邪馬台国

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雑学の世界・補考   

邪馬台国

3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつである。ちなみに、ここで使われている国(くに)とは、この時代の中国漢文でいう国(こく)=塀、柵、堀などで囲われた砦の町のことである。 中国の史書では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。邪馬台国の所在地が九州か近畿か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれている。
『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼はこの国の女王であり、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。「魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と表記されているが、『後漢書』には「邪馬臺国」とある。「邪馬台国」の通称は、「邪馬臺国」の"臺"の字を、"台"をもって代用したものである。また、耶馬台国とも記述される。 弥生時代の1〜3世紀に倭国にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。
倭国の邪馬台国は元々男王が治めていたが、国成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70〜80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。
なお倭人伝中に出現する表記は、邪馬台国1回に対して、女王国は5回の出現を確認できる[1]。邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。邪馬台国の位置についても諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。 
 
「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要

 

道程
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡[注釈 1]から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある。  
倭地、女王国の地理
倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである。」などとある。

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 K齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里  
政治
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[注釈 2]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していたが、日本列島の全てを支配していたわけではなく領域外にも国々があり、女王国から海を渡って東へ1000里にも倭種の国があり、その先には侏儒国、裸国、K齒国があった。南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。

收租賦 有邸閣國 國有市 交易有無 使大倭監之

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

邪馬台国の北方の諸国には一大率という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率は常に伊都国で治めていた、魏の刺史[注釈 3]のような役目を果たしていた。伊都国は中心地で、王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣するさいや、郡の使者が倭国に来たさいは、皆が港に臨んで文書や贈物の点検をして女王に送っていたので間違いは起きない。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

倭国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70〜80年を経たころ、漢の霊帝の光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。
女王は鬼道(後述)によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子[注釈 4]が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある[注釈 5]。
女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹與(臺與)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。  
「鬼道」について
卑弥呼の「鬼道」についてはシャーマン説、道教と関係があるとする説、道教ではなく「邪術」とする説など幾つかの解釈がある。その他、「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある(神道#由来と教義も参照)ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。  
魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
建安年間(196年~220年)公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫摸や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
景初2年(238年)、魏の明帝は劉マを帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。 6月[注釈 6]または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
8月23日帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。
帯方郡と楽浪郡が魏に占領される[2]。
景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始6年(245年)帯方太守弓遵は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族の反乱にあって居所の崎離営を襲われ戦死。
正始8年(247年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹與で、魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。  
風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。
男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
籩豆(たかつき)を用い、手で食べる。(箸を使用していない)
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#歴史参照)
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。  
邪馬台国のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢を最後に、義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国と後のヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。  
名称・表記
現存する全ての『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)となっている。日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字であり、「臺」は台にあたる文字である。
表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[注釈 7]のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[3]などがある。  
発音
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている。
「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 旁 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある[注釈 8]。
「邪馬壹國」の表記から、「やまい」と読み、「壹」(イ)の音からこの字を囲む意味と捉え、ヤマイという言葉には山を囲んで拠点として成り立つ国という意味があると解釈して、当時北九州から山口県にかけて一つの発達した文化圏があった痕跡も残っていることから、現代の山口(の口の字は、古くは国構えで囲む意味の文字だった)の地名がヤマイ国の名残とする説もある。
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「邪馬台」を「やまたい」と読んだのは国学者の本居宣長が最初であると考えられている。宣長は国学の立場から大和朝廷との同一性を否定し、あえて「やまたい」と読んだ。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。
邪馬は、単に「偉大さ」や「○○の中心」を表す形容詞に過ぎず邪馬壹は倭の中心を現す意味であり、倭(い)から大倭(たい)・俀(たい)への変化に伴って邪馬壹(やまい)から邪馬臺(やまたい)へ変化したとする説もある。  
邪馬台国に関する論争
日本に邪馬台国があったとする根拠は、『日本書紀』卷第九の神功皇后の記述に、「魏志倭人伝」の引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述があることである。[注釈 9]。一般に「魏志倭人伝」の名称で知られる『魏書』の「東夷倭国伝」」は中国の正史『魏書』の本筋ではなく外伝にあたる部分で、以降に書かれた中国の正史以外の史書にも「魏志倭人伝」からとったと思われる記載がある。
史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。
この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。
その後、国学者の本居宣長は「日本こそが中国(中心たる国)であるべきであり、日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において九州熊襲説を提唱した。大和朝廷とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で卑弥呼とは神功皇后の名を騙った熊襲の王であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。  
位置に関する論争
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつく。ゆえに、距離と方角をなんとか日本列島内に収めようとして、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
それ以外にも、久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする[4]。
従来は畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では邪馬台国の時期にそうそうたる遺跡遺物がそろうことから、畿内説は考古学的に根拠薄弱とされてきた。しかし2000年代に入り、纏向遺跡と箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に結び付け大和朝廷の成立時期をさかのぼらせるよう、放射性炭素年代測定と年輪年代学による新しい考古学年代観が国立研究所によって示され、畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国成立と同時代の1世紀から2世紀頃までさかのぼるとの説が推される傾向にある[5][6][7][8]。この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。
ただし、九州説・大和説・東遷説はどれも結局のところ、「ヤマト王権」は「大和朝廷(天皇系統)」であるか否かをそれぞれが説明するために作った説にすぎない。白石宣長の当初から、場所の比定が先にあるのではなく、大和朝廷とは何か、現在の政治権力と大和朝廷の関係はこうあるべきだと説明するために邪馬台国論争は始まったのである。  
距離の計算
「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。この読み方だと畿内説をとることが多い。
「放射説」(放射読み) - 伊都国までは連続読みと同じだが、その先は距離を修正しながら伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。多くは九州説となるが、畿内説でも「放射説」で説明するものも少なくない。
奴国・投馬国を「傍線行程」として解釈するような案も九州説から出されている[9]。
畿内説・九州説どちらだとしても「魏志倭人伝」の距離(里数)が過大であるという問題については、「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75〜90m程とする説である。古田武彦などは、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。しかし、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。
安本美典らの説では、「短里」は東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する。ただし、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない。
なお、宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。  
邪馬台国畿内説
邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。
1.年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期〜古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。
2.吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
3.北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
4.卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘の三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布、かつこれらが発掘される古墳の多くは年輪年代学等の結果により3世紀に築造されたと見られ、時代が合致すること[注釈 10]。
5.弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
6.『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[注釈 11]。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
1.年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていない。
2.倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[注釈 12]。
3.「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。
4.「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。
5.「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。[注釈 13]。
かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない説は以下である。
1.三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て偽作」との反論を受けた[注釈 14]。
2.邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
邪馬台国九州説
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。
1.帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[注釈 15]。
2.邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 16]。
3.魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[注釈 17]。
4.その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 18]。
5.一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 19][10]。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。(九州説は諸説がありここであげた弱点を全く持っていないという説もある)
1.魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[注釈 20]。
2.奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと[注釈 21]。
3.中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
4.古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果からは3世紀に遡るという結果が出ていること[11]。
5.3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
1.三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない[注釈 22]。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。
2.また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。# 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
3.放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
4.仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
5.魏からの使いが2度あったことから、2度の行程が異なるものであったのが、一緒くたにされ1つの行程のように書かれていると考える説もある。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
1.近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
論者 / 邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石、白鳥庫吉、和辻哲郎[12]、田中卓[13]、安本美典(東遷説)、古田武彦、鳥越憲三郎[14]、若井敏明[15]らがいる。また記紀などの国内資料に基づく研究については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、考慮されない傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している[16]。
東遷説
神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。白鳥庫吉、和辻哲郎[17]が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も 主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清[18]、榎一雄[19]、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎[20]、井上光貞[21]、森浩一、中川成夫、谷川健一、金子武雄、布目順郎、安本美典、奥野正男らが論じた。
注釈
1.ただし、郡とは景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した朝鮮西海岸の帯方郡であると考えられる、『三国志魏書』の倭人伝にも帯方郡の記述しかなく韓伝にも「倭韓遂屬帶方」とあり、楽浪郡あるいは玄菟郡などの可能性はほとんどない。
2.先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
3.大きな行政単位の州の巡察長官。
4.弟とする説がある。
5.後の推古天皇と聖徳太子との関係が例として挙げられる。
6.この景初2年6月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)には帯方郡は公孫淵の支配下で、遣使は困難であるとして、『梁書』と『日本書紀』引用に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとする説がある。ただし、卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたからという観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』 角川文庫 1977年)もあるし、「魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の母丘険の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えない」という説も存在するようである。
7.現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう。
8.古代中国語音の研究が進んだことにより、「邪馬臺国」も「jamatö」に近い発音となると考えられている。
9.那珂通世は神功皇后と卑弥呼を同一人物とするこの日本書紀の記述を否定する。市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。
10.九州説では調査の精度に疑問を呈し、銘入りの鏡を後世の偽作と見ている。
11.九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
12.しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
13.これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
14.ただし九州説の側も「全てが偽作」であることの論証を明確にしているとは言い難く、オリジナルのものが伝来した可能性自体を排除できてはいない。逆に畿内説の側は、多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まるにもかかわらず、邪馬台国とは無関係であるとするのは逆に無理があると再反論している。
15.三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
16.畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
17.当時の北九州以外における一般的な埋葬方法はまだ良く分かっていない。
18.後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
19.江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)
20.九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
21.もちろんこれらをそのまま信じていいのかには疑問もある。
22.一般的には概ね魏の領域と考えられている。
魏志倭人伝(読下し文)
  『三国志・魏志』巻三〇 東夷伝・倭人(『魏志』倭人伝)
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余国あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市擢(元字はカイヨネ)す。また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹林・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市擢す。
また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄模(正しくは言偏)瓜(正しくは角偏)・柄渠瓜という。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。東南奴国に至る百里。官を兒(元字は凹)馬爪といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。東行不弥国に至る百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。
南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳堤(正しくは革偏)という。七万余戸ばかり。女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
次に斯馬国あり、次に己百支国あり、次に伊邪国あり、次に都(郡)支国あり、次に弥奴国あり、次に好吉都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里。
男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て咬竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、塔に会稽の東冶の東にあるべし。
その風俗淫ならず。男子は皆露介(正しくは糸偏)し、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相列ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈介し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。禾稲・紵麻を植え、蚕桑緝績し、細紵・兼(正しくは糸偏)緜を出だす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、憺(正しくは人偏)耳・朱崖と同じ。
倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋室あり。父母兄弟、臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。食飲には邉(正しくは竹冠)豆を用い手食す。その死には棺あるも槨なく、土を封じて家を作る。始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。その行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、幾(正しくは虫偏)蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。
真珠・青玉を出だす。その山には丹あり。その木には檀・杼・予樟・柔(正しくは木偏)・歴(木偏)・投・橿・烏号・楓香あり。その竹には篠・幹(竹冠)・桃支。薑・橘・椒・蕘荷あるも、以て滋味となすを知らず。爾(獣偏)猴・黒雉あり。
その俗挙事行来に、云為する所あれば、すなわち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火拆(正しくは土偏)を視て兆を占う。
その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。
女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏愽す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。
その国、本また男子を王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が來使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、侯(正しくは糸偏)地交竜錦五匹・侯地芻(正しくは糸偏)粟ケイ十張・センコウ五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の責直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班崋ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・釆物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・コウ青ケン・緜衣・帛布・丹・木付(正しくは獣偏)・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。
その六年、詔して倭の難升米に黄憧(正しくは巾偏)を賜い、郡に付して仮授せしむ。
その八年、太守王斤(正しくは頁旁)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。和の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。壱与、和の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。  
 
倭・倭人関連の中国文献

 

倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。この当時、中国では倭について、このような二つの理解があったことを示している。  
『論衡』

 

倭人について、
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六) 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とみえる。
中国の歴史時代は、商の後期に始まり、周、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。周代は、ほぼ日本の弥生時代初期から前期にあたり、この当時から中国では日本列島の住人を倭人と認識していたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。
撰者 / 王充(おうじゅう 27年 - 97年)の書。王充は、会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。王充は次項『漢書』の著者・班固より5歳年長の先輩で、知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。いずれにせよ、王充の時代には倭人は古く周代から大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って周に朝貢していたと考えられていた事が分かる。 
『山海経』

 

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
山海経の編纂された時代には、倭は燕に朝貢していたと考えられていた事がわかる。 しかし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっていて「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。 『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝) 「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」 女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。 (よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、邪馬台国と黒歯国は異なる国という認識である) 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭 「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」 南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。 (よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、倭国と黒歯国は異なる国という認識である)
百越人(特に春秋時代の「呉」人)と倭人の後の関係を暗示する『山海経』関連古文書 (『山海経』の記述の影響によって、古代中国では「倭」(九州)が「太陽が昇り扶桑の生える」「九夷」として憧れの地になっていた蓋然性もあることを示す関係古文書)
『宋書』の楽志に、「白紵舞歌」というものがある。 その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」 (東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。原文の「崑崙」は山へん付である。) という下りがあって、この「(白)紵」というのは「呉」(春秋時代)に産する織物であったことに加えて、最近、遺伝子分析技術の発達(DNA分析など、一種の分子単位次元の形質人類学)によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた。[1][2] 『日本書紀』の「国生み」での「筑紫」の国名の命名では、そういった当時の背景の影響を受けたことは明らかである。そういった影響を受けたものとして「漢委奴国王印」が発掘された志賀島一帯(「香椎、カシ」は百越人地帯としての「越(コシ)」の訛り)は、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たち(入れ墨の文化があった。[3])が海路、亡命して漂着した所であることが、上記脚注のように、最近の発掘調査やDNA分析技術の発達で明らかになってきた。(安曇族) 『論語』子罕第九に「欲居九夷」 「孔子、(その天性が柔順な)[4]九夷に居すを欲す。」とあること。 『論語』公治長第五に 「子曰く、道行われず。海に浮かぶべし(子曰、道不行、乗桴浮于海)」(孔子が言った。中国では道徳が受け入れられないから、東の海にある九夷にいきたい)[5]とあること。 『前漢書地理志』に「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」 「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行はれざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云ふ。」 とあること。 『隋書』東夷傳の倭の条に「・・・九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順・・・」 「倭は・・・九夷の居るところ。・・・その天性は柔順」とあること。 
『漢書』

 

『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。
撰者 / 班固が後漢の初め頃に編纂した。 
『後漢書』

 

『後漢書』「東夷傳」
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。
しかしながら、そのような日本の読み方の如何に関係なく、かの漢字文化の本家では、どのように解釈していたか、と言えば。
『北史』倭国伝 / 安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。 安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という
『隋書』倭国伝 / 安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國 安帝の時(106−125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
『旧唐書』倭国・日本国伝 /倭國者、古倭奴國也。 (倭国とは、古の「倭奴国」なり)と、「倭奴国」という国名の固有名詞として、後の「倭国」の呼称の意、としていた。
中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」
会稽の海外に東鯷(てい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見するという。
会稽郡、今の蘇州・上海あたりの海の彼方に、東ていの人 がいて、二十余国に分かれて、倭人と同様に朝献していたという記事から、この”東ていの人”が中国から日本を指していると解釈すれば、前漢時代にすでに会稽と関係ある倭があったことになる。
檀石槐伝
『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[6]
『三国志』より古い時代を書いているが、成立は三国志より遅い。五世紀に書かれた。范曄は『漢書』は当然、『三国志』『魏略』なども読むことができたと思われる。また「倭の五王」の「上表文」も知っていた。
撰者 / 范曄(はんよう 398-445)の撰。後述の魏志より遥か2世紀近くも後に編纂されたことに注意。 
『魏志』倭人伝

 

「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」(『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)
この記事は、倭人伝の導入部である。その意味は、
倭人は帯方郡[7]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国である。
東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。
東夷伝の韓伝冒頭には、
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
とある。 これも倭人伝を考えるに際しての貴重な情報であろう。
倭人伝について
倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなく、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書であったが、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。
『三国志』について
『三国志』は『魏書』三十巻、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻からなる。通称は『魏志』『呉志』『蜀志』である。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220年 - 280年)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代、60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。晋が天下を統一したころ、太康年間(280-289)に全六十五巻を陳寿が撰述した。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。
三国とその周辺について
華北に魏、華中・華南に呉、長江(揚子江)の上流四川を中心にして蜀がある。南北に対立した魏の範囲と呉の範囲は、のちの南北朝時代にもそれぞれ北朝と南朝として地域的対立する。中国では中央に居住する華夏族(漢民族)に対して、その周辺に居住するものを、東は夷、南は蛮、西は戎(じゅう)、北は狄(てき)と称した。
撰者 / 陳寿の撰。字は承祚(しょうそ)。巴西(はせい)郡安漢県(四川省南充)で健興(蜀の年号)十一(233)年に生まれ、65歳で没する。ほぼ卑弥呼(248頃死す)と同時代の人。 
『晋書』

 

太康10年(289年)の条には、
「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」
とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。
日本については東夷伝と武帝紀に書かれている。
邪馬台国についての記述がある。
266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。 
『宋書』

 

「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。
宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何承天・山謙之・琲裴之(はいしょうし)・徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(元嘉17)に本紀10巻・列伝60巻を完成させ、志30巻は502年(天監元)にできあがった。『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。
倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。
撰者 / 沈約は、斉の著作郎(歴史編纂の長官)であった。 
その他の文献

 

『南斉書』
日本関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく妙略して引いたもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。
479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号などが書かれている。
『梁職貢図』(新羅題記)
時期不明 521年以前 斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘[8][9]。
『梁書』
唐の著作郎であった姚思廉(ようしれん)が太宗の命を受けて編纂した。636年(貞観10)に完成した。史料的価値は『宋書』より低いと見られる。
梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである。倭の五王名や続柄が『宋書』と異なっている。
撰者 / 姚思廉(ようしれん)、唐の著作郎。 
『北史』
『北史』倭国伝
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。 後漢の光武帝の時(25−57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。 安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。 安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という
『南史』
『隋書』
「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、
「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る
とある。これは608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、
「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す 
とあり、百済、新羅が、日本(倭)を尊敬して仰いでいたとし、使いを通わせていた記述が存在する。また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。
俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。
海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。
『隋書』東夷傳の倭の条
「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」 倭は・・・九夷の居るとこである。・・・その天性は柔順である。
撰者 / 魏徴(ぎちょう)の7世紀後半撰。二十四史の一つ。
『旧唐書』
日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。
倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 〜
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
— 『舊唐書』 東夷伝 倭國[10][11]
日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。
倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述があるが、新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある。
読みは「くとうじょ」。五代十国時代(10世紀)に劉昫(りゅうく)らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。
『新唐書』
『通典』
その他の文献
以下は、倭国・倭人についての記事に関係ある文献である。
『魏書』は王沈(おうしん、? - 266年)の著。陳寿は参考にしている。東夷伝なし。
『魏略』は魚豢(ぎょけん)撰の著。佚文(いつぶん 逸文のこと)として『前漢書』、『翰苑』、『北戸録』、『魏志』、『法苑珠林』に残る。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて『魏略輯本』を編集している。
裴松之(はいしょうし、371年 - 451年)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6年)に『魏志』に関する「注」を実施している。これを裴松之注(註とも)、あるいは裴注という。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。
『翰苑』(かんえん)は唐の張楚金(ちょうそきん)編集の類書[12]で、蕃夷(ばんい)部のみが太宰府天満宮に唯一現存する。日本に唯一伝存している『翰苑』は9世紀に書写されたものであるが誤字や脱漏が多い。『魏略』の引用が多い。[13]
『史通』(しつう)は唐の劉知幾(りゅうちき)撰。
『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、北宋の太宗の勅を受けて李棒ム(りほう)等が編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、その引用にはやはり原文を簡略にした箇所も多い。
後代の史書『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文章が両書にあって、倭人伝にはない。 
注釈  
1.1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」という発表がされた。 つまり現代の江蘇省(春秋時代の呉)で発掘された百越人の一部族である「呉」人の人骨が、隈西小田遺跡(大宰府一帯)で発掘された人骨と同じ部族のものであることが証明された。
2.また、志賀島一帯の地域名である「香椎」は元明天皇の時代、「百越人」(長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意。春秋時代の「呉」、「越」も含む。ここで言う「呉」は現在の江蘇省一帯)の住む地帯を『古事記』などでは「コシ(越)」と読んだことから、北九州でも百越人の一部族である「(春秋時代の)呉人の住み着いた場所」という意味である蓋然性が極めて高いことが明らかになってきた。「越」は山陰地方名として『日本書紀』の「国生み」で登場する。「越人」も「呉人」も、どちらももともとは「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本のもたらした弥生人の一種といえる。
3.荘子内篇第一逍遙遊篇
4.「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
5.(朱子には『漢書』の地理志の内容と同じような見解の「朱子曰く、東方の夷に九種有り。之に居らんと欲するは、亦、桴に乗りて海に浮かばんの意なり。」の一節がある。
6.『三国志』「魏書」「烏桓鮮卑東夷伝」鮮卑に「後檀石槐乃案行烏侯秦水 廣袤數百里 停不流 中有魚而不能得 聞汙人善捕魚 於是檀石槐東撃汗國 得千餘家 徙置烏侯秦水上 使捕魚以助糧 至于今 烏侯秦水上有汙人數百戸」とあり裴松之の注釈で汙人を倭人とする
7.後漢の末に遼東太守であった公孫氏が勢力を伸ばし、204年(後漢・建安9年)楽浪郡の南に建てたのが帯方郡である。
8.'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース. (2011年8月23日). 2011年9月25日閲覧。2011年8月23日、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかっている。
9.續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER. (2011年8月23日). 2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国であったことがわかる。
10.舊唐書 東夷伝 倭國
11.舊唐書 東夷伝 倭國
12.類書とは、各種の書物の内容を編者の考える事項別に分類収録したもの。
13.外部リンク:『翰苑』蕃夷部(倭國条) 
 
倭・倭人関連の朝鮮文献

 

好太王碑文
好太王碑文 (414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建立)
・391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡破百残■■新羅以為臣民」 そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)にを渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 
三国史記(高句麗本紀)
倭・倭人関連の記載なし。 
三国史記 (百済本紀)
・397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
・402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
・403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
・405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
・418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
・428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
・608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
・653年 秋八月、王は倭国と修交した。
・662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。
百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。 
三国史記 (新羅本紀)
・紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
・紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
・14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
・57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
・59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
・73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
・121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
・123年 春三月に倭国と講和した。
・158年 倭人が交際のために訪れた。
・173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
・232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
・233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
・249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
・287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
・289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
・292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
・294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
・295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
・300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
・312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
・344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
・345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
・346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
・364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
・393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
・402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
・405年 倭兵が明活城を攻める。
・407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
・418年 高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。
・431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
・440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
・444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
・459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
・462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
・463年 倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。
・476年 倭人が東辺を攻める。
・477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
・482年 五月に倭人が辺境を攻める。
・486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
・500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
・663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
・670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
・698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
・703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
・722年 日本の賊の路を遮断した。
・731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
・742年 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
・753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。
・802年 冬十二月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
・804年 夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
・806年 春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
・808年 春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
・864年 夏四月に日本国の使臣が来た。
・879年 八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
・882年 夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。 
三国史記 (雑志)
宋祁の『新書』には「東南は日本であり、西は百済、北は高句麗で、南の濱は海である」といっており。…… 
三国史記 (列伝)
・任那強首伝「臣、もと任那加良の人。名は字頭。」
・233年 助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。
・253年 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。
・402年 壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。
・779年 金巌は王命を受けて、日本国に使臣として行ったが、その国王は、彼が賢明な人であることを知り、抑留しようとした。たまたま、大唐の使臣の高鶴林が来て、互いに会って非常に喜ぶと、倭人たちは金巌が大国にもすでに知られている人物であることをさとり、敢えて留めておけず、すぐ帰した。 
三国遺事
・390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。 
高麗史 (世家)
・999年 十月 日本国人の道要弥刀等二十戸、来没す。之を利川郡に処らしめ、編戸となす。
・1012年 八月三日、日本国の潘多等三十五人、来没す。
・1019年 四月二十九日、鎮溟 船兵都部署の張渭男等、海賊八艘を獲。賊に掠められし日本の生口男女二百五十九人は、供駅令の鄭子良を遣わし、その国に押送す。
・1029年 七月二十八日、耽羅の民の貞一等、日本より還る。初め貞一等二十一人、海に浮かび風に漂い、東南のかた極遠の島に到る。島人は長大にして、遍体毛を生じ、語言は殊異なり。劫し留めらるること七か月、貞一等七人は小船を窃み、東北のかた日本の那沙府に至り、乃ち生還するを得たり。
・1036年 七月十六日、日本国、我が漂流人の謙俊等十一人を帰す。
・1039年 五月十日、日本民の男女二十六人、来没す。
・1049年 十一月二十日、東南海船兵都部署司奏す、「日本の対馬島の官、首領の明任等を遣わし、我が国の飃風人の金孝等二十人を押送し、金州に到る」と明任等に例物を賜うこと差あり。
・1051年 七月十一日、日本の対馬島、使いを遣わし、被罪逃人の良漢等三人を押送す。
・1056年 冬十月一日、日本国使の正上位権隷の藤原朝臣頼忠等三十人、金州に来り館す。
・1060年 七月二十七日、東南海船兵都部署奏す、「対馬島、我が飄風人の礼成江民の位孝男を帰す」と。王、使者に礼物を賜うこと優厚なり。
・1073年 七月五日、東南海都部署奏す、「日本国人の王則貞・松永年等四十二人来り、螺鈿鞍橋・刀・鏡匣・硯箱・櫛・書案・画屏・香炉・弓箭・水銀・螺・甲等の物を進めんことを請う。壱岐島の勾当官、藤井安国等三十三人を遣わし、亦た方物を東宮および諸令公府に献ぜんことを請う」と。制して、海道に由り、京に至るを許す。 十一月十二日、八関会を設け、神鳳楼に御し観楽す。翌日、大会す。大宋・黒水・耽羅・日本等の諸国人、各々礼物・名馬を献ず。
・1074年 二月二日、日本国の船頭の重利等三十九人、来りて土物を献ず。
・1075年 閏四月五日、日本商人の大江等十八人、来りて土物を献ず。 六月二十二日、日本人の朝元・時経等十二人、来りて土物を献ず。七月十日、日本商五十九人来る。
・1076年 十月十五日、有司奏す、「日本国の僧・俗二十五人、霊光郡に到り、告げて曰く、「国王の寿を祝う為め、仏像を雕成す。請う、京に赴き、以て献ぜんことを」と」と。制して、之を許す。
・1078年 九月一日、日本国、耽羅の飄風民の高礪等十八人を帰す。
・1079年 九月、日本国、我が飄風商人の安光等四十四人を帰す。 冬十一月五日、日本商客の藤原等来り、法螺三十枚・海藻三百束を以て興王寺に施し、王の為めに寿を祝う。
・1080年 閏九月十一日、日本国の薩摩州、使いを遣わし、方物を献ず。
・1082年 十一月九日、日本国の対馬島、使いを遣わし、方物を献ず。  
・1084年 六月二十日、日本国筑前州の商客の信通等、水銀二百五十斤を献ず。
・1085年 二月十三日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、柑橘を進む。
・1086年 三月二十二日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、方物を献ず。
・1087年 三月二十日、日本商の重元・親宗等三十二人、来りて方物を献ず。 七月二十一日、東南道都部署奏す、日本国対馬島の元平等四十人、来りて真珠・水銀・宝刀・牛馬を献ず。
・1089年 八月十九日、日本国の大宰府の商客、来りて水銀・真珠・弓箭・刀剣を献ず。
・1093年 秋七月八日、西海道按察使奏す、「安西都護府轄下の延平島の巡検軍、海船一艘を捕らう。載る所の宋人は十二、倭人は十九。弓箭・刀剣・甲冑ならびに水銀・真珠・硫黄・法螺等の物あり。必ず是れ、両国の海賊、共に我が辺鄙を侵さんと欲する者ならん。其の兵杖等の物は、官に収納せんことを請う。捕らうる所の海賊は、並な嶺外に配し、其の巡捕せる軍士は賞せん」と。之に従う。
・1116年 二月二日、日本国、柑子を進む。
・1147年 八月十三日、日本の都綱の黄仲文等二十一人来る。
・1169年 正月三十日、奉香里離宮に幸し、郡臣に宴し、仍りて宋商および日本国の進むる所の玩物を賜う。
・1170年 春正月一日、王、賀を大観殿に受くるに、臣僚の賀表を親製し、群臣に宣示す。表に曰く、「三陽序に応じて、万物惟れ新たなり、玉殿春回りて、竜顔慶洽す。北使の寿を上りて、辞を致し、日域(日本)の宝を献じて、帝を称するより、常に天神の密助あり。
・1216年 二月六日、日本国の僧、来りて其の法を求む。
・1223年 五月二十二日、倭、金州に寇す。
・1225年 夏四月八日、倭船二艘、慶尚道の沿海の州県に寇す。
・1226年 正月二十七日、倭、慶尚道の沿海州郡に寇す。巨済県令の陳竜甲、船師を以て沙島に戦い、二級を斬す。賊、夜、遁る。 六月一日、倭、金州に寇す。
・1227年 四月十五日、倭、金州に寇す。防護別監の?旦が兵を発し、賊船二艘を捕らえ、三十余級を斬し、且つ獲る所の兵杖を献ず。 五月二日、倭、熊神県に寇す。別将の鄭金億等、山間に潜伏し、突出して七級を斬す。賊、遁る。五月十七日、日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍りて修好し互市せんことを請う。是の歳、及第の朴寅を遣わし、日本に聘せしむ。時に倭賊は州県を侵掠す。国家これを患い、寅を遣わして牒をもたらし、歴世の和好を以て、宜しく来侵すべからざるを諭す。日本は賊倭を推検し、之を誅す。侵掠、ややに息む。
・1243年 九月二十九日、金州防禦官報ず、「日本国は方物を献じ、また我が漂風人を帰す」と。
・1244年 春二月二日、有司劾奏す、「前の済州副使の?孝貞と判官の李?の在任せる時、日本商船の颶風に遇い、州境に敗れたるに、孝貞等私かに綾絹・銀珠等の物を取る。孝貞より銀二十斤、?より二十斤を徴し、島に流せ」と。
・1259年 七月二十八日、監門衛録事の韓景胤と、権知直史館の洪貯を日本に遣わし、海賊を禁ずるを請わしむ。
・1260年 二月三日、済州副使・判礼賓省事の羅得?を以て、防護使を兼ねしむ。朝議するに、「済州は海外の巨鎮なり、宋商と島倭と、無時往来す、宜しく特に防護別監を遣わし、以て非常に備うべし。然るに、旧制は但だ守倅のみ、防護を別置すべからず」と。ついに得?を以て、之を兼ねしむ。
・1263年 二月二十二日、倭、金州管内の熊神県の勿島に寇し、諸州県の貢船を掠す。 四月五日、大官署丞の洪?と、・事府録事の郭王府等を遣わし、日本国に如きて、賊を禁ぜんことを請わしむ。牒に曰く、「両国の交通せるより以来、歳ごとに常に進奉すること一度、船は二艘を過ぎず。設し他船の他事に枉憑し、みだりに我が沿海の村里をみだすあらば、厳しく徴禁を加うるを似て定約となす。越えて今年二月二十二日、貴国の船一艘、故なく来りて、我が境内の熊神県界の勿島に入り、其の島に泊まる所の我が国貢船に載する所の多般の穀米、あわせて一百二十五石、紬布あわせて四十三匹を略い将ち去れり。また椽島に入り、居民の衣食・資生の具をば、尽く奪いて去れり。元定交通の意に於いて、甚だ大いに乖反す。今、洪?等を遣わし、牒をもたらして似て送らしむ。公牒を詳かにし、あわせて口陳を聴き、上項の奪攘人等を窮推して、尽く皆な微沮し、似て両国和親の義を固めん」と。六月、日本官船大使の如真等、将に宋に入り、法を求めんとして風に漂い、僧・俗あわせて二百三十人は開也召島に泊まり、二百六十五人は群山・楸子の二島にいたる。大宰府の少卿殿は、「商船の七十八人、宋より将に本国に還らんとし、風に漂いて船を失い、小船を似て宣州の加次島に泊まる」と白す。全羅道按察使に命じて、糧・船を給し、其の国に護送せしむ。秋七月二十七日、日本商船の三十人、風に漂い亀州の?島にいたる。命じて糧を賜い、護送せしむ。八月一日、洪?・郭王府等、日本より還り、奏して曰く、「海賊を窮推するに、すなわち対馬島の倭なり。米二十石・馬麦三十石・牛皮七十領を徴して来る」と。
・1265年 秋七月一日、倭、南道の沿海州群に寇す。将軍の安洪敏等に命じ、三別抄軍を率い、之を禦がしむ。
・1266年 十一月二十五日、蒙古、黒的・殷弘等を遣わし来り、詔して曰く、「今、爾が国の人の趙彝来り、「日本は爾が国と近隣をなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、またあるいは使いを中国に通ず」と告ぐ。故に今、黒的等を遣わし日本に住かしめ、与に通和せんと欲す。卿、其れ、去使を道達し、似て彼の疆を撤して東方を開悟し、向風・慕義せしめよ。この事の責は、卿、宜しく之に任ずべし。風濤の険阻なるを似て、辞と為す勿れ。末だかつて通好せざるを似て、解となす勿れ。彼れ命に順わず、去使を阻むあるに托せんことを恐る。卿の中誠、斯に於いて見るべし。卿、其れ、之を勉めよ」とのたまう。十一月二十八日、枢密院副使の宋君斐と、侍御史の金賛等に命じ、黒的等と与に日本に住かしむ。
・1267年 春正月、宋君斐・金賛、蒙使と与に巨済の松辺浦に至り、風濤の険を畏れ、ついに還る。王、また君斐をして黒的に随い、蒙古に如かしめ、奏して曰く、「詔旨に諭したまう所の、使臣を道達して日本に通好するの事は、謹みて陪臣の宋君斐等を遣わし、使臣に伴いて似て住かしむ。巨済県に至り、はるかに対馬島を望むに、大洋万里、風濤の天を蹴るを見、意謂えらく、「危険なること此の若し。安んぞ上国の使臣を奉じ、険を冒して軽々しく進むべけんや。対馬島に至るといえども、彼の俗は頑_にして礼義なし。設し不軌するあらば、将た之を如何せん」」と。是を似て、与倶にして還れり。且つ日本は、素より小邦と末だ嘗て通好せず。但だ対馬島の人、時に貿易に因りて、金州に往来するのみ。小邦、陛下の即祚せるより以来、深く仁恤を蒙り、三十年の兵革の余、稍々に蘇息するを得、緜緜と存喘す。聖恩は天大にして、誓いて報?せんと欲す。如しなすべきの勢いありて、心力を尽さざらんには、天日の如きものあり」と。 八月一日、黒的・殷弘および宋君斐等、復び来る。帝、諭して曰く、「向者、使いを遣わし日本を招懐せしむるに、卿に嚮導を委ねたり。意わざりき、卿の辞を似て解となし、ついに徒らに還らしめんとは。意うに、日本、すでに通好せば、則ち必ず尽く爾が国の虚実を知る。故に、托するに他辞を似てするならん。然れども、爾が国の人の京師に在る者少なからず、卿の計もまた疎かなり。且つ天命はェを難んじ、人道は誠を貴ぶ。卿は先後食言すること多し。宜しく自省すべし。今、日本の事、一に卿に委ぬ。卿、其れ、朕の此の意を体し、日本に通諭して、必ず要領を得るを似て期となせ。卿、嘗て言あり、「聖恩は天大にして、誓いて報効せんと欲す」と。此れ、報効に非ずして、何ぞや」とのたまう。
 八月二十三日、起居舎人の潘阜を遣わし、蒙古書および国書をもたらし、日本に如かしむ。蒙古書に曰く、「大蒙古皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君は、境土相い接すれば、尚お講信・修睦に務む。況んや我が祖宗、天の明命を受けて、区夏を奄有するをや。遐方・遠域の威を畏れ徳に懐く者は、悉く数うべからず。朕、即位の初め、高麗無辜の民の、久しく鋒鏑つかるるを似て、即ち兵を罷めしめ、その疆域を還し、その旄倪を返す。高麗の君臣、感戴して来朝し、義は君臣といえども、歓ぶこと父子の若し。計るに、王の君臣もまた、已にこれを知るならん。高麗は朕の東藩なり。日本は(高麗に)密邇し、開国より以来、また時に中国に通ずるに、朕の躬に至りて、一乗の使いの似て和好を通ずるなし。尚お恐る、王の国のこれを知ること、末だ審かならざるを。故に使いを遣わし、書を持して、朕の志を布告せしむ。冀わくは、自今似往、通問して好みを結び、似て親睦せん。且つ聖人は至りては、夫れ、孰れか好む所ぞ。王、それ、これを図れ」とのたまう。国書に曰く、「我が国、蒙古大国に臣事し、正朔を稟くること年あり。皇帝は仁明にして、天下を似て一家となしたまい、遠きを視ること邇きが如く、日月の照らす所、みなその徳を仰ぐ。今、貴国に通好せんと欲して、寡人に詔して云う、「日本は高麗と隣りをなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、しばしば中国に通ず。故に、特に書を遣わし、似て往かしむ。風濤の阻険なるを似て、辞となす勿れ」とのたまう。その旨、厳切なり。茲にやむを獲ず、某官の某を遣わし、皇帝の書を奉じて前去しむ。貴国の中国に通好するや、代々これなきはなし。況んや今、皇帝の貴国に通好せんと欲したまうは、その貢献を利とするに非ず。蓋し無外の名を似て、天下に高くせんと欲するのみ。若し貴国の通好するを得ば、必ず厚くこれを待すべし。それ、一介の士を遣わし、似て住きて、これを観ること何如。貴国、商酌せよ」と。
 十一月十一日、弟の安慶公唱を遣わし、蒙古に如き、賀正せしむ。因りて、更に藩阜を遣わし、日本に使いせしめたるを告ぐ。
・1268年 二月二十一日、初め帝、趙彝のそしりを似て、怒り解けたまわず。親ら?に勅して曰く、「前日、爾が国の奏せる所、朕、今、これを説わん。爾、それ、詳しく聴け。(中略)爾の日本と交通せるは、爾が国の人の来りて此に居る者、これを知らざるなし。爾、前日に於いて、何ぞ末だ嘗て交通せずと言い、似て朕を欺きしか。爾等の奉する所は、皆な是れ妄説なり。必ずしも答えず」とのたまう。 秋七月十八日、起居舎人の藩阜、日本より還る。閣門使の孫世貞、郎将の呉惟碩等を遣わして蒙古に如き、節日を賀せしむ。また藩阜を遣わして、偕に行かしめ、上書して曰く、「向に臣に詔して、似て日本に宣諭せしめたまう。臣、即ち陪臣の藩阜を差わし、皇帝の璽書を奉じ、ならびに臣の書および国贐をもたらし、前年の九月二十三日似て、船を発して住く。今年の七月十八日に至り、回り来りて云う、「彼の境に到りてより、便ち王都に納れず、西偏の大宰府なる者に留置さるること凡そ五か月、館待甚だ薄し。授くるに詔旨を似てするも、而も報章なし。また国贐を贈り、多方告諭るも、竟に聴かず。逼りて之に送らる。故を似て、容領を得ずして還れり」と。末だ聖慮に副わず、惶懼すること実に探し。すなわち、茲に陪臣の藩阜等を差充し、似て奏す」と。
 十月十三日、蒙古、明威将軍・都統領の脱朶児と、武徳将軍・統領の王国昌と、武略将軍・副統領の劉傑等十四人を遣わし来る。詔して曰く、「卿、崔東秀を遣わし来りて、備兵一万・造船一船隻の事を奏す。今、特に脱朶児等を遣わし、彼に就きて軍数を整閲し、舟艦を点視せしむ。其の造る所の船隻は、去官の指画を聴け。もし耽羅の已に造船の役に与りたれば、必ずし煩重すべからず。もし其れ与らずんば、即ち別に百艘造らしめよ。其の軍兵・船隻、整点して足備せば、或いは南宋、或いは日本。逆命征討のことは、時に臨みて宜しきを制せしむ。仍りて差去せる官が先行し、黒山・日本道路を相い視しむ。卿もまた官を差わして、護送せしめよ」とのたまう。
 十月二十二日、郎将の朴臣甫と、都兵馬録事の禹天錫を遣わし、国昌・劉傑等に従い、住きて黒山島を視しむ。
 十一月二十日、黒的等、詔を伝う。其の詔に曰く、「向に、卿に去使を道達し、日本に送至するのを委ぬ。卿、乃ち辞を飾り、風浪険阻なるを以て、軽々しく渉るべからずと為せり。今、藩阜等、何に由りて達し得たるか。羞ずべく畏るべきの事、卿、已に之を為せり。復た何をか言わんや。今、来り奏し、藩阜の日本に至るや、逼りて送還さるの語あり。これもまた、安んぞ信を取るに足らんや。今、復び黒的・殷弘等を遣わし、使いに充てて以て住かしめ、必ず達せんことを期す。卿、当に重臣をして道達せしむべし、前の如く稽阻を致す毋かれ」とのたまう。
 十二月四日、知門下省事の申思?、侍郎の陳子厚、起居舎人の藩阜は、黒的・殷弘とともに日本に如く。
・1269年、三月十六日、黒的及び申思?等、対馬島に至り、倭人二人とらえて似て還る。 夏四月三日、参知政事の申思?を遣わし、黒的に伴い、倭人二人を以って、蒙古に如かしむ。五月二日、慶尚道按察使、馳報す、「済州人の漂風して日本に至り、還りて、「日本、兵船を具して、将に我に寇せんとす」と言う」と。是に於いて、三別抄及び大角班を遣わし、海辺を巡戍せしむ。また沿海の群県をして、城を築き殻を積ましめ、彰善県所蔵の国史を珍島に移す。
・1272年 正月十八日、趙良弼、日本より還る。書状官の張鐸を遣わし、日本使十二人を率いて、元に如かしむ。王、訳語・郎将の白?を遣わし、表賀して曰く、「盛化旁流して、はるかに日生(日本の事)の域におよび、殊方率服して、悉く天覆の私を欣ぶ。惟だ彼の倭人は、鰈海に処る。宣撫使の趙良弼、年前九月を似て、金州の境に至り、装舟し放洋して住く。是年正月十三日、日本使・佐一十二人とともに、合浦県の界に還到せり。則ち此れ、誠に聖徳の懐綏に由る。彼れ、則ち皇風に嚮いて慕順し、一朝海を渉り、始めて爾の職を修む。而して万里を来りて天を膽る。曷ぞ、臣心の喜びを極めん。茲に賤介を馳せ、宸庭に仰ぐ」と。 二月十日 中書省、牒して曰く、「世子のェの云うに拠るに「吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺?を保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。すでにェは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、ますます切に效をいたす。惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん」と都省奏す、「聖旨を奉じて、世子をして、親しく自ら去かしめよ。尚書省の馬郎中をして做伴せしめ、当に去かしむべし」と」と。時に世子、久しく燕京に留まる。従者は皆な東帰を愁等し、世子に勧むるに、東征の事を以てし、帝に請いて還らんとす。薛仁倹・金?等、不可として曰く、「世子のここに在るは、将に社稷を衛らんとするを以てなり。今、これの事を請い、以て還らば、則ち本国如荷せん。世子、之を寝めよ」と。たまたま、林惟幹これを聞き、これに仮りて先に東還を請い、没せられし所の田民・財宝を復た収めんと欲す。世子これを知り、やむを得ず帝に請う。国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。
・1274年 文永の役(1274)で高麗に帰還した金方慶らは、日本の対馬壱岐の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。
侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人献王及公主 
 
邪馬台国の位置と日本国家の起源

 

1.邪馬台国の位置
1.1 序論

 

中国・西晋王朝(紀元265〜316年)の史官・陳寿(297年没)が紀元280年代に編纂した『三国志』の「魏書・第三十巻、烏丸鮮卑東夷伝・倭人条」−−−通称『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国=日本の状況を約2、000字に及び記載しています。
後漢王朝が崩壊し、魏・呉・蜀の三国が中国大陸の覇権を激しく争った三国時代(紀元220〜280年)、海を越えた日本では弥生時代から古墳時代への移行期に当たります。
魏志倭人伝によれば、3世紀前半の日本では邪馬台国の女王・卑弥呼が約30ヵ国を統属して倭国王として君臨し、これに対抗する勢力として南方の狗奴国が邪馬台国と対立抗争を繰り返していました。
景初三年(紀元239年)、邪馬台国の女王・卑弥呼はこの当時の華北を支配する魏王朝へ難升米(なしめ)等の使節を送り、この使節は朝鮮半島の帯方郡経由で首都・洛陽まで至りました。これに対し、魏は正始元年(240年)に返礼使として梯儁(ていしゅん)を倭国へ派遣し、親魏倭王の金印および銅鏡百枚などを卑弥呼に授与したとされます。
魏志倭人伝の2、000字は、おおよそ以下の三つの章に分かれます。
第1章は「倭人は帯方の東南大海の中に在り・・・・・・郡より女王国に至る12、000余里」で、主に帯方郡から邪馬台国までの里程・日程・方向を紀行文風に記載しています。
第2章は「男子は大小と無く、みな鯨面文身す・・・・・・倭の地を参問するに・・・・・周旋5、000余里と推定される」で、主に倭地の気候風土や卑弥呼の様子を描いています。
第3章は「景初二年(通説は三年の誤りとする)六月、倭女王は太夫難升米など遣わし・・・・・・異文雑錦二十匹を貢す」で、文体及び内容ががらりと改まり、魏王朝から卑弥呼への親魏倭王の金印・銅鏡100枚などを下賜する詔書、邪馬台国と狗奴国の抗争、卑弥呼の死と内戦や壱与(台与)の即位などの政治外交を記録しています。
さて、魏志倭人伝には、帯方郡(郡治は韓国ソウル市付近)から倭国の首都・邪馬台国に至る里程・日程・方角が詳細に記録されています。以下、位置論に関係する部分を順次示します。
倭人が住む地は帯方郡の東南大海の中にある。帯方郡を出発して、海岸に沿いつつ水行し韓国を通過して、南したり東したりしながら7、000余里で倭の北岸にあたる狗邪韓国(釜山〜金海付近 )に到着。
狗邪韓国から1、000余里の海を渡り対馬国に到着。対馬島の大きさは推定で方400余里、人口は1、000余戸。
対馬国から南へ1、000余里の海を渡り壱岐国に到着。壱岐島の大きさは推定で方300里、人口は約3、000戸。
壱岐国から1、000余里の海を渡り末盧国(佐賀県唐津市付近)に到着。人口は4、 000余戸。
末盧国から東南へ500里を陸行して伊都国(福岡県糸島郡三雲付近)に到着。帯方郡使が往来して常に駐まる所で、人口は1、000余戸。
伊都国から東南へ100里で奴国に至る。人口は20、000余戸。
東行して100里で不弥国に至る。人口は1、000余戸。
南へ水行20日で投馬国に至る。人口は推定50、000余戸。
南へ水行10日・陸行1月で、女王の都の邪馬台国に至る。人口は推定70、000余戸。女王国より以北の国々は戸数・道里を略載できるが、その他の諸国は遠絶で詳細は分からない。
(続いて、その他諸国21ヵ国の国名だけを記載し)、これが女王の境界の尽きる所である。その南に狗奴国が在り、男子を王とし女王に属していない。帯方郡より女王国までは12、000余里。
以上 1 〜 10 は第1章での一連の文章ですが、倭人伝にはこの他に第2章で以下の文があります。
その(倭地の)道里を計るに、まさに会稽の東治の東に在る。
女王国より以北は、特に一大率を置き諸国を検察させており、諸国はこれを畏れている。一大率は常に伊都国で治めている。
女王国の東の海を渡る1、000余里、また国がある、みな倭種である。
また侏儒国がある。其の(倭種の国々の)南に在る。女王を去る4、000余里にある。
また裸国・黒歯国が有る。また其の(侏儒国の)東南に在り、船行1年で至ると推定される。
倭の地は海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5、000余里と 推定される。
以上の魏志倭人伝に登場する邪馬台国の位置について、また女王・卑弥呼が『古事記』・『日本書紀』の登場人物の誰に相当するか、江戸時代の新井白石氏(畿内大和説、後に九州説に転じた)・本居宣長氏(南九州説)以来300年近く論争されていますが、いまだ決着しておりません。
邪馬台国の位置について、従来有力説の1畿内大和説、2筑後山門説、3筑後御井説、4肥後山門説、5筑前甘木説、6筑前博多説、7従来の豊前宇佐説、のいずれもが倭人伝記事との整合性において、素人が一見して分かる矛盾を抱えております。これは、従来の豊前宇佐説でも同様です。
倭人伝の解釈について、江戸時代の新井白石氏、本居宣長氏、明治の那珂通世氏、吉田東伍氏、内藤虎次郎(湖南)氏、白鳥庫吉氏などの諸学者は、九州説・畿内大和説に分かれながらも、里程日程論は皆、旅程を順次式(直列式行程)に読む連続説に従ってきました。しかし、連続説は里程日程について矛盾ない説明体系を提示し得なかったのは周知の事実です。
これに対し東京大学教授の榎一雄氏は、昭和22年の論文「魏志倭人伝の里程記事について」 で、伊都国以降の奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国は、すべて伊都国からの方位・距離を放射状に示すものとする新学説−−−−いわゆる放射説を提案しました。
この放射説は中国史書に読み方の先例があり、最近の邪馬台国=九州説者の多くが放射説に従っています。一方、畿内大和説のほとんどは連続説ですが、一部には立命館大学名誉教授の山尾幸久氏のように放射説の人もいます。 
1.2 従来の邪馬台国論 − 畿内大和説

 

江戸時代から300年に及ぶ邪馬台国論争は、明治43年に京都帝国大学教授の内藤虎次郎氏が論文「卑弥呼考」(畿内大和説)を、また東京帝国大学教授の白鳥庫吉氏が「倭女王卑弥呼考」(九州説)を相次いで発表して以来、九州説と畿内大和説が対立して来ましたが、魏志倭人伝などの文献からは、おおむね九州説が優勢で推移してきました。
しかし、最近の10年は奈良・黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡33面などから考古学を根拠に畿内説が大変勢いを増しています。さて、邪馬台国畿内説で主張されてきた三大根拠は、1)箸墓は卑弥呼の墓、2)三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡、3)1402年に朝鮮で作成された混一彊理図(世界地図)、加えて最近では4)木材の年輪年代測定法。ところが、
1)箸墓は卑弥呼の墓
奈良県桜井市の箸墓古墳は全長280メートルの初期の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓との説もある。ところが、箸墓の周濠から木製の輪鐙(わあぶみ=乗馬の時に使用する足掛け)が出土した。倭人伝によれば、卑弥呼時代は日本に馬はいない。鐙自体は中国晋王朝時代に発明され、邪馬台国より時代が新しい。記紀の記録でも日本で馬の使用は早くても4世紀後半。畿内説の牙城であった橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており(台与の墓とか、台与の後の男王の墓と言っている)最近は完全にトーンダウンしている。畿内説は卑弥呼の墓を新たに見つける必要がある。
2)三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡
近畿地方を中心に全国から出土している三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡と言われ、長らく畿内大和説の支柱をなしてきた。しかし、三角縁神獣鏡は日本国内で既に500枚以上も出土している。卑弥呼が魏王朝よりもらった銅鏡100枚とは数が全く合わない。しかもこの三角縁鏡は日本以外から全く出土せず肝心の中国本土での出土も無し、また鋳型も全く出土せず。三角縁鏡は卑弥呼の鏡だと大合唱していた畿内派でも最近は国産説を取る人が多くなっている。
3)混一彊理図(混一彊理歴代国都之図)
世界地図として1402年に朝鮮で作図された混一彊理図(こんいっきょうりず)では、日本列島を南北に配置している。このことから、古代中国では日本を朝鮮半島の南に南北に連なる列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和が妥当としてきた。ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基図を朝鮮で合成したものである。
最近、別の混一彊理図が長崎県で発見され、それでは日本列島は東西に配置されている。従来の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのでは、と推測されているのが昨今の状況である。このように、混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れている。だいたい、1402年と言えば邪馬台国から1000年以上も新しい。邪馬台国から1000年以上も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本来ナンセンス。
4)年輪年代測定法
以上のように畿内説の三大根拠は崩れている、畿内説は一から出直し。最近の7〜8年は畿内派がマスコミも巻き込み畿内大和説を大合唱してきた。これには、木材の年輪年代測定法の影響がある。奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が開発したこの手法では、古墳や土器が従来通説より100年ぐらい古くなっているからである。
しかし直近では、この年輪年代測定法にも異論が続出している。曰く「年輪年代測定法は木材の伐採時期しか特定できない、古材の転用が多いのでは」、曰く「光谷氏がデータを独占し他の研究者が検証できない」、曰く「記録による法隆寺の再建年代と年輪年代測定法が100年合わない、年輪年代測定法そのものが問題だ」、曰く「そもそも古墳の周濠から発見された木片で古墳の築造時期を断定するのは問題だ。石塚古墳や勝山古墳の周濠から発見された木片は洪水で流入した可能性がある、このあたりは昔から洪水の川筋だった」。
以上のように、畿内説は全くの出直しです。倭人伝を普通に読めば邪馬台国は北部九州が妥当です。卑弥呼が女王となった180〜200年ごろの畿内はまだ銅鐸文明の時代です。なお、以上の箸墓、三角縁神獣鏡、混一彊理図、年輪年代測定法は後ほど詳述します。
5)古墳・古鏡以外の考古学
魏志倭人伝には、卑弥呼の墓(100余歩の冢)・卑弥呼の鏡(銅鏡100枚)以外にも考古学的に注目すべき記述が多い。すなわち、倭人伝には鉄鏃・矛・楯・絹などが記載されているが、北部九州からの出土が近畿地方より圧倒的に多い。
また、近畿弥生文化の象徴たる銅鐸は中国側記録の魏志倭人伝にも、日本側の古事記・日本書紀にも全く現れない。これは、邪馬台国が銅剣銅矛文化圏の九州に存在したことを示している。
次に、畿内大和説の地理的矛盾を示します。
1)邪馬台国は伊都国から1,500里
倭人伝によれば、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国まで12、000余里とあり、このうち伊都国(福岡県糸島郡)まで10、500里を計上している。伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎないので、比例関係からして邪馬台国は北部九州の域を出ない。仮に邪馬台国が畿内大和とすれば、倭人伝は「帯方郡から邪馬台国まで20、000余里」 と表現したはずである。
倭人伝の里程記事と現実の地理を比較すると、おおむね1里あたり80〜100メートルに相当することは、ほぼ衆目の一致するところである。博多湾岸の伊都国から残り1、500里は120〜150キロで邪馬台国は九州島内とするのが妥当である。
2)倭地は周旋5,000里
倭人伝は 「倭地は周旋5、000余里」 とする。この意味は「倭の領域はうねうねと端から端まで5,000余里=400〜500キロ」、である。一方、同じく倭人伝は狗邪韓国(韓国釜山)〜対馬国〜壱岐国〜末盧国(佐賀県唐津)を3、000余里とする。この比例関係からすると、仮に邪馬台国が畿内大和であれば、倭人伝は「倭地は周旋10、0 00余里」 と記載したはずである。
倭地の基点が狗邪韓国か対馬国かは議論のあるところだが、いずれにしても九州上陸して残りは2,000〜3,000里だから1里を80〜100メートルとすれば160〜300キロで、畿内大和までとうてい届かない。
3)難波〜奈良の陸行1月
畿内大和説は里程日程につき、ほとんど連続説(直列式行程)に従っている。その場合、博多湾(不弥国)から畿内大和まで残り1、300里(=100〜130キロ)が水陸行60日(水行20日、水行10日、陸行1月)に相当するとは到底考えられない。博多湾から畿内大和へのルートは、瀬戸内海を水行20日で投馬国(広島県鞆の津)それから更に水行10日で難波(大阪)に上陸、次に陸行1月で畿内大和に到達するのが最も妥当である。ところが、難波から奈良は徒歩せいぜい数日の距離で「陸行1月」とは大きく異なる。
この難波〜奈良の陸行1月の説明に持ち出されているのが、日本書紀の推古16年(608年)の隋使・斐世清(はいせいせい)の来日記録である。この年4月、小野妹子が隋より斐世清を帯同して筑紫へ帰国し、6月15日に難波津に上陸し宿泊した。大和朝廷は隋の客の為に真新しい館を難波に造営し、斐世清はしばらくここに宿泊(逗留)し、1月半後の8月3日に奈良へ入京している。
この難波上陸から入京までの1月半の記録を、倭人伝の「陸行1月」の根拠とするのが畿内大和説である。しかし、これはナンセンス。倭人伝は帯方郡から邪馬台国までの行程を、「水行7,000里」「渡海1,000里」「渡海1,000里」「渡海1,000里」「陸行500里」「100里」「東行100里」「水行20日」「水行10日」「陸行1月」と、全て移動を示す「水行」「渡海」「陸行」里数および日数を記載し、「宿泊」の文字は一切出現しない。しかるに、斐世清の「1月半の宿泊」と倭人伝の「陸行1月」を同一視するのは強弁である。「1月半を宿泊(逗留)」するのと、「1月を陸上歩行」するのは、意味が全く異なる。
4)全12,000里との整合性
内藤虎次郎氏は、「不弥国までの里程詳述と邪馬台国への全12、000里は、記者をも記述の時をも異なり、これを一致させることは難しい」 と弁明しているが、説明になっていない。その根拠が何も示されていない。里程日程詳述と直後に締めくくりとして書かれた全12、000余里は、一体と考えるべきで矛盾があってはならない。
仮に、三国志の編者・陳寿の眼前に二つの原史料が置かれていたとしよう。第一史料は、帯方郡から不弥国まで10,700里を計上し、それから投馬国へ水行20日さらに邪馬台国へ水行10日陸行1月と記載した史料。第二史料は、帯方郡から邪馬台国までの「全12、000里」の独立史料である。この二つの原史料をつなぐと、不弥国から邪馬台国までの残り1,300里が水陸行60日に相当するのは誰の目から見ても明らかである。
(注)10,700里+水陸行60日=12,000里、すなわち水陸行60日=1,300里
天才と言われ当代随一の史官だった陳寿ならずとも、普通の感覚を持った人間ならば、この二つの原史料を直接つなぐことはしないはずだ。倭人伝は帯方郡から邪馬台国まで里程日程を流れるように記載し、その後に21カ国および狗奴国を並べ、最後に「全12、000里」としめくくっており、当初の原史料で既に「里程日程詳述」と「全12,000里」は一体で書かれていたと見るべきである。
別の可能性として、原史料には「全12,000里」は無く、陳寿が帯方郡〜邪馬台国の総距離を「12,000里」と推定計算して追加記入したかどうか、である。その場合、陳寿は水陸行60日を1,300里と推定して、10,700里+1,300里=12,000里と記載したことになる。しかし、この当時の一日当りの行程を約50里(魏里434メートル×50里=一日当り約22キロメートル)とすると、60日×50里=3,000里である。そうすると、10,700里+3,000里=13,700里となり、陳寿は総距離を13,700里と記載したはずである。
陳寿は西方の大国で『親魏大月氏王』とした大月氏国(中央アジアからインドにまたがるクシャーン朝のこと。漢書の大月氏国とは国名は同じだが違う王朝)まで洛陽から16,370里と記載している。これと対称の東方で『親魏倭王』とした邪馬台国まで13,700里と記載すれば良いことであって、関係ない12,000里を突然持ち出す必要は無い。
5)投馬国の位置
畿内大和説では、投馬国について1山口県玉祖(防府市付近)、2広島県鞆の津、3島根県出雲、4兵庫県但馬 の4ヵ所が有力とされている。
1玉祖(内藤虎次郎説)、2鞆の津(新井白石説)の瀬戸内海経由の場合、博多湾の不弥国から水行20日で玉祖(山口県防府付近)または鞆の津(広島県東端)の投馬国を経由して、瀬戸内海をさらに水行10日し山陽道(兵庫県姫路付近)に上陸、そこから陸行1月かけてようやく畿内大和の邪馬台国に到達する。
それでは、(A)運河のごとき安全便利な瀬戸内海をなぜ途中上陸して陸行1月もするのか、(B)水行10日で途中上陸した地点は重要にもかかわらず、なぜ国名が記載されていないのか。倭人伝は旅程距離を表示した場合は、 直後にかならず到達国名を記載している。従って、「水行10日・陸行1月」は、 「水行すれば10日、または陸行すれば1月」 と放射式に理解すべきである。
3出雲(笠井新也説)、4但馬(山田孝雄説)の日本海経由は上陸地点は若狭湾の敦賀となるが、(A)安全便利な瀬戸内海を避けて、なぜ外洋の危険不便な日本海コースをとるのか、(B)途中上陸地点の国名記載がなく不審なのは瀬戸内海経由と同様である。朝鮮半島南岸や九州から畿内大和への水路は、古来、瀬戸内海経由が原則であったことは多くの古記録で明らかである。もちろん、日本書紀には日本海経由も記録されているが、「暴風雨に流されて日本海経由となってしまった」とか「航路を間違えて日本海経由となってしまった」とか、理由が記載されており例外と考えるべきである。
笠井新也氏は北部九州から畿内大和の日本海コースが古来より開かれていた重要な根拠として、日本書紀垂仁2年条の記事から、『朝鮮半島の大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の如きも、穴門より出雲を経て、笥飯ノ浦即ち敦賀より大和に入ったのである』と述べている。しかしこの垂仁2年条には、都怒我阿羅斯等は大和に到着した際、「道路を知らずして漂い、北海より回って出雲国を経てここ(大和)に至れり」と述べている。これに対し天皇が「汝が道に迷わなければ、もっと早く大和に到着出来て・・・」と答えている。この記事を見る限り、日本海コースは道に迷い漂った結果であって、「古来より北部九州から畿内大和への日本海コースの道は開けていた」、との根拠にはなっていない。日本海コースはあくまで事情があっての例外で、笠井氏はこの記事を見落としたか、故意に無視したかのどちらかである。
6)倭種の国々、侏儒国、裸国、黒歯国
畿内大和説の場合、倭人伝の方向は約90度の誤り(誤認)とせざるを得ない。それでは畿内大和説は、倭人伝の 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」 の記事をどう説明するのか。
この渡海千余里を、伊勢湾(名古屋・東海は陸続きで、とても渡海とは言えない)であるとか、最大幅20キロしか無い琵琶湖(湖であって海では無い)とか、最短距離30キロの佐渡島への渡海だ、などはまともな説明になっていない。また、方向を90度修正して東を北とすれば、近畿地方の北は日本海であって、倭種の国々を比定すべき陸地 が存在しない。
倭種の国々に続き、倭人伝には 「倭種の国々の南に侏儒国が有り、女王国より4,000余里 」 とある。邪馬台国=畿内大和説は、この侏儒国をどこに比定するのか。
さらに倭人伝には、「侏儒国の東南に船行1年で至る裸国・黒歯国が有る」 と記載されている。方向(東南)、距離(船行1年)、国名(裸国・黒歯国)と明記されている以上、この記事を無視できない。これをフィリピンとか、インドネシアとか、ハワイとか、はたまた南米大陸とか言うのは、まともな説明になっていない。また倭人伝の方向を90度修正して、東南を東北とすれば、カナダかアラスカになってしまう。
7)狗奴国の位置
畿内大和説では、狗奴国は1和歌山県熊野説、2中南九州説、3関東毛野説、また最近は4濃尾平野説がある。
倭人伝の方角が 「南は東の誤り」 とすれば、1和歌山県熊野(志田不動麿説)と2中南九州(内藤虎次郎説)は成立しない。また畿内大和説の場合は、邪馬台国は日本の統一国家に近い領域を擁した大国である。そうすると、これに対抗した強国の狗奴国を和歌山県熊野や南九州の狭い地域に求めるのは、地勢的見地からして成立しない。
3狗奴国=関東毛野(山田孝雄説)の場合、「渡海1,000余里の倭種の国々」「侏儒国」 「裸国・黒歯国」 と狗奴国の位置関係が全く説明がつかない。また考古学的に見ても、3世紀頃の関東は近畿や九州より後進地域であって、関東での強大国の存在には考古学会は極めて否定的である。記紀の伝承でも、大和朝廷が関東の強大国と対決し、これを征服したとの内容は全く無い。唯一、景行紀に見える倭健命(ヤマトタケル命)の東国制覇も内容から言えば未開地の平定であって、強大な敵国との対決ではない。
邪馬台国=畿内大和説は、卑弥呼を倭トトヒ百襲姫にあてる人が多いが、この百襲姫と崇神天皇の時代に日本国家を二分する戦いの記録は、記紀には一切ない。邪馬台国と狗奴国の戦いは、記紀神話では天照大御神とスサノオ命の対立抗争として描かれている。
なお拙著では、最近の4狗奴国=濃尾平野(赤塚次郎説)には触れていない。これは地政学的にあまりに非現実的と考えたからである。奈良盆地と濃尾平野は至近の距離にあり、軍隊の移動を妨げる海峡や険しい山脈は無い。九州まで支配した大国(邪馬台国)の首都が奈良に在り、中国魏王朝まで巻き込み邪馬台国と対立した狗奴国が、至近の濃尾平野にあったとは考えられない。狗奴国が濃尾平野とすると、伊勢地方は当然狗奴国の領域となる。伊勢から奈良へは一夜で攻め込める、こんな近場に狗奴国が有るはずがない。邪馬台国は眼前の狗奴国との戦いに決着をつけなければ、遠い九州を支配するなど不可能なはずだ。また、狗奴国を濃尾平野とすると、倭人伝の「女王国の東、海を渡る1,000余里、また国有り、みな倭種」と全く矛盾する。
狗奴国=濃尾平野説は、濃尾平野を中心とする東海地方に『前方後方墳』が多く分布することを根拠とする。しかし、
1『前方後方墳』は全国で約450基が存在するが、主要なものだけでも東海地方のみならず近畿(滋賀県・京都府・兵庫県・奈良県)、中部(長野県・山梨県)、北陸(石川県・富山県)、中国地方(岡山県・島根県)、東は関東(茨城県・栃木県・群馬県・千葉県)、西は九州(佐賀県)まで全国的に確認されており、東海地方特定の政治圏(狗奴国)を反映するものでは無い。『前方後方墳』で墳丘長が大きいのは第1位が奈良県天理市西山古墳(180メートル)、第2位が奈良県天理市波多子塚古墳(145メートル)、第3位が奈良県広陵町新山古墳(137メートル)で、みな奈良県である。もし『前方後方墳』と狗奴国を直接的に結べば、狗奴国=奈良県説が飛び出してもおかしくない。
2『前方後方墳』は形状が『前方後円墳』と非常に似ており(次図参照)、政治圏の対立を反映するような大げさな違いではなく、一種の流行・ファッションの違い程度である。
(注)特異な形状の四隅突出墓は、出雲地方を中心に主に日本海側に約90基が分布し、大国主命の出雲王朝との関連を指摘する説もある。
3『前方後方墳』の副葬品は『前方後円墳』と同じで、政治思想・埋葬思想の違いは見られない。『前方後方墳』からは、銅鏡(内行花文鏡・画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡・珠文鏡・重圏文鏡・キ鳳鏡)、武器(鉄剣・鉄刀・鉄斧・鉄鏃)、玉類(ガラス子玉・管玉・勾玉・丸玉)、供献土器(壷型土器・器台・小型丸底壷・高坏)などが出土し、『前方後円墳』と何ら変わらない。
4 全国の『前方後円墳』5,200基および『前方後方墳』450基は、濃尾平野・東海地方でも滋賀県・奈良県でも関東地方でも九州でも、みな混在して存在し政治圏の違いを示すものでは無い。『前方後方墳』が最も濃密に分布する東海地方でも、古墳時代初期における『前方後円墳』と『前方後方墳』の比率は56%対44%で混在している。従って、濃尾平野に『前方後方墳』が比較的多いからといって、狗奴国の根拠には全くなっていない。
平成12年に愛知県犬山市で開催された『青塚古墳シンポジウム』で、白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館教授〜当時)は前方後方墳が濃尾平野を中心に分布していることから、「濃尾平野の狗奴国を中心に、東海・北陸さらに関東におよぶ広大な地域に、狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合が形成されていた」、とする。しかし、先ほど述べた1〜4の理由により、白石説が成立し難いことは言うまでもない。広瀬和雄奈良大学教授も著書『前方後円墳国家』(平成15年)でほぼ同様の理由で白石説を否定している。
邪馬台国(奈良県)は眼前の狗奴国(濃尾平野)との戦いに決着をつけなければ、遠い九州を支配することなどは不可能。逆に、狗奴国(濃尾平野)も眼前の邪馬台国(奈良県)との戦いに決着をつけなければ、中部山岳地帯越えの関東地方や飛騨山地越えの北陸地方を支配することは不可能なはずだ。狗奴国=濃尾平野説は、政治的・軍事的な地政学を全く無視している。
以上の諸点について、拙著での邪馬台国=東九州豊前(中津・宇佐)説は、全て明快な回答が用意されています。これに対し、畿内大和説からは、まともな説明を聞いたことがありません。私は今回の拙著で、「日本の現実の地勢と海流の条件を無視した邪馬台国位置論は机上の空論」、と強調しました。その意味で、畿内大和説は現実の日本列島とあまりに矛盾しています。
邪馬台国・卑弥呼は倭人伝の詳細な記録に出現するのです。記紀神話や考古学は、邪馬台国・卑弥呼を何も明快に語っておりません。邪馬台国の位置問題は、詳細に記録された3世紀同時代史料の倭人伝との一致が絶対条件です。もしくは、倭人伝が誤りとの証明が必要です。  
1.3 邪馬台国の位置の結論

 

ところが私の今回の新説では、里程・日程・方向の論理および四大国(伊都・投馬・邪馬台・狗奴)の位置について、倭人伝との完全な整合性を為し得たと考えています。拙著での、邪馬台国の位置と3世紀の日本列島の政治地図を示すと以下の通りです。
すなわち、伊都国=博多湾岸(糸島郡三雲付近)、邪馬台国=豊前(中津・宇佐)、投馬国=西中国(山口県防府付近)、狗奴国=南九州となります。
投馬国へは、博多湾から海岸沿いに水行し、関門海峡を抜け周防灘へ流入して、山口県防府市付近(玉祖)まで「水行二十日」です。また邪馬台国へは、同じく博多湾から海岸沿いに水行し、関門海峡を抜け周防灘の豊前側を南下して、大分県中津市・宇佐市付近まで「水行十日」で邪馬台国に到達します。
倭人伝の「水行十日・陸行一月」とは、「水行すれば十日、陸行ならば一月の旅程」の意味で、陸行の場合は、同じく博多湾岸から海岸沿いに徒歩の一月で中津・宇佐の邪馬台国に到達します。
従来の九州説と畿内大和説の比較において、里程は九州説有利、日程は畿内大和説有利とされておりました。すなわち、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国までの全里程=12,000里に対し、伊都国(福岡県糸島郡)まで10,500里を計上しておりますので、これを現実の地理と比較すると、「1里=85〜90メートル」の短里で記載されているのは明らかです。
そして、伊都・邪馬台国は残りの1,500里ですから、比例関係からして邪馬台国は北部九州に位置していると考えられます。
(注)ソウルを横切る漢江の河口(江華島付近)から福岡県糸島郡三雲(伊都国)までの実測距離907 キロ÷10,500里=1里あたり86.4メートル
ところが一方、「水行二十日」(投馬国)、「水行十日・陸行一月」(邪馬台国)を九州島内に求めるのは困難と見られていました。これを、「一月は一日の誤りだ(南九州説の本居宣長氏など)」とか、「里程日程は虚数だ(北部九州説の松本清張氏など)」とか、「水行十日・陸行一月は帯方郡から邪馬台国までの全12,000里に相当する(九州博多湾岸説の古田武彦氏など)」とか、「里程日程記事は情報の混乱があり信用できない(九州甘木説の安本美典氏、多数の畿内大和説者)」とか、「邪馬台国は九州と畿内大和の二ヶ所あった(大和岩雄氏など)」とか言っても万人が納得しません。これらの説は倭人伝と自説との整合性がつかないための苦肉の策で合って、何ら資料的根拠なき空想・想像説であります。
魏志倭人伝の約2000字には、邪馬台国の位置解明に必要な情報として、方向記述18ヶ所、距離記述16ヶ所、具体的国名34ヶ国(倭国、女王国、韓国、中国は除く)、戸数記述8ヶ所、人名・官名にいたっては、なんと72ヶ所も出現します。また、最近の考古学的発掘により、倭人伝の描写が正確なことも裏付けられてきています。
これだけの詳細かつ具体的な情報を無視できません。長年の邪馬台国論争に終止符を打てなかったのは、結局のところ、従来学説のどれ一つとして倭人伝との整合性が十分でなかったからです。倭人伝の里程・日程・方向および四大国の位置関係と自説との整合性を立証しない限り、論争はいつまでも続くということです。
しかし私の新説では、里程・日程の原作者(帯方郡使または交易商人)は博多湾岸まで至って、これを短里で里数表示したのですが、投馬国・邪馬台国へは到達しておらず、「水行二十日」「水行十日・陸行一月」は倭人からの伝聞であって、「倭人の短日制」で記載されているということです。すなわち、倭人伝は「短里」・「短日」で貫かれているのです。
これにより、倭人伝の謎を完全に解明し、邪馬台国の位置を特定することが可能となります。  
1.4 魏使は邪馬台国を実際に訪問したのか

 

倭人伝の里程日程の原作者は通常の帯方郡使または交易商人であって、邪馬台国まで到達しておらず、詔書印綬を奉じ銅鏡100枚を携えた正始元年(紀元240年)の魏使・梯儁ではありません。また、狗奴国との抗争に際し邪馬台国を支援するため詔書及び黄幟(黄色の軍旗)を携え倭国を訪問した正始八年(247年)の魏使・張政でも有りません。
その理由として、博多湾岸の不弥国までは水行・渡海・陸行の全てが里数表示されているのに対し、不弥国以降は日数に変化しています。また博多湾岸までは実見した国々が生き生きと描写されているのに対し、投馬国への水行20日、邪馬台国への水行10日陸行1月は旅行見聞が何も書かれていません。全ての旅程を同一人物が実際に踏破していれば、博多湾までを里数、それ以降を日数と、表示方法を変えるはずがありません。
従って旅程記事の原作者が投馬国や邪馬台国へ到達しているとは思えず、実際に踏破した博多湾までは里数表示し、それ以降の日数記事は倭人からの伝聞だ、と多くの論者が指摘しています。一方、詔書・印綬・黄幟を奉じた魏使梯儁や張政は首都邪馬台国で卑弥呼と会見したと考えるのが当然です。しかし、梯儁や張政が旅程記事の原作者であれば、途中で表示方法を里数から日数へ変化させるはずがありません。ということは三段論法で言えば、梯儁や張政は里程日程の原作者ではないとの帰結に至ります。
倭人伝の紀行文風の「第1および第2章」では卑弥呼を「女王」と表示するのが3ヵ所、「王」が3ヵ所、合計6ヵ所出現し、この用語の実体は「王」です。一方、首都洛陽での公文書からの写しと考えられる「第3章」では「倭女王」が3ヶ所、「倭王」が3ヵ所、「親魏倭王」が2ヵ所、合計8ヵ所出現し、この実体は「倭王」です。
このように、「第1、2章」では「王」、「第3章」では「倭王」とはっきり区別して書かれ 、混同は一つも有りません。第3章の梯儁は倭王卑弥呼に会見するため倭国を訪れたのですから、仮に梯儁が第1章の里程日程の原作者であれば「王」ではなく「倭王」と表示したはずですし、天子の詔書印綬を奉じた魏使の立場からしてもそう書くべきなのです。また、張政の場合でも倭王卑弥呼への詔書を奉じている以上、「倭王」と書いたはずです。
なお、「第3章」で男王について1ヵ所、壱与について1ヵ所、合計2ヵ所「王」が出現 しますが、これは卑弥呼ではありません。
倭人伝には「伊都国は郡使が常に駐まる所」とあります。ところが、正始元年の梯儁は魏王朝より初めての公式の使者ですので、このような表現が出来るはずが有りません。「常に駐まる」との表現は、この記録以前に帯方郡使が何回も倭国を訪問したはずです。
と言うことは、この記録は初回の魏使・梯儁によるものではない、との帰結となります。
魏使梯儁の一行は、銅鏡100枚など多くの荷物と多人数であったと考えられます。と ころが、里程日程では唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)へは楽な唐津湾の水行では無く、背振山地経由の困難な「陸行五百里」と表示されています。ということは、里程日程の原作者は多荷物多人数の梯儁の一行では無く、別人ということです。 多荷物多人数の梯儁の一行は、壱岐から糸島半島(博多湾岸)まで直接渡海したはずです。
小説家の高木彬光氏は著書「邪馬台国の秘密」(宇佐説、昭和48年)で、梯儁の九州上陸を玄界灘に面した神湊(博多湾東北)としています。その理由は、銅鏡100枚などの大荷物大人数が唐津や呼子に上陸し困難な陸行500里をするはずがなく壱岐から神湊まで1000里を直接渡海した、と言うのです。しかし、これも里程日程の原作者が梯儁との錯覚(思い込み)による議論です。話はあべこべで、困難な陸行を500里したのは、原作者が梯儁でない証拠です。
さらに、正始八年の魏使・張政も邪馬台国までの里程日程の原作者ではありません。倭人伝には、正始八年条に「倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越などを派遣して帯方郡に詣り、相互に攻撃する状況を告ぐ」、とあります。すなわち、邪馬台国と狗奴国は戦争状態に突入したのです。これを受けて、魏は帯方郡より張政などを倭国に派遣し「詔書・黄幟をもたらし、難升米に拝仮し檄文を告諭す」、とあります。
張政は狗奴国と交戦状態に陥った卑弥呼を救援するため倭国に派遣されたのですから、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、糸島半島まで海路を直行したはずです。何でわざわざ唐津湾に上陸して、困難な「陸行500里」して糸島半島の伊都国への遠回りをする必要があるのか。火急の使者・張政がのんびりと「陸行500里」をする余裕はありません。と言うことは、張政は里程日程の原作者では無い、との結論となります。
次の地図は里程日程の原作者の帯方郡使(または交易商人)が唐津に上陸する時の状況です。ところが他方、詔書・印綬・黄幟を奉じた梯儁や張政は、壱岐から唐津湾を横切り糸島半島へ直行したと考えるべきです。
また邪馬台国九州説の多くは、梯儁や張政は伊都国に留まり、それから先には行かず邪馬台国には到達していない、としています。その理由は、伊都国は「帯方郡使が常に駐まる所」また「一大率が置かれた」重要な場所で、ここまでしか到達しなかった、としています。伊都国以降の「水行二十日」「水行十日陸行一月」は倭人からの伝聞か、重い恩賞に預からん為の使者の誇張だとか、はたまた魏による倭国への侵攻を警戒して梯儁や張政を伊都国に留めおいて邪馬台国まで入れなかった、と苦しい推測をしてきたのです。しかし、この議論も「水行二十日」「水十日陸行一月」は梯儁または張政が原作者との錯覚(思い込み)によるものです。
すなわち、倭人伝第3章の正始元年の使者・梯儁は首都・邪馬台国で卑弥呼に会見したと考えるのが当然ですが、第1章の里程日程の原作者ではありません、また正始八年の張政でもありません。倭人伝には原作者が梯儁や張政とはどこにも書いてありません。里程日程の原作者は通常の帯方郡使(目的は倭国の状況視察または半ば観光気分)または交易商人で、博多湾岸までしか到達しておらず、「投馬国への水行二十日、邪馬台国への水行十日陸行一月」は、博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国の倭人からの伝聞です。従来の邪馬台国論争では、倭人伝の里程日程は梯儁や張政が原作者との前提で議論されてきましたが、これは大いなる錯覚です。 
1.5 水行二十日、水行十日、陸行一月と倭人の短日制

 

倭人伝での「水行二十日」「水行十日・陸行一月」とは、博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国の倭人からの伝聞による短日表示です。そして、「投馬国は博多湾から水行20日」、「邪馬台国も博多湾から水行10日、または陸行1月」と方射的に理解すべきです。そして、その基点は必ずしも博多湾西端の伊都国とする必要性は無く、博多湾中央(奴国)が起点でも良いと考えられます。要するに、邪馬台国への旅程を博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国の倭人に問えば、みな「水行十日、または陸行一月」と答えるのです。
そして「倭人の短日制」は、『隋書』・『旧唐書』・『新唐書』での倭国(日本)の領域を示した「東西五月行」(九州西端〜日本アルプス)、「南北三月行」(対馬北端〜九州南端)という「倭人の短日表示」により裏付けられるのです。
すなわち、里程日程の原作者である帯方郡使または交易商人は、博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国までは実際に連続的に踏破して、これを短里(85〜90メートル)で里数表示し、一方、投馬国・邪馬台国は倭人から伝聞の短日で、これを博多湾から放射的に日数表示したのです。これによってのみ、帯方郡治から邪馬台国までの総距離=12,000里を含めた里程日程の整合性が得られるのであります。
博多湾岸の伊都国(糸島郡三雲)から邪馬台国(中津・宇佐)までは、倭人伝で1,500里ですが、1里=85〜90メートルで計算すると128〜135キロメートルの理論値となります。一方、現実の地理を図上測定すると、三雲から中津・宇佐まで陸路では123〜138キロで、理論値とまったく一致します。
伊都国の三雲から中津・宇佐までは、海岸線を走るコース(香椎・宗像・小倉・行橋・中津・宇佐)および宗像から内陸部に進み直方・田川から中津に入るコースがあるが、いずれも128〜135キロです。そして、1,500里(128〜135キロ)が陸行1月=30日に相当し、1日当り4.3〜4.5キロ、平均4.4キロ(50里)の「倭人の短日」で表示されています。
さらに、「水行二十日」「水行十日」とは、博多湾岸(伊都・奴・不弥)から玄界灘の海流に乗り、関門海峡を通過して瀬戸内海(周防灘)へ流入し、左手が投馬国(防府)、右手が邪馬台国(中津・宇佐)となります。邪馬台国へは、関門海峡を通過して周防灘の豊前側を南下しますが、この時、左手に投馬国を眺めながら水行するのです。この地勢的現実が、邪馬台国までの旅程の途中に投馬国が記載された理由です。
倭人伝の「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」「船行一年」との日数は、すべて倭人からの伝聞で、「倭人の短日制」で表示されております。
この「倭人の短日」は、『隋書倭国伝』『旧唐書倭国伝』『新唐書日本伝』での倭国=日本の領域を示した「東西五月行」(九州西端〜日本アルプス:約800キロ)、「南北三月行」(対馬北端〜九州南端:約440キロ)と統一性を持っております。
さらに、倭国=日本の領域が日本アルプスまでということは、『旧唐書日本伝』で言う「東界北界は大山有りて限りを為し、山外は毛人の国なり」、との記述とまったく一致します。
「倭人の短日」とは、後述のように陸行が1日当り4.3〜4.5キロで平均4.4キロ(50短里)、また水行は静水時では1日当り5.5〜5.9キロで平均5.7キロ(65短里)です。
そして、『隋書』『旧唐書』『新唐書』での「東西五月行=150短日」の800キロ、および「南北三月行=90短日」の440キロは、陸行と水行の平均の1日当り約5.1キロとの「倭人の短日制」で表示されております。
また倭人伝の「船行一年=六ヶ月」で至る裸国・黒歯国も日本列島内に求めることが可能となります。古代日本での1年とは、現代の半年=六ヶ月に相当し、これは『隋書』『旧唐書』『新唐書』での「東西五月行」にほぼ相当します。
429年、南朝劉宋の斐松之が三国志に加注した際、倭人伝中で引用した『魏略』に次の文があります。「魏略に曰く−−−其の俗、正歳四季を知らず。但々春耕、秋収を計りて年紀と為す」。この文章は、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を年紀とする、つまり「一年に二回歳をとる」という意味です。これは、倭人伝の次の記事−−−「その人、寿考(寿命)、或は百年、或は八・九十年」、とも対応しています。すなわち、倭人伝の百年とは現代での50年、また八・九十年とは40〜45年に相当し、古代倭人は二倍年暦で寿命を計算し、古代人の寿命は40〜50年ということです(人生わずかに50年)。また、この古代日本人の二倍年暦での年齢計算は、記紀で古代天皇の寿命と在位年数が異常に長いことにも現れています。従って、倭人伝の「船行一年」とは、現代の半年=六ヶ月で計算すべきです。
そうすると、現実の裸国・黒歯国は近畿・中部・東海の銅鐸文明圏に比定が可能となり、従来学説のフィリピン、インドネシア、ハワイ、はては南米大陸というような非現実的な設定は必要が無くなります−−−裸国・黒歯国は倭人伝に登場するのですから、日本列島内とすべきです。
倭人の短日による1日当りの距離が5.1キロとはあまりに短いと不審に思われるかもしれません。しかし現実には、記録にはっきりと残されています。
『隋書倭国伝』に、「夷人(倭人)は里数を知らず。但々、日をもって計る」とあります。すなわち古代日本人は、距離をあらわすのに里数ではなく、日数で表現していたのです。そして、『隋書』『旧唐書』『新唐書』での倭国の領域を示した「東西五月行」「南北三月行」は、すべて倭人の日数表示による距離なのであります。
この倭人の1日当りの距離を計算すると、
東西五月行: 800 キロ ÷150日= 5.33キロ/日
(九州西端〜日本アルプス) (五月行)
南北三月行: 440 キロ ÷ 90日 = 4.89キロ/日
(対馬北端〜九州南端)  (三月行)
これを平均すると、(5.33+4.89)÷2=5.11キロ、となります。すなわち、古代倭人の1日当りの距離は、水陸行の平均で直線距離5.11キロと非常に短いことが分かります。
そしてこの5.1キロを陸行と水行に分解すると、後述のように陸行=4.4キロ/日、水行=5.7キロ/日となります。これは魏志倭人伝の「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」「船行一年」に共通し、邪馬台国位置論の里程・日程を解く鍵なのであります。
倭人の「短日制」を平易に言えば、「日」というのは一種の距離単位であって、メートル、キロメートル、マイル、里などと同等視できるということです。仮に倭人が距離単位として「日」(ひ)ではなく「比」・「火」・「被」の文字を使用して、これが5.1キロとしても誰も不審とはしなかったでしょう。要は、後世の例えば唐代の1日の旅程=28キロなどにこだわらない方がよいということです。
なお、以上の倭人の水陸行平均=5.1キロ/日は地図上の直線距離(距離の測定方法は後述)の話であって、現実の地勢は道路が曲がりくねり、また川あり山あり、さらに沿岸水行の場合も海岸線は曲がりくねっているので、実際の移動延べ距離は約2倍の10キロ程度と考えるのがよいかもしれません。
もちろん倭人の短日制による「日」の概念は、もともと一日の移動距離から出発していると考えられますが、道路条件が極めて悪い古代日本では、一日の移動延べ距離が約10キロであったとしても、決して不思議ではありません。これが地図上の直線距離では約5キロに相当するわけです。そして古代倭人は、この「日」をかなり抽象化した一種の距離単位(時間距離)として使用していたのであります。
ただし水行の場合は、潮流の影響があると一日当りのスピードは大幅に変化します。倭人伝の場合は、玄界灘・関門海峡・周防灘の海流のスピード差を計算に入れることにより、「水行20日」「水行10日」「陸行1月=30日」「12,000里」「1,500里」の相互の整合性が可能となります。これは従来学説のどれ一つとして為し得なかったことです。
博多湾(伊都国など)から中津・宇佐(邪馬台国)までは、陸路の123〜138キロは30日(陸行1月)を要しますが、水路の138キロ〜153キロは関門海峡・周防灘の干潮時の流れが非常に速いため、わずか10日(水行10日)で邪馬台国まで到達します。
ところが一方、周防灘と言っても山口県沿岸は干潮時に逆転潮流の発生のため、沿岸水行のスピードは大幅に低下します。このため、博多湾から防府(投馬国)までの157キロは、20日(水行20日)を必要とします。なお、満潮時の周防灘の潮流のスピードはゆるやかで山口県沿岸は逆転潮流は発生せず(下図参照)、満潮時に関門海峡→防府の航行は潮流に逆らい困難です。
これは、関門海峡をはさんで日本海と周防灘の海面の水位は日本海側が約30センチメートル高いことと、周防灘の地形的特徴によるものです。
古代瀬戸内海航路では、北部九州から難波に行くには関門海峡から干潮時の潮流に乗り、豊前側を南下して国東半島付近に至り、それから東に航行したのは多くの古記録より明らかです。
すなわち、次の『上代航路図』のように、関門海峡を抜けた船は豊前側を南下します。一方、本州側(長門)の航行は困難です。
この潮流に乗るときの水行スピードは、以下の計算となります。
<中国の長里・長日での水行距離>
中国の場合、陸行は1長日当り50長里、水行は静水時で1長日当り65長里が一般的な旅程の相場です。また、1時間当りの旅程は陸行で4キロメートル、水行では5.2キロメートルです。
唐の法典集『六典』によれば、陸行の1長日は50長里すなわち50長里×560メートル=28,000メートル=28キロです。これを時速4キロで割ると、28キロ÷4キロ=7時間、すなわち歩行は正味7時間となります。この1日の旅行時間は、朝8時に出発したとすると夕方5時までの9時間だが、昼食時の1時間および午前中・午後の休憩各30分を除いた正味7時間とするのが妥当です。これは陸行・水行に共通です。
水行の場合は、同様に六典などから推定すれば、静水時で1長日当り60〜70長里、平均65長里です。さらに、黄河・揚子江などの川を下る(流れに乗る)場合は、流れのスピードにより1長日当りの旅程は大幅に変化し、1長日=70〜150長里とあります。
<倭人の短日での水行距離>
倭人伝での伊都国・邪馬台国間は倭人からの伝聞の「陸行1月=30短日」で、帯方郡からの全12,000短里から伊都国までの10,500短里を引いた1,500短里(128〜135キロ)に相当します。
従って、1,500短里÷30短日=50短里/短日となります。
そうすると倭人の短日では、陸行1短日=50短里=50短里×85〜90メートル=4.3〜4.5キロ、平均で4.4キロです。
前述のように、中国での陸行・水行の比例関係は、陸行1長日=50長里に対し水行1長日=65長里です。陸行と水行の比例関係は中国と日本は基本的には同じですから、倭人の「短日表示」での陸行1短日=50短里に対して、静水時は水行1短日=65短里=5.5〜5.9キロ=平均5.7キロとなります。
そして『隋書』『旧唐書』『新唐書』での「東西五月行」「南北三月行」は、以上の水陸行平均の短日あたり5.1キロで計算されているわけです。
これと同様に、潮流に乗る場合の「短日」の距離を計算すると次表の通りです。即ち、潮流の速さが1ノット(時速1,852メートル)増す毎に短日あたりの水行キロ数が約2キロメートル伸びます。
例えば、潮流のスピードが時速1.9キロ(1ノット)のケースは、中国の場合は1長日当り89長里=49.7キロです。これに対し日本の場合は、1短日当り89短里=7.8キロの水行となります。
さて、博多湾から邪馬台(中津・宇佐)と投馬(防府)への水行を次のように分解します。
上図で水行を5区間に分割したのは、区間毎に潮流のスピードが異なるからです。すなわち、
A:博多湾西端→遠賀川河口      
この区間53キロは対馬暖流に乗りますが、潮流のスピードは約2ノットです。
B:遠賀川河口→小倉  
現在の北九州市にある洞海湾は古代は「くきの海」と呼ばれ、響灘まで続いた水道でありました。従って、この区間22キロでの潮流は約3ノットと考えるのが妥当です。
C:小倉→部崎 
関門海峡入り口の小倉から出口の部崎までの18キロは干潮時の急流に乗ります。そしてこの区間の平均潮速は約5ノットです。
D:部崎→防府
この区間64キロは、干潮時は山口県側沿岸で逆転潮流が発生するため、船は潮流に乗ることは出来ません。
E:部崎→中津・宇佐
この区間45〜60キロは、干潮時に約3ノットの潮流に乗り豊前側沿岸を南下します。
以上の距離を、玄界灘・響灘・関門海峡・周防灘の潮流のスピードを考慮に入れて、倭人の短日による水行日数を計算すると、以下の通りとなります。
例えば区間Aの博多湾西端から遠賀川河口の53キロは2ノットの潮流に乗ります。先程計算したように、潮流のスピードが2ノットの場合、倭人の短日あたりの水行距離は111短里=9.7キロです。そうすると区間Aの所要日数は、53キロ÷9.7キロ=5.46短日となります。
そうすると、伊都国から投馬国・邪馬台国への水行所要日数は、次の計算となります。
ただし、倭人が言う「水行二十日」「水行十日」とは、あくまで博多湾岸からの意味で、博多湾岸中央を起点とするのが妥当かも知れません。そうすると、ちょうど10キロ距離が縮まります。結果として、邪馬台・投馬への所要日数はそれぞれ1.0短日が短縮されます。
また、関門海峡出口の部崎から防府(投馬国)までの64キロは、潮流に乗らないということで1短日あたりの「水行」を静水時と同じ65短里(5.7キロ)として計算しました。しかし現実には、この64キロは山口県側沿岸で干潮時に生じる逆転潮流を横切るので、2〜3割はスピードが落ち「陸行」と同じ1短日あたり50短里(4.4キロ)程度の水行となる可能性があります。そうすると、投馬国への「水行」は3.32短日が延長されます。
以上の二点を考慮に入れると、博多湾中央→防府(投馬国)は水行22.01短日、また博多湾中央→中津・宇佐(邪馬台国)は水行11.27〜12.54短日の所要日数となります。
さらにプラスして、水行の起点を博多湾東端とすれば、逆に1.0短日が短縮され、博多湾岸→防府(投馬国)は水行21.01短日、また博多湾岸→中津・宇佐(邪馬台国)は水行10.27〜11.54短日の所要日数の計算となります。
倭人伝では、これらが「水行二十日」「水行十日」と表示されているのです。
以上のように私の新説による里程日程論では、1帯方郡から邪馬台国までの全12,000里、2伊都国(博多湾岸)〜邪馬台国(中津・宇佐)の1,500里、3伊都国〜投馬国(防府)の水行二十日、4伊都国〜邪馬台国(中津・宇佐)の水行十日または陸行一月、5現実の地理上の距離、の五点が相互に完全な整合性が可能となります。
そして、この整合性を可能ならしめたのが西日本の現実の地理・海流の条件であり、また隋書・旧唐書・新唐書からも裏付けられた倭人の短日制なのです。
このようにして、邪馬台国は東九州大分県中津・宇佐(豊前)に比定されるのです。そしてこの東九州豊前説では、倭人伝の「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、みな倭種」を豊後水道を渡海した四国に比定し、現実の地理と比較すると、ぴったりの表現となります。
なお、『倭人の短日制』は私の新説ですが、従来学説でも邪馬台国への最終行程の「陸行1月」だけは実質的に「短日」(1日当り1.7〜5.0キロ)とするのが、次表のようにあります。 
1.6 奇数配置・陰陽五行説と倭人伝の里程・日程論

 

陰陽説とは、宇宙の天地間の万物の生成は、プラス(陽)とマイナス(陰)の相反する性質の二種類の「気」の消長によるものとします。たとえば光・昼・春夏・男性などは「陽」、暗黒・夜・秋冬・女性は「陰」としました。
また中国人が好む奇数とは陰陽説にもとづく「陽」の数字で、偶数は「陰」の数字です。
この陰陽説は古代中国で発生しました。五行説とは、この陰陽説を複雑化したもので、その成立は戦国時代(紀元前5世紀〜前3世紀)と言われています。天体の五つの惑星(木星・火星・土星・金星・水星)の動きを観測して、その動きによって農耕に関係の深い正確な四季を知り、やがて五惑星の消長が天災や人事の運命に関わりがあると考えるようになりました。従って、五行説と陰陽説は密接な関係があり、「陰陽五行説」と言う学者もいます。
さて、倭人伝には里数・日数・戸数が多数出現します。これらの数値が陰陽五行説にもとづいて、「陽」の数値である奇数が偏重して配置されているという説があります。この説を最初に唱えたのは白鳥庫吉氏で、これを本格的に発展させたのが小説家で歴史家でもあった松本清張氏です。
白鳥庫吉氏は、投馬国の「五万余戸」・邪馬台国の「七万余戸」を誇大としています。倭人伝によれば、対馬国1000戸・壱岐国3000戸・末盧国4000戸・伊都国1000戸・奴国20000戸・不弥国1000戸とあり、合計30000戸となります。この数値そのものは実見にもとづき、実数に近いと白鳥庫吉氏は認めています。
この三万戸を基準として、奇数を特に好む中国人が「三、五、七」の配置により、「五万戸」「七万戸」が作成され、これらは実数ではなく誇大値と白鳥庫吉氏は論じています。なお里数については、誇大値ではなく実数としての短里が採用されていると白鳥庫吉氏は論じ、『短里』との用語を始めて使用しました。
松本清張氏はこれを本格的に発展させ、戸数だけでなく里数・日数も陰陽五行説にもとずく虚数としています。この松本説の主な論拠は次の3点です。
倭人伝は末盧国(唐津)から伊都国(糸島郡前原)まで五百里、伊都国から奴国(博多付近)を百里とし、5倍の差がある。しかし実際の地理では、 この二つの区間は大差はなく、虚妄の里数である。
倭人伝は狗邪韓国から対馬国、対馬国から壱岐国、壱岐国から末盧国まで、 それぞれの距離をすべて「千余里」と片づけている。現実の地理では、壱 岐・唐津(末盧)間は釜山(狗邪韓国)・対馬間の半分もない。
『漢書』西域伝には長安から西域諸国の王城までの里数がみな「万二千里」 とある。倭人伝の「万二千余里」もこれと同様で、中国の直接支配を受けていない国の王都が絶遠のかなたにあることを示す観念的な里数である。
松本清張氏はこのように論じ、結論として倭人伝の「水行二十日」「水行十日・陸行一月」も虚数としています。そして邪馬台国は北部九州としながらも、具体的位置を倭人伝から特定するのは難しいと論じています。
一方これに対する反論として、古田武彦氏は『三国志』の全数値3、721個を抜き出し、奇数の優位性はなく陰陽五行説の影響は全く認められないと指摘しています。そして倭人伝の里数日数も実地にもとずく実数と主張しています。また安本美典氏もほぼ同様の見解を述べております。
さてこの問題について、私の見解を以下で示します。
唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)へは海岸沿いの唐津街道経由と背振山地経由の二つのルートがあります。しかし唐津街道は山が海に迫り、古代の天平道は背振山地経由でありました。この天平道では唐津から三雲まで46キロです。
一方、三雲 (伊都国)から奴国の中心と目される春日市の須玖遺跡付近までは、平地を18キロの距離です。
しかし背振山地経由の実際の距離感(つらさ)を仮に平地の2倍とすれば、46キロ X2倍=92キロとなります。この92キロは、三雲から須玖の平地18キロの5倍ぴったりに相当し、倭人伝の「五百里」対「百里」の表現は必ずしも現実離れとは言えません。(注)登山家は「山の1里は平地の4里と言います。
狗邪韓国の釜山から対馬国の厳原まで108キロ、厳原から壱岐国の郷乃浦まで65キロ、郷乃浦から末盧国の唐津まで45キロで、同じ「千余里」でも2倍強の違いがあります。
しかし渡海そのものの距離は、釜山付近の巨済島から対馬の北端まで約50キロ、 対馬の南端から壱岐の勝本まで約48キロ、壱岐の石田から唐津まで約40キロと、 極端な違いはありません。従って、三つの海峡を「渡海」することに意味があり、その距離のオーダーとして「千余里」が使用されたと考えるべきです。
「一万二千余里」については、『漢書西域伝』と『魏志倭人伝』は記述が大きく異なり ます。『漢書西域伝』では「大月氏国、国王は番兜城に治す。長安を去る万一千六百里」とあるように、観念的数値と言えます。
これに対して倭人伝は、帯方郡から多数の国々を経由して邪馬台国に至るまでの里程・日程を詳述した直後に、締めくくりとして「一万二千余里」を記載しています。従って、これは観念的数値ではなく、実体的重みを持つ数値です。
帯方郡使が実地に踏破した不弥国までの里程・戸数はすべて断定文となっています。 一方、倭人からの伝聞の投馬国・邪馬台国については日程は断定文、戸数は「可五万余戸」「可七万余戸」と推定文になっています。戸数については、倭人自身が自信をもって言えなかったからで、帯方郡使の推定となったからです。
従って、「五万戸」「七万戸」は相当な誇張としても、「水行二十日」「水行十日・陸行一 月」は倭人の経験値にもとづく実数値と考えるべきです。
以上を総合して結論づけると、
『三国志』の全数値3、721個の中で、奇数は63%偶数は37%と、「百」「千」 との概略表示を含めて、やや奇数が優位です。従って里程日程記事は、現実の日本列島の地勢に沿いつつも、奇数配置・陰陽五行説の影響が多少認められるとの常識的な結論とならざるを得ません。しかし、あまりに里程日程の精度にこだわるのも危険です。
一方、「五万戸」「七万戸」は帯方郡使の推定による相当な誇張があり、投馬国・邪馬台国について、あまりに広大な領域比定は避けるべきでしょう。
しかし、戸数が誇張との結論は、里程日程の誇張には直結しません。里程日程は、 「一万二千余里」および「水行二十日」「水行十日・陸行一月」を含めて、おおよそ整合性を持ちつつ、日本列島の現実の地勢との対比が行なわれるべきです。
倭人伝里程・日程・方向・戸数詳述の原作者は、自信を持つ部分は断定文、無い部分は推定文と微妙に書き分けています。たとえば、実地に見聞した博多湾岸の不弥国までの戸数は断定文、倭人からの伝聞で倭人自身が自信を持てない投馬国・邪馬台国の戸数は推定文としています。
また里数表示も、実地に踏破した不弥国までは断定文としながらも、対馬島・壱岐島の大きさ=面積については自信が持てないとして、「方可四百余里」 「方可三百里」 と推定文としています。
従って、「倭人伝の里数・日数は虚数」 とか 「倭人伝の里程・日程記事は誤りで信用できない」 、と倭人伝の里程・日程・方向記事を全否定する説は成立しません。 
1.7 倭人伝の里程・行路シミュレーション

 

拙著では、倭人伝が1里あたり85〜90メートルの短里とすると共に、帯方郡治(ソウル付近)から博多湾岸(伊都国・奴国)に至る旅程のルートを回帰分析(最小二乗法による誤差の最小化)によるシミュレーションで確定しています。
(1)帯方郡治から博多湾岸(伊都国・奴国)の64のルート
まず出発点の帯方郡治の位置は、ソウル(京城)〜開城付近というのが通説です。ところが、朝鮮民主主義人民共和国黄海道鳳山郡文井面(沙里院)の古墳の内部に積んだレンガに「帯方太守張撫夷」の文字が発見され、帯方郡治は沙里院付近との説が出されています。
そこでシミュレーションでは、出発地として漢江河口の江華島付近(帯方郡治=ソウル付近説)、黄海南道の海州(帯方郡治=沙里院説)の二地点としました。
次に、狗邪韓国は通説では釜山付近とされています。ところが、朝鮮海峡を渡るのに最も対馬に近い巨済島との説がありますので、釜山と巨済島の二地点をシミュレーションに組み込みました。そうすると、帯方郡治から狗邪韓国の7000里は、下表のように四つのルートとなります。
次に、対馬国の寄港地は、朝鮮半島に近い下島の鹿見と壱岐島に近い上島の厳原の二地点をシミュレーションに組み込みました。そうすると、狗邪韓国から対馬国の1000里も下表の四つのルートに分れます。
次に、壱岐国の寄港地は、対馬に近い勝本と九州松浦半島に近い郷乃浦の二地点をシミュレーションに組み込みました。そうすると、ここでも対馬国から壱岐国の1000里は下表の四つのルートに分かれます。
次に、九州上陸地点は、壱岐に近い松浦半島の呼子と末盧国の中心の唐津の二地点をシミュレーションに組み込みました。そうすると、ここでも壱岐国から末盧国の1000里は下表の四つのルートに分かれます。
次に、末盧国から伊都国の糸島郡三雲までは、唐津街道経由と背振山地の天平道経由の二つのルートをシミュレーションに組み込みました。そうすると、ここでも末盧国から伊都国の500里は下表の四つのルートに分かれます。
次に、伊都国(三雲)から奴国(春日市須玖遺跡)までの100里は、至近距離ですので、ただ一つのルートとしました。シミュレーションの範囲は位置がほぼ確実な奴国までで、不弥国・投馬国・邪馬台国は定説がありませんのでシミュレーションから外してあります。
以上の結果として、帯方郡治から博多湾岸(伊都国・奴国)まで、64通りのルートの組み合わせとなります。すなわち、2(漢江河口、海州)×2(巨済島、釜山)×2(鹿見、厳原)×2(郷乃浦、勝本)×2(呼子、唐津)×2(唐津街道、天平道)×1(須玖)=64通りのルートです。
(2)1里当たりの距離=里度
倭人伝の里数が、1里当たり80〜100メートルで記載されていることは、ほぼ衆目の一致するところです。そこで拙著では、1里=80メートル、85メートル、90メートル、95メートル、やや離れて140メートル、の5つの里度をシュミレーションに組み込みました。 なお、1里=140メートルをシミュレーションに組み込んだのは、壱岐島の大きさを倭人伝は「方三百里」としており、これより倭人伝は1里=140メートルで記載されているとの説があるからです。
さて、以上の64のルートと5つの里度を組み合わせると、64x5=320通りの組み合わせ(ケース)となります。
拙著では回帰分析の手法により、この320通りの組み合わせ(ケース)の中で、どのルートと里度の組み合わせが、理論距離と実地距離の乖離が最も誤差が少なく最も精度が高く、正解に近いかを分析しました。
その結果、里度としては、1里=85〜90メートルが最も妥当性があります。またルートとしては、漢江河口(帯方郡から水行の起点)〜釜山(狗邪韓国)〜鹿見(対馬国)〜勝本(壱岐国)〜唐津(末盧国)〜天平道経由三雲(伊都国)が最も妥当性があります。
また、シミュレーションに際して、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道の海流の条件および北部九州の地理・地形との整合性も考慮に入れました。
なお以上のシミュレーションに関連して、以下の4点を付言しておきます。
1 帯方郡治の位置
古記録によれば、朝鮮半島には東西に流れる「帯水」と呼ばれる大河があり、ソウル(京城)市内を横切る漢江がこれに相当すると考えられています。朝鮮半島を東西に流れる大河は漢江しかありません。このこともあって、帯方郡治の位置はソウル〜開城付近というのが通説でありました。
このソウル〜開城付近説と沙里院説を比較すると、シミュレーションを別としても、ソウル〜開城付近説が妥当です。その理由として、
二世紀後半、遼東遼西の豪族・公孫康が建安年中(196〜220年)に韓・わいを撃ち、楽浪郡の属県屯有県(現在地不明)以南の荒地を割いて新しく設置したのが帯方郡である。楽浪郡治は王険城にあり、現在のピョンヤン(平襄)付近である。地図で分かるように、ピョンヤンと沙里院は非常に近い距離にある。帯方郡をわざわざ楽浪郡から分けたのに、帯方郡治と楽浪郡治がこんなに近ければ、郡を分けた意味がない。また、ピョンヤンと沙里院は共に大同江の流域に属し、地勢的に見てもおかしい。
この当時の郡の太守という役職は割合に交代が多く、会社で言えば支店長に相当す る。また郡の太守は土着の豪族が任命されることもあるが、通常は中央から派遣されていた。仮に静岡市内の墓から発掘された墓志に「・・・会社の仙台支店長を務めた、云々」 との文章があっても、この墓地が仙台市とは言えない。
従って、帯方太守を務めた張撫夷の墓から役職名が入った 「帯方太守張撫夷」 の文字が発見されても、その地が張撫夷と何らかの関係が推定されるだけで、郡治の証明には直結しない。
魏志韓伝は、韓国を 「方四千里」 と記す。帯方郡治が沙里院であれば、韓国は南北に広くなり、「南北七千里、東西四千里」であって、「方四千里」 との表現は適切でない。
2 狗邪韓国の位置
通説では、狗邪韓国は釜山〜金海付近、すなわち伽耶地方また金官伽耶国と言われています。
ところが、狗邪韓国=巨済島説も一部に出されています。しかし巨済島説は特に根拠があるわけではなく、単に朝鮮海峡を越えて対馬島へ渡海するのに最も近いという理由だけです。
拙著のシミュレーションでは、狗邪韓国について釜山〜金海説と巨済島説のどちらが正解か計算結果は五分五分で、巨済島説有利とはなりませんでした。しかし倭人伝の里程日程の原作者の帯方郡使または交易商人が倭国へ行く目的は、最短距離ではなく、途中の重要な国々の狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末盧国を順次見ていくことにありました。従って、最短距離との理由だけでは狗邪韓国=巨済島説は成立せず、通説のように釜山〜金海付近とするのが妥当です。
ただし、朝鮮半島と対馬島の間の朝鮮海峡を流れる対馬暖流は、南西から東北の方向で海峡を通過します。昭和50年に角川文庫の角川春樹氏後援で下関商船大学ボート部が行った『野生号』の実験から明らかなように、釜山から対馬まで直線的に船を人力で漕ぐことは海流に逆らい、現実には不可能です。
したがって、倭人伝の実際の航路は、狗邪韓国の釜山付近から海岸沿いに巨済島付近まで一旦戻り、そこから海流に乗り対馬島を目指して一気に渡海したのでありましょう。
3 対馬島の「方可四百余里」、壱岐島の「方可三百里」
拙著の里程・行路シミュレーションでは、対馬島の 「方可四百余里」 ・壱岐島の 「方可三百里」 を計算の対象から外しております。その理由は以下の2点です。
里程日程の原作者の帯方郡使または交易商人は、現実に踏破した博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国までの行路を、全て里数表示の断定文としている。ところが、対馬島・壱岐島は 「方可」 と推定文である。これは原作者が対馬島・壱岐島の数値に自信を持っていない証拠で、数値の信頼性が大幅に落ちる。
対馬島の現実は南北70キロ東西12〜13キロの長方形、また壱岐島は直径約13キロのほぼ円形であって、「方」との表現は島の形状を意味しているのではない。
「方可四百余里」「方可三百里」 とは、島の大きさ=面積を述べたものであって、 島の周囲の距離でもない。すなわち、対馬島の面積は400余里×400余里=16〜18万平方里、壱岐島は300里×300里=9万平方里と、原作者は対馬島の面積を壱岐島の約2倍と推定したのである(ただし、実際には約5倍であるが、原作者の自信の無さを考えればやむを得ない)。
ところで、島の面積を述べた数値から周囲の距離を計算するのは、数学的には全く意味がない。たとえば、一辺が10メートルの正方形の周囲は40メートルで 面積は100平方メートルである。ところが長方形では面積が同じ100平方メートルでも、周囲の距離は40メートル超から無限大までとなり、数値を一定できない。
たとえば、長さ100メートル・幅1メートルの長方形の面積は100平方メートルだが、周囲の距離は202メートルとなる。また長さ1000メートル・ 幅10センチメートルの長方形の面積も100平方メートルだが、周囲の長さは2000メートル20センチとなる。
従って、「四百余里」 「三百里」 と対馬・壱岐島の現実の周囲距離の比較により、 1里あたりのメートル数=里度を割り出す計算は意味がない。
4 距離の測定方法
距離の測定方法は、特定地点から特定地点への旅程距離表示と、国土や島の面積(領域)を示す為に使用する距離表示(例えば、先ほどの対馬島の「方400里」・壱岐島の「方300里」)では考え方が違います。これを図を使って説明すると、
旅程を示す距離(特定地点〜特定地点)
旅程距離は、例えばA→Bの距離を2,000里と表現した場合、原則として曲線の「道のり距離」であって、直線距離では有りません。
ケースTは障害物が全く無い場合で、A→Bの2,000里は直線距離の表示です。一方、ケースUは山・川・湾などの障害物が有る場合で、曲線の「道のり距離」です。現実の旅程では完全な直線距離はまず有り得ず、ケースUの「道のり距離」が原則です。これを地図上の距離と比較するには、キルビメーター(ペン先でなぞり、地図上の距離を測定する工具)や製図用コンパス(またはデバイダー)を使用して、おおまかな「道のり距離」を図上測定することになります。拙著での<倭人伝の里程・行路シュミレーション>でも、当然、以上の考え方で計算しています。
面積(領域)を示す為に使用する距離
面積(領域)は、例えばA国を「方500里」と表示した場合の「500里」は直線距離で(ちなみに面積は500×500=250,000平方里)、またB国を「東西5,000里」「南北3,000里」と表示した場合の「5,000里」「3,000里」も直線距離です。これは、人工衛星や航空写真を使う現代でも、測量技術が未熟な古代でも、精度の問題は別として、考え方は同じです。
拙著での倭国領域の「東西5月行」「南北3月行」も、倭人の短日での「直線距離5ヶ月=150日」「直線距離3ヶ月=90日」の考え方で計算しています。
5 魏志倭人伝の長里説と短里説
魏志倭人伝を含む『三国志』に出現する里数は、「魏志倭人伝」「魏志韓伝」のみ『短里』(80〜100メートル)で残りは全て『長里』(434メートル)、というのが従来の通説でありました。これに対し、古田武彦氏は<三国志を貫く短里>、逆に山尾幸久氏は<三国志を貫く長里>を主張しています。この問題は拙著でも色々吟味していますが、ここでは簡単に触れておきます。
(1)従来の通説
先程のシュミレーションでは倭人伝は1里=85〜90メートルと、通常の魏里434メートルと比較して約1/5です。この現実の地理との比較から、通説は「倭人伝は短里」または「倭人伝の里数は5倍の誇張」または「比率妥当性を持つ」、としてきました。
また魏志韓伝は、韓地を帯方郡の南に広がる「方4000余里」と記載しています。現実の韓地は一辺300〜360キロメートルのやや菱形の方形で、これを計算すると1里=75〜90メートルの短里となります。このことから、「倭人伝」「韓伝」は次表の通常の里度(これを長里と称す)と違い、「短里表示」とするのが通説です。
(2)三国志を貫く短里説
古田氏(邪馬台国博多湾岸説)は、三国志での里数表示159個を全て抜き出し検証すると、短里で統一されているとします。更に、魏晋朝は古代周王朝への復古主義が強く、周王朝での短里を踏襲した「魏晋朝短里制度」の可能性にも言及しています。しかし、
1「三国志を貫く短里」は誤りで、山尾幸久氏・安本美典氏・白崎昭一郎氏・佐藤鉄章氏からの批判を例示すると、
1 揚子江中流の『赤壁の戦い(208年)』で呉・蜀連合軍が魏の大軍を撃破する直前のことだが、魏の曹操は「長坂の戦い」で精鋭の騎馬軍5,000騎で敗走する蜀の劉備玄徳軍を急追した。この時、騎馬軍は「一日一夜」で300里を走破している。この「300里」を短里で計算すると22〜23キロ、長里では130〜140キロとなる。しかし、スポーツのマラソンでも徒歩2時間で40キロが可能である。ましてや、戦場を精鋭の騎馬軍がまる一昼夜を駆け抜けてたった22〜23キロとは考えられない。従って、ここでの「300里」は長里で記載されている。
2 呉の虞翻は呉王・孫策から「君はどうして馬が無いのか?」と聞かれて、「私は健脚です。一日に200里は歩行可能です、兵卒で私に及ぶ者はいません」と答えた。試しに孫策が馬を走らせたら、虞翻は能く徒歩でついていった。この「200里」も短里で16キロ、長里では88キロとなる。戦前の軍隊での完全装備による強行軍では一日60キロが常識であったから、虞翻ほどの勇者なら88キロは平気だったはずだ。短里での16キロなら、小学校2、3年生の歩行標準でしかない。従って、この「200里」も長里での記載である。
2 三国志は陳寿による「創作活動」と「編集」のミックス
古田氏の出発点は、「同一人物(陳寿)が二通りの里度(長里、短里)を用いて正史たるべき三国志を書くはずが無い」「一つの本の中に二種類の『里』単位が同居しているとしたら、奇々怪々だ」、とする。しかし、現実には奇々怪々な「二種類の里度」が三国志で混在している。三国志は、同一人物が最初から最後まで書く小説とは違う。三国志の特色は、さまざまな原作者の原史料を陳寿が『編集』した要素と、陳寿による『創作活動』の追加である。すなわち、三国志は陳寿による『創作活動』と『編集』のミックスである。三国志は「韓伝」「倭人伝」以外はほとんど長里で記載されているが、仮に魏晋朝が「短里制度」を採用していたとしても、短里・長里が混在していると判断するのが妥当である。要するに、三国志には立場が違う原作者が多数存在しーーー例えば時代の違い(後漢と魏晋朝)、王朝の違い(魏・呉・蜀)、地域の違い(例えば韓・倭)により「違う里度」を採用していれば、複数の里度が三国志に混在するのは当然予想される。
(3)三国志を貫く長里説
山尾氏(邪馬台国畿内説)は、韓伝・倭人伝の里数が「ほぼ妥当な統一的比率を持ち、現実の地理からは4〜5倍」、「『短里』または『比率として妥当』で整合性を持ち、しかも帯方郡使の誇張では無い」と認めながらも、「しかし、韓伝・倭人伝も全て『長里』表示」とします。その根拠は以下の通り。
1 倭人伝の里数は魏里434メートルの実距離で、すべて「心理的事実」だ。狗奴韓国(金海)から末盧国(唐津)までの3,000里は約1,300キロだが、随分遠方と考えられていたと、ひとまず3世紀の中国人が理解したように理解すればよいのだ。
2 陳寿が実見した第一次史料(原史料)で、帯方郡使は郡から末盧までの船行を全て日数で報告し、陳寿がこれを里数に換算したのではないか。水行は日程、陸行は里程で示すのが、3世紀の中国人としては、ふさわしい。郡使らに、海上行程を里数で表わせるほどの経験的もしくは知識的前提があったとは考えにくい。
しかし、
1 朝鮮半島南岸の巨済島または釜山から対馬、対馬から壱岐、さらに壱岐から松浦半島は視界の中にある(肉眼で見える)。古代の航海にとって危険な渡海は、視界が良い気象条件の時が選ばれる。現実の地理で渡海の最短距離は、巨済島→対馬50キロ、対馬→壱岐48キロ、壱岐→唐津40キロである。第1次史料の原作者(帯方郡使または交易商人)は、朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜松浦半島を視界に中でとらえながら(肉眼で見ながら)渡海したであろう。このように、それぞれ40〜50キロの視界内の距離を、原作者が434キロ(長里での1000里)と10倍も大きく錯覚し、「随分遠方である」と判断した『心理的距離』とは考えられない。
2 倭人伝の海上行程の「水行」「渡海」「船行」記載は次の通り。仮に3世紀の中国人が海上航行を日数表示していたとすれば、上表の1〜8は全て日数で統一されていたことになる。しかるに、この第1次史料を実見した陳寿が12347のみ里数へ変更し、568の3箇所の日数表示をそのまま残したのであろうか。日数→里数と変換するなら全部変えたはずだ。従って、12347の里数は第1次史料で最初から里数表示で、陳寿の変換ではない。
以上のように、山尾氏の「三国志を貫く長里説」は成立しません。山尾氏には、古田氏と同様に「同一人物(陳寿)が二通りの里度(長里、短里)を用いて正史たるべき三国志を書くはずが無い」、との思い込みが前提にあるのかも知れません。
(4)仮称「帯方郡短里度」
以上のように、「三国志を貫く短里」「三国志を貫く長里」は共に成立せず、通説のように「倭人伝・韓伝のみ短里で残りは長里」とするのが妥当です。拙著では、この韓伝・倭人伝に表れる短里を、朝鮮半島南部で地域的に行われた里度として、仮称「帯方郡短里度」と名付けました。シュミレーションによれば、この「帯方郡短里度」は1里=85〜90メートルとなります。なお、地理学者の藤田元春氏は著書『上代日支交通史の研究』(昭和18年)で魏志倭人伝の道里について、「魏略時代に書記された多くの倭韓の里は、古周尺の尺度」としています。更に言えば、三国志は韓伝・倭人伝以外は基本的に「長里」ですが、一部には「短里」の可能性があります。これと関連して上記の「古周尺での短里」について、谷本茂氏が論じる『周髀算経』があります。これは中国最古の天文算術書で、紀元前12世紀の周時代に行われた天文観測法を記載しています。
『周髀算経』では、測量方法の「一寸千里の法」が説明され、長さ8尺の棒を夏至の日に地上に垂直に立てた時の影の長さが、南北に「千里離れた2地点」で「一寸の差」が出る、と言うのです。この「一寸の影の長さの差」をもたらす「千里」を、球体としての地球上の距離として理論計算すると、約76〜77キロメートルとなります。すなわち、『周髀算経』では「1里=76〜77メートル」の短里を採用していることが分かります。
また、安本美典氏は『史記』・『荀子』・『韓文公』に表れる「一日に千里を行く馬」を引用して、次のように述べています。
『「一日に千里を行く馬」が、足の早い馬の代名詞のように用いられている。これは、実測とは無関係に生まれた言葉であろうか。・・・・「一日に千里を行く馬」も、かっては実際とあい実感をもって用いられていたものが、後には一つの熟語として、単に足の早い馬の代名詞のように用いられた可能性がある。古い時代に中国あるいはその周辺で、地域的に、あるいは特定の時代に、あるいは特定の測定対象のために、あるいは特定の職業の人々によって、さまざまなモノサシが行われた可能性がある。「里」にも「長里」と「短里」があり、天文観測のためとか、馬の速度をはかる場合とか、博労(伯楽)のような特定の職業によってとか、ある一部の地域においてとか、ある状況のもとで「短里」が用いられていたのではなかろうか』
以上の安本氏の論証は示唆に富むもので、今後の更なる検証課題と言えます。 
1.8 倭人伝の方向の論理

