生み出されてくる(家→村→ポリス=都市国家)。「倫理学」においては、人間にとっての善、つまり幸福とは何かなどの諸問題が究明されるが、これらが解明されるだけでは十分ではなく、こうした人間の善や幸福を実現可能にするポリスの条件が問われなれればならないのである。善い国家、悪い国家とは何を指すのか、国民の条件とは何か、ポリスでの教育はいかにされるべきか、などなど(※これらが「政治学」で問われる。この倫理学が、後に続くストア派、エピクロス派、懐疑主義などのヘレニズム諸学派と違うのは、それらが政治学を欠いている点である)。  
さて、人間の行為、生活の究極目的(最高善)は何か?たいていの人は、"幸福"で一致する。しかし、幸福の中身まで一緒とは限らない。「健康」、「財産」、「名誉」etc.…。アリストテレスは、改めて人間の自然本性に即した考察を展開する。人間の固有の機能としては、ロゴス(分別、理性)を持つ部分のあり方が問題になる。こうした部分の有する卓越性こそが、人間の善悪に関して決定的な意味を持つ。それが実際に活動している場合に、人間固有の善が生まれ、それが幸福を意味するとアリストテレスは考えた。この二つの要素が、幸福を問題にする際の指針とした。彼は、人間にとっての幸福をこうした観想の生活に見出した。人間には、知的な活動の傾向が自然本性的に備わっているのであり、人間的な幸福は突き詰めれば「神の生」を生きることで、初めて完成に至る。各自が好む行為や活動に時間を忘れて没頭することで、深い充足と喜びに満たされ、そのことで有限の生を生きる人間は、単なる自然的な制約を超えて神々の生に至る道が開けてくる。このようにアリストテレスの第一の哲学と倫理学はつながっているのである。  
アリストテレスにとっての幸福は神の生活に近づく事だが、彼にとって神は天体の運行の原因である。神は自分以外の何者にも煩わされることがない、ひたすら思索にふける完全な理性的存在である。天体は神に憧れて動くもの。従って神は自ら動くことなく他を動かすもの、「不動の動者」であるとした。人間の幸福には、欲望の満足や快楽を追求する「享楽的生活」や名誉と正義を追及する「政治的生活」があるが、アリストテレスは、この真理を探究し神の生活に近づく「観想的生活」が最も幸福な生活であると考えたのである。  
さて、アリストテレスの哲学のほんの一部を覗いただけだが、彼の哲学の一端には足を踏み入れたと思う。
現代に生きる我々とアリストテレスの哲学の適用について  
アリストテレスの学問は、現在に至るまで色んな影響を与えている。前述のように、アリストテレスは物の"本質"や"実体"とは何かについて我々の前に示そうとしたが、そのために彼が用いた概念・方法論が"カテゴリー"と言う考え方である。現代に生きる我々も、意識せずに色んな事象をカテゴライズしている。例えば、このHPのメニューは分野別にカテゴライズしているし、各項目、例えば車のコーナーでは"スポーツカー"と"小型大衆車"を区分けしてるのもカテゴライズの一つである。また前述しているように、世の学問を理系と文系に分けているのも、このアリストテレスの学問的方法論にルーツがある。  
また、言葉では伝えられない"経験"と、学問的な"知識"の違いを明確に区別したのもアリストテレスである。例えば、野球のバッティングの理論は事細かにある。コーチや解説者は、それを言葉で明確に伝えられなければならない。しかし、選手が実際にボールを打ってホームランにするには頭で理解しただけでは駄目で、何度も反復練習し体で覚えこまなければならない。このように、言葉で伝える"知識(学問や技術)"と体で体得する"経験"は異なることを示したのである。  
アリストテレスの哲学は難しいと考えられているが、我々の意志とは関係なく、既にアリストテレス(の学問)の影響を色んなところで受けていると考えることができる。  
クリスチャンである私とアリストテレス哲学の関連について  
アリストテレスの哲学や学問観はその後のストア派やエピクロス派に引き継がれるが、聖書にもこれら哲学との関わりが描かれている。新約聖書の使徒言行録にその記述がある。初代教会のパウロが、2回目の宣教(伝道)旅行でアテネに行ったときのことである。パウロは、アテネの町中の至る所に偶像があるのを見て憤慨した。それで会堂ではユダヤ人たちと論じ合い、町中では居合わせた人々と論じ合った。その中にエピクロス派やストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロにこう言った"「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味か知りたいのだ」。すべてのアテネ人やそこで在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである"(※新共同訳聖書より)、と書かれている。するりと読み飛ばしてしまいそうだが、これはアリストテレスが観想の生活"を第一としていたことに一致する。"生活の余裕(スコレー)"を持ち、そして"知的活動"を第一とするアリストテレス的生活は、「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」と言う聖書の記述と一致する。  
一方のパウロは心では偶像に憤慨していた訳だが、何とかアテネの人々に福音を伝えたいと言う思いから、なるべく彼らの哲学や宗教の論理を利用しながらも、福音を述べ伝えようと努力する。結果は、"ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った"…である。この言葉は、日本の政治家の「前向きに検討します」と一緒で、初めから二度と聞く気のないと言う意志の発言である。ギリシャ人たちは、彼らから見れば外国人であり異邦人であるパウロを、初めから完全に上から目線で見ていて、聞くだけ聞いた後に軽く彼をあしらっているのである。つまり、ここで登場しているアテネの哲学者達は、自分達の方ががより学問的に上級で、信仰に関してもより深く思索をしていると考えている。ギリシャの哲学がソクラテス以来の長い伝統を持っていると言う歴史背景、ギリシャの文化の方が他の異教の文化よりも秀でていると言うギリシャ人の意識も無視できないだろう(※この思考や態度は、正にキリスト教徒を迫害していた頃のパウロの姿である)。  
ここに重大な問題が潜んでいる。知的な活動や生活を否定する人は、そうはいないだろう。僕も否定しないし、むしろ知的活動は好きだ(※こんな"めんどい"文章を書いているくらいだから)。しかし、ここでの論点はそこではないのである。"人間の力"と"神の力"、どちらを人生の中心に置くかと言う論点なのである。アリストテレスの最上の幸福は"人間の知"の追求であり、神に近づき、神の真似をし、神の生活を送ることである。一方、聖書はそう教えない。人間の力では、決して神になれないし神に近づくこともできない。人間には罪があり、神に近づくには神の独り子であるイエス・キリストの救いを受け入れる以外の道は無い。アリストテレスにおいては人間の力と努力の延長上に神があり、聖書においては人間と神の間には自らの力で渡る事のできない大きな断絶があるのである。"ストア派やエピクロス派らの哲学"と"パウロの伝えた福音"は、決定的な衝突を免れ得ないである。ギリシャ哲学にとって、聖書の語る"隅のかしら石"は、決定的な"躓きの石"となる。「どこか中間点で妥協しましょう」と言うように、あやふやにできる問題ではないのである。これはアリストテレスの学問的方法論が、現代の我々に益であるのとは別問題であり、正に"人間が何によって幸福を得るのか""何を至高の幸福とするのか"と言う"究極の問い"なのである。新約聖書のコリントの信徒への手紙(第一)には、人間の知恵・力を絶対視する愚かさを次のように言及している。  
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを述べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤであろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。  
また、同じく聖書のローマの信徒への手紙には、知恵があると誇りながら実は愚かな人間の真理を妨げる不信心と不義について次のように語っている。  
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(中略)自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」  
アテネの哲学者達はパウロの福音を一笑に賦したが、"しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた"(聖書)…と書かれている。日本は、数多くの哲学や宗教が氾濫する、正に"思想の見本市"のような国である。そのような国で生きる1%にも満たないクリスチャンは、パウロの姿勢がとても参考になると思う。  
 
 
ユークリッド「幾何学原論」初版 1482年

 

Euclides.(B.C.330頃-275)  
Elementa geometriae.  
ユークリッド(エウクレイデス)は、紀元前300年頃のアレキサンドリアの数学者。ギリシャ幾何学、即ち<ユークリッド幾何学>の大成者。「幾何学原論は、ピタゴラス以来のあらゆる初期ギリシャの数学的知識を集大成し、一貫した体系に組織して編集したもので、今日でもなお世界中で使われている最古の数学テキストである。聖書を除けば、世界に本書ほど広く流布し、多く出版されたものは無いであろう。本書は、1482年にアラビア語からのラテン語訳としてヴェニスで刊行された最初の印刷本であり、幾何学的図形を伴って印刷された最初の本格的な本である。そして本文に添えられた図の細心さとわかりやすさは、以後の数学書のモデルとなった。  
 
 
ヒグデン「ポリクロニコン」初版 1482年

 

Higden, Ranulphus.(?-1364)   
Polycronycon.  
「ポリクロニコン」は、14世紀初頭のイギリスのベネディクト会修道僧であったヒグデンが当時の知識を集成したもので、天地創造から当時までの世界史(いわゆる年代記)を制作すべく、40ほどの情報源から世界地理の説明と6つに分けた世界の歴史を編集した。1340年代に彼はこの仕事を降りたが、後継者によってリチャード2世の時代まで続けられた。この著作は多くの奇跡と超自然現象の記載も含むが、14世紀の歴史、地理、科学の知識を収載し、2世紀以上その人気を保った。1387年トレヴィサのジョンがラテン語から英語へ翻訳し、英国で最初の活版印刷者として知られるW.カクストンによって、ウェストミンスターで1482年に初めて刊本となった。 
天地創造から14世紀中葉に到るまでの人類の歴史を年代順に叙述した壮大な歴史書。著者ヒグデンはイギリスのベネディクト会修道僧であるが、一国の歴史にとどまらない世界史観は、アウグスティヌスの『神の国』のなかのキリスト教的歴史観がその根底にあるともいわれている。人類の歴史を6つの時代に区分し、それぞれの時代のなかで強大な力を誇った帝国の興亡を描き出すことで、その背後にある神の摂理を解き明かし、今に生きる者への道徳的教訓を導き出そうとしている。本書には超自然現象の記述を含むものの、14世紀当時の歴史、地理、科学技術などについての知識を備えたヒグデンの世界史上における自国の歴史的意義や位置付けの試みが、当時の知識階層からおおきな共感をよんでいる。その後イギリスから出された歴史書の多くが本書の「継承」を謳う姿勢にも現れるほど、本書の根本の精神は2世紀以上にわたり根強く支持されていく。ヒグデンは1364年に亡くなるが、その後をトレヴィサが1387年頃、ラテン語から中英語に翻訳して完成をみた。  
 
 
トマス・アクィナス「神学大全」初版 1485年

 

Thomas Aquinas.(1225-74)    
Summa theologicae.  
トマス・アクィナスは、イタリアの神学者、哲学者、聖人で中世のスコラ哲学の大成者。「神学大全」は、著者の晩年に書かれた彼の神学的、哲学的体系の書であり代表的著作である。通称「神学的スンマ」と呼ばれ、原著は1266年頃執筆がはじめられ、1273年に著者死亡のため未完のまま終了した。この著作は全編3部からなり、最初の印刷本としては1471年に第2部が、1473年に第1部が、1474年頃には第3部がそれぞれ別な印刷者によって刊行されている。この膨大な著作を余すところなく出版する企画は、1485年になって本書によって実現された。バーゼル第二の印刷者、ミヒャエル・ヴェンスラーによって第1部、第2部第1部、第2部第2部、第3部と、全4部が刊行され、同時代の製本で1冊に合綴されている。 
神学大全  
神学大全(しんがくたいぜん、ラテン語:Summa Theologica)は「神学の集大成」という意味の題を持つ中世ヨーロッパの神学書。13世紀に中世的なキリスト教神学が体系化されると共に出現した。一般的にはトマス・アクィナスの『神学大全』が最もよく知られているが、他にもヘールズのアレクサンデルやアルベルトゥス・マグヌスの手による『神学大全』も存在する。  
『神学大全』の特徴は、当時の神学において用いられていた『命題集』(センテンティエ)や『注解』(コメンタリウム)にばらばらに記されていた内容を有機的に分類し、体系的に整列し直しているところにある。つまり、聖書の言葉や教父・神学者の言葉が抜書きされていたものをわかりやすくまとめなおしているのである。さらに中世の司教座聖堂付属学校や大学において盛んにおこなわれた討論や解釈の成果が盛り込まれている。  
成立  
『神学大全』はトマス・アクィナスの数ある著作の中でも最も有名なものであるが、序文の言葉によれば神学の初学者向けの教科書として書かれたものであるという。決してキリスト教徒でない人々を想定して書かれているわけではないが、それでもきわめて明快に理性と啓示(信仰)の融合がはかられ、読者がキリスト教信仰に関する事柄でも理性で納得できるように書かれている。そして「大全」を名乗る以上、それまでの神学において扱われたあらゆるテーマについて論じようという意欲作であった。  
『神学大全』はトマス・アクィナスのライフワークであり、彼の生涯の研究の集大成であった。彼はそれまでに『対異教徒大全(Summa Contra Gentiles)』という書を書き上げているが、『神学大全』はその成果も踏まえて、より洗練されたものになっている。  
トマスは1265年ごろから『神学大全』の著述にとりかかっているが、第三部の完成を目指して著述を続けていた1273年12月6日、ミサを捧げていたトマスに突然の心境の変化が起こった。神の圧倒的な直接的体験をしたと伝えられている。『神学大全』も秘跡の部の途中まで完成していたが、彼は以後一切の著述をやめてしまう。  
1274年3月7日にトマスが世を去ると、残された弟子たちが師の構想を引き継いで第三部の残りの部分(秘跡と終末)を完成させた。  
 
『神学大全』は以下のような三部構成からなっている。  
第一部 神と神学(聖なる教え)について 聖なる教え、唯一の神、神の本質、神の存在証明、至福直観、三位一体、被造物と創造  
第二部 倫理と人間について 人間の性質、人間のはたらき、行為、対神徳と枢要徳、罪と恩恵、修道者と修道生活  
第三部 キリストについて 受肉されたみ言葉であるキリスト、キリストの生涯、七つの秘跡、終末と審判  
全体の構成としては、第一部で、神による創造を描き、第二部で神へと向かう理性的被造物である人間の運動について描き、第三部で、神へと向かう際の道しるべであるキリストについて描くという構想に基づくもので、ネオプラトニズム的な発出と還帰の原理を超えて、聖書に記された出来事を理解するためのキリスト中心的、救済史的な世界観があった。  
個々の部分の構成を見ると、基本的には次のようになっている。まず、冒頭に問題(テーゼ)が提示される。たとえば、「イエスは貧しかったということは彼にふさわしいことであるか?」という質問を例としよう。次に質問に対するいくつかの異論があげられる。異論は聖書や過去の大学者の引用によっておこなわれる。たとえば例に対しては「アリストテレスは中庸を重んじ、金持ちでも貧乏でもない中庸を選ぶのが最高の生き方であるとしている」などという具合である。次に対論が提示される。これは異論に反対する見方である。たとえば「聖書によれば神は正しいことをされる方であるという。イエスが貧しい生き方をし、イエスが神であるなら、貧しい生き方は正しい生き方であったにちがいない」などである。最後にこれらの流れを踏まえた解答が示される。解答は異論あるいは対論をそのまま採用したものではなく、全体を統合した解答になっていることが多い。つまり単純に異論を否定していないところに『神学大全』の面白さがある。たとえば例に対する解答では「中庸に生きることが最高の生き方であるというのは正しい。ただ、その理由は、贅沢に心奪われる、あるいは毎日の暮らしに汲々とすることで人生の目的を見失わないためである。イエスにとって人生の目的は神のことばをより広めることであった。そのためには貧しい暮らしのほうが動きやすかったといえる。」といった具合にまとめられる。 
トマス・アクィナス(1225頃-1274)  
スコラ哲学の大成者 
トマス・アクィナスとアリストテレス哲学との出会い  
トマス・アクィナス(1225頃-1274)は、南イタリア(ナポリ王国)のアクィノの領主ランドルフ伯爵の子として生まれましたが、母親のテオドラも神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家の末裔という名門の血統でした。トマス・アクィナスは5歳の頃に、修道院思想の祖であるベネディクトゥスが築いたモンテ・カッシノ修道院に入れられますが、これは院長を務める伯父のシニバルドの後を継ぐためでした。モンテ・カッシノ修道院からナポリ大学に進学して神学を学んだトマス・アクィナスは両親の勧めに逆らって、既存のローマ・カトリック教会の聖職者ではなく、神の本質を探究する哲学的な神学研究が盛んであったドミニコ会の修道士としての道を歩みます。  
トマス・アクィナスは、神秘主義的なキリスト教神学と理性的なアリストテレス哲学を学術的に統合して、スコラ哲学(スコラ学)を神の存在・本質を証明する哲学として完成させた人物として知られています。アクィナスが初めてアリストテレス哲学に触れたのは、20歳でドミニコ修道会の会員になる前のことであり、15歳頃にイスラム教圏の哲学者(神学者)を経由したアリストテレスの哲学を読んだとされています。ドミニコ修道会で学術研鑽を積んだアクィナスは、1244年頃にケルンで学問上・信仰上の師となるアルベルトゥス・マグヌス(1193頃‐1280)と出会います。普遍博士と呼ばれたドミニコ会のアルベルトゥス・マグヌスは、神学・哲学・自然学・錬金術など万学に精通した秀才であり、アリストテレス哲学の詳細な注釈書を書いて弟子のトマス・アクィナスに哲学的な影響を与えました。1245年頃から、パリ大学で神学・哲学を教える教授となったアルベルトゥス・マグヌスをトマス・アクィナスは忠実な弟子(助手)として三年間ほど補佐しましたが、アクィナスの死後にアクィナスの思想が異端の嫌疑を掛けられた時には、アルベルトゥスは老体に鞭打って亡き弟子を神学的に弁護したといいます。  
アルベルトゥスもアクィナスもアリストテレス哲学をイスラム経由で摂取したので、アヴェロエス(イブン・ルシュド)のアリストテレス哲学の註釈・解説の影響を受けており、プラトンの観念論的なイデア主義と神の実在が融合している部分があります。優秀な学業成績を修めたアクィナスは、パリ大学で学位を取得して神学の教鞭を取るようになりますが、教皇ウルバヌス4世から厚い信任を寄せられたために、1259年頃からイタリアに戻ってローマやナポリで暮らすことになります。1272年のフィレンツェの教会会議では、教会の教義・思想に関して博覧強記なトマス・アクィナスの思想を集大成することが要請され、アクィナスは『神学大全』の著述に取り掛かりました。教養主義的なドミニコ会を代表する神学者となったトマス・アクィナスは、『天使的博士(Doctor Angelicus)』と呼ばれて聖パウロや聖アウグスティヌスと対等な立場に立つと言われた英才でしたが、1274年に第2回リヨン公会議に向かう途中で死没しました。1323年7月18日には、アヴィニョンの教皇ヨハネ22世によってトマス・アクィナスは聖人に列せられ、アクィナスの書いた『神学大全(スンマ・テオロジカ)』は中世キリスト教会の中心的な教義体系となっていきました。  
トマス・アクィナスの最大の功績は、理性主義的なアリストテレス哲学を駆使して『中世キリスト教会の正統性』を保証する壮大かつ綿密な神学体系を構築したことであり、スコラ学的な論考の方法論によって神の存在と本質を証明したことであった。スコラ学とは簡潔に言えば、『詳細な古典読解(テキスト読解)』と『論理的な思考プロセス』によって矛盾点・問題点を弁証法的に解決しようとする学問の技法のことです。トマス・アクィナスはこのスコラ学的な思考プロセスのパラダイム(理論的枠組み)の中で、かなり完成度の高い『質疑応答の事例集=神学大全』を著したことでキリスト教史に不朽の名前を刻んだのです。
トマス・アクィナスによるスコラ哲学の完成と『神学大全』の思想  
トマス・アクィナスは『スコラ哲学の完成者(大成者)』と呼ばれることがありますが、それはアクィナスがスコラ哲学(スコラ学)の方法論を活用して、中世ヨーロッパのキリスト教世界を支える『普遍的な神学体系=実在論(実念論)』を構築したからです。スコラ学は、神学的な質疑応答に対する賛否両論を集めた『クエスティオネス(質疑)』と神学的な疑問に対する標準的(正統的)な解答を集めた『スンマ(大全)』という二つの分野を発展させました。アリストテレス哲学をキリスト教神学に応用したアクィナスは、特に『スンマ』の分野で大きな貢献をして、『神学大全』という代表著作を書き著しました。『哲学は神学の婢女(はしため)』であるという前提に立つ『神学大全』は、『神と神学について・人間と倫理について・キリストについて』という3部から構成されていますが、実在論(実念論)と唯名論(名目論)が対立する普遍論争(普遍戦争)では『神学大全』は実在論を証明する根拠とされました。  
ローマ・カトリック教会が掲げた実在論(実念論)というのは、ローマ・カトリック教会を『キリスト(神)の普遍性の現れ』と見る思想であり、教会組織(聖職者)の権威は目に見えない普遍的な存在(実在)があるという実在論に支えられていました。『普遍的な観念(概念)』と『個別的な事物(現象)』とがある場合に、知覚できない普遍的な観念のほうが先に存在して、この普遍的な観念(イデア的な原型)によって、個別的・具体的な事物が作り出されるという考え方のことを実在論といいます。反対に、人間が普遍的な実在と信じている『観念』は個別的な事物を指示するための『記号(概念)』に過ぎず、普遍的な実在とは人間の知性が作り出した二次的なものに過ぎないとする考え方を唯名論(名目論)といいます。キリスト教が支配的であった中世ヨーロッパ世界では、トマス・アクィナスが論証した実在論が正統な教義でしたが、自由意志を指摘するドゥンス・スコトゥスや唯名論(名目論)で実在論を論駁したウィリアム・オッカムの登場によって、次第に実在論は非合理的(非科学的)な思想として退けられていくことになりました。  
アリストテレスは、現実世界の事象・事物を『形相(エイドス)』と『質料(ヒュレー)』の要素によって理解しましたが、世界で生起する現象の原因として『動力因(作用因)・形相因・目的因・質料因』の四つを上げました。このアリストテレスの四原因論の影響を受けたトマス・アクィナスは、物質の運動の原因として『作用因』を仮定します。アクィナスは運動の元々の原因(作用因)をどんどん遡っていけば、最後に他の何ものにも影響されない『第一の動者(第一の作用因)』に行き着くと主張しました。この第一の動者以外にも、世界で最初の存在である『必然的存在者』、完全な真・善・美の原型である『イデア的観念』、目的的な行動を可能にする『知的存在』を上げて、『神の存在』を段階的に論証しました。『存在・運動・善行・作用』に関係する一番初めの原因を遡っていけば、最後には他の何ものにも影響を受けない『絶対的・普遍的な存在者=神』に行き着くことになり、『無が有を生み出さない』という必然的な論理に従うならば『神の存在』は完全に証明されることになるというのがアクィナスの思想でした。  
もっと簡略化して言うならば、現実世界にある全ての『不完全な事物・現象・行動』の背後に『完全無欠の元型・雛形(イデア的なもの)』があるという思想であり、宇宙の秩序と最高の倫理(善・真理)の根拠として『神の実在』が必然的に要請されるというものです。これは、現象界の背後に永遠普遍の元型としてのイデア界を想定するプラトンのイデア主義(イデアリスム)の焼き直しであり、トマス・アクィナスの神学思想はアリストテレス哲学とキリスト教神学を統合しただけでなく、『万物の創造者(無からの創造者)』としての神を神学的に補強するためにプラトンのイデア主義を無意識的に用いているのです。普遍論争における『実在論対唯名論』の構図は『イデア論対唯名論』の図式に置き換えることが可能ですが、アクィナスは世界にある全ての事物は『存在そのもの=神』から作られる被造物であると定義しました。  
人間もモノも被造物ですが、アクィナスは被造物はアリストテレス的な形相と質料からなる実体であるとして、人間を人間たらしめている形相(本質)は『理性的な魂』だと述べました。全知全能の神の本質を分有する『人間の魂』は、人間に『知性』と『意志』という極めて重要な能力を与えます。ドゥンス・スコトゥスは人間にとって最も本質的な力を『意志』と考えたのに対して、トマス・アクィナスは神の実在を直観するための『知性』こそが最も価値のある力だとしました。トマス・アクィナスは、人間の知性が導き出す『正義・節制・勇気・思慮』の4つの徳の実現を目的として生きることが『善なる生き方』であるとして、固定的なイデア(善性)を目指して生きる『主知主義(理性主義)』の世界観を提示しました。  
トマス・アクィナス以降の哲学では、近代的な啓蒙主義を頂点として、自分の人生の価値規範を自分の自由意志によって選択できる、場合によってはイデア的な善悪観から逸脱することができるという『主意主義』の世界観が優勢になっていきます。トマス・アクィナスは『正義・節制・勇気・思慮』の4つの徳は『理性による命令(公共善を志向する定言命法)』に行き着くとしましたが、その理性による命令の究極の根拠は、全知全能の神が定めた永遠普遍の『自然法』であると主張しました。人間が自然法を直観して理性に基づく命令(法律)を制定できるのは、人間が『神の完全な理性』の一部を分け与えられている存在であるからです。そして、人間の知性は『形相である魂』によって保証されているというのがアクィナスの神中心の人間観であり、キリスト教で言う『永遠不滅の魂』というのは『神(イデア)の一部』が人間の質料(身体)に宿ったものに他ならないのです。死後には、魂は再び完全な神の元へと帰還することになりますが、この考え方もプラトンの『すべての事物・概念はイデア界を起源としている』という思想からきていると推測されます。  
カンタベリーのアンセルムスやピエール・アベラールから始まったスコラ学の歴史は、ロジャー・ベーコンやアルベルトゥス・マグヌスを経て、トマス・アクィナスの時代に実在論としての完成度を高め最盛期に到達しますが、スコラ学は次第に権威主義的な文献学・教義学として硬直的な傾向を強めます。社会状況を改善する新たな知識や価値を提示できなくなり、キリスト教の正統性を証明するだけの役割に落ちたスコラ学は、ドゥンス・スコトゥスやウィリアム・オッカムの思想によって批判的に乗り越えられることになり、エラスムスやモンテーニュの人文主義、イタリア・ルネッサンスの隆盛を経て、啓蒙的・科学的な近代哲学の登場で歴史の片隅へと追いやられました。  
 
 
ルクレティウス「物の本質について」第2版 1486年

 

Lucretius, Titus Carus.(B.C.94-55頃)  
De rerum natura.  
ルクレティウスは、紀元前94-55年頃のローマの詩人で、哲学者であるが、その生涯についてはほとんど何も知られていない。彼の唯一の著作とされているのがこの「物の本質について」という哲学的教訓詩である。ルクレティウスの主題は複雑で、迷信の拘束から離れて精神を自由にするという彼の切なる願望は、自然の法則の説明の中に表現されている。それはアトムの自然の運動に依存していることを示すもので、すべての物質はアトムでできていると言う。ルクレティウスの最初の印刷本は、1473年頃ブレッセで出版されており、展示の書は1486年にヴェローナで出版されたものである。 
ルクレティウス『物の本質について』 / 書評  
本書は、ローマの詩人ルクレティウス(Titus Lucretius Carus、c.94-c.55B.C.)の現存する唯一の作品である。友人メンミウスを相手に、エピクロスの自然にかんする説を叙事詩の糖衣につつんできかせるというスタイルで書かれた本書は、エピクロスの思想を現在にまで伝える貴重な資料でもある(註1)。  
本書には第1巻から未完とされる第6巻までをとぎれることなく流れる二つの通奏低音がある。ひとつは一貫した原子論であり、もうひとつは反宗教的態度である。ルクレティウスによれば(註2)、ひとびとが自然や死をおそれ、それらの原因を神々に帰し、宗教に影響されているのは、ひとえに自然や死にかんする知識を欠いているからだ。その原因を知り、死や自然がいかなるものかを理解すれば、それが一向に神々とは関係なく、またむやみに恐れるべきものでもないことが感得されるであろう、というわけである。ここでルクレティウスが俗説を退けるために援用するのが、エピクロスの原子論である。  
エピクロスの原子論は、デモクリトスらのそれと同様に(あるいはそれに従って)自然現象を不可分の物質=原子の運動によって説明しようとするものである。物質が運動するためには、物質のほかに物質によって占められていない空間=空虚があるはずであり、ここから万物の本質は物質(原子)と空虚であるとされる。ここで、「では、ある瞬間のすべての原子の位置と運動量がわかればわれわれはその後起こるであろうことを知ることができるだろう」と考えれば自然は必然的である。ルクレティウスによれば、エピクロスは「斜傾運動」(clinamen[ラテン語])を考えることにより、必然ではなく偶然の道を選んだ。つまり、原子は通常空間を下にむかって進むとされるが、「全く不定な時に、又不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らすと言える位なそれ方をする」のだと言う。これは必然や運命という「むやみに恐れられる」考えを退け、われわれの自由意志を確保するための説明でもある。  
本書でルクレティウスがとりあげる自然現象は、我々の認識や精神の働きから、宇宙や大地の生成、死、遺伝、気象、地震、磁石、病気などに及んでいる。そしてどの場合についてもかれが主張するのは、それらはすべて神によるのではなく、原子の運動によるのだということである。この一貫した態度にわれわれが見るべきは、時代遅れの知識ではなく、「その中に貫流する科学的精神」(寺田寅彦)である(註3)。  
また本書を読めば明らかなことであるが、ルクレティウス(あるいはエピクロス)の反宗教的態度を安易に反神論や無神論に読み替えてはならない。かれは自然現象の原因を神にもとめることや宗教を否定しはしたが、神の存在を否定したり貶めたりはしていない。むしろ『イリアス』や『オデュッセイア』に見えるような気まぐれな神々を否定しているとさえ言えるだろう。だから、ルクレティウスは「なぜわたしだけがこのような(悲惨な)境遇に置かれ、悩まなければならないのだ!おお、神は存在するのか!」といった問いかけには無縁である。なぜなら、神々は人間とはいっさい無縁である、というのがルクレティウスの主張なのだから。  
(註1)たとえば、clinamen という概念は、ルクレティウスの本書によって伝えられたものであり、ディオゲネス・ラエルティオスによって保存されたエピクロスのものとされる諸作品には見られない。  
(註2)「エピクロスによれば」と表記すべきだという意見もあるかもしれないが、ここでは「ルクレティウスによれば」と記す。読者には「ルクレティウス(あるいはかれによるエピクロス)によれば」と読み替えていただきたい。  
(註3)寺田寅彦の「ルクレチウスと科学」は、なぜ<いま>ルクレチウスを読むのかを説いた緒言と『物の本質について』の解説からなる四六版にして60数頁ほどの文章。この中で寺田寅彦は「ルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録である」と同書をたたえ、その意義を説いている。内容については別の機会にゆずるが、ルクレティウス以後の物理学が得た成果との対比のなかにあらわれ立つルクレティウスもまたおおいに魅力的であり、これをルクレティウスの食前酒あるいはデザートとして読書子に推薦する次第。また、その口吻(興奮/公憤)に自身科学者でもあった寺田寅彦の科学観や当時の科学界にたいする思いがはしなくも伺える、という別の意味でも興味のつきない作品である。  
 
 
アウグスティヌス「神の国」 1490年

 

Augustinus, Aurelius.(354-430)  
De civitate dei.(bound with: De trinitate.)  
アウグスティヌスは、古代キリスト教の最大の教父である。本書は、41年頃ローマに起こった大災害が古いローマの神々を忘れてキリスト教を信じたためであるとの非難に反駁して、「神の国」と「世の国」を対立させることによって、大規模のキリスト教護教論を展開した書。原書は、413年頃執筆にとりかかり426年頃までの14年間に全22巻が書き上げられた。キリスト教の地盤の上に生まれた西洋最初の歴史の哲学ないし、歴史の神学であるといわれる。展示の書は、初期の印刷業者の一人ヨハネス・アーメルバッハによりバーゼルで印刷されたもので、アウグスティヌスの他の著作が1点合本されている。 
『神の国』  
(ラテン語:De Civitate Dei contra Paganos、フルタイトル、神の国:異教との対決) 5世紀初頭に書かれたアウグスティヌス後期の主要著作。  
世界の創造以来の歴史を地の国とそれに覆われ隠されている神の国の二つの歴史として叙述する。全22巻より成り、前半10巻で地の国を、後半12巻で神の国を論ずる。アウグスティヌスは410年のゴート族によるローマ陥落を機に噴出したキリスト教への非難に、この著作によって応えた。  
この語は聖書の語句であり、アウグスティヌスの著書のみならず、すべてのキリスト教で使われる。  
第一巻 / マルセリヌスの求めに応じ、神の国を創立者である真の神を誹謗する異教徒たちに対して弁護すると述べる。神の国の最高の法は、「神はおごるものに抗い、へりくだる者に恩寵を給う」ところにある。偶像教は道徳を支持するどころか、背徳汚行を宗教的行事において是認推奨している。また、異教徒によるクリスチャンへの迫害、クリスチャン婦女への暴行について考察する。  
第二巻 / ローマの歴史を考察し、キリスト教の広まる前、偶像教の神々が崇拝されていた時、ローマに多くの災害があったと指摘する。その災害の第一は、道徳的堕落である。これらの神々は、いまだかつてローマ人に道徳を与えなかったばかりでなく、淫猥な祭典すら要求した。アウグスティヌスは彼らの女神の祭礼について描写し、このような醜悪な祭典を好む神々は、不浄の汚鬼に違いないと断言する。アウグスティヌスの訴えは、異教を捨てて、キリスト教に回心しなければならない。神々は悪霊だというものである。  
第三巻 / ローマの歴史について。  
第四巻 / ローマの発展は真の意味においては、神々ではなく、唯一真の神の御旨によると述べる。ユダヤ人が世界に散らされたのは、これによって、虚偽の神々の偶像、祭壇神殿等が、毀たれるためである。  
第五巻 / アウグスティヌスは偉大なローマの魂を、キリスト教の信仰のために死をも辞さなかった殉教者の群れのうちに発見する。  
第十三巻 / 原罪の問題。人間の罪と、その刑罰として人間に与えられる死について。  
第二十一巻 / 悪魔の国の終焉、すなわち永遠の刑罰について。  
第二十二巻 / 聖徒に対する永遠の祝福と他の者にたいする永遠の刑罰の約束について。天において聖徒は罪を犯すことのできない自由意志を受ける。祝福された者は自分自身について知るとともに、滅ぼされた者たちの永遠の苦しみを知る。  
 
 
シェーデル「ニュルンベルク年代記」ラテン語初版 1493年

 

Schedel, Hartmann.(1440-1514)   
Liber chronicarum.  
本書は、ドイツの医者で人文学者のハルトマン・シェーデルが、世界の歴史・地理に関する奇事、異聞を収録した「世界年代記」である。ニュルンベルク最大の印刷業者、アントン・コーベルガーによって、約2,000個の木版挿画を添えて印刷され、一般に「ニュルンベルク年代記」と呼ばれている。この書物は、後の出版物によって歴史書としての資料的価値は失われたが、その挿し絵、印刷またその木版画や諸都市についての記述は高く評価されている。グーテンベルクの「42行聖書」についで15世紀のもっとも有名な出版物である。同じ年に同じ印刷業者によって、ドイツ語版も印刷された。 
ニュルンベルク年代記  
ドイツの医者・人文学者のハルトマン・シェーデル (Hartmann Schedel) がラテン語で書いた年代記。ゲオルグ・アルト(Georg Alt)のドイツ語訳と合わせて、インキュナブラ(最初期の活字本)として1493年に出版された。その当時の慣例どおり、この本には表紙がない。冒頭の記述から取って、ラテン学者はこの本をただの『年代記』(Liber Chronicarum)と呼ぶ。英語圏では出版された都市にちなんで『ニュルンベルク年代記』(the Nuremberg Chronicle)、ドイツ語圏では著者名を付けて『シューデルの世界史』(Die Schedelsche Weltchronik)と呼ばれることが多い。現存する本の挿絵は着色されていることが多いが、これは印刷後に手で塗られたものである。  
この年代記では、世界史を7つの時代に区分して解説している。  
第1期:世界の創造から大洪水まで。  
第2期:アブラハムの誕生まで。  
第3期:古代イスラエルのダビデ王まで。  
第4期:バビロン捕囚まで。  
第5期:イエス・キリストの誕生まで。  
第6期:現在まで。この部分が最も長い。  
第7期:世界の終わりと最後の審判の概要。  
『年代記』は1493年7月12日、ニュルンベルクでラテン語で出版された。同じ年の12月23日にドイツ語訳が出版された。ラテン語で1400〜1500冊、ドイツ語で700〜1000冊が出版された。1509年の本の奥付には、この時までにラテン語として539刷、ドイツ語として60刷が出版されたことが書かれている。現在、ラテン語本が約400冊、ドイツ語訳本が約300冊が残っている。挿絵が着色された本も多く、この着色専門の業者もあったほどだった。その挿絵だけがオールド・マスター・プリント (Old master print) として水彩で着色されて売られたことも多い。また、挿絵だけが切り取られて売られることもあった。印刷・出版は、画家アルブレヒト・デューラーの代父母(後見人)、アントン・コーベルガー (Anton Koberger) が行った。コーベルガーはデューラーの生まれた1471年、金細工職人をやめて印刷家・出版家になり、ドイツの初期の出版家として最も成功した一人となった。最終的には印刷機24台を所有し、リヨンやブダペストなどドイツの諸都市に多くの支店を出した。 
コーベルガーと『ニュルンベルク年代記』  
今年1993年はインキュナブラを代表する書物の一つ『ニュルンベルク年代記』が刊行されてからちょうど500年目にあたる。この『年代記』はラテン語とドイツ語の両版が制作され、前者が1493年7月12日、後者が同年12月23日に完成された。  
この書物が誕生した当時のヨーロッパではグーテンベルクが考案した活版印刷術によるメディア革命が進展し、中世以来の写本の役割が次第に小さくなり、印刷本が優位になりつつあった。  
印刷術はマインツで始まり、シュトラスブルク、バンベルク、ケルン、イタリアのスビアコ、アウクスブルク、ローマ、バーゼル、ヴァネツィアと伝播し、1470年にはヨハネス・ゼンゼンシュミットがニュルンベルクに最初の印刷工房を設立して活動を始めた。第2の工房を開設したのがアントン・コーベルガーである。3番目がフリードリヒ・クロイスナー、次が天文学者ヨハネス・レギオモンタヌスである。こうしてニュルンベルクでは1500年までに都合19人の印刷業者が活動した。15世紀、ニュルンベルクの印刷物の半数以上は宗教関係書であり、そのうちの3分の1以上が説教書、神学書であった。  
『ニュルンベルク年代記』を印刷したアントン・コーベルガーは代々パン屋を営む裕福な商人の家に1440年代に生れた。当時ニュルンベルクはドイツで最も繁栄した商工業都市となり、富裕商人層が市参事会の会員に選出され都市の政治経済に大きな役割を果たしていた。コーベルガー家もその一つであった。アントンは若い時金細工師の修業をしたといわれる。当時同業者には画家アルブレヒト・デューラーの父がいた。その彼が何時、どこで、誰の許で印刷術を習得したのかはよくわかっていない。ゼンゼンシュミットからこの新しい技術を学んだとも考えられよう。いずれにせよ1470年頃に印刷工房を開いたようだ。  
1470年にウルスラ・イングラムと結婚し、また同年生れたデューラーの息子にアルブレヒトという名を授けて後の巨匠の名親にもなった。アントンはウルスラとの間に8人の子供をもうけた。1491年にウルスラが他界すると、翌年にマルガレーテ・ホルツシューハーと再婚した。彼女との間には17人の子供をもうけた。当時のヨーロッパでは幼児死亡率が高く、また再三のペストの大流行で子孫を残すことは大変なことであった。それにしても、ヨーロッパ最大といわれた印刷所を経営し、広い販売網を作り上げたアントンのバイタリティーには驚嘆する。  
印刷業者としてのアントン・コーベルガーの最初の作品は1471年刊行のヨハン・ニダー『告白の手引き』とされる。近年、そうではないという見解もある。印刷書に彼の名前が最初に刻まれるのは1473年7月24日刊行のボエティウス『哲学の慰め』である。以来印刷活動から引退する1504年まで約240書を世に送り、使用した活字も27種類(あるいは25種類)に上る。引退後はもっぱら出版販売を行ったが、1513年に70歳で亡くなった。  
コーベルガーの印刷点数を年代別にみてみると、1470年代が35点、1480‐85年が59点、1486−89年が39点(1490年は印刷書の記録なし)、1491‐95年は50点、1496‐1500年は46点、1501−04年は11点などとなっている。コーベルガーも他のニュルンベルクの印刷業者と同様に宗教書および法律書を中心に仕事をした。彼の代表作としては、ラテン語聖書(1475年初版)、ドイツ語聖書(1483年初版)、アントニヌス『神学大全』(1477−79年初版)、ボエティウス『哲学の慰め』  
(1473年初版)、ヴォラギーネ『黄金伝説』(1478年初版)、ニコラウス・デ・リラ『聖書注解』(1481年初版)など幾多版を重ねたものや、挿絵本として著名なフリドリン『宝石箱』(1491年)、上述のハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』  
(1493年)、デュラー作『黙示録』(1498年)、『聖ビルイッタの天啓』(1500年)などがある。とりわけ刊行500年を迎えた『ニュルンベルク年代記』は挿絵の豊富さと制作に関係した人々の重要さ、そして関係文書が極めてよく保存されていることで有名である。  
この書物の出版に関係した人々は当時のドイツを代表する文化人ばかりであった。ニュルンベルクの有力者ゼバルト・シュライヤー等が出資者となり、画家ミヒャエル・ヴォールゲムートとヴィルヘルム・プライデンヴルフがアート・ディレクター(当時彼らの工房でデュラーが修業しており、本書の挿絵制作に参加したと考えられている)、人文学者ハルトマン・シェーデルが本文を書き下ろし、ニュルンベルク市の収入役で能書家であったゲオルク・アルトが稿本の制作とラテン語からドイツ語への翻訳を担当、コーベルガーが印刷を手懸けた。  
『年代記』出版の契約書によればコーベルガーは単なる雇われ印刷業者であり、企画・編集には深く関わっていないようだが、企画当初から印刷をコーベルガーに委ねることは自明であったと思われる。というのは、木版画のべ1809点、600頁を越える大冊を印刷し、しかもそのドイツ語版を同時に出版できるのは当時のニュルンベルクでは彼をおいて他になく、さらに、出版部数の記録はないが現在部数から推定してラテン語版1500部、ドイツ語版1000部という当時としては破格の大部数を刷り上げる程大きな印刷所はやはり他のどこにもなかったからである。加えて、『ニュルンベルク改革法典』(1484年)と『宝石箱』の木版画を担当したのもヴォールゲムートであり、彼らの親しい関係が以前からあった。また、  
『年代記』出版のきっかけが『宝石箱』用に制作された下絵をシュライヤーが見たことであったと推測されている。一方、契約書ではコーベルガーは出資者と画家との間の諍いの仲裁役として明記されており、彼が信望厚い人物であったということができる。つまり、コーベルガーが本書の出版に果たした役割は決して雇われ印刷業者程の小さなものではなかったのである。  
 
 
レギオモンタヌス「プトレマイオスの天文学大全の抜粋」初版 1496年

 

Regiomontanus.(Johannes Muller)(1436-76)  
Epytoma in Almagestum Ptolemaei.  
本書は、ギリシャの天文学者プトレマイオスが、ギリシャ天文学を集大成した「アルマゲスト」の最初の印刷本で、ヴェニスで印刷された。コペルニクスの「天体の軌道について」、ニュートンの「プリンキピア」と並び天文学上の3大古典に数えられている。「アルマゲスト」は、ギリシア最大の天文学書であったばかりでなく、中世を通じて最も権威を持った天文学書である。したがって、千数百年にわたって天文学界を支配し、その天動説を通じて、多くの人々の宇宙観の中心となった。ヨーロッパの天文学は、「アルマゲスト」の研究によって初めてギリシア天文学の水準に到達することが出来たといわれるが、その十分な理解は、ヨハン・ミューラーによって初めて可能となった。ミューラーは、レギオモンタヌスの名でよく知られたドイツの天文学者、数学者である。 
クラウディオス・プトレマイオス  
(Κλαύδιος Πτολεμαῖος, ラテン語: Claudius Ptolemaeus, 83年頃 - 168年頃)は、『アルマゲスト』の著者として知られる古代ローマの天文学者、数学者、地理学者、占星術師。エジプトのアレクサンドリアで活躍した。英称はトレミー (Ptolemy)。  
クラウディオス(クラウディウス、Claudius)はローマ人の一般的なノーメン(名前)の一つであり、プトレマイオス(Πτολεμαῖος)はギリシャ人の名である。このため、クラウディオス・プトレマイオスは、ローマ市民権が与えられたギリシャ人と考えられる。つまり、クラウディオス・プトレマイオスという名は、ギリシャ人としての本来の名であるプトレマイオスをコグノーメンとして、市民権とともにクラウディオスというノーメンを与えられたローマ人としての名である。したがって、ギリシア人としては、アレクサンドリアのプトレマイオス(Πτολεμαῖος ὁ Ἀλεξανδρεύς)と呼ぶべきであるが、一般的ではない。一方、ローマ人としては、ほかにプラエノーメンを持っていたはずであるが、これは不明である。ただ、クラウディオスというノーメンはローマ皇帝クラウディウスによって与えられた可能性が高く、ティベリウス(Tiberius)というプラエノーメンがともに与えられていたと思われる。すなわち、彼のローマ人としての本名はティベリウス・クラウディウス・プトレマエウス(Tiberius Claudius Ptolemaeus)であった可能性が指摘されている。  
業績  
主著『アルマゲスト』で、地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を唱えた。ただし、天動説などはプトレマイオスが初めて唱えたわけではなく、『アルマゲスト』の内容は、アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学の集大成である。幾何学におけるエウクレイデスの『原論』のように、『アルマゲスト』はそれまでの天文学を数学的に体系付け、実用的な計算法を整理したことで、何世紀もの間天文学の標準的な教科書としての地位を得た。この中で当時火星の運行などで見られた逆行を惑星が「周転円」という小さな円を描きながら地球の周りを回転することによって起こると説明し、これによって天動説の地位を守った。天体観測の方法や天体の軌道計算、太陽までの距離やその大きさといったあらゆる知識をひとつにまとめたことが天文学におけるプトレマイオスの業績である。  
なお、『アルマゲスト』の本来の書名はギリシャ語で『Μαθηματικὴ Σύνταξις』(Mathematike Syntaxis、Mathematical Treatise、数学全書)である。通称として『Ἡ Μεγάλη Σύνταξις』(He Megale Syntaxis、The Great Treatise、大全書)が用いられており、アラビア語に翻訳された際に付いた定冠詞Alが、ラテン語に再翻訳されたときにもそのまま残り、Syntaxis(Treatise)が省略されて『Almagest』(The-greatest、最大)になった。このことからもわかるように、『アルマゲスト』は当時は数学書として扱われており、球面幾何学など最先端の数学的な内容を含んでいた。  
著書『ゲオグラフィア(英語版)』(Geographia、地理学)に収められている地図は、世界で初めて経緯線を用いた物であり、古代の人々の地理に関する知識を集成したものである。しかしながら天文観測等のデータがあまり正確な物ではなく、地球の周長を実際の7割ほどの大きさと計算している。この地図は、約1,000年後の大航海時代にも影響を及ぼし、クリストファー・コロンブスは「東よりも西方に航海したほうがアジアへは近道である」と考えてアメリカ大陸を発見する事になる。  
また、著書『テトラビブロス』(Tetrabiblos、四つの書)は、占星術の古典として知られている。  
ほかに、平行線の公理に関する著書や音楽に関する著書もあった。  
音楽については、音程を二つの音の数比で表すピュタゴラス派の方法論を批判的に継承した。定性的な方法を示した古典期のアリストクセノスの『ハルモニア原論』を新ピュタゴラス派(ピュタゴラス派の伝統は紀元前4世紀の末に一度途切れている)の立場から痛烈に批判し、独自の見解を提起したハルモニア論(全三巻)を著した。  
19世紀になり、プトレマイオスの観測結果を再調査した天文学者らは、結果の中にある誤差を発見。古代天文学と比べても観測地点や観測時間が間違っているなどミスの多いものだった。カルフォルニア大学サンディエゴ校の天文学者デニス・ロウリンスは、プトレマイオスが行ったとされる天体観測は、プトレマイオス観測以前のロードス島、ヒッパルコスの観測を丸ごと盗用したものであると指摘している。 
アルマゲスト  
(羅: Almagest)はローマ帝国時代にエジプト・アレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオスによって書かれた数学と天文学の専門書である。原典は 古典ギリシア語: μαθηματικἠ σύνταξις (ギリシア語: Mathematike Syntaxis (『数学全書』)、後に He Megale Syntaxis(『大全書』)とも呼ばれる)という書名であった。これが後にアラビア語に翻訳された際に al-kitabu-l-mijisti("The Great Book") という書名になり、これがさらにラテン語に翻訳されて ラテン語: Almagest という名前に変わった。  
『アルマゲスト』に書かれていた天動説は惑星の運動を説明するモデルとして1000年以上にわたってアラブ及びヨーロッパ世界に受け入れられた。『アルマゲスト』は現代の我々にとって、古代ギリシアの天文学について知る上での最も重要な情報源となっている。また『アルマゲスト』は、原本が失われた古代ギリシアの数学者ヒッパルコスの文献についての引用を多く含むため、数学を学ぶ者にとっても価値のある本とされてきた。ヒッパルコスは三角法についての本を著したが、彼の原書は失われているため、数学者達はヒッパルコスの研究成果や古代ギリシアの三角法一般についての情報源として『アルマゲスト』を参考にしている。  
『アルマゲスト』の影響  
このプトレマイオスによる数理天文学の包括的な専門書はそれ以前のギリシア天文学の参考書のほとんどに取って代わるものとなった。ある本はより専門的な内容であったために人々の興味を失うこととなり、別の本は単に『アルマゲスト』よりも内容が時代遅れになった。結果として、これらの古い本は写本されなくなり、次第に失われていった。今日では、ヒッパルコスのような天文学者の研究成果について我々が知る知識のほとんどは『アルマゲスト』での引用に由来する。  
中世及びルネサンス時代の『アルマゲスト』  
『アルマゲスト』の最初のアラビア語訳は9世紀に二つの別々の仕事によって行なわれた。そのうちの一方はアッバース朝のカリフ・マアムーンの援助によって行なわれた。この頃にはヨーロッパでは『アルマゲスト』の存在は忘れられ、わずかに占星術の教えの中に残るのみとなっていた。そのため、西ヨーロッパの人々はプトレマイオスをアラビア語版の翻訳本によって再発見することとなった。12世紀にはスペイン語版が作られ、後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の支援によってラテン語にも翻訳された。またこの頃、クレモナのジェラルドによってスペインのトレドでアラビア語版から直接翻訳された別のラテン語版も作られた。ジェラルドは専門用語の多くを翻訳することができず、ヒッパルコスを表すアラビア語の Abrachir などもそのまま残している。  
15世紀になると西ヨーロッパでギリシア語版が作られ、レギオモンタヌスとして知られるドイツのヨハン・ミューラーがギリシアの才能溢れる枢機卿ヨハンネス・ベッサリオンの勧めによってラテン語の抄訳版を出版した。同じ時期にラテン語の完訳版がトレビゾンドのゲオルギウスによって作られた。この版には本文とほぼ同じ分量の注釈が付いていた。この翻訳はローマ教皇ニコラウス5世の支援によって行なわれ、それまでに出回っていた訳本を置き換えることを目的としていた。この新訳本は非常に良く改善されたものだったが注釈はあまり出来が良くなく、大きな批判が巻き起こった。教皇はこの本の献呈を拒否し、レギオモンタヌスの訳本の方がこの後数世紀にわたって好んで用いられた。  
『アルマゲスト』の注釈はこれまでに、アレクサンドリアのテオンによるもの(現存)、パップスによるもの(断片のみ残る)、アモニウスによるもの(喪失)などがある。 
 
 
16世紀 新しい世界観 / 天動説から地動説へ

 

ルネサンス末期。古代ローマ時代に、地球中心の宇宙体系を説いたプトレマイオスの「天動説」が中世ヨーロッパ社会を支配していた。ポーランドの天文学者コペルニクスによって地球は太陽を中心に回る一つの惑星に過ぎないとする「地動説」が発表され、中世のキリスト教的世界観が変わるもととなった。コペルニクスの説が通説となるには後百年あまりを要するが、この時代は、宗教改革、大航海時代など、近代への出発をなす出来事が続いた。また、ヨーロッパ人による“地理上の発見”によってヨーロッパ諸国のための広大な海外市場が開かれ、商工業も急速に発展し、ヨーロッパに近代国家が生まれた。コペルニクスによってアリストテレス以来の世界観が覆され、科学精神が芽生え、繁栄の世紀となったのである。 
天文革命  
16世紀、ポーランドの天文学者、コペルニクス(1473-1543)が没する直前、著書『天球回転論(天球の回転について)』が刊行された。彼の強い意向があり、臨終の際に出版されたのである。著書が彼の手元に届けられ、その数時間後に彼は没した。  
コペルニクスが著書の出版を臨終直前に刊行しようとした理由は、彼が1530年頃に打ち立てた宇宙観である地動説(地球の自転と公転を認める説)に原因があった。この自説は、かつてアリストテレス(ギリシャの哲学者。B.C.384-B.C.322)やプトレマイオス(2C頃のギリシア人。古代ローマ時代に活躍。主著『天文学大全(アルマゲスト)』)らが長年に渡って唱えられ、定説とされていた地球中心に宇宙が動いているという天動説(地球中心説)を否定するものであった。  
特にキリスト教の頂点に立つローマ教皇は天動説を絶賛し、プトレマイオスの天動説を長年に渡って、教会公認の定説とされていたため、天動説を否定して地動説を主張するということは、カトリック教会を敵に回すことと同様であった。かつてユリウス暦やグレゴリ暦(グレゴリウス暦)も天動説に基づいて着手され、中世キリスト教世界で政治・文化・社会・宗教のあらゆる面で定着していた状況をみて、コペルニクスは、地動説は単純に認知されるものではないと実感し、死する直前まで胸の内に秘めていたとされている。  
コペルニクス没後、著書『天球の回転について』は予想通りに激しい非難を受けた。そして、カトリックの反宗教改革(対抗宗教改革)における禁書目録(Index。反カトリック対象の著作物と著者リスト)に載せられた(1616)。また当時のドイツ宗教改革の中心だったマルティン=ルター(1483-1546)も、当時の教会に関して批判的であったにもかかわらず、コペルニクスの主張は聖書記載からの逸脱行為であると非難したほどであった。  
コペルニクスが没して約20年後、後に"天文学の父"と称される人物がイタリアに誕生した。ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)である。ガリレイは、イタリアのトスカナ大公国の領であるピサ郊外で、音楽家の家に生まれた。1581年、ピサ大学に入学して医学を学ぶも、数学・物理学に関心を寄せ、医学を断念、エウクレイデス(ユークリッド。B.C.300頃のギリシア人幾何学者)やアルキメデス(シチリア島シラクサの数学・物理学者。B.C.287?-B.C.212)の著書に基づき、振り子の等時性(振り子の揺れる規模が違っても、往復時間が等しい)を発見して天秤を改良、"小天秤"として発表し絶賛を受け(ピサ大聖堂で揺れるシャンデリアを見たことからヒントを得たという説もある)、1589年、25歳にしてピサ大学の教授となった。  
当時の物理学分野では、アリストテレスの自然哲学大系が最高権威として用いられていた。例えば、落体に関して、重いものほど早く落下するのが定説であった。ガリレイはアリストテレスの著作を読んだが、この説は正統ではないと批判した。しかし認められず、彼はピサ大学を離れて、当時ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学教授として、ヴェネツィアに移住、落体の研究に没頭(有名な故事であるピサの斜塔から大きさの違う2つの物体を同時に落とし、同時に着地させたという実験は事実ではなく、ガリレイの弟子による創作とされている)、その後、物体の落下時間は質量には依存せず、落下距離は落下時間の2乗に比例するという落体の法則を発見する。  
ヴェネツィアに移住したとき、イタリアでは偉大な哲学者が宗教裁判所(異端審問所)に告発されていた(1592)。ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)という哲学者である。ヴェネツィアにいたブルーノは、汎神論(はんしんろん)を唱えていた。汎神論は物体も精神も神のもっている性質のあらわれであり、神と万物は同一であるという考え方であるため、神は超越的存在であるとして信奉するキリスト教会から異端視されていた。またコペルニクスや、コペルニクス以前に地球の自転を承認したとされるドイツ学者ニコラウス=クザーヌス(1401-64)を信奉していたブルーノは、『無限な宇宙と諸世界について』などを著し、無限の宇宙の中には、絶えず生成と死滅を繰り返す無限の世界(太陽系のこと)があると主張し、地球だけが宇宙の中で唯一生命がある星であるという当時のキリスト教会の世界観とは全く対照的であった。ブルーノの世界観は汎神論と地動説を源流としていることで、反カトリックの危険人物として警戒された。  
ガリレイはアリストテレスの説が物理学だけではなく、天文学においても批判的であった。ガリレイはコペルニクスやブルーノと同じく、地動説を信じていたのである。ガリレイの7歳年下であるドイツの天文学者ヨハネス=ケプラー(1571-1630)は、コペルニクスの地動説に感激し、共鳴者としてガリレイと親交を深め、1597年、ガリレイはケプラーに宛てた手紙に地動説を信じていると記した。しかし地動説は異端者対象となるため、公言は常に避けられていた。そんな中、彼らに衝撃が走った。1600年、ブルーノが焚刑に処されたのである。  
ブルーノは逮捕後ローマに護送され、7年間、尋問と拷問を受けていた。そして焚刑を目前にして、ブルーノは「判決を受ける私よりも、判決を言い渡したあなたたち(審問官)の方が真理の前に怖れおののいているではないか」と発し、苦痛の声ひとつあげず火中に消えていった。ブルーノとガリレイとの間には直接的な接触はなかったが、ガリレイにとって、ブルーノの焚刑は他人事ではなく、宗教裁判の恐ろしさを改めて痛感した。しかし、地動説の考えを曲げることはなく、さらに研究を進めた。  
1608年、オランダで望遠鏡が発明されたのをきっかけに、ガリレイ自身も望遠鏡を製造、1610年3月、木星の衛星を4個発見した(ガリレイ衛星。第1衛星をイオ、第2をエウロパ、第3をガニメデ、第4をカリストという)。ガリレイはこの観測結果を『星界の報告』として論文発表した。これを機に、ガリレイの地動説発言が多くなり、ケプラーもガリレイを擁護する目的で地動説を主張した。その後、ガリレイは金星の満ち欠けと公転、太陽の黒点、月面の凹凸、天の川が恒星の集合であることなど、不変の宇宙を主張する地球中心の天動説を大きく覆す発見を次々と行った。地球が自転・公転しなければ、これらは発見できなかったものとして、コペルニクスの地動説を裏付ける確固たる証拠となったのである。このためアリストテレス派の学者や、天動説を主張するドミニコ修道会らと激しい論争となっていった。  
ドミニコ修道会士は、異端審問所にガリレイの地動説の異端性を訴え、1616年、ガリレイはローマに召喚された。1回目の宗教裁判であった。ここでは、地動説を主張せず、大幅な言動を控えよとの忠告に留まり、無罪となったが、同年、コペルニクスの『天球の回転について』を一時的に閲覧禁止処分にしている。  
フィレンツェ郊外に住居を移し、しばらく活動を自粛していたガリレイだったが、1632年、彼は『天文対話』をフィレンツェで発刊した。地動説と天動説をそれぞれ主張する者同士の対話を記したもので、地動説を一方的に主張する形では書かれてはいない。しかし、後の影響を考えたのか、1633年、再度ローマ教皇庁の異端審問所から出頭を命じられ、2回目の宗教裁判にかけられてしまった。  
『天文対話』が慎重に執筆されたにもかかわらず、地動説を擁護している面があり、1回目の裁判での忠告を無視しているということであった。1回目の無罪判決内容を主張したガリレイは2回目の裁判でも無罪を主張するが、異端審問所側からは1回目の裁判の撤回と、ガリレイの有罪判決を言い渡し、ガリレイは終身刑の身となってしまった。また教皇からカトリックにおける破門が宣告、すべての役職を剥奪され、『天文対話』の禁書目録入りも決定、そして地動説放棄を命じられた(地動説放棄の宣誓をさせられたガリレイが、宣誓直後に"それでも地球は動く"とつぶやいたとされているが、彼の今後にかける研究の熱意と、死罪か無期刑の決断を迫られた当時の裁判から考えて、この発言はありえないとされ、後に創作されたとする説も有力である)。  
同1633年の判決が下されたガリレイは、数ヶ月後に軟禁に減刑され、フィレンツェ郊外に幽閉され、監視付きの生活の身となったが、フィレンツェにある住居への帰宅は許されなかった。翌1634年には、ガリレイを支えた長女が没し、1637年にはガリレイの片眼が失明、翌1638年には、とうとう両眼が失明した(望遠鏡による太陽観測が原因とする説がある)。  
それでもガリレイは執筆行を怠らず、彼の口頭を弟子と息子に執筆させ、1638年に『新科学対話』を、カトリックの息がかからない、プロテスタント国オランダのライデンで発刊した。  
1642年、ガリレイは幽閉先で78年の生涯を終えた。しかし没後も身分回復は成らず、家族の墓地に葬られず、弔辞を読むことも、墓碑を建てることも許されず、正式な埋葬は1737年まで延ばされた。  
後世になり、ローマ教皇ヨハネス=パウルス2世(位1920-2005)は初めて、裁判の見直しを発表(1980)、教皇自身も裁判の誤りを認め(1983)、翌年調査委員会はガリレイの有罪判決を撤回した。そして1992年、2回目の裁判から359年ぶりに、ガリレイは教皇によって破門を解かれたのであった。  
 
主人公は、近代自然科学の基礎を築いたイタリアの天文学者・物理学者、ガリレオ=ガリレイです。ルネサンス期の後半〜末期に活躍したガリレイですが、カトリック教会の権威が絶対的だったことで、現世よりも死後の理想界を重んじていた中で、現世における経験や実験、感覚などで確かめられる現実の世界を重んじたのが、近代科学者だったのです。その代表が、コペルニクス・ガリレイ・ケプラーら天文学者であるといえます。そして、彼らの活躍により、科学・技術の革新が年々飛躍していき、後のニュートン(イギリス。1642-1727)らをはじめとする、17・18世紀を支える偉大な科学者達を生んだと言っても過言ではありません(ニュートンの生年はガリレイの没年と同じというのも興味深いです)。  
さて、今回の学習ポイントです。コペルニクス・ガリレイ・ケプラーの3人は地動説を主張し、教会の天動説を否定しました。コペルニクスが唱えた地動説を、ガリレイは望遠鏡などを使用して実証、またケプラーも惑星運動の法則を確認するなど数理的に実証しました。コペルニクスの『天球回転論(天球の回転について)』は新旧両課程の用語集に登場しますが、ガリレイの『天文対話』は、旧課程の用語集のみ登場しています。入試で著書名を書かせることはあまりありませんが、余裕があれば知ってもらいたいです。  
本編以外の天文学者を覚えるとするならば、少々時代がずれますが、地球球体説を主張したイタリアのトスカネリ(1397-1482)がいます。コロンブス(1446/51-1506)の航海に影響を与えた人物です。  
またジョルダーノ=ブルーノも登場しました。彼は天文学者ではありませんでしたが、汎神論と地動説を融合させて発表したので、教皇の怒りに触れ処刑されました。汎神論はのちにオランダの哲学者スピノザ(1632-77)によって取り上げられました。  
余談ですがルネサンス期は火薬(火砲)・羅針盤・活版印刷の三大技術革新がありました。とくに活版印刷は1450年頃、マインツ出身のグーテンベルク(1400?-68)の改良によって新たな文化を切り開きました。大量印刷によって、思想の普及が進展されていくのですね。このグーテンベルクの名前も知っておきましょう。 
 
 
ヴィトルヴィウス「建築について」絵入り初版 1511年

 

Vitruvius Pollio, Marc.(B.C.1世紀)   
M. Vitruvius per Iocundum solito castigatior factus cum figuris et tabula ut iam lrgi et intelligipos sit.  
ヴィトルヴィウスは紀元前のローマの建築家、建築理論家と推定されるが、生没年、経歴は不明。本書は、ローマの帝政が確立して建設事業が活発になった時勢に貢献しようとして、当時の建築知識を集大成した建築技術の百科全書である。建築は当時の概念では、単に建築のみならず、土木、軍事、機械などの技術をも含んでいる。本書が書かれたのは、紀元前25年頃と推定されており、建築に関する残存古文献の中で最も古いものである。写本の最も古いものは、8世紀に制作されたと推定される大英博物館のハーリー文庫の写本で、比較的完全なので後世の校訂本の底本となっている。印刷本の最古のものは1486年頃ローマで刊行されたものである。  
マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ  
(ラテン語: Marcus Vitruvius Pollio, 紀元前80年/70年頃 - 紀元前15年以降) 共和政ローマ期に活動した建築家・建築理論家である。『建築について』(De Architectura、建築十書)を著した。この書物は現存する最古の建築理論書であり、おそらくはヨーロッパにおける最初の建築理論書でもある。  
ウィトルウィウスについては、『建築について』の著者であること以外には知られず、その出生年、没年、家系は不詳である。ただし著作からは彼が建築家であることは明らかであり、またアフリカ戦争時にガイウス・ユリウス・カエサルの下で勤務し、アウグストゥスに仕えたことが確認できる。著作によって名声を得ようとしたようであるが、彼の『建築について』がローマ建築にどのような影響を与えたかは定かではない。  
『建築について』はおそらく紀元前30年から紀元前23年の間に書かれたと推測される。この書において最も知られた理論は、ある建築が成功するかどうかは、職人の技や形式ではなく、建築家の仕事が社会ともつ相関性に依存するというものである。また、「よい建築は、堅固さ、快適さ、快という3つの条件によって成り立つ」とする定式は多くウィトルウィウスに帰せられるが、これが直接彼の理論であるか、それとも翻訳者による敷衍であるかどうかについては議論がある。  
『建築について』が現在に伝わるのは、カール大帝によるカロリング朝ルネサンスの賜物である。他のラテン語著作と同様、このとき作られた多くの筆耕本によって、この本は伝えられた。現在残る写本は、その多くがこのときに製作された写本のひとつ、大英博物館図書室所蔵ハーレイ写本2767番を定本としている。ウィトルウィウスの理論は中世においても知られていたが、ルネサンス期の建築家に特に注目され、新古典主義建築に到るまで古典的建築の基準として影響を与えた。  
ウィトルウィウスは『建築について』の中で水車について論じている。古代ギリシアにおいて、水車とは水平に流れる小川の流れを利用して作動させる横向きの車輪を意味し、滝のように落下する水の力を利用して作動させる現代的な水車は知られていなかった。ウィトルウィウスは『建築について』において後者の水車を紹介し、こちらを用いることでより強力な水力を活用できることを、ヨーロッパで初めて提唱した。そして、西洋では現代に至るまでこちらの水車が一般的なものとして受け継がれている。このことから、水を縦に落として作動させる形式の水車は、横向きのギリシア型・ノルウェー型と対比して、ウィトルウィウス型と呼ばれている。 
ウィトルーウィウス / 建築書  
これより古い建築はあるが、これより古い建築書はない。わずかに漢代中国に断片や規矩(きく)術が遺るくらいである。  
だから本書は世界建築学史上において、きわめて貴重な一冊だということになる。建築書としてだけではなく、ユークリッドの『幾何原論』、プトレマイオスの『アルマゲスト』と並ぶ“世界模型の原理”を打ち立てた決定的な記念碑でもあった。こんな建築書はその後は1452年にアルベルティが『建築十書』を著わすまで、まったく出現しなかった。だいたいアルベルティの書名にして、この『建築書』が十書で構成されていることの踏襲だった。  
ただ残念なことに、著者のウィトルーウィウス(表記はヴィトルヴィウスとも)についてはいまのところ出自も経歴も何もわかっていない。紀元前後か紀元前1世紀ころの人物だったということが推定できる程度なのだ。きっとユリウス=カエサルやアウグストゥスの依頼で、大規模な建築や技術開発にかかわっていただろう。さぞかしブルネッレスキやミケランジェロほどの大活躍をしたのだろうかと思われる。  
したがってここで重要なのはウィトルーウィウス個人のことではなくて、当時の状況的な集合人物としてのウィトルーウィウスということになる。とくにそのころ「建築」architecturaとは、たんなる建築術だけではなくて、「諸技術の原理的知識を擁した職人たちの制作を促し指導しうる工匠の術の全般にかかわること」をさしていたということ、すなわち都市文化の全知全能をめぐるための技法書が「建築書」だったということを知っておく必要がある。  
ぼくが本書に出会ったのは1969年だった。この年、東海大学出版会から本書の前身にあたる『ウィトルーウィウス建築書』が東海大学古典叢書の一冊として翻訳刊行された。  
三宿の三徳荘で貧乏暮らしをしていた身にはとうてい手の出ないものだったが、数年前から東海大学の仕事をしていた縁で、大学の広報部長さんに貰った。「ふうん、君こんなもんに関心があるのか、建築をめざしてるの?」と言われた。函入りの分厚い立派な一冊は対訳になっていて、まさに古代ローマのありとあらゆる知音というべきが地響きをたてていた。  
すぐに読んだわけではなかったが、フランシス・イエイツにも鼓舞され、いつしか通読していたうちに、言いようのない感銘をうけていた。これは博物学であって百科全書であり、建築技法書であって軍事書であり、かつ天文学にも自然学にも人間学にも芸術論にもなっている。  
最初にガーンとやられたのは、ウィトルーウィウスの言う建築術が、タクシス、ディアテシス、オイコノミアの3つによって成立していたということだったように憶う。タクシスは「建築構成された肢体が度に適うこと」を、ディアテシスは「配置と組立てに齟齬がないこと」を、オイコノミアは「建築肢体の外貌がシンメトリーをどのように含むかということ」をあらわしている。これはどう見ても完璧な取り組みである。  
これだけでもぼくとしては満足なのだが、ウィトルーウィウスはこの原理にもとづいて、こんなふうな分類と定義をしてみせる。  
まずは建築家が携わるべき部門を(1)建物をつくる、(2)日時計をつくる、(3)器械をつくる、に分ける。日時計と器械がルーチンになっているところがこの時代を特徴づけている。  
(1)の建物は、さらに「公用地の公共建造物」と「私人の家」に分けられて、公共建築物の建て方には、1防御的、2宗教的、3実用的の3種の意図を用意する。これも完璧だ。  
そのうえでこれらに付与されるべきデザイン性として、ウィトルーウィウスは「強さ」(フィルミタス)と「用」(ウティリタス)の重要性をあげ、それこそが「美の理」(ウェヌスタス)の追求すべきものだと主張した。この「美」「強さ」「用」は、のちにヘンリー・ウォットンによってディライト(喜び)、ファームネス(堅固)、コモディティ(利便)と名付けなおされたものでもあるが、しかしながらぼくならば、ウォットンの言い換えよりもウィトルーウィウスの直截に軍配をあげる。  
けれどもここまでは、まさにギリシア的というかヘレニズム的というか、当時の建築家なら考えそうなことだった。ヘレニズムというのはこのくらいの度量も雅量も力量ももっていた。ぼくが感銘をうけたのはこの先のとんでもない先駆性なのである。  
なんとウィトルーウィウスはこれら「建てること」の行為と原理には、そもそも「意味が与えられる意匠」と「意味を与える意匠」という二つの自覚と統合が必要だとみなしたのだ!   
デザインには「意味の所与」と「意味の付与」とがめざされなければいけないと言ったのだ。まるでシニフィアンとシニフィエだ。おいおい、これはソシュールからメルロ=ポンティをへて今日に至った現代思想そのものではないか。  
ウィトルーウィウスは「あらゆる建造空間は原始的な小屋から出発する」と考えていた。それゆえ人間がどのように最初の定住をしたかということを洞察しきっていた。  
その洞察が「意味が与えられるデザイン」と「意味を与えるデザイン」の洞察につながっていた。ぼくは『建築書』第二書の次のようなくだりを読んで、腰を抜かしたものだった。  
要約すると、こうなのだ。「人間は前かがみではなく直立して歩き回るようになって、手が何を生み出しうるかに気がついたのである」「ついで人間は火の発見によって、初めて相互の往来をするようになったのだ」「この往来が人々に会合をもたらし、集住をもたらした」「こうして最初は木の葉で屋根を葺き、洞窟を探してこれをさらに掘り、しだいに原始的な小屋づくりを始めるようになったのである」。  
「そもそも人間は模倣的であって学習的である」「それゆえどんな住まいの工夫についても、相互に見逃すはずはなく、二股の枝に梁を渡すこと、泥を塗りこめて壁をつくること、雨水を流すための屋根に傾斜をつけることなどは、あっというまに流行したはずである」「問題はこうした住まいの仕組みが確立しても、それが外国に流れて真似されるとき、その地に材料が不足していることにある」「こうして、その地の建築家は新たな工夫に到達するものなのである」「意味が与えられるもの、意味を与えるものを人々が発見するのは、このときである」!  
これはもう、人間の原初の試みの意味のほとんどのことをウィトルーウィウスは書いてしまったというべきだ。  
ウィトルーウィウスの時代はヘレニズムの時代にあたる。すでにギリシア建築は全盛期をおえている。  
ここでヘレニズムを説明する気はないが、紀元前322年のアレキサンドロスの死から紀元前30年のアウグストゥスによるローマ帝国設立までの約300年が、ふつうはヘレニック期にあたる。そのヘレニズムの特色はいろいろあるが、一言でいえば「人間が住む世界」における「知の変化と拡張」を意識的に追求した時期ということになるだろう。これでだいたいは当たっている。  
アレクサンドリアの「ムセイオン」(図書館)に万巻の書物が備わったのをはじめ、地球を測ったヒッパルコスやポセイドニオスやアリスタルコス、幾何学のユークリッドやアルキメデスやアポロニウス、大旅行を企てたピューテアース、デモクリトスやエピクロスの原子哲学者らの実験精神や、ミロのヴィーナスからガンダーラに芽生えた彫刻まで、それらいずれもが「人間の範疇」と「知の変化の範疇」を心得ていた。  
とくにヘレニズムを特徴づけるのは都市建築群、なかでも神殿と劇場である。  
コスのアスクレピオス神域の復元図やペルガモンの遺跡群を見ていると、ヘレニズムとはその世界観そのものが宗教的舞台装置だったのではないかと思えてくる。エフェソスの劇場なんて25000人の収容力なのだ。  
デーメトリアスのように都市が二重性をもとうとして、すこぶる動的であったことも注目される。これはいわゆる「シェノイキスモス」とよばれている構造感覚で、都市が二つ以上の共同体を繋いで一個の動的拡張を図ったのである。ヘレニック・バロックとでも言いたくなるほどだ。  
ともかくもヘレニズムの都市建築は、神殿であれ劇場であれ都市そのものであれ、第1には世界内包的であり、第2に動的で、それでいて第3に精緻な構造を好んだのである。ウィトルーウィウスがこの精神の延長にいたことはまちがいがない。  
世界内包的で動的で、それでいて精緻きわまりない構造というもの――。これって、ひょっとして今日の日本がめざすべき構造感覚ではなかったか。   
 
 
プラトン「全集」初版 1513年

 

Platon.(B.C.427-347)  
Omnia Platonis opera.  
プラトンは、ギリシアの哲学者。今日一般的に言われている「プラトン全集」は、ローマ皇帝チベリウス(14-37年)の師友であったとも言われるトラシュロスの編集によるものが基本となっている。それは、ギリシャ悲劇の上演形式をまねた4部作を単位としたもので、これが九つ集まって全集を形成している。プラトンの著作で現存する最古のものは、オックスフォード大学のボードリアン図書館に所蔵されている写本で、895年に制作されたとみられている。プラトン全集が初めて印刷本として登場するのは、1484年にフィレンツェで印刷されたラテン語訳である。しかし、ギリシャ語原典としては1513年にヴェニスのアルダイン・プレスで刊行された展示のものが最初である。  
プラトン  
(プラトーン、希:Πλάτων、羅:Plato/Platon、BC427-BC347)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする。  
初期のプラトンは、「敬虔」や「勇気」といった古代ギリシアの伝統的な徳とは何か、それは教えられるものかどうか、といったことを探求したが、著書の中では直接答えは与えられず、最後には行き詰まり(アポリア)に至る。中期には、世界を目に見える現実の世界「現実界」とその元になる完全にして真実の世界「イデア界」とに分けるイデア論を展開した。  
ピュタゴラス学派の思想を学び、とりわけ、幾何学を重んじる思想やオルペウス教的な輪廻転生説の影響を受けた。中期以降、その影響が顕著に見られる。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、後期対話篇ではエレア派の人物をしばしば登場させている。  
プラトンは初めて理論的に人間のこころについて考えようとした人物であり、魂の三区分説(『国家』436A、580C-583A、『ティマイオス』69C)を以って、人間のこころの動きを説明しようとした。イデア論に従って霊魂(プシューケー)の不死性の論証を試み(『パイドン』)、一般的な理解では、その思想は人間の霊魂と身体(肉体)を別々の実体として立てる霊肉二元論、ひいてはデカルトらの物心二元論の源流のひとつと見なされている。  
プラトンはアテナイ郊外にアカデメイアという名で学校を開設した。プラトンの後継者たるべき、アカデメイアを拠点に活動した人々はアカデメイア派と呼称される。  
なお、後述するようにレスリングが得意であったらしい。また、パンクラチオンを「不完全なレスリングと不完全なボクシングが一つとなった競技である」と評したことも知られている。  
生涯  
ラファエロ画「アテナイの学堂」 フレスコ画。なお、これはレオナルド・ダ・ヴィンチ自画像がモデルとされる。  
紀元前427年、アテナイ最後の王コドロス(英語版)の血を引く貴族の息子として、アテナイにて出生。  
祖父の名にちなんで「アリストクレス」と命名されたが、体格が立派で肩幅が広かった (古希: πλατύς) ため、レスリングの師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。  
若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前399年、アテナイの詩人メレトス(英語版)の起訴によって、ソクラテスは「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられる。法廷での投票により死刑に決せられたソクラテスは毒杯を仰いで刑死する。  
この後、プラトンはアテナイを離れ、イタリア、シチリア島(1回目のシチリア行)、エジプトを遍歴した。この時、イタリアでピュタゴラス派およびエレア派と交流をもったと考えられている。  
紀元前387年、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス(英語版)の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた。場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。プラトンの弟子に当たるアリストテレスは17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトン没後、その甥のスペウシッポスが跡を継いで学頭となり、アリストテレスはアカデメイアを去った。  
紀元前367年、恋人(稚児)であったディオンらの懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行した(2度目のシチリア行)。シュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世(英語版)を指導して哲人政治の実現を目指したが、到着した時にはディオンは追放されており、不首尾に終わる。  
紀元前361年、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ、今度はプラトン自身が軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス学派の政治家アルキュタスの助力を得て、辛くもアテナイに帰ることができた。哲人政治の夢は紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって途絶えた。  
プラトンは晩年、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年とも)、80歳で没した。 
哲学  
イデア論  
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は「精神の目」で忘却されていたものを「想起」 (anamnêsis、アナムネ−シス)することによって得ることができるものであり、その想起からかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところの愛(erôs、エロース)が生じるとした。  
哲学者は知を愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。しかるに、ドクサ(思いなし、思い込み)を抱くにすぎない者の愛の対象は「あり、かつ、あらぬもの」である。このように論じてプラトンは、存在論と知識を結びつけている。かれによれば、この宇宙は神が質料(ヒュレー)からイデアを範型として制作したものであって、無から創られたものではない。プラトンは、最高のイデアは善のイデアであり、存在と知識を超える最高原理であるとした。  
もっとも、プラトンの著作の中でイデア論が明確に展開されるのはパイドンなど中期の一連の対話篇に限られる。後期のプラトンがイデア論をなおも維持していたかについては研究者の間で見解が分かれており、「エイドス」などのイデアの類義語をただちにイデア論と結びつけることが可能かどうか、「ある」(存在)の把握の差異、といった論点をめぐって議論がある。  
感性論・芸術論  
プラトンは経験主義のような、人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないと考えたためである。  
また、『国家』においては、芸術についても否定的な態度を表している(『国家』第10巻)。視覚で捉えることができる美は不完全なものであり、完全な三角形や完全な円や球そのものは常住不変のイデアである。芸術はイデアの模倣にすぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣にすぎないものに人の関心を向けさせるものである、として芸術に価値を見出さなかった。  
倫理学  
プラトンの倫理学の特色は「徳は知である」というソクラテスから受け継いだ主知主義(英語版)的な記述に集約される。ただしこれは徳が伝達可能な技術知であるという意味ではない。徳とは、生まれる前は知っていたが生まれた後忘れてしまった想起(アナムネーシス)されるべき知であり、イデアに思索的に至る形而上学的知である。すなわち、プラトンは形而上学とひとつになった倫理学を初めて確立した。  
しかるに、技術的に教え得ない知識を自分も深め、人に勧告するには「魂の気づかい」(エピメレイア・テース・プシュケース)が必要であるが、この意味は理念的な徳の内的理解に向けての精神の教育ということであり、その目的は、眼に見えぬ理念の理解を通じて善のイデアという最高存在にまで精神の射程が及ぶことである。  
その倫理学は国家学、政治学という社会的レベルをその帰結とする。ひとの霊魂が理性、意志、情欲に分かれるように、国家構成階層も支配階層、防衛階層、職能階層に分かれ、それぞれに該当する徳は知恵、勇気、節制である。ここには古代ギリシアのマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙すなわち個々の人間)との類比の見方が見える。 これら三つの徳の調和こそが正義である。国家の最重大事業は教育であり、すなわちプラトンの倫理学は、個人倫理、同時代に対する社会倫理としての政治学、未来に対する倫理学としての教育学、に三分されるのである。 
著書真贋問題  
プラトンの著作として伝承された文献の中には、真偽の疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものも含まれている。  
プラトンの著書の真贋はすでに紀元前のアレクサンドリアの文献学者によって議論されている。現在伝わる最初の全集編纂は紀元前2世紀に行われた。古代ローマのトラシュロスは、当時伝わっていたプラトンの著作をその内容から執筆順に並べ、かつ主題に沿って4部作集に編纂した。現在のプラトン全集は慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。ただしトラシュロスはすでにこの時、いくつかの作品はプラトンのものであるかどうか疑わしい、としている。  
プラトンの真筆であると研究者の間で合意を得ている著作のうち、最も晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく、政治とは何かということが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また、特筆すべきことに『法律』ではソクラテスではなく無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、この語り手の変化は、プラトンがソクラテスと自分との思想の違いを強く自覚するに至ったことを示唆しており、そのゆえにソクラテスを登場させなかったのだと考えている。  
『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後篇』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし『エピノミス』は最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものだと考えている学者も少数ながら存在する。  
プラトンはイソクラテスの影響を受け、中期より文体を変えていることが分かっている。文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる文体統計学により、現代ではかなりの作品の執筆順序について学者間の意見は一致している。たとえばトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただしその内容から、いくつかの作品については執筆年代についての論争がある。 
後世への影響  
プラトンの西洋哲学に対する影響は弟子のアリストテレスと並んで絶大である。  
プラトンの影響の一例としては、ネオプラトニズムと呼ばれる古代ローマ末期、ルネサンス期の思想家たちを挙げることができる。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期のキリスト教やルネサンス期哲学、さらにロマン主義などに影響を与えた(ただし、グノーシス主義やアリストテレス哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)。  
プラトンは『ティマイオス』の中の物語で、制作者「デーミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を造ったとした。この「デーミウルゴス」の存在を「神」に置き換えることにより、1世紀のユダヤ人思想家アレクサンドリアのフィロンはユダヤ教とプラトンとを結びつけ、プラトンはギリシアのモーセであるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経由して中世のスコラ哲学に受け継がれる。  
なお、アトランティスの伝説は『ティマイオス』および『クリティアス』に由来する。  
カール・ポパーは、プラトンの『ポリティア』などに見られる設計主義的な社会改革理論が社会主義や国家主義の起源となったとして、プラトン思想に潜む全体主義を批判した。 
 
 
タルターリャ「新科学」初版 1537年

 

