日本と世界 諸説

世界史の越境 / 常世信仰巡遊伶人常世神と日の神霊魂思想日本人の起源海上の道起源の問題起源の起源時間の発生世界史近代の歴史観の盲点世界史の方法吉本隆明
孫子の世界 / 「善後策」「拙速」孫子の活用尖閣ビデオ流出「敵を殺す者は怒りなり」易経/老子/毛沢東老子との共通性孔孟思想と老荘思想古代中国の処世術四端説現代道徳教育中国人の精神伝説指導者の歴史責任感使命感戦陣訓の遠い記憶指導者の条件三国志から現代中国と世界を推理
諸話 / 日本の歴史学世界史教科書を書き直そう歴史教化書を読む西洋人の見た日本人中国人明治維新を考えるナショナリズムの由来日本史雑話ケマル/アタテュルク復活のトルコ共和国毛沢東の闇人口減少の経済的帰結気概損ねる人口減少
 

雑学の世界・補考   

世界史の越境に向けて / 柳田国男から吉本隆明まで

はじめに
わたしたちの言葉は羅針盤をなくしたかのようにいつまでも表現の海を漂っている。曰く、「停滞」、「解体」、「挫折」、「希望」etc.そのどれひとつ、わたしたちの心の尖端を引っ掻くことのできないもどかしさを抱えている。そのような宙づりにされた言葉は、口にした途端、もしかしたら、ひとびとの微妙な心理にさえも反作用し、生活事実として、皮膜のように本人に覆いかぶさって、さらに、心を内向させているのではないか。むろん、希薄な言葉の消費力に対しては、郷愁もロマンも手をさしのべない。一口に停滞感というけれど、それが噛みしめるべき生活事実の、どのような深みで、また、広がりで抽出すればいいか、すでに分からなくなっているからだ。そのとき、排出口のない鬱屈と管理されすぎる社会の隙間に、救われない悲劇として「猟奇」の影がしのびよる。でなければ、もし、この、泥沼のような内面世界を脱けだす道しるべがあるとすれば、幾重にも折り重なった化石のような言葉の中から、自らが吐き出した「停滞感」という言葉そのものの根源を解きほぐし、何回目の停滞感だったろうかとひとつひとつ指折り数えるよりほかない。それこそがほんとうの自己史を探すための糸口であり、世界史を身の丈にあった歩幅で切り取ることが可能な時間でもある。だが、ともすれば、いつもここで私たちは躓く。
[ 死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、そして両者の統一に矛盾するようにみえる。しかし、特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。 ]『経済学・哲学草稿』マルクス著
マルクスは、たとえ特定の人間が特殊な能力をもった個人であり、個体的に優劣がつけられるにせよ、その同じ程度において、彼は思惟する限り、社会の観念的総体性において現存しているので、社会的な関係や生命活動の中に現存しているとした。だから、「死」というものが、そういう社会的現存性と矛盾し、ある場合には、無視しようとしたとしても、類的存在をまぬがれない、そういう個と類の二重性の統一としてのみ人間は現存しているとみなした。
いつの時代でも英雄豪傑はいたが、彼らは死の矛盾を抱え、それを人に語り、個体性を強調しつつ、死を恐れながら一代で何事かをなそうとし、あえて「死」を荘厳に飾りたてようとした。「死ねば死にきり」と声高にいう奴に限って、せいぜい50年や100年を測る個体性の意味をふれまわり、時に、翌日にも忘れられそうな平凡な死を軽蔑した。それに逆らうように、柳田国男が「常民」に込めた思いは、幾分、このようなマルクスの見方と重なる。柳田における「常民」性とは、「時代を同じくする国内同胞の多数のもの、千人の中の九百九十人までが、既に確信しもしくは予期しているところのもの」を抱懐する人々を指していた。ただ、柳田においては多数というのみではなく、歴史性と人間との関係において、次のように媒介されていた。
[ 学問は本来至って寂寞なものである。ことにかような人を見る学問に至っては、久しい間の一国の同胞と、自分らばかり対立したような地位になって、国民が「見る人」と「見らるる人」との二つの組に分かれなければならず、自分は彼らの群に混じて、浮かれたり酔ったりすることができなくなる。いわばこれは大昔からもっていた太平無為とのお別れである。もっとも今一段と社会が意識的になれば、ふたたびこの差別もなくなって、同時にまた見られるに値する古代からの伝承も消え去るであろう。 ]『郷土研究ということ』柳田国男著
柳田は、マルクスと違って、個と類の矛盾を人間の本質的なものとは解していなかった、その限りで「常民」概念を紡ぎだすことができた。この柳田に対して、「飢餓」や「貧困」、「差別」、「戦乱」、総じて「稀少性」あるいは「階級」とかの言葉を反措定することもできた。事実、戦後すぐの頃、イデオロギー的な批判ではなかったが、柳田民俗学は戦争責任論を問われたことがあった。益田勝実は、柳田が空襲下で『先祖の話』を書き表わし、「七生報国」の遥かな歴史的価値を考察する一方で、徴兵された実子の帰還を日記で願っている矛盾を指摘し、『先祖の話』で書いていることと、生きて自分の子供の帰還を期待している心情の裂け目に筆が届いていなかったのが、柳田の民俗学のアポリアではないかと指摘した。その上に立って、彼の民俗学が、一回性としての戦乱や貧困、飢餓に伴う具体的な農民の悲喜の心情や、生活にとって欠かせない年貢の歴史性などを考察の対象外においたのは、「常民」概念の狭さに起因していると疑義をはさんでいる。もし、平民の反省の学問を挙げる意図を中心にみれば、戦争に好意的ではなかった心情と実際の擦り合わせを怠ったギャップが、次第に戦争に対する見通しを見失った原因ではなかったかとの問いかけがなされ、次のように述べている。
[ 柳田国男自身の心中にとぐろをまいていたあの戦中の<疑い>と、その口々に大声で語られる戦後の<疑い>との関連、また<疑い>を抱く自己と、口には少しも出さない他の国民大衆との関連の問題、すなわち、「涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった」という観察は大いに正当であろうが、はたして、それがどのようないさぎよさなのか、いさぎよいものばかりなのか、と自分の<疑い>の真実性に発して、<疑い>の友を発見していけなかったところに、柳田の問題がある。 ]『「炭焼日記」存疑』益田勝実著
ここで益田は、戦後、大戦に対する反省がひとびとに一般化した時点で、「国民共同の大きな疑い」をはさむのは容易だが、戦中において微かな異和感を対象化し、それを共同の疑いとして追及しなかったのは、柳田自身と「常民」の関係を相対化しなかった民俗学の立場が、とおりすがりの旅人の観察、採集でしかなかったことを意味し、主体性喪失の学であると断定している。こういう益田の主張は、当然、柳田が「常民」という概念をどのような時間的幅で取り出したかを考えていないところから出る疑問である。なぜなら、柳田が、戦中期、心の中に萌した疑いと、「家」を中心にした論議は、時間の幅を長くとれば、決して矛盾するものではないとおもえるからだ。おそらく、益田は、戦後、皆が戦争に対する反省を当たり前のように受け取った時点で、戦争批判するのは意味がないので、心の中に留めた時間に遡るべきだと言いたいのだろうが、その間に流れる時間は、せいぜい「家」の一世代の歩幅にすぎない。柳田が、「家」という場合、先祖から折りたたまれた記憶の束であって、それに比べれば、益田がいうような一世代ほど遡って目に映る国民共同の疑いの連帯など、たかが知れていた。ある意味、柳田が戦前、戦中をつうじて「家」のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。
なぜなら、柳田の「常民」概念は、そういう疑いを持つものと持たないもの、いいかえれば、「見る人」と「見られる人」の矛盾がなくなる未来に照らしてこそ、その有効性を持っていたと考えられる。その時点で、柳田にとって振り向くべきものの裏側に、同時に、たどりつくものとしての理念として「常民」性が含まれていたからである。この時間に対する「理念」がなければ、おそらく、書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのごとく考える従来の歴史学をおおきく覆すことはできなかったに相違ない。柳田が、「見る人」という自覚に寂寞さを感じたことが、近代の自己意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそが、おのずと、「起源」への方向性を開くものだった。
近代の歴史観の礎を築いたのはヘーゲルだったが、彼によれば、歴史は理性自身が絶対の究極目的である以上、自らに手を加え、その活動や生産を外にあらわすことにほかならず、その現れが、自然的宇宙であり精神的宇宙、つまり世界史だとした。そして、そうした理念だけが歴史を見る栄光に報われるとし、それを歴史哲学と呼んだ。だが、自分自身に還る理念は、当たり前のように、「見る人」の側の歴史のみで成り立っていた。
しかし、いまもそれを相手に格闘している「近代」にも、ついこの間までは、歴史の感触を、「起源」の問題としてとらえ、折り畳んだ時間を座布団のように横に崩すことができると信じられた瞬間をもっていた。つまり、わが国が近代の坂を登って行こうとしたとき、柳田国男が民俗学を出発させたのは、山地にこめた次のような感慨が出発点にあった。
[ ここにかりに『後狩詞記』という名をもって世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、もちろん第二期の狩についての話である。言わば白銀時代の記録である。鉄砲という平民的飛道具をもって、平民的の獣すなわち猪を追い掛ける話である。しかるにこの書物の価値がそのために些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、その中に列記する猪狩の慣習がまさに現実に当代に行われていることである。…中略…山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一の棒ではなくて、山地に向けてこれを寝かしたようなのがわが国のさまである。 ]『後狩詞記』柳田国男著
ここで山地に向けた矢印には焼畑農業が太古から引き継がれ、歴史の現在に刻印を残しながら、共時的に並べる手法を柳田が獲得しようとする経緯が破曲線で示されている。柳田の描いた歴史の今昔は、中世の古武士が阿蘇の荒漠たる火山の麓で、弓を引いて野山の鳥獣を追い掛けていた時代からはじまって、鉄砲を手に入れた土民が、糊口の種に鹿を絶滅まで追い込むまで、各時代をこえて、次第に、土地の名目と猪狩りの作法の詳細と伝聞の範囲を広げていきながら、山の民が「山の神」を恐れ、射止めた猪の心臓を山の神に献上する祭文にまで辿りつく。このときすでに、歴史の区分けをぬきにして、わが列島の歴史は山から始まったという信仰や伝説が、横へ横へと延びていく柳田のフィールドワークの方法は踏み固められた。ミシェル・フーコーは日本の柳田国男であるというわたしの確信は、この横へ横へと流れる特異性に求められる。
常民と常世信仰

 

一方で、言葉に時代への有効性があるかのように考えることを拒絶し、文学の信仰起源説を唱え、言葉の世界に通時的に海の郷愁やロマンを持ち込んだのは折口信夫だった。言葉が信仰なくしてどうして伝承され記憶できるのか、というのが近代的な切り口をもって示したその根拠だった。
[ 私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接続して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた関係で、前夜から翌朝までの間に、新甞とほかひとが引き続いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであろう。其が時期を異にして二度行はれる様になつてからは、更に限りなく岐れて、幾回となく繰り返される様になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とどのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。 ]『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
ほかふ、ほかひとは、神が讃えるという謂である。まれびとの訪れが二度になった理由は、祖先の有力な種族が南島から渡ってきたことに求められる。もともと、これらの南方種は熱帯で二度の秋の刈り上げをしていた。その名残が土地の農業暦を産み出し、のちのちの帰化種によってもたらされた陰陽道に影響されたものと考えられている。
[ 此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を負って逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に、一年中の心躍る様な豫言を與へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくとも、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。 ]『古代生活の研究』折口信夫著
折口のザックリした日本人の精神史を凝縮すれば以上のとおりだが、その過程には住民の微妙な喜怒哀楽の歴史が潜められていた。もちろん、わたしたちの古代研究が、単に、好事家の知識に終わらせないためには、この歴史の中の人々の感情の襞にどれだけ迫れるかという問いを含んでいなければならないことを折口はよくわきまえていた。柳田国男は、その呼び名そのものが比較的新しいものと考えているが、折口にとって、まれびとがそこからやってくると考えたトコヨノクニとはいかなる処なのか。
[ 思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出来ぬ程、海を隔てた遥かな国で、村の祖先以来の魂の、皆行き集つてゐる處として居たのであろう。そこへは海路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の国として、常闇の荒い国と考へもしたらう。風に関係のあるすさのをの命の居る夜見の国でもある。 ]『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
[ 常世往と言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴坂上郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は確かさが足らない。が、とこよをは楽土とは見て居ないやうで、旧用語例に近よつて居る。常夜・常暗など言ふとこは、永久よりも、恒常・不変・絶対などが、元に近い内容である。ゆくは続行・不断絶などの用語例を持つ語だから、絶対の闇のあり様で日を経ると言ふことであらう。 ]『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
常世とは「闇の国」であり、地下あるいは海底の「死の国」、「夜見の国」と考えられていたから、そこから来臨する常世の神を恐ろしい鬼と考えることもできた。だから、村落生活のために土地や生産、建物や家長の生命を祝福し、幸福を運んでくれるのだが、裏腹に、恐ろしいから早く立ち去ってもらいたいと考えたとしてもおかしくない。のちのち、そこには、外来思想を交えてさまざまのバリエーションが生じたが、仏教など外来思想によって上辺は変化しつつも、それと違った意味にその概念を育てるというのが、わが国の外来文化に対する接触の仕方であり、常世信仰の受容の形式自体は変わっていない。折口のあまりに文学的の語り口の中に含まれている言葉は、琉球神道が内地の神道の一つの系譜、あるいは、古神道の姿をよく保存しているとみなした上で、琉球宗教のにらいかない(儀来河内)が死の島であったことを根拠にしている。これは柳田が竜宮伝説を取り上げたときに指摘したニルヤに照応する。折口の眼には、琉球諸島の現在の生活は、萬葉びとの生活を、そのまま髣髴させると映った。また、萬葉人以前の俤さへ窺はれるものが決して少なくない。そればかりか、古代生活の研究に、暗示以上のもっと露骨な、そのままをむき出しにしている場面がしばしばあると考えた。そういう場面の印象は、次のような空想を交えずにはいなかった
[ 一体沖縄の島々は、日本民族の核心となつた部分の、移動の道すぢに遺つた落ちこぼれと見るのが、一番ほんとうの考へらしい。内地にあつた古代生活の、現に琉球諸島に保存せられて居るものは、非常に多い。さすれば、此南島にある民間伝承の影が、一度は、我々の祖先の生活の上にも翳してゐた事も考へられなくはない。 ]『信太妻の話』折口信夫著
では、ここで、なぜ、琉球諸島だけにそれが保存されていたのか。こう問いかけるとき、列島を縦断する時間が、まるで積み木のように重ねられているかのように考えられる。しかし、いわゆる日本人が環太平洋の島々から橋のように南島をつたってやって来る前に、わが列島には人っ子一人いなかったというのも空想であるし、日本語の祖語がなかったというのも憶測にすぎないのだが、折口には、ただひとつ、「移動」に分け入る方法が欠けている。もちろん、柳田や折口の言葉で言えば、「先住民」と後からやってきて列島に住みついた人々の信仰や経験の時間差がこれを補っているかに見えるが、ただそれだけでは曖昧さがともなう。折口は、「先住民」という実体を必要としたが、柳田の場合、それは可変なイメージで取り上げられているに過ぎない。そうでなければ、おちこぼれなどという言葉は意味をなさないはずだ。なぜなら、反対に、内地の古代生活は、なぜ、保存されず、こうもちがったものに変化したかを問えばすぐ分かる。しかし、今はそれを問わない。なぜなら、それは折口や柳田の方法の根幹に関わることであり、ただ、二人のその原イメージの保存のされ方の相違が大切だからだ。折口のこういう原イメージを誘惑したのは、豊後から琉球列島に向けて逆に辿った柳田国男の旅行記の次のような想像世界である。
[ 世界の海の荒れ狂ふ日には、餘波は寄せ来つて此千瀬を打越した。島ばかりが独り平穏なるアトールのやうな世中を、維持して行くことは不可能であつた。空と海との縫目の絲も、時あつて綻びざるを得なかつた。日を経て南の風の吹く頃は、遥かなる常夏の国から椰子の実が流れて来る。之に細工をして瓢に代へ泡盛の芳烈なるものを掬んで楽む中に、次第に島人の心は廣くなつた。沖に出て見ると渡り鳥はどこまでも飛んで行く。雲より外には又幽かなる次の島の影があつた。小舟にクバの葉などの帆を掛けて、知らぬ島々を見に往く者は、やがて又大きな船を誘うて戻つて来る。岡に登つて送る者待つ者、我と海上に漂ひあるく者も、いつと無く此千瀬の白い波を、眺めては憂苦するやうになつたのである。 ]『海南小記』柳田国男著
そして、柳田国男は、列島人種の起源を南から北上したと認めた。その宿命的な流浪の旅を環太平洋の点在する島々の中に思いをめぐらした。柳田の発想は、この「沖の島」に込められた。
[ 少なくとも此等の沖の小島の生活を観ると、それは寧ろ物の始の形に近く、世の終の姿とはどうしても思はれぬ。即ち大小数百の日本島の住民が、最初は一家一部落であつたとする場合に、與那国人の今日の風習が、小島に窄んだから斯うなつたと見るよりも、やまとの我々が大きな島に渡つた結果、今日の状態にまで発展したと見る方が、遥かに理由を説明しやすいように思はれる。北で溢れて押出されたとするには、平家の落人でも無い限は、こんな海の果まで来さうにも無いが、南の島に先づ上陸したとすれば、永くは居られぬからどうかして出て来たであろう。さうして取残された前の島の人を、必ずしも屡々想ひ出すことは無かつたかも知れぬ。仮に此推測が当つて居たとすれば、我々は誠に偶然の機会に由つて、遠い昔の世の人の苦悶を、僅かながらも此あたりの島から、見出し得たことになるのである。 ]『與那国の女たち』柳田国男著
巡遊伶人

 

折口は、その信仰がわが国の文学の発生の根拠をなしたとみなしている。それは現在あるがままの本質とは全く異なった経路を辿った。文学は古代の生活の極めて遠い原因から産まれたととらえられる。折口は、文学発生の動機を「かみごと」(神語)に求めた。そして、抒情詩よりも抒事詩が先行すると主張する。抒事詩の発達において注意すべきは、その人称の問題である。
[ 一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人に憑つて、自身の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。…中略…此際、神の物語る話は、日常の語とは、様子の変つたものである。神自身から見た一元描写であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに発想は一人称に依る様になる。 ]『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著
こうした呪言が三人称風になるにつれ叙事詩化し物語を分化させる。そうして、種族生活に関わりの深いものを語り伝えていくうちに、暗誦と曲節の熟練のひとつの様式として、巫覡が分化し、世襲制の語部(かきべ)という職業が発生した。郡ほどの大きさの国、邑と言ってもよい位の国々が、国造、縣主の祖先に保たれていた。彼らは、現人神の神主としてそれぞれかきべの民をもっていた。もともと高級巫女は権力者であるか、権力者の近親であった。高級巫女は神の嫁であり、まれびとは嫁(巫女)の神がかりをつうじて呪言を発する。最も古い呪言は、神託のまま伝習せられた信仰のまま、神の断案、約束、強要を意味した。
[ 常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一般化して、詔旨(宣命)を発達させた。庶民の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力を及すものと信じられて居た。…中略…詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令の古い形は、かうした方法で宣り施された物なることが知れる。 ]『国文学の発生(第四稿)』折口信夫著
この神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられていた。「天つ祝詞」と称せられるものがそれである。天つ祝詞には、自らの素性から国産みと山川草木、日月闇風を生み食物を作り出した理由を語り、人間の死の起源や鎮魂法までも説く。また、火の神の来歴からそれを防ぐ方便まで、その精霊の弱点を示し土地を鎮静しようとするものである。それは時と場所とを変え、新築のときであったり、1年の農作業の祝福であったり、時節の移り変わりを教えにくるのである。やがて、祝詞の口授者自身が神になることもあったらしい。また、祝詞には占いと関係するものが多くなる。必ず、祈願にはどうなるかという問いを含むからである。
また、呪言とは、土地の精霊との直談判であり、神が精霊にかけあうようにも見える。ここでは、常世のまれびとの威力がその土地の先住者たる土地、物の精霊を圧伏した来歴を語り、昔の神と精霊の関係を精霊の記憶に上らせようと、それぞれ常世神と精霊に扮した神人が演舞し、結局、精霊は村落生活を脅かさないことを誓うことになる。この代表者として精霊が考えられ、のちに「山の神」と称せられることになる。これは神がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られるものだ。「才の男」は神の宣託を人間の言葉に翻訳し、それを人の動作にコピーする役割を道化役のことだ。こうした道化役がでてきておどけを行うのだ。口答えをするこの「才の男」はもともと人形(偶人)であった。神楽の間に偶人が動いてより納得させようとした。道化役をもどきというが、もともとはこの偶人のしぐさから来た。偶人は精霊の代表者であり、身の近くに置いて、穢禍を吸い取る偶像であった。「才の男」は土地の精霊に擬されていた。このもどきの系統が千秋萬歳に発達した。
考古学者の寺沢薫は、弥生人の祭りには二つの顔があったといっている。ひとつは、作況を占い、雨を乞い、害虫や風雨を避け天地を静める祭りであり、穀物に宿る恵みの霊を禍から防ぐもので、地霊と穀霊という二つの精霊の観念が生まれる。それだけではなく、祭りは、葬送に関わるもので、死者の再生を願い祖先の霊が共同体に安寧と秩序をもたらし、守護霊としての祖霊への畏敬を含む別の側面をもった。この二つはわたしの言葉でいえば、神の観念と霊魂思想の結びつきである。その上で、寺沢はその祭りの観念を、祭器としての青銅器を使って説明している。第一は青銅器が権威の証になるほどの貴重品であったこと、第二に金属のもつ荘厳さがその属性において霊力を持つと考えられたこと、第三は青銅器を作る作業が錬金術師の魔法に似た効果をもつことである。だが、こういう言い回しはあまりに機能的でにわかには信じられない。これではほとんどプロテスタンティズムに近いではないか。それはシャーマンの役割の理解に如実に現れる。彼は戦うシャーマンと穀霊を守るシャーマンの二様性があると言う。
[ 倭人の四季を思い出してほしい。春の訪れは田んぼへの白鷺の飛来から始まる。弥生人の心の奥底には、あの白い鳥がイネの霊を運んできた、という思いがあったのではないか。鳥装のシャーマンのマツリは、その観念を形にしたものだ。田んぼのイネは夏にむけて生長する。秋の実りまで台風、洪水、病虫害、穀霊に災いをもたらす諸々の悪霊、邪気は避けねばならぬ。銅鐸は、春のマツリが終わっても、水田のみえるムラの祭場(蘇塗のような場所)で稲魂の安全を見守ったはずだ。白鷺がこの間、つねに水田に居着いて稲魂を見守ったように。秋の収穫祭が終わると、初穂は小さな祠(穂倉)の祭壇に祀られ、稲穂がついた種もみ用の穂束は神聖な祠(穂倉)に安置される。しかし弥生人の観念の世界では、稲魂は白鷺に連れられて、来年の春まで再び常世へと帰るのである。それはまさしく、去来するカミなのだ。現実と観念との錯綜のなかで、稲魂が逃げて二度と来ることがない、ということだけは避けなければならない。銅鐸はこの期間、今度は祠のなかで種もみの稲魂が逃げないように呪縛し、見守っておかねばならぬ。 ]『王権誕生』寺沢薫著
この例証として挙げているのは、辟邪と呪縛という呪力を秘めている銅鐸の模様の二面性である。しかし、これは信仰そのものが対象性として明白に意識されており、そのシャーマニズムは後期のものにちがいない。なぜなら、折口のような仮定をすれば、常世神の信仰が次第に薄れてきて、もともと常世神の受け手であったにすぎない山の神がその代りを務めるようになり、一人称であったシャーマンの言葉が、同類である地の精霊に対して向かうことになるような変質をくぐりぬけたからである。これは銅鐸の神の表現が三人称になったことに裏づけられている。寺沢は銅鐸に悪霊と戦うシャーマンや鳥装のシャーマンが描かれていたり、また、鳥取県淀江町稲吉角田遺跡の大壺にマツリの全容が描かれていることから、古代信仰の跡が辿れると思っているらしく、それによると船に乗った常世の住人がやってきて、「蘇塗」と呼ばれる柱と梯子の異常に長い祠があり、さらにその奥には高床倉庫があり、かたわらに二つの銅鐸がみえる。そのそばで地霊とみられる動物が見ているという構図である。しかし、これは既に祭りの自意識が「記述」され、発展したところに成立しているのであり、いわば、原初の祭りの意識そのままではない。柳田の言葉を借りれば、すでに、「祭」から「祭礼」に変わっているものだ。
そして、もっと遡れば、神がシテ、「才の男」がワキの対立自体、「記述」されない歴史の闇を潜るなら、さして古いものとは言えない。なぜなら、台風、洪水、病虫害、穀霊への戒めは、すでに人間が対象化した自然にすぎないからだ。農耕が始まり豊凶を占い、祈る儀式は、自然の息遣いに息をひそめるような「畏怖」とは言えないからだ。ここでもし、段階という概念を使うとすれば、わが列島にはじまる縮小した世界史の概念という限定をつけざるをえない
同じように、柳田が民謡や口碑ばかりでなく、取り上げた民衆が言葉なしに表す身振り、笑顔、泣くことなど感情の表現も含めて日々作っている「限界芸術」という概念を借りて、鶴見俊輔は次のように述べている。
[ こうして、柳田国男は、純粋芸術・大衆芸術をふくめて芸術一般の起源を限界芸術にもとめ、限界芸術の集大成を、それぞれの時代の祭に見た。祭は、集団全体が主体となって、みずからの集団生活を客体としてかえりみて、祝福することであり、平常はアクセントなく流れている集団生活が、このとき短い時間の中に凝集され、一つのモノの形をとる。…中略…大正・昭和期における祭の衰えは、祭が演じる者と見る者とに分離してしまったことからくる。 ]『限界芸術の研究』鶴見俊輔著
このような考え方ができるのは、鶴見の「限界芸術」が、もともと衣食住を確保する労働の倍音として始まっていることを前提にしているからだ。それは大衆芸術・純粋芸術の原点として、その後の芸術の成立の土台となる。そして、それは、折口が示すかきべが神との関係が次第に薄れて、芸術としての第一歩が踏み出される段階に照応する。邑、家、土地から遊離して漂泊する一群のひとたちが生まれ、神事としての堕落は芸術の開放になった。神人が豪族の庇護を失うのには理由があった。ひとつは大和本村の神を受け入れたこと、また、仏教の受け入れに順応できなかったことなど「神々の死」があげられる。「その神々のむくろ」を護ることで脱出口を求めてうかれびとは後から後から出てきた。やがて、政教を引き裂く大化の政が行われる。
[ 政教を引き裂く大化の政の実効のまづ挙がったのは此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくとも中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに至つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい證據である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。 ]『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著
彼らは沢山の家族団体を引き連れて亡命し流民となり、巡遊が新しい生活様式になる。かきべのほか、折口の言う「乞食者」とは、土地に結びついた生業を営まず、旅から旅に人に養われながらほかいなどした神事をやることを職業化し、やがてそれが芸道化したのがほかひびとであり、これを「巡遊伶人」と呼んだ。彼らの存在は、祝詞から叙事詩への転化と照応し、その叙事詩に合わせて鹿や蟹の身振り舞うものまね舞踊が付け加わった。これは精霊に対する威嚇の意味をもっており、この舞踊がもともと神事に深い関係をもったことを窺わせる。やがて、叙事詩から抒情詩へ転化するには創作意識の発芽が必要だった。人であらわせば、柿本人麻呂の時代である。この時代、語部(かきべ)とほかひびとが融合し始める。
神社制度が確立し、語り部の仕事が下級の神人に手に移っていき、地位が低下するにつれて、落伍したものが、ほかいびととなり職業化する。これには後ろ盾をなくした神人や零落した流離生活を始めた旅人である。そして、ほかひと語部(かきべ)は相互浸透して行く。もともとほかいとは無縁であった叙事詩がある村から他の村に語られ、持ちまわされ、叙事詩は散布されるようになる。全国に記紀、万葉、風土記の中に伝説の分岐したものが見られるのは、このためである。柳田は、この担い手の実相を次のように述べている。
[ クグツまたはサンカが山野の竹や草を採り、わずかばかりの器物を製作してこれを販ぐは、かかる大種族の生計の種としてまことに不十分なり…中略…しかしながら遠く古代の状況に遡りて見れば、彼等はこのほかにまだ相応の収入の道を有せしなり。その一はすなわち祈祷にして、その二はすなわち売笑の業なり。しこうして歌唱と人形舞わしはまたこれに伴える第三の職業なりしなり。時勢の変易とともにこれ等の業はすでに分化して一々の専門となり ]『「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男著
折口は、柳田を援用して、ジプシー同様の生活をしていたサンカ、傀儡子(くぐつ)とその女性版である遊行婦女(うかれめ)に注目して、巫と娼を兼ねる彼らが先住民の落ちこぼれで、各地を流れわたっているうちに定住したうかれびとの原型とし、ほかひびとがほかひの叙事詩化の過程において、彼らと交差するとみなした。「巡遊伶人」は叙事詩をほかひしているうちに、やがて歴史の中にはいるようになると自然と変形され、聞くものの心を誘うものとして悲恋を謡うものにさえ、修正が加えられて民間伝承になる。
[ だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以降の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢字書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。 ]『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著
また、次のようにも述べられている。
[ 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神憑りした神の、物語つた叙事詩から生れて来たのである。謂はば夢語りとも言ふべき部分の多い伝への、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部と言はれた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられて居た律文が最初の形であつた。此を散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀其他の書物に残る古代史なのである。 ]『最古日本の女性生活の根柢』折口信夫著
常世神と日の神

 

その叙事詩の口承民潭には、数々の変奏が加えられながら原型を失ったものも少なくないが、折口の言う直感によって透視されないことはない。
[ 垂仁天皇の皇子ほむちわけが、出雲国造の娘ひなが媛の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろちの姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。おなじ事はいざなぎの命・いざなみの命の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷(雷は古代の考へ方によれば蛇である)が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛の話と、ちつとも違うてゐないではないか。 ]『信太妻の話』折口信夫著
これらは国の違う者同士の結婚は、妻の本国の神に仕える期間は夫にも知らせない、もし、この誓いを破ると互いの仲は壊れてしまうと民潭にはしばしば出て来る。「異族の神」を苦々しく眺める心持がこのような物語を発生させた。折口が例証として挙げているのは、琉球女性が母から伝わり、嫁入りには必ず持っていくという香爐である。これは女性だけが祀る神を意味し、夫や子にさえ拝むことを許されていない。ここから、折口は、もともとの原型に遡り、村々を呪縛したトーテミズムの禁忌にまで対象を拡げている。トーテミズムの対象は、動物だけでなく、植物も空気も風もそれぞれの村の信仰生活の第一歩であった。
もし、折口の言うように、琉球人が日本人の落ちこぼれだとしたら、では、このような習慣が本土の日本人の中にも深く根づいていないのか。答えは二つしかない。日本人と呼ばれる人たちが外族に根こそぎ侵食されて、このような信仰を失ってしまったか、それとも、日本人という一括して呼びならわされた民族概念を今一度解体させねばならないということだ。そして、民族概念を解体するのには、極端に種族の概念に近づけるか、あるいは民族内共同体に引き寄せるかしかないとおもわれる。これは古代史を取り扱う根本的な方法の問題である。
前者について、柳田は、沖縄の島々の神道が、中国大陸からの影響がいたって少なく、仏法も無力であり、我々の大和島根の信仰から、中世の政治や文学の与えた感化と変動を引き去れば、そうであったような生活実態が垣間見れるという。その例として柳田の挙げているのは、第一に女性のみが祭りを支えていることである。つまり、巫女を通じて神の神託によって神の本意と心持を理解し、それに基づいて信心をしていることである。その神が祭りの祈りの際、出現し、その場所を自ら選定されたところを「御嶽(オタケ)」と呼んでいることである。祭りの日には、里に接した丘、または平地の林にあり、草木が茂り入り込むのに難しい御嶽に、ノロ(祝女)、カミンチュ(神人)などの女性のみが式法にのっとって神を迎え神の祝詞を受ける。
では、琉球の常世の観念は、日の神を拝み、天を尊ぶ「天降神話」とどう結びつくのか。柳田は折口と違って、実は、常世信仰と天降神話を対には扱わず、日の神と天降神話を対にしている。常世の観念が日の神に結びついて、天の信仰に移行したとする。
[ 日本でも古く経験したように、日の神を拝む信仰は、最も容易に天を尊ぶ思想に移り得たのだが、それが沖縄ではやや遅く始ったために、まだ完全なる分離を遂げなかったのである。朝夕に天体の運行を仰いでいた人々には、いわゆるニルヤ照りがありカナヤ望月が、冉々として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になお一つのより貴い霊地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或いは天の神格を認めるよりは前であったろう。…中略…是が新たな神観の移行を導くに便だったことは、海をアマといい、天をアメという二つの日本語の互いに繋がり通うていた実状からも類推し得られる。 ]『海神宮考』柳田国男著
柳田の場合は、琉球は常世神=日の神と天の神の信仰とが未分化なまま残っているというような言い方をしているが、折口は、はっきりと、常世神の思想は日の神思想と全く別のルートをとってきたとみなしている。常世信仰が一般的であったが、「新に出現する神を仰ぐ心が深かつた」として、それに覆いかぶさる形で取って代わった、ある部族の信仰であった日の神信仰が、普遍化した経路を辿っていくべきだと述べている。しかも、常世神そのもののニュアンスが違っている。
[ 昔になるほど、神に恐るべき要素が多く見えて、至上の神などは影を消して行く。土地の庶物の精霊、及び力に能はぬ激しい動物などを神と観じるのも、進んだ状態で、記録から考へ合せて見ると、其以前の髣髴さへ浮んで来るのである。其が果して、此日本の国土の上であつた事か、或は其以前の祖先が居た土地であつた事かを、疑はねばならぬ程の古い時代の印象が、今日の私どもの古代研究の上に、ほのかながら姿を顕して来る事は、さうした生活をした祖先に恥ぢを感じるよりも、堪へられぬ懐しさを覚えるのである。 ]『古代生活の研究』折口信夫著
「其以前の祖先が居た土地」に対する折口が感じている懐かしさは、非常に長い射程を持っていることがうかがえる。それに加えて、どうも、折口と柳田の常世の方角は正反対を指しているようにおもえる。いわば、折口はかつての日本人が渡来してきたルーツであった南西太平洋を偲び西を向いているのだが、柳田の場合、昇る日の神と重ねられて東を向いている。これも、柳田と折口が日の神をどう位置づけているかに深く関わっている。日本人のルーツともいえる東進の原動力の違いとも受け取れる。
ひとまず、「日本人」に限って言えば、もともとの信仰生活を破綻させたのが外族との抗争であるなら、統一国家の生成に向かって、歴史は辿っていくこの過程を、折口は次のように陳べている。
[ 上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、国家を考へる事がなかつた。邑自身が国家で、邑の集団として国家を思うても見なかつた。隣りあうふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其れ同時に、同族ながら邑を異にする反発心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事実は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に厳に守られた秘密の信仰の上に、霊験あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根抵を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであろう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。 ]『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著
そして、邑は領主の国造によって、私的に国と名乗っていた。その国造は神主として民に臨んでいた。そういう邑々を統一したのが大和朝廷であった。しかし、邑々の生活がひとつの宗教に統一されていても、つまり、大和朝廷のもとで単なる邑のひとつとして国造が豪族になったとしても、邑々時代の生活を簡単に変えようとしなかったところに軋轢が生じた。
彼らの共同体の構成は、前3世紀前葉には、寺沢によると、母集団を中心に周りに小さな村々が衛星のようにあり、小河川にそって群れをなしたのを「小共同体」と呼び、同じ灌漑水路を共有するとしている。このように稲作のための灌漑施設の利用が共同体の構成を規定している。さらに、こうした小共同体が各河川の上流、中流、下流に集まり、同じ水系をもとに水支配集団の紐帯を示すようになると「大共同体」と呼ばれる。
[ ここで言う大地域(大共同体)を、『隋書』倭人伝に「軍(く)尼(に)」とあるのを参考にして「クニ」と呼ぶ。その階級的首長を「大首長」あるいは「オウ」と呼んで、小共同体の首長とは区別している。さらに、大共同体(クニ)がいくつか集まった小さな平野や盆地規模の大共同体群を「国」と呼び、その階級的首長を「王」と呼ぶことを提案している。…中略…『漢書』地理誌には、倭地が「分かれて百余国をなしていた」という記事がある。また、三世紀も終わりに編纂された『魏志』倭人伝には、「今、使訳通ずる所三十国」であることを記している。『漢書』の「百余国」とはおそらく紀元前の北部九州を中心とした地域であり、『魏志』の「三十国」とは投(とう)馬(ま)国(こく)や邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)、そして狗(い)奴(な)国(こく)などの東方の国々を含むであろうから、国の規模や統合がかなり進んでいることになる。私は、その領域規模から推定して、「百余国」は「クニ」に、「三十国」は「国」に対応するものと考える。 ]『王権誕生』寺沢薫著
このような寺沢の発見は、列島の国家の発生を前3世紀から前2世紀の弥生時代前期末〜中期初めまで遡らせようとする見解であり、古代史の定説を覆すものである。これはどの段階をもって「国家」として認定するかの違いであるが、寺沢は「部族的国家」がクニを指すと考えるから、そのクニこそが国家の始まりと考える。はじめ、国または国家連合の中心は北九州にあった。ところが、後200年頃から北部九州中心の連合国家「倭国」の力のバランスが崩れはじめ、中部九州、山陰、瀬戸内、近畿、東海にそれぞれ国家連合が鼎立し、利害と駆け引きが始まった。そして3世紀初め奈良盆地で巨大な政治的、祭祀的権力をもった大和王権が誕生する。これこそが倭国の新しい政体と言われる。
[ 新生倭国は、部族的国家の連合体ではあるけれども、祭祀圏の違いや外的国家としての異質性を乗り越えて、まったく新しい祭祀と政体を共同で作り上げようとする巨大な幻想的運命共同体という側面が強いのだ。こうして新生倭国はイト倭国とは比較にならない広範な領域に、上から一気に王国誕生の網が被されたことになる。だから私は、ヤマト王権の誕生を、七世紀後半の律令国家の成立という、王国の完成にむけての日本国家形成の第二段階の始まりとして評価している。 ]『王権誕生』寺沢薫著
寺沢はその王権の根拠地を奈良盆地の東南の三輪山と巻向山に挟まれた扇状地である纒(まき)向(むく)の巨大遺跡に求めた。また、同じ頃の大規模な土木工事に支えられた前方後円墳の出現にみている。しかし、これはあくまでも政変劇の結果にすぎない。その支配と連合は、卑弥呼とともに祭祀と秘儀に隠されていた。卑弥呼の「鬼道」とは弥生時代の祭祀を統合して飛躍し、「首長霊継承」という宗教改革であったとみなしている。つまり、女性が権力の承継に必要な首長霊観念が生まれると、その鼓舞を儀礼化した際、男王は、女性祭司の持つ生殖力や太陽神と交合する呪術性が必要とされたと言う。これは折口などのいうとおりである。大和王権の確立とともに、その呪術性は、銅鐸から古墳時代との繋がりを求めて「前方後円墳」が産まれたとする。
このように国と国の政治的な争いを目の前に見据え、結局、大和朝廷の成立の事情に通じていたはずの折口が、なぜ、「倭成す神=日のみ子」に収斂するのかは理解しがたい。わたしには、もしかしたら、折口は夢見る弱者ではないかという気持ちが沸き起こる。三島由紀夫あたりの思想を解きほぐすためのヒントには違いない。
[ 純良なおほくにぬしは、欺かれつつ次第に智慧の光りを現して来た。此智慧こそは、やまとなす神の唯一のやたがらすであった。愚かなる道徳家が、賢い不徳者にうち負けて、市が栄えた譚は、東西を通じて古い諷諭・教訓の型であつた。ほをり・神武・やまとたける・泊瀬天皇など皆、此美徳を持つて成功した。道徳一方から見るのでなければ、智慧と悪徳とは決して、隣りどうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎も触れた事がある。人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想い至るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬしを仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。 ]『萬葉びとの生活』折口信夫著
選ばれた萬葉びととは憤怒、憎悪、嫉妬を具備しており、それこそが邑と邑との間の争いごとに勝つことができた美徳であると人々に信じられていた。今でこそ粗野で残虐と非難されるかもしれない言行も、当時としては尤もな振る舞いであり、むしろ、それを楽しむすべを知っていた人々から見れば、それが存分に行われる権能を選ばれた神人として認められていたのであり、それに触れることが古典を読むことに値する。小道徳家には決して分からないことなのだと折口は突き放している。 
霊魂の思想

 

太古の霊魂の思想を初めて取り出したのはJ.G.フレイザーであった。彼の古典古代期以前の文学的な発想は、次のように辿られた。
[ なぜギリシャ人が、水に映った自らの姿を見るという夢を、死の前兆と考えたかを、理解できることになる。彼らは、水の精霊が人の鏡像(魂)を水の中に引き摺り込み、魂を抜き去って殺してしまう、と恐れたのだ。おそらくはこれが、美しいナルキッソスの古典的な物語の起源であったろう。ナルキッソスは、水に映った自らの姿を見たために、恋い焦がれて死んでしまうのであった。自らの美しい姿に恋をして死んでしまったという説明は、おそらく、この話の古くからある意味が忘却された後に考え出されたものであろう。 ]『金枝篇』フレーザー著
鏡像や影という形で表れた魂が死者によって抜き取られるという魂についての原始的な考え方がもともとあって、のちにそれがナルキッソスの神話になって表れたということである。原始人は、現象の内部にあるものを魂の存在によって説明しようとした。人間の内部の人間が魂であると考えられたと言う。魂は人間の体を借りて、出入りするものであった。もし、魂が身体から離れたままになってしまえば、魂を奪われたものは死ななければならない。死とは魂の不在を意味した。その魂は死霊や悪霊、祖先たちの魂の誘惑によって、本人の意志に反して身体から切り離される場合がある。こういう考え方は、ひとつの民族やひとつの国に限られるものではなく、世界中にみいだせるものだ。
折口の民俗学の下敷きになっているのは、ひとつは他界観念であり、もうひとつが霊魂の思想であった。折口は、すぢぁという「人間」の義の琉球古語の語源を、選ばれた神人の蘇る者という意味に考えたが、更に、世代の継承を次のように考えている点を注視すべきである。
[ すぢぁに見える思想は、日本側の信仰の助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。 ]『若水の話』折口信夫著
つまり、すでるという言葉の原義は、「現る」、「いづ」というニュアンスに近く、このため「あら人神」というのも神があるという意味に近い。霊魂とその表現ということで言えば、幾代にもわたって連綿として続き、その表れ(すでる者)として、社の神主として資格をもち、更には、その祀る神にもなった。そして、その世代交代は外来魂が来るときに行われ、常世の水の信仰によって裏づけられる。その若返る水(若水)によって繰り返し霊力が改まると考えられた。柳田も祖先が支持した大衆の古い常識は、ひとつには、神話の世界ではありえた夢、たとえば、岩根木草が言葉をかわした世界を同時に経験し、三粒の米を入れて、一釜の飯のできた世界と並べて、託宣が信じられた世界を次のように語っている。
[ それから今一つは第二の世界との交通、夢にこの世を去った父母や故友と逢う。人が特殊の精神状態に入れば、常は見たり聞いたりし得ぬものを見聞する。凡夫にはわからぬというのみで、霊界の人は常に語ろうとしている。鳥でも獣でも草木虫魚でも皆通信しているのだが、こちらにしかるべきアンテナがないために、通例はそれが受け取れないのである。こういった考え方も決してある一つの宗教の独占でなく、現にまた信仰なき者の間にすら行われている。 ]『日本の祭』柳田国男著
柳田は遠い先祖の霊を繋ぐには水と米が絆だったと言う。若水迎えに該当する儀式が魂祭りに付随していた。柳田国男はそれを先祖の霊と呼び、その霊は、稲作の霊と深く結びついていた。人は亡くなってから50年目、あるいは33年目の法事を終えて亡霊が神になると信じられた。
柳田によると盆と正月の魂祭は、みたまを祭るという意味で、常民の無意識の伝承として、もともとは同じものであった。柳田にとって、黄泉の世界は、死の親しさといっしょにやってきた。その理由として柳田があげているのは4点である。・死んでも霊は遠い所にいかないこと・あの世とこの世は交通が自由で単に春秋の定期の祭だけではなく、一方の希望によって、招き招かれることが困難でないと思っていたこと・死のうとするときの念願が死後には達成すると思っていたこと・死んでも、再び、三度四度生まれ代わって同じ事業を続けられるとおもっていたことである。
こういう親しさをもつためには、人々の行く先が静かで清らかな、この世とはかけ離れた場所でなければならなかった。村から遠望される峰の頂から盆前になると道を刈り払うとか、川上の山から盆花を採ってくるような風習がおのずとその場所を示した。その途中には、あの世に行く道を示すようにさいの川原やでんでら野と呼ばれる場所があった。霊山の崇拝や卯月八日の山登りの風習は仏教の伝来よりも早かった。主人が馬で、または背負って口寄せの巫女の口を借りて魂迎え、魂送りをするのも、この山の神=神霊への崇拝があったからだった。田植えの日、田人、早乙女たちが振り仰いで礼賛する歌を歌うのもこの峰々であった。春は降り、冬には帰ってくる農民の神が、この遠い昔の共同の先祖であって、その神がたえず、村を見守り守護した。
[ 農民の山の神は一年の四分の一だけ山に御憩いなされ、他の四分の三は農作の守護のために、里に出て田の中または田のほとりにおられるのだから、実際は冬の間、山に留まりたまう神というに過ぎないのであった。…中略…我々の先祖の霊が、極楽などには往ってしまわずに、子孫の年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なる処に静遊し、時を定めて故郷の家に往来されるという考えがもしあったとしたら。その時期は初秋の稲の花のようやく咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。そうしてそれがまた新しい暦法の普及して後まで、なお農村だけには新年の先祖祭を、あたう限り持続しようとした理由でもあったのではないか。 ]『先祖の話』柳田国男著
さらに、柳田は、死の世界と現世の距離が近かったことを説くために、霊魂の生まれ変わりという考え方の在処を問うている。霊が賽の川原を越え山の神にならぬ前に転生ということが信じられ、その行先も先祖の生まれ変わりとか極めて近親のものに多かったと言われている。それが柳田にとっては、「家」というものの骨格をなした。「家」は遠い先祖の霊が立ち帰って、その永続性を保障する幽かな「神ながらの道」の考え方に基づいていた。家の先祖はその霊がこの国土にとどまり、子孫に対して目に見えない力となり威令をもつ。そして、死は別れではないという言い方が、死にゆく者にとってどれほどの励ましになるかしれなかった。
柳田が「家」とは何かと考えたとき、戦時下の焦眉の課題でもあった。空襲警報が鳴り響いている中、書き綴っている『先祖の話』の中では、戦死した若者たちについて、広瀬中佐の話を引いて、「七生報国」という言葉さえ出して、数千年の間繁栄してきた「家」の伝統の基礎にこのような信仰があったことを語ろうとする。
こういう「家」が国家という制度の枠組みの中で、事大主義とも言い表わされ、後藤総一郎のように、いわゆる人間本来の自然感情であったものが、明治国家におけるネーションの形成にとって、家父長的な権威主義性格とともに、ナショナリズムの培養器の重要な容器になり、郷土感情の根である「家」を権力支配の単位として改変されたものと言われた。しかも、その認識の度合いは、かつての「常民」の家が政治的に閉ざされていたものの、人間本来の自然感情と精神のみずみずしさが溢れていたとみなすかどうかの判断材料にされた。そういう反転した考え方は、その時、柳田が、政治イデオロギーとしての「家」に最も近接した地点にいたという批判に繋がったのは事実である。 
日本人の起源

 

いわゆる日本人と呼ばれる民族の起源はいつ頃であろうか、柳田や折口が想定している最古の日本人の原型とは、歴史の時間をどれくらいまで遡って考えているのかというのが、わたしの久しい疑問だった。彼らが例示するのは、武家の台頭する中世だったり、江戸期の近世だったり、京の都のことであったりする。そうかと思うと、琉球に日本人の祖系を訪ねて、その方角を椰子の実で推し測ったり、東北の山深い谷間の暮らしに意味を見つけたりして、彼らの上手な誘導に従わないなら、ともすれば時間と空間の遠近感に戸惑うことにもなる。ただ、彼らの集めた資料は厖大で、狭い郷土史家の手をはるかに超えている。だとするなら、その根拠と呼べるものを探して、歴史をとおく遡ってもおかしくない。もともと、この疑問は、「常民」という柳田の言葉の垂鉛を測ることと同義であるのかもしれない。それにひきかえ、もし、日本人と呼ばれるひとびとの立ち居振る舞い、信仰、習慣総じて文化にまで立ち入りさえしなければ、もっと手っとり早く、人類学、骨相学その他の生理諸相の比較研究の立場から、スマートな日本人論を展開することができる。
[ 日本の旧石器時代人や縄文人は、かつて東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団―原アジア人―をルーツにもつということが問題の出発点となる。縄文人は一万年もの長期間にわたって日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特の文化を成熟させた。気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が渡来してきたが、おそらく彼らも、もともとは縄文人と同じルーツをもつ集団だったのだろう。異なる点は、長い期間にわたって極端な寒冷地に住んだために寒冷適応をとげ、その祖先集団とは著しい違いを示すようになったことである。大陸から日本列島への渡来は、おそらく縄文末期から始まったのだろうが、弥生時代になって急に増加し、以後、七世紀までのほぼ1000年にわたって続いた。渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸部に到着し、渡来人の数が増すにつれて小さなクニグニを作り始めた。さらに彼らは東進して近畿地方に至り、クニグニの間の抗争を経てついに統一政府、つまり朝廷が樹立された。 ]『日本人の骨とルーツ』埴原和郎著
埴原の辿る日本人のルーツは、縄文時代よりさらに古く旧石器時代まで遡る。沖縄で発見された最古の「港川人」は18、000年前に発見された後期旧石器時代の人骨で、現代型ホモサピエンスと呼ばれている。500万年前に東アフリカで誕生した「猿人」は180万年前に「原人」に進化した。その「原人」が百数十万年前にアフリカ大陸を出てヨーロッパやアジアに拡散された。そして、古代型ホモ・サピエンス(旧人)と呼ばれ始めたと言われている。日本でも中期石器文化の石器が確認されているというから、列島においても8万年前から4、5万年前の古代型ホモ・サピエンス(旧人)が存在した可能性はある。その後、後期旧石器時代の新人段階の人々が作った文化は、約3万5千年前から約1万3千年前まで続いた。この時代は縄文時代以降の定住生活とは全く異なって遊動生活をしていた。
その当時の旧石器時代は氷河時代で、日本列島とアジア大陸とは陸続きであった。その後、気候の温暖化とともに海面が上昇し、海に囲まれるようになると、豊かな山、海の幸は人々の生活を大きく変え、縄文人が1万3千年前頃からこのような閉鎖的な空間の中で定住して、採集・狩猟を中心とした文化を作った。土器が日常生活の用具となり、それが縄文時代の目印になった。縄文人は狩猟、漁猟はもとより、木の実、果実、キノコ、栽培植物、シカ、イノシシ、カモ、キジなどの鳥、アサリ、ハマグリ、シジミなどの貝類、魚、海獣など、バラエティに富んだ豊かな食生活をしていたことが分かっている。縄文時代は1万年にも渡って続いたとされている。
それに続く弥生時代は、水稲耕作、大陸の先進文化を摂取する文化を代表し、およそ前3世紀から後3世紀の間の農耕(稲作)文化を指している。そこで、弥生時代には、縄文人の特徴を残すグループと、弥生時代以降の渡来系のグループの区別が生まれ、いわば日本人の「二重構造モデル」ができた。そして、その渡来民の起源は中国中南部ではなく、中国北部やモンゴル地方を含む北東アジアと推測されるというものだ。
その後の渡来系集団と縄文(土着系)集団との関係は、列島の地域分布にも反映した。日本の朝廷を樹立した渡来人たちは、土着の縄文系集団を征服しようとしたが、とりわけ、アイヌ人は比較的混血せず、より縄文人に近いままで残った。アイヌ系と琉球系の集団はともに縄文人を祖先とし、北東アジアからの渡来人の影響が少なかった。そして、在来系と渡来系の大規模な混血によって、いわゆる大和文化が成立した。このような埴原の見取り図の中から無理に政治的な識見をひきだそうとすれば、次のような箇所が該当する。
[ 現在、日本人の多くはいわゆる「大和民族」に属している。これは少なくとも朝廷が成立した六世紀以降、基本的に共通する文化伝統のもとに住み、共通した帰属意識をもつ人間のグループである。ところが北海道に住むアイヌ系や沖縄諸島の琉球系の人びとは、それぞれアイヌ文化、琉球文化といわれる独特の文化をもち、またそれぞれ独自の帰属意識をもっているから、彼らはアイヌ民族または琉球民族に属するというべきだろう。このように現代を考えても、日本人は決して単一民族ではない。 ]『日本人の骨とルーツ』埴原和郎著
埴原のような立場を自然人類学と呼ぶらしいが、種族と民族の違いについて言っている割には、民族を構成する文化についてほとんど無知である。この無知は政治屋に利用されて、デマゴギーになりかねない。なぜなら、埴原は、縄文人、弥生人などという大括弧の仮定の言い回しをしているが、縄文とは弥生とは違う衣食住を持っていたにすぎないのに、あたかも国家や民族の固有性であるかのように思い込んでしまっている。この場合、人骨、歯、遺伝子、顔つきによる平坦化は、ただ、列島に住みついた人々を日本人と呼ぶなら、その日本人が雑多に混血していることを確認するだけでよいとおもえる。だから、もし、文化という概念を使用するのであれば、アイヌとか琉球の問題をことさら取り上げるまでもない。われわれだって、アイヌとか琉球に隔たりを感じているのと同程度の、程度の差であり、ほんとうは文化を包む時間の隔たりとして、歴史の闇に隠されているが、その意義こそがほんとうの隔たりなのだ。その点から言うと、「日本」、「日本人」という言葉にこだわりを示している網野善彦にも同じことがあてはまる。網野は埴原が「日本人単一民族説」に異論を挟んだとして支持しながら、次のように述べている。
[ これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてきたと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々という意味で用い続けたいと思う。そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。日本が地球上にはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、くり返しになるが、ヤマトの支配者たち、「壬申の乱」に勝利した天武の朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときであった。それが七世紀末、六七三から七〇一年の間のことであり、おそらくは六八一年、天武朝で編纂が開始され、天武の死後、持統朝の六八九年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、前に述べたように、七〇二年に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったことは、多少の異論があるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといっていい。 ]『「日本」とは何か』網野善彦著
このように言って、網野は種族や文化、国制のそれぞれの位置づけを交通整理しようとしている。もともと、網野の立脚点は、戦後の歴史学への疑念から始まっており、戦後歴史学が、近代的な国民国家・国民経済・国民文化、総じてネーションの物語でしかなく、ナショナルな枠組みに収斂させてしまう構図を免れなかったとした。それを脱却するためには、アジアの地図を逆に見ること、この列島が「海」を内海にみたてたアジア大陸の南北を結ぶ架け橋の意味を持ち、そこで広域的、恒常的な交易、交流活動を通じて、列島各地に個性的な社会集団、地域集団ができてきたことを認め、安易に「日本人」として一括しないように注意を促している。このため、「進歩史観」、「発展段階論」のような社会経済史の常識を見直さなければならないとする。
そして、列島社会においては縄文時代から、東部と西部の文化意識の差異があったことを改めて強調している。網野によれば、2万年以上前の旧石器時代に遡っても、フォッサ・マグナを境に、落葉広葉樹林の広がった列島東部と照葉樹林の広がった西部の間には生業そのものが異なっていた。この差異は、言語、民族の差異として歴然とあったところに、西から移動し西部に移住してきた新しい弥生文化の担い手が、この地域差を前提にして、縄文文化の影響の比較的弱い地域に広がってきた。それが、列島の地域差をさらに拡大させたとみなしている。そうして、弥生人に対してアイヌ系と琉球系、弥生に対して縄文、西部に対して東部、差別に対して被差別、男性に対して女性を次々と差異を探り出して、「日本」という幻想のアイデンティティを解体しようと意図しているかに見える。
起源の側からいって、最近の考古学が異論を挟むのは当然であるが、柳田や折口の他界観念や霊魂の思想をふまえないと、人骨縫合のとんでもない誤解が生まれる、それは何故か。柳田は、一方で、それらの考え方が人類の全体に行き渡った古風な考え方であり、民族の偏差にすぎないとも述べている。列島に住みついた旧石器時代の人骨は約18、000年前と推定されており、たかだか数百年の時間と数万年の時間の間尺は、決して折り合わないし、尺度として成立しないのだ。わたしには、柳田や折口が撮った「常民」のモノクロ写真は、こういう雑獏としたすべての問いを含んでいるとおもえる。
[ 朝鮮半島南部から水田稲作など数々の大陸文化をたずさえて北部九州に渡来した人々が、ある時は縄文人(文化)と対立しながらも、融合し、変容し、南へ東へと波及させ定着させた農耕文化を弥生文化と総称している。少なくとも北海道や南西諸島は弥生文化の範囲の外にあるし、東北地方でさえ厳密には、弥生文化でくくっていいのか、あるいはどの段階から弥生文化と呼べるのかは議論の残るところなのである。 ]『王権誕生』寺沢薫著
一般のタイムスケールでは、土器による様式名から発掘された遺構の時間を計っており、その中で、稲作とは弥生文化の代名詞とみなされた。しかし、最近の調査では水稲農耕が縄文時代後期にまで遡ることが分かってきた。遅くとも前5世紀には九州で定着した水田稲作は、200数十年で本州の最北端に到着したという結果が現われる。
寺沢の稲作伝来のルートの考古学的な解明は、水田の形、稲の品種、石製の鋤、鍬、石包丁、石斧の形状によって考えられており、縄文晩期後葉の最初期の伝来ルートを確定するところから始まった。それによると、前6世紀末から前4世紀頃、・中国北部から渤海の上周りに朝鮮半島を南下・中国中部から朝鮮半島を経由して伝来・中国中部から海を渡り直接伝来・中国南部から海を渡り南南経由で伝来の4経路を想定している。そのうち、寺沢は主に朝鮮半島南部から渡来した人々にもたらされたとみるところから、・のルートを決定的としている。したがって、柳田や農学者が支持している・のルートは、南島においては弥生時代にさかのぼる農耕の痕跡が全くないことから、この海上の道は、稲作文化の背景になった民俗的古層を残している南島に伝来ルートを求めようとする希望的観測にすぎないとする。
そして、何より、この伝来は、縄文人がもたらしたのではなく、渡来人によって行われたという点に重点を置いている。この時代は縄文人から弥生人への形質変化が著しく、混血による急激な変化が背景に求められたからだ。彼らは稲作技術や金属器製作技術を伴って半島から幾重もの波となって渡来した。そのため、弥生時代を通じて稲作はゆるやかに発展していった。
ここで寺沢は、縄文人と渡来人として、世界を二つの局面と価値観からなるという二元的な世界観をとっているが、これはすこぶる怪しいとおもえる。あえて言えば、縄文後期には大陸ではすでに強大な帝国を築いており、その影響から人心の往来があったのは疑いないことであるし、稲や金属を携えずとも、そういう渡来もあったに違いないとおもえるからだ。つまり、縄文、弥生の区別は、世界史的な視野に立てば、何の意味もない。もっと言えば、柳田が「稲の人」にこだわる理由も不明である。
辻褄を合わせるには、二つの方法しかない。ひとつは、縄文時代、弥生時代の概念規定そのものをつくり変えることである。また、そのまま変えないとしたら、弥生時代をもっと遡り、縄文時代を短く取るかである。もうひとつは、ほとんど稲作を同義にみたてている折口、柳田の神の信仰を稲作と切り離すことである。もしくは、通説と実態を断絶させるような方法を取るしかない。つまり、ほんとうは断絶しているのに、そのことが分からないぐらいに縫い合わされた切れ目を辿っていくほかはない。これらはそれぞれにおいて、内在する基準を必要とするが、わたしたちにとって、必ず、考え直さなければならないのは、弥生文化=天皇制というタームであり、言語を含む民族なるものの多様性をあとの残らないくらいに無化するかである。
埴原によると、この弥生文化を担う北東アジア系のツングース系の渡来人は、朝鮮半島を経由して千年の間に、最大120万人、少なくみても数万人に上るという。それを民族移動と呼ぶのか、それとも民族の混淆と呼ぶのかは分からないが、「移動」とか「混淆」という概念は、独自の時間を持っていることを自覚しなければならない。あえていうなら民族移動は時間概念にすぎない。「移動前」と「移動後」は続いていて、続いていないという認識が大切なのだ。したがって、こういう埴原らの弥生人の形成に多くの大陸系渡来人が関与していたという考えは、当然、次のような反対論が現われることを予期しなければならなかった。
[ 列島各地にはじめから住んでいた絶対多数の縄文人が、ごく少数の大陸系渡来人の文化の影響を受け、農耕社会へと移行したのであり、その結果、大きな歴史的転換(弥生時代のはじまり)を迎えたといえよう。つまり、「弥生人」と呼べる人が大陸側にいて、日本列島へ多数渡来したわけではなく、縄文人が水田稲作や食生活などの変化によって形質が変化して弥生時代の人、すなわち弥生人になった。結論的には、少数の渡来人はやってきたが、「弥生人」はどこからも来なかったと私は考えている。 ]『縄文の生活誌』岡村道雄著
その根拠としては、・縄文時代晩期の寒冷化と生産力の低下、・停滞的な集団組織の行き詰まり、・朝鮮海峡をはさむ文物の往来・朝鮮半島でのコメ作りの開始を挙げている。もともとの初めから今から二千三百年前、水田耕作農耕などの進んだ文化をもった人々が大陸から渡来して、弥生文化を育てたというのが定説であった。ここでは、その渡来した人々は、それまで列島に住んでいた先住民族(縄文人)を北と南に追いやって列島の中央に居座り、倭国、日本国の基礎を作ったという定説に真っ向から反対していることになる。
しかし、岡村や網野のこれらの考え方は、どちらにしても、折口や柳田の考え方と辻褄が合わなくなる。というのは、弥生文化を担う北東アジア系のツングース系の渡来人のやってきた方角が、南島伝いに渡ってきた人々と似ても似つかないからだ。
海上の道

 

再確認すると、柳田と折口に共通しているのは、日本人=稲の人というモデルだった。つまり、稲作以降が日本人の歴史ということだ。ただし、米はハレの日にしか口にされないものであり、信仰とその行事と名づけるべきものであったがゆえに、コメという言葉はタブーとして形而上的な意味をもっていた。日本人の起源について、椰子の実の海流に乗って漂着した場所に原始日本人の上陸点を見た柳田国男は、次のように述べている。
[ もしも漂着をもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう遠方でなかったことが先ずわかる。人は際限もなく椰子の実のように、海上をただようては居られないのみならず、幸いに命活きて、この島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻娘を伴のうて、永続の計を立てねばならぬ。そういう企画の可能なる場合は限られており、したがってまたその条件の備わった海辺を、見つけることもさまで困難ではない。動力航行の時代に生まれた者が、最も見落としやすい一事は、昔の船人の心長さ、種播く農夫の秋の稔りを待つよりもなお久しく、年に一度の往復を普通としていたことである。 ]『海上の道』柳田国男著
それでは、一度、漂着して到達したのに、なぜ、妻子を連れてまで引き返してきたのかというと、宝貝の魅力であるとさりげなく答えている。西南諸島は黒潮に洗われる島々一帯が貴重な宝貝の宝庫だったが、やがて、宝貝の需要がなくなり、原始日本人たちは、島づたいの生活に生産の地が足りなくなる。また、島々の生産は米作のために十分でなかった。おそらく、米作もこの原日本人の手によって伝搬していたはずだ。彼らは、もともと代々米作の栽培者であったからだ。最初、南島諸島において灌漑設備がなく、水の手の悪く、雨ばかりを頼りにして稲作を続けていたのだが、それだけでは足りなくなり、水豊かで、草木の濃く生い茂った地形の雄大な陸地を求めて、北上し、本土に辿りついた。
[ 私のよく使う言葉で、時代差と地方差というものが、日本のような特殊な国では併行する。よく例に引きますのは、信州の日本アルプスあたりに行きますと、七千尺、八千尺という所に行かないと見られない高山植物が、形は少し変っておりましょうけれども、同種であることが確かなものが、樺太まで行きますと、人家の門前、道ばたに生えている。そういう実例がたくさんあるので、これを丹念に探して行ったならば、稲作なら稲作という一つの文化の成長して行く道筋が跡づけられはしないか。 ]『稲の日本史』柳田国男著
米作と民俗の創生とのつながりということであれば、柳田のこのような考え方を前提にしなければならなかった。宝貝と米は、日本人にとって不可欠であり、東進する日本人の欲望の媒体であった。また、柳田は、列島各地に遍在する同様な口碑民潭にその根拠を求めた。なぜに、東北地方から琉球列島にまで同じ伝説があるのか。
柳田の海上文化をめぐる方法は二つである。ひとつは、日本国が南北四百里もあるにもかかわらず、大体、同じ様式の生活しているのは、大部分、祖先を同じくすることと、もうひとつは、海の道を「島」づたいに新しいものが伝播するということであった。そのため複雑な地方分布図を起こしたとみていることだ。互いに縁もゆかりもない地方同士が共通に残っているものがあるのはこのためである。この地方同士の関係で柳田のこだわっているのはあくまでも、「島」=海の道であることだ。これが陸上の道を辿る折口との微妙なズレとなっている。
異人、天狗、山の神、幽霊、狐憑き、総じて妖怪じみた民潭を取り上げる柳田は、なぜに、このような民潭を積み上げたのか、ということは疑問であるが、それに対する答えは、表向き、柳田には明白だった。つまり、模倣された都中心の文化を否定しようとしたことだ。これは期せずして文化の射程を長くした。柳田は、のどかな空気と温和な気候、風土が、列島の文化を規定したと言ったあと、次のように述べている。
[ 文学の権威はこういう落ちついた社会において、今の人の推測以上に強大であった。それを経典呪文のごとく繰返し吟唱していると、いつの間にか一々の句や言葉に、型とはいいながらも極めて豊富なる内容がついてまわることになり、従って人の表現法の平凡な発明を無用にした。様式遵奉と模倣との必要は、たまたま国の中心から少しでも遠ざかって、山奥や海端に往って住もうとする者に、ことに痛切に感じられた。それゆえに都鄙雅俗というがごとき理由もない差別標準を、自ら進んで承認する者がますます多く、その結果として国民の趣味統一は安々と行われ、今でも新年の勅題には南北の果から、四万五万の献詠者を出すような、特殊の文学が一代を覆うことになったのである。…中略…ようやく珍奇なる空想が入って来て片隅に蹲まっていることを許され、または荒々しい生れの人々が、勝手に自分を表白してもよい時代になっても、やはりロシアとかフランスとかに、何かそれ相応の先型の存在することを確かめてからでないと、人も歓迎せず我も突き出して行く気にならなかったのは、おそらくはまた長年の模倣の癖に基づいている。すなわち梅に鶯紅葉に鹿、菜の花に蝶の引続きである。 ]『雪国の春』柳田国男著
そうして、日本の古典研究が再び既成の世界にとらわれていくのに反して、自分は、そうではなく、そのような歴史家に疎んじられた文化や埋もれた独自の文化を掘り起こそうというのが、強い意志だった。こういう模倣と安心への反発は、短歌(俳諧)革新をやろうとした正岡子規と相似形である。柳田自身、この日本風に安んじてきたことを悔恨している。
子規は、一見、百花繚乱のように見えて、詳かく見ていけば、類似の句が多いのはなぜか、と問うている。弟子は師より教えを請い、後輩は先輩から剽窃するばかりで、自ら作為し新しい観念を提起するものは皆無に近い。そのため、俳句界は平凡宗匠に埋め尽くされている。その挙句、彼らの俳句は世俗的な理屈をたのみ教訓的になり、俗耳には受け入れやすいが、それらは決して文学とは相いれない。彼らは梅に鶯、柳に風、、時鳥に月ばかりでなく、春雨に傘、紅葉に滝、暮秋に牛、京、嵯峨、大原、比叡、須磨の類の趣向など、「概念の概念」に埋もれているだけだ。この分でいくと俳句の命運は、明治年間にも尽きてしまうとさえ断言している。これは、語彙がさらに狭い雅言に依っている和歌の場合も同様である。『歌よみに与ふる書』が、わたしたちを爽快にさせるのは、子規が古典としての和歌がすでに明治以前に尽き果てているとみなし、それを全否定していることだ。
[ 「日本文学の城壁ともいふべき国歌」云々とは何事ぞ。代々の勅撰集の如き者が日本文学の城壁ならば、実に頼み少き城壁にて、かくの如き薄ツぺらな城壁は、大砲一発にて滅茶滅茶に砕け可申候。…中略…従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁を為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。 ]『歌よみに与ふる書』正岡子規著
子規にとって、自然のままに詠んだ万葉の調べの高さにひきかえ、『古今集』以降、貫之、定家らから引き継いだ詩想は、言葉の言い回しだけの技巧と修飾にたよって千篇一律に陥っているとした。子規の日本文学批判の先鋒は、「国歌」ともいうべき伝統文学としての和歌を批判する意味において、間違いなくラジカルな近代主義のものだった。まず、『古今和歌集』や『新古今和歌集』のうち、主観中の非文学的思想を「理屈」の部分とし、いわば、文学と相容れないとする。倫理的善悪に関係する歌はもはや歌でないとした。つまり、歌は世道人心に関係あるがために良いとか悪いとかいうのでなく、俗世間の渦巻く塵を雲の上から見ることこそ妙味が産まれる。ここに雅と俗の区別がある。
また、勅撰和歌の流れをくむ和歌は「陳腐」に陥り、あたかも呼吸が絶えんとする病人のごとくになっている。そして、歌社会に先人崇拝のしきたりの弊害を改めなければ歌の進歩はない。歌は平等で無差別であるから、老少も貴賎も勲位官名も関係ない。用語が少なければ、漢語でも洋語でも、雅語を捨てて俗語、字余りでも、自分が美と感じたことをよく分かりやすく表すべきであり、そのためには外国の言葉も文学思想も取り入れたらいいではないか、古典に妙な付加価値をつける必要などない。全部、同一平面に置き直してみれば、良し悪しは自然と決まると言っている。
同様に、柳田にとって本さえ読んでいれば、花と緑の葉が際限もなく続く世界があった。故郷の風景として描かれるのは、赤土の岡、躑躅の色、春の麦畑の陽炎、石垣のタンポポや菫、それに藤の紫であり、やや退屈とでも言える日本の原風景だった。だが、彼が抜きんでていたのは、これら美意識の付着した世界と雪国の村に住む気ぜわしい農民の息遣いとの間に横たわる落差に気づいたことである。『雪国の春』が覗いているのは、雪の底に埋められそれに飽き飽きした人々が、目的もなく鍬をふるって、庭前の雪を掘り、土の色を見ようとする欲動であり、餓えた鳥が一尺四方の土の肌を出しておくと、何の囮がなくても、次々と舞い降り、安々と捕えられる光景であった。それは京都の風情に慣れ親しんだ文学にはとうてい掬い取れない鮮やかな印象であった。
しかし、明らかに、柳田は、「梅に鶯、紅葉に鹿、菜の花に蝶」の世界の薄っぺらさを笑っているのだが、その証明は、移民史の確認によって補なわれたことである。これは口碑民潭の移動への考察になって表れた。たとえば、貧賤な若者が山中で一人炭を焼いていた。そこへ都から貴族の娘が押し掛け嫁にやって来る。炭焼きは花嫁から小判を貰って、市へ買い物をする道すがら、水鳥を見つけてその黄金を投げつける。ところが、人から何故に大切な黄金を投げつけるのかと咎められると、あんな小石が宝なら自分が炭焼きする谷々には山ほどあると答える。それで拾って来て、この炭焼小五郎はするすると長者になるというものだ。柳田はこの話が、北は津軽の岩木山の麓から南は大隅半島まで、十幾つかの例が挙げられ、更に南では沖縄の諸島、宮古島まで類話があることに驚いている。それには、更に後日談があって、長者の娘が内裏に召され妃嬪に召されたという話まである。それらは断片となって口から耳へ伝承する文学であるが、書籍のように保存するのが難しいのであるから、どんな事情が同じ話の種を播いたのかが問われなければならないと言っている。津軽にも伝わったこの話が西から北上して伝えられたのは確認されているが、誰がという点で、柳田が挙げている推理は、金属の売買を商売にいた一群の人々が歌詞を巧みに伝えたとみなしたことだ。これは炭を焼くことが、鋳物を焼く、鍛冶屋ということと同義になり、鋤鍬を扱う金屋の漂泊者がその守護神を祀る意味で、伝承したと考えるからである。更に、柳田の想像は、次のように延びていく。
[ 播磨の古風土記の一例において、父の御神を天目一箇命と伝えてすなわち鍛冶の祖神の名と同じであったことは、おそらくはこの神話を大切に保存していた階級が、昔の金屋であったと認むべき一つの根拠であろう。火の霊異に通じたる彼らは、日をもって火の根原とする思想と、いかずちと称する若い勇ましい神が最初の火を天より携えて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたという信仰を、持ち伝えかつ流布せしむるに適していたに相違ない。 ]『炭焼小五郎が事』柳田国男著
つまり、この鍛冶の思想は、火の神または、日の神の思想に裏づけられていたればこそ、伝搬されたとみなしているのである。この宮の神の火は、特に金属工芸の徒に施し、それによって、炭焼長者の伝説が、豊後で生まれ、全国を旅しながらこの伝説を愛護せしめたというのである。高祖の火(日)の思想は、このようにして守られた。柳田の場合、蛸つぼの上から民潭を覗くようなところがあって、とても時間が測りにくい。この炭焼小五郎の話にしても、片一方で『記紀』の世界に由縁があるかとおもうと、中世の鍛冶物語があったりして、いつの時代のものとも判然としない。ここでは柳田には表の顔と裏の顔があるとしかおもえないのだ。片一方で、表の顔として、時代に制約されない物語の類似性への興味があり、しかし、裏面では、「南日本の海の隈・島の蔭に、散乱して住んでいた我々の祖先の、無数の孤立団体に共通した、いたって単純なる自然宗教」への信仰が生きている。それでいて、この表裏は、決して結びつかない具合になっている。
伝説だけではない。都の輿や車に飾りつけた檳榔毛で飾り、または宮中の御膳を扇ぐ扇にこの葉を用いたのにも理由があった。これは忽然として現われた習慣ではない。柳田は南国の檳榔の葉の由来を祖先の生活に結びつけた。この葦原の中つ国に久しく住みついて後までもコバが民族の生活に根ざした樹木であったからだ。南島からやってきたという日本人の原型は沖縄にその面影を落としているのであり、信仰の聖地にこの木が植えられているのをみても分かるとしている。
[ コバ蓑とコバの笠も、やはりまたこの葉でなければならぬ仔細が、あったように考えられます。八重山郡の島々で、あるいはニイル人と称して、一年に一度の節目に、ニライカナイの常世から、人の世界を見舞いたもう神があります。我々の眼から見れば、それはまさしく村内の二人の青年でありますが、彼らがこの蒲葵の葉をもって身を取装うて来るときは、村の者はすなわちこれを神として迎えました。…中略…多分同じ慣習の記憶でありなおやまとの島々の正月十五日の夜に、ホトホトまたはカセトリなどと名づけて、顔を包んで餅を貰いに来る遊戯も元は一つであったろうかと思います。いずれにしても祭に携わる者の蓑笠は、けっして南の島ばかりの奇風俗ではなかったので、おそらくは「月笠着る、八幡種播く、いで我らは」と高く唱えて神を送って来た時代よりも以前から、近くは我々の田舎の盆の月夜まで、神に代って踊りまたは舞う者の、必ず隠れ笠によって現世と遮断し、まず我が心霊を浄くかつ高くせんとした、素朴な信仰の原の形であるように思われます。 ]『阿遅摩佐の島』柳田国男著
蓑笠ばかりではなく、椿や稲、田芋と同じに、この細長い列島に常にところてんの箱、チューブのようにある力が加わって、常に南方の文物を北に向って押し出したのである。
これは柳田が、「土俗を通過する外部の眼」という資質を背負っていたことを意味するにちがいないが、わたしにはそれが柳田の「フォークロア」の危うい限界表現におもえる。逆にいえば、それこそが、柳田学が世界を理解するために対象をどのように組み立てたかを示す勘どころではないか。
柳田民俗学の世界史的視野をはじめて指摘したのは橋川文三である。橋川によれば、民俗学の歴史は資本主義の帝国主義的段階において、単数の形を使ってわが民族のことを研究する「フォークロア」と、他方、複数名詞で多くの民族、自国以外の異人種の生活の比較研究をする「エスノロジー」(ethnology)としての文化人類学を併行して誕生させた。しかし、それからの久しい間、民俗学と呼ばれるものは、西欧の宣教師たちの貢物だった。当初のエスノロジーには、キリスト教の神意を信じていたために強い先入観があって、アフリカやアジアの土俗種族の文化を目して、ただ奇異なるものとみなし、恵まれない気の毒な人々の風俗と映っていた。一方のフォークロアも、都市と田舎の区別ができてから後、都市に移り住んだ人々が新生活の幸福を味わい始めると、かつての在郷が異境に見えだし、彼らの観察には侮蔑さえ含まれるようになる。ただし、フォークロアは成長していくにつれて、古い民謡、諺、地名、家名、方言、迷信の類を紹介するにとどまらず、やがて自分たちの風習の中に、今まで未開の人種に特有なものとばかりおもっていたことがあることに気づく。
[ 一つの国にすでに消失したものは次の国の同一事情のもとに保存せられていた。要するに人類は必ずしも手軽に親々の遺産を放棄してはいなかった。優勢なる新文明が社会をあらためて行く力は、存外に表層膚浅のものであったということが、しだいに会得せらるるとともに、フオクロアは本来各国独立の学問ではあるけれども、しばしば同一の法則の古今多くの他民族に、共通するものがなかったか否かを、尋ね究むる必要に出会ったのである。 ]『日本の民俗学』柳田国男著
ここで柳田は、表層と深層というような区分けをしているが、ほんとうは蓄積度の異なる「時間」の違いの発見を意味していた。この時間の発見により、同一民族の歴史は世界の歴史と通底していることを知る。おそらく、橋川が参照したと思われる柳田の『日本の民俗学』という短文は、柳田が民俗学を政治学の一環として位置づけた意味において、普遍的な世界認識の端緒であった。そこには、世界史と日本史の接点、つまり、柳田が言うフォークロアとエスノロジーの婚約が予期されていたからである。
[ もし日本にフォークロアの学問が生まれるとするならば、それはいかなる世界史的ヴィジョンを前提とするであろうかと問うことは無意味ではない。すでにヨーロッパは、自己の絶対性を疑うところにまで、世界の諸民族とその宗教・文化を理解しつつあった。そしてそのもっとも天才的な洞察者の視線は、日本の内部の深くにまでとどこうとしていた。日本は、そうした状態の下で、日本と世界とをどのような方法で知ったらいいのか?私は、日本民俗学の創始者として、柳田の発想を形づくった背後の力は、そのような問題意識だったろうと思う。 ]『柳田国男』橋川文三著
こうして、橋川は、日本のフォークロアが、やがて一般民俗学史に綜合されることを見透して、これをインターナショナリズムとナショナリズムの特殊な結びつきとみなし、柳田を含めた明治期の先進的な思想家が、インターナショナリズムに媒介されたナショナリズムへの新展開の軌跡を描いた。だが、世界史に抵触するためには条件がいる。柳田は、単に、ダーウィニズムに寄りかかって、どの文明にも必ず背後には無知蒙昧時代があったことを、ことさらのように言い含めただけではない。また、それは橋川のように、新しい知識や経験が加わり、ヘーゲルの歴史哲学に代表されるヨーロッパの精神と制度が人類史の究極の形態であり、それから見れば、アジアやアフリカの世界はただ停滞し未開であり価値の低いものにすぎないというような認識が、ウェーバーやマルクスにより相対化され崩れたことも加担していることを指摘したかったのではない。
つまり、次のポイントは、いわゆる文化の偶発多元論と一源移動説のどちらも選択することができない不可能性を考えてみなければならない契機をつくったということが要点であった。宣教師たちは、もしかしたら、未開地とは歴史の一つの道筋の上で遅れて歩みつつあるように理解したにすぎなかった。彼らの狭隘な民種優劣観は、土民への干渉と教育によっていかばかりか、現地の人々を悩まし、発展を妨げたかしれなかった。そして、やっとエスノロジーの進歩によって、白人統治者は、そのような錯誤に気づくようになる。世界の雑多な民族にはそれぞれ別の人種であるがゆえに、別種の文化の流れがある。ヨーロッパが築いた一極支配の歴史の道のりを歩いているばかりではなかった。そういう流れの中で柳田による日本のエスノロジーが位置づけられている。それはラフカディオ・ハーンのような帰化人が分からなかった日本を研究しようとしたことでもある。長く鎖国状態にあった日本は豊富な残存(survivals)の宝庫であり、俗信や慣行を確かめるために、わざわざ大洋の孤島に出かけるまでもなく、目の前にシャーマンもいれば鬼もいる。突然にやってきた西欧に蹂躙された政治さえなければ、全然、西欧のものとは法則を別にして、美しいものの芽生えもあったかもしれなかった。わが国は近代化の遅れと急速化によって、最も豊かなフォークロアの資料がいまだ現存しており、ヨーロッパ列国と比べて特殊な文化史的位置に立っている。それを逆手にとって、日本に新しいフォークロアの可能性が開かれる方法的問題意識が柳田に求められた。
柳田の場合、世界史的視野は、フランスや英国の書籍で概略を整理したものかもしれなかった。それははじめ、フォークロアとエスノロジーの区別の認識にあった。だが、フォークロアとエスノロジーを同時に見つめる中で、自国の先史の中に、未開の異種族と変わらない慣習を発見し、はじめて、民俗学に「時間」観念を招きいれた。しかし、柳田はそれに立ち留まらなかった。その時間を単線と複線に解体したからだ。自国の先史と未開のそれは必ずしも一致するとは考えられないため、もう一度、時間を輪切りにして最初に戻り、つまり、もうひとつの時間を挟んで判断停止したのである。これは世界を時間と空間に渉って同時に描いたことになった。だが、資質の必然に導かれた方法は、ほぼ無意識に近かったため、傍から見ていると、この段階のフォークロアやエスノロジーがその要件を綜合していたとはとうていおもえないものになった。同時代に産みだされたウェーバーの比較宗教社会学やデュルケムの社会学そのものが、「世界史」という概念がどういうものかに答えられなかったのと同様に、柳田自身にも明快な答えが見いだせなかったからだ。いうなれば、それは世界史と抵触しないということではなく、「起源の起源」にまで意識が届いていないために生じた理由である。インターナショナリズムという表の顔とナショナリズムの裏の顔を通すためにはどうすればいいか、自覚的な問答が戦わされていないように見える。これは、柳田の一面の弱みであり、同時に、明治、大正という時代を超えた奥深さでもあった。
起源の問題

 

稲の人は「常世」信迎なくしては成り立たない思想であった。それはやがて、折口が指摘したように、村・国を本土の内陸部に構えるようになると、常世神の信仰は次第に薄れ、それに代わって山の神を尊ぶようになっても変わらなかった。山の神が祭りの中心になって、山の神が、今度は同類である田の神に対峙することになる。わが列島のように山岳と平野部が折り重なり均衡をたもっているところでは、平野部の移動は平行に行われるが、山岳の力は水の流れのように垂直に斜面を降りてくる。柳田は、その境界の問題こそが民俗の共同の原点とみなした。柳田は農耕民と山に居住する猟師、木樵などの狩猟民との信仰の交錯こそが、日本人の共同幻想を支えると考えた。だが、吉本隆明は、柳田が方法としてそれをわがものにするためには、「山から俯瞰」する視線が必要だったと述べている。柳田の「旅人」とは、山人漂泊者の末裔だという自覚をとおして、永続して「山人」を見続けるものでなければならなかったからだ。
[ 山人と平地人とのあいだでは「時間」は斜めにはしる。柳田は「思ふに古今は直立する一の棒では無くて。山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまである。」という言い方をしている。ここで柳田が認識している山人(漁師、木樵)と平地人(農耕民)との差異は、たんに居住領域の空間的な違いでもなく、またたんに山人を先住民とし、平地人を後住民とする違いでもなく、このふたつがきり離せない合力の成分要素として表象されることをさしている。この斜めにはしる「時間」という柳田の概念は、ひとつには「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終りには又田から上つて、山に還つて山の神となる」という山神と平地の田神との巡回と反復の根拠をなしていた。「時間」認識が斜行せずに直行すれば、山の神は里へ直線的に降下し、里の神は山へ直線的に上昇しという像は描けても、山の神と里の神が、相互に変換しながら巡回する像はえられないはずだ。 ]『柳田国男論』吉本隆明著
先に述べたように柳田は、「梅に鶯、紅葉に鹿、菜の花に蝶」の世界の薄っぺらさを笑っているのだが、もうひとつ吉本が言うのは『雪国の春』で描かれている。京の時雨の降りざまは関東のような霰雹とは違う、それなのに他の地域で受け売りして天下の時雨の和歌は題詠の空虚を包みこんだ。さらに、語の概念とじっさいの景観の齟齬は、踏み込むと、次のような言葉に表われる。
[ かれは景観が都城地や村里の共同の幻想や、幻覚や、習俗によって、本質的に差異化されてしか存在しないものだという認識にたどりつく。共同の幻想や、幻覚や、習俗の内部にあるものにとって、景観はいつも絶対におなじものにされている。おなじように、その外部にあるものにとっては、絶対にそれぞれちがってあるものだ。柳田は旅人としては、共同性の外部からやってきて、この景観はじぶんが習俗として受けいれてきた地域の景観と違っていると感じている。だが柳田国男が、京都の宿に滞在してつかんでいる京の「時雨」の降りざまと音は、方法としては外部と内部の何れの視線でもない。強いていえば内部の視線と外部の視線をおなじものとすることで、はじめて景観を本質的に差異あるものとすることができている。 ]『柳田国男論』吉本隆明著
ここで、内部と外部という意味は、時間の組み立てに関わるとすれば、山人と平地人と同じ意味である。時間という観点に立てば、平地人の時間は悠久であり、景観の変化について自覚は皆無に等しい。それが自覚されるのは外部の山人との接触をおいてほかない。だが、それだけであれば、旅人の視点以上にでない。それを平地の共同幻想を内部からつかまえるためには、山人は自分自身をまた、外部から見ることを迫られる。そこではじめて、内部をみる眼と外部をみる眼が等価になる。吉本は、柳田の方法、文体がそういう時間の構えをとったとみなしている。もし、それを時間の直線でしかみないとしたら、列島の推移は日本人の点の集積以上にはならない。その単線化した点概念についても、吉本は指摘している。
[ 柳田国男はべつの弱みをひきずっている。<稲の人>を「日本人」として措定したいあまり、<稲の人>の時期とおなじころに、ちがった経路でやってきて島々に分布していった人々も、<稲の人>よりもはるか往古の縄文期以前から、すこしずつ列島の島々に分布して存在していた人々をも、非「日本人」とみなしたことだ。『遠野物語』の「山人」の挿話からはじまり、柳田国男の「山人」にたいする考察のうしろにも、アイヌ起源とみなされる家祭(大白神)に言及するときの言葉のうしろにも、見えかくれするのは<稲の人>以外の非農耕、非南方の種族を、異民族とみなす視線だった。だが民族をつくっている同一さのうちで、その一部分としてある異種性は、それだけでは異民族をつくれない。ただ言葉と文化と信仰の差異をあらわすだけだ。「日本人」はどんな人種的な混成からなる民族で、どこからきたのか。「日本語」とはどういう言葉でどこに起源をもつか。この種の問いにたいするさまざまな回答を通底させて空間的な(地域的)な、あるいは時間的(時期的)な差異と同一の構造を、現在よりももっとゆっくりと熟成させた条件におきなおすことがいちばん重要なことのようにみえる。 ]『柳田国男論』吉本隆明著
吉本も述べているように、柳田の「海上の道」は、南中国沿岸部から「宝貝」を求めて、稲作技術をもち、海流に乗り漂流したあげく辿り着いた島々に、家族を呼び、北東に針路をとった「日本人」は、まず、南島へ、そして、海流に乗って南九州に滞留し、海洋技術の向上を待って、日本の東海岸沿いに北上するものと、豊後水道を抜け、瀬戸内海に入るものに分かれ、そのうち『記紀』の始祖神話や東征神話が暗喩しているように、四国沿いに畿内に辿りついた勢力は、「稲の人」の統一王権を作り出したという想像を暗黙のうちに抱えていた。しかし、こういう単線の日本人論だけでは、わたしたちをとうてい納得させることはできない。なぜなら、これは、「稲の人の神」と「山の神」とを連結させていないようにおもえるからだ。ずっと前、吉本隆明は、柳田国男の方法を「無方法の方法」と呼んだことがある。
[ 「一寸法師潭」(『物語と語り物』所収)のなかでも、かぎられた数の説話の類同性や近縁性から、起源の同根をやすやすと主張してはならず、自分らは国内の昔話を大よそ整理してしまうまでは、説話を民族起源論の資料に供するようなまねはしないとのべているが、この態度は、柳田学の連環想起法が必然的に要求したものであって、おそらくは、実証的な裏付けの足らない論理が無意味であるといった程度の自戒の言葉ではないのである。柳田国男の方法を、どこまでたどっても「抽象」というものの本質的な意味は、けっして生れてこない。珠子玉と珠子玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。 ]『無方法の方法』吉本隆明著
ここで、吉本が柳田の「勘」とみたものは間違っていなかったが、ただし、一周期したあとの条件つきである。吉本が「勘」とみたものは、おそらく、ただそれだけではなかった。そのとき、吉本は、民潭の空間的な拡がりだけで、それを立体化する時間(抽象)が欠除しているとおもえたに相違ない。これはその時の吉本の思想的構えに起因するものだ。当時、吉本の視線には、「山」は映っていなかった、というより、柳田が「山」を発見したことが、「時間」の発見として見えなかったのだ。
柳田は、天皇の祖先が列島にやってきたときには、すでに先住民がいたことが前提になっている。それを「国つ神」と名づけている。それらの異族人は、北へ北へと追い詰められ、ほとんどが同化、混淆したのだが、一部は山に残され、鬼と称されたり、天狗となったり、「山人」になって残されている。山地と平野の境は、「国つ神」の領土と、「天つ神」の領土に分け隔てられた。山人は祭りのときには、山から姿を現わし、榊を執って神人に渡す役を行ったという。
[ しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵でもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。…中略…山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴う編貫であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番多いかと思います。こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。 ]『山人考』柳田国男著
柳田は『山の人生』でその問題を詳細に取り上げている。これらは、実在していたかどうかは二の次のようなタッチで村民の当たり前の幻想として描かれている。それは産後の発狂であったり、猿の婿入り、妖怪・狐憑きであったり、天狗、山の神、鬼子、山姥、河童、山男、神隠しであったりする。それは自身の幼少の体験として神隠しに遭いやすい気質として、次のように書き留めていることでも分かる。
[ その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看ていたが、頻りに母に向かって神戸には叔母さんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往ってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦太鼓の騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。…中略…折よくこの辺の新開畠にきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途の一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。 ]『山の人生』柳田国男著
こういう幻覚のよってきたるところを次のように説明している。
[ 我邦では所謂神代の歴史にも見えず延喜式其他中古の記録にも見えず、又後世の勸請でも無い小さき神社が非常に沢山あります。殊にホコラと称する小さき社又は単に神ありといふのみで社も何も無い場所が、何れの地方でも沢山あります。…中略…山ノ神は今日でも漁夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新に山道を開く際に必ず先づ祭る神で、村に由つては其持山内に数十の祠がある。思ふに此は山口の神であつて、祖先の日本人が自分の占有する土地と未だ占有せぬ土地との境に立てて祀ったものでありませう。…中略…サイノ神や荒神は今日の有様では社を立てた趣旨の不明に成つた所もありますが、つまり皆日本人の植民地と蕃界との中間に立てた一種の標識であつて、而も其神々は先方の所属であつたが故に其名称からも伝説からも由来を説明することが困難なのでは無かろうかと思います。 ]『山民の生活』柳田国男著
また、オシラ神信仰について、次のように語る。
[ 西は九州外側の離れ小島から、北は奥羽の雪の埋もれた山村まで、年毎の春の祭の日に、定まつた木のきれを手に持って、呪言を唱へつつすべての実を結ぶべきものを打ち、又は人の世の好ましからぬものを追ひやらひ、又は楽しい一歳の経過を保障するやうな、さまざまの予祝の所作を演ずるなど、何れも「わざをぎ」といふ古い言葉の心を、理解せしめるものばかりで、人形芝居の先づ我邦に栄えた事情の如きも、この方面よりこそ尋ねて行かれるやうに、自分などは考へて居るのである。 ]『大白神考』柳田国男著
オシラサマは養蚕の神であった。桑の木の枝を採り、木の末に人の頭を書き、男神と女神になぞらって、絹綿をもって包み隠し、婦人の神を祭る「イタコ」と呼ばれる神意を宣伝する一種の語部である巫女がそれを左右の手に持って、祭文祝詞、祓いを唱え、祈り加持して祀るものである。柳田は、アイヌにもこの信仰があったことを認めているが、彼と我がいずれが先にあったかは不明であると、この信仰がアイヌ起源だということを否定しているのであるが、吉本はその否定の逡巡に注視している。つまり、柳田はオシラサマがアイヌの樹木霊の信仰から農耕祭に移行したという考えに躊躇っているのだ。しかし、吉本は、「白」という言葉が、刈稲を積んでいる稲積、または、稲そのもの、あるいは稲積を収めた小屋の意味で南西諸島では使われていることに着目し、柳田の無意識の方法に掉さしている。
[ この稲積をイニマジン(稲真積)とかニホ(稲積)の系統の言葉でよばずに「白」(シラ)とよぶのは、稲栽培が食糧の生産の意味よりも宗教的な意味で行われ、田のなかの稲積(高倉)が、刈穂を積みあげて乾かすためというよりも、稲穂をあつめて祭るさいの中心の祭域(小屋)という宗教的な意味をもつ古い時代の名残りをふくんでいるかもしれぬことだった。これはシラは産屋、シラピトウが妊娠している女性、ワカシラアが産婦人をよぶことと関係して、生命の生産を祭る意味をもっていた。「白」(シラ)を稲または稲積(小屋)の呼び方とする言葉の系譜は、稲栽培を食糧のためよりも、信仰としてみた最初の<稲の人>のあり方を象徴するものとみえた。そしてこれが八重山諸島にのこり、おなじようにもしかすると大白神(オシラカミ)を祭る北奥郡の旧家の「白」(シラ)とかかわりがあるかもしれなかった。 ]『柳田国男論』吉本隆明著
続いて、吉本がやろうとしたのは、「シラ」という言葉が言語学的にアイヌ語に語源をもち、稲作に執着すべきものではなく、同じ天秤で二つの種族を量ろうとしている。これは、吉本にとって、山の神が田の神になるのと同義であった。これを明確に線引きしても、起源は捉えられないとした。吉本は、起源を捉えようとするなら、山の神が村里に下りてきて、田の神になり、やがて季節が過ぎるとまた山に帰るという、循環する神の信仰が成立するための条件として、鳥瞰または俯瞰する視線が必要だとした。山と平地の境界は横断されなければならないものとみなしたのだ。柳田が生涯かけてやろうとしたのは、山の斜面や大地と平地の湿地帯に農耕を広げていった人々との集合輪の接点の問題だった。
[ 柳田がここで「遊行」という言葉で説いている、オシラ神にうながされた東北辺の女婦たちの出奔と、流浪の神事と、芸事と(あるばあいには娼婦的な役割と)、の運搬は、山人の村落と農耕人の村落のあいだ、山の神と田の神のあいだ、山人と農耕人のあいだを横断する巡回や循環と、位相的に同型だった。巡回と循環は、山と平地のあいだの俯瞰と仰高の軸をもとに、遊行は南北に延びた列島の軸をもとに転換される。 ]『柳田国男論』吉本隆明著
吉本が柳田に求めたのは、おそらく、知性の側からする知性を解体する姿勢だった。その姿勢は、ひとつには、伝説を古い国土の自然に生い茂った椿や松や杉を同じようにみなし、世態・人情の微妙を覘かせる保守的な蒐集癖をもたらした。もうひとつは、この南北に延びた列島を、ひとつの時間軸で目鼻立ち鮮やかに眺望したことである。三つ目は、山人と農耕人の間の奇談のイメージをリアルに髣髴とさせたことである。この方は、空間的な区切り方である。南北に延びる時間軸と山の上下の空間軸の交差と呼んでもよい。時間軸としてみれば、稲の人が南から北に列島を北上する経路を斜めに境界を引いた。また、空間軸からすると、山と平野の境界を斜めに区分する視界を失わなかったことである。しかし、これだけなら、柳田の時代の民俗学が、現在のわたしたちを満足させることはできない。問題は、微かな手ごたえであったにしろ、そのそれぞれの時間と空間の間に亀裂を挟んだことである。
起源の起源

 

山の神と田の神の交錯ということで言えば、吉本は、季節の巡ることで、山の神が稲の生育期間に応じて、田の神に降りてきて、また戻っていく循環をもって、柳田が空間軸を横超しようとした兆しとみなしているのだが、山の神、田の神の循環自体、柳田が触れているのは、春は山の神が里に降って田の神になり、秋にはまた田から上って山に還って山の神になる言い伝えがあることである。
[ 日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。数えた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祗命の附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵・猟人がおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。 ]『山の人生』柳田国男著
わたしは、吉本の言うような、山の神、田の神の循環(相互浸透)の図式は、少なくとも、「起源」としての信仰を考えようとする限りにおいては、すこぶる危ういと思える。なぜなら、狭隘な平地が山地に挟まれたようなわが列島のような地形においては、まず、山から始まることをわきまえなければならないからだ。舟からおりついたところがすぐ山であるとするなら、先住民がいるいないにかかわらず、自らが山人になり、焼畑によって山を切り開かねばならないからだ。そこでは、「稲の人」の祖先は、まず、「海の人」であり、すぐさま陸地におりると同時に「山の人」として現われねばならなかった。海岸部は開けても、奥の世界はまったくの未開で、野蛮人や獰猛な動物がいるものとした期間が長い間あった。したがって、地霊(田の神、地霊)との交合はそのあとでなければならない。海に接する山と、田に接する山とは、次元が異なり、山を問題にする限り、まず、海と接する山を相手にしなければならないからだ。
もうひとつ、循環の図式は、列島を北に登って行く稲の人の時間軸と交叉しないまま、不安定のまま残された点である。ただし、それでも、吉本が言う[ 斜行せずに直行すれば、山の神は里へ直線的に降下し、里の神は山へ直線的に上昇しという像は描けても、山の神と里の神が、相互に変換しながら巡回する像はえられないはずだ ]という「時間」は特異ではあっても、時間を包摂する認識として、萌芽の形ではあれ柳田にあったことは見逃せないとおもう。こういう「時間」観念を加味しなければ、とうてい「起源」の問題には接近しえないからである。ただし、この「時間」は、折り畳みのきかないものだ。では、山の神と田の神が循環しないとすれば、どうすれば、山の上と下を連環させ時間化(構造化)できるか。また、山の上と下との関係が列島の北上とどう連環するか。そこまで問い詰めてはじめて、わたしには「起源の起源」に到達できるとおもえる。
柳田の起源の問題へ近づくについては、当然、異論があった。神島二郎は、柳田が民族・文化の起源を求めて「海上の道」を追跡したのは、中世から古代、原始への飛躍であり、異化の過程を偏重したもので、肝心な「馴化」の過程を忘れてしまう誤りを犯したものと指摘した。神島によると「常民」という概念が成立するのは、上の者でも下の者でもなく、その中間にあって、9割の民を示すものだった。だからこそ、柳田は、「常」の契機が成り立つ中世を上限とする民間伝承に着目したはずだった。
[ 一体当時の日本では起源論がまことに多く試みられ、またこれが多くの関心をひいたが、このような起源論の社会的意味は、私見によれば、当時の社会体制が伝統尊重に傾いていたからだと考えられる。その意味で、彼の学問が起源論から脱していたことは重要である。農政家ないし農政学徒としての彼の前歴はもとより「結局政治を改良し得れば、学問の能事了れり」とまで言い切った彼の実践的態度を顧みるとき、それは一層重視されなければなるまい。 ]『柳田国男と民俗学』神島二郎著
柳田は「起源」ではなく変遷を問題にした。変遷こそが現在を形づくるものであると神島は言っている。民俗学が学問として役立つためには、このように今日をあらしめている現実の力になったときである。柳田が政治との関連でしか民俗を対象にしなかったのは、歴史は古昔を通じる縦の棒ではなくて、横に寝かしたように現存するという考え方に根ざしている。柳田の着想が優れているのは、歴史を積み木のように重なったものと認めず、平面に横たわっている現存する歴史のみを捕えたことだ。つまり、明治の近代化の中にある前近代を取り上げようとした。こういう近代と前近代しかない歴史区分によって、一見、時間を背景に押しやったかのようにみえるが、それでも柳田の本意は、山の神、里の神との循環関係にも象徴されているように、その現存する空間は、必ず時間の流れと交叉し、時間は確実に歩むものだと考えなければならない。
折口は、常世神としての神がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られるものだと指摘した。シテとしての山の神が祀られるようになったのは、海岸に沿って住居を構えていた民がより広い山地の耕作地を求めて移住したからであるという言い方をしている。そこで、海の神としての常世神の役回りを山の神に振替えたのがその原因とみているが、海の神から山のみへの切り替えは厳密に検証されなくてはならないとおもえる。
[ 初めの姿は、海祇即、常世人(わたつみの前型)に扮するのは、村の若者の聖職なのでした。其が山地に入つて、山の神を、常世人の代りにする様になつて来る。此までは、常世の海祇の咒法・咒詞のうけての代表者は、山の神なので、其山の神が、多くの地物の精霊に海祇の咒詞を伝える役をしました。其が一転して、海祇に代る様になつたのであります。さうすると、山の神の咒詞は、宣下式ではなく、又奏上式でもありません。つまり仲介者として、仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現をとりました。此を鎭護詞と言ひます。宣下式はのりと、奏上式なのにはよごとと言ふ名がありました。ちようど其間に立つて、飽くまでも、山の神の資格を以て、精霊をあひてとしてのもの言ひなのです。 ]『翁の発生』折口信夫著
ここで、折口は山の神の仕える神人である山人について語っているのだが、村・国を本土の内陸部に構えるようになると、常世神の信仰は次第に薄れてきて、それに代わって山の神を尊ぶようになり、山の神が祭りの中心になる。もともと、のりとの受け手であった山の神が、今度は同類である精霊に対して向きを変える。そのため、常世人のようにのりとを構え唱える訳にはいかず、同類に降すように対等に、あたかも仲介のような役どころとなって面するようになった経緯を述べている。そして、一方で、常世信仰の純粋な系譜からは高天原に住む天つ神の考えができたことが指摘されている。
ここで注意すべきは、ひとつは高天原の神とは別の系列として「山の神」の信仰があったということ、もうひとつは、山の神の信仰が常世神と地霊(田の神、地霊)との関係で、あたかも、二重の関係性を持ってきたということである。いわば、田の神は二重に疎外されたことになる。この二重性の疎外によってはじめて、この斜めに走る「時間」を山の神は獲得したことになる。この二重性は、もともと神がシテ、「才の男」がワキの対立関係として、神そのものの二重性に胚胎していた。つまり、常世神の二重性は、今度は、常世神と山の神の二重性をもたらして、さらに、山の神と田の神の二重性を産み出した。いいかえれば、それは「起源」に一歩近づく契機になる。
おそらく、人類の原初として霊魂(死)の思想は、生の一回性に直面したとき、常世神を産み出した。つまり、精神は身体を分離した。今度は、人間は身体を切り刻みはじめた。それは労働の労苦と成果によってもたらされたもので、自然を対象化したときから、それは始まった。信仰とは、身体の切り刻みやがては精神を対象に切り刻みはじめる。民俗学が、時間と空間の交差した「起源」を探るものだとすれば、さらに、列島を南から北に単線で延びる線分にも、同様な交差を見出すことができる。柳田は戯画的なまでに固執するように、日本人南方起源説を繰り返している。
[ 小泉八雲氏が日本を見てあるいた頃には、まだ我々の都市は雑然たる木造小屋の集団であった。…中略…遠い祖先がこの国に渡って来て住んでから、もう何千年だか算えられぬほどここに住み、さらに今一段と豊かなる村を開くべく、地続きなればこそ気軽なる決意をもって、嶺を越え岬をめぐり、次第にこの島の北と東に散らばってからも、なお永い間暖かい南の方の生活を忘れなかったのである。 ]『明治大正史世相篇』柳田国男著
おそらく、こういうもの言いだけが残っていたとするなら、柳田はただのナショナリストであったにすぎない。しかし、柳田は、「伝説」のでき方、受け取り方について、屈折あるもの言いをしている。一口で言えば、「伝説」はあるものではなくて動くものだと考えていることだ。その動き方は、横からと縦からやってくる。縦からとは「時制」の問題である。まず、根っこに、日本という地形に合ったそれぞれのあらゆる語り継がれ、保存された説話がある。次に歴史化がその上に被さる。この歴史化とは、書物や教育により語り物の主人公を歴史上の偉人の口跡に結びつける傾向である。柳田は、伝説の数は膨大だが、それを配列してみると、そのパターンは限られてくる。地方の隅々に渡って伝説が付随しているが、その形式は共通点が多く、数百、数千の伝説を分類してみれば、僅かに15か20に纏まるという。例えば、長者伝説、糠塚伝説、金の雛、椀貸、八百比丘尼、巨人、隠里などの名称は、それを伝説の「単形」と「複形」の見分けがつかないという言葉を使っている。単独の伝説と思えるものにも背後に複形があると言う。さらには、ただし、いまひとつ単形の説話には、反対に、前代の物語にはおのずと共通点があったことも考えられるとみなされる。つまり、単形がそのまま複形である場合もある。一方、全国に分布する伝説には偶然でない一致があり、京都などから女性や聖や金屋等の旅の職人や、轆轤(ろくろ)をもって椀類の木地を製作する住所を一定しない特殊の飛び工人である木地師等の口伝えにやってきて土着され語り継ぐものがやってくる。この空間的な移動によって、根深い説話はほとんど痕跡を残さないくらいになってしまう。これらの時間的、空間的運搬の経路を合算すると、説話の区切りはすこぶる不分明になってしまうということだ。柳田のいう「伝説の分解」とは、ほとんど「稲の人の神」の列島の南北の境界線を不分明にすることと同義である。これには新旧の錯綜を極めた文化複合の力が加わった。それに対して、柳田の用いた方法は次のようなものだった。
[ この新旧錯綜を極めた文化複合をかき分けて、国が持ち伝えたものの根原をつき留めるということは、容易な事業でないことはいうまでもない。ただ幸いなことには民族としての結合が、日本は他に比べもののないほど単純であって、この永い間の成長にも、これという障碍も紛乱もなかったゆえに、一方には何段となく進み改まった形が目に付くとともに、他の一方にはその進展の条件に欠くる点があって、偶然にまだ前の素朴な姿のままで、保存せられていたものが発見し得られるのである。その変化の無数の段階の比較が、行く行く記録なき歴史の跡を、探し出し得る希望を約束する。これがまた私たちのいう日本民俗学の立脚点である。 ]『日本の祭』柳田国男著
柳田がここで採っているのは、地域ごとに散らばった口碑伝承を積み木のように積み上げる方法におもえる。まず、ひとつの題材(伝説、葬制、盆礼、心意現象)についてあらゆる痕跡を蒐集する。そこに共通のものを探り、それに対照してその根源が保存されたものを選りわけた上、それぞれの時間を刻印していく。それで時間の順序にしたがって異物を積み上げていくということが言われている。だが、これだけでは何の解決にもならない。別の列島各地域で同じ濃度の斑点が見えるとすれば、その伝搬した経路を確認しなければならないからだ。この一連の作業をとおしてはじめて、その歴史の古い順に押された斑点を再び元の地域に置き直していくと、列島に刻印の濃淡によってできた点の分布図ができることになる。柳田の場合、この上昇し、また、下降する方法で捉えられた「記録なき歴史の跡」の分布は面として、唯一、列島を南から北へ縦断する視線に切替えられた。
そして、更に言えば、山の神、田の神の出所を空間軸と考えれば、「稲の人の神」の南からの北上は、総じて歴史を時間軸において捉えたものにほかならない。柳田の著書で言うと、その空間軸には『遠野物語』や『山の人生』が対応し、時間軸は『海上の道』が対応している。つまり、それぞれが柳田の方法においては、それらが同時に見渡されているということが重要である。わたしたちが当初、柳田に感じた「稲の人の神」と「山の神」が連環しない印象は、ここで初めて結果として目に見えるものになるが、もし、柳田が、単なる逡巡ではなく、よく方法としてそれを確立し得ていたならば、おそらく、先住民、稲の人の固定神話は解体していたに違いない。それは「先住民」と「後住民」の差別と区別を撤廃する「起源の起源」に接近する唯一の道であるからである。柳田の方法を拡大すると、列島を観る眼に映る情景は限りなく圧縮された画像になる。つまり、「起源」の神話は解体され、世界史的視野が「起源の起源」の問題を促進する。
時間の発生とはなにか

 