 

佐賀県唐津(末慮国)から福岡県糸島郡三雲(伊都国)について、倭人伝は「東南」と記していますが、現実の地理と比較すると、60〜70度の方向誤認があることは明らかです。
そこで私は、倭人伝の倭国関係のすべての方向記述17ヶ所(韓国沿岸水行の乍南乍東を除く)の方向座標軸を65度修正しました。その結果、四大国の位置関係を含めて、すべての方向記述の整合性を成し得ました。
従来の有力説は、どれ一つとして方向の論理に一貫性がありませんでした。たとえば筑後山門および御井説は、方向記述は基本的には正しいとしながらも、邪馬台国への途中(北)にあるべき投馬国を実際の地理では南の宮崎県に比定しています。また畿内大和説では、女王国(邪馬台国)の東の海を渡った「倭種の国々」また「侏儒国」「裸国・黒歯国」の方向に合理的な説明が出来ません。
私の新説ではすべての方向記述の整合性を得ていますが、これは言葉で言うより実際の地図で見ると一目瞭然です。拙著では方向問題について多数の地図を掲載しておりますが、ここでは幾つかの例を示しておきます。
(1)末慮国→伊都国への「東南」
倭人伝は末慮国(唐津)から伊都国(糸島郡三雲)を東南と記しています。ところが現実の地理では東北東であって、上の地図で分かるように60〜70度の方向座標軸の狂いがあります。呼子上陸説があるが、これは誤りです。呼子港は山が海に迫る入江で後背の平地も無く、漁港・緊急避難港・中継港で、倭人伝の四千余戸の末慮国の中心ではありません。倭人伝の「東南」とは、末慮国の中心の唐津から糸島郡三雲(伊都国)への方向記述です。
唐津湾の地形を見ると、唐津と糸島半島は20キロ足らずの視界内にあり、地形誤認はないはずだから、方向座標軸の誤認です。倭人伝の方向記述を検討する場合、視界内かどうかはきわめて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の誤認なのです。
(2)伊都国・奴国・不弥国(博多湾岸)→投馬国への「南」、および邪馬台国への「南」
上の地図から分かるように、方向座標軸を65度修正すれば、博多湾岸(伊都国など)から見て、防府(投馬国)および中津・宇佐(邪馬台国)は「南」の範囲となります。
(3)女王国(邪馬台連合)→狗奴国の「南」
上の地図から分かるように、方向座標軸を65度修正すれば、邪馬台連合諸国から見て、狗奴国(南九州)が「南」ということになります。
これは、九州の地勢的特徴によります。九州は南北に九州山地が走り、鹿児島・宮崎両県の南九州(狗奴国)は、その東または南に位置しているからです。
(4)投馬国は邪馬台国の「以北」
倭人伝の記載によれば、投馬国は邪馬台国への旅程の途中であり、かつ邪馬台国より「以北」に位置していたと理解されています。上の地図から分かるように、投馬国を山口県防府付近とし方向座標軸を65度修正すれば、邪馬台国の北に位置するとする倭人伝記述を無理なく理解できます。
この投馬国の位置・方向問題は、邪馬台国九州説の難問とされてきましたが、筆者の新説で見事に解明できます。
なお倭人伝には「女王国より以北」が2ヶ所出現します。倭人伝での「女王国」には広狭二義があり、広義には倭国=邪馬台連合、狭義には倭国の首都・邪馬台国です。「女王国より以北」の場合は、邪馬台国そのものを意味します。
(5)倭国は「会稽東治の東」「帯方の東南」
上の地図から分かるように、博多付近を中心として日本列島を65度回転させると、倭国(日本列島)が帯方郡の東南で、かつ会稽郡の東に位置することは明らかです。
(6)「倭種の国々」「侏儒国」「裸国・黒歯国」への方向
倭人伝によると、女王国の東の海を渡る千余里に倭種に国々があるという。上の地図で分かるように、方向座標軸を65度修正しても、愛媛県西部(倭種の国々)が豊後(女王国の一部)の東に当たります。
また侏儒国は倭種の国々の南とされています。上の地図で明らかなように、高知県西部(侏儒国)は愛媛県西部(倭種の国々)のまさに南に位置します。
倭人伝には侏儒国に続き、「又、裸国・黒歯国有り。復た其の東南に在り。船行一年で至る可し」、とあります。ここでの「復た其の」の「其の」とは侏儒国を指しており、裸国・黒歯国は侏儒国から見て「東南」方向ということです。距離の「船行一年」は起点が省略されていますが、侏儒国の場合と同様に女王国(具体的には首都の邪馬台国)からとの意味です。「船行一年」とは倭人からの伝聞で、具体的には倭人の「二倍年歴」による「1年=半年=6ヶ月」で至るのは近畿から名古屋・東海地方の銅鐸文明圏の国々です。
(7)奴国および不弥国の位置・方向
伊都国を三雲遺跡また奴国を須玖遺跡とし、方向座標軸を65度修正すると、上図のように倭人伝の「東南」の記事と整合します。また不弥国を宇美町とし、方向座標軸を65度修正すると、これも上図のように倭人伝の「東」と整合します。ただし、これには問題があります。伊都国を三雲遺跡、奴国を須玖遺跡、不弥国を宇美町としましたが、現在まで発掘されている遺跡は墳墓で、王宮そのものではありません。従って、常識的には遺跡から3〜5キロメートル以内が王都でしょう。三雲遺跡付近には平原遺跡や井原鑓溝遺跡などが狭い範囲で密集しており、伊都国の王都がこのあたりであったことは間違いありません。また、宇美町は地形的に狭い範囲ですので、これも問題ないと思われます。問題は奴国の王都です。
現実の地理では、三雲〜須玖は18〜19キロと100里(8〜9キロ)というより、むしろ200里です。須玖〜宇美は7〜8キロで、「100里」との記載は問題ありません。倭人伝の「100里」は四捨五入の関係では「50里以上〜100里〜150里未満」で、1里=85〜90メートルで計算すると4,250〜8,750〜13,500メートル、すなわち4.3〜8.8〜13.5キロと、中心値8.8キロに対し最大50%の乖離となります。これに対し「全12,000里」は11、500〜12,000〜12,500里と、誤差が4%以内となります。このように、短距離の2地点間の距離・方向は、2地点がよほど正確に特定されないと難しくなります。
伊都〜奴「100里」(現実の三雲〜須玖は17〜18キロ)、および奴〜不弥「100里」(現実の須玖〜宇美は7〜8キロ)の合計200里は実際の地理では(17〜18キロ)+(7〜8キロ)=24〜26キロです。これと、200里の理論値すなわち(100里=4.3〜8.8〜13.5キロ)×2倍=8.6〜17.6〜27.0キロと比較すると、ほぼ整合します。そうすると、奴国の王都は春日市の須玖遺跡よりも福岡市内に入ったやや伊都国寄りと判断するのが妥当かも知れません。
なお、不弥(フヤまたはフミ)国は宇美(ウミ)説が音韻の類似から最も有力ですが、穂波説・香椎説・新宮説・津屋崎説もあります。穂波説は、方向65度修正から外れる(上図参照)ことと、距離も倭人伝の「100里」(8〜9キロ相当)に対し現実の地理は約28〜30キロ(山越えになるので実際はもう少し距離があるか)と乖離が大き過ぎます。また、邪馬台国畿内大和説では投馬国への「水行20日」の起点となる不弥国を玄界灘に面した津屋崎とする説が多いが、これも奴国(須玖遺跡付近)からは現実の距離が離れすぎています(上図参照)。
(8)対馬国・壱岐国の「南北に市テキ(交易)す」、対馬→壱岐の「南」
倭人伝には、対馬国のところで「良田無く海物を食して自活し、船に乗りて南北に市テキ(交易)す」、とあります。また壱岐国では「やや田地あるが、田を耕せども猶食するに足りず、また南北に市テキ(交易)す」、とあります。「市テキ」とは「交易」するとの意味ですが、ここでの「市テキ」とは対馬国や壱岐国の人々が朝鮮半島南部〜対馬〜壱岐〜九州北部にかけて船に乗り「南北に交易している」との記載です。例によって方向座標軸を65度修正すると、上図のように倭人伝記述と現実の地理は矛盾しません。
さらに、倭人伝は対馬→壱岐を「また南一海を渡る1,000余里」とし、「南」としています。これも上図のように、方向座標軸の65度修正と矛盾しません。 
1.9 方向誤認の理由

 

以上のように、拙著では倭人伝の全ての方向記事17ヶ所(韓国沿岸水行の乍南乍東を除く)について、方向座標軸を65度修正すれば、四大国(伊都・投馬・邪馬台・狗奴)を含む各国の位置関係が矛盾なく説明できることを示しました。それでは、なぜ60〜70度の方向誤認が起こったのかを以下で説明します。
(1)方向のまぎらわしさ
方向を示す場合、通常は四分法または八分法が使用されます。現代のような測量技術がなかった古代では四分法で言う場合が多く、『三国志』での方向記事2、237ヶ所中で八分法で記載されているのは、わずか40ヶ所にとどまります。
従って、倭人伝の 「東南、伊都国に至る」「東南、奴国に至る」「東南、裸国・黒歯国に至る」、との八分法は『三国志』でも珍しいと言えます。拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法または八分法のどちらで記載されているかを検討しました。
四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記すこともあるし、南と記すこともあります。一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので、四分法での「東」は実に150度(90+60度)の幅を持ちます。
太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時ごろでは太陽の位置がかなり違うということです。古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で今何時ごろかを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。
太陽が昇る方向を 「東」 とすれば方向誤認は起こすはずがない、という学者はざらにいますが、これは間違いです。季節により、また一日の中でも時刻により太陽の位置は大幅に変化します。
もともと方向というのは間違い易いものの一つで、方向音痴という言葉があるぐらいです。邪馬台国=畿内大和説者が、「後世にいたるまでまぎらわしい方角よりも、距離・日程、ことに日程が信用できる」と主張しているのは理由があるのです。
もちろん、内藤虎次郎氏の 「中国の古書では東と南、西と北は相兼ねるのが常例である」というのは言い過ぎですが、状況次第では東と南の90度近い誤認は有り得るのです。
邪馬台国=九州筑紫平野説者は、「方向は間違えるはずがない、南の記述は現実の地理でも南だ」 と主張し、邪馬台国と並ぶ大国の投馬国を邪馬台国より 「以南」の宮崎県に比定しています。しかし、投馬国は邪馬台国への旅程の途中であり、かつ邪馬台国より「以北」と倭人伝に明記されています。
この投馬国の位置問題は邪馬台国=筑紫平野説の致命的欠陥の一つです。また位置関係がほぼ確実な唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)への現実の方角は「東北東」 にもかかわらず、倭人伝は 「東南」 と記しており、60〜70度の方向誤認があります。この一点からしても、「倭人伝の南は現実の地理でも南だ」 とは言えません。
(2)帯方郡使の九州上陸は夏の季節
拙著では、方向の論理について「地点と地点」・「地域と地域」を峻別し、倭人伝の17ヵ所の方向記事のそれぞれが、どちらにあたるかを検討しています。
すなわち、「末盧国から東南陸行500里で伊都国に至る」との旅程記事の「東南」は「特定地点と特定地点」、すなわち末盧国の中心から伊都国の中心までの特定方角を示します。一方、「狗奴国は邪馬台国の南」という記事は「地域と地域」を示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現しているものです。
また、拙著では視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と、視界外で起こる「地形誤認」による方向誤認を区別しました。
たとえば、唐津(末盧国)から唐津湾越しに糸島半島(伊都国)へは視界内なので地形誤認はありえず、これを「東南」(実際の地理では東北東)とするのは、方向座標軸に60〜70度の狂いがあることになります。
一方、中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とするのも60〜70度の方向誤認がありますが、中国から日本列島は視界外なので「地形誤認」による方向誤認です。すなわち、会稽郡から実際の「東」を指差して倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には存在しない、ということです。
さて、唐津(末盧国)に上陸した帯方郡使が唐津湾越しに視界内の糸島半島の付け根にある伊都国を東南と判断したのは、60〜70度の方向座標軸の狂いがあることになります。倭人伝の方向記事を検討する場合、視界内かどうかは極めて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の狂いによるものです。
この唐津から糸島半島への方向誤認は、帯方郡使が九州に上陸した季節に関係がありそうです。さきほど述べたように、太陽が出る場所は夏至と冬至では約60度違います。もし、帯方郡使が夏至近くに九州に上陸して太陽の出る方角を東としたら、実際の東は「東南」と表示され、逆に冬の最中に上陸したら、実際の東は「東北」と表示されます。
仮に帯方郡使が夏至のころ唐津(末盧国)に上陸したとすると、次図のように夏至のころは太陽は糸島半島から昇ってきますので、糸島半島の付け根の三雲(伊都国)を東南と判断した可能性が高いのです。
倭人伝には九州上陸地点の末盧国のところで、「倭の水人、好んで魚・アワビを捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る」とあります。北部九州でアワビを採るのは八月中旬までです。それ以降になると海にはクラゲが出て皮膚を刺すからです。同じく末盧国の陸路を「草木茂盛し、行くに前人を見ず」というのも夏の光景です。
もう一つ、古代の航海は気温・水温が低い晩秋から早春、とくに冬期は避けたものです。また、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は、真夏が最も弱く航海の安全に適しています。
以上のように、倭人伝の描写および航海の安全から見て、帯方郡使の九州上陸は盛夏であった可能性が強く、これが方向誤認を起こした理由の一つです。
(3)中国人の日本列島についての地形誤認
中国大陸および朝鮮半島から見た日本列島の位置について、歴代の中国正史および他の漢籍は、全て朝鮮半島の「東南」としています。
すなわち、日本列島に最初に言及した漢書(紀元82年作)は単に「楽浪海中」と方向を明示していませんが、その後は三国志魏志倭人伝(280年代作:帯方の東南)、後漢書(五世紀前半作:韓の東南)、宋書(488年作:高麗の東南)、南斉書(510年頃作:帯方の東南)、隋書(636年作:百済新羅の東南)、晋書(646年作:帯方の東南)、北史(659年作:百済新羅の東南)、翰苑(660年作:韓帯方楽浪の東南)、通典(801年作:帯方百済新羅の東南)、旧唐書(946年作:新羅の東南)、唐会要(961年作:新羅の東南)、新唐書(1060年作:新羅の東南)としています。
ところが、現実には朝鮮半島の東南は九州および西中国だけで、日本列島全体(九州〜関東〜北海道)は朝鮮半島の東または東北東に位置します。これは次図『大陸側から見た日本列島「会稽東治の東」「帯方の東南」』から分かるように、60〜70度の方向誤認があります。
以上のように、中国側は歴史的に一貫して日本列島の位置について、60〜70度の方向誤認をしてきたのです。
一方、1402年に朝鮮で世界地図として作成された『混一彊理歴代国都之図』(この地図はヨーロッパやアフリカまで描写しているが、日本を南北に長い列島と配置している。以下、混一彊理図と省略)を根拠として、古代中国では日本列島が朝鮮半島から台湾近くまで南北に連なっていると誤認していた、という有力説があります。この場合、現実の日本列島からは約135度の方向誤認となります。しかし、この説は誤りです。
混一彊理図は、室賀信夫氏(畿内大和説)が昭和31年に論文「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」で畿内説の根拠として紹介した龍谷大学所蔵のもので、教科書にも載っており有名です。この地図では日本が朝鮮半島の南に南北に連なる列島として配置されています。このことから、古代中国では日本を朝鮮半島の南に南北に連なる列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和が妥当としてきました。ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基図(飛鳥〜奈良時代の僧侶・行基――生没668〜749年が作成した地図)を合成した世界地図である。ごく最近、長崎県島原市本光寺で同じ混一彊理図(混一彊理歴代国都地図との題名で、龍谷大学所蔵図とは一字の違いがあります)が発見され、それでは日本列島は東西に正しく配置されています。従来の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのではないか、と推測されているのが昨今の状況です。
なお、混一彊理図は以上の他にも天理図書館所蔵図及び熊本県本妙寺所蔵図が有り、これらでも日本列島はほぼ正しく配置されています。
このように、龍谷大学所蔵の混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れ、評価が一変しているのが最近の状況です。だいたい、1402年と言えば邪馬台国から1000年以上も新しい。邪馬台国から1000年以上も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本来ナンセンスであります。
長崎県島原市本光寺所蔵の『混一彊理歴代国都地図』(日本は東西列島として正しく描かれている)
室賀信夫氏が畿内説の根拠として紹介した龍谷大学の『混一彊理歴代国都之図』(原図は本光寺図と同様に世界地図であるが、室賀氏はごく一部を抜き出している)
行基図(14世紀初頭の百科全書『拾芥抄』に収録されるもので、江戸時代初期までは日本地図のスタンダード)
また、中国正史25書のうち日本を南北に細長い列島と記述するのは一書として存在しません。逆に、隋書(636年作)、北史(659年作)、通典(801年作)、旧唐書倭国伝(946年作)、新唐書(1060年作)は、日本を「東西五月行」「南北三月行」と東西に細長い島国として記述しています。また、旧唐書日本伝(946年作)、宋史(1345年作)は「東西南北、各数千里」とし、日本が南北列島との認識はありません。すなわち、中国側の日本列島の認識は歴史的にほぼ一貫して「朝鮮半島の東南に連なる東西列島」せいぜい「東南列島」であって、決して「南北列島」ではありません。
なお、「会稽東治」について三国志版本は「東治」とするのに対し、後漢書は「東冶」と記しています。 後漢書の「東冶」とは台湾対岸の福建省東冶(先ほどの地図参照)と言われ、この後漢書を根拠として、古代中国人は日本列島が台湾付近まで南北に延びていると誤認していた、との説がありますが、この説も誤りです。
すなわち、「東冶」とするのは以下のように後漢書・晋書・翰苑の三書に過ぎません。
後漢書の成立は5世紀前半で三国志の成立(280年代)より遅く、後漢書倭伝は三国志魏志倭人伝を参考としながらも、誤った改変を加えたことは、多くの識者が指摘しています。「東治」→「東冶」と改変したのもその一つです。魏志倭人伝は「その風俗・・・たん耳・朱崖(今の海南島)と同じ」「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」、と南方風に記述していますが、陳寿は倭国が緯度的に海南島と同じ北緯度に位置すると見なしたわけではなく、「会稽東治の東」の方向と認識していたのです(ただし、それでも南へ60〜70度の方向誤認があります)。
ところが、この魏志倭人伝を参考とした後漢書の編者・范曄(はんよう)は、魏志倭人伝の南方風描写と「南へと南への里程日程記事」から、倭国は福建省東冶の対岸の台湾東方に位置すると判断し、「会稽東治」→「会稽東冶」と改変したのです。なお、晋書・翰苑の「会稽東冶」は後漢書をそのまま踏襲しただけです。
しかし、それ以外は、この三国志「東治」と後漢書「東冶」の関係を不審とし、梁書・隋書・北史は単に「会稽」、通典は「会稽間川」、その他漢籍は「会稽」との文字すら削除してしまったのです。
以上から言えることは、「東治」「東冶」「間川」にこだわるのは危険で、共通するのは「会稽」ということだけです。福建省「東冶」は永安三年(260年)以降は分郡で会稽郡から離れ建安郡に属したので、各時代に共通する「会稽」の概念から外れています。この各時代に共通する「会稽」とは、会稽山(揚子江下流の上海付近)を中心とする会稽郡のことで、古代中国では日本列島を会稽山の東方海上に位置するとして、60〜70度の方向誤認をしていたのが大勢です。

以上のように、私の新説による邪馬台国=東九州大分県中津・宇佐(豊前)説は、倭人伝の里程日程、方向の論理および四大国の位置関係と完全な整合性が可能となります。
豊前中津・宇佐地方は、考古学的にも早く文化の発達していたと認められること、また宇佐のあたりが奈良時代までかなり神秘視された特異な地帯でありました。さらに地名比定からしても、中津・宇佐地方には「耶馬渓」「山国」「山国川」「山戸(ヤマト)」があります。
宇佐地方にもかなり古くから「ヤマト」 の地名があったことは、古文書からも確認できると富来隆氏(豊前宇佐説)は指摘しています。すなわち、宇佐八幡の社家の永弘家文書には鎌倉中期の弘長三年に向野郷「山戸」、また小山田家文書には南北朝時代の康永・正平、さらに応安年間の三通に 「ヤマト」 あるいは 「大和」 と記されています。
考古学的に見れば、銅剣・銅鉾文化圏は壱岐・対馬から北部九州、さらには本州の西中国地方および四国に及んでいます。邪馬台連合国家はこの銅剣・銅鉾文化圏の中核を形成していました。
卑弥呼の首都邪馬台国は、大分県中津から宇佐にかけての中津平野に位置し、古代の行政区域では豊前に属します。中津・宇佐から福岡県京都郡にかけての豊前地方は、筑紫地方と並んで銅剣・銅鉾文化圏の中核を形成し、地理的にも関門海峡を制しまた日本の地中海と言われる瀬戸内海に面して、この文化圏のほぼ中央に位置します。
考古学から邪馬台国を探す場合、その候補地は「考古学的に見て、3世紀当時は相当発達しており、邪馬台国と比定してもおかしくない」、必要があります。しかし、「3世紀の日本で、考古学的に最も発達しており中心である」との必然性はありません。倭人伝には「倭国が乱れ相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす。名づけて卑弥呼と言う」、とあります。すなわち、邪馬台国は軍事力・経済力で諸国を圧倒して統合したのではありません。逆に、諸国はドングリの背比べで決着がつかず、宗教的呪術力を持つ卑弥呼が倭国王に祭り上げられたのです。
このような宗教的権威者の所在地は、3世紀の倭国の経済文化の中心地と一致するとは限りません。従って、「考古学的には、3世紀の倭国で最も発達した地域は博多湾岸(三雲遺跡など)→邪馬台国は博多湾岸」、とする説は短絡です。
更に言えば、現在の考古学会が遺跡・遺物の出土分布を都道府県別に区分しているのも問題です。それによれば、福岡県と大分県では遺跡・遺物の出土分布は福岡県がより濃密です。しかし、古来の行政区分の豊前地方は明治時代に山国川をはさんで北部は福岡県、南部は大分県と真っ二つに分割されています。例えば、現在は福岡県に属する北九州市、行橋市、豊前市や京都郡は江戸時代までは豊前の領域でありました。従って、古代の遺跡・遺物の分布を検討する場合、福岡県・大分県の比較より、筑前・筑後・豊前・豊後の比較がより妥当性があります。
例えば、古鏡の研究で知られる樋口隆康氏(邪馬台国畿内大和説)が3〜4世紀初の「古墳発生期の鏡」と題して鏡が出土した府県別の古墳・遺跡の分布数は次の通りとなっています(平成8年に福岡で開催された古代史文化フォーラム「三角縁神獣鏡と邪馬台国」で発表された資料)。
この古墳・遺跡分布では福岡県は41箇所、大分県は2箇所です。ところが、福岡県の41箇所のうち昔の豊前に属するのが17箇所もあります。そうすると、昔の行政区分で分類し直すと、筑前・筑後が24箇所に対し豊前は19箇所となり遜色ない数値となります。
また、考古学者で別府大学教授の賀川光夫氏などの調査によれば、宇佐市内の遺蹟総数は333ヵ所、そのうち古墳は156ヵ所もあります。さらに明治末期、場所は宇佐からだいぶ離れるが、日豊本線の工事のさいに、行橋〜新田原の間、約4キロの間に60あまりの古墳が取り潰されています。また昔、この線を汽車で旅行したときには、古墳の群にさえぎられて海が見えなかったという話も未だに伝えられています。
平成13〜14年にかけて、山国川下流域の福岡県築上郡大平村の唐原地区遺跡群で、大環濠集落が発掘され佐賀県吉野ヶ里遺跡、壱岐島の原の辻遺跡に次ぐ規模を持つことが確認されています。これは、国道10号線の建設に伴い一部が発掘調査され、竪穴居住群、水田跡、甕棺、石棺墓、ガラス玉、鉄製品、内行花文鏡片などが出土していますが、全貌はまだ明らかではありません。この地域は大分県中津市からは山国川をはさんだ対岸で、私が邪馬台国と想定する領域(中津平野を中心とする豊前地方)の一部です。
さらに宇佐には謎の神社とされる宇佐神宮があり、この宇佐神宮が建つ亀山は古墳というのが地元では常識とのことです。なお宇佐神宮については、のちほど詳述します。以上のように、豊前中津・宇佐地方は考古学的にも地名比定からしても、邪馬台国の資格を十分に備えております。 
2 倭女王卑弥呼

 

2.1 卑弥呼の墓と古墳問題
邪馬台国従来説で、卑弥呼の墓を具体的に提示しているのは豊前宇佐説のみです。九州説の中で、筑後山門説・筑後御井説・筑前甘木説・筑前博多説・肥後山門説は、どれ一つとして卑弥呼の墓を提示していません。
また畿内大和説も、卑弥呼の墓を提示していません。唯一、言われているのは箸墓古墳です。しかし、考古学的には否定されます。箸墓古墳は従来は3世紀末から4世紀前半の築造と言われておりました。
平成7年2月、奈良県立橿原考古学研究所は箸墓古墳の前方部周辺で出土した土器類から同古墳は3世紀後半の築造と発表しました。しかし、これとても卑弥呼が死去した3世紀前半には届きません。すなわち畿内大和説は、卑弥呼の墓を具体的に提示出来ないのです。奈良県桜井市の箸墓は全長280メートルの初期の巨大前方後円墳で、古事記・日本書紀では崇神天皇の大伯母の倭トトヒ百襲姫の墓とされています。徳島県脇山中学の教師で後に徳島大学教授となった笠井新也氏が、大正13年に論文「卑弥呼即ち倭トトヒ百襲姫命」で箸墓を卑弥呼の墓と唱えて以来、畿内大和説では最近までこれに従う論者が多かったのは事実です。しかし、箸墓は卑弥呼とは年代が合いません。
畿内説の牙城であった橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており(台与の墓とか台与の後の男王の墓と言っている)、最近は完全にトーンダウンしています。従って、畿内説は卑弥呼の墓を新たに見つける必要があります。例えば、橿原考古学研究所の寺沢薫氏は共著「最新邪馬台国事情」(平成10年)などで箸墓築造を280〜300年とし、「箸墓=卑弥呼の墓」説を否定した上で、台与の後の男王の墓としています。また、橿原考古学研究所を経て徳島文理大学教授の石野博信氏は著書「邪馬台国の考古学」(平成13年)で箸墓を270年頃の築造と推定し、「箸墓=卑弥呼の墓」説を否定しています。
一方、橿原考古学研究所調査研究部長の河上邦彦氏は箸墓を卑弥呼の墓としています。しかし、河上氏は「箸墓は当初は円墳」「箸墓を卑弥呼の墓と信じたい」と発言されるだけで、明確な根拠は示されていない。なお、箸墓は当初は円墳(円丘)で後に前方部が付け加えられて「前方後円墳」になった、との説は以前からありました。しかし、最近の発掘調査で最初から前方後円墳として築造され、「当初は円墳」は「トンデモ説」であることが明らかになっています。このような「トンデモ説」が真面目に議論されて来たこと自体が不思議です。
箸墓古墳について平成8年出版の拙著では、
古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、精度に決定的落差がある。
古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。
今回の土師器(はじき)の大量の破片は箸墓そのものからではなく、周辺の溝やその外側の堤状の盛土から出土している。古墳の周辺から、それよりも古い時代の遺物が出土することはいくらでも有りうる。例えば、箸墓の築造時に盛土をするため周辺の土地を掘り返した際に出土した古い土器類をまとめて埋めたことも考えられる。従って、墳丘の外部から出土した土器類のみから古墳の築造年代を断定するのは危険である、と指摘しました。
ところで、平成10年の纏向遺跡第109次発掘調査で、箸墓の周濠から木製の輪鐙(あぶみ=乗馬の時の足掛け)も出土していました。その時は話題になりませんでしたが、平成13年に桜井市教育委員会がこの鐙を4世紀初頭の物と発表してから問題となっています。鐙自体は三国時代(220〜280年)の後に西晋王朝が中国を統一した時代(280〜316年)に発明され邪馬台国より時代が新しく、記紀の記録でも日本で馬の使用は早くても4世紀後半です。中国の北方民族(匈奴など)は乗馬が得意で鐙は使用しませんが、不得意な漢民族は乗馬の道具として発明したとされます。今回箸墓周濠から出土した鐙はかなり使いこなされた痕が残っており、4世紀末〜5世紀の物と判断すべきです。
1958年、中国・湖南省長沙市で永寧2年(302年)と記された磚(セン=かわら)があった墓の中から陶製の騎馬俑(よう=人形)が多数出土し、その中で3騎だけ鐙がついていました。明確な年代が分る鐙では最も古いもので、これにより通説は鐙が西晋時代に発明されたとします。また、1974年に河南省安陽県孝民屯の西晋墓より1組の馬具が出土し、これには鐙がついていた。一方、1992年発行の『中国古代の服飾研究』には、雲南省晋寧県の「石寨山出土の銅製騎馬像」の写真が前漢代として紹介され「鐙らしきもの」が写っていますが、1写真が不鮮明で本当に鐙かどうか不明。また同時に紹介されている騎馬画像(壁画)には明らかに鐙は無い、2石寨山出土騎馬像の実年代は明確ではない、3平成17年に大阪の国立国際美術館で開催された「中国国宝展」に同じ石寨山出土の騎馬像が展示されたが、鐙は無かった。更に、41992年発行の『中国古代の生活史』が紹介する2世紀の後漢時代の銅製騎馬像には鐙が無い。
以上を総合すると、1鐙の発明は通説の西晋時代とするのが現段階では妥当。ただし、それよりも更に遡る可能性は皆無ではないが、その場合でも一般的に普及しているような状況ではない、2何より問題なのは、魏志倭人伝に「倭地には牛・馬は無し」と明記された3世紀前半に、大陸から馬と鐙が渡来し中国にも無い(有ったとしても一般的で無い)鐙が日本で「使いこなされる」状況ではない、3日本で馬具が出土した古墳は1,000基を超えるが、全て5世紀以降の築造である。仮に箸墓周濠から発見された鐙が邪馬台国時代とすれば、5世紀以降の多数の古墳から出土した馬具とは150年以上の空白期間となる。これは箸墓を卑弥呼の墓(247または248年頃の築造)とするからで、従来通説のように箸墓築造を3世紀末〜4世紀前半とすれば、5世紀の出土馬具と連続し不自然でなくなる。
こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です。従って、卑弥呼の墓でも台与の墓でもありません。「箸墓=台与の墓」説は、1台与と倭トトヒ百襲姫の関係(人物像はかけ離れている)、2卑弥呼が記紀での誰に相当するか(該当する女性像は見当たらない)、3卑弥呼の墓はどれか(現段階では全く不明)、の説明が必要です。
これに対し、豊前宇佐説では応神天皇・ヒメ大神・神功皇后を祭る宇佐神宮の建つ亀山を卑弥呼の墓としています。すなわち、亀山は本来は自然の独立丘陵ですが、北麓の菱形池を掘った土で亀山の山上の直径70〜80メートル(径百余歩) の場所に手を加えて卑弥呼の墓が作られたのです(伝承では菱形池を掘った土で亀山を築いたとなっています)。また、西数丁の境外末社の「百体神社」の地に「奴婢百余人」が殉葬されたのです。
927年作の『延喜式』神名帳には「大帯姫(神功皇后)廟神社」と、「廟」の文字が使用されています。「廟」とは「みたまや」とか「もがりの宮」とかを意味するので、神功皇后の社殿は墓所の上に作られた可能性が強いのです。事実、宇佐神宮の改修が行われた明治40年と昭和8〜17年の二度にわたり石棺が目撃されているのです。また百体神社の地からは、甕棺が数個づつ数回にわたり出土しております。
豊前宇佐説では、第1殿(応神天皇)、第2殿(ヒメ大神)、第3殿(神功皇后)の中央に祭られるヒメ大神を卑弥呼としています。
ところで、私が邪馬台国に興味を持ち出してから40年以上が経過しますが、この間はどちらかといえば九州説が優勢で、拙著第T部「従来の邪馬台国論」でも九州説の検討が主眼で、畿内大和説には多くの紙数を割いておりません。
ところが最近、畿内大和説がまた復活してきています。たとえば、平成7年に橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表したこと、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向(まきむく)石塚古墳」の築造を3世紀初と発表したことです。これらは即、邪馬台国畿内大和説の有力な根拠として、新聞紙上などで大きく報道されております。
しかし、私は今回の箸墓古墳・纏向石塚古墳について、最近の考古学会があまりに安易に畿内大和の古墳の築造年代を古く古く設定しようとしているのは気がかりです。意識的無意識的に邪馬台国畿内大和説に結び付けようとしているからと考えられます。これは、考古学で同志社大学名誉教授の森浩一氏や邪馬台国に詳しい産業能率大学教授だった安本美典氏なども指摘されておられます。
また纏向石塚古墳は、前方後円墳かどうかも実は判然としないのです(橿原考古学研究所に有る江戸時代に描かれた絵図では円墳です、また古墳かどうかも怪しいと言う人もいます)。埋葬施設、人骨、副葬品は何も出土しておりません。この石塚古墳は、第2次大戦中に防空施設として高射砲陣地が築かれた時に削られていますが何も出土しておりません。そのような状況下で、古墳の丘陵と周辺から出土した土器類と木片類のみで3世紀前半〜中頃の築造と判定して、畿内大和説の根拠とするのは非常に危険です。
従来の考古学で、古墳の編年(年代推定)は墳丘内部の埋葬施設・人骨・副葬品などを確認し、更に墳丘の形体や大きさを加味して年代を判断してきました。また、埋葬施設の外の墳丘や周濠から出土した土器・木片のみで古墳の年代特定をすることは、従来の考古学では行われておりませんでした。これに対して、最近はあまりに乱暴過ぎるし、また短絡的です。仮に、あなたの家の庭から1000年前の土器や木片が出土した場合、あなたの家が1000年前に建築されたと主張しますか?
例の箸墓古墳についても、畿内大和説の考古学者の間ですら、築造時期について3世紀後半から4世紀中頃と100年近くの幅で様々に分かれています。それほどに古墳の年代特定は難しいのです。それゆえに拙著では、「古墳問題は邪馬台国位置論には中立」としたのです。
私は今回の拙著で、主に魏志倭人伝、特に里程・日程・方向記事と現実の日本列島の地理・地形との比較検討により、邪馬台国=中津・宇佐(豊前)との結論となりました。私は考古学には暗いため、古墳問題について今回の拙著ではあまり論じておりませんが、宇佐神宮の建つ亀山を卑弥呼の墓と推定しております。
森浩一氏は、中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳ではないと言われています。卑弥呼の「径百余歩の冢」についても、魏の薄葬にならい、自然の丘陵を利用して頂上部分に手を加えたのではないかと推定されています。
卑弥呼と台与は魏に使節を派遣し、この使節は首都・洛陽まで行っています。この当時の魏は徹底した薄葬で、曹操などの墓は山林や自然の丘陵を利用して頂上部分に手を加えて造られたものです(曹操の墓は未だ発見されていないが、魏王朝は墓の築造に関して、自然の丘陵などを利用して薄葬にせよとの命令を出している)。
倭国に帰国した使節は、中国の技術・文化と共に墓制についても倭国に持ち帰ったと考えられます。つまり、卑弥呼の墓は魏の墓制の影響を受けた可能性が極めて大であります。宇佐神宮の建つ亀山はこれにぴったりで、百体神社とセットになり邪馬台国宇佐説の非常な強みです。
亀山古墳説について
宇佐神宮の建つ亀山が古墳というのは地元では常識です。しかし、在野の考古学者で伊都国遺跡発掘で知られる原田大六氏(畿内大和説)は著書『卑弥呼の墓』(昭和52年)でこれを否定しています。その理由は、1亀山に第2次大戦時の防空壕が残っているが、山丘をえぐった痕は生々しく地層は歴然と露呈しており、明らかに自然の地山である(次図参照)、2もし亀山が前方後円墳としたら、仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵に次ぐ第4位の巨大古墳になる。伝承では北麓の菱形池を掘った土を盛ったことになっているが、菱形池の大きさでは地下100メートルも掘らない限り亀山を築けない、3この亀山は古くは「菱形小椋山」と言い、地形図から判断すると菱形であって前方後円墳ではない、4亀山は標高12メートル線で南北240メートル、標高20メートルでも170メートル、東西では標高11メートル線で350メートルも有り、倭人伝の「径100余歩」とは甚だしい違いである。
しかし、1防空壕は亀山の下半部にある。初期古墳では自然の丘陵を利用して、これに一部人工的に土を盛った場合も多いので、防空壕の地層問題が亀山古墳説を否定することにはならない、2昭和15年頃、現在の拝殿前の広場が拡張された際に山上から数メートル掘り下げられたが、土の中から性質の違う玉石や角石が無数発見され、これは菱形池を掘った土で行われ亀山は自然の独立丘陵の山上部分に人工的盛土を行ったと推定される、3倭人伝は卑弥呼の墓を「径100余歩の冢」とし、前方後円墳とは記載されていない。むしろ森浩一氏が指摘するように前方後円墳で無い可能性がある。従って、亀山が古墳かどうかが重要で、前方後円墳は卑弥呼の墓の決定要件では無い、4『八幡宮本紀』はこの亀山の周囲を390余歩と記載している。そうすると、円周率で割ると直径は125歩となり倭人伝の「100余歩」と合致し、「100余歩」とは山上の人工的盛土の広さ(直径70〜80メートル)を表現したものである。
以上のように、亀山は古墳の可能性があり原田大六説は成立しません。
なお、亀山が卑弥呼の墓であれば、西400メートルにある「百体神社」は、倭人伝の「奴婢100余人の殉葬」と関係があると思われます。倭人伝には「径100余歩の冢」「100余人の殉葬」とセットで書かれ、これに対応して「亀山(卑弥呼の墓)」「百体神社」もセットです。
宇佐神宮の社伝によれば、養老4年(720年)に大和朝廷が隼人征伐を行い、この時に隼人の首級を持ち帰って百体神社の側の凶首塚に埋め、これが「百体神社」の名称の起源と言うことになっています。また、近くには百体古墳もあります。しかし、私の推理は次の通りです。
卑弥呼は狗奴国との戦争中または戦後すぐの247または248年に死去している。狗奴国は南九州の隼人(熊襲)で、「奴婢100余人の殉葬」とは狗奴国との戦争での捕虜100人を卑弥呼の墓(亀山)の近くに殉葬したと解釈することが出来る。そして、このことは伝承として後世に伝えられたと考えられる。一方、養老4年の隼人征伐と隼人の首級多数を持ち帰って埋葬したのも史実と思われる。
そして、「狗奴国の捕虜(隼人)100人の殉葬」と「養老4年の隼人の首級多数の埋葬」の二つの伝承が合体して、現在の社伝が形成されたのではなかろうか。
木材の年輪年代測定法
木材の年輪年代測定法は、アメリカの太陽物理学者のA・E・ダグラス氏が20世紀初頭に開発し、遺跡から出土した木材や木造建築物や木製品の年輪を測定して出土木材や木造建築物や木製品の年代を決定するもので、欧米では一般化している科学的手法です。ただこの手法は、あらかじめ用意したサンプルとなる木材の生育条件となる気候が安定していること、またサンプルが大量に存在することが条件となっています。ところが、日本は高温多湿また地形が複雑なため、この手法の適用は難しいとされ、従来は見向きもされませんでした。
近年、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が日本での適用に挑戦し、独自の手法を開発したとされます。その結果、池上曽根遺跡、纏向石塚古墳、纏向勝山古墳、また法隆寺五重塔のヒノキ材の年輪鑑定により、築造年代がそれぞれ約100年も定説より繰り上がることとなりました。このことは、従来の考古学また古代史学会全体を揺るがしつつあります。マスコミはセンセーショナルに報道していますが、光谷氏の年輪年代測定法が「科学的に正しい」ことが前提となっています。しかし、本当に日本でも正しいのか?――「科学的」という言葉に惑わされてはいけません。
1 大阪府の池上曽根遺跡は、1世紀中頃の遺跡とされてきた。しかし、年輪年代測定法により神殿の柱のヒノキ材は伐採は紀元前52年と鑑定され、従来の通説より100年も繰り上がった。
2 初期古墳とされる石塚古墳の周濠から発見されたヒノキの木片は、年輪測定により3世紀初頭の伐採と鑑定された。石塚古墳は3世紀末〜4世紀初頭の築造というのが、従来の通説であった。しかし、これも100年も繰り上がることとなった。同様に、勝山古墳の築造は、3世紀末〜4世紀初というのが従来の通説であった。しかし、周濠から発見されたヒノキ材を年輪測定法で鑑定した結果、3世紀初頭の伐採とされた。これにより、勝山古墳の築造は、やはり100年も繰り上がった。
いわゆる古墳時代の開始(定型化された高塚古墳、具体的には前方後円墳の発生時期)は、従来通説では3世紀末〜4世紀初とされてきた。従って、初期古墳の石塚、勝山古墳の築造は3世紀末〜4世紀初とされ、また箸墓古墳は3世紀末〜4世紀前半の築造とされてきた。ところが、年輪年代測定法により、これらが一斉に約100年も繰り上がり、畿内大和説で奈良大学教授の白石太一郎氏は箸墓は250年頃の築造で卑弥呼の墓とする。このように、年輪年代測定法は邪馬台国畿内大和説を強力に後押ししている。
3 世界最古の木造建築物の法隆寺五重塔の建立が、7世紀末〜8世紀初頭というのは、日本書紀などの記録により動かし難い。しかし、五重塔の芯柱(ヒノキ材)は、年輪測定法により594年の伐採とされた。これも、年輪測定法を信じる限り、五重塔の建立は100年も繰り上がることとなった。
法隆寺は607年に聖徳太子により創建されたが、日本書紀によれば天智9年(670年)に「一屋余すところ無く全焼」し、通説では7世紀末〜8世紀初に再建されたと言われている。現存する五重塔が670年の焼失後の再建なのか、607年の創建当初なのか明治時代から「再建論争」があった。しかし、隣接する若草伽藍跡の発掘調査(昭和14年)により焼けた痕跡があったことなどから、若草伽藍が創建法隆寺で現存法隆寺は再建されたものと論争は決着している。また最近の平成16年には法隆寺南大門前で7世紀前半の高温で焼かれた壁画の破片が多数発見され、再建説を更に裏付けている。
年輪年代測定法による「法隆寺五重塔のヒノキ材は594年の伐採」は、定説となっている再建説を真っ向から否定している。「再建論争」をまた蒸し返すのだろうか。
以上の鑑定結果は、古代の土器・古墳・建造物の年代を、従来の通説より一斉に約100年も繰り上げることとなった。これは何を意味しているのか?
単純に考えれば、年輪年代測定法の測定のモノサシに100年の狂いがあると言うことだ。樹齢2000年以上のヒノキ材のサンプルが100本もあれば良いのかもしれない。しかし、そんなものは存在しない。実際には、異なるサンプルの年輪を繋ぎ合わせ重ね合わせながら、過去へ過去へと遡って標準年輪パターン(曲線)を作成する。
ところが、年輪と言うのは、もともと非常に似ており、年代の差異の判別は非常に微妙で難しい。この年輪を繋ぎ合わせ貼り合わせて、年輪年代の標準パターンを作成するのは、極めて困難な作業だ。日本のような高温多湿また地形が複雑な条件下では、この標準パターンの作成が難しいとされてきたのは、この年輪の微妙さによる。木材の年輪幅は樹木それぞれに個性があるので、多数の樹木を計測して標準曲線を求めていく。標準曲線は現在から過去に向かって、古い樹木試料を集め、計測した年輪幅を照らし合わせて伸ばしていく。そうした研究は、多くの樹木試料を集めることが必要だから誰でもできると言うわけではない。
しかも、この標準パターンは作成者の光谷氏以外は、誰も科学的妥当性を検証していない。『光谷氏が独自に開発したこの手法の基礎データは公開されておらず、チェックする同業者が一人もいない。自然科学の実験データや操作は互いにチェックし合う者がいないほど危ういものはない』(考古学者で橿原考古学研究所の寺沢薫氏)、『日本の年輪年代測定法は、信頼性の検証は難しく、結論を急ぐ必要はない』(東京大学名誉教授の太田博太郎氏)、『古い木材を転用しようにも法隆寺以前の時期に大和にそんな巨大な建物は無い。悩ましい問題が起きた』(京都教育大学教授の和田萃氏)、との批判は当然のことだ。
奈良朝以降の1200年ぐらいは、サンプルも多く、また樹齢1000年のヒノキも含まれるであろう。従って、奈良朝以降1200年ぐらいは、年輪の標準パターンを科学的手法として採用しても良い可能性がある。しかし、それ以前の古代(弥生・古墳時代)は話が全く別だ。樹齢2000年のヒノキのサンプルなど一本も存在しない。古代については、数少ないサンプルの年輪を繋ぎ合わせ張り合わせ作業時に、重ね合わせに100年の狂いが生じた可能性が強い。奈良朝以降の標準パターンによる木造建築物の建造年代が記録と一致したとしても、古代は話が全く別だ。年輪年代測定法の信頼性は、古代と奈良朝以降では、それほどの落差がある。
年輪年代測定法による遺跡の年代特定は,その他にも問題がある。
1 石塚古墳・勝山古墳のヒノキ材は、古墳内部からでなく、周辺の濠の底から発見された。古墳の周辺の遺物はさまざまな可能性があり(例えば後世に人が投げ込んだとか、洪水で流されてきたとか)、古墳の築造時期と直結させるのは極めて危険だ。だから従来の考古学では、古墳の周辺の遺物で築造時期を特定するのは避けてきた。これに対し、最近の考古学会は、あまりに短絡的だ。このようなずさんさが、平成12年に毎日新聞のスクープにより発覚し世間を騒がせた藤村新一氏『旧石器発見』捏造事件の遠因でもある。「日本の考古学は死んだ」「日本の考古学は20年は立ち直れまい」、と批判されているのも止むを得ないであろう。
2 池上曽根遺跡の神殿は、三度四度と建て直されていることが調査の結果で明らかになっている。伊勢神宮や藤原宮の例を挙げるまでもなく、再利用のない方が珍しい。従って、神殿の芯柱(ヒノキ)の側に投棄されていた土器は、芯柱の伐採時期とは100〜200年も狂う可能性がある。
3 勝山古墳の周濠のヒノキ材と同時に出土した「布留0式」土器の様式は、従来の説では3世紀後半(人により4世紀前半)とされており、『長年の研究で築き上げてきた年代観を否定する。木材の伐採年を古墳の築造年と考えるには、もっと慎重な検討が必要』、との批判もある。
以上、最近の石塚古墳、勝山古墳また法隆寺五重塔の問題は、光谷氏の年輪年代測定法を従来は支持してきた考古学者の間からも当惑の声が上がり始めています。日本での古墳の開始時期は、従来の通説では3世紀末〜4世紀初頭とされてきました。これを一挙に100年も繰り上げたのが年輪年代測定法です。これが邪馬台国問題に直結しています。年輪年代測定法のモノサシに100年の狂いがあれば、邪馬台国畿内大和説は崩壊します。
また、古材の再利用の可能性をこれだけ指摘されている現状では、年輪年代測定法から古墳の築造を従来通説より一斉に100年も古くするのは極めて問題です。畿内大和説の三大根拠の「箸墓」「三角縁神獣鏡」「混一彊理図」が空洞化しつつある状況下で、畿内説の救世主として登場したのが年輪年代測定法です。古墳時代の始まりを従来通説より100年も古く設定できれば畿内説の強力な根拠となるからです。
年輪年代測定法は、手法としては極めて科学的です。しかし、日本でも適用できるか特に古代(弥生、古墳時代)が問題です。年輪年代測定法はもともと日本での適用は難しいとされ、しかも基礎データが公開されず、光谷氏以外は誰も科学的妥当性を検証していません。こういう現状では、『ブラックボックス』から出た結論の伐採年は参考値に留まり、日本では『科学的』と言える段階ではありません。しかも、考古学の今までの通説とは100年も違います。これは、1年輪測定値は正しいが古材の使用例が多いのか、2年輪年代測定法のモノサシが古代は100年の狂いがあるのか、3今述べた12のミックスなのかを含めて、基礎データそのものから更なる検証が必要です。考古学会のみならず歴史学会全体にとって、基礎データの公開が切望されます。
以上のように、考古学会は古墳・土器の年代設定また年輪年代測定法を、一から見直すことを迫られているのが最新の状況です。 
2.2 古鏡問題

 

古鏡の本格的研究は、明治〜大正時代に京都大学教授の富岡謙蔵氏に始まります。その後、梅原末治氏、小林行雄氏、樋口隆康氏、岡村秀典氏など主に京都大学系の学者が「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」として畿内大和説を主張して来ました。
日本全国から500枚以上も出土している三角縁神獣鏡の中に「銅出徐州、師出洛陽」の銘文を持つ鏡があり、富岡謙蔵氏はこの銘文を中国製の根拠としました。また、昭和26年に大阪府和泉黄金塚古墳から「景初三年」銘の平縁神獣鏡(半三角縁神獣鏡・斜縁神獣鏡)、更に、昭和47年には島根県神原町の神原神社古墳から「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土しています。
卑弥呼は景初三年(239年)に魏王朝より銅鏡百枚を下賜されており、今述べた三角縁神獣鏡が、これに相当すると言われていました。すなわち、従来は三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、畿内大和説の有力な根拠とされてきました。しかし中国本土では1枚も出土していないことや、魏の元号が改正されて存在しない「景初四年」銘の鏡が出土したことから、最近は『三角縁神獣鏡は日本製』との見方が強まっています。
また拙著出版後の平成9年8月に、大阪府高槻市で「青龍三年(235年)」銘の方格規矩鏡が発見され、これも邪馬台国と結び付けて大きく報道されております。
しかし、この鏡が中国製か日本製か考古学者の間でも意見が分かれている、鏡は移動性があり、また伝世される場合も多いので卑弥呼時代に直接に高槻へ持ち込まれたと即断できない、この鏡が発見された安満宮山古墳は考古学的には4世紀以降の築造と見られていること、3世紀邪馬台国時代の日本列島は多数の国々が存在し、近畿地方の国々も瀬戸内海または日本海経由で鏡などを大陸から入手していたことも十分に考えられるので、邪馬台国と直接的に結び付けるのは危険である、同時に出土した斜縁二神二獣鏡などほかの二枚の鏡との組み合わせから見ても、この「青龍三年」鏡が卑弥呼の時代までさかのぼるか疑問である。
以上のように、今回の「青龍三年」鏡を邪馬台国の位置特定と早急に結びつけるのは危険です。
平成10年1月、奈良・黒塚古墳からの三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面あわせて34面の鏡の出土に関して、邪馬台国畿内大和説と関連してセンセーショナルに報道されております。しかし、この三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏王朝より下賜された「銅鏡百枚」ではなく、後世の日本製と考えるのが妥当です。
すなわち、まずもって、この三角縁神獣鏡という形式の鏡が中国本土や朝鮮半島から一枚も出土していないこと、また中国で鋳型も全く出土せず。更に、三角縁獣鏡の直径は平均約22センチで、魏晋朝当時の中国ではこれほど大きな神獣鏡は存在しない。
魏王朝の時代は徹底した薄葬で主に山林や自然の丘陵を利用したため、曹操などの墓は未だ発見されていない。そこで畿内大和説者(樋口隆康氏など)は、今後、魏王朝時代の墓が発見され て、そこから三角縁神獣鏡が発掘される可能性があるとする。しかし、この説は誤りである。
周知のように、鏡は製作された時とほぼ同時期に古墳に埋葬されることもあるし、50 年後、100年後、あるいは200年後に古墳に埋葬される場合も多い。魏王朝で三角縁神獣鏡が大量に生産されたとすると、次の晋王朝また南北朝時代の墓からすでに発見されているはずだ。大量に製作された鏡は、必ず後世の墳墓から発見されているからである。
魏の元号が改正されて存在しない「景初四年」銘の三角縁神獣鏡2枚が見つかっていること。これはすなわち、この三角縁獣鏡が魏年号の改元を知らなかった海外=日本で製作されたことを示している。
今回の出土でも同様であるが、埋葬の状態が三角縁神獣鏡は粗末に扱われており、親魏倭王として受領した「銅鏡百枚」の一部とは思えない。すなわち、今回の黒塚古墳でも棺内の被葬者の頭上に後漢鏡1枚(画文帯神獣鏡)が大事に添えられ、三角縁神獣鏡は棺の外に並べられている。
今回の黒塚古墳では、発掘の実務担当者のほとんど(河上邦彦氏、石野博信氏、菅野文則氏など)は、畿内大和説者でありながら、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとの見解を打ち出しているのは興味深い。埋葬の状態からして、卑弥呼が受領した大事な銅鏡100枚の一部とは思えない 、というのが実際に発掘した者の実感であろう。
三角縁神獣鏡を魏の鏡だと主張してきた人たちも、このごろの考古学の成果で動揺している。そこで、年号の入っている鏡だけは魏の鏡とみて間違いないという説も出てきた。
しかし、これもおかしい。この問題につき、考古学の森浩一氏は次のように述べている。
「たとえば、私(森浩一)が1951年に発掘した大阪の黄金塚古墳の景初三年銘の平縁神獣鏡。大きさ、文様などから三角縁神獣鏡と強く関係している鏡です。これは4世紀末ごろの古墳から出土した。景初三年は西暦239年や。ずいぶん年代の開きがある。しかも出土状況から、棺の外に立てかけられていたとみられる。魏の皇帝からの贈り物をそんなふうに扱うだろうか」−−−これも実際に発掘した者の実感であろう。
三角縁神獣鏡は全国から既に500枚以上が出土している。未出土のものや盗掘されて失われたものも入れると、おそらく1、000枚を軽く越えるであろう。卑弥呼が受領した「百枚」とは数が全く合わない。
卑弥呼・台与時代には中国に4回の遣使が行われたが、毎回100枚もらったとしても 400枚にしかならない。ましてや1000枚を超えるとなれば、中国魏王朝は十数回 も長期間に渡り三角縁神獣鏡を作り続けたことになり、中国本土からも出土しなければおかしい。
三角縁神獣鏡は、すべて4〜6世紀の古墳から出土しており、初期大和政権の時代の日本製と考えるのが妥当である。今回の黒塚古墳も考古学的には4世紀後半から末の築造とするのが大勢で、卑弥呼が死去した247〜248年とは100年以上の差がある。
以上の状況からすると、全国各地から出土している大量の三角縁神獣鏡は、神武東征(紀元300年前後)により成立した初期大和政権の4世紀前半に日本で製作されたものである。
中国の考古学者・王仲殊氏は「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」としており、これも一つの考えであろう。
また大和盆地には、鏡作神社(石見)、鏡作伊多神社(保津)、鏡作麻気神社(小坂)、 鏡作伊多神社(宮古)、鏡作坐天照御魂神社(八尾)などが鎮座している。これらの場所は明らかに鏡を作った集団が住居していたと考えられ、 三角縁神獣鏡は初期大和政権時代に、ここで製作されたと判断される。
三角縁神獣鏡には「銅出徐州、師出洛陽」の銘を持つのが約10枚あるが、これは一種の吉祥文字で、これをもって中国製と即断するのは危険である。中国でこの銘を持つ鏡は、遼寧省の魏晋墓から出土した方格規矩鏡ただ1枚で銘は単に「銅出徐州」となっている。しかし、三国時代の魏晋朝領域の徐州では銅は産出していない。徐州が銅の産出地として知られていたのは前漢・新・後漢時代のことである。漢時代の徐州の地域は三国時代よりも広く、 銅の産出地は三国時代では呉王朝の領域で首都・建業(南京)付近の「丹陽」「江都」「儀徴」である。後の東晋時代(318年〜)になると、銅の産出地の「江都」「儀徴」は再び徐州に組み入れられた。従って、三国時代の魏晋朝の領域の徐州からは銅は産出せず、東晋時代の徐州からは銅が産出したので、三角縁神獣鏡の「銅出徐州、師出洛陽」は後世のにせもの=偽ブランド(具体的には東晋時代に日本に渡来した呉の鏡職人の作品)ということになる。
三角縁神獣鏡は中国本土から一枚も出土していない。そこで畿内大和説は、 この500枚なり1、000枚を中国魏王朝が邪馬台国に繰り返し贈った特鋳品とする。 それでは、この中で「景初三年」「景初四年」という年号が入った鏡(紀年鏡)がわずか数枚しか無いのをどう説明するのであろうか。
もし中国王朝が特製したものならば、 特製ごとに全てに年号を入れるか、逆に全く入れないかのどちらかで、数枚だけに年号 を入れるはずがない。500枚が全て景初三〜四年頃に製作されたかは別として、景初三年銘の三角縁神獣鏡が本当に卑弥呼が受領したものならば、500枚の中で 「景初三年」 銘の枚数がもっと多いはずだ。
また魏王朝は、自らが使用していない年号の「景初四年」鏡の製作を鏡の工房に指示したのであろうか。
ということは、「景初三年」「景初四年」鏡は、4世紀前半の日本でもっともらしく古く見せるために偽作されたものと断定できる。
三角縁神獣鏡=魏王朝特鋳説は鏡の銘文からも否定されると、中国語・国語学の森博達氏は指摘している。すなわち、詩や銘は韻文であり、韻を踏むのが原則である。ところが三角縁神獣鏡には、魏ではすでに韻を踏まなくなった字を韻字として用いている銘文が少なくなく、押韻を誤った拙劣な銘文である。
魏鏡論者の最後のよりどころであった「景初三年」鏡(島根・神原神社古墳鏡など)の場合はさらに悲惨で、はなから韻文をつくるつもりがなかった拙劣な銘文だ。魏の時代は、 曹操父子を中心として詩壇が形成され 、「建安詩」「正始詩」として文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。魏の皇帝が卑弥呼を親魏倭王とした景初三年は、このような詩文隆盛の時代であった。
その時に魏皇帝は、卑弥呼に銅鏡百枚などを贈り、次のように詔した。「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。それゆえに丁重に汝に好物と贈与するのである」。この荘重な詔書とともに、「景初三年」 鏡などの拙劣な銘文をもつ三角縁神獣鏡を魏王朝が特別に鋳造して親魏倭王へ贈った、 などということは考えられない。
記紀神話の神武東征に象徴される九州勢力の東征は、後述のように紀元300年前後と私は考えている。そうすると、卑弥呼・台与時代の邪馬台国は九州ということになるが、三角縁神獣鏡と東征との関係をどう考えるべきであろうか。それは次の通りである。
王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」 の根拠として、出土銘文の 「絶地亡出」 「至海東」を挙げている。呉が滅び西晋王朝が中国を再び統一 したのは280年である。
中国江南の呉の地方から日本へ渡るには、華北・朝鮮半島経由であったことは間違いな い。呉と魏が交戦中の280年以前に呉の鏡職人が敵地の華北・朝鮮半島を通過して日本へ渡来することは考えられない。ということは、呉の鏡職人の日本への流入は280年以降ということになる。なお、王仲殊氏自身は呉の鏡職人の日本への渡来を3世紀前半とするが、この説は誤りである。
呉が280年に滅亡して、呉の鏡職人は政府(呉王朝)からの発注が途絶え大半の仕事を失う。呉の鏡職人は戦後の混乱期はしばらく様子を見ていたであろう。しかし、やはり 「メシが食えない」 ということで、鏡が大好き(好物)と聞く遠い日本(倭)への移住を決意したのであろう。そうすると、呉の鏡職人の日本への流入は290年頃から4世紀前半とするのが妥当である。
一方、九州勢力の東征は300年前後である。この300年前後とは、広くは280〜 310年、狭くは285〜305年と私は判断している。ということは、呉の鏡職人の渡来と九州勢力の東征は時期的に非常に近い。
すなわち、東征直後の290年から4世紀前半に渡来した呉の鏡職人は、初期大和政権の指示により大量の三角縁神獣鏡を製作し、着々と勢力を拡大した大和政権により全国に分与されたのである。
ただし、日本へ渡来した呉の鏡職人は、せいぜい数人から十数人の小規模であろう。そして森浩一氏が論じているように、渡来した呉の鏡職人と弥生の青銅器製作の技術を伝えた人々と一緒に三角縁神獣鏡を作ったのであろう。
また銅剣・銅鉾文化の象徴の一つの銅鏡は、九州勢力が東征に際し、それまで神宝として保存してきた後漢鏡などの相当数を畿内に持ち込んだと考えられる。そうすると、4 〜 5世紀の初期大和政権時代の近畿地方の古墳から多くの鏡が出土するのは、決して不思議ではない。
以上のように考えると、邪馬台国=九州説と三角縁神獣鏡問題は矛盾しない。そして邪馬台国=畿内大和説は、この三角縁神獣鏡を外すと、ほとんど根拠がなく、1:魏志倭人伝との数多くの矛盾、2:日本列島の現実の地勢との矛盾、3:記紀神話との矛盾(後述)、4:三角縁神獣鏡以外の考古学上の矛盾(後述)、からして成立しな いと考えられる。
すなわち、「景初三年鏡」「景初四年鏡」などの三角縁神獣鏡は、のちの初期大和政権時代に古い魏の年号を入れ、日本で大量に作ったと考えるのが妥当である。
わが国では、弥生時代から古墳時代にかけての鏡が、すでに4、000枚以上も出土している。ところが、年号の書かれた鏡(紀年鏡または年号鏡)は驚くほど少なく次の12枚だけである。
魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町?
呉の年号が記された鏡
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市
この表をみれば一目瞭然、1枚を除き西暦235〜244年の邪馬台国時代の10年間におさまっている。
ところが、これら12枚の紀年鏡や500枚近い三角縁神獣鏡は、すべて4〜6世紀の築造とされる古墳から出土しており、邪馬台国時代とは100年以上の開きがある。紀年鏡や三角縁神獣鏡は、すべて100年以上も伝世されてから古墳に埋められたであろうか。そんなことは考えられない。
邪馬台国の女王卑弥呼による中国魏王朝への遣使と銅鏡100枚などの受領は、古代の日中両国にとっても、有名な出来事であったはずだ。そうすると、3世紀の日本を代表する邪馬台国の「ヤマト」の名称を引き継いだ4世紀の初期大和政権時代に、古い魏の年号を入れ、畿内大和の鏡作神社(御神体は三角縁神獣鏡と言われる)の地などで大量に作られたと考えるのが自然である。
もう一つ、これらの紀年鏡が4世紀以降の作とする重大な証拠として、古田武彦氏が指摘している銘文の字体問題がある。安萬宮山古墳出土の「青龍三年(235年)」鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。この字体は4〜5世紀の中国北朝(北魏、東魏、西魏)時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。ということは、この鏡が4〜5世紀の作品であることを示している。
(ストローク表示でのサンプル表示。行書体そのものではない)――古田武彦氏による
この問題について、樋口隆康氏は「書体の専門家でないので分からない・・・・ノーコメント」と口を濁しており、現在までのところ畿内派からの有効な反論が無い。
従来の古器物・古書・美術品の真贋論争では、テレビ番組『なんでも鑑定団』ではないが、最終的に真作=本物として決着したもの、逆に偽物(にせもの)=後世の偽作と決着したのは、おそらく半々であろう。問題の三角縁神獣鏡は、偽物=後世の偽作とする数々の状況証拠がある。従って、三角縁神獣鏡=魏鏡=卑弥呼の鏡は、一つの仮説でしかない。そうすると、不安定なこの仮説を主な根拠とする邪馬台国畿内大和説も仮説に過ぎないこととなる。
そして邪馬台国畿内大和説が仮説であれば、多方面からの検証が必要である。そして、この場合の検証とは、1魏志倭人伝との整合性、2現実の日本列島の地勢との整合性、 3記紀神話との整合性、4三角縁神獣鏡以外の考古学の事実との整合性、5邪馬台国畿内大和説を基礎として古代統一国家形成を体系的に説明できること、である。
ところが、拙著および当ホームページで指摘しているように、邪馬台国畿内大和説は、 以上の1〜5を全く説明できない。ということは、前提とした三角縁神獣鏡=魏の鏡 =卑弥呼の鏡が誤りであることを示している。 
2.3 卑弥呼と宇佐神宮の祭神

 

そして最終的には、卑弥呼と宇佐神宮三祭神の応神天皇・比売(ヒメ)大神・神功皇后との関連を解明することにより、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神であり、宇佐神宮が卑弥呼の墓と断定が可能となるのです。
卑弥呼の読み方はヒミコまたはヒメコで、江戸時代から第2次大戦まではヒメコ=姫子=姫児と読まれていましたが、現在ではヒミコが一般的です。これは「弥」文字は通常は「ミ」と発音するからです。
しかし古文献の特殊な約束によれば、姫を意味するヒメの場合に限ってメ音を「弥」文字で表した事実があります。すなわち卑弥呼の「弥」文字は姫を意味するものとして「メ」と訓み、他の場合の「弥」文字は「ミ」と訓んで差し支え有りません。
このように卑弥呼=姫子=ヒメコとして、その意義と不可分の関係において「ヒメコ」と読むべきであります。
卑弥呼=天照大御神とすれば、卑弥呼(ヒメコ)=日女子(ヒメコ)であって、「太陽の女の子」との意味かも知れません。
すなわち拙著では、比売(ヒメ)大神=卑弥(ヒメ)大神=卑弥呼(ヒメコ)=姫子(ヒメコ)としましたが、姫子=ヒメコ=日女子であって、エジプトの王がファラオ(太陽の子)として君臨したように、卑弥呼も「太陽の女の子」すなわち天照大御神(天照大神)として君臨したのです。
日本書紀は天照大御神の誕生を、神代編の冒頭で次のように記しています。「イザナギ尊とイザナミ尊は共同(結婚)して日神を生む。大日靈貴(オオヒルメムチと読む)と号す。一書に云う、天照大神。また一書に云う、天照大日靈尊」。この内容からすると、天照大御神(天照大神)の本名は「オオヒルメムチ」で、天照大御神・天照大神すなわち「アマテラスオオミカミ」は通称です。(注)「靈」の下部は「巫」字を使用しましたが、日本書紀の原文は「女」でパソコンに文字がないため代用しました。
ところで、「大日靈貴」の「大(オオ)」は美称で、大日本帝国とか大英帝国の「大」と同じです。また、「大日靈貴」の「貴(ムチ)」は尊貴な人の意味で「・・・の尊(ミコト)」と同じです。そうすると、天照大御神(天照大神)の本名は「日靈」と言うことになりますが、この本名の「日靈」を日本書紀は「ヒルメ」と読ませています。ところが、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、現代語で言えば「日の靈」です。すなわち、本源的には「日靈」=「ヒメ」と言うことになります。この天照大御神の本名「ヒメ」が、宇佐神宮の「ヒメ大神」と同一人物と言うのが私の判断です。
卑弥呼を歴史上の誰に比定するかについては、記紀神話の天照大御神とする人が多い。たとえば明治の学者・白鳥庫吉氏は、邪馬台国の卑弥呼と高天原の天照大御神を比較して、次のように喝破しています。
「つらつら神典の文を案ずるに、大御神は素戔嗚尊の荒き振る舞いを怒りて、天の岩戸に隠れさせたまえり。このとき天地暗黒となりて、万神の声は狭蝿のごとく鳴りさやぎ、万妖ことごとく発りぬ。
ここにおいて八百万神たちは天安河原に神集いに集いて、 大御神を岩戸より引き出したてまつり、ついで素戔嗚尊を逐いやらしかば、天地照明となれり。ひるがえりて<魏志>の文を案ずるに、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無礼を怒りて、長くこれと争いしが、その暴力に耐えずして、ついに戦中に死せり。ここにおいて国中大乱となり、いちじ男子を立てて王となししが、国人これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺せり。
しかるにその後女王の宗女壱与を奉戴するに及んで、 国中の混乱いちじに治まれり。これはこれ地上に起これる歴史上の事実にして、かれは天上に起これる神典上の事蹟なれども、その状態の酷似すること、なんぴともこれを否認することあたわざるべし」
また哲学者の和辻哲郎氏も以下のように論じています。
「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神を祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治したありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって、人民を統治するありさまのようである。
また、天照大御神の岩戸隠れのさいには、天地暗黒となり、万神の声、さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没したのちにも、国内は大乱となった。天照大御神が、岩戸より出ると、天下は、もとの平和に帰った。倭王壱与の出現も、また、国内の大乱をしずめた。
天の安の河原においては、八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に、力をつくした。倭女王も、また武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに、衆に押されて王とせられた。
この一致は暗示の多いものである。たとえ、伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が、全然国民の心から、消失していたとは思えない。」
以来、市村其三郎氏・藤井英雄氏・和田清氏・林屋友次郎氏をはじめ、卑弥呼=天照大御神説を唱える人は枚挙にいとまがありません。最近でも、安本美典氏は古代天皇の在位年数が統計的にみて平均約10年であることから、過去をさかのぼると、卑弥呼=天照大御神になるとしています。
また、卑弥呼は紀元247年または248年に死去していますが、この247年と248年の2年連続に日本で皆既日食が起こったことが、最近、科学的に明らかとなりました。
そうすると、天照大御神の岩戸隠れのさいに天地暗黒になったとの記紀神話は、卑弥呼が死去した頃の皆既日食の反映であった可能性が強くなります。
このように考えると、1倭人伝の卑弥呼(ヒメコ)の「ヒメ」、2宇佐神宮主神のヒメ大神の「ヒメ」、3天照大御神の本名「日靈」の「ヒメ」、に共通する「ヒメ」は同一人物と判断するのが妥当です。即ち、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大御神(日靈=ヒメ)と言うことです。
邪馬台国=畿内大和説では、卑弥呼を箸墓の埋葬者とされる崇神天皇の大叔母の倭トトヒ百襲姫にあてる論者が多い。しかし、卑弥呼がもともと女王と倭人伝に明記され、また親魏倭王の金印まで受領している以上、 その該当者は当然女帝でなければならない。これを単なる皇女とするのは、女王としての卑弥呼の地位をほしいままに格下げしたものと言ってよい。
卑弥呼は魏志倭人伝のみに記載されているのではない。歴代中国正史および類書に頻出する著名な女帝であって、歴代日本国王(倭王)の中で最も海外に知られた存在である。このような人物を単なる皇女とするのは、本来は常識外れの考え方である。
記紀神話と魏志倭人伝を比較すれば、応神天皇以前で卑弥呼の人物像に該当するのが天照大御神であることは、誰しも容易に見当のつくことである。ところが畿内大和説者は、それでは困るのである。
卑弥呼=天照大御神を認めると天照大御神が3世紀の人物となり、五代後の神武天皇の東征に象徴される九州勢力の東征も認めざるを得なくなる。すなわち、卑弥呼=天照大御神を認めた瞬間に邪馬台国=九州説となってしまうからである。
百襲姫=卑弥呼説の唯一の根拠は、巫女的な性格が共通していることであるが、巫女的な皇女などは、極論すれば掃いて捨てるほど存在する。日本(倭)国王=天皇(女帝) とは全く異なる。また、卑弥呼は終生独身で倭人伝は「年は長大なるも夫婿なし」と記している。一方、記紀は百襲姫を「三輪山の大物主神の妻となる」と記しており、卑弥呼とは別人である。
この点では、日本書紀が神功皇后を3世紀邪馬台国時代に配置するとともに、倭人伝および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼らしく見せかけたのは、まだ話がわかる。
神功皇后は摂政であるが、69年間の天皇空位のままの摂政で、記紀での扱いは事実上の天皇(女帝)である。これに対し、百襲姫には女帝をイメージさせるものは何もない。
なお、神功皇后と卑弥呼の関係は後述する。
倭人伝によれば、3世紀前半の日本は邪馬台国の女王卑弥呼を盟主とする約30ヶ国が 邪馬台連合=倭国を形成し、これに対抗する勢力として南方の狗奴国が邪馬台連合と対立していた。狗奴国との戦争が激しくなると、卑弥呼は帯方郡に急を告げ、魏王朝は張政に黄幟(黄色の軍旗)を授けて倭国へ派遣するほどの状況であった。
ところが、記紀が述べる崇神天皇と百襲姫の時代は、これと全く異なる。崇神天皇は四道将軍を派遣して、まつろわぬ(反抗する)人々を平定したとあり、国内を二分するような戦争ではない。邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の男王の戦争は、記紀においては、天照大御神とスサノオ命 との対立・抗争として描かれている。
卑弥呼=百襲姫とすると、百襲姫と崇神天皇時代の大和朝廷=邪馬台国は瀬戸内海・中四国・九州・壱岐・対馬を支配していたことになる。それでは、なぜ崇神天皇は四道将軍を派遣して支配地域内の丹波地方や西国を平定する必要があるのか?歴史の真実は、東征直後の4世紀前半の崇神天皇時代の初期大和政権は、統一国家ではなく近畿を中心とする地方権力で、四道将軍を派遣して勢力拡大をつとめていた時期だったのである。
さて邪馬台国の卑弥呼と台与は、記紀神話では、それぞれ高天原の天照大御神、豊受大神に相当します。ただ実際には、卑弥呼と台与の人物像は統一されて天照大御神となり「天の岩屋戸」事件前が卑弥呼、事件後が台与となります。このため、豊受大神は名前だけが残ったのであります。
なお倭人伝は台与を卑弥呼の宗女とし、古事記は豊受大神を天照大御神の姪としています。台与=豊受大神とすれば、台与は卑弥呼の姪であった可能性が強いと考えられます。
ところが正史・日本書紀は、日本の建国を中国に劣らず古くするため、初代大帝神武天皇の即位を紀元前660年に設定しました。そして、神武天皇より古い時代の卑弥呼の実像は神代の天照大御神とし、三世紀邪馬台国時代に神功皇后を置いて卑弥呼らしく見せかけたのです。すなわち、神功皇后は卑弥呼の虚像です。このようにして、日本書紀は中国側歴史書との整合性を取ったのです。
すなわち、卑弥呼 + 台与 = 天照大御神 + 神功皇后
(実像:神代) (虚像:邪馬台国時代) となります。
日本書紀は、神功皇后の治世を201〜269年とすると共に魏志倭人伝・晋起居注を引用して、卑弥呼・台与の治世と推定した200〜270年頃との整合性を取っております。
そして、宇佐神宮の第二殿の比売大神は卑弥呼・台与の実像、また第三殿の神功皇后は卑弥呼・台与の虚像を祭ったものです。すなわち、
ヒメコ トヨヒメ
卑弥呼 + 台与 = 比売大神 + 神功皇后 となります。
(天照大御神) (豊受大神) (実像) (虚像)
さらに、第一殿の応神天皇は皇統に入り婿した新王朝の創始者で、記紀神話では神功皇后(卑弥呼・台与の虚像)と親子関係に設定して、邪馬台国の流れをくむ正統王朝の位置付けをし、邪馬台国=高天原の故地・宇佐に八幡神として祭ったのであります。
そして宇佐神宮と伊勢神宮は天皇家の二所宗廟とされ、769年の道鏡事件では伊勢神宮はまったく無視され、宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけました。また、天皇家は奈良時代以降1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしたことがないのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされました。
なお、宇佐神宮の主神・比売(ヒメ)大神は「宗像三女神の異名同体」だとする有力説があります。これと卑弥呼との関係をどう考えるべきでしょうか。しかし、この比売大神=宗像三女神説には古くから異論があることも良く知られています。
宇佐八幡宮の祭神については諸説多様であって、その帰するところを知らぬ有り様です。現在その第一殿が応神天皇、中央の第二殿がヒメ大神、第三殿が神功皇后を祀るものであることは周知の通りですが、問題となるのはヒメ大神で、以下の諸説があります。
1 太古よりの鎮座、地主神説
2 豊姫説
3 豊玉姫説
4 天照大御神説
5 天照大御神の御子説
6 宗像三女神の異名同体説
7 三女神説
8 玉依姫説
9 淀姫説
10 神功皇后説 
以上のように、ヒメ大神の神名は諸説とどまるところを知らず、謎の神社と言うことになっており、宗像三女神説は有力説の一つに過ぎません。
それでは、本来はヒメ大神=卑弥呼(ヒメコ)であったのが、なぜ後に宗像三女神の異名同体説が有力になったかを、歴史の経過を追って、以下で説明します。
247〜248年頃、卑弥呼が死去。そして亀山の地に「径百余歩の冢」を造って祭られた。すなわち、最初のヒメ大神は卑弥呼ただ一人で、このヒメ大神=卑弥呼(ヒメコ) が太古よりの鎮座説に該当する。
270年頃、台与が死去。日本書紀では神功皇后の崩御の269年に相当する。そして同じく亀山の地に豊姫または豊依姫として祭られた。この段階から、ヒメ大神=卑弥呼 +台与のイメージが生じた。
紀元300年前後に宇佐を含む九州勢力の東征により、卑弥呼・台与の神話が畿内大和に持ち込まれた。この東征の主人公は記紀では神武天皇となっているが、私は神武=崇神と考えている(後述)。
すなわち、畿内大和朝廷に卑弥呼・台与の神話を持ち込んだのは神武=崇神天皇であり、これが後に天照大御神に昇華した。崇神天皇は、天皇としてはじめて天照大御神を大殿に祭り、後に「倭の笠縫邑」に移した。そして次の垂仁天皇が更に伊勢神宮に移し、天照大御神(卑弥呼)と豊受大神(台与)を皇祖として祭っ た。
新王朝の創始者の応神天皇による日本統一および朝鮮進出の頃(後述)、天照大御神神話が逆に九州に持ち込まれた。ヒメ大神=天照大御神説が弱いのは、天照大御神との言葉は畿内大和朝廷で発生したのであって、邪馬台国の故地・宇佐では天照大御神との言葉が元来存在しなかったからである。
720年の日本書紀の成立を受けて、新王朝の応神王朝を正当化するため、卑弥呼が眠る宇佐の亀山に、725年に応神天皇が第一殿に祭られた。そして、応神天皇は母后の神功皇后(卑弥呼・台与の虚像)を通じて邪馬台国に結びつけられ、応神王朝は邪馬台国の流れをくむ正統王朝の位置づけがなされたのである。
その直後の731年に、今度はヒメ大神が第二殿に祭られた。ヒメ大神は太古より亀山に鎮座されていたが、応神天皇との関係で改めて正式に祭られたのである。そして、 応神天皇より一段と高い形式で祭ることにより、ヒメ大神に天皇より高い神格を朝廷は公式に認めたのである。
宇佐神宮第二殿(ヒメ大神)は、第一殿(応神天皇)と第三殿 (神功皇后)の間の中央に位置し、しかも第二殿は第一及び三殿より社殿が高い。
ここで重要な点は、731年の時点では第三殿は存在せず、約100年後の823年に第三殿が建立されて神功皇后が祭られたことである。
七世紀に成立した神功皇后物語により神功皇后は卑弥呼・台与の虚像かつ応神天皇の母后とされ、その後720年に日本書紀が完成する。これを受けて、725年に応神天皇が第一殿に祭られる。その直後の731年にヒメ大神が応神天皇との関係で第二殿に祭られたと言うことは、 731年時点でのヒメ大神は太古よりの卑弥呼・台与と、応神天皇の母后としての神功皇后の三人のイメージを帯びていた。
すなわち、731年時点でのヒメ大神の実際の祭神は三人の女神であって、
ヒメ大神=卑弥呼+台与+神功皇后=三女神、であった。
ところが日本書紀は神功皇后=卑弥呼・台与の虚像としたため、ヒメ大神=三女神=卑弥呼・台与・神功皇后との関係が混乱しはじめた。
そしてこのヒメ大神=卑弥呼・台与・神功皇后と言う三女神が、別の宗像三女神(多岐津姫・市杵嶋姫・多紀理姫)に徐々に変化して行った。この橋渡しをしたのが日本書紀の一書の「三女神を宇佐嶋に降り居さしむ、いま海北道中に在り」であろう。
これらの一連の流れの中で、神功皇后=卑弥呼・台与のイメージが定着し、また比売大神=宗像三女神の異名同体説が有力になった平安時代の823年に、神功皇后が改めて第三殿に祭られたのである。
以上、時系列的に分析しましたが、ヒメ大神の神名が諸説多様であって、まさに帰するところを知らぬ有り様が良く分かります。ヒメ大神の神名をグループに分けると一女神説・二女神説・三女神説となりますが、この混乱の中から玉依姫説・淀姫説も派生したのでありましょう。 
2.4 卑弥呼と神功皇后

 

いままで論証したように、卑弥呼=天照大御神と考えられます。ところが、日本書記は神功皇后が卑弥呼であるような書き方をしており、これをどう理解すべきでしょうか。この問題の解明なくしては、卑弥呼問題が完全に解決したとは言えません。
日本最古の官撰正史『日本書紀』は、編纂に約40年を費やしている。『日本書紀』天武天皇十年(681年)の条に、天皇が川島皇子以下12人の皇族貴族を大極殿に集め て、「帝紀と上古諸事の記定」を命じたとあり、これが『日本書紀』の編纂のスタートであろう。そして完成は、元正天皇の養老四年(720年)である。
この約40年間の編纂の過程で、舎人親王を中心とする編者たちが中国の歴史書に目を向けたのは当然である。日本書紀研究の第一人者の小島憲之氏によれば、日本書紀の本文は、 史記・漢書・後漢書・三国志魏志・三国志呉志・梁書・隋書・文選・芸文類聚・最勝王経・北堂書鈔から3、191字の章句を借用している。
さて、日本書紀の編纂にあたっては、初代大帝神武天皇と皇祖天照大御神をどう位置づけるかが最大のポイントであったことは言うまでもない。
ところが、数多くの漢籍を見た日本書紀の編者達は、漢籍に頻出する著名な女帝卑弥呼が、皇祖天照大御神の人物像と一致し、同一人物であると認識せざるを得なっかたのである。
ここで、日本書紀の編纂に重大な障害が生じた。
第一の障害は、卑弥呼=皇祖天照大御神とすると、天照大御神が3世紀の人物となる。 しかし日本建国を太古の時代と設定したい大和朝廷にとって、これは是認しがたいことであった。日本書紀は大和朝廷=天皇家による日本支配を正当化し、大和朝廷の起源と発展を国内外に知らしめ、また後世に残すために国家的事業として作られた歴史書である。
このような政治的意図にもとづき、日本建国を中国に劣らず古い時代に設定する必要から、初代人皇神武天皇の即位を、推古天皇九年辛酉(紀元601年)から1260年(1蔀=21元)を溯った紀元前660年とした。これは、古代中国の辛酉革命の思想にもとづいたと言うのが、明治時代の学者・那珂通世氏以来の学会の常識であろう。
このように、神武天皇の即位を紀元前660年に設定すると、皇祖天照大御神すなわち卑弥呼は、それ以前の人としなければならない。ところが三国志をはじめとする中国側歴史書には卑弥呼・邪馬台が頻出し、卑弥呼が3世紀の女帝であることが歴然としている。このように、中国側であまりに有名な女帝卑弥呼を無視できず、日本書紀の作成にあたっては、中国側歴史書との整合性を意識せざるを得なくなったのである。
第二の障害は、卑弥呼と中国魏王朝との地位関係である。
卑弥呼は日本神話・伝承では皇祖天照大御神として、神聖不可侵の存在であった。ところが魏志倭人伝は卑弥呼と魏王朝を対等の関係に扱っていない。もちろん、3世紀邪馬台国時代の倭国は中国魏王朝の従属国ではなかった。卑弥呼は魏王朝から親魏倭王に制せられている。これは、同時代に中央アジアからインドにまたがる大国の大月氏の国王波調が、同じく明帝より230年に授与された親魏大月氏王と同格であって、倭国は実質的には魏王朝の友好国であった。
しかし魏の皇帝から卑弥呼への詔書は、中国の天子が臣下に与える内容で、たとえば卑弥呼を「汝」と呼び捨てにするのが13ヶ所も出現する。また、「是れ汝の忠孝にして我甚だ汝を哀れむ」 「勉めて孝順を為せ」 「国家の汝を哀れむを知らしむべし」 「汝に好物を賜うなり」とある。このような表現は、対等な国家間の国書とは到底言いがたい。
このことを後の7〜8世紀の日中関係と比較すると大きな差がある。
たとえば、聖徳太子が607年に隋の煬帝に送った国書の 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」 の表現は全く対等である。また663年の朝鮮・白村江の戦いでは唐帝国と正面から戦戈を交えている。つまり7〜8世紀の大和朝廷にとっては、日本と中国はまったく対等との意識であって、このような状況下で日本書紀が編纂されたのである。
従って、卑弥呼が親魏倭王に制せられ魏の友好国としても、日本書紀の編者すなわち大和朝廷は、卑弥呼・邪馬台国を正面から認めることが出来なかった。以上の二点の障害から、日本書紀の編者は邪馬台国・卑弥呼の取り扱いに苦慮したと推定される。
日本書紀はこれをどう解決したのか。
そこで考案されたのが架空の人物 「神功皇后」である。天照大御神の実体は卑弥呼・台与であるが、これを実像とすれば、日本書紀はこの実像を神武天皇以前−−−−すなわち紀元前660年以前の神代に送った。さらに虚像・神功皇后を3世紀邪馬台国時代に設定するとともに、神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけて、中国側歴史書と年代の整合性をとったのである。
もう一つ注目すべき点は、日本書紀は神功皇后をあくまで皇后とし、天皇(女帝)とは扱っていないことである。神功皇后は仲哀天皇の皇后であったが、仲哀天皇の崩御後2 01年に摂政となり269年まで続く。この69年間は天皇空位の神功による摂政の時代である。従って、神功を第15代の天皇とする学説があるくらいである。
しかし、日本書紀は神功をあえて天皇としなかった。その理由は何か。日本書紀は神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけようとした。しかし、神功を第15代天皇の女帝と設定すると、後世の歴史家が神功と卑弥呼・台与を完全な同一人物と断定する危険性が生じる。その場合は、第15代神功天皇が中国魏王朝に臣従していたことになる。このよう な事態を避けるため、日本書紀の編者は二つの細工をした。
一つ目の細工は、日本書紀は神功紀に魏志と晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との表現を一切避けて、単に年代を合わせるにとどめたことである。そして神功皇后の人物像と治績は卑弥呼・台与とまったく異なる。このようにしておけば、神功が卑弥呼・台与であるような無いような微妙になって、あいまいにしておけるからである。
日本書紀は、神功皇后が卑弥呼・台与とは断定していない。また魏志および晋起居注を引用しながら、卑弥呼・台与・邪馬台国との文字を一切使用していない。ここに秘密が隠されている。
二つ目の細工は、神功を天皇とはせず、あえて皇后にとどめ、後世の歴史家がまんいち神功=卑弥呼・台与と断定しても、日本の最高指導者・天皇は中国に臣従していない、との伏線を張ったのである。
日本書紀の編者は、後世の歴史家が神功紀と魏志などの漢籍を比較考証することを想定 していたと考えられる。そのため、神功皇后の人物像と治績を卑弥呼・台与とは全く異なるものとし、神功皇后=卑弥呼・台与と断定出来ないようにした。そうすると、 卑弥呼・台与は時代こそ神功皇后と同じ3世紀でも神功皇后とは別人で、それこそ九州の女酋が中国魏王朝に臣従していたことになり、大和朝廷の権威を守ることができる。本居宣長氏をはじめ、後世の歴史家はみな、日本書紀の編者の術中に陥っている。
「天皇家による大和朝廷は、中国の歴代王朝に決して臣従していない、対等の関係である」 というのは、日本書紀をつらぬく根本思想である。すなわち、「大和朝廷が中国の歴代王朝に臣従していたという過去の事実関係は認めない」 、ということである。
この根本思想は、後に述べる倭の五王問題でも重大な役割をはたしている。
仲哀天皇に皇后がいたことは当然であろう。そして、この皇后を仮に 「神功皇后」 と 呼ぶとすれば、その意味では実在の人物である。仲哀天皇が朝鮮出兵を指揮するため、 また熊襲を征伐するために長門および九州へ下向した際、この神功皇后が同行したことは考えられる。
また、このいわゆる神功皇后が相当な女傑であって、政治外交面で仲哀天皇を補佐していたことも考えられる。従って、神功皇后像の多少の種は存在したであろう。しかし日本書紀が語る神功皇后像の本質は、1:69年間の天皇空位のままの摂政、2:時の最高権力者でありながら、また応神を出産する間際でありながら、さらには夫の仲哀天皇の喪中でありながら、みずから200キロの海を越えて朝鮮出兵したこと、3:神功紀に魏志および晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与に見せかけていること、−−−−以上の三点であって、これらの観点からすれば、神功皇后は架空の人物ということである。
すなわち神功皇后の実体は、仲哀天皇の皇后という実像の上から、卑弥呼・台与の虚像の半透明膜を覆いかぶせたものである。 
3.古代統一国家の形成

 

3.1 邪馬台国と高天原
卑弥呼=天照大御神とすると、必然的に邪馬台国=高天原となり、この高天原は北部九州から山口県にかけての邪馬台連合国家のことで、いわば九州王朝とも言うべきでしょう。そして葦原中国とは出雲王朝を意味する場合が多いのです。
記紀神話では、「卑弥呼─台与」を正統王朝として基軸にすえて天照大御神に象徴化し、一方、この「卑弥呼─台与」に対抗する勢力の象徴として素戔嗚命(スサノオ命)を他方の軸にすえたのです。すなわち素戔嗚命の実体は、「狗奴国王+邪馬台連合国家の男王+出雲王朝の国王」という異なる三人物の統一体となっています。
天照大御神=卑弥呼+台与
素戔嗚命=狗奴国王+邪馬台連合国家の男王+出雲王朝の国王
以上のように、卑弥呼時代の素戔嗚命は邪馬台連合国家に対抗する勢力であった狗奴国王の象徴として、また卑弥呼死後から台与出現までの素戔嗚命は「卑弥呼−台与」という正統から追放された邪馬台連合国家の男王の象徴として描かれています。これが記紀神話では素戔嗚命の高天原からの追放に相当します。
記紀神話では、天照大御神は素戔嗚命と争い、素戔嗚命に国(高天原)を奪われかねない状況となり、ついに天照大御神は天の岩戸に隠れてしまいました。これが倭人伝には、邪馬台国と狗奴国の戦争と卑弥呼の死去として記録されているわけです。
また倭人伝によれば、卑弥呼が死去した後、いったん男王が邪馬台国の国王となったが、国中が服せず千人を殺す内戦となり、この男王は結局追放されて、卑弥呼の宗女の台与が女王となりました。これが記紀神話では、素戔嗚命の高天原からの追放と、天照大御神が天の岩戸から出て再生したことに対応します。
さらに、台与出現により邪馬台連合国家が再生した後の素戔嗚命は、九州王朝(邪馬台連合国家)に対抗する勢力の代表としての出雲王朝の象徴として描かれています。
ところで、大国主命を中心とする出雲神話は、本来は出雲地方(出雲王朝)での独立した神話でありました。しかし記紀神話では、素戔嗚命を「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表としたため、素戔嗚命をかなり強引に出雲神話に結びつけました。したがって、本来の素戔嗚命=狗奴国王は、出雲神話とは無縁であります。
なお、素戔嗚命と出雲神話の結びつきは、素戔嗚命が高天原を追放されて出雲に降り立ち、八岐大蛇を退治して奇稲田姫を救け、この姫と結婚することから始まります。しかしこの物語は、日本書紀の本文だけではなく一書群にも登場します。したがって、日本書紀に先行する歴史書(6〜7世紀成立と推定)において、素戔嗚命を「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表とする物語の骨格は、すでに出来上がっていたものと考えるべきでしょう。
邪馬台国の位置論という大テーマは、里程日程つきの魏志倭人伝からの解明がまず第一に必要ですが、邪馬台国=高天原ということであれば、記紀神話にあらわれる高天原の場所を検討することにより、邪馬台国の位置をさぐるアプロ−チも補完的に考えられます。
記紀などの日本神話が語る高天原は、のちに大和朝廷の中心となった勢力の祖先が、遠い昔にいた場所についての記憶を、伝承の形で伝えたものではなかろうか、とのいわゆる「高天原論争」 は邪馬台国論争と同じ程度の歴史をもっています。
そして不思議なことに、この高天原論争も邪馬台国論争と同じく、もっとも有力な説として九州説と大和説があります。ここで高天原論争は邪馬台国論争と重なり合ってきます。
安本美典氏は、古事記神代編におさめられている説話の舞台を統計的に分析し、現実的色彩をもつ地名と神話的色彩をもつ地名をめぐって、次の結果をみちびき出しました。
現実的色彩をもつ地名(国名) 神話的色彩をもつ地名(国名)
1位 九州(西海道) 29.3 % 1位 高天原 38.3 %
2位 山陰(山陰道) 27.9 % 2位 葦原中国 27.7 %
これは高天原=九州、葦原中国=山陰の等式を意味すると安本氏は論じており、私も基本的には賛成です。
ところで、記紀の神代編にあらわれる高天原は、神代の時代のこととして、形式的にはあくまで 「天上界」 として記されています。
本居宣長氏は徹底した高天原=天上界説をとり、「大和の国に天の香山、高市などという地名があるからといって、天照大御神の都があった証拠にならない」としたうえで、高天原=大和、高天原=豊前など、高天原がこの地上にあったという説は、「すべて古典にそむいた私ごとである」 と高天原=地上説を否定しています。しかし、この本居宣長氏の考え方は極端過ぎます。
この問題について、安本美典氏は次のように述べています。
「そもそも高天原が、あの青い空であるならば、なぜそこに山があり、川があり、家があり、井戸があり、田があるのであろうか。稲作が行われ、機がおられ、鶏が鳴き、鍛冶の音がひびいているのであろうか。なぜ地上の地名と同じ地名が、そこにあるのであろうか。鏡や剣や勾玉など、今日、弥生式文化の遺物として多く見出されるものが、高天原でも大きな力をふるっているのは、なぜであろうか。三品彰英氏は、日本神話で語られている事物の特徴が弥生文化とよく一致していることから、<稲作の開始の時期、つまり弥生時代が記紀神話のスタ−トである>、と述べておられる。」
私も、この安本氏の見解に賛成です。そして記紀神話は、伊勢貞丈氏が言う 「古への語り伝へを後に記したものなれば、半実半虚なりと思うべし」、というのがもっとも妥当な見解と言えましょう。
さて、高天原=九州説のなかで最も有力とされてきたのは高天原=豊前説で、最近では安本美典氏の高天原=甘木説があります。
江戸中期の多田義俊氏は、天照大御神の都=高天原は豊前の国の中津(大分県中津市)にあたるとして、その理由を次のように挙げています。
豊葦原の中津国は、豊前の国の中津にあたる。豊葦原の 「豊」 の字はただの美称ではない。豊前豊後の 「豊」 を意味する。
難波あたりでは、豊前豊後ふきんから出る米を中国米という。いにしえ、そこが中国だったからである。そのことは、豊前の国に都郡(京都郡)があるのを見てもわかる。
豊前風土記には、「宮処の郡(福岡県京都郡)、いにしえ、天孫はここより発ちて、 日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大御神の神京なり」 とある。
日本書紀の景行天皇十二年の条に、「 筑紫に幸して、豊前国の長峡県に到りて、行宮を興てて居します」 とあるのも、神代の旧都を慕っての意味である。
皇統のことを、代々問うための使いを、宇佐使(天皇の即位や国家の大事のとき、宇佐神宮につかわされて幣帛をたてまつった勅使)と名づける。これもまた、神都に報告する古くからの習慣ではなかろうか。
日本書紀の神代紀に、天の香山をはじめ今の大和の地名があらわれるのは、のちに大和の地名を神代にむすびつけ、今の人も信じられる形に、ととのえたためである。
豊前、豊後にわかれたのは、のちの時代のことである。豊の国に、はじめての都があったので、のちに大和に都して日本を大和というように、豊葦原が天下をさすこととなった。
また国学者の狭間畏三氏も高天原=豊前を主張しています。そしてその根拠として、京都郡久保村(現在の福岡県京都郡勝山町)や田川郡添田村(現在の福岡県田川郡添田町)に、高天原という地名が残っていること、また白川村(現在の京都郡苅田町)に金山という山があり、高天原にあった天の金山を思わせること、などをあげています。
さらに、新井無二郎氏も高天原地上説をとり、第一案として大和説を、第二案として豊前説を示しています。
第二次大戦後、大分大学教授の富来隆氏にはじまる邪馬台国=豊前説が次々と出されていますが、これらの説は高天原=豊前説と重なり合う部分があります。たとえば久保泉氏は、「天照大神のモデルが卑弥呼とすると、天照大神が住んでいた高天原のモデルとなった国は、いうまでもなく卑弥呼が住んでいた邪馬台国だということになろう。そうすると、邪馬台国=豊前宇佐説の立場からすれば、現実の高天原は宇佐地方を中心とする豊の国一帯だということになる」、と述べています。また松田正一氏は、邪馬台国問題を離れて、高天原=豊前説を支持しています。
次に、高天原=甘木説は、いろいろ問題があります。さきほど言及したように、安本氏による卑弥呼=天照大御神、邪馬台国=高天原、また高天原=九州までは私も支持します。しかし、邪馬台国(高天原)=甘木説は別です。すなわち、
甘木説は、甘木市付近と畿内大和の地名の一致が出発点で、記紀神話の神武東征を史実の反映として、東征時に甘木から朝倉付近の地名が畿内に持ち込まれたとする。
しかし神武東征を史実とすれば、東征により九州から畿内へ移動したのは東征の本拠地 「日向」 の地名であるべきで、高天原の地名ではない。記紀神話では、高天原と日向は別々の地とされている。地名一致から甘木=邪馬台国(高天原)とする説は、日向=高天原の論証が必要である。
甘木付近の筑前夜須郡と畿内大和郷の地名一致が約1000年前の『延喜式』成立の927年まで溯れるとしても、その地名移動が九州 ← →畿内のどちらであるか現時点では断定しにくい。逆に、夜須郡と大和郷の地名がほぼ一致していることは、地名移動が比較的新しいことを暗示している。
すなわち、倭人伝に出現する約30ヵ国の国名のうち延喜式の郡名と完全に一致するのは4ヵ国に過ぎず、3世紀中頃の邪馬台国時代のほとんどの地名が消滅している。
一方、神武東征を3世紀末とし、この時に九州の地名が畿内に持ち込まれ、これらの地名が後世まで続いたとすると、倭人伝との比較では地名残存の落差はあまりに大きい。これは、夜須郡← →大和郷の地名移動が、3世紀中頃の邪馬台国時代や3世紀末の東征時よりもかなり後世であったことを意味する。
つまり6〜7世紀の大和朝廷確立後に、畿内大和郷→筑前夜須郡の地名移動が行われたと考えられる。そして、その可能性が最も高い時期としては、筑紫平野を本拠地とした筑紫の君磐井による磐井の乱(527〜528年)の直後、または斉明天皇・中大兄皇子による百済救援(661〜663年)に際して朝倉の宮を大本営とした時期であろう。
夜須郡と大和郷の地名一致がそれほどならば、なぜ肝心の 「邪馬台=ヤマト」 の地名が甘木付近に残っていないのか。九州の他の地域には、「筑後山門」 「肥後山門」 「豊前山戸」 の地名が残っている。
甘木市馬田町や和名抄にみえる馬田郷や山田を「ヤマト」とするのは少々無理であろう。夜須郡と大和郷の地名一致がそれほどならば、肝心の「ヤマト」の地名が明確にズバリ残っているはずだ。
邪馬台国(高天原)=甘木とすれば、甘木は大和朝廷発祥の聖地となる。ところが、 大和朝廷は甘木付近の天照大御神を祭る「麻氐神社」や高木神(高御産巣の神)を祭る「高木神社」を宗廟としたことは一度もない。
一方、記紀は大和朝廷=天皇家の起源が九州と明言し、天皇家は九州での宗廟を宇佐神宮としている。
九州に天皇家の宗廟が現存しないか不明であれば別であるが、宇佐神宮は伊勢神宮と並んで天皇家の二所宗廟とされ、道鏡事件でもわかるように、奈良時代には朝廷に対する影響力は伊勢神宮を上回っていた。
また、奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされた。このように、天皇家の宗廟問題からすれば、邪馬台国(高天原)=宇佐とするのが妥当であろう。
邪馬台国(高天原)を甘木に比定しても、倭人伝の記述とくに里程日程と全く矛盾し、「投馬国への水行20日」 「邪馬台国への水行10日・陸行1月」 を説明できない。
甘木説の場合、倭人伝の里程・日程記事を何の根拠もなく、「 誤り」 とせざるをえな い。しかし、すでに論証したように記紀が語る高天原などの神話は「半実半虚」 なので、記紀神話と倭人伝が矛盾する場合は、同時代史料の倭人伝が優先されるべきである。もしくは、倭人伝の里程日程が誤りとの証明が必要である。
これに対し、私の新説による邪馬台国=豊前中津・宇佐説は、倭人伝との完璧な整合性が可能である。
邪馬台国=甘木説と倭人伝のもう一つの重大な矛盾点は、一大率問題である。
邪馬台国の甘木・朝倉から博多湾岸の伊都国・奴国・不弥国は、わずか30〜40キロの陸路である。ところが倭人伝によれば、卑弥呼は伊都国に一大率を常設し諸国を検察させると共に、大陸との窓口としたとある。この記事は内容からして、そう簡単に 「誤りだ」 と片づけることは出来ない。
ということは、邪馬台国は博多湾岸からかなり離れた場所に位置していたと見なければならない。わずか30〜40キロの距離では説明にならない。なお、この一大率問題からすると、古田武彦氏による邪馬台国=博多湾岸説も当然にして否定される。
私の邪馬台国=豊前中津・宇佐説では、邪馬台国は博多湾岸から陸路で123〜13 8キロ、水路では138〜153キロの距離となる。これだけの距離があればこそ、 卑弥呼は伊都国に一大率を常設したのである。
以上のように、邪馬台国(高天原)=甘木説は成立せず、結論は高天原=豊前(宇佐)となります。このように、卑弥呼=天照大御神を前提として、記紀神話からきわめてストレ−トに、また素直に邪馬台国を求めれば邪馬台国=宇佐となり、これは私が倭人伝の分析から邪馬台国=豊前(中津・宇佐)とした結論と全く一致します。 
3.2 高天原と豊葦原水穂国と日向

 