Tartaglia, Niccolo.(1500-77)  
Nova Scientia inventa da Nicolo Tartalea ...  
タルターリャは、イタリアの数学者。彼は、独学の技師であり、測量士であり、数学者であった。タルターリャは3次方程式を解く方法を開発するという、彼の時代における最も重要な数学的発見の1つをなしとげた。本書の中で彼は、弾道学、測量学、工学などを扱っており、この著作は、力学の歴史における新しい時代の出発点に位置するものである。彼は、発射物の軌跡はその重さのためにあらゆる点で地面の方に曲げられると考え、その軌跡を示す数学的理論を求めたが見いだせなかった。彼は、砲手から最長着弾距離は45度の仰角で得られるということを学んだが、正確な力学的原理による説明や、その原理から数学的に弾道を演繹することは、ガリレオまで待たねばならなかった。ヴェニス刊。 
ニコロ・フォンタナ・タルタリア  
(Niccolò Fontana Tartaglia、1499/1500-1557) ブレシア生まれのイタリアの数学者、工学者、測量士で、ヴェネツィア共和国の簿記係だった。彼は、アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し、数学関係の編集の分野で高く評価された。タルタリアは、初めて数学を用いて大砲の弾道の計算を行った。彼の研究は、後にガリレオ・ガリレイによる落体の実験により検証された。  
ニコロは配達人であったミシェル・フォンタナの息子として生まれた。1505年、ミシェルが殺され、ニコロと2人の兄弟、母が貧困の中残された。1512年にはカンブレー同盟戦争でフランス軍がブレシアに侵攻し、さらなる悲劇を経験した。ブレシア軍は7日間に渡って街を守ったが、フランス軍がついに侵攻に成功すると、街の人達は虐殺された。戦争の終わりには、45000人を超える住民が殺されていた。ニコロの顎と口蓋もフランス軍によって切り落とされた。これによって、ニコロは普通には話せなくなり、「タルタリア(どもり)」というニックネームが付けられた。  
タルタリアは、資金が尽きる前に家庭教師からアルファベットの半分を習っただけであり、残りの半分は独学で学んだという話がある。いずれにしても、彼は本質的に独学だった。  
彼が1543年に編集したユークリッド原論の初めての近代ヨーロッパ語訳となった本はとても重大なものであった。2世紀の間、ヨーロッパではエウドクソスの理論の記載に誤りのあるアラビア語版から訳したラテン語版を使ってユークリッド幾何学が教えられていた。タルタリア編集のものはギリシア語版を元にしたものであった。彼はまたその理論に初めて近代的なコメントを付けた。後に、この理論はガリレオにとって不可欠の道具となった。  
タルタリアは、今日ではジェロラモ・カルダーノとの対立で最も有名かもしれない。カルダーノは、タルタリアの三次方程式の解法を出版しないと約束して、教えられた。数年後、カルダーノは、独力でタルタリアと同じ解法に辿り着いたシピオーネ・デル・フェッロの未発表の論文をたまたま目にした。その未発表論文はタルタリアのものより前に書かれていたため、カルダーノは約束は無効と判断して、次の著書にタルタリアの解法を載せた。カルダーノが自分の名前で解法を発表したことを知り、タルタリアは激怒した。彼は公衆の前でカルダーノを侮辱した。  
タルタリアは、4つの頂点の間の距離を用いて三角錐の体積を表すタルタリアの公式を考案したことでも知られる。これは三角形におけるヘロンの公式を一般化したものである。二項係数を得るパスカルの三角形は、別名をタルタリアの三角形ともいう。 
投石機の弾道学  
中世のヨーロッパの戦争では攻城戦が最大の山場。城壁をうち破るために開発されたのが「投石機」でした。以来「弾道を極める」ことへのこだわりが数学を発展させ、コンピューターを生みました。  
投石機と言っても、今でいえば大型クレーン車ほどの巨大なもの。振り子とゴム(のようなもの)の弾力を利用して、重さ数十キロもある石を数百メートル飛ばすことが出来ました。見事城壁をうち砕いたときは拍手喝采を浴びたんでしょうね。  
Ballista という弓のお化けのような投石機はすでにギリシャ・ローマ時代から使われていたようです。物理学者アルキメデスはこれの専門家で、第二次ポエニ戦争では大活躍だったとか。中世の投石機は Trebuchet と言って、振り子の反動を利用したもの。下のHPの図を見るとだいたいの原理はわかりますね。Catapults はこれらの総称のようです。  
火薬を使った大砲が初めて実戦に登場したのは、14世紀の百年戦争。当初の大砲は四角い鉄棒を筒状に並べ、外側をタガで締めた簡単なもの。すでに完成の域にあった投石機と比べると命中精度はいまひとつでしたが、鋳鉄製のものが普及するにつれ、投石機に取って代わりました。  
大砲はしかし火薬の種類、砲弾の重さ、発射角度、風向き、風速などによって弾道が刻々と変化する扱いにくい武器。砲撃手の経験と勘だけではなかなか精度が上がらなかったようです。そこで登場したのが、弾道の専門家すなわち砲術家でした。  
イタリア人タルターリャは3次元方程式の解法の発見者として有名ですが、本職は弾道の専門家。45度で発射することがもっとも射程を稼ぐことに気づきました。ガリレイはこれを数学的に証明。「放物線(パラボラ曲線)」や「落下の法則」はその副産物と言われています。そう言えば、レオナルド=ダ=ヴィンチも大砲の研究で知られてますし、ミケランジェロは築城の専門家で、フィレンツェ郊外には彼の設計した城壁がいまだに残されているとか。  
時代は変わって、第2次大戦末期。アフリカ戦線でドイツ軍と戦っていた英米軍は高射砲の命中率が落ちたことに気づきました。急遽、風速、気温、湿度、地球の自転までも組み込んだ弾道表の作り直しに着手。しかしこの作業は人間の計算力の限界を超えていました。エッカートとモークリーは、1万八千本の真空管を使った「自動計算機」にこの計算をさせることに。史上初のコンピューター 「ENIAC」が産声を上げた瞬間です。  
 
 
コペルニクス「天体の軌道について」初版 1543年

 

Copernicus, Nicolaus.(1473-1543)  
De revolutionibus orbium coelestium.  
コペルニクスは、ポーランドの天文学者。医学を学んだ後、神学、天文学を修め、医者の仕事のかたわら、天文学を研究し、地動説の研究にその生涯を捧げた。1543年、死の直前にニュルンベルクで本書を刊行し、地動説を公表した。本書の刊行にあたっては、教会側の反対を顧慮して非常に用心深い態度をとったが、当時の多くの天文学者や宗教家から激しい非難を受け、1616年にはカトリック教会の禁書目録に載せられた。1757年および再度の禁止後の1822年にようやく解除され、ガリレイを初めとし、ケプラーやニュートンらの研究発見によって支持された。18世紀末の恒星視差の測定の成功により、彼の学説は、完全に実証されるところとなった。 
ニコラウス・コペルニクス  
(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473-1543 ) ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。  
コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。民族的にはドイツ人だったといわれる。ただし、当時は民族の概念が明確ではなく、都市(Thornisch‐トルン市民)や国籍(Polnisch‐ポーランド国民)がその人物の属性として重要視される時代であった。ポーランド・リトアニア共和国は単一民族による国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。  
彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik) 」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。父方の一族のコペルニク家はポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) の出身。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。  
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ (Barbara Watzenrode) は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ (Lucas Watzenrode) が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はポーランド王領プロイセンのフロムボルク(ドイツ語: フラウエンブルク Frauenburg)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。  
1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。卒業後、叔父の計らいで聖堂の職につき生活の保障を得、4年と少しの間トルンにいたあと、1496年から1503年にかけて留学し、イタリアのボローニャ大学やパドヴァ大学で法律(ローマ法)について学び博士号を取得した。教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。  
やがてノヴァーラの影響により本格的に地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーにより発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある)。  
1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の親友で数学者のベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った。多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。一方で1535年、「地球の動き方」に関するコペルニクスの重要な論文の出版に向けてはヴァポフスキは力を貸し、出版を請け負っていたウィーンの関係者へ手紙を書いて出版の催促をするなどしている。ヴァポフスキはこの手紙を出した2週間後に他界したため、論文の出版を見届けることはなかった。  
自己の地動説の発表による影響を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の販売を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。死後はポーランドのフロムボルクの大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。  
この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、他の場所で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。 
「天球の回転について」 
(ラテン語: Nicolai Copernici Torinensis De revolutionibus orbium coelestium, Libri VI、英語訳: On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books) 1543年に出版されたニコラウス・コペルニクスの地動説を主張した著書である。1512年から行われた第5ラテラン公会議においては、教会暦の改良についても議論された。このとき意見を求められたものの、1年の長さと月の運動の知識が不十分であったため問題の解決ができなかったことを認識したコペルニクスが、太陽系の構造を根本から考えなおしたものである。1539年にゲオルク・レティクスがコペルニクスの弟子となりコペルニクスの手稿を読み、レクティスの天文学の師のヨハネス・シェーナーに概要を送り、1540年に Narratioとして出版された。Narratioの評判とレクティスの強い勧めにより『天球の回転について』の出版にコペルニクスは同意し、彼の死の直前に出版された。  
コペルニクスの宇宙  
コペルニクス的転回と言う言葉があるように、コペルニクス (1473-1543) の地動説が科学の発展に及ぼした影響には大きなものがあった。だがコペルニクスはそれをひとつの仮説として提出しただけで、命をかけて守るべき信念とは考えていなかったらしい。彼はこの説がローマ教会を刺激することを恐れて、生前には大々的に吹聴することをしなかったし、地動説を記述した書物「天体の回転について」が出版されたのは、その死の直後だったのである。  
コペルニクスはいかにして地動説に到達したのだろうか。地動説を唱えた学者はコペルニクスが初めてではない。すでにギリシャ時代にアリスタルコスがコペルニクスと同じような主張を唱えていたし、14世紀にはパリ大学のオッカム派の学者ニコラスが地球の自転説を唱えていた。コペルニクスもそうした業績があることは知っていたらしい。  
コペルニクスが画期的だったのは、プトレマイオスの宇宙観では説明できない事柄を実証的なデータに基づいて説明したことにあった。彼は、それよりもはるかに簡単、単純に説明できる事柄でも、伝統的な説明のあり方に満足せずに、それらを堅固な実証的データに基づいて証明しようとする態度を貫いた。  
といっても、コペルニクスがガリレオと同じような意味合いにおいて近代的な科学精神の体現者であったということではない。彼はピタゴラス的、新プラトン主義的な気質をも有しており、その点では過去を引きずった思想家でもあった。  
コペルニクスの時代まで支配的であったプトレマイオスの宇宙像とは次のようなものであった。  
まず宇宙は恒星天で限られた有限な球体であり、第五元素たるエーテルによって構成されており、そこに諸々の恒星が嵌め込まれている。次に、この有限な宇宙の中心に地球があって、恒星天はこの地球の周りを一日に一度回転している。さらに、地球と恒星天との間には遊星天が介在している。これは地球から見ると、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に、地球の周りを円を描いて回転している。この回転には一日に一回の周期のほかに、おのおの一定の周期をもって黄道上を公転するものもある。  
こうした体系を首尾よく説明するために、プトレマイオスの理論では数多くの円が動員された。たとえば火星が地球に近づいたり遠ざかったりする現象を説明するために、火星の軌道の中心が地球の中心と外れたところにあり、火星はその軌道沿いに運動するために複雑な動きをするのだと説明した。これを離心円という。  
次に、遊星が時たま立ち止まったり逆行したりする現象を説明するために、遊星の軌道の中心が円周を描いており、遊星はこの軌道にそって回転するために複雑な動きをするのだと説明した。これを周天円という。  
こうしてプトレマイオスが動員した円の数は80にもなり、宇宙の動きを説明するためには、非常に複雑な手続きが必要であった。  
これに対してコペルニクスは、恒星天の回転を地球の自転によって説明した。見かけ上一日に一度恒星天が回転するのは、地球が自転していることの反面だと主張したのである。次に遊星は太陽を中心に公転しており、地球もその遊星のひとつだと主張した。  
こうしてコペルニクスの説では、プトレマイオスの説よりはるかに単純に宇宙の動きを説明できることになった。プトレマイオスが必要とした円の数も30に減らすことができた。  
だがコペルニクスは依然として、天体が有限であって神によって作られたのだと考えていた。彼は天体学者である以上に、敬虔な神学者でもあったのだ。  
コペルニクスの説には、早くから二つの難点が指摘されていた。ひとつは、地球が公転するのであれば、その位置によって恒星には視差というべき現象が生ずるはずであるのに、それが認められないということだった。コペルニクスは恒星が地球よりもあまりにも離れているために、人間の目には視差が映らないのだと主張したが、それはある意味で正しい考え方であったかもしれない。今日では観測機器が飛躍的に発展したおかげで、この恒星視差も観測されるようになっている。  
二つ目は物体の落下をめぐっての問題だった。もし地球が自転しているのなら、落下した物体はまっすぐ下にではなく、少し離れたところに落ちるはずなのに、実際はそうではない。ルターはこのことをからかって、「コペルニクスは、馬車を走らせながら大地のほうが走っているのだと信ずるようなばか者である。」とののしった。この難問は後にガリレオによって、慣性の法則の中で始めて理路整然と説明される。  
コペルニクスの説はしばらくの間、まじめにとりあげられることがなかった代わりに、弾圧の対象とされることもなかった。それが大きな問題を引き起こすのは、ガリレオの時代になってからである。  
 
 
ヴェサリウス「人体の構造について」初版 1543年

 

Vesalius, Andreas.(1514-64)  
De humani corporis fabrica.  
ヴェサリウスは、ベルギーの解剖学者、外科医で、ルネサンス最大の解剖学者。ヴェサリウスは、23歳でイタリアのパドヴァ大学の教授となり、古代から中世にかけて千年以上も権威を保っていたガレノスの学説を実証によって誤りを指摘し、近代解剖学の基礎を築いた。ヴェサリウスのこの著書は、書物の権威からでなく現実の自然そのものの中から事実をくみ取り、これを詳細な図示にもたらすことによって、近代解剖学の強固な基礎を確立しただけでなく奇しくも同じ年に出版されたコペルニクスの「天体の軌道について」と並んで、近代科学の成立を決定づける記念碑的著作ともなった。
アンドレアス・ヴェサリウス  
(Andreas Vesalius、1514-1564 ) 解剖学者で医師、さらに人体解剖で最も影響力のある本、ファブリカこと“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。ヴェサリウスは現代人体解剖の創始者と言われる。ヴェサリウスの名は、出典によってアンドレアス・ヴェサル (Andreas Vesal) やアンドレアス・ファン・ヴェセル (Andreas van Wesel) とも言われる。  
人生の初期と教育  
ヴェサリウスは当時神聖ローマ帝国の支配下にあった、ブリュッセルの医師の家に生まれた。父、アンドリエス・ファン・ヴェセルは、皇帝マクシミリアン1世の侍医エヴァラルド・ファン・ヴェセル (Everard Van Wesel) の私生児である。アンドリエスはマクシミリアンの薬剤師として仕え、後はその後継者カール5世の従者 (Valet de Chambre) として仕えた。彼は息子を家伝に従わせ、当時の規範であったギリシャ語とラテン語を学ばせるためにブリュッセルの「共有生活朋友会」(Brethren of the Common Life) に入会させた。  
1528年にヴェサリウスはルーヴァン大学に技芸取得の為に入学したが、1532年に彼の父が(カール5世の)従者として任命され、ヴェサリウスはパリ大学で医学を専門的に追求しようと決心し1533年に移っている。ここで彼はジャック・デュボワ(ヤコブス・シルビウス、Jacques Dubois)とジャン・フェルネル(フランス語版、英語版) (Jean Fernel) の元でガレノスの学説を学んだ。この時代に解剖学への興味を大きくし、また、セント・イノセント墓地で骨をしばしば研究していた。  
神聖ローマ帝国とフランスが戦闘を始めた為、1536年にパリを去らなければならなくなりルーヴァンに戻った。ここでヨハネス・ヴィンター・フォン・アンデルナハ (Johannes Winter von Andernach) の元で研究を修了し、次の年に卒業した。ヴェサリウスの論文“Paraphrasis in nonum librum Rhazae medici arabis clariss ad regem Almansorum de affectum singularum corporis partium curatione”は、ラジ (Rhazes) の第9の書についての解説である。彼は教授との論争の後にルーヴァンを去るまでほんのしばらく滞在した。1536年にヴェネツィアにしばらく移住した後、博士号取得の研究のためにパドヴァ大学に移り、1537年に取得した。  
卒業後、ヴェサリウスはすぐにパドヴァで外科学と解剖学の教授に任命された。ピサとボローニャにて客演も行った。それまで、これらの主題は主に、講師に仕えた床屋兼外科による動物の解剖に従って、ガレノスの古典的な教科書を読むことを主として教えられていた。ガレノスの主張を実際に見直すような試みはなかった。それは論争の余地などないものだった。その一方で、ヴェサリウスは教育の主要な道具として解剖を行ない、生徒たちの群れがテーブルを取り囲む中、自分自身で実際の解剖を執り行った。実地の直接の観察が唯一の信頼できる情報源という考えは、中世的な習慣と大きくかけ離れていた。  
ヴェサリウスは、6つの大きく描かれた解剖図譜として、生徒のために彼の仕事を精密に描いたものを持っていた。それらの幾つかが複製され広く出回っているのを知ると、1538年に“Tabulae Anatomicae Sex”という題名でその全てを出版した。これに続いて、1539年にガレノスの解剖学参考書の最新版“Institutiones Anatomicae”を出版、これがパリに届くと彼の以前の教授の一人はこの版を攻撃する内容を出版した。  
また1538年には、放血もしくは瀉血に関する書簡も出版した。これはほとんどどんな病気でも行われる一般的な治療であったが、どこから血を取るのかということで幾つかの異論が取り交わされていた。ガレノスを擁護する古代ギリシャ式では、患部に近い部位から血を取るが、イスラムと中世の方式では少量の血を遠い部位から抜いていた。ヴェサリウスの手引書はガレノスを支持し、解剖図を通してその論拠を裏付けた。  
1539年、パドヴァの裁判官がヴェサリウスの仕事に関心を持ち、処刑された犯罪者の死体の解剖が可能になった。彼は間もなくに細部に富んだ解剖図譜を作り、来るべき正確な最初のセットが作られた。それらの多くは委任された画家によって作られたので、それ以前に作られたものよりずっと良い品質であった。  
ボローニャ滞在中の1541年に、ベサリウスはガレノスの研究のすべてが人間というよりむしろ動物解剖学に基づいていたという事実を明らかにした(解剖が古代のローマで禁止されて以来、ガレノスは、代わりにバーバリーマカク猿を解剖して、彼らが人間と解剖学的に同様であると主張していた)。そうして彼はガレノスの“Opera omnia”の訂正版を出版し、自身の解剖学教科書を書き始めた。ヴェサリウスがこれを指摘するまで、それらは指摘されず、長い間、人体解剖学を研究する基礎とされていた。しかしながら、それでもある人々はガレノスを支持し、明らかな間違いだとしてヴェサリウスに憤慨した。  
ヴェサリウスは、更に論争を引き起こした。今度はガレノスだけではなくモンディーノ・デ・ルッツィ (Mondino de Liuzzi) そしてアリストテレス (Aristotle) さえ論駁した。これら3人が心臓の機能と構造について事実だと考えていたことは明らかな間違いだった。たとえば、ヴェサリウスは心臓は4つの室からなり、肝臓は2葉、そして血管の始まりは肝臓ではなく心臓であることに気付いた。他のヴェサリウスがガレノスの誤りを指摘した有名な例は、下顎骨はたった一つの骨から出来ていて、2つではない(ガレノスは動物解剖からそう思っていた)ことの発見と、血液は心房間中隔を通過しないことの証明である。  
1543年にヴェサリウスは、スイスのバーゼルにおいて名の知れた凶悪犯ヤーコプ・カラー・フォン・ゲープヴァイラー (Jakob Karrer von Gebweiler) の死体の公開解剖を指揮した。外科医フランツ・イェッケルマン (Franz Jeckelmann) の協力のもと、ヴェサリウスは骨格を組み立て最終的にはその交連骨格をバーゼル大学に寄付した。この標本(「バーゼルスケルトン」The Basel Skeleton)は今に残る唯一のヴェサリウスの良い状態の骨格標本であり、また世界で最も古い解剖学標本でもある。これはバーゼル大学の解剖学博物館に現在も展示されている。  
ファブリカ  
1543年にヴェサリウスが出版を援助するようヨハネス・オポリヌス (Johannes Oporinus) に要求した、7巻から成るファブリカ“De humani corporis fabrica” (人体の構造)は、人体解剖の革新的な仕事でカール5世に捧げられ、その図版はティティアン (Titian) の弟子であるジャン・ステファン・ヴァン・カルカル (Jan Stephen van Calcar) によって描かれたと信じられている。数週間後には学生の為に要約版のエピトメ“Andrea Vesalii suorum de humani corporis fabrica librorum epitome”を出版し、それは皇帝の息子のスペインのフェリペ2世に捧げられた。  
その仕事はまず解剖ありきという事と、後に体の「解剖学的な」視点と呼ばれるようになったものを強調した。すなわち、立体的に器官を配置して、本質的に物質的構造としての人間の内部構造を見せた。これは、以前に用いられた、占星術の原理と同様、強いガレノス、アリストテレス的原理に基づく解剖学のモデルと著しく対照的だった。現代的な解剖学教科書もモンディーノ (Mondino) とべレンガー (Berenger) によって出版されたが、彼らの仕事はずっとガレノスとアラビア学説に寄ったものだった。  
蝶形骨の初の良い記載だけでなく、3つの部位から成る胸骨や5つか6つの仙椎から成る仙骨を見せ、また側頭骨の内側の前庭を正確に記載した。肝臓の血管の弁についてのエティエンヌ (Etienne) の観察を証明したのみでなく、奇静脈を記載し、そして胎児の中で臍静脈と大静脈の間に通過する、それ以降静脈管と命名された管を発見した。網は胃、脾臓そして結腸と繋がっているのを記載し、幽門の構造の正しい視点を始めて与え、ヒトの盲腸の虫垂の小ささに気付き、初の縦隔と胸膜の良い説明、そして今でも遜色の無い脳の解剖の豊富な記載をした。彼は下陥凹は理解しなかった。また、脳神経の数え方は視神経を第一の対とし、第三を第五と、第五を第七神経とみなすことで分かりにくいものとなっている。  
この仕事の中で、ヴェサリウスはまた人工呼吸を記載した初めての人物となった。  
ヴェサリウスの仕事は実際の検死に基づいた初めてのものではなく、この時代の初めての仕事でもなかったが、高精細で込み入った図版の作品価値、そしてそれを作った芸術家が彼ら自身の解剖ではっきりと提示するという事実があっという間に名著として作りかえたのである。海賊版がまもなく出版され、その事実をヴェサリウスは印刷者の記録から知った。ファブリカの初版を出版したときヴェサリウスはまだ30歳であった。  
皇帝侍医と死  
出版後まもなく、ヴェサリウスは皇帝侍医として皇帝カール5世の宮廷に招待された。彼は、パドヴァで離任する予定であるのをヴェネツィアの上院に知らせた。メディチ家の公爵コジモ1世が、ピサの拡張大学に移るよう促したが、ヴェサリウスはそれを拒否した。 ヴェサリウスは宮廷を選んだ。そこでは、彼を床屋として馬鹿にする他の医師と対応しなければならなかった(当時の医術は内科的処方のみを指し、外科的な処方は床屋が行っていた)。  
その後12年に渡ってヴェサリウスは宮廷と共に旅をし、戦いや馬上槍試合での怪我の治療や検死解剖や外科手術をし、そして特定の医学的な質問を扱う私的な手紙を書いた。この数年の間にRadicis Chynaeという薬草の特性についての短文も書いたが、それは彼が使用するのを擁護するのはもちろん自分の解剖学的な発見を擁護するものである。これは、ヴェサリウスの仕事に対して、皇帝によって彼が罰せられるように求める攻撃の機会を引き出した。1551年、カール5世はサラマンカでヴェサリウスの手法の宗教的含意を調査する審理を委任した。ヴェサリウスの仕事は評議会によって許可されたが、攻撃は続いた。4年後に彼を中傷する者の一人が、人間の体そのものがガレノスが研究した時から変化したと主張する論説を出版した。  
カール5世が退位した後も、その息子のフェリペ2世の厚恩でヴェサリウスは宮廷生活を続けた。それは生涯に渡る年金と宮内の伯爵count palatineとなるというものだった。1555年に“De Corporis”の改訂版を出版した。  
1559年6月30日、アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワとスペイン王フェリペ2世の結婚でモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合でアンリ2世は槍に右目を貫かれた。この治療にサヴォワ公は、フェリペ2世にヴェサリウスの派遣を依頼、7月3日に到着し治療に参加するもアンリ2世は7月10日に死亡した。  
1564年にヴェサリウスは妻と娘と3人でブリュッセルに向かうも、家族と別れ1人で聖地巡礼の旅に出た。ジェームス・マラテスタ (James Malatesta) 指揮下のヴェネツィア艦隊と共にキプロスを経て航行した。エルサレムに着いたとき、ヴェサリウスはヴェネツィアの議会から、彼の友で弟子のファロピウスの死によって席が空いたパドヴァの教授の座に再び着くことを要求する書信を受け取った。  
数日間のイオニア海での逆風で苦しめられたのち、ヴェサリウスはザキントス島で座礁した。ここで彼は間もなく病気で死んだが、善意の人が葬儀代を払わなければ遺体は打ち捨てられるところであった。死亡した時49歳であった。  
ヴェサリウスの巡礼の旅は宗教裁判のプレッシャーのためだと言われていた。今日ではこれは根拠がなく、現代の伝記作者によって却下されている。このストーリーはde Saxe としてカール5世とプリンスオブオレンジの元で仕えていたヒューバート・ランゲ (Hubert Languet) によって広げられた。彼は、ヴェサリウスが見つけられたときには、まだ心臓が動いていたスペインの貴族の検死を行ったことが、彼に死刑宣告した宗教裁判に導いた、と1565年に主張した。そして、フェリペ2世によってその判決が聖地巡礼へと変えられた、という事になっていた。その話は何年も経って、何度も再浮上して最近まで信じられていた。  
 
 
アルキメデス「哲学及び幾何学の卓越せる全集」初版 1544年

 

Archimedes.(B.C.287頃-212)  
Opera, quae quidem extant omnia, multis iam seculis desiderata, ...  
アルキメデスは、紀元前のギリシャの天文学者、数学者、物理学者。古代のもっとも天才的な数理科学者であるアルキメデスは、シチリア島の都市国家シュラクサイに生まれ、紀元前212年、第二ポエニ戦争中にローマ兵に殺された。ギリシャ時代の書物はパピルスに書かれたが、このパピルスは湿気に弱く長くは保存が出来ない。そこで古代末から中世はじめにかけてパピルスに書かれているギリシャの著作を、比較的保存のきく羊皮紙(パーチメント)に書き替える作業が行われた。こうして書き写された写本をもとにして活字で印刷されたアルキメデス全集が刊行されたのは16世紀になってからである。本書は、トマス・ゲハウフ・ヴェナトリウスによって活字で印刷された初めてのアルキメデス全集であり、バーゼルで刊行された。
アルキメデスは、古代最大の数学者、物理学者そして、工学者と言って良いでしょう。彼の伝記はプルターク、ポリビウスその他の人の著作によって断片を知る事が出来ますが、それによると彼はイタリアのシチリア島で生まれ、当時の学問の中心地、エジプトのアレクサンドリアに行き、そこでユークリッドの弟子達に教えを受けて数学を研究し、ユークリッド数学の発展に寄与しました。その後シチリアに帰り、国王ヒエロンII世(彼は恐らく王の親戚だったと思われます)に仕え、研究を続け、ほとんど全著作をそこで書きましたが、紀元前 212年、シチリア島がローマ帝国に攻められて陥落した際、ローマ軍の兵士に殺されて生涯を終えました。  
彼は「アルキメデスらせん」の名で知られる揚水機その他種々の機械を発明しましたが、特に、国王とシチリア防衛の為に様々な広域機械、投石機などの兵器を考案したと言われています。その多くはてこの応用による機械で、例えば、国王の命で建造された巨船が重くて進水出来なかった際、滑車とロープを用いててこの原理を応用して船を進水させ、「私に支点を与えてくれれば、地球をも動かして見せる」という有名なセリフを言ったとプルタークは報告しています。またウィトルウィウスはその「建築十書」の中で、国王の冠が純金か否かを、冠を壊さずに確かめる方法は、水の中での重量を計ることによれば良いという事を入浴中に発見し、アルキメデスの浮体の原理を「エウレーカ(見つけた)!」と叫んだというエピソードを述べています。この時に用いられたはかりも実はてこの応用だったのです。更に大きな凹面鏡で太陽光を集め、ローマの軍船にあててこれを炎上させたと言われ、アルハゼンの「光学宝典」の扉絵にはその様子が描かれています。  
彼はこの様な種々の工学技術については、何も書き残しませんでしたが、それ等の技術の理論的根拠となる力学、数学について多くの著作を残したのです。つまり、彼は実践や実験によって得られた結果を、今度は幾何学を用いて厳密に数学的に証明する事によって、力学、数学を著しく発展させたのでした。彼のこの様な学問的方法は後世に広い影響を与え、例えばガリレオも彼の著作に 100回以上もアルキメデスを引用している事で解る様に大きな影響を受け、アルキメデス的やり方で彼の理論の証明を与えています。アルキメデスの多彩な業績のうち、特に重要なものは「てこの反比例の法則」を確立し、重心という概念を創造し、静力学の基礎を築いたこと、円や放物線で囲まれた曲線図形の面積を「取り尽し法」という図形に内接する多角形を辺を細くして行くことによって、図形の面積や円周を、多角形の面積、周に近似させる方法を確立したことなどです。「取り尽し法」は後にニュートンが確立する微積分法の基礎を与えたものです。もちろん「浮体の原理」の発見もそうです。  
彼の著作は一部失われたものもありますが、主としてビザンチン帝国のコンスタンチノープル(イスタンブール)に、ギリシャ語のテキストが、またアラビア語圏に、アラビア語のテキストが残り、これらが中世にラテン語に訳されて読まれていたのです。これ等の論文の出版の最初のものは1501年にヴェニスで出版されましたが、これはほんの断片で、1503年に同じくヴェニスでマーベカの訳の「四辺形、円の求積法」 が出版されました。また1543年にタルターリアがマーベカの訳を用いて「平面の釣合について」と「浮体について、第一部」を出版しています。 しかし、アルキメデスの業績が広くヨーロッパに普及するきっかけを与えたのは1544年の本書の出版で、本書は「浮体について」を含む4つの著作を除いた全著作のギリシャ語原文とラテン語訳を収めています。本書以後、本書に含まれなかったものを含め、また様々の学者が注解を加えて、アルキメデスの著作の出版が続々と行われ、広く研究される様になったのです。彼の力学、光学、数学の影響を受けた人は、一寸挙げて見るだけで、ベネデッテイ、ステヴィン、ガリレオ、ケプラー、トリチェリ、ライプニッツ、ニュートン等があり、アルキメデスの偉大さが判ります。 
アルキメデス  
(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης、BC287-BC212 ) 古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。彼の生涯は全容を掴めていないが、古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。彼は革新的な機械設計にも秀で、シージ・エンジンや彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られる。  
一般には、アルキメデスは史上まれな偉大なる古代の数学者という評価を受けている。級数を用いて放物線の面積を求める取り尽くし法、円周率の近似値計算、彼の名で「アルキメデスの螺旋」とも呼ばれる代数螺旋の定義、回転面(en)の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。  
アルキメデスはシラクサの戦い(en)において、彼には危害を加えないよう命令が下されていたにも関わらず、共和政ローマの兵士に殺害された。マルクス・トゥッリウス・キケロがアルキメデスの墓を参った言い伝えによると、彼の墓は球面に外接(en)する円柱を象っていた。アルキメデスは、球とそれに外接する円柱は、体積の比と表面積の比がどちらも 2:3 であることを立証しており、彼自身この証明が最も成果があるものと見なしていた。  
発明した品々とは異なり、アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかった。アレクサンドリアから伝わった数学は多くアルキメデスを引用していたにも関わらず包括的に纏められなかったが、530年にミレトスのイシドロスが編集し、6世紀にはアスカロンのエウトキオス(en)の著作が広く読まれ、初めて一般に知られるようになった。これらもまた中世までに廃れたが、ルネサンス期には多くの科学者に発想の元を提供する役目を持ち、1906年に発見されたアルキメデス・パリンプセプト(en)からは、彼が得た数学的帰結に至る、知られていなかった洞察の過程についての情報を得ることができた。  
 
アルキメデスは紀元前287年、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシシリー島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシア(en)の歴史家ツェツェース(en)が主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者「ペイディアス (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスの伝記は友人でもあるヘラクレイデスが書き残しているが、これは失われてしまい細部は伝わっていない。例えば、彼は結婚したのか、子供はいたのかなど全くわからない。若い頃アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)(en)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。  
アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争のさ中にローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスが率いる軍隊が2年間の攻城戦を経てシラクサを占領した年に死んだ。プルタルコスが記した俗説によると、まさに街が占拠された時アルキメデスは砂の上に描いた数学図形(en)について熟考していた。ローマの兵士はアルキメデスをマルケッルスの元へ連行するよう命令を受けていたが、アルキメデスは思案中だとこれを拒絶した。これに兵士は激高し、剣をもって彼を殺した。プルタルコスは、この殺害は連行される前の出来事だった可能性も示唆しており、この逸話によると、アルキメデスは製図器械を運んでいたところ、これを金目のものと見た兵士によって殺されたという。マルケッルス将軍はアルキメデスを有能な科学者と知っていたため危害を加えないよう指令を出していたにも関わらず、殺害されたという知らせに激怒したと伝わる。  
アルキメデス最期の言葉は「私の図形をこわさないでくれ(私の円を踏むな)」(希: μή μου τούς κύκλους τάραττε、羅: Noli turbare circulos meos、英: Do not disturb my circles)と伝えられる。これは、兵士が踏み込んだ際にアルキメデスは円の図を描いて数学的思索を巡らしている最中だったためである。しかし、この言い伝えには証拠は無く、プルタルコスの記述の中にも見出せない。  
アルキメデスの墓は彼自身が好んだ数学的証明を題材に選ばれ、同じ径と高さを持つ球と円筒のデザインがなされたと伝わっていた。彼が亡くなってから137年後の紀元前75年、ローマの雄弁家(en)マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルとしてシチリアに勤めていた頃、アルキメデスの墓について聞いた。場所は伝わっていなかったが、彼は探した末にシラクサのAgrigentine門の近く、低木が繁る省みられない場所に墓を見つけ出した。キケロが墓を清掃させたところ、彫刻がはっきり分かるようになり、詩を含む碑文も見出せるようになった。  
評価が定まったアルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録された。シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『Universal History 』(普遍史)には70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが出典に利用している。この書ではアルキメデス個人にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。 
発見と発明  
黄金の王冠  
最も人口に膾炙したアルキメデスの逸話は、形状の複雑な物質の体積を調べる方法を思いついた一件である。ウィトルウィウスによると、ヒエロン2世が神殿に奉納するために黄金で作らせた誓いの王冠(en)について、アルキメデスは金細工職人が銀の混ぜ物をしてごまかしていないかどうか確認を依頼された。密度を調べれば一目瞭然だが、それには王冠を溶かして体積を計算しやすい形に成形せねばならず、壊さずにこれを解決するには何かしら別の手法を考える必要に迫られた。この問題を解決するヒントをアルキメデスは入浴中に得た。浴槽に入ると、水面が高くなることに気づいたアルキメデスは、水は圧縮では容易に減容しない性質から王冠を水槽に沈めれば同じ体積分水面が上昇し、容易に体積を測ることができると考えた。そして王冠の重量をこの体積で除すれば密度が求められる。もし比重が軽い安物の金属を混ぜていれば、王冠の密度は同じ体積の純金より低い。アルキメデスは「Eureka」(希: εὕρηκα!、「ユーリカ!」「分かったぞ!」の意)と叫びながら、興奮のあまり服を着るのも忘れて裸で通りに飛び出したという。確認作業は上手く行き、王冠には銀が混ざっていることが示された。  
この黄金の冠の話は、伝わっているアルキメデスの著作には見られずアルキメデスが没してから約200年後ウィトルウィルスが著した文献に記述されているエピソードである。さらに、比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないという疑問も提示されている。実際には、アルキメデスは論述『浮体の原理』で主張するアルキメデスの原理である流体静力学の原理で解決したのではと考えられる。この原理では、物質を流体に浸した際、それは置き換える流体の質量と同じ浮力を得る。これを利用し、天秤の一端に吊るした冠とバランスを取る同じ質量の金をもう一端に下げて、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、置き換える水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が高まる。そして、天秤は冠側が上方に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。  
アルキメディアン・スクリュー  
工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」 (en)の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。ウィトルウィウスは、この機構はバビロンの空中庭園を灌漑するためにも使われたと伝える。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。  
アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思いつかないという人もおり、実際に中国でねじ構造を独自に機械として使用することはできなかった。「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。  
アルキメデスの鉤爪  
アルキメデスの鉤爪(en)とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組「Superweapons of the Ancient World」でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。  
「アルキメデスの熱光線」は嘘か真実か  
2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214年-紀元前212年のシラクサ包囲(en)の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズ(en)だったと叙述した。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。  
このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器(en)の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス(en)海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。ただし、模型にはタールが塗られていたため、実際よりも燃えやすかった可能性は否定できない。  
2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気候条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組「怪しい伝説」と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。  
その他  
てこについて記述した古い例は、アリストテレスの流れを汲む逍遙学派やアルキタスに見られるが、アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。(希: δῶς μοι πᾶ στῶ καὶ τὰν γᾶν κινάσω)」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車(en)機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。  
マルクス・トゥッリウス・キケロは問答法の著作『国家論』(De re publica)にて紀元前129年にあった逸話を採録している。紀元前212年にシラクサを占領した将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスは、2台の機器をローマに持ち帰った。これは、太陽と月そして5惑星の運行を模倣する天文学用機器であり、キケロはタレスやエウドクソスが設計した同様の機器にも触れている。問答では、マルケッルスは独自のルートを経由しシラクサから持ち帰って1台を手元に留め、もう1台はローマの美徳の神殿 (ヴィルトゥースの神殿、Temple of Virtue) に寄贈した。キケロは、マルケッルスの機器についてガイウス・スルピキウス・ガルス(en)がルキウス・フリウス・フイルス(en)に説明する下りを残している。  
Hanc sphaeram Gallus cum moveret, fiebat ut soli luna totidem conversionibus in aere illo quot diebus in ipso caelo succederet, ex quo et in caelo sphaera solis fieret eadem illa defectio, et incideret luna tum in eam metam quae esset umbra terrae, cum sol e regione.  
訳:ガルスが球を動かすと、天空に見立てた青銅製の装置上で何度も回転が起り、月が太陽を追った。そして月と太陽が一直線に並ぶところでは月の影が地球に落ち、日食が再現された。  
これはまさにプラネタリウムか太陽系儀の説明である。アレクサンドリアのパップスは、現代では失われたアルキメデスの原稿『On Sphere-Making』でこれら機器の設計について触れていると述べた。近年、アンティキティラ島の機械やギリシア・ローマの古典時代に同じ目的で製作された機械類の研究が行われている。これらは、以前はオーパーツ視されていたが、1902年に発見されたアンティキティラ島の機械を通じて、古代ギリシア時代には機構の重要部分に当たる差動装置の技術は充分に実用可能な域に達していたと確認された。  
数学  
機械や装置の設計で著名であるが、アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。プルタルコスは『対比列伝』(「英雄伝」)にて、「彼(アルキメデス)は純粋なる思索にすべての愛情と大望を注ぎ、俗な実用的応用を論及したことは皆無だと言い切れる」と記した。  
アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。アルキメデスは、ひとつの円に対し辺が接しながらそれをくるみ入れる大きな多角形と、円の中で頂点が触れながらすっぽり収まる小さな多角形を想定した。この2つの多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの多角形からこれは31⁄7(約3.1429)と310⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。  
『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を265⁄153(約1.7320261)と1351⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。ジョン・ウォリスは、アルキメデスは結論だけを示し、後世に対して方法をそこから引き出させようとしたのではと考察している。  
『放物線の求積法』でアルキメデスは、放物線が直線で切られた部分の面積が、放物線と直線の交点と直線と平行な接線が接触する3点を頂点とする三角形の面積の4⁄3倍になることを証明した。これは、無限級数と公比(en)を用いる。最初の三角形の面積を1とし、この三角形の2辺を割線(en)とし、放物線の隙間に同様な手段で2つの新しい三角形を想定すると、この面積の和は1/4となる。これを無数に繰り返して放物線の切片を取り尽くすと、面積は、・・・・となる。  
『砂の計算』では、アルキメデスは宇宙空間を砂ですべて充填するとした時、果たして何粒が必要かという試算に挑んだ。ジェーロ王(en)(ヒエロン2世の息子)を始めそのような数は無限と言える膨大なものとしか捉えられない中、アルキメデスはミリアド(en)(希: μυριάς)という古代ギリシアで10,000を表す単位を元に大数単位を設定し、最終的に宇宙を埋める砂の数を8ビギンティリオン (vigintillion) = 8×1063(1000那由他)と結論づけた。  
 
 
アグリコラ「金属について」初版 1556年

 

Agricola, Georgius(1494-1555)  
De re metallica.  
アグリコラは、ドイツの鉱山学者、地質・鉱物学者、人文学者、医者。ライプチヒ大学で哲学、神学、言語学を学び、一時ツヴィカウのラテン語学校で教えたが、再びライプチヒ大学に帰り、人文学者として有名になった。後に医学に転じイタリアで修業し、ベーメン(ボヘミア)の鉱山町ヨアヒムスタールに帰り、医者を業とする傍ら、ザクセンやベーメンの諸鉱山、地質、鉱物の研究を始めた。その後、ケムニッツに移ってからも研究を続け、これら諸学の基礎を築き、多数の書物を著した。本書は彼の死後出版され、当時の鉱山、冶金、鉱物、岩石、地質等に関する知識の集大成で、豊富な挿し絵と相俟って、18世紀にいたるまで近代的産業の勃興に大きな影響を与えた。全12巻(合本1冊)で273枚の木版画がある。
ゲオルク・アグリコラ  
(Georg Agricola、ゲオルギウス・アグリコラ、Georgius Agricola、本名 ゲオルク・バウエル、Georg Bauer、1494-1555) ドイツの鉱山学者、鉱物学者、人文学者、医者[1]。「鉱山学の父」として知られる。彼の本名であるバウエル Bauer は「農夫」の意味であり、Agricola はそのラテン語名。主著に『鉱山書』(De re metallica)があり、探鉱術や冶金術、鉱床、鉱脈、断層などに関する記述がある[1]。多くの鉱物についての記述もある。鉱山書を出版する前彼は『化石の本性について』、という本も書いており、化石を生物の遺物としていたり、鉱物の肉眼鑑定で今日も行われている諸特徴を記載して後世に基準を与えている。代表作は1533年頃から編集され1550年に完成した全12巻からラテン語で構成される『デ・レ・メタリカ』(en:De re metallica)である。また、日本では三枝博音が翻訳し、刊行されている。実際に鉱山で働く人々の経験や発見、発明を科学の言葉に持ってきた、ひとつの新しい体系を創出したアグリコラは、そのように自然や実業に密着していたため、錬金術など頭から否定し、軽蔑していた。  
 
1494年3月24日、ドイツのザクセングラウカウ(en:Glauchau)に生まれたものの、幼少期についてはよく分かっていない。ツヴィッカウのラテン語学校で学び、20歳でライプツィヒ大学に入り、ギリシャ語を学んだ。  
1518年、ツヴィッカウでギリシャ語教師になるが、後にライプツィヒ大学の講師となる。アグリコラが30歳の時にイタリアへ留学しパドヴァ、ベネツィア、ボローニャの大学で医学、化学、言語学を学んだ。また、ベネツィアで印刷業の父と称されるアルドゥス・マヌティウスを知る。印刷技術を学ぶためにミラノにあるガラス工場にも訪れた。  
1527年から1531年にかけてイタリアより帰国途中、ボヘミアのヨアヒムスタールの医者となり、ヨアヒムスタールで鉱山学を研究した。1530年に鉱山学に関する『ベルマヌス』を著した。  
1531年から1535年頃、ケムニッツに移住し、研究を続ける。1533年よりアグリコラの代表作である『デ・レ・メタリカ』を著しはじめる。1546年にはケムニッツの市長に任命された。  
しかし、 1555年11月21日にドイツ農民戦争や宗教改革に押され、教徒との口論の最中に脳卒中で倒れ、死亡したとされる。 
最初の地学書 / アグリコラの『地下の事物の起源と原因について』(1546年)  
自らの姓であった「農夫」(Bauer) をラテン語化した名「アグリコラ」 (Agricola) で広く世に知られるゲオルグ・バウアー (Georg Bauer, 1494-1555) は、その鉱山技術に関する百科事典的な大著『デ・レ・メタリカ』De re metallica (バーゼル、1558年) や鉱物学書『発掘物の本性について』De natura fossilium (バーゼル、1546年) によって地学の近代的な基礎を築いた人物として高く評価されている。この二つの記念碑的な著作の陰に隠れて歴史家達に不当に過小評価されているのが、1544年に書かれ、彼の他の地学的な著作と共に出版された『地下の事物の起源と原因について』De ortu et causis subterraneorum (バーゼル、1546年) である[2]。『デ・レ・メタリカ』が主に鉱山技術を扱い、『発掘物の本性について』が鉱物の体系だった記述・分類を中心課題としていたのに対し、『地下の事物の起源と原因について』は造山活動、火山、地震、温泉、地下水、鉱物や金属の形成の原因を中心に論述しており、西欧における最初の真の意味での総合的な専門地学書と位置付けることができる。  
地下世界に関するアグリコラの最初の著作『ベルマヌス、あるいは鉱物界について』Bermannus sive de re metallica (バーゼル、1530年) は大人文主義者ロッテルダムのエラスムスの賞賛を受けるなどして文学作品としての価値も高いが、対話編ゆえに体系的な専門書とは言えず、幾分にも鉱物界研究への誘いの書という感が否めない。それに対して、『ベルマヌス』以降の約15年間にわたる鉱山地帯の町医師としての活動を通して鉱物界に関する知識と経験を蓄積した研究成果である専門地学書群の筆頭を飾るのが、『地下の事物の起源と原因について』なのである。本書は、『デ・レ・メタリカ』に至るアグリコラの一連の作品の基礎を築いており、まさに彼の地下世界観を再構成する際の鍵となる著作である。当時知り得た大地や地下世界を扱った古代・中世の著作家の議論を整理・分析した博学者としてだけでなく、鉱山医者として鉱夫達の疾病と対峙し、鉱山経営に投資までした実地の経験・観察から得た豊富な知識を持つ実際家というアグリコラ像を本書を通して同時に観察することができる。また、ライプニッツの『プロトガイア』Protogaea (1691年頃執筆) にまで及ぶ (初期近代と呼ぶのが正当であろう) ルネサンス・バロック期の地球の理論における議論・研究対象の取り方といった学問としての枠組みを提出したのも本書なのである。   
鉱産資源豊かで古くから採鉱活動が盛んであったボヘミア山地地方の出身であるアグリコラは医師としての教育を受け、特に古代ギリシア・ローマの古典的な著作を文献学的・文法学的に研究するルネサンス期にイタリアを中心に流行したいわゆる「人文主義医学」の影響を強く受けていた。従って、彼は当時の人文主義的な手法に基づいて古代権威のテクストを重点的に吟味する議論展開を取っている。典拠となった著作は、古代ではアリストテレスの『気象論』、テオフラストスの『石類論』、大プリニウスの『博物誌』、セネカの『自然研究』、ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』等であり、中世ではアヴィセンナの『石類の凝固と凝結について』とアルベルトゥス・マグヌスの『鉱物論』等である。『地下の事物の起源と原因について』は、五つの書からなっている。地下水や温泉、鉱泉、泉、河川や陸海の形成の原因とメカニズムを説明する第一書、造山活動や地下熱、火山、地震を主題とした第二書、鉱物の鉱脈と土類・凝固岩類の形成を扱った第三書、石類の形成を扱った第四書、金属とその鉱脈の形成を扱った第五書である。特に、鉱物類の形成に関する後半部では、中世鉱物学の巨人アルベルトゥス・マグヌスをその議論対象の中心に据えて、徹底した批判を加えている。以下、その後半部に関して少し紹介しよう。  
アグリコラが提唱した四分法による鉱物分類 (土類、凝結汁類、石類、金属類) は、18世紀の鉱物学にまで大きな影響を与えるが、中でも塩類や硫黄類を主に含む凝結汁類 succi concreti という新しい概念の提出が注目される[3]。この分類法の根幹を支えているのは、鉱物の水成論である。アグリコラは、全ての鉱物がもともと鉱物性の「汁」succus が凝結したものと考えている。凝結汁類だけではなく、金属や石類も基本的には、それぞれの種に固有の汁が凝固して出来たという訳である。それらの議論の特に目玉となるのが、「石化汁」succus lapidescens という概念である。「石化汁」は自らが凝固して鉱物になるだけではなく、他の動植物を含むあらゆるものがその接触により鉱物化するというものであった。つまり、アグリコラは、この「石化汁」の理論によって化石の形成の仕組みを説明しようとしたのである。この理論の本質とその源泉については他の場所で明らかにしたのでここでは詳述しないが、16世紀にはアグリコラに強く影響を受けたドイツの鉱物学者達だけではなく、カルダーノ (Girolamo Cardano) やファロピオ (Gabriele Falloppio)、チェザルピーノ (Andrea Cesalpino) といったイタリアの大自然学者達もこの理論を受け入れていったということを述べておこう[4]。  
このような鉱物形成論に限らず、火山や地震、地下水、温泉等に関するアグリコラの議論は、初期近代の地学史上において非常に重要であることを強調し、西欧最初の総合的な専門地学書としての『地下の事物の起源と原因について』の他の研究者によるさらなる研究を鼓舞して本稿を閉じる事にしたい[5]。  
 
[1] リェージュ大学(ベルギー)科学史研究所 客員研究員。Email : jzt07164@nifty.ne.jp  
[2] 本書を扱った研究は非常に少ない。ドイツ語訳には訳編者による文献学・地質学的考察が付与されているが、まとまった研究とはいえない。G. Agricola, Schriften zur Geologie und Mineralogie I : Epistula ad Meurerum ; De ortu et causis subtennaneorum libri V ; De natura eorum quae effluunt ex terra libri IV, eds. Georg Fraustadt & Hans Prescher (Georg Agricola-Ausgewählte Werke, 3), Berlin, VEB, 1956, pp.188-211. 特に金属形成論に関する第五書の分析については、以下参照 : R. Halleux, “ La nature et la formation des métaux selon Agricola et ses contemporains ”, Revue d’histoire des sciences, 27 (1974), pp. 211-222.  
[3] アグリコラの鉱物分類の影響については以下参照 : J. Schroeter, “ Georg Agricolas Mineralsystem und sein Nachleben bis ins 18. Jahrhundert ”, Schweizerische mineralogische und petrographische Mitteilungen, 37 (1957), pp. 198-216; C. P. St Clair, The Classification of Minerals: Some Representative Systems from Agricola to Werner, Ph. D. diss., University of Oklahoma, 1966; D. R. Oldroyd, From Paracelsus to Haüy : The Development of Mineralogy in its Relation to Chemistry, Ph. D. diss., University of New South Wales, 1974; R. Laudan, From Mineralogy to Geology, Chicago, Chicago University Press, 1987.  
[4] 拙著 : Le concept de semence dans les théories de la matière à la Renaissance de Marsile Ficin à Pierre Gassendi, Turnhout (Belgium), Brepols, 近刊, のアグリコラについての第5章を参照。この章を若干改変・邦訳した論文「サンゴ形成の古代神話とアグリコラの石化汁理論の誕生」を準備中である。  
[5] 現代ドイツ語訳を参考にした邦訳を地質学史懇話会記念事業として複数の研究者による共同プロジェクトの形で実現させることが本書には相応しいと思われる。 
ライプニッツ以前の地学史研究の課題  
筆者は、西欧初期近代の物質(特に鉱物)の科学における「種子」の理論に関する研究で地学に関する文献を多く分析する機会を得てきた(3)。今回の発表では、特にルネサンス期から1691年頃に執筆されたと考えられるライプニッツの地学書『プロトガイア』の成立までの、近代科学の形成期といわれる時代の地球内部 - 「地下世界」 - についての思想がいかに展滑Jされていったかを考慮して行く上で、今後さらに研究がなされなければならない幾つかの課題点について概説した。その際、現代科学の発展にとって直接的に重要であったものでなく、その当時の人間にとって重要であった著作群に光をあてる事に重点を置いた。  
ルネサンス期と一般に称される14-15世紀のイタリアに「人文主義」と呼ばれる古代ギリシア・ローマの著作家の古典に対する文献学的かつ文法学的な志向性をもつ研究が隆盛した。人文主義者達の活動を通して、古代の文献に対する知識が増大し、よりオリジナルに近いテクストが手に入るようになった。とりわけ、ディオスコリデス(Dioscorides)の医薬用本草書『マテリア・メディカ』(Materia medica)に医師達の関心は集まった。植物だけに留まらず、自然物の医薬的利用の観点から古代人の記した鉱物と実際の(特にアルプス以北で鉱夫達の間で知られている)鉱物界の物質との対応を知る必要が感じられるようになった。この要請にいち早く応えたのが、ボヘミア山地の鉱山地帯の医者であったゲオルグ・アグリコラ(Georg Agricola)であった。  
彼は、当時の大学教育で標準的だったアリストテレス主義の自然学を学んだ後、医学を学ぶためにイタリアに留学し、隆盛を極めていた人文主義的な手法を学び、ヴェネツィアではヒポクラテスの著作集の編集などにもたずさわった。彼の著作中で特に有名なのは、鉱山技術についての百科全書的な書『デ・レ・メタリカ』(De re metallica. Froben, Basel, 1550)と、中世のアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)の『鉱物についての5書』(De mineralibus libri V)以降で最も重要な体系的鉱物学書といわれる『発掘物の本性について』(De natura fossilium. Froben, Basel, 1546)の2冊であろう。しかし、彼は、地球内部に関することや、山、川、泉、鉱物・金属の形成についてまとめたルネサンス期で最も重要な地学書『地下の事物の原因と起源について』(De ortu et causis subterraneorum. Froben, Basel, 1546)も著した(4)。それは、西欧初期近代の最初の本格的な地学書として認識されねばならない。そこに見られる地下世界の記述では、大学教育カリキュラムで採用されていたアリストテレスの『気象論』や、アリストテレスの著作にかけていた鉱物に関する記述を補うために用いられたアルベルトゥスの上述書以外にも、古代ローマのストア主義哲学者セネカの『自然研究』(Quaestiones naturales)が多用され(5)、スポンジ状の地下を流れる蒸気や水についての説明がなされた。従って、アグリコラには、それまでの伝統的なアリストテレス主義の流れにルネサンス人文主義ならではのアイデアの混入が見られるのである。彼の著作は、ルネサンス期の地下世界の議論において常に重用され、議論の枠組みに大きな影響を与えた。  
ディオスコリデスの本草書『マテリア・メディカ』の註釈を行う事に関心を集中させていた16世紀後半のナチュラリスト達は、鉱物についての議論にあてられている第5巻の理解のためにアグリコラの著作を参考にした。同時に、地下世界および鉱物形成理論を『地下の事物の原因と起源について』から受け入れた。特に顕著なのは、イタリアのピエトロ・マッティオリ(Pietro Mattioli)である。彼のディオスコリデス註解書が大成功を納めたことにより、アグリコラの地下世界の事物に関する記述は、綿密な交信網を作り上げて情報の交換を積極的に行っていたディオスコリデス研究者間で最も信頼しうる権威となった。そのネットワークの中心にいた人物が、ピサ植物園の初代園長ルカ・ギニ(Luca Ghini)であった。その後を継いだアンドレアス・チェザルピーノ(Andreas Cesalpino)の鉱物学書『鉱物について』(De metallicis. Roma, 1596)も、アグリコラの影響を色濃く反映している。大部のアグリコラの著作集に比べ携帯し易かった彼の鉱物学書も、かなりの影響を17世紀前半に及ぼした(6)。  
残念ながら、非常に早い時期から歴史家達の関心を集め盛んに研究された『デ・レ・メタリカ』などに比べると、このように重要であったアグリコラの『地下の事物の原因と起源について』は、体系的な研究が殆どなされておらず、この書の理解と正しい位置付けが初期近代の地学史を研究しようとする歴史家の急務として残されている。  
アグリコラの著作に見られるような、アリストテレスの世界観にルネサンスの人文主義ならではのセネカ等の古代ストア派哲学者の著作の再生から得られたアイデアを混交させる伝統とは別に、地下世界についての思考へのもう一つ画期的な人文主義の影響は、プラントン主義の復活であった。宇宙論書『ティマイオス』以外はそれまで西欧で殆ど知られていなかったプラントンの著作の翻訳を行ったフィレンツェのプラトン・アカデミーの主要人物が、マルシリオ・フィッチーノ(Marsilio Ficino)である。それまでのアリストテレス主義自然学の根幹をプラトン主義形而上学で置き換えることを彼は意図しており、種々のプラトンへの註解作品の中で、その後のルネサンス期の宇宙論に大きな影響を与える独自のアイデアを展開して行った。例えば、コペルニクスが太陽中心説に至った経緯が現在でも盛んに議論されているが、明らかに彼はフィッチーノの太陽と宇宙の成り立ちの理論を読んでいた。フィッチーノの影響を受けたルネサンス期のプラントン主義者(というよりは、むしろフィッチーノ主義者)は、世界という大宇宙(マクロクスモス)と人間という小宇宙(ミクロコスモス)の対応という古代からあるアイデアを好み、発展させた。また、全ての事物が生き、成長し、消滅して行くというライフサイクルを鉱物界や地下世界に認めたことも特筆すべき点である。そこでは、大地や宇宙そのものが一種の霊魂を持ち、生きていると理解された(7)。  
フィッチーノのプラトン主義的な宇宙論に大きく影響を受けて、17世紀の地下世界についての思考伝統の構築に寄与したもう一つの大きな勢力が「化学哲学者」(ケミカル・フィロソファー)達だった(8)。彼等は、ルネサンス期の医学史上最も重要なスイス人医師パラケルスス(Paracelsus)の思想に大きく影響されていた。17世紀に化学哲学者達の著作中で発達する地下世界観は、アリストテレス主義がうまく取り入れることのできなかった聖書の『創世記』に見られる天地創造の物語を巧みに取り入れることに成功した。彼等の描く地下世界像の代表的な例が、英国のパラケルスス主義者ロバート・フラッド(Robert Fludd)とエドワード・ジョーダン(Edward Jorden)のものだろう。特にフラッドの宇宙観の影響を受けた17世紀中葉の著作家達は、宇宙というマクロコスモスと人体というミクロコスモスの対応だけでなく、地球の内部に人体の血液循環の類比を読み取るなどの人体と地下世界の類比、或は大宇宙と大地内部の類比をみる「ジオ・コスモス」(地下の宇宙・地の世界)的なアイデアを発展させた(9)。このような化学哲学の伝統における「ジオ・コスモス」概念の形成・発展の歴史は、体系的に研究されるべき課題である。  
以上のようなルネサンス期からの化学哲学的な伝統内で育ち17世紀半ばに姿を現す地下世界像を専門に取り扱う学問ジャンル「地下世界の自然学」(Physica subterranea)の概念を、幾多の図像と共に読者に非常にインパクトを与える形で訴えることに成功したのが、有名なローマのイエズス会士アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)の記念碑的著作『地下世界』(Mundus subterraneum. Amsterdam, 1655-1656)なのである。この書物がそれ以降の地球論に与えた影響は計り知れないものがあるが、その本格的な研究はまだ殆ど行われていない(10)。キルヒャーの地下世界像をより化学哲学の伝統に添う形でさらに展開させたものが、ドイツ人ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー(Johann Joachim Becher)による『地下世界の自然学』(Physica subterranea. Leipzig, 1669)に見られるものなのである(11)。本書は、18世紀の化学にも多大な影響を与えた著作であり、その全貌が詳細に吟味される日が待ち望まれる。  
これまで、デカルト以降の幾何学的な解釈を前面に押し出した機械論的な地球生成のメカニズムの説明ばかりが地学史の通史を席巻してきた。しかし、機械論的伝統のみだけでなく化学哲学流のジオ・コスモス的な地下世界の理解を同時に研究し、一つの著作にまとめあげられたものが、偉大なるドイツ人哲学者 G.W.ライプニッツの総合的地学書『プロトガイア』(Protogaea. Goettingen, 1749)なのである(12)。この初期近代西欧の地球論の記念碑を理解するためには、地下世界の自然学の伝統を正しく学び直さなければならないのである。  
 
(1) 本発表は、数年間にわたって私が山田俊弘氏と交わした e-メール上での議論に基づいており、ここに長々と議論につきあって頂いた氏への感謝の念を表したい。  
(2) ベルギー・リェージュ大学 科学史研究所 客員研究員(E-mail : jzt07164@nifty.ne.jp)  
(3) 博士論文は、H. Hirai, Le concept de semences dans les theories de la matiere a la Renaissance : de Marsile Ficin a Pierre Gassendi. (Ph. D. diss. ) University of Lille 3 (France), 1999。筆者が収集・分析できた地学史関係の文献は、“Select Bibliography for Early Earth Sciences.” JAHIGEO Newsletter, 2, (2000), pp. 4-10 としてまとめた。  
(4) 現在では、独訳が全集版第3巻(G.Fraustadt & H.Prescher (eds.), Schriften zur Geologie und Mineralogie I. Georg Agricola-Ausgewaehlte Werke, vol. III, VEB, Berlin, 1956)に納められている。  
(5) セネカの『自然研究』(東海大学出版会、1993年)は、初期地学史にとって非常に重要であり、その地球論的史的な見地からの分析が待たれる。  
(6) 17世紀を通して最も重要であるとされる鉱物学書 Gemmarum et lapidum historia (Hanau, 1609)を著した Anselmus Boetius de Boodt は、アグリコラとチェザルピーノに多くを負っている。  
(7) 例えば、フィッチーノの大成功を納めた主著『愛について』(De Amore)(邦訳『恋の形而上学』、国文社、1985年)では、そのタイトルからは想像されにくいが、宇宙全体に生命を行き渡らせる形而上学的な太陽が世界の中心にあり全てがその周りを回るという、彼独自の宇宙論が展開されており、ルネサンス人に影響を与えたことは否めないだろう。  
(8) ルネサンス期のパラケルスス主義および化学哲学については、A.G.ディーバス『近代錬金術の歴史』(平凡社、1999年)を参照。ここには、ジオ・コスモスに関する記述が非常に多い。  
(9) フラッドの異端ぎりぎりの神智学的な化学哲学による『創世記』註解の作業を嫌ったデカルトは、フラッドの描いた地球生成の物語を彼の信じるところの幾何学的解釈によって書きかえる。それが、彼の『哲学原理』の第4部に見られるような地球生成の幾何学的メカニズムなのである。彼の解釈は、多くの点で後の機械論的な地球形成理論の伝統に影響を与えた。その一端が、有名なステノの『プロドロムス』にも反映されることになるのである。フラッドの著作については、J.ゴドウィン『交響するイコン:フラッドの神聖宇宙誌』(平凡社、1987年)参照。  
(10) 『地下世界』に収録されている図版群は、J.ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑:よみがえる普遍の夢』(工作舎、1986年)等を通して見ることができる。  
(11) 本書の17世紀ドイツ語訳の復刻版が、近々ドイツの G.Olms 書店から出版される予定である。  
(12) 『ライプニッツ著作集』第10巻、(工作舎、1991年)、121-202頁。 
Physica Subterranea 『地下世界の自然学』  
まず、ルネサンス期に人文主義の隆盛で、新たにギリシア・ラテンの古代の文献に対する知識が増大すると、とりわけ、医学的利用の観点からの関心で、古代人の記した鉱物と実際の、特にアルプス以北で鉱夫達の間で知られている、鉱物界の物質との対応を知る必要が感じられるようになります。これを、いち早く行動に移したのが、ドイツのボヘミア山地近郊の鉱山地帯の街医者であったゲオルグ・アグリコラ(Georg Agricola) です。彼は、当時の大学教育でスタンダードだったアリストテレス主義の自然学を学んだ後、イタリアに留学し、ルネサンス期イタリアで隆盛を極めた人文主義的な文法学的・文献学的医学の手法を学び、ヴェネツィアでは、ヒポクラテスの編集作業などにもたずさわります。  
彼の著作中で非常に有名なのは、鉱山技術について記された百科全書的な 『デ・レ・メタリカ』(De re metallica. Froben, Basel, 1650)と、中世のアルベルトゥス・マグヌスの『鉱物についての5つの書』 (De mineralibus et lapidibus libri V.) 以降、最も重要な体系的鉱物学書である『鉱物について』 (De mineralibus. Froben, Basel, 1546年) の2冊ですが、それらとは別に、地球の内部に関することや、山、川、泉、鉱物・金属の形成について記されたルネサンス期の最も重要な地学的な書『地下の事物の原因と起源について』(De ortu et causis subterraneorum. Froben, Basel, 1546)も、彼は記します。  
この書に見られるアグリコラの地下世界の記述は、大学教育カリキュラムで採用されていたアリストテレスの『気象論』や、アリストテレスの不備を補うために用いられた非常に影響力のあったアルベルトゥスの『鉱物についての5つの書』 以外にも、古代ローマのストア主義哲学者セネカの『自然問答』 (Quaestiones naturales) を多用し、スポンジ状の地下を流れる蒸気や水についての説明がなされています。従って、アグリコラの地下世界の記述は、それまでの伝統的なアリストテレス主義の流れにルネサンス人文主義者ならではのアイデアの混入が見られます。  
アグリコラの 『地下の事物の原因と起源について』 は、その後、西欧ルネサンス期の地下世界の議論において常に重用され、議論の議題の取り方などの枠組みに大きな影響を与えます。  
特に、その第5巻が鉱物についての議論に費やされている古代ローマのディオスコリデス(Dioscorides) の医学本草書 『マテリア・メディカ』 (Materia medica)の註釈を行うことに関心を集中させていたルネサンス後期のナチュラリスト達は、アグリコラの地下世界および鉱物形成理論を受け入れます。特に顕著なのは、イタリアのピエトロ・マッティオリ(Pietro Mattioli)で、彼のディオスコリデス註解書が大成功を納めたことにより、アグリコラの地下世界の事物に関する情報とアイデアは、ディオスコリデスの研究者達のサークルで最も信頼しうる権威となっていきます。ディオスコリデス註解者たちは、綿密な交信網を作り上げていて、サンプルや情報の交換を積極的に行っていました。そのネットワークの中心にいた人物が、イタリアのピサ植物園を創始した初代園長のルカ・ギーニ(Luca Ghini)です。  
ギーニの後を継いで、園長になったのがアンドレア・チェザルピーノ (Andreas Cesalpino) で、彼の鉱物学書 『鉱物について』 (De metallicis, Roma, 1596)も、アグリコラの影響を色濃く反映しています。大部のアグリコラの著作集に比べ、携帯し易かったチェザルピーノの鉱物学書も、かなりの影響を17世紀前半は保ちつづけます。  
アリストテレスの世界観に人文主義ならではのセネカ等の他の古代の哲学書の再生から得られたアイデアの混交の伝統とは別に、もう一つ画期的な人文主義の影響は、プラントン主義の復活です。特に、『ティマイオス』以外は、それまで西欧で殆ど知られていなかったプラントンの著作の翻訳を行ったフィレンツェのプラトン・アカデミーの主要人物マルシリオ・フィッチーノは、明らかにアリストテレス主義の自然学の根本をプラトン主義で置き換えることを意図していた人物で、彼の種々のプラトン註解作品の中で、その後のルネサンス期の宇宙論に大きな影響を与える独自のアイデアを展開して行きます。コペルニクスが太陽中心説に至った経緯が現在でも盛んに議論されて居ますが、明らかに彼は、フィッチーノの太陽と宇宙の成り立ちの理論を読んでいたのです。  
フィッチーノの影響を受けたルネサンス期のプラントン主義者(というよりは、むしろフィッチーノ主義者)達は、特に世界という大宇宙(マクロクスモス)と人間という小宇宙(ミクロコスモス)の対応・呼応という古代からあるアイデアを好み、発展させます。   
そのフィッチーノのプラトン主義的な宇宙論に大きく影響を受け、17世紀の地下世界の自然学の伝統の構築に影響を持ったもう一つの大きな精力が、ルネサンス期のパラケルスス主義化学哲学者(ケミカル・フィロソファー)達です。16世紀後半から17世紀前半に発達するジオ・コスモス(地下の宇宙あるいは地的世界)的な地下世界観は、それまでのアリストテレス主義者がうまく取り入れることのできなかった聖書の『創世記』に見られる天地創造の物語を巧みに取り入れることに成功します。そういった、化学哲学者達の描くジオ・コスモス像の代表的な例が、英国のパラケルスス主義者ロバート・フラッドとエドワード・ジョーダンです。彼等の宇宙観の影響を受けた17世紀中葉の著作家達の中には、宇宙と言うマクロコスモスと人体というミクロコスモスだけでなく、地球の内部に人体の血液循環の類比を読み取るなどの人体と地下世界の類比、或は大宇宙と大地内部の類比をみるジオ・コスモスというアイデアが発展させられます。  
フラッドの異端ぎりぎりの神智学的な化学哲学による『創世記』註解の作業を嫌ったデカルトは、フラッドの描いた地球生成のストーリーを彼の信じるところの幾何学的解釈によって書きかえる論考を発表します。それが、『哲学原理』の第4部に見られる地球生成の幾何学的メカニズムなのです。このデカルトの解釈は、多くの点で後の機械論的な地球形成理論の伝統に大きく影響を与えます。その一端が、有名なニコラス・ステノの仕事『プロドロムス』等にも反映されることになるのです。  
上述したような化学哲学的な伝統の内部で育った、17世紀前半の「地下世界の自然学」(Physica subterranea) の概念を、幾多の図像と共に非常にインパクトを与える形で訴えることに成功したのが、ローマのイエズス会士アタナシウス・キルヒャーのマスター・ピース『地下世界』 (Mundus subterraneum. Amsterdam, 1655-1656) でした。  
さらに、キルヒャーの地下世界像をより、キミア(初期化学=錬金術)的な知の伝統に添う形で展開されたものが、ドイツ人ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャーによる『地下世界の自然学』 (Physica subterranea. 1669)。  
デカルト以降の幾何学的な解釈を前面に押し出した機械論的な地球生成のメカニズムの説明と、上述の化学哲学の伝統で育まれたジオ・コスモス的な地下世界の理解を、同時に研究し一つの著作にまとめあげられたものが、あの偉大なるドイツ人哲学者・自然学者ライプニッツの『プロトガイア』 (Protogaea. 1691年頃書かれる)なのです。  
 
 
オルテリウス「世界地図帳」初版 1570年

 

Ortelius, Abraham.(1527-98)  
Theatrum Orbis Terrarum.  
オランダの地理学者、数学者。初め地図の作製と販売に従事していたが、各地に旅行して地図の蒐集に努め、フランドルの一商人の注文を動機として53葉の地図を含む「世界地図帳」を編集した。マルコ・ポーロの「東方見聞録」の影響かアジア地域も描かれているが、いずれも不十分であり、この時代のヨーロッパにおけるアジアの認識がうかがえる。この著作における日本地図は、ヨーロッパで制作された中で極めて初期のものである。 
アブラハム・オルテリウス  
(Abraham Ortelius、1527-1598) フランドル人の地図製作者・地理学者。近代的地図製作の創始者として知られている。現ベルギーのアントウェルペン生まれ。アウクスブルクの有力者であるオルテリウスファミリーの一員で、ヨーロッパの広範囲を旅行した。特に、17カ国をくまなく旅行したことで知られ、南及び西ドイツ(1560年、1575年?、1576年)、フランス(1559年-1560年)、イングランド及びアイルランド(1576年)、イタリア(1578年、1550年から1558年の間に恐らく2度か3度)を訪れている。  
1547年に地図の刷り師として、アントウェルペンの"afsetter van Karten"のSt Lukeのギルドに入った。彼の初期の経歴はビジネスマンであり、1560年以前の多くの旅行は商業目的のものであった。例えばフランクフルトへの本と印刷の見本市への毎年の訪問である。  
しかしながら、1560年に後にメルカトル図法で有名となるゲラルドゥス・メルカトルとのトリーア(Trier)、ロレーヌ、ポワチエ(Poitiers)への旅行の際には、メルカトルの影響によって、科学的な地理学者としての経歴が始まった。オルテリウスは友人の助言によって、後に有名になった地図(「Theatrum Orbis Terrarum」(世界の舞台))の編集に専念した。  
1564年には、mappemondeという8枚組の世界地図を完成した。これは後にTheatrum Orbis Terrarumの中に縮小された形で表れている。この大きな地図の唯一現存するコピーは、バーゼル大学の図書館にある。  
1565年には、エジプトの2枚の地図を出版した。さらに1568年にオランダの海岸のBrittenburg城の計画図、1567年にアジアの8枚組の地図、6枚組のスペインの地図を出版した。  
1570年5月20日に、世界初の近代的地図である「Theatrum Orbis Terrarum」がアントウェルペンのGilles Coppens de Diestによって出版された。53枚組で地図70図であった。6年後に『地理学の宝庫』を出版、消えた超大陸の物語をしている。  
この地図はオランダ語、フランス語、ドイツ語の3つの版が1572年までに出版された。(オルテリウスが亡くなる1598年までに25種類の版が出版されている。)また、いくつかの版はさらに1612年まで続けて出版されていた。  
1595年の版には日本地図が追加され、この地図がヨーロッパにおける最初の日本地図であるとされている。  
ほとんどの地図は明らかに再編集されている。(最初の版の87人の著者のリストは1601年のラテン語の版では183人に増加していた。)また、描写又は命名法の多くに不一致が生じている。単純な誤りはもちろん一般的な概念から詳細な部分に至るまで多くの部分である。例えば、最初の版では南アメリカは外形が非常に不完全で1587年のフランス語の版で修正されている。また、スコットランドの図ではグランピアンズ(Grampians)はフォースとクライドの間に位置している。  
しかし、全体としては、このテキストを備えた地図は、類い希なる博学及び産業の不朽の業績である。  
これらの地図の土台と試作品は、オルテリウスのエージェントとパトロンであるGilles Hooftman、lord of Cleydael、Aertselaerの富と企業活動によって集められた38枚のヨーロッパ、アジア、アフリカ、タタール、エジプトの地図であった。これらの地図はほとんどはローマで印刷されたもので、8枚か9枚のみベルギーで印刷されたものである。  
1573年には、Additamentum Theatri Orbis Terrarumというタイトルで17枚の補足の地図を出版した。さらに4つのAdditamentumが続いて出版され最後のものは1597年に出版された。  
オルテリウスはコイン、メダル、アンティークに興味を持っており、素晴らしいコレクションを築いた。これらは1573年に書籍「 Deorum dearumque capita ...ex Museo Ortelii」として出版された。  
1575年には、Arias Montanusの推薦によりスペイン王(フェリペ2世)お抱えの地理学者となった。  
オリテリウスの功績が認められたのは、1994年にイギリスの科学誌『ネイチャー』に、アメリカの科学史家ジェームズ・ロムの論文が掲載されてからである。 
近代地図帳の誕生 / アブラハム・オルテリウスと「世界の舞台」の歴史 
アブラハム・オルテリウス(1527-1598) 恐らく生まれが少し遅めなのと、メルカトル(1512-1594)がいるから差別化が難しいのでしょうが、航海者にとっては生命線とも言うべき地図の製作・編集者としては間違いなく当代屈指の存在でした。業績が認められて後に地理学者に列せられるのも当然と言うべきで、この人の存在が無ければ16世紀末〜17世紀世界の探求はもっと遅くなっていたかも知れず、大航海時代の後半以降を側面から支えた巨人の一人と見て良いと思います。  
この本、彼の製作した地図帳 『世界の舞台』 の解説を主体に、背景・生涯・周辺情勢・競合者も記述した社会史的な内容となっています。どうしても解説本ですからページと原作の対比表みたいな部分やリストのみにページ数を費やしている部分があるのですが、そこを差し引いても意外に読ませるものがありますね。  
さて、もともとは地図印刷の装飾職人として身を立てていたオルテリウスですが、ある時メルカトルと二人一緒にフランスへ旅行に出た事を契機として、程なく自ら地図製作の事業に取り組む事になります。二人がどうやって出会ったかはよく判りませんが、片や地理情報をまとめて地図を作る学者・製作者と、片や出来上がった版を元に印刷・装飾をする職人ですから接点は多そうで、そこら辺のやり取りから知り合ったのかもしれませんね。  
この時代の地理学においては先駆者であり、作図技法でも知られるメルカトルに対して、オルテリウスは上記の『世界の舞台』を始めとして実際にいくつもの詳細地図の発行を行い、近代的な地図製作・編集者としては創始者と見られています。  
これは、メルカトル作の地図 『アトラス』 が、刊行数は少ないものの地図そのものの代名詞的な存在となって行ったのに対して、オルテリウスの『世界の舞台』は、世界各地の地図をいち早く入手することで最新の地理情報を元にまとめて発行するという、ほぼ事業というべき製作物で、更に連年改定していく事で精度を高めていき、しかも全体図・地域詳細図という現在でも採用されている地図帳の形式を採ったことで、最新の実務資料として非常に高い評価を獲得していったのは対照的といえるのではないでしょうか。  
ところで、彼が 『世界の舞台』を進呈した者の中には、メルカトルほか資料を提供した協力者・パトロンたちなどの周辺人物のほかに大物もいました。  
スペイン王フェリペ2世。  
ここで事前に側近のエスピノーサ枢機卿が目を通すのですが、枢機卿は地図を見るや自分の故郷が載っていない事を残念に思ったらしく、怒りのメモが直ちにオルテリウスの元に送られ、オルテリウスはスペインの詳細図を追加した改訂版を直ちに作り、装丁も豪華にしたものを再度送ったといいます。芸術作品でもこの時代は権力者の意向が大きく影響したのですから、相手が王権ともなればオルテリウスが過敏な対応をしたのも分かる気がしますね。  
特に地域図としてはこれを。1595年版では日本地図の実装を行っており、日本人が古い地図として資料などで見るあの形の地図の多くは、実はオルテリウスの製作物(日本図の作図者はティセラという人)が元だったりします。1570年の版ではいい加減な記述だったのが、20数年でここまで正確になってきてるのはちょっと感心します。  
最後に、メルカトルがオルテリウスに送った手紙の一節を。  
『それぞれの作成者の地図を忠実に再現されたことに対し、敬意を表したいと思います。そうしたことは地理学的な真実を発表するために不可欠な点ですが、地図作成者によって無視されてきているのです。 (中略) 各地域の最良の地図を選択した点、小額で買えるよう、また小さなスペースに収納でき、望む所へ持って行ける様に一冊の便覧にまとめた点で、あなたは大いなる賞賛を受けるのが当然です』 メルカトルにここまで言わせるのですから、彼を一介の編集者と考えては誤りでしょう。  
 
 
モンテーニュ「随想録」初版 2巻 1580年

 

Montaigne, Michel de.(1533-92)  
Essais de Messire Michael Seigneur de Montaigne.  
モンテーニュは1570年にボルドー最高法院評定官の職を退き、以後は読書と黙想の生活に入った。幼児期よりラテン語教育を受けていた彼は、この時期のひたすらな読書や同時代の激しい歴史事件についての見聞、内省を豊富な知識や意見をまじえ読書余録、感想録の形で書きとめたものがこの<随想録>である。モンテーニュの文章は抽象的な思想を具体的、感覚的に語るものであり、言葉は平明でありながら十分に意味が込められている。本書の「我何かを知る?(ク・セ・ジュ)」という有名な句は、モンテーニュの生来の思考法であり、フランスのペーパーバック・シリーズの名称(クセジュ文庫)にもなっている。 
随想録  
(ずいそうろく)もしくは『エセー』(仏: Les Essais)は、フランスのモラリスト、ミシェル・ド・モンテーニュが107の随筆を集めて1580年に刊行した書物である。モンテーニュは随筆(エッセイ、エセー)という、特定の話題に関する主観的な短い文章の形式を発明したのであり、この書物はそのエセーを収めている。人間のあらゆる営為を断続的な文章で省察することによりモンテーニュは人間そのものを率直に記述しようとし、モラリスト文学の伝統を開いた。フランス語のessaiは「試み」や「企て」という意味である。  
 
モンテーニュは読者の興味をそそり、巻き込むように意図された巧妙なレトリックを用いて書いており、ある時には話題から話題へと意識の流れに沿って動くように見え、またある時には作品のより教育的な性質を強調する構造的な文体を用いてもいる。古代ギリシア、ラテン文学、イタリア文学からの引用がしばしば補強として用いられる。  
 
モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に記述することであると『随想録』の中で述べている。モンテーニュは人間性の大きな多様性と移り変わりやすさこそがその最大の特徴であると認識していた。「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことがない。」というのが典型的な引用句である。  
モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的にはならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から離れようとする試みのことなどを書いている。  
当時のカトリックとプロテスタントの間の暴力的で(モンテーニュの意見によれば)野蛮な紛争をモンテーニュは嫌悪しており、その書き物にはルネサンスらしからぬ悲観主義と懐疑主義が覗いている。  
総じて、モンテーニュはユマニスムの強力な支持者であった。モンテーニュは神を信じ、カトリック教会を受け入れていたが、神の摂理がどのような意味で個々の歴史上の出来事に影響していたかを述べることは拒否していた。  
新世界の征服に反対しており、それが原住民にもたらした苦しみを嘆いていた。  
マルタン・ゲール事件を例に引きながら、モンテーニュは人間が確実さを獲得できないと考えている。その懐疑主義は『レイモン・ズボン(英語版)の弁護』という長いエセーに最も良く現れており、この章はしばしば単独でも出版されてきた。我々は自身の推論を信用できない、なぜなら思考は我々に起こるものであるから。我々は本当の意味ではそれらをコントロールできない。我々が動物よりも優れていると考える相応の理由はない。モンテーニュは拷問によって得られた自白には極めて懐疑的で、そのような自白は拷問から逃れるために容疑者がでっちあげたものかもしれないと指摘している。通常「知識は人を善良にはできない」と題されている節において、モンテーニュは自身のモットーが「私は何を知っているのか?」(Que sçay-je?)であると書いている。ズボン弁護のエセーは表面的にはキリスト教を弁護している。しかしながら、モンテーニュはキリスト教徒ではない古代ギリシア・ローマの著述家たちに言及し引用しており、特に原子論者ルクレティウスに多く言及している。  
モンテーニュは結婚を子供を育てるためには必要だと考えていたが、恋愛による激しい感情は自由にとって有害なものとして嫌った。「結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。」という言葉がある。  
教育に関しては、抽象的な知識を無批判で受け入れさせることよりも具体的な例や経験の方を好んでいた。「子供の教育について」というエセーはディアヌ・ド・フォワ(フランス語版)に捧げられている。  
モンテーニュのエセーに明白に現れている思考の現代性は、今日でも人気を保っており、啓蒙時代までのフランス哲学で最も傑出した作品となっている。フランスの教育と文化に及ぼす影響は依然として大きい。フランスの元大統領フランソワ・ミッテランの公式な肖像写真では『随想録』を手に持って開いている。 
もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。  
(この文の前にある文は以下の通り) 自分の資質、性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応できるということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しばられているのは、息をしているというだけで、生きるということではない。もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。  
運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それらを、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の心の状態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。  
わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。(テレンチウス/モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文)  
人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースとでっち上げる。  
ひとは、もっとよい時代にいないことを残念に思うことはできても、現代の時代をのがれるわけにはいかない。  
われわれを、柔弱でも無力でもない時代に生きるようにさせてくれた境遇に感謝しようではないか。  
私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。  
だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。[註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の良心の自由をいささかも譲るまいという意識。]  
私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある一派に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害されることはない。  
われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれは立派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。仮面や外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは皮膚とシャツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。  
すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。  
多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。  
老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  
われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりにも多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつまらない試みに赤恥をかかせている。  
極端はわたしの主義の敵なのである。  
哲学者の詮索や瞑想(めいそう)は、われわれの好奇心の糧(かて)となるだけである。哲学者たちがわれわれを自然の規則に押し返すのははなはだもっともなことであるが、その自然の規則は何もあのような崇高な知識を必要とはしないのである。彼らはそれらを偽造し、彼女〔自然〕の顔をあまりにけばけばしく、あまりに人為的に塗(ぬ)り立ててわれわれに示すので、あんなに一様な一つのものに対して、あんなにもいろいろな肖像が生まれることになる。彼女はわれわれに歩く足をつけてくれたように、生きてゆくための知恵もつけてくれた。それは哲学者が発明したそれのように・巧妙な・がっちりした・ものものしい・知恵ではないが、いかにも彼女にふさわしい楽で健康な知恵である。それは幸いにして素朴に適正に・換言すれば自然的に・生きることを知っている者においては、哲学者の知恵が約束する以上のことを立派にしてのけている。もっとも単純にその身を自然に委せるということは、これに最も賢明に身を委せることである。おお無知と無好奇こそはよく作られた頭脳を休めるのになんと楽な・柔らかい・そして健康的な枕であろう! (おそらくこの句は、モンテーニュの中で最もしばしば引用せられ最も人口に膾炙(かいしゃ)せるものの一つであって、彼の怠惰と懐疑主義との根拠にせられがちであるが、むしろモンテーニュの健康な常識をこそ、ここに見るべきである。これは学問知識の否定ではなくして、単に第一原因を究明せねばおられぬ哲学者の思い上がりと、かかる哲学の非健康性とを、たしなめているにすぎない。) 
『エセー』ミシェル・ド・モンテーニュ  
237・177・34・9・6・4・13。昨日の衆議院総選挙の結果を示す数字だ。いやというほど見せられた。自民・民主・公明・共産・社民・保守・無所属その他の順になる。昨夜は抜け切らぬ風邪の咳をしながら選挙開票番組を見ていた。毎度のことながらの、勝者と敗者の押絵のような狂喜と挫折。「バンザイ、バンザイ」陣営と「不徳の至り」候補者の画面が交互に羅列して、ぼくはいつものことながらすぐ興味を失っていた。アナウンサーは「これは二大政党の時代の幕開けです」と言っていた。  
選挙開票を見る前は、女子バレーの世界大会を見ていた。そこでも奇妙なことがおきていた。その実況をしていた局では、途中からキャスターが出てきて開票速報が始まり、それがいったん終わると続いてメイン画面ではバレー中継がされ、左側と下のサブ画面には各政党の“当確スコア”が出るようになって、そこには二つのゲーム・スコアが同時進行していたのである。  
夜陰、ぼくは久々にモンテーニュの『エセー』を読みたくなっていた。選挙にこそ出なかったものの、モンテーニュはいわば“二世議員”だった。父親同様に市長となり、これを辞し、現実の社会に進行する数字の出来事から遠く離れて日々を送るにはどうしたらいいかを、長らく思索した。  
 