国家の発生について、マルクスは所有との関係において捉えた。その所有とは土地との関係を示した。だが、所有については、太古の世界に未明の世界が残ってしまったが、マルクスは一方で、人間と自然との関係を定式化している。
(人間は直接的には、ただ自然存在である。自然存在として、しかも生きている自然存在として、人間は一方では自然的な諸力を、生命諸力をそなえており、一つの活動的な自然存在である。…中略…しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接にあたえられたままの自然的諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は―客体的にも―主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。)『ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判』マルクス著
ここでマルクスの言っていることは次のようなことである。すなわち、人間は一方では受苦的な制約や欲求を個有性としてもっている点で、動物や植物と同様、自然の一部である。にもかかわらず、そういう自然存在でありながら、人間的な自然存在でもあるのは、人間が対象的世界を実践的な産出し、つまり非有機的自然を加工し、自らの類を二重性の意識で眼前に確証できるからである。この対象化活動としての生産を通じて自然は、人間の制作物を現実化し、逆に人間も自然によって現実化していくのである。というのは、人間はこの過程で意識的にも実践的にも自己を二重化(自己疎外)して、現前に類としての自己の同類を確認し、自然も同様に類としての人間の自己疎外を介して自己実現するからである。
この過程をつうじて、自然が人間の非有機的身体になり、人間は自然によって有機的自然となる。こうして人間と自然は互いに相手を受容するなかで自己を二重に疎外していくというのが、マルクスのいう「貫徹された自然主義あるいは人間主義」の主調音であった。
このマルクスを要約して吉本隆明は次のように言っている。
(人間とそれをとりまく<自然>との関係は、人間の自然物質にくわえる<労働>(働きかけ)が、<自然>のほうからは人間的な対象化であり、このとき人間はじぶん自身から疎外されてみずからの働きかけたものと対立し、<自然>もまた人間化されることにより<自然>から疎外されるという哲学がその根底にあった。)『カール・マルクス』吉本隆明著
さらに、わたしは、マルクスの人間・自然論の最も注視すべき点は、彼が意識をともなう生成行為を通じて、人間の「時間」概念を発見したことであり、この時間化度の累積が歴史の自然史に連動していくことだとおもう。その上で、人間の現実化あるいは自然の現実化が併せて自然史的「時間」に流入していくとき、人間ははじめて、個をぬけだし社会性と面接しながら、歴史の不可逆的な往路を辿りはじめる。
これは、所有という観念が、人間が自然とのあいだで「欲望」の函数として表れることを意味している。いままではっきりしたことは、国家の起源を遡ろうとする場合、所有概念で追うことには限界があったということである。なぜなら、国家はすでに成立していたにもかかわらず、アジア的所有以前のアフリカ的段階の所有は、王以外、人々の所有はないに等しく、それ以後のどの所有の形態にも似ていないとおもわれるからである。また、その太古の国家の成立においては、所有権(占有)にまつわるものを探して法がどういう種類の法かを定かに確定できなかったからである。ただし、もちろん、ここでいう国家とか法は、大和朝廷勢力の支配以前数千年をさかのぼることを前提にする。
では、太古の昔、所有と擬される「欲望」は何によって計測されるか。一言であらわせば生産方式だとおもえる。わたしがここでいう「欲望」とは、身体的および精神的なものの総体であり、「消費」の領域にとどまるものではなく、「生産」の領域にもかかわるものをさしている。その道具は、生産の欲望と消費の欲望の函数なのだ。「生産力」という言葉が一方にあれば、「消費力」という概念もあるとすれば、「欲望」は生産の欲望と消費の欲望が二重化しているものだとおもう。エンゲルスなら、生活手段の生産と生産道具の生産、それと人間自身の生産すなわち種の生産というようにあくまで生産にこだわったが、わたしならこれを生産と消費に分けるところだ。そして、この消費は生産のための消費と消費のための消費を想定することが必要である。
ここから、先回り言うと、生産力と消費力の欲望のバランスが、その時代を成立させた。人間の自然への働きかけが生産力を決める。そして、自然の人間への働きかけが消費力を決めて、その時代を決定する。そういう方法から見た場合、エンゲルスの「私有財産、国家の起源」はきわめてあやふやな概念におもえる。
エンゲルスは、モーガンの区別にしたがって、野蛮と未開と文明の主要時期を区別している。野蛮は、既成の天然産物の取得を主とする時代であり、人間の工作物は主としてこの取得のための補助道具である。未開は牧畜と農耕を習得し、人間の活動による天然産物の生産増大のための方法を習得する時代、そして、文明は天然生産物の一層の加工、工業と技能を習得する時代である。野蛮と未開はそれぞれ下位、中位、上位の段階に区別する。野蛮の下位段階は人類の幼年時代であり、果実、堅果、草木の根が食用にされた。音節に分かれた言語の形成がされたというのは、動物から進化した仮定の段階である。野蛮期の家族形態は集団婚である。エンゲルスは、モーガンを追認して次のように言っている。
(一部族の内部で無制限の性交がおこなわれ、したがって、あらゆる女があらゆる男に、またあらゆる男があらゆる女に属していた原始状態に到達する…中略…動物状態から脱却して発展をとげ、自然が示す最大の進歩を達成するためには、それ以上の一要素が必要であった。すなわち、個体には欠ける防衛能力を群団の結集した力と協力によって補充することが必要であった…中略…動物の人間化は、比較的大きな永続的な集団の内部でのみ達成できたのであるが、このような集団を形成するための第一の条件は、成熟した雄の相互の忍耐、嫉妬からの解放であった。…中略…いったい、無規律の性交とはどういうことなのか。現在または以前の時期におこなわれる禁制の障壁がおこなわれていなかった、ということである。)『家族・私有財産・国家の起源』エンゲルス著
エンゲルスが未開の種族の家族形態から類推して提出した仮説によれば、野蛮時代には、集団婚が存在していたということである。これは厳密にいうと家族ではなく、集団婚は群団の結集した協力関係が必要だったためにとられた家族形態という。そして、それが成り立つためには、嫉妬から解放されていたという前提がいるというのである。この箇所は奇妙に倒錯している。集団婚が成立していたかどうかは別として、生産の場面における集団行動には集団婚が必要だったというのは、説得力をもたないばかりでなく、ほんとうは逆ではないか。生産の集団行動が、もし、あるとすれば集団婚を作ったということではないか。また、同じように、嫉妬がなかったから集団婚ができたのではなく、集団婚だったから、嫉妬の感情が薄れたのではないか。
エンゲルスがこういう論理の逆転をおこすのは、生産概念から直線で集団婚や嫉妬の感情を捉えているからであるとおもえる。ほんとうは、家族の問題は、消費概念として、集団性とは何かというふうに、消費の問題として捉える必要があるということをしめしている。つまり、また、嫉妬とは消費にとって何なのかを問うことなのである。
さらに、エンゲルスは、集団婚の場合、子の父が誰であるかは不確実であり、その母は誰であるかは確実であるから、集団婚が存在する限り、血統が母方によってのみ証明されると述べている。この母系制度はすべての野蛮段階と未開の低位段階に見られるとする。それから、エンゲルスは無規律の交渉が行われていた原始状態から、「血縁家族」が生まれたという。それは次のように進展していく。
・血縁家族
家族の第一段階で、これは婚姻集団が世代ごとに分かれている婚姻形態である。すべての祖父母はことごとく夫婦であり、父母たちも同様であり、さらにそれらの子供たちも第三群をなし、それらの子たち第一群の曾孫たちは第四群をなす。この家族形態では父祖と子孫、親と子だけが婚姻から排除されているのだ。親と子の相互の性交から排除することであった。
・プナルナ家族
姉妹と兄弟を排除することであり、この禁止は第一の家族より困難であった。実の兄弟姉妹を排除し、次第にいとこ、またいとこの間でも婚姻が禁止されるようになる。それとともに直接に氏族制度が発生した。氏族の制度はプナルナ家族から直接に転化した。氏族は母系制によって成立しているから、姉妹の夫たちは、祖母の血統をひくことができず、その血縁集団つまり氏族には属さないことになる。そして、彼女らの子はこの氏族=血縁集団に属する。このプナルナ家族は、集団婚の最高の形態であり、より高次の形態への移行がスムーズになる。
・対偶婚家族
これは、野蛮と未開の境目で発生した。ある程度の対偶関係はすでにあったが、夫は多くの妻のうちの一人の主要な妻をもち、彼女にとって彼はほかの夫たちの中で最も主要な夫になる。これは氏族が発達すればするほど、慣習的な対偶関係は強化された。氏族によって与えられた血縁者間の通婚禁止への衝動はますます力を振るうようになる。このように婚姻禁止が複雑さを増したために、集団婚はますます不可能になり、対偶婚家族によって駆逐されていく。ひとりの男がひとりの女性と同棲するが、一夫多妻制と、不貞は男性の権利であった。だが、これによって、共産制的世帯を解体することはない。その共産制的世帯とは家庭内での女性の支配が持続していることを意味した。古い共産制の侵食と人口密度が増加により、性的関係が原始的な素朴さを失えば失うほど、女性にとっては屈辱的になってゆく。
野蛮の中位段階は魚類の食用と、火の利用がはじまった段階である。これによって、広い範囲に人類が住み着くことができはじめたのが旧石器時代である。武器である棍棒や槍の発明によって狩猟がはじまった。人食いが生じた。野蛮の上位段階は、弓矢が発明された新石器時代に対応する。
未開の下位段階は、土器の採用が始まる。この段階ではまだ、食糧は毎日新たに獲得されねばならなかった。人間の労働力は、この段階では、まだ生活費用を越える剰余をもっていなかった。未開期の特徴は動物の馴致、飼育と食物の栽培である。未開期の婚姻形態は対偶婚である。未開の中位段階では家畜の馴致、食用植物の栽培が本格化する。石の武器や石の道具を使っていた。家畜の馬、らくだ、ロバ、牛、羊、豚の遊牧も始まった。大量に乳や肉の食糧を供給できる財産となった。この新しい富は当初は氏族のものであったが、家族の私的所有を発展していた。また、奴隷制も発明されていた。
未開の上位段階では、鉄鉱石の溶解がはじまり、鉄器が生まれた。また、表音文字が発明された。この段階に初めて現われるのは、家畜に引かせる鉄製の鋤であり、大規模な農耕、畑地耕作を可能にした。それによって無制限の生活手段の増大を可能にした。森林を切り開いて耕地や採草地に変え、それとともに、人口の急速な増加と稠密化も生じた。やがて、このような富は急速に増加するやいなや、対偶婚と母権制氏族にもとづく社会に打撃を与えることになる。未開の中位段階から上位段階のあいだで、したがって、富が増加するに従って、家族内の男性に女性よりも重要な地位を与え、母権制の相続順位を覆すようになる。これにより、女系による血統の算定と母方の相続権が覆され、男系による血統と父方の相続権が樹立された。(母権制の転覆は、女性の世界史的な敗北であった。男性は家のなかでも舵をにぎり、女性は品位をけがされ、隷属させられて、男性の情欲の奴隷、子供を生むたんなる道具となった。)これには、英雄時代のギリシャ人が当てはまる。その結果、家父長制家族が台頭する。この完成された型はローマの家族である。この有機体の長は、妻子と多数の奴隷をローマ的家父長制のもとに従え、全員に対する生殺与奪の権利をもっている。このような家族形態は対偶婚から単婚への移行を示している。
この時代とともに、「書かれた歴史」の領域に入ってくる。近代世界の個別家族とのあいだにおいて家父長制世帯共同体が過渡的段階をなしうる。単婚家族は、未開の中位段階と上位段階の境に対偶婚から発生するが、最終的な勝利は文明の段階からである。この婚姻紐帯は双方の意のままに解消できない。しかし、はじめこの単婚は妻にとってだけの単婚であり、これは今日でも見受けられる。
(単婚はけっして個人的性愛の果実ではなくこれとは絶対に無関係であった。というのは、婚姻は依然として便宜婚だったからである。それは、自然的条件にではなく経済的条件に、つまり本源的な自然発生的な共同所有にたいする私的所有の勝利にもとづく、最初の家族形態であった。)『家族・私有財産・国家の起源』エンゲルス著
家族内の夫の支配と彼の子であることが確かで、彼の富の相続者に定められている子を生ませることがギリシャ人の一夫一婦制の目的であった。だから、エンゲルスは、歴史上の最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、最初の階級抑圧は、男性の女性に対する抑圧と合致するという。単婚は、本質的に女性の地位を悪化させ、男性の不貞を容易にすることであった。単婚はすべての既知の家族形態のうちで近代的性愛を発展させることができた唯一のものだったが、近代的性愛が単婚のなかで夫婦相互の愛として発展したことを意味しない。男性の支配下にある強固な一夫一婦制があったからである。中世の騎士の恋愛は、けっして夫婦愛ではなかった。
ブルジョア的な婚姻は二種類ある。親が息子のため妻を世話するカトリック諸国、もうひとつは、息子が自分の階級の中から自由に妻をさがすプロテスタント諸国である。どちらも、結婚は当事者たちの階級的地位に制約されており、その限りでは便宜婚である。
唯一、プロレタリアートにおいてだけ財産の保全と相続のために、男性支配の単婚の条件が欠けている。要するに、プロレタリアの婚姻は言葉の語源的な意味では単婚であるが、歴史的な意味ではそうではない。近代的個別家族は、妻の公然、隠然とした家内奴隷制の上に築かれているという。こういう風に文明期においては、姦通と売春によって補足される単婚がある。
こうして、婚姻には人類発展の主要段階に照応する三つの主要形態がある。野蛮期には集団婚が、未開期には対偶婚が、文明期には単婚というふうである。この進歩は女性が集団婚の性的自由を失っていく過程と照応しており、それに反して男性はそうではない。男性にとって集団婚は今日まで続いている。ところで、単婚は、自らの私有財産を守る経済的基礎から生まれたものであるから、もし社会的変革によって相続可能な富、生産手段を社会的所有に転化するものであるから、それらが可能になるなら、単婚も消滅するのだろうか。そうではない。エンゲルスは消滅しないばかりか、完全に実現されるという。なぜなら、生産手段の社会的所有への転化とともに、プロレタリアート、賃労働も消滅し、一定の女性にとって貨幣と引き換えに自分の肉体を提供する必要も消滅するからである。夫の経済的状態の優位は経済的状態の結果である。
婚姻の締結は中世の末期にいたるまで当事者によっては決定されない事項であった。この方式に決定的に裂け目を作ったのは資本主義的生産であった。それはすべてのものを商品に転化した。自由、平等な人々をつくりだすことこそ、資本主義的生産にできたものだ。それは自由な「恋愛」が確立される幻想を植えつけた。ただし、それはブルジョアジーにとってだけであり、プロレタリアートにはそれができなかった。また、ブルジョアジーも経済的影響に支配されたままである。そのため、婚姻締結の完全な自由は、資本主義的生産と所有関係が除去されて、経済的配慮がとり除かれたときにはじめて達成されるものである、と。
資本主義的生産の一掃された性的関係については、貨幣やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買い取ることを知らない男性と、真の愛情以外の配慮から男性に身を任せたり、経済的な結果を考えて恋人に身を任せるのをこばんだりする状況に遭遇したことない女性たちの関係になるという。
わたしが、長々とエンゲルスを引用してきたのには理由がある。エンゲルスは生産方法が家族の形態を作るという。だが、それだけだろうか、逆に家族の形態が、生産方法を作るのではないか。つまり、消費が生産を作る側面である。この場合、消費の方法として家族を考えていることを意味している。こういう交互作用を前提にしなければならないのだ。
エンゲルスの共産制的段階と呼ぶのは、野蛮段階から未開段階の中位段階ぐらいまでである。また、これには母系制社会であることが前提になっている。その上、その最後は氏族制社会の入り口に当たっている。この間、生産様式においては、家畜の馴致、食用植物の栽培が本格化し、石の武器や石の道具を使って調理しはじめる前の先史的状態である。そのときには、家畜の遊牧も始まった。大量に乳や肉の食糧を供給できる財産となった。この新しい富は当初は氏族のものであったが、家族の私的所有を発展させたことになっている。
つまり、共産制的段階においては、食糧は日々の需要をみたすのみであり、毎日新たに獲得されなければならなかった。人間の労働力は、また、まだ日々の生活資料の予備をもっていなかったことになる。しかも、共産制の時代だから、得た食料は、希薄な人口を前提にし、皆に公平に分配された。このことは、消費の側面からみると、人間と自然が1対無限大の関係をもっていたことを意味している。いわば、人間は自然に拮抗する時間をもっていなかったことであり、人間ひとりひとりはゼロないし、無限大の消費時間をもっていたことになる。このゼロまたは無限大の消費時間は、国家の存在根拠と無関係ではありえない。すなわち、ゼロまたは無限大の消費時間は国家を発生する土壌をもたなかった。エンゲルスによると、血縁団体である数個の氏族がひとつの胞族を形成し、そして数個の胞族がひとつの部族を形成する。この部族は固有と名前と領域をもつ。この部族連合体から民族の第一歩が踏み出される。この段階においては、人間と人間社会が種々の階級への分離が進行する前であるとエンゲルスはいう。
(共産制的世帯と氏族は、老人や病人や戦争不具者にたいする義務をわきまえている。万人が平等であり自由であるー女もまたそうである。奴隷はまだ存在する余地がなく、他部族の抑圧もまだ原則として存在する余地がない。)『家族・私有財産・国家の起源』エンゲルス著
ここでエンゲルスは原始と未開のあいだにまたがって、楽園のイメージをもちたがっているようにみえる。しかし、現実は、未開の上位段階の英雄時代のギリシャの制度のうちに氏族制度の崩壊の足音が近づいてきた。父権制と子への財損相続、家庭の発生による富の蓄積が加速し、家族が氏族にたいして一個の対立する力となったことである。そして、富の差が世襲の貴族または王位の萌芽を形成しはじめた。
(個々人が新たに獲得した富を、氏族秩序の共産制的伝統にたいして保証したばかりではなく、また以前にはあれほど軽視されていた私有財産を神聖化し、この神聖化をあらゆる人間共同体の最高目的だと宣言したばかりでなく、あいついで発展してくる財産獲得の新しい諸形態、したがって不断に加速される富の増殖の新しい諸形態に、全社会的承認の刻印をおした一つの制度が。はじまりつつあった社会の諸階級への分裂を永遠化したばかりでなく、有産階級が無産階級を搾取する権利や、前者の後者にたいする支配を永遠化した一つの制度が。そして、この制度は出現した。国家が発明されたのである。…中略…これによってアテナイ人は、アメリカのどの現住民族よりも一歩前進した。すなわち、となりあって住む諸部族のたんなる連合体にかわって、それらの単一部族段への融合が生じた。…中略…国家形成の最初の試みは、各氏族の成員を特権者と被冷遇者とに、そして後者をさらに二つの職業階級に分け、こうして相互に対立させることによって、氏族を引き裂くことにある。)『家族・私有財産・国家の起源』エンゲルス著
ここには私有財産の発生とともに、階級に分裂して、氏族が除々に解体していくさまが描かれている。その背景になっていたのは、農耕、手工業、手工業のなかではさらに無数の亜種、商業、航海業などの種々の生産部門間の分業が、工業と交通の進歩につれてますます発展してきたということである。その発展とともに、私有財産、分業、氏族の解体が加速していくのである。氏族を基盤とする共同体に亀裂がはいり、やがて国家秩序に統合されていく。
わたしはこういう国家の発生する過程は、逆に、生産方式の変更が先行し、人間の秩序がそれに追いつこうとする過程であるとおもえる。それにひきかえ、野蛮段階の集団婚からプナルナ家族が生まれ、氏族が生まれて以降国家が発明されるまでの過程は、いわば、何千年の年月で量られる停滞の過程にみえる。これはマルクスが原始的なものとして、アジア的基本形態以前の概念に照応する。その理由は、工業と農業の自給自足的一体性のもとでは、征服、被征服の関係は持ちようがなく、共同体相互間の所有関係がないので、他の共同体自体を自然的生産諸条件にはすることができない段階であるからだ。
この停滞の過程は、生産方式が先行する過程とは逆に、人間の秩序、つまり消費が先行する過程とおもえる。人間が自然に働きかける量を「価値」と表わせば、その量より、人間が自然から受容する価値量が上回っているということだ。なぜなら、稀少性をまだ知らないこの人類の祖先たちは、原始的な道具をもって、毎日、狩猟や果実の採取に行っているが、備蓄や加工を知らない分だけ、生産と消費の時間的距離が短く、価値以上の消費がそれを待ち受けているからである。つまり、消費が先行する社会は、生産する価値の移転を知らないので、価値以上の価値を取得するということだ。これは、消費する時間が生産する時間を上回る状態を示している。比喩的にいうと、一単位あたりの収穫にたいして、使用価値としては、より多くの消化、臭覚、味覚をひきだせる段階のことであり、消費力のレベルが飛躍的に大きいのだ。
逆にいうと、一単位あたりの収穫をするためにどれだけの、視覚や臭覚を消費しているか分からない状態である。自己意識としてみれば、いちばん迷妄で発達していないとみなされる場所のように見えるが、実は、これは空腹感や満腹感がかたちづくられる原初段階にある。そういう原始、未開の意識は、エンゲルスのような生産労働を中心に据えた唯物史観では決して見えない世界なのだ。吉本隆明はそういう自然にまみれた意識こそが、原初の意識であることをアフリカ的段階として想定している。
[ これらは全自然物、たとえば鳥や獣や岩や樹木や河川のなかに神が(霊が)ひそんでいるというプレ・アジア的(アフリカ的)段階の自然まみれの意識だといえる。逆にいえばいつでもじぶんの意識がこれらの自然物に入り込んで、じぶんの存在でありうる例になっている。さしあたって河川も岩も樹木も鳥や獣も人(神)に擬して表現されているが、これは全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が擬似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることとが、同根になっているのだ。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
こういう自然の意識が自分の意識と区別されないで、倫理の意識ももたずに自然にまみれて生存していた段階から、やがて、自己意識の対象としての神をつくりだし、それを崇め、宗教をつくり、やがてそれが法となり国家になっていく幻想上の過程こそが、吉本がエンゲルスを批判する根拠になった。吉本はエンゲルスとまったく違う国家の発生のイメージを描きだしている。吉本にとっては、はじめから、集団婚があった事実からして異なっている。
[ <性>としての人間、いいかえれば男または女としての人間が<自由>な個人として乱交する場面を空想し、ある意味では必然的に空想せざるをえなくなったのは、マルキ・ド・サドの奇譚小説をあげるまでもなく<近代>以降のことである。<性>としての人間、いいかえれば男または女としての人間という範疇は、人間としての人間、いいかえれば<自由>な個人としての人間という範疇とも、共同社会の成員としての人間という範疇とも矛盾しているのは申すまでもない。この矛盾は人間の共同幻想と個人幻想のはざまに<対>幻想という考えを導かずには救抜されないのである。 ]『共同幻想論』吉本隆明著
ここで、吉本は、エンゲルスの母系制の論理を批判しているのだ。エンゲルスによれば、乱交して生まれた子の父親が分からないから、母系制になったと称しているのだが、そういう集団婚がなくとも、幻想として男女関係を取り上げてみれば、それ自体で共同幻想とみなすことができると言っていることになる。第一、原始集団婚自体があやふやな存在である上、それがそういう性行為を伴うことにより、母系制が成り立ったという設定を拒否している。
そして、一対の対幻想が部落の共同幻想にまで空間的に広がるためには、対幻想のうち兄弟と姉妹の関係であるとみなしている。兄と妹、姉と弟の関係だけが空間的にどれほど隔たっていても、無傷で対幻想の本質をたもっているからであるとする。
そこで、吉本のいう共同幻想は[ 同母の<兄弟>と<姉妹>のあいだの婚姻が、最初に禁制になった村落社会では<国家>は存在する可能性をもった ]ということになる。つまり、エンゲルスがいうところの野蛮期の集団婚の最高形態であるプナルナ家族に対応しているとみえる。エンゲルスが氏族制社会の起源とみなすところでまもなく、兄弟、姉妹関係の空間的に隔たった血縁関係を離脱した国家の原型をみなしているのだ。しかも、そのうち、氏族制の名残りを保存している国家において、その構成は兄弟と姉妹が神権と政権が分担しているという。魏志の邪馬台国的に国家の起源は、家族と村落の共同性から次のように辿られる。
[ (一)<家族>(戸)における<兄弟>⇔<姉妹>婚の禁制。<父母>⇔<息娘>婚の罪制。(二)漁労権と農耕権の占有と土地の私有の発生。(三)村落における血縁共同制の崩壊。<戸>の成立。<奴婢>層と<大人(首長)>層の成立。(四)部族的な共同体の成立。いいかえれば<くに>の成立。 ]『共同幻想論』吉本隆明著
エンゲルスの時代区分と重ね合わせると分かるが、吉本の国家は、すでに野蛮の上位段階から未開の下位段階において発生したとみなされている。その頃、すでに私的所有、占有の概念が生まれていたと考えられているのだ。国家は未開の上位されたというエンゲルスと時代的隔たりが大きくなっているのが分かる。この吉本の繰上げの原因はなぜだろうか。もちろん、幻想の行為として家族、共同体を考えた吉本の独自の方法に起因していることはまちがいない。幻想の行為としてみなした場合、家族、氏族から、国家の原型としての部族社会への距離は短縮される。もう一方で、社会的経済条件を基盤にすえたエンゲルスと、社会的経済条件を捨象してもともとの幻想行為としての原理性をみすえる視覚の相違ということも加担している。だが、ふたりに国家の成立の条件として共通のものもある。占有と土地の私有の発生、血縁的家族集団からの離脱がそれである。この接点を拡大して、再構成するとどうなるか。
おそらく、その場合、歴史を数千年の尺度で横断的にみて国家の問題を考えるとき、幻想(観念)と現実の区別は意味をもたないとおもえる。それによって、また、母系制家族であろうと父系制家族であろうと、意味をもたない。一夫一婦制であろうとフリーセックスでもどちらでもよい。この場合、わたし(たち)の尺度は、人間と自然の対応函数だけであり、それは人間の自然にたいする働きかけ=生産であり、自然の人間にたいする働きかけ=消費である。家族の形態は、その消費の面においてどう関わってくるかのみ関心があるにすぎない。
そして、そこにおいて決定的なのは、生産と消費の距離、空間的な距離ではなく、人間を媒介する距離のことである。つまり、生産は一人ひとりに多くの時間を与えられた消費の時間に換算できることである。そして、その時間によって消費力というものを推定することができる。さしあたって、消費力の度合いは人口である。生産の度合いは自然をどれくらい耕作しているかの生産力である。まず、自然意識が自分の意識と区別されないで、倫理の意識ももたずに自然にまみれて生存していた段階を想定するとすれば、これは明らかに、一単位当たり自然にたいする人間の取り分がはるかに大きい意識形態をもたらしているはずだ。もし、これを経済社会的にいえば、みずから耕作することなく、自然からたくさんの恩恵を受けていることを意味している。また、気候の変化で獲得物が減少して、飢饉のおそれもあり、そういうより大きい負の自由さをもっていることでもある。つまり、貧しい道具を使っているところで、人間が貧しい道具以上の獲得物を得ていることだ。
それにたいして、やがて、自己意識の対象としての神をつくりだし、それを崇め、宗教をつくるという段階は、自然にたいしてある程度、自然の耕作技術が高まった段階を想定できる。人間の外にあらわれた自己意識が宗教として、また、法として、自らがつくった自己意識を対象化できる段階を想定してみると、それは、自然にたいする働きかけが増大し、消費の度合いと均衡をもちはじめたときにほかならない。もはや、自然は人間と地続きではなくなっている。自然と人口がバランスをたもつ入り口にさしかかってきたのだ。当然、獲得物の余剰は占有され、または私的所有されるようになる。生産主導で人口の問題が遡上にのぼりはじめる。自然との格闘は迫っている。稀少性まであと一歩の距離である。おそらく、国家の発生は、この人口と自然の均衡が生まれたとき、いいかえれば、生産と消費が均衡し、生産主導になりかわる往復地点でもある。
10 世界史の中で

 

「起源の起源」を考えようとする場合、わたしは、一般の国家発生史の上から、滝村隆一のいうように、「部族国家」が「共同体―即―国家」形成の一定の進展段階において、「共同体―内―第三権力」の萌芽的形態がようやく生み落された段階において成立したとおもっていない。個々の部族国家ができ、そのうちの支配共同体がそれらの上に配置され、そこから配下の部族国家を支配しはじめたときに、王権国家が産まれたとおもっている。そこで肝心なのは、その支配の形態なのだ。つまり、支配共同体という支配層をつうじて、間接的に個々の共同体を一方的に支配しはじめたときにはじめて、「政治的国家」は成立した。それは王と民衆の間に支配共同体という緩衝地帯が設けられたことにほかならない。滝村のいう「第三権力」というのが、この緩衝地帯を意味しているのなら別だが、彼の場合、「第三権力」というのを近代ブルジョア社会から演繹して持ち出しているにすぎないから、「自由国家」の体裁をとったブルジョア支配権力という以上の意味をもたないのだ。
そして、この緩衝地帯の間接性というものが、支配、被支配の双方向性を奪ったとおもっている。この基本的な構造は、現在の国家の中にも生きている。政府と国民との間には分厚い官僚群が控えて、国民の意思は集中して官僚群に集まり束ねられ、そして、うやむやにされる。会社のなかにも、もしかしたら学校の中でもこの三角形が根をはっているかもしれない。雇用者、正規労働者、非正規労働者の三角関係の中では、正規労働者が官僚群にほかならない。この支配関係においては、国民の意思が政府に届かないのと同じ程度に、非正規労働者の意思は雇用者に届かない。これが、人間が隷属し、奴隷が奴隷を隷属させる権力国家の一方通行の支配の構造であるからだ。残念ながら、わたしたちはこの原始的心性から、まだ、自由になれないのである。
マルセル・モースは『供犠』のなかで次のように述べている。
[ この手続きは、犠牲という媒介によって、つまり、儀式の中で破壊される事物の媒介によって、聖なる世界と世俗の世界の間の伝達を確立することにある。…中略…あらゆる供犠に含まれている自己放棄の行為は、しばしば個人の意識に対して集合的力の存在を想起せしめることにより、まさしくそれらの理想的存在を維持する。これらの一般的な贖罪と浄化、これらの聖体拝領、集団の聖化、都市の守護神の創造は、定期的に、その神々によって代表される集合体に、あらゆる社会的人格の本質的特徴の一つである、善良、強力、謹厳、恐怖という特性を与え、さらに反復的にそれを更新している。他方、個々人もこの同じ行為に、彼らの利益を見出している。彼らは、相互に自分たちに対し、また彼らがその近くに保持する事物に対して、社会的力の全体を付与し合っている。彼らは、彼らの祈願、誓約、結婚に対して社会的権威を付与する。…中略…同時に、彼らは供犠の中に、失われた均衡回復の手段を見出す。つまり贖いにより、彼らは罪の結果である社会的不名誉から自己を回復し、共同体に復帰する。また社会が用途を留保している事物を控除することによって事物を享受する権利を獲得する。それ故、社会的規範は、彼らに対する危険を伴うことなく、集団に対して価値を失うことなく、維持される。 ]『供犠』マルセル・モース、アンリ・ユベール著
モースは主にヒンドゥーの祭儀を取り上げているのだが、この記述は、ひとつにはわたしたちに、もっとも古い宗教的祭儀を映すことになっている。ヒンドゥーの祭儀をとりまく人間の環境は、じかに自然に接する段階を離脱して、社会的広がりをもって、私的所有による階層間の不均衡が前提になっているが、モースの図式が神(悪魔)、犠牲、供犠祭主の三角形になっているとすれば、その原型として想定できるのは、供犠祭主としての王権と犠牲物の関係の意味である。この王権が、仮に、もっぱら宗教的な存在感をもって、自然存在を自由に動かし動かされると信じられていた場合、自然人にとって、王権そのものが犠牲物として供せられる可能性を秘めていることである。自然の災厄の責任が王の肩にかかって、天候をも左右しているのは王であり、王自身の所作であることが疑われないからだ。そして、それが次第に転化し、ヒンドゥーのような宗教的祭儀の象徴になった時点で、王権は、みずからの身代わりになるものをもって贖うようになったと考えられることだ。
生活意識と宗教意識の区別がつかない原初の歴史的段階では、ほんとうは王そのものが、神への供犠の対象物でなければならなかった。だが、自然人が祭儀を宗教として明確に意識しはじめ、聖なる世界と世俗世界に境界線を引くようになり、犠牲の対象を動物や植物に転嫁したと考えられる。これは、吉本隆明がプレ・アジア的段階として想定したアフリカ的段階からの転化と符合している。
[ アフリカ的な絶対専制のイメージは王(の一族)と隷属的な臣下しか存在しない状態として描くことができる。王は臣下の土地、収穫物、財産の所有権、女性、人命の生殺権のすべてを掌握している。この絶対的な専制は、王が不都合な障害を臣下の社会に与えたときには、臣下によって有無をいわせず罷免されたり、殺害されたりして、徹底した王権交替が行われる。いいかえればアフリカ的段階の王権の絶対専制は、全臣下による逆の絶対専制をも含んでいる。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
ここで吉本のいう「不都合な障害」というのは、自然災害・危害を含む自然の脅威と読み替えられる。つまり、宗教的性格と政治的性格を混交した王権は、自然的な災害・危害にたいしても無制限の神託を与えられていたとみなすことができる。自然人は、人が太陽や星の運行を止めたり早めたり、雨を降らせたり、止ませたりすることがあることを不思議におもわなかった。その段階では、神と王の間には媒介物(犠牲物)がなく、自然神と王そして臣下の三角関係であった。その上、王権の絶対専制は臣下による絶対専制と背中合わせであり、そういう王権の絶対専制が臣下の絶対専制によって相対化されるという意味では、実際の関係は、双方向の二角関係であったといえる。ところが、自然神から宗教神への転化は、まもなく、神と媒介物と王の三角関係の幻想的な供犠にすり変わったのである。そればかりではなく、かつて王に求められた神への自己放棄、聖なるものは、自分を対象にした臣下のそれに代わる。と同時に、王と臣下との間には媒介物が生じたと考えられる。その媒介物こそが集合的な力、社会的規範を産みだし、自然人から規範、法、国家への道筋はこうして進んでいったとおもえる。
自然神と王そして臣下の三角関係の基本には、わたしたちとはまるで違った世界像が潜在している。デュルケムは原初の宗教意識を、のちのキリスト教など理神論的で先進的な宗教意識と区別した。デュルケムは、原初の宗教を霊魂の実在を信じるアニミズムとナチュリズムの両面から遡るが、人間が死を迎えることにたいする恐怖、驚きが霊魂観念をうみだしたとも考えていないし、自然現象が人間に促す圧倒的な感覚にも、それらの畏怖にもとづきつけた言語の織り合わせに起源があるとも考えなかった。彼には、宗教というものの意識が、「聖」の意識をもっており、それが恒常的に礼拝によって支えられていることを必要としたからだ。そのかわりに、彼は、宗教は人を自然世界と調和させる欲求だと定義した。
自然人は、太陽、月、天空、山、海、風そのものを神格化しなかった。それらのかわりに彼らが礼拝したのは鴨、兎、カンガルー、蜥蜴、青虫、蛙などである。デュルケムは、オーストラリア大陸の原住民にみることができるトーテミズムがもっとも原初的な宗教であるとみなした。これはトーテミズムが、原始の氏族組織を背景にもっているからだ。トーテム信仰は、人と動物または植物との先天的、後天的な一体化を仮定したという。
[ 個人はおのおの二重の性質をもっている。彼には人間と動物との二存在が共存しているのである。われわれにはきわめて奇異なこの二元性を理解し易いようにするため、原始人は神話を考えついた。…中略…すなわち人間と動物との間に、前者を後者の縁者とする血統上の関係を設けることを目的としているのである。なおまた異なった仕方で表象されているこの起源の共通性によって、性質の共通性が説明されると、信じられている。たとえば、ナーリニエリ族は、最初の人々のうちのある者は禽獣に変形する力をもっている、と想像した。 ]『宗教生活の原初形態』デュルケム著
これは、人間が人間であるのは、トーテムの種類の動物または植物だと信じられている限りだから、いわゆる動物信仰ではない。実際に、カンガルー種族の一員は自身をカンガルーと呼び、人々の名はトーテムの名を帯び、名前の同一性は性格の同一性にも擬されている。なぜなら、自然人の名前とは、単に言葉の組み合わせではなく、事物そのものの区別であるからである。そればかりではない。オーストラリア原住民にとっては、宇宙に満ちているあらゆる事物が部族の一部分であり、各部族に分割されている。その下の支族にもまた分配され、各支族はいくつかの氏族に分配されており、同じく各支族に属するものは、さらに支族を構成している氏族に分配されている。
[ たとえば、某の樹はカンガルーの氏族にだけ帰され、また、この結果、この氏族の成員とまったく同じく、カンガルーがそのトーテムである。他のは蛇氏族に属する。雲は某トーテムに、太陽は他の某トーテムに配属されるなどである。このように、既知の存在はすべて全自然を包括する一種の図表・体系的分類に配列されている。 ]『宗教生活の原初形態』デュルケム著
これはトーテミズムの宇宙論的体系にちがいない。こういう世界がアメリカインディアンにおいてもみられ、人種的、地理的な特殊性をもたないことが分かる。つまり、各トーテムではそれぞれの宇宙を分有していることになる。
そればかりではない。トーテミズムは、表象、動物や植物、氏族の成員でなりたっているが、これらは同じ資格で「聖」である。これらの事物が成員に及ぼす類似の感情は、共通の原理からやってくる。それは一種の匿名の非人格的「力」の宗教であり、これを各人が分有しているのである。しかも、特定の個人は死が世代をとってかえるが、この力は姿を変えずに永遠に残る。ただ、トーテムを象徴する動物や植物のみを対象にしているのではない。トーテム神が存在するのである。これはトーテムの礼拝が畏敬する神を対象にするものであり、それは世界に内在し、無数の事物の中に伝播している名も歴史も無い非人格的な神であるからである。と同時に、それを神とみなす氏族の一員も宗教性をもっており、禁忌によって保護されている。だから、この非人格的な力は抽象物ではない。個々の異質的存在をつうじて伝播するエネルギーの源なのである。彼らが自らを烏と称するとき、個々の存在としての烏をさすのではなく、本質的な原理のもとにいる自らを指している。
[ わたしたちがこれらの原理を力であるというとき、この語を比喩的に受け入れてはならない。これらは真実の力として働くのである。ある意味で、これらは機制的に物理的効果を生む物質的な力である。個人は、適宜な用心をしないで、これらと接触できるであろうか。彼は、これから放電の結果にも比すべき衝撃を受ける。ときには、尖端から脱れ出る流動体のようにも考えられているようである。これが本来これを受けるべく作られていない有機体に誘導されると、まったく自動的な反応によって、そこに病と死を生じさせる。 ]『宗教生活の原初形態』デュルケム著
この原理は、あるときは風であり、雷の声、稲妻であり、雲、太陽、月、星、岩、水、嵐に内在する神秘的威力である。それはいたるところにあり、特定しうる力ではなく、形容詞のない力能をさしている。あらゆる生きているもの、動いているものの原理である。トーテミズムとはこのエネルギーの源泉と取り結ぶ関係のことだ。トーテムの形態で考えられる宗教力だけが、自然人にとってあてにしなければならないものである。しかし、このことは自然人がトーテム神を物理的または精神的に恐れ尊敬しているだけでなく、つまり、受け身であっただけではなく、これらの生命原理の力に働きかけようとする条件でもあった。これは呪術、シャーマンと対になって考えられているのだ。
もっとも、この原理を体得している氏族員は均等ではない。それを最も体得しているものが弱い者を隷属する。ある者が狩猟で相手に勝つのは、彼がより多くこの宇宙の原理で武装しているからだ。
[ この<圧倒された>感じが実際に宗教的観念を示唆すると仮定するとしても、原始人に対してそれはこのような効果をもたらしえない。彼らはこのような感じをもたないからである。彼らはけっして宇宙の力が自分の力よりも秀でているとは意識しない。…中略…彼らは自然界の基本要素を思いのままにし、風を激しくし、雨の降るのを強い、身振りで太陽を止めうるなどと信じている。宗教そのものがこのような安堵を彼らに与えるのに寄与している。というのは、宗教はひろく自然を支配する力能によって彼らを武装すると考えられているからである。儀礼は一部分は彼らが自己の意志を世界に課すのを助けるはずの手段である。 ]『宗教生活の原初形態』デュルケム著
この場合、デュルケムにとって、自然人と神との関係は契約ではないと考えられている。また、人間と自然との間に上下関係がないのと同様に、厳密な意味においては氏族員同士間の上下関係はない。しかし、わたしはこういう自然人の意識を、デュルケムのいうように、「聖」と「俗」の関係の仕方の範型に閉じ込めるべきではないとおもう。また、宗教と非宗教、礼拝の仕方というような、のちの時代の宗教とみまちがえるようなひな形で切り取るべきでないとおもえる。わたしには、「聖」と「俗」の区別以前、宗教以前の意識形態とおもえるからだ。
たとえば、デュルケムは、属、種という観念が出てきたのは、この原初の意識形態においてであるかのような推論をしているが、これは逆立ちしている。彼は、自然人が世界を体系的に分類したのは、属とは支族のことであり、その属に内含される種というのは氏族であるという具合に、その社会組織をひな形としたと言っている。そして、事物の部類が単に並列でなく、統合的に整理されているとすれば、それは混淆しあっている彼らの社会集団と連帯し合っていることを証明しているとみなす。論理的体系の統一は社会の統一をコピーしたものである。彼は原始・未開の自然人の分類概念について次のように説明する。
[ 事物はこのようにして、個人に対して一連の同心円状に配列されるものとして考えられる。もっとも離れた、もっとも一般的な類に属する事物は、個人に直接関係することのもっとも少い事物を含んでいる。事物が彼に接近してくるにつれて、だんだんと彼には無関係ではなくなってくるのである。こうして、事物が食物であるとき、彼にはもっとも近いものだけが禁じられるのである。 ]『分類の未開形態』デュルケム著
デュルケムは、あたかも、属、種という観念が、自然とそなわったような上位、下位観念として扱っているかに見える。しかし、一方では、彼らがもともと分類の観念をもっていたのであり、類似の心象は惹きあい、反対の心象は排斥するという。それによって、親和の感情と排斥の感情によって事物を分類する。その証拠として各氏族のトーテム相互が反対色で構成されていると指摘する。つまり、彼は、分類とは序列の順位に配置された体系であることを前提にして、支配的な特質とこれに従属された性質であることを認めており、それは人があらかじめ序列とは何かであるかを知っていなかったら、自己の認識でこのように分類整理することは思い至らなかったであろうと述べている。そして、序列の原因こそ、社会的集団や事物そのものであるというような言い方をしている。そして、論理的思考が描かれる図面を提供したのは社会であると結んでいる。
これでは、デュルケムの分類の概念は、氏族制段階までしか説明できないとおもう。なぜなら、デュルケムは、親和の感情、排斥の感情と序列の意味を混同しているとしかおもえない。なぜ、これが重要かといえば、序列の観念の出所を探り当てるうえで欠かせないからだ。序列の観念とは、媒介を含んだ分類のことをさしており、そのまま支配の形態を意味する。個人の観念とは違うものとして集合分類の意識を持ち出すまでは正しいが、トーテミズムを序列から説明しうるためには、歴史をはるかに下らなければならないのだ。つまり、自らの氏族社会が支族社会に統合し、部族社会、そして、超部族社会まで拡延しなければ、序列の観念はでてきようもなかったはずだからである。決してこれは同心円上に形作られたものではない。氏族と上位組織として支族がでてくるためには、支配的な氏族が媒介になることが必要条件である。そのためには、なんらかの飛躍なくしては、氏族組織にたいして支族から縦の関係が作られることはない。下位のトーテムの生じたのもそのためだ。そして、そういう支配的な氏族が出てくるのは、氏族社会に戦争や不平等な矛盾が生じるときでなければならない。支族を単位にした平等意識が論理観念としてでてくるには、前提として私的所有の萌芽がうまれ、社会的不平等が現実化していなければならない。そういう意味においてのみ、デュルケムのいう表象観念の基盤が社会組織にあるという言葉は意味をもつ。
これは、デュルケムの方法論の根幹にかかわっている。社会的集合体として歴史を眺めるという方法自体が均衡を失う所以である。なぜなら、彼がいう社会的集合体とは、個人に応対し反発している限りにすぎないからだ。つまり、個人意識が一方にあり、それにたいする社会的集合体が比重をもつ社会においてしか、彼の方法は有効性をもたないとおもえる。彼は、社会的集合体の意識やまして個人の意識をもっていない歴史段階は想定していないのだ。いうならば、彼の歴史的観察の起点は、古典派経済学と同様、私的所有がうまれ社会の不均質性が生じ、その上に国家が産まれた社会以降のことである。
『経済学・哲学草稿』における疎外概念は、もはや概念としての疎外ではない。マルクスがケネー、アダム・スミス、リカード、セーらの古典派経済学をさして疎外された経済学とよぶとき、問題なのは、経済学と哲学との区別や観念論か唯物論かのふりわけではない。古典派経済学の中心をしめるカテゴリーに、ヘーゲル的思弁「学」に照応するような母斑を指摘するところにあった。マルクスは古典派経済学のアポリアを次のように指摘する。
(国民経済学者はわれわれにいう、起源からみても概念の上からみても、労働の全生産物は労働者に属するものだ、と。しかし同時に国民経済学者はわれわれにいう、現実においては、労働者の手にはいるのは生産物のうちの最小部分、まったく必要不可欠な部分だけなのだ、と。…中略…国民経済学者が、プロレタリアを、すなわち資本も地代ももたず、もっぱら労働によって、しかも一面的、抽象的な労働によって生活するひとを、ただ労働者としてだけ観察しているということは、おのずから明らかである。それだから国民経済学は、労働者はすべての馬とまったく同様に、働くことができるよれだけのものはかせがなければならない、といった命題を立てることができるのだ)『経済学・哲学草稿』マルクス著
ここでマルクスは、疎外された労働を俎上にのせ、古典派経済学をとらえている「現象」と「本質」の二分法を問題にしている。労働の全生産物が労働者に帰属するという立場は、労働を人間の活動的な財産とする古典派経済学によれば、市民社会の理念におかれるべき本質である。それでいて、一方、現象においては、実際、労働者の手元におきうる生産物は全生産物の極少部分にすぎないとする。とすれば、古典派経済学の認識では、現象を本質にたいする偶然の例外とみなすことになる。そこで、この二面的な観察をそのまま延長すると、本質からいうと、本来ならそうであってはならないはずの現象がたまたま眼前に展開されていることになり、その結果、現象そのもの自体を原因からはじまって分析することを放棄してしまうことにつながる。
デュルケムも同じく、知らずしらずのうちに、すでに部族社会を構成して、階下に降りている19世紀のオーストラリア原住民やアメリカインディアンを前提にしてしまっているのである。その上、デュルケムの序列の意識の芽生えの特徴は、彼自身のいう自然と人間の同等性の観念とさえ矛盾する。なるほど、トーテム神の力をよく体現した氏族員とそうでないものの区別ができるのは理解できる。しかし、それはデュルケム自身がいっているように個人的な区別でも社会的な区別ではない。その前に、人間という人格そのものが意識になかった。いわば、トーテム社会に内包された区別にすぎない。トーテム氏族においては、基本的に序列の意識はない、また、氏族員相互にも序列がない。序列の観念ができるのは、もっとのち、あるトーテム氏族の優位性をもった集団が、より大きい集団としての支族を形成して以降である。もし、生活する上で矛盾があるとしたら、宗教的権力、つまり、トーテムに最も近い氏族員を疎外することになる。生活と宗教が一体化した生存においては、トーテムの重さ以外に区別するにたるものはないからだ。もともと、デュルケムが「聖」と「俗」の観念を区分けしたことからして、先見的な見方をしていたのかもしれない。
トーテム社会は、自然と人間が融合しており、動物や植物や魚、山や森と自分たちを人間として区別して考えることがない状態を示した。それは、自然の嵐、風、雷のような自然現象さえ区別したり、自ら分離したりせずに同じ目の高さに同化している認識があったことを意味している。ここには、デュルケムとちがって、まだ、宗教になっていない宗教性がある。
わたし(たち)の目的は、そういう原初の宗教性を精神史として抽出することにある。なぜか、世界史を終わらせるためである。わたしの考える世界史の始まりは二種類ある。ひとつは、「記述された世界史」の始まりである。つまり、マルクスやエンゲルスの唯物史観であろうが、ヘーゲルのような思弁哲学であろうが、同じく発展段階の範疇にあるものである。そこで世界史を終わらせるという意味は発展段階史を終わらせることである。発展段階を終わらせるという意味なら、フーコーやネグリと同じである。しかし、彼らには、始まりも終わりもない。ここで、唯一、意味をもつのは、「人類の前史が終わる」といったマルクスの文言だけである。その言葉をより精緻化すべきだとおもっている。
太古、自然を制御する超自然的な能力をすべての人間が備えているとおもっていた。超自然的な存在としての神々なるものがなかった。思考のこの段階は、世界は広大な「民主主義社会」であった。普通の人間が、雨を降らせたり、太陽を沈むのを遅らせようとしたり早めたり、風を吹かせたり鎮めたりできると考えた。その後、知識が進み、人間が自然の広大さを知るにつれて、自らの卑称さ、弱さを自覚する。しかし、この認識が直ちに超自然的な存在の無力を信じることには至らなくて、そして、神々のことをかつて自らがもっていた超自然的な力を唯一保有する存在とみなすようになる。ここで人間と神々の間の越えがたい深淵に引き裂かれる以前の神聖な超自然的な力を与えられた人間としての「人間神」という観念が生まれる。人の姿をとった神々というのは未開社会では一般的であった。このような人間神は、超自然的、霊的能力だけではなく、卓越した政治的能力を有すると信じられ、神のみならず王でもあった。それだけに、王は共同体の安定と土地の肥沃に責任を負った。深刻な飢饉があったりすると、王に責任があるとされ、王自身が罰を受けることもあった。
それから樹木崇拝に及ぶ。樹木崇拝に基づく概念は樹木も人間のように魂を持つものと考えるアニミズムと霊魂輪廻の思想から始まる。また、樹木霊は穀物や農作物一般を育てる力、牛や豚の数を増やし、女たちに子を授ける力があると信じられた。樹木霊はまた、人形や人間に擬人化されてもいる。神が生きた人間の姿を取ることは未開民族の間では一般的であった。さらに、樹木霊の化身と信じられていた人間は、雨や陽光をもたらし、穀物を実らせる王と呼ばれた。
このような王は宇宙のダイナミックな力の中心と考えられた。彼に僅かなバランスの変化でも起きようものなら、確立している自然の秩序を乱し、転覆させる可能性があると信じた。例として挙げられているのは、神権政治の鏡とされた「ミカド」である。彼はいつも自らの領土の平和と安定を保つためには、冠をかぶり、ただ、像のように座っていなければならなかった。これは彼への配慮を重荷と悲しみに変える。王の守らねばならない規制はその王が強ければ強いほど大きくなる。
[ 掟の遵守は、王自身の安全に不可欠であると同時に、結果的には人々と世界の安全にとっても不可欠なのである。初期の王国は、人々が単に君主のためだけに存在している専制政治であった、という考え方は、われわれが現在考察している君主制にはまったくあてはまらない。むしろ逆に、初期の君主は、臣民のためだけの存在である。王の命が価値あるものであるのは、王がもっぱら人々のために、自然の移り行きに秩序を与えることによって、自らの地位に与えられた義務を果たす限りにおいてである。したがって、王がその義務を果たせなくなるや否や、人々がそれまで彼に惜しみなく与えてきた保護や献身や宗教的敬意は、たちまちにして止み、憎しみと軽蔑に変わる。 ]『金枝篇』フレーザー著
このような戒律にがんじがらめに縛られた王権は、だれもがこの危険な任につくことを拒むようになったため、霊的な権力と世俗の権力が完全に分離した。昔からの王族は純粋に宗教的な機能を保持し、世俗の統治権は、より精力的な血族に渡されることになる。
しかし、王や祭司のタブーとして、神なる王は避けられるべき存在でもあった。これに触れたものはその霊力によって、致命的な結果を負う。「ミカド」の食べた皿で他の誰かが食事をすれば口と喉が腫れあがる、「ミカド」の衣服を着るなら、同じく忌まわしい結果を生む。そのため人間神の隔離は必要なことだった。原住民でこのタブーに触れたものは自死するのは明らかだった。しかも、神聖と穢れの概念は区別されていない。これは霊的なもの超自然的なものの危険は想像的なものにすぎないが、[ 想像とは、重力と同じくらい現実に人間に作用するものであり、青酸の一服と同じくらい確実に、人間を殺すことがある ]。
王殺しは、原始心性にとって自然の成り行きが人間神=王の生命にかかっているのであれば、老齢や病気で死が近づきつつある王は、人間神の衰弱と自然死が世界の衰弱と消滅と同義と受け止められたとき、世界の衰弱を未然に防ぐために、人間神を殺し、次の強壮な後継者に移し替えられることにより、危険が回避されるという考えに基づくものである。人間神を殺し、その魂を強壮な次の後継者に吹き込もうとしたのは、魂が不滅だと信じた原始心性にとって当然であった。これが、吉本のいう「全臣下による逆の絶対専制」と言われるものだ。
このような王の殺害が次第に一時的な王の代理人もしくは王の長男の生贄に代替されたのは、あたかも、文明が進めば必然的にそうなるかのように、蒙を啓かれた君主が掟を退けたからであるという言い方をフレイザーはしている。そして、裏腹に、王に寄せられたタブーにうま味を感じ始めた専制君主の個人的な欲望の在処が示されている。だが、このような考え方は「人間性」に即したあまりに近代的すぎる解釈だ。なぜ、近代そのものの足元が問われなければならないか。支配の構造の根っこが近代の眼によって曇らされているからだ。少なくとも、この点でフレイザーの眼は曇っている。
しかし、フレーザーに対して、彼の言説はほとんどが伝え書きであり、信憑性が薄い、一切の時間的前後関係のない羅列にすぎないというのは早計である。タブーとして挙げられている実例は多く、類推として言えば、その中にわたしたちが母親たちに教えられたことで心当たりがあるものがないではないからだ。葬儀のときの習慣、子供の頭を跨ぐこと、何か祈願をかける場合のジンクス、赤子の最初の散髪など、ポリネシア、北米インディアン、オーストラリア原住民らと共通の時間を持っていたことを窺わせる。むしろ、近代化するとタブーが自然消滅するかのように考える姿勢が問題なだけである。フレーザーやデュルケムにとっては、近代と非近代の対立の図式は暗然と横たわっていた。柳田国男においても幾分かそれをまぬがれなかったが、わたし(たち)はこの対立の図式こそが転覆されなければならないと考えている。対立は、その止揚においても同様である。近代と非近代が対立する図式そのものを無化することこそが課題にほかならないからだ。
[ わたしは、どちらかといえば、柳田史学よりも柳田民俗学に−柳田民俗学によってあきらかにされたわが国におけるさまざまな前近代的な芸術の在りかたに、ヨリ多く興味をもつ。なぜなら、わたしには、それらの芸術を否定的媒介にしないかぎり、近代芸術をこえた、あたらしい革命芸術の在りかたは考えられないからである。こういうわたしの観点は、いまにはじまったことではなく、わたしが、柳田民俗学についてふれながら、柳田国男のいうように、日本がフォークロアの実験室の観があるということは、むろん、アジア的停滞性のあらわれ以外のなにものでもないとはいえ、そこにまた、日本の前衛芸術家にとっては千載一遇の好機会があるのであり、かれらは、われわれの周囲にいまだにゆたかに存在している前近代的な芸術と近代芸術とを対立物としてとらえ、両者の闘争を止揚することによって、そこならまったくあたらしい、国際的水準を超えた超近代的な芸術を創造することができる ]『柳田国男について』花田清輝著
とりたてて、「近代芸術」、「革命芸術」と言わなければならないかどうかは別として、ここでわたしたちは、途方もない徒労感に襲われる。なぜなら、ここでは、ヘーゲルやマルクスが定式化している方法にのっとり、あたかも目の前にあるかのように、近代と非近代が実体的に区別されて存在していると考えられている。しかし、アジア的停滞性や非近代は、近代のドグマを離れて正確に再定義されなければならないとおもえる。もちろん、近代資本主義が世界史の頂点に位置し、歴史概念そのものをつくり上げたことを前提にすれば、近代なくしてアジア的停滞と非近代は存在しなかった。その意味で、おそらく、花田のような「非近代」を媒介にした「超近代」はもともと期待しえないものである。わたしたちが歴史観と呼びならわしているものは、ただ、近代を片方向にさかのぼった代物にすぎないからだ。
花田などとちがって、柳田の『明治大正史』の底を流れる歴史観が優れているのは、衣食住からはじまって家、生産、消費の経済、恋愛、組織まで見渡している手際が、発展段階説などにとらわれず、「非近代」から明治「近代」への遷移が自然のままに流されているからだ。わたしたちは、ずっと以前、「非近代」と「近代」の継ぎ目を問題にしたことがあり、日本的近代の二重構造という視点を与えられた。それから得られた結論は、花田のような実体としての差異ではなく、「近代」なくして「非近代」はなく、「非近代」なくして「近代」なしというべきものでヌエ的なものを想定してきた。だが、それでも、次のような滑らかさをもってはいなかった。
[ 洋食はまったく牛鍋商売の手引きの下に、やっと日本にお目見えをしたと言って差支えがない。…中略…これも洋服と同じで、当人だけはひとかど西洋風だと思っておっても、実は発端からもう十分に日本化していたのである。毎日の衣食は生活の最も心安い部分、人が無頓着になってもよいほとんど唯一の時間であった。それが一つ一つよそ行きになってはやり切れるものではない。だから国風は稀に権力をもって強制せられる場合のほか、いつもこの通りだらしなく、また気まぐれに移り動いていたのである。 ]『明治大正史世相篇』柳田国男著
彼の歴史観の中には、「近代」がとりわけ重いとも苦痛ともうけとれなかったから、その分だけ、歴史区分にとらわれなかった。彼が、以前と呼んでいるのが、鎌倉時代か、江戸時代か、奈良時代か不明なのはここに原因がある。これは柳田の歴史の時間軸と空間軸がともに見渡されている方法と密接にからんでいる。また、歴史を「記述された歴史」に限定しない、ある意味では地質学的な方法と関わっている。ただ、そういう柳田の歴史観は主張すべき表現の方法を伏在させた。それは近代歴史学から見ると、時代を大きく跨ぎ、世界史に交差するとともに、発掘されるべき宝庫にちがいなかった。
11 近代の歴史観の盲点

 

ヘーゲルは世界史を・東洋世界・ギリシャ世界・ローマ世界・ゲルマン世界・ゲルマン世界の最終段階としての近代世界に区分した。彼の歴史哲学の方法とは次のようなものだった。
[ 理性はおのれを糧とし、自分自身を材料としてそれに手をくわえる。理性にとって前提となるのは理性そのものだけであり、理性の目的が絶対の究極目的である以上、理性の活動や生産は、理性の内実を外にあらわすことにほかならず、そのあらわれが、一方では自然的宇宙であり、他方では精神的宇宙―つまり、世界史―なのです。そうした理念こそが力強い永遠の真理であり、その理念が、いや、その理念と理念の栄誉と栄光だけが、世界のうちに啓示されること−それが、すでにいったように、哲学の証明するところであり、歴史においては、証明済みの真理として前提される事柄です。 ]『歴史哲学講義』ヘーゲル著
ヘーゲルの歴史学とは、理性が世界を支配しているにとどまらず、すでに理性の活動として世界が成り立っていることについて証明するための学問である。歴史学に必要な理性的認識とは、理念によって歴史が作られていることを前提にしてはじめてなりたちうる歴史学という意味である。つまり、はじめから世界史の目的が決められており、世界史とは理性という前提に向かっている過程にすぎない。こういうヘーゲルの歴史哲学は、理念の自己展開、つまり、自己意識におきなおしてみると、概念の概念としての歴史学にほかならない。そして、理性の究極の目的は、「自由の意識」だという。
[ 東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている。 ]『歴史哲学講義』ヘーゲル著
こうして、世界史についての学問は、精神が精神の自由を自覚して、その意識が現実的にうみだすものの発展過程を叙述するものだとみなしている。なぜ、ヘーゲルにとっては、「自由」そのものではなく「自由の意識」なのか。世界史の過程が、哲学的精神(理性)が自分自身へ帰っていく過程にほかならないからだ。ヘーゲルは、理性の体現者として「自由の意識」をもっており、そこからさかのぼって人類の足跡をみた場合、自分のような「自由の意識」の到達点にたどり着く過程を見つめることができるのだ。ここで、ヘーゲルを観念論者だと断定することは、水に溺れる人に浮輪のかわりに、重力の思想を投げ入れると同様、何も意味しない。理性が現実的であり、現実が理性的であるヘーゲルの根源的認識を掘り崩さない限り、ヘーゲルを批判したことにならないからだ。
むしろ、問題は次のところにある。ヘーゲルが辿りついたところから、逆算する方法をとっているとしたら、ヘーゲルの射程は「記述された歴史」の範囲までしか及ばないのではないかということである。これは、ヘーゲルにとって歴史は、なぜ国家の歴史でなければならなかったのかを問うことと同義である。
ヘーゲルは、目的を実現する材料として歴史における国家、民族精神の役割を力説しているが、国家こそが、絶対の究極目的であり、「自由の意識」を実現した一般的意思と主観的意思の統一体であるとみなす。だからこそ、彼の歴史学においては国家を形成した民族しか対象にならないのである。また、その秩序に反するものは、自然状態とみなされ不法と暴力、自然衝動と非人間性の感情として否定される。
したがって、人類の最終段階としての近代民族国家の発生と展開についても、次のように辿られる。ヘーゲルは近代をゲルマン国家の第三期とみなした。これはイギリス、フランスか、あるいはラテン諸国ではなく、ほかでもないドイツの宗教改革からはじまった。教会の堕落は感覚的な事物、すなわち直接の主観性を取り入れたことから生まれたという。高度の世界精神が教会から精神を追い出した。教会の信仰心は迷信など権威へ隷属している。ルターは無限の主体性を解き放ち、真の精神性においてイエス・キリストを精神的に獲得できるものとした。永遠にして絶対的な神の真理を主体的に確信することだからだ。ルターの改革によって教会の魂の絶対の内面性が得られ、主観が教会の教えと一体化する。個人は自分の特殊性を超えて、客観的な主体をもたらす。
[ ここに新しくも最後の旗がかかげられ、諸民族がそのもとにあつまってくる。おのれを知り、しかも真理のうちにあるような、いや、真理のうちにあるからこそおのれを知ることもできるような、自由な精神の旗です。それから現代にかけての時代は、この原理を世界にうちたて、和解自体と真理を、その形式からして客観的たらしめる仕事以外にはもう仕事はないといえる。…中略…人権、財産、共同精神、政府、国家体制などは普遍的な形式のもとにとらえられ、自由意思にふさわしい理性的な概念へともたらさなければなりません。そうなってはじめて、真理の精神が主体の意思や特殊の活動のうちにあらわれてくる。主体の自由な精神が普遍的な形式を強くもとめるとき、客観的な精神があらわれるのです。その意味で、国家の土台をなすのは宗教だといわなければならない。国家と法律は、宗教が現実の社会のうちにあらわれでたものにほかなりません。 ]『歴史哲学講義』ヘーゲル著
そしてヘーゲルは国家の共同精神や法も神々しいものであって、神のくだした命令である限り神聖なものであった。いまや国家の法への服従が、良心にもとづく自由な服従として、理性にかなった意思や行動とされた。それにともない、世界史とは自由な概念の発展過程である。これを読んで古典的マルクス主義者なら観念論と批判するだろうが、わたしはそれとちがって、普遍的な世界精神があって、主観的精神が既存のキリスト教会と対立し、それが客観的精神に統一された過程が、理念または世界精神の自己実現のための手段におとしめられているのをさして思弁的とおもえる。つまり、理念の窓をとおしてしか世界を理解しないと、ご本家のマルクスならいうところだ。つまり、自己が自己と対面し、客観が自己にたいして目の前にある。これは絶対の自由であり、この自我は対象を包み込むからである。ここでは対象は、自己に対峙するものではないと自覚している。逆にいうとこの自己意識は、自己が顔を変えるにしたがって、対象の見方を変えるにすぎないのだ。
[ 思考していないときの人間は、他なるものと関係していることになって、自由ではない。が、もっとも内面的な自己確信をもって他なるものをとらえ、概念化するとき、そこにはもう神と人間の和解が生じているといえる。思考と他なるものとの統一はもとから存在しているので、というのも、理性は意識の実体的基礎であるとともに、外なる自然の実体的基礎でもあるからです。だから、思考のむこうにあるものはもはや彼岸ではなく、思考とべつの実体的性質をもつものではないのです。 ]『歴史哲学講義』ヘーゲル著
ヘーゲルはここで自己確信によって対象をみれば、主観と客観が統一されて、概念により対象は外側にはないと言っているのだ。思考が外界のものも自分とおなじ理性をもっているはずだとみなせば、そうだ、みなしただけで、そのようにみえてくる(和解する)という。意思を意思するだけが自由である。なぜ、こういう思弁が成り立つか。最初に理念がありそれが自由であるからだ。ヘーゲルにおける国家とはこういう内容の形式なのである。
そこで、ヘーゲルは、これがはじめて生まれた抽象思考であり、ようやく、内面性の抽象的形式から出発して、世俗である国家の形成や共同精神の成立についてみていくことになる。それは、国家としての国家をめざす過程になるが、その際、まず、ヘーゲルは、フランスの啓蒙主義から近代国家をみいだしている。フランス革命の功績は、・封建的な不自由が廃絶され、財産の自由や個人の自由・政府の法律制定・愛国心であるという。愛国心は国家とし主観的な意思の対立を止揚するのである。だが、ヘーゲルによると、フランス革命は世界史的事件であるが、内面性と世俗性の分裂があり、一般意思がもたらされたことがなく、革命後の混迷を加えたという。社会のすべてが個人の意思の参与と同意によって動かさねばならないとしたからである。
ここで、こういうヘーゲルの国家は、単に、宗教的だと断罪すべきだろうか。君主の決断を認め宗教改革なしの政治革命はないという観点において、また、[ 人間が頭で、つまり思想でたち、思想にしたがって現実をきずきあげる ]点で倒錯しているのだろうか。果たして、そうであろうか。わたしは、ヘーゲルが、「国家」や「宗教」を共同精神とみなし、「国家」の問題を「宗教」の問題から考察したのは、世界史として十分な重みをもっているとおもえる。
ただ、ヘーゲルの場合、その世界史は近代の高みから出発し、自分のところへ帰ってくる歴史しか対象にあげていない。そのために、真の意味で歴史が流れなくなってしまう。もし、歴史を流そうとするなら、マルクスのように「未知」を選択するより他がないのかもしれないが、近代の落日があらわになった現在において、こういうヘーゲルの歴史を流動化させるために、国家としての近代を超えようとしている人たちは何を対局に据えようとしているのだろうか。
わたしたちが、今、知っているのは、マルクスにならえば、アジア的所有、ローマ・ギリシャ的所有(古典古代的)、ゲルマン的(中世的)所有、ブルジョア的所有の4段階であった。これらは、共同体的所有という名称に一括されるものである。これに加えて、吉本隆明はその以前の段階に「アフリカ的段階」を想定した。これは、一見、史観の拡張のように見えるが、実は、史観の解体におもえる。
吉本は『共同幻想論』において、宗教から法へ法から国家への道すじを引いた。これは、宗教が宗教と法に分裂し、法は法と国家に分裂するとした。そして、こういう転化の過程は、人間が自然を崇拝することからはじめて、自然を束縛するようになり、ついにその束縛を個々の生活から一般化して統一的な共同幻想になるかの過程とみなした。まず、法は、共同体の共同幻想が血縁的な社会集団の水準を離脱したときに成立する。つまり、氏族的あるいは前氏族的な段階から部族的な社会集団が成立するときと同じとみなした。つまり、これは国家の起源と同じくする。共同幻想が家族、あるいは親族の共同性から分離したときにプリミティブな国家の原型ができるからである。その分離は同母の兄弟と姉妹のあいだの婚姻が最初に禁制になった村落社会である。
そして、農耕的な共同性への侵犯に関する「天つ罪」と、近親姦、獣姦等を禁ずる自然的カテゴリーに属する罪として「国つ罪」があったという。
(山野に自生する動物や植物を採ったり、河海の魚を獲えて食べていた原住種族が大部分を占めた前農耕的な社会でも、小部分に農耕にしたがった原住氏族が存在したとかんがえるのは、きわめて自然である。こういう社会で想定される血縁集団の<共同幻想>は<国つ罪>のカテゴリー、いいかえれば自然的カテゴリーに属する共同規範を土台に、いくらかの農耕法的な要素を混合していったとみなすことができる。大和朝廷勢力が前農耕的な社会の胎内から農耕技術を拡張し高度化することで発生し、しだいに列島を席捲したものか、あるいはまったく別のところから農耕技術をたずさえて到来したものかは断定できないし、また断定する必要もない。だが氏族(前氏族)制の内部から部族的な共同性が形成されてゆくにつれて、しだいに<天つ罪>のカテゴリーに属する農耕社会法を<共同幻想>として抽出するにいたったことは容易に推定することができる。)『共同幻想論』吉本隆明著
ここにはたくさんのことが語られている。ひとつは、「天つ罪」と「国つ罪」の概念の発生は、歴史的な発生のちがいとして認識されていることである。ふたつ目は、わが列島の原住種族は、共同幻想としておもに「国つ罪」のような法概念しかもっておらず、「天つ罪」をもたらした農耕社会の支配勢力が、「国つ罪」の上層に「天つ罪」概念を接木した可能性があるということである。そして、最後が、「天つ罪」をもたらしたのが支配王権としての大和朝廷勢力として擬定されている。
そして、吉本は、「天つ罪」が定着していく過程とは、前農耕的な段階から農耕的な段階に移行する過程であり、「国つ罪」を中心とする法が家族的な「掟」や「習俗」になり、その領域に封じ込めることで、農耕法的な法として抽出し、共同幻想としての国家の飛躍をともなうことになり、法権力の垂直性をみずからのものとし、政治的国家に生長していったものと考えている。
もし、吉本の方法が国家の原理論とみなすなら、国家の問題をまるごととらえるにはどうすればいいのか。国家の歴史性について、マルクスは『資本主義的生産に先行する諸形態』で定式化している。ここでマルクスがもちいている方法は、国家の問題を共同体のありかとし、所有の問題と関連づけていることである。では、マルクスにとって所有とは何か。
[ 所有とは本源的には、自分に属しているものとしての、自分のものとしての、人間固有の定在とともに前提されたものとしての自然的生産諸条件にたいする人間の関係行為のことにほかならない。すなわち自己の肉体のいわば延長をなすにすぎない、自分自身の自然的前提としてのこれら生産諸条件にたいする関係行為である。 ]『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著
自然的生産諸条件への関係行為という場合、この自然的生産諸条件は二重である。その前提となるのは、まず、自らが属している種族団体があるということであり、人間が自然発生的な社会に属しているということである。人間が生産的に生きるのはこの条件のもとである。したがって、所有とはある種族に属することであり、その上、その共同体との大地、土地にたいする関係行為のことを意味している。マルクスはそのように言っているが、「関係行為」だけでは足りないような気がする。正確には、関係行為を「欲望」することが大切なようにおもう。
マルクスは、この関係行為の最も原始的なものが、アジア的基本形態であるという。その理由は、工業と農業の自給自足的一体性のもとでは、征服、被征服の関係は持ちようがなく、共同体相互間の所有関係がないので、他の共同体自体を自然的生産諸条件にすることができないからだ。だから、奴隷制と農奴制は所有形態のより発展したものである。
したがって、人類は、奴隷制と農奴制になるときにはじめて、この自然的生産諸条件が変化し、共同体として個人を再生産するようになる。しかし、それは古い形態の再生産であるとともに、その破壊でもあるのだ。なぜなら、人口の増加によって、古い形態を維持しようとすると、より多くの奴隷を必要とする。また、公有地の拡大がおこれば、貴族と平民の格差が生じる。こうして、古い共同体の維持は、自然的生産諸条件の破壊を含み、労働の新しい様式を引き出し、新しい観念、交通様式、欲望、言語を形成して、その結果、共同体所有と私的所有の分離が生まれるのである。
つまり、生産の様式が所有の様式を決定することになる。そして、労働する主体の生産力の発展段階は、所有の関係を規定するが、一定の点において分解する。生産の様式は、所有の形態をつくり、そして、今度は、所有の様式は新しい生産の様式を規定し、それが歴史的に繰り返されるというのだ。
マルクスの想定する所有の基本形態は「共同体的所有関係」であり、それには大部分のアジア的所有形態があてはまる。この形態では個々人は所有者にならず、共同体を具現する小共同体の上に立ち、上位の所有者として「総括的統一体」が現れるものの財産、奴隷であるにすぎない。
[ アジア的な(少なくともそれが支配的な)形態にあっては、個々人の所有ではなく、占有だけがある、共同体が本来の現実的所有者<であり>−したがって所有は土地の共同体的所有としてのみ<現れる>。 ]『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著
アジア的専制のもとでは、人格として存在する上位の共同社会が現実の所有者であることから、個々のものは事実上、無所有である。個人は所有者ではなく、ただ、占有者にすぎない。上位の統一体は、灌漑水利、軍事的な保護、交通手段等の事業を行う。この共同体的所有のアジア的形態は最も長く維持されるものであり、停滞と退歩がその基本である。
マルクスは、『ヴェラ・ザスーリッチへの手紙』において、このアジア的所有形態の残存する典型として、ロシアの農村共同体を例に上げている。ここは、マルクスがこの共同体では私有の原則を除去することによって、近代社会がそれをめざして進んでいるところの経済制度の出発点になるとして、資本主義制度を経過しなくても協同労働に移行するのを容易にしているなどと喋ったため、誤解されている部分である。共同体をその発生史において見ようとする限りにおいて、あくまで歴史的段階にとどまるものであり、支障がないとおもえる。
マルクスは、第二にローマ・ギリシャ的所有(古典古代的)所有形態は都市を想定している。ここでは、農民がある国家都市の住民になる。彼らの共同性は他の共同性との接触においてのみ起こるものであるから、戦争が重大な共同作業となる。共同体所有は、国家所有、公用地として私的所有から分離されている。したがって、国家的土地所有と私的土地所有の対立形態が相並び、その結果、後者が前者によって媒介されたり、前者そのものが、二重の形態で存在したりする。それゆえ国家市民のみが私的所有者である。そこでは、個々人の所有は第一のように直接に共同体所有ではない。共同体は国家として自由平等な私的所有者相互の関係になる。公有地も確保している。この土地は共同体の存在において保障されており、その共同体は軍務等の剰余労働によって保障されている。この社会は奴隷制の発展、土地占有の集中、交換、貨幣制度、制服等がその基礎であった。
第三は、ゲルマン的(中世的)所有である。一部、ローマ的な土地所有だが、一部分は共同体そのものに残され、さまざまな形態の公有地が残る。古典古代には工業と商業は蔑視されていたが、占有によって共同体用地を使用する権利を得た。他国の商人や工業者の住み着くような都市では国民が変化していく。商人または手工業者の生活が許されるようになる。
また、中世都市では同職組合ができる。同職組合が氏族にまさるようになる。古典古代では氏族と地域が基礎になっていたが、氏族が地域から駆逐されるようになる。そして、農村生活の中心であり、農村労働者の居住地であり、作戦用兵の中心地である都市への集合によって、共同体は個々人にとって一つの外的存在となるのである。やがて、これは都市と農村の対立の原点になる。都市は連合として現れ、統一体としてではなく、土地所有者からなる自立的主体の統一としてあらわれる。だから、古典古代人の場合のように、国家、国家組織としては存在していない。なぜなら、公共体としてはほとんど成り立たなくなっているからだ。
ローマ人の公用地は私的所有と併存する国家として現れたが、ゲルマン人の間では個人的所有の補充としてのみ現われる。個々人の所有は共同体に媒介されたものとしては現われない。むしろ、共同体こそ、自立した主体相互の関係として現われる。農民は国家市民ではなく、経済主体が各個人の家になってくる。マルクスがたどった以上の関係は、ブルジョア的関係とは大きく異なる。つまり、奴隷や農奴と賃労働とは、全く共同体の質が異なっているのである。
[ 人間的定在のこれら非有機的諸条件と、この活動する定在とのあいだの分離、賃労働と資本との関係で完全なものにはじめて措定されるような分離こそが、説明を要するし、また歴史的過程の結果なのである。奴隷関係や農奴関係においてはこのような分離は生じないで、むしろ社会の一部分は、社会の他の部分自体から、他の部分に固有の再生産のたんに非有機的かつ自然的な諸条件として取扱われる。奴隷は、自己の労働の客観的諸条件にたいしては、どのような関係ももっていない。むしろ労働自体は、奴隷の形態においても農奴の形態においても、家畜とならんで、または土地の付属物として、ひとしく生産の非有機的条件としてその他の自然物の列中におかれる。 ]『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著
マルクスは、奴隷や農奴は、自身が生産の諸条件のうち非有機的肉体と現われるという。つまり、彼らは自然にたいするとき、彼自身の非有機的肉体と関係し、それが彼自身の生存諸条件とも関係するという二重性をもっているといっているのだ。つまり、主体的自然と客体的自然の成員としても現われるという。いわば、生存と生産が一体化していたということになる。その状態に見出される制限は、他の共同体との角逐のみである。他の共同体に制服されれば、彼らは一括して制服される。こうして、奴隷制や農奴制を再生産する。
所有の原型はいろいろな共同体の経済的基礎を形成するとともに、それは、特定の共同体を形成している。それは制限された生産力の発展段階に照応する。ところが、資本と労働の関係は、次のような歴史的過程を前提にする。
土地、原材料にたいする関係行為の解体・労働用具の所有者としての関係の解体・彼が生産者として生産の完了する前に消費手段を占有している。・労働者の労働自身が交換を通じて間接的に客観的生産諸条件のもとに属する。
これにより個人を自由な労働者に転化した過程でもある。それゆえ、貨幣の資本への転化は、剥ぎ取られて無一文になった生きた労働を貨幣と引き換えに自由になった労働者から手にいれるようになってからである。これらの大衆は二重の意味で自由である。一つは、古い保護または隷属の諸関係及び役務の諸関係からか自由であり、第二に、一切合切の持ち物とあらゆる客観的な物的定在から、つまり、すべての所有から自由である。
貨幣の資本への転化が労働の客観的諸条件を分離し、労働者にたいして自立化させた歴史的過程を前提とすれば、他方ではすべての生産をみずからに従属させ、また、いたるところで、労働と所有のあいだの分離、労働と労働の客観的諸条件のあいだの分離を発展させ貫徹するのは、ひとたび成立した資本の作用である。この資本の過程をつうじて、国家的所有を含め、いわゆる狭義の共同体的所有は完全にその存在意義を失う。では、ブルジョア的所有関係のあとにくるのは何か。マルクスはこのあたりの記述を次のように要約している。
[ すべての所有関係は、たえざる歴史的交代、たえざる歴史的変化をうけてきた。たとえばフランス革命は、ブルジョア的所有のために封建的所有を廃棄した。共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。ところで近代のブルジョア的私有財産は、階級的対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる。 ]『共産党宣言』マルクス・エンゲルス著
この要約は、私有財産の廃止が、あたかも国家所有にすりかわりそうな言い回しで、とても誤解されやすい箇所である。事実、この言葉をめぐって歴史は膨大なまわり道を通った。上記の言葉とともに、共産主義者の次の6つのスローガン、・土地所有を収奪する・強度の累進税・相続権の廃止・国立銀行によって信用を国家の手に集中する・すべての運輸機関を国家の手に集中する・国営工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良及び次の言葉をつけ加えると、マルクスは限りなく強権的国家主義者に見える。
[ プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。このことは、もちろんなによりも、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。 ]『共産党宣言』マルクス・エンゲルス著
これらの言葉が単純におかしいのは、マルクスは、一方で、(ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件)である協力体のことを語っていたのではないのか。なぜ、わたしたちは、マルクスがこのような矛盾を言っているように見えるのか。これを解く鍵はマルクスの次のような言葉を追加する必要がある。
[ 所有ということが、自分のものとしての生産諸条件にたいする意識された関係行為―そしてこれは個々人にかんしては、共同団体によって定められ、また掟として公布され、かつ保証されるもの―にすぎないかぎり、したがって生産者という定在が、生産者に属する客観的諸条件における一定在として現れるかぎり、所有は生産自体によってはじめて実現される。 ]『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著
わたしの解釈では、マルクスはここで、所有という概念が共同体の掟によって作られるものとしたら、共同体と同義だといっていることになる。その意味では、私的所有も国家的所有も変わらないのであり、ともに、広義の「共同体的所有」なのである。いいかえると、共同体的所有はアジア的所有概念よりもはるかに時間的射程が長く、起源としての共同体、国家の成立と同じくしていることになる。わたしたちは、すでに共同体的所有関係の中に首までどっぷり浸かっているものだから、過去にさかのぼれば所有以前の世界が分からず、逆に、同じ意味において、ブルジョア的所有関係以後の世界が想いうかべられないのだ。ほんとうは、マルクスが未来の協力体というとき、あらゆる所有、あらゆる共同体的所有をなくした世界のことを考えなければならないのであり、それを確証しようとすれば、共同体または、共同体的所有の成立時までさかのぼらなければならないのだ。マルクスにたいする遠近感の誤差は、マルクスが所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄をめざしていると言ったことにはじまっている。しかし、同時に、マルクスは、ブルジョア的所有は最後的にもっとも共同体的所有を象徴するものととらえていたはずだ。
したがって、マルクスの主意から類推すると、ブルジョア的所有の国家的所有への転換は、国家の法的・政治的役割を認めたものであり、それは同時に、共同体的所有を廃絶することを内包していたのだとおもえる。わたしたちは、ここから、未来を描くためには、所有の根拠を求めて、もっと、時間を、国家、所有の原型にまでさかのぼらなければならないとおもえる。
12 世界史の方法

 

なぜ、人類史をこういう方法でみることが可能になったのか。その答えは明白である。現在の社会状況が「最後性の欲望」を露呈したからである。吉本隆明はその状態を「超資本主義」と呼んだ。
[ 現在の世界でアメリカ、日本、EC(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)の三地域、いいかえれば現在の世界で経済的にいちばん先進的というるこの三地域では、むき出しにいってしまえば近経であれマル経であれ、支配の学が通用する時代は、すでに終焉してしまっている。この条件は単純化してしまえばつぎのふたつだ。(1)個人所得あるいは企業収益のどちらをとっても、所得あるいは収益の半分以上が消費または総支出につかわれていること。(2)しかも、この個人所得の消費または企業総支出の半分以上が選択消費(択んで自由に使っている消費)あるいは設備投資(あるいは択んで自由に増減できるその他の支出)に使われていること。 ]『超資本主義』吉本隆明著
したがって、吉本は、この三地域では国民大衆ひとりひとりの経済的な潜在能力は、どんな政治支配をもってきても制御できないくらいに大きくなっており、国民大衆の自己支配による自己制御のほかにはどんな政府も可能ではなくなっているとしている。しかも、就業している人口による産業構成比が、第一次産業(農、漁、林業)9%、第二次産業(製造工業、建設業など)33%、第三次産業(サービス、金融、小売、教育、流通など)57%くらいになっており、人口構成からからみても国内総生産からみても第三次産業が過半数をしめている。だから不況対策として、建設や土木工事を主体にした公共事業費に投入しても意味をなさないという。また、選択的な消費や支出が、総消費や総支出の過半数を占めているため、個々の国民大衆や民間企業体が選択的な消費や総支出を引き締めてしまえば、国家はどんな政策を採用しても不況を脱出することができないといわれている。
これは何を意味しているのだろうか。わたしなら消費と生産の関係が逆転してしまった高度消費社会のイメージをおもいうかべる。というよりも、生産に引率された消費(生産的消費)が減少したことを意味している。生産した価値のうち、その消費する価値が半分以下だとするなら、マルクスのいう価値法則が機能しなくなったばかりでなく、衣食住、つまり生産する(働く)ための価値が低減してしまっているのだ。これを欲望の函数としてとらえなおしてみれば、一単位あたりの生産の欲望が、1/2の消費の欲望で満たされることになる。そして、それはさらに拡大再生産されるだろうから、あくまでも仮定だが、生産することの価値は相対的にますます低減していく。この関係は、つまるところ生産力の極大化と消費力の極小化を意味しており、は生産と消費の関係が、著しくバランスを崩していることになる。こういうバランスの不均衡は新しい人類史の段階を裏づける。もしかしたら、生きるために働くという長い人類の歴史をすべて凌駕するかもしれないからだ。ブルジョア的段階を一歩進めた段階ともいえる。もし、これに対応させるものがあるなら、エンゲルスの描いた人類の先史としての国家の登場する以前の原始、未開の初期段階を見比べるほかない。ただし、その場合、生産力と消費力の函数は、まるっきり逆立ちしている。ということは、吉本のいう「超資本主義」は、人類にとって最後性を意味するのだ。
吉本隆明の『アフリカ的段階について』は、「アフリカ的」段階を人類史の母型として掘り下げ、それが同時に歴史の未来につながるものとして、その要請に応えた唯一のものである。わたしの考えからすると、国家の終焉の問題は、アフリカ的国家の誕生の秘密にかかわるということになる。まず、吉本は、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、デュルケム、モルガンなど19世紀から20世紀にかけておこなわれた歴史認識の方法が、絶対的な近代主義として、西欧の同時代をいちばん発達した場所を基準におき、それからみていちばん迷妄で発達していないとみなされる場所を世界史の枠外においていることを指摘する。アフリカを宗教心も倫理もない動物状態の野蛮な暗黒空間としてみなし、意図的に世界史の段階に含めなかった。しかし、彼らの方法が意義をもつのは、この歴史段階をアジア的段階と区別するときであるとした。そして、アジア的段階とアフリカ的段階の区別は、次のようにつきつめられる。
[ 王権の専制という概念がアフリカ的な段階では両義的で、王の絶対的専制は、裏面からは住民(全臣下)の総体的な専制に転化されることだ。アジア的専制は住民の貢納とひき換えに灌漑水利や軍事的な保護が王権の役割になってついてくる。アフリカ的な王権の絶対専制にある両義性が分離されて、制度、生産物の占有と、霊威(権威)の専制とに分れて次第に固定していった。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
つまり、同じ支配の観点からみて、アフリカ的段階は総体的専制であり、土地、財産、奴隷(臣下)、生産物などの全所有がひとりの専制的な王に帰属するというのである。これは、国土の全所有を物語っている。そのアフリカ的段階では、所有と権威の統一であったものが、アジア的段階においては別れ、吉本によると、王権としては絶対専制と相対専制の違いとして表れる。アフリカ的段階の王は、臣下の土地、収穫物、財産の所有権、女性、人命の生殺権すべてをもっており、それが不都合な事態が生じたときには臣下によって罷免されたり殺されたりして、王権交代が徹底して行われる。経済的基礎としてみれば、原始的な贈与制に服しているといえる。民衆は宗教的な要因から王を絶対的な生き神にし、じぶんを服従させる。これはもっとも原始的な宗教意識から発生する政治支配の様式である。
人間の「内在史」としてみれば、自然意識としても同じことがいえた。もしかしたら、外からみたら、野蛮、未開、無倫理とみえるアフリカ的段階の方が、自然物や人間を染み透るように理解し、深く豊かな感情や情念をもたらす世界かもしれなかった。これは人類の原型であったかもしれないとみなし、樹木や生き物と言葉をかわし、自然にまみれ情念を交換しているアフリカやアメリカ、アイヌ等の土着の原住民の精神的評価にもつながっていく。
この世界では鳥や獣や河川のなかに精霊がひそんでおり(擬人化)、自分もいつでもこれらの自然物に溶け込んでいける精神のありようである。自然と人間が同じレベルで融合していることを示しており、石や木と自分たちを生き物として区別して考えることがない状態なのだ。ここでは、自然の樹木、動物、雷のような自然現象にたいする認識は、自分を天然の自然や、植物、動物と区別したり、分離したりせずに、同じ水準の目の高さに同化している状態を意味している。そして、まだ、宗教になっていない宗教性がここにはある。
このレベルが、次第に、山が神体となり、河川も神を祀り、樹木も神社になり、自然現象も雷、風の神になって、村里の周辺や要所に分離され、次第に神社信仰になっていく、このときから、自然物の宗教化、自然との区分を意識に上らせるようになったことを意味し、アジア的な段階がはじまる。それは経済社会的にいえば、次のようになる。
[ 経済的にいえば王権による河川や山の斜面の灌漑水としての管理と整備、平野の田、畑の耕作など野の人工化がはじまったとき、アジア的な段階に入ることになった。なぜなら耕作地を王権から貸し与えられるという名目を獲得した農民層は、貢納いいかえれば農作物、漁獲物、織布などの形で、また軍事や土木の賦役によって租税を収めることになった。ここで貢納制を支配の核心においたアジア的な専制の形が成立することになったからである。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
また、政治制度から見れば、アフリカ的段階においては、王は自然の精霊の代理者として住民によって作られ、宗教的権力としか見えない住民を生殺する権力をもつとされる。その一方で、疫病がはやったり、自然現象に異変が生じ、度重なる異常な災害をもたらしたり、凶作と飢餓に見舞われたりすれば、絶対王政の王は自然の精霊の代理者として住民によって降位させられたり殺害されたりする。
つまり、贈与制から貢納制にかわったときにはじめて、アジア的段階が誕生したとみなすのだ。これは、言葉の厳密な意味で、所有や占有という観念が表れたことを意味している。そして、吉本は、アジア的以降の段階とアフリカ的段階を明確に区別しうるかを問うており、それを歴史認識の差を測る目印にする。文明的な段階(外在史)と精神的な段階(内在史)が一致していた世界と、そうではない世界の区別とみなすのである。つまり、歴史が「概念」として成立する世界とそうではない世界の区別である。したがって、概念の歴史の解体としてでなければ、アフリカ的段階は歴史として成り立たないと言っているのだ。吉本はアフリカ的段階の抽出によって、概念の概念の解体から、概念の解体にまで歩を進めた。
ここでいう内在史、外在史は、マルクスの人間と自然の自己疎外関係のことである。マルクスの人間と自然の対象化(自己疎外)関係論とは、もともと類的存在としての人間の本質が、自然に働きかけ加工する一方、逆に自己を自然として生成させてゆく形態の相互規定性をもっている。いうなれば、一方で自然の人間化があり、もう一方で、そのことが直接、人間の自然化でもあるという関係が、自然的人間と人間的自然を包む人間の歴史化の総体なのだ。つまり、人間の自然化が「内在史」であり、自然の人間化が「外在史」をさしている。そして、吉本は、この視点を確立することではじめて、未来を歴史の概念に包括することができるとした。
[ 現在の世界史についてのわたしたちの哲学がどうあるべきかはおのずからあきらかなことだ。内在(精神)史としてアフリカ的段階をおなじ眼の高さから内在化する過程が、同時に外在(文明)史的な未来を認知することと同義である方法を、史観として確立することだ。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
これは、アジア的段階を中途半端に挿入したマルクスにおいても、近代主義的な歴史観を解体することができなかったことを意味している。それは、経済社会構成を核にした唯物史観ではとうてい到達できないのだ。吉本はヘーゲルやマルクスの歴史は外在史(文明)史と同じになっているという。ただ、外在史だけが歴史というような歴史観になっている。というよりも、外在史がそのまま内在史でありえた歴史という意味である。いわば、内在史と外在史のズレを意識していなかった幸運な歴史なのである。だが、ほんとうの歴史は[ 全人類の一人ずつが何をかんがえ、その瞬間にどう行動したかの総和 ]のことであって、外在史をどう追いかけていったかの総和ではない。その理由は、歴史は外在史と内在史のずれによって総合されうるからであると述べている。
これは、吉本が、人類史の未来の像がアフリカ的段階にすべてあると見ていることになるのだろうか。わたしにはそうはおもえない。ここで、吉本の言っていることをわたしの言葉になおせば、歴史的段階としては、アジア的段階から近代までは、書かれた歴史と実際の文明の歴史が合致していた、つまり、ズレを意識しなくてすんだが、近代以降、現代においては、そういう歴史は作れなくなった。それはある意味で、先行する意識形態としてアジア的段階以前のアフリカ的段階と照応している。だからこそ、アフリカ的段階を歴史化することは近代以降の未来を探り当てることでもあるといっているのだとおもう。本来なら、個人ひとりひとりの意思の総和が歴史であるにもかかわらず、歴史はそうなっていなかった。ただ、現代のみがそのことを可能にみせるような容貌を表わし、人間の知識として植えつけた。そのことの上にたって歴史をみてみると、現代とアフリカ的段階が抽出できたということになる。
したがって、吉本の考えを成立させるためには、アジア的段階以降近代までの時間を一括りにし、それから除外された現代とアフリカ的段階がそういう意味で通底している考えがなければならないとおもえる。しかも、そのためには、吉本がいう内在史と外在史を区別するのは、現代が、内在史と外在史のいちばんズレた状態であることを前提にしなければならないようにおもえる。
いわば、つまり、アフリカ的段階は内在史としては高く、外在史としては低い段階であり、現代は、内在史としては低く、外在史としては高いというように、どちらが高くても低くても逆転してもいいが、ともかく、ともに内在史と外在史がバランスを欠いた状態である。歴史と歴史概念のズレこそが、現代とアフリカ的段階をつなぐ共通項なのだ。
その上、わたしたちは、いわば、小さな網膜におおきな外在史をみているようなありさまで、もはや、現代において通常の視覚において外在史をみることが不可能になっているのだ。ヘーゲルやマルクスの時代なら、内在史と外在史は均衡がとれており、距離と目線の移動によって、歴史を映すことができた。つまり、歴史と歴史概念が一致した。ところが、現代は厖大にふくれあがった欲望の産物である外在史をみることができなくなり、個人は、歴史に参画できなくなったことに怯えている。吉本は、現代のこういうズレた状態の典型を探してアフリカ的段階に辿りついたものとおもわれる。
そして、そういう立論が可能になるためには、もうひとつの条件がいる。アフリカ的段階が発生史として、人類史の最初の段階に該当するとすれば、その対極にある現代が、最後の歴史的段階という認識も含まなければならないとおもう。そういう認識を前提にしてはじめて、吉本の歴史観が、人類史の最初と最後を鏡に映して、逆立しているとみなせるのである。いうなれば、「時間と時間」、あるいは「起源の起源」の疎外である。そのため、まるで、円環をとじるようにアフリカ的段階の内在史の高さを現代の外在史の高さにみあっているものとして、接合できるのである。おそらく、吉本の歴史観は時間の流れを鏡に映して反対の方向に進んでいるから最初が最後であり、最後が最初であるのだ。だからこそ、歴史の発展段階を全体として「俯瞰」できていることを意味している。この俯瞰とは、最後性としての未来からみた歴史であるからである。逆の面からいえば、歴史が鏡に映っている状態である。鏡とは最後性のことである。
吉本の歴史観からいえば、マルクスとちがって、生産様式や所有の問題を問うているものではないということが分かる。では、わたしの考えからは、内在史としてのアフリカ的段階をみるということは、現代が、内在史と外在史を二つの軸にしてそれらを一望することができる段階であること、そして、歴史としての最後性を、つまりいいかえれば、初源性を前提におくことを求めた国家観をつくりあげればいいことになる。
吉本は、かねてから追求してきた天皇制についても次のように語っている。
[ 日本国ではチベットのダライ・ラマのように男性の宗教主(大祝)であるばあいもネパールのクマリとおなじ女性の宗教主(卑弥呼や聞得大君)のばあいもあった。たとえば神話の神武にたいする長兄五瀬命の役割や、大三島や諏訪の大祝のようなものは男性の宗教主(生き神様)であり、初期天皇制はこの男性の宗教主(生き神様)がいる王制(天皇は弟)でありながら、女性の宗教主(生き神様)的な伝習をもった近畿の地域に王家を定めたようにうけとることができる。 ]『アフリカ的段階について』吉本隆明著
ともかく、いずれの宗教主(生き神様)の場合も、アフリカ的段階の王権のあり方を示しているという。吉本の歴史の始原としてのアフリカ的段階と終わりとしての現在を対応させる内在史と外在史の逆倒は、内在史としての「概念」の解体を意味していた。その場合において、吉本は、人間力と構想力が必要なことを力説している。その背景とは次のようなものだ。
[ 民族国家というのは僕は最後の国家だと思っています。最後の国家だけど、これはいまの状態ではなかなかなくならない。歴史が流れれば、この形態の国家もまた別のかたちの国家に移行していくはずなんですが、歴史が流れていかないんですよ。どうしてかというと、ハイテク産業と言ってもいいけれども、第三次産業と言われているものが歴史性をどんどん壊す作用をしているからですね。…中略…だけどわからないからでは済ませられないから、見当を付けて考えておくことは重要じゃないかと思います。あとは個々の場面でやっていく以外にやりようがないというか、「三人でもモデルは十分検討できる」というようにやって、その考え方の人数規模を広げていけばいいと具体的に考えていくよりしようがないと思います。人員の半数を占めたら、もちろん社会はそのまま変わってしまいます。 ]『よせやぃ。』吉本隆明著
「人間力」とか「構想力」というのは、人間が理想の可能性を描きうる能力のことであり、政治的な問題が時々刻々おこってくるに際して対応できる構想力を自意識としてもつことを意味している。そして、この根拠になっているのが、歴史の公共性というのは、個々人の意思の総和であるという考え方である。吉本によれば、そういう考えは、高度資本主義社会が実現した。つまり、消費社会の個々人の能力が非常に高まったことに裏づけられている。
社会とか世界に対面するとき、わたしたちには、ある誤解があったような気がする。たとえば、政治的なものに期待するとか、何かの社会運動を支えにするとか、いわば飼いならされた発想があった。だから、人間ひとりひとりの小さな努力などなにほどの意味もないとおもってきた。しかし、そのような考え方は、もう通用しないのではないか。その理由は二つある。ひとつは、人類史という言葉をもってきて現在の状況を推し量ると、どんづまりにきているという認識が必要だということである。そして、二つ目は、そんなわたしたちは、人類が営々と積み重ねた知恵や概念を解体させなければならないというより、解体してしまっているということである。
このふたつの前提をつなぐ架け橋は短い、およそ次のようなものだ。
現在の人間が置かれている状況を最後性とみなすこと。つまり、人類は、いま、「欲望の最後性」に立ち会っていることになる。
この最後性をほんとうに最後にするために、「死」の問題を考える。うまく死なせるという観点をもつ。
そのために、「死」にたいしては反対に「発生」があるはずだから、人類の「発生」、「起源」を考える。
起源にみいだした特徴が、「死」の寸前である現在とまったく対称であることを確認する。
人間の起源でもっていたが、現在失われている人間の特性を探し出す。
そのもっていたものの特性を、人間一人ひとりのものにして、制度や社会に移し替えていく。
ここまできて、大切なことは、社会というものは個人の意思の総和でなりたっていることを自覚することである。ひとりひとりの意思が社会や制度を作っているし、作り変えるものなのだ。人類の歴史上、いままでひとりひとりが歴史を決定する時代はなかったが、いま、歴史の死の間際にそのことができる、そういう歴史観が必要な気がする。
「ここがロドスだ、さあ跳んでみろ」(了) 
 
吉本 隆明
大正13年(1924- )は、日本の思想家、詩人、評論家、東京工業大学世界文明センター特任教授。日本の言論界を長年リードし、「戦後最大の思想家」と呼ばれている。漫画家のハルノ宵子は長女。 作家のよしもとばななは次女。
1924年-1949年
東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工で、貸しボートのような小さな船から、一番大きいのは台湾航路で運送の航海をするような船を作っていた。兄2人姉1人妹1人弟1人の6人兄弟。1937年(12歳)東京府立化学工業学校(現 東京都立科学技術高等学校)入学。1942年(17歳)米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学。1943年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめる。なお吉本は、第二次世界大戦=「総力戦」のもと、最大の動員対象とされ、もっとも死傷者が多く、幼少期は皇国教育が激化し、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかったいわゆる「戦中派」の世代である。
向島の勤労奉仕の後、1945年東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人をあげている。 1947年9月に東京工業大学電気化学科卒業。
1949年、25歳のとき『ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注』を、「詩文化」に執筆。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。
1950年代
大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われ、1949年、東京工業大学大学院特別研究生の試験に合格し、給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。 1951年、特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手の、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職した。
1952年8月、詩集『固有時との対話』を自家版として発行。翌1953年9月、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行。『転位-』の第六篇「ちいさな群への挨拶」の一節「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」はよく知られる。この詩集は吉本自身が左翼的な詩と解説するが左翼からは評価が得られず、「荒地」から評価が得られ、吉本は54年から55年頃、荒地に接近するようになった。
1954年2月、「荒地新人賞」を受賞し、また、同人として、鮎川信夫、らが主宰する「荒地詩集」に参加する。同年6月、『現代評論』創刊号と12月発行の第2号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表。「関係の絶対性」という後に有名になる言葉を ここで初めて使う。
1956年、初代全学連委員長の武井昭夫と共同で著した『文学者の戦争責任』で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、そしてそのことにより、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた。また吉本は、同年には東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職した。
1958年には、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表。共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、@「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が、矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」) Aマルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると、痛烈に批判した。すなわち、宮本らの戦時中の「非転向」を価値として認めなかった。この主張は戦時中に反戦を貫き、十数年獄中非転向であったごく少数の共産党員に、戦時中の自らの行動と良心の呵責により、何も言うことができなかった知識人の風潮の中で、当時斬新であった。 1959年、「マチウ書試論」等を載せた『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行した。
1960年代-1970年代
1956年から1960年にかけて、花田清輝とのあいだで激しい論争が展開された。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような、花田の撤退とともに終結した。磯田光一は『吉本隆明論』(1971.審美社刊)で「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは「責任」「転向」「政治」「思想」というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じている。
1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。
60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている。
発行部数500部、60年安保時のブント書記長であった島成郎がスポンサーを見つけ始まった『試行』は、最初谷川雁、村上一郎、吉本隆明三同人により編集、11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ、36年間継続された。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた。
吉本が主張した「自立の思想」 ―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される― は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。その代表的なものに、1963年『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)がある。そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山真男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山真男からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。
吉本自身は1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。
1962年には安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表した。1965年『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行。同年には大江健三郎と江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」であった。 吉本の論文が、大手出版社から普及版として刊行されるほど、吉本は潜在的かつ大衆的な影響力を持つ存在とみなされるようになっていた。吉本の文章は、1968年フランス5月革命などと同時代的動きであるカルチャーや政治(全共闘など)を担った若者たちに幅広く読まれた。
1968年『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行。同年10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。また同年12月、『共同幻想論』を河出書房新社より刊行した。 1971年『心的現象論序説』を北洋社から刊行。
吉本のいわゆる「理論的」書物、『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)『心的幻想論序説』(1971)『マス・イメージ論』(1984)といった主著への批判は刊行直後から、そして現在ではさまざまな側面から出揃い、核心的著作は「奪冠」されている、と論ずる評者さえいるが、吉本への「知の巨人」という評価・呼称は、現在でも続き、広く共有されている。
1980年代
1980年代に入ると当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I〜III』を発表。サブカルチャーを評価し、忌野清志郎・坂本龍一・ビートたけしらを評価した。また、『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』など、代表著作が角川文庫から刊行された。「80年代消費社会」のシンボルとなったコピーライター糸井重里とは、対談等も行って親しくなり、現在まで交流が続いている。(糸井は、2008年7月19日に2千人の聴衆を集めた吉本の講演会の協力者となっている)。また、ザ・スターリンというパンクバンドのボーカルであった遠藤ミチロウは、吉本隆明に強い影響を受けており、彼を非常に尊敬している。
このように1980年代当時の消費社会・サブカルチャーの興隆に棹差した流れの中で1984年、女性誌『an・an』誌上に川久保玲のコム・デ・ギャルソンを着て登場。埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰される。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった。この事実を踏まえなければ何もはじまらないというのが『現在』の課題の根底にある」「こういう『現在』の課題を踏まえることは、資本制自体を肯定することとも、資本主義には何も肯定的問題はないということとも全く違う」と応答している。なお同時期、吉本は埴谷雄高の「スターリン主義的左翼文化理念」と異なるだけで、自らを「左翼」であるとしている。
また、 1981年に中野孝次らが始め、500人の文学者の署名を集め、二千万人の署名運動に発展した反核署名運動を批判。1986年のチェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動も批判、「反核」が「反原発」に、そして「エコロジー」に収斂するのは、「ぞおっとするほど蒙昧だ」とした。
このころから著書も、「思想家」としては異例なほど、多数のものを執筆・刊行するようになる。元々、大学等に属さず「在野の人」であった吉本は、「売文家」としての意識が強い人であったが、だとしても異常な量である。
1990年代
冷戦構造崩壊後の1994年には、かつての自らの『転向論』を意識した「わが転向」を文藝春秋に発表。小沢一郎の『日本改造計画』を「穏健で妥当なことを言っている」と相対的に高く評価した。そして「社会主義は善で資本主義は悪という言い方は成り立たない」「左翼から右翼になったわけではなく」「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もない」「全く違った条件を持った左翼性が必要」として自らを「新・新左翼」とし、「なにか個別の問題が起ったとき、ケースバイケースで、そのつど、態度を鮮明にすればいい」「そのつどのイエス・ノーが時代を動かす」、と述べた。
また同時期には、現在の社会を、第三次産業が発展し、空気や天然水といった、値段が付かない、と考えられていたものすら、商品として売られる消費社会が成熟した「超資本主義」の段階にはいり、「マルクス経済学が述べている資本主義は、消費過剰になったときに、もう終わってしまって、マルクス経済学が通じない段階になってしまった」とした。そして、日本の一般民衆は中流意識が91%をしめているが、過去の流れから推測して99%になるのは遠くない。そうなると国家社会に特別の要求はなくなり、したがって関心も理想も切実にはいらなくなる。そのとき今の資本主義は終わる。いま先進国の本当の課題は、近代以降命脈を保ってきた民族国家をいつどうやって死なせたらいいのか、ということだ」と述べた。
1995年に起った阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件にかんしては、「日本の切れ目を象徴」し、とくにオウムの無差別テロは「一世紀のうちに、何回も起らない20世紀ではソ連の崩壊に次ぐほどの大事件、ここで戦後民主主義がいかに無力だったかということが誰の目にもあきらかになり、戦後の左翼運動のあらゆるラジカリズムー過激な反体制運動が全部超えられた」としている。
1992年オウム真理教の麻原彰晃をヨーガを中心とした原始仏教修行の内実の記述者として評価していたことから、1995年オウム真理教事件発生後は中沢新一らとともにオウムの擁護者であると批判された。
1996年8月、静岡県田方郡土肥町の屋形海水浴場で遊泳中に溺れ意識不明の重体になり緊急入院したが、集中治療室での手当が功を奏し一命を取り留めた。1990年代後半以降は、どちらかと言うと硬質な文章ではなくエッセイ的なものが多くなる。
1997年には、大塚英志との対談で、『新世紀エヴァンゲリオン』及びそこに見られるいわゆる「セカイ系」について感想を述べる。
1998年、自らの「試行社」から私家版として、入院中に構想を固めた、『アフリカ的段階について 史観の拡張』(試行社, 1998年)を出版。以来吉本は、「今の世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定にいれないといけない」としている。
1999年、50万部売れ、ベストセラーとなった小林よしのりの漫画『戦争論』と1996年発足した「新しい歴史教科書を作る会」に関連して『私の戦争論』という書籍を刊行し、自らの戦争体験を交え、「公」「私」「国家」「特攻隊」、また「ナショナリズムのサブカルチャー化」「ナショナリズムの質的変化」についての自らの考えを述べた。
2000年以降
2001年9月11日アメリカ同時多発テロに関して、2002年『超・戦争論』という書物を刊行し、アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、特に「自由」という観点からいえば「両者とも自由にたいして迷妄である」とし、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べた。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」ともしている。また「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない。それは断言できる」と述べている。
2003年『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞した。
2008年には「試行」上で1997年の終刊まで執筆した『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から出版された。
また同年には、『蟹工船』が60万部のベストセラーになったことに関連して、情報技術の興隆、格差社会、ワーキングプアについて論じ、「物事や人間を党派に分けて判断するという感じ方が、全般的に崩れ」たことを評価し、しかし同時に「いいものはいいし、悪いものは悪いという原則もなくなった」「この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、と言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。もし、もっといい方向を探し出そうとするなら、変化の兆候をよく見極めることが重要」と述べた。
また同年に、かっての1980年代の埴谷雄高との消費社会に関する論争をふりかえり、現在を、「消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術により、(1980年代の)情況判断はさらにわたしの思考力を超えて劇的に展開した」「ことに科学的には少しの思いつきを追ったに過ぎないと思えることが莫大な富の権力にむすびつきうるという事態の怖さを見せつけた」「地域の空間と時間の無境界化に対応したり対抗したりする思考や思想も私たちはもっていない」「情報科学と交通理念は、グローバルな独占支配の手段以外にこれを変更することができない第二の天然自然と化しつつある」と述べた。そして、日本の現状を、「ここ3、4年前から日本国は第二の戦後期(敗戦期)に転化しつつある」「しかも日本国の(第二の)戦後は完全に戦後を絶たれたと断言してもいい」「戦後も戦中も戦前も、『未来』と一緒に切断された」と述べている。
思想と評価
吉本は文学からサブカルチャー、政治、社会、宗教(親鸞や新約聖書)など広範な領域を対象に評論・思想活動を行い、多数の著作がある。
1960年代、1970年代、日本で圧倒的な影響力を持っていたことから、戦後思想の巨人とも言われている。実際、海外の著名知識人が来日した際にも吉本は呼ばれることが多く、ミシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、イヴァン・イリイチ、ボードリヤールなどとの対談が出版されている。
アカデミックな経歴を持たない吉本は、自身の著述活動・知的探求を独学で身に着けた知識で支えた。自らを市井の人と位置付け、組織に属さず、「大衆の原像」にこだわると同時にそれを阻害するあらゆる権威を批判した「気風(きっぷ)の良さ」が、吉本が広範に支持を受けた大きな要因と考えられる。また、1945年から1991年の米ソ冷戦期にあって、民族国民国家強化の主張をするいわゆる「ホンネ・ヨゴレシゴト」の保守派と、「平和と民主主義」を語るいわゆる「タテマエ・キレイゴト」の「戦後民主主義」の進歩派がメディアの大枠の議論を二分する状況の中にあって、どちらにも属さず、どちらをも批判する姿勢は幅広い共感を呼んだ。またマルクス主義、スターリン主義の教条主義は否定するが、マルクスその人の影響は公言するその姿勢は、さまざまに影響を与えた。
ちなみに、原書を読めない吉本は、欧米の学識はすべて翻訳書に頼っている。そうした翻訳による誤解や思い込みをアカデミズムの学識者からしばしば指摘されたが、「「誤読」しか与えないとしたら、まず外国文学者の翻訳の拙さ等を自省すべき」「現在の欧米のめぼしい文学者や哲学者の本が、全部日本語に翻訳されてわれわれの前におかれたら、(外国文学者の存在価値は)ほとんど「無」に帰してしまう。」「しんどい難しい手仕事」を怠る中での「キザな語学自慢」の方が問題だ」、と反論している。
なお1978年フーコーが来日したときには、吉本は蓮實重彦の通訳のもと、対談を行っている。フーコーはそのとき二人で往復書簡を行うことを提案し、吉本は「道元とヘーゲル」に関する論考をフーコーに送ったが、議論は以後生産的に展開されえず、人文知における多言語コミュニケーションの難しさを示すにとどまった。
ちなみに『共同幻想論』は中田平によって1980年代後半フランス語に訳されている。
もっとも、吉本の思想に対して、同世代からも疑問をはさむ声も少なくなかった。小熊英二『<民主>と<愛国>』によれば、、竹内好は、吉本の論じ方は「非常に文学的とか、あるいは詩的発想」だと述べ、鶴見俊輔は、すべてを「全否定」して純粋さを追求する姿勢に「非常に宗教性を感じる」と指摘し、吉本の「擬制」批判は「『すべてのニセモノを倒せ』というスローガンに読み替えられて」「学生の純粋好みを結びついた」と評している。
また、その独特の用語を使用した晦渋な文章は、1960年代後半に学生だった吉田和明によると、「私たちのような並の学生には、とうてい読んでも理解しうるようなナンパな本でもなかった。そして事実解らなかった」と回想されている。やはり当時の大学生だった社会学者の桜井哲夫も、『共同幻想論』について、「わからないのに無理に飛ばし読みをして、理解できるわずかな部分からのみ、この本を理解しているにすぎなかった」と述べている。それにもかかわらず、吉田によれば、当時の大学では、吉本の著作を「胸にだいじそうにかかえて歩く女子学生、男子学生の姿が流行していた」。吉田はその理由として、学生たちは内容が理解できなくとも、そこにこめられたメタ・メッセージを、「詩でもよむかのように」「心の奥底で感じてしまっていた」からだと述べている。 
歴史的な内容を基盤にした著書は、さまざまな時代の事象や言説を、当時の歴史的事情を考慮せず、超時代的にまとめあげたものが多いとも評されている。人類学者である山口昌男は、『共同幻想論』発表当時、同書中の重要概念「対幻想」について、「それは近代の核家族にのみ通用するものではないか」と批判したが、吉本は「チンピラ人類学者」として罵倒を返したのみであった。
また、批判に対して吉本の側では、過剰なまでに反応して罵倒に至ることもしばしばだった。有名なところでは、戦後最大の文学論争とさえ形容される花田清輝との論争、また、盟友だった作家で評論家の埴谷雄高などとの1980年代の論争では激烈な言葉の応酬が続いた。花田清輝との論争では、感情的な罵倒を取り除けば、純粋に議論内容的には、花田が優位であり、論破したとはいえないとの絓秀実による指摘すらある。
1970年代に谷沢永一との間にかわされた論争では、谷沢の理路整然とした反論に、感情的な言葉を返すのみであり、「吉本の数少ない敗北」とされた。
また、社会的・共同的に何かをしようとする「知的な」ものたちを、論争において、「ファシスト」「スターリニスト」として一括して切り捨てることも多かった。これは、1960-80年代のみならずソ連の解体・冷戦構造崩壊後の1990年代も続いた。小熊英二は、吉本は、1961年には、弱者への罪責感をかきたてることで党への献身をひきだす「『前衛』的なコミュニケーションを拒否して生活実態の方向に自立する」ことを主張し、1960年代中期から、家族と恋愛関係の中にこそ、国家をこえる「私」的な共同性(「対幻想」)を見出し、「生産の高度化がうながした大衆社会の力」「大衆の政治的アパシーの力」を賞賛していくことになった、と論じている。また宮台真司は、「吉本の意図とは全く無関係に生じたこと」だが「大衆から遊離した素朴な党派的政治運動を批判する「自立思想」は、全共闘世代が党派的運動や政治運動一般から離脱し、等身大の生活世界に退却していくことを正当化する口実を与え」たと述べている。
また、吉本は、下町で生まれ育ち、そして暮らす「家事をする夫」であり、その面からの「生活者」としての彼を評価する見解もある。
思想家には珍しい理系出身者で、その視点から1980年代は特に、エコロジストや反文明論、疑似科学には批判的であった。ちなみに、現在は情報技術に対し、「科学的にはそれほど難しいもの」ではないのに、富や商売と結合して「科学は単なる機能になりはて、役に立つものだけが有効だ、と考えられる風潮」に「冗談じゃねぇよ」としている。
なお、吉本は1998年の『アフリカ的段階について』の出版以来、現在に至るまで一貫して、「アフリカは文明の未発達な、そこから脱すべき一段階ではなく、むしろ現在のアフリカの中に人間のモラルや宗教や生活の原型がそろっているのではないか」という考えを持っており、「今の(2008年)世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定にいれないといけない」としている。
また2002年の『超戦争論』においては、先のことは分からないとしながらも、「21世紀の半ばくらいには、(・・・)「資本主義はこの先どうするんだ?」という(・・・)課題が、より本格的な形ででてくる」「世界の資本主義の全体的な行き詰まり、全体的な地盤沈下ということが予測される」「世界の資本主義が全体的に地盤沈下するという、その一番の兆候は何かっていえば、それこそ、G7に集う各先進資本主義国が同時多発的に不況に陥ったときである」「近代主義経済学とは違った等価交換のあり方を21世紀には模索しなければいけない」と述べている。
「大衆の原像」について
吉本をカリスマ的に信奉した全共闘世代・団塊の世代である呉智英は、1980年代後半の著作『バカにつける薬』で吉本を批判している。呉は、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判し、また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったせいだ、としている。そして、最終的に吉本が依拠するのが、親鸞の「悪人正機」であるというのは、思想というより、吉本のみにゆるされるアクロバットにすぎない、と論じた。
また、岩井克人や柄谷行人らは、1980年代後半、吉本が「自立思想」の根拠とする「上っつらの言語の世界からはまったく無傷な形で、しかしながら確固とした生活実感をもっている」「大衆の原像」は、1970年代初めまでの高度成長期にほぼ消えたのではなかろうか、と評した。
吉本は、1986年の段階で、確かに「非言語的・非映像的な存在としては」大衆はいなくなった。しかし「大衆の原像」という言葉はフーコーの、「権力関係の限界、権力関係の裏側、権力関係のはねかえりとしてあり、権力の進出から逃れようと反応するようなもの」という「平民(ブレーブ)のようなものー個人やプロレタリアートやブルジョワジーのなかにすらあるもの」の定義と類似したものとして使っている、したがって、「いまもって「大衆の原像」を根拠とすることは、相対的真理としての理念で、ずっと確固としてある」「権力に対峙する根拠」をそこにとろうとすれば、「大衆の原像」にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものは存在しない」と応答した。
戦中派としての「戦争体験」について
2002年出版の小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、戦後知識人の思想を、その戦争体験の内容から分析し、吉本についてはその影響の大きさから、一章を割いて詳細に論じている。小熊によると吉本は、戦中に理系の大学に進学して徴兵を逃れて生き延びた「罪悪感」と、戦中は「絶対的に『善なるもの』として戦争を鼓舞してきた文化人(吉本が戦中に信奉していた高村光太郎など)たち」が敗戦後に柔軟に意見を変えたことを若年で体験したことによる「権威に対する不信感」から、思想を構築しているとし、彼の世代である「戦中派」(三島由紀夫、橋川文三ら)の特徴を総合したものであると述べている。それゆえ、「論争となると意味なく、過剰に他者を攻撃している」と、同書内でももっとも評価されない思想家として評している。また、この本についてのインタビューにおいて、フーコーと吉本は同世代だと指摘し、「青年期に国家に裏切られた世代に共通の問題意識がある」とも言っている。
また、柄谷行人からは、花田・吉本論争に関連し、「戦争で死んだ具体的死者を、議論のために、直接的に代理して代弁するな。」と1990年初頭批判されている。
吉本は、『民主と愛国』が出版されて以降、これら疑問に対し、応答し、理系大学への進学は、小学校卒業から工科学校に行っていた吉本にとって自然なコースであり、意図的かつ戦争前線へ行くことの忌避のためのいわゆる「兵役逃れ」の事実はなく、したがって、そこに由来する「罪悪感」はありえない、と述べている。いずれにせよ「皇国少年」「コンプレックスなしの軍国主義者」であり、「戦争やれやれ」と思っていた自分はどのみち戦場に出て行き、そこで死ぬだろうと思っていた、としている。もっとも、自分の高校時代の同級の多数を含む 同世代が軍隊に動員され、多数戦死した中、敗戦後に結果として生き残ったため、「敗戦しても死なずに生きていること」について、生き恥さらした心境だった、とも述べている。
また「僕と同世代でいちばんひどかったのは、兵隊言って前線で戦死してしまった人たちで、そういう人は日本人だけでも、かれこれ100万人単位でいます。(・・・)そうすると、僕らの年代では、どうしても「それを基準に歴史を考えないのは嘘だ」となります。」と述べている。
さらに、「太平洋戦争中に「政府はなってなぇ」とかいったら、たちまち官憲に引っ張られ、軽く見積もっても、2〜3日は留置所に放り込まれました。それは日常茶飯事のことでした。でも今はそういう時代じゃありません。だから、「主張するなら、自分の考えていることを、もっとハッキリと主張しろ、ちゃんと主張しろ」といいたい。」「何いったって、ほかから文句をいわれる筋合いはない」「僕らは、そういうことは戦後の重要な課題であるとして、徹底的に考え抜いてき」た、とも述べている。
また、2002年には、「僕なんかの戦中派は、閉じた思考がいかにダメかってことを太平洋戦争で身をもって知りました」「太平洋戦争中、僕は天皇制軍国主義にいかれていてそのときはあの戦争を肯定していました。そのときは、自分も、「戦争をやれっ、やれっ」っていっていたんです。でも、それは、自分がまさに閉じた考え方をしていたからだってことに、戦後、僕は気づきました。(・・・)その経験がありますから、僕は、自分の考え方をなるべく閉じないで、「開く」というふうにしたい。21世紀の大きな課題は、国民国家、民族国家が、内に対しても、外に対しても、いかに「開いていく」かそして、いかにして戦争をおこさないようにしていくか」だ、と述べている。
オウム真理教評価について
オウム真理教のサリン事件の際、事件後、産経新聞上でのインタビューで、「宗教家としての麻原彰晃は評価する」「麻原のやったことをすべて否定するなら、日本の仏教のなかで存在を許されるのは浄土宗、つまり法然、親鸞系統の教えしかないことになる」と述べ、多くの批判をあびた。吉本は、「サリン事件は、大衆の原像をおりこむ自らの思想からは根本的に否定」する。しかし、本来超越的な性格を持っている宗教の問題、理念の問題、思想の問題としては、自分の関心がある「悪人正機」の親鸞のなかには「わざと悪いことをしたほうが、浄土にいけることになるんじゃないか」という造悪論を否定できない要素があり、オウム事件は「造悪論」の中に入る。親鸞、あるいは仏教の教義の中には危険な要素がもともとあり、「麻原は現存する仏教系の修行者の中で、世界有数の人ではないか?」とした。そのインタビューを行った宗教学者の、弓山達也は、その後、同じ産経新聞上で、「(吉本は)、価値相対主義のニヒリズムを克服して、新たな文化創造を目指したとされる麻原を評価する一方で、社会に対して牙(きば)をむいた犯罪性を厳しく弾劾せざるをえないという二重性をはらんでいた。この二重性に引き裂かれているのが今の吉本氏の状況であり、また既成の社会の抜本的な変革を目指そうとするときに必然的におきる大きな矛盾でもあるのだ。紙面には載せられなかったが、吉本氏は麻原を認める一方で、こんな程度ではまだまだこの社会は突き崩せやしないと語った。そして吉本氏自身、麻原に思想的に打ち克(か)ち、別のやり方で新たな価値を築いていく自負をも示していた。それがインタビュー最後の「負けられないぜ」の一言に込められていたのである。」と説明を加えている。
もっともオウム真理教は小さい天皇と同じで「生き神様主義だ」とも述べている。
ちなみに、1984年の段階では、中沢新一の『チベットのモーツァルト』に関連して、吉本は、「意識をドラッグによらずに死や瀕死の状態に持ってゆくまでの体術修練や、その過程の各段階で起る擬幻覚現象や意識の離脱体験自体には、精神健康法以外の何の意味もない」「日本浄土教は、仏教浄土門の思想的な集大成として、とっくに親鸞によってそんなの(「チベット密教観相浄土のいかがわしい体術」)完全に否定」されてしまった。「ただ、中沢の手柄は、チベット密教の体術修練の過程で起る意識状態と意識幻覚の過程をかなり厳密に記述したというところにある。」「極楽論」は感心して読んで得るところがおおかった。俺もいつか力を蓄えられたらおなじことを、やってみたい」と述べている。
「現代思想」評価について
社会学者の橋爪大三郎は、『共同幻想論』における構造主義人類学の読み方、特に近親相姦禁止のところに違和感を持ち、25歳の大学院修士課程のころ、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を一年がかりで翻訳し、吉本に送っている。吉本は『書物の解体学』(1975)でこれを取り上げている。
構造主義、ポスト構造主義、フランクフルト学派の、ドゥルーズ、デリダ、ポール・ド・マン、ハバーマス、ベンヤミン等に関しては、1990年代前半、「スターリン主義の門番、切符売り」「無表情でつまらない哲学研究者」と評している。デリダやドゥルーズに関しては特に「死んだ社会を荘厳にしているだけの思想」としている。そのなかでフーコー『言葉ともの』だけは「読まないほうがモグリ」と評価している。
もっともフーコー、ドゥルーズらに関しても、大塚英志との対談において、「取り上げる問題とか主題に関して、精密すぎる」「そこまで表現すれば、より精密になるかっていったら、そうとはいえないので、0.1以下は四捨五入したほうが正確な値なんだっていうことは有り得る」と疑問を述べている。大塚英志は、吉本との対談のあとがきで「自分や自分と同年代の批評家たちの言説が過度に細部に拘泥し、そしてその細部の上にディベート的というか論理のための論理を組み立ててしまう。その語ることをめぐる隘路」について長いこと考えていて、吉本と対談することは、「だいたいでいい」という水位を思考の領域、言葉の領域にいかに回復するかの糸口を見つけることだったと、述べている。
対談したフェリックス・ガタリには「日本のほんとの思想と体験をわかったふりしてなめて」いる、「てんからの馬鹿」としている。対談したイヴァン・イリイチにたいしては「文明と近代科学を呪詛する気違いじみた魂を持っている。実際会ってみるととうてい話が通じる思想家ではないことがわかるが、その気違いじみた呪詛だけはよくわかる」としている。ボードリヤールに関しては、1998年に「今世界でいちばん重要な問題はイスラム原理主義の問題だということを平気でいいます。日本人の僕などには、冗談じゃないぜ、そんなことは世界のいまの問題と何の関係もないぞと思います」と述べている。
関わった論争など
1981年中野孝次らが発起人となってはじめ、500人以上の文学者の賛同署名を集め、2千万人の署名運動に進展し、翌年には三十五万人が集会に参加した文学者の反核声明を、結局アメリカを「戦争挑発の資本主義国」ソ連を「平和勢力」とすることにしかならない、と反「反核声明」の意思表示した。それに対して批判が巻き起こったが、別に「核戦争」に賛成しているわけではない、反反核声明に反対しているだけである。それを行っただけで自分がすぐに原爆賛成派、戦争肯定派にしたてあげられていく状況は、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざすものがまかり通る、「社会ファシズム」であり「戦前の日本文学報国会」の裏返しだと応答した。
1986年チェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動を、「原発促進派ではありえないが、反原発には反対」とし、「文明史の到達点」としての「原発を否定する左翼、進歩反動たち」は、「文明史にたいする反動的理念」であり、原子力発電所の安全性・地域経済利害・科学技術・文明史の具体的問題を「反核・反原発・エコロジーなどと一緒くたにして、原始的自然に退行して一点に凝縮させると、とんでもない蒙昧が生み出される。」「みんな絶対的に正しいことをのどから手が出るほど欲しがっている」「現在が不安」で、「自分たちが築いた文明を背負うのに疲れている」とした。また1988年忌野清志郎が反原発ソングを歌い、メジャーレコードから発売中止になった件に関しては、「サブカルチャーの領域では、清志朗を反原発などというハレンチをロックにして歌ったりしない、しなやかで鋭い最後のアーティストと思っていた」が「買い被りかな?」、とした。
1980年代の「メディア批評」の時代は、「オールナイトフジ」をいち早く評価するなどして、小林信彦から絶賛された(なお、大塚英志からは「そんな吉本隆明を見るのは痛々しいが、しかし、ある種カワイイ」と揶揄された)。だが、この「見巧者ぶり」は娘たちの影響が大きかったと思われる。
『ロッキング・オン』の渋谷陽一は「僕にとって吉本隆明の影響は巨大であり、吉本隆明が居なければ自分で雑誌を創刊しなかっただろうし、いまのように出版社を経営することもなかっただろう」と2007年に述べている。
中上健次に関しては古典的なスタイルの『枯木灘』(1977)を「日本人の感性のまたその奥にある感性の表現になって」いるともっとも評価し、『地の果て至上のとき』(1983)などは評価しない。とくに死ぬ直前の『異族』(1993)は、アニメの作品によく似ていて、「これはひどい」と述べている。ちなみに中上は角川文庫版『共同幻想論』(1982)に18ページにも及ぶ「解説」を執筆している。 
また、吉本は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と称した。柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している。ただし2005年になって、「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として、柄谷行人を唯一、例として名前を出し、「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている。
なお親鸞の「還相」を、吉本は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている。
中沢新一は、自身の「芸術人類学」というコンセプトは、吉本が1998年出した「アフリカ的段階」という概念と非常に深い関係があるとしている。中沢は吉本の『最後の親鸞』文庫版(2002)の解説「21紀にむけた思想の砲丸」を書き、また、2008年には吉本と、「『最後の親鸞』からはじまりの宗教へ」という対談を行っている。
1997年、女子高生のブルセラ・援助交際に関わり宮台真司が「朝まで生テレビ」に出演したとき、「正真正銘の馬鹿が出てきた」と述べた。とはいえ、この「馬鹿」は「軽蔑」とか「ほんとにバカ」だと言っているのではなく「隠喩で」あり、「むしろ利口」「吹っ切れている」「ちょっと新しい感性」という意味であり、「援助交際を倫理的に批判する気持ちって全然ない」「どちらかといえば肯定的」「自分の体験上(戦争)の絶対感情の中に全部こういうのは包括してしまいたいというのが、僕の考えの中にある」と述べている。
宮台真司は、1970年代半ばの高校時代、吉本の1950〜60年代の著作に深く感銘を受け、「私の同世代で私ほど吉本にハマッた人間はいない」「ただの大衆じゃねえか、大衆から遊離しやがって、という二重の倫理的批判は実存的意味を持つ」「原理的であることによって内在せよという吉本的な定言命令は今でも私を拘束して」いると述べている。「吉本の思想は、思想史上の意味論的な意義というよりもむしろ後続してでてきた物書きや思想的営みをしようとする人間の倫理的な立ち位置に、とても大きな影響を与えていて、その意味で時代的な意味を持つ」「その意味で吉本隆明をとても尊敬している」とも述べている。
1997年には、『新世紀エヴァンゲリオン』について、大塚英志とともに論じ、いわゆるセカイ系の、日常生活と戦争がきれいに切り離されている感覚に、自身の戦争体験から違和感を述べ、同時に、もしかしてその「切り離されている」ことを描きたかったのかな」と述べている。
また、小林よしのりとは歴史認識や戦争観をめぐって対立し、猛烈に批判されている。小林は、「人は個人を超えねばならぬ時がある」「今の日本人で『個人主義だ』『個の精神だ』と唱えているやつは、アメリカの戦争によって『公』を背負えないフヌケ」と化した者にすぎないと『戦争論』と述べている。一方吉本は、「小林よしのりは国家というものを東洋的に誤解している」、国民国家というのは歴史的な人為的概念、人工的概念であって、「国家は全体を包含する価値の源泉」ではない。したがって「私は公のためなら犠牲になってもいい」とはならない。「個人」や「市民社会のほうが国家や公よりも概念としては大き」く「原則でいえば、三人以上集まって発生した集団や社会の中で生ずる利害問題をどう調整するかということから、「公」の問題が出てくる」「それが「公」の原型」と、小林の考えを否定している。同時に、吉本は「五十万部以上も読まれたということは、どこかにいいところがある」と評価もしているが、「戦後民主主義のアホらしさにたいする裏返しの意味しか」なく「これからのちの時代を読み解くための新しい視点や理念は全然ない」としている。また吉本は、その上で、小林の特攻隊賛美に関連して、日本は、チベットのダライ・ラマや、ネパールなどアジア極東地区の辺境国家に見られる、「生き神様信仰」の国であり、天皇制とは「生き神様信仰」である。すなわち偶然的・相対的な「歴史的・地域的な産物」にすぎず、したがって「なんら絶対視する必要がない」、と述べている。
1996年発足した「新しい歴史教科書を作る会」(西尾幹二・藤岡信勝・西部邁)の運動に関しても、「教科書を作り直せば健全な子供が育つというのは大間違い」としている。  
 