古事記・日本書紀を中心とする日本神話は、相互に矛盾する部分があり、ほぼ同時期に作成された古事記と日本書紀ですら細部では食い違う点がかなりあります。すなわち、個々の日本神話には史実と異なる場合がありうると、覚悟して分析する必要があります。
ただし、これは記紀を無視して日本古代史を論じてよいと言うことではありません。記紀は、何と言っても8世紀初頭に完成した現存する最古の歴史書で、また日本書紀は神代編で先行する歴史書を数多く引用しています。
問題の3世紀邪馬台国と記紀は450年程度の時代差しかなく、記紀に先行する歴史書と邪馬台国時代は、300〜350年の年代差しか無いと考えられます。従って、記紀および記紀に先行する歴史書には、何らかの形で邪馬台国が反映されていると考えるべきで、記紀を無視して、また記紀と全く矛盾する邪馬台国論(すなわち、邪馬台国畿内大和説)は成立しません。
さて、史実と日本神話の食い違いは、記紀の編者(すなわち大和朝廷)が、政治的意図にもとづき史実をねじ曲げた個所。
(例) 倭の五王に関する日中両国の記録の食違い(後述)。
伝承の間に誤ったもの−−−これは伊勢貞丈氏の、「古への語り伝へを後に記したる ものなれば、半実半虚なりと思うべし」 に相当する。
(例) 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東国平定の中で、日本書紀は焼津とするが、古事記では相武の焼遺とする。古事記の相武(相模 )は駿河であるべきで伝承の誤り(稗田阿礼の記憶違い)である。
もう一つ重要な点は、記紀が完成した8世紀初頭において、大和朝廷自身が神代の細部を分からなくなっていたことだ。日本書紀の神代編には一書群が多数登場する。官撰正史に同じ事柄につき多数の説を並べるのは本来は異常で、神代の細部は大和朝廷自身がよく分からなかったことを告白している。ただ、後世の研究家にとっては貴重な資料である。
もう一つ、古事記はさらに問題がある。古事記は天武天皇時代に稗田阿礼が暗唱したものを、相当な年月が経過した元明天皇時代に太安萬侶が記録したものである。
人間は暗唱した事柄について、全体のシナリオは年月が経過しても簡単には記憶違いを起こさない。しかし、細部については記憶違いを起こし易い。稗田阿礼は確かに抜群の記憶力の持ち主であったとしても、相当な年月の間に、細部についての記憶違いをして、これを太安萬侶が記録した可能性は否定できない。事実、そうとしか考えられない記述が古事記に何個所も見受けられる。
従って、古事記・日本書紀の個々の記事全てが正しいとして、日本古代史の構築を望むのは危険です。
大事なことは、日本古代の歴史全体の流れをつかむこと、すなわち、(1)魏志倭人伝などの漢籍、(2)古事記・日本書紀などの日本側歴史書、(3)考古学的分析、(4)日本列島の現実の地勢−−以上の四要素を総合的・体系的に考察することが重要です。
今回の拙著「邪馬台国の位置と日本国家の起源」でも、以上の四要素の相互の関連・整合性には最も留意した点です。
さて、まず高天原と豊葦原の関係です。
高天原の意味について最初に気をつけるべきは、三つのイメージがあることです。第一は、天上界と地上界という抽象的区分での天上界という意味での「高天原」です。これに対応する地上界が「豊葦原の水穂の国」で、日本列島全体を意味します。
高天原の第二の意味は、卑弥呼を盟主とする北部九州から西中国にかけての九州王朝(=邪馬台国連合、倭国)のことです。そして記紀神話では、この第二の高天原(九州王朝)を葦原中国と対比して記述されているケースがかなりあります。そして、この葦原中国とは、出雲を中心として勢力のあった出雲王朝を意味する場合が多いのです。高天原の第三の意味は、邪馬台国そのものです。
ただ、記紀神話では、地名・神名が相当混乱して使用されていることに留意しなければなりません。葦原中国にしても、天下を意味するものとして、日本列島全体と理解すべき場合もあります。
すなわち、葦原中国も、
天上界(高天原)に対応する地上界としての日本列島全体
出雲神話における、出雲を天下の中心とする中国地方
三世紀邪馬台国時代における、中津・宇佐地方を中心とする豊の国を天下の中心 とする北部九州。
既述のように、江戸中期の多田義俊氏は、豊葦原の「豊」は豊前・ 豊後の「豊」であり、また、中ツ国は豊前の中津と解釈している。また、日本書紀の一書の「三女神を葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ」での葦原中国も豊前と理解すべきです。
以上、三つの解釈が可能で、記紀の記事毎に、どれに相当するかを検討しなければなりません。これは、「天の下(あめのした)」 すなわち現世界としての天下の観念について、日本列島全体、出雲王朝、九州王朝、邪馬台国そのものと、天下の領域および場所について、異なる場合があるからです。
日本古代史、特に神代史においては以上の高天原、葦原中国以外にも、国名・地域名について用語の混乱・複数の地域名を示すケースが見られます。
すなわち、大和と言う用語は、1広義には日本全体2また狭義には奈良地方 、というように広狭二義に使用されてきたのは、周知の事実である。
三世紀邪馬台国時代の倭国とは、北部九州から西中国にかけての九州王朝(邪馬台国連合)を意味するが、「倭」とは九州王朝と同義語の場合と日本全体に使い分けられている。一方、大和朝廷時代の倭国とは、日本全体の場合と奈良地方だけの二つのケースに分かれる。
以上のように、同じ倭国といっても、1日本全体・2九州王朝(邪馬台国連合)・3奈良地方の三つの意味がある。
魏志倭人伝の女王国についても、1狭義の邪馬台国と2九州王朝(邪馬台国連合)を示す場合の二つの意味がある。
記紀神話での筑紫とは、1筑紫島すなわち九州全体の場合と、2いわゆる筑前・筑後の筑紫、3更には豊前を含む北部九州の三つの意味に分かれる。たとえば、神武東征では日向を出発し筑紫の宇佐に立ち寄っている。この場合、豊前が筑紫の範囲に入る。日向(南九州)と筑紫を対比しているので、この場合の筑紫とは北部九州を意味する。
日向との用語も、1宮崎県・鹿児島県を合わせた南九州全体と、2宮崎県のみの二つの意味がある。
次は日向問題です。いわゆる日向が九州のどの地域を指すかは非常に難しく、2万5千分の地図によれば、九州には日向なる地名が10個所以上あります。
邪馬台国北部九州説の場合、邪馬台国が東遷したとする説が有力で、その場合には、東征の出発地・日向も北部九州としなければなりません。 しかし、私は東征の出発地・日向を通説のように南九州(宮崎県)と考えています。
ここで、神武東征までに記紀に出現する「日向」の記事を抜き出してみます。なお、神武東征以後に出現する日向は、すべて宮崎県と判断して良いと考えられます。
古事記 (いざなぎの大神)
筑紫の日向の橘の小門のあはぎ原に到りまして、みそぎ祓ひたまひき。
日本書紀 (いざなぎの大神)
本文 筑紫の日向の小戸の橘のあはぎ原に至りまして、みそぎ除へたまふ。
この記述は、いざなぎの大神が葦原中国(出雲王朝)のいざなみの命との争いの後、帰還する時の話です。この話は、邪馬台国以前の九州王朝の盟主であった伊都国王または奴国王が中国地方に攻め込んだ事件の反映、と私は考えています。
そうすると、ここでの日向とは、北部九州沿岸(博多湾〜遠賀川河口〜洞海湾)と考えるのが妥当です。ただし、このことは、天孫降臨の「日向の高千穂の峰」すなわち神武東征の出発地「日向」とただちに同一視するのは危険です。ことは、そう単純ではありません。
さきほど述べたように、記紀神話では国名・地名の用語に混乱があり、また、複数の地域を指す場合や、同じ用語であっても時代によって違う地域を示す場合があるからです。
さて、問題は天孫降臨および神武東征に出現する「日向」です。
古事記 (天孫降臨)
筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降り座す。
この地は韓国に向ひ、笠紗の御前を真来通りて・・・いと吉き地。
日本書紀 (天孫降臨)
本文: 日向の襲の高千穂峯に天降ります。背穴の空国を頓丘から国まぎ行去りて・・
吾田の長屋の笠狭碕に到ります。
一書: 筑紫の日向の高千穂のくじふる峯に到りますべし。皇孫をば筑紫の日向の高千穂のくじふる峯に到します。
一書: 日向のくし日の高千穂峯に降到りまして、背穴の胸副国を、頓丘から国まぎ行去りて・・・
一書: 日向の襲の高千穂のくし日の二上峯の・・・背穴の空国を頓丘から国まぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。
一書: 日向の襲の高千穂の添山峯・・・吾田の笠狭の御碕に到ります。
(彦火火出見尊)
一書: 彦火火出見尊が崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。
一書: 日向の吾平山上陵に葬りまつる。
(神武天皇)
本文: 日向の吾田邑の吾平津媛を娶りて・・・。
以上を分析しますと、「筑紫の日向」「日向の襲」「筑紫の日向」「筑紫の日向」「日向」「日向の襲」「日向の襲」「日向」「日向」「日向」、と10ヵ所の日向があります。
この中で、「筑紫」がつくのは、3個しかありません。しかも、すでに述べたように、筑紫とは九州島全体を意味する場合がありますので、ここでの「筑紫」を筑前・筑後と即断するのは危険です。むしろ、ここでは三つの「襲」すなわち「襲の高千穂峯」「襲の高千穂」「襲の高千穂」に留意すべきです。「襲」とは、記紀において南九州以外の意味には使用されておりません。このように考えると、「天孫降臨の日向」とは、南九州ということになります。
さて、そうすると古事記での「韓国」とは、いったい何なのだ、と言うことになります。
結論を言うと、古事記の「韓国」は、日本書紀の「空国」「胸副国」「空国」と同一なのは明らかです。「空国」は、「むな国」とも「から国」とも、どちらにも読めますが、通常は「むな国」と読まれています。
古事記は、天武天皇の時代に稗田阿礼が暗唱したものを、元明天皇時代(712年)に太安萬侶が記録したものです。すなわち、稗田阿礼は筆記ができなかったのです。
おそらくは、それまでに存在した歴史書を誰かが読んで稗田阿礼に暗唱させた時、「むな国」と読むべき「空国」を「から国」と読んだため、この「から国」を太安萬侶が「韓国」と記録したものと推定されます。従って、古事記の「韓国」は「空国」の誤字で、いわゆる朝鮮半島の「韓国」とは関係ありません。すなわち、古事記の「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降り座す。この地は韓国に向い」の章句から、日向は朝鮮海峡に向かう博多湾岸の地域(近くに日向峠がある)とする説は誤りです。
また、「胸副国」の胸(ムナ)は空(ムナ)であって、「胸副国」=「空副国」であります。ただ、「副」はよく分かりません。誤りであるか、「副(ソ)」=「襲(ソ)」で、「空(ムナ)の襲の国」でしょうか。
なお同様に、古事記の「笠紗の御前」の「御前」も、日本書紀の笠狭の「碕(ミサキ)」、「御碕(ミサキ)」、「御碕(ミサキ)」と同一で、古事記の「御前」は「碕」または「御碕」の誤字であります。このように、古事記は口承を後で文字に記録したため誤字が幾つも有り、「韓国」「御前」はその典型です。また、「笠狭」についても、日本書紀の「笠狭」「笠狭」に対し古事記は「笠紗」としており、古事記の「紗」は「狭」の誤字と考えられます。
次に、神武東征の出発地の「日向」です。天孫降臨の地の「日向」が南九州とすれば、神武東征の出発地も南九州と言うことになりますが、更にここで検証してみます。
古事記 (神武東征)
日向を発し、筑紫に行く。途中、豊の国の宇佐に到り、・・・其の地(宇佐) より移りて筑紫の岡田宮に一年、それから安芸の国のたけり宮に七年、それから吉備の国の高島宮に八年・・・。
日本書紀(神武東征)
本文: (日向)を出発し、速吸之門(豊後水道)を通り筑紫国の宇佐にいたる。その次に筑紫国の岡水門にいたる。その次に安芸国のえの宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到る。
この神武東征で、古事記・日本書紀は共に1日向を出発して、(2豊後水道を通り)、3筑紫の宇佐を経由して、4北部九州の筑紫の岡田宮(遠賀川河口付近)へのコースをたどったのは明らかです、そして5関門海峡を抜け瀬戸内海を畿内大和へ進軍しました。
仮に神武東征の出発地が博多湾岸の日向とすれば、順番は1日向(博多湾岸)、2筑紫の岡田宮(遠賀川河口)、3宇佐(周防灘沿岸)、そして4瀬戸内海を東へ進むべきで、最初に(豊後水道を通過して)宇佐に到達するのは地理的には考えられません。
従って、神武東征の出発地「日向」は、南九州以外には考えられません。ということは、天孫降臨の地「日向」も南九州と言うことです。 
3.3 九州勢力の東征は史実

 

さて、3世紀の九州は考古学的には銅剣・銅鉾文化圏ですが、このころ邪馬台国は卑弥呼・台与を盟主として九州から西中国にかけての九州王朝を形成しておりました。しかし、卑弥呼・台与なき後の九州王朝は求心力を失い、小国分立となって九州王朝は名目的になってしまいました(270〜300年ごろ)。
また卑弥呼・台与亡き後の九州は、「小」卑弥呼・「似非」卑弥呼の続出により、小国分立・呪術支配による閉塞した社会状況に陥っていたと推定されます。このことは九州の特色で、古事記・日本書紀・風土記では九州に女王(女酋)が12人も見えます。これに卑弥呼・台与を加えると14人にも上ります。
時あたかも中国では、魏・呉・蜀を統一した西晋王朝が八王の乱(300〜306年)で内部崩壊し、さらに北方の諸民族(五胡)が北部中国に続々と侵入し、晋王朝は揚子江の南に退くにいたりました(318年、東晋王朝の成立)。
このため、中国の正統王朝は、もはや朝鮮や日本に力を及ぼすことができなくなりました。そして北朝鮮には高句麗が領土を広げ、313年には楽浪郡を滅ぼし、314年には帯方郡に侵入し、南朝鮮では百済・新羅が起こり、東アジアの地図は3世紀末から4世紀初にかけて、まったく様相が一変してしまいました。
この東アジアの激動の時期とあい前後して、海をこえた日本でも、九州勢力が呪術支配による閉塞した状況から脱すべく、新天地を求めて神武東征によって畿内の銅鐸文明を滅ぼすという大事態が起こったと考えられます。すなわち記紀神話での神武東征は、紀元300年前後に実行された史実の反映です。その理由を列挙すると以下の通りです。
神武東征を史実の反映とした場合、時期は3世紀末〜4世紀初が有力とされている。古事記の成立は712年、日本書紀は720年と、東征とは400年程度のへだたりしかない。殷墟やトロヤ遺蹟の発掘の例では、1000年以上後の神話・伝承が史実を物語っていた。記紀の神武東征神話も史実の可能性がある。
記紀は、大和朝廷すなわち天皇家が九州の起源とする。そして九州での天皇家の宗廟は宇佐神宮とされ、奈良時代には『道鏡事件』(769年)で宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけたように、その朝廷への影響力は伊勢神宮を上回っていた。
奈良朝以降、天皇家は1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしていないのである。これに対して、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮へ勅使が必ずつかわされた。
すでに論証したように卑弥呼(ヒメコ)=天照大御神、また台与=豊受大神であり、この二人の皇祖が宇佐神宮ではヒメ大神(実像)と神功皇后(虚像)として祭られており、 宇佐神宮と伊勢神宮は天皇家の二所宗廟とされている。これはすなわち、天皇家が九州出身を意味する。
記紀ともに神武東征を記し、日向出身の神武率いる九州勢力が畿内を武力で征服したとする伝承の骨格は一致している。かりに天皇家が畿内出身とすれば、なぜ九州・日向出身の神武天皇が自らの祖先の地・畿内を征服する物語を造作しなければならないのか。 天皇家が畿内出身であれば、それを素直に表現し、畿内を本拠地として全国の統一を進めた、とするほうが皇室の権威を増しうると思われる。
日向が日に向かうと理解できるので、日の神の子孫である天孫が高天原から日向に降臨 し、この日向を神武東征の出発地としたとの意見がある。しかし天皇家が畿内出身であれば、ただこれだけの理由で天皇家と関係のない九州に皇室の祖先が降臨したと設定する必要はない。その場合には、畿内に日向なる地名をつくり、そこに皇室の祖先が降臨 したとするほうが史実と合致するはずである。
畿内には固有地名としての 「ヤマト」 はなく、国名としての大和・倭(ヤマト)のみ存在する。これに対し九州には、筑後山門・肥後山門・豊前山戸など、地名としての 「ヤマト」 が残っている。畿内大和朝廷による国名としての大和・倭は、3世紀の日本を代表した九州邪馬台国の名称を、九州勢力の東征後に畿内大和朝廷が引き継いたと考えられる。
記紀神話では、九州の地名がもっとも多く出現する。これは記紀神話が九州で生育したものが多いことを意味する。また記紀神話には、天皇家の祖先が出雲には海路で、日向へは陸路で行かなければならない場所(北部九州)にいたと判断できる記事がみえる。
大伴氏・中臣氏・物部氏など大和朝廷の中核を形成した豪族の発祥地が九州らしいこと、 また宇佐・壱岐・対馬・松浦などの九州の古い氏族が天孫とされていること。逆に大和発生と考えられる豪族(三輪氏・磯城氏・宇陀氏)は、地祇とされている。
大和朝廷=天皇家の九州起源説は、以下のように考古学からも裏付けられます。
弥生時代には、北九州から瀬戸内海におよぶ銅剣・銅鉾文化と、近畿・中部を中心とする銅鐸文化の二大文化圏の存在が知られている。二大文化圏という捉えかたは虚像とする原田大六氏の学説もあるが、大枠は依然として妥当性を持つ。多くの邪馬台国畿内大和説者が主張しているような、邪馬台国が畿内から自然発生的に樹立され、これが九州を征服して古代統一国家の原形を作ったとすれば、畿内文化の象徴たる銅鐸が九州にも移入されたはずだ。
ところが、九州からは最近、初期の銅鐸が少数発見されているだけである。なお、平成10年11月に佐賀県吉野ヵ里遺跡から高さ25センチの銅鐸が発見されたが、二大文化圏の大勢には影響ない。
以上の事実は、初期銅鐸が大陸・朝鮮半島から九州経由で近畿地方にもたらされ、銅鐸文化が近畿・中部地方で花開いた可能性を示唆するものである(ただし、九州では銅鐸は流行らなかった)。そして近畿勢力は2〜3世紀のころは九州を征服することもなく、従って近畿銅鐸文化は九州へ移入されなかったのである。
銅鐸文化は2〜3世紀の弥生時代後期に近畿・中部地方でもっとも盛大となり、しかも突然消滅する。銅鐸は祭器といわれているが、これが突然消滅した理由は外部勢力による征服と考えられ、この外部勢力とは、神武東征に象徴される九州勢力であろう。
また銅鐸が宗教的祭祀に使用されたと考えられるのに、記紀などの大和朝廷側の古伝承には、その痕跡をまったくとどめていない。
713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたが、『続日本紀』は 「その制、つねに異な る」 と書いている。また821年(『日本紀略』)、860年(『三代実録』)にもまた銅鐸が出土したが、インドの阿育王の塔鐸だと言って、昔の大事な祭器であることが忘れられていた。このことは、銅鐸をもつ大和の先住民が、九州からきた天皇家とその一党たちによって滅ぼされたことを雄弁に物語っている。
弥生時代には、中国から輸入された銅鏡は圧倒的に九州で発見されている。しかも、銅鏡・銅剣・銅鉾はともに甕棺から見いだされている。これに対し、銅鐸文化圏の中心の畿内では、弥生時代の墓から銅鏡がまったく出土していない。
古墳時代に入ると、中国製銅鏡は古墳から出土し、しかも近畿を中心に分布している。 このことは、鏡を墓に埋める習慣が北部九州から畿内へ移動したことを意味する。そし て、この移動の時期は弥生時代末〜古墳時代初と推定され、この移動をもたらしたのが九州勢力の東征であろう。
弥生時代の北部九州の墳墓からは、鏡・剣・玉が多数出土し、しかもこの三点がセットになっている場合も多い。これは天皇家の三種の神器と文化的に直結する。これに対して弥生時代の畿内の銅鐸文化は、次の古墳文化にまったく接続していない。
もし邪馬台国が弥生時代に畿内で自然発生的に樹立され、これが大和朝廷につながっていったとすると、なにゆえ近畿であれだけ栄えた銅鐸文化が大和朝廷の中にその痕跡すら無いのであろうか。大和朝廷の歴史書である記紀の神話には鏡のことは何回もでてく るが、銅鐸については何も語るところがない。
畿内の弥生墳墓からは鏡はまったく出土せず、次の古墳時代には鏡が多数出土しており、 文化的断絶がある。この断絶をつなぐために出されたのが、考古学者で京都大学教授だった小林行雄氏の 「伝世鏡論」 である。
伝世鏡論とは畿内弥生墳墓と前期古墳の連続性をつけるために、弥生時代に使用された鏡がその時には墳墓に副葬されず、伝世されて古墳時代に副葬され、そのために 「鏡の手ずれ」 =摩耗が生じたという説である。
しかし考古学者の原田大六氏は、それは 「手ずれ」 ではなく、鏡の鋳込み時の湯冷え現象によるものとして、詳細な理由を挙げて 「伝世鏡論」 を否定した。
鏡は製作された時期と同時代に墳墓に副葬される場合が多いが、一部は伝世されて、5 0年後、100年後、いや200年後に副葬されることもある。しかし、逆にすべての鏡が伝世されて同時代の墳墓には一枚も副葬されなかった、ということは考えられない。
従って、畿内の弥生墳墓から一枚の銅鏡も出土しないとの事実は、邪馬台国畿内自立説を否定するものである。
すなわち、畿内大和の前期古墳文化で鏡を副葬する習慣は自生したのではなく、九州勢力の東征により持ち込まれたものである。 
3.4 東征の時期

 

九州勢力の東征は、すでに述べたように紀元300年前後と考えられますが、もう少し詳しく検討してみます。
(1) 2世紀後半の東征説
近畿を中心とする銅鐸文明は、弥生時代後期の2〜3世紀に最も盛んとなり、しかも突然消滅する。この消滅をもたらしたのが九州勢力の東征と考えられる。考古学的には銅鐸文明が3世紀後半〜末(場合によっては4世紀初頭)に消滅したと推定され、この点からして、2世紀後半の東征は時期的に早すぎる。
2世紀後半の倭国大乱は魏志倭人伝など漢籍の記述を唯一の根拠とする。すでに論じたように、倭人伝での倭国とは日本列島全体ではなく、北部九州と西中国を領域とする邪馬台連合国家を意味する。従って倭人伝などの文献からは、九州勢力と畿内勢力が2世紀後半に激突して倭国大乱になったとの証明は何もできない。
かりに百歩譲って2世紀後半の倭国大乱が九州から近畿にかけての広範囲の争乱としても、九州勢力の東征の根拠にはならない。倭人伝の文面では、倭国大乱の結末は、いずれかの勢力の一方的勝利とはなっていない。逆に、諸国はドンクリの背比べで決着がつかず、宗教的呪術力をもつ卑弥呼が女王として共立されたのである。要するに倭国大乱では、畿内の銅鐸文明は 「東征で征服されていない」 「滅亡していない」 と言うことだ。
一方、記紀が語る神武東征は、まさに征服戦争であって、この戦争により畿内の銅鐸文明は滅亡したと考えられる。従って、記紀の神武東征と倭人伝の倭国大乱はまったく内容が異なり、2世紀後半倭国大乱時の九州勢力の東征=神武東征は否定される。
すでに論証したように、邪馬台国=高天原=九州、また卑弥呼・台与=天照大御神・豊受大神である。また東征の主人公の神武天皇は、天照大御神(卑弥呼・台与)の五代後の人物である。
九州にあった邪馬台国は、266年の台与の中国西晋王朝への遣使から分かるように、270年頃までは健在であったと考えられる。従って、九州勢力の東征は3世紀邪馬台国以降、すなわち270年以降ということになろう。
(2)4世紀後半以降の東征説
日本=倭による朝鮮半島での軍事活動は、366年に百済と同盟し、翌367年に遠征軍を派遣して百済とともに新羅と戦ったことから始まる。この後、日本(倭)・百済連合と新羅・高句麗連合は、半島の覇権をめぐって激しく戦い、日本(倭)が半島経営から手を引くのは約200年後の562年任那の滅亡時点である。
414年建立の高句麗好太王碑には、倭国が4世紀末〜5世紀初に4回(391年、399〜400年、404年、407年)にわたり遠征軍を派遣して、新羅・高句麗と戦ったことが石碑に刻まれている。また倭王武(雄略天皇)は、478年に南朝宋へ遣使している。その時の上表文に、「渡りて海北を平ぐること九十五国」との倭国の朝鮮半島への進出、および高句麗との軍事的対決が記録されている。
すなわち、この時期の倭国は、ある意味では国家の総力を挙げて半島での軍事作戦を展開していたことになる。このように考えると、九州勢力の東征は、半島での新羅・高句麗との激突より以前、すなわち邪馬台国以降の3世紀末〜4世紀前半となる。
また、記紀神話が語る神武東征は、神武天皇の兄・五瀬命の戦死でも分かるように、決して楽な戦いではなかった。難波から大和に入ろうとして長髄彦の抵抗にあい、海路をたどって紀伊半島を迂回して熊野に上陸し、背後から突いてようやく大和を平定したとある。
神武東征は神武東遷とも言われるが、これは単なる首都の平和的移転や遷都ではない。それはまさに九州勢力と畿内勢力との軍事対決であり、征服戦争であった。
この征服戦争のために、神武軍は大兵力と大船団と周到な準備を必要としたであろう。しかるに東征の時期を4世紀後半とすると、九州勢力が朝鮮半島での新羅・高句麗との戦争と並行して、近畿地方への東征という二大正面作戦を敢行したことになる。しかし、これは政治的・軍事的には考えられない事態である。
従って、東征は朝鮮半島での倭国の軍事活動が本格化する以前、すなわち4世紀前半までに行われと想定される。また東征を4世紀後半以降とするのは、銅鐸文明の消滅時期(3世紀後半〜4世紀初頭)との関連からして遅すぎると思われる。
そうすると、東征は邪馬台国時代以降の270〜280年から4世紀前半に絞られることになる。
(3)東征は3世紀末〜4世紀初頭
倭国の朝鮮半島での第一回の軍事活動は367年であり、この初めての海外派兵の367年までに、大和朝廷による日本統一がなされたと考えられる。一方、神武東征で畿内大和を平定した大和朝廷は、それだけで国土統一を完成したのではない。神武東征後、畿内を拠点とする大和朝廷は、4世紀前半は国土統一を進めていた時期である。これが記紀では崇神、垂仁、景行朝に見える統一事業に相当する。
このように考えると、東征は4世紀初頭、すなわち310年ごろまでに行なわれ、4世紀前半が国土統一の時期となる。なお、短期間に強大な国家が成立した例は、古今東西に数多い。たとえば、アレクサンダー大王やチンギスハーンは、一代で大帝国を築きあげた。また日本でも、織田信長の桶狭間の戦い(1560年)から豊臣秀吉による国土統一後の朝鮮出兵開始(1592年、文禄の役)まで、わずか30年程度であった。
一方、先ほど述べたように、九州にあった邪馬台国は266年の台与の中国西晋王朝への遣使から分かるように、270年ごろまでは健在であったと思われる。しかし卑弥呼・台与なきあとの九州王朝は求心力を失い、「小卑弥呼」「似非卑弥呼」 が続出し、小国分立・呪術支配による閉塞した社会状況に陥っていたと推定される。
このような閉塞した状況が続く280〜290年頃、神武東征に参加した九州の諸勢力は、「呪術支配」 から脱すべく九州に見切りをつけ、また統治組織が整備された強力な国家の確立を新天地に求めたのではなかろうか。すなわち、神武東征は280〜310年の期間、もう少し狭めれば285〜305年頃に実行されたと推定される。
この300年前後の東征は、畿内大和での高塚古墳の開始を3世紀末〜4世紀初とする従来の考古学の通説と符号する。従って、箸墓古墳・纏向石塚古墳の墳丘表土や周辺から出土した土器類や木片を唯一の根拠とする、畿内大和の高塚古墳開始の時期を3世紀前半まで古く溯らせようとの最近の説は否定される。 
3.5 東征の主人公

 

それでは九州勢力の東征の主人公は誰だったのか。神武東征を史実の反映とすれば、主人公は一応、神武天皇でよいことになります。しかし、記紀神話の構成からすると、必ずしもそう言えない面があります。天照大御神や素戔嗚命の例から分かるように、一人の人物を実像と虚像に分割したり、複数の人物を統合して一人の人物像としているケースがあります。
これと同様に神武東征の主人公を検討すると、(1)神武天皇は実在の人物として独立した天皇、(2)初代人皇を東征を区切りとして二人に分割し、東征までを神武天皇、東征後を崇神または応神天皇に配置しているのではないか、が有力視されています。すなわち、神武=崇神、または神武=応神です。
以上の中で、神武=応神説は、以下の理由で成立しないと考えられます。
応神天皇の活躍時期は、記紀の内容からして4世紀後半〜5世紀初とされている。また、このことは、安本美典氏の統計的年代論とも一致している。
そうすると、神武=応神説の場合、神武東征は当然のこととして、4世紀後半〜5世紀初に実行されたことになる。しかし、この時期は神功・応神による朝鮮出兵の時期とまったく重複する。
九州勢力の畿内大和への東征は、単なる首都の平和的移転ではない。それは記紀神話が示すように、武力での征服戦争で、また考古学的に見ても銅剣・銅鉾文化圏による銅鐸文化圏の征服戦争だったと考えられる。この征服戦争のために、九州勢力は大軍団・大船団を必要とし、また周到な準備をしたものと考えられる。
しかるに、これと同一時期に、200キロの海を越えて朝鮮半島で高句麗・新羅と半島の覇権をめぐって死闘を演じたとのシナリオは、政治的・軍事的には考えられない。
応神天皇東征説の根拠として、神功皇后の征韓後の大和への東行が、神武天皇の東征に似ているが挙げられている。しかし、直木孝次郎氏が神功皇后物語は意外に新しく七世紀後半に成立したと論じているように、
1 新羅征討の神話に重要な役割を果たす香椎宮も住吉神社も推古朝以前は史上に見えない。
2 仲哀天皇が神のたたりで筑紫でなくなったことと、斉明天皇が神のたたりで筑紫でなくなったことが似ている。
3 神功皇后は、百済救援(661〜663年)のために筑紫におもむいた斉明および 同行した持統という女帝をモデルとしていること、
4 応神が筑紫で生まれ、母后の神后皇后とともに大和に帰還して皇太子になったことは、斉明と筑紫に同行した持統が後に皇太子となった草壁を筑紫で生んだことと似ていること、
5 応神は腹違いのカゴサカ・オシクマを倒して皇位についたが、草壁も腹違いの大来皇女・大津皇子を倒して皇太子になったこと、
−−−ということであって、応神は神武東征とは無縁である。
応神が武神とあがめられ、八幡神として祭られてきたのは、東征の主人公だったからではない。景行天皇の九州遠征とヤマトタケルの東国平定物語に象徴される大和朝廷の日本統一の偉業が、応神天皇の時代に名実ともに完成し、その余勢を駆って朝鮮半島に大兵を送り、半島の覇権を新羅・高句麗と争ったからであろう。
応神・仁徳の巨大古墳は、応神王朝による日本統一の完成を示すと同時に、応神陵陪塚出土の金銅製馬具や仁徳陵出土の馬形埴輪は、4世紀後半〜5世紀の朝鮮出兵と密接な関係を示している。
応神天皇が邪馬台国の故地・豊前の宇佐神宮に725年に祭られたのは、古事記(712年)、日本書紀(720年)の成立を通じて、日本国家形成のシナリオが大和朝廷により確定されたことと関係があろう。
すなわち、応神天皇は日本統一を完成させ、また朝鮮出兵を行なったが、それ以前の天皇家とは男子系では血のつながりが無く入り婿と言われており(井上光貞説など)、応神王朝を何らかの形で正当化する必要があったと考えられる。
日本書紀が中国史書との整合性のため、「卑弥呼・台与・邪馬台国」 と 「 天照大御神・豊受大神・高天原」 の年代問題を解決する手段として、3世紀邪馬台国時代に神功皇后という卑弥呼・台与の虚像を設定したことは先に述べた。
そして応神天皇は、母后の神后皇后を媒体として、それ以前の王朝と正統につながるものとされ、その証として邪馬台国の故地・宇佐に祭られたのである。まさに古事記・日本書紀の成立と宇佐神宮の創建は、一体として大和朝廷(=天皇家)すなわち応神王朝の正統性を誇示したものと言える。
次に、神武=崇神説は、以下の理由で成立する可能性が高いと考えられます。
すでに論じたように、神武東征の時期は3世紀末〜4世紀初と推定される。一方、安本美典氏の統計的年代論では、崇神天皇の活躍時期は信頼度99%で297〜431年となっている。
また、崇神天皇の没年を古事記の干支により推定すれば、318年とするのが有力説である。したがって、崇神天皇の活躍時期は、神武東征の3世紀末〜4世紀初と重なり合う可能性がある。すなわち、年代論からは神武=崇神説は成立しうる。
日本書紀では、「ハツクニシラス スメラミコト」 すなわち初めて国を統治した天皇が二人存在する。一人は第一代の神武天皇(始駆天下之天皇-----ハツクニシラス スメラ ミコト)、もう一人は第十代の崇神天皇(御肇国天皇-----ハツクニシラス スメラミコ ト)である。ところが、古事記では崇神天皇だけが初代天皇すなわち 「初国所知之御真木天皇-----ハツクニシラス ミマキスメラミコト」、とされている。
しかし初代天皇が二人も存在するはずがない。古事記が崇神天皇だけを初代天皇と認定 していることから考えると、崇神天皇が本来の神話・伝承での初代天皇で、この崇神天皇が 「東征」 を実行した主人公であろう。ただし、初代天皇の即位を紀元前660年とするために、崇神天皇の治績のうち 「東征」 までを分割し、これを神武天皇としたのではなかろうか。すなわち、神武=崇神ということである。
正史『日本書紀』は、実際の初代天皇・崇神には本来の伝承のまま「ハツクニシラス ス メラミコト」 とし、紀元前660年即位と設定した神武天皇(崇神の分身)にも 「ハツクニシラス スメラミコト」 と、二人の初代天皇を作ったのであろう。
大和朝廷=天皇家は、記紀の中で初代天皇の崇神天皇を二人に分割して、東征までを架空の人物・神武天皇に託し、その即位を紀元前660年とした。しかし大和朝廷は、東征の実際の主人公が崇神だと知っており、自ら造作した紀元前660年の神武天皇の存在を信じていなかった。これが、大和朝廷=天皇家が神武天皇を無視した理由であろう。
奈良朝以降の天皇家が、この初代大帝・神武天皇に対する扱いは、それこそ無視というべきものだった。神武天皇を祭る唯一の神社・橿原神宮の建立は明治22年で、唖然とするほど新しい。
高木彬光氏は、「神武天皇は存在しない、その業績と伝えられるのは、はるか後代の天皇の事績を遠くさかのぼった時代の事件として改作したものだと断定するのも、このような子孫の無反応からみちびき出される必然的な推理である」、と述べている。
また、現状の神武天皇陵は実は古墳ではない、というのが考古学会での常識である。すなわち、神武天皇は陵墓すら存在しないのが実状である。
『日本書紀』で、神武天皇の記事は即位前は東征だけで、即位後の天下統治の有り様が何も記されていない。一方、崇神天皇は、即位後の記事がほとんどで、天皇になったいきさつは書かれていない。
このように見ると、初代大帝を二人に分割して、東征まで(正確には即位まで)を初代神武天皇、即位後を第10代崇神天皇と配置したのあろう。
また、第2代綏靖〜第9代開化天皇は架空の人物というのが通説である。従って、神武紀と崇神紀は同一人物の事績として、続けて読みうる可能性がある。
日本書紀によれば、皇祖天照大御神を祭る伊勢神宮の起源は、崇神・垂仁天皇の時代となっている。皇祖神の天照大御神は、大和の地主神の大国魂と共に、崇神天皇がはじめて大殿に祭った。
しかし、両神を同じ場所に祭るのは具合が悪い(共に住みたまうに安からず)、という ことになった。そこで崇神天皇は、天照大御神を倭の笠縫邑に移し、次の垂仁天皇がさ らに伊勢神宮に移した。天照大御神を大殿から出したのは一種の政教分離で、これを断行したのが東征の主人公・神武すなわち崇神天皇であり、呪術支配からの離脱である。
九州勢力は、東征に際して卑弥呼・台与神話を近畿大和に持ち込んだはずだ。すなわち、卑弥呼・台与神話は東征の主人公と共に九州から畿内へ移動し、畿内大和朝廷で天照大御神へ昇華した。このように考えると、崇神天皇がはじめて天照大御神を大殿に祭 り、後に倭の笠縫邑へ移したことは重要な意味を持つ。すなわち、東征と共に卑弥呼・ 台与神話を畿内に持ち込んだのは崇神天皇で、これは東征の主人公が崇神天皇だったことを暗示している。
すなわち、崇神(=神武)時代の卑弥呼=ヒメコは未だ天照大御神ではなく、崇神天皇は笠縫邑の笠縫神社にヒメ大御神として祭ったのである。そして次の垂仁天皇が伊勢神宮へ移すに際して、はじめて天照大御神の名称を用いたと推定される。
崇神天皇陵は奈良県天理市柳本にある。この崇神陵は、考古学から見て4世紀中頃から後半の築造と考えられている。この崇神陵の年代論は、私が東征の時期とする3世紀末 〜4世紀初とは矛盾をきたす。これをどう考えるべきか。
しかし、問題は崇神陵とされているものが、本当に崇神天皇の陵なのか、実は明確には分かっていないのが現状である。さらにより根本的問題は、今から1600〜1700年も前の古墳の築造年代を、文献の助けを無くして、「4世紀中頃から後半」 と決定できるのであろうか。
戦後の考古学がめざましい進歩をみたのは事実であるが、1600〜1700年前の古墳の築造年代をそれほど正確に決定できるとも思えない。つまり崇神陵の築造時期を通説より若干さかのぼらせ、4世紀初頭と想定することを、現在の考古学が完全に否定できるとは思えない。
もちろん、考古学的常識から200〜300年以上も差があれば話は別である。しかし、もし崇神天皇の没年を古事記干支から318年と推定すれば、崇神陵の築造年代とされる「4世紀中頃から後半」とは20〜50年の開きしかなく、この開きを絶対に許さないほど、現在の考古学が古墳の築造年代を正確に断定できるとは思えない。
以上のように考えれば、崇神陵の築造年代の問題は、神武=崇神説を否定するものではない。
崇神天皇は事実上の初代天皇ではないか、また神武と崇神は同一人物であり崇神天皇が東征の実際の主人公ではないか、との学説は明治時代から非常に根強かったが、第2次大戦後はこれに反対する論者も多い。その反対理由は、記紀が崇神天皇を決して日本列島の統一王朝の天皇として描いていないということだ。
崇神天皇による北陸・東海・西道・丹波への四道将軍の派遣は、崇神が近畿を中心とする地方権力にとどまっていたことを意味するからである。しかし、この議論は九州王朝=邪馬台国そのものの東遷が、即、日本列島の統一王朝の出現とする従来の通説を前提 としていたからだ。私の新説のように、東征の主体は邪馬台国そのものではなく、九州の一部の勢力により敢行され(後述)、その実際の主人公が崇神天皇だったとすれば、神武=崇神説は十分に成立する。
従って、崇神時代の大和朝廷は近畿地方の銅鐸文明の国々を征服したものの、日本の統一王朝ではなく、近畿を中心とする地方権力にとどまり、これは記紀の記述とも一致する。歴史の流れをこのように考えれば、『旧唐書日本伝』の「或いは云う、日本は旧小 国、倭国の地を併せたり、と」 を無理なく理解できる。すなわち、旧唐書での「日本」と は近畿大和政権、「倭国」とは九州を意味し、神武東征により成立した近畿大和政権が、 後に倭国=九州王朝の領域を併合したことを意味する。
記紀で初代天皇を神武と崇神の二人に分割したのは、当然のこととして理由がある。
すなわち、
1 記紀神話では、日向三代王朝は日本全体の統一王朝ではなく、九州の日向の王朝と設定されている。記紀は皇孫・ニニギノ命を日向の高千穂の峯に降臨させる前に、 出雲の国譲り神話をおいて、日本統一の準備段階を設定している。そして、神武天皇は東征で天下を統一し、紀元前660年に初めての人皇として即位した。つまり、日本書紀では日本統一は紀元前660年に完成したことになっている。それでは、この日本統一を崇神天皇の事績としたらどうなるか。日本書紀の崇神紀には、四道将軍を派遣して、「まつろわぬ人等」を平らげたことが記されている。崇神天皇は東征で日本統一を完成し、初代天皇として即位したのに、その直後に、同一人物が北陸・東海・西道・丹波に兵を派遣して「まつろわぬ人等」を平らげたとなれば、 話がおかしくなる。歴史の事実は、崇神は東征で畿内を征服したものの、その時点では地方権力にとどまり、日本統一は成就していない。そして崇神天皇は、畿内を拠点として近隣の銅鐸文明圏の征服を進め、このために四道将軍を派遣したのであろう。これは、東征により日本統一が完成したという記紀の設定が歴史事実に反していたことを意味する。記紀はこの矛盾を隠すため、崇神天皇の分身として神武天皇を設定し、この神武天皇が東征で日本統一を成就し、紀元前660年という中国に負けない古い時代に日本の統一国家が成立したことにした。こうしておけば、崇神天皇による四道将軍の派遣は、日本統一後の安定した600年経過してからの地方の反乱の平定ということで、ストーリーが一応は成り立つからである。そして、そのために、神武と崇神の間の600年間に第二〜九代の架空の天皇を設定したのである。
2 日本書紀によれば、崇神天皇は天照大御神を天皇として初めて倭の笠縫邑に祭ったとある。崇神天皇は、天照大御神と大国魂の二神を天皇の大殿の内に並び祭っていたが、この二神は「ともに住みたまうに安からず」であった。このため、豊鍬入姫命をもって天照大御神を倭の笠縫邑に祭らせ、また淳名城入姫命をもって日本大国魂神を祭らせたが、淳名城入姫命は「髪落ち、体が痩せて」しまった。歴史の事実は、崇神天皇率いる九州勢力の東征で卑弥呼・台与神話が畿内に持ち込まれ、後に天照大御神に昇華したが、征服された銅鐸文明の従来の土着の大国魂神との対立が続いたことを意味する。記紀によれば、崇神天皇の時代は天下太平ではなかった。これを日本書紀でみると次の通り。
五年:国内に疫病多くして、民、死亡する者有りて、且つ、大半にならんとす。
六年:百姓、流離す。或いは背叛くものあり。其の勢い、徳を以て治めること難し。
七年:今、朕が世にあたりて、しばしば災害有らんことを思わざりき。
十年:遠荒の人等、なお正朔を受けず。是未だ王化に習はざればか。其れ、群卿を選びて、四方に遣して、朕が憲を知らしめよ。(四道将軍の派遣)
要するに、銅剣銅鉾文化の九州勢力は武力で銅鐸文化の畿内を征服したものの、崇神時代の畿内は政治的・文化的・宗教的には依然として不安定であった。この歴史事実のため、神武=崇神として東征も崇神の事績とすると、天照大御神神話が東征により九州から畿内に持ち込まれたことが明らかとなってしまう。記紀神話の設定は、天照大御神は最初から日本全土に輝いており、東征で畿内に持ち込まれたのではない。従って、大和朝廷で初めて天照大御神を祭った崇神天皇を東征の主人公とするのは具合が悪いので、崇神の分身・神武に東征を託したのであろう。
さて、今まで1〜8で神武=崇神説を検討しましたが、総合して結論すれば、記紀は実際の初代天皇崇神の即位を紀元前660年とするために、東征までを神武天皇に託し、一人の人物を二人に分割して配置したのであります。
もちろん、九州勢力の東征が史実で、この東征の主人公を仮に神武天皇と呼べば、神武天皇は決して架空の天皇ではありません。
しかし、神武天皇は神代でなく、あくまで現世の「人の世」としての初代人皇と設定されています。その意味で、実際の東征=紀元後300年頃より1000年も前の紀元前660年の神武東征=統一国家の成立を大和朝廷=天皇家は信じていなかったのです。あくまで、中国に劣らず古い時代に統一国家が成立したとの意味付けだったのです。
これが、子孫の歴代天皇家が神武天皇を無視してきた理由であります。 
3.6 邪馬台国と神武東征

 

一般的には、邪馬台国東遷説は非常に有力ですが、私は必ずしもそう考えておりません。邪馬台国は、3世紀の倭国を代表する九州王朝として、北部九州に存在していました。
この九州王朝が、なにゆえ九州という良き地を捨てて畿内へ移動しなければならなかったのか、従来の邪馬台国東遷説では理由が明らかではありません。
九州王朝が勢力拡大策として東征を行い、畿内勢力を打倒したと設定することそのものはおかしくありません。しかし、だからといって九州王朝そのものが畿内へ移動し、遷都しなければならない理由はなにもありません。
九州王朝にとって、東方の本州は重大関心事としても、大陸および朝鮮半島との関係は、同等ぐらいの関心事だったはずです。九州は朝鮮半島と本州の中間に位置し、九州王朝にとって非常に有利な地理的位置を占め、かりに九州王朝が東征を行ったとしても、その本拠地すなわち首都までも畿内大和へ移したとは考えにくいのです。
従って、東征は九州の一部の「ある種の勢力」により実行され、九州王朝そのものは倭国を代表する正統王朝として、引き続き九州を本拠地としていたのです。
ここで注意すべきは、邪馬台国と九州王朝との関係です。
邪馬台国九州説の立場では、邪馬台国=九州王朝というのが一般的のようです。しかし、この等式が成立するのは、あくまで卑弥呼・台与時代のみで、その前後はかならずしもそうとは言えません。
たとえば、卑弥呼以前の九州王朝の権力主体は奴国や伊都国だった時代もありました。建武中元二年(57年)に倭の奴国王が後漢へ遣使して光武帝より「漢委奴国王」の金印を授与されたこと(後漢書)、また永初元年(107年)に倭国王(倭面土国王)帥升等が後漢へ遣使して生口160人を献じた(後漢書)との事実から分かるように、邪馬台国以前の1〜2世紀の北部九州は、博多湾岸の奴国や伊都国などが中心勢力として、ゆるやかな連合を作り倭国を代表するかたちで中国と交渉していたのでしょう。
同様なことが台与以降でも言えます。
邪馬台国そのものは、政治・軍事・経済面で他の九州諸国を圧倒して九州王朝を確立したのではありません。女王卑弥呼は、巫女として諸国間のバランスの上に乗って「共立」され、台与も同様だったと倭人伝に記されています。
卑弥呼・台与が率いる約30カ国の邪馬台連合国家=倭国は、強力な中央集権国家ではありません。邪馬台連合国家の統一は、政教一致の卑弥呼・台与の宗教的呪術力により維持されていた面が大きいのです。
卑弥呼の場合は、たまたま、
宗教的呪術力が非常に優れていたこと(鬼道につかえ、よく衆を惑わす)、
政治・外交手腕に優れていたこと、
治世が50〜60年の長年月にわたったこと、
以上三点により、中国からは「親魏倭王」とされ、国内的には「皇祖」とされたのです。このことは、後の大和朝廷が呪術支配から脱し、政治・軍事・行政組織を整備して強力な中央集権国家を築いたのとは根本的に異なります。つまり邪馬台連合国家の国家機能は本質的には不安定で、巫女の宗教的呪術力に依存していた面が大きいのです。
従って、卑弥呼・台与なき後の邪馬台連合国家すなわち九州王朝は求心力を失い、元の諸国のドングリの背比べに戻り、奴国や伊都国などの博多湾岸の国が有力となったことも十分に考えられます。すなわち、卑弥呼・台与の前後の時代の九州王朝の権力主体は、奴国・伊都国などの筑紫勢力だったと推定されます。
要するに、東征の主体は九州王朝そのものではなく、また邪馬台国=九州王朝の等式は、卑弥呼・台与時代以外はかならずしも成立しない、ということです。
さて、そうすると東征の主体は何かということになります。
記紀神話では神武東征の出発地は日向=南九州となっています。すなわち、東征の主体は日向勢力となっており、これを否定する理由は見つかりません。
ここで注目すべきは、日向と宮崎県との関係です。宮崎県は古来、日向と言われてきましたが、宮崎県といっても広いのであって、東征の起点を宮崎県南部とみるか、または北部かは一つの問題点です。
狗奴国の領域が現在の鹿児島・宮崎両県にほぼ相当することは論証しましたが、東征の起点を宮崎県南部とすれば、東征の主体は狗奴国となります。ところが、宮崎県北部(高千穂峡、五ヵ瀬川、延岡市一帯)は、狗奴国の領域だったのか邪馬台連合国家の領域だったかは微妙です。
ただし、狗奴国の本来の領域は鹿児島県(薩摩・大隅)であって、宮崎県(日向)は九州王朝(北部九州)と狗奴国の中間地帯だったと推定されます。そして、狗奴国が強勢な時期には、狗奴国の勢力圏が宮崎県のほぼ全域に及んでいたと思われます。
しかし、邪馬台国時代終焉後の紀元280〜300年頃の九州全域が、以前の小国分立状態となり、日向地方も北部九州勢力・南部九州勢力のどちらにも属さない中間地帯の状況だったと推定されます。
従って、邪馬台国時代終焉後の小国分立・呪術支配の紀元300年前後に、宮崎県北部から南部にかけての諸勢力と宇佐勢力が連合して東征の途についたと見るのが妥当です。そして、この東征軍は賛同する筑紫勢力も糾合して、大軍団を編成したと考えられます。東征軍が宇佐から直接に畿内に向かわず、福岡県の崗の水門(遠賀川河口)に立ち寄ったのは、筑紫勢力を東征軍に加えるのが目的だったと考えられます。
以上のように考えると、「高千穂の峯」について二つの有力候補地が存在することも、あながち否定できません。第一の候補は、宮崎県北部の高千穂町・五ヵ瀬川・延岡市付近で、第二の候補は、宮崎県南部の高千穂峯町・宮崎市付近です。
日向の高千穂峯について、江戸時代以来著名な比定地は、日向西臼杵郡の三田井(今の高千穂町)と薩摩の霧島山ですが、文献的には、日向風土記にもある前者が有力とされてきました。
しかし、記紀神話によれば、東征軍は神武天皇と兄・五瀬命に率いられていたとされます。そして、五瀬命は大阪府泉南郡で手に重傷を負い、この傷が悪化し後に紀伊で死去するまでは、神武天皇とともに東征の主人公でありました。すなわち、記紀神話では五瀬命は宮崎県北部(高千穂町・五瀬川・延岡市)勢力の代表として、また、神武天皇は宮崎県南部(高千穂峯・宮崎市)勢力の代表として描かれています。そして、五瀬命は戦死し、残った神武天皇が東征を成就させたということです。
いわゆる高千穂峯を一ヵ所に限定するのか、または二ヵ所と考えるかは難しいところです。もし一ヵ所に限定するとすれば、文献的に有力な宮崎県北部とすべきでしょう。また、戦死するまでは東征の主人公であった五瀬命が五ヵ瀬川流域の出身らしいことも、これを裏付けるものです。
しかし、もし東征が宮崎県北部と南部の連合勢力を核とすれば、近畿大和朝廷の発祥の地の日向すなわち高千穂峯を一ヵ所に限定する必要はありません。
ところで、日向地方(宮崎県)は、歴史的にも、また、考古学的に見ても後進地域であって、近畿大和朝廷の発祥の地−−−すなわち神武東征の出発地にはふさわしくない、との説があります。これをどう考えるべきでしょうか。
しかし日向地方には古墳がいたるところに分布しています。なかでも、(1)一ノ瀬川および小丸川流域は児湯郡の平野がもっとも濃密であり、この中でも西都原古墳群は有名です。
ついで、(2)大淀川流域の宮崎・東諸県の平野。または、(3)五ヵ瀬川流域の延岡南方および上流の高千穂地方などに多く、前方後円墳に富んでいます。
もちろん、これらの古墳群を含めて、日向の古墳は出土鏡の年代、碧玉品の乏しさ、馬具の多いことなどから、前期古墳とは認められず、中期から以後とするのが現在の考古学会の定説です。
しかし、神武東征を紀元300年前後とすると、日向の中期古墳群とは100〜150年の年代の幅しかありません。日向地方のあれだけの大古墳群が突如として発生したわけでもないでしょう。大古墳群が築造された時期から100〜150年前の紀元300年前後には、すでに相当な政治・軍事勢力が存在していたと考えるのが常識的です。
さらに、日向の古墳群をすべて中期以降の築造と決め付けるのも危険です。日向地方の古墳群の調査はまだ十分には進んでおらず、今後の調査で、一部は初期または前期古墳と認定される可能性が残されています。
次に考えなければならないのは、文化レベルと軍事力との関係です。一般的には、文化レベルが高いほど軍事力も強いと考えがちです。
しかし古今東西の歴史を見ると、文化レベルの高さと軍事力は必ずしも一致しておりません。文化レベルは低くても、勇猛な部族・民族が強力な指導者(英雄)の指揮下で、文化レベルの高い国家を征服した例は数多くあります。
たとえば、チンギスハーンは勇猛な蒙古族を率いて中国本土に攻め入り、一代で大帝国を築きました。しかし、この時代の蒙古族の文化レベルは、中国とは比較にならぬほど低かったのです。
日本でも同様です。薩摩隼人は勇猛さで知られてきました。薩摩地方は歴史的にみて、文化レベルは低かったにもかかわらず、その勇猛さで大和朝廷を苦しめてきました。また魏志倭人伝に登場する狗奴国の本拠地は薩摩・大隅ですが、文化レベルは低くても、武力的には北部九州の邪馬台連合(九州王朝)に対抗していたのです。
ましてや、日向地方は砂漠でもなんでもありません。古墳中期にはあれだけの大古墳群を築造していたのです。このように考えると、日向地方が歴史的に文化レベルが低かったことを理由として、日向が神武東征の出発地とする記紀の記述を否定するのは誤りです。
さらに考えるべきは、天皇家と日向地方の血族関係です。記紀の帝紀的記載は、応神朝以降は天皇の名前だけでなく、皇妃・皇子女においても信頼性が高いと言われています。記紀によれば、仁徳は葛城襲津彦の女、巌之媛をめとって履中・反正・允恭を生み、日向の諸県君牛諸の女の髪長媛をめとって大草香皇子や幡ヒノ皇子を生みました。
また履中は葛城系の黒媛をめとって市辺押羽皇子(顕宗天皇・仁賢天皇の父)を生んだと言います。さらに、雄略は日向系の眉輪王や市辺押羽皇子を殺して帝位につき、日向系の幡梭皇女を皇后とし、葛城系の韓媛をめとって清寧を生んだのです。
仁徳天皇から雄略天皇までが、倭の五王に相当すると言われています。そうすると、五世紀の倭五王当時の皇室の外戚として重きをなしたのは、葛城氏と日向の諸県君で、史実の可能性が大きいのです。
また、葛城襲津彦は間違いなく実在の人物で、襲(熊襲)の出身らしいと言われています。すると、神武東征の紀元300年頃からわずか100〜200年後の倭五王時代の皇室の外戚として日向や南九州勢力が重きをなしたのは、やはり、神武東征の出発地が日向(宮崎県)であったことを暗示しています。
結論的には、北部九州(九州王朝)と南九州(熊襲、隼人あるいは狗奴国)の中間地帯の日向(宮崎県)の諸勢力が、紀元300年前後、全国的な小国分立状況のなかで、呪術支配から脱すべく新天地を求めて東征の途につき、賛同する宇佐と筑紫勢力を加えて、瀬戸内海を通って近畿地方へ向かったと考えるべきでしょう。
なお、神武東征時の宇佐勢力は、もはや九州王朝の権力主体ではなく、主体は筑紫勢力(奴国、伊都国など)へ移り、この九州王朝は引き続き倭国を代表する正統王朝を自認していました。この場合の九州王朝と近畿大和朝廷の関係は、決して対立的ではなかったと考えられます。東征以前の九州と近畿は、銅剣銅鉾文化圏と銅鐸文化圏の文化的政治的な対立でした。
しかし、東征は銅剣銅鉾文化の勢力圏拡大を意味し、東征後の九州王朝は自らの勢力範囲が広がったとの意識で、畿内に新しい対抗勢力が現れたとの認識ではなく、畿内を含む日本全体を代表する正統王朝を自称していたと推定されます。
ただし、前にも述べたように、紀元300年前後の九州王朝の政治形態は、かなりルーズで支配力も弱く、呪術支配・小国分立のもと、名目的になっていたと推定されます。
これは、室町時代後半の戦国時代の室町幕府、また中国の春秋戦国時代後半の周王朝が全く支配力を失い、名目的になっていたのと同様です。その意味で、近畿大和朝廷は事実上は独立王国として、着々と勢力を拡大していったものと思われます。 
3.7 倭の五王と九州王朝説

 

このようにして成立した近畿大和朝廷は、その後、着々と四方を攻略し(祟神天皇の四道将軍の派遣、景行天皇の熊襲征伐、ヤマトタケルの東国平定)、370年頃からは百済と同盟して朝鮮半島に進出し、応神天皇は380〜410年頃に半島の奥深く軍事的に侵攻して、新羅および高句麗の好太王と半島の覇権をめぐって死闘を演じました。以来、応神天皇は日本国家の守護神の武神として、宇佐八幡宮を頂点とする全国四万六百余の八幡神社に祭られてきました。
以上の大和朝廷による朝鮮半島での軍事作戦の展開は、倭の五王の時代を含めて、663年の白村江の戦いまで、300年にも及んだのであります。
倭の五王とは、413年から502年の約100年間に、中国の南朝と通交した倭(日本)の五人の王者のことです。この倭王は、讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」と称しています。通説では、讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇とされています。
倭の五王に関して、日本側と中国側の記録の食い違いを理由として九州王朝の王者群とする説がありますが、この九州王朝説は誤りです。
すなわち、倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。
これは4年に1回の割合で、しかもほとんど300年の間、連続的に起こっており、ま た倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。
このような事態は、日本国内の政治的・軍事的統一を前提としない限り考えられず、この期間に活躍した倭の五王も当然のこととして大和朝廷の天皇ということになる。
倭王・讃に有力視される仁徳天皇、およびその前の応神天皇は世界最大級の大古墳を築造している。すなわち倭五王の時代、近畿大和朝廷はすでに強大な政治的・軍事的力を保有していたと考えなければならない。
仮に倭の五王の時代に日本国内が西の九州王朝と東の近畿大和朝廷に二分されていたとすると、西の九州王朝は応神・仁徳に代表される強大な近畿大和朝廷の脅威を背後から受けながら、朝鮮半島へ大軍を送り続けたことになる。
九州王朝は国内統一よりも200キロの海を渡った朝鮮半島の経営を優先させたのでしょうか。しかしそのような事態は、政治的・軍事的観点からして全く考えられない。
倭の五王に関する日中両国の記事については、大筋で合っているという説と、大きく食い違っているとの評価に二分されている。
記録の食い違いには、誤認・誤記・誤写に基づく「単純な食い違い」と、政治的思惑による「意図的な食い違い」があり、倭の五王に関する記事でもこの二つの食い違いが混在している。
倭の五王に関しては、政治的思惑による「意図的な食い違い」は深刻な問題である。
すなわち、
正史『日本書紀』は中国王朝との関係については、「天皇家による大和朝廷は、中国の歴代王朝に対して決して臣従していない、対等な関係である」、「近畿大和朝廷が中国の歴代王朝に臣従していたという事実関係は認めない」、というのが基本的な立場だ。
『日本書紀』は「親魏倭王」に制せられた「卑弥呼」「邪馬台国」すら認めておらず、 単に神功皇后の治世を201〜269年として3世紀邪馬台国時代に合わせるにとどめている。すなわち『日本書紀』は神功紀に魏志倭人伝、晋起居注を引用しながら「邪馬台国」「卑弥呼」「台与」との表現を一切さけて、神功皇后が卑弥呼であるような無いような、あいまいにしている。
拙著で神功皇后を卑弥呼の虚像と呼んだゆえんである。そして卑弥呼の実像は神代に送られ、高天原の天照大御神とされたのである。
ましてや、中国王朝の臣下を自他ともに認めた「倭の五王」が大和朝廷の天皇であったことを許せるはずがない。九州王朝説者は、日中の記録の食い違いから、倭の五王を九州王朝の王者群としている。しかし話はあべこべなのである。
『日本書紀』は作成にあたり多くの漢籍を参考とし、倭の五王を記した『梁書』からも 205字を借用しているが、『日本書紀』の編者(大和朝廷)にとって、中国側の記録に現れる倭の五王が大和朝廷の天皇群と「合致しては困る」「一致してはまずい」のである。
『日本書紀』の編者は、倭の五王に関する中国側記録を手元に置きながら、これとあま り一致しないように『日本書紀』を編集したのである。
したがって、『日本書紀』は応神・仁徳・雄略天皇の時代に、日中の使節が往来したことをさらりと記述するにとどめた。これは、神功紀での邪馬台国・卑弥呼・台与の扱い方とまたっく同じ手法である。
このように、近畿大和朝廷が認めなかった、また抹殺した「影の歴史」をつなぎあわせると、いわゆる九州王朝ができあがる。まさに「幻の九州王朝」の蜃気楼である。
九州王朝説の根拠の一つとして、『隋書』にあらわれる600年、607年、608年の日中交渉の記事がある。最大の論点は、この当時の倭王(日本国王)は男帝か女帝かということだ。というのは『隋書』によれば、この当時の倭王は「姓は安毎(アマ)」、 字は「多利思比狐(タリシヒコ)」とあって、「王には妻と後宮に女、六、七百人有り」 と、男帝と記されているからである。
ところがこの当時の日本国王は女帝の推古天皇で、九州王朝説者はこの違いを最大の根拠として、隋王朝と交渉したのは「九州王朝の男王」と主張している。しかしこの説も誤りである。
『隋書』での安毎・多利思比狐(アマ・タリシヒコ)とは、天足彦(アマタリシヒコ ) で天皇の諱(いみな)には足彦(タラシヒコ)というのが多いので、一般天皇の称号とする通説が妥当である。
607年と608年の日中交渉の記事は『日本書紀』にも記載されており、『隋書』と完全に一致している。また、『隋書』の607年条は「其の王・多利思比狐」、608年条も「倭王」と一般称号で記しているので特に問題はない。
問題は600年条の「王には妻と後宮に女、六、七百人有り」の記事だ。しかしこの当時、聖徳太子は摂政として「ことごとく全権を委ね」られた事実上の国王(倭王)であり、「十七条の憲法」や隋の煬帝への 「日いずる国の天子、云々」 の国書も聖徳太子のものとされている。 したがって、聖徳太子は国内的にも国外的にも事実上の国王(倭王)と振る舞っていたわけで、このことが『隋書』の600年条に反映していると推定するのが妥当である。
『日本書紀』は、編集に際し『隋書』も参考とし、これより347字の章句を借用している。しかしながら『隋書』の600年条を見た『日本書紀』の編者は困惑すると同時に、『隋書』での事実上の倭王(聖徳太子−男王)と『日本書紀』での形式上の倭王 (推古天皇−女帝)との混乱を避けるため、600年の遣隋使は『日本書紀』に記載しなかったのである。
従って、600年の遣隋使の記録は『日本書紀』の編者によって意図的に削除されたのであって、『日本書紀に記載がないから九州王朝による使節』、との説は誤りである。 
3.8 古代統一国家の形成

 

478年、倭王武(雄略天皇)が中国宋王朝へ遣使した際の上表文に次の章句があります。
昔より祖でい自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。
この文章は、4世紀の大和朝廷による日本統一と、5世紀にかけての朝鮮半島への軍事的進出を描いたものです。
すなわち、紀元300年前後に九州勢力の東征で近畿大和朝廷が成立します。このことは、記紀では神武(崇神)東征として描かれています。また考古学的に見ると、「近畿地方の銅鐸文明の滅亡」 「近畿大和朝廷に銅鐸文明の記憶なし、日本神話に銅鐸は全く出現せず」「近畿弥生文化と古墳文化の断絶」 「九州の弥生文化と近畿古墳文化の連続」 「九州の鏡・剣・玉が天皇家の三種の神器となった」 、ことに現れています。
このように成立した大和朝廷は、まず崇神天皇が畿内を拠点として、四道(北陸、東海、西道、丹波)将軍を派遣し、勢力圏の拡大に努めた。古事記干支によれば、崇神天皇の没年は318年であるから、320年頃の大和朝廷は近畿を中心として西は岡山県、東は名古屋の濃尾平野までが勢力圏であった。また崇神末期の崇神60年条に出雲王朝との戦争が記されており、320年頃には出雲付近まで勢力をのばしていた。
次に垂仁天皇の初期には、出雲地方は完全に大和朝廷の支配下となり、西は広島県まで勢力をのばした。しかし、垂仁2年条に「伊都都比古(伊都国王)が穴門(山口県)の 国王を自称した」 とあるので、山口県はまだ支配下になかった。
この当時の伊都国王は、名目的な九州王朝の盟主であったが、卑弥呼・台与の200〜 270年頃の九州王朝(邪馬台連合)の領域であった西中国(穴門)の支配者を自称したのであろう。垂仁天皇の時代は、320〜340年頃と推定されるが、末期の340年頃には西は本州西端の山口県、東は日本アルプスまで支配下においたと推定される。
340〜360年頃の景行天皇時代になると、西は関門海峡を越えて九州へ、東は日本アルプスを越えて関東へ進出する。
日本書紀の景行紀によれば、景行天皇は熊襲が叛くと、周防(山口県)から九州の豊前 (大分県)へわたり、豊後(大分県)、日向(宮崎県)と進み、日向の高屋宮を拠点と して熊襲の征伐に向かったとある。そして熊襲征伐後、筑紫国(福岡県)、火国(長崎県・佐賀県・熊本県)を巡狩してから京(畿内大和)へ還ったとある。景行天皇が九州遠征に出発したのが景行十二年、京へ帰還したのが十七年であるから、約7年間、九州に滞在したことになる。その後、熊襲がまた叛いたので、日本武尊(ヤマトタケル命)を派遣して征伐した。
一方、古事記では、景行天皇の九州親征はなく、倭建命(ヤマトタケル命)が熊襲を征伐したことになっている。このように、日本書紀と古事記では熊襲征伐の主人公の違いはあるが、景行天皇時代に大和朝廷が九州を支配下においたのはまちがいない。
このことは、倭王武の上表文の「西は衆夷を征すること六十六国」に相当する。
ところで、神武東征で成立した大和朝廷(天皇家)が祖先の地の九州を征伐するのはおかしい、との説がある。しかし、同様のことが明治維新でも起きている。
明治政府は薩摩・長州が中核で、薩長連合軍は京および江戸に攻め上がり、徳川幕府を倒して明治維新となった。そうすると、薩摩は明治政権の発祥の地ということになる。 ところが、明治十年(1877年)に西郷隆盛が薩摩を拠点として反乱をおこし、西南戦争となった。この鎮圧に政府は約半年を費やしたが、明治政府は維新のわずか10年後に発祥の地・薩摩へ攻め込んだことになる。
前にも指摘したように、卑弥呼・台与が統治した邪馬台国時代の九州王朝は、政治・軍事・行政組織が整備された中央集権国家ではなく、卑弥呼・台与の宗教的権威を求心力として、群小国家が一つにまとまっていたのである。これに対して、神武(崇神)東征で紀元300年前後に成立した近畿大和政権から今日にいたるまでの、1700年間におよぶ日本国家の本質は、統治組織が整備された強力な中央集権国家ということである。
邪馬台国時代が終焉した紀元280年頃から景行天皇による九州遠征の350年前後までの九州は、以前同様の小国分立となり、また、小卑弥呼・似非卑弥呼の続出で呪術支配の閉塞した社会状況となって、九州王朝は名目的になっていたのであろう。
このことに嫌気をさした勢力が、中国大陸・朝鮮半島の政治・軍事情勢の激変と相前後して、新天地(よき地)を求めて300年前後に近畿地方へ移動(神武東征)したのであろう。
従って、350年頃の九州は薩摩・大隅の熊襲以外にはまとまった政治・軍事勢力はなく、また北部九州と日向が近畿大和朝廷の出身地域ということもあって、割合簡単に九州平定が実現した。
九州を平定した景行天皇は、次に東方へ目を向け、関東・東北地方へ進出する。日本アルプス以東は、考古学的に見れば有角石器文化圏で、毛人(=アイヌ人)の国々が存在していた。このことは、旧唐書日本伝の次の文とも一致する。
その国(日本)の境、東西南北各々数千里あり。西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山有りてかぎりを為し、山外はすなわち毛人の国なり。
日本書紀によれば、景行四十年、天皇は「東国安からずして、暴ぶる神多く起こる。ま た蝦夷ことごとく叛く。誰か人を遣して乱を平けむ」とのたまった。そこで、日本武尊が軍勢を率いて、伊勢神宮に参拝した後、焼津(駿河)、相模、上総を通り、陸奥国に入って蝦夷を平定した。帰りは、日高見国(北上?)を出発して、常陸(新治、筑波) から甲斐国(酒折宮)へ入った。さらに信濃国、越国(新潟県)を平定するため関東へ 戻り、武蔵、上野を経て碓氷峠に至った。ここで軍勢を二手に分けて、吉備武彦が越国を、日本武尊が信濃を平定して尾張に帰還した。しかし、景行四十三年、日本武尊は病に倒れ、京に帰還することなく、白鳥となって昇天したとある。
以上の日本武尊の東国平定物語の特色は、(A)日本アルプス以東の毛人の国々のすべてが対象となっていること、また、奥州の蝦夷まで含まれること、(B)この当時、日本アルプス以東には強大な政治・軍事勢力が存在せず、未開地の平定であること、であろう。
そしてこの物語は、倭王武の上表文の「東は毛人を征すること五十五国」に相当する。
一方、古事記では、倭建命(ヤマトタケル命)は軍勢を賜わらずして景行天皇より東方十二道の平定を命じ られた。倭建命は伊勢大神宮に参拝したのち、相武の焼遺、走水の海(浦賀水道)から 上総を通り蝦夷を平らげた。帰りは、新治・筑波を通って足柄から甲斐・信濃経由で尾張に帰還したことになっている。
この物語での古事記と日本書紀の違いは、古事記では倭建命は熊襲平定後まもなく、天皇によって軍勢も賜らずして東国に出発せしめられ、命はそれを嘆息したとするが、日本書紀では日本武尊がみずから進んで天皇の命をうけ、勇躍出発したことになっていることである。
なお、古事記では越国(新潟県)の記載が無いが、日本書紀でも日本武尊自身は越国へは行っていない。従って、古事記では倭建命本人の行動のみが記載されたと考えられる。
以上見たように、景行天皇末期の350〜360年頃までに、大和朝廷は西は九州から東は関東・東北まで平定した。このことは、神武(崇神)東征の紀元300年前後から350〜360年頃までの、50〜60年間の比較的短期間に国土統一がなされたことを意味する。これは前にも言及したように、
(A)この当時の日本は、全国的な小国分立であって、まとまった政治・軍事勢力は出雲王朝と熊襲ぐらいしかなく、また出雲王朝・熊襲そのものも、この当時は強大ではなかったこと、
(B)九州王朝は名目的には存在したものの、小卑弥呼・似非卑弥呼の続出で、北部九州と西中国も小国分立状態となっていたこと、
(C)神武(崇神)東征で成立した近畿大和朝廷が、成立当初から統治組織が整備された強力な国家を指向していたこと、による。
360〜370年代と推定される仲哀天皇時代となると、いよいよ海を越えて朝鮮半島への進出が開始される。これは、百済との同盟を基本として、新羅およびこれを支援する高句麗との半島をめぐる300年にもおよぶ覇権争いとなる。
これは、倭王武の「渡りて海北を平ぐること九十五国」に相当する。応神朝から本格化した大和朝廷による朝鮮半島への軍事的進出について、なぜ、これほどまでに大和朝廷が朝鮮半島への進出に国家の総力を挙げて執念を燃やし続けのかは、一つの謎であろう。
すでに論証したように、神功皇后の摂政時代の出来事は、一部は仲哀天皇、大部分は応神天皇によるものである。そして、応神天皇は、390〜410年頃には朝鮮半島の奥深く軍事的に侵攻し、高句麗の好太王と半島の覇権を巡って死闘を演じた。以来、応神天皇は日本国家の守護神の武神として、宇佐八幡宮を頂点とする全国四万六百余の八幡神社に祭られてきたのである。
応神天皇は、日本書紀にあらわれる歴代天皇の中で朝鮮半島へ渡った唯一の天皇である。すなわち、応神は神功皇后と共に胎中天皇として朝鮮半島へ渡り、新羅と戦ったことになっている。しかし、胎中天皇などということが現実にあるわけがない。この「胎中天皇」という仮面をはぐと、「応神は天皇となる前に朝鮮半島で新羅と戦っていた 」、との歴史の事実が現れる。
応神天皇が皇統の入り婿で新王朝の創始者とすると、次のシナリオが考えられる。−−−『応神は、神功皇后の娘のナカツ姫と結婚した。そして、百済を救ける支援軍の司令官として、朝鮮半島で新羅と戦っていた。このころ、九州で熊襲が反乱をおこした。
そこで、仲哀天皇は熊襲平定と百済支援軍を指揮するため、みずから神功皇后を同伴して、長門(山口県)から筑紫(九州)へ下行した。ところが、仲哀天皇は熊襲との戦いで戦死してしまった。ここに皇位継承問題が発生した。神功皇后は娘婿の応神を支持し、神功皇后と応神は仲哀天皇の死を天下に知らしめず、穴門(山口県)の豊浦宮に密かに葬った。そのうえで海路にて京へ向い、ナカツ姫の異母兄弟のカゴ坂王・忍熊王を倒して、応神は天皇となった』
このように考えると、宇佐神宮が天皇家の宗廟とされている意味が一段と重みを増してくる。すなわち、大和朝廷の皇祖は卑弥呼・台与(天照大御神・豊受大神)であると共に、応神天皇もまた新たな皇祖なのである。そこで大和朝廷は、応神天皇を邪馬台国の故地・宇佐に八幡神=武神として祭り、応神王朝を邪馬台国・卑弥呼の流れをくむ正統王朝の位置づけとし、以来、宇佐神宮は天皇家の宗廟とされてきたのである。
さて、応神天皇時代の、倭(日本)・百済連合と高句麗・新羅連合による朝鮮半島での覇権争いは、大規模かつ激しいものであったことは記録によっても裏付けられる。
すなわち、414年建立の高句麗「好太王(広開土王)碑」によれば、
391年:倭が海を渡り、百済・新羅を破り、臣民となす。
396年:好太王みずから軍を率いて百済を下す。
399年:百済が誓約に違反して、倭と通じる。また、倭軍が新羅国境に満ち、新羅は高句麗の援軍を要請。
400年:好太王は歩騎五万の新羅救援軍を派遣。倭軍が新羅城内に満ちていた。しかし、倭軍を破り、任那・加羅まで追撃する。
404年:倭軍が今度は帯方地方に侵入。好太王は倭軍を破り、斬殺無数。
407年:好太王は歩騎五万を派遣して、(倭軍)と合戦し斬殺し尽くす。戦利品の鎧甲は一万余、軍資器械は数えきれず。
また、1145年作の朝鮮の官撰正史「三国史記」の新羅本紀には、
393年:倭軍が金城(新羅の都)を包囲し五日も解かなかった。
402年:新羅の王子・未斯欣が倭の人質となる。
404年:倭軍が新羅を攻める。
407年:倭軍が新羅の東辺と南辺に侵入。
408年:倭が対馬島に軍営を設けて兵器と軍需品を貯え新羅を攻撃しようとしているとの情報があり、新羅はこれに備える。
さらに、720年作の日本の官撰正史「日本書紀」では、神功紀と応神紀に錯綜して記述されているが、
神功摂政前紀:神功皇后と応神(胎中天皇)は新羅の王城を攻め落とし、王門に 矛を樹つ。
神功摂政3年:葛城襲津彦が新羅を攻める。
神功摂政46年:百済と同盟。
神功摂政49年:荒田別・鹿我別を将軍として新羅を破る、また南加羅などの七国 を平定す。
神功摂政52年:百済の近肖古王が同盟の誓いとして日本に七枝刀・七子鏡を贈る。
神功摂政62年:襲津彦を派遣して新羅を撃つ。
応神3年;百済の辰斯王が日本に礼を失したので、使者を派遣す。辰斯王は殺され、阿花を新王とす。
応神14年:葛城襲津彦を加羅国へ派遣す。
応神16年:襲津彦などが新羅を破る。
応神28年:高麗の使者が来朝す。表に「高麗の王、日本国に教ふ」とあり、時の太子は怒りて其の表を破る。
以上三つの史料は、好太王碑は高句麗の立場から、三国史記は新羅の立場から、また日本書紀は日本の立場から記録されたものであり、自国の都合の悪いことは隠したり、歪曲していることも考えられるので、すべてが真実を語ったものではないかも知れない。
たとえば、日本書紀には高句麗との戦いが記録されておらず、新羅との戦いに終始している。現実には、前面の新羅との戦いが主であるが、新羅を支援する高句麗の好太王との戦いも激しいものであった。しかし、高句麗との戦いは好太王碑から分かるように、倭軍の全面的勝利とはなっていない。
好太王軍に阻まれたり、後退を余儀なくされたり、敗退したこともあった。このようなことから、日本書紀では高句麗軍との戦いは省略し、新羅との戦いに集約してしまったのではなかろうか。
その後、倭王讃の仁徳天皇の410〜430年代は、高句麗・新羅とは一時的に休戦状態となり、倭王讃は朝鮮半島経由で中国宋王朝へ遣使した。しかし、雄略天皇の460 〜470年代には高句麗・新羅との対立が再燃する。このことが、倭王武の上表文の「道は百済をへて、船舫を装治す。しかるに句麗は無道にして・・・路に進んでも、あるいは通じ、あるいは通ぜず」に表現されている。
これらの大規模な朝鮮半島への軍事的進出を可能ならしめた日本国家の権力の象徴が、応神天皇陵(413年頃の築造と推定)、仁徳天皇陵(435年頃の築造と推定)などの巨大前方後円墳である。また、この両古墳から出土した馬具や馬形埴輪は、当時の朝鮮出兵を示唆するものである。
このようにして、4世紀後半の応神天皇から5世紀の倭の五王にかけて、倭(日本)は盛んに朝鮮半島へ軍事的に進出し、半島での覇権確立を狙うと共に、中国王朝へ遣使して、その権威にもとづく承認を求めた。
ところが、雄略天皇時代には、一方では中国王朝を全世界の中心とする「天下」を認めて中国へ遣使しながら、他方、日本国内のみを天下とする「天下思想」が生まれはじめた。
そしてその後、国号を「日いずる国」としての「日本」に改め、天皇を頂点として、中国王朝と対等の位置づけを主張すると共に、その総決算としての『日本書紀』の成立(720年)が、古代統一国家の完成を象徴するものであった。 
4.最後に(邪馬台国論争について)

 

最後に、この拙著概要を締めくくるにあたり、申し上げておきたいことがあります。
最近の邪馬台国論争は、魏志倭人伝からの解明が行き詰まっているせいか、思い付きや思い込みによる感情的な議論が多過ぎるように思われます。
こと邪馬台国問題となると、専門家ですら我を忘れて感情的な発言をされているケースがあります。もっと冷静に客観的に、他人が納得する根拠に基づく議論をすべきです。
邪馬台国は、何といっても魏志倭人伝などの漢籍に現れる三世紀の歴史的事実であります。魏志倭人伝は三世紀邪馬台国の同時代史料ですから、詳細に記録された里程・日程・方向・風俗描写・日中交渉記事・狗奴国との抗争・卑弥呼像は大変な資料価値があります。
拙著でも言及しましたが、魏志倭人伝の記述は正確無比とは言い難いし、また一点の誤りが無いとは言えませんが、大枠では正しい可能性が強く、倭人伝記述が誤りとの根拠は何もありません。
従って、魏志倭人伝を全く無視して、記紀神話のみから、また古墳・古鏡などの考古学的見地のみから邪馬台国の位置を結論づけるのは極めて危険です。
記紀神話は、「いにしえのことを語り伝えしものゆえに、半実半虚なりと思うべし」ということであり、また大和朝廷の政治的意図による歴史の歪曲・組み替えも想定しておかなければなりません。
また戦後の考古学が目覚しい進歩を見たのは事実ですが、古墳・古鏡の正確な年代は現在の考古学を持ってしても極めて難しいのが現状です。
考古学による古墳・古鏡の年代設定は、多くの仮定・前提に基づいており、それらの前提が少しでも狂えば、すぐ50〜100年単位で時代の違いが生じてきます。
記紀神話や考古学は、邪馬台国・卑弥呼に関し何も明快に語っておりません。
従って邪馬台国位置論は、もう一度原点に戻って魏志倭人伝を正面に据えて解明し、これに記紀神話との整合性、また考古学的見地からの検討も加えて、総合的に判断すべきと考えられます。  
あとがき

 

邪馬台国論の意義は、まず第一に位置論にあることは言うまでもない。魏志倭人伝の全2008文字には、この位置解明に必要な情報が驚くほど豊富に含まれている。
すなわち、方向記述18ヵ所、距離記述16ヵ所、具体的国名34ヵ国(倭国、女王国、韓国、中国は除く)、戸数記述8ヵ所、人名・官名にいったては、カウントの仕方にもよるが、なんと72ヵ所も出現する。
これだけの具体的かつ詳細な情報があれば、日本史上の最大の謎と言われる邪馬台国の位置を特定して、300年に及ぶ論争に決着をつけられるのではないか、と思うのは誰しも同じであろう。そして邪馬台国の位置を特定することによって、今なお不明な古代統一国家形成の謎、すなわち日本国家の起源に迫ることが可能となるのである。
ところで、第二次世界大戦後の邪馬台国論には、もう一つの重要な意義がある。それは「失われた日本」 の原点探しである。第二次世界大戦での敗戦により、大日本帝国は崩壊し、神がかり的な神国日本は否定された。戦後の混乱と食料難の時期の日本人は、日本国家に対する自信喪失もあって、ただその日ぐらしの「糊口をしのぐ」 状況であった。すなわち、戦後の一時期の日本人は精神的には、 「国を失った」 のである。
その後の日本は、欧米の民主主義と先進技術を導入し、ひたすら経済的繁栄を追求し、世界から「エコノミックアニマル」 と呼ばれた。そして、大戦中の忌まわしい出来事と敗戦という事実からできるだけ目をそらして曖昧なものとし、また、国際政治場裡にできるだけ首を突っ込まないようにしてきた。
しかし、戦後の政治的・精神的な昏迷の中にあっても、日本人の心の奥底には、「日本とは何なのか」 「今後の日本はどうあるべきか」 という意識があったのは当然である。
迷った時は原点に戻れ、と言う。この日本国家の原点が、 「邪馬台国=日本国家の起源」 なのである。これが戦後の邪馬台国ブームの根底にあり、国民的話題となっている理由であろう。
戦後民主主義と自由主義経済体制のもと、新しい日本を再構築するためには日本の過去を見つめ直し、その上に基づいて将来展望を考察しなければならない。その場合、日本国家のスタート、すなわち日本国家の生い立ちを検討することがどうしても必要となる。この日本国家のスタートが「邪馬台国=日本国家の起源」 なのである。
もちろん、日本人とか日本民族の歴史は縄文時代、いや、それよりはるか前から存在しており、それはそれで研究しなければならない。しかし、日本国家という政治的組織体(有機体)を論ずる場合、日本国家のスタート=邪馬台国の解明は極めて重要なことである。戦前の邪馬台国はごく少数の専門家によって議論されていただけであった。しかし戦後は国民的話題を呼び、アマチュアも加わって百家争鳴の状況である。この状況の根底に、「失われた日本」 の再構築に必要な日本国家の起源の解明としての邪馬台国論がある。
戦後50年が過ぎた今、21世紀はもう目の前に近づいている。21世紀には、国家の在り方も大きく変質するであろう。これは、(1)貿易自由化など国際的規制緩和の更なる進展、(2)世界的な情報化時代の到来、(3)環境問題などの地球規模の課題の出現が、今後の国家の在り方・運営に、核(兵器・エネルギー)問題と並んで大きく影響を及ぼすと考えられるからである。いな、これらのことは21世紀を待たずに、今すでに時代の流れとして経済・情報のボーダレス化が進行しつつある。
このような時代の流れは、国家や企業などの組織体のみならず個人の思考・行動様式にも大きな影響を及ぼす。日本人個々人が意識していようと無意識であろうと、時代の流れの中に生きている個々人と国家・国際社会との関係は、21世紀には徐々にではあるが大きく変質していくであろう。またこのことは日本国家と、世界国家・地球国家の萌芽とも言うべき国連を含む国際社会との関係、についても全く同様である。
日本人個々人が、日本社会・日本民族が、また日本国家が今日をどう生き、どういう将来展望を持つかは、過去・現在・未来という時代の流れを見すえておかなければならない。戦後日本の50年は、民主主義と先進技術の導入によって「経済大国」 と言われる今日の繁栄を築いてきた。
しかし、バブル崩壊後の日本経済は低迷し、21世紀への確たる展望を持てない状況にある。このような状況を打開するため、「新たな最先端技術」 「新たな民主主義」 を海外から導入しようとしても、もう多くは望めない。経済的にも技術的にも世界のトップレベルに到達している日本は、今後は自分で考え、自ら切り開いていくことが必要となってきているのである。民主主義の問題も同様である。
戦後50年、民主主義が日本で十分機能してきたとは言いがたいが、この制度は本来的に試行錯誤の側面が強く、十分機能していないからといって、画期的な「新たな民主主義」 があるわけではない。従って今後の日本は、自ら考え試行錯誤しながら 「より良き民主主義」を目指していかなければならない。
しかし日本人が、また日本国家が自分自身を十分認識し、自分自身を確立しなければ、 「自分で考え」 「自ら切り開く」 エネルギーと知恵は生まれてこない。そのために日本人および日本国家が自分の生い立ち・歴史を理解しておくことが必要であり、また、そのための日本国家の起源論であり、邪馬台国論なのである。
戦後50年が経過した今なお、世界とくにアジア諸国から日本人の歴史観に厳しい指摘がなされている。この厳しい指摘は、主に第二次大戦中の出来事についてであり、日本人および日本国家は是は是、非は非としてこの過去の事実を冷静に見つめなければならないが、過去の事実・歴史というのは何も第二次大戦だけではない。もちろん、第二次大戦は今から50〜60年前という間近の生々しい史上最大の惨禍として、特に大きく取り上げられるのは止むを得ないであろう。
しかし日本人および日本国家が正しい歴史観を持つためには、第二次大戦も含めて、2000年近い日本国家の歴史全体を考察する必要があり、第二次大戦という部分だけから見ることは本質を間違える危険性がある。この日本国家の歴史全体を考察するに際しての極めて重要な事項としての日本国家の起源論であり、また、邪馬台国論なのである。
その意味で、本著 「邪馬台国の位置と日本国家の起源」 が、日本国家の正しい歴史観を形成するうえでの一助になれば、著者として望外の喜びとするところであります。 
 
邪馬台国 諸説

 

 
天皇の活躍年代

 

天皇一代平均在位年数約十年説によると、古代の天皇の平均在位年数は約10年である。
古代の天皇が、実際に活躍していた年代を知るには、存在が確実な天皇から出発して、一代10年、一代10年と、天皇の系譜をもとに、代によるはしごを古代へむけてのぼっていけぱよい。
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。
用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の大略の活躍年代がえられる。
古代の天皇の実在性
各天皇の活躍年代にせまる前に、古代の天皇の実在性の問題を、はっきりさせる必要がある。
戦後の日本古代史学界では、津田左右吉氏流の文献批判学の立場に立ち、『古事記』『日本書紀』の伝える初代の神武天皇から、第九代の開化天皇までの九代の天皇は、実在しなかったとする説がさかんである。
安本先生は、津田左右吉らのような、古代の天皇の抹殺説、非実在説は、合理的、客観的根拠をもたないと考えている。
たとえば、古代の諸天皇の非実在説では、「第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの名前が、後世的である」ことを、天皇の存在否定の理由にあげる。
しかし、これとは逆に、これらの天皇の名前は、非常に古いものだという根拠を示して、このような主張にたいして、容易に反論することができる。
また、古代史家、直木孝次郎氏は、『古事記』には、帝紀的部分(皇室の系図的な記事)だけがあって、旧辞的部分(事蹟についての物語)を全く欠いていることを根拠として、机上でつくりあげた、綏靖天皇以下八代の天皇の系譜を、神武天皇と、崇神天皇との間にはめこんだとする。
これも、「天皇は実在しなかったはずだ」という前提条件のもとに、恣意的に理由をならべているだけで、この主張は、まったく非論理的であることを示すことができる。
古代天皇の実在を示す四つの積極的根拠
天皇の非実在説は、『古事記』『日本書紀』などの、古文献の分析にもとづいている。
いっぽう、天皇の実在説の立場からも、『古事記』『日本書紀』などの「文献的根拠」にもとづいて、つぎのような、古代の天皇の実在を積極的に支持する根拠をあげることができる。(安本美典著『新版・卑弥呼の謎』)
1 『古事記』『日本書紀』には、第一代神武天皇〜第九代開化天皇までの諸天皇は、「師木(磯城)の県主波江(はえ)の女」など、在地豪族出身の娘と結婚することが多かったと記されている。これにたいし、時代があとの天皇になるほど、「他の天皇の皇女」や、「応神天皇の皇子、稚淳毛二岐(わかぬけふたまた)の皇子の女」などのような、皇族の娘との結婚が多くなる。もし、古い時代の天皇が、六、七世紀ごろに、机上でつくられたものであるならは、古い時代の天皇の皇妃なども、六、七世紀の諸天皇の皇妃の出自にならってつくられるはずである。しかし、事実はそうなっていない。
2 『古事記』『日本書紀』には、第一代神武天皇から開化天皇までの都は、奈良県の葛城郡におかれることが多く、磯城郡はすくなく、奈良県(大和の国)以外には、存在しなかったと記されている。第10代崇神天皇〜第43代元明天皇までの都は、葛城郡には存在せず、磯城郡に多く、奈良県以外もすくなくない。もし、第一代〜第九代の天皇がのちの時代につくられたものであるならぱ、都の所在も、架空につくられたとしなけれぱならない。とすれぱ、のちの時代の都の所在にならってつくられるはずである(初期の天皇非実在論者は、初期の天皇の名前が、のちの時代の天皇の名にならってつくられたとした)。しかし、そうはなっていない。初期の天皇の都の多くは、後代に例をみない葛城にあったとされている。
3 都についていえたと同じようなことが、陵墓の所在地についてもいえる。後代の天皇の陵墓は、添郡や磯城郡にかなり存在しているのに、初期の天皇の陵墓は、添郡や磯城郡には、ほとんど存在しない。
4 初期の諸天皇の陵墓は、山や、山の尾根や、岡や坂など、自然の丘陵の一部を利用して築かれたような記述になっている。後代の天皇の陵墓は、「毛受(もず)の耳原(みみはら)」など、平地に築かれたとする例が多くなっている。これなどは、初期の古墳には、自然の丘陵の一部を利用したものが多いとされる考古学的な事実とも一致する。初期の天皇の陵墓についての記述が、後代につくられたものであるならば、後代と同じく、原や野に陵墓が築かれたとする記述が多くなってもよさそうである。しかし、事実はそうなっていない。
各天皇の活躍年代
安本先生は、以上のように、記紀に記録のある天皇は実在したとした上で、つぎのような原理にもとづき、古代の天皇の大略の活躍年代を推定した。
1 古代の天皇の平均在位年数を、約10年として、各天皇の大略の活躍年代を定める。
2 『日本書紀』には、歴代の古代天皇の在位年数が記されている。この在位年数には、延長があるとみられる。しかし、事蹟が多く、在位の長かった天皇は、伝承上も在位が長いように伝えられがちであろう。そこで、『日本書紀』の在位年数の長さに比例させて、一代の平均値10年に増減を加える。
3 『古事記』には、各天皇の在位年数は記されていないが、各天皇の享年は記されている。長命な天皇は、在位期間も比較的長く、事蹟も多くなリがちであろう。そこで、『古事記』に記されている享年の長さに比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加える。
4 在位年数が長く、事蹟も多い天皇は、『古事記』『日本書紀』などに記されている記事の量も多くなるであろう。そこで、『古事記』『日本書紀』に記されている記事の量に比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加える。
このような原理にもとづき、古代の各天皇の活躍時期の推定値を求めれば、図2のようになる。
図2の年代表によって、古代の天皇・豪族の活躍年代の大略を推定することができる。
[ 図2 諸天皇の推定年代 ]
年代のものさし
温度をはかるには温度計が必要なように、年代を客観的に議論するためには、年代をはかるものさしが必要である。
図2の年代表は、古代史を研究するさいの、絶対年代を測定する「ものさし」となりうる。
さまざまな考古学的な遺物や、文献の記録などと照合して、この年代表が、さまざまなことを矛盾なく説明できることを検証することにより、年代の「ものさし」としての信頼性や、精度がいっそう向上するものと思われる。
遺跡などから出土する土器は、その形式変化の分析などから、大略の編年が明らかにされており、遺跡の年代を推定するさいに重要な役割を果たしている。
しかし、土器については、
・土器だけでは、相対年代についての情報は得られるが、絶対年代は、わからないこと
・20〜30年程度の分解能しかないこと
・地域差があること
・土器の年代については、研究者によって、100年程度の見解の相違があること
など、土器だけで年代を決定するには限界があることを理解しなければならない。
図2の年代表など、絶対年代のよりどころとなりうる方法と併用して、古代史の編年に活用するべきである。 
 
天皇一代平均在位年数約十年説

 

古代の天皇の平均在位年数は約10年
京都大学国史研究室編の『日本史辞典』(東京創元社)の巻末には、天皇の即位、退位の時期、およぴ在位年数の表がのせられている。この表には、『日本書紀』による神武、綏靖、安寧などの諸天皇の在位年数も記されている。
しかし、即位、退位の時期などを歴史的事実として信頼できるのは、第31代用明天皇ごろから以後である。用明天皇からあとの天皇の在位年数などは、『古事記』と『日本書紀』とでも一致している。
安本先生は、用明天皇以後、大正天皇にいたる98天皇(南北朝の北朝の天皇をふくむ)について、その在位の期間を算出し、ついで、時代を5〜8世紀、9〜12世紀、13〜16世紀、17〜20世紀の四つにわけ、おのおのの時代に即位した天皇の平均在位年数を求めた。
その結果は図1のようになる。
図1はつぎのようなことを示している。たとえば、5〜8世紀のあいだに即位した天皇で、在位期蘭のはっきりわかる天皇は20天皇がおり、そののぺの在位期蘭は218年間であり、したがってこの期間の一代平均在位年数は、10.88年である。
図1をみれば、平均在位年数は、上代にさかのぽるにつれて、短くなっていることがわかる。
なお、5〜8世紀、9〜12世紀、13〜16世紀、17〜20世紀という時代区分は、ほぼ飛鳥・奈良時代(〜794年)、平安時代(794〜1185年)、鎌倉・室町・安土桃山時代(1185〜1600年)、江戸時代およぴ現代(1603年〜)という時代区分とも重なりあう。
同様に、京都大学文学部東洋史研究室編の『東洋史辞典』京都大学文学部西洋史研究室編の『西洋史辞典』を使って、そこにのっているかぎりの王について調査した。
中国、西洋、および、世界の王についての平均在位年数の調査の結果から、つぎのようなことがいえる。
1 時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数のしだいに短くなる傾向は、天皇についても、東洋の王についても、西洋の王についても、かなりはっきりとみられる。
2 1〜4世紀の平均在位年数は、全世界的にみてもおよそ10年でかなり短い。そして、5〜8世紀においても、せいぜい10年(日本)から13年(西洋)であり、全世界での平均値は約12年(11.57年)である。
3 17〜20世紀の平均在位年数は、全世界的にみたぱあい、およそ20年である。これは、1〜4世紀の平均在位年数のおよそ二倍に近い。二千年近くのあいだに、平均在位年数は二倍にのぴているわけである。
4 西暦紀元以後の全時代の全世界の平均在位年数は15.79年で、あまり長いものではない。
「奈良7代70年」などといわれるが、日本のぱあい、5〜8世紀の日本の天皇の平均在位年数は、10.88年である。時代をさかのぽるにつれ、平均在位年数がしだいに短くなる傾向から推して、3〜4世紀の、天皇などの権力者の平均在位年数は、10.88年よりも、やや短めとみられる。
以上のように、同時代の中国の王の平均在位年数とくらぺるなど、断面データ的(共時的)にみても、わが国ののちの時代の天皇の平均在位年数の傾向から推定するというように、時系列データ的(通時的)にみても、わが国の古墳時代(3世紀末〜7世紀)の天皇の平均在位年数は、ほぽ10年と考えられる。
政治権カ者の平均在位年数
以上のような事実に、もうすこしデータをつけ加える。
徳川、北条など、天皇以外の、日本の政治権力者について、在位期間をしらべてみる。
1 徳川家のばあい、1603年に、徳川家康が征夷大将軍となり、1867年に、徳川慶喜が大政を奉還している。その間、265年間に、15代の将軍が立っている。その一代平均の在位年数は、17.67年である。
2 足利家のばあい、将軍の在位期間のあいだに、やや空位の時期があるので、ひとりひとりの在位期間を求め、その平均値を算出すれば、一代平均在位年数は、13.50年となる。また、空位のことを考えず、1338年に足利尊氏が将軍となり、1573年に足利義昭が織田信長によって追討されるまで、235年間に、16代の将軍が立ったことから、一代あたりの年数を求めれば、平均在位年数は、14.69年となる。
3 織田信長、豊臣秀吉の二人が政権の座にあったのは、25年であったといえる(1573年7月に信長が、足利義昭を追ってから、1598年8月の秀吉の死にいたるまで)。一代あたり、12.50年である。
4 鎌倉幕府のばあい、頼朝、頼家、実朝の源氏の三代と、北条時政から守時までの16人の執権が、為政者の位置にあった期間の合計は158年間で、一代平均の在位年数は、8.32年である。
「江戸時代」「室町・鎌倉時代」「安土桃山時代」「鎌倉時代」の為政者の平均在位年数をまとめれば、図5のようになる。
やはり、平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなっている。
これらのデータをまとめなおして、9〜12世紀、13〜16世紀、17〜20世紀の、世紀別にあらわすと、図6のようになる。
図6による為政者の平均在位年数と、図1に示した同時代の天皇の平均在位年数とをくらべてみる。どの時代においても、直接の為政者のほうが、天皇よりも、平均在位年数が、短くなっている。
同じ時代をとったばあい、直接の為政者のほうが、天皇よりも、平均在位年数が短くなるのは、直接の為政者のほうが、政治的な権力に近いためと思われる。
直接政治権力の座にあるものの平均在位年数が、そうでないものの一代平均の期間よりも短くなるのは、おもに、つぎの二つの理由によると思われる。
・政治権力の座は、他からねらわれやすい。
・放治権力の位置にあることは、なんらかの責任をともなう。心身が、そのような責任をはたしうる条件にある期間は、それほど長くはない。
なぜ古代ほど天皇の在位年数は短くなるか
天皇の平均在位年数が、古代にさかのぼるにつれ短くなるのは、つぎの二つの条件が働いているためといえそうである。
1 おもに生物学的な条件 / 中国、西洋をはじめ、ほぼ全世界的に、時代をさかのぼるほど、「王」の平均在位年数は、短くなっている。食物、病気その他の関係で、古代では、平均寿命も、短かったであろう。このような、おもに生物学的な条件のため、時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数は短くなる。
2 おもに政治的な条件 / 古代においては、天皇が、直接的に政治権力をもっていた。封建社会が成立し、南北朝の動乱を経て、天皇は、しだいに、直接的な政治権力からはなれていった。そのため、天皇の地位はかえって安定し、平均在位年数は、長くなってきた。 
 
『古事記』『日本書紀』と史実

 

『古事記』『日本書紀』などに記されている神話について、次のような意見がある。
『古事記』『日本書紀』などに記されているいわゆる日本神話が、史的事実とは、まったく関係がないことは、すでに、証明ずみであり、神話から邪馬台国の所在をさぐろうとするのは、邪馬台国問題じたいの研究史からみるとき、学問の逆行である。
しかし、「日本神話が、史的事実とまったく関係がないことは、すでに証明ずみである」とする意見は、かならずしも、すべての歴史学者によって、うけいれられているわけではないと思われる。
たとえぱ、 東京大学の東洋史家、和田清博士
記紀には、出雲や、南九州の熊襲などを平定した物語りはあっても、北九州を平らげた話だけがない。かえって、神武東征の話があって、九州からヤマトにすすんだことになっている。
これから考えれば、神武天皇の話が、どれだけ史実を伝えたものかは不明としても、すくなくとも、その話のすじの中には、北九州の勢力が、大和にうちいっただけの記憶は、とどめているのではあるまいか。(『東洋史上より見たる古代日本』)
『魏志倭人伝』の旅程の新しいよみ方で知られる東京大学の榎一雄博士
皇室の発祥の地が、南九州であると伝えられているのは、ヒムカ(日向)という地名や、日本古代の文化の上で、九州のもっていた優位性のためではなくて、実際に九州に起源があつたからであろう。
天孫が日向に降臨したという物語りや神武天皇東征の物語りは、大和朝廷の有力者が皇室の起源の不明なのに乗じて捏造したものではなく、皇室が九州に発祥し、大陸文化の刺激を受げて大をなし、それから大和に移ったという事実があり、それに基づいて、記紀編纂のころ、今のような形にまとめられたのであろう。(『邪馬台国』至文堂刊)
東洋大学で教鞭をとられた日本史の市村其三郎博士は、神話には、史実を背景とするもののあることを説かれ、さらにつぎのようにのぺておられる。
「古事記・日本書紀の古伝説のなかに、ヒミコ女王の該当者を求めるとすれぱ、ヒルメノミコト女王(天照大御神)の他はないのです。日本書紀によると日本最初の国王は、天皇家の祖先にあたるヒルメノミコト女王であったと伝えられています。
ただ日本書紀はこれを神話的にとりあつかってしまったので、女王の実在を疑う学者もこれまではあったようですが、これがヒミコ女王と同一人であるということになれぱ、ヒルメノミコト女王は実在の方となり、一切の疑問は氷解されることでしょう。」
「ヒミコとヒルメノミコトとをくらべると、語音もまったく似ているでしょう。これは女王の名の呼び方が、日本人と中国人との間でちがっていたものであるか、それとも女王の尊称が二通りあったものであるか、判別しかねるのですが、いずれにしても別人ではないでしょう。」
「こればかりではありません。ヒミコ女王治下の日本国も、神武天皇にはじまる日本国も、正式の国号はともに倭国であって、奈良時代になって初めて、倭国は日本という国号に改められています(魏志倭人伝では、女王国を倭国と記し、女王卑弥呼を倭女王と記しています。また、大和朝廷の正式国号が、倭国であったことは、日本・中国・朝鮮の文献が証明しています)。」
「古代日本の歴史は、女王国の段階を経て、はじめて大和朝廷に進んでいるわけです。神武天皇はどうみてもヒミコ女王の何代目かの子孫ということになりましょう。
日本書紀にのっている神武天皇の東征の詔というのをみると、神武天皇はヒルメノミコト女王の子孫だと明記してあるのです。」(以上、刀江書院刊『民族日本史』)
東京大学の日本史学者、坂本太郎は、帝記を造作とする津田左右吉の見解を批判してのべている。
「帝紀は、古来の伝承を筆録したものである。古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。
第五代から見える外戚としての豪族が、尾張連、穂積臣など、天武朝以後、とくに有力な氏もないことは、それらが、後世的な作為によるものではないことを証する。
天皇の姪とか、庶母とかの近親を、天皇の妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも、古伝に忠実であることを証する。 帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」 (「古代の帝紀は後世の造作ではない」『季刊邪馬台国』26号)
このような意見に近い意見は、このほかに東洋史学者の植村清二氏、法制史家の牧健二博士ものぺておられる。さらに、騎馬民族説で知られる江上波夫氏も、『古事記』『日本書紀』の所伝は、そうとうに歴史性に富んだものであろうとする立場をとっておられる。
また、『魏志倭人伝』の卑弥呼についての叙述が、『古事記』『日本書紀』の天照大御神についての叙述ときわめてよく似ていることについては、すでに、白鳥庫吉博士や、和辻哲郎博士も、指摘しておられるところである。
以上のように、「日本神話が、史的事実と何らかの関係がある」とする歴史学者はすくなくない。記紀の神話をまったく否定して歴史をえがこうとするのは、正しい研究の態度とはいいがたい。
また、つぎのような意見もある。
『古事記』『日本書紀』ができたのは、八世紀の初頭である。いっぽう『魏志倭人伝』は、三世紀初頭のわが国のありさまを記している。その間には、500年近いへだたりがある。500年あとの史料をもってしては、いかにしても、500年まえの史実を、さぐりえないのではなかろうか。
この意見にたいして、安本美典教授は、つぎの三つの点から反論する。
第一に、
記紀ができたのは、たしかに、八世紀の初頭である。しかし、そのもととなる帝紀 (皇室系図)、旧辞(古い物語り)などができたのは、さらに昔にさかのぽりうる。
記紀に記されているたとえぱ仁徳天皇などが、中国の歴史書にみえる、いわゆる「倭の五王」のひとりで、実在の人物であることについては、学界で、異論はみられない。そして、この実在のたしかな仁徳天皇は、五世紀初頭のひとであると考えられる。『魏志倭人伝』に記されている時代と、二百年ていどのへだたりしかない。
さらに仁徳天皇より六代まえの天皇であると記紀のつたえる第十代崇神天皇についても、その実在をみとめるのが、学界の大勢とみてよいであろう。崇神天皇の時代と、『魏志倭人伝』の時代とでは、大きめにみても、百数十年のへだたりしかないと考えられる。
第二に、
私と結論こそちがえ、『古事記』『日本書紀』によって、三世紀ごろの、わが国のありさまを知りうるとされている歴史学者が、相当数、存在するという事実である。
たとえぱ、日本大学の肥後和男教授や東京教育大学の和歌森太郎教授は、邪馬台国の女王卑弥呼を、記紀にあらわれる倭迩述日百襲姫であるとしておられる。このばあいも、記紀の記載によって、500年まえの史実をさぐっておられることには、ちがいがない。
また、東京大学の井上光貞氏は、その著『神話から歴史へ』(中央公論杜刊「日本の歴史1」)のなかで、崇神天皇の実在の可能性をとかれたのち、崇神天皇を、270年-290年ごろの人と考えておられる(私は、崇神天皇を、360年前後の人と考える)。
すなわち、井上氏は、記紀が、その成立の時期より、400年以上まえの事跡を、伝えていると考えておられるのである。
第三に、
外国の事例でみるとき、それまでの伝承を、大規模に編纂する事業がおこなわれたぱあい、500年はおろか、1000年ていどの過去の史実を記していた例が、かなりみられるという事実である。
前漢の司馬遷が、中国最初の正史である『史記』を編んだのは、西暦紀元前100年のころであった。『史記』の「殷本記」は、西紀前1100年ごろに滅んだ古代殷王朝について、かなりくわしく記している。1000年あとの史料が、1000年まえの史実を語っているのである。
かつて、殷王統は、星体神話にすぎないといわれていた。しかし、甲骨文字が解読され、殷墟が発掘された現在、殷王統の存在を、否定する学者はいない。
また、ドイツのシュリーマンがギリシア神話を代表する『イリアス』『オデュッセイア』などの記述を信じて発掘をおこない、トロヤ戦争の故地を発見し、古代エーゲ文明を、明るみにだしたことは、あまりにもよく知られている。
『イリアス』および『オデュッセイア』は、西紀前700年〜800年ごろのホメロスの手になるとされている。いっぽう、トロヤ戦争によりトロヤが火につつまれて落城したのは、西紀前1200〜1300年ごろのことである。
ホメロスの詩のテキストは、紀元前三〜四世紀には、なお固定していなかった。今日まで流布本として伝えられているテキストは、紀元前215年に生まれたアレクサンドリアの文献学者、アリスタルコスが、それまでの多くの研究を集成して、校訂し、定めたものである。
史的な事実があってから、ホメロスまででさえ、およそ、500年の歳月が流れている。そしてホメロスから、テキストが定まるまでには、さらに、500年以上の歳月がすぎている。ここでも1000年以上あとのテキストが1000年以上まえの史実を語っているのである。
ホメロスは、盲目であったと伝えられる。また、ホメロスの詩は、竪琴をたずさえた吟遊詩人たちによって伝えられたともいわれる。史実は、口から口ヘという形でも、後世に伝わりうるもののようである。
いまひとつ、聖書の例をあげておこう。聖書のうち、旧約聖書編纂の事業は、西紀二世紀の中ごろ、一代の碩学といわれるラビ・アキバによっておこなわれた。ラビ・アキバは、厖大な材料を収集、整理し、今日の旧約聖書を確定した。
聖書はひとつの伝説集にすぎないとされていた19世紀に、旧約聖書の記述を信じて、メソポタミアのティグリス、ユーフラテスの二つの河の流域で発掘をおこなった人がいた。フラソスの工ミール・ボッタやレアードである。そして、多くの遺跡や楔形文字のきざまれた粘土板が見いだされた。楔形文字で記された文書の解読や、その後の考古学的あるいは文献学的な研究の結果、旧約聖書も多くの史実をふくむことがあきらかにされている。
たとえぱ、旧約聖書は、エジプトに移住したイスラエルの民が、エジプト人によって迫害をうけ、モーセにひきいられて、「出エジプト」を敢行したと記している。このイスラエル人が、出エジプトをおこなった年代は、紀元前、1250年ごろと考えて、間違いないようである。
旧約聖書のばあいも、史的な事実があってから、テキストが定まるまでのあいだに、長い歳月が、すぎさっているようである。1000年をこえる人間のいとなみが、神と人間との物語りのなかに、織りこまれているようである。
以上のべたもののほかにも、神話や伝説がかなりの史実をふくんでいた事例は、きわめて多い。
ツェーラム著『神・墓・学者』(村田数之亮訳、中央公論社刊)などは、そのような事例の氾濫であるといえる。
世界的にみたばあい、『古事記』『日本書紀』の神話ていどの質と量とをもつテキストが、史的事実を、まったくふくんでいなかった例は、むしろ、めずらしいといえるようである。
まして、これらの日本神話は、天地の開闢、国生み、天照大御神の活躍、国ゆずり、天孫降臨と、きわめて歴史的な展開をとるという特徴をもっている。神々は系譜的に時代を追って出現し、太古の出来事から、いつか、人代の出来事に接続している。
しかも、1000年、2000年まえの史実が日本神話のなかに影を落しているであろうことを、のべているのではない。たかだか、西紀三世紀ごろの史実が、日本神話に影を落しているであろうことを、のぺているにすぎないのである。
私たちは、活字などの、現代文化を信奉するのあまり、人間が活字などをもたないばあいにも、なおかつ時間をこえて知識を伝達しうる能力のあることを、小さくみすぎてはいないであろうか。 
 
『古事記』『日本書紀』の神話

 

神話はつくられたのか?
『古事記』『日本書紀』の神話や、神武天皇以下の上代の記事について次のような見解がある。
神話などの記事は、歴史的な真実を中核とするものではなく、大和朝廷の有力者により、一定の意図によって、つくられた物語である。
すなわち、天皇が、日本の統一君主となったのちに、6世紀以降に、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする意図にしたがって、つくられた物語りである。
このような立場に疑問を呈する安本美典教授の意見
・私たちの祖先は、奈良時代でさえ、小説を創作することができなかった。物語りの祖(おや)といわれる『竹取物語』ができるおよそ250年以上まえに、記紀に見えるような、長編の神話や、数々の伝説をつくりうる文化的な基盤が、存在しえたであろうか。
・これほどの内容を持つ神話などが、つくりあげられたとするならば、それは、一つの国家的事業であったはずである。国史の編纂などについて、かなりのことを記している『日本書紀』が、そのような事業を思わせるなんの記事ものせていないのは、ふしぎである。
・『日本書紀』は、「一書に曰く」という形で、数多くの異伝をのせている。朝廷は、6世紀の中ごろに、この程度の神話を作り上げる力を持っていたとするならば、なぜ、そのつくりあげたものを正確に保持しえなかったのであろうか。6世紀の中ごろといえば、『日本書紀』の成立した720年までに、わずか、150年あまりしかない。そのあいだに、きわめて多くの異伝を生じたのは、なぜであろうか。
・記紀の神話が、九州に関係する数多くの記述をおこなっている。神話を、架空の物語りとみる立場からだけでは、その必然性をじゅうぶんに説明できない。
・『古事記』には、上巻(神話の巻)だけで、270人(のべ640人)もの人物が登場する。上巻の分量は文庫本60ページほど。1ページに平均10人以上もの人物があらわれ、ほとんど、名前の氾濫であるといってよい。
これらの神々の名は、わが国の神話固有のもので、6世紀以後の人名とは、異質のものがあるように思われる。このことは、私たちの祖先が、おもに、人物に焦点をあてながら、世代から世代へと語りついできたことを思わせる。それは、聖書や古代諸民族がのこしている年代記に、神や王の系譜が、えんえんと述べられていることなどを、思いおこさせる。
もし、『古事記』の神話などが、一定の政治的意図によってつくられたものであるならば、これほど多くの特異な人名をつくり、登場させるどのような必要があったのであろうか。これらの人名には、後代の氏族の祖先などではない、とくに本筋と関係のない人名さえ、きわめて多いのである。
伝承は、つくられたものではなく、遠い昔の史実を核として、各家につたわってきたのではないだろうか。
また、記紀の神話について、次のように説かれることもある
日常経験からみれば、非合理な事実らしくない物語りは、そのまま、非合理な物語りとして、認めるべきである。
非合理な物語りを、歴史的真実を仮定して理解しようとするのは、ものごとを強いて合理的に理解しようとする浅薄な合理主義というべきである。
これについての安本美典教授の見解
・心理学に、相貌性(そうぼうせい)知覚ということばがある。川や風がささやきかけ、木や草が笑いさざめいたと感ずるように、生命を持たない自然や道具(船、弓、食器など)の全体的印象を、感情的欲求的にとらえ、それらが、人間と同じように心をもち、表情をあらわすと感ずる知覚である。子どもや、原始人では、ごくふつうにみられる。
・アニミズムということばもある。動くものは、すべて、命、または心をもっていると考えるもので、これもやはり、子どもや原始人に、ふつうにみられるものである。
『古事記』や『日本書紀』の神話をよむと、相貌性知覚や、アニミズムを思わせる表現にしばしばであう。
記紀では神々が活躍する。その神々には、自然神もあれば、植物神もあり、動物神もあれぱ、人間神もある。
江戸後期の国学者、本居宣長ものべている。「人はいうまでもなく、鳥獣木草のたぐい、海山など、そのほか、なんであろうと、つねならずすぐれた徳があって、おそれ多いものをカミというのである。」
津田左右吉らの実証主義的文献批判学の立場から「非合理」とされている物語りのほとんどは、原始人にふつうにみられる相貌性知覚や、アニミズム的な心性によって、じゅうぶんに説明できるものである。
歴史的な真実を中核とするものであっても、それが、原始時代からの伝承であるならば、このような形をとることは、ありうるのである。
記紀の神話が、このよう性格の神々を主人公としているということは、逆に、これらの物語りが、古くからの伝承であることを、雄弁に物語っている。
実証主義的文献批判学の立場からは、記紀の神話は、6世紀以後に、つくられたものであるとされる。
しかし、6世紀といえば、仁徳天皇の時代よりも、およそ100年ていどのちである。原初的な神話を生むような時代は、じゅうぶんに過ぎていたと考えられる。
6世紀の宮廷人が、現代の心理学者と同じように、古代人の心理を研究したうえで、これらの物語りをつくったとは思えない。
古代からの伝承を、かなりなていど忠実に、記したとみるほうが、自然であろう。どこの国でも、古い時代の歴史的真実は、このような形でつたわっているのである。 
 
銅鐸

 

銅鐸は、大きなベルのような形状の青銅器で、祭器の一種であったと考えられている。出土する地域は、近畿地方を中心に広く分布しているが、ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。また、銅鐸は、銅剣や銅矛に匹敵する弥生時代の代表的な製作物であるが、『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器である。
考古学的遺物からみた弥生式文化の2つの中心
・畿内を中心とする銅鐸の文化圏
・北九州を中心とする銅矛、銅剣の文化圏
銅鐸の出土状況の特徴
・畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。
・銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設もなく埋められた状態で、発見される。
・銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。
・古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえる。
・新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。
・新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。
・銅鐸は、祭器であったといわれている。しかし、他の祭器といっしょにみいだされることはほとんどない。
・徳島県麻植郡牛島村出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわされたとみられるものもある。
・銅鐸の発見は、予測は困難である。これまで出土した銅鐸のほとんどは、農耕などのさいに、偶然みいだされている。
銅鐸は祭器と見られている。しかし、祭りのさいに、古いものも、新しいものもいっしょに埋めるのは不自然である。
銅鐸は、祭りの道具でありながら、祭りの過程で、祭りの目的にそって埋められたとは、みなされないようである。
これらのことについての、安本美典教授の解釈は、
・銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。
・銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。
これは、古伝承が、銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内において発生したものではないことを物語る。それとともに、銅鐸をもつ大和の先住民が、三世紀の後半に、九州からきた神武天皇によって減ぼされたのであろうとする推測を、支持するものと思われる。
また、713年、大和の長岡野で、銅鐸が発見されたとき、人々は、これをあやしみ、『続日本紀』は、「その制(形)は、常と異なる」と記している。
これは、当時の大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。
いっぽう、大和朝廷が大和で発生した説をとかれる考古学者の解釈は
・個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成するにいたったことのためである。
とされることが、多い。
しかし、このような説明については、次のような疑問があり、銅鐸を忘れさる理由としては弱すぎるのではないか。
・そのような統一勢力が、畿内からおこったものであるならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを、温存させてよいように思われる。
・一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸がみいだされた例がある。それは、青銅の素材としても、魅力あるはずのものである。もし、「個々のムラ」から、「構成されたより大きな規模の集団」ヘスムーズに移行したものであるならぱ、廃棄するよりも、鋳直して利用することを考えるのではなかろうか。当時、青銅の素材は、貴重品であったはずである。
・邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島ふきんからも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。しかし事実はそうではない。 
 
年輪年代法

 

年輪年代法
樹木の種類や気象条件、害虫の発生などによって成長輪(年輪)の幅は年ごとに変動する。
年輪年代法とは、こうした年輪の幅の変化のパターンから年代を科学的に決める方法。
一定の地域内の樹木を調べて年代を1年単位で示した暦年標準パターンを尺度とする。これと遺跡の出土品や建築材料の年輪を照合すると年代が決まる。
20世紀初頭に米国で考案され、今では考古学だけでなく建築、美術などにも応用されている。日本の研究は1980年から進められ現在、スギ、ヒノキでは約3000年間の年代分析ができる。
奈良市の世界遺産・元興寺の国宝・禅室の部材が、この方法で582年に伐採された木材であると断定され、法隆寺五重塔の心柱を約半世紀さかのぼる現存する木造建築の部材では世界最古と分かった。
年輪年代法の信頼度と限界
年輪により年代を正確に定める技術は、統計学的に洗練されており、高い水準に達している。得られた結果は、貴重で、信頼できる。
年輪年代法による年代は、その木材の伐採された年を教えてくれる。
そして、遺構や建築物の築造時期は、使用された木材が伐採された年よりあとであることを教えてくれる。
これはこれで十分貴重な情報である。ただ、あくまで、遺構や建築物の築造時期そのものを教えてくれるものではない。 築造時期の上限を教えてくれるものである。
そのため、使用木材の伐採年代と築造時期、あるいは再利用の時期とのあいだに、ときに、数百年、場合によっては千年をこえる差の生ずることがある。
再利用か否かを定める技術
再利用か否かを定める技術は、信頼性をもって発言できる段階になお達していない。
日本における年輪年代法の第一人者光谷拓実氏も、
「年輪年代法で得られた結果だけで遺跡の年代を決めることは慎重を要する。」と、のべている。
邪馬台国問題への応用
邪馬台国問題は、あくまで、全体的な情報のなかで考えるべきである。
年輪年代法も、全体のなかに適切に位置づけるべきである。
どのような方法であれ、一つの方法にのみ重点をおきすぎると判断を誤る。
揚子江でも、ある一つの地点でのみ観測すれば、東から西に流れているとみえることがある。部屋のなかでのみ考えれば、床は水平にのびており、地球は丸い、などとは思いいたらない。
邪馬台国問題は全データを総合的に考えなければならない問題である。 
 
卑弥呼

 

卑弥呼は、魏志倭人伝に現れる邪馬台国の女王で、239年に魏に使者を送った。卑弥呼は日本の古文献「古事記」、「日本書紀」の中から探すなら誰に当たるのか?
その候補者として有力なのはつぎの4人
候補者 / 続柄
神功皇后 / 第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母
倭姫 / 第11代垂仁天皇の皇女、日本武尊の叔母
倭迹迹日百襲姫 / 第7代孝霊天皇の皇女、第10代崇神天皇の姑
天照大御神 / 初代神武天皇の5代前
4人の候補の活躍年代の検討
239年に魏に使者を送ったのは、4人の候補のうちのだれか?
横軸に、「歴代の天皇の代」をとり、縦軸に、「天皇の没年」をとって、つぎのような「天皇の代と没年のグラフ」を描く。
実線は、確実な歴史的事実。
卑弥呼は239年に魏に朝貢した。
第14代天皇の時代の神功皇后を卑弥呼とし、239年ごろに活躍したとすると、グラフをかなり下向きに曲げなければならない。
倭姫や、倭迹迹日百襲姫の場合も、239年頃の人とすると、同様にグラフを不自然に下向きに折り曲げることになる。
グラフの実戦の延長が、239年の横線と、もっとも自然に交差するのは、卑弥呼=天照大御神としたときである。
そのほかの観点からの、4人の候補の確認
たとえば、魏志倭人伝の記述から、次のようなポイントを見る。
卑弥呼の条件 / 魏志倭人伝の記述
宗教的権威をそなえている。 / 鬼道につかえ、よく衆を惑わす。
倭の女王であった。 / 共に一女子をたてて王となす。
夫をもたなかった。 / 年はすでに長大であるが、夫婿なし。
候補4人のうち、だれがもっとも条件を満たすか。
卑弥呼の条件 / 神功皇后 / 倭姫 / 倭迹迹日百襲姫 / 天照大御神
宗教的権威  × ○ ○ ○
倭の女王   ○ × × ○
夫なし。   × ○ × ○
総合的に見ると、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の条件をもっともよく満たすのは、天照大御神である。
さらに、卑弥呼と天照大御神には、つぎのような類似点が見いだされる。
卑弥呼には、弟がいたことになっている。天照大御神にも、須佐之男の命、月読の命という弟がいる。
『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述がしばしばみられる。すなわち、高木神は天照大御神といっしょに、しばしば、命令を下したりなどしている。魏志倭人伝の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、高木神とが符合するように思える。
天照大御神と、須佐之男の命の争いは、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼との戦争ににている。
卑弥呼の没後、大きな塚がつくられ、男王がたったが国中が服さず、戦いがおこなわれ、宗女台与がたって国中がおさまったという話は、天照大御神が、天の岩戸に隠れ、ふたたびあらわれたという話と符合する。
魏志倭人伝には、人が死ぬと、他人は、歌舞飲酒につく、とある。これは、天の岩戸のまえで、天の宇受売の命が、歌舞をし、諸神が、「歓喜び、笑い遊んだ」のと一致する。
卑弥呼=天照大御神とすると、それぞれ、邪馬台国と高天が原を統治していたので
邪馬台国=高天の原 といえることになる。 
 
三角縁神獣鏡の銘文

 

三角縁神獣鏡は、中国では1枚も出土していない。 しかし、この鏡については、古代史の大きな謎の一つとして、次の二つの説が対立し議論が続いている。
・魏朝特鋳説 / 中国で出土しないのは、魏が卑弥呼のために特別に鋳造して、すべて卑弥呼に贈ってしまったからである。三角縁神獣鏡は魏志倭人伝記載の、卑弥呼に賜った「銅鏡百枚」に当たる。
・国産説 / 日本でしか出土しないのは、この鏡が日本で作られたものだからである。
この論争の行方を左右する、非常に重要な事実を明らかにした、京都産業大学の森博達教授の三角縁神獣鏡の銘文についての研究を紹介する。
方格規矩四神鏡の銘文(この鏡は、前漢末に現われ、後漢に流行した。)
1.方格規矩四神鏡(尚方鏡)の銘文  
・句末の押韻 / 各句末の押韻字(◎の字)を日本の音読みで読むと、コウ・ロウ・ソウ・カイ・ホウ。この中で「海」だけが例外のように見えるが、音符(漢字の音を表す部分)の「母」は、音読みでポウと読める。「海」はもとは「母」に似た発音であり、漢代では「好」や「老」と押韻できた。
・平仄のルール(平声と仄声の配列法) / どの句も、2字目と4字目の平仄が異なっており「二四不同」のルールが守られている。また、2字目、4字目に平声、仄声のどちらを配置しているかをみると「反法」(第1句と第2句、第3句と第4句の平仄の配列が異なる)や「粘法」(第2句と第3句、第4句と第5句の平仄の配列が一致)などが守られている。
なお、この銘文は、従来の中国語学や中国文学の通説よりも早い時期に、近代詩と同様の韻律ができていたことを示す意味でも注目されているという。 ○と●の配置に注目すると、(○は平声、●は仄声で、両者は主に高低アクセントの相違)この銘文は唐代の近体詩と同様の韻律が、早くも漢代に起こっていたことを示している。
2.方格規矩四神鏡(言鏡)の銘文
・句末の押韻 / 各句末の字は上古音(先秦時代を中心とする音韻)ではすぺて同じ韻で、後漢の韻文でもきっちりと押韻している。
・平仄のルール / 平仄についても、先の尚方鏡とまったく同じ韻律を備えている。
第1句の「言之紀従鏡始(七言の紀は鏡より始まる)」では、七言句の紀律の起源が鏡の銘文にあることを自ら唱えており、鏡の銘文は、韻を踏むものであることを示している。
三角縁神獣鏡(景初三年鏡)の銘文
三角縁神獣鏡が魏の鏡だと主張する人たちの最大のより所は「景初三年」鏡(島根県神原神社古墳出土)である。景初三年(239年)は魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に任命した年だからである。しかし、この三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたにもかかわらず、銘文の韻律はひどいものである。
・句末の押韻 / 第3句の「述」と第5句の「出」が隔句韻を踏むだけで、他はまったく押韻していない。
・平仄のルール / 平仄の韻律は、まったく無視されている。
森博達教授は述べる。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。 それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。魏の詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。 「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。 三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
森博達教授の研究に対する考古学からの説得カある反論はまだ出ていないようだ。 
 
三角縁神獣鏡

 

三角縁神獣鏡とは?
「三角縁神獣鏡」は「さんかくえんしんじゅうきょう」と読む人と、「さんかくぶちしんじゅうきょう」と読む人がいる。
三角縁神獣鏡は、縁の都分の断面が、突出して三角形をなしており、かつ、神獣の模様の刻まれた鏡である。
『魏志倭人伝』は、魏の皇帝が、倭の女王に、「銅鏡百枚」を与えたことを記している。
京都大学教授であった考古学者、小林行雄や、奈良県立橿原考古学研究所所長の樋口隆康氏らは、卑弥呼が魏からもらった鏡は、この三角縁神獣鏡を主とする鏡であろうとする。
しかし、三角縁神獣鏡は、100パーセントわが国から出土し、中国からは一面も出土していない。
また、三角縁神獣鏡は、畿内では、四世紀の古墳時代の遣跡からのみ出土し、邪馬台国時代の三世紀の墓からはまったく出土しない。
さらに、鏡の直径も平均22センチほどで、中国でみいだされる後漢・三国時代の鏡よりも、はるかに大きい。
そのため、考古学者の森浩一氏、宮崎公立大学教授の奥野正男氏などは、「三角縁神獣鏡」は、中国から輸入された鏡ではなく、わが国で作られた鏡であろう、と主張している。
画文帯神獣鏡とは?
三角縁神獣鏡とおなじく神獣鏡の一種。内区(内側の部分)に、神仏思想をあらわす神仏や、竜、虎などの霊獣を、半肉彫で描き出した文様をもつ鏡。縁の部分が、厚く平らになっている(平縁)。三角縁神獣鏡のように、縁が上にとがっておらず、上が平らである。
平縁部分に、画文帯と呼ぶ絵画的な文様帯をもつ。内区と縁との境界に、半円形と方形とを交互に配置した半円方形帯をもつものや、乳(円錐形の小突起)が神獣文の一部として環状に表現された環状乳神獣鏡も、この鏡式に含まれる。画文帯神獣鏡のなかまに、画文帯仏獣鏡がある。
ほとんどは、前方後円墳など、古墳時代の遺跡から出土する。
これまでに、日本から150面ていど、中国から80面ていど出土している。日本からの出土数のほうが、はるかに多い。
日本から出土しているもののなかには、日本で作られたものがかなりあるとみられる。
中国では長江の流域など、南東部から出土することが多い。朝鮮の楽浪郡にあたる平壌などからも、数は多くないが出土している。 
 
九州説 / 邪馬台国はどこにあった?