モンテーニュはある人に勧められ、35歳のころから5、6年をかけて読んだ。「読みなさい」とは言わなかったけれど、まことに柔和な表情で、しかし断固としてモンテーニュを勧めたのはルイス・トマスだった。「私は一人選べといわれればモンテーニュですね」、そう言ってトマスはぼくの目を覗きこみニッコリ笑った。70年代後半、ニューヨークでのことだ。  
日本に帰ってしばらくして『エセー』を仕入れ、それが文庫本で6巻もあったのにちょっとびっくりしたが、然るべき早朝(ぼくが早朝に本を読むのはめずらしい)、トマトジュースを一杯飲みほしたところで第1ページを開いたことをよく憶えている。  
冒頭、「世間で評判になりたいのなら、私だってもっと技巧を凝らして身を飾っただろうけれど、これは私が私を書いているのだからそんなことはしない、私自身が私の本の題材なのだ」というようなことが書いてある。ふうん、こういうことなのかと思った。「私自身が私の本の題材だ」が、いい。  
『エセー』は長々とした方丈記である。まるで“長丈記”だ。38歳で隠遁したモンテーニュが「博学の女神の懐」に入って、余生を何かを書いて送ろうとした晴耕雨読の方丈記である。  
ただし16世紀の中欧の方丈記だから、日本でいえば戦国時代の渦中で現実から引っ込もうというのに近く、いささか覚悟がいる。  
ルシアン・フェーヴルが16世紀は「吹きっさらしの人間の世紀」だと言ったように、この時代は国王も貴族も僧侶も職人もよく動いた。宗教戦争の時代であって、カトリックとプロテスタントが互いに剣をとっていた。今日の日本に即していえば、いわば旧教と新教の二大政党のどちらを選ぶかという、フランスが初めて体験する選択の時代だった。  
そんな移動と選択の時代のなかで、あえて蟄居して何かを書いて過ごそうというのは、当時の事情からするとそうとうに突飛なことである。そこをモンテーニュは、あえて現役を退いた。富裕な家に育っていたことも、この決断を楽にした。そこは追いつめられていた鴨長明とはちがっている。それでも、モンテーニュは「私はこれからはもう走らない」と決心して、現実社会から退いた。  
『エセー』はたいへんにゆっくりしている。文章が歩行の速度で綴られている。  
これはモンテーニュ自身にとっても、新たに経験することになった「思索の速度」であったろうが(そういうことをしたのはモンテーニュが初めてであったから、この「思索の速度」がその後のヨーロッパにおけるエッセイの母型になったのだが)、これを読むわれわれにとっても、これは含みの多い速度である。ぼくは『エセー』を読みはじめて1時間ほどたったとき、この緩やかな思考速度こそ『エセー』が歴史を超えて何度も何度も読み継がれてきた魅力なのであろうことに気がついた。  
そこでふと“思速”という言葉を思いついた。“思速”は、ぼくがモンテーニュに捧げた冠詞のようなものである。昨夜の衆議院総選挙をめぐるいっさいの出来事のどこがうんざりするかというと、この“思速”がないからだった。  
ミシェル・ド・モンテーニュはマラーノの血を母親から引いている。スピノザと同じである(第842夜参照)。モンテーニュが世界市民性をもっていると言われてきたのは、この血と無関係ではない。マラーノではあるが、裕福な城館で生まれ育った。おまけに父親は1554年にボルドーの市長になった。  
この父親によってモンテーニュは英才教育をうけた。2歳からのラテン語の家庭教師に始まり、6歳からのコレージュ・ド・ギュイエンヌ、古代ローマの詩文との出会い、ボルドー大学での日々、法学を学んだトゥールーズ大学などを順調に通過して、弱冠24歳でボルドー高等法院の裁判官(評定官)になった。これは良家の子息がエリートになっただけのこと、このままならモンテーニュはただの二世議員になっていただろう。  
が、高等法院の同僚にエチエンヌ・ド・ラ・ボエシーがいた。高潔で、若くして深い見識があった。このボエシーとの出会いがモンテーニュをつくった。いや、変えた。この親友はわずか30歳そこそこで疫病に倒れて死んだのである。  
モンテーニュがこの友人から受けたものは格別だった。「ラ・ボエシーと付き合った4年間にくらべたら、それ以降の人生なんて暗くて退屈な夜にすぎない」とさえ書いている。人はときに「獲得」よりも「喪失」を動機に思索や行動を決断するものなのだ。  
『エセー』は一挙に書いたものではないから、いろいろの時期のエッセイが入っている。だいたいは執筆順に並んでいるが、あとで何度も加筆訂正をしているので(それをやりつづけるのがモンテーニュの楽しみであり生き方でもあった。第879夜の稲垣足穂のように)、どこの部分が初期のモンテーニュの文章で、どこが円熟期のモンテーニュなのかは区別がつきにくい。  
しかし最初のころのエッセイは、あきらかにラ・ボエシーを失った悲しみをのりこえるようにして文章が綴られている。エピクロスやセネカやキケロの哲学を借りて、なんとか喪失や動揺や悲哀を克服しようとしているのが伝わってくる。だからこの時期のモンテーニュは綴ることを通して、古代ギリシアの哲人が愛した「アタラクシア」(心の平静)を近づけようとしていたと見える。  
モンテーニュはラ・ボエシーと死別した2年後に結婚し、つづいて父を失って、領主となった。書斎に落ち着こうとしはじめるのはここからで、とりわけ1569年にレイモン・スボンの『自然神学』をラテン語から翻訳したのをきっかけに、しだいに読書三昧・執筆三昧に傾いていった。  
けれども、この時期のモンテーニュはまだ「アタラクシア」には遠かった。思索すればするほど、執筆すればするほど、妄想のごとき懐疑を抱いた。しかもモンテーニュはこの内側から湧き上がってくる懐疑をぞんざいに扱わなかった。重視した。これこそがのちにデカルトに影響を与えた懐疑の精神である。  
モンテーニュを読むとは、この湧き上がる懐疑の前で立ち止まるモンテーニュが、しだいにその懐疑の場面から自身を飛翔させ、あたかも悠揚せまらぬ視線で人間の世を眺めるようになっていくところを読むことなのである。  
なるほどルイス・トマスが勧めたのはここだったのである。懐疑から目をそらさず、かつその懐疑を離れていくこと、そこにモンテーニュの真骨頂があった。  
白水社に「クセジュ文庫」がある。フランスの同名の文庫の翻訳シリーズで、ぼくも旧版このかた何十冊もお世話になってきた。このクセジュは“Que Sais Je ?”である。「いったい私は何をを知っているのだろうか」という意味で、これこそはモンテーニュが有名にした「問い」だった。懐疑のための「問い」だった。  
モンテーニュの懐疑すなわちクセジュは、デカルトやヒュームにヒントを与えたほどの新しい哲学の芽生えであった。懐疑や疑念をもつということは、それが晴れるまでの時間をすべて引き受けるということである。モンテーニュの文章にはこのようなクセジュを引き取る時間そのものが綴られている。ところが、その引き取りのプロセスで、モンテーニュはふいに飛躍する。また、脇見する。すなわち、クセジュに始まる思索を母体としながらも、そこから生じる思索の方法に関する煌めきが随所に発揮する。この書き方は、空海にも仁斎にも似ている。空海も仁斎も懐疑をもって書きはじめ、途中でひらめき、脇見をしながら飛躍する。  
その書き方、その思索の方法は、モンテーニュ自身の言い方によると「緋色の生地の光沢を判断するには、少し上のほうからちらりちらりと、あちこちから視線を走らせる」という方法である。全部で6巻にわたる“思速”の『エセー』を読むのがなぜおもしろいかというと、この方法に出会えるからだった。  
ところで、『エセー』の2巻分を書いたところで、モンテーニュはふたたび現実社会に呼び戻され、父親と同様のボルドー市長を2期つとめた。これはまさに二世議員である。  
しかしモンテーニュはカトリックとプロテスタントの仲介をするのに疲れ、「シャツを着た以上はシャツを着た人間として振る舞うが、シャツと皮膚とは異なるものだ」と言って、またまたシャツを脱いでしまうのだ。そこからが『エセー』3巻以降にあたる。だからモンテーニュの真骨頂に出会えるのは、3巻から先になる。  
このような『エセー』が結局ぼくに示唆したことは、「自分を質に入れない」ということだった。  
だいたい人間というものは、学生になれば学生になったで、仕事につけば仕事についたで、結婚すれば結婚したで、父親になれば父親になったで、政治家や弁護士になるとまたその分際で、その社会の全体を自分大に見たがるものである。とくに選挙に出る政治家は自分を自分大にするだけではなく、社会が自分大だと思いこむ。つまり「自分を質に入れよう」とする。そして、どうだ、質に入れたんだぞ、不退転の決意だぞといばる。  
だが、そんなことはめったに成り立つはずはなく、たいていはその質を入れた質屋を太らせるだけなのだ。  
モンテーニュはこのことをよく見抜いていて、どんなものにも自分を質に入れて偉がることを戒めた。そして、そこからずれる自分のほうを見つめることを勧めた。その「ずれ」をそのまま綴ることが、また、エセー(エッセイ)という新しい思索記述の方法をおもいつかせたわけなのである。  
だからこそ、市長をつとめたモンテーニュは自分のことを、こう定義してはばかることがなかったのである。「自分は義務・勤勉・堅忍不抜の公然たる敵である」。  
ちなみにピエール・グロードの『エッセイとは何か』で知ったのだが、エッセイというのはラテン語の「秤」から派生した言葉で、器具での計測のような意味をもっていた。  
ということは、試験、検査、探索もみんなエセーであり、試験や検査や探索が成就しないこともまた、エセーなのである。ぼくとしては、これからも目盛のない秤としてのエセーの肩をもちたい。数字に囚われない秤をこそエセーとしていきたい。そういう、自分を質に入れない相場を御披露したい。 
「モンテーニュ随想録抄」  
政治的・宗教的動乱の渦中に実務家として生きた経験と、若いときから親しんだ古典の豊富な知見をもとに執筆された「随想録」は、時代を超えた深い人間洞察で知られる。各国語に翻訳されて広範な影響をあたえ、それ自身がヨーロッパを代表する古典となった。本書はこの浩瀚な古典を全訳した訳者が、独自に立てたテーマ別に、原本の骨子部分を選んで編纂したもので、どこから読んでもよい格好の「モンテーニュ入門」となっている。  
モンテーニュ(1533〜92)南フランス・ペリゴール生まれの哲学者、モラリスト。約15年間ボルドー市の評議員を務めたあと、公職を退き、生まれ故郷のモンターニュの居城にこもって「随想録」の執筆に専念した。一時は再びボルドーに出て市長を務めたが、再度隠棲生活にもどって「随想録」の加筆・訂正に精を出した。フランス宗教戦争の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。  
[a]熱病や肋膜炎(ろくまくえん)はしばらくおく。ブルターニュ公ともあるおかたが、わたしの隣人法王クレメントのリオンご入城の際に、群衆におしつぶされて死なれようなどとは、いったい誰が予想したか。おまえはわれわれの王様の一人が御遊戯最中に死なれたのを見なかったか。またそのご先祖の一人は豚に突き当てられて死になされたではないか。エスキルスは家の下敷きになって死ぬぞと脅かされてから、しじゅう野天に暮らしたがだめだった。とうとう空をかける鷲(わし)の爪先から落ちてきた亀の甲の下につぶされて死んだ。ある者はぶどうの種子のために、ある皇帝は髪をくしけずりながら得た傷のために、エミリウス・レピドゥスは入口の閾(しきい)に足をぶつけたために、それからアウフィディウスは会議室にはいろうとして扉にぶつかったために、死んだ。いや、女のまたの間で、奉行コルネリウス・ガルス、ローマ警察軍の将ティギリヌス、……それからなお困ったことにはプラトン学者のスペウシッポス、それからわが法王様のお一人は、お死になされた。かわいそうに裁判官のベビウスは相手に八日間の執行猶予を与えたところ、その間に自分の命の方が期限が切れて死んでしまった。また医者のカイウス・ユリウスは病人の眼の治療をしている間に、急に死に襲われて自分の方が眼をつぶらされた。私事もあえてこれに加えるならば、わたしの弟の一人カピテーヌ・サン・マルタン(二十三歳)は、つとにその勇気を認められていたが、ある時ポームの遊戯中に右の耳の少し上のところを球に打たれた。表面にはかすり傷も打ち傷も見えなかったし、そのためにすわりもしなければ休みもしなかったが、それから五、六時間たって卒中で死んだ。やはり球に当たったせいである。こんな実例は、あんなにしばしば、あんなに常々、われわれの眼前に見られるのだもの、どうして人は、死という考えから解放されることができようか。どうして死が終始われわれの喉もとを押さえていることを思わないでおられようか。  
君たちは言われるかもしれない。「それはどんなふうにこようとかまうものか。苦にしないこった」と。わたしもそう思う。そして、どんな方法でなりと死の襲撃が避けられるものなら、犢(こうし)の皮をかぶることだっていい。わたしはそれを拒みなどしない。まったくわたしは、安楽に過ごせさえすればそれでよいのだ。いやわたしは、自分がとりうる最上の方法をとる。それがどんなに不名誉な自慢にならない方法であろうと。  
わたしは賢くて苦しむよりは、むしろばか者よとあざけられたい。  
どうか誤謬(ごびゅう)がわたしを幸いにし、わたしの眼をくらましてくれますように!(ホラティウス)  
だがしかし、それで事がすむと考えるのはおろかである。人々は往ったり来たり、飛んだりはねたり、死からは何の便りもない。世は春だ。だがひとたび死が、あるいは彼らみずからの上に、あるいはその妻や子や友に、突如として、不意に、やって来てみたまえ。どんなに彼らは苦悶(くもん)し号泣し狂乱し絶望するか。こんなに気を落とし、こんなに変わり果て、こんなに気を失った者を、かつて見たことがあるか。どうしても早くからそれに備えなければならない。あの畜生のような無頓着は、かりに悟性のある人の脳裏に宿ることがあるにしても、(それは全然不可能だとわたしは思うのだが)その商品をあまりに高くわれわれに売りつける。もしそれが避けられる敵であるなら、卑怯(ひきょう)という武器を借りることも、わたしはすすめるだろう。だがそうはゆかないのだから、[b]それは君を、逃げ腰の臆病者(おくびょうもの)であっても、また立派な勇士であっても、同じように捕らえるのだから、……どんなに堅固な鉄の鎧(よろい)も君をまもらないのだから、……[a]しっかりと足をふまえてこれを受けとめることを、いやこれを打ち倒すことを、学ぼうではないか。そして、まず彼からそのわれわれに対する最大の強みを取り除くために、全然普通のとはあべこべの道を取ろうではないか。彼から怪異を取り除いて、彼と慣れ親しもうではないか。何よりもしばしば死を脳裏にもとうではないか。常にそればかりを、しかもそのすべての形相において、心の中に思いみようではないか。馬がつまずいても、瓦(かわら)が落ちてきても、ピンがちくりと一つささっても、さっそく反芻(はんすう)しようではないか。「どうだろう。もしもこれが死であったら?」と。そして、そこで自己を鍛錬しようではないか。祝いごと、楽しみごとの最中にも、常にわれわれの境遇を思い出させるあのくり返しを歌おうではないか。あまりに歓楽に夢中になって、そういうわれわれの歓喜がどんなふうに死の前にさらされているか、どんなにたびたび死がこの歓楽につかみかかろうとするかを忘れないようにしようではないか。そのようにエジプトの人たちはしたものである。彼らはその宴会の最中に、珍味佳肴(ちんみかこう)の間に、死者のミイラを持って来させて、会食者たちへの警告としたのである。  
毎日はいつもおまえの最後の日だと考えよ。  
そうすれば思わぬ今日を儲(もう)けえて喜ぶことができよう。(ホラティウス)  
どこで死がわれわれを待っているかわからない。だからいたるところでこれを待とうではないか。死の準備は自由の準備である。死を学びえた者は屈従を忘れた。いかに死すべきかを知れば、われわれはあらゆる隷従と拘束とから解放される。[c]生命の剥奪(はくだつ)が不幸でないわけを悟りえた者にとっては、この世に何の不幸もない。 「死について」より 
「モンテーニュ随想録」岸田國士  
私は本年度文芸懇話会賞候補作品として、関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」を推薦したものの一人である。  
同じく本書を推薦した他の会員諸氏は、何れもそれぞれの理由をもつてゐる筈だが、私は特に委員会の指命に従つて、自分一個の推薦理由を公表することにする。  
一、文芸懇話会賞は翻訳にも与へ得る規定がある以上、毎年といふわけには行くまいが、特に翻訳文学史上劃期的な収穫と見るべきものには、これを適用すべきであるといふのが私の意見であつた。幸ひ昨年度に於て、関根秀雄氏の「モンテーニュ随想録」三巻の名訳が完結し、専門家の間は勿論、これを識る人々の満場一致的賞讃を博したことから見て、本書の如きは最も適当な候補作品であると私は信じた。  
二、翻訳の価値は何によつて決するかといふ問題は、甚だデリケエトである。一方、創作との比較評価の如きは、まつたく無意味に近い。が、しかし、翻訳のうちから一つを択ぶといふ場合に、自らその判断には基準が生じると思ふ。文学鑑賞の態度に、自ら一定の方向が伴ふのと同様である。私は次の諸点から、関根君の訳業を昨年度随一と断定する。  
イ 原書の古典的、文化的価値。  
「モンテーニュ随想録」は仏蘭西文学の有する、最も貴重な古典の一つであるのみならず、近代思潮の一大源泉として、世界文芸史上、その影響が甚だ深く、広く、且つ決定的である。云ふまでもなく、近代文明の黎明期に於て、仏蘭西が生んだこの良心と叡智の書が、現代の日本に齎らされて如何なる意義があるかといふことは、誰よりも先づわれわれ文学者が考なくてはならぬことであり、読書の愉悦の完きを知らしめること、当今、この書に如くものはないと私は考へる。  
ロ この翻訳は誰にでも出来るといふやうなものではない。実際優秀な訳といはれるやうなもののうちにも、誰がやつてもやり方次第では、その程度のものになるといふ種類のものが多いが、この「モンテーニュ」は、稀有な教養と才能と努力とを俟つて、はじめてよく原書の真面目を伝へ得るものであり、殊にその文体の理解と邦語表現には、訳者自身の「モンテーニュ」的とも思はれる風格を必要とするのである。関根君の「モンテーニュ」は、実に、今日までの日本に於て、何人も企て及ばなかつたやうな、原書と訳文との微妙な照応を示し、恐らく完全な意味に於ける「モンテーニュ」日本語決定訳として、世界に誇示するに足るものである。  
ハ 「モンテーニュ随想録」の翻訳が今日の日本に於て、文学賞を獲得するといふ時代的な現象について、私は、国民一般の注意を喚起し、特に、諸外国の識者にこのニュウスを伝へたく思ふ。これは何よりも雄弁に、我が国の文壇(若し文壇がそれを認めるなら)が、自国権力階級の反動化と蒙昧に拘はらず、常に進歩と自由の味方であることを語り得るものだと信じて疑はない。この翻訳がもう五十年早く世に出で、日本の大学生の大部分がこれを読んでゐたなら、今頃はもう少し世の中が明るくなつてゐたらうと思ふくらゐである。(一九三六・二) 
 
 
マルコ・ポーロ「世界の不思議<東方見聞録>」 1590年

 

Polo, Marco.(1254-1324)  
Delle meraviglie del mondo per lui vedute;  
「東方見聞録」はマルコ・ポーロが、1270−95年にわたる東方旅行で得た知識を記憶とメモによってフランス語で口述し、これをピサの物語作家ルスティチアーノが記録したものである。その内容は序章でこの旅行が敢行された経緯、中国に至って元朝に仕えた模様およびイル・ハーン国の使臣に同伴して帰国するにいたった事情を略述し、続く本文では西・中央アジアを横断する行程の子細、モンゴル朝廷の諸事情、中国国内旅行で得た見聞、帰路の航海で経過した南海諸国の実況を報告している。本書は、ルネサンス期におけるヨーロッパの、東方に関する唯一の知識の源泉となった。また本書によって日本が「黄金の国ジパング」としてはじめて西洋に紹介され、コロンブスの新大陸発見のきっかけとなったともいわれている。ルスティチアーノの記録した祖本はたぶんイタリア語で書かれたのであろうが、すでに散逸し、現存するのはこれに基づく多様の古写本、古版本である。 
東方見聞録  
マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。日本においては一般的に『東方見聞録』という名で知られており、『世界の記述』("La Description du Monde")とも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。これは、マルコ・ポーロがアジアで見た物を数えるときいつも「100万」と言ったことに由来する。  
1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。  
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。1冊目 / 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。2冊目 / 中国とクビライの宮廷について。3冊目 / ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。4冊目 / モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。  
黄金の国ジパング  
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Chipangu)として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」(Japan)の語源である。日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。  
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国大陸)(書籍によっては、マンジ(中国の中西部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、人食いの習慣がある。」との記述がある。「莫大な金を産出し」というのは奥州の金産地を指し、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂についての話を聞いたものであるとの説もある。  
流布  
当時のヨーロッパの人々からすると、マルコ・ポーロの言っていた内容はにわかに信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたのであるが、その後多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。後の大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料として重宝された。探検家のクリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所にも亘っており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、完全な形で残っていない。こうした写本は、現在138種が確認されている。  
影響  
1300年頃マルコ・ポーロが本書で「モンゴル帝国」を紹介したように、イブン・バットゥータやルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホ(英語版)も東方の情報を伝えた。  
1355年にはイブン・バットゥータの口述をイブン・ジュザイー(英語版)が筆記した「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」でマリーン朝に、ジョチ・ウルス[1]・トゥグルク朝(インド)・サムドラ・パサイ王国(スマトラ)・シュリーヴィジャヤ王国(マラッカ)・マジャパヒト王国(ジャワ)・元[2](首都の大都、当時世界最大の貿易港の一つ泉州)を紹介した。イブン・バットゥータの翻訳がヨーロッパにもたらされたのは19世紀になってからである。  
1406年にはルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホ(英語版)が「ティムール紀行(スペイン語版)」で、モンゴル帝国の後継国家のひとつ「ティムール朝」を紹介した。しかし、1396年に十字軍とオスマン帝国の間で行われたニコポリスの戦いの影響から、同じイスラム国家であるティムールに対するヨーロッパ社会の反応は冷めたもので、東方見聞録に対するような熱狂は起こらなかった。  
この後も東方見聞録こそが大航海時代の探検家にとって、アジアを目指す原動力として機能し、コロンブス・コルテス、マゼランらがヨーロッパの白人世界に富をもたらすことになった。  
16世紀初頭には、ポルトガル人トメ・ピレス(英語版)が、マラッカに滞在していた時に見聞した情報をまとめた『東方諸国記(ポルトガル語版)』を著した。  
 
 
17世紀 近代科学への船出 / 万有引力の発見

 

この時代は、「危機の17世紀」と呼ばれる。異常な寒気によって凶作が続き、ペストをはじめとするさまざまな疫病が流行したり、宗教上の対立に起因する戦争や内乱が相次いだ。国際経済は不振に陥り、経済的拡大の終息を迎え、人口も停滞した。フランスではルイ14世による絶対主義が確立し「絶対主義の時代」ともいわれる。その反面、コペルニクスの地動説は、イタリアのガリレイやドイツのケプラーらの手で科学的に証明され、またイギリスのニュートンによって発見された万有引力の法則が数学的に証明されるなど、自然現象を正しく合理的に見極めようとする“科学革命”が起った。その他にもさまざまな科学的発見や発明がなされ、まさに「科学の世紀」と呼ぶにふさわしい時代となった。  
 
 
バイアー「星図」初版 1603年

 

Bayer, Johann.(1572-1625)  
Uranometria...  
バイアーはドイツの天文学者。弁護士を業とした。古代の星図は、天球儀と同様に天球を宇宙の外から眺めたように、すなわち星空を裏返しに描いたものが多かったが、本書は、裏返しでない最初の星図である。また、近世になると大航海時代に入り、多くの航海者が南半球の海に乗り入れるようになり、新しい星座が発見された。バイアーはこうした南天の12星座を初めて命名し、本書で発全天を51枚に描いた星図を表した。この中でバイアーは、星の位置を記述し、ギリシャ文字とそれが所属する星座によって星を命名する方法を導入した。この星図の星に与えられたギリシア文字符号は、今でも広く使われている。本書は、完全な星図を作るための最初の試みであり、印刷された最初の星図である。 
ヨハン・バイエル  
(Johann Bayer, 1572-1625) ドイツの法律家。名はヨーハンとも、姓はバイアーともバイヤーとも表記することがある。バイエルは、1572年にバイエルン地方のラインという町に生まれた。1592年よりインゴルシュタットで学び、後にアウクスブルクに移り住み、生涯のほとんどをそこで過ごした。アウクスブルクでは、1625年に亡くなるまで市議会付の法律顧問を務めた。1603年、31歳のときに全天星図『ウラノメトリア』Uranometria を発刊した。バイエルの職業は、しばしば天文学者として紹介されている。しかしながら、そもそも天文学者とはティコ・ブラーエやガリレオ・ガリレイのように天体観測を行うか、ニコラウス・コペルニクスやヨハネス・ケプラーのように天体理論を構築する人物のことであるが、バイエルは星図書1編を著したのみで、それ以外の天体観測記録や天体理論は何一つ知られていない。  
非専門家のバイエルが天文学界においてその名を知られるようになったのは、先述の『ウラノメトリア』によるものである。この星図書にはいくつかの特徴があり、後代の天文学や星座の記述に多大な影響を及ぼした。  
バイエル星座  
『ウラノメトリア』がそれ以前の星図と異なっていたのは、北半球の中緯度地方で見ることのできない天の南極付近の星々からなる星座を収録したことである。それらはバイエル星座と呼ばれる。バイエル星座は次のとおり/ インディアン座、カメレオン座、きょしちょう座、くじゃく座、しいら座、つる座、とびうお座、ふうちょう座、ほうおう座、みずへび座、みつばち座、みなみのさんかく座 (12星座) / なお、「しいら座」は日本では「かじき座」と呼ばれており、「みつばち座」は後に「はえ座」に改名された。  
バイエル符号  
『ウラノメトリア』ではまた、図版上で各星にギリシア文字やローマ文字を添えた。これは後の天文学者によって恒星の表示法として転用されバイエル符号と呼ばれる。バイエル符号を用いた恒星の命名法は、現在でも公式に使われている。  
バイエル - シラー同一人物説  
『ウラノメトリア』よりほぼ四半世紀後の1627年に、同じアウクスブルクで 『キリスト教星図』と呼ばれる星図書が刊行された。この星図の編著者のユリウス・シラーが、バイエルと同一人物ではないかと考えられたことがあった。シラーがバイエルと同じアウクスブルクで活躍した同郷の士であり、シラーもまたバイエルと同じ法曹であり、ともに星図書を刊行するなどの共通点が見られたからである。しかしながら、『キリスト教星図』がカトリック教会の教義に則って作成されているのに対して、バイエルは「プロテスタントの口」(Os Protestantium) とアダ名されるほど熱心なプロテスタント信徒であったことから、互いに対抗勢力の側にあった両者が同一人物であったとは考えにくく、この説は現在では否定されている。 
『ウラノメトリア』  
(VRANO=METRIA ) 1603年にドイツのヨハン・バイエルによって出版された星図書である。『バイエル星図』 ともいう。書名は、正式には Uranometria: Omnium Asterismorum Continens Schemata, Nova Methodo Delineata, Aereis Laminis Expressa といい、『ウラノメトリア - 新しい方法で描かれ、銅版印刷されたすべての星座の図を集めた』 という意味である。  
『ウラノメトリア』 Uranometria はギリシア語源のラテン語で、「天空」 を意味する urano- と 「測定」 を意味する -metr- からなる。urano- はギリシア神話に登場する天空神で巨神族のウーラノス (Οὐρανός) やムーサイの一柱ウーラニアー (Οὐρανία) に見えている(上掲扉絵の中央上部の女性がウーラニアー)。urano- を geo- に入れ換えると、幾何学にあたる geometry になる。  
『ウラノメトリア』 は、1603年にバイエルによって書肆クリストフォルス・マグヌス (Christophorus Mangus) から出版された、全天を包括した最初の星図書 (star atlas) である。(天の南極周辺を収録した天球儀や一枚ものの天球図ならば、それ以前にも存在した)星座絵を含む星の描画ならびに彫金は、アレクサンダー・マイヤー (Alexander Mair、1562年頃-1617年) が担当した。黄道座標によっており、星の配置は地上から見上げた状態(現代の通常の星図と同じ)である。  
図版は全52葉からなっている。うち1葉は、扉に収められた口絵なので、星図は51葉になる。星図は、まずプトレマイオスの48星座に1葉ずつをあて、49番目にはプトレマイオスが知ることのできなかった天の南極周辺の新しい星座を一括して描いている。末尾の2葉は、北半球と南半球の天球図である。  
『ウラノメトリア』の出典  
以上のような特徴を備えた画期的な 『ウラノメトリア』 ではあるが、バイエルの独創ではなく、ネタ元が幾つもみつかる。  
まず、恒星のデータは、主として 「ティコの星表」 の完全版に拠っている。「ティコの星表」 が公刊されたのは、不完全版でさえ1602年のことであり、完全版は、1627年にようやくケプラーの 『ルドルフ表』 に収録された。しかし、星表そのものは16世紀末に同人誌(手書きコピー本)として流布されており、プランシウスやホンディウス、ブラウらが天球儀を作製する際に依拠していた。また、「ティコの星表」 に収録されていない南部は 「プトレマイオスの星表」 によって補っており、天の南極付近は、バイエルによればアメリゴ・ヴェスプッチ、アンドレアス・コルサーリ、ペドロ・デ・メディナ、ペトルス・テオドルスの観測に基づいているされている。実際のデータはテオドルスに拠っているものと考えられている。  
星図帳形式や星に参照符号を添えているのは、半世紀ほど前にイタリアのピッコロミニが出版した星図で用いている手法である。  
また、星座絵図の中に、グロティウスの 『アラテア集成』 に挿まれたヤコブ・デ・ヘインの星座図のコピーが幾つか見られる。  
 
星座の歴史はとても古いのですが、星図となると、その歴史は近世・ルネサンスの印刷技術の発明からです。  
1.パルディー天球図 17世紀後半  
パリのウイ・ウ・グラン大学の数学教授であるイグナス・ガストン・パルディーが製作。南天、北天、赤道4枚の図からなり、黄道座標や彗星の軌道も描かれています。チャールズの樫の木座や百合の花座が載り、南十字星が2重などの現在との違いが見られます。  
2.ピアヌス著「天文学教科書」 1540年  
著者は数学者、天文学者、地理学者、地学用機器の発明者です。黄道座標で描かれ希少な形をしているが、今の早見版のようには使うことができません。牛飼い座の隣、猟犬座はまだ独立しておらず、また3匹になっています。  
3.グロチウスの星座図帳 1600年  
前半はグロチウスによる星座詩が紹介され、後半は美術家ヤコブ・デ・ゲインによる星座絵が載せられています。星の配置、配列は不正確であり、またプレアデスが独立した星座となっています。  
4.バイヤー星図 1603年初版  
ヨーハン・バイヤーは法律家でアマチュア天文家でした。51枚の星図と1709個の星を含む星表を載せた、世界最初の精密星図です。今回は第4版1655年のものを使っています。  
5.セラリウス天球図 17世紀後半  
北天、南天で一対の天球図で、黄道座標にあわせて地球の経線も引かれています。現存しないおんどり座(アルゴ船隣)、こがに座(かに座隣)やユーフラテス川が描かれています。周囲には天文観測器具も載っています。  
6.キリスト教天球図 1708年  
セラリウスが17世紀前半シラーの作ったキリスト教星図の基づき作成したもの。ペガサス座が大天使聖ガブリエルなど、従来星座を置き換えています。  
7.バッカー天球図 1684年  
オランダの地図製作者レメット・T・バッカーが作成したもの。メルカトル式に似た投影法を用いてあり、高緯度にある星座ほど間延びして描かれています。  
8.ボーデ星図 1782年  
ベルリン天文台の台長ボーデがフラムスチード星図を基に作成したもの。盾座や王笏座が描かれ、星座の境界線を点線で示しています。  
9.天球儀  
これを用いると天体の出没の方位角や南中高度、任意の時刻の星空を表すことができます。  
 
 
ベーコン「大改革」初版 1620年

 

Bacon, Francis.(1561-1626)  
Instauratio Magna.  
ベーコンはイギリスの哲学者、政治家。従来アリストテレスの哲学は中世西欧のカトリック教会の教理に取り入れられて、学問の世界に絶対的権威を持つものとなっていた。しかし、16〜17世紀になるとヨーロッパ中に新たな知的探求の機運が巻き起こり、古い権威的秩序の基礎が揺さぶられるようになった。ベーコンはこの機運の中で、久しくアリストテレス的スコラ哲学のもとに押さえられて不振の状態にあった学問の世界を改革すべく、「大改革」と称する6部からなる壮大な体系的著述を構想した。本書は、その第2部に当たり「新機関(ノーウム・オルガヌム)」とも呼ばれ、1608年に着想し完成までの12年間、推敲に推敲を重ねたと言われている。「大改革」というのは、ベーコン自身が自分の仕事全体に対してつけた題名であったが、結局は未完成で終わった。
F.ベイコン(Francis Bacon 1561-1626)  
イギリスの名門に生まれ、大法官、男爵にまでなったが、収賄汚職を追及されて公職を辞し、晩年をもっぱら研究と著作に費やした。彼は、スコラ的教義に対する全知識の改革を目指して『大革新』という大著を計画し、また、それらが実現され、実用化された後のユートピアを『ニュー・アトランティス』に記した。これらにおいて、彼は、国の中での囲い込みによる支配拡張よりも、また、人類の中での植民地化による支配拡張よりも、自然の中での科学技術による支配拡張こそが重要であると提唱した。つまり、有限のパイの取り分を奪い合うのではなく、パイそのものを大きくしようというのである。彼は、有限の財の奪い合いを調整するだけの単なる政治家だったのではなく、まさしく、人類の新たな時代の方向を切り開こうとする哲学者だったのである。  
ただし、彼は、当時の画期的な自然科学の諸発見(コペルニクス、ケプラー、ハーヴィー、ギルバートらによる)には無知であったし、また、彼の著作にはしばしば中世的自然観がつきまとっている。だが、彼の業績はそのような個別的発見の知識にではなく、‘征服され、搾取されるべき自然’という彼の打出した近代独特の世界観にこそ意義があるのだ。  
この自然からの搾取の発想は、地球規模の植民地の奪い合いという2つの世界大戦を経た二十世紀になってようやく理解されて過激なまでに浸透し、人間自身の生存が危ぶまれるほどひどい公害や自然破壊、資源枯渇の諸問題を生み出すまで至った。そこで、さらに今日では、人間程度の浅はかな者がこのような大自然を支配しきれるのか、中途半端に自然を操作するよりも、むしろ、自然はすべて自然にまかせておいた方がより効果的ではないのか、などの反論が生じつつあるところだろう。  
『大革新』 (Instauratio Maguna) 1620  
スコラ学にとってかわる、正しい基礎に基づいた、知識と技術とすべての人間の知識の全体的革新をめざして構想されたF・ベーコンの体系的著作の総称。これは、1 学問の分類 / 2 新機関(ノヴム・オルガヌム) / 3 宇宙の諸現象 / 4 知性の階段 / 5 第二哲学(行為学)予論 / 6 第二哲学 の6部門を持つものとして計画されたが未完であり、実際に著されたのは、1に相当する『学問の進歩』と2の『新機関』だけであった。 
『新機関』  
『オルガノン』とは、機関という意味のギリシア語であり、学問的には、研究の道具となるもの、すなわち、論理学のことを指す。そして、とくに哲学ではアリストテレスの論理学関係の著作6冊の総称である。F.ベーコンは、このアリストテレスの論理学体系にかわる新たな学問研究の道具たるべき論理をこの著にあらわそうとしたのである。その特徴は、一言で言えば、アリストテレスの論理学体系が形式的で空虚な《演繹法》に終始していたのに対して、F.ベーコンは、現実の観察・実験から集めた事実に基づく《帰納法》を重視したことにある。  
3つの野心  
人間の野心には、3つのものがある。第1は、自己の祖国の中で自己の力を伸張しようとするものであり、通俗的で堕落している。第2は、祖国の勢力と支配とを人類の間に伸張しようとするものであり、第1のものより品格はあるが、しかし第一のものと同じく欲望に動かされている。第3は、人類そのものの持つ全自然世界への力と支配とを革新し、伸張しようとするものであり、他のより健全でより高貴である。ところで、人間の事物への支配は、ただ知識と技術のうちにある。自然はこれに従ってこそ命令されうるからである。それゆえ、第3の野心は有効な技術と知識を求める。知こそが人間の持つ全自然世界への力なのである。  
知は力なり (scientia est potentia)  
既成の学問、特にスコラの知識は誤謬ばかりで、少しも役にたたないが、実験と帰納法という正しい方法によって得られる真の知識は、自然を支配し、人類に福利をもたらす力となるものである、とする近世知識観のテーゼ。  
自然は服従によって征服される (Natura parendo vicitur)  
人間が自然を征服しようとしても、自然は自然法則にしか従わない。つまり、これを征服するには、、人間の権威や思いつきをもってしてはいかんともしがたいのであり、まず人間が自然に服従して、自然法則を引きだし、これを逆手にとって利用してこそ、自然はこの自然法則に従うがゆえに、人間に従うこととなるのである。それゆえ、自然を支配するには、まず自然に服従する、じみちな観察や実験が不可欠なのである。  
イドラ (idola)  
人間の精神に深く根をおろし、正しい知識の獲得を妨げる幻影。これには4種類ある。すなわち、  
〈種族のイドラ idola tribus 〉=人間という種族に根ざした感覚の錯覚、擬人視、感情の影響などによる虚妄 / 〈洞窟のイドラ idola specus 〉=プラトンの〈洞窟の比喩〉のように、個人の性格や関心、習慣、偶然などから生じる視野の狭さによる虚妄 / 〈市場のイドラ idola fori 〉=交流おける言語の言葉を実在的なものとすることによって生じる虚妄 / 〈劇場のイドラ idola theatri〉=舞台の手品のようにいかがわしい論証の権威にたよることによって生じる虚妄  
の4つである。これらを避けるには、「光をもたらす実験」を重視し、真の帰納法によって、一歩一歩、普遍に近づいていくべきである。  
蜘蛛 / 蟻 / 蜜蜂  
スコラのような知性派は、〈蜘蛛〉のようにひたすら自分の内から糸を出して網を作っている。また、練金術のような経験派は、〈蟻〉のようにひたすらものを集めて使うだけである。しかし、〈蜜蜂〉が庭や野の花から材料を吸い集め、さらにこれを自分の力で変形し消化して蜜を作り出すように、知性と経験とは正しく結びつけられなければならない。この、経験からさまざまな事実を集めて、知性で消化し知識を作り出す方法こそが《帰納法》である。  
現存表 tabula praesentiae / 不存表 tabula absentiae / 程度比較表 tabula gradum sive comparativae  
正しい《帰納法》のために必要な手続き。まず、問題の性質を持つということでは共通の事例を集める。このような事例は、〈肯定的事例〉と呼ばれ、これを列挙したものが〈現存表〉である。つぎに、肯定的事例に似ていながら問題の性質をもたない事例を集める。このような事例は、〈否定的事例〉と呼ばれ、これを列挙したものが〈不存表〉である。さらに、問題の性質がさまざまな程度で存在する事例を集める。このような事例は、〈比較的事例〉と呼ばれ、これを列挙したものが〈程度比較表〉である。この後、単純枚挙による誤った《帰納法》ではなく、真の帰納法として、問題の性質と矛盾する性質をこの3つの表に基づいて除外していくという《否定的方法》が採られ、このようにして残ったものから、真に正しく限定された〈肯定的形相〉が得られる。ただし、このようにして得られたものは、暫定的な最初の知識の収穫にすぎず、より正しい知識を得るためには、これをさらにいろいろと組合せて繰り返していく必要があるのだ。 
家は中に、住むために建てるのであって、外から見るためではない。  
読書は充実した人間をつくり、書くことは正確な人間を作る。  
何にせよ最上の証明とは経験である。  
賢者は、チャンスを見出すのではなく、作り出す。  
浅薄な哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教へ導く。  
賢者は自分に与えられるより多くの機会を作る。  
自分の運をどう発展させていくかの問題は、その人の手中にしかない。  
賢者は現在と未来について考えるだけで手一杯であるから、過ぎ去った事柄をくよくよ考えている暇がない。  
嫉妬はつねに他人との比較においてである、比較の無いところには嫉妬は無い。  
空威張りする人間は賢者に軽蔑され、愚者に感嘆され、寄生的人間にたてまつられ、彼ら自身の高慢心の奴隷となる。  
順境の美徳は自制であり、逆境の美徳は不撓不屈である。  
時間をぜんぜん消費しなければ、年において若くとも、時間においては老いていることもありえる。  
忍耐というのは終結された根気である。  
賢者は見出すよりも多くの機会をつくる。  
宗教は生活の腐敗を防ぐべき香料である。  
迷信の首魅は民衆である。すべて迷信においては、賢者たちが愚者どもに追随する。そして正常の場合とは反対に、まず実行があって、後から理論がこれに当てはめられる。  
いかなる法律も宗派も学説も、キリスト教の教えほど善を重視したものはなかった。  
浅薄な哲学は、人の心を無神論へ傾けるが、深遠の哲学は人の心を宗教へと導く。  
真理という優れた地盤の上に立つことに比すべき愉しみはない。  
風刺的な傾向を有する人間は、他人をして自分の機知をおそれさせると同時に、自分も他人も記憶を怖れる必要がある。  
学問にあまり多くの時間をかけるのは怠惰である。学問をあまりに多く飾りに用いるのは気取り屋である。  
悪賢い人は勉強を軽蔑し、単純な人は勉強を称賛し、賢い人は勉強を利用する。  
歴史は人間を賢明にし、詩は多才あるものに、数学は鋭敏にし、自然哲学は深遠にし、倫理学は重厚ならしめ、論理学と修辞学は議論に秀でさせる。  
まことに栄誉は川のようなもので、軽くて、ふくらんだものは支えて持ち上げるが、重くて充実したもの下に沈んでしまう。  
世に把握のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・名誉を得ようと思って悪をなす。  
ある人が嘘をはくということを考えてみれば、それはそのものが神に対しては大胆であり、人間に対しては卑怯である。ということにほかならない。  
虚偽を加味することは、金銀華の混合物のように、金属より実用に役立たせるかも知れないが、その質を低下させる。  
裁判官としての職務は、法律を解明することに存し、法理とを制定することではない。  
ある者の愚行はほかの者の財産である。  
多くの取るに足りない阿諛者に取り巻かれた最大の阿諛者は己自身である。  
立派な家を悪い敷地に建てる者は、みずからを牢獄にゆだねる者である。  
時こそが最大の改革者である。  
天使は力において神と等しかろうと欲して法を破って堕ち、人間は知識において神と等しかろうと欲して法を破って堕ちた。  
不可思議ーそれは知識の種子である。  
妻は若い男にとっては女主人であり、中年の男にとっては友であり、老年の男にとっては看護婦である。  
すべてのものが変化するのは明らかだが、実際には消え失せるのではない。物質の総量はつねに同じだ。  
妻子を持つ者は、運命に人質を入れたものである。というのは、妻子は善であれ、悪であれ、大事業の足でまといとなるからである。  
善がなければ、人間はただの虫けらにすぎないし、うるさい有害な劣悪な動物にとどまろう。  
人の天性は良草を生ずるか、雑草を生ずるか、そのいずれかである。だから、折を見て良草に水をやり、雑草を抜かねばならない。  
生得の才能は自然樹のようなもので、学問によって剪定することを必要とする。  
最悪の孤独は真の友情を持たないことである。  
青年たちは判断するよりも発明すること、評議するよりも実行すること、決まった仕事よりも新しい企てに適している。  
高位にある人間は、三重の僕である。君主あるいは国家の僕、名声の僕、仕事の僕だ。  
大胆な人間の適切な用い方は、これを頭目として指揮させず。部下として他の指図を受けさせることにある。  
富は費消するためにある。費消する目的は、名誉と善行である。  
金は良い召使だが、場合によっては悪い主人でもある。  
金はこやしのようなもので、撒布しない場合は役に立たない。  
結婚する男は七年も年老いたと思うであろう。  
大衆に役立つ最上の仕事や功績は、独裁者か、あるいは子供のない男によってなされる。  
己自身を熱愛する人間は実は公共の敵である。  
愛することと、賢くなることは不可能だ。  
真の友をもてないのは、まったく惨めな孤独である。友人がなければ世界は荒野にすぎない。  
わが心を打ち明ける友を持たない人々は、己と己の心とを食う人喰い鬼である。  
結婚のために愛情は人間をつくるが、友愛は人間を完成する。  
価値は名声より貴い。  
 
 
グロチウス「戦争と平和の法」初版 1625年

 

Grotius, Hugo.(1583-1645)  
De Jure Belli ac Pacis.  
国際法を合理主義的自然法によって基礎ずけたオランダの法律学者グロチウスの著書。グロチウスは、30歳のころオランダに起こった神学論争に加わり、ルーフェスタインの古城に幽閉される身となった。ここから脱走後フランスに亡命し、その滞在中に本書を著した。本書は、現在のように法律が分化されていない時代に一切の課題を取り扱っており、神学と法学との分離をはじめ、国家元首もローマ教皇もいかなる支配者も私人と同様自然法に従うべきものとし、人間の地位の確立に貢献した。また世界平和機構の形成や平和会議の理念、海洋自由論、刑罰思想、財産の哲学的基礎づけ、財産取得の法理、契約強制の法理など後世に及ぼした影響は大きく、近代国際法、近代自然法に関する不朽の名著とされている。 
『戦争と平和の法』フーゴー・グロティウス(1625年)  
近世から近代へと時代が移行する中、人類の福祉にとって最も必要なことが諸国家の関係を律する法律を研究することであった。国際関係において法律や正義が存在しないという立場は危険な誤謬であり、開戦と交戦において、平和と同様に守られるべき法があるとグロティウスはこの著作で明らかにしようとしている。「自然が定め、諸国家の合意が定立した」慣習法が国際社会の中で有効であるのであるためには、戦争もまた法の執行の一つの手段として行われなければならないというのがグロティウスの主張であり、古典的な正戦の理論を提示している。  
国際社会を支配する法としては自然法、万民法、神意法の三つがあるが、グロティウスの分類によれば自然法と意志法の二つがあるとされている。自然法は人間の社会的本性から導かれる法であり、これは他人の権利を侵害せず、他人のものを領有している時はそれから得た利得とともに返還すること、約束を履行する義務、自己過失による他人の損害を賠償すること、犯罪に従って刑罰が加えられることなどが含まれる。  
「神が存在しないとか人間の事柄は神にかかわりないということは極悪の罪を犯すことなしには容認しえないところであるが、かりに我々がそれを容認したとしても、我々がこれまで述べてきたことは、ある程度、効力を有するであろう」として、自然法の理論と神学の理論を分離している。  
そしてグロティウスは自然法と対比される意思法について神の自由意思に基づいた神の法と「約束は遵守されなければならない」という自然法に該当する人の法を分ける。この人の法から国際法は生まれたのであり、グロティウスは法の起源については社会契約説の立場に立っているために約束、合意、契約に基づくものとされている。  
「自然法とは、ある行為が、理性的本性に合致しているか否かによって、その特性として道徳的に低劣なものであるか、それとも道徳的に必要なものであるかを指示する正しい理性の命令である」このような自然法は世俗世界において最も支配的な法であり、神でさえもこれを変えることができないと考えている。そして戦争とは「力によって争う人々の状態」であり、「正しい理性と社会の性質はすべての力の使用を禁じておらず、ただ社会に反する力すなわち他人の権利を奪おうとする力の使用を禁じている」としてその戦争が正義に適う限りにおいて正当化できると論考している。  
戦争は主権者による公的戦争と私人による私的戦争がある。公的戦争には私的戦争にはない特別な効果があり、それは主権という他の者の法的支配に服従しない最高位の権力の特性によるものであり、主権者は国家に共通の主体と各国に固有の主体とに区分される。そして共通的本性は完全なる団体としての国家であり、固有的主体とは各国の法律に従う国王、貴族、人民である。  
正しい戦争の原因とは自身の生命と財産の危害からの防衛、財産の回復、そして刑罰の三つの原因に限定される。戦争とは原理的に司法的解決が不可能な場合において権利を保護し、損害を回復するための行為である。したがって、侵略をうけた場合に戦争に訴えることが正当な原因について列挙しており、そこには共有物、無主物、所有権、占有権、先占、契約、私法、外交使節の不可侵権、刑罰などが挙げられている。 
フーゴー・グロティウス1  
オランダの法学者。古典的な自然法の理論を研究し、近代国際法の理論を確立した。特に海洋法と戦争法の研究業績で知られている。  
オランダのデルフト市にヤン・グロティウスの息子として生まれ、11歳でロイテン大学に入学した。ここでスカリジェールに師事し、14歳で卒業した。その翌年にフランスへの外交使節団に随行し、アンリ4世に謁見した。オルレアン大学から名誉法学博士の学位を与えられ、帰国後16歳で弁護士として仕事をはじめる。1603年にオランダとポルトガルの武力衝突でオランダの東インド会社が勝利したものの一部の株主がその捕獲物の分配に思想的な理由から反対して首脳部を弾劾しようとした。会社はグロティウスにこの捕獲行為の正統性を保障するための弁護を依頼した。グロティウスは1606年に『捕獲法論』を書き上げて、スコラ学の自然法と国家法の概念を使って捕獲の問題を体系的に論じ、その正統性を証明した。(ただしこの論文は何らかの理由で公開されなかった)グロティウスは1607年に検事総長に任命される。24歳にグロティウスはスペインとオランダの休戦交渉が始まった時には『自由海論』を匿名で発表し、貿易の独占権を主張していたスペインの主張を攻撃してオランダの東インドにおける貿易権を擁護した。グロティウスは自然法に基づきながら海洋における自由を確立した。1613年にオランダのロッテルダム市代表となったグロティウスは1618年のマウリッツによるクーデタで終身禁固刑を宣告された。獄中でグロティウスは『真の宗教の証明』や『オランダ法学入門』などの基礎的研究を進めており、脱獄してパリに亡命した。『戦争と平和の法』はこの亡命生活で書かれた著作であり、グロティウスの著作の中で最も代表的なものである。この著作では自然法に基づく国家を超えた法秩序の存在を理論化することを狙っており、ビトリアやスアレスの法理論を発展させている。グロティウスは後にスウェーデンのパリ太子として政治の活動に戻るが、1635年に辞職した。その帰路でバルト海で海難事故にあい、上陸することはできたがロストックで死去した。その遺体は生地のデルフトに運ばれ、親族の墓地に埋葬された。 
フーゴー・グローティウス2  
グロティウス Hugo Grotius [Huig de Groot](1583年−1645年)。「国際法の父」と呼ばれるネーデルラント(オランダ)生まれの法学者。オランダ語名ヒューホー(ハイフ)・デ・フロート。グロティウスはフロートのラテン語読み。  
デルフト市長を4度、さらにはレイデン大学の理事をも努めた名士、ヤン・デ・フロートの第一子として、ハプスブルク家領ネーデルラントのデルフトに生まれる。グロティウスの幼年期1588年にネーデルラントがスペインから事実上独立、激動のなかで少年時代を過ごす。幼少から神童の誉れ高く、1594年、11歳でレイデン大学入学。古典文献学者スカリゲルらに学ぶ。98年フランス使節団員となり渡仏、アンリ4世に面会する。帰国後、99年に弁護士を開業。  
1601年、ホラント州議会からネーデルラント史の編纂を委託される。この歴史書は1604年までに最初の草稿が完成するが、グロティウスの生前には出版されず、没後の1657年に「ネーデルラント万機年代記」Annales et historiae de rebus Blegicisとして刊行された。  
1603年に起こったネーデルラント商船によるポルトガル船捕獲事件を受け、この事件を正当化する狙いから、1604〜6年の間に航行・交易の自由を主張した「捕獲法論」De iure praedae commentariusを執筆。この著作もグロティウスの生前に刊行されることはなかったが、1609年、そのなかの第三部第12章を修正を加えたうえで抜き出し、「自由海論」Mare liberumとして匿名で出版して国際的な大論争を引き起こした。  
1607年に検察官となり、官僚の道を歩み始める。1613年にはロッテルダムの法律顧問に任命される。  
当時のグロティウスは、カルヴィニズムのなかでも絶対的な予定説を否定するアルミニウス派に属していたが、より厳格なホマルス派との宗教論争が激化するなかで、1618年逮捕される。同年行われたドルドレヒト宗教会議でアルミニウス派が異端と断定されたため、終身禁固を宣告される。ただし拘束はさほど厳しいものではなく、拘禁中に「真の信仰の証明」をオランダ語で執筆した。この書は後に改訂を加えてラテン語に移され、「キリスト教の真理について」De veritate religionis Christianaeとして1627年にフランスで出版される。  
さて、1621に劇的な脱出を敢行し、フランスに亡命。 フランスでは、ルイ13世の庇護のもと主著「戦争と平和の法」De iure belli ac pacis(1625年)を著した。  
その後、1631年にネーデルラントに帰国するが、祖国では受け入れられず、ハンブルクに退去。スウェーデン、フランスなどを転々とし、海難事故で死亡した。  
グロティウスの法思想は初期の「捕獲法論」と「戦争と平和の法」の間で若干変化していることもあり、定式化が難しいが、小国ネーデルラントに生まれ、国際関係のあり方を問題とするなかで、一国法を越えた複数国家の共通法としての万民法(ius gentium)の思想にたどりつき、これを支える普遍的な原理として自然法をもあわせ考究したといえよう。神法ではなく自然法を万民法の原理と策定した功は大きいが、自然法をそれ自体としては研究対象とはしていないこともあり、グロティウスの自然法概念には、神法との関連からいっても、万民法との関連からいっても、曖昧さが多いのは事実である。  
また現代では、グロティウスの法思想のもつ新しさ、画期性についての疑問も提起されているが、国家概念が曖昧ななかでの国際法思想に、現代の国際法と同レベルの問題意識を求めるのは困難ともいえる。国家概念の成長とともに国際法概念も成長したのだとすれば、グロティウスは、やはり「国際法の父」であったと評価することができよう。 
フーゴー・グローティウス3  
(オランダ語:Hugo de Groot, 英語:Hugo Grotius, 1583-1645) オランダの法学者。フランシスコ・デ・ヴィトーリア、アルベリコ・ジェントリ(en)とともに、自然法に基づく国際法の基礎を作ったことから、「国際法の父」と称される。哲学者、劇作家、詩人でもあり、著書として『自由海論』、『戦争と平和の法』などがある。かつてオランダで発行されていた10ギルダー紙幣に肖像が使用されていた。また、グロティウス(Grotius)とはラテン語名であり、オランダ語フルネーム Hugo de Groot の読みはヒュホー=デ=フロートに近い。  
八十年戦争が展開されていたオランダのデルフトに生まれた。父であるヤンはライデン大学でジュストゥス・リプシウス(en)とともに勉強したこともあった。幼年期のグローティウスはヒューマニズムとアリストテレス的な教育を施され、神童であった彼は11歳の時にライデン大学に入学した。グローティウスが入学した当時のライデン大学は北ヨーロッパでもっともアカデミックな教育を行う大学として知られており、フランシウス・ジュニウス(en)、ジョセフ・ジュストフ・スカリゲール(en)、ルドルフ・スネリウス(en)がライデン大学で活躍していた時代であった[1]。  
1599年、グローティウスはデン・ハーグで官職を得て、1601年には、ホラント州の史学史研究員となった。1604年に初めて国際法に携わることとなり、体系的な国際法の手稿を著した。そして、オランダ商人によるシンガポール海峡におけるポルトガルのキャラック船とその船の貨物の差し押さえの訴訟手続きに従事することとなった。  
『自由海論』  
1603年、オランダの船員・探検家でもあるヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(en)がポルトガル船サンタ・カタリーナ号を拿捕した時代とは、スペイン・ポルトガル同君連合がオランダと交戦していた時代(八十年戦争)であった。ヘームスケルクはオランダ東インド会社の子会社であるアムステルダム独立会社の社員として働いていたが、彼自身には、オランダ政府や東インド会社から権力を行使する権限を付与していたわけではなかったが、オランダ東インド会社の株主は、ヘームスケルクがもたらした富を受け取ることを望んでいた。とはいえ、オランダ国内ではヘームスケルクにおける拿捕の妥当性が問われていただけではなく、倫理面からもオランダ東インド会社の一部の株主から拿捕による物品の獲得を拒否する動きもあった。もちろん、ポルトガルも貨物の返還を望んでいた。オランダ東インド会社の代表は、グローティウスにこの拿捕における論証を依頼することとなった[2]。  
1604年から1605年にかけてのグローティウスの活動は、『De Indis』と題された書簡にまとめられた。グローティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求めようとした。  
1609年、グローティウスは、『自由海論』(原題:Mare Liberum、en)を著した。グローティウスはこの本により、海は国際的な領域であり、全ての国家は、海上で展開される貿易のために自由に使うことができると主張した。  
当時のイギリスは、貿易においてオランダと競合関係にあったため、グローティウスの主張に真っ向から反対した。スコットランド人の法学者であるウィリアム・ウエルウォッド(en)が英語で初めて、海事法について著した人物であり、1613年にはグローティウスに対抗する形で、『Mare Liberum in An Abridgement of All Sea-Lawes』を執筆した。グローティウスはそれに反論する形で1615年、Defensio capitis quinti Maris Liberi oppugnati a Gulielmo Welwodoを著した。1635年、ジョン・セルデンは、『封鎖海論』(原題:Mare clausum)において、海は原則として、陸地の領域と同じ適用を受けるものと主張した。  
海事法をめぐる論議が成熟するにつれて、海洋国家は海事法の整備を推進することとなった。オランダ人の法学者であるCornelius van Bynkershoekが自著『De dominio maris』(1702年)において、陸地を護るために大砲が届く範囲内の海の支配権(領海)はその沿岸の国が保有すると主張した。この主張は各国で支持され、領海は3マイルとするとされた。  
この論争は最終的には、経済論争にまで発展した。たとえ、モルッカ諸島でナツメグとクローブを独占していたとしても、オランダは、自由貿易を主張していた一方で、イギリスは、1651年に航海条例を制定することでイギリスの港湾にイギリス船籍以外の入港を禁じた。航海条例の制定によって、第一次英蘭戦争が勃発した。  
神学論争とグローティウス  
グローティウスは、ホラント州の法律顧問であるヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト(en)のもとで政治的キャリアを積むようになり、1605年にオルデンバルネフェルトのアドバイザーとなった後、1607年に、ホラント州、ゼーラント州、フリースラント州の財務の管理者となり、1613年にはロッテルダムのペンショナリー(en)となった。私生活ではマリア・ファン・レイゲスベルゲンと結婚し、8人の子をもうけた(但し、そのうち4人は夭逝)。  
グローティウスがオルデンバルネフェルトのもとで働いていた時代とは、スペインとの戦争状態が12年間休戦状態になった時代であった。1609年、オランダはスペインとアントウェルペンにおいて、12年休戦条約を締結した。この結果、オランダを覆っていた外患は取り除かれ、国際的地位は向上することとなった。一方、オランダ国内では改革派の「予定説」の解釈をめぐる神学論争が起きた[3]。  
この神学論争の焦点は、アルミニウス派(中心はライデン大学の神学教授ヤーコブス・アルミニウス)が予定説の解釈に対して寛容であることを説いたことに対して、厳格に解釈することをホマルス派(中心は同じくライデン大学のフランシスクス・ホマルス)が主張した点にあった。グローティウスやオルデンバルネフェルトをはじめとするオランダの上流階層はアルミニウス派を支持する姿勢を示していた[3]。一方で、ホマルス派の支持層は南部諸州から逃れてきた改革派の亡命者や難民、都市の下層民などであった[3]。結果、神学論争はオランダ独立の過程での階級闘争、さらに国家と教会の間でどちらが上位に立つべきかという国家論に発展した[3]。  
1618年、ドルトレヒトにおいてドルト会議が開催された結果、ホマルス派の全面的勝利に終わり、オルデンバルネフェルトは1619年5月に国家反逆罪で処刑され、グローティウスは逮捕されレーヴェシュタイン城(en)に収容された。  
1621年、妻の協力を得てグローティウスは脱獄に成功し、本1冊を胸に携え、一路パリへと亡命した。この本に関しては、アムステルダムのen:Rijksmuseumとデルフトのen:Prinsenhofがそれぞれ自らが所有する本が、脱獄の際に持ち出した本を所蔵していると主張している。  
パリに到着したグローティウスに対しフランス王ルイ13世は年金を与え、その生活を賄った。グローティウスはフランスにおいて、彼自身の著作の中で最も有名となる哲学の作品集を完成させることとなったのである。  
『キリスト教の真理』と『戦争と平和の法』  
パリ滞在中、グローティウスは様々な分野で執筆作業を行っている。グローティウスは神学に関心を抱き続けており、『ペラギリウス派についての探求』(1622年)、『ストバエウス』(1623年)、『キリスト教の真理』(1627年)、『アンチクリスト論』(1640年)、『福音書注解』(1641年)、『旧約聖書注解』(1644年)と著し続けた[4]。その中でも『キリスト教の真理』("De veritate religionis Christianae")は6分冊によって構成され、護教論の分野における最初のプロテスタントのテキストブックであった。グローティウスは『キリスト教の真理』において、神が存在すること、神の唯一性、完全性、無限性、永遠・万能・全知・まったき善であること、万物の原因であることを論証していった[5]。  
もう一つが『戦争と平和の法』("De jure belli ac pacis")である。『戦争と平和の法』によって、「戦争が法による規制を受けるものであることを明らかにするという「実践的目的のための理論的道具」としての「自然法論」を展開した[6]」格好となった。  
スウェーデン大使  
レモンストラント派の多くがオラニエ公マウリッツが死亡した1625年以降にオランダへの帰国を果たす中で、オランダからの恩赦を断ってきた。1631年に一度ロッテルダムへ戻ったことがあるが、直後にハンブルクへ走った。  
1634年、駐仏スウェーデン大使として働く機会を得ることができた。当時のスウェーデン国王グスタフ2世アドルフは、戦場で軍隊を指揮する際には、たえず鞍の中に、グローティウスの『戦争と平和の法』を携行していたとされる[7]。グスタフ2世アドルフの後を継いだアクセル・オクセンシェルナもまた、グローティウスを駐仏スウェーデン大使として雇用した。グローティウスは1645年にその職を解かれるまで、亡命期間中に利用していたパリの自宅を利用した。  
グローティウスの最期は突然であった。フランスからスウェーデンへの旅の途上、グローティウスが乗る船が難破し、グローティウスは、ロストックに漂着した。衰弱していたグローティウスは、ロストックで1645年8月28日に病没した。彼の遺体は、青春時代をすごしたデルフトのデルフトの新教会で眠っている。  
 
 
ケプラー「ルドルフ表」初版 1627年

 