孫子の世界

 

孫子の曰う『善後策』
一般に謂う「善後策」とは似て非なるものである
一般に、いわゆる「善後策」の意味は、次のように説明されている。
1、事件などのあとをうまくおさめるための方策。あと始末の手段。
2、後始末をうまくつけるための方法。善後策を講じる。
3、起こった物事の後々がよいように立てた方策、手段
4、事後の改善を期する後始末の方策・手段。
即ち、一般に謂うところの「善後策」とは、つまるところ「事が起きてからの後始末、もしくは事後処理を巧みに行うこと」の意に解されている。なるほど、そのゆえなのか、確かに日本社会、とりわけ政・官・学・財界においては、まさに「事が起きてから対策を講ずる」という傾向が顕著に見受けられる。今回の福島第一原発事故の顛末などはまさにその典型例である。が、しかし、もしそれが日本の常識であるならば、明らかにそれは誤りであり、言わば、日本人の民族的欠陥の一つと断ぜざるを得ない。
ところで、このことに関して孫子は、『夫れ、兵を鈍らし鋭を挫き、力を尽くし貨をつくせば、則ち諸侯、その弊に乗じて起こり、智者有りと雖も、その後を善くする能わず。』と論じている。
一般にこの意は、「もし軍も疲弊し鋭気も挫かれて、やがて力も尽き財貨も尽きたということになれば、周辺の諸侯たちはその困窮につけこんで襲いかかり、たとえ味方に智謀の人がいても、とてもそれを防いで巧く後始末をすることはできない」と解されている。
このことから、いわゆる「善後策」とは、上記の原文たる『不能善其後矣(其の後を善くする能わず)』の「善」と「後」から生まれた熟語とも解されるが、ともあれ、今日、いわゆる善後策は、(孫子の本意はさておき)事が起きてからの後始末、もしくは事後処理を巧みに行うことの意に解されているのである。
逆に言えば、孫子の言は(逆説に満ちているゆえに)その反面を読むことが肝要なのであって、ただ主観的、一面的、表面的に文意を解釈するだけでは、『善後策』に関する孫子の本意には迫れない、と言うことである。 
一、兵法とは、「行き詰まらないこと」を以てその一大事とする
言わずもがなのことであるが、孫子兵法の目的は「いかに勝つか」にある。即ち『死生の地、存亡の道』を論ずる兵法の観点から言えば、そもそも「事が起きてから、さてどうするか」では余りにお粗末過ぎて話にも絵にもならない。これは普通の頭で普通に考えれば誰でも分かることであり、ことさら言う方が恥ずかしいくらいである。
『夫れ、兵を鈍らし鋭を挫き、力を尽くし貨をつくせば、則ち諸侯、その弊に乗じて起こり、智者有りと雖も、その後を善くする能わず。』を普通の頭で普通に読めば、孫子の真に言いたいことは上記文意の逆説である「そうなる前に、そうならないように手を打て、それが智者(リーダー)たる者の資質であり、責務である」の意に解されるはずである。
孫子の場合は、たまたまその結論が「ゆえに『拙速』たるべし」となるだけの話であって、『善後策』の普遍性という観点から言えば、もとより『拙速』に拘泥する必要は全く無いのである。斯(か)く解することにより、孫子は二千五百年の時と空間を超えて我々の善き参謀役として傍らに控えるのである。
いくら時代が変化し、社会や制度の仕組みが革(あらた)まり、科学技術が進歩発展しても、その中核的存在たる人間の心身や本質は殆ど変わらないということである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。
ともあれ、兵法とは、「転ばぬ先の杖」であり、「行き詰まらないこと」をもってその一大事とするものである。ゆえに『そうなる前に、そうならないように手を打つ』ことは理の当然のことであり、言わずもがなのことである。然(しか)るに、(今回の福島第一原発事故のごとく)事が起きてから右往左往するような体たらくでは、そもそもリーダーたるの資質に欠け、その責務の何たるかが全く分かっていない輩(やから)、と言わざるを得ない。
にもかからわず、一般に、いわゆる「善後策」は、「事が起きてから、さてどうするか」の意に解されている。まさに現代日本人は、孫子の片言隻句を恣意的に引用し正当化していると言わざるを得ず、「生兵法は大怪我の基」の謗(そし)りを免れない。
なぜそのような能天気な発想になるのか、実に理解に苦しむところである。もとよりそこには、日本人の民族的欠陥の一たる「責任回避の事なかれ主義」「長い物には巻かれろ式の受動的な精神的姿勢」などの影響もあるのであろう。が、何と言っても、その主たる原因は、孫子の片言隻句が断章取義的に理解されて勝手に一人歩きし、『本当は分かっていないのであるが、分かった積りになっている』ことにあると言わざるを得ない。
もとより、「一を聞いて十を知る」のは人間的知性のあるべき姿である。が、「一を聞いて十を知る」のではなく、「一を聞いて十を知った積りになる」のは、まさに「己を知らざる者」の典型であり、いわゆる「バカ」と評さざるを得ない。言い換えれば、まさにこれこそ、現代日本人が真に改めるべき悪しき思考習慣である。今日の様々な風評被害や、マスコミに顕著な大勢追随の付和雷同的な報道姿勢などまさにそのことをを雄弁に物語っている。
そもそも、孫子の原文は、文字数にして六千余文字である。四百字詰めの原稿用紙にすると、僅か十五、六枚程度であり、その意味では大変に短い。誰が見ても、断章取義的に読まねばならぬほどの分量ではない。益してや、各篇は、おのおの独立した一篇として存在しつつも十三篇全体においては相互の理論的関係によって、まさに『常山の蛇』のごとく首尾一貫した兵法的思想を有するものにおいてをや、である。
つまり孫子は、これを総合的・体系的に理解することが肝要なのであり、断章取義的なアプローチは返って孫子の理解を著しく妨げている、と言わざるを得ない。
蛇足ながら、彼の明治の文豪・二葉亭四迷の遺言状に「遺族善後策」なる言葉があるが、もとよりこれは、一般に謂われている意味での善後策、即ち「事が起きてからの後始末、もしくは事後処理」の意にはならない。
これを記した彼の立場からすれば、自身の死後、遺族間でトラブルが起きないように配慮してのことであり、まさに「そうなる前に、そうならないように手を打った」ということになるからである。因みに、彼がこの「遺族善後策」を記したのは明治42年3月22日である。彼は同年4月にロシアに向け出航したが、5月10日、ベンガル湾上で客死している。
孫子の曰う『善後策』とは、まさに上記のごとく「そうなる前に、そうならないように手を打つ」ことであり、いわゆる事後処理、即ち「事が起きてから、さてどうするか」を論ずものでは無いのである。
言い換えれば、世間一般で謂う「善後策」なるものは、例えば、二葉亭四迷が自身の死後、慌てて甦(よみがえ)り、自らの手で後顧の憂いたる「遺族善後策」を記すがごときものである。バカバカしくて話にもならない。まさに「風呂の中で屁をひった」ようなもので、「糞の役にも立たない代物」と言わざるを得ない。論より証拠、今日の福島第一原発事故はまさにその馬鹿さ加減を雄弁に物語っている。 
二、軍事の専門家を自任していた旧日本軍部は、実は、戦争が分かっていなかった
かつて日本陸軍が孫子の兵法を学ばなかった理由として、故武岡淳彦先生は次のように述べておられる(日本陸軍史百題より)

昭和四年陸大専攻学生として一年間入校した武藤章少佐(日中戦争開戦時の参謀本部作戦課長・東京裁判で刑死)は、「クラウゼヴィッツ及び孫子の比較研究」を行ったが、結局良く分からないとのことであった。また、戦前ドイツ大使館付武官を、さらに戦争中ドイツ大使を務め、東京裁判で終身刑を宣告された大島浩氏は、ドイツ参謀本部戦史部の一将校とクラウゼヴィッツを論じた時、話が孫子に及び、その将校から両者の比較を問われ、次のように述べたという。『戦争の哲理を説くことは同じだが、クラウゼヴィッツは近世の著であり、西洋の本である。ゆえに、科学的に記述されているが、孫子は数千年前に支那で書かれ、内容は深遠だが記述は亡羊としている。これを例えれば、釣鐘のようで、弱く叩けば弱い音しか出ず、強く叩けば強い音を出す。即ち、読者の能力により貴重な教訓も得られが、また大した教訓を得られぬ兵書であるところに特色がある』。

要するに、『孫子は古典としては尊重する。しかし、近代戦の戦法・戦術という意味においては、最早、時代遅れであり、機械化された兵器の時代には殆ど研究の余地が無い』と言っているのである。
逆に言えば、学校秀才たる軍事官僚(言わば軍服を着たキャリア)達は、その近代戦の戦術的方法をいかに活用して本来の政治目的を達成するかという、大局的かつ高度な戦略的方法においては、全く戦争を理解していなかったと言うことである。つまりは、『兵は不祥の器』という戦争の本質を深く突き詰めて考えようともせず、ただ「近代戦の戦法・戦術」という危険なオモチャを振り回して、戦争のための戦争をしていたと言うことである。その彼らの眼から見れば、確かに孫子はそのように映るであろう。
が、しかし、そもそも孫子は、そのような次元の兵書ではないのである。世に世間知らずを表す『夜郎自大(夜郎自らを大なりとす)』の故事があるが、まさに彼ら軍事官僚はそれを地で行く者たちと言わざるを得ず、言わばお釈迦様にお仕置きをされる以前の孫悟空のごときレベルであったのである(尤も、敗戦という形で結局はお仕置きをされたのであるが)。
その意味では、彼ら軍事官僚の発想とはおよそ対極の思想的立場にある昭和天皇は、広く柔軟な視野からその辺の事情を的確に指摘されている(昭和天皇独白録より)。
『敗戦の原因は四つあると思う。第一、兵法の研究が不十分であった事、即ち孫子の「敵を知り、己を知らねば、百戦殆うからず」という根本原理を体得していなかったこと』と。
もとより例外はあろうが、所詮、学校秀才的なレベルに止まっている限り、「井の中の蛙」のごとく広い大海の世界など知る由もないと言うことである。況んや、リーダーの書たる孫子の理解においてをや、である。逆に言えば、当時の日本には、学校秀才、もしくは専門バカ的な専門家集団(軍事官僚)を常識をもって適切に領導できるリーダーが不在であった、ということである。 
三、日本人は今こそ「孫子」を学び、真のリーダーとは何かを考えるべ時である
残念ながら、今日においても「リーダーに人を得ていない」という状況は変わっていない。天災の暴いた「人災」、もしくは犯罪的不作為(その安全性が早くから疑問視されていたにも拘らず、期待された一定の作為が行われなかった意)として日本国民はもとより世界中に有形無形の甚大な被害と影響をタレ流し続けている福島第一原発事故の顛末を見れば一目瞭然である。
まさに孫子の曰う『いやしくもリーダーたる者、そうなる前にそうならないように手を打て、然(しか)らずんば、智者有りと雖(いえど)も、その後を善くする能わず』を地で行くものと言わざるを得ない。
確かに彼らは学校秀才ではあろう。が、裏を返せば、(一般的には)そつの無いいわゆる優等生タイプであるゆえに、何ごとであれ、点数になることは積極的にやるが、点数にならないことには一切関心が無い、という向きが多い(前記の軍事官僚のごとく、戦争の本質は何か、などに思いを致すタイプではないのである)。ただ目先のことに汲々とする、まさにエゴの塊りであり「我利我利」なのである。このタイプを一般に「ガリ勉」と揶揄するが、まさに言い得て妙である。
もとより、その傾向は社会人となってからも遺憾なく発揮される。即ち、仕事はそつ無くこなし、人格温厚、調整力があり、しかも八方美人的に良い顔をして巧みにリーダーへの階段を上って行くタイプなのである。
が、しかし、一朝、事ある時、即ち非常時の修羅場においては、彼らのリーダーたるのメッキは自ずから剥げ落ちざるを得ない。何となれば、彼らの一番やりたくないことは、リスクがあって、しかも点数にならないことだからである。言い換えれば、批判やリスクを恐れず、責任をもって決めるべきことをキチンと決めることを、彼ら優等生に求めることがそもそも無理なのである。
彼らの得意とするペーパーテストは、初めから答えがあり、その答えを暗記すれば満点がとれる性質のものである。しかし、現実世界においては、学校で教える答えがそのまま通用するような問題は皆無であるゆえに、結局は、自分の頭を使い自分で答えを導き出す脳力が要求されるのである。
ましてや、ペーパーテストは、頭の中で考えるだけで足りるが、現実世界においては、実行という問題、即ち頭の中で考えたことを実際に外界に発現させ目的を遂げることが要求されるのである。彼らが「いざ、鎌倉」という重大局面において、なぜか批判を恐れ、決断を避け、責任転嫁を演ずる所以(ゆえん)である。
要するに、平時はともあれ、非常時の修羅場を乗り切る自信が無いのである。論より証拠、彼の東京電力の清水正孝社長など福島第一原発事故のショックで寝込んでしまっている。東大閥が主流の東京電力首脳陣の中にあって清水社長は異色の慶大卒だそうだが、いわゆるエリートであることは間違いない。そのゆえにこそ、今回の清水社長の醜態は、エリートたるトップの悲しいほどひ弱な実体を満天下に晒した結果となった。国民の多くは「何だ、これは」と呆れ果て、東電に対する不信感が顕わになったのである。
世に、ノーブレス・オブリージュ(エリートの責務)なる言がある。いわゆるエリートは、単にエリートのゆえに尊敬されるのではない。一朝、事ある時、恵まれたその資質や地位を活用し、自ら最前線に立ち、体を張って敵と戦い、守るべき人々を守るからこそ尊敬されるのである、と。
我々は、長い間、リーダーとは何かについての真剣な問い掛けを怠ってきた。そして、学歴信仰社会たるこの国には、いつの間にか、学校秀才という名の似非(えせ)リーダーが我が物が顔で跳梁跋扈するようになった。まさにそれこそが今日の日本の停滞を招いている元凶と言わざるを得ない。
まさに国難と称すべき、この東日本大震災を契機として、我々は、学歴信仰社会の忌まわしい呪縛を打ち破る必要がある。そのためにも、まず、日本人の長所と短所を例えば、次のような角度から再確認することが重要となる。

公平かつ客観的立場から見ても、我が日本民族の優秀性には定評があり、ひとしく世界の認めるところである。しかしそれは(軍隊に譬えて言えば)将校や将軍としての優秀さではなく、どちらかと言えば、命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす下士官・兵的資質において優れているという評価である。言い換えれば、戦略的思考ができない、あるいは戦略的思考を不得手とするのが日本民族の特徴であり、裏を返せば、まさにそれこそが世界に冠たる優秀民族の弱点・アキレス腱に他ならず、偏狭な日本社会の陥り易い民族的欠陥とでも評すべきものである。
かつて、日本軍と直接戦った経験のあるアメリカ軍やイギリス軍、あるいはロシア軍の将軍たちの殆んど一致した意見として、「日本陸軍の下士官・兵は優秀だが、将校は凡庸で、特に上に行くほど愚鈍だ」と言われている。とりわけ彼のマッカーサーは、「日本の高級将校の昇進は(戦争指揮の上手さ・巧みさの基準ではなく)単に年次による順送り人事によるものである。従って、日本の下士官・兵は強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐れるに足りない」と断じている。
つまり、日本の高級将校たちは、戦場における指揮能力以前の問題として、戦争をするためには絶対に必要な条件、すなわち孫子の曰う「彼を知り己を知る」という能力、言い換えれば、戦略の構想力が決定的に欠けているということである。
このゆえに、世界最強の軍隊は「統率力があり戦略に優れたアメリカ軍の将軍」と「状況判断が的確で戦術に巧みなドイツ軍の将校」、そして「命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす日本軍の下士官と兵」の組み合せであると謂われるのである。

上記のごとき日本人の特質は今日においても何ら変わっていない。とりわけ今回の東日本大震災の救援活動における中央の混乱振り、福島第一原発事故の顛末などを見れば、一目瞭然である。
とりわけ、我々の印象に残るのは、見る影も無い荒涼とした被災地のど真ん中に立って、自己犠牲も厭わず、日夜、孤軍奮闘しているのは、決してノーブレス・オブリージュ(エリートの責務)たるの中央政官財のエリート層たちではなく、自衛隊、消防、警察、自治体、東電の下請け企業の社員などの、言わば無名の現場の人々である。まさに日本は、自己犠牲を厭わない、忍耐強く、規律ある現場の人々の力に拠って支えられていることは明白である。
本来、このような日本人の長所を優秀なリーダーが適切に領導すれば、日本はまさに「鬼に金棒」状態となることは明らかである。が、しかし、このような非常事態にはいつの間にかリーダーの姿が見えなくなるのが実情である。実に憂うべきことである。我々は、今こそ、そもそも「リーダーとは何なのか」を突き詰めて考える必要があり、とりわけ学歴信仰社会の結果たる誤ったリーダー像を厳しく見直すことが必要である。
要するに、優等生タイプの学校秀才は、(一般的には)そもそもリーダーには向かないのである。リーダーには、勇気、胆力、判断力、統率力、決断力などの資質が不可欠だからである。言い換えれば、彼らの頭脳は緻密ゆえに、本来、その役割はあくまでもラインの長のスタッフ(補佐役・研究者・参謀役・学者など)として機能すべきなのである。
今日の日本の最大の不幸は、そもそもスタッフたる官僚が、実際的にはラインの長として振る舞っているところにある。かつての軍事官僚と全く同じである。日本人は本当に懲りない民族と言わざるを得ない。吾人が(リーダー論たる)孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。 
四、科学には限界があり専門家も万能ではない、これを領導するのがリーダーである
福島第一原発の安全性は早くから疑問視されていた
元東電社員の原子力技術者は、「1960年代の技術のもと、試行錯誤で造られた福島第一原発は、ポンプ設備や非常用電源などの防水性を含めて注意深い設計がなされておらず、安全上おかしな点が多々あった」と証言している。
このたびの人災事故の第一は、外部電源が長時間復旧しなかったことある。もとより、福島第一原発では「外部電源全喪失」を想定した手順が事前に定められ、訓練もされていたと謂う。然(しか)るに、なぜ今回の事態を惹起したのかと言えば、ただ単純に「数時間あれば、外部電源が復旧するだろう」という前提が覆(くつがえ)り、長時間外部電源が復旧しなかったことにある。
要するに、近くに原発があっても「国や東電さんがやっていることだから何も問題はない」「原発事故の確率より、個々人が交通事故に会う確率の方が高い」などのマインドコントロール的な安全神話は予想外のところで根底から崩れたのである。
ここで言う確率とは、あくまでも専門家集団が前提とした一定の状況の中での確率に過ぎない。ひとたび、そのような分析的手法が通じない予想外の出来事が起これば、事態がどう展開するのかは彼ら自身も分からないのである。
かつて旧日本軍は、戦争遂行に当たり、南方資源たる石油などの物資調達に大いなる期待を寄せていた。立案の任に当たった参謀部が「それは十分に可能である」との計画を示したところ、その実現に一抹の不安を抱いていた軍首脳部の一人が、「本当に大丈夫か」と念を押したところ、担当者は「参謀部きっての切れ者将校達が真剣に立案したものだから間違いない」と自信たっぷりに断言したという。
本来なら、ここで軍首脳部は健全なる「懐疑的精神」を発揮して、専門家(参謀部)を領導するのが責務であるにも拘らず、参謀部(専門家)という権威に気おされされて、「それならば」と納得したと言う。
戦後になって、判明したことであるが、実はこの計画は、「開戦当初の想定通り日本軍が連戦連勝していれば」という条件を前提とした代物であったのである。「開いた口が塞がらない」とはまさにこのことである。学校秀才のやることなど所詮はその程度のことと嘲笑したいのであるが、彼らの「頭だけのお遊び」に付き合わされた結果たる今次大戦の惨禍は余りにも甚大過ぎた言わざるを得ない。
まさに、このたびの福島第一原発事故における原子力技術者たる専門家集団の安全対策に酷似している。専門家の権威に弱く、これに盲従・盲信し勝ちな日本人の民族的欠陥を垣間見る思いである。
もとより科学には限界があり専門家も万能ではない、とりわけ、地震や津波、気候変動、地球環境問題、人の心や人の絡む問題などは科学にとって不得手な分野である。この側面を無視して専門家集団に安全対策を委ねることは極めて危険である。まさに今回の福島第一原発事故はそのことを雄弁に物語っている。
言い換えれば、とりわけ科学が不得意とする分野における安全対策においては、専門家の言を盲信しないリーダーたるの健全な「懐疑的精神」が必須なのである。つまりは、「そうなる前に、そうならないように手を打つ」というリーダーたるの根本的な見識が不可欠なのである。孫子の曰う『善後策』とはまさにその意なのである。
原子力発電に係わるリーダーのリスク回避の見識は小学生にも劣るのか
いみじくも、今回の福島第一原発事故を暗示する実話がある。頃は十年ほど前、東京電力運営の「電力館」におけるワンシーンである。小学生が十人ほど見学に来ていた。ガイド役の女性の「質問ありますか」の声に、その中の一人が元気良く手を挙げ、災害時における原発の多重の安全対策について質問した。
小学生「これが壊れたら?」ガイド役の女性「その場合はこれが働くので大丈夫です!」
「じゃあ、もしそれも壊れたらどうするんですか?」「その場合にはこちらが働くので大丈夫です!」
「もしそれも壊れたら?」「そんな事は絶対ありません!」
説明に窮したガイド役の女性はとうとう怒り出してしまったという。
確かに、「なぜ」ばかりを連発する小学生を相手にしていると話が進まないことは事実である。しかし、こと原発の安全対策に関するものである以上、この小学生の「なぜ」の連発は極めて正当な観点を示唆するものである。
つまり、こと原発の安全対策という意味においては、いわゆる分析科学的な手法が通用する側面と、必ずしもそれが通用しない側面の二つがあること示しているからである。この両面をキチンと弁えることにより、なぜ今回の人災が起きたのかを明瞭に理解することができるからである。
そのことはまた、例えば、原子力安全委員長たる斑目(まだらめ)春樹氏の『非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こうも考えましょう、ああも考えましょうと言っていると設計ができなくなっちゃうんです。要は「割り切り」です』との説明がいかに傲慢不遜であり、かつ無責任なものであるかが理解される。
まさに福島第一原発の記録映画が「この地は数百年にわたり、地震や津波で大きな被害を受けていません」などと能天気に胸を張っているのも宜(むべ)なるかな、である。
が、現実は、斑目(まだらめ)春樹氏の「割り切り」という思惑に反し、非常用電源の全てが長期に亘って失われたのである。その想定外のトラブルがさらに想定外のトラブルを生んで国民の平穏な社会生活を脅かす甚大な被害をタレ流し続けているのである。
今日、近代科学が成功してきたのは、いわゆる分析科学的手法(研究対象を個々の要素に分解してそれぞれ詳しく調べて全体を把握する方法)が力を発揮したためである。他方、自然界には構成要素が複雑すぎてその手法が通用しにくい分野もある。例えば、地震や津波の予知、気候変動、地球環境問題、人の心や人の絡む問題などである。
要するに、人間がいくら科学的な知識や技能をもっても、自然界には常に「分かっていること」と「分かっていないこと」が存在するということである。それらをキチンと弁(わきま)えて、「分からないこと」を傲慢不遜に「割り切る」のではなく、謙虚にそれを認め、(そうなる前にそうならないように)万全の策を講ずるのがリーダーたる者の責務なのである。
どこかで「割り切って」考えなければ原発は設計できない、と嘯(うそぶ)いた原子力安全委員長の斑目(まだらめ)春樹氏は、後に、その前言を翻(ひるがえ)し、「割り切り方が正しくなかった」などと弁解しているが、まさに国民を愚弄する所業と言わざるを得ない。早くから福島第一原発の安全対策は危惧されていたのであるから、まさに「そうなる前に、そうならないように手を打つ」ことはできたはずである。
もし彼が孫子を読み、『善後策』の何たるかを骨の髄から理解していれば、福島第一原発事故という無益な人災は防げた可能性が大である。その意味で彼は、(軍事の専門家を自任していたが、実は、戦争を知らなかったかつての旧軍部のごとく)原子力発電のリーダーを自任しているが、実は、原子力発電に関する根本的なところは全く理解していなかった、と言わざるを得ないのである。
孔子の言に「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れを知るなり」がある。自分の知っていることは知っているとし、知らないことはまだ知らないと心にハッキリとさせる。これが本当に「知る」ということだ、の意である。政官財を問わず、日本のエリートたる似非(えせ)リーダーが拳々服膺すべき言である。
なぜならば、彼ら優等生たる学校秀才は、得てして、このような高次元かつ高邁な思想を突き詰めて考えることを苦手とする者達だからである。気の毒ながら、仮に理解しても、(単に頭でっかちなだけで、事に臨んでの勇気や信念、責任感、胆力や決断力などが欠落しているため)実践することができないからである。
かつて日本には、真のリーダー教育システムとして世界に冠たる武士道教育が燦然と輝いていた。が、惜しいかな、この貴重な日本民族の精神的遺産は、四民平等社会の到来とともに(封建時代の遺物として)弊履のごとく放棄され見捨てられたのである。
しかし、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と短慮して付和雷同するのは日本人の悪い癖である。大勢追随の感情に走るのではなく、冷静に「何が正しく、何が間違っているのか」の観点に立てば、自ずから「助長補短」の深謀遠慮をもって新編成し、国家百年の大計として日本の礎(いしずえ)とすべきであったのである。
今日、益々、混迷を深める感の否めない日本の現状は、まさに「真のリーダーとは何か」の本質を日本人全体が見間違えたことに起因すると言わざるを得ない。
ともあれ、孫子の曰う『善後策』とは、「そうなる前に、そうならないように手を打つ」ことを論ずるものであり、一般に、謂われているところの「善後策」、即ち「事が起きてから、さてどうするか」とはまさに似て非なるものである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。 
 
孫子の曰う『拙速』

 

巷間いわれる「拙速」の根本的な違いについて
彼の武田信玄が常に陣頭に押し立てた、いわゆる孫子の旗「風林火山」を見るまでもなく、世に孫子の言とされている格言は意外と多い。孫子が戦いの普遍的な理論を体系的に論ずるものゆえに、古来、人生を生き抜くためのバイブル・智慧袋として時を超えて世の人々に重宝されてきた証左である。
が、しかし、それらの中には思わず「?」、と絶句するような意味合いに誤用されているものが少なからずある。例えば『拙速』などはその代表例である。巷間、「兵は拙速を尊ぶ、いまだ巧みの遅きを聞かざるなり」、「巧遅は拙速に如かず」などと実(まこと)しやかに言われいるのはまさにそれである。
つまり、巷間いわれている「拙速」とは、「手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つ」の意と解され、「作戦を練るのに時間をかけるよりも、少々まずい作戦でもすばやく行動して勝利を得ることが大切である」とか、「仕事の出来が良くて遅いよりも、出来は悪くとも速くできるほうが良い」などと解説されている。
かてて加えて、この意を裏返せば「速ければ良いというものではない」、あるいは「急(せ)いてはことを仕損ずる」「急がば回れ」の意味合いとなるので、とりわけマスコミ報道などにおいては、「それは拙速に過ぎる」とか、「拙速を避ける」などの表現が慣用句として頻繁に用いられいる。
もとより言葉は世に連れ、世は言葉に連れて変化するものであるから、それはそれで間違いとは言えない。が、こと孫子の論ずる『拙速』という観点から言えば、まさにそれは似て非なるものと言わざるを得ない。もしそれを孫子の言と盲信して重大な局面でそのまま行動してしまえばやがては後悔の臍(ほぞ)を噛む恐れ無し、とはしないのである。人世で実(げ)に恐ろしきは、得てしてこのような知ったかぶりと無知な思い込み、盲信なのである。
このような曲解や誤用のどこが可笑(おか)しいのか、なぜ道理に合わないのか、なぜ論理的に矛盾するのかについては既に下記の記事で論評しているので、興味と関心のある方は参照して頂きたい。
「兵は拙速を貴ぶ…続日本紀」
そのゆえに、ここでは、なぜそのような現象が生ずるのか、その原因はどこにあるのか、はたまた我々はいかに対処すべきかなどについて論じて見たい。 
一 人はなぜ『拙速』の言に関心を示すのか
先の記事は『役に立つ兵法の明言名句』・第九回「兵は拙速を貴ぶ…続日本紀」と題して、今から丁度10年前、平成12年8月にアップしたものである。実は、この記事は弊サイトではかなりの興味と関心を引くものらしく、毎日ダントツでクリック数の多い人気ページである。
孫子の論ずる『拙速』の真意が理解されていれば、巷間いわれている「拙速」の解釈、即ち「仕事の出来は悪くとも速くできるほうが良い」、「それは拙速に過ぎる・拙速を避ける」などは、言わば流行(はや)り言葉のようなものだから、実に取るに足らないものであり、「あっ、そう」で終わりである。
が、しかし、上記のごとく異常にこだわる人が多いということは、やはりその根底には、日々の戦いのバイブル・智慧袋とすべき孫子の言ゆえに、(自分の)その解釈に誤りがあって欲しくない、とする情理が無意識的に作用しているものと解される。
つまり、その解釈に自信が無いゆえにその真偽を確認したいのであり、それにより納得し安心を得たいのである。逆に言えば、孫子は他の古典のごとく断章取義的に理解するものではなく、キチンと体系的に学ぶべきものであると認識している人が極めて少ないと言うことである。
老婆心ながら、孫子の曰う『拙速』の真意を敢て解説する所以(ゆえん)である。 
二 何ごとであれ論理的かつ客観的に考えることが重要である
日本で「兵は拙速を貴ぶ」の言が見られるのは、789年、奥羽における蝦夷征討の遅滞を譴責(けんせき)された桓武天皇の詔においてである。そこには、「夫兵貴拙速、未聞巧遅(それ兵は拙速を貴ぶ、いまだ巧みの遅きを聞かざるなり)」(続日本紀)とある。因みに、孫子の言は『兵聞拙速、未睹巧久也(兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり)』である。
表面的に見れば、前者の「兵貴拙速、未聞巧遅」も、後者の『兵聞拙速、未睹巧久也』も同じことを言っているように見える。が、しかし、全体的・本質的に検討すると次の如く両者の意味合いは全く違うものであることが分かる。
T、前者はいわゆる征服戦争であるが、後者は群雄割拠・弱肉強食の戦国時代における自国保全のためのいわゆる防衛戦争というシチュエーションである。
U、前者は未だ勝利を得ていないというシチュエーション。後者は(群雄割拠・弱肉強食の時代において)開戦している一方面の敵に対しては既に一定の勝利を収めてはいるものの、未だその敵を屈服させているわけでないというシチュエーションである。
前者は、歴史的事実たる「蝦夷征討」の意味、及びその作戦の遅滞を譴責している状況から見れば自ずからそう言える。
後者は、『其の戦いを用なうや、勝つも久しければ、則ち兵を鈍らし鋭を挫き、城を攻むれば、則ち力屈き、久しく師を暴せば、則ち国用足らず。〜諸侯、其の弊に乗じて起こり、智者有りと雖も、其の後を善くする能わず。』、あるいは『夫れ、戦いて勝ち攻めて得るも、其の功を修めざる者は凶なり。』から見ればこれまたそう言える。
言い換えれば、前者は作戦が多少遅滞しようとも、大和朝廷という国家の支配体制が覆(くつがえ)るわけではないが、後者は、継戦か否かの判断を誤ればその結果は即、国民の死生、国家の存亡という重大局面に直結するのである。
ゆえに前者は単純に「何をもたもたしてるの、ぐずぐずしないで速くやっつけてよ」ということになる。が、しかし、後者は、一定の勝利を収めた後に(これが拙の意)、さらに戦争を継続し新たな戦果(言わば追加的利益)を得るべきか否かという二者択一の局面に際しては、目先の利益や感情に振り回されての軽挙妄動は厳に慎み、究極の目的はあくまでも自国保全にあると弁(わきま)えて、不十分な勝利ではあるが鉾を収め、(戦争を手段とする)政治目的を速やかに達成すべし(これが速の意)、ということになる。
その根底には「戦争というものは、あたかも燎原の火の如き性質を持つものゆえに勝利に酔い痴れて調子に乗り欲望の赴くままに振る舞っていると最後はみずからをも焼き尽くしてしまうものである。そのゆえに、ぐっと堪えて踏み止まり、適当なところで鉾を収めることが最も肝要である」の思想があることは言うまでも無い。
因みに、彼の日露戦争における対露和平交渉のタイミングはまさにその典型例と言える。既に国力も戦力も尽き果てていた日本が、賠償金・領土問題などで大いに不満ではあるが、適当なところで妥協しなければ、(ロシアは単に極東の地で敗北したに過ぎないから)日本が亡国的な状況に陥ることは明白である。ゆえに、ここは我が欲望を制して速やかに戦争を終結に導くのが妥当である、のごとしである。
これを戦術的側面から曰うものが、『餌兵には食らうこと勿かれ』、『佯(いつわ)り北(に)ぐるには従うこと勿かれ』であり、一定の勝利を収めたからといって奢り高ぶり勢いと欲望に任せての深追いは敗北の因と曰うのである。日露戦争と逆の場合が、かつての軍部による日中戦争の泥沼化であり、その言わば思考停止の延長線上に米英との開戦があり、やがて未曽有の敗戦に至ったことを我々は忘れてはならない。これこそまさに孫子の警句を無視した典型例と言わざるを得ない。
つまり、前者の拙速は「とにかく速くやっつけちゃえよ、古人も兵は拙速を貴ぶと言っているではないか」の意に、後者の『拙速』は、『(群雄割拠・弱肉強食の時代ゆえに)一定の勝利を収めたらぐっと堪えて戦争の終結を工作し、本来の政治目的を速やかに達成することが賢明である』の意となる。
つまり、孫子の曰う『拙速』とは、老子の曰う「足るを知る」、あるいは「止(とど)まるを知れば殆うからず」と同意と解される。まさに老子の思想を軍事に応用し、言い換えたものが『拙速』ということになる。彼の武田信玄は『合戦における勝負は、十のものならば六分か七分に止めて退くこと、それで十分な勝利である。勝ち過ぎぬように』と戒めている。八分の勝利はすでに危険、九分、十分の勝利は味方が大敗を喫する下地となる、と曰うのである。孫子の曰う『拙速』の何たるかを見事に論じている。
追加的利益の是非という観点からすれば、『拙速』とは、格言に曰う「二兎を追う者は一兎も得ず」であり、あるいは「蛇足」であり、はたまた寓話に言う「兎と亀の競争」とも言える。それらに共通する理論は、素直に目的を収めれば良いものを、いたずらに更なる欲をかいたばかりに、結局は、元も子も無くしてしまった、ということである。
古人の叡智たるそのような警句をまるで他人事のように考えて「実に馬鹿げた話だ、有りえねー」などと嘲笑する人は、決まって傲慢不遜にして能天気な人と言わざるを得ない。そもそも欲望の塊りたる人間は性(せい)弱きものであり、思わず知らず欲に目が眩み、欲に溺れて判断を誤らぬ保証など何処にも無いからである。
卑近な例で言えば、「株が値上がりした」「馬券が当たった」「パチンコで大当たりした」ような時に、速やかにそこで止めてその時点での利益を享受するか、はたまた一攫千金を夢見てさらなる資金投入を図るか、という判断の問題なのである。
そのような場合の賭け事はまさに戦争と同じく、その魔性には抗し難いものがある。すっかり魅入られて熱くなり、ふと我に返った時にはスッテンテンになっていたなどの例は枚挙に暇が無い。もとより賭け事には命は懸かっていない。が、孫子の論ずる『拙速』は、まさに『(国民の)死生の地、(国家の)存亡の道』であるがゆえに、とりわけ遠謀深慮の決断が要求されるのである。孫子の曰う『拙速』と、巷間いわれている意の「拙速」とは、似て非なるものと断ずる所以(ゆえん)である。 
三 過ちを改めむるに吝(やぶさ)かならず、善に従うこと流るるがごとし
普通の人が、普通の頭で、『拙速』に関わる前後の文脈を通観し、孫子十三篇の趣旨を理解するならば、巷間いわれている「拙速」は、孫子のそれとは似て非なるものであることが分かる。例えば、こんな意見も寄せられた。

「拙速」について孫子の本を読んだり、辞書で調べたりすると、たいてい「上手でも遅いよりは、下手でも速いほうがよい」「できはまずいが、できあがりの速いこと」などとあります。しかも「その原理は孫子の時代から変わっていない」というような解説がされていました。もっともらしいその説明に、てっきり私は「さすが孫子はすごい。やっぱりスピードが重要なんだな」と、率直に受け取ってしまったのです。が、その後、貴サイトの「兵は拙速を貴ぶ…続日本紀」の記事を読み、自分なりに考えたところ、なるほど確かにその通りだ、と納得いたしました。巷間いわれている「拙速」の言葉がそもそも間違っており、孫子が言いたいポイントもそこではないことが良く分りました。日本では攻撃的な意味で「スピードは何にも勝る」的な捉え方がされていますが、孫子が曰っているのは、欲望の塊りたる人間が、戦争においてともすれば陥り易い陥穽を自覚し自戒すべし、それは一歩間違えれば命取りになる性質のものだからである、という文脈で使われているんですね。

とは言え、このような頭脳明晰の方ばかりでないのが世の習いである。徒然(つれづれ)なるままに、ネットサーフィンをしていると、相変わらず通俗的な「拙速」の解釈に固執し、これこそが孫子の曰う「拙速」であると、頑迷固陋に珍説を開陳している能天気な方がおられた。しかも、人気ページたる弊サイトの記事を無断で引用しての意味不明な言説とあっては一言申し上げて然(しか)るべきであると思い、敢てその内容を下記に紹介する。

[質問] 拙速は、「兵は拙速を貴ぶ」を除き、基本的には「拙速を避ける」、「それは拙速に過ぎる」「拙速な改正」など否定的な意味に使われているようですが。
[回答] 拙速の出典は『孫子』ですが、拙速を巧遅より貴ぶのは、「兵には」という前置きがありました。戦争の最中に丁寧に事を運んで、負けてしまっては何にもなりませんね。定石や先例に反していても、結果として戦争に勝つことのほうが優先されます。「拙速は良くない」というのは常識ですが、私(孫子)は戦争ではその常識は通用しないと言いたい、ということです。あえて常識に反することを言っているのです。
※ここで彼は、以下のごとく弊サイトの記事を引用している。
>戦争によって達成し得た勝利がたとえ不十分であったとしても、本来の政治目的が達成できるに足るものであれば(これが拙の意)、それ以上の欲をかかず、速やかに戦争を終結させて政治目的たる果実を収穫すること(これが速の意)が賢明である。
※その上で彼は、次のごとく論じている。が、いかにも意味不明の感は否めない。
こじつけ解釈でしょう。「戦争によって達成し得た勝利がたとえ不十分あったとしても」(これが拙の意)〜「速やかに戦争を終結させ」る(これが速の意)…。無理です。ここでの「速」は、不十分な成果「拙」を得るまでの時間が短いという意味です。「拙」を得てから後にどうするとかいうことではありません。

上記の説明は、始めからボタンを掛け違えているとどこまで行っても支離滅裂な論理にならざるを得ない、という典型例である。既に見てきたように、孫子の論ずる『拙速』には、その前提として、(我が)既に一定の勝利を収めていることが想定されている。その上で、さらなる追加的利益の獲得を目指して戦線を拡大するか、不十分ではあるがその戦果が政治目的を達成するのに十分なものであればそこで鉾を収めるか、という問題なのである。
「二兎を追う者は一兎も得ず」の例で言えば、男は既に一兎を獲られる状況なのであり、「蛇足」の例で言えば、男は既に蛇の絵を描き終えている状況なのである。その後をどうするか、まさにその判断が問題なのである。
群雄割拠・弱肉強食の戦国時代においては、その判断のいかんは結果的に極めて重大な問題を招来する、というのがその趣旨である。
ことの事情は、例えば彼の「大坂冬の陣」においても同様である。徳川家康は天下統一のため大阪城を攻めたが城堅くして容易に落ちる情勢ではない。そこで我に有利な和議条約(とりわけ城の外濠を埋めることなど)を結んで和睦し鉾を収めた。然る後に、かねての計略をもってその内濠をも埋めて裸城同然と成さしめ、次の「大坂夏の陣」をもってその政治目的を達成したのである。まさに孫子の曰う『拙速』の応用である。因みに、彼の武田信玄を軍(いくさ)の師と仰ぐ家康もまた、孫子に深く傾倒していたことは夙(つと)に知られている。
そもそも、巷間いわれている「それ兵は拙速を貴ぶ、いまだ巧みの遅きを聞かざるなり」は孫子の言ではない。むしろそれは、孟子の曰う「拙といえども、速を以てする有らば勝つ」の意に相当するものと言わざるを得ない。
そこで、孫子の曰う『拙速』と、巷間いわれる意の拙速、即ち「手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つ」の根本的・本質的な違いはどこにあるのかを角度を変えて検討してみたい。 
四 孫子の曰う『拙速』は普遍的であり、巷間いわれる「拙速」は相対的である
T 真理とは普遍性があるゆえに真理なのである。
例えば、釈迦の曰う「無常」とは、万物は流転するの意であり、この世に変化しないものは一つも無い、あるとすれば「変化しないものはない」という自然法則だけである。あるいはまた、例えば「生・老・病・死」も同じく真理である。この世に老いない人間、死なない人間など存在しない、例外はないのである。通常の頭で普通に考えれば誰でも分かる論理である。
孫子の曰う『拙速』は、まさにそのような普遍的な真理をその根本に置くものである。即ち『戦争というものは、あたかも燎原の火の如き性質を持つものゆえに勝利に酔い痴れて調子に乗り欲望の赴くままに振る舞っていると最後はみずからをも焼き尽くしてしまうものである。そのゆえに、ぐっと堪えて踏み止まり、適当なところで鉾を収めることが最も肝要である」の思想である。先の太平洋戦争における大日本帝国の悲惨な末路を想起するまでもなくこの事は自ずから明らかである。
古来、(戦争であれ事業であれ、はたまた個人の生き様であれ)この真理を頭では分かっているものの肝心な局面においては、その判断を誤り致命的な失敗を犯した人間の例、逆に、その失敗を幾度も体験してついにはその弱点を克服し、その身を全うした人間の例は枚挙に暇(いとま)が無い。
そのゆえにこそ、古来、洋の東西を問わず、そのことを戒める箴言・格言・寓話の類が数多(あまた)存在するのである。例えば「足るを知る」「止まるを知れば殆うからず」、はたまた「二兎を追う者は一兎も得ず」「蛇足」「兎と亀の競争」などはまさにそれである。人類の普遍的現象たる戦争(戦い)という側面からそのことを論ずるものが孫子の『拙速』であることは明白である。つまり、二者択一の戦略レベルを論ずるものなのである。
U 「手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つ」は相対的な問題である
そもそも上記の意味は、『拙速』ではなく、『兵の情は速やかなるを主とし』に該当する。つまり「戦場の駆け引きは迅速をもって第一とする」の意である。即ち巷間いわれている「拙速」の意はまさにこれである。
ではただ速ければ良いのかと言えば然(さ)に非ず、孫子の言は『人の及ばざるに乗じ、虞(はか)らざるの道に由り、その戒めざる所を攻むるなり。』と続くのである。つまり、敵の態勢が整わない時機に乗じ、予想外の方法で、警戒していないところを攻めてこそ(迅速さの)意義があるのである。
当然のことながら、その逆の場合、即ち「敵の態勢が整い、敵の予測通りの方法で、しかも敵の警戒している真最中に」という状況においては、いくら迅速に行動しても「飛んで火に入る夏の虫」状態に陥ることは明白である。因みに、孫子はそのような状況を評して『北(敗北)』と曰う。
つまり、迅速とは必ずしも遅い・速いに拘泥するものではない。状況によっては(文字通りの意で)速い場合もあれば、状況によっては(急がば回れ・急いてはことを仕損ずるの意で)遅い場合もあるということである。
武田信玄の孫子の旗「風林火山」はまさにその意を象徴するものである。臨機応変・状況即応こそが戦術的側面、つまり、戦場という言わば現場指揮における兵法の本質と曰うのである。
言い換えれば、論理的に「兵は拙速を貴ぶ」場合もあれば、逆に「拙速を避ける」場合もあるのである。まさにこの両面があっての「速」なのである。上記(三)の[質問]対する[回答]がいかに的外れのものか、この一事を以てしても明白である。
蛇足ながら、そのための準備が万端であることは論を俟たない。救急医療であれ、消防の人命救助であれ、はたまた山岳や海難救助であれ平素の訓練と万端の準備があってこそ、いざというときに最大の効果が発揮されるのである。孫子は『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め』と論じている。
準備も何も整えずに「ただ速ければ良い」などと盲信するのは無知そのものであり、言わば思考停止状態の極みである。先の太平洋戦争における兵站の軽視などはまさにその典型例と言わざるを得ない。つくづく日本人は懲(こ)りない民族である。
ともあれ、孫子の曰う『拙速』は、(戦場という言わば小局的な現場指揮のレベルではなく)一国の存亡を左右する大局的かつ総合的な国家の政・戦略的なレベル、即ち根本方向としての二者択一の問題を論ずるものなのである。
そのゆえに、孫子の曰う『拙速』は、「拙速の判断を誤って元も子も無くした」、あるいは「拙速の判断を誤らなかったゆえにその身を全うした」という用法が適当となり、巷間いわれる「拙速」は、現場の指揮を論ずるものであり『状況によっては「兵は拙速を貴ぶ」であるが、状況によっては「拙速を避ける」ことになる』という用法が適当となる。両者が本質的に異なる所以(ゆえん)である。
因みに、孫子の曰う『拙速』的な視点を日常問題に応用して論じたものが弊サイトの下記の記事である。参考までに紹介する。
ともあれ、兵書孫子に関わる言は意外に曲解され、誤用・盲信されている場合が多い。ここで論じた「拙速」はまさにその一例である。流行(はやり)の言葉として承知して用いるのならば可であるが、孫子の言として盲信するのはいかにも危うい。混乱を極める時代ゆえに、戦いのバイブルたる孫子は体系的に学ぶことが肝要である。 
 
孫子はなぜ活用できないのか

 

孫子の活用について度々、次のような趣旨のご質問が寄せられます。
『孫子兵法って何』、『どうやって身につけるの』、『できれば自分も日常生活やビジネスに活用して巧くやって行きたい』…、その参考にと書店で孫子の本を買って読んで見たりするのですが…、なるほど、孫子の名言名句をアレンジしての軍事や歴史のエピソードは確かに面白い。が、それはただそれだけのことで、肝心の自分のことにどう結びつくのか、今ひとつ実感が涌かない、繋がらない、何かピンとこない、まさに隔靴掻痒の感が否めない、と。
この問題は、ことが兵法という特殊性(単なる妄想ではなく厳しい現実世界の認識に関わる意)ゆえに実に広範かつ複雑な論点を含んでおります。その一つひとつに言及すると際限がないので、ここでは『兵法に関わる大いなる誤解』という角度から検証します。 
1 孫子は単なる知識の勉強ではなく不確実な将来(未知)への対処の法である。
かつてフランスのシャルル・ド・ゴールは「戦争の本質は偶然性にある」と喝破しております。人生もまた戦争と同じく不確実であることは論を俟ちません。つまり、この宇宙にはギリシャ哲学で言う「万物流転」、あるいは釈迦の曰う『無常(全ての現象は生じて滅するものであり変化しないものは無い)』の法則があてはまるゆえに人間の現実世界もまた意外性・偶然性・不確実性に満ち溢れているのであります。
そのゆえに、いわゆる知性(アタマ)だけをもって生身の人間の問題を解決しようとしても、どうしても行き詰まらざるを得ないのです。逆に言えば、兵法とは、現実問題に際会したとき、その事実を冷徹に直視し、自分で答えを見出すこと、言い換えれば、枝葉としての「能力」ではなく、その根幹・土台としての「脳力」を発揮することである、と言えます。
『敵、衆にして整い将に来たらんとす。之を待つこと若何』とはまさにそのこと示唆するものであります。つまり現実世界では、例えば学校教育のごとく、初めから答えがあって、その答えを暗記させ、それによって試験問題を解けば満点というスタイルは極めて希なのであり、その殆どは答えの分らないもの、つまり『将に来たらん』とする「将来」に関わるものであり、これにいかに対処するかが兵法の本質であると曰うのです。
つまり孫子兵法とは、答えを丸暗記すれば満点が取れる、いわゆる知識教育の問題ではなく、まさに「現実変革」の思想を学ぶ問題なのです。
もとより、知性を無視して良い、というわけではありません。知性は、未知なる将来に対処するには不十分な力しか発揮できないという意味であり、現実的にものをいうのは、いわゆる胆力や信念、勇気や決断力などの「総合的な人間力」、言わば『脳力』であるということであります。
要するに、IQ、もしくは偏差値だけでは生き残れないという訳です。
その『(能力ならぬ)脳力』が適切に発揮されるためには、既に判明している様々な資料を検討する知性が不可欠な要素であることは論を俟ちません。これが知性(能力)と脳力の関係であります。
かつてのサムライ達がそうであったように、兵法を体得するためには少なくとも、偏差値優先的教育の対極にある人間学、即ち人間づくりに資するという意味での「学問の道」と、娯楽・レジャーたるスポーツの対極にある武術、即ち戦いの雛形を学ぶという意味での「武術の道」、言い換えれば、本来の意たる文武両道がその基本にあるという思想は、古来、洋の東西を問わず人間の共通認識であります。 
2 孫子を学ぶには「脱・日常的思考」が大前提である。
そもそも兵法は生々流転する事象たる現実に向き合うものゆえに、兵法を学ぶには、自ずから惰性に陥り易い日常的な思考パターン、もしくは頑迷固陋な固定的思考癖を脱する必要があります。今、流行の言葉で言えば「脱・日常的思考」もしくは「脱・固定観念的思考」ということになります。
とは言え、山に籠って俗世間と離れる可し、というのでありません。そもそも、兵法とはそうゆうものだという意識の、いわゆるコペルニクス的転回が必要であるということです。
そもそも兵法は厳しい現実のことであり、「明日があるさ…」式の能天気な日常的思考パターンで論ずべきものではありません。言い換えれば、兵法を論ずる者が、(まさかそんなことは無いでしょうが…)自身は暖かい部屋のぬくぬくしたコタツに入りながら、窓の向こうの凍てつく厳寒の雪景色(即ち厳しい現実の姿)に思いを致し、あたかもそこに居るかのごとくあれこれ試みているとしたら…、所詮それは適わぬ夢、妄想の類に過ぎず、兵法とは似て非なるもの、と言わざるを得ません。 
3 兵法を学ぶ真の目的は何か
言わずもがなのことでありますが、兵法の最大の敵は欲望の塊りたる己自身に他なりません。彼の山鹿素行は「兵法の奥義は己に克つにあり」と喝破しております。儒教で曰う「克己」、葉隠れで曰う「死ぬことと見つけたり」もまさに同趣旨の言であることは論を俟ちません。
然るに、一般的には、兵法を何か相手を出し抜くためのマニュアルのごとくに心得て、自身を何も行動しないで済む安全なところにおいて、何やら頭の中だけで彼の曹操や諸葛孔明を気取っているのは実に滑稽であり漫画的であります。
そんな人に限って、(その言い訳や偽装的ポーズはともあれ)最大の敵たる自己との戦いには目を背け、逃避してるものなのです。一般的に言えば、真に兵法を追究している人は、(自分の弱さが分っているがゆえに)そのような傲慢不遜な態度や、己を飾ろうとする軽薄なポーズはとりません。
兵法を学ぶということは、言わば「自己革命」を学ぶことであります。例えば、ついこの間までの自民党政治がいかに国民目線とズレていたか、(まなじりを決して日本国再建に取り組んでいる)今の民主党政治の立場から見れば、一目瞭然のごとしです。革命とはつまりそうゆうものなです。
千変万化する世の事象に常に関心を持ち、お仕着せの答えに疑問を抱き、自分の頭で考え、判断し、行動すること、まさにそれが孫子を学ぶ意義であります。
そのような観点に初めから理解があれば、彼の小泉・竹中構造改革などに易々と騙されることは無かったであろうと断言できます。そもそも、例えば徳川将軍が鎮座する幕藩体制をそのままにして、いかに改革を声高に叫ぼうが所詮はコップの中の手品的改革に過ぎないとは普通の頭で考えれば自明のことであります。
彼の小泉劇場の一事を想起し、民主党政権の誕生以前と以後とを比較し、真の改革とは何か、翻(ひるがえ)って自己革命とは何かを重ね合わせ、その意識の変化に我々は思いを致すべきです。
孫子を学ぶということはつまりそのような観点から流転変動する現実世界を洞察することであり、そのゆえにこそ判断主体たる己の自己革命を持続することが肝要なのです。彼の宮本武蔵は「常に兵法の道をはなれず」と。
とは言え、偏差値優先的ないわゆる知識の詰め込み教育が一世を風靡する今日、一般的に人は、自己の内面に思いを致す能力に欠けている傾向が強いようです。
極論すれば、(実に信じられないことですが)自分の人間としての人格完成は既に所与のものであると本気で考えているのです。そのゆえにこそ、もし自分に不足しているものがあるとすれば、それは世間を上手く立ち回るテクニックたる世渡り的な能力である、という結論に至るのです。
なぜそう断言できるのかと言えば、例えば、そのような人のいわゆる専門バカ的な局面を指摘して「貴方はバカだ」と直言すると、返って来る答えは概ね似ています。
曰く、『僕はバカではない。なぜなら僕は昔から学校の成績が良くて、親からは一度もバカなどと言われたことが無い。第一、僕は一流大学を出ていますよ』と。
確かに、この人は、その意味でのバカではない。が、しかし、人間として最も重要な要素たる謙虚さ、素直さに欠けているということに思いが至らないのです。このようなタイプがいくら上辺のテクニックを磨いても(その意味での基本ができていないゆえに)所詮は付け焼刃のままで終らざるを得ないと言わざるを得ません。 
4 他人がいくら説得しても当人が納得しなければ人の意識は変わらない。
孫子塾で主催する隔週の通学講座(一授業3時間余)では、孫子兵法の本論に入る前に、脳力開発的な観点を中心に、ほぼ一年を費やしてこの意識のコペルニクス的転回を図っております(熱心な受講生の方が私の一字一句を記録しておられましたのでその蓄積分量は相当数に上ります)。これは初めらそのように意図した訳ではなく、本論に入るために不可欠な土台部分を説明している中に、結果的にそれだけの時間が掛かってしまったいうことです。
なぜそこまでする必要があるのかと言えば、人を教育するには、まず学ぶ者の意識を感化し、いわゆるヤル気にさせてから教えるとその後の講義が入り易くなるからに他なりません。とは言え、人の意識を変えるということは、例えば上記のごとく実に根気とエネルギーと時間がかかるものなのです。
このことを逆に言えば、孫子を講ずる教師の説得力(熱血度合い)は果たして本物か否か、ということが問題となります。なぜならば、孫子を教える側の教師自身が(売らんかなの商売としてでなく)真に孫子に感動し、(ことの広狭大小を問わずそれなりに)これを活用することの意義を見出し、そのことを真に面白いと感じていなければ、教わる側の立場の者が、これに感動し感化されヤル気を起すわけが無いからであります。 
5 まとめ
『五事』ならぬ、上記の四つのモノサシでいわゆる『廟算』すれば、次のように総括することができます。
即ち、書店の書棚に溢れる(売らんかなの)いわゆる孫子本を金科玉条のごくと崇め奉っても、ひと時の気休め的な効果しかない、益してや、孫子を日常生活やビジネスに応用したり、自らの問題解決に活用したりすることは(そのような方法では)論理的に不可能である、と。
とは言え、世の中にはいわゆる『プラシーボ(偽薬)効果』なるものもありますから、それで満足してるのであれば、それはそれで他人が口を出す問題ではありません。
肝心なことは、いやしくも孫子兵法を学ぼうと志す者は、(他人のことはどうあれ)掛け替えの無い自分自身の人生をいわゆる「お任せ思考」で酔生夢死の如くに過ごすことは断固忌避する、という姿勢を鮮明にすることだと考えます。 
 
危うきかな日本 / 尖閣ビデオ流出行為は非国民かヒーローか

 

一、世論操作を事とするマスコミ情報を鵜呑みにするのは日本人の悪い癖である
近頃、都で流行(はや)るものは、「世論調査ではこうだ」「内閣支持率急落、危険水域に入る」などと居丈高に政権を難詰するワイドショーの司会者やコメンテーターのまさに「世論操作」を意図するがごときの単純かつ浅薄な言い切り型コメントである。
そもそもワイドショーの一分一秒は莫大な金額に相当するものゆえに、その種のテレビ番組においては、内容をキチンと解説する丁寧なやり方や時間の掛かるコメントは疎(うと)まれこそすれ決して求められるものではない。
結果として、中味が無くても視聴者を惹き付けるセンセーショナルな言い回しや、ワンセンテンスの単純な言い切り型コメントが好んで発信されるのである。あたかも「臭い物に蝿がたかる」かのごとく、そのようなコメントを得意とする人がワイドショウに求められ重宝されるのである。
因みに、ワンワード・ワンフレーズ居士たる彼の小泉元総理、その子息である自民党の小泉進次郎議員などはその典型例である。瓜二つとはまさにこのことである。が、しかし、善く考えてみよう。娯楽・レジャーの類たるタレントやスポーツ選手の言動ならば(ことの性質上)人畜無害であろうが、いやしくも国会議員たるの任務は国民の死生、国家存亡に直結するものゆえに、その言動がタレントやスポーツ選手と同レベルのもので善いのであろうか。善いはずが無い。
孫子の『善く戦う者の勝つや、奇勝なく智名なく、勇功も無し』とはまさにその意である。役者や芸人ではあるまいし「大向こうのウケを狙い、拍手喝采を浴びよう」などの浅ましくも卑しい言動は国会議員たる者の採るべき道ではない。
ともあれ、我々はこのような無意味なコメントが垂れ流される低俗なテレビ番組によって常にマインドコントロールされているのである。IT世界の進化とともにかつての情報の王様たるテレビの凋落的傾向は覆うべくも無いが、そこは「腐っても鯛」、とりわけまやかしを以てするテレビの世論操作的なパワーは未だ健在なのである。
ゆえに、我々は、確かな事実に基づかないものは信じないという知性的かつ主体的な姿勢を堅持し、自分の頭でものを考え、自分の頭で判断するという習慣づくりが肝要なのである。それによってのみ、まさに「マッチポンプ」あるいは「オオカミ少年」的なマスコミの怪しい言説を見破り、無意識的にマインドコントロールされるという忌まわしい呪縛から逃れることができるのである。吾人が、孫子兵法と脳力開発を学ぶ所以(ゆえん)である。 
二、尖閣事件を法律問題に矮小化して論ずることは平和ボケの典型例である
戦後、日本民族は戦勝国たるアメリカ占領軍による3エス政策(スポーツ・セックス・アメリカ映画をもって日本人の精神性を堕落・軟弱化させようとする占領政策)によってスッカリ大和魂を抜かれてしまい、かつ半世紀余に亘る平和ボケとの相乗効果も相俟って、今日、日本民族は名実ともにアメリカの属国民に成り下がっているやに見受けられ。
戦前、東アジアを席巻し日の出の勢いの日本人は中国人をチャンコロ、朝鮮人を二等国民などと蔑称して優越感に浸っていたが、半世紀を経た今日、今やその日本人そのものが(とりわけ精神的な意味での)二等国民、三等国民に没落したということである。
言い換えれば、独立国の証たる「戦いの論理」、命を懸けての「国防の気概」を亡失したがゆえに、今日、中国やロシア、北朝鮮・韓国からの(軍事的圧力を背景にした)無理無体な注文に涙を呑んで屈せざるを得ない状況に陥ったのである。
いわゆる独立国たるの総合的国力、とりわけ国民の国防意識・軍事力・政治力・外交力という側面において、今日、日本の国力は想像以上に劣化・弱体化していると言わざるを得ない。(経済力や文化力はともあれ)その意味での日本は、まさに東アジアの小国に成り下ったのであり、おこがましくてアジアのリーダーなどと言えるべくも無い。
孫子の曰う『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』とはまさに今日の日本のごとき状況に陥ることを戒める言なのであり、戦争をするとか、しないとか、軍備は有用とか、無用とかの議論以前の問題であることを我々は強く認識すべきなのである。
ロシアのメドヴェージェフ大統領が我が国固有の領土たる国後島に平然と上陸して、「ロシアが実効支配している以上、ロシアの領土だ。訪問して何が悪い」と嘯(うそぶ)きニヤニヤ笑っている映像を見れば、(通常の日本人ならば)上記の孫子の言が骨身に沁みるであろう。
例えば、彼のフォークランド紛争を見るまでも無く、今日もなお、国家間の紛争は軍事力による武力対決なのであり、その意味での国際社会の実体はまさに強者の権力(人を支配し服従させる力)のみが弱者を支配する無法地帯なのである。
言い換えれば、弱肉強食・優勝劣敗の掟は孫子の時代はもとよりのこと、今日もなお、国際社会を普遍的に通徹する理(ことわり)ゆえに、我が国における尖閣諸島もまた第二のフォークランド諸島と化す恐れが多分にあるのである。
もとより、そのような万古不易の掟について知らぬ者はいない。しかし、それはあくまでも知識レベルでの理解であり、ことが台湾に近い先島諸島の洋上のことゆえ、例えばかつての「泰平の眠りを覚ます黒船」のごときの恐怖と衝撃を伴う切迫した実感として受け止められたものとは言い難い。
とりわけ、平和ボケしたこの国のマスコミにはその傾向が強く、この国難が単に視聴率を稼ぐための絶好の報道ネタとしてしか映っていなかったようである。その何よりの証左が、例えば、テレビのワイドショウなどで検察OB、いわゆる「ヤメ検弁護士」をコメンテーターとして起用し、この尖閣事件のあれこれを論じさせていることである。
昨今、テレビの寵児と化した感のある「ヤメ検弁護士」達は、嬉々として法律論を展開しているが、彼らが得々として論ずれば論ずるほど、今日の日本の抱える病巣たる本質問題は益々覆い隠されて矮小化し、まさに針の穴を通すがごとき枝葉末節論が世の人々の判断を迷わせていることに気が付かないのである。
マスコミ報道の常套手段は、何かと言えばすぐに「その道の専門家」を登場させてその見解を求め、あたかもそれが自己の立場であるかのごとく装うことであるが、いわゆる平時の場合はそれでこと足りるであろう。
が、しかし、尖閣事件の場合は、その意味での平時ではない。そのゆえに「ヤメ検弁護士」のコメンテーター起用はまさに「お門違い」と言うものである。
そもそも国際紛争を法律的次元で論じようとするその感覚が余りにも平和ボケしてトンチンカンであることに気が付かないのである。例えば、テロによる殺人が日常茶飯事化しているイラクやアフガンで「殺人罪は死刑だ。裁判所に訴えてやる!」と騒ぎ立てるようなものである。
そもそも権力のみが支配する無法地帯では「勝てば官軍、敗ければ賊軍」であり、勝者が正義、敗者は不正義であるゆえに、通常の意味での法律など通用しない。そのようなもので国際紛争が解決するなら疾(と)うの昔に世界平和は実現されているはずである。
事の事情はいわゆる交通戦争においても同じである。自分が法律を守ってさえいれば交通事故には巻き込まれない、などという保障はどこにも無い。そもそも交通事故が起きるゆえに法律が制定されるのであり、法律があるからといって交通事故が無くなるわけではない。法律があろうが無かろうが自分の身は自分で守る、まさにそれこそが兵法の兵法たる所以(ゆえん)である。
尤も、交通戦争の場合、事故発生後はもとより法律の出番であるが、肝心の当人が死亡したり、再起不能になったのでは(当人から見れば)何の足しにもならない。孫子の『亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。』とはまさにこの意であり、ゆえに『明主は之を慎み、良将は之を警(いまし)む。』と曰うのである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。 
三、兵法的思考と法律的思考は本質的に異なるものゆえに混同してはならない
そもそも強者の権力(人を支配し服従させる力)のみが支配する国家間の紛争においては、いわゆる法律的思考は何の力も持たない。法律はその国の政治権力が安定し、かつその統治権が及ぶ範囲でのみ有効なのである。
試しに、ヤメ検弁護士達は船をチャーターして国後島に乗り込み「ロシアは北方領土を不法占拠している。違法であるから即座に退去すべし。ダメなら裁判所に訴える」と主張してみたら良い。子供の戯言(ざれごと)か、老人の世迷言(よまいごと)として無視されるか、はたまた問答無用とばかり彼らの論理での領海侵犯罪で銃撃されるかがオチである。
ことは「竹島」の場合も同様である。「尖閣事件」の場合は(中国が実効支配しているわけでないので)やや事情は異なるが、力関係が支配する無法地帯、という側面ににおいてはその本質は同じである。
このような無法地帯で通用するのは、「どの方向に進むのか」という日本の意志と行動力であって法律的思考の次元ではない。かつて命を懸けて国難に立ち向かった彼の幕末志士達の事跡を想起すれば論ずるまでもないことである。
まさに「口で言うより行うこと」が志士の志士たる所以(ゆえん)なのである。孫子兵法の研究者として夙(つと)に知られた彼の吉田松陰を引くまでも無く、「兵法的思考」こそが国難の際にはものを曰うのである。
孫子の曰う『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』の真意はまさにそこにある。パワーが支配する兵法的世界にあって口先だけの議論が何の役に立つと言うのであろうか。吾人が孫子兵法を学ぶ所以(ゆえん)である。 
四、優れたリーダーの枯渇・欠乏は国家の最大の不幸である
しかし問題は、かつて(武士道教育の余光たる)有為の人材が雲の如くに輩出した幕末・明治の時代と異なり、平和ボケした今日の日本は、まさにリーダーたる優れた人材の枯渇・欠乏状態に陥っている。そのゆえに、国家としての意志(国防意識)と行動力(軍事力・政治力・外交力)が極めて弱体化しているということである。
もとよりこれは一朝一夕に形成されたものでなく、この半世紀余の日本国民の意識と行動の当然の帰結として招来されたものである。現代版「黒船襲来」とでも言うべき尖閣事件において、朝野を問わず右往左往するだけで独立国たるの気概と信念の一欠けらも示せなかったのは、まさに宜なるかな、である。
ともあれ、ことの本質は「なぜ中国人船長を釈放したのか」とか、「日本の法律に従って粛々と裁くべきであった」とか、「船長釈放のバランス上、ビデオ流出の海上保安官の罪を問うのはおかしい。悪いのは公開すべき情報を隠した政府の方だ」などという「ミソとクソを一緒にした」ような法律論で片付ける問題ではない。
言い換えれば、戦後、半世紀余の間、日本をこのような状況に陥れた原因は何処にあったのかを我々は真摯に懺悔すべきなのである。因みに、懺悔と後悔は似て非なるものである。後悔は過去のことをあれこれと悔やみ繰言を呟く非生産的な行為であるが、懺悔は自己の失敗に対して逃げ隠れせずその敗因を洗いざらいに曝け出して真摯に分析し、次の勝利に結びつける縁(よすが)とする建設的な行為である。
孫子の曰う『故に兵は、彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』の本質はまさにこの懺悔にある。「懺悔もできない人間がどうして敵に勝つことがでるのか、できはしない。なぜならば真の問題点の何たるかを把握できないからである」と孫子は曰いたいのである。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)である。
言い換えれば、他人事のように政権批判の大合唱を繰返すワイドショーの司会者やコメンテーター諸氏は、仮に尖閣事件が第二のフォークランド紛争と化した場合、自らが最前線に立ち命を的に戦う覚悟があるのか、という問題なのである。
「然り」とすればまさに「その言や善し」であるが、「否」ならば単に世を惑わす戯言(たわごと)を呟くだけの口舌の徒と言わざるを得ず、(いくら商売とは言え)そのような無責任な妄言は慎むべきである。要するに、無法地帯における国家の在り様は、今日の偏差値優先教育で言ういわゆる「勉強」の問題ではなく、日本人の誇りと命を賭けての「行動」の問題なのである。 
五、中国人船長の釈放は、まさに「大人の判断」であって法律論の問題ではない
そもそも尖閣諸島に中国籍の漁船が侵入することは今に始まったことではない。そのゆえに、この問題を考える前に、我々は、先ず、彼の「竹島」問題に思いを致すべきである。
「竹島」は現在、韓国が実効支配している。が、しかし、日本政府は手が出せない。日本の立場とその法律に則って言えば、(韓国軍は一発も発砲せずに上陸してきたのだから)武力侵攻とは言えない、とは言え、国家主権を侵害する不法行為であること間違いなく言わば不法入国者である、さてどうしたものか、と言う図式である。結果的に(独立国の生命線たる領土護持の信念も確信も無い日本政府は)ただ泣き寝入りして先送りしているのが偽らざる現状である。
ヤクザ者がいつの間にか自宅の一室を不法に占拠している。実力行使で追い出したいのはやまやまだがその腕も気概も勇気も無い。いざと言うときの用心棒として莫大な金を払って頼ってきたアメリカ軍というパトカーに「大変です。今、韓国軍が不法入国しています。すぐに来て下さい」と110番しても、「それは二人の問題であってパトカーの関知する所ではありません。二人で良く話し合って解決してください」と取り合ってくれない。もはや泣き寝入りする以外に道は無い。「そのうち何とかなるだろう」というのが実情なのである。
であるならば、尖閣諸島近海において我が物顔で跋扈跳梁する中国漁船に対しても、腫れ物に触らぬように黙って追い返しておけば良かったのである。それが戦略的互恵たる日中両国の暗黙の了解であり、大人の対応というものである。それをどこでどう間違ったのか、(従来の方針に反し)中国漁船の挑発行為にまんまと引っ掛かってことを荒立てたのがそもそもの過ちと言わざるを得ない。逮捕を決断するまでに要した12時間余の遅疑逡巡が従来の日本の立場を雄弁に物語っている。
ゆえに、多少時間は掛かったが、(従来の日本政府方針通り)中国人船長を釈放したのはまさに「大人の判断」と言える〈釈放が長引けば、実力行使ということで中国人が大挙して尖閣諸島を占拠する恐れは多分にあったのである〉。それを自民党を始めマスコミ報道がここぞとばかりに民主党政権の言わば弱腰(柳腰)外交を批判するのは天下の笑い者である。
巨額の財政赤字はもとよりのこと、独立国家の生命線たる自国領土の護持を無責任に放置してきた最大の責任者は他ならぬ自民党政権である。その意味で彼らに今の民主党を批判する資格は無い。声高に批判すればするほどまさに「天に唾する行為」であると知るべきである。況んや、何の見通しも信念もなくただ珍奇な目先の現象を追い求めるだけのマスコミにおいてをや、である。 
六、尖閣ビデオ流出の海上保安官は、愛国者か非国民か
要するに、中国人船長の釈放問題とビデオ流出の海上保安官の問題は(もとより同一の尖閣事件に関わるものではあるが)その性質は自ずから異なるものである。
後者の場合こそ、まさに「ヤメ検弁護士」コメンテーターの出番なのである。が、しかし、周知のごとくこの件に関してはなぜか彼らの発言トーンは湿り勝ちであり及び腰なのである。保安官の行為を肯定的に受け止める国内世論が半ばするゆえに、それに配慮した結果であることは明白である。が、しかし、このようなケースこそ国内法に則って粛々と裁定すべきなのである。
情報フォルダーの処理を誤り4〜5日間、海上保安庁の内部で誰もが閲覧、取り込みが可能な状態であったにせよ、一般人はアクセスできなった映像であり、かつ国会においてこのビデオの公開、非公開についての論議がされていたことは国民周知の事実である。
ビデオの公開、非公開が気に入ろうが気に入るまいが、それを決めるのは政府であって、件(くだん)の海上保安官ではない。その主義主張がどうあれ、海上保安庁の職員という立場で偶々(たまたま)取り込むことができた情報を勝手に公開するのは明らかに守秘義務違反であり服務規程に違反する。
それによって外交上、日本が不利益を蒙ればまさに利敵行為となり、通常の軍隊ならば軍法会議ものである。
国家機密の漏洩という観点から言えば、まさに孫子の曰う『間のこと、未だ発せざるに、而も先ず聞こゆれば、間と告ぐる所の者と、皆死す』の仕儀となる。
このような命令違反が常態化すれば、まさに孫子の曰う『将弱くして厳ならず、教道も明らかならずして、吏卒は常なく、兵を陳ぬること縱横なるを、乱という。』の状態に陥ることは必定である。
彼がいかなる怒りの感情を抱いてビデオを公開したのかは定かではない。が、(世論的な功罪が半ばするという事実は)、やりようによっては彼は時のヒーロー、もしくは愛国者となり得た可能性があることを示唆するものである。
しかし、残念ながら彼は肝心な一点で判断を誤ったと断ぜざるを得ない。彼は先ず脱藩して、つまり海上保安官を辞職して然る後に、堂々と個人の立場でビデオを公開すべきであったのである。そうすればその義憤の思いは「そこまでして…」と、多くの日本人の心を打ったことであろう。
また、件(くだん)の海上保安官の行為を彼の赤穂浪士の義挙のごとくに称え、当時の幕府がその裁定に苦慮する様をこの事件との相似形として捉え論ずる向きもある。しかし、それは贔屓の引き倒しと言うものである。
第一に、赤穂義士は赤穂藩という言わば国家公務員の職を離れ、まさに浪々の身で決起している。その上で切腹と裁定された訳である。その内容も「武士の生き様としてはもとより賞賛すべきことである。しかし幕藩体制下における法秩序の維持という観点からは見過ごせない」ということなのである。その結果、彼らに切腹という武士としての最高の名誉を与え、同時に幕府の法秩序の維持も図ろうとする苦肉の策なのである。
その観点から今回のビデオ流出事件を論ずれば、件(くだん)の海上保安官氏は、もとより職を辞しての行為でもなく、むしろ、あわよくば自身の地位保全を画策していたことは明白である。まさに孫子の曰う『必生は虜(とりこ)とすべし』なのである。
また、海上保安官の生き様という意味では、お世辞にも賞賛に値するものとは言えない。このような人物を彼の赤穂義士に比するとは、日本の平和ボケもここに極まれり、と断ぜざるを得ない。つまり彼は、ヒーローどころか単なる愉快犯に過ぎず、その意味では似非(えせ)愛国者であり、非国民・裏切り者と言わざるを得ない。
ともあれ、「船を衝突させた中国人船長は釈放されたのに、映像を流した海上保安官を逮捕するのはおかしい。やるべきことをやってくれただけだ。悪いのは公開すべき情報を隠した政府の方だ」などの論が根強くあるが、これは明らかに問題の本質を混同するものと言わざるを得ない。
それを言うなら、「竹島」に不法入国している韓国軍をなぜ国内法に則って粛々と処罰しないのか、北方領土を不法占拠しているロシア軍をなぜ国内法に則って厳正に処罰しないのか、という論理に帰結する。
もとより、そうしたのは山々であるが、現実的にはできない、ゆえに「触らぬ神に祟り無し」で涙を呑んで泣き寝入りしているだけのことなのである。即ち、尖閣事件に関する中国人船長の釈放問題はまさにこれまでの日本政府の方針に則ってのものに他ならず、法律論で云々するがごときレベルではないのである。
我々にできることは、日本のこのような厳しい現実を直視し、国民一人ひとりが真摯に懺悔し、何時の日か実力を以てこれらの国々を従えるような国運隆盛を図る方向で一致団結することである。もとより「ローマは一日にして成らず」であることは論を俟たない。
ともあれ、今日の日本を取り巻く待った無しの難問山積の状況を招来させたのは、(既に選挙民は忘却してるかも知れないが)自民党の長期政権なのである。我々はそのことを厳に銘記すべきである。この尖閣事件一つを見ても、早期かつ適切に対処すべき機会と時間はいくらでもあったはずなのに、ただ選挙目当ての目先の利益を追求することに汲々とし、政権党としての最重要課題たる領土護持の責務を軽視してきた結果である。
今さら、民主党政権を批判できる道理も筋合いも無い。彼らが真に健全な野党たらんことを欲するならば、まず自らが「後悔すれども懺悔せず」の低俗人間と同列の行為は慎むべきである。然るにその現状は、実に見苦しくおぞましい限りである。
そもそも、半世紀余に亘って蓄積された様々な政治的制度疲労や古い体質を捨てて新しき日本を創造するめに政権交代が実現したはずである。我々は幾多の苦難に耐えてその方向に邁進すべきなのに、昨今の政治、マスコミ、選挙民などの動向は明らかにその原点を忘れたかのごとき感が否めない。まさに「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」の流れに傾きつつあるようである。
三日坊主が人の世の常とは言え、それではあまりにも節操が無い。これでは「桃栗三年、後家半年」と言わざるを得ない。通常、それが芽生えてから実を結ぶまで「桃栗三年、柿八年、柚は九年」と謂われているが、こと政権交代に関する選挙民の意識という意味においては「桃栗三年、後家半年」と謂いたいのである。
その心は、桃と栗は結実まで三年、しかし、後家(未亡人)さんの貞操は半年と保てない、つまり節操が無い、実に軽いという事である。確かに「熱し易く、冷め易い」のは日本人の民族的特性ではある。が、同時に「直き心」も有するものである。ゆえに、我々は真摯に懺悔することが可能なのであり、懺悔しなければならない。なぜならば日本の発展にとって政権交代の意義は実に重大だからである。 
七、日本が再びアジアの盟主となる日は到来するのか
孫子は曰う『夫れ、将(リーダー)は国の輔(介添え)なり。輔、周(密)なれば、則ち国必ず強く、輔、隙(間)あれば、則ち国必ず弱し。』と。
何ごとを為すのであれ最重要の課題は、まずリーダーに人を得ること、もしくは優秀なリーダーを養成することであることは論を俟たない。しかし、問題は、かつて(武士道教育の余光たる)有為の人材が雲の如くに輩出した幕末・明治の時代と異なり、(商人国家たる)今日の平和ボケした日本は、優秀なリーダーたる有為の人材の枯渇・欠乏状態に陥っていることである。
平和ボケした日本人は、とりわけ政治権力の一極集中や濫用、あるいは独裁者を極端に忌み嫌う傾向にある。国難山積の今日のごとく、まさにカリスマ的なリーダーによって国を変革する必要がある時には(この特質は)確かに大きなマイナス的要素である。
しかし、視点を変えれば、(この特質は)日本人に最適の政治システムを創出するための強力な原動力と成り得る可能性を秘めたプラス的要素である。
言い換えれば、(日本人の忌み嫌う独裁者の対極にある)真に公正無私なリーダーを選出することができるシステムを創出し、それに則って、真に公正無私の賢人たるリーダーを発掘・選出し、かつその土台には「政治権力の一極集中を完全に防止し、権力の濫用・腐敗、独裁者の出現を阻止するための独創的なシステム」が担保されているとなれば、恐らく日本人は自らが選出したそのリーダーの下、一億火の玉となって協力を惜しまないであろう。
日本人は世界に冠たる優秀民族ゆえに、そもそも優秀なリーダー(賢人)がいないわけではない。「出る釘は叩く」という民族的な特質、島国根性ゆえに、まさに「天の岩戸」のごとく真のリーダー(賢人)は嫌気が差して隠れてしまっているのである。
言い換えれば、いわゆる職業政治家、もしくは世襲政治家、はたまた政治屋的政治家に象徴される国会議員諸侯は(一般的に)頼みもしないのに自ら手を上げて出てきた人々である。それはそれで善しとすべきであるが、往々にして、この種の人物には真のリーダー(賢人)たるの資質を見出し難いのである。
むしろ、腹に一物、背に荷物、脛に傷持つがごとき不審な輩も少なからず見受けられるのである。現国会における政党間、政党内を問わず国民無視、ただ政争ありきの「蝸牛の角上の争い」たる誹謗中傷合戦を見れば一目瞭然である。彼らに果たして『滅私奉公』という志があるのだろうか。その覚悟もなしに、政治などという大それた任務を担うべきでない。世の中が混乱するだけである。
公正無私の賢人たるリーダーとは、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ民をこれ保ちて、而も利の主に合うは、国の宝なり。』に比すべき人物である。このような人物を得ることはまさに国家にとっての幸運である。ゆえに今日、最優先の課題として、先ずは地方政府から公正無私のリーダー選出システムを創出し果敢に実施すべきである。
言い換えれば、現今の職業政治家、世襲政治家、はたまたいわゆる政治屋的政治家は今や無用の長物としてしてこれを廃し、上記のごとき方法で選出したリーダーの下、日本民族のパワーを結集することこそが、今、煮え湯を飲まされている中国や韓国・北朝鮮、ロシアに優越する道なのである。無能にして不要な国会議員たちが私利私欲のために「蝸牛の角上の争い」をしている時ではない。
それでなくても、例えば、日本の国力を低下させ、逆に外国の力を益々強めるものとして日本の優秀な頭脳と技術の流出問題がある。極論すれば「今の日本には愛想が尽きた」と言うことである。つまりは国政を担うリーダーに人を得ていないからである。
また例えば、環太平洋パートナーシップ参加の問題も然りである。そもそも、あらゆる国と通商することこそが明白に日本の発展する道であるにも拘らず、農業保護・既得権擁護の立場に立つ反対勢力によって国論は二分されている。
そもそも南北に長くて豊富な水資源に恵まれ、多種多様の地形と気候風土を特色とする日本の国土は、やり方によっては世界に冠たる農業立国になる可能性が多分にある。にも拘らず、依然として農業政策が隔靴掻痒的な的外れ状態に終始していることは、これまた国政を担うリーダーの貧困であり、枯渇と言わざるを得ない。
このゆえに、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』のごとき人材の発掘・選出システムの創出が急務なのである。
かつての文明開化の時代と異なり、今や日本は西洋文明の物真似を脱却し、言わば日本文明を世界に発信すべき時である。西洋型民主主義の経験とその長所・短所を踏まえつつ、日本人の民族的特性を踏まえ、日本独自の真に民主的な政治システムを構築し、その旗の下で一致団結すべき時なのである。これこそ、日本が再び中国や韓国・北朝鮮、ロシアの上に立ち、かつての栄光を取り戻す道である。 
 
『敵を殺す者は怒りなり』

 

一、孫子兵法を学ぶ本当の意味での面白さとは
孫子の原文は、意外なことに僅か六千余文字であり、四百字詰め原稿用紙にすると15枚程度に過ぎません(因みに箴言集たる老子は五千余文字です)。反面、その説くところは、人間社会における最も激烈にしてマクロな事象たる戦争を総括するものゆえに、その一言一句は、極めて簡潔ではありますが、幽玄にして含蓄があり、しかも難解であるという特色があります。
言い換えれば、個々の篇におけるまさに「判じ物」の如き難解な語句の数々、あるいは前後の文意が通じない、もしくは十三篇全体としての各篇の体系的繋がりが不明であるなど、種々、問題のある箇所が散見されるのが孫子です。このゆえに、読者をして、(何か孫子の真意と異なっているようで)どうも釈然としない、何度読んでも疑念が生じてくるなどの焦燥感を募らせる一方、然(しか)らば、孫子の真意は一体どこにあるのか、是非ともそれを知りたいという強い探究心を抱かせるのです。
このゆえに、孫子注釈者の嚆矢たる三国志の英雄・魏の曹操以来、今日に至るまで、(時と空間を超えて)まさに一国を代表する知性とでも称えられるべき人々によって、「我ひとり孫子の心を解したり」とばかりに数多(あまた)の註釈が行われて来たのであります。
因みに、我が国の代表的注釈者としては、林羅山・北条氏長・山鹿素行・荻生徂徠・新井白石・吉田松陰などの錚々たる人物が知られています。
ともあれ、孫子を学ぶ本当の意味での面白さは、そのような古来の註釈を踏まえつつ、最古のテキストたる「竹簡孫子」、孫子兵法の実践論的体系たる「脳力開発」「古伝武術」などの観点から、それらの論点に係わる矛盾点を分析し、整理して自分の頭で多角度的に比較考慮し、最も合理的な解釈を導き出すところにあります。
もとより、その場合の判断基準、もしくは評価の尺度とすべきものは、孫子十三篇の体系的な繋がりであり、そこに首尾一貫して流れる孫子の兵法的思想であることは論を俟ちません。
ともあれ、数多(あまた)ある孫子の論点の中から、ここでは、とりわけ誤解され勝ちな『敵を殺す者は怒りなり』について取り上げます。 
二、『敵を殺す者は怒りなり』に対する一般的な解釈への疑問
(敢て出典は明示しませんが)一般的に、この言は次の如くに解されています。
1、兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない。
2、兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は、何といっても戦意である。
3、敵兵を殺すのは、憤怒の感情(奮い立った気勢によるもの)からである
4、我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし。
つまり、「怒」は、「憤怒の感情」「敵愾心」「戦意」の意、もしくはそれらを激しく奮い立たせる意と解され、一般的にはこれがいわゆる通説的な解釈であるとされております。一面的に、あるいは表面的に見れば、はたまた「大衆に理解され易い」という観点に立てば、確かに分かり易く、いかにも尤もらしい解釈ではあります。
が、しかし、この『怒り』という感情は、まさに「感情の動物たる人間」にとってはその対処の巧拙いかんが極めて重大な結果を招来するものゆえに、(兵書としては)とりわけ慎重な態度で解釈すべきものであることは論を俟ちません。
1 ことわざに曰く「短気は損気」もしくは「短気は身を滅ぼす腹切り刀」
人間もしくは人間社会の破壊をもたらすものはまさにこの『怒り』の感情に他なりません。他人はもとよりのこと、自分をも破壊する危険な性質を有するものです。その意味で『怒り』の感情は、(常に冷静な判断と主動権確保が求められる)兵法と密接不可分の関係にあります。つまり、『怒り』の感情をいかにコントロールするかは、まさに兵法の本質的問題と言えます。軍書に曰く『善く戦う者は怒らず』と。
「怒り」の感情は言わば凶器ゆえにその暴発は大いなる損失(危険)を招来する、と話したところ、ある五十歳代の知人は、『確かに改めて考えて見るとまさにその通りです。今、過去を振り返るに、思わず知らず「怒り」の感情を爆発させたがゆえに、どれだけの損をして来たことか…、実に悔しい』としみじみ述懐されておりました。
一般的に人々は、平素の社会生活において、この「怒り」の感情を思うがままに爆発させたらどうなるのかは直感的に分かっているがゆえに、「怒り」の感情をグッと堪えているのです。もとより、個々人の性格やその時々の状況は様々ですので、いわゆるガス抜き的な意味での「怒り」の爆発は当然あります。が、しかし、それはあくまでも部分・局面的なものであり、全体・本質的な基本方針は、「怒り」を我慢することにあると言わざるを得ません。
このことは、ことのいかん、その広狭大小を問わず(感情の動物たる人間にとって)常に心掛けるべき要訣であります。そのゆえにこそ、孫子における通説的な『怒り』の解釈が、上記のごとき一面的、もしくは表面的な見方、もしくは単細胞的な理解で足りるのか否か、甚だ疑問と言わざるを得ません。
もとより、「事は戦争だから」との声も聞こえて来そうです。が、しかし、それは最前線で戦う士卒の場合には該当しても、全軍を統率するリーダーたる将軍の場合には当て嵌まらない、と言わざるを得ません。況んや、将帥論(リーダーの書)たる孫子においてをや。
2 そもそも『拙速』の趣旨にそぐわない行為であり戦争の泥沼化を招来する
メインテーマたる『拙速』、即ち、勝利の度合いは拙(不完全)であっても良いから、速やかに戦争目的を達成すべし(これが速の意)、とする立場から見て明らかに矛盾が生じて来ます。
つまり、いくら敵とは言え「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、軍人のみならず民衆までも不必要に無意味な殺戮を行えば、敵は(我の真の狙いたる)早期の停戦・和平に応ずるどころか益々、依怙地になって(眼には眼を、歯には歯と)敵愾心・憎しみを募らせ、挙国一致して徹底抗戦の意志を固めること必定であります。これでは『拙速』など望むべくもなく、戦争の泥沼化は避けられません。
3 通説的な解釈では余りに唐突過ぎて、前後の文意が繋がらない
この『敵を殺す者は怒りなり』の前文においては『糧は敵に因る(代金を支払って敵国内で食糧を調達する意)』、後文においては『敵に取るの利は貨なり(敵から奪って我の利とするものは敵の戦闘上の必要物資である意)』とあるのに、いきなりここで「敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし」の解釈ではいかにも唐突であり、前後の文との繋がりも意味不明となります。
4 孫子の根本思想たる『怒りは敵だ』と明らかに矛盾する。
通説的解釈は、十三篇を首尾一貫する孫子の「怒りは敵だ」「怒る者は強者に非ず」「智慧ある者は怒らない」とする根本思想とは明らかに矛盾するものと言わざるを得ません。即ち、『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍りを以て戦いを致す可からず』と。
ともあれ、いわゆる通説的解釈は、孫子の言を、そのまま文字通りに解しただけのものであり、肝心要の「そもそも兵法的思想とは何か」、はたまた「漢文とはいかなる性質の文体なのか」などの極めて本質的な思考が完全に欠落していると言わざるを得ません。
譬えて言えば、春になって花が咲いた。それを見て「花も春の訪れを祝福してくれている。美しい眺めだ、実に嬉しい」などと能天気にハシャイでいるようなものであります。言い換えれば、確かにそのような側面もあるが、花が咲くのはあくまでもその植物の生殖目的である、という本質には思いを致さない、が如しです。
幼稚にしてお粗末な解釈をいかにも尤もらしく論じておきながら、その整合性いかんについては疑問すらも感じないのです。まさに傲慢不遜の極みであります。 
三、しからば『敵を殺す者は怒りなり』はいかに解されるべきか。
1 なぜ孫子兵法はキチンと理解し、生涯、学び続ける必要があるのか。
そもそも孫子兵法は日用の実践的指針として現実に使いこなすものゆえに、その解釈においては真に自分が納得できるものでなければなりません。そのためには、いかなる権威のものであろうとも、他人の解釈は鵜呑みにしないこと、まず「正しく疑うことが肝要です。
その上で、自分の頭で考え、自分で検証し確認すること、その結果、本当に納得したものは、もはやそれは他人の見解ではなく、まさに自分が見い出したごとくに確信し、己のものとして実践することができます。
とは言え、それはあくまでもその時点での自己の力量レベルのものでありますから、その理解のレベルをも常に検証し確認する姿勢もまた必要です。もしそこに理解の浅さ、思い込み、妄想、誤解、錯覚の類が確認されれば、直ちに修正し最善なものを理解する必要があります。まさに「深いかな、孫子」であります。
孫子を単に、一読、二読、もしくは三読、四読した程度で「我ひとり孫子の心を解したり」などと妄想するのは浅知恵の極みと言わざるを得ません。上記のごとく、個人の兵法は、あくまでも個人の実践(自助努力)で積み上げるべきものであり、まさに「天は自ら助くる者を助く」であります。
ともあれ、そのようにして確信を得、身に付けた見解は(もはや他人の借り物ではなく)自己の血肉と化しているゆえに、真に役立つ思想として自己の生涯を通じての宝となります。これが、例えば『敵を殺す者は怒りなり』の真意をキチンと理解すべき所以(ゆえん)であります。
2 物事には必ず両面性がある。片面だけ見ていては孫子の真実に迫れない。
そもそも、「兵法とは、行き詰まらないことを以てその一大事とする」ものであり、「最悪の場合、どう対処するか」を論ずるものであります。逆に言えば、「分り切った、当たり前のことは論じない」ということです。
加えて言えば、古来、漢文の文体は、極めて簡潔で省略が多く必要最小限の文字だけを記す傾向が強いことに特徴があります。逆に言えば、そもそも漢文には「分り切った、当たり前のこと」を敢て記す余地など初めから無いということです。況んや、マクロな現象たる戦争を総括し、国家国民の死生を論ずる孫子においてをや、です。
つまり、メモ的な省略体が孫子なのであり、そこには必要最小限の文字だけしか記されていない、と言うことです。
その単なるメモを(メモだとは思わずに)額面通り表面的に直訳していると根本的な誤りを犯すことになります。孫子の理解には何よりも本質を洞察する高度な抽象的能力が要求される所以(ゆえん)であります。それらの観点から、通説的解釈を改めて吟味するといかにも間抜けな感が否めません。「何だよ、この程度のことが孫子なのかよ」と。
1、兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない。
2、兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は、何といっても戦意である。
3、敵兵を殺すのは、憤怒の感情(奮い立った気勢によるもの)からである
4、我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし。 
3 兵法とは生死を論ずものであり、上品な文学を論ずるものではない
そもそも兵法とは、文字通り(将に来たらんとする)将来の事象に対していかに処するかを論ずるものゆえに、その解釈においては広範な見識と百戦錬磨の「海に千年、山に千年」的な批判能力が要求されます。
つまり、兵法とは、いわゆる学者先生が世俗を離れた研究室で、花を活けたり、お茶を立てたりするような上品かつ平和な気分で文学的に解すべきものではなく、ましてや、素直で従順ではあるが、海千山千的な強烈な批判能力とはお門違いの、いわゆる受験エリート的な優等生タイプの発想で解釈すべきものではありません。
が、しかし、なぜか日本ではこのような学者先生の孫子解釈が最高の権威とされているようであります。やたらと(テレビに出ているから偉いとか、金持ちだから尊敬できるとかの)レッテルを貼りたがり、お上と権威に平伏(ひれふ)すことが大好きな日本人の民族的欠陥の面目躍如たるものがあります。
かつて陸軍大学校の一期生をトップで卒業し、その能吏ぶりゆえに「カミソリ東条」の異名をとった彼の東条英機が、本業たる戦争においても(学業成績と同じように)カミソリ的な切れ味を見せたのかと言えば、決してそうではないことを歴史は示しております。
まさに、戦争にも比すべき今回の福島第一原発事故において、国の原発行政に関わるエリート集団がその余りの愚かしさを満天下に晒したのは、偏に広範な見識と百戦錬磨の海千山千的な批判能力が欠落していたゆえであります。「想定外の事故」との甘ったれた認識はそのことを雄弁に物語っています。今回の人災は、ただ小賢しいだけで、肝心ところで役には立たない、いわゆる受験エリート的優等生タイプの貧困な発想力に起因するものと言わざるを得ません。
ともあれ、ここで言いたいことは、こと戦争においては、「敵愾心を植えつけなければならない」とか、「兵士を敵との戦いに駆りたてる原動力は何といっても戦意である」などの言わば「戦術レベル」の説明は、まさに当たり前のことあり、メモ的な省略体たる漢文に敢て記すに足るものではない、と言うことです。
むしろここでは、『怒り』という感情のもう一つの側面、即ち「戦略的レベル」について考察することが賢明であります。とりわけは孫子兵法の言わば総論部に該当するものゆえに、基本的にここでは戦略的思想たるの根本を論じていると解すべきです。
ここで戦略とは、(脳力開発的に言えば)目的性・方向性といった根本レベルの考えの中で原則性(容易にゆずらない、容易に変更しない水準のもの)を持つものの意と解します。戦略に入らないものは戦術ということになります。言い換えれば、戦略の方は、「内なる意志を貫いてゆく」のであり、戦術の方は、「外に合わせていく」のであります。
つまり、ここでは、(彼はもとより我をも破壊するものゆえに)極めて慎重な取扱いが求められる『怒り』の感情は、戦略的観点からどのように位置付けるべきなのか、ということであります。その判断基準は、どのような考え方が「我にとって利となるか」、どのような考え方が「我にとって利とならないか」ということであります。
逆に言えば、通説的『怒り』の感情の解釈は、あくまでも戦術的なレベルのものであり、(戦略レベルのごとく)何が何でも絶対的にそうしなければならないという類のものでないということです。即ち、状況によっては特別に敵愾心を鼓舞する必要もありましょうが、通常、敵愾心・戦意・士気というものは敵を目前にすれば自ずから鼓舞されるものであります。
殺すか殺されるかの局面に際会すれば、誰でも「武者震い」を禁じ得ないのはまさにその証左です。孫子が『死地』を論ずる所以(ゆえん)です。
因みに言えば、孫子の曰う『拙速』は、まさに戦略的レベル(内なる意志を貫いてゆく)ものであり、巷間、謂われている「拙速」、即ち『兵の情は速やかなるを主とし』の意は、戦術レベル(外に合わせていく)ものということになります。つまり後者は、状況よっては、速くやる方が効果的な場合もあれば、状況によっては、遅くやる方が効果的な場合もある、ということです。
後者の典型例が、一般に謂われている「拙速を貴ぶ」であり、その逆の意となる「拙速に過ぎる」であります。つまり、戦術レベルは臨機応変・状況即応を旨としますので、状況によってその対応が変わるということです。言い換えれば、「拙速を貴ぶ」も「拙速に過ぎる」も共に正しいと言うことであり、世間で良く謂われているような「拙速の解釈としてはどちらが正しいのか」などの議論にはならないということです。 
4 まとめ
要するに、通説的解釈のお粗末さは、兵法にとって最重要の課題たる『怒り』の感情を表面的にいかにも軽く見ているということに尽きます。ゆえに、孫子は「春になって花が咲いた。美しい眺めだ。花も春の訪れを祝福してくれているのか」などの如き上品な文学的解釈では解けない、と言うのであります。そこには本質を洞察する高度な抽象的能力が要求されるがゆえに、孫子を学ぶことは即ち、兵法的思考力の鍛錬となるのであります。
そのゆえに、ここでは、『敵を殺す者は怒りなり』とは、次のように解するのが適当と考えます。
即ち、(将軍たる者は)ただ怒りの感情の趨くままに、無意味に敵国の軍人や無辜(むこ)の民衆を殺戮してはならない。それは将軍個人の単なる憂さ晴らしに過ぎない。感情のままに「怒り」を爆発させても、決して自国の利益に結びつかない。むしろ、一つ間違えれば、敗軍の基(もとい)ともなり兼ねない極めて危険な行為である。ゆえに、将軍たる者、厳にこれを慎むべきであり、「本当の意味で我の利となるものは何か」を常に思念工夫すべし、の意と解されます。軍書に曰く『善く戦う者は怒らず』と。
斯(か)く解すれば、の全文は首尾一貫して繋がり、かつ『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍りを以て戦いを致す可からず』の体系的根本思想とも合致するのであります。
因みに、孫子の再来とも称される毛沢東は、次のような趣旨のことを論じています。
『決定的な敵対分子は、断固として鎮圧しなければならない。そうしなければ自己保全ができないからだ。だが、決して余りに多くの人を殺してはならない。強制的に参加させられている者や、味方になりそうな者は大量に獲得して我が軍務に服させるべであり、その他はすべて釈放すべきである。もし彼らが再び捕らえられても、同じようにねんごろに、穏やかな態度でこれを取扱い、再び釈放すべきである。これは敵陣営を孤立させる上で非常に有効である』と。 
 
孫子兵法と易経・老子・毛沢東・脳力開発との関係

 

一、易の根本原理とは
一般に易経は、いわゆる「占い」の原典としてのイメージが強いようですが、易経の本質はそこにあるのではなく、卦(か)に示される吉凶を一つのヒントとして人間自身による能動的な問題の追求、言い換えれば運命開拓の努力を促すものです。
つまり易経は、従うべき法則を示すことによって、自分の頭で問題を考えることを教える書物であり、その過程で重ねられた熟慮が読む人に多くの示唆を与えるのです。
犬や猫と違う人間の特質は、まさにその自覚的能動性にあります。とは言え、有為転変が人の世の常ゆえに、ことはそう簡単ではありません。
言い換えれば、そもそも人間にとって真に主体的な生き方というものは在り得るのか、あるとすればそれはいかにすれば可能なのかという問題であり、もし、万物の生成変化・発展を貫いている不変の原理があるとすれば、それを探究して理論化し、その活用によって逆に有為転変をコントロールするに如(し)くは無し、ということです。
その意味で理論化されたものが、いわゆる陰陽二元論、即ち「すべての変化は、陰陽二元の対立から生まれる。対立のないところに変化はない。陰陽の二元は固定して動かぬものではなく、無限に変化するものである」と説く易経の弁証法的宇宙観であります。
例えば、彼の「人間万事塞翁が馬」の寓話は、福と禍とは無限に転変して行くという易経的思想を表現したもの、ということになります。
また、兵法との関係で言えば、そもそも兵法は、(当然のことながら)事物の変化を重視する弁証法的思考をその根底に置くものゆえに、易経の思想とは密接不可分の関係にあるということになります。 
二、易経と老子の関係
千変万化する万物の相を見てその背後に潜む運動法則を探求し、それを理論化するという考え方においてまさに易経と同一の立場にありますが、老子の場合は、それを「道」と名づけております。
「道」とは、「無」であるとともに「有」でもあり、「小」であるとともに「大」でもあり、「始め」であるとともに「終わり」であると説かれております。
とりわけ老子は「無」を重んじましたが、この「無」の真意は、一般に謂われているがごとく、消極的な虚無思想ではなく、『何も無い、だからこそあらゆる変化に応じてすべてが生じる』という能動的な無尽の原動力を論ずるものであります。
あたかもそれは、例えば、「常に死を習え」を根本思想とする武士道精神と相通ずるものがあるということです。
ともあれ、老子の思想は、陰陽二元論、即ち「すべての変化は陰陽の対立から生まれる。対立の無いところに変化は無い」とする易経の弁証法的宇宙観と同根ではありますが、老子の場合は、それをさらに一歩進めて、対立物が相互に転化し矛盾によって発展するという相互転化の法則を論じているところに特色があります。
易経の思想は古来、中国文明の基底にあるものゆえに、老子がその思想の影響を多分に受けたであろうことはもとより言うまでもありません。
例えば、「道」の思想は、易経・繋辞上伝に曰う「形而上なる者、これを道と謂い、形而下なる者、これを器と謂う」を老子的言辞で表現したものとも言えます。 
三、老子という書物の性格
一般的に、老子の思想は、道徳的・哲学的・求道的・宗教的な性格を持つものと見なされ勝ちであります。が、しかし、看過されてはならない重要な側面は、この書物に全体として顕著な政治的・軍事的な性格であります。このゆえに、そもそも老子は、古来、兵法家の愛読する書であり、かつ、唐代には兵書の一つとして見なされていたのです。
例えば、軍隊の本質をどう見るかについての老子の言に「兵は不祥の器」がありますが、これなどはまさに孫子の巻頭言『兵は国の大事なり。』とその意を同じくするものです。
あるいはまた、尽きることのない欲望の充足をどの時点で抑えるのが適当かという、言わば追加的利害関係の判断について、老子は「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず、もって長久なるべし」と論じております。これなどは、まさに孫子の曰う『拙速』の意そのものとなります。
因みに言えば、孫子の曰う『拙速』とは、巷間、謂われているが如く「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦即決、速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の意ではありません。
そのようなことは現場指揮官が臨機応変・状況即応して適宜判断する戦術的レペルの問題であり、敢て兵書に記すようなレベルの内容ではありません。孫子の曰う『拙速』とは、国家の政・戦略レベルにおけるいわゆる追加的利害もしくは得失の判断をいかに考えるか、という問題なのであります。
もとよりこの『拙速』の考え方は、ことを個々人の戦略レベルの意に解すれば、当然のことながら個々人の場合にも適用されます。譬えて言えば、「兎と亀の競争」の寓話における兎の判断の場合、はたまた、いわゆる「蛇足」の寓話における酒を飲み損ねた男の判断の場合などがそれに当たります。 
四、孫子と易経、老子との関係
老子の場合と同じく、孫子もまた易経の思想の影響を色濃く受けたことは首肯せざるを得ません。とりわけ、孫子の曰う『奇正』は、易経・繋辞上伝に曰う「形而上なる者、これを道と謂い、形而下なる者、これを器と謂う」の運動法則を孫子的言辞をもって軍事に取り入れたものと解せられます。
老子と孫子とは、ほぼ同時代の人物とは思われますが、両者の伝記は必ずしも明らかでなく、生没年もまた特定できません。ゆえに両者の間に人的交流はあったのか、はたまた老子が孫子にどの程度の影響を与えたのかは定かではありません。
が、しかし、変化を重視する弁証法的思考を始めとし、両者の兵法的思考が著しく似ていることは確かであり、まさに老子の説くところの運動法則をそのまま軍事に転化したのが孫子であるかのごとき印象があります。
角度を変えて見れば、易経・老子・孫子の書物は、(その立場と視点こそ違え)千変万化する万物の相を観てその変化の運動法則を探求し、これを理論化したというところに共通性があります。そのゆえに、三者に共通して言えることは、ある意味で「答えを出さない」というところであり、まさにそこに特質があります。
敢て言えば、従うべき行動指針を示すことによって、自分の頭で問題を考えることを教える書物であり、その過程で重ねられた熟慮が読む人に多くの示唆、あるいは問題解決の方向性を与えるということであります。
孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』とは、まさにそれを得るための資質・資格とは何かを暗示するものとも言えます。言い換えれば、己の無知を知ることを愛し、智恵を知ることを愛する謙虚な姿勢こそが孫子から真に適切な示唆を受ける資格のある人ということであります。 
五、毛沢東の矛盾論と易経、孫子の関係
易経は、古来、中国文明の基底であり、就中(なかんずく)、「陰陽の対立なければ運動なし」の思想は、まさに中国的弁証法の原型です。そのゆえに、中国古典の造詣が深く希代の革命家にして唯物弁証法論者を自認する毛沢東の思想が易経と無関係のはずがありません。
言い換えれば、毛沢東の「矛盾論」には易経の陰陽二元論が色濃く影響しているということです。例えば毛沢東は「すべての事物に含まれている矛盾の側面の相互依存と相互闘争とによって、すべての事物の生命が決定され、すべての事物の発展が起る。矛盾を含まぬどんな事物もなく、矛盾がなければ世界世界はない」と論じております。
また、その「実践論」にいう「実践・認識・再実践・再認識」という循環往復して尽きることのない形にも易の思想たる陰陽の無限の転移の形が色濃く影を落としていると言えます。
孫子との関係においては、『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』が「矛盾論」や「持久戦論」などで引用され、とりわけ毛沢東の戦争論とでもいうべき「中国革命戦争の戦略問題」ではわざわざ、「われわれは、この言葉を軽んじてはならない」と付け加えられています。
また、彼の有名な遊撃戦争の四原則、即ち、「敵が攻撃してくれば退却し、敵が駐屯すれば攪乱し、敵が疲れれば攻撃をかけ、敵が退けば追撃する」は、まさに孫子の<第六篇虚実>もしくは<第七篇軍争>に由来するものと言えます。
また言えば、毛沢東の愛読書の一つして例えば「水滸伝」がよく知られております。この種の中国書籍が、つまるところ孫子兵法を下地とするものであることはもとより言うまでもありません。つまり、毛沢東は、間接的な意味においても、孫子の強い影響を受けているということであります。
逆に言えば、毛沢東の戦争論には、その現実主義的な戦略戦術、透徹した現状認識など孫子兵法を想起させる個所がいたるところに散見されるということです。
とりわけ、毛沢東の主張した「持久戦論」は『拙速』を説く孫子兵法の裏の奥義とでも言うべきものであり、その意味でも、(軍事指導者としての)毛沢東は、まさに現代における孫子兵法の具現者と評しても過言ではありません。 
六、脳力開発と毛沢東思想との関係
脳力開発の創始者、故城野宏先生は、日本の無条件降伏後、中国・山西省を舞台に50万の山西独立軍を擁し、毛沢東率いる中共軍と四年に及ぶ現代版三国志の戦いを演じ、後に敗れて中共軍の捕虜となり15年の監獄生活を送るなど、まさに波乱万丈の数奇な体験をされました。
帰国後、その獄中で思索された「なぜ日本は敗れたのか」「なぜ毛沢東は中国を統一できたのか」などの分析結果と併せて、獄中で学習した毛沢東思想、とりわけ「矛盾論」「実践論」「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」のエッセンスとその実際への適用方法などを日本人向きにアレンジし、加うるに中国における御自身の体験を整理して総合的に纏められたものが脳力開発であります。
言い換えれば、脳力開発は、中国統一の理論的・精神的バックポーンたる毛沢東思想の裏バージョンとで言うべき性格のものであります。
そのゆえに、孫子兵法を、戦いに関する普遍的な「理論・思想の体系」とすれば、脳力開発は、まさに孫子兵法の「実践論的体系」として位置づけられるものであります。弊塾の孫子兵法講座で脳力開発を併習する所以(ゆえん)であります。
因みに、弊塾の孫子兵法講座は、(上記したごとくの)孫子兵法と易経・老子・毛沢東・脳力開発との関係を体系的に纏(まと)めるとともに、曹操註になる現行孫子を遡ること400年前の竹簡孫子を基本テキストとして校勘しています。
その意味では、通常、見ることのできない、言わば月の裏側とでも言うべき角度から孫子兵法を文字通り両面的・全面的に考察し、その全体像や本質を体系的に纏(まと)めたものであります。 
 
老子と孫子の共通性

 