 

地理的・政治的状況
揚子江下流域に弥生文化の源流があるとされるが、弥生文化の担い手は、対馬海流に乗って、朝鮮半島南部、北九州、出雲などに漂着した可能性が高い。これらの地域が当時の文化的な先進地域であり、その後の歴史でも主導的な役割を果たしたことは容易に想像できる。渡来人によって、朝鮮半島や中国から最先端の文化や技術が「東の果ての日本」に伝えられるとき、大陸に最も近い九州に最初に入ってくる。2〜3世紀のころは、九州が先進地域、大和は後進地域であった。その後の歴史を見ても「文化は西から東へ」が自然の成り行き。中国大陸や韓国の文化はまず九州に来る。強大な中国の周辺の国にとって、中国は常に脅威であり、国家維持を考えるときの重大テーマであった。大陸に近い九州のほうが、魏と同盟して支援を受けるなど、外交関係を真剣に考えたであろう。
国家統一の状況
日本の全国統一は5世紀以降である。3世紀の邪馬台国時代の日本は、まだ地域分権国家であった(北九州、南九州、出雲、吉備、畿内、東海など)。
この時代に、九州から畿内までの広大な地域を統治した、大和朝廷のような権力が存在したとは考えられない。
弥生時代の畿内圏で、祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、大和朝廷成立後の、わが国の歴史に一切現れない。九州地方の祭器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場し、剣は天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が近畿圏で発生し、邪馬台国から大和朝廷に発展したのなら、どうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてしまったのか。邪馬台国が、九州から来て大和朝廷を樹立し、日本を統一したと考えるのが妥当ではないか。
栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在しない。しかし、邪馬台国の名は突如として消えて、代わりに大和朝廷が全国統一の勢いを急に強めてくる。ヤマトという名称は九州起源と考えられることもあわせて、国家を統一した勢力が、九州の邪馬台国から畿内にきて、大和朝廷を建てたことをうかがわせる。
卑弥呼は北九州時代の大和朝廷の女王であった。この国はおそらく狗奴国(熊襲)の襲撃を受け3世紀末頃に大和へ東遷した。その後、大和で勢力を蓄えた朝廷は、熊襲を倒し北九州を制圧した。(和辻哲郎)
九州にあった国が、中国から見た邪馬台国であろう。4世紀後半、朝廷は応神天皇の下で朝鮮経営に乗り出したが、やがて卑弥呼の記憶も応神天皇の記憶も曖昧になり、大和から九州に里帰りするような時代になると、人々は神功皇后と卑弥呼を同じ人物とみなした。それで日本書紀は卑弥呼を神功皇后であるとほのめかしている。(井上光貞)
倭国大乱 
桓帝・霊帝時代(147〜188)の極東アジアは、小氷期の冷涼な気候で、飢饉が続発し、中国でも黄巾の乱などの戦乱が続いた。このため、流民が馬韓・辰韓・弁韓に流れ込み、これが引き金になって、北九州地域で倭国の大乱が起こった。
倭国大乱は、金印国家奴国と邪馬台国勢力の戦いである。大乱を境にして、北九州の墓制が、甕棺から箱式石棺に代わったり、鉄製武器の出土地域が博多湾沿岸部から、内陸部の筑紫平野方面に移ったように見えるのは、勢力が博多湾沿岸の奴国から、筑紫平野の邪馬台国に移動したことで説明できる。
奴国のうしろ盾の漢が戦乱で弱体化し、三国時代になったときに、魏の支持を得た邪馬台国が勢力を強め、奴国から覇権を奪った。奴国の金印は、このような戦乱のなかで、志賀島に埋められたのであろう。
したがって、倭国の大乱は九州のなかでの戦乱で、その後30ヶ国の原始国家が北部九州に生まれ、邪馬台国が盟主として君臨する時代になる。まだこの時代には中部日本と西日本を統一する勢力はなかった。
女王卑弥呼
卑弥呼のことが神話化し、伝説化したのが天照大御神である。天照大御神も卑弥呼も太陽を祭っていた。卑弥呼が亡くなった年の前後に、2年続けて太陽の死を思わせる皆既日食がおきた。これは、太陽神である卑弥呼を、国王として崇めていた古代人の心に強い印象を残し、それが「天の岩戸」伝説になった。
天皇の在位年数約10年説で換算すると神武天皇の活躍していた年代は280〜290年ごろ。したがって、神武から5代前の天照大御神の時代は230年〜240年ごろとなる。卑弥呼は、239年に魏に使いを送っており、天照大御神の時代と卑弥呼が活躍していた時代がぴったりと重なる。
吉野ヶ里遺跡で、弥生時代中期としては最大規模の墳丘墓の存在が確認された。一世紀ごろの九州で、このような大きな墳丘墓が造られているとすれば、三世紀の邪馬台国の時代に、径百余歩の卑弥呼の墓として、さらに大きな墳丘墓が存在してもおかしくない。
卑弥呼の鏡
卑弥呼のもらった100枚の鏡は、当時、中国に存在していた、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡などの「後漢式鏡」である。これらの後漢式鏡は、中国でも出土するし、日本では、北九州の墳墓から多く発見されている。
日本だけで500枚以上出土しながら、中国から1枚も出ていない三角縁神獣鏡は、日本で作られたものであり、卑弥呼の鏡ではあり得ない。
邪馬台国への道のり
魏志倭人伝では、朝鮮から伊都国までと、それ以降とは、道のりの書き方が異なっている。
朝鮮から伊都国までは「A国、又・・・至B国」のように国が連続して繋がっているように書いてあるのに対して、以降は、「伊都国・・・・東南至奴国・・・・東行至不弥国・・・・南至投馬国・・・・南至邪馬台国」のように書かれており、伊都国を起点として放射状に国々が配置されている(放射式)と解釈するべきである。放射式で道のりをたどると、邪馬台国はどんなに遠くても九州域内となる。(榎一雄)
熱暑の中、道なき道を歩む当時の旅を想定して行った実地踏査では、1日の行程は7キロがやっとであり、リアス式海岸伝いに、このペースで2日歩いても直線距離にして5キロほどしか進めないことが多かった。当時の1日の陸路の行程は予想外に短いようだ。この程度の速度で旅をしたとすると、邪馬台国への道のりを順次式で考えても、邪馬台国を九州の中で考えるべきである。
邪馬台国の方角
日本列島に上陸後、投馬国へ行くのも「南」、邪馬台国に行くのも「南」と、南に方向をたどっている。畿内の「大和」の方向である「東」とは書かれていない。
当時は、日の出の方向を東と見ていたようである。朝鮮からの使者が、船で渡来しやすい海の静かな夏の季節は、日の出は時計と反対周りに45度ずれる。だから奴国までの東南は東、邪馬台国までの南は実際には東南である。
邪馬台国への日数・距離
「水行十日、陸行一月」などの表現は、先に水路を10日行ってから、続いて陸路を一月進んだという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、さらに、天候などの事情によって進めなかった日数や、休日、祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れておおざっぱながらも、整然とした「十日」「一月」で表記したのであろう。
つまり、「水行十日、陸行一月」は、かかった総日数であって、実際に旅行し進み続けた日数ではない。
「南。水行十日、陸行一月」の意味は、不弥国から邪馬台国までの旅程ではなく、朝鮮の帯方郡から邪馬台国のまでの道のりを要約したもの(古田武彦)
「郡(帯方郡)より女王国にいたるまで1万2000余里」とある。ここから、帯方郡から伊都国までの距離1万500里を引くと、のこり1500里が伊都国から邪馬台国までの距離になる。壱岐と対馬の距離1000里のわずか1.5倍の距離であり、これは邪馬台国が北部九州の域内であることを示す。
「郡(帯方郡)より女王国にいたるまで1万2000余里」とある。さらに、倭人伝の記述から、、
帯方郡から狗邪韓国まで7000余里
狗邪韓国から末盧国まで3000余里
残りの、末盧国から邪馬台国まで2000余里
となって、A:B:C=7:3:2である。帯方郡から狗邪韓国までの実際の距離は500キロなので、末盧国から邪馬台国まではその7分の2の約140キロになり、邪馬台国は、北部九州の範囲内である(1里=約70m)。
倭人伝は「倭の地を周旋すれば5000余里ばかり」とある。これは倭の地を、九州の範囲とすればを整合する値である。
倭種の国
「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」とある。これは、九州の女王国からみて、海を渡った四国や本州に倭人がいることを記述したものである。
邪馬台国の人口
古代の人口研究によれば、縄文、弥生にかけて九州では、有明海沿岸や筑後川沿岸に人口が集中していた。江戸時代・明治時代にでも、福岡市より九州中部のほうが人口が多かった。邪馬台国の戸数7万戸が、有明海沿岸や筑後川沿岸地域に存在した可能性は十分ある。
奈良時代の兵士募集の記録によると、九州全体から約2万人を募兵している。当時は、正丁(成人男子)に対する募兵率は、10人に1人の割合であった。したがって、このときの九州全体の正丁は約20万人。さらに、良民の中の正丁の割合は、0.18、良民に対する奴婢の割合を7%とする研究成果を適用して計算すると、九州の全人口は120万人ほどになる。古代の人口増加の速度はゆっくりしたものであることや、都が九州から畿内に移ったことで九州が寂れたこと等を考慮すると、奈良時代と、邪馬台国の時代で、九州の人口は、大きな変化がなかったと推定される。仮に邪馬台国時代の九州の全人口を奈良時代と同じ120万人とすると、邪馬台国7万戸の人口は30万人前後であり、邪馬台国は九州全体の1/4の人口を抱えていたことになるが、邪馬台国が九州最大の平野である筑紫平野を支配していたことを考えると十分現実的であると思われる。
狗奴国
狗奴国は邪馬台国の南に位置する。クナ国はクマソのことで、クマソは熊襲国でクマ(球磨)とソオ(噌唹)が合わさって転化したものである。狗奴国の官の名前である狗古智卑狗は菊池彦であり、その名は現在も、菊池川、菊池郡として残っている。
投馬国
投馬国の比定地としては、日向(宮崎県)妻町・西都原付近、薩摩(鹿児島県、南水行二十日で到達する場所の候補として)、日田郡五馬(大分県)、上妻郡、下妻郡(福岡県)など。
記紀の神話
『古事記』『日本書紀』では、天皇家の祖先が九州に天下りし、神武天皇の時代に東遷して大和朝廷を建てたとされる。記紀の神話は、九州にあった邪馬台国勢力の子孫が、東に移って大和朝廷の礎を築いたことの反映とみられる。
古事記・日本書紀、古代の記録、伝承、神話や天皇家の神事に、北部九州(筑紫)の事跡や地名、風俗などと似かよったものが多い。
地名
九州の地名は、日本の古典に出てくる古い県名や、郡名などと一致するものが多い。 古事記の神話に登場する地名を調べると、九州の地名がもっとも多く36回、次に出雲の地名が34回現れ、神話の舞台がこの地域であることをうかがわせる。畿内の地名はずっと少なくて11回しか現れない。
福岡県甘木市・朝倉地方の地名は、奈良盆地と一致する地名が多い。名前だけでなく、その方向まで一致しているのは驚くほどである。
甘木市・朝倉地方には、天の安川(安川・夜須川)天の香具山など、記紀の神話に出現する固有名詞と同じ地名が多く残っている。これらのことは、甘木市・朝倉地方の勢力が大和へ東遷し、やがて大和朝廷を樹立したことを示すものである。(安本美典)
筑後山門(柳川・八女市一帯)と肥後山門(菊池郡一帯)にヤマトの古い地名が残っている。これらの地名のトの音は、甲類のトの音で、邪馬台(ヤマト)の乙類のト音とは異なる。しかし、当時の中国人が倭人の「甲類・乙類」の発音を正確に聞き分けられたかどう疑問が残る。
九州方言は「〇〇〇〇トですよ」・で「ここは何処か」と聞かれて「山トですよ」と答えた?
古墳・遺跡
最近の考古学的発見は特に北九州において目覚しく、3世紀の北九州における吉野ヶ里遺跡、甘木市平塚川添遺跡など当時の繁栄を髣髴とさせるものが多い。
遺物
考古学的遺物の分布から、弥生時代には、北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏と、畿内を中心とした銅鐸文化圏とが存在した。その後の大和朝廷には、剣を尊ぶ伝統は残ったが、銅鐸の痕跡がまったく残っていない。これは、銅剣・銅矛文化圏が、銅鐸文化圏を征服したためと解釈できる。
弥生時代(邪馬台国時代)では中国との交流、遺物は九州が圧倒的に多い。
倭人伝には、「兵には矛、盾、木弓を用う」「倭錦上献す」「宮室、楼観、城柵」「棺有りて槨無し」の記述がある。以下のように、これらの記述は北九州の遺跡・遺物と整合する。
卑弥呼の時代・3世紀の遺物として発掘される、鉄製武器、鉄鏃(てつぞく)、矛、絹などは、九州での出土数が、畿内よりも圧倒的に多い。大和では、弥生時代の鉄器はほとんど出土しない。
弥生時代の絹が発見されるのは北部九州だけである。
佐賀県吉野ヶ里遺跡には、魏志倭人伝に描かれている宮室、楼観(物見やぐら)および城柵跡の3つがそろって発見されている。畿内にはこれら三点セットがそろった遺跡は発見されておらず、倭人伝は九州の国の様子を描いたものだろう。
「棺ありて槨なし」の埋葬形式は、北部九州に多い箱式石棺の形式に一致する。奈良盆地での埋葬形式は、ホケノ山古墳のように「木槨」が出土しており、倭人伝の「槨なし」の記述とは異なる形式である。 
 
畿内説 / 邪馬台国はどこにあった?

 

地理的・政治的状況
内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
倭人伝の編者・陳寿は、邪馬台国と大和初期政権を同一と見ていた。しかも、呉・蜀への対抗戦略上の理由から、魏の同盟国である邪馬台国を誇張して表現し、九州島の彼方に巨大国家があったと記述した。
国家統一の状況
倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
邪馬台国には29ヵ国が従属しており、すでに中央集権的な体制になっていた。その勢力が、後の大和朝廷へ移行した。
倭国の大乱
倭国の大乱は、九州地域内の紛争ではなく、畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。
倭国では、大きな戦乱は3回あった。第1回は2世紀後半の倭国の大乱、2回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国の紛争、3回目は卑弥呼の死後直後の倭国内の戦乱である。
女王卑弥呼
日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということからか、卑弥呼とは神功皇后のことであり、また、邪馬台国は大和であると示唆している。
古事記記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとにすると、祟神天皇は258年に亡くなった。卑弥呼が没したのは、248年ごろと考えられるので、祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代である。 祟神天皇の時代に巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼のことである。また、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が、卑弥呼の墓である。
卑弥呼の鏡
卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
中国で全くこの形式の鏡が発見されないのは、卑弥呼のために特別に作ったもの(特注品)だからである。
「景初四年」という実際にない年号が刻まれているのは、朝鮮で作られたもので、中国の改元を知らなかったか、来年用として、あらかじめ先に作られたものである。
奈良県の3世紀の墓、黒塚古墳から、33枚もの大量の三角縁神獣鏡が出土した。邪馬台国が畿内にあったことを裏づけるものである。
これまでに出土した三角縁神獣鏡は500面を越える。これから推測すると、当時、5000面以上の鏡があったと思われる。これは、卑弥呼が魏からもらった鏡を真似て、国産のものが多数つくられたからである。
邪馬台国への道のり
朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
邪馬台国の方角
倭人伝の邪馬台国の方角の記述には、写本時の写し間違いがある。
不弥国から南へ行くと投馬国、さらに南に行くと邪馬台国という記述を、そのままたどると九州南方の海の中に行ってしまう。正しくは「東」であるのを、誤って「南」と書いたと思われ、「南して」を「東して」に読み替えるべきである。
こうすると、投馬国は瀬戸内海のどこかであり、瀬戸内海を船で行き、10日後に山陽のどこかに上陸して、その後、陸行1月で大和に着いた、と理解できる。
当時の人々は太陽が昇る方向を東と考えていた。船の航行が容易な夏の季節には、日の出の方向は、時計と反対まわりに45度ずれる。だから、南は実際には東南である。不弥国から邪馬台国まで水行30日というのは、当時は、邪馬台国まで1月かかったことを意味する。平安時代の記録に、平安京から大宰府までの公定所要日数が30日とされていることも、これを裏付ける。
15世紀の「混一彊理歴代国都乃図」に描かれたように、中国では、日本列島を東西に伸びているのではなく、九州が北に、本州は南にあるような、南北に長く伸びているという認識があった。それゆえ、倭人伝の編者陳寿は、不弥国からみると、東にある大和を、南にあると思い込んでいたのである。
邪馬台国への日数・距離
使者が日本に上陸後、不弥国から投馬国までが「水行二十日」、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」とある。これだけの日数がかかる場所は、九州域内に求めるのは無理で、大和までの所要日数を表したものだ。
不弥国から先の、投馬国、邪馬台国は、距離ではなく日数になっているのは、九州から遠く離れたからである。
倭種の国
「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
邪馬台国の人口
大和は古くから開けた土地で、人口も多い。邪馬台国の7万戸の人口(20万人以上)は、奈良県なら可能。
狗奴国
狗奴国は東海地方、東北地方、関東地方に比定される。特に、東海地方は人口が多く、前方後方墳や、S字甕が分布が示すように、東海系文化をになう基盤があり、邪馬台国の対抗勢力でありうる。
投馬国
投馬国は、山口県玉祖(玉の親・防府市)、広島県鞆(とも)の津(福山市)、島根県出雲、兵庫県但馬・敦賀などに比定される。投馬国を瀬戸内海と見れば、そこから水行二十日の邪馬台国は、当然、畿内になる。この場合、候補地としては吉備が有力。
地名
ヤマトは元々大和地方の呼び名であって、古くから奈良を中心に栄えてきたのである。歴史的にも文化的にも大和が日本の中心として栄えてきた。ヤマト(邪馬台)の国名が大和(ヤマト)朝廷に引き継がれたと見るべきである。
邪馬台国の「ト」は、奈良時代の音韻法則から言えば大和の「ト」と同じ乙類である。邪馬台国候補地のひとつ、九州の山門の「ト」は甲類の音であり、大和とは異なっている。
言語学的には邪馬台(ヤマト)がそのまま大和(ヤマト)になったと見るべきだろう。
記紀の神話
『古事記』『日本書紀』の神話は、天皇家の権威を高めるために、6世紀頃に創作されたものであり、歴史的事実を伝えていない。
古墳・遺跡
畿内では、黒塚古墳、ホケノ山古墳、纒向古墳など、新聞をにぎわす新たな考古学的発見が相次いでおり、古くから、この地域を大きな勢力が支配していたことを示している。
大阪池上曽根遺跡の大型建物に使われたヒノキの柱根が、年輪年代法で紀元前52年に伐採されたものであることがわかった。早い段階から高度の文化を持った勢力が畿内に存在し、邪馬台国時代にはすでに前方後円墳が築かれていた。
唐古・鍵遺跡は320ヘクタールの大環濠集落で、紀元前1世紀から紀元2世紀まで続いた遺跡で、「楼閣」があった。
3世紀の日本は、九州から畿内までの広範囲ですでに統一されていた。3世紀初頭から4世紀後半の巨大集落である纏向遺跡(推定200ヘクタール)が、初期大和政権の首都の、有力候補地である。
纏向遺跡では、瀬戸内海、山陰、北陸、東海地方などから運ばれた多くの土器が出土し、各地からの物資が集まる先進地域だった。また、祭殿、祭具が発見されている。
「纒向古墳群」にある石塚古墳(93m)、大塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳などの前方後円墳は、すでに3世紀初めに築造されており、その後の大和朝廷の大規模な前方後円墳に連続するものである。
纒向遺跡はAD200年前に発生し、250年ごろ最盛期を迎える。300年前後に箸墓が完成した後、やがて衰退する。この経緯は、卑弥呼が共立され、臺與が跡を継いだ時代と合致する。箸墓古墳は卑弥呼か臺與の墓である。
中国の三国時代には、九州の文化所産は貧弱となり、畿内の古墳のほうが副葬品が立派になる。また畿内の古墳からは多くの舶載鏡が発見されており、文化的に畿内のほうが進んでいた。中国との交流があったことが、この文化を進展させた。
遺物
臺與の時代に布留式土器が出現し、大和から全国に広がる。これは大和が日本の中心であったからである。
銅鐸が残らなかったのは、個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成することになったためである。 
 
邪馬台国東遷説

 

第一章 邪馬台国は何天皇の時代か
邪馬台国の基本文献は「魏志倭人(ぎしわじんでん)」ですが、「魏志倭人伝」は、中国から遥かに遠い日本のことを書いたので、いささか情報不足だと思うのです。
たとえば、[x+y=2、2x+y=3]この連立方程式を解きますと、いうまでもなくx=1 y=1になります。これは情報が十分に与えられているので、答えが一義的に確定する。ところが仮に式がひとつだけしか与えられていない場合には、答えは不定になります。
つまり条件を満たす解はいくらでもあるで、xが0でyは2でも、x=1、y=1でも、x=2、y=0でも条件を満たす。
条件を満たす解はいくらでもあるわけです。「魏志倭人伝」というものは、まさにそういう状況にあると思うのです。
条件を満たすというだけのことならば、無数に解がある。 その結果、「邪馬台国」に関して現在400冊以上の本が書かれているけれども、いまだに確定的な答えがでないということになります。
つまり与えられた条件が不足しているので、情報をたくさんにしなければ、答えは確定しないということになります。
たとえば、考古学なら考古学だけ、あるいは「魏志倭人伝」なら「魏志倭人伝」だけ、あるいは日本側の文献なら日本側の文献だけというふうに、条件を少なくした場合には、当然情報が不足して、答えは定まらないということになるわけです。
「魏志倭人伝」は日本のことを書いているわけですから、日本側の文献「古事記」「日本書紀」なども使って情報を増やさないかぎり、答えは定まらないとわたくしは考えます。
戦争中の反動で、「古事記」「日本書紀」に書かれていることは信用できないという津田左右吉さんの説が戦後たいへん盛んになり、日本古代史学会の趨勢になったわけですが、わたくしは津田左右吉氏の説は、マルクス主義と同じであって、あの頃の時勢を反映したまったくのホラ話だと思います。
わたくしは「古事記」「日本書紀」にも信頼をおけると思いますけれども、そのこと自体を論議しますと、たいへん長くなりますので、それは省略します。
「魏志倭人伝」や考古学的な成果、それから日本側の文献などすべての情報を用いないかぎり答えは定まらないとわたくしは考えます。
そうした前提のもとで話を進めます。
西暦239年、中国の魏に日本からの使いがやってきた。そして邪馬台国という国があり、卑弥呼という人がいたと中国の文献に書いてあるわけです。これは日本の状況を述べているのです。
では、西暦239年は「古事記」「日本書紀」の伝えるところによれば、いったい何天皇の時代であったのか。どの天皇の時代なのかがわかるならば、「古事記」「日本書紀」のその天皇についての記事を読めば、どこに邪馬台国があるのかがわかるのではないかと、私は考えたわけです。
「日本書紀」にはひとりひとりの天皇について、たとえば神武天皇は西暦紀元前660年に即位したとかいろいろなことが書いてあります。ところが、これには非常に大きな年代の延長があるようです。
もともとの伝承は「古事記」の本文に書かれていますように、年代が入っていなかったと考えられます。神武天皇の次は綏靖天皇という天皇がいたというような順番だけが書いてある。これがもともとの伝承だったと思います。
さて「古事記」「日本書紀」には歴代の天皇名が書かれています。それでは239年という邪馬台国が存在した、あるいは卑弥呼が魏に使いを出した年というのは、何天皇の時代であったのか、まず[図1]をご覧ください。
歴代天皇の平均在位数が400年きざみでまとめてグラフにされています。
江戸時代から現代、17世紀から20世紀においては、天皇の一代の平均在位数は22年くらいになっています。昭和天皇は64年まで在位されましたが、これは確実な歴史時代に入ってからの在位年数の最長記録です。
このグラフを見ればわかるように、過去にさかのぼればさかのぼるほど平均在位年数は短くなります。
奈良七代70年、といわれるように、奈良時代はおよそ70年続き、その間に7代の天皇が立ちました。すなわち一代の天皇の平均在位年数は約10年です。奈良時代と現代を比べますと、天皇の平均在位年数が約2倍に伸びているわけです。
これは日本だけでなく、[図2]の中国の王の在位年数の場合も同じです。
西洋の王の場合も同じです。[図3]
ローマの皇帝の平均在位年数は約10年です。世界の王の場合も同じ傾向が認められます。[図4]
第31代の用明天皇あたりになりますと、586年頃活躍した人という年代がわかりますから、用明天皇からさかのぼる。一代10年、一代10年とさかのぼりましたならば、何天皇の時代が邪馬台国の時代と重なるのかということが分かるはずだと考えたわけです。
つまり古代に向かって年代の梯子をかけていったわけです。「ジャックと豆の木」のジャックのようにそれを登っていきますと、結論はどうなるか。
結論だけをいいますと、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えましても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかなりません。
つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになります。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後であるということになるわけです。 
第二章 卑弥呼は天照大御神
そうしますと「古事記」「日本書紀」によったのでは、邪馬台国は探れないということになります。
ところがここに不思議なことがあります。
それは、「古事記」「日本書紀」ともに神武天皇の前には、神話の時代があったと伝えています。たとえば「古事記」であれば、全体の1/3のページを使い、神話の時代を語っている。その神話の時代を見ますと、神武天皇の5代前に天照大御神という女性の神様がいたと伝えている。
神武天皇の5代前として、神武天皇の活躍した280年〜290年から5代、50年さかのぼりますと、天照大御神の時代は230〜240年頃になって、まさに卑弥呼の時代に重なるのです。つまり天照大御神というのは、卑弥呼のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。
[図5]のグラフをご覧ください。横軸には歴代の天皇の代が書いてあります。縦軸にはその天皇がいつごろ活躍した人かが書いてあります。
実線で書かれているのは、確実な歴史的事実です。そうするとこのグラフは下に凸形にかるく曲がったグラフだということが読みとれます。
そして仮に卑弥呼=天照大御神としますと、横軸については卑弥呼は神武天皇の5代前、縦軸については239年くらいの人ということで、図中のAポイントが定まるわけです。このポイントが実線の延長線上にきわめて自然に乗っていることが、読みとれると思います。
卑弥呼は天照大御神という形で神話化し伝承化したとしたならば、、邪馬台国のことは天照大御神のいた場所ということになります。「古事記」「日本書紀」によると、その場所は、高天原となっています。この高天原とは邪馬台国のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。 
第三章 神話のなかの地名
つぎに[図6]のグラフをご覧ください。このグラフは「古事記」の神話にでてくる地名の統計をとったものです。そうすると九州の地名が一番たくさん出てきます。つぎにたくさん出てくるのが出雲の地名です。畿内の地名はごくわずかしか出てきません。そこで「古事記」神話の舞台は主に九州と出雲であるということになります。
津田左右吉さんのいわれるように「古事記」の神話は大和朝廷の役人たちが天皇家の権威をたかめるために、机の上で創作したとすれば、畿内大和の地名が一番たくさん出てきそうなものですが、事実はそうでない。九州の地名が一番たくさんでてくる。
このことは何を意味するか?
大和朝廷の人たちは遠い祖先の人たちが九州にいたんだという伝承、おぼろげな記憶を持っていたのではないかということになります。
「古事記」神話には畿内の地名もいくつか出てきます。しかし、その地名をていねいに調べてみますと、本来の畿内の地名はひとつも出てきません。たとえば、「住吉」という地名が出てきます。
これは昔の「墨江」です。本居宣長は摂津の「住江」、つまり大阪府の「住吉」を考えています。したがって、[図6]のグラフでは「墨江」は畿内の地名としてカウントしました。
しかし、博多のあたりにも、宮崎県にも「住吉(墨江)」神社はあるのです。特にこの住吉神社の成立が、伊邪那伎の命の禊と関係するならば、むしろ宮崎県の地名とすべきでさえある。つまり地名の統計をとると、九州が日本神話の主な舞台になっているということがいえるわけです。
さらにこの神話の内容を見ますと、神話のなかには「天の安川」という川の名が記されており、この「天の安川」において神々が会議を開き、いろいろなことをおこなったと書いてあります。
「地名は言語の化石」といわれるように、古い地名が残りやすいといわれております。九州の地図を見ますと、北九州の中心部の甘木市の近くに、夜須町というところが現在でもあります。そうしてその夜須町あるいは甘木市の近くに小石原川という川が流れています。この川は別名「夜須川」とも呼ばれています。
ごく最近、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てまいりました。これははたして神話を裏書きするものなのかどうか、検討に値する興味深い問題だと思います。
[図7][図8]の地図をご覧下さい.
[図7]の地図は畿内、大和の地名です。[図8]は北九州の夜須町の地図です。ご覧いただきますとおわかりのように、ほとんど同じ場所に同じような地名があります。
たとえば、北の方に「笠置山」という山があり、「春日」というところがあり、「三笠(御笠)山」というところがあります。あるいは「長谷」であるとか「朝倉」であるとか、ほとんど同じような位置に同じ地名があります。
これはいったい何を意味するのでしょうか?
図7 大和郷のまわりの地名
図8 夜須町のまわりの地名
結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。
イギリスの人たちがアメリカに渡り、たとえば「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」とかイギリスの地名をたくさん持っていった。それと同じような事情があっただろうと考えます。
畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも、地形が非常に似ていて、大きな川の上流であり、ある程度盆地的になっている。こういうことから、わたくしは甘木、朝倉あたりが邪馬台国の中心地であったと考えます。
[図9]をご覧ください。
これは小山修三さんがつくられた九州地方の人口の分布ですが、筑後川流域の甘木、朝倉を含むあたりが人口の密集地帯であることがおわかりいただけると思います。また、南九州にも人口の密集地帯があることもご注目ください。
それからまた、[図10]に出雲の地図が書かれております。
いずものところに「稲左(伊那佐)の小浜」というところがあり、そこに建御雷(たけみづち)の神と天の鳥船の神という高天原勢力の二柱の神が上陸して、出雲の大国主の命と談判したと「古事記」「日本書紀」には書かれています。
天の鳥船の神は船の擬人化だと考えられます。高天原というのはどこにあったか。高天原が仮に畿内にあったとするならば、畿内から出雲では船では行きません。高天原が九州にあったとするならば、船で行かなければなりません。つまり高天原は九州地方にあったのだろうと考えられるわけです。 
第四章 邪馬台国時代の遺跡と遺物
[表1]と[表2]には九州、近畿、関東のいろいろな遺跡、遺物の数が書かれております。
銅をとりましても鉄をとりましても、あるいは鉄鏃をとりましても絹をとりましても、数からいえば九州の方が畿内に比べて圧倒的に有利だと思います。畿内の方がわずかに有利なのは、三角縁神獣鏡と銅鐸ぐらいだと思います。
銅鐸は「魏志倭人伝」には書かれていません。少なくとも、直接的に「魏志倭人伝」に書かれているものを考えたならば、これは九州の方がどうみても有利だと思います。
鉄は消えてなくなるのではないかという佐原真先生のお話がございますけれども、「魏志倭人伝」に書かれているのは鉄だけではありません。他の遺跡、遺物のこともたくさん書かれています。そのほとんど全部が九州の方がずっと有利になっていると思います。
ここで遺跡、遺物についてもう少しくわしく考えてみたいと思います。
佐原真先生は、先日放送されたNHKの「歴史発見」で、三角縁神獣鏡がたくさん出ているから畿内、大和が邪馬台国のあった場所と見られると説明されていましたけれども、三角縁神獣鏡というのは、主に四世紀の時代にしか出てこないものだとわたくしは思います。
邪馬台国のことを議論するならば、邪馬台国時代のものをとりあげなくてはならないと思います。つまり邪馬台国時代という時代を設定して、その時代に遺跡の分布がどうなっているのかということを考えなければ議論の焦点がずれてしまうのではないかというのが率直なわたくしの感想です。
それでは邪馬台国時代の遺跡、遺物は何かということですが、埋葬形式として、まず土器の甕のなかに死体を葬るという甕棺(かめかん)の時代が西暦紀元前後から180年頃までつづく。吉野ケ里遺跡なども、主なものはこの甕棺時代のもので、邪馬台国時代より前のものだったと考えます。
甕棺時代のつぎにやってきたのが箱式石棺の時代、平らな石を組み合わせてつくるお墓の時代です。それがまさに邪馬台国時代の埋葬形式だと考えます。
そのつぎに竪穴式の石室を持つお墓の時代がやってきます。これが主に四世紀時代のお墓であると思います。そのつぎに横穴式の石室を持つお墓の時代がくる。これはだいたい五世紀頃だと思います。
つまり邪馬台国時代の遺跡、遺物を問題にするならば、箱式石棺の時代のものをとりあげなければいけないと思います。
ここで地域と時間とを限定しなければ話が混乱しますので、旧甕棺墓地域というものを設定します。甕棺のおこなわれた地域です。
この地域では、甕棺の時代のつぎに箱式石棺の時代がやってきます。ところが周辺地域には甕棺がおこなわれずに、はじめから終わりまでずっと箱式石棺が主におこなわれていました。ですから、地域と時間とを限定しなければなりません。
この甕棺がおこなわれた地域(旧甕棺墓地域)では、西暦180年頃から箱式石棺に変わるわけです。卑弥呼の時代は、箱式石棺の時代です。
[図11]をご覧ください。これは箱式石棺から出た主な遺跡、遺物です。
旧甕棺墓地域において、箱式石棺がおこなわれた卑弥呼時代のものにしぼってその分布を書いたものです。すると、昔、甕棺がおこなわれた地域では、四つの中心地があることがおわかりかと思います。
まず、福岡県前原市の平原(ひらばる)のあたり。ここから非常にたくさんの遺物が出ていますが、これは原田大六さんが発掘されたたったひとつのお墓から出たものです。これは大変なもので、もし筑後川の流域から出たものならば、文句なく卑弥呼のお墓だといっていいようなものです。
それから福岡市のあたりにひとつの中心があることがおわかりいただけるでしょう。
また、わたくしが邪馬台国があったのではないかと考える甘木、朝倉のあたりにひとつの中心地がある。
それから吉野ケ里のちょっと北側、北背振村のあたりに中心地がある。
その四つの中心地があることがおわかりいただけると思います。特に、鉄の遺跡、遺物となりますと、これは甘木、朝倉あたりが中心的になります。 
第五章 台与(とよ)の時代
[図12]をご覧いただきたいと思います。この地域では初めから終わりまで箱式石棺がおこなわれていたので、箱式石棺が出たからと行って、それが邪馬台国時代のものであるとは限定できないのですが、そこにまた四つの中心地があることがわかります。
京都郡のあたり、今の行橋市のあたりにひとつの中心地がある。それから北九州市のあたりに、もうひとつの中心地がある。それから若宮町、宮田町のあたりに中心地があることがおわかりいただけると思います。さらにいまひとつの中心地は、遠賀川の上流域、香春町、田川市のあたりにある。
この四つの中心地をふくめた地域が投馬国ではないかとわたくしは考えています。
ここからはかなりたくさんのものが出ています。不思議なことにここの箱式石棺のなかからは、極めて多量の「ヤリガンナ」が出てくる。この多量の「ヤリガンナ」は何であろうか。もし人口の点からいったら邪馬台国の地域、筑後川流域からいっぱい「ヤリガンナ」が出そうなものなのに、そうはなっていない。これはなぜであろうか。
これは家をつくるための「ヤリガンナ」ではなく、船をつくるための「ヤリガンナ」だったとわたくしは思います。その船は何であったか、少なくとも三つくらいは考えられます。ひとつは天の鳥船の神と建御雷(たけみづち)の神が出雲方面へ行ったという伝承がありますように、出雲方面へ行くための舟ということが考えられます。
それからもうひとつはこの北九州のあたりに企救郡というのがありましたが、ここらへんに聞(企救)物部という人たちがいたと考えられるわけです。物部氏が、多くの船頭たちとともに、大和へ移ったという話が「旧事本紀」に書いてある。それと関係するのではないかと考えられます。
もうひとつは、遠賀川河口付近にあった神武天皇が出発した岡田の宮と関係があるのではないか。宮田町、若宮町からは簡単に遠賀川河口付近に出られるような川のルートがあるわけです。したがいまして、ここで船などをたくさんつくったためにたくさんの「ヤリガンナ」が出てきたのではないか。
問題は京都郡であります。ここに「ミヤコ」という地名が残っています。古代においては、都はしばしば移っております。中国の方に注意がむいていた卑弥呼の時代にはたしかに卑弥呼の都は甘木、朝倉地域にあったと思いますけれども、その宗女の台与の時代になったとき、都が京都郡に移ったのではないかと考えられるわけです。
ここらへんは、豊前、豊後の「豊の国」であり、「豊の国」と台与という名前は、地名が豊という国だったから台与という名前で呼ばれたのか、あるいは台与という女性がそこに住んだから地名が豊になったのかわかりませんけれども、いずれにしても、豊という人名とは、無関係ではないであろうと思います。
そしてこの台与の時代こそ、のちの大和朝廷の前史をなす大発展時代だったのだろうと思います。つまり出雲方面にはそれなりの勢力が行き、それから大和の方面にはニギハヤヒの命が行き、そして南九州にはニニギノ命が天尊降臨したという形で行き、このように北九州から日本のあちこちに勢力がおよんでいった時代だったろうと思います。その一環として南九州に降った人たちがいる、そうしてそれがのちの大和朝廷につながるということになるわけです。
この宮崎県のあたりには、しかるべき遺跡、遺物がでないではないかというようなご質問も当然あろうかと思いますけれども、それについてわたくしの答えは用意してあります。要するに神武天皇は、宮崎県から出発して大和朝廷をたてた。それは邪馬台国のヤマトの名前をつぐものであった、と考えるわけです。宮崎県に天孫降臨したのは、なんらかの史実の核があったとわたくしは考えています。 
邪馬台国東遷説の根拠
多くの人によつて説かれてきた「邪馬台国東遷説」の根拠を文献上のものと考古学上のものとにわけてまとめれぱ、つぎのようになる。
文献上の根拠
年代的にみて、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神の活躍の時期は、卑弥呼の活躍の時期に重なりあう。
日本神話の伝える天の岩戸事件は、『魏志倭人伝』の伝える卑弥呼の死、宗女台与の奉戴などの一連の事件とモチーフが酷似している。
卑弥呼も天照大御神も、ともに、女性で、シャーマン的で、宗教的な権威をもち、夫がなく、男弟がある。
天照大御神と素戔嗚の尊との戦争談は、卑弥呼と狗奴国の男王なる卑弥弓呼との戦争に似ている。
卑弥呼の名は、「オホヒルメノミコト」「日の御子」「日の巫女」「姫尊(ひめみこ)」などと関係がありそうである。
『魏志倭人伝』と日本側文献とを比較すると、風俗習慣や、社会の状態が、よく似ている。(いれずみ、朱を用いる習憤、髪の結い方、衣服、器物、葬式における歌舞、みそぎ、骨をやいてのうらない、一夫多妻など。)
神武束征伝承は、『古事記』『日本書紀』共通である。「国家を統一する力が、九州から来た」という物語の中核は、作者の作為にもとづくものではないであろう。
「邪馬台国」の「邪馬台」と「大和朝廷」の「大和」との名称が、共通している。これは、「大和朝廷」が、「邪馬台国」を継承したためと考えられる。
女王国も大和朝廷も、ともに、その国号は、「倭国」で一貫している。このことも、女王国と大和朝廷との連続性を示している。
中国文献では、魏代から隋代まで、倭国は、連続したものとしてとらえられている。倭の五王なども、卑弥呼につづくものとしてとらえられている。魏代以来倭国が連続性を有することは、北九州の勢力が東遷して、大和に中心を移したことを示す。
高句麗の南下、百済、新羅の興隆は、日本列島にも、国家統一へとむかう刺激を与えたと考えられる。そして、その刺激をもっともうけやすかったのは、九州である。
邪馬台国は、女王台与が西暦266年に晋に使をおくったのち、中国の史書には、百年のあいだあらわれない。これは、三世紀後半に、邪馬台国勢力の東征がおこなわれていたため、戦いのなかに日がおくられ、大陸へ使を出すいとまがなかったためであろう。
『古事記』『日本書紀』には、南九州の熊襲や、東国の蝦夷征討の物語はあっても、北九州征討の物語だけはない。これは、もともと大和朝廷が、北九州をふるさととしていたため、征討の必要がなかったためであろう。筑紫以外の九州の勢力が、国家を統一したとすれば、筑紫の勢力との争闘は、何らかの伝説を残すはずである。
当時、大和に統一国家があったとすれば、その統一国家は、直接中国に通じたはずである。しかし、そういう形跡はない。
『古事記』『日本書紀』の神話は、なぜ九州に関係する多くの記述を行わなければならなかったのであろうか。神話を、まったく架空の物語としてみる立場からは、その必然性が説明できない。
『古事記』神話の資料となっている個別神話のほとんどは、北九州の地において生育したものである。
考古学上の根拠
古くから、玉、鏡、剣は、皇室の象徴である。
ところで、玉、鏡、剣は、北九州の甕棺のおもな副葬品である。
皇室および大和朝廷が、九州におこったと考えることによって、北九州系の玉、鏡、剣が、皇室のシンボルとなりえたことをうまく説明できる。
4世紀初頭に、畿内を中心にはじまる古墳時代に入っても、はじめの一世紀ほどは、三つの宝器を副葬する風習がみられる。
さらに、北九州の酋長の中に、玉、鏡、剣をその権力の象徴としていたもののあることが、文献上にも記されている。
また、鉄刀、巴形銅器なども、北九州の弥生式墳墓、畿内の古式古墳の双方から発見されている。遺骸と一緒に朱丹を使用する風習も、北九州の弥生式墳墓、畿内の古式古墳ともにみられる。倭人が朱丹を身体にぬる風習のあることは、『魏志』「倭人伝」にみえる。
このように、畿内の初期古墳文化は、北九州弥生文化の系統をひいている。
弥生時代の畿内には、方形周溝墓という墳丘墓が実在するが、副葬品をもつものは、皆無といってよい。次の時代の前方後円墳からは、豊富な副葬品が発見される。副葬品を墓におさめる「習慣」そのものが、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とで連続している。
『古事記』『日本書紀』の神話では、鉾と剣(さらに、鏡と玉)とがしぱしば語られている。これは、筑紫中心の銅鉾銅剣の文化と照応している。
『古事記』『日本書紀』の神話は、銅鐸についての記憶を残さない。
畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも突然、その伝統を絶つ。713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたとき、人々はこれをあやしみ、『続日本紀』には、「その制(形)は、常と異なる。」と記されている。銅鐸は、多く隠匿したような形ででてくる。
『古事記』『日本書紀』の神話は、剣と矛とのことをしぱしぱ語っている。しかし、銅鐸については、沈黙する。これは、『古事記』『日本書紀』の神話が、近畿中心の銅鐸文化圏において、発生したものではないことを示している。
銅鐸によって代表される宗教的、政治的権力は、銅鏡、銅剣によって代表される大和朝廷によって滅ぽされたのであろう。銅鐸文化は、畿内を中心に紀元前後数世紀にわたって栄えた文化であり、大和朝廷が初めから畿内にあったとすると、両者の問に、なんの結びつきもないのは、不可解である。
古墳は、畿内に、突如としてはじまる。これは、新しい政治勢力が、畿内に進出してきたものとして、自然に理解できる。銅鐸文化の消滅と古墳文化の発生は、その背後に、支配層の交代のあったことを思わせる。
崇神天皇陵よりも古いとされる奈良盆地の茶臼山古墳の副葬品は、北九州の弥生式文化の中期・後期の族長が持っていたものと、基本的に同じであるといわれる。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の径百余歩の塚は、古墳の祖形についての記述ではないかと思われる。
森浩一氏によれぱ、古式古墳発生の母胎は、大和を中心とする畿内の弥生式文化には、ほとんど求められないのにたいし、北九州の弥生式文化からは数多く求められるという。北九州には、成立期の古墳として、なんら不都合のないものがある。
おそらくは、古墳は、鏡、剣、鉾などを墓にうずめる習俗とともに、九州に発生し、畿内で発達をとげたのであろう。畿内における古墳の発生と伝播は、大和政権の成立と発展とに対応している。
なお、古墳の発生は、三世紀末から四世紀のはじめとみられる。これは、平均在位年数にもとづく年代論によるとき、神武天皇の時代に対応する。
最古の直弧文(直線と弧線を組みあわせた文様)の出現の時期が、西から東へと移動している。
『魏志倭人伝』には、倭人は、鉄を用いたとある。弥生時代後期において、鉄製品は、北九州から多く発見され、近畿からは、ごくわずかしか発見されない。そして、次の古墳時代にはいると、畿内を中心とする多くの古墳から、莫大な量の鉄器が出土している。鉄器の使用において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とで連続している。
『魏志倭人伝』には、倭人が、養蚕を行なっていたことを記している。また、邪馬台国女王から魏帝へ献上した絹製品の名が、『魏志倭人伝』にいくつか記されている。弥生絹は、いずれも、北九州のみから出土している。
古墳時代以後には、畿内から、絹が出土する。絹の出土において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とが連続している。

混一彊理歴代国都之図 (こんいちきょうりれきだいこくとのず)
『混一彊理歴代国都之図』は、明の建文四年(1402)に、朝鮮で作成された日本についての地図(京都・龍谷大学蔵、以下、龍谷図)である。この地図には、日本列島が南北に長く描かれている。
これが、古代から15世紀に至るまでの、中国人の日本についての認識であったとし、魏志倭人伝も、この誤った方向認識で記述されたとして、倭人伝の方角の記述を「南」を「東」に修正するべきとの論がある。
また、魏志倭人伝では、邪馬台国が北九州沿岸の国から、南の方向にあると記述されているが、この地図で南に進むと畿内方面に至ることから、この地図は、「邪馬台国畿内説」の論拠のひとつになっている。
しかし、次のような理由で、このような主張は、根拠がないと考える。
弘中芳男氏の研究によって、この地図が、日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。
すなわち、同じ元資料から作られたと思われる『混一彊理歴代国都地図』(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)の存在が明らかになり、本光寺図では、日本は正しく東西に画かれていたことから、周囲の島嶼の配置などの分析により、本光寺図こそ、当時の地理観を正しく反映したものであり、龍谷図は、スペースの都合などによって、日本を南北に画いたものであると判断された。
『混一彊理歴代国都之図』(龍谷図)には、たとえば大和や常陸などの旧国名ばかりでなく、陸奥には「夷地」さえ記入されている。三世紀に、わが国の国内の各国名を記した地図などがあるはずはない。
この図は、日本の中心を、奈良付近ではなく、京都付近においている。この図は、あきらかに、三世紀よりずっとのちの、『古事記』『日本書紀』成立以後の、大和朝廷が畿内に存在している時代の情報をもとにえがかれているものである。
中国の歴史書は、ずっとのちになっても、『魏志』の記述を踏襲する傾向があった。そして、邪馬台国と現実の大和朝廷とを結びつける傾向があった。すなわち、この地図は、のちの時代の大和朝廷についての知識と、中国史書にみえる『魏志』以来の「邪馬台国」についての知識とを、重ねあわせてえがいていると考えられるものである。
畿内説を主張する学者は、八世紀ごろ成立した『古事記』『日本書紀』などの国内文献が描く、日本の古代の情報を信頼できないとする。
そのいっぽうで、それよりも700年もあたらしい15世紀の外国文献である『混一彊理歴代国都之図』(龍谷図)をもとに、邪馬台国時代の議論を展開している。
この方々が説く「厳密な文献批判」などどいうことばは、どこにいったのであろうか。判断の基準を自由に動かして、自分勝手な都合のいい議論をしているとしかいいようがない。 
 
魏志倭人伝1

 

「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない。つぎにかかげる現代語訳では、全体の構文をつかみやすくするため、三章五十節にわけ、見だしもつけた。このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。
第一章 倭の国々
第二章 倭の風俗
第三章 政治と外交
「三国志」の編集の陳寿は、諸種の資料を、そのまま書きうつしたのではなく、一度整理したうえで記したしたとみられる。 
第一章 倭の国々
1.倭人について
倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。
2.狗邪韓国
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。
3.対馬国
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。いるところは絶島(離れ鳥)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽と鹿のこみちのようである。千余戸がある。良田がない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。
4.一支国
また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴している。
5.末盧国
また、一海をわたる。千余里で、末盧国(肥前の国、松浦郷)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。
6.伊都国
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来するときつねにとどまるところである。
7.奴国
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。二万余戸がある。
8.不弥国
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。
9.投馬国
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。
10.邪馬台国
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。
11.女王国より以北
女三(王の誤り)国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできないことである。
12.女王国の境界
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。
13.狗奴国
その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。
14.一万二干余里の道程
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。 
第二章 倭の風俗
15.黥(いれずみ)
男子は、大(人も、身分の高い人も、またはおとなも)小(人も、身分の低い人も、またはこどもも)なく、みな面に黥をし、身に文をして(からだの表面に絵もようを描いて)いる。古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫(一般に大臣)と自称している。夏(中国古代の王朝)の后(王)少康(夏六代の王)の子は、会稽(いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地)に封ぜられたとき、(人々は)髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。いま、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを)やや飾りとしている。諸国の(者の)身を文にする(仕方)は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑(の階級によって)差がある。
16.会稽東冶の東
その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。
17.風俗・髪形・衣服
その風俗は、淫(みだら)でない。男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露(出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。
18.栽培植物と繊維
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。
19.存在しない動物
その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない。
20.兵器
兵(器)には、矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭は、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃(のもの)である。
21.耳・朱崖との類似
(産物や風俗の)有無するところ、(の状況)は、耳(たんじ:郡の名。いまの広東省県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。
22.居所・飲食・化粧
倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。朱丹(赤い顔料)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごとくである。飲食には、竹や木製のたかつきをもちい、手でたべる。
23.葬儀
その(地の)死(事)には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。
24.持衰
渡海して中国にゆききするときには、つねに一人(の人に)は、頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰(衰は、粗末な喪服)としている。もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり、暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。
25.鉱産物
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。その山には、丹(あかつち)がある。
26.植物
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。
その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)がある。
・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょう)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。
27.存在する動物
猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。
28.ト占
その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。まずトうところを告げる。そのうらないのとき方は(中国の)令亀の法(亀甲に、よいうらないの結果をだすよう命令したうえで行なう亀トの方法)のごとくである。熱のために生ずるさけめをみて(前)兆をうらなうのである。
29.会同・坐起
その会同(集会)・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による(区)別がない。人の性(情)は、酒をたしなむ。(この下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」)大人の敬をするところ(敬意の表し方)をみると、ただ手をうって(拍手をして)跪拝(ひざまずいて礼拝すること)にあてる。
30.寿命
その(地の)人(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。
31.婚姻形態
その(地の)(風)俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)婦(をもつの)である。婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。
32.犯罪と法
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家、家柄)を滅ぼし、親族に(まで罪を)およぼす。
33.尊卑の別
尊卑には、おのおの差序(等級)がある。それぞれ上の人に臣服するにたる(臣服するに十分な上下関係の秩序がある)。
34.租税と市
租賦(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。
35.一大率
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。
36.下戸と大人
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら草(叢)に入る。辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるいは跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。これを(大人に対しての) 恭敬(うやまう態度)となしている。うけこたえの声には、「噫(おお)」という。(それは中国の)然諾(よし。同意、賛成の意)のごときものにくらべられる。 
第三章 政治と外交
37.女王卑弥呼 倭国大乱
その国は、もとまた男子をもって王としていた。7〜80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
38.女王国東方の国
女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
39.侏儒国
また侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。人の長は三・四尺。女王(国)を去ること四千余里である。
40.裸国・黒歯国
また、裸国(はだかの人の国)・黒歯国(お歯黒の人の国)があり、またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。
41.周旋五干余里
倭の地(理)を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋すること(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。
42.景初二(三)年の朝献
景初(魏の明帝の年号)2年(238年であるが、じっさいは景初3年、239年の誤りとみられる。『日本書紀』が引用している『魏志』および『梁書』『翰苑』は3年とする)6月、倭の女王は、大夫の難升米(なしめ)等をつかわした。(帯方)郡にいたり、(中国の)天子(のところ)にいたって朝献することをもとめた。太守(ここでは帯方郡の長官)の劉夏は、役人をつかわし、送って、京都(洛陽)にいたらしめた。
43.魏の皇帝の詔書
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところの男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。汝の在るところははるかに遠くても、すなわち、使をつかわして貢献した。これは汝の忠孝である。我れははなはだ汝を哀れむ(いつくしむ)。いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮(あず)ける。装封して(袋に入れて封印して)帯方太守に付して仮授させる。汝、それ種人(種族の人々)を綏憮(なつけること)し、つとめて(天子に)孝順をなせ。汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)に(おいて)勤労(よくつとめること)した。いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。いま、絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹・絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、汝が献ずるところの貢直(みつぎものの値)に答える。また、とくに汝に紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹・細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。みな装封して難升米・牛利に付(託)(ことづけ)してある。還りいたったならば、録受し(目録にあわせながら受けとり)ことごとく(それを)汝の国中の人にしめし、(わが)国家が、汝をあわれんでいるのを知らせるべきである。ゆえに、(われは)鄭重に好い物をたまわる(与える)のである。」
44.正始元年の郡使来倭
正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。
45.正始四年の上献
その四年(正始四、243)、倭王は、また使の大夫の伊声耆(いしぎ)・掖邪狗(ややこ)など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青(こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物)・緜衣(綿いれ)・帛布(しろぎぬ)・丹・木(もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ)・短弓と矢を上献した。掖邪狗などは、壱く(いっせいに)、率善中郎将の印授を拝した(ちょうだいした)。
46.正始六年難升米に黄憧
その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色いはた。高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。
47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和
その八年(正始八、247)、(帯方郡の)太守王(おうき)が、(魏国の)官 (庁)に到着した(そして、以下のことを報告した)。倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。倭(国)では、載斯(さし)・烏越(あお)などを(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。(郡は)塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)檄(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。
48.卑弥呼の死
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
49.女王、壱(台)与
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。
50.壱(台)与の朝献
壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、(張)政らの(帰)還をおくらせた。(倭の使は)よって(そのついでに)、台(ここでは魏都洛陽の中央官庁)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千(枚)、孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚、異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹を(朝)貢した。 
 
魏志倭人伝2

 

帯方の 東南海に 倭人住み
卑弥呼死に 壱与十三 王とする
倭(わ)人は帯(たい)方郡 朝鮮半島南部。今のソウル地方の東南の大海に住んで、山や島を国としています。
むかしは百あまりの国があって、漢(かん)の朝廷(ちょうてい)に参上(さんじょう)して天子に面会(めんかい)する者がいました。
今、使者と通訳(つうやく)が知っている倭の国は三十か国です。
帯方郡より倭国に行くには韓(かん)国の西海岸(がん)にそって水路を七千里(り)魏(ぎ)里約四三四米あまり南へ行ったり東へ行ったりしながら北岸の狗邪(くや)の韓国に着き、そこから最初の海域(いき)を千里あまりわたり、対馬(つしま)の国に着きます。
その国の長官は卑狗(ひこ)といい、長官の仕事を助ける補佐(ほさ)は卑奴母離(ひなもり)といいます。住(す)んでいるところは孤島(ことう)で、四方は四百里ばかりです。土地や山は険(けわ)しく、ほとんど森林です。道路は鳥(とり)や鹿(しか)が通るような細道で家は千戸(こ)あまりあり、良田はなく海の物を食べて生活をたて、穀物(こくもつ)は船に乗って南北から買い入れています。
つぎにまた南へ千里あまり、瀚海(かんかい。広い海)といわれる海域(いき)をわたり、一支(いき。壱岐)の国に着きます。長官はやはり卑狗(ひこ)といい、補佐は卑奴母離(ひなもり)といいます。島の四方は三百里ばかりで、竹や木のやぶが多く、家は三千戸(こ)あまりで、田地(でんち)は良いのと悪いのがあり、田を耕(たがや)しても満足(まんぞく)に食べられないので、ここでも穀物は南北から買い入れています。
ついでまた、千里あまりわたり、末盧(まつろ)の国に着きます。家は四千戸あまりあり、山や海にそって住んでいます。草木が茂(しげ)るに茂って、道中、前の人が見えなくなるほどです。魚やあわびを自分からすすんでとり、海は遠浅(とおあさ)で深いところがなく、みなもぐって魚貝(ぎょかい)をとります。
ここから東南へ陸路を五百里行きますと、伊都(いと)の国に着きます。長官は爾支(じし)といい、補佐は二人いて一人を世謨觚(せもこ)、一人を柄渠觚(へきょこ)といいます。家は千戸ばかりで、代々王がいますが、みな女王の国に服属(ふしぞく)しており、帯方郡の使いが行き来するたびに滞在(たいざい)するところでもあります。
東南の奴(な)の国に着くには百里あります。長官は兕馬觚(じばこ)といい、補佐(ほさ)は卑奴母離といいます。家は二万戸あまりあります。
東へ行って不弥(ひび)の国に着くには百里、長官は多模(たぼ)といい、補佐は卑奴母離といいます。家は千戸あまりあります。
南の投馬(とま)の国に着くには水路を行って二十日かかります。長官は弥弥(びび)、補佐は弥弥那利(びびなり)といいます。家は五万戸あまりです。
南の邪馬台(やばたい)の国、女王の都に着くには、水路を行って十日、陸路を行って一か月、長官に伊支馬(いしば)がおり、補佐は三人いて弥馬升(びばしょう)・弥馬獲支(びばかくし)・奴佳鞮(なかて)といい、家は七万戸あまりです。
女王の国より北はその戸数とみちのりをほぼ記載(きさい)することができましたが、その残りの周辺国は遠くはなれており、くわしく記すことはできません。
そこで、国の名前だけをあげておきます。
次に斯馬(しば)の国があり、次に巳百支(しはくし)の国があり、次に伊邪(いや)の国があり、次に都支(とし)の国があり、次に弥奴(びど)の国があり、次に好古都(こうこと)の国があり、次に不呼(ひこ)の国があり、次に姐奴(そど)の国があり、次に対蘇(たいそ)の国があり、次に蘇奴(そな)の国があり、次に呼邑(こゆ)の国があり、次に華奴蘇奴(かなそな)の国があり、次に鬼(き)の国があり、次に為吾(いご)の国があり、次に鬼奴(きど)の国があり、次に邪馬(やば)の国があり、次に躬臣(くしむ)の国があり、次に巴利(はり)の国があり、次に支惟(しい)の国があり、次に烏奴(おな)の国があり、次に奴(な)の国があり(奴は二国あります)、これで女王の国はおわりです。
女王の国の南に狗奴(くな)の国があり、男子を王とし、長官に狗古智卑狗(くこちひこ)がおり、女王に属していません。
帯方郡より女王の国に至るまでは一万二千余里です。男子は大人も子どもみな顔と体にいずみをしており、古くから女王の使いは中国に来て、みな自分を大夫(たいふ。高官)と名のっています。
夏(か)王朝 前一七〇〇以前の王少康(しょうこう)の子は会稽(かいけい。浙江省〈せっこうしょう〉)に領地を与えられ、髪を切っていれずみをし、蛟竜(こうりゅう。サメ・ワニの類)から身を守りました。
いま、倭国の水人(すいじん。あま。漁労者〈ぎょろうしゃ〉も自分からすすんで水にもぐり、魚やはまぐりをとっていますが、彼らのいれずみも大きな魚や水鳥をはらいのけるためのもので、のちしだいに飾(かざ)りとなって、現在に至ったものと思われます。
諸国のいれずみはそれぞれ異なり、あるいは左、あるいは右、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差があります。
その位置を計ってみますと、ちょうど会稽(かいけい)・東冶(とうや。福建省〈ふっけんしょう〉)の東にあります。
その風俗は淫(みだ)らでなく、男子は髪(かみ)を分けて肩(かた)の前にたらし、木綿(もめん)で頭をしばっています。
衣(ころも。着物)は横にはば広く、結(むす)びくくって前と後ろをあわせているだけで、ほとんど縫(ぬ)っていません。
婦(ふ)人は分けた髪を折り曲げてかぶり、衣は単(ひとえ)のかけぶとんのようなものを作ってその中央に穴(あな)をあけ、頭を通して着ています。
稲(いね)や麻(あさ)を植え、蚕(かいこ)を飼(か)い、桑(くわ)をつみ、絹(きぬ)をおり、糸をつむぎ、細糸(ほそいと)・麻布(あさふ)・きぬ・綿を産出しています。
その地には牛・馬・虎(とら)・豹(ひょう)・羊(ひつじ)・カササギはいません。
武器は矛(ほこ)・盾(たて)・木弓(きゆみ)を使い、木弓は下に短く上に長く、竹の矢は鉄の鏃(やじり)をつけていたり、骨の鏃をつけていたりさまざまで、海南島南部や北部と同じです。
倭の地はあたたかく、冬も夏も生やさいを食べ、みなはだしです。家があり、父母兄弟はねるときと休むときは場所をべつべつにします。
朱丹(しゅたん。水銀鉱石)を体にぬるのは、中国がおしろいを使うようなものです。
飲食には竹で編んだ器(うつわ)や木製の器を使い、手で食べます。
死ぬと、棺(ひつぎ)はありますが、囲いはありません。棺のまま土にうめて塚(つか)を作ります。
死んだはじめの十余日は親せきや知りあいが死者を弔(とむ)い悲しむ喪(も)に服(ふく)するので、死体をとどめておきますが、その時は肉を食わず、喪(も)主は泣(な)き叫(さけ)び、他の人は歌い舞(ま)い踊(おど)って酒を飲みます。葬祭(そうさい)がおわりますと、水の中に行って体を洗い清めます。
これは中国で喪がおわったあとに行なう清めの儀式のようなものです。
たびをして海を渡り、中国に行くときは、その一行の一人は頭の髪(かみ)をあらわず、虱(しらみ)もとらず、衣服(いふく)はよごれ、肉を食わず、女性をちかづけず、喪に服した人のようにしています。これを名づけて持衰(じさい)といっています。もし、一行が安全無事(あんぜんぶじ)で、みんなといっしょに行ってかえってくれば、いろいろ財(ざい)物をもらいますが、一行が病気になったり暴風雨の害(がい)にあったりしたときは殺されます。持衰(じさい)が身をつつしまなかったからだというのです。
真珠(しんじゅ)や青玉(せいぎょく)を産出(さんしゅつ)し、山には朱丹(しゅたん)があり、木はゆずりは・どんぐり・くす・もち・くぬぎ・かし・かえでなど、竹はしの竹・め竹などがあり、しょうが・みかん・さんしょう・みょうがもありますが、料理につかうことを知りません。
猿(さる)や山鳥はいます。
とくべつなことを行なったり、旅(りょ)行をしたりするときは、動物の骨(ほね)をやいてひび割(わ)れを作り、良いかわるいかをうらないます。
集会は、父子男女のわけへだてはありません。
彼らは生まれつきさけを飲み、地位のある人や年長者にお目にかかるときは拍手(かしわで)をうちます。
寿命(じゅみょう)は、百年ないし八・九十年です。
金持ちはみな四・五人の婦人をもち、庶(しょ)民でも二・三人の婦人を持っています。
婦人はつつましく、ねたんだり焼ききもちをやいたりはしません。強盗(ごうとう)や窃盗(せっとう)もありません。裁判ごとはすくなく、法を犯(おか)せば軽(かる)い者は妻子を取り上げ、重い者は一家と一族を殺します。
身分には序列(じょれつ)があり、家来(けらい)はしたがえばよいとしています。
年貢(ねんぐ)を納(おさ)め、ちょぞうする倉庫(そうこ)もあります。
国々には市(いち)があって、あるものとないものを売り買いし、倭にこれを監督(かんとく)させています。
女王の国より北は、特に一大率(いつだいそつ)という役人の長官を置いて諸国を取りしらべていますので、諸国はこれを恐れきらっています。伊都(いと)の国を直接(ちょくせつ)治めており、中国の朝廷(てい)が置いている州の長官のようなものです。王が使いを京都(洛陽〈らくよう〉)および帯方郡や諸韓国に行かせたり、帯方郡の使いが倭国に行ったりするときは、いずれもみなその伊都の港(みなと)に行かせ、そこですべてを検査して、女王への文書や贈り物には特(とく)にまちがいがないようにするのです。
庶民(しょみん)と地位のある人が道路で会いますと、庶民は後ずさりして草(くさ)むらに入り、はなしをするときはしゃがんだり、ひざまずいたりして、りょう手を地につけ、敬(うや)まい尊(たっと)ぶ礼としています。返事は「あい」といい、中国の「しょうちしました」とおなじです。
女王の国はもと、よその国とおなじように男子を王としていましたが、七・八十年で倭の国々がみだれ、たがいに国どうしで攻めたり攻められたりして年月がたちました。そこで国々は一人の女子を立てて王としました。それが卑弥呼です。呪術(じゅじゅつ。まじないごと)をしてたくさんの人の心を引きつけてまよわせます。年はかなりとっていて、夫(おっと)はいません。弟(おとうと)がおり、彼女を助けて国を治めています。王となっていらい会う者は少なく、下女千人が仕え、ただ一人の男子が飲食物を運んだりことばを伝えたりするために部屋(へや)に出(で)入りしています。その建(たて)物はいかめしく作られており、ひるも夜も人が武器(ぶき)を持って守っています。
女王の国の東の海を千里あまりわたりますと、また国があり、みな倭の種族です。
さらに、小人(こびと)の国がその南にあり、身長1メートルくらいで、女王の国から四千里あまりはなれています。
さらに、はだかの国や歯をくろくそめた国がその東南にあり、船で行くと一年ばかりで着きます。
倭の地を訪ねて女王にめん会する国は遠くはなていて海の中の島(しま)や島のほとりにあり、あるいは孤島(ことう)であったり、あるいは連なっていたりして、ぐるぐるめぐり回って五千里あまりあります。
景初(けいしょ)二年(238)の六月、倭の女王は天子(皇帝)に使いを送りました。
その年十二月、天子は、倭の使いをねぎらって武官の位を授(さず)け、貢(みつ)ぎ物にこたえてたくさんの贈り物をし、その目録(もくろく)を持たせて帰したことを、倭の女王に文書で告げました。
正始(せいし)元年(240)、帯方郡の使いが天子の文書および倭王に授ける印綬(いんじゅ)と贈り物の目録を取り次いで倭国に持って行き、女王にお与えになられました。女王は天子に返書を送り、天子に感謝(かんしゃ)いたしました。
四年(243)、倭王はまた使いを送り、貢ぎ物をしました。
六年(245)、天子は倭の使いに天子の文書と御旗(みはた)をあたえ、郡に取り次いでもらうことにしました。
八年(247)、帯方郡に新しい長官が着任しました。
倭の女王と狗奴の男王は仲が悪く、倭国は使いを郡につかわして、戦(いくさ)のありさまを説明しました。
郡は支所(ししょ)の役人張政らをつかわして、ついでに正始六年の天子の文書と御旗を持って行かせ、倭の使いにこれを授け郡の考えを告げて、彼を教えさとしました。
卑弥呼が死に、大きな塚(つか)を作りました。直径は140余メートルで、下男・下女百人あまりが殉(じゅ)んじて葬(ほうむ)られました。
あらためて男の王を立てましたが、国中はしたがわず、たがいが相手の罪を責めて殺しあい、当時、千人あまりが死にました。
ふたたび、卑弥呼の、十三歳になるむすめ壱与(いつよ)を王としましたところ、国中はしずまりました。
張政らは郡の考えを告げ、壱与を教えさとしました。
壱与は倭国の使いをつかわして張政らを帯方郡に送りとどけ、その足で洛陽(らくよう)に行き、貢ぎ物をしました。
 
魏志倭人伝3

 

帯方の東南海に倭人住み
卑弥呼死に壱与十三王とする
倭人は帯方(郡)後漢の建安年中(十四代献帝。二〇五年頃)に、遼(りよう)東(とう)の公孫(こうそん)康(こう)が朝鮮の楽(らく)浪(ろう)郡南部を分割して今のソウル地方に設けた郡。郡は秦(前二二一〜前二〇七)が布いた行政区画の単位で、州・郡・県・郷(きよう)・里(り)の順の東南にある大海の中に住み、山や島を国(こく)邑(ゆう)領地にしています。
古くは百余国あり、漢 後漢の時 建武中元二年(五七)と永初元年(一〇七)、朝見する 朝廷に参上して天子にお目にかかる者がいました。
今、使者と通訳が通じている わかっている。知っている。理解している ところ(国)は三十か国です。
郡 帯方より倭に至る 行くには、海岸にしたがって水行し 水路を行き、韓国を経て 通り過ぎて 南へ行ったり東へ行ったりしながら、その(韓国の)北岸の狗(く)邪(や)の韓国 のちの任那日本府に比定される(比べて同じとされる)に到るまで七千余里 魏里約四三四米、始めて一海 一つの海域 千余里を渡り、対馬 つしまの国に至ります。
その大官 役所の高(長)官は卑(ひ)狗(こ)といい、補佐。次官は卑(ひ)奴(な)母(も)離(り)といいます。住むところは孤島で、四方は四百里ばかりです。土地や山は険しく、多くは森林です。道路は禽(きん) 鳥や鹿(ろく)しかが通るような径(こみち) 細道で、(戸数は)千余戸、良田は無く海の物を食べて自活し 他人の助けを借りずに自力で生活し、船に乗って南北しては穀物を買い入れています。
また南へ、一海千余里を渡ります。名付けて瀚海(かんかい) 広い海 といい、一(いつ)支(し) 原本「大」。壱岐(いき)の国に至ります。官 長官 はやはり卑狗といい、副は卑奴母離といいます。四方は三百里ばかりで、竹や木の叢林(そうりん) やぶが多く、三千ほどの家があり、田地は良し悪しまちまちで、田を耕してもなお食べるに足りず、ここでも南北しては穀物を買い入れています。
また、一海千余里を渡り、末盧の国に至ります。四千余戸あり、山や海に沿って住んでいます。草木が茂るに茂って、道中、前の人が見えなくなるほどです。好んで魚や鰒(ふく) あわびを捕り、水は深浅が無く、みな沈没して 潜ってこれらを取ります。
東南へ陸行すること 陸路を行くこと 五百里、伊都の国に到ります。官は爾(じ)支(し)といい、副は(二人いて)世(せい)謨(ぼ)觚(こ)・柄(へい)渠(きよ)觚(こ)といいます。千余戸あり、代々王がいますが、みな女王の国に統属し 服属し。つき従い、(帯方)郡の使いが往来して常に駐まる 滞在する ところでもあります。
東南の奴の国に至るには百里、官は兕(じ)馬(ば)觚(こ)といい、副は卑(ひ)奴(な)母(も)離(り)といいます。二万余戸あります。
東へ行き不弥(ひび)の国に至るには百里、官は多模(たぼ)といい、副は卑奴母離といいます。千余戸あります。
南の投馬の国に至るには、水行二十日、官は弥(び)弥(び)といい、副は弥弥(びび)那利(なり)といいます。五万余戸ばかりです。
南の邪(や)馬(ば)台(たい)(臺) 原本「壱(壹)」の国、女王の都に至るには、水行十日陸行一か月、官は伊(い)支(し)馬(ば)がおり、次(副)は弥(び)馬(ば)升(しよう)といい、次(副)は弥馬獲(かく)支(し)といい、次(副)は奴佳(かい)鞮(てい)といい、七万余戸ばかりです。
女王 原本「三」の国より北はその戸数・道里 みちのり をほぼ記載することができましたが、その残りの旁国 周辺国は遠く離れており、詳しく 詳らかにすることはできません。
(そこで、国名だけをあげておきます)
次に斯馬(しば)の国があり、次に巳(し)百(はく)支(し)の国があり、次に伊邪(いや)の国があり、次に都支(とし)の国があり、次に弥(び)奴(な)の国があり、次に好(こう)古(こ)都(と)の国があり、次に不呼(ひこ)の国があり、次に姐(そ)奴(な)の国があり、次に対(たい)蘇(そ)の国があり、次に蘇奴(そど)の国があり、次に呼(こ)邑(ゆう)の国があり、次に華(か)奴(ど)蘇(そ)奴(ど)の国があり、次に鬼(き)の国があり、次に為吾(いご)の国があり、次に鬼奴の国があり、次に邪(や)馬(ば)の国があり、次に躬(く)臣(しむ)の国があり、次に巴利(はり)の国があり、次に支惟(しい)の国があり、次に烏(お)奴(な)の国があり、次に奴の国があり(奴は二国あります)、これで女王の国は終わりです。
その南に狗(く)奴(な)の国があり、男子を王とし、官には狗(く)古(こ)智(ち)卑(ひ)狗(こ)がおり、女王に属していません。
(帯方)郡より女王の国に至るには一万二千余里で、男子は大小となくみな黥面(げいめん)文身(ぶんしん)し 顔のいずみと体のいれずみをし、古来 昔から その使いは中国に詣(いた) 至 り、みな大(たい)夫(ふ) 周(前約一一〇〇ごろ〜前二五六)の官名。卿(けい)・大夫・士の順。官吏の尊称 を自称しています 自分で名乗っています。
夏(か)后(こう) 先史時代(前一七〇〇以前)禹(う)が建てたといわれる夏王朝の王 少(しよう)康(こう)の子は会稽(かいけい) 古くは呉(ご)・越(えつ)。浙(せつ)江(こう)省 に封ぜられ、断(だん)髪(ぱつ)文(ぶん)身(しん)して 髪を切り、いれずみをして 蛟(こう)竜(りゆう) みずちと竜。(サメ・ワニの類か) の害を避けました。
今、倭の水人 あま。漁労者 も好んで沈没し もぐり、魚や蛤(こう) はまぐり を捕っていますが、(彼らの)文身もまた大魚や水禽 みずどり を払いのけるためのもので、のち次第に飾りとなったものと思われます。
諸国 多くの国 の文身はそれぞれ異なり、あるいは左、あるいは右、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑の差 身分の上下 があります。
その道里 みちのり を計ってみますと、まさに会稽・東(とう)冶(や) 原本「治」。福(ふつ)建(けん)省 の東にあります。
その風俗は淫らでなく、男子は髪を分けて肩の前に垂らし、木綿で頭を縛っています。
衣(ころも)は横に幅広く、ただ結び束ねて前後 まえとうしろ をつなぎ、ほとんど縫っていません。
婦人は分けた髪を折り曲げて被り、衣は単(たん)被(ぴ) ひとえの掛けぶとん のようなものを作ってその中央を穿(うが)ち あなをあけ、頭を貫(とお)して衣(き)着ています。
禾(か)稲(とう) いね・紵(ちよ)麻(ま) いちび(麻の一種)・を種(う) 植 え、蚕(さん)桑(そう)絹(けん)績(せき)し 蚕(かいこ)を飼(か)い、桑(くわ)を摘(つ)み、絹を織(お)り、糸を紡(つむ)ぎ、 細(さい) 細糸(ほそいと)・紵(ちよ) 麻(あさ)布(ぬの)・F(けん) 堅(かた)織(お)りのきぬ・綿(べん) わた(原産地インド・エジプト)を産(さん)出(しゆつ)しています。
その地には牛・馬・虎(とら)・豹(ひよう)・羊・鵲(かささぎ)はいません。
武器は矛・盾・木(き)弓(ゆみ)を使い、木弓は下に短く上に長く、竹の箭(や) 矢(や)柄(がら)(矢の柄(え)の部分)はあるものは鉄(てつ)鏃(ぞく) てつの鏃(やじり)(矢の先)をつけ、あるものは骨(こつ)鏃(ぞく) ほねのやじり をつけ、有無(うむ)するところ あるものとないもの は儋(たん)耳(じ) 海南島南部 や朱(しゆ)崖(がい) 海南島北部 と同じです。
倭の地は温暖で、冬も夏も生(せい)菜(さい) なまの野菜 を食べ、みな徒(と)跣(せん) はだし です。屋(おく)室(しつ)があり、父母兄弟は寝るときと休むときは処 場所 を異にします。
朱(しゆ)丹(たん) 字書には硫黄(いおう)と水銀の化合物とある。湯の花(硫黄華)の類か を体に塗るのは、中国が粉 米の粉。おしろい を使うようなものです。
飲食には籩(へん)豆(とう) 竹編みや木製の器 を用い、手で食べます。
死ぬと、棺 ひつぎ はありますが、椁(かく) 囲い はありません。(棺のまま)土に封じて冢(ちよう) 塚 を作ります。
死んだ始めの十余日は喪(も) 死んだ人を慕い悲しむため に停 止。留 め、その時は肉を食わず、喪主は泣き叫び、他の人は歌い舞(ま)い踊(おど)って酒を飲みます。葬祭(そうさい)が終わりますと、水の中に行って体(からだ)を洗い清めます。
思いますに、これは (中国の)練沐(れんもく) 忌(き)明(あ)け(一年の喪が終わって)のまつり。白絹の喪服を着てからだを洗い清める のようなものです。
行来 旅行 して海を渡り、中国に詣(いた)るときは、常に使いの一人は頭を梳(くしけず)らず、虱(しらみ)もとらず、衣服は垢(あか)に汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪(も)に服した こもった 人のようにしており、これを名づけて持(じ)衰(さい) 喪服を着た状態を保ちつづける(人)といっています。もし、一行が安全無事であれば、共に帰り、生口(せいこう) 捕虜。奴隷 や財物を差し上げますが、(一行が)病気になったり暴風雨の害に遭ったりしたときはこれを殺します。持(じ)衰(さい)がつつしまなかったからだというのです。
真珠や青(せい)玉(ぎよく)を産出し、その山には丹(たん) 朱丹。辰(しん)砂(しや)(水銀鉱石)。顔料 があり、木は枏(だん) ゆずりは・杼(ちよ) どんぐり・予(よ)樟(しよう) くす・楺(じゆう) もち・櫪(れき) くぬぎ・投(とう) 不(ふ)詳(しう)(よくわからない)・橿(きよう) かし・烏(お)号(ごう) 不詳・楓(ふう)香(か) かえで、竹は篠(しよう) しの竹 ・簳(かん) め竹・桃(とう)支(し) 不詳 があり、薑(きよう) はじかみ(しょうが)・橘(きつ) たちばな(みかん)・椒(しよう) さんしょう・蘘(じよう)荷(か) みょうが もありますが、滋(じ)味(み)(味を引き立てる)うまみ。香辛料 とすることを知りません。
獼(び)猴(こう) さる や黒(こく)雉(ち) やまどり はいます。
習わしとして、特別なことを行なったり、行来したりするときは、云(うん)為(い)する お伺いを立てる。お告げをうける ところがあります。輒(すなわち) いいかえますと 骨を焼いて卜(ぼく)し 占形。ひび割れを作り、吉凶を占う 判断する のです。
まず卜(ぼく)したところ ひび割れたところ を告げます。その言葉は(中国の)「令(れい)亀(き)の法 亀(き)卜(ぼく)の手本・マニュアル」にあるようなもので、火(か)圻(き) 焼いてできた割れ目 をみて占うのです。
会合での坐ったり立ったりは、父子男女の別はありません。
人は生まれつき酒を嗜(たしな)み 好み、大(たい)人(じん) 徳や地位のある年長者。長老 に見(まみ)える お目にかかる。会う ときの敬礼はただ手を搏(う) 打 つ 拍(かしわ)手(で) だけで、(中国の)「跪(き)拝(はい)」ひざまずいての礼 に当たります。
人の寿命 いのち は、あるいは百年、あるいは八・九十年です。
習(しゆう)俗(ぞく) ならわし。風習 として、国の大(たい)人(じん)はみな四・五婦、下戸(げこ) 庶民 でも二・三婦は持っています。
*うらやましいといった人がいました。
婦人は淫らでなく、妬(と)忌(き) ねたみ憎むこと。焼きもちをやくこと はしません。強盗や窃盗もありません。訴訟 訴え は少なく、法を犯せば軽い者は妻子を没収し 取り上げ、重い者は門(もん)戸(こ) 一家 及び 一門 宗(そう)族(ぞく) を滅ぼします
尊卑にはそれぞれ差別 区別 と序列 順序 があり、ともに臣 家来 が服すれば 従えば 足ります。
租賦 年貢 を収め、貯蔵する邸閣(ていかく) 倉庫 もあります。
国々には市があって有無 あるものとないもの を交易し 取り替え。売り買いし、大倭 大は美称。倭 にこれを監督させています。
女王の国より北は、特に一大率(いつたいそつ) のちの大宰(府)の率(長官)に比定される を置いて諸国を検察し 取り調べ、諸国はこれを恐れ憚(はばか)っています。常に伊都の国を治め、(倭)国の中にあっては(中国の)刺史(しし) 朝廷が派遣した州の長官 のようなものです。王が使いを遣わして京都 洛陽(らくよう) 並びに帯方郡や諸韓国に詣(いた) 至 らせたり、郡の使いが倭国に及(いた) 至 ったりするときはいずれもみな津(つ) のちの博多大津に比定される に臨ませ 向かわせ、捜(そう)露(ろ)し あからさまに検査して 伝送の 伝え送る 文書や賜(たまわ)りの贈り物を女王に詣(いた)らせるのに 届けるのに、差(さ)錯(さく) 入り乱れての間違い がないようにするのです。 
下戸(げこ)と大(たい)人(じん)がともに道路で逢いますと、下戸は後ずさりして草むらに入り、言葉を伝え物事を述べるときはあるいは蹲(つくば)い しゃがみ、あるいは跪(ひざまず)きして、両手を地につけ、これを「恭(きよう)敬(けい) うやうやしく敬う礼」としています。応対の声は「噫(あい)」といい、(中国の)「然諾(ぜんだく) 承知しました」の如きに比べられます。
その国 女王の国 はもと、よそと同じく男子を王としていましたが、王に住(とど) 留・止 まること七・八十年で倭国は乱れ、互いに攻伐(こうばつ)し合って 攻めたり伐(う)ったりして 年を歴(へ) 経 ました。そこで共に一人の女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼といいます。鬼道 シャ―マニズム(巫女(ふじよ)。みこ。によって神降(お)ろしをし、悪(あく)霊(りよう)の除去や雨乞いを祈願する原始宗教)で、ツング―ス(中国北東部から東シベリアにかけて分布するアルタイ語系の諸種族)の巫術(まじない)といわれる に専念し、よく衆人 多くの人 を惑(まど)わします 迷わせます。判断できないようにします。年はかなり長大で 取っていて、夫(ふ)婿(せい) 夫 はいません。男(だん)弟(てい) 弟 がおり、佐(たす) 助 けて国を治めています。王となって以来見(まみ)える者は少なく、婢 下女 千人が侍り 仕え、ただ男子一人が飲食を給し 与え たり 言葉を伝えたりするために居処(きよしよ) 部屋 に出入りしています。宮室ならびに楼観 ものみ・城柵 とりで は厳(いかめ)しくこしらえられており、常に人が武器を持って守り衛(まも)っています。
女王の国の東の海を千余里渡りますと、また国があり、みな倭種 倭の種族 です。
さらに、侏儒(しゆじゆ) 小(こ)人(びと)。先住民の一部を日本書紀は土(つち)蜘(ぐ)蛛(も)と呼び、侏儒と記す の国がその南にあり、人の長(たけ)は三・四尺 魏尺約二十四センチ で、女王を去ること四千余里です。
さらに、裸の国や黒(こく)歯(し)の国 歯を黒く染めるのは呉(中国古代)の風習で、わが国にも古くは「おはぐろ」があった。そのため、たとえ「千年の恋」がさめるにしても、かつての時代劇では特に高貴な女性は歯を黒くしていた がその東南にあり、船で行くと一年ばかりで至ります。 
倭(国)を参問(さんもん)する 訪ねて目通りする 地 国 は遠く離れて海の中の州 島 や島の上(ほとり)にあり、あるいは孤島であったり、あるいは連なっていたりして、巡り回ること五千余里ばかりです 九州西南部が比定される。
景(けい)初(しよ)二年 二三八、書紀は「魏志にいう」として明帝(魏二代)の景初三年と記す。「明帝紀」によると、この年(二年秋八月)、魏の司馬(しば)仲(ちゆ)達(たつ)51 が遼(りよう)東(とう)の公孫(こうそん)淵(えん)(182)を討ってその首を洛陽に送っている の六月、倭の女王は大夫の難(だん)升(しよう)米(べい)らを遣(つか)わして郡に詣(いた)らせ、天子に詣(まい)って朝献 朝貢 することを求めました。(そこで)太守 郡の長官 の劉(りゆう)夏(か)は役人を遣わして(彼らを)引(いん)率(そつ)させ、送って京都 洛陽(らくよう) に詣(いた)らせました。
その年十二月、詔書 天子の言葉書き は、倭の女王に報いて 告げて いいました。
「親(しん)魏(ぎ)倭(わ)王(おう)卑弥呼に制(せい)詔(しよう)する 天子がみことのりする・おことばする。帯方の太守 任期三年 劉(りゆう)夏(か)が使いを遣わして汝の大夫(たいふ)難(だん)升(しよう)米(べい)とそれに次ぐ都(と)市(し)牛(ぎう)利(り)を送り、汝が献(たてまつ)る男の生口四人・女の生口六人と斑(はん)布(ぷ) 斑(まだら)模様(もよう)に織った布。のちの倭(し)文(つ)(麻などの糸を赤や青に染めて乱れ模様に織ったわが国古来の織物)か を二匹 魏匹約十米 二丈(じよう) 魏丈約一米 を持って到った。汝の所(しよ)在(ざい) 住む所。在所 ははるかに遠い。それであるのに使いを遣わして貢(こう)献(けん)する 貢(みつ)ぎ物を奉(たてまつ)る はこれ汝の忠(ちゆう)孝(こう) 人としての君主と親への行い であり、われははなはだ 非常に 厚く汝を哀れみ慈(いつく)しむ。今、汝を親(しん)魏(ぎ)倭王とし、金印紫(し)綬(じゆ) 紫の組み紐(ひも)をつまみに通して帯にさげるようにした金印 を与えるが、装封(そうふう) 包装封印 し、帯方の太守に付けて 託して。ことづけて 授与する。汝は種族を綏(すい)撫(ぶ)し 安(やす)んじ慰(なぐさ)め、勉めて孝順をなせ 親や目上(魏)に仕えることをせよ。汝が来させた使いの難(だん)升(しよう)米(べい)と牛(ぎう)利(り)は遠く海を渡り、道路に苦労であった。今、難升米を率善(そつぜん)中郎将(ちゆうろうしよう)とし、牛利を率(そつ)善(ぜん)校(こう)尉(い) いずも魏の武官の称号 とし、銀(ぎん)印(いん)青(せい)綬(じゆ)を授け、引(いん)見(けん) 面会 して労(ねぎら)い、贈り物を賜って還す。今、G(こう)地(ち) 赤地 の交竜錦(こうりゆうきん)五匹・G(こう)地のE(すう)粟(しよく)罽(けい) 毛(け)織物 蒨(せん)G地 あかね地 五十匹・紺(こん)青(せい)五十匹をもって汝が献(たてまつ)った貢(みつぎ)の値(あたい) 価値・値打ち(誠意。まごころ)に答える。また、特に汝には紺地の句(く)文(ぶん)錦(きん)三匹・細(さい)班(はん)華(か)罽(けい)五帳(ちよう)・白絹(はくけん)五十匹・金八両・五尺の刀二(ふた)口(ふり)・銅鏡(どうけい)百枚・真珠と鉛(えん)丹(たん)それぞれ五十斤をあまねくみな装封し、難(だん)升(しよう)米(べい)と牛(ぎう)利(り)に付ける。還り到れば録 目録。贈り物の品名を記したもの を受け取って残らず汝の国中の人に示し みせ、国家 魏王朝 が汝を哀れみ慈(いつく)しんでおることを知らせるがよい。もとより鄭重(ていちよう)に汝が好む物を賜わった 与えた」と。
正(せい)始(し)元年 二四○、帯方の太守弓(きゆう)遵(しゆん) 「韓伝」によると、このあと弓遵は戦死している。部(ぶ)(幽(ゆう)州。河北・遼(りよう)寧(ねい)の地域)の従事(刺史の下役)が楽浪郡はもと(漢の時代)漢が治めていたとして韓国の辰韓八国を分割し、楽浪に与えるとしたところ、通訳に間違いがあって韓が怒り、帯方の陣営を攻めたのである。 は建中校尉 武官 の梯(てい)儁(しゆん)らを遣わし、(景初二年の)詔書ならびに印綬を奉り 捧げもち、倭国に詣らせて倭王に拝授し つつしんで授け、あわせて詔 贈り物の目録 を齎(もたら)し 持って行き、金・帛(はく)・錦(きん)・罽(けい)・刀(とう)・鏡(けい)・采物(さいぶつ) 色々なもの を賜わりました。           
その四年 二四三、倭王はまた使いの大夫伊(い)声(せい)耆(き)、掖(えき)邪(や)狗(こう)ら八人を遣わし、生口・倭(わ)錦(きん)・G(こう)青(せい)F(けん)・綿(べん(めん))衣(い)・帛(はく)衣・丹(たん)・木(ぼく)@(ふ) 弓(ゆ)柄(ずか)・短(たん)弓(きゆう)および矢を献(けん)上(じよう)し、掖邪狗らは等しく率善中郎将の印綬を拝受しました 授かりました。
倭王はよって上(じよう)表(ひよう) 天子に差し出す文書 を使わし 送り、答えて詔恩 天子の恩恵 に感謝いたしました。その六年 二四五、詔して倭の難(だん)升(しよう)米(べい)に黄幢(こうどう) 天子の旗。権威のシンボル を賜い、郡に付けて授与することにいたしました。
その八年 二四七、太守王(おう)頎(き) 前任地玄(げん)菟(と)郡(朝鮮北東部)が官 帯方郡の役所 に到りました 着任しました。
倭の女王卑弥呼と狗(く)奴(な)の国の男王卑弥弓呼とはもともと仲が悪く、倭は載(さい)斯(し)烏(お)越(かつ)らを遣わし、郡に詣(まい)らせて、互いの攻撃の状(じよう) かたち・ありさま を説明しました。
(郡は)塞曹(さいそう) 辺境の役所 の掾(えん)史(し) 下役 張政(ちようせい)らを遣わし、ついでに(六年の)詔書及び黄幢を齎(もたら)せ 持って行かせ、難升米に拝授して、檄 板に書いた(郡)の通告 を告げ、彼を教え諭しました。
卑弥呼が死に、大きな冢(ちよう) 塚(つか)(磐井〈六世紀〉の墳墓といわれる岩戸山古墳はこの上に造られたか)を作りました。径 直径 は百余歩 魏歩約一・四米 で、殉葬者 死者とともに塚に埋めた者 は奴・婢 下男・下女 百余人でした。
あらためて男(だん)王(おう)を立てました。国中は服(したが) 従 わず、代(か)わる代(が)わる相手を誅(ちゆう)殺(さつ)し 罪を責めて殺し、当時、千余人が殺(し) 死 にました。
再び、卑弥呼の宗(しゆう)女(じよ) 直系を継ぐ娘 壱(いつ)与(よ) 書紀の神(じん)功(ぐう)紀(き)に「晋の起(き)居(きよ)注(ちゆう)(天子の日常を記録する官)にいう」として、「武帝(晋初代)の泰(たい)初(しよ)(泰始(し)。312参照)二年(二六六)十月、倭の女王が訳(やく)を重ねて(言葉の異なる国々を経て)貢献(貢ぎ物の使い)を遣わした」とあることから、神功皇后に比定されている 年(とし)十三を王としましたところ、国中は遂に定まりまりました しずまりました。  
張政らはよって檄を告げ、壱与を教え諭しました。
壱与は倭の大夫率善中郎将掖(えき)邪(や)狗(こう)ら二十人を遣わし、政(せい)らを送って還し、その足で台 中央政庁(洛陽)に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠(はくしゆ)五千孔・青大(せいたい)勾珠(こうしゆ) 原文「句」。まがたま 二枚・異(い)文(ぶん)雑(そう)錦(きん)二十匹を貢ぎました。
 
邪馬台国の現状

 

もはや九州説、東遷説はありえない。
卑弥呼の墓は最初の巨大前方後円墳
池上曽根遺跡の衝撃
女王卑弥呼が支配した邪馬台国は日本のどこにあったのでしょう。
すべての候補地を挙げれば数十か所にもなるという邪馬台国の所在地論争は、よく知られているように畿内大和説と北部九州説が江戸時代以来対立してきました。
わりと最近まで、やれ九州だ、畿内だ、はたまた東遷説、つまり九州にあった邪馬台国が畿内に移動してきた、などと熱っぽい議論が続いていました。
ところが、ここにきて邪馬台国をめぐる状況は新たな、まったく別の次元に移っています。論争の根幹をなす弥生時代の年代観が、このわずか数年で大きく変わってしまったのです。
日本列島の旧石器文化については、例の発掘捏造騒動によって、すっかり信頼感をなくしてしまいましたが、こと邪馬台国論争については、科学的なアプローチによって、より厳密な議論がされるようになってきています。
1996年4月、古代史研究者に衝撃を与える決定的な事件が起きました。大阪府にある近畿を代表する弥生時代の遺跡、池上曽根(いけがみそね)遺跡から出土した古代の建物の柱根、つまり柱の根っ子が、年輪年代法という新しい方法で年代測定されました。
思ったより古かった近畿地方
その結果は驚くべきものでした。近畿地方の弥生の年代は、従来考えられていたよりも、なんと100年も古くなることが明らかになったのです。これまで紀元後1世紀と見なされてきた近畿の弥生中期後半の遺跡が、一挙に100年も古くなり、紀元前1世紀とされるようになりました。近畿地方の弥生文化は、これまで考えられていたより古かったのです。
年輪年代法が弥生の年代観を大きく変えてしまいました。これはいわば、「弥生の年代革命」と呼ぶべき事件です。
また、最近では、弥生時代の開始の時期が、従来より数百年早まるとの考え方が出ています。これまで紀元前4世紀ごろに始まるとされていた弥生時代が、一挙に紀元前10世紀ごろの開始となる可能性があるということです。加速器質量分析法や、放射性炭素(炭素14)法といった年代測定の結果、そういう主張がされています。
弥生時代の始まりというのは、列島に水田稲作が始まり、大陸や朝鮮半島から金属器がもたらされ始めた時期です。
邪馬台国はそれよりもずっと後の時代で、紀元後2世紀から3世紀にかけて。ちょうど弥生時代の終末期に位置しています。古墳時代が始まる直前の時期です。当時の列島がどういう状態であったのかが、論争の行方を大きく左右します。
これまで研究者に取材したり、自分なりに文献を調べてきた私の印象でいえば、現在では、考古学者のほとんどが邪馬台国は畿内大和にあったと考えている、といっても大げさではありません。九州説や、東遷説は、もはや現実的に根拠をなくしてしまった、という印象です。
さらに、邪馬台国の所在地について、もっと具体的にいえば、大和盆地東南部、三輪山の麓にある纏向遺跡周辺がきわめて有力になっています。しかも、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓は、日本で最初に出現した巨大前方後円墳、箸墓である可能性が高い、とさえ考えられているのです。
ほんの数年前までは、九州説が有利
不思議なことに、ほんの数年前までなら、私たちの間では、邪馬台国=北部九州説が非常に根強かったのです。
今から5年前、拙著『卑弥呼の謎 年輪の証言』(講談社刊)という本を出版する準備をしていたとき、私は試みに、周囲の友人知人に「邪馬台国は九州か畿内か、どちらと思う?」と尋ねてみました。すると、彼らのなんと9割ほどが、「邪馬台国は、やっぱり九州じゃないの」という反応でした。
この結果は、おそらく当時のもっと多くの人に尋ねても、そう変わらなかったでしょう。
数年前までは、このように多くの人が邪馬台国は九州あたりにあったというイメージをもっていました。その原因のひとつは、1980年代の吉野ケ里遺跡発見の大フィーバーがあります。このときは、「吉野ケ里から邪馬台国が見える」というキャッチコピーとともに、短期間に100万人もの人たちが吉野ケ里に押 しかけ、大きなブームとなりました。
復元された物見やぐらのような高い建物を見て、「これが邪馬台国か」と思った人も多かったでしょう。それくらい吉野ケ里遺跡発見のニュースは強烈でした。
先進の北部九州
一方、邪馬台国を九州あたりに見ていたもうひとつの大きな理由は、「先進の北部九州」という見方が以前から根強かったことです。
私たちのなかにある弥生時代のイメージは、現在でもかなり曖昧です。日本のあちこちで稲作が開始され、米づくりをする村がちらほら形成されはじめたばかりのころという感じです。
そのなかで、朝鮮半島や中国と直接交流のある北九州の地域だけが、やや抜きんでて発違しており、他の日本列島の地域はというと、ほとんど野原のなかに、有名な登呂遺跡のような集落がぽつぽつあるという印象でした。
今から20、30年前に中学生、高校生くらいだった人は、まずそんな印象をもっています。そして、現在の中学生、高校生もたぶんそれほど違わないでしょう。
弥生時代の日本列島のなかでは、北部九州以外に特に発達した地域はなかったようなイメージを誰もがもっていたのです。
邪馬台国という謎の古代国家も、この「先進の北部九州」というイメージと切り離しては考えられませんでした。
多くの人々が抱いている邪馬台国は、霞のかなたにある伝説の部族国家といったところでしょう。
謎めいて神秘的ではあるが、まだ未開な状態にあるともいえる古代の原始国家。そういう部族的な国家を女王卑弥呼が一種の呪術で人々を幻惑しながら支配している。その国はどこか九州あたりにあった、という感覚です。
ところが、今ではそれが、がらっと変わってしまいました。
弥生時代の日本列島
弥生時代の列島のなかで、北部九州が先進地域だったのは事実です。でも、何百年と続く弥生時代の間、ずっとその状態が続いたとは、今では考えられなくなっています。
近年の発掘調査では、邪馬台国の200年ほど前にあたる弥生時代の中ごろから、列島には、北部九州から瀬戸内、近畿、山陰、北陸、東海、関東にまで大規模な環濠集落が分布することがわかってきました。そのひとつひとつがクニと呼べるレベルのものとされています。
邪馬台国の200年も前に、倭国はすでにそれだけの広がりをもっていたのです。
最近では、邪馬台国の時代にはむしろ、北部九州よりも近畿地方が列島の中心 地域であったと考えられています。そして、邪馬台国所在地論争では、上に述べたような畿内大和説が極めて強力になり、卑弥呼の墓さえ特定されそうな事態になっているのです。
私が現在、最も注目しているポイントは、邪馬台国の所在地そのものよりも、邪馬台国と大和朝廷の関係に移っています。大和朝廷の前身が、はたして邪馬台国かどうか、ということです。私の考えをいえば、邪馬台国と大和朝廷は連続していない、と思っています。むしろ、出雲系の邪馬台国の王権を、大和朝廷は奪ったのではないか、と考えているのです。天皇制の起源という問題も合わせ、そのあたりをこれからのページで探っていきたいと思います。 
 
出土遺物から年代を決める

 

弥生の年代はどのように決められてきたのか?土器の分類から決める「土器編年」とは?
文字のない時代の年代
弥生時代の日本では、まだ文字が使われていませんでした。文字がない時代の年代を知ることは、きわめて難しいことです。
日本の考古学の世界でこれまで伝統的に研究されてきたのは、遺跡から出土した土器の種類を細かく分類し、新旧の順に並べること、つまり専門用語で「土器編年」といわれる作業です。
これまでの長い研究の歴史によって、今では相当に細かな土器の編年作業ができています。
こうした研究は戦前の昭和18年ごろに基本的な骨格ができあがり、その後の数十年間でかなり精緻なものになっています。
しかし、土器編年からわかるのは、土器を古い順番に並べることであって、年表にして何年ごろかという具体的な年代ではありません。つまり、相対的な年代であって、絶対年代ではないのです。
たとえば、土器のタイプから紀元前35年とか、紀元後100年というような具体的な年代は絶対に出てきません。ある土器が弥生中期後半のものであることはわかっても、いったい何年から何年ごろまで使われたか、ということは厳密にはわかりません。
あえて年代をつけようとすれば、土器と一緒に出土する遺物などによって、だいたいの年代を推定するだけです。たとえば、土器と一緒に中国の鏡や貨幣が出土した場合は、年代を知る有力な手がかりとなります。それらは中国で造られた時代がほぼわかっているからです。
しかし、その場合でも、中国の鏡や貨幣が海を越えて日本に渡り、遺跡の中に埋もれるまでにどれくらい時間がかかったのか、という問題があります。それは個々の研究者によって、考え方が少しずつ違ってきます。
ですから、出てきた年代はアバウトな時間幅をもち、ある程度の誤差が出てくるのが当然です。多くのデータをそろえ、比較検討して初めて、ある程度正確な年代が推定できるのです。
中国の文物が手がかり
北部九州では、弥生時代の多くの遺跡から、このような中国漢代の鏡や貨幣が早くから出土し、具体的な年代を決める手がかりとしてきました。
ところが、九州以外の地域では、1980年ごろまで年代の手がかりとなる中国の文物の出土が少なく、具体的な年代を得るのがきわめて難しい状況でした。
邪馬台国論争のもう一方の有力候補地であった近畿地方も、もちろん例外ではありません。
北部九州にくらべ、近畿地方の弥生遺跡から出土する中国漢代の鏡や貨幣はきわめて少なく、この点では、まさに「先進の北部九州」だったのです。
近畿地方の年代推定では中国の文物に頼れない。そこで、これまでは「魏志倭人伝」の記述が参考にされたりしてきました。
「魏志倭人伝」には、卑弥呼が邪馬台国の女王になる前の2世紀後半ごろ、倭国では大規模な戦乱があったと伝えています。
この倭国大乱を思わせる高地性集落という遺跡などを考慮して、近畿地方のおおまかな年代が決められてきました。ですが、これはあくまで、おおまかな年代です。
過去の近畿の年代観をみると、1970年ごろでは、近畿地方は北部九州よりも200年ほど遅れると考えられていました。
1980年代になると、出土品の増加などによって、それが100年くらい遅れると縮まってきました。この考え方が最近までほぼ「定説」とされ、多くの研究者に受け入れられていたのです。
ここまではまだ「先進の北部九州」が生きていたわけです。
近畿地方からも鏡や貨幣が出土
ところが、1980年代中ごろから、近畿地方からも中国漢代の鏡や貨幣がぽつりぽつりと出土するようになり、少数の若手研究者のなかには、新しい考え方を表明する動きが出てきました。
「近畿地方の年代は九州と同じくらい古いのではないか」という主張です。
しかし、日本の考古学界というのは案外、タテの社会です。
有力な学者が非常に大きな影響力をもち、権威ある学説に対しては逆らえないような雰囲気をもっています。
当時の権威ある学説とは、上に述べた「近畿は、九州より100年ほど遅れる」というものです。少数の若手研究者の主張は、有力な学者の唱える「定説」という壁の前では、「異分子」という扱いでしかありませんでした。
近畿地方の年代観は、こうして不安定な要素を残したまま、そのまま据え置かれることになったのです。
土器編年という考古学の手法だけでは、もともと正確な年代を決定するのは非常に困難です。しかも、年代の取り方は研究者によって微妙に違ってきます。
もっと確実に年代を知る方法はないものか・・・・。きれいにドンピシャリと正確な年代が出る方法はないのか。それに応えるために登場したのが、年輪年代法でした。 
 