Kepler, Johannes.(1571-1630)  
Tabulae Rudolphinae,quibus astronomicae,temporum loginquitate collapsae resturatio continetur...  
ケプラーはドイツの天文学者。本書は、コペルニクス、ガリレイ、ニュートンらと共に近代天文学と宇宙に関する新しい概念の先駆者として知られるケプラーが、彼の理論に基づいて著した最初の惑星位置表である。16世紀最大の天文観測家といわれるデンマークのティコ・ブラーエの弟子となったケプラーは、師の観測に基づいて惑星の位置表の作成に従事し、ブラーエの没後は皇帝ルドルフ2世付きの数学者となった。ブラーエが多年観測した惑星の位置に基づいて、初めて観測だけから惑星の軌道とその運動法則、いわゆるケプラーの3法則を発見した。この法則が、ニュートンの万有引力発見の基礎となったことは有名である。ルドルフ2世の恩恵を記念して命名されたこの表は、発表後100年のあいだ標準的な天体表として使用された。 
ルドルフ表  
神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命によって、1627年にドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが作成した天文表である。ラテン語による原題は Tabulae Rudolphinae Astronomicae、英語では the Rudolphine Tables、ドイツ語では Rudolphinischen Tafeln という。 天文表とは、数年分の『理科年表』の「暦部」と「天文部」を合わせたような天文データ・ブックで、おもに諸惑星の位置推算表からなり、主として占星術における出生天宮図の作成のために利用された。〈現在でも、占星術の教本には天体暦が付属している)また、対数表や惑星の位置推算の手順も収められていた。  
惑星の位置推算表は、プトレマイオスの体系に基づく『アルフォンソ表』(13世紀後半)やレギオモンタヌスの天体暦、コペルニクスの体系に基づく『プロイセン表』(1551年)に替わるものである。ケプラーの法則に基づいて計算されたその数値は従来の星表の30倍の精度を持ち、地動説の優位性を決定的な物とした。  
また、恒星のカタログも収録されている。16世紀内からコピーが出回っていてブラウの天球儀やバイエルの星図『ウラノメトリア』の元データを含む「ティコ・ブラーエの星表」の完全版(1,006星を収録)の他、これに漏れた恒星をプトレマイオスやバイエルから採った補遺、さらに南半球でオランダの航海者ペーテル・ケイセルが観測した恒星のカタログも収録されている(初書籍化)。ティコの観測精度は、観測機器を巨大化することによって1分角以内に達しており、大気差の補正も行われていた。 
ヨハネス・ケプラー1  
(Johannes Kepler、1571-1630) ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。欧州補給機(ATV)2号機の名前に彼の名が採用されている。  
ケプラーは1571年12月27日、ドイツのシュワーベン地方にある自由都市ヴァイル・デア・シュタットにて、ハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラーの間に生まれた。プロテスタントであり、これは宗教的対立の高まっていた当時の神聖ローマ帝国において、ケプラーに苦難を強いる原因の一つとなった。神学校に進学したのち、1587年、テュービンゲン大学に入学し数学を学んだ。1594年にはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった。1597年にはバーバラ・ミューラーと結婚。しかし翌1598年にはグラーツを治めていたオーストリア大公フェルディナント2世がグラーツからのプロテスタントの聖職者と教師に町からの退去を命じ、ケプラーは失職する。  
そんな折、1599年、ティコ・ブラーエ (1546-1601) に助手として(ケプラー自身の主張によれば、ケプラーはブラーエに共同研究者として招かれたのであって、助手ではない)プラハに招かれ、ケプラーはこれを受諾しプラハへと移った[1]。ティコは大観測家であり、1576年から1597年の21年間、デンマーク(現スウェーデン領)のヴェン島にウラニボリ天文台を建設して天空の観測を続け、さらにプラハでも観測を続けていた。この観測データは望遠鏡のなかった当時、肉眼で観察されたものとしては最高の精度を持っており、正確で膨大な観測データはのちに紆余曲折ののちケプラーの手に入り、ケプラーの法則発見の基礎となった。一方でティコは自らのデータから地動説を支持する証拠を見つけることができず、自ら手を加えた天動説を提唱していた。  
1601年にティコが亡くなると、ケプラーはブラーエの後任のルドルフ2世宮廷付占星術師として引き続き仕え、ティコの残した観測データをもとに研究を続けた。しかし、ティコの遺族にルドルフ2世が支払うはずだった観測データの代金はほとんど支払われず、ケプラーとティコの遺族のあいだには争いが起きた。1609年、代表作とされる「新天文学」を執筆した[2]。「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。1611年には3人の子のうちの一人と妻のバルバラが死去し、1612年にパトロンであったルドルフ2世が亡くなると、ケプラーはプラハを離れ、オーストリアのリンツに州数学官の職を得た。1613年にはズザナ・ロイティンガーと再婚し、1618年にはケプラーの第三法則を発表したが、1620年から1621年には故郷ヴュルテンベルグにおいて母カタリーナが魔女裁判に掛けられたため、その地にとどまって裁判と弁護に奔走した。1621年に無罪判決を勝ち取るとリンツに戻ったが、1626年には反乱軍によってリンツが被害を受けたためウルムへと移り、ここで1627年にはルドルフ表を完成させた。1630年、レーゲンスブルクで病死した。  
自然哲学  
ケプラーの自然哲学の中心は惑星論にある。ケプラーは数を宇宙の秩序の中心とする点や天体音楽論を唱える点で自然哲学におけるピュタゴラス的伝統の忠実な擁護者であった。その反面、コペルニクスやティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイも脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新した。  
ケプラーの真の功績は、数学的な裏付けを持った物理モデルを提出するという方法の先駆者だった所にある。彼のモデルそのものは誤っていたが、結果的にこれはガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンを経て古典物理学の成立へとつながっていく。  
ただしケプラーの「数学的裏付け」は、まだ合理性において不十分なものであった。例えば彼が初期に提唱した多面体太陽系モデルは、「惑星が6個存在することは、正多面体が5種類しか存在しない事と関連があるに違いない」という思い込みによるものである。またケプラーは火星の衛星が2個である事を予言したが、これは「地球、火星、木星の衛星の数が等比数列をなしている」という思い込みによるものである。結果として火星の衛星の数は2個であったが、その仮説の前提である木星の衛星の数は、当時知られていた4個よりも遥かに多かったのである。  
ケプラーの法則  
ケプラー以前の天文学では、惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行すると考えられていた。曰く、完全なる神は完全なる運動を造られる、というものだった。惑星は逆行運動をする事が知られていたが、この問題は周転円の考えを導入する事で解決され、最終的にはクラウディオス・プトレマイオスによって天動説はほぼ完成し、長きにわたって惑星は円軌道で運行すると信じられた。  
ニコラウス・コペルニクスは地動説を提唱した。現在、それは「コペルニクス的転回」として、発想の大転換を表現する際に比喩として用いられるが、そのコペルニクスもまた、惑星は円軌道で運行するという考えに縛られており、コペルニクスの地動説は従来の天動説に対し、少ない周転円で同程度の精度を出せるだけに過ぎない。実際には、周転円なしでもそれなりの精度が得られるため、理論の単純さのために精度を犠牲にする地動説論者も多かった。逆に、これを引き継いで『プロイセン星表』を作成したエラスムス・ラインホルトに至っては、逆に周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、かえって煩雑さを増すという結果となった。  
これに対してケプラーは、惑星の運動を歪んだ円、もしくは楕円であるとした。惑星の軌道を楕円と仮定するとティコ・ブラーエの観測した結果を説明できることが分かり、後にケプラーの法則とされた。これによってようやく地動説は、従来の天動説よりも単純かつ正確なものとなったのである。  
ケプラーの法則によって導かれる結論は、距離の二乗に反比例する力によって、惑星が太陽に引かれているという事実である。ケプラーは「太陽と惑星の間に、磁力のような力が存在する」として、その事に気付いていたが、その力の正体を解明するに至らなかった。後にアイザック・ニュートンによって、その力が万有引力であるとされた。  
ケプラー予想  
ケプラーはまた、球を敷き詰めたときに、面心立方格子が最密になると予想した。 この予想はケプラー予想と呼ばれ、規則正しく敷き詰める場合に関してはガウスによって早々に証明されたが、 不規則な敷き詰め方に関しては、400年もの間未解決の問題であった。ケプラー予想は1998年に、トーマス・C・ヘイルズによって、コンピュータを駆使して解決された。 
ヨハネス・ケプラー2  
(Johannes Kepler 1571-1630) プラーは律儀な人であった。そしてすべてに調和を求めたが、ケプラーの生きた時代はそれを許さなかった。まじめすぎて、どこか哀しいケプラーの一生であった。  
ケプラーは天文学・数学上の巨人である。だが、お墓の場所さえ明らかではない。伝記も本によってかなり違う。ようするにその生涯はあまりよくわかっていない。私の世代では、カール・セーガンのTV番組「コスモス」(1980年秋)の中の「宇宙の調和」で描かれたケプラーの生涯が記憶に強く残っているだろう(「コスモス」は単行本にもなっている)。  
ケプラーは1571年12月27日に南ドイツのヴァイル・デア・シュタットで生まれた。未熟児だったという。当時、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていた。ヴァイル・デア・シュタットの住民の多くはカトリックであったが、ケプラー家はプロテスタントであった。でも町にプロテスタントの教会がなかったため、ケプラーはカトリック教会で洗礼を受けたという。これを発端に、彼の一生は宗教に振り回されたものとなった。  
祖父はこの町の市長までしたという名門だったケプラー家だったが、父は身を持ち崩し傭兵として暮らしていた。母は居酒屋をやっていた。二人して家を空けることもあり、父も母もあまり彼を熱心に育てなかったという。父は1588年(ケプラー17歳)のときを最後に家を出たままになった。また、ケプラーは子供のころの病気がもとで、目を悪くしたという(当時の天文学者としては致命的)。  
ケプラーの少年時代の思い出は、母に連れられて彗星を見たこと(6歳のころ)、父に連れられて月食を見たこと(9歳のころ)だという。これが彼の天文学に対する興味を目覚めさせたらしい。  
ケプラーの才能と信仰心を認めた初等学校の先生の薦めもあり、ケプラーはルター派の牧師になるための上級学校に進む。学費無料の全寮制の学校での生活は聖書の勉強がメインで、彼にとってはあまりおもしろいものではなかったらしい。だだ、ユークリッド幾何学には非常な興味を持ったようだ。  
その後さらに、チュービンゲン大学神学部に進学する。そこで、コペルニクスの地動説を知った。  
大学を卒業したケプラーは牧師にはならず、グラーツのギナジウム(中学から高校程度?)の数学&天文学の教員になる。しかし、授業は生徒の理解を超えたものだったらしい。なにしろ授業中にもかかわらず、フツフツと沸いてくる自分のアイデアの検討を始めてしまう有様なのだ。だいたい、数学を理解できない生徒がいるなどということ自体、ケプラーに理解できなかっただろう。ここでも、頭のいい人が必ずしもいい教員でない例を見ることができる。  
ケプラーが赴任したグラーツの町は宗教的な緊張状態にあった。ケプラーが作った1595年の占星暦は、寒波の襲来とウィーン南部へのトルコ軍の襲来を当てたので評判となった。著書「宇宙の神秘」では、惑星が5つしかないのは(当時は水星、金星、火星、木星、土星のの5つのみが知られていた、地球はもちろん惑星とは認識されていなかった)、正多面体が5つしかない(正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体)からだというアイデアが述べられている。つまり、各惑星の軌道はそれぞれ内接するそれらの正多面体に支えられているというものである。彼は一生このアイデアのこだわった(が、もちろん正多面体と惑星の軌道は無関係である)。  
1597年4月、ケプラーは結婚歴もあり7歳の連れ子(レギーナ)もいる、富裕な粉ひき工場主の娘バーバラと結婚する。バーバラとの間の二人の子は、二人とも生後まもなく死んだという。ケプラーはレギーナを可愛がった。しかし、妻は病気がちで、おまけに給料の安いケプラーをさげすんだという。  
このころ、グラーツのプロテスタントは弾圧を受ける。ケプラーも一時町から避難したりしている。こうした時期に、ケプラーはチコ・ブラーエの招きを受ける。ケプラーはこの招待を受けることにする(1600年、日本では関ヶ原の合戦が起きた年)。  
チコは自分の精密で膨大な観測資料をもとに、新しい太陽系の理論の構築を試みていて、優秀な助手が欲しかったのだ。だが、呼んでみたケプラーは予想以上の頭の良さであった。自分の資料をケプラーに全部見せると、その成果を全部とられてしまうと恐れ、チコは観測資料をなかなか見せなかった。  
ケプラーは友人に対し、「チコは、たまたま食事での語らいのときに、今日はある惑星の遠日点について、次の日は別の惑星の交点についてという具合に時たま漏らしてくれる以外には、彼の持つ経験を分かちもつ機会を与えてくれません。」「チコは きわめてケチで、観測結果を教えてくれない。」と愚痴をこぼしている。  
そのほか、二人の性格の違いもある。謹厳実直で貧乏なケプラーに対し、宴会好きな大金持ちチコ、二人はしょっちゅうケンカと和解を繰り返していたという。チコは当時を代表する観測家、ケプラーは当時を代表する理論家、その対立という見方もできる。  
しかし、チコはやがて死んでしまう(1601年)。チコの精密で膨大な観測資料はケプラーのものになった。  
ケプラーはとくに火星を研究した。チコも火星の軌道は円に当てはめにくいことに気がついていた。長年の研究の結果、ケプラーはある日「正解」を出したと思った。だが、その軌道は最大で角度で8'(分、<1'>は1°の1/60の大きさ)の違いを生じた。ケプラーにはこの違いを無視できなかった。そうして楕円を当てはめてみたところぴったりなことに気がついた。ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)の発見である。1605年のことであった。ケプラーは同時に第2法則(面積速度一定の法則)も発見している。もっとも、これらの書いた「新天文学」が実際に出版されたのは、資金難やチコの遺族の妨害のため1609年になっていた。  
しかし、ケプラーに不幸が見舞う。政情不安になったプラハに天然痘がはやり、妻と長男を失う(1610年)。おまけに皇帝が変わってしまったため、以後皇帝付数学者としての給料は満足に支払われなくなる。  
ケプラーはリンツの州数学監としてリンツに赴任する(1612年)。この町でも、また宗教の面でケプラーは苦労する。ケプラーは新教徒ではあるが、厳密にルター派の教義すべてを納得していたわけではないらしい。ケプラーはこの町でスザンナ・ロイティンガーという女性と再婚する。最低点の女性と結婚したというのはこのときをさしているという説もある。ケプラーはこの女性との間に6人の子供をもうける(8人という説もある、3人は幼くして死ぬ)。このころ、町でワインを買おうとして、酒樽の中のワインの量のあまりにいい加減な量り方を知り、「ワイン酒樽の容積」(1615年)という本も書いている。これは今の積分につながる内容でもある。  
このころケプラーは別な苦労もすることになる。彼の母が、いざこざに巻き込まれて魔女として告発されてしまったのだ。薬草も売っていたし、ケンカ好きでもあったので、まわりの人たちに嫌われてしまったようだ。1615年、70歳の彼女は逮捕されてしまう。ケプラーは様々な運動を行って、母の救出を試みる。そのせいかどうかはわからないが、1621年母は釈放される。最後の拷問器具を見せつけられながらの尋問でも、魔女であると自白しなかったという。当時、魔女として逮捕されて、無実で釈放されるのは異例中の異例のことであった。もっとも釈放されて半年で母は死んでしまう。おまけにこの間、継娘レギーナや娘一人を病気で失っている。  
こうした間もケプラーは研究を続け、1618年ケプラーの第三法則(調和の法則)を発見している(それがかかれた「世界の和声論」は1619年or1620年の出版)。惑星の公転速度が太陽から遠くなるほど遅い、しかもこのケプラーの第三法則に従って遅くなるということから、ケプラーは惑星の運動は太陽が惑星に力を及ぼし、それが惑星を動かしていると考えた。ケプラーは、ガリレオ(イタリア、1564年〜1642年)が発見した木星の衛星も、この法則に従ったいることを確かめた。そして実際に、この第三法則を一つの大きな手がかりとして、ニュートンは万有引力の法則を発見する。1627年には懸案の「惑星運行表」(ルドルフ表)も完成する。  
しかしリンツでも宗教的迫害が強くなり、ケプラー一家は皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインの招きで、ウルム(1627年)を経てサガンに移住する(1628年、ケプラー57歳)。ヴァレンシュタインはケプラーを占星術者として期待したようである。もっとも、このころは占星術と天文学は不可分のものであった。この時期、ケプラーは天体の位置の総合的データ集「(1621年から1639年までの)天体位置暦」(1630年)も完成している。また未刊に終わったが、世界最初のSF小説ともいうべき「夢」も書いている。そこには月に旅行して、月から見下ろした(見上げた)地球の姿も描かれている。アイデアは大学時代のものだ(指導教官に話したが理解してもらえなかった)。ケプラーのこのために、彼の母が魔女の嫌疑をかけられたと思いこんでしまう。  
このころ、天体暦作成のための計算助手として雇ったバーチェと娘スザンナが結婚したり、二人に子供ができたり(ケプラーの孫)と、比較的平和な生活が戻った。しかし、これも長くは続かない。ヴァレンシュタインが失脚してしまったのだ。  
ケプラーは支払われない皇帝付数学者としての給料を求めてプラハに向かった。星占いで死期を悟ったケプラーは大変に落ち込んでいたという。実際、途中の宿でケプラーは死んでしまうのだ(1630年、ケプラー59歳)。  
一説では、リンツでの未払いの債権を求めてリンツに向かった。熱病で死んだという。盛大な葬式が営まれたらしい。もう一説では、お金のないケプラーは旅の途中に満足な食事をとれず、衰弱死したという。ようやく持っていた本でケプラーと知れたという。こちらの方が、謹厳実直、まじめ一筋、生活の苦労がつね付きまっとったケプラーらしい死に方だったかもしれない。  
ケプラーのお墓は戦乱の中で破壊され、所在が失われたままになって今日に至っている。  
ケプラーの興味は幅広く、上に上げた天文学、数学、そしてSF小説ばかりか、光学、音楽(惑星の運動の背後には幾何学的・音楽的調和があるというケプラーの信念がある。彼は一生この幻影を追い求める)、雪や花の形の考察なども行っている。  
ケプラーには疑い深く、また怒りっぽいところもあったようだ。また自分の才能に対する自信と、些細なことでくよくよするという側面もあったという。世俗的な成功、家族との平和な暮らしが得られなかったことは確かなようだ。 
ヨハネス・ケプラー3  
ヨハネス・ケプラーは、予期せぬ出来事の連続に翻弄された人生を送った。生まれたのは南西ドイツの小都市、ヴァイル・デア・シュタットで、祖父がそこの市長を務めていた。元々はよい家柄だったのだが、父親は家を不在にして傭兵として各地を放浪し、たぶんケプラーが20歳になる前に死んでしまった。ヨハネスは七人きょうだいの長男として、主に母親に育てられた。  
12歳のとき、神学校に入学。17歳でテュービンゲン大学に進み、教養課程を経てさらに神学の勉強を進めた。プロテスタントの聖職者になるのが彼の目標だった。ところが1594年(22歳)、もう少しで神学の課程を修了するところで、ケプラーは突然、オーストリアのグラーツにある神学校の数学教師に推薦される。彼は大学で、神学のほかにミヒャエル・メストリンから数学と天文学を学んでおり、その勉強熱心さが今回の推薦につながったのだ。不承不承ながら、ケプラーはこの人事を受け容れた。  
グラーツでのケプラーは、学校教師としての仕事のほかに、地区の数学官という職務も兼ねていた。その主な仕事は天文学に基づく暦の作成と、翌年の出来事について占星術を使った予測をすることだった。占星術は収入源としても重要で、ケプラーの予測は不思議とよく当たった。占星術をあまり良いものとは思っていなかったケプラーだが、結局は生涯を通じ、人の求めに応じてさまざまな予測を行っていた。  
1597年(27歳)、処女作となる『宇宙誌の神秘』が出版される。ケプラーはすでに大学時代、メストリンからコペルニクスの地動説のことを知り、それに惹かれていた。しかしそこにはまだ多くの謎があって、ケプラーは宇宙の秘密を独自に解き明かそうとしたのだった。太陽系の惑星の数と配置が五つの多面体によって説明されるという彼の有名なアイディアはこの本に登場する。ケプラーは終生、宇宙は数学的に作り上げられていると信じて疑わなかった。彼にとって、宇宙に秘められた数学を解明することは、それを創造した神をたたえることにほかならなかったのだ。  
この本の印刷が終わってケプラーのところに届く少し前に、ケプラーは実業家の娘バルバラ・ミュラーと結婚した。23歳のバルバラはこれが三度目の結婚で、子どもも一人いた。ケプラーは後に生まれる自分の子どもたちと同様、この子も可愛がった。ところがその翌年、反宗教改革が起こり、グラーツではプロテスタントに対する追放令が出される。ケプラーは少し後に戻ることを許されたが、この都市はもはや安全ではなくなっていた。  
そんな中、ケプラーは当代きっての天文観測家ティコ・ブラーエから、自分のところに来ないかという誘いを受けた。ティコはその少し前、プラハにいる神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の下に移ってきていた。ケプラーは1600年(28歳)に半年ほど単身でプラハを訪ね、ティコからもらされる断片的なデータをもとに、火星の運動について研究した。そして一時帰国後、その年のうちに家族を連れてプラハに移った。  
予想外だったのは、その翌年、ティコが死んでしまったことだった。ティコの助手として皇帝にも紹介されていたケプラーは突然、皇帝付きの数学官に任命され、ティコの仕事を引き継ぐことになった(29歳)。最大の業務は、ティコの観測に基づいて天体の運行をまとめた表、『ルドルフ表』を完成・出版することだった。  
実際には、まず出版されたのは『天文学の光学的部分』(1604年)と『新天文学』(1609年)という二つの本である。前者では、ものが見えるのは目がレンズになっているからだということを初めて明らかにした。そして後者では、火星の運動についての詳しい研究を行い、その軌道が楕円であることや、一定時間に惑星と太陽を結ぶ線が描く面積は一定であることなどを提示した(いわゆるケプラーの第一法則と第二法則)。またこの本では、天文学では物理的原因の探究も重要だという信念のもと、太陽からの「力」によって惑星が動かされているという考えが述べられている。  
次いで1610年には、イタリア人ガリレオが望遠鏡で天文観測を行ったというニュースが飛び込んできた。ケプラーはこれにすぐさま反応し、ガリレオの『星界の報告』を支持する『星界の報告者との対話』(1610年)を出版、さらにレンズによる像の形成について論じた『屈折光学』(1611年)を書いた。  
しかし私生活の上では、1611年は悲惨な年だった。皇帝ルドルフ2世が弟のマティアスによって退位させられ、翌年に没した。そしてこの間に起こった争乱の中、子ども一人と妻のバルバラが病気で亡くなった。翌年、ケプラーはオーストリアのリンツに移り、そこで以前と同じような、学校教師兼議会数学官という仕事に就くことになる。『ルドルフ表』の完成も引き続き、ケプラーの仕事に含まれていた。  
リンツでケプラーは、二人目の妻、ズザナ・ロイティンガーを迎えた(1613年)。このとき41歳だったケプラーは、実に11人もの花嫁候補を慎重に吟味し、最終的に24歳のズザナに求婚したのだった。しかしこの時期のケプラーが手放しで幸せだったとは言えないだろう。なぜならケプラーは、キリスト教の諸派(カトリック、ルター派、カルヴァン派)にはそれぞれ見るべきところがあると考えており、結果としてどの宗派からも仲間と認めてもらえなかったからである。  
さらにもう一つ、この時期には大変な出来事に見舞われた。母親カタリーナの魔女裁判である。それは言い掛かりのようなものではあったけれども、実際に多くの「証言」が集められてカタリーナは逮捕されてしまい、裁判にかけられた。ケプラーは1620年から21年にかけてヴュルテンベルクに帰り、母の弁護を精力的に手助けした。幸い、告発は最終的に退けられ、カタリーナは釈放されたが、その半年後に亡くなった。  
このような日々の中で、ケプラーは自分の研究を少しずつ進めていた。『ワイン樽の新しい体積測定』(1615年)、『コペルニクス天文学の概要』全3巻(1617-21年)、『宇宙の調和』(1619年)といった本がこの時期に書かれ、さらに『宇宙誌の神秘』の第二版も出版された(1621年)。このうち『宇宙の調和』では、惑星のあいだの距離が和声(ハーモニー)とどのような関係にあるかが議論され、諸惑星の奏でる「音階」が論じられた。いわゆるケプラーの第三法則、惑星の周期の2乗が太陽からの距離の3乗に比例するという関係は、この中で示された最大の発見だった。  
だがまたもや、宗教改革の戦乱が押し寄せてきた。ケプラーに残された最後の仕事、ずっと完成されずにいた『ルドルフ表』の出版準備は整いつつあったが、リンツではその仕事は続けられそうもなかった。1626年(54歳)、ケプラーは家族を連れてリンツを後にし、レーゲンスブルクに家族を落ち着かせると、原稿と活字を携えて単身ウルムに向かった。そしてそこで、ついに『ルドルフ表』(1627年)は陽の目を見た。  
その後、ケプラーは帝国の将軍ヴァレンシュタインに召し抱えられることになり、何度目になるかわからない引っ越しをしてザーガンに移った。そしてそこで、またもや対抗宗教改革に巻き込まれた。それどころか、1630年には、ヴァレンシュタインの政治的地位も危うくなった。ケプラーは事態の推移を見守ろうと、この年の秋、レーゲンスブルクに向かった。結果としてこれが命取りになった。旅の途中で病気にかかったケプラーは、当地で11月15日に息を引き取った。58歳だった。  
ケプラーの生涯は、とりわけ宗教改革のために、波乱に満ちていた。これだけ時代に翻弄されながら自分の研究に集中し、これほど多くの本を出したのは驚異的と思う。亡くなった時も、ケプラーは自分の本をもう一冊、印刷させている途中だった。息子の手で1634年に出版されたその遺作は、月から見えるであろう天文現象について物語風に書かれたもので、近代的なSFの先駆けとも言われる。学生の頃の着想に基づくこの作品には、『夢』という表題が付けられていた。 
ティコ・ブラーエとケプラー  
占星術、この占い方法にいったいなんの根拠があるのかという疑問をもった占星術師がいました。ドイツの学者ヨハネス・ケプラー、後にその師となるティコ・ブラーエです。天体の運行から人間に関わる現象を予言できるとするならば、変な形式ばかりの占いをするのではなく、もっと天体の運動を深くみつめてその奥にある法則を知る必要があるのではないかと考えたのです。  
彼らの研究以前にも、一応天体の運行表はありました。しかしそれがいいかげんだったので、デンマークの占星家ティコはもっと精度の高い運行表をつくろうとしていました。大がかりな天文台をデンマーク王につくってもらい、かつてない精度で観測を続けました。当時、望遠鏡のない時代で最高精度の観測結果であり、ティコは空気の屈折により星の位置がわずかにずれることも知っていたと言います。  
しかし他にも占星術師はいたわけで、わざわざ膨大な予算を費してそのような研究をする意味があるのか、という理由でティコは煙たがられていました。ティコはティコで頑固な性格だったそうで、意見が衝突し、結局彼はデンマークを去ることになります。そして移った先が、神聖ローマ帝国のあのちょっと変な皇帝、ルドルフ2世の研究所でした。  
ティコの名声を風の噂で聞いたケプラーは、弟子入りするため故郷からティコのもとへ行っています。思惑通りティコに弟子入りしたケプラーはしだいに師匠ティコから大きな信頼を得、ティコの死後に彼の16年に渡って観測した貴重なデータを受け継ぐことになります。この二人のめぐり合わせによってケプラーの3法則の発見、さらにはニュートン力学へと発展したのですから、星のもとに導かれた出会いだった、と言ってもいいかもしれませんね。  
ケプラーがティコから貰ったデータは、数式処理されていない生の観測値でした。ティコは観測技術には優れていたものの、数学の腕はあまりなかったそうです。一方、それを受け継いだケプラーは、データから起動計算をする処理が得意でした。そいうわけで、ケプラーはまず精密な惑星軌道を求めることからはじめました。プトレマイオスの天動説、コペルニクスの地動説で惑星の運動は一通り説明できていたはずでしたが、ティコの精密な観測データから算出された軌道だとこれら二つの説は合わないことが分かりました。特に火星の軌道は実測値との違いが大きく、これまでの説を修正する作業が必要になったのです。  
天動説と比べて、コペルニクスの地動説は単に「より簡単に説明できる」という意味のみを持っていました。しかし後にケプラーが火星軌道の計算から発見する三つの法則、そしてニュートンの発見する万有引力の法則と運動の法則によって、地動説は単に視点を変えてみやすくするだけのものではなく、「地球は動いている」と断言できる理論へと認識を変えました。 
ティコ・ブラーエ  
晴れた日の夜に空を見上げると数多くの星が見えます。宇宙には我々人類が暮らす地球もまた宇宙に沢山ある星の一つで、太陽系の第3惑星であることは皆知っていることです。地球と太陽および他の惑星がどのような位置関係にあるのかと言うことに関しても今では地球は太陽の周りを回っていると言うことが常識になっていますが、それが常識として定着するまでには人類が文明を築きあげてからかなりの年月を要しました。古代世界では地球と太陽および他の惑星の関係についてはアリスタルコスのように地球が動いているという地動説は出された物の支持を得られずプトレマイオスが提唱した天動説が定着し、以降16世紀まで時々疑義は示されるものの天動説が長きにわたって信じられていました。それがコペルニクス、ガリレオ、ケプラーといった天文学者が16世紀後半から17 世紀前半に駆けて活躍し、それからようやく地動説が認められるようになったわけです。しかしこれらの人物と比べると目立ちませんが、緻密な観察を長年にわたり続けて天動説と地動説に関してかなり変わったアイデアを出した人物がティコ・ブラーエです。彼が集めたデータがなければケプラーの研究はできなかったと言う点でも天文学の発展にかなり寄与した人物です。  
天文学者への道  
ティコ・ブラーエ(1546〜1601)は当時デンマーク領だったヘルシングボリ(今はスウェーデン南部)の貴族の家に生まれましたが、生まれてまもなく叔父の家に養子に出されています。しかしこの叔父がかなりお金持ちだったようで、このことが彼が後に各地の大学を遊学するうで大いに役立つことになります。ブラーエは始めから天文学者を志していたわけではなかったようで政治家になることを望んでいたとも叔父がそのような期待を込めていたとも言われています。いずれにせよそのために13歳から大学に通い、以後各地の大学で学ぶことになりますが、まずはデンマークのコペンハーゲン大学で哲学と修辞学の勉強をし始めます。しかし大学で勉強を始めて間もないブラーエ14歳の時に彼は日食を目撃します。ある占星家が日食を予言し、それが見事に的中したことに興味を持ったブラーエはその後天文学に興味を持ちプトレマイオスの天文学を読みふけります。彼の天文学への興味はその後強まりこそすれ弱まることはなく 1562年にライプチヒ大学の法学部に転学したにもかかわらず数学と天文学に熱中していた事が知られています。  
このころになるとブラーエは自ら観測を行い、星座の位置にずれがあることを知るようになっています。当時既にヨーロッパには星図表が存在し、ブラーエの頃にはアルフォンソ表(13世紀後半に作られた物)にくわえて1551年にはプロイセン表と呼ばれる星図表が作られていましたが、それらを参照しながら観測し、表に描かれた物と現在の星座の位置にずれがあることを明らかにしています。また 1563年には木星と土星を観察しそれまで用いられてきた惑星運行表に大きな誤差があることを発見したことも伝えられています。ブラーエはその後ヴィッテンベルグ大学、ロストック大学で学び、さらにバーゼル、アウグスブルグをまわり、1571年(1573年説も)には故郷のデンマークに帰国したといわれています。しかしブラーエが数学の知識をひけらかしたことが原因で他の留学生と決闘することになり、その結果鼻をそぎ落とされてしまったのもヴィッテンベルグやロストックで遊学していた頃のことでした。鼻をそぎ落とされたということはブラーエにとりいたく自尊心を傷つけられる行為だったようで、金と銀を混ぜたパテや真鍮製の模造鼻を用意し、付け鼻がずれたときにはすぐ修正できるようにのりのような物を常時携帯していたそうです。ブラーエについては横柄な自信家という評価がされることがおおいようですが、それは鼻を切られたことによる劣等感の裏返しではないかという指摘が為されています。いくら付け鼻を用意したり、金銀を使ったきらびやかなパテでつけられるようにしても、所詮それは代替物に過ぎないわけで、劣等感を隠すために傲慢・横柄になるというのも分かるような気がします(もちろんそれだけでブラーエの行動を説明するのは危険だと思いますが)。  
様々な発見  
1570年代にはティコ・ブラーエは天文学者として活躍するようになっており、その間に色々なことを発見します。その業績は1572年の新星発見、1577年の大彗星発見(その後ブラーエは20年間で5つの彗星を発見します)というものでしたが、これは当時の宇宙観を揺るがす大きな発見でした。今までの天文学ではアリストテレスの学説に従い、月より遠くでは何も変化は起こらず永遠不変の天球であると信じられていました。しかしブラーエは新星発見と大彗星発見がいずれも月より遠くで起きたことを実際に示し、アリストテレス以来の宇宙観の誤りを示すことになったわけです。かれ自身は古代の天文学者たちの説を支持しようとした人物なのですが、彼の精密な観測はそれを悉くひっくり返すような結果を示し続けたと言うことは何とも皮肉な話です。  
ロストックを去りバーゼルをへてアウグスブルグへとやって来た1568年から1570年代前半のブラーエの行動についてはアウグスブルグにおいて金持ちの要請を受けて半径6メートルの大象限儀を1ヶ月間職人を雇って作らせた後の行動で諸家によって違いがあるようです。ブラーエの天文学上の業績の一つに1572年に新星を発見したという出来事が挙げられますが、新星発見の場所についてはアウグスブルグ滞在中に見つけたとする説と、故郷デンマークに帰国したときに研究室から外に出て空を見上げたときに見つけたとする説があります。 1573年にコペンハーゲンで「新星について」という論文を書いているので、そのころには既に帰国していることは確かですがその間の事はあまりわかっていないようです。  
一方私生活の面では27歳の時(1573年)に農家の娘と結婚し(その後9人の子供をもうけることになります)、それが原因で一族内でのトラブルが発生し、ブラーエは故郷を離れてヨーロッパ各地を彷徨います。旅行の目的は天文学の研究とともに住む場所を探すことだったようですが、この旅行中にヴィッテンベルグでプロイセン表作成者の息子から亡父の原稿を見せてもらったこと、ヘッセンでは領主ヴィルヘルム4世に天文観測塔を見せてもらったことが知られています。しかしなによりもその後のブラーエにとり大きな転機となるのはヴィルヘルム4世と知り合ったことで、彼と知り合うことがなければその後の研究活動はできなかったのではないかと思われます。故郷デンマークに帰ってきたブラーエのもとにデンマーク王フレデリク2世から天文台建設の申し出が舞い込んできますが、フレデリックにそうするよう進言したのはヴィルヘルム4世でした。  
ウラニボリ天文台にて  
デンマーク王フレデリク2世がブラーエのために天文台建設を申し出、それによりデンマークのフヴェン島に巨大な天文台が作られることになります。フヴェン島は現在はスウェーデン領になっていますが当時はデンマーク領で、周囲およそ10キロの小さな島でした。しかし底に作られた天文台は非常に大規模な物で天文観測所にくわえて書庫、紙漉所、印刷所、工場(天文機器をつくるため)を備えていただけでなく研究員が泊まるための設備も用意されていました。この天文台は地下から宇宙を観測するつくりになっていますが、これは当時の天体観測は望遠鏡がなかったために肉眼で行っており、高精度で星の位置を決めようとするとどうしても大規模な設備が必要になります。地下の観測室はトンネルでつながっており、円形の観測室の中央には視差定規や六分儀などの観測機器が置かれ、壁にそって高度に応じ観測者が位置を変えるための階段が刻んであります。観測者はドーム状の天窓を通して星の位置を測定していました。当時の観測装置は木製で風に弱く、ブラーエは観測制度を求めた結果地下に観測室を作ることを選んだというわけです。  
天文台はその見た目はあたかも城郭のようであり、ウラニボリ(天の城)と呼ばれるようになります。しかしそれでも後には手狭になり(助手や作業員の数が増えたため)、別棟がさらにつくられてステルンボリ(星の城)と呼ばれていました。この天文台は1576年 8月に完成して12月には観測を開始し、この天文台でブラーエは精密な天体観測を20年にわたって行って大量のデータを収集することになります(上述の彗星発見もこの天文台ができてから後のことです)。天文台建設は国庫から莫大な出費(2万ポンド)をおこなうと共にブラーエ自身も叔父から相続した遺産2万ポンドと自身が製造した怪しい薬の販売収益をつぎ込んでようやく完成し、その維持のためにある地所からあがる収益があてがわれたと言われています。なおブラーエ本人に対しても年金(400ポンド)が支給されています。  
しかし1588年にフレデリク2世が死去し、クリスティアン4世が王になると徐々にブラーエを取り巻く情勢は変化を見せ始めます。そしてついにフヴェン島の天文台は閉鎖され、ブラーエは1597年に島を去り、1599年にプラハに着くという大変な体験をすることになります。クリスティアン4世が即位してからしばらくは王室からの支援が続いたのですがそれが次第に途絶えていきます。一説にはブラーエが製造販売している怪しい薬が医師たちの反感を呼ぶことになり、そこからさらに天文台の有用性が疑問視される事態に至って無用と判断されたために援助が打ち切られて天文台が閉鎖されたと言われています。一方でブラーエの横柄な人柄が人々の反感を買っており、彼のパトロンであったフレデリク2世の死とともに表に噴出したともいわれています。ブラーエの天文台での態度はウラニボリの壁に歴代の偉大な天文学者の肖像を並べたときに自分の肖像を置き、さらに彼の後継者の肖像を描かせていたという逸話が伝えられていますし、彼自身は自室にいながら特殊な伝達機器を使って助手や作業員に指令を下していたために仕事がどんどん進んだとも言われています(この辺はかれの横柄な人柄が大いに役立った?のかもしれません)。  
1599年にプラハに入ったブラーエは当時の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(この人もかなり代わった人物として知られています)のもとで天文学者・錬金術師・占星術師として雇われます。プラハ郊外のペテナク城に天文台を構えますが1601年に彼は死んでしまうため新たな発見などはなく、天文学者としてのブラーエは1597年にフヴェン島を出た時点で終わっていたと言っても過言ではないようです。しかしこのプラハ滞在が無駄だったのかというと後の天文学発展の点からは重要な出来事でした。それは1600年からブラーエのもとでケプラーが働き始め、ケプラーはブラーエの死後、彼が蓄えてきた実測データを有効活用しながらケプラーの諸法則を確立することになるのです。  
ブラーエの宇宙観  
長年にわたり天体観測を行い膨大な実測データを残したり(それをケプラーが有効利用していきます)、彗星や新星を発見して従来の宇宙観に疑義を呈したブラーエですが、彼自身の宇宙観は従来の天動説でした。ブラーエが生まれた年はコペルニクスが死んでから3年後ですが、彼は長年の観測の結果コペルニクスの地動説ではなく天動説を唱えるに至ります。ただし単純な天動説ではなく、地球以外の惑星は太陽の周りを回っているが太陽はこれらの惑星とともに地球の周りを回っているというのがブラーエの考え方でした。  
ブラーエがそのような考え方に至ったのは彼が地動説に疑問を持っていたためですが、それについては彼が長年にわたって実測を繰り返しながらも年周視差がないことから疑問を抱いたというのが一般的ですが、一方で彼が迷信家でありそれ故に地動説を受け入れられなかったとする説明もあります。しかし後者の説明は17世紀の科学者のなかに迷信家な人がいることを思うと少々苦しいと思われます。やはりここはブラーエがきわめて実証的な天文学者であったことがかえって地動説受け入れの障害になったのだろうとおもわれます。なによりブラーエの天文台では望遠鏡は用いられておらず、彼が望遠鏡のない時代の天文学者であったことを考慮する必要があると思われます。現在の観測技術を使えば恒星についての年周視差が測定されますがそれは非常に小さな物で、我々から一番近い恒星で年周視差は最大0.76秒とのことです。 1秒は100キロ先で50センチという角距離にあたり、それは焦点距離10メートルの天体望遠鏡で写真を撮っても乾板上では0.05ミリしか離れていないということになるようで、それを肉眼で確認することは無理だったわけです。それゆえにブラーエは天動説を支持することになったのです。それもあって彼の存在はコペルニクスやケプラーに比べると余り目立ちませんが、かれの実測データがなければその後の天文学の発展も無かったわけで、古い時代と新しい時代の橋渡し役を果たしたと言うことはできると思われます。  
 
 
ガリレイ「世界2大体系についての対話」初版 1632年

 

Galilei, Galileo.(1564-1642)  
Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo.  
ガリレイは、イタリアの物理学者、天文学者。1583年にピサの聖堂の吊灯を見て、振り子の等時性を発見し、ピサの斜塔で落体の実験を行い、アリストテレスの自然学の誤りを正すなど、近代力学成立の基礎を築いた。1609年には望遠鏡を発明して、天体観測に応用し種々の発見をした。特に木星の衛星の発見は、コペルニクスの地動説に一証を与えた。しかし、彼の研究成果に対する反対が多かったので、ローマに赴き弁解したが、1616年宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を命ぜられた。フィレンッツに帰ったガリレイは、1632年に本書を著し、検閲を受けて出版したが、異議が出てローマに幽閉された。ようやく赦された時、「それでも地球は動く」とつぶやいたといわれている。 
ガリレオ・ガリレイ  
(Galileo Galilei、ユリウス暦1564-グレゴリオ暦1642) イタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られる。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。  
トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる。イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い。ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた。  
 
ガリレオは1564年にトスカーナ大公国領ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォ・ガリレイ (Vincenzo Galilei) は1520年フィレンツェ生まれの音楽家であった(呉服商も営んでいた)。母はペーシャ生まれのジュリア・アンマンナーティ (Giulia Ammannati)。二人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長子のガリレオが生まれたのであった。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が出来た。  
1591年に父が死んでからは、家族の扶養や妹の持参金の支払いはガリレオの肩にのし掛かることになった。  
父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これが後に息子ガリレオが運動研究で採った数的な手法に影響を与えることになったと指摘されている。  
1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。  
1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。  
ガリレオは、物体の運動の研究をするときに実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのような手法はヨーロッパにはなかった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った。それにより現代では「科学の父」と呼ばれている。  
ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで(6歳ほど年下の)マリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年生まれ)と出会い、交際が始まり、当時パドヴァにあったガリレオの家で二人は一緒に暮らし始めた。二人は2女1男をもうけた。ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたからである。  
信仰の篤いガリレオは、二人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei, 1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia, 1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ(英語版)の聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年修道女になりマリア・チェレステ (Maria Celeste) と改名した(この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたものである。Celesteとは天のこと。)。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通がガリレオの死後彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年修道女になりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio, 1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ (Sestilia Bocchineri) と結婚した。  
当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。さらに、そんなガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失った。そして1637〜1638年ころには失明。だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。  
年譜  
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。  
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。  
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。  
1586年 最初の論文『小天秤』を発表。  
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。  
1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。  
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。  
1592年 ピサ大学の職が任期切れになる。/(ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される。)/ ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。  
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。  
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。2女1男をもうける。  
(1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)  
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。  
(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)  
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。  
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。  
1610年 木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。/ (ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)/ ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。  
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。  
1613年 『太陽黒点論』を刊行。  
1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。  
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。  
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。  
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。 コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。  
1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。  
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。  
1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行。ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。  
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。  
1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。  
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。  
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。  
晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。  
1642年 アルチェトリにて没。 
天文学  
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。  
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。  
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。  
金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった。  
さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人となった。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽黒点を観測していた可能性もある。形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった。これは、アリストテレス派の研究者と激しい議論となった。  
なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている。  
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。  
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した。 
物理学  
ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。  
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。  
この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。 この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。  
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。  
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。  
科学革命  
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。  
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。  
有名な失敗  
彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。  
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった。  
地動説の証拠として潮汐を挙げた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。 
ガリレオ裁判  
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。  
第1回の裁判  
ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino) だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。  
「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護士しないようよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」。  
しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。  
第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。  
第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。  
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、  
「天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為」  
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。  
第2回の裁判  
1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。  
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。  
裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。  
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿 (Maffeo Vincenzo Barberini) がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。  
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。  
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。その後につぶやいたとされる "E pur si muove"(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言ったという説もある。  
裁判以後  
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった。  
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。  
裁判の影響  
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。  
フランスのルネ・デカルトは、ガリレオ裁判の報が、自然科学に関する自説の出版をためらわせたことを『方法序説』(1637年刊)に記している。  
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。  
裁判の検証  
この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。  
Giorgio di Santillana らによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。  
このほか、次のような説もある。  
1. そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という。  
2. 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。  
3. 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた。  
ローマ教皇庁の対応  
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。  
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。  
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている。  
 
 
デカルト「方法叙説」初版 1637年

 

Descartes, Rene.(1596-1650)  
Discours de la methode pour bien conduiresa raison, & chercher la verite dans les sciences.  
本書は、デカルトが初めて出した論文集「方法叙説および試論」につけた序文であり、詳しい標題は「理性を導き、もろもろの学問において真理を求めたる方法についての叙説」である。デカルトは、1628年にフランスを去ってオランダに移住し、ほどなく「自然学」の体系を考えはじめて、1633年頃に「宇宙論」という論文を書き上げたが、その時イタリアでガリレイが地動説ゆえに宗教裁判で有罪とされたことを聞いて「宇宙論」の出版を見合わせた。しかし、人々の求めもあって、自然学全体ではなく、その一部分を、いわば見本の形で「気象学」「屈折光学」という二つの論文に書き、これに彼の新たな<幾何学>すなわち解析幾何学の論文をつけて発表することにした。その総序として、自叙伝体で、自らの思想の原理を人々に伝えようとして書いたのが本書である。 
方法序説  
(方法叙説とも) 1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書である。原題は《Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences》で、「理性を正しく導き、もろもろの知識[1]の中に真理を探究するための方法序説」である。序説と訳されるDiscoursは、Traitéが教科書のように体系的に書かれた論説であるのに対して、四角ばらぬ論考の意であり、デカルト自身がメルセンヌへの書簡で「方法の試み」であると呼んでいる。哲学的な内容はその後に出版された『省察 Meditationes de prima philosophia』とほぼ重なっているが、『方法序説』は自伝の記述をふくみ、思索の順序を追ってわかりやすく書かれているため、この一冊でデカルト哲学の核心を知ることができる。当時、多くの本がラテン語で書かれることが多い中、ラテン語の教育を受ける可能性が低かった当時の女性や子供たちでも読めるように、フランス語で書かれ、6つの部分に分かれている。なお初版は、宗教裁判によって異端とされることを恐れて、偽名で発行された。  
第1部  
「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」という書き出しで始まる。ここでの良識は理性と同一視できるものとされる。健全な精神を持っているだけでは十分ではない。この序説の目的は、理性を正しく導くためにしたがうべき方法を教えるというより、デカルト自身が種々の心得や考察に至るまでにどのような道筋をたどったかを示すことである、と宣言する。学校での全課程を修了し「珍奇な学問 Sciences occulte」まで渉猟しつくしたにもかかわらず、多くの疑惑にとらわれている自分を発見したデカルトは、語学・歴史・雄弁・詩歌・数学・神学・スコラ学・法学・医学は、有益な学問ではあるがどれも不確実で堅固な基盤を持っていないことが分かり、文字の学問をすっかり擲つことにした、と語る。  
第2部  
三十年戦争に従軍してドイツにいたときの思索について述べる。有名な「暖炉」に一日中こもって、最初に考えたことは一人の者が仕上げた仕事はたくさんの人の手を経た仕事に比べて完全であり、一人の常識ある人間が自分の目の前の事柄に単純に下す推論は多くの異なった人々によって形成された学問より優れている、ということだった。賛成者が多いということは、発見しがたい真理に対しては何の価値もない証明である。したがってデカルトはその時まで信頼して受け容れてきた意見から脱却することを志した。その際に精神を導く4つの準則として  
1. 私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと  
2. 検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること  
3. もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序を仮定すること  
4. 最後に完全な列挙と、広範な再検討をすること  
を定めた。これによりデカルトは代数学や他の諸科学を検討して、理性を有効に活用し得たと感じたが、それらの諸科学の基本となるべき哲学の原理を見いだしていないことに気づく。このとき彼は23歳であったが、もっと経験を積み円熟した年齢になるまで、悪い見解や誤謬を自分から根絶するために多くの時間を費やすことを決意する。  
第3部  
理性が不決断である間でも自分の行為を律し幸福な生活を送るためにデカルトが設けた3つの道徳律を紹介する。  
1. 自分の国の法律と習慣に従うこと。  
2. 一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。  
3. つねに運命よりも自分に克つことにつとめ、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努力すること。  
デカルトは理性を教化し自分が自分で決めた方法に従って真理の認識に近づくことを、自分にとって最善の職業と考えた。暖炉部屋を出て、9年間は世間を見て歩き、疑わしいもの・誤謬を観察反省し、1628年いよいよ哲学の基礎を定めるため、オランダに隠遁することにした。  
第4部  
デカルトは、少しでも疑問を差し挟む余地あるものは疑い、感覚・論証・精神に入りこんでいた全てを真実でないと仮定しても、一切を虚偽と考えようとする「私」はどうしても何者かでなければならないことに気づく。フランス語で書かれた『方法序説』の「Je pense, donc je suis」私は考えるので私はあるを、デカルトと親交のあったメルセンヌがラテン語訳し「Cogito ergo sum」「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムとした。この命題は、我々が明瞭かつ判然と了解するものはすべて真実であることを一般規則として導く。その規則からデカルトは、さらに神の存在と本性・霊魂について演繹している。  
第5部  
公表を控えていた論文『世界論』(『宇宙論』)の内容を略述する。  
第6部  
ガリレイの審問と地動説の否認という事件が、デカルトに自分の物理学上の意見の公表を躊躇させたと述べる。人間を自然の主人とするための生活にとって有用な知識に到達することは可能であり、それを隠すことはデカルトにも大罪と思われた。実験や観察は重要であり、公衆がそれから得る利益を互いに公開することが今後大切になるはずだと。しかし、ガリレオ事件で教訓を得たデカルトは、まだ発見されていない若干の真理を探究する時間を失わないために、反駁や論議を招くような自分の著書は生前に出版することを断念することにした。しかし自分が著作を用意していたことを知る人々に意図を誤解されないよう、1634年になって書かれた論考から慎重に選ばれた『屈折光学』『気象学』『幾何学』に『方法序説』を附して公表することに同意した、と述べる。  
 
 
ハーヴィ「動物発生論」初版 1651年

 

Harvey, William.(1578-1657)  
Exercitationes de generatione animalium.  
ハーヴィは、イギリスの医者、生理学者で血液循環の発見者。実験的方法を再興して、中世の闇黒時代から近世の生理学を開いた学者。ケンブリッジ、パドヴア(イタリア)の両大学で学びロンドンで開業した。広範な解剖学的探索と精密な実験によって、血液は全体として閉じられた管系を巡っていることを確認し、体循環を明らかにした。ハーヴィの血液循環説はガレノスの学説を完全に覆し、近代生理学の基盤となった。また晩年は発生学の研究に没頭し、本書によって「すべての発生は卵から(Exovo ommia)」という動物の生殖に関する近代のあらゆる見解を支配する命題の発端を作った。 
ウイリアム・ハーベー  
(ハーヴィー、ハーヴェー、William Harvey、1578-1657) イギリスの解剖学者、医師。血液循環説を唱えた。ケンブリッジ大学に学んだのち、イタリアのパドヴァ大学で解剖学者ファブリキウスに師事して医学の学位を取得する。イギリスに帰国後、名医としての評判を確立し、1618年、当時のステュアート朝の国王であったジェームズ1世の侍医となる。ジェームズ1世の死後は、のちにピューリタン革命で処刑されるチャールズ1世に仕えた。1645年からオックスフォード大学マートン・カレッジの学長(Warden)を務めた(-1648年)。1628年、血液循環説を発表。これは、激しい反論を呼んだ。特に、アリストテレスの説を信じる学者からの否定意見が多かった。1642年に勃発した清教徒革命に際し、ハーヴェーはステュアート朝(王党派の側)を支持した。そのため、王党派の敗北が決定的になるとロンドン郊外に退いた。  
反論への再反論は、1649年に冊子の形で行なった。また、彼は発生学でも大きな足跡を残した。彼はシカの交尾前後からの発生の段階を観察し、アリストテレスの『胎児は月経血から生じる』という説を否定した。彼はほ乳類の卵を発見することはできなかったが、他の動物との比較からその存在を確信し、「すべては卵から」との言葉を残した。  
 
 
ホッブス「リヴァイアサン」初版初刷 1651年

 

Hobbes, Thomas.(1588-1679)  
Leviathan, or the matter, forme, & power of a common-wealth ecclesiasticall and civill.  
ホッブスは、市民革命期イギリスの代表的政治思想家。オックスフォード大学を卒業後、貴族の家庭教師や、フランスに亡命中のチャールズ皇太子の数学教師をつとめたりしながら、著作活動に専念した。原題は「リヴァイアサン、すなわち教会的および市民的国家」であり、亡命中にフランスで執筆され、革命政権下のイギリスで出版された。彼は、王権を神によってではなく、契約という合理的な観念によって基礎づけた。本書は、近代民主主義思想の基本的枠組みである社会契約説を初めて構築した書。 
リヴァイアサン  
(Leviathan) トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行された。題名は旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。正式な題名は"Leviathan or the matter, forme and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"。  
本書はホッブズによって著された国家についての政治哲学の著作である。西洋における国家の概念は人間の政治的性格によって成立しているポリスであるが、ルネサンス以後には近代的な国家の概念は見直された。ニッコロ・マキャヴェッリが権力関係から国家の成立を考察しており、さらに宗教戦争や内戦などを通じて国家の新たな哲学的な基礎付けが求められるようになった。ホッブズはイギリスでの内乱を通じてこの問題意識を持つようになり、新しい国家理論の基礎付け、新たな政治秩序を確立することを目指した。  
ホッブズは人間の自然状態を万人の万人に対する闘争(ラテン語: bellum omnium contra omnes, 英語: the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(この場合は残部議会であり、この政府を指して『リヴァイアサン』と言っている。右の口絵に描かれている王冠を被った『リヴァイアサン』は政府に対して自らの自然権を譲渡した人々によって構成されている)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。この理論は臣民(ここで言う臣民は、国家権力の行使を受ける客体としての人民)の自由が主権者の命令である法の沈黙する領域に限定されてしまい、主権者に対する臣民の抵抗権が認められない。  
ホッブズの国家理論は、トゥキディデスの『戦史』の翻訳や人間の欲望を基礎にしながら合理的な計算を行うことで政治秩序を構築することを論じた『法学要綱』を発表していることから分かるように、現実主義的な考え方を持っていたことが分かる。この議論は後にジョン・ロックが『統治二論』でホッブズとは異なる自然状態論から社会契約の枠組みで国家の規範理論の再検討を行い、またジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』で自由意志を持つ各個人の社会契約に基づいた国家の在り方を論じ、数多くの批判がなされることになる。一方でマイケル・オークショットが本書を人間本性の分析から国家の正当性構築を試みた政治哲学の著作として高く評価している。今日においても本書は国内政治学や国際政治学における国家の人格の統一性や構造の人工性、主権の絶対性を巡る議論を提起している。  
成立史  
スペインの無敵艦隊がイングランドに迫る1588年4月5日にホッブズは生まれた。幼少の頃から英才教育を受け、14歳でオックスフォード大学に入学して論理学やスコラ哲学を学び19歳で卒業して貴族の家庭教師となった。1610年にヨーロッパへ家庭教師としての引率の仕事で渡った時に、近代の哲学や自然科学の知識に触れ、1629年のヨーロッパ渡航ではユークリッド幾何学のような演繹的方法論を習得し、1630年の3度目の渡航では歴史と社会についての学問的体系の基礎を構築している。このような知的背景を持ちながら生涯にわたって政治についての研究を行い、トゥキディデスの『戦史』の翻訳、『法学原理』、『市民論』、本書『リヴァイアサン』、『ベヒーモス』などの著作を発表した。  
ホッブズが思想を形成する時期はイングランドにとって立憲政治が成立する過渡期であった。1603年にスチュアート朝が成立し、国王によって国教会の批判と王権神授説が主張されると議会による大抗議が行われ、国王と議会の対立が深刻化した。そして1628年に権利の請願がクックによって起草され、翌1629年には議会が解散された。しかしスコットランドで反乱が発生すると国王は戦費調達のために議会を召集したが、国王と議会の対立はさらに進行し、1642年に内戦に突入した。この内戦はピューリタン革命と呼ばれ、クロムウェルたち議会派が共和政を樹立することになった。しかしクロムウェルの厳格なピューリタニズムは民衆の反発を受け、これが王政復古の原因となった。その後にチャールズ2世が国王として呼び戻され、スチュアート朝が復活するが、次代のジェームズ2世が専制政治を行ったために議会はオランダ総督であったウィリアム3世を国王とし、権利章典を承認させて国王の絶対的権利を制限することで立憲王政が成立した。この革命は名誉革命と言われ、先のピューリタン革命と合わせて市民革命と呼ばれる。本書『リヴァイアサン』が執筆されたのはクロムウェルが政権を掌握して国王のチャールズ2世がフランスへ亡命した時期であり、このイギリス市民革命における混乱の時代であった。  
内容  
本書は人間が持っている感覚やイマジネーション、言語、また運動、知識などについて述べた後に人間の自然状態の性質やそれを乗り越えるための規範である自然法を論じた第1部「人間について」に始まる。また第2部「国家について」では国家が創設される理由や国家における主権者と臣民の関係を論じた。第3部「キリスト教国家について」ではキリスト教の政治原理に始まり、聖書での教会や教会権力の意義を考察する。第4部「暗黒の王国について」では暗黒の支配者について述べており、最後の結論では人間の本来的な能力からそれまでの議論を概括している。  
人間本性  
ホッブズは人間が本来的に持っている性質から論考を始める。そもそも人間の認識過程は感覚に基づいている。感覚は外界の物体運動に対して反応し、視角により得られた物体の運動は映像という人間に働きかける。これは像、またはイマジネーションと呼ばれ、記憶や思考そのものでもある。思考は目的的に規制されたものとそうでないものがある。この思考の途上で認識対象に名称を与えることが可能である。名称が与えられた物はたとえ直接確認しなくとも、名称を思い出すことで記憶を呼び戻す。物体そのものから分離して使用される名称は言語となり、人間の理性にとって最も重大なものである。  
言葉は人間に学問を可能とした。学問の出発点は定義と呼ばれる適切な名称を用いて命題を構築することである。その命題から論理的思考に基づいて推論を進める。この一連の過程から得られる一連の帰結の知識が学問であり、その研究対象によって自然哲学と社会哲学に大別される。人間はこのような認識に基づいて自らの行動を決定しているものの、実際に行動を駆動しているのは状況認識ではなく人間の意志の働きがなければならない。人間の意志の働きは情念であり、恐怖、復讐、好奇心などのあらゆる情念が存在している。  
自然状態  
個々人が自らの意志を達成しようとする手段が権力であり、国家以前の状態である自然状態を理論的に想定した場合には大きな権力の格差は認められない。なぜなら各個人は権力の源泉となる身体、知性、性格、品位などによって多少の個性はあるものの、総合的な観点に立てば人間の能力は対等に与えられているからである。  
しかし権力が平等であったとしても希求されている対象物が複数で分割できないために複数者の意志が達成できないならば彼らは敵対関係になる。人間の本性には競争、不信、自尊心の情念があり、これらは不可避的に敵対関係を創出する。したがって人間はこの敵対者に対して先制攻撃を加えることで殺害または服従させるかを選択することになる。これは人間の自己保存が最重要の価値と見なされる自然権であり、この自然権を追求することは自由でなければならない。  
しかし自由に自然権を行使すれば人々は常に攻撃される危険に晒されることになり、結果的に自然状態は万人の万人に対する戦争に発展する。自然状態での戦争では戦闘が遂行されているかどうかが問題ではなく、それは危害を加える意図が示された状態と考えられる。このような状態では人間は永続的に恐怖と危険に備え続けなければならず、取引によって経済を発展させることは不可能であり、人間の生活は孤独かつ残忍なものとなる。  
社会契約  
自然状態での諸問題を解決するためには戦争をもたらす情念に着目しなければならない。これは自然権の行使を抑制し、また共通権力によって相互の約束を監視することが必要である。そのために自然状態で生まれた闘争を停止させるために自然法は次のような基本的な規範を示す。第一の自然法は「平和を手にする望みがある限り、平和へと進め。その望みがなければ戦争遂行のためあらゆる手段を使用せよ」というものであり、第二の自然法は「他人と共に平和と自己防衛のために必要な権利を放棄せよ」というものである。  
この自然法に合意するためには相互に信約を締結し、自然権を放棄、譲渡することで共通権力を構成する。契約に参加する人々は代理人を立ててその代理人に共通権力を与えて契約の履行を監視させるのである。この関係は代理人と契約に参加する人々の同一性が維持されていることが必要である。この同一性によってもたらされる社会こそがコモンウェルス、国家と呼ばれる。  
国家  
ホッブズによれば国家はリヴァイアサンと呼ばれる。複数の行為者から構成されていながらも人格の単一性をもち、この人格を代表するのが主権者であり、それ以外は臣民となる。主権者が保有する主権は絶対的なものであり、一人で主権者となる政治体制は君主制、成員全体が主権者であるならば民主制、一部の人びとならば貴族制となる。  
主権は臣民のための治安維持や国防、立法、司法、貨幣鋳造などの権限が含まれており、国家は臣民の自己保存を保障するものである。ただし主権者が全ての臣民の行動を統制できるわけではなく、法が沈黙する領域では臣民は自由である。主権者は社会契約に基づいており、全ての行動を制限できるわけではないからである。さらに臣民は主権者の命令に従うことで自己保存が損なわれる場合には逃亡による抵抗が認められる。 
トマス・ホッブス (Thomas Hobbes,1588-1679)  
自然法哲学者のトマス・ホッブスは、ヨーロッパの歴史で最大の激動期の一つに暮らしていた――結果として、かれの理論が人間の本性について徹底的に悲観的なのも、まあしょうがないか。  
マームズベリーの近くに生まれ、貧しかった国教会牧師の父親が早くに亡くなってしまったので、若きトマス・ホッブスは裕福な叔父さんに育てられた。14 歳の時にオックスフォードのモードリン・カレッジに入学して、5 年後に学士号を取っている。1608 年には、デヴォンシャー伯爵であるウィリアム・キャヴェンデイッシュの息子の家庭教師になった。おかげで古典に没頭する時間ができた。アリストテレス学派の、言葉の曲芸みたいな思想に嫌気がさしたホッブスは、歴史家ツキジデスの熱心な信望者になっていった(ホッブスは、彼の本を 1628 年に訳出した)。1610 年に最初のヨーロッパ遊学を終えた後で、フランシス・ベーコンと知り合いになる。でも科学的な世界観に鉄鋼するのは、やっと 1630 年になってから、ユークリッドの『幾何学』に惹かれたのと、ヨーロッパ大陸の旅行中に、ヨーロッパの科学者(特にメルセンヌ神父の仲間)たちとつるんだ後のことだった。  
ホッブスは特に、ガリレオが力学の視点を逆転させたことに魅了された。ビュリダンとは逆に、ガリレオは物体の自然状態は運動していることであり、静止していることではないと主張していた。物体は、止められない限りずっと動き続ける、と彼は論じた。1636 年にガリレオに会った後、ホッブスはこの考えを総合的な社会哲学にあてはめようとした。彼はそれを3つの部分に分けて構想することにした。1 つ目は「物体論」であり、彼はこれを動きの原則と関連づけようと思った。2 つ目は「人間論」で、人はどうして(感覚や欲望や食欲などに刺激を受けて)動いている物体として見なされるのか、また人間は外部の運動にどう影響されるのかを示そうとした。3 つ目は「市民論」で、こうしたダイナミックな人間の相互作用が、物体の政治力学に与える結果を提示しようと思った。  
イギリスの国王と議会の対立が深刻になってきたので、ホッブスは著作の発表順序をひっくり返すことにした。1640 年に 「法学要論」を出版したが、これには「人間論」と「市民論」の概略が含まれてあった。かれの著作は議会派の要求に反対して王党派を支持しているように思われたため、ホッブスは危害が及ぶのを恐れて、その年の終わり頃にパリに亡命し、11 年間も隠れて生活していた。ホッブスは再びメルセンヌ神父の仲間に入って、しばらくは若き亡命王子の数学家庭教師を勤めたが、その王子は後にチャールズ2世となった人物だ。  
1642年には、ホッブスの「市民論」が刊行されたが、この本では、彼の理論体系の第三部について、さらに詳しく整然とした分析にが展開されている。でもそれがイギリスではちっとも評判にならなかったので、ホッブスは新たな論説を書き始めたが、今度はもっと地に足の着いた形で理論を説明しようとした。そして出来た本が「リヴァイアサン」(1651) だ。  
「リヴァイアサン」(1651) はまちがいなくホッブズの傑作だ。ホッブスの主張では、人間は生まれつき善良なのではなく、生まれつき自己中心的な快楽主義者だ――「あらゆる人間の自発的な行動の目的は、自分に何らかのいいことがある、ということだ」。人の行動を決める動機は、自然の状態のままでは、愚昧な私利私欲に導かれるのだから、見張っておかないと実に破壊的な結末をもたらしかねない。しっかり抑えつけないと、人は内的な動機に動かされて、お互いに激突しあうだろう。ホッブスは人間社会が「自然状態」――市民国家や法の規則が何も無い状態――にあったらどうなるかを描こうとする。その結論は悲しいものだ。そんな人生は「孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになり」、「万人がお互いに戦争状態となる」  
それでも、皆が平等で(道徳的な意味ではなく、肉体的な条件において)、生き延びることに対して情熱的な愛情(自然権)を持ち、そしてある程度の合理性(自然の法則)を持つなら、こうした競合する力の間の均衡状態としての、まともに機能する社会が現れて来るだろう、とホッブスは結論した。理屈は簡単だ。万人の自然権は、自分以外のあらゆる人に対する暴力を正当化する。だから自分が生き延びるために、人々は暴力をふるう権利を放棄することに同意するようになるだろう。でも、そうなるとお互いの間に緊迫した不安定な均衡状態が生じてくる。どれか一つの集団が、暴力はふるわないという当初の約束を破ったとたん、ほかのみんなもそれを破って、また戦争状態に逆戻りしてしまうだろうから。  
それならば、人間社会が平和に安定して続くためには、社会契約に中にある作り物――「リヴァイアサン」――を織り込む必要がある。このリヴァイアサンというのは国家だ――絶対君主制でも民主的な議会制でも構わない。大切な点は、国家は暴力と絶対的権威を独占的に与えられるということだ。それと引き替えに国家は、その絶対的な権力を行使して平和な状態を保証する(正常な行為から逸脱した者を罰するとかして)。国は自分の絶対的な権力が、市民たちが自発的にそれを放棄してくれることに完全に依存しているということを知っているから、国家の側としてもその権力を濫用しないインセンティブがある。もちろん、濫用しない保証はない。でも濫用すれば、国家としてはそれがどんな結果をもたらすか覚悟しなきゃいけないわけだ。  
ホッブスの説の面白いところは、道徳だとか、自由、正義、所有権といった概念には、自然な意味とか、本質的な意味とか、永続的な意味なんかまったくない、という点だ。これらはひたすら社会が作り上げたものでしかない。戦争と社会的無秩序を押しとどめるために、リヴァイアサンが法や制度を通じて作りだし、押しつけるものだ。歴史が示すように、どんな価値観も永遠ではなく、周囲の状況が変われば少しずつ変化するのだ。  
とりわけホッブスは、法そのものは完全に力によって支えられている、と強く指摘する。実力ある強い権威を後ろ盾に持たない法なんて、まともな意味での法とは呼べない。だからホッブスは「法実証主義 (Legal positivism)」の創始者の一人とされている。つまり、法が正しいと言うものはなんでも正しい、という立場だ。「不正な法律」なんてのはただの名辞矛盾でしかない。  
この議論を当時の状況にあてはめてみると、議会派の反乱は、チャールズが王様だった時には違法になる。でもチャールズ一世が処刑されたとたん、今度は議会派への反抗がすべて違法になる。ホッブスにおいては、力が正しさを決め、力こそが正義だ。国家は――どんな体制であっても――市民の平和を維持できる限り、常に定義からして正しいということになる。  
フランス亡命中の王党派に裏切り者呼ばわりされたホッブスは、「リヴァイアサン」刊行直後にイギリスに帰り、国務会議の前に出頭した。その後まもなく、かれは哲学三部作の残る二巻――『物体論』(1655) と『人間論』(1657) を刊行。  
ホッブスはおおむね、ロンドンでひっそりと暮らそうとしたけれど、すぐに延々と続く論争に次々と巻き込まれることとなった。まずはデリーの司教ジョン・ブラモールとの自由意志に関する論争(1654, 1658, 1682 を参照)。1655 年にホッブスは、円の面積は積分で導けると主張。これには数学者のジョン・ウォーリスが反論してきたので、ホッブスはそれに反撃、一連の論説 (1656, 1657) を刊行し、ウォーリスと彼の「新奇な」数学分析を非難した。1661 年に、攻撃範囲を広げてロバート・ボイルとできたての王立協会にまで広げた。「ホッブス氏の考え」(1662) でかれは休戦を宣言した。  
1660年の王政復古の後で、チャールズ二世はホッブスを相談役にして年金を与えた。1666 年のロンドン大火の後、英国の下院はホッブスの「リヴァイアサン」を発禁リストに加える議案を出してきた。この議案は、王様の介入で貴族院を通過しなかったけど、今後著作を出すときにはまず自分に精査させろと王はホッブスに言った。ホッブスはこれに従ったので、彼のその他の政治的な著作物は、死後出版となった。そのうち二冊は特筆に値する。1681 年の「イングランドにおける哲学者と法学徒との対話」ではコモン・ローに攻撃を加え、国王大権を擁護した。1682 年の「ビヒモス」は、長期議会(1640 年にチャールズ一世が召集し、1660 年まで続いた清教徒革命期の議会)と清教徒革命についての、挑発的な歴史記述だ。晩年には、自伝の執筆とホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」の翻訳をしていた。  
ホッブスは一般に、17 世紀の「自然法」哲学者で最も有力な人物とされていて、その後のイギリスの政治・社会・経済理論にすさまじい影響を及ぼした。ベンサム の 効用主義にはホッブス流の快楽主義の要素がある。当然ながら、対立する自己利益の間の社会的近郊という発想は、アダム・スミスの中に実に露骨に出ている(でもスミスは、その快楽主義的な動機づけの部分はあまり認めたがらなかったけれど)し、その後の現在にいたる経済学の中にも生きている。道徳や社会規範の内的な創発と進歩に関する最後の部分は、ヒューム と ハイエク の両方にパクられている。  
ホッブスの対極にいたのがジョン・ロックともっと楽観的な フランス思想家たちの系譜、特にジャン=ジャック・ルソーとかれのイギリスの分身とも言うべきウィリアム・ゴドウィンだ。  
 
 
ボイル「空気に関する物理力学的新実験」第2版 1662年

 

Boyle, Robert.(1627-91)  
New experiments physico-mechanical, touching the air.  
ボイルは、イギリスの化学者、物理学者。アイルランドに生まれ、イートン校を卒業して大陸に赴き、帰国後、当時新しい学問を探究していた学問グループに加わった。この学問グループは、のちに王立協会(Royal Society)に発展し、彼はその幹事の一人として活躍した。彼には物理学および化学にわたる多方面の業績があり、1657年頃ゲーリケの真空実験を知り、助手のフックとさまざまな実験を行い、1660年に本書の初版を著した。空気の体積がその圧力に反比例するという<ボイルの法則>は、展示の第2版によって明らかにされた。
空気の弾性とその効果とに関する物理−力学的な新実験  
ロバート・ボイル (1627-1691)  
1640年代後期から1650年代の初頭までの間に、ドイツの科学者でマグデブルグの市長でもあったオットー・フォン・ゲーリケは、容器中に高真空を作り出すことができる排気ポンプを開発しました。このポンプで得られる真空を用いて、彼は有名な「マグデブルグの半球」の実験を行ったのです。この実験によって、ゲーリケは容器の中から空気を排出すると、大気それ自身の重さによって大きな力が加わって来ることを証明したのです。ゲーリケが1672年にこのポンプの発明と実験の結果を自身の手で書物にするのに先立って、1657年にジェズイットの修道士カスパー・ショットが、その著書「水圧と気圧の力学」にゲーリケの真空ポンプのことを書いたのでした。  
ボイルはこのショットの書いたゲーリケの発明と実験についての文章を読んで刺激され、すぐさまゲーリケのポンプの改良に着手し、助手であったロバート・フックの大きな助けをかりて完成にこぎつけました。  
この新しいポンプを用いて、ボイルは真空の性質、たとえば、真空中では物が燃えないことや音が伝わらないことなどゲーリケの実験を追試し、つづいてトリチェリの気圧計の実験を真空中で試み、大気の重さは高さ29インチの銀柱に相当する事を確証しました。また、真空中ではどんな形状のものであれ、同時に落下することも確かめたのです。  
真空ポンプの使用によって様々な現象を経験した結果、ボイルはさらに空気の物理的性質の研究へと進んでいきました。彼は空気の弾性について述べ、これに「空気のばね」という定義を与え、さらに空気の容積と圧力との相互関係を研究しました。ボイルは空気の弾性は、空気の粒子と粒子との間の距離がふえたり、減ったりすることによって生じるものと考えました。  
このような物質を粒子との間の距離と考えるという、古代の原子論をある意味で復活することによって近代科学の基本理念ができ上ったのです。  
本書はボイルの科学に関する処女作であって、上に記した諸発見を精細に記述していて、出版と同時に大きな反響を呼びました。二年後に第二版が出版されましたが、これには初版に対してよせられたフランシス・ライナスやトーマス・ホッブスの反論に対して、ボイルは自らの学説の正当さを主張する文章を加えています。その加筆部分で空気の弾性を初めて定量的に論じ、密閉系にあっては空気の体積と圧力とは反比例する事を実証しています。現在「ボイルの法則」として知られているこの原理は、運動の法則に次いで定式化された自然法則であったのです。 
ロバート・ボイル  
(Robert Boyle、1627-1691) アイルランド・リズモア(英語版)出身の貴族、自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロー。ボイルの法則で知られている。彼の研究は錬金術の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とされることが多い。特に著書『懐疑的化学者』 ( The Sceptical Chymist) は化学という分野の基礎を築いたとされている。  
アイルランド、ウォーターフォード州リズモアに生まれる。父は初代コーク伯リチャード・ボイルで、その7番目の息子、14番目の子である。リチャード・ボイルは1588年にアイルランドに赴き、復帰地副管理官となり、ロバートが生まれたころには大地主になっていた。  
兄たちと同様、幼いころに現地の一家に里子に出された。その結果ボイル家の子らは4年ほどで十分にアイルランド語を理解し、通訳ができるようになった。ロバートはラテン語、ギリシャ語、フランス語を学び、8歳のときに母が亡くなると、イングランドのイートン・カレッジに送られた。当時、父の友人 Henry Wotton が校長を務めていた。  
イートン・カレッジでは、父が家庭教師 Robert Carew を雇い、息子たちの教育を任せた。しかし、ロバートはあまり家庭教師の言うことを聞かなかった。イートンで3年間を過ごした後、ロバートはフランス人家庭教師と共に海外旅行に出た。1641年にはイタリアを訪れ、その年の冬はフィレンツェで過ごし、ガリレオ・ガリレイに師事した(ガリレオは1642年没)。  
 
1644年、大陸ヨーロッパからイングランドに戻ったボイルは、科学的研究に強い関心を持つようになっていた。父はその前年に亡くなり、イングランドはドーセットのスタルブリッジにある荘園とアイルランドはリムリック州の広大な地所を相続した。後者は父がクロムウェルのアイルランド侵略に乗じて取得した土地である。それ以降ボイルは科学的研究に生涯を捧げるようになり、後の王立協会の母体となった科学者集団 "Invisible College" の一員となった。彼らはロンドンのグレシャム・カレッジで頻繁に会合を開き、一部はオックスフォードでも会合を開いた。  
1647年に初めてアイルランドに所有する土地を訪れ、1652年にアイルランドに移住したが、田舎ではなかなか研究が進まずイライラするようになった。ある手紙でアイルランドについて「野蛮な国で、化学について誤解されているし、化学用の器具もなかなか入手できない。錬金術には不向きな土地だ」と記している。1654年、アイルランドを後にしてオックスフォードに移り住むことにした。  
1657年、オットー・フォン・ゲーリケの空気ポンプについて目にし、ロバート・フックを助手として自ら空気ポンプの製作を始めた。1659年に "machina Boyleana" と名付けた空気ポンプを完成させ、一連の空気についての実験を始めた。オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジには19世紀初めまで Cross Hall が建っていたことを示す碑文がある。当時ボイルはそのホールの一角を借りていた。  
空気ポンプを使った研究成果を New Experiments Physico-Mechanicall, Touching the Spring of the Air, and its Effects... と題して1660年に出版。この本に対して批判的な者の中にイエズス会士の Francis Line (1595–1675) がおり、Line の批判に反論する形で「気体の体積は圧力と反比例する」というボイルの法則に初めて言及することになった。  
ただし、この法則(仮説)を最初に定式化したのは Henry Power で1661年のことである。ボイルは Power の書いた論文も引用しているが、誤ってその作者を Richard Towneley だとしていた。ヨーロッパ大陸ではこの法則を定式化したのはエドム・マリオットだとされることがあるが、彼がそれを発表したのは1676年のことで、その時点までにはボイルの業績を知っていたと見られている。1663年、チャールズ2世の許可を得て "Invisible College" から王立協会が発足した。ボイルも設立協議会の一員だった。1680年、ボイルは王立協会会長に選ばれたが、就任の際の誓いの内容にためらいを覚え、会長職を辞退している。  
ボイルは、「延命法」、「飛行技法」、「永久照明」、「鎧を極めて軽く硬くする技法」、「どんな風でも沈まない帆船」、「経度を確認する確実な方法」、「想像力や記憶などの能力を高める薬や苦痛を和らげる薬や悪夢を見ない安らかな眠りをもたらす薬」といった24の「発明したいものの一覧」を作った。この一覧に挙げられた発明は後にそのほとんどが実現しているという点で注目に値する。  
ボイルはオックスフォード時代にナイト (Chevalier) となっていた。Chevalier はその数年前に王室政令によって制定されたと見られている。ボイルがオックスフォードにいたころは清教徒革命の後半にあたるが、Chevalier となったボイルがどういう役割を果たしたのかはよくわかっていない。  
1668年、ボイルはオックスフォードからロンドンに移り、姉妹の Lady Ranelagh の家に身を寄せた。  
1689年、もともと身体が丈夫ではなかったボイルの健康はめっきり衰え、王立協会での活動も控えるようになり、火急の用事がない限り来客は火曜と金曜の午前と水曜と土曜の午後だけに限るとした。そして、1691年12月31日、何らかの疾病による麻痺が原因で死去。St Martin in the Fields に埋葬された。  
科学的探究  
科学者としてのボイルは、フランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』で採用した原則に忠実だった。ただしボイル自身はベーコンも含めて先人の影響を認めていなかった。先入観を持たずに実験結果を判断するために同時代の哲学理論に影響されないようにしたと何度か語っており、原子論やルネ・デカルトの原子論への反論についても研究を控え、『ノヴム・オルガヌム』自体についても希に一時的に参照するに留めた。彼の気質にとって仮説の構築ほど相容れないものはなかった。彼は知識の獲得を最終目的と見なしていて、結果として何世紀もの間の先人たちよりも幅広い科学的探究の目的についての展望を得た。ただし、これは彼が科学の実用化に全く注意を払わなかったとか、実用化のための知識を軽んじたというわけではない。  
ボイルは錬金術師だった。金属を変質させる可能性を信じており、そのための実験も行っている。また、ヘンリー4世が制定した錬金術によって銀や金を増やそうとする行為を禁じた法律を1689年に廃止するにあたって、重要な役割を演じた。彼の物理学における重要な業績として、ボイルの法則の発表、音の伝播に空気が果たしている役割の解明、水が凍結する際の膨張力の研究、比重と屈折の研究、結晶の研究、電気の研究、色の研究、流体静力学の研究がある。化学も好んで研究した。最初の著作の題名は The Sceptical Chymist(懐疑的化学者、1661年)だが、その中で塩や硫黄や水銀が真の道理だと示すための似非錬金術師の行う実験を批判している。彼にとって化学は錬金術師や医師の技法への単なる付加物ではなく、物質の構成を探究する科学だった。彼は物質の基本構成要素として元素の存在を認め、混合物と化合物を区別した。物質の成分を検出する技法について様々な進歩をもたらし、そういったプロセスを "analysis"(分析)と名付けた。さらに彼は元素が様々な微粒子で構成されていると考えたが、それを確認する技術は当時存在しなかった。また、燃焼や呼吸を化学的に研究し、生理学的実験も行ったが、優しい性格だったため解剖にまでは踏み込めなかった。  
神学への関心  
自然哲学者としての一面とは別に、ボイルは神学についても時間を割いた。ただし論争には無関心だった。1660年の王政復古で彼は宮廷に好意的に迎えられ、1665年には国教会の聖職者になるという条件でイートン・カレッジの校長職を提示された。しかし、彼の宗教的著作は教会に雇われた聖職者であるよりも俗人であるからこそ意味があるとして、その申し出を断わった。  
イギリス東インド会社の重役として、彼は東洋へのキリスト教布教に尽力し、宣教師への寄付や聖書の各種言語への翻訳に資金を提供した。当時のカトリック教会は聖書はラテン語だけという方針だったが、ボイルは各国の自国語で聖書が読めるようにすべきだという方針を支持していた。新約聖書のアイルランド語版は1602年に出版されたが、ボイルの存命中はほとんど普及していない。1680年から1685年には、旧約および新約聖書のアイルランド語版の印刷に私財を投じている。この点では、当時アイルランドを支配していたイングランド人はアイルランド人に英語の使用を強要しており、ボイルの態度とは異なる。  
ボイルは遺言で遺産の一部を無神論、理神論、異教などの不信心者からキリスト教を守るための一連のレクチャー (Boyle Lectures) を開催することに遺贈した。このときもキリスト教内の論争には言及していない。  
業績  
温度が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例することを発見。この法則はボイルの法則と呼ばれる。のちにジャック・シャルルがこの法則を温度変化が生じた場合について一般化したボイル=シャルルの法則を発見した。  
ゲーリケが発明した真空ポンプを改良。のちにラカーユがこれらの真空ポンプの発明と改良を記念してポンプ座を設定した。  
1661年、さまざまな化学反応が微小な粒子の運動によって起こるとした方が、アリストテレスの4元素説(空気、水、土、火)よりも妥当であると提唱した。 
熱力学  
(thermodynamics) 物理学の一分野で、熱現象を物質の巨視的性質から扱う学問。アボガドロ定数個程度の分子から成る物質の巨視的な性質を巨視的な物理量(エネルギー、温度、エントロピー、圧力、体積、物質量または分子数、化学ポテンシャルなど)を用いて記述する。なお、熱力学には大きく分けて「平衡系の熱力学」と「非平衡系の熱力学」がある。「非平衡系の熱力学」はまだ、限られた状況でしか成り立たないような理論しかできていないので、単に「熱力学」と言えば、普通は「平衡系の熱力学」のことを指す。  
 
18世紀後半から19世紀にかけて蒸気機関が発明・改良されたが、これらは学問的成果を応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった。一方この頃気体の性質が研究され、19世紀初めにはボイル=シャルルの法則(理想気体の性質)としてまとめられたが、まだ熱を物質と考える熱素説が有力であった。  
1820年代になると、カルノーが熱機関の科学的研究を目的として仮想熱機関(カルノーサイクル)による研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究が始まった。この研究結果は熱力学第二法則とエントロピー概念の重要性を示唆するものであったが、カルノーは熱素説に捉われたまま早世し、重要性が認識されるにはさらに時間がかかった。  
なお同じ頃フーリエが熱伝導の研究を発表したが、これは熱力学とは直接関係なく、むしろ物理数学に顕著な成果(フーリエ変換につながる)を残すこととなった。  
熱をエネルギーの一形態と考えエネルギー保存の法則(つまり熱力学第一法則)をはじめて提唱したのはマイヤーである。彼は1842年にそれを発表したが全く注目されなかった。しかしほぼ同時期にジュールが行った同様の研究はトムソン(ケルヴィン卿)の知るところとなり、彼らの共同研究から第一法則が明らかにされた。  
さらにトムソンはカルノーの研究を知り、絶対温度の概念および熱力学第二法則に到達した。クラウジウスも独立に第一および第二法則に到達し、カルノーサイクルの数学的解析からエントロピー概念の重要性を明らかにした(エントロピーの命名もクラウジウスによる)。こうして1850年代には両法則が確立された。  
19世紀後半になると、ヘルムホルツによって自由エネルギーが、またギブズによって化学ポテンシャルが導入され、化学平衡などを含む広い範囲の現象を熱力学で論じることが可能になった。  
一方、ボルツマンやマクスウェルによって創始された統計力学が発展し、熱力学的諸概念を分子論から具体的に解釈できるようになって、熱力学と統計力学は車の両輪のようにして発展していった。  
1999年にエリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンは、「断熱的到達可能性」という概念を導入して熱力学を再構築した。「状態Yが状態Xから断熱操作で到達可能である」ことをと表記し、この「」の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。 このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている。  
熱力学の様々な方法  
熱力学には様々なスタイルがある.同じ内容の熱力学を得るのに、理論の出発地点となる原理(要請)には様々な選び方がある、例えば多くの熱力学では,熱力学の法則を最も基本的な原理として採用している、しかし他の要請を選んで熱力学を展開していくスタイルもある。  
さらに熱力学で用いるマクロ変数には示量性と示強性の2種類があり、出発点でのマクロ変数の選び方も様々である、以下では熱力学の様々なスタイルを分類してみる。  
他のミクロな物理学との関係  
古典力学などのミクロ系の物理学の知識を用いる方法  
ミクロ系の物理学の知識を用いず、熱力学だけで閉じた理論体系として論じる方法  
基本的な変数の選び方  
示量性状態量だけを基本的な変数に選んで論理展開していく方法  
基本的な変数の一部を、温度などの示強性におきかえて熱力学を展開していく方法  
多くの熱力学では温度、圧力、体積、物質量を基本的な変数として出発点に用いている。しかし他にもエントロピーなどを出発点に用いて、温度や圧力は用いないスタイルもある。  
熱力学の法則  
1. 熱力学第零法則 / 物体AとB、BとCがそれぞれ熱平衡ならば、AとCも熱平衡にある。  
2. 熱力学第一法則(エネルギー保存則) / 系(閉鎖系)の内部エネルギーUの変化dUは、外界から系に入った熱と外界から系に対して行われた仕事の和に等しい。さらに一般に、外界と物質を交換しうる系(開放系)では、外界から系に物質が流入することによる系のエネルギーの増加量も加わることになる。  
3. 熱力学第二法則 / 1. 熱を低温の物体から高温の物体へ移動させ、それ以外に何の変化も起こさないような過程は実現不可能である。(クラウジウスの原理) / 2. 温度の一様な一つの物体から取った熱を全て仕事に変換し、それ以外に何の変化も起こさないような過程は実現不可能である。(トムソン(ケルヴィン)の原理) / 3. 第二種永久機関は実現不可能である。(オストヴァルトの原理) 1.厳密には第三法則(絶対零度の到達不可能)が必要。第二法則は第二種永久機関が実現するためには低温熱源が絶対零度である必要があると述べているだけで、第二種永久機関が実現不可能とまでは言っていない。 / 4. 断熱系で不可逆変化が起こるとき、エントロピーは必ず増加する。可逆的な変化ではエントロピーの増加はゼロとなる。(エントロピー増大の原理・クラウジウスの不等式)  
4. 熱力学第三法則 / 絶対零度でエントロピーはゼロになる。(ネルンスト・プランクの原理)  
第一法則及び第二法則は、ルドルフ・クラウジウスによって定式化された。 
ボイル・シャルルの法則  
状態方程式  
まずは「状態方程式」から話を始めよう。  
高校で学ぶことなので復習も兼ねてこの辺りから始めるのがいいだろう。 この式はボイルの法則とシャルルの法則を組み合わせることで得られる。 どこまでがボイルの法則で、シャルルの法則が何だったかなんてのは私はこれまで気にしたこともない。 科学史には興味がなかったから。 結果こそが全てであって、発見した人の個人的な事柄などはどうでもいいと思っていた。  
しかし真の理解のためには、発明発見の背景にどんなことがあったのかを知らなくてはいけないことがある。 物理とは積み重ねであって、何を根拠にしてこの結果を導き出すことに成功したのか、という部分を説明できることが大事なのだ。  
この式の中の はモル数を表す。 物質の量が多いほど体積が増えるのは当然だ。 いや、本当か? 二つを一緒にしたら少し縮むかも知れないじゃないか。 実際、そんな化学変化もある。 しかし化学変化については考えないことにしよう。 それに量を増やしても縮まないことは実験で確かめたということで納得してもらおう。  
いや、別の言い方をしておいた方がいいな。 これからはこの式に従うような気体についてのみ考えることにするのだ。 そのような気体を「理想気体」と呼ぶ。 もちろん現実にはそんなものは存在しない。 多くの気体はこの式におおよそ従うのだが、色々な原因があってこの式からはほんの少しだけずれるのだ。 しかし少しだからいいじゃないか。 細かいことを気にしてばかりいると先へ進めない。ずれる原因なんかは本当に大切なことが分かった後で考えればいいのだ。  
誰だ? 「科学なんて所詮理想ばかりで、現実には何の役にも立たない」なんて子供染みた文句を言ってるのは? たまに偉そうにこういうことを言う人に出くわすのだが、いきなり何もかも出来るなどと期待する方がどうかしている。 中学や高校で習う範囲ではまだ基礎しか学んでないのだから当然だろう。 文句を言うくらいならもっと科学が現実の役に立つものとなるように改良に協力して欲しいものだ。  
状態方程式の説明に戻ろう。 この式の中の は「気体定数」と呼ばれるものだ。 モル数やら体積やら温度やら、人間の好き勝手に決めた単位で表した量の間の関係を結びつけて式を作るのだから、当然辻褄合わせのための数字が必要になる。 数値そのものに重要な意味が隠されているわけではないが何かの役に立つかも知れないので一応書いておく。  
温度 は「絶対温度」を使う。 シャルル氏が気体の温度と体積の関係を調べていたところ、温度が低くなるほど体積が減ることが分かった。 その関係をグラフにすると直線になっており、このままずーっと冷やしていくとひょっとして体積が 0 になってしまうところがあるのではないかと考えられる。 その温度を「絶対零度」と呼ぶ。 だいたい -273 ℃ 付近だ。 1787 年のことなのでまだそんな低い温度を作り出す技術はないが、その温度を基準にした温度を使えば、体積と温度が比例するという法則が出来上がるだろう。 それが「絶対温度」であり単位は K(ケルビン)を使う。 つまり、0 ℃ が約 273 K、100 ℃ が約 373 K だ。  
「絶対零度」の存在は彼より数十年も前にとっくに予想はされていたわけで、シャルル氏の仕事としては、比例関係を見出したこと、どんな気体に対しても同じ関係がおよそ成り立つことを発見したことが新しかったわけだ。 さあ、ここまでの話で「シャルルの法則」が印象付いただろう。  
分子運動論について  
ところでこの式から、圧力一定の時に温度が 2 倍になると体積が 2 倍になるとか、温度が一定の時に圧力を 2 倍にすると体積が半分になるとかいう事が分かるのだが、なぜそうなるのか、なんて事をちゃんと説明できるだろうか?  
押したら縮むのは当たり前だと感じるかも知れないが、これはそれほど当たり前のことではない。 圧力と体積は反比例する。 なぜ単なる反比例であって、2 乗に反比例とかではないのだろう。 話し遅れたが、これが「ボイルの法則」である。  
当時は原子や分子などという考えは一般的ではなかったのでこのことを説明するのは難しかっただろうが、今ではちゃんと説明がついている。 しかしここではそういうことについての説明はしない。 なぜなら、 そんなことは知らなくても熱力学の基礎を学ぶ上で何ら支障がないからだ。  
熱力学では気体が多数の分子から出来ているという前提がなくても論理が進められるのである。 そのことが良く理解できるように、敢えて分子運動については触れないままで説明を続けよう。 まぁ、わざわざ古い概念に固執する必要もないので、正しい理解のために少しくらいは触れることもあるだろうが、論理には乗せないつもりだ。  
「気体分子運動論」に基づく説明は、本来これは統計力学の考え方であるので、「統計力学」のページでやることにしよう。 最近は「熱力学」と「統計力学」の境目がぼやけてきており、熱力学の教科書にもいきなり「気体分子運動論」が説明されていたり、初めから「熱統計力学」あるいは「統計熱力学」なんて具合に二つをまとめて説明したりすることが増えている。 しかしあれもこれも一度に詰め込むと、何を根拠にどの概念がどういう順序で導かれたのかという論理の流れが見えにくくなってしまうのではないかと心配している。  
そこで少々古臭いのだが、私の解説ではこんな具合にして「熱力学」と「統計力学」の思想の違いを明確に区別することにしよう。 その方が無用な混乱を招かなくて済むと思う。  
温度とは何か  
ところで、そもそも温度って何だろう? 温かさ冷たさは手の感覚で分かるが、それを数値化して読むためには温度計を使ったわけだ。 温度計というのは気体や液体の温度による体積膨張を利用しているのである。 体積の変化を温度として読んでいるのだから、温度と体積が比例関係にあるのはある意味当たり前だと言えるのではないだろうか。  
注: 初期の時代には空気温度計なるものが使われていた。 空気の熱膨張を利用してガラス管の中の水位を読むものである。 また気体ほど大きな変化ではないが、液体にも温度に比例した体積変化があるのでアルコール温度計、水銀温度計なども等分の目盛りで同じように使えたわけだ。 むしろ液体温度計の方が小型化できるので便利である。 またこれらの液体は人間の生活圏では凍らないという利点もある。 最も身近な液体である水については例外であり、4℃で体積が最小となるという特別な性質があるために、体積と温度のグラフを書くと比例にはなっていない。  
ひょっとすると温度の本質に関係するもっと別の何かがあって、その量と気体の体積の間には比例関係が成り立っていないかも知れない。 それどころか、所々で変化率が変わるようなひどく複雑な関係になっているかも知れない。 それでもこのようにして気体の体積を基準にして温度を測っている限りは、そんなことには決して気付けないことになる。  
するとシャルル氏のやったことは少し考えれば分かるような馬鹿げた事だったのだろうか? いやいや数百年前の人たちだって今の凡人よりは遥かに賢い。 それくらいのことは当時の人だって当然気付いていただろう。 よってシャルル氏の業績が評価されたのは「比例関係」を見出したことによるのではなくて、どんな気体を使っても同じ関係が成り立っていることを見出したというところにこそあるのだろう。  
気体の種類によって体積変化がバラバラだったら、どの気体の体積変化を温度の基準に使ったらいいだろうかという不安が起こるところだが、どんな気体についても同じ事が言えるというのでこの不安はかなり軽減したに違いない。 また、気体の体積と、温度の本質を表す量との間に、かなり単純な関係があることが期待できそうだ。  
では、温度の本質とは何なのか。 このまま物質の体積に頼るような温度の定義を使っていて問題が起きることはないのだろうか? 別の信頼できる定義を見出さない限り、やっぱり不安で仕方ない。 しかししばらくはその不安を背負ったままで我慢して欲しい。 それが熱力学というものだ。 
物質観の変遷  
四原質説と原子論  
「物質とは何か」という問いに対して、ギリシア時代に二つの異なった答えが提出された。一つはアリストテレス(前三八四−三二二)によって集大成され、ギリシアの自然哲学において支配的となった「四原質説」である。もう一つはギリシア時代には異端的な考え方とされたが十七世紀に復活し、現代の物質観にも通じている「原子論」である。  
「万物の根源は水である」と論じたのはターレス(前五八○頃盛年)であるが、同じくアナクシメネス(?−前五二六頃)は空気、ヘラクレイトス(前五四○頃−?)は火がそれぞれ始源物質であるとした。こういった論議を受けてエンペドクレス(前四九三−四三三頃)は「土、水、空気、火」の四つを始源物質であると論じた。すなわち、万物はこの四つの物質がさまざまな割合いで混合されて成っているというのである。さらにアリストテレスは、質料としての「基体」に「温−冷」、「乾−湿」という相対立する四つの性質が付与されることによって四つの原質が現出するとした。したがって、厳密にいえばアリストテレスの考えは「一原質、四性質説」と呼ぶべきかもしれない(村上陽一郎『西欧近代科学−−その自然観の歴史と構造』新曜社、一九七一年。特に第5章「物質観の転換」参照)。  
さて、アリストテレスによれば、四原質と四性質とは図−1に示されるような関係にある。すなわち、土は「乾−冷」、水は「冷−湿」、空気は「湿−温」、火は「温−乾」の性質をそれぞれもっている。また、土と水は「重さ」の性質をもち(土は水より重い)、空気と火は「軽さ」の性質をもつ(火は空気よりも軽い)とされた。そのため、土と水は自らの性質に応じて下降運動し、逆に、空気と火は上昇運動するのである。  
現代の高度に洗練された物質観を共有しているであろう読者には、上記のようなギリシアの物質観は、いかにも粗雑な、さらにいえば荒唐無稽な物質観のように映るかもしれない。しかし、決してそうではない。アリストテレスの物質観は、われわれが日常的に観察することのできる物質の変化や運動を実に巧みに説明してくれるのである。  
たとえば、土は手を離すと落下するし、水は低い方へと流れる。一方、焚き火の際に観察されるように、空気や火(炎)は勢いよく上昇する。また、「冷−湿」の性質をもつ水を温めてみよう。図−1によれば、水は「温−湿」の性質をもつ空気になる。これは水を熱すれば空気(われわれの言い方では、水蒸気)になるという身近な経験を見事に説明してくれる。同様のことが他の原質、性質についてもいえるわけで、四原質は、四性質を変化させることによって相互に転換可能ということになる。かくて、この理論によって、自然界に生じている多彩な物質変化が体系的に説明可能となったのである。  
それどころか、物質が相互転換可能だということは、工夫次第では、人間にとって有用で貴重な物質、たとえば金や不老不死の薬も作り出すことができるということを意味している。古代エジプト以来の歴史をもつ錬金術(Alchemy)がアリストテレスの物質観にそのよりどころを見い出したのも当然といえよう。  
一方、温、冷、乾、湿などといった人間の感覚知覚は相対的であやふやなものと考え、そのようなものに基礎をおく物質観に飽き足りない人々がいた。たとえば、デモクリトス(前四六○頃−三七○頃)がそうで、彼は多様な物質の根底には、これ以上分割できない究極の粒子=原子( atom とは、分割不可能という意味)があって、この原子の組み合わせの結果として、前述の四性質はもとより、固い、柔らかい、黒い、白い、甘い、辛い等の種々の性質をもった物質が存在していると考えた。もちろん、原子は理性によってのみ想定することができ、感覚によってとらえることはできない。  
原子論によれば、原子は空虚(真空)の中を飛び回っている。なぜなら、原子と原子の間には何もない空間がなければならないからである(もし、原子と原子の間に物質が存在すれば、さらに分割可能となるから)。そのため、原子論は論理的に真空の存在を前提としている。この点でも原子論は、空虚(=非存在)の存在は認めらないという立場から、「自然は真空を嫌悪する」としたアリストテレスと好対照をなしている。  
真空中を究極粒子としての原子が飛び回っており、森羅万象はその現れにすぎないとする原子論の考え方は、きわめて唯物論的=無神論的であり、そのためギリシアの自然哲学では異端にとどまらざるをえなかった。  
錬金術  
古来の錬金術は、アリストテレスの物質観によって理論的・哲学的基礎を与えられ、アラビア世界でさらに発展させられた。さらに、十一−二世紀にかけてのアラビア世界とラテン世界との接触を通じて中世ヨーロッパでも隆盛をきわめた。もっとも、古代・中世における錬金術は、物質変換を通じて金を作る操作にとどまらず、精神変換の理論としての性格をあわせもっていたことに注意せねばならない。すなわち、古代・中世にあっては物質と精神(魂)は象徴的な結びつきをもっており、金への転化は魂の純化でもあったのである。  
さて、錬金術で重視された物質は、硫黄、水銀、さらに塩であった。これら三種の物質は、独特の色をもち、他の物質と化合しやすいという性質をもっている。その結果、さまざまな操作の過程で、一見、金に似た物質が生成されたことが三種の物質が錬金術で重用された理由であろう。もちろん、これら三種の物質に、あるいは他の物質に、いかなる操作を加えようと、金(や不老不死の薬)ができるわけがない。その意味では、錬金術は近代科学以前のしろものに違いない。しかし、化学(Chemistry)が錬金術と語源を同じくしていることにみられるように、物質の性質に関する膨大な経験的知識の蓄積、実験器具の改良(図2参照)、また何よりも実験の重視といった点で、錬金術は近代科学の源泉の一つだったのである。  
科学革命の時代  
十七世紀は「科学革命」の時代といわれる。コペルニクス(一四七三−一五四三)、ケプラー(一五七一−一六三○)、ガリレオ(一五六四−一六四二)、デカルト(一五九六−一六五○)らの研究を踏まえて、最終的にはニュートン(一六四二−一七二七)が天上の力学(惑星運動)と地上の力学(リンゴの落下)を統一的に説明することに成功したからである。この時代、物質観においても大きな転換が生じた。  
ガッサンディ(一五九二−一六五五)はデモクリトス流の原子論を復活させ、トリチェリ(一六○八−一六四七)は真空の存在を実験的に明らかにした。このような議論を前提にして、ボイル(一六二七−一六九一)は、一六六一年の『懐疑的化学者』によって、近代科学の一部としての化学の基礎を築いた。  
ボイルによれば、物質は感知できないほど小さく、実際上分割することができない微小粒子(熱心なキリスト教徒であったボイルは、万能の神の力による分割可能性の余地を残している)から成っており、これらの粒子(原子)、および粒子の結合したもの(分子)の配列や運動の結果が物質の性質とその変化に他ならない。さらに、ボイルは金属(たとえば金)が化合物ではなく、単一の原子から成る純粋な物質、すなわち単体(元素)であると論じて、錬金術が原理的に不可能であることを示した。かくて、ボイルの物質理論は、ニュートンの力学体系とともに、自然界を巨大で精密な機械仕掛けとみなす機械論的世界像の一翼を担ったのであった。  
この時期、ヨーロッパでは、資本主義の発達に伴って、経済的・政治的主体としての「個人(individual)」(分割不可能という意味)が登場しつつあったことを想起するのは、自然観・物質観と社会観・人間観の相関という点で興味深い(F・ボルケナウ、水田洋他訳『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房、一九六五年、参照)。  
フロギストン、カロリック、エーテル  
十七世紀に確立された近代的物質観から現代の物質観に至る過程には、フロギストン、カロリック(熱素)およびエーテルという三つの仮想物質をめぐ論議があった(武谷三男「現代の物質観」、『現代の理論的諸問題』岩波書店、一九六八年所収、参照)。  
シュタール(一六六○−一七三四)は、可燃性の物質はフロギストン(燃素)という元素を含んでいるとの仮説を提唱した。燃焼の際、その物質からフロギストンが逃げ出すというのである。この理論は、燃焼現象を統一的に説明してくれるという点で画期的なものであった。しかし、金属を空気中で熱した場合、金属灰がもとの金属より重くなるという事実を説明するためには、フロギストンは負の質量(軽さ)をもつとせねばならなかった。この矛盾を解決したのがラヴォアジェ(一七四三−一七九四)の酸素理論である。彼は、空気中の5分の1の成分が、燃焼の際に物質に固定されること、またこの成分が動物の呼吸に不可欠なことを明らかにし、これを酸素と命名したのである(図−3参照)。  
十八世紀末から十九世紀にかけて、ラヴォアジェを含む多くの科学者は、熱現象は特別の物質的実体としてのカロリック(熱素)によると考えていた(熱物質説)。実際、ラヴォアジェは元素表にカロリックを掲げている。一方、ラムフォード(一七五三−一八一四)らは、砲身の旋削の際、大量の熱が発生することなどを根拠に熱運動説を唱えた。熱物質説から熱運動説への転換は必ずしも容易ではなかったが、熱量ではなく、エネルギーが保存されるというエネルギー保存則(熱力学第一法則)の確立ともに、カロリックはようやくその歴史的役割を終えた。  
古来、土、水、空気、火の四原質とは別に、天上界(月から上の世界)を構成する第五元素として「エーテル」なるものが想定されていた。エーテル概念は、近代科学の確立以降も生き延び、十九世紀には光(電磁波)の媒体として新たな役割を与えられた。しかし、エーテルに対する地球の相対運動を検出しようとしたマイケルソン−モーリの実験(一八八七)の否定的結果をめぐる論議の末、エーテルの存在を不要とするアインシュタイン(一八七九−一九五五)の相対性理論の提出(一九○五)によって、エーテルもその長い歴史に幕を閉じた。  
このように、フロギストン、カロリック、エーテルといった仮想物質は、物質とは何かをめぐる論議の中でそれぞれ重要な役割を果たしていたのだが、現代の物質観に至る過程で廃棄されたのであった。  
現代の物質観  
二○世紀初頭までに古来の物質観を完全に払拭した自然科学は、原子物理学や量子力学の発展の中で、物質をその究極のレベルまで実験的・理論的に解明することに成功した。(その具体的な成果については、たとえば、好村滋洋・岡野正義・星野公三共編著『物質は生きている−−現代の物質観』共立出版、一九九五年、参照。)  
さて、今日からみれば奇妙な物質観に依拠し、錬金術にこだわった古代・中世の人々とわれわれ現代人は、全く異なった物質観をもっているといえるだろうか。むしろ、共通する部分が大きいのではあるまいか。なぜなら、物質の構造や性質を原子・分子レベルで解明した現代科学は、錬金術者たちが望んだがなしえなかったことを可能にしたともいえるからである。換言すれば、物質を思いのままに分解・合成することによって有用な物質を作りだしている現代の科学技術者たちは、「知は力なり」「自然は服従されつつ支配される」と論じて近代的学問観の創始者にして最後の錬金術師とも称されるベーコン(一五六一−一六二六)の子供達といえるからである。  
 