一、老子と孫子、その時代について
「史記」によりますと、孫子(孫武)が呉の将軍となったのは紀元前517年とあります。また「史記」には、「孔子はかつて老子と会見して、礼についての教えを請うた」ともあります。その孔子の生年は紀元前552年であり、没年は紀元前479年とされています。
一方、老子も孫子も伝記が孔子ほどはっきりしないため、両者の生年・没年を特定することはできません。が、少なくとも、孫武が将軍になったとき、孔子は三十五歳位であったとは言えます。これらを勘案して敢て推測すれば、老子も孫子も孔子も共に同時代の人であるが、生年順で言えば、老子、孫子、孔子の順と言えなくもありません。因みに、彼の釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の生年は紀元前563年、没年は紀元前483年とされておりますから、奇しくも老子・孫子・釈迦・孔子の四聖人はほぼ同時代を生きた人物であると言えます。 
二、古来、老子は兵法家の愛読する書であった
老子の説く「無」は、単に「何も無い」を意味したのではなく「何も無い、だからこそあらゆる変化に応じて全てを生じることができる」という積極的エネルギーを具有するものであり、まさに老子が、政治や軍事について積極的に論じている所以(ゆえん)であります。
そのゆえ、老子は古来、兵法家の愛読する書であったのであります。そもそも老子は、唐代には兵書の一つとみなされ、例えば「道徳真経論兵要義述」を著した王真は、「老子の五千言は一章といえど雖も意の兵に属さざるところ無し」と述べているほどであります。
その老子が孫子にどのように影響を与えたかを具体的にたどることはもとよりできないが、少なくとも両者の思想に著しい共通性があることは明らかであります。あたかもそれは、孫子が老子の基本理念を軍事問題に適用して成立したかのごとき感が強いのである。今、試みにその共通性の具体例を幾つかを挙げて見ます。 
三、その共通性の具体例
1 『道(原理)の道とすべきは、常の道に非ず(万物は流転し、常なるものは無い。これが宇宙の根本法則である)』、あるいは『反(対立する状態)は道の動(運動法則)なり。弱(消極)は道の用(作用の形式)なり』
まさに、対立物が相互に転化し、矛盾によって発展するという弁証法的な考え方を示唆するものであります。一方、そもそも兵法は、事物の変化を根底におくものゆえに、老子と孫子はその世界観を同じくするものであると言えます。
孫子がで論ずる局所集中戦略(少数で多数に勝ち、弱が強に勝つ)などはまさに「ものごとを全て変化においてとらえる」という普遍的な思想を根拠するものであることは論を俟ちません。
2 『上善は水のごとし』
孫子の曰う『夫れ、兵の形は水に象(かたど)る。水の行くは、高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)く。兵の勝つは、実を避けて虚を撃つ』は、老子の言の孫子的表現であるとも言えます。
3 『善くする者は果たして止む。敢(あえ)てもって強を取らず』、もしくは『止まるを知れば、殆うからず、もって長久なるべし』
孫子の曰う『拙速』はまさに上記の言の別表現とも解されます。
4 『それ兵は不祥の器(道具の意)、物(万物の意)つねにこれをこれを悪(にく)む』
孫子十三篇の巻頭言たる『孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』はまさに上記の別言であると言えます。
5 『人を知る者は智、自ら知る者は明(知の限界を知る者の意)』
孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦してあや殆うからず』とはまさに上記の別言であると言えます。
6 『正を以て国を治め、奇を以て兵を用い、無事を以て天下を取る』
孫子の曰う『凡そ、戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ』は、まさに老子の思想を軍事に適用したものと言えます。
7 『善く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(あらそわ)ず』
孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり。敵に取るの利は貨なり』はまさに上記の言の別表現であります。
8 『禍は敵を軽んずるより大なるは無し。敵を軽んずれば殆ど吾が宝を失う』
孫子の曰う『小敵の堅は大敵のとりこ擒(とりこ)なり』、あるいは『兵は多きを益とするに非ざるなり。惟(ただ)武進すること無かれ〜夫れ惟(ただ)慮(おもんぱか)り無くして敵を易(あなど)る者は、必ず人に擒(とりこ)にせられる』とその思想を同じくするものです。
9 『兵を抗(あ)げて相(あ)い如(し)けば(対陣して兵力が伯仲するときは、の意)、哀しむ者(進んで攻撃を仕掛けずに攻勢防禦の形を取る者、の意)勝つ』
まさに孫子の曰う『守るは則ち余り有り、攻むるは則ち足らず』、あるいは『危うきに非ざれば戦わず』の別表現と言えます。 
 
孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理

 

儒学と君子・官吏のエートス
孔子(B.C.551-479頃)と孟子(B.C.372-289頃)によって布教された儒教(儒学)は孔孟思想と呼ばれ、儒教の徳治の政治思想と仁義の道徳規範は東アジア各地に非常に大きな影響を与えました。近代以前の東アジアには中華思想に基づく冊封体制があり、日本国では士農工商の身分制による封建主義体制がありましたが、天命を拝受した君主(天子)が諸侯を取りまとめて国家(天下)を統治するという政治の枠組みが共有されていました。儒教はそういった封建的な社会秩序(定常的な社会構造)を正当化する政治思想として機能するだけでなく、『孟子』の易姓革命のように民本主義(民意に基づく政治)の原理に成り得るような考え方もありました。
また、『仁・義・礼・智・信』などの儒教の徳性は、アジア的な謙譲の精神を持つ人格者のイデア(原型)を形成しています。仁徳を兼ね備えた天子(君主)に天命が降り、天子による国家統治を学識ある有徳の君子(為政者としての官吏)が補佐することで理想的な政治が行われるという基本思想が儒教にはあります。儒教的な徳治政治のシステムは、倫理規範(徳)と学識教養(文)を備えた君子が為政者となり、人民に模範を示すというある種の選良主義(禁欲的なエリート主義)に貫かれています。
しかし、実際に儒教道徳を重視した過去の政治体制を振り返ると、『孔孟の教え』の禁欲道徳(君子の徳性)を有効に機能させる具体的方法がなかったこともあり、明・清や李氏朝鮮などでは官僚独裁制の腐敗・不正を強めた側面もあります。孔子や孟子は、有徳の君子が私心を捨てて民衆のために全身全霊を投げ打つような徳治政治を思い描いていましたが、現実の政治では、当然ながらそこまで高度な禁欲道徳を為政者に強制することはできません。古代〜近世の中国では行政ポストが既得権益化して贈収賄や売官・横領が横行し、時に朝廷(後宮)の雑務を司る宦官(かんがん=去勢官僚)が国政を専断するような危機的状況も生まれました。
孔子や孟子は、民衆を統治する権限を持つ天子(皇帝)・諸侯(君主)・士大夫(官吏)が、『政治権力を民衆の幸福・利益のためにしか使わない』という性善説に立っていますが、実際には『力(権限)のある者が、自分や近親者のために力(権限)を使わない』という禁欲道徳が機能することは(歴史上にランダムに現れる特殊な道徳主義者を除いて)殆ど期待できないわけです。前近代的な官僚制と近代的な官僚制を比較すると、前近代的な官僚制は『個人の人格・倫理・資質』に大きく依拠する部分があるという意味で儒教的であり、近代的な官僚制は行政ポストに権益があってもそれを事前に法制化して『個人の人格・倫理・資質』に余り期待していないという意味で非儒教的なのです。
現代の公務員(官吏)にも収賄や横領などの問題はありますが、そういった不正行為を行った場合には『道徳規範からの逸脱』というよりも『法律に反する違法行為』という文脈で認識されることが多いと思います。現代の公務員(行政担当者)は法律で定められた『全体(国家・国民)の奉仕者』であって、儒教が規定する『禁欲的な道徳主義のエキスパート(君子)』では当然ありませんから、法律の範囲内で行動する限りにおいて道徳的な非難を受ける謂われはないのです。もちろん、各種の官民格差に対して国民の側から批判が起こることはあり得ますが、近代的官僚制度の下では『道徳規範を守るべき個人としての官僚(公務員)』というのは恐らく存在しないのではないかと思います。
既存の法律を遵守して法令で定められた各種の賃金・手当・年金を受け取る限りにおいて、近代的官僚制度の構成員は『個としての倫理性・責任性』を問われる場面はまずないですし、その意味では『道徳的な官民格差』は近代社会において消滅したと言えます。民間の会社員も官庁の公務員も、特別な道徳的義務を負わないという意味で等しくサラリーマンになったとも解釈できます。特に、政権中枢との関係が薄い末端の公務員になればなるほど特別な利権や厚遇とも無縁になるので、組織を構成するサラリーマンとしての自己規定が強くなるでしょう。
事の善悪は別としても、近代的な行政システムは『個人の人格・倫理・資質』に依拠する儒教の君子モデルを離脱して、法律の規定のみに依拠するサラリーマンモデルに移行したと考えることが出来ます。『聖職者』という言葉が死語化してきたことと、道徳的な官民格差が消滅したことは同じ状況を別の言葉で言い換えているだけですが、現代社会では、公共性や利他性が必要と考えられていた職業の従事者(専門家)の大半がサラリーマン化しています。何故、かつて特別な道徳性や人格性が求められていた『聖職の領域』が無くなりつつあるのかというと、価値判断の多様化によって、聖職(禁欲的修身)に対する他者の敬意や感謝・憧れが過去の時代よりもかなり小さくなったからだと思われます。
更には、道徳的義務を禁欲的に果たすほどの魅力と評価が、かつて聖職と呼ばれていた職業に無くなってきたからであり、模範的な行為規範に対する社会的な共通認識が薄らいだことで、善悪や礼節に対する受け取り方が個別化してきたからです。人権思想の普及と誤解によって個人間の倫理的な振る舞いの優劣が意識化される機会が減ったことも関係しているかもしれません。
人権思想に対する誤解とは『人は生まれながらに平等である』というフレーズを『人はどのような行動や態度を取っても、その人間的な価値に影響しない』と拡大解釈することで、全ての倫理規範を陳腐化して、あらゆる他者に尊敬の念を抱けなくなるような自意識の肥大のことを指しています。言い換えれば、『法律と公権力のみに私は仕方なく従うが、それ以外の規範や意見には一切耳を傾けるつもりはない』という法一元主義的な行動様式を選択するということです。
究極的には、抵抗し切れない強制的な権力と暴力以外には、絶対に自分の考えや行動を変更しないということですが、この立場が極端になると対話や議論の余地さえ全く成り立たないという状況になるかもしれません。普遍的な人権思想は『個人の相対評価を無効化する平等』を肯定するものではなく『生存権・社会権・自由権・名誉権・社会参加の機会』など権利の平等を生得的に肯定するものだと思いますが、『権利面における全ての人間の平等』と『評価面における全ての人間の平等』を混同することで独我論的な世界認識(自己を絶対視する世界認識)に陥ってしまうことがあります。 
ニーチェの力への意志と社会道徳
前記の現代社会の潮流を踏まえると、社会共通の道徳原理(善悪の評価)が大きく揺らぎ他者の言動への関心が減ったことにより、道徳的な規範を遵守して正しく振る舞うことのインセンティブ(誘因)が格段に小さくなってきています。『倫理的な振る舞い』と『実際的な対人評価』の正の相関が崩れ始めたことにより、医療・教育・政治など各種の専門領域のサービス業化が一段と進みましたが、過去の聖域がサービス業化することの利害については一概に言うことが出来ない部分もあります。
例えば、以前に書いた『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代―』の書評のように、現代社会では他者の気分や情緒に配慮して自分の感情状態をセルフコントロールする『感情労働のストレス』が強くなっていますから、聖域がマニュアル的なサービス業化することで、『物心両面の報酬の少ない感情労働』に伴う精神的負担が和らげられる利点があります。
儒教的な人治から近代的な法治に移行することで、結果的に『官』の不正や横暴は劇的に減りましたので、『個人の倫理(裁量)』に期待せずに『法律の規定』に依拠して人材をシステムに組み込む近代的な行政機構が必ずしも非効率的なわけではありません。しかし、『法律の規定に守られた行政機構』や『経済のグローバル化による競争原理の先鋭化』『情報公開(行政の透明化)を推進する情報化社会(ネット社会)の発展』などによって、官民格差が目立ちやすくなったことや内部告発が起きやすくなったことが指摘できます。
官僚政治の問題に限らず、ミートホープの食肉偽装や少し前の住宅業界の耐震偽装問題など、各業界のモラルハザード(倫理的危機)が指摘されるシーンが劇的に増えましたが、こういったモラルハザードは最近になって急速に増えたわけではなく『モラルハザードが指摘されやすい社会的条件(権益に対する利害対立・社会格差・ウェブの匿名メディア)』が整ったというのが実情に近いと思います。
『私利私欲を抑制して他人の喜びや幸福のために奉仕することが正しい』とする禁欲道徳は、儒教だけでなく仏教やキリスト教、イスラム教など世界各地のあらゆる宗教に見られます。実存主義の先駆であるフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は善悪の彼岸(原点)を見据えて、社会的強者の力を抑圧しようとする禁欲道徳(僧侶道徳)をルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)であるとしましたが、キリスト教神学では世俗の権力や欲望を『罪悪』とすることで聖職者の宗教権威を高めました。
その意味では、資本主義や自由主義が拡大する以前の伝統社会では、『欲望を満たす者(力のある者)より、欲望を抑制する者(力のない者)のほうが道徳的価値が高い』とされていたのですが、それが謂わばキリスト教カトリックの建前でしかないことは半ば暗黙の了解でした。イタリア・ルネッサンス期のアレッサンドロ6世やジュリオ2世を筆頭として、歴代のローマ教皇には強い世俗的野心や物理的欲望を持つ者もいて、宗教権威を背景に武力を蓄えてイタリア全土を支配するような政治権力を求めたものも少なくありませんでした。確かに、ローマの都会から遠く離れたベネディクトゥス派やフランチェスコ派の修道院のような場所には、徹底的に身体的な欲望を削ぎ落としたストイックな修道士がいて『祈り、かつ働け』を実践していましたが、キリスト教会の歴史は戦争や欲望と無関係であるとは言い難い部分があります。
その意味では、あらゆる宗教と国家(社会)において、社会的強者(貴族階級・神聖階級・富裕階層・権力者層)の自発的な禁欲道徳が歴史上で大きな力を持ったことは未だかつて無いと言えます。シニカルな生の哲学者であるフリードリヒ・ニーチェは、その事を暗示的に指して、世俗的欲望(利己的欲求)を罪悪視する伝統道徳が社会的弱者(聖職者階級)の権力欲や承認欲求の投影に過ぎないのではないかと喝破したわけです。つまり、儒教では禁欲規範が社会の統治階級である『君子の道徳(ノブレス・オブリージュ)』として説かれていますが、ニーチェは禁欲を強制する倫理は『権力者に保護して貰いたい民衆側の欲求』の投影に過ぎず、『力のある者(世俗の権力者)』と『力のない者(宗教の権威者)』の道徳的な力関係を逆転させるトリッキーな観念装置と見なしたのでした。
しかし、ニーチェ思想の欠点として、『力のある者』の社会的責務や民主主義社会の秩序を定義できないことがあり、現実社会が弱肉強食の悲惨な闘争の場や専制的な支配‐隷属の場となることをやむなしとするような冷淡な部分があります。『力への意志』と『他者への共感』をある程度均衡させないと、社会秩序が維持できないだけでなく『強者の心理的充足』も実現できないという意味で、宗教的(伝統的)な禁欲道徳には『弱者の救済願望』だけでなく『強者の理想(自発的な義務履行)』も投影されていると考えて良いのではないでしょうか。何より自由主義と資本主義によって運営される現代社会では、強者と弱者の立場は極めて流動的・可換的ですから、誰もが明日は我が身という意味で『他者への共感性・自発的な社会貢献』というのは欠かすことの出来ない重要な社会的セーフティネット(社会保障の原点)になります。
隋の文帝が始めて唐の時代に普及した官吏採用試験である科挙は日本には導入されませんでしたが、世襲の貴族階級に依拠しない官僚機構を世界に先駆けて確立したという意味で画期的でした。中国皇帝の死後に贈られる諡(おくりな)で最高に価値があるものは、「武帝」ではなく「文帝」とされますが、これは明らかに儒教の文民優位主義に基づくものでしょう。しかし、『儒教の文治主義』を反映した科挙は、『儒教の修己治人』の理想までを実現することはできず、過酷さを極める受験競争を潜り抜けた『進士(官僚)』はエリート意識を強めて次第に特権階級化していきます。
文民優位が爛熟した宋の時代になると、儒教の基本教典を勉強することが贅沢三昧な生活をする為の立身出世の道具となり、中国の官僚制は腐敗と不正の温床となっていきました。儒教(儒学)の究極的な目標は『仁(忠恕)』の徳を身に付けた君子(為政者)となることですが、孔子や孟子から時代が下って世俗化した儒教は『徳治主義』から『文民専制(官僚専制)』へと変質したとも言えます。
現代社会において儒教を学ぶ意義を考えると、シンプルに孔子が最も重視した『仁(忠恕)』の徳と孟子が人間の倫理の原点に置いた『惻隠の情(忍びざるの心)』に行き着くのではないかと思いますが、偽りのない真心としての『忠』や温かい思いやりとしての『恕』というのは、現代社会における処世訓や人生の指針としても十分に役立ちます。先ほど、かつて聖職とされた業種がサービス業化しているという話をしましたが、教育者である教師の理想像について『論語(述而篇)』では『学んで厭わず、教えて倦まず(学び続けることを面倒臭がらず、教え続けることに飽きることがない)』と言っています。
自分自身が生涯を通してコツコツ勉強し続けるのも大変なことですが、さまざまな個性や性格を持った生徒に勉強を教え続けるというのも大変な苦労を伴う作業です。教師(先生)という職業は、生徒と一緒になって学び続ける楽しさを忘れない人でないと勤めることが難しいものですが、その根本には『学問に対する意志』以上に『子どもに対する愛情(関心)』が必要だと思います。 
中国文化の処世術としての儒道互補
中国の伝統思想には、文治主義の官僚機構を生み出した世俗的な『儒教(孔孟思想)』に対立する思想として、無為自然の『道(タオ)』を説く脱俗的な『老荘思想』があります。老子や荘子の思想は、古来からある神仙思想・原始宗教(アニミズム)と結びついて『道教』の起源となりましたが、一般大衆の文化習俗に対して道教は儒教以上の大きな影響力を持っていました。
中国大陸の混合的・多元的な原始宗教である『道教』は、厳密には老荘思想と同一のものではありませんが、老子の説いた『道』への合一による不老長寿を目標とする宗教であり老荘思想の本質を継承しています。歴史上に実在したか否かも分からない謎の人物である老子が説いた思想は、人為的な政治活動を否定するという意味で『隠遁的』であり、無為自然を理想として無知・無欲を勧めるという意味で『脱俗的』です。
合理主義者であった孔子は『民の義を務め、鬼神は敬して遠ざける, 怪・力・乱・神は語らず』としたように、儒教は祖先崇拝の祭祀・儀礼を除いては『神秘的な宗教性』が乏しい宗教であり、時代が進むにつれて宗教的要素が弱まっていき次第に世俗的な学問・道徳としての趣きが強まっていきました。儒教は徳治政治の要諦を説いて、社会生活における道徳を語るという意味で『世俗の思想』であり、『人間が如何に生きるべきか』という問いに現実的に答えようとするものです。
道教や老荘思想の『道』に対応する儒教の宗教的観念として『天』がありますが、孔子や孟子は飽くまで『人間の運命(人事を尽くした結果)』を超越的に規定する観念として『天』の存在を言っているだけです。孔子や孟子は基本的に人間の行動や努力の可能性を信じており、人間が正しい方向に努力(人事)を続ければ『修己治人』の理想に到達できると考えています。儒学は『世俗において人間が如何に生きるべきか?』を考察した人間中心主義の思想体系と言えると思います。
『孔孟の教え(儒教)』と『老荘の教え(道教)』の最大の違いは何処にあるのかといえば、『人間の努力や営為(人為)』を肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのかの違いであり、老荘思想は『人間の欲望・知識・意志』を否定的に認識して無為自然(何も行動しないことの道徳性)を説きます。
道教や老荘思想は、諸行無常や煩悩の消尽を説く釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の仏教との近似性がありますが、老子は『小国寡民の政治的理想』や『「道」の修得による生命(万物)の繁栄』を語っているという点で仏教とは異なっています。仏教では、輪廻転生の業を断ち切ることが出来る『解脱(悟り)』を至高の境地と考える傾向があり、基本的に生命活動(生殖の連鎖)と俗世での人生を否定的に見ています。
仏教の根本教義である四法印には『一切皆苦』が含まれており、煩悩を抱えた現世の人間の生活は全て苦しみと痛みであると考えられています。仏教は究極的には『俗世で生きる苦悩』を取り除こうとする宗教であり、『現世に生まれ変わる輪廻(宿業)』から離脱(解脱)しようとする修行法(瞑想・学問・念仏・題目)です。人間の内面で燃え盛る煩悩(執着)の炎を吹き消して、永遠に安楽な状態である『涅槃(ねはん)』に到達することであらゆる苦悩から解放されるという仏教は、老荘思想以上に脱俗的な宗教体系(思想体系)となっています。老荘思想は、人民を無知・無欲な状態にすることで戦争や競争のない平和な桃源郷を実現しようとする『原始的(牧歌的)なユートピアニズム』の思想です。
老荘思想は、人民に知識や欲求を持たせない政治を肯定することで『愚民政策(悪平等の共産主義)』として批判されることもありますが、古代の宗教である道教(老荘思想)の根本は人民を支配することにあるのではなく、自分を含む人民を無為自然へと導くことで現世利益(永遠の平和や安楽)を得ようとしたことにあります。道教は原始仏教と比較すると現世利益の宗教としての側面が強く、神仙思想の影響もあって現世で身体を持ちながら永遠の生命を得ること(仙人の境地に達すること)が理想とされました。無為自然を説く老子と万物斉同を説く荘子は、現世(俗世)を全面的に否定したのではなく、世界の根本原理である『道(無)』に従うことで現世における幸福や安楽を実現しようとしたと言えます。
人間世界を超越した普遍的原理として儒教では『天』を仮定し、道教では『道』を仮定しましたが、儒教の『天』は人間の意図的な行動・努力を肯定する『有為の原理』として機能し、道教や老荘思想の『道』は人間の意図的な行動・努力を否定する『無為の原理』として機能しました。『君子の道』を説く儒教(儒学)は、時代が進むにつれて『官(為政)の学問』としての性格を強め、『聖人の道』を説く老荘思想は、時代が進むにつれて道教へと取り込まれていき『隠遁思想』や『民間信仰(処世術)』としての色彩を強めました。
単純な二元論で儒教と道教(老荘思想)を概観すれば、儒教は「為政者」に普及した学問体系となり道教は「市井の民衆」に普及した宗教体系となっていったのですが、中国人の内面には『儒家的な価値観(世俗で出世する思想)』と『道家的な価値観(世俗から遊離する思想)』が矛盾を孕んで内在し続けていたとも言えます。中国の伝統宗教において儒教(有為の思想)と道教(無為の思想)は相互補完的な関係にあり、一人の人間の内面には俗世間で立身出世をしたいという『儒家的価値観』と煩わしい俗世間から離れて悠々自適の生活を送りたいという『道家的価値観』が絶えず葛藤していると考えられていました。
対立しながらも調和する儒教と道教(老荘思想)の相互補完性のことを『儒道互補(じゅどうごほ)』と呼びます。現代人の中にも、現実社会で地位(名誉)や財産を得たいとする『儒家的価値』とストレスの多い俗世間から遠ざかって隠遁したいという『道家的価値』の葛藤があるのではないかと思います。人間はそう簡単に俗世(現実)での欲求や希望を捨て去れないものであり、また、俗世における競争や戦いに延々と明け暮れ続ければ心身ともに疲労困憊して動けなくなってしまうものです。その為、儒家のように俗世での栄達を精力的に求める時もあれば、道家のように俗世からの離脱(隠棲)を静かに求めることもあるわけで、多くの人は、その両極を揺れながら自分の能力や適性、時の運に合った人生を歩むことになります。 
 
「世俗の儒教思想」と「隠遁の老荘思想」の中庸を探った古代中国の処世術

 

前記で、 孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理について対比的に考えてみましたが、儒教思想と老荘思想というのは個々バラバラなものというよりは、一人の人間の内部に矛盾を抱えながら存在するものです。長い歴史を持つ中国文化では、官界(政治の世界)で可能性が開けた時には『儒家の道理(処世)』に従い、俗世界の重圧に打ち負かされそうな時には『道家の道理(処世)』に従うというような『儒道互補の処世術』が上手く用いられてきました。
儒家には人為的な努力(学問)によって自分の能力や徳性を最大限に発揮しようとする前進的な『理想主義(道徳主義)』がありますが、道家や老荘には人為的な努力(学問)が及ばなければ、無理をせずに現実(自然)を受け容れていけば良いという『現実主義(楽観主義)』があります。儒教と老荘思想を陰陽になぞらえると、儒教は中国文化において『陽の思想(男性原理の合理的宗教)』であり、老荘思想(道教)は『陰の思想(女性原理の感性的宗教)』であると言えます。
儒教は『俗世に名(自己存在)を顕したいという陽の思想』と解釈でき、道教は『俗世から名を隠したいという陰の思想』と解釈することができます。また、老荘思想で万物の生成原理とされ世界の根本原則とされる『道』には、原始宗教の女神崇拝(女性崇拝)の名残が見られ、『道』は女性器や女性性のメタファー(比喩)として語られていることにも注意する必要があります。
『道』は『老子』の記述によると「天下の母」であり「玄牝(げんぴ)の門」であり「谷神」であるわけですが、「天下の母」は「地母神」を象徴しており、「玄牝の門」は「女性器」を「谷神」は「生殖を司る女神」を暗示的に指示しています。この事から老荘思想や道教は、母性原理(女性原理)に基づく思想体系であることが窺われ、その一つの表れとして『老子』には、徹底的な無抵抗主義(不戦思想)と恒久的な平和主義が掲げられています。
大地(女性)の生殖能力を崇拝する母性的な原始宗教には『生命・保護・慈愛・平和・受動性』などが基本教義に組み込まれていますが、無為自然を説く『老子』においても、男性原理的な『競争・支配・進歩・成長・能動性』などの価値規範が低く評価されており『生命・保護・慈愛・平和』を讃美する記述が多く見られます。『老子』の基本思想は、「パラドキシカル(逆説的)に現世利益を得る」という逆転の発想であり、「戦わずして勝つ・動かずして他者を動かす・無為でありながら有為の結果を生じる」ということです。
『老子』の現実主義的な処世術は、『柔弱は剛強に勝つ(柔よく剛を制す)』という言葉に集約されており、無為自然とは単に『一切何もしない』というよりは『道(天地の道理)』に従って『余計な作為をしない』というニュアンスが強く込められています。
『老子』には何度も繰り返し、『為さずして、為さざること無し(何もしないにも関わらず、やり遂げられないことが全く無い)』という言い回しが出てきますが、老子は『道』に従って無為なる人々(争うモチベーションのない人々)が増えることで『無為(自然)の統治』が成り立つというようなことを述べています。これは現代的な政治体制で読み替えれば、無私無欲によって安定するアナキズム(無政府主義)とも言えますが、現代は競争・努力による前進や成長に高い価値が置かれますから、『老子』の思想が好意的に受け取られる余地は余り大きくないでしょう。
老子は無知無欲な人間のメタファーとして『樸(ハク=加工されていない原木)』という言葉を用いましたが、原初的な自然状態である『樸』としての民衆を増やすことを説いたという意味で反文明主義・反知性主義の傾向が見られます。『知識の増加』を『欲望の拡大』や『他者との争い』に結びつける考えには現代的な意義は見出し難いですが……欲望を出来るだけ小さくして『足ることを知る』ことで不満を最小化しようとする『少欲知足』の処世術は仏教にも通底するものです。
太古の時代から人間は『欲求を満たす為に前進する処世』と『苦悩を和らげる為に諦観する処世』とを境遇や心理状態に合わせて使い分けていたのですが、前述した『儒道互補』もその人類史的な精神力動の流れに位置づけることが出来るでしょう。道教や老荘思想の究極的な目的は、『道との合一』であり合一の結果による天地永久と不老不死にあると言えますが、現世における永続的な安定(平和)と存続を願っているという意味で道教や老荘思想も現世的な性格を強く持っていると言えます。
儒教的な世俗で活躍しようとする思想が過剰になれば心身の疲労が限界に達しますし、老荘的な世俗から隠遁しようとする思想が過剰になれば社会生活の適応性が失われてしまいますから、『其の両端を執って、其の中を用いる』というような中庸の態度を適度に持ち続けることが大切なのではないかと思います。 
 
「四端説」と「自暴自棄」の抑制

 

『孟子』は、道徳規範を理解できる理性を有する人間と動物(禽獣)との違いとして徳性の原点である『四端(したん)』を挙げ、『惻隠(仁)・羞悪(義)・辞譲(礼)・是非(智)』の四端を持ちながらそれを無視する人間は、人間としての自分の価値を捨て去ろうとしているに等しいと説いた。
ここまで続けてきた道徳教育の話題から離れますが、ここ一週間ほどの日本では、卑劣で残酷な事件や猟奇的で理解困難な事件、同情の余地のない身勝手な事件が次々と相次いで起こりました……ステーキレストランの全国チェーンであるペッパーランチの心斎橋店(大阪府)で、店長と店員がぐるになって女性を拉致監禁・強盗強姦するという卑劣極まりない事件は、誰もが安心して深夜に食事ができるという外食産業の信頼を貶めて、国民の日常生活に大きな不安の影をもたらしました。ペッパーランチというステーキレストランは、仮にもペッパーフード・サービスという東証マザーズの上場企業が経営するチェーン店であり、営業規模の程度の差はあれ、マクドナルドやガスト(スカイラーク)、吉野家、スターバックスなどと同種の飲食チェーンなのですから、その企業の従業員管理・教育における社会的責任(CSR)は非常に重いと考えなければなりません。
福島県会津若松市で起きた17歳の高校生が母親を殺害する事件では、母親の首・腕を切断して全く反省や後悔を見せないという異常さが際立ちました。この事件の加害少年には、関連妄想を伴う精神疾患や情性欠如の人格障害の可能性もあると言われていますが、専門家による精神鑑定の結果は公にされないでしょうから動機面や精神状態については判然としない部分が残るでしょう。一方的な復縁を迫り家族を拳銃で撃って、SATに配属されていた23歳の警察官(林一歩さん)を射殺した愛知県長久手市の元暴力団の立てこもり事件も、平穏な市民生活に大きな恐怖と衝撃を与えました。
福島県会津若松市の少年犯罪では、現実を検討する認知機能や感情機能を障害する精神病理の可能性があるので何とも言えない部分がありますが、ペッパー・ランチの店舗内で起こった卑劣な女性の拉致監禁事件や自分の欲求を制御できずに家族や警察官を殺傷した立てこもり事件では、『廉恥心』や『自制心(衝動・欲求の制御)』『自己内省(自己の内面の価値評価)』の決定的な欠如と自尊心(プライド)の完全な放棄が生んだ悲劇とも言えるでしょう。他者の権利を無情に侵害する行為、自尊心を捨てた厚顔無恥な振る舞いの背後に、孟子であれば『自暴自棄』の心があると指摘するのではないかと思います。
人間を人間たらしめているもの、言い換えれば、『欲望を制御できる人間』と『本能に隷属する禽獣(鳥獣)』とを区別する条件として、仁愛(思いやり)や惻隠(共感)、廉恥(羞恥)、礼節(辞譲)、自尊心(矜持)、道徳判断(善悪の分別)などがあります。これらを人間が全て捨て去り、他者の権利や尊厳を無慈悲に蹂躙する時、人間は『自暴自棄』の状態にあると『孟子』では語ります。人として生きるべき当たり前の道から逸脱し過ぎないようにする為に大切なこととして、『自分なんて何の価値もない、何もかもどうでもいい、どうせ真面目にやったって馬鹿を見るだけだ』というような自暴自棄(投げやり)にならないこと、自暴自棄によって自己の醜悪さや卑劣さに圧倒されないことにあるのではないかと思います。自暴自棄とは、自分で自分を投げやりな態度で無責任に見捨てることであり、自分の人生や尊厳の最大の擁護者であるはずの『自己』が自分を見捨てれば、人間は簡単に倫理的・社会的・人間的にどこまでも転落し続けていくことになるでしょう。
孟子曰く、自ら暴なう(そこなう)者は、与(とも)に言うあるべからざるなり。自ら棄つる(すつる)者は、与に為すあるべからざるなり。言(げん)、礼義(れいぎ)を非る(そしる)、これを自暴と謂う。吾が身、仁に居り(おり)義に由る(よる)能わざる、これを自棄と謂う。仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。安宅を曠しく(むなしく)して居らず。正路を舎てて(すてて)由らず。哀しきかな。
[口語訳]
孟子がおっしゃった。『自分で自分の価値を損なう者は、一緒に有意義な言葉を交わすことが出来ない。自分で自分の尊厳を放棄した者は、一緒に価値ある行動(仕事)をすることが出来ない。言葉を口にすれば、礼節や道義を誹謗中傷すること、これを自暴という。自分のような人間には、仁愛(思いやり)を持って道義(善悪の分別)に従った行動ができないということ、これを自棄という。仁とは人間が安楽に住める家宅であり、義とは人間が歩くべき正しい道である。仁の安らかな家を留守にして住まない、正しい道を捨て去ってそれに依拠しない、何と哀れなことであろうか。』
自分自身がどんなに誠意と礼儀を尽くして相手のために行動しても、相手の嫌がらせや暴言、攻撃がやまないという場合について、孟子は以下のように答えていますが、これは話し合いによる相互理解が通用しない嫌な相手に対する『君子、危うきに近寄らず』の処世訓的なものとも言えますね。
孟子曰く、君子の人に異なる所以(ゆえん)は、その心を存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、礼を以て心を存す。仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬す。人を愛する者は、人恒に(つねに)これを愛し、人を敬する者は、人恒にこれを敬す。ここに人あり。その我を待つに横逆(おうぎゃく)を以てすれば、則ち君子は必ず自ら反するなり。我必ず不仁ならん。必ず無礼ならん。この物奚ぞ(なんぞ)宜しく至るべけんや、と。その自ら反して仁なり。自ら反して礼あり。その横逆由(なお)是くのごとくなるや、君子は必ず自ら反するなり。我必ず不忠ならん、と。自ら反して忠なり。その横逆由是くのごとくなるや、君子曰く、これ亦妄人(もうじん)なるのみ。此く(かく)の如くあれば、則ち禽獣と奚ぞ択ばん。禽獣に於いてまた何ぞ難ぜん、と。是の故に君子には終身の憂いあるも、一朝の患いなきなり。乃ち(すなわち)憂うる所の若きは則ちこれあり。舜も人なり、我も亦人なり。舜は法を天下に為して、後世に伝うべくする。我は由未だ郷人(きょうじん)たるを免れざるなり。是は則ち憂うべきなり。これを憂えば如何(いか)にせん。舜の如くせんのみ。夫の(その)君子の若きは、患いとする所は則ち亡し(なし)。仁に非ざれば為すなきなり。礼に非ざれば行うなきなり。一朝の患いあるが如きは、則ち君子は憂いとせず。
[口語訳]
孟子がおっしゃった。『君子と人民との違いは、本心を保持できるか否か(道義に従う心を養えるか否か)ということにある。君子は仁によって本心を保持し、礼によって本心を保っている。仁者は人を愛するし、礼を身に付けた者は人を尊敬する。他人を愛する人は、他人もいつもその人を愛する。他人を尊敬する人は、他人もいつもその人を敬う。今、ここに人がいるとする。その人が、自分に無礼・乱暴なことをしてくるとすると、君子は必ず自分について反省をする。私に仁愛(思いやり)がなかったのではないか、私が無礼をしたのではないかというように。この人はどうして、こんなに無礼で乱暴なことをするに至ったのだろうか?、と。己を反省してみて、仁愛の心を失っていなかった、礼節を失ってもいなかったことが分かった。
それなのに、まだ相手は自分に対して横柄で乱暴な振る舞いを仕掛けてくる。君子は更に自省して、私の忠実(正直さ)が足りなかったのではないかと考える。反省してみて、自分が忠実であったことが分かる。しかし、それなのにまだ相手は自分に無礼・乱暴な態度を取ってくる。事がここに至ると、君子はこう言うだろう。「この人は、常軌を逸した狂人である。このような状態では、(人間といえども)鳥獣と何の変わりもないではないか。鳥獣に対して、何を非難しようというのか?(非難しても無駄である。)」と。この為、有徳の君子は、生涯にわたる重要な事柄に対する憂慮はあるが、ある日起きた取るに足りない些事(さじ)に悩むことなどはない。君子が生涯にわたって憂慮する重大なことは次のようなことである。舜帝は人間である。私もまた人間である。舜帝は人倫の法を天下に広めて、後世にその良い影響を伝えた。なのに、私は、まだただの村人に過ぎない。これは憂うべきことである。これを憂えばどうするべきなのか?舜のように正しい行いをするだけである。そういった君子は、必要以上の悩みとするような問題がない。仁でなければ何もしない。礼でなければ何もしない。ある日起こった取るに足りない問題のようなものは、君子は全く悩みとしないのである。』
いずれにしても、基本的な教育や学問の目的として、言語的・情緒的コミュニケーションによって問題を解決できる理性的(道徳的)な人間を養育することがあり、犯罪抑止という意味では、自己の利己的欲求が他人の生命・身体・安全を侵害する場合にその欲求をセルフコントロールできる自制心・廉恥心を形成することが重要なのだと考えます。『アメリカ合衆国における個人の自衛権』の記事でも書きましたが、法治主義による刑罰による威嚇(犯罪抑制)は、『道徳規範(良心・共感・罪悪感)が内面化していない人間=超自我の形成不全がある人間』には全く効果がありません。
何が正しくて何が間違っているのかということを、『自己の快楽・利益・趣味(自己の功利的な損得勘定)』の観点からしか判断しない冷静沈着(冷酷無情)な確信犯の人間には、基本的に法律による抑制や刑罰による威嚇の効果は殆ど望めません。極端なケースでは、社会憎悪を抱いて自暴自棄(狂信的・硬直的)になっているテロリストのような人物が、犯行後に自殺を覚悟しているような事件では、死刑や懲役刑による犯罪抑止効果は全く期待できません。良い行動に『報酬(正の強化子)』を与えて、悪い行動に『罰則(負の強化子)』を与えるというような外部強制的な行動の制御(オペラント条件づけ)には一定の限界があり、本当に他者を傷つけないという確信は、形式的な遵法精神よりも内面的な自己規制によって生まれると言えます。 
 
孟子の性善説に基づく徳治主義と混迷する現代社会の道徳教育

 

儒教の始祖である孔子に次いで著名な大儒(たいじゅ)として孟子(B.C.372-B.C.290頃)がいるが、孟子は孔子と比較すると剛毅果断(ごうきかだん)であり直情廉恥(ちょくじょうれんち)の傾向の強い人であった。剛毅果断とは、言い換えれば、不正に対して憤慨する気質、悪事を見逃さずに懲罰の為の行動を即座に決断できる気性の激しさのことを指す。曲学阿世(信念を曲げるおもねり)を嫌った孟子は、王者の師であることの自意識に根ざして活動し、『仁義・礼節の道』を君主に啓蒙する士としての自負心が非常に強い人物であった。
孟子は良く言えば、他人と曖昧に妥協することがない意志堅固な思想家、実践優位の政治家であったが、悪く言えば、他人の下風に立つことが出来ずに現実の政治状況と調和することが難しい人物でもあった。魏や斉といった当時(戦国時代)の大国の君主であっても、自分を格下に見て粗末に取り扱うような素振り(自分の献策を特別に重視しない雰囲気)があれば、すぐにその国を立ち去ることにやぶさかではないという狷介さ(気難しさ)を見せたことからも気位の高さは並々ならぬものを感じさせる。
卑屈さを嫌う孟子の自尊心の強さを表すエピソードとして、斉の宣王の一方的な朝廷への呼びつけに不快感を覚え、仮病を使って拒否したことがある(『孟子 公孫丑章句』)。孟子は自分を一家臣のように朝廷に呼びつけようとする斉の宣王に対し、『(中国の覇者となった)殷の湯王・斉の桓公は、自らに天下(華北)を掌握させた伊尹(いいん)・管仲(かんちゅう)を師父として厚遇したのに、管仲をも越える自分を呼びつけるとはどうであろうか?』と批判を述べた。これは、孟子が、暗黙裡に自分を伊尹や管仲の立場になぞらえていたことを示しているが、徳治主義を宣王に勧めた孟子は、実際には伊尹・管仲のような大きな功績を挙げているわけではない。政治の実績如何に関わらず『王者(仁者)の師』としての礼遇を要請したという点で、孟子の誇大傾向のある自尊心を窺わせる興味深い逸話である。
それらの事から、門人(弟子)を抱えるようになってからの孟子は、その政治活動の大半を通して、君主の一家臣として待遇されることを嫌ったと考えられる。孟子は、君主の家来としての待遇ではなく、王者たらんとする君主の教師としての待遇を求めて、侠客のように門弟を伴いながら各国を遍歴・遊説した。しかし、魏(梁)・斉・宋・薛(せつ)・滕(とう)などを巡ってその思想が採用されず、魯の平公との謁見が成立しなかったことで現実の政界における活躍を諦めて引退した。現実の政治を変革できない自己の天命を悟った孟子は、故郷の鄒(すう)へと帰り弟子の育成と著作の記述に専念してそのまま紀元前290年頃に没したとされる。無論、孟子とて王者の師たらんとするような狷介孤高(けんかいここう)の気概を一般的な徳として勧めたわけではなく、『孟子』の離婁(りろう)章句には自分自身の生き様に矛盾する『孟子曰く、人の患いは、好みて人の師と為るにあり(人間の悩みは、自ら好んで他人の師になろうとすることにある)』という言葉が記されている。
現代的なイメージでは、儒家というと議論好きの儒学者集団や観念的な思想家集団を想像しやすいが、侠客的な行動家としての一面を持っていた孟子は、議論や思索だけではなく実際の政治状況に自らの思想(道徳主義)を反映させることを重視したようである。儒教の政治思想に孟子が与えた影響では、天命思想に易姓革命の観点を持ち込んで、『民意(民衆の支持・同意)』こそが政治権力の正統性(天命)の根拠であることを明確化したことが最も大きいであろう。儒教(儒学)は、林羅山(1583-1657)の朱子学が徳川幕府の御用学問(国学)であったことや君臣の義など身分秩序の重要性を説くことから、封建主義体制と相性の良い学問であると一般的に考えられているが、『孟子』の内容には民主的な立憲政治(立憲君主制)につながるようなアイデアが所々に散りばめられている。
孟子の易姓革命(王朝の姓が易わり、天命が革まる)の独自性は、臣下が主君を実力で討伐する王朝の簒奪行為(叛逆行為)に『倫理的な正統性』を付与したことにある。孟子は、臣下が主君を討つ放伐(ほうばつ)による王朝交代は、天命が革まった(あらたまった)証拠であり、天命は人民の政治に対する意志によって定まるとした。通常、儒教が理想とする政権交代は禅譲(ぜんじょう)と呼ばれる平和的な権力の委譲であり、その原型は、聖王である尭(ぎょう)帝から孝悌の徳を極めた舜(しゅん)帝への禅譲であった。『孟子』にある政治権力の根源は、人間にとって不可知の『天』にある。儒教では、天の命令を拝受した天子(君主)が国家を統治する権限を持つと考えるが、『天』を『神』に置き換えれば、中世〜近世に至る西欧の王権神授説と類似した考え方である。
(史実であるか否かは緒論あるが)夏の桀・殷の紂といった暴君の代表とされる古代の王を例に引いて、人民を苦しめ搾取した不仁の君主からは天命が去っているので、桀王・紂王は既に正統な君主とはいえず、ただの悪辣な一夫(匹夫)に過ぎないと孟子は述べた。『孟子』の「尽心章句」では、「民衆→社会(社稷)→主君」の順番で重要性が下がると語られていることから、孟子の政治思想には絶えず、政治に対する民意と主君の仁義(深い思いやり)が基盤に置かれている。主君への忠義や身分の区別の大切さを説きながらも、民衆の同意や支持がなければ政治権力の正統性がないという点では、『孟子』は封建主義と民主主義のアマルガム(融合)と見なすこともできる。
『孟子』から生まれた四字熟語(故事成語)には、五十歩百歩や自暴自棄などがあるが、特に『孟母三遷(もうぼさんせん)・孟母断機(もうぼだんき)』といった基本教育の大切さを伝えるものが目に付く。子どもの教育振興に努めた孟子の母は賢母として有名な人物だが、孟母三遷とは『孟子の母が、子どもの教育環境を整備するために、墓所の近く・市場の近く・学校の近くへと三度の引越しをした』ことから生まれた故事成語である。孟母断機とは『学問の道を途中で諦めて帰郷した孟子の前で、孟子の母が織りかけの機(はた・おりもの)を断ち切った』ことから生まれた故事成語であり、一度始めた学問を最後まで貫徹することの重要性と学問を途中で放棄することの無意味さを説いている。
儒学では、子弟の教育と学問の継続を非常に重視するが、その尚学精神は隋代から始まる科挙(官吏採用試験)の学歴エリート主義(読書人階級の官僚化)へとつながり、恐らくは、近代日本(明治〜終戦)の東京大学・京都大学など帝大を頂点とする学歴階層社会の構築にも影響を与えているだろう。無論、市場経済における評価が社会の中心的な価値指標となりつつある現代の自由主義社会では、学歴や学問、勉強の行為そのものに高い価値が置かれることはなく、戦時中までの日本のような「学生さん」の特権的身分は廃絶されて久しい。大学のレジャーランド化や無秩序化、平均的な大学生の学力低下が指摘されてから随分と経つし、少子化による全入時代が始まると受験競争的な学力(暗記&応用)を培う勉強の必然性はなくなっていくかもしれない。
また、ファッションや恋愛、音楽、娯楽、ウェブなどへ生活時間の大部分を注ぎ込んでいる現代の若い人たちの中には、勉強・読書・思索・内省するという儒学的態度がライフスタイルから完全に排除されている人もある程度いるだろう。私は現代の10代〜20代の若者の勉強量や読書量が全体的に低下しているとは思わないし、実際に若い人達と話す機会があると自分が読んだことのないような興味深い本を読んでいる人も随分といて、自分・社会・経済・善悪などについて深く考え抜いているという人も少なくない。SNSや2chを含むウェブ界隈を見ていても、若い人たちが倫理や原理を問う哲学的な議論を熱心にやっていたり、社会問題と真摯に向き合って自分なりの生き方を模索していたりする。
ウェブ内部のテキストを読む分量を勘案すれば、恐らく情報化社会に生きる現代人がそれ以前の人たちよりも、有意義な文章(何か感得するもの・自分の判断に影響を与えるものがある文章)を読んでいないということは言えないだろう。勿論、自我が脆弱な人(精神発達が未熟な人)が目にすると悪い影響を受ける『書物・画像(写真)・映像・音楽』というものもあるので、テキストや映像作品を目にすればするほど良い影響があるとは保証されない。現代社会においても、知識・技能の習得や仕事・経済の適応などに役立つ各種の情報を受け取る頻度そのものが劇的に減ったわけではないが、『知識教養や専門技能を高める知識学習』と『人間関係や行為規範を学ぶ体験学習』のバランスが崩れている部分は若干あるだろう。
学校教育段階における学力格差も問題ではあるが、それ以上に、常識感覚(権利感覚)の分断や道徳規範(善悪の分別と衝動の抑制)に関する意識の違いのほうがより大きな問題になっていると思う。現代の学校教育では『知育・体育・徳育』のバランスについて言及されることが多いが、特に、現代日本の教育改革において問題になっているのは『道徳教育(徳育)』の取り扱いである。戦前の教育勅語を根幹とする道徳教育が、全体主義的な体制強化につながる国民の思想統一に流用されたことの反省から、戦後の学校教育では『何が正しくて、何が間違っているのか?』という根本的な道徳を教えることに躊躇してきた。もしくは、儒教道徳を前提とする戦前の道徳教育は、上位の者(親・君主・目上)に下位の者(子・家臣・目下)が無条件に従属することを強制する身分差別的な封建道徳であって、現代の自由主義社会には似つかわしくないという批判もあるだろう。
しかし、儒教道徳について、身分差別を絶対視する封建的な道徳とだけ考える必要がないことは、孟子の易姓革命の思想を見れば明らかである。仁義(思いやりと正しさ)・礼節(礼儀と節度)を失って子どもを虐待(酷使)する親は、既にして親として敬愛される資格を失っており、国民を苦しめ搾取する政府は、既にして政府として支持される資格を失っているのだから、『孟子』を踏まえた道徳観は、民主主義社会にも応用可能なある程度の普遍性を持っている。儒教に内在する正しさの本質は、突き詰めれば、仁義と礼節を持った人間に敬意と好意を抱くところにあるのであって、仁義と礼節を持たない人間にそれらを持つように迫るところに道徳的な教化の可能性があるのである。
更に踏み込んで言うならば、儒教の基本理念は、戦時中の日本のような帝国主義との親和性をそもそも持っていない。孟子は『仁者に敵無し』と繰り返して語り、軍事力によって敵国を屈服させるような君主は真の王者ではなく、自己の内面に仁愛の徳を備えた君主、つまり、その徳によって自発的に敵を服従させる者が真の王者だと語っている。故に、暴力や武力によって相手を実力行使で打倒する覇者は、儒教の説く理想の君子とはほど遠いのであり、仁義や礼節によって相手から積極的な尊敬と協力を勝ち取り『戦うことなく勝利する』のが理想の君子なのである。 
孔子や孟子が語る徳治主義(性善説)による王道政治などは絵空事の理想論に過ぎないというのは、確かにその通りであるが、弱肉強食の論理が当然のように罷り通っていた戦国時代に徳治主義を説いたことに孔子・孟子の面目躍如があるのではないだろうか。現代日本でもここ数年、強者が弱者を利用したり見捨てたりすることが当然であるかのような行き過ぎた自由主義の価値観が瀰漫(びまん)しつつあり、『正直者が馬鹿を見る・力のない正義は無力である』といった仁義・礼節・勇気を無効化する言説に説得力が生まれてしまっている。『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれよ・郷に入れば郷に従え・類は友を呼ぶ』といった格言が、負のフィードバックとして現代日本の社会生活や犯罪行為(不正行為)、人間関係に作用している状況もある。
前首相の小泉純一郎氏は、江戸時代の儒学者・佐藤一斎の『春風接人・秋霜自粛(他人に優しく・自分に厳しく)』という言葉を引いたが、バブル崩壊以降の日本の政治的指導者のあり方がそういった道徳的理念を踏襲しているものかは甚だ怪しい。自分の道義と信念を貫く直情径行の人であった孟子は、不正や悪事に対する勇気の肝要さについて、『自ら反みて縮ければ(なおければ)、千万人と雖も吾往かん』(『孟子 公孫丑章句』)という言葉を残している。自分自身を反省してみてまっすぐであれば(正しいと確信できれば)、敵が一千万人であっても私は対決するという孟子らしい言葉であるが、実際にそういった場面で行動できるかどうかは分からないものの、こういった気概に触れることには教育的意義があるだろう。
自分自身がそういった超然とした勇気を自在に発揮できる自信は私などにはないが、そういった勇気を奮励できる個人に対して敬意や感謝を持つという心性、可能であれば正しい行為に自己犠牲を払う人間を加勢する気構えを大多数の人間が持っていることが大切なのだと思う。儒教的な価値観と集団戦争が結びつかない理由の一つとして、儒教の倫理規範の多くが、個人の内面の認識に依拠していることが挙げられる。相手を圧倒する人数で徒党を組んで、暴力的に物事を決するという態度は、儒教の人間観からはかなり遠いものである。
私は、比較的多く儒教の漢文古典に親しむ機会があったが、(もし、初等教育で漢文を踏まえた道徳教育を行うのであれば)君子を指向する儒教道徳そのものを盲目的に現代社会に復刻するのではなく、儒教道徳の中から現代的な人間関係や普遍的な行為規範(善悪の分別)に応用可能なエッセンスを抽出すると良いのではないかと思う。自己暗示的に繰り返し漢文を素読させるような教育には余り意味はないが、漢文古典に記された事績や逸話、信念、価値観(善悪の区別)に対して自分がどう感じるのかということこそが重要である。
儒教(儒学)に限らず宗教・古典・漢籍・伝承(慣習)は、昔の人間が考えた道徳規範や秩序感覚であるから、現代の私達の価値観と食い違いがあるのは当たり前であり、あらゆる教科書は、ある程度の正しさは確認されていても、絶対的な正しさを保証するわけではない。但し、(国家や宗教が関与すると複雑になるが)個人間における基本的な善悪の判断基準は、およそ万人に共有されるべき普遍性を持つと考えられる。社会適応に必要な是非分別を教える初等教育では、そういった極めて原則的な行為規範、踏み外してはならない道徳原則(端的には、利己的な欲望・感情のために他者の権利(生命・身体・財産・尊厳)を侵害してはならないこと)だけを分かりやすく教えれば良いのではないだろうか。
儒教の日常的な人間関係における規範で最も重視されるのは、『仁徳(他者への思いやりの範囲の拡大)』を踏まえた『己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ』の心構えであり、『孟子』で言えば『惻隠の情(共感的な忍びざるの心)』に基づく『ジュッテキの心の実践(他人の不幸や困窮を見て、いてもたってもいられない心の行動化)』と考えられる。
『論語』『孟子』『荀子』をはじめとする儒教古典から修得できる人倫(人間が踏み行うべき道)の精髄とは、「仁愛」であり「廉恥心(自己の羞恥を知る心)」であり「礼節」である。孟子の徳治主義の前提にある性善説とは、法律によって悪事を抑制するのではなく、道徳(倫理)によって悪事を自制する本性(可能性)を人間が生まれながらに持っているという仮説である。よく性善説について、人間は生まれながらに善となる本性を持っているのだから、どのような成育環境にあっても必ず善人に成長する観念的なお伽噺(おとぎばなし)とする批判もあるが、性善説というのは『善となる可能性』を誰もが生来的に持っているという仮説に過ぎない。
儒学が庠序(しょうじょ=学校)の建設と学問・教育を重視する第一の理由は、この『善となる可能性』を適切な道徳教育によって開発しようと考えるからであり、『刑罰を伴う法律』ではなく『廉恥を伴う道徳』によって社会秩序を維持することを願うからである。韓非子や李斯(りし)などに代表される法家の思想は、人間は外部から刑罰や暴力で威圧されていなければ悪いことをするという性悪説を前提とする。性善説を踏まえた『孟子』の儒学では、効果的な教育・学問・内省を与えることで、『文明化(社会化)されていない禽獣のような人間』を『文明化(社会化)された分別のある人間』へと成長発達させられると考える。
孟子曰く、『若し(もし)その情は、則ち以て善と為すべし、乃ち(すなわち)所謂(いわゆる)善なり。若し夫の不善を為すは、才の罪に非ざるなり。惻隠の心は、人皆これあり。惻隠(そくいん)の心は仁なり、羞悪(しゅうお)の心は義なり、恭敬(きょうけい)の心は礼なり、是非の心は智なり。仁義礼智は、外より我を飾るに非ざるなり。我固より(もとより)これを有するなり、思わざるのみ。故に、求むれば則ちこれを得、舎つれば(すつれば)則ちこれを失えりと曰えり(いえり)。或いは、相倍しして算なき者は、その才を尽くす能わず。』
性善説や徳治主義は現実社会の治安を維持できない理想論ではあるが、実際に社会で生活する人の大半は、性善説と徳治主義で自分の行動を決定していると言える。日本では特に、法律で規制されていて罰則があるから凶悪犯罪を犯さないという人は殆どおらず、多くの人は善悪を分別して他人を傷つけたり他人から奪うことに良心の痛み(抵抗感・罪悪感)や自己嫌悪があるから、あるいは、自分の家族や知人の信頼を裏切り迷惑を掛けるから、そういった行動を敢えて選択しないのである。自分自身や家族の生活が究極的に困窮した状況では、生理的欲求の要請に負けて犯罪に及んでしまう人もあるだろうが、その場合でも、強盗殺人や誘拐・拉致監禁・暴行といった他人の生命や身体を直接的に傷害(拘禁)する凶悪犯罪に手を染める人は少数派ではないだろうか。
『孟子』や『論語』に内在している道徳主義的な行為規範の現代的な応用可能性について、書き足りない部分をもう少し補足するかもしれません。 
 
「王・民之大欲・大恐」
 指導者の自意識・強迫観念と中国人の精神伝説の深層

 

「王之所大欲」と「商人的な現実主義」
指導者に必要な鷹の眼と蟻の目、「高瞻遠・明察秋毫」の複合能力を論じた1)が、「明察秋毫」の奥義を吟味したい。明晰に見抜く意の「明察」は、日本語では相手の推察を誉める表現と成ったが、出典の『韓非子・孤憤』の「智術之士、必遠見而明察」は、「闘智」(駆け引き)の緊張感に満ちる。一方の「秋毫」は、『角川大字源』の解の通り、「@秋になって生え変わった獣の細い毛。A転じて、わずかなもの、微細なものをいう。」
前出の「合抱之木、生於毫末」の「毫末」は、次の「秋毫之末」と通じる。自然法則を以て大事への細心な注意を逆説的に促す老子の此の命題に対して、「明察秋毫」の語源―『孟子・梁恵王上』の譬え話は正論へ導く逆説だ。「“有復於王者曰:‘吾力足以挙百鈞、而不足以挙一羽;明足以察秋毫之末、而不見輿薪。’則王許之乎?”曰:“否。”“今恩足以及禽獣、而功不至於百姓者、独何與?(略)王之不王、不為也、非不能也。”」
吾が力は百鈞(千5百`)もの物を挙げられるが、一片の鳥の羽は挙げられぬ;眼は秋毫の末端でも見分けられるが、車に積んだ薪は見えぬ、と王に対して申す者が居るなら、王は其を許すだろうか、と孟子が訊くと、王は「否」と答えた。其なら今、王の恩恵が動物にまで及んでいるのに、民衆に及んでいないのは、一体何故であろう、と孟子は指摘した上で、王が真の王者に成れぬのは、為さぬ所為であり、出来ぬ為ではない、と諭した。
昨今の日本の為政者の不作為も此の結論に当て嵌まるが、相手を論理の罠に嵌める孟子流は鮮やかだ。作為的な論理の矛盾は兵家の「詭道」の堂に入るが、元より中国思想の殿堂は矛盾の論理や論理の矛盾の集合体だ。斉宣王を喝破した「不為也、非不能也」の前段で、彼は「無傷也、是乃仁術也。(略)是以君子遠庖厨也」と言う。『礼記・玉藻』の「君子遠庖厨、凡有血気之類弗身践」を踏まえた言葉には、二重の虚実皮膜が隠れている。
禽獣を料理する厨房を君子が遠ざけるのは、殺生に立ち会う事への良心の抵抗だが、血腥い場面を忌避しつつ其の肉を後で確り食べるのは、名分と実益を両立させる「如意算盤」(虫の良い計算)か。「無傷也、是乃仁術也」は、民衆の評価で心を痛める事は無く、王の思考・行動は仁の心の働きだ、とも解される2)。多少の流血は厭わず世論で心を痛めぬのも仁の内だと言うなら、ニクソンの「指導力=倫理的には中性的な物」説と通じる。
宣王は其の「遠庖厨」論に対して、『詩経』の「他人有心、予忖度之」(他人の心中に事が有れば、我は之を忖度できる)を引き、「夫子之謂也」(正に先生の事を言うのだ)と感心した。
続いて孟子は治世の指針に、『詩経』の「刑於寡妻、至於兄弟、以御於家邦」([周文王が]先ず夫人に典範を示し、其の徳化を次いで兄弟に及ぼし、遂に国家を制御した)を持ち出した。
孔子も尊んだ経典を軸とする此の対話は、高次の物と言えよう。
領袖の「心跡・心態」への透視も、領袖の哲学的・詩的な発想−素質と同じに次元が高い。
孟子は一連の議論を経て、「王之所大欲」を突き止めた。彼の「高瞻遠・明察秋毫」の着眼も、土地を拡張し秦・楚を朝拝させ中国に君臨し四夷を服従させたい3)王の最大な欲求も、巨細を跨ぐ全的な規模を持つ。王の遣り方(戦争)で其の欲を満たすのは、木に攀じ登って魚を求めるのに等しい、との結論4)はともかく、孟子は大欲自体を否めぬ。
『梁恵王上』の冒頭は前に詳述した通り、国益に寄与する助言を期待した梁恵王と、利より仁義が大切だと説く孟子の遣り取りだ。「功不至於百姓」の表現でも判る様に、孟子は功利や功利への追求を闇雲に斬る事は無く、俗物的な「急功近利」を高次の大欲とは認めぬだけだった。利に関する両者の考えも鷹と蟻の対に見えるが、日本流の「一寸の虫にも五分の魂」とも通じる様な、「蟻」の字形の小虫・大義の組み合わせは意味深長だ。
蟻は昔の中国では草と共に民の代名詞であり、毛沢東時代でも西側から中国人の形容に使われた。勤勉・密集性の点では、「日本人=工蜂」論と同様に妥当だが、蟻の「虫・義」は中国的な道義の土着性や泥臭さの表徴に成る。「工蜂」の「工」は中国語で、「稼働」「職人」「技芸」「精巧」等の多義を持つが、「功」の「工・力」と「利」の「禾・(刀)」は、共産党中国の主体―労・農・兵と歴史の複線―建設・闘争と吻合する。
共産党中国の建国祝典の「群衆遊行」では、指導者階級―労働者の方陣が常に先頭に出る。
建党時代の貢献と開拓の意味で、鉄道労働者の一団が好く先導に当るが、同じ象徴性が高いのは紡績労働者だ。「文革」後期の毛夫妻は遼寧省No. 2 と成った姪・毛遠新に、商都・上海の現役紡績女工と結婚させた。留学先のソ連の重機械工場の労働者と結ばれた蒋経国の浪漫史とは偶然の一致だが、其の革命の理想の陰に対の思想が見て取れる。
毛は上海紡績工場の幹部・王洪文を林の次の後継者に選んだが、衣食住行の首と尾に当る紡績と鉄道は、仕事の性質と従業員の主な性別で陰陽、剛柔の対を成す。蒋経国のソ連時代の同窓・の「鋼鉄公司・綿裏蔵針」と重なるが、功績・業績の「績」の「糸・責」は周恩来を連想させる。人民大会堂で外賓を前に電線コードの縺れを解す彼の仕草は、康煕の心得の「耐煩」(煩雑に耐える)5)、乱麻解消の重責を負う為政者の天性の発露だ。
「豪・毫」の複合能力を言う熟語には、「胆大如虎、心細如髪」と有る。戦災の中で豪腕を見せた林彪も、名前と反対の繊細さを持った。毛の寿命を現実的に見積もった前出の演説の中で、彼は政変の陰謀を察知する心構えとして、「見微而知著。月暈而風、礎潤而雨」を引いた。
宋の『辨奸論』の主眼には、正に彼の様な「欺世而盗名」の輩を見抜く事が有る6)が、此の名文を「生存啓示録」7)とした事は、善悪を超える大物の幅の証か。
孟子の「力挙百鈞・明察秋毫」の比喩の説得力は、此の2つの超人的な力量を欲する「潜台詞」(言外の言)にも在る。毛は自分の性格を「虎気・猴気」の複合としたが、後者の代表格・孫悟空の秘密兵器は、耳に内蔵し「千鈞棒」へ膨らめる針と様々な分身を生む毫毛だ。其処にも窺える「鋼鉄公司・綿裏蔵針」の真髄は、「辛抱・深謀・心棒」に収斂できる。台湾問題を百年先送りにしても構わぬ毛の構えも、左様な「大而化之」である。
諺の「心急吃不了熱豆腐」(急いては熱い豆腐は食べられない)の通り、乱麻を一遍に片付けようとすれば、却って身動きが取れなく成る恐れが有る。時機到来を忍耐強く待ち周辺の障害を潰して行く内に、荘子が王の養生の手本とした庖丁の「迎刃而解」の可能性が出て来る。
「大欲は無欲に似たり」の極意は、大きな目標の為に小さい衝動を抑える事だ。「熱読『孟子』」の相場も、「言利」と同音の「厳」(冷厳)の裏返しと思える。
前出の「主要矛盾・次要矛盾」の弁証法を提起した『矛盾論』(1937)は、『実践論』(同)と共に毛の哲学の双璧を成す。世界(現実)に対する人間の認識の目的は、客観的な解釈ではなく能動的な改造に在る、と彼は主張したが、其の目的意識は「両論」の対にも現われる。両方とも書斎の中の瞑想の産物ではなく、戦争から生まれた戦争の指針だ。日本語の「机上の空論」に当る「紙上談兵」も、紙上の軍事談義・演習の意である。
「文革」前期の正・副統帥の対の伏線も、林彪が言う「毛沢東思想大学校」の原型も、「両論」の完結の年に設立し、毛が教育委員会主席を兼任し林が学長を務めた抗日軍政大学に遡れる。軍事・政治人材を養成する此の機関の教育方針―「堅定正確的政治方向、艱苦朴素的工作作風、霊活機動的戦略戦術」(確固として正しい政治の方向、艱苦を厭わず質実な仕事の流儀、臨機応変な戦略と戦術)は、毛沢東の死後も不易の価値でいる。
日本と国民党を負かした此の強味の首・尾2項は、上記の毛の鷹揚・応用を貫く。「抗大」の名称に於ける軍・政の順位は、中共の「銃から政権が生まれる」原理、及び此を説いた毛の軍事独裁と符合する。軍の情報責任者を対米交渉の先鋒に当てたのは、政治や外交を一種の戦争と見做す証だ。毛曰く、革命は御馳走ではなく、「温良恭倹譲」では駄目だ8)。ニクソンも文字通りの真剣勝負だからこそ、「只争朝夕」に共鳴したのであろう。
「談判」の字形の「言・炎」「半・」にも、外交儀礼の和気とは裏腹の殺気が隠し持たれる。其の「礼・兵」と対を成す小平時代の鍵言葉―「儒商」も、上記の秘密交渉に投影が見られた。「其它部分可以商量」(他の部分は相談に応じても構わぬ)、と言う毛の指示の中の「商量」は、和製漢語の「相談」と違って、商談・衡量の意味が強い。米国側の修正要請を承認せぬ彼は、中国の根強い商人的な現実主義を遺憾無く発揮した。
邱永漢は『中国人と日本人』(1993)の中で、両国の国民性を「商人」対「職人」と断じた9)。
台湾から日本に亡命し直木賞を獲った後、投資の成功で「金儲けの神様」の誉れを得た国際人であるだけに、十分な説得力を持つ。其は半ば一種の常識と成ったが、日本の一部に有る商人根性も見過ごせぬ。毛の裏の一面に対する上記の概括も、高野孟の『田中角栄の読み方』(1983)の中の「商人的なリアリズム」10)を借用した物だ。
再び「文・野」の文脈と繋がるが、報道人の著者は建前だけに生きる昭和天皇と本音だけに生きる田中角栄との相剋を抉り出し11)、両者が代表した価値体系や精神風土等を次の図式で示した12)。2つの「戦後民主主義」の右の方は、「戦後功利主義」とした方が良いと思うし、「安岡正篤」と対応する「?」は、「小野賢治」も考えられようが、明快な分類に違いない。毛沢東や共産党中国に就いても、此の陰陽、虚実の照射は示唆に富む。
「山不厭高、水不厭深」「山不在高、有仙則名。水不在深、有龍則霊」「文革」の大義名分には党・政府内の官僚主義の打破が有ったが、大衆を動員して支配構造の変革を図る毛と劉少奇の衝突にも、低学歴の土着派と留学経験者の都会派のずれが隠見する。 

1)本論考は本誌11 巻2号以降の、当代日中の進路や指導者の条件に就いての系列論文の一環だ。重複を避ける為に、既出の記述は一部「前出」等の形で処理し、註も一部敢えて省略した。
2)中国古代の諸説に基づいた内野熊一郎の訳註。内野熊一郎『新釈漢文大系4 孟子』、明治書院、1962 年、30 〜 31 頁。
3)原文は「辟土地、朝秦楚、莅中国、而撫四夷也。」
4)原文は「以若所為、求若所欲、猶縁木求魚也。」
5)江沢民・朱鎔基等の賞賛を得た二月河の長篇小説・『雍正皇帝』には、臣下に雷を落とす康煕帝が壁に掛かった自筆の「耐煩」を見て怒りを抑えた、という場面が有る。(上巻『九王奪嫡』、長江文芸出版社、1991 年、88 頁)
6)『辨奸篇』の作者は蘇洵とされるが、批判対象の王安石の変法は蘇の逝去(1066)の3年後に始まったので、明らかに其の名に託した偽作だ。(闕勲如他訳註『古文観止』下、湖南人民出版社、1982 年、342 頁)王安石の事績は系列論文の前にも出たが、其の大胆な政治・経済改革が中国では長い間に貶され、逆に現代や海外で高い評価を得た事は、中国の改革者の宿命を暗示する現象だ。一方、『辨奸篇』は服装や生活習慣から人の性質を断定する乱暴さや、蘇洵逝去の丸9百年後の林彪の引用にも拘らず、「見微而知著」の命題が今だに生命力を失っていないのは、中国思想と中国人の幅広さの証か。
7)蘇暁康・羅時叙・陳政『「烏托邦」祭―1959 年盧山之夏』、中国新聞出版社、1988 年、373 頁。
8)「革命不是請客吃飯、不是做文章、不是絵画繍花、不能那様雅致、那様従容不迫、文質彬彬、那様温良恭倹譲。」(毛沢東『湖南農民運動考察報告』、1927 年)。「文質彬彬」の出典―孔子の「質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子」は、系列論文の前に出た「文・野」の対極の由来だ。
9)邱永漢『中国人と日本人』、中央公論社、1993 年、64 頁。
10)11)12)高野孟『田中角栄の読み方』、ごま書房、1983 年、48、22、38 〜 39 頁。 
日本人の明と暗「ヒロヒト的なるもの」と「カクエイ的なるもの」
「ヒロヒト的なるもの」 / 五ヶ条の御誓文􀀀アメリカ民主主義􀀀薩長政治􀀀新潟市􀀀太平洋􀀀都市􀀀太平洋ベルト地帯􀀀東海道新幹線􀀀東名高速道路􀀀東大法学部卒􀀀官僚支配􀀀お上􀀀霞ヶ関􀀀クリーン三木􀀀検察􀀀明治世代􀀀安岡正篤
「カクエイ的なるもの」 / マキャベリズム􀀀義理・人情􀀀河井継之助􀀀長岡市􀀀日本海􀀀農村􀀀日本列島改造論􀀀上越新幹線􀀀関越自動車道􀀀小学校卒􀀀住民運動(or越山会)􀀀百姓􀀀目白􀀀金権田中􀀀被告人􀀀大正世代テ
但し、此の左右の対極に当て嵌まれば、毛の明暗、清濁の同居が目に付く。マルクス主義の意識形態と中国の伝統観念、共産党の指導原理と封建帝王の権謀術数、三木武夫の廉潔な理想と田中角栄の泥臭い願望……等の両面が、彼の中に混合していた様だ。
毛は右派が好きだと語り13)、 も笹川良介の類いの者と親しかった。本音を隠さぬ故に付き合い易い面も有るが、此の図式の右の性質を彼等も持ち合わせていた14)。相剋の「両難」を難無く解消し相生へ導く其の複雑系は、中国思想の原型の表徴・「陰陽魚」の、黒の中に白が有り白の中に黒が有る左右対称の様相を呈す。こんな重層性と「跨度」は、「左右逢源」(左右何れの道でも源に逢う。転じて、何方道上手く行く事)を可能にする。
「文革」後の体制が呼び掛けた「一切向前看」(全て前向きに)は、民衆に「一切向銭看」(全て金に目を向ける)と言い換えられた。経済優先の路線は結果的に、人々の「心中賊」―拝金主義を呼び醒ましたが、際立たされた毛の「離見の見」との「利権の見」は、本当は2人とも兼ね備えていたのだ。高野孟の図式の「建前」の部類に「明治世代」が出たが、「『論語』と算盤」論で有名な明治の渋沢栄一も、矛盾の複合体である。
日本資本主義の創始者なる彼は、「英雄好色」を地で行く発展家だが、妾宅に居る時人が急用で訪ねて来ると、渋沢が此処に居るはずが無い、本人がそう言うのだから間違いない、と言って追い返した15)。言行の整合性を慮る性豪の言行は、当時の建前の重みを窺わせるが、滑稽で真摯な虚実皮膜の演出は、「一切向前(銭)看」と絡んで、金銭絡みの場合は「一切合財」、他の場合は「一切合切」と表記する日本語の魔法16)を連想させる。
孔子の「君子喩於義、小人喩於利」の通り、『論語』と算盤は対蹠の物事であるが、渋沢栄一の精神を継承した松下幸之助の『繁栄の為の算数』17)に因んで言えば、道徳律の原理の深層の人間学の算数も『論語』の主眼だ。『論語』と算盤は中国人社会の二重基準の表徴とも成るが、彼の「経営の神様」が繁栄の算数に用いた中国の先哲の「先義後利」18)の様に、『論語』と算盤は各自の内部の二重基準に因って、相互内包の関係にも在る。
太極見立ての「陰陽魚」図の黒・白の二部は其々、反対側の色の小さい点を中に含む。「画龍点睛」を擬って言うと、此の異色の眼睛は「龍」・中国の複眼と思える。魚にも雲や胎児にも映る2つの流線型の図柄から、 の「黒猫・白猫」論も思い浮かぶ。格好の善し悪しに拘らず、鼠捕りの能力・成果を価値の尺度とする此の極論の是非や、目標の中身の問題はともかく、進取・収穫を図る目的意識こそが、中国思想の究極で不易の目玉だ。
『実践論』『矛盾論』と同時期の1939 年、劉少奇は延安のマルクス・レーニン学院で、『共産党員の修養を論ず』との題で講演した。後に62 年修訂版の絶大な人気は、翌63 年に「只争朝夕」と詠んだ毛に権威への危機感を抱かせたが、道徳律を勧める此の書の中に、搾取階級の「聖賢崇拝」の虚偽の証として、或る老秀才の本音が引き合いに出された。曰く、孔子の言葉で自分が実行できるのは、「食不厭精、膾不厭細」だけだ19)。
飯は幾ら白くても宜しく、膾は幾ら細かくても宜しいとの拘りは、例の劉伯承の「吃肉」哲学と通じる。日本語の「厭(飽)きない」・「商い」の同音20)と結び付ければ、商人的な執着さえ感じる。中国語の「暈」(肉料理)・「素」(精進料理)は、色欲を含む欲望の有無・強弱の譬えに成る21)が、素晴らしい音楽を聴いて3ヵ月も肉の味を知らぬと言う22)孔子は、肉を価値の代名詞とする即物性に相応しく、大欲を潜める面も有った。
聖賢・孔子も政見を持ち、政権への関心を強く覗かせた。其の意味でも彼は例の図式の中の昭和天皇に近いが、田中角栄の同類には曹操も思い当る。毛が格別に重宝した『三国演義』にも出たが、彼の「蓋世之英雄、乱世之奸臣」は、「山不厭高、水不厭深」と大言を吐いた。孔子の「不厭」と対で捉えると面白いが、孔子の「何陋之有?」で結ぶ唐の文学者・劉禹錫の『陋室銘』には、「山不在高、有仙則名。水不在深、有龍則霊」と有る。
窮乏に見える環境や生き方も道徳さえ有れば、安住や自己満足が出来ると言う23)孔子の清貧志向を超えて、此の名文の冒頭の2句は、表題の質素と裏腹に至高の贅沢である。山の貴さは高さに在らず、仙人が住めば有名に成り;水の貴さは深さに在らず、龍が潜めば霊験が有る(神秘に成る)、とは正に画龍点睛の極致だ。「抗大」校訓の「堅定・霊活」や「『論語』・算盤」と重なる「名・霊」は、「龍の国」の精髄の「点睛之筆」を成す。
山本健吉は『いのちとかたち―日本美の源を探る』(1981)の中で、聖地・奥熊野への巡礼体験(同12)から萌した折口信夫の日本研究の題目に触れた。其の「日本人の恐怖と憧憬との精神伝説」24)の着眼は、指導者の自意識と強迫観念を切り口にした此の中国研究にも適応できる。「陰陽魚」の目玉めく指導原理や価値体系の要は煎じ詰めれば、系列論文を貫いて来た「名・命」だが、此の対概念の指向性は憧憬・恐怖に他ならぬ。
「安心立命」「安身立命」の対は、再び絡んで来る。前者は『角川大字源』と『広辞苑』で其々、「(仏)信仰によって天命を悟り、心を安らかにし、悩まないこと」、「心を安らかにし身を天命に任せ、どんな場合にも動じない。立命は儒教より出た語」と解される。『角川大字源』の「立命」は、「天から与えられた本性を全うして、損なわないこと。“安心立命”〔孟子・尽心上〕“殀寿不レ弐、修レ身以俟レ之、所ニ以立u命也”」と成る。
日本で精神修養の格言に好く使われる「安心立命」に対して、中国で広く知られている「安身立命」は、生活と精神の拠り処を保つ意だ。此の成語は『辞海』の解の通り、「指生活和精神有所依託。『景徳伝灯録』巻十“湖南長沙景岑禅師”:“僧問:学人不拠地時如何?”師云:“汝向什麼処安身立命?”」超俗のはずの禅門・禅問の即物性も興味津々だが、原典に出た長沙は朱鎔基の故郷であり、同じ湖南省から毛沢東と劉少奇が出た。
「食不厭精」に対する老秀才の共鳴と同様、「安身立命」がより「市場」(市民権)を得たのは、高次・低次の欲求の最大公約数を示唆する。「立命」の出典なる孟子の語録は、短命や長命に関わらず、身を修めて天命に従う事の勧めだ。其の命題の出発点と帰着は命であり、正論の前提は命の長短の大事さの裏返しだ。中国人の現実主義の根底には、同音の「現世主義」が有る。来世が無いからこそ、生への執着も生々しい願望も強いのだ。
俗物の「好色・好勇・好貨」の「貨」と通じて、「貪」の字形の「今・貝」は現金主義の表徴に映る。今の中国に於ける拝金志向の氾濫は、貧困や禁欲への反動だけでなく、即時・即物的な生活態度の根強さも要因だ。但し、現世至上主義と相関する「己身中心主義」は、直ちに利への一辺倒を意味せぬ。個我を軸とする時・空体系の中で、肉体が消えても精神的な存在は継続し得るし、親族や集団への打算的な義理も結果的には義に繋がる。
「子曰、舜其大孝也與。徳為聖人、尊為天子、富有四海之内。宗廟饗之、子孫保之。故大徳必得其位、必得其禄、必得其名、必得其寿。」(孔子曰く、舜は誠に偉大な孝の徳を身に付けた人物だ。其の道徳は聖人並みで、其の尊貴は天子並みで、普く天下を治めた。死後は宗廟に盛大に祀られ、子孫が之を代々継いで行った。故に、偉大な徳は必ず相応の地位を得、必ず相応の俸禄を得、必ず相応の名声を得、必ず相応の長寿を得るのだ。)
『中庸』の此の一節が示す原理は、同音の「徳・得」の弁証法的な相関、及び徳に由って得る究極の欲求だ。其の最終目標は4つの「必得」と「饗之・保之」の通り、現世に於ける地位・待遇・名誉・寿命の獲得や維持、永世に亘る歴史の評価と後代の継承だ。栄達・名誉の青写真を見せながら大徳を説く此の儒教の「祖典」の説法は、「保値」(元本確保)・増殖の収益予想を提示した上で、投資や投資対象の保持を勧める手法と似ている。
儒家は禁欲の克己や限定的な自己完結だけでなく、人生の限りを超越する完結無き自己実現も志すのだ。生命の有限に対する自覚が強い程、価値の無限化を目指す強迫観念が生まれ易い。
欧陽修の「酔翁之意不在酒、在乎山水之間也」に因んで言えば、「山・水」を享受し且つ「名・霊」も頂戴するとは、虚実両立の大欲である。「有名則霊」(名が有れば霊験が有る)の等式が成り立つなら、美田が無くても子孫に美名を残すだけで十分だ。
台湾の小説家・高陽の『胡雪岩』は、商売熱が高まった数年前の大陸で「経商必読奇書」として風靡した。乱世の中で独り息子を喪い女に見限られた江湖豪傑が、主人公の清末の安徽豪商から再起を勧められた時の「心跡」の表白が、「民之所大欲」として注目を引く。彼は前出の「人死留名、豹死留皮」を引き、「総要做件把別人做不到的事、生前死後、有人提起来、翹一翹大拇指、説一声“某人有種”、 才是不辱没爺娘!」と言う25)。
凡そ人間は他人が遣れぬ事を1つぐらい遣らねば成らず、其で生前や死後に誰かが其の人を思い出して、親指を立てて「凄い(立派な)奴だ」と言えば、此こそ両親を辱めない結果に成る、という彼の人生観・栄辱観は、現代の作家の創作であるだけに、時代や海峡両岸の体制の違いを超える普遍性が強い。「生前死後」の補足で浮き彫りにされた「人死留名」の重層―存命中に名声を得た上で其を死後に留める願望が、第一の要点である。 

13)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録』第1部『栄光の日々』、松尾文夫・斎田一路訳。1978年(原典同)、小学館、329 頁。少なくとも現在の米国では、左派の者が口先だけで言っている事を、右派の者なら実行できる、とニクソンが其の席で言った。
14)政治的な遺書に当る「文革」初期の夫人宛ての書簡の中で、毛は反共の右派への対抗意識を顕わにする一方、敵が権力を握る可能性に触れた。其の件を彼は反動的な言論に近い物で、当面は公表できないと述べた。又、紅衛兵の造反の行き過ぎと勢力の膨張を抑える為に、彼は自分こそが「保皇派」の最大の「頭子」(親玉)だとも言った。
15)末永勝介『近代日本性豪伝 伊藤博文から梶山季之まで』、番町書店、1969 年、203 頁。
16)多数の文例が有りながら、何故か使い分けの法則の明記も此に関する言及も、筆者の広範な渉猟の範囲内では見当らない。
17)松下幸之助の随筆の題。『文芸春秋』に6回に亘って連載された後、1965 年に『なぜ』(文芸春秋)に収録された。
18)出典は『荀子・栄辱篇』の「先義而後利者栄、先利而後義者辱」。
19)『論共産党員的修養』、『劉少奇選集』上巻、人民出版社、1981 年、111 頁。
20)新村出編『広辞苑』(第4版)の「商い」の解には、「(東雅に、「あき」は秋で、農民の間で収穫物・織物などを交換する商業が秋に行われたのによるとある)」と有るが、日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』の「商う」の解には、「二A漢字「商」に秋の意があるとする説は疑わしい〔日本の言葉=新村出〕(略)Dアキは飽く意。互いに利を得ることから〔和句解・名言通〕」と有る(第1巻、小学館、1972 年、147 頁)。因みに、中国の陰陽原理では、五音の中の「商」と五時(季節)の中の「秋」は、同じ五行の「金」の系列に属する。
21)惚気話を聞いて「御馳走さま」と言う日本的な表現も、陸機『日出東南隅行』が出典の中国流の「秀色可餐」(女性の容姿や景色の美しさが食べたく成る程に溢れる様)と同じく、色・食同源の「通感」の産物か。対して、『広辞苑』の「秀色」は「美しい色」だけだ。但し、中国の場合は肉と欲の直結がより感じられる。例えば、下種の小咄は俗に「暈段子」と言い、宴席の余興で其を披露する慣習や奉仕は今も行なわれている(李佩甫の小説・『羊的門』、華夏出版社、1999 年、269 頁)。20 世紀中国の漫才の第一人者・候宝林は1961 年、周恩来の指示に従って、文化遺産を保存すべく、『王二姐思夫』等の「暈段子」を録音したが、死後に無断で発売された。97 年、遺族が名誉を守る為に訴訟を起した。(『東方時報』2000 年5月31 日)最晩年の毛は憂欝を解消する為に候宝林の漫才の録画を観賞した、と噂されている。張賢亮の小説・『習慣死亡』には、国家を代表する出版社が毛の為に特製した大字本の『笑話大全』が登場し、 中身の品位は《PLAY BOY 》や《PENTHOUSE》の写真に遥かに及ばぬと言う(『張賢亮愛情三部曲』、華芸出版社、1992 年、472頁)。翻って、「意淫」(精神的な淫行)の肴を言う日本語の「おかず」も、色・食相関の発想か。
22)「子在斉、聞韶楽三月、不知肉味。曰、不図為楽之至於斯也。」(『論語・述而』)
23)「子欲居九夷。或曰、陋如之何。子曰、君子居之、何陋之有。」(『論語・子罕』)「子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也。」(『論語・雍也』)「徳不孤、必有隣。」(『論語・里仁』)
24)山本健吉『いのちとかたち―日本美の源を探る』、新潮社、1981 年、11 頁。
25)高陽『胡雪岩』、浙江文芸出版社(改題=『一代巨賈胡雪岩』)、1994 年新1版、下642 頁。「経商必読奇書」は此の版本テクストの表紙の謳い文句。 
「有種・没種」の栄辱観念と「無情・有情」の虚実皮膜
論題を始め中国語の原文を多用して来たのは、外国語に直すと隠れ味が消える処に奥義が好く在る故だ。上記の台詞の中の「有種」も、中国独特の表現である。例の訳は人を誉める語義だが、第一義の「度胸・気骨が有る」は、「有種的跟我来(上来)」(肝っ玉の有る奴は付いて来い[掛かって来い])等、「激将法」(遣る気を刺激する[敵を挑発する]手段)の用例が多い。反対語の「没種」は、意気地・遣る気が無い意の侮辱語だ。
国交正常化の交渉で日本側は、蒋介石は戦争賠償の請求を放棄したが、共産党政権はどうしようかと故意に訊ねた、との風説が日本に有る。相手の自尊心を燻る「激将法」は、「気度」(度量)の評価に敏感な中国人の急所を突く物だが、「気度」ならぬ気概・度胸を種に見立てる発想は、勇気を根本と為す発想に拠る。孔子の「三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也」、財産や名声より勇気の喪失を致命的とするゲーテの説も、同じ価値観である。
中国人は「勤労・勇敢・知恵」を民族の美徳として誇るが、勇気に譬える「種」は「禾」偏に由って、種を丹念に育てる農耕民族の勤勉とも対応する。例の壮語の中の親指を立てて誉める仕草は、多くの国・民族が共有するが、「拇指」は中国的な言い方だ。「手・母」の字形から成り「母」と同音の「拇」は、日本流の「親指」と通じながら、母親の根源的な役割が強調されるが、物質世界の「万物之母・万物之始」(老子)には種は有る。
「十指連心」(10 本の指は心臓に繋がりどれを傷めても痛い)と言うが、指の名称も心性の表徴たり得る。「食指」(人差し指)や「無名指」(薬指)から、「民以食為天」や「無用=無名」の観念が思い当る。此の系列論考の最大な鍵言葉は正に「命・名」だが、「秋毫之末・輿薪」の対と関わって、生存の資本の確保を説く格言には、「留得青山在、不怕没柴焼」(青い山[山林]さえ残っていれば、薪が無く成る心配は無い)と有る。
対応する日本語の「命有っての物種」は、ダーウィンの名著の中国語訳名・『物種起源(原始)』と重なる。甲斐や見込みが無い事を「没種」とする罵言は、物種が生命の起源を成す事とも関連する。人種・種族の「種」と符合するが、「有種」は古代にも後嗣が居る意が有り26)、「種子」は「種」の他に、中国医学の用語として妊娠を促進する事にも言う27)。「没種」の無能・不能は、「胆量・骨気」(胆力・気骨)と別の性力も含む物だ。
毛は共産党員を種に譬え、土地なる人民と結合し其の中に根を下ろし開花するよう唱えた28)。
準投獄の労働改造を体験した作家・張賢亮の小説の中で、作業中に其の語録の歌を歌う「文革」時代の囚人たちが、「種子」の処では改造所の外の女性に色目を使う29)。小平が食べ物の乏しい戦争中に御馳走の話で「精神会餐」を楽しんだ30)が、同じ「苦中尋楽」の此の「性飢渇」の「宣泄」(発散)と、人間の本性の食・色の両面から対を成す。
訪中のニクソンを遇す文芸晩会で、バレエ・『紅色娘子軍』が上演された。結局は賓客の不評を買った31)が、異和を承知で見せた「東道主」の意図は、劇中劇や劇外劇として見処に成る。中米正常化交渉の初回会談の場を人民大会堂の福建(台湾と向き合う省)の間に設定した按配を思い出すまでもなく、台湾に次ぐ中国2番目に大きい島・海南島で国民党軍を負かした赤軍女性中隊の実話に基づく此の作品は、政治的な暗示を込めた物だ。
蒋介石を盟友として来た米国への挑発を兼ねたとしても、中国の「礼・兵」の二刀流の伝統に適う。中共の好戦性の露呈と捉える向きも有ったが、具体的な対敵闘争の思惑はともかく、毛が共産党の哲学とした「闘争哲学」の習性は否めぬ。ニクソンは『スパルタカス』を連想した32)が、作品の「貧苦大衆」対「地主悪覇・支配者」の図式は、林彪等が利用した英雄史観を撃破する為、毛が2年前に打ち出した「奴隷創造歴史」論と合致する。
『国際歌』の冒頭は中国語で、「起来、飢寒交迫的奴隷!起来、全世界受苦的人!」(立ち上がれ、飢寒で逼迫する人々よ。立ち上がれ、全世界の苦しむ人々よ)と言う。「起来、不願做奴隷的人們!」で始まる『義勇軍行進曲』が共産党中国の国歌と成った事は、国造りの原点―奴隷に成りたくない人々の蜂起に符合する。秦始皇が中国を統一し秦が農民反乱で滅びた史実は、奴隷が英雄と共に歴史を創造する主体たり得る原理の証だ。
「受苦的人」の最初の訳は「罪人」だったが、英雄と受難者、革命家と罪人は好く紙一重の差しか無い。毛・周が「匪賊」として首が蒋介石に懸賞を掛けられたが、古典小説の4大名作を観ても、『三国演義』の劉備と曹操は指名手配を受けた反逆者で、『水滸伝』の宋江と武松は殺人犯で、武松が殺した姦通罪犯・西門慶は『金瓶梅』の主役と成り、『紅楼夢』の作者・曹雪芹の祖父は政争に巻き込まれて家宅捜査・罷免の処分を受けた。
「民以食為天」と好く言うが、「官逼民反」(官が圧迫し民が造反すること)が繰り返す限り、「飯」と同音の「反」も民の天性でいよう。毛の「猴気」は反逆精神とも解せるが、「有種」の気骨は反骨を含める物か。悪道地主の下僕から赤軍女性中隊長に成長した呉清華も、入隊の頃は孫悟空の悪戯っぽさが有った。彼女は敵の一網打尽を狙う待ち伏せで、例の仇の姿が現われた途端に激昂し、命令を待たず勝手に発砲し計画をぶち壊した。
火力が最大限に発揮できる圏内に敵が深入りしてから攻撃を仕掛ける成功例は、「革命現代様板劇」(革命的現代的模範劇)・『紅色娘子軍』が風靡した最中に、解放軍の男性中隊長・孫玉国が見せた。1969 年3月の中ソ辺境戦争で、敵の戦車と兵隊が百b、50 b前に迫って来ても彼は動じず、30 b程しか距離が無い処で始めて「開火!」(射て)と命じた。黒龍江省珍宝島の防衛を遂げた敢闘で、彼は一躍に国民的な英雄と成った。
毛の指名に由り4月1日に開幕した党大会に出席し、殊勲を報告する栄誉が彼に降って来た。
演説の中で其の伝説的な接近戦を誉めた毛は、孫の話の途中と終了後に立ち上がり拍手を送った33)。僅か4年後の次回党大会で毛は脚の無力化の為に、閉幕式の後で自力で立ち上がれなかった。71 年の林彪事件で受けた打撃は此の対照にも窺えるが、対ソの警戒から秘密裏に開幕した其の大会は、毛−林同盟の頂点であり解消への転換点であった。
2回目の珍宝島戦闘の当日、毛は指導部の会議で前線の善戦に興奮したが、敵はモスクワが直に指揮したはずだと林は分析した34)。後者の冷静は前者の情熱と対に成るが、其の直観は結果的に当った。大戦中に休養先のソ連で対独作戦の智恵を貸した事が林の神話の一部だから、過去の同志の手の内を熟知したとしても不思議ではない。ソ連にしても後の中越辺境戦争の際の中国と同じく、自ら訓練した相手から喫せられた苦杯が痛かった。
僅か2年後の林のソ連への亡命は不可解に見えたが、両党・両国の一卵性双生児めく相剋相生を考えれば、越南共産党の政治局委員が中越戦争後に北京へ亡命した事と同じに、情理に適う節も感じられる。毛は林の逃走を天が雨を降らす事や娘が嫁に行く事の如く、自然な成り行きとして受け止めた。其の「天要落雨、娘要嫁人」の俗語は、「東辺日出西辺雨、道是無情却有情」という、蜀の童謡を敷延した劉禹錫の『竹枝詞』を連想させる。
東の方は日が出て西の方は雨で、情(「晴」の掛け言葉)が無いと思ったら情は有る。男女の駆け引きを言う此の駄洒落は、字形・「諧音」の言語遊戯ながら、中国的な発想の根幹―中国語の奥義を内包する。日本を「二重言語国家」と規定する書家・石川九楊は、日本は日本語が構造的に秘めた洒落・駄洒落に由って生まれた国だと言った35)。言語に類似の祖型がより顕著に見える中国は、更に複雑な「両面多重言説国家」と視るべきか。
「晴・陰」で表情や境遇を表わすのは日本語も同じだが、東西の明暗の同居は中国的な「跨度」である。内山完造は和気靄々な宴会の後の商談で冷徹・老獪へと豹変する中国流を、自分に気が有ると田舎者の男に錯覚させる宿屋の京女に譬えた36)。笑顔と非情の「鉄面」37)、恥をかき捨てる鉄面皮の変幻自在は、時間差に伴う無情と有情の虚実皮膜か。右手で握手しつつ左手で相手の顔を殴る二刀流38)も、慇懃・無礼を兼ねる「陰陽怪気」だ。
世界の東西冷戦の最中の中国と米国、台湾海峡両岸の冷戦中の江沢民と李登輝の間の秘密交渉も、「東辺日出西辺雨」の観が有る。自分は死ぬまでも民族主義者だと言う「叛逃」前の林彪の声涙倶に下った独白(後に詳解)、国境を越えた彼に致死の「神拳」を下さなかった毛の逡巡は、「道是無情却有情」の部類に入ろう。指導者の無情の半面の有情の極め付けは、熾烈な戦火や苛酷な試練、多難・多彩な人間戯劇の中で零す涙に他ならぬ。
「北極熊」超大国と「強龍」老大国が激突する際、ブレジネフが現場に近い極東軍司令部を視察した。自ら激励したヘリコプター空挺部隊の突撃ぶりを聞いて、感動の余り涙を流し極東軍司令も泣いた。総書記が叫んだ「偉大だ!立派だ!」39)は、正に「有種」と通じる賛辞だが、涙は彼の個性とロシア人の特質を感じさせる。「男児有涙不軽弾」(男児は涙が有っても軽々しく零さぬ)と言う様に、中国の男性は此の際は普通泣かないのだ。
此までに触れた3人の偉人の涙を反芻すると、内山完造に釣られて零れた魯迅の孤独の涙、秘書が起草した毛沢東宛の始末書の中の僭越な文言で触発された周恩来の悔しい涙、革新宰相の興亡を描く『商鞅』の観劇の際の朱鎔基の共感の涙は、倶に存在の堪え難い重圧に因る疑似極限状況の中の真情の流露だ。中国の歴史の創造者たちの心底の「孤憤」精神や、中国の社会や精神風土に張り詰めた「悲涼」40)の雰囲気も、其処に窺われている。
「見微知著・著微兼求」:「全体への意志+細部への執着」日本で児童向けの科学博物館を見学した朱鎔基は、こんな物を中国で造る事こそ私の生涯の夢だ、と涙を浮かべて1時間も熱弁を続け周りを驚かせた41)。戦争中に瀕死の子供を目撃した毛は泣いて命の綱のペニシリンを差し出し42)、戒厳令発布の前夜に天安門広場で学生たちを見舞う趙紫陽は涙ながら手遅れを謝った。3人3様の涙は魯迅の『狂人日記』の「救救孩子」で共通するが、朱の興奮は心の扉を開く貴重な瞬間として特筆すべきだ。
失脚の直前に或る仲間から糾弾された胡耀邦は、槍玉に上がった過去の発言の真偽を質すと、自分は憶えていると言われて、信じられぬ表情で泣き出した43)。悔しさを表わす漢語の「委曲」(「委屈」の類義語)は、委細・物事の奥底の意味も有るが、内面の最も微妙な感情の露出は、「見微而知著」の「衆妙之門」たり得る。「晴・雨」は表情の明と暗、笑顔と涙の譬えにも成るが、威厳・矜持の常態に比べて非常態の涙は稀少価値を持つ。
上記の一幕を語った胡の元秘書は、項羽も自殺の場・烏江畔で大泣きしたに違いないと言う44)。『史記・項羽本紀』の「涙下数行」は四面楚歌の垓下の場面だが、さて置き『史記』の人物との二重写しは興味深い。人物誌から成る此の民族誌の生命力は、同じ中国人の憧憬・恐怖の精神伝説たる野史小説と一緒で、正史記録の真面目な乾燥無情とは一味違う、真面目を覗かせる生動有情にも在るが、形象思惟−表現は人文科学の利器にも成る。
1973 年に『若き実力者たち』で頭角を顕わした記録文学作家・沢木耕太郎は、『ニュージャーナリズムについて』45)の中で、60 年代の米国に生まれ70 年代後半から日本でも多用されるに至った表題の新概念を詳解した。講釈の起点は、代表作の『汝の父を敬え』(G.タリーズ、’71)、『ベスト&ブライテスト』(D.ハルバースタム、’72)と『最後の日々』(C.バーンスタイン、B.ウッドワード、’76)の共通項だ。
彼は3作を貫く志向として、先ず「“全体”への意志」を挙げた。其々マフィア一族の興亡、戦争への関与という国家の命運に関わる政策の推移、大統領と其の周辺の崩壊を描いた此等の作品は、全体を描き尽くそうとする欲求が底に潜んでいない物が無く、著者が望んだのは事件や人物の断片的な報告ではなく、一つの世界を現前させる事なのだ、と述べた。付け加えるなら、中国流で言う「重大題材」の規模も全体への意志を求める物か。
次に挙げられた志向は、「“細部”への執着」である。曰く、著者たちは固有名詞や日付の類いばかりでなく、風景、天候、建物、人物の表情、服装、口調、視線、煙草の吸い方、酒の飲み方といった、凡そ犯罪捜査官くらいしか関心を抱きそうもない細部に強い執着を示し、細部の面白さを起爆剤として物語を推し進めて行こうとしているかの様だ。其の巨・細の二極は巡り巡って、「高瞻遠(力挙百鈞)」・「明察秋毫」の対と重なる。
新報道主義文学の3作の「教父」、戦争への関与・決断、最高権力者の命運と絡むが、偉大な教師・父親・領袖として尊ばれた毛も戦中に「豪・毫」の両立を見せた。『走下神壇的毛沢東』(権延赤、1989)に下記の好例が出るが、其の直前にニクソンの『領袖們』の語録が引かれた。「通常、我們対戦時領袖的評価高於和平時期的領袖、部分原因是因為戦争必然帯来戯劇性的事件。」「戦時的挑戦使領導人所顕示出来的品格易於衡量。」神壇から下りた毛の素顔を語る元護衛長・李銀橋は、回顧談の中で此処だけ他者の論著を引き、一理有ると賛同した46)。戦時の指導者が平時の其より高く評価される一因と言う戦争の戯劇性、指導者の素質が顕われ易い戦時の挑戦の効用に対する共感・共鳴は、彼や延安に懐胎された47)軍専属作家の記録者・権も強く持つのだ。『LEADERS』の中国語訳が原著の翌年(1983)、日本語版より3年早く出た事48)事も、示唆的である。
筆者が此の著書を論考の手掛りにし、21 世紀の日本に有益な1冊にも推した49)のは、平和不感症に罹かった今の此の島国が最も欠乏した養分の為だ。ニクソンは周恩来を些事への配慮の集積が偉大さを作る典範とする一方、細事に気を配りながら決して其に溺れず、一本ずつの樹に注目しつつも森を見失わぬ彼の大局観を讃えた50)。森羅万象を眼底に収め尚且つ一本の樹も疎かにせぬ毛の対極の流儀は、李銀橋が口述した戦の例に集約される。
珍宝島戦闘とも重なる話だが、国民党の大軍が30 里(1里= 0.5 `)、20 里、10 里前と、党中央機関の所在地へ攻めて来た際に、或る身辺護衛が3回毛の部屋に入り敵情を伝えた。大事な思考の時に邪魔を許さぬ毛は、遂に机を敲いて怒鳴り追放まで宣告した。だから何だ、10 里8里とは話に成らん、俺の処は960(平方)`も有る;君は「婆婆媽媽」(諄い)、此処には向かんから、さっさと消えて外の歩哨に異動しろ、と51)。
全国の面積を持ち出して焦眉の急を顧みぬのは、「天地転、光陰迫」にも拘らず「一万年」を論じるのと同じだ。但し、部下の諄さに立腹した彼であるが、其の語録は「文革」中に復唱される時好く、「毛主席諄諄教導我們」(毛主席は諄々に斯く教示して下さいました)と言う枕詞が付けられた。「大智大勇」を支える「綿裏蔵針」を証す様に、彼は同じ時期の戦役の前に前線司令官・彭徳懐に電話し、塹壕の位置まで細かくで指示した52)。
本論文の冒頭で言及した指導者に必要な鷹の眼と蟻の目は、正に全体への意志と細部への執着だ。相反するかに見える其の両面は、沢木耕太郎には矛盾しない物と思われた。彼は小田実の「“鳥瞰図”的な人間・“虫瞰図”的な人間」と言う物の見方の類型化を用いて、新報道主義とは虫の歩きの中で鳥の視線を持ち、虫に由る「鳥瞰図」を書く事だと断じた。其の手本とされたのは、『最後の日々』の次の断片だ(中略は筆者に由る)53)。
「キッシンジャーはその小部屋に入って行った。何時も見かけて来た様に、大統領は椅子に座っていた。ニクソンは彼をこの国で最も尊敬される人物にしてくれたのであるが、長官はどうしても彼に好意的に成れなかった。二人は暫く腰を下ろして、様々な事件、旅行、共に検討した決定などの思い出を語り合った。大統領は飲んでいた。辞任する心算だと言った。(略)二人は静かに話を続けた―歴史、辞任の決意、外交問題に就いて。」「その後、大統領は辞任が可能かどうか確かでないと言った。(略)/キッシンジャーはそれに答えて、大統領の功績、殊に外交における功績を数え挙げた。/“歴史は、現代の人間よりも私を好意的に扱ってくれるだろうか?”とニクソンは訊ねた。涙がその目に溢れていた。/勿論です。確かですよ、とキッシンジャーは言った。全て終れば、大統領はその達成した平和への貢献者として記憶されるだろう。/大統領は崩折れて泣いた。」沢木は従来のジャーナリズムの表現の例に、ジョン・ガンサーの『回想のローズヴェルト』(1950)の一節を挙げた。其の長文は紙幅の都合で割愛するが、真珠湾事件の際の主人公の沈着、衝撃に対する弾力性と勇気に就いての作者の語りを裏付ける形で、其の緊張を自信と統率力の証に捉える関係者の証言・論評が綴られている。共に米国を代表する報道人が其の時代の大統領に就いて書いた2作から、沢木は決定的な差異を見出した。
彼が言うには、『回想』がエピソードを連ねる事でルーズヴェルトを描こうとしているのに対して、『日々』は精緻でリアルな細部を持ったシーンを幾重にも重ねる事でニクソンを描こうとした;シーン(舞台・背景・場面・情景・及び其の全て)の描写は、人と人か物と物とが絡み合い言葉やエネルギーが交錯する事で生じる「場」を、一つの生命体として描く事だが、エピソードとは左様なシーンの干涸らびた残骸に過ぎないとも言える。
エピソードは常に細部の省略に由って象徴的な物に転化して行き、其の分だけ虚偽の混入し易い隙間を作ってしまうが、ニュージャーナリズムが執着する細部は、シーンの描写に由って始めて全体化されるのだ、と言うのが彼の新・旧表現法の線引きだ。徹底的な取材に依る「見て来た様な本当」の細部に支えられる瑞々しいシーンを、畳み掛ける様に展開する3代表作は、作品としての自立性、読み物としての力を獲得した好例だと述べた。
沢木はシーンの描写で文学の領域に踏み込んだ報道者の危険を指摘する一方、小説の技法の導入に由り論文を強烈で劇的なうねりの有る人間の物語に化したO.ルイスの試みを礼賛した。
調査とシーンの描写を積み重ねた上で、1民族の1階級の1家族の1日を見事に描いた『貧困の文化』(1959)の技法を、彼の文化人類学者は文学的な現実主義に対置して民族誌的な現実主義と呼んだが、其の文学への接近も新志向として認められた。
研究分野を比較文化や国際関係に置き換えても、2昔前に日本の新報道主義の旗手が提示した其の指針は有益だ。事実と心中はせず事実の利用を大事にする文学者と違って、報道者も学者も事実に対する倫理観の拘束で、想像力の駆使に基づくシーンの獲得も恣意に由るシーンの変形も許されぬ、という境界線を劃した上で、数拠や挿話を出所の明記が無い儘シーンに溶け込ませ、恰も神の口から告げる様な手法を、彼は「頽廃」と喝破した。
疑念や検証の余地も与えず其を事実として受容させる様な、事実の倫理観の喪失が始まれば、書き手はシーンの変形から創作へと進む果てに、事実らしき素材を使う小説家に成る、という変質の経路を示す沢木は、厳しい取材の持続にも耐えられず奔放な想像力の飛翔も出来ず、両者の安易な結合へ向う傾斜を軽蔑した。其の記録文学の領分の規律は、此の論考の物語化の「誠」(倫理観)と「言・成」(言説の成立)の結合にも刺激と成る。 

26)『辞海』「種A 人和其他生物的族類。如:伝種;絶種;黄種;黒種;白種。引申為後嗣。『晋書・劉頌伝』:“及趙王倫之害張華也、頌哭之甚慟;聞華子得逃、喜曰:‘茂先、卿尚有種也。’”」(1963 頁)
27)『辞海』「種子A」(1963 頁)
28)「我們共産党人好比種子、人民好比土地。我們到了一個地方、就要同那里的人民結合起来、在人民中間生根、開花。」(毛沢東『関於重慶談判』、1945 年)
29)張賢亮『男人的一半是女人』(1985 年)、『張賢亮愛情三部曲』、華芸出版社、1992 年、180 頁。
30)毛毛『我が父小平U 新中国誕生への道』、長堀裕造他訳、徳間書店、1994 年(原典= 1993年)、39 〜 40 頁。
31)32)「感情的にも、演劇上にも、作品は人工的だった。多くの点で、それは1959 年にレニングラードで観たバレー『スパルタカス』を思い出させる(略)。この『スパルタカス』は、最後に奴隷が勝つように書き変えられていた。」(前掲文献13、340 頁)
33)34)司任『孫玉国的昨天和今天』、司任主編『「文化大革命」風雲人物訪談録』、中央民族学院出版社、1993 年、151、150 頁。
35)石川九楊『二重言語国家・日本』、日本放送出版協会、2000 年、154 頁。
36)内山完造『表門と裏門』(初出=『おなじ血の流れる友よ』、中国文化協会、1948 年)、『中国人の生活風景』(東方書店、1979 年)所収(11 〜 12 頁)。
37)「鉄面」は日本語で「鉄面皮の略。(明治期の語)」(『広辞苑』)、専ら無恥を表わすが、中国語では無私の非情という肯定の意だ。「鉄面皮」に当る中国語は、「厚臉皮」「臉皮厚(老)」と言う。
38)香港の或る大物華僑の片腕を務める日本人が、中国人の建前と本音の乖離を形容した言。加藤鉱『ヤオハン 無邪気な失敗』、日本経済新聞社、1997 年、85 頁。
39)張濤之『中華人民共和国演義4 文化大革命』、伏見茂・陳栄芳・沈宝慶訳、冒険社・赤組、1996 年、309 頁。
40)此の語彙の出典は[南朝・宋]顔延之『秋胡詩』の「原隰多悲涼」。魯迅は『中国小説史略』(1924)の中で、『紅楼夢』の「悲涼雰囲」に言及し、1980 年代、文学評論家・黄子平等は此を20 世紀中国文学の雰囲気の鍵言葉に使った。
41)譚美『チャイニーズ・パズル』、新潮社、1994 年、26 頁。
42)51)52)権延赤『走下神壇的毛沢東』、中外文化出版公司、1989 年、39 〜 41、21、同頁。
43)44)胡耀邦の長年の秘書・趙延の言。上村幸治『中国権力核心』、文芸春秋、2000 年、54 頁。
45)1978 年。沢木耕太郎『路上の視野』(文芸春秋、1993 年)所収(42 〜 48 頁)。
46)前掲文献42、21 〜 22 頁。文中、ニクソンの言葉を一理有るとした李銀橋の「無不道理」は、「不無道理」(一理有る)の誤植か。
47)『走下神壇的毛沢東』裏表紙の紹介。作者は1945 年に延安で懐妊され(出産は内蒙古)、此が名前の「延赤」の由来と成った。
48)『領導者』、世界知識出版社。
49)季刊『あうろーら』(《21 世紀の関西を考える会》機関誌)21 号(近刊)特集・『21 世紀への100 冊』に、筆者は此の本と松下幸之助『商売心得帖』、石川九楊『二重言語国家・日本』を推薦し、入選した後者の解説を担当した。
50)リチャード・ニクソン『指導者とは』、徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986 年(原題『LEADERS』、原典1982 年)、251 頁。
53)『最後の日々』の日本語訳=常盤新平(文中明記)。 
同時代の死角・人間存在の深淵の「今・心・念」への追跡・把握
事実への倫理観はシーンの自由で豊富な獲得の枷と成るからこそ、取材を極限まで推進するより他に突破口は無いとの断念、其故のエネルギーが生まれるのだ;無数のドキュメントを探索し無数の人物に会見する事に由り、報道者は始めて虫の歩みの中で鳥の視線を持てる様に成る、と言う論断は彼の実践から出た真智だ。其の「断念」は断定的な観念へも転じられるが、自壊への自戒と共に彼が説いた磁界は、正に「念」の字形の今・心だ。
新報道主義の問題は何よりも技法だったが、其の技法に由って何を書こうとしたのか、と沢木は自問し結論の擁護と批判を展開する。彼等は小説家が手を付けかねていた現代という時代、詰まり「今」の雑多な対象に果敢にぶつかって行く冒険心を持っている;「今」に添い寝をし「今」を書くのが、米国で新報道主義が存立し得る条件だった;日本の多くの新報道主義的と呼ばれる作品には、最も重要な「今」を描く志が欠落している、と。
日本の書き手は過去の完結した、法廷で決着の付いた殺人事件の様な物を好んで扱い、此は日本で取材に拠ってシーンを獲得する事の絶望的な困難と無縁ではない;仔細に考察して行くと、書き物としてのドキュメントに対する日本人の考え方や、日本人の会話に於ける言葉の質といった文化の基底に至る問題に繋がって行く、と指摘した沢木は、此の別の大きな主題の提起を以て文章を結んだが、此の論考の方法論への示唆は一応出揃った。
沢木は多くの選手の奮闘と悲劇を描いたが、其の得意分野の体育でも儘有る様に、圏外の物事は好く新機軸の起爆剤たり得る。驚異的な百b競走世界新記録の創造・保持者をここ数年に輩出した米国の倶楽部の名伯楽は、無駄な出力を抑え前向きの加速を高めるべく最初の20 bでは頭を限界までに下げた儘で走る流儀を編み出したが、陸上競技の常識を破った其の遣り方は、日本の氷上競技の名手・清水宏保の滑り方から思い付いた物だ54)。
日本で論理武装が強化された米国の新報道主義の要素を此の論考に取り入れるのも、一種の「触類旁通」(或る物事から触発されて他を類推すること)だ。只、敗者の生き方・死に様や敗北の美学に拘り続けた沢木は、瀟洒趣味の世界に入り浸って久しいし、元より「重大題材」に縁遠いから、其の実践は手本に成るまい。時代への生動で尖鋭な照射に成功した第一級の現役記録文学作家には、彼と同じ1947 年生まれの佐野眞一が居る。
沢木は32 歳で『テロルの決算』に由って大宅壮一賞に輝いたが、日本の記録文学の此の桂冠が佐野に授けられたのは18 年も遅い(『旅する巨人』、1997)。早熟より晩成が似合う後者の大器は、不遇の頃の『昭和虚人伝』(1989)にも十分に窺える。前出の「裕仁的vs.角栄的」の図式と重なるが、昭和末期の怪しき成功者の実像を抉る6篇の中に、リクルート疑獄を惹起した江副浩正等の泡沫紳士の他に安岡正篤も登場した。
後者は高野孟の分類では昭和天皇側の表徴と成るが、占いブームの仕掛人・細木数子に魅了され利用された晩年の姿に、戦後総理群の思想的な指南役の裏面が端的に現われた。佐野は綺麗事の背後のドロドロを暴く反面、濁・暗の中の清・明にも視線を注いだ。其の一例は「大殺界の怪女」の介助に由る入浴だが、長年の怨念が解けて江副浩正と老いた父親が一緒に風呂に入る場面と合わせて、佐野流の人間模様の挿話・情景も真・心に迫る。
沢木は決着済みの殺人事件の類いを好む記録文学者に不満を表明したが、佐野の『東電OL殺人事件』(2000)は係争中の殺人事件を追跡した物だ。作者の主体的な関与に由る「私ノンフィクション」の実験を、沢木は『一瞬の夏』(1981)で見せた。馴染みのボクシング選手の復活戦を自ら仕掛けた手法は、事実の演出を排す従来の記録文学の型を破ったが、佐野も被疑者や其の故国の家族への密着を新作の今・生の目玉に用いた。
ネパール人の冤罪を晴らす為の奔走の末、一審裁判を勝ち取った日に作品は完結した。『一瞬の夏』の作者が情熱を賭けた復活試合は、選手の栄辱と作品の成敗に関わるが、『東電OL殺人事件』の場合は生身の死活にも係かる。現実との連動度は前者が高いが、迫力は後者の方が強い。事実との心中も辞さぬ程の懸命さと、事実と距離を取る賢明さを持ち合わせる佐野は、海外にも及ぶ舞台・物語の時空の壮大さと共に観念の規模を見せた。
著者は1997 年に起きた表題の事件を泡沫経済崩壊後の世相の表徴に捉え、敗戦翌年の坂口安吾の『堕落論』等を形而上的な照射の光源に使った。沢木は上記の文章の3年後の『再び、ニュージャナリズムについて』(1981)の中で、もっと自由でもっと猥雑でもっと重層的でもっと精力的な方法を唱えた55)が、現場百回の「虫歩」と超越旋回の鳥瞰の有機的な結合から成る此の大作は、観念と形態の両面で其の大欲の追求を実現した。
傑作や大作家の「高度・深度・広度・力度」は、長期熟成の蒸留酒の醇厚・奥深さや巨樹の年輪・強靭さの様な物だ。被害者が売春の為に立った東京・円山町への調査は、其の亡父の故郷(岐阜)や職場(東京電力)の接点に在る御母衣ダム(1960 年完成)に向わせ、両地の地形や歴史の類似から、高度成長の光と影が鮮やかに浮上した。其の地下水脈を突き止めた粘り強い行動力と柔軟な発想力は、『性の王国』の開花・結実と思える。
佐野は此の出世作(1981)の中で、全国屈指の歓楽街・雄琴等を通して日本の変哲の姿を活写した。又「裕仁的・角栄的」の図式と重なるが、昭和天皇が77 年に滋賀に行った時、国道の傍の「性処理工場団地」が竜顔を曇らせぬよう、役人が窮余の一策に経路を変えた56)。平成元年に援助交際の発覚で首相を辞めた男も同県の出身だから、虫の潜行と鳥の飛翔に由る予言書の観さえ有るが、作者の出発点と到達地の接点は其に止まらぬ。
大企業の管理職の裏面の真相と深層を探る此の作品には、『性の王国』の底無し穴と『昭和虚人伝』の伏魔殿、『カリスマ―中内とダイエーの「戦後」』(1998)の「“第二の敗戦”の世紀末的暗闇」57)が交錯する。海外の戦場で九死一生を得て戦後復興の中で急成長し、飽き無き商いを追い続ける末に破局へ向った中内は、生存本能と性感発信を企業の生命線としたが、此等は全て食欲・性欲を切り口にする此の論考と繋がる。
買春客の名を記す被害者の手帳に元上司なる故大平首相の息子が出た謎から、大平正芳が円山町の花街に足繁く通い愛人まで作った事実も発掘されたが、貧しい田舎から上京し活路を求めた過去に対する田中首相と大平外相の回顧(前出)が甦る。政治家・大平の私生活の影も、息子の疑惑と被害者の暴走も、ダイエー王国と創業者の「驕れる者は久しからず」58)も、日・中の泡沫経済、失政と激変を背景とした此の指導者論の文脈と関わる。
『カリスマ』の「プロローグ」が明かす様に、作者の生家の東京下町の零細商店が傾いたのは、ダイエー等の巨大スーパーの蹂躙の結果だ。故に覇者・中内ダイエーは個人史にも繋がる骨絡みの主題だが、山一衝撃を挟んだ雑誌連載期間(97 年6月〜翌年2月)中の経済危機の進行に対応しつつ、対象の興亡を振り返り歴史的な位置付けを探る此の一作は、現実への主体的な関与を第一義に行なう二重の「私ノンフィクション」と言えよう。
誕生の原点に敗戦・堕落が含む彼の社会への立ち会いと形而上の臨場感は、同時代の中国・中国人にも既視感が有る。『一瞬の夏』の内藤選手の弱気と『カリスマ』『東電OL殺人事件』の主人公の邪気は、安岡正篤が飯の種とした王陽明の言う「心中賊」だ。歴史や偉人の暗部・「黒匣」に目を注ぐ本論考と暗合するが、事件の迷宮と心霊の迷路に挑む佐野の格闘は、「解山中賊易、解心中賊難」とも言うべき困難の逆説的な解決を示した。
記録文学の要諦は解らない事は正直に解らないと書く事で、解らない事を賢しらに如何にも解った様に解釈して見せる一知半解さこそ記録文学の邪道だ、と作者は此の新作の最後に語った。幸田露伴は明太祖死後の中国の内乱を描く史伝小説・『運命』(1919)の冒頭で、老子の「知者不言、言者不知」59)を引用し、自跋(’38)で建文帝失踪の謎に対する安易な推断を否定したが、佐野流は其の碩学文豪や中国思想の智恵と通じる。
次の「片々たる事実をジクソーパズルのように丹念に填め込んで、残ったピースの在りかを空白のままで示すことこそ、ノンフィクションライターの勲章ではなかったか」は、遺族の拒否に由る肝要な基礎的取材の欠落、他界した対象の心の闇に対する直観の実証不可能を意識した開き直りでもあろうが、続きの述懐と合わせて正当性を認めて良い。「私は人間存在の深淵のほとりに招かれた感慨にとらわれ、慄然と立ち尽くす思いだった。」
此の渾身の力作は様々な混信を濾過し、生者と死者の今身(今生の身体)の有様を写し出す。
金銭・痩身への強迫観念に囚われて喪心の非行に走った主人公の深淵への透視は、作品の深遠・肥厚を成した。作者曰く、「肥厚した“土地”の地層を掘り返し、窒息した“物語”を生き返らせる。私は事件の謎と渡辺泰子の内面の謎を追いながら、そのことを強く企図した。それが事件の謎と渡辺泰子の内面の謎に光を当てることにもつながる。」主人公・小渕恵三の急死後に刊行した佐野の『凡宰伝』は、同年の『東電OL殺人事件』と共に、皮相的に見られがちな人物の悲愴・悲壮な内面を描き切った好著だ。此の系列論考の出発点は他ならぬ、『カリスマ』上梓の98 年7月の小渕新総裁の誕生だ。同時代の日本の頽廃・劣化を浮き彫りにした此の3作は巡り巡って、本篇の主題の―王・民の大欲・大恐が其の表現対象の深層心理、時代精神、乃至作品成立の動力の一部を成す物だ。 