画期的な年輪年代法

 

考古学の定説を覆し、年表に動かない定点を定める。
年輪年代法 モノサシは年輪
年輸年代法(正しくは年輪年代測定法)は、1920年代にアメリカの天文学者、A・E・ダグラスによって創始され、欧米ではすでに建築史や美術史など、さまさまな分野で実用化されています。
その原理は、いたって簡単。樹木の年輪が毎年一層ずつ形成されることを利用しています。
樹木の年輪というのは気象条件に左右され、生育のよい年と悪い年、つまり年輪の幅が広い年と、狭い年があります。
その変化を何十年という期間で追っていくと、年輪幅の変化がパターンとなって現れてきます。木材の種類によって、共通するパターンが見えてくるのです。 そのパターンを過去へ過去へと延ばしていくと、古代までひとつながりの年輪のパターンができあがります。いってみれば、樹木の年輪によって、過去何百年、何干年というモノサシができるわけです。
このようにして作成された長期の年輪パターンと、遺跡などから出土した木材の年輪パターンを照合することで、古代の木材が切り出された年が1年単位で判明する。そういう画期的な年代測定法です。
しかし、年輪年代法で測定するためには、出土した古代の木材の一番外側の年輪(最外年輪)まで残っていることが基本的に必要です。
年輪年代法は日本にも適用できる
年輪年代法はしかし、日本では長い間使いものにならないといわれてきました。ヨーロッパやアメリカの乾燥地帯のように気象条件の厳しいところでは有効でも、日本のように気候が温暖なうえに、地形も複雑、おまけに地域ごとに微妙に気候が変化するようなところでは、ほとんど役に立たないと考えられたからです。
池上曽根遺跡出土「柱根12」
日本でもこれまで、大正時代以来何度か実用化が模索されてきましたが、十分な成果を得るまでに至りませんでした。よく知られたところでは、戦後間もないころ、奈良の法隆寺の五重塔が解体修理されたとき、年輪年代法によって法隆寺の建設年代を知ろうという試みがありましたが、このときは残念ながら、失敗しています。ところが、1980年代から新たな動きが始まります。奈良国立文化財研究所(以下、奈文研)の光谷拓実さん(当時32歳)が、年輪年代法の本格的な研究を開始します。光谷さん自身は、もともと植物の専門家で、考古学者でも歴史家でもありません。そういう部外者ともいえる人が、日本の古代史にとってきわめて重要な役割をはたすのです。
年輪のデータを徹底的に取る
光谷さんがまず最初にしなければいけなかったのは、徹底的に樹木の年輪のデータを取りつづけることでした。各地の営林署や営林局へ行って、木材の試料を集めてきます。まず、現生木のデータを徹底的に調べます。ひとつの種類の木だけでも複数の試料が必要です。それを何種類もの木に広げていきます。日本では本当にダメなのか、それを知るためにもデータを取りつづける以外にありません。年輪の測定には10ミクロン、つまり100分の1ミリというような単位が必要です。そのくらい細かなデータでなければ、年輪幅の変化を追っていけないからです。それをグラフにしていきます。くる日もくる日も、そんな作業の繰り返しでした。そして3年が過ぎたころ、ようやく最初の成果があらわれてきました。日本のような複雑な気象条件では、年輪年代法は不可能と長年いわれてきましたが、日本の樹木でも共通するパターンが見えてきたのです。古くから建築材として使われてきたヒノキやスギを調べると、たしかに年輪の幅は個々の木で違っていますが、何年分という期間で照合すると、地域に関係なくパターンが共通することがわかってきました。しかも、アメリカでは15年分くらい、ヨーロッパでは30年分ほどでパターンの照合ができますが、気候の違う日本では100年から200年分でやっと正確な照合ができることがわかりました。これは大きな前進です。日本でも年輪年代法が使える可能性が出てきたわけです。日本でこれまで年輪年代法が成功しなかったのは、これほど徹底したデータの収集が行われなかったからでした。
弥生時代までモノサシが届いた !
研究の次の段階は、年輪のパターンを過去へ過去へと、どんどん延ばしていく作業です。これには古い寺院の修理部材や、中世、近世の遺跡から出土する試料が役にたちました。驚いたことに、それらの年輪を調べても、パターンはピタッ、ピタツと一致します。同時に、奈文研には平城宮の発掘で出土した大量の古代の木材が保管されており、そこからもデータを集めました。こうして研究を始めて6年が過ぎたころ、ようやくはっきりとした成果が出てきました。過去2000年分、つまり現代から弥生時代まで届く年輪のモノサシが、やっとできあがったのです。日本では不可能といわれていた年輪年代法に、ついに実用化のメドがたったのです。[ 標準パターン(下)に試料のパターン(上)が一致する]
年輪年代法は、1985年11月、紫香楽宮(しがらきのみや〕跡を特定するという画期的なデビューをします。滋賀県の宮町遺跡から出土した柱根の年代を測定すると、『続日本紀』の紫香楽宮の記述とドンピシャリ、しかも建設された季節まで一致したのです。これによって、紫香楽宮跡は宮町遺跡であることが科学的に明らかになりました。その後、さまざまな分野に活用されはじめ、東大寺の仁王像や、法隆寺の五重塔の心柱の年代測定、さらに円空仏の真贋論争にまで活用されました。ところで、最も期待されていた弥生時代の年代を決めるというテーマは、長い間、足踏み状態が続いていました。年輪のパターンはすでにスギやヒノキで紀元前1000年ごろまで延びていましたが、試料となる弥生時代の木材が出土しなかったからです。
画期的な弥生時代像に色を失う考古学者
いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が過ぎた1995年の秋です。滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の前半と出ました。当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理という考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法で得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。けれど、翌年の池上曽根遺跡のケースでは、考古学者は色を失いました。池上曽根遺跡は、近畿を代表する弥生時代の遺跡で、過去に多くの有力な学者が発掘に参加してきました。ちょうど前年には、この遺跡から大型建物跡が発見され、多数の柱根が残っていたことで注目を集めていました。
弥生の定点を定める
この大型建物は、有名な吉野ケ里遺跡の建物よりも200年ほど古い時代のもので、中国の影響を思わせるように、建物の向きは東西南北にきっちりと合わせて建てられています。しかも、出土した柱根のなかには最外年輪まで残っているものがありました。さっそく光谷さんが柱根の年代を測定したところ、やはり思わぬ結果が出ました。紀元後1世紀後半と予想されていた建物の年代が、年輪年代法では紀元前52年と出ました。定説よりもやはり100年も古いのです。前年の二の畦・横枕遺跡のケースとまったく同じです。考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。定説を根本から再検討する必要があったのです。そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、同じ年表に並んだ瞬間でした。
[ 都出比呂志さんの案によるふたつの編年表。1983年(左)のものと、1998年(右)のもの。]
年輪年代法によって、従来の年代観がガラリと変わったのです。日本では使いものにならないとまでいわれた年輪年代法は、ここにおいて名実ともに認められることになりました。年輪年代法が、これまで不確定だった弥生の年代決定にたいして、動かない定点を与えるという重要な役割を果たしたのです。 
 
邪馬台国時代の列島事情

 

倭国大乱をへて卑弥呼が女王に共立された舞台は列島のどれほどの地域に及んだのか?
考古学者の9割が畿内説支持
1996年の池上曽根遺跡での衝撃的な年代修正、いわゆる「弥生の年代革命」は、考古学史上きわめて大きな事件となりました。この事件以後、半年たち、1年たつうちに、考古学者に新たな動きがあらわれてきます。邪馬台国の所在地については明言をさける傾向にあった研究者たちが、はっきりと態度を表明し始めました。多少の温度差はあっても、その大半が畿内説です。当時すでに考古学者の9割が畿内説といわれたほどでしたから、現在では、もっと多いものと思われます。もともと考古学者の間では、九州説よりも畿内説のほうが優勢とはいわれていましたが、これほどはっきりした動きが現れる背景には、弥生の年代修正によって、近畿地方の立場が相対的に上がってきたことがあげられます。弥生時代中期後半の近畿地方には、池上曽根遺跡など多くの環濠集落が存在することがわかっています。それらは当時の「近畿の首都」ともいうべき奈良県の唐古・鍵遺跡を取り囲むように分布しています。遺跡の分布密農を見ると、すでにそのころから畿内のほうが北部九州より高いとみられています。
中国とも独自の交渉ルートを持つ
以前は畿内のこのような弥生遺跡の年代が、紀元後1世紀くらいと考えられていたのが、今では紀元前1世紀です。つまり、邪馬台国の卑弥呼の時代より200年も前に、近畿地方では、各地を結ぶネットワークが形成されていたようです。また、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡の調査によると、畿内の社会ではすでに、中国や朝鮮半島との独目の交渉ルートをもつていたらしい。これは邪馬台国諭争の根幹を揺るがす新たな見方です。女王卑弥呼が登場する200年も前に、近畿はそれくらいのレベルにあったと見られ始めました。
[ 土器に描かれた中国風楼閣(唐古・鍵遺跡出土)]
大陸と交渉する玄関口も、北部九州だけでなく、出雲をはじめとする山陰地方や、丹後半島あたりにもあったのではないかと予想されています。しかも、弥生中期の大規模な環濠集落は、近畿地方だけでなく列島各地に広く分布しています。かつては、列島の各地域は北部九州の影響下にあるとする見方が有力で、『魏志倭人伝』に描かれた倭国内の30国も、北部九州のなかだけで捉えようとする見方もありました。しかし今では、列島規模で見なければ弥生時代の倭国の実情に合わなくなっているのです。
邪馬台国時代の大型墳丘墓
邪馬台国はいかにも霧の向こうの伝説の古代国家といった印象ですが、じつは、弥生時代の終末期に位置しています。弥生時代の初めに本格的な稲作が開始されてから、すでに数百年が(最新の説では千年ほどが)過ぎた時代です。つまり、弥生の社会が威熟し、次の古墳時代へと向かう境目に邪馬台国は位置しています。ちょうど邪馬台国に卑弥呼が登場する頃から、列島各地には弥生の墳丘墓といわれる大型の墓が造られ始めます。これらは古墳時代の始まりを告げる前方後円墳の元になる墓の形態といわれています。弥生の墳丘墓は、最初に山陰地方の出雲や瀬戸内地方で造られはじめ、やがて大和や丹波、遠くでは関東の干葉県でも造られるようになります。ちょうど卑弥呼が生きていた時代に、列島各地でそれらが造られ始めるわけです。これは、それぞれの地域を束ねる首長クラスの人物が、列島各地に存在したことを意味します。日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓のある大和の纏向遺跡にも、石塚や矢塚など、箸墓より古い弥生の墳丘墓がいくつかあります。それらはすでに前方後円形をしており、大きさも数十メートルの規模があります。とくに、石塚は100メートル近く、弥生の墳丘墓のピークに位置しています。箸墓が造られる前に、大和の纏向遺跡ではそれだけの墓を築く首長がいた、ということです。注目されるのは、石塚の築造年代ですが、最近の調査報告によると2世紀末か3世紀初頭という非常に早い時代とされています。卑弥呼がまだ生きている時代、というよりも卑弥呼が女王になって間もないころに造られたようです。
こうなってくると、邪馬台国東遷説はまったく立場がなくなります。
東遷説の盛衰
邪馬台国東遷説というのは、卑弥呼の時代に北部九州にあった邪馬台国が、次の女王、台与(壱与)の時代に、畿内大和に移動したというような考え方です。これまでの邪馬台国論争では、この東遷説が、非常に勢いよく唱えられていました。マスコミによく登場する有力な考古学者が主張していたこともあって、作家やマスコミ関係者に支持者が多く、あたかも最有力説のような観さえ呈していました。ところが、東遷説でいう邪馬台国が九州から大和に遷(うつ)ってくる以前に、列島各地でこのよう弥生の墳丘墓を造る動きがあり、大和の纏向では、石塚という大きな首長墓が築かれていたとなると、邪馬台国が東遷してくる必要はどこにもなくなります。『魏志倭人伝』にはまた、卑弥呼が女王に共立される前、倭国は大いに乱れたと記されています。この倭国大乱と関連づけられる高地性集落遺跡は、九州から北陸にいたる列島の西半分ほどを覆(おお)う広がりをもっています。卑弥呼が女王に共立される舞台は、九州だけにとどまらず、列島の西半分ほどを覆っていたと考えないわけにいきません。
神武東征説話の意味
邪馬台国東遷説は、「先進の北部九州」と「古墳という受け皿をもつ畿内」を結びつける旧来の考え方の上に立っています。しかし、今では九州と近畿の時間差がほとんどなくなり、あえて両者を結びつける必然性はなくなってしまいました。また、東遷説には古事記や日本書記にある神武天皇の東征説話が暗に考慮されている、といわれています。神武東征とは、九州に天降った天皇家の祖先が、やがて神武天皇の代になって畿内を征服したというストーリーです。でも今となっては、神武天皇の東征説話の背後に邪馬台国の東遷という事実があったというような、こねくり回したアイデアを出すよりも、天皇家のルーツは九州にあったと単純に考えるほうが、おそらく歴史の真実には近い、と私には思えます。むしろ、神武東征説話には、別の意味があると私は見ています。 
 
箸墓は卑弥呼の墓か

 

卑弥呼の墓が古墳
弥生の年代修正の影響は、邪馬台国論争で畿内説が極めて有力になったというだけに止まりませんでした。弥生時代に対する近畿地方の年代変更が行われた結果、思いがけない事態が発生しました。古墳時代の始まりと、卑弥呼の死亡時期が接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのです。
卑弥呼の墓が古墳!
まったく、びっくりするような話になってきました。卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でした。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と思われていたのです。ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)(写真左上)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあるといっても、過言ではないと私には思えます。
邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。
纏向遺跡の古墳群
日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1〜2キロの間隔で並んでいます。これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。
不思議な箸墓伝説
卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳(写真右)よりも前に造られています。『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。また「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。伝説のとおり、箸墓のそばに近づいてみると、見上げるような高さと、巨大さを実感します。平地から直接、土を盛り上げて急勾配に造られているためです。崇神天皇陵や、景行天皇陵など、大和朝廷の初期の天皇陵も大きさでは箸墓と変わりませんが、これらは自然の地形を利用して造られているため、箸墓ほどの巨大さは感じません。築造の手間という点では、箸墓の方がずっと人手がかかっているように思えます。ヤマトトトヒモモソヒメ・・・・以下、百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようですが、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたようです。この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓も、百襲姫も、十分な存在感と神秘性をもっています。
径百歩の塚
ところで、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、じつはもっと以前からありました。百襲姫と卑弥呼のシャーマン的な性格が共通するということのほかに、箸墓の後円部の大きさが、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の墓の大きさとよく符合するという指摘です。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき造られた墓の大きさについて、「径百余歩」と記されています。百余歩とは、当時の中国の魏の尺度である1歩=145センチを基準にすると、150メートル前後になります。箸墓の後円部の大きさ約160mとよく合うわけです。日本中の弥生の墳丘墓を探してみても、これほど大きな墓はありません。しかし、これまでは箸墓の築造時期と、卑弥呼の死亡時期が合わないということで、この考え方はあまり取り上げられてきませんでした。箸墓=卑弥呼の墓説が、本当に多くの研究者に現実のものとなってきたのは、やはり、年輪年代法によって近畿地方の弥生の年代観が決定的に変わった数年前からです。
大市は大巫女か
箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。地名の由来としては、もちろんそれで十分筋が通っているわけですが、この「市」という呼び名について、民俗学の大家、柳田国男がじつに興味深い考えを示しています。
「山の人生」の中で、彼は次のように述べています。
「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」
柳田国男はもちろん百襲姫の「大市墓」について書いているのではありませんが、彼の考えによれば、大市は「大巫女」または「母巫女」であるということです。さらに、母子ともに巫女だった場合は、子供の方を「小市」と呼んだという。すると、「大市」と「小市」とは、「大市」の卑弥呼にたいして、卑弥呼の養女で、後継者の台与が「小市」だったのではないか、とも推測できるわけです。シャーマン的な卑弥呼の姿と、百襲姫は、やはりここでも重なってくるわけです。
箸墓が発掘されれば・・・・
日本書紀が編纂されたのは、8世紀のことで、卑弥呼あるいは百襲姫の死からは、何百年も後のことです。大市に葬るとある「大市」とは、いったいいつ頃できた地名なのか明らかでありませんが、もともと百襲姫の存在、そして箸墓の存在をもって、大市という地名が生まれたではないか、とも考えられます。この地名はひょっとしたら、邪馬台国時代までさかのぼるものなのかもしれません。
では、卑弥呼の墓としてこれほど有力になった箸墓を発掘すれば、本当に卑弥呼の遺骸が現れるのでしょうか。もし発掘が可能であれば、卑弥呼が現れてくるのかもしれませんが、現在のところ、箸墓は宮内庁の陵墓参考地となっているため、残念ながら発掘はおろか、自由な立ち入りも許されていない状況です。そして、仮に箸墓が発掘されても、これまでの例からいって、遺骸が残されている可能性は少ないかもしれません。これは日本の気候が関係していると思いますが、これまでの古墳などの発掘では、遺骸が残されているケースは、あまりないからです。しかし、卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる「親魏倭王」の金印や中国魏代の絹織物、そして3世紀前半に位置づけられる大量の魏鏡などの文物が出土すれば、卑弥呼の墓は箸墓で決まりということになる、と思います。ところで、卑弥呼に百襲姫を重ねたとき、どうしても気になることがひとつあります。邪馬台国と大和朝廷は、いったいどういう関係になるのでしょうか・・・・。どうも初代崇神天皇と、百襲姫の間には何か不穏な空気が感じられるのです。 
箸墓古墳 (はしはかこふん、箸中山古墳とも)
奈良県桜井市纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓に見立てられることも多いが、未だその確証は無い。
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓とする(邪馬台国畿内説)向きもある。従来、構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるためその可能性は少ないといわれてきたが、最近年輪年代法や炭素年代測定法による年代推定を反映して古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっており上記の箸墓古墳の築造年代は研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が有力になっている。
現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。
名の由来
『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)
なお箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と説話の作成された時期とに大きなズレがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。
墳形・規模
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥型に開いている他の古墳は兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがある。ちなみに浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1の相似形といわれ、長さも幅も2分の1であるが前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがある。
現状での規模は墳長およそ278m、後円部は径約150m、高さ約30mで前方部は前面幅約130mで高さ約16mを測る。その体積は約37万m3。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと思われる。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44〜46m、高さ4mの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)がのったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には四段の段築があるとされる。ちなみに5段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで4段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10mの周壕とさらにその外側に幅15m以上の外堤が存在していたことが確認されている。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持つことが分かった。
外表施設・遺物
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。
この時期には埴輪列はまだ存在していないが宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されておりこれらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。
周濠は前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と幅数10メートル前後の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手が見つかっている。
築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅10メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し古墳時代前期初頭の築造であることが確定した。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中ごろ、白石太一郎は3世紀中葉過ぎ、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしている。
また箸墓古墳よりも古いと考えられている纒向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡り土手を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなど分かってきた。それらのことから箸墓古墳は弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生墳丘墓の諸要素を継承したものであると考えられている。
日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、箸墓よりも築造が早かったともされる出現期の前方後円墳(ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳)が多数ある。
意義
墳丘の全長約280m、後円部の高さ約30mで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画している。また規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。
被葬者
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているがこの古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、
この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること
後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があること
大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること
などが挙げられているが現時点では正確なことは分からない。ちなみに魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6m、1歩はほぼ145cmとなり100余歩は約145m強となる。
上記のことから白石太一郎は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、石野博信は台与の墓、また、寺沢薫は崇神天皇の墓である可能性も指摘している。

桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査によって、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留1式土器により4世紀のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。ただし周濠内からの出土であることから、古墳本体の築造年代とは関わりのない後世の二次的な出土物である可能性もある。橿原考古学研究所の発表では周濠内から出土した鐙は築造後30年ほど堅く積もった堆積土の中から布留1式の土器とともに発掘されており、後世の撹乱等で混じった可能性はないという。ということは箸墓築造後30年以内に投棄されたもので、箸墓の築造は3世紀後半以降である可能性が強くなる。この鐙(あぶみ)の発見以降、橿原考古学研究所内では急速に箸墓は卑弥呼の墓でなく、臺與(台与)の墓でもなく、その次の男王の墓という意見が強くなっていた。
2009年5月30日に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告された。この年代であれば卑弥呼死去年とほぼ一致する。しかしこの計測年代に対しては測定技術に対する異論もあり、国立歴史民俗博物館の公式発表とはなっていない。博物館は弥生時代開始をAMS法で測定した結果、これまでの定説より600年早い紀元前10世紀から始まったと発表したが、箸墓周濠出土の土器では20ないし数十年ほど古い値が出てしまい、これを補正するために日本独自の炭素年代校正曲線(JCAL)を作らなければならないと発表していた。同博物館西本豊弘教授らによる2009年(平成21年)1月の報告によると、紀元前650年付近と紀元後100年頃から200年頃に世界標準とずれる部分があることがほぼ確実となった。
なお、織田氏の統治下では墳丘上にお茶室が設けられていたという。また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのはそのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていたという。また、周濠に掛かる外堤も少し東から検出されている。 
 
邪馬台国は出雲系か

 

邪馬台国と大和朝廷の関係
邪馬台国を畿内大和に置き、箸墓を卑弥呼の墓とした場合、私たちは、邪馬台国と初期大和朝廷の距離の近さに驚かずにはいられません。邪馬台国と大和朝廷は、時間的につながるだけでなく、ほとんど同じ場所に位置しています。そうなると、当然、邪馬台国は大和朝廷の前身なのか、という考えが浮かびます。しかし、邪馬台国と大和朝廷は連続しているのか、していないのか、また、女王卑弥呼と、のちの天皇家との関係はどうなるのか、といったことは、まだまったく明らかではありません。気になるのは、前の「邪馬台国時代の列島事情」の東遷説のところでも見た神武東征説話です。
「記紀」(古事記と日本書紀)にある有名な神武東征説話は、大和朝廷の伝説の初代天皇イワレヒコ、つまり、神武天皇の軍勢が、はるばる九州は日向の高千穂から北九州、瀬戸内を経て、大和に攻め入るという大和制圧のストーリーです。この神武東征説話の成立をめぐっては、これまでに多くの議論があって、史実とみるか、何らかの史実の反映された創作とみるか、さらにはまったくの虚構とみるか、専門家の間でも意見が分かれるところでした。早い話が、史実かどうかよくわからないわけです。
神武東征説話の語るもの
かつての文献史学の大家、津田左右吉や井上光貞は虚構説の立場をとりました。東征説話をはじめ、天皇の祖先が天から日向に天下ったという天孫降臨説話なども、もともと中国の古典や仏典をはじめ、北方や南方の民族の伝説を取り入れたもので、「記紀」の作者のフィクション、つまり虚構とみるわけです。一方、現在の多くの研究家は神武東征説話を、まったくの真実ではないにしても、何らかの史実が反映されている話、と見る傾向が強いようです。たとえば、『日本古代国家の成立』という本で、直木孝次郎さんは、次のように書いています。
「天皇家の先祖は、外から大和の地にはいり、それ以前から三輪山の神を祭っていた権力を打ち倒して、それに取ってかわったと考えるほかない」
大和盆地東南部の三輪山の麓に宮を開いた最初の大和朝廷(三輪王朝)は、このように大和に侵入した新興の勢力と一般にみられています。しかも、神武軍の大和平定の過程は、決して楽なものではありません。
大和在来の勢力から王権を譲り受ける
神武の勢力は、まず河内から大和へ侵入しようとしますが、大和のナガスネヒコの軍勢に現在の東大阪市日下町のあたりで阻まれたあと、紀伊国(和歌山)方面に南進し、紀伊半島をぐるっと周り、熊野に向かいます。そして、熊野から吉野の山を越え、背後から大和に迫るという驚くべき難コースをとっています。きわめて遠回りなうえ、最悪といってもよい険しい山越えのルートです。これは神武の軍勢が、正面突破できるほどの大勢力ではなく、ほとんど逃げ落ちるように紀伊半島を巡っていったことがわかります。大阪湾岸から大和周辺には、おそらくすでに在来の勢力が隙間なく存在していたのでしょう。また、大和盆地そのものの平定にも、幾つもの困難な戦いが続きます。ところが、最後には、同じ天孫族の一員で、大和を支配していたニギハヤヒの命から意外なほどあっさりと王権を譲り受けます。史実はともかく、『日本書紀』のストーリーをそのまま再現すると、このようなものになります。
三輪山周辺の出雲族
神武東征伝説が語っているのは、大和朝廷というか、のちの天皇家となる一族は、まず九州出身だということです。
かつて、天皇家のルーツは朝鮮半島の騎馬民族だったという騎馬民族征服王朝説というのがありましたが、現在では、考古学的に十分な証拠のある説ではないといわれています。そこで、ひとまず『日本書紀』に従っておきますと、天皇家のルーツはおそらく九州あたりにあったと考えられます。その勢力が、九州を発し、大和に攻め入り、大和在来の勢力を制圧したことを「記紀」は物語っています。では、制圧された大和の在来の勢力とは、いったい何でしょうか。
それは、どうも出雲系の勢力だったようです。
『神奈備・大神・三輪明神』に水野正好さん(奈良大学学長)が書いているところによりますと、大和の聖なる山、三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、三輪山を御神体とし大物主(おおものぬし)神を祀る大神(おおみわ)神社の周辺は、もともと出雲出身の氏族が住むところであった、ということです。大神神社は、もともと出雲氏の氏神的な神社だったようです。こうして出雲族と呼ばれる人々によって始められた三輪山の祭祀が、次第に大和朝廷の勢力に吸収され、5世紀ごろには大神神社そのものが朝廷の御用神社のようになっていく、という経緯が現在では考えられています。つまり、大和朝廷成立以前の三輪山の祭祀権は出雲族が握っており、大和盆地も出雲族の支配する土地であったらしい、ということです。そこに邪馬台国を重ねると、どうなるかということです。
出雲系と天照系
大和朝廷成立以前の大和には、出雲の神々を奉じる邪馬台国があったと想定してみると、日本の古代史は、まったく別の様相を帯びてきます。九州にルーツをもつ初期大和政権は、畿内大和を支配していた出雲系の邪馬台国から、王権を譲り受けたか、あるいは奪ったのではないか、と私は考えています。『日本書紀』には、箸墓に葬られた百襲姫(倭迹迹日百襲姫)が三輪山の神と結婚したことが述べられていました。百襲姫に卑弥呼を重ねてみると、やはり邪馬台国が出雲系だったことが考えられます。
一方、日本神話には出雲の国譲りが述べられています。葦原中つ国(日本)の支配権が出雲の神々から天孫族の神々に譲られるというものです。神武東征説話と、出雲の国譲り神話、このふたつの話はともに、大和朝廷の勢力が別のある勢力から大和あるいは列島の支配権を譲り受けたことを物語っています。今となってはそこに、邪馬台国が重なってくるのです。
すでに大和朝廷成立以前の日本列島では、出雲を宗教的な故地とする出雲文化圏のようなものが存在していたのではないか、と私は考えています。
その出雲文化というのは、おそらく縄文時代にまでさかのぼるルーツを持ち、列島の多くをすでに覆っていたのではないか。しかし、大陸との交流が活発化する弥生時代後期になると、出雲文化圏の中心地は大和に移っており、大和の王権、すなわち邪馬台国が成立したのではないか、という推理です。初期大和朝廷は、その邪馬台国から王権を譲り受けている、言葉を代えていえば、奪っているのではないか・・・・。
大和朝廷とはいうまでもなく、天孫系の天照大神を奉じる王朝です。その歴史を正当化する「記紀」では、出雲の神々はむしろ冷遇されています。邪馬台国から大和朝廷への政権の移行には、おそらく王統は連続せず、実際には王権の簒奪のようなことが行われたのではないか・・・・、こんな構図が見えてくるのです。 
 
記紀には、なぜ卑弥呼の名がないのか

 

ふたつの天皇陵
「記紀」(古事記と日本書紀)によりますと、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いています。初期の大型前方後円墳もこの地域に集中しています。纏向遺跡のすぐ近くで、大和政権は誕生しているという事実があるわけです。『日本書紀』には、崇神天皇の墓は「山の辺の道の匂(まがり)の岡の上」にあると記されていますが、その正確な場所は明らかではありません。今日、崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2キロほど離れた山裾にある行燈山古墳(あんどんやまこふん)です。初期の古墳が多く集まる柳本古墳群と呼ばれるところで、この行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)という大きな古墳があります。こちらは第12代景行天皇陵とされています。行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242m、後者が全長302mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られています。
ところが、このふたつの古墳はかつて、陵墓比定が逆だったといわれています。
江戸時代末の1861年から66年にかけて、「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復がおこなわれました。それは修復とはいっても、濠を広げたり、堤を高くするなど、大がかりな土木工事を伴うもので、「新しい古墳づくりといった側面さえあった」(森浩一著『前方後円墳の世紀』『巨大古墳の世紀』)ということです。
問題は、この文久の修陵以前には、行燈山古墳が景行陵で、渋谷向山古墳が崇神陵であった点です。かつては現在とは逆の陵墓比定だったわけです。そして、修復工事が終了する直前の1865年、ふたつの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように、行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵となったようです。
邪馬台国と大和朝廷の関係
ところが、現在の考古学では、かつての陵墓比定の方が正しかった可能性が指摘されています。宮内庁がふたつの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったといいます。まだ確定するだけの十分な資料があるわけではないようですが、どうやら渋谷向山古墳の方が古いらしい。つまり、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。
そうなると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになります。ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけです。
しかも、邪馬台国と大和朝廷は、単純に地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきました。最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどです。卑弥呼の死(3世紀中ごろ)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるという現象があるからです。
そうなると、大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えてみたくなるのが自然というものです。幻の邪馬台国が、思いがけず日本の古代史のなかで、もう少し具体性を帯びてきます。
ところが、邪馬台国と大和朝廷の関係は、実際のところ、まったく明らかではありません。系譜として連続しているのかどうか、それもよくわからない。邪馬台国がそのまま連続的に発展して初期大和朝廷(三輪王朝)になったのか、そうではなく、邪馬台国と大和朝廷は別系統の王朝なのか、そこがわからない。
不思議なことに、「記紀」にはそのあたりのことが何にも語られていないのです。むしろ、箸墓に葬られた百襲姫と、崇神天皇の背後には、何か不穏な空気があります。邪馬台国から大和朝廷へという時代の転換には、どうも秘密があるらしい。女王卑弥呼と崇神天皇、邪馬台国と大和朝廷をめぐるミステリーが、まさにここにあるわけです。
記紀には邪馬台国の記述がない
考えてみるとかなり変なことなのですが、「記紀」には邪馬台国のことが何も書かれていません。邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何にも書かれていません。なぜでしょうか。ここには絶対に軽視されるべきではないある重大な秘密があるといえます。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国や卑弥呼ばかりでなく、当時の日本の様子が具体的に描かれています。しかも、『魏書』というれっきとした王朝の正史ともいえる史書に書かれています。それなのに、当の日本の「記紀」には、それを思わせる記述がない。そもそもこれ自体がおかしなことです。
魏志倭人伝(三国史・魏書・東夷伝・倭人条)
8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に『日本書紀』は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2〜3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。
しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。
「記紀」の立場
「記紀」の編者たちにとっては、大王(天皇)家は、いうまでもなく神代から続く日本で唯一の正当な王朝でなければなりません。ところが、彼らにとって最も気になったことは、歴史の本場、中国の正史に「倭国」の「女王」として、邪馬台国と卑弥呼の名がすでに堂々と述べられていることです。中国の『魏書』に「倭国には女王がいた」と書いてある。当時とすれば、中国はあこがれの文化の国、知識の供給源であったばかりか、文字そのものを輸入した国でもあります。その中国の史書に邪馬台国の存在が書かれている。すでに世界から認められている正当な倭国の王朝、それが邪馬台国だといえます。しかし、「記紀」の編者たちにとっては、それはどうもおもしろくないことだったらしい。むしろ、目障りでさえあったのではないでしょうか。
「記紀」の立場というのは、いうまでもなく、大和政権を正当化したいということに尽きるわけです。ちょうど「記紀」が成立する頃、「日本」という国号や、「天皇」という呼び名が生まれてきます。国家としての形態をきちんと整えなければならない、歴史もまとめておかなければならない、そういう時期です。そういう時代の知識人の代表である「記紀」の編者たちは、なぜか、邪馬台国や卑弥呼という名前には触れたくなかったのです。
なぜ卑弥呼の名がないのか
しかし、『日本書紀』には、思わぬところに卑弥呼の存在が、じつはすべり込ませてあります。崇神天皇から数えて4代あとの仲哀(ちゅうあい)天皇の后、神功皇后(じんぐうこうごう)のところで、彼女の治世39年に、分註として次のように述べられています。
・・・・『魏志』によると、景初3年6月、倭の女王は使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという・・・・
ここにある『魏志』とは、もちろん『魏志倭人伝』のことです。同じような分註としての記述が第40年、第43年にもあります。
「景初3年6月、倭の女王が帯方郡に使いを送った」とは、まさしく邪馬台国の女王、卑弥呼のことにほかなりません。こんなことが『日本書紀』には、こっそりと分註という形で書かれているのです。
これまでの研究で、この分註は後の時代に書き込まれたものではなく、『日本書紀』成立当初から書かれていたと考えられています。つまり、「記紀」の編者たちは、ちゃんと『魏志倭人伝』を読んでいて、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも知っていたわけです。
でも、その書き方がちょっと妙で、わざわざ「『魏志』によると」と断ったうえで、神功皇后の治世の間に、「倭の女王が使いを送ってきたと中国の史書は書いていますよ」と他人ごとのようにいっています。「我々にはよく知らないことですが」とでもいいたげな雰囲気です。
しかしそうはいっても、『日本書紀』の編者たちは、暗に、神功皇后を卑弥呼とみなしています。神功皇后という人物に、卑弥呼という歴史的存在を重ねようとしているのです。
『日本書紀』の編者たちの年代観では、神功皇后の治世の時期が『魏志倭人伝』にある邪馬台国の卑弥呼時代に当たると考えていたようです。しかし、分註で曖昧にほのめかしても、邪馬台国の名も、卑弥呼の名も出さず、邪馬台国そのものには知らんぷりをしています。「魏志によると」などという書き方自体、かなり不自然です。
神功皇后が卑弥呼?
もちろん神功皇后の時代では、卑弥呼の時代に年代が合わないのはいうまでもありません。神功皇后という女性は、実のところ、実在した人物かどうか疑われているのですが、仮に実在したとしても3世紀末〜4世紀半ばの人物です。2世紀末から3世紀中ごろまでの卑弥呼とは、百年ほど離れています。
もともと「記紀」の記述には、政治的な作為が強いと指摘されているのですが、卑弥呼と神功皇后の間にも、何やら不可解な作為がプーンと感じられるのです。
『日本書紀』の年代観は、60年でひとめぐりする中国の干支暦のふたまわり分、つまり120年分古く取っていることがわかっています。中国の暦や出来事を参考にして、日本の歴史を120年分古く取ったらしい。日本にはまだ正確な暦や記録がなかったためにそうなったのか、わざと古くみせるために意図的にそうしたのか、もちろん今ではわかりません。
しかしいずれにしても、『日本書紀』の編者は、神功皇后という人物に邪馬台国の女王、卑弥呼を仮託しようとしています。何のためにそんなことをする必要があったのでしょうか。
ちょっと弁解じみたことをいえば、8世紀に「記紀」が編纂された頃には、すでに邪馬台国の記憶がほとんど残っていなかったという事情があったのかもしれません。自分たちの国の記録にも、記憶にもそれがないのに、歴史を記録することにかけては本場の中国の史書に、「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が述べられている。そのために仕方なく、神功皇后という女性を創出し、辻褄(つじつま)を合わせておいたということかもしれません。
さらには、「邪馬台国」といい、「卑弥呼」といい蔑視をこめたような名前になっているのを嫌って、そんなことをした可能性もあります。
神功皇后という架空の人物を創作
一方、そうではなく、もっと強い作為があった可能性もあります。邪馬台国や卑弥呼の存在そのものを日本の歴史から消してしまったと考えることもできるのです。神功皇后という架空の人物をつくることで、卑弥呼を大和政権の系譜に強引に押し込んでしまう。つまり、事実上、日本の歴史の中から、邪馬台国の存在を消してしまった。そのようにみることだって、できるわけです。
神功皇后という女性は、その名前が象徴しているように、何とも勇ましい女傑として描かれています。まるで、ギリシア神話の戦う女神のように勇ましいのですが、逆に、勇ましすぎて、どこか漫画みたいなところがあります。
神功皇后は、北九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、みずから軍を率いて朝鮮半島に出兵するという行動派の女性です。その様子が普通ではなくて、彼女の乗った船は、波や風はおろか、海の魚にまで持ち上げられ、新羅の国土の中まで運ばれます。それを見た新羅の王は、「神の国の神兵がやってきた」と白旗をあげて降伏し、「服従して、馬飼いになりましょう」などという始末。しかし実際には、そんなに都合よく物事が運ぶとは、ちょっと考えられません。
また、彼女は新羅への出兵にさいして、お腹の中に子を宿しているのですが、遠征中に(遠征の直前とも)子供が生まれそうになると、腰に重い石を縛りつけてそれを押さえ、北九州の筑紫に戻って、ようやく出産するという具合です。その子供がのちの応神天皇です。このあたりは、たしかに、どうも白々しい。
神功皇后はまた一方で、神がかりとなって神託をくだす巫女的な女性としても描かれています。どこかで邪馬台国の卑弥呼を思わせるのです。さらに彼女は、30代の前半、仲哀天皇の死によってみずから政務を取り始め、百歳で死ぬまでに60数年間も政権の中枢にいたことになっています。これも卑弥呼が60年間ほど女王であった姿と重なってきます。
倭人伝の記述を知っていた編者たち
こうなってくると、『日本書紀』の編者たちは、『魏志倭人伝』の記述をじつによく知っているし、『魏志倭人伝』の記述に合うように神功皇后という女性を扱っている、と考えないわけにはいきません。
このようにさりげなく辻褄を合わせたり、分註のなかで卑弥呼の存在をほのめかしたり、細かな細工をしていますが、しかし、正面きって「神功皇后は卑弥呼ですよ」と、彼らは言うのではない。
それはそうでしょう。架空の人物を実在の人物に重ねること自体に無理があります。「記紀」は一方で、日本の正史でもありますから、あまり見えすいた嘘を書くわけにもいかなかったのでしょう。
歴史的に見ると、3世紀の邪馬台国の時代には、倭国の軍隊が朝鮮半島に出兵したような事実はありません。そもそも当時はまだ、朝鮮半島に新羅という国は建国されていないのです。ですから、この点でも神功皇后を卑弥呼に重ねるのはかなり無理があります。
ところが、4世紀の後半ごろなら、倭国の軍隊が百済救援のために朝鮮半島に出兵していたことは、高句麗の碑文から知られています。何度か新羅や高句麗との戦いがあったようです。ただし、神功皇后に相当するような日本の天皇か皇后に率いられた軍隊が、朝鮮半島に出兵したという事実はありません。
神功皇后を思わせる人物といえば、6世紀に斉明天皇という女帝がいて、有名な白村江の戦いの2年ほど前に、百済救援と新羅攻撃のため北九州にまで遠征したケースがあります。神功皇后はどうもこの女帝がモデルになっているのではないか、といわれています。そこに卑弥呼もダブらせてあるわけです。
さらに、初期の大和朝廷(三輪王朝)の天皇は男性ばかりで、女帝や女王などはいません。やっぱり神功皇后の記述自体がかなり嘘っぽい。そいうことになります。
歴史から邪馬台国を消す
もう一度考えてみましょう。「記紀」には、なぜ邪馬台国も、卑弥呼の名前もないのでしょうか・・・・。それは前にも述べたように、蔑視をこめたような呼び名のせいかもしれないし、あるいは、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に朝貢したように書かれているから、そのへんが大和政権としてはおもしろくなかったのかもしれません。しかしおそらく、理由はそれだけではないでしょう。当時の大和政権は、天皇を頂点とするピラミッド型の社会システムを懸命に構築しようとしている時期です。そんな彼らにとって、たぶん卑弥呼の存在はきわめて目障りだったと考えられます。
それはなぜでしょうか・・・・。
もし、邪馬台国がどこか九州あたりの狭い地域の小さな部族国家で、卑弥呼はその女酋長のような存在であれば、大和政権としては放っておけばいいことです。中国の史書も、そんな小さな国のことを、わざわざ倭国の代表のようには書かないでしょう。しかし現実には、邪馬台国は30ほどのクニを統合する倭国の代表で、卑弥呼はその女王として中国の正史に述べられています。小さなクニの小さな部族国家などではありません。だからこそ、魏の王朝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、銅鏡百枚をはじめ、多くの贈り物を与えるという、当時の中国外交としては異例な待遇をするのです。倭国を代表する正当な王権だったからこそ、そこまでしたのです。
邪馬台国と大和朝廷の格闘
「記紀」の立場に立てば、中国の史書に載ったほどの正当な邪馬台国は、当然、大和朝廷の系譜のなかに存在していなければならない。そういうことになります。そうでなければ、大王家が神代から続く正当な王朝とはいえないからです。どこかに卑弥呼を思わせる人物を入れておかないと恰好がつきません。
そこで「記紀」の編者たちは、神功皇后という女帝を創ることで『魏志』に擦り寄ろうとしたらしい。まさに卑弥呼を彼らの系譜に取り込んだわけです。ところが、彼らには一方で、邪馬台国という名も、卑弥呼という名もなぜか出したくないという思いがある。素直にそれを受け入れられない事情が「記紀」の編者たちにはあるのです。
だからこそ、「『魏志』によれば云々・・・・」と、分註のなかで曖昧に匂わせるような、ぼかした表現をしているのです。
そう考えると、これはもう確信犯に見えてきます。「記紀」がことさら邪馬台国や卑弥呼の存在を無視しているように見えるのには、じつは大きな理由があります。
垣間見えるのは、邪馬台国と大和朝廷の間には、どうもギクシャクした関係がありそうだ、ということです。邪馬台国から大和朝廷へという流れは、あまりスムーズではなく、何か大きな格闘があるように見えます。たぶん、大和政権の系譜と、邪馬台国の系譜は違うからです。両者の間には、ひょっとしたら王朝の交代か、さらには王権の簒奪があった可能性があります。大和朝廷は、邪馬台国から連続的に発展した政権ではたぶんないし、正当な後継者でもない。
「記紀」の編者にとっては、神功皇后という架空の人物を創出することで、卑弥呼の存在はもちろん、邪馬台国そのものを歴史から塗り消してしまう必要があった。そう考えられるのです。 
 
卑弥呼の名のある系図

 

丹後・籠神社の神宝
京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。
1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。
この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。
系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。
どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。
この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。
「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。
彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。
天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。
籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。
ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。
前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。
驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。
古代丹後の鉄とガラス
籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。
『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。
籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。
丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。
なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。
弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…
まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。
驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。
当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。
もう一つの先進地域
次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。
墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。
この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。
全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。
倭国大乱の原因となる鉄
丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。
ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。
11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。
この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。
この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。
このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。
弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。
その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。
そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。
先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。 
 
ニギハヤヒの正体

 

謎の人物ニギハヤヒ
日本の古代史のなかで、饒速日(ニギハヤヒ)という人物は、いつも謎の存在でしたね。天の磐船で天から降り、河内や大和のあたりを支配していたらしい。九州から東征してきた神武が、大和平定の最後に戦ったのがこのニギハヤヒでした。
そのために、ニギハヤヒはどうやら大和朝廷の成立以前に、日本を支配していた王ではないかというような考え方も、これまでによく出ていました。
しかし、いろいろと考えてみると、どうもこの人物には謎が多い。何か存在感が曖昧で、正体がはっきりしないのです。
大和平定の神武の最後の戦いを振り返ってみましょう。
これは神武とニギハヤヒの戦いですが、実際は、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になります。戦いは長引いて、なかなか決着がつかなかったようです。しかし、終盤になり、戦いの最中に急に空が暗くなって雹(ひょう)が降り始め、金色のトビがあらわれます。
このトビが神武の弓の先に止まると、その光のためにナガスネヒコの軍は幻惑されます。ナガスネヒコはここで神武に使者を送ってきます。
「私は、天から降られたニギハヤヒの命に仕えていますが、いったい天神の子はふたりおられるのですか。どうして天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか」
それにたいして、神武は答えます。
「天神の子は多くいる。もし、お前が仕えている人が天神の子なら、必ず天のしるしのものがあるから、それを示しなさい」
そこで、ナガスネヒコが、ニギハヤヒの天の羽羽矢(ははや)などを見せると、神武はそれが偽りでないのを認め、自分も同じものを示します。神武とニギハヤヒは同じ天孫族の一員だというわけです。
大和をすでに支配していた者
ところが、ナガスネヒコとの戦いはここで急に腰砕けのようになるのです。今度はいきなりニギハヤヒその人があらわれ、「性質のねじれたところのある」ナガスネヒコをみずから斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、支配権を譲るのです。
この場面はいかにも象徴的なくだりというほかありません。まるで「出来レース」のようなのです。
ニギハヤヒの存在は、すでにある正当な勢力が大和に存在していたことを物語っています。しかも、神武はその勢力を認めざるを得ず、打ち負かすことはできない。そこで、出雲の国譲りと同じように、神武はニギハヤヒから大和の支配権を譲られるわけです。
しかし、何かわざとらしい感じが否めません。
記紀では、ニギハヤヒは大和の最初の支配者のように描かれていますが、どうも朝廷側の意向に沿って、作為的に創られた人物のように見えます。前にもみたように、記紀の編者たちは、邪馬台国や卑弥呼の名前を徹底的に隠そうとしています。この神武東征の物語でも、ニギハヤヒという存在は、邪馬台国を隠すために登場しているように見えるのです。
ニギハヤヒとは誰か
現在の考古学の知識をもとに、日本の古代の年表を可能なかぎり作成してみますと、3世紀の終わりごろから始まる三輪王朝の直前には、女王卑弥呼や台与の邪馬台国が大和盆地に存在していたとするのが最も有力な考え方です。
神武の東征物語は、三輪王朝が誕生してくる様子をあらわしていると考えられますが、東征物語では、神武はニギハヤヒから王権を譲り受けている。神武の前に大和を支配し、王権を築いていたのはニギハヤヒです。では、ニギハヤヒは邪馬台国の王だったのでしょうか。
古代の年表からいえば、三輪王朝の前は邪馬台国が存在していたはずです。卑弥呼や台与の女王国があったはずです。しかし、邪馬台国や卑弥呼の名前は東征物語には出てきません。これは記紀の編者たちの一貫した姿勢です。
むしろ、ニギハヤヒが大和を支配してように書いてある。
邪馬台国ではなく、ニギハヤヒの王国があったのか、それとも、ニギハヤヒは邪馬台国の王だったのか、ということになります。
よく考えてみると、どうもニギハヤヒという存在が何か奇妙なのです。
記紀によれば、ニギハヤヒは物部氏の祖先とされていますが、物部氏の氏族伝承を伝えるといわれる『先代旧記本紀』(平安初期成立)によると、ニギハヤヒは物部一族を連れて天の磐船で空を駆け巡り、河内国のイカルガノ峰に天降ったということです。
河内国のイカルガノ峰というのは、東大阪市の生駒山付近とされています。神武の軍勢がいったん大和川沿いに大和に侵入しようとしたとき、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコに撃退されたのが、東大阪市日下(くさか)町付近でした。
この日下町には石切剣箭(いしきりつるぎや)神社という古社があり、現在も、ニギハヤヒを祖神として、直系の神主が百代以上に渡って仕えているといわれます。ニギハヤヒの本拠地は本来このあたりのようです。
一方、ニギハヤヒについてはもう一つの伝承が残されています。前の「卑弥呼の名のある系図」のところで紹介した天橋立の籠神社に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によりますと、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったということです。そこでナガスネヒコの妹と結婚した。
ニギハヤヒは大和の中心勢力ではない
ニギハヤヒはこのように、生駒山の河内側から大和側の鳥見(登美)に移ったようです。これは大和川を見下ろす地点を大阪側から奈良側に移っただけです。つまり、大和と河内を結ぶ大和川沿いを押さえていたことを意味しています。当時としては交通の一番の要衝を押さえていたといっていいでしょう。
逆にいえば、大和の中心であり、信仰の中心でもある三輪山周辺とはあまり関係がないようなのです。どうやらニギハヤヒは、大和の中心勢力ではなかったように見える。
同じように、神武の軍勢が大和に侵入し、大和内を平定していく過程でも、どうも三輪山付近の戦いが、はっきりそれとわかるような形では記されていません。磯城や葛城、天理市付近を押さえたことは述べられていますが、ほかはよくわからない。ナガスネヒコとの戦いも、『古事記』には「トミのナガスネビコ」とか「トミビコ」とあるように、鳥見(登美)の勢力との戦いです。つまり大和盆地西部がその舞台だったようです。
ニギハヤヒは大和の支配者のように扱われていますが、じつは大和の中心的な地域を押さえていない。このあたりがどうしても引っ掛かります。
しかも、神武天皇はじつは東征に出発する前からニギハヤヒの存在を知っています。
「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。その場所に天の磐船に乗って降りてきたのは、ニギハヤヒだろう」と語っています。
ところが、ニギハヤヒとの大和で実際の戦いは、あっけないほど簡単に終わってしまいます。さんざんに抵抗したナガスネヒコを、ニギハヤヒ自身が殺してしまうのです。
このような神武とニギハヤヒの戦いは、前にも述べたように最初から勝敗が決められた「出来レース」のような感じがしてなりません。ニギハヤヒはどうも、初めから朝廷側の意向に沿った形で記紀に登場しているのです。
物部氏の活動は5世紀から
ニギハヤヒの子孫である物部氏は、もともと河内国の渋川郡あたりを本拠地としています。やはり大和川沿いの河川・陸上交通の要衝を押さえたことで、大和にも勢力基盤を拡大したといわれています(『日本古代史事典』)。つまり、河内に天降り、大和に移ったニギハヤヒと同じです。
物部氏は朝鮮半島の百済とも関係が深い氏族といわれていますが、その活動が活発になってくるのは、じつは5世紀ごろからです。これは河内王権の拡大とはっきり歩調を合わせていて、河内から大和に進出し、河内王権を支える武力勢力として基盤を確保していきます。
物部氏はやがて、石上神宮の管理を受け持つようになり、武力的な性格のほかに、祭祀的な性格が備わり始めます。その後、6世紀末には勢力が一挙に衰えますが、7世紀後半ごろから復活し、7世紀末(天武13年)には朝臣姓を与えられます。このころに氏族名を物部から石上と改めたようです。それからは石上朝臣として律令制下で大きな勢力となっていくのです。
このように、7世紀末から8世紀初めという大和朝廷によって中央集権化が進む段階、ちょうど『古事記』や『日本書紀』が出来あがってくるときに、物部氏は朝廷内で大きな発言力をもっていたということです。その氏族の祖先の名が、「ニギハヤヒ」として記紀に残されている。
となれば、ニギハヤヒは、物部氏のために創られた架空の人物と考えられる要素が非常に強いといえます。
神武天皇やニギハヤヒは、もちろん神話的な人物ではありません。いわば、神代と人代をつなぐ役割をもって創られたもので、具体的なモデルとなる人物がいたのではないでしょう。
ニギハヤヒは、邪馬台国や卑弥呼を隠すという記紀のポリシーに沿ったかたちで登場しています。
日本の古代史のなかで、ニギハヤヒはいつも謎の存在とされてきました。それは、大和朝廷が成立する前に大和に存在していた王権、つまり邪馬台国を隠す目的で創られた人物だったからこそ、謎めいて見えたのではないでしょうか。
島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社があります。ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を主祭神とする神社です。6世紀の継体天皇の勅命によって創建されたと伝えられています。三輪王朝や河内王朝の時代ではなく、継体王朝と関係があるらしく、それほど古いとは思えません。宗教的に重要な出雲の地に、物部氏のために大和朝廷によって建てられた神社のようです。ニギハヤヒという人物と重なってきます。 
 
出雲とは何か

 

弥生の青銅器地図が変わる
日本の古代史は出雲のことがわからなければ解けない、といわれてきました。神話にしても、神社にしても、古代の日本には出雲の影響のようなものが強く感じられるのに、古代出雲の実態がよくわからないからです。
そもそも、出雲から得られる考古学の情報は、これまであまり多くありませんでした。
1972年、島根県加茂町の神原神社古墳から卑弥呼が魏に使いを送った年、景初3年の年号が入った三角縁神獣鏡が発見されました。でも、それ以外には、出雲からの出土品が注目されることはあまりありませんでした。弥生時代を特徴づける銅剣や銅鐸などの青銅器の出土もわずかで、出雲はむしろ青銅器の少ない地方というのが、一般的な見方でした。
ところが、1984年夏、島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡で、358本の銅剣が出土、これまで全国で出土した銅剣の総数300本あまりを一気に上回る大発見となりました。翌年には、銅剣が出土した地点から7メートル離れた場所で、今度は銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。
考古学上の大事件ですが、なぜ出雲から?と多くの研究者を不思議がらせたのも事実です。大発見のたびにマスコミをにぎわす研究者も、このときばかりは寂として声がなかったといわれています。
しかし、出雲からの発見はそれだけに留まらなかったのです。
大量の銅剣発掘から12年後の1996年秋、今度は、神庭荒神谷遺跡から3キロほど離れた加茂町の加茂岩倉遺跡で銅鐸が39個も出土しました。銅鐸はそれまで全国で470個ほどが見つかっていますが、同じ穴から一括して出土した例は、滋賀県大岩山、兵庫県桜ヶ丘の14個が最高でした。ところが、加茂岩倉遺跡の場合、一挙にその3倍近い数が出土したわけです。このときも、研究者は出雲からの大発見に驚き、戸惑いの色を隠せなかったといわれています。
神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のふたつの発見だけで、弥生時代の青銅器地図は完全に塗り変わってしまい、これまで青銅器が少ないといわれていた出雲が、なんと一躍、青銅器の出土品で全国一位の地位にのしあがったのです。
銅鐸は近畿から、銅矛は九州から
ふたつの遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、いずれも古い形式のものでした。
まず、最初の発見となった神庭荒神谷遺跡の出土品では、6個の銅鐸のうち1個は弥生時代前期にさかのぼる最古の形式のものでした。他の銅鐸も中期前半の古い形式で、紀元前3〜2世紀に製作されたようです。これらの銅鐸はおもに近畿から持ち込まれたと考えられています。
16本の銅矛については、弥生中期中頃から後半に製作されたものらしく、紀元前2〜1世紀というところ。こちらは北部九州から持ち込まれたとされています。
大発見となった358本の銅剣については、やはり紀元前2〜1世紀に製作されたもので、その大半が中国の華北の鉛を含んでいるとのことです。ほとんどの銅剣には「×印」がつけられており、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸にも「×印」をつけたものがあることから、銅剣は地元出雲で同一の集団が製作したのではないか、とも考えられています。
この大量の銅剣は出雲型銅剣という名で新たに分類され、中国地方や瀬戸内に分布することがわかってきました。
一方、加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸は、やはり古い形式のものでした。弥生中期後半(紀元前2〜1世紀頃)に製作されたものとされています。一部は近畿の銅鐸と同じ鋳型から造られた「兄弟銅鐸」とみられており、大和や河内など近畿から持ち込まれたようです。しかし、独自の特徴をもつものや、「×印」をつけたものなどが十数個あり、これらは出雲で造られた可能性も考えられています。
これまで銅剣と銅矛は九州に分布の中心があり、銅鐸は近畿や東海が中心といわれていました。それぞれ銅剣・銅矛文化圏、銅鐸文化圏と呼ばれていたものです。弥生時代後期(紀元後1〜2世紀)には、そういうはっきりした区分けがあるのですが、それ以前となると、必ずしも厳密なものではなく、両方が複雑に入り組んだ感じになります。
出雲では、銅鐸と銅矛が同じ場所から発見されるという非常に珍しいケースとなりました。近畿からも九州からも来ているわけです。
これは両地方から影響を受けていたとも考えられるし、あるいは、両地方に隠然とした影響力を持っていた、つまり、各地から奉納された、というように考えることもできます。
なぜ、人里離れた山中から
ふたつの遺跡はどちらも人里離れた相当辺鄙なところにあります。現場に立ってみると、よくこんなところから発見されたものだ、とつくづく思えてくるほどです。遺跡が見つかったこと自体が奇跡だ、と思えたほどでした。
神庭荒神谷遺跡の場合は、上を通る道路からバイパスを通すために予備調査したところ、偶然見つかったものです。銅剣などは明るい感じの小さな谷の急な斜面に埋められていました。遺跡に近づくためには、細いあぜ道のようなところを登っていきます。
一方、加茂岩倉遺跡の場合は、農道工事の途中で見つかったものです。山あいの狭い農道を数百メートル入ったかなり奥まった谷です。銅鐸は谷を見下ろす丘陵突端の斜面に埋められていました。下の細い農道から見上げると高さは20メートルほどあります。相当急な斜面です。こんな山の斜面で重機を使った農道工事が行われていたのが、やはり不思議になるほどです。
古代の人々はなぜ、このような山中に大量の銅剣や銅鐸を隠すように埋めたのでしょうか。ふたつの遺跡は両方、銅剣や銅鐸を一時的に土中に保管したというよりは、明らかに隠したように見えます。何のためにそうする必要があったのか、そもそもなぜ出雲地方に大量に集められ、最後には埋められたのか?
出雲をめぐる新たな謎です。
地元の地図を開いてみると、このふたつの遺跡は、大黒山という小さな山を挟むような位置関係にあります。大黒山は小さいけれども、頂上が鋭く尖っています。この山の西側に神庭荒神谷遺跡が、南東側に加茂岩倉遺跡があります。銅剣は九州方向を、銅鐸は近畿方向を意識しているようにも見えます。
加茂岩倉遺跡から1〜2キロ降りていくと、斐伊川に注ぐ赤川という支流のそばに神原神社があります。神社境内の古墳から、卑弥呼が魏に使いを送った景初3年の三角縁神獣鏡が出たところです。
神原神社の「神原(かんばら」、神庭荒神谷の「神庭(かんば)」、加茂岩倉の「岩倉」(これは「磐座」に通じる)、このような名前は何かを語っているようでもあります。また、大黒山の「大黒」は「大国」につながり、出雲の主神「大国主命」との関連も考えられます。近くには仏経山という周囲を見下ろす高い山もあります。不思議な地域です。
なんでもない谷の斜面から、あれだけの銅剣や銅鐸が出たのなら、このあたりの山野のどこから何が出てきてもおかしくない。そんな気がするほどです。
神の宝を置いた場所
『出雲国風土記』によると、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」と呼んでいます。しかし、古くは別の呼び方をされていたと伝えています。
「古老が伝えるところによると、天下造大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御財(みたから)を積み置いた処である。従って、本来は神財(かむたから)の郷というべきところを、今の人は誤って神原の郷といっている」
何かを暗示するような、象徴的なことが述べられているわけです。
これとおそらく何か関係があるのではないかと思える事件が、記紀にも述べられています。
崇神天皇の治世60年、出雲には天からもたらされた神宝が大神宮にあったといいます。崇神天皇はそれを見たいと望み、出雲に使者を派遣したところ、神宝を管理している出雲の振根(ふるね)という人物は筑紫に出向いており、弟の飯入根(いいいりね)が勝手に朝廷に神宝を差し出してしまいます。筑紫から帰ってきた兄は、「何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と怒り、弟を殺してしまう。すると、天皇は将軍を派遣し、振根を滅ぼしてしまいました。出雲の人々は、天皇を恐れ、しばらく出雲の大神を祭ることを中止したということです。
同様の事件が、垂仁天皇の26年にもあります。垂仁天皇は、いくら調査してもわからなかった出雲の神宝をもう一度調べるために、物部十千根(とうちね)を派遣します。十千根は出雲の神宝をよく調べ、はっきりと報告したので、神宝をつかさどる役に任ぜられたといいます。
出雲の神宝を取りあげる話は、大和朝廷が出雲の勢力にたびたび干渉と圧迫を繰り返したことを物語っています。
出雲には神宝といわれるほどのものがあった。出雲は神宝が置かれるか、集まってくるような場所だったわけです。朝廷はしきりにそれを調査したり、手に入れようとしている。
大和朝廷は、それだけ出雲のことを気にしています。四道将軍を派遣して征圧した邪馬台国時代の旧勢力の地域とはまた別に、出雲には特別の神経を使って支配しようとしているように見えます。
大和朝廷がそこまでしなければならない何かが、出雲にはあったわけです。
出雲はどれくらい古いのか
神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、ほぼ紀元前2〜1世紀を中心とした時期に製作されたものと見てよさそうです。たぶん紀元前2〜1世紀ごろに作られ、あまり時間を置かずに出雲にもち込まれ、その後、紀元後1世紀の前半ごろに埋められたと考えられています。
紀元前2〜1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあったことになります。
銅剣や銅矛、銅鐸はいずれも弥生時代には貴重な祭りの道具です。これらが大量に集められるということは、それだけ出雲が重要な地位にあったことを意味しています。ここに早い時代の出雲勢力のひとつの基盤をみることができます。
しかし、当時の出雲がどれほど重要な地域であったのか、今のところそれを知る材料はほとんどありません。古代出雲の厄介なところが、ここです。突然、大量の銅剣や銅鐸が出土したけれども、当時のことを知る考古学資料があまりない。
数年前、島根県松江市では田和山遺跡という少し変わった環濠集落が発見されました。弥生時代中期を中心とする遺跡ですが、小さな岡を囲むように三重の濠がある砦のような集落でした。しかし、何か特別な、これというほどの出土品は報告されていません。
島根県の他の遺跡なども、弥生時代の範囲を超えない常識的なもののようです。出雲神話を思わせるような何か独特のものは、まだ出ていません。
古代の出雲はやはり謎です。なぜ出雲神話があり、古い時代の銅剣や銅鐸が大量に出土したのか。
研究家のなかには、古代の出雲には列島を支配する王国のようなものがあった、と考える人もいます。しかし、考古学の発掘からはそれを裏づけるものは出ていません。政治的な意味での王国があったかどうか、疑問です。
ちょうど紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。百ほどの国に分かれ、まだ全土を支配する王のようなものはいなかったようです。まだ日本には、統一王朝のようなものはなかったようです。
むしろ、古代出雲について、どうしても気になるのは、邪馬台国の存在です。
あらゆる状況証拠から考えて、現在では、邪馬台国は畿内大和の纏向遺跡周辺にあったと考えるのが最も有力です。しかも、第1部の「邪馬台国は出雲系か」のところで見たように、邪馬台国はどうやら、出雲系の神を奉じる王国であったようです。
仮に、古代出雲王国と呼べるものがあったとしたら、それは邪馬台国と同じではないか、と考えられます。
古代の日本では、出雲の神々への信仰が、列島のかなり広い範囲に及んでいたのではないか、と私は思います。いわば、古代出雲文化圏のようなものがすでに存在していた。邪馬台国はそのような基盤の上に成立し、出雲文化圏の上に乗っている。そのあたりを、次章でもう少し詳しく見てみます。 
 
出雲の国譲りとは

 

出雲の神々は敵役
出雲神話は『古事記』の神代記の3分の1を占めています。
『古事記』に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。
出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。
『日本書紀』では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども『日本書紀』ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。
これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。
しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。
八俣の大蛇伝説
そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。
そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。
記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。
また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。
オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。
考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。
でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。
出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。
大きな土地の貴人
スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。
オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。
このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。
オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。
また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。
さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。
しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。
古代出雲文化圏の範囲
オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。
葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。
『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。 また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。
出雲大社神楽殿の巨大な注連縄
一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。
これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。
こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。
これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。
武力で奪った国土
出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。
ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。
オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。
その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。
出雲国か、葦原中つ国か
こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。
これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。
ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。
国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。
このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。
これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。
しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。
神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。 
 
神話・ウガヤフキアエズ王朝

 

『古事記』の語るウガヤフキアエズ
天孫ニニギ(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)の子、ヒコホホデミ(天津日高日子穂穂手見命)は、兄から釣道具を預かって海に出たが、一つの成果もなく、かえって釣針を失ってしまった。釣針の返済を迫る兄に困ったヒコホホデミは、シオツチの神の勧めにより、海神ワダツミの宮に参って釣針を取り戻すべく、無間勝間の小船(目が固く詰まった籠状の船)で大海原へと乗り出した。
ヒコホホデミはワダツミの宮で海神の娘・トヨタマヒメ(豊玉毘売)と結ばれ、そこで三年の年月を過ごすことになった。帰国したヒコホホデミは、海神の助力を得ての戦いで兄を撃ち破ることができた。その後、ヒコホホデミは出産のため、海岸に上がってきたトヨタマヒメを迎えたが、その際、トヨタマヒメは「出産の時、異国の女は本来の姿を現します。だから産屋を覗いてはなりません」とヒコホホデミに告げた。
好奇心にかられたヒコホホデミは、つい産屋を覗き、そこに巨大なワニがはいまわっているのを見た。本来の姿を見られたことを恥じて、トヨタマヒメは海に帰ってしまう。かくてこの世に生を享けた子、それがウガヤフキアエズ(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)であった。彼は叔母のタマヨリヒメ(玉依毘売)に育てられ、後にその叔母との間に四子を成す。そしてその末子が大和朝廷の創始者・神武天皇となるのである。
以上が『古事記』の語るウガヤフキアエズ誕生のいきさつであり、『日本書紀』もほぼ同様の話を伝えている。この物語は海幸山幸として親しまれているので、御存知の方も多いだろう。さて、ウガヤフキアエズは、神代の神々の系譜と大和朝廷とをつなぐ結節点ともいうべき立場にいながら(あるいは其故に)影が薄い。記紀とも彼の出生の経緯はくわしく述べているにも関わらず、その具体的な事蹟は黙して語らないのである。
生まれると共に母に捨てられ、海岸に置き去りにされた赤子、その姿には哀れを誘うものがある。そして、そのせいででもあろうか、多くの「古史古伝」の中では、ウガヤフキアエズは単独の神の名としてではなく、幾十代にも及ぶ、栄光に満ちた王朝の号として語られるのだ。
『日本書紀』の神武即位前紀には、天孫降臨から神武東征の開始まで、百七九万二四七〇年余りもの歳月が流れたという記述がある。これが誇張だとしても、ニニギ−ヒコホホデミ−ウガヤフキアエズというわずか三代の年代とするにはあまりにも過大である。また中世にも『曽我物語』真字本に「ウガヤフキアエズが本朝を治めること十二万三千七百四十二年、その後、神代の絶えること七千年、安日という鬼王、世に出て本朝を治めること七千年」とあるようにウガヤフキアエズ在世から神武天皇の登場までに年代的ブランクがあるという伝承があった。その辺にウガヤフキアエズ王朝の神話が生まれる原因の一つがあったのかも知れない。 
『上記』のウガヤフキアエズ王朝
ウガヤフキアエズ王朝について語る「古史古伝」の中で、その公開年代がもっとも早いのは『上記』である。それは明治七年、幸松葉枝尺による写本が政府に献上され、さらに明治十年、吉良義風による『上記鈔訳』全三巻という形で初めてその内容が公開されたのである。だが、いわゆる神代文字で書かれた写本の一般への公開よりも、吉良の訳本の刊行が先行されたため、吉良に偽作者の汚名が着せられたのは不幸ないきさつであった。
さて、その『上記』によると、初代ウガヤフキアエズの結婚にあたって、そのしたくを整えたのは、国譲りの後、出雲に隠棲していたオオクニヌシであった。彼はウガヤフキアエズに妃を迎えるよう勧め、さらに自らワダツミの宮に赴いて縁談を進めた。
タマヨリヒメはオオクニヌシの導きでまず出雲の日御崎に上陸し、さらにサルタヒコによって豊日国大分郡の御宝山で迎えられ、高千穂の二上宮に入った。その後、初代ウガヤフキアエズは高天原の神々を祀るため、様々な年中行事を定め、さらにその国土にオクニ・サトクニ・ムレクニ・オムレといった行政区分を設けた。また、豊日国を発して東方の国々を巡行し、その足跡は津軽にまで達していたともされる。初代ウガヤフキエエズは崩御の時、六百余才、在位は三百年にも及んでいたという。
ウガヤフキアエズ二代天皇は、ニニギの御代に作られた文字の改良を思い立ち、コトシロヌシの一族に命じて、新しい文字を作らせた。その文字は『上記』に用いられているものと同一であり、これをカタカナの祖形とみなす研究者もある。また、二代天皇は病弱のため、在位十四年にして退位し、回復後は医薬の研究・普及を進めた。その侍医たちは多くの猿を飼い、新しい薬物の動物実験を行ったとも伝えられる。また、二代天皇は国民の健康のため、年齢ごとの食事の量やセックスの回数まで定めたとされているが、これはいささかお節介に過ぎるような気もする。
三代天皇の御代、カラシナ(中国)の王ケエニより、隣国の王カムヌリと戦うための兵糧援助の申し出があり、五穀の種子と農業技術者を送り届けた。すなわち、『上記』が語る太古日本は中国の農業を指導するほどの先進国ということになっているのだ。
三代天皇は二代上皇と相談し、諸国を巡行することになった。その際、天皇は近江以東の東日本を、上皇は丹波以西の西日本を回ったという。ウガヤフキアエズ朝の都は一貫して九州にあったはずなのに、ここではいきなり畿内を中心とした国土観が現れてくる。こうした不整合は『上記』の錯綜した成立過程を暗示しているようで興味深い。
四代天皇は行政のための官僚機構を整え、さらに宮殿や神社の建立を通して建築技術を進展させたとされる。また、この天皇の御代に北方の国オルシ(オロシャすなわちロシアのことか)による越の国への侵攻があったが、国守が招集した地元住民の勇猛と皇軍の到着で撃退することができた。これは外敵襲来の最初の記録である。
以下、『上記』によるとウガヤフキアエズという名は天皇の称号として、代々、襲名されたという。その後、第七一代天皇の皇太子イツセがナガスネヒコの反乱で戦死し、第七二代天皇を追号された後、イツセの弟ヒタカサヌがあらためて即位、九州の高千穂の宮から大和の鳥見山に都を移したとされる。したがってヒタカサヌはウガヤフキアエズ王朝最後の天皇であると共に、大和朝廷の創始者(神武天皇)でもあるのだ(『日本書紀』の一書も神武天皇の幼名を「狭野」と伝える)。
『上記』のウガヤフキアエズ王朝、それは国民の生活と健康を守るために活躍した文化英雄たちの物語である。それが『上記』編者における天皇の理想像であったとすれば、そこからこの文献成立の思想的背景をうかがうこともできよう。 
『竹内文献』の太古世界王朝
『竹内文献』もまた『上記』と同様ウガヤフキアエズ王朝七二代(神武を入れれば七三代)の系譜を伝えており、その王名にも共通のものが多い。ただし、『上記』では、その都や陵墓の所在、巡行の範囲などが日本列島内、特に九州に集中しているのに対して、『竹内文献』では全世界的規模で展開している点が注目される。
たとえば、『竹内文献』によると、ウガヤフキエエズ王朝の初代天皇は、即位百四十万年、万国巡行として紀伊の安堵峰の大宮を発ち、アジチ(中国)上海水門に上陸、その地をアジアメヒトクニと名付け、西方のヨモツ国を改めてヨウロパと名付けた後、ヒナタエビルス(南米大陸)ヒウケエビロス(北米大陸)の全土を巡行、即位百七十七万九千六百二十六年に肥後の奇日根速日岳大宮に帰ったという(年代の天文学的な長大さは『竹内文献』の叙述の特徴である)。
この巡行の直後、アジチ国の天能氏・地能氏・人能氏が来日して天皇よりアジチ国王を拝命した。彼らこそ三皇(中国の伝説的始祖)として名高い天皇・地皇・人皇である。このような長距離の巡行が可能になったのも、『竹内文献』によれば、「天皇日の内、万国何万里遠くゆく神通力あり」だったからだという。
こうした太古天皇の万国巡行に関する記述は『竹内文献』には幾度となく表れており、神武天皇も大和朝廷を開く前に行ったとされている。そのコースは陸奥から西進して沿海州、蒙古、パミール、ウラル、キエフへと進み、そこから南下してイタリア、スーダン、カメルーン、エチオピアからアラビア半島、オマーンに出て、インド、インドシナ半島を歴訪し、中国の福州から日本の穴門に帰るという長大なものであった。
だが、そうした超人的能力を持つ天皇も重要な式典は、必ず越中の皇祖皇太神宮(富山県負婦郡神明村久郷)で行う仕来りだったという。世界中のどこにでも現れることのできる王が、この皇祖皇太神宮からは逃れることができないのである。そして、その久郷の地は『竹内文献』を所蔵・公開した竹内巨麿の故郷であった。 
来日する聖者たち
さて、三皇のみならず海外の偉人・聖者が来日したという記述は『竹内文献』に頻出している。まず、ウガヤフキエエズ王朝第五八第天皇即位百五年、アジチ国から伏羲氏と神農氏がやって来た。この両者はいずれも三皇五帝に数えられる古代中国の聖王である。富山県の伏木の地名は、この伏羲氏上陸に由来するものだという。
また、第六九代天皇即位二百年には、ヨモツ国からモーゼ=ロミュラスがやって来た。彼は日本で十二年修行した後に帰国、その後、晩年をふたたび日本で過ごし、宝達山のネボ谷に葬られたという。最近、宝達山といえば、能登半島の付け根、UFOによる町起こしに力を入れている羽咋市のすぐ近くである。
モーゼは旧約聖書『出エジプト記』で活躍するヘブライの預言者であり、ロミュラスはローマ帝国の礎を築いた伝説的建国者である。この両者は、たとえ実在の人物だとしても本来、別人であることはいうまでもない。しかし、『竹内文献』では彼らを混同して一人の人物と見なしているところが面白い。
第七十代天皇即位百七年、釈迦若が来日、越中の天越根主命こと迦羅良仙人に入門した。迦羅良仙人は天皇より天竺(インド)の神に任じられ、釈迦の帰国と共に任地に渡った。釈迦は入滅した後、日本の信州更科に葬られたという。釈迦若とは、もちろん仏教の開祖・釈尊のことである。『仏伝』は釈尊が出家した直後、アーラーラ=カーラーマ仙人の下で修行していた時期があることを伝えている。しかし、アーラーラ仙人が日本人だったなどというのは、もちろん、『竹内文献』独自の所伝である(釈迦来日説そのものは謡曲『白髭』や『曽我物語』『太平記』など中世の文献にも見られるところである)。
『竹内文献』は大和朝廷の時代に入ってからも、老子・孔子・孟子・秦の徐福・イエス=キリスト・マホメットなどの聖者が日本で修行したという記録を残している。その点でもやはり『竹内文献』の舞台は日本列島内に止まることなく、全地球大のスケールに広がっているのである。だが、その壮大な物語も結局は越中の一角の壺中天に収斂してしまうところに『竹内文献』の真の特徴が現れているともいえよう。 
『富士古文献』の九州軍事国家
『富士古文献』の代表的テキスト『神皇紀』では『上記』『竹内文献』のウガヤフキアエズ王朝にあたる王統をウガヤフジアワスと呼んでいる。そのウガヤフジアワス王朝成立のきっかけとなったのは、大陸からの外敵侵攻だった。
『富士古文献』によるとホホデミ(火々出見命、諱・火遠理命)の御代まで日本の神々の都は富士北麓の高天原にあった。ところが、附地見島(九州)には古来、西方からの外寇が絶えず、特にホホデミの在位末期に襲来した大軍は神々の治世そのものを揺るがせるほどの規模だった。そこで、ホホデミは皇太子の阿祖男命(諱・日子波瀲武言合命)に譲位し、自らは高天原に止まった上で附地見島への遷都を行わせることにしたのである。二年間の激戦の末、阿祖男命は外敵を撃退し、切枝間山に新都を置くことになった。阿祖男命はさらに附地見島の地名を築市島(筑紫)、国号を宇家澗不二合須と改め、さらにその国号を神皇代々の世襲の諱として定めたのである。
ウガヤフジアワス王朝の神皇は筑紫の新都で天下をしろしめすといえども、その即位に際しては必ず富士高天原の阿祖山大神宮に詣でるよう定められていた。また、その新都が置かれたという切枝間山については、あたかも阿蘇山のすぐ東にあるように読める記述があるため、どうやら鹿児島県の霧島山とは別の山を指しているらしい。
『富士古文献』のウガヤフジアワス王朝は、その創業譚が示しているように軍事的要素の強い国家であり、代々の事蹟は外敵との戦闘や内乱鎮圧の記事に満ちている。
『上記』のウガヤフキアエズ王朝伝承が、オルシ族の撃退や三韓侵攻、いくつかの内乱の記事を含んでいるとしても全体としては牧歌的なのに対し、『富士古文献』のウガヤフジアワス王朝は日々戦闘に明け暮れる過酷なバトルフィールドに置かれていたのである。『神皇紀』によるとウガヤフジアワス王朝は五一代続いた後、第五一代神皇の皇太子・佐野王命(神武天皇)の大和朝廷創始によってその歴史を終えたとされる。 
謎の『神伝天皇上代記』
元綾部藩主・九鬼旧子爵家に伝わったという『九鬼文献』にもウガヤフキアエズ王朝の記述があったとされるが、現存テキストからは、その王朝が高千穂の宮で七三代続いたということ、さらにその最後の王が神武天皇になったということ以外、くわしいことは判らない。この他にウガヤフキアエズ王朝に関する独自の系譜を伝える文献としては『神伝上代天皇記』がある。これはニニギの父アメノオシホニ(天之忍穂邇命)からウガヤフキアエズ朝第七三代日高狭野命までの王名と、神霊としての名(幽中御名)、そして宮と陵墓の所在が記したものである。その王名と『上記』の所伝とは異質であり、説話の記述が欠けているのは残念だが、ウガヤフキアエズ王朝異説として興味深いものである。現存の写本は福岡の古書店で発見されたもので「明治二十五年五月十三日」の年紀があり、吾郷清彦氏によってその内容の一部が公表された(「上代天皇紀解」『日本神学』三三四号)。 さて、以上の文献の内、『竹内文献』『富士古文献』『九鬼文献』については、その成立に『上記』が影響を与えていることがすでに考証されている(藤野七穂「『上記鈔訳』と「古史古伝」の派生関係」『歴史読本特別増刊「古史古伝」論争」所収)。『神伝上代天皇記』については、決定的なことはいえないがウガヤフキアエズ王朝の代数が七三代とあることが問題となるだろう。
しかし、「古史古伝」のウガヤフキアエズ王朝伝承に派生関係があるとしても、文献ごとに異なる国家像を描いている点は注目に値する。そこにそれぞれの文献の個性を見ることができよう。また、他の文献のウガヤフキアエズ王朝系譜の元になった『上記』の伝承は、いったいどこからもたらされたのかという疑問も新たに浮上してくる。ここでは、ただ従来の「古史古伝」研究者が「歴史」として読み解こうとしたウガヤフキアエズ王朝伝承を今一度、国家の理想像を示す神話として考え直すべきではないかということを指摘し、問題提議とするにとどめたい。 
 
「富士古文献」が語る神々の大陸統治

 

『富士古文献』とは
富士山の伏流があふれ、豊富な湧き水に恵まれた郡内地方、『富士古文献』はその地の旧家・宮下家に伝わったとされる古文書、年代記などの総称である。宮下家は記紀で仁徳天皇に反旗を翻し、滅ぼされたとある大山守皇子の子孫であり、現富士吉田市明日見村にかつて栄えていたという神代パンテオン・阿祖山大神宮の宮司家でもある。
大山守皇子と弟の隼別皇子は、父・応神天皇の命を受けて、東国に下り、阿祖山大神宮のそれぞれ宮守司長と副司長となった。阿祖山大神宮はもともと神々が都を置いた高天原の遺跡であり、そこには神代以来の古記録が大量に残されていた。その中には、秦始皇帝の命で不老不死の霊薬を求めて日本を訪れ、そのまま帰化してしまった方士・徐福が神代文字から翻訳した史書まで含まれていたとされる。
だが、延暦十九年(八〇〇)、富士山の大噴火により、阿祖山大神宮は溶岩に埋まり、史書の原本は永久に失われた。当時の大宮司・宮下源太夫元秀は、天智天皇の御代、中臣藤原物部麿なる人物が書写させたという史書の副書を携え、相模国高座郡に難を逃れた。その地には寒川神社が勧請され、宮下家はその大宮司としておさまることになった。中臣藤原物部麿とは、氏族系統がさっぱり不明な人名だが、こうした氏族系統の乱れは『富士古文献』所収の系図の多くに見ることができる。
平安時代末期、三浦義顕の長子でありながら宮下家に入り婿になった源太夫義仁は文献の保存に情熱を傾け、十数年の歳月をかけて予備の写本を作った。義仁はまた鎌倉幕府開幕の影の立役者でもあり、宮下家は相模・甲斐の土豪として勢力を奮ったという。
だが、弘安五年(一二八二)、馬入川の洪水が寒川神社を襲い、文献は時の大宮司・宮下佐太夫国明とその長子・記太夫明吉らと共に流されてしまう。かくして、またもや三浦一族の手元の写本のみが、地上に残されることになった。
宮下家はその後、建武政権に参画したが、室町幕府成立によって勢力を失い、文献の多くが焼きすてられた。また、江戸時代の寛文年間(一六六一〜七三)には、宮下家は明日見村の庄屋として郡内領主・秋元喬知と対立したため、当主・甚太夫宗忠は斬首、残っていた文献もほとんどが奪われ、室町時代と同様の焚書にあった。度重なる弾圧に苦しんだ宮下家では、文書の一部を屋根裏の棟にくくりつけ、難を逃れようとしたのである。
『富士古文献』が宮下家の家宝の中から再発見されたのは明治十六年、さらにそれが三輪義煕によって整理編集され、『神皇紀』(隆文館)として世に問われたのは大正十年のことであった。さらに現在では、八幡書店から『神伝富士古文献大成』全七巻として現存写本の影印本も刊行されている。すなわち『富士古文献』は「古史古伝」で唯一、テキストの現態が判る形で、一般に公開された文献なのだ。
なお、『富士古文献』によると、阿祖山大神宮は衰微した後、浅間神社としてその命脈を保ったという。そして、それは静岡県富士宮市の浅間神社本宮や山梨県八代郡の一宮浅間神社よりも古い浅間神社の真の本宮だと主張されている。さらに、この文献には、浅間神社のみならず、伊勢神宮、出雲大社、八幡宮、賀茂神社、天神社、稲荷神社、恵比寿神社、住吉神社などの各社も阿祖山大神宮から別れたことを暗示する記述もある。こうした記述からも、阿祖山大神宮が伝承の中で次第に肥大化し、神代以来のパンテオンに成長していった過程がうかがえるようである。 
「天之世」「天之御中世」の神々
『神皇紀』は神々の歴史を日本列島渡来以前、大陸での事蹟から説きおこす。まず、天地開闢の始元、最初に現れた神の名は天之峰火夫神という。その後、天之高火男神、天之高地火神、天之高木比古神、天之草男神、天之高原男神、天之御柱比古神が続き、以上七代の神の治世を総称して「天之世」という。天之世の神々は獣の皮、鳥の羽根、木の葉などを衣服とし、岩山などに穴居していた。食物は草木の実や肉類を石でつぶし焚き火で炙ったものだったという。また、海岸や山の砂に着いた白い物(塩)で調味することも知っていた。このように原始的な生活をおくっていたにも関わらず、彼らはすでに文字を用いており、消し墨と魚油からインクさえ作っていたという。
天之御柱比古神の御子・天之御中主神は、土を練った器に海水を入れそれを焼き固めて塩をとる方法を考えた。これは製塩法の発明であると共に土器文化の発祥でもある。これ以降、十五代に渡る神々の治世を「天之御中世」という。天之御中主神は天津日嗣の大御神の紋章として十六の条光を持つ日輪を定めた。これは天皇家の紋章・十六条菊紋の起源説話であろう(天皇家が実際に菊紋を用い始めたのは鎌倉時代以降)。
天之御中世第五代の天之常立比古神(諱・神農比古神)の御代には、土器文化が発達し、穀物や魚類、肉類を煮て食べることが広まった。また、穀物を煮たものを幾日も置いて飲み物とすることが始まり、「酒」と名付けられた。
天之御中世第十五第の高皇産霊神(天之神農氏神、諱・農作比古神)は、諸々の草木を嘗めて、薬を定め、それを子孫へと伝えさせた。また、御子たちに「日の本なる海原に状貌世に二なき蓬莱山のあるなり。汝か命等之に天降りて蓬莱国を治せ」と命じ、後に自分も蓬莱国の高天原に渡って、そこで生涯を終えたという(『富士古文献』の文脈では蓬莱山は日本の富士山を意味する)。以上が、『神皇紀』の語る神々の大陸統治時代である。 なお、高皇産霊神の命で日本に天降ったという御子は五男の国常立尊(諱・農立比古尊)と七男の国狭槌尊(諱・農佐比古尊)だが、他の五人の御子がどうなったか『神皇紀』には記述がない。その後、高天原では国常立尊を名目上の初代とする高天原世七代と、天照御神(諱・大市毘女尊、大日留女尊)に始まる豊阿始原世五代が続き、ウガヤフジアワス王朝の成立まで神都としての繁栄を保ったとされている。 
神々の原郷
さて、『富士古文献』のテキストといえば『神皇紀』しかなかった頃、研究者の間では大陸統治時代の神々の原郷探しがさかんに試みられていた。たとえば、三浦一族の末裔として『富士古文献』の研究に取り組んだ岩間尹は、それをイランの東北、アム川とシル川のほとりに求めた。いわゆるツラン平原である。岩間は日本民族をアリアン族(インド=ヨーロッパ語族)の流れとみなし、かつてその語族の発祥地として有力視されていた中央アジアに着目したものである(岩間『日本古代史』三浦一族会)。
また、神々のいた大陸をユーラシアではなく、太平洋上のムー大陸に求める論者もあった(藤沢偉作『日本ムー王国説』喜多要光『宇宙連合の飛来』)。
また、高天原世、豊阿始原世の神々がいたという高天原も富士山麓ではなく、遠く海外にあったのではないかとする説も出されている。たとえば、鹿島f高天原をトルコ東部のアルメニア高原に求め、豊阿始原世とはアルメニアのウラルトゥ王国、シルクロードの月氏族、日本列島のエビス族による汎ユーラシア的部族連合国家であると主張した(『倭人興亡史2』新国民社)。また、高橋良典は古代インドのジョルヴェ=ネワーサ文化(前七〜八世紀)と、『神皇紀』の高天原世の記述の類似に着目し、高天原はデカン高原のガンジス川源流地帯にあったと唱えている(『謎の新撰姓氏録』徳間書店)。
しかし、『富士古文献』の語る大陸統治はあくまで神話的文脈のものであり、そこにいきなり史実との整合性を求めることは困難である。しかも、天之御中世の神々はその神名や事蹟からみて、中国神話でいう神農氏がモデルとなっていると見るのが妥当であろう。そして、それを裏付けるかのように、『神皇紀』にとられていない『富士古文献』の記録には日本民族の祖神を神農氏と明記するものがあるのだ。 
中国神話の神農氏
そもそも神農氏は三皇五帝に数えられる伝説的聖王であり、烈山氏、炎帝などとも称せられる。彼は人民に農耕を教え、また医薬の発明者として自ら薬草を嘗め、その効能を確かめたという。そのため、中国には神農氏は一日に七十回も毒にあたって苦しんだ、あるいは命取りの毒草を嘗めたために腸がちぎれて死んだなどとする伝承も残されている(袁珂『中国の神話伝説』上、青土社)。また、『帝王辞典』(陜西人民教育出版社刊)では、神農氏を古代の部落首領とみなし、その事蹟は狩猟採集生活から有畜農耕生活に入るまでの過渡期の文化が反映した伝承であろうとする。
日本でも、神農氏は薬種業者もしくはヤシ、テキヤといわれる大道商人によって尊拝され、しばしば祀られている。薬種業者が神農氏を祭るのは判るが、なぜ中国太古の聖王が大道商人の守護神ともされるのか。一説には中国で始めて市を開いたのが神農氏だと伝えられるためだというが、あるいはこれは山岳宗教者が大道商人と薬屋(山野でとってきた薬草を売る)を兼ねていた時代のなごりかも知れない。
さて、『富士古文献』の公開によって判明したものの一つに、神農氏関係の豊富な伝承がある。その文書の中には、日本が「神国」と呼ばれるのは、かつてこの国を神農氏が開いた史実に由来すると記したものさえあったのだ。しかし、戦前の世相の中では、日本の皇室が中国の王朝から発したという説には公表をはばかるものがあった。
三輪義煕が『神皇紀』出版以前、『富士古文献』の一部を公開した『富士史』では、原写本に「神農氏」とある個所をわざわざ伏せ字にして「切レテ見エズ」と注記していた例さえある。したがって三輪は『神皇紀』においては日本の神々と神農氏との関係を伏せ、天之御中世の神名で暗示するに止めたのであろう。 
「支那震旦皇代暦記」
『富士古文献』の一つ、「支那震旦皇代暦記」は、『神皇紀』にまったく語られていない中国古代王朝と日本の高天原との関わりについて詳述している。
それによると、まず、中国を開いた大昊伏羲氏は、蓬莱山高天原から大陸中央の平原に天降り、東陽婦人との間に炎帝神農氏を産んだ。神農氏は山海婦人との間に七男九男を産んだが、その長男が黄帝有熊氏である。また、他の子供たちも四方の開拓に向かったが、その内、五男と七男が東海を渡り、日本の祖神となった。また、中国に止まった黄帝有熊氏の子孫は少昊金天氏、●●高陽氏、帝告高辛氏、帝・陶唐氏、帝舜有虞氏の五代が続き、彼らが後世、五帝と称せられることになる(つまり、『富士古文献』は・舜の禅譲という有名な故事を認めず、彼らの王位継承を世襲として伝えていることになる)。帝舜有虞氏は蓬莱山のある豊阿始原瑞穂国が全世界の祖国であることを知り、武力による制圧を志した。彼は自ら大船三六〇艘を指揮して東海に乗り出したが、世界開闢の祖神の怒りに触れたのか、突如、黒雲・神風と出会い、ついには大軍もろとも海に呑まれてしまった。
さらに「支那震旦皇代暦記」によると、五帝の後を引き継いだ夏王朝の祖・大禹王は神農氏の三男の子孫、夏王朝に代わった商(殷)王朝の祖・成湯は神農氏の四男の子孫、さらに商王朝を倒した周王朝の祖・文王は神農氏の次男の子孫、秦始皇帝は商王朝と同じ神農氏の四男の遠孫と漢代より前の中国歴代王朝はすべて神農氏の一族であるという。その意味では日本の皇室とも同族だったということになるのである。また、朝鮮国は周王朝と同じ神農氏の次男の一族が建てた国であり、その流れをくむ新羅国の王子・多加王は日本に渡って祖佐之男命(スサノオ)と称せられたという。
中国には、漢民族の民族的同一性を強調する言い回しとして「我ら皆、黄帝の子孫」という言葉がある。だが、『富士古文献』はそれよりも古い神農氏の系譜を重視する。
なぜ、富士北麓の一角に、かくも中国と日本との深い関係を主張する記録が残されてのであろうか。ここには道教の濃密な影響が看て取れるのである。 
呉鏡と石印
『三国志』で有名な呉の孫権は、皇帝の位についた翌年の黄龍二年(二三〇)、徐福の子孫が住むという亶州と夷州とを求めて将軍の衛温と諸葛直に兵一万を与え、東海へと船出させた。しかし、二人の将軍は夷州から数千の住民を連れ帰ったが、肝心の亶州には行き着けず、帰国後に命令不履行ということで孫権に殺されてしまった。
このことから、徐福の子孫が東方にいるという伝承がすでに三世紀の中国にあったこと、呉の孫権がその伝承に関心を持っていたことがうかがえる。夷島とは現在の台湾のことである。また、亶州の所在ははっきりしないが日本列島の一部である可能性は高い。
そして、その呉の紀年鏡(赤烏元年・二三八)の一枚がなぜか阿祖山大神宮の故地とも近い山梨県西八代郡の狐塚古墳(鳥居塚二号墳)から出土している。また、この古墳近くの米倉山遺跡からは一世紀頃、古代中国の貨幣だった貨銭も出土した。日本列島で出土した三国・西晋紀年鏡は最近話題になった魏の青龍三年鏡(京都府竹野郡・大田南五号墳出土)も含めて十一面、その内、呉のものは二面のみである(もう一面は兵庫県宝塚市・安倉古墳出土の赤烏七年鏡)。なぜ、遠く江南の呉に由来すると思われる鏡がこの地にもたらされたのだろうか。古代中国では鏡は実用品であると共に魔除けの呪具でもあった。
一九二三年、山中湖西岸に住む故羽田正次氏は、畑を耕していた時、「秦」と読める金色の印章を見つけた。羽田氏は住所は往古、長生村といわれており、徐福が教えた薬草で村人一同、長寿を得たという伝説の地である。当時、この印章は地元の話題になったが、秦と読むにしては字体が余りにも新しく、好事家が徐福伝説にかこつけて作ったものではないかということで、学会の関心を呼ぶことはなかった。
ところが、最近、徐州博物館の李人兪や書道家の侯学書など、中国の研究者の間から、この印章は正しくは「大方」もしくは「己大方」と読まれるべきであり、それは後漢末の黄巾軍の将軍号ではないかという説が出された。黄巾軍は太平道という原始道教教団を中核とする反乱軍だから、この印章は徐福と直接は無関係だとしても、道教とは深い関わりのある遺物だということになる(羽田武栄『徐福ロマン』亜紀書房)。
富士吉田市下吉田にある浄土信州の古刹・福源寺の境内には、徐福が化した鶴を葬ったという鶴塚もある。『富士古文献』にみられる徐福や神農氏に関する説話も、富士山周辺の伝説に濃密にただよう道教的雰囲気と無関係ではあるまい。
富士山周辺は縄文早期から古墳時代まで、多くの遺跡に恵まれたところである。今後の考古学的発掘の進展次第で、『富士古文献』はさらに新しいロマンの世界を私たちの前に広げてみせるかも知れない。しかし、その前に『富士古文献』のテキスト自体に基づく入念な史料批判がなされなければならないのは、言うまでもないことである。
先述したように『富士古文献』は、宮下家歴代の命がけの努力と、度重なる筆写により、かろうじて伝えられた文献とされている。そのため、現存写本から、その原態を推定することは、きわめて困難である(さらに言えば、その伝来過程そのものが捏造かも知れない)。だが、それだけに今後の研究の可能性が大きく開かれた文献と見なすこともできよう。本論稿がその一助となれれば幸いである。 
 
創世神話「竹内文献」

 

『竹内文献』の天神七代
富山県負婦郡神明村久郷、そこは神通川の水害と冬の冷気に長年悩まされてきた所である。そんないかにも北陸地方らしい寒村に、遥かな太古、日本、否、世界の中心たる聖地だったと主張する年代記と文書群があった。その文献こそ「古史古伝」の代表として、良くも悪しくも有名な『竹内文献』である。広島県庄原市の葦嶽山ピラミッド説や、青森県新郷村のイエス=キリストの墓など、古代妄想と呼びたくなるような怪しげな噂はそのほとんどが、この『竹内文献』に由来するといっても過言ではない。だが、いわゆる神代文字で書かれていたという年代記の原本はもはや地上から永久に失われてしまった。
ここで『竹内文献』の決定版といわれる『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)をひもといてみよう。その冒頭に現れる神名は、天神第一代・元無極躰主王大御神、またの名を天地身一大神、あるいはナンモ、、アミン、ノンノ、カンナガラ、メシアなどともいう。こうした異名の数々はこの神が持つ究極の神性を表現するためのものらしい。この神は「天地ヲ産祖神」であり、「天地乃大根元身体乃大神」だという。したがって、この神が現れた時、宇宙はいまだ「天地未分ス、鶏子乃玉子如奈リ」という状態であった。
続く天神第二代の出現で、泥の海に岩石のような塊ができ、ようやく土と水が分かれて天地は玉のようになった。その変化には「年歴無数」の時間を要したという。
天神第三代の出現から二百二十四億三十二万十六年後、天地が別れてようやく大空に中空ができる。そして天神第四代、その中空の中に清らかな煙がたなびき、天上に男神としての日の神、地上に風の神としての女神が生じ、男女の別が定まった。
天神第五代、天の底にあたる地上で祭天の儀が始まり、天越根日玉国狭依国越中国(飛騨・越中)が天国の柱、天皇・天神の宮が置かれる国と定められた。また、万国の底を地美、造化の男女二神がマグワイした所を淡海根(近江)と名付けた。これらは地上における最初の国名である。それから百六十億万年のちには泥の海がすっかり固まり、二百六十億十万年後には天神五代の神々が天に登った。その神々が天上に登った所は天一柱の国と名付けられた(『古事記』では天比登都柱は壱岐の別名)。
天神第六代、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動のヒナ形を造った上、天上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の海となった。高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという。さらに神々は天の底の天神人祖神一神宮で造化の神々の像を造って祀り、天皇をその祭主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動をつかさどり、月の女神も現れて大地を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。
天神第七代の位を受け継いだのは、前代に現れた夫婦の日神である。この神々によって暦はさらに整備され、星々の運行まで定められた。また、この神々の皇太子は日玉国の位山(現岐阜県宮村の位山)に大宮を造営した。そして、その皇太子の即位によって上古二五代の御代が始まるのである(その初代は天日豊本葦牙気皇主尊天皇)。 
神と人の連続性
以上、『竹内文献』における天神七代の神々は宇宙創成の各段階を現す象徴的な世代とみなすことができよう。だが、『竹内文献』は続く上古二五代を、具体的な人格を持った「天皇」として扱っている。つまり、今様にいえば天皇制は宇宙開闢のビッグ=バン、あるいはそれ以前から始まっているというわけである。
神々の系譜がいつの間にか地上の王権の起源につながっている。これは現存の神話の中では、特に日本のものに顕著に見られる現象である。これは神話的起源を有する王権がいまなお実質上の元首(「国民統合の象徴」としての人格は元首以外の何者でもない)として君臨している我が国の特殊な事情がしからしむるものでもあろう。
記紀では、天皇家のみならず他の各氏族も何らかの形で神々の系譜につらなる家系とされている。したがって日本神話では人間の創造が殊更に語られることはない。人間は神々の被造者というより、その子孫として産みなされたことになるからである。
これと対極的な位置を占めるのが、古代メソポタミアのバビロニア・アッシリアの神話である。その中では神々は万物の創造主であり、地上の存在に対して絶対的な権限を有している。人間も被造物の一つである以上、その支配から逃れることはできない。
それどころか、古代バビロニアの新年祭で高僧により朗読されたという「神々の戦争」の物語によると、人間は神々に奉仕するために、悪神の血肉からわざわざ造られた存在なのだという。こうした神話の下では、特定の家系が神の子孫であることを主張できたとしても、それが万民に及ぼされるということはありえない。
ヘブライ人はこのバビロニア・アッシリア系の神話を引き継ぎ、さらに一神教化を進めることで主なる神の絶対性をさらに強化した。旧約聖書『創世記』にはところどころ主なる神が複数形で語られている個所があるが、それはバビロニアの多神教のなごりである。そして、そのヘブライ神話を下敷きとしたキリスト教やイスラム教の教義でも、神と人との間には絶対の隔絶があることが強調されている。
ところが『竹内文献』では、創世神話の神々は絶対的な創造主であると共に人間の先祖でもあるとされているのだ。このような神話においては、地上の人格でありながら創造主にも等しい権能を持つ存在も容認されることになる。かくして、『竹内文献』の太古天皇たちは、SF的ともいうべきパワーを有することになる。しかし、その天皇観は結果として『竹内文献』の神話に奇妙な歪みをもたらすことになった。 
天空駆ける天皇たち
さて、『竹内文献』も上古二五代に入ると、記紀神話でもおなじみの神名が多く見受けられる。しかし、その系譜の中では『日本書紀』本文で始源神とされるクニトコタチでも第十四代、『古事記』で始源神とされるアメノミナカヌシさえ、せいぜい第四代の位を占めるにすぎない。その最後を飾るのは、記紀神話のヒコホホデミにあたる天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇であり、その後はウガヤフキアエズ王朝七三代に引き継がれる。
上古第一代の皇子には、農耕、牧畜、魚漁、養蚕や土器作りなどさまざまな生活技術をそのまま人格化したような名が多く見られる。これはこの天皇の御代に、人類の文化が発祥したということを言いたいのだろうが、その中では特に次の名が注目される。
「天浮船大空乗公運尊」この皇子の事蹟は、「天空船、水船を造る」であったという。水船の方はいいとして、天空船は素直に考えれば、飛行機のような空飛ぶ乗り物ということになるだろう。
上古第二代の天皇は五色人(黄・黒・赤・白・青)の皇子・皇女を生み、それを全世界に派遣した。その中には支国インダウ天竺万山黒人民王やヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏、オストリオセアラント赤人民王、ヒウケエビロスボストン赤人民王、アフリエジフト赤人民王など、明らかに近世以降の地理的知識によって造作された人名も見られる。
上古第三代の即位三十億万年、天皇は大船八艘、小船十六艘を造らせ、自らは天之浮船(「天空船」と同じものか)に乗って最初の万国巡行に乗り出した。
それは第二代の御代に世界に散った皇子・皇女たちの行く末を確かめるためだったらしい。帰朝後、天皇は史官たちに命じて、万国の主の名とを書き記させたという。
また、この天皇の即位百六十億万年には地球全土大変動し、泥の海となって万国ことごとく滅ぶという事件が起きた。天皇とその一族は天空浮船で日球国に逃れ、災害から五億五万千年目に天降って、ふたたび地球万国を産んだ(つまり、「日球国」は地球全土の外にあったということになる)。
これ以降の上古天皇たちの事蹟は、度重なる「地球全土大変動」と復興のくりかえしである。そして、この種の大災害の記録はウガヤフキアエズ王朝に入っても無くなることはない。たとえば、ウガヤフキアエズ王朝第十代の女帝、千足媛天皇の御代には、太平洋にあったタミアラ国とミヨイ国(ムー大陸のことか)および現在のインド洋、カリブ海にあった陸塊が海の底に沈んだという(「嗚呼オトロシヒエ地変ぞ」という注記がある)。
また、第六九代の神足別豊鋤天皇の御代にも二度に渡って「天地万国大変動五色人多く死す」という災害があり、その結果、紅海とアラビア砂漠が出現したとある。
『竹内文献』の天皇たちは天之浮船を駆り、全世界をめぐるほどの力を持ちながら、迫りくる災害を防ぐことは出来ない。彼らはその超人的能力を持って災厄から逃げ出し、後はただ復興に力を注ぐだけなのである。 
無力な絶対者
世界を滅亡させるほどの大災害、それは『創世記』が語るノアの大洪水や、ギリシャ神話のデウカリオンの洪水、あるいは哲人プラトンが書き残したアトランティス沈没の物語などを思い起こさせる。聖書やギリシャ神話によると、洪水をもたらしたものは地上の人間の堕落に対する神の怒りだった。
この理由説明は、実はヘブライやギリシャの文明に先行する古代バビロニアの洪水神話から引き継がれたものである(たとえば『ギルガメシュ叙事詩』の洪水説話など)。
だが、『竹内文献』の上古天皇たちは、いずれも敬神の念厚く、天人人祖一神宮(皇祖皇太神宮ともいう)の祭主として、祭祀にこれ努めていた。その事蹟には、まったく堕落したような様子は見られない。それに第一、『竹内文献』の神話では地上の人間は単なる被造物ではなく、創世の神々の子孫なのである。天上での都合だけで一方的に滅ぼされる筋合いはないはずだ。そのせいか、『竹内文献』ではなぜそのような大災害が起きたのか、その原因に関する説明は一切なされていない。
何らの説明もされることなく理不尽に地上を襲う災厄、そしてそれに翻弄されるだけの神(天皇)と人間、『竹内文献』の世界観はある意味では近代的といえるかも知れない。そして万能の絶対者でありながら無力な天皇像は近代の天皇のイメージとどこか重なっているようである。近代天皇制はキリスト教文化の背景を持つ西欧の絶対君主制と、それ自身としては無力でありながら超越的権威として日本の権力構造を支えてきた日本の伝統的王権との、よじれた結合の産物だった。そして、『竹内文献』の神話もまた『創世記』など西方の神話と日本神話との歪んだ習合の跡を止めているのではないか。
そして、その意味では、『竹内文献』の神話は、その成立の背景となった近代日本の宿痾をも暗示していたのではないか。おそらく神話とは、常にその時代の空気を呼吸しつつ、再生産されていくものなのだろう。 
神話を作る人々
『竹内文献』の所蔵・公開者たる竹内巨麿(一八七五?〜一九六五)は庭田権大納言従一位伯爵源重胤卿のご落胤を称し、実母の仇を討つために全国を流浪、武術と神道を研鑽したという。しかし、目指す仇を見つけた時、相手はすでにこの世になかった。そこで人生の目的を見失った彼は茨城県に落ち着き、そこで一念発起して新宗教を開いたというのである。これが皇祖皇太神宮こと天津教である。
その次第は巨麿の口述をまとめたという長峯波山著『明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚』にくわしい(大正元年、復刻版として八幡書店刊『竹内巨麿伝』がある)。また、いわゆる『竹内文献』は彼が育った久郷の地で、養祖父・竹内三郎右衛門から譲られた家伝の宝物に含まれていたという。もっとも長峯の伝記には『竹内文献』のことはまったく記されておらず、その由来はかなり眉唾物ということになる。巨麿は天津教開教後、それがまったくの新宗教ではなく、自らの郷里にあった古社の再興だと強弁するため、皇祖皇太神宮の先史を造作していったというのが本当のところだろう。
しかし、長峯の伝記の内容は、大時代的な仇討譚であり、明治末期の話としてはとても受け入れられるものではない。そこから巨麿の想像力は本来、講談や立川文庫、宮芝居などに通じるような大衆的なものであったことがうかがわれる。とても現存の『竹内文献』に見られるようなSF的空想が、巨麿の脳裏から出てくるようには思えないのである。
それでは『竹内文献』の壮大なイメージはどこからもたらされたものか。まず考えられるのは天津教に出入りしていたオカルティストたちの影響だろう。その中でも特に重要な人物としては酒井勝軍(一八七四〜一九四〇)の名が挙げられる。
酒井は山形県の生まれ。大正七年、大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に当時、西欧を席巻していたユダヤ禍論を知り、帰国後は反ユダヤ論の論客として名を馳せた。ところが昭和二年、パレスチナ視察を契機として今度は熱烈な親ユダヤ論者となる。そして、ついにはモーゼが神から授かったという十戒の本物は日本に隠されている、あるいはエジプトのものの原形となったピラミッドが日本の何処かにあるはずだなどという奇説を唱え出し、その探索に乗り出したのである。彼がその探索行の最中、天津教本部を訪れたのは昭和四年のことだったという。酒井と出会った巨麿は請われるまま、モーゼの十戒石の「本物」やピラミッド建造の由来書などを皇祖皇太神宮の宝物から出してみせた。酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。
つまり、実際には酒井が自らの想像力を提供し、巨麿はそれに形を与えた上、『竹内文献』の神話の世界へと繰り込んでいった、というわけであろう。おそらく、『竹内文献』への聖書の影響は、主に酒井を介して与えられたものである。
天津教の周囲には酒井の他にも、様々な異能の人々がたむろしていた。たとえば、青森県戸来村にピラミッドがあると主張し、さらに巨麿によるキリストの墓「発見」にも立ち会った画家の鳥谷幡山。あるいはそのキリストの墓をはじめとして相模のゼウスの墓・能登のモーゼの墓・信州の釈尊の墓などを訪ねて日本各地を巡った山根キク。郷里の飛騨地方を中心に先史時代の巨石遺跡を探索、調査して回った上原清二。越中の盆踊り歌に人類発祥の秘密が隠されていると唱えた岩田大中・・・
こうした人々が自らの研究の裏付けを『竹内文献』に求める内に、その内容が次第に豊かなものになっていったことは想像に難くない(たとえば先述のムー大陸の話など大正時代の刊本にはその片鱗さえなかったことが確認されている)。
神話的権威に依存する戦前の国体は、「もう一つの神話」を許容できなかった。天津教は繰り返し弾圧を受け、押収された文献・神宝も東京大空襲の業火で烏有に帰した。
ただ、戦前の刊本やメモから復元されたテキスト(『神代の万国史』等)と現存する皇祖皇太神宮(茨城県北茨城市磯原町)の祭祀から、失われた神話の大要を偲ぶことはできる。そのような試みの一例として、『幻想の超古代史』を紹介し本論稿を終えたい。 
 
「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々

 