 
マン「外国貿易によるイングランドの財宝」初版 1664年

 

Mun, Thomas.(1571-1641)  
England's Treasure by forraign trade. or the ballance of our forraign trade is the rule of our treasure.  
トーマス・マンは、イギリスの重商主義者。初め貿易に従事し、東インド会社の理事となり、貿易に関する常置委員会委員となる。東インド会社は、当初毛織物等のイギリスの工業製品を輸出し、それと引き替えに香料等の東洋の物産を輸入する目的で設立されたものであるが、東インドにはイギリス工業製品に対する購買力がなかった。したがって貿易赤字によりイギリスの金・銀・貴金属が流出した。この書は、当時の東インド貿易に対する世論の批判に対し、東インド会社の立場を代弁するために書かれたものであり、「わが国の貿易差額が、わが国の財宝の基準である」とし、貿易差額説を展開した。本書は、マンの没後遺児によって出版され、重商主義の代表者としての彼の名を不朽なものとした。 
マン『外国貿易によるイングランドの財宝、すなわちわが国の外国貿易の差額がわが国の財宝に関する法則である』  
MUN, T., England's Treasure by Forraign Trade. or, The Ballance of our Forraign Trade is the Rule of our Treasure. , London, Printed by F. G. for Thomas Clark, and are to be sold at his shop at the south entrance of Royal Exchange, 1664, ppiv+220+ads., 16mo  
著者(1571-1642)は、ロンドンの絹織物貿易商の3男として生まれる。若年地中海貿易に従事し、長くイタリアに駐在。その後ロンドンに落ち着き巨富を積む、東インド会社の理事にも就いた。重商主義の書物の著者には、チャイルド、デッカー等東インド会社関係者が多いが、「凡そ当時に於ける論客の論議は、其の個人的地位に由りて動かさるる所多し。」である。  
そのかみ、大陸の貨幣価値切下げ等の原因による毛織物を中心とする輸出停滞が起り、国内産業の不況、貨幣不足が生じた。議会でも、これらの原因が取り沙汰されたが、貨幣不足の原因の一つとされたのが、東インド会社による貨幣輸出であった。マンが1621年に『東インド貿易論』を出版したのは、東インド貿易のための銀(実際は、リアル等の外国通貨)輸出を擁護するためであった。この『貿易論』上梓が一契機となり、マリーンとミッセルデンとの間に論争が起る。両者は、貨幣不足の原因から始まり外国為替の機能にまでに内容を拡大、相次いで著書を刊行(1622-3)することにより、応酬を重ねた。本書『財宝』は、この論争を踏まえて著されている。刊行は、息子のジョン・マンによって著者死後の1664年になされた。しかし、本書の主要部分は1622-5年に書かれたと見られている。前年(1663)の地金銀輸出を原則承認した条例施行が出版の契機となったのであろう。重商主義を代表する書物である。  
著者は貿易商人であることに誇りを持ち、商人の「子は富をのこされながら父の職業をさげすみ、(名だけにすぎないのに)ジェントルマンになって、その財産を暗愚と放縦のうちに費消することを名誉に思い、勤勉な貿易商人として親のあとを継いで、その資産を護り増大することを考えない」ことを苦々しく思っている。商人が国を富ますことを明らかにすることも、本書執筆の一動機であったように思われる。本文は、子に与える教訓の文体で記されている。  
マンが『貿易論』で、東インド貿易擁護のために展開したのが、「貿易差額論」である。『財宝』ではこの理論を更に体系的に展開した。  
「わが国王陛下がこの東インド会社にあたえられた特許状においては、会社の社員は、イングランドから東インドに年々輸出する外国鋳貨がどれほどの金額であろうと、持ち出したと同じ額の銀貨を年々持ちこまねばならない、と特別の注意をもって規制されていることである。会社はつねに確実にそれを履行し、剰余をさえともなってわが王国の財宝の増大をもたらしてきたのである。」(『貿易論』)と記す。  
マンがいう財宝(注)の増大とは何か。まずは、東インド会社が買付のため持ち出した富(商品・貴金属)と持ち帰った増加した富=総元本general stockeとの差額を特筆する。マンの例では、ヨーロッパで消費される香料・藍・ペルシャ生糸をシリアのアレッポでトルコ人から購買するのに比べて、東インドから直接購入する方が三分の一の金額で買える。といっても、その差額が商人の利得となるのではない。売価が下がるのを別としても、取引期間・危険の増大に応じて利子・保険料・運賃・代理人等に費用が発生する。しかし、これら「(現金のかわりに)わが王国の物資と臣民の労働employmentとが、いまいったインド商品のために支払われる代価=費用の非常に大きな部分をしめることは、われわれのよろこびとするところである。」(『貿易論』)あるいは、元本増大分は「関税と賦課金として国王陛下に、また給与として代理商や職員や水夫に支払われるし、同時に航海のための食糧や武器や保険料その他に支払われるのであるが、しかしこれらは…わが国の元本=富の[国内での]移転にすぎないのであり、けっしてその費消ではない」(『貿易論』)ともいう。――ここから、利益の大きい、そして富の増加の大きい遠隔地貿易の奨励が当然導かれる。  
それでも、貿易によって富が増加するにしても、輸入商品が国内消費されるか再輸出されて第三国の商品と交換される場合は、現金が失われるのではないかとの疑問が出てくる。マンは答える。相手国によっては、自国製品を必要としない場合がある、その場合は貨幣を輸出せざるを得ない。しかし、輸入品を今まで以上に国内消費しなければ、輸入品は結局再輸出されることになり、直ちにではないがいずれ貨幣として還流する。「われわれが商品輸出の手筈をととのえ、なるべく節約して、海外へ売れるものは何なりと送り出すばあい、そのときに貨幣をそれに加えて輸出すべきだというのは、一層多くのを、直ちに獲得するためだというのではない。そうではなくて、最初は一層多くの外国商品の輸入を可能にし、もってわが国の貿易を拡張する。そうして、それを再輸出すれば、そのうちにわが国の財宝を少なくからず増加することになるのである。」輸出と輸入の差額である「その超過差額ないし余りは、すべて貨幣としてか、または再輸出せざるをえないような商品としてか、いずれかによって戻ってくるほかはない。この再輸出は、すでに明らかにしたように、わが国の財宝を増加するためには一層すぐれた方法なのである。」  
イタリアでは、日常の商取引では債務証書を使って貨幣を節約し、貴重な金銀は商品として外国貿易に使用している。一見、東インド貿易で貴金属を輸出するのは財宝の流失のようであるが、実はそれ以上の財宝をもたらすのである。アダム・スミスが『国富論』で引いた有名な箇所を、ここでも引用する。「ひとびとは、この仕事の端緒だけしか吟味しようとしないので、その判断を誤り錯誤におちいるのである。すなわち、もしわれわれが、農夫の行動を、種まきどきに大地の中へ良穀をどんどんまき捨てるさまでしか見ないならば、われわれは、かれを農夫husbandmanとは見ずにむしろ狂人mad manだと思うであろう。しかし、かれの努力の結末である穫入れどきになってその労働を考えるならば、われわれは、かれの行動の値打ちと、その行動による豊かな増収を見出すのである。」いわゆる、個別的貿易差額説に対する総合的貿易差額説の主張である。  
マンは貿易差額論に基づいて、貨幣論、為替論、財政論を展開し、整合的な国富の一般理論を試みたと書かれた本もあるが、これらの論はそれほど詳細とも(私には)思えないので、ここでは興味をひかれた二論点についてのみ見ておく。  
まずは、富についての考察である。彼にあっては、富とは市民生活に必要なものを所有することであり、富には自然的なものと人為的なものがあるとする。前者は天然資源であり、後者は住民の勤労に依存する。海外貿易を論じて、「他の諸国民の財貨をもととして…富裕になることは、われわれみずからの資産をこつこつと増加する方法に比べ、名誉や思慮の点から見ておとるものではない。」とするマンは、「海外では貿易業を増大し指導するのみならず国内においては手工業を維持し増進せしめねばならぬ。」(『貿易論』)という。貿易業と手工業がゆるがせにせられるときは、国家〜社会が頽廃し、貧困になるからである。加工産業の生産物が自然の物産より、利益が多い事は鉄鉱石と鉄製品、原毛と毛織物を比べて解るとおりである。富の増大の「真の原因をさがしだすことこそ、いまわれわれが追求するこの論考の主題なのである。」(『貿易論』)とまで云い、商業と製造業、特に後者に関して勤労を奨励した。製造業と労働(勤労・努力とも)を強調したマンであるが、残念ながら今一歩踏み込んで、いかに生産力を増大するかについては、触れることがない。  
次に貨幣数量説。「誰もが認めるように、一国内に貨幣が多ければその国に産する商品を一層高価にする。それは、ある一部のひとびとにとってはその収入からみて利得になるが、国家にとってはその貿易量から見て利益にまさに反する。すなわち、貨幣が多ければ商品は一層高価になり、同様にまた、商品が高価になればその使用と消費が減少する」。貨幣の増加が物価水準を高め(貨幣数量説)、輸出商品価格の高騰が、輸出を減少させることは認識しているのである。それゆえ、貿易によって貨幣を貯え、引き留めようとすることは、貿易を活発にすることはないとする。マンは、単なるブリオニスト(重金主義者)ではない。ただし、彼には後のヒュームが貨幣数量説と併せて、重商主義批判の道具とした、金本位制の貨幣量自動調整機能の認識はない。  
(注)「重商主義者は貨幣をいっそう重視し、「財宝」(treasure)−重商主義者がよく使う言葉―と同一視した。「財宝」とは、支配者が高額の裁判費用に充てるため、また傭兵を雇う経費のために、必死にため込もうとする金の貯えを主に指す言葉だった。」マン自身は、財宝は戦争の腱であるとし、それは必要があれば、人の力・食糧ならびに武器を、調達し・統合し・動かすものだからであると書いている。  
 
 
スピノザ「神学政治論」初版 1670年

 

Spinoza, Baruch de.(1632-77)  
Tractatus Theologico-Politicus.  
スピノザは、オランダの哲学者。当時オランダでは、国家権力が教権のもとにあえぎ、神学が哲学の領域を犯し、言論の自由が危うくされていた。彼は本書を匿名で出版し、公然と聖書の批判を行い、神学と哲学はおのおのその目的と基礎を異にし、お互いに独立したものであるとした。しかし、本書の出版と同時に聖職者、神学者たちは激しく反論し、1774年にオランダ法院は「神を汚し、精神を毒する」として本書を印刷し、販売することを禁止した。彼の思想は無神論、唯物論として約100年の間葬られていたが、従来の固定概念から解放され、新たな目で読み出されるようになると人々に感動を与えた。ことに思考と言論の自由に関しての強力な主張は、近代思想史上注目すべきものがあり、ドイツ哲学等に影響を与えた。 
バールーフ・デ・スピノザ  
(Baruch De Spinoza, 1632-1677) オランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。  
アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。  
伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。  
1664年にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年に匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。  
1673年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学・政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に『エチカ−幾何学的秩序によって証明された』を完成させたが、出版を断念した。スピノザの思想の総括であった。執筆には15年の歳月をかけている。しかし、スピノザ没後友人により1677年に刊行されている。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳(1677年)の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。  
ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。  
なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。  
生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学・政治論』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論』(Tractatus de intellectu emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium gramatices linguae Hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全てラテン語で書かれている。遺稿集の中の『小神論』(Korte Verhandeling van god)はオランダ語で書かれているがこれは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。) 
哲学史上の意義  
スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。  
その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。  
一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザ』という題名の論文を出している。  
代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。  
この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学を議論している。
存在論・認識論  
ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。  
デカルトは神を無限な実体として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む神は、自己の完全性の力によってのみ作用因であるものである(自己原因)。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる。  
スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
倫理学  
スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている。  
スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念)を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。  
上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。
国家論  
上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。  
統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている。  
またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。
宗教との関係  
スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている。  
キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している。また徳の報酬は徳そのものであるとする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している。
批判  
カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作「エチカ」や「デカルトの哲学原理」は、いずれも本質主義的な定義にみちあふれ、「しかもそれらの定義は手前勝手で的外れの、かりになんらかの問題がそこあったかぎりでは問題回避的なものだ」と批判した。また、スピノザの幾何学的方法(モレ・ゲオメトリコ)と、幾何学の方法との類似性は、「まったくうわべだけのもの」としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。 
 
 
ゲーリッケ「真空に関するマグデブルクの新実験」初版 1672年

 

Guericke, Otto von.(1602-86)  
Experimenta nova(ut vocantur) Magdeburgica de vacuo spatio, ...  
ドイツの物理学者。近代自然科学の基礎を築いた学者の一人で、ガリレイ等と同じく機能的実験的方法を科学の中に導入した。真空ポンプを発明して真空現象を研究し、空気の重さ、熱膨張等を見出した。真空の実験では、最初ぶどう酒の樽を使ったが、樽が壊れて失敗し、真空にする容器を金属の球にして成功した。マグデブルクの市長だったゲーリッケは、1654年に国王フェルディナント三世の前で、真空に関する実験を行った。彼は、分厚い銅製の半球を合わせて一つの球にし、排気ポンプで真空にした後、4対の馬を使って全力で反対方向に引っ張らせた。半球はなかなか離れなかったが、ついに大音響を立てて二つに離れた。本書は、これら真空の実験をまとめ、刊行したものである。 
オットー・フォン・ゲーリケ  
(Otto von Guericke 1602-1686) ドイツの科学者、発明家、政治家。特に真空の研究で知られている。ドイツのマクデブルクの貴族の家に生まれた。1646年から1676年までドイツのマクデブルク市長を務め、三十年戦争のマクデブルクの戦いで壊滅状態に陥ったマクデブルクの復興に力を尽くした。  
空気圧と真空  
1650年、任意の容器に接続でき、シリンダーとピストンでその容器内の空気を排気する真空ポンプを発明し、真空の特性の研究に使った。ゲーリケは気圧の力についての実験を公開している。直径51cmの銅製の半球状容器(マクデブルクの半球)を2つ組み合わせ、その内部の空気を真空ポンプで排気する。2つの半球それぞれに8頭の馬をつなぎ、両方から引っ張らせ、それでも2つの半球が離れないという実験である。中に再び空気を入れると、半球は簡単に離れた。1663年にはベルリンのブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの前で、24頭の馬を使った同じ実験を披露している。  
このような実験は、アリストテレスが「自然は真空を嫌う」と述べたことによる「真空嫌悪」説(つまり、真空という状態は作れないとする仮説)への反証となり、長年の哲学者および科学者の議論に終止符が打たれた。ゲーリケはまた、真空が物体をひきつけるのではなく、周辺の流体が物体に対して圧力をかけていることを証明した。  
ゲーリケはまた気圧計を用いた天気の予想も行い、それが気象学の先駆けとなった。晩年は電気の研究に注力したが、その成果はほとんど現存していない。世界初の静電発電機(摩擦起電機) "Elektrisiermaschine" を発明した。 
温度  
物体が温かい、または冷たいということを数値で表したものが温度です。  
火に手をかざすと、私たちは温かいと感じます。また、水に手を入れると冷たいと感じます。ところが、この温かい、冷たいという感覚は人により微妙にちがいます。しかも同じ温度の水でも、暑い日と寒い日では、まるでちがう感じがするものです。そこで、どのような条件下であっても、誰もが共通のことばで温かさ、冷たさを伝えあうために、数値で表すことが考えられました。温かい、冷たいという感覚的な表現のかわりに、数値で表現したのが温度なのです。現在使われている温度の単位で最も古いのはf(華氏温度)です。1720年頃、ファーレンファイト(ドイツ)の設定したこの単位は、今もアメリカ、カナダなどの国で使われています。つづいて1724年頃、スウェーデンの天文学者セルシウスがファーレンハイトとは異なる単位をもつ温度計をつくりました。これが、℃(摂氏温度)です。現在日本をはじめ多くの国々ではこの単位が使われています。このほか、物理学の分野ではイギリスの物理学者ケルビンの定めたK(絶対温度*)が温度の単位として使われています。  
温度と熱エネルギー。  
すべての物体は、原子や分子によって構成されています。物体が熱くなるのは、この原始や分子の運動が活発になるからです(図1)。一方、冷たくなるのは原始や分子の運動が不活発になるからです(図2)。この運動を物理学では熱エネルギーと呼んでいます。つまり、物体の温度は、熱エネルギーの状態によって高くなったり、低くなったりしているのです。そして、すべての物体(絶対温度0度以上の物体)は、熱エネルギーに応じた視光線や赤外線を放射していることが知られています。温度は熱エネルギーの状態を数値化したものです。 
温度計の歴史  
ある物体が、熱い・冷たいということを、他の誰かに正しく伝えたいという要求は古くからありました。現在用いられている多くの温度計の原理は、物体のもつ熱がそれに接する他の物体に伝わる性質(熱伝導)を利用したもので、一般の家庭で使われている体温計や寒暖計に代表されます。これらは、接触型温度計と呼ばれています。温度計の歴史を見るとこの熱伝導の原理を利用した温度計は、ルネッサンス以降それほど変わっていません。ところが、今世紀に入って目に見える光(可視光線)を利用した、例えば「光高温計」などの温度計が現れました。これは鉄やガラスなどの高温物体を目視しながら、本体に内蔵されたフィラメントの輝度と比較して温度を測ります。その後、目に見えない光(赤外線)を利用した温度計へと発展して行きます。測りたいもの(測定物体)に直接触れなくても、離れた位置から温度が測れるこれからの温度計は、非接触型温度計と呼ばれています。  
フィロンの温度検器  
アレキサンドリアノ学者フィロンは鉛で出来た容器内の空気が温度変化によって膨張、収縮する原理を利用。熱さを測る装置を作った。  
ガリレオの温度計  
ガラス球とガラス管を使って温度を測る装置を作った。ガラスを使っているため温度変化を肉眼で確かめることができた。しかしこの装置は気圧の影響をうけるため短時間の間の温度変化しか見ることができなかった。  
サグレドの体温計  
ガリレオの友人で医師のサグレドはガリレオのつくった装置を改良、ガラス管を水平にした中に液滴を入れた。これを用いて友人の医学者サントリオは患者の温を測ったといわれる。  
フィレンツエ(イタリア)でつくられたアルコール温度計  
気体のかわりに、気圧によって体積がほとんど変化しないアルコールを用いた。この温度計は、現在のものとそれほど変わりがないが、統一した目盛りはまだなかった。  
ゲーリッケの温度計  
空気ポンプで初めて真空をつくったことで知られるゲーリッケも気体の膨張を利用した温度計を作っている。その著作「真空についてのマグデブルグの新実験」には目盛りを配した温度計が残されている。  
ファーレンハイトの水銀温度計  
1720年、実用的な水銀温度計を発明。水銀はアルコールや水とは違って、ガラス管の壁をぬらさず、付着することがないため、同じ熱さの時にはいつも同じ目盛りを指す。そして、この温度計によって「氷の融解点32度」「水の沸騰点212度」を得た。この目盛りは、現在でもアメリカ、カナダなどで使われている。  
セルシウスの水銀温度計  
スウェーデンの天文学者・物理学者セルシウスは、気圧計の目盛りが一定の時、水の 沸騰する温度がつねに一定であることに気づき、一気圧のときの水の沸騰点と、氷の 融解点との間を100等分した目盛りを提唱した。この目盛りは、現在日本など多く の国々で使われている。  
熱電気の発見  
氷をいれた容器と、水を入れた容器にビスマス棒を渡し、一方でふたつの銅の容器を 太い導線で結び熱すると電気が流れる(熱電気)ことをドイツの物理学者ゼーベック が発見。この原理は後の熱電温度計などに利用されている。  
赤外線の発見  
1800年、イギリスの天文学者ハーシェルは太陽光を分光したとき、赤色光の外に物体 の温度を高くする領域(赤外線)があることを発見。後の温度計の流れを変える重要 な役割を果たした。  
プランクの放射法則  
ドイツの物理学者プランクは熱放射のエネルギー量子が赤外線の振動数に比例すると し、6.625*10-27エルグ・秒のプランク定数を導入。それまで連続的と考えられてい たエネルギーを、有限な値を持つエネルギー量からできていると規定し、スペクトル 分布の放射法則を発見した。 
温度計の種類  
熱放射(赤外線)を利用した温度計  
測定物体から放射されている赤外線の量で温度測定ができるため非接触測定が可能。熱放射を利用するので、測定できる領域が広範囲にわたっている。  
熱電気を利用した温度計  
ちがう種類の金属を電気的に接触し両端に温度差を与えると熱起電力によって電流が流れる。この熱電気現象(ゼーベック効果)を利用。鉄鋼、金属、原子力発電、石油精製などの分野で使用されている。  
電気抵抗を利用した温度計  
温度変化にほぼ比例して金属の電気抵抗が変化する性質を利用。測温部を構成する抵抗体の抵抗値を測定して温度を知る。ほかに、サーミスタ温度計がある。  
液体の膨張を利用した温度計  
液体が温度変化により膨張、収縮する性質を利用。歴史的に最も古くから知られている温度計で、構造が簡単なうえ安価なことから現在でも寒暖計、体温計などに広く応用されている。  
圧力を利用した温度計  
温度計内部の圧力変化により受圧部のブルドン管が変化する現象を利用。簡単な構造でしかも丈夫であり、電気を使わないので安全性が高く、プロセス計装用に多く使用されている。  
 
 
ホイヘンス「振り子時計」初版 1673年

 

Huygens, Cristian.(1629-95)  
Horologium Oscillatorium sive de motu pendulorum ad horologia aptato demonstrationes geometricae.  
オランダの物理学者。ハーグに生まれ、はじめは法律を学んだが、やがて数学に転じた。レンズの新しい研磨法を発見し、また強力な望遠鏡を制作してその接眼レンズを工夫し、初めて土星の環を発見した。振り子の運動を研究し、ガリレイの考案を発展させて振子時計を発明した。また重力、遠心力の研究を行い、弾性体の衝突に際して働く法則を明らかにした。さらに初めて光の波動説を立て<ホイヘンスの原理>を発表して、光の反射屈折、複屈折等の諸現象を説明し波動説の基礎を確立した。 
クリスティアーン・ホイヘンス  
(Christiaan Huygens 、1629-1695) オランダの数学者、物理学者、天文学者。  
1629年 ハーグに生まれた。家は祖父も父も大臣を務めた名門であり、クリスティアーンの実父であるコンスタンティン・ホイヘンス(Constantijn Huygens)は、オランダの詩人で作曲家でもあった。  
1655年 数学と法律を学んでライデン大学を卒業した。後に物理学を研究し、早くから曲線の求積などで数学の才能を発揮した。  
1655年 自作した50倍の反射望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見した。  
1656年 「土星の環」が環状であることを発見した。またオリオン大星雲を独立発見してスケッチを残し、これが最初のオリオン大星雲のスケッチとなった。  
1656年 振り子時計を初めて実際に製作した。  
1658年 「時計」(Horologium )発刊。  
1666年 フランス財務相ジャン=バティスト・コルベールの招きでパリに移住し、アカデミー・ロワイヤル・デ・シアンスの会員となった。  
1673年 「振り子時計」(Horologium Oscillatorium )を発刊。  
1675年 ヒゲゼンマイのついたテンプ時計を製作、これが一般に「世界初の実用的な機械式時計」と言われている。  
1675年 「(収差を)補正された望遠鏡」(Astroscopia Compendiaria )発刊。この中で空気望遠鏡を解説。  
1675年 世界で初めて火薬を使った往復型のエンジンを発明。  
1685年 ナントの勅令廃止に伴いハーグに戻った。  
1690年 「光についての論考」を発刊、この中で光の波動説を提唱した。  
振り子時計の発明法としては、彼が幾何学的にサイクロイドであることを証明していた、ある曲線にそって物体が重力の影響下で降下するとき、曲線上のどの点から降下を始めても最低点に到着するまでに必要な時間は同一であるという性質を利用したと考えられる。この設計はイソクロン、トートクロンと呼ばれる。上述してあるが、ガリレオは振り子を時計に用いるというアイデアをすでに持っており、またゴットフリート・ライプニッツはこれに関して数学上で前段階的な結果を出していた。 その他ホイヘンス式またはハイゲンス式接眼レンズを発明。ホイヘンスの原理提唱。光の媒介としてのエーテルの提唱等の業績がある。 
振り子時計 (Pendulum clock)  
振り子は通常の意味では「重力振り子」のことですが、ここでは「ねじれ振子」も登場します。「ねじれ振子」は1793年に Robert Leslie により発明され、まもなく「ねじれ振子時計」も製作されます。「重力振り子時計」は熱補正をする方法が色々あり、当初から正確でしたが、「ねじれ振子時計」の方は熱補正する方法が1951年に至るまでなく、計時装置としては正確ではありませんでした。しかし、よく売れたようです。「ねじれ振子時計」は日本ではほとんど販売されなかったのではないかと思いますが(贅沢品)、現在時計店で見る置き時計のかなりの部分が、この「ねじれ振子時計」の真似をした動作をしています。  
振り子時計は計時要素として、振り子、すなわち揺れる重りを使用する時計である。計時のために振り子を使用する利点は、これが共鳴装置だからである。つまり、振り子はその長さに依存して正確な時間間隔で振動するが、それ以外の時間間隔では振動しないのである。1656年のクリスティアーン・ホイヘンスの発明から1930年代に至るまで、振り子時計は世界で最も正確な計時装置であり、これにより広範囲で使用されることになった。振り子時計が動作するためには、移動してはならない。どのような動きも、あるいは加速度も振り子の動きに影響を与え、不正確となる。従って、持ち運び可能な計時装置には他の仕組みを使用する必要がある。振り子時計は今日では、装飾的で、アンチークの価値の理由から所有されている。  
歴史  
振り子時計はドイツの科学者であるクリスティアーン・ホイヘンスにより1656年に発明され、翌年に特許が取られた。ホイヘンスは彼がデザインした時計を製造するために時計職人のサロモン・コスター(Salomon Coster)と契約を結び、コスターが実際の時計を製造したのである。ホイヘンスは1602年に始まるガリレオ・ガリレーの振り子の研究に触発された。ガリレオは振り子が計時機能に有益となる性質、すなわち等時性を発見した。これは振り子の振動の周期が近似的には振幅の大きさに依存しないということである。ガリレオは1637年に振り子時計のアイデアを持っており、彼の子息は1649年に部分的に構築したが、どちらも完成には至らなかった。振り子は計時機能に使用された最初の調和振動子であり、これの導入は時計の精度を飛躍的に増大し、1日15分であったものが15秒となり、これにより、当時の「バージとフォリオットによる時計」が作り直され、振り子で置き換えられるにつれ、急速に広まることになった。  
これらの初期の時計はバージ・エスケープメントにより、振り子の振幅が大きく、100°にもなった。1673年の振り子の分析をした本「振り子時計」(Horologium Oscillatorium)の中で、ホイヘンスが示したことは、大きな振幅は振り子を不正確にし、その結果、装置で提供される駆動力により周期と時計の速度に避けざるを得ない変動が生じることであった。  
時計製造業者は振幅角度が数度である振り子のみが等時性を持つことに気がつき、これにより1670年頃、アンカー・エスケープメントが発明された。アンカー・エスケープメントは振り子の振幅を4°-6°に制限した。このアンカーは振り子時計の標準的なエスケープメントとなった。増大した精度に加え、アンカーの狭い振幅により、時計の箱は、より長く、より遅い振り子を収納することになり、これにより、必要とされる動力は小さくなり、動力機構の摩耗が減少した。秒振り子(これはロイヤル振り子とも称する)では1回の振動が1秒で、およそ1メートル(39.37インチ)の長さがあり、広く使用されることになった。この時代の長くて狭い時計は、最初はウィリアム・クレメント(William Clement)によって製造され、「お祖父さんの時計」(grandfather clock)として知られることになった。このような進展の結果、時計の精度が増大し、それ以前はまれであった分針が1690年頃に時計の盤面に付け加えられることになった。  
振り子時計の発明以後、18世紀と19世紀の時計の革新の波は振り子時計に多くの改良をもたらした。直進式(deadbeat)エスケープメントは1675年にリチャード・タウンリー(Richard Towneley)が発明し、1715年にはジョージ・グラハム(George Graham)が彼の精密標準時計(precision regulator clock)に使用したことから一般に広まり、今や大半の現代の振り子時計に使用されている。振り子時計が夏に遅くなることから、温度の変化により、振り子の棒が伸びたり縮んだりすることがエラーの原因であることがわかった。これは温度補正した振り子の発明で解決され、1721年にはジョージ・グラハムによる水銀振り子、1726年にはジョン・ハリソン(John Harrison)による「すのこ型振り子」(あるいは「格子式振り子」,grid-iron pendulum振り子が発明された。これらの改良により18世紀中頃には精密振り子時計は1週間で数秒の精度を実現した。  
19世紀に至るまで、時計は個人の職人による手作りであり、とても高価であった。この時代の振り子時計の豊かな飾りはその価値が富裕な人の身分の象徴であることを示していた。ヨーロッパのどの国の、どの場所の時計職人も、彼ら自身の特有な様式を発展させた。19世紀までに、時計の部品が工場で生産されるようになると、次第に中流階級は振り子時計を手に入れることができるようになった。  
産業革命の間、日々の生活は家庭の振り子時計によって編成されていた。もっと正確な振り子時計は、標準時計(regulator)と呼ばれ、仕事場に設置され、仕事の管理や他の時計を合わせるのに使用された。最も精密な物は天文標準時計(astronomical regulator)と呼ばれ、天体観測所で天体観測に使用されたり、測量に使用されたり、天測航法に使用された。19世紀の始めに海軍天文台の天文標準時計は国内における時刻配信サービスのための主要な標準の役目を果たした。1909年からは、国立標準局(National Bureau of Standards)(現在のNIST)は米国の時刻の標準をリーフラー(Riefler)振り子時計に基礎を置いた。この時計は1日におよそ10ミリ秒の精度があった。1929年には、ショート・シンクロノーム(Shortt-Synchronome)自由振り子時計に移行し、1930年にはクォーツ時計に移行した。ショート(Shortt)は1年に1秒ほどの精度があり、商用で生産された振り子時計では最も精度が高いものであった。  
振り子時計は1927年にクォーツ時計が発明されるまでの270年間、正確な計時のための世界標準であり、第二次世界大戦の間も標準として使用された。フランスは1954年に至るまで、標準時計群の一つとして、振り子時計を使用した。現在(2007年)に至るまでで、最も正確な実験的な振り子時計では1990年代にEdward T.Hallによって作られたLittlemore時計であろう。 
仕組み  
機械式の振り子時計はすべて次の5つの部品を持っている。  
動力源、滑車を回すための紐に付けた重り、もしくはゼンマイ  
歯車の列(ホイールの列)、これは動力源の速度を引き上げ、振り子が使用できるようにする  
エスケープメント、これは正確な時間で衝撃を振り子に与え、振り子を揺れ続けさせ、そして歯車の列を開放し、1回の揺れごとに定められた量だけ前進させる。これが動いている振り子時計の「チクタク」音の原因  
振り子、紐に付いた重り  
指示器、あるいは盤面、これはどれだけエスケープメントが回転したか、従ってどれほどの時間が経過したのかを記録する。通常、伝統的な時計の面には回転する針が付いている。  
もっと精巧な振り子時計は以下の複雑な物を含んでいることがある。  
打鐘歯車の列(Striking train) -- 1時間ごとに時間の数だけチャイムを鳴らす、もっと精巧なものでは15分ごとに鳴らし、曲 -- 通常はウェストミンスター・チャイム -- を鳴らすこともある。  
カレンダー盤、曜日と日付を表示、時には月も表示する  
月の相の盤、月の相(満ち欠け)を表示する、回転する円板の上に月の絵が描いてある。  
均時差盤、これは初期のもので珍しい、正午に太陽が頭上に来た時に時を合わせるためにある。これは時計で表示される時間と、太陽の位置による時間の違いを表示する。この違いは年間で±16分程度。  
繰り返し装置(Repeater attachment)、これはノブを押すと時刻のチャイムを繰り返す。この珍しい装置は、夜間に時刻を知りたい時に、人工の照明ができる以前に使用された。  
機械式のマスター時計として使用される電気機械式振り子時計は、動力源が電気動力のソレノイド(solenoid, 筒型コイル)で置き換えられ、これは磁気により振り子に衝撃を与える。またエスケープメントも、スイッチあるいは光検出器で置き換えられ、これにより振り子が衝撃を与える正しい場所にいることを検知する。これらを、もっと最近のクォーツ振り子時計と混同してはならない。クォーツ振り子時計は電子クォーツ時計のモジュールが振り子を揺らしているのであり、本当の振り子時計ではない、何故ならば、計時はモジュール内のクォーツ・クリスタルによって制御され、揺れている振り子は単に飾りのシミュレーションでしかないからである。  
重力振り子時計(Gravity-swing pendulum)  
振り子の周期は有効長の平方根に比例する。振り子時計の速さは振り子の重りを棒の上で上げたり下げたりすることによって調節する。しばしば重りの下に調節用のナットがある。ある種の振り子時計では、微調整には補助調節が使用され、小さな重りを振り子の棒に沿って上下させる。ある種の塔の時計では、調節は棒の上に搭載した小さな皿で実現しており、ここに小さな重しを付け加えたり取り除いたりして(振り子の)有効長を変化させ、これにより(時計の)速さを時計を止めずに調節できた。  
温度補正  
時刻を正確に保つために、振り子は通常は熱変化で長さが変動しないように作られている。金属が膨張することにより、振り子の長さが温度と共に変動し、温度が上がると共に時計は遅くなる。初期の高精度時計は液体の水銀を振り子の重りの一部分の重心を上げるために使用し、これにより振り子の有効長を補正した。ジョン・ハリソン(John Harrison)はすのこ型振り子(gridiron pendulum)を発明し、相異なる熱膨張率を持つ金属から横滑りするバンジョーを作った。このような金属には真鍮、亜鉛、鋼などがあり、これにより有毒な水銀の使用を控え、伸長率0の振り子を完成した。19世紀の終わりには熱による変動が非常に小さい物質が利用可能となり、これが単純な振り子の棒に使用された。このような物質にはインバー、ニッケル/鉄合金、溶融シリカ、つまりガラスが含まれていた。後者はいまだに重力計(gravimeter)の振り子として使用されている  
空気抵抗  
振り子が揺れる大気には粘度があり、これは気圧、湿度、温度により変化する。この抵抗からも動力が必要とされ、動力はそれ以外に巻き戻しの時間を拡大するのに使用される。振り子は精度を上げるために、空気抵抗--これが動力を最も必要とする所--を減らすために磨かれたり流線型にすることがある。19世紀や20世紀始めの天文台の時計の振り子は格納容器内で動作させ、空気抵抗を減らすために気圧を下げて、振り子の振動がより高精度となるようにした。  
水平調整とチクタク音(Leveling and 'beat')  
時を正確に刻むためには、振り子時計は絶対に水平でないといけない。そうでないと、振り子は一方に傾き、エスケープメントの対称動作を崩してしまう。この状態は、時計のチクタク音から聞き取ることができる。チクタク音は正確に同じ間隔で「チク...タク...チク...タク」のように聞こえないといけない。もしそうでなく、音が「チク.タク...チク.タク」のように聞こえれば、時計はチクタク異常(out of beat)になっており、水平にしないといけない。この問題により時計は簡単に停止し、これが修理依頼の最も普通の理由である。水準器や時刻音測定器(watch timing machine)があればチクタク音に依存する方法よりは高精度に判断できる。古い据え置き式の時計にはしばしば、脚に水平にするための調整用のネジがあった、より新しいものでは機械装置の中に水平調節装置が付いていた。現代的な振り子時計では、チクタク音の自動調節装置が付いていて、この調整はする必要がない。  
局所重力(Local gravity)  
振り子は重力の増加により速くなり、局所重力は緯度や高度によって変化するため、振り子時計を移動したあとは調整しなおす必要がある。例えば、振り子時計を海抜4000フィートの地点に移動すれば、1日当たり16秒遅れることになる。時計を高い建物の頂上に移動すれば、重力が低くなるため、測定可能となるくらいに遅くなる。  
ねじれ振り子時計(Torsion pendulum)  
「ねじれ振り子」は「ねじれバネ振り子」とも呼ばれ、輪のような塊(大半は交差するスポークに4つの球がついている)で、これがバネ鋼の垂直片(リボン)から吊り下げられており、ねじれ振り子時計の統制装置となっている。塊が(横方向に)回転して、サスペンション・スプリングを巻き上げたり、巻き戻したりする。インパルスがスプリングの上部に加えられる。重力振り子より周期がとても遅く、30日あるいは1年もネジを巻く必要がない。1年間、ネジを巻く必要がない時計は「400日時計」、「永久時計」あるいは「記念日時計」とも呼ばれた。「記念日時計」と呼ばれたのは時々結婚記念日の贈り物とされたからである。ドイツの会社であるSchatzとKundoはこの形式の時計の主な製造業者であった。この型式の時計は局所重力の影響を受けないが、補正していない振り子時計よりは温度に影響される。  
外見がこれと似ている置き時計を最近よく見かけます。但し、これは外見だけで(電池が2組必要)、恐らく「ねじれ振り子時計」の外見を真似したものだと思います。  
エスケープメント(Escapement)  
エスケープメントは、通常は歯車装置から振り子を駆動し、時刻を刻む部分である。大半のエスケープメントには固定状態と駆動状態があり、固定状態では何も動かない。振り子の動きがエスケープメントを駆動状態に切り替え、エスケープメントは次に振り子の周期のある部分で振り子を押す。注目すべき、しかし珍しい例外がハリソンのグラスホッパー・エスケープメントである。精密時計においては、エスケープメントは小さな重りやバネによってしばしば直接駆動され、一方小さな重りやバネはルモントワールと呼ばれる独立の仕組みによって頻繁にリセットされる。これにより、エスケープメントが歯車装置の変動の影響から解放される。19世紀後期においては、電気機械式のエスケープメントが発展した。これにおいては、機械的スイッチや電子光電管が振り子の揺れのごく短い期間に電磁石に通電する。これらは、知られている非常に精密な時計の幾つかで使用された。通常は天文時計で真空振り子と共に使用された。振り子を駆動する電気のパルスは歯車装置を動かすピストンも駆動した。  
20世紀に、W.H.ショート(W.H. Shortt)は自由振り子時計/ショート・シンクロノーム時計を発明した。この時計の精度は1日に1秒の100分の1であった。この時計においては、計時振り子は何もせずに、重しを付けたアーム(重力アーム)に押されて動き続けている。重しを付けたアームは必要となる直前に、別の(従属する)時計によって、振り子に下ろされる。次に重力アームは自由振り子に押しつけられ、完全に自由振り子によって決定された時間に開放されるのである。一旦、重力アームが開放されると、重力アームは装置を開放し、従属時計により、解放されることに備えて自分自身をリセットする。全体の周期は従属時計の振り子の上の小さなブレード・スプリングによって同期が取られている。従属時計は、少し遅く動くように設定され、重力アームのリセット・サーキットは旋回アームを起動し、ブレード・スプリングの先に接触する。もしも従属時計が余り遅れるようなことがあれば、ブレード・スプリングはアームを押し、これにより振り子が加速される。これによる時間の進み方はブレード・スプリングは次回の周期には従事せず、その次に従事する。この形式の時計は1920年代の中ごろから天文台の使用の標準となったが、クォーツ時計がこれに取って代わった。  
時刻表示(Time Indication)  
時刻表示は、ほとんど常に伝統的な盤面で、ここに時針と分針が付いている。多くの時計では、第三の小さな針が補助盤面の上で秒を表示する。振り子時計は、通常はガラスのカバーを開けて分針を盤面の上でまわして正しい時刻に合わせるようにデザインされている。分針は滑りやすいフリクション・スリーブの上に搭載され、これによりスリーブの上で回転することができる。時針は歯車の列で駆動されているのではなく、分針の軸に接続された小さな一連の歯車によって駆動されている。従って、分針を回転すれば時針も自動的に回転する。  
スタイル(Style)  
振り子時計は単に実用的な計時装置以上のものであった。振り子時計は所有者の富と文化を表示するための高い身分の象徴であった。振り子時計は意図された用途はもとよりのこと、異なる国と時代に固有な伝統的スタイルで発展をした。箱のスタイルはその時代に人気のあった家具のスタイルを幾分か反映している。専門家は、アンティーク時計の箱と文字盤の微妙な違いから、数十年以内の精度で、製造された時期を決定することができる。以下が、振り子時計の幾つかの形式である。  
 
 
ニュートン「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」初版 1687年

 

Newton, Sir Isaac.(1643-1727)  
Philosophiae Naturalis Principia Mathematica.  
ニュートンはイギリスの物理学者、天文学者、数学者。17世紀中ごろにおける天文学および力学の主要問題は、ガリレイの落体に関する研究を一般化して力学の根本原理を確立することと、天体間に作用する力の性質を求めて惑星の運動に関するケプラーの3法則を説明することであった。この2つの問題を解決したのが本書(単に<プリンキピア>ともいう)である。この中でニュートンは、自分自身が発見した運動の法則や万有引力の法則をまとめ、さらにこれらの法則に基づいて惑星や月の運動について論じている。本書が世に出てから200年の間、その所説の大要はほとんど変革されることなく、後世の力学はすべて本書を動かぬ基礎として築き上げられた。やがて相対性理論や量子力学によってニュートン力学は改変を余儀なくされたが、いずれの場合にも極限の近似値としては今日でも十分の精密さをもって成り立つのである。 
自然哲学の数学的諸原理  
(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica) アイザック・ニュートンの著書のひとつで、ニュートンの力学体系を解説した書。1687年刊、全3巻。古典力学の基礎を築いた画期的な著作で、近代科学における最も重要な著作の1つ。運動の法則を数学的に論じ、天体の運動や万有引力の法則を扱っている。Principia という略称でもよく知られている。日本語では「プリンキピア」「プリンシピア」と表記される。  
この本が出版されたきっかけ・動機としてはエドモンド・ハレーとのやりとりがあるという。エドモンド・ハレーが1684年の夏にケンブリッジ大学を訪問したのだが、そこで「惑星が距離の平方に反比例する力で太陽に引き寄せられると仮定した場合、惑星が描く曲線はどのようなものであろうか?」とニュートンに質問したことだという。この質問に対してニュートンは「楕円だろう」と即答した。ニュートンはそれ以前に自分自身でそうした計算を試みたことがあり、すでに答えを得ていたのだという。  
そしてニュートンは1684年11月頃、ハレーに「回転している物体の運動について」という論文を送付した。これを読んだハレーがニュートンにこの論文も含めてニュートンの力学研究の成果を出版することを薦め、同論文はプリンキピア第一巻の骨子となり、1687年の夏頃、500ページ余りのプリンキピア初版が出版されることとなった。またニュートンの内にはキリスト教的で神による秩序立てられた世界観を示そうとする神学的な動機もあったことも明らかになっている。いずれにせよハレーに薦められてから初版印刷に至るまで、この書に傾けたニュートンの情熱、精進ぶりは凄まじいものであったと言われている。  
1687年版に初版が出版され、1713年には第二版が、1726年にヘンリー・ペンバートンが編集した第三版が出版された。  
原文はラテン語で書かれている。 全3巻であり、それぞれの巻のタイトルおよび要点は以下のとおり。  
第1巻 物体の運動について 真空中の物体の運動法則  
第2巻 物体の運動について 抵抗のある媒質の中での物体の運動法則  
第3巻 世界の体系について 現実の宇宙の数学的なしくみを扱っており、地球上の物体であれ、太陽のまわりをまわる惑星であれ、彗星であれ、その位置が、万有引力の数学的法則によって統一的に説明できる、ということを示している。  
全巻を通して数学的な道具としては原則的にユークリッドの『原論』を用いている。さらに展開の形式も『原論』を踏襲しており、公理論的な形式を採用している。最初に公理を示し、その公理を使って証明するというやり方で進んでいく方式である。  
当時、研究が進み始めていた微分・積分は用いず、できるだけユークリッド幾何学だけを用いて解説しようとしたため、非常に大部の著作になっている。これは、微分や積分などでプロイセンのゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツらとその内容(絶対時間)や表記法などで争っていたためと推測されている。ニュートンとライプニッツは時間の捉え方でも空間の捉え方でもしばしば見解が根本的に相違し、激しく衝突していた(空間の記事も参照のこと)。ただし、一部ではあるが代数解析を用いている箇所が無いわけではない。  
出版当時、非常に難解だと言われた。上述のごとく諸事情により採用された数学的手法が複雑になっていることも一因であった。プリンキピアの出版により古典力学の基礎が築かれたのであるが、その反面、ニュートンが駆使した数学的技法が複雑であったため自然哲学が一般の素人には近づきにくいものにもなった。  
第三巻で示された世界観はキリスト教擁護のために活用された。ニュートンの友人のボイルの遺産をもとに行われるようになったボイル・レクチャーズ(en:Boyle Lectures)という一連の講義において、自然(宇宙)が数学的に秩序立っていることをプリンキピアを用いて説明し、それにより神が存在していることが説かれた。  
第二巻の「抵抗のある媒質中における物体の運動」は、内容が内容であったにもかかわらず用いられた数学的道具がユークリッド幾何学だけであったことにより説明不足となっていた面もあった。大陸側ではライプニッツの数学的手法を継承する自然哲学者たちがおり、ニュートンがプリンキピアで用いた数学的手法をライプニッツ流の微分積分学で書き換える作業を行った。これにより、第二巻の「抵抗のある媒質中における物体の運動」は当初ニュートンによって書かれていたよりも、かなり厳密に説明されるようになった。  
18世紀にはラグランジュがニュートン力学の後の力学の発展を総合し『解析力学』(1788)にまとめることになった(解析力学。ラグランジュ力学)。 
アイザック・ニュートン  
(Isaac Newton, 1643-1727) イングランドの哲学者、自然哲学者、数学者。神学者。ニュートン力学を確立し、古典力学や近代物理学の祖となった。古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるものであり、近代科学文明の成立に影響を与えた。  
アイザック・ニュートンは1642年のクリスマスに イングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサム(英語版)から南方に10kmほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース(英語版)(Woolsthorpe-by-Colsterworth)において、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた。未熟児として生まれたといい産婆はこの子は長生きすまい、と言ったという。なお、アイザックという名は、 旧約聖書 の『創世記』に登場する太祖の一人イサクに由来する。  
父親は、身分としてはヨーマン(独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳の時に近郊の農家の娘(アイザックの母ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3ヶ月前に死去した(後にニュートンの義父となる人物は、この父が粗野な変人であった、と述べたという。父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している)。  
実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。アイザックは物ごころのつかない年齢で両親の愛を知らない子となった。母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。息子アイザックは母のこの選択に反発「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝。この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た。  
母親はニュートンの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、後に至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。だが、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。グラマースクール時代も、ニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信をもつようになったとされる。その出来ごとをきっかけに学年で首席の成績をとるようになったともいわれる。  
学校に通うようになって2年がたち14歳になった時に、母の再婚相手が死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子供とともにウールスソープの家へと戻ってきた。母は、(亡くなった元の夫が遺した)農園を営むことを考え、父親のようにニュートンが農業(百姓)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、(前の下宿先の)クラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人等に相談し、ケンブリッジのトリニティカレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備をすることになった。授業で教わった内容は、聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何であった。  
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。入学当初は「サブサイザー」として仮に、1ヶ月後に「サイザー sizar」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、というものであった。大多数の学生は「コモナー」という自費で学費を払う者たちだったので、ニュートンは肩身が狭い思いをしたと推察され、こうした身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという。  
当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavis Mathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学』、チャールトンの原子論哲学の入門書などを読んだのである。  
ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。アイザック・バローである。 ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり1664年にニュートンは「スカラー」(奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである。  
また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。学位を取得した頃、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の1/3(以上)を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生の時のそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。こうしてニュートンは「流率法」と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(光学)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績を発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。  
万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。 伝記作家が援用する資料として、同時代の作家ウィリアム・ストゥークリの書いた Memoirs of Sir Isaac Newton's Life に1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のようなくだりがある。  
“when formerly, the notion of gravitation came into his mind. It was occasioned by the fall of an apple, as he sat in contemplative mood. Why should that apple always descend perpendicularly to the ground, thought he to himself. Why should it not go sideways or upwards, but constantly to the earth's centre.”  
この文章も彼が如何に日常に起きることに関心を持ち、そこから理論への着想を得ていたかという彼の賢さを表現するために作られた話、とも言われており、真偽は定かではない。また、ニュートンが死去した年に、ヴォルテールは彼のエッセイ Essay on Epic Poetry (1727)のなかで彼がニュートンの姪に聞いた話として「アイザック・ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、彼の重力に関する最初の発想を得た」とする逸話を紹介している。  
ニュートンが万有引力の法則を思いついたそもそもの動機は、ケプラーの法則である。単なる物が落ちる現象、地球上にある物体を地球が引っ張る力としての「重力」であれば、ニュートン以前から既に知られており、「太陽が地球になんらかの『駆動する力』を及ぼしている」とイメージしたのはケプラーであり、その両者を結びつけたのがニュートンの発見であった。  
1665年にカレッジを卒業し、バチェラー(Bachelor of Arts; 学士)の学位を得た。  
1667年にペストがおさまると、ケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえに他の1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため、ニュートンはフェローになることができ、研究費を支給されるようになった。(大科学者では、このように順風満帆で、運に恵まれた人は稀だと佐藤満彦は指摘している。) その年に『無限級数の解析 (De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas) 』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum) 』を発表した。  
この数学的研究について解説すると、ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。後々、優先権をめぐって熾烈な争いが展開されることになる。ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだが、ライプニッツより早く発見していた、と主張した。ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる。  
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師バローがニュートンの才能を認めていて、自分のポストを弟子に譲るという形で実現したのである。恩師の申し出に対し、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした。ルーカス教授としての義務は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった。  
ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学(Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭した。ニュートンは哲学者であったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ。ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である。  
ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたので、やがて忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになったものである。  
『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした。それから2年後の1688年には、大学から選出された庶民院議員(下院議員)になることになった。だが、議員としては殆ど発言をしなかったとされ、議会での唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」だったという。  
ニュートンは大著の執筆の後で疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた。そこで教え子で、19歳年下ながら社交性に富み、たちまわりがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼した。またプリンキピアの刊行によりニュートンの知名度も上がり、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたので、彼にもポストの紹介を依頼した。だが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった。  
精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になった。やがてニュートンは精神状態に変調をきたすようになった。不眠や食欲減退に苦しみ、被害妄想にも悩まされた。ジョン・ロックへの書簡の中には、(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになったといった内容を書いたりしたものが残っている。2年ほど自宅に引きもるような状態になったとも言われる。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある(母は1697年6月に死去した)。錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている。この壮年期におけるスランプにおいても頭脳は明晰で、ヨーロッパ中に難解な数学問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直線上に2つの点があるとする。一つの物体が上の点から下の点まで引力のみで落下する時に要する時間をもっと短くするには、どのような道筋に沿って降下すれば良いか?」という最速降下点と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え匿名でベルヌーイに投稿した。  
そんな苦しい時代ではあったが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに王立造幣局監事のポストを紹介してくれ、1699年には王立造幣局長官に昇格することになった。モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、就任早々通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。元大学教授にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした。 在職中は偽金造りが激減した。一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしており、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(South Sea Bubble 南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる(南海会社というのはイギリスの会社で、スペイン領中南米との貿易で独占権を得て、奴隷貿易で暴利をむさぼっていた会社であり、南海泡沫事件とは同社が大宣伝をして株が暴騰したが、事業の不振が明るみに出ると株は暴落して1720年に倒産し、多数の投資家が破産するに至った事件である)。  
研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した。(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である。)晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イギリス国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れ、生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである。こうしたことなどから、彼はおそらくアリウス派の異教徒、つまりユニテリアンだったのだろう、とする指摘もあるという。  
1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である。  
授与から20年ほど後の1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった。 
 
 
18世紀 ヨーロッパ市民社会の成立 / 経済学の成立

 

18世紀のヨーロッパは、専制君主の古い封建社会から次第に人民が主権者となる近代社会へと移行する過程にあり、啓蒙主義運動、産業革命、フランス革命が起こり、急速に社会が変化していく時代であった。この時代には、理神論、無神論、経験主義、合理主義、個人主義、自由主義、自然法、社会契約法などの思想が展開され「理性の世紀」と言われる。啓蒙主義運動は、従来の絶対主義社会がになっていた一切の権威を破壊しようとする市民社会の自己主張であり、中世的、封建的世界を崩して、明るい理性的な世界に改革しようとする風潮が強く見られる。またこの時代には、経済活動の発達によって様々な経済理論が生まれた。その中でもアダム・スミスは、近代市民社会の経済活動を総合的に解明し、経済学をはじめて学問的に体系づけた。  
 
 
ベーコン「大著作」初版 1733年

 

Bacon, Roger.(1214?-94)  
Opus Majus ad Clementem quartum, pontificem Romanum.  
ロジャー・ベーコンは、イギリス中世末期のスコラ哲学者で、その博識により<驚異博士 Doctor mirabilis>と称された。この「大著作」は、教皇クレメンス4世の保護を受けて著した13世紀の「知」の百科全書とも言われる。本書は、当時唯一完全な写本として考えられていたトリニティ・カレッジのものからサミュエル・ジェブが編集して出版されたものであるが、第7部は後になって発見されており、その部分が欠けている。 
ロジャー・ベーコン「大著作」  
R.ベーコンはイギリス生まれのフランシスコ派の修道士で、オクスフォード大学でアリストテレスの自然学及び数学を学び、更にパリ大学にも学びました。1240年代には、パリ大学で講義もしています。恐らくこの時にペトルス・ペリグリヌスに、ペリグリヌスの磁石研究や自然学研究に於ける実験の重要さについて教わったと思われます。1247年に彼はオクスフォード大学に戻り、そこでグローステストに師事し、光学に興味を持つに至りました。1251年にはオクフォード大学教授となり、1257年にフランシスコ派に入会します。修道士として、哲学や神学、また法学も研究し、更に医学も研究し、加えてアリストテレス、ユークリッド、アルキメデス他の業績を直接原典で研究する為、ギリシア語、ヘブライ語等を学び、言語学者としての研究を行い、ヨーロッパ最初のヘブライ語文典、ギリシア語文典を作っています。彼もまた、文化史上にあらわれる「万能の人、ホモ・ウニヴェルザリス」の一人で、その博識に当時の人は彼を「驚異博士、ドクトル・ミラヴィリス」と呼んだ程でした。  
彼は、実験的方法が自然学研究には不可欠で、本質的であることを確信しており、実験の結果と従来の伝統的、アリストテレス的考え方とが合わない場合は、容赦なく伝統的考え方を批判し、攻撃したので、徐々にフランシスコ派内部に多くの敵を作って行く事になりました。例えば、ドミンゴ派の修道士で「全科博士、ドクトル・ウニヴェルザリス」と呼ばれた、中世スコラ哲学の巨人、アルベルトウス・マグヌスさえもベーコンによって、簡単に「無知な男」とひとことで片付けられています。この為フランシスコ派の実力者で、やはり優れた科学者、哲学者であったボナヴェントゥラ−彼はベーコンの行動ばかりでなく、ベーコンの信じていた錬金術と占星術を嫌っていたので−の非難を受け、また彼の方でも当時の宗教界を激越な調子で非難した「哲学研究の適用」という論文を書いて非難に応じたので、ついに 1277-79年頃パリで投獄され(直接の嫌疑ははっきりしませんが)死の直前まで幽閉されてしまったのです。  
彼の評判が教団内部で悪化している頃、彼と親しかった枢機卿が法王クレメンス四世となり、1266年に彼の研究著作を送ってくれる様に依頼をよこしました。彼は当時4巻から成る主著を計画しており、それは学問の全分野を扱う予定でしたが、急ぎ予定を変更して、1267年本書をまとめ、これを少し膨大すぎると考えて、その要約「小著作、Opus minus」をつくり、両者を1268年に送り、更に追いかけて「第三著作、Opus tertium」を送りました。彼としては法王の後援を得て、もっと自由に強力に研究を進めたかったのですが、不運な事にクレメンス四世はその年の11月に亡くなり、その後はなしのつぶてになってしまったのでした。  
この「大著作」は元来七部から成っていたのですが、本書は第六部までが収められています。第七部まで入れた版は、オックスフォードで1897年に出されました。本書の、第一部では、真実の追求を誤らす四つの原因をあげ、アリストテレス等の既成の権威によりかかること、習慣からくる先入観に固執すること、大衆の意見におもねること、見せかけの知識をふりかざして自分の無知をかくすこと等を挙げています。確かにその通りなのですが、当時のスコラ哲学者へのあてこすりが含まれている事は明白です。第二部は、神学と哲学について、第三部は正確に原典を読み、訳すための言語研究、第四部は数学で、自然学がその命題を数学的形式(彼の場合は幾何学ですが)で表現出来なければ完全ではないと主張しています。第五部は光学でここで彼はグローステスト、アルハゼン、プトレマイオスとユークリッドの業績をもとに、レンズの光学、特にその像の拡大作用−めがね−光の屈折に基づいて研究しています。また彼は凹面鏡についても述べ、顕微鏡や望遠鏡の発明を予測する様な文章を書いています。第六部では、科学研究に於ける実験の重要性について述べ、その様な方法を用いることによって−現在の飛行機、自動車、汽船、潜水艦の様な機械を作ることができるであろうと述べています。勿論、これは彼の非凡な想像力を示すものに止まりますが、しかし、科学研究は実験によって行われ、数学的に演練されるべき、という考え方は驚くべき近代性で、この意味では彼は優に5世紀は進んでいたと言えるでしょう。しかし、残念なことに、彼の著作は印刷術発明以後も、部分的に出版されたのみで、彼の主著は本書が最初の出版です。従って、長期にわたって彼の真価は無視されて来たのでした。 
ロジャー・ベーコン  
(Roger Bacon、1214-1294) 「驚嘆的博士」(Doctor Mirabilis)とよばれた13世紀イギリスの哲学者。カトリック司祭で、当時としては珍しく理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので近代科学の先駆者といわれる。  
イギリスのサマセット州イルチェスター生まれ。生家はもともと裕福だったが、ヘンリー3世時代の政争に巻き込まれて資産を没収され、家族は追放の憂き目にあった。  
ベーコンはオックスフォード大学で学び、アリストテレスの著作について講義するようになった。やがて、フランシスコ会に入会し、オックスフォード大学の教授となった。1233年ごろ、当時のヨーロッパの最高学府であったパリ大学へ赴いて学んだ。当時、フランシスコ会とドミニコ会は新進修道会であったが、学問の世界で華々しい活躍を見せて注目されていた。フランシスコ会の雄はヘイルズのアレクサンデルであり、一方のドミニコ会はアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスという師弟コンビがその名を馳せていた。このような華やかな学問の世界においてベーコンの優秀さは注目され、マリスコのアダムやリンカン司教ロバート・グロステストといった当代の有名学者たちと親交を深めた。ベーコンの授業では、実験や観察をおこなうことに特徴があった。  
ベーコンの学問はイスラム圏の科学者たちの著作(いわゆるイスラム科学)に由来するものが多かった。このことがベーコンに当時のヨーロッパの学問における問題点を気づかせることになった。当時、アリストテレスは決してすばらしいとはいいがたいわずかな翻訳でしか知られておらず、学者たちはギリシア語を学ぶという発想がなかった。これは聖書の研究に関しても同じであった。物理の研究はアリストテレス的な手法でなく、イスラム圏の科学者であるイブン・アル・ハイサム的な経験にもとづいた手法によって行われていた。ベーコンが師と仰いだのはマハルクリア・ピカルドゥスのペトルスなる人物であった。おそらくこれは『磁気書簡(デー・マグネーテー)』という著作で知られる数学者ペトルス・ペレグリヌスのことであると考えられている。ベーコンは他の学者たちのようになかなか名声を得られないことにいらだち、著書『小著作』『第三著作』においてヘイルズのアレクサンデルらを攻撃している。  
やがてベーコンは肥満卿ギー・フールク(もしくはフーコア、フーコー)なる枢機卿と知り合い、その学識に興味を抱いた枢機卿から著作をまとめるよう求められた。だが、ベーコンはフランシスコ会の中で許可なく著述活動をすることが禁止されていたため、はじめは乗り気でなかった。しかしこの枢機卿が教皇クレメンス4世になり、ベーコンに対し禁令を無視してでも秘密裏に著述をするよう求めた。ベーコンはこれを受けて著作をまとめ、1267年に教皇に送った。これが『大著作』である。次に『大著作』をまとめた『小著作』が続けて書かれた。1268年には早くも続く著書『第三著作』が教皇に送られたが、教皇は同年死去した。教皇の保護を失ったベーコンは1278年にフランシスコ会の内部で断罪され、アラブ思想を広めた疑いで投獄された。幽閉は10年におよんだが、同郷のイギリス貴族たちがベーコンの解放を求めたため、釈放された。  
著作と思想  
著作の中で、ベーコンは神学研究の改革を提唱している。スコラ学のような概念の詳細な区分に集中することをやめてもっと聖書そのものを研究するべきだと考えたのである。ベーコンは当時としては先駆的な思想であったが、研究者たちに聖書の原典の言葉、ギリシア語、ヘブライ語を学ぶことを求めた。ベーコン自身は数ヶ国語に精通し、当時の聖書やギリシア哲学の書が誤植と誤訳によってオリジナルからかけはなれていることを嘆いていた。そして神学学習者たちに対して、もっと広く諸学問を学ぶことを求め、大学のカリキュラムの改革が必要であると考えた。  
ベーコンは神学や学問においてただただ先人に追随することを否定した。彼の『大著作』では数学、光学、化学に関する記述が含まれ、宇宙の規模についてまで言及されている。さらに驚くべきことにベーコンは後世において顕微鏡、望遠鏡、飛行機や蒸気船が発明されることまで予想している。また、宇宙の運行が人間の運命と心身に影響すると考えていた。どれを見てもその先見性には驚きを禁じえないが、ベーコンは他にもユリウス暦の問題点を指摘し、アイザック・ニュートンより400年も早く水の入ったグラスにおいて光のスペクトルを観測していた。  
彼は当時世界の最先端にあったアラビア科学と哲学に親しんでおり、近代科学を先取りして経験と観察の重要性を強調した。ベーコンには百科事典を作る構想があったようだが、未完に終わったのか断片しか残されていない。  
 
 
モンテスキュー「法の精神」初版 2巻 1748年

 

Montesquieu, Charles Louis de Secondat, Baron de.(1689-1755)  
De l'Esprit des Loix.  
モンテスキューは、近代初期におけるフランスの代表的思想家である。本書は彼の代表的著作であり、初版が刊行されると同時に大きな反響を呼んだ。諸国の法律制度の原理を追求し、法と物質的精神的諸要素との相互関係を解明し、法律制度に対しては地理的、社会的条件を重視して、後の社会学的研究に刺激を与えた。また本書の歴史的意味は、イギリス憲政の紹介、特に権力均衡論としての三権分立論の主張にあり、これはアメリカ合衆国憲法の制定を始め、のちの政治及び社会思想に多くの影響を与えた。 
法の精神 1  
(De l'Esprit des lois) 1748年にジュネーヴで出版された啓蒙思想家モンテスキュー男爵シャルル=ルイ・ド・スゴンダの政治理論書。日本では権力分立を定式化した著書として有名だが、その論点は政治学、法学、社会学、人類学など多岐にわたっている。なお、誤解が多いが、本書中では権力が三権(立法権・司法権・行政権)のみならず、四権ないし五権にまで分立すべきである旨が示されている。  
モンテスキューは3000以上の引用句を含むこの長大な論考のための調査と執筆に、ほぼ20年を費やした。そのなかで、彼は立憲主義、権力分立、奴隷制廃止、市民的自由の保持、法の規範などを主張し、さらには政治的・法的諸制度はそれぞれの共同体固有の社会的・地理的特質を反映したものであるべきだということも主張した。  
『法の精神』は、『法の精神について、あるいは法がそれぞれの政体、習俗、気候、宗教、商業などと取り結ぶべき関係について』(De l'esprit des lois, ou, Du rapport que les lois doivent avoir avec la constitution de chaque gouvernement, les moeurs, le climat, la religion, le commerce, &c.) という書名で1748年に出版された。検閲下での出版だったため当初は匿名で出されていた。  
出版されると以降2年間だけで20以上の版を重ね、大きな反響を巻き起こした。すぐさま保守勢力や教会勢力からの批判を呼び、1751年には禁書目録に加えられた一方で、ダランベールが賛辞を寄せたように、百科全書派からは賞賛された。とはいえ、同派内にも、モンテスキューが貴族政治に好意的だったために非難する者はいた。また、彼の風土決定論(後述)というべき理論にも批判が寄せられた。そこで彼はこうした批判に答えるべく、1750年に『法の精神の擁護』を発表した。  
他言語への迅速な翻訳によっても助けられる形で、フランス以外にも影響を及ぼしていった。例えば英語版は、初版の2年後にあたる1750年にトマス・ナジェントによって上梓されている。  
彼の権力分立論は、貴族の役割を重視するものであったが、その骨格は民主主義政治においても適用可能なものであった。それゆえに、アメリカ合衆国憲法の枠組みや、フランス革命中の1791年憲法の制定にも多大な影響を及ぼしたのである。  
立憲論  
モンテスキューは3つの政治システムを採り上げ、広範に論じた。その3つとは、共和政、君主政、専制政である。共和政的システムは、彼らがどのように市民的諸権利を拡張してゆくのかに依存して、目まぐるしく変わる。相対的に広く権利を拡張していく場合には民主主義的共和政となるし、より狭く束縛しようとする場合には貴族政治的共和政となる。君主政と専制政の区別は、統治者の権力を拘束しうる中間勢力(貴族、聖職者など)が存在するか否かに依存し、存在する場合には君主政、しなければ専制政となる。  
モンテスキューに拠れば、それぞれの政治システムの底流には、彼が基本原理と呼んだものが存在していなければならない。それは、体制を支えたり、その機能を円滑に運用する点で、市民の行動の動機付けとなるものである。  
共和政にとっては、自発的に私利よりも公益を優先しようとする「徳」がそれにあたる。君主政においては、より高い地位や特権を求める欲求、すなわち「名誉」がそれである。専制政では、支配者がもたらす「恐怖」を指す。そして、任意の政治体制は、仮にその適切な基本原理が欠けていれば、存続できないのである。モンテスキューはこの例として、イングランドの例を挙げている。ピューリタン革命の後、かの国が共和政を打ち立てることが出来なかったのは、そのために必須だったはずの「徳」が欠けていたからだというのである。  
自由と権力分立  
『法の精神』の二つ目の大きなテーマは、政治的自由とそれを保持するための最良の手段に関するものである。「政治的自由」とモンテスキューが言うとき、それは大要「個人の安全」もしくは「各人がその安全の内に持つ見解から生じる心の平静」を意味している。  
彼はこの視点を政治的自由に関する二つの謬見と区別している。その一つ目は、自由が集団的自治のなかに存する、つまり自由と民主政を等価とする見解である。二つ目は、自由とは一切の束縛を受けずに欲することが何でもできる状況のなかに存するという考えである。モンテスキューは、それらの謬見はともに真実でないばかりか、自由の敵になりうると考えていた。  
政治的自由は専制政のもとでは実現できないものであり、保証されたものでないとはいえ、共和政や君主政では可能になるのである。一般に、確固たる土台の上に政治的自由を確立するには、次の二つのものが必要になる。  
まず一つ目が統治権力の分立である。モンテスキューは、ジョン・ロックの『統治二論』を基礎において修正を加えつつ、立法権、司法権、行政権はそれぞれ分有されるべきであることを論じた。任意の権力が政治的自由を侵そうとすれば、別の権力が掣肘できるからである。彼はイングランドの政治制度を広く論じたなかで、どのようにすれば君主制のなかにおいてさえもこれが達成され、自由が保証されるのかを示そうとした。同時に彼は、権力が分立していなければ、共和政においてさえも自由は保証されえないことも述べた。  
二つ目は、個人の安全のために民法と刑法が適切に制定されることである。ここで彼が思い描いていたのは、現在の我々が言うところのデュー・プロセスに関する諸権利、すなわち公正な裁判を受ける権利、有罪が確定するまでは無罪である権利、罪科と刑罰の均衡などである。これとの関連において、モンテスキューは奴隷制の廃止や言論・結社の自由についても論じている。  
気候風土と社会  
『法の精神』の三番目の大きなテーマは、法社会学の領域に関わるものであり、多かれ少なかれ彼がその創始者と位置づけられることもある。事実、論考の大部分は、地理や気候がどのように人々の「精神」を生み出す特有の文化と作用しあっているか、ということに関わっている。ここでいう「精神」とは、ある土地の人々を、ほかの土地とは異なるその土地特有の社会制度や政治制度へと向かわせるものを指している。この点について後代の論者たちは、しばしばモンテスキューの議論を「赤道からの距離でもって法の違いを単純に説明するものだ」と揶揄した。  
しかし、『法の精神』で展開されている議論は、そうした図式よりも遥かに鋭い分析が多く含まれている。もちろん、彼の主張する事例には現代の視点からは奇異に見えるものが多いのは確かである。しかし、にもかかわらず、自然科学的視点から政治学へのアプローチを行うという彼の手法は、直接・間接を問わず、政治学、社会学、人類学などの分野に多大な影響を及ぼした。なかでも、アレクシス・ド・トクヴィルは、モンテスキューから強く影響を受けた人物である。彼の『アメリカの民主政治』からは、モンテスキューの理論をアメリカ政治研究に適用しようとしたことが窺える。  
本書における日本  
本書においては江戸幕府が、専制政の典型的な例として挙げられている(第1部第6編第13章など)。モンテスキューは、「日本では虚偽の申し立てや金銭賭博ですら死罪となるが、生まれつき死を軽視し、ふとした気紛れからでも腹を切るような人々は、残虐な刑罰であっても慣れてしまうのではないか。また恥ずべき快楽(衆道)にふけっていた皇帝(将軍)が、ある庶民の娘を気に入って子どもを得たが、その子は大奥の女たちの嫉妬から絞殺されてしまった。その犯罪は公になれば血の雨が降ることになるため皇帝には隠された。法律の残虐性はその執行を妨げる」と、日本における刑罰の残虐性と無力さについて述べている。 
法の精神 2  
第一節 政治制度  
モンテスキューの『法の精神』では、政体について、〈三種の政体がある。それは、「共和制」「君主制」「専制」である〉とあります。具体的には、〈第一に、共和政体とは、人民全体、あるいはたんに人民の一部が主権をもつ政体であり、第二に、君主政体とは、唯一人が、しかし定まった制定法に則して統治する政体であり、第三に、これに反して、専制政体においては、唯一人が、法も準則もなく、おのれの意志と気まぐれにより、すべてをひきまわす〉と語られています。  
共和制については、〈共和制において、人民全体が主権をもつならば、それは民主制であり、主権が人民の一部の手中にあるならば、それは貴族制と呼ばれる〉とあり、さらに二つに分割されています。民主制については、〈人民が代理者すなわち執政官を任命することが、この政体の根本原則である〉とあり、貴族制については、〈貴族制においては、主権は一定数の人々の掌中にある〉と語られています。  
君主政体については、〈従属的、依存的な中間権力が、君主政体、すなわち、唯一人が基本法に則して支配する政体の本性をなす〉とあり、〈君主なくして貴族なく、貴族なくして君主なし、が君主制の基本的な格率である〉と語られています。  
専制国家については、〈専制権力の本性からして、それを行使する唯一の人間は、それを同じくただひとりの者に行使させる〉とあります。  
第二節 政体の原理  
それぞれの政体の原理については、〈共和政体の本性は、人民全体か、あるいは、ある数家族が主権をもっていることであり、君主政体の本性は、君主が主権をもつがそれを定まった法により行使することであり、専制政体の本性は、ただひとりが自分の意志と気まぐれにより支配することである。それらの政体の三つの原理を見いだすには、このことだけで十分である〉と語られています。  
民主制の原理については、〈民衆国家には、いま一つの発条が必要であり、それは「徳性」である〉とあり、〈この徳性が熄むときには、野心はそれを容れうる心にしのびこみ、貪欲はあらゆる心にはいりこむ。欲望はその対象を変え、人は愛していたものを愛さなくなる。法によって自由であった者が、法にたいして自由たることを望む〉とあります。  
貴族制の原理については、〈貴族は一つの団体を形成し、この団体はその特権によって、自己固有の利益のために民衆を抑圧する。この点からして、法が執行されるには法が存在するだけで十分である〉とあり、〈節度が、したがって、これら政体の魂である〉とあります。  
君主制の原理については、〈君主政体は、身分的権威、地位、そして、生まれによる貴族制をすら前提としている。名誉の本性は、偏愛と寵遇を求めることにある。名誉は、したがって、このことからして自然にこの政体に位置づけられている〉とあります。  
専制政体の原理については、〈共和制においては徳性が、君主制においては名誉が必要であるように、専制政体においては「恐怖」が必要である〉とあります。穏和な政体については、〈穏和政体は、望むがままに危険なく、その発条をゆるめることができる。それは、その法とその力自体によって維持される〉とあります。  
君主と専制の対比では、〈君主政体は、専制にたいして大きな利点をもっている。君主の下にその国制に根ざすいくつかの身分があるのがその本性であるから、国家はより安定しており、国制はよりゆるがしがたく、統治者の一身はいっそう安全である〉とあります。  
第三節 政体の腐敗  
それぞれの政体の腐敗についても語られています。  
民主制の腐敗については、〈民主制の原理は、人々が平等の精神を失うときのみならず、極度の平等の精神をもち、各人が自分を支配するために選んだ者と平等たろうと欲するときにも腐敗する〉とあります。  
貴族制の腐敗については、〈貴族制は、貴族の権力が恣意的となるときに腐敗する。支配する者にも、支配される者にも、徳性は存在しえなくなる〉とあります。  
君主制の腐敗については、〈君主制は、国王がしだいに諸団体の特権や都市の特権を奪うとき腐敗する〉とあります。また、〈君主制の原理は、最高の官位が最高の隷従のしるしであるとき、そして権勢者から人民の尊敬を奪い、彼らを恣意的な権力のいやしい道具とするとき、腐敗する〉ともあります。  
専制政体の腐敗については、〈専制政体の原理は、その本性からして腐敗しているから、たえず腐敗する〉とあります。  
各政体の腐敗を述べた上で、〈政体の原理がひとたび腐敗すると、最良の法も悪法となり国家に反するものとなる。その原理が健全であれば、悪法もよい法の効果をもつ。原理の力がすべてを導く〉と語られています。  
第四節 三権分立論  
有名な三権分立論については、〈各国家には三種類の権力がある。立法権、万民法に属することがらの執行権、および市民法に属することがらの執行権である〉とあります。  
続いて、〈第一の権力により、君主または執政官は、一時的または恒久的に法律を定め、また、すでに定められた法律を修正または廃止する。第二の権力により、彼は講和、宣戦を行ない、大使を交換し、安全を保証し、侵略を予防する。第三の権力により、彼は罪を罰し、私人間の係争を裁く。われわれは最後のものを裁判権と呼び、他の一つをたんに国家の執行権と呼ぶであろう〉と語られています。  
モンテスキューは、〈これ三つの権力は、静止か不動を作り出すはずである。だが、事物の必然的な運動によって進むべく強制されるので、強調して進まざるをえなくされる〉と述べています。  
第五節 政治考察  
モンテスキューの『法の精神』に描かれている政治制度論について考えてみます。  
各政体の分析には、参考にすべき意見が多くあります。特に、民主制が腐敗するときの例として、平等が失われるときのみならず、極度に平等になったときも挙げているのは慧眼です。  
ただし、各政体の原理についての考察は不適切です。徳性・節度・名誉は、どの政体にとっても必要なものです。どれか一つを政体の原理として掲げるのは、政治を考える上で不十分だと言わざるを得ません。  
また、モンテスキューは、立法権・執行権・裁判権による三権分立を唱えています。裁判権は、司法権と重なっています。国家の権力機構を分散させ、権力相互間の抑制によって均衡を保つことは重要であり参考に値します。  
法の精神 3 〜民主政治が滅びるまで 
民主制の原理が失われるとき  
民主政の原理は、人が平等の精神を失う時のみならず、極端な平等の精神を持ち、各人が自分に命令するものとして選んだ人たちと平等でありたいと欲する時に腐敗する。  
人民は自らが委託した権力にすら我慢が出来ず、全てを自分自身で行い、元老院に変わって審議し、役職者に代わって執行し、すべての裁判役にとって代わろうと欲する。  
そして民主政においては徳がもはや存在し得なくなる。人民が役職者の職務を行うことを欲する。だから、人は役職者をもはや尊敬しない。元老院の審議はもはや重きをなさない。  
クセノフォンの「饗宴」には、人民が平等を濫用したある共和国の誠にありのままの描写が見られる。〜カルミデスは次のように言う。  
「私が金持ちの時、国は常に私になにかしら新しい出費を要求しました。〜貧乏になってからは私は権威を得ました。私を脅かすものは誰もなく、私が他人を脅かしています。〜今では金持ちたちはその席を立って私に一歩を譲ります。私は王様です。  
私は自分の貧乏の故に自分に満足しています。私が金持ちだった時には、私は讒訴者たちのご機嫌取りを余儀なくされていました。彼らに害を加えるより、彼らから害を受ける立場にあることをよく知っていたからです。  
私は国に税を収めていましたが、今日では国が私を養ってくれます。私はもはや失う心配はありません、得る望みがあります。」  
民主政を腐らせる政治家について  
〜人民がこのような不幸に陥るのは、人民がその身を託した者たちが自分たち自身の腐敗を隠そうとして、人民を腐敗させようと務めるときである。  
人民に彼らの野心を見抜かれないように、彼らは人民に人民の偉大さについてしか語らない。人民が彼らの貪欲に気がつかないように、彼らは絶えず人民の貪欲におもねる。  
人民に多くのものを与えるためには、それ以上に多くのものを人民から取り上げねばならない。〜人民がその自由から利益を引き出すように見えれば見えるほど、人民はその自由を失わざるを得ない瞬間に近づくであろう。  
人民は暴君の持つあらゆる悪徳を身に付けた小暴君たちとなる。やがて残されたわずかな自由も我慢できないものになる。そしてただ一人の暴君が台頭する。そして人民はすべてを失う。その腐敗によって得た利益までも。  
民主政を保つための教訓  
〜それ故に民主政には避けるべき両極端がある。民主政を貴族政または一人統治へと導く不平等の精神、そして、民主制を専制政治へと導く極端な平等精神である。  
天が地から遠く隔たっているのと同じくらい、真の平等の精神は極端な平等の精神から遠く隔たっている。  
真の平等精神は、全ての者が命令するようにしたり、誰も命令されないようにすることにあるのではなく、全ての者が自分と同等に人々に服従かつ命令することにある  
自然状態においては、人間は確かに平等の中に生まれるが、そこにとどまることは出来ない。社会が彼らに平等を失わせ、彼らは法律によってしか再び平等になることはできない。  
徳の本来の所在は自由のもとにあるのであって、それは隷属のもとにでも、極端な放任な放任のもとにあるわけでもない。  
偉大なる成功、特に人民が大いに貢献する成功は、人民に自ら導くことがもはや不可能となるなるほどの傲慢さをもたらす。 〜ペルシア人に対するサラミスの勝利はアテナ共和政を腐敗させ、アテナ人の敗北はシュラクサイ共和政を滅亡させた。  
原理の腐敗の影響  
政体の原理(民主政においては人民の徳)がひとたび腐敗するときは、最良の法律も悪しき法律となり、国家に敵対する。その原理が健全であるときは、悪しき法律もよき法律の効果を持つ。原理の力が全てを導くのである。  
ある共和国が腐敗するときは、その腐敗を除去し、その原理を呼び戻すことによってしか、それから生ずるいかなる害悪も是正できない。それ以外の是正策はどれも無益か、さもなければ新たな害悪となる。  
共和制の成立する範囲  
共和国は小さな領土しか持ち得ない。そうでなければ、それはほとんど存続し得ない。大きな共和国には大きな財産が存在し、人心に節度がなくなる。〜利益は個人化され人は祖国がなくても幸福で偉大で光栄でありうると感ずる。そしてまもなく、祖国の廃墟の上でただ一人偉大でありうると感ずる。  
共和国は、小さければ外国の力によって滅び、大きければ内部の欠陥によって滅びる。 
シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー  
(Charles-Louis de Montesquieu, 1689-1755) フランスの哲学者である。本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダ(Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu)で、ラ・ブレード(La Brède)とモンテスキュー(Montesquieu)を領地とする男爵(baron)でもあった。  
1689年1月18日、フランス南西部にあるボルドー近郊で生まれた。彼が7歳の時、母が逝去。母の遺産を継承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業後、1709年からパリに遊学。1713年末、父の訃報により帰郷する。翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。しかし、実務面には無関心で、1721年には、匿名で『ペルシア人の手紙』を出版。1726年、37歳で、ボルドー高等法学院副院長の官職を辞職。以後、学究生活に入る。1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。1731年に祖国であるフランスに帰国。1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。  
イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。  
法とは、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは、政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたと言われる自身の著作『法の精神』の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する三権分立論を提唱した。  
晩年は、視力の減退に悩まされた。そんな中、著作『百科全書』の為に「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することは無く1755年2月10日にパリで逝去した。  
社会学の父 (pères de la sociologie) と考えられている。  
『ペルシア人の手紙』の一節では、非キリスト教国の出生率の高さを離婚を許容している為とし、また、「夫婦相互の愛情に何よりも寄与するのは離婚の可能性である」と論述した箇所がある(女性の離婚権のみを主張)。  
 
 
ルソー「エミール」初版 4巻 1762年

 