54)NHKスペシャル『世界最速を作り出せ』、2000 年9月9日放送。
55)沢木耕太郎『再び、ニュージャナリズムについて』、前掲『路上の視野』、72 〜 78 頁。
56)佐野眞一『トルコ村の社会学』、『性の王国』(文春文庫、1984 年[単行本=文芸春秋、1981 年])所収(101 〜 102 頁)。
57)佐野眞一『カリスマ―中内とダイエーの「戦後」』、日経BP社、1998 年、643 頁。
58)前掲文献57 の宣伝帯の此の言の出典は『平家物語』、下敷きは老子『道徳経』の「自矜者不長」。
59)「先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。」 
人心・欲望の深淵と「中国的大快楽主義」
佐野眞一は『東電OL殺人事件』の中で、事件と人物の内面の両方の謎に肉迫した。解らぬ事は正直に解らぬと書く事を記録文学の要諦とし、一知半解の講釈を邪道と視る其の志向は、字形の「言・迷」が象徴する謎の複雑さと人心の奥深さに規定された処も有ろう。人間存在の深淵の畔に招かれた感慨に捉われて慄然と立ち尽くすと言う彼の思いから、筆記小説集・『世説新語』が出典の「盲人騎瞎馬、夜半臨深池」(後述)を連想する。
魯迅の『中国小説史略』(1924)でも取り上げられた此の作品は、南朝・宋の臨川王・劉義慶が編纂し後漢〜東晋の佚事の「集錦・什錦」(寄せ集め)だ。乱世に生きる中国の知識人の在り方は、作中の時代に端的に現われた。「清流」と自任する後漢の士たちは政治に関する議論を好み、曹操が言論管制を敷いた後は逆に脱政治の哲学談義が流行った。前者の「清議」は儒家の気骨を貫き、後者の「清談」は道家の無欲を装う物である。
中国の古賢の「得意淡然、失意泰然」は勝海舟に感銘を与えたが、其の金言を擬って言えば「得意入世、失意出世」の超脱も有る。順調な時には「入世」(現実に参与する)、挫折の場合は「出世」(現実から離脱する)との使い分けは、清議→清談の移行にも見え隠れする。「清談」期の竹林七賢の言動は、老荘思想の欲望の放擲と放縦、無欲と大欲、真心と狂言の両面を示したが、孔孟の道も上昇志向や道義的な潔癖の一本槍ではない。
『論語・公冶長第5』は、次の言で始まる。「子謂公冶長:“可妻也。雖在縲絏之中、非其罪也。”以其子妻之。」(孔子は公冶長の事を、「娶らせて良い。投獄された事が有ったが、彼の罪ではない」と言い、自分の娘を彼に嫁がせた。)「子謂南容:“邦有道、不廃;邦無道、免於刑戮。”以其兄之子妻之。」(孔子は南容の事を、「邦に道の有る時は廃れず用いられ、邦に道の無い時は刑死を免れる」と言い、兄の娘を彼に嫁がせた。)
『論語』の篇名も語録の配置も恣意性が高いと見られがちだが、此の例が示す様に必ずしも当るまい。渋沢栄一は『論語講義』(1924)の中で、「この篇すべて27 章。みな古今人物の賢愚得失を語る」とした60)が、可能性の担保価値への洞察が最終の決め手と成る金融業の巨頭らしい概括だ。弟子や歴史人物の名を題とする篇は此を始め、全20 篇の半数強を占めるが、深読みをすれば孔子・孔門の人間中心・人脈重視の志向を感じる。
朱熹に従い2節を纏めて講釈する渋沢は、「窮達を問わざ」る孔子の人物本位の着眼に同調した。曰く、「其の人賢なれば窮地に居るも何時か発達の時有るべし。其の人不肖なれば顕職に在るも早晩失望の時来らん。貧富また同じ。」61)其の窮達転変の見通しと賢愚・得失の視座には、日本の資本主義の父の『論語』+算盤の両面が出るが、孔子の発想を更に吟味するなら、悪世は良貨を駆逐し良世は悪貨を駆逐するという定理も抽出できる。
毛夫妻が甥・毛遠新の結婚相手の選択に関与した話と通じるが、娘や姪の「終身大事」(婚姻)が係かるだけに、2 人の門人に対する孔子の評価は究極の価値判断と言える。公冶長の逮捕歴は前出の『国際歌』の「全世界的罪人」とも繋がるが、彼の理解は乱世の暗黒を窺わせる。「岳父」(婿に対する義父)の字面が象徴する通り、道義に基づく其の確信は「仁者楽山」の観が有る。一方、南容に就いての成算は「智者楽水」の性質を持つ。
「不廃・免於刑戮」で明らかな様に、公冶長が体験した人身自由の剥奪は師にとって、平和時の地位や機会の喪失と共に忌避の対象だ。其の忌避は万人共通の本能であるが、孔子が保証した南容の安全性は、不当逮捕を免れるだろうという可能性だけでなく、逮捕に当らぬ様にする心構えと能力も含む。乱・治に対する師・弟双方の両睨みは、今風で言う「做最壊的打算、争取最好的結果」(最悪を覚悟した上で、最善の結果を目指す)だ。
国交正常化交渉の打診に当る日本の経済人は、周恩来のそんな旨の発言に深い印象を受けた62)。
周が日本の顕著な短所とした一部の政治家の近視眼的な処63)には、左様な理想と現実、想像と行動の「跨度」の欠如も有る。泡沫経済崩壊後の「壊帳」(不良債権)処理の遅滞に因る国富の蒸発は、期間も規模も世界史上の記録を作った。其の衰退の根源は他でもなく、最悪の事態と向き合う勇・智が無く、希望的な観測に縋り続ける不作為だ。
甘い待望に拠る長い耐乏は元を糾せば過分な大望の「悪果」で、泡沫経済期の全民的な財テクの狂騒は儲けを確信し失敗を想定せぬ戯れだった。経済敗戦で国の借金が猛烈に膨らんだ今も、日本人は2 度経験した預金封鎖の悪夢を綺麗に忘れている。前の論考で此の国の無防備の象徴に、地下鉄サリン事件の直後の警察庁長官狙撃事件と新首相公邸の構造上の弱点を挙げたが、事実は論より奇なりと言うべきか、両者の接点に新たな事象が出た。
危機管理を目玉とする新首相公邸の後方に高層ビルの建設を許した事は、狙撃の隙を指摘した外国の保安専門家を訝らせたが、窓の角度や硝子の細工で善処できた問題なのだ。其の館の主に成り損なった小渕首相の急死は、外敵の凶弾ではなく内部の時限爆弾に因る悲劇だ。同じ竹下派の7奉行の一員だった自由党党首・小沢一郎との決裂が引き金で、心身の緊張・疲労が限界を超えた様だが、外因なる身内と内因なる身の内とは妙に通じる。
1987 年、中曽根康弘から後任総裁の指名を貰う為に、自民党の新領袖の間に闘いが繰り広げられた。竹下登と安倍晋太郎の直談判の最中、3日も不休不眠が続いた竹下派の事務総長・小渕は栄養補給の注射を受けた処、血圧が異常に上がっている事が判り絶対安静を厳命された。
此以上動くと命も請け合いませんよと医者に釘を刺されたが、文字通りの必死体験が首相時代に教訓と成らず、体力以上に動き捲ったのは無謀で自殺に等しい。
13 年前の小渕の命拾いの契機は、安倍派の事務総長・三塚博から、「俺、別室に医者を呼んでいて、注射を打って貰ったから楽に成った。お前も其の医者に注射して貰って来いや」と誘われた事だ64)。私党集団の死闘の中の其の利敵行為は、辛い国・中国では考え辛い。「文革」時代の極端な例を挙げるなら、江青は周恩来の癌の治療を何度も妨害し、林彪一味は賀龍元帥を死に追い込むべく、持病の糖尿病を悪化させる投薬を故意にした。
周と葉剣英への打撃を図る林彪・江青等は、2 人の軍事参謀だった総参謀部作戦部次長・雷英夫を8年も監禁した。雷は酷刑の所為で重病に罹ったが、当局の手術の提案を拒否した。罪人の儘では手術刀が処刑の凶器に化しかねぬ危険を、敏感に嗅ぎ付いたわけだ65)。因みに、国民党政権国防相経験者の広西軍閥・白崇は台湾に行った後、政敵・蒋介石の指図で過度の「壮陽薬」(強精剤)を仕掛けられ、遂に精力が尽きて逝ったと言う66)。
歳暮に洗剤や食物を贈る日本人の清潔・美食志向に対して、中国の歳暮の人気定番は「益寿延年」願望を映す「補薬」(滋養強壮剤)類だ。半面、毛沢東時代の外事規律には薬品の贈与を禁じる件が有った。「補薬」の謳い文句の「十全大補」に因んで言うと、「万全大防」の用心と思える。江沢民・朱鎔基の評価を得た歴史小説・『乾隆皇帝』には、奸臣が皇帝下賜の薬を小細工し忠臣を毒殺する話が出た67)が、現代の投影を濃厚に感じる。
台湾時代の白は前にも、偽装交通事故の暗殺に遭ったと言う68)。蒋の無情を熟知した総統代理経験者の広西軍閥・李宗仁は海外に身を置き安全を保ったが、籠の中の鳥に甘んじる白の選択は自ら「小諸葛(孔明)」の異名を否定した。其の「脱陽死」は他力本願の悲劇と共に、私欲暴走の自業自得だったか。強精剤の濫用は政争の大恐と失意の寂寞を紛らす穴埋めの心算だったとされる69)が、大欲は73 歳の彼の精力の出超を招き墓を掘った。
彼の生年は毛と同じで没年は「文革」勃発の年だが、毛は「文革」前に厄年の73 歳を頻りに気にした。60 代の彼は性力の衰退に強迫観念を抱く余り強精剤の投用を命じた、と元主治医が米国で暴露した70)。国内の関係者の否認は見当らぬ71)が、此の手の噂が中国で信じ込まれ易い背景には、君主や高齢の権力者と強精剤とを直結する固定観念が有る。明の光宗帝が即位の直後に急死したのも、媚薬等の「虎狼之薬」を乱用した結果だ72)。
渋沢栄一は妾宅に居ながら自分は此処に来るはずが無いと言って来客を追い返し、「自分の遣って来た事で俯仰天地に恥じる物は無いが、女関係だけは別だ」と開き直った73)。傑物の「禁区」(立ち入り禁止区域)・「特区」(特別区域)を窺わせる言動だが、照れ隠しは世間への後ろ目痛さでもある。孔子の「少戒色・壮戒闘・老戒得」の不十分を示す様に、「破廉恥」の断罪で年配の著名人の政治生命が断たれた例は1昔前の中国に有る。
胡耀邦失脚の前年(1986)、72 歳の作家・周而復が党籍剥奪・公職解任の処分を受けた。改革元年(’79)に文化省次官に任命された古参幹部だけに、唐突で衝撃的な転落である。日中政治家友好書道展の中国側代表団を率いて訪日の際に、国家の尊厳と共産党員の道徳規律を著しく傷付けた、とするのが公式発表の罪状だ。禁断の靖国神社の見物も槍玉に上がったが、公表さえ憚かれた国辱とは性商店に立ち寄った事と見られる74)。
中央の要人に催淫薬の購入を頼まれたとも噂されたが、真相が封印された以上には形而上的な推論しか出来ぬ。其の後10 年も経たぬ内に日本も顔負けする程、北京の繁華街に性商店が続々と登場した。男女老若が堂々と媚薬・性道具を求める世相と照らせば、昔の禁欲主義の行き過ぎと今の公序良俗の衰退を同時に感じる。共産党と儒教の道徳律の束縛の緩みに伴う隔世の観は、民衆の大欲と「中国的大快楽主義」75)の覚醒・爆発と言える。 

60)61)渋沢栄一『論語講義(2)』、岩波文庫、1977 年、75、76 〜 77 頁。
62)NHK特別取材班『周恩来の決断 日中国交正常化はこうして実現した』、日本放送出版協会、1993 年、50 頁。
63)96)105)1973 年11 月14 日、キッシンジャーと会談する際の周恩来の言葉。ウィリアム・バー編、鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー「最高機密」会話録』、毎日新聞社、1999 年(原典同)、250 頁。
64)大下英治『小説総裁選 中曽根が笑った日』、角川文庫、1988 年、386 頁。
65)権延赤『領袖涙』、中共中央党校出版社、1990 年、119 頁。
66)68)69)何虎生主編『蒋介石宋美齢在台湾的日子』上、華文出版社、1999 年、185、186、同頁。第一次資料が不明の此の説を敢えて取り上げたのは、精神伝説に着眼し其の真相よりも深層を重視する理念に基づく。本論考の根幹に関わる大問題なので、此からの系列論文の中で改めて詳述したい。
67)二月河『乾隆皇帝』第6 巻『秋声紫苑』、河南文芸出版社、1999 年、374、405 頁。
70)李志綏著、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』上、文芸春秋、1994 年(原典[英語版]同)、143 〜144 頁。
71)林克・徐涛・呉旭君(毛沢東の元秘書・主治医・看護婦長)著、村田忠訳『「毛沢東の私生活」の真相』、蒼々社、1997 年(原典=『歴史的真実−毛沢東身辺工作人員的証言』、香港利文出版社、1996 年)には、李志綏が記した毛の生殖能力の喪失や性病感染、長寿薬への執心等に対する、毛の病歴録や言論を駆使した反論が有る(159 〜 164 頁)が、強精剤の使用を否定する論証は見当らない。但し、著者たちの立場からしては、同じデマと見做されるに違いない。
72)井波律子は『酒池肉林』(講談社現代新書、1993 年)の中で、「この新皇帝は媚薬を飲みすぎ、1ヵ月たらずで頓死してしまう」と述べた(142 頁)が、直接な引き金は体内で昂進した陽・躁の排泄の為の下剤、及び其の服用に因る衰弱を回復させる為の「仙丹」を服んだ事だ。『辞海』「紅丸案」の解説は、「泰昌元年(1620 年)、光宗即位後沈溺酒色、不久病重。司礼監秉筆兼掌御薬房太監崔文昇下瀉薬、病益劇。鴻臚寺丞李可灼進紅丸、自称仙方、光宗服後即死去」と言う。論文の中の「虎狼之薬」は正に催淫剤と峻下剤の両方を言う熟語だが、前出の「三十如狼、四十如虎」の情欲や「紅丸案」を含む晩明「3大案(事件)」と絡めて、此の事件を後に又取り上げたい。
73)末永勝介『近代日本性豪伝 伊藤博文から梶山季之まで』、番町書店、1969 年、203 頁。佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬一』では、「明眸皓歯に関する事を除いては、俯仰天地に恥じない」と成る(文芸春秋、1996 年、75 頁)。
74)1986 年3月3日新華社通信で公表された党中央規律検査委員会の処分決定には、関係者の阻止に拘らず靖国神社を参拝した事が理由に挙げられたが、所謂破廉恥な行為の中身は明かされていない。本人が自由意志か強制の為に沈黙を守り続ける事から、様々な憶測が出て来た。同年3月4日の『朝日新聞』の報道では、2月7日の同紙報道が中国側の匿名情報として伝えた買春容疑の噂が消え、ポルノショップに通った事が取り上げられた。当時の中国の巷で囁かれた媚薬購入の話と通じるが、真偽が定かでない風説を敢えて論考対象に入れたのは、註66 で述べた方針に拠る。周而復の『白求恩断片』と毛の『記念白求恩』の接点と絡めて、後の「人言可畏」の文脈の中で此の一幕に再び触れたい。
75)井波律子の著書(作品社、1998 年)名。 
「千秋功罪・評説」の重圧と「功徳・樹碑」の理・礼・利の重畳
毛の『昆侖』の前半が、思い出される。「横空出世、莽昆侖、閲尽人間春色。飛起玉龍三百万、攪得周天寒徹。夏日消溶、江河横溢、人或為魚。千秋功罪、誰人曾与評説?」(空に横たわりて 世に出ず、莽たり 昆侖、人間の春の色を 閲し尽したり。飛びて起つは 玉龍三百万、周天を攪みだしたれば 寒さ徹す。夏の日に 消溶れば、江河 横溢れ、人 或いは魚とん千秋の誰人か評説をる?竹内実訳6)長征の直後に書いた詞(1935)の此の前半は、精神伝説の中の中華民族の揺り籠なる山を詠む作品だけに、中国の途轍も無い規模と激越を解すには役立つ。崑崙の積雪を形容する「飛起玉龍三百万」は、如何にも中国的な誇張であるが、毛が自註の中で「借用」と明記した「前人」(北宋・張元)77)の「戦罷玉龍三百万、敗鱗残甲満天飛」(戦い罷みて玉龍三百万、敗鱗残甲天に満ちて飛ぶ。竹内実訳78))は、深く吟味する価値が有る。
本歌の2句は初めは「戦死玉龍三十万、敗鱗風巻満天飛」で、後に上記の通りと成った79)。
曾て孫悟空が此処を通った時に芭蕉扇で火を消し山々が白く成った、という民間の伝説も毛は自註で引いた。中国と中国人を読み解く作業の煩雑は、左様な典故を把握して置く必要にも在る。件の出典は毛の詩歌の読解で素通りされがちだが、初出版本の「戦死三十万」が同じ南宋の後の流布本で「戦罷(退)三百万」に変わった事は、隠れ味を持つ。
中身が異なるものの数が10 倍も膨らみ大きい方が定着したのは、中国的な大風呂敷志向を証す結果だ。南京虐殺死者30 万人説を巡る日・中間の不毛な対立は、精密統計に拘る日本人と概数を好む中国人との断層にも起因する。其の毫・豪の「陰差陽錯」はともかく、桁外れた「戦死(罷)三十(百)万」は、李白の「白髪三千丈」の大袈裟や孫悟空の一躍10 万8 千里の神話と違って、雪紛紛の有様と戦綿々の歴史の両面で真実味が有る。
南京虐殺の死者数が中国側の公称とずれたにしても、或いは毛沢東時代の大飢饉や「文革」の「非正常死亡」者数に及ばぬとしても、大規模な惨殺の事実と本質は変わらぬ。抗日戦争の勝利を「惨勝」とする見方が中国に有るが、「雪・血」の同音を引き合いに出すまでもなく、「戦罷(退)玉龍三百万、敗鱗残甲満天飛」は其の見立てに成る。「玉龍」は「玉皇大帝・真龍天子」を連想させるが、中華民族の始祖−炎・黄両帝も敵同士だ。
毛の自註は曰く、「宋人詠雪詩云:“戦罷玉龍三百万、敗鱗残甲満天飛。”昆侖各脈之雪、積世不滅、登高遠望、白龍万千、縦横飛舞、並非敗鱗残甲。夏日部分消溶、危害中国、好看不好吃、試為評之。」80)山を覆う雪は敗北の残片でないとした上で白い龍の負面を突く毛は、山の高さも雪の多さも不要で3分の2を切り捨てようと詞の後半で言う81)。昆侖を尊崇の対象と攪乱要因と見做すのは、己れと民族の遺伝因子への自己愛と自己批判か。
「横空出世」=「横在空中・超出人世」82)と「莽」は、倶に指導者の条件と自意識の「出類抜萃」(前出)と繋がる。此処で形而下と負の意味で用いた「積世不滅」は、王・民の大欲と強迫観念の極め付けだ。「出類抜萃之輩」の究極の恐怖には、「千秋功罪」の「評説」の重圧も有る。神壇に祭られた昆侖山も毛の容赦無い批判を浴びたが、後に詳述する「好看不好吃」(見た目が好いが美味しくない)は、彼の現実主義を濃厚に反映した。
中国人の精神伝説の源を成す神話は、古代ギリシャ等の神話に比べて量も体系性も乏しく、神話や神が現実社会に奉仕させられがちだ、と言われる。其の「有限・散乱・務実」の特徴83)は、人間本位・自己中心と農耕民族的−商人的な現実主義に帰せる。露伴の『運命』の3番目の句に、「洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦がせども、湯の徳これを済めば(略)」と出たが、治世の実績が崇拝の資格と成るのは極めて功利的だ。
対句の中の鍵言葉が組み合った「功徳」は、日本語で「こうとく」とも「くどく」とも読む。
『広辞苑』は其々「功と徳。功を挙げ徳を立てること」、「〔仏〕@よい果報をもたらすもととなる善行。“―を積む”“―を施す”A善行の結果として与えられる神仏のめぐみ。ごりやく。
“―がある”」と解した。後者の@Aは和製の語意であり、中国語の同じ仏教用語は『辞海』の語釈で、「誦経念仏布施」「為敬神敬仏所出的捐款」を指す。
誦経・念仏は道徳修業の積み立てだとしても、神仏を祀る為の寄付金は「銅臭味」(銅貨の臭い)がする。只、「御利益」の字面と発想も現金的な物だ。功業・功績が徳行・徳目の前に出る語順は、「功徳」の功利先行の指向性を示唆する。「果報」(因果報応)の字面を借りて言えば、「功徳」の@に対するAの授与の性質には、結果に因る相応の果報が有る。「功徳」と「功徳」の同根性は、両者を「別義」とした『広辞苑』にも窺える。
『辞海』の「功徳@功業和徳行」の例文は、『漢書・礼楽誌』の「有功徳者、靡不褒揚」だ。
「靡不」(ざる[は]無し)の強調が示す様に、功徳は常に褒揚の対象と成る。日本に於ける私徳観念の肥大と公徳観念の未発達を映すが如く、『広辞苑』の「功徳」には派生語は無いが、中国語には「功徳碑」が有る。『角川大字源』の解の通り、其の人の功と仁徳を記し讃えた石碑を指し、出典は『南柯太守伝』の「百姓歌謡、建二功徳碑一」だ。
成語の「有口皆碑」(皆口を揃えて称揚する)は此の語彙・用例と通じるが、「碑」は「宗廟に立てていけにえをつなぐ石柱。〔礼記・祭義〕“麗二于碑一”」「貴人の棺を墓につり下ろす綱をつけるための木、または、石の柱。〔礼記・檀弓下〕“公室視二豊碑一”」「いしぶみ。故人の事跡をたたえて、後世に伝えるための文章を彫りつけた石。また、その文。(略)“〔蔡・郭有道碑文〕於レ是樹レ碑表レ墓”」の多義だ(『角川大字源』)。
意符・音符の「石・卑」から成る此の字は、元は「竪石」(竪てた石)の意(『説文解字』)だが、「卑」の矮小と逆に「竪」は「堅」と形が似て「樹」と同音だ。『表徴の帝国』の作者が突いた東京の中心の空虚に対して、共産党中国の首都には全国を支配する表徴の中核が厳然に存在する。其の聖域の天安門広場の中心に建てられた人民英雄記念碑と毛沢東記念堂は、前出の「今・心→念」と後述の『記念白求恩』・求心の話と通じる。
建国の前日に中国人民政治協商会議の閉幕式で、毛を主席とする中央人民政府の構成員が選出された。日本語では未熟の儘でいる「協商」が国家の意志決定機構の名称に入る事は、中国の商人的な現実主義の証とも取れるが、其の場で可決された3つの文書は、協商会議第1回総会宣言、解放軍への「致敬(表敬)電」、「為国犠牲的人民英雄記念碑」建立の決定及び碑文だ。
功労者の顕彰が旨を成す後の2件は、「礼義之邦」の伝統に適う。
閉幕直前の夕刻、6百名余りの代表が天安門広場に集まり、記念碑定礎式が行なわれた。建国前夜の最終の通過儀式の此の山場84)は、中国人が好む「承前啓後、継往開来」の流儀の手本だが、周の挨拶に出た「記念死者、鼓舞生者」は、後述の毛の『為人民服務』『記念白求恩』の動機でもある。毛が起草し式典で自ら読み上げた碑文は、「3年以来」「30 年以来」「由此上遡到1千8百40年」の人民英雄を「永垂不朽」と讃える内容だ。
其の3段階の起点は其々、「人民解放戦争」の勃発、「新民主主義革命」の発端−5.4 運動(1919)、中国近代史の幕開け−阿片戦争である。3、30、109 年の桁の逓増と共に、基数の10 倍、36 倍強の増幅も興味深い。毛・周が揮毫した表と裏の題辞・碑文は、永久不朽の祈願を込めて金の文字で填め込んだのだが、変色せぬ予想期間の3百年85)は3の百倍に当り、竹内実が指摘した中国王朝の盛衰の周期86)と符合する。
建国初期の毛が耳を傾けた野党識者の「歴史興亡周期率」87)と絡めて、此からの系列論考の中で中共革命の性質、共産党中国の歴史的な位置付けと中国歴史の法則を探って行く予定だが、日影を測る標識から宗廟の傍の表徴に転じた碑は、歴史への責任感の例として後述する「廟算」と通じる。孫子の時代に遡る古代中国の宗廟で行なった出征前の作戦予測検討の儀式は、文・
礼と武・兵の両道や仁・勇・智の3徳(才)の複合の上に立つ。
森首相は就任早々「神の国」発言で物議を醸したが、政権担当の党・派を問わず閣僚が年頭に伊勢神宮を参拝する規矩は、此の国及び為政者と神との絆を証す。西洋の絶対神と違う日本の神々の伝説の中空88)は、上記の中国の神話体系の特徴と接点が有るが、首相を始めとする面々が大挙して三重県へ赴く光景は、君主の祭儀の場を都に置いた中国と比べるまでもなく、東京の中心の空虚と「弧島」の双焦点楕円形の二重構造89)を象徴する。
森首相は批判を和らげる為に或る会合で、今日は神の話はせず紙(原稿)の儘で話すと言った。前任者・小渕も駄洒落を好んだが、此の語呂合わせの戯言は人畜無害の軽口としては見過ごせぬ。尤も、平成日本の神とお上が紙並に薄く軽く成ったのは否めない。村山富市首相が橋本龍太郎副総理(自民党総裁)・武村正義蔵相(新党さきがけ代表)等と共に伊勢神宮を参拝した翌日(1996.1.5)に辞任した事が、好例に挙げられる。
彼は1週間前に行なった年頭会見で「責任の有る政治」を唱え、伊勢神宮での記者会見でも政局運営に意欲を示し、景気回復や不良債権の処理、クリントン大統領の訪日等の課題に全力で取り組む以外は言う事が無いと述べた。舌の根の乾かぬ内の変心は人柄や状況からすれば意図的な二枚舌とは思えないが、一夜にして正当な理由も無く政権を投げ出したのでは、何の為に伊勢神宮まで出向いたのかと儀式の虚しさを感じせずにはいられぬ。 

76)78)武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、文芸春秋新社、1965 年、195 〜 196、196 頁。
77)79)80)82)中共中央文献研究室編『毛沢東詩詞集』、中央文献出版社、1996 年、63、同、62、63 頁。
81)「而今我謂崑崙、不要高、不要多雪。安得倚天抽宝剣、把汝裁為三截。一截遺欧、一截贈美、一截還東国。」(今 我崑崙に謂わん、この高さは 要らず、この多き雪も 要らず。安んぞ 天に倚り宝剣を抽くを得て、汝を 三截に裁ちきらんかな。一截を 欧に遺し、一截を 美に贈り、一截を 東なる国に還さん。竹内実訳、前掲文献76、196 頁)
83)王玉徳他『中華神秘文化』、湖南出版社、1993 年、313 〜 314 頁。
84)85)原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、中国文史出版社、1996 年、256 〜 257、258 頁。
86)竹内実『中国 歴史の旅』、朝日選書、1998 年、16 頁。
87)黄炎培(中華同盟会の構成員、中国民主建国会主任委員、共産党中国の初内閣の副総理兼軽工業相)、王季范(毛の従兄と学生時代の「保護人」[後見人]、毛の晩年の連絡役・王海容[前出]の祖父)等の識者は、建国前から毛に中国の「歴代興亡周期率」に留意するよう進言し、毛は民主を以て其を打破すると決意を表明した。(尹高朝編著『毛沢東的老師們』、甘粛人民出版社、1996 年、522、467 頁)
88)河合隼雄『「古事記」神話における中空構造』(岩波書店『文学』1980 年4月号)、『中空構造 日本の深層』(中央公論社、1983 年)所収、27 〜 44 頁。
89)日本を表わす「弧島」(弧なりの列島)は、石川九楊(書家・評論家)の表現。『二重言語国家・日本』、日本放送出版協会、1999 年、6、114 頁。 
連綿不断の不朽・濃密・「豊盛」志向と一代止揚の「速朽」・淡泊・「単薄」傾向
首相の伊勢神宮参拝は65 年佐藤内閣以降の恒例行事だが、社会党は政教分離に反するとして批判して来た。同党から出た首相の村山は95 年の初め風邪を理由に中止したが、4月の地方選を応援する際に立ち寄って個人の資格で済ませた。政治的な観念形態も勝てぬ社会的な習慣勢力の強さが思い知らされる半面、「野合」と誹られた連立政権の成立に因る中断、及び再開で露呈した拘束力の無さは、経済敗戦の時期を考えると意味深長だ。
96 年1月4日、村山首相の在職日数は大平正芳と並ぶ554 日に成った。555 日目の辞意は弾珠遊戯の大当りの瞬間の自動定位めいて児戯っぽいが、先輩の記録を抜く事が燃え尽きに繋がった結末は小渕首相と一緒だ。邪気・弱気等の破り難き「心中賊」を指導者の大害として来たが、平成の数人の首相の転落は醜聞の邪悪や心身の軟弱の所為だ。村山首相の自棄は高齢の要因も有ろうが、転換点の恒例行事には自尽の美学が見て取れる。
伊勢神宮の20 年毎の遷宮の「速朽」志向は、不朽を求める中国人には奇妙に映る。尤も、浪費が文化の発達を促す事も儘有るし、関連産業を潤し地域を振興する寄与も生産性を持つ。
昨今の首相や閣僚の使い捨て化が目に余るが、「滞貨(在庫)一掃」の組閣姿勢90)の様に、「廟算」の字面や「碑」の字形と合う卑近な算盤が秘密の一端か。中国の政権担当者の長期固定化は其と逆で、権力への執着から禅譲や盥回しを排す結果でもある。
竹内実は戦後50 周年の直後の短評の中で、中国で夥しい記念論文や回想録が連日に新聞を賑わした現象に触れ、中国料理の宴会でもう此で料理は終りかと思うと、又1皿1皿出て来るのに似ており、而も大抵の日本人が前菜で満腹しているという次第なのだ、と語った91)。食欲の旺盛や饗宴の「豊盛」(豊富。盛り沢山。豪華)から、中国的な「飽満」志向を前掲論考で説いたが、際限無く膨らんで行く此の系列論文自体も中国流の見本か。
日・中比較の参照座標として此処で和蘭を取り入れたいが、極東の老大陸国家、弧島経済大国と北欧の海に面する小王国の縁は面白い三角に見える。鎖国時代の日本は4百年前(1600)通交を始めた後、専ら和蘭を通じて西洋文化を輸入し蘭学まで生まれた。其の前に日本が手本とし続けた中国は19 世紀末から逆に日本に倣い始めたが、戦後日本の経済成長と共に中国の近代化の「様板」と成った外国には、同時代の和蘭も入っている。
曾ては和蘭首相と会見する際に、相手国の「艱苦奮闘的精神」を讃えた。中華民族の「愚公移山」の伝統に因んで、其の「填海造地」を「愚公移海」と名付けた。1人当りの耕地が世界下位の中国よりも少ない和蘭は農産物の輸出大国に成り、我々は見習うべきだと語った92)。
人工衛星から肉眼で見える地球上の3大人工建造物は、中国の長城、エジプトの金字塔と和蘭の埋め立て地と言うが、古代・現代文明の其の結晶も中・蘭の接点だ。
衣・食・住の専門家に由る日本人の精神風土の研究で、日本大学教授(建築)・宮川英二は建築の様式から発想の特質を突き詰めた。曰く、欧州の石造りや煉瓦造りの建築は、小さな石の小片を立体的に組み合わせて、立体感の漲る塊の様な全体構成がはっきりした意匠で、故に強烈な印象を受けるが、日本の建築空間は部屋の中の立面を平面的に厚紙に書いて起こして出来上がり、其に軽い天井を張って立体感が無く薄っ箆な平板な面だ93)。
彼は3次元的な思考が余り無く2次元的な思考が多く、持続的な物や蓄積する事を好まぬ日本的な心性を直観した。パースペクティブに点に成る様なコペンハーゲンのアパートの一棟の長さや、アムステルダムの或る区域の第1次大戦後に出来た鳶色の煉瓦造りの同じ形のアパートが東京の羽田〜新橋に相当する間にずっと続いている光景を例に取り、淡泊な日本人は其の息の長さを冗漫に感じ、左様な思考には耐えられないと断言した94)。
全体構成を初めから考えて原理的に組み上げるのと違う平面思考から、日本人は場面、場面の繋ぎが大変に上手で、見栄を切る様な場面、場面の見所、節目を確り置き巧く繋いで行く、と言う95)彼は自民族の習性に正・負両面の評価をした。畳に埃が落ちぬ様に天井に薄っ箆な物を張る日本流に対して、天平時代の天井は中国の影響で張らずに屋根の軒裏の梁、束、垂木の具合でガッチリとした立体構成を見せていた、との指摘96)も興味深い。
其は大平首相急死と鈴木内閣辞職・中曽根内閣成立の間の1981 年の論断だが、石油危機で生活必需品の買い貯め騒動が起きた73 年11 月に、政治家の「近視症」を日本の大きな欠点とし、彼等の基本姿勢を考慮して期待し過ぎぬ方が好いとキッシンジャーに忠告した周も、其の基本姿勢を「薄っ箆」と形容した97)。毛は米帝国主義に「紙老虎」(張り子の虎)の渾名を付けたが、今の「紙の国」の天井(権力の頂上)も似た様相の物か。
平成天皇の次子の成婚の際(1990)、民間人出身の妃を礼賛する報道機関の言辞に「純情・可憐」が踊り出した。天皇の倭・漢混合の文化的な二重性を抉出した98)石川九楊は、日本人の天皇観の表裏にも触れた。天皇の赤子が逆に天皇を自分の赤子と見て保護の手を差し延べたく成るという其の心理99)は、後述の「可憐」の日本人好みの語意に裏付けられた。妃の似顔の張り子が東北の農村で流行った事も、「紀子様ブーム」の示唆だ。
日本人は模範や羨望の的に肖る真似を好み、漢語の「不肖」(父に似ていない愚か者)を謙称に使う。「小・月」から成る「肖」は肉体の「象」(相似)100)と共に「小人」の含みも有るが、「肖る」の次の和製語意は「小人」(俗物)の打算を感じさせる。「感化されて似る。物に感じてそれと同じようになる。特に、しあわせな人に似て自分も幸福を得る。狂言、財宝“こなたの御年にもまた御果報にも−・りたう存じて”」(『広辞苑』)
文例の中の「果報」と例の「功徳」に出た其との連環は、後で検証する中共軍の懸賞→健勝の絡繰と繋がる。「不肖・肖る」の謙称・顕彰から、「紙老虎」の造語者101)に対する民衆の不逞な一面が見える。毛の彫塑が到る処に建てられた「文革」中、彼は斯く愚痴った。君等は大理石や花崗岩、不銹鋼でそんな物を造って置き、自分は家で寝ていて、儂を風や雨、日に曝させる儘、外の護衛に当らせている、余り残忍ではないか、と102)。
人民英雄記念碑の建造にも使われた花崗岩は、頑丈な故に頑固さの代名詞と成る。「鋼鉄公司」を連想させる「不銹鋼」と共に、中国の表層の剛構造を改めて印象付けるが、強・豪の張力の下に陰・柔の弾力が隠れている。「肖る」の対象に含まれる「優れた人」(『角川大字源』)は、「出類抜萃・天降大任」の文脈と通じるが、紀子様と別の「可憐」(可哀相)に対する毛の自嘲は、柔弱な小人の保護に利用される偉人の宿命を窺わせる。
柔弱な小人は他ならぬ「儒」の字形の意味103)であり、漢字の寓意性は件の「住」にも現われる。「人・主」の複合は住居・居住の本質と吻合するが、人民と君主・指導者との関係と結び付けば別の発見が出る。竹内実は毛+周の「皇帝型権力+宰相型権力」構造を論じた104)が、晩年の毛の「家長」と周の「管家」(執事。番頭)、建前なる人民の「当家做主」(主として[国]家を切り盛りする事)は、言わば3焦点楕円国家を構成した。
天子の子の立場に甘んじた昔の中国の「子民」は、天・王の庇護を欲す依頼心理を隠し持った。「一盤散沙」の中国人が国や指導者の威信に敏感なのは、自分の安住の為に他ならない。
日本の有権者が「紙天井」風の政権担当者に不安を抱かぬ様子が、中国の見地から過剰な楽天か諦観に因る無防備に映るのは、為政者の大恐の種たり得る民衆の大欲の故だ。中・日、王・民、古・今、恐・欲、表・裏……等の2 元が、此処で多重に絡み合う。
多岐に渡る対象は複数組の複眼に由る重層的な透視を要するが、多元同時進行の叙述が無理である以上、中国の講談の切り口上の「話分両頭、単表一枝」(話は2 つに分れて、先ず単に片方を語ろう)は、鷹の視線を持つ蟻の歩みの1 形態に成る。再び上記の周の日本政治家評に焦点を戻すが、大きな乱世の中で度量の大きい人間が少しずつ出始めようと信じると言う彼の期待105)は、4半世紀後の逆の方向性と芳しくない有様に裏切られた。
perspective は「@透視画法・遠近法。A遠景。眺望。B見込み。前途」の多義(『広辞苑』)で、前出の学者の感想では@ともAとも取れるが、「遠景規劃」(長期的な青写真)の欠如で前途が覚束ない日本の現状は、国家の設計師の遠近法にも問題が有る。西洋と東洋の透視画法の特質は中国流で其々「焦点透視」「散点透視」と言うが、同じ自在な遊動が長所を成す後者でも、散点の背後の焦点の有無で更に指向性が岐れる。
宮川修二は日本的な場面繋ぎの工夫の例に、屋根の形に微妙な変化を加える細工を挙げた106)。世界で無類な昨今の日本の不良債権処理の遅滞は、老朽な屋根の全面修繕はせず絆創膏を張る様に当座の雨漏りを手当てした結果だが、小手先の其の場凌ぎの弥縫策は上記の発想とも同根か。中国では局地の実情から極致の真理を求める実事求是の精神等、焦点(全体を支配し収斂させる基軸や理念)無き散点透視ならぬ焦点付き散点透視が多い。
宮川修二が指摘した日本人の淡泊と持続力の不足も、小綺麗に纏まり大きく拡がらぬ傾向の根底に有ろう。が好きなサッカーを例に取れば、和蘭流の「全攻全守」が1970 年代に旋風を起したが、攻・守の両方に全員が参加する斬新な戦法は、「海賊」の威名の通り強力な心・技・体が前提だ。同国首都の例の同形建築が延々に続く光景と正に一致するが、近来台頭しつつある日本チームには石や煉瓦造りの建築の長持ちの意志が欠ける。 

90)昨今、組閣の度に新聞等に出る熟語。「繋ぎ内閣」と見られる直近の第2 次森内閣が発足した翌日(2000 年5 月7 日)の『読売新聞』の論評・『目指すものが見えない』(政治部・吉田清久)にも、「与党と自民党派閥が提出した入閣希望リストをそのまま受け入れた順送り人事の感も拭えない。“滞貨一掃内閣”“5 ヵ月内閣”など、野党のみならず、自民党内でも公然と囁かれている評価もあながち的外れではない」と有った。小堺昭三の『自民党総裁選』(角川文庫、1986 年)の中の第1 次佐藤栄作内閣の組閣の裏話に出た「伴食大臣」「残パン内閣」(6、18 頁)と合わせて、又折に触れて論じたい。
91)111)竹内実『切りふだはあるか』(『中国情報』1995 年11 月号)、『中国 国情と世相』、研文出版、1999 年、151、151 〜 152 頁。
92)1987 年5月12 日の談話。『小平文選』第3巻、人民出版社、1993 年、232 頁。
93)94)95)96)106)108)久野昭・宮川英二・田中日佐夫・平野雅章『日本人の精神風土』、名著刊行会、1981 年、287、292 〜 293、293、295、293、同頁。
98)99)前掲文献89、139、140 頁。
100)『角川大字源』の「肖」の「解字」=「形声。意符の肉(からだ)と、音符の小せう(にる意=似シ/ジ。また、かたどる意=象シヤウ)とから成る。体つきが似ている意。ひいて、“にる”“かたどる”意に用いる。」(1444 頁)
101)毛は1973 年2月17 日の会見で、「主席は今英語を学ばれているのですか」と言うキッシンジャーの質問に対して、「外部の人間の噂ですよ。気にも留めません。誤りです。英語の文字なら幾つか知っています。文法は知りません」と答えた。通訳・唐聞生が「主席は英語の単語を1つ発案されました」と口を挟むと、「そう、“ペーパー・タイガー(張り子の虎)”という英語の表現を造りました」と頷けた。(前掲文献64、130 頁)なお、前掲文献71 の日本語訳者は唐の役職を「外交部アメリカ大陸局副局長〔美大司副司長〕」と訳した(140 頁)が、付記された中国語の「美大」は北米・大洋州の略語だ。
102)暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992 年、320 頁。
103)『角川大字源』の「儒」の「解字」=「形声。意符の人(ひと)と、音符の需ジユ(やわらかい意=柔ジウ。または、こびとの意=侏シユ)とから成る。もと、柔弱な小人の意。」(144 頁)
104)竹内実『朱鎔基首相の顔』(『中日新聞』1998 年4月24 日)、前掲文献91、110 頁。 
「永志・長恨」の不易と流動;寛宥・寛裕の相関と友善・悠然の難易
今年の五輪で好進撃を見せた日本サッカーチームは、準々決勝で米国の泥臭い闘いに逆転負けした。フランス人監督は総括で世界との体力面の差を最大な課題にしたが、数年来の同チームが重要な国際戦で喫した苦杯には、最終局面で集中力が切れた類型が目立つ。94 年先進国首脳会議(ナポリ)の際に息抜きのビールで体調が崩れ、在職日数が戦後15 位と成った途端に退場した村山首相も、緊張の糸が直ぐ切れる心身の脆弱を露呈した。
就任2週間後の其の急性胃腸炎・緊急入院は大舞台での不慣れも有ったが、政権担当の心の準備と体の負担能力の不足は、後の棟梁・統領の投了の伏線と成った。中国語の「結実」は「頑丈」「実を結ぶ」意を持つ107)が、村山政権の瓦解は両義の相関を裏付けた。長命政権の条件に大物の心・技・体が入る事は、小渕政権の夭折で再び立証された。大欲・大恐に対応する大物指導者の「大」は、正に一棟の建物も一点に過ぎぬ規模に近い。
部屋数が9999.5 に上る紫禁城も左様な壮観を呈すが、宮川修二が日本流の場面繋ぎの見本とした絵巻物や回遊式庭園108)の平面性は、別の共同研究者が触れた山東・曲阜の孔子廟の同じ建物の繰り返し109)、敷地が3千平米の人民英雄記念碑の台座に填め込まれた、百年余りの闘争を描く巨大浮彫の跨度や立体感と本質的に違う。百年単位の歴史の「長廊・長河」を一望する「巨幅画巻」は、中国的な歴史認識の土台に彫り込んである。
前菜で満腹する日本人の習性を指摘した竹内実は、国際間の問題にも日本人の甘えが出ると述べた。氏曰く、(中国人は日本の侵略戦争を)後何年ぐらい経てば忘れてくれるのでしょうね、と聞かれる事も有るが、百年と答える事にしている;江総書記の(抗戦勝利50 周年記念)演説にも、子々孫々語り伝えなければ成らないとの1句が有り、忘れる事は先ず不可能だ、と110)。朱首相も直近の訪日の際、歴史を忘れる事は犯罪だと断じた。
百年で忘れ得る可能性は忘れ得ぬ不可能と撞着するが、前者は日本人の平均的な感覚や人間の平均寿命を超える間隔の故に限り無く後者に近い。禊ぎの終了が唱えられた戦後50 年の節目と、木造家屋の立て替えの標準的な時期に由来した伊勢神宮の遷宮周期は、年数が共に2 桁で足しても3 桁に成らぬ。「後何年ぐらい」云々に至ると、1 桁の想定さえ読み取れる。中国語の疑問詞は1 桁の「幾」、零〜無限大の「多少」と使い分けてある。
「多少」は日本語で少量・若干量を言い、中国語で大量・相当量を表わす。「幾多」と次元が違う後者の用例には、「古今多少事、都付笑談中」が思い浮かぶ。此で結ぶ『三国演義』の冒頭の詞は、「滾々長江東逝水、浪花淘尽英雄」で始まる。日本人は直ぐ水に流したがるが、中国でも其の名句の様な「淡化」が有る。但し、「淡」の字形が示唆する水と炎の冷却・相殺は、中国人の歴史清算の場合では長江の流れの如く緩慢で壮大な物だ。
百年経てば忘れる様に成ろうとは、大雑把ながら現実と理念の裏付けを持つ見方なのだ。現に、胡耀邦総書記は1985 年、日本の閣僚に由る靖国神社公式参拝に就いて、中国人民の感情を傷付けぬよう配慮して欲しいと訴えて斯く語った。中国は8ヵ国聯軍の侵略を受けてから85年経ち、漸く其の記憶が薄れて来たが、抗日戦争の勃発からは未だ40 年余りしか経っておらず、後40 年ぐらい経たぬと淡々たる気持ちには成れない、と111)。
彼の1年余り後の失脚の罪名には、党・国家の公式見解から逸れたとされる一部の不規則発言が有ったが、此の感想にも強い個性が出た。上記の語りの相手・山崎豊子は延安革命記念館で、戦車の破片に記された黒ずんだ「不忘民族恨」に震撼された112)。歴史を永久に記憶して行こうと言う江総書記の呼び掛けは、本音と建前を兼ねた此の標語に沿う正統派・優等生の感じがするが、前任の前任に当る胡の説も「胡説」(出鱈目)ではない。
「万寿無疆」「永遠健康」の祈願を捧げられた毛・林は、1 万年の存命、健康の永続は有り得ぬと言った。百年も記憶は鮮明さを保ち難いと胡が考えたのなら、「文革」中にも健在だった現実的な見積もりと思える。今年で満百年を迎えた1900 年の8ヵ国聯軍侵略は、彼の予見の通り一層に記憶が稀薄と成った。1840 〜 42 年の阿片戦争や1894 年の日清戦争も、百年経った後は集団的な記憶の全景の中で後退した傾向が見られる。
但し、此を歴史の風化として片付けるのは短絡的だ。件の英・米・独・仏・露・日・伊・奥8ヵ国の多くは、近景大・遠景小の遠近法に合う様に、関係改善に伴い良い形象が悪い形象を覆うに至った。阿片戦争と日清戦争の場合は、中共政権を逸早く承認し香港返還にも応じた英国の対処や、中・日の政治・軍事等の総合的な国力の力関係の再逆転が要因だ。過去への寛宥の前提には寛裕も入るが、「友善」より悠然の方が難しいかも知れぬ。
阿片戦争より抗日戦争に拘る中国を白人恐怖症と断じる向きは、一部の日本人の自身の西洋崇拝心理の屈折に過ぎない。人民英雄記念碑は碑文に阿片戦争勃発の年(1840)が明記され、高さの37.94 が抗日戦争・日清戦争の勃発の年(1937、1894)と暗合する。此の事実が象徴される様に、中国を其々世界と亜細亜の最強国の地位から引き下した欧・亜の2 島国は、近・現代の中国に於いて共に最大な憎悪を招いた外国だ。
毛は1973 年キッシンジャーと会う際に、中国の外国人を排斥する傾向に進んで触れた。外国と余り幸福な体験をして来なかった事を相手が一因に挙げると、彼は頷いて次の様に言った。
「確かに、此の数百年、主として8つの国が、其から義和団の乱の際には日本が。日本が中国を13 年間支配し、中国の主要部分を抑えていました。過去には侵略的な外国勢力である列強が、中国を支配しただけでなく、賠償金まで求めて来た。」113)
外国から侵略された歴史の範囲を百年以上としつつ、1世紀余り前の阿片戦争を挙げず英国を名指しなかった処が興味深い。侵略と賠償金請求の前例を作った先発の英国が「罪魁禍首」だとすれば、領土の部分乃至大半を占領した後発の日本は、最も新しく且つ重い創傷を与えた故に「罪大悪極」の部類に入ろう。我が国と日本との場合は我が国と貴国との間に比べて関係修復が難しい、と毛がキッシンジャーに示した予見114)は無理も無い。
毛は上記の2点の言説の間に、日本に賠償金を求めなかった理由に触れた。あれは民衆にとって重荷と成ってしまう;賠償金額を全て算定するのは難しく、どんな会計士にも出来ぬ仕事だ;こうして初めて2 つの国民が敵対関係から和解へ移行できる、と言う115)。後世の安寧の為に目先の犠牲に甘んじる深謀遠慮を系列論文で指摘したが、後で詳述する毛のこんな温情と律儀は意外と、其の商人的な現実主義の算盤よりも大きい要因だろう。
其の「国際主義」の感情と共に、賠償金額は勘定できぬとの見方も彼だからこそ言えた真実だ。南京大虐殺の死者数の精査を求める声が日本で上がったが、干支の1回り以上の時間の経過を考慮しなくても、所詮「糊塗帳」(ごちゃごちゃに成った帳面)であるに違いない。中国で処世の知恵とされて来た逆説には、清の風狂画家、江沢民の故郷・揚州に住んだ鄭板橋の「難得糊塗」(何も考えぬのは難しい。偶に阿呆に成るが好い)が有る。
有益な曖昧と悪質な誤魔化しの両面を持つ糊塗は一概に肯定できぬが、歴史の負債や記憶の償還・消去は時間が必要だ。上記のの和蘭礼賛は日中戦争勃発の恰度50 年後の1987 年の事だが、世界大戦で日本に損害を与えられた事も中・蘭の共通点だ。修好4百周年の今年の天皇の訪蘭が契機で日・蘭首相は過去に区切りを付ける事を確信したが、謝罪を巡る日・中の「僵局」(手詰まり状態)は、双方の感覚のずれに帰せる処が多い。
98 年、訪日の江沢民は歴史認識に固執し反感を買ったが、其の直前に日本の謝罪を今後求めぬよう宣言した韓国大統領との落差が大きい。日本の映画や演歌を禁じ続けた国民感情が一変して、訪日の金大中は友好を演出した。「恨、5百年」の歌を好みながら簡単に終結した韓国流は、執念深い中国人から見れば情緒的だ。魯迅も日本の友人に「度尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩讐」と詩を贈ったが、中国の指導者なら直ぐ長幼の順位に拘る。
尤も、中共は長年ソ共に不服を抱きながら、弟(中)が兄(ソ)を追い超すよう願うと言う宴席でのスターリンの祝辞に対して、建国直前に訪ソした劉少奇は恐縮・固辞の意を表わした116)。佐野眞一の『旅する巨人』の主人公の1 人−渋沢敬三は、日銀副総裁を務めた敗戦直後に、円を米国で印刷せよと言う占領当局の意向を一蹴した117)。共産党中国は民族尊厳心に於いて負けぬはずだが、当初の紙幣はソ連に製作を委託したのだ118)。
但し、劉少奇の揉み手も金大中の「以徳報怨」も、渋沢敬三の祖父・渋沢栄一が言う『論語』・算盤の両面が有ろう。劉一行はスターリンの破格の厚意で原爆実験の記録映画を見せて貰い、金は歴史の怨念を超えた南北朝鮮の対話に因りノーベル平和賞を授けられ、其の前日(今年10 月12 日)首相として初じめ訪日した朱鎔基の礼賛も受けたが、共に低姿勢に見える「高姿態」(高邁・悠然・寛容な姿勢)の功徳の果報の好例と思える。
日本と韓国・和蘭の怨念の氷解は、同じ弧島や皇室の有る国同士で情が通じ易い事も要因か。
左様な地理や制度の接点が無い共産党中国に対して、韓・蘭並みの反応を期待するのは無理だ。
さて置き、此の4極を並べて観れば日本の特異性が浮かび上がる。此の国の平均的な感覚は「恨、5百年」を異質な発想と見做し、和蘭王国の憲法上の首都の例の同形同色の建築の長距離連綿に馴染まず、「百年」の口癖を好む中国人と波長が合わない。 

107)『辞海』の「結実」の語義は、「@植物生長果実。A牢固。亦謂健壮。」(用例略)但し、「結」(jie)の声調は@とAは其々第2、4 声だ。
109)平野雅章(食物史家)の言。前掲文献93、305 頁。
111)112)山崎豊子『「靖国批判」の中の北京』(『文芸春秋』1986 年4月号)、『「大地の子」と私』(文春文庫、1999 年)所収(107、109 頁)
113)114)115)前掲文献63、128 頁。会見の期日は同註101。
116)師哲・李海文著、劉俊南・横澤泰夫訳『毛沢東側近回想録』、新潮社、1995 年(原典=『在歴史巨人身辺 師哲回想録』、中央文献出版社、1991 年)、253 〜 254 頁。
117)佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬一』(前掲文献73)、206 頁。
118)共産党中国は紙幣の自国での製作の必要性を認識していながら、自前の偽造防止の透かし入り用紙が無い為ソ連に製作を委託した。建国10 周年の1959 年、不仲と成ったソ連から用紙供給を拒否された後、開発を重ねて62 年に漸く自力で出来た。(冨田昌宏『お金が語る現代中国の歴史』、三省堂、1997 年、66 〜 68 頁)因みに、日中戦争の中で日本の贋札作戦の標的と成った中国の10 元法も、技術が無い為に英国に印刷を依頼した物だ。(取違孝昭『騙す人 ダマされる人』、新潮文庫、1998 年、267 頁) 
日・中の「公道」「公憤」の差異 / 司・死を兼ねる「宰」と「衆怒難犯」の拮抗
訪日の金大中大統領が歴史の怨念に区切りを付けたのは、豊臣秀吉が起こした朝鮮への侵略戦争(1592 〜 98)の終結4百周年の事だ。彼が国会演説で秀吉の名に触れず其の7年に言及した119)のは、「恨、4百年」の証に思える。翻って、日中国交正常化の399 年前(1571)の織田信長に由る比叡山焼き討ちや、赤穂浪士の復讐(1702)が被害者側に遺した恨みも、新千年紀の直前に和解の動きが出るまで3〜4百年続いた。
国内の此等の積年の大怨に就いては、何年経てば忘れてくれるかと聞く人も居らず、冷戦終結と連動した直近の被害者の後裔や団体の寛恕も反響を呼ばなかった。一方で半世紀前の罪過を中国に忘れさせようとするのは、外国の侵略に因る被害体験を持たぬ国際社会の中の世間知らずの我儘か。毎年の師走に美談として茶の間を賑わす忠臣蔵の物語は、「私・義」に由る復讐と断じられた120)が、此処でも私仇に敏感な日本人の気質を感じる。
蒋介石は抗日戦争勝利後に儒教と基督教の精神を以て、敵国への「不念旧悪・与人為善」と呼び掛けたが、丸3世紀前(1645)の「揚州10 日」の惨劇の衝撃度は、其の時点では大分薄れていたと観て好い。揚州陥落後の清軍の「屠城」は、日本軍の南京大虐殺を語る際に下敷きとして引き合いに出されたりするが、中国人の脳裏に刷り込まれた受難の記憶の「淡化」は、次々に降り掛かる災難で歴史が塗り替えられて行く事も一因だ。
辛亥革命の「駆逐韃虜、恢復中華」(満族追放、中華復権)の合い言葉の様に、「不忘民族恨」の対象は全ての異民族侵略者を含む物だ。ところが、清軍の投降勧誘を断り揚州防衛戦を指揮し、陥落後は自尽未遂の末に処刑された明軍将領・史可法は、民族英雄の名声を歴史に残し民衆が揚州城外の梅花嶺に其の衣冠塚を建てた。反面、大虐殺をした清軍の指揮官の名が特記される事も無く121)、満族が地元で差別を受ける事も特に聞かない。
杭州・西湖の畔に宋の抗金民族英雄・岳飛の彫塑と、彼を陥れ処刑した宰相・秦檜の跪像が建ててある。後者の子孫は差別を回避すべく姓を変えたと言われ、其の姓を持つ人が全氏族の名誉を守る為に最近訴訟を起した。秦檜の死去から845 年も経ったが、彼の悪名は「遺臭万年」の熟語の通り、更に10 倍の時間が掛かっても消えまい。但し、其の大罪を許さぬ執念の持ち主は被害者の後裔よりも、国辱で傷付いた代々の中国民衆なのだ。
岳飛への称揚と秦檜への唾棄は中国人の精神伝説の典型と成ったが、『辞海』の「秦檜」の断罪では忠臣の殺害よりも「主張投降」の方が重い。結びの「主持和議、向金称臣納幣、為人所切歯」は、孟子が言った「国人皆曰可殺」122)を連想させる。「激起公憤」とは正にこんな事であるが、「公憤」の出典−『宋史・陳亮伝』の「二聖北狩之痛、為国家之大恥、而天下之公憤也」は、他ならぬ北宋の徽宗・欽宗が金の俘虜と成った故事だ。
敗戦を「終戦」と言う日本流は批判を招いたが、撤退を「転進」と誤魔化す表現は日中戦争の双方とも使い、「臭い物に蓋をする」は中国語で「蓋子」の対応が付く。帝が連行された事を狩猟に行ったとする「北狩」も、恥辱隠しの言辞の一例に数える。蒋の軍事政変に因る国・共決裂の丸8 百年前(1127)、戦争賠償の不足分を補う形で皇室等3 千余人が金へ移送された。北宋の幕切れと成った「靖康之禍」は、其ほど惨めな出来事だ。
79 歳の毛が目の手術の時に歌で聴いた岳飛の詞の中の「靖康恥、猶未雪;臣子恨、何時滅?」は、両帝を奪還できぬ遺恨の吐露に他ならない。徽宗も欽宗も結局50 代半ばで非業の客死を遂げ、後者は秦檜死去の翌年(1156)金が宋へ出征する際の閲兵式で、金の帝の指図で矢の的とされ射殺後は馬の群れに踏み躙られた。非人道的な環境の中で先立った両皇后も、占領軍に酒席で歌を強要され身体検査の名目で性的な侮辱を受けた123)。
文学者も含む日本人は今回の敗戦までは、滅亡の遥かな後方の安全圏から滅亡を想像し表現したのだ、という武田泰淳の痛烈な喝破124)は、『司馬遷−史記の世界』(1943)の著者らしい「全球眼光」を感じさせる。日本人は内戦では非情な処遇を経験して来たが、北宋の最後の2帝・后の様な末路とは無縁だ。占領軍司令官と並ぶ昭和天皇の写真が高低、優劣の印象付けで衝撃を起こしたが、亡国の君主の安全が保障された上の話だ。
日本の戦後文学に盛り込まれた民族の初体験には、大岡昇平の『俘虜記』(1948)等が記した海外での集団俘虜生活が有る。中国では越王の「臥薪嘗胆」も蘇武・文天祥の「忠貞気節」も、俘虜体験から生まれた伝説だ。『辞海』の「秦檜」の経歴の汚点には、金の俘虜と成った後の釈放を脱走と詐称した1件も入る125)。毛沢東の最初の夫人と弟は国民党に捕まえられ処刑され、長男が戦死した朝鮮戦争でも中国軍に大量の俘虜が出た。
俘虜に成るより死を選ぶ志向は中国でも昔から有るが、「豚に成っても生き抜け」126)の発想を持たぬ日本人は、其の潔癖を愚直に貫いた事も有って敗戦までは此の点で処女性が保てた。
対して直近の米国では越南戦争の俘虜経験者が国防相と成ったが、前回の世界大戦に於ける日本の主要交戦国は滅亡に慣れたわけだ。ソ連の場合と違い其の中・米から俘虜が余り虐待されなかった事は、結果的に戦後日本の平和惚けを助長したかも知れぬ。
大変な敗北の後で勝者から保護の手が差し伸べられた故、「純情・可憐」の心性が大きな変化も無く温存されて来た様だ。マッカーサーが命じた比戦場の宿敵・山下奉文の処刑を、「公報私仇」(公の大義名分で私仇を討つ)の様に取る向きが日本に有るが、国際社会の「公」の座標系では日本の狭隘さが目立つ。「公憤」の語義も『辞海』と『広辞苑』では其々、「公衆的憤怒」と「正義感から発する、公けの事柄に関するいきどおり」だ。
同じ概念の主体は片方は公衆で片方は個人も有り得るが、中国人の「一盤散沙」と日本人の「抱団(集団で固まる)意識」の定説との乖離は興味深い。公衆の憤怒を表わす「民憤」も、日本語には入っていない。昭和末期の連続少女誘拐猟奇殺人の容疑者・宮崎勤が逮捕された時、法相は死刑に処すべきだと語った。中国流の「不殺不足以平民憤」(殺さないと民憤を鎮めるに足らぬ)と通じる論理だけに、「民憤」の言い方が無い事は妙だ。
其の頃の数人の法相は仏教の信条等を理由に死刑執行の許可を拒み、3年と4ヵ月も死刑執行無しという事態を招いた。殺生を忌み嫌うのに任命は辞退せず、個人の宗教的な心情の優先に因る公務の過怠127)にお咎めが無いとは、「神(紙)の国」の実態を映し出す事象だ。阪神大震災の際にも私権や私道が救援の壁に成ったが、「公道」の第一義(世の中一般に通ずる道理。
公正な道。『広辞苑』)が日本で形骸化した事と考え合わせたい。
『角川大字源』の「公道」の解は、「@人の守るべき正しい道。公正で天下全体に通用する道義。〔荀子・疆国〕“道下夫公道通義之可二以相兼容者上”A誰もが通る公共の道路。〔韓非子・内儲説上〕“棄二灰於公道一者、断二其手一”B《俗》公平な」と言う。『辞海』の同項では同じ漢籍が出典のAは無く、代りに上記のBの語義に就いて、「公平。如:価銭公道。杜牧『送隠者一絶』詩:“公道世間唯白髪、貴人頭上不曾饒。”」と詳解する。
適正な価格を言う「価銭公道」は、同辞書の@の用例の「主持公道」(公道を強く主張する事)と共に、今の中国に於ける「公道」の最も常用の成句だが、『論語』と算盤の二極は此処にも現われる。「主持」は上記の「秦檜」にも出た(「主持和議」=和議を仕切る)が、中国語で「主宰」「主張」の両義を持つ此の語は、『広辞苑』に一応入った(=ある物事を維持するうえで、主要な役目をすること)ものの、日本では馴染みが薄い。
「文革」後期に復活したの「主持中央工作(=仕事)」の様に、中国では「主持」は使用頻度が高い。中国語の「主持」は「司会(する)」の意も有り、会議や番組の司会者は「主持者(人)」と言う。森首相に対する世論の批判の種には、場持ちが上手いから外交の場でも軽口で盛り上げれば好いと言う感覚や、首相として前代未聞に芸能プロダクションの行事に顔を出す挙動が有ったが、其の主持にも場面繋ぎ的な回遊の嫌いが有るか。
主宰・宰相の「宰」は「司る。切り盛りする」意だが、「宰」は屠殺の含みも有り「司」は「死」と同音だ。「宰」の由来と原義には罪人の事も絡む128)が、在任中に「主持日常工作」の事務方の要求にも拘らず死刑確定の承認を断った法相は、「公道」の類義語−「公理」の出典129)の通り、「専用私情、憎愛不由公理」と言うべきか。1993 年3月に死刑執行を再開した後藤田正晴法相が批判した様に、其の儘では法秩序は保てない。
後藤田の「情と理」130)と評論家・塩田丸男の「筋を通すか、情に生きるか」131)は、日本人と中国人の共通の「両難」を概括する鍵言葉に成る。例の裁判前の「極刑」発言は法の番人の掟を破ったが、秦始皇の「一人之心、千万人之心也」132)の恣意と逆に、其の公人の憤りは万人の世論を慮る公的な性質も有る。「長い物に捲かれろ」に当る中国語は「随大流」(大勢の流れに従う)と言うが、法規や体制も好く超法規の大勢に敵わぬ。
山本七平の『「空気」の研究』133)の一部の見方は中国でも通用し、日本人の「赤信号も皆渡れば恐くない」心理と似て、中国人は「法不責衆」(法は衆人の罪過を責めぬ)という法外の法を持つ。集団の逸脱に対する法の無力は例の法相の不規則発言の大衆迎合と共に、「衆怒難犯」(群衆の怒りには逆らい難い)の論理が根底を成す。『左伝・襄公10 年』の「衆怒難レ犯、専欲難レ成」は、正に王・民の大欲・大恐の本筋と直接に繋がる。 

119)大統領訪日特別の随員で知恵袋の崔相龍(高麗大学政治学科教授)が明かした舞台裏の話に拠ると、金大中は国会演説を最も重視し自ら推敲を重ねた。「日本国民へのメッセージとして、日本人の国民感情を傷付けないよう、ギリギリの努力をした。“4百年前に日本が韓国を侵略した7年間”という個所が有るが、“豊臣秀吉”という名前は敢えて出さなかった。韓国人にとっては侵略者でも、日本人にとっては英雄だから。」(『朝日新聞』1998年10 月10 日)
120)赤穂浪士たちへの処分を巡って幕府の内部で意見の対立が有り、大学頭林信篤や室鳩巣等が彼等を「義士」と呼び助命を願ったのに対して、萩生徂徠や太宰春台等は、内匠頭は法に拠って罰せられたので上野介への復讐は筋が通らず、「義であるが私」だとした。(宇野俊一他編『日本全史』、講談社、1991 年、623 頁)
121)『辞海』の「揚州十日」には侵攻部隊の将領の名前は出ないが、「南京大屠殺」には其の戦後の処刑まで明記された。両方の全文は次の通りである。「順治二年(1845 年)清軍南下、明史可法督軍師揚州、率全城軍民堅守孤城。陰暦四月二十五日城破後、清兵大肆屠殺十天。史称“揚州十日”。見王秀楚『揚州十日記』。」「抗日戦争時期日本侵略軍屠殺中国人民的暴行之一。1937 年12 月13 日日軍侵占南京後、華中派遣軍司令松井石根和第六師団長谷寿夫等、対中国人民進行了長達六週的血腥大屠殺。集体槍殺和活埋的有十九万人、零散被殺僅収埋的屍体就有十五多万具。全市三分之一的房屋被焚毀。抗戦勝利後、松井石根被遠東軍事法廷処絞刑、谷寿夫被引渡給中国政府処死。」
122)『孟子・梁恵王下』。
123)向斯・王霜『帝王后宮紀実』、国際文化出版公司、1993 年、368 〜 269 頁。
124)武田泰淳『滅亡について』(1948 年、『花』第8 号)、『新編 人間・文学・歴史』、築摩書房、1961 年、9頁。
125)「靖康二年(1127 年)被俘到北方、成為金太宗弟撻懶的親信。建炎四年(1930 年)随金軍至楚州(今江蘇淮安)、被撻懶遣帰、詐称殺死防守兵士、奪船逃回。」
126)映画・『芙蓉鎮』(謝晋監督、1987 年)の名台詞。
127)後出文献130(下)267 頁にも出た通り、法相は死刑判決が確定後の6ヵ月以内に執行の命令に署名せねば成らぬ、と現行の法律で定められている。
128)『角川大字源』の「宰」には、「@罪人で、家の中で仕事をする者。〔説文解字〕」と有り、同項の「解字」は、「会意。意符の宀(いえ)と、意符の辛( ケンが正しい形。つみの意)とから成る。“サイ”の音は、つみの意(=罪サイ)と関係がある。罪人で家にあって仕事をする者の意。古代、罪人を雑役に使ったことからきている。一説に、形声で、音符は、辛シン→サイ(つかさどる意=司シ)で、もと、宮中の饗宴をつかさどる者、ひいて、官吏の長の意という。」
129)『辞海』の「公理@」の語釈は「猶言公道」。文中の出典は『三国志・呉志・張温伝』。
130)後藤田正晴『情と理』(上・下)、講談社、1998 年。死刑執行の命令への署名を拒否した前任者たちへの批判は、下巻266 〜 270 頁に出る。
131)塩田丸男『ズジを通すか、情に生きるか 当世サラリーマン行動学』、PHP文庫、1985 年(初出=『不安時代の生きがい』、日本工業新聞社、1976 年)。
132)杜牧『阿房宮賦』の名句。
133)文芸春秋、1977 年。 
 
「天降大任」「出類抜萃」「不辱君命」 / 指導者の歴史責任感・使命感

 

1.「天降大任於斯人」:孟子の気宇軒昂
同系列の前の論考1)では死生観を軸に当代日中の指導者の時代緊迫感を比較したが、此からは栄辱観を軸に同じ対象の歴史責任感を考察して行きたい。世紀末の日本の慢性安逸死の危険を警告した前回の到達点は、孟子の「人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徴於色、発於声、而後喩。入則無法家払士、出則無敵国外患者、国衡亡。然後知生於憂患、死於安楽也」だが、彼の先哲のより積極的な言葉を今回の思索の出発点としよう。
中国の知識人の間に有名な此の命題は、「天将降大任於斯人也、必先苦其心志、労其筋骨、餓其体膚、空乏其身、行払乱其所為、所以動心忍性、曾益其所不能」(天が大任を此の人に与えようとする時は、必ず其の精神を苦しませ、其の筋骨を疲労させ、其の肉体を餓えさせ、其の身を貧乏させ、其の行なう事為す事も、意に反する様にしてしまう。此を以て其の心を発憤させ、其の本性を堅忍な物にし、曾て無い能力を増す為だ)、と言う。
窮境に陥ってから反発する前者の受動性に対し、受難を天の試練と見る後者は前向きの発想だ。儒教は「柔弱な小人」(「儒」の字形の原義)の固定観念−形象を持つが、儒教の先哲・孟子は「気宇壮大」の字面の通り、「気」(意気・正気)、「宇」(宇宙・「広宇」意識)、「壮」(勇壮)・「大」(雄大)が特色だ。「気位。心の持ち方。見識。度量。器宇」を表わす「気宇」(『角川大字源』)は、彼の関心や論説の鍵言葉にも成る。
「気宇壮大」と隣接する中国の成語は、「気勢宏大」「気宇軒昂」が思い当るが、後者の「気宇」は気概と儀表の両方を表わすので、何れも微妙に違う。「軒昂」は『広辞苑』では、「気持ちがふるいたつさま。“意気−”」の一義だが、『角川大字源』の解では、「1高く上がるさま。
〔柳宗元・招二海賈一文〕“舟航軒昂兮”2意気の盛んなさま。〔呉志・孫堅伝〕“軒昂自高”3物事の盛んなさま。〔水滸伝二〕」を言う(『角川大字源』)。
中国の『辞海』の同じ項は、「1高揚貌;飛挙貌。柳宗元《招海賈文》:“舟航軒昂兮、上下飄鼓。”韓愈《聴穎師弾琴》詩:“劃然変軒昂、勇士赴敵場。”2形容気度不凡。如:人物軒昂、気宇軒昂。3驕矜貌。《三国志・呉志・孫堅伝》:“卓(董卓)受任無功、応召稽留、而軒昂自高。”」と成る。上記の日本風の講釈と違って、1の「高揚・飛挙」は物心両面に渉る表現機能が有り、「軒昂自高」は高慢・自惚れという貶す意味なのだ。
此の2点は中国語の幅や複雑さの現われに思えるが、日本の辞書に出ない「不凡」(非凡)の語義は、中国的な心性の凸型・鋭角の一面を大写しし出す。「気宇軒昂」は「精神飽満、気慨不凡」2)の形容に使うが、「飽満」にも両国の文化溝が見られる。此の語彙は日本語で「ほう(ぼう)まん」と読み、単に「飽きるまで食って腹のふくれること」の意(『広辞苑』)だが、中国語では「豊満・充実」「旺盛・元気一杯」の有様を表わす。
「肥満」の美化語・「発福」と同様に、中国語の「飽満」は褒詞しなのだ。漢字の形・声の表徴性の証に成ろうが、「褒詞」の「褒」は「飽」と同音で、反対語の「貶詞」(貶す言葉)の「貶」は「扁」と同音で、字形の「貝・乏」は「金欠」の含みが有る(貝は貨幣の祖型)。因みに、通貨の切り下げ・切り上げは「貶値・昇値」と言うが、通貨の堅調を表わす「堅挺」(軟調=「疲軟」)にも、「軒昂・飽満」の共通した強盛志向が窺える。
哲学者・上山春平は日本の「凹型文化」の理念の依拠を、老子の「谷神・玄牝之門・天地之根」に見出した3)。確かに熟語の「虚懐若谷」(虚心坦懐)の様に、女陰や子宮に似た谷は凹みの故に価値の生成・蓄積が出来るが、老子の雌伏・枯淡と対照的に、『荘子』の冒頭の鯤鵬の衝天は、雄飛・躍動の指向を見せる。其の爆発的な上昇や凄い圧伏の勢いは、別の処の大樹の屹立の比喩と合わせて、陽物勃起の「堅挺」願望の発露にも映る。
老子の「上善若水」「天下之至柔、馳聘天下之至堅」の逆説に対して、孟子は「至大至剛」「塞満天地之間」の力・美を理想としたが、此の拡張・飽満志向も陽性の衝動が根底に有ろう。
道家の両巨頭の明暗の対照は、儒家の両先師の場合も同じだ。『論語』の冒頭の「学而時習之」「有朋自遠方来」の悦びは、孔子の「文静」と待ちの姿勢を浮き彫りにしたが、『孟子』の冒頭の梁恵王との遣り取りは、「不甘寂寞」の有為精神を示した。
「気(器)宇軒昂」の用例には、『三国演義』第43回・『諸葛亮舌戦群儒 魯子敬力排衆議』の中の「張昭等見孔明豊神飄洒、器宇軒昂、料道此人必来遊説」が有る。此の件は立間祥介に由って、「張昭らは孔明の飄然とした風貌、天をも突かん自信のほどを見てとって、此の男、我等を説き伏せに参ったなと思った」と訳された4)。下線の処は底意を掴めた好訳だが、『孟子』の書出しも儀礼的な懇談ではなく、遊説・説伏の場面である。
「孟子見梁恵王。王曰:“叟!不遠千里而来、亦将有以利吾国乎?”孟子対曰:“王!何必言利?唯有仁義而巳矣。”」(孟子が梁の恵王と会見した。王が言うには、「先生は千里もの道を厭わず遥々と来られたからには、亦も(他の遊説者たちと同じ様に)我が国の為に利益を図って下さるお心算でしょうね。」孟子は対して答えた。「王様よ、何も利益、利益ばかりを仰言る事は有りません。[治世に]大事なのは、唯仁義のみです。」)司馬遷は恵王の此の質問を読む度に情け無く感じ、利こそ乱の端緒だと嘆息した。『史記孟子・荀卿列伝』に拠ると、孟子は孔子の孫・子思の門人から学問を受け、孔子の道を極めた後に鄒国(山東・鄒県)を出て斉の宣王に仕えたが、意見が採択されなかった。魏の都・大梁(河南・開封)に赴いたが、恵王も其の進言を実行しなかった。何処でも相手にされないので郷里に帰り、『詩経』『書経』の整理や孔子の学説の普及に専念した。
太史公曰く:孟子は儒家・墨家の古典を取り集め、礼義の大綱を明らかにし、恵王の利を望む緒を断ち切り、過去の世々の興亡を説き連ねた。彼の記述の通り、其の頃、秦が商鞅を任用し富国強兵を進め、楚や魏が呉起を信任し戦に勝ち敵を弱くし、斉が孫子や田忌を頼んで勢力を強めた。各国は合縦・連衡の駆け引きや優位の争奪に熱中したから、尭・舜と夏・殷・周三代の聖王の徳を説く孟子の主張は、迂遠で非現実的だとされたわけだ。
5百年余り後の諸葛亮の遊説も抗魏同盟の結成が目的だから、恵王の思い込みと反応は無理も無い。孔明は利害関係を巡る分析で呉の面々を明快に説得できたが、そんな即物的な意識や直線的な方策を持たぬ孟子は、天下を狙う権力者と咬み合わないはずだ。礼義の大綱が功利の対抗に対抗し辛い事も、儒家の王道vs.列強の覇道の図式と共に、今日的な意味を持つが、朱子曰く、「抜本塞源而救其弊、此聖賢之心也。」(『孟子集注』)『左伝』が出典の「抜本塞源」は、「本の根を抜き取り、水源を塞ぐ。原因に成るものを徹底的に取り除く」(『角川大字源』)意だが、聖賢の離見の見と君主の利権の見は懸け離れる物だ。孟子の「迂遠」は「遠交近攻」の戦略と通じて、「欲速則不達」(速くしようと欲すれば却って到達せぬ。急げば廻れ)の迂回だが、「三十三天上発想、得題中第一義、圧倒天下才人」(清の文学者・廖燕の言)の意では、高遠・広遠と言うべきだ。
『荘子』の劈頭の鯤鵬は9万里も昇り、北冥(冥=暗い海)から南冥へ飛ぶが、同じ『内篇』を結ぶ『応帝王』の掉尾は、北海と南海の帝が中央の帝・混沌の顔に視・聴・食・息を司る「七竅(穴)」を開け、好意が災いして死なせたという寓話だ。其の理解され難い大智の悲劇の反面、中国語の「開竅」は肯定的な言葉(1釈然とする。2[子供が]物が解り始める)だ。
中原の王に対する孟子の説教も、大乗的な開眼・開悟の試みだった。
個人崇拝への反対を表明した毛沢東は、「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手」の称呼の中で、最初の方だけは認めようと言った。教員の経歴が有るからteacherが相応しいとの事だが、今の中国語で(特に院生の)指導教師を表わす「導師」は、「仏道を説いて衆生を悟りに導く者の意で、仏・菩薩の敬称」(『広辞苑』)から「領導人」に転義したので、「領袖・舵手」とleader(導き手)の意味を共有する。
「導師」こそ究極の崇拝語に成るが、此の尊称に含まれた教育・宗教の両面は、儒(道)家・儒(道)教の家・教と符合する。形而上の高次から君主を開悟に導く孟子の「開導」は、『荘子・内篇』の鯤鵬衝天・「帝王開竅」の首尾と呼応する。滔々たる大河・蕩々たる乾坤じみた言説の風格も、荘子の豊饒・茫洋と通じ老子・孔子の濃縮・含蓄と対極を成すが、其の鮮烈な思弁と「思・弁」は、『論語』の字面通りの論理・言語を兼ねる。
徳が有れば友が自ずと遠方から来るという孔子の構えと逆に、孟子は諸国を廻り徳の賛同を得ようとした。但し、孔子も象牙の塔に閉じ籠もる学究ではなく、同じ外向・外交的な一面を持ち、政治への関与や遊説の経験が有った。『論語』の冒頭の「学而時習之、不亦説乎?」(学んでは時に復習する、如何にも楽しい事であろう)の中の「説」は、字形が類似の「悦」の意味だが、論説・説得に喜悦を感じる点は孔・孟・老・荘は一緒だ。
『孟子』では「説・悦」は分化するに至ったが、「至大至剛」と同じ章に出た「我知言」は、『論語』を結ぶ「不知言、無以知人也」(言葉を知らぬと、人を知る事は出来ぬ)の文脈を受け継いでいる。儒家と道家の間や儒家の内部の相互内包−補完は此処にも見られるが、孟子は先哲より更に進んで、言を以て仁を説くだけでなく、言を以て人を制し治世に寄与しようとした(「知・制・治」は倶にzhi、「人・仁」と同音のren)。 

1)夏剛『「生於憂患、死於安楽」:当代日中指導者の緊張感の比較』、『立命館国際研究』11巻3号、1999年3月、107〜127頁。
2)西北師範学院中文系編『漢語成語詞典』、上海教育出版社、1987年、450頁。
3)上山春平『神々の体系−深層文化の試掘』、中公新書、1972年、53〜55頁。
4)羅貫中『三国演義』、立間祥介訳、『中国古典文学大系』26巻、平凡社、1968年、379頁。
2.「出類抜萃之輩」:指導者の基礎的な条件
日本語に無い「善弁」は、「(真意・動向等の)弁別が得意」「弁論が得意」の両義だが、孔子の「知言」の旨たる前者と共に、孟子は後者の能弁力も備えていた。最近訪米した朱鎔基総理は力強い自信と説得に因り、「中国の能動詞」と礼賛された5)が、鮮烈な気勢と修辞に由る中国流の自己主張の先駆の一人が孟子だ。諸葛亮の群儒と舌戦する事や魯粛の力めて衆議を排す事も其の延長に在るが、此の二つの業とも日本の政治家の苦手だ。
中国では豊富は絶対的な善・価値とされ貧乏は罪と視られ、「感情飽満」は文学表現の理想と成るが、小渕首相が自嘲した「語彙貧乏」は、左様な見地から観れば格好が悪い。朱首相の代名詞なる「能動詞」(可能助動詞)は、我が辞書には「不可能」は無しという拿破崙の豪語を連想させるが、説得の姿勢の貧弱は「疲軟」の不振・不能と重なる。更に言えば、陰柔の特色の強い日本語にも、「冷感(不感症)」や矮小化の傾向が儘有る。
例の「軒昂・興亡」の接点に在る「興旺」(隆盛)は、『広辞苑』にも『角川大字源』にも出ない。孟子と梁恵王のずれと絡むが、concreteに当る準和製漢語の「具体」は、中国の古語では全体の具備を表わしたのだ。思考や着想が現実の形を取る具体性は孟子にも有ったが、原典の「具体而微」([聖人の]全体を具備しているが、只[聖人に比べて]微小なのだ)は、孔門の冉牛・閔子・顔淵に対する孟子の弟子・公孫丑の評だ。
個別の物事の特殊性への関心に収斂し、中国的な全体志向を消した「具体」には、日本的な「縮み」志向が窺われるが、根元から原義の気勢を削ぐ去勢は、日本に於ける漢語の変容の一つの様相だ。此は変な「抜本」の変種とも言えようが、「抜本」は日本語で「抜き書きした本」の意にも成る(『角川大字源』)。類義の和製漢語・「抜粋」は、同じ『孟子・公孫丑上』の「出二於其類一、抜二乎其萃一」が出典の「抜萃」(抜群)の変形だ。
毛沢東はニクソンとの会見で其の『6つの危機』を誉めたが、後者は10年後の72年に『指導者たち』6)を出した。「未来の指導者に捧げる」との題辞で始まり、チャーチル、ドゴール、マッカーサー、吉田茂、周恩来等を取り上げた此の「現代世界を創った人々の横顔と回想」(副題)は、中国で『領導人』『出類抜萃之輩』と訳されたが、成語の「出類抜萃」に由る意訳は、抜群・非凡を指導者の条件とする伝統的な理念を物語っている。
『孟子』の中の「出於其類、抜乎其萃」は、孔門の高弟・有若の言葉である。彼は走る獣の中の麒麟、飛ぶ鳥の中の鳳凰、丘に対する泰山、水溜まりに対する大河や海、民衆に対する聖人を其の例に挙げ、「自生民以来、未有盛於孔子也」(人類始まって以来、孔子より盛んな偉人は無い)、という師への礼賛を展開した。此処で省略された「盛」の修飾語は、一般的に「徳」と考えられるが、「出類抜萃之輩」の条件には「才」も欠かせぬ。
諸葛亮は蒋を後継者に指名したが、劉備に仕えて討魏戦争で兵糧供給を司った此の男は、『三国志・蜀志・蒋伝』に拠ると、「出類抜萃、処群僚之右」の人物だ。蜀の君主の首席補佐に抜擢されたのは、右に出る者が無い様な人徳・才知の故だろう。蜀(四川)の人・小平が蒋 と同じ湖南の人・朱鎔基を、新領袖・江沢民の首席補佐に起用したのも、似た理由が考えられるが、三国時代の世代交代と蜀の国力の後退は警世の鏡に成る。
蒋は諸葛亮の他界の12年後に逝ったが、孔明は其の後継者・費まで指名して置いた。当時の蜀の人々は諸葛・蒋・費と董允を「四相・四英」と称した7)が、後の3人の「一代不如一代」(次の代は前の代に及ばぬ)は明らかだ。尤も、孔明が敗将・馬謖を斬ろうとした時に蒋が諌めたが、「壮士断腕」の勇気を持つ朱総理は前任者たちに勝ろう。毛が周を後継者にしなかったのは、和を尊び首切りの決断が鈍い点も有ったと言う8)。
「出類抜萃」の「萃」は、「1草の生えるさま。2あつまる。人や物事が集まる。あつめる。
また、あつまり。3やつれる。4くるしむ。5とどまる。6総攻撃する。7易えきの六十四卦の一。。坤下兌上。名称を表す意味は、聚集(あつまる)」の多義を持ち、字形は「意符の艸(くさ)と、音符の卒ソツ→スイ(よりあつまるの意=帥スイ)とから成る。草の集まる所。くさむらの意。ひいて、“あつまる”意に用いる。」(『角川大字源』)「出類抜萃」は草叢から抜き出ている様を表わし、同じ2の用例に『左伝』の「楚師方壮、若萃二於我一、我師必尽」も有るが、「導師・統帥」の「師・帥」が「萃」の項に出るのは興味深い。「聖人=精粋」「民衆=萃」の図式は、「草民」の発想と同根に思える。民を詰まらぬ草芥と同一視する差別の意から、此の古語は歴史の護美箱に入れられたが、「草叢。薮」「民間。在野」を表わす「草莽」は、今も中性の言葉として使われている。
『角川大字源』の該当の成句は、『孟子・万章下』の「在レ国曰二市井之臣一、在レ野曰二草莽之臣一」が出典の「草莽之臣」(=官に仕えず、民間にある人。在野の人。庶民)だけだが、中国では「草莽英雄」(民間の英雄)の方が使用頻度が高い。体制から「草寇・草賊」と断罪された農民造反軍等を肯定し美化する場合は、好く此の4字が用いられる。国民党政権に長く「匪賊」と呼ばれていた中共軍も、「草莽英雄」の色彩を帯びている。
国・共両党が「匪賊」として罵り合う関係は、例の中米頂峰会談でも話題に成った。ニクソンは悪戯て自分を「匪賊」と呼んだ処、貴方を打倒したら我々は友人が居なくなってしまう、と毛沢東は言った。其処でニクソンは、次の言葉で会談を締め括った。「貴方は非常に貧困な家庭に生まれながら、世界で最も人口の多い、偉大な国家の最高指導者に成られた。私も非常に貧困な家庭の出身で、非常に偉大な国の最高指導者に成りました。」彼曰く、歴史が此の2人を結び付けました;異なった哲学を持ちつつ、共に地に足が着き民衆から生まれた我々が、中・米と世界に此から長年に亘って寄与する突破口を作れるかどうか、此が問題でしょう;其の為に私たちは此処に来たのです、と9)。曾て84歳のチャーチルと会った彼は、此が最後と判っていたので、米国と世界の数百万人は貴方に感謝しています、と別れ際に述べた10)が、79歳の毛に対しも一期一会の心算だったか。
其の「動情」(1激情に駆られる。2敬慕の情を起す)は、私的・詩的な感動・感傷を超えて、外交の本質の一端を窺わせる。ニクソンは米国外交官や国民党高官の言を引き、外交家・周恩来の本心を見せまい役者の本質に触れた11)。集団や国家間の交渉は利害の対立の為に、打打発止の応酬も虚々実々の駆け引きも、場合に因っては欺瞞も必要だが、本音・本気のぶつかり合いが無いと、不毛の探り合いや上辺の付き合いに止まりがちだ。
ニクソンが言うには、指導者は権謀術数を用いなければ、大事に当って目的を達成できぬ場合が多いので、世論より先行しつつも世論が熟するのを待ち、手持ちカードの一部を隠す必要も有る。「真の政治家は、権謀の時と誠実の時を使い分けなければ成らない。権謀と誠実の政略を少なくとも千回繰り返す事に由って、全権掌握は始めて可能に成る」、というドゴールの語録を引いた12)が、其の千回の旋回は共産党中国の政治手法でもある。
「工業戦線の旗幟」・大慶油田の気風−「做老実人、説老実話、弁老実事」(素直な人に成り、素直な事を言い、素直に事を行なう)は、毛沢東の建前と合致するが、重大な問題に関しては謙遜した事が無いという表白の通り、彼は「三老精神」を無条件で守り通したわけが無い。『毛主席語録』の第1章・『共産党』は、「政策と策略は党の生命である」という断言で結ぶが、彼は党内外・国内外の闘争に当って、謀略も辞さなかった。
彼は57年に先ず党員や民衆の直言を奨励したが、実際に異議を唱えた人々に突然鉄槌を下し、食言を「陽謀」と詭弁して憚らなかった。其の「反右派闘争」を指揮した小平は80年代に、偶数の年は改革・開放を推進し、奇数の年は保守的な緊縮に転じた13)。時に無駄な紆余曲折をもたらす様な揺れを必要な均衡操作に捉える劉少奇は、飛行進路の左寄り・右寄りの曲線に譬えたが、目的地を目指す目的意識と意志は始終一貫するわけだ。
毛沢東は政策を革命政党の全ての出発点、過程と帰着に帰し、中共の規約に記された最低綱領(社会主義の建設)・最高綱領(共産主義の実現)は、要の政策をも凌ぐ目標だ。ニクソンは周恩来を「今世紀の共産主義運動が生んだ最も頭脳明晰にして非情な人物」とし、其の「鼠に飛び掛かる猫の周到さ」を讃えた14)。白い猫でも黒い猫でも鼠を捕れる猫が良い猫だ、と小平は結果主義を唱えたが、周の真髄・真価は正しく其の辺に在る。
「儒者の礼譲と革命家の非情な政治本能を併せ持った」周は、「行動計画を最後まで読み切った男の決断力を以て、敢然として事に当る事が出来たが、同時に温かい配慮、滲み出る人間味、絹の様な手触りを持つ人でもあった」15)。ニクソンに映った彼の二面性は、中国の指導者の礼(教)・兵(家)の2つの顔だ。此の国の治世・外交の伝統には、「先礼後兵」(先ず礼を尽くし、上手く行かぬ場合は強硬手段に訴える)の二刀流が有る。
50年代の或る極東担当米国務次官は、周恩来の魅力を十分に認めた上で、此まで自分の手で人を殺し、其の後煙草を銜えて悠々と現場を立ち去る様な事をした男なのだ、とニクソンに教えた16)。88年の日本の国会で、自民党幹部の委員長が共産党の指導者を「殺人者」と呼び、責任を問われて辞任させられた事が有るから、軽々しく論評できる問題ではないが、前回の論文で触れた若き蒋介石の暗殺行動に関する伝説と合わせて考えたい。 

5)北京外国語大学教授・呉青の言。『読売新聞』1999年4月14日。
6)10)11)12)14)15)16)18)26)28)29)30)32)41)42)リチャード・ニクソン『指導者とは』、徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986年(原題『LEADERS』、原典1982年)。46、253〜254、365、254、同、253、365、28〜29、369、371、28、114、197、270、362頁。
7)『華陽国志・劉後主志』の記載。沈伯俊・譚良嘯『三国演義大事典』、立間祥介他訳、潮出版社、1996年(原典1989年)、133頁。
8)青野・方雷『小平在1976年』上、春風文芸出版社、1993年、48頁。
9)27)『ニクソン回顧録1 栄光の日々』、松尾文夫・斎田一路訳、小学館、1978年(原典同)、331〜332、9頁。
13)阮銘『中国的転変−胡耀邦と小平』、鈴木博訳、現代教養文庫、1993年(原典1991年)、143〜145頁。 
3.慈父の自負・無情と有情・「龍種」と「跳蚤」
周恩来はニクソンとの長時間の会談で、「提神」(精神を奮い立たせる。気付け)の為に、偶に煙草を一口だけ吸って、火が点いた儘で其を灰皿に置くのだった17)。歯が黒く染まった程の「煙鬼」・毛沢東と違って、煙草を敬遠する彼の習慣は広く知られている。従って上記の風説は、想像か比喩としか思えないが、現場に立ち会ったか否かは別として、内戦中の彼が党の叛徒への報復処刑を指揮した事は、英雄譚として公表された史実だ。
其の別働隊は「打狗隊」と自称したが、裏切りを処罰する執念は猫の特質でもある。12支の動物に鼠が首席を据え猫が入らぬのは、鼠の嘘で猫が登録を損なった所為だ、と中国の寓話は言う。其の恨みで猫は鼠の天敵と成ったが、可愛い寵物の形象が強い猫の科に虎が居る事も面白い。「出類抜萃」の「萃」の「草叢・総攻撃する」は、彼の百獣の「亜王」の暗躍・闇討ちを連想させるが、指導者は必ず汚い部分が有るとニクソンは言う18)。
「萃」の関連語の「帥」は今では、俗に良い格好や瀟洒な様を表わす。軍師・孔明の瀟洒な統率と死滅の背中合わせを前に指摘したが、同じ前出の「量小非君子、無毒不丈夫」の両面も彼に有る。伝説的な「七擒七縦孟獲」の快挙・義挙は、大人・大国の気宇壮大(器の大きさ。懐の深さ)を存分に示したが、鼠を獲っては戻す猫の黒い面も見過ごせぬ。彼の南蛮の王に対する止めの一刺しは、草叢の中で行なった「山中賊」への総攻撃だ。
6回も釈放された孟獲は尚諦めず、烏戈国の君・兀突骨に応援を頼んだ。後者は「中国人多行詭計」と警戒しつつ進めたが、到頭罠に掛かり兵3万人が全滅した。天を衝く悪臭の中で谷間に焼死する場面を頂上から見下ろして、孔明は涙を零しながら嘆く。「吾雖有功於社稷、必損寿矣!」(儂は国の為の功労とは言え、必ず寿命を縮められよう!)「使烏戈国之人不留種類者、是吾之大罪也!」(烏戈国の人を絶滅したのは、吾の大罪だ!)其の少数民族の種族撲滅は文字通り無残な作戦だが、「総設計師」の滅多に見せない涙は、他の戦闘での無慈悲の裏返しに他ならぬ。上記の感嘆を別の角度から読めば、大罪を承知し天罰を覚悟の上での毒手は、国家への至高な忠誠の結果とも思える。織田信長の比叡山焼き討ちと中国の「最後の皇帝」の武力鎮圧の「断而敢行、鬼神避之」、周・朱2総理の「鞠躬尽瘁、死而後巳」の精神を前回論じたが、両者は孔明の一身に集まっている。
孟獲は彼を慈父として感化したが、「厳父・慈母」の対が一般的だ。「右手で握手しながら、左手で相手の顔を殴る」華僑を甘く見た和田一夫は、香港で無邪気な失敗をした19)が、礼・兵の両手流は孔明にも遡れる。敵への仁慈は人民への犯罪だという毛の断言も其の国益至上主義と一致するが、喫煙・飲酒を健康の秘訣とした小平や、人を食って生きていると自称した吉田茂の様に、指導者には怪気炎の毒と仁慈心の解毒は同時に必要だ。
『孟子・梁恵王上』には、「始作俑者、其無後乎」(始めて俑[死者の守りに埋めた人形]を作った者は、殉死の悪習を開いた元凶として、天罰で子孫が絶えよう)と有る。毛沢東は59年の盧山会議で、国防相・彭徳懐元帥から「大躍進」の失政を批判され、建国後の2度目の権力の危機に瀕した際に、声涙倶に下る熱弁の中で此の成語を引いた。朝鮮戦争で殉職した其の長男の不幸への同情も混じって、風向きが一遍に彼の方へ傾いた。
諸葛亮の懺悔と涙も部下の心の琴線に触れたが、東洋人はやはり情に弱い面が有る。但し、此の際に私的な感情を絡み合わせたのは、場違い・筋違いと言わざるを得ない。中国人民志願軍総司令部の参謀を務めた毛岸英は、28歳の誕生日の翌日に米軍の爆撃で散ったが、総司令は他ならぬ彭徳懐だから始末が悪い。彭の失脚に毛の私怨も働いていたどうかは天のみ知るが、ソ連帰りの長男が戦火に投身したのは、親の意向も大きかったのだ。
米国帝国主義と其の原子爆弾を「紙老虎」(張り子の虎)として軽蔑した毛は、敵の実力や戦争の危険を甘く見たわけではない。敢えて究極の挑戦をさせたのは、息子を鍛えたい一心からである。彼は建国後、江青との間に出来た唯1人の娘・李訥が学校を卒業した時、好きな格言を4つ贈ったが、1番目が孟子の「天将降大任於斯人也、必先苦其心志、労其筋骨、餓其体膚、空乏其身、行払乱其所為、所以動心忍性、曾益其所不能」だ20)。
越南戦争の時も中国は志願軍を秘密裏派遣したが、平淡な人生を嫌い英雄に成ろうとした李訥は、長兄に倣って戦場へ赴きたいと申し出た。今度は毛は現実主義の態度を取り、当座の仕事に専念するよう命じた。其の「平凡」な職務とは、何と『解放軍報』の編集長であった。此は北京大学を卒業した3年後の68年の事だが、「文革」終了の際の職務は北京市党委員会書記だった21)。「天子」が子女に与えた大任は、深い意味を含めている。
軍の新聞・『解放軍報』は「文革」中、党中央機関紙・『人民日報』と並ぶ程の重みが有った。政権を奪取し維持する武器は銃と筆だと林彪は言ったが、軍の宣伝媒体は此の2本柱を兼ねる。解放軍の3大指揮中枢は、総参謀部・総政治部・総後勤(軍需)部だが、毛岸青と李訥が置かれた場は前の2者に当る。戦場との距離や領分の違いは別に、2つの任務の共通点は軍・頭脳だが、孟子の「労レ心者治レ人、労レ力者治二於人一」を思い起す。
中共は無産階級革命の観念から、労働者階級を指導的な階級としているが、指導者集団は大知識人・毛を始めとする頭脳労働者であり、肉体労働者は実質的に支配されている。尤も、此の不易の図式が有る一方、理想主義者の毛は中央委員の甥・毛遠新を普通の女工と結婚させ、姪・王海容を化学工場で2年余り労働者を務めさせた。但し、王海容を李訥と同じ北京大学に入れ、後に特殊な地位を与えた事は、彼の帝王根性の現われに思える。
70代以降の毛は3人の後継者を立てたが、先ず「親密な戦友」・林彪に噛まれてしまい、次に労働者造反派司令・王洪文も期待外れと成り、「老実」が取り柄の華国鋒も短命政権で終わった。「我播下的是龍種、収穫的是跳蚤」(私は龍の種を播いたが、獲れたのは蚤である)という、共産主義運動内部の日和見主義に失望したマルクスの嘆きが、「文革」中に好く引き合いに出されたが、「龍王」・毛の種が実らなかったのは皮肉な事だ。
色々と考えられる理由の中で、後継者を育てる本気の足りなさが最大かと思う。「無産階級革命事業」の「後継無人」への危惧から、彼は中央から地方への次世代の指導者の育成を急務として、60年代以降唱え続けたが、其の掛け声と裏腹に自らの権力を手放そうとしなかった。
61年に外賓との会見で、国家主席と党の筆頭副主席・劉少奇が自分の後継者だと明言したが、僅か3年後に劉の打倒を決意し22)、更に2年後其を実行に移した。
彼は例の盧山会議の演説の中で、我々(の独裁)は秦始皇より百倍も凄いと言った。後に別の外賓に対して、我々が必要とする秦始皇は劉少奇であり、私は彼の「附臣」ですと述べた23)。
林彪を正式に後継者と定める「文革」中の党大会では、彼は突然林を議長団主席に推し、自分は副主席でどうだと言い出し、林を狼狽させてしまった24)。2つの「謙遜」は前者は韜晦で後者は忠誠試験だが、倶に超級権力者の特権に基づく超常軌の遊戯だ。
中国の指導者には「男の花道」の発想が無い、という指摘25)は間違いない。但し、全て私的な権力欲の故の未練と解すと、問題は矮小化し深層の真相は見えて来ない。天が斯の我に与えた大任は、余人には「勝任」(適任)できまい、という強烈な自信が他者への不信に繋がるわけだ。「我等が時代の最大の人物」・チャーチルを振り返るニクソンは、毛と通じる其の慈父の自負から、歴史の頂点に立つ超大物の宿命的な悲劇に言及した。
彼がチャーチルの息子に其の父の即席演説の巧さを誉めると、相手は笑って答えた。「当り前ですよ。父は人生の華の時代を、演説の草稿書きと其の暗記に費やしたんですから。」其の時ニクソンが感じたのは、偉人の子に生まれる事の不幸だ。相手は知性に富んだ人物だが、誰でもチャーチルと比べると小さく成ってしまうので、子の場合は二重のハンディギャップだ、と言う26)。毛や小平の子供や後継者に就いても、同じ事が言えよう。
此の2人は最終的に序列の低い後輩を次世代のNO.1に据え、其の型破りな布石は内外を驚かせた。政治的な均衡への配慮や「無事是名馬」の無難志向が窺えるが、超一流の自分を除けば皆大同小異だ、という心理も有ったかも知れぬ。強い自意識に由る諦観の裏返しとして、自分並みに成らないと老大国の最高指導者は到底務まらぬという強迫観念から、限られた期間中に目一杯、後継者の能力や権威を強引に強化し切ろうと焦りがちだ。
孟門の公孫丑は孔門の弟子を「具体而微」と評したが、『孟子・公孫丑上』には「(抜)苗助長」の成語も有る。孟子は「浩然之気」の修養を怠る事を戒めて、苗の成長の早めたい一心で一本一本引っ張り、其を萎えさせた愚か者の譬え話をした。15年で英国に追い付き、ソ連よりも早く共産主義に入ろうという「大躍進」も、「一歩登天」の性急で躓いたのだが、過剰な「出類抜萃」の意識と操作は、常に「抜苗助長」の危険を孕む。
「苗」(人材の卵)に対する突飛な「提抜」(抜擢)も、其の時代に多かった「抜苗助長」だ。
林彪事件後の毛は自省からか、白楽天の「試玉要焼三日満、辨材需待七年期」を引いた。人材か否かの弁別は7年要るが、彼の例の3人の親族は数年後、「文革」の終結と共に不当な高位から転落した。前近代的な「血濃於水」「任人唯親」(任用は縁故にのみ由る)等の教訓と別に、「斯人」等への大任の配り方から「天」の願望が読み取れる。 

17)34)35)36)陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』、崑崙出版社、1988年、304、241、187〜188、186頁。
19)加藤鉱『ヤオハン 無邪気な失敗』、日本経済新聞社、1997年、85頁。
20)21)22)23)暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992年、188、179、94〜97、264頁。
24)席宣・金春明『「文化大革命」簡史』、岸田五郎他訳、中央公論社、1998年(原典1996年)、255〜256頁。
25)伴野朗『上海 遥かなり』、実業之日本社、1992年、290頁。 
4.「自強・自卑」の複合体;「礼・兵」の極意
毛が「文革」を起した要因の1つは、首都の党・政が自分の統制から離れた「独立王国」化だ。娘が北京市党委書記に納まった事は、全国の政治的な中心を掌握する其の意志の反映に見えるが、李訥の最高学府への入学は別の拘りと関連する事か。若い頃に北京大学の図書館員を務めた彼は北京占領後、北京図書館で通し番号No.1の貸出し証を作り、元北大教授の学者で全国政治協商会議議員・梁漱溟を知識人弾圧の最初の標的に選んだ。
『ニクソン回顧録』の日本語版の「訳者前書き」の中に、「誇張なまでの強迫観念と自己主張に満ちたニクソンの言葉」の件が有った27)が、当人は強い自我意識と強い意志力を指導者の不可欠な条件に挙げている28)。誇り高く見栄っ張りで矛盾も多いチャーチルとマッカーサーの優れた指導力を讃え、彼は其の原動力を探った29)が、舌足らずの欠点を逆手に取って演説の魅力を磨く若きチャーチルの姿30)は、自意識の建設性を示唆する。
毛沢東の「自強・自卑(劣等感)」の表裏一体は、中国の悠久な伝統に因る優越感と落後した故の劣等感の混在と同じく、重層的な複雑系を成す物だが、精神分析で劣等感を表わすcomplexは、ラテン語の「共に折り畳む」意から来、「複合体・合成物」の語義を持つ31)。
多くの偉人と同じ矛盾を抱えた二重性格の持ち主として、毛は中性的なcomplexの塊と言えようが、其の固定観念(complex)の指向性に注目したい。
「需要は発明の母」と言うが、自卑・自強に因る飢渇精神や抑圧された無意識(complex)は、往々にして需要の源である。毛遠新は軍事人材を育てる哈爾浜軍事工程学院に入り、後に遼寧省の党・政・軍のNo.2と成った。林彪も娘を同じ学院に入れ、愛称・「虎」の独り息子に空軍作戦部副部長を遣らせた。正・副統帥の御し易い地方や兵種への配置の節も有るが、両者のcomplex(過度の嫌悪・恐怖)も浮き彫りに成る。
瀋陽(奉天)・旅(順)大(連)の在る遼寧省は、日露戦争・日中戦争・国共内戦の主戦場だった。北京の「北大門(玄関)」の一部に当り、朝鮮半島とも地続きの戦略要地なので、朝鮮戦争への出兵も此の地域が主と成った。ニクソンは中国人民志願軍の指揮者を林彪と誤認した32)が、敵の統帥の名前の記憶が曖昧だったのは、越南戦争に較べて痛みが軽かった事か。林が病気を理由に拝命を拒んだのは、「恐美(米)病」の為だと言う。
此の一件で彼は毛の不興を長く買ったが、最強の東北解放軍を率い国内で無敗を誇った彼は、制空権も無い儘で最新鋭の兵器を持つ相手に勝てぬ事を懸念したのだ。息子を空軍の陰の司令に当てた「天降大任於斯人」は、第1号天敵・米国への対抗意識や制空権不在への恐懼の表われとも取れる。彼は毛の対米接近に反発しソ連へ亡命したが、皮肉にも空軍最優秀の操縦士が飛ばす専用機の墜落に因り、夫人・息子と共に異郷で命を亡くした。
毛と周はニクソンとの会談で此の政変劇に然り気無く触れ、相手より遥かに強い国内の反対勢力の存在と、彼等に打ち勝った指導部の意志を伝えた。其の席に王海容が外交部部長(外相)補佐として居たが、英語を専攻させ通訳に育てた毛の先行投資は、最高の舞台で回報が得られたわけだ。マルクスの「外国語は人生の武器なり」の教えを実践した其の選択には、連米−抗米戦略と留学経験の無い自分の英語コンプレックスが混じった様だ。
外交官を妃に迎えた平成日本の皇室の先進性が内外で評価されたが、「封建的社会主義」の誹りを受けた毛の中国でも、鎖国の保守性の反面に時代を先取りする処も多かった。但し、其の革新的・前衛的な一面には、伝統も好く含まれている。王海容は外交部の礼賓司(典儀局)長・次官まで出世したが、中国は賓客に礼を尽くす「礼義之邦」だ。ところが、礼・兵の複合体を表わすかの如く、「賓」の簡略字は「宝」冠と「兵」から成る。
『角川大字源』を繙いて観ると、「外交」の語義は次の通りである。「1外国との交際・交渉。
国と国との交際。国交。〔晋語八〕2国外の人と個人としての交際。また、その付き合いをすること。〔史記・楚世家〕「擅レ兵外交」3他人との交際。4〔国字〕外交員。」2の出典は厳密に引けば、「太子居二城父擅レ兵、外交二諸侯一」(太子が城父[今の河南・汝州]に居住し、兵権を欲しい儘にし、外は諸侯と交際を厚くした])、と言う33)。
『楚世家』にも出た孟子の遊説先・梁との隣接や、今世紀の国・共2党の「太子党」との符合は興味を引くが、「擅兵・外交」こそ新中国の総合的な国力の強さの秘密だ。共産党中国の外交の本質を象徴する様に、今の唐家までの7人の外相は、4人は元軍人で3人は地下党員だった。戦場での武装闘争にしろ敵占領区での秘密活動にしろ、彼等は修羅場の経験を共有した。情報や計略を重んじる兵家の感覚は、其の第2の共通点と成る。
情報を制す者は天下を制すという発想は孫子と一緒だが、国家の大計なる外交に於いても政策と策略は生命線だ。唐外相と同じ38年生まれの「戦無派」・王海容は、李訥・毛遠新と同じ情報の収集−報告の大任を与えられた。『荘子』の中央の帝・渾沌の話の寓意と矛盾する様だが、権力の頂点に有りがちの情報真空を防ぐよう、毛は彼等を「耳目之官」に用いた。『書経』に出た此の名称は、天子の耳目と成り治世を補佐する官の意味だ。
『孟子』の中の「耳目之官」は、視聴を司る器官を言うが、中央指導者との連絡員を務めた王海容と毛遠新は、「天意・天声」を伝達する手足・喉舌とも成った。外交官と「内交官」の兼務は奇妙に見えるが、通訳の任務でもある意思の疎通と真情の把握は、外交・内政の共通な基礎なのだ。周恩来が中国で受けた「外交家」の誉れは、日本語では外交の大家ではなく、社交の巧みな人を指すが、外交も突き詰めれば国際社会に於ける交際だ。
毛沢東は田中角栄と会うなり、喧嘩(首脳会談)は済みましたかと聞いた。「不打不成交」(喧嘩しないと友人に成れぬ。雨降って地固まる)との観念から、腹を割って衝突する事は中国では、末永い真の交際の第一歩とされる。日本語の「外交」は「外交員」の略でもあるが、「成交」は「成約する」意も有るから、此の和製漢語(=会社・商店などで、外部を訪問して勧誘・交渉・注文取りなどを担当する者。『広辞苑』)の発想と合う。
「売買不成仁義在」(商談が纏まらなくても仁義[誼。和気]が残る)、という格言も一方に有る。梁恵王の「利」と孟子の「仁義」の対立・統一と重なる様に、「成交・仁義」が同時に中国の外交−内交の目的意識を成す。此の「仁義」は別に礼譲とは限らず、仁義無き争いを辞さぬ自己主張も含む物だ。「求同存異」の方針に基づき双方の食違いを並記した72年中米共同声明も、「打」→「和」(1調和。2妥協。引き分け)の傑作だ。
中共の指導者が高度に重視する情報は、政治・外交・軍事・商売・社交に於いて、言語と同じ生存・交流・発展の利器を成す。漢語の「情報」は語源が不明だが、『角川大字源』の「事件の実情の知らせ」に対して、『辞海』は「獲得的他方有関情況以及対其分析研究的結果」(入手した他方の情況、及び其に対する分析・研究の結果)と規定する。「情」の「情況」「感情」、「報」の「報告」「回報」は、色々な組み合わせを可能にする。
其の接点に実情・真情と実意・真意が現われるが、実意・真意と意志・意向・意図の「意」は、『角川大字源』に拠れば、「意符の心(こころ)と音符の音イン→イ(気が充満する意=壱イツ)とから成る。抑えられて充満している心の意。憶オクの原字。ひいて、“おもう”意に用いる。
一説に、音符は、啻ヨク→イ(おさえられて充満する意=抑ヨク)という。」正に孟子の「塞満天地之間」の「気」や、抑圧された無意識のcomplexと通じる。
ニクソンは指導者の沈黙の重要性を説いたが、左様な含みを持つ「啻」の「帝・口」の字形は、指導者の言語表現の問題を提起する。頂峰会議は孤独な人間同士の本音の吐露の場だと言われるが、哲学談義や愚痴等の「閑話」に徹した毛−ニクソン会談は、欲求の追求と欲求不満の解消を兼ねた其の極意の手本だ。視聴や発声の能力が低下した「中央之帝」は、「耳目之官」の両義を超えた心眼・心耳を以て、「心声」を述べたわけである。
小平は香港返還に就いてサッチャー首相に雷を落とし、周恩来は中米首脳会談で小技を弄じず、譲歩の限界を最初に示して置いた34)。毛沢東は「戦略上藐視敵人、戦術上重視敵人」と言うが、小乗的な立場では「底牌」・本心を見せぬとしても、大乗的な立場では底意・真情の表示が要る。其の真情は友好・懐柔とは限らず、敵に勝つ目的意識や気概も含まれる。「情報」の字面を擬って言えば、礼・兵の成功は情に報じられる処が多い。
国交回復秘密交渉の第1回会談の冒頭、キッシンジャー国家安全保障特別補佐官は元ハーバート大教授らしく、用意された原稿を読み上げた。「1874年、米国の商船・《中国皇后丸》がニューヨークから出発し、大西洋を横断し、喜望峰を通り、8月28日に中国広州の黄埔港に到着し、米中関係の序幕を開けた……」という風に始まり、最後に中国の国際社会への再帰と建設的な役割の発揮への期待、米大統領の訪中の希望を表明した。
気宇壮大な歴史の回顧と理路整然な言説の展開は、本来は中国人好みで中国でも常套の表現手段と成るが、周総理と葉剣英元帥は其の前口上を我慢して拝聴したのだ35)。漸く枕言葉が終わり、キッシンジャーは分厚い資料を離して、悠久な歴史と美しい国土を持つ中国は我々には神秘な国です、と言い出した。熟れさえすれば神秘ではない事に気付かれるでしょう、と周は応えたが、此の生の会話で心の琴線が触れ合い、交渉が軌道に乗った。 