歴史は日高見から始まる
一九九四年、青森市郊外の三内丸山遺跡で今から約四五〇〇年前(縄文中期)の巨大木造建築跡が発見されるという事件があった。残された木柱の太さから推定して、そこにあった建物は高さ十メートル以上にもなったはずだという。
さらに同じ遺跡の住居跡等の調査により、集落そのものの発祥は、その建築よりもさらに一五〇〇年ほど前(縄文中期)まで遡ること、しかもその集落の規模は縄文時代としては全国最大級であることなどが判明した。また、その柱穴の間隔は規則的で、八戸工業大学の高橋成侑教授はそこから三五センチもしくは七〇センチを基礎単位とする「縄文尺」の存在を推測している(『東奥日報』平成六年七月二九日、九月十五日、他)。
これまでにも石川県のチカモリ遺跡や真脇遺跡、群馬県の矢瀬遺跡などで木柱跡が見つかっており、縄文時代の巨大建築の可能性がささやかれてはいたが、三内丸山遺跡での発見はそれを裏付けるものとなった。だが、太古東北地方における巨大建築の存在は、すでにある文献によって暗示されていたのである。その文献こそ、日本のイリアッドとも言われる叙事詩『秀真伝』である。
『秀真伝』第二紋によると、天地開闢、陰陽が別れた時に始めて現れた神をクニトコタチ(国常立尊)という。そして、この神が治めた国土をトコヨクニ(常世国)といった。クニトコタチはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八降りの神を生み、それをトコヨクニから諸国土に派遣して治めさせた。これが諸国の王の始まりだという。各々の割り当ては明記されていないが、その内「ト」の神はハラミ山(富士山)に都を定めたという。
また、「カ」の神が治めたという国から、ニシノハハカミ(西王母)が来日したという記述があるため、その範囲が西域方面を含む中国大陸であることはまず間違いない。
『秀真伝』の特徴は、この始源の場たるトコヨが天上の理想郷であるとともに、具体的な地上の国土でもあると見なしているところにある。それは陸奥国、ヒタカミといわれる領域であった。つまり、世界は日本、それも東北地方の一角から始まったというわけである。そして、『秀真伝』によるとその日高見国はまた天皇家の原郷・高天原でもあった。
『秀真伝』では繰り返し、古代の東北地方に巨大建築が造営されたことを語っている。その一つはクニトコタチが人民を生み出すための産屋としてであり、それはまた神社建築の起源でもあったという(第二一紋)。また、出雲の国譲りの後、津軽岩木山のふもとに隠退したオオクニヌシが、造営したという大本宮の話もある(第十紋)。
六国史などの正史では、東北地方といえば、大和朝廷による侵攻と征服の対象としてのみ語られており、そこに高度な文化があったことは認められていない。そうした東北地方観は今もなお尾を引いている。たとえば現代の蝦夷征伐といわれる六ケ所村核燃基地問題などにも、東北地方への蔑視が再生産された形で反映しているのではないか。
それだけに『秀真伝』の日高見高天原説は、単に古代史の異説として興味深いだけではなく、現代的な意義さえ帯びているといえよう。 
タカミムスビの日高見国統治
「日高見国」という国名の文献上の初出は『日本書紀』景行天皇二七年、東国視察を終えた武内宿禰の報告の中にある。
「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け、身を文けて、為人勇み悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土地壌えて広し。撃ちて取りつべし」
また、景行天皇四十年には、日本武尊が東国遠征からの帰途、陸奥国から常陸国に入るところで「日高見国から帰りて」という一節がある。これで見ると景行紀では、日高見国は常陸国よりも北にある国土とみなされていることが判る。ちなみに北海道の地名「日高」は明治時代、景行紀の日高見国にちなんでつけられた名である。
一方、『釈日本紀』『万葉集注釈』所引の『常陸国風土記』逸文には、日高見国とは常陸国信夫郡の古名であるとされている。『常陸国風土記』序文には「古の人、常世国といへるは、蓋し疑ふらくは此の国ならむか」という一節があり、常陸国と常世国を結びつける伝承もあったことがうかがえる。しかし、『秀真伝』に関する限りでは、そのヒタカミおよびトコヨは陸奥国を指すとみるのが妥当である。
クニトコタチからヒタカミを受け継いだのは、記紀神話でもおなじみの高木神ことタカミムスビ(高皇産霊尊)であった。タカミムスビはヒタカミから富士山をはじめ世界各地に降臨した天八降りの神の統治を助けた。その時、タカミムスビはトコヨを象徴する木である橘を富士に植えさせたため、富士山は橘香るカグヤマ(香久山)として讃えられた。
タカミムスビの第五世は、天上に座す四九柱の神々をヒタカミの地に勧請して祭った。以来、ヒタカミは地上の高天原となり、国は栄え人々の暮らしはうるおった。そのため、タカミムスビ五世はトヨケと呼ばれることになる(伊勢外宮の祭神・豊受神のこと)。
ある時、トヨケは人民の数が増え過ぎたため、それを統治できるだけの神がいないことを嘆いていた。トヨケの娘イサナミは、その父の嘆きを鎮めるため、自ら世嗣の御子を産みたいと申し出た。トヨケは喜んで、葛城山に斎場を造り、天からの子種が得られるように祈った。これは現在の奈良県葛城山系、金剛山の中腹にある高天彦神社(祭神・高皇産霊尊)の起源説話であろう。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所である。 
男神アマテルの誕生
さて、イサナミは夫のイサナキと共に諸国を廻り、神々を産んだ。二人の結婚の儀が行われたのは常陸の筑波山であった。しかし、その最初の子は女子であったため、岩楠船に乗せて捨てられ、摂津国の住吉神に育てられた。この女神をヒルコ(蛭子)またはワカヒメ(和歌姫)という。この漂流譚は現兵庫県西宮市の西宮神社、通称「エベッさん」の起源説話らしい(祭神・蛭子神)。
イサナミは次の子を流産した後、富士山でイサナキとの婚儀をやり直し、ついに望む男子を産んだ。それは日神たるウヒルキ(大日霊貴)である。この神はアマテル(天照大神)とも呼ばれ、富士山に留まることになった。なお、記紀では周知の如く天照大神は女神であったとされている。この神を男神とするのは『秀真伝』の特徴である。ちなみに記紀の天照大神の女性的要素が、『秀真伝』では、ヒルコの属性とされているらしい。
次にイサナキたちは筑紫でツキヨミ、熊野でソサノヲを産み、この一女三男の神に天下をまかせることにした。
さて、『秀真伝』第四紋によると日神は生まれた時、エナに包まれ、まるで卵のような姿で生まれたという。トヨケはそれを瑞兆として喜び、自ら櫟の木の枝でエナの中から御子を取り出すと、シラヤマヒメ(菊理媛ともいう。加賀一の宮白山神社の祭神)に預け、産湯をつかわせた。神官の持つ笏が櫟に定められたのは、この故事によるという。
これは中国や朝鮮の神話によく見られる卵生伝承(王朝の始祖が卵から生まれたという神話)を連想させる。また、イタリアの歴史学者カルロ=ギンズブルグによると、エナを被ったまま生まれた子供は長じて優れたシャーマンになるという観念はヨーロッパから東アジアまで汎ユーラシア的分布を示しているという。いずれにしろ、この種の異常出産は聖者の誕生にはつきものの話である。
アマテルはヒタカミのヤマテ宮で、トヨケから天の道を学び、長じては富士山に最初の都をおいた。その後、アマテルは伊勢の伊雑宮に遷都し、皇太子オシホミミを得た。
だが、アマテルの十二后の一人、ハヤコが熊野のソサノヲと密通し、彼をそそのかして反乱を起こさせた(第七紋)。反乱が鎮圧された後、反省したソサノヲは今度はハヤコの怨念が凝り固まった八岐大蛇と戦い、さらに反乱軍の残党を自ら討って朝廷に赤心を示した。こうしてソサノヲはヒカワ神の名を賜い、出雲に鎮まったという(第九紋)
このあたり、『秀真伝』の語り口は、素朴な神話というよりも、浄瑠璃の王代物を思わせるものがある。実際、このソサノヲの活躍には、近松の『日本振袖初』から借りたとおぼしきモチーフが見られるのである。
ちなみに出雲大社本殿の背後には須佐之男命を祭る社がある。また武蔵一の宮氷川神社の祭神も須佐之男命である。 
ヤマテ宮はどこか
オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである。 
日高見国の衰退とヤマトタケ東征
だが、オシホミミが皇子のホアカリとニニギを西方に派遣した後、ヒタカミは次第に衰微し、逆に西日本ではニニギの子孫である大和朝廷が勃興してきた。『秀真伝』第三七紋によると、タジマモリは垂仁天皇からトコヨに派遣されたが、彼が帰朝した時、天皇はすでに崩御していた。彼は嘆き悲しみ、朝廷がヒタカミとふたたび友好を結ぶための方策を遺言してこの世を去った。タジマモリの常世国往来は記紀にも語られているが、その所在は明らかにされていない。それに対して『秀真伝』はそれをヒタカミと明記している。
景行天皇の皇子ヤマトタケ(日本武尊)は、タジマモリの遺言に導かれて、東征の旅に出た。ヒタカミの長ミチノクは津軽の長シマヅミチヒコ、東北諸国の国造五人、県主百十四人とともにヤマトタケの征旅を阻もうとした。ミチノクは筑紫から出て大和を奪い、いままたヒタカミをも奪おうとする大和朝廷の侵略性をなじった。
それに対してヤマトタケは、神武天皇の東征はナガスネヒコの反乱を鎮めるためのやむを得ない措置だったと述べ、ミチノクにその用いている暦を聞いた。ミチノクが伊勢の暦だと答えると、ヤマトタケは、日神を祭る伊勢の暦を用いている以上、その伊勢の暦を用いるのは当たり前だと説いた。ミチノクは抗弁することができず、ヤマトタケに服することになった。ヤマトタケはミチノクとシマヅミチヒコを改めて現地の長に任じた。
以上の問答は『秀真伝』第三九紋に記されている。話は飛ぶが、『将門記』によると平将門が挙兵して新皇を称した際、彼はその王城に八省百官を置いたが、ただ暦日博士だけを置くことはなかったという。時間の支配は国家の特権である。逆に言えば時間に支配を及ぼせない国家は将門の坂東国家の如く不徹底なものにならざるを得ない。ヤマトタケはミチノクのその不徹底さをついたというわけである。
ヒタカミとの国交を回復したヤマトタケは、帰朝の途上で死ぬ。皇子の死を悲しんだ景行天皇はその足跡をたどって東国を巡行し、夢にヤマトタケがヒカワ神(ソサノヲ)の転生であることを悟って、『秀真伝』全四十紋は終わる。その結末を見ると『秀真伝』とは本来、ヤマトタケに捧げられた長大な鎮魂歌だったのではないかと思われてくる。 
『秀真伝』の可能性
『秀真伝』は近世以降、一部の僧侶や神道家の間で、神書として珍重されていたものである。それが「古史古伝」研究者の話題に上るようになったのは、昭和四一年、松本善之助が古本屋の片隅でその写本の一部を見つけ、解読と探究に乗り出してからである。
その著者はオオタタネコに仮託されている。記紀によればオオタタネコは三輪氏の祖、三輪山の神の子もしくは子孫であり、崇神天皇の御代に流行った疫病を祓ったという人物である。『秀真伝』はそのオオタタネコが景行天皇に捧げたものだという。
しかし、先述したような時代錯誤の記述や近世以降の語彙なども散見されるため、実際の成立ははるかに新しいものと思われる。おそらく、これを最終的に完成へと導いたのは、安永年間(一七七二〜一七八〇)の修験者・和仁估容聰こと井保勇之進であろう。
この人物は家伝の書と称する『秀真伝』を、近江国高嶋郡産所村の三尾神社(現在は廃社)に奉納した張本人であり、さらに宮中にも献上せんとしたと伝えられている。
彼が住んだ高嶋郡一帯には、『和解三尾大明神本土記』『嘉茂大明神本土記』『太田大明神本土記』『子守大明神古記録』『三尾大明神略縁起』『万木森薬師如来縁起』など、内容や用語に『秀真伝』と共通性のある寺社縁起が数多く残されている。これらは一見、『秀真伝』の傍証となるようだが、実は、井保勇之進は大正十五年の『高島郡誌』で、すでに寺社縁起偽作の常習者として、名指しされているのである。偽書作成に際し、傍証となる品を神社などにあらかじめ納めておくのは、よくある手口の一つにすぎない。
しかし、『秀真伝』の現存テキストが安永年間頃の成立だとしても、それでこの文献のすべてが無価値になってしまうというわけではない。
今から十五年も前、『秀真伝』の再発見者たる松本を囲んで、この文献の研究者たちが座談会を開いたことがあった。その席上で、ヒタカミの所在を旧満州方面に求めようとする鹿島f氏に対して、松本は次のように答えている。
「私は反対です。その一つの根拠は、(陸奥国に)式内社が百もあるという事実です。千年も前に百社もあったということは、東北がかなり前から開けていたことの証拠であります。それから縄文土器が東北にたくさん出ておりまして、西の方よりも早く開けたということが言えると思います。しかも『秀真伝』全体の感触から言って、日高見というのは他の国よりもずっと古い。高皇産霊神から始まっておりますから、東北ということは動かないと思うのであります」(「『秀真伝』の諸問題(続)」『歴史と現代』第一巻二号)
弥生時代以降はいざ知らず、縄文時代までの日本文化が東高西低であったことは、すでに考古学的に証明されている。三内丸山遺跡の発掘はそのダメ押しホームランに他ならない。『秀真伝』はこれを予見していたのである。特異な伝承の書として、あるいは近世の神道神学の書として、『秀真伝』は今後いっそう研究される必要があるだろう。
 
「九鬼文献」が語るウシトラノコンジンと鬼門八神

 

『九鬼文献』歴史篇の謎
『九鬼文献』とは、本丹波国綾部藩主・九鬼旧子爵家に伝わった歴史・神道・武道関係文書の総称である。『二宮尊徳翁夜話』には、綾部の九鬼侯から所蔵の神道書十巻を見せられたという話が出ている。もっとも尊徳はそれに興味をそそられず、「無きも損なきなり」と断じており、そのくわしい内容は不明である。現在、『九鬼文献』として知られているものには昭和十六年、太古史研究家の三浦一郎が時の当主・九鬼隆治からの史料提供を受けて著した『九鬼文書の研究』と、武道家・高松澄水が昭和十年頃、筆写した『天津蹈鞴秘文遍』がある。
さて、『九鬼文書の研究』には、歴史篇として、太元輝道神祖なる始源神に始まる長大な神統譜が掲載されている。その中には、スサノオの姉と、スサノオの娘という二人のアマテラスを挙げ、天皇家は後者から発したとする系譜や、ウガヤフキアエズ王朝七十三第の存在が記されている。さらにその系譜によると、日本の神々の子孫は遠く海外まで広がっており、たとえばノア、モーゼ、イエスはスサノオの、釈迦はツキヨミの血をそれぞれひいているという。この歴史篇は主に「天地言文」なる古文書を典拠にしたというが、実は「天地言文」が本来、九鬼家に伝わっていたものかどうかは疑わしい。
昭和二八年、三浦は『九鬼文書の研究』出版にまつわるトラブルの一端を著書『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(八幡書店より復刻)で明かした。それによると、三浦は「天地言文」の写本を見た時、「遺憾ながら極最近に書換えたものである」ことに気付いた。そこで原本を提出を求めたが、隆治は原本は書写後、焼き捨てたという。その内に九鬼家の書生だった藤原某が持っているはずだということが判明した。そこから先の経緯について三浦は明言しようとしない。ただ、『九鬼文書の研究』で公表した史料は、正しくは「大中臣文書」というべきだったと奥歯に物のはさまったような言い方で真相を暗示している。おそらく「天地言文」は九鬼家に本来伝わっていたものではなく、九鬼家に出入りしていた神道家・藤原俊秀が持ち込んだものなのだろう。九鬼家は藤原氏を称していたから、隆治は同族のよしみで問題あるまいと考え、それを三浦に提供した。 
信濃に逃れた大中臣氏
『九鬼文書の研究』所引の「大中臣系図」には、用明天皇二年、物部守屋に加担した大中臣牟知麿という人物が守屋滅亡と共に信濃国諏訪郷に落ちのびたという記事がある。ところが同書所引の「九鬼家歴代系図」は、大中臣家との係累を主張しながらも、牟知麿なる人物についての記述がどこにもない。そして「天地言文」では、用明天皇の御代、厩戸皇子と蘇我馬子の神祇殿放火により、神代からの「天地言文」原本が失われたとして、さらに次のような記録を残しているのである。「天地言文記録ノ写本ハ守屋ノ一族、大中臣ノ一族、春日ノ一族、越前武内ノ一族各保存ス」
この内、守屋の一族とは、『物部文献』を伝えたという秋田の物部家、武内ノ一族とは『竹内文献』で名高い竹内巨麿の家だろう。春日ノ一族とは、昭和初期の神道家・春日興恩の家と思われる。「大中臣系図」と「天地言文」を併せて読めば、「天地言文」の写本の一つは信州の大中臣氏に伝わったということになる。そして、関係者の証言によると、藤原俊秀はまさに長野県出身だったというのである(吾郷清彦『九鬼神伝全書』)。
以上から考えて、『九鬼文献』の歴史篇といわれるものは、もともと九鬼家に伝わったものではない可能性が高い。では、『九鬼文献』本来の核心はどこに求められるべきなのだろうか。ここで注目されるのが謎の神「宇志採羅根真大神」である。 
「宇志採羅根真大神」
『九鬼文献』の「鬼門祝詞」は宇志採羅根真大神という神の御神徳を讃えるものである。「そもそも宇志採羅根真大神と申し奉るは、すなわち造化三神、天神七代、地神五代、陰陽の神の総称にて、日月星辰、三千世界、山川草木、人類禽獣を始めとし、森羅万象の万物をして宇宙の真理より創造大成せらるる大神の御事なり。
曰く、天之御中主大神。曰く、高御産霊大神。曰く、神御産霊大神。曰く、伊弉諾大神。曰く、伊弉冊大神。曰く、天照大御神。曰く、月夜見大神。曰く、建速素盞嗚大神。を奉斎主神とし、総じて宇志採羅根真大神と崇め給ふ。
ここに全世界、地球をして東西に分ち、その東半球の北東の国、万国の丑寅の国は、わが大日本豊葦原瑞穂国とす。すなわち全世界をして創造大成するの任にあたる所以なり。宇志採羅は、宇宙真理の根元なり。(以下略)」
丑寅(艮)は陰陽道では鬼門といわれ、祟り神の金神が潜む方位とされる。ところが『九鬼文献』はその忌まれる神・艮の金神こそ万物の創造神であるという。この神が「天地言文」の始源神・太元輝道神祖と関連付けられていないのも、その所伝が本来の九鬼家のものであったことを暗示する。森克明は宇志採羅根真大神が、延享二年(一七四五)、綾部本宮山に創建された九鬼魂神社の祭神だったのではないかとする。
ちなみに九鬼魂神社はかつて九鬼霊石といわれる丸石を神宝としており、鞍馬山の奥ノ院に降った隕石と伝えていたが、今、その霊石は兵庫県高砂市の高御位神社の神体となっている。なお、「天地言文」は高御位神社に主祭神の天御中主大神の他、天照座大神・月夜見尊・素盞嗚尊・大国主尊・豊受姫命・埴山姫命・岩裂命・根裂命の「鬼門八神」が祀られたとするが、これは各方位の守護神であり、宇志採羅根真大神とは別である。 
大本との関係
さて、艮の金神を最高神にいただくということで、まず連想されるのは日本新宗教界の宗家ともいうべき大本であろう。大本発祥の地・綾部は九鬼家の旧領であった。大本開祖・出口ナオのお筆先にも「あやべ九鬼大隅守の因縁が判りて来たらどえらいことになる」と告げるものがある。九鬼家の関係者からは、ナオは九鬼家の屋敷にあった本興稲荷の信者であり、そこで得た啓示から大本を開いたというする説も出されているが、その確かな裏付けはない。九鬼家と大本の確実な接触は、ナオの死後、大正八年九月に九鬼隆治が旧領主として綾部に帰った際、教主・出口王仁三郎に招かれたことを以て蒿矢とする。
だが、両者の関係はたちまち決裂した。江戸時代、九鬼家の藩邸で鬼門除けの札を配っていたことは『江戸名所図絵』などにもある。隆治からすれば、九鬼家こそ大本が興る遥か前から鬼門の神を祭っていた家系だという自負があったのだろう。隆治は大正十年、皇道宣揚会という教団を設立し、反大本運動を展開していく。九鬼家側の主張では、世界救世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅春、神道天行居の友清歓真、合気道の植芝盛平など大本を出て、それぞれ一派を開いた人物の多くが隆治の下で学んだとされる。
『九鬼文書の研究』出版も、目的の一つに第二次弾圧で教勢を失った大本に代わろうという目論見があった。だが、当時の体制は『九鬼文献』を大本や『竹内文献』の亜流とみなした。三浦はたちまちジャーナリズムの袋叩きにあい、『九鬼文書の研究』も千部印刷したうちの九百部以上が没収焼却され、長らく幻の本となっていたのである。
陰陽道を信じた古の王朝人にとって、鬼門への畏怖は具体的なものだった。それは東北の地に跋扈する縄文人の末裔・蝦夷のイメージと重なっていたのである。艮の金神とは、王朝人を震撼させた縄文の神だったのだろうか。『九鬼文献』は、この恐ろしい鬼門の神が、実は創造大成の神だったことを教えてくれるのである。 
 
「物部文献」が語るニギハヤヒの東北降臨

 

ニギハヤヒの出羽降臨
『日本書紀』神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というと伝える。ニギハヤヒは大和の土豪・ナガスネヒコ(長髄彦)の妹を娶り、当初はナガスネヒコと共に神武の侵攻に抗した。だが、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことで、互いに天神の子であることを認め、結局、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏した。ニギハヤヒは物部氏の遠祖となったという。そのニギハヤヒは『古事記』では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場する。記紀を見る限り、ニギハヤヒが飛来した所は畿内にあると考えるしかない。『先代旧辞本紀』は、ニギハヤヒを天孫ニニギの兄とし、高千穂への天孫降臨以上の威容をもって河内国哮峰(現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天降ったとする。同地にはニギハヤヒを祀る磐舟神社もある。
ところがこのニギハヤヒ降臨地が畿内ではなく、東北地方にあったと伝える文献がある。それが本論稿で問題とする『物部文献』なのである。
秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)に古代史に関する文献があるという噂はすでに戦前からあり、同社に伝わる神代文字の祝詞が公表されたこともあった(小保内樺之介『天津祝詞の太祝詞の解説』)。しかし、その歴史関係の文書はなかなか公開されることがなく、ついに一九八四年、物部長照名誉宮司の英断で、その内容の一部が示されることになったのである(新藤孝一『秋田「物部文書」伝承』)。
それによると、ニギハヤヒは豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であった。ニギハヤヒはその国を巡ると、逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐松神社のそもそもの由来である。ニギハヤヒは御倉棚の地に十種の神宝を奉じ、一時、居住したが、その跡は現在の協和町船岡字合貝の三倉神社として残されている。 
物部氏の興亡
ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、ニギハヤヒと和睦して畿内に留まった。だが、神武東征が始まるやナガスネヒコを裏切り、神武に帰順するというのは『日本書紀』とほぼ同様の筋書きである。『物部文献』によると、ニギハヤヒは畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武に献上してしまった。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒの子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。
神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、物部瞻咋連はこれを助け、懐妊した皇后のために腹帯を献じた。その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って蝦夷の地に至り、日の宮に詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営した。神威によって韓国を服ろわせたことを記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)という。この神功皇后の蝦夷巡行は、記紀にはなく、『物部文献』独自の伝承として注目される。
こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきた。だが、崇峻天皇の御代、『日本書紀』にも語られる崇仏排仏戦争に敗れ、物部氏はその勢力を一気に失った。『物部文献』は物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加世が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびたことを伝える。『日本書紀』は守屋の近侍で崇仏排仏戦争の勝敗が決した後も果敢なゲリラ戦を続けた鳥取部万の勇猛を記している。鳥取男速はこの鳥取部万の一族か、もしくは鳥取部万をモデルに造作された人物だろう。それはさておき、東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地、仙北郡に隠れ、日の宮の神官としておさまることになる。現在の唐松神社宮司家はこの那加世の子孫である。 
天日宮の不思議
唐松神社の構造は一見して不思議な印象を与える。社殿を支える土台として、玉石で固めた丘が築かれ、さらにその周囲には堀が廻らされているのである。
その形はいわば前方後円墳のミニチュアであり、造営当初、玉石が輝いていた頃には、まさに「天日宮」と呼ばれるにふさわしい偉容だったろうと思わせる。もっとも社殿そのものは近代に入ってから、古伝に基づき建てられたものだという。
ニギハヤヒは天より降りる際、十種の神宝を持ってきたという。『先代旧辞本紀』は、十種の神宝について、死者をも蘇生させる霊力があると伝える。現在、唐松神社にはその内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。
進藤孝一はそれを実見した印象として、次のように述べる。
「十握の剣は鎌倉時代になって作られた物のようである。鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のような固い、黒い色をした石でできている」(『秋田「物部文書」伝承』)
唐松神社には、さまざまな祈祷禁厭の作法や、呪言を記すための文字なども伝わっている。この文字はいわゆる神代文字のアヒル文字草書体で、他にも豊国文字らしきものなど数種あるという。これらの神宝や祈祷禁厭は、この神社の祭祀が古代以来のシャーマニズムの伝統を引き継いだものであることを示している。 
神霊としてのニギハヤヒ
私たちは『物部文献』のニギハヤヒ東北降臨伝承をどのように考えればよいのだろうか。それは孤立した伝承であり、記紀などから裏付けることはできない。
降臨地が鳥海山だというのも、「鳥海」をトミと読み、『古事記』でナガスネヒコの別名とする登美毘古の名や、『先代旧辞本紀』でニギハヤヒが住んだとする大和の鳥見白庭山の地名と関連付けただけとも思われる。しかし、そのように断じてはこの伝承独自の価値が見失われてしまう。
物部氏の「物」はもともと、霊を意味していたらしい。そのなごりは大物主命(三輪山の神)などの神名や、モノノケなどの語彙に見ることができる。「物」に関わる部民の長たる物部氏が、シャーマニズムを奉じるのは当然のことだった。
鳥海山に降臨したニギハヤヒとは、東北に寓居する物部氏の祖霊召喚に応じた、神霊としてのニギハヤヒだったのではないか。そう考えれば、畿内に降臨したはずのニギハヤヒが東北の地にも降臨したとしておかしくはない。
物部那加世の蝦夷亡命は、他の史料で裏付けることができず、この地方への物部氏移住が本当のところ、いつのことだったかは判然としない。しかし、物部氏はそのシャーマニズムを媒介として、地元の古い祭祀をも引き継いでいったのだろう。唐松神社の神宝の内、鏡と玉が石製であることは、その祭祀の起源が弥生時代以降の金属器文化とは異質の文化に属するものであることを暗示している。
また、東北地方の日本海側では古くから大陸との交流の伝統があった。鳥海山の南麓にあたる山形県遊佐町の三崎山A遺跡からは縄文後期末の土器とともに中国製の青銅刀子が出土している。川崎利夫の発表によると、その刀は商(殷)王朝中期の作品だという。大陸からの船が東北地方に向かう時、鳥海山は恰好の目標となっていた。ニギハヤヒ降臨や神功皇后来訪の伝承には、大陸からの船を迎えた記憶が反映しているとも考えられる。
物部家では、代々の当主が文献を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたという。現在でも『物部文献』はその一部が公表されたとはいえ、その大部分は依然、未公開のままになっている。古代以来の祭祀を伝える貴重な史料として、いつの日にか、その全貌が明らかになるよう望む次第である。 
 
「上記」が語る国生み・神生み神話

 

世界の始まりと八十島の誕生
『上記』はいわゆる神代文字の一種(豊国文字という)で、世界の始源からヒタカサヌ(神武天皇)による大和朝廷開基までの神々の系譜と事蹟を記した奇書である。その本文冒頭の一文は『古事記』の本文冒頭とまったく同じものと言ってよい。
「天地の始めの時、高天原に成りませる神の御名はアメノミナカヌシノミコト、次にタカミムスビノミコト、次にカミムスビノミコト」
『古事記』では、天御中主神ら造化三神の後、イザナギ・イザナミの出現までに十二柱の神々が現れたことになっているが、『上記』では二八柱となっており、倍以上にふくれあがっている。なお、その中にウキフヌ、ハコクニという二柱が含まれているが、一説によると、これはノアの洪水のような方舟伝説が日本にもあったなごりではないかという。
さて、イザナギとイザナミは天津神の命を受け、水母なす漂える国を固めることになった。二柱の神が、天の浮橋に立ち、アマノヌホコ(瓊玉で飾られた矛か)で潮を掻き回すと、矛からしたたる塩が固まり、最初の国土オノコロシマができた。二柱の神はそのオノコロシマに降りて結婚し、淡路、伊予(四国)、筑紫(九州)、壱岐、対馬、隠岐、佐渡の島々を産んだ。ここまではほぼ『古事記』の所伝と同様である。
その後、『古事記』ではイザナミは大倭豊秋津島(大和を中心とする畿内?)を産んだとされているが、『上記』ではアマツミソラトヨチガハラ(本州全域)を産んだとあり、本州十五国の国名とその神名が記されている。また、『古事記』では、オオヤシマ(大八島国)は淡路から大倭までの総称だが、『上記』では本州一島の別名となっている。
さて、本州を産んだ後、二柱の神はもろもろの小島を産んだ。『古事記』ではこの小島群を産んだところで国生み神話はいったん終わり、そこから話は神生み神話に移る。ところが『上記』の国生み神話は、ここまででは終わらないのである。 
海外の国土創世
八十島を産み終わり、二柱の神は高天原に登ってその結果を復命した。天津神はその功績を喜び、さらにその八十島を元に、八百千万の国々を造るように命じた。二柱の神は、天の安川の河原でとった天の真砂を種に海外の国土を造ることにした。
二柱の神は自ら産みなした国土を廻り、その高山の上から海の彼方に向けて、真砂を吹き撒いた。こうして生まれた島々の名をエゾ、オロ、イクツムロ、イクツフキ、カル、リキウ、アモ、アカ、ココカルウカルという。これらの内、エゾは北海道を含む北方諸島、リキウが琉球列島であることは容易に察しがつく。また、『上記』にはオルシという北方系の異民族が出てくるからオロは沿海州もしくはロシアのことではないかと思われる。しかし、その他の国土については説話中に現れず、現実の国土との同定は困難である。
むしろ、これらは純粋に神話的な島名としておいた方が妥当かも知れない。たとえば琉球列島は本州から見て西南にあるが、『上記』のリキウは方位上、東南方向にあることになっているのだ(そのため、『上記』のリキウをムー大陸とする説さえある)。
イザナギ・イザナミが日本列島を産むだけではなく、遠く海外の国々まで造り成した−この『上記』の神話は、幕末期の平田国学を思わせる。大国隆正をはじめとする平田派の国学者たちは、日本のみならず海外の諸国も記紀神話の神々によって興されたと主張していたのである。そう思ってみると、『上記』の海外の島々の名は、江戸時代の文献における欧米諸国の国名表記となにやら似た響きを持っているようである。 
星となる神々
国生みを終えた二柱の神はその国土を整える神々と八百万の青人草(人民)を産んだ。神々はやがて天に上り、それぞれ星となって留まったという。
イザナミが火神を産んだ火傷のために死んだこと、イザナギがイザナミの後を追って黄泉国に下ったことは『古事記』と『上記』とで共通している。しかし、『古事記』ではイザナミは黄泉国に留まったのに対して、『上記』では、イザナミを無事連れ戻すことに成功し、蘇生の呪文によってその息を吹きかえさせたという。このイザナギの黄泉下りに限らず、『古事記』で悲劇で終わる説話が『上記』ではほとんどハッピーエンドを迎えている。この楽観的展開は『上記』神話の基調をなすトーンである。
黄泉国から帰った二柱の神は、その穢れを祓うため、大海原で禊することにした。そこで阿波の水門(鳴門海峡)に行ったところ、その潮の流れは速すぎて、とても禊できそうにはなかった。そこで速吸の戸(豊予海峡もしくは明石海峡)に行ったところ、そこは海水が渦まいており、禊には適さなかった。そこで「ツクシヒムカノタチハナノオトノアワキハラ」(諸説あり)に出て、ようやく禊ができた。この禊の場所の選定にまつわる話は『日本書紀』一書ノ十にもあるが、海洋的性格の強い説話といえよう。
二柱の神の禊によって、またもや多くの神々が生まれた。その中でもヒムカタヒメ(アマテラス)、ツクノミノヲ、スサノヲの三柱は最も尊く、優れていた。そこでイザナギとイザナミはヒムカタヒメに高天原を、ツクユミノヲに月の世界を、スサノヲに海の世界を治めるように命じた。使命を終えた二柱の神は天へと帰り、後にイザナギは高天原の日の若宮に、イザナミは出雲のヒワ山(現広島県比婆郡の比婆山)に鎮まった。 
『上記』と海人族伝承
従来の神話学の常識では、日本神話には太陽と月を除く天体説話は乏しいとされていた。天体説話は遊牧民や航海民の間で発達するものであり、湿潤な土地に住む農耕民族たる日本人は、星の物語を生み出す機会に恵まれなかったというわけである。
ところが『上記』では、始源神アメノミナカヌシを始めとして、多くの神々が、星として天上にその座を占めたとされ、その運行までが記されている。金井三男(五島プラネタリウム)の試算によると、この星々の観測場所を大分県九住山山頂とした場合、観測が行われたのは最大幅で西暦紀元後六百〜千四百年、最確値八百〜千年のいずれかの時期と推定できるという(田中勝也『上記研究』八幡書店)。いずれにしろ、『上記』成立に関与した人々の中に、天体の運行に深い関心を持つ者がいたことは間違いない。
『上記』の撰者は鎌倉時代初頭の豊後国守護・大友能直とされているが、その根拠となる序文の信憑性は低く、後世の仮託とみた方がよさそうである。
現存する『上記』写本には、大別して大友本系と宗像本系という二系列がある。その内、大友本系と言われるものは、大分県臼杵郡福良村(現臼杵市福良)の住人・大友淳(明治十年没)の家に伝わっていた写本およびその写しである。また、宗像本とは豊後国大野郡土師村(現大分県大野郡大野町)の住人・宗像良蔵の死後、その家に遺されていたものを天保年間に神道家の幸末葉枝尺が買いとり、筆写して後世に伝えたものである。
臼杵市は古く海部郡に属し、今も良港に恵まれた所である。『豊後国風土記』は「この郡の百姓はみな海辺の白水郎なり。因りて海部の郡といふ」と伝える。また、宗像本を伝えた宗像市は宗像神社宮司家の一族を称していたが、筑前の宗像神社は玄界灘に浮かぶ沖ノ島を沖津宮とし、航海神の三姫神を祀っている。『上記』が、こうした海人族的伝統の根強い地方や家系に伝わっていたのは、果たして偶然だろうか。『上記』の天体説話、スケールの大きな国生み説話、そしてウガヤフキアエズ王朝伝承には、九州を根拠地として大海原を廻った、古の海人族の記憶が息づいているように思われてくるのである。 
 
「大成経」と伊勢神道

 

『先代旧辞本紀』と『大成経』
『先代旧辞本紀』は聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、すでに平安時代からその存在は知られていた。室町時代の神道家・吉田兼倶は『先代旧辞本紀』を神書とし、『日本書紀』『古事記』と共に三部本書に数えている。。だが、その内容では聖徳太子と敵対したはずの物部氏の始祖伝承が重視されており、太子撰というのは信じ難い。おそらく何人かが律令国家確立の過程で没落した諸氏族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広まったものであろう。『先代旧辞本紀』は天御中主尊、国常立尊に先行する始源神・天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊の名を伝えるなど、記紀にない伝承を多く含み、また、太子信仰と結びついたこともあって多くの異本を派生することになった。その中でも、公開時、物議をかもしたのが『先代旧辞本紀』七二巻本(附二巻)こと『大成経』である。 
磯宮の謎
話は垂仁朝、伊勢神宮創建まで遡る。皇女・倭姫命は、土着の神の抵抗にあい、大和で祀ることができない皇祖神・天照大神の御神鏡を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探していた。彼女は伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに磯宮を建て、ようやくそこに皇祖神を鎮めることができた。これが伊勢内宮の起源である。外宮は皇祖神が飢えることのなきよう、雄略朝に、伊勢の地に食物を司る神・豊受大神を勧請したものであった。
伊勢神宮は朝廷の宗廟として、その創建以来、私幣禁止を原則としていた(今でも伊勢神宮に賽銭箱がないのはこのためである)。そのため、国家による保護は神社の死命を決することになる。だが、国家はどうしても内宮の方を重視する傾向がある。
そこで、外宮では鎌倉時代、いわゆる神道五部書を広め、豊受大神は単に食物を生産するだけの神ではなく、天御中主尊、国常立尊と同体で世界万物の始源神であるという宣伝を行うようになった。この外宮の主張に基づく神学こそ、いわゆる伊勢神道である。
『神道五部書』は古人に仮託されてはいるが、実際には鎌倉時代初頃の外宮の神官が古伝に基づき、造作したものであろう。ところがその五部書の一つ、『造伊勢二所太神宮宝基本紀』にやっかいな記述がある。それによると、往古、朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を納める際、内宮・外宮・別宮そして礒宮(磯宮)はそれぞれ別の扱いになっていたという。また、内宮側の史料『皇大神宮儀式帳』にも伊勢内宮は礒宮から現在の位置に移ったとある。これによれば、現在の伊勢内宮と別に、それよりも古い礒宮があったことになるのである。ここから後世、大問題が生じることになる。
源平合戦の頃から戦国時代にかけて、伊勢の地はしばしば戦乱に巻き込まれていた。特に伊勢別宮の一つ、伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)は志摩の九鬼水軍から大規模な略奪を受け、再建もままならなかった(この時、伊雑宮から奪われた文書が『九鬼文献』のタネ本になったとする研究者もある)。伊雑宮はたびたび幕府や朝廷に再建の願いを出したが容れられることはなかった。その上、万治元年(一六五八)、伊勢内宮より、伊雑宮が幕府に提出した文書の中に偽作の神書があるというクレームがついた。
すなわち、それらの神書によると、伊雑宮こそ日神・天照大神を祀る真の礒宮であり、外宮はツキヨミを祀る月神の宮、内宮にいたっては天孫・ニニギを祀る星神の宮に過ぎないというのである。このような主張を内宮が受け入れるはずはない。伊勢神道を奉ずる外宮にしても同様である。幕府はこの問題の処置に頭を痛めた。
寛文二年(一六六二)、幕府は伊雑宮再建のためにようやく重い腰を上げた。しかし、それはあくまで内宮別宮の一つとしての扱いであった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。 
『大成経』出現
延宝四年(一六七六)から七年にかけて、当時、江戸の出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店から、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、さらに太子の没後、推古天皇が四天王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものだという。この『大成経』はたちまち江湖の話題を呼び、学者や神官の間で広く読まれることになった。
ところが伊勢両宮の神官たちは、たちまち『大成経』が秘めている危険性に気付いた。『大成経』の神話は、伊雑宮を日神の社とし、外宮・内宮をそれぞれ月神・星神の宮とする伊雑宮の主張を裏付けるような内容になっていたのである。
伊勢神宮が国家の宗廟であり、幕府もタテマエ上は朝廷の権威に支えられている以上、その秩序を乱すような異説は厳しく取り締まられなければならない。
内外両宮からの度重なる訴えにより、幕府は『大成経』刊行の背後を詮議した。
天和元年(一六八一)、幕府はついに『大成経』を偽書と断じ、禁書とした上で版木まで焼いてしまった。また、戸嶋惣平衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女と僧・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も定まり、『大成経』事件は一応の終結を迎えた。
ただし、永野采女はこの年に世を去っており、実際に刑を受けることは免れた。一方、潮音は当時、中国から伝来したばかりの黄襞禅を学び、時の将軍・綱吉の生母、桂昌院の帰依も厚い高僧であった。そのため、彼は特に罪を減じられ、上州館林の黒滝山不動寺に身柄を移されるに止まっている。彼は自らが偽作者に非ざることを弁じ続けたが、一方では宗派興隆のためにも尽くし、今なお、黄襞宗黒滝派の祖として尊敬を集めている。 
「古史古伝」の元祖
幕府による弾圧の後、多くの学者たちが『大成経』の偽書たることを論じた。徳川光国をはじめとして、吉見幸和、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長、平田篤胤、橘守部・・・ だが、こうして学者たちが繰り返し、偽書たることを強調したというところに、かえって『大成経』事件の反響の大きさをうかがうことができよう。中には山崎垂加のように、『大成経』が真正の古典たることを信じ、自説の例証に引用する学者さえあった。また、各地の神社の由緒書にも、しばしば『大成経』の影響を見ることができる。
「古史古伝」の世界にも『大成経』が与えた影響は大きい。特に『秀真伝』およびその同系の文献である『三笠文』『神勅基兆伝太占書紀』は、『大成経』を事実上の下敷きとして書かれたと思われる。また、「古史古伝」では、しばしばニニギの兄・天火明命とニギハヤヒを混同する記述がある。この混同はすでに『先代旧辞本紀』十巻本から始まっており、必ずしも『大成経』独自の伝承とはいえないが、『大成経』が直接の典拠となった可能性は高い。さらに山田孝雄によると、しばしば神代文字の配列に用いられるヒフミ歌という呪言も、『大成経』を初出とするという(「所謂神代文字の論」)。
公開時、ただちに時の権力から弾圧を受けたということからいっても、後世への影響からいっても、『大成経』こそ、まさに「古史古伝」の元祖と呼ぶにふさわしいだろう。
なお、最近、おりからの予言ブームで、『大成経』の「未然本紀」をいわゆる聖徳太子の未来記と同一視する説が現れている。たしかに「未然本紀」は聖徳太子が自らの没後に起きることを、あらかじめ記し残したという体裁にはなっている。しかし、これは『太平記』で四天王寺に伝えられた未来記とはあくまで別物であり、混同してはならない。 
 
日本の予言書 『野馬台詩』『聖徳太子未来紀』『竹内文献』

 

人王百世にして日本は滅びる
『野馬台詩』とは、古来、日本の命運を語る予言詩として史上、多くの人の心を魅きつけてきたものである。梁の武帝(在位五〇二〜五四九)の尊信を受け、幾多の予言を成したことで有名な禅僧・宝志(宝誌、四一八〜五一四)作と伝えられているが、なぜ、中国の高僧が日本のことをわざわざ予言したのかは定かではなく、後世の仮託とみなした方がよいだろう。さほど長いものではないので、ここにその全文を読み下して掲載したい。
東海の姫氏の国 百世天工に代る       右司輔翼をなし 衡主元功を建つ
初に治法の事を興し 終に祖宗を祭るを成す  本枝天壌に周く 君臣始終を定む
谷填して田孫走り 魚膾羽を生じて翔る    葛後干戈動き 中微にして子孫昌なり
白龍游ぎて水を失い 窘急にして胡城に寄す  黄けい人に代わりて食し 黒鼠牛腸を喰ふ
丹水流れ尽きて後 天命三公に在り      百王の流れ畢く竭き 猿犬英雄を称す
星流れて野外に飛び 鐘鼓国中に喧し     青丘と赤土 茫々として遂に空しく成る
象徴的な表現もあってわかりにくいが、大意をとれば、古代中国の周王室(姫姓)の流れをくむ東海の国(日本)は百世にわたって代々栄える。しかし、戦乱の世に入るや、皇室は絶え、かつての大臣、内実は猿や犬のような輩(申年・戌年生まれの人という解釈もある)が国を奪って相争う。その結果、国中ことごとく焼土となり、あとかたもなく滅びてしまうというのである。
その形式は十二聨二十四句だが、内容は六編の四行詩として分けて読むこともできる。
あのノストラダムスの予言書が四行詩からなっていることが連想される。 
吉備大臣の入唐譚
すでに平安初期の『承平私記』に「梁の時の宝志和尚の讖に云ふ 東海の姫氏国」として『野馬台詩』とおぼしきものの引用がある(「讖」とは予言書のこと)。
『江談抄』第三巻や『吉備大臣物語』などによると、『野馬台詩』は吉備真備が唐から持ちかえったものだという。これらの文献は十二世紀頃のものだから、その由来説話は、遅くとも平安時代末期には成立していたということになる。
さて、それによると、大臣吉備真備が遣唐使として唐の国にいた頃、その学識に恐れをなした唐人は、彼を高樓に登らせて梯子を外し、そこに住む鬼に殺させようとした。
しかし、吉備大臣の前に現れた鬼は、自分もまた遣唐使として入唐した際、高樓に閉じ込められて死んだのだと身の上を語り、同じ日本人のよしみで吉備大臣に唐国のことをいろいろと教えようと申し出た(この鬼の正体は安倍仲麻呂というのが通説だが、小林恵子氏は、これを高向玄理ではないかと推定している)。
吉備大臣は鬼の助けを得て、唐人が出す難問(『文選』の解読、囲碁の名人との勝負)を次々とクリアしたが、最後に出てきた宝志作という不思議な暗号文には手も足もでない。そこで思わず日本の仏神を祈った時、屋根から一匹の蜘蛛が落ちてきて、その文の上を這いまわった。吉備大臣がその糸の跡を目で追うと、それまで見当もつかなかった暗号がすらすらと読めたのである。かくして、吉備大臣は『文選』や囲碁と共に『野馬台詩』を日本に持ち帰ることになった。
吉備真備(六九三〜七七五)は、奈良朝の官僚として有名だが、一方で彼は陰陽・暦道・天文に長じ、陰陽道の宗家・賀茂氏(後の幸徳井家)と安倍氏(後の土御門家)に陰陽道を伝えたともいわれている。予言詩を日本にもたらすには、まさにうってつけの人物だったといえよう。 
戦乱を告げるけい惑星
この吉備大臣入唐譚を収めた『江談抄』は、有職故実の大家・大江匡房(一〇四一〜一一一一)の晩年の談話を、藤原実兼が必録したものである。その冒頭で匡房は、世間が彼自身のことをけい惑星の化身だと噂し始めたということを吹聴している。
日本では儒学といえば、道徳の教えというイメージが強いが、中国では古来、天の意思を読み取り、未来を予測することも儒者の務めと考えられていた。
そのため、儒者には天文や易などの占い、「讖緯」といわれる予言書にも精通することも求められていたのである。また、天の意思は民衆の流行歌や世間の風俗などを通じても顕れるものと信じられていた。匡房が『江家次第』のような緻密な有職故実書を著す一方、『洛陽田楽記』『遊女記』『傀儡子記』『狐媚記』などで当時の風俗を書き残したのも、この天意を問うという儒教的問題意識に基づくものだったのだろう。
けい惑星、すなわち火星は古代ローマでも戦いの神マーズを象徴する星だったが、中国や日本においても戦乱や疫病、飢饉の予兆となる不吉な星であった。そしてまた、その不吉さゆえにこそ、火星は予知をつかさどる星ともなった(深沢徹『中世神話の煉丹術』人文書院)。匡房が自らを火星になぞらえたのも、武家の台頭の最中、迫りくる戦乱への予感に、予言者たらんとする気概を示したものといえようか。『野馬台詩』を日本にもたらしたという吉備大臣に、匡房は自らの先駆をみたのかも知れない。 
日本国の終焉はいつか
さて、『野馬台詩』の百世にこだわれば、第百代天皇の即位後に皇統は絶え、日本国は滅亡することになる。一般には第百代天皇といえば南北朝合一を成し遂げた後小松天皇である。そのため、鎌倉時代末から室町時代にかけての日本には終末への不安が蔓延することになった。たとえば、『応仁記』序では、聖徳太子未来記と共に『野馬台詩』が戦乱の予言書として挙げられ、応仁の乱のありさまは「茫々として遂に空しく成る」という末尾の行そのままだとされている。「百王の流れ畢く竭き」を南朝滅亡のことと見なせば、なるほど『野馬台詩』の予言はすでに成就したことになるだろう。しかし、応仁の乱は長い戦国時代の幕開けを告げるものでしかなかった。
江戸時代末から明治初期にかけて、巷では暗号で当時の政府に対する痛烈な風刺や、百姓一揆に関する極秘通信を記すことが流行した。代表的なものには、嘉永六年(一八五三)、浦賀への黒船来航の模様を語った『野暮代之侍』や、同年に南部藩で起きた一揆を語る『南部一揆野馬台詩』がある。表題からもわかる通り、それらの文書は『野馬台詩』に範をとったものだった。当時の人々は魏志倭人伝の「邪馬台国」よりも、むしろ『野馬台詩』の方でヤマタイの名に親しんでいたのだ。
一九七五年、空前の予言ブームの最中、演劇研究家の故武智鉄二は『邪馬台の詩』(白金書房)を著し、『野馬台詩』について新解釈を出した。すなわち、越前から出て新王朝を建てたという継体天皇(第二六代)から見れば、昭和天皇(第一二四代)は九九世ということになる。したがって、『野馬台詩』が予言した終末の世は、当時の皇太子の即位後、武智自身のついに見ることのなかった平成の御代のことだということになる。
武智によると、その終末は次の過程が進行するという。すなわち、皇太子が即位し(百王の流れ畢く竭き)、それまで天皇制に反対してきた革新陣営の人物が政権を握った直後(猿犬英雄を称す)、UFOが地球を襲い(星流れて野外に飛び)、宇宙的規模の戦乱が生じる(鐘鼓国中に喧し)。人類はほぼ全滅し、日本の地には焼きただれた赤い土のみが残る(青丘と赤土)、そして、ついには日本列島そのものが沈没し、あとには何も残らないという。この武智氏の『野馬台詩』解読には五島勉氏によるノストラダムスの虚無的解釈の影響が強く見られる。
以上、見てきたように中世末期、幕末維新、そして現代と、日本が変革を迫られる時、『野馬台詩』は常に新しい装いを得て、私たちの前に甦るのである。 
ノストラダムスを超える予言者
「聖徳太子未来記」、この幻の予言書を一般に知らしめたのは、かつて『ノストラダムスの大予言』で一大予言ブームを巻き起こした五島勉氏その人であった(『聖徳太子「未来記」の秘予言』青春出版社、一九九一年)。五島氏によると、聖徳太子こそユダヤ・キリスト教・白人文明の思い上がった未来プログラムを打ちくだく古代日本最高の知性であり、ノストラダムスも超える大予言者なのだという。
とはいえ五島氏は別に「聖徳太子未来記」を発見したというわけではない。それは中世思想史や国文学の研究者の間では、すでに周知のものであった。ではなぜ、あの一九七〇年代の予言ブームの最中、それが話題に登らなかったのか。その主な原因は二つある。その一つは学界とジャーナリズムの乖離である。つまり、民間の予言ブームに関わって信用を落とすわけにはいかないという学界側の閉鎖性と、ジャーナリズム側の不勉強のために、聖徳太子未来記にまで関心を寄せる人が出なかったのである。
しかし、それ以上に重要な理由として、「聖徳太子未来記」には実体がないということがあげられる。「聖徳太子未来記」としてまとまった文献などは、どこにも残されていないのである。そこで、その研究を行うには、中世のさまざまな文献から未来記の逸文と称するものを拾っていかなければならない。これはなかなか根気のいる仕事なのだ。
その意味では、五島氏の著書は、「聖徳太子未来記」の知名度を高めたというだけでも評価できるかも知れない。しかし、聖徳太子が本当に五島氏のいうような大予言者だったかということになると、私は首をかしげざるを得ないのである。 
聖徳太子の予知伝承
聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)の予知能力は、すでに正史たる『日本書紀』の推古天皇の条に「聖の智有り・・・兼ねて未然を知ろしめす」として記されたところである。
また、『聖徳太子伝暦』によると、敏達天皇九年(五八〇)、難波に不思議な童子が現れた。当時、六歳だった太子は、その童子がけい惑星の精であり、その歌は予言になっていると解き明かしたという。この説話は太子自身が予言の星・けい惑星と関係があることを暗示するものだ。太子自筆と伝えられる四天王寺の縁起書『荒陵山御手印縁起』にも、聖書の黙示録を思わせるような世界の終末の模様が語られている。
平安時代初期成立の『先代旧事本紀』十巻本や『上宮聖徳太子伝補闕記』には、宇治に行幸した太子が、その近くに将来、聖皇が都を開くだろうと告げたとある。この予言は後の七九四年、平安京造営として実現したということになる。
鎌倉時代初頭成立の『古事談』などによると、天喜二年(一〇五四)九月二十日、法隆寺の僧忠禅が、太子の陵墓から未来記の石碑を掘り出したと伝えている。この記録からうかがえるのは、どうやら未来記は当時、碑文として埋蔵されたものと考えられていたらしいということだ。その内容は、太子滅後の仏法興隆を予告した(と称する)ものだった。平安時代末から鎌倉時代にかけては、聖徳太子の予言として、末法の世(釈迦入滅二千年後)に衰微した仏教が日本でふたたび興隆するという説が広まっていたらしく、親鸞や日蓮もしばしば、太子の予言を信じ、自らの行動の指針としている旨、書き残している。 
「未来記」の流行
鎌倉時代には、武家の台頭と幕府成立という時代背景を受けて、聖徳太子の予言にも戦乱に関する、具体性を帯びた内容のものが次々と現れてきた。
『平家物語』巻八には、平家都落ちのことはすでに「聖徳太子の未来記」に予言されていたという記述がある。また、慈円の『愚管抄』(承久二年=一二二〇成立)には、聖徳太子が著した「世滅松」なる予言書に、幕府による朝廷圧迫が記されていたとある。
藤原定家の『名月記』にも、太子の墓の周囲から「太子御記文」と称される石が次々と出土すると記されている。定家は嘉禄二年(一二二六)に出土したという瑪瑙の碑石の文面を紹介しているが、その内容は、人王八六代の時、東夷が来たりて泥の王が国を取り、次に西戎が国を従える。賢王の治世が三十年続いた後、彌猴(大ザル)や狗が人を食らうというものであった。これは仲恭天皇(第八五代)の御代におきた承久の乱(一二二一)の予言とみなされたという。
鎌倉幕府が倒れるや、太子がすでにそのありさまを予見していたという類の記録が頻出した。たとえば、吉田隆長の『吉口伝』には、藤原家倫が元弘二年(一三三二)頃に注記して吉田家に伝えたという未来記や、南都唐招提寺に伝わったという未来記の逸文があるが、そこには人王九六代、東魚が大兵乱を鎮め、次にその東魚を西鳥が食らって天下太平となるという謎めいた記述がある。当時の人々はこれを、後醍醐天皇(第九六代)の軍勢(西鳥)が鎌倉の北条方(東魚)を滅ぼすという予言として受け取っていたらしい。
ほぼ同様の内容は、『太平記』に楠木正成が四天王寺で見たとある聖徳太子未来記にも記されていたという。『太平記』はさらにその続きとして、西鳥の海内統一後、彌猴の如き者がふたたび天下を奪うとしている(足利尊氏のこと)。
南北朝の兵乱が泥沼化すると未来記にも足利幕府の成立と南朝の最終的勝利を予言したと称するものが出てきた。南朝方の重鎮・北畠親房が興国三年(一三四二)、結城親朝に送った書簡には、「聖徳太子の御記文」にも南朝方の勝利は明らかであるという旨の記述がある。だが、この予言が結局は実現しなかったことは歴史が語る通りである。
戦国時代にも『応仁記』序をはじめとして、聖徳太子未来記を引用する文献は少なからずある。しかし当時の目まぐるしい権力抗争の中では、さしもの未来記も事態の推移を追い掛けるのが精一杯で、親房のようにこれを政治的に利用しようとしても、うまくいかなかったようだ。こうして、いつしか未来記はその影を潜めてしまう。
江戸時代にも『先代旧事本紀大成経』未然本紀のように太子が豊臣秀吉の朝鮮出兵や、徳川幕府の天下統一まで予知していたという本が出されてはいるが、その予言が特に反響を呼ぶということはなかった。むしろ、この時代には恋川春町『楠無益委記』、朋誠銅喜三二『長生見度記』、竹杖為軽『夫従以来記』など黄表紙本の未来記パロディの方がこの二十世紀末の風俗を予見しているようで面白い。 
「未来記」は未来を語らない
さて、このように見ていくと、聖徳太子の予言はほとんどの場合、現実の事件を後から追い掛ける形で世に出ているということがわかる。ノストラダムスの予言書の場合、すでに与えられたテキストについて後世の研究者が現実の事件とツジツマを合わせる形で解釈していくのだが、聖徳太子の場合は、テキストそのものが新たに出現するのだ。それは未来記に実体がないからこそ可能な離れ技である。
五島氏の著書に出てくる未来記本文は『明月記』『太平記』などからの引用であり、その「東魚」をアメリカ、「彌猴」を環境汚染などというふうに現代的に読みかえたにすぎない。鎌倉時代や南北朝時代に関する未来記が現代にもあてはまるとすれば、それはかえって予言の解釈が絶対的ではないということを示しているのではないか。
聖徳太子在世の年代ではなく、各々の未来記逸文が実際に世に出た年代を規準にして考えれば、その予言は遠い未来ではなく、過去、現在、そしてごく近い将来を対象にしていることがわかるだろう(しかも将来に関する予言はしばしば外れる)。聖徳太子未来記の出現状況は予言というものの本質を私たちに教えてくれているのである。 
キリストの遺言書
私がまだ学生だった頃、下宿を一人の人物が訪ねてきたことがある。その男は三十がらみ、妙にトゲトゲしい表情で、鋭い目をしていた。彼は下げてきた鞄から一束の紙を出してこう切り出した。「キリストの遺言書を手に入れた。解読を手伝ってほしい」
もちろん、エレサレムで十字架にかかったイエス=キリストの本物の遺書が今頃、突然出てくるわけはない。それは、いわゆる「古史古伝」の代表として悪名高い『竹内文献』の一つ、「イスキリスクリスマス遺言」を書写したものだったのである。
十和田湖のほとり青森県戸来村(現新郷村)は、いわゆる「キリストの墓」があることで有名な所だが、「イスキリスクリスマス遺言」はその由緒書ともいうべきものである。話の発端は昭和十年八月のことである。太古史研究者で画家の鳥谷幡山が竹内巨麿(一八七五?〜一九六五)なる人物を案内して、十和田湖畔の迷ケ平地方を訪れたのだ。
巨麿は新宗教・天津教の開祖であり、その本部には皇祖皇太神宮の御神宝として太古から伝えられたという宝物や古文書群が伝えられていたという。その古文書群こそ、いわゆる『竹内文献』である。そしてその文書の一つには、日本にエジプトよりも古い世界最古のピラミッドがあると記されていた。鳥谷は迷ケ平の大石神山こそ、その日本のピラミッドの一つに違いないと考え、文献所蔵者たる巨麿の視察を願ったのだ。
さて、巨麿は鳥谷の案内で、鏡石の跡やドルメンと思われる巨石、謎めいた石畳などを観察して山を下りたのだが、その麓で巨麿は突然立ち止まり、目の前の小さな塚を凝視し始めた。やがて巨麿は一人頷き、「やはりここだ、ここだ」と騒ぎ始めたのである。
巨麿は同行した戸来村の村長に、その塚に「統来訪神」、近くの二ツ塚に「十来塚」という目印を立てるよう話し、さらに鳥谷には、その塚について沈黙を保つよう命じた。
やがて、巨麿は茨城県磯原の天津教本部に帰った後、神宝の中から新たに見つかったと称して、漢字カタカナ交じりの奇妙な文書を公開した。それが「イスキリスクリスマス遺言」なのだ。その内容は次の通りである。
ユダヤの王イスキリス(キリスト)は、弟イスキリを身代わりにして十字架刑の難を逃れ、「復活」の後、天国(日本)へと旅立った。
垂仁天皇三三年、キリストは陸奥の八戸に上陸し、迷ケ平に居を定めて、弟イスキリの頭髪と耳を十来墓に葬った。キリスト来日から六六年後、彼は自らの霊をこめた像を造り、当時は越中にあった皇祖皇太神宮に奉納したという。
「イスキリスクリスマス遺言」によると、キリストがユダヤを去り、日本に旅立つ際、残された弟子たちに次の言葉を残した。
「五色人ヨフ今ヨリ先ノ代千九百三十五年ヨリ天下土海トミダレ統一ノ天皇天国ニアル」 また、当時、皇祖皇太神宮の神官だった武雄心親王(『日本書紀』によると武内宿禰の父)がキリストの像を祭る時、景行天皇は次の詔勅を下したという。
「イスキリス万国五色人ヨウ此太神宮ヘ納祭ル汝ガ造リ像オ汝祭思ヒヨフ今ヨリ先ノ代必ズ千九百三十五年ヨリ汝ガ像霊再生出顕ル代ナルゾ汝ガ名統来訪神太郎天空ト云フ」
この文書には、二個所、同じ「千九百三十五年」という年代が現れている。とはいえ、その規準とされているのは一方がキリスト来日の年、一方が彼の像を祭った年なので、そこには約六六年のズレがあるはずなのだが、双方の関係は判然としていない。ただわかるのは、この「遺言」が一種の予言書でもあるということである。
すなわち、キリストに関する何らかの事件から一九三五年後、キリストの霊がふたたび世に現れ、さらに地上が泥の海となるような混乱の果て、日本の天皇の下に世界が統一されるというわけだ。そして、鳥谷らによって「キリストの墓」が発見された昭和十年とは、西暦(キリスト教紀元)ではまさに一九三五年なのである。 
予言書としての『竹内文献』
『竹内文献』といえば、神武天皇以前にさかのぼる長大な皇統譜や世界各地を天空浮船(UFO?)で飛び回る太古天皇の事蹟など、超古代文明に関する史書というイメージが強い。「キリストの墓」をはじめとする聖者来日伝承や「日本のピラミッド」の話などは、いまでもしばしばオカルト雑誌や週刊誌などの誌面を賑わわせるところである。
しかし、『竹内文献』は単に超古代の書であるばかりではなく、予言書としての性質を持つ文献でもある。というよりも、むしろ予言こそが『竹内文献』のテーマであると見ることさえ可能なのだ。そのような予言として代表的なものに、「世界再統一の御神勅」といわれるものがある。これはウガヤフキアエズ王朝の第五九代・天地明玉主照天皇が発したとされるもので、その天皇の御代から六三六五年後の未来、分割された世界は「天国天皇、神人大統領大申政神主」の下に再統一される。それは皇祖皇太神宮の「神主官の左の股に万国地図紋以て生る代」のことだという。神勅はその御代の天皇と皇祖皇太神宮の神主を重んじるように告げ、次のようにしめくくる。
「天皇と神主に必ずソムクナヨ、ソモクト天罰殺すぞ、死ぬるぞ、ツブレルゾ、ナヤムゾ、万苦にアフゾ」(『神代の万国史』皇祖皇太神宮刊、所収)
ありがたい御神勅とは思えないような土俗的かつ脅迫的な文面だが、このような文面は『竹内文献』には決して珍しいものではない。
たとえば、ユダヤの預言者として有名なモーゼ自身が記し、それを雄略天皇の御代に平群真鳥が訳したという「モーゼの遺言」には、次のようにある。
「五色人ヨ、必ズ後代にモオゼノ十誡法宝五枚石宝三千年後ニ発見スル時アル、万国ノ五色人祖神棟梁皇祖皇太神宮ノ神主ニ左腿胯ニ地球型の図紋アル人、五色人ヲ統一スル神主ナリ、必ズソモクト死スルゾ、マケルゾ、ツウレルゾ、必ズソムクナ」(『竹内文献資料集成』八幡書店刊、所収)
これらの文面からは、『竹内文献』成立に関与した人々の抱いていた強迫観念の強さを読み取ることができよう。彼らは迫害を予感し、恐れていたのである。 
世界を股にかけた男
さて、『竹内文献』では、先述したウガヤフキアエズ第五九第天皇やモーゼ以外にも、多くの天皇や聖賢によってくりかえし、股に世界地図紋がある神主が現れる時、世界が統一されるという予言がなされたとしている。あるいは、むしろこの予言を語らせるためにキリストやモーゼなどの聖賢を来日させ、あるいは神武天皇以前の太古天皇の名を記したのではないかとさえ思われてくるのである。
また、『竹内文献』は太古の地球を幾度も「地球全土大変動、泥の海となる」という天変地異が襲ったと伝えている。太古天皇は、その度に天空浮船で地球を逃れ、災厄が去った後に帰ってきて文明を再建したという。そもそも「世界再統一の御神勅」が出されたというのも、災厄の結果、諸国の分立に向かう世界を憂えてのことだったという。
そして、その天変地異を思わせる「天下土海トミダレ」という表現が「イスキリスクリスマス遺言」に見られるということは看過すべきではないだろう。そこには『竹内文献』のいう世界再統一が、何らかの災厄をともなう黙示録的なものである可能性が暗示されているからである。
それでは、股に世界地図紋がある神主はいつ現れるのか。その問いに答えることは、さほど難しくはない。天津教の関係者の証言によると、竹内巨麿の股には、『竹内文献』所載の太古世界地図を思わせるような形のアザがあったというのである。
股に残るアザ、それは巨麿を世の人から聖別する聖痕であった。彼は文字通り、世界を股にかけたつもりになっていたのだろう。巨麿は自らと同時代の天皇、すなわち昭和天皇が世界再統一をなし遂げることを信じていたに違いない。
昭和三年から十年までの天津教神宝拝観者リストを見ると、その中には将官クラスの軍人の名が多数あることに気がつく。その中には、荒木貞夫、真先甚三郎、山本英輔ら二・二六事件の関係者の名も見ることができる(中村和裕「偽史を支持した軍人たち」『歴読臨増』本シリーズ2、所収)。昭和維新を志した青年将校たちにも、『竹内文献』の世界再統一の予言は何らかの影を落としていたのであろうか。
そうなると、昭和十一年二月、巨麿が不敬罪で逮捕された直後に二・二六事件が起こり、その前後の天津教弾圧と平行するかのようにクーデター鎮圧と事後処理が行われたのも偶然とは思われない。予言は必ずしも当たるとは限らない。しかし、これを信じる人々が行動を起こすなら、予言は思わぬ形で歴史に影響を与えうるのである。 
『竹内文献』に殉じた元軍人
軍人の中には退役後、『竹内文献』にのめり込み、それを土台にして自らの予言書を著した人物がいる。元海軍大佐・矢野祐太郎(一八八一〜一九三八)である。
彼は昭和五年、酒井勝軍に伴われて天津教の神宝を拝観して以来、その研究にとりくみ、以前から接触があった大本や肝川龍神の予言とリンクさせて、宇宙の始まりから近未来の神政復古にいたる「大宇宙史」の編纂を志した。
彼は昭和八年、神宝奉賛会を結成し、天津教内でのリーダーシップをとろうとしたが、やがて脱会、自らの教団である神政龍神会を開くことになる。しかし、天津教を離れても、彼が自らの「大宇宙史」の骨子に『竹内文献』をすえることに変わりはなかった。
矢野の主著『神霊聖典』によると、昭和五年六月一日、神界では天の岩戸が開け、「みろくの世」が始まったという。皇祖皇太神宮の御神宝は「竜宮乙姫」の活動により皇室に納められる。しかし、そのころには幽界の建替立直しで霊が現界に流れこんで霊的異常が多発し、また、天に異彩現れ、天変地妖が起こる。さらに、下級神霊の蠢動により、国際社会は混乱し、日本はその渦の中心となって大擾乱に見舞われる。
この混乱は日本対外国の戦争へと発展し、中国・アメリカは崩壊、イギリス・イタリアは没落と国際的な大転換が訪れる。しかし、日本では「裕仁天皇陛下」が「万国棟梁天職天津日嗣天皇」としての自覚に目覚め、また、国民の神霊的覚醒によって天皇の親政が実現し、やがては世界の万民も神霊的に目覚めていくというのである。そして、その過程では、ユダヤ人が神の操縦によって大活躍するともいう。
矢野は天皇にこの予言を伝えるべく、宮中工作を行うが失敗、不敬罪で検挙された後、拘置所内で獄死した。一説には毒殺されたともいう。矢野の予言のルーツの一つが『竹内文献』にあることを思えば、彼は『竹内文献』に殉じたという見方もできよう。 
裏切られた予言者・酒井勝軍
矢野を天津教に導いた酒井勝軍(一八七四〜一九四〇)も、予言的側面から『竹内文献』に関わった人物である。酒井は山形県生まれ、もともとは当時流行の反ユダヤ主義の論客として名を成した人物であった。ところが昭和二年、パレスチナ視察を契機として熱烈な親ユダヤ主義者となる。彼は日本天皇こそ、聖書に予言されたメシアであり、シオニズム=ユダヤと日本の合体によって世界は統一されるという信念を持つにいたった。酒井はその証拠となる品を探し求める内に、昭和四年、ついに天津教の門をたたく。
酒井はモーゼの十誡石の本物は日本に隠されているはずだと信じていた。そこで、酒井の話を聞いた巨麿が数日後、神代文字で十誡が刻まれた石を出してみせるや、すっかり感激してしまった。これがすなわち「モーゼの遺言」にある「モオゼノ十誡法宝五枚石宝三千年後ニ発見スル時」である。また、先述した「日本のピラミッド」もそもそもは酒井のピラミッド日本起源説が『竹内文献』に取り入れられたものらしい。
酒井は皇祖皇太神宮に伝わる神秘金属ヒヒイロカネの原鉱石(餅鉄という鉄鉱石の一種)を探し求めて、岩手県の五葉山に登り、その雲海の中に、迫りくる世界最終戦争の情景を見たという。この直後、酒井はこの世を去る。日本がアメリカとの開戦に踏み切ったのは、その翌年のことである(五葉山探訪の模様は、酒井が主宰した国教宣明団の機関誌『神秘之日本』にくわしい。八幡書店より復刻あり)。
矢野や酒井が予言した全世界的規模の戦乱は太平洋戦争という形で実現した。しかし、皮肉なことに、その戦争で崩壊したのはアメリカではなく、世界再統一の中心となるはずの「大日本帝国」であった。そして、日本に協力するはずのユダヤ人は、戦後、アメリカの庇護下でイスラエルを建国する。彼らの予言は裏返しに成就したといえなくもない。 
ふたたびキリストの遺言書
戦後、岡田光玉が開いた新宗教・真光は現在、複数の分派に別れて活動しているが、その教義には矢野祐太郎の予言を介して『竹内文献』が大きな影響を与えている。現にその分派の一つ、崇教真光の奥宮がある飛騨位山は『竹内文献』で太古の神都が置かれたとされる場所である。とかく「手かざし」ばかりが話題となる真光系教団だが、その目標の一つに『竹内文献』で世界の中心だったとする太古日本の栄光の再現があることは、その教義や活動から明らかだ。
しかし、真光以上に『竹内文献』の予言の影響を受け、さらに、それを終末論として再編したカルト教団がある。それが昨今話題のオウム真理教である。
開教当初のオウムは『竹内文献』と酒井勝軍の予言を奉じ、ヒヒイロカネを瞑想用のアイテムとしていたのだ(麻原彰晃「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」『ムー』一九八五年十一月号所収)。
かつての二・二六事件と天津教弾圧、最近の地下鉄サリン事件等一連のテロ事件とオウム糾弾の関係はまさにパラレルになっている。
ここで話を学生時代の私の下宿に戻そう。その男は、キリストの遺言を手にとり、この文書は歴史上のイエス=キリストに関する記録ではなく、真の救世主(キリスト)が日本に現れるという予言である、と熱っぽく話し続けた。そして、その救世主本人を現に知っているとも・・・以来、彼とは二度と会うことはなかった。今にして思えば、あの男の異様な眼光、あれはカルトに憑かれた者独特の輝きだったのであろうか。 
 
『東日流外三郡誌』1

 

古代東北の真の歴史を伝える古文書か
『東日流外三郡誌』は青森県の和田家という旧家の屋根裏から戦後に発見された古文書である。その存在が広く知られるようになったのは1975年、市浦村(現在は五所川原市に併合)が村史資料編としてその一部を活字化したからである。
『東日流外三郡誌』によると、古代の津軽には先住民である山の民・アソベ族と、東の大陸(北米?)からやってきた騎馬の民・ツボケ族という仏の民族が争っていた。そこに中国から春秋戦国の動乱を逃れた晋の王族と、神武天皇のために大和を追われたナガスネヒコの一族が加わり、アラハバキ族という混成民族が生まれた。アラハバキ族という名称は、彼らがアラハバキという神を祭っていたに由来するが、その神の御神体こそ、一説に宇宙人を模したとも言われる、あの遮光器土偶である。
アラハバキ族は古代には大和朝廷と果敢に戦い、幾度か大和を奪還してアラハバキ族出身の天皇をたてたことさえあった。鎌倉時代に入る頃には、アラハバキ族の直系である安東氏が安東水軍といわれる船団を組織し、十三湊(十三湊)を中心に栄えた。安東水軍は、朝鮮・中国はもちろんロシア、インド、アラビアなどとも交易していた。
十三湊は、戦国時代のキリシタン伝来のはるか以前からすでにキリスト教教会が建っていたほどの国際貿易湊だった。
しかし、南朝年号の興国元年(1340)、十三湊を大津波が襲い、安東水軍は一夜にして壊滅した。かくして津軽の地は衰微し、その歴史は抹殺されていった。
『東日流外三郡誌』は寛政年間(1789〜1800)頃、三春藩主の縁故である秋田孝季という人物と津軽飯詰村の庄屋だった和田長三郎吉次によって編纂された。孝季は日本国内を歩いて史料を探すだけでなく、海外に渡って遠くインド、トルコにまでその足跡を残したようだ。彼らは『東日流外三郡誌』の他にも『東日流六郡誌絵巻』など多くの古文書を編纂しており、それらは「和田家文書」と総称される。現在残っている「和田家文書」のほとんどは孝季らの書いた原本ではなく、明治期頃に和田家の当主が残した写本でいずれも同じ屋根裏から見つかったものという。
「和田家文書」には後から考古学的発見によって裏付けられた記述が数多く、その内容が真実であることは間違いない。たとえば三内丸山遺跡(青森市)で1994年に発見された縄文時代の建物跡について、その建物が残っている時の姿が和田家文書にははっきり記録されていたのである。
「和田家文書」については発見者の和田喜八郎(1999年逝去)が書いた偽書という論者もあるが、あの膨大な古文書はとても一人で偽作できる量ではない。また、偽作論者が「和田家文書」と筆跡が同じだとして持ち出した筆跡見本は喜八郎のものではなく、その娘のものだった。サンプルの確認さえ怠るような筆跡鑑定など信頼できるものではない。
第一、無学な農夫だった喜八郎に古文書偽作などという高度な知的作業ができるわけもない。
2006年11月、喜八郎の遺品の中から、『東日流外三郡誌』の寛政原本が新たに発見された。これにより偽書説は完全に粉砕されたのである。
そもそも『東日流外三郡誌』はれっきとした自治体が資料として出版したものだったわけで、そのことからもこの古文書の真実性がうかがえる。NHKはかつて『東日流外三郡誌』に基づくドキュメンタリ番組を作ったことがある。また、『朝日新聞』は寛政原本発見以前に『東日流外三郡誌』の偽書説が否定されたことを大きく報じている(1997)。 
真相
まず、和田喜八郎の家が地元の旧家だったという事実はない。飯詰村の庄屋の姓は「和田」ではなかった。また、和田喜八郎の家は昭和期に建てられたものでそれ以前の古文書が隠されていたはずはなく、さらに戦後に新建材の天井板を張る以前には天井裏そのものもなかった(2003年に当時の家主と東奥日報記者立会いのもとに行われた調査でもその家に古文書を隠せるようなスペースそのものがなかったことが確認されている)。
「和田家文書」には1930年発見の冥王星が出てきたり、「民活」「闘魂」など江戸時代どころか明治期にもないような用語が頻出したりする。寛政年間頃成立の文献でこんなことはありえないし、明治期の書写(及び加筆)を認めたとしても、説明がつかない。
1991年から93年にかけて国立歴史民俗博物館が行った十三湊遺跡の総合調査では14世紀の大津波の痕跡や、安東水軍の実在を示す証拠は一切見つからなかった。
また、その調査で、貿易港としての十三湊は13世紀半ばに開かれ、その繁栄がピークを迎えたのは14世紀半ばから15世紀初めであることが判明した。つまり十三湊が鎌倉時代以前に開かれて14世紀半ばに滅んだという『東日流外三郡誌』の主張は実情とまったく合っていなかったのである。
「和田家文書」に考古学的発見と一致する記述があるというのは事実だが、その「古文書」が出てきたという時期を見ると、それは常にマスコミがその発見を大きく報じて以降である。喜八郎は自分が見た新聞・雑誌・テレビ番組・書籍などを片っぱしから「和田家文書」の材料として用いていたようである。三内丸山遺跡の建物にいたっては当時の雑誌などに掲載された復元想像図とそっくりで実情を知る人の失笑さえ買った。遮光器土偶がアラハバキ神の御神体にされたのも『東日流外三郡誌』が世に出た70年代当時、超古代史ブーム、UFOブームで土偶宇宙人説が話題になったためと思われる。
秋田孝季と和田長三郎吉次に関する記録は「和田家文書」以外には一切存在しない。三春藩・津軽藩の記録にも飯詰の庄屋文書にも彼らの実在を裏付ける記述はない。また、「和田家文書」に見られる彼らの事績は矛盾だらけで、その生没年さえあやふやである。そもそも日本人の海外渡航が禁じられていた時代に、孝季が中近東まで行って無事帰ってきたという話自体、眉に唾をつけなければならない。彼らは「和田家文書」の成立を説明するための架空の人物と見てよいだろう。
和田喜八郎は「無学」でもなければ「農夫」でもなかった。彼は20代の頃から地元の郷土史家の手伝いをして史料を探していた(実際には自分で「史料」を作って提供していたようだ)。彼は終世、スポンサーの求めに応じて「古文書」を貸し出し、あるいはそれをタネにした埋蔵金詐欺を行うことで現金収集を得ていた。
つまり、喜八郎は物心ついて以来、晩年まで「古文書」作成に携わっていたわけで、それがつもりつもって膨大な量になっただけである。それに「和田家文書」の嵩の大きさは、それが屋根裏に隠されていたという由来譚をかえって否定するものだ。
『東日流外三郡誌』が有名になって以降、喜八郎は古代史に関する著書を出しているし、しばしば講演会の演者に招かれることもあった。その書籍や談話の内容は、喜八郎に「和田家文書」を書けるだけの知識と文才があったことを示している。
「和田家文書」偽作の証拠とされた筆跡サンプルについて、信奉者が喜八郎本人に、それが娘の字である旨の書き込みを入れてもらい、雑誌に掲載した、という事実はある。ところが、その書き込みの筆跡というのが、肝心のサンプルと同じだったのである。信奉者はかえって、そのサンプルが喜八郎本人のものであることを自分たちで証する形になった。
「和田家文書」の筆跡は明らかに喜八郎のものと一致する。さらに新発見の「寛政原本」なるものもその筆跡は喜八郎と同じなのである。むしろ不思議なのは、それを「発見」した人がなぜそれを江戸時代のものと思ってしまったかである。
「和田家文書」は文字通り、根も葉もない偽書だった。その来歴からして虚偽である以上、古代史に関する個所など、特定の部分だけは信頼できるということもありえない。
市浦村が『東日流外三郡誌』を刊行した際にその編纂を行った郷土史家は後にそれが偽書だったことを認めている。NHKのドキュメンタリ―番組を作ったプロデューサーは2006年3月に『東日流外三郡誌』を偽書と気付かずに宣伝した不明を詫びる手記を発表している。朝日新聞青森版の偽書説否定記事については、1998年3月10日付で訂正記事が出されている。『東日流外三郡誌』が残した教訓の一つは公機関の発表や大手マスコミの報道だからといって必ずしも信用できない、ということだろう。 
 
『東日流外三郡誌』2

 

「歴史学のビッグバン」
一九九六年三月の昭和薬科大学退職後、著述に専念するとの名目で約一年、聴衆の前に立つことがなかった古田武彦氏が現在、さかんに講演活動を行っている。教団崩壊の危機に尊師も隠れてはいられなくなった、といえば皮肉がすぎるだろうか。その皮切りとなったのが九七年四月二〇日、東京で一四〇名の聴講者を集めて開かれた「歴史学のビッグバン」である。この講演会において、古田氏は、一九九六年十月に島根県で発見され、話題になった加茂岩倉遺跡と関連して、和田家文書に言及している。
「荒神谷と加茂岩倉は別に時期、別の集団の遺跡だ。私は荒神谷をA型で第一期、加茂岩倉をB型で第二期と区別する。両遺跡は出ている位置が違う。Aは丘陵部の真ん中へんの側壁で、頂上には何もない。Bは頂上に埋めてあった。中身も違う。Aは三百五十八本の銅剣(私が出雲矛と考えるもの)と十六本の筑紫矛、それに小銅鐸。Bは銅鐸ばかりで、武器型祭祀物はない。Bは大型銅鐸の中に中型銅鐸を重ねて入れてある。AはBのような中型銅鐸の中にスポッと入るのに、そうしていない。
第一期は筑紫に征服され、第二期は大和に征服されて埋めた。禁止された物と埋められた物にギャップがあるのは、禁令をオーバーに受け止めたから。筑紫が禁じたのは打ち物(武器型祭祀物)のみで、銅鐸はOKとなって中型、大型へと発展していった。
神武の大和征服以来、壊された銅鐸が近畿で多数出土している。天皇家は反銅鐸勢力だ。大和がほぼ無金属状態になるのは、支配下に銅山がないからで、奪った銅鐸を溶かして銅鏃を作っただけだ。
両方の遺物からX印が出た。これで一般には両遺跡がイコールで結ばれる論調となったが、Xのつけ方が違う。荒神谷の出雲矛のXは木の柄を付けると見えなくなる。実用にさしつかえない。加茂岩倉の銅鐸(半分弱)のXは紐についている。埋める時、外敵が掘り起こして汚らわしい真似をしないように、まじないのためにつけたものだろう。
『東日流六郡誌大要』の中に“荒覇吐神一統誌”があり、第一期と第二期の違いを説明している。これは和田家文書の一つで、加茂岩倉よりずっと前に世に出ている。
野村という人が和田家文書を訴えた裁判があったが、地裁は古文書については裁判所が判断すべきものではないとし、写真を無断で転用した件について和田喜八郎氏に罰金二十万円を言い渡した。訴訟費用は両者折半。高裁は写真の件は和田氏自身が知らなかったと言っても通用するものではないとし、罰金を四十万円に増額したが、古文書については原告側の論点を一つ一つすべて斥け、訴訟費用は和田氏四分の一、野村氏三分の一とした。事実上和田氏の全面勝訴だ」(註1)
なお、文中、荒神谷遺跡より「小銅鐸」が出土したとあるが、これは誤解もしくは誤植であろう。大和の「無金属状態」も疑わしいがそれも置くとしよう。
ここで古田氏が取り上げている「荒覇吐神一統史」の内容は次の通りである。
「出雲神社に祀らる玄武の神、亀甲とイヒカの神は荒覇吐国主三神にして古来より祀らるも、世襲に於て川神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし処なるも、廃社となりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ。
倭領に荒覇吐神にて一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。孝元天皇をして荒覇吐神布せにしも、開化天皇をして是を改めきは、奥州に大根子王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地八百万神として荒覇吐神を廃したりと曰ふ。
寛永二十年八月二日                    大邑土佐守」(註2)
さて、すでにこの文書について斎藤隆一氏は次のように指摘している。
「出雲荒神谷より三五八本の銅剣と六個の銅鐸が出土したのは、昭和五十九年のことである。一方『東日流六郡誌大要』(八幡書店刊)の刊行は平成二年である。出土事実が先なのである」(註3)
「最新のニュースでは、(九六年)十月十九日に、荒神谷から八キロメートル離れている加茂町から三十四小もの銅鐸が出土したことを伝えている。さすがに予想外の出来事なので、当然これまでの『東日流誌』には記されているはずもない。これで、荒神谷にのみこだわった前の文書の作為性が明らかになったのではなかろうか」(註4)
ちなみに「荒覇吐神一統史」でアラハバキを「玄武」や「亀甲」と関連つけるのは斎藤守弘氏の論考「抹殺された神−津軽の至高神アラハバキ」を参照したものであろう(註5)。この論考の初出誌は『歴史読本』昭和六一年八月号「みちのく謎の古代王国」だが、その号に掲載された論文が和田家文書のタネ本に用いられた例がすでに斎藤隆一氏によって指摘されている(註6)。  
「荒覇吐神一統史」は加茂岩倉を語らず
そもそも「荒覇吐神一統史」はもちろん『東日流六郡誌大要』全体、否、公開された和田家文書のいずれを見ても加茂岩倉の地について言及する箇所はない。それが「加茂岩倉よりずっと前に世に出ている」からといって何の意味があるのだろう。
「荒覇吐神一統史」で「討物を神に献じるを禁ぜし」というのは「開化天皇の代」のこととされている。そして「鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋め」させたのもまた開化天皇だという。この文書からそれぞれの事件が「別の時期、別の集団」によって行われたなどと読み取ることはできない。
ましてや前者は筑紫、後者は大和の征服によって起きたなどとは、どこにも書かれていないのである。古田氏の主張は和田家文書にさえその根拠を求めることはできない。
古田氏は荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の異質性を唱えるが、たとえばX印の位置のような細かな差異を強調しなければならないところにかえってその苦渋が現れている。
古田氏は荒神谷の銅剣のX印は柄をつけると見えなくなるが、賀茂岩倉の銅鐸のX印はそうならないという。しかし、銅鐸を下げるには縄状のものを鈕に通すはずだから、銅鐸の鈕のX印も実用の際には隠れていたかも知れないのである。
この場合、重要なのは隣接する遺跡でX印という特徴あるシンボルが共通して現れることではないか。
では、「荒覇吐神一統史」が討物の禁と銅器の埋没を別々に記しているのはなぜか。それは荒神谷遺跡発見の状況を思い起こせば簡単に推定できる。
同遺跡で銅剣が大量出土したのは一九八四年だが、銅鐸六個、銅矛十六本が出たのは翌八五年のことだったのである。『東日流六郡誌大要』執筆時、初めは銅剣埋蔵の理由だけを考えて書いていたのが、銅鐸埋蔵をも説明できるようなストーリーをつけ加えることにしたというだけの話だ。
結局、「荒覇吐神一統史」の二段構成は荒神谷遺跡発掘調査時における銅剣発見と、銅鐸・銅矛発見のタイムラグを反映していただけで、加茂岩倉遺跡とは何の関係もなかったということになる。
また、同じ講演において古田氏は中国古典で東方を意味する語に「日下」があることに言及し、「『東日流外三郡誌』には日本と日下が両方出てくる。日下将軍は筑紫にいた」と述べているが、実際の『東日流外三郡誌』では日下将軍は奥州阿倍氏の称号として用いられており、筑紫にいたとする文書はない。古田氏は明らかに「日下将軍」の語を自らの九州王朝説に引きつけて解釈している。
自らの小説的フィクションが和田家文書に記されていると強弁し、だから和田家文書こそ真実だといいはる、その姿には水に映る自らの影にみとれて、ついには自分自身をも失ってしまったナルシスの神話を想起させるものがある。
もっとも今頃はすでに、加茂岩倉遺跡について記した「新資料」が和田家から出ているかも知れない。なにしろ和田家からは最近も古田氏の要望に応える形で、三内丸山遺跡の木造高層建築を描いた絵巻が出ているのである(註7)。
コーネル大学天文宇宙科学科教授の故カール=セーガンは一九八〇年代、空飛ぶ円盤ファンの間で話題になった、いわゆるMJ−12文書について次のように述べる。
「一九八四年の暮れ、映画プロデューサーであるジェイミー・シャンデラの郵便受けに、一本のフィルムが入っていた。(中略) フィルムを現像してみると、そこに写っているのは何頁にも及ぶ“マル秘”行政命令だということが“判明した”。日付は一九四七年九月二十四日。この日、ハリー・S・トルーマン大統領は十二人の科学者と政府関係者を集め、墜落した円盤と小柄な宇宙人の死体を調査するために委員会を設立したというのだ。(中略) 美術品を買う人は、その絵の来歴に関心をもつ。自分の前の持ち主は誰で、その前は誰で・・・・・・とたどってゆき、オリジナル画家にまでさかのぼるのである。その糸が途中で途切れていれば(たとえば、三百年前の作品なのに六十年前までのことしかわからず、それ以前にどこの家や美術館にあったのかが不明だったりすれば)その絵は贋作の疑いがある。美術品の贋作づくりは儲かる商売なので、コレクターはくれぐれも気をつけなくてはならない。MJ−12文書のいちばん怪しい点も、まさにこの来歴だ。なにしろ、おとぎ話の『靴屋とこびと』のように、証拠の文書が奇蹟のように玄関先に置いてあったというのだから」(註8)
和田家文書についても、古田氏の要望に応じて、新たな文書が「奇蹟のように」現れる傾向がある。その来歴を疑われるのは当然だろう。
しかも、文書の体裁・形式に着目した場合、和田家文書はMJ−12文書よりも・かに出来の悪いシロモノなのである。MJ−12文書の発見当初、公文書の専門家に鑑定を依頼しても特に偽作だという証拠は見つからなかったという(註9)。
和田家文書とMJ−12文書、内容の荒唐無稽さでは五十歩百歩というところだが、さて、どちらが百歩でどちらが五十歩だろうか?  
民事訴訟の勝敗をめぐる詭弁
なお、野村孝彦氏と和田喜八郎氏の間の民事裁判について、古田氏は「和田家文書を訴えた」ものであるとし、また判決について「(裁判所が)原告側の論点を一つ一つすべて斥け、・・・事実上和田氏の全面勝訴だ」としているが、これも事実とは異なる。
まず、争われたのは野村氏の提供した紀州や大和の猪垣の写真が和田氏の著書に津軽山中の「耶馬台城」の写真として無断で使われた件と、野村氏の論文が『東日流外三郡誌』の中で翻案・剽窃された件についてであり、和田家文書の真贋を直接争うものではない(第一、現在の日本では偽書を作ること自体を禁じる法的根拠はないといって良い)。
実際の判決分には「偽書説には、それなりの根拠がある事が窺われる」とあり、随所に「前記(『東日流外三郡誌』)の記述が本件論文(野村論文)にヒントを得たという余地はあるにしても、これを翻案したものであるとまでは直ちに認めることはできない」という表現がある。
つまり、裁判所も『東日流外三郡誌』に野村氏の論文が参考にされていること(つまり事実上、和田氏が作者であること)は認めるが、そのことをもって著作権侵害とまでは言いにくいとしたのである。しかし、明確に著作権侵害が認められる写真使用について、高裁は一審の罰金二十万をさらに倍増している(註10)。
『季刊邪馬台国』六一号が報じたように「四十万円は、この種の著作権侵害事件としては、異例の高額。裁判においても、反省なく虚偽をのべつづけるため、賠償金額が倍増した。和田喜八郎氏が、歴史の贋造を行なう人であることは、ふたたび確認された」(註11)
というのが常識的理解というものだろう。
その後、野村氏は最高裁への上告を試み、差し戻されているが、事実関係の認定はそれまでに終了しており、その中で裁判所が『東日流外三郡誌』の偽作性を認めているわけだから、別に最高裁が偽書説を覆したというわけではない。最高裁判断の問題点については場を改めて論じることになるだろう。
「古文書」と称するものの真贋が論点の一つとなった裁判として有名なものに昭和十一〜十九年の天津教事件(不敬罪容疑)がある。この裁判では、天津教の教典であるいわゆる『竹内文献』の真贋が問題とされたが、結局、証拠不十分により、無罪との判決を得た。このことを以て、裁判所も偽書だと証明できなかった以上、『竹内文献』は真正の古文書だという論をなす者もいる(註12)。
しかし、この件の実際の判決は、『竹内文献』の来歴は疑わしいが、それを以て、天津教が不敬をはたらいたとまでは言い切れないとするものであった。『竹内文献』の偽作性は裁判の開始直後、狩野亨吉が発表した名論文「天津教古文書の批判」によって、すでに完膚なきまでに暴かれている。
「和田氏の全面勝訴」を主張し、それを以て『東日流外三郡誌』真作説の証拠とする古田氏の論法は、天津教事件の無罪判決を振り回す『竹内文献』信奉者の論法ともはや同レベルのものと言わざるをえない。
ちなみにこの種のペテンがらみの民事訴訟の問題点として、真実を明らかにしようとする側の訴訟費用の負担が大きくなることがあげられる。
野村氏−和田氏間の裁判とは原告、被告の立場が逆だが、幾多のエセ超能力者のトリックを暴いてきたジョン・ランディ氏は、かの有名なユリ・ゲラー氏から名誉棄損で東京地裁に訴えられ、多大の出費を強いられたと聞く(註13) 。
「超能力者」の実入りはその批判者よりもよい。ゲラー氏はすでに億万長者の一人に数えられる人物なのである。収入との比較でいえば、ランディ氏が強いられる負担はゲラー氏のそれよりもはるかに大きいといえる。少なくとも日本では、現行の裁判制度はペテンを暴こうとする者よりもペテン師の方に恵み多きものとなっているらしい。
今後、類似の問題に立ち向かうであろう勇気ある人々を守るためにも制度改善の余地があるといえよう。  
寛政原本は盗まれた?
さて「歴史学のビッグバン」後の懇親会でも、古田氏を囲んで、和田家文書に関する質疑応答の一幕があったという。
Q「和田喜八郎氏に寛政原本を古田氏に見せろと言いに行ったら、見せてないことはない、五所川原市史編纂の時に研究している連中が四散させたんだと言っていた。数日前に荒覇吐神社から何トンもトラックで盗まれたとも」
A「寛政原本は出ていない。和田氏が原本と言うのは活字本に対する言い方で、私が明治写本と読んでいるものだ」
ありもしない寛政原本を出すよう求められ、懸命に言を左右してごまかそうとする和田氏の姿が目に浮かぶようだ。
しかし、この問い、「原本」というのは明治写本のことだなどという言葉のすりかえでお茶を濁せる性格のものではない。
ここで本当に問われているのは、和田氏がなぜ、必ず出すと約束した寛政原本を今まで出さずにいるのか、ということだからである。
古田氏はかつて次のように述べた。
「より重要なのは私が取り組んできたいわゆる寛政年間の原本を出すという作業なんです。私が思いますのは、(九三年)十月以降なら大丈夫だと思います。寛政のものを出せば二つの論難もストップするんです。つまり和田喜八郎さんの創作、和田末吉氏の創作だという論難もストップするんです。それが、十月現在になお出てこないということになったら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらっていいんです」(註14)
また、その後の論文でも繰り返し次のように述べている。
「これ(寛政原本)なしには、わたしの学問的要望は全く満たされぬ。学問の基礎には、ならないのである」
「和田家文書に対する、真の学問的研究は、“寛政原本”の出現を待たずしては、決して出発できない。これが偽らぬ現実だ」
「わたし自身は、和田家文書は、これら(『群書類従』『古事記』『日本書紀』)に比肩すべき史料価値を持つ、あるいは、これらに代わりえぬ史料価値をもつ、と“予想”している。“学問的仮説”を抱いているのではあるけれど、すべては“寛政原本の出現”という、そのときまでは、あえて慎重に、断言をさしひかえさせていただきたいと思う」
「今必要なこと、それは、次の一事であろう。いわく“是非をいそがず”と。これが学問の王道である。そして“寛政原本出現の日”、そのきたる日を、心を輝かして待ちたい」(註15)
この前後、寛政原本をめぐって古田氏が演じたドタバタ喜劇については、『季刊邪馬台国』五五号のスクープなどに譲るとして、重要なのは古田氏が「出てこないということになったら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらっていい」とまで言い切った寛政原本が四年後の今も出てこないということ、そして、古田氏自身の言を借りれば「寛政原本出現」という「学問の基礎」を欠いたまま、和田家史料に三内丸山遺跡や加茂岩倉遺跡が出てくるなどという言説だけが垂れ流されているということである。
これのどこが「是非をいそがず」という態度なのだろうか。
古田氏が自己の言説に責任を持とうとするなら「寛政原本は出ていない」などとうそぶいていられるはずはないのである。
なお、九六年、和田氏から、石塔山荒覇吐神社の宝物が盗まれたとして盗難届が提出されたという事実はある(註16) 。
しかし、被害者のはずの和田氏の証言が混乱しているため、警察でも扱いかねているのが現状という。  
「情報通」の社交辞令
やはり懇親会での質疑応答より。
Q「『真実の東北王朝』が出る前、民俗学、神道、仏教関係の研究者がかなり和田家文書に興味を持って取り組んでいたが、以後は安本美典氏の研究者への要請などで、誰も手をつけなくなったが」
A「当時、松田弘洲氏が郷土史家の豊島勝蔵氏による偽作との説を出していた。豊島氏が反論の小冊子を作って書店店頭に配付し、それで収まった。その時、安本氏が松田説を転載し始めて、古田攻撃に使ってきた。
『東日流外三郡誌』は怪しいところもあるが、大変な内容を含んでいるというのが一般的な認識だった。それを好事家が扱っているうちはいいが、大学教授、それも古田が取り上げたことで学界は困った。邪馬壹国、九州王朝の古田説に危機感があったことも事実。それで二手に分かれた。一つは古田の名は隠すけれども、事実上古田説を受け入れる。二つは更なる中傷で、これは末期症状だ。
ある時、学界きっての情報通である学者に“古田説が無視される理由は学閥が一つ、学問の内容が一つだが、二〜三十年後には認められるだろう”と言われた。慎重居士で知られた人の発言なので驚いた」
松田弘洲氏の豊島勝蔵偽作説(註17)に対し、豊島氏が私家本で反論したのは事実だが、その内容は『東日流外三郡誌』偽作への自らの関与を否定するものであり、偽作説そのものの否定ではなかった。
豊島氏はその私家本の中で「(『東日流外三郡誌』の)“十三津浪図”の神社仏閣等の記号について近代に定められた記号で江戸時代には使用されないとのご指摘に敬意を表する」と述べており、暗に近代以降の成立であることを認めている(註18) 。
松田氏の説は和田喜八郎氏の知性を不当に低く評価するところから出発しており、筆跡鑑定に基づく研究の進んだ今では成り立つ余地はない。
松田氏自身も、後にはいわゆる和田家文書について「和田喜八郎文書」と呼ぶことを提唱し、豊島氏に対しては市浦村版『東日流外三郡誌』編集・出版の責任を問うにとどめている(註19)。
大学教官・教員で『東日流外三郡誌』に関心を示した人物は古田氏が初めてというわけではない。古田氏が『真実の東北王朝』を著した一九九〇年より前、日本史学、国文学の両分野において、複数の大学教官・教員が論文や著書、エッセイの中で『東日流外三郡誌』について言及している。つまり、その時期、古田氏が『東日流外三郡誌』を取り上げたからといって、いきなり学界が困惑するような状況ではなかったのである。ここにも事実関係の捩じ曲げがある。
では、古田氏以外の大学教官・教員が『東日流外三郡誌』から手をひくことになったのはなぜか。少なくともこの質問者が邪推するように、「安本美典氏の研究者への要請」でないことは確かだ。第一、ポリシーを持った研究者が他人の要請でそう簡単に研究テーマを投げ捨てるはずはない。
秋田大学学長の新野直吉は述べる。
「(八三年発表の論文で『東日流外三郡誌』について)私が“改めて論ずべきこともあるであろう”と予告的言辞を用いていたにもかかわらず、それから十年たった今まで何も書きもせず、論じもしなかったのはなぜであろうか。すなわち“私には何も言うことのない対象である”ということを、時とともに明確に知ったからである」(註20)
私はある学会で、かつて和田家文書を自ら調査したことのある大学教授(国文学専攻)に『東日流外三郡誌』についての意見を求めたことがある。その方は吐き捨てるように言われた。「あれはカタリだ」
念のため、語り物の意味かと問い直すと「いや、詐欺、騙りの方のカタリだ」と断言されたものである。古田氏以外の研究者が和田家文書から手を引いていったのは、その本質に気づいたからに外ならない。こうした場合、いちいち偽作だと騒ぐよりも、黙殺して資料に用いないことで暗に立場を表明するのが現代日本の学界の慣習なのだ(註21) 。
それにしても「更なる中傷」が「末期症状」だというのは言いえて妙である。実際、古田氏が実質主宰した雑誌『新・古代学』(新泉社)の内容は、偽作説論者への罵倒・誹謗・中傷のオンパレードであった。後援者の中にもその内容にあきれる人が出て、雑誌そのものが二号で終わってしまったほどである。
社交辞令としか思えない「事情通」の言葉を得々として語る古田氏の精神の荒廃ぶりには、もはや憐れむしかない。  
さいごに
以上、「歴史学のビッグバン」での古田氏の和田家文書問題がらみでの主張はくわしい事情を知らない相手のみに通用する内容であり、その場だけしのげれば良しとする態のものであった。
そして、同講演で古田氏が語った和田家文書関係以外の「新説」については、いずれも思いつきを語る程度のものに過ぎず、学問的検討に耐えられるとはとても思えない内容ばかりである。
たとえば、その講演において古田氏は、最近、鹿児島県で発見された縄文草創期〜早期の遺跡群を『漢書』地理志の記述と結びつけて説明しようとしている。
しかし、『漢書』は後漢の班固撰、前漢代(前二〇二〜後八年)を主な対象とする中国正史であり、縄文草創期は今から約一万三千年前までに遡りうるから、両者の間には一万年以上もの年代差があることになるのである。
一九九七年九月十三・十四日、神奈川県の藤沢市教育委員会主催で二百人余の聴講者を集め、行われた講演会において、古田氏は、日本近海の海亀は南米まで回遊するから、浦島太郎伝説の竜宮城はエクアドルにあった、とか、千葉県には「よもぎ」(四方木などと表記)という地名が多いから、古代中国の神話にいう蓬莱山とは千葉県のことだ、などと粗雑な論を立てている。
しかし、このような内容でも、講演会は「アンケートの結果によると、たいへん好評で企画者も面目を施した」のだそうだ(註22)。
宇宙人ヤオイさんことTVディレクターの矢追純一氏も教育委員会後援での講演会が多く、「全国教育委員会御用達UFOジャーナリスト」と皮肉られたこともある(註23)。
教育委員会主催の講演会だからといって、内容まで教育委員会が保証しているとは考えない方がよい。
古田氏はこれからも支援組織に守られつつ、迷妄の繭の中でいつまでも甘い夢を見続けようとするのであろう(註24)。
そうした支援組織の方々にこそぜひ本稿を読んでいただきたい。そして、古田氏の支援者の立場から、本稿へのご意見、ご反論などいただければ誠にありがたい次第である。  

1 田島芳郎氏のレポート「設立十五周年記念春季講演会・歴史学のビッグバン」『tokyo古田会news』第五五号所収、古田武彦と古代史を研究する会発行。
2 東日流中山史跡保存会編『東日流六郡誌大要』所収、八幡書店、一九九〇年。
3 斎藤隆一「『東日流誌』についての総合的批判」『季刊邪馬台国』五二号所収、梓書院。また、同号所収の藤村明雄氏の論文「『和田家資料』の考古学的考察」でも「『和田家資料』の記述の初出は考古学的な発見発掘や伝承よりも後であった」例の一つとして荒神谷遺跡が挙げられている。
4 斎藤隆一「筆跡論争」『季刊邪馬台国』六一号所収。
5 斎藤守弘著『神々の発見−超歴史学ノート』再録、講談社、一九九七年。
6 斎藤隆一「『東日流誌』についての総合的批判 そのII」『季刊邪馬台国』五三号所収。同「みちのくを揺るがす『東日流外三郡誌』騒動」『歴史を変えた偽書』ジャパンミックス刊、一九九六年、所収。
7 斎藤隆一「『東日流外三郡誌』には縄文の風景も描かれていた!?」『別冊歴史読本』七六「よみがえる縄文の秘密」所収、新人物往来社。藤村明雄「偽書と宗教と三内丸山遺跡」『季刊邪馬台国』六一号所収。
8 青木薫訳『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、一九九七年、原書一九九六年。
9 志水一夫『UFOの嘘』データハウス、一九九〇年。
10 斎藤隆一「『東日流外三郡誌』裁判始末記」『季刊/古代史の海』第七号所収、季刊「古代史の海」の会発行。
11 コラム「和田喜八郎氏に四〇万円の支払い」『季刊邪馬台国』六一号所収。
12 たとえば竹田日恵『〔竹内文書〕が明かす超古代日本の秘密』日本文芸社、一九九八年、など。
13 久保田裕「東京地裁『超能力』裁判の顛末」『と学会連絡誌』第二号、と学会発行。
14 「安本美典VS古田武彦両教授 激突8時間」『サンデー毎日』一九九三年七月一一日号所収、毎日新聞社。
15 古田武彦「『東日流外三郡誌』の信憑性を探る」『歴史Eye』平成六年一月号所収、日本文芸社。
16 「『東日流外三郡誌』を追う」『ゼンボウ』平成八年十二月号所収、全貌社。
17 松田弘洲著『古田史学の大崩壊』、あすなろ舎発行、一九九一年。
18 豊島勝蔵著『松田弘洲著「古田史学の大崩壊」における市浦村、豊島勝蔵偽作・盗作説に強く反論し、謝罪を要求する』、私家版、一九九一年。
19 松田弘洲「やはり『古田史学』は崩壊する」『季刊邪馬台国』五五号所収。
20 新野直吉「静かに念うこと」『季刊邪馬台国』五二号所収。
21 小口雅史「『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか」『季刊邪馬台国』五二号所収。
22 藤沢徹氏のレポート「古田先生藤沢市で講演」『tokyo古田会news』第五七号所収。
23 志水一夫『UFOの嘘』前掲。
24 古田武彦氏の支援組織としては「古田武彦と古代史を研究する会」の他に「古田史学の会」「市民古代史の会」「多元的古代研究会・関東」が活動中、内部で『東日流外三郡誌』問題関係の虚偽情報を流通し続けている。また、組織外部に向けての発信は主にインターネットのHP「新古代学の部屋」で行われている。1、原田実『幻想の津軽王国』(批評社)/2、原田実企画構成『歴史を変えた偽書』(ジャパンミックス)/3、『季刊邪馬台国』第52〜55、57、61号(梓書院)/4、『ゼンボウ』平成8年8〜12月号、平成9年3、9、12月号(全貌社)/5、『市民の古代』第16集/6、別冊歴史読本『古史古伝の謎』『よみがえる縄文の秘密』/7、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』/8、安本美典『虚妄の東北王朝』  
 
第四代新羅王は日本人か

 

「三国史記」 
朝鮮最古の史書「三国史記」(1145年成立)の新羅本紀には、第四代の王について、つぎのように書かれています。「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」
「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」
「脱解尼師今が即位した(吐解ともいう)。王はこの時(A・D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思Y訳)」
(注1 このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話があります)
(注2 脱解尼師今は(トヘニサコム)で、尼師今(ニサコム)は王様といった意味だそうです。箱(船)から出てきたので脱解という名がついたという話も書かれています。多婆那国は(タバナ国)と読めます)
《籠神社》に残る伝説 
天橋立を参道にしている丹後の《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているそうです。
地理について 
「三国史記」には「倭国の東北千里」とあります。倭国とは日本のことですが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようです。それは、「三国志」の東夷伝を読めばわかります。だとしますと、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになります。
北九州から東北へ進みますと、(日本海の孤島を別にしますと)人間の住んでいる場所で、王様のいそうな場所といいますと、日本列島の日本海側だけです。で、千里とはどのくらいかといいますと、仮に昔のシナの里を使っていたとしますと、魏の時代の里は、「一里=435m」なので、「千里=435Km」となります。これを地図上で計りますと、鳥取から丹後のあたりになります。もちろん、単に遠方という意味で千里といった可能性もありますが、概略の距離を示しているとすれば、こうなるのです。
《丹後国》と《丹波国》 
丹後半島付け根の《籠神社》の伝説が、《多婆那国》=《丹後国》を暗示していて興味深いのですが、もともと丹後地方は、海洋族として知られた海部一族の勢力圏であり、大和朝廷も(天照大神)(伊勢神宮)の大和以外での最初の奉斎地に選んだほど重視していた所です。ですから、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が、新羅に渡った可能性は大きいのですが、それはもちろん可能性の問題です。
さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示しますが、その前に丹後と丹波の関係を記します。現在の丹後は、かつての《丹後国》ですが、さらに昔は《丹波国》の一部でした。西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれておりました。つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》だったのです。
《丹波国》の語源 
現丹後の《丹波国》は、《伊勢神宮》の外宮の神(豊受大神)で知られますように、田畑に恵まれて食べ物の生産に適した地方でした。で、《丹波》の語源ですが、もともとは田畑の豊富な場所という意味の《田庭》だったらしいと言われています。国語辞書に書かれておりますが、昔の「庭」の発音は(には)ですが、それが省略されて「場(ば)」という言葉が出来ました。日本語における「にわ」や「ば」は、仕事をする場所や家の近くの場所を意味しますが、漢字の意味は祭祀の場所です。日本においても、神聖な場所、汚してはいけない場所を意味していたようです。だから、こういう漢字を当てはめたのでしょう。
ところで、「には」から「ば」が出来てから、「庭」という漢字は「ば」とも読むようになりました。知人に「大庭」さんという人がいますが、これは「おおば」と読みます。ですから、田の庭(田庭)の意味の「たには」が省略されて「たば」になり、それが「たんば」と読まれて《丹波》という漢字で書かれるようになった可能性が高いのです。つまり、現《丹後国》の弥生時代の呼び名は、《田庭(たば)国》であった可能性がかなりあるのです。
《多婆那国》と《丹後国》 
以上から、現在の丹後地方は、もと《丹波国》であり、それはさらに前には《田庭国》と呼ばれていた可能性が高いわけです。さて、日本語では、多くの場合、《出雲国》は「いずもの国」、《尾張国》は「おわりの国」・・・というように、国の前に「の」をつけて発音するのが普通です。ですから発音をきちんと書けば、《田庭国》は、「たにはの国」から庭(には)→場(ば)の変形がなされて「たばの国」(田畑のある場所!)と呼ばれるようになり、さらにそれが「たんばの国」になって《丹波国》と書かれるようになったと推理できます。
したがいまして、現在の《丹後地方》は、弥生時代には「たばの国」と呼ばれていた可能性が高く、それをローマ字で書きますと、「TABANO国」となります。ところで「三国史記」の《多婆那国》は、音で読んで「タバナ国」、ローマ字にしますと、「TABANA国」です。
つまり、ほとんど同じ発音なのです!ですから、古代の新羅の人たちが、日本人の現丹後地方の呼び方をそのまま音写して、《多婆那国》と記した可能性はきわめて高いと思われます。
(これに反発する韓国人は多いでしょうが、高天原は韓国に有ったとか、奈良文化は朝鮮人が創ったとかいう牽強付会話よりは、ずっとラショナルだと思います)
古代の朝鮮の文献 
日本の場合には、「古事記」「日本書紀」「風土記」のようなきわめて古くかつ豊穣な文献が残されていますが、朝鮮半島では「三国史記」といっても12世紀半ばの作です。また、日本の場合は「万葉集」で代表されるような、飛鳥時代やさらにその前の日本語(話し言葉)を推理できる(漢文/シナ語ではなく万葉仮名の)文献が残されていますが、朝鮮には残されていません。
「三国史記」も漢文です。
したがって古代の朝鮮語がどのようなものであったかは、日本にくらべて遙かに曖昧であり、古代の日本と朝鮮を言語面で比較するのは困難です。そういうわけで、渡部昇一先生のように、別の観点から百済の要人たちは日本語を話していたのではないか――と推理するほかはありません。 
 
陳寿の謎

 