Rousseau, Jean-Jaques.(1712-78)  
Emile, ou de l'Education.  
ルソーは、フランス啓蒙主義を代表する思想家、文学者。「エミール」は、教養小説的な構成を持つ教育論で、教育における人間の自然性回復の主張のもとに封建的な古い社会的偏見と宗教的不寛容を雄弁に批判した。また同じ年に出版した「社会契約論」は直接民主制を理想とする近代民主主義の古典として、以後の政治思想に大きな影響を及ぼした。本書の初版の刊行に際してルソーは国外(オランダ)で印刷することを主張したが、結局3人の出版者間の複雑な商取引の結果、ほぼ同時にパリとオランダで8折り版と12折り版が出版されたが、初版の決定にはいまだに問題がある。「エミール」は出版されるとすぐ、パリの高等法院によって摘発され、ルソー即時逮捕の命令が出されたのでルソーはパリを逃れた。展示書はオランダ版の12折り版である。
初版の謎  
ルソー(Rousseau, Jean-Jacques 1712-1778)『エミール』 (mile, 1762)は、教育論の古典であるばかりでなく、啓蒙思想の書としてすでにフランス革命を思想的に準備していたと見られている。論述というよりは、エミールという少年が自然に即してものごとに関心を催すような教育法によって成長していくストーリーが展開される。いうまでもなく論理展開もストーリーの中で論じられているのであるが、その原則は「人は生まれながらにして善であって、社会から与えられる教育は悪である」とするものであった。この思想はカントに影響していることはよく知られていることであるが、文学の上ではゲーテにも影響を及ぼしているのである。  
このように思想史上重要な位置を占めている『エミール』の初版初刷について、その真贋論争が一世紀以上も継続していたことは、奇妙というより、それを検証するための材料をもたなかったわが国では、コレクターを悩ますもの以外の何物でもなかったのではないか。ルソー研究家であったデュフール(Dufour, Thophile 1844-1922)が、詳細記述によるルソー著作目録を草稿の形で遺していた。それが1925年に著作の題扉などのファクシミリ図版を付して刊行された*のであるが、『エミール』初版の判定が誤っていた。このことが発端となって後の論議を誘発したのであり、ときには古書目録記述の典拠表示にもデュフールの番号が付記されることもあった。そうした混乱に決着をつけ、証明と書誌特徴が公表されたのが、1952年のBook Collector誌の記事**であった。そこには次のような初版成立の挿話も記述されている。  
1761年ごろ、『エミール』は「教育論」と題する草稿のまま友人たちの間で回読されていた。そして「すばらしい」という評言もあって、これを出版しようということになった。ルソーはパリで出版することを希望していたので、Duchesneに印刷出版を依頼した。しかし、ルソーの著作はフランス当局の検閲に引っ掛かることは十分に予想されることでもあった。友人たちは出版戦略をたてた。Duchesneが実際の印刷出版をするのであるが、表紙に表示される出版者名はオランダのNaulmeとした。8折判と12折判の2種の版が印刷されるのであるが、本文はいずれも12折判の同じ組版が使用されていた。このDuchesneがNaulmeの名で刷った8折判が初版ということになるのであるが、刷部数が少なく、そのほとんどが出版をとりもってくれた友人たちへの贈呈本に当てられたのであった。そのためにこの原版の現存コピーはきわめて少ないのである。また、この「パリ版」の印刷にやや遅れて、パリで印刷されたシートを受け取ったオランダのNaulmeが、それらを印刷原稿として、いわゆる「真の」オランダ版を同年に刊行している。  
標題紙上にセネカの『怒りについて』からの引用が銘句として印刷されている。同じ銘句が第3巻の標題紙にも印刷されていて、その2行目の先頭2語「natura genitos」は、セネカの原文では「genitos natura」である。ラテン語では語順が転倒していても意味に変わりがないとはいえ、銘句の意味するところがルソーの思想の原則を代弁しているだけにちょっと気になるところである。この銘句の誤記は、原版にのみ存在しているため、現代人が一見して原版が確認できる目安になっているのは皮肉である。この要領によって、岩波文庫版『エミール』の巻頭に掲げられている標題紙写真を見ると、それは原版8折判ではなく、原版の印刷ミスがすべて訂正されている第2版8折判と思われる。Fleuron(扉・巻尾などに入れる花模様のカット)も更新されたものである。岩波文庫版セネカ『怒りについて』(茂手木元蔵訳)から銘句部分の訳文を抜き出すと以下のようになる。  
「われわれは病に悩んでいても回復することができるし、また生来正しいものに向かっているわれわれであるから、こちらが過ちを改めようと思うならば、自然自らが、われわれを助けてくれる」 
ジャン=ジャック・ルソー  
(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778) スイスのジュネーヴに生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、教育哲学者、言語哲学者、作家、作曲家である。啓蒙思想の時代にあった18世紀フランスで活躍した。ドゥニ・ディドロ、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ヴォルテール等、同時代の多くのフランスの知識人とともに百科全書派の一人に数えられる。  
1712年、スイスのフランス語圏の都市ジュネーヴにて、時計職人の息子として出生。生後8日にして母を喪う。  
7歳頃から父とともに小説や歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。1725年、父は退役軍人との喧嘩がもとでジュネーヴから逃亡せねばならぬ仕儀となる。兄も家出してしまい孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父によって牧師に預けられ、その後、公証人の許に身を寄せたり、彫金工に弟子入りするなど苦しい体験をする。3年後、出奔して放浪生活に入る。その後もさまざまな職業を試したが、どの職にも落ち着くことができなかった。たとえ成功しても放浪は止むことなく、自分の進むべき道を探求した。  
1732年、ジュネーヴを離れ、ヴィラン男爵夫人の愛人となり、その庇護の下でさまざまな教育を受けた。かれは一人で膨大な量の書物を読み、教養を身につけた。また、孤独を好んだ。この時期については晩年、生涯で最も幸福な時期として回想している。  
思想  
ルソーが与えた思想的影響は多岐に亘るが、ここでは主に政治思想家としてのルソーについて記述する。  
フランスにおいては、早くからボダンらにより、君主に「主権」(政治についての決定権)が存するとの思想が表明されていた。この君主主権の観念は、フランスなどを中心に、当時の絶対王政を支える強力な根拠となっていた。しかし、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存するという「人民主権」の概念を打ち立てた。人民主権の概念は、その後、民主主義の進展や普通選挙制の確立に大きく寄与することになった。  
一方、ルソーらのフランス啓蒙思想に触発されて始まったフランス革命においては、「反革命派」と名指しされた者への迫害、虐殺、裁判を経ない処刑等といった恐怖政治が行われた。ロベスピエールやナポレオンといった指導者たちは、人民の代表者にして憲法制定権力を有する者として独裁政治を行った。  
ルソーの政治思想の特徴は、他にも「社会契約説」にも見られるように、従来の価値観や伝統等の慣習から解放された個人を理想とするところにあると言える。  
また、「ダランベール氏への手紙:演劇について」においては、演劇の持つカタルシスの機能を批判した。  
ディドロやダランベール等、いわゆる百科全書派と深い交流を持ち、自身も百科全書のいくつかの項目を執筆したが、後に主義主張の違いやルソー本人の被害妄想の悪化から、決裂することになる。  
評価・影響  
ルソーから影響を受けた者としては、哲学者のイマヌエル・カントが有名である。 ある日、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは、ルソーの著作『エミール』を読み耽ってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントは、ルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への覚書にて次のように書き残している - 「わたしの誤りをルソーが訂正してくれた。目をくらます優越感は消え失せ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」。  
ルソーと同じくカントに影響を与えた哲学者の一人として知られるイギリスのデイヴィッド・ヒュームは、ルソーと交友関係があった。しかし、ヒュームとルソーは後に絶交する。  
また、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンもルソーの影響を深く受けた。ヘルダーリンの詩編を詳細に分析したマルティン・ハイデガーがなぜかルソーに言及しないことに注目したフィリップ・ラクー=ラバルトは、ハイデガーにおけるルソー的な問題設定の逆説的な反映を『歴史の詩学』(日本語版 藤原書店,2007)において論じた。  
帝政ロシアの作家レフ・トルストイは青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。地主でもあったトルストイの生活と作品には「自然に帰れ!」の思想が反映している。  
なお、ルソーの思想を語る際に「自然に帰れ!」というフレーズがよく引き合いに出されるが、ルソーの著作には「自然に帰れ!」という具体的な文句は一度も登場しない。ルソーの著作のひとつの解釈として、ルソーはそのように言っているようなものであるという譬えであり、このような評はルソーの在世中にもあったが、誤解であると言われる。  
哲学者としては啓蒙思想家(フィロゾーフ)に位置づけられるルソーだが、作家としても大きな成功を収めており、その「私」を強烈に押し出した作風は、後のロマン主義の先駆けとなったといわれ、その長大かつ詳細な自伝である『告白』は『懺悔録』の名で邦訳され太宰治などのエッセイにもその言及がみられる。 また本人が「空想のままにペンを走らせた」という『新エロイーズ』は18世紀フランスにおける最大級のベストセラーとなり、ヴォルテールの『カンディード』と並び称された。 
エミール / ルソーの教育論  
ルソーの「エミール」が教育論として画期的だったのは二重の意味においてである。一つは教育の目標として人間の自然性という概念を持ち込んだこと、もう一つは教育の対象としての「子ども」を発見したことである。  
人間の自然性とは、人間の本来のあり方、あるいは人間の本質と言い換えてもよい。教育とは、人間に人間本来のあり方を身に着けさせ、人間としてふさわしい生き方ができるように導くことだ、ルソーはそう主張した。そして教育 Education というフランス語は、ラテン語の「引き出す」あるいは「導き出す」という意味の言葉を語源としているといった。つまり人間として本来誰にもそなわっているもの、それを引き出すのが教育というわけである。  
ここで主張されている人間のあり方とは、「学問・芸術論」や「人間不平等起源論」で展開された自然状態における人間、すなわち「自然人」とパラレルなものと考えてよい。  
ルソーは、人間は自然の状態では自由でかつ平等であったが、社会を作り、文明を進化させることで、堕落したと考える。この堕落したあり方から立ち直り、人間本来の生き方を取り戻すためにはどうしたらよいか。  
「社会契約論」は、政治体について、人間が失ったものを取り戻して自分自身の主人となり、しかも互いに平等でかつ自由な生き方が保障されるような制度がどのようにして可能かを論じたものであった。この「エミール」は、今の社会が見失った自然人としての人間のあり方を、個々の人間においてどのようにすればとりもどせるかを論じたものだ。両者はそれぞれ、政治と教育と云う別の切口から、人間本来のあり方、つまり人間性を考究したのだと考えることができる。  
このように整理すれば、「エミール」の冒頭を飾る、次のような挑発的な文章もよく理解できよう。  
「万物をつくる者の手を離れるときすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる・・・こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちを押さえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう」(今野一雄訳、以下同じ)  
人間が人間を堕落させると主張するこの文章は、文明が人間を堕落させると主張する「学問・芸術論」や、「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」と主張する「社会契約論」の文章と響きあっている。  
何故人間は堕落したのか。人間が社会制度のなかに埋没し、一人の自立した存在、つまり絶対的な単位であることをやめ、社会の単なる一員、つまり全体の中でのひとつの相対的な存在に成り果てたからである。  
「自然人は自分がすべてである。彼は単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分に対して、あるいは自分と同等の者に対して関係を持つだけである。社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。立派な社会制度とは、人間をこのうえなく不自然なものにし、その絶対的存在をうばって、相対的な存在を与え、自我を共通の統一体の中に移すような制度である。そこでは、個人のひとりひとりは自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部分と考え、なにごとも全体においてしか考えない」  
社会のなかにおける人間は、自然人とは異なって、つねに他者との関係性の中で生きなければならない。その関係性は、偏見や屈従といったもので彩られている。  
「わたしたちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。わたしたちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態の中に生まれ、生き、死んでいく」  
社会人が奴隷状態に陥るのは、社会の中に不平等が蔓延し、主人と奴隷の対立が生じてくるという事態とともに、社会人が自然人として持っていた自立性や尊厳の感情を失い、いつも周りの目を気にしながら生きなければならなくなった状態をさしている。  
世間の教育といわれるものも、こうした奴隷状態を助長するばかりだ。それは「いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほか能がない」  
しかし人間には、人間としてふさわしいあり方を取り戻すことができないわけではない。人間に自然にそなわっている本来のあり方を、隠されていた場所から導き出し、個人にそれを身に着けさせる、それが教育の役割だ、とルソーはいう。それ故、自然な状態における人間、つまり自然人とはいったいどの様なものか、それをよく理解しなければならない。  
「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のある事ならできないはずがない・・・わたしたちが本当に研究しなければならないのは人間の条件である」  
こうしてルソーは、自然の秩序のもとにおける人間のあり方やその条件についての自分のイメージを示し、それに沿って特定の個人を教育していく様子を、読者に見せようとする。「エミール」は、ルソーが描いた自然人のイメージを、特定の個人が身に着けていく過程なのである。したがってそれは、社会契約論においてのように、失ったものを取りかえすというよりは、本来備わっている美質を失わないためにはどうしたらよいか、極めて実践的な課題を追及しているわけである。  
ところで、ルソーがみずから教育しようとしている個人とは、さしあたっては子どもである。ルソーは生まれたばかりのエミールを引き受け、彼が青年期になって一人の自然人として自立するまでの間、エミールに付き添って、教育を続ける。だからこの本は、子どもはいかにして大人になるか、というテーマも内在させているといえる。  
この「子ども」に焦点をおいて、教育を論じるという方法は、現代人の我々にとっては珍しいアプローチではないが、ルソーの時代にあっては、かなりセンセーショナルであったはずだ。なぜなら、子どもが子どもとして意識され始めたのは、やっとルソーが生きた時代でのことに過ぎなかったし、ましてその子どもを対象に教育を論じるなどは、それまで考えられもしなかったことだからだ。  
アリエスによれば、中世のヨーロッパには「子ども」という概念はないに等しかった。子どもは人間が成長期においてとる一時的で、弱々しいあり方だという意識は存在しなかった。子供は、大人とは次元の違う存在なのではなく、大人とは程度の差で結びついている存在として意識された。子供はせいぜい大人としての人間の未熟な状態、あるいはできそこないの人間=大人として意識されていた。  
だからそこには「子どもらしさ」という概念は成立しようがなく、したがって今日の大人たちが子どもらしさと結びつけているあらゆること〜子どもらしい装い、子どもらしいしぐさ、子どもらしい遊び〜といったものもなかった。子どもの服装は大人のそれを縮小しただけのものだったし、子どもの遊びは大人の遊びの延長だった。子供は大人と一緒に酒場に入ってビールを飲んだものだし、こどもだからといって、二級扱いされることもなかった。  
こうした子ども像に変化がおきるのは、アリエスによれば、16世紀から17世紀にかけてである。それはまず服装や遊びの分野であらわれたようで、様々な図像がそれを物語っている。  
しかし教育の分野に子どもの概念が持ち込まれることは、ルソーの時代までなかったはずだ。ルソーの時代の公教育といえば、神学上の教義問答や修辞学のテーマを暗証させることで、本来大人のために作られたカリキュラムをそのまま子どもに適用しただけのものといってもよかった。  
そこにルソーは、子どもの発達上の限界をよく考え、子どもの能力に応じて、それにふさわしい教育をすべきだというテーゼを持ち込んだ。それ故、彼の教育論は、教育の歴史を画するものだったと評価してもよい。 
ルソーの言葉  
自然を見よ。そして自然が教える道をたどっていけ。自然は絶えず子供をきたえる。  
いかなるものでも、自然という造物主の手から出るときは善である。人間の手に渡って悪となる。  
どんなものでも、自然という造物主の手から出るときは善であり、人間の手に渡ってからは悪となる。  
嘘には二種類ある。過去に関する事実上の嘘と未来に関する権利上の嘘である。  
科学や芸術は一種の贅沢にすぎない、虚偽の装飾にすぎない。  
教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。…国家あるいは社会のためを目標とし、国民とか公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。  
子供たちが父親に結びつけられているのは、自分たちを保存するのに父親を必要とする期間だけである。  
子供を不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである。  
支配それ自体は、それが世論に服するときもなお隷属的なものである。なぜならば、被支配者の意見によって支配しているのであり、その人たちの意見に依存しているからである。  
死に対する用心さが死を恐ろしいものにし、死の接近を促進する。  
自然と美徳は、社会や財産の産物である学問と芸術によって害される。  
自然はけっしてわれわれを欺かない。われわれ自身を欺くのは、つねにわれわれである。  
女にとって束縛は免れえない運命で、女がこの束縛から離れようとすれば、いっそうはげしい苦しみに出会う。  
女性が男性を自由にするということは、それ自体は害悪ではない。これは女性が人類の幸福のために、自然からうけた賜物である。  
人には二回の誕生がある。一つは、世に現れた誕生、一つは生活に入る誕生である。  
人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている。己れが他人の主人であると思っているような人間も実はそれ以上の奴隷である。  
人民の自由は国家の強さに比例する。  
政治とは、支配者と民衆との間に結ばれる単純な契約である。  
男は知っていることをしゃべり、女は人に悦ばれることをしゃべる。  
不運は確かに偉大な教師だが、その授業料は高く、それからえた利益は、しばしばそれに費やした費用に匹敵しない。  
方便の嘘とは、正真正銘の嘘である。というのは、他人とか、あるいは自分の利益のためにひとを歎くことは、自分の利益を犠牲にしてまで歎くのと同じく、不正だからである。  
無知はけっして悪を生まない。危険な罪悪を生むのはただ誤謬の観念である。  
歴史は人生の方面よりも悪の方面をいっそう強く描き出す。  
 
 
ケネー「フィジオクラシー」ライデン版初版 2巻(合本1冊) 1767年

 

Quesnay, Francois.(1694-1774)  
Physiocratie, ou constitution naturelle du Gouvernement le plus avantageux au genre humain. Recueil publie par Dupont de Nemours, Pierre Samuel.  
ケネーは、フランス重農主義の創始者。農民の立場に関心を持ち、当時のフランス社会で、農民の租税公課負担が過重になっている事や、重商主義の強行により労賃の低下を目的として穀物の輸出禁止を行い、その結果農産物価格の下落を招来する様な措置などに対して強く反対し、フランス農業再建のために、税制の改革と、穀物輸出自由の必要性を説いた。ケネーの名を最も不朽のものにしたのは、1758年に著した「経済表」においてである。本書は、彼の弟子デュポン・ド・ヌムールがケネーの主要論文を編纂して刊行したもので、ケネーの「自然権論」について講釈したデュポンの101頁にわたる長文の序文がついている。タイトル頁には1768年の刊年がみえるが、本書は1767年11月に公刊されており、誤って印刷されたものである。
ケネー「経済表」  
「重農主義」(フィジオクラシー)とは、国内における貨幣の蓄積を以て国富とする重商主義(マーカンティリズム、あるいは推進者の名を取ってコルベルティズム)に対し、富の源泉は自然(フュシス)から生産的労働によってもたらされる所得にあるとする経済思想である。「経済表」の説くエッセンスは、この所得が消費と支出に回り、その一部は生産的階級(農業者階級)の次の生産の原資として環流し投入され、このプロセスが等比級数的に蓄積して、かくして国民経済が拡大再生産と循環過程により運行されることが説明されるというものである。ケネーは、地主階級(所得が帰属する階級)、農業者階級(生産的階級)、商工階級(非生産的階級とされる)の三階級を結ぶ財・貨幣の流れのジグザグ線を用いて、これら経済循環のメカニズムを示し、この思想を一枚の表とその解説に表現した。宮廷外科医であったケネーの分析的かつ綜合的な科学精神のあらわれといえよう。科学史的に見ても、当時人体のイメージは政治哲学者ホッブズに典型的に見るごとく、多くの社会科学の新しい発想を生み出している。  
「経済表」の発想は、多くの形をとって現代の経済学の基本的枠組になっており、マルクスの「再生産表式」「剰余価値学説」、ワルラスの「一般均衡理論」、レオンチェフの「産業連関分析」(「投入産出分析」)、サミュエルソンの乗数理論、「国民経済計算」(SNA)などの経済統計、経済サイバネティクスは、みなその淵源を「経済表」に見出すことができる。その意味で、科学としての経済学の歴史的始まりを告げるものであるとしても言い過ぎではない。歴史的には、継承者デュポンがケネーの著作を広く世に紹介しているが、従来より複数の異なったテキストが見出されている。現在では、ミーク、クチンスキー夫人による仏英対訳テキストが広く利用可能となっている。 
重農主義  
18世紀の後半、フランス絶対王政は、特権的独占商人や奢侈品(しやしひん)工業の保護育成を中心とするフランス型重商主義政策(コルベルティスム colbertisme)や、金融政策を中心とする商業主義(ジョン・ローの体制)によって、経済的にも財政的にも破綻(はたん)に采(ひん)し、体制的危機に直面した。その再建策として大農経営の発展を提唱した F. ケネーを創始者とし、その自然法思想や政策的主張や経済学説を祖述し発展させた V.R. ミラボー(ミラボー侯)、P. S. デュポン・ド・ヌムール、メルシエ・ド・ラ・リビエール、A. N. ボードー(ボードー師)、G. F. ル・トローヌ、A. R. チュルゴなどを代表者とする一団の経済学者に共通する経済思想・政策的主張・理論体系を一括して示す名称。重農思想の先駆者としてはケネーよりも前に、17世紀から18世紀初めにかけて活躍した P.Le P. ボアギュベール、J. ボーダン、R. カンティヨンなどをあげることができるが、ケネーは単なる農業重視ではなく、資本制的大農経営を重視した点で決定的に異なっている。  
重農主義は本来フィジオクラシーと呼ばれる。この名称はデュポン・ド・ヌムールがケネーの著作集を編集してこれに《Physiocratie》(1767)の名称をつけたからであり、それが一般化したのは、おそらく19世紀中葉に L. F. E. デールが重農学派の主要著作を2巻本に編集し、この名称をつけてから以後である。重農主義者(フィジオクラットphysiocrates)たちは、自分たちをエコノミストレconomistes と呼んでいた。それが重農主義agricultural system と呼ばれるようになったのは、A. スミスが《国富論》でそう呼んだことによるものと思われる。  
重農学派の政策的主張  
フィジオクラシーとは、もともと〈自然の統治〉を意味する語で、重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え、当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。そのため政策的には、とりわけ経済上の自由放任主義と地代に対する単一課税とを提唱した。自由放任主義の提唱は、重商主義的な国家的干渉や独占の排除によってはじめて〈取引される富〉、とくに農産物にはその正常な再生産を可能にする〈良価 bon prix〉が保証され、その結果、一面では地主階級の収得する地代が増加し、他面では農業資本の増加による農業生産性の上昇が可能になる、という理解を基礎としていた。また地代に対する単一課税論は、恣意(しい)的な租税負担を廃止して、課税対象を農業でだけ生みだされる剰余価値つまり〈純生産物 produit net〉に限定すべきだと主張し、農業資本ひいては社会的総資本の再生産の縮小を回避することを意図したものである。その理論的根拠は、地主の地代収入となる純生産物だけが、再生産にとって直接必要のない自由処分の可能性をもつという理解にあった。これらの政策的主張を前提にし、重農学派とりわけケネーは、資本制的大農経営を基礎とする社会構造を政治算術的方法によって実証的に分析し、それを自然的秩序として描き出そうとした。その経済学体系は、社会の構成を地主階級、生産階級である農業者階級、不生産階級である商工業者階級に三分し、農業だけが剰余価値つまり〈純生産物〉を生みだし、それが地主階級に地代として支払われるという構想のもとに、〈経済表〉(1758)として総括的に示された。  
業績と限界  
こうした分析は、まず第1にアンシャン・レジーム期のフランスの社会構造を対象に、その経済循環を独自な規則的秩序をもったものとして、全体として把握したものである。これは経済学の歴史上、社会的総資本の再生産と流通とを商品資本の循環として解明するための起点として、不朽の業績をなす〈天才的な着想〉(K. マルクス)であった。第2にそれは、剰余価値を流通部面における〈譲渡に基づく利潤〉に求める重商主義的見解を退け、その創出の場を生産部面に求めたのであって、この点では経済学の研究を流通部面から生産部面へ転換させることになり、資本主義的生産を分析するための基礎を確立したといえる。だがその反面、重農主義者が土地を富の唯一の源泉と考え、〈純生産物〉を〈自然の贈りもの〉と考える見解に固執するかぎりでは、彼らは剰余価値つまり〈純生産物〉を資本と労働との社会的関係からではなく、封建的に土地(自然)との関係から引き出すことになり、したがって剰余の地主への帰属はその封建的な土地所有関係に由来するものと考えた。また、その理解とは違って重農主義者が〈純生産物〉を生産階級の年前払い(資本)との関係でとらえ、実質的には耕作者の剰余とすることによって、土地を富の唯一の源泉とする重農主義的な封建的外観を解消させるとしても、重農学派は、まだ商品の交換価値を労働時間そのものとして把握することができなかった。そのため、結局その剰余を、耕作者が彼らの年々消費する使用価値としての生活手段量の最低限(労賃部分)を超えて土地所有者のために生みだす使用価値の超過分としてとらえることしかできなかった。それゆえ、この超過分つまり〈純生産物〉を地代として収得する地主階級が、年々の再生産の指導権をもつかのような封建的外観は、依然として残ることになった。こうして重農主義の諸学説は、多かれ少なかれ封建的土地所有支配のもとでのブルジョア的生産という、二面的な矛盾した性格をもつものであった。  
重農学派の継承・発展  
ケネーの後継者たちは、この点をめぐっての理解が実に多様であった。なかでもミラボーは、その封建的外観に固執し保守的性格を堅持した点で特徴的である。それとは対照的にチュルゴは、ケネーの所説を踏襲しながらも、階級関係や資本の分析の点で、近代的な〈ブルジョア的本質〉の面を推し進めた。彼は政治家(財務総監)としても、土地単一税や自由放任政策を徹底させようとした。しかし、フランス革命前の当時としては急進的でありすぎ、結局 A. スミスの《国富論》刊行の1776年に失脚し、同時に重農学派の実際的活動も事実上解体した。重農学派の理論的貢献の多くは、むしろイギリス古典派経済学の伝統的見地のなかで、直接には A. スミスによって継承され発展させられた。また社会的再生産の総体的関連を示す表式的把握は、後年の K. マルクスの再生産表式論の成立に示唆を与えるものであったことが注目される。 
フランソワ・ケネー  
(François Quesnay、1694-1774) フランスの医師・重農主義の経済学者。1758年に、重農主義の考え方の基礎を提供した"Tableau economique"(『経済表』)を出版したことで知られる。これは、分析的手法で経済活動についての説明を試みる、恐らくは最初の活動であり、経済思想への最初の重要な貢献の1つと見ることができる。  
1718年外科医となり、1749年からは宮廷医師としてヴェルサイユ宮殿で暮らした。1752年貴族に列せられるが、50歳代で経済学の研究を志し、農業の生産力を高めることが重要であると説いた経済表を発表し、重農主義経済学の祖と仰がれた。ケネーの経済表のアプローチは、マルクスの再生産表式、ワルラスの一般均衡理論、ケインズの有効需要の原理、レオンチェフの産業連関表、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツの貨幣供給理論に受け継がれた。  
ケネーはパリ近郊、今日のウール県にあるメレーで、弁護士である小地主の息子として生まれた。16歳で外科医に弟子入りすると間もなくパリへ行き、そこで内科と外科を学んで外科医長の資格を得ると、マントで開業した。1737年にフランソワ・ジゴ・デ・ラ・ペイロニーにより設立された外科アカデミーの終身事務局長に任命され、国王の常勤外科医となった。1744年に薬学博士の免状を得た。彼は国王の常勤内科医となり、その後国王の第一顧問内科医となって、ヴェルサイユ宮殿で暮らした。彼の部屋は中二階にあり、「中二階の会」(Reunions de l'entresol)はその名を取ったものである。ルイ15世はケネーをとても尊敬し、ケネーを自分の思想家と呼んでいたものである。ケネーを貴族に叙したとき、国王はケネーの腕に3本のパンジー(フランス語で思想を意味するパンセ(pensée)からの派生)を、ラテン語の標語である"Propter ex cogitationem mentis"を添えて与えた。  
ケネーは、彼の周りで絶えず行われていた宮廷の陰謀に加担することなく、主に経済学の研究に専念した。1750年頃、ケネーはジーン・C・M・ド・グールネー(1712-1759)と知り合った。グールネーもまた、経済分野の熱心な探究者だった。そして、この2人の著名人の周りに、次第に経済学者達の、または区別のための後の呼び方では重農主義者達の、学派が形成されていった。このグループの中で最も著名な人物は、大ミラボー(『人間の友』(1756-60年)、そして『農業哲学』(1763年)の作者)、ニコラ・ボードー(『経済哲学入門』(1771年))、ギョーム=フランソワ・ル・トローヌ(『社会秩序』(1777年))、アンドレ・モルレ(小麦粉戦争の間、穀物取引の自由についてフェルディナンド・ガリアーニと交わした論争で知られる。)、メルシェ・ラリヴィエール、それにデュポン・ド・ヌムールである。1764年から1766年にアダム・スミスが小バクルー公デュークと大陸に滞在する間にパリで過ごしたことがあり、そこでケネーやその信奉者達と面識を持った。スミスは彼の『諸国民の富』に関するケネーらの科学的応対に高い敬意を払った。  
ケネーは1774年12月16日に死去したが、長命な彼は偉大な生徒を持つことができた。財務総監となったジャック・テュルゴーである。ケネーは1718年に結婚して、息子と娘がいた。前者による孫息子は最初の立法議会のメンバーとなった。  
経済表  
1758年にケネーは、重農主義の考え方の基礎を提供する"Tableau economique"(『経済表』)を出版した。これは、分析的手法で経済活動についての説明を試みる、恐らくは最初の活動であり、経済思想への最初の重要な貢献の1つと見ることができる。  
ケネーが彼の体系について著述した著作は次の通りである。ディドロとダランベールの『百科全書』(1756年、1757年)の、「農家」と「穀物」に関する2つの記事。デュポン・ド・ヌムールの『重農主義』の、自然法則に関する会話。『農業王国の経済的政府の一般的方針』(1758年)、そして同時に出版された『経済表とその説明、またはシュリによる国王の経済の要約』(有名な標語、「貧しい農民は貧しい王国。貧しい王国は貧しい国王。」とともに)、『商業と職人の労働に関する対話』、そしてその他のより小さな断片。  
『経済表』はその無味乾燥さと抽象的形態のため、世間一般の支持はほとんど得られなかったが、学派の主要な宣言書とみなせるかもしれない。それはケネーの信奉者によって、人類の知恵による主要な生産物に列し得ると考えられた。アダム・スミスに引用されたところでは、文字と貨幣と並ぶ、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つであると大ミラボーが述べている。  
その目的は、完全に自由な状態において、唯一の富の源泉である農業生産物が共同体の数個の階級(土地所有者の所有階級、農民の生産階級、そして職人と商人を含む不産階級)の中に分配される方法をある定式によって示すこと、そして政府の抑制と規制のシステムの下での他の配分モデルの定式が、自然の秩序からの違反の異なり具合から、社会全体に良くない結果をもたらすことを描くことである。ケネーの理論的な視点から判断すると、現実的な経済学者と政治家が配慮してしかるべきことは、純生産物の増加ということになる。そして彼はまた、後にスミスが断じたように、全く同じ土地ではなくても、地主の利息は厳密かつ堅固に社会の一般的利息に関連していることを推論する。  
この作品と他の小片を伴った小さい豪華な版は、1758年に国王直接の監督下にあったヴェルサイユ宮殿で印刷されたが、その数枚は国王の手で手刷りされたと言われている。この本は既に1767年には流通から消え、現在はその複製品も入手不可能である。しかしその内容はミラボーの『人間の友』、そしてデュポン・ド・ヌムールの『重農主義』に保存された。  
彼の経済学上の著作は、ユジェーヌ・デールによる序文と注釈をつけて、パリのギョーマン社から発行された『主要経済学者』の第2巻に集められている。また彼の『経済学と哲学の著作集』は、オーギュスト・オンケンの序論と注釈をつけて集められた(フランクフォート、1888)。『経済表』の元の原稿からのファクシミリ復刻は、イギリス経済協会から発行された(ロンドン、1895)。彼の他の著作は、『百科全書』の「証拠」という記事と、1773年の『幾何学の新しい要素の草案』を伴った『幾何学的真実の証拠の探究』であった。ケネーの演説は、グランジャン・ド・フーシュにより科学アカデミーで文書化された。(アカデミーの選集、1774年、134頁参照。)またF.J.マルモンテルの『回想録、デュ・オセ夫人の回想録』、H.ヒッグズの『重農主義』(ロンドン、1897)を参照のこと。 
歴史観  
ケネーの経済理論の記述は通常、今日の主流である新古典派理論の観点から読まれるテキストに基づいている。同時代の古典派経済理論の歴史的背景と観点の中で理解すると、これらのテキストは異なった内容を明らかにする。ケネーの考えは1628年にウィリアム・ハーヴェイによって再発見された血液の体系的循環で形成されている。ケネーは解剖学の銅板を刻むことで勉学の資金を調達していたため、彼は内科医が何について話しているかを理解していた。当時内科医はガレノスに従って瀉血を説明した。感染は、感染から離れた適切な場所の血圧を下げることにより回復することができる。ケネーはチューブのシステムを用いて、圧力を減少させるためには場所が無関係であることを実演した。外科医により提出されたこの証拠は、内科医の社会的地位を全く低下させ、内科医たちをいらだたせた。しかし、それは1749年にポンパドゥール夫人のかかりつけの内科医になった国家外科医のケネーに名声を与えた。  
この論争は些細なものではなかった。それは医学のパラダイムの衝突だった。瀉血は、ガレノス(紀元前129年 - 紀元前200年)によって推奨された。彼の理論は千年以上にわたって西洋医学を支配したが、西欧医師達が触れることができる彼の本来のテキストは、唯一ルネサンス初期のギリシア語からラテン語への翻訳のみとなった。ガレノスによれば、血液には心臓から血液が消費される器官までの一方的な流れがある。ケネーの主張はウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)によって1628年に再発見された血液の体系的循環に基づいていたが、この説は1661年にマルピーギが毛細血管を発見したときに唯一決定的なものになった。そのためケネーの主張では、ガレノスの体系では理解できないが、血液が再生されたと推測した。それは耳が聞こえない者同士の議論だった。しかし、経済理論には興味深い類推がある。ガレノスによれば、心臓から出る動脈血と肝臓から出る静脈血はすべての器官によって消費されるが、ハーヴェイによれば、血液は再生される。同様に新古典派経済学によれば、商品には個人の効用を生産することで破壊されるための一方的な流れがあるが、古典派経済学によれば、少なくとも「生産的」な労働の出力は次の経済循環の入力となる。  
ケネーの経済学への興味は、彼の60代前半には、彼の宮廷での地位によりフランスが国の倒産に直面したことを突きつけられた1750年頃に起きた。肺の役割がまだ理解されなかったとき、彼は商品の経済循環が肺循環を省いた血液循環と同様であると考えた。ラヴォアジエの酸素に関する実験は、少し後で始まった。ケネーは心臓が器官のために特別な重要性を持っているのと同様に、農業が社会と経済の制度に特別な重要性を持っていると考えた。  
歴史的に、フランス国王は貴族達に対して弱い位置にあった。彼の独立性を高めるため、国王は貴族達が宮廷にいて贅沢さを互いに競うことを強制し、彼等の資産を軽視することで、貴族達を疲弊させた。ヴェルサイユ宮殿はこの伝統で造られた。人口の0.5%(ゲルマン征服者とキリスト教会から伝わる高い威厳を誇り、貴族と暮らす)が国の純所得のほとんどを受領していた。そのため、職人と工業的サービスへの需要のほとんど全部が、循環的な経済の流れに全く入力しない社会的部門から来ていた。そして、もし貴族と聖職者が経済の再生産と無関係であったとすれば、そのために働いている者は、職人だった。  
アダム・スミスからジョン・スチュアート・ミルまでの古典派経済学は、「非生産的労働」に関するケネーの議論を、その中心的主張と捉えた。彼の『経済表』の中でケネーは、地主階級(貴族と僧職)は農業と工業のサービスを得るが、土地を農民に賃貸することは別として何も生産することなく、職人は自分が生産したものと同じだけのものを農業と他の職人に支払い、唯一農民だけが、生産費を補充し、地主階級と職人達に供給した後で純利益を保有したことを示している。  
無論ケネーは、地主階級とそれらのために働くすべてが寄生体であったと公然と表明することはできなかった。彼は、彼が守ろうとした体制を批判することはできなかった。同じことを言う政治的に正しい方法は、職人と製造業者を「不産階級」と表明することだった。そのためケネーは、職人と農民の仕事の間には違いがあると断言する。工業製品の価格は、再生産の費用で決定する。競争は高目の価格をこの「自然な」基準に平準化するだろう。農産物価格は再生産の価格を超えているので、他の部門が単に再生産的であるのに対し、唯一農業だけが富を生産する。増加する農産物供給が価格を下げない理由の1つは、無制限に近い需要である。  
「原材料の結合を経た増加および1世代でのこの種の増加の前から存在した物への消費の拡大と、再生された富の更新と真の成長によって形作られる富の創造とは、区別しなければならない。」  
ケネーによる農業と工業の価格の区別は、これらの部門のイギリスの非常に異なった区別により理解できる。デヴィッド・リカードは、より少ない生産性の高い土地が耕されるため、農業生産の増加は物価を上昇させると説明している。しかし工業製品の増産は、1つ当たりの生産費を下げ、それにより価格を引き下げるだろう。ケネーにとって、これはもう一つの循環路と、歴史的に全く正しい。  
市場の拡大が生産の増加と単価の減少を引き起こすというアダム・スミスの有名な主張は、労働力の分割の深化と誘発される発明により、大量生産にのみ言及している。しかし、フランスの職人には、オーダーメイドの生産があった。通常、高級品の生産は規模の経済を全く提供しない。ケネーは経済循環について議論するため、アダム・スミスをパリで指導し、スミスはケネーが亡くなる前に『諸国民の富』をケネーに捧げようとした。しかし富の分配に明らかに影響する、イギリスと非常に異なったフランスの状況に対する彼らの特別な関係のため、スミスでさえもいくつかの重農主義の考えは理解できなかった。  
中国の発明品を採用した農業革命によって、イギリスの産業革命は先行した。--無論受け入れられている訳ではないが。イギリスの系列に続いて、フランス北部で既に資本主義的農業の例が見られた。フランス全体に対してイギリスモデルを採用することは、将来の工業開発の前提条件として、生産性の高まりを約束した。フランスの未来は農業開発の中にあり、現在の産業構造の拡大の中には無いというケネーの主張は、等しくない分析的なマスターピースである。  
工業製品のためのこの将来の資本主義的農業に対する需要は、フランス工業に新しい市場を提供する。この市場が供給されると、出力が次の経済循環の入力となるため、フランスの工業と貿易は「生産的に」なるだろう。そしてこの工業生産は「費用逓減」を示すだろう。それゆえ工業と工芸を「不産階級」と呼ぶことは一般的には誤りだが、この歴史的状況においてのみ正しいと言えよう。  
「財務総監」のテュルゴーとともに、1774年に重農主義プログラムの第一歩が実施された。しかし多くの名士やグループが先の財政的混乱から自分達の利益を上げたことで、テュルゴーの改革に対する抵抗が噴出した。フランスにおける穀物の関税を廃止することで、固定額を国王に支払ってその3倍以上を集めていた多くの貴族の税収者達に打撃を与えた。1774年の不作は小麦価格を上昇させた。そして税収者達は、自由貿易で今や国王までもが小麦粉投機で利益を得ているという噂を広めた。人々はヴェルサイユの宮門へ行進した。1776年にテュルゴーが、すべての特権を廃止するための第一歩として農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案したとき、国王は彼の敵に同調し、テュルゴーの辞職を求めた。彼の敵のジャック・ネッケルが財務長官になり、ネッケル夫人が主宰していたパリ市民のサロンではすぐに、重農主義的考えはすべての重要性を失った。フランスの負債とアメリカ独立革命へのフランスの関与に資金を供給するために増税することよりむしろ、さらに多くの借金がフランス革命への道を開いた。 
 
 
スミス「国富論(諸国民の富)」初版 2巻 1776年

 

Smith, Adam.(1723-90)  
An Inquiry into the nature and causes of the Wealth of Nations.  
アダム・スミスは、イギリスの経済学者。エジンバラ近郊に生まれグラスゴー大学で学んだ。アダム・スミスの「国富論」は、経済学における古典中の古典であり、近代市民社会を初めて総合的かつ体系的に解明した名著である。その業績によってアダム・スミスは、“経済学の父”と呼ばれている。「国富論」は経済学史上、19世紀以降に分化したあらゆる学派の源流となっており、すべての学説は多かれ少なかれスミスを素材として発展してきたのである。
国富論  
( An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations / アダム・スミス著。1776年刊。資本主義社会を初めて体系的にとらえ、分業と労働価値説とに基づいて自由放任主義の経済を説いたた古典学派の代表経済学書。)  
『国富論』(諸国民の富)を生み出した背景  
アダム・スミスの主著『国富論』が出版されたのは1776年のことであり、彼の生涯の後半期は産業革命の勃興期と重なっており、資本主義の確立に向けて時代が大きく変わっていく転換期にあたる。だが、イギリス産業革命の進展を持ち出しただけでは、スミスの体系とその時代との対応関係はわかったとしても、いかにしてスミスの体系が生まれたのかはわからない。  
スミスの『国富論』は重商主義の危機という文脈で生じた。それまでの重商主義の常識によれば、一国は他国を犠牲にしてのみ経済力を増大でき、植民地の保有とその強化を頂点とする国家の強行的政策によってのみ、一国経済の発展が可能である、というのである。  
重商主義に対抗し、当時のイギリスに処方箋として、スミスは『国富論』を提供したのである。  
内容  
富とは?  
従来の重商主義によれば、「富=貨幣」と規定され、いかにして流入する貨幣を増やし流出する貨幣を減らすかという観点から政策が決定される。だが、スミスは、富とは国民が年々に消費するいっさいの生活必需品や便益品、としてとらえた。  
分業について  
文明社会では貧しい者でも、未開社会の国王よりも豊かである。スミスは文明社会を特質づける生産力の基礎を、交換によって媒介される分業、すなわち孤立的労働の社会労働への結合に置いた。スミスは,分業が労働生産力を改善する理由を,有名なピン工場の例をあげながら説明している。もし職人が1人だけでピンをつくるならば1日に1本のピンをつくることも容易ではない。ところがスミスが訪れたピン工場では,10人の労働者が作業を分担して働き,1人当たり1日に4800本ものピンを製造していた。分業がこのように労働の生産力を高めるのは,1労働者の熟練や技能を改善し,2ある仕事から別の仕事へ移動する時間を節約し,3労働を単純化して機械の発明を容易にする,という3つの原因に由来している。分業は、このような工場内の分業だけでなく,社会全体の労働が一つの巨大な結合労働となり、社会的分業において行われている。文明社会の富裕は社会的分業の結果なのである。  
分業と商業社会  
スミスは,広範な分業を生み出す「交換」という人間の行為が、愛情や利他心ではなく、人間本性にそなわった交換性向と利己心の結果であると考えた。たとえば,パンを必要とするならば、パン屋に空腹を訴えるのではなく、パン屋が欲している物を与えなければならない。ひとたび社会的分業が確立されてしまうと、各人はみずからの労働によって作りだされた生産物のうち、自分自身が消費する分を超えた部分を、他の人々の労働生産物と交換することによって、自らの労働生産物だけでは満たされない欲望を充足しようとする。このようにして、交換が中心となるような商業社会に成長する。ここでスミスがいう商業社会とは、農業も工業も含めた広い意味であり、市民社会の経済的側面を表現するものでもあった。商業社会では、貨幣が重要な役割を果たす。パン屋と肉屋の物々交換が成立するためには,パン屋が肉を欲しがると同時に肉屋がパンを欧しがるという欲望の二重の一致が必要であるが,これは必ず成立するわけではない。人々は,こうした物々交換の不便を避けるために,ほとんどだれもが受け取る商品を「商業の共通の用具」(交換手投)として用いるようになった。パン屋は,自分のパンをだれでも受け取る貨幣と交換し,次にその貨幣を肉などの自分が必要とするものと交換するならば,物々交換の不便は解消される。  
自然価格と見えざる手  
スミスは、すべてのものについて、その交換価値は、それを所有することによって得られる支配力に等しくなると考えた。換言すれば、市場で求められる、労働または労働の生産物をどれだけ支配することができるかということによって決められると考えた。貨幣経済のもとでは、たんに交換比率だけでなく、名目価格も決まってくる。このような相互依存関係が安定的に維持されてゆくためには、交換の条件が人々の自由な意志に沿って、各人の利益と調和されたものでなければならない。そのような交換の条件を、スミスは「自然価格」という概念で表現した。自然価格のもとでは、各人が自由に行動し、選択した結果、生産要素の配分が決まり、さまざまな財・サービスの産出量が定まる。そこで生産されたものは、人々が必要とする量と一致するようになる。個々の人々は、自らにとってもっとも望ましいと思う交換をしようとしたときに、社会全体として調和のとれた状態、つまりすべての財・サービスについて、需要と供給とが一致するような状態が実現し、しかも長期間にわたって維持される。各人がそれぞれ自分の利益を考えて行動しているにもかかわらず、社会全体として望ましい状態が実現するのは、まさに「見えざる手」によるものであるとスミスは考えたのである。労働者がみずからの労働の生産物をすべて受け取るという本来的な状態は、資財の蓄積と土地の所有が進行するにつれて、維持することができなくなる。自然価格は、労働賃金の他に、利潤、地代から構成されることになる。そして、その背後には、労働者、資本家、地主という三大階級が存在し、この三大階級から市民社会が構成され、それぞれ内発的な動機にもとづいて行動しながら、自然価格のもとで全体として調和のとれた状態を維持しながら、社会全体の富の蓄積がおこなわれてゆくというのがスミスの世界観だった。  
『道徳感情論』との関連  
『国富論』におけるスミスの考えは、それに先立つ17年前に書かれた彼の『道徳感情論』(1759年)における説と矛盾するのではないかという疑問は早くから提出されてきた。つまり、スミスの『国富論』における利己心に基づく市場行動の評価と、『道徳感情論』における利他的な感情の評価との関係をどのように解くかという、いわゆる「アダム・スミス問題」である。  
だが、これは『道徳感情論』における「同感」を誤解したものに過ぎない。スミスの「同感」は、特別な利害・感情関係のない個人どうしの間で成り立ち得る是認の感情を指すものであり、利己的経済行為を否定するものではない。  
『道徳感情論』で追求したのは、人々が対等かつ自由に振る舞い、誰もが自分の利益を追求しているみなされるような社会での秩序形成の可能性である。  
スミスによれば、こうした社会における秩序を支えるのは、情動的な一体感ではなく、行為者それぞれの立場に仮に我が身をおいて考えることによって生ずる「同感」である。ゆえに、対象となる行為は、金儲けのための行動であってもかまわない。利己心と、ひとしく利己心を持った他人に対する同感が基本原理におかれているのである。  
しかし、他人を傷つけたり、公平さに反する手段を取るような行為に対しては、人々は「同感」しないであろう。したがって、社会生活のなかで、人々は次第に、自分の利己的行為を、公平な他人の目からみて是認されうる範囲内に抑えるというのである。  
 
スミスが道徳の基礎に理性ではなく感情を置いたのも、あるいは市場社会の構成原理として利己心や自愛心を考えたのも、突き詰めれば、人間は全知全能ではないという基本的認識があったからである。ここに19世紀以降の新古典派経済学が人間を全知全能の経済人と規定するところと、まったく違った視点がある。スミスは、個々の人間が所得や富の増大という目的のためだけに行動するような「合理的」な存在だとは考えていなかった。そして、彼は極端なレッセ・フェールを唱える政治的アナーキズムとは無縁な思想家である。自己利益の追求は、闇雲になされてもよいということではなくて、「正義のルールを侵さない範囲で」という前提となる条件があるのである。 
諸国民の富の性質と原因の研究  
( An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations ) 1776年に出版されたアダム・スミスの著作である。『国富論』、または『諸国民の富』の名でも知られる。特に前者が一般的であるため、以後本項でも前者を用いることとする。本書は産業革命以後における経済学について明確に記述されている。本書は全二巻、五編で構成されている。  
沿革  
国富論は1776年に出版されて以降、アダム・スミスの存命中、彼自らの手によって4度の改訂が行われている(1778年、 1784年、1786年、1789年)。よって日本語への翻訳も1789年に出版された第五版を元に行われることが多い。しかし、1791年に出版された第七版がアダム・スミス自ら改訂作業を行った最後の版ではないかという説もあり、こちらを考慮ないし基礎においた翻訳もある。  
5回の改定を経る間には多くの細かな違いが存在する。1778年 第二版 - 初版との差異は重要でないものであったが、脚注の追加が行われている。1784年 第三版 - 重商主義批判をその主な内容とする別冊の追補および訂正を組み込み、目次を付した。三巻から成る。1786年 第四版 - 第三版からわずかに改訂が施された。アダム・スミスは本の初めの読者に対する告示において「(第四版では)私はいかなる種類の変更も加えなかった。」と言っている。1789年 第五版 - 誤植が取り払われている。  
その後の版はアダム・スミスが死去した1790年以降に出版されている。エドウィン・キャナン (Edwin Cannan) 指揮の下、初めの5つの版が併記されて比較されている校訂版が1904年に出版されている。  
内容  
産業革命 / 本書の第一編第一章から第三章は分業(division of labor)の発展が解説されている。第十章第二節では、 封建制の終焉に関する理解を促している。  
経済学の入門書として / アダム・スミスの著作は、重商主義の批評および彼の時代に考えられていた新興の経済学の総合体として記述されている。本書は通常、近代経済学の端緒であると考えられている。本書は他の経済学者に向けてというよりも、むしろ18世紀当時における平均的な教育を受けた人々に向けて書かれたものである。したがって、本書は現代の読者にとって古典派経済学(classical economics)の比較的理解しやすい入門としての古典として読み継がれている。『国富論』は全五篇が経済学の理論書であり、その一部のみを経済学の理論として位置づけることは誤りである。この書は歴史書ではなく、普遍性を持った理論書であるので、その内容の一部の新旧をもって判断する書物ではない。その証拠として、後世、ケインズは『国富論』を唯一「四つ切り版」の経済学として、すなわち、唯一完成された経済学書とし、それ以降の経済学をすべてその解説にすぎないとして高く評価している。  
「見えざる手」 / (invisible hand)は本書の概念としてしばしば言及されるものである。この「見えざる手」の背後にある思想は、人々がその欲求と窮乏の追求を通して無意識的に自らの国を発展させるであろうという主張である。  
業績主義 / 業績主義(Meritocracy、メリトクラシー)は本書において強調されるテーマである。  
重商主義批判  
スミスの重商主義政策への批判は、貨幣政策・関税政策・租税改革と国債の発行等について展開されている。重商主義は、絶対王政のもと、貿易によって財貨を得ることで一国の富を増大させようとしたが、その政策の結果として、逆に金貨幣が大量に国外に流出し、軍事支出の増大とともにイギリス経済を疲弊させる原因となっていた。スミスの批判は、トーマス・グレシャムに対する批判としての貨幣の改鋳であり、自由主義の立場からの関税の撤廃、そして、租税改革と戦費の調達のための国債の発行の停止である。  
日本ではあまり知られていない当時の背景として、イギリスでは葡萄酒の消費量が急速に増加しており、葡萄酒を生産しないイギリスではフランスからの輸入にすべてを依存していた。そのため、フランスとの貿易赤字が急激に増大していたのである。貿易赤字を国家の損失とみなす重商主義による誤った政策では自然の法則をゆがめるだけであり、経済を悪化させてしまうとスミスは考えた。 スミスは、富の概念を従来の貿易による財貨の獲得から労働の生産力の増大へと転回することで、経済学を成功させたのである。  
影響  
国富論は啓蒙思想の時代に出版され、著者および経済学者のみならず政府および団体に影響を与えた。例えば、アレキサンダー・ハミルトンが国富論によって感銘と影響を受けている。本書がデイヴィッド・ヒュームやシャルル・ド・モンテスキュー、そして重農主義者ジャック・テュルゴーといった思想家・経済学者たちによって確立済みであった理論の焼き直しであるといわれていることは、一部においては真実である。しかしながら、本書は経済学における躍進であり、物理学および現代数学、ならびに自然科学にとっての『プリンキピア』の位置づけと類似するものである。  
後世、多くの著述家が国富論に影響され、自らの著作の出発点としてこれを用いた。ジャン=バティスト・セイやデヴィッド・リカード、および、さらに後の時代に属するカール・マルクスも国富論を出発点とした著述家に含まれる。 
アダム・スミス  
(Adam Smith、1723-1790) スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者である。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる。  
2007年よりイングランド銀行が発行する20ポンド紙幣に肖像が使用されている。過去にはスコットランドでの紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する50ポンド紙幣にも肖像が使用されていた。  
アダム・スミスは税関吏を父としてスコットランドの海沿いの町カコーディーに生まれたが、父は生まれる半年前に死亡した。生年月日は不詳であるが、1723年6月5日に洗礼を受けたことは明らかになっている。未亡人となった母は、亡夫と同じアダムという名前を一人息子につけ、生涯愛情を注いだ。スミスは4歳の時にスリに仕立て上げることを目的とした誘拐に遭うものの、誘拐犯からスリには向かないという烙印を押され、解放されてしまうほど内向的性格を持ち、吃りがあった。  
グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学するが、1746年に退学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教え始め、1750年頃、後に友人となる哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1757年、エンジニアのジェームズ・ワットが同大学構内で実験器具製造・修理店を開業することを手助けした。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立。同書の理論は我々には道徳を感じる感覚(Moral Sence)があるというモラル・センス学派に含まれる。  
1763年には教授職を辞し、第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットのグランドツアーに家庭教師として同行しフランスに渡る。その頃パリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でジャック・テュルゴーやジャン・ル・ロン・ダランベール、フランソワ・ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。しかし、バクルーの弟がパリで病没したことをきっかけに(暗殺事件だと思われていたが、スミス自身の手紙により病没と判明)イギリスに戻った。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。  
アメリカ独立、テュルゴー失脚の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。著書は前記の2冊のみで、死ぬまでその改定増補に集中した。1782年の母の死後は奇行が目立ち、税関職員の制服に身を包み、街を徘徊するようになる。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年にエディンバラで67歳で死亡した。収入の相当部分を慈善事業に捧げ、死の直前、草稿類をすべて焼却させたといわれる。  
道徳感情論  
『道徳情操論』によれば、人間は他者の視線を意識し、他者に「同感(sympathy)」を感じたり、他者から「同感」を得られるように行動する。この「同感」という感情を基にし、人は具体的な誰かの視線ではなく、「公平な観察者(impartial spectator)」の視線を意識するようになる。「公平な観察者」の視線から見て問題がないよう人々は行動し、他者の行動の適宜性を判断することにより、社会がある種の秩序としてまとまっていることが述べられる。このように社会は「同感」を基にして成り立っているため、社会は「慈善(beneficence)」をはじめとした相互の愛情がなくとも成り立ちうると論じた。また、富裕な人々は、大地が全住民に平等に分配されていた場合とほぼ同一の生活必需品の分配を、「見えざる手」に導かれて行なうということも述べている。 
アダム・スミス『国富論』  
われわれの食事は問屋やパン屋の自愛心によっている  
「見えざる手」に導かれて社会の利益が促進されている  
分業は、人間の本性にひそむ交換という性向から生じる  
(中略) ほかのたいていの動物はどれも、ひとたび成熟すると、完全に独立してしまい、ほんらい、他の生き物の助けを必要としない。ところが人間は、仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみてもむだである。むしろそれよりも、もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ、そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、自分自身の利益にもなるのだということを、仲間に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすいのである。他人にある種の取引きを申し出るものはだれでも、このように提案するのである。私のほしいものをください、そうすればあなたの望むこれをあげましょう、というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであって、こういうふうにして、われわれは、自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。  
われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、自分自身の利益にたいするかれらの関心によるのである。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、自愛心にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてなのである。  
個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する  
ところが、すべてどの社会も、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値とつねに正確に等しく、いやむしろ、この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ、各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうと、できるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。  
もちろん、かれはふつう、社会一般の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知らない。外国産業よりも国内の産業活動を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。  
だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、みずからは意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合にくらべて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。  
社会のためにと称して商売をしている徒輩[とはい−やから、ともがら]が、社会のためにいい事をたくさんしたというような話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得してそれをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。  
自分の資本をどういう種類の国内産業に用いればよいか、そして、生産物が最大の価値をもちそうなのはどういう国内産業であるかを、個々人だれしも、自分自身の立場におうじて、どんな政治家や立法者がやるよりも、はるかに的確に判断することかできる、ということは明らかである。個々人に向かって、かれらの資本をどう使ったらよいかを指示しようとするような政治家がいるとすれば、かれは、およそ不必要な世話をみずから背負いこむばかりでなく、一個人はおろか枢密院や議会にたいしてさえ安んじて委託はできないような権限を、また、われこそそれを行使する適任者だと思っているような人物の手中にある場合に最も危険な権限を、愚かにも、そして僭越にも、自分で引き受けることになるのである。  
   
フランクリン「政治・哲学論集」初版 1779年

 

Franklin, Benjamin.(1706-90)  
Political, miscellaneous, and philosophical pieces...  
フランクリンは、アメリカの政治家、出版業者、科学者、著述家。巡回図書館を作り、アメリカ哲学協会を設立し、多くの公共事業に貢献した。傍ら外国語、哲学および科学の研究に務め、二重焦点レンズやハーモニカの発明もした。また電気に興味をもち、雷雨中に凧をあげて雷電と電気が同じものである事を立証した。1776年にはアメリカ独立宣言起草委員の一人になった。本書は、フランクリンの政治学および独立戦争前後のアメリカの政治に関する論文と、彼の哲学的論文を集めたもので、ロンドンで出版されている。   
 
   
カント「純粋理性批判」初版 1781年

 

Kant, Immanuel.(1724-1804)  
Critik der reinen Vernunft.  
カントは、ドイツの哲学者で批判哲学の創始者。本書はその主著で、<先天的>と<経験的>命題、<分析的>と<総合的>命題との区別を理論的に明らかにした上で、<先天的総合判断>はいかにして可能になるかを問題にし、先験的観念論を打ち立てた書。本書が書かれるに至った動機について彼自身が、「D.ヒュームの警告によるものである」と告白し、ヒュームの懐疑的経験主義との接触によることを示唆している。ドイツ観念論および現代哲学の基礎をなす著作である。  
純粋理性批判 1  
(Kritik der reinen Vernunft) ドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著で、第一版(Aと略称される)が1781年に、第二版(Bと略称される)が1787年に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年刊の『実践理性批判』(第二批判)、1790年刊の『判断力批判』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。  
概論  
『純粋理性批判』は、理性認識の能力とその適用の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学(形而上学)に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。  
カントは理性がそれ独自の原理に従って事物を認識すると考えるが、この原理は経験に先立って理性に与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的な認識形式にもとめ、それによって認識理性の原理を明らかにすることにつとめる。  
初学者向けの解説: すなわち「認識する」とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せたのである。  
人間的認識能力とその制約  
伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。  
ここでカントは認識の制約以前にある「物自体」と経験の対象である「物」を区別する。「物自体」は理性を触発し、感性と悟性に働きかけ、それによって人間理性は直観と概念によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観・空間と時間、また12の範疇すなわち純粋悟性概念のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。  
しかし、これは一方で、人間理性が、我々の認識能力を超越するものに、認識能力を適用することが不可能だと言う事を意味する。全ての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、故に、伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神やイデア(理念)と言った超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性に与えられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するに留まるのである。  
感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力の産出する図式である。また感性の多様は統覚、すなわち「我思う」(つまりデカルトのコギト)によって統一されている。しかし、理性には自己認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかし、カントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識されえないものはただ思惟することのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂の不滅・自由が挙げられる。  
アンチノミー(二律背反・Antinomie)  
理性概念・理念 (Idee) は、人間の認識能力を超越しているので、理念を認識し、述語付けしようとする試行は、失敗に終わらざるを得ない。カントは、そのような悟性の限界を4対の二律背反する二命題の組み合わせによって示す。  
こうした命題は、反対の内容を持ちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、或いは、どちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、単に悟性概念の適用を誤った成り立たないものについての言述であることに帰着する。こうした二律背反命題としては事物の必然性と自由に関しての背反命題(第三アンチノミー)が挙げられる。これは、キリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用する事から、矛盾を来たす様に見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由が成り立つ事は、カントの批判の体系内では双方共に真なのである。  
ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能を見出したのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』の中では、必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。 
純粋理性批判 2  
『純粋理性批判』は、科学の成立根拠を問うと共に、経験に基づかない「形而上学」を批判する試みである。  
1) カントの言うことを理解するためには、まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。  
「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。  
「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)  
これに対して、ここで問題になっている「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を総合したものである。(カントの場合、推理といえば、殆んど三段論法を指す。ところで、カントは、当然知りませんでしたが、「膨張宇宙」とか「ビッグバン」とかいった理論を生み出すのは、悟性の判断(経験的データ)を総合する理性の働きだと思うのですが、カントに詳しい人、どうでしょうか?)  
2) 次に、分析的判断と総合的判断の区別、アプリオリ(a priori)な認識とアポステリオリ(a posteriori)な認識の区別を押さえる必要がある。  
アポステリオリな(a posteriori=「より後のものからの」)認識とは、経験に依存する認識である。例えば「全てのカラスが黒い」かどうかは、実際に調べてみなければ分からない。従って、この知識は、たいてい、偶然的である。  
これに対し、アプリオリな(a priori=「より先のものからの」)認識とは、我々の「経験」に依存しない(従って普遍的な)知識を意味する。例えば、「三角形の内角の和が二直角である」ことは三角形の本質から導かれる知識である。また直角三角形に関するユークリッドの定理は、どんな紙の上に(あるいは頭の中で)図を書いて証明してもいい訳だから、原理的に「経験」に依存していない。さらに一部(全部?)の論理的知識も、実際に調べる必要のない、普遍的に妥当する知識である。これらがアプリオリな認識の代表。  
3) 更に、述語の内容が主語に含まれるような判断を、分析判断という。例えば「赤いバラは赤い」という命題は「AはAである」という同一律の形をしているから、分析判断であり、それゆえアプリオリに正しい判断である。(現在では、論理学や数学の命題は、全て分析判断だ、と考える人もかなりいるが、「1+1」という主語を分析しても、「=2」という述語は見出せないので、カントは総合的判断だと考えている。)  
総合判断とは、主語に新しい述語を付与する判断である。例えば「カントは生涯独身だった」という判断は、「カント」という主語に「一度も結婚していない」という新しい述語を付与している。(因みに「独身者は未婚である」という文は、よく例に引かれる分析判断の典型。)  
さて、学問が新しい知識を生むなら、それは総合的判断である。そしてそれが普遍的に正しい認識であるなら、アプリオリな判断でなくてはならない。従って、自然科学などの経験科学は可能か、という問いは、「アプリオリな総合的判断はどのようにして可能か」という問いになる。  
カント自身が書いた『純粋理性批判』の要約である『プロレゴメーナ(序説)』から、要点だけを取り出すと、  
1 我々の認識の源泉は、感性と悟性(と理性)である。  
2 数学の知識は、感性の能力である直観(純粋直観)において成立する、アプリオリな認識(総合判断)である。  
3 自然の認識(物理学)は、経験的な世界を対象とした、アプリオリな総合判断であり、それは、直観によって与えられる多様な素材を、悟性が論理的なカテゴリーの統一へもたらすことによって成立する。  
4 理性はそうした認識を総合する働きをする。しかし理性が、直観という地盤を離れ単独で、超自然的な対象(神、世界全体、魂)の認識(=「形而上学」)を生み出そうとすると、必然的に誤謬に陥る。  
(例えば、「世界は無限である」という命題は、それを証明する議論を使って、そのまま「世界は有限である」という、反対の命題をも証明しうる。これを、アンチノミー(二律背反)という。)  
従って、我々が認識しうるのは、感性という形式を介して与えられる「現象」だけだ、ということになる。その背後にあるかもしれない「物自体」は認識出来ない。(「私」という主観も、「現象」つまり直観の対象として与えられないから、「物自体」の範囲に属する。)  
ここでカントは、デカルトのように、知識が成立するための条件を洗い出してゆくという方法(「超越論的」方法)をとっている。(これがプラトン以来の、哲学の一番オーソドックスな方法であろう。)  
カントの死後一世紀を経て書かれた、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、論理学の知識は全く別物だが、方法も内容も、殆んどカントである。 
実践理性批判 3  
「理性」が本来の働きをするのは、実践(行為)の場面である。「行為せよ」という命令は、人間の内なる理性から来る。「友人を助けるのは義務である」という一般的原則から、「田中君は大田君の友人である」、ゆえに、「大田君は田中君を助けるべきである」という行為が指示される。ここでは経験から知識が導かれるのではなく、知識がアプリオリに経験を決定する。  
道徳形而上学の基礎づけ / カントが目指すのは、純粋倫理学である。  
「単に経験的であって人間学に属する全ての事柄から、完全に清められた純粋な道徳哲学を一度創り出すことが、この上なく必要である。」「一つの法則が、道徳的なものたるべきであれば、必ず絶対的な必然性を帯びなければならない。」「『嘘をついてはならない』という命令は、人間だけに当てはまり、他の理性的存在者には無関係であるというようなものではない。」「それゆえ、義務の根拠は、人間性とか、人間が置かれている世界の状況とかのうちに求められるべきではなく、アプリオリに純粋理性の概念のうちにのみ、求められるべきである。」「道徳的に善であるといわれるものは、法則に合致しているだけでは十分ではなく、さらにそれは道徳法則のために行われるものでなくてはならない。」  
自律(Autonomie) [主体性と普遍性]  
自己決定(自己立法) / 自由な意志は存在する。人間は、全く自由である。(「言うことを聞かないと殺すよ」と言われても、「言うことを聞かない」ことが出来る。というか、出来るから「殺すよ」と言って脅すのである。)他者の命令に従って行為するなら、奴隷である。自分が何をするべきか、それを決めるのは最終的には自分以外にはいない。  
格率と道徳法則の一致 / 格率(格律)とは主観的(=個人的)行動の方針。道徳法則とは普遍的法則「全ての人は…すべきである。」。(例えば、侮辱されたら必ず復讐するということを、誰でも格率とすることは出来る。しかしこれは決して実践的法則ではなく、ただ自分の格率にすぎないものである。なぜなら、もしもそれがあらゆる理性的存在者の意志に対する規則とされるならば、同一の格率において自己矛盾するからである。)  
実践理性の定言命法 / 「汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。」(自分のポリシーに従って行動しなさい、ただし君が採用するポリシーは、いつでも、(全ての人が従うべき)一般的な法則を立てる際の原則としても通用するようなものでなくてはならない。)  
(ここに言い表されているのは、「道徳は法則に従って行なわれるべきこと」「自分で決めた法則に従って行為せよという、個人の自発性=主体性」「その法則がもつべき形式としての、普遍化可能性」という、三点である。三点目をどう考えるかについては難しい点がある。)  
自己目的  
道徳的行為の動機は、(「好き」「嫌い」とか「自分の利益」とか)感性的なものであってはならない。もしそうなら、(それは自己愛に基づく利己的な行為にすぎず)行為はその正しさの根拠を失ってしまうだろう。「善い事だから、正しい事だから、すべきだ」、というのでなくてはならない。  
1 道徳法則は、アプリオリなものでなければならない。もし道徳法則が経験的(=現実的)原理から導かれるなら、普遍妥当ではありえない。  
2 意志の決定原理を、欲求の対象に求めるなら、それは全て経験的(=偶然的)であり、対象によって引き起こされる快不快の感情、つまり自己愛=自己の幸福、に基礎をおくことになる。  
3 従って、道徳法則は、内容にではなく、意志の形式にだけ関係するものでなければならない。  
4 他の目的の手段ではなく、道徳法則そのものを目的とする意志だけが、物自体である意志、自己により自己自身を決定する意志である。(意志の自律)  
5 道徳的行為の動機は、道徳法則に対する(従って、また自己に対する)尊敬である。  
人間は、感性界に属すると同時に、叡智界(理性の世界)にも属している。理性に基づく行為は、人間のみならず、神や天使でさえも、全ての理性的存在者が、同じ事をするような行為である。そこに人間の最高の尊厳がある。  
(動物は感性界の住人であって、理性を持たない。だから、ただ本能=欲望に従って、行動する。そこに矛盾は無い。一方、神や天使は、知性界の住人であって、肉体を持たない。だから、常にただ理性に従って、行為する。そこにも矛盾は無い。これに対して、人間は、知性界の住人であると同時に、感性界の住人でもある。だから人間だけが、自己内に矛盾を感じる。正しいことをするために、自分の欲望と戦わなければならない。そこに人間の真の偉大さがある。)  
目的の国  
「国とは、相異なる理性的存在者が共通の法則により体系的に結合されたものであると、私は解する。理性的存在者は全て、その各々が自己自身と他の全ての者を、決して単に手段として取り扱わず、常に同時に目的それ自体として扱うべし、という法則にしたがっている。一理性的存在者が目的の国において、普遍的に立法するものでありながら、彼自身それらの法則に服従してもいる場合、その理性的存在者は、目的の国に成員として所属する。それが立法者であり、しかも他のどの存在者の意志にも服従していない場合、それは目的の国に元首として所属する。」  
仮言命法と定言命法  
「単位を取りたいなら、授業に出なければならない」とか「授業が面白ければ、出てやってもいいよ」とかいうような「もし…なら」という条件文を「仮言」命法と呼ぶ。道徳的行為は本来そうした性格のものではない。一切の条件抜きに、「そうすべきだから、そうすべきだ」という絶対的「定言命法」である。それでこそ我々は理性の国の一員たりえるのである。  
感性界と英知界  
しかしながら理性の国と、我々の肉体が現に住んでいるこの感性の国は一致しない。というより相反する場合が多い。我々はしばしば自己愛や感情の誘惑に負けて、正しいことをし損なってしまう。また、この現実の世界は、不完全なものだから、正しい行為が幸福な結果をもたらすとは限らない。「先生の訳は間違っています」と授業中に誤訳を指摘したりすると、先生から怨まれて後でひどい目にあったりする(笑)。  
魂の不死と神の存在の要請  
そこでカントは、理論理性の立場からは証明できなかった、魂の不死と神の存在を「要請」する。そうでなければ、個人の徳の完成も、また有徳な人のこの世での幸福も保証されえないから、である。我々が見ることが出来るのは、感性の世界だけである。理性の世界は、直観の対象にはならず、目に見えない。しかし各人が理性に基づいて行為することによって、その存在が「示される」のである。  
自由な意志による自己決定(=自律)の尊重、及び、その自由な人格を単なる手段としてだけ扱ってはならない―といったカント倫理学の根本命題は、基本的には、現代の倫理学でも根本原則として認められている。  
また、一見分かり難い「定言命法」という道徳観も、道徳法則はその結果ではなく、それ自体において価値をもつ(つまり、それ自体において守られねばならない)という、一つの考え方を代表している。  
更にまた、「道徳法則への尊敬」を道徳の動機とみる立場は、人間の自尊心(プライド)を尊重した考え方であり、すべてを自分の利益に還元して考えることが常識化した現代にあっては分かり難い立場ではあっても、よく考えてみると、人間の信念のあり方として正しい立場を示している(と思う)。  
義務倫理  
「当為(すべし)」を強調するカントの倫理学説は、「義務倫理(deontic ethics = deontische Ethik)」と呼ばれる。個人の行為の内容は、あくまでも自分が決めるべきものではあるが、決めた以上は、自分も従わなければならないから、義務なのである。カントは、絶対に従わなければならない「完全義務」と、強制はされない「不完全義務」とを区別する。それらは、さらに、自分自身に対する義務と、他人に対する義務とに分かれる。  
例えば、「自己保存」は自分自身に対する完全義務である。自殺は許されない。酒・煙草なども当然ダメ。  
上述の「嘘をついてはならない」というのも完全義務だが、これは他人に対する完全義務である。「借金を返す」というのも同じ(サラ金の業者さんが聞いたら喜びそう)。  
一方、「自己の向上(陶冶=育成)」は自分自身に対する不完全義務である。時間を無駄にせず、体を鍛え、よく勉強し、教養を高めよ、ということだ。  
「他人を愛せよ」というのは、他人に対する不完全義務。ただし「愛」とは感情ではない(感情は命令され得ない)。他人を助け親切にしろということだ、とカントは言う。  
これらの義務は理性的な存在者である人間の本質から導かれる義務であるから、その目的や利益を云々するのではなく、そうす「べき」であるから、そうすべきだという性格を持つ。例えば他人に親切にすべきであるという理由は、結局は自分が得をするからという自己愛に基づけられてはならず、端的に、それが正しいことだから、利己心を離れて考えればそうせざるをえないから、ということだ。  
『実践理性批判』の問題点  
1 「友人が殺人鬼に追われていて、匿ってくれと頼まれたのに、『嘘をついてはならない』という道徳法則に従って、追ってきた殺人鬼に友人の居場所を教える」のは、正しいだろうか?  
(カントは正しいと言う。「嘘をついてはならない」というのは、完全義務であり、絶対に守らなければならない道徳法則である。確かに『聖書』も「偽証するな」と命じている。しかし、それはそんなにまでして守らなければならない「絶対的」な規則なのだろうか?また、『聖書』の「殺すな(見殺しにするな)」という命令に反しないのだろうか?)  
或いは、また、「愛国心に基づいて、兄を殺したドイツへの戦争に行くか、それとも隣人愛の精神に基づいて、年老いて身寄りのない母の許に留まるか」(サルトル)といった、相反する二つの命令が課された状況で、一方を選ぶ理由を、カントは与えているのだろうか?  
2 「友人が困っているから助けたい」と私が思ったとき、私はその友人が好きだから助けたいと思うのだろうが、カントに言わせれば、「好きだから」助けるという行為は、不道徳である。「好き」「嫌い」といった感情は、道徳的行為の原因であってはならないのだから。  
この点に関して、カントの歳若い友人でもあった詩人シラーは、こういう詩を作って風刺した。  
「僕は進んで友人に尽くしているのだが、悲しいことに好きでそうしているのだ。そこで僕はしばしば思い悩む、自分は有徳な人間ではないのだと。」「そうだ。他に方法はない。君は努めて友人を軽蔑し、しかる後に義務の命ずることを嫌々ながら行うことだ。」  
これはやや皮相な批判かも知れないが、感情や自己愛はそれ程「非理性」的なものなのだろうか?こういう問題(感性と理性の矛盾とか、道徳的命令の対立とか、「絶対」とか)を、もっと正面から考えたのが、ヘーゲルである。 
イマヌエル・カント  
(Immanuel Kant, 1724-1804) ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖ともされる。  
イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の四男として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った。  
1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校に進んだ。1740年にはケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学をこころざしたが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。  
1746年、父の死去にともない大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究ではクヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また、学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。卒業後の7年間はカントにとってはくるしい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた。  
1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社が倒産したため極少数のみが公刊された。4月、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、6月12日、これによりマギスターの学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議をおこない、冬学期より同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。  
1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た員外教授の地位を得るため、それに必要な2回の公開討議の第1回目の素材として『物理的単子論』をあらわす。4月12日に第1回目の公開討議がおこなわれるが、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を直前にひかえ、欠員補充をしない方針を打ち出したため、員外教授就任の話は白紙となる。1764年、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたがカントはこれを固辞。また、1769年にエルランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいかそれとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これらも断っている。  
1764年、『美と崇高なるものの感情にかんする観察』出版。  
1766年、『視霊者の夢』を出版。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている。  
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スエーデンボルグの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スエーデンボルグが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」  
他にいくつかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後、カントは引退までこの職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)をあらわす。前批判期のもっとも重要な著作の一つで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。  
大学教授としてのカントは、哲学のみならず、地理学、自然学、人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想のために同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。特にジョージ・バークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また、『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して誤解を解こうと努めた。  
カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。  
カントは哲学的論争の渦中にいたがその学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかし、プロイセン王立ベルリン・アカデミーにカントは招聘されなかった。  
カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。  
カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ、『単なる理性の限界内における宗教』をあらわしたが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また、学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮してこの発禁処分を受け入れた。  
1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの、著作としてまとめられることは遂になかった。彼は最期に末期の水がわりに砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) と言って息を引き取ったという。当時のドイツの哲学者は論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって大学葬がおこなわれ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在し、墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」(『実践理性批判』の結びより)と刻まれている。 
カントの思想  
概説  
一般にカントの思想はその3つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかし、カント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば、批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求にこたえようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。また、ドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわば、カントを克服しようとしたのである。カントの思想は以下の3つの時期に区分される。  
前批判期 / 『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで  
批判期 / 1768年-1790年。『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ  
後批判期 / 1790年-1804年。第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿『永遠平和のために』も書いた  
前批判期  
初期のカントの関心は自然哲学にむかった。特にニュートンの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの力学や天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。自然哲学においてはことに星雲による太陽系成立について関心を示した。またリスボン大地震から受けた衝撃から、若干の地質に関する論文を書いた。  
一方で、カントはイギリス経験論を受容し、ことにヒュームの懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、それを経験にもとづかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。  
また、カントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。  
こうして、知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きをあつかう『可感界と知性界について』が書かれる。この時点で後年の『純粋理性批判』の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。  
批判哲学  
従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味をさす。  
認識論  
カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。  
意識はその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが、少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念はいわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体と呼ぶ。  
いわゆる二律背反においては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し、反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停滞することは許さない規則である(『純粋理性批判』)。  
なお、『プロレゴメナ』によれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも、物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。また、経験に先行しこれを可能にする超越論的という概念はかりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的と呼ばれ、内在的すなわち経験内に限られた使用から区別される。  
倫理学  
理性概念が(直観を欠くために)理論的には認識されえず、単に思惟の対象にすぎないことが『純粋理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『実践理性批判』において考察されている。『実践理性批判』は、純粋実践理性が存在すること、つまり純粋理性がそれだけで実践的であること、すなわち純粋理性が他のいかなる規定根拠からも独立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。  
カント道徳論の基礎であるこの書において、人間は現象界に属するだけでなく叡智界にも属する人格としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。カントは、その物自体の叡智的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則として提出する。  
道徳法則は「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法として定式化される。  
カントは純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。道徳法則に人間が従うことができるということが、叡智界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。  
また、神・不死の理念は、有徳さに比例した幸福(すなわち最高善)の実現の条件として要請される。  
美学・目的論  
最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。またハンナ・アレント以降、『判断力批判』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・倫理学への関心を増した。とくにフランス革命にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。その道徳論は義務論倫理として現在の二大規範倫理学の一方をなしている。  
歴史哲学  
カントは人類の歴史を、人間が己の自然的素質を実現するプロセスとして捉える。人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。  
政治哲学  
『人倫の形而上学』の『法論』におけるカントは、自然法が支配し人々が物や人に対しての暫定的な自然権をもつという自然状態を想定し、その暫定的な権利を確定的なものへとするために各人は自然状態から抜け出し共通の裁判官を抱く国家を形成して社会状態へと移行するべきである(カントにおいてこれは義務である)とするロック的な社会契約説を展開している。しかし、国家は他の国家との間により上位の共通な権力を持たないために権利を巡った競合を繰り広げることになり、お互いに対してはなお自然状態にある。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことは人類にとっては現実には到達し得ないが到達すべきであるような理念である。カントは、この恒久的な平和状態へと近づくために、世界市民法と自由な国家の連合を構想している。『法論』や『永遠平和のために』で述べられているこの構想は、国際連盟結成の思想的基盤を用意した。「永遠平和のために」の中では当時の中国や江戸日本の対外政策を評価している。  
宗教哲学  
カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と徳の一致である「最高善」を可能にするために要請される。この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。  
人間学  
カントは、哲学には、「わたしは何を知ることができるのだろうか」(Was kann ich wissen?)、「わたしは何をすべきなのであろうか」、「わたしは何を望むのがよいのだろうか」、「人間とは何だろうか」という4つの問題に対応する4つの分野があるとした上で、最後の問題について研究する学を「人間学」であるとした。高坂正顕は、カント哲学の全体を人間学の大系であるとしている。  
地理学  
カントはケーニヒスベルク大学で1765年から自然地理学の講義を担当し、地理学に科学的地位を与えた。カントは地理学と歴史学の違いを場所的記述を行うのが地理学で、時間的記述を行うのが歴史学であるとした。この見解は後世の地理学者の常識となった。また、「道徳地理学」の講義では、日本とラップランドで親殺しをした子に対する刑罰が異なる、具体的には日本では子の家族もろとも極刑に処されるが、ラップランドでは働けなくなった父を殺すことは母が子を扶養するならば許される、という事例を用いて、地理的環境が異なれば倫理や道徳も異なると説いた。 
神の存在証明  
存在論的証明 / アンセルムスの証明(『プロスロギオン』)  
「愚かな者は心のうちで神はないと言った」(詩篇)  
しかし、<それより大いなるものは何も考えられないもの>と言われれば、彼もこれを知解するであろう。それが存在することを彼が知解しないとしても、彼の知性の中には存在している。ところで、<それより大いなるものは何も考えられないもの>が、知性のうちにしか存在しないと考えることは、不可能である。なぜなら、知性のうちにだけ存在するとすれば、それはまた事象のうちにも存在すると考えられるからだ。その方がより大いなるものなのだから。  
形而上学的証明・自然神学的証明(目的論的証明) / アリストテレスによる証明  
この世界には、秩序や目的がある。これを造ったものが世界創造者である神に他ならない。  
形而上学的証明・宇宙論的証明 / 世界の偶然性による証明(ライプニッツ)  
もし何か或るものが実在するならば、絶対的に必然的な存在者もまた実在しなければならない。ところが、少なくとも私自身は実在する。ゆえに絶対的な存在者もまた実在する。  
アリストテレスおよびトマス=アクィナスによる証明  
この世界の中で何かが動いているということは、確実な事実である。動いているものはすべて、他者によって動かされている。動かされているものは、最終的には、自らは動かず他を動かすもの(不動の動者)すなわち神によって動かされている。  
(注)「動く」というのは、通常我々が理解する、場所の移動ではなく、むしろ、一粒の種が木や花や実になるような、生成変化の動き(可能態から現実態への運動)を意味する。従って、神は全ての「運動」の目的(=原因)でもある。  
カントの批判  
カントがここで主張しているのは、神は存在しないということではなく、神の存在を証明するのは不可能だということである。(これは逆に言えば、神が存在しないことを証明するのも不可能だ、ということだ。)カントは、後に、『実践理性批判』のなかで、実践の立場から、神の存在を要請し、さらに『判断力批判』のなかで、自然の合目的性について、肯定的に論じている。つまり、学問的には神の存在を証明することは不可能だが、もし神が存在しなければ、我々の正しい行動も、秩序正しい認識も根拠を失う、だから神は存在するはずだ、という立場を取っている。(これは、ウィトゲンシュタインの有名な、「語りうることは明晰に語りうる。語りえないものについては、沈黙しなければならない。」という命題と、非常によく似ている、と言うか、同じだ。) 
二律背反(アンチノミー)  
カントが挙げているアンチノミーには、四つがある。  
1 世界は有限(時間的、空間的に)である / 世界は無限である。  
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている / 単純なものなど存在しない。  
3 世界には自由な原因が存在する / 自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。  
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する / 必然的な存在者など存在しない。  
「世界は時間において始まりを持ち、空間からみても限界に囲まれている。」というテーゼ(の前半)の証明は、次のようにして(背理法を用いて)行われる。「なぜなら、世界が時間において始まりを持たないと仮定せよ、そうすれば、与えられたどの時点までにも永遠が経過し、従って世界における諸事物の次々に継起する諸状態の無限の系列が流れ去ったことになる。しかしながら、系列の無限性というのは、継続的な総合によっては決して完結されえないという点にその本質がある。それゆえ、無限の流れ去った世界系列というのは不可能であり、よって、世界の始まりは世界が現に存在するための必然的な条件である。これが最初に証明されるべきことであった。」(注)  
逆に、「世界は始まりを持たず、空間においても限界を持たない。時間という点からみても、空間という点からみても、無限である。」というアンチテーゼ(の前半)の証明も、次のようにして行われる。  
「なぜなら、世界が始まりを持つとしてみよ、そのときには、始まりというのは一つの現存在なのだから、それ以前に、物が存在していない時間が先立っていたことになるが、そうすれば、世界が存在していない時間が、つまり空虚な時間が先行していたことになる。しかしながら、空虚な時間においては何らかの物が発生するのは不可能である。……それゆえ、世界においては諸物の多くの系列が始まりうるが、世界そのものはいかなる始まりも持ちえない。それゆえ、世界は過去の時間という点からみて無限である。」  
従って、カントによれば、正反対の結論が、どちらも証明され、どちらも否定されることになる。言い換えれば、「世界は無限だ」と仮定したら、その逆の「世界は有限である」という命題が証明され、「世界は有限だ」と仮定したら、その逆の「世界は無限だ」という命題が証明されることになる。  
この矛盾の原因はなにか?  
簡単に言ってしまえば、時間と空間というのは、それを介して対象が我々に与えられる感性の形式にすぎないのに、それを実在する対象の形式と思い誤ってしまう点に、こうした矛盾が生じる所以があるのである。つまり「無限」を「実無限」として理解したらダメだということである。こうして、カントは、自らの立場を、「超越論的観念論」と呼ぶことになる。  
(注)「無限」という言葉の意味が、現代の用法とは違うからです。カント(あるいはカントが批判している形而上学者たち)は、「無限」という言葉を、文字通り、「終わりのない」=「どんな限界(制約)も持たない」という意味で使っています。そういう意味では、ある時点で(その時点で終わっていますから)「無限の世界系列が流れ去った」というのは、矛盾しているわけです。  
 