31)小稲義男他編『新英和中辞典』第5版、研究社、1985年、334頁。
33)司馬遷著・吉田賢抗訳註『史記六(世家中)』、明治書院『新釈漢文大系』86巻、1979年、441〜442頁。 
5.「最後的吼声」の決意・底意
2日間しか無い時間の制限に因って、悠長な話法に付き合っていられぬ事情も想像できる。
中国人は「欲速則不達」の考えを持ち、百年単位の発想や「全球眼光」に富むが、97年前の大西洋→喜望峰経由の「万里長征」から切り出すのは、気を回し過ぎた「誘弯抹角」(曲がりくねった道を歩く。遠回しに)だ。朱総理は日本の経済人等との会見で、似た理由で苛立っていると言うが、迂回・闊達と迂闊は紙一重の差で隣り合わせる物だ。
彼等は中国の文化の伝統や発展の可能性を礼賛し、社交辞令に止まり実務の話はなかなか出さない。翻って思えば、梁恵王の「不遠千里而来、亦将有以利吾国乎?」は、君主の極く自然な関心事である。孟子の「何必言利」と恵王の言わば「必言利」は、中国の理想主義と現実主義の二極を成す。ニクソンの例の「地に足が着く」は、中国流で「脚踏実地」と言うが、宋の邵雍の司馬光評が出典の此の成語は、中共の「工作作風」とも成った。
政策決定の際の「務虚」(思想統一)も、「落実」(実現)の為である。分厚い資料を頼るキッシンジャーに対して、周は1枚のメモを手元に置いただけだ36)。彼も膨大な裏付けが有ったはずだが、其の「胸有成竹」の軒昂は、readerに甘んじぬ姿勢や、国際関係即「人際」(人間)関係という哲学をを表わした。毛とニクソンの哲学談義も「空対空導弾」ではなく、賓客の例の最後の真情の吐露の様に、高次の真実に落ち着いたのだ。
田中首相の「ご迷惑」発言が周総理に抗議され、国交回復の交渉が暗礁に乗り上げた処、妥結の見通しを楽観していた日本側は悲観に転じた。大平外相は食事の際に箸に手を付けず、国民が望む国交正常化の目標が達成できねば帰国するわけには行かぬと言った。政治的全責任は総理の俺に在るから心配するな、君等大学出はこんな修羅場に成ると駄目だ、と角栄は一喝したが、じゃあ明日からの交渉をどうするのだ、と大平は憤然と応酬した。
会談の決裂と内部の不和の危機の中で、其の時2人は次の禅問答を交わした。「なあ、君は越後から東京に出て来る時に、総理大臣に成れると思ったかい。」「冗談じゃない。越後の田舎じゃ食えんからなあ。」「俺もそうだ。讃岐の田舎では食えんから、東京に出て来たんだ。」37)。
本心の吐露は心機一転に繋がったが、足が地に着き民衆から出て歴史に結び付けられた2人は、突破口を作り責任を果たそうというニクソンの志向と通じる。
其の使命感には「天降大任於斯人」の自負も読み取れるが、中国の「天皇」の「天声」と重なって聞こえる。毛はニクソンの『六次危機』を誉めたが、彼が経験した党内路線闘争の危機だけでも、党主席就任後の41年の間に其ぐらい有った。彼は建国10、21年目に、2人の国防相−彭徳懐・林彪と対立した時、こんな殺し文句を放った。(仮に敗けても)大した事は無い、軍を率いて農村根拠地に戻り、再び遊撃戦をやれば良い、と。
下の士は臼で人を殺し、中と上の士は其々言葉と筆で人を殺す、と古人は言う38)。杖・刀・政治に由る殺人に関する孟子の説39)と関わって、89年の天安門事件の銃に由る軍の鎮圧に対して、毛政権末期の76年の其では民兵の棍棒が使われたが、毛の林彪排除の利器は専ら言葉と文章だ。彼は列国遊説の伝統に沿い、南方巡視で各地の諸侯を取り入った。「寸鉄殺人」(警語で人の急所を衝く)と言うが、例の伝家の宝刀の殺し文句も繰り返した。
武力の裏付けが有ってこそ効果を持ち、流血に伴わぬ粛清が出来たのは言うまでもないが、其の恫喝は半分は本心だったろう。彼は林彪の仕掛けで不本意に神格化された事を、「逼上梁山」(迫まられて梁山泊に上る)の熟語で形容した。中華人民共和国国歌・『義勇軍行進曲』の歌詞に、「被迫着発出最後的吼声」(迫られて最後の雄叫びを発する)と有るが、毛の「最後的吼声」の「上山打遊撃」は、「逼上梁山」と共に其の原点なのだ。
「草莽英雄」の物語・『水滸伝』が好きな彼は、馬克思・列寧主義の原理は「造反有理」の一言に尽きると断じた。曽て彼は農村を根拠地としていた事で党内の一部から、「山溝里的馬列主義」(山奥のマルクス・レーニン主義)と貶された。ニクソンも其の「草莽寒門」(山村の貧しい家の出身)に触れたが、『国際歌』の劈頭の雄叫びの中国語は、「起来、飢寒交迫的奴隷」(立ち上がれ、飢寒に迫られ[苛まれ]た奴隷たちよ)と言う。
米ソの優劣を巡る59年のニクソンとフルチョフの「厨房論争」は、周恩来が前者を持ち上げる材料にも成った。相手の胸に指を突き付けて激突し合う其の一齣ほど有名ではないが、2日後に彼の米国副大統領は、ソ共書記長の執務室で再び挑発を受けた。米国議会が可決した恒例の『被抑圧国家支持決議』に就いて、東道主は刺す様な目で賓客を見て怒鳴った。「ションベンだ。湯気の立った馬のションベンだ。此以上、臭い物は無い!」ニクソンは開き直って正面から相手を見詰め、声を荒げもせずに言い返した。「書記長は言い違いをされた様です。馬の小便より臭い物が有ります。其は豚の小便です。」若い頃に豚追いをしていたフルチョフは、太陽穴の血管が破裂するかの様に見えたが、次の瞬間にっこり笑って話題を変えた。指導者の遣り取りは時には此の通り、正真正銘の生臭い物に成るが、「歯には歯」の心・技・体が無いと、牙を剥かれた場合は呑まれてしまう。
ニクソンが「野牛」と名付けた其の北極熊の乱暴・不羈は、蒟蒻が特産の土地から生まれ気配りが得意な今の日本の「鈍牛」首相と対蹠を成すが、敵の怪気炎を一発で鎮めたニクソンの台詞は、基礎的な体験から本能的に発した物だ。子供の時に馬糞が肥料に成る処を見ており、或る時、近所の農家が豚の糞を代用したが、其の臭さは今だに覚えていたのだ40)。彼は相手に憎悪と親近感を同時に抱いたが、馬が合う事の秘密は其の辺にも有る。
ニクソンは毛沢東の多岐放縦と蒋介石の整理整頓を較べ、毛の書は自由闊達で規矩に馴染まず、蒋の書は毅然として一点一画を揺るがせにしない、と述べた41)。小平の書も「一筆不苟」の几帳面さが特徴だが、彼の言語表現には蒋介石と同じく、「不登大雅之堂」の部分も有った。
人格の謹厳さで名高い劉少奇主席も、仕事をせぬ癖に権力の座に居坐る傾向を、「占着茅房不拉屎」(糞をしないのに便所を塞ぐ)という尾籠な熟語を使った。
小平が趙紫陽総書記を切った後の噂に拠れば、彼は「儂と同じ溲瓶で小便をしないとは思わなかった」と言って、自分への二心を見損なった事を悔しがったそうだ。周恩来や彼の死後に流布された「遺書」と同様、デマと受け止めた方が順当だろうが、左様な言い回しが出回った下地に注目すべだ。「文革」中に巷で広く信じられていた「毛主席未発表詩詞」群も、少数ながら本物が入っていたし、大半を占める偽物も毛の風格を帯びた物だ。
後で判明した確信犯でない「偽作者」は、文学者・郭沫若の薫陶を受けた研究者の卵だったが、振り返って観れば、毛の詩作との差は正に「具体而微」の通り、偉人の輪郭を具備しつつも規模が微小な事だ。其の最大な不足は神気・文采よりも、生臭い・血腥い覇気と迫力に在ろう。例えば、『念奴嬌・鳥児問答』を結ぶ「不須放屁、試看天地翻覆」(放屁をするな、天地の翻覆を見てみよ)は、余人には思いも寄らぬ奇想天外な一喝だ。
周恩来逝去の直前の76年元旦に公表された此の詞は、フルチョフへの諷刺を込めて65年に書いたのだ。漢語の品格を損なうとして「放屁」の件に台湾側から文句が出たが、毛が勝って官軍と成り蒋が敗けて賊軍と成ったのは、品と無関係の実力の重みを示した。最近、金日正総書記は食糧難を無視して人工衛星への投資を宣言したが、約40年前の毛の核開発に賭けた同じ意気込みと比べれば、やはり「小巫」と「大巫」の差が見られる。
中村正の小説・『貧者の核爆弾』(文芸春秋、1990)で登場した北アフリカ某恐怖主義国家の元首は、曾て中国に使者を派遣し原子爆弾の購入を申し入れた。周恩来は武器を輸出せぬ原則を持ち出して断ったが、其の「アラブの狂犬」も負ける強堅・強権で知られる毛も、原子爆弾の見本の提供をフルチョフに要請し拒否された事が有る。悔しい毛は内部の会議で、ズボンを質屋に入れてでも原爆の開発を成功させようと檄を飛ばした。
三文にも成らぬズボンを抵当に資金を作るとは、究極の発憤の意思表示である。ズボンを無くす事は飢寒の徴と共に、「遮羞布」と羞恥心を殴り捨てる意味も有る。最近世間を騒がせた核技術流出の疑惑と別の話だが、中国では「男盗女娼」が破廉恥罪の極み付けとされる一方、「笑貧不笑娼」(娼婦を笑わぬが貧困を笑う)という熟語も有る。赤貧を貶す侮辱語の「窮光蛋」は、無一文の果てに一物(蛋=金玉)が露出する様の含みも有る。
司馬遷が中国人の発憤精神の最大な元祖と成ったのは、其の一物まで去勢された事にも因る。
彼の屈辱と「悲涼」心境は察する余り有るが、核保護の傘下に甘んじる去勢・不能を避けたいからこそ、毛は其の悲壮な見立てをした。自らを追い詰めた必死な決意のお陰で、共産党中国は最短時間の開発を経て、米・ソ・英・仏に次ぐ核保有国と成った。ニクソンは毛をドゴールと並ぶ意志の最強な政治家と推したが、此の事実も証明と成ろう。
『LEADERS』の終章・『指導者の資格に就いて』の中で、例の権謀と誠実の千回の交錯の秘訣に続き、ドゴールの次の論断も引かれた。「行動の人は相当な自我意識と誇りと非情と老獪を持っているが、其に由り偉大な目的を達する事が出来れば、全ては宥されるばかりか、却って称賛される。」ニクソンは毛沢東やフルチョフを、「自分の政治の為に民衆が苦しんでも平気な人」と断じた42)が、此の基準からすれば別の観方も可能だ。 

37)NHK取材班『周恩来の決断−日中国交正常化はこうして実現した』、日本放送出版協会、1993年、159〜160頁。
38)[梁] 繹『金楼子・雑記篇13上』巻6、2頁。大雄尼『中国智術中的知慧』、浙江人民出版社、1992、6頁。
39)「梁惠曰:“ 人願安承レ教。”孟子対曰:“殺レ人以梃與レ刀有二以異一乎?”曰:“無二以異一也。”“以レ刃與レ政、有二以異一乎?”曰:“無二以異一也。”(『孟子・梁惠王章句上』)其の他、日本・中国の多くの新聞・雑誌の記事を参考にした。 
6.「寡人疾」の「色・勇・貨」と民族美徳の勤・勇・智
此の2人の独裁指導者に対する評の前後、ニクソンは斯く断った。此の本に書いた指導者の中には、薄っぺらな人物は一人も無い;複雑な動機を持たぬ純真な者人も居ないが、純粋に自己満足の為に権力を欲した人は皆無だ;自己の欲得を超える目的意識の当否はともかく、全員は例外無く偉大な目的の為に奉仕しており、歴史の中に立派な足跡を残しつつあると信じたのだ、と43)。大方は真理と認めて良かろうが、論理の落し穴も感じる。
ニクソンは周恩来の魔力に就いて、国民党高官の経験を引いた。最初は彼の言う通りだと思い、互いに歩み寄らねばと考えたが、何日か経つと、此の男は善意かも知れぬけど、観念形態の為盲目に成っていると疑うに至った;誠意なぞ全然無い、偉大な役者である;今笑ったかと思うと、直ぐに泣く;其に連れて、観客も笑ったり泣いたりする;全ては演技なのだ、と44)。
誠意の有無はともかく、周の演技が一流である事は疑問の余地が無い。
彼は学生時代に女装の芝居をした事が有り、建国後も好く公務の間を縫って演劇を観ていた。
63 年に訪中した日本作家代表団との会見で、彼は団長の劇作家・木下順三を相手に、直近に集中的に観た新劇の話を弾ませた。或る兵士役を演じた俳優の演技の問題で、出来栄えは必ずしも良くないとか、知識人役の俳優は知識人出身なのに、表現力が弱く発声も上手くないと言った論評は、根っからの芝居好きを窺わせ賓客側を唖然とさせた。
『中国・激動の世の生き方』(毎日新聞社、79 年)の中で、経済小説家・城山三郎は此の一齣を記し、其の心の余裕や学生の様な行動力に感服する余り、脂粉の漂う座敷で財界人等変り映えせぬ顔を相手に注しつ注されつの自国の政治家の不毛を嘆いた。中国でも「飯局」(宴会)を利用する料亭政治は無くもないが、「上台」(@官職に着く。A政権を取る)や「下台」(退陣・失脚・下野する)は、舞台・役者に見立てた発想・表現だ。
熟語の「女表子無情、戯子無義」(娼婦は情が無く、役者は義が無い)は、職業差別の嫌いが有りながら一面の真理を持つ。大勢の客と交わる売春婦は一々に本気を出せば、体が幾つ有っても保たないから、絶頂感を装って悦ばせる演技が要るわけだ。俳優は律儀に師匠や同業者に義理を立てっ放しだと、永遠に「配角」(配役)の儘で中央への出番が無い。「女表」の「女・表」と「戯」の「虚・戈」の字形は、実に味わいの深い表徴である。
革命の為なら娼婦や妾に成る事も辞さない、と内戦時代の周恩来は言った。小平の「黒猫・白猫」論よりも露骨な此の現実主義の本音は、共産党中国では流石に公表されていないが、大任の為なら節操を一時的に捨てても構わぬ考えは昔から有る。民間で尊ばれる史上の「四大美人」を観ても、西施と貂蝉は「美人計」の間諜であり、塞外との親交を図る為の民間外交官・王昭君は、夫君の死後に漢民族の倫理に反して其の息子と結婚した。
橋本首相の在任中に問題と成った中国女性間諜事件は、官庁(衛生部)の職員が巨額の無償援助を引き出す為に、厚相時代の彼に親密な交際を仕掛けたのが真相らしい、と言われる45)。
後に日本の外交官と結婚し、中国の国籍を棄てた当の女性は、一部の在日中国人から「民族英雄」と讃えられた。国益の為なら汚い手も許容する論理は、素朴な感情であり複雑な計算であるが、中国では此の2面は大衆だけでなく、指導者も持ち合わせている。
「英雄難過美人関」(英雄も美人の関所は越え難い)と言う様に、戦の試練を共にした妻・賀子珍のソ連滞在中、毛沢東は延安で江青と同棲した。掠奪愛で豪傑を独占した元映画俳優・江は、正に「戯子」なのだ。hero の「英雄・主人公」の両義は、其の一幕で妙に重畳した。不倫を容認した指導部は、上記の「民族英雄」論と通じて、「水至清、則無大魚」と割り切った事か。其の特別扱いは、4半世紀後の2人の暴走の遠因と成った。
其の超法規的な姻縁が民衆の間でも余り嫌悪されなかったのは、英雄は好色の人種で君主は特権を持つとの固定観念や、「食色、性也」(孟子)の人間観が大きい。斉宣王が「寡人有疾、寡人好勇」「寡人有疾、寡人好貨」「寡人有疾、寡人好色」と自白した時も、小勇に走らず慈悲・博愛の精神を持てば良いと孟子は肯定的に応えた46)。毛は財貨への欲望を罪過と見做したが、残りの2点に於いては、「毛病」(癖。欠点)の有る傑物だ。
中国の皇帝の1人称代名詞で最も良く知られるのは、秦始皇が天子専用の自称と決めた「朕」だ。此の漢字は『角川大字源』に拠れば、「意符の舟(月は省略形。ふね)と、音符のヨウ→チン(きねを繰り返し上げ下げする意。つづく、つぐ意[略])とから成る。舟板の継ぎ目の意」だ。
「朕」「鎮」「震」の同音(zhen)と合わせれば、「文革」中の毛に捧げられた賛辞の「偉大統帥・偉大舵手」も、其の字源・語義と吻合する様に思う。
古代候王の自称・「孤」「寡人」も、最高指導者の本質を窺わせる。『礼記』の「凡自称、(略)小国之君曰孤」が出典の「孤」は、「意符の子(こ)と、音符の瓜クワ→コ(ひとつぶの意=顆クワ)とから成る。一人だけ取り残された子、父母のない子、“みなしご”の意。一説に、音符の瓜は、頼りがない意(=寡クワ)で、頼る者のない“みなしご”の意という。」(同上)天の大任を1人で受け、孤独を強いられる天子の立場にはぴったりだ。
自ら究極の決断を下す際の孤立無援を愚痴った日本の首相経験者が居るが、権力の頂点の醍醐味も其処に在る。昔の帝の「孤」の自称には、排他的な孤高の矜持や使命感も滲み出ている。
「朕」は「真」「珍」とも音通だが、「真命天子」は元々独りぼっちの存在だ。「孤」と同じ謙称の「寡人」は唐代以降、候王の自称から皇帝の其に変わった。「寡徳(=徳が寡ない。徳望が薄い)之人」の語義(朱熹の解)も、奇妙な二重性を示唆する。
徳望が厚くなければ人の上に立てないとの理念から、自分の徳は未だ足りぬという謙遜が生じるわけだが、徳が寡なくても支配者に成れる事も厳然な現実だし、為政者には寡徳・「寡情」(非情)も場合に因っては必要だ。「徳不孤、必有隣」と孔子は主張したが、首長の超絶は徳を削ぐ時も儘有る。晩年の毛の「孤家寡人」化と其の時代の寡頭政治は、「出類」・抜群の「出倫・脱群」(倫理・群衆から逸脱・遊離する事)の危険の証だ。
「寡徳」の謙遜と「鮮廉寡恥」の実質は、字面の様に隣り合う場合も有る。「富国有徳」の理想は「富国寡徳」の裏返しでもあり、「貧国寡徳」の現実は、「人窮志不窮」と対蹠の「人窮志短」でも説明が付く。外交の切札として核爆弾を開発する昨今の貧者には、ズボンが無くても強行する決意の通り、道徳の鈍化の傾向が見られる。「赤条々来、赤条々去」(朝鮮語では「空手来、空手去」)の思い切りは、唯物虚無主義の傾斜に繋がる。
富国強兵の最終目標を悪と見做さぬ限り、毛沢東等が民衆に強いた「勒緊帯」(ベルトを引き締める。食物を切り詰める事の譬え)の犠牲は、寧ろ美化の対象にも成るが、偉大な目的への奉仕に関する自認・自信は、「自命不凡」の「驕矜」・錯覚が混じった場合は、私利私欲の心算は無くても独善に陥り、唯意志論の行き過ぎ等で国を誤らす危険が有る。天から大任を与えられた毛も最後に、自分の声を天の声として錯覚した様である。
指導者の虚栄心も国の向上を促す働きが有るとニクソンは言った47)が、国際社会の異端児たる国々の孤児根性に因る固持と誇示は、過剰な自意識の諸刃の剣の性質を思い知らせる。例のcomplex は「感情を担った表象の複合」「心の中の痼り」(『広辞苑』)の多義を持つが、大任を担ったという感情の重荷や葛藤は、「心中賊」の変種なる後者に化し易い。「痼」の「病・固」の字形は、硬質の「寡人」の固有の疾の文脈と繋がる。
中国の国民性の特徴にも様々な二重性が有り、儒教が中庸を唱えたのも両極端の差が激しいからだ。但し、中庸は何も凡庸ではない。老子は「治大国如烹小鮮」の逆説を説いたが、中国の規模は其の理想の「小国寡民」と異なるから、二極に跨がる非凡な指導者に由る動的な均衡が望ましい。建国後に続いて来た最高指導部の両輪構造−毛沢東と劉少奇・周恩来、 小平と胡耀邦・趙紫陽、江沢民と朱鎔基は、そんな陰陽・剛柔の複合体だ。
何れの2人3脚も両側の力点の違いこそ有れ、中華民族の美徳とされる勤勉・勇敢・智恵を兼ね備える。毛と周が其々強く見せた大胆不敵と「兢兢業業」は、前の2点に該当するが、3番に当る共通項の深謀遠慮は、2人3脚の結合部の如く安定を保つ支点と成る。中国人社会の「外儒内道」の原理と共に、共産党中国の「外毛内周」の表裏が指摘された48)。ニクソンも2人の個性に鮮やかな差を見たが、其の観察も未だ深化の余地が有る。
「周は容貌にも話し方や態度にも、洗練され尽くした外交官の風が有る。其に対して毛は野人で動物的な磁力を発散している」、と彼は言う49)。周は間違い無く聖人君子の部類に入るが、「革命の為なら娼婦に成っても構わぬ」主義の凄味も隠し持った。尤も、論戦中に「小便」云々を言い合ったフルチョフとニクソンの粗野さは、彼とは無縁である。毛が重病で倒れた凶報に接し失禁した彼は、駆け付ける前に自宅に寄り着替えたという50)。
緊急事態の中の其の冷静な挙動は領袖への尊敬とも取れるし、失態を恥じ自分の形象を維持する努力とも取れよう。「明哲保身」(賢明で身の処し方を心得る[身の安全を図る])という古訓を脳裏に刻んだ能吏の手本と見られがちだが、其の現実主義と毛の浪漫主義は、「日月経天」と「江河行地」の好一対だ。但し、毛は泥臭さの点に於いて、周と別の意味で足が地に着いていた。其の辺、彼は同じ野人の田中角栄と馬が合う処が有った。 

43)リチャード・ニクソン『指導者とは』、徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986 年(原題『LEADERS』、原典1982 年)、362 頁。「此の2人」とは前文の通り、毛沢東とフルチョフ。
44)47)49)52)53)54)63)78)同上、254、365、266、263、264、同、252、371 〜 377 頁。
45)加藤昭『橋本首相「中国人女性」とODA 26 億円の闇』、『諸君!』1998 年6月号。
46)「王曰、大哉言矣、寡人有疾、寡人好勇。対曰、王請無好小勇、夫撫剣疾視曰、彼悪敢当我哉、此匹夫之勇、敵一人者也、王請大之。『詩』云、王赫斯怒、爰整其旅、以遏徂、以篤周、以対於天下、此文王之勇也、文王一怒而安天下民。『書』曰、天降下民、作之君、作之師、唯曰、其助上帝、寵之四方、有罪無罪、唯我在、天下曷敢有越厥志、一人衡行於天下、武王恥之、此武王之勇也、而武王亦一怒而安天下之民、今王亦一怒而安天下之民、民唯恐王之不好勇也。」「王曰、寡人有疾、寡人好色。対曰、昔者大王好色、愛厥姫、詩云、古公亶甫、来朝走馬、率西水滸、至于岐下、爰及姜女、聿来胥宇、当是時也、内無怨女、外無曠夫、王如好色與百姓同之、於王何有。」(『孟子・梁恵王章句下』)
48)佐々淳行『危機管理のノウハウ PART1』、PHP文庫、1984 年、172 頁。
50)李志綏著、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』下、文芸春秋、1994 年(原典同年)、341 頁。
7.「天馬行空」の高邁・「鋼鉄公司」の力量
毛は田中との会見で開口一番、「喧嘩は済みましたか」と言った。其の前、田中は毛と会うなり、便所の拝借を劈頭に申し入れた。兵(闘争)を礼(調和)に持って行こうとした毛と、敢えて礼を欠く駆け引きに出たと言う51)田中は、指向性や器量の違いを見せたが、今世紀の本国で最も強烈な人物である事は一緒だ。こんな分類ではは毛・田中型と思えるが、毛が言った彼の「外方内円」の特質も、田中の「電脳付き推土機」と通じる。
感情と勘定、軒昂と権衡の対立・統一は、毛沢東にも当然ながら有った。ズボンを質屋に入れても原子爆弾の開発を進めるという彼の決意も、「贖回」(買い戻し)を前提とした計算に基づくのだ。類似の比喩を記者会見で述べた外相・陳毅元帥も、「天衣無縫」の無邪気・完璧の両義を体現した人物だ。周の洗練さに魅せられた所為か、ニクソンは彼を「第一級の詩人」と讃えた52)が、本当の詩人は毛と陳であり、毛こそ其の称賛に値する。
ニクソンは事実を誤認したが、政治の極致は散文よりも詩に似通う、との認識53)は間違っていない。は周と同じく実務志向が強いが、「天馬行空」「奇想動天」の政治手法は、毛並みの「大手筆」(大家の作品。大きな規模)を感じさせた。偉大な指導者には詩人は珍しくない、とニクソンは言う54)が、毛ほど詩作に託す思索が国を動かした政治家は少ない。訪中のニクソンと周が彼の句を要所要所で引いたのは、自然な成り行きである。
周は其の「無限風光在険峰」を引き合いに出し、葉剣英元帥も万里の長城の参観と「頂峰会談」に引っ掛けて、毛の「不到長城非好漢」を口にした。後者は女性排除の発想として、時の米国の第一夫人の不満を招いた55)が、夫君のニクソンにも男性中心主義が見え隠れする。「行動計画を最後まで読み切った男の決断力を以て、敢然として事に当る」という例の周恩来評は、場当りの衝動や優柔不断を女の癖と見る潜在意識の発露にも思える。
『広辞苑』第4版の「女」の「Iか弱い・やさしいなど、女性の通有性と同類の特性」も、似通った物の見方であるが、か弱さと逆に優しさは肯定される物だ。ニクソンは上記の観察に続いて、「同時に温かい配慮、滲み出る人間の味、絹の様な手触りを持つ」と、周の別の一面を記した。同じ「女」のAは、「成年女子。成熟して性的特徴があらわれた女性」と言うが、武田泰淳は中華民族の叡知を、複雑で成熟した女体の情欲に譬えた。
草を食べて乳を出す牛の様な奉仕を続けた周恩来は、遂に膀胱癌に罹り血尿が噴き出る破目と成った。其の重責を分担する為に小平が再び起用されたが、一部の人が恐がる彼を迎える際に、毛は「弁事果断」(果断に事に当る)の能力を認めた上で、「柔中寓剛、綿裏蔵針」という熟語を此の「軍師」に贈った。綿の内に針が潜むという比喩は、柔の中に剛を包むのと同義だが、表面は柔和・善良なものの内心は強靭・悪辣である事を言う。
毛は更に、「外面和気一点、内部是鋼鉄公司」(外は少し柔和で、中は鉄鋼会社)と付け加えた56)。「鉄鋼」は人を遣っ付ける武器の見立てだが、若きの渾名・「小鋼砲」も戦闘精神に富む。毛の言葉は韜晦で復活を遂げたの外柔内剛をも形容できるが、中は鉄鋼の様で構わぬけれど、表は少し柔和な方が宜しい、という勧告が真意なのだ。其の先見の明の通り、はやがて「鋼鉄」を出し過ぎ、毛の「鋼鉄」と衝突した故に更迭された。
「鋼鉄・公司」の組み合わせも鋭利と営利の両面を持つが、陰陽の兼備を唱える毛は剛に絶対的な価値を置いた。ニクソンが「今世紀の共産主義運動が生んだ最も頭脳明晰にして非情な人物」と見た周は、毛には未だ物足りなかった様だ。彼は周を後継者にしなかった理由に就いて、手刀で首切りの真似をしながら、此が出来ぬからだと言った57)。「忍」の「刃・心」の字形に即して言えば、柔軟な強靭と共に露骨な凶刃も要求されるのだ。
例の「勤労・勇敢・智恵」を吟味しても、最初の3字は「力」を含み、「心」が付く1字は最後に位置する。上記の『広辞苑』の「男」Kは、「力強い・激しいなど、男に期待されるのと同類の性質」と言うが、件の第4字・「敢」の字形は此の「激」と通じる。中華民族の3美徳に見る男性優位の傾向は、主体を成す民族・漢の「成年男子」の語義や、農耕民族にとって「男」の「田・力」の重みを考えれば、是非を超えて頷けなくなる。
毛沢東は中米国交回復の交渉に当って、内戦時代の米国の調停下の国・共談判で健闘した実績の有る葉剣英元帥を、対米工作小組の責任者に指名した。周恩来が推した黄華(後に外相)も、軍人出身の外交家である。外交官出身の解放軍総参謀部情報部門の責任者・熊向暉の起用も、礼と兵、理と力の二刀流の一環だが、当時52 歳の彼に周が期待を掛けた理由には、「年富力強」(春秋に富み気力が充実だ)、という将来性と実力が大きい。
『史記』の「皇帝春秋富、未能治天下」が出典の「春秋に富む」は、年が若くて経験が浅い事から転じて、生い先が長く将来性が有る事を言う。成語の「年高徳劭」(年齢も徳も高い)は、年の功を形容するが、「春秋鼎盛」(鼎=正に)の様に、若さや年齢自体が資本と成り得る。
「年富」に「力強」を付けたのは、宋の大儒・朱熹だ。彼は『論語』の「後生可畏」に就いて、「孔子言後生年富力強、足以積学而有待、其勢可畏」と説いた。
其の「力強」と力強さ・激しさは、一昔の熊にはもっと顕著だった。不惑の年を過ぎ外交部の要職に在った彼は、訪中のモンゴメリー英軍元帥の散歩をお供し、偶々或る劇場に立ち寄り、宋の抗遼英雄・穆桂英を主人公とする芝居を観た。人口に膾炙する此の女性元帥の事績を聞くと、曾てノルマンディー上陸作戦を指揮した賓客は、女が元帥と成った話は面白くない、こんな芝居を好む男と女は本当の男や女ではない、と不快を表わした。
解放軍にも女性将軍が居る事を熊が挙げると、自分は解放軍に敬服して来たけれど、此は解放軍の名誉を損なうのだ、とモンゴメリーは言ったが、貴国の国家元首と軍の総司令も女の女王です、と反撃されて言葉が続かなかった。後に熊が此の一件を報告した処、周恩来は其の遣り過ぎを責めた。曰く、外交の仕事を長年やって来たのに、「求同存異」の原則は未だ分からぬのか;友好人士の個人的な見解には、其処まで反論するまでもない。
相手を黙らせても君の勝利には成るまいと言って、周は「辱罵和恐嚇決不是戦闘」(罵倒と恐喝は決して戦闘ではない)という魯迅の名言を引いて、諷刺と嫌味は決して我々の外交ではないと諭した58)。熊は謙虚に聞き入れ一層の成熟が出来たが、米国の大学を出て、気配りの名人・周の薫陶を長らく受けたにも拘らず、彼が左様な洗練されぬ反応を示したのは、「血気方剛」の故の「争強好勝」、及び名誉に敏感な中国人の根性の所為だ。
「年高徳劭」の出典は、漢の文学者・揚雄の「吾聞諸伝、老則戒之在得。年弥高而徳弥劭、是孔子之徒與」だ。孔子の「君子有三戒」は、血気が定かでない少年の頃は色欲を戒め、血気が盛んな壮年の頃には闘争(心)を戒め、血気が衰えた老年には貪欲を戒める、と言う。「寡人有疾」の「好色・好勇・好貨」と見事に対応するが、此等の「心中賊」は年齢や血気の具合と関係無く、1人の人間や1つの民族の中に同時に宿る事も有り得る。
武田泰淳は中華民族の無抵抗の抵抗から、男ずれした陰・柔の成熟を見出したが、「針鋒相対」の全面対決も此の民族の好みだ。天安門事件後の国際社会での孤立化を乗り切る為に、 小平は「決不出頭」(決して先頭に立たぬ)と命じた。「出類抜萃」の志向と対蹠に、「煩悩皆因強出頭」(煩悩の原因は皆、無理に抜きん出ようとする事だ)という警句も有る。が、漢字の「人」→「大」→「天」の上昇は、正しく「出頭」志向の表徴だ。
「天」が頭を出すと「夫」に成る事は、中国に於ける陽・剛の優位の表徴と思える。闘志の露出を抑える「決不出頭」も、一時の老獪な韜晦に過ぎない。其の終極の目的は他でもなく、人生の爛熟期に強く成りがちで孔夫子が戒めた欲だ。其の「得」と「徳」の同音も意味深長だが、「年高徳劭」の「劭」(=美しい)は、年の功の「功」と同じ「力」偏だ。魯迅は侮辱・罵倒と恫喝を戦闘の範疇から排したが、戦闘精神を否定していない。
格言の「人不与天闘」(人は天と闘わぬ)は、人を凌ぐ天への畏敬を提唱する。毛沢東は其に逆らって、「与天(地・人)奮闘、其楽無窮」(天[地・人]を相手に奮闘する、其の楽しみは窮まり無い)と豪語した。其の「欲与天公試比高」(天公と高さを比ぶるを試んとす)59)の野望や、「人定勝天」(人は必ず天に勝つ)の自信は、「天降大任」と「出類抜萃」を兼ねた上昇志向だが、中共の外交も自ずと「交鋒」(対戦)の側面が強い。
周恩来は対米交渉の人選を考えた際、「談判高手(達人)」・キッシンジャーへの対抗意識が有ったと言う60)。モンゴメリー元帥の異議を許さなかった熊向暉の態度も、素直な「理直気壮」(筋が通って意気が盛んな様)だけでなく、相手は伝説的な豪傑だから張り合った、という「年少気盛」の燃焼も有ろう。元帥に成りたくない兵士は良い兵士ではない、というナポレオンの名言が「文革」後の解放軍で流行ったのは、偶然な事ではない。
劉少奇がインドネシアを訪問した際、護送する相手国の戦闘機が腕を顕示する様に、至近距離の儘で特別機に貼り付いた。国家主席を載せた中国空軍の操縦士は面子に拘り、間を開くよう要請できなかった61)。「好色」「好勇」の程を形容する「色胆包天」「胆大包天」の「包天」は、空と首長の二重の意味で合うが、首長の安全より自己主張を重んじる「個人英雄主義」が罷り通るのは、「逞能・逞強・要強」(強がる)心理の強さの証だ。 

51)毎日新聞政治部『安保−迷走する革新』、角川文庫、1987 年、214 頁。
55)58)60)陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』、崑崙出版社、1988 年、307 〜 308、128 〜 129、129 頁。
56)邱石編『共和国重大事件和決策内幕』下、経済日報出版社、1997 年、838 頁。
57)同註8。
59)毛沢東『沁園春・雪』(1936)、竹内実訳。武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、文芸春秋新社、1965 年、216 頁。
61)62)李克菲、彭東海『秘密専機上的領袖們』、中共中央党校出版社、1997 年、124、153 頁。 
8.「寵辱不驚」の矜持・「寵辱若驚」の用心
和辻哲郎が言った日本人の「戦闘的な恬淡・淑やかな激情」は、中国人の二重性格とも思える。「人不与天闘」と下の句の「男不与女闘」は、其の対立・統一の例に成る。男は女と闘わぬと言うのは、何も女性を尊重する為ではない。モンゴメリーの男性中心主義と通じて、弱者虐めを無能と見做すわけだ。周恩来は外交の場で小国の元首に格別の配慮をし続けたが、「礼義之邦」らしい接遇と心構えは、大国の優位や余裕の裏返しでもある。
彼がアルジェリア大統領をお伴して地方へ行った時、特別機の女性乗務員が深く考えず、先ず自国の総理にお茶を出そうとした。周は自分の前に出された其を然り気無く外賓の方に移し、外賓と乗務員の両方の体面を保った62)が、接客の鉄則に反する失態と言わざるを得ない。「狄夷之有君、不如華夏之無」と言い、孔子は中華の優越感と周辺の「野蛮」国への蔑視を顕わにしたが、此の乗務員の無意識な振る舞い方にも其の観念が露呈した。
周は北京空港でニクソンと初対面する際に、手を差し出した儘の相手の近寄りをじっと待った。数b離れた2人の其の姿を捉えた写真が、彼に由って歴史的な瞬間の公式記録に選ばれた。
小国への礼譲と対照的な拘り方には、超大国への対抗意識が窺われる。中国が米大統領を来訪させ、毛が彼を自分の都合の良い時間に邸宅に呼び付けた事に、「朝貢外交」の伝統を見た向きが海外に有るが、老大国の指導者の斯様な矜持はもっと奥深い。
周恩来の叱咤で国交正常化の談判が行き詰まった時、田中角栄は斯く言って難局を打開した。
我々は誠意が有るからこそ、貴方が東京に行くのではなく、私が北京に来たのだ、と。霞が関の官僚は妙な自尊心から他の官庁に出向く事を嫌い、書類の手交も好く中間の街角で行なうと言われる。官庁にも一流、二流と格差が付き、尊卑に関する自意識が肥大するわけだが、中国は日本以上に等級制度が厳しく、栄辱意識も余分に強いのである。
ニクソンが逸早く手を差し伸べたのも、謝罪の含みを持つ挙動なのだ。周恩来が1954 年のジュネーブ会議の際、ダレスに儀礼的な握手を求めた処、中国を敵視する彼の国務長官から拒否されたが、ニクソンは其の侮辱の是正を心掛けていた63)。中国で広く知り渡った周の其の時の恥は、近代以来列強に欺かれ続けた恥辱史の一齣に過ぎぬが、昔の「天朝大国」の傲慢を想起させがちの共産党中国の自強は、左様な反発に由来する処が多い。
真珠湾奇襲の後で遅れて宣戦布告を手交した日本大使に対して、米国務長官は生涯最大の侮辱を覚えた。やがて戦勝で欝憤を晴らす日が訪れたが、降伏文書に調印する為に重光葵外相が戦艦を上下する際に、米国側は相手国の尊厳と体の不自由な相手への配慮から、其と無く乗員に身近で見守らせた。其の「態度は極めてビジネスライクで、特に友誼的にはあらざりしも又非友誼的にもあらず、適切に万事取り運ばれた」、と重光は述べた64)。
過剰な対応も非礼の冷遇も避ける均衡感覚は、正に礼法の極意である。ニクソン一行に対する中国側の接し方も、同じ繊細・練達・周到さを持つ。周総理は長年の敵対関係や国交の無い現状を勘案して、「以礼相待、不卑不亢、不冷不熱、不強加於人」(礼を以て遇し、卑屈にも高圧的にも成らず、冷たくも熱くもなく、押し付けはしない)との方針を定めた。周恩来外交の傑作と成った此の17文字は、淡々としているが実行は大変難しい。
和辻哲郎は中国人の感情生活の無感動性、波長の長い律動を取り上げて、其の「悠々として迫らぬ」態度は、絶えずこせこせしている日本人にとって、一つの修練の目標とさえも成るとした上で、次の様に断言した。「それは感情の細かなあるいは過敏な動きを超克して到達した境地、すなわち物事に動じなくなった腹の据わりなのではない。もともと彼らは動じないのである。従ってその態度は道徳的な功績を意味するものではない」65)。
雲雀籠を手に提げて一日中空を見上げている中国人の姿を、彼は感じず動じぬ在り方の典型に挙げた。確かに一部の庶民には、「麻木不仁」(手足が痺れて感覚が無くなる。転じて、精神が麻痺する;無神経)の傾向が見られる。だが、一日中思索や勤務に耽る人間には、同じ「従容不迫」の外観でも、脱道徳の鈍感ではなく道徳的な克己に由る場合が多い。「麻木(=麻痺)不仁」と「剛毅木訥、近仁」は、紙一重の差しか無い性質である。小平が5人の子女の名前に「木」偏の漢字を選んだのは、孔子の其の6字格言を基にしたと言う66)。前出の毛沢東の娘・李訥の名の由来も一緒で、姉・李敏の其も同じ孔子の「君子敏於事而慎於言」だ。「柔中寓剛、綿裏蔵針」「外面和気一点、内部是鋼鉄公司」という毛の箴言も、「外鈍内敏(鋭)」の発想である。周とは同工異曲の形で其の大人の風格を体現したが、ダレスに辱められた一件も其の為に、逆に周の美談とも成った。
其の時に何食わぬ顔で振る舞った彼の「不動声色」の冷静は、最高の修養たる「寵辱不驚」の見本に成る。此の熟語は寵愛や侮辱を受けても驚かぬ事に言うが、関連の「寵辱若驚」は、「名誉を得ては、驕らないように注意し、恥辱を受けても、再び繰り返さないように注意し、いつも恐れおののいた態度を取る」(『角川大字源』)意だ。前者の「得意淡然、失意泰然」と後者の「戦戦兢兢、如履薄氷」は、共に周の超人的な素質である。
『新唐書・盧承慶伝』に出た「寵辱不驚」は、「得失置之度外」と解された67)が、最終的に利を求め害を避ける為に、目先の得失を度外視する様にも取れる。『道徳経』が出典の「寵辱若驚」は、「患得患失」(得失に心を悩ます)の比喩ともされる68)が、勘定に基づいて感情を制御する点では、儒家的な「寵辱不驚」と一致する。自分への無礼を気に掛けぬ寛容を示し、我慢の末に損失補填を到頭受けた周は、公私倶に瀟洒な勝者と成った。
「天将降大任於斯人也、必先苦其心志、労其筋骨、餓其体膚、空乏其身、行払乱其所為、所以動心忍性、曾益其所不能。」本論考の起点である孟子の此の命題は、抜群の能力と超俗の人格を指導者の条件とした勧めに思える。朱鎔基首相の「鞠躬尽瘁、死而後巳」「壮士断腕」の決意は、周恩来と諸葛亮を擬った勤勉・勇敢だが、彼の名軍師の智恵には「黒猫」の汚さも有る。其の超常軌の策略に勝った司馬懿も、並み外れた傑物の名に恥じぬ。
「死孔明走生仲達」の物語は伝説化したが、孔明は病没の直前に宿敵に負けたのだ。魯迅は侮辱・罵倒や恐喝を戦闘として認めないが、嫌がらせや揺すぶり等の仁義無き詭計も辞さぬのが彼の真骨頂だ。彼は速戦即決に持ち込むべく、持久戦の構えに徹する司馬へ挑戦状を叩き付け、女性の巾幗(頭巾)と喪服を添えた。男子の胸襟が有れば雌雄を決そう;勇気が無いなら婦人同然だから、此の一式を納めるが良い、と挑発の言を書き連ねた。
女性の豪傑を「巾幗英雄」と礼讃する今と違って、昔は婦人は「小人」と共に養い難い存在とされていた。此の「性騒擾」(sexual harasament の中国語訳)を受けて、司馬は内心酷く怒ったが、笑いを作って納め使者を手厚く遇した。部下の怒気を収める為に、わざと雪辱の決戦の意志を上奏し、皇帝の否決を引き出した。小平の「決不出頭」「韜光養晦」(恍けて雌伏する)と通じる其の忍耐で、孔明は遂に万策尽きた。
「聖人云:“小不忍則乱大謀。”」此の殺し文句で部下を宥めた司馬は聖人の域に達したが、逆の次元は自制できぬ小人だ。中国語の「発作」は癇癪を起す意も有るが、「不便(当場・当面)〜」([其の場で・面と向って]〜わけには行かぬ)の否定形の連用が多い。孔明の書簡を見た時の司馬の反応は、正に自分の形象や他者の体面を慮る理性の制御だ。黙殺は最高の軽蔑として圧力に転化し得る事を心得たのも、見事な「大謀」である。
歴史は先ず悲劇の形で、次は笑劇の形で2度繰り返す物だ、というギリシアの先哲の言をマルクスが引いた事が有る。99 年3月に同じスイスを訪れた江沢民主席は、周恩来と似た試練に直面させられた。彼は連邦議会の歓迎式典で、西蔵独立を求める少人数のデモで日程が狂った事に立腹し、挨拶の最中いきなり予定原稿から離れて、東道国の管理能力の低下に不快を表わし、貴方達は此で大事な友人を失った、と大統領に文句を付けた。
世界外交史上の異例な其の一齣は、中国の伝統観念から観ても少し訝られる。例の周恩来の17 字方針に照らせば、「以礼相待」「不強加於人」の2点ともずれている。孔子曰く、「己所不欲、勿施於人」(自分が欲しない物事は、他人に押し付けない)。天安門事件の最中に訪中したソ連総書記は、大規模のデモの所為で天安門広場での歓迎式典が台無しに成った。彼も儀礼の場で雷を落としたとすれば、中国側は嬉しいはずが無かった。
自国の失点を棚上げにした事は身勝手の誹りを招き易いが、其の上に場所と相手も具合が悪い。スイスは平和・不戦の象徴たる国で、中国にとっても「往日無冤、近日無仇」の友好国だ。
1人当りの国民総生産こそ世界の上位を占めるが、人口や国土の規模は小さい。小国に絡む事も大国の沽券に関わるが、件のスイス大統領は女性だから、「男不輿女闘」の禁忌からすれば、二重の「欺軟怕硬」(弱者を虐め強者を恐れる)と思われかねない。
礼儀を欠くと理に於いて先ず3割も失点する(「先輸三分理」。輸=負ける)、という常識が中国に有る。国連で発作的に靴を脱ぎ自席の机を敲いたフルチョフの野人ぶりも、故に笑い草を残す自滅行為にしか映らぬ。元より中華思想の優越感は、「礼儀之邦」の自負に負う処が大きい。大国・大人の度量を訪問先で見せず短気を起すとは、素朴に考えれば、礼儀先進国の名が泣くと思えようが、中国の陰陽原理は常に二重基準を用意している。 

64)『重光葵手記』、中央公論社、1986 年、540 頁。
65)和辻哲郎『風土』(1935 年)、岩波文庫、1979 年、154 〜 155 頁。
66)譚王路美『それでも地球は回る−中国と日本とアメリカ』、文芸春秋、1997 年、19 頁。
67)68)辞海編輯委員会編『辞海』(1989 年版)、上海辞書出版社、1140 頁。
69)河原敏明『天皇裕仁の昭和史』、文春文庫、1986 年、126 〜 127 頁。 
9.「陽剛・凸満」型の後退と「陰柔・凹空」型の台頭
中国流で「発達国家」と言う「先進国」の「先進」は、『論語・先進篇』の次の件が語源だ。
「先進於礼楽野人也、後進於礼楽君子也、如用之、則吾従先進。」(先進は儀礼・雅楽に関しては野人[在野の人。田舎者]で、後進は其の点で君子[貴族]である。若し用いるなら、吾は先進の方を選ぶ。)此の「先進」は「自分より先に(礼を)学んだ者」「先輩」「先に礼を学んでから仕えた者」の諸説が有り、「後進」は其の反対である。
小平の息子の名前に「質方」「朴方」と有るが、質朴の方が却って礼の本質に適う場合も有る。儒教の「以徳報怨」の礼譲精神は、過大に美化され独り歩きして来たが、此に基づいて日本への戦争賠償請求を放棄した蒋介石と毛沢東・周恩来は、「対日軟弱外交」の怨念、引いては嫌日感情を民間に残した。「以徳報怨」の当否を問う弟子に対して、孔子が「以直(素直)報怨」と説いたのも、遠慮が却って失礼に成る危険を見通した事か。
江主席の素直な「大発雷霆」は、宴席での事だから違和感を免れない。但し、革命は「請客吃飯」(御馳走)や作文、刺繍ではなく、風雅も「従容不迫」も、孔子流の「文質彬彬」(上品で礼儀正しい様)や「温良恭倹譲」も無用だ、という毛沢東の放言も一理有る。交際・往来・応対を表わす「応酬」は、和製語義の「互いに遣り取りすること」の様に、闘争性も含まれる。
議論や杯の応酬の「兵>礼」の性質は、中国では特に顕著である。
孔子は「小不忍則乱大謀」と言った一方、自宅で天子の舞いをやらせた魯の実力者の非礼に就いて、「是可忍、孰不可忍」(是が堪忍できるなら、どんな事でも堪忍できよう)と怒った。
中国は対越南自衛反撃戦も含めて、堪忍袋の緒を切る時に好く此の台詞を言い放つ。神聖視された孔子も政敵や荘重な場で軽佻な歌を歌った芸人に対し、処刑を命じた事が有る。小平の平定動乱と「清除精神汚染」にも、似た「超限界」心理が窺える。
中国で4悪とされる「酒・色・財・気(怒気)」の中で、「気」は衝動的な破滅に繋がるので最も有害だ。例の「寡人3疾」は此の順位で当て嵌めれば、危険度は「好勇」>「好貨」>「好色」に成る。ところが、中華民族の2番目の美徳の「勇敢」は、此の「好勇」と表裏一体を成す。「和」「平」と逆の「争」「気」は単独で否定されるが、「争気」(負けん気を出す。[意地に成って]頑張る)は、個人や国家の好ましい精神である。
中国人は「得理不譲人」(理が有るとして全く譲らぬ)を潔しとしないが、「拠理力争」(理を盾にあくまでも争う)は立派な態度と見られる。礼・兵の文脈に即して言えば、「両国交兵、不斬来使」の掟を破って、不退転の決意の徴に敵国の使者を斬る故事は、好く武勇譚として語られる。昭和天皇の招宴で溥儀の側近が唐突に公然と毒見をした事69)と合わせて、中国は凡そ国際社会の常識や単一な「国際基準」で測り切れぬ部分が多い。
江主席は同じ98 年の訪日中、宮中晩餐会で挨拶する際に過去の戦争に言及した。日本の対中援助を「評価する」云々の高い調子の表現と合わせて、訪問先の世論で「非礼」「尊大」の不評を浴びた。一方、中国側は共同声明の中で歴史認識を明記し、米国に呑ませた対台湾の「3不(3つの不支持)」70)に同調するよう求めたが、日本側に一蹴された。双方の異例の強硬な応酬に就いて、日本の勝利・中国の失敗と判定する声が両国に出た。
其の不本意・不均衡の結果は、将来の禍根として懸念される。周恩来は国交正常化の談判で、日中の「不正常な状態」の終了の宣言を提案した。歩み寄りに寄与した其の妙案は、彼一流の叡知として語り継がれて来たが、今回の異変は不自然な状態の再来の兆しか。両国関係に大きな転換が訪れた要因は、国家の力関係や利害と共に指導者の理念や素質が有る。毛の「文革」も細川・村山内閣の夭折も、当人の心的な態度が大きく作用した事だ。
平成の幕開けと天安門事件が起きた89 年に、日中の指導者の世代交替が行なわれた。日本の「新領袖」・竹下登がリクルート疑獄で首相を辞め、外相出身の後任者も女性醜聞で直ぐ失脚し、「軽量級」(小渕首相の自称)政権の走馬灯めく循環が始まった。一方、 小平は武力鎮圧の後に江沢民を抜擢し自分は引退したが、92 年に改革・開放路線と江体制の梃子入れの為に、超法規的な南巡講話を発表し朱鎔基の破格な重用を指示した。
天安門事件の際に学生たちは、こんな嫌味のざれ歌を作った。「周総理、象太陽、照到里里亮。小平、象月亮、初一十五不一様。」(周総理は太陽の様、到る処に光明をもたらしてくれる。小平は月の様、一日と十五夜とは[形や明るさが]違う。)一点の曇りも無い総理の高潔な人格を讃え、変り身が速く一貫性に欠ける最高実力者を貶すのだが、政治手法や在り方に関して言えば、「周=月型、 =太陽型」の観方も成り立つ。
孟子の「大人者、言不必信、行不必果」、孫子の「兵無常勢、水無常形」、韓愈の「聖人無常師」、老子の「聖人無常心、以百姓之心為心」を思い起せば、臨機応変や韜晦から来たの「無節操」の印象は、誤解や浅見の部分が多い。彼は陰柔の極意を身に付けた反面、院政を敷いて憚らぬ晩年の振る舞い方の通り、本質的には強い磁力を放つ独裁者だ。「決不出頭」の控え目で通った周は逆に、太陽の光を中継する月の様な性格が目立つ。
周が終生NO. 2 でいた理由には、乱世の平定・中興が強力な指導者を求める事も有った。毛は林彪事件の教訓から安定・団結を重視し、無名・無色の華国鋒を後継者に選んだが、「老実」(誠実。素直)が取り柄の華は、全党・全軍・全国を引っ張る馬力が無い故、自然淘汰の形で降ろされた。小平が江沢民を後釜に据えたのは、毛の最後の選択と似て非なる。革命・戦争等の暴力が後退した時代では、強権より均衡が大切に成ったのだ。
人柄や人望で劉邦や劉備、宋江等が首領と成った事は、東洋的な指導者の1つの類型を示した。松下幸之助が総括した日本の伝統精神−「和を尊ぶ」「衆知を集める」「主座を保つ」は、其の指向性を言い表わせる。但し、「経済沙皇」・朱鎔基を江沢民に補佐させたの布石の様に、人事の調整力や気配りだけでは大国の領袖は務まらない。清の光緒帝が西太后の院政から脱出できなかったのも、太陽の光芒や鋼鉄の意志の不足が要因だ。
メージャア元英首相は最近、サッチャー先輩の「車の後部座席から運転する」跋扈を批判したが、其の「陰盛陽衰」は世界的な傾向の様だ。大統領型の首相を目指した中曽根康弘も、本質は自他公認の「風見鶏」だし、彼が認めた「真空首相」の小渕は、何も彼も呑み込む「黒洞」じみた陰の極に見える。新しい指導者像の模索も此の価値転換期の課題だが、朦朧か妙に透徹の観が強く満ち欠けが鮮明な月型の突出が、今世紀末の実情である。
冷戦終結の1989 年はフランス革命200 周年に当るが、欧州の中華思想の持ち主で有名な彼の国では、毛と並んで最も自尊心の強い政治家と公認されているドゴールの形象維持の涙ぐるしい努力と対照的に、ミットラン大統領は癌に侵された事実や愛人・私生児の存在を公表した。
其は「寡人有疾、寡人好色」の両方を兼ねた告白と言えるが、同じ90 年代、レーガン元米大統領も異例な事に、アルツヘイマー病に罹った秘密を明かした。
ロシア金融危機とほぼ同時期の98 年夏、クリントンは女性醜聞に就いて国民に対し釈明と謝罪を行なった。検察と報道機関の標的と成り、相手に秘め事を克明に暴かれた疑惑は、本人と米国の「奇恥大辱」に違いない。悲劇→喜劇の形で繰り返す歴史の法則を証明するかの様に、24 年前の同じ現職大統領の醜聞−「水門事件」と比べて、衝撃よりも笑劇の要素が多い。
此の激情・劇場の事件は道徳律の弛緩、及び価値観の変化を映した。
ニクソンの政治生命を断った一連の不正は、政権と自分の名声の維持が目的だから、未だ天下国家や歴史の意識が有ったが、クリントンの行為は次元が違う。中国では「英雄志短、児女情長」と言う様に、男女の纏綿たる感情は英雄の志の衰退とされる。真剣な「不愛江山愛美人」の浪漫なら、未だ大物の風格が感じられようが、彼は単に欲望の排泄の為に摘み食いをしたに過ぎぬので、耐え難い存在の軽さとして軽蔑されても仕方が無い。
孔子の「三戒」に当て嵌めれば、「血気既衰」の末に利得に執着した末期政権のニクソンに対して、クリントンの醜聞は「少之時、血気未定」の故の好色だ。母親と祖母の対立に挟まれた幼年期の体験を持ち出して、クリントン夫妻は其の逸脱を弁護したが、二重の幼児化が感じ取れる。例の中国人女性との艶聞が蒸し返された橋本首相も、気質の幼児性が色々と指摘されたが、2人とも其の所為で地位を棒に振らなかった事は意味深長だ。
クリントンは神聖なる大統領執務室で淫行をし、事実を隠すよう嘘も吐いた。其の不真面目・不誠実は日・中流で言えば、「不徳の致す処」を超えて「万死に値する罪」か。なのに議会の弾劾が否決されたのは、私生活の背徳を咎めるよりも国民経済の運営実績を認める社会の意向が勝った事に思える。性的な醜聞と無縁の清潔さで首相に成った海部俊樹等が、治世の拙さで不評に終わった事と共に、指導者に対する評価基準の混沌を感じる。
小渕政権は最悪の世評の中で船出したが、其の後の支持率の急上昇は、危機脱出後の漠然たる安心感が大きいと言う。天安門事件後のは改革促進の号令に因って、武力鎮圧が招いた怨念の解消に成功し、江−朱体制も慎重な伸張で一応の小康を保てた。指導者と民衆は荀子が言う君と臣の様に、舟と水の関係に在るとすれば、即物・即時的な利益を益々重んじる民の水位の低下と連動して、舟は転覆し難く成った反面、座礁し易くも成った。 

70)「3不」とは、@「2つの中国」や「1つの中国、1つの台湾」を支持しないこと;A台湾の独立命館国際研究 12-2、December 1999 108(200)立を支持しないこと;B台湾の国連機関への加盟を支持しないこと。  
10.乱世英雄の無敵・激烈と平時「竪子」の敵無き・微温
「平時の羽田孜、乱世の小沢一郎、大乱世の梶山静六」、という相場が90 年代以来の永田町に有ったが、98 年の金融動乱の最中の自民党総裁選で勝ったのは、「軍人」・梶山でも「変人」・小泉純一郎でもなく、「凡人」・小渕なのだ。最大派閥の長が数の力で王座を射止めた順当な結果とも見られるが、面貌も前首相に劣り政略結婚したわけでもなく、資金調達力も能力も中クラスの自分が宰相に成ったのは何故か、と本人も自問した。
「人柄か。“天命”だ」と言う自答71)を引き出した記録文学作家・佐野眞一は、智将の梶山や行動力抜群の小沢等を小渕が抜いた秘密に就いて、其の母体の経世会は互いの女性問題をばらし合って失脚を狙う様な凄まじい嫉妬集団で、だからこそ最後は、権力欲に復讐される形で本命たちは自爆し、誰も本気で相手にしなかった彼が残り物を拾う様に長と成った、と分析した72)。林彪事件や天安門事件後の中国でも、似た様な構図が見られる。
「天命」は色々な意味合いを持ち、小渕の其は時勢・運命を指した様だ。福田赳夫は総裁選で敗れた時、「天の声にも変な声が有る」との迷台詞を残した。毛やの最後の後継者の指名も、奇抜な抜擢の故に当初は変な天声に聞こえた。「天時不如地利、地利不如人和」(孟子)の原理に照らせば、高次の合理性も感じられるが、中国語の「和」と「平」の「引き分け」の語義は、調和・中庸の落し穴−微温・「平庸」(凡庸)を示唆する。
天が大任を人に与えようとする時は、必ず精神の苦痛、筋骨の疲労、肉体の飢餓、身の貧乏、行為の挫折を味わわせ、其の心を発憤させ、本性を堅忍にし、能力を増しておく、という古典的な法則は、段々と通用しなくなった。朱鎔基こそ「反右派」の「残酷闘争、無情打撃」を経験したが、江沢民は党主席に成る前の華国鋒と同じく、政治闘争の修羅場に縁遠かった。同じ段階の小渕は無傷だけでなく、特筆すべき活躍さえ余り見当らない。
「和」は利害・対立を解消する建設性と、勝ちも負けも無い消極性の両面を持つ。華や江の特段抜擢の要因には、無派閥で敵が無い事も有るが、其の敵無き利点の反面、無敵の威力は足りぬ感じだった。「文革」中の「戦無不勝的毛沢東思想万歳」の礼賛は、中共の戦闘精神と制覇願望を窺わせたが、今後の中国や世界の指導者は文字通り「戦無派」世代に成る。越南戦争の際に兵役を逃したクリントンは、其を超えた「非戦派」と言える。
98 年自民党総裁選の3候補を、田中角栄の娘・田中真紀子議員は「軍人・変人・凡人」と名付けた。其の年の流行語大賞を授けられた此の形容は、「凡人」当選、「軍人」次点、「変人」3位の結果と合わせて、時代精神の変容を言い得て妙だ。60 年代後期に毛の後継者と成った林彪は本物の軍人で、80 年代前期にの後継者と目された胡耀邦は理想主義者の「変人」だが、剛腕や浪漫に対する需要は現実主義への其に取って代られた。
戦場行きを避けた経歴で「軍人」と正反対のクリントンは、大統領選挙で対抗馬の「変人」大実業家にも勝った。後に露見した彼の俗物ぶりは、有権者が凡人を選択した事を裏付けた。
民衆こそが君主を凌ぐ天だと儒家の先哲は言ったが、其の「天」は艱難の試練を指導者の資格としなくなった。神の死を告げ「超人」の精神を唱えたニーチェの他界と共に、19 世紀は終焉を迎えたが、百年後の今はもはや神格の時代や超人の時代ではない。
小平を「雲上人」と評した日本の外務省官僚は、中国側の抗議で馘に成った。「高高在上」「孤家寡人」の含みで逆鱗に触れたわけだが、杜甫の「諸葛大名垂宇宙、万古雲霄一羽毛」の様に、雲の上に居る事自体は格好が良い。其の「孤」と「雲」が複合した「孤雲」は、「@孤飛的片雲。A比喩貧賎孤苦的人」(『辞海』)の両義だ。日本語には入っていないが、日本で長年活躍して来た韓国棋士・趙治勲は、此の言葉を殊に好んでいる。
主な7棋戦を相継いで制覇した彼は、半世紀ほど前に日本の一流棋士を悉く屈辱的な敗北を喫させた73)呉清源(中国系)と並んで、前人未到の偉業を残した伝説的な人物だ。2人は「無限風光在険峰」の通り、非凡な構想力と強靭な精神力、飄逸な王気と強硬な覇気の持ち主だ。「孤雲」は『角川大字源』で「世を捨てた人のたとえ」と解されるが、異国で孤独や差別に堪えつつ這い上がった呉・趙は、此の語彙の「雲・泥」の両面を示した。
盛運をもたらした青雲の志と泥臭い飢渇精神は、罵倒合戦を演じたニクソンとフルチョフや彼等と闘った毛を含めて、多くの指導者の原動力と精神の支柱だ。此の3人とも貧困の境遇に因り、自強志向が人1倍に強い。「出類抜萃」の語釈で引き合いに出した「草莽」は、在野・野人・草賊等を表わす他に、学問の無い事の比喩でもあるが、教養の高い周恩来や魯迅は、没落官僚の家庭の出身者らしい孤憤の故に、雑草の様な強かさを持った。
本名・周樹人の魯迅が選んだ此の筆名は、彼が創った雑誌・『莽原』の名と合わせて、大陸的な規模や陽・剛の気勢への選好を窺わせる。「魯」は孔子や穆桂英の故郷、梁山泊の草莽英雄の拠点・山東の略称で、「愚か・鈍い」の意も有る。小渕首相の自称・「鈍牛」も、同じ発想から自嘲・謙遜の含みを持つが、「魯」と「莽」(我武者羅)が複合した「魯莽」(軽率・無鉄砲)は、赫魯暁夫の「猛(火)牛」じみた振る舞い方を表わせる。
「アラビアの狂犬」の話とも繋がるが、「莽」の字形は草叢の中で犬が奔って兎を追う意だ(『角川大字源』)。「莽原」(草の好く生い繁った野原)は、「戦闘激情」「気宇壮大」の文脈に跨がる。毛が詞の中で愛用した「莽」は、「広々とした様」「雲が覆う様」(同上)等の意が有り、「莽蒼」は景色や野原等の茫漠なる様を表わし、「莽莽」は「@草深い様。A野原が広々と続く様。B奥深い様。C長く大きい様」(同上)を言う。
興味深い事に、其の「煙雨莽蒼蒼、亀蛇鎖大江」「横空出世、莽崑崙」「望長城内外、唯余莽莽」74)は、何れも戦争中の表現であり、「莽」は建国を境に其の詩作から消えた。其の後の作品も相変わらず豪快さに溢れ、視野の広さと懐の深さが際立つが、草莽英雄の泥臭さの稀薄も読み取れる。訪中のニクソンが引用した彼の『満江紅』(1963)は、「要掃除一切害人虫、全無敵」で結ぶが、此の壮語でさえ書斎の中の空想の匂いがする。
党内の「修正主義」や官僚主義に苛立った毛は、山奥に戻って再び遊撃戦をやると脅かした。
権力の腐蝕や平和の微温湯に因る野性の衰退に抱いた其の焦燥は、無理も無い感情である。不退転の改革の決意を表した朱鎔基は最近、勢いが衰え精彩が無くなった様に見える。蒋経国も同じ「経済沙皇」75)の峻烈さを以て、抗日戦争勝利後の経済犯罪退治を指揮したが、其の「打虎」行動の不発も、戦時に勝つとも劣らぬ厄介な盤根錯節の所為だ。
曾て周恩来は人民大会堂で外賓と会見した時、地面に這う電線コードの縺れを丁寧に解し、相手に異様な印象を与えた。彼らしい整理・整頓だが、「麻煩」(面倒、厄介)の山積、「快刀斬乱麻」を遣り切れぬ事情は、其の一齣に凝縮されている。田中首相が侵略戦争に因る「迷惑」を詫びた際、訳語の「麻煩」で周は激怒し、此は通り掛かった女性のスカートに水を零した様な過失に言うのだと咎めたが、周も常に些事に巻き込まれていた。
不治の病で入院する直前も、人民大会堂の電纜の使用権を巡る紛糾で、中央の専属撮影記者が彼に直訴した。一々こんな事も私に裁断させたら、私が居ない時はどうするの、と周は悲しげに言った76)。役名の通り総てを処理する宿命が負わされたので、毛が貶した其の「事務主義」も仕方が無い。「細緻入微」は彼の才知の大きな特長だが、人・事の矮小化・具体化・些細化が進む時代は、例の「具体而微」の「微型聖人」を量産して行こう。
毛の「継続革命」はドン・キホーテの風車への挑戦と重なるが、「険峰」故の「無限風光」が消え掛かった事も其の冒険心の背景に有ろう。「烹小鮮」の「文火」が性に合わぬ彼は、遂に過激な「放火焼荒(荒原)」を敢行した。好漢に本領を発揮する機会が無い事を、俗に「英雄無武之地」(英雄は武力を用いる場が無い)と言うが、76 年天安門事件の「動武」鎮圧の決断も含めて、彼は暴力の激突に満ちた20世紀の指導者に相応しい。
再起後に「文革」の狂瀾を既倒に廻らすに対して、君は僕より有能で良くやった、と周は大手術の前に言った。「聾子不怕天雷打、死猪不怕開水」(聾は雷を恐れず、死んだ豚は熱湯を恐れぬ)というの度胸も、周の「寵辱不驚」の矜持より一枚上だが、毛は更に上を行っていた。国民党軍の爆弾が至近距離に落ちた時も動じなかった其の従容鎮定は、「泰山崩於前不変色」(泰山が目の前に崩れても顔色を変えぬ)の境地を体現した。
聖人・孔子の「迅雷風烈必変」や「当代大儒」・周恩来の「寵辱若驚」と対照的に、軍人・変人たる彼の超人的な超然ぶりは、中華民族の始祖−炎帝・黄帝と同じ狩猟部落の首領の匂いがする。古人の「世無英雄、遂使竪子成名」を引いて、毛は自分の事を謙遜したが、「英雄造時勢」の意味では、彼は英雄の名に恥じない。対句の「時勢造英雄」で言えば、毛が歴史の舞台に上がり中心まで進んだのは、「乱世英雄起四方」の典型である。
「世無英雄、遂使竪子成名」は、戦国時代の斉の名軍師・孫月賓(孫子の後裔)に敗けた魏の将軍・厖涓の捨て台詞だが、毛の「統帥・導師」は「軍師」の字面の通りだ。「文革」発動の最終決断をすべく、故郷の山奥の別荘に閉じ籠もって瞑想した彼は、魯迅が述懐に使った此の熟語を思い浮かべた。後に周の逝去の訃報に接した時も、毛は『魯迅選集』に読み耽っていたが、魯迅と心が通じるのは自らを解剖する厳しさが故だと彼は言う。 

71)72)82)佐野眞一『小渕恵三「真空総理」の正体』、『文芸春秋』1999 年10 月号、124、140、141頁。
73)全盛時代の呉は、打ち込み番碁(通算で敗けた方が1段差に打ち下され、次回から下手の立場に回される様に成る苛酷な試合)で、日本の一流棋士を悉く打ち下した。
74)「煙雨莽蒼蒼、亀蛇鎖大江」(煙れる雨 莽蒼蒼、亀と蛇と 大江を鎖す)は、『菩薩蛮・黄鶴楼』(1927);「横空出世、莽崑崙」(空に横たわりて 世に出ず、莽たり 崑崙)は、『念奴嬌・崑崙』(1935);「望長城内外、唯余莽莽」(長城の内と外を望めば、唯だ 莽莽たるを 余すのみ)は、『沁園春』(1936)。何れも竹内実訳、出所は59 に同じ。
75)其の頃の蒋経国は外国人から「経済ツァー」、中国で「雍正帝」(清の独裁者)と呼ばれた。(丁依[江南]『蒋経国伝』[香港・文芸書屋、1975 年]、鈴木博訳『蒋経国−中国革命の悲劇伝』[批評社、1981 年]、197 頁)。
76)顧保孜『紅墻里的瞬間』、解放軍文芸出版社、1992 年、222 頁。 
11.「稀代」への期待・「超人」の強迫−脅迫観念
毛は政治的な遺言たる夫人宛ての書簡の中で、高く吹聴するほど躓く時は痛いという高所恐怖に触れた。小渕は首相在任の一年目に巧く遣った秘密に就いて、期待値を低くする事を挙げた。日本の「凹型文化」の極意を得た心構えだが、白眼視の中の出発は捨て身を可能にし、禍を転じて福と成ったわけだ。逆に、「稀代」云々の期待は毛にとって、動力と共に圧力であり、『易』の「亢龍在天、有悔」の境地に追い詰めた要因でもあった。
魯迅は日中の局地戦争の狼煙が上がった頃、「夢裏依稀慈母涙、城頭変幻大王旗」と書いた。
後半に表わされた乱世豪傑の輩出は、世紀の移変に伴って昔話と成りつつあり、上の句に滲み出る等身大の人情味は、一部の「新人類」為政者の特質の中で際立つ。「亢龍」・橋本龍太郎も首相在任中、母親の見舞いに多くの時間を割き、其に対する世論の敲きを最も悲しんだ。小渕も『男はつらいよ』を欠かさずに見て、辺り構わず泣いた程だ。
貧困な故郷と敗戦の廃墟から這い上がった田中角栄と違い、橋本が政治家を志した契機は、体の不自由な父親(代議士、後に厚相)の福祉に賭ける情熱だった。小渕の政界入りの抱負も、最初は天下国家の要素が薄かった。首相経験者の福田・中曽根を交える激戦区・群馬3区での浮沈で、彼も自分なりの「孤憤」を持つが、指導者の使命感が強い中国でも、政治に献身した江沢民や朱鎔基の初期の動機は、人並みの国の救済・建設の様だ。
中国では年寄や大先輩は若者の経験不足を嘲う時、お前が食って来た飯は儂が食って来た塩よりも少ないと好く言う。塩は単に量で飯と較べる物ではなく、辛苦を嘗める含みでも資本と成る。salary はラテン語で、(古代ローマで兵士に給料として支給された)塩を買う為の代金の意だ77)。「資歴」の証に関する中国人の物の見方は、其の「工資」の語源と通じるが、閲歴・試練の欠乏は次世代の指導者の先天的な欠陥に成りそうだ。
曾て田中角栄は自派の大幹部・竹下登に対し、首相に成るのは10 年早いと一喝した。竹下がやがて叛旗を翻した事は、見返してやりたい気持ちも有ろうが、親分に雑巾掛けとして軽んじられたのも無理は無い。去年の金融危機の最中、大学院出の首相は我々の苦しみは分かるまい、という怨嗟が中小企業の経営者から漏れた。小渕も竹下も苦労人の印象を与えるが、派閥の中で飯を食って来た彼等の諸々の苦労は、「杯水風波」の類に近い。
毛は旧中国の「一窮二白」(一に窮乏、二に空白)を、最も新しく美しい絵が描ける紙に譬えた。言語貧乏と自認した「真空首相」には、支援材料と成りそうな逆説だが、竪子(小僧。未熟者)の「一窮二白」は、「竪子不レ足二与謀一」(『史記・項羽紀』)の否定を受ける。毛沢東でさえ功名を成した竪子と英雄の真価との落差を気に掛けたので、過大な期待に応える事は指導者の永遠の課題と言えるが、左様な宿命は最低の要求でもある。
政治家の非英雄化・凡人化・小物化が進む中で、ニクソンの指導者論の中の「神話を作る力」78)等は、古典に成りつつある気がするが、こんな時勢にこそ超越的な為政者が求められようとも思える。が無名の「黒馬」・江を登場させたのは、「無事是名馬」の考慮が有ったと言われるが、其の南巡講話は「不求有功、但求無過」の事勿れ主義を敲く鞭撻だった。中曽根元首相も同じ外野から、「真空首相」に指導力を見せろと発破を掛けた。
古代候王の自称・「孤」の用例には、「立功展事、開国称孤」79)と有る。手柄を立て手腕を発揮する事は、指導者の必須条件や存在証明と成る。小渕内閣が国債大量発行の後患を顧みず、当座の景気を強引に押し上げたのも、有権者と為政者の功利意識に因る事だ。国防・治安・国旗国歌に関する重要な法案を次々と通過させ、対中・朝の強硬外交を敢行した事で、「第一級の宰相」等の喝采80)まで飛び出たが、光の裏の影は見過ごせない。
『産経新聞』連載中の現在進行形の政治模擬小説・『日本侵略』(麻生幾)の中で、共同声明での戦争反省の明記に対する中国の要求を、小渕が原型と思われる首相は激昂して拒否した。
日頃の温和な人柄との乖離は周囲を驚かせたが、「弱腰」の評価に最も堪え難いという彼81)らしい反応だ。江主席訪日の際の双方の意地の反発は、旧政権の「対中土下座外交」「対日軟弱外交」の悪評を意識した「表演」、君子故の豹変と観て良かろう。
外相に就任したばかりの小渕は銭其外相に対して、「新米だからお手柔らかに」と挨拶した。其の低姿勢は躁に近い自己宣伝と妙な対を成すが、「軽量級」「無能」の不名誉を無くす為に、必要以上の健気な行動を取るのも人情の常だ。土居健郎は『甘えの構造』(弘文堂、1976)の中で、舐められまいと食って掛かって行く心理を掘り下げたが、江沢民訪日の賓・主の火花を散らす応酬も含めて、左様な先制攻撃は国際社会で儘有る。
小渕は数の力で例の総裁選を制した後、対抗馬だった梶山元官房長官を活用するどころか、電話も1回限りで徹底的に干し上げた82)。権力の猛者に映る其の態度には、競争相手の高い人気や辣腕に対する恐怖の方が大きい事か。「文革」以来の中国に於いて、国家主席や元総書記が失脚した上で監禁や軟禁を際限無く受けたが、其の超法規的な措置も警戒心に由る物だ。毛の前で催した田中の尿意も、穿った観方をすれば緊張の現われに思う。
一方、米国にNOを言った細川首相は、大人の関係に成ったと颯爽に宣言したが、大人だからこそ諸々の配慮でNOが言える場合も有る。詰まらぬ事で大事な賓客の機嫌を損なった熊向暉も、宋の詩人・辛棄疾の「少年不識愁滋味」の通りで、其の無益な負けん気を責めた周恩来は、「識尽愁滋味」の末に得失を慮る老成の手本だ。前任者が世論を憚って出せなかった法案を易々と通らせた小渕首相も、「鈍牛」故の恐物知らずなのかも知れぬ。
「初生牛犢不怕虎」(初生の小牛は虎を恐れぬ)と言うが、他国を気軽に攻撃する米国は、「世界憲兵」の使命感の反面、歴史が浅く侵略された経験が無い事も要因か。戦無派の指導者は戦争の恐ろしさの実感を欠くから、火遊びに走る危険を孕む。曾て毛は米国の原子爆弾を「紙老虎」(張り子の虎)とし、米帝を「外強中干」(見掛けは強そうでも中身は空っぽ)と断じたが、そんな虚勢は米国に限らず今後の国際社会で多く出そうだ。
訪米の小渕首相は大リーグの始球式に出た際、簡単な英語の挨拶も紙に書いて野球帽の裏に隠し、盗み見をしながら読み上げたと言う。日本でも笑い草と成ったが、中空・真空ほど外見に拘る傾向は有る。田中角栄も無理に暗記した英語の演説を海外て行ない、毛沢東も周恩来の前で小平を誉めた時、「politics 強」(政治が優れている)と、不慣れで必要も無い英語を使ったが、両方とも外国語・学歴自卑の裏返しの背伸びだ。
田中角栄が北京で披露した自作の漢詩は、幼稚な物として世間の評価が低いが、漢詩の本家や詩人・毛へ対抗する健気さ、記者会見で自作の俳句を披露したり、高村光太郎の詩を延々と引いたりした小渕首相や、毛に倣って詩を盛んに書いた江沢民にも見られる。江主席が新聞に其を大々的に発表させたのは、個人崇拝の演出と受け止められているが、新領袖たちの「超人」(権力意志の権化)志向や、神格・強盛・風流への渇望が窺える。
天子専用と成る前の民間の一人称代名詞・「朕」の用例に、『孟子』の「干戈朕、琴朕」と有る。干戈と琴が象徴する武治・文事は、国の富強・繁栄を支える両道だが、両方で共に「出類抜萃」と言える新領袖は、試練や修練が少ない事も有って珍しく成る一方だ。は江の権威を樹てるよう軍事委員会主席に就任させ、「指導核心」の地位を与えたが、「天」に由る其の「抜苗」は、使命感・責任感と脅迫・強迫観念の両方を強めた様だ。
「神」を意味するアフリカの少数民族語の「オブチ」を引いて、俺も神様だと小渕は嬉々に言った83)。指導力と「神気」の不足に悩む本心は、其の戯言の裏に見え隠れする。松下幸之助が総括した日本の伝統精神の中で、衆知・和と並ぶ主座が指導力に当るが、「神気」は即物的な権威の威厳・威風を越えて、思想や気質の規模・超越度の性質が強い。ニクソンが言う大物政治家や高次の政治の非散文的な精神も、此の言葉で言い表わせよう。
孔明の「豊神飄洒」の「豊神」は、例の「飄然とした風貌」の訳では抜けたが、孟子の美学・哲学の神髄は他ならぬ「豊・神」だ。「気宇軒昂」の用例には、『醒世恒言』の「生得豊姿瀟洒、気宇軒昂、飄飄有出塵之表」も有る。中国語の「帥」は俗に瀟洒の様をも言うが、統帥・領袖が求められる其の有様は、今や気概より儀表の方に傾いている。清新・颯爽な装いや「表演」で目立った数人の平成首相は、瀟洒ながら勝者に成れなかった。
最晩年の毛は華国鋒を後継者に選んだ時、甥・毛遠新の「忠厚老実」(忠厚・正直)の評に引っ掛けて、「重厚無文」(重厚・地味)という周勃に関する劉邦の言を引いた。其の選定は人材不足も有って失敗したが、勇敢より智恵・勤勉を求める時代の到来を考えれば、先見性を持つ方向と言えよう。「華而不実」と対蹠の「脚踏実地」を尊ぶ精神の強まりは、「天降大任」「出類抜萃」型から「不辱君命」型への指導者像の転換と連動する。
「萃」は「鞠躬尽瘁」の「瘁」(疲れ果てる)と通じ、「やつれる」意も有る。「出類抜萃」の指導者は、天の試練でなくとも苦労や重圧を強いられる。平成の首相の何人かは覚悟や意志の不足で音を上げたが、「文革」中に貢献を否定された某元帥も、功労は無くても苦労は有り、苦労は無くても疲労は有る、と自弁した。例の「受任無功、軒昂自高」や『荀子・富国』の「労苦頓萃而愈無功」と共に、任・功・労の関係が考えさせられる。 

77)小稲義男他編『新英和中辞典』第5版、研究社、1985 年、1456 頁。
79)邱遅『与陳伯之書』、『辞海』1268 頁。
80)月刊『Voice』1999 年8月号特集『第1次小渕内閣の成績表』、中西輝政、岡崎久彦、岩見隆夫諸氏の見方。
81)麻生幾『日本侵略』、『産経新聞』1999 年9月3日。
83)『現職総理に直撃ロングインタビュー タカもハトもない、俺は凡人宰相だ』、小渕恵三×佐野眞一、『文芸春秋』1999 年10 月号、150 頁。 
 
『戦陣訓』の遠い記憶 / 捕虜大岡昇平と『ロビンソン・クルーソー』

 

1.はじめに
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。1941 年1月、日中戦争のさなかに公布された『戦陣訓』「本訓その二」の「第八 名を惜しむ」の一節である。『戦陣訓』は、「皇国」の軍人の守るべき大則であるだけでなく、一般国民の日常に影響を及ぼすことになる「国民訓」でさえあった1)。
大岡昇平は『俘虜記』において『戦陣訓』には言及せず、『俘虜記』についての対談などでは、後述するように、むしろその影響を否定するような口吻を漏らしている。しかしながら、1971 年11 月に芸術院会員に推された大岡がそれを辞退したとき、彼は談話で「帝国陸軍軍人」でありながら捕虜になるという「汚点」をもった自分が「国家的栄誉」を受けるわけにはゆかないと語った。この反応は、「戦後文学」の旗手大岡昇平としてはむしろ当然の選択であったろう。けれども、みずからの過去を「汚点」という言葉で表現したとき、大岡の脳裏にひらめいたのは、『戦陣訓』の一節ではなかったろうか2)。
『俘虜記』のテクストは多義的である。そのうち最初に発表され、のちに「捉まるまで」と題されることになる短編には、エピグラフとして『歎異抄』から「わがこころのよくてころさぬにはあらず」が引かれていた。ところが、大岡は『俘虜記』全体のエピグラフとしては、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の第3部(Serious Reflections during the Life and Surprising Adventures of Robinson Crusoe)の「序文」から、「或る監禁状態を別の監禁状態で表してもいいわけだ」という文を選んで添えた3)。
このエピグラフは以後、大岡の言う「二重の誤解」4)、すなわち英文の「誤訳」問題がからんで、一度『俘虜記』から外され、そののち復活するという複雑な経緯をたどっている。大岡の意図がどこまで成功したかは別として、捕虜収容所を描くことによって占領下の日本を諷刺するという方法は、『俘虜記』のほぼ全体を覆っているわけだから、『ロビンソン・クルーソー』のエピグラフはかなりの重要性をもつはずである。
『俘虜記』についてのこれまでの批評家・研究者の読みは、当然、この二つのエピグラフのいずれかによって強く誘導されてきた。しかしながら、『俘虜記』のカギとなるのは、最初の短編「捉まるまで」の冒頭にある、「私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった」という文をおいて他にはない5)。
この文は、一見、「捉まるまで」の経過をただ倒叙的に事実として表現したに過ぎないかのようである。だが、事実の記述が冒頭に置かれたのは、それが同時に、いや事実の記述である以上に、重い「告白」であったからこそであろう。この短いセンテンスのうちには、戦後日本の知識人大岡の倫理と帝国陸軍兵士大岡の倫理とがせめぎ合い、さらに小説家としての出発を目指す大岡の戦略と絡み合って、凝縮している。その事実を感得することなしに『俘虜記』の読みはありえないだろう。
大江健三郎は、大岡の死の直後に出版された彼の最後の評論集『昭和末』の「解題」で、大岡の「生涯の主題の中心にフィリピンがあった」と指摘し、それは、「回想の旧戦場フィリピンというのではなく、つねに現在のアジア問題としてのフィリピンである」と述べている6)。
じっさい、大岡のアジア問題への眼差しにしろ、半世紀近くにわたる一人の文学者としての生き方にせよ、すべては彼がミンドロ島山中において「俘虜」となったこと、またその事実を述べた「捉まるまで」の冒頭の文に始まったのである。この小論では、複雑で奥行きの深いテクストのすべてを論ずることはできない。以上の点がこれまでの『俘虜記』論には十分に組み込まれていないがゆえに、とりあえずそれを最初に確認しておきたかったのである。 
2 『歎異抄』と『ロビンソン・クルーソー』の間で
「私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった」という文で始まった「捉まるまで」は、次のように続く。
ミンドロ島はルソン島西南に位置するわが四国の半分ほどの大きさの島である。軍事施設として見るべきものなく、これを守るわが兵力は歩兵二個中隊、海岸線に沿つた六つの要地に名ばかりの警備駐屯を行うのみである。(7)
告白は一転して、大岡に特徴的な地理的記述と、米軍上陸までの日本軍の防御態勢の客観的な記述とに変わる。こうして、「名ばかりの警備駐屯」を行っていた歩兵2個中隊が、昭和19年12 月15 日に艦船60 隻をもって上陸した米軍に圧倒され、40 日間孤立無援のまま空しく山中に露営するうち、マラリアの蔓延によって全く戦闘能力を喪失し、やがて米軍の本格的な攻勢の開始によって無残に四散することが述べられる。小説は、このような背景の下で、「私」は、あたかも他者のように、「スタンダール的な文体」で描かれると評価されてきた。
露営中のこととして、主人公に影響を及ぼした「一人の仲間」のことが語られる。その男は、銃後で愚かな資本家の手先となるよりは、前線で兵士として戦うことになにほどかの「夢」を抱いていた。「彼の夢は前線の状況を見て破れた。彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、『こんな戦場で死んじゃつまらない』と思ったという」のである。主人公と彼は「比島脱出の計画を立てた」。
我々は子供の時読んだ『ロビンソン・クルーソー』の細目を語り合い、土民から竹から火を起す方法を学んでおいた。(15)
こうした空想は、「周囲に濃くなって来た死の影に対する肉体の反作用」である荒唐無稽な喜劇として書かれているが、主人公の生存と、その合理化への布石でもあろう。
このあと、アメリカ兵を撃たないと決める、よく知られたエピソードが登場する。これは、かなり多くの批評家や研究者によって絶賛されてきた。たとえば、西川長夫は、「戦場をさまよう敗残兵の一つの行為、あるいは脳裏に刻まれた一つのイメージの意味」の追究として、「かつて日本文学でこれほど執拗な真実追求が行われたことはなかったと思います」とまで絶賛している7)。
このどこまでも明晰であり続け、己を欺くことを決して許さない激しい情熱のなかに、大岡がそれによって自己の知性を磨いたスタンダールやヴァレリーの面影を認めるのは、決して間違った読み方ではないでしょう。
このような賛辞が多数派である一方で、発表当時から、「一篇の眼目たるアメリカ兵を射撃しなかったくだりの細密描写があまりに論理的に割りきれすぎていて、作者が力んでいるほど読者にはその感銘がつたわってこない」という平野謙のような批評も生まれた8)。
また磯田光一は、『大岡昇平集』収録の『俘虜記』に優れた「解説」を書いているが、それは、主人公が撃つか撃たないかに迷うエピソードをさりげなく、しかし完全に無視している点で独自性がある9)。磯田論文は、「収容所としての戦中・戦後」という題されていることからも明らかなように、大岡が捕虜収容所を描くことによって占領下の日本を諷刺しようとした意図を強調し拡大解釈することに力点があり、したがって、『ロビンソン・クルーソー』からのエピグラフを重視する立場である。
磯田は、捕虜たちがの「神の囚人としての人間社会アレゴリーの様相さえ持つにいたる」として、次のような引用をおこなっている。
やがて俘虜は急速に堕落し始めた。
戦争が終わると共に、レイテ第一収容所三千の俘虜の心からは、唯一の道徳的な棘は取り除かれた。彼等が敵中に生を貪っている間に、太平洋の各地で続々命を殪しつつある同胞に対するうしろめたさが、突然なくなった。死んだ者は運が悪く、我々は運がよかった、それだけの話だ、ということになった。
「監禁状態」は言うまでもなく戦後論壇の流行語であった。かつて持て囃された言葉は、今日ではそれだけ一種の阿呆らしさをもって響くが、この言葉をキーワードとして『俘虜記』を読んでゆくことは、今なおそれなりに有効であろう。
だが、磯田論文の最大の問題は、その冒頭の、「大岡昇平氏が『俘虜記』について語る口調には、なにか独特な自嘲にちかいひびきがある」という文にある。大岡は、1973 年に横井元伍長がグアム島から帰還したとき書いた「グアム島の証人」で次のように書いた。
これらは、結局、「生きて虜囚のはずかしめを受けず」という『戦陣訓』から出ているのである。外国では戦争はゲームと考えられ、捕虜になるのはむしろ名誉だ、というのは作り話である。捕虜になるのはどこの国でもはずかしいことである。
国際協定を無視し、無益な多数の犠牲を強いた日本国家と日本軍を厳しく糾弾しつつも、同時に、捕虜になるはずかしさを明確に説く大岡にとって、その体験記が小説家としての成功に直結したという運命を語るのに、「自嘲にちかいひびき」があることは当然すぎるほど当然のことであろう。
一方、『俘虜記』の「監禁状態」は、主人公がそのなかにあって、限られた許される範囲においてにせよ、抜け目なく戦争の情報を仕入れていることによって、一層その性格が曖昧になる。通訳としての大岡は、アメリカ語を操り、アメリカ兵たちと接し、アメリカの食べ物を食い、アメリカの新聞・雑誌を読む。彼は無人島で監禁状態にあったロビンソン・クルーソーよりは、はるかに恵まれた状態にあった。じっさい大岡は、戦後最初にアメリカナイズされる文学者の立場にあったはずである。スタンダリアンである彼は、アメリカ文化を、たしかに批判的にではあるが、同時に創造的に摂取していったのである。そのことが、戦後文学者大岡を創ったことを忘れてはならないだろう。ロックフェラー財団が、大岡をアメリカに理解をもっている日本文学者として、第1回特別給費生に彼を選んだのは、大岡自身が認めるように、正しかったのである10)。 
3 「告白」と「燻製にしん」
これまで見たように、『俘虜記』は、「私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった」という「告白」で始まり、俘虜となるまでの経過を語った小説である。しかしながら、作者にとって切実な告白を冒頭に据えた小説が、どのように受け取られるかについて、発表するまで大岡には見通しがたたなかったであろう。作者大岡が、四散した兵士たちのなかで、マラリヤに罹って自由を失い、そのことによって捕虜として生きながらえるというだけの主人公の物語には満足していなかったことは明らかである。
撃つか撃たないかの問題を扱った部分は、短編全体の約4分の1、10 ページあまりものスペースを占めている。それは、「私」が「生涯の最後の時を人間の血で汚したくない」(28)という切実な思いから発したことになっている。だが、アメリカ兵の「顔の持つ一種の美に対する感嘆」を述べた箇所や、それに続く「緊張感」と「恐怖」などの「内部の感覚」を分析した箇所などは、それらがいかに見事な描写であるにしても、また、国家によって強制された「敵」を殺すことを放棄するという論理があるにしても、冒頭の簡潔な、しかし重い「告白」とのかかわりでは、結果的には、「レッド・ヘリング」、猟犬を惑わすための臭い消し用燻製にしんとさえ読めるし、平野謙の批判も示唆するように、むしろ饒舌な感じさえしかねない。
ここで、この場面を除いて、主人公が捕虜になるまでの小説全体の流れを簡単に見てみよう。
サンホセ方面高地の分哨小隊まで退避する集団から病気のため取り残された彼は、水筒の水も捨てて、「なるべく身軽に身をこしらえ」辛うじて病躯を運んでゆく。ところが、孤立し追い詰められた彼は、やがて「末期の水」を求めてさまよい、結局、「水を飲まずに死なねばならぬことを納得する」に至る。これより以前に、一人取り残されたときの描写につぎのような場面がある。
私は槲に似た大木の根元に身を横え、おもむろに腰の手榴弾をはずして傍へ置いた。今となっては、これが私の唯一の友であり、希望であった。その強烈な爆発力は私を苦痛なくあの世へ送ってくれるはずである。(24)
以後、「手榴弾」は20 回くらいも言及されることに注目せねばならない。だが、結局、それは不発となって、主人公は「唯一の友」に裏切られたかっこうになる。こうして、読者もまた裏切られるのである。
このあと、主人公は銃による自殺にも失敗し、やがて、「眠ったのだろうか、それとも所謂人事不省に陥ったのだろうか、明らかでない」状態で、捕虜となる。以上のように捕虜となるまでの主人公の行動をたどってみると、アメリカ兵に遭遇する場面の重要性が明らかになるように思われる。「私はここまで上るのに力を使い果していた」(23)、あるいは、「私は再び力を使い果し」(28)ながら、空しく逡巡を繰り返す主人公の足取りのなかで、この場面が―「私」が、みずからの意志を示して、目撃したアメリカ兵を撃たないと決める、この場面が―クライマックスとなるのである。
このエピソードは決してフィクションではあるまい。山中に取り残された大岡が現実に遭遇した出来事であり、捕まるまでに経験した最も記述にあたいするドラマであったにちがいない。
同時にこの個人的なドラマを、小説家大岡が「捉まるまで」の物語のなかに織り込もうとした周到さにはいくら注意しても、し過ぎることはない。
けれども、「捉まるまで」は、このエピソードをもひっくるめて、主人公が、「水を飲むか飲まないか」(25)、撃つか撃たないか、手榴弾を投げるか投げないか、と逡巡を重ねるハムレット的主人公の物語、しかし、「偶然」と「運命の皮肉」によって、結局、敵をも自分をも殺さずに終わる「ハムレット」の物語とさえ読める11)。
同時に注目すべきは、「捉まるまで」には、主人公だけでなく、多くの戦友たちの生死もまた、随所に注意深く書き込まれている点である。
こうしたことを私はあとで私と同じ俘虜収容所に来たこの分隊長から聞いたのである。彼は四名の部下と共に一カ月ばかり山の中をさまよった揚句比島人に捕えられた。彼はその手に残っていた手榴弾を投げなかった。(18)
また、アメリカ兵を撃たないエピソードのあとにも、次のような記述がある。
「逃がしてやる」といった伍長も軍曹の一人も、後で俘虜収容所へ来た。彼等は叢林に潜って無事に脱出したが、二カ月山中を彷徨した挙句、ゲリラに捉えられた。わたしは彼等は全部戦って死んだと信じていたが、事実は歩ける者は全部脱出していたのである。(39)
このように、『俘虜記』は最初の短編からすでに、主人公の生死だけでなく、ミンドロ島で「名ばかりの警備駐屯を行っていた」弱兵、歩兵2ケ中隊という集団の運命の物語にもなっている。死者の死にざまはさまざまだが、生存者は、「手に残っていた手榴弾を投げず」、「全部戦って死んだと信じ」られていたが、「脱出していた」というように、ほぼ同じパターンで生きながらえたことが明らかにされる。戦友たちの生存に言及するとき、語り手である「私」は、自分と同じように、「皇軍」のほかの兵士たちもまた、『戦陣訓』に忠実でなかったことを確認するかのようである。生存者についての上の二つの引用は、ともに「私」の傍白のように、括・弧で括られている・・・。だが、そのゆえにこそ、テクストの解読に見逃しえない部分である。 
4 よみがえる『戦陣訓』
1971年11月、大岡昇平は芸術院会員を辞退する。
フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて芸術院会員などという国家的栄誉はどうしても受けられません。とにかく天皇陛下の前には出られません。一般の人は捕虜になることをそ・・・れほど恥ずかしいとは思わないでしょうが・・・、帝国陸軍軍人であった私の気持ちとしてはどうしてもダメなんです(『読売新聞』1971年11月30日、傍点引用者)さきの大戦で、私は捕虜になるという汚点をもっている。そういう人間が、国の名誉ある会員になるわけにはいかない。私の場合、フィリピン・ミンダナオ島で病気のため動けなくなって捕らえられたのだが、戦時中の、その時点でどんな理由があっても、捕虜になることは許されていなかった。そういう汚点ある人間が、陛下の前に出ることは、恥ずかしくてたえられないことだ(『毎日新聞』同上)
当時の新聞に報道された大岡の談話は、若干の違いはあるが、太平洋戦争で「汚点」に自分を追いやった国家が、その体験を記すことによってによって小説家としての地位を築いた自分に、四半世紀後になって「国家的栄誉」を与えようとする矛盾の痛烈な批判になっている点で一致している。
同時に、「恥ずかしくて天皇陛下の前に出られない」という、戦後文学者として一見韜晦したような表現は、その「栄誉」が彼にとって「天皇陛下万歳」を叫んで死んでいった戦友たちの思い出に連なることを考えれば、むしろ率直な言葉でもあろう。
「はじめに」で触れたように、辞退に際して、みずからの過去を「汚点」という言葉で表現したとき、大岡の脳裏を、『戦陣訓』の一節がかすめなかったであろうか。
『俘虜記』では『戦陣訓』に言及しなかった大岡も、この小説をめぐっての対談やインタビューでは、何度かそれについて語っている。
1974 年8月に秋山駿、菅野昭正、中野孝次を聞き手として行われ、『わが文学生活』としてまとめられたインタビューでは『戦陣訓』について、「あれは支那事変で現地ででたらめをやるので東条が出したもので、近歩一は誇り高き親衛隊だから、俺たちには関係ねえんだというわけ。出先部隊でも反撥したのが随分あったらしいですよ。軍人勅諭でたくさんだということね。(中略)でも主な条項は新聞に発表されたからね、ことに『生きて虜囚の恥ずかしめを受けず』なんていうのは、喧伝された項目だからみんな知ってた。近衛でもとくにあんなものはいらない、とはいわなかった」と語っている12)。
また、1984 年の埴谷雄高との、二人が共に生きてきた時代を回顧しての対談『二つの同時代史』では、捕虜収容所での生活が話題になったときに埴谷の方から、「そのとき陸軍の『虜囚の恥しめを受けず』とかいうものは生きていたの?」と尋ねている。もちろんこれは尋ねにくい質問である。大岡にとって意地悪く響きかねない質問である。戦中派で獄中体験があり、親友である埴谷だからこそ尋ねうる質問であろう。大岡はつぎのように答えている。「全然ない。そんなものはありゃしない。第一、東部第二部隊、近衛一連隊だけど『戦陣訓』は教えなかった(笑)。(中略)これは近衛の連隊長の判断だった。『戦陣訓』は東条の作ったもんでね。中国派遣軍の風紀が乱れたから作ったもんだから、近衛には関係ないっていうんだよ」13)要するに、所属部隊では「教えなかった」が、「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」の項目は新聞などで知っていたというのである。大岡の言葉を疑う必要はまったくない。だが、「教えなかった」こと自体は事実としても、また「近衛」連隊がいかに誇り高くとも、帝国陸軍の兵士の基本的な言動にかかわる問題が、一連隊長の判断によって左右されるものでないことは、戦後の読者よりもはるかに良く大岡が心得ていたはずである。こうした『戦陣訓』にかかわる問答に、デリケートな問題を尋ねる方には遠慮があり、答える方にもこだわりがある。そのことは、『俘虜記』という小説の作者と読者のかかわりにも見られるであろう。その点をさらに考えるべきであるが、紙数も時間もなくなってきた。とりあえず結論を急がなければならない。 
5.おわりに―軍国少年の読む『俘虜記』
1949 年4月、単行本『俘虜記』が出版されたとき、河上徹太郎は次のような書評を書いている。
この敗戦記は、凡百の類書がただ誇張した報告と、卑屈自嘲と、後からくっつけた戦争呪詛で綴られてゐるに対し、生きた人格が、如何なる瞬間にもひるまずに、堂々と戦時戦後の修羅場を闊歩しているのが窺へる。それは、この反ロマンテイックな文章にも関らず、「高貴な魂」とでもいった、大時代な言葉で形容したくなる、高揚されたヒューマニティの一状態であり、さういふものの寂寥に悩む敗戦後の日本だけに、一層懐かしい気がする。
友人でもある評論家のこの賛辞は、全面的に大岡を喜ばせたであろうか。「敗戦記」のユニークな価値はその通りであろう。だが、「高貴な魂」という美しい言葉は彼を満足させただろうか。
いま、世紀末の怪奇に満ちた平和な日本で、戦中戦後を生きながらえた一人の老教員として、わたしは『俘虜記』の文学的達成にあらためて感動する。それは、戦後文学の傑作であるとともに、戦争文学の稀な傑作でもあることは疑いない。この小説を読むと、それが、おまえもまた、戦後日本の捕虜収容所的な、のんきで堕落した「監禁状態」を生きながらえた一人なのだという、確認と批判を迫ってくるだけでも、それは傑作の名に恥じない。
しかしながら、戦中戦後を生きながらえた老教員は、『俘虜記』を読み返しながら、同時に、何度も心のどこかで、かすかなもう一つの声がするのを聞いたことを書き留めておこう。それは、太平洋戦争中の軍国少年の声であるらしい。
開戦直後に国民学校に入学した少年は、毎年3月10 日の陸軍記念日には、あの教育勅語の9倍という、恐ろしく長ったらしい軍人勅諭が読まれるのを直立不動のまま聴くことを強いられ、そのあと奉天大会戦での日本軍の大勝利についての講話を拝聴するのであった(5月27日の海軍記念日には、日本海海戦について同じことが行われる)。昭和19 年4月から3年生になった軍国少年は、毎朝、教室で、「一つ、軍人は忠節を尽くすを本文とすべし、云々」と、『軍人勅諭』の一節である、軍人の守るべき忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五か条を、元軍人の教員によって暗唱させられていた。軍国少年はまた、比島決戦が怒号されたころ、初めて神風特攻隊「敷島隊」の戦果(それは『レイテ戦記』第10 章で大岡が詳しく再現している戦いである)が報じられた日に、「お前たち」も軍神に続くべきことを訓話されたのち、2時間にわたって晩秋の朝の冷えきった教室で英霊に正座して黙祷することを強いられた。昭和20年4 月、アメリカ軍が硫黄島を攻略し沖縄に上陸したころ、少年は疎開先の国民学校でこれもファナティックな校長から、「お前たち」も来るべき本土決戦の際は潔く自決する覚悟を養うよう訓示され続けていた。その、かつての軍国少年の声はささやく、結局のところ、皇軍兵士大岡昇平の戦いは、やっぱりぶざまなものであった、と。
けれども、老教員は知っている、そのぶざまな兵士が、戦後みずからの戦いを、どれほど繰り返し繰り返し反芻させられたかを。それは芸術院問題だけではなかった。1973 年、グアム島から横井元伍長が生還する。このとき、大岡は、「二十八年という気の遠くなるような長い年月の間、たった一人で(中略)苛酷な条件に耐えて、自分の選んだ生き方を続けてきた横井さんの気力に、尊敬の念を禁じ得ない」と述べ、(すでに引用したように)「これらは結局、『生きて虜囚のはずかしめを受けず』という『戦陣訓』から出ているのである」と書いた。そのころ、フィリピンのルバング島では、二人の日本兵がジャングルから現れて現地国家警察軍と
銃撃を交え、一人が射殺される。大岡は、このとき、「ルバングの兵士たち」という文章で次のように書いている。
われわれは何という悲しい国に生きているのだろう、という思いにかられる。日本はこのような兵士を、西南太平洋の島々に残したまま、降伏した。それを日本に連れ帰り、日常生活に復帰させるのは、国の義務であるはずなのに、当局はそれを怠り、結局二十八年経って食糧をあさりに人里に出て来て発見され、現地の警察に射殺されたのである。
大岡にとって衝撃的であったと思われるのは、のちになって、このとき住民に射殺された兵士、すなわち小塚元一等兵は、彼自身と「中隊は異なるが、昭和19 年3月から9月まで、同じ東京の近衛連隊で教育され」、「同じ第一玉津丸で7月15 日マニラに着き、ほぼ同じ時期に、ミンドロ島とルバング島の任地に着いた」という経歴の持ち主であったと判明したことである。
敗戦後の経済復興の余沢に包まれて生きる元捕虜である自分と、かつてほとんど同じ運命をたどっていた戦友が、「二八年という気の遠くなるような長い年月」をジャングルでいまや繁栄を謳歌する国家から見捨てられたまま孤独な戦いを続けた末に、射殺されてしまったのである。
その苛酷極まりない生を支配し続けたのが、『戦陣訓』であったのだ。同じように長い歳月を孤島で生きたとはいえ、小塚元一等兵に比べれば、自らのきまぐれが原因であり、救出され生還しえた『ロビンソン』の主人公などはラッキー・ロビンソンとでも呼ばれるべきだろう。
そのルバング島で、2年後に、今度は、小野田元少尉が救出され、横井伍長生還のとき以上の騒ぎになる。死んだ戦友たちのための壮大な鎮魂の碑『レイテ戦記』はまだ完結しない。こうした事件のたびに、元捕虜大岡は無数のインタビューや談話の強要にさらされ、戦後生まれの能天気なインタビュアーたちは、元捕虜元「神経さん」の神経を逆なでするような、無邪気・無知・無神経な質問を浴びせたはずである。
大岡昇平は、最後まで何と見事に戦ったことか。小説家大岡に「誠実」という言葉を使うなら、それは、撃つか撃たないかの心理を犀利に分析する彼ではなくて、つぎつぎと戦後社会に現れる現象にたいして、つねに元捕虜として立ち向かった彼の姿勢に使われるべきである。
大岡の『レイテ戦記』にフィリピン人の視点が欠落していたという、最近よくなされる批判はその通りだろう。この戦記で何度か大岡が使っている「よく戦った兵士」という言葉が危険であるという指摘もまた、おそらく正しい。だが、これらの批判が、同時に、長い戦後を生きた元捕虜大岡の心の闇への考慮を欠くかぎり、その正義の言説は、日本の言論人としては、重みをもたない批判にとどまるだろう。その軽さは、フィリッピン人の視点への配慮も、結局は、言ってみるだけに過ぎないことを立証するだろう。
『俘虜記』に戻って言えば、それは告白で始まりながら、すべての真実を告白してはいなかった。戦友の亡霊につきまとわれ続けた大岡の生涯は、告白し残したものに最後まで追いかけられた生であった。『ロビンソン・クルーソー』のエピグラフで占領下日本を諷刺しようとした時、大岡自身がその日本に身を置きつつ『俘虜記』の作家としてデビューした事実の皮肉な重みに十分気がついていなかったのだ。こうして、とっくに訣別した筈の『戦陣訓』の隠微で執拗な逆襲が始まる。だが、もう一度確認しておこう、皇軍の兵士大岡の戦いは、ぶざまであった、だが、そのぶざまな戦いが、戦後において小説家大岡の見事な戦いを生んだのだと14)。 

1)『解説「戦陣訓」』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1941 年)の冒頭には、陸軍大臣東條英機による「陸訓第一号」として、「本書を戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ」が引用され、また、主幹高田元三郎による「序」に、「『戦陣訓』の大文章は、帝国軍人の守るべき大則を明示したものであるのみならず、一般国民にとっても、行くべき大道を示した『国民訓』であると思います」とある。『戦陣訓』の「本訓其の一」は、「第一皇国」、「第二皇軍」となっている。
2)大岡の芸術院会員辞退については、本稿第2章参照。
3)「俘虜記」の原稿写真(『新潮日本文学アルバム67 大岡昇平』[1995 年]38-9 ページ)では、『歎異抄』からのエピグラフは「ころさぬにはあらず」に続く、「害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」までが引用されていたことが分かる。大岡は、「二重の誤解」(次注参照)のなかで、「文学史では『ロビンソン』は近代小説の祖とされているが、デフォー自身は、これが当時はやりのこさえものの冒険小説ではなく、実際にあった話だ、と主張していた」と解説したあとで、第2部、第3部は今日では「誰も読む者はいない」とコメントしつつ、「第3部の序文はロビンソン・クルーソー自身が書いたことになっているのだからひどいものである」と、小説家であっただけでなく、優れた小説の読み手であもあったはずの大岡らしくない感想をもらしている。
4)「二重の誤解」(大岡昇平『文学の可能性』作品社、1980 年、258-62 ページ)によれば、『ロビンソン・クルーソー』からのエピグラフの削除と復活にまつわる事情は以下のようにかなり込み入っている。『俘虜記』をまとめていた1952 年の頃、アルベール・カミユの『ペスト』が邦訳され、そのエピグラフにダニエル・デフォーの句として「或る監禁状態を別の監禁状態で現わすことは、実際に存在するものを、存在しないものによって現わすと同じくらい理にかなったことである」とあったのを、大岡は「自分に都合のいいところを取った」のが最初であったという。ところが、8年後の1959 年になって、「同じくらい理にかなっている、というのは、実はそれほど理にかなっていない、という否定的な意味」を「誤訳」したのではないかという示唆があり、英語の原文を見ていなかったこともあって、大岡は「八年間の誤解」という小文を新聞に発表し、文庫版からエピグラフを削除した。ところが、その後、デフォーの原文を確認した結果、「前後の文脈からいって、肯定的なのは明瞭だと思う」と判断して復活させることにしたという。なおデフォーの英文該当箇所はつぎのようである。“ll these reflections are just history of a state of forced confinement、 which in my real history is represented by a confined retreat in an island; and it is as reasonable to represent one kind of imprisonment by another、 as it is to represent anything that really exists by that which exists not.”par Serious Reflections、 ed. G.A. Aitken (London: J.M.Dent、 1974) xii.
5)『俘虜記』のテクストは、現在最も入手しやすい新潮文庫版により、以下、引用において括弧内にこの版のページを記す。中央公論社版『大岡昇平全集』を参照した。
6)『昭和末』岩波書店、1989 年、481 ページ。大江は、「解題」を「裕仁天皇重篤の報道を聞いてまず思うのは、『おいたわしい』ということです」という大岡の談話についての詳細な分析から始めている。
7)西川長夫『日本の戦後小説−廃墟の光』岩波書店、1988 年、197 ページ。なお、西川の大岡論としてとりわけ優れているのは、『大岡昇平全集第1巻』の「解説」として書かれた、「大岡昇平以前の大岡昇平」である。
8)『文芸時評』『群像日本の作家 19 大岡昇平』小学館、1992 年、86 ページ。
9)磯田の「収容所としての戦中・戦後」からの引用は、「解説」をまとめた『大岡昇平の世界』(岩波書店、1989 年)による。同書、11 ページ。
10)『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』岩波書店、1984 年、302 ページ参照。大岡には二つのアメリカ旅行記があるが、1973 年出版の『萌野』は、ニューヨークでの息子夫婦の最初の子の誕生という、ドメスティックな問題を描きながら、戦後文学者の見た70 年代初頭のアメリカを闊達な筆致で描いたユニークな紀行になっている。大岡特有の早とちりや、知ったかぶりも楽しい。
11)「手榴弾」の不発については、46-7 ページ参照。par 12)『わが文学生活』127 ページ。par 13)『二つの同時代史』215 ページ。par 14)この稿をほとんど書き終えようとしてから、今朝(1999 年12 月21 日)の新聞を見たら、1941 年12 月8 日の小型潜水艇で真珠湾奇襲攻撃に参加し座礁して「捕虜第1号」となった、酒巻和男氏の死が報じられていた。酒巻氏は、1946 年に生還するまで、戦死した他の小型潜水艇員とともに、太平洋戦争の「軍神第1号」でもあったはずである。
なお、『戦陣訓』と関連して、「玉砕」戦法については、最近、河野仁「玉砕の思想と白兵突撃」(『近代日本文化論10 戦争と軍隊』岩波書店、1999 年)があり、示唆に富む。ただ、日本軍は米軍にとって「最も気心の知れない敵(the most alien enemy)」というベネディクト『菊と刀』の一節をエピグラフとするこの論文は、米軍と対置して日本軍の特異性を徹底して強調するが、ローマ帝国以来の軍事思想の伝統をもつヨーロッパでは事情は多少異なろうし、しかも現代においてさえ、国家の存亡を賭けた戦争はつねに「聖戦」となる危険をはらんでいるのだから。 
 
「天職・天驕」意識と「権威・虎威」志向 / 指導者の条件

 