はじめに
日本古代史で最大の謎といえば、やはり邪馬壹國の謎、卑弥呼の謎だと思いますが、今だそれらの謎は解明されていません。 しかし、少なくとも、当時の邪馬壹國の位置が決まらない限り、「正しい古代の日本の姿」など見えてこないはずです。邪馬壹國が北九州にあったのか、畿内にあったのかという問題は、日本古代史の原点に関わる大問題のはずなのに、「もうこれ以上、魏志倭人伝を読んでも解決はない!」「後は、‘卑弥呼の墓’か‘親魏倭王の金印’でも見つかるのを待つしかない!」というような意見も出つつあります。 
春秋の筆法
私は、中国の歴史書、特に『魏志・倭人伝』は多くの「筆法」が使用され書かれているという立場をとっています。換言すれば、「筆法」を読みきれなければ『魏志・倭人伝』は読めないという立場です。
従って、今回のレポートではそういう立場に立って、筆法とはなにか、どこに筆法が使われているのか、なぜそこに筆法が使われたのか、その筆法はどのように読み解けばいいのか等について私なりの解説をしてみようと思いますが、紙面の都合上その一部にしか触れることが出来ないと思います。
結果『魏志・倭人伝』には筆法が使用されているという事実だけでもご理解いただけたらと思います。
中国の歴史書は『春秋を継ぐ』ことだとされています。『春秋を継ぐ』とは、「孔子の考えを継ぐ」「孔子の表現方法を継ぐ」ということです。
その中で最重要キーワードは「正義」でしょう。しかし、時の皇帝が必ずしも「正義」の人とは言えません。むしろその逆の場合の方が多かったのではないでしょうか。
しかし、中国という国および中国の皇帝は常に「世界の中心」であり(中華思想)、「世界唯一の皇帝、天帝」でなければなりませんでした。たとえそれが「建前」であったとしても。
陳寿たち当時の歴史家は、このような状況下で歴史書を編纂しなければなりません。
「建前」を書くのは簡単です。
しかし、それだけでは歴史書として成立しません。歴史上起こった総てを書くのが歴史書ですから、その国(中国)にとって都合の悪いことや、皇帝の名誉を傷つけるようなことさえも、それが事実であれば書かねばなりません。
そこで考え出されたのが「筆法」という手法なのです。
「春秋の筆法」という言葉をご存知でしょうか?
『春秋』は、「孔子」(前552〜479年)が著わした「魯国」の歴史書ですが、「孔子」が『春秋』を書くにあたって、ストレートには書きにくいことを書く時や、文を簡素にリズム良くまとめる為に、孔子独特のテクニックを使って文章を書いたと言われています。その文章テクニックを「春秋の筆法」とか「孔子の筆法」と言います。
歴代の中国の歴史家が学ぶべきことは、これら「孔子の儒学」であり、「孔子の筆法」なのです。
もちろん、この「春秋(孔子)の筆法」を、『三国志』の陳寿(ちんじゅ)も、『後漢書』の范曄(はんよう)も、『晋書』の房玄齢(ぼうげんれい)たちも学び、またそれを彼等なりにアレンジして「陳寿の筆法」、「范曄の筆法」、「房玄齢の筆法」としてそれぞれ『三国志』『後漢書』『晋書』が書かれたのです。
それでは、本文に入る前に、本レポートの主人公である陳寿について簡単に触れておきたいと思います。 
陳寿(233〜297年)
陳寿のことについては、『晋書』「陳寿伝」や『華陽国志』「陳寿伝」等に書かれています。
陳寿は、字(あざな)を「承祚」(しょうそ)といい、若い頃から学問を好み、蜀(しょく)の官吏(観閣令史)になりました。
当時の蜀は、宦官(かんがん)の権力が絶大でしたが、陳寿は彼等の言いなりにはならなかった為、しばしば懲罰を受けたり降格させられたと書かれています。相当、頑固で、偏屈で、正義感の強い人だったようです。蜀が滅びたのち、晋(しん)の高官だった張華(ちょうか)に認められ、やがて晋の「著作郎」に抜擢され『三国志』を著わします。
当時夏候湛という学者が既に「魏書」を著わしていましたが、陳寿の『三国志』を見て、「とてもかなわない」と思い、自分の書を壊して書くのを止めてしまったというエピソードも書かれています。
また、当時の人は陳寿のことを、「叙事に善く良史の才あり」と称え、張華も「次の晋書も陳寿に任せたい」と言ったと言うほど、陳寿の歴史家としての評価は高いものでした。
しかし、陳寿の文は「きわめて簡素」です。あまり簡素なため、後に劉宋(りゅうそう)時代の裴松之(はいしょうし)という人が「注」を付けました。「注」という通訳のようなものをつけなければ、当時の中国の学者にでさえ読めなかったり理解出来なかったほど、陳寿の書いた『三国志』は解りにくく、難しかったのです。
これほど中国人によってさえ「解りにくく、難しい文」を、われわれ日本人がそう簡単に読めるわけがありません。しかし、読めないからといって、それを陳寿の「書き間違い」や「聞き間違い」、後の時代での「写し間違い」など、ましてや「陳寿の無知」などで結論付けるのは、「大歴史家・陳寿」に対して大変失礼ではないかと私は思っています。
歴史書は、事実に即した内容が大事なのであって、それを「誰が書いたのかはそれほど意味がない」と言われる方たちも多いのですが、こと中国の歴史書に関しては、「誰が書いたのか」ということは大変重要なことだと私は思っています。
少し生意気な言い方をさせていただきますと、いままで「邪馬台国」や「卑弥呼」の謎が解けないのは、一言で言えば、我々日本人が日本人の常識で「魏志・倭人伝」を読んでいるからだと思います。
中国には中国の常識があり、中国の歴史書には中国の歴史書の常識があり、中国の歴史家には中国の歴史家の常識があります。また、書かれた歴史書を読む中国人の、読み手側の常識もあります。
今まで「邪馬台国」や「卑弥呼」の謎に取り組んできた方たちのなかに、「魏志・倭人伝」を読む前に、これらの「中国の常識」を勉強された方がどれほどおられるでしょうか?かく言う私もしかりですが。
私も当初は、多くの方がそうされてきたように、「南」は「東」の間違いではないか?「邪馬壹(い・いち)国」は「邪馬臺(たい・だい)国」の間違いだろうという「日本の、日本人の常識」で「魏志・倭人伝」を読もうとしてきました。
というより、「中国の常識」「中国歴史書の常識」「中国歴史家の常識」を知らず、ただ「邪馬台国」や「卑弥呼」に興味を覚えていただけの私でしたから、仕方のないことだったのかも知れません。
しかし、先学の方たちの、「魏志・倭人伝」における「至と到」や「度と渡」等の使い分けや、有名な「伊都からの放射線読み」などの発見により、少しづつみんなが「中国歴史書の常識」に気付くにつれて、『三国志』は「中国の歴史書にしか存在しないルール」で書かれているのだと言うことが見え始めてきました。
そうだとすれば、まず、その「ルール」を見つけなければなりません。
野球にしろサッカーにしろ「ルール」がわからなければ試合は成立しません。
「邪馬台国」論の「畿内説」と「九州説」の論争も、今までは「ルール」がありませんでした。
「ルール」がないため、ピッチャーのボールを打った打者が、突然「三塁」に向かって走ったり、サッカーで「手」をつかう選手が現れたり、これでは試合になりません。
今回、私が「陳寿の暗号(女王國の謎)」を書かせていただきますのも、もちろん、私の説が正しいのだというのではなく、このような観点から『三国志』を読んでみたらどうかと言う、「一つの提案」として読んでいただけたらと考えています。
そして、この提案が将来、「邪馬台国の謎を解く共通のルール」となってくれれば、こんなうれしいことはありません。
そんな思いで、この「陳寿の暗号(女王國の謎)」を書かせていただきます。 
筆法例
筆法の一例として、「文を錯(たが)うるを以って義を見(あら)わす」と言われるものがあります。
これは、「文をわざと矛盾させることにより、そこに意味を持たせてある」ということであり、その「矛盾」は決して「間違いではない」ということです。
一見間違いに見えるような書き方や矛盾のある書き方がされているが、それは間違いではなく、また矛盾でもなく、わざと間違えたり、わざと矛盾させたりしてあるのであって(筆法)、なぜそのように書かれたのか、その意味をよく考えて読まなければならないと言うことです。
したがって、よく例に出される投馬国、邪馬台国の方向である「南」も決して「東」の間違いではないということです。ただ、「南」が正しいとも言えません。もしその「南」が陳寿の「筆法」であったなら・・・。
また「一字を以って褒貶(ほうへん)を為す」とも言われる筆法があります。
これは「一字を変えることにより、そこに隠された意味をもたせる」ということです。
例えば「對馬」を「對海」、「一支」を「一大」としたり、「邪馬壹國」の「壹」のようなケースです。
この「對海」も「一大」も、また「邪馬壹國」の「壹」も、決して陳寿の間違いや後世の誤植などではなく、「一字を変えることにより、そこに隠された意味をもたせる」、つまり、「一字を以って褒貶(ほうへん)を為」していると考えねばならないのです。
中国の歴史書は、このようなテクニックを駆使して書かれているのですから、我々が普通に読んでも、素直に読んでも読めないのも道理なのです。
では、孔子が使ったこれらのテクニック(筆法)の一例を見てみましょう。
これは、「筆法」を説明するときによく使用される、「春秋・年代記」の中の「魯国」の公(王)の死亡記事です。(抜粋)
(1) 荘公 三十二年 公が路寝で薨ずる
(2) 隠公  十一年 公が薨ずる
(3) 桓公   十八年 公が斉で薨ずる
(4) 昭公 三十二年 公が乾侯で薨ずる
このように孔子が書いた文は極めて簡素です。
あまりにも簡素なため、後に注釈書『春秋左氏伝』」という書物が書かれました。
陳寿の『三国志』があまりにも簡素で難解なために「注」として書かれた『裴松之注』と同じパターンです。
(1)の記事を『春秋左氏伝』で確認すると、「三十二年に荘公が路寝(宮殿の寝所)で薨じた」とあります。
(2)の「公が薨ずる」を確認すると、「隠公が祭りの夜、家臣の家に宿泊した時、賊に殺された」とあります。
(3)については、「桓公が他国である斉に行った時、暗殺された」様子が書かれています。
(4)の昭公については、「斉の乾侯という町で亡命中に病死した」とあります。
これらのうち、(1)のように、自国で病気や老衰などで死んだ場合は「筆法」を使用する必要がありませんが、(2)(3)(4)のように変則的であったり、名誉に関わる死に方をした場合には「筆法」が使用されているとされます。
(2)で説明しますと、まず、死んだ場所が書かれていません。これは国内で死んだことを意味します。しかし、「路寝で」と書かれていないこの場合は、宮殿外で変死(この場合は暗殺)したことを意味します。
(3)の場合のように、「斉で」と国名が書かれている場合は、その国で変死(この場合も暗殺)したことを意味し、(4)のように、国名ではなく「都市名」で書かれている場合は、病死(変死ではない)を意味するといいます。
このように、(1)(2)(3)(4)のような簡素な文の中に、これだけの情報が含まれており、また、その文を見るだけで、当時の中国人はこれだけの意味を読み取ることが出来たのです。
これが「春秋の筆法」の一例であり、「文を錯うるを以って義を見わしている」の一例です。
これをわれわれ日本人が読めば、(2)を見ても、「死んだ場所がわからなかったのだろう」とか「死んだ場所を書き洩らしたのだろう」「どちらにしても大した問題ではない」と言う程度で済ましてしまうのではないでしょうか。
前述しましたように、魯国の隠公が「暗殺」されたにも関わらず、文中のどこを探しても「暗殺」の文字は見えません。しかし「公が薨ずる」と書くだけで「隠公が、国内において暗殺された」ことが彼等には読み取れるのです。まさに「恐ろしや筆法!」です。そして、このような筆法を編み出したのが「孔子」なのです。
繰り返しますが『春秋を継ぐ』ということの一つの意味は「筆法を継ぐ」という意味でもあるのです。
『漢書』」の著者の班固(はんこ)や陳寿、范曄、房玄齢たちも、一流の歴史家を夢見て日夜孔子の「春秋」を読みふけり、猛勉強したのだと想像できます。そうして多くのライバルを押しのけて、歴史家としての頂点に立ったのが彼等です。
そんな彼等が著わした『三国志』や『後漢書』『晋書』を、「文字通り読めばこうしか読めない」とか「素直に読めばこうしか読めない」とかいわれる方が多いのですが、「文字通り」や「素直」に読んでは中国史書は読めないのです。ましてや「一字一句」の選択にも、彼等が歴史家としての生命を懸けて選んで書いたその「一字一句」を、彼等の「無知」や「間違い」としか判定できないのでは、中国史書は絶対に読めないでしょう。
しかし、日本の歴史学者や古代史、特に邪馬台国ファンの中には、残念ながら依然この「筆法」を無視したり、軽視したりされる方が大変多いのが現状で、誠に残念に思います。
『三国志』にも、このような「筆法」が使われている可能性があるとしたら、我々も、陳寿や范曄がそうしたように「春秋の筆法」の勉強をしなければ『魏志・倭人伝』は読めないはずです。
もちろん陳寿や范曄や房玄齢のように習得するのは不可能でしょう。
かくいう私も筆法についてはまだまだ素人です。
しかし、『三国志』は筆法でもって書かれているという観点で読む姿勢を持つことは我々にだってやろうとすればできるはずです。このレポートのテーマは、少なくとも、そういう姿勢で、そういう観点で『魏志・倭人伝』」をもう一度読み直してみませんかということに他なりません。
では、『魏志・倭人伝』の中に書かれている筆法が使用されていると思われる箇所をいくつか書き出し、私なりに解説を加えてみたいと思います。
紙面の都合上、一部しか書けないと思いますが、皆さんの邪馬台国探しに少しでもご参考にしていただけたらと思います。 
一字を以って褒貶を為す
魏使倭人伝の中には、「始度一海、千餘里至對馬國・・・」「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國・・・」のように、同じ海を渡るという意味においても、「度」という字と「渡」という文字で書き分けられています。
また同じように書き分けられている文字に「至」と「到」、「戸」と「家」があります。
これらの文字はそれぞれ「渡る」「たどり着く」「家の数」という大意においては共通の意味を持っていますが、その文字の持つニアンスは微妙に違います。
我々日本人も中国人に負けず劣らず非常に繊細であり、この「微妙に違うニアンス」をもほぼ完全に理解はできますが、我々が文章を書くにあたって、その使い分けが完全に出来ているかと言えば、答えは「否」でしょう。
我々日本人には漢字のほかに平仮名もカタカナもあります。最近に至っては「英語まじり」まであります。
しかし中国には「漢字」しかありません。数千年間漢字だけなのです。
そんな中国人の「漢字」に対する思いは、今我々が想像する、いや想像できないくらいのものがあるはずです。ましてや国家を代表して史書を編纂しようとする中国の学者にとって「漢字」とはある意味「命」と同じ重みを持ったものではなかったかと思われます。
そういう人たちが書いた歴史書を我々現在の日本人が読むにあたって、一番留意しなくてはいけないのが、余りにも簡単に「誤字」「脱字」と決め付けてはいけないと言うことでしょう。
しかし過去に「倭人伝」に関する本を出版されている学者の先生方の本にも、「これは誤字でしょう」、「これは誤字でしょう」という個所がなんと多いことでしょうか。そういう先生方に誤誘導されて、いま我々純真な(?)邪馬台国フアンは「ドツボ」にはまってしまっているのです。
愚痴ってても始まりません。前に進みましょう。 
度と渡
「度」は「始度一海、千餘里至對馬國・・・」と狗邪韓國から對海國に渡るくだりで一回だけ使用されており、その他は「渡」が使用されています。
これについてはなぜか「“始めて”海を渡るのだから、ここにだけ“度”が使用されているのだ」という説明になっていないような説が多いのですが、「度」には始めてという意味はありません。
「度」とは、本来「手(又)で寸法を測る」という意味を持つ漢字です。
「渡して測る」ということから「測る」という意味と同時に「渡る」という意味も持っていますが、どちらかと言えば、「測る」と言う意味合いの方が強い漢字なのです。
したがって、陳寿がこの「度」という字を使用したのは、始めて海を渡るという意味よりも、むしろ「始めて距離(狗邪韓國から對海國〜女王國まで)を測った出発点」だからこそこの「度」という字を使ったのだと私は考えます。
「渡」は、「海を渡る」という意味だという解釈でいいと思われますので、「度」と「渡」は同じ「わたる」ですが、その持つ意味には大きな違いがあったことになります。
当然陳寿はその文字の持つ性格の違いを、またその意味の違いを使い分け、「一字を以って褒貶を為し」ていたのです。決して「度」は「渡」の書き間違いではありません。 
至と到
「倭人伝」において「到」の文字が使われているのは「狗邪韓國」と「伊都國」の二ヶ所だけです。
この「至」と「到」の使い分けの意味は、既に先学の方々によって、ほぼ解明されています。
つまり「至」も「到」もどちらも「たどり着く」という意味においては同じであるが、特に「到」は「何らかの目的の場所に到着」することであり、「至」は「到着点までの通過点への到着」や「ある方向にある地点を説明する場合」において使用されているものであるとされています。
「至」「到」に関しては私もこの説を採ります。
従って、倭人伝において「至」と「到」はその意味合いにおいても明確に区別して読まなければなりません。
これは言い換えれば、他の「度と渡」、「戸と家」においても明確に区別せねばならないと言うことであり、「至と到」は区別すべきだが「度と渡」、「戸と家」についてはその意味は同じだと考えて問題はないだろうというのはいかがなものでしょうか。 
戸と家
倭人伝に書かれている国の「戸数」を表すのに、ほとんどの国については「戸」で表されています。
しかし、一大國と不彌國だけがそれぞれ「有三千許家」「有千餘家」と、その戸数を「戸」ではなく「家」で表現されているのです。
これについてもほとんどの方は問題にすらしていません。確かに「戸」も「家」も「戸数」を表していることは明確です。しかしそうだからと言って「陳寿の気まぐれ」程度で済ましていいものでしょうか?
「至」と「到」を区別して考えねばならないことを認めるのなら、この「戸」「家」も区別して考えるべきだと思うのですが・・・。
「度」と「渡」、「至」と「到」の場合は、陳寿はその文字の持つ意味を使い分けていました。
しかし、「戸」と「家」の場合は、それらの意味することが同じだとしたら一体何が違うのでしょう?
「家」が一大國と不彌國にだけ使われているということは、それは一大國と不彌國だけに共通の何かがあると考えねばなりません。
不彌國の記事を見てみますと、「官曰多模、副曰卑奴母離」と書かれています。しかし、たったこれだけしか書かれていません。別段、何も問題があるようには思えません。
共通点といえば副官がどちらも「卑奴母離」ということだけですが、この「卑奴母離」はこれらの国だけのことではなく、二国だけの共通点ではありません。
どうやら、同じ文字の使い分けと言っても、同じ発想ではこの暗号(筆法)は解けないようです。
では少し発想を換えてみましょう。一大國と不彌國の「家」つながりは一体何を意味するのでしょうか?
「家」つながりから発想されることのもう一つは、文字通り「一大國と不彌國はつながっている」という考え方です。では、「繋がっている」とは一体何で繋がっているのでしょう?こうは考えられないでしょうか?
それは魏使達一行は一大國から従来言われているように末廬國に向かったのではなく、不彌國へ向かったのではないか?と。 
對海國と一大國
狗邪韓國を出航した魏使達一行は、一路女王国を目指しますが、先ず対馬、壱岐に向かいます。このくだりについては倭人伝にはそれぞれ次のように書かれています。
「始度一海、千餘里至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里・・・有千餘戸・・・」
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里・・・有三千許家・・・」
ここに書かれている「對海國」と「一大國」は、それぞれ「対馬国」「壱岐国」であることにはどなたも認められていることだと思います。
またこれらの国が「對海國」「一大國」と書かれていることについても、著者の陳寿の書き間違いか、後世の写し間違いのどちらかであると言うのが定説となっており、今までこの「文字の違い」に付いてはあまり議論もされておりません。
倭人伝の「文字」については人一倍慎重なあの古田武彦氏ですら、「“海”は単に“馬”の誤刻とするのが妥当でしょう」と古田氏らしからぬことを言っています。
しかし、このレポートにおいての主題が「陳寿の暗号」である以上、この見え見えの「文字の書き換え」を私は黙って見逃すわけにはいきません。
「対馬」を「對海」、「壱岐」を「一大」。これらは明らかに「通常でない書き方」です。このような「通常でない書き方」は、陳寿が筆法を使った個所だと考えねばなりません。
陳寿の言いたいことはきっとこうだと思います。
「対馬と一支については、馬を海に、支を大と、わざと通常でない書き方をしておいたぞ!なぜそうしたか、そこのところをよく考えて読むんだぞ!」「これが一字を以って褒貶と為すということだぞ」・・・と。
陳寿が投げかけた「暗号」を私なりに考えてみました。
まず、對海國と一大國に関する記述の中で気になる部分は次の個所です。
「度」(對海國)と「渡」(一大國)の書き分け。
「大官」(對海國)と「官」(一大國)の書き分け。
「方可四百餘里」(對海國)、「方可三百里」(一大國)
「有千餘戸」(對海國)と「有三千許家」(一大國)に見える「戸」と「家」の書き分け。
これらのうち「渡」や「官」「戸」「家」についても前述しましたように、間違いなく「筆法・暗号」ですが、これらの文字は他の国にも使用されており、對海國、一大國に限定した筆法ではありません。
そうすれば残るのは對海國の「方可四百餘里」と一大國の「方可三百里」です。
これらは通常、對海國や一大國の面積を「一辺がそれぞれ約四百里、三百里程度の広さである事を書いたもので、それはあくまで島(国)の大きさを説明したものであり、それ以外の何ものでもでもない」という解釈が定説でした。しかしその解釈でいいのでしょうか? 
方可四百餘里と方可三百里
現在の対馬の面積は約700平方キロメートル、壱岐は140平方キロメートルで、対馬は一支の約5倍の面積があります。
ご存知のとおり対馬は二島(古代、二島は繋がっていたともいわれていますが)からなっており、倭人伝にある「方可四百餘里」とは二島のうちの「下対馬」(約300平方キロメートル)のことを言っているのだという説が一番多いのですが、国の広さを説明するのに「小さいほうだけ」の面積を以って説明するでしょうか?
百歩も一歩も譲れないところですが、仮にそうだとしてもまだ「倍以上」の違いがあるのです。また「倭人の国」の面積に関する記事は、この二国の記事以外は全くありません。
代々王がいたとされる伊都國、二万戸もあったとされる奴國、そしてあの邪馬壹國ですらその国の面積については全く触れられていないのです。
これは陳寿には「国の広さ」を書く意思が全く無かったということに他なりません。それは對海國、一大國においても同じ意思で書かれたと考えねばなりません。しかし、對海國と一大國だけが例外的に「面積らしきもの」に触れられています。だとすれば、その部分だけが「文が錯(たがえ)られている」ことになり、明らかに「筆法」が使われた部分となります。
仮に、これらの記事が「面積」を示したものであるならば、なぜ陳寿はもっと正確に書かなかったのでしょう。
また、對海國や一大國の面積以外の描写については、大変詳細に、また素晴らしい観察力で表現されているにもかかわらず、この二国の「面積比」に関してだけは全くのデタラメなのです。
これらからしても、これらの数字は単に国(島)の面積を表したのではなく、他に目的をもって「方可四百餘里」「方可三百里」と書かれたと考えるべきでしょう。
通常は「どこからどこまでは何里」、また、「その国から次の国までは何里」と書かれていれば、それらの距離数を加算すれば目的地までの距離を得ることが出来ます。中国の歴史書も「通常は」そう書かれています。決して行程途中の国の面積の数字を行程距離に加算することはありません。しかし、述べてきましたように今回は途中に面積の記事が挟まっていたり、国名の字が変わっていたりして、通常通りには書かれていませんでした。これは、何度も言いましたように、「通常通りに読むな!」という筆法なのです。
「通常通りに読むな」ということは、通常は加えてはならない数字を、「今回に限っては(この部分に関しては)加えろ!」ということに他なりません。
しかし、一部の学者の人たちを除いて、ほとんどの人はこの数字を無視しています。もちろんこれらを無視している人の多くは同時に、倭人伝における「春秋の筆法」の存在をも無視していると言えます。
その結果、最後に伊都國あたりで「1400〜1500里」が宙に浮き、当然この余った数字に無理矢理「理由付け」をしなければならなくなるのです。 
長里説・短里説
倭人伝に書かれている里数は実距離よりも相当長く書かれており、これに対し多くの専門家は「長里説」や「短里説」たる「新説?」を唱えておられます。
では、仮に「魏晋朝短里」というものが本当にあったのなら、一体一里は何mだったのでしょうか?
その方たちの答えの多くは「60〜90m」なのです。60mでもなく、70mでもなく、80mでも90mでもなく、「60〜90m」なのです。
ではなぜそのような「巾」があるのか?「巾」を持たせなくてはならないのか?なぜ60m、90mと断言できないのか?答えは簡単です。どれを選んでも「矛盾」が生じるからです。
そんな矛盾の生じるものを「物差し」と呼んでもいいのでしょうか?
「長里説」にしてもしかりです。
国史とされる書物で、国や地域によって「違う物差し」で距離を表すでしょうか?
例えば、日本地図で九州では1kmが100m、本州では1kmが1000mというような地図があり得るでしょうか?一つの書物、一つの地図において表示法が地域によって変わるなんて事は私には考えられません。したがって、いわゆる「長里説」も「短里説」も私には「幻の物差し」としか思えないのです。
しかし、ここからが問題なのです。
実際には三国志の中で少なくとも「韓」と「倭人」条については他とは「別の物差し」で書かれているのです。先程私が「あり得ない」と言ったことが起こっているのです。
ここまで書けばもうお察しのことと思いますが、「あり得ない書き方」「通常でない書き方」がされているということは・・・そうです。それは「筆法」なのです。
長里、短里とおっしゃる方たちは、「陳寿の筆法」に引っ掛かった方達、又はそれが筆法と気づいていない方達だということになります。したがって、『魏志・倭人伝』には「長里説」や「短里説」たるものは存在しません。それは、単なる「筆法」なのです。
倭人伝では狗邪韓國から對海國、對海國から一大國、一大國から末廬國までの距離は全て「千餘里」とされていますが、実際の距離は釜山から対馬の中心点までの距離が約90km(厳原までだと約108km)、そこから壱岐の郷乃浦までが約70km、郷乃浦から唐津までが約45kmです。
これらの距離に対し陳寿は全て「千餘里」と記しているのです。この三点だけをみても90km、70km、45kmと最大と最小では2倍の違いがあります。
これら三つの数字を一つで表せるような物差しがあるでしょうか?以前にも書きましたがこんな「物差し」はあり得ません。
しかし、このように90kmや70kmや45kmというような距離に対して、あの陳寿がいい加減に「全て千餘里」と書くでしょうか?書くはずがありません。これはきっと「物差し」の問題ではなく、我々の「読み方」が間違っているだけだと考えるべきでしょう。
そういう意味からもこれらの距離は陳寿が書いたとおり「全て千餘里」でなければなりません。
陳寿の名誉のためにも、その疑いを晴らしてみたいと思います。 
里数の謎
従来説においては、狗邪韓國〜對海國間を測るのに、釜山あたりから現在の対馬の中心港である厳原までとし、それは約108kmでした。二島からなる対馬の中心点までなら90〜95kmくらいになります。
しかし、何度も書いてきましたように、それは「通常の考え方、計り方」をした場合の話なのです。
繰り返しますが對海國と一大國は通常の書き方がされてないのです。通常に考えたり、読んでも読めないのです。ここで重要なのはなぜ對海國と一大國の二国は「辺の長さ」が示されているのかということを考えねばなりません。
また、對海國は二島からなっているにもかかわらず、なぜ「方四百里」と、まるで一島からなる島国のごとく書かれているのでしょうか?これについても考えねばなりません。
結論を言いますと、これらは島(国)の面積を表しているのではないと言うことを示すための「暗号・筆法」なのです。これは同様に東夷伝・韓条において「韓國」を表していた「方四千里」についても同じ読み方をしなければなりません。つまり「方四千里」も韓国の国土の広さを示しているのではないということです。
これらの「辺の長さ」が行程の中に示されているということと合わせて、これらの「辺の長さ」は行程の一部であり、それを行程の距離に加えねばならないことをこれらの「暗号」が示唆しているのです。
「なるほどねェ。でも仮に、その“辺”を加算するとして、なぜ“一辺”じゃなくて、“二辺”を加算するの?」
「それとも、どこかに“二辺を加算しろ”と書いてあるの?」
“じゃあ、もう少し聞いて下さい。”
確かに、二辺を加算しなさいとは書いていません。しかし、仮に「一辺」だけを加算するとしたら、それは「直線的行程(航路)」となり、その場合は、そんな回りくどい書き方をする必要性は全くありません。読み手に「二辺」を加算して計算させるためにあえて「方・・・里」と「方」を使用しているのです。
「方四百里」と「方三百里」という数字は對海國、一大國の実際の面積を表していないことは、この二国の面積の比からも明らかです。言い換えればこれは二国の面積を示すために書かれたものではないということです。
しかし、この問題については、ほとんどの方が「面積問題」として捉えておられます。むしろ、陳寿が二国の面積を示すために書かれたとされるその数字が、現実の二国の面積や、面積比からみても余りにもデタラメな数字であるため、それが陳寿の書いた里数のいい加減さに、ひいては陳寿本人のいい加減さにさえつなげられているという側面さえ持っています。残念なことです。
この二国の面積を面積として考えては、「里数の謎」は解けません。
では次に、陳寿がどういう意図で各国間の距離を全て「千餘里」としたのか、私説に従って計算してみましょう。その計算方法とは、実は、それぞれの国(島)の「先端から先端」までを測るのです。もちろんこれは常識的な測量方法ではないのかも知れません。
しかし、何度も繰り返しましたように、對海國と一大國には「常識」は通用しないのです。
まず、狗邪韓國と對海國までの「千餘里」ですが、現在の釜山(または金海)の海岸線あたりから対馬の北端までは約45kmです。そして対馬の南端から壱岐の北端までは47〜8kmです。また壱岐の南端から唐津あたりまでは40km強です。
「45km。47〜8km。40km強。」
実は、陳寿はこの三つの数字をそれぞれ「千餘里」と表現したのです。そして、決して「千里」とは書いていないのです。これら三つの数字はもちろん同じではありません。しかし、「ほぼ同じ!」なのです。
言い換えれば、「ほぼ千里!」なのです。その「ほぼ」を「餘」でもって示しているのです。
これらから見ても陳寿の記述の正確さと、それぞれを「千百里」「九百里」「八百里」などとせず、文を簡潔に美しくするため全てを「千餘里」とするための文章テクニックがうかがえる重要な個所なのです。
決して陳寿はデタラメな書き方をしたのではなかったのです。
以上のように、それぞれの国(島)間の距離を「先端から先端まで」とすれば、「国(島)内」の距離が計算から漏れてしまうことになってしまいます。では、その国(島)の距離はどうしたらわかるのでしょう?それはどこに書かれているのでしょう。そうなのです、それが「方四百里」と「方三百里」なのです。
面積などは必要ないのです。距離が欲しいのです。
何度も書きましたが、通常は「方・・・里」は面積を表します。
しかしここでは通常には書かれていませんでした。言い換えれば「方・・・里」は面積を示しているのではないと言うことです。これこそが「距離」を示していたのです。 
萬二千餘里
三国志・魏志・国淵伝に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記事があります。
「破賊」とは戦いによって降伏させ配下とした国や部族のことです。
このような戦いによって降伏させたり、配下とした国に対する戦果を朝廷に報告する場合は、その数字を「十倍」にして報告せよという意味です。
当時、韓や倭は、魏の将軍司馬懿が公孫氏を倒すことによって中国朝廷にあらためて朝貢させた国であり、言わば当時の「倭国は魏の破賊国」なのです。
その破賊国である倭のことが書かれた当時の中国の公文書には、「一を以って十と為す」ルールに従ってそれらのすべての数字が「十倍」されて書き残されていた可能性が大変高いのです.
陳寿は、魏の太祖曹操と司馬懿に関する記事以外については正しく修正していますが、この二人に関する部分については、立場上修正できないのです。
したがって、修正出来なかった「萬二千餘里」という数字と、「十倍」にせねばならないルールとを机上に並べ、陳寿はきっと、「さて、どう書くべきか!」と悩んでいり姿が目に浮かびます。
この「萬二千餘里」という距離に関しては、「十倍」ルールと、実はもう一つ大きな問題があったのです。
それは、「大月氏国 去長安萬一千六百里」「大宛国 去長安萬二千五百五十里」のように、都からの遠国の殆んどが「萬二千世餘里」前後の数字で示されていることと共に、それぞれの国までの距離を表示するにあたっては、当時の「都からの距離」を表示するのが原則だったことです。
「倭の女王国」までの距離を書くにあたって、「萬二千世餘里」という数字は、「最初に萬二千餘里ありき」ともいう数字ですので動かすことは出来ません。
これを「十倍」ルールに当てはめますと「千二百里」となります。これは当時の「一里=435m」に換算しますと、「522km」となり、当時の魏の都・洛陽から倭國までの距離としては余りにも短か過ぎます。
そこで考え出した陳寿の苦肉の策が「帯方郡から萬二千餘里」なのです。
この萬二千餘里が都・洛陽からではなく、なぜ「帯方郡」からと書かれているのかということに疑問をはさむ方は殆どおられませんが、私は以上のような考えの元に陳寿は「帯方郡」を選んだのだと考えています。
帯方郡から「522km」という距離は女王國までの実距離としては少々不足ですが、魏の最東の出先機関が帯方郡であり、これより東方には魏の機関がありません。ここ帯方郡を基点として書くのが陳寿の精一杯の知恵だったのでしょう。
以上のことから萬二千餘里とは「千二百餘里」のことであり、これは萬二千餘里を「十倍」ルールに従い、十分の一として割り出したものであるため、陳寿ないし魏使が本当に測量して割り出した数字ではないと言うことです。しかし、前述しましたように、陳寿は倭國までの、また倭國内の地理については相当正確に把握していたということがうかがえます。
したがって、倭人伝に書かれている里数は「初めに萬二千餘里ありき」に従い、その後は正確な知識にのっとり、「正確な比率」によって割り振られて書かれたと考えられるのです。
それでは、この考え方で、先に計算した狗邪韓國、對海國、一大國、末廬國のそれぞれの国間の距離について考えてみましょう。
それぞれは、現在の距離数で45km、47〜8km、40km強でした。そして、それぞれを陳寿は「千餘里」と書きました。「千餘里」を先ほどの「十分の一」ルールに当てはめますと「百餘里」です。
当時の魏の一里は435mです。百餘里は「43.5km余り」となります。
狗邪韓國と對海國間は 45km
對海國と一大國間は 47〜8m
一大國と末廬國間は 40km強
これらを単純平均しますと44kmです。
44km→百餘里(43.5km余り)→千餘里(10倍)となります。
陳寿は正確だったのです。
では、次に、この私説にしたがって帯方郡から女王国までの行程と距離を計算してみましょう。
帯方郡〜(7000里)〜狗邪韓國〜(1000里)〜對海國北端〜對海國(400×2=800里)〜對海國南端〜(1000里)〜一大國北端〜一大國(300×2=600里)〜一大國南端〜(1000里)〜末廬國〜(500里)〜伊都國〜(100里)〜奴國または不彌國となります。
これらの合計は12000里。すなわち「萬二千餘里」です。「萬二千餘里」のかなたにある女王國とは、奴國か不彌國ということになってしまいました。
奴國が女王國? それとも、不彌國が女王國? 
奴國が女王國
では、不彌國と奴國、一体どちらが「女王國」なのでしょうか?
この問題を解く前に少し考えなければならないことがあります。
それは奴國か不彌国が「女王國」だとすれば、なぜ「奴國が女王國だ」、もしくは「女王國とは不彌國のことだ」と陳寿ははっきり書かなかったのかという問題です。
これはもちろん邪馬壹國についても言える事です。
ご存知のように邪馬壹國が九州にあったのか、大和にあったのか倭人伝には明記されていません。
それが今日まで続く邪馬台国論争の原因になっているのですが、これは今まで述べてきましたように決して陳寿の文章の未熟さが原因だとは考えられません。
「ここが女王國だ!」「ここが邪馬壹國だ!」とはっきり書けない理由が陳寿にはあったのだと考えるべきでしょう。
またその理由と邪馬壹國の位置が今だ解けないのは、陳寿のせいにするのではなく、むしろ多くの筆法を駆使した高度な文章力で綴られた倭人伝を我々が読み解けていないからだと考えるべきだと思います。
そういう意味においても、陳寿は必ず何らかの方法(筆法)で女王國の位置もしくは邪馬臺國の位置を示していると考えなければなりません。
そうでなければ、2000字も文字を使って倭人伝を書いた意味が無くなってしまいます。
前述しましたように、奴國か不彌國が女王國でなければならないことを「萬二千余里」が示していました。
では、奴國が女王國なのか、不彌国が女王國なのか、それともやはり女王國は別に存在するのか検証してみたいと思います。
帯方郡から女王國までの「萬二千余里」という条件下においては、奴國と不彌國は対等です。
しかし両国の記事でその表記法において微妙な違いが現れます。
この表記法の違い(暗号・筆法)が、どちらかが女王國でありどちらかがそうでないことを示しているはずです。そんな観点からこれらの記事を見てみたいと思います。
まず、その表記法を見てみますと、両国とも「方向・国名・里数」の順で書かれており、伊都國からの放射式の距離、すなわち奴國は伊都國から東南方向に百里、不彌國は同じく伊都國から東方向に百里のところに位置することになります。この読み方には別段問題はないと思われます。
しかし、奴國は「東南至奴國百里」とあるのに対し、不彌國は「東行至不彌國百里」と、方向(東)の後に「行」という字が使われています。通常であれば、奴國の「東南至奴國百里」のように、不彌國も「東至不彌國百里」とか「東陸行至不彌國百里」と書くのが本来でしょうが、「東」と「至」の間に「行」を挿入し、明らかに通常でない書き方がされています。
この「行」は、明らかに「文を錯(たが)え、尚且つ、一字を以って褒貶(ほうへん)を為し」ていると考えられます。
これは、両国とも伊都國から同じ百里の距離にある国という意味においては同じだけれども、この二国は同じような立場の国ではないぞ、という意味だと解釈できます。したがって、この記事も単純に伊都國からの距離(百里)だけを示している記事ではないということになります。
もちろん「行」という文字だけで、そこまで言い切るのは無謀でしょう。
しかし、筆法は「一字を以って褒貶と為す」ですから、本来は「一字」を見て、その意味を見つけなければならないのです。
また、陳寿の凄いところは、場合によっては二重にも三重にも筆法を駆使して書いているところにあります。
例えば今回の奴國と不彌国を区別して読むのだぞ!ということを示すための「行」とともに、それぞれの「戸数」を表現するにあたり、奴國では「有二萬餘戸」と「戸」を、不彌國では「有千餘家」と「家」を使用して、これもまた、これらの二国を何らかの区別をすべきことを示唆しています。
またこの「家」については、「一字を以って褒貶と為す(文字の使い分け)」で書きましたように、一大國にも「家」が使われており、この「家」一字をもって「奴國と不彌國とを区別」するとともに、「不彌國と一大國との同次元でのつながり」の、少なくとも二つの意味が包含されているのです。
逆に言えば、この不彌国にある「行」は、不彌國は一大國とは「ある意味」においてつながりがあるが、奴國とはつながりがないということを示唆しているのです。
まさに陳寿の高等テクニックです。
当時の中国の歴史学者にとっては、この程度のことは常識の範疇だったのでしょうが、筆法に馴染みの薄い我々にとっては凄いテクニックに見えてしまいます。
では、先ほどの「ある意味」を推理してみましょう。
実は、「ある意味」とは魏使が女王國に向かった「実際の航路」を示しているのではないかと考えられるのです。
実際の航路? どういうこと?
それは、今まで我々が考えてきた(倭人伝に書かれている)魏使の女王國までの航路は、実際に彼等が使用した航路をしめしているのではないのではないか、ということです。
一大國と不彌國とがつながっているということは、魏使は一大國から末廬國に向かったのではなく、実は一大國から不彌國に向かったのではないかと考えられるのです。
これは、女王国の謎を解くのに大変重要なことです。
定説では、一大國からは末廬國⇒伊都國とされています。
しかし、魏使は一大國から(末廬國にも、伊都國にも寄港せず)不彌國⇒伊都國(伊都國⇒不彌國ではありません)の航路を採ったと考えられるのです。
そのことを示す「暗号」が、一大國と不彌國だけに使用された「家」と、不彌国だけに使用されている「行」だと思われるのです。
繰り返しますが、これは大変重要な「暗号」です。
この「家」や「行」の「暗号・筆法」を無視したり、読み間違ったりすれば、まず女王国や邪馬台国にはたどり着けません。少なくとも私はそう考えています。
また、魏使一行が実際に使用した航路についての筆法は、この「行」と「家」のみならず、実は別の箇所(記事)においても使用され、「実航路の存在」を補充しています。
その記事とは、「周旋五千餘里」というあの謎の記事なのですが、この「周旋五千餘里」に関しては、後に触れたいと思います。
このように、「実航路」に関し二重にも、三重にも筆法が使用されているということは、陳寿にとっても、この女王国までのルートを示すことを相当重要視していたものと思われます。
魏使の目的地である伊都國の先にある不彌国の存在がなぜ倭人伝に書かれているのかと大いに(?)疑問視されていた問題も、魏使の実際使用した航路が私見のように、一大國⇒不彌國であったことを見つけることにより、不彌國がそこに書かれている意味も、また不彌國の重要さも見えてくるのではないでしょうか。 
女王は奴國にいた
先ほど、不彌國は魏使の実際の航路上にある国だと書きました。
ということは、不彌國は女王國ではない!
女王は奴國にいたということになります。
「えっ?奴國?」
「ということは邪馬台国は奴國?」
「奴國に卑弥呼がいたの?」
“まあまあ、そんなに慌てないで下さい。”
奴國が女王國であると言うことにさえ、きっとまだ納得されていない方が多いとか思います。
その方々に、もう少しご理解いただくためにも、今まで立証してきたことと、「新たな証拠」をも追加することにより、もう少し詳しく検証してみたいと思います。 
二萬餘戸の謎
倭人伝には奴國の戸数が「有二萬餘戸」と書かれています。
当時の倭の人口がどれほどであったのか、一戸あたりの人数はどれくらいなのか、ほとんど分かっていませんが、古代人口学の第一人者といわれる澤田吾一氏の説によると、弥生時代の全人口を約60万人と推定しています。当然澤田氏の説に異を唱える人もおられますが、現在でも澤田説を上回る説得力のある説は生まれてないようです。
しかし、全体的には澤田氏の説を認めながらも、「もう少し多いのではないか」というのが定説になりつつあるようです。また、澤田氏の統計によりますと、弥生の人口60万人(日本列島全域)に対し、九州全体の人口が10万5100人とされています。
仮に当時の一戸当りの人数を5人とすれば、奴國だけで2万×5で10万人になってしまいます。
澤田氏の説によらずとも奴國だけで10万人という数字は余りにも多すぎて実数ではないだろうということは、明確だと思われます。
では、なぜ奴國の戸数をそんなに多くにする必要があったのでしょうか?
この回答を書く前に「伊都國」の戸数に触れなければなりません。
伊都國の戸数は「千餘戸」と書かれています。
伊都國といえば「郡使往來常所駐」する国であり、また「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とも書かれおり倭國においては非常に重要な国であり、あたかも首都機能を有していたごとくの国であった事がうかがえます。
しかし、その伊都国が「千餘戸」で、何の特徴も記されていない奴國が「二萬餘戸」と書かれているのです。おかしいと思いませんか?
実はこの伊都國の戸数については「魏略(逸文)」(著者・魚豢)には「戸萬餘」と書かれています。
伊都國の戸数については、伊都國の性質上からかこの「戸萬餘」のほうが正しいのではないかとも言われています。
しかし、前述しましたように、一万戸だったら5万人、二万戸だったら10万人と考えた時、それらもあり得ない人口数になってしまいます。
「あり得ない数字」「あり得ない書き方」、もちろんこれも「筆法」と考えねばならないはずです。
奴國の二萬餘戸、明らかに多すぎます。
伊都國の千餘戸は奴國の二萬餘戸に較べて明らかに少なすぎます。
つまり、伊都國の「千餘戸」も奴國の「二萬餘戸」のどちらの数字にも筆法が使われているということです。
では何故、陳寿は伊都國の戸数をわざと減らし、奴國の戸数だけを特別多く書いたのでしょう?
これを筆法とみる限りにおいては、何か「奴國が特別な国」であるということを示唆するための筆法だとしか考えられません。
一見重要でないように書かれている奴國の戸数が特別多く書かれているということは、実は「奴國は重要な国」であるということを示唆していると考えられるのです。 
「二つの奴國」の謎
『三国志・東夷伝・韓』条に「馬韓」の国について、「有爰襄國、牟水國、桑外國・・・・・乾馬國、楚離國」と「55国」を書き並べています。にも関わらず陳寿は「凡五十餘國」(おおよそ五十餘國)と記しています。また、「弁、辰」の国については「已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國・・・・・斯盧國、優由國」と「25国」を記しながら「弁、辰合二十四國」と書かれています。(一度、数えてみて下さい。)
これらを筆法を意識せずに読めば、「馬韓」の「55国」を「おおよそ50国」と書いても間違いではないだろうし、「弁、辰」の「25国」を「24国」と書いたのも、「単なる数え間違いだろう」で済ましてしまいそうです。現に、そのように済まされています。
邪馬台国の方向の「“南”は“東”の書き間違いだろう」みたいにいとも簡単に・・・。
しかし、繰り返しますが、陳寿も『後漢書』を書いた范曄もそんな初歩的ミスを犯すような学者ではありません。とすれば、これらの矛盾や間違いらしき数字には何か意味がある、何か意味を持たせてあると考えなければなりません。
では、『三国志・韓』条におけるこれらの記述に対して、「前史」(三国志)を継いだ范曄はどのように反応したのか『後漢書』を見てみましよう。
『後漢書・韓』条には、「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國。」とあり、「馬韓は54国」とはっきり書かれています。
なぜ、范曄は「54国」だと解ったのでしょう。答えは簡単です。
陳寿が書いた「55国」の中には、「莫廬國」という国が二個あるのです。「同じ国が二回」書かれていたのです。この重複する国を一国除けば范曄が書いた「54国」になるのです。
これを従来は、陳寿の間違いを范曄が訂正しただけだろうと言われてきました。
しかし陳寿がそんな単純ミスを犯すはずもなく、これを筆法ではないかという観点から見れば、陳寿が「55国」を書き並べながら、「55国」とも「54国」とも書かずに、あえて「凡五十餘國」と書いたのではないか。まさに「文を錯(たが)えて」(わざとぼかして)その奥に義(意味)を隠しているものと考えられるのです。
陳寿があえてそう書かざるを得なかった、あるいは、わざとそう書いた理由を范曄は読みきった上で、「答え」(54国)を書いたと考えられます。
また同様に、『三国志・東夷伝・韓』条の「弁、辰」のところを見てみますと、やはりありました同じ国名が。
「馬延國」という国名が二度出てきます。ここでも「25国」書かれているにも関わらず、「弁、辰合二十四國」と書かれているのです。
これに対する范曄の『後漢書』では、合わせると「凡七十八國」という表現がされてあり、馬韓の「54国」を差し引くとやはり「24国」になります。
ということは、重複している国の一つを差し引いた数が本当の国数だということになります。
換言すれば、『重複して書かれている国の一つは実在しない国』だということになります。
したがって、「馬韓は54国」で「弁、辰は合わせて24国」というのが答えです。
ここまで書いたら、もうお気づきでしょうか?
そうです、実は「倭人」条にも同じ国名が二度出てくるのです。そうです「奴國」です。
これらのことを「偶然」だと思われますか?私にはとても「偶然」だとは思えません。
この「二つの奴國」については、従来説の多くは、「同じ国のことである」、「一つは間違いである」、「奴國という国が二つあった(同名他国)」のどれかに属していました。
「馬韓」に現れる「二つの莫廬國」、「弁、辰」に現れる「二つの馬延國」、そして「倭人」条に現れる「二つの奴國」!
これらは、当然「筆法」だと見なさねばなりません、そして、このように「韓」条と「倭人」条に現れる現象(筆法)が共通しているということは、「倭人」条のみならず、「韓」条にも筆法が使用されているということと合わせ、「韓」条と「倭人」条が何らかの形でリンクしていることを認識せねばなりません。
先に検証しましたように、『重複して書かれている国の一つは実在しない国』でした。
ということは、「二つの奴國」のうちの一つは実在しない国だということになります。
したがって、この「二つの奴國」は従来説のような、「同じ国」のことでもなければ、「書き間違い」でもなければ、奴國という国が「二つあった」わけでもなく、陳寿がわざと(筆法)奴國を二つ書いたが、その一つは存在しない国だということです。
つまり、陳寿が「ウソ」(筆法)を書いたということになります。
そして、その「ウソ」の対象が奴國だということです。
では、何故「実在しない国・奴國」をあえて一つ加えたのか?
まさに「陳寿の暗号」です。
再び『魏志・倭人』条を見てみましょう。
冒頭に書きましたように倭には「今使譯所通が三十國」あると書かれています。
しかし、重複している「奴國」を一つ差し引いて数えても「30国」にはならないのです。
「韓国」における例からしてもそれは「30国」にならなければいけないはずなのにです。
『魏志・倭人』条に書かれている国々は、狗邪韓國・對馬國・一大國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國と続き、投馬国、邪馬壹国、そして、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國があり、またその南には狗奴國があり、またこれらの他には、侏儒國・裸國・黒齒國という国もあると書かれています。これが倭人伝に国名の書かれている国名の総てです。総てを合計しますと「34国」になります。
この「34国」の中で、現時点で確実に外せるのは、前述しました理由により、重複している「奴國」だけです。
しかし、「韓」条での例でも見たように、陳寿が「三十国」と明言している以上「30国」にならなければなりません。「奴國」を一つ引いてもまだ「33国」。あと「3国」除かなければなりません。
では、どの国を外せばいいのでしょうか。
このあたりにも「邪馬台国」や「女王国」の謎の鍵が隠されているようにも思えます。
この「二つの奴國」は前述しました国数の問題の他に、もう一つの重大な問題を提起してくれています。
「韓」条における「二つの莫廬國」、「二つの馬延國」と共に「倭人」条において選ばれたのが何故「奴國」なのかという問題です。
莫廬國、馬延國が当時の馬韓、弁・辰においてどのような意味を持っていた国だったのか、残念ながら今の私には把握できていません。
それらの二国は、倭における奴國となにか共通点を有する国だったとも考えられますが、私は、「韓」条におけるそれらは「倭人」条における「奴國」の特殊性を示すための「前振り」ではないのかと考えています。
どちらにしましても、「奴國」が選ばれたのは「奴國」がなにか特殊な国であるということの証だということはできるのではないでしょうか。
しかし、これら「二つの奴國」問題だけからでは、まだ、「奴國は何か特殊な国」だったということしか言えません。 
自女王國以北、其戸數道里可得略載
倭人伝の文中には「自女王國以北、其戸數道里可得略載」、すなわち「女王国より北の国については、その道里を書いておいた」という記事があります。
この記事も女王國の位置を確定するにあたり、大変重要な記事です。
女王國より北の国の道里が書いてあるということは、道里が書かれている国のうち「一番南の国が女王國」ということになります。
では、その「道里」が書かれている国を書き出して見ましょう。
狗邪韓國から南方向に、對海國、一大國、末廬國、伊都國、そしてこの伊都國から「東」に不彌國、伊都國から東南に奴國がありました。
水行十日・陸行一月や水行二十日も「道里」じゃないのかという方もおられますが、「里数」が書かれているからこそ「道里」です。
そういう意味において「水行十日・陸行一月や水行二十日」を「道里」とは解釈すべきではないでしょう。
そうだとしたら、北の狗邪韓國から順に見て、伊都國まで南下します。伊都國からは放射式で読みますと、伊都國の「東」に不彌国國があり、伊都國の「東南」に奴國があります。当然、「東」と「東南」では「東南」のほうが「南」に位置します。
したがって、「道里」が書かれている一番南の国は「奴國」だということになり、「自女王國以北、・・・」とは「自奴國以北、・・・」と同義だということになります。
つまり。奴國が女王國ということになります。 
倭國之極南界也(後漢書)
後漢書に、「建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」という記事があります。
「光武賜以印綬」はかの有名な「漢倭奴国王」の金印を漢の光武帝より授かった記事です。
この時の「倭奴國」は「倭の奴國」なのか「倭奴國」なのか、今だ解決していない問題です。
「倭奴國」に関する詳細な解説は省きますが、後漢書には倭奴國は上記のように「倭國之極南界也」と一見、不思議な書き方がされています。
この「倭國之極南界也」という文は従来から大変難解な文だと言われており、もちろん定説はありません。
しかし、「女王國は奴國」とするならば、それほど難解ではありません。
換言すれば、「女王國を奴國」としなければ、この難解な文の暗号は解けません。
倭人伝には、前述しましたように奴國が「二度」出てきます。
もちろん「奴國が二度出てくる」というだけでも、他の国とは違う「特別な国」であるという「暗号・筆法」であり「奴國=女王國」を示唆しています。
(「二つの奴國」には、別の重大な意味も持っていると考えられますがここでは触れないでおきます。)
女王國までの行程上で伊都國の次に「東南至奴國百里」と書かれており、ここに「一つ目の奴國」が出て来ます。また、旁國が21国書かれていますが、その一番最後に「二つ目の奴國」が現れ、そこが「女王境界所盡」すなわち、女王の境界の尽きるところと書かれています。そして、その「南」に「狗奴國」があるとされています。
これは、一見、女王国の一番南は「奴國」であるというように読めます。
もちろんこの記事自体も「自女王國以北・・・」ともリンクさせて考えれば、「奴國=女王國」を示唆した記事だと考えることもできます。
しかし後漢書の文にあるのは「倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也」であり、極南界にあるのは「倭奴國」だと書かれています。
これら一つにまとめますと、「奴國⇒女王國の一番南の国⇒倭國之極南界⇒倭奴國」となり、「倭奴國とは奴國」のことだという方程式になります。しかし後の中国史書には「倭國とは古の倭奴國」のことだとも書かれており、この方程式をも加え、連立方程式にしますと、倭奴國を支配していたのが奴國の王であったという回答になるのかも知れません。
これらからいえることは、少なくとも建武中元二年(57年)に「漢倭奴国王」の金印を漢の光武帝より授かったのは「奴國の王=倭奴國の王」であったということが言えるではないかと思います。
以上述べてきましたように、奴國が倭國の盟主国であり女王國であったと思わせる暗号(これら以外にもまだあるのですが)が、文中に多く隠されていたのです。
このように、陳寿は、できるだけ後世の読者に気付かれないように、しかし気付いてもらうために精一杯の智恵を絞り、『三国志』を書いたのです。 
周旋五千餘里
倭人伝の中で倭國の里数を示す記事に「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」という記事があります。
これは「倭の地を参問すれば、海中州島の上に絶在し、あるいは絶え、あるいは連なり、周旋五千里ばかりある。」と読めます。
従来この記事についても多くの議論がなされてきました。
一番多い説は、帯方郡から狗邪韓國までが7000里でしたので、狗邪韓國〜邪馬臺国までにこの5000里を当てて12000里とする説です。
邪馬台国九州説の方達にとってはこれがほぼ通説となっています。
また近畿大和説の方達にとっては、この5000里は、伊都國ないしは不彌國から難波津までの「瀬戸内海」のことだとする説が有力説となっています。
さあ、どちらが正しいのでしょうか?
まず九州説の狗邪韓國〜邪馬台国(女王國)間の距離だという説についてですが、成る程7000里+5000里=12000里。
女王國までの「萬二千餘里」にピッタリです。
文句の付けようがありません。
しかし、変だとは思いませんか?
女王國までの距離については、既に、行程も各国間の距離も示し、「萬二千餘里」で女王國に着くと明確に書かれているにもかかわらず、なぜまたその行程の一部分だけを抜き出して重複してまで説明する必要があるのでしょう?
全く陳寿らしくありません。
というより、陳寿がそんな書き方をするとは考えられません。
だとすれば、この「周旋可五千餘里」というのは何のために書かれ、またどこからどこまでの距離なのでしょうか?それを考える前に、少し近畿大和説の人たちの意見も聞いてみましょう。
近畿大和説の方たちの多くは、この5000里は伊都國もしくは不彌國から難波津(大阪)までの距離だと言われています。もしくは、狗邪韓國から難波津までの距離だとも。
そして、「・・・海中州島の上に絶在し、あるいは絶え、あるいは連なり・・・」、これは瀬戸内海の情景にもピッタリだと・・・。
「5000里」の説明については九州説では一応辻褄は合っていましたが、さて、近畿大和説ではどうでしょうか?参考に、「短里説」とやらで計算してみましょう。
仮に「一里=70m」で計算すれば、5000里は350km。「90m」で計算すれば450km。
現在の博多〜大阪間の距離は約600kmです。これはピッタリとは言えません。
ましてや、狗邪韓國から難波津までの距離では2分の1か3分の1にしかなりません。
また、私説に従い計算しますと、「里数の謎」「萬二千餘里」で書きましたように、倭人伝に書かれている里数は「10分の1」として計算せねばなりません。
それに従いますと「5000里」は「500里」ということになります。
500×435m=217.5kmです。
博多〜大阪間600kmとはあまりにも違いすぎます。ましてや狗邪韓國からでは。
したがって、この「五千餘里」は瀬戸内海の距離ではない、すなわち近畿大和説では説明不可能ということになります。 
「周旋可五千餘里」は実航路
帯方郡から女王國までは萬二千餘里。
そして、その行程は、一見、狗邪韓國〜對海國〜一大國〜末廬國〜伊都國〜奴國(女王國)でした。しかし、「奴國が女王國」で触れましたように、実はこの行程は魏使達が使用したルートではないのではないかという大変大きな謎が隠されていました。
このルートはあくまで帯方郡から女王國までの「地図上の距離」、「計算上の距離」(萬二千餘里=実質千二百里)を示すためだけのもので、魏使が使った本当のルートは一大國から不彌國へ向かうルートではなかったかと思われますので、少し、これらのルートを探ってみましょう。
実は、そのルートを示している重要な暗号が「周旋可五千餘里」という記事だと考えられるのです。
もちろんこの記事だけでは、その謎を解ききることは出来ません。
実は陳寿は、この謎、この暗号を解くヒントをこれまでの記事の中に予めちりばめているのです。
それらと、この「周旋可五千餘里」を掛け合わせることにより「実際の航路」が浮かび上がってくるはずです。 
謎の末廬國
はるばる魏の都洛陽から倭の女王国を目指してきた魏使達は、一大國を過ぎ、ようやく倭国の本土九州の末廬(まつら)國までやってきました。
その様子を陳寿は「又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國・・・」と書き残しています。
訳しますと、「また海を渡ること千余里で末廬國に至る。四千余戸の家がある。それらは山裾や海岸に沿って建っている。歩こうとしても前の人が見えないくらい草木が繁茂している。彼等は魚介を捕らえるのに、海の深い浅いにかかわらず潜ってこれらを捕っている。東南方向へ歩いて五百里行くと、伊都國に到る」という意味になります。
末廬國に関する記事はこれだけですが、書かれている文章には一見不自然さはありません。
しかしこの文の中には「筆法・暗号」と思われる「渡」「至」「戸」が含まれています。
そして一番の疑問点は「官名」が書かれていないことです。
對海國や一大國、伊都國、奴国、不彌國、投馬國、邪馬壹國等全ての国には「官名」が書かれています。書かれていないのは末廬國だけなのです。
単純に「末廬国には官はいなかった」と考えることもできますが、もしそうだとしたら他の全ての国に「大官」なり「官」がいるのに、末廬國にだけいないということ自体大変珍しいことであり、逆に考えれば、陳寿がそのことに触れないとは思えません。
ということは、末廬国にも他国と同じように「官」ないし「大官」がいたが、陳寿はあえて末廬國だけに官の存在を記さなかったと考えるべきでしょう。
これは末廬國に関しても「普通に書かれていない」と考えるべきでしょう。
「普通に書かれていない」と言う事は、やはりここでも末廬國の記事は「普通に読んではいけない」ということになります。
したがって、陳寿の言いたいことは、「末廬國だけ文を錯えてある(官名を記していない)から、その裏にある義(意味)をよく考えて読みなさい!」ということに他なりません。
末廬國は前述しましたように、「草木茂盛、行不見前人」、つまり、「草木が大変茂っており、前を行く人すら見えない」と書かれており、これは言い換えれば「歩いては行けない」ということと解釈すべきなのです。この箇所は「普通に読めば」、草木が大変茂って、前を行く人すら見えない道を500里歩いて行けば伊都國に着くと読めますが、500里(実質50里=約22km)の眼と鼻の先にある伊都國に行くのに、魏使一行が多くの荷物と共に「前を行く人すら見えない道」を歩く必要がどこにあるのでしょうか?すぐ先に港があるのに。
しかし、筆法を念頭においてこれらの文を眺めれば、これらの文章は明らかに「文が錯(たが)えられた」筆法だと言うことに気が付きます。
しかし「普通に」「素直に」読めば、魏使一行は多くの荷物を持って、重い銅の鏡を100枚も提げて20km以上も前行く人も見えないような険しい山道を歩かされるハメになってしまうのです。
これは明らかに「文の錯(たが)え」、すなわち「末廬國に上陸し、陸行した」とする文と、「とてもじゃないが歩けたもんじゃない!」という反対の意味を持つ文を並べることにより「文を錯(たが)えて義を見(しめ)し」ているのです。
すなわち「魏使は末廬には上陸していない(出来ない・する必要がない)」ということになります。
また、末廬國は女王国までの行程を決定する中で重要な鍵を握っている国でもあると思われますが、先学の方達からはあまり重要視されていません。
それは魏使が仮に末廬國で下船して伊都国まで歩いたとしても、また下船せずに直接伊都國なり不彌國まで船で行ったとしても、行程距離の計算には支障をきたさないと考えられているからです。
せいぜい下船したとした場合のその港が呼子か唐津かといった程度の議論しかされていません。
そして、末廬・唐津説の人たちは、またここでも「東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」を「“東”の書き間違いだろう」と陳寿に罪をかぶせなくてはならなくなってしまうのです。
実は末廬國についてはこれら以外にも、もう一つ重要な暗号が隠されています。
それは、一大國から末廬國までの行程に、その「方向」が書かれてないことです。
一大國、伊都國、奴國、不彌國や狗奴國、投馬國、邪馬壹国までは全て「方向」が書かれています。
例えば一大國は「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」、伊都国は「東南陸行五百里、到伊都國」、邪馬壹国は「南至邪馬壹國」のように、それぞれ「南」、「東南」、「南」と「方向」が記入されています。
しかし、この末廬國と前出の對海國の二国だけは方向が書かれていないのです。
実は、文を錯えたり、文字を変えたりするのももちろん筆法ですが、このように「何も書かれていない」のも「魯国」の公(王)の死亡記事のところでも書きましたように、これも筆法の一つなのです。
この末廬國と對海國の二国だけは方向が書かれていないということは、末廬國と對海國にも共通の謎があるということになります。
では、その共通の謎とは何でしょう。
末廬國の特長は二つありました。一つは「官名」が書かれていないということです。
二つ目は前述しましたように、魏使は末廬國には上陸しなかったことです。
これらの二つの特長のうち、對海國には「官名」が書かれていましたので、共通ではありません。
とすると、残る共通点は、「上陸しなかったこと」だということになります。
したがって、「魏使は末廬國にも對海國にも上陸しなかった」ということになります。
以上により、魏使一行が狗邪韓国を出航してから、女王國にいたる行程で、途中上陸したのは一大國だけということが解ります。
上陸したのが一大國だけだということと、「一大率」の「一大」が国名に採用されていることも当然、筆法だと考えられますが、その説明は、ここでは割愛させていただきます。
このように、どこに上陸し、どこに寄港したかということは、倭国の地理や行程を示す記事等の重大さと比較すればそれほど重要なことではないかもしれません。しかし、陳寿は、あの短い、しかも簡潔な文の中にそんなことでさえも正確に区別して書き残しているのです。そんな陳寿の文章力の凄さを知っていただけたらと思います。 
一大國から不彌國へ
一大國と不彌國には共通点が一つありました。
この二国だけは戸数を表すのに「戸」ではなくて「家」が使用されており、これは、この二国に何らかのつながりがあることを示唆しているのだと書きました。
実は、この「つながり」とは、魏使が一大國から末廬國に向かったのではなく不彌國に向かったということを示唆しているのではないかとも書きました。
では、末廬國に上陸しなかった魏使は真っ直ぐ目的地であるはずの伊都國に向わず、なぜ、不彌國に向かったのでしょうか?
末廬國には上陸しなかったという説の人達でさえも、末廬國(を通過した)の後は伊都國に向かったとされています。これに関しても、確かに行程記事を「普通に読めば」そうとしか読めません。
ほとんどの方達の説の「終着点」は末廬國→伊都國なのです。
これは近畿大和説の人達においても伊都國までのルートに関してはほとんど同じだと思います。
しかし、私説では、魏使一行は末廬國には上陸せず、また伊都國に向かったのではなく不彌國に向かったのだとしました。末廬國を通過すれば糸島水道です。糸島水道に入ればすぐ(20km程で)右手に伊都國(前原付近)が見えてきます。しかし、一行は伊都國には上陸せず真っ直ぐ不彌國に向かいます。
「エッ?なんで?」
「伊都國に上陸したのじゃないの?」
現在は陸続きになっていますが、当時は伊都國と現在の志摩半島の間にはいわゆる糸島水道という水道がありました。一大國を出航した魏使は、末廬國を通過し、糸島水道に入り、不彌國に向かったと考えられるのです。 
暗号・「行」
一大國と不彌國のみに戸数を表す単位として「家」が使用されていました。
これは、一行が一大國から不彌國に向かったとされる「暗号・筆法」ではないかと言いました。
実は不彌國にはこの「家」の他にも、伊都國から不彌國に向かったのではないことを示すもう一つの暗号があるのです。
伊都國から(放射式で読めば)不彌國までの行程は「東行至不彌國百里」と書かれており、方向を示す東の後に「奴國が女王國」で少し触れました「行」という字が挿入されているのです。
この「行」は先の末廬國の「陸行」の「行」と関連していると考えられます。
前述しましたように、末廬國の「陸行」の場合は陸行したかのごとく書かれているが実は「陸行しなかった」という意味でした。
つまり「否定」の箇所にだけ「行」が使用されていると考えられるのです。
不彌國の「行」を同じ論法で解釈しますと「行く」と書かれているが実際は「行かなかった」という意味になります。つまり魏使は伊都國から不彌國へ向かったのではないと読むべきだと考えます。
もし仮に伊都國から不彌國へ向かうのなら「奴國」などのように「東至不彌國百里」と書くはずなのです。
陳寿があえて「行」を書き入れた理由は「否定」だと私は考えます。
なぜなら、そう考えることにより全ての辻褄が合うからです。 
不彌国は倭國の玄関
では、以上にのっとり、魏使が倭國まで来た実際のルートを見てみましょう。
狗邪韓国を出航した魏使一行は、對海國の二島間を通過し一大國に寄港・上陸。そして末廬國を通過し、伊都國も海岸沿いに通過して不彌國に着く。
この場合、伊都國が港機能を持っていたのなら当然不彌國などに向かわずに、直接伊都國に着岸したでしょう。しかし、伊都國に着岸せずに不彌國に着岸したということは、「倭国の港は不彌國」であったということになります。
不彌国が倭国の港であったとすれば、従来、なぜ行程が伊都國で終らずに、伊都國の東に位置する不彌國の存在が書かれているのかという疑問も解消されるのです。
不彌国は倭国の玄関(港)だったのです!
次に、このルートの里数を計算して見ましょう。
狗邪韓國〜(1000)〜《對海國(800)》〜(1000)〜一大國(600)〜(1000)〜《末廬國〜(500)〜伊都國》〜(100)〜不彌國。(《 》内は上陸せず。)
この合計は・・・丁度5000里になります。
すなわち、「倭は狗邪韓国を出航し、海上をあるいは絶えたりあるいは連なったりした島々を見ながら巡っていくと、その距離は5000里ばかりである」ということです。
実は、この5000里が「・・・周旋可五千餘里」なのです。
したがって、前述しました萬二千余里の終着点は女王國(奴國)でしたが、この「・・・周旋可五千餘里」の終着点は不彌國ということになります。
書き換えますと、魏使一行の実航路は、狗邪韓國⇒(對海國)⇒一大國⇒(末廬國)⇒不彌國(港)・・・(陸行)・・・⇒(伊都國)となり、魏使一行の目的地は伊都國であったが、船の終着点は不彌國(港)だったということになります。つまり、魏使は不彌國(港)で下船し、伊都國までは陸行したということです。
これらのことを示すために「・・・周旋可五千餘里」という記事が付け加えられているのです。
しかし、なぜこの5000里は狗邪韓國から測るのか?その根拠は何なのか?
「一字を以って褒貶を為す(文字の使い分け)」「度と渡」の稿を思い出して下さい。
狗邪韓國からは、「始度一海、千餘里至對海國・・・」とありました。「度」はこの箇所にしか使われていません。他は皆「渡」でした。「度」とはもちろん「渡る」という意味もありますが「測る」という意味合いの方が強い文字であり、「始度一海・・・」とは、「始めて海を渡る」という意味とともに「測り始める」という意味をも包含していると書きました。
したがってこの「度」の意味することは、「ここ(狗邪韓国)から測りましたよ。ここから測りなさいよ」という暗号であり、「始度一海、千餘里至對海國・・・」に「度」が使用されている意味が、この「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」の記事を読むに当って初めて生きてくるのです。 
伊都國
倭人伝に伊都國に関して、「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國」「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」という記事があります。
これらの記事から、従来説では、伊都國に港機能があり、伊都國の港において文書・賜物等を検閲していたとされていましたが、上記の文をもう一度よく読んでみてください。
「皆臨津搜露・・・」、「皆、津に臨みて搜露(検閲)し・・・」と書かれていますが、これは「津(港)まで行って、搜露(検閲)し・・」であって、どこにも、伊都國が港、または伊都國の港だとは書かれていません。
これは、やはり、伊都國にいる検閲官(役人)が津に臨みて・・・、つまり(不彌國の)港まで行って・・・と読むべきではないでしょうか? 
二つの萬二千餘里
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
この5000里に帯方郡から狗邪韓國までの7000里を加えれば確かに「萬二千餘里」にはなります。
しかしこの場合の「萬二千餘里」は女王國までの距離を示しているのではなく、前述してきましたように、倭國の玄関口(港)である不彌國までの距離でした。
つまり、この「周旋可五千餘里」は、帯方郡から倭國の港までの魏使一行が使った本当のルートを示すための「周旋可五千餘里」であり、「萬二千餘里」だったのです。
地図上、計算上、建前上の萬二千餘里は奴国(女王國)までの距離。
もう一つの萬二千餘里は魏使一行が実際に向かった不彌國までの距離。
このように、「萬二千餘里」には二つの重要なルートの存在が隠されていたのです。
「萬二千餘里」という里数は、前述しましたように、陳寿が「書かざるを得なかった距離」であり、実数値ではありませんでした。
しかし、陳寿は、この「萬二千餘里」という架空の数字を元に、倭國までの地図上の建前のルートと距離、そして実際に魏使が使ったルートと距離の二つを、多くの暗号・筆法を駆使することにより見事に表現してみせたのです。 
おわりに
永きに渡り筆法の存在すら知らなかった私たちは、陳寿の心が読めず、また陳寿の文章力や筆法という我々日本人には全く馴染みの無かった中国歴史家独特のテクニックに、残念ながらついていけなかったのだと思います。
しかし、ここまで読んで下さった方には、少なくとも陳寿は「筆法」を使って倭人伝を書いたという事は理解して頂けたと自負しています。しかし、私の「筆法」の読み方も必ずしも正しいとは考えていません。
実際、陳寿の文はもっともっと奥深いものがあると思われます。
現在の私では、多分「陳寿の暗号」の半分位も読めてないのではないか、もっともっと気が付いていない暗号や読み方が隠されているのではないかと思っています。
今回のレポートでは、「女王國は奴國だ」ということと、魏使が倭國に来た本当のルートが解明(もちろん私なりにですが)されただけです。
まだ、狗奴國の謎、投馬國の謎、そして最大の謎である卑弥呼と邪馬壹國の謎を始め、多くの謎が残っています。
筆を置くに当って、最後に狗奴國にだけ少し触れておきたいと思います。
狗奴國については、邪馬台国近畿大和説の方の多くは、紀伊の熊野や、東海方面、また関東の毛野國などに想定されていますが今だ定説はありません。
また、邪馬台国九州説の方は、熊本や球磨説の方が多く、一部には宮崎(日向)や鹿児島(薩摩)とする方々もおられます。確かに魏志倭人伝を文字通り読む限りにおいては、そのような読み方になることは仕方ない事だとおもいます。
ただ、それは魏志倭人伝からだけで判断した結果で、しかも筆法に気付かないか、もしくは無視した場合での結果でしかありません。
その結果、狗奴國の位置が確定できるのならそれもいいでしょう。
しかし現状は、全くその位置を特定できそうにもありません。
この特定できない理由を陳寿の倭の地理に対する無知や、いい加減な書き方にあると決め付けるのは簡単です。しかし、それでいいのでしょうか?
狗奴國は近畿(もしくは周辺)にあったのか、もしくは九州にあったのか?
このフレーズ、どこかで聞いたことありませんか?
そうです、邪馬壹國探しのフレーズと同じです。
邪馬壹國の位置が決まらないから、狗奴國の位置が決まらない。
狗奴國の位置が決まらないから、邪馬壹國の位置が決まらない。
私はそう考えています。
倭人伝の著者陳寿が邪馬壹國の位置をぼやかしているのは明確です。
しかし、邪馬壹國の位置をあの陳寿が示していない訳がありません。
邪馬壹國の位置を、書けない、示せない理由があったからこそストレートに書かなかっただけだと考えねばなりません。
陳寿は確実に邪馬壹國の位置を示しているはずです。もちろん「筆法」を使って。
実は、その筆法の主役が「狗奴國」なのです。
狗奴國の位置を示すことによって邪馬壹國の位置を示しているのです。
もちろん狗奴國が筆法に利用されたと言うことは、狗奴國の位置にも当然筆法が使用されていることになります。
狗奴國について、中国史書には以下のように書かれています。
魏略(逸文)  
女王之南又有狗奴國 男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
魏志倭人伝   
此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王、其官有狗古智卑狗 不屬女王 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國 皆倭種 而不屬女王
これらを見ますと、魏略と魏志倭人伝では、狗奴国の位置が「女王の南」となっています。一方、後漢書では「女王國の東の海を渡ったところにある」としています。南と東!どちらが正しいのでしょう。
南と東?
これもどこかで聞いたことのあるフレーズですね? ということは・・・?
倭人伝の著者・陳寿も、後漢書の著者・范曄も決して意味無くウソを書いたり、簡単に間違いを犯すような歴史家ではないということは再三書いてきました。この「狗奴國の位置」に関しても、そういう立場から読まなければなりません。
ではこの狗奴國の位置が、倭人伝では「女王境界所盡」の“南”、後漢書では「女王國東度海」と“東”になっているのはなぜでしょうか?
これがウソや間違いではないということは、南と東の違いを一体どう解釈すれば良いのでしょうか?
従来、この「南」と「東」については、どちらかが間違いであるとされて来ました。その中でも、その殆んどは、范曄が書いた「東」を間違いとしています。
しかし、なぜ范曄の「東」を間違いだと言い切れるのでしょうか?
なぜ、陳寿の「南」が正しいと言い切れるのでしょうか?
陳寿が正しくて、また「南」が正しいのだとすれば、陳寿が書いた「南、投馬國」も「南、邪馬壹國」も正しいとせねばなりません。なのに「南、投馬國」と「南、邪馬壹国」は「東、投馬國」、「東、邪馬壹國」の間違いだという。「南、狗奴國」は正しいが「南、邪馬壹國」は「東、邪馬壹國」の間違いだというそんな(その方の説に)都合の良い読み方は許されるべきではありません。
では、この「南」と「東」の矛盾は何なのでしょう?
この「矛盾」は「間違い」や「范曄の無知」でもなんでもありません。筆法なのです。筆法として読まねばいけないのです。
私は、この「狗奴國の謎」が解ければ「邪馬壹國の謎」「卑弥呼の謎」も自然に解けるものと確信しています。換言すれば、「狗奴國の謎」が解けなければ、邪馬臺國も見つからず、また卑弥呼にも会えないということになります。 
 
魏志倭人傳 / 陳壽

 

倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東冶之東。其風俗不淫、男子皆露、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫、婦人被髮屈、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵緜、其地無牛馬虎豹羊鵲、兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃、所有無與耳・朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣、有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也、食飮用豆手食。其死有棺無槨、封土作冢、始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒、已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。出眞珠・青玉、其山有丹、其木有※[木+(冂<はみ出た横棒二本)]・杼・豫樟・・櫪・投・橿・烏號・楓香、其竹篠・・桃支、有薑・橘・椒・荷、不知以爲滋味、有猿・黒雉。其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒、見大人所敬、但搏手以當跪拜、其人壽考、或百年、或八九十年。其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫、不忌、不盜竊、少諍訟、其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族、尊卑各有差序、足相臣服、收租賦、有邸閣、國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬、對應聲曰噫、比如然諾。其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏、遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈以到、汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝、今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授、汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・※[くさかんむり/倩]絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利、還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金帛・錦・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青・緜衣・帛布・丹・木※[けものへん+付]・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雜錦二十匹。
 
邪馬台国(邪馬壱国)北九州説の研究

 

古田武彦氏など北九州説の著名な論者の書物を分析し、その主張の正誤を考えます。
古田武彦氏「邪馬一国への道標」
松本清張氏「清張通志、邪馬台国」
森浩一氏「倭人伝を読みなおす」 
古田武彦氏

 

古田武彦氏の代表作は「邪馬臺国はなかった」かな、と古本屋で探したのですが、見つかりません。これで手を打つかと選んだのが「邪馬一国への道標」です。
第一章は「縄文の謎を開く」で、「縄文人が周王朝に貢献した」、「殷の箕氏は倭人を知っていた」、「孔子は倭人を知っていた」の三節に分けられています。
後漢、王充の「論衡」に書かれた「周の時、天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」という文と、班固の漢書地理志、燕地の「楽浪海中に倭人有り。」という文を結び付け、倭人とは日本人のことで、周代なら縄文時代ですから、倭人は縄文時代から周に朝貢していたと結論しています。
東アジアの各地に倭人が存在したという説を、「倭人多元説」と名づけ、中国江南から移動したという確証はないと否定します。しかし、翰苑所載の魏略逸文には、「聞其旧語 自謂太伯之後(その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。)」と書いてある。倭人に「昔の話を聞いたら、自ら太伯の後裔だと言った。」のですから、倭人は元呉人、中国人だと主張していたわけです(太伯は呉の始祖)。「太伯の後」は晋書、梁書の倭人伝にも記されています。どちらも唐代の作なので、魏略が元データと思われ、この記述の存在は承認できます。
魏志韓伝には、韓は「東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。」、弁辰伝には「その瀆盧国は倭と界を接す。」ですから、韓の南に海はなく、倭だと認識されていたことになります。山海経海内北経は「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記します。葢国がどこかというと、高句麗西方に葢馬大山という地名が現れますから(魏志東沃沮伝)、そのあたりに存在した国だろうとされています。どうも、高句麗成立(前漢末期)以前、その南方(朝鮮半島北部)に倭が存在したらしい。三国史記、高句麗本紀にも倭山という地名が現れます。
以上のように、中国、朝鮮半島に倭という民族が存在したことを示すデータがある。それを踏まえて倭人多元説が唱えられたのでしょう。古田氏は、「太伯の後」という魏略逸文には全く触れません。この記述が江南から移動したという説を支えているのに、元中国人だという最も明確なデータを隠して紹介しない。
「江南の文物が弥生初めの九州などにあらわれない。」と断定していますが、石包丁など中国と同じものが発見されているそうです。私も考古学資料にはうといのですが、手元にある書物には中国との関係を示す遺物がいくつか紹介されています。古田氏は断定するにふさわしいほどの知識を持ちあわせておられないようです。これは、記述のテクニック。読者を自説に誘導するための方便とでも解しましょう。それに、発見されていないと、存在しないは全く異なります。中国は猛烈な勢いで開発が進んでいますから、今後、考古学的発見も大躍進することまちがいなし。これからが楽しみです。(発行年を見たら1978年。ちょっと古すぎて現在の知識と比べるのは不公平か。しかたがないので、このまま行きます。)
倭人が東アジア各地に存在したなら、どこへ消えたという記述もありますので、私が解答しておきましょう。中国の倭人は中国に同化して姿を消し、朝鮮半島に存在した倭人は、それぞれの王朝に吸収され、韓人などに転化して姿を消します。燕人衛満に追われ、朝鮮から南方に逃れた箕氏が韓を建国(前漢初期)するまで、韓人は認識されていなかったのです。そこの住民が韓人と呼ばれるようになっただけのこと。別にマジックはありません。日本の倭人は日本人になります。
王充の論衡、「倭人鬯草を貢ぐ。」の倭人は、同時代の「楽浪海中に倭人有り。」という記述や、金印を授けられた倭奴国の朝貢の知識とリンクしている。王充は、楽浪海中の倭人が鬯草を貢いだと認識している。という主張は正しいと考えます。確かに王充は遠方の夷狄が朝貢した吉祥としてこれを取り上げ、越裳氏の白雉と並べています。
漢書地理志、燕地には、「(殷の貴族だった)箕氏は殷が滅びた後、朝鮮へ移住して国を建て、住民を教化したので、礼節が守られ泥棒もいなかったが、今は失われた。仁賢の感化はなんと貴いのだろう。それにしても、東夷の天性は従順で他の三方とは異なっている。孔子は道が行われないことを悼み、もし海に浮かぶなら、九夷に住みたいと言ったが、理由があったのだなあ。」というようなことが記され、その後に「楽浪海中に倭人有り」が続くことから、これも、班固が、孔子と楽浪海中の倭人を関連づけているのだと説きます。確かにその通りで、燕の紹介だけなら、孔子を持ち出す必要はないわけです。朝鮮はとっくの昔に礼節を失い滅びているのですから。何か別のことを含めている。
班固は「朝鮮は中国人が駄目にしてしまったが、今度は太伯の感化を受けた楽浪海中の倭人が朝貢に現れたぞ。」という驚きを書いたわけです。しかし、それは後漢の建武中元二年(57)、光武帝時代のことですから、(前)漢書には書けない。そこで、前漢代の燕関係の資料から引き出した、「楽浪海中に倭人有り……」という文を続けたのです。
何かこそばゆくなりますが、当時の日本は、周初期の良風を残す理想郷のように思われていたらしい。おそらく奴国の大夫が伝えたのだと思われますが、倭人は太伯の後裔という言葉が意識されているのは間違いありません。古田氏はこのことを見逃しているのか、都合が悪く、隠したのか?
説文解字は「委」を「随なり」と書いています。従うと言う意味ですから、倭人は従順な民族と考えられていました。だから地理志は「東夷の天性は従順」と書いたのです。
整理すると、
「朝鮮半島(葢国の南)に住む倭人は天性従順な民族で、殷の箕氏が朝鮮を建国して感化したので、礼節が守られ、中国、周初期の理想的な風俗を残していた。中国人の遼東などへの移住により、それは失われてしまったが、ついこのあいだの建武中元二年、楽浪海中から、太伯が感化した倭国極南界の奴国が、大夫を使者として派遣し朝貢して、光武帝から印綬を賜った。奴国にはまだその良風が残されているらしい。周の成王の時には鬯草を貢いだし、前漢時代の燕にもしばしば顔を見せていたという。箕氏や太伯という仁賢の人の感化はかくも大きいのだ。孔子が海に浮かんで東夷の国へ行こうかといったのは、こういうわけだったのか。」というのが班固の考え、後漢初期の中国人の常識だったことになります。
しかし、孔子は冗談交じりに、「桴(小さないかだ)に乗って海に浮かぼう。」と言ったわけですから、行き先はそれほど遠くない。春秋時代の孔子が意識していたのは、箕氏朝鮮で、楽浪海中の倭ではないわけです。後者なら大航海になり、冗談でも小さな筏では済まない。おそらく、山東半島から遼東半島、朝鮮へという交易路が存在したのでしょう。孔子と楽浪海中の倭人を結び付けて考えたのは班固で、孔子自身の頭にはありません。
魏(戦国時代)王墓の盗掘により発見(晋代)された魏の年代記、「竹書紀年」をみると、成王十年に越裳氏来朝(ベトナム)となっています。粛慎氏来朝や於越来賓(これは会稽南方の越)などという遠方小国の朝貢を記しながら、倭人に関する記述はありません。周にとって、倭人は遠方の小国、朝見すること自体がめでたい国の扱いではなかったようなのです。「太伯の後」というデータからすれば、これは当然で、周の身内の呉人じゃないか。呉に封じられたのは周の初代、武王の時ですから、鬯草を献じた二代目、成王の時代なら、呉人そのもので、楽浪海中の日本にまで広がっていたと解するのは時間的に無理です(太伯は武王の大伯父)。だから、古田氏は「太伯の後」を持ち出せない。
「成王の時、倭人が鬯草を献じた。」という周代の何らかの資料から引き出した記述と、楽浪海中の倭人を結び付けて考えたのは王充です。
誰も気づかなかった恐ろしく鋭い指摘なのですが、それは後漢代、王充や班固の脳裏にあった当時の常識に過ぎない。常識が正しいと限らないのは、現在に同じです。
後漢初期の人々の心中のイメージを、周代の史実と誤認させる。ここには、巧妙な、データのすり替えがあります。周代のものとして扱えるのは、「成王の時、倭人は鬯草を貢ぐ」だけで、そして、この倭人は、古田氏の言う縄文人ではなく、長江河口部に住んでいた呉人のことになります。弟に国を委ねて去った太伯の行為から、その国民が委人(倭)と呼ばれるようになったのだと思われます。
魏志倭人伝の倭国は海峡国家で狗邪韓国は倭地だと書かれていますが、それより先に、倭人伝はなぜ倭伝ではないのかを問題にしなければならない。「倭人」と「倭」が区別されていると松本清張氏が指摘しています。
確かに、標題だけですが、大海の中にある国は「倭人」と書かれ、朝鮮半島の倭と区別されています。倭人伝は「帯方東南大海の中」の国の紹介で、北岸にある狗邪韓国は通過して情報を持っていても何も触れていない。この国は倭地ではないのです。そこを離れ海へ出てからを倭地と計算している。倭が島々を巡って5000余里という記述は、女王国までの全体の距離12000余里から狗邪韓国までの7000余里を引いた単純計算の結果に過ぎません。朝鮮半島の倭の情報は全くなかったようで、記録されていません。後、任那と呼ばれる地域のことです。
帯方郡から七千余里で倭の北岸、狗邪韓国に着いたのだから、狗邪韓国は七千余里の端っこに付属します。どちらの国か読者が迷わないように、その北岸とか、韓国という文字を付け加え、所属を明らかにしているのに、わざわざ足を踏みはずしにかかる人がいるとは記述者も想像できなかったでしょう。古田氏は万二千余里から逆算した五千余里の方に狗邪韓国を含める理由を明らかにせねばなりません。
狗邪韓国は魏志韓伝に見られる弁辰狗邪国で、弁辰(弁韓)に属します。狗邪(コーヤ)というのが国の名前で、他は所属を表す形容です。豊臣秀吉と呼ぼうが、太閤秀吉と呼ぼうが、同一人物で、表現が異なるだけです。その程度の判定力はもたねばならない。どう強弁しようとも韓国という文字は消せないのです。
このあたりは白馬非馬という詭弁学派に類するイメージがあります。しかし、その言葉に対するマニアックとも言えるこだわりがなければ、後漢初期の、中国人の倭人観を引き出せなかったことも確かで、功罪相半ばするようです。
歴史書というのは過去のデータを元に書かれます。著述、著者という言葉を使うからおかしくなりますが、陳寿にしても、范曄にしても、「三国志」、「後漢書」を編纂した、つまり、要領よくまとめたのであって、創作したのではありません。したがって、大量に他人の文章が紛れ込んでいます。自らの文章でも表現を変えるのに、他人のものならなおさらです。
山海経の葢国(濊、カイ。穢、ワイとも記されており、クヮイという音だったと思われます)、燕の南、倭の北に存在した国を、周以前から存在した国と扱い、箕氏がそこに封じられたと断言していますが、これはまったく根拠がない。山海経には大夏や月支国(月氏国)、甌、閩、不與(フヨ)という文字があり、前漢、武帝時代の情報まで混じっています。班固は誤解していたようですが、山海経だから太古の伝承とは限らないのです。
戦国時代の燕は真番、朝鮮を略取して官吏を置き、寨を築いたとされていますから(史記、朝鮮列伝)、燕は真番と呼ばれた国と接していたらしい。南は朝鮮ですから、真番は東南方に存在したのでしょう。真番から葢へ国が交代したようです。したがって、燕の南の葢国の成立は秦末から漢初期と考えられます。後、武帝が真番郡を設けました。葢国の存在に関するチェックは何もなく、倭人と殷の箕氏を結び付けたいという願望だけで突っ走っています。ずっと後裔の朝鮮の箕氏なら朝鮮半島の倭を知っていたと言えますが。
倭人が箕氏を仲介として中国の天子に服属した。箕氏によって貢献物が成王のもとに届けられたはず、それが「倭人、暢を貢す」という記述になったのだそうです。しかし、箕氏が届けたなら、倭人が貢いだことになりません。箕氏を使いに出したとでもいうのでしょうか。中国の史書はそういう部分に厳密で、「倭人、鬯草を貢ぐ」ではなく、「箕氏、倭人が貢ぐところの鬯草を届ける。」というふうに表現されるはずです。竹書紀年をみると、武王十六年に「箕氏来朝。」とあり、成王の代に箕氏が来たとは書いていません。空想の上に空想が重ねられています。
魏志倭人伝の「古より以来、その使、中国に詣ずるは、皆、大夫を自称す」の「古」は「倭人は鬯草を貢ぐ」の周代のことを指すとし、三国志の中から「古」の例を探し出し、周以前のことだと証明を装っていますが、夫餘伝に「古之亡人」、韓伝に「古之辰国」とあり、どちらも漢代の出来事を「古」と表現しています。自らに都合の良いデータしか提供しないようです。
夫餘は「濊王之印」を授けられており、元々は朝鮮半島中東部の濊と同一国だったことがわかります。それが遙か北方に移動している。戦国時代は中国そのものがバラバラでしたし、秦も遼東に長城を築いて防御しており、周辺諸民族を冊封体制に組み入れた形跡はありません。したがって「濊王之印」が与えられたのは漢初期で、七代目の武帝の東方進出により、濊が分裂し、北方に逃れたもの(亡人)が夫餘になったと推定できるのです。この時、朝鮮半島中部には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれ、漢の所領となっています。
辰国は漢書、西南夷両粤朝鮮伝に見られ、その建国は韓建国(B.世紀195)より後になります。辰韓が古の辰国で、楽浪から韓に逃れ、韓が東方の土地を割き与えたと言い伝えているのですから(魏志韓伝)。
「古」は、別に太古とは限らない。したがって、倭人伝の「古より以来」は、後漢に朝貢した奴国以降を指します。「倭人は鬯草を貢ぐ」のどこに大夫の文字が見られるのか?
第二章は「三国志余話」で、「まぼろしの倭国大乱」など三つの節があります。
魏志の表記は「倭国乱れ」で、後漢書の表記は「倭国大乱」です。古田氏は、これを時代の変化による言葉の使用法の変化ととらえ、三世紀には大乱はなく、五世紀に表現が大げさになっただけと主張します。
三世紀、陳寿の時代には、「大乱」という言葉は「天子の座を犯す」という方向性をもっている場合のみに使われる大義名分上の特殊用語だったと決めつけています。が、そんなことはない。
三国志魏書、張貌伝の裴松之注に、「英雄記曰く」として「城中大乱」という言葉がありますし、同じく魏書、夏后淵伝、裴松之注に「魏略曰く」として「兗豫大乱(兗州、豫州は大乱)」と記されています。英雄記は後漢末の人、王粲(177~217)の著作とされています。魏の曹操と同時代です(この頃はまだ後漢が存在した。滅亡は220年)。魏略の著者、魚豢は陳寿と同時代の人です。後漢や晋代の書に、普通に、「大乱」が使われていて、これは、記述者の表現上の問題でしかないということでしょう。
陳寿、范曄がこの文を作ったと考えていることも大きな間違いです。先に述べたように、歴史書の編纂は文のすべてを創作するものではありません。陳寿は帯方郡使の報告をそのまま写している。それは倭人に聞き出した倭人の歴史です。したがって、「倭国乱れ」という表現は倭人の言葉を翻訳したものです。後漢書の「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見、桓霊間倭国大乱」という一連の記述は他の史書には見られません。范曄はこれらを後漢代の何らかの資料から引き出したのです。「衆家後漢書を刪し一家の作となした(宋書范曄列伝)」とされていますから、先行後漢書の要約と思われます。
陳寿の場合は、ほぼ同時代を書いているから、陳寿の言葉と三国時代の表現はあまり変化がないかもしれません。しかし、范曄の場合は、国は南朝の宋ですし、後漢とは二百年以上の年代差がありますから、言葉はかなり変化していると思われます。表現が范曄時代のものなのか、後漢の文献を写した後漢時代のものなのか、吟味する必要があるのに、そういう作業を全くせず、すべてを范曄の表現とみなして、どうこう言っている。はなはだ精度を欠きます。後漢の王粲の文に「城中大乱」が見られることから、後漢書の「大乱」も同時代の言葉、范曄の採用した資料中の文字とみなして問題はありません。
後漢書倭伝は魏志倭人伝の地理、風俗情報のみを要約していますが、それと解るのは、魏志と同じ表現があり、范曄の表現で書いた部分との違いが区別できるからです。地理、風俗に関して魏志を上回る内容はありませんから、魏志のみに頼っている。他の資料から詳しいものは得られないのです。それに奴国の朝貢や倭国大乱などの後漢代の資料から得られた情報、徐福、東鯷人など前漢代の倭に関係するかもしれない情報を加えて後漢書倭伝が構成されています。卑弥呼の即位は後漢代なので、後漢書の対象になります。
「是時既滅両越越人勇之乃言越人俗鬼而其祠皆見鬼数有効昔東甌王敬鬼寿百六十歳後世怠慢故衰耗」 
(この時、すでに両越を滅ぼしていた。越人の勇之は言った。「越人の風俗は鬼を重んじ、その祠には鬼を見ます。しばしば効があり、昔、東甌王は鬼を敬い寿命は百六十歳でした。後世は怠慢になったため短くなってしまったのです。」)
これは史記封禅書と漢書郊祀志の文ですが、全く同じです。違いは漢書で越が粤になっているだけ。つまり、班固が史記を写したか、共通の資料を基に書かれたかということになり、班固の言葉ではありません。引用の最も解りやすい例として挙げておきます。
其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼
「その国は元、また男子を以って王と為していた。とどまること七、八十年、倭国は乱れ相攻伐し年を経た。すなわち、一女子を共立して王と為した。名は卑弥呼という。」
住は「とどまる」。同じ場所にいて移動しないことがとどまるです。王の在位期間が七、八十年と古田氏は解釈しますが、「王位に住る」という文字を使うだろうか。地理的な場所ではないのか。家を持って長くとどまれば「住む」ことです。古田氏にならって三国志原文をあたれば、呉志、諸葛瑾伝に「代呂蒙領南郡太守住公安 (呂蒙に代わって南郡太守をつとめ公安に住んだ。)」という記述がありました。
倭人伝の文にある空間を示す言葉は其国と倭国です。其国は主語ですから、ここは「その国は、以前は(本=元)、倭人伝に前出の伊都国や狗奴国と同様(亦)、男子を王と為していたが、(倭国に)住むようになって、七、八十年で倭国が乱れた」という意味になります。七、八十年もとどまれば、「住む」でしょう。どこかから移動してきたわけです。
後漢書は「桓霊の間、倭国大乱」ですから、大乱は桓帝と霊帝の間にまたがっています。在位期間すべてというわけではありません。ですから、卑弥呼の即位は霊帝の時代になります。その即位時の年は「長」と書いてある。既に成人していた。魏志倭人伝は帯方郡使が派遣された景初、正始頃の年を長大と記し、大を加えた。記録順序から言えば、魏志の長大を受けて、後漢時代はもっと若いと范曄が大を削って長にとどめたのです。
霊帝の即位が168年。その数年後の即位と解せば、帯方郡使、張政が派遣された247年まで、八十年近くを経ていることになります。年長を加えれば百以上。人間離れしているからこそ、「長大」と記されたわけです。鬼を敬って百六十歳まで生きた東甌王の如く。卑弥呼も「鬼道に事え」ています。倭人伝は、「その人は、寿考(長生き)で、或いは百年、或いは八、九十年。」と記しており、その程度の年齢では長大とは言えないのです。
現実にはあり得ない年齢です。現実として可能なのは八十歳以上。十三歳で即位した壱与より、もっと幼い即位だった場合だけです。実際そうだと思われます。したがって、范曄の「年長」は魏志からの逆算で、そういうデータが存在したわけではない。「桓霊の間、倭国大乱/更に相攻伐し、歴年主なし。一女子有り。名は卑弥呼という。年長。嫁せず。鬼神道に事え能く妖を以って衆を惑す。ここに於いて共立し王と為す。」が後漢書の記述ですが、「更に」以下は魏志からの要約引用で、後漢代の資料から得た前段に付け加えているわけです。
古田氏は魏志と後漢書が同じように即位時の年齢を書いていると解釈していますが、共立という文字の場所が異なります。後漢書は「年長」の後、共立が出てきて、「年長」の卑弥呼を共立したことになりますが、魏志には、共立した後、「鬼道に事え、よく衆を惑わす。年すでに長大」とあり、帯方郡使が邪馬壹国を訪れ、卑弥呼の存在を知った時の年齢が「年已長大」で、現況を書いています。范曄は魏志を分析し、百歳以上の長大という年齢を信じ、幼女が即位するとは思い至らず、内容を変えたのです。
「春耕、秋収を計って年紀としている。」という裴松之の注を元に、「二倍年暦」という不思議なものを案出されています。どうも春と秋で一年を二倍に数えていると考えるらしい。「その人寿考。あるいは百年、或いは八、九十年」とあるのは、半減して、当時の平均寿命と思われる四十五くらいになりますから、現実と合うのだそうです。しかし、それなら長生き(寿考)という表現は使えない。平均にあわせれば普通でしょう。
帯方郡使は現実にいろいろな人と出会っているわけです。派遣された張政は何歳くらいだったのだろう。軍事顧問として派遣されたわけですから、若造は出せないはず。そういう経験の深い指導力のあるベテラン。誰も知らない南方の蛮地へ旅し、活発に動かなければならない。体力も必要です。そういうものが考慮されたとすれば、自身が四十歳前後だったのではないか。若く考えても三十歳は越えていただろう。人種的にはたいして変わりがないわけですから、四、五十の人間と、八、九十に見える人間の区別がつかないだろうか。
太古から、人間の営みは自然とともにありました。日本や中国では四季があり、季節にあわせてさまざまな作業、行事があります。鳥が渡り、動物が動き、木々が芽をふき、実り、葉を落とす。部族や自らの生存にかかわることです。いやがおうでも意識せざるを得ない。正月や春夏秋冬の四分法は知らなくても、それは中国人が勝手に決めたことですから、生きるのに不都合はない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではありません。水の管理、草取り、動物や昆虫の防除など日常的な業務が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程、一農業年が一年と考えるのが普通です。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生します。
倭人は「春耕、秋収」という太陽の運航がもたらす自然のサイクルにしたがって暮らしていたわけです。そのサイクルの一つが、一つのブロック、つまり、年期として意識されるだろう。これは世界中どの民族でも同じことです。古田氏は机の前で文字だけをこねくり回している。
第三章は「三世紀の盲点」で、「それは島だった」、「疑いなき邪馬一国」、「真実への道標」の三節があります。
半分近く読んで、ようやく解ったのは、書かれた文字はすべて正しいという立場をとっているらしいことです。千里と書いてあるのは正しいから、現在、通説となっている尺度は間違っている。縮めれば良いんだ。古田氏が長里、短里というものを持ち出しているのは知っていますが、この本に説明は書かれていませんでした
八、九十という年齢表記は正しいから、一年で二歳にすれば現実的になる。おそろしく独善的な思考法です。この人とコミュニケーションをとるのは難しいだろう。自分勝手に言葉を定義し、共通の認識を拒絶していますから。しかし、ここまでくると読むのが楽しくなってきます。
距離の記述がすべて正しいなら、それを測量したのは誰だ。いつ、どういう方法で計ったのだ。そういう現実問題が出ますが、この人は答えを用意する気がない。小説なら頭の中のイメージだけで済まされますが、歴史は過去の事実です。実際の人間の行動、可能、不可能を離れることはできません。しかし、それに配慮する神経はない。
古田氏は、“さまざまな文献から歴史の真実を探り出すのではなく、文献の真実に合わせ、歴史をひねり出す”のです。
でも、同じ文献内の矛盾にはどう対処する? 距離に関してはくどくど書いていますが、不弥国から先の、水行二十日で投馬国、投馬国から水行十日、陸行一月で邪馬壹国という日程表記は完全に無視です。これを無視すると女王国へはたどりつけないのですが、いきなり現れた万二千余里を女王国までの正しい距離だと採用します。先ほどと同じで、誰が測ったのだ。
倭地は帯方郡から女王国までの距離、万二千余里から帯方郡から狗邪韓国までの距離、七千余里を引いた五千余里でした。そこから狗邪韓国から不弥国までの三千七百里を引くと、残りは千三百里。それが不弥国から女王国までの距離になります。千三百里という短い距離は、同じ魏志の水行、陸行あわせて二ヶ月という記述と相容れない。
どちらを優先するかで、距離を取り、時間でかかれた投馬国、邪馬壹国は信用できないから無視なのでしょうか。実際の人間の行動を考えれば、日中活動して、夜は寝てという日にちの記述の方がずっと信頼できるでしょう。こういうところで泊まった、こういうことがあったと記憶をたぐれます。万二千余里は直線距離なのか、行程距離なのかということすらわかりません。
長里、短里に関して言えば、そんなものは存在しません。古田氏は地図を眺めながら長里、短里と区別している。現在の、正確な測量術に支えられた距離と比べているわけです。単に千里と書かれている文献が、長里か、短里かは、現在の資料を当てにしなければ決められない。そんな書き方を古代の誰ができるというのか。古田氏にとって未知の土地の距離を書いた文献、たとえば千里とあるようなものを示して、地図や地理資料を見ずに長里か、短里か教えてくれといえば、絶句するでしょう。鉛筆でも転がして決めるしかない。「長里で千里」、「短里で千里」というような書き方をしなければ、第三者には伝わらないのです。古代の文献にそんなデータはありません。
言葉や文字はコミュニケーションの道具です。共通の認識がなければ相手には通じない。書物は不特定多数の読者を想定して書かれています。里と書いてあるだけで、長里、短里という判定ができる読者は存在しません。時代毎に少し変動しますが、里は一つです。魏書、董二袁劉伝第六に「(黎陽を出て)洹水に到る。鄴を去ること五十里。」という記述があり。通説通り、魏の一里、434.2メートルで計算すると21キロほどになり、実際の距離にほぼ一致します。同じ書の中で、何のことわりもなく長里、短里などと使い分けられるはずがないのです。倭人伝など、大きく狂っているのは、その距離が間違っていることを示します。朝鮮半島から対馬、壱岐、北九州と海を渡りますが、実際にはすべて距離が異なるのに、千里に統一してある。こんなものだろうという心理が読み取れるではありませんか。
中国の史書が、日本を海中の島と表記していることから、津軽海峡が知られていなかったのに、本州を海中の島と呼ぶのはおかしい、九州のことだと説きます。問題は当時の中国人が日本をどうとらえていたかということで、実際の地形を知っていたかどうかではありません。倭人伝に記されているのは彼らの得た心象なのです。女王国から東南船行一年で裸国、黒歯国に至るとされ、日本ははるか南方まで島々が連なると考えられていました。
隋書にも津軽海峡を知っている形跡は全くないと記されていますが、隋書俀国伝に「夷人は里数を知らず、ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」とあり、 “東西が南北より二ヶ月も長い横長”ですから、縦長の九州ではありません。本州を島と扱っていることを指摘しておきます(これも、あくまで当時の日本人、中国人のイメージで、明確な地形を知っているわけではない。隋代には方向は正しく東と認識されています)。
この俀国も 九州だそうですが、前後の文を記しながら、自説に反するこの記述は飛ばされています。
津軽海峡を知っているからこのような難癖をつけるので、知らなければ素直に読むはず。ここでも現在の地形図、地理知識にむりやり合わせようとしています。倭人伝の邪馬壹国へ行きたければ、当時の人々の心の中にあった地図に従うしかない。最も近いのは右の混一彊理図でしょう。
古田氏はヤマイチ国と読んでいますが、百衲本後漢書の李賢(章懐太子)注に邪馬臺は「邪馬惟音の訛なり。」とありますから、唐代にはヤマユイに近い音だと考えられていたことになります。ヤマイーですね。一や壹、伊を書き分けているのは、発音に微妙な違いがあったためではないか。イッ、イー、イというような。古田氏が邪馬壹国を主張されているのは知っていますが、私とは全く異なるアプローチでした。古田氏の論拠を挙げてみます。
1、三国志の原文には邪馬壹国とあり、邪馬臺国とする版本が皆無であること。
2、壹と臺の字が酷似しているような形跡はない。
3、三国志中で壹と臺の使用を調べたが、取り違えられていると認められる箇所がない。
4,三国志の中で臺は天子の宮殿と直属官庁を現す至高の特殊文字として用いられている。(蛮夷の国には使えない。)
2に関しては、私も書いていますが、私はデザインやレタリングを学んだことがあり、文字を書き慣れた人間にとって、間違えやすい文字ではないという実感を持つからです。壹與が二行に三回も現れているのに、勝手に臺與に訂正できないでしょう。臺與と書いているのは、唐代に作られた梁書以降なのですから。
古田氏の真意は原文の文字を「簡単にいじるな」ということだそうで、これには大賛同できます。私が邪馬壹国とするのも同じ立場なのです。地名が変化している可能性を否定することはできません。邪馬壹を邪馬臺に改訂する根拠がなく、百数十年後の後漢書以降の書物や、日本の史書に残された地名に合わせてという扱いはあまりにも安易です。
この一節だけは論理的で説得力があります。ただし、3、4が正しければ。大判の、厚さ五センチもあるような本の全文を自分で確認しようという気にはなりません。しかし、この人のデータの出し方を見ると、疑う心は残ります。たとえ古田氏が間違っていたとしても、私の立脚点は全く異なるので、影響は受けないのですが、別の方向から同じ結論が出せるなら、より堅牢になるのでありがたい。
古田氏は邪馬一国と勝手に修正しています。明代に復刻された北宋本では邪馬一になっているので、簡略化してこれを使用したそうです。「一」と書いてあったものが、大幅に複雑な「壹」に訂正されることはまずないでしょう。「壹」とあったものが簡略化されて「一」になった可能性が強い。それなら、やはり、原初の邪馬壹を使用するべきです。一大国、邪馬壹国と文字を書き分けているのは理由があるはずです。
一は漢音でイツですから、一大はイツターという音になり、壱岐の石田郷のことだとわかりますし、壹はユイ音と考えられています。原文の文字を簡単にいじるなといいながら、自らは安易に文字をいじって行動を伴っていません。
中央公論社の「日本の古代」は、魏志にありもしない「一支」、「邪馬臺」を原文の中に置き換えています。修正したということわりはありますが、やり方が逆で、原文通り「一大」、「邪馬壹」と書き、私は他の資料を根拠に「一支」、「邪馬臺」が正しいと考える、というふうな解説を付けなければいけない。「日本の古代」が三国志原典に置き換わる可能性はありませんから実害はないのですが、印刷術のない頃、古代の学者がこれをやっていると危ない。勝手な解釈による変更が後世に伝わり、原典が消え去る可能性があるのです。私自身の経験では、淮南子と呂氏春秋の内容が異なっていて、淮南子の要約、つまり、学者の解釈が狂っているのを見つけたことがあります。原典の呂氏春秋が失われていたら、間違いが幅をきかせていたわけです。淮南子の間違いに気づかず覚え込んでいる人もいるでしょう。
帯方郡から不弥国まで一万七百里ありますが、勝手に一万六百里に減らしています。その説明はなされていません。伊都国から放射状とでも解釈しているのでしょうか。「邪馬臺国はなかった」を前提にしているようで、どういう理由かわからない部分があります。ともかく数字には絶対こだわるのに、解釈は気ままで、その数字に合わせようとします。それは魏志倭人伝の解読ではなく、魏志倭人伝を元に、自らの心のままに歴史をあやつること。もはや古田志倭人伝と言えます。数字あわせのテクニックはあまりにも複雑すぎて、この場で簡略化して伝えることができません。全文を写さねばならない。なぜ、これほど数字に支配されるのか不思議です。
陳寿がいかにすぐれた歴史家であるか、一節をさいて力を込めて語り、陳寿が書いたと扱いながら、そのすぐれた歴史家が、複雑きわまりないテクニックを駆使しなければ理解できない、暗号文のような書き方をしたことになる矛盾に気がつかないのでしょうか。
やっとここで、水行二十日で投馬国、水行十日、陸行一月で邪馬壹国という日程が、わずか千三百里になるのか出てきました。水行十日、陸行一月は帯方郡から邪馬壹国までの総日程だそうです。でも、帯方郡から末羅国まで、ずっと船に乗って(水行+渡る)一万里です。それがわずか十日ということになります。末羅国(唐津市)から博多湾岸までの陸行七百里を一月もかけるわけですね。マラソンランナーなら二時間少しで走ってしまうのですが。当時の道路事情を考慮し、いくら大げさに見積もっても一週間でおつりがくるでしょう。あれ、水行二十日はどこへ?陳寿にしろ、范曄にしろ、直接、倭を知っている歴史家は存在しません。信頼できると判定した資料にしたがって倭伝を書いています。翰苑にある魏略逸文には魏志と同じ文がある。つまり、魏志と魏略は同じ資料に基づいて書かれているわけです。倭のことをつぶさに書けるのは渡来した帯方郡使しかいない。それなら、元の文は帯方郡使の手になるものだろう。報告書を出したのではないか。陳寿はそれを洛陽で読んでいる。陳寿が倭人伝を創作したのではなく、帯方郡使の報告などを引用し、解りやすく解説を加えて倭人伝を構成したのです。それが常識的判断の積み重ねにより、ごく自然に得られる結論です。
卑弥呼の使者、難升米等の倭人が情報を伝えた可能性もありますが、帯方郡からの行程を細かく書き、土地を観察し、「大人と出会えば草の中に入って道を譲る」など、ささいな日常風景を描写していることを思えば、帯方郡使の文と扱うことに問題はないでしょう。
范曄の時代にはその報告書は失われていたらしく(南朝の宋です、魏から晋、晋が南に逃れて東晋となり、宋と続きます。その過程で重要な書物以外は放棄されるでしょう。)、范曄は後漢書倭伝を記すにあたって、新しい資料と照らし合わせながら、魏志を要約引用、修正したうえで、後漢代の資料から得た、後漢代の倭に関する記述を加えました。後の時代になるほど原資料は失われ、残された魏志などの大著の要約引用と新たに加えられた資料が合成され姿を変えてゆきます。そういう歴史書の変遷を分析した上で考えなければ歴史は解けません。
第四章は、「四〜七世紀の盲点」です。「歴代の倭都は『謎』ではない」、「一大率の探求」などの節があります。
白村江で完敗したのに、日本が滅亡しなかったのはおかしいそうですが、なぜ、百済を舞台にした海外の戦いに完敗しただけで、本国が滅亡しなければならないのか、理解不能です。滅亡すると決まっているのか?
唐の侵攻を恐れ、いかに緊張していたかが日本書紀に記されているのに、この人は何も読めていない。「対馬嶋、壹岐嶋、筑紫国に防人と烽火を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯え、名づけて水城と言った。」と書いてあり、これを九州防衛の為の方策と言わずになんとする。各地に山城を築き、都を近江に遷して、東国へ逃げることまで想定しているのです。
第二次大戦時、日本が降伏したのは、本土が攻撃されたからで、ビルマや南洋諸島で完敗しても、即、降伏ではない。そういう違いが弁別できないようです。皇国史観がどうのこうのと書いていますが、史観の問題ではない。現実に対する認識力の問題で、古田氏には大幅に不足していると言わざるを得ません。
翰苑のことをくどくど書いていますが、無批判に文字に飛びついて、自らの都合に良いように解釈しているだけです。翰苑は唐代の作です。時代ごとに知識が変化し、作者にはおのおのの力量がある。著作物はそれを逃れることは出来ません。魏志などに比べ文献としてのレベルは相当に低いのです。翰苑をつぶさに読みながら「太伯の後」を無視するのはどういうわけか。
翰苑には、「中元之際紫綬之栄」とありますが、後漢書には建武中元二年、光武帝が印綬を賜ったとするだけで、紫綬という言葉はありません。唐代になって、新たな資料が発掘された可能性は薄く、卑弥呼に金印紫綬を授けるという魏志から類推したものでしょう。中元の際に紫綬という資料があったなら、後漢書の「光武賜以印綬」という文に注記されたはずです。注は唐、章懐太子賢が作成させたもので、当時の皇太子ですから、力こぶの入った国家的事業と言って良く、書庫のあらゆる文書を検索していたと思われます。翰苑に関しては、翻訳してありますので、興味のある方は「翰苑の解読と分析」を参照してください。
率とは門衛を表し、一大率は「女王国の都の門衛たる、一つの大きな軍団」と古田氏は言いますが、そんなことはない。魏志毋丘倹伝は部族の頭、おそらく軍事的な指導者を渠率と表記しています。東沃沮伝、辰韓伝では渠帥とされ、率と帥は同義です。卑弥呼の使者、難升米、都市牛利には率然中郎将、率然校尉が与えられていて、率は指揮官を表すにすぎません。卑弥呼を一女子と記していますから、一大率は「一人の強大な軍事的指導者」という意味になります。
その一大率が伊都国で統治し、強大な権限を持って各国に恐れはばかられていた。隣にある博多湾岸の邪馬壹国の存在がいやに希薄になります。何故、邪馬壹国そのものを畏憚しない?
自らのアイデアに酔い猪突猛進。漢文データを大量にまぶし、データに忠実なように装いますが、実は使っていない。自らの情念を語っているだけで、データは、安物ケーキの上の食えないロウ細工の如く、人目をくらますデコレーションとして用いられています。梅原猛氏と同じ臭いを感じました。真実を探求する歴史書ではなく、知的お遊びとして読めばよろしい。というのが私の評価です。この人の論法をみれば、資料に基づいて論理的に構成、修正という形は望めず、他の著作も同じようなものでしょう。ただ、無価値かというと、そんなことはなく、称賛すべき点が二つあります。
一つは、後漢初期の人々の日本(倭)にたいする認識を、誰もが気づかずに通り過ぎていた文から発掘したことです。 (古田氏は間違っていますが、関連しているという指摘がなければ、私は考えていなかった。)
1、葢国は燕の南、倭の北にある。(山海経、これは秦末か前漢初期の伝承)
2、委は「従う」という意味である。(説文解字)
3、周の成王の時、倭人が鬯草を貢いだ。(論衡、これは中国、呉人のこと)
4、前漢時の燕または楽浪郡に、楽浪海中から倭人が歳時を以って献見したという。(漢書地理志、燕地)
5、建武中元二年、倭の奴国が貢を奉って朝賀した。使者は大夫を自称した。倭国の極南界の国だ。光武帝は印綬を賜った。(後漢書倭伝)
6、昔の話を聞いたら、自ら太伯の後裔だと言った。(翰苑所載、魏略逸文。晋書。梁書)
後漢の王充や班固は上記のデータを一緒くたにして、東夷に住む同じ倭人のものと考えていたわけです。もう一度、彼らのイメージを挙げます。
「朝鮮半島(葢国の南)に住む倭人は天性従順な民族で、殷の箕氏が朝鮮を建国して感化したので、礼節が守られ、中国、周初期の理想的な風俗を残していた。中国人の遼東などへの移住により、それは失われてしまったが、ついこのあいだの建武中元二年、楽浪海中から、太伯が感化した倭国極南界の奴国が、使者の大夫を派遣し朝貢して、光武帝から印綬を賜った。奴国にはまだその良風が残されているらしい。周の成王の時には鬯草を貢いだし、前漢時代の燕にもしばしば顔を見せていたという。箕氏や太伯という仁賢の人の感化はかくも大きいのだ。孔子が海に浮かんで東夷の国へ行こうかといったのは、こういうわけだったのか。」
翰苑の「太伯の後裔」とか、魏志倭人伝、裴松之注の「春耕、秋収を数えて年期としている。」というデータは、おそらく奴国の大夫が伝えたものです(どちらも魏略逸文)。
周の穆王が即位時、「春秋已に五十」と記されたり、孔子が「春秋」という歴史書を編んでいたり、周初期には春秋で年期を数えていたようです。周代の官名、大夫を自称するなど、太伯の感化を受け、倭人はその良風を受け継いでいると思われていました。当然、鬯草を献じたのは、この楽浪海中の倭人と解釈されます。朝鮮半島には鬯草は存在しません。
鬯草とは、鬱金草(ウコン)のことで、熱帯アジア原産、日本では沖縄、奄美大島、屋久島、種子島等に自生するといいます。したがって、亜熱帯、熱帯に産するような草を献じた倭は、亜熱帯以南に存在すると扱われることになります。
「弥生の興亡」で、漢代から、倭ははるか南方に存在するというイメージを持たれていたのではないか、そういう先入観があったため、南北を取り違え、方向が九十度狂ったのではないかと書きましたが、そのイメージの源泉が「倭人は鬯草を貢ぐ」という王充の論衡にあることが明らかになりました。思わぬ所から「弥生の興亡」に強力な援軍が現れたようです。ここでも古田武彦氏に感謝しなければなりません。倭人とは呉人の別称であることをつかんでいたため、楽浪海中の倭人と鬯草が結びつけられているとは思いもよりませんでした。
陳寿は、魏志倭人伝を記すにあたり、奴国を最南端に重出させましたが、「倭の極南界」という後漢代の資料の他に、鬯草の存在も念頭に置いていたようです。上記、鬯草の知識と、魏志倭人伝に記された倭人の風俗が、漢書の儋耳、朱崖(海南島)の風俗に似ていることを合わせ、混一彊理図の形に結実したのでしょう。
もう一つは、「魏臺」が魏帝を意味するため、蛮夷の国に臺の字を与えることはありえない、邪馬壹国だという主張です。 隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見られます。蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れており、「魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…(魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也)」とあります。「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於いてまた能くする所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」
古田氏はここに目をつけられたわけです。高堂隆は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲(九卿の一つ、宮殿の禁門の守備を司る部署の長官)で生涯を終えました。厳しい儒者だったようです。
史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く……(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師……)」と、名前を間違っていますが、同じ文を引用しています。裴松之の文と照らし合わせると、議は義の意味で使われているのではないかと思えます。
後漢書儒林列伝の「物故」の注(唐代)にも、「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の義を訪ねまわった。高堂隆が会って言った。これを先師に聞いたのですが………(在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆合曰聞之先師……)」
太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八には、「高堂隆、魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに………(高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀………)」とあります。明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えました。
芸文類聚(唐代)巻五には、「魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く……(魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也)」と記されています。
上記、太平御覧の質問と同じですが、王粛という人物が答えました。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書物もあるようで、その中の一節かもしれません。しかし、中公クラシックス「論語(貝塚茂樹訳)」の前書き、「孔子とその人間観、世界観(ゆはず和順氏)」に、「…孔子に関する説話を集めた『孔子家語』もあるが、現在伝わるのは、魏の王粛の偽作と論定されており…」という文があり、王粛というのは少しいかがわしい人物かと思えます。盗用の常習犯かもしれない。「魏臺訪議」という書名はかなり特殊で、著述者の個性が大きく関与しているでしょう。別人が同一書名を思いつく可能性はかなり少なく、王粛の関係するものは除外すべきではないか。 裴松之の注が最も古く、原型に近いはずです。太平御覧の「詔して問う」、芸文類聚の「帝問う」という言葉は、王粛か後世の書き換え、編集が入ったと思われます。後代になると魏臺と言う表現は、一般人には何を意味するかわからなかったでしょう。
断片しか残っていませんが、魏臺訪議(義)は「魏臺が意見(理由)をたずねる」と言う意味で、明帝と高堂隆の問答集のようです。おそらく、「魏臺訪議」という言葉がすべての文頭にあり、雑(色々なものが入りまじった。)を加えて書名としたのでしょう。「魏臺とは明帝のことだ。」という古田氏の指摘に間違いはありません。(訪=とう。王訪于箕氏。王、箕氏に訪ぬ。学研漢和大辞典)
三国志編纂者の陳寿が倭の国名を直接知るはずはなく、何らかの資料から得たものです。その資料の書き手は帯方郡使としか思えない。邪馬壹国(女王国)まで至ったのは正始八年に派遣された張政等のみですから(弥生の興亡参照)、張政あるいはその同行者の手になるものだろう。明帝の死は景初三年正月一日ですから、派遣されたのは八年後。張政は三十四歳(あるいは三十六歳)で亡くなった明帝と同時代の人と言って良いでしょう。高堂隆の死は景初年間で、明帝に数年先立ちます。
高堂隆が明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられますから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは考えられないのです。「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずです。しかも「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と鬼道を嫌い軽蔑しています。 「考えられない」、「史官の首がいくつ飛んでも足りぬような所業だったと思われます(古田氏原文)」と言うしかなく、それは推定に過ぎないのですが、根拠のしっかりした、きわめて妥当な推定と考えます。古田氏は正しい。
私の場合は、百衲本後漢書の邪馬臺に、「邪摩惟音の訛」という注が入れられていることから、注の入れられた唐代には、すでに、魏志に「邪馬壹」、後漢書に「邪馬臺」と別の文字が記されていた。後漢書の范曄は、何らかの資料を得て魏志を修正した上で要約引用している。日本には神武天皇の東征という王朝交代の伝承があり、魏志から後漢書までの百数十年の間に、王朝交代に付随する地名の変化があったかもしれない。范曄は変化後の地名を記したと考えることができるので、簡単に文字を変えるなというものです。(弥生の興亡1「邪馬臺国か、邪馬壹国か」。補助資料集「邪馬壱国説を支持する史料とその解説」参照)
実際のところ、地名が変化したと確信しているのですが、日本側資料から、消されてしまった弥生時代の地名の存在を立証するのは不可能です。万人に承認されるレベルの表現ということで上記の形にとどめておきます。私は「解らないから変えるな」ですが、古田氏はもっと強力な「ありえない」という否定です。魏志の邪馬壹を邪馬臺の間違いと主張する人は、この二つの壁を論破しなくてはならない。後世の引用に邪馬臺が多いからといって、それが原型とは限りません。中央公論「日本の古代」で例示したように、研究者は、自らが正しいと思いこめば平気で文字を入れ替えるのです。范曄がすでにそう言えます。
帝という称号があるにもかかわらず、どうして魏臺という言葉が生まれ重複化されたのか。そういう疑問がでてきますが、政治の実権を握りながら、名目上はあくまで漢、献帝の臣下であった曹操がいたことに気がつきます。曹操は魏王に任ぜられましたが、天子の旗や冠の飾りを許され、諸王の上に立っていました。帝とは呼べないこの人物を魏の内部で魏臺と表現したのがはじまりではないでしょうか。もちろん正式な称号は魏王ですから、私的な称号として。 
松本清張氏