ラヴォアジェ「化学要論」初版 2巻 1789年

 

Lavoisier, Antoine Laurent.(1743-94)  
Traite elementaire de Chimie, presente dans un ordre nouveau et d'apres les decouvertes modernes.  
ラヴォアジェは、フランスの化学者。パリに生まれマザラン大学を卒業後、法律を学んだが、次第に科学に興味を覚え、天文学、植物学、鉱物学等を修め、化学はエルに師事した。硫黄、燐が燃焼により重量の増すことを確認して以来、気体と燃焼の研究に専心し、金属灰が金属と大気中の呼吸しうる部分との結合によることを証明した。また有機化合物の元素分析法の原型を立てた。これらの研究により、新しい合理的な化学の体系が確立され、現代まで続く近代化学の出発点となった。 
アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ  
(Antoine-Laurent de Lavoisier、1743-1794) フランス王国パリ出身の化学者。質量保存の法則を発見、酸素の命名、フロギストン説を打破したことから「近代化学の父」と称される。  
1774年に体積と重量を精密にはかる定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見。また、ドイツの化学者、医師のゲオルク・シュタールが提唱した当時支配的であったフロギストン説を退け、1774年に燃焼を酸素との結合として説明した最初の人物で、1779年に酸素(実際は水素イオン)を「oxygène」と命名した。  
しばしば酸素の発見者と言及されるが物質としての酸素自体の発見者は1775年3月にイギリスの自然哲学者、教育者、神学者のジョゼフ・プリーストリーに優先権があるため、厳密な表現ではない。なお、化学史的に酸素の発見者はプリーストリーである。 
出生から学生時代  
1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の元に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃に母を失い叔母の元で育てられた。  
1754年より1761年までマザラン学校で化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。修辞学や哲学に於いてその後は父の職を継ぐべく法律家を目指した。  
1761年からはパリ大学法学部に進学して1763年(あるいは1764年)に弁護士試験に合格して高等法院法学士となるが在学中に同国出身の天文学者であるニコラ・ルイ・ド・ラカーユ、博物学者のベルナール・ド・ジュシューからは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった博物学者、鉱物学者のジャン=エティエンヌ・ゲタール(フランス語版)からは地質学と鉱物学を、化学者のギヨーム=フランソワ・ルエル(フランス語版)からは化学を学んで自然科学に興味を持つようになる。また、法学部に在籍しているにも関わらず化学の講義を聴講したり、ゲタールと共にフランスの地質図作成に協力した。  
その後もゲタールとアルザス=ロレーヌなど旅行して各地を回った際、各地方の石膏に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエが最初の研究であった。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべく定量実験の兆しである推測ではない確実な実験が重視されている。 
フランス科学アカデミー入会から結婚  
1766年にフランス科学アカデミーが『都市の街路に最良な夜間照明法』についての論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にも関わらず1766年4月9日に1等賞を得た。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた飲料水の分析した結果を発表して1768年5月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。この頃よりイギリスの化学者、物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュが水素を発見し、水や燃焼に興味を示して同年末から翌年1769年にかけて行われた水をガラス容器に入れて101日間も密閉する「ペリカンの実験」で水が土に変わるとされる四大元素説を完全に覆した。  
1768年頃よりラヴォアジエ裕福な生まれだったにも関わらず、実験器具を買う費用が必要だったことから、市民から税金を取り立てて国王に引き渡す徴税請負人の職業に就き、資産を有効に運用しようとした。  
1771年12月6日、徴税請負人長官のジャック・ポールズ(Jacques Paulze)の娘であるマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ(フランス語版)とパリにあるサンロック教会(フランス語版)で結婚する。二人の間に子供はできなかったものの妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと英語、ラテン語、イタリア語を学び、系統学的な化学や絵画の描き方などを習得。そしてアイルランドの科学者であるリチャード・カーワンやプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した。 
様々な実験から『化学命名法』出版まで  
1772年頃には貴族の地位を買収。1775年頃は火薬管理の監督官となり、1776年以来、砲兵工廠で大砲用の火薬を改良し、硝石の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた。そして火薬に炭酸カリウムを入れると火力が上がることを発見して農家に報酬金を支払うことで硝石を作らせた。このようにラヴォアジエは農業にも関心を示し、後に王立農業学会、フランス政府の農業委員会に加わることとなった。  
1774年1月に上記の「ペリカンの実験」より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し質量保存の法則を発見。同年に燃焼を酸素との結合として説明した。なお、ラヴォアジエは1773年2月20日付けの実験ノートに「化学に於ける革命になる」と書いた。  
1774年4月にはレトルトに錫を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、アイルランドの貴族、化学者のロバート・ボイルが提唱した「火の粒子(フロギストン)」が存在しないことを解明。同年の11月12日にフランス科学アカデミーで発表した。なお、同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れ、水銀灰を加熱すると気体が出てくる話を聴いた。その後ラヴォアジエは水銀を12日間加熱し、燃焼は酸素と物質が結合することを発見したが、スウェーデンの化学者、薬学者のカール・ヴィルヘルム・シェーレが1773年頃に未発表ではあったものの「痛んだ空気」を発見していた。  
1777年に燃焼が物質と酸素が結合することであると説明し、1779年に酸素(実際は水素イオン)を「oxygène」と名付けた。  
1781年にキャヴェンディッシュが水素と酸素を混ぜて水ができた実験に関心を示したラヴォアジエは1783年にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水が元素でないことを証明し水素を「hydrogène」と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然に完全否定するようになった。 1782年から翌年の1783年にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者であるピエール=シモン・ラプラスと共に氷熱量計を作り、1777年に実験していた動物の呼吸は一つの燃焼であることをを裏付けた。  
1787年、ラヴォアジエは同国出身の化学者、医師のクロード・ルイ・ベルトレー、ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー、アントワーヌ・ド・フルクロワ(フランス語版)と共に新しい化学用語が書かれた『化学命名法』を著す。物質の命名法を確立し、元素を定義付け、また、水の成分が酸素と水素であることを発表した。ただ、これはラヴォアジエに先立って・キャヴェンディッシュが既に発見していたが、かなりの変人で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。  
同年の1787年はラヴォアジエの所有地であるオルレアンの地方議会で第三階級代議員として務めていた。 
『化学原論』出版から処刑まで  
1789年、『化学原論(Traité élémentaire de chimie)』を出版し、33の元素表を示し、近代化学の革命を成し遂げた。13個の図版はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は塩基や酸、塩に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある。因みに『化学原論』は出版からその後の10年間、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた。なお同年、ラヴォアジエは新たに窒素をギリシア語の生命がないと言う意である「azotikos'」に因んで「azote」と名付けた。  
同年の1789年にフランス革命が勃発。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。1790年には各温度を測り、体積の蒸留水の質量を測定して新しい質量の単位を決議するため新度量衡法設立委員会の委員を務めた。この頃の実験は呼吸と燃焼の関係性を調べる化学ではなく生理学的な実験に移っていった。  
1791年に徴税請負制度が廃止されたが、ラヴォアジエの実力が当時フランスの国王であったルイ16世に信頼されて国家財政委員に任命された。その後フランスの金融や徴税制度を改革しようとした。  
1792年、ラヴォアジエは実験に専念するために政府の職業を全て辞任して住居を引っ越した。しかしフランス革命に押されてフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わってしまった。  
フランス革命勃発後の1793年11月24日に革命政府が徴税請負人を市民から正規の税に加え、高額な手数料をとったため敵視し、全ての徴税請負人が指名手配された。その後ラヴォアジエは自首し、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に投獄された。だがラヴォアジエ自身はそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた。  
1794年5月8日の革命裁判所の審判で「水と有害物質をタバコに混入した」との架空の罪で死刑の判決が下った。しかしラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を弁論したが「共和国に科学者は不要である」と裁判長に指摘され、その日の内にコンコルド広場にあるギロチンで処刑された。  
ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあったジャン=ポール・マラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって(定量実験をモットーとするラヴォアジエによれば「実験もせず憶測の内容であったため」)却下されたことの逆恨みによるものであるとも伝えられている。  
同国出身の天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とラヴォアジエの才能を惜しんだ。  
なお、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行なったという話があるが、ラヴォアジェの処刑は35分間で28人を処刑する流れ作業の途中で行われ、当時実際に死刑に立ち会った人の記述にそのような話はなく、ボーリュー医師の1905年の論文をもとに1990年代以降創られた都市伝説と考えられる。  
 
 
ジェンナー「牛痘の原因および効能に関する研究」初版 1798年

 

Jenner, Edward.(1749-1823)  
An inquiry into the causes and effects of the variolae vaccinae.  
ジェンナーは、イギリスの医者で種痘法の発見者。18世紀のヨーロッパでは、天然痘はもっとも恐ろしい病気の一つとされ、1年間に60万人にものぼる死者を出していた。牛痘にかかった人は天然痘にかからないという酪農婦の体験に注目し、天然痘予防のための牛痘接種法を発明し、近代免疫学、予防医学の基礎を築いた。彼は、8歳のフィリップスという男児に最初の予防接種を試み、更にこの少年に真性の痘瘡毒を接種して完全に予防できることを証明した。ジェンナーはこの結果を本書にまとめて王立協会に提出したが、有害論者も多く受理されなかったため、自費で出版した。手彩色の銅版図版4枚入り。  
 
 
マルサス「人口論」初版 1798年

 

Malthus, Thomas Robert.(1766-1834)  
An Essay on the Principles of Population.  
マルサスは、イギリスの古典派経済学者。「人口論」は当時思想界に君臨していたルソー、ゴドウィン、コンドルセらの見解を否定するため、匿名で出版されたものである。原題は「人口の原理に関する1試論、この原理が将来の社会の改善に及ぼす影響、ならびにゴドウィン氏、コンドルセ氏およびその他の著述家たちの思索に対する批評」である。マルサスの人口理論は、その当時のあらゆる経済学者が同意した生存費賃金説(高賃金は人口増加を刺激するので、賃金というものは常に労働者の生存に必要な水準へ下落する傾向がある)を合理的に説明した。しかし、彼が批判した論述家たちの攻撃は激しく、そのためマルサスは生涯にわたって本書を改訂し続けなければならなかった。 
『人口論』1  
(An Essay on the Principle of Population) トマス・ロバート・マルサスによる人口学の古典的著作である。この著作の正確な題名は、初版と第二版以降で以下のように異なる。  
初版:『人口の原理に関する一論 ゴドウィン氏、コンドルセー氏、その他の諸氏の研究に触れて社会の将来の改善に対する影響を論ず(An Essay on the Principle of Population, as it affects the future improvement of society, with remarks on the speculations of Mr. Godwin, M. Condorcet and other writers.)』  
二版以降:『人口の原理に関する一論、または人類の幸福に対する過去および現在の影響についての見解:人類の幸福に対する影響を引き起こす悪徳の将来の除去や緩和についての見通しの研究による(An Essay on the Principle of Population, or, a View of its past and present effects on human happiness : with an inquiry into our prospects respecting the future removal or mitigation of the evils which it occasions.)』  
著者のトマス・ロバート・マルサスは古典経済学の発展に寄与した経済学者であった。1766年2月13日に牧師の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学で学んだ。1798年にマルサスは『人口論』を執筆した当時、イギリスではフランスとの戦争や物価の高騰などの経済問題が出現しており、対策として救貧法改正の是非が議論されていた時期であった。またフランス革命の影響で、ウィリアム・ゴドウィンらの啓蒙思想家により、社会改良による貧困や道徳的退廃の改善の実現が主張されていた。このような情勢の中でマルサスは人口の原理を示すことで理想的な革新派を批判しようとした。  
初版は匿名で出版され大きな反響を呼んだ。1803年には大幅な訂正や増補を加えて、著者名を付けて第二版を出版した。以後、版を重ねるごとに増補を加えて1826年に出した最後の第六版では初版の約五倍の語数に達している。  
ケインズは、マルサスの評伝の中で、初版を「方法において先験的かつ哲学的、文体は大胆にして修辞的、華麗な言い回しと情緒に富んでいる」と評したが、第二版以降は「政治哲学は経済学にその席をゆずり、一般原理は社会学的歴史の先駆者による帰納的検証に圧倒され、青年の頃の輝かしい才気と盛んな意気は消えうせている」と記述した。  
人口の原理  
まずマルサスは基本的な二個の自明である前提を置くことから始める。  
第一に食糧(生活資源)が人類の生存に必要である。  
第二に異性間の情欲は必ず存在する。  
この二つの前提から導き出される考察として、マルサスは人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しない、という命題を示す。  
人口は制限されなければ幾何級数的に増加するという原理は理論上における原理である。風俗が純潔であり、生活資源が豊富であり、社会の各階層における家族の生活能力などによって人口の増殖力が完全に無制限であることが前提になっている。この理論的仮定において繁殖の強い動機づけが社会制度や食料資源によって一切抑制されないならば、人口増は現実の人口状況より大きいものになると考えられる。ここでマルサスは米国において、より生活資源や風俗が純潔であり、早婚も多かったために、人口が25年間で倍加した事例を示し、この増加率は決して理論上における限界ではないが、これを歴史的な経験に基づいた基準とする。そこで人口が制約されなければ25年毎に倍加するものであり、これは幾何級数的に増加することと同義である。  
生活資源は算術級数的にしか増加しないという原理は次のような具体的な事例で容易に考察できる。ある島国において生活資源がどのような増加率で増加するのかを考察すると、まず現在の耕作状況について研究する必要がある。もし最善の農業政策によって開拓を進め、農業を振興し、生産物が25年で2倍に増加したという状況を想定する。このような状況で次の25年の間に生産物を倍加させることは、土地の生産性から考えて技術的に困難であると考えられる。つまりこのような倍加率を指して算術級数的な増加と述べることができる。この算術級数的な生活資源の増加は人口の増加と不均衡なものであると考えられる。  
貧困の出現  
次にマルサスはこのような人口の飛躍的な増加に対する制限が、どのような結果をもたらすかを考察している。動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。人口増の制限は人口の現状維持であり、人口の超過分の調整ではない。  
このような事実から人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。なぜなら人口が多いために労働者は過剰供給となり、また食料品は過少供給となるからである。このような状況で結婚することや、家族を養うことは困難であるために人口増はここで停滞することになる。安い労働力で開墾事業などを進められることで、初めて食料品の供給量を徐々に増加することが可能となり、最初の人口と生活資源の均衡が回復されていく。社会ではこのような人口の原理に従った事件が反覆されていることは、注意深く研究すれば疑いようがないことが分かるとマルサスは述べている。  
このような変動がそれほど顕著なものとして注目されていないことの理由は歴史的知識が社会の上流階級の動向に特化していることが挙げられる。社会の全体像を示す、民族の成人数に対する既婚者数の割合、結婚制度による不道徳な慣習、社会の貧困層と富裕層における乳児の死亡率、労賃の変化などが研究すべき対象として列挙できる。このような歴史は人口の制限がどのように機能していたのかを明らかにできるが、現実の人口動向ではさまざまな介在的原因があるために不規則にならざるをえない。 
『人口論』2  
人間は必ず死ぬ。生きる時間が有限であり、その終着点に希望がないことが、かえって人間の生活を幸福にさえするのだ。マルサスの人間観というのは一言でいえばこう要約することができる。今日、人口法則の名称で有名なマルサスは、他方で安易な啓蒙思想、人間の完成可能性に冷水を浴びせたことで、経済思想の歴史の中で孤絶とでもいっていい地位を占めている。  
マルサスの反啓蒙的な立場が際立っているのが、その天才的な処女作『人口論』であるのは言うまでもない。マルサスは個々の人間の将来の絶望ゆえの幸福とでもいう「逆説」を、人類全体に適用した。彼は人類の特徴のうち二点にまず注目する。ひとつは人間の生存に食物の摂取が必要であること、もう一つは男女の性的な欲望が非常に強いことである。この公準を前提にすると、マルサスは人間性の改善や生活の豊かさが続くことは想定できないと指摘した。  
まず性的の欲望の強さは、人口を増加させる。この増加は等比数列的なスピードであり、世界人口を10億とすれば、それは25年ごとに倍増し、その比率は1,2,4,8、‥‥となるだろう。それに対して土地からの農産物の収穫は次第に逓減していき、その収穫量は等差数列的なスピード(1,2,3,4、‥‥)でしか増加しないだろう。そうなると、人口の増加率が食糧の生産増加率を上回り、やがて人口を養うだけの食糧よりも、人口そのものの方が上回ってしまうだろう、とマルサスは指摘した。  
マルサスの予言は非常に悲観的なものであり、この人口を養えるだけの食糧生産の壁に、人口が突きあたるたびに、人類は「積極的制限」を採用していたという。それは死亡率の増加に顕著に示される。特にマルサスは社会の下層階級の状況に注目している。マルサスのいう人口の「積極的制限」とは、下層階級の子供たちが栄養不良、健康状態の不良などの困窮から早期に死亡してしまうことに特に注目したものである。対して「予防的制限」については、『人口論』の度重なる再版の過程で、記述が詳細にはなっていくが、この初版ではほとんど言及されていないに等しい。なおマルサスは「予防的制限」にとしては、性行為の自制、避妊、婚期を遅らせることなどを説いている。しかしこれらはあくまでも対処療法であり、マルサスは人口法則からくる「陰うつな予測」を基本的に修正することはなかった。  
さてマルサスの人口法則は、今日のワーキングプア問題を考えるときにもひとつの論点を提起しているといえる。マルサスは当時のイングランドの救貧法の諸政策、さらには富裕な階級から貧困階級への所得再分配にも、それが貧しいものの状態をさらに悪化させると同時に、さらには国民全体の生活まで脅威になると説いた。  
例えば貧困階級への食糧援助を考えてみる。より多く食糧を得たことで貧困階級の人口が増加するだろう。そうすると以前よりも国民全員がより少ない食糧を分かち合わなければならなくなるだろう。つまり貧民の生活を改善することが、結局は貧民自身はもちろんのこと国民全体の生活の水準を押し下げてしまう。この点は『人口論』の初版から、彼の経済学的処女作である「食料高価論」(1800年)で、救貧を目指した食料援助が、食品の高価格をもたらすという議論に発展することになる。  
またマルサスは富裕な者から貧しい者へ再分配によって、それは勤労から他者への依存への再分配でもあるとも指摘している。貧しい者に所得を移転しても彼らは居酒屋で消費してしまい、国民全体の貯蓄を損なうだろう、というのがマルサスの所得分配論の核心であろう。この貧者への所得再分配が、勤労を損ない、貯蓄を減少させることで、経済成長を抑制するという議論は今日までなんらかの形で継続している議論のあり方である。  
このマルサスの『人口論』はアダム・スミスの経済成長論への反論を意図してもいた。マルサスによればスミスは一種の「トリックルダウン」理論を説いたとみなしている。つまり社会の富の増大が貧困階級の生活も改善するだろう、ということである。しかしそのような改善の可能性はないことはマルサスの人口法則の適用からすれば自明だろう。食料生産が一定ならば、富の増大は、貧困階級の人々の生活必需品や慰安品に対する購買力を低めてしまう、とマルサスは書いている。また工業化や商業化に対してもマルサスは悲観的である。工業化や商業化することが、労働を維持するための基金(マルサスによればそれは農業生産物そのものだろう)は停滞するか減少してしまうだろう。農業に特化する国は人口の増加が速く、商業や工業に特化した国は人口が停滞的であるだろう。しかしどの特化のパターンであってもやがてマルサスの人口法則が適用されるかぎり、その結果は人類に「陰鬱な予測」を提供するものにしかすぎないのである。  
では冒頭に戻って、このような一種のディストピア的世界観の中で、マルサスはどんな幸福観を語りえたのだろうか。マルサスは悲惨な状況が刺激になることで社会的な共感や、自分を道徳的な害悪を削減しようという動機が芽生えると説いてるようだ。悪や悲惨あってこその善と幸福とでもいうべきなのだろう。今日、マルサスの人口法則はそのままの形では維持できない。また彼の所得再分配論やその人間観についても議論百出のままだともいえる。マルサスは他にも『経済学原理」で恐慌の理論を展開している。それは今日の長期停滞論の起源として返り見る必要があるだろう。それについてはまた機会を改めたい。 
まちがった預言者マルサス  
悲観的な司祭にして初期の政治経済学者は、いまも昔もまちがっている 
食料価格の驚くほどの高騰は、多くの国で暴動や不穏を生み出し、アメリカやヨーロッパの比較的裕福な人々ですらその影響を身をもって感じるようになっている。おかげで、グローバル市場が世界 70 億人の腹を満たせるという信頼は揺らぎ始めている。慢性的な不足の時代が始まったのではないかという恐れが生じた結果として、トマス・マルサスの名前が再び出回るようになってきた。でもかれの見方がいまになって当てはまるようになったとしたら、それは過去二世紀の経験とまるで相容れないものとなる。  
マルサスが初めてその発想を公にしたのは、1789 年の『人口論』でのことだった。これは人間の人口成長と、食糧供給の増加という悲劇的な二つの軌跡を根拠にしていた。人口はそのままだと無限に増える傾向にあるが、食糧供給は有限な土地という制約に直面してしまう。結果として、飢餓や病気、戦争による高い死亡率という「正の制約」が、食料供給能力に見合った水準に人々を保つために必要となるのだ、というのがかれの議論だった。  
1803 年の第二版では、マルサスは元々の厳しいメッセージを少し和らげて、道徳的な節制の概念を持ち込んだ。こうした「予防的な制約」は、死亡率より出生率を通じて、多すぎる人口が少なすぎる食料を追い求めるという逃れようのない論理に対抗できるかもしれない。晩婚化と少子化によって、人口成長は十分に抑えられて農業が対応できるようになる。  
マルサスにとって不運なことに――だが後続世代にとってはありがたいことに――マルサスがこれを書いたのは歴史の転換点だった。かれの発想、特に第二版のものは、工業化以前の社会の記述としては正確と言えるかも知れない。前近代社会は確かに、空腹と満腹の間で危ういバランスを維持していた。でも当時すでにイギリスで始まっていた産業革命は、経済成長の長期も通しを一変させつつあった。経済は人口成長より急速に拡大しはじめ、生活水準を持続可能な形で向上させていったのだった。  
食料はマルサスが恐れたように不足するどころか、貿易の拡大と、アルゼンチンやオーストラリアのような低コストの農業生産国が世界経済に加わるにつれて、むしろ豊富になっていった。きちんとした政治経済に基づく改革も重要な役割を果たした。特に、1846 年の穀物法廃止は、イギリス労働者たちが安い輸入食料の恩恵にあずかる道を開いた。  
マルサスは、経済的な予測もさることながら人口予測もまちがえた。豊饒の時代にも人口が成長し続けるというかれの想定はまちがっていた。ヨーロッパを皮切りに、一国、また一国と、あちこちで経済発展にともなう繁栄につれて「人口転換」が起こった。出生率と死亡率はどちらも下がり、人口成長もやがて遅くなっていった。  
マルサスの異端の説が再びもちあがったのは 1970 年代初期、最後に食料価格が高騰した時だった。少なくとも当時は、人口的な警鐘はそれなりの根拠があるように見えた。第二次大戦後に人口成長率は急激に上昇した。発展途上国の高い出生率が、幼児死亡率の激減に追いつくほど下がるのに時間がかかったからだ。でもこのときも、人口過剰に対する心配は杞憂だった。「緑の革命」やその後の農業効率の改善が食料生産を大幅に増やしたからだ。  
世界の人口成長は、40 年前に 2% でピークを迎えた。その頃にすらそれが心配すべき問題ではなかったのなら、現在それが 1.2% に低下している以上、なおさら心配には値しない。でも人口そのものが心配の種にはならないにしれも、特にアジアなどの急激な経済成長に伴うライフスタイルの変化は懸念のタネだ。中国人は豊かになるにつれて肉の消費量も増えてきた。ウシは人よりもたくさんの穀物を必要とするので、基本食料の需要は増えてきた。ネオマルサス派は、世界が西洋式の食生活を持つ 67 億人の人口(2050 年には 92 億人)を養いきれるだろうかと心配する。  
ここでも、懸念はあまりに悲観的だ。最早 19 世紀のように入植して開墾すべき処女地はないかもしれない。でも農業生産性が頭打ちになったと考えるべき理由はない。次の「緑の革命」に対する大きな障害の一つは、遺伝子組み換え作物に対する無根拠な人々の不安であり、これがヨーロッパだけでなく、これを輸出増に使える発展途上国の生産すら押さえ込んでしまっているのだ。  
幾何級数的に増えているのは政治的愚行だ  
ありがちなことだが、政府がこれをさらに悪化させている。食糧禁輸がどんどん拡大しているのだ。こうした対策は一時的にはその国に救済をもたらすかもしれない。でもそれが広まるにつれて世界市場は厳しくなる。もう一つ見当違いな政策としては、アメリカが国内のエタノール生産に補助金を出して、輸入原油への依存を減らそうとすることだ。需要に対応するよりも燃料を増やそうというこの筋違いな政策は、今年のトウモロコシ生産の三分の一を吸い上げてしまうと予想されている。  
ネオマルサス派はもちろん食料不足についてあれこれ言い分はあるだろう。でもこの教義は、資源やエネルギーの絶対的な制限という発想としてあらわれることが多い。たとえば「ピークオイル」の発想などだ。1970 年代初期の脅しの後で、石油会社は追加の油田を見つけて悲観論者たちの裏をかいた。これは、原油価格高騰が新しい油田探索をうながしたからという理由も大きい。でも油田が涸れたとしても、経済は新しいエネルギー源を見つけて活用することで適応できる。  
もっと新しいマルサスの限界論は、地球温暖化に対抗すべく温室ガス排出を抑えるべきだという議論として登場している。でもこれまた低炭素経済の移行で対応可能だ。農業と同じく、これに必要な調整を困難にしているのは、政府が炭素税を導入したがらないといった政策的な欠陥だ。従来型の成長には制約があっても、人々の創意工夫には制約などない。だからこそマルサスは二世紀前もまちがっていたし、いまなおまちがっている。 
マルサス人口論に関する人口波動論的解釈への批判的検討  
マルサス『人口論』初版は、冒頭で明言しているようにゴドウィンの平等社会論への批判をその目的としている。主題は「人口はつねに生活資料の水準に押しとどめられなければならないこと」と明示されている。  
そこでマルサスは人口と食糧の増加的比率の差異を主張し、人口・食糧の増加比率差異こそがマルサス「人口原理」である―とマルサスと同時代の識者たちは考えた。彼らが人口原理を人口・食糧の増加比率差異として捉えたのには無理がなかった。なぜなら、マルサスは「人口(増加力)と土地の生産(力)との、二つの力のこの自然的不平等」に比べれば、その他の論点は「些細な副次的な問題である」ともしたからである。  
マルサスは人口に関する「二公準」「三命題」を提出した。以下、初版に示された「公準」からみてみよう。「第一、食糧は人間の生存に必要であること」「第二、両性間の情念は必然であり、ほぼ現在の状態のままであり続けると思われること」マルサスは上記二公準から「三命題」を引き出した。以下は六版。  
1「人口は必ず生存資料によって制限される」  
2「人口は、あるきわめて強力かつ明白な妨げによって阻止されなければ生存資料があるところではつねに増加する」  
3「これらの妨げ、および優勢な人口増加の力を抑圧し、その結果を生存資料と同じ水準に保つ妨げは、すべて道徳的抑制、罪悪および窮乏に分解することができる」(周知のように 「道徳的抑制」に関しては第2版から加筆された)。  
マルサスは「人口増殖原理」と「生存資料によって規制される人口」(規制原理)は均衡化すると考えた。「規制原理」は南の造語である。  
だがマルサスが人口問題を論じるにあたり、「規制原理」の発現に関心を寄せていたことは間違いなく人口に対する「妨げ」論に結びついている。実際、マルサスは「必要という緊急の、広く行き渡った自然の法則が(動植物の数)を一定の限度内に抑制する。植物の類も動物の類もこの偉大な制限法則の前で萎縮する(動植物の数) は筆者」。)と述べている。  
人間も、その制限法則から逃れることはできない―としている。従って、南が言うように、マルサス「規制原理」は「人口は食糧の水準に引き戻される」原理であるとするのは妥当であるといえよう。その具体的「作用」として働くものとして、死亡率に関する積極的抑制と予防的抑制をマルサスは挙げた。  
マルサスによれば「増殖原理」、「規制原理」の相互作用が生じることで「幸福と悲惨とが交互に現われるひとつの波動運動」がうまれることになる。  
これが、南氏の論じるところの、マルサス人口波動論と称されるものである。  
経済的な豊かさ・貧困と人口の増加・減少関係として生じる運動、人口の「増殖」、「規制」という二原理の交互作用から人口は不断の振動の中に自己をおくものとならざるを得ず、増加・減退、進転・逆転の波動を反復するマルサスは考えた。  
南は、この波動運動を「人口擺動の理論」と呼び、マルサス人口論の本体であるとした。  
そして「動態的・発展史的な人口擺動の周期性」がマルサス理論の頂点であると捉えた。  
南のマルサス人口原理解釈に、森下氏は疑問を差し挟んでいる。マルサスの場合、「増殖原理」という語句の用法は実に多様であり、必ずしも南の言う意味での「増殖原理」とマルサスのそれが一致していないということが森下の南批判の論拠であった。また、中西氏は南を次のように批判する。  
すなわち、南は「波動運動」を「増殖原理」と「規制原理」の「交互作用の結果としてしか考慮しなかった」と。人口原理と経済的考察を結びつける契機を見落としたと批判する。森下・中西の批判は妥当であると本稿も同意する。  
我々は、こうした諸見解をもとに、マルサス人口原理・人口理論は本来どのようなものであったかを再検討する必要がある。そこで、その人口原理を引き出すことになったマルサスの人口命題がどの様なものであったのかを知らなければならない。  
ところが、マルサス「人口の原理」とは何であるか―という問いについて、はっきりと定まった見解は未だにないようである。というのもマルサスが人口原理という言葉を様々な意味で用いたからである。従ってマルサスの思想の核である「人口原理 principle of population」が何を示しているかを巡っては様々な解釈が提示されてきた。だが、不思議なことに1798 年『人口原理に関する一論 An essay on the principle of population』が出版された当時のイギリスでは、マルサスに向けて数多くの批判があらわれはしたが「人口原理」解釈自体を巡る議論はほとんど生じていない。実際、マルサス『人口論』初版の目的のひとつはゴドウィン批判にあったにも関わらずゴドウィン[1801,71-3]は次のように述べている。  
「わが著者〔マルサスのこと〕の労作の論拠たる人口と食糧の比率は論争の余地のないものであり、また経済学という科学にとって価値ある収穫物をなすものと私は考える」  
ゴドウィンはマルサスの示した人口の原理を人口と食糧の比率の差異と捉えたことについて異論を提示してはいない。ゴドウィン「人口原理」批判は、例えば人口原理の例証をマルサスがアメリカの事例に求めたのに対し、ゴドウィンはスウェーデンの事例を用いて批判したことであろう。  
人口は生存手段よりも速く増加する傾向がある―というマルサスの見解に対して、シーニアは、それは特別な事情のもとでおこることであり、マルサス人口原理は一般的命題にはなりえないと批判した。シーニアの見解は、食糧は人口よりも速く増加する傾向がある―という点にあった3。シーニアのマルサス批判は、マルサス「人口原理」そのものと、人口原理解釈に踏み込んだ点で他のマルサス批判者とは一線を画すものであったが、マルサス「人口原理」自体を追求してはいない。  
マルサスと数多くの論争を繰り返したリカードウにあってはマルサス「人口原理」を積極的に自らの経済学的体系に取り入れた。マルサス人口原理は、同時代の人々にあってはほぼ共通し人口と食糧の比率の差異として認識されていた。こうした常識的見解ともいえるマルサス「人口原理」解釈に異を唱えたのが、南亮三郎であった。本報告でも検討するように南は独自のマルサス「人口原理」解釈を提示し、日本人口論史の礎をつくった。  
近年、中西は南亮三郎と吉田秀夫のマルサス『人口論』解釈を対比し詳細な検討を行っている。その上でマルサス『人口論』解釈として南理論の不整備を中西は指摘している。  
筆者は以前、『人口論』と『経済学原理』における「価値論」領域の接点に関して若干の考察を行った。そこで筆者はマルサスの人口学的考察と経済学的考察は分断し理解するのではなくマルサス体系として統一的に捉えるべきであると考えている。従ってマルサス経済体系を理解するに当たり、マルサス人口原理をどのように受け止め・どのように定式化するべきか―は非常に重要な課題である。  
『人口論』と『経済学原理』の接点を論じたものでは、例えば人口=需要、食糧=供給という図式がある。だが、人口原理に関して十分な遡及がなされていない。  
本報告の狙いはマルサス「人口原理」再検討をすることにある。  
南理論・中西論を通じて考察することにある。南は人口原理を人口波動論へ昇華させ、人口原理=人口波動論とした。だが、筆者は人口原理≠人口波動論と考えている。  
この点は、中西論に同意している。すなわち、人口原理は人口波動論のことを示してはいない。  
しかしながら、中西論に見られる人口波動論からマルサス「食糧先行論」を汲み取る見解には同意することはできない。「食糧先行論」は人口原理中からの解釈であり、人口波動論ではむしろ人口先行論が説かれていると本報告は考えている。  
マルサスが食糧先行論・人口先行論のどちらを採っていたか―は『人口論』と『経済学原理』を結びつける上で重要な視点である。事実、中西論では、マルサス食糧先行論からマルサスの有効需要先行命題を説く。  
或いは、マルサス食糧先行論を説くホランダーによれば、マルサス人口命題とは食糧増産のみが人口規模増加を保障し、食糧が算術的であっても無限に増大するならば、人口にもまた限界がない―としている。  
しかし、これは、第一に人口原理の誤読であり、第二に、人口波動論との区別がついていないという点で評価できない。  
本報告では、人口原理をロジスティック・モデルとして捉えている。人口原理は食糧先行論であり、人口波動論は人口先行論として位置づけている。また、そう捉えなければ『人口論』におけるマルサスの意図と、経済学的考察への接点を正確に汲み取ることができないだろう。  
こうした諸議論の整理と解明のため、本報告では人口波動論における問題点、食糧先行論の問題点とマルサス想定モデル、人口原理と人口波動論の相違、そして人口原理と人口波動論の接点を論じ、最終的に人口原理・人口波動論と経済学的考察の接点を論じる。 
トマス・ロバート・マルサス  
(Thomas Robert Malthus、1766-1834) イギリスサリー州ウットン出身の経済学者。古典派経済学を代表する経済学者で、過少消費説、有効需要説を唱えた人物として知られる。  
父は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、啓蒙主義者である。彼はジャン=ジャック・ルソーと親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーを招待している。その第2子として生まれ、家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けた。18歳でケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学し、数学と文学を学び、1788年に卒業した後、キリスト教執事を目指して勉学に励んだ。その間の1796年に『危機』を著した。出版はしなかったが、これが最初の著書となった。 1793年特別研究員となり、1805年にはヘイリベリー=カレッジの教授となった。  
1798年に主著『人口論』を著し、この中で「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方(「マルサスの罠」)を提唱した。つまり、人類の幸福を追求する方法を提案したのである。  
マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、より科学的な『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を誹謗するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを「マルサス主義」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、1803年には新しく設立された東インド会社付属学校の政治経済学教授の職に付き、官僚の育成に当たっている。  
マルサスは、この付属学校の教授として終生務め、没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。人口を統計学的に考察した結果、「予防的抑制」と「抑圧的抑制」の二つの制御装置の考え方に到ったが、この思想は後のチャールズ・ダーウィンの進化論を強力に支える思想となった。特に自然淘汰に関する考察に少なからず影響を与えている。すなわち、人類は叡智があり、血みどろの生存競争を回避しようとするが、動植物の世界にはこれがない。よってマルサスの人口論のとおりの自然淘汰が動植物の世界には起きる。そのため、生存競争において有利な個体差をもったものが生き残り、子孫は有利な変異を受け継いだとダーウィンは結論したのである。  
マルサスの思想は、経済学のうえでは、人間理性の啓蒙による理想社会の実現を主張するウィリアム・ゴドウィンやコンドルセへの批判とも位置づけられる。1820年にはデヴィッド・リカードの経済説に反論した『経済学原理』(小林時三郎訳注、岩波文庫上下)を著した。  
他には1810年に『不換紙幣に関する論考』を、1814年には『小麦法の効果についての考察』、1815年に『地代の性質と増加についての調査』などを著している。  
 
 
19世紀〜 現代への架け橋 / 相対性理論の確立へ

 

19世紀は、産業革命の進展と、市民社会の成立によってヨーロッパ諸国の体制が大きく変わった時代である。産業革命は、産業の技術的基礎を一変させ、時代は大量生産の時代へと突入した。また資本主義的、自由主義的体制を強化させることになり、同時に、労働運動と社会主義思想をも成立させた。書籍の出版も大量生産の時代となり、出版文化の発展は情報の増加をもたらした。これにより科学技術の知識はひろく普及し、多くの人達の関心と好奇心を引き起こすことによって、ますます進歩の度合いを深めていった。このようにして19世紀の後半を中心とした科学技術は、変貌しながらもその進歩の本質を変えることなく、20世紀に受け継がれていった。  
 
 
リカード「経済学及び課税の原理」初版 1817年

 

Ricardo, David.(1772-1823)  
On the Principles of Political Economy, and Taxation.  
リカードは、イギリスの経済学者。ユダヤ系の証券仲介業者の子として生まれ、実業によって財をなした。アダム・スミスの著書に接して経済学への関心をもち、実業界を去って経済学の体系化に努めた。経済学の課題を<富の性質と原因>の探求にあるというよりは、地代・利潤・賃金の分配を規定する法則を定める事であるとし、そのために古典派の価値論を完成させた。スミスによって創設された古典派経済学における彼の地位は極めて大きい。本書は単にリカードの主著であるだけでなく古典派経済学の完成を記念する金字塔として不朽の名著となっている。 
経済学および課税の原理 
(On the Principles of Political Economy, and Taxation) 1817年に発表したイギリスの経済学者デイヴィッド・リカードによる研究である。1772年に生まれたリカードはイギリスの経済学者アダム・スミスの『国富論』の研究を踏まえながらも、ナポレオン戦争における大陸封鎖令で引き起こされたイギリスの穀物価格の高騰が戦後に大暴落したことを受けて、1815年に議会は地主を守るために穀物価格を維持する穀物条例を改定した。リカードはこの経済状況において穀物価格を保護してしまうと偏った資本の蓄積をもたらし、資本家、地主、労働者の所得分配に問題が生じると論じて、同時代のイギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスと論争を展開していた。  
この著作では価値、地代、鉱山地代、自然価格、賃金、利潤、外国貿易の経済学的な特性を明らかにした上で、政府の課税がどのような影響を与えるかを論じている。これまでの経済学の歴史において重商主義は貿易から得られる富を価値と見なしていたが、スミスは使用価値の概念を用いて貿易収支ではなく国内の余剰財を輸出し、国外の希少財を輸入することで富を増大させることが可能だと反論した。リカードはこの使用価値の概念が定量的でないために交換価値の概念を提唱している。交換価値とはその物品の価値が交換される金銭から価値を判断するものであり、その値はその物品を生産する費用と等しいとリカードは考えた。したがってリカードは投下労働が交換価値を生み出すという投下労働価値説を確立した。  
賃金についてはマルサスが『人口論』で論じたように、賃金が生存のために必要な費用を超過すると人口の超過が発生する見解を参照し、したがって賃金は生命維持に所要の財を購入できる程度に維持されるという賃金生存費説を論じた。さらに地代に関しては土地生産性の地域間の差額は支払われるという差額地代論を論じ、ある地域の地代は他の地域との関係から左右されると考えた。例えば資本家が10の利益が得られる土地があるにもかからず、8の利益しか得られない土地を使い、地主に地代を支払う場合が想定する。この状況において資本家は地代は利益のうち1だけを地代として支払うことが可能である。なぜなら、資本家は土地を移動することによって10−1=9の利益を得るために従来の8の利益よりも多くの利益を確保することが可能であるためである。ここでリカードが指摘することは資本を蓄積して生産性の高い土地だけでなく低い土地も借りてしまうと、地代が増大して利潤率が低下してしまう事態が起こる。したがって、リカードは安価な穀物を国外から輸入し、地主を優遇しない経済政策を主張した。 
デヴィッド・リカード  
(David Ricardo、1772-1823) 自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出する事で経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。労働価値説の立場に立った。経済学をモデル化するアプローチを初めてとったことで体系化することに貢献し、古典派経済学の経済学者の中で最も影響力のあった一人であり、経済学のなかではアダム・スミスと並んで評される。彼は実業家としても成功し、多くの財を築いた。  
リカードは17人兄弟の3番目としてロンドンで生まれた。彼の家はスペイン系およびポルトガル系のユダヤ人で、彼が生まれるほんの少し前に、オランダから英国へ移住して来た。14歳のとき、リカードはロンドン証券取引所で父親エイブラハム・リカードの仕事に加わった。21歳のとき、リカードは家族の正統派ユダヤ教の信仰を拒絶し、クエーカー教徒のプリシラ・アン・ウィルキンソンと駆け落ちする。これによって父親から勘当されることになり、自ら株式仲買人として独立することになった。その後リカードはユニテリアン派の教徒となっている。  
リカードの証券取引所での成功は彼を裕福にし、早くも42歳となった1814年に仕事を引退。グロスター州のギャトコム・パーク(Gatcombe Park)に邸宅を購入し、生涯の住処とした。1819年にはアイルランドの都市選挙区であるポーターリングトンから庶民院(下院)に出馬、当選して代議士として自由貿易を主張し、また、穀物法の廃止を主張した。1821年にはトーマス・トゥックやジェームズ・ミル、マルサスやベンサムなど著名な経済学者とともに、政治経済クラブ(Political Economy Club)の設立に尽力した。  
リカードは、ジェームズ・ミルの親友であり、ミルは彼に政治への大志や経済学の著述を勧めた。他の著名な友人の中にトマス・ロバート・マルサスやジェレミ・ベンサムがいる。  
 
リカードは、1799年に出版されたアダム・スミスの『国富論』を読み、経済学に興味を持つようになった。その少し前の1797年にイングランド銀行が金本位制を停止し不換紙幣の増発からインフレーションを招来することになったが、これについて1810年にリカードは『地金の価格高騰について──紙幣暴落の証明』(The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes)という小論を発表、貨幣数量説に立って金本位制への復帰を主張した。  
リカードで特に有名なのが、穀物法をめぐるマルサスとの論争から生まれた自由貿易の主張と地代論であり、自由貿易による利潤蓄積の増大⇒国富の増進と労働価値説に拠った収穫逓減による結果としての地代の形成を『経済学および課税の原理』で主張した。ただ、論争する点が多かったマルサスの主張についても、彼が『人口論』で言及した人口に対する見解については同意し、『経済学および課税の原理』の議論で前提としている。  
 
 
ショーペンハウア「意志と表象としての世界」初版 1819年

 

Schopenhauer, Arthur(1788-1860)  
Die Welt als Wille und Vorstellung.  
ショーペンハウアは、ドイツの哲学者。彼の哲学はカントの認識論に出発し、フィヒテやヘーゲルの観念論的哲学者を攻撃してはいるが、その根本的思想や体系の構成は、同じくドイツ観念論に属する。本書は、ショーペンハウアが30歳の時に4年の歳月をかけて完成した終生の大著である。その後の彼の著述の一切は、本書の単なる注解に過ぎないと言っても過言ではない。しかし出版当初は、世間の注目を全くひかず、ショーペンハウアが初めて世評を得たのは、本書によってではなく、いわば本書の注解として1851年に刊行した哲学小論文集の後である。 
意志と表象としての世界 
(Die Welt als Wille und Vorstellung) 1819年に公刊されたドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの著書。  
第一部「表象としての世界の第一考察」  
ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。  
ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては以下の4類に分かたれている。  
1. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」  
2. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」  
3. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」  
4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」  
第二部「意志としての世界の第一考察」  
世界は、主観によって制約された客観としてはわたしの表象である。しかしそればかりでなく、ショーペンハウアーは、世界はわたしの意志であるともいう。われわれ自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきであるとして、「あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は現象である。しかしひとり意志のみは物自体である」とショーペンハウアーは説く。こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力には完成はないものとされる。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏であるといわれる。  
第三部「表象としての世界の第二考察」  
ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。  
第四部「意志としての世界の第二考察」  
生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、あるいは自由に否定すると言われる。第三部までに考察されてきたような、意志が肯定された場合においては、この世界で「ある」ものが生ずる。これに対し、意志が否定された場合における、この世界で「ない」ものについては、最終的には哲学者は沈黙する他ないものといわれている。  
抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。 
アルトゥル・ショーペンハウアー  
( Arthur Schopenhauer、ショーペンハウエル・ショウペンハウエルとも 1788-1860 ) ドイツの哲学者、主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学、実存主義の先駆と見ることもできる。  
1788年、富裕な商人の父のもとダンツィヒに生まれる。母(ヨハンナ・ショーペンハウアー)は女流作家で、自己顕示的な性格であった。父に伴われて幼少時からヨーロッパ各国を旅行する。17歳のとき、父が死去。父の遺志に従って商人の見習いを始めたが、学問への情熱を捨てきれず1809年、ゲッティンゲン大学医学部に進学する。ゴットロープ・エルンスト・シュルツェのもとで哲学を学び、のち哲学部へ転部する。シュルツェよりカントとプラトンを読むようにいわれる。転部後、ベルリン大学に移り、フィヒテの講義を受ける。  
1819年、『意志と表象としての世界』を完成、ベルリン大学講師の地位を得るが、当時ベルリン大学正教授であったヘーゲルの人気に抗することができず、フランクフルトに隠棲。同地で余生を過ごす。  
本人は「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。  
ショーペンハウアーは芸術論・自殺論が有名であるが、むしろ博学で、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者としての側面が強い。  
ハルトマン、ヴァーグナー、ヒトラー、トルストイ、ハーディ、フロイト、プルースト、トーマス・マン、ヘッセ、ユンガー、ベルクソン、ユング、ジッド、ホルクハイマー、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、ベケット、フーコーといった、19世紀後半から20世紀にかけて活躍した多くの哲学者、芸術家、作家に大きな影響を与えた。日本でも森鴎外をはじめ、堀辰雄、萩原朔太郎、筒井康隆など多くの作家に影響を及ぼした。  
 
 
ヘーゲル「法の哲学」初版 1821年

 

Hegel, Georg Wilhelm Friedrich.(1770-1831)  
Grundlinien der Philosophie des Rechts.  
ヘーゲルは、ドイツの哲学者。1818年にベルリン大学に招かれ、ドイツ(プロイセン)国家の哲学的指導者となった。哲学の課題は現実の合理的把握であるとし、そこから彼はまた、現実を無視して空想的矯激にはしる啓蒙主義の政治的革新の言動を排して、現実にかなった改革を望んだ。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な言葉は、理性(哲学)と現実との和解というヘーゲル哲学の骨子を語るものであるが、それが本書の序文に掲げられている。本書は、ヘーゲルの最も輝かしい円熟した時代の著作である。 
「法の哲学」1  
(Grundlinien der Philosophie des Rechts) 1821年にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルによる国家を主題とした政治学・法哲学の著作である。『法哲学』『法哲学綱要』『法哲学要綱』『法哲学概要』などとも呼ばれる。  
1770年にドイツで生まれたヘーゲルは1801年からイェーナ大学で勤務しており、この時期に為された法哲学の論考『自然法の法学的取り扱い方』、『人倫の体系』などが本書『法の哲学』の基礎になっている。以前はイェナ大学の講師、ニュンベルク・ギナジウムの教授を経て1818年にベルリン大学に移り、ここで本書は出版された。1831年に死去するまでに生前に出版された最後のヘーゲルの著作である。現在読まれている内容では死後にヘーゲルの講義の受講生が編集した解説や補遺が加えられており、ヘーゲルが直接執筆した文章ではないことに注意を要する。内容としては所有や契約、不法について論じる第1部抽象法、責任、福祉、良心について論じる第2部道徳、家族、市民社会、国家について論じる第3部倫理から成り立っている。  
ヘーゲルによれば、客観的精神とは家族や市民社会、国家などの自由な人間の行為により生み出される精神の客観態である。それは抽象法、道徳性、人倫の三つの段階に区分され、この段階を通じて個別性と普遍性を統合する。ヘーゲルは人倫もまた三段階に区分し、家族、市民社会、国家から成るものと捉える。家族とは愛情や感覚という形式における主体と客体の統一の段階であり、市民社会は市場においてもたらされる欲望に基づく労働の体系であり、国家は市民社会の欲望の体系を包摂しながら立法権や執行権、君主権を用いて普遍性を現実化させるために市民社会の利己性を監視する。また国家は対外的には普遍性ではなく国際社会における特殊性を実現する意義がある。 
「法の哲学」2  
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」(『法の哲学』序文)  
この文句は以前、滅茶苦茶に評判が悪かったが、「現実はすべて正しい」と言っている訳ではない。むしろ、現実において自己を実現する運動が「自由」の本質だ、と言っているのに近い。  
序説;自由な意志の概念  
「思考と意志の区別は、理論的な態度と実践的な態度の区別に他ならないが、これらは二つの別な能力だという訳ではない。意志は特殊な仕方での思考なのである。つまり、自己を現存在へと移し置くという仕方での思考、自己に現存在を与える衝動としての思考、なのである。私が実践的であるとき、私は活動的である、つまり、私は自己を規定(=限定)する。自己を規定するというのは、一つの区別を立てることである。しかし、私が立てるこの区別は、また私のものでもある。諸規定は私に属しており、私が駆り立てられる目的も私に属している。たとえ私が諸規定と区別を解放しても(つまり、いわゆる「外界」に立てても)、それらはやはり私のものであり続けている。それらは、私が為したもの、私が造ったものであり、私の精神の痕跡を帯びている。」 
1) 自由な意志(普遍性)  
「意志は、1)純粋な無規定性、つまり自我の自己内への純粋な反省(=反照)という要素を含む。ここでは、どんな制限も、自然や欲求や欲望や衝動によって直接に現存している内容も、あるいは何によってであろうと、与えられ規定されている内容も、解消している。これが、絶対的抽象あるいは普遍性という無制限な無限性、自己自身の純粋な思惟である。」  
2) 自己限定(特殊化)  
「2)同様に、自我は、区別のない無規定性から、区別することへの、内容および対象として規定性を規定し措定することへの移行である。―この内容は、自然によって与えられたものでも、精神の概念によって生み出されたものでも構わない。自己自身を規定されたものとして措定することによって、自我は現存在一般へと歩み出すのである。―これが個別性、あるいは自我の特殊化という要素である。」 
3) 自己実現(自己復帰)  
「3)意志は、これら二つの契機(=構成要素)の統一である。―つまり、自己内へ反省しこれによって普遍性へと連れ戻された特殊性、―個別性である。  
自我は、自己自身へ関係する否定性である限り、自己を規定する。こうした自己自身への関係として、自我は自己の規定態に対して無関心であり、この規定態を自己のものであり、「観念的なもの」として知る。つまり、それによって縛られておらず、そこに自己を措定したから存在しているに過ぎない、単なる可能性として、知る。 これが意志の自由である。」 
―ここは理論的に重要な個所なので引用したが、ここだけ読んで何を言っているのか解らなくても、蓋し当然である。  
具体的に考えると、上のそれぞれは、  
1) 私は自由である。これから学校に行くのも、マンガ喫茶に行くのも、家で寝ているのも、私の自由である。(何もかも嫌だ、というのなら、この世に「否(ノン)」を言い、自殺するのも、私の究極の自由だ。)  
2) 私は、しかし、たまたま教師だから、うん、今日は雨だけど、ともかく学校に行って授業をしよう。  
3) 私が教師なのは、自分で決めたことだし、嫌なら止めてもいいんだし、好きでやっているんだから、私は本当は自由だ。だから今日は頑張ろう。  
道徳と倫理  
カント的道徳の立場においては、個人の意志の自由な決断が重視される。しかし、それは形式的で、具体的内容を欠いている上に、現実の中で有効な結果をもたらすかどうか、疑わしい要素がある。ヘーゲルは、カント的道徳性(Moralität)の立場を超える、倫理(Sittlichkeit)という立場を構想する。それは、具体的には、  
(a) 外的には、「家族、市民社会、国家」という共同体の中で、現実化され、  
(b) 内的には、個人の内面を形作る「心術(Gesinnung)」として直接的なものとなった、道徳性である。  
1) 家族;愛に基づく共同体  
2) 市民社会;欲望のシステムと人間形成 
3) 国家;知による自己認識  
この内、家族について―  
ヘーゲルは「近代的」結婚の理念を提示している。それは「自由な個人の愛による結びつき」と定義できる。しかしこれは潜在的に矛盾を含む概念である。  
1) 個人の自由(エゴイズム)と共同体  
個人が自立的な存在であることと共同体の一員であることは必ずしも両立しない。それは結婚(家族)の場合も同じである。ヘーゲルは家族を「実体」と考える。それは、個人が、「他者において自己を意識する」愛の相互承認の中で、自己の個別性を放棄し、それによってより拡大された自己として家族が成立するということ、そしてこの自己である互いへの献身的行為の中で、より高い自己の本質を実現しうる、ということを意味する。(自立した個人の自己中心的関係が家族ならば、そこには自己を超えるより高い理念は存在しない。女性の自立は、性別(セックス)に基づく役割分担(ジェンダー)を前提にする「近代的」家族の理念を解体するだろう。)  
2) 愛という感情と結婚という制度  
愛が偶然的な感情である以上、結婚という持続的制度とうまく一致するとは限らない。結婚の基礎である愛は「倫理」的なものである。ヘーゲル的意味での「倫理」とは、時と共に形成される、個人の心術であり、習俗や制度である。従って「倫理的」愛とは、愛による行為、つまり自己の一部としての互いへの配慮、の中で形成陶冶される、精神的な愛である。  
恋愛という意味でのエゴイスティックな感情的な愛と、(愛)情という意味での陶冶された倫理的な愛は、必ずしも同じものではない。しかしキルケゴールとは違い、ヘーゲルは敢えてこれを区別しない。それは一つには、人間的愛が、感情とエゴイズムから切り離されるなら、愛は生命を欠いた空虚なものになってしまうからである。しかしまた一つには、エゴイスティックな愛が情熱によって、個人を結婚というシステムの中に駆り立てる。これが今度はその中で、エゴイスティックな愛を倫理的な愛へと高める働きをする、からである。そうした愛の錬金装置としてヘーゲルは結婚という制度を考えている。  
―さすがに結論だけ読むと、解り難いような気がするが、どうか。「衝動の純化」ということを言っているのだが。つまり、個人の欲望は、「倫理」の共同性の中で精神的なものへと浄化される、ということだ。  
これは、次の「社会」でも同じだ。例えば、会社員は、普通は会社で、チームの一員として活動する。自分の意思はチームの中で現実化し、チームの意志が私を動かす。そうした活動の中で、私は鍛えられる。この世の中は利益社会=競争社会だから、きびしい。私が自分の我儘に固執すれば、私の居場所はなくなる。でも私が自分のこだわりを捨てたら、これ以上の会社の発展もないかもしれない。  
社会は戦いだ。社会は家族とは正反対だが、そこにはより高次の共同性がある。  
その共同性が更に実現されるのは、国家においてである。―これは現代人には、解り難い考え方だ。―しかしより一般的なものほど、より真実なものだ、という考え方はある。自分だけの利益になることより、他の人の利益になるようなことの方が、客観的には正しい。つまり国や人類というレベルの方が、私個人や私の家族や会社より、より普遍的で、大事だ、という考え方はある。その普遍的なものとは、ヘーゲルの考えでは、世界の歴史であり、芸術や宗教や学といった「絶対的精神」である。 
「精神現象学」1  
G.W.F.ヘーゲル(1770〜1831)が1807年に出版した著作。原意は精神の現象学。本書は、観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。カントの認識と物自体との不一致という思想を超克し、ドイツ観念論の先行者であるフィヒテ、シェリングも批判した上で、ヘーゲル独自の理論を打ち立てた初めての著書である。難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。  
ヘーゲルの哲学大系の中では、「精神現象学」とは「意識」を問題とする哲学の分野である。「精神現象学」の領域における「意識」の発展を、ヘーゲルの弁証法に基づいて示せば、  
1. 意識そのもの  
2. 自己意識  
3. 理性  
の3段階を示す。「意識そのもの」の段階では、「感性的意識」から「知覚」へ、そして「悟性」へと認識が深められる。次にこのような認識の主体としての「自己」が自覚され、「自己意識」が生じる。この「自己意識」と同質な意識を他者にも認めることによって、他人の「自己意識」をも認識し、単なる自我を超えた普遍的な、他者との共通性を持つ「自己」、「理性」の現れとしての「自己」を認識にするに至る。この過程が「精神現象学」である。  
一方で『精神現象学』ではやや異なる広い意味での「精神現象学」が記述されており、前述の「理性」段階に至るまでの「精神現象学」に続いて、「客観的精神」「絶対的精神」をも考察の対象に含める。つまり「意識」あるいは「主観的精神」のみならず広く「精神」一般をその対象に含む。  
本書の原題は「学の体系 」(System der Wissenschaft)であって、ヘーゲル哲学体系の総論ないし導入として執筆されたものであるが、後に出版されたエンチクロペディーでは、精神現象学に対応する章はない。 
「精神現象学」2  
「精神現象学」は、最も素朴な知のあり方から始めて、次々に、より一般的な知へと高まってゆく、知の形態を演繹する試みである。最初に意識の対象として現れてくる知(例えば、「存在」「物」「法則」など)は、具体的に調べてみると、すべて関係性と作用のうちで成り立っているものであることが解る。その関係性とは、最も一般的に言えば、「他者に自己として関係する」という作用である。これが「意識」や「自己意識」そして「精神」の基本構造なのである。  
A) 意識―「概念」の構造  
「意識は[何か]についての意識である」という構造を持つ。これを「志向性」という。  
感覚的確信 / 「今」「ここ」で「このもの」を「この私」が意識しているという直接的知  
しかし調べてみると、「この今」とは一般的な「今」であり、「この私」とは一般的な「私」である。「この今」でもあり一般的な「今」でもあるような具体的存在は、「物」である。  
知覚 / 物  
しかしこれも調べてみると、「物」とは諸性質の集合体、引いては諸法則の集合体である。  
悟性 / 法則  
(カントが言うように)自然の法則とは、対象として現れる自我(意識)に他ならない。  
B) 自己意識―主人と奴隷の弁証法  
生命;欲望  
a) 欲望は外的対象へと向かう。例えば食欲は、その対象を食らい尽くす。それによって対象は消滅する。しかしそれと同時に、欲望も消滅する。自然の欲望(動物的欲望)は、「対象を否定することによって自己を否定する」ということの繰り返しである。(それは外から(=「私」の知らない所から)やって来る。私は欲望に「襲われる」。欲望が去ると、私は自己に帰る。これは欲望が動物的欲望だからである。)  
b) これに対して、人間的欲望は、持続する欲望である。「自分が相手から認められることを認める」という二重の構造を持つ。(「愛」とか「自尊心」等が、この典型である。他者からの承認を必要とする。このように、ヘーゲルの言う「自己意識」とは、本来は、他の「私」において「自己」を意識する「私」の意識を言う。)  
相互承認 / 自由の闘争  
私の最も根源的な欲望は、私の力を実感すること、私の自由を実証することである。私は最も大切な私の生命さえも自由に支配できることを、他の自己意識に対して証明したい。(自分の信念や理想のために全てを捨てる覚悟のある人は、皆から一目置かれる。「君のためになら死んでもいい」と言う男は、女性の心を支配することが出来る。―本当か?違うような気がするが。)  
しかし、死は、私の存在の絶対的否定である。  
ここで   
1)自由のためには死をも厭わない強い者(=戦士・貴族のタイプ)と、  
2)自分の生のためには自由をも捨てて厭わない軟弱者(=奴隷のタイプ)、という、  
二つの人間のタイプが現れる。  
主と奴―労働  
a) 主人は、奴隷の労働を通じて、全てを支配する自由を享受する。奴隷は、主人の命令に隷属し、自分を捨てて、ただ労働する。  
b) しかし奴隷は、労働において、死を克服する。労働は全ての対象性を否定する力である。奴隷が労働によって創り出す物は、自分の精神の対象化でありその作品である。奴隷は、労働という否定の活動に没頭することによって、全ての他者性を否定する力であることを実証している。(死もまたこの他者性(絶対的他者)である。) これに対して、主人は、その生活を奴隷の労働に依存している。つまり、自分だけでは何も出来ず、むしろ奴隷に隷属している。そこに本当の自由はない。  
(こうして最初の思い込みは、その反対の真実へと逆転する。これを「弁証法」と言う。この個所の中心概念は「労働」である。労働は他者(対象)に関係する否定性である。それによって対象は「自己」のものとなる。ヘーゲルによれば、他者に自己として関係する、この否定性が人間の本質なのである。否定=死を取り込むことで初めて、私の自由は現実化する。)  
ヘーゲルは、禁欲的なカントとは対照的に、森羅万象あらゆるものを哲学したが、その本領は、否定という関係性の分析にあった。私(=精神)は、まず身体(=物質)というその反対のものと一つのものとして働いている活動である。次に、私(=精神)は、他人(=他の私)と対立しながら労働によって世界を動かしている力である。労働は今ある世界を否定する力であるが、実は「私」の本質とは、ヘーゲルに言わせれば、この全てを否定する作用そのものなのである。  
この、反対のものが一つだというダイナミックな構造は「弁証法」と呼ばれる。「主体」ともヘーゲルは言う。「例えば、パソコンだよ、あれは明らかに素人を拒否してるね。絶対に俺がしたいことをやらせてくれないよ。すぐ止まっちゃう。あれを自分で使おうと思えば、「私」を捨てる。奴隷のように、パソコンさんの言うがまま、苦労するしかないよ。辛いよ。」ところが、半年後の今、柿沼さん(仮名)は、「かーんたんじゃねえか」と気分は健さんなのである。このように、敵同士だったパソコンさんと柿沼課長さんは、お互いが否定し合うことによって、新しい「パソコン課長」を生み出したのである。向かいの席の山下さんにも「お茶ください」とEメールを書くのは困りものだが、これが労働というものだ。  
ついでに、この、他の私でもある私(=我々)は、その絶対的な他者(=神)とも、同じではないが違うものでもない。この「同じ」と「違う」のどちらに力点を置くかによって、ヘーゲル学派はヘーゲル亡き後、右派と左派とに分裂してしまうのである。  
(最後の「私である我々、我々である私」(私=我々)を、ヘーゲルは「精神」と呼ぶ。その絶対的なあり方、つまり「絶対的精神」が、「芸術、宗教、学」である。「精神」の具体的な形態は、『法の哲学』に譲る。)  
C) 精神  
1. 理性  
2. 精神  
3. 宗教(芸術)  
4. 絶対知(学)  
 
 
キェルケゴール「あれかこれか」初版 全2巻 1843年

 

Kierkegaard, Soren Aabye.(1813-55)  
Enten-Eller. Et Livs-Fragment udgivet af Victor Eremita.  
本書は、デンマークの詩人、哲学者で、実存主義の父と言われるキェルケゴールの処女作であり、匿名で出版された。副題に「ヴィクトル・エレミタにより刊行された人生の一断片」とあり、ヴィクトルが古道具屋で買った机の引き出しから出てきた書類が、この書物の内容をなすという設定となっている。この書は、美的生活者と倫理的生活者とを<あれか、これか>として対立させ、その二者択一を読者に訴える形式をとっているが、実はそんな単純なものではない。これは思弁哲学への挑戦の宣戦布告であり、自己批判の書でもある。ヘーゲル主義の<あれも、これも>と言う立場では陰蔽されてしまう人間の実存的現実を<あれか、これか>という決断によって露呈させようというのがキェルケゴールの意図である。
「あれかこれか」  
(Enten-Eller: Et Livs Fragment、 udgivet af Victor Eremita) 1843年に哲学者キルケゴールにより発表された哲学書である。キルケゴールは1813年にデンマークで生まれた哲学者であり、実存主義の思想に寄与したことで知られている。本書『あれか、これか』はキルケゴールが30歳になった時にデンマークの思想界に加わる契機となった著作であった。本書はヴィクトル・エレミタがとある机の引き出しから二つの手記を入手し、それを出版するに至った経緯を述べるところから序文が始まっている。美的な人生を送ったAの手記と倫理的な人生を選んだBの手記にはそれぞれ全く異なる思想が対比的に示されている。  
Aの手記で述べられている美的生活は次のような内容を含んでいる。現代の悲劇と古典の悲劇の内容には悲劇における罪の概念の相違があり、ギリシア悲劇は外因的な葛藤による罪であるが、アンティゴネーのような近代における悲劇は内因的な罪の意識であると見なす。人間の悲哀についても芸術では外部に表現できないような反省的悲哀を取り上げている。そして最も不幸な人間について追憶に妨げられるために希望の中に現在を生きることができない人、もしくは希望に妨げられることで追憶の中に現在を生きていると論じる。キルケゴールは娘が初恋の男を捨てて別の男と結婚し、彼こそ本物であると確信する娘の浅はかさを描き、また作物の収穫を増やすために土地を変えながら種をまく農夫を描く。享楽を追及する美的生活は常に刺激を求めることで対象を変化させ、変化がなくなると退屈になる。退屈は空虚感に基づいて発生し、それは人間に「眩暈」を起こすものである。それを避けるために人間は次々と新しい気晴らしを求めて気まぐれに生きる。キルケゴールの見解によるならば、美的生活の行き着く先は絶望に他ならない。  
Bの手記ではAの著者、つまり美的生活にあけくれている友人に対する書簡として書かれている。まず結婚の美的価値について、結婚の本物の課題とは愛欲の要素と厳正な内面性を結合させることであり、率直さと誠実さとが結婚の条件であると述べられる。秘密を持ったまま結婚することはあってはならず、結婚愛において内面的な誠実こそが重要であり、どのような経年劣化に対しても永遠性を保ちうるものでなければならないと考える。つまり人生において人間は「あれか、これか」の一つを選ぶ必要があるのであり、美的生活に対してそれに矛盾する倫理的生活を選ぶことが主張される。この選択は自由に行うことが可能であり、自由な決断によって倫理的生活の義務と自らの使命を達成する。普遍人間的なものを実現しえない人間は自分自身が個性の限界に達している例外者であることを自覚し、それに相応する内面性を獲得することが示される。 
セーレン・オービエ・キェルケゴール  
(デンマーク語: Søren Aabye Kierkegaard、1813-1855) デンマークの思想家。哲学者であり、今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったヘーゲル哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。  
日本語では、「セーレン・オービエ・キルケゴール(キェルケゴール)」との表記が通用しているが、デンマーク語の原音に近いカタカナ表記は「セアン・オービイ・キアケゴー」である。セーレンという表記もキェルケゴール(キルケゴール)という表記も、日本のキルケゴール受容が、主にドイツ語文献を経由してすすんだことによるところが大きいと考えられる。  
キェルケゴールの初期の著作の多くはさまざまな仮名を使って書かれている。また、ある仮名の著者が、それ以前に書かれた作品の(これまた)仮名の著者に対してコメントすることもしばしばあった(最も顕著なのは『哲学的断片への結びとしての後書き』だろう)。もちろんすべての著作はキェルケゴールによって書かれたわけだが、そのさまざまな仮名使用のために彼の著作は一貫した解釈が難しいことがある。キェルケゴールはそのかたわらで本名での著作も発表しており、彼自身は再三、偽名の著者たちと自分を取り違えないでほしい、と主張していた。こちらは現在まであまり読まれていない。  
また、彼の名字である「キルケゴール/キェルケゴール」(Kierkegaard)は、現代デンマーク語ではkirkegårdとつづられ、「墓地(英語 churchyard,cemetery)」を意味する。しかしながら、この言葉はより広く教会に隣接する敷地「教会の庭(英語 church garden)」、さらに隣接の土地も意味する。「教会の庭」という名字になった理由は以下の「生涯」に深く関係している。ちなみに、kierkegaard の名が「墓地」(kirke-gaard)を意味するので、i のあとに無意味な e を挿入したなどの説明をみかけるが、根拠のない俗説である。音価としてiに対応するのはまさに e であって、この e がしばしば拗音化するために発音に即して je / ie と綴られるケースと考えるべきである。(たとえば現在の kærlighed をキルケゴールは、Kjerlighed と綴るように)キルケゴールの父ミカエルの出身地であるユラン地域の方言では母音の拗音化がしばしばみられる。おそらく故郷の発音を想起しながらこのようにつづったのではないだろうか。  
生涯  
セーレン・キェルケゴールはコペンハーゲンの富裕な商人の家庭に、父ミカエル・ペザーセン・キェルケゴール、母アーネ・セェーヤンスダッター・ルンの七人の子供の末っ子として生まれた。父親のミカエルは熱心なクリスチャンであった。ミカエルは神の怒りを買ったと思い込み、彼のどの子供もキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと信じ込んでいたが、それは次の理由による。  
元々、キェルケゴール家はユラン半島西部のセディングという村で教会の一部を借りて住んでいた貧しい農民であり、父のミカエルは幼いころ、その境遇を憂い、神を呪った。その後、ミカエルは首都コペンハーゲンにおいて、ビジネスで成功を収めた。ミカエルはこの成功こそが神を呪った代償であると信じていた。つまり、神を呪った罰が今の自分の世俗界での成功であると。もう一つの理由として、ミカエルがアーネと結婚する前に彼女を妊娠させたことであると考えられている。ミカエルは一度クリスティーネ・ニールスダッター・ロイエンという女性と結婚しているが、彼女は子供もできないうちに肺炎で死んでしまう。その直後に、ミカエルがアーネと暴力的な性的交渉を持ったと考えられている。  
ミカエルはこれらが罰を必要とする(宗教的な意味合いでの)罪と考え、子供たちは若くして死ぬと思い込んだのだが、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっている。したがって、自分も34歳までに死ぬだろうと確信していた(セーレン・)キルケゴールは34歳の誕生日を迎えたとき、それを信じることができず、教会に自分の生年月日を確認しに行ったほどである。  
1835年に父ミカエルの罪を知ったときのことをキルケゴール自ら「大地震」と呼んでいる。この事件ののち彼は放蕩生活を送ることになった。(「大地震」を1838年とする説もあり、その説ではもともと放蕩生活をしていたキルケゴールを、この事件が立ち直らせたとしている。)このように、父ミカエルのキリスト教への信仰心と彼自身の罪への恐れは、息子セーレンにも引き継がれ、彼の作品に多大な影響を与えている(特に、『おそれとおののき』においては顕著である)。  
もう一つの、キェルケゴールの人生と作品に多大な影響力を及ぼしたものとしては、彼自らのレギーネ・オルセン(1823年 - 1904年)との婚約の破棄が挙げられるだろう。キェルケゴールは1840年に17歳のレギーネに求婚し、彼女はそれを受諾するのだが、その約一年後、彼は一方的に婚約を破棄している。この婚約破棄の理由については、研究の早い段階から重要な問題の一端を担っており(キェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っている)、初期の大作『あれか―これか』に収録されている大作『誘惑者の日記』や中期の『人生行路の諸段階』に収録されている『責めありや―責めなしや?』などは、レギーネにまつわる一連の事件との密接な関連が指摘されている。婚約破棄の原因について、真相は定かでない。今日の文献からは、キェルケゴール本人が呪われた生を自覚していたこと、うららかな乙女であったレギーネを「憂愁」の呪縛に引きずり込むまいとしたことなどを読み取ることができるが、性的身体的理由が原因となっていたのではないかと指摘する研究者もあり、真相はいまだ謎に包まれている。レギーネがキェルケゴールに婚約破棄の撤回を求める覚え書きをしたためたりなどしたため、彼は上記の著書などで意図してレギーネを自分から突き放そうと試みたりしている。  
二人は、おそらくレギーネが1847年にフレゼリク・スレーゲル(1817年〜1896年)と結婚したあとも愛し合っていたと考えられている。レギーネは夫にキェルケゴールの著作の購入を依頼したり、一緒にその著作を読んだりもしている。後年、1849年にレギーネの父が亡くなると、キェルケゴールはレギーネとの和解と友情の回復を求めた手紙を、夫フレゼリク宛ての手紙に同封して投函するが、その手紙は封をしたまま送り返されている。その後すぐに、シュレーゲル夫婦はフレゼリクが当時のデンマーク領西インド諸島の総督に任命されたため、デンマークを旅立っている。レギーネが戻るころには、キェルケゴールはすでに亡くなっていた。キェルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れ、その後病院で亡くなった。  
キェルケゴールは兄宛の手紙の形による遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定していた。レギーネは遺産の相続は断ったが遺稿の引き取りには応じ、かつて封をしたまま送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っている。レギーネ及び彼女の親友でキェルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンらの努力によって、これらの遺稿は後世に伝えられることになる。  
キェルケゴールの哲学  
キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。  
「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。  
ヘーゲルに抗して  
哲学史的には、キェルケゴールの哲学を特徴づけているのは、当時のデンマークにおいても絶大な影響力を誇っていたヘーゲル哲学との対立である。  
ヘーゲルの学説においては、イマヌエル・カント以来の重要問題となっていた、純粋理性と実践理性、無限者と有限者、個々の人間と絶対真理の間の関係はどのようなものか、という問いが取り上げられる。ヘーゲルによれば、有限的存在は、まさにそれが有限であるがゆえに、現実の世界においてつねに自らの否定性の契機に直面するが、そのとき有限者はその否定性を弁証法的論理において止揚するという方法で、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことができるとされる。  
これに対して、キェルケゴールにとっては、個々の有限的な人間存在が直面するさまざまな否定性、葛藤、矛盾は、ヘーゲル的な抽象論において解決されるものではない。そのような抽象的な議論は、歴史、現実における人間の活動の外側に立ってそれを記述するときにのみ有効なのであって、歴史の内部において自らの行く末を選択し決断しなければならない現実的な主体にとっては、それは意味をなさないものなのである。このような観点からキェルケゴールは、ヘーゲルの弁証法に対して、彼が逆説弁証法と呼ぶところのものを提示する。逆説弁証法とは、有限的主体が自らの否定性に直面したときに、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するための論理である。  
キェルケゴールは自らの思想の特徴を具体的思考と呼び、これをヘーゲル的な抽象的思考に対置する。抽象的思考とは、そこにおいて個々の主体が消去されているような思考であるのに対し、具体的思考とは、主体が決定的であるような思考だとされる。  
この延長において、キェルケゴールは「主体性は真理である」と定式化するが、逆説的なことに、彼は「主体性は非真理である」とも言う。ここにおいてキェルケゴールが意図しているのは、次のようなことである。すなわち、歴史的、現実的な選択の場面においては主体性以外に真理の源泉はありえない(主体性は真理である)が、このことは主体性がヘーゲル的な意味での絶対的真理の源泉であるということを意味しているのではなく、実際には、主体はつねに絶対的真理から隔てられている(主体性は非真理である)のである。  
著述スタイルと日記  
キェルケゴールは著述家として生涯を駆け、急逝するまでに多量の著作を残したが、その著作は大きく「美的著作」と「宗教的著作」とに分類することができる。あるいは「美的著作」を「詩的著作」と「哲学的著作」に再分類して3つの区分を立てることもできる。「美的著作」はもっぱら偽名によって書かれ、「宗教的著作」は実名で書かれているということは注目してよい事実である。  
日本においては『誘惑者の日記』のような「美的著作」や、『死にいたる病』『哲学的断片』などの「哲学的著作」ばかりが紹介される傾向にあり、『野の百合と空の鳥』などの「宗教的著作」(宗教家キェルケゴールとしての著作)は顧みられないことが多い。しかしキェルケゴールの本意は「宗教的著作」に向かっていたのは明白な事実である。  
今日の思想に影響を与えた、いわゆる「キェルケゴール」の思想が、「美的著作」に因るところが多いため、「宗教的著作」の存在が軽視されがちである、が、キェルケゴールのすべての著作活動は根本的に「宗教的著作」のために書かれたものであるということを忘れてはならない。言うなれば、彼の著作は当初から教化のために書かれたものであり、「美的著作」の一切は教化のための序奏と捉えられてしかるべきものである(『不安の概念』や『おそれとおののき』などの、哲学的に重要な著作も、あくまで仮名の下で書かれた仮面の著作であるということに注意されたい)。  
また、キェルケゴールは幼少の頃より日記を綴る習慣をもっており、急逝するまでの生涯にわたって日記を書き留め続けた。この『日記』が最近の研究においては著作物と同等(か、もしかしたらそれ以上)の価値をもつものとして扱われることが多い。『日記』には、著作物に対する意図の表明やレギーネへの想いが綴られている。ただし、キェルケゴール本人はいずれこの『日記』も白日の下に晒されるだろうと予測してか面体を繕うような修正・抹消作業を施している。  
 
   
ダーウィン「種の起源」初版 1859年

 

Darwin, Charles.(1809-82)  
On the Origin of Species by means of Natural Selection, or the Preservation of favoured races in the struggle for life.  
ダーウィンは、イギリスの博物学者、進化論者。イギリス海軍の測量船ビーグル号に博物学者として乗船して、ガラバゴス諸島などの南半球を就航し、各地の博物学的観察から生物進化の信念を得て帰国した。1844年に種の起源の問題についての概要を記した後、1856年から執筆に取りかかり、3年がかりで本書を刊行した。本書の正確な訳名は「自然選択の方途による種の起源、または生存闘争における有利な種族の保存について」であり、本書により生物進化の事実を提示し、自然淘汰説を樹立した。展示の書には、<From author>のサインがあり、著者の献呈本である。 
種の起源  
("On the Origin of Species") チャールズ・ダーウィンにより1859年11月24日に出版された進化論についての著作である。題名は岩波文庫版のように『種の起原』と表記する場合と、光文社古典新訳文庫版のように『種の起源』と表記する場合がある。  
ダーウィンは、『種の起源』の中で、evolution ではなく、Descent with modification という単語を使っている。これは Evolution という語が進歩や前進を意味しており、ダーウィンは進化にそのような意味を込めていなかったからである。  
彼は自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じると主張した。そしてこの過程を生存競争、適者生存などのフレーズを用いて説明した。  
自然選択とは、「(1)生物がもつ性質は個体間に違いがあり、(2)その一部は親から子に伝えられ、(3)環境収容力が繁殖力よりも小さいため生まれた子の一部しか生存・繁殖できない。性質の違いに応じて次世代に子を残す平均的能力に差が生じるので、有利な個体が持つ性質が維持・拡散するというメカニズム」である。  
彼は全ての生物は一種あるいはほんの数種の祖先的な生物から分岐して誕生したのだと述べたが、実際にはタイトルに反して、どのように個々の種が誕生するか(種分化)はほとんど説明しなかった。生物の地理的分布や性淘汰についてもわずかに言及している。当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異や遺伝の仕組みについてはうまく説明できなかった。また進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。ダーウィンは進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。  
本書は非専門家向けに読みやすく書かれており、幅広い関心を集めた。当時の生物学の根本をなす宗教的信念を否定したために、科学的だけでなく、宗教的、哲学的論争も引き起こした。ダーウィンの貢献以来、中立進化説の確立など進化理論は急速に発展した。しかし自然選択説は適応進化の要因として現在も科学的に認められたモデルである。  
いっぽう、21世紀になってもアメリカ合衆国では進化論を否定する創造科学やインテリジェント・デザインなどの説が反進化論団体によって主張されている。  
 