「天職」意識・「凝聚力」
当代の日本の富裕の故の浮遊感覚と中国の窮乏の故の「救亡」(滅亡から国を救う)意識、日本の指導者の「飽食忘憂」と中国の指導者の「発憤忘食」には、次の世紀の両国の進路が見えて来る。韓非子の「孤憤」と通じる「発憤」は、「奇恥大辱」に堪え抜いた司馬遷の偉業の原動力だ。孔子の「発憤忘食」の現代語訳に有る「用功」(勉学に励む)1)は、共産党中国の長年の合言葉−「発奮図強」の「図強」(向上を図る)と対を成す。
日本の政治家は指導力も言葉も乏しく、国会で只管棒読みする事から、leader ならぬreaderと揶揄された。緊張感の欠如は内患の少ない微温湯と共に、為政者の天職意識の稀薄の病根と成る。「天職」は今や「その人の天性に最も合った職業」の意に転じ、日本では「遊女の階級の一。天神の別称」にも言うが、古代中国では、「q天から命ぜられた職。イ天子が国家を統治する職務。ロ神聖な職務」を表わした(『広辞苑』)。
「天の与えた職務。当然尽くすべき職責」(『角川大字源』)を指す「天職」は、孟子の「共天位・治天職・食天禄」の概念が語源だ。「天の職責。自然界の職務。天工」の意(同上)の例文には、荀子の「不為而成、不求而得、夫是之謂天職」と有る。後者の為さずに成り求めずに得る事は、「此の度は図らずも○○に成りました」という、日本の政治家の当選の際の常套句を連想させるが、此の口上は勿論「空体語」・虚言の場合が多い。
首相の座を狙う中曽根康弘は縁起を担ぐ為に、巨人軍連続9年日本1に寄与した長嶋茂雄の旧居に引っ越し、其の後釜を睨む竹下登も似た動機で、面倒を厭わず故佐藤栄作邸に新居を構えた。其処まではしない他の面々も出陣の際は、神社で必勝を祈願しておく者だ。首相指名を受けた三木武夫の「晴天の霹靂」の台詞は、演技の容疑が払拭できない。武力鎮圧の霹靂の後で晴れて総書記に抜擢された江沢民こそ、正真正銘の「不求而得」か。
日本人は能動的「する」型より、自然発生的「なる」や静的「である」型に馴染むと言われるが、中国語の「成為」(〜に[と]成る)は、「為す・成る」を一体と見做す発想だ。為さないと成れぬ事は自明の理だが、政治家に成れば為さなくなる傾向が日本で強い事は、戦闘的な激情が淑やかな恬淡へ転じ易い国民性の所為とは言い切れぬ。前々の論文2)で予告した「命・名」の文脈から、目標達成感と歴史使命感の対極が浮上して来る。
ニクソンは周恩来との通算15 時間に及ぶ会談で、相手の粘り強さと緻密な準備、巧みな交渉術、圧力に動じぬ冷静さに強い感動を覚えた。驚異的な粘りの例に挙げたのは、73 歳の周の抜群な集中力だ。双方の若者でさえ通訳の単調な話を聞きながらウトウトしたりしたのに、彼だけが一貫して溌剌として注意を張り詰め、休憩を求める事も無かった3)。対照的に61 歳の橋本首相は、98 年先進国首脳会議の合間の音楽会で眠りに落ちた。
現在進行形の政治仮想小説・『三本の矢』(榊東行、早川書房、1998)は、無知の上で睡魔に負けた蔵相が国会答弁で失言し、金融恐慌を引き起す一幕で始まるが、其の二重の不手際・不徳の普遍性も、作品の迫真性を織り成す要素だ。国際社会で悪評を浴びたsilence(沈黙)、smile(無意味な愛想笑い)、sleep(doze。居眠り)の様に、公的な場での居眠りは政治家に限らず、一種の「日本病」の観さえ有る。
日本の学者は此の不名誉な事の要因として、持続を重んじる農耕社会の生産方式を挙げた。
年がら年中、四六時中、常に体力を温存しておく必要が有るので、所構わず隙間を見て休みを取るのが日本人の得意技に成ったと言う。正当化の意図の有無は別として、同じ次元で考えれば、食生活の習慣や身体の素質も思い当る。高い熱量の摂取にも因る狩猟民族・肉食人種の爆発力・精力には、農耕民族・菜食人種は一般論として太刀打ちできぬ。
曾て羽田孜元首相は、日本人の腸は欧米人より倍ほど長いという事実を挙げて、食生活に因る民族の特殊性を説明した。社会・文化の事象を考える場合は、物理的・生理的な次元の事情は確かに無視できぬ。但し、世界の非常識と見られる日本の常識を、単に国民性の現われとして片付けては、問題は矮小化しかねない。現に、日常的な食事の質素に於いては、中国も日本と余り違わないのに、年配の周恩来の精力は米国の若手を上回った。
毛沢東は十分な休息の合理性を説き、不休不眠を愚か者の無理としたが、「文武之道、一張一弛」の弁証法は、仕事中の「常在戦場」と矛盾しない。大平正芳外相はアラブ諸国の特使と会見した時、目を暝って聞いただけで凄い反感を買ったが、公的な場での公人の居眠りは国際社会では論外だ。葉剣英元帥は「四人組」主催の会合で、下らぬ論説への不満から故意に瞼を閉じたが、肝心な華国鋒主席の態度表明の時は敏感に反応を示した4)。
其は礼・非礼の次元を超えて利害・死活に関わるから、緊張感を持つのは当り前な事だ。中国の中央官庁では去年来、朱首相の「壮士断腕」の決意に由り、人員半減の機構「精簡」が進められた。削減案を討議する会議中に或る人が用便に立った処、其の隙に自分の首切りが提案され可決された、と伝えられている。周恩来は『詩経』の「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」を常に銘記していたが、油断すれば首が飛びかねない状態が背景に有る。
周は毛の前では国会議員に仕える不器用な秘書みたいだった、と田中角栄は評した。優雅な周がそう見えたとは信じ難いが、王座を窺う事の危険を知り尽くした彼は、意図的に一歩引き下がったのだろう、とニクソンは見た5)。中共中央・国務院の所在地−北京・中南海並みに闘争や陰謀に満ちた白宮の主を長く務めただけに、後者の推論は当っている。概して中国の実像は、近くて遠い日本よりも、遠くて近い米国の方には良く見える。
お人好しで無防備の微温湯社会を映す様に、日本自民党の派閥領袖の条件には、面倒見の良さと脇の甘さが挙げられた。田中派の会合で酔った(演技をした)竹下登が、「佐藤政権 安定成長/後に続くは 田中か福田/其の他人材 数々有れど/ 10 年経ったら竹下さん」と歌った処、角栄は「(首相は)未だ10 年早い」と一喝したが、大した警戒も覚えず、此の子分に由る経世会の結成と自派の分裂への察知・阻止は出来なかった6)。
「文革」中の大衆の合い言葉には、「敬祝偉大領袖毛主席万寿無疆!」「敬祝林副統帥身体永遠健康!」が有った。毛沢東は或る文芸夕べで前半の方を聞くと、笑って隣の林彪を肘で突き、次は君の番だぞとからかった。彼の「親密戦友・接班人」は冗談として聞き流すどころか、感電の様な衝撃を受けた。自分への例の祝辞は此から省くよう早速指示したが、「紅太陽」との並列で毛の猜疑を招き、無用な危険が及ぶ事を危惧したわけだ。
曾て劉備は曹操の庇護を受けていた頃に、酒を飲みながら英雄談義を仕掛けられた。彼は各地の群雄の名を挙げたが、曹は彼等を「枯骨」「虚像」「番犬」「小人」等として否定し、天下の英雄は唯貴公と儂だと言った。劉は吃驚し手にしていた箸を思わず取り落としたが、都合良く其の時に雷が鳴り、彼は失態を装って誤魔化した。立派な男子も雷が恐ろしいのか、と曹は笑って疑いを消したが、其の安心は後日の強敵を逃す結果と成った。
『三国演義』の此の話には、詩が付いている。「勉従虎穴暫趨身、説破英雄驚殺人。巧借聞雷来掩飾、随機応変信如神。」(勉めて虎穴より暫らく身を趨けしに、英雄を説き破りて人を驚殺す。巧に雷を聞くを借りて来て掩飾し、機に随い変に応ずること信に神の如し。小川環樹・金田純一郎訳7))自分を全知全能として過信する「信如神」は、角栄と共通の曹の失敗の要因だが、林彪は此の詩を秘かに写し、「伴君如伴虎」の緊張を託した。
写真機の閃光が毛沢東の目を刺激し過ぎないよう、周恩来は閃光灯の改良を指示した。其の気配りと別の次元の配慮として、彼は毛と同席する際に光を領袖に集中させ、自分が陰に控えるよう腐心した。訪米の朱鎔基首相は経済人に中国との親善を促す為、「那我就把機会給欧州」(さもないと、私は機会を欧州にあげるよ)と脅かし、威名通りの「経済沙皇」ぶりを発揮したが、国内の場合と同じく頻りに江主席を持ち上げたのも彼らしい。
其の「快刀斬乱麻」の剛腕と裏腹の慎み深さを訝り、限界の露呈と捉える見方が日本に有ったが、必要以上に見せた配慮は此以上に無い顧慮に由る必要なのだ。劉少奇の失脚は毛の政治路線との乖離と共に、著書・『論共産党員的修養』の発行部数が『毛沢東選集』を凌いでしまい、人気が毛と比肩しそうに成った事も大きいと言う。劉の個人崇拝を唱えた小平は、会議で何時も毛から遠く離れた処に座っていたが、此も毛の不興を買った。
天安門事件後の国際社会での孤立化を乗り切る為に、「決不出頭」の韜晦・雌伏を指示したが、陰への没我は無力や無視と取られる恐れが有る。「出類抜萃」の「萃」は、64 卦の1として聚集を表わし、古代では「聚」の意も有った8)。指導者や指導原理の条件として、昨今の中国では「凝聚力」が好く言われる。周が其の演出に協力した毛の「聚光灯」の圏外に身を置こうとすれば、求心力と逆の「離心力」と疑われても仕方が無い。
『指導者とは』の「周恩来」に次ぐ章・「新しい世界」の中で、ニクソンは「注目されざる英雄」を13 人取り上げた9)。群像に入ったエジプトのサダトは、誠実な人柄や強い自律心と瞑想的な性格に因り、元米大統領に深い印象を与えたが、ナセルの急死まで18 年も副大統領として、舞台裏で待たされていた事に就いて、幸い個人的な野心の無い彼は、主の猜疑心を触発する事も無く、其の命令には唯々諾々と従っていた、と著者は言う。 
「君命無二」・「中心鎮控」
英国植民地時代の入獄体験で鍛えられた其の忍耐の徳・行は、周恩来の「戦戦兢兢、如履薄氷」と重なるが、周に対する世人の誤解はサダトにも付き纏っていた。彼を「ナセルの愛玩用プードル」と呼ぶ人も、彼の額のタコは1日に5回の祈りで床に擦り付けた為に出来たのではなく、閣議の間に居眠りせぬようナセルがぴしゃぴしゃ敲き続けた結果だ、と言う人が居た10)。
後者の方は虚構の揶揄に違いないが、一面の真理が2つ含めてある。
宋太祖・趙匡胤は江南の使者に対し、「臥榻之側、豈容他人鼾睡」(我が寝台の側で他人が鼾をかいて寝るのは、容せるものか)と一喝した。天下は我が一家(宋王朝)でなければ成らぬのに、臣服しない国が隣に有る事は到底容認できない、という中華思想らしい主張だが、隣の席で臣下が傍若無人に居眠りする事は、君主には其以上に我慢できまい。件のナセルの挙動が事実だとしても、権威を維持する為の当り前な「弾圧」と言えよう。
但し、其の嫌味の流言を裏返すと、閣議中の居眠りは彼の国でも有り得る事に成る。眠気が起き易い熱帯の環境を考えれば、日本の閣僚よりは居眠りの必然性が認められようが、常に敲かないと睡魔が退治できぬ事は、人間の惰性の頑強さの現われと思える。適中の気候に恵まれる日本では逆に、居心地が良過ぎる所為で居眠りに落ちがちなのか。逆に、砂漠文化に於いて特に強い対人緊張感も、一瞬の緩みも許されぬ其の話から窺われる。
宋太祖は又、「一榻之外、皆他人家也」(我が寝台の他は、皆他人の家だ)と言った。「臥榻之側、豈容他人鼾睡」と同じく、唯我独尊の覇権主義の響きがするが、信頼し難い国々に取り囲まれて不安で眠れぬ、という観方11)も的を得ている。毛の「文革」発動の動機には、「高枕無憂」に程遠い権力や国家安全の危機感が有ったが、其の直前に唱えた「睡在我們身辺的赫魯暁夫」(我々の身辺に寝ているフルチョフ)への警戒は意味深長だ。
毛と劉少奇の同床異夢の以前の問題として、元より「寡人」の寝台は独り占めする物である。
劉は「劉(国家)主席」と呼ばれるのを忌み、「主席」はあくまでも毛(党中央・中央軍事委員会)主席なのだ、と口酸っぱく身辺工作人員を注意した。其でも粛清の標的とされ、国家主席の職位自体まで消滅したから、権力の頂点は実に狭くて険しい。周がニクソンに紹介した毛の名句−「無限風光在険峰」12)から、別の意味が読み取れて来る。
林彪は或る大衆集会に出る時に、先着の毛を数分間待たせた。彼は秘書等の不手際を酷く叱り、遅刻は二度と無いよう秒単位の演習を繰り返させた13)。毛以下の主な中央首長の特別機が飛ぶ時に、沿線で飛行が全て禁じられる時代も有った14)。故に林は其の好きな格言の通り、「天馬行空、独往独来」の恣意・無覊を享受できる立場に在った。其でも異常な緻密さで恭順を示そうとした事は、至高で特別な覊絆・規範の絶対性の証に他ならぬ。
林は「文革」で一躍に「副統帥」と成った直後から、毛宛ての書類の常套句−「請主席閲」(主席の御高覧を請います)の「請」を、より敬虔な「呈」に直し、第三者が使った「副統帥」の呼び名も削るよう命じた15)。「天降大任」の君主に対する「出類抜萃」の傑物の劣位は、其の自己卑下に良く現われた。晩年の毛も引いた事の有る稽康の警句は、「木秀於林、風必摧之」(木が林の中に抜きん出れば、風が必ず此を打ち壊す)と言う。
足を引っ張る下や周りの者の妨害と別に、「出類抜萃之輩」が上空の「風」で首を落とす事が多い。「出る杭は打たれる」に当る中国の諺には、「槍打出頭鳥」(頭を出す鳥は鉄砲で打たれる)と有る。政治生命や物理的な命が懸かるから、左様の懸命な努力は情理に適う。「如履薄氷」の心構えが常に強いられるのは、熟語の「一失足成千古恨」(一度足が踏み外れると、千古の遺恨事に成る)の通り、些細な不用心も命取りに繋がる故だ。
一寸先は闇の世界だから、寸分の機微を心得る事は余計に要る。毛に対する林の気の遣い方は、「分寸感」(「間」の均衡感覚)の手本と言える。彼は毛より1〜2分ほど先に着くよう心掛けたが、其の厳粛な綱渡りには十二分の苦心が有った。「一人之下」の圧力ばかり意識して、矢鱈に早めに行き領袖を待つと、他者に対して「万人之上」の矜持を失いかねない。遜と尊、損と存の間で均衡を保つ事も、保身並みに難しい「如履薄氷」か。
但し、重大な問題では「偉大的謙虚」は一度も無い、という毛の告白は林にも当て嵌まる。
彼はやがて一連の従順と打って変わって、国家主席への就任に意欲を示した。「臥榻」独占の禁忌を破った彼は、「天怒」の制裁を受けたが、良く考えれば、「戦戦兢兢」の字面には、戦争・競争が出ている。毛は生涯の最後の大晦日に、闘争だけが絶対的な不易だとニクソンの娘夫婦に語った16)が、君の命を狙う林との激突は其の命題を裏付けた。
『広辞苑』の「君命」(=君主の命令)は、用例に『太平記』の「軍中の事は−を聞かず」が付いているのみだが、『角川大字源』には成語の「君命無二」と「不辱君命」が有る。後者は孫子の「将在外、君命有所不受」と共に、後で詳しく取り上げたいが、前者の語義は、「君主の命令は絶対である。一説に、君命は一ヵ所しか出るべきである。また一説に、君命に対しては二心があってはならない。〔左伝・僖二四〕君命無レ二、古之制也」」天安門事件の「政治風波」の恰度20 年前の69 年4月、第9回党大会で林彪が正式に毛の後継者に指名された。半年後、彼は自分の権力の程を試すべく、「林副主席指示第1個号令」を全軍に下し、直ちに緊急戦備状態に入れと命じた。反戦車武器生産の加速や戦備当直・情報収集の強化等の内容は、中ソの軍事対抗の緊張状態からすれば順当に思えるが、党中央と中央軍事委員会、及び両機構の主席・毛の承認を得ずに出した事が異常だ。
中国の兵家の古来の常識では、外に居る将軍は実情に応じて君命を受けぬ場合も有る。先ず決断・実行をし後で報告する「先斬後奏」も、現代に生きる指導者の有力な手法だ。が、首都から遠く離れた蘇州から発令し、2日後に電話記録の形で最高統帥に上奏した副統帥の遣り方は、やはり許容範囲を超えた。周恩来の回覧を経た其の書類を、毛は追認するどころか自ら焼却し、文書保管の鉄則を無視して封筒にまで火を付けようとした17)。
政変を極度に恐れる毛政権の下では、中央軍委の批准が無いと小隊1個なりとも軍の異動が出来ぬ、という厳格な掟が有った。解放軍は「文革」前期の公式見解に由り、「偉大な領袖・毛主席が自ら創設し指導し、林副主席が自ら指揮する」集団とされたが、国防相兼任の「直接指揮者」・林と雖も、独断で部隊を動かせる様では動乱に繋がりかねぬ。そもそも毛は上記の定義に不満を持ち、「締造者」は何故指揮できないのかと零した18)。
林彪等は毛を祭り上げつつ実権を奪い取ろうとしたが、左様な手法は「架空」(宙に浮かせる)と言う。「最高指示」と平行する「副帥号令」で毛が怒ったのは、自尊心が傷付いた事よりも二心を読み取った故だ。中国語の「背」は「隠す。避ける」意も有るが、其の命令の欺瞞的な出し方は、背任・「背叛」の匂いがしたわけだ。指導者は秘書任せでは駄目だ、と毛は常に説いたが、指導力発揮と共に「架空」防止の意図も含まれよう19)。
彼の逝去を伴う政治的な空白の中で、「四人組」打倒を画策した華国鋒主席は、後に宣伝部門制圧の重任を負う耿飆将軍に対し、電話で儂の声を聞くまでは重要な事は喋るな、儂の秘書の言葉でも信用しては成らぬ、と念を押した。古今を問わぬ「偽造聖旨」の頻発を思い起こせば、神経質に聞こえる其の警戒は、正当な自衛措置と言えよう。現に、敵の王洪文は副主席の権限を利用し、各地の首長に自分へ報告し指示を仰ぐよう命じた20)。
チャーチルとドゴールの演説は原稿を自ら書き、完全暗記の上で披露したのである。神格性の演出や自尊心の発露としてニクソンに感銘を与えた21)が、文書は必ず自分で起草する毛の主義は、「導師」と「統帥」の字形の相通の象徴性を証す。主座や「天声」に対する集権体制や独裁指導者の執着は、秘書か官僚が書いた原稿を読む日本のreaders の「真空」と対蹠で、同音の反意語(私の造語)−「鎮控」(制御・支配)が特徴だ。
84 年5月20 日、 小平は全国人民代表大会・全国政治協商会議の香港・澳門地区代表と会見した後、香港記者団を呼び止めて異例の声明を発表した。香港問題に関する中央政府の発言は、私、趙総理、国務院港澳弁公室主任、外交部長、香港問題担当の発言人、及び新華社通信香港支社長の発言が正式の物で、其以外の全ての発言は無効だ;黄華(元外相)と耿飆(元国防相)の最近の発言は「胡説八道」(出鱈目)だ、との2点である。
2人の全人代副委員長(国会副議長)への「突然襲撃」は、5年後の同じ日の戒厳令発動と同じく、「最後の皇帝」の乱心と見られたが、80 歳の恍惚とは言えない。将来の国連中国代表団に香港代表を入れても良い、中国軍は香港に駐屯しない、という彼等の発言は中央の方針から逸脱したからだ。其の頃は一介の広州市計画委員会主任までが、返還後の香港の在り方に就いて勝手な構想を述べ、中央筋が慌て取り消しさせた程だった22)。
「自行其是」(自らの判断で行動する)の習性が強いから、中国人は孫文が言う「一盤散沙」の様相を呈し、故に衝撃療法も時には止むを得ないが、晩年の毛沢東が戒めた「多中心即無中心」の無政府状態は、今の日本でも見られる。米国では金利や為替に就いて発言権を持つ要人は、財務長官と連邦準備委員会議長に限ると言うが、日本では口を出す政府高官や与党幹部が多過ぎて、不要な混乱を招き一貫性を欠く嫌いが有ると言われる。
「一代天驕」・「替天行道」欧州通貨の相場も誕生の初年度(1999)に、域内の多くの関係者の発言でぶれ続けた。但し此の場合は、元より舵取りの多い大連合艦隊だし、試行錯誤を免れぬ船出の段階に在るので、仕方が無い面も否めない。日本は法治国家の体裁を取っており、而も1955 年体制の成立後、事実上の1党(自民党)・1派(党内最大派閥)独裁の歴史が長い。なのに平成以来、「総理(官房長官)は2、3人」の揶揄が絶えぬのは、些か不思議だ。
小渕首相は自らの或る決断に就いて、トップダウンで申し訳ないと釈明したが、「自上而下」は国家運営の通常で且つ究極の手法だから、首相が後ろ目痛さを感じる事は無い。彼一流の自己卑下の形象演出であろうが、当節の指導者の普遍的な萎縮の縮図にも映る。阪神大震災の際に村山首相の指導力が疑われたのは、情報不足に因る始動の遅れだけではなく、私権や法令・細則等の足枷に縛られて、果敢な「兵力」投入が出来なかった故だ。
李登輝は『台湾の主張』(1999)の中で、自分が学生と実務家として多くを学んだ日本に対し、政治・経済・文化の多岐に亘って苦言を呈した。此の国が底力を振えずに停滞し、国際社会で幼い行動を取る現状の要因には、戦後という時代の問題や政治家の世襲化という制度の問題と共に、日本人の特性も有る;日本人は参謀役を務める時には素晴らしい能力を発揮できるが、自ら前面に立つと成ると、途端に弱味が出てしまう、と言う。
日本人の真面目さに由って作り上げられた各部分は優秀でも、部分を組み合わせて全体で実践に移す場合には、日本人が重んじている能力を超えた精神的な要素、特に信念の支えが要るのだ、と李は主張した。政治的な大局観や人間の幅に対する彼の要求は、「大きく太く」に尽きる23)。自分は「掛帥」(統帥する)の資格は無く、「只能当助手、不能当舵手」という周恩来の自己分析24)と合わせて、最高指導者の要件が浮き彫りに成る。
彼の名宰相が助手には向き舵取りには成れぬのは、細小の処まで気を配る能吏の限界と言うより、熟語の「非不能、而不為也」の通りだ。日本の国技−相撲の「心・技・体」の価値順位と通じて、偉大な或いは高位に在る指導者ほど、精神力を多く備えるか求められる。蒙古が起源とされ日本で礼法化した相撲は、正に前出の「野・文」の二極を結合させた物だが、毛は蒙古帝国の始祖・成吉思汗を中華民族の5大帝王の1人として讃えた。
「一代天驕、成吉思汗、只識弯弓射大雕。」(一代の天驕、成吉思汗も、只 弓をひきて大雕を射るを 識るのみ。竹内実訳25))彼の狩猟民族の首領の蛮勇に対する此の低い評価は、其の万有・一切有為の気概への高い評価とも取れる。匈奴の人々は「天之驕子」と自称し、天の寵愛を受ける特別な存在と自任したが、此の熟語は「鋼鉄長城」と共に、中国人民解放軍の美名と成った。中華思想も突き詰めれば、「天驕」意識に他ならない。
孔門弟子の「具体而微」の限界と関わって、同じ孟子の語録には「万物皆備於我」が有る。
「万物の道理は皆、(生まれながらに)自分の本性に備わっている」26)、「宇宙間に於ける全ての事物の理法は、悉く我が身の内に具有されている」27)、等と解されるが、其の「自誠」28)・本能説に対して、林彪が此を写したのは「能動詞」の心算か。「吾善養吾胸中浩然之気」と孟子は言ったが、「気貫長虹」と「気呑山河」とは微妙に違う物だ。
同じ気宇壮大を表わす成語でも、後者は成吉思汗の侵略行為の様に、王道と逆の覇道の可能性を孕む。「万物皆備於我」は『尽心章句上』に出たが、「尽心」の字面には、心を尽くす奉仕・細緻と、心に尽きる唯心主義・唯意志論の両義が取れる。陰陽原理の諸刃の剣の性質を映す様に、中国語の「驕傲」は傲慢の意の反面、「自豪」(自慢)と同じく肯定的な使い方も有るが、「自豪」の「豪情」も度を過ぎると、自惚れ・強情に転じ易い。
毛は林彪事件の前後に党・軍の内部で、「反驕破満」(驕傲に反対し自己満足を打破する)運動を起した。其の頃に復帰したの「鋼鉄公司」の矛先も、「鋼鉄長城」を蝕みつつある「心中賊」に向いた。天安門事件後の彼は返す刀、武力鎮圧の急先鋒−楊尚昆(中央軍事委員会副主席)・白氷(解放軍総政治部主任)兄弟の実権を解いた。改革・開放の護送艦隊と自任する彼等の「天驕」振りが、屋上屋の設置を企む野心に映ったわけだ。
掉尾の一振の狙いは、「尾大不掉」を防ぐ事である。『左伝・昭公11 年』が出典の此の成語は、「動物の尾が余り大きいと、自力では振り動かすことが出来ない。臣下の権力が強く、君主の自由に成らないことの譬え」(『角川大字源』)だ。は楊尚昆と長年の親交が有り、楊の息子はの専属撮影記者だから、「楊家将」に対する処置は、自ら選んだ総書記の胡耀邦・趙紫陽を相次いで斬った事よりも、非情な「断腕」と言える。
「護衛」云々が最高実力者の逆鱗に触れたのは、比肩・凌駕を許さぬ君主の神聖不可侵性の為か。11 歳の「児皇帝」・溥儀は弟と遊んでいた最中、禁色の「明黄」を使った相手の袖がちらっ目に付くと、色を成して叱咤し弟を謝罪させた29)。天皇と藤原一族が禁色の赤を共用した古代の日本と比べれば、中国の「天無二日、国無二主」の掟は数段も厳しい。君主の自称・「孤」は排他の意も含むが、器量の狭さと解すのは狭い了見である。
「功高震主」の恐れから功臣を粛清するのは、中国の君主の慣習的な行動だが、天安門事件後のは林彪事件後の毛と同じく、其の地位を揺すぶる様な勢力や野望は完全に消えていた。
軍内の派閥の形成や軍自体の発言力の膨脹に対する彼の警戒は、個人の栄辱・盛衰を超えた憂慮と思われる。幼い溥儀は聖賢の名言を習う時に、「民為貴、社稷次之、君為軽」と「君君、臣臣、父父、子子」の矛盾に気付いた30)が、其の両立も可能なのだ。
民や社稷を君の上に置く前者と、君と臣、父と子の厳然たる区別を説く後者を、最後の皇帝は其々、臣民向けの綺麗事と臣民への強制と受け止めたが、小乗的な政権の意志と大乗的な聖賢の理念、即物的な緊張感と高邁な天職意識(農民一揆の合言葉に好く使われた「替天行道」等)は、中国の政治及び為政者の現実・理想の両面を成して来た。孟子は君を二の次の次に位置付けたが、民・社稷の命運が懸かる君は、要の中の要の重みを持つ。
和を尊び衆知を集め没我に徹した周の助手根性に対して、舵取りの毛・は主座・主我意識が強い。究極の「天之驕子」−天子は、神や歴史等の「天」から任命を受け、其のみに責任を感じる者だ。金字塔型の権力構造の頂上に自ら置いた後継者の権威を、 は「天」に替って守ろうとした事か。「是可忍、孰不可忍」で始まる『論語・八脩』には、孔明等が目標とした名宰相・管仲の、君主の待遇を享受した僭越への批判も出ている31)。
其の前の節は、次の内容である。「哀公問社於宰我。宰我対曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戦慄也。子聞之曰、成事不説、遂事不諌、既往不咎。」(哀公が[樹を神体とする土地神の]社の在り方を宰我に問った。宰我は答えた、「夏の君は松を用い、殷の人は柏を用い、周の人は栗を用い、其は民衆を戦慄させる為だと言う。」先生は此を聞いて曰く、「出来た事は言うまい、遂げた事は諌めまい、過ぎた事は咎めまい。」)孔子は成語の「既往不咎」を以て、無闇に魯哀公を刺激した弟子を咎めたが、 の武力鎮圧を巡る賛否両論にも、寛容と非難の対極が見られた。遡って、孔子が政治・礼法の模範とした周の時代でも、社で行なう処刑に由って民衆を恐懼させる遣り方が有った。聖人の全体を具備していながら其の縮小版なる「微型聖人」の逆は、「巨型聖人」と言えようが、中国語の「孔」と「恐」、「巨」と「懼」の同音は、「大恐」原理の表徴に見える。
「天命・大人・聖人之言」に対する孔子の「君子三畏」は、権力者への恐れを含める。宋の革新宰相・王安石の気炎は、「天変不足畏、祖宗不足法、人言不足恤」と言われたが、其の「大無畏」は世人の三畏を浮き彫りにする。孔子の「君子食無求飽、居無求安」も、「食求飽、居求安」の願望の裏返しだ。古代文人の「寧可食無肉、不可居無竹」、王安石の「人固不可一日無茶飲」の「清高」の嗜好も、其の清貧の志向と共に儒教の理想だ。
清の乾隆皇帝の「君不可一日無茶」は、「風流天子」の面目躍如たる処だが、国家主席を劉に譲った後の毛の喪失感に就いて、「君子不可一日無権」を以て講釈した者が居る32)。出所不明の此の古訓は、「君不可一日無権」なら解り易いが、天子なる君と君の下の君子、「君之道」と「君子道」は、王道が政治の建前である以上、階層の違いこそ有れ本質は一緒だ。但し、王道と覇道、無欲と大欲の表裏一体は、君にも君子にも大同小異だ。
少なくとも君の場合は、一朝権力を手放すと飲茶の権利も失いかねぬ。乾隆や清王朝の創始者・康煕は自ら詩文を書き、『四庫全書』や『康煕字典』を編纂させる等、文化面で幾多の業績・貢献を残したが、2人とも60 年間もの長期政権が保てたのは、花鳥風月の「文」の裏の粛清・征伐の「野」のお陰だ。フルチョフの外見と内面の乖離を見抜いたニクソンは、彼の「堕ちた野人書記長」の失脚の要因を、恐怖政治を怠った事に帰した33)。
「持不同政見者」に対する「心慈手軟」を咎めて、 は2人の総書記を馘にした。趙紫陽の解任は止むを得ぬとしても、今だに続く半軟禁を訝る向きが海外に多い。西太后は名前の「慈禧」と裏腹に、1898 年の維新変法の失敗後に光緒帝を10 年も幽閉した。西安事件後の蒋介石は恩を讐に返し、「厳加管教」の名に於いて張学良の自由を数十年も奪った。趙の待遇を此の2者と似た理不尽に思う人も居ようが、理外の理を理解すべきだ。 
信望・権勢の枢紐−「威」
「四人組」失脚後、 は復職を図るべく華国鋒に書簡を送った。華主席は毛主席の後継者に相応しく、若さ故に其の指導は15 〜 20 年の安泰が保証できようと言い、万歳の連呼で結んだ忠誠の誓いだ。念願が適うなり忽ち華の追放を仕掛け、華の地位は結局5年しか保てなかったが、「華主席万歳」と「15 〜 20 年の安泰」の乖離は興味深い。2桁の後者は現実味を持つ故に精神安定剤に用いられたが、中途半端の期間には根拠が有る。
華政権の一定期間の存続を支持すると匂わす表現だが、15 年後の華とは其々70 歳と87 歳に成る。中共の長期政権の伝統と終身制打破の理想の折衷として、15 年の任期は華と世論を納得させる妥当な線だ。他方、政治家は87 歳まで長生きしても、体力も意欲も余り残らぬはずだ。故に「保証期間」の設定は無欲の意志表示として、領袖の地位に執着し始めた相手の警戒を解く妙手だと思うが、此の言質も確信犯的な空手形に過ぎぬ。
林彪事件後のの復活の契機にも、毛への上申書が有る。自分に対する「文革」の批判を承服し、巻き返しは永遠にせぬと誓ったが、咲き返しの直後から、「文革」否定に繋がる整頓を始めた。其の面従腹背に立腹した毛は、 の証文を「靠不住」(当てに成らぬ)としたが、孟子の「大人者、言不必信、行不必果」の逆説は、此等の食言にも適用できよう。「靠不住」は頼りに成らぬ意も有るが、華に弄したの謀略も其処で正当性を持つ。
光緒の急逝は死ぬ間際の西太后が命じた暗殺らしいが、其の無情・無義は政治の世界の無常と共に、君主の二重の無上意識を示唆する。其は即ち、存命中の自分を至高の存在とし、死後の社稷を至高の存在とする思いだ。張学良に対する蒋の処置は、「奇恥大辱」の私怨に由る報復と思える。西太后が光緒の愛妃を殺したのも、「出類抜萃」の同性への嫉妬が動機だと言うが、其の最後の闘争の動機には、王朝の将来像の方が大きかったろう。
自分の守旧主義と合わぬ光緒に対する彼女の封殺は結局、中国の進歩を阻み弱体化を加速したが、毛の既定方針に拘る華を倒したは逆に、極左路線との訣別や高度成長への離陸を促進した。彼の死後まで続いた趙紫陽の半軟禁は、後世の評価に任せる問題だが、近未来の安定維持の為の苦渋の一手と思われる。江政権は一応の基盤を固めたから、趙は脅威に成るまいはずだとの見方も有るが、其の安定は反対勢力を排除した土台に立つ物だ。
「15 年の安泰」云々の虚言には其の大義と共に、不実と別次元の真実も含まれる。の復権から92 年の最後の闘争まで、恰度15 年経った。15 年を目安とした件は、心・技・体の弱体化や限界を自覚した72 歳の彼の締切感覚の現われでもあろう。天安門事件の頃の趙と江は、其々70 歳と63 歳だった。其の後10年余りに及んだ趙の半軟禁は、元総書記の能量を消耗させ、新総書記の安泰を保証する工作と邪推されても仕方が無い。
武力鎮圧を決断した時に、人命の犠牲を20 年の安定の代償と割り切った様だ。中国は阿片戦争以来の150 年の間、20 年続く安定に恵まれた事は皆無なので、決断の是非はともかく、歴史への責任感・緊張感を秘めた悲願と言えよう。「出類抜萃」の誉れが無かった江は一躍、「一代天驕」の頂上に浮上したが、 の思い切った抜擢と強引な応援は、彼個人に対する偏愛ではなく、自ら「天」として大任を降す天職意識の結果だろう。
新総書記の初期の執政の不慣れに対するの辛抱は、後継者を頻繁に変えた晩年の毛の誤算や乱心を避ける深謀に違いないが、江の信望を高める戦略的な建設は、「大権独攬」の毛には出来なかった芸当だ。毛が林彪等の「大樹特樹毛沢東思想的絶対権威」(大いに特別に毛沢東思想の絶対的な権威を樹てよう)云々に反発した34)のは、「護航艦」筆禍事件と同じく自尊心が傷付いた事も要因だが、軽量級の指導者には権威の樹立は欠かせぬ。
『広辞苑』の「権威」の項は、「(authoritv)q他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。wその道で第一人者と認められている人。大家」と言う。和製語義のwは中国に逆輸出されたが、『辞海』のqは「権力と威勢」と解し、『呂氏春秋』の「若此則百官恫憂、少長相越、万邪並起、権威分移」を出典に挙げ、wの定義の要点は「威望と支配の働きを持つ力」だ。
wの語釈は語源のauctoritas(ラテン語)の尊厳・権力と力量の意に言及したが、威望の威光・人望の両面は此と通じる。秦の宰相・呂不韋の主導で著された『呂氏春秋』も、「権威」の全ての意味を含む。一字でも添削し得た者には千金を与えようとの懸賞は、天を衝く自負で天下を圧倒する挑発だ。挑戦者が遂に出なかった事は、当人の権勢に対する恐懼も大きいが、「一字千金」の転義の通り、実力の立派さも否定できない。
文武両道の権威の強化に腐心した呂不韋は、秦の始皇帝の父親とされる。60 年代初めの毛は曰く、「我々は厳格な秩序が無ければ成らず、1人の秦始皇が必要だ。其の秦始皇は他ならぬ劉少奇で、私は彼の“附臣”(臣下)だ。」「封建社会主義」の色が滲み出た発言だが、秩序は権威を要求し権威は服従を要求するという原理には適う。共産党中国の「人民民主専政(独裁)」は、日本精神の伝統−衆知・和・主座の結合とも言える。
毛は後継者の劉の権威を樹てるべきだと言ったが、劉の厚い人望と国家主席の地位は、正に精神的・道徳的・社会的・法的威力だ。其の権威の過大に脅威を覚えた毛も、此等の全的な威力の強化を以て対抗した。彼は盧山会議で権威が挑戦された時に、自分への個人崇拝を劉・林に提唱させた。異心を感じた劉等の実権派を切ったのも、党・国の秩序の枢要と信じ込んだ自らの威信の維持の為だが、元より権威は権と威、権の威の多面を持つ。
「威」は「信望・権勢」の4文字と組めば、威信・威望・権威・威勢の多義を生む。「威」と「維・為」の音通は、秩序維持の維(綱)の為(目的・行為)の性質を映す。日本語の「猛者」と「亡者」も、似た妙味を漂わす。勇猛な人や富裕で威勢の良い人を表わす前者は、
「気宇軒昂」の文脈と繋がる。死者や金銭・権力等に取り憑かれた人を言う後者は、「我利我利亡者」の様に貶す意だが、猛者の心・技・体が無いと亡びる事は儘有る。
「不猛則亡」の法則の好例には、五代の南唐の君主・李が居る。の再度の失脚・復活劇の丸千年前の頃、歓楽に耽り続けた彼は975 年、金陵の陥落で唐の俘虜と成り、978 年に41 歳で毒殺された。彼の詞は纏綿・清麗の格調に因り、文学史に於いて高い地位を保って来たが、「惜秦皇漢武、略輸文采」(惜むらくは 秦皇 漢武、 略文采において輸け。竹内実訳)35)と言う毛沢東も、亡国の経歴の所為で其の作品まで毛嫌いした。
傑物帝王群に対する毛の次の評は、「唐宗宋祖、稍遜風騒」(唐宗 宋祖、稍風騒において遜る。同上)だ。960 年の政変で天下を盗り、毛の逝去の丸千年前の976 年に逝った宋太祖は、秦始皇・漢武帝に負けぬ「鋼鉄公司」の経営者だが、南唐を呑んだ宋もやがて気運が傾いた。
太祖生誕2百年の1127 年に、書画の造詣で名高い「風流天子」・徽宗と欽宗(北宋皇帝)親子が金の俘虜と成り、南宋も1279年に元に征服された。
金が北宋を制してから満族が主体を成す清の崩壊まで、漢民族の王朝が北方の狩猟民族の侵攻・占領を受けた期間は、8百年の中の2/3にも及んだ。満州事件後に作られ、後に中華人民共和国の国歌と成った『義勇軍行進曲』(聶耳作詞)は、「立ち上がれ、奴隷に成りたくない人々!我々の血と肉で新たな長城を築き上げよう……」と呼び掛ける。欧・米・日列強に凌辱された直近の怨念と共に、上記の一連の民族の遺恨の影もちら付く。
中華民族が万里の長城で防ごうとした外敵には成吉思汗も入るはずだが、毛の礼賛は英雄主義と必要な「天驕意識」の提唱に思える。始皇帝の気宇壮大な巡行を見た韓信は、男子は斯くべきであり「当取而代之」と賛嘆したが、恩讐を超える上昇−拡張志向は毛にも有った。杜甫『丹青引』の「英雄割拠雖巳矣、文采風流今尚存」(英雄の割拠は巳み矣と雖も、文采風流は今尚存す。竹内実訳36))は、毛の歴代「風流人物」観の根を示唆する。
抗日戦争と其の後の内戦の中で、中共指導者は保秘の為に変名を好く使った。名を命の如く重んじる中国の伝統に沿って、各々が編み出した変名は内面を映す。「全無敵」「共産党員=特殊材料」の文脈と通じて、毛の「李徳勝」は「離得勝」(離れて[転進して]勝利を得る)の語呂合わせであり、新中国建国の翌年に46 歳で過労死した中央秘書長・任弼時の「史林」は、「司令」の語呂合わせ37)ながら、「史太林」の略語にも見える。
周恩来の「胡必成」も同じ精神主義の色彩を放つが、劉少奇の「胡服」と合わせて考えれば引っ掛かる。5大巨頭−毛・劉・周・朱(徳)・任の変名に、「大姓」(使用人口が非常に多い姓)でもない「胡」が2つも有る確率は、中共の長年の領袖と敵手・蒋介石の最初の夫人とが非「大姓」の「毛」を共有した事よりも低いはずだ。党内でも等距離外交に徹した周が敢えて劉の変名の姓を踏襲した事は、「胡」の特別な意味を暗示する。
「胡服」は『広辞苑』の語釈の通り、中国北方の民族−胡人の服装の名称だ。西北方面の遊牧・半遊牧民族の服飾を取り入れ、騎馬・射箭を習った趙の武霊王の「胡服騎射」は、戦国時代の改革・開放と言える。敵地に潜入した劉は此の固有名詞に、軽装で敏捷に動く形象を託したのかも知れぬが、81 歳の毛が失明を治す手術の際に、歌曲で繰り返して聴いた南宋の抗金英雄・岳飛の詞には、「壮志飢餐胡虜肉、笑談渇飲匈奴血」と有る。
「虎威・虎気」「虎死留皮、人死留名」壮志、飢えての餐は胡虜の肉、笑談、渇きて飲むは匈奴の血(竹内実訳38))。此の究極の闘
争心と飢渇精神の表現は、「大漢族主義」の民族差別とも取れる。特に匈奴を指す「胡」は、西戎・北狄等の「蛮族」の筆頭とされていた。漢語の「胡」も副詞として、矢鱈・出鱈目にという否定的な意だ。成吉思汗から5代目の元帝−元世祖・忽必烈の「忽」は「胡」と音通だが、「勿・心」から成る此の漢字の「粗忽」の語義は「胡」も持つ。
周辺民族を見下した孔子の像に元世祖が矢を放った伝説から考えても、「当代大儒」・周恩来と「胡」の組み合わせは妙だ。の豪快な「鋼鉄公司」に対して、柔軟で緻密な周は「絲綢公司」か。「胡必成」は恣意の変名だろう39)が、蛮勇にも近い覇気への憧れが見え隠れする。
周が戒めた「馬馬虎虎」(いい加減。大雑把)も、「胡・虎」の音通と符合して、副詞の「胡」に内包されるが、中国人の此の国民性は良い大きさ・太さをも含む。
周の「革命の為なら娼婦や妾に成っても構わぬ」主義にも、太く・不徳(超道徳)の一面が有るが、「虎」と「威」の接点に「虎威」が鍵言葉として出る。「天降大任・出類抜萃・不辱君命」の主題と吻合するが、党・軍の指導者たちを服従させた毛の権威には、群獣を恐れさせる威力が大きい。『易経・履卦』『書経・君牙』では、虎の尾を踏む事は大変な冒険の比喩とされるが、胡・趙両総書記の躓きは最高実力者の虎威を思い知らせた。
虎の尾を踏もうとした林に対する毛の「敲山震虎」は、永田町の馴れ合いと対照的な虎同士の睨み合いの構図を示した。隠居・在野・雌伏の身から世に進出する「出山」も、実力者の動物性を匂わす表現だ。ニクソンが嘆いたフルチョフの没落後の境遇は、熟語の「虎落平陽遭犬欺」(落ち零れた虎は犬に舐められる)で表わせるが、趙を半永久的に「鳥籠」に入れた必然性には、「放虎帰山」・虎を養いて自ら患を残す懸念が推察できる。
フルチョフと同じく恐怖支配を怠った改革派書記長・ゴルバチョフの理想主義に因り、北の超大国は解体した。猛虎の優位を捨て群羊の劣位に甘んじる其の選択は、同時代の中国には自暴自棄に映った。「上品・礼儀正しい」に転義した「文質彬彬」を否定し、毛は紅衛兵に「要武」を勧めた。江沢民時代で寧ろ盛んに成った国威発揚の傾向は、伝統的な「耀武揚威」願望の延長と思えるが、強者志向を支える必要な張力として認められよう。
ニクソンは『回顧録1 栄光の日々』の『7 世界を変えた1週間』の中でも、周恩来の強い精神力と精力を賛嘆した。会談の半ば頃に周が錠剤を幾つか服んだ場面が、其の直ぐ前に出ている。高血圧の為の薬だろうと彼は推測した40)が、薬の服用を堂々と見せたのは自信の余裕や、秘薬を使わぬ事の証とも取れる。対して、「文革」中の林彪の公的な場で見せた「精神煥発」の形象は、極秘の麻薬注射に頼って無理遣りに維持した代物だ。
中国近代史の発端は阿片戦争の被侵略・敗戦だが、中共の彼の「常勝将軍」が反侵略の抗日戦争の中で負傷し、手術の為の麻酔の後遺症で阿片常習者と成ったのは、歴史の悪戯としか言い様が無い。1842 年以降の百年程の中国の連戦連敗は、「東亜病夫」と呼ばれた国民の体質に要因が有る。若き毛の成名論文の題−『体育之研究』も、其の辺の事情を窺わせる。皮肉な事に、彼が選んだ後継者は選りに選って、「紙老虎」なのである。
毛は此の見立てで米帝と其の原子爆弾を嘲笑したが、麻薬が切れると脱け殻の如く崩れた林彪41)こそ、「外強中干」(外見は強そうでも中は空っぽ)の張り子の虎か。見掛け倒しを形容する熟語には、「銀様蝋槍頭」(銀の様に見えて蝋で出来た槍先)も有る。昔の男性強精剤の謳い文句−「金槍不倒」と合わせて、「堅挺・疲軟」の対極が再び出るが、中空ながらの「要強」(負けず嫌い)は、弱者の意地とも強者の勝ち気とも思える。
「文革」初期の毛沢東は夫人宛ての私信の中で、「戦略性伴」たる「朋友」・林彪の私心・野望への不安を吐露した。驚天動地の政治運動の発動に踏み切った彼は自分の性格を、主と成る「虎気」と副次的な「猴気」の複合体と規定したが、「虎気」と「彪」(小虎)の関わりは、格言の「両虎相争、必有一傷」を連想させる。今世紀前半の中国の国・共両党の闘いも戦後の米・ソの争覇も、「両雄不相(並)立」の原理を立証して来た。
謎めいた「虎気」は無慈悲とも思われるが、「虎尚不食子」(虎でさえ我が子を食わぬ)を傍証に挙げたい。天安門事件の後、一部の人は此の熟語を引き合いに出して、若者に対する非情な弾圧を批判したが、虎の二面性はやはり無慈悲の方が大前提だ。但し、虎の最も顕著な気質と言えば、残忍よりも覇気が先ず思い浮かぶ。中華民族の自賛の言葉の「勤労・勇敢・智恵」や、「大和魂」の「勇猛・潔い」42)にも、虎の勇・雄が含まれる。
『広辞苑』の「虎」の「w俗に、酔っぱらい」は、日本的な矮小化を感じさせる。「虎に成る」(ひどく酔っ払う)は、乱暴を形容する発想だろうが、中国人の虎の形象には、眠る時も片目を開けておく用心深さが有る。「狐」と音通(hu)の虎は、勇・智兼備の動物だ。「虎の威を借る狐」は同辞書で、「有力者の権勢をかさに着ていばるつまらぬ者のたとえ」と解されるが、『戦国策』が出典の此の成語は、中国では狡猾をも形容する。
林彪が率いた東北野戦軍は、随一の勇猛・頑強で「東北虎」の威名を得たが、其の虎の陽・剛の固定形象と裏腹に、平時の林は寡黙で沈思に耽る人だった。元より虎は孤独の性格を持ち、「多くは単独で森林・水辺にすみ、昼間は洞穴などに潜み、主に夕方から活動」(同上@)するのだ。昼に睡眠を取り夕方から仕事に掛かる毛沢東の流儀は、「夜猫(梟)型」(夜型)を超えて虎型とも言えるが、「沢東」の字面には水辺の含みも有る43)。
彼は例の天下大乱の本格的な点火の直前に忽然と姿を晦まし、故郷の湖南・韶山の山奥の秘密別荘・「滴水洞」に12 日も閉じ籠もった。政治的な遺書に当る夫人への書簡も、其の際の瞑想の産物であった。「始如処女、敵人開戸;後如脱兎、敵不及拒」(『孫子兵法』)の通り、後にいきなり武漢で長江を横断し泳ぎ、75 歳にも拘らずの健康・軒昂を誇示したが、虎の特徴にも「水泳も巧みで種々の獣や鳥を捕食」が有る(『広辞苑』)。
ネコ科の哺乳類に属する虎は亜細亜の特産で、シベリアから亜細亜の東北・東南部、印度等の森林に生息するのだが、該当地域の戦前・戦後の軍国−覇権主義や独裁開発の在り方を思い浮かべる。「虎!虎!虎!」の暗号を使った日本軍の真珠湾攻撃は、「百獣之王」・獅子に次ぐ此の「亜王」の攻撃性を遺憾無く発揮したが、其の仁義無き奇襲(中国流では貶す意味の「偸(=盗)襲」)の成功は、狐並みの綿密な計算の結果に他ならぬ。
シベリアを擁するソ連を長年君臨したフルチョフも、其の粗野・道化は何時も計算が底に有った、とニクソンは言う44)。此の男が『指導者とは』に1章を占めたのは、好敵手を通して自分の評価を高めたい著者の意図も有ったろう45)が、著者が指摘した其の感情的な外観の裏の冷静な理性や、レーニンやスターリン並みの思索好き46)は、紛れも無く指導者の素質だ。同じ蛮勇と細心を持ち合わせた日本の政治家は、田中角栄を置いて他無い。
昭和天皇は野暮な彼を嫌い、テレビで姿を見てはチャンネルを変えた程だ47)。其の潔癖は後に田中の不徳の疑惑で肯定されたが、強烈な個性への拒否反応も政治家の小物化の一因だ。林語堂はイエスの「鳩の如く素直に、蛇の様に慧く」を以て、蘇軾の二重性格を概括したが、日本は温良が有り過ぎ智勇が足りぬ国に成った。虎は「毛皮用に乱獲され、現在では各地で保護されている」(同上)が、日本に於ける「虎気」の衰退は目に余る。
虎の勇ましさは獲物への貪欲な執念が原動力を成すが、英雄の目的意識は其の即物性を超越した処が有る。「彪」の字形は「虎の表皮の縞模様の意」(『角川大字源』)だが、「軒昂」の儀表・気概の両面の様に、「彪」との同音(biao)の「表」は此処では、成語の「虎死雄風在」(虎は死んでも雄風が残る)や、「虎死留皮、人死留名」(虎は死して皮を留め、人は死して名を残す)の様に、功績・名声・精神・風格等の含みを持つ。
毛は70 年代の初め、「一不怕苦、二不怕死」(一に苦労を恐れず、二に死を恐れぬ)、「人総是要有一点精神的」(人間は凡そ精神が無くては成らぬ)と呼び掛けた。80 年、選挙戦の最中に心臓発作で倒れた大平首相(70 歳)は、蒼白な顔に化粧をし病床の上でカメラにポーズを取った。やがて不帰の人と成ったが、其の「強打精神」(強いて元気を奮い立たせる)は、時限爆弾を抱えた決死の遊説と共に、精神力に由る強打と言えよう。
此の25 年間に11 回も選挙が有り、街頭演説もしなければ成らぬ、と田中角栄は毛沢東に言った。日本は選挙や国会が有って大変だねという毛の同情48)は、議会の代表選出も運営も形式的だった専制体制らしい反応だが、そんな余裕が有るにも関わらず、政治家の緊張感に於いて中国が日本を凌いでいるのは何故か。中国と同じく米ソと対抗し栄光有る孤立を続けたユーゴの終身大統領、大平首相と同じ年に逝去したチトーが手掛りと成る。
紙幅の関係で詳論は次の論考に譲るが、対象の複雑系を解明する戦略として、「心跡学」の主眼がより必要に成る。「病跡学」を擬った此の造語49)は、「玄之又玄、衆妙之門」に当る心的な態度を照射する接近だ。此の8字成句を説いた老子は、形而下を「器」とし形而上を「道」とし、「道可道、非常道。名可名、非常名」と言う。「命・名」を軸とする指導者の歴史責任感・緊張感の研究は、此から自意識と強迫観念の深層に迫って行く。 

1)楊伯竣に由る孔子の「発憤忘食」の現代語訳は、「用功便忘記吃飯」(勉強し出すと食事を忘れる)。『論語訳注』、中華書局、1980 年、71 頁。
2)夏剛『「生於憂患、死於安楽」:当代日中指導者の緊張感の比較』、『立命館国際研究』11 巻3号、1999 年、107 〜 127 頁。
3)5)10)21)33)44)46)リチャード・ニクソン『指導者とは』、徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986年(原題『LEADERS』、原典1982 年)、262、265、328、28、222〜 225、200、380 〜 381 頁。
4)産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』、産経新聞ニュースサービス、1999 年、105 〜 106頁。
6)時代に因って関係者の固有名詞が何度も更新された此の歌は、色々な文献に出ているが、其の来歴の最も詳しい紹介には、早坂茂三の『駕籠に乗る人・担ぐ人−自民党裏面史に学ぶ』が有る。其に拠ると、竹下は昭和39 年11 月、第1次佐藤内閣の官房副長官に成ってから、此のズンドコ節の替え歌を作って歌い続けた。(1988 年、祥伝社、12 頁)
7)小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』(2)、岩波文庫、1988 年、188 頁。
8)夏剛『「天降大任」「出類抜萃」「不辱君命」:指導者の歴史責任感・使命感(上)』(『立命館国際研究』12 巻1号、1999 年)参照。本論文は紀要の記念号の性質上、独立した一篇の体裁を取ったが、前回・前前回の号に掲載された此の系列と通じる。従って前出の事柄に就いては、重複の講釈・注解を避けることにした。
9)「良き人・デ・ガスペリ(イタリア)」「反植民地運動の闘士エンクルマ(ガーナ)」「“色”に溺れたスカルノ(インドネシア)」「インド統一に賭けたネール」「フィリピンの建設者・マグサイサイ」「イスラエルの先導者ベン=グリオン」「私のゴルダ・メイア(イスラエル)」「古い国の新しい指導者たち。まず、ナセル」「ナセルを継いだ男・サダト」「祖国イランの為に、パーレビ」「砂漠の中の近代化・ファイサル(サウジアラビア)」「小舞台の大俳優・リー・クアンユー(シンガポール)」「度胸があって辛辣・メンジス(オーストラリア)」
11)諸橋轍次『中国古典名言事典』、講談社、1972 年、618 頁。
12)「無限風光在険峰」は、毛の『七律・為李進同志題所撮盧山仙人洞照』(1961)の結びの句。周は井崗山を詠む毛の詩を引用した後、「別の中国の詩にも、危険なる山巓にこそ至高の美有りとなっています」と語った、という件がニクソンの回想録(文献3、264 頁)に有るが、通訳の誤訳かニクソンの誤認と思われる。文献40、349 頁にも同じ指摘が有り、上記の「井崗山」は其処では「盧山」とされる。
13)15)16)24)32)37)暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1972 年、104、同、192、105、263、66 〜 68 頁。
14)李克菲、彭東海『秘密専機上的領袖們』、中共中央党校出版社、1997 年、122 頁。
17)18)汪東興『汪東興回憶−毛沢東與林彪反革命集団的闘争』、当代中国出版社、1997 年、14、22 頁。
19)麻生幾の政治模擬小説・『日本侵略』には、北朝鮮の冒険主義的な若き急進派集団が「総書記秘書室」という名の権力基盤を作り、総書記を動かし首相を凌駕する、との話が有る(『産経新聞』1999 年10 月20 日)。毛の後継者以上の権力を欲しがった林彪の焦燥も、息子と其の周辺の少壮幕僚集団に煽てられた物と見られる。秘書の権限を厳しく制限する毛の原則は、「君命」捏造の危険を防ぐ意味も有ろう。
20)青野・方雷『小平在1976』(下)、春風文芸出版社、1993 年、259 頁。
22)許家屯『香港回収工作』(上)、青木まさこ・小須田秀幸・趙宏偉訳、築摩書房、1996 年(原典『許家屯香港回憶録』、1993 年、英文)、124 〜 125 頁。
23)李登輝『台湾の主張』、PHP研究所、1999 年、158 〜 160 頁。
25)35)武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、文芸春秋新社、216 頁。毛が『沁園春・雪』(1936)の中で、彼の北方異民族の豪傑を「一代天驕」と讃えた事に就いて、拙論『中国的な国家・民族自覚を巡って』(上・中・下=『立命館言語文化研究』11 巻4号、12 巻2・3号)参照。
26)内野熊一郎訳註『新釈漢文大系4 孟子』、明治書院、1962 年、445 頁(括弧の中の訳文は、小林勝人訳註『孟子』下、岩波文庫、1972 年、323 頁)。
27)尾崎雄二郎等編『角川大字源』、角川書店、1992 年、26 頁。
28)同文献26、446 頁。
29)30)愛新覚羅・溥儀『我的前半生』、群衆出版社、1964 年、47 〜 48、63 頁。
31)「子曰、“管仲之器小哉!”(略)“然則管仲知礼乎?”曰、“邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君為両君之好、有反、管氏亦有反。管氏而知礼、孰不知礼?”」
34)『大樹特樹毛沢東思想的絶対権威』と題する論文が毛の不興を買い、解放軍参謀総長・楊成武の失脚の一因と成った。但し、後に名誉回復を果たした楊は此の論文には責任は無く、名前が「四人組」に借用されただけだ(文献17、138 頁)。
36)38)同文献25、218、393 頁。
39)例えば、当時の周は「美髯公」の渾名が有るほど、長い髭を生やしていた。変名の姓・「胡」の由来には、即物的な「胡(子)」(髭)も考えられよう。左様な恣意と「細意」の可能性の同居は、中国・中国人を考える時は常に悩みの種だ。文献41 の当事者は、晩年の毛が好く人民大会堂の湖南庁(湖南の間)で外賓と会見した理由は、「心細」(細心)の読者が想像する様な故郷への愛着ではなく、大会堂の西門に最も近い場所の便利さだと言う(85 〜 86 頁)。但し、周は鷹揚な毛と違って、些細な事にも注意を払う人物だ。キッシンジャーとの最初の会談の場を福建庁にした事も、福建に最も近い台湾の重要性を暗示したかった為だ。ところが、キッシンジャーは後に周から説明されるまで、福建庁の名も知らなかったし、70 年に毛が米国ジャーナリストのスノーを国慶節祝典に招き、2人の写真を『人民日報』の1面に載せた時と同じく、其の意味も解らなかったので、其の微妙な配慮は効果が無かった(『キッシンジャー秘録』第3巻『北京へ飛ぶ』、斎藤弥三郎他訳、小学館、1980 年[原典1979]、196 頁)。
40)ニクソン『ニクソン回顧録』第1部『栄光の日々』、松尾文夫・斎田一路訳、1978 年(原典同)、小学館、337 頁。
41)「文革」後期に毛の専属撮影者・杜山の回想に拠ると、林彪事件の3〜4ヵ月前の71 年5〜6月、林は天安門広場の花火大会、外賓との会見の際に、毛を置き去りにする形で無断で中座し戻らなかったが、麻薬切れに因る苦痛・脱力が其の異常な挙動の原因だ。(顧保孜『紅墻里的瞬間』、解放軍文芸出版社、1992 年、76 〜 87 頁)
42)『広辞苑』の「大和魂」の語釈(第4、5版)。
43)毛沢東の名前に就いて、『毛沢東的老師們』の編著者・尹高朝は、「潤沢華夏大地、恩恵東方」と取る向きを「望文生義」と断じ、「沢」は一族が遠い昔に指定しておいた定番(其の前後の世代の名前の第1字は、其々「祖」「恩」「貽」「沢」「遠」)、「東」は「東西南北」と「伯仲叔季」の対応から、長男に当て嵌まる物だと説いた。(甘粛人民出版社、1996 年、8頁)
45)中・米頂上会談には、次の遣り取りが有った。「毛 博士は中国訪問ですっかり有名に成りました。/キッシンジャー 方針を決め、計画を練ったのは大統領です。/ニクソン 今の様に言ってくれる彼は、なかなか賢明な補佐官ですよ。(毛と周が笑う)/毛 彼が貴方を誉めるのは、貴方の選択が賢明だと言いたいのでしょう。」(ウィリアム・バー編『キッシンジャー「最高機密」会話録』、鈴木主税・浅岡政子訳、毎日新聞社、1999 年[原典同]、89 頁)中国人が好くお世辞を言うのは、相手の誉め言葉を期待するからだ、と邱永漢は喝破した(『中国人と日本人』、中央公論社、1993 年、136 頁)が、毛の推量は其の洞察を裏付けた。
47)高野孟『田中角栄の読み方』、ごま書房、1983 年、10 頁。田中に対する昭和天皇の憎悪は、天皇訪米を勝手にニクソンに約束した(73 年)という「商人的なリアリズム」に由る政治的な利用、及び建前だけに生きる天皇と本音だけに生きる角栄との気質の相違が原因だ、と著者は言う。(11 〜12、22、48 頁)
48)時事通信社編『北京交渉日記』、竹内実編『日中国交基本文献』(下)、蒼蒼社、1993 年、201 頁。
49)「病跡学」は『広辞苑』の通り、「個人の生涯を疾病、殊に精神病理学的な観点から研究分析し、その活動における疾病の意義を明らかにしようとする学問。芸術家・文学者・学者・政治家など傑出した人物を対象とすることが多い。パトグラフィー。」pathology(病理学。病理)から来た此の言葉に対して、中国語の「心跡」(心情。真意。心中)で名付けた「心跡学」は、健全な精神も対象とする概念だ。  
 
『三国志』から現代中国と世界を推理する

 

はじめに
筆者は国際政治経済学を専門とする研究者で、職業柄、日頃多くの本や資料を読んでいるが、余暇―かつては寸暇を利用していたが、現在ではそれが専らになっているきらいもあるが―を使った趣味の読書の世界に属することを論文風に論じたことはこれまでなかった。しかし以下で検討する『三国志』の人物像に関するものは、これまでの流儀を一変させるものである。とはいえ、これには趣味的な要素が濃厚にあるものの、同時に現代世界―特にアメリカを間において日本と中国との間のトライアングル関係―を考える際の大きなヒントを与えてくれるものでもあると確信している。筆者がそう考えるきっかけになったのは、易中天の『三国志 素顔の英雄たち』に出会ったことで、この中では凡百の『三国志』人物像を遙かに超えた深みのある、確かな人物像が描かれている。それは、著者である易中天が社会科学と歴史唯物論(historical materialism)の基礎知識と方法を十分に踏まえた上で、政治的な洞察力豊かに精緻かつ深甚に論じているからで、その出来映えは見事なものであり、十二分に検討に値するものだからである。それは同時に確かな見取り図を失って混迷している、変転常なき現代世界を論ずる際にも大いに参考できるものである。そこで筆者はこの本に触発されてその中心的な人物像の評価を論じるとともに、現代中国と世界についても合わせて考えてみたい。というのは、中国では何か大きな戦略的変更を意図する場合には、広く一般に知られている歴史的な故事や古典的な書物を基にして、そこからの類推や比喩を使って論ずることがこれまでしばしばとられてきたからである。したがってこの『三国志』論にも何らかの政治的な意図が投影されているのではと推測したいからである。なおここでは大衆小説を俎上に乗せるという対象の特性に鑑み、堅苦しい証明や典拠に依拠せず、また史実(正史)と小説(演義)との齟齬や乖離といったことも考慮せず、創造力を発揮して自由奔放に論じることを許容していただきたい。その方が遙かに豊かな内容をもつものになると思われるからである。 
1.私の『三国志』遍歴
私は『三国志』が好きだ。今でこそ、映画やゲームや小説などで『三国志』は日本中で人気沸騰し、何度かのブームを繰り返しながら日本人の中にすっかり定着しているが、私の子供の頃、一部の根強い愛好者はいたが、現在ほどには国民的な人気の題材ではなかった。私が最初に『三国志』に接したのは、小学校低学年の頃、少年少女世界名作全集の1 冊として出ていた羅漢中原作本のダイジェスト版(日本の翻訳者兼要約者は忘れてしまった)である。その後ラジオで流れた吉川英治作の『三国志』の放送をよく聞いた。徳川夢声の語りを中心にして、小沢榮太郎などが出演していた。子供心にも徳川夢声の絶妙の語り口と小沢栄太郎の野太い声が印象的で、いつまでも耳の奥に残っている。その後、吉川英治の『三国志』を貸本屋で借りてきて、夜な夜な暗い裸電球の下で、腹這いになったり、寝転んだりしながら、夢中になって読みふけった。後に中学校に入ってからは平凡社の中国四大奇書シリーズの一つとして出ていたものを購入してきて(当時の値段で、2 冊セットで900 円)読んだが、吉川英治のものとはいささか趣を異にしていて、むしろ、この原作本のほうが深みがある印象を受けた。というのは、吉川本では孔明(ここでは諸葛亮というフルネームではなく、私のイメージの中にある名前を使うことにする)の死で事実上終了し、後はその後の歴史が簡単に付録程度に書かれているだけだった。それは、彼が曹操と孔明という『三国志』を飾る本当の意味での二人の主役が舞台から退くことによって、事実上物語は終了したものと考えた―この考えは多くのその後の日本人作家が踏襲している―からで、その方が小説としてはすっきりしている。そして全体としては劉備を先頭にして、関羽、張飛、趙雲、孔明などがその下に集まる「義」に焦点を当てて、その義が実現しない悲劇性を押し出すことが主要なトーンであった。それは当時の浪花節や講談でもよく使われていた常套的なやり口で、義理人情たっぷりの思い入れで描くものである。
これも一つの描き方だが、原作本を読んでみると、そうした意図が前面に出てくるよりは、むしろ歴史のおもしろさや非情さやリアリズムが強く感じられてくる。あれほどの努力を傾けながらも、結局は蜀は滅んでしまったばかりでなく、最強の魏も司馬一族に乗っ取られ、最後に残った呉もまた司馬氏の晋によって滅ぼされる顛末が延々と語られているからである。そしてこれまでは劉備や関羽や張飛や趙雲や孔明が好きで、彼らの悲劇的な最後−趙雲だけは老衰して静かにフェードアウトしていくが−に深く感情移入し、涙していたが、この原作本を読んで、密かに司馬懿のファンになった。演義三国志では孔明の敵役で、いつも出し抜かれる引き立て役にされている、少々間抜けな人物として描かれている。周瑜も同様の役回りをさせられているが、彼は途中で狂い死にすることになって、いささか気の毒でもあるが、司馬懿(漢字を探すのが面倒なので、以下では仲達とする)は最終的な勝利者になる。そのしたたかさにすっかり感服した。そしてまたそれが歴史の醍醐味でもあると得心した。そんなことで、吉川本は一、二度でやめたが、原作本は折に触れては繰り返し読み、しまいには人物やストーリーの展開順序などに関してノートを取ったりもした(その後平凡社の四大奇書を全部購入し、『水滸伝』についても同様のことをした)。今風にいえば、中国古典のオタク人間ということになろうか。
このように私の少年期の読書遍歴の中で『三国志』は忘れがたい印象を残したが、その後、関心が別のところに移ったこともあって、たまに三国志演義にふれたエッセイや評論―たとえば花田清輝のものなど―を読んだり、馬超の木像を思いがけずに骨董屋のウィンドウで見つけたりして、密かな感動と懐かしさを覚えたりしたが、次第に視界から去っていった。その中では柴田錬三郎の二部6 冊本が、原作と同じく最後まで描いていて、印象に残った。彼は第二部のほうの主役を姜維において、孔明と同様、その志は高くとも、所詮は力不足によって最終的には国を失うという悲劇性を前面に出していた。いずれにせよ、何十年か経って、『三国志』は私の視界からすっかり消えていたが、それが突如復活することになる。それは光栄がゲームの『三国志』を出したからである。当時はパソコンが普及しだした頃で、光栄は『信長の野望』と並んで『三国志』をゲームの主力において売り出していた。これを買ってはじめたのが、私にとって『三国志』の復活劇の始まりであった。光栄の社長を大学に呼んできて講演してもらったりしたが、私の関心は『三国志』のゲームそのものにあった。それこそのめり込むようにそれに没入し、一時は研究も何もかもすっぽらかして、熱中していた。このゲームを購入すると入っている、中国全土の白地図を大量にコピーして一年ごとにゲームを止め、その時の武将の配置やその兵力などの状況を白地図上に書き込み、またそれとは別に数ヶ月ごとの推移と展開をノートに記録して、比較検討したりした。その結果、登場人物のほとんどの数値(武力、知力、人望など)と寿命などを大方諳んじることができるようになった。そして自分のイメージにある武将像とは違う数値の武将にしている、その扱いの不当さに大いに不満を感じたりした。同時に、『三国志』関係の小説、ゲーム攻略法、武将データ、解説書、読本、人物辞典、それに他の『三国志』ゲームなどが多く出版されるようになり、一大ブームが訪れたが、それらを大抵は買ってきて検討したりした。また中国の成都や長江など、『三国志』ゆかりの地を旅行して、その旧跡を見たり、その際に買ってきた書画(もちろんコピー品)やグッズや武将の切り絵を我が家に飾ったりして、悦に入っていた。
そうしたことを繰り返すうち、これらの『三国志』の描き方がステレオタイプで、常套的なことに大いに不満になった。大抵が上で書いたように劉備を中心にした義を旗印にした、麗しき主従関係とその悲劇性を謳うものであった。したがって、感情移入した劉備陣営の人物に甘く、それ以外の陣営の人物には辛いという描き方である。このマンネリズムにどっぷりつかって『三国志』のゲームをしていると、「どうもなあ・・」という感じになってくる。もっともゲームの醍醐味は、そうした非力で悲劇的な劉備陣営が最終的には中国の完全制覇にいたるという快感にある。現実には到底実現し得ない夢がゲーム上では実現できるのである。そうした爽快感がゲームを繰り返し、飽きもせず続ける心の奥底にある。とはいえ、ゲーム設計思想の貧弱さと現実離れには辟易させられる。こうしたジレンマ、つまりは一方での劉備善玉論と麗しき主従関係を基本に据えた設計思想と、したがってその目標の実現不可能だという悲劇性と、他方ではゲーム上では中国制覇を達成できるという、非現実的な爽快感との間の曰く言い難いジレンマの中で回遊し、あるいはその中に沈殿し、どうしても抜け出すことができなかった。もちろん、こうした常套的な三国志観とは少し違った、一ひねりしたものもあったが、基本的には同工異曲であった。たとえば、陳舜臣が曹操を中心において描いたり、伴野朗が呉を中心にして描いたりして、少しは目先が変えられていたが、その本質においては同じであった。その中では最近のジョン・ウー監督の映画「レッドクリフ」は赤壁の戦いに焦点を当て、中国人民解放軍の兵士などをエキストラに大量動員し、CG 効果などの処理も加味して活劇映画として迫力あるものになっていた。ここでは周瑜と孔明の友誼を中心においた作劇になっていて、曹操を演じた役者も薄っぺらではなく、堂々とした悪役振り―でもやっぱり悪役なのだが―で、見応えがあった。しかし何かが違うのである。 
2.度肝を抜かれた易中天『三国志 素顔の英雄たち』
こうしたジレンマから脱却することができる刮目すべき書物についに出会った。それがここで取り上げようと思う、易中天『三国志 素顔の英雄たち』(鋤柄治郎訳、冨山房インターナショナル、上、2008 年、下、2009 年)である1 )。文字どおり度肝を抜かれ、目から鱗が落ち、また読後、長年の胸のつかえがおりて、爽快な気分になり、同時に大いに考えさせられたりもした。なによりも驚かされたのは、そこでの主要な登場人物(特に曹操、孔明、孫権)にたいする人物評価が的確で深みがあることだが、その的確さと深みの基礎にあるのは何かを考えていたら、終章でこの本を書くにあたって、著者がマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18 日』を改めて読んだという一節を目にし、なるほどと納得した2 )。こんな用意をして『三国志』を論じたものなどこれまでお目にかかったことがなかった。私が既成の三国志論に不満だったのは、歴史研究と称して、実は単なる文献考証的なアプローチに留まっていたり、小説家特有の人間関係に力点をおいて、歴史的背景抜きに人物が独り立ちして行動できるかのように考え、またその人物像もステレオタイプで―その底には安易な勧善懲悪的な価値観、それも劉備善玉説に重きを置く極めて歪んだそれがあるが―現代人の感覚で歴史的人物を処断するやり方をとったりしていたことである。そのことは結局、極めて通俗的な人間解釈と薄っぺらな政治ドラマ仕立てに繋がっていく。それを易中天は歴史ドラマと考え、歴史の中での人物像の描写とその彫琢のため、歴史唯物論の手法に磨きをかけ、それに依拠して論じようとしており、その姿勢の高さ―大衆小説の世界に社会科学と歴史科学の手法を投影させる―にまずは感服した。実際にそこに描かれている曹操と孫権―さらには魯粛と陸遜も鮮やかに現実的な光を当てられている―は秀逸であり、孔明像―それとの関係では劉禪像も単なるぼんくらではなく、味わい深く描かれている―も確かなものである。それにくらべると、劉備像はかなりぼやけてみえる。この男が本当は腹黒く、狡猾な人間だったのか、それともかなり無能だった男−主人公をこうした無能そうなタイプに描くのは『水滸伝』の宋江もそうで、一つのパターンだが、ただしその場合は宋江が実際に存在していたため、現実とかけ離れた英雄像を造れなかったことにあるが―なのか、あるいは出自の良さを誇るだけの器量をもった、それなりの政治的才幹に長けた人物なのかはわからずじまいである。ただし、後者を最大の武器にしてのし上がろうと考えていたと解釈すれば、彼の外見上のぼんくら振りや非力さや優柔不断振りも、そしてそれでいながら妙に肩肘張った立ち居振る舞いもそれなりに理解できる。実物の劉備もそうした多様な性格を合わせ持った複雑な人物―旧体制の名門門閥の出身者でありながら、現実には落魄している連中にしばしば見受けられる―だったとみると、ここでの易中天の解釈は的を得ていることになる。もっともらしく振る舞っていても、外見上は曖昧でぼんやりしていてさっぱり要領を得ないが、ここぞというときには簡単に君子豹変することこそがこの人物の最大の特徴のようである。そこで、少し内容に踏み込んでみよう。
まず第一は曹操と孔明をこの時代の表裏を体現する人物として位置づけていることである。
時代は後漢の末、世が乱れ、劇的な変化を遂げようとした時である。このときに登場した曹操は基本的には誇るべき出自はなく―それどころか、宦官が金で官位を買い、養子を取って子孫を残した、その末裔という、はなはだ後ろめたいものである―支えになる門閥もなく、徒手空拳から身を起こし、機知と能力と率直な言動という人物的な魅力を基に必死の努力の末、次第に頭角を現していくことになる。そこでの彼の基本政策は人物本位に抜擢し、厚遇していくことであり、能力主義を第一にしている。こうした立場にある人間が実力でのし上がっていくには的確で、妥当な戦略である。わが国の豊臣秀吉を彷彿とさせるその知力と説得力−そのため、無類の「人たらし」と秀吉はいわれたが―である。そして自身の本心は表面に出さず、他人の意見に耳を傾け、その助力や献策を尊重し、そしてその手柄を自分のものとせず、家臣を立て、尊重したため、貴重な助言を得て自らの構想もふくらみ、多くの人材に恵まれ、次第に頭角を現していった。だから曹操を一言で表せば、人材発掘と人材登用の人だったということになる。
この曹操が一大転機を迎えたのは袁紹との官渡の戦いである。文字通り生死、存亡をかけたこの一大決戦に勝利したことで、その後の曹操の隆盛への道が開かれた。そこでの曹操の見事な戦略眼、大胆不敵な戦術、機微を捉えた巧みな展開、沈着冷静な頭脳のさえと太い肝っ玉は見事としかいいようがなく、相手の袁紹のそれらと比較すると、際だっている。だからこそ、数倍する敵の兵力、領土、財力、名声などをものともせず、苦しい持久戦に耐えながら、最終的な勝利を掴むことができた。おそらく後漢末から三国時代にかけての回天の契機になったのは、この戦いだっただろう。そしてこの持久戦の中で味方の中にあったさまざまな裏切りの企てや疑心暗鬼の兆候を戦後一切不問に付して、占領した袁紹の本陣の機密文書すべてをみんなの見ている前で焼いてしまった。その結果、曹操の声望は高まり、漢室の再興を掲げるその錦の御旗も効いて、丞相として最大の実力者にのし上がり、地方の反乱を鎮圧し、中国全土の統一的な秩序回復の主導権を握ることになる。「清濁併せ呑む」その度量の広さと機知が受けたのである。
さてこの曹操がいったいいつ頃から、漢を廃して自らが帝位に就く野望を持つようになったのか。これが『三国志』全体の中で最大のテーマであり、また謎でもある。当初からそうした野心を隠していた腹黒い人物だというのが、常套的な曹操解釈であり、そのために「治世の能臣、乱世の梟雄」とか「奸雄」という曹操の人物評が一般的にはよく使われている。しかしそうではないと易中天は考える。というのは曹操にはそうした野心を抱くほどの実力も門地も出発点においてはなかったのであり、董卓への公然たる反旗も命がけなら、袁紹との対決も必死の戦いであったからである。それが地歩を固めるにともなって、次第に変化するようになる。
忠臣から逆賊への変節、それはナポレオンはいつから革命政府を廃して自ら帝位に就こうとする野望を膨らませるようになったのか、あるいはまたその甥のルイ=ナポレオン・ボナパルトが選挙で選ばれた大統領から、一転してクーデタを経て皇帝に登り詰めていく道を取るようになったのはいつからかを想起させるテーマでもある。ただし、最終的には自らはその野望を秘めたままに中途で頓挫したため、もし息子の曹丕が漢を廃して自ら魏の帝位に就かなかったら、曹操の野望は表面化せず、あるいは後世の人々の非難の的にはならなかったかもしれない。その意味では曹丕の成功は結果的には曹操の化けの皮をはがし、その評価を下げることになるという皮肉な結果をもたらした。このテーマに迫るのに、曹操悪玉説に立てば、そもそもはじめからそうした野望を隠して、時節の到来を待っていたということになり、偽善者・陰謀家=曹操として単純至極である。しかしそうではなく、条件の変化によって途中から変節していったという観点に立つ―それこそが実際の曹操だったと思うが―と、研究しがいのあるテーマになる。その明確な契機になったのは荀ケとの決別である。荀ケは曹操を支えた最高のブレーンだが、漢室の再興を基本において、曹操が丞相―三公の上に君臨する政治・軍事・行政上の大権として復活させた―として実権を掌握することをめざし、天子を奉じて民意に従う(大順)、公正無私を以て英傑を心服させる(大略)、正義を発揚して英雄を招き寄せる(大徳)の三大綱領3 )を献策し、それを曹操は実行していくことによって成功を収めていくことになるが、その結果、逆にそれが曹操を終生縛ることにもなった。実力者としての強大化にともなってそこからの密かな逸脱が、そしてやがては魏公となって―社稷と宗廟を許される―潜在的には漢からの独立が可能な地位への昇段が始まり、次第に両者の乖離を生み、最終的には荀ケの悲劇的な死によって終わることになった。そして曹操の野望の膨張にともなって独裁的傾向が強まり、部下―といっても形式的には漢の家臣としては同僚なのだが―の粛清が強まることになる。この曹操の野望は荊州を制圧し、次に孫劉連合を赤壁で打ち破っていれば、あるいは実現したかも知れない。その意味では赤壁における孫劉連合の形成こそは曹操に野望の頓挫を強いた決定的な要因であった。そこで曹操が荊州制圧で一服おかずに連続的に呉に戦いを挑んだこと、ならびに根拠地がないためにそれまで各地を放浪し続けた劉備を葬り去るチャンスが何度もあったにも拘わらず、そうしなかったため、台頭のチャンスを与えてしまったという、致命的な戦略的誤りは、献策するブレーンの不在−特に郭嘉の夭折―にあったと易中天は断じている。荀ケのように漢室の再興の下での実権の掌握というイデオロギーに固執せず、だからといって賈􄋥のようにテクノクラートに徹して個人的な領域には深入りしない―そのため、曹操の後継者問題に関しては家庭内の問題だとして助言を婉曲的に拒否した―のとは異なり、郭嘉は年も若く、かつ曹操の個人的な領域にまで立ち入ることができた―つまりは曹操が心を許したー唯一のブレーンであった。その彼を失ったことが、曹操の慢心と猜疑心を助長し、歯止めを失って、飽くなき個人的な野望の暴走を生む―しかも稚拙で粗暴な方法を使って―ことになったと見ることができよう。ただしその彼でも前記の三大綱領が邪魔になって、魏朝を打ち立てるという最終的な―ルビコンを渡る―決断を下せないままにこの世を去ることになる。その点では曹操と曹丕の関係はカエサルとオクタビアヌスの関係に似ているかもしれない。
第二に、そうすると、曹操の野望に待ったをかけた赤壁の戦いでの孫劉同盟を生み出した主要人物としての孔明と魯粛、そしてそれを容認した孫権と劉備の人物像が大事になる。そこでは孔明と魯粛がともに図らずも戦略的には三国鼎立論−天下三分の計−を構想していたことで、魯粛は曹操、孫権、劉表の、孔明は曹操、孫権、劉備の、三者の鼎立を考えていた。しかし、劉表が死に、荊州が曹操の支配下に入った以上は、それに対抗するには孫権と劉備の同盟に依拠せざるを得なくなる。この二人が孫権と劉備を後ろ盾にして遭遇した後、たちまちのうちに意気投合し、互いの構想を微調整させながら、赤壁の戦いを準備していくことになる。そして実際の赤壁の戦いでの軍事的指揮権は周瑜にあり、彼がこの圧倒的に劣勢な戦争を勝利に導いていくことになる。曹操との融和−実際は足下への屈服−ではなく、対抗と呉の自立性の維持への最終的な決断を下したのは、孫権である。迫り来る曹操の圧力と内部にある投降論−張昭に代表される多数派−を排して開戦へと舵を取ることは至難であり、彼は幾多の逡巡の末、最終的な決断を下す。その時、剣を抜いて卓を両断して、今後この決断に異を唱えた者はこのとおりにすると見得を切った姿は『三国志』の最大の見せ場であり、まさに千両役者の感がある。
彼は曹操、劉備の後塵を拝した形で、『三国志』の中では目立たない、いわば第三の人物として描かれているが、実は彼こそは『三国志』史上、最大の人物ともいうべき大政治家で、沈着冷静にして、自由自在に戦争と和平の間を行き来し、ここぞというときにおける断固たる決断を下した、遠き益(長期的利益)を考え、権に応じ(時勢の動きを見極め)、変に通じた(情勢の変化に応じた適切な対策を講じた)、弘く思う(深謀遠慮をもった)、類い希な雄略の才に恵まれた人物4 )として、易中天は極めて高い評価を与えている。隠忍自重を重ねながら、いつか日の目を見る時を夢見て、奢りもせず、卑屈にもならず、ひたすら腰を低くしながらも堂々と胸を張って生きていった孫権の前半生を易中天は色鮮やかに描いている。この孫権像は誠に鮮明であり、本書の中の白眉と言ってもいいだろう。父(孫堅)、兄(孫策)に次ぐ三代目として、その間に培ってきた強固な主従関係を基礎にした孫権は部下に恵まれ、それらの人間関係を巧みに操縦して、成長・巨大化していき、最終的には三国の一つとして確かな地歩を築いたが、とりわけ周瑜(赤壁)、魯粛(同)、呂蒙(荊州奪取)、陸遜(夷陵)の四名将がそれぞれの時期に決定的な役割を果たしたことが、彼の成功を大いに助けた。その意味では強固な地盤と人的紐帯と、さらには地の利に恵まれた勢力であったし、それらの利点を孫権は最大限に活用した。
第三に、これらに対比すると、劉備像はあまり鮮明ではない。それは曹操や孫権に比較して劉備自身が際だった特徴を持っていないことにあり、またいつも逃げ回っていて、大才を示す機会に恵まれず、もっぱら「髀肉の嘆」をかこつことになっていたからでもある。また荊州に根拠地を得、そこから蜀の奪取に向けた画策と行動も劉璋の降伏という形で、平和裡の政権交代を果たした点では成功を収めたが、その間の権謀術数振りは日頃の劉備らしくないダーティな印象を与えている。そして宿願を果たして無邪気に成功を喜ぶ劉備を龐統が窘めると、気分を害したという一節もある。またなによりも、関羽の復讐戦を意図した呉との夷陵の戦いで敗北して国力を疲弊させ、人心を失い―この戦争に反対した趙雲を遠ざけるなど―自らも死を迎えることになるという結末は、劉備の能力を一層疑わしいものにしている。だがこれらは、劉備が理想化された聖人・君子でなかったことは確かではあれ、したたかな現実政治家であったことを逆に物語っていて、この乱世を生き抜く知恵と才覚を十分に備えていたことになる。ただし、曹操や孫権ほどには傑出していなかった―だからこそ宗室の出身であることをことあるごとに強調せざる得なかったわけだが―というだけである。したがって、曹操の裏返しの人物としての孔明の傑出振りが嫌が応でも目立つことになる。さて孔明像をどう塑造するか、それが最大のポイントである。孔明が不世出の政治家・外交家・行政家であるという評判はあまねく浸透していて、それを覆すことは至難に等しい。事実、これらに関してはいずれも優れた能力を発揮している。だが、天下三分の計の献策や孫劉連合の結成や根拠地としての荊州の奪取などでの功績もさることながら、劉備亡き後、曹操と同じく丞相となって全権を掌握し、誕生間もない蜀の統治に捧げたその努力と成果の中にこそ主要なものがあるといえよう。その点では劉備亡き後の孔明の立ち居振る舞いや、それとの関係での劉備の息子の、暗愚の典型とされてきた劉禪の評価が味わい深い。孔明が丞相として実権を掌握しながらも、曹操のように帝位に就こうなどという野心を抱かなかったこと、あるいはそうする必要がなかったことが劉禪との主従関係の中にあると見ている。つまり名目的な元首−天子−としての劉禪と、実際の統治−丞相−を担う孔明との役割分担である。それには孔明ばかりでなく、劉禪の方のスタンス―全幅の信頼とまではいかないまでにせよ、時には煙たい存在と敬遠したい気持ちを抑えて委せていたこと―にも大いに評価すべきものがあるということである。劉禪がいわれるほどの暗愚ではなかったことは、孔明死後に親政を試みたことや、結果的には敗北―それも投降という形での最小限の犠牲で−したとはいえ、複雑な蜀の政治―内政と外征―をある程度采配して、ともかくも30 年ほどの余命を持ちこたえたことである。
希代の傑物として孔明は政治、外交、行政の全てにおいて優れ、かつまた人格も秀でて、人民の敬愛の的、つまりは理想的なリーダーであったとはいえ、唯一ともいうべき欠点は軍事の才能がなかった―反対に『三国志』の中ではしきりと軍事的天才振りが強調されているが―ことである。そのため、度重なる魏への出兵にもかかわらず、決定的な勝利を収めることができなかったばかりでなく、相手の仲達にいいようにあしらわれたあげく、事態は膠着状態に入っていった。仲達にすれば、天下の奇才=孔明に一歩も引かないという評判を得ることが最大の成果だから、危険を冒してまで孔明との決戦を迫らずとも、持久戦に持ち込んでおきさえすればよいのである(そのためいらだった孔明は女性の衣服を仲達に送って、女々しい奴だと挑発したりした)。それによって確固たる名声を得、軍事力を掌握し、地歩を固めていって、いつでも魏に取って代わるだけの実力を培うことができた。その意味では『三国志』の描き方―たとえば「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ではわざわざ「孔明は天下の奇才なり」と仲達に言わせている―とは反対に、実際は孔明が仲達の引き立て役になっていた。だから後に国内の反乱の発生を瞬く間に鎮圧し、また曹氏一族による反司馬氏クーデタ騒動に対しても機先を制して瞬時に一掃したりすることができた。これらが晋朝創設の確かな土台になった。こうした仲達の戦略もあって、三国鼎立が固定化して、全国統一が遙か彼方へと遠ざかることになる。
その結果、蜀においては内部の統一にも雑音が入り込むことになってくる。それでなくても、にわかに建国した蜀は劉備時代からの古参勢力、荊州人脈、蜀内の投降組―それも劉焉配下だった集団と益州の地元の勢力の二派―など複雑な人脈を抱え、その統一には多大のエネルギーが必要であった。その中で、孔明は法治主義を基本に据えた国家建設と国力増強を実施していった。しかし三国の統一という錦の御旗を降ろせば、蜀の建国の意味も、そしてなによりもそれを構想した孔明の政治生命自体を失うことになりかねない。その意味では天下三分の計は終生孔明を縛り、その寿命を縮めた要因の一つであり、孔明死後も姜維以下の後継者に重たくのしかかる重課となり、やがてはその衰退を早めた。
以上のべた人物像は極めてユニークであり、これだけで十分に凡百の三国志論に数段も優っているが、それ以上に特筆すべきなのは、それらの人物像の描写の後で、彼らがそうした活動をし、あるいは失敗をせざるを得ない社会的な背景と階級的基盤と権力構造について、つまりは歴史的な条件と情況について、社会科学と歴史科学に則って総括している、その見事さである。
ここでの第一のキーワードは士族である。士族とは代々士官した一族を指し、官吏という高級官僚に就くには、第一に士人としての確かな身分、第二に経学に通暁する才能、第三に孝廉に推薦されているという徳が備わっていなければならず、士は平民の中で農、工、商に上位していて、読書人、つまりは頭脳労働者である。彼らは支配の中枢を担う高級官僚であるため、次第に独占化―たとえば、袁氏は四代にわたって最高位の三公(司徒、司空、大尉)に就くなど―と身内の人間や社会的地位の低い人を推薦する推薦権と、相互に推薦し合う家族的・閨閥的な繋がりを作っていくことになって、少数の特定家族が突出し、かつ集中するようになる。
そして彼らは当初の中小の地主から次第に大地主にまで登り詰め、世族と呼ばれる集団を構成して、外戚や宗室や宦官や大商人と結びついて支配の中枢に盤踞するようになる。本来は世襲ができないにも拘わらず、実質的には半世襲化して、その特権を維持し続けようとする。400年以上続いた秦漢帝国は地主階級を支配勢力にして、君子−天子−を中心とする中央集権国家で、郡県制を取り、官吏の任命と派遣を行い、非世襲的であった。そこでは法家や儒家思想が基本となり、軍事力=暴力がそれを補完していた。これはそれ以前の時代が領主を中心にした邦国を世襲的な貴族制によって維持していた、いわゆる封建制とは異なっている。世襲せず、領地も持たない官僚制ともういうべきシステムでは、その登用は中央・地方からの推薦によった。一方で古くからの地主は貴族化していくが、それは皇族、外戚、諸侯などからなる貴族地主ともいうべきものである。他方で、支配の中核を現実に担う官吏は士族と呼ばれるが、世襲はできないものの、代々重要官吏になる名望家―袁家は四世三公を誇る名門―が現れ、事実上の世襲化し、士族地主化していく。それはやがては九品中正制(魏の時代に陳群によって発案された九品官人法がその先駆け)によって実体化するが、その弊害をなくすために、やがては官吏登用を試験によって行う能力主義的な科挙制度に発展していくことによって完成する。したがって、この時代、支配階級は貴族地主と士族地主の双方から成り、後者も名門士族(望族、勢族)とそうでない寒門、庶族とに二分される。漢末から三国時代など魏晋南国朝の時代はその過渡的な時代であった。
さて、漢末は門閥(家柄や声望)に代わる軍閥(武功)が主役に躍りでる時代であり、皇帝の側近としての宦官と外戚の主導権争いが士族を後者が抱え込んで宦官の一掃を図るが、混乱のうちに共倒れし、地方で軍事力を養って軍閥化した土豪=武装勢力(董卓)が都を占拠する事態になる。これは乱暴にも皇帝の首をすげ替え、さらに自ら自立まで考えるようになって、さらに混乱は広まる。そこで反董卓連合が士族を中心にして結成され、自らも軍事力を確保して、地方に割拠するようになる。そこでは袁紹や袁術に代表される門閥と曹操や孫堅を典型とする新興の寒門出身者、さらには劉表や劉焉―さらには劉備も形式的にはそれに連なるが―宗室の軍閥が存在し、指導権争いを繰り返すことになる。それらの闘争は最終的には曹操の圧倒的な優勢を生み出すことになった。非士族政権の樹立という曹操の構想は、儒家に代わる法家思想と相まって、和平、軍事双方での追求をしていったが、最高権力を渇望するようになって、士族からの猛烈な反発を受け、頓挫することになった。代わった曹丕によってその野望は実現するが、その代償は陳群による九品官人法の提案の受け入れである。それによって、士族はよりスムーズに権力に足がかりを得たばかりでなく、その際名門門閥ほど有利になり、彼らの間の密かなインナーサークルを作り上げることになる。そして有力士族の支配が強まり、軍事的才幹に長けた司馬氏がその頂点に位置し、やがて彼らの頭上に王冠が転げ込むことになる。その点では孔明は君主を名目上の元首にして、丞相を実際の政治を取り仕切る政府首脳に二元化することによって、士族の反発を抑えることに成功した。いわば、曹操が最高権力を渇望したときに地獄に突き落とされたのに対して、孔明は政治の理想像として天上へと舞い上がることになった。その意味で、曹操と孔明はこの時代の表裏一体を表す人物となった。
さてもう一つのキーワードは南北間の地域差である。長江を挟んだ南と北の違いは発展した先進地域=中原としての北と、発展途上の南との違いとして認識される。したがって、南が中国全土の統一を図ろうとすれば、どうしても段階的な戦略を建てざるを得なくなる。まずは地盤を固め、次に中原、江東、荊州として鼎立し、荊州を奪取して天下を二分し、最終的には中原を制圧して統一するという戦略である。したがって、漢室に取って代わろうという考えは当初からは生まれてこなかった。しかも長江という天然の要害の存在は、北からの侵入を容易には許さない大きな楯にもなっている。相対的に自立している南の地域はまた安全でもあって、有力な勢力がなく、群小勢力の横並びでもあった。いわば土豪の連合体的な性格が強い。そこへ北からの働きかけや亡命者が集まることにもなる。孫堅もまた北からの移住者であり、その性格は孫権の時代になっても依然として残っていて、土着勢力との協調が容易ではない。そのことはまた、孫権の力が強大化して、呉を立て、君主になると、絶対的な権力者として振る舞うことができるようにもなる。そのことは孫権の後半生に暗い影を投げかけ、後継者をめぐるいざこざに丞相になった陸遜が巻き込まれ、孫権に憤死を強いられることになる。それには孫堅の配下にあった旧臣、北からの亡命人士、それに江東の名門一族の集合体であった呉が、士族化を現地化させることによって、その延命を図ったため、絶えず周囲を見舞わし、疑心暗鬼に襲われ、ことあらば一掃しようと躍起になり、殺害などの血なまぐさい事件を呼び起こした。
これは孫権の老残を曝す致命傷となった。その基底には呉の地方政権化があった。
かくて曹操の野望、孔明の理想、孫権の現地化は最終的には軍閥化した司馬氏による士族政権に帰着するが、それも安定せず、長城を越えた異民族−牧畜民や狩猟民−の侵入と定住=漢化によって、五胡十六国の騒乱と呼ばれる大激動に見舞われて晋朝は南下し、その後南北朝の並立を続けた後、最終的には北による統一化、つまりは短い隋とその跡を継いだ唐によって再び統一されるという隋唐帝国の時代を待つことになる。その間に369 年もの長きにわたって、分裂と争乱と混乱の時代が続いた。それは秦漢帝国の時代が400 年以上続いた後のことであり、統一と分裂はほぼ同じだけの時間を要したことになる。易中天は本書の最後に「語り尽くせたとは言いがたいが、さりとて、語り尽くせるものでもないだろう」5 )という印象的な言葉で締めくくっている。余韻を残す言葉である。 
3.『三国志』から現代中国と世界を推理する
以上みた三国時代の歴史物語は多くの教訓を残し、現代中国を考える際の糸口を与えているようにも思われる。というのは、『三国志』は中国人なら誰もが知っている物語で、彼らの日々の生活の隅々にまで浸透し、骨肉化・皮膚化しているからである。そして大きな歴史的な変動が起きるときには、この物語が繰り返し想起されるからである。その意味では歴史的な発展の教訓というよりは、万古不易的な構造的なものだとされるきらいもある。もちろん、人々の営みが織りなす歴史物語には、「発展」=変化と「構造」=反復の両面があり、両者のそれぞれの領分と相互関連を考えるのは重要な勘所である。それらについての検討は他に譲る6 )として、ここでは今日の重要課題である中国の国内統治と米−中−日のトライアングル関係に焦点を当てて、少し論じて見よう。
第一は中国のめざましい経済発展―それも「世界の工場」から「世界の市場」への一層の進展―とそれを担う中国共産党の一党支配の存続如何である。中国の市場経済化の進展はグローバル時代における世界経済に大きなインパクトを与えた。多くの人は西側資本主義への接近とそのメリットの「限定的な」活用―経済特区への外資の参入と輸出志向に始まる一連の流れ―が中国を「世界の工場」へ育て、さらにはその基礎上で中国全体が「世界の市場」としてさらに急進展した最大の要因だという見方を取っている。そうすると、中国政府の政策転換とその決断が大きな成功要因だということになり、中国共産党の指導的役割とそれを領導したケ小平は傑物・大政治家だということになる。もちろんその側面は否定できないが、同時に資本主義体制はこうしたモノづくりの拠点=「世界の工場」としての中国の存在なしにはグローバル経済下での未曾有の成長と発展を実現できなかったことも事実であり、そういう意味では中国が西側世界を必要としたばかりでなく、場合によってはそれ以上に資本主義側が中国を必要としたのであり、資本主義が危殆に瀕した社会主義をいかに包摂していったかが大事になる。これはまた中国側から見れば、資本主義の今日の発展と存続の命運を中国が握っているという自負心に繋がってくる。したがってこれらの両要因は双方向的で、相互関連的なものであり、一方での相互依存(牽引)と他方での相互対抗(反発)が鎬を削ることになる。前者が優れば相乗効果を発揮するが、後者が支配的になれば瓦解していく。その意味から、筆者はソ連・東欧の崩壊とそれに続く移行経済国への転換と、中国の市場経済化に始まる事態を資本主義のグローバル体制づくりのための「グローバル原蓄」と位置づけ7 )、それがその他の途上国と先進国の生産・労働条件にも極めて大きな影響を与えたと指摘した。
しかし「世界の工場」から「世界の市場」への進展は多くの課題を中国国内へとシフトさせることになった。中国国内市場の整備、資本主義システムへの編成替えが至上命令になり、その下で外資との競争にも勝利することが戦略的な課題となる。そうすると、中国資本の足腰を鍛え、自立的基盤を育てることがなによりも大事だが、これまでの、政府による基盤整理と助成や各種優遇措置による政策的誘導と厳格な管理・規制に加えて、企業の民営化による経営基盤と資本蓄積の強化ばかりでなく、技術革新―そのためには模倣化から自前化への転換が必至になる―、経営能力の陶冶、従業員教育、流通機構の整備、マーケティングのノウハウの蓄積、さらには原価計算や財務管理などの会計処理等々、多くの点での競争条件の強化が必要になり、これはまさに資本主義そのものである。そういう意味では冷戦体制崩壊後のアメリカ、ヨーロッパ、日本の「大競争時代」の到来が移行経済国や「社会主義市場経済国」中国にも波及し、その中に包摂されたと規定した方が適切かも知れない。しかもこれを中国に即して考えて見ると、市場経済化の深化は生産における資本主義的原理の貫徹ばかりでなく、消費の増大は消費社会の到来を生み、それは当然に市民社会の成熟化を要求するようになる。人権、自由、公平、民主主義、情報公開、核家族化、女性の進出、教育向上等々、先進資本主義国が通過し、深化させてきた市民社会の規範が当然に随伴してくる。これらの処理を共産党一党独裁体制下で達成可能であろうか。なるほど、資本主義工業化のテイクオフをはじめるのには、強固な共産党政権の支えは最大の後ろ盾であった。西側諸国がそれこそ垂涎の出る思いで見ていたであろう。
わが国でも新幹線や高速道路網を敷設するとなれば、私有地の買い上げだけで莫大なエネルギーと資金を必要とする。並みの政権では到底達成できない課題である。それを土地国有化の下にある中国ではいとも簡単に達成可能になる。まさに一党独裁政権という強力な打ち出の小槌を握っているからである。しかし市民社会の成熟化へはこの打ち出の小槌は効かない。今までのやり方の延長でそれを模索するとなると、公安警察を中心にした情報統制・操作や監視制度、検閲制度、密告制度などや、対外的なナショナリズムの鼓吹による内部的一体観の醸成といった使い古された手段を精緻化して展開することになり、一時的にはともかく、長期的には到底成功を収められるようには思われない。そうすると、共産党という「現代の君主」(グラムシ)の下での実際の政治を担当する実質的な統治者が別に用意される、二元体制が生まれるのだろうか。こうした共産党の変質化を期待する論調もある8 )。共産党の実質的な変質化が始まっている兆候は確かに確認できるが、だからといって実質的な権力を譲ってその背後の名目的な君主としてだけ君臨するとは思えない。中国の最高指導者は国家元首、共産党総書記、中央軍事委員会委員長という中国流の権力の中枢を一人で兼務している。その下で行政府の長=国務院総理は一体どれだけのフリーハンドを持ちうるのだろうか。もちろん指導部を構成する共産党中央政治局の常務委員会は一枚岩でなければならず、その内部対立が実際にはどんなに熾烈でも、外部には常に一致団結していなければ共産党支配は維持できない。したがって、ことあるごとに意志統一を図っている。
これに関連して、共産党官僚の特権維持のための種々の画策がある。官僚制度は能力主義に基づく選抜されたエリート集団の組織であり、それがどんなに有能であっても任期期間中だけの特権であり、共産党の場合は事実上終生のものになったとしても、一代限りである。だが支配が強固になり、長期化してくると、それを継続的に次代に継承させ、半世襲化したいという願望を強く持つようになる。それは官僚の自己保身と特権維持の本能でもある。しかも共産党内部での有力者によるインナーサークルの結成とその持続化は官僚組織のルートを使ってしっかりと、密かにビルドインされている。それらは自分たちの特権の維持と延命に精魂を傾けて努力している。これを打ち破る秘策は生まれるのだろうか。それを内部から打開できると期待することは極めて困難ではないだろうか。ソ連・東欧崩壊の教訓が天安門事件に生かされているからである。
もう一つは東アジアにおける米−中−日の関係である。オバマ政権の誕生以来、世界の情況は大きく変化してきている。唯一の覇権国として、帝国への野望を膨らませたアメリカは一転して、地獄へ突き落とされ、オバマ政権は平和の擁護者としての役割と協調路線を主軸においている。そしてアジア重視を掲げ、米−中主軸のG2 論9 )を展開している。それと日−米間の同盟関係も大きな曲がり角にきている。そうすると、米を間に挟んだ日、中とのトライアングル関係はどうなるのか。このことを考えてみよう。オバマ政権の基本的戦略は日米間は一心同体的な強固な同盟関係であるのに対して、米中関係は相互の利害の上に立った戦略的パートナーシップであるとみている。前者が半ば恒常的なら、後者は状況が変化すれば解消可能である。米中重視は経済的には両者の相互依存関係の深まりを反映しており、お互いを当面は必要不可欠にせざるを得ないような二国間経済関係が定着しているからであり、そのことは他の先進資本主義国にとっても同様である。そして「世界の工場」から「世界の市場」への展開はその必要をさらに強めることになる。他方で日米同盟は実質的には日本の対米従属であり、しかもそれは安全保障から、経済、文化など包括的なものになるにしたがって、一方ではより強固に、盤石なものになったと賞賛する向きもあるが10)、他方では対米従属の深化が日本側の対米負担の増加になり、その結果、かえって危険水域に近づいてきたと見る向きもある。「対等な日米同盟の構築」という要求は言葉としては正当ではあっても、その実体からすれば、空念仏に近い。その結果、アメリカは日米同盟という安全パイを手許にもったまま、中国との交渉を有利に進めようとしてきた。他方で、日中関係は日本が独自に交渉しようとする度にアメリカに厳しく掣肘されてきたため、抜本的な打開には至らず、どちらかといえば、よそよそしい雰囲気のまま、「経熱政冷」状態になっていた。
しかしながら、日本からの対等な日米同盟の構築や東アジア共同体の結成という要求には、その底に国民の長年の宿願を体している側面もあり、日中を含む東アジアに平和的で、互恵的で、共存・共栄的な地域を作り上げたいという共通の願いが込められている。そうすると、東アジアの国々が主体になって共同してアメリカにそのことを強く要求していく機運と条件をどのようにして作り出すか。その基本戦略の構築が求められている。その際に、当然に中国は独自の構想を持っているだろうが、日本こそがこの日−米−中のトライアングルの中核に座るような画期的で独創的な構想と戦略を提示する必要があるのではないだろうか。日本の平和憲法の存在、軍事的超大国ではないという条件、精緻なモノづくりのシステムとOJT に代表される労働者陶冶の経験、TQC に見られる共働的(コラボレート)な改善運動の経験、優秀な中小企業の広範な存在、全体的な合意形成を粘り強く追求する会議システム、勤勉で真摯で友好的で、努力を惜しまない仕事への取り組みやその姿勢など、われわれの周囲を見回せば、世界のどこにたいしても堂々と披瀝すべき利点はたくさんある。そして世界のどこでも多くの人々は同様の利点をもっているのだから、それをどう組織化するかが大事になる。またこれらの利点の多くは実際の労働現場や職場・地域で人々が主役になって自ら身につけたものであるにも拘わらず、その本来の姿が歪められ、切り捨てられ、失われている現状を適切に批判し、本来の姿に立ち直らせることが大切である。それにはそれらの知財化も必要になる。そうすれば日本はもっと国際社会での発言権を得られるし、それにふさわしい内実をもった国民による国になりうる。世界、とりわけ東アジアの人々が日本に期待しているのは、そうした日本の役割であり、それに向けた回天の姿勢ではないだろうか。そうしてことを連想させるのも、『三国志』の力なのではないかと思うと、「語り尽くせたとは言いがたいが、さりとて、語り尽くせるというものでもないだろう」という易中天の最後の言葉の含意を改めて噛みしめることになる。
まだまだ幾多の創意工夫による打開の余地はあるはずだし、前途は必ず開かれるものである。
最後に私が座右の銘にしている諸葛亮の『誠子書』の一節を掲げておこう。
澹泊明志 寧静致遠 静学才志 (無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
学問は静から、才能は学から生まれる。学ぶことで才能が開花する。志がなければ学問の完成はない)。 

1)原著は易中天『品三国』上・下巻、上海文芸出版社刊、上、2006 年7 月、下、2007 年3 月。邦訳は易中天『三国志 素顔の英雄たち』鋤柄治郎訳、冨山房インターナショナル、上2008 年、下2009 年。
2)同上、下、417 頁。
3)同上、上、126 頁。
4)同上、下、344 頁。
5)同上、下、470 頁。
6)たとえば、フェルナン・ブローデルとその影響を受けたエマニュエル・ウォーラーステインの考えの是非についての検討など。
7)詳しくは関下稔『多国籍企業の海外子会社と企業間提携―スーパーキャピタリズムの経済的両輪―』文眞堂、2006 年、ならびに同『国際政治経済学の新機軸―スーパーキャピタリズムの世界―』晃洋書房、2009 年、参照。
8)たとえば、呉軍華『中国 静かなる革命』日本経済新聞社、2008 年。
9)米中主軸のG2 論と日米同盟に関しては最近の拙稿で概説した。関下稔「オバマ政権の新外交戦略と日米同盟―スマートパワー・戦略的パートナーシップ・体制的従属国―」『立命館経営学』第48 巻、第4 号、2009 年11 月、参照。
10)たとえば、ケント・カルダー『日米同盟の静かなる危機』渡辺将人訳、ウェッジ、2009 年。 
 
■諸話

 

日本の歴史学における『学』/ 平泉澄について
〔一〕
何年も前の事になるが、一二月一日学徒出陣の日に、学友会で「不戦の誓いの日」と銘打って集会を催した事があった。国史では二十五番教室の大会で原田義人氏の思い出等を聞いた後で、戦争中国史学科に席をおいた先輩の方々に来ていただき、当時の様子等をきいて不戦の誓いを新たにしようという事になった。史料編纂所の方が多かったが七人の先輩を囲んでの話は、戦地の思い出から、ロマン・ロランを何人かで一緒に読むのが当時の学生であった自分には唯一の心の支えだったというY氏の話を経て、当然平泉澄氏の事へと移っていった。
進学以来私達は平泉氏についての数多の伝説を聞いていた。研究室にはまだ氏のカードや図書があり、私達の使っていた茶碗の中には平泉氏の湯呑みであったと伝える有田の茶碗もあった。私達は『むらぎも』の泉教授などによってもそのイメージをもっていたのだが、先輩の諸氏は多くの伝説が事実であった事、事実は伝説よりも奇であった事を繰り返し強調されたのであった。それは深い憎悪に迄結びついており、経験的な発想で語られたために、聞いている私は時として戸惑ってしまうように思われた。ともかく現在の研究室がいかに自由であるかを改めて思い、再びこの自由を失わないよう云々というおきまりの結着を以って会は終わったのである。

国民学校の歴史を一貫して教えられた私達は、戦後になってそれが全くの虚偽であったと教えられた時に、昭和の歴史や権力というものの性格を知らない中学生であってみればまず、歴史家というものの理性を疑わざるを得なかった。その会の後私達が考えた事はやはり、戦争中の国史学の状態に対して何故もっと学問の場が守れなかったのかという事であった。いやそういう戦争責任論みたいな発想でなく、そうした事自体が日本の歴史学というものの性格を如実に示していはしないか。学者の信念とか勇気とかいうものとは別に日本の歴史学は学としての弱さを負っていたのではないかという点に関心を持ったのであった。
直接肉体的な痛みの記憶として平泉氏の国史を思い出すことのできない私達にとっては、その歴史学の出てくる過程を明らかにする事によってしかそれを認識し、更に先程のおきまりの結着にもそいえないのではないか。少なくとも憎しみを語る事だけでは私達は問題を発展的に処理した事になりはしない。後片付けをしながら何人かでそんな事を話した事であった。もう何年も前の事ではあるが。

ところで私達のよくきく平泉氏評に次のような論がある。「氏は始め新進気鋭の学徒として国史学に新風を吹き込んだのであり、すぐれた業績もある。けれどもヨーロッパ留学以後氏は変わってしまい、戦争中のあの顔が急速に前面にあらわれるに至った。勿論氏自身でこしらえた顔ではあったが、それを引き出したのは軍部であった」と。或る意味で直接氏に接した人々のこうした観察にも一面の理はあるかも知れない。しかし二−チェが或る日の出来事を境にして急速に変化していったというメービウスなどの解釈を氏に適用するような事に私は賛同しかねる。成る程一つの例をとれば氏は四か月のパリ滞在中反動的な伝統主義者であり、大革命の批判者であったポール・ブルジェにひかれ、その著作を耽読して、南欧にあったブルジェと文通をした(『伝統』)。氏がヨーロッパで出会った人々はいずれも強烈な伝統主義者であり、反コミュニストであったから、それらの人人の影響が氏にコンヴァージョンをもたらしたと考えられるかも知れない。けれども私は氏の態度は留学によって急変したのではなく、最初から一貫していたものであると考える。更に又、軍部に利用されたという事が事実であったとしても、その面だけ見る事によっては歴史学の問題としては何の答えにもならないであろう。

日本における近代史学がその形を整えたのは一九一〇年代のことであったらしいが、それにつづいて津田氏の業績が続々と発表されていった。そして二○年代の後半になると、歴史学の方法や本質についての問題がさかんに論じられるようになっている。クロオチェの『歴史叙述の理論及歴史』の邦訳は二六年に出ており、二八年には訳著羽仁氏の『転換期の歴史学』が公にされた。唯物史観の歴史学が成立したのもこの頃で、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』は二七年に、服部之総『明治維新史』は二八年に刊行されていた。又津田氏の「歴史の矛盾性」が「史苑」に掲載されたのは二九年の事であった。このような時点で平泉氏の活動は開始されたわけである。
一九二五年の史学会大会で行なわれた氏の講演「歴史に於ける実と真」はこうした状勢への氏の対応であった。
明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了れりとした。所謂科学的研究これである。その研究は分析である。分析は解体である。解体は死である。これに反し真を求むるは綜合である。綜合は生である。而してそは科学よりはむしろ芸術である。更に究竟すれば信仰である。まことに歴史は一種異様の学問である。
と終わり近く論ずる氏は更に、
歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の奇しき霊魂の力である。この霊魂のカによって、実は真となる。(「史学雑誌」36・5)
と結論する。私はそこに二つの問題を見る事ができると思う。一つは歴史学の科学性の否定であり、もう一つはそのような発言が「明治以来の学風」に対する反発としてなされている事である。ところで私はこの歴史は芸術であるということばから、クロオチェのことばを思いうかべたのであった。自分の無知をさらけ出すようなものであるが、私のクロオチェに関する知識は凡て羽仁氏のあのPR嗅の強い文章を通じて得たものであったから、最初このクロオチェと平泉氏との結びつきを不審に思ったのであった。先述の如くクロオチェの書は二六年に、当時国史学科学生であった羽仁氏によって訳されたが、その年のうちに平泉氏の紹介文が「史学雑誌」(37・12)に掲載された。
凡そ歴史ほど広く学ばれていて、しかも深く「考へ」られていない学問はあるまい。
ということばに始まるその文は、
歴史の研究が、学問として全く無自覚に、たゞ史料を博捜して事実を網羅しようとあせつてゐるだけであって、いはゞ盲目的採集に止まつてゐる
事を慨嘆し、その故にクロオチェの思想の重要なるを説き、国史学科の学徒によってかかる書が訳出された事は愉快に堪えないとのべている。このような文の中からもやはり、氏が明治以来の国史学に対して、反発と焦りを感じていたのではないかと思われるのである。従ってベルンハイムの歴史学に大きな不満を持った羽仁氏が訳出に注いだ情熱とその意図がある一面では平泉氏にも通ずるものがあったのではないかと思われるといえば曲解であろうか。
平泉氏はその文からするとさきにクロオチェの『美学』『論理学』『経済学及倫埋学』を愛読していたし、又この『歴史叙述の理論及歴史』も愛誦措かなかったとあるから、前年の講演に二−チェの引用はあってクロオチェは引かれていないけれども、おそらくクロオチェの理論が下敷きに用いられ、歴史と哲学との一致を主張し、歴史は詩であるとの結論を引き出すに至ったものと考えられるのである。後年の氏の国史学の根本精神はこの時すでに形をととのえていたのである。この年発行された氏の著『中世に於ける社寺と社会との関係』の序文で氏は、
学としての歴史は一般化法則化を求むるものにあらずして個別的のもの、特殊的のものを叙述すべきである。
と述べて、歴史の法則的理解を拒否したのであった。かくして「今や歴史家は操持ある理想家でなければならない」という事となり、歴史は一つの信仰となったのであった。

ところで氏は一九三○年にナポリのクロオチェを訪れる。三日に亙ってクロオチェを訪問した理由は氏によれば二つあった。一つは歴史と哲学との一致融合についてであり、他の一つはマルクス唯物史観の排斥のためであった(「芸林」4−3「ナポリの哲人」)。この四十日前、氏は「史料の年代記的配列を以て能事了れりとする者の余りに多きにあきたらず」マイネッケをベルリンに訪うたのであるが、ナポリで氏がクロオチェから受けたところはやはり
厳密なる意味に於ては、歴史は科学ではなく、又決して科学たり能はないものであるママ。
之に反して経済学は真の科学の一つである。(クロオチェのオックスフォード英語版に寄せられたリンゼイの解説を引用)
という事であった。(氏が一九五二年に歿したクロオチェの回想を綴った頃、一方羽仁氏はクロオチェの葬儀に列するためにイタリアヘ赴いたのである。)
しかしこのような科学性の否定に対して、日本のアカデミズム史学は何故に何らの批判も加えかったのであろうか。それ程史学界は寛容であったのか。又このような反発に一顧も与えないでいられる程自己の科学性を過信していたのであろうか。それとも平泉氏の言の如くに「甚だ遺憾な事」ながら「全く無自覚」であったのであろうか。
私は氏の反発といい敢て批判といわなかった。氏の明治以来の学風に対する反発は、歴史学の科学性を否定した事に於て、すでに論理的な批判ではあり得なかったし、「分析は解体であり、解体は死である」という氏のことばは「歴史に於ける実と真」という点にまで思索を進めながら、そこから先へ一歩進めて歴史の認識の理論へと展開することがなかったのである。氏は反発のテコとしてクロオチェをはじめとするヨーロッパの歴史家、思想家の論理に依ったが、氏自らの思索の中でそれを発酵させ、日本の学問の現実に照らして検証するというようなあとは殆どみられず、或る場合にはことばの魔術のとりこになったとさえ思われるのである。
勿論こうした事は簡単に決論できない。けれどもこの冗長なノートは序の序だけで約束の紙数に達したので省略するより仕方ない。
私達は氏が羽仁氏に与えたことば
君は早く天上の星に聴いた。いうまでもなく君の幸である。(クロオチェの思想に接した事を指している)しかも若し歴史の骨髄を把握せんとならば、更に奮励一番身を挺して彼の(史料の)密林の中をくゞり来れ、かくて全身荊棘に裂かれて血に染まるにあらずんば、君が聴き得た所は、真に君のものとならないであろう。
を私なりに解して平泉氏に返すことによって事はすむのであろうか。史学史が歴史学が科学としての市民権を獲得するまでの歴史であるとするならば、やはり私達は歴史学の科学としての成立を否定した論と対決し、更にはクロオチェと対決することなしには歴史学は発展しないであろう。けれども歴史の法則といい、科学としての性格といい、私達はその事について一九二○年代に比してどれだけの深まりを持っているのであろうか。 
〔二〕
「神代のことは神話でありますし、日本建国の史実そのままであるとは思われません。我が国体が万邦無比であることは、そう考えてもいささかもそこなわれるものではないと考えますが……」
「そうですか。では××さん。あなたはいつどこで生まれましたか。」
「××年×月、××で生まれました。」
「ああそうですか。で、あなたはその日に自分が生まれたことが、どうしてわかりますか。」
「両親がそう申しております。」
「御両親のおっしゃる日は、どうして正しいのですか?」
「はあ。しかし戸籍には明記してございますから……」
「そうですか、そうすると戸籍というものは絶対に真実しか書いてないものなのですね。もう一つ聞きますが、ではあなたが御両親の間の子であるということは、一体どうしてわかるのです?」
「……」
「あなたはだまっておられる。人間というものは、自己の存在の出発である誕生の事実に対してさえ疑いをもてばいくらでも疑えるものなのです。そしてその疑いを解いてくれるものはありません。あなたは両親に聞いたとおっしゃる。それから戸籍にあるとも云われた。しかし、御両親の話が本当であり、戸籍が真実であるという確証がどこにありますか。人間は自己の誕生についてすでにわからないのです。ところが最初に私がおたずねした時、あなたは何の躊躇もなしに、自分の出生をいわれた。つまりあなたはそれを信じておいでなのです。そうでしょう。」
「はあ」
「だから、知識や行動の底には、信があってこそはじめていみがあるのです。人間のものになります。我が国の肇国のことについても同じです。悠久の歴史をもつ日本の建国のことを疑えばきりがありません。私共が一々せんさくしたとて、どれほど確かめることができましょう。神代の事跡を伝える書を私共が虚心に信じる時、私共ははじめて日本人たりうるのです。信じる以外の事が日本人に出来ましょうか。それを信じることなしに日本の歴史を考えることは出来ません。おわかりですか?」

ついに長々と書いてしまったが、これは太平洋戦争のはじまろうとする頃、この学科の講義に際して教室で交わされた会話である。研究室に伝わる平泉伝説の中には、誇張されたものも多く、語り手が当時のシンボルとして事実と心理とを二重与しに語るために、戦前の研究室を知らない世代は、エピソードのみを無媒介に集積して、像を作るきらいがある。しかしこの会話は当の先輩から確かめて聞いたのだから、事実であることはまちがいない。
それはさておき、この宗教的な入信問答を思わせるような会話を、ナンセンスだと思う人も多いに違いない。けれども当時講義に出席した学生の多くは、このことばの調子と、親を疑うという想定のショックに一言もなく、ある種の理をみとめて黙せざるを得なかったということである。そしてこれを私がもち出したのは、それが日本的な観念論の歴史学の一側面を実に活き活きと語っていると思ったからであり、更にこの会話の中に平泉氏の歴史学の本質的な問題が含まれていると考えるからである。
この雑誌の昨年の号に、私は平泉氏の歴史に対する私なりの感想を書いた。それは大体次のような内容であったと思う。平泉氏の歴史学については、それを氏の外遊で区分して前半の学問的業績を高く評価し、帰国後に氏が急速に変わってしまったとする人が多い。けれども氏の論考をたどっていくと、それは氏の出発点から一貫していた観念論的傾向の必然の帰結であったと考えられること。更に氏の史学は当時の歴史学界の反映であった筈であり、それ故に事を歴史学の分野にのみ限定すれば、平泉、羽仁両氏の主張は志向するものは違っていたとしても、相通ずる面を持っていたと考えられ、両氏がともにその史学を形成する上で触媒の働きをしたのがクロオチェであったと考えられること。こうした両氏に対してアカデミズム史学のとった判断中止の態度は、アカデミズム史学が対決を回避することによっておのれの弱さを隠蔽しようとする以外の何ものでもなかったのではないか、というような点であった。
ところで例の日本ロマン派批判を思わせるような、右のような発想は、いろいろな形で批判をうけた。そこでこの前省略してしまったことを少し足して、弁明にかえたい。

会話から思い出されるのは、
「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の奇しき霊魂の力である。この霊魂の力によって、実は真となる。」
という「歴史に於ける実と真」以来の平泉氏のテーマである。そして私は更に、
「しかしわれわれは歴史はわれわれのすべての内にあり、そしてその史料はわれわれ自らの胸の中にあることを知っている。なぜならば、ただわれわれの胸の中にのみこそ、その中において確かさは真実さとなり、そして文献学は哲学と結合して歴史をつくり出すところの熔炉が見出される。」(「歴史の理論と歴史」一ノ一)
というクロオチェのことばを併せてあげようと思う。いうまでもなく平泉氏の歴史認識はクロオチェに負っているが、クロオチェのそれが歴史叙述の理論として提起されているのに対し、平泉氏の論はまさに人間の問題すべてにわたる歴史を性急に欲していることが明らかである。
昨年私は平泉氏の論がヨーロッパの歴史家思想家からの借用ではないかと書いた。この国の学問においてそれは何も珍しいことではないが、最初に私は平泉氏を国粋主義者であると単純に考えていたために、氏の論考にしばしば引用されるヨーロッパの史論をみて、それが殆んど氏の論の権威づけのように使われていることを奇異に感じたのである。氏の著書でくり返し説かれる時代区分の問題にしても、それが当時学界に起こらんとしていたヨーロッパの理論を導入しようとする社会経済史学を意識しての事であると思われるが、日本史に関する研究書の中ではやはり異例のことのように思う。氏の後期の論調からすれば何故氏ははじめ方法や時代区分にこれ程迄こだわらねばならなかったのかと問いたくなるのである。クロオチェも含めて氏におけるヨーロッパというものはいかなる意味をもっていたのであろうか。