 

「清張通史1、邪馬台国」(講談社文庫)という本を見つけました。「ああ、この人も北九州説だった。」と思い出したので、この本を分析してみます。
第一章は「神仙伝的倭人伝」です。
『倭人条の資料となっているのは、当時、魏の出先機関のあった朝鮮の帯方郡の使者が、何回となく倭人に行って、そこの伊都国に滞在したときの報告がおもであったと思われる。』と書いていますが、倭人伝に出てくる帯方郡使の派遣は梯儁、張政の二人を代表者とする二回だけです。「何回となく」というのは個人的な想像にすぎません。倭人伝はこの二度の遣使の報告を元に書かれました。
天智天皇時代、白村江での敗戦の後、重要な外交交渉のため唐の使者が百済から来日しますが、八年間で四度です。卑弥呼の時代は十年間で二度なので、時代を考えればこんなものでしょう。中国側にしてもエネルギーのいることで、足しげく往来できるような土地ではなかった。外交と民間交渉の違いが認識されていません。私も以前は自由に往来していたように思っていましたから、えらそうなことは言えないのですが。この本の第一刷発行は1986年。ちょっと古いかな。
魚豢が「魏略」を書き、その「魏略」を資料として陳寿の「三国志」が書かれたとしていますが、これも根拠がない。前段で、帯方郡使の報告が残っていたと考えているのに、なぜ、最も確かな資料を使ったと考えないのだろうか。二人は同時代の人で、魏略がわずかに先立つとしても、魏略も資料にもとづいて書かれているわけですから、その元データ、魏略と同じ資料が利用可能です。そちらの可能性の方がはるかに強いのに。二人が平行して書き進めていたなら、ライバル関係になりますから、意見交換なんてないでしょう。
たとえば魏志の 
1、「好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之」(魚やアワビを取るのを好み、水の深浅にかかわらず、皆、沈没してこれを取る。)
2、「今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽」(今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るのを好み、文身はまたそれで大魚、水禽を追い払うためであった。) の部分を、魏略逸文は
1、「人善捕魚、能浮没水取之」(人は魚を捕るのが上手で、うまく水に浮き沈みして、これを取る。)
2、「今倭人亦文身以厭水害也」(今、倭人はまた文身しそれで水害をはらう。)
と記しており、魏略の方が要約であることを示しています。魏志を元に魏略の文は書けても、魏略を元に魏志の文は書けません。ないものを編纂者が勝手に付け加えるのはデータの改竄で、それは歴史を誤らせるからです。
2の文例では、魏志の「沈没して魚蛤を捕るのを好み」の部分が、魏略では省略されています。おそらく、重複とみて削除したのでしょう。同じく2の文例から、魏志では、「好」は「好む」の意味に使われているとわかりますが(*魚やアワビ、蛤を好み水に潜る頻度が多いから、文身で身を守る必要がでてくる。)、魏略は文例1で「善」と変え、「上手だ」という意味に誤解しています。これは列子にある、「呉之善没者、能取之」(呉の善く没する者は能くこれを取らん)という文に影響されたかと思われます。「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後という。」とも記しており、魚豢は倭人を呉の後裔と考えていたのです。
実際は「夏后少康の子」という越の後裔で、陳寿は、「その道里を計るに、まさに会稽、東冶(=越)の東に在り。」と記し、越の子孫であることを把握して、「太伯の後」に言及しません。両者の書いている、「夏后少康の子…」という文が、帯方郡使の報告の中にあったわけで、魚豢は「太伯の後」を別の資料から得て、付け加え、解釈が変わったのです。「太伯の後」は後漢、光武帝に朝貢した奴国の大夫が伝えたもの、後漢代の資料と思われます。「夏后少康の子…」は漢書地理志粤地の文を元にしていますから、帯方郡使にもかなりの教養があったことになります。
魏略は、他にも、高句麗の始祖伝承を夫餘に組み入れたりして、不正確な部分があります。「旧志はまた言う」と書いており、先行後漢書から引き出したものでしょう。論衡に同じ文があり、元データは論衡(後漢初期の書)かもしれません。この魏略の、夫餘と高離(コウリ)の国名を入れ替えるという間違いは論衡の著者、王充の勘違いから始まった可能性があります。高句麗も光武帝に朝貢しており、この時、高句麗の始祖伝承が中国に伝わったものと思われます、それを王充が勘違いしたのでしょう。 魏志に注を入れた裴松之は、魏略から大量に引用しているにもかかわらず、魏略はあまり信頼のおけないことを記しています。魏略を元にしているとする清張氏は、魏志はそれに何のデータを加えたと考えるのでしょうか。そのあたり謎です。歴史は陳寿が勝手に作れるものではありません。歴史小説を書いているから、小説と歴史との混同があるのかな?ひょっとしたら、魏志の注、「魏略曰く…」という文は陳寿が入れたと思っているのかもしれない。宋の裴松之が入れたものなんですが。
『紹興版の魏志倭人伝がクセモノ。』 理由がわからない。原本が存在しないのは、古代書すべてに言えることです。書き継がれている間に、元の形が変化することは大いにありうる。それは間違いありません。しかし、すべての書籍が同じなので、紹興版だけを特別視することはないわけです。
それに、意図的な書き換えというものが、まったく想定されていません。時代がくだるほど研究者の関与が増え、書き換えの危険性も増します。ヤマトという国名があり、ずっと日本の中心だったのですから、邪馬台が正しいと考えるのが普通でしょう。遣唐使が大量に派遣された唐代、尋ねられた日本人は皆、邪馬壱ではなく邪馬台だと主張したに違いありません。唐以降の学者は自然に邪馬台になるのではないか。でも、王朝が交代していたら、それ以前の国名はどうだったか?
『紹興刊本の「壹」が絶対だとはいえないのである。』 古田武彦氏の「邪馬壹国説」を意識しているなら、文字がどうこうではなく、「魏臺訪議」に関する主張をくつがえさなければ否定になりません。要点がわかっていない。
その紹興本で、難升米が派遣されたのは景初二年とされているのを、日本書紀の引用には明帝景初三年とあり、こちらが正しい。紹興本が狂っているのだと、証拠として挙げられるのですが、明帝は景初三年正月一日に死亡しており、その日に斉王芳が即位しています。最初の一日の一部だけで明帝の年と言えるだろうか?それに、景初三年(239)の六月に難升米が帯方郡に着き、十二月に制紹を受け、翌、正始元年(240)正月に朝見して、その年の夏に、制紹に記された鏡などの下賜品とともに帰国したことになります。移動の時間を考えると、鏡などを作っている時間がない。わずか二ヶ月ほどです。したがって、景初三年を主張する人は、そこいらにある鏡や布地の中古品をかき集めて贈り物にしたと解釈しなければならない。森浩一氏が雑誌でそんな発言をしていました。しかし、それで魏の偉大さを伝えられると言うのか?蛮夷の国に対する中華の体面は保たれるのか?「難升米は道中苦労しているので、引見してねぎらう」と制紹で宣言した帝も八歳の斉王芳になります。
誤解の元は、難升米が魏へ派遣されたとすることです。当時、遼東から朝鮮半島中部は公孫氏が支配し、半独立状態でした。魏志韓伝は、倭や韓が公孫氏の作った帯方郡に従属していたと記しています。難升米は以前から交流していた公孫氏の元へ派遣されたと解釈するのが妥当です。倭で難升米の派遣が決まった時、魏と公孫氏が戦っていることさえ知らなかったはず。景初二年でなんの問題もなく、かえって景初三年にデータ間の様々な不整合が現れます。そのあたりのことは、「弥生の興亡、魏志倭人伝から見える日本」で詳しく解説していますから参照していただければと思います。
『倭人伝にはあいまいな記述が多くて、具体的な事実を知るのに困ることがある。』とか書いていますが、それは読み手の頭があいまいなだけのこと。帯方郡使の報告のすべてが採用されたはずはなく、その抜粋ですから、『つながりがなめらかでない』というのは当然です。もっと様々なことが記録されていたでしょう。ただ、書物にするには全体の分量とか東夷伝の他の国の記述とのバランスに配慮しなければならない。知っているすべてを書き込めないのは作家として当然ご存じのはずなのですが。何を選択するか、重視するかは陳寿の仕事で、陳寿は「編纂」したのです。
『「以て卑弥呼死す」とあるが、その主語に当たる章句がない。これなどは代表的な脱落である。』 意味は通じます。その前の文章に、狗奴国と戦い形勢不利であることが記されています。それを受けて、「以て」と書かれた。書かなくても解りきっているではないかというわけです。三国志に限らず、中国の文献は、すべてにわたって、そういう書き方で、手取り足取りの日本人向け親切さはありません。ここは「狗奴国との戦いの影響で」という意味になります。元データから抜粋した別の文を、整理して続けたためこのような形になったとわかります。ここまで書いて原文を確認したら「卑弥呼以死(卑弥呼以て死す)」になっている。卑弥呼が主語ではないか! 清張氏は原文を確認せず、うろおぼえで書いている!
野蛮国への悪字。倭人伝では卑、奴、邪、狗、馬など。東夷伝の各国も卑しんだ漢字が多い。『私は魚豢、陳寿のしわざとみたほうがよいと思っている。』、『郡使の報告ではそういうヘンな文字ではなかったのであろう。』と言われても、なぜ郡使は悪字を使わなかったと考えるのか?不明です。彼らも陳寿などと同じ儒教の徒で、鬼道という邪教に支配された邪馬壹国には強い違和感を抱いていました。「鬼道に事え、よく衆を惑わす。」という文にそれが現れています。惑わす為政者にも、惑わされる衆にも軽蔑を感じていたでしょう。後漢、霊帝の末に黄巾の乱がありましたが、郡使にとって、卑弥呼はその首領、張角と同列になるはずです。陳寿や魚豢が文字を変えたとするのは何の根拠もなく、帯方郡使の報告通りと考えて問題ありません。
韓伝の国名にも同じような文字が使われています。後漢に朝貢した奴国以外の倭国名は、帯方郡使が倭を訪れるまで知られていなかったわけです。帯方郡は韓と国境を接しているうえ、戦ったりしていますから、その情報は大量に持っている。韓に関するさまざまな文書が発行されたはずで、地域を特定するには国名を書かねばならない。国名に悪字を使ったのは韓の方が早いでしょう。帯方郡使はその韓の各国に使われる見慣れた文字を、倭国名の同音に流用しただけではないか。
陳寿、魚豢が国名の文字をかってに悪字に変えたと考えたい。それは松本清張氏の願望にすぎないのです。「なんで、こんなことを考えにゃならん。」と思いつつ書いていたのですが、なんたる知能犯! 探偵小説風に書いてみましょう。
「おい、松本。ネタはもう割れてるで。ぜんぶ吐いて楽んなれや。」
被疑者はうすら笑いを浮かべながら煙を吐いた。
「後はどうしてくれんまんねん。」
清張氏は「魏臺雑訪議」の重要性を認識している。そして、魏臺が明帝を表すことも否定できないと考えている。明帝であるいじょう、帯方郡使が蛮夷の国名に臺を使うことはありえず、魏志倭人伝の記載どおり、邪馬壹国を認めるしかない。で、郡使と国名を切り離しにかかったのです。
晋代に歴史を書いた陳寿なら、臺を使うのは問題ない。これで邪馬臺と主張できる。魚豢は魏に仕えたが晋には仕えていない。臺を使うかどうか微妙ですが、おそらく使わないだろう。清張氏は晋の史官と書いているから(=間違い?ごまかし?)、魚豢も使えるという扱いです。
魏志、魏略にはほぼ同じ文がある。ともに帯方郡使の報告に基づくとすれば、国名は帯方郡使の報告書に含まれてしまうから邪馬臺はありえない。魏略逸文は女王と記すだけで邪馬壱も邪馬臺もないので、魏略が帯方郡使の報告を元に書き、魏志は魏略を元に書いたとしておけば、帯方郡使の報告と魏志の間にワンクッションができ、魏志は邪馬臺だと主張できる。そして、紹興本はクセモノです。間違い、脱落があるぞ、信頼できない。邪馬壹と書いてあるが、実際は邪馬臺だったと。
ここまでの文は魏志倭人伝の邪馬壹国を認めたくないという感情の発露だったのです。古田武彦氏を強く意識しながら無視して、こっそりその邪馬壹国説の核心部分を打ち消すための布石を打っていた。それがちっとも成功していないのは、私が指摘したとおりです。
正面から対決すると負けなので、搦め手へまわって魏臺訪議との接触を避ける。帯方郡使の報告には邪馬壹なんて文字はなく、どんな文字かわからないがヤマタイという発音で記されていた(郡使は臺を使えない)。それを元に書いた魚豢は女王国と書いているのみ、魚豢にも可能性があるが、たぶん、陳寿が勝手に悪字の邪馬臺に書き改めたんだ。頼りない紹興本はそれを邪馬壹に間違えたんだ。「古田氏とおんなじやりかたやんけー。」思わずお里が出てしまいます。
すべて、何の裏づけもない自らの思いだけに支えられた推論です。思考の流れに沿って書いてくれればついて行きやすいのですが、逆転させてあるし、古田氏のことをおくびにも出さないから、意図が読み取れない。これが推理作家のテクニックなのか。
「歳時を以って来り献見すと云う。」漢書地理志燕地の文ですが、天子のところへ行くのは朝見で、献見とはちがう。これは中央にとっては伝聞に過ぎないから「云う」という言葉が付きます。燕地の中に書いてあるのですから、「定期的に燕の都(あるいは楽浪郡)へあいさつに来ていたらしい。」という意味で、長安へ来たというのは清張氏の誤解です。朝というのが朝廷を意味します。(後の文で正しい解釈が書いてありました。しかし、地理志燕地にしかない文を長安への朝貢と解す研究者がいるのか?)
『「倭人」の条の筆法が「東夷伝」諸国のそれとどうちがうかといえば、後者がひじょうに現実的な筆で書かれているのにたいし、「倭人」の条には、かなり主観的で観念的な叙述がはいっている。ひとくちにいうと、それは倭国が神仙思想による理想郷として描かれているのである。』
漢書地理志燕地の「孔子と倭人」の関係を書いていますが、これは古田武彦氏のところで明らかにしたことです。孔子が「筏に乗って行こうか。」と言った、道の行われている海の向こうの国とは、殷の箕氏が作った泥棒もいないという伝説の国、朝鮮のことです。日本と関連づけたのは後漢初期の人々、班固や王充で、呉の太伯との関係です。清張氏のいう神仙思想と孔子は何の関係もありません。「人々は長寿だ。」という倭人伝を、帯方郡使の報告の写しだと認めない清張氏の意固地がすべてを狂わせ、神仙思想というとりとめのないイメージの世界へ迷い込んでゆきます。倭人伝も他の東夷伝とかわりなく現実的な筆で書かれているのに。
歴史はデータに基づいて書かれます。データを要約(内容を変えないで文章量を節約)したり、分析して自分の見解や感想、読者の理解を助ける解説を付け加えたりすることはできますが、データそのものを作ることはできない。選択したデータが間違っていれば歴史も間違うし、要約のミスもある。解説が的はずれのこともあるだろう。しかし、自分の想像、主観的で観念的な叙述、を何のことわりもなしに紛れ込ませれば、それは歴史ではなくなってしまうのです。文章を書くのは同じでも小説家と歴史家には姿勢の違い、越えてはいけない垣根があります。それがわかっていないのでしょうか。
確かに倭を理想郷のように考えています。後漢の光武帝時代、奴国の朝貢により、彼らは周初期に呉に封じられた太伯の後裔が楽浪海中に移住していることを知りました。使者の倭人は大夫という周代の官名を自称し、倭では春秋で年を数えるなど、「周初期のような天下太平、平穏な暮らし」を維持していることを伝えたようです。後漢書の「使人自称大夫」という記述には、中国人がそのとき受けた大きな衝撃が凝縮されているのです。「(周の)成王の時、天下太平。倭人は鬯草を貢ぐ。」という論衡の記述には、光武帝時代に平和が訪れ、千年の時を越えて倭人が再び現れたというめでたさが含まれている。つまり、倭へのあこがれは、自分たちが失ってしまった「泥棒もいないような礼節の守られた暮らし。周初期の天下太平」に対するノスタルジアであって、神仙思想によるものではありません。論衡は次のように書いています。「太平の時、人民は百歳ほどの長寿であった。和やかな気分の生むところである。」 太古の帝の年は百歳以上や九十数歳との計算結果を続けて、それは事実だと示します。
そういうことから、陳寿は、帯方郡使の「その人寿考、或いは百年、或いは八、九十年」、「その俗は国の大人はみな四、五婦。下戸は或いは二、三婦。夫人は淫せず妬忌せず。盗竊せず。諍訟少なし。」という帯方郡使の報告を重要だと考え、倭人伝に組み込んだのです。近年、争うようにはなったが、中国の春秋戦国に比べればたかがしれている。まだまだ、その遺風は残っているのだというのでしょう。陳寿のデータ選択は合理的かつ論理的です。清張氏の言うような主観的、観念的記述は一切ありません。
第二章は「倭」と「倭人」
三世紀の朝鮮とか、蓋国とか書いていますが、地理関係が全くでたらめです。漢文を正確に把握できていないから、何を書いても的はずれ。史書には書いていないことまで書いてある。勘違いなのか、意図的なねつ造なのか?困った。こまごまとかいてあることを全部否定しなければならないのに、とりとめがなくてまとめにくい。
まず、弁辰を任那の位置に置いている地図が間違い。魏志韓伝には、「辰韓は秦の労役を逃れて馬韓にきた部族で、馬韓が東の土地を割き与えた。」、「弁辰は辰韓と雑居している。」と記されています。雑は「入り混じる。」という意味で、馬韓の東、後の新羅の位置で、辰韓と弁辰は国境など定められないくらいバラバラに混じって住み分けていたのです。合わせて二十四(二十六)国が記されていますが、辰韓と弁辰を入れ混ぜて書いてあります。そして、弁辰瀆盧国の南に倭があり、倭人が帯方東南大海の中にあるのです。
だから位置関係は「西に馬韓」、「東に辰韓・弁辰(弁韓)」、「辰韓・弁辰の南に倭」、「朝鮮半島南の海中に倭人」となります。これは後の百済、新羅、加羅(任那)、日本の位置関係にそのまま受け継がれます。新羅は、ほぼ対等の力をもつ辰韓と弁辰の融合国なので、政治環境が非常に複雑になり、王家が何度も入れ替わっています。倭は現在の慶尚南道の大半を領有したと思われます。狗邪韓国(弁辰狗邪国)が海岸沿いにあることから、全羅南道の一部は、馬韓ではなく、弁辰に含まれていたことになります。以上のことは史書をたんねんに読めばわかることなのです。
山海経の「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」も山海経だけで考えていればわからない。倭は中国内部になってしまうと書いていますが、前漢成立時の燕国は朝鮮半島北部まで領有していました。その頃の記録なのです。葢(カイ)は濊(カイ)と同一です。漢書では穢と記していますから、カイともワイとも聞こえるような音、クヮイという国名だったのでしょう。
濊(蓋、高句麗東に蓋馬大山あり。)は、元々は、燕の南の朝鮮半島中央部を領有していました。ところが武帝が東方進出して玄菟、楽浪などの四郡を建てたため分裂した。北方に逃れた者が夫餘を建てたのです。夫餘王は「濊王の印」を授けられていた。「古の亡人」(昔の逃亡者)と言い伝えている。国(中国、おそらく玄菟郡)には濊城という名の古城があるから、おそらく元は濊貊の地で、夫餘王はその中にいたのだろう。自ら亡人というのは理由があるのだという記述が夫餘伝にあります。
中国人が単に「国」というときは、中国を意味することがある。倭人伝の「於国中有如刺史」も、「国中に於ける刺史の如く有り。」と読み下します。国は中国(魏)です。こういうことは専門学者でさえ気づいていないので、清張氏を責めるのは酷かもしれません。陳寿が「濊(カイ、ワイ)」と記したのは、山海経の「蓋(カイ)」、漢書の「穢(ワイ)」との整合性を取るためか、「濊王之印」という文字の確実なデータを得たためでしょう。
清張氏は夫餘が北方から南下してきたと書いていますが、間違いです。魏略が高句麗始祖伝承を夫餘のものと誤解した。裴松之注としてそれが夫餘伝に付け加えられていますが、何のチェックもなく鵜呑みにしたようです。実際は、高離(高句麗)が夫餘から逃亡して南下したのです。これは三国史記高句麗本紀を読まなければわからない。
「倭」と「倭人」の区別は清張氏の対談本から知り、自分で倭人伝を読んで、正しいと確信するに至ったのですが、言いだしたご本人が正確に把握できていないことを知りました。「倭人は」という書き出しのみの区別、朝鮮半島南部の倭との混同を避けるために陳寿が編み出した区別です。とうぜんながら、陳寿は「楽浪海中有倭人」という漢書地理志の文を意識しています。
「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴て乍南乍東。その北岸、狗邪韓国に到る。」この文のどこから「倭はどこにあるのか。」という疑問が出るのかと思いますが、清張氏には難しい。目的地は「郡使、往来し常に駐する所」という伊都国で、その土地が倭です。狗邪韓国が北岸だから海を渡った南岸にある。大河の渡りを想像すれば簡単です。途中の小さな中州二つ、つまり、対馬や壱岐に立ち寄っても、そこは目的の南岸ではない。だからここでいう倭は九州です。
帯方郡使の文そのままなので、「倭」と「倭人」の区別には何の関係もありません。帯方郡使の報告を元に魏略が書かれ、魏略を元に魏志が書かれた。魏志は陳寿の文だという最初の設定が、すべてを苦しいものにします。倭と倭人が魏志のすべてにわたって区別されていることになりますから。
『「倭人伝」でも紹興刊本は「邪馬壹国」になっているが、後漢書では「邪馬臺国」であり、その下に南朝宋の范曄が、《按ずるに今、邪馬堆となづくるは昔の訛なり》と注釈をつけている。』
別に紹興本だけが特別ではありません。百衲本(紹煕本)でも「邪馬壹国」なのです。とにかく、邪馬臺国と記す三国志は存在しません。
後漢書に注を入れたのは、唐の章懐太子賢で、范曄というのは間違いです。宋の范曄が編纂し、唐代に注が入れられた。その注の原文は、「案今名邪摩惟音之訛也」です。読み下せば「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」これは百衲本で、後漢書集解では「邪馬推音の訛」となっています。
現代語訳すれば、「(後漢書の著された宋代から唐まで続く邪馬臺という)今の名を勘案すると、ヤマユイ(ヤマスイ)音のなまりである。」
訛(なまり)は言葉がすべって変化することをいいます。邪馬堆なんてどこにも書いていないし、昔の訛なんてことも書いていない。魏志が邪馬臺(邪馬堆、ヤマタイ)と書いてあって、後漢書も邪馬臺(ヤマタイ)なら何も変化はない。注自体が必要ないのです。後漢書には邪馬臺(ヤマタイ)と書いてあり、唐代の今の名もヤマタイだ。でもそれはヤマユイ音の変化だというのです。では、ヤマユイ音を記している後漢書より古いよく知られた書があったことになる。
清張氏の読み方はまったくでたらめです。おまけに「惟」を「堆」に、「音」を「昔」に改竄してしまった。原文を知らない人は、こんなことでも簡単にだまされてしまいます。
「案ずるに今」、邪馬臺の注に、書いている今、案じることがどういう意味を持つのだろうか?それを書く必要があるのだろうか?それに、そんなときは、今が前に来るはずです。「なづけるのは昔の訛だ」なんて日本語なのか。理解できるように現代文にしてもらいたいものです。
『弁韓は弁辰と雑居す。』 魏志、後漢書にこんな文はありません。「弁辰與辰韓雑居」(弁辰は辰韓と雑居する)が原文です。
第三章は「虚と実」
『それにしても『魏志』「倭人伝」には、よく解らないところが多い。それをわたしなりに推測してみよう。 それをよりわけてみると、だいたい 1、いまとなっては三世紀の倭国のことが不明で、十分な解釈ができない。 2、「倭人伝」の資料となった帯方郡の報告が正しくない。 3、原典を長いあいだに次々と書き写しているうちに誤字や行の脱落がおこった。 4、編者の勝手な創作が入っている。』
以上のようなことを書かれていますが、4はない。これをやると歴史家失格です。 4の例として、「郡より女王国に至る。万二千余里」を挙げ、漢書西域伝から多数の例をあげて、遠方であることを表す観念的な数字だとしています。観念的数字というのは正しいのですが……淮南子に東、西、南、北、中央すべてが万二千里と表されていることを指摘しておきます。当時の中国人の世界観に基づく数字です。それに陳寿ではなく帯方郡使の文だと思われます。陳寿は倭のことを何も知りませんから、それをいえる立場にない。例として多数あげられている漢書の西域諸国の距離にしても班固が勝手に決めたわけではなく、誰かが書いた西域のデータ、当然、西域への旅を経験した人間の残したもの、に基づいているだけです。それを正しいと信じて。
魏志倭人伝は帯方郡使の報告を元に書かれました。中国人は誰も知らない南方の国の見聞録です。国名をたくさん書いており、メモ程度の記録は残していたのかも知れません。少なくとも私の頭では覚えきれない。しかし、道中日記ではない。帰国してから整理してあるので、距離はすべてすっきりした数字になっています。清張氏は陰陽五行説、陽数などと書いていますが、1、5、10という十進法の基本単位にすぎません。末羅国までの航海全体の距離を一万里と定め、対馬、壱岐と渡った三つの海峡が千里ずつで、三千里。引き算すれば七千里がでます。旅をしながらいちいち足していった距離ではないのです。帰国してから報告書を書くために長旅を思い起こした。海を渡った南岸、末羅国までの航海はどれくらいの距離だったか。一万里くらいで良いか。三つの海峡は千里ずつ。残りは七千里。逆算という発想ができないため混乱するのです。そして、目的地の伊都国へは陸行五百里です。
方向にしても、現在の正確な地図で考えてはわからない。当時の人々の心の中の地図があるのです。陳寿は、「会稽、東冶の東にある。」と書いており、倭は朝鮮半島の南方から南西諸島のあたりまで島々が連なっていると考えられていました。混一彊理図が実際にその形を見せてくれます。古田氏のところで書きましたが、熱帯、亜熱帯でしか採取できない鬯草(ウコン)を献じるなど、後漢代から、倭は南方万里のはてにある国だと信じられていたのです。帯方郡使はそのイメージに引きずられて南北を間違え、自分たちは常に南方の国に向かっていると考えていました。
倭人伝、つまり、当時の知識にしたがい、ずっと南方へ旅していることを想定しなければ、「女王国より以北はその戸数、道里を略載できる」とか「女王国より以北は特に一大率を置く」という記述の解釈に四苦八苦することになります。
奴国をナ国と読んでいますが、読めない。地名は、まず、漢音で記されているか、呉音で記されているか、どちらかに統一して読むべきでしょう。「奴」は、漢音でド、呉音でヌです。ひらがな、カタカナのぬ、ヌはこの文字から作られたくらいで、記、紀でもドと読まれています。ナという読みはどこにもありません。後の地名にあるからと安易な歴史学者が勝手に読んでいる。清張氏はそれに気がつかないで、当然のこととして受け入れています。
諸国の放射式読み方説は、何の説明もなしに、読者が理解できるか、自分がそんな書き方をするかと考えれば、おのずから結論がでるでしょう。法律でいうなら脱法行為、ルールの隙間をすりぬけるようなごまかしです。
各国間の距離などが詳しく記されているのは倭人伝だけなので、そこからいろいろ発展させて考えていますが、見当外ればかりです。距離が詳しいのは、実際に旅をした「帯方郡使の報告」そのものの写しだということで簡単に説明できます。あてにならないのは、その報告自体が間違っているからです。時間が経ち、この報告が整理され、原典が失われてしまえば、各国間の距離の表示などは簡単に消えてしまったでしょう。後漢書には万二千里と七千余里しか見られません。陳寿がほぼ同時代の歴史を書いたという幸運がそのことを可能にしました。魏志があるから、他の書物はそれを引用できるのです。
不弥国から投馬国、邪馬壹国までの距離は日数で示されています。『日数になっている部分は郡使が実際に行っていないところである。陳寿(または魚豢)は、帯方郡からの報告書にもとづき「里」と「日」でその区別をあらわしたのだと、わたしは考えている。』と書いていますが、何も知らない陳寿がデータ自体をいじるわけにはいかない。帯方郡からの報告には何が示されていたというのでしょうか?距離と日数になっているのは、二度の遣使データのまとめで、記述者が異なっている可能性を示唆します。不弥国以降を旅した使者の方が正直だった。長い距離に見当がつかず、旅の日数で示しました。陳寿がデータにまったく手を加えていないからそうなるのです。逆に言えば、手を加えていないことがわかる。松本清張氏のいう「陳寿の脚色」など、「ない」と断言できます。
『「倭人伝」の里数、日数は「漢書」の五服の記事から、陳寿がでっちあげた虚妄の数字だと考える。』
すべてこんな調子で陳寿をおとしめます。古田武彦氏に嫉妬心を持っていて、古田氏が持ち上げた陳寿まで憎いのか?この言葉を敷衍してゆけば、倭人伝自体が虚妄だともいえるでしょう。最終的には歴史がなくなってしまうのです。帯方郡使の報告をもとに魏略が書かれ、魏略を元に魏志が書かれたのなら、数字は帯方郡使の報告にあったはず。魏略も距離の数字を書いていますよ。
帯方郡を出て、狗邪韓国から奴国までの位置にはほとんど異論はありませんが、七千、千、千、千、五百、百という距離は、それなりに実際の距離に対応しています。倭の知識をもたない陳寿がでっちあげることはできない。なんらかの資料にもとづいていることが明らかで、日数の記述もそう考えなければならないでしょう。さあどうします。魏略には見えない卑弥呼は陳寿の虚妄ではないのですか。証拠・裏付けの提示も、論理もなく、清張氏の胸先三寸ですべてが決せられてゆきます。
私の判定では、陳寿はすぐれた歴史家です。倭人伝に取り組んだ初期、太伯の後裔という伝承があるのに、魏志倭人伝はなぜ夏后少康の子という越世家を引用するのかという疑問を持った。呉の後裔なら呉太伯世家を引用するのが筋なのに。調べを進めて、邪馬壹国は越の後裔という結論が出た。これですべてが腑に落ちたのです。「夏后少康の子」というのは帯方郡使の文だとわかりましたが、「その道のりを計算するとまさに会稽東冶の東にある」という文は陳寿の解説です。これは越の東と言っているのと同じこと。陳寿は邪馬壹国が越人の国であることを認識しているとわかったのです。魏略は呉の後裔と思っていますから、魚豢より陳寿の方が正確です。おそらく、三国志の様々な場面でそういう差が出ているのでしょう。それで陳寿の評価が高く、正史扱いになって大事にされ現在まで伝わった。対して魏略は唐代に失われてしまったのです。
第四章は「倭の女王」
『以上は原文にそって忠実に書いたのだが、』となっていますが、卑弥呼の「年已長大」という原文を『彼女はとしごろになり、また年齢がすすんだが』と翻訳している。どうしてこんな文になるのか?「年はすでに長大である」と書いてあるのに。長大はとんでもない婆さんです。普通の老を表す言葉ではない。
『卑弥呼にはそういう力は少しもない。首長どもが、じぶんたちの揉めごとを中止するために、便宜的にかつぎだした実力なき主宰者であった。いうなれば、やとわれ会長であり、やとわれマダムであった。』
倭人伝には「鬼道に事えよく衆を惑わす。」、「男弟ありて国を治めるのを補佐している。」、「王となってから面会したものは少ない」と書いてあります。やとわれマダムのイメージはありません。現れるのは、宮室内の居所に奥深く引っ込み、連絡役兼食事係の一人の男子を介して実務を受けもつ弟に指示をだす神秘的な教祖様の姿です。宗教団体が教祖をどう扱っているか考えればいい。清張氏の想像は的はずれです。
卑弥呼がうら若ければ、その弟はもっと若い。はたして国政を補佐できるのか?補佐役の補佐が必要になるだろうに。それなりに場数を踏んだ人間でなければならないし、卑弥呼の跡を継いだ宗女の壱与は、一族で一番身分の高い娘という意味だから、この男弟の娘と解するのが妥当です。十三歳の娘がいて、政治経験もそれなりに積んでいることになり、年齢は三十代半ばから六十くらいまで。卑弥呼はそれより年上なのです。長大を成人の意味とは考えがたい。
清張氏の語る虚妄に拍車がかかってきました。文献の内容を正確に把握していないから、それを土台に何を組みたてても幻が生まれるばかりです。
しつこいほど「帯方郡使の記録を資料に魚豢が魏略を書いた。陳寿の東夷伝は魏略の大部分を下敷きにしている。」と書くのは、その前提がなければ古田武彦氏の邪馬壹国説が成立してしまうから。何としても、倭人伝の国名は帯方郡使の報告ではないことにしたい。
『卑弥呼には婢千人が仕えているとか、「宮室」に「楼観」「城柵」を加え、これを兵力で守衛しているというのは、中国式の宮殿を頭に浮かべた陳寿のフィクションである。』といいますが、これだけフィクションというのに、卑弥呼はフィクションではないようで、名前はヒムカと読むのだとしています。魏略は女王とするのみ。
風俗の記述などは、帯方郡使が目撃したことを書いたのだ、迫真性が違うとしながら、政治に関しては陳寿のフィクションです。どう区別しているのかといえば、私は思う、思わない、自分の作り上げたイメージに都合が良い、悪いという感情にすぎないのです。その根拠は何も示されていません。
清張氏の解釈では景初三年十二月に制紹をだしたのは明帝ですが、明帝は景初三年正月一日に死亡しています。幽霊だ。明帝紀を読めばそれくらいわかるのですが、検証していない。倭人伝の記述通り、制紹は景初二年十二月に出されたのです。明帝は十二月八日に病に倒れましたから、制紹は十二月一日から、八日までの間に出されたと、細かいことまでわかります。
『倭奴国王が楽浪郡に朝賀したことを郡からの報告によって知り、倭奴国王へ印綬を与えるよう太守にとりはからわせた。』
原文は「倭奴国、奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」です。朝賀の朝は、朝廷の朝です。奴国王は洛陽で光武帝に面会(朝見)している。楽浪郡に来ただけでは、朝賀、朝見という文字は使えない。だから漢書地理志燕地では「献見」になっています。言葉の違いがまったく理解できないようです。安帝永初元年の面土国王帥升は「願請見」(願いて、見を請う)。どこかの役所へ面会を願いでた。朝見とは書いてありませんから、見(面会)は許されなかったのです。厳密に書いてあるものをいいかげんに解釈しておきながら、倭人伝はあいまいだといいます。これは後漢書の文ですが、倭人伝に関しても同じです。文献より、自分の頭を疑ってくれと言いたくなります。
第五章は「北部九州の中の漢」
『「倭人伝」には、其の国(倭人)には前にもまた男王がいて、その統治が七、八十年つづいた、/げんざいの伊都国には代々つづいている王がいる、とかいてある。』
「其の国は本また男子を以って王と為す。住七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年…」が原文の読み下しです。「前にも」ではなく、原文は「本」ですから、「元は」という意味です。統治が続いたのではなく、「住七、八十年」ですから、住むようになって七、八十年という意味になります。住に統治の意味はありません。其の国とは女王国です。女王国になったいきさつを書いてある。「女王国は、元は他の国と同じように男王がいたが、倭国に住むようになって七、八十年で倭国が乱れ、何年も戦った。そこで一女子を共立して王と為した。」わけです。共立の中心は邪馬壹国(女王国)で、その頃から最も勢力が強かったことになります。
この記述は伊都国とはなんの関係もありません。清張氏が出してきた/から後の伊都国の記述は最初の国々の移動のところに書いてあることで、岩波文庫なら三ページも離れた無関係な文を一続きのように見せている。これもごまかしです。伊都国の王は、「世有王皆統属女王」が原文で、統は「ひとすじに」という意味です。「代々、王がいる。皆ずっと女王に属している。」と書いてある。それを抜かしてもらっては困ります。
『倭国の乱は後漢の末(桓帝や霊帝の時代)だから、卑弥呼の共立を公孫淵が帯方郡を新しくつくった204年直後と見当をつけたい』
後漢書には「桓霊の間、倭国大乱」と書いてある。桓帝の時代なら桓帝と書くだけのことで、二人の間にまたがっているから、桓霊の間です。交代したのは168年なので、そこを中心に前後の幅があることになります。データがないので、その幅まではわかりません。しかし、204年は遠すぎるでしょう。ま、見当外れですね。それを前提に推論しても、あとは崩れるばかりです。それに、帯方郡使が卑弥呼を知った景初八年(247)の四十三年も前のことになりますから、即位時の年齢を足したら、卑弥呼はやっぱり婆さんになる。自分が先に書いたことに矛盾していると気づかないようです。
志賀島出土の金印の「漢委奴国王」も「漢のイト国王」と読みたいらしいのですが、志賀島は古代から福岡市域の勢力圏になっています。最も近い陸が「海の中道」ですから、そちらに結びつくのが自然でしょう。伊都国より奴国領の可能性の方がはるかに強い。志摩半島は倭名抄では筑前国志摩郡です。古代も志麻国で伊都国とは行政地域がことなると思われます。能古島も筑前国早良郡に入るだろうし、伊都国(筑前国怡土郡)と飛び離れた志賀島が結びつく要素はありません。
伊都国がなぜ志賀島へ金印を持って行かなくてはならないのか理由を見つけられないでしょう。「祭祀・信仰のため」、何で無関係な島で祭祀を行うのか?「墓の副葬品」、何で伊都国の陵墓が志賀島に?等々。伊都国と志賀島を結び付けたいなら、どう関係するかという根拠を示していただきたいものです。
「匈奴単于璽」や「濊王之印」、「滇王之印」などには「漢」の字がない。『これらの諸国は直接的な臣属ではなく、いちおう後漢の外臣の体裁になっていたからであろう。』
「匈奴単于璽」は新の王莽が取り上げた。つまり新以前に授けられていたことになります。武帝が朝鮮にまで進出したため、濊が分裂して北方に逃れたものが夫餘となった。その夫餘が、濊ではなくなったのに濊王之印を持っているわけですから、与えられたのは武帝以前です。「滇王之印」は武帝が授けました。
例として挙げられた三つの印はすべて前漢の印で、後漢というのは間違いです。王莽が匈奴単于から印綬を取り上げ、新のものに替えて格下げした。そこで匈奴は腹を立てて反乱を起こしたことが漢書に記されています。「新匈奴単于章」という文であったといいます。つまり、王莽は儒教の大義名分を適用して、周辺諸国の従属的地位がはっきりするような印面に変えたのです。それが後漢にも踏襲され、漢という文字が入るようになったのでしょう。したがって、「漢委奴国王」は後漢の印と、簡単に区別できます。
第六章は「ついたて統治」
『「一大率」か「一支率」か。』
一大国が一支国の誤りなら、これも成り立つのだそうです。そもそも、学者がかってに「イキ」と読んでいるだけで、「支」は「章移の切」とされていますから、「シ」と読むのが普通なのです。山海経では月氏国が月支国になっています。「一大」は漢音で読むと「イッタイ」、「一支」は「イッシ」、これは壱岐島の「石田郡」を表します。島の名前ではなく、たどりついた港のあるイシタ国という地域国家名なのに、思いつかない。一大国は文字の誤りではないのです。解答を見つけられない人間が改竄しているのみ。だから一支率ともなりようがありません。(「魏志倭人伝の風景」一大国参照)
『漢語の「大率」とは、「およそ」とか「だいたい」という形容詞または副詞である。これを官名ととって、「一人の大率を置く」とかいしてきたのだが、それだと大率一人を置く「置大率一」とならなければなるまい。』
べつに、「一人の大率を置く=置一大率」でかまわないのでは。「大率」は、市の官名「大倭」に対応しています。率は「率いる」という意味。帥と同義で、指導者をあらわします。その大物というわけです。卑弥呼が「共立一女子」ですから、一人の大率という解釈は自然ですし、「置一大率」はその表現と同一です。
大倭の「倭」は日本人の名乗りではなく、中国人の日本人に対する呼称ですから、大倭は日本の官名ではない。中国の官名でもない。実際の官名を知らず、市を監督する、少し地位の高い倭人という意味で「大倭」と表現したのです。「大率」もこの延長上にあります。日本の官名ではないし、中国の官名でもない。その地位を表現するために中国人が便宜的に使用したものです。清張氏は根拠もなく、「大倭」は誤字ではないかと逃げている。その場で書くと「大率」に対応していると読者に気づかれるので、何ページか離れた場所で。
時代が変われば、言葉の意味や使用文字が変わる。体制が変われば、考え方も変わる。人が変われば、表現が変わる。そういうことを考慮しないで、やみくもに文字や語法を比較したところで、なんの成果も得られないでしょう。同じものを見ても表現は人それぞれ、目を付けるところも違う。自分自身の文章でも表現をかえて工夫する。文章を書く仕事をしていながら、それが頭の中にないのはなぜでしょうか。
『帯方郡からすると、ツシマ、イキの二島は朝鮮海峡の「橋」であり、倭人を抑える要衝にあたる。二島のうちツシマは馬韓寄りだが、イキは倭人側に面している。倭人を制する地点ならイキである。したがって北部九州沿岸地帯を抑える派遣官の官名を「一支率」としたのであろう。』
説明になっているのか?北九州にあるはずの女王国で倭人を制するのが一番簡単ではないか。伊都国で治すのに一支率。
なるほど。 女王国を北九州と解せば、女王国以北に、刺史の如しという強大な権限をもつ一大率が置かれているという状況に矛盾する。女王国の近くに周辺諸国に怖がられるという派遣官を置く必要はないのです。だから魏、帯方郡からの派遣官と解したい。魏の官なのに、官名を書かないのはおかしいから、一人の大率という解釈は具合が悪い。国ごとに市を監督するだけの大倭という官があり、これは明らかに日本の官だ。大率を中国の官とは主張しにくい。一大率という官名でも良いが、一支率にすれば地名を取った官名に解釈できるので、より都合が良い。大倭は書き間違と扱う。
ここでも思考の順序と記述が逆転させられていて、すべてが、女王国を北九州に置くためにはどうすればいいかという命題から出発しているようです。
考古学資料では、最も発展しているのは博多湾岸なので、中心は王墓から壁などが出土している伊都国と考えたい。金印をもらった奴国も同系だと思いたい。それには、内陸部にある女王国が強力であってもらっては困る。「(卑弥呼は)貧弱な巫女にすぎない。」という記述になり、女王というのは陳寿の表現で、その幻想に引きずられて宮室、楼観、城柵などを創作したとなり、考古学的発見がないのも当然というわけです。やっと、清張氏の思考が見えてきました。女王国を北九州に置きたいがため、つじつまあわせに苦心惨憺してきたわけです。
しかし、一大率の役目はと言えば、「王が遣使し、京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国へ行く時、および郡使が倭国へ来た時、皆、津(川の港)に出むいて、(ごまかしがないよう)調査、確認する。文書や賜遺のものを伝送して女王にとどけるが、間違いは許されない。」と書いてあります。この王は女王、卑弥呼、壱与です。難升米などを派遣しているのですから。諸韓国などへも遣使し、盛んに外交活動をしていて、貧弱な巫女の様子はありません。一大率は魏帝からの下賜品を女王の元へ伝送するが「不得差錯(間違いはできない)」と、女王の厳しい統制下にあります。これを帯方郡の派遣官といえるのか?清張氏は「混乱させることをしなかった。」と記していますが、誤訳で、「不得」は「できない」という意味です。(不得入=入ることができない)
伝送は「つぎつぎに伝えて送る」という意味です。伊都国から福岡県南部の邪馬臺国に伝送という言葉を使うほどの距離があるのか?邪馬臺国に行った形跡はないといいますが、帯方郡が伊都国に刺史のごとき一大率を置き、郡使が常駐して中国の管理下にあったという想定なのに、すぐ近くの邪馬台国のようす、宮室、楼官、城柵などを知らないと言い切れるのはなぜか?あまりにも不自然ですが、そういう疑問の解答は示されていません。女王国と狗奴国との戦いに軍事顧問、張政を派遣しているくらいなのに。
『もっと具体的に邪馬臺国の状況が記事に出ていなければならない。』
一大率に関する記述以外、占い、集会、葬儀やら、卑弥呼の墓作りやら詳しい風俗はほとんどが邪馬壹国での見聞なのに、気づかないようです。二度目の使者、張政は軍事顧問として派遣され、邪馬壹国に長期滞在しています。
『「女王国以北」は従来から難問の一つとなっている。文脈上、これは対馬国から投馬国までの七ヵ国にあたるとみなければならないが、これが「女王国以北」というように女王国の外だとすれば理屈にあわない。』
邪馬壹国が女王の都とするところですから、小さくはそこが女王国です。魏志倭人伝に記された倭国全体をも支配しているから、大きくは倭国を女王国と表すこともできます。そういう使い分けがある。福岡といえば県庁所在地の福岡市を意味することもあるし、福岡県全体を意味することもある。同じように、表現の問題でしかない。前後の文脈からそれが判断できるのに、字面だけを追って文章の内容を把握していないからわからない。というより、普通に解釈すると都合が悪いので、自説に合うように外すのでしょう。
帯方郡使は南へ南へと旅していると考えていました。当時の人々の知識にしたがわず、現在の知識、正確な日本地図をながめながらどうこう言っても、邪馬壹国へはたどり着けないし、国々の位置関係もわかりません。古代の文献に麒麟という文字を見つけ、高さ5、6メートル、首、足が長いという現在のキリン(ジラフ)の解説を付けるのは愚というものです。それと同じことをやっているから、「難しい、わからない。」になるわけです。
第七章は「外交往来」
『この(銅鏡)「百枚」を正直に、そのとおりにうけとる人があるが。「百」は「百余国」「径百歩」とともに「多い」という形容の決まり文句にすぎない。』
魏志のその部分は、明帝の制紹で、陳寿が魏の公文書から発掘したと思われます。「特に汝(卑弥呼)に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、みな、装封して難升米、牛利に付す。」と記しています。品物や数字はすべて具体的で、大雑把なものではありません。魏が外交文書として、銅鏡百枚のプレゼントを公言している。銅鏡百枚は最初の使者、梯儁により確実に伊都国に届けられています。そこから一大率が引き継ぎ、女王国まで賜遺の品物を伝送したのです。
漢書地理志の「百余国」は、中国人が直接それを知りうる状況にありませんから、燕か楽浪郡を訪れた倭人が語ったものでしょう。これは大ざっぱに解して良いかもしれません。
「径百余歩」は、卑弥呼の墓造りを見た帯方郡使が記したものですから、ほぼ正確な数字と思われます。それぞれ背景があるのに、それを分析することなく、ひとからげに結論するのは安易すぎます。
『九州北部の沿岸勢力から中国への「朝貢」は、朝鮮の出先機関(郡)の主権者が変わるたびに、すばやくおこなわれている。後漢の光武帝に楽浪郡経由で「朝貢」したのも、光武帝が王莽を滅亡させたと聞いたからである。』
王莽が滅亡したのは23年。倭奴国の遣使は57年ですから34年もたっています。これがすばやい?思いつきを書きとばすので、データとは全く一致しません。中国の政変が日本に伝わり、反応するまでに最速でも一年はかかるでしょう。ともかく情報の伝達、人の移動に時間がかかるのです。晋の泰始元年にも朝貢しており、魏から晋への王朝交代に反応し、即、交代式典に参列したように解する人もいますが、半年ほど前に日本を出発しなければなりませんから、出発時にそれを知ることはできない。魏へ派遣されたのに、晋へ朝貢する形になったわけです。難升米の時もその形で、公孫氏の帯方郡へ派遣されたのに、魏が占拠していたため、臨機応変に魏へ朝貢することを決断し、帯方郡太守に案内者を求めた。偶然の幸運に出くわした難升米に判断力と勇気があったのです。
『授けるという意味を原文に「仮授」としてあるので、文字どおり「仮に授ける」と解する説を見うけるが「仮授」は「授ける」ことを中国の事大主義から、もう一つ格を落として表現しているだけである。』
文字どおり「仮に授けている」のです。それは本人に渡しているのではないから。卑弥呼に仮授した親魏倭王の詔書、印綬や難升米に仮授した黄幢は「帯方郡に付し仮授」されています。「仮」、「仮授」、「拝仮」、清張氏はそういう厳密な言葉の使い分けを理解できずに、こういう文になったのでしょう。「仮」、「拝仮」の「仮」は動詞で「(貸し)与える」の意味ですが、「仮授」の仮は「仮に」という副詞です。
『正始八年(247)、帯方太守王頎は、みずから洛陽に行って、……』
原文は「八年太守王頎到官(八年、太守王頎、官に到る)」です。正始八年になって王頎が帯方太守という官に至った。つまり就任したという意味で、洛陽に行ったのではない。簡単な文だと思うのですが。それを誤解しているから、王頎の太守就任は七年末から、八年と続ける。倭人伝には八年とはっきり書いてあるのに。それに、帯方郡から洛陽に到るまでの時間が頭に入っていないようです。往復数ヶ月。帯方郡が安定しているとは言いがたいのに、太守がいちいち洛陽までお伺いに行ったのでは郡の仕事が遅滞してしまうでしょう。
第八章は「南北戦争」
『狗奴はクナで、クマにあてることができる。』
「狗奴」は漢音ではコウド、呉音ではクヌになります。奴は「ド」にも「ヌ」にも変化しうる「ドゥ」という音に近かったはず。倭人伝は「その南に狗奴国あり。」と記しています。陳寿は女王国以北に七ヶ国、以南に二十一ヶ国があると思い、女王国の境界、最南端は金印を授けられた奴国(「倭国之極南界也」後漢書)で、さらにその南に狗奴国があると考えていますが、実際には南に接した国と戦っていたわけです。このあたりは「弥生の興亡」を読んでもらうしかない。説明しなければならないことが多すぎます。
張政が邪馬壹国に至り、長期にわたって軍事顧問として活動したことは間違いありません。壱与に「檄を以って告喩」したり、卑弥呼の墓造りを目撃しています。移動中に方位を見失いましたが、ひとところに腰を落ちつければ、おのずからそれが見えてきます。邪馬壹国から見た方向に関しては信用できるのです。狗奴国は大和の南、和歌山北部に存在しました。クナ国ではなく、漢音で読んだコウド国です。中国北方の住民である帯方郡使が書いた文字は、北方の発音、漢音で読まなければなりません。日本の歴史研究はそういう緻密さ、論理的な思考を欠いています。
かなりくたびれました。あと二章ほどありますが、不毛の作業がつづくので、このへんで打ち切ることにします。北九州の邪馬台国、狗奴国の対立など成立していない前提をもとに書いています。すべては清張氏の頭の中にしか存在しえない虚妄です。卑弥呼が殺されたとしていますが、それなら「殺卑弥呼」と書かれるだけのことで、「卑弥呼以死」という文から死因はうかがえません。女王国が狗奴国に敗れたともしていますが、壱与は生口三十人を献じ、軍事顧問として派遣された帯方郡使、張政等の帰国を送らせている。張政の任務が片付いたのですから、狗奴国が滅びたと考えるのが筋です。
歴史のレポートを書こうとすれば、史書などの原典を引っ張りだして、引用したデータに間違いがないかを確認する。松本清張氏はそういう作業をしていません。大量に史書データを並べますが、おどろくほど不正確で、内容も理解していない。漢学者は笑うだろう。そのうえ、自らの意に添わすための曲解、改竄、ねつ造、何でもありで、空想が並べられています。
この著述の前半は、古田武彦氏の邪馬壹国説を否定すること、邪馬臺国を北九州に置くことを主眼としています。先に結論があり、それを導くためにデータを切り貼りしてある。結論が正しければ証明もスムーズにいくでしょうが、いかないので、論理ではなく、感情ですべてが決められています。空想の上に何を積み上げても、ガラガラ崩れるのみです。この人が取り組んだ歴史関係の書物、「昭和史発掘」なども同じではないか。そういう疑いを持たせました。歴史研究書風の推理小説とでも分類しておきましょう。改竄がないぶん古田武彦氏の方がましです。古田氏なら曲芸的解釈をひねり出すところを、この人は文字を改竄して簡単にやっつけてしまった。古代の人々が書き残してくれた貴重な記録に対する畏敬の念が欠けている。倭と倭人の区別の指摘を除いて(それも中途半端ですが)、歴史研究書としての価値はありません。独りよがりの思いこみが多く、データ調べの参考資料としても役立たない。小説家に歴史は書けない。そう感じさせました。 
森浩一氏「倭人伝を読みなおす」を読む

 

ブログ公開したものを整理しました。「ですます調」から「である調」になって違和感があるかもしれませんが、全文書き直しというのも面倒なもので……
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カバーに「邪馬台国がどこにあったとか卑弥呼とはどんな女王だったかだけに関心をもつ人は、本書を読まないほうがよかろう。というより読んでほしくないのである。」と書いてある。読者を選びたいらしいが、公刊した以上、あらゆる方面から批評のまな板にのせられることを覚悟していただかなくてはならない。小説ではなく歴史という過去の事実を問題にしている。正しいかどうかチェックが入って当然である。卑弥呼の国をどこに置くかで後の歴史が大きく変わってくるから、それに関心をもつ人が多いのは当然ではないか。
魏志倭人伝の原文を全文載せてある。この人が責任編集した中央公論社「日本の古代1、倭人の登場」では、魏志にありもしない「一支」「邪馬臺」を原文の中に置き換えていた。私は古田武彦氏の項で『修正したということわりはありますが、やり方が逆で、原文通り「一大」「邪馬壹」と書き、他の資料を根拠に「一支」「邪馬臺」が正しいと考える、というふうな解説を付けなければいけない。「日本の古代」が三国志原典に置き換わる可能性はありませんから実害はないのですが、印刷術のない頃、古代の学者がこれをやっていると危ない。勝手な解釈による変更が後世に伝わり、原典が消え去る可能性があるのです。』という批判を書いた。この本の倭人伝原文ではそれが修正されていて、私が指摘したとおりの形、原文に邪馬壹と書き、注で邪馬臺の減筆だと書いている。森氏が私の文章を読むことはないだろうから、誰か進言した者がいるのかもしれない。自分自身で気づいて修正するのは難しいように思える。これ、実は大変なことを含んでいるのである。
私は、「日本の古代」の魏志倭人伝原文を、自らが正しいと信じた研究者は平気で文字を修正するという証明、身近な実例としてとりあげた。古田武彦氏の邪馬壹国説に対し、隋書、太平御覧などは「魏志の邪馬臺国」と記すというのが有力な反論になっている。しかし、研究者が勝手に文字を修正できるなら話はべつである。「魏志の邪馬臺」と書いているのは唐代以降に編纂された書物。遣隋使が隋を訪れ、隋の使者、裴世清が日本を訪れた後のこと、つまり、日本の都はヤマトだと確認された後なのである。後漢書の邪馬臺が正しい、魏志の邪馬壹は伝世ミスの書き間違えだと判断したなら、当然、邪馬壹を邪馬臺に修正するだろう。間違いとわかった存在しない国名を使う歴史家はいない。以降は邪馬臺一色だ。こういう主張が通ってしまう。
以上のようなわけで、邪馬臺国説の森氏は、原文の改竄により、邪馬壹国説に強力な反撃材料を与えてしまったのである。自らがおこなっておいて古代の学者は絶対にやらないなどと主張できるはずがない。そういう反撃を受けて、新しい機会に修正したかったのかな?しかし、印刷されてしまった事実は消えない。こちらは現実にこういうことがあると、しつこく取りあげる。
松本清張氏を評価しているのに驚いた。歴史好きな作家とは見ないで古代史の学者として見ているそうだが、清張氏の書いたものを読んだのだろうか。私が「邪馬台国(清張通史1)」(講談社文庫)を読んで、そのデータのでたらめぶりに仰天し、酷評しているのは松本清張氏の項を読んでもらえばわかる。ともかく、原典を確認せず、うろ覚えで書いている。頭の中で自分に都合の良いように文章が変わってしまうのである。小説家は自らが構築したイメージの世界の中に読者を誘い込み、楽しませなければならない。嘘がうまいほど評価が高くなる。森氏はその小説的世界に導く騙しのテクニック、つじつま合わせのごまかし(清張氏に騙すという認識はないだろうが)を歴史解釈のアイデアだと誤解しているのである。それに乗れば自分が楽になるという理由で。
総合的に見て言えるのは、豊富な知識や固定観念が足かせとなり、原書類を素直に読むことができなくなっているということである。獲得した膨大な後世の知識とすり合わせながら倭人伝を読むという方法そのものが間違っている。前置きはこのくらいにして、次回から倭人伝の個別事項の検討にとりかかる。
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第一章の「倭人伝をよむにさいして」の第三回「倭人伝はどうして地域を重視したのか」に、「倭人伝はまず対馬国(島)を六四字で記述している。これは邪馬台国の四五字よりも多く、魏の関心が(?ママ)邪馬台国より対馬国にあった。」と書かれている。
大きな事実誤認があって驚く。その道の権威ともいえるレベルの人をこのような形で批判しなければならないのは意外だし、思い上がりと受け取られるかもしれないが、まず、歴史書がどのようにして書かれるかというごく基本的な部分から思い起こしてもらわなければならない。
歴史書の書かれかたは現在とそう変わりない。様々な資料を取捨選択して、その時代の真実を記録しようとする。資料の価値を判定し、資料を整理、統合したり、解りやすく伝えようと知恵を絞るのはそれぞれの史書の編纂者であるから、その過程で自ずから力量というものがあらわれる。魚豢が魏略を書いているが、三国志に注を入れた裴松之は魏略はなんでもかんでも書き込んでいるというような評をしている。私も魏略逸文(魏略は現存せず、魏志の注など他の資料の引用文として現れるのみ)を読んでそう感じる。資料の正誤に関するチェックが甘いのである。魏の史官であった魚豢は資料にたいする思いいれが深く、捨てるという作業が苦手だったのかもしれない。後に、陳寿の三国志は正史扱いされるようになった。陳寿の名文がなんて書いている人がいた。私は名文かどうか判定する力をもっていないが、それで評価されたのではないことはわかる。歴史書としての正確性を評価されたのである。
歴史書の編纂という、過去の事実を正確に記録し後世に伝えようとする作業には、想像を自由に膨らませる小説とちがって、その時代を記録した様々な資料が不可欠である。資料を引用、要約したり、自らの見解を付したりすることはできるが、ことわりもなく自由な想像を書き込むことは許されない。それをやると歴史ではなくなるのである。だから、陳寿もそういうことはいっさいおこなっていないし、魏略の魚豢にしてもそうであろう。ただ、雑多な資料から正解を抽出しなければならず、資料解釈の間違いなどはいくら注意しても避けられない。百点満点をとるのはおそろしく難しいのである。
先日、「蹇蹇(けんけん)録」という本を買った。明治期の外相、陸奥宗光が日清戦争時の日本外交を回想したものである。書き残しておかねばならぬという使命感がそうさせたようだ。これなど、外交責任者が書き残したものだから明治史の第一級の史料となる。しかし、別の立場から見た別の見解が残っていたとしたら、どちらが正しいのか、第三、第四の資料を照らし合わせて確認し、結論をださねばならない。文章化にあたって、蹇蹇録をそのまま引用することもできるし、他の資料と統合した要約というのも可能だ。明治史という長いスパンになると、本当に重要なことしか書き残せず、大半は捨てられる。重要かどうか判定は編纂者次第だ。教科書のような薄っぺらい通史になると、日清戦争、陸奥宗光外相、清の李鴻章という名が残るばかりである。そういうふうにさまざまな角度からの熟慮をへて史書は編み出される。倭人伝でも同じことである。
魏志の著者、陳寿は蜀の出身で洛陽に移住した。倭のことは知るよしもない。陳寿がなぜ倭人伝を書けたかというと、倭人に関する資料が残されていたからである。ほぼ同時代なので、豊富に残っていたであろう。倭人に関し、魏略逸文と魏志がほぼ同じ内容であるのに文章が異なっているのは、魏略の要約がはなはだしいからである。魏志は魏略を参考にして書かれたという人もいるが、魏略とて元資料がなければ書けない。ほとんど同時代なのに、魏略の魚豢が使えた史料を陳寿が使えないと判断する理由がわからないのである。魏志より魏略の方が先に書かれているというだけなら、あまりにも単純すぎる。二つは同じ資料にもとづいて書かれている。文章を比較すると、魏志を元に魏略は書けても、魏略を元に魏志は書けない。それに加えて魏略は後漢代の資料まで書き込んでいる。
では、その魏志、魏略の元資料を書いた人間はだれかということになる。倭人が文字を知っていたことは確実だが倭人ではない。表意文字である以上、文字を知ることはその意味も知ることである。自らの国名、女王名に邪(よこしま)、奴(しもべ)、卑(いやしい)など、マイナスイメージの文字ばかり選ぶことは考え難い。これらの文字は韓伝の国名にも普通に見られる。つまり、中国人が倭人や韓人から国名を聞き、その音を表すのに少し軽蔑を込めてこういう文字を選んだということである。明治期の日本人はアメリカンをメリケンと聞き、自らの文字で米利堅と記した。今は米国と略す。蔑視の感情はないから文字にもそれは表れていない。それと同じような形で得られた表記である。倭人の発音を中国人の文字で表す。聞き取りと文字表記という二つの変換過程があり、微妙な誤差は避けられないだろう。
帯方郡からは二度の遣使がなされた。最初は正始元年(240)で、梯儁等が渡来している。この人々は魏の明帝が卑弥呼に与えた贈り物や、倭という国が献じた布地や生口に対する見返りの物品、親魏倭王という金印などを日本に届けに来た。金印を除く贈り物類は倭の使者、難升米、都市牛利に付すとされているから、形式的にせよ管理責任は難升米にあった。物品が届けられたということはそれに付随して難升米等も海路を案内し帰国したはずなのである。
銅鏡百枚、布地1500メートル以上、幔幕のようなものもある。これらがすべて装封されていた。つまり箱などに入れて、包まれ封をされて運ばれてきたわけである。難升米が使用した倭船が朝鮮半島で待っていたとしてもすべてを積むことは出来そうもない。帯方郡の大きな船に荷物や人員を乗せて渡来したと考えるのが妥当であろう。船員を含めればかなりの数の中国人が渡来したと想像できる。
二度目は正始八年(247)で、卑弥呼は狗奴国王の卑彌弓呼素と和せず、戦争中であることを帯方郡に訴えたため、塞曹掾史の張政等が派遣された。倭の要請にこたえたのだから戦争の指導、軍事顧問として派遣されたと思われる。張政等であるから、張政以外にも複数の人間が日本に渡来していた。森氏は張政が19年間日本に滞在していたと考えているし、魏は倭人を東夷の中でも特にすぐれた集団と考え強い関心を持っていたとも考えている。その強い関心を持った国に公務で19年間も滞在した人間に、上部機関が何らかの報告を求めると考えないのはなぜであろうか。不思議である。梯儁にしても物見湯山で日本に渡来したわけではない。公務で来ている。報告書を残したと考えるのが当然ではないか。このことに関して、森氏の考えは安定しない。倭人が文字を知っていたことから、国名は倭人の手になると考えているふしがあるかと思えば、地理情報に関して、帯方郡の役人が日誌風のメモを書いていて陳寿がそれを資料にして書いたのだろうとか。
しかし、すでに書いたように、倭人が自らの国名、女王名に奴、邪、卑のような文字を選ぶことはありえない。もしそうなら、よほど誇りのない自虐的な民族だ。倭人伝のうち、帯方郡との交渉や魏帝の制紹などの中国側での記録を除いた、倭人の地理、風俗、政治情報は梯儁、張政という二度の遣使の報告書から成り立っているのである。メモを残していなければこれだけの情報を残すことはできない。そのメモをもとに帯方郡使は帰国後に報告書を提出したのである。それを魚豢、陳寿が引用している。特に陳寿は抜粋するのみで原文に手をつけていないように思える。紀行文風の名文とか言っても、それは陳寿の書いた文章ではないのだ。
伊都国までの国、伊都国の一大率に関する記述を除いた他の風俗、政治情報はすべて張政の邪馬壹国(魏志に邪馬臺という国はない)での経験である。宴会や葬儀、占いなどの風俗、卑弥呼の存在と政治手法など長期滞在しなければわからないようなことがたくさん書いてある。つまり邪馬壹国に関する情報が一番多い。別項に分けてあるだけだ。だから、地理描写がないというだけで、「邪馬台国の記述には臨場感がまったくない」という感想は的外れである。卑弥呼がどこにいたと思っているのだろうか。次に関心があるのは伊都国で、一大率に六十七文字も割いている。対馬国の六十四文字より多いではないか。実際のところ、対馬国にはほとんど関心をもっておらず、通過地の一つとして紹介しているだけである。伊都国以降には地理情報のデータが無かったということにすぎず、それはデータの書き手が異なっているから。つまり、伊都国までは梯儁の報告、そこから先の邪馬壱国までは張政の報告にもとづくのである。陳寿が伊都国以降の地理データを省いたわけではなく、存在しなかったから書けなかっただけなのだ。
「奴国は春日市とその周辺、不弥国は宇美町とその周辺であろう。」、「以上の六国を倭人伝は紀行文風に記述することに努めている。」と書かれているが、奴国と不弥国の二国は国名、官名、戸数を記すのみで紀行文風の記述はない。北九州六国を一まとめにしたいようだが、間違った前提を元に何かを論証しようとしても無駄なことである。「日本の古代」では伊都国をさかいに記述形式がかわると言って、放射式記述説を紹介していたのに、放棄されたようだ。正確に言えば、紀行文風の記述があり、氏の言う臨場感があるのは対海国、一大国、末盧国の最初の三国に限られる。きちんと倭人伝を読んでいるなら、簡単にわかることではないか。
倭人伝だけが地域重視で書かれているというが、韓や高句麗など東夷伝の他の国々にはそういう書き方をしたデータが存在しなかっただけである。梯儁がたまたまそういう形式の報告を残し、二度目の郡使、張政がその形を踏襲した。陳寿はそれをそのまま採用しているのである。
歴史書はデータにもとづいて書かれるという最も基本的な認識があれば、そのデータはどういう形で提供されたかという思考へすすみ、森氏のようないきあたりばったりの混乱はおこらない。
3
第六回の「帯方郡が冒頭にある意味」に、「もし倭人の住む土地をいうのなら、朝鮮半島南部の”韓の南”とか”弁韓の南”のほうがより適切なのに、どうして帯方としたのだろうか。」 「倭人伝の冒頭に帯方を書いているのは、公孫康が設置した帯方郡の役割の重要さを強調したのである。」という記述がある。そのあたりを考えてみたい。
「倭人は帯方東南大海の中に在り」というのが倭人伝冒頭の記述である。漢代は楽浪郡が倭人との交流の窓口であったが、魏の時代には、公孫氏がその南方を分割して新たに設けた帯方郡に変わっていた。卑弥呼の使者が訪れたのも帯方郡だし、梯儁、張政も帯方郡から出発している。そこが中心になるのは当然で、べつに強調でもなんでもない。これは「楽浪海中に倭人有り」という漢書地理志燕地の記述を踏襲している。
韓伝冒頭には、「韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」と書いてある。東西に海が意識されるのに南の海は意識されていない。したがって、倭は韓の南、朝鮮半島に存在したことになる。倭人は海中にあるから、倭と倭人は区別されている。森氏の言うような、「韓の南」や「弁韓の南」は倭人(日本)ではないのである。これは韓伝、倭人伝の地理情報と森氏の想定する地理がまったく異なることから生じた混乱である。
右図は私が「魏志倭人伝から見える日本」の中で使用したものである。森氏の地理認識との違いを説明してみよう。
森氏の地理認識の誤り
1、「韓は、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す」という韓伝の記述に反する。この地図なら「東西南は海をもって限りとなす。」で十分である。
2、「弁辰は辰韓と雑居する。」という弁辰伝の記述に反する。雑居というのは国境など定められないくらい複雑に入り交じっていることを意味する。森氏は国境を定めて、古代の加羅と呼ばれた土地を弁辰と認識しているようだが、ここは陳寿の倭なのである。だから日本の弥生土器や甕棺が出土したり、北九州との結びつきが強い。後の大和朝廷が任那にこだわったのも、こういう前史があるからなのだ。
辰韓伝には辰韓十二国、弁辰十二国の名が記してある。「已柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁辰楽奴国、軍弥国、弁軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国、馬延国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、馬延国、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国」で、弁辰と付いていないのが辰韓の国である。国境が定められないから、国名もごちゃ混ぜになっている。書き方から辰韓が主、弁辰が従であることもわかる。頭を使ってきちんと書いてあるのに読み方がアバウトだから倭人伝、韓伝の豊かな情報を十分に引き出せないのである。
百衲本の韓伝には「韓伝、辰韓伝、弁辰伝、弁辰伝」と弁辰伝が二つある。実は最初の弁辰伝は辰韓伝の続きなのである。あわてものの古代の研究者が「弁辰亦十二国」という言葉を行頭に持ってきて、余計な弁辰伝を作ってしまったらしい。森氏はこれを真に受けている。「男女は倭に近く、亦文身」という記述も弁辰としているが、実際は辰韓人のことである。「韓、濊、倭が鉄をとる」のも辰韓だ。内容を理解すれば辰韓伝の続きだと簡単にわかるのに、理解しておられない。べつに森氏に限ったわけでもなさそうだが。
3、「海岸にそって水行し韓國をへて南に向かったり東に向かったりしながら、その(倭の)北岸の狗邪韓国にいたる。」と正しく翻訳しているが、乍南乍東を馬韓西部の海と考えているようだ。その場合は東西にめまぐるしく移動して島をかわしながら常に南に向かっているであろうに。だから記述としては乍西南乍東南になるはずだ。韓は帯方の南にあり、韓をすぎる方向に関しては記す必要がない。どちらにせよ、氏の言う狗邪韓国(金海)に至るには現実には北方に向かわなければならないという方向の誤認に気づくべきであった。現代の地図を使えば乍北乍東で、古代の人々の頭の中の地図に従わなければ位置関係はわからない。正確な現在の地図とすりあわせながら倭人伝を読むという愚を犯している。三世紀の地理認識と現在の認識は異なる。つまり、三世紀の人々の、心の中の地図は正しくないという単純な事実を認めなければならない。
金海を狗邪韓国と考えれば、百済方面からの渡来ルートがあるはずなのに、なぜ遠回りの新羅方面からの渡来ルートをとったのかという疑問も出てくる。帯方郡使は百済方面から来ているのである。
倭国や倭王などの使い分けをくどくど説明しているが、原資料の表現が異なっているだけのことである。陳寿は資料の文字を整理、統一したりしていない。陳寿が生の資料をそのまま提供してくれているので倭人伝は非常に臨場感のある記述になっている。
卑弥呼最初の遣使は景初二年(238)であるが、神功皇后紀三十九年を根拠に景初三年(239)に修正しておられる。しかし、その記述は「明帝景初三年六月…」となっている。魏志明帝紀を読めば、明帝は景初二年十二月八日に病に倒れ、景初三年正月一日に死亡している。その日に斉王芳が即位した。つまり景初三年は明帝の年ではない。この神功皇后紀の間違いに関しては無言で通り過ぎられるわけである。倭人伝の記述通り景初二年と解さなければ、さまざまな齟齬があらわれる。そのことに関しては「魏志倭人伝から見える日本」で解説している。難升米は魏へ派遣されたという思い込み、固定観念がこういう改竄を引き起こしたのである。まだ健在だった公孫氏の帯方郡に派遣されたと解せばなんの問題も生じない。魏へ朝貢する形になったのは偶然である。だから、朝貢品は斑布二疋二丈(=百尺=24mくらい)、生口十人と、後の遣使の献上品に比べておそまつだ。森氏も同じその固定観念の虜で、それが実に多い。狗邪韓国は金海に決まっている。一支国、対馬国は島全体に決まっているなど。倭人伝には一支国など存在しない。一大国である。
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第三章は「対馬国と一支国」になっている。当然のごとく一支国と書いているが、倭人伝のすべての本が一大国と記す。一支と書くのは隋書や誤字脱字の多い翰苑所載の魏略逸文など。いずれも唐代の著作で、日本との交流が盛んになり、当時の日本の地名が明らかになった後である。森氏は「後漢書は後漢の滅亡の二百年余りあとでの著作だから、どうしても後世の知識がまじってしまい読むときに注意がいる。」と書きながら、そういう部分にまったく注意をはらわない。弥生時代の地名と後世の地名が百パーセント一致するとは限らないのに、この安易な決めつけはなんだろう。これは倭人伝の改竄といってよい。
それに対馬島や壱岐島ではない。森氏が考えるような島全体が一国という保証はどこにもないのである。後世、対馬には二郡、壱岐にも二郡があった。なにゆえにそうなったのかということを考える必要があるだろう。弥生時代にそんな区別はなかったと断定されているが、弥生時代の対馬、壱岐の記録などどこにも残っておらず、断定には根拠がない。固定観念に支配されて倭人伝を素直に読めなくなっていると書いたのはこういう部分である。
対馬(対海)国の「良田なく、海物を食べ自活する。船に乗り南北市糴」という記述の南北市糴を、森氏は商業活動の意味だという。糴という文字自体はご本人も書いておられるように米を買い入れるという意味である。一大国には、「耕田なお食するに足らず、また南北市糴。」と記されている。食料が足りないから南北で米を買い入れているわけである。「また」というのは「対馬と同じように」という意味だ。食べ物のことしか書いていない。文字や言葉には定められた意味があるのに、森氏のように拡大解釈すると真実から遠ざかるばかりである。
延喜式「雑式」に、「王臣家の使が対馬島に到り、私に真珠を買い百姓を擾乱してはいけない。」とあることから、平安貴族が対馬の真珠(パール)を買いあさっていた。対馬はパールの一大産地だと主張される。海に囲まれているのだからパールは取れるに決まっているが、これは日本の暖地の海すべてに当てはまることである。
倭人伝は倭の産物として「真珠、青玉を出す。その山には丹有り…」と記す。山の産物とは分けられているからこの真珠はパールである。同じ倭人伝の魏帝の制紹の中に「…真珠、鉛丹各五十斤を賜う。」と書いてあるが、五十斤という重さを単位としているし、采物(彩物)とも表されているから、こちらの真珠は赤い辰砂(硫化第二水銀)のことである。陳寿がデータをそのまま引用するのみで言葉を整理していないから、こういう食い違いが出てくる。
大江匡房(平安時代)の対馬国貢銀記には、「嶋中珍貨充溢、白銀、鉛、錫、真珠、金、漆の類は長く朝貢をなす。」と書かれている。真珠は錫と金にはさまれているし、すべて山の産物ばかりである。そういう点からこの真珠は辰砂と考えるのが妥当である。だから延喜式「雑式」の真珠も辰砂のことで、平安貴族は不老長寿の霊薬として辰砂(真珠)を買いあさったのだと見当がつく。
文献に現れる「対馬の真珠」は、森氏の考えるパールではなく、辰砂なのである。真珠(パール)を交易品とする対馬の商業活動を考えておられるようだが、前提そのものが成り立っていない。
韓伝の「諸国には蘇塗とよぶ別邑があり、大木を立て鈴鼓をかけて鬼神につかえる。逃亡者がその中に逃げ込んでも還さないから、好んで賊をつくっているようなものだ」という記述から、壱岐の原の辻遺跡が国邑で、カラカミ遺跡は別邑だと解釈しておられるが、これは馬韓の風俗として記録されたものである。壱岐はいつから馬韓の一国になったのであろうか?倭人伝には犯罪が少なく秩序は守られていると正反対の記述がある。
国には領域がある。国邑という首都的な集落だけで国が成り立っているわけでもあるまい。カラカミ遺跡は国内にいくつかある大集落の一つであるかもしれないし、それこそ別の国の国邑であるかもしれないのだ。考古学資料からそんなことは何もうかがえない。貯えた豊富な知識が足枷になって文献を素直に読めなくなっていると書いたのはこういう部分である。
朝鮮半島や対馬、壱岐の考古学的出土物や後世の歴史と、倭人伝、韓伝の記述を無理に結び付けていただく必要はない。倭人伝が書いているのは帯方郡使の知りえた情報のみである。対馬、壱岐と朝鮮半島の交易活動があったことは間違いないが、倭人伝の記述からは、それはうかがえない。海産物と米のことを記しているのみである。近年、奈良県で様々な出土物がある。だからといって邪馬台国と決まっているのかという森氏の主張が、そのままこだまとなって氏に帰ってゆくだろう。最初に倭人伝、韓伝を正確に読むべきなのだ。
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「第四章、玄界灘に臨んだ国々」の主張を考える。末盧国では「草木が繁茂し、行くのに前人を見ない」という記述の解釈で、呼子から唐津へ歩いたように考えておられるが、その距離は無視できるものではない。末盧国から伊都国までが陸行五百里だから、呼子から唐津までならその半分、陸行二百五十里くらいを記されなければならないだろう。だから、呼子を想定することは間違いである。末盧国内を歩くのは、末盧国の港に入港してからなので、集落(国邑)まで少し距離があり、その間が草ボウボウだったのだと思われる。示すほどの距離ではないから書いていない。
九州本土で、帯方郡使の入った港は末盧国だけである。だから、後の記述に出てくる津というのは末盧国の港のことだ。津は中国では「川の渡し場を意味する文字だから、末盧国の港は松浦川に存在した可能性が強い。ここは外国への旅立ち、外国からの入港のすべてを受け持つ国際港だったらしい。
末盧国に関する「沈没して魚鰒を捕る」と、入れ墨の習俗に関する「沈没して魚蛤を捕る」の二つの文章がある。鰒(あわび)は磯の産物であるし、蛤(はまぐり)は浜の産物である。どちらの海でも潜水して海産物をとっていたのであろう。大きな蛤はそれなりの深さの所へ行かなければ捕れない。蛤は海人が海に潜って捕る対象ではないと否定されているが、当時、海辺の住民なら、農漁を問わず食料調達のために誰でもそういうことをしていたのではないか。現在のような、蛤を捕る便利な道具は持たなかったはずである。
伊都国に関して、「どうして倭人伝では一個所に記事をまとめないで、二つに分けたのだろうか。それは陳寿の参考にした元の資料の違いによるとみられる。」と書かれているが、倭人伝は最初に「地理情報」を書き、「風俗・産物」、「社会・政治」、「魏との交渉」というふうに項目ごとに整理している。伊都国の情報が二つに分かれているのは「地理」と「社会・政治」の二項目のデータがあるからだ。邪馬壱国に関しては四項目のすべてににわたる。逆に対馬国には地理情報しかなかった。対馬国を重視しているという森氏の主張がいかに的外れかおわかりいただけるであろう。倭人伝の字面を追っているだけで、構造の分析などは発想そのものすらお持ちでないようにみえる。
伊都国に良港がなかったから、末盧国の津に入り、一大率の統治する伊都国まで歩いているのに、伊都国の志登に良好な港があったと主張される。現在は埋まって陸地になっているのだから、当時から埋まりがちだったと考えた方が自然ではないか。中国は古くから構造船を発達させてきた。倭のボート系の船とは大きさがまるで違っただろう。そういう大型船が入港できる末盧国の津はきわめて優秀な港だったわけである。あとは歩いて伊都国へ行ったから、帯方郡の船は末盧国に止まりっぱなしである。
「伊都国後文は難解である。『女王国より北には特に一人の大率を置き諸国を検察する。諸国これを畏憚する。国においては(中国の)刺史のような役割である。』」と書かれているが、べつに難解ではない。
原文を挙げる。「自女王国以北、特置一大率検察。諸国畏憚之。常治伊都国。於国中有如刺史」(句読点は私が付けたもの)
訳すと「女王国より以北は特に一人の大率を置き検察する。諸国はこれを恐れ憚っている。常に伊都国で治す。(魏)国中における刺史のようなものである。」
森氏の翻訳のおかしいことがわかっていただけるだろう。「国中においては」ではなく「国中における」で国中とは自分たちの国、魏のことである。漢代の刺史がどうのこうのと書かれているが、これは魏志なので関係がない。帯方郡使が魏人に向けて説明した文章である。一大率は魏の刺史と同じような役割だと言っているのだ。魏の刺史は漢代より強化された州の長官で、帯方郡や楽浪郡なども幽州刺史の監督下にあった。森氏が漢の刺史のみをとりあげ魏の刺史について語らないのは、刺史の如き大率の力が強大すぎて不都合なのであろう。
女王国まではずっと南下していると考えていた。だからその北方の各国、おそらく遠く離れている投馬国は入っていないだろうが、対馬(対海)国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の六国は女王国が伊都国へ派遣した一人の大率により統御されていた。
この一大率を魏の派遣官と解するのは松本清張氏のアイデアで、なにゆえにそんな不自然なことを考えたかというと、北九州南部に想定した邪馬台国が、すぐ近くの伊都国に、強大な権限を持ち諸国に畏れられる大率を派遣するのはおかしいという論理に対抗するためである。
末盧国の港で荷物を検査しているから、梯儁が始めて渡来した時、大率はすでに存在していた。公孫氏時代からすでに倭を支配して大率を設けていたと解釈すればこの矛盾を解消できるというのが、森氏の編み出したつじつま合わせである。実際のところ公孫氏にそんな支配力はない。韓や倭が属していたというのは朝貢という形式的なものである。公孫氏は楽浪郡南部の荒地を分割して帯方郡を作るだけでせいいっぱいだった。韓を支配していたという論拠はどこにもないのに、更に遙か遠く離れた倭まで支配が及ぶとするのはどだい無理である。帯方郡使が倭へ到るまでどれだけの航海をしたか、もうお忘れなのであろうか。軍事力がなければ支配などできないが、倭を支配するにはどれだけの船と軍隊が必要だっただろう。派遣は可能か。何か自由でダイナミックな交易活動があったと考えておられるようだが、そんなものは存在しない。卑弥呼の献上品は、それが最上の贈り物だったと考えられるのに、布地と生口ばかりだ。中国人が欲しがるような産物はない。交易といっても倭人の一方通行、ほそぼそとしたものだろう。中国人にとって、生命の危険を冒すほどの貿易の利はないのである。対馬の真珠は辰砂だとすでに明らかにしたし、北方系民族は金銀錦繍を重んじるが、真珠(パール)はそれほど宝としなかったことが東夷伝の各国の記述からうかがえる。公孫氏や魏は北方系だ。
一大率が魏の派遣官なら、それを飛び越して卑弥呼はなぜ帯方郡に救援を求めたのか。大率に頼れば良いではないか。魏の派遣官で北九州六国を検察して畏れられていた人間はこの紛争を前に何をしていたのだ。それ以前に、大率はなぜすぐ近くにある女王国まで支配を広げなかったのだろう。中国の官なのに刺史と比較できるのか。この一大率は末盧国の津で、梯儁の運んできた「文書や賜り物を伝送して女王に届けるが、間違いは許されない」のである。大率が女王の支配下にあったことを示しているではないか。倭人の難升米に付された贈り物類が中国人の大率に引き継がれるのはなぜだ。など、派生してくる疑問というものを持たれないのだろうか。だいいち、大率が中国人なら、魏志にそういうことがきちんと書かれるはずなのだ。解釈に自由などない。その場しのぎの弥縫はたちまちほころびてくる。
6
「後漢書の成立は五世紀とはいえ原資料の蒐集は三世紀からおこなわれていた節がある。」と書かれているが、宋書范曄列伝には「衆家後漢書を刪して一家の作と為す。」と記されている。范曄は宋代、すでに複数存在していた後漢書を整理・統合したという意味である。文献にきちんと残されている。後漢書倭伝は魏志に頼る部分が多いが、「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使人は大夫を自称した。倭国の極南界である。光武は賜うに印綬をもってした。安帝永初元年……」という独自の記述はその先行後漢書に記されていたと推定できる。
范曄の時代に衆家後漢書が残っていたわけで、百五十年ほど先立つ陳寿も当然読んでいる。「その使が中国にきたときには皆大夫を自称する。」という記述になってそれがあらわれている。後漢書に比べ、なぜこんな簡単になったかというと、魏志倭人伝は魏の関連事項としての倭を書いているからである。後漢時代の出来事は魏志に関係がない。前代の歴史として簡単に触れるだけですませたのだ。逆に後漢書は魏代の出来事に用はないから、魏志を大量に要約引用しながら、地理、風俗情報に限られ、魏との交渉に関する記述は省かれている。後漢時代に魏の明帝や、梯儁、張政、壹與は存在しないのだから書いてはならない。魏志倭人伝は魏の関連事項としての倭を書き、後漢書倭伝は後漢の関連事項としての倭を書いているという基本的な立場の違いを、森氏に限らず、日本の史家は認識していない。これはきわめて重要なことなのだが。
有名な学者がこう言ったという記述がしばしば見られるが、無批判に受け入れるのはよろしくない。その主張が正しくなければ意味はないからである。検証してから書いていただきたいものである。私の見るところ根拠のない個人的な想像でしかないものをありがたがっている。
藤原京で出土した鰯についての木簡の表記で「伊和志」と「伊委之」の二種があり、八世紀まで「ワ」を「委」で書くことがつづいていたと書かれているが、これは日本の八世紀の読みで、五百年前の三世紀の中国、日本の読みと一致するとは限らない。日本と中国で読みが違うという漢字はいくつもある。こういう部分に用心が必要なのである。倭人伝は中国人に向けた中国の書だということも忘れないでいただきたい。金印に漢委奴国王とあることから、委と倭は同音だったことがわかる。現在の発音ではウェイに聞こえるが、古代の発音など誰も聞いたことがない。しかし、「ワ」ではないだろう。「委、萎、崣、蜲。」読みはすべて「ヰ」である。矮も「アイ(ワイは日本の慣用音)」だ。だから母音として「i」音が残るのではないか。
「対馬国から不弥国までの方向の記載は現在の地理とも矛盾しない。」と書かれているが、はたしてそうなのか。末盧国=唐津から東南陸行五百里で伊都国だ。伊都国比定地の前原市は唐津の東北にある。倭人伝の記載どおりに行くなら伊都国は背振山地を越えた有明海沿岸になる。奴国はその東南百里にあるから福岡・熊本県境あたりか。自らの伊都国、奴国比定地が倭人伝の方向に従っていないのをお気付きでないようだ。不弥国は奴国比定地から倭人伝の記載通り東にあるそれらしい地名、宇美を選んだのだから合っているのが当たり前である。森氏は末盧国から東北へ向かって伊都国へ行き、伊都国から東ないし東北へ向かって奴国へ歩いている。そこまで倭人伝に従っていないのに、次の不弥国へは倭人伝の記載通り行くのはなぜだ?
上記のように、北九州説も倭人伝の方向を無視しているから、この点で大和説を非難できないだろう。狗邪韓国への行程ですでに述べたが帯方郡使は南北を取り違えている。
7
「対馬国から不弥国までがリレー式でつながり、ときには紀行文風に記されていた。ところが投馬国と邪馬台国の記述には臨場感がない。それと狗邪韓国をへて対馬国から不弥国までの方向の記載は現在の地理とも矛盾しない。」と書かれているが、本当に倭人伝を読みなおしたのだろうか。うろ覚えで書いているのではないのか?
不弥国から投馬国、投馬国から邪馬壱国(邪馬台と記す魏志はない)へもリレー式でつながっている。森氏が不弥国を内陸の宇美に比定したため船に乗れなくなり、リレーができないだけのことである。不弥国は海岸部に想定しなければならない。倭人伝を読めばそうなる。奴国と不弥国の記述のどこに臨場感があるのだろう。この二つは投馬国、邪馬壱国と同じ書き方である。伊都国からあとは記述方式が異なるといって放射式記述説なるものが考案されたくらいなのに。ご自身も以前は必ずこれを紹介されていたはずである。実際に伊都国が記述方式の境界になっている。紀行文風の記述があるのも末盧国までである。
狗邪韓国への方向は南北を間違っていた。末盧国から伊都国へも南北を間違っている。伊都国から奴国へも間違っている。現在の地理とは明らかに矛盾しているではないか。ともかくすべてが検証なしの思い込みで書かれている。
最初の帯方郡使、梯儁は運んできた卑弥呼への贈り物類などを大率に引き渡している。形式的には難升米から大率に引き渡されたわけである。荷物は大率の責任において女王国まで伝送されることが倭人伝に記されている。したがって、梯儁は女王国へ行く必要がない。伊都国ですべての手続きが終わっている。二度目の張政は狗奴国と戦争状態になり、窮状に陥った卑弥呼を支援するために派遣された。したがって、張政は女王国まで行っている。伊都国までの情報は梯儁の報告にもとづく、奴国以降は張政の報告にもとづくという基本的な事実を認めれば、なんの苦もなく理解できることが多い。そこに陳寿の見解が挟み込まれている。戸数などの表記の違いは二人の表現の違いにすぎないのだ。卑弥呼という女王がいて男弟が補佐している。卑弥呼は鬼道に事え衆を惑わしているなど、そのありさまを見た人間、張政にしか書けないことである。惑わすという批判的な言葉が倭人からの伝聞ではないことを教えてくれる。軍事顧問として長期滞在し、政治の中枢部と接触していた張政ほど倭人の国情を知るものはいないのだ。
「公孫氏の勢力が強まり、倭と韓の支配のために帯方郡を置いたのである。」なんて書いているが、どんな文献にもそれを思わせる記述はない。韓伝には「公孫康が屯有県以南の荒地を分けて帯方郡となし、公孫模、張敞等を派遣して(元の漢の郡県の)遺民を集め、兵を興して韓濊を伐ったので、旧民(元の漢の郡県の住民)が次第に出てきた。この後、倭、韓は遂に帯方郡に属した。」と記されているのみである。公孫氏は領土を拡張したのではない。楽浪郡の南部を割いて帯方郡を作ったのである。元々楽浪郡だから、帯方郡は楽浪郡に近接している。それは韓の支配のためではなく、辺境防御の色彩が濃い。その帯方郡の安定に成功した結果、倭や韓が朝貢に訪れるようになったのである。漢代から匈奴に印綬を与えてきた。それは中国の冊封体制に組み入れたことを示している。中国側から見れば匈奴は中国に属していることになるが、その土地を実効支配していたことは一度もない。倭や韓が属すというのはそれと同様である。
末盧国に入港したあと伊都国まで歩いているから、船は末盧国の港にある。伊都国から奴国、不弥国までは、陸行とは書いていないが、船を降りたのだから、これも歩きに決まっている。不弥国から先はまた船に乗る。帯方郡の船を回航したという記述がない以上、不弥国からの航海は倭船によると考えるしかない。このようにデータに書かれていなくても、データから論理的に引き出せることがある。しかし、森氏のように何の裏づけもなく、上記の場合は「この後、遂に倭韓は帯方に属す。」という言葉尻だけをとらえて想像を膨らませていくのは、歴史の真実を探求する手法ではなく小説の手法である。
「『女王国に至る万二千余里』は、文脈から見て『女王国界に至る万二千余里』とみられることは前回に述べた。」と「界」という文献に無い文字を勝手な想像で付け加える。こういうことを平気でやる人間は歴史研究者としての資質が不足していると考える。文献というのは基本的に正しいと受け止めるべきである。自由な想像で訂正したりしたら、歴史そのものがなくなりかねない。訂正を主張するには明らかに間違いだと言える証拠の提示が必要だ。たとえば、魏志には「その道里を計るとまさに会稽東治の東にある。」という記述があるが、後漢書には「会稽東冶の東で朱崖儋耳(海南島)に近い。ゆえに法俗に同じものが多い。」とされているし、晋書も会稽東冶である。東治という地名がみあたらず、会稽の東の治所という意味なら会稽の東でこと足りる。中国文献のあり方からして、このような不必要な重複はあり得ない。したがって、魏志の会稽東治は会稽東冶の誤記だと結論できるというような形である。
森氏は狗奴国の位置が会稽東冶の東だと考えているが、会稽と東冶の間はずいぶん遠い。「その道里を計るとまさに会稽東冶の東にあり。」というのが倭人伝の記述だから、帯方郡から計った倭人、対馬国から女王国、さらにその南にある狗奴国まで含めての距離を会稽から東冶の東だと言っているのである。これは陳寿の見解だ。当時の中国人は、倭人は九州から南西諸島あたりまで島々が連なっていると考えていたことになる。十五世紀初めの李朝の混一彊理図がそれを視覚化してくれている。日本の最南端は儋耳朱崖に合わせられている。(右図は現代図と組み合わせたもの。灰色が彊理図の日本)
当時の人々がそういう認識の元に倭人伝を書いているのに、現代の地図に合わせようとするからトンチンカンな解釈が生まれるのである。
8
「張政は二年前に下されていた難升米への詔と黄幢をもたらし、それらを難升米に仮授した。仮授とは皇帝に代わって授けることである。」
違うのである。「仮授」の仮は、仮定などと同じ使い方で副詞、仮に授けること。倭人に手渡すのではなく帯方郡に付託された時にのみ使用されている。単独で「仮」と使う時は(貸し)与える時で動詞。印綬などを倭人に授けた時に使われている。これは魏が任命したものだから、不都合があれば取り返しうるので「仮す」である。拝は官を授けること。難升米には詔と黄幢が授けられた。だから「拝仮難升米」と書いてある。帯方郡に仮授されて(預けられて)いた詔、黄幢が倭に届けられ、難升米に拝仮された。詔により官を授け(拝)、黄幢が与えられた(仮)のである。森氏はすべて仮授で済ませていて、「仮」と言う文字の使い分けをまったく理解していない。原文が「拝仮難升米」なのにこういう文章を書くのは、うろ覚えで書いて、倭人伝をチェックしていないということだろう。
「岡本健一氏は中国史書での『以死』の用例を検討し、…その結果、『以死』の用例は『自然史ではない。刑死や賜死・諫死・戦死・自死・遭難・殉職・奔命(過労死)・事故死などで、その結果”非業の死を遂げた”ものばかりである』とまとめている。」
時代により言葉の使用法が変わっていることがあるので、魏志だけで検討する。普通の死に方に「死」が使われ、非業の死に「以死」が使われているならこの結論は正しいということになりそうだが、「死」と「以死」の使われ方が違うという証明がない。有力者の伝記である列伝をみると死という言葉を忌んで卒が使われていることが多い。もっと身分が高ければ薨だ。単に「死」と書かれている時は普通に死んでいるかというとそうでもない。袁紹伝には「赴河死(身投げ)」、袁術伝には「発病道死」、崔琰伝には「賜琰死(賜死)」など非業の死が単に「死」と表されている。典韋なんか「瞋目大罵而死(目をいからせ大いに罵りて死す)」と壮絶な戦死だ。公孫度伝には「度死」「康死」と自然死(たぶん死因が解らないのであろう)である。傅嘏伝には「今権以死(今、孫権は死に)」で、孫権は「権薨時年七十一(呉主伝)」だから、「以死」と書いてあっても非業の死とはいえない。「権以死」と「卑弥呼以死」は文章構造がまったく同じである。並べると「以死」と「死」に差があるようにはみえない。死という文字は敬意を払う必要のない一段低い死に方に使われたのだと思われる。蛮夷と一段低く見ている卑弥呼に敬意を払った卒という文字が使われることはなく、死が使われるのは当然だろう。とにかく、「権以死」という文が魏志にあり、非業の死ではないから、岡本健一氏の主張自体が否定される。普通に死んだものには卒、薨を使っているのだから、死、以死に非業の死が多くなるのは当然である。そういうところの比較はどうなっているのだろうか。「以死」しか調べていないのではないか。森氏の引用なので詳しくはわからないのだが。
吉川幸次郎氏の「漢文の話(ちくま学芸文庫)」には、「(本居)宣長がいうように、漢文の助辞はあってもよく、なくてもよい語である。」、「一則以喜、一則以懼」は「一則喜、一則懼」「一以喜、一以懼」といえぬことはなく、そういっても意味は表現される。それを、現実には一則以喜、一則以懼という。やはりリズムの関係からである。」というような文章がある。「以死」となったのは読む時のリズムの問題で、「死」と差があるのかと疑問に思う。
このあたりの倭人伝原文は「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米爲檄告諭之卑弥呼以死大作冢径百余歩殉葬者奴婢百余人」となっている。
(塞曹掾史の張政等を派遣し、よって詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮した。檄をつくってこれを告諭した。卑弥呼は死んだ。冢を大きく作った。径は百余歩。殉死させたのは奴卑百余人である。)
親魏倭王、卑弥呼を支援するために張政等が派遣され、難升米に何らかの官位が授けられて黄幢が与えられた。これは軍旗である。だから檄をつくって告諭した相手は狗奴国との戦争の直接の当事者、難升米と考えなければならない。軍事的な支援を確約する励ましだっただろう。女王、卑弥呼が戦争の指揮をとることはないのである。ここまでは張政の行動を書いている。卑弥呼は主語で、以下の陵墓の造営に結びつく。卑弥呼の前で文章が切れている。森氏のように檄を作ったので卑弥呼が死んだ、「以死」は非業の死を表すという解釈は無理である。「卑弥呼は自死したと思いたい。」といわれても、自殺ならそう書かれるだけだし、殺されたなら殺と書かれるだけである。「以死」という文字から死因をうかがうことはできない。このような勝手な想像は歴史をゆがめる。
上記の文を、わかりやすく現代語訳しておく。 「塞曹掾史の張政等を派遣し、(帯方郡に仮授されていた)詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄をつくってこれを告げさとした。卑弥呼が死んだので墓を大きく作った。直径は百五十メートルほど。殉死者は奴婢百余人である。」
9
「卑弥呼の冢が径百余歩もあるのは、多くの殉葬者を埋める空間を必要としたことによるのだろうか。そうであれば冢の径というより墓域(墓田)の広さであろう。」と勝手な解釈を書いておられるが、倭人伝には径百余歩とある。自ら「大作冢」を大々的に作ったと解釈しておきながら、卑弥呼の冢を小さくしようと努める。なぜそういうことをするかと言えば、北九州の邪馬台国比定地に径百余歩クラス(150メートルほど)の大古墳が見あたらないからである。
「大作冢」も「大いに冢を作る」ではなく「冢を大きく作る」と読み下さなければならない。洛陽伽藍記に「小作冠帽」という言葉があり、これは「冠帽を小さく作った」と翻訳されるから、文章構造の同じ「大作冢」ならその反対である。比較対象があって、それまでの陵墓より大きいのだ。
「今日見る倭人伝では台与ではなく壹与にしている。この壹は臺の減筆を示すのであろうから、イヨとするよりトヨと発音したと見られる。」
そのあたりの原文を見ると、「卑弥呼宗女壹與年十三爲王国中遂定政等以檄告諭壹與壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺……」となっている。
壹與が三度も出現している。この三文字の壹のみが臺の減筆というのはどういう状況を想定するのだろうか。しかも後ろに臺という文字が書き分けられている。可能性の薄い現実離れした想定である。
隋代に遣隋使、小野妹子等が派遣され、随からは裴世清が渡来し、ヤマトが都だと判明した。以降の書物では後漢書が正しいと判断され、邪馬壹が邪馬臺に改訂されてしまったのである。唐代に編纂された梁書は臺與としているが、これも壹は臺の書き間違えだと単純に考えた結果だろう。太平御覧は、倭という国の項目では邪馬臺、臺擧(與の間違い)としている。しかし、そういうチェックの入らない「珍宝部、珠上」の項目では倭人伝原文をそのまま転写して壹與と書いている。トヨではなくイヨなのである。減筆という根拠はなにひとつない。これを臺與としておかなければ、邪馬臺も邪馬壹が正しいということになりかねない。森氏の根拠のない主張は邪馬臺を守るためであろう。
「出発点を不弥国とする前提にたっての南となると、投馬国を宮崎県当たり、邪馬台国は鹿児島よりさらに南の海のどこかになると述べた。もっともこの場合の南を聞き間違いとして東とすると近畿地方になるがぼくは倭人伝の原文どおりで読むべきと考える。」
それはごもっともで原文通り読むべきである。南を東と聞き間違える可能性などない。張政は女王国まで来ている。自らの経験があるのに、なんで方向を聞かなければならないのだろう。渡来した帯方郡使、張政が南へ移動していると方向を誤認し記録したのである。後漢、王充の「論衡」に「周の成王の時、倭人が鬯草を献じた。」という記述がある。鬯草というのはウコン。亜熱帯、熱帯の植物である。漢代から、倭は鬯草を産する南方の国と考えられていた。だから帯方郡使は、北と南を誤認し、常に南方に移動していることを疑わなかったのである。方向の間違いはすべてこれで説明できる。
倭人伝には末盧国から東南陸行五百里で伊都国と書いてある。実際の地図でみれば伊都国は吉野ヶ里あたりに比定しなければいけない。末盧国の港を呼子に比定することで、唐津まで東南に歩いていると言うつもりなのかもしれないが、それは末盧国内を歩いているだけのことだ。末盧国の東南に伊都国が存在するのである。伊都国を古代の地名に合わせて怡土(前原市)とするなら、方向の誤認があることを認めなければならないし、方向が正しいという扱いなら、吉野ヶ里付近の地名が変化したことを想定しなければならない。倭人伝に従うならこの二つ以外の選択肢はないのである。伊都国を前原市としている以上、森氏は倭人伝の方向の南北誤認を認めなければならない。
10
邪馬台国の東遷、250年代と簡単に書いておられるが、大和が無人の荒野だったとでも思っているのだろうか。すでに農耕をしているのに、「土地を空けろ」、「はい、空けます」と簡単にできることなのか。250年代にその移動の痕跡があるとでも?途中の瀬戸内もなかなか簡単には通過させてくれないだろうに。結果には過程というものがある。それを省いた主張にはなんの説得力もない。北九州勢力の近畿への大移動があったとすれば、二世紀の倭国大乱なみの戦乱を想定しなければならないだろう。この頃の緊張は高地性集落の出現となって現れている。筑紫に拠点を置いた五世紀初めの神功皇后の移動は瀬戸内や浪速、大和で抵抗されたことが記、紀に記録されているし、馬具の出土など古墳の副葬品がまったく異なってくるという考古学資料で裏付けられている。壱与の時代の移動、張政がその推進者といわれても、倭人伝がそれに沈黙しているのはおかしいではないか。要するに、そうあって欲しいという森氏の願望の表出、こじつけでしかないのだ。
森氏が北九州勢力の大和移動の根拠としてあげられるのは、銅鏡を墓へ納めることで、近畿地方の弥生時代には皆無といってよいそうだ。朱を用いることも北九州の弥生時代に始まるという。しかし、この考古学資料は、出雲、北九州連合が、畿内進出を果たした時の戦乱が倭国大乱だという私の主張を裏付けてくれることになる。思わぬところから援軍があらわれた。
記、紀神代は、出雲の大国主神が大和の御諸山に祭られ大物主神になったことを示す。神の移動は人の移動の象徴である。そしてこの出雲に出自をもつ神が大和の最高神であることは何をものがたるのか、ちょっと考えればわかることである。
崇神紀では、出雲の振根が筑紫へ行っていた時、弟が崇神天皇の使者に神宝を渡してしまった(=降伏した)ので、怒りがおさまらず、後に弟を殺したという記述がある。出雲と筑紫は強く結び付いていた。つまり、倭人伝の邪馬壱国とは、大和朝廷以前の前王朝、ヤマトを譲った饒速日系=物部系の王朝。出雲・北九州連合の王朝なのである。物部氏の祖神、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(先代旧事本紀)は大汝命(=大国主神)の子であることが播磨国風土記飾磨郡に記されている。
卑弥呼という女王を共立して大乱はおさまった。大乱は桓霊の間とされているから、後漢の桓帝と霊帝の二代にまたがっている。二帝の交代は168年なので、大乱もこの年を含めた幅で考えればよい。正始八年(247)の卑弥呼最後の遣使はその79年後だから、即位時の卑弥呼は幼女と考えるしかない。したがって、大乱はその父親の時代に当たる。大乱が私の想定通りの大和移動なら、大和へ入って卑弥呼で二代目にすぎないわけである。畿内の弥生古墳に九州、出雲の特長が現れないのは当然ということになる。卑弥呼はヤマトトトビモモソ姫とあらわされた人物、陵墓は箸墓なので、もう前期古墳時代に含められている。
大乱はその父親、記、紀では孝霊天皇とされる人物の時代である。この天皇には戦いの地方伝承が残っているし、近江の三上山の天御影神の降臨も孝霊天皇時代と伝えられている。孝霊天皇という諡号自体が、桓霊の間という倭国大乱時代の(孝)霊帝にあわされているではないか。
以上のように、権力の東遷は事実だが、卑弥呼即位前の倭国大乱時代のできとなのである。このいきさつはすべて「弥生の興亡」に書いてある。弥生時代の邪馬壱国王の陵墓は、大和では卑弥呼の父親の一つのみ。貴族階級のものはいくつかあるだろう。畿内の弥生墓に鏡の副葬や朱の使用がないのは、かえってこちらに好都合である。ほとんどの弥生陵墓は邪馬壱国以前の支配者階級のもの、三輪神と同じく地主神扱いされている倭大国魂神を祭る一族のものと考えられる。
11
帯方太守、張撫夷の墓というものがあるそうで、この本を読むまで目にしたことがなかった。大正四年の発掘というからずいぶん古い。墓から発見された塼には漁陽張撫夷とか使君帯方太守張撫夷という名や戊申年に葬られたと書いてあり、それは288年(晋、武帝大康九年)に当たる。撫夷という名は夷を撫す(なつける)という意味だし、倭に派遣されたのだから使君(使いの君)にも該当する。張政がそう呼ばれる可能性は大いにある。森氏の指摘どおり張政の別名と考えて問題ない。おそらく、張政の功績を記念して、こう名乗れと与えられたものであろう。
塞曹掾史という下級官だった張政が帯方太守に出世していた。帰国後即任命されたのか、順調に昇進したのかそういうところまではわからない。正始八年(247)に派遣されているから、四十一年後の死亡である。派遣された頃は三十代であろうか。
森氏は「新しく女王となった台与が建国したばかりの晋へ二十人からなる大規模な使節団を派遣した。この遣使の目的は『送政等還』、つまり張政らの帰国を送ることにあった。」、「泰始二年の遣使では倭地での張政の功績を中国側に伝えただろう。」と書かれているが、晋書倭国伝には「宣帝の公孫氏を平らぐやその女王が遣使して帯方に至り朝見した。その後、貢聘は絶えず、文帝が相になるに及び、数度至った。泰始初年、使を派遣し訳を重ねて入貢した。」と記されている。武帝紀、泰始二年にも倭国遣使の記録がある。
宣帝とは諸葛孔明との戦いで名高い司馬尉仲達のことである。文帝というのは魏の相国となった司馬昭で、これは晋の建国者、司馬炎の父親だ。晋が建国されたのち二人は宣帝、文帝とおくり名されたのである。
森氏は倭の新女王の壱与が晋の泰始になって初めて遣使したように考えておられるが、晋書倭人伝がそれを否定する。文帝、司馬昭が相国となったのは魏の景元四年。魏の滅亡はその二年後である。相国の間に何度か来たといっても二度がせいいっぱいである。ともかく、魏の終末期に遣使があり、派遣者は壱与と考えるしかない。したがって張政の帰国年は魏の景元四年(263)ということになる。だから魏志の最後に記されているわけだ。張政の日本滞在期間は十六年である。そのあたりのことは「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3」で精密に追求している。張政は王朝の交代にも影響を受けなかったらしい。
張政は親魏倭王、卑弥呼を支援するために帯方郡から派遣された。卑弥呼が帯方郡に支援を要請したのは負けていたからで、使者は「相攻撃するの状を説く」と悲鳴にも似た要請だったことがわかる。張政はその劣勢を建て直し、狗奴国を滅亡に追いやった。それに十六年をついやしていて、いかに困難な戦いだったかがわかる。張政等は任務を完了したことで帰国がかなったのである。壱与がそのとき派遣した使者は二十人でこれまでで最大。献じたものは男女生口三十人、真珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹とこれも最大である。画期的なできごとを疑えない。生口は狗奴国の重要人物と思える。
森氏は張政が卑弥呼に死を命じて、狗奴国男王を後継者にした。それに反発されたので壱与を後継者にしたというが、根拠はなにひとつなく、倭人伝に書いていないことを勝手に読んでいる。帯方郡の下級官僚にすぎない張政が魏帝の与えた親魏倭王を取り消せるとでもいうのだろうか。親魏倭王だから帯方郡は支援せざるをえなかったのである。この称号を軽くみてはならない。

森氏の主張がいかにデータから外れているか、こまごまと指摘してきた。氏は倭人伝を正確に読もうとするのではなく、自らが作ったイメージに合わせるための無理読みをしている。検証やら裏付けというものなしに勝手にきめて書きすすめるのだから、これほど楽なことはない。松本清張氏の真似をして想像に走るのは小説の手法であって歴史の叙述ではない。
それでも専門学者らしく、さまざまなデータをお持ちであった。この本からの収穫は三点。一つは、国邑とは国と集落という意味ではなく、首都的な集落を表すということ。これは韓伝の「国邑は主帥ありといえども、邑落は雑居してよく相制御することができない。」という記述から裏付けられる。中国北方には国邑というべきものを持たない遊牧民国家が展開する。その対比として中国人にはよく理解できる意味のある言葉だったのだろう。
一つは、近畿の古墳時代にみられる鏡の副葬や水銀朱の使用が、近畿の弥生古墳にはみられず、北九州から伝来したと思えること。要するに、古墳時代の権力者が北九州の影響下にある。北九州勢力が近畿に入ったと考えられること。これは出雲、北九州連合が大和に侵入した時の戦乱が倭国大乱だとする私の主張を補強してくれる資料となる。卑弥呼の一代前のできごとにすぎず、近畿の弥生古墳からはほとんど見つからないだろう。卑弥呼の時代はすでに前期古墳時代に分類されている。
三つ目は、張政という日本に渡来した帯方郡使が張撫夷と名を変え、帯方太守に昇進して、その陵墓が発見されていること。「夷を撫した」事実がなければこれはありえない。張政は親魏倭王を授けられた女王国を保護するという任務をみごと果たし、その結果として撫夷という名を与えられ、使君と通称されたのであろう。魏志には張政だから、改名と帯方太守就任は晋代と思われる。漁陽という北京よりさらに北方の出身なので、日本は暑く、特に夏のむし暑さは耐え難く感じたであろう。日本を亜熱帯、熱帯の国と誤認したことにも納得できる。
 

 

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