本書の完全な題名は『自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原』"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life"である。  
改版は、第2版(1859年と1860年の2種の記録あり)以降、13年間に渡り加筆・修正を加えて、1872年の第6版まで継続された。特に、第6版では、「自然選択説にむけられた種々の異論」の章を新たに追加し、それまでに寄せられた異論について回答を述べている(挿入場所は、第5版の第7章「本能」の前。したがって、旧7章以降の章は、第6版では1つずつ番号が繰り下がる)。また、第6版では、タイトルの先頭の "On" が取り除かれた。なお、第6版についても修正が続けられ、ダーウィンによる最終的な編集は1876年であったという。版を重ねるにつれて批判に応じて自然選択以外の要因も認めるようになっていった。  
自然選択説につながる記録や考察は、ビーグル号の航海中(1831年-1836年)およびその直後から続けられていた。本書につながる直接的な源流は、航海から6年後の1842年6月にノート35枚に纏められた「スケッチ」(小論文のこと)、および1844年6-7月に231ページに纏めた「エッセー」であった。これらは、ダーウィン自身で保管しており、執筆当時は公表されていなかった。1856年から、ダーウィンは「種の起源」に関する本の執筆を始めたが、1858年にウォレスからの手紙によって、その本の執筆を中断することになった。その中断された著作の要約版(抄本・アブストラクト)として著されたものが本書『種の起源』である。 
チャールズ・ロバート・ダーウィン  
(Charles Robert Darwin, 1809-1882) イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代であり、自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである。また彼の科学的な発見は修正を施されながら生物多様性に一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている。進化論の提唱の功績から今日では生物学者と一般的に見なされる傾向にあるが、自身は存命中に地質学者を名乗っており、現代の学会でも地質学者であるという認識が確立している。  
エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。5年にわたるビーグル号での航海は彼をチャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立した。またその航海記は人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして1838年に自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた。  
理論を書き上げようとしていた1858年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取った。二人の小論は即座に共同発表された。1859年の著書『種の起源』は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した。『人間の由来と性に関連した選択』、続く『人及び動物の表情について』では人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている。  
ダーウィンの卓越性はみとめられ、19世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルとアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている。2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第4位となった。 
生い立ち  
7歳のチャールズ・ダーウィン。母が死去する一年前。  
チャールズ・ダーウィンは、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として、1809年2月12日にイングランド、シュロップシャー州シュルーズベリーで生まれた。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンであり、母方の祖父は陶芸家・企業家であるジョサイア・ウェッジウッドである。  
祖父同士は博物学者として、父ロバートと叔父ジョサイア2世(母スザンナの弟)は実業家としてダーウィン家とウェッジウッド家は親密であり、両親など数組の婚姻が結ばれ、近しい姻戚関係にあった。母スザンナはダーウィンが8歳の時に没し、キャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめた。ロバートは思いやり深かったが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあった。  
ウェッジウッド家はダーウィンの誕生当時は既に英国国教会を受け入れていたが、両家とも元々は主にユニテリアン教会の信徒だった。ダーウィン家はホイッグ党の急進的でリベラルな考え方に同調していた。一族の男性は密かな自由思想家で非宗教的だったが、父ロバートはしきたりに従って子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせた。しかしダーウィンは兄妹や母と共にユニテリアンの教会へ通った。 
幼少期  
子供のころから博物学的趣味を好み、8歳の時には植物・貝殻・鉱物の収集を行っていた。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しておりダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った。  
1818年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ後、16歳(1825年)の時に父の医業を助けるため親元を離れエディンバラ大学で医学を学ぶ。しかし、人間の流血沙汰が苦手で、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術や、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、1827年に大学を去ることになる。この頃、南米の探検旅行に同行した経験がある黒人の解放奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。ダーウィンは彼を「非常に感じが良くて知的な人」と慕った。これは後にビーグル号の航海に参加し生物標本を作る際に役立った。2学年目にはプリニー協会(急進的な唯物論に魅せられた博物学の学生たちのクラブ。古代ローマの博物学者大プリニウスにちなむ)に所属し、海生生物の観察などに従事した。ダーウィンはロバート・グラントの海洋無脊椎動物の生活環と解剖学の研究を手伝った。ある日、グラントはジャン=バティスト・ラマルクの進化思想を称賛した。ダーウィンは驚いたが、その頃祖父の著作を読み類似した概念を、そしてその考えが論争的であることを知っていた。大学の博物学の授業は地質学の火成説と水成説論争などを含んでいたが退屈だった。また植物の分類を学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエディンバラ大学博物館で研究を手伝った。  
エディンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために1827年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でもはとこウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒した。フォックスの紹介で聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い親しい友人、弟子となった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの『自然神学』を読み、デザイン論(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得し信じた。自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新しい本や、アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとテネリフェへ旅行する計画を立て、その準備としてセジウィッグのウェールズでの地層調査に加わった。  
この時代には音楽や、後に残酷だからとやめることになる狩猟を趣味としていた。また一年目の1827年夏にはジョサイア2世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在だった。  
1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。 
ビーグル号航海  
1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている。  
ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下しバイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な艦の博物学者だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。モンテビデオを経て出航からおよそ1年後の1832年12月1日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだと書き記している。東岸の調査を続けながら1834年3月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った。  
1834年6月にマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養した。ガラパゴス諸島のチャタム島(サン・クリストバル島)に到着したのは1835年9月15日であり、10月20日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地だった。ダーウィンは諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ500万年と考えられている)、最初ゾウガメは海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年6月22日に心臓発作のため他界している。  
一般にはガラパゴス諸島でダーウィンフィンチの多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイなど別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった。  
1835年12月30日にニュージーランドへ寄港し、1836年1月にはオーストラリアのシドニーへ到着した。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後6月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。8月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て1836年10月2日にファルマス港に帰着した。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年が経過していた。  
後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った。  
ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている。 
帰国後  
ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンはシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。  
12月中旬にコレクションを整理し航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと1837年1月にロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンがクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを12種のフィンチ類だと発表した。2月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した。  
1837年3月により仕事をしやすいロンドンに移住し、科学者やチャールズ・バベッジのような学者の輪に加わった。バベッジのような学者はその都度の奇跡で生命が創造されたのではなく、むしろ生命を作る自然法則を神が用意したと考えていた。ロンドンでダーウィンは自由思想家となっていた兄エラズマスと共に暮らした。エラズマスはホイッグ党員で、作家ハリエット・マティノーと親しい友人だった。マティノーは貧しい人々が食糧供給を越えて増えることができないように行われた、ホイッグ党の救貧法改正の基礎となったトマス・マルサスのアイディアを推進した。またダーウィンの友人たちが不正確で社会秩序にとって危険だと言って退けたグラントの意見にも耳を傾けた。  
ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められたガラパゴスマネシツグミが亜種ではなく別の種だったこと、フィンチのグループにミソサザイが含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者トーマス・ベルはガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。3月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」。  
種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいった。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための1000ポンドの資金援助を政府から引き出した。ダーウィンは南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説を支持する、気の遠くなるような長い時間が存在したことを認めた。ヴィクトリア女王が即位したちょうどその日、1837年6月20日に航海記を書き終えたが修正のためにまだ出版できなかった。その頃ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。9月20日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて2、3週間は田舎で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり休む暇を与えなかった。9ヶ月年上のいとこエマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド2世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、ミミズの働きであることを示唆した。11月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これはミミズが土壌の生成に果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった。  
ウィリアム・ヒューウェルは地質学会の事務局長にダーウィンを推薦した。一度は辞退したが、1838年3月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。6月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、シャーガス病かいくつかの心の病が示唆されているが明らかになっていない。6月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後にこれは海岸線の痕だと発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると7月にシュールズベリーに戻った。 
結婚  
姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が1838年に結婚するとダーウィンも結婚を意識し始めた。1838年7月に、動物の繁殖を書き留めたノートに将来の見通しについて二つの走り書きをした。“結婚”と“結婚しない”。利点には次のように書いた。「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせよ犬よりまし」。欠点については次のように書いた。「本のためのお金が減る、おそろしい時間の無駄」。  
結局ダーウィンは11月にプロポーズし、1839年1月に結婚した。父から戒められていたにもかかわらずダーウィンは自分の非宗教的な考えを話した。エマは受け入れたが、愛情を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に自分のユニテリアンの強い信仰と夫の率直な疑念が来世で二人を離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、休みを取るよう訴えた。結局ガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその「博物館」へ引っ越した。1839年1月24日にダーウィンはロンドン王立協会の会員に選出され、5日後の29日にメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。12月には長男ウィリアムが誕生した。  
1839年にはビーグル号航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され好評を博した。これは1843年までに全五巻の『ビーグル号航海の動物学』として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて1842年から『ビーグル号航海の地質学』全三巻が出版された。 
自然選択説への到達  
ロンドンで研究を続けているときに、トマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで次のように述べた。  
1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...C.R.ダーウィン 『自伝』  
マルサスは人間の人口は抑制されなければ等比数列的に増加し、すぐに食糧供給を越え破局が起きると主張した。ダーウィンはすぐにこれをド・カンドルの植物の「種の交戦」や野生生物の間の生存のための努力に応用して見直し、種の数がどのようにして大まかには安定するかを説明する準備ができていた。生物が繁殖のために利用できる資源には限りがあるので、好ましい変異を持った個体はより生き延び彼らの子孫にその変異を伝える。同時に好ましくない変異は失われるだろう。この結果、新種は誕生するだろう。1838年9月28にこの洞察を書き付け、くさびのようなものと記述した。弱い構造は押し出され、適応的な構造は自然の経済の隙間に押し込められる。翌月一杯をつかって、農民がもっともすぐれた個体を繁殖へ用いるのと比較し、マルサス的自然が「可能性」によって変異を取り上げ、その結果「新たに獲得した構造のあらゆる部分は完全に熟練しており完璧だ」と述べた。そしてこのアナロジーを自分の理論でもっとも美しい部分と考えた。  
ダーウィンは今や自然選択の理論のフレームワークを持っていた。彼の研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んだ。種が固定されていないという証拠の発見、アイディアの細部を洗練するための調査を行った。10年以上、この研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われていた。  
1842年のはじめにライエルに宛てて自分の考えを伝え、ライエルは盟友が「各々の種の始まりを見る事を拒否する」と記した。5月には3年の研究を経て珊瑚礁に関する研究を発表した。それから「ペンシルスケッチ」と題して理論を書き始めた。9月にはロンドンの不衛生と喧噪を避けてロンドン近郊のダウン村に引っ越した。1844年1月11日にジョセフ・ダルトン・フッカーに自分の理論を「殺人を告白するようなものですが」と添えて打ち明けた。フッカーは次のように答えた。「私の考えでは、一連の異なる点の生成と、漸進的な種の変化があったのかも知れない。私はどのように変化が起こったのかあなたの考えを聞けて嬉しい。こんなに早くこの問題で安心できるとは思わなかった。」  
7月までには早く死んだときに備えて「スケッチ」を230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んだ。11月には匿名で出版された進化に関する著書『創造の自然史の痕跡』が幅広い論争を引き起こした。この本は一般人の種の変化に対する関心を引き起こし、ベストセラーとなった。ダーウィンはその素人のような地質学と動物学の議論を一蹴したが、同時に自身の議論を慎重に見直した。1846年には地質学に関する三番目の本を完成させた。それから海棲無脊椎動物の研究を始めた。学生時代にロバート・グラントとともに行ったように、ビーグル号航海で収集したフジツボを解剖し分類した。美しい構造の観察を楽しみ、近縁種と構造を比較して思索した。  
1847年にフッカーはエッセイを読み、ダーウィンが望んだ重要な感想を書き送ったが、継続的な創造行為へのダーウィンの反対に疑問を呈し、まだ賛同しなかった。1851年にはもっともかわいがっていた娘のアニーが10歳で死去した。8年にわたるフジツボの研究は理論の発展を助けた。彼は相同性から、わずかに異なった体の器官が新しい環境で必要を満たすように十分機能することを発見した。またいくつかの属でオスが雌雄同体個体に寄生していることを発見し、二性の進化の中間的な段階を示していることに気付いた。  
1848年には父ロバートが没した。医者として成功した父をダーウィンは生涯敬愛していた。この頃のダーウィン家は父や叔父の残した財産の運用で生計を立てていた。100ポンドで中流の暮らしができた当時に、夫妻は父と叔父から900ポンドの支援を受けていて、晩年には年8000ポンドの運用益があったと言われる。ダーウィンと同じように医者を目指し挫折した兄エラズマスものちにダウンに移住し、父の財産で優雅な隠遁生活を送っていた。1850年には世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合っている。  
1853年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、生物学者としての名声を高めた。1854年に再び種の理論の研究を始め、11月には子孫の特徴の差異が「多様化された自然の経済の位置」に適応していることで上手く説明できると気付いた。 
ダーウィンの進化論  
自然選択説  
生物の進化は、すべての生物は変異を持ち、変異のうちの一部は親から子へ伝えられ、その変異の中には生存と繁殖に有利さをもたらす物があると考えた。そして限られた資源を生物個体同士が争い、存在し続けるための努力を繰り返すことによって起こる自然選択によって引き起こされると考えた。  
獲得形質遺伝の支持とパンゲン説の提唱  
遺伝についてはパンゲン説(パンゲネシス)という説を唱えて説明した。これは「ジェミュール」(en:Gemmules)という微小な粒子が体内を巡り、各器官で獲得した情報を蓄え、生殖細胞に集まり、特徴・形質が子に受け継がれ、子の体において各器官に分散することで親の特徴を伝える、という説である。ダーウィンは、ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を支持していたのである。  
メンデルの遺伝の法則は当時まだ知られていなかった。当時は遺伝物質の融合説(遺伝を伝える物質があったとしても、それは子ができる過程で完全に融合する)が広く知られていたが、ダーウィンはメンデルが行った実験と同じように、スイートピーの交雑実験で形質が必ずしも融合するわけではないとつき止めていた。しかしフレミング・ジェンキンが行った変異は融合するから集団中に維持されないという批判に上手く応えることができず生涯ダーウィンを悩ませた。また変異がどのように誕生するのかを説明することもできなかった。ダーウィンは当時の多くの科学者と同じく進化と発生を区別しておらず、食物や発生中の刺激によって新たな変異が生まれると考えた。この問題は後に突然変異が発見されるまで解決されなかった。  
メンデルの遺伝に関する論文がダーウィンの書庫から未開封のまま見つかったといわれるが、これは後世の作り話でメンデルの実験をダーウィンが知ることはなかった(メンデル自身は『種の起源』を持っていたが、ほとんど目を通していなかった)。  
性選択に対する見解  
自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に性選択説を唱えた。さらに性比(多くの生物で雄と雌の比率が1対1になるが、一部の生物では偏りがあること)や性的二型の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に頻度依存選択(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった。  
新たな種が形成されるメカニズムを種分化と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった。 
自然選択説の公表  
1856年のはじめに卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べていた。フッカーはますます種が固定されているという伝統的な見方を疑うようになった。しかし彼らの若い友人トマス・ハクスリーははっきりと進化に反対していた。ライエルは彼らの問題意識とは別にダーウィンの研究に興味を引かれていた。ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。  
1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドンリンネ学会で代読した。  
ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなくかつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。 
『種の起源』への反響  
この発表に対する関心は当初ほとんど無かった。8月に学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかあったが、学会長は翌年の演説で革命的な発見が何もなかったと述べた。ダブリン大学のサミュエル・ホートーン教授は「彼らが新しいと考えた全ては誤りだった。正しいのは古い考え方だった」と述べた。ダーウィンは13ヶ月間、「巨大な本」の要約に取り組んだ。不健康に苦しんだが科学上の友人たちは彼を励ました。ライエルはジョン・マレー社から出版できるよう手配した。1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。初版1250冊以上の申し込みがあった。  
もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造の自然史の痕跡』よりも少ない論争と大きな歓迎とともに国際的な関心を引いた。病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィンと家族は熱心に科学的な反応、報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と意見を交換した。ダーウィンは人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初の批評は『痕跡』の「サルに由来する人間」の信条を真似して書かれたと主張した。初期の好ましい反応のひとつであるハクスリーの書評はリチャード・オーウェンを痛打し、以後オーウェンはダーウィンを攻撃する側に加わった。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。ケンブリッジ大学の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた。進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。  
ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べた。しかしフッカー、トマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知と影響力を拡大した。  
博物学者のベイツやミュラーも支持者に名を連ね、進化論を補強する様々な資料を提供した。アメリカではハーバード大学の著名な植物学者だったエイサ・グレイが、ドイツではエルンスト・ヘッケルが進化論の普及に努めた。  
英国国教会の反応は様々だった。恩師セジウィッグとヘンズローはこの考えを退けたが、自由主義的な聖職者は自然選択を神のデザインの道具と解釈した。牧師、博物学者チャールズ・キングズレーは「まったく立派な有神論の概念」と見なした。1860年に出版された7人の英国国教会の自由主義神学者による『エッセイ・アンド・レビュー』は創造説を痛烈に批判していたが、英国国教会の指導部によって異端と攻撃された。この本はダーウィンから注意をそらすことになった。その中でベーデン・パウエルは奇跡が神の法則を破り、彼らの信念は無神論的だと主張し、同時に「ダーウィン氏のすばらしい著作は自然の自己進化の力の壮大な原理[を支持する]」と称賛した。エイサ・グレイは目的論についてダーウィンと議論し、彼の有神論的進化と自然選択は自然神学と相反しないというパンフレットは輸入されて配布された。  
1860年にはオックスフォード大学で、ハクスリー、フッカーら支持者とウィルバーフォース大司教ら反対者による討論会が行われた。一般に知られるように、大司教が一方的に論破されたわけではなく(ウィルバーフォースは「種の変化に反対はしないが、ダーウィンの説明には反対である」と述べた。また生物学の知識がなかったため聖書と感情にのみ基づいて論じ、議論はかみ合わなかった)双方が勝利したと主張した。聴衆は立派に弁じた両者に盛大な拍手を送った。しかしこの討論は進化論の知名度を押し上げることになった。1877年、ケンブリッジ大学はダーウィンに名誉博士号を贈った。  
ウォレスが1858年に送った最初の手紙では(初めてウォレスがダーウィンに手紙を送ったのは1856年頃と言われる)、種は変種と同じ原理で生まれるのではないか、そして地理や気候の要因が大きいのではないか、という物だった(当時の創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種や変種は品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではマルサスの『人口論』が反映されておりダーウィンの自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃ダーウィンは生態的地位や適応放散にまで考察が及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事で自分は遠く及ばない」と述べている。  
ダーウィンの親しい友人グレイ、フッカー、ハクスリー、ライエルでさえ様々な留保を表明したが、それでも若い次世代の博物学者たちと供に常にダーウィンを支持し続けた。ハクスリーが宗教と科学の分離を主張する一方で、グレイとライエルは和解を望んだ。ハクスリーは教育における聖職者の権威に対して好戦的に論陣を張り、科学を支配する聖職者と貴族的なアマチュアの優位を転覆しようと試みた。この試みではオーウェンもハクスリーと同じ側にいたが、オーウェンは誤ったヒトと類人猿の脳の解剖学的差異に基づき、ハクスリーを「ヒトの類人猿起源」を主張したと告発した。もっともハクスリーはちょうどそれを主張していた。2年にわたるハクスリーのキャンペーンはオーウェンと「保守派」を追放することに劇的に成功した。  
ダーウィンは自然選択の発見をウォレスに断りなく共同発表としたことを、手柄の横取りと受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為に満足し、ダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見を異にしていたにもかかわらず、ウォレスとダーウィンの友好的な関係は生涯続いた。しかし当事者以外でこの行為を誤解した者もおり、手柄を横取りしたという批判を避けることはできず、この形の批判は現在でも残存している。ダーウィンは後年、生活に困窮していたウォレスを助けるため、グラッドストン首相に年金下付を働きかけるなど支援を行っている。  
『種の起源』は多くの言語に翻訳された。そしてハクスリーの講義に群がった様々な分野の次世代の研究者の関心を引きつけ、彼らの主要な科学のテキストとなった。ダーウィンの理論は当時の様々な運動に取り入れられ、大衆文化のカギとなった。ダーウィニズムという語は非常に広範な進化思想を含む用語となった。1863年のライエルの『Geological Evidences of the Antiquity of Man』は進化に批判的でダーウィンを落胆させたが、先史時代への大衆の関心を引いた。数週間後、ハクスリーの『自然における人間の位置』は解剖学的に人類は類人猿であることを示した。ヘンリー・ベイツは『アマゾン河の博物学者』で自然選択の経験的な証拠を提供した。友人たちの活動は1864年11月3日のダーウィンのコプリ・メダル受賞をもたらした。その日、ハクスリーは「科学の純粋さと自由、宗教的ドグマからの解放」を目指すXクラブの最初の会合を開いた。 
人間の由来と性選択  
人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされたが研究を継続した。理論の要約として『種の起源』を出版したが、しかし「巨大な本」の論争的な面については十分に述べていなかった。論争的な面とは他の動物からの人類の誕生と、ヒトの精神能力・高い社会性の原因についてである。さらにまだ有用ではないが装飾的な美しさを持つ生物の器官について説明していなかった。娘が病気にかかったときには実験中だった植物や家畜をおいて一緒に海沿いの保養地へ行き、そこで野生のランに興味を引かれた。これは美しい花がどのように昆虫をコントロールし他家受粉を確実にするのかについて革新的な研究へと繋がった。フジツボと同様に相同器官は異なる種で異なる機能を持つ。家に帰るとツタ植物で一杯の部屋で病に伏した。この頃ダーウィンを訪れた客はドイツでダーヴィニスムスを広げたエルンスト・ヘッケルも含まれた。ウォレスはますます心霊主義の方向にのめり込んでいったが、それでも強力な支持者のままだった。ダーウィンの「巨大な本」の最初の部分は大きな二巻本、『植物の変異』に増大した。そのため人類の進化と性選択に関して記述することができなくなった。彼は自然選択に関する第二のセクションを書いたが存命中には未発表のままだった。  
ライエルは人類の先史時代について論じ、ハクスリーは解剖学的にヒトが類人猿であることを示した。1871年にダーウィンは『人の由来と性に関連した選択』で多数の証拠を提示して人間と動物の精神的、肉体的連続性を示し、ヒトは動物であると論じた。そしてクジャクの羽のような非実用的な動物の特徴を説明する性選択を提案し、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴を性選択によって説明し、同時にヒトは一つの種であると強調した。絵や図を多用した研究は拡張され、翌1872年には『人と動物の感情の表現』を出版した。これは写真を利用した初期の本の一冊で、人間の心理の進化と動物行動との連続性を論じた。どちらの本も人気があり、ダーウィンは自分の意見が一般に受け入れられたことに感動し「誰でも衝撃を受けることなくそれについて話している」と述べた。  
そしてダーウィンはこう結論した。「人類とその高貴な特性、困窮している人への同情、人間にとどまらずささやかな生命さえも慈しむ心、神のような知性、太陽系の運動と法則への理解、あるいはそのような全ての高尚な力、[とともに]人間はその体の中に未だつつましい祖先の痕跡を残している」 
その他の研究  
フジツボの分類、珊瑚礁の形成と分化、ハトの飼育品種の改良、ミミズによる土壌形成の研究などでも業績を残している。これらの研究それぞれ単独でも生物学史上に名声を残すだけの成果を挙げているため、進化論の理論的構築がなくても生物学史上に名を残す著名な生物学者となったであろうとする評価もある。  
『ビーグル号航海の地質学』の最初の巻「サンゴ礁の構造と分配」(1842年)では、多様な様式の珊瑚礁の成立要因を考察した沈降説を唱えた。これはダーウィンの死後たびたび掘削試験が行われたが、1952年に核実験に伴う大規模な掘削調査で得られたデータにより、ようやく仮説が正しかったことが確認された。フジツボの分類学研究によるモノグラフ(1851年)は、今日でもフジツボの分類学研究の基本文献となっている。  
マダガスカルのラン科植物 Angraecum sesquipedale の花に特異に発達した長大な距の形状に着目し、その距の奥から蜜を吸い得る長い口吻を持つ昆虫がいるはずだと予想した(「昆虫によるランの受精についての論考」1862年)。ダーウィンの死後、この距の長さと同等の27cmの長さの口吻を持つスズメガ(キサントパンスズメガ)が発見された。こうした現象を引き起こす進化の様式は、今では共進化と呼ばれている。ヒトの由来についても、類人猿でヒトと近縁の種がアフリカにしか生息しないことから、アフリカで誕生したと予想した。これもダーウィンの死後にその予想が正しかったことが明らかになっている。  
息子のフランシス・ダーウィンと共に、主にイネ科植物のクサヨシの幼葉鞘を用い、光屈性に関する研究を行った。幼葉鞘の先端で光を感知し、その刺激が下部に伝達されて屈曲を引き起こすと結論し、1880年に『The Power of movement in plants(植物の運動力)』と題した著書を記している。その後、他の研究者らにより、刺激を伝達する物質の研究が行われ、植物ホルモンの一つであるオーキシンの発見へとつながった。  
ビーグル号航海から帰国してすぐに発表されたミミズの働きに関する小論は、当時はミミズにそれほどの力はないと考えられていたため、批判を受けたが、最後の著作『ミミズと土(ミミズの作用による肥沃土の形成及びミミズの習性の観察)』(1881年)では40年にわたる研究結果がまとめられている。これはややミミズの働きを誇張していると言われるものの、ミミズと土壌に関する明快な論文と言う面と、現在を研究することによっていかにして過去を知りうるかについての隠された論議という面を持っている。 
晩年  
1880年に兄エラズマスが闘病生活のすえ没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べた。  
年をとったダーウィンは次第に疲れやすくなったが、研究を止めることはなかった。特に家に残っていたフランシスと娘たち、使用人が研究を手伝った。晩年の楽しみはエマのピアノと小説の朗読で、特に古典よりも流行の小説を好んだ。彼の進化に関する実験と観察は、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響、同種の花の多型、植物の運動能力にまで及んだ。1881年の最後の本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じた。  
1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になった。1882年4月19日にダウン村の自宅で死去した。彼はダウン村のセントメアリー教会に葬られると考えていたが、同僚たちは科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なした。フッカー、ハクスリー、ラボックといった友人たち、王立協会会長ウィリアム・スポティスウッド、フランシス・ゴルトンらは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけた。ダーウィンは同年4月26日に国葬に付されウェストミンスター寺院に埋葬された。  
妻エマは1896年にダウンで没し、先に亡くなった兄エラズマスと同じくダウンの墓地に葬られている。ニューヨークタイムズ紙はダーウィンの死去の特集記事で「進化論を発見したのではなく、アリストテレスの時代からあった生物の疑問を科学的に解決したのだ」と述べた。 
社会思想  
ダーウィンは当時の多くの人と同じように人種平等主義者ではなく、また女性は能力が劣るとも考えていた。しかし一般的な差別主義を共有してはいなかった。人種間の生物学的な差異は非常に小さいので、人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していた。奴隷制度に反対し、ビーグル号艦長のフィッツロイと衝突したのも奴隷制度に対する意見の相違だった。フィッツロイが「(奴隷たちが)現在の状態に満足していると答えた。だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前でそう言ったのだから、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買った。ブラジルでは主人による奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、奴隷虐待を二度と見ることがないのがうれしく、この国は二度と訪れないだろうと書き残している。帰国後には奴隷解放運動を支援した。  
また「いわゆる人種を異なる種としてランク付けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。当時の作家は自然選択を自由放任主義の弱肉強食の資本主義、人種差別、戦争、植民地主義と帝国主義など様々なイデオロギーに用いた。しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存在する」であって、ピョートル・クロポトキンのような平和主義、社会主義、自由主義的な社会改革、無政府主義と協力の価値を協調した。ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から導かれてはならないと主張した。「社会ダーウィニズム」と言う用語は1890年頃から使われ出したが、1940年代にリチャード・ホフスタッターがウィリアム・サムナーのような改革や社会主義に反対した自由放任の保守主義を攻撃するために使い出すと軽蔑的な意味合いを持つようになった。それ以来、彼らが進化から導き出される道徳的結論と考えることに対して用いられる罵倒語となった。  
優生学  
ダーウィンはいとこのフランシス・ゴルトンの1865年の議論に興味を覚えた。ゴルトンは遺伝の統計分析が道徳や精神的能力は遺伝することを明らかにし、動物の品種改良の原則は人間に応用できると主張した。『人間の由来』でダーウィンは弱い者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘したが、弱者への援助を控えることはわれわれの同情の本能を危険にさらすと警告した。彼は人の共感能力や道徳心も自然選択によって形作られたと考え、現代でも道徳心が薄い人間は成功できないではないかと述べた。またダーウィンにとって教育はより重要だった。  
ゴルトンが研究を出版し、「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨したとき、ダーウィンは実際的な困難を予想して「唯一実現可能な人種の改善計画だが、まだ夢想的だと恐れる」と述べ、単に遺伝の重要性を公表して個人に決定を任せる方を好んだ。ダーウィンの死後1883年にゴルトンはこの考えを優生学と名付け、同時に生物測定学を発展させた。自然選択説がメンデル遺伝学によって一時的に失墜していたとき優生学運動は広範囲にひろがった。ベルギー、ブラジル、カナダ、スウェーデン、アメリカ合衆国を含むいくつかの国で断種法の強制となった。特にナチの優生学はダーウィンのアイディアの信用を傷つけた。  
社会ダーウィニズム  
道徳や社会正義に関する概念を記述的にのべることは倫理的な「である−べきである」の問題を引き起こす。トマス・マルサスは資源供給を超えた人口増加が破綻をもたらすと主張した。これは1830年代に収容所や自由放任経済が正当化されるのに用いられた。進化は社会的含みがあると見なされていた。ハーバート・スペンサーの1851年の本『社会静学』は人間の自由と個人の解放のアイディアの基盤にラマルク的進化の概念を用いた。ダーウィンの進化理論は「説明」の問題だった。ダーウィンは「ある動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理だ」と考え、進化は進歩ではなく目的もないと見なしたが、『種の起源』の出版のすぐあとから批判者は「生存のための努力」というダーウィンの説明をイギリス産業の資本主義をマルサス主義的に正当化するつもりだと言ってあざけった。ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念、エルンスト・ヘッケルの人種差別的な進化観など他の多くの進化に関する思想に使われた。 
宗教観  
典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。  
ダーウィンの家庭は英国国教会を受け入れておらず、そのうえ祖父、父、兄は自由思想家だったが、ダーウィン自身は聖書の無誤性を疑わなかった。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだ。ウィリアム・ペイリーの自然のデザインは神の存在の証明であるという自然神学を確信していた。しかしビーグル号航海の間に疑いを持ち始めた。例えばなぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在がペイリーの慈しみ深いデザイン論といったいどのように調和するのか?  
彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。種の変化を調査しているとき博物学の友人たちがそのような考えを、神授的な社会秩序をむしばむ恐るべき異教で、英国国教会の特権的な地位を批判するための反国教会主義者か無神論者による急進的な主張の一種だ、と考えていることを知っていた。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると思っていた。しかし1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した。地元の教会の人々とともに教区の仕事を手伝い続けたが、家族が日曜日に教会に通う間は散歩に出かけた。そのころには痛みや苦しみを神の直接的な干渉と考えるよりも、一般的な自然法則の結果と考える方がよいと思っていた。1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。このセクションは『自伝』が出版されるときにエマと息子のフランシスによって削除された。1958年に孫娘ノラ・バーロウによって出版された新しい版では削除された全てのセクションが元通りおさめられている。1879年に書かれた書簡では、自分はもっとも極端な考えに触れた時であっても神の存在を否定すると言う意味における無神論ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べている。晩年のダーウィンの友は、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れるダーウィンの遅疑逡巡を回想している。  
1915年に出版された『ホープ夫人物語』はダーウィンが死の床で信仰を取り戻したと主張した。ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べた。彼の最期の言葉は妻に向けられた。「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」 
 
   
マルクス「資本論」初版 3巻 1867−94年

 

Marx, Karl Heinrich.(1818-83)  
Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie.  
マルクスは、ドイツの社会主義者。科学的社会主義(共産主義)の創始者、国際労働者運動、革命運動の指導者。彼は、ボン、ベルリン両大学で法学、歴史、哲学を学び、卒業後イエナ大学から学位を得た。1844年にパリでエンゲルスと親交を結び、小ブルジョワ的社会主義の批判を通じて科学的社会主義の確立のための生涯にわたる二人の協力が生まれた。1847年にロンドンで開催された共産主義者同盟の第2回大会に出席し、エンゲルスと共同で有名な「共産党宣言」を書き、共産主義の理論と戦術を圧縮した形で体系的に示した。ドイツを追われた後、ロンドンに移り、「経済学批判」、「資本論」、「剰余価値学説史」の完成に努力したが、「資本論」は未完のまま原稿としてエンゲルスに委ねられた。第1巻はマルクスが自分で原稿を出版社に持ち込み出版したが、2・3巻はマルクスの死後、遺稿を整理したエンゲルスの手によって出版された。 
資本論 1  
(Das Kapital 、Capital : a critique of political economy) カール・マルクスの著作。ドイツ古典哲学の集大成とされるヘーゲルの弁証法を批判的に継承したうえで、それまでの経済学の批判的再構成を通じて、資本主義的生産様式、剰余価値の生成過程、資本の運動諸法則を明らかにした。全3巻(全3部)から成る。サブタイトルは「経済学批判(a critique of political economy)」。冒頭に、「忘れがたきわが友 勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士 ヴィルヘルム・ヴォルフにささぐ」との献辞が記されている。  
1867年に第1部が初めて刊行され、1885年に第2部が、1894年に第3部が公刊された。第1部は、マルクス自身によって発行されたが、第2部と第3部は、マルクスの死後、マルクスの遺稿をもとに、フリードリヒ・エンゲルスの献身的な尽力によって編集・刊行された。  
「第4部」となる予定だった古典派経済学の学説批判に関する部分は、エンゲルスの死後、カール・カウツキーによって公刊されたが、『資本論』という表題に関する版権の問題、カウツキーの「独自の見解」などにより、『資本論』第4部としてではなく『剰余価値学説史』(3巻4分冊)の表題で刊行された。その後、ソビエトのマルクス=レーニン主義研究所によって新たな編集による版が刊行された。(アカデミー版)これはさらに修訂されてMarks-Engels Werkeの第26巻T〜Vとして刊行された。(ヴェルケ版または全集版)  
 
マルクスは、「新ライン新聞」の編集者として、物質的な利害関係を扱う過程で、次第に、社会変革のためには物質的利害関係の基礎をなす経済への理解の必要性を認識し、経済学研究に没頭していった。  
1843年以来、マルクスは経済学の研究を開始する。亡命先のパリでの研究から始まり、9冊の『パリ・ノート』、6冊の『ブリュッセル・ノート』、5冊の『マンチェスター・ノート』などとしてその成果が残っている。なお、これらのノートは、いずれも『資本論』草稿ではない。  
1849年、マルクスはロンドン亡命後、大英図書館に通って研究を続け、1850年 - 1853年までの成果として『ロンドン・ノート』24冊を書き上げた。これはマルクスのノート中、最大分量を占める経済学ノートであるが、この時期のノートの内容には国家学、文化史、女性史、インド史、中世史、また時事問題など、内容の異なる多くの論が併存しており、この時期にマルクスの研究が経済学批判に特化したとはいえない。  
マルクスが経済学批判に関する執筆にとりかかったのは1857年からである。これは商品・貨幣を論じるごく一部のものにとどまり、『経済学批判、第一分冊』として1859年に刊行された。また、この時期の原稿は『経済学批判要綱』『剰余価値学説史』として、マルクスの死後に出版された。  
『資本論』そのものの草稿で最も中心的となったものは、1863年から1865年末までに執筆された草稿群である。ここでマルクスはおおまかな全3部の草稿のかたちを書き終えた。ただし、これは問題意識に基づくメモが終わったという意味にとどまり、それを再吟味・再構成し、文章として叙述し直し、清書するという作業はまるまる残された。この「1863年から1865年までの草稿」のことを新MEGA編集委員はまとめて「第3の資本論草案」と呼んでいる。しかしこの草稿も未完成のものであり、マルクスはそのことに自覚的であった。この第2部と第3部の草稿についてマルクスは1866年の段階でエンゲルスに宛てて、「でき上がったとはいえ、原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれにとっても、君にとってさえも出版できるものではない」と手紙に書いたほどであった。  
1867年に第1部が刊行されたが、その後もマルクスは叙述の改善をくり返し、「まったく別個の科学的価値を持つ」と自分で称するほどに納得できる版となった「フランス語版」が出版されたのはようやく1872年 - 1875年であった。このように、マルクスは第1部刊行後も改訂に改訂を重ね、第2部と第3部の作業は大幅に遅れ、貧困と病苦の中で膨大な未整理草稿を残したまま、1883年に世を去った。マルクスは大変な悪筆であったので、遺稿はエンゲルスしか読めず、編集作業は彼にしか行うことができなかった(後にマルクスの文字の読み方をカウツキーとベルンシュタインに伝授)。エンゲルスは、マルクスが遺した膨大な草稿と悪筆の前に、夜間の細かい作業を余儀なくされ、目を悪くしたとされる。なお2004年には、『資本論』第2部の編集に際してはエンゲルスとともに、今まで「エンゲルス原稿編集の口述筆記者」として扱われていたオスカル・アイゼンガルテンが相当程度この編集作業に関与していたことが明らかになっている。  
『経済学批判』という題でマルクスが最初に構想していたのは全6編であったが、それは後に『資本論』全4部構成に変更された。マルクスの『資本論』構想は理論的展開から成る第1部 - 第3部と、学説史から成る第4部であった。しかしマルクスの生前に刊行されたのは第1部(諸版があり、独語初版、改訂第2版、マルクス校閲仏語版、ロシア語版)のみで、あとに残ったのは膨大な経済学批判に関するノート類である。現在それらの草稿の多くはアムステルダム社会史国際研究所、あるいはモスクワの現代史文書保管・研究ロシアセンターに保管されている。 
資本論 2  
第1部 / 資本の生産過程の研究  
商品と貨幣  
マルクスは、巨大な資本主義経済を構成する、最も単純でありふれた要素である商品の分析から出発する。  
商品は、人間の欲望をみたす使用価値(近代経済学で言うところの効用の対象となるもの)と、他のものとの交換比率であらわされる交換価値(発展した貨幣表現としては価格)をもつ。等価関係におかれた二商品は、なぜ価値が等しいと言えるのか。使用価値が等しいからではない。なぜなら使用価値が異なるからこそ交換の意味があるからである。では商品から使用価値を取り去ると何が残るか。それは、商品とは、自然物になんらかの人間の労働が付け加わった労働生産物である、ということだけである。二つの商品が等価であるというとき、その商品の生産に費やされた労働の量が等しい。しかもこの労働は、シャツや綿布といった具体的な使用価値を形成するような、裁縫労働や織布労働といった具体性のある労働(具体的有用労働)ではない。労働の具体性をはぎとられた抽象的な労働、単なる人間の能力の支出としての抽象的人間労働、そのような労働の生産物として二つの商品は等しいとされる。抽象的人間労働の凝固物、これが価値の実体である。価値の量すなわち抽象的人間労働の量は、基本的には労働時間によってはかられ、その際に労働の強度や労働の複雑さが考慮される。  
さらに、価値量を規定する労働時間は、その商品を生産するのに必要な個別的、偶然的な労働時間ではなく、社会的に必要とされる平均的労働時間である。たとえば、ある社会に、1日8時間労働で1着のシャツをつくる商品生産者Aと、1日8時間労働で7着のシャツをつくる商品生産者Bがいるとすれば、社会全体としては16時間労働で8着のシャツが生産され、平均すれば、1着あたりに2時間労働が費やされていることになる。商品生産者Aが手にするのは2時間労働分の価値、商品生産者Bが手にするのは14時間労働分の価値である。したがってよく誤解されるように、怠け者が得をするわけではない。  
商品の価値は、その商品の生産に費やされる社会的に平均的な労働量によって決まる。これがマルクスが、アダム・スミスやリカードから受け継ぎ発展させた労働価値論のあらましである。  
しかし、商品は自らの価値を自分だけで表現することはできない。ある商品の価値量は、他の商品の使用価値量によって表現される。これが貨幣の起源である。商品社会で、ある一つの商品の使用価値量によって他のすべての商品の価値量を表現することが社会的合意となった場合、その特殊な商品が貨幣となるのである。貨幣商品の代表が金(gold)であり、その使用価値量、すなわち重量が貨幣の単位となった。  
また、商品の価値を貨幣で表現したものが価格である。ある商品の価格は需要供給の変動により、価値と離れて変動するが、価値はこの価格変動の重心に存在し、長期的平均的には、商品が含む労働量によって、価値によって価格は規定される。  
商品や貨幣は、資本を説明するための論理的前提である。一般の商品流通は、自分の所有する商品と相手のもつ商品との間の、貨幣を媒介とした交換の過程であり、商品−貨幣−商品である。この流通は「買うために売る」、つまり欲しい商品を手に入れ、その使用価値を消費することによって終わる。これに対して、資本としての貨幣の流通は「売るために買う」、…貨幣−商品−貨幣… である。この流通の目的は価値、しかも、より多くの価値を得ることであり、資本としての貨幣の流通は終わることのない無限の過程である。資本とは「自己増殖する価値」であり、これが最初の資本概念である。資本を理解するためには、価値とは何か、貨幣とはなにか、商品とはなにかが理論的に明らかにされている必要があったために、資本概念の前に商品、貨幣、価値などの概念が説明されていたわけである。
貨幣の資本への転化、剰余価値の生産  
では、資本はどのようにして価値増殖し、儲けを得るのか。その答えは、自ら価値を生産する特殊な商品すなわち労働力商品を所有する、賃金労働者からの搾取によってである。  
機械などの生産手段や貨幣がそのまま資本になるのではない。ある歴史的条件の下で「資本」に転化する。その決定的な条件とは、生産手段を所有するブルジョアジー(資本家階級=生産手段の所有者)と、封建的身分からも生産手段の所有からも自由となった、労働力商品以外に売るべき商品を何ももたない賃金労働者の存在である。  
資本(その人格化としての資本家)は、労働者から労働力商品を購買する。労働者はその対価として、賃金を受け取る。賃金は労働力商品の価格である。労働力商品の価値はその再生産のために必要な費用、すなわち労働者と家族の生活費によって決まる。労働力商品の使用価値は、労働して価値を生み出すこと、しかも資本家にとっての使用価値は、自らの価値を超える価値を生み出すことである。労賃を超えて労働者が生み出した価値が「剰余価値」であり、資本家がこれを取得する。——これがマルクスが明らかにした搾取(労働者が生み出した価値−労賃=剰余価値)の秘密であり、資本の儲けの秘密である。たとえば日当1万円の労働者が2万円分の価値を生み出すなら、差し引き1万円分の剰余価値が資本家のものとなる。逆に言えば、剰余価値をうまない労働者、自分の賃金以上の価値を生み出さないような労働者は、資本にとっては購入する必要も動機もない。  
資本は使用価値を消費する目的のために生産を行うのではなく、無限の剰余価値(対象化された不払労働)の追求、すなわち「もうけ」のために生産を行う。したがって、例えばいくら飢餓が生じ、食糧の生産が必要であっても、もうけが生じなければ資本は生産はしない。逆に兵器など社会にとって有害なものでも、もうけが出れば資本は生産する。マルクスはこのことを『資本論』の中で、「まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である」と書いた。
剰余価値生産の二つの方法 絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産  
資本が取得する剰余価値を増加させるには二つの方法がある。第一に、労働力の価値(またはその価格表現である賃金)が一定であるなら、労働時間を延長させることである。日当1万円の労働者が8時間労働で2万円分の価値を生み出すとき、12時間労働に延長すれば3万円分の価値を生み出し、剰余価値は1万円分増加する。これを絶対的剰余価値生産という。ただし、この方法には限界がある。まず1日は24時間しかない。さらに賃金労働者は労働時間の短縮を求めて労働組合を組織して資本家に抵抗する。  
そこで、とられる第二の方法は、労働時間が一定ならば労働力の価値または賃金を減らすことである。先ほどの労働者の日払い賃金を1万円から5千円に半減させれば、剰余価値は2万円から2万5千円に増大する。これを相対的剰余価値生産という。しかし、無前提に労働力の価値を減らすことはできない。労働力の価値または賃金は、労働力商品の再生産費、つまり労働者とその家族の生活費によって決まっている。資本の側から一方的に賃金を減らすことは、労働者を生活不能にし、労働力商品の再生産を不可能にさせる。賃金労働者なくして資本は剰余価値生産できないから、短期的にはともかく長期的にはこのようなことは不可能である。ではどうするか。それは生産力の上昇によって可能となる。生産力を上昇させ、労働者の生活手段を構成する商品の価値が安くなれば、労働者の生活費も安くなり、労働力商品の価値が低下し、賃金を引き下げても労働力の再生産が可能となる。賃金を半減させるためには、生産力が二倍となればよいのである。個々の資本はより安価な商品を目指して生産力を上昇させるために、相互に競争している。この競争が諸資本を強制し、個々の商品を安くさせ、生活費を安くさせ、賃金を引き下げる前提を生み出している。  
生産力を上昇させる手段には、協業、分業にもとづく協業、機械制大工業があり、マルクスはそれぞれについて分析している。  
日本資本主義における正社員の長時間過密労働は絶対的剰余価値生産の概念によって、非正社員の低賃金は相対的剰余価値生産の概念によって、よく説明することができる。
資本の蓄積  
賃金労働者を搾取して資本が得た剰余価値は、資本家の所有するところとなる。資本家はこれを全て消費することも可能だが、「資本の人格化」としての資本家は個人的消費を節約して、剰余価値を再び資本に転化し、資本蓄積がおこなわれる(剰余価値の資本への転化)。ここから資本家の「禁欲」の結果、富が蓄積されるという社会的意識が生じ、禁欲を善とするプロテスタンティズムが資本主義の精神となる(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。  
資本の蓄積の過程は、ますます多くの賃金労働者が資本に包摂されることであり、資本−賃労働関係の拡大再生産である。歴史的にヨーロッパでは、羊毛生産のために封建領主が農民を土地から追い出す囲い込みによって、農村から駆逐された農民が、産業都市に移住しプロレタリアートに転化した。資本主義の初期に現れる、国家の暴力を利用したプロレタリアートの創出を本源的蓄積という。  
また、相対的剰余価値生産に伴う生産力の増大は、剰余価値から転化される資本について、不変資本(生産手段購入に投じられた資本)に対する可変資本(労働力購入に投じられた資本)の比率を相対的に小さくしていく(資本の有機的構成の高度化)。こうして賃金労働者のますます多くの一定部分が、相対的過剰人口(失業者や半失業者)に転化する。資本主義的生産のもとでは、一方で資本家の側には富が蓄積され、他方で賃金労働者の側には貧困が蓄積されていく。  
資本蓄積の発展に伴って、生産は次第に集積し、自由競争は独占へと転化する。賃金労働者によって担われる生産の社会化が進む一方で、依然として富の取得は資本家に委ねられて私的なままであり、資本と賃労働の間の矛盾はますます大きくなる。この矛盾が資本主義の「弔いの鐘」となる、とマルクスは第1部を結ぶ。  
第1部では、剰余価値が生産過程において賃金労働者からの搾取によって生み出されていることを示した。剰余価値は利潤、利子、地代の本質、実体であり、利潤、利子、地代は剰余価値の現象形態である。これらについては、第3部で分析される。
第2部  
第2部は資本の流通過程の研究、すなわち、資本制的生産様式の再生産に関する研究である。第1部がマルクス自身が構成や叙述の仕上げ、刊行まで関わったのに対し、第2部は、マルクスの死後、残されていたいくつかの草稿(第2部のエンゲルスによる序文を参照)をエンゲルスが編集、刊行したものである。  
第1篇と第2篇は資本の循環や回転などを扱っており、個別資本の流通過程での運動を考察した。いわば資本家が経営の上で資本の動きを見る時と同じ視点である。実際、マルクスは、工場経営者であったエンゲルスにしばしば資本の回転率などについて照会の手紙を送り、経営のリアルな現実における実務を学び、この草稿に反映させている。  
第3篇は社会全体における資本の流通過程の研究である。「再生産論」と呼ばれる理論分野で、社会的総資本の観点から、資本制的生産様式を維持・持続するために、資本の生産・流通・再投下が、どのような制約・条件の下でおこなわれているかを考察したものである。マルクスはフランソワ・ケネーの経済表に刺激を受けながら「再生産表式」とよばれるモデルをつくりあげ、マクロ的視点から資本の流通・循環を論じた。  
第3部  
第3部は、資本主義的生産の総過程の研究である。第3部も第2部と同様に、マルクス自身の手で刊行されたものではなく、マルクスの草稿をエンゲルスが編集(第3部のエンゲルスによる序文を参照)したものである。  
第3部は第1部と第2部の研究をふまえ、資本主義経済の一般的・普遍的な諸現象である価格、利潤、平均利潤率、利子、地代などを扱い、資本主義経済の全体像の再構成を試みた。 
『資本論』の方法  
マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした表象を念頭におき、分析と総合によって資本概念を確定し、豊かな表象を分析しながら一歩一歩資本概念を豊かにしていくことを通じて、資本主義社会の全体像を概念的に再構成するという、分析と総合を基礎とする弁証法的方法である。  
「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものにすすみ、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこからこんどは、ふたたびあともどりの旅が始まるはずであって、最後に再び人口にまで到達するであろう。だがこんど到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」(マルクス『経済学批判序説』)。  
これがマルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つで、その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による対象の概念的再構成である。『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからである。  
マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに、「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し、発展し、やがて次の社会制度へと発展的に解消されていく、という「歴史性」を見ていないというのだ。  
マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、こう述べた。「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌わしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」。 
『資本論』の中の共産主義論  
『資本論』は、資本主義的生産様式とそれに照応する生産・交易諸関係を研究した著作であり、共産主義の未来モデルを描いた著作ではない。ただし、マルクスは資本主義の諸特徴を、資本主義以前の生産様式(封建制、奴隷制など)の場合や、未来の協同社会(共産主義社会)の場合としばしば対比している。  
『資本論』全3部の中で「共産主義社会」と記載されている箇所は第一部の「共産主義社会では、機械は、ブルジョワ社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」と第二部の「共産主義社会では社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう」のわずか2箇所である。マルクスは資本主義とは異なる協同的な生産様式を、「結合的生産様式」、「結合した労働の様式」、「協同的生産」、「社会化された生産」などと表現している。より詳細な規定としては、「協同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(第1部第1編)、「労働者たちが自分自身の計算で労働する社会」(第3部第1編)、「社会が意識的かつ計画的な結合体として組織」(第3部第6編)などがある。  
また、『資本論』において国家は重要ではなく、「意識的計画的管理」(第1部)「意識的な社会的管理および規制」(第3部)といった形で理性によって規制するという一般論が述べられているだけである。  
マルクスは『資本論』第3部で、「自由の国」と「必然の国」の問題に触れ、共産主義革命の目的を述べている。すなわち、経済が資本主義=剰余価値(もうけ)の追求から解放され、社会の合理的な規制の下に服して社会の必要に対する生産という経済本来のあり方を回復するが、それでも生産は人間が生活していく上で必要な富をつくりだすための拘束的な労働(必然の国)が要る。しかし、この時間は時間短縮によって次第に短くなり、余暇時間(自由の国)が拡大する。『資本論』第3部では、この時間の拡大によって人間の全面発達がおこなわれ、人間が解放されるとマルクスは主張した。 
『資本論』研究  
元々のマルクスのプランに基づく『資本論』の復元については様々な議論がおきている。現在、マルクスとエンゲルスの全ての著作物を刊行する新MEGAの試みが国際的な共同作業で行われ、この中で『資本論』の構成についても吟味されている。この新MEGAにおける第II部「『資本論』および準備労作」全15巻24分冊の編集はL・ミシケーヴィチ、L・ヴァシーナ、E・ヴァシチェンコ、大谷禎之介、C・E・フォルグラート、R・ロート、E・コップフ、大村泉、M・ミュラーなど各国の研究者により、進められている。  
初期の日本語訳は高畠素之らによるもので、これを勉強した中国の留学生が社会主義・共産主義を中国に持ち帰ったと言われる(なお、中島敦の伯父である漢学者の中島端(端造)が、日本語訳に先んじて漢文訳を行ったものの、内容は面白いが文章が悪文であると述べて、そのまま放棄してしまったと言われている)。資本論の読み直しは、フランスのルイ・アルチュセールや日本の廣松渉、今村仁司、柄谷行人らによって行われている。  
批判  
マルクス主義一般を批判した著作や学派は多数あるが、『資本論』そのものを批判した代表的な論者の一人にオーストリアの経済学者でウィーン学派のオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクがいる。ベーム=バヴェルクは、『マルクス体系の終結』のなかで、マルクスが第1部では価値は投下労働量によって決まるといっているのに、第3部ではそれとは別の、需給変動にもとづく生産価格と平均利潤率の理論を持ち出しているとして、これを『資本論』の第1部と第3部の矛盾と批判した。  
また、この問題に関わって、価値が価格に転化する際に、総価値=総生産価格が貫かれるとするマルクスの立場を批判したドミトリ・エフ・ボルトケヴィッチなどがいる。これらを総称して「転形問題論争」という。 
カール・ハインリヒ・マルクス  
(Karl Heinrich Marx, 1818-1883) ドイツの哲学者、思想家。政治思想史、経済思想史の上では、19世紀以降の共産主義運動・労働運動の理論的指導者、経済学者として知られる。20世紀において最も影響力があった思想家の一人とされる。親友にして同志のフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。マルクスの経済学批判による資本主義分析は主著『資本論』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。  
カール・マルクス(以下、マルクス)は、1818年5月、プロイセン王国治下のモーゼル河畔にあるトリーアにて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビ(聖職者で神学者)を務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、自由主義的な啓蒙思想をもち、1812年からフリーメーソンの会員でもあった弁護士であり、マルクスが生まれる前に、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した。母アンリエットもユダヤ教のラビの家系なので、マルクスの出自はユダヤ系ドイツ人といえるが、マルクス自身は6歳の頃に父親と同じくプロテスタント(キリスト教)の洗礼を受けているので、ユダヤ教徒ではない。  
1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈なルソーの支持者であった。マルクスの高校卒業論文(哲学)の主題は、「職業の選択にさいしての一青年の考察」であった。  
1836年、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学し、ヘーゲル左派の影響を受ける。さらに、1841年にはイエナ大学へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』であった。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。  
1842年、マルクス24歳のとき、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「ライン新聞」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たしているが、この時の出会いはお互いにほとんど影響をもたらさなかった。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職した。
ヨーロッパ諸国遍歴と共産主義宣言  
1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人であるアーノルト・ルーゲ、ゲオルク・ヘルヴェークとともに、パリで『独仏年誌』を出版した。しかしながら、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、マルクスはドイツからの亡命共産主義者が隔週発行していた「フォアヴェルツ」紙に寄稿するようになった。1844年8月、フリードリヒ・エンゲルスがパリにマルクスを訪れ、10日間滞在し、この時から本格的な二人の交友がはじまった。また、この時期マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を始めることとなる。しかし「フォアヴェルツ」紙に寄稿されたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の批判記事に憤慨したプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、1845年1月にはパリからベルギーのブリュッセルへ追放を余儀なくされた。この時のベルギー政府の受け入れには「現在の政治問題についての著作を発表しない」という条件が付いており、マルクスはこれを文書で確約した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた。  
1846年、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『共産党宣言』を起草した。『トリーア新聞』を機関紙としていた「真正社会主義者」カール・グリューンと論戦をしたのもこの頃である。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには1848年2月のフランス二月革命のため3月3日にベルギー警察に夫婦とも抑留され、24時間以内の国外退去を命じられたため、翌日フランス臨時政府の招きに応じてパリにもどる。翌月にはプロイセン王国領のケルンへと移動し『新ライン新聞』を創刊したものの、政府に弾圧されて翌1849年には廃刊となり、5月には国外追放となる。いったんはパリへと戻るもののフランス政府の実権は反動派が握っており、マルクスはエンゲルスの招きに応じて、1849年8月末、ロンドンに亡命した。以後、マルクスは亡くなるまでイギリスにとどまり続けた。
亡命先ロンドンでの滞在生活  
マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。しかしロンドン亡命後数年間のマルクスは貧困にあえいでおり、二男グイドが1850年11月に、三女フランツィスカが1852年に、長男エドガーが1855年3月に、それぞれ亡くなっている。1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上寄稿した。1851年12月にフランスにおいて大統領のルイ・ナポレオンがクーデターを起こして実権を握るが、これに対してマルクスは2か月後の1852年2月には『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を発表し、激しく非難した。1864年にロンドンで結成された第一インターナショナルに参加、主導権を握り、バクーニンと激しく論争した。  
ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれたといっても過言ではない。1859年には『経済学批判』を出版した。  
1867年4月12日、『資本論』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成であった。  
1871年3月26日、マルクス53歳のときにパリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生した。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆をおこない、この政権を支持した。同時に、「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判もした。  
ロンドンでのマルクス家の生活は裕福で、メイドが複数いた。ひとりのメイドはマルクスの子供を産んだが、妻の怒りを避けるために、エンゲルスが自分の子供として認知した。
晩年  
1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書きつづけた。マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動への助言をおこない、精神的支柱であり続けた。1875年にはドイツ社会民主主義運動のアイゼナハ派にあてて文書を送り、これはのちに『ゴータ綱領批判』として出版された。1881年12月2日に妻イエニーが死亡した。  
1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(65歳)。1883年3月17日には埋葬が行われた。マルクスの葬儀は、家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人(または9人)で執り行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として遺されている。彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くにあるハイゲイト墓地にあり、1956年には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像が加えられた。そして現在に至るまで、彼の生前の面影を偲ぶことができる。  
マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版が行われた。 
マルクスの歴史観  
唯物史観  
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構(社会的存在)を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を規定するとしている。したがって、人間の意識と社会的存在との関係は、人間の意識がその時代における社会的存在(物質的生活の生産様式)を規定するのではなく、逆にその時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった、同時代の意識そのものを規定するという関係が成立することになる。 人間の社会的存在を土台にして、その時代における意識を規定するという関係から、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。このようなマルクスの歴史観を唯物史観(唯物論的歴史観)という。マルクスの言葉では以下のとおりである。  
『経済学批判 序言』 / 人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。  
人間社会の発展と疎外  
若いころ、マルクスは、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち疎外が発生することを指摘した。(「疎外」という言葉はヘーゲル哲学でよく用いられる。)疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性が否定され、まるで歯車の一部のようにされる機械技術による疎外などである。ただし、唯物論的な歴史観(唯物史観)を確立した後、マルクス、エンゲルスは「疎外」という用語をほとんど使っていない。  
資本主義の発展と革命  
マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは社会の生産性を高めるために必要な段階と捉えており、資本主義経済の発展・成熟とそれに伴う恐慌、階級闘争の激化などを契機として、革命が起こり共産主義へと移行すると考えていた。マルクスが共産主義革命の前提としていたのは、当時のイギリス、ドイツ、フランスなどに代表される西欧の成熟した資本主義的生産様式であった。しかし、実際に社会主義革命が成功したのはロシア、中国、キューバなど資本主義の発展の遅れた国々であった。 
マルクスの宗教観  
マルクスは、学生時代にヘーゲル哲学を研究するかたわら、詩作を試みた時期があった。愛をうたった詩も多い。1837年(19歳)のときにノートに書いた「絶望者の祈り」という詩は、「運命の呪いと軛だけを残して何から何まで取上げた」神への復讐というフレーズで始まっている。  
マルクスは26歳のとき、論文『ヘーゲル法哲学批判序論』のなかで次のように述べている。  
「宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。」  
この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。阿片は中毒を引き起こす麻薬であるとともに、当時、緩和医療での疼痛などの痛み止めとしても使用されていた。  
ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに対し、26歳のマルクスは、私有制のエゴイズムが金銭崇拝と商人根性をユダヤ人に教えるのであり、改宗は無意味である。必要なのは人間をエゴイズムから解放することである、と反論している(『ユダヤ人問題によせて』)。  
マルクス自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、社会や歴史を形成する原理は宗教的理念ではなく、究極的には経済に求めるべきと考えた。 
マルクスの文学・芸術観  
ギリシャ悲劇、シェイクスピアなどの劇文学を愛好した。  
 
 
フロイト「夢判断」初版 1900年

 

Freud, Sigmund.(1856-1939)  
Die Traumdeutung.  
フロイトは、オーストリアの神経病学者、精神分析学者。パリで学び、J.ブロイアーと催眠術によるヒステリー治療を試みたが、後に催眠術の代わりに自由連想法を考案し、精神分析学を誕生させた。精神分析は、一見無意味に見える夢の内容にも意味があり、夢の解釈法によって断片的でまとまりのない夢の顕在内容を解釈するのである。本書は、精神分析の理論的基礎をとらえたもので、精神分析を学ぶための不可欠な入門書とされている。「夢判断」は1900年まで出版されなかったが、事実上すべての主要な点は1896年初めに完成していた。展示書は、濃緑色の革装に再製本されている。 
夢判断 
(Die Traumdeutung, The Interpretation of Dream) 1900年に発表された、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトによる夢に関する精神分析学の研究である。  
フロイトは1856年に生まれ、ウィーン大学で医学を学ぶ。脳解剖の専門医としてウィーン総合病院に勤務し、フランスのサルペトリエール病院でも学ぶ。1893年に友人の医師ヨーゼフ・ブロイアーと共同で『ヒステリー研究』を発表する。本書は医師として担当した事例に関する研究の成果であったが、出版当初は評価されなかったために初版600部を完売するために8年間かかった。  
夢についての考察は古代から行われてきたが、心理学的な観点からの研究は多くない。したがって夢の原因についても神学的な説明がなされてきた。やがて心理学的な説明が試みられ、睡眠中の感覚の刺激によって夢にその刺激が反映されるという説明がなされるようになった。しかしフロイトは、この感覚刺激だけではないことを指摘し、夢の内容を精神状態と関連付ける議論をさまざまな事例研究に基づいて展開した。  
夢の構造  
フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。  
治療への応用  
フロイトは夢において充足させようとする願望がイメージにより曖昧に表現されているかについて注意を払っている。この理由としては願望を明確化することを妨げようとする意識によって夢が歪曲されることを挙げている。意識による夢の検閲を回避するために無意識は願望を間接的な表現を活用するのである。なぜなら、通常では意識的に抑制されるべきと見なされている性欲が夢の中では願望として発動するためである。フロイトは文明社会の成立により人間の本能が制限されているものの、それは消滅したわけではなく、その性欲を夢は暗喩的な表現によって満足させるものと捉えることができると論じる。  
 
 
キュリー「放射線の研究」初版 2巻 1910年

 

Curie, Marie.(1867-1934)  
Traite de radioactivite.  
フランスの女流物理学者、化学者。ベクレルの研究に刺激されて、夫ピエールと共に研究に打ち込み、天然ウラン鉱からラジウムおよびポロニウムを分離し、放射能元素の存在と原子の自然崩壊事実とを発見して、今日の原子核物理学の先駆をなした。1903年ベクレルや夫と共同でノーベル物理学賞を受けた。夫の死後その後任としてパリ大学ソルボンヌの教授に就任し、1910年に金属ラジウムの分離に成功した。この業績に対して翌年ノーベル化学賞を受けた。第1次世界大戦中は、X線装置による医療活動を組織、戦後は国際連盟の知的協力国際委員会の委員として、科学の国際協力に尽力した。 
マリー・キュリー (1863〜1934)  
1863年 11月7日ポーランドのワルシャワで、ジョゼブ中学の教師の父スクロデフスカ氏と、没落した田舎貴族の娘でやはり教師である母との間にできた、5人子どもたちの末っ子として生まれる。母は、彼女の誕生直後から結核にかかる。だから、子どもたちは、けっして母にキスをすることを、許されなかった。  
マリーは、子供のころから、記憶力と集中力と向学心にひいでいた。  
夢中になって本を読んでいる彼女のまわりで、姉たちが、いたずらして椅子をピラミッドのようにつみあげたが、彼女はまったく気付かなかったというエピソードがある。  
1873年 それまで、中学の副視学官だった父が、左遷させられたために、生活が苦しくなる。そのため、寄宿生をうちにおき、両親は、勉強を教えることにする。  
1876年 預かっていた寄宿生のひとりが、チフスにかかり、それが、姉のゾーシャと、ブローニャにうつり、ゾーシャは、亡くなる。  
1878年5月 母、肺結核でなくなる。  
母は亡くなり、たくわえも、うまい投機話に、ついのってしまった父のために、失われてしまうが、毎週土曜日には、かならず、家族でサモワールをかこみ、イギリス、フランス、ドイツ、そしてポーランドなどの各国の文学を読み上げる父の朗読と感想に耳をかたむけ、満ち足りた時を過ごした。  
1883年 6月、ワルシャワの高等女学校を卒業。成績優秀の金メダルをもらう。そのあと1年間はいなかでのんびりくらす。  
1884年 ワルシャワに帰り、家庭教師を始める。  
「移動大学」に参加してポーランドの復興を夢見る。  
1885年 姉のブローニャは、家庭教師をしながら、パリまでの、切符と1年間分の学費をため、医学を学ぶためにパリに行き、ソルボンヌ大学にはいる。  
1886年 マリーは、すみこみの家庭教師をして、ブローニャに送金する。それは、彼女たち姉妹のとりきめのためにであった。  
さて、彼女は、その家庭教師先のゾラフスキー家の長男カジミールと恋におちるが、彼の両親に家庭教師ふぜいと言われて、結婚を反対される。  
屈辱と悲しみのなか、彼女は、ブローニャのためにも、家庭教師をそのまま続ける。  
1890年 パリで、ブローニャは、学友のカジミール・ドルスキーと婚約する。そして、マリーに今度はあなたが、パリにきて勉強できる環境ができたと、手紙をおくる。  
1891年 夏の終わり、マリーは、カジミール・ゾラフスキーとカルパチアの山中にある山小屋で合流し、ふたりの結婚について話し合うが、ついに、優柔不断な彼の態度に、愛の終わりを決心する。  
彼女は、パリにでて、ソルボンヌ大学に入学。  
物理学と数学を学ぶ。名前をマリアから、フランス風にマリーとなのる。  
最初は、ブローニャ夫妻の家に下宿するが、生活を楽しむ夫妻と距離をおいて勉学に励みたいと思う彼女は、ひとりぐらしを始める。  
一種の伝説となっている、食べるものも、十分に食べず、寒くて氷のような部屋での、猛勉強の日々をおくる。  
1893年 物理学の学士試験に首席で合格する。学士号をとる。  
1894年 ピエール・キュリーをしる。数学の学士試験に2番で合格する。  
夏休みにポーランドに帰り、父とすごしたのちパリにもどる。  
1895年 ピエール(36歳)と結婚する。マリー・キュリーとなり、フランスの国籍をとる。  
この結婚式には、指輪も宗教儀式もなかったが、ふたりは、そのあとすぐに、いとこの贈り物の小切手で買った、自転車にのり、新婚旅行に行く。  
1896年 中等教員資格試験に一番で合格する。  
1897年 長女イレーヌが生まれる。博士論文のテーマとしてフランスの物理学者ベクレルの研究に目をとめ、ウラン化合物の放射線の研究にとりくむ。  
今日、マリー・キュリーの実験日誌を調べる場合、かならず、「放射能の偶発的な事故に対する」国立図書館の責任を回避するための書類に署名をしなくてはならない。  
この日誌の回覧から生ずる危険はわずかなものではあるが、この日誌は現在でも、いや今後数千年は、放射能をおびたままでいるということである。  
1898年 ピッチブレンド(酸化ウランのこと。ウラニウムとトリウムを含有している。)に、新しい2つの放射元素があることを、発見する。これらに、「ポロニウム」「ラジウム」と名前をつける。  
ちなみに、ポロニウムは、彼女の故国ポーランドから名前をとったものである。  
このころから、ふたりは、自分たちがとりくんでいる放射能物質の影響を体内に受け始め、疲れやすくなる。  
1900年ころから、研究を続けるふたりのまわりに、彼らに続く若い研究者たちが集まるようになる。この中には、アンドレ・ドビエンヌや、ポール・ランジュヴァンもいた。  
アンドレ・ドビエンヌは、マリーのことを、深く愛していたという。そして、彼女の最後の瞬間まで、いたるところで、絶えず彼女に影のごとく付き従ったということである。  
1902年 塩化ラジウムをとりだすことに成功する。  
マリーの父、胆嚢の手術をうけた直後に死亡する。マリーは、最愛の父の死に目にあうことができなかった。  
妊娠していた彼女は、生後数時間で死亡する未熟児を出産する。この原因は、放射能のせいではないかと言われている。  
1903年 論文「放射性物質にかんする研究」で、理学博士になる。  
ピエール・キュリーとともに、「放射能の発見」で、ノーベル物理学賞をうける。  
ちなみに、これは、ノーベル物理学賞第3回目であり、第1回目受賞者は、レントゲンであった。  
1904年 ピエールがソルボンヌ大学の物理学教授になり、マリーはピエールの研究室の実験主任になる。次女のエーブが生まれる。  
1906年 ピエールが荷馬車にひかれて死ぬ。ピエールのあとをついで、ソルボンヌ大学の講師になる。11月5日、彼女は、前任の彼女の夫が終えたところから、講義を再開した。  
1908年 ソルボンヌ大学の教授となる。  
1910年 純粋な金属ラジウムの分離に成功する。ピエールの父、肺炎のために、この世をさる。。  
1911年 彼女は、フランス学士院の5つのアカデミーのうちの、科学アカデミー会員に、女性として初めて立候補するが、わずかの差で、落選する。  
「ラジウムの発見」で、ノーベル化学賞を受賞する。  
この年、彼女にとって、大スキャンダルがおこる。  
彼女と長年親しくてしていたポール・ランジュヴァンと、彼女の関係が新聞に暴露される。  
彼の妻と、妻の母親が、新聞のインタービューに答えたり、裁判所に訴訟までおこす。彼女が、彼に対して書いた何通かの手紙が、ランジュヴァンの義兄によって盗まれて、公開される。ランジャヴァンは、決闘騒ぎまで、まきこまれ、マリーのソルボンヌ大学の教授の地位も危うくなる。  
腎臓を悪くしてしばらく入院する。しかし、彼女は、回復し、そのままの地位にとどまる。ただし、このスキャンダルの話は、人々の心から消え去るまでは、第1次世界大戦をまたなければ、ならなかった。  
妻子と別居してたランジャヴァンは、2年後もとにもどるが、彼女との友情はそのまま続く。ただし、彼は、その何年かあと教え子の女生徒と恋におち、子供までなして結婚する。  
1913年 ワルシャワの放射能研究所の落成式に出かけて、ポーランド語で公演する。  
1914年 ソルボンヌ大学にラジウム研究所・キュリー館が完成し、所長になる。レントゲン車で、第一次世界大戦の戦線をかけまわり、負傷兵の治療につくす。  
1918年 戦争が終わり、マリーたちは、もよりのデパートで、青、赤、白の小きれをさがし、それで、国旗をつくり、キュリー館をそれで、飾った。  
長い間、属国あつかいされてきたポーランドは、独立をかちとり、マリーもよく知っているピアニストのパデレフスキーがワルシャヲ政府の首相兼外相となった。  
1920年 ラジウム研究所を応援する「キュリー財団」ができる。  
1921年 寄付金による1グラムのラジウムをうけとるためにアメリカにわたり、大歓迎をうける。なぜなら、彼女はラジウムを発見したが、いかなる特許も使用料も申請しなかった。その結果、大勢のガン患者がラジウム治療をうけているが、彼女はなにも利益をもらっておらず、そのため、物質にも、人員にもめぐまれず、研究を続行するのが、不可能な状態であったからだ。  
このことを、しったアメリカのジャーナリストのミシイこと、ウィリアム・プラウン・メロニー夫人は、マリーの力となることを、決意し、彼女のために、お金をあつめ、ラジウムを彼女にわたす計画をたてて、それを実行したのだった。  
1922年 「知的協力国際委員会」の委員になり、活動をはじめる。  
科学学士院会員になる。  
1923年 キュリー財団、ラジウム発見二十五周年記念祭をひらく。  
1929年 ワルシャワにたてられるラジウム研究所のためのラジウムを受け取りにアメリカに行く。  
1932年 ワルシャワのラジウム研究所の開所式に出席する。これが、ポーランドをたずねた最後になる。  
1934年 7月4日 長い間の放射能研究がもとの、再生不良性悪性貧血症で、亡くなる。六十六歳だった。  
1935年、彼女の娘のイレーヌと、その夫フレデリック・ジョリオもノーベル化学賞を受賞する。  
ただし、ふたりとも長年の放射能の影響と見られる原因で、それぞれ、50代の若さで死去している。  
キュリー夫人の2番目の娘エーヴはピアニストになったが、戦時中、「自由フランス軍」に参加し、アメリカ各紙の戦時特派員および「パリ・プレス」の共同編集長をつとめた。  
アメリカのギリシャ駐在大使、ヘンリー・ラブイスと結婚するが、ヘンリーは、その後ユニセフの事務局長となり、1965年にノーベル平和賞を受賞する。  
子供のころ、初めて読んだキュリー夫人の伝記は、子供用の絵本でした。  
その時のことで、心に残っていることは、その名前と、(どうしても、日本人の場合、ある野菜を思い出してしまいますものね。)、ポーランドという国のこと、ノーベル賞と、ピエール・キュリーのショッキングな亡くなり方でした。  
その後、妹が、キュリー夫人の2番の娘エーヴが書いたキュリー夫人伝を買いまして、それをみせてもらって、そのすさまじい勉学の様子に、おそれいりました。  
図書館がひらいている間は、ずっと図書館で勉強し・・  
住まいに帰ってからは、寒さにたえて、食べるものも食べないで、勉強し・・  
結果倒れてしまって、義兄のカシミールのうちにつれていかれて、レアのステーキを食べたら回復したとか・・・  
あと、グリア・ガースンがでた、映画とかみて、どちらかというと、聖女みたいなイメージがあったのですが・・・  
ジルーの書いた本を読んで、彼女の人間としての、魅力とか、女性が始めて、学問の世界において男性と対等にやっていくことの、大変さみたいものを知ることができました。  
知性にあふれ、自立していた彼女は、とても魅力的な人だったと思います。  
彼女のスキャンダル事件については、それこそ、ジルーの本を読むまでは、私まったく知らなかったのですが、  
そういう一面を知ったことは、私にとっては、マイナスには感じられませんでした。  
彼女が、愛するピエールの亡きあとも、けっして人を愛することを、やめなかったことが、かえって嬉しいです。  
 
 
アインシュタイン「一般相対性原理の基礎」初版 1916年

 

Einstein, Albert.(1879-1955)  
Die Grundlage der allgemeinen Relativitatstheorie.  
アメリカの理論物理学者。ドイツ生まれであるが、1901年にスイスで市民権を得、後にベルリン大学の物理学教授になったが、1933年ナチに追われてアメリカに渡り市民権をえた。すでに1901年から熱力学及び統計力学に関する論文を発表していたが、1905年に光量子仮説、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論という根本的かつ革命的理論を立て続けに発表した。そのためこの年は<奇跡の年>と言われる。1915年に一般相対性理論を完成し、その理論が第一次世界大戦後まもなくイギリスの日食観測隊によって確かめられたことによって、アインシュタインと相対性理論の名は世界中で爆発的に知られるようになった。相対性理論は、従来の力学の枠組みを根本的に変革し、20世紀物理学の基礎を築いた。1921年には、数理物理学への功績によりノーベル物理学賞を受賞した。 
一般相対性理論  
(Allgemeine Relativitätstheorie、general theory of relativity) アルベルト・アインシュタインが1905年の特殊相対性理論に続いて1915年 - 1916年に発表した物理学の理論である。一般相対論(General relativity)ともいい、ニュートン力学で記述すると誤差が大きくなる現象(光速度に近い運動や、大きな重力場における運動)を正しく記述できる。一般相対性原理と一般共変性原理および等価原理を理論的な柱とし、リーマン幾何学を数学的土台として構築された古典論的な重力場の理論であり、古典物理学の金字塔である[1]。測地線の方程式とアインシュタイン方程式(重力場の方程式)が帰結である。時間と空間を結びつけるこの理論では、アイザック・ニュートンによって万有引力として説明された現象が、もはやニュートン力学的な意味での力ではなく、時空連続体の歪みとして説明される。  
一般相対性理論では、次のことが予測される。  
重力レンズ効果 / 重力場中では光が曲がって進むこと。アーサー・エディントンは、1919年5月29日の日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方がニュートン力学で予想されるものの2倍であることを観測で確かめ、一般相対性理論が正しいことを示した。  
水星の近日点の移動 / ニュートン力学だけでは、水星軌道のずれ(近日点移動の大きさ)の観測値の説明が不完全だったが、一般相対性理論が解決を与え、太陽の質量による時空連続体の歪みに原因があることを示した。  
重力波 / 時空(重力場)のゆらぎが光速で伝播する現象。間接観測されているが、現状では直接観測は困難とされる。  
膨張宇宙 / 時空は膨張または収縮し、定常にとどまることがないこと。ビッグバン宇宙を導く。  
ブラックホール / 限られた空間に大きな質量が集中すると、光さえ脱出できないブラックホールが形成される。  
重力による赤方偏移 / 強い重力場から放出される光の波長は元の波長より引き延ばされる現象。  
時間の遅れ / 強い重力場中で測る時間の進み(固有時間)が、弱い重力場中で測る時間の進みより遅いこと。  
一般相対性理論は慣性力と重力を結び付ける等価原理のアイデアに基づいている。等価原理とは、簡単に言えば、外部を観測できない箱の中の観測者は、自らにかかる力が、箱が一様に加速されるために生じている慣性力なのか、箱の外部にある質量により生じている重力なのか、を区別することができないという主張である。  
相対論によれば空間は時空連続体であり、一般相対性理論では、その時空連続体が均質でなく歪んだものになる。つまり、質量が時空間を歪ませることによって、重力が生じると考える。そうだとすれば、大質量の周囲の時空間は歪んでいるために、光は直進せず、また時間の流れも影響を受ける。これが重力レンズや時間の遅れといった現象となって観測されることになる。また質量が移動する場合、その移動にそって時空間の歪みが移動・伝播していくために重力波が生じることも予測される。  
アインシュタイン方程式から得られる時空は、ブラックホールの存在や膨張宇宙モデルなど、アインシュタイン自身さえそれらの解釈を拒むほどの驚くべき描像である。しかし、ブラックホールや初期宇宙の特異点の存在も理論として内包しており、特異点の発生は一般相対性理論そのものを破綻させてしまう。将来的には量子重力理論が完成することにより、この困難は解決されるものと期待されている。  
一般相対性理論 / 歴史  
一般相対性理論が成立するまで 1905年に特殊相対性理論を発表したアインシュタインは、特殊相対性理論を加速度運動を含めたものに拡張する理論の構築に取り掛かった。1907年に、アインシュタイン自身が「人生で最も幸福な考え(the happiest thought of my life)」と振り返る「重力によって生じる加速度は観測する座標系によって局所的にキャンセルすることができる」というアイディアを得る。 光の進み方と重力に関する論文を1911年に出版した後、1912年からは、重力場を時空の幾何学として取り扱う方法を模索した。このときにアインシュタインにリーマン幾何学の存在を教えたのが、数学者マルセル・グロスマンであった。ただし、このときグロスマンは、「物理学者が深入りする問題ではない」と助言したとも伝えられている。1915年-16年には、これらの考えが1組の微分方程式(アインシュタイン方程式)としてまとめられた。  
この時期にアインシュタインが発表した一般相対性理論に関する論文は、以下の通り。  
1911年 論文『光の伝播に対する重力の影響』(Annalen der Physik (Germany), 35, 898-908)  
1914年 論文『一般相対性理論および重力論の草案』(ZS. f. Math. u. Phys., 62, 225-261)  
1915年 論文『水星の近日点の移動に対する一般相対性理論による説明』(S.B. Preuss. Akad. Wiss., 831-839)  
1916年 論文『一般相対性理論の基礎』(Annalen der Physik (Germany), 49, 769-822)  
1916年 論文『Hamiltonの原理と一般相対性理論』(S.B. Preuss. Akad. Wiss., 1111-1116)  
一般相対性理論の発表後  
アインシュタイン方程式の発表後は、その方程式を解くことが研究の課題となった。  
1916年にカール・シュヴァルツシルトが、アインシュタイン方程式を球対称・真空の条件のもとに解き、今日ブラックホールと呼ばれる時空を表すシュヴァルツシルト解を発見した。アインシュタイン自身は、自ら導いた方程式から、重力波の概念を提案したり、宇宙全体に適用すると動的な宇宙が得られてしまうことから、宇宙項を新たに方程式に加えるなどの提案を行っている。  
1917年 論文『一般相対性理論についての宇宙論的考察』(S.B. Preuss. Akad. Wiss., 142-152)  
1918年 論文『重力波について』(S.B. Preuss. Akad. Wiss., 154-167)  
1919年にアーサー・エディントンが皆既日食を利用して、一般相対性理論により予測された太陽近傍での光の曲がりを確認したことにより、理論の正しさが認められ、世間への認知が一気に広まった。  
1922年には、宇宙膨張を示唆するフリードマン・ロバートソンモデルが提案されるが、アインシュタイン自身は、宇宙が定常であると信じていたので、現実的な宇宙の姿であるとは受け入れようとはしなかった。  
しかし、1929年には、エドウィン・ハッブルが、遠方の銀河の赤方偏移より、宇宙が膨張していることを示し、これにより、一般相対性理論の予測する時空の描像が正しいことが判明した。後にアインシュタインは宇宙項の導入を取り下げ、「生涯最大の失敗だった(the biggest blunder in my career)」とジョージ・ガモフに語ったという。  
1931年、スブラマニアン・チャンドラセカールは、白色矮星の質量に上限があることを理論的計算によって示した。今日、チャンドラセカール限界として知られる式は、万有引力定数、プランク定数、光速の3つの基本定数を含み、古典物理・量子物理双方の成果を集大成したものでもある。チャンドラセカールは、「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」の功績でノーベル物理学賞(1983年)を受賞した。  
1939年、ロバート・オッペンハイマーとゲオルグ・ヴォルコフは、中性子星形成のメカニズムを考察する過程で、重力崩壊現象が起きることを予測した。  
その後しばらく、一般相対性理論は、「数学的産物」として実質的な物理研究の主流からは外れている。 重力波は果たして物理的な実体であるのかどうかという論争や、アインシュタイン方程式の厳密解の分類方法などの研究がしばらく続くが、1960年代のパルサーの発見やブラックホール候補天体の発見、そしてロイ・カーによる回転ブラックホール解(カー解)の発見を契機に、一般相対性理論は天文学の表舞台に登場する。同時期に、スティーヴン・ホーキングとロジャー・ペンローズが特異点定理を発表し、数学的・物理的に進展を始めると共に、ジョン・ホイーラーらが、古典重力・量子重力双方に物理的な描像を次々と提出し始めた。ワームホール(1957年)やブラックホール(1967年)という名前を命名したのは、ホイーラーである。  
1974年、ジョゼフ・テイラーとラッセル・ハルスは、連星パルサー PSR B1913+16 を発見した。連星の自転周期とパルスの放射周期を精密に観測することによって、重力波 により、連星系からエネルギーが徐々に運び去られていることを示し、重力波の存在を間接的に証明した。この業績により、2人は「重力研究の新しい可能性を開いた新型連星パルサーの発見」としてノーベル物理学賞(1993年)を受賞した。  
現在は、重力波の直接観測を目指して、世界各地でレーザー干渉計が稼働している。観測のターゲットとしているのは、中性子星連星やブラックホール連星の合体で生じる重力波などで、波形の予測のための理論や数値シミュレーションが研究の重要なテーマになっている。  
また、宇宙論研究では、ビッグバン宇宙モデル(1947年)が有力とされているが、さらにその初期宇宙の膨張則を修正したインフレーション宇宙モデル(1981年)も正しいことが、2006年のWMAP衛星による宇宙背景輻射の観測により決定的になったと考える人も多い。最近は、高次元宇宙モデルが脚光を浴びているが、これらの宇宙モデルは、いずれも一般相対性理論を基礎にして議論される。  
アインシュタイン以後、一般相対性理論以外の重力理論も、数多く提案されているが、現在までにほとんどが観測的に棄却されている。実質的に対抗馬となるのは、カール・ブランスとロバート・H・ディッケによるブランス・ディッケ重力理論であるが、現在の観測では、ブランス・ディッケ理論のパラメーターは、ほとんど一般相対性理論に近づけなくてはならず、両者を区別することが難しいほどである。量子論と一般相対論の統一という物理学の試みは未だ進行中であるものの、一般相対性理論を積極的に否定する観測事実・実験事実は一つもない。他に提案されたどの重力理論よりも一般相対性理論は単純な形をしていることから、重力は一般相対性理論で記述される、と考えるのが現代の物理学である。  
一般相対性理論 / 物理学としての位置づけ  
万有引力の法則との関係  
アインシュタイン方程式は微分方程式として与えられているため局所的な理論ではあるが、ちょうど電磁気学における局所的なマクスウェル方程式から大域的なクーロンの法則を導くことができるように、アインシュタイン方程式は静的なニュートンの万有引力の法則を包含している。万有引力の法則との主な違いは次の3点である。  
1.重力は瞬時に伝わるのではなく光と同じ速さで伝わる。  
2.重力から重力が発生する(非線形相互作用)。  
3.質量を持つ物体の加速運動により重力波が放射される。  
ここで、3.は荷電粒子が加速運動することにより電磁波が放射されることと類似している。これは、万有引力の法則やクーロンの法則に、運動する対象の自己の重力や電荷の効果を取り入れていることに対応している。  
特殊相対性理論との関係  
特殊相対性理論が、“加速している場合や重力が加わった場合を含まない特殊な状態”における時空の性質を述べた法則であるのに対して、一般相対性理論は、“加速している場合や重力が加わった場合を含めた一般的な状態”における時空の性質を述べた法則であり、等速直線運動する慣性系のみしか扱えなかった特殊相対性理論を、加速度系も扱えるように拡張した理論であると言える。対称性の視点からは、まず、特殊相対性理論は系のローレンツ変換に対する対称性により特徴づけられ、非相対論的極限によりニュートン力学の有するガリレイ変換が導かれる。一方、一般相対性理論は一般座標変換(diffeomorphism)に対する対称性により特徴づけられるアインシュタイン方程式を基礎方程式とする理論である。アインシュタイン方程式の有する一般座標変換に対する共変性は重力を小さくする極限のもとでローレンツ変換に対する共変性に帰し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する。当然、古典力学も包含している。  
量子力学との関係  
量子論は一般相対性理論と同様に物理学の基本的な理論の一つであると考えられている。しかし、一般相対性理論と量子論を整合させた理論(量子重力理論)はいまだに完成していない。現在、人類の知っているあらゆる物理法則は全て場の量子論と一般相対性理論という二つの理論から導くことができる。そのため、その二つを導くことのできる量子重力理論は万物の理論とも呼ばれている。量子重力理論は、高エネルギーでかつ時空が大きく曲がっている系を適切に記述できるため、場の量子論と一般相対性理論では適切に議論することのできない宇宙創世初期の状態についても予測できると考えられる。量子重力理論の有力な候補としては、超弦理論がある。  
曲がった時空上の場の理論  
(Quantum field theory in curved spacetime) 一般に場の量子論においては平坦なミンコフスキー時空における粒子を扱うが、重力の効果を近似的(半古典的)に背景時空(曲がった時空)として導入することにより場の量子論に曲がった時空の効果を近似的に取り入れたものである。重力子の影響を背景時空として近似しているため、強い重力場のもとでは時空を完全に量子化したような量子重力理論に修正されるべきである。欠点としては、時空が静的なものであるため完全には相対論的ではない。ホーキング放射はこの理論のもとで予測された。  
重力の繰り込み不可能性  
量子重力理論(quantum gravity theory)は、重力相互作用(重力)を量子化した理論である。単に量子重力(Quantum Gravity, Quantum Gravitation)または重力の量子論(Quantum Theory of Gravity)などとも呼ばれる。  
ユダヤ系ロシア人のMatvei Petrovich Bronsteinがパイオニアとされる。一般相対性理論と量子力学の双方を統一する理論と期待されているが、現時点ではまったく未完成の未知の理論である。  
相対性理論を摂動により単純に量子化すると二次のレベルで紫外発散が起きる。ただし一般相対性理論自体はゲージ理論で考えることができる(内山龍雄による)。このことから重力ゲージ理論によれば重力子はスピン2のボソンであると考えられている。そこで次に考え出されたものが超重力理論である。これは重力子がスピン3/2のグラビティーノ(重力微子)を超対称性パートナーとして持つ、という理論である。しかしこの理論も高次のレベルで発散している可能性が指摘されている。そこで次に考え出された理論が超弦理論である。これは重力子が閉じたひもで記述される、という理論である。ほかにもこの理論は開いたひもとして光子・ウィークボソン・グルーオンなどのゲージボソン、そしてフェルミオンを含むので究極の理論と呼ばれることがある。またこの方法とは異なる角度としてループ量子重力理論がある。ループ量子重力はその背後にペンローズのツイスター理論とスピンネットワークを含んでおり、この理論は超弦理論のみが量子重力理論の唯一の候補ではないことを物語っている。  
重力を量子化するためのよい現象としてブラックホールが挙げられる。ブラックホールの内部では一般相対性理論が破綻をきたすと考えられており、そこでは時空を量子化した理論が有効である。この方向による最近の発展ではホログラフィック原理が挙げられる。これはブラックホールの内部の情報量の保存限界はその体積ではなく表面積に依存するというものである。これはひも理論のメンブレインに通じるものがある。またAdS/CFT対応としてある種の物理が多様体の境界に還元できるという考え方もある。  
いずれにしても量子重力を考える上で最大の問題点はその指針とすべき基本的な原理がよく分かっていないということである。そもそも重力は自然界に存在する四つの力(基本相互作用)の中で最も弱く、量子化された重力が関係していると考えられる現象が現在到達できるレベルでは観測されていないのである。  
 

 

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