いうまでもなく氏にあっては、日本における悪の根源は凡そ外国に求められた。氏は中世史の叙述をなすに当たり、武士の中にも貴族的傾向のあることを見出し、そこに中世の光明を見出そうとさえした(『中世に於ける精神生活』)。そして当時の社会に拡がりつつあった民主主義思想、革命思想、共産主義等は凡てヨーロッパに起こり、日本に波及して現下の危機を招いたと考えられたのである(『伝統』の論理の構造に特にみられる。)。従って事実氏が対決しなければならないと考えたのは、日本の労働者、貧農ではなく、むしろヨーロッパの危険思想であった。中世において武士階級が起こってきたにも拘わらず、貴族文化は維持せられ、やがては天皇の権威も回復された。そしてそれにも対比すべき労働階級の台頭に際しても、外国の思想さえなければ、日本は日本人の国なるが故に問題はない筈であったと考えられたのである。普選運動や労働問題にからまる政治の動きは、当事者である庶民の問題であって、知的エリートである氏の課題は、それら危険思想の源泉にまで遡ってそれを排撃し、一方では国体と日本史の特性を明らかにすることにあったのである。
ここに氏の第一の誤謬があった。それは氏が歴史家であったが故に出て来た発想であったが、その反面、日本歴史における永遠の一貫性をもって現実を見る眼をおおわんとしたことにおいて歴史家としての致命的な欠陥となった。
ところで氏が対決せんとした敵手は、実はその論理の強靱さにおいて、日本歴史の永遠性という単旋律のうたしかうたえない極東の学徒をはるかにしのぐものであったことはいうまでもない。氏の論を少し注意してみていけば、そこには底知れぬ相手に対する焦りがありありと見てとれるであろう。そのことは氏自身においてすでに自覚されていたのである。マルクスをはじめとする思想家、社会科学者達が克服すること容易ならざることを氏は知っていたに違いない。だからこそ氏は先述の自らの課題に応えんとする時、ヨーロッパの思想家に頼りかかることをしなければならなかったのである。それは歴史学の分野ではマイネッケでありクロオチェであって、広くは森下学士の助力によってよみ続けられたバルザック、テーヌ、ブルジェ等であったのである。しかもバルザック等の理解は氏の課題による視点に限られての理解であったから非歴史的、一面的なものに終わってしまったのである。

従って氏の歴史認識すらが、その出発点においては氏自身のイデーをもっていたにせよ、結果においては氏をとりかこむ日本の現実とはかかわりのないヨーロッパの反革命思想家のかりものであったことは怪しむに足りないであろう。
そして又クロオチェの場合を考えてみても、へ−ゲル、ディルタイなどを通ってくる観念論の伝統の重みと、強靱な対立者との中できたえられたものであったのに対して、氏の場合には、現実に照らして検証することをしなかったならば思想的系譜の場すらなかったのである。そして氏の歴史論が倫埋的・政治的な問題に結びつきそれにひきずられたことは当然すぎることであったわけである。それはニイチェやクロオチェでよろわれながら、その核は、常に斉唱しか出来ない歴史、和声の理論をもたない合唱不可能の歴史であるという面でまさに日本的であった。
こう考えて来ると、私は氏が外遊によって全く別人と化してしまったという多くの人々の証言を改めて思いおこすことが必要である。氏の著書のうち、歴史学の業績として価値あるものとされているのは、『中世に於ける社寺と社会との関係』『中世に於ける精神生活』であるが、それは前者が国史学科の卒業論文「中世に於ける社寺の社会的活動」の増補であり、後者もそれからの発展と考えると、二著が発刊された一九二六年迄は初期のペースで仕事が統けられたものと思われる。座の論争もこの時期のことであった。
氏の外遊は一九三○年から翌年にかけてのわずか四か月であったが、事実、帰国後の氏は鎌倉時代の政治史や、見通しの大きさと着想の新鮮さをもった中世全般に亙る考察をやめて、一九三二年あたりからあの一連の吉野時代研究を始めるのである。そこではかつての方法や概念への配慮はなく、単なる地方史的記述にすぎなくなっていた。

これは明らかに氏の研究における断層であった。日本思想史の題目のもとに行なわれたフランス革命の講義では、革命のさ中にあって脈々として王党派の精神がうけつがれ、反革命の思想は鼓動していたと論じられたということであるが、それこそ日本の現実からヨーロッパの反マルキシズムへ、そしてそこからフランス革命の中にあったみじめな王党派へという氏の退行を示してはいないであろうか。そしてこのフランス革命論はそのまま、日本の吉野朝廷研究へとつながっていったのである。そこでは出発点で氏が持ったクロオチェの体系すらが解体していた。
この平泉氏の変化の原因は種々の面から考えらるべきである。しかしここでは紙数もなく、これ迄の推測を更にすすめるより仕方がないが、私は原因の一つとして外遊以前に氏が装っていた論理がヨーロッパで分解してしまったのだと考える。多くの日本人の例外としてではなく、氏はヨーロッパで、それ迄にもっていた歴史観が、ヨーロッパの観念論のそれといかに無縁であるかを思い知らされたに違いない。このハイマートロージッヒカイトを氏が自らのうちに感じた時、恰も日本では、血盟団や三月事件が起こっていた。こうした国内の動きをいち早く知った氏は焦りに一層の拍車をかけられたであろう。帰国した氏の心のふるさとは、「真の日本人」佐久良東雄や吉田松陰にしかなかった。
そして東雄や松陰に沈潜しきってしまうには氏は余りにも詩人であった。

最初の会話に戻ろう。歴史学が事実を書いて真を書けないということ、それは簡単に論断出来る問題ではない。ましてそれはおのれの生誕の由来を信じるからその時真であるというような問題ではない筈である。或る時代の社会なり、思想なりの本質を把握し記述しようとするための方法と努力は、個人がそれを信じるとか、信ずべきであるとかいう問題にすり替えられてはならない。氏のいう人間とクロオチェなどのいう人間との違いに氏は自ら気付かなかったのであろうか。
そしてこういうところを突破口として「実証主義史学」を攻撃しようとした氏の意図はいうまでもなく科学としての歴史学の破壊でしかなかった。それは最初の会話に示されているように、凡てか無かというような性急な要求を歴史に出し、そこに倫埋の源泉や行動の指針を求めようとしたのである(石母田氏が戦後唱えた国民的歴史学の如くである)。それが歴史学の学問的抽象能力の枠をふみはずしたものであることは明らかである。
しかしながら、こういうように限界をふみはずした所で歴史学に何かができるような幻想を抱かせるということは、とりもなおさず日本における歴史学研究法の前近代性、研究者の組織化が行なわれていないこと、技術の未分化に由来すると思うのである。平泉氏は一世紀の昔松陰が門弟を教育したと同じ方法で、東京帝国大学文学部国史学科において学生の精神をつくり、国史の骨髄を教えようとしたのであった。 
 
世界史教科書を書き直そう

 

西欧人の書く歴史では、ギリシャ・ローマの古典文化が栄えた古代、暗黒の中世、光の再生としてのルネサンスに始まる輝かしい近代という具合に、過去を三分割して描くことが一般的である。しかし、ここで疑問が生じる。ギリシャ、ローマは確かに今日ヨーロッパと称する半島にある。しかし、近代ヨーロッパの中心地である英独仏といった地域は、古代ギリシャ人が「バルバロイ(蛮人)」と呼んだ異民族の住む土地であり、そこに住む西欧人はその子孫であるはずである。そして、ローマを中心とするイタリアはともかくとして、ギリシャはその後、西欧とは別のビザンツ世界に属し、ついで久しくオスマン・トルコの支配下にあった。そのため、「中世」になると、西欧人の書く歴史にギリシャが登場することはほとんどない。ギリシャが久しぶりに歴史に顔を出すのは、ようやく19世紀になってトルコからの独立戦争が起こり、イギリスの詩人バイロンが義勇兵としてそれに参加するときになったときのことである。今日の西欧の言語にはギリシャ語からの借用語が多いが、その多くはルネサンス以後に取り入れられた比較的新しいものである。
古代ギリシャ彫刻の初期のものを見ると、エジプトの彫刻によく似ている。古代ローマの遺跡とよく似た遺跡は、地中海を挟んだ北アフリカに多く分布している。古代ローマの繁栄を支えた物資の大半は、船による大量輸送で北アフリカからやってきた。ロバの背に乗ってアルプス以北から運ばれた物資は、それに比べればほとんど取るに足らない。古代ギリシャ・ローマの文明は、地中海を囲んで栄えた文明の一環であり、アルプス以北のヨーロッパとはまるで別の文化圏に属していた。それにもかかわらず、西欧人がそれを自分たちの歴史の始まりとするのは、これを加えなければ、西欧はルネサンスにいたるまで、ずっと暗黒時代ということになってしまい、彼らの自尊心からして耐えがたかったからである。しかし、それは、日本人が中国の殷周文明を自分たちの文化の始まりだと称するのと同じようなまやかしである。都合のよいところだけ利用しているのだから、ギリシャがその後長く西欧人の書く歴史に登場しないのも無理はない。エジプトにしても同じことで、ファラオの時代のあとは、ナポレオンの遠征のときまで出てこない。大学で用いる教科書や専門書には、西欧以外にも目を向けたものもあるが、中高生の用いる教科書など、西欧で一般的な歴史とはこのようなものである。
キリスト教会が東西に分裂してから、ローマに本拠地をおいたカトリックを西欧は受け入れることになった。こうしてイタリアは西欧との結びつきを強めたが、地中海に突き出したイタリア半島は、東方の文化を吸収する上で、西欧の中で最も有利な位置にあり続けた。コンスタンティノープル(今日のトルコのイスタンブール)を中心とするビザンツ世界やイスラム世界は、貧しい西欧とはかけ離れた豊かな土地として、あこがれの的であり続けた。冷涼なヨーロッパでは、土地の生産性は低く、家畜の飼育に多くを頼った。ヨーロッパ人はその歴史の原点において、農耕民というよりはむしろ牧畜民であった。
意外と思われるかも知れないが、古代ギリシャの思想や文学を伝えつづけたのは、西欧ではなく、イスラム世界であった。古代ギリシャの文献をイスラム世界の学者の注釈で読むことからイタリアのルネサンスは始まった。そのアルプス以北への波及をも今日ではルネサンス(再生)といっているが、それは再生というより、むしろ開化というのがふさわしい。英語のsugar,cotton,alchol,magazine,algebra(代数学),chemistry(化学)などの言葉がアラビア語起源であることは、地中海から伝わった文化がアルプス以北にまで広がったことを示している。
イスラム世界を経てさらに遠い中国の文明も伝わった。紙やルネサンスの三大発明とされる火薬・羅針盤・活版印刷はすべて中国起源である。金属活字による印刷が世界で最初に行われたのは、高麗時代の朝鮮半島においてであり、グーテンベルクより200年も早い。ただ、文字の種類の多い漢字文化圏では一字一字を活字にするより、ページ全体を彫る方が実用的だったため、活字は定着しなかった。西欧に伝わった東方の発明の中で、西欧の抬頭に最も力のあったのは火薬であったろう。多くの小国がしのぎを削るヨーロッパで火薬はどこよりも珍重され、強力な武器をつぎつぎと生み出した。その武力によってヨーロッパは世界を制覇し、植民地から得た富を基盤に起こった産業革命により、短期間に高度経済成長を遂げ、文化を発展させることができたのである。
大航海時代は、今日の西欧の優位からさかのぼってみると、大きな意味があるが、そのころからヨーロッパが圧倒的な優位に立っていたわけではない。ヨーロッパ人が新天地を求めるのに必死になったのは、逆に当時のヨーロッパがまだ貧しい半島だったからでもある。最近、日本でもベストセラーとなったポール・ケネディ氏の『大国の興亡』によれば、西暦1800年の時点で世界の富の33%は中国にあり、ヨーロッパは全体で28%ほどを占めるに過ぎなかったという。さらに100年さかのぼった1700年の時点での富の分布の算出は難しいが、中国やインドやイスラム世界など、世界の各地域は、富が極端に偏在する今日から見れば、横一線に並んでいたといってよいという。ヨーロッパもそのころになってようやくそれに轡を並べるようになったが、それ以前のヨーロッパは、かなり貧しい辺境であった。全ヨーロッパを馬蹄に踏みにじる寸前だったモンゴル軍がオゴタイ・ハンの急死で引き揚げたのは、ヨーロッパがさほど魅力のないところだったからに他ならない。
逆に100年後の1900年の時点では、世界の富の大半がヨーロッパやその出先となった北アメリカに集まることになる。ヨーロッパ中心の世界史像は、このような時代に作られたものであり、ヨーロッパ人の自己愛を満足させるものとして作られ、日本を含む非西欧世界でも無批判に受け入れられることとなった。生物学的には、いわゆる人種の差は、亜種というにも及ばない僅かなものである。人種間に優劣の差があるなどという考えは、天動説や虫が非生物から「湧く」と考えるのと同列の非科学的な迷信に過ぎない。歴史は、本来優劣の差のない世界の各地域の人々の間になぜさまざまな差が生じたのかを解明することをこそ使命としなければならない。ヨーロッパ人という特定の地域の人間の優位を証明しようとする歴史など、歴史の名に価しない。
最近、「自虐史観」という言葉をよく聞く。日本が行った侵略や植民地支配を、どの国もしていたことではないかとして弁護し、日本ばかりが悪かったわけではないと主張する者が、日本の誤りを指摘する歴史に対して投げつける罵倒の言葉といってよい。しかし、私は、日本の誤りを指摘することを、少しも「自虐」とは思わない。私はそのころの日本に生まれていなかったし、そのような時代の日本にいささかの共感も覚えないからである。
たしかに、日本が軍国化したのには自衛の要素もあったとは思う。しかし、侵略や植民地支配は、日本人自身にも不幸な結果をもたらした。その引き金となった欧米の帝国主義を批判する権利を日本人は確かにもっている。しかし、自分自身の侵略や植民地支配を正当化したのでは、欧米人の心にまでも響く批判はいつまでもできない。だからこそ、どこの国でもやっていたなどという子供じみた弁解はやめて、率先して悪かったことは悪かったというべきだと思うのである。欧米を買いかぶる、それこそ自虐的な世界史像に染まっているからこそ、アジアの国々から批判を受けたときに、「お前らごときに言われるか」という調子の威丈高な対応になってしまうのである。一見強い誇りをもっているようで、西欧に対するいわれのない劣等感にまみれている。西欧の歴史観の枠内でえらそうにしているにすぎない。戦前の日本により被害を受けた国の人々にも、あのころの日本人の行動が歴史の限られた局面でのものに過ぎないことを納得してほしいと思う。それを日本文化の宿命のように言われたときには反論もしたい。しかし、過去を賛美する人が日本の中であとをたたないようでは、その反論にも説得力がなくなってしまう。こういう人たちは、「国=公」と考えているようだが、「公」はどの国の主権も及ばない「公海」という言葉が示すように、「国」を超えるものである。「国」(正確には「国家」)は「公」と「私」のせめぎあいの上に成立するものである。どうも、「国、国」という人の多くは、それこそ「私」的な感情を「国」または「公」という語で擬装しているに過ぎないように思われてならない。
非西欧世界に属する日本こそ、まっとうな世界史像を作り直す先頭に立つべきだと思うのだが、明治以来西欧にばかり目を向けてきた日本では、非西欧世界の歴史にくわしい研究者の層が薄く、研究の分野では、むしろ欧米での良心的な研究の方が先に進んでいることが多いようである。しかし、欧米の学校で教えられている世界史は、欧米のことしか書いていないひどいものである。キリスト誕生以後の2000年より長く続いた古代エジプト文明はさすがに記述するものの、そのあとも人間が住みつづけたエジプトのその後については一切記述しない。エジプト文明の歴史はのちのヨーロッパのためだけにあったとでも言うのだろうか? しかし、同様の錯覚は日本人もしているのであって、「〜は中国から朝鮮半島を通して日本に伝わった」という決り文句にそれが示されている。朝鮮の歴史に生きた人々は、のちの日本の歴史のために生きたのではない。
日本人も日本の教科書を書き換えるのなら、むしろ世界史の教科書から書き直そう。そしてそれを世界に発信しよう。血なまぐさい武力の上に築かれた経緯は別として、急速に発展した経済基盤の上に成立した近代ヨーロッパの洗練された文化に敬意を払うことに、私は少しもやぶさかではない。しかし、近代以降のヨーロッパを過去に投影して、ヨーロッパを買いかぶりすぎるのも、過ぎたるはなほ及ばざるがごとしで、逆の意味での偏見である。まっとうな世界史像を身につけ、卑屈さもその裏返しとしての尊大さもなくなったときにこそ、日本人は初めて世界からの尊敬を受けることができるようになるのではないかと思う。 
 
歴史教化書を読む

 

「歪曲」とは何か?
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書(扶桑社刊)を、市販本(採択前の出版に文部科学省も苦言を呈した)で読んだ。教科書ではなく「教化」書だという印象を受けた。事実の取捨選択があまりにも恣意的である。そもそも歴史記述にあたっては、進行中の現在のことも含めて人類の活動のすべてが対象となるものなのだから、膨大な事実を取捨選択することは不可欠である。取捨選択の基準は、より大きい事実を選ぶということ以外になく、例外的な事実の大半は省かざるをえない。しかし、「つくる会」の教科書は、日本による韓国併合について、つぎのように述べている。「韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。」
「一部」というのは便利な言葉である。1%でも99%でも一部は一部である。韓国国内にごく一部の併合推進派がいたことも事実には違いないが、それをわざわざ取り上げるところに、この教科書の意図がある。実は、韓国併合の部分は、検定によって全文修正をした部分であり、原文にはつぎのように書かれていた。「韓国の国内には、当然、併合に対する賛否両論があり、反対派の一部からはげしい抵抗もおこった。」 これを素直に読めば、賛否が拮抗し、はげしい抵抗をしたのはごく一部ということになるだろう。「当然」という言葉も、意味不明である。一応「賛否」の両方にかかるのか、「賛」だけにかかるのかも判然としない。検定した側にしても、この原文を読めば、「一部」という語にどんな意図がこめられているか、すぐ分かるはずである。それなのに、なぜ通したのだろう、と思ってしまう。こういうことを「歪曲」というのであり、99対1で5回コールドで終わった野球の試合結果を「どちらも点を取った」と書くようなものである。 
二つの「南京事件」の違い
歪曲は南京事件についても著しい。この教科書で「南京事件」という言葉が初めて出てくるのは、かなりのスペースをとったコラムの中だが、ここで述べられているのは、世界的に知られている南京事件のことではなく、1927年に起きた北伐途上の国民党軍が南京の外国公館などを襲撃した事件のことであり、「1937年の同名の事件と区別して第一次南京事件とよぶこともある」という注釈がついている。「第一次南京事件」とよぶのは誰なのだろうか? 二つの事件を同列に並べ、第一次があったから第二次があったとでも言いたげである。しかも、このコラムの中では、日本がいかに中国に対して寛容であったかが強調されている。では、他の七社の教科書がそろって単に「南京事件」として記述している「第二次南京事件」については、どのように書かれているのだろうか? 「日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した」という文のあとの括弧の中に、「このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件」と記されているにすぎない。しかも、この括弧内の記述は検定によってしぶしぶ加えたものである。二つの「南京事件」の記述がひどく均衡を欠くものであることは明らかであろう。
実は、「つくる会」の教科書が「第二次」南京事件について詳しく記述しているのは、こことは別の、戦後の極東国際軍事裁判のところでである。「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上でも疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」 またも、「賛否両論」である。南京大虐殺を否定する議論が、日本以外では皆無に等しいことぐらいは記述すべきであろう。そして、その直後に「戦争への罪悪感」という段落を設け、「GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通じて、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。」 と述べて、軍事裁判の項を閉じている。この2ヶ所とも検定を経てだいぶ書き直されているのだが、原文はもっと露骨に、すべてはアメリカの宣伝のためだというような記述になっている。戦争責任を真摯にとらえている人をあまりにも愚弄した言い方ではないだろうか? 「つくる会」の事実選択の基準になっているのは、彼らだけにしか通用しない思い込みに過ぎない。教科書というものは、事実を主とすべきもので、解釈は最小限にとどめるものだという常識も心得ていないようだ。
「つくる会」の人たちは、自分の立場を離れて考えることが苦手らしい。自分の立場を離れて考えることは、決して自分を捨てることではなく、自分を豊かにすることと思う。たとえば、こんな記述があった。「後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となる。この意味で、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置にあった。」 さすがにこれは検定に引っかかり、「後背地をもたない日本は、自国の防衛が困難になると考えられていた。」と書き直させられたが、「凶器」などという言葉を使う神経は品位に欠ける。このような幼児的自己中心性は、「南京事件」を二次に分けた前述の記述にも見られる。確かに起きた場所はともに中国の南京である。しかし、起こしたのは、かたや中国人であり、かたや外国人である日本人である。別に外国人が中国にいてもかまわないのだが、当時、中国にいた外国人は、本人たちが意識していたかどうかは別として、国策に乗り、軍に保護され、特権を持って中国にいたのである。この違いに目をつぶることは、歴史を記述する上で許されない。 
中国で聞いた話から
20年以上も前のことだが、中国を旅行中、上海で宮崎県から来た80代の老人の身の上話を聞く機会があった。貧しい家を離れ、上海で事業を起こし成功した。当時の上海では、生活に行きづまって日本人に子供を売りにくる中国人がたくさんいたが、その人はいつもことわっていた。しかし、ある日、とても利発そうな男の子が気に入り、買い取った。老人は、その子のことを「テイ」さんと呼んでいた。日本が敗れ、老人は上海で築いた財産をすべて失い、再び裸一貫で郷里に引き上げた。そのとき、「テイ」さんは、老人の会社の番頭格となっていた。戦後、「テイ」さんは老人に「引き続き一緒に会社を経営してほしい」と頼んだという。しかし、中国の政治情勢は流動的で日本人が残れる保障もなく、老人は日本に帰る決意をした。再び裸一貫になったのだから、帰国後は生活に追われた。生活がようやく軌道に乗り自分の子供たちも完全に独立して、老人がふと「テイ」さんに会いたいと思ったときは、文化大革命のさなかで、八方手を尽くしたにもかかわらず連絡がとれなかった。今度こそ「テイ」さんに会いに来たのだと老人は言っていた。「会えましたか?」と私がきくと、「会えました」と老人は答えた。しかし、その表情はどこか淋しげだった。「テイ」さんは、地区の共産党の幹部になっていたという。決して老人を邪険に扱うようなことはなかったと思うが、それだけにかえって老人は、自分と「テイ」さんとの間の無限の距離を、過去にさかのぼって感じたのだろう。どんな条件のもとであれ、個人と個人の間では心の通い合う部分もある。しかし、片方が国家を背景に優位に立つという関係のもとでは、心の溝を埋めることはできない。そして、不平等な関係のもとでは、そのことに片方は当初から敏感だが、もう片方が溝の深さに気づくのは難しい。私はこの老人をいい人だと思ったが、それは、溝の深さに気づくことのできる人だと思ったからである。 
朝鮮と中国の違い
36年(実質的にはそれ以前から)もの間、日本の植民地支配を受け、屈辱を味わった朝鮮の場合、事情は中国とはまた異なる。ところが、この教科書は、この植民地支配についてほとんど触れていない。かろうじて、最初の韓国併合の項につぎのような記述がある。「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査事業を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。」 しかし、問題の多いこの記述さえ、実は、検定後に全面的に書き直されたものである。1919年の三・一独立運動については、4行ほどの記述があるが、これも検定前には1行ちょっとしかなかった。今年の検定本ではないが、いま中学で使われている教育出版の教科書を対照してみたところ、三・一独立運動については、2ページにわたる特集記事が組まれ、さらに、デモの先頭に立って16歳で獄死した少女柳寛順のことが、これとは別のところで顔写真つきで紹介されている。「つくる会」の教科書の問題点は、何が書かれているかということだけではなく、何が書かれていないかというところにもある。しかも、事実を十分に提供しない一方で、中国や朝鮮が近代化に立ち遅れたのは文官優位の政治体制だったからだという、よほど論議を尽くさなければ教科書には載せられないような解釈がこまごまと述べられている。だから植民地化されても当然なのだとでも言いたいらしい。それにしても、「つくる会」の解釈が仮に正しいとしても、植民地支配を正当化する理由には少しもならない。強盗事件の被害者が家の鍵をかけ忘れたからといって、強盗の罪が軽くなるわけではないのと同じことである。
「鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い」という部分は、いったい何を言いたいのだろうか? この教科書の執筆陣が他に書いている文章では、植民地支配が恩恵として描かれていることが多い。開発が誰の利益のために行われたのかという問題を別としても、こういう記述は、こういった開発が日本人の手で行われたこと自体、植民地化の結果だという認識を欠いている。自分たち自身の力で近代化をなしとげる機会を永遠に奪った植民地支配だからこそ、朝鮮半島の人々は今もそれを苦々しい体験として語り継いでいるのである。「つくる会」の人たちには、民族的自尊心がどの民族にもあるという常識もないらしい。植民地朝鮮で子供時代を過ごした安岡章太郎は、日本の弘前に移ったとき、物売りに対する言葉遣いを母親に注意されたことを書いている。母親は、「ここは朝鮮じゃないのだから、そんな乱暴な言葉遣いではだめだ」と注意したのである。当時の日本人には珍しく、朝鮮人の心に思いを寄せた中島敦には、巡査の居る風景という短編がある。植民地支配についての記述のほとんどない教科書では、今の朝鮮半島の人々の心を理解する知識、感性は到底養えない。
「つくる会」の教科書の特集記事には、政治エリートの紹介が目立って多い。陸奥宗光や小村寿太郎の外交の業績について2ページをフルに使って述べる一方で、植民地統治下の朝鮮の人々の暮らしや気持ちが分かる記事はまったくない。今回の教科書問題について、韓国側は、未来志向の観点から、このような教科書で学んだ日本の子供たちと友好を実現することは難しいと主張しているが、私もそう思う。朝鮮半島の人々が日本の植民地支配は正しかったと認めること、中国の人々が南京大虐殺はなかったと認めること、そんなことは未来永劫ありえないことである。 
日本人をどこに連れて行くのか?
この教科書には、これからの日本人をどこに連れて行こうとしているのか、と考えると背筋が寒くなるような記述も多い。徴兵制度についての記述には、「平民からは一家の若い労働力を提供する負担が苦痛であるとして不安を生んだ。」とあるが、親心というものはそんな程度のものなのだろうか? この教科書は、ふつうは反戦詩として知られている与謝野晶子の「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 君死にたまふことなかれ」という節で始まる(と書いて、そのあとの引用はなし)歌について、つぎのように述べている。「晶子にとってそうした(愛国心に欠けるとの)非難は心外であった。というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていた。」 本当にこの詩を最後まで読んだのだろうか? だいたい、こんな無くもがなの珍解釈をだらだらとつけるより、全文を掲載して生徒に考えさせるのが教科書の常道であろう。)を最後まで読んだのだろうか? どうやら、第二連を誤解(曲解?)しているようだが、この程度の読解力でよく教科書を書く気になったものである。こういった記述を読むと、この教科書の執筆陣には人情のイロハもわかっていないのではないかと疑いたくなる。特攻隊員の「身は桜花のごとく散らんも悠久に護国の鬼と化さん」などの文のある遺書も紹介されているが、自由に書けない中で本心が吐露されているのかを考えさせるような記述はない。同じページには、「沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民9万4000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した。」とある。勇敢かどうかなどということは、この際どうでもいい。その前に、戦死者の数に慄然とし、十代の少年少女まで多数犠牲となったことに胸を痛めるのが普通の人情というものであろう。

木口小平の話
「徴兵制度」の項にはつぎのような続きがある。
のちの話になるが、日清戦争(1894〜95)の平壌占領いちばんのりとされる原田重吉一等卒は平民出身者で、国民的英雄になった。戦死したラッパ手の木口小平も平民の出身で、死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。江戸時代まで武勲とは縁のなかった平民に新しい時代が訪れた。木口小平の話は、年配の人なら「ラッパを口から」と覚えているはずだが、「新しい(実はとてつもなく古い)教科書」がこれを「手から」とかえたのはなぜなのだろうか? なお、軍国美談にはさまざまな裏話があることが多く、この話についても、戦死したのは木口とは別の兵士だという説もある。「口から」を「手から」と直したのは、直したというより、単にうろ覚えだったに過ぎないだろう。この教科書の執筆陣は、「調べる」という基礎的なことをきちんとしていない。この点だけでも、この教科書は、教科書として失格だと言える。 
日本人としての誇りとは?
「つくる会」の教科書は、「歴史を学んで」というあとがきで終わっている。その中にこんな一文がある。「外国の文明に追いつけ、追い越せとがんばっているときには、目標がはっきりしていて、不安がない。外国の歩みに理想を求め、日本も自国の歩みに自信を持つことができた。」 どういう意味なのだろう? 日本が欧米列強の仲間入りをしようとして、侵略をし、植民地支配をしていた時代のことを言っているのだろうか? 列強に加わったことで、日本は侵略や植民地支配を正当化する欧米の論理のとりことなった。欧米の論理の枠内で、日本が列強の中で飛びぬけて貧しい国であることを考えるとき、自信を保つためにはたえず近隣諸国に対して尊大に構えることが必須のこととなった。みすぼらしい身なりで中国を歩いていた日本の民間人が、軍人に「一等国民が三等国民のような身なりをするな」とどやされたというような話はよく聞く。他民族をさげすむことでしか守れない自信は、自信と呼ぶに値しない。自信とか、誇りとかいうものは、自分の属する国家が軍事大国であったり、経済大国であったりすることによって左右されるものであってはならない。どんな国のどんな文化を負った人間であっても、自信や誇りは必要なのである。それは、自分を育てた文化環境を素直に受け入れるという形で実現されなければならない。歴史記述は、一見優劣とも見えるものも含め、諸文化の間にある差異がどのように生じたのかを解明するところにこそ意味がある。特定の文化の優位のみを追求する歴史記述は、歴史の名に値しない。
「歴史を学んで」の末尾には、こんな一文もある。「何よりも大切なことは、自分をもつことである。自分をしっかりもたないと、外国の文化や歴史を学ぶこともじつはできない。」 私はこの文をつぎのように解釈(改釈?)した上で賛成したい。「自分をもつ」とは自国の文化を公平な目で見ることである。公平な目をもつためには国家から自立していなければならない。そうであってこそ、外国の文化も公平な目で見ることもできるというのが、私の「改釈」である。なお、世界にまったくの単一民族国家などないことを考えるなら、自国、他国という表現も「自文化」「他文化」と言い換えたい。いま、日本の学校には、外国籍の子供や民族的出自の異なる子供もたくさん学んでいるのだが、「つくる会」の人たちの視野には入らない。そういう子供たちが、自分たちの教科書を読んでどう感じるかということに思いをめぐらすゆとりもない。他文化圏の人から、日本人がみな一律に見られると悲しい。しかし、そのことで相手に反発するより前に、なぜそう見られるのかについて自省をしてみることを欠かしてはならない。 
近隣外交を国の基本に
今回の教科書問題をめぐって、自治体間の交流を凍結させたり、日本文化の開放を延期したりという韓国の対応は、私は間違っていると思う。このことについては、韓国内でも批判があるが、なぜ日本人は一律に見られやすいのだろう? まず、今回の教科書問題は、文部科学省が「つくる会」の教科書を検定で合格させたことに端を発している。教科書検定制度がなかったなら、ことを民間の問題としてすますこともできただろうが、国家がこの教科書にお墨付きを与えたのだから、国家が責任を問われるのは当然のことである。
検定制度がある限り、この教科書はどうみても合格の対象とはならない。検定によってしぶしぶ書き直したり添削したところが多いために、思わせぶりな中途半端な記述が多く、全体としてひどく分かりにくい。かといって、これまで述べてきたことで明らかなように、検定前の原文をそのまま通すわけにはもちろんいかない。つまり、この教科書は修正を重ねてどうにかなる代物ではないのである。その意味で、韓国や中国が出している修正要求も、私はあまりいい方法とは思わない。韓国や中国からの修正要求は、それぞれの国に関わることに限られているが、「教化書」といいたくなるほど解釈の多いこの教科書は、日本人の立場からも問題が多い。たとえば、日本人が真の自信や誇りをもつ前提として、国家からの自立があるが、この教科書は、日本人を国家から自立させようとはしていない。私がとくに驚いたのは、2ページにわたって、夏目漱石と森鴎外についての特集記事を、自分たちの主張を裏付けるものとして、作品にまで及んで「改釈」した上で、組んでいることである。国語教師としての私に言わせれば、こんなのは越権行為である。文学鑑賞まで、教科書でこと細かく規制されるのではたまったものではない。この教科書では神話が随所に見られるが、歴史の教科書としては非常識に多すぎる。神話を史実でないことを踏まえ、文学として古典で教えるのなら、「古事記」が好きな私としては、何も異議を唱える気はない。
近隣外交がいつまでもぎくしゃくを繰り返す責任は、やはり日本政府にあると私は思う。過去に閣僚による侵略を肯定し、植民地支配を肯定する「失言」(韓国は「妄言」とよぶ)が繰り返されてきた中で、近隣諸国の信頼を得るのは、容易なことではない。教科書検定にしても、「つくる会」の教科書を生み出す方向への歩みが見られることも、近隣諸国の不信を買っている。小泉首相の靖国参拝の問題にしても、ちょうど教科書採択の結果が分かる時期のことでもあり、反発を招くことは避けられない。しかし、国家の行為によって、なぜ日本人全体が責任を問われなければならないのか? それは、日本が議会制民主主義を標榜する国だからである。何だかんだ言っても、あのような政治家を政権の座につけているではないかと言われると反論は難しい。今回の参議院選挙での自民党の大勝にしても、そのような文脈で見られることは避けられない。自民党に投票した人の多くは、小泉氏が首相になったばかりであり、不況からの脱出をめざして、ともかくも「改革」の手腕を見てみようということだったかも知れない。しかし、近隣諸国の主たる関心は、そんなところにはないのである。
問題の根源は、日本の政治体制が、近隣外交を国の基本と考えず、小手先の対応で、その場その場をしのごうとしてきたことにある。いま、東アジア諸国の経済は互いに密接な連関を保っている。それを前提とした上でどの国も経済の発展を図っているのだから、日本が不況からの脱出を図るにしても、近隣外交の問題は無関係ではない。近隣外交の問題は国家の根幹に関わる問題として、論議がなされなければならない。しかし、今の日本の政界は、この問題とは無関係に編成されている。政界再編が行われるのなら、この点を無視することはできない。国家の根幹に関わる問題とは無関係に政界が編成され、どの政党の中にもさまざまな考えがあるという状況では、近隣外交の進展は望めないのではないだろうか。 
戦後世代の戦争責任 / 結びに代えて
私は終戦の翌年に生まれた。学生時代には同世代の北山修作詞の「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。しかし、「戦争を知らない」ことは、自慢にはならない。戦争当時、影も形もなかった私たちに、戦前世代と同じ意味での戦争責任があるとは思わないが、少なくとも侵略や植民地支配の時代についてしっかりと学習し、その上で、近隣諸国との良好な関係を築いていく責任は負わなければならない。それが戦後世代なりの戦争責任を果たす道だと考える。そのためには、自分たちが所属したこともない時代の国家の行為を弁護することが、自分たちの誇りを守ることとは、無縁のことであることを知らなければならない。そして、侵略や植民地支配は罪悪であり、二度と繰り返してはいけないことだということぐらいは、最低限明言していかなければならない。近隣諸国の人が日本の文化それ自体を否定するようなことを言ったときには、大いに喧嘩をすべきだろうが、喧嘩も心置きなくできる関係を築くためには、過去を美化するようなことは絶対にしてはならない。政治的、軍事的に分断されていた東アジアが、経済的、文化的なつながりを深めている今、近隣諸国との平等互恵の関係を築く基盤はすでにできているのであり、あとは、この日本しだいなのだということを胆に命じてゆきたい。「つくる会」の教科書の採択状況は今のところ惨憺たるものであるが、公表を意識的に避けているところもありそうなので、油断は禁物である。 
 
西洋人の見た日本人中国人

 

江戸中期の日本を観察したヨーロッパの学者ツュンベリーの記録『江戸参府随行記』と、戦前の中国を観察したアメリカの外交官タウンゼントの記録『暗黒大陸中国の真実』を対比しながら記したものです。 
ツュンベリー
ツュンベリーはスウェーデンの医学や植物学の学者で、1743年生まれ。有名なリンネなどに師事して医学博士となりました。オランダ船の船医となって世界一周旅行をし、1775年8月に長崎に着いて、その翌年オランダ商館長フェイトの侍医という名目で江戸参府旅行に随行し、その年の3月4日(日本暦の一月)に江戸に向け出発し、6月30日に長崎に戻りました。品川着が4月27日で、江戸発が5月25日ですから、ほぼ一ヶ月江戸に滞在したことになります。また、往路に二ヶ月近く、帰路は一月強かかっていたことがわかります。ツュンベリーはその年の12月に長崎を離れ、のちに旅行記を書いて出版しました。
この旅行記の中では、日本に関する部分がいちばん資料的に充実しているといわれます。それは、日本人が提供する資料がそれだけ多く、きちんとしていた事を意味しています。そのため、江戸中期の日本人の様子が、じつによくわかるのです。その日本篇の翻訳が、ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫(1994)です。
ツュンベリーの記録についての解説者の感想 
訳書の巻末に木村陽二郎という人が解説を書いていますが、そのなかで、次のように言っています。
「・・・ツュンベリーのこの書を読むと、自分の小学生時代の日本を思い出す。ツュンベリーの時代と私の小学生のころの日本との差は、小学生のころと現在の日本との差よりずっと少ないような気がして、やはり昔がなつかしくなるのである」
まったく同感です。この本には、日本人の欠点とか、日本の原始的な面とかもいくつかは書かれていますが、それらもすべて含めても、上と同じ感想を持ちます。ツュンベリーは、日本人の一部に見られる素行の悪さが、悪いオランダ人の影響だとしていますが、この60年間に日本人が受けた外国人の悪行は、天文学的な数にのぼります。国内に住む不良外国人も激増してしまいました。自信を失った日本人が悪い影響を受けるのは当然です。
江戸から明治初期にかけての日本人の記録 
欧米人が当時の日本人をどのように見ていたかの記録を丁寧に調べた本として、渡辺京二『逝きし世の面影(日本近代素描I)』葦書房(1998)があります。
「実は一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。明治期の高名なジャパノロジスト、チェンバレンに「あのころ――1750年から1850年ごろ――の社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったことか」と嘆声を発せしめた特異な文明である」
江戸時代の日本人に自由が無かったと錯覚している人は、ぜひこの本を読んでほしいと思います。当時のヨーロッパや他のアジア諸国の実情をよく知っているツュンベリーにとって、とても印象的だった江戸中期の日本人の「自由」を再確認することができます。 
タウンゼント
タウンゼントは、下記の本の翻訳で最近評判になりました。
ラルフ・タウンゼント(田中秀雄・先田賢紀智共訳)『暗黒大陸中国の真実』(2004)
アングロサクソン系アメリカ人。コロンビア大学卒。新聞記者、コロンビア大学英文科教師を経て国務省に入る。1931年上海副領事として中国に渡る。満洲事変に伴う第一次上海事変を体験。その後福建省の副領事として赴任。1933年初めに帰国。外交官を辞め、大学講師のかたわら著述と講演活動に専念。親日派の言論を展開したため、真珠湾攻撃後は1年間投獄される。5冊の著作すべてに極東アジアに関する鋭い知見を披露している。(原著は1933年にアメリカで出版されましたが、その復刻が1997年に出ており、訳者はたぶん復刻を参考にしたのでしょう)(ここにはありませんが、訳者のあとがきでは、戦後は共和党関係の仕事をしたらしい)
[この人とこの本の存在は、日本でも一部憂国の士には知られていたそうですが、翻訳が無かったので、一般の人が知るのは、これが最初です]
タウンゼントの本の書評 / 宮崎正弘
本書は民族派、保守派にとって必読の資料的価値がある。
ラルフ・タウンゼントという人物は以前から識者の間で知られていた。日本を擁護し、真珠湾攻撃直後に「反米活動」で逮捕され、一年間投獄されたアメリカの良心。タウンゼントは米国の上海領事館副領事から福建省で副領事をつとめたが、ジャーナリストでもあったので、観察が鋭く、汚染された河と汚い小舟しかない当時の中国を旅行した。
訳者の田中氏らは、どうにかして日本人に忘れられた、このアメリカ外交官を顕彰しようとして処女作を手に入れ、多くの人の協力を得て、ここに訳出した。その功績や大である。
この本は1933年の作品でタウンゼントが米国大使館上海副領事として、日々、かの猥雑なペテン師だらけの国で実際に目撃した出来事と、直接体験から考えに考えての中国人論を展開し、日本の経営する満洲こそ、中国人にとって天国ではないかと、その真実を報告しているのである。
「中国人はただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうとまったく気にしない。懐具合が良くて家族が無事でいればあとはどうでも良いのである」。
だから「満洲は中国人にとって天国」となった。
事実、日本が経営した満洲の評判を聞いて数十万の漢族が入植した。学校は日本人より中国人のほうが多かった。
元も清も、いや唐でさえ、異民族王朝である。吐番、大月氏、突厥、金と数え上げればきりがない異民族王朝が三百年つづこうとも、漢族は気にしなかった。
著者の中国への学識が方々で生かされていて、しかも64年前の中国人の本質といまのそれとはまことに同一軌道をまわっている事態を、読者は感嘆と同時に体得するだろう。
[宮崎正弘氏は、中国問題のほか国際的な特許問題にも詳しい保守系の評論家として、著名な人です]
翻訳者の言葉
著者のラルフ・タウンゼントはほとんど日本では知られていない。しかし一度その経歴と人生を知るとほとんどの人は茫然としてしまうだろう。その行動の一貫性と数奇な運命に対してである。もっとも彼は戦前、敢然と日本を弁護し、ルーズベルト政権や中国を批判した親日派ジャーナリストとして、一部の外交専門家、言論界ではわりに知られていた。彼が忘れられたのは、日本の敗戦後である。ちょうど我々がGHQの思想統制と洗脳教育の中で、戦前一切のことを呪わしく思わされ、戦前の真実の姿を忘れさってしまったように、タウンゼントのことも忘れられていったのだ。
しかしそのタウンゼントがGHQの職員たちの源流であるルーズベルト政権のニューディーラーたちを政権発足当時から批判し続けていたとすれば、読者はどう思われるだろう。
彼はその著書の中で、ルーズベルト政権内部に巣食うコミンテルン勢力=彼言うところの「新自由主義」の危険性について、指摘していたのである。
当然彼らは日本が中国大陸において共産主義と戦っている理由を理解しないわけで、真珠湾攻撃後、タウンゼントが反米活動の容疑で一年間牢獄生活をさせられるのは、いわばその言論活動の宿命ともいうべきものであった。
また当然彼の思想は、戦後のGHQ占領体制を批判する立場にあるのだ。彼が今日よみがえるべき理由もここにある。
『暗黒大陸 中国の真実』は彼の処女作である。外交官としての彼中国の現地で見た生々しい赤裸々な中国人の実際の姿をルポしたものである。
彼が見たのは貴重だ。排外活動で被害を受けているのは日本だけではない、アメリカもそうなのだということ、また当時の中国人と今の彼らがどう違い、似通っているか、なぜアメリカ人は中国を支持し、日本を非難したか、タウンゼントの慧眼から様々な示唆を読者は得られるに違いない。
訳者のあとがき 
・・・日本の敗戦を彼(タウンゼント)がどう見ていたか、まだわからない。しかし、彼の著作は日本の敗退で起こる極東の混乱を予想しており、それは中国の共産政権樹立、朝鮮戦争の勃発という形で現実となった。彼の予言は的中したのである。(彼は)戦後、日本人んは忘れられたまま、1975年に亡くなった。・・・
いずれにせよ、1930年代のアメリカ外交で日本寄りの態度を取り続けようとすることがいかに困難だったかは、マクマリー*やタウンゼントの体験によって知られよう。(*元北京駐在公使で国務省と対立して外交官を辞めた人物)
・・・宣教師たちが中国でひどい目に遭っているのに、実際の本国への報告では中国に寛大で日本に厳しい見方をしている。このことが、昭和十年代にアメリカの対日世論が厳しくなっていく大きな流れの原因にもなっていたという事実がある。こうしたからくりの内幕も、タウンゼントの慧眼によって確かめ得るだろう。本書の最後に、1927年の国民党軍による南京虐殺事件に対して、南京在住の宣教師たちが国民党政府を非難した声明書が紹介されているが、そこに、1937年のいわゆる《南京事件》で、日本批判をしたマギー牧師の名前があることに注目されたい。彼のこの豹変の理由もまた、タウンゼントの観察から理解されることだろう。・・・
編纂者の言葉 
著者タウンゼントによるまえがき(1933年)の一部
最近の中国関連本には、ありのままの真実を伝える本が極めて少ない反面、感傷的、いわばお涙頂戴式の本があふれている。本書はありのままの真実を伝える本である。中国人のありのままの姿を伝えるのが本書の狙いであるから、読み進むうちに胃がムカムカきたら、それで所期の目的は果たせたと思う。
中国で現在何が起こっているかを正確に調査したら、ほとんどが見るも恐ろしい、胸が悪くなるような結果しか出てこない。中国人の行動自体が恐ろしい、胸が悪くなるようなものだから当然である。
復刻本にあるウィリス・A・カートによるまえがき(1997年)の一部
本書は、いわゆる共産主義時代の到来前に書かれている。この五十年間、中国の共産主義者は自国民を約一億人も殺害している。銃殺、縛り首、踏み殺し、引きずり殺し、殴り殺し、のこぎり挽き、切り刻み殺し、飢え死に等と、ありとあらゆる方法で殺してきたのである。なぜこのようなとてつもない数の人間を殺したのか。それはマルクス・レーニン主義の罪ではあるが、同時に中国文化そのものの罪でもある。なんとなれば、国民がその支配者に虫けら同然に殺され、虐待されてきたのが中国五千年の歴史であるからである。
著者のタウンゼントはこう述べている。
「四億の民(今では世界人口の五分の一にあたる十億を超えるが)の苦悩と実態」と。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、今日中国は世界の大国となり、将来も無視できぬ存在である。しかし中国はいつまで経っても中国であり、変わることは絶対ありえない。いくら我々が我々の国民の血税をつぎ込んで援助しても、中国が変わることはないのである。 
『日本人は第一級の民族』
「地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。・・・また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。私は日本国民について、あるがままを記述するようにつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらその欠点をあげつらったりはしなかった。」
『協調より反目を好む』
・・・「中国人だけだと、なぜかうまくいかない。必要なものはすべて揃っている。しっかり監督すればちゃんと働く。仕事熱心で頭も良い。しかし致命的に欠けているものが二つある。それは正直と協調性である。しかもこの二つは直そうとしても直せないような感じがする。大人数の仕事となると中国人だけではう まくいかない。・・・驚くほど裏切り者が多い。」
『オランダ人の愚行』
「このように極端な検査(長崎での持ち物検査)が行われるようになった原因は、オランダ人自身にある。・・・原因にはその上に、数人の愚かな士官が軽率にも日本人に示した無礼な反発、軽蔑、笑いや蔑みといった高慢な態度があげられよう。それによって、日本人はオランダ人に対して憎悪と軽蔑の念を抱くようになり・・・その検閲はより入念により厳格になってきた」
[長崎のオランダ人は、奴隷をたくさん連れてきてこき使っていて素行が悪く、密輸などやりたい放題で、そのため日本側は反感を持ち、必死で検査をしていたという話です]
『チップを多く渡すな』
「・・・車夫は見るからに哀れな姿をしている(もちろん演技が上手だからである)。そこでつい、チップを弾むことになる。すると逆に、「騙された」と大声を上げられる。また「この客は上海語がわからないな」と思うと、回りで見ている苦力仲間のウケを狙って怒鳴り散らす。「余分に払うとは金勘定もできない間抜けだ」と思って怒鳴ったり泣きついたりして、さらにふんだくる。情け無用の世界である。こちらがチップを弾んで「雪の中、裸足でご苦労。少ないがこれで一杯やってくれ」と言っても信じられないのだ。試しに、ちょっと乗っただけで1ドルやってみた。1ドルといえば彼らにとって二日分の稼ぎである。「騙された」と言って激怒しなかった車夫は一人しかいなかった。宣教師たちは「田舎には本当の気高い中国人がいる。チップを弾めば皆大喜びする」と言っているが、私はそういう爽やかな人には出会ったことがない。・・・」
[このエピソードは、ごく最近の日本での凶悪事件を想起させます。工事現場で働いていた中国人に、近くの親切な日本人がお茶やお菓子の差し入れをしました。すると、その中国人がその日本人の家に強盗に入って殺してしまいました。「差し入れをするのだからきっと大金持ちだろうと思って強盗に入った」と言ったそうです。上のエピソードと根は同じですね。嗚呼、世界を知らない日本人!] 
『中国と異なる夫婦のあり方』
「日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった」
[これは長崎から江戸までどの地方でも同じだったらしいです。江戸時代から明治初期に日本に来た外国人は、日本の女性がシナや朝鮮の女性とはまったく違う扱い――つまり奴隷ではない扱い――を受けていることに驚いた記録を残しています]
『世界一の親切』
「そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた」
『人類共通の人情がない』
「・・・中国人は二人連れで舟旅をする・・・一人旅で病気になると・・・船頭は迷わず病人を川に投げ捨てるからである。・・・悪いのは迷信であって船頭が悪いのではないかもしれない。が、違う。投げ捨てられそうな人を見て「可哀そう」という人は一人もいない。逆に、少し助けてやれば病気が治りそうな場合でさえ、誰も全く関心を示さないのである。車が倒れて人や馬が下敷きになるような事故がよく起こるが、野次馬ばかりで誰一人、助けようとしない。この冷淡さこそが中国人の典型のようである。」 
『左側通行の規則』
「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水の溝をそなえている。・・・上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は(上りから見て)右側を行く(要するに左側通行)。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮が及んでいるのである。このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばある。・・・さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に灌木がよく植えられている」
[これが、最初に出てくる、江戸への往路での交通規則の記録です。左側通行が明記されています]
『中国人の特異性』
「あるアメリカ人領事が目撃した話である。任地の揚子江上流でのことで、西洋人には信じられないことだが、中国人にはたいした事件ではないそうである。豚と中国人を満載したサンパンが岸近くで波に呑まれ転覆し、豚も人も投げ出された。岸で見ていた者は直ちに現場に漕ぎ出し、我先に豚を引き上げた。舟に泳ぎ着いた人間は、頭をかち割って殺し、天の恵み、とばかりに新鮮な豚肉を手にして意気揚々と引き上げ、後は何事もなかったかのようにいつもの暮らしが続いたという。・・・最近のある戦闘で捕まえた敵方の将校の一団をどう殺そうかと議論になった。そして、ばらばらの釘を飲ませてやろうということになった。飲ませてから、効果観察のため整列させた。約二時間後に死亡したそうである。(ある夕食会で中国のお偉方から聞いた自慢話)」 
『有益な里程標』
「里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの施設が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。ここ(日本)では、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。それはどの里程標にも、それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。そんなものは旅人にとって何の役にも立たない」
『ユク神父の記録』
「・・・ある日、通りを通る車から聞きなれない声がしたので、何事かと行ってみると車数台に生身の人間が積まれていた。近寄ってよく見ると手の甲を釘で突き刺され、車に打ち付けられているではないか。警備の役人に訳を尋ねたところ、「ある村で盗みがあり、(村の)全員捕まえたらその中に犯人がいるだろうと思って、連行して来た」そうである。それを聞いてユク神父は、「いくらなんでも全員の手を釘付けるのは酷かろう」と抗議をした。警備隊長が答えて曰く「たまたま捕り手が手錠を忘れたのです。こういう時はこれが一番ですよ」。そこで、「無罪の者を引き渡してくれないか」と頼んだ。隊長曰く、「承知いたしました。潔白が証明され次第釈放します」恐ろしいことに、この件で驚いているのは外国人のユク神父だけで、周りで見ていた中国人は誰も驚いていない。静謐な天子の国と言われる国で、(無実の者も全員)手の甲を釘で打ち抜いても、誰もそれを不自然だと思わないのである。」
[掌を釘でうちつける話は、『三国志』の『東夷伝』にも出てきますが、大陸や半島の伝統なのでしょうか] 
『清潔好きに驚く』
「(瀬戸内を船で通ったときの描写)投錨するとかならず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない」
『大切にされている子供達』
「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。・・・」
『本心から信者になった者はいない』
「(ある宣教師医師が理想に燃えて中国に渡ったが、我慢できなくなって二年で帰国した。父親も宣教師だったので、その父のことを質問したところ、こう答えた。)「なくなる直前、父はこう申しました。(信者になった中国人は)一人もいない。名目上は数千人もいたが、真の信者はたったの一人もいない、と」宣教師たちのご尽力にはまことに頭が下がる。人里離れた内陸部で、何度裏切られても辛抱強く勤める姿は「神々しい」ものであるが、もしかすると、単なる間抜けかもしれない。」 
『大阪の豊かさに驚く』
「海岸に臨みかつ国のほぼ中央に位置した大阪は、地の利を得て国の最大の貿易都市の一つになっている。国中のあらゆる地方からあらゆる物が信じ難いほど大量に供給されるので、ここでは食料品類が安く購入でき、また富裕な画家や商人が当地に住みついている」
『世界でも稀な快適さ』
「その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない」
『平気で嘘をつく』
「中国に長くいる英米人に、「中国人の性格で我々とは最も違うものを挙げてください」と訊いたら、ほぼ全員が躊躇なく「嘘つきです」と答えると思う。・・・欧米では、嘘は憎悪や軽蔑と同じ響きをもつものであるが、中国語にはそういう語がない*。必要がなかったからである。そこで、それに近い中国語を使って「嘘ではありませんか?」と言ったとしても、非難の意味はない。ましてや侮辱には全くならない。(中国人にとってのウソとは)特別な意味のない言葉なのである。中国人の言動は誤魔化しとすっとぼけに満ちているが、暮らしているうちに、真意がわかるようになる。」
[*:70年以上も前にタウンゼントがこの事を喝破しているのに、日本人は戦後になっても学習していませんね。ところで、「嘘」という漢字の意味はシナ語と日本語でまったく違います。もとの漢字の「嘘」には日本人の言う「ウソ」の意味はありません。「息を吐く」「嘆く」「すすり泣く」といった意味しかありません。日本人がいう「ウソ」にやや近い言葉に、「妄言」「虚言」などがあるそうですが、そもそも「ウソをつくのは恥ずべきことである」という文化が無い(あるいはほとんど無い)ので、タウンゼントとは話が通じなかったのだと思います。牽強付会の巧みなアメリカ人と通じないのだから、善良無比な日本人と通じるわけはありません。「ウソについての文化がまったく違う」ことをよく認識しないと、とんでもない事になります] 
『一本の雑草もない田畑』
「(大阪から京都への道の感想)私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。・・・農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。雑草と同様に柵もまたこの国ではほとんど見られず、この点では名状し難いほどに幸運なる国である」
[ツュンベリーはリンネに学んだ植物学者でもあるので、雑草の種類に注意を払っており、こういう感想が出たらしい。また柵云々とは、ヨーロッパではその地その地の領主たちが、防衛のために柵で農地や領地を囲うために、農民を苦役する伝統があり、それとの比較をしたらしい。話は飛びますが、幕末から明治にかけて来日した欧米人は、日本の家屋にカギらしいカギが無いのに泥棒などの事件がほとんど起こっていない事に驚く記事をたくさん書いています。飛脚がたった一人で現金を運んでいても、事故はほとんど起こらなかったらしいです]
『敵の面子を潰す』
「・・・「嫌がらせ」もよくあることで、あの孔子ですら平気である。ある時、招かれざる客が来たので居留守を使った。諦めて客が帰ろうとするのを見て、孔子は窓辺に出て胡弓を弾いた。「ああ、孔子様は私のことをこういう風に扱っていらっしゃるんだなあ」とわからせるためであったという。」
[この「孔子による嫌がらせ」の話は『論語』に出てきますが、日本の論語の本では無理矢理「美談」として解説されています。孔子が人格的に酷い人物だった事は、日本にはほとんど翻訳されてこなかったので、日本人は知らないのだそうです。人肉食も好きだったそうです。北京大学の教授が痛烈な孔子批判をしているそうです] 
『天皇への崇敬』
「天皇は町なかに自分の宮廷と城を有し、特別な一区画のように濠と石壁をめぐらし、そこだけでも立派な町をなしている。・・・軍の大将である将軍は、最高権力を奪取した後もなお、天皇には最大の敬意を表していた」
『アカデミーのように』
「そして国のアカデミーのように、印刷物はすべて天皇の宮廷にだけ保管されるので、すべての本はまた当地の印刷機で印刷されるのである」
[12の後半の一文は、易姓革命的な伝統のある国の人には理解し難いことだったのでしょう。南朝の忠臣・北畠親房は『神皇正統記』の中で、この事を「万世一系」の本質としています。13は京都での印象で、すこし誤解があるのでしょう]
『幻影を抱かずに現実に立ち向かった宣教師』
「・・・一九二七年から二八年、中国領土にいた八千人に上る外国人宣教師のうち五千人が退去させられている。どこへ退去したのか。日本である。しかし日本に避難したものの、日本人が好きになれない。可哀相な人間がいないからである。アメリカ人とは不思議なもので、可哀相だと思えない相手は好きになれない人種である。宣教師は特にこの傾向が強い。可哀相な人間を見ると、我が身の危険をも顧みず、救ってあげようという殉教精神がわき上がるのである。だから中国人は全く有り難い存在なのだ。ところが日本は、ドイツに似て、規律正しく、町は清潔で落ち着いている。これでは宣教師の出る幕がない。だから宣教師に好かれないのである。」 
『学ぶことに熱中する日本人』
「(江戸について二人の医師と接触して)二人とも言い表せないほどにうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。そして前任者にはなかった知識を私が持っていたことから、次々と質問を浴びせてきた。・・・彼らの熱心さに疲れ切ってしまうことがよくあったが、彼らと一緒に楽しくかつ有益な多くの時を過ごしたことは否めない」
[これらの日本人から、植物の標本などを入手したらしいです]
『有事への配慮』
「日本のすべての町には、火災やその他の事故に備えて行き届いた配慮がなされている。寝ずの番をする十分な数の確かな見張り番が、あらゆる地点に置かれており、暗くなると夕方早々から外を廻りはじめる」
『虐殺されても中国人をかばう宣教師』
「・・・福州を流れる川の上流でのこと。高齢のイギリス人宣教師が二人、追剥に捕まり「裁判され」、「帝国主義者」にされ、「残虐なる死刑」に処された。生涯を聖職者として現地住民のために捧げた二人に待っていたのは、体中を切り刻まれ、長時間悶え苦しみ殺されるという無惨な最期であった。当然ながら、中国国民党「政府」は何もしなかった。政策の一環であるから、助けるわけがない。・・・「馬鹿は死ななきゃ直らない」と言うが、何度騙され、何度殺されても直らないのが宣教師なのだ。・・・どうしても殺せない相手には敬服し信服するのが中国人である。宣教師はこの辺のところを見逃してきた。何度死んでもわからない。」
[何度死んでもわからない――とは痛烈な皮肉ですが、日本人にもあてはまりますね。何度騙されてもわかりません。「どうしても殺せない相手には敬服し信服するのが中国人である」――という事が、心優しい日本人には分からないのです。] 
『町の家は二階建て』
「江戸の家屋はその他の点では、他の町と同じく屋根瓦で覆われた二階屋であり、その二階に住むことはほとんどない」
『印刷の綺麗さ』
「私はまた、日本の魚類についての彩色図を載せた、大きな四つ折りの二巻からなる印刷本も買うことができた。これは、この国で出版された最高に美しい本の一つであり、その図はヨーロッパで素晴らしい賛辞を得るに違いないと思えるほどに、うまく彫版で印刷され、かつきれいに彩色されている」
[日本人の本好き、本の多いこと、印刷技術に凝ることは、昔からですね。黒船のペリー提督も日本では農村にも書店があることに注目して記録していますし、千年以上前の本がこんなにたくさん残されている国はめったにありません。世界最古の百科事典も日本人がつくったと言われております]
『巨額の援助を不満とする中国人』
「・・・演技のうまい中国人にコロッと騙されているのである。「期待していたアメリカ人に裏切られ失意のどん底に落とされた」と迫真の演技の中国人。「ああ、期待を裏切ってしまった」と反省するアメリカ人。行商だろうが苦力だろうが主演男優、女優になれる。・・・」
[アメリカ人でさえ騙してしまうのですから、お人好しの日本人を騙すのなんて簡単なのでしょう] 
『一日三回の食事』
「(一行のなかの)日本人は自分たちの通常の食事様式を守っていた。一日三回食事をし、そしてたいていは魚と葱を入れて煮た味噌汁を食べる」
[昔の日本人は一日二食だったという話もありますが、ツュンベリーの見た江戸中期の日本人は三食だったのですね。食事の内容は健康的ですね]
『鳥類や庭園』
「鳥通りという通りにいる多数の鳥類を見た。あらゆる地域からここへ集められたものであり、有料で見せたり、また販売したりしている。町中にはまた、かなり上手に造られた庭園があり、温室はないがいろいろな種類の植物、樹木、そして灌木がある。それらは他からここへ運ばれ、手入れされ、栽培され、そしてまた販売もされている。ここで私は使えるかぎりの金で、鉢植えのごく珍しい灌木や樹木を選んで購入することにした」
[この購入植物は、アムステルダムの植物園にまで送られたそうです。もしツュンベリーが江戸郊外の広大な植物栽培を見たら、驚愕したことでしょう]
『民を思う指導者がいない』
「中国人に根本的に欠落しているのは「品格」である。それゆえに指導者が生まれず、風見鶏で、死ぬまで足の引っ張り合いをしている。だからアメリカ人に向かって「教育援助が足らない」と責め立てるのである(援助が足らないのではない。中国人の経営ミスで効果が上がらないのである)。何千といる学士様や修士様まで自分のことは棚に上げて、アメリカを非難している。」
[タウンゼントの見方はじつに鋭いです。中国人に根本的に欠落しているのは「品格」である――と70年以上も前に喝破しております。最近の中国の映像には、明かに「品格」がありません。] 
『すばらしい国民性』
「(日本人の)国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」
『世界でもっとも礼儀正しい民族』
「日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう」
[今の日本人は江戸時代の日本人を見習うべし!なお、「疑い深く、迷信深く」というのは、要するにキリスト教では無いという意味だと思います。また「高慢」というのは誇り高いという意味だと思います。この本の訳者の日本語は時々疑問符がつきます]
『自虐趣味のアメリカ人』
「調査委員会は、しつこいほど「柔軟性のある宣教師を中国に派遣するよう」主張している。どうも曖昧な物言いである。「良かれ」と思ってやったことの「お返し」が侮辱、脅迫、人格否定である。それでも笑顔で耐えているのである。これ以上どうしろと言うのか。・・・ここまで来ると自責、自虐趣味である。」
[この宣教師の態度は、現在の日本の政府・役人・マスコミの北京や韓国政府への態度と同じですね。すべては70年以上も前と同じです] 
『法に準拠した自由は日本人の命』
「自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である」
『オランダ人の悪を嫌う日本人』
「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており・・・」
[日本人が自由だという事と、法律の適用が身分の上下によらず公正だという事がよほど印象的だったらしく、何回も記されています]
『混乱が絶える日は一日もない』
「中国では混乱が絶える日が一日もないが、人は良いが無知なアメリカ人報道関係者はきれい事ばかり言っている。中国に住んでいる人には信じられない記事ばかりである。「目指すものが違うから戦う」ということは、中国ではありえない。目指すものは同じである。賄賂、略奪、何でも良い、ただ「金」である。・・・この(一九三三年までの)二十二年間、身の危険を感じることが多くなった。いっそのこと兵隊になったほうがよい。兵隊なら食いっぱぐれはない。銃剣を振り回せば食糧調達は思いのまま。」
[この記述もまた、70年前とは思えません。現在の日本マスコミにも当てはまりそうです] 
『好奇心の強い民族』
「この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである」
[日本人の旺盛な好奇心と勉強好きは、幕末に来た欧米人によって数多く記されていますが、江戸中期でも同様だった事が、この記事でわかります]
『器用さと発明好き』
「この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族に群を抜いている。彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい」
[黒船のペリー提督も、日本人の器用さと発明好きが印象的だったらしく、「やがては欧米の強力な競争相手になるだろう」と予言しています]
『ビールの泡より早く消える愛国の士』
「彼らはアメリカ人をだますコツを知っている。・・・アメリカ人は「国家統一のため、血判状を認め、統一戦線に合意する指導者たち」という記事にコロッとだまされてしまう。・・・そもそも統一戦線合意の目的は「自分の縄張りを荒らされない」、ただそれだけである。」 
『節約という美徳』
「節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである」
[鎌倉幕府の執権北條時頼の母松下禅尼が、破れた障子を自分で修繕して質素倹約を教えた話は有名で、その影響で時頼はご馳走など食べなかったそうです。元寇で活躍した相模太郎こと北條時宗はその息子です。鎌倉開祖の源頼朝も徹底して質素だったそうです]
『乞食のいない珍しい国』
「またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く」
[江戸時代の庶民の生活に関しては、とても誤解が多いように思います。左翼史観の影響もあるでしょうし、時代劇の影響もあるのでしょう。江戸時代の日本は、乞食のほとんどいない世界でも珍しい国だったのです]
『世界史上類例のない中国の悲惨』
「これは世界史上類例のないことである。血の海に膝まで浸かり、村といわず町といわずことごとく絞られ荒らされ、死者、拷問、餓死者が毎年数百万もでるのに、何万という大学出の学士様は手をこまねいているだけで何もしない国。こういう国は世界のどこにもない。」
[これは戦前、大正から昭和ヒトケタごろの話ですが、戦後も変わりませんね。というよりもっと酷くなったと思います。] 
『印象的な清潔好き』
「清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである」
[この清潔好きと風呂好きも、相当印象的だったらしい]
『驚くほどの親切心』
「日本人の親切なことと善良なる気質については、私はいろいろな例について驚きをもって見ることがしばしばあった」
[日本人の親切さと犯罪の少なさは、幕末から明治初期に来日した欧米人によっても、数多く書かれていますが、江戸中期も同様だった事が、ツュンベリーの記録でわかります]
『犠牲者は圧倒的に住民である』
「もちろん三百万もの人間が戦えば、多くの死者が出る。ところが、兵隊の死者はごく少ない。(一九三一年の対共産党戦に関する楊将軍の報告)河西で、死者:186000人 難民の死者:2100000人・・・数百万単位で人が死ぬことはざらにある。大洪水や大飢饉があると数百万単位で死者が出る。あの太平天国の乱(一八五一〜六四年)では二千万人が消えた。この数字は外国人研究者がはじいた数字である。第一次世界大戦の戦死者数をはるかに超えている。」
[アメリカの研究者の試算で、戦後にシナ大陸で死んだ数は一億という話がありますね。] 
『善良だが脅迫には負けない』
「国民は大変に寛容でしかも善良である。やさしさや親切をもってすれば、国民を指導し動かすことができるが、脅迫や頑固さをもって彼らを動かすことはまったくできない」
[これが江戸中期の日本人ではなく、現在の日本人への評価ならとても嬉しいのですが・・・]
『正義を守り身分に左右されない裁判所』
「正義は広く国中で遵守されている。・・・裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速にかつ策略なしに裁決される。有罪については、どこにも釈明の余地はないし、人物によって左右されることもない。また慈悲を願い出る者はいない」
[他の国々を知っている当時のヨーロッパ人にとって、身分の上下によらない日本の裁判の公正さは驚くべきものだったらしく、同じ発言がしばしば出てきます]
『命の恩人のイギリス人を非難する孫文』
「・・・孫文の「三民主義」は中国人の聖書となっていて、・・・・・「三民主義こそ中国を導く精神的支柱」という虚構が定着している。・・・(孫文は)イギリスへ逃れたこともある。その時、中国政府の暗殺命令を受けた刺客に襲われ、危ういところでイギリス人に友人に助けてもらったが、その恩を忘れ、イギリス人の悪口を書き散らしている。」
[孫文の偶像視は危険ですね。保守系の論客が孫文批判をかなりしているようです。前に記しましたが、昔私の祖父母が亡命中の孫文を預かっていて、あまり良い印象は持たなかったようです。だからどう――という話ではありませんが]
『大義に殉じる心がない』
「「いつになったら、どうしたら混乱は収まるのですか?」とよく聞かれる。「気配すらない」これが答えである。・・・何百年もの間、何十億という中国人が病に冒され苦しんで死んできたのに、「病は治るものだ」と暢気に構えているのである。・・・だから、民衆が立ち上がって悪代官を追放しようということにはならないのである。」
[70年以上前に「(混乱が収まる)気配すらない」と喝破したタウンゼントの正しさは、まさに現在、証明されつつあります] 
『契約はきちんと守る』
「(外国人に対しても)・・・いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因をつくらない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない」
[江戸の中期でも、日本には「契約を守る」という社会のモラルが出来ていたことがわかります]
『これほど盗みの少ない国は世界にない』
「正直と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」
[その後の二百数十年の間に、来日する外国人が激増し、それとともに、日本人による犯罪も増えてしまったようです]
『世界を欺く中国政府』
「国際会議があるたびに「阿片撲滅に奮闘する中国」という記事しか読んだことのないアメリカ人は、大々的な阿片製造と消費の実態を知ったら「エーッ」と驚く。二年前、中国は国際査察に断固反対した。毎年春になると畑一面の白いケシの花が咲く。・・・(阿片禁止の法令が)発令の最中、春に収穫した阿片がせっせと中国中の市場に運ばれていた。・・・さらに面白いことがある。ケシの栽培は州知事の命令である。命令で種が配られる。・・・軍のやり口が見事。まず「違法」のお触れを無視し、阿片を栽培させる。いざ収穫期になると、「違法である」と言って百姓から金を巻き上げるのである。」
[通常の犯罪者より兵隊さんの方がずっと怖いそうです] 
『皇室への崇敬』
「国民の内裏に対する尊敬の念は、神そのものに対する崇敬の念に近い」
[これは注目に値する記述です。江戸時代は徳川の時代で、天皇は国民から軽視されていた(あるいは天皇など知らない人が多かった)――という人がおりますが、そうでも無かったことがわかりますので]
『道路の良さと左側通行の規則』
「道路は広く、かつ極めて保存状態が良い。そしてこの国では、旅人は通常、駕籠にのるか徒歩なので、道路が車輪で傷つくことはない。そのさい、旅人や通行人は常に道の左側を行くという良くできた規則がつくられている。その結果、大小の旅の集団が出会っても、一方がもう一方を邪魔することなく互いにうまく通り過ぎるのである。この規則は、他に身勝手な国々にとって大いに注目に値する。なにせそれらの国では、地方のみならず都市の公道においても、毎年、年齢性別を問わず――とくに老人や子供は――軽率なる平和破壊者の乗り物にひかれたり、ぶつけられてひっくり返り、身体に損害を負うのが珍しいことではないのだから」
[これが二度目の左側通行の説明です。歩く人全員が左側通行を守っているようです。ここでは「規則」という言葉を使っています。何らかの文章になった規則があったのか、それともそのように奨励されていたのでしょうか。武士が刀を左側にさすことから来た習慣らしいのですが]
『日本人と中国人』
「・・・中国人と日本人は全く違う人間だが、アメリカ人には違いがわからない。地理的に近いから性格も似通っていると思っている。これほど大きな誤解はない。・・・確かに、日本人と中国人は体つきがよく似ている。が、似ているのは体型だけで、性格は似ても似つかない。・・・短い旅行でも違いがわかる。他人に対する態度が大きく違う。儲け話になると腰が低くなるのが中国人。日本は違う。自然に腰が低くなり、礼をもって接すること自体に喜びを見出している。例えば、通りを歩いていて、何かを落としたら誰かがサッと拾ってくれる。中国には、スラム街よりひどく、鵜の目鷹の目の連中が多い。・・・(しかし日本人は)アメリカ人の手本になるような行動を示してくれるのである。」
[今でも分かっていないアメリカ人がおりますね。とくにインテリ以外は] 
『良質な刃物』
「刃は比類ないほどに良質で、特に古いものは値打ちがある。それはヨーロッパで有名なスペインの刃を、遙かに凌ぐものである」
『神社への崇敬』
「私は、神道信奉者らが祭日や他の日にどのような心境でこの社にやってくるかということが漸次わかってきたが、そのさい非常に驚くことが多かった。彼らは何かの汚れがある時は、決して己れの神社に近付かない」
『アメリカ人はなぜ日本人より中国人を好きになるのか』
「・・・上流階級の日本人は「武士に二言はない」というサムライである。サムライとは名誉を重んじ、自らの言動に責任を持つ伝統を重んじる特権階級である。・・・中国は全く別で、言葉の意味はころころ変わる。昔から嘘つき呼ばわりされても誰も侮辱だと思わない。そういえば、嘘とか嘘つきという言葉がない。先ほど、(アメリカ人は)ちょっとだけ付き合うと中国人が好きになる人が多いと言ったが、長らく付き合うと、圧倒的に日本人が好きになる。・・・(アメリカ人が)ちょっと滞在して中国人が好きになるのは、中国がどん底の国だからである。アメリカ人は可哀想な人に愛着を持つのである。もう一つの理由は、日本がアメリカの安全を脅かす存在だからである。」
[中国では嘘という漢字に、日本人が言う「うそ」という意味はありません。むろん中国にも「うそ」に近い用語はたくさんありますが、日本人と決定的に違うのは、「恥ずかしいこと」「悪いこと」といった意味が(ほとんど)無いことらしいです] 
『伊勢神宮への参拝』
「なかでもこの国の二、三の寺社は特に注目されており、あたかもイスラム教徒がいつもメッカを訪ねるように、国のあらゆる地方からそこへ向けて遍路の旅が行われる。特に伊勢神宮はその一つであり、この国最古の神、すなわち天の最高の神天照大神を祭っている、社は国中で最も古くかつ最もみすぼらしく、今ではいろいろ手を尽くしても修復できないほどに古びて朽ちている。なかには鏡が一つあるだけであり、まわりの壁には白い紙片がかけられている。・・・老若男女を問わずすべての信者は、少なくとも一生に一度はここへの旅をする義務があり、そして多くの信者は毎年ここに来る」
[ツュンベリーの旅は式年遷宮の六年後なので、それほど古くなっていたとは思えません。伝聞による記述かもしれません。白い紙片とはたぶん紙垂のことでしょう。今年は有名な宝永二年(1705年)のおかげ参りから300年の記念の年ですが、ツュンベリーは、こういうおかげ参りの話を聞いて記録したのでしょう。なにしろ、歩く以外に方法の無かった時代に、九州から東北までの日本人の十人に一人以上が集まったのです]
『ペテン師たちの排外運動』
「中国人は世界に冠たる詐欺師、ペテン師である。アメリカ人に対して略奪から人殺しまで何でもしながら、責任逃れだけは上手である。国全体が乱れていようが構わない。」
[くりかえしますが、70年前のこの話は現在にも通用するのでは?] 
『盲人を大切にする国』
「寺社の聖職者以外にも二、三の異なる聖職がある。なかでも盲目の聖職は最も特殊なものの一つと言えよう。それは盲人だけからなっており、他には類を見ないものであるが、国中にある」
[盲人がどくとくの権利をもっていたことも江戸時代の特色で、だからこそ塙保己一のような盲目の大学者も出たわけです]
『一夫一婦制と婦人の自由』
「この国の男性が娶れる婦人は一人だけで、何人も娶ることはない。夫人は自由に外出できるし、人々の仲間にはいることもできる。隣国のように隔離された部屋に閉じこめられていることはない」
[隣国とはシナのことらしいのですが、ツュンベリーにとって日本女性が自由であることはとても印象的だったようです]
『柳条湖の鉄道爆破』
「(公使が本国に送った報告書は間違っていると記したうえで)在中米英の官民の大勢はこうである。「・・・我々が何年もこうあるべきだと言っていたことを日本がやってくれた」「頼むぞ、日本軍。徹底的にやっつけてくれ」」
[これもまた貴重な証言です。タウンゼントの記録は、小堀桂一郎先生や渡部昇一先生も高く評価しておられるようです] 
『歴史学と家政学が必修』
「国史は、他のほとんどの国より確かなものであろうとされ、家政学とともに誰彼の区別なくあらゆる人々によって学ばれる」
[いまの教育よりずっと良かったですね]
『裁判官の数の少なさと公平さ』
「法学についても広範囲な研究はなされていない。こんなにも法令集が薄っぺらで、裁判官の数が少ない国はない。法解釈や弁護士といった概念はまったくない。それにもかかわらず、法が人の身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない。法律は厳しいが手続きは簡潔である」
[身分によらず裁判が公平という驚きがまたも書かれております。おそらくツュンベリーは、江戸の警察組織については知らなかったのでしょう。もし調べていたら、人口に対してあまりにも警察官の数が少なく、にもかかわらず犯罪の少ないことに驚いたでしょう]
『軍艦を盾に賠償金を取った田村総領事』
「(以下大意) 昭和七年の上海事変の直前のこと。福州でも収奪目的の学生秘密結社がたくさんあり、ある日本人教師夫妻が脅されていた。そこで日本の田村総領事は、福州当局や警察に警備を依頼した。中国人の顔を立てたのである。ところが、警備にあたった中国兵は、ある日とつぜん姿を消し、日本人夫婦はたちまち殺されてしまった。グルになっていたとしか思えない。田村総領事は「これは重大な過失である。遺族に五万ドルの賠償金を払うべきだ」とした。ところが中国当局は言を左右してまともな返事をしない。そこで田村総領事は、日本海軍に打電して軍艦を向けてくれと頼み、それを中国側に話した。そうしたら急に五万ドルを持ってきた。・・・日本海軍は実際に来た。中国人には田村式が一番である。それ以後、福州では日本人殺害や反日行動がピタリと止んだ。日本人は最高の扱いを受けるようになった。」
[このエピソードほど、中国の役所の性格を示すものはありません。現在の北京政府が真に重視するのは、核兵器を持っている国だけだと言われます。総理も大臣もマスコミも田村総領事を見習ってほしいです。タウンゼントの言葉を繰り返します。<中国人には田村式が一番である>] 
『進んでいる測量術と地図』
「測量術については、かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」
[このあとの話ですが、伊能忠敬が世界を驚かせた精密な日本全図を作り上げます。ペリーが伊能地図を持って黒船でやってきて、測量したところ、伊能地図がきわめて正確であることが分かって驚いたそうです]
『子供達のための学校』
「子供たちに読み書きを教える公の学校が、何か所かに設けられている」
[江戸時代の日本人の識字率は世界最高だったと言われています。今も最高です。最近ゆとり教育であやしくなっておりますが]
『満州国は三千万の中国人には天国である』
それに比べ、日本が支配する満州国はどうであろうか。・・・あそこに暮らす約三千万人の中国人には満州国は天国である。中国の領土保全・門戸開放・機会均等等を説いたいわゆる「九カ国条約」が結ばれてから十年、一体全体、誰かの役に立ったか。
[これは、渡部昇一さんが長年言い続けてこられた事ですね] 
『工芸品はヨーロッパを凌駕』
「工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕している」
『紙の豊富さ』
「紙は国中で大量に製造される。書くという目的の他、印刷、壁紙、ちり紙、衣服、包装用等々であり、その大きさや紙質はまちまちである」
[以上二件は、世界的に有名ですね]
『楽しい借金の踏み倒し』
「中国人に融資返済を求めるのは、まるで戦争の賠償金を取り立てるようで実に愉快である。借りる時は「耳を揃えてお返しします」と借用証書をだす。貸す側も利益を当て込んで、喜んで融資する。ところが、返済期限になると何やかやと難癖を付ける。加えて契約を反故にするような事態が起こる。昔からある中国の手である。」
[ここに「昔からある」と書かれていますが、この「昔」とは昭和一桁時代から見た昔です。それが今でもまったく同じです。日本が貸した膨大なカネも投資も、いつ戻ってくるんでしょうか。戦前のそれは、戻ってこないどころか、さらにふんだくられました。] 
『漆器の素晴らしさ』
「日本で製造される漆器製品は、中国やシャム、その他世界のどの製品をも凌駕する」
『町や村でも品物は豊富』
「日本人が家で使う家具は、台所や食事のさいに使う物を除けば、他は極めて少ない。しかし衣服その他の必需品は、どの町や村でも、信じられないほど多数の物が商店で売られている」
[村でも同様に商品が豊富であることを記しています。江戸時代の農民の貧しさを強調する人たちに読んでほしい]
『毅然とした態度をとれ』
「典型的な中国人評を紹介しよう。「『礼には礼で答える』という精神が全くない」これである。・・・ある国が中国に優しく接したとする。そういう優しさが理解できないから、これ幸いとばかりにその国の人間を標的にする。遭難者が近くまで泳いできても誰も助けない国である。・・・こういう国との付き合いを誰が望もうか。」
[このことが分からない多くの日本人!] 
『日本ほど放埒の少ない国は世界にない』
「日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埒なことが少ない国は、他にほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるかについて、確かな知識を身に付ける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する」
[現在の高齢者よ、昔の高齢者を見習いなさい!]
『千変万化の交渉術』
「「どことなく怖い」。これがすべての中国人に持つ第一印象である。・・・シロアリの大群に食われるような怖さ、絶えず見張られているような陰湿な怖さである・・・。一日たりとも油断できない。もう一つどうしようもないことがある。中国人には「ノー」の意味がわからない。例えば、入学希望者に「残念ながら入学できません」とお断りしても承知しない。何日でも何週間でもやって来る。・・・いくら負けても涼しい顔。十九世紀、中国の領土保全を定めた九カ国条約のはるか前のことだが、痺れを切らしたイギリスとフランスにこてんぱんにやられたことがあった。また一九〇〇年、義和団が蜂起し、北京を包囲した時は日米英等の連合軍に鎮圧された。しかし、いくら負けても涼しい顔をするのが中国人。・・・同情を得る天才である。これを承知して交渉に当たらなければならない。・・・目的のためには手段を選ばず。・・・上から下まで、自分のことしか考えず、何でもかんでも分捕ろうとする人間である。・・・史上最強の征服王・ジンギス・カーンまで手玉に取った中国人である。単純なアメリカ人など物の数ではない。」
[やれやれ。タウンゼントさんも相当頭にきておりますね] 
『金持ちに都合の良い罰金がない』
「ここでは金銭をもって償う罰金は、正義にも道理にも反するものと見なされる。罰金を支払うことで、金持ちがすべての罰から解放されるのは、あまりにも不合理だと考えているのである」
[たしかにそうです! 罰金刑を公平にするには、その人の年収に比例して決めるべきでしょう]
『中国外交の危険性』
「セオドア・ルーズベルト大統領は「アメリカの中国化」という言葉をよく使った。中国人にすぐ同情するアメリカの世論のことを言ったのである。・・・彼の判断は正しかった。中国人は、いわゆるアメリカ人的考えをまともに受け入れないが、アメリカ人はお涙頂戴の中国人の嘘八百話を、まるで福音書の如く信じているのである。」 
『飲食店は和やかで喧嘩がない』
「日中は、寺男が寺院の鐘をついて時刻を知らせる。また、茶屋や宿屋はどこも非常になごやかな雰囲気で、喧嘩や酔っぱらいには滅多にお目にかからない。それに比べて北欧の西部地方は、それらがあまりにも日常的で、まったく恥ずべきことである」
『犯罪の少ない国』
「当地では犯罪の発生もその処罰も、人口の多い他の国に比して確かにずっと少ないといえよう」
[穏やかだった日本の飲食店も、少なかった日本の犯罪も、ついに外国に追い付いてしまいました!]
『中国問題は日本にとって死活問題』
「日本経済はアジア大陸にかかっている。アメリカは広く世界を相手に貿易を行い、その上国内資源が豊富であるから大したことはない。ところが、日本にとってアジア大陸はまさに命綱である。こう考えて初めて、日本の怒りが理解できるのである。・・・日本の主張はこうである。「列強は『領土保全・門戸開放・機会均等』を厳守するよう日本に迫った。しかるに中国には何も言わない。日本に協力するよう、中国に言わない」と。アメリカとイギリスの肝いりでできた門戸開放政策のおかげで国土を切り取られなかった中国は、恩を仇で返すことが多すぎる。」
[当時の日本の立場を理解する数少ないアメリカ人として、タウンゼントはアメリカでは孤立していたでありましょう。しかし彼のこの本が最近になってアメリカで復刊した事実は、ようやく真相に気付いたアメリカ人が増えてきたという証左でもありましょう。] 
『日本の農民には他国のような苦しみがない』
「日本では農民が最も有益なる市民とみなされている。このような国では農作物についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。(スウェーデンの農民が農業以外の苦役に従事しなければならない例をいくつかひいて)日本の農民は、こうしたこと一切から解放されている。彼らは騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、まったく知らない。そんなことを心配する必要は一切ないのだ」
『誇張されすぎる日本脅威論』
「しかし忘れてはいけない。国際紛争の原因は双方にあるのである。「日本人は戦う覚悟はいつでもできてはいるが、挑発されるのでなければ戦わない」ということが、日本人と長く付き合ってみればよくわかる。・・・(日本の)この三十年の外交は世界に類を見ないほど言行一致している。」
[戦前、昭和初期にも、こういうアメリカ外交官がいたのですね。さぞ孤立していたことでしょう。感謝せねば!] 
『驚くべき農民の仕事ぶり』
「農民の根気よい草むしりによって、畑にはまったく雑草がはびこる余地はなく、炯眼なる植物学者ですら農作物の間に未知の草を一本たりとも発見できないのである」
[植物学者としての感想です。]
『アジアの問題児は中国』
「結論を述べよう。アジア問題の本質はなにか。それは、時代の流れに逆らう中国人の頑迷さである。問題の本質はここにあるのであるが、「それとてたいした問題ではない」と、中国に居を構えるアメリカ人は言っている。期待しすぎてはいけない。現在の権益を保持できればそれで十分である。・・・誰もが異口同音に『中国人の裁判にかかったら最後、まともな裁きを絶対期待できない』と話していた。そして、でたらめ裁判の例を山ほど聞かされた。」
[このあたりの記述では、1927年の南京事件などで中国人がアメリカ人にいかに酷い仕打ちをして生首を並べても、アメリカ宣教師が中国人を弁護すると、宣教師を批判しています。また別の箇所で、酷いことをする中国人を弁護し、紳士的な日本人を嫌うアメリカ宣教師のことが記されています。なお現代中国の裁判の酷さについては、知人で特許関係の仕事をしている人がぼやいておりました。日本では想像もできないような不正が平然となされているとか・・・] 
『他の国のような飢饉がない』
「日本には外国人が有するその他の物――食物やら衣服やら便利さゆえに必要な他のすべての物――はあり余るほどにあるということは、既に述べたことから十分にお分かりいただけよう。そして他のほとんどの国々において、しばしば多かれ少なかれ、その年の凶作や深刻な飢饉が嘆かれている時でも、人口の多いのにもかかわらず、日本で同じようなことがあったという話はほとんど聞かない」
[それでも何回かは飢饉があった――という話がこのあとにありますが、江戸時代の飢饉についての戦後の教育は、あまりにも大げさです。たしかに飢饉の記録はありますが、それは当時の人にとっても異常だったからこそ記録に残されているのであって、その記録の無い期間や無い地方は、ずっと食物があって平穏だったわけです。そういう眼で見ますと、江戸時代は世界の水準に比べて、じつに飢饉が少なかったと言える――と、石川英輔さんはじめ、正統史観の研究者が述べています。板倉聖宣氏は、江戸時代の農民が飢えてなどいなかった事を「物理学の保存則」を使って論理的に証明した有名な学者ですが、その講演を聴いた左翼教師が「お前は江戸時代の農民が可哀想だとは思わないのか」とじつに非科学的な反論をしたそうです。]
『パール・バックの偽善』
「ところで、あのパール・バックは南京虐殺の時、南京から夫と日本へ避難し、日本で「平和ってほんとに良いものですね」と書いている。ところが去年・・・殺人・略奪の収まった南京に戻ったときのことを、「驚いたことにみだらな落書きが一つもないではありませんか」と書いて中国人を持ち上げている。
[略奪にはげんでいるときに落書きなどしてはいられない――と、パール・バックを批判する文章。]
・・・中国人を絶賛するパール・バックが書いていないものがある。あの時、南京では何が起こっていたか。中国兵は笑いながらイギリス領事をその庭先で撃ち殺した。無抵抗のアメリカ人も一人、同様になぶり殺しにした。・・・邸に逃げ込んだ五十人の外国人に、雨あられと弾丸を浴びせた。・・・こういうことを、パール・バックは一切書いていないのである。」
[このあたりの南京事件とは、1927年の事件。多数の外国人がシナ人に襲われ殺された事件です。パール・バックの偽善は、おおくの人が指摘しているようですね。] 
『商売はとても繁盛している』
「商業は、国内のさまざまな町や港で営まれており、また外国人との間にも営まれる。国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行われている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである」
[ツュンベリーにとって印象的だった江戸中期日本人の実態を表すキーワードには、「裁判で身分差別がない」「女性が奴隷ではない」「自由」「清潔」「正直」「公正」「勤勉」「節約」「巧みな工芸」「商品が豊富」「犯罪が少ない」・・・などいろいろありますが、「自由」という言葉が頻繁に出てきます。おそらく、来る前に聞いていたことと反対の自由な日本人の姿を見たのでしょう。下層の農民や上役に仕える武士にすら自由がある、と述べています。この点についても、戦後の教育はおかしいです。たとえば二宮尊徳は農民の出ですが、頼まれて武士階級の指導者になっています。江戸に日本初の私立図書館をつくった小山田与清は、農家に生まれて江戸に移って商人になり、のちに学者になった人です。]
『事実を見て対中国政策の誤りを認めよ』
「つまり、今までの対中国政策は失敗だったと素直に認める以外ないのである。金を貸せば、返してもらえないばかりか悪用される。学校や病院を建てたら、火をつけられる。宣教師は宣教師で、いくら中国人の中に飛び込んで命がけで働いても、教え子に拷問され虐殺されている。ただ外交援助するばかりで、何の罰則もなく甘い顔ばかりしてきたから、かえって暴虐の限りを尽くしてきたのである。」
[戦後の日本の対中外交も、まさにこのようなものだったと思います。膨大な経済援助の結果が反日暴動です] 
 
「明治維新を考える」三谷博  
恥ずかしい話だが、私は近代日本史について――ましてそれ以前の時代についてはなおさら――あまりまともに勉強したことがない。関心がないわけではなく、むしろ非常に大事なテーマだと感じてはいるが(1)、何分にもあまりにも研究史が厚いので、恐れをなして、敬して遠ざけてきたというのが実情である。たまに、いくつかの関連書を読んで啓発されることがないわけではないが(2)、これまでのところ、それは至って断片的・非系統的なものにとどまっている。
そういう中で、ともかくも多少は近代日本史について基礎知識を得ておこうと考えて、非専門家にも読みやすそうに見える本書をひもといてみた次第である。近代日本史についてきちんと勉強したことのない私は、著者である三谷博についても、名前だけはずいぶん前から知っていたが、著作を読んだことはこれまでほとんどなかった。近年では、いわゆる歴史教科書問題に関連して活発に社会的発言をしているらしいことを聞きかじってはいたが、それについてもほとんど内容を知らず、いわばほぼ白紙のような状態で本書を開くことになった。読んだ結果、多くの示唆を得ることができ、「読んでよかった」という感想を素直にいだくことができたのは幸せだった。専門外の本であるので十分理解できないところもあるし、微妙な違和感をいだく部分もないわけではないが、全体としていえば、私にとってすんなり入ってくる議論が展開されており、教えられるところも多かった。そうした感想の主な点を、以下の読書ノートにまとめてみたい。取り扱われている対象に関する素人の感想だから、誤読に由来する的外れな感想も含まれているかもしれないが、ともかく私なりに刺激されたのがどういう点だったかをまとめておきたい。
本書は論文集であり、取り扱われているテーマは多岐にわたるが、統一性のない寄せ集めというわけではなく、むしろかなりの凝集性をもっている。中でも重要な位置を占めているのは、第一に、歴史教科書問題に象徴される諸国間のナショナリズムの衝突――より広くいえば「歴史をめぐる政治」――の問題、そして第二に明治維新についての独自の新しい捉え方――より広くいえば歴史学の新しい方法――である。書物のタイトルからも窺えるように、著者によって重要な位置を与えられているのは後者の方だが、便宜上、前者の方から先に考えてみたい。  
一 ナショナリズムの衝突および「歴史をめぐる政治」をめぐって  
このテーマについては本書第U部で集中的に論じられている。これ自体、いくつかの小テーマに分かれるので、それらを分けて、順次考えてみたい。  
1 「国民説話」と歴史学
この論点は本書でも各所で触れられているが、「日本イメージの交錯」という本のあとがきに最もよく出ているので、そちらを主に参照して考えてみたい(3)。この文章における三谷の主張を簡単にまとめるなら、「歴史認識」には「国民説話」の側面と学問的研究の側面の二面が含まれているが、両者は性格を異にするものであり、混同すべきでない、という風になるだろう。これはある意味で当たり前のようなことの指摘だが、「歴史認識」をめぐって議論が沸騰するときには往々にして両者が混同され、それぞれが「正しい」と信じる「国民説話」があたかも学問的研究に裏付けられた「絶対に正しい」ものであるかに主張されるという現実がある以上、この区別の指摘は重要な意味をもつ。
「国民説話」とは、三谷によれば、政府主導かジャーナリズム主導かといった各国ごとの差異はあれ、いずれにしても「国民」のアイデンティティの核を形づくるものであり、そのために物語を単純化し、絶えず唯一の物語に収斂することを目指すものである。そこには、学問的歴史に見られるような解釈の多様性はなく、むしろ現存秩序の正当化と解釈の斉一化が重視される。また、その話者も聴者も当該「国民」の枠内にとどまり、諸外国の人々のことは念頭におかれていない。このような特徴づけに見られるように、「国民説話」はナショナリズム意識の一つの構成要素をなしており、学問としての歴史研究とは多くの点で性格を異にする。もっとも、ナショナリズムというものを全面否定しない三谷(この点については次項で取り上げる)は、「国民説話」の意義自体を否定してはいない。それにはそれなりの意義があると認めた上で(4)、それとアカデミックな歴史学との関係を考えようというのが三谷の姿勢のようである。
いまみたように「国民説話」と学問研究は性質を異にするが、では両者は全く別のものとして分離してしまえばいいのかといえば、そうともいえない、と三谷は述べる。「国民説話」には単純化がつきものだとはいえ、学問的裏付けをもたず、資料の批判的吟味を伴わないなら虚偽以外の何ものでもなくなってしまい、説得力を失う。従って、「国民説話」が根拠を欠いた手前勝手な物語に堕すのを食い止めるためには、学問研究が重要な役割を果たす。また、学問的次元での議論は、話者が国境を超えた学問共同体を意識して参加するかぎり、意味ある対話が諸国の学者たちの間で成り立ちうるが、そうした学問的対話の経験とノウハウは、より対話の難しい「国民説話」レヴェルでの議論が不毛な敵対感情の昂進にならず、少しでも有意味な対話に近づくようにと努める際に、重要な参考となると指摘される。やや我流に言い換えるなら、歴史学は「国民説話」のあり方を直接規定するものではないが、それがよりよいものになる上で一定の貢献をすることができる、という考え方といってよいだろう。
ここでの文脈を離れて、より広くいうなら、歴史上の諸問題をめぐってさまざまな論争が展開されることはよくあるが、そのかなりの部分は純然たる歴史学上の論争というよりもむしろ「歴史をめぐる政治」――この言葉は三谷のものではなく私のもの――ともいうべきものであり、「国民説話」をめぐる諸論争もその一種だといえるだろう。本書の直接的テーマである東アジアの例だけでなく、私の専門である旧ソ連の例を含めて、「歴史をめぐる政治」が現代政治のホットな争点となっている例は少なくない。そこにおいて歴史解釈/歴史叙述/歴史教育等々が論争の主要な場をなしている以上、歴史家も無関心ではいられないが、「歴史をめぐる政治」それ自体は歴史学上の問題というよりはむしろ現代政治上の一トピックであり、専門研究者としての歴史家がこれにどのように関わるべきかは微妙である。
私見を言えば、「歴史をめぐる政治」は現代政治上の争点である以上、歴史家が独占的発言権を持つものではない。むしろ、それは国民一般の公的討論に委ねるべきものと考えるのが筋である。そして、「歴史をめぐる政治」と学問としての歴史研究が次元を異にする以上、歴史家がそうした論争に不用意に巻き込まれるのは避けた方が無難だという風にも感じられる。そうではあるのだが、話題が歴史家にとって無縁のものでない以上、ただ避けてばかりいるのも無責任ではないかという問いもまた突きつけられる。三谷の態度は、歴史研究と「歴史をめぐる政治」の違いを明示した上で、前者の側から後者について発言できる範囲を明確化するというもので、共感するところが大きい。 
2 ナショナリズム/国民国家について
三谷は視野の狭い排他的なナショナリズムに対しては明らかに批判的であり、昨今それが一部で高まりつつあることに懸念を表明しているが、だからといってナショナリズム/国民国家一般について否定的態度をとっているわけでもない。たとえば、「個人のアイデンティティと同じく、国民のアイデンティティも全体としては肯定的であるのが自然な姿」であるとか、文部科学省の定めた学習指導要領に「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を深める」ことと並んで「他民族の文化、生活などに関心を持たせ、国際協調の精神を養う」と記されていることに注意を促し、これは「かなり有用な基準」だとした記述がある(前注4も参照)。ここに窺えるのは、いわば穏健でリベラルなナショナリズムに好意的な姿勢である。
そのことと関係して、近年、一部の論者によって盛んに主張されている「国民国家の脱構築」論に対しては、三谷はある種の違和感を表明している。もっとも、「脱構築論」が間違っていると主張しているわけでもない。具体的には、次のように述べられている。
「国民アイデンティティは、他のアイデンティティ同様、造られたものである。したがって、その本質性や重要性は自明でなく、脱構築論がそれを暴き、流動的なアイデンティティへの還元を示唆するのは、自家中毒を回避するために大事なことである。しかし、一度、凝結した固定的アイデンティティは、いわば物神化した力として人々を支配し、脱構築の持つ力とは比較にならぬほど強力である。それゆえ、ナショナリズム自体をナショナリズムと同じレヴェルで制御する工夫も不可欠なのである」。
右に引用した文章のうち、第一、第二センテンスはもとより、第三センテンス(「しかし……強力である」)についても、おそらく多くの「脱構築」論者は賛同するだろう。そして、だからこそ、そのように強力な固定的アイデンティティに対抗するため、声を大にして脱構築論を説かねばならないのだと主張するのではないだろうか。とすれば、三谷と「脱構築」論者の違いは第四センテンスのみ――もっとも、このセンテンスはやや意味を汲みとりにくいところがあるが――であり、それほど大きくはないということになるかもしれない。
私自身も「国民国家の脱構築」論に対して、その理論レヴェルでの基本的妥当性を認めると同時に、それがやや一本調子に振り回されること――一種の政治的アジテーションへの傾斜――への違和感をもっているので、その点では三谷の態度に共鳴するところがある。もっとも、三谷の態度は先に述べたように穏健ナショナリズム論ともいうべきものだが、それへの多少の疑念がないではない。
穏健でリベラルなナショナリズムと閉鎖的で排他的なナショナリズムとを区別すべきだという考え方には、それなりの理がある。ナショナリズムというのは非常に多様な潮流を含む雑多な思想・運動・心情の総称であり、その全部を同列視するのは乱暴な議論である。また、ゆるやかな意味でのナショナリスティックな心情は相当広い範囲の人々に浸透しているから、それをも全面否定してしまうのは非現実的であり、少数の知識人の自己満足と孤立に終わりかねない。そこまでは分かるのだが、「穏健でリベラル」だったはずのナショナリズムがいつの間にか「閉鎖的で排他的」なナショナリズムに転化してしまう実例も枚挙にいとまがない。両者を十把一からげに非難すべきでないとしても、前者が後者に転化してしまう危険性への歯止めのようなものについても考えておかないと不十分ではないだろうか。やや神経過敏といわれるかもしれないが、私としてはその意味で、たとえ「穏健でリベラル」という形容詞が付けられるにしてもナショナリズムに対するある種の疑念――強くいえば、一定の警戒心――を捨てきれない。
いま述べたような留保はあるが、ともかくここに見られるバランス論は、ややもすれば極論ばかりが幅を利かせやすいナショナリズム論の現状の中では貴重であるように思う。 
3 中国・韓国の「反日ナショナリズム」について
三谷の専門は日本史だが、中国・韓国の留学生などと接する経験を通して、中国・韓国の「反日ナショナリズム」についても立ち入った認識をもつに至ったようで、それがどういうものなのかについて、分かりやすい説明を提供している。その前提として重視されているのが、「忘れ得ぬ他者」という概念である。「忘れ得ぬ他者」とは、「自己」主張するために必ず引き合いに出される「他者」のことであり、近世日本にとっての中国がその好例だとされる。そして、一九世紀のドイツ人にとってのフランス、同時代のアメリカ人にとってのイギリス、植民地とその後継国家にとっての(旧)宗主国、現代のほとんど全ての国民にとってのアメリカ合衆国などが「忘れ得ぬ他者」のさらなる例として挙げられ、現代中国・韓国にとっての日本もその例だというのである。この「忘れ得ぬ他者」は愛憎半ばする対象であり、時によって愛憎のどちらか一方が表に出るが、背後に隠れていたものが条件次第で表に現われる――憧れから敵愾心へ、またその逆――こともよくあると指摘される。
ネーション意識に限らず、アイデンティティというものが一般に「他者」との関係で形成されるのは当たり前だが、「他者」一般ではなく「忘れ得ぬ他者」と表現するところに、歴史家のセンスが現われているように思う。現代中国・韓国について説明する際に、江戸時代日本の例――現実の中国との接触は小さくなっているのに、中国との対抗が意識の中に大きな位置を占め続けた――を下敷きにするのも、歴史家ならではのセンスだといえる。また、それ以外の世界諸国の例を引き合いに出しているのも、中国・韓国と日本の関係だけを突出させることなく広いパースペクティヴの中でものを考える上で有益である。
「忘れ得ぬ他者」は、現実の関係が薄くなっても、長いことアイデンティティ形成の核となって残る。もっとも、絶対に変わらないというような宿命があるわけではなく、条件次第で、また長い目で見れば、変化の可能性があるが、それにしても、その変化はそう簡単に生じるわけではない。この認識を基礎にすると、現代中国・韓国が戦後数十年経ってもなお日本を「忘れ得ぬ他者」としていることが理解できる。また、ある国を「忘れ得ぬ他者」と意識する側とそのように意識される側の間の関係は、しばしば非対称的なものである。現に他者を支配している最中の国は相手のことをそれなりに意識せざるを得ないが、その関係が過去のものとなれば、支配した側は相手のことを「忘れる」。これに対し、支配されていた側は相手のことを「忘れ得ぬ」ものとして長らく意識し続ける。こうした非対称性およびそれに由来する意識の齟齬は、ここで取り上げられている例を離れて他にも様々な例を考えることができるだろう。いずれにしても、齟齬の存在自体を直視し、そのことによって少しずつほぐれる方向に向けて努力することが必要ということになる。 
4 過去の罪業に対する責任
近隣諸国との関係の歴史を考える際に留意すべき問題点の一つとして、本書では特に世代間の責任継承の問題が取り上げられている。戦後生まれの日本人がどうして戦前・戦時のことについて責任を問われるのかという問いである。そこでは、次のように書かれている。
「「なぜ、隣国の人々は、今ごろ、何年も経ってから、直接責任のない我々に非難の声を浴びせるのか。いい加減にしてほしい」。これは、表向きには語られないが、多くの日本人が心の奥に潜ませている、切実な声である。それは……普遍的な難問であって、決して責任逃れの弁とばかり見なすことはできない。この不条理への配慮がないと、日本の国民の間には言われなき批判という怒りが蓄積されるに違いない。些細な事件をきっかけに、それが爆発的なカタストロフに転ずることを、私はもっとも恐れている」。
この引用文の前段は、ナショナリスティックな心情をもつ日本人の意識を、そのまま正当化するわけではないまでも、ある程度理解しうるとするもので、先に見た穏健でリベラルなナショナリズムという立場と符合する。その点については既に述べたので繰り返さない。それはさておき、この後段の部分は重要な指摘を含むが、二通りのことが十分区別されずに提起されているような気がする。その一つは、直接的な責任と間接的な責任とを混同するのは本来論理的に不適当だという指摘――だからといって間接責任を曖昧にしてよいというのでないという点は後で見るとおり――であり、もう一つは、本来的に的確な批判であるか否かは別として、批判の仕方に「配慮」を欠くと、批判された側は「言われなき批判という怒り」を蓄積してしまい、「爆発的なカタストロフに転ずる」おそれがあって危険だという点である。あるいは、三谷は配慮を欠く批判はそれ自体として本来的に不適切なので、この二つは同じことだと考えているのかもしれないが、私はそこのところは分けて考えた方がよいように思う。論理のレヴェルでは的確な批判であっても、その提示の仕方が配慮を欠くために感情的な反撥を招いてしまって、結果的には逆効果ということも大いにありうるからである。
たとえば、同情すべき条件のもとで犯罪を犯した人のことを考えてみよう。その人は、一方で内心に疚しさを感じつつ、他方で、「自分が犯罪を犯したのはやむを得ない事情があったせいなのだから、そんなに強く非難されるいわれはない」という気分もかかえているだろう。それにしても犯罪は犯罪だから、量刑において情状を考慮することはあるにしても、有罪か無罪かという点でいえば有罪とするほかない。ということは、その人を非難すること自体は適切だということである。しかし、たとえばマスコミ報道が過剰なセンセーショナリズムを煽り、「極悪非道」というようなイメージを広め、「吊るし上げ」的な雰囲気を広範囲につくりだしたなら、当初は素直に謝罪しようと思っていた犯人も、あまりの袋叩きに反撥し、「言われなき批判という怒り」を蓄積して、遂には世間全体を敵視するようになるかもしれない。この場合、非難すること自体は正当なのだが、非難の仕方が配慮を欠くことによって望ましくない結果を招くということになる。このような関係は、文字通りの犯罪に限らず、差別的言動などについても、よく見受けられるものであるように思う。民族差別、女性差別、部落差別、障害者差別等々に関して、差別的言動を糾弾すること自体は本来正当なことなのだが、その糾弾の仕方が配慮を欠くために、糾弾された側の反感を煽り立て、不毛な憎悪の応酬に至るといった例は決して珍しくない。これは三谷の主題とは直接関わらない話で、一種の脱線である。ただ、批判の仕方における「配慮」の重要性、そしてそれが欠けた場合に批判された側が怒りを蓄積して危険な帰結をもたらすという構図を抽象化して捉えるなら、広い適用範囲を持つ議論とみることができ、三谷の指摘はその一つの例という風に位置づけられるのではないかと思う。
脱線から本筋に戻るなら、ここで三谷が問題にしているのは、過去に罪を犯した本人の負う直接的な責任と、本人ではない別の人――ここではその子孫――が負う間接的な責任の区別と連関ということである。この点について三谷は、刑法上の責任は子孫におよばないが、民法の観点からいえば遺産相続人は正の遺産と負の遺産(債務)の双方をあわせて相続するという比喩を用いて、親の世代から恩恵をこうむった世代は親の世代の負の遺産をも受け継がないわけにはいかない、という風に説明している。比喩はあくまでも比喩であって、それだけで全てを説明することができるわけではないが、大まかな意味では一応の説得力をもつ議論だといえよう。
「戦争責任」と「戦後責任」を区別し、戦後世代には直接的な意味での前者はなくても間接的な意味での後者があるという議論は、ずいぶん前から提示されており(5)、それ自体としていえばとりたてて新味があるわけではない。私自身も数年前の著作で、ある程度この問題を考えようとしてみた(6)。しかし、この問題は冷静な論理のレヴェルだけで決着がつくわけではなく、いつまで経っても、過度に単純化された二項対置的構図での不毛な論争が続いているのが現状である。これは何ともやりきれない感を懐かせるが、二一世紀初頭に再燃した国際的論争の中で、三谷は健全なバランス感覚を発揮して重要な役割を果たしているように見える。 
5 全体の背後を貫く政治的ないし思想的立場のようなものについて
ある本の感想をまとめるに際して、著者の立場に過度にこだわるのは往々にして不毛であり、時としては全く不要なことである。とはいえ、人文社会系の研究においては、思想的立場というものを全く無視することもできないし、本書のような一般読者向けの書物では、そうした側面が純学術書よりも相対的に大きい。著者自身が自己の立場を明言した個所もある以上、その範囲内で、そうした問題について論評することも許されるだろう。
三谷の立場を簡単にまとめるなら、マルクス主義に対する違和感をもちつつも、右翼反共主義へと流れるのではなく、リベラルな立場を維持しているという風にでもいえるだろう。本書の中には、著者の立場を明示した個所がいくつかある。たとえば、「歴史学研究会の会員でもなく、その標榜する「科学としての歴史」を信奉しているわけでもない」とか、「直接師事したのが共産党を離脱した伊藤隆先生や佐藤誠三郎先生であったせいか、いずれかといえば反共産主義者と分類されて、例えば、日本の人文社会学界の主流をなす出版社である岩波書店や東京大学出版会などの講座ものに執筆を依頼されることは、ついぞなかった」といった記述である。そして、そうした「アウトサイダー」に「主流」から原稿依頼が来るようになったことに軽い戸惑いを表明し、「世の中も変われば変わるものだ」、「どういう風の吹き回しであろうか」と書かれている。と同時に、だからといってへそを曲げるのではなく、かつての「主流」の流れを汲む人たちとの対話に応じる態度を表明している。これは立場の違いが対話不能状態を生み出しやすい日本の知識人の世界の中では、わりと珍しい、貴重な態度であるように思う。
第二次大戦後、ある時期までの日本の人文社会科学において、マルクス主義の影響が強かったのは周知の事実である。もっとも、ある時期以降、マルクス主義もずいぶん多様化したし、また非マルクス系の研究も次第に増大してきたから、特定の一つの立場が学界を独占的に支配し続けてきた――そのように単純化して描き出されることも多いが――というようなことではない。三谷は一九五〇年生まれとのことで、私とほぼ同世代だが、この世代が研究生活を開始した七〇年代には、マルクス主義の「権威」が次第に低下しながらも、まだかなりの強さをもっていた。他面、そのような「少し前までの絶大な権威」への反抗から、その逆の方向に突っ走るという傾向もその頃から一部に芽生えており、それはその後に一層強まっている。「かつてマルクス主義者にいじめられた」というルサンチマンから、極端な右翼反共主義の心情を露わにしている人も珍しくないし、そこまで心情的でない人たちの間でも、そうした考えに同調する傾向が次第に強まっているようにみえる。
そういう風潮に照らすなら、三谷は、もともとマルクス主義者だったことがないおかげで、「信じていた理想に裏切られた」という恨みつらみをもたずに済んでいるのかもしれない。ともかく、淡々とリベラルな態度を貫いているように見え、好感が持てる。
そのような著者の姿勢は、三人の歴史家についての批評(本書第V部)によく現われている。マリウス・ジャンセンを高く評価しているのは、かつて「近代化」論をイデオロギー的に裁断していた左翼歴史学への抗議の意味があるのだろう(7)。他面、講座派の闘将、遠山茂樹に対する評価は、確かに批判的ではあるが、笠にかかってやっつけるというのではなく、むしろ意外に暖かい。マルクス主義退潮の今日、かつてのマルクス主義史家を居丈高にやっつけるのは容易な業だが、三谷はそのような安易な態度を避け、批判的でありながら節度を保っている。司馬遼太郎については、一方でアカデミズム史学が彼を無視してきたことを批判しつつ、他方で司馬史観の問題性についてもきちんと指摘しており、こうしたあたりにも穏当なバランス感覚が発揮されている。 
二 明治維新論 / あるいは歴史学方法論  
三谷は本書で、明治維新解釈に際して重大でありながら見落とされてきた謎をいくつか挙げ、それらをどのように解釈すべきかという問題を提示している。謎の一つとして比較的重視されている論点に、犠牲者数の少なさ(約三万人であり、フランス革命の一〇〇万人よりはるかに少ないとされる)がある。もっとも、私の感想としては、これはこれで重要な指摘かもしれないが、世界の歴史にはこれ以外にも、重大な変動のわりには犠牲が少なかったという例はあり、この点を特に取り出して強調することにどれほどの意義があるのかはよく分からない。ソ連解体をはじめとする旧社会主義諸国の体制転換も、ルーマニアを唯一の例外として、非常に平和的な大変動で、犠牲者数も極小だった(8)。
本書の中でより重要な位置を占めているのは、「複雑系」研究を参照した独自の歴史研究方法論である。歴史研究に他の分野の発想を借りてくることは、成否は別として、ひとつの試みとして有意義だと私も思う。かつて――私の若かった数十年前まで――物理学が「諸学の王」と見なされていた時代があり、さまざまな分野の「科学性」の度合いが物理学との距離で測られたりしていたが、今や生命科学や情報理論などの新しい分野の発展により、自然科学の世界も様変わりしているらしい。そういった新しい動向を吸収するのはもちろん有意義だが、具体的にどういう風に摂取するかはなかなか難しい問題で、いろいろと迷いや疑問も感じる。一つには、自然科学の最新の動向を、その方面の素人である人文社会系の研究者がどこまで的確に理解できるのかというおそれのようなものがあるし、もう一つには、仮にある程度まで理解できたとしても、それをどのように変型して適用するかがこれまた非常に難しい問題で、一筋縄には行かないのではないかという予感がするため、おいそれとその作業に手を出す気にはなかなかなれない(9)。そのように迷い続けている私とは違って、三谷は身近に「複雑系」の専門家がいるおかげで、それを逸早く吸収することができたという。「複雑系」に通じていない私には十分理解できないところが残るが、ともかく結論的な主張についてみるなら、いくつか興味深い指摘がある。
本書で特に強調されているのは、大きな変動には主要な原因があるに違いないという発想を放棄すべきだという論点である。「大きな結果が生ずるには、大きな、目立った原因があるはずだという思いこみを捨てねばならない」というわけである。これは必然論よりも統計的蓋然論の重視、そしてまた多様な要因が次々と重なる経過を追求することの重視につながる。これらの指摘は確かに当たっているように思われる。もっとも、こうした指摘だけであるなら、何も「複雑系」論を借りるまでもないのではないかという気もする。ここで言われているのは、一言でいえば、単線的なあるいは目的論的な歴史観の否定ということではないだろうか。そして、そのように言い換えるなら、ある意味では当たり前のことを言っているようにも見える。
「複雑系」研究から借用される洞察をもう少し特定した個所としては、次のような叙述がある。一九九五年のミニ・バブルを素材にとった経済過程のシミュレーションによる数理的研究によれば、1個々の時点で生じうる経路はさほど多くない、2分岐点で現実に生ずる路は、確率的には小さいものでありうる、3巨大な変化に見える事件は、小さい方の予測が実現した場合ではないか、といったことが指摘されている。
我流に言い換えさせてもらうなら、歴史のたどる行路は単一のものとして法則的に定まっているわけではないが、かといって、ナンデモアリというほど多様でもなく、現実に生じうるシナリオの数は比較的限られている。そして、それらのシナリオのうちのどれが現実に選ばれるかといえば、確率が高かったものとは限らない。むしろ、確率の低かったものが選ばれた場合に「巨大な変化」が生じたということになる、ということだろうか。
このような歴史観は確かに興味深いものだが、とりたてて斬新だともいいきれないような気がする。私は三谷の「複雑系」論を読んで、かつてE・H・カーがレーニンとスターリンの関係について次のような比喩で説明したのを思い出した。
「レーニンが塀の上で一方の側へ軽く傾いただけのところを、スターリンはどしんと落ちてしまったというのは事実である。しかし、塀はそこにあったのであり、その上にいつまでもとどまっていることは不可能であった。スターリンは、レーニンは少なくともその方向を指摘したのだと主張したのかもしれなかった(10)」。
塀の上にいる人がいつまでもバランスをとり続けるのはほとんど不可能なことであり、いずれは一方の側に転落するというのは、ある意味では不可避である。しかし、どちらの側に、いつ転落するかは予め確定しているわけではない。カーはレーニンが軽く傾いた方向にスターリンがどしんと落ちたと書いているが、論理的可能性としては、反対方向にどしんと落ちることもあり得ただろうし、もう少し長いこと塀の上にとどまり続けることも、確率はともかく、あり得たかもしれない。なお、ここでカーが「塀の上にとどまる」とか「どしんと落ちる」という比喩で念頭においているのは、世界革命論と一国家としての生き延びのバランスのことであり、「どしんと落ちる」とはスターリンの一国社会主義論を指している。しかし、この比喩を別様に解して、例えば「民主」と「独裁」の微妙なバランスについて同じように考えることもできよう。この場合、スターリンが「どしんと落ちた」のは「独裁」の側、反対側に落ちた場合には革命の目標の放棄(資本主義への復帰)、塀の上に長くとどまるのは、「民主」を保ちながらの社会主義化――それを長期にわたって継続するのは、絶対に不可能とまで言い切れるかどうかはともかく、きわめて困難――といった具合になるだろう(11)。
これ以外にも、いろいろな例が考えられる。相対的に安定した状況における変化というものは通常連続的だが、時として、ある種の臨界点を超えた途端に大規模な非連続的変化が起きることがある。雪崩現象とか、バンドワゴン効果と呼ばれるものはみなそうしたものだろう。「自己成就する予言」にしても、「あの予言は多分当たるのだろう」と考える人が少ないうちは大した影響力をもたないが、その比率がある閾値を超えると、急激な変化が生じて、「予言」を「成就」させる。微小な変化の漸進的累積がある時点で閾値を超え、一挙にドラスティックな、あるいはカタストロフィックな変化を起こすというのは、昔懐かしいヘーゲル風の言い方では「量の質への転化」に当たるともいえるのではなかろうか。本書で歴史教科書論争に関連して、ナショナリスティックな激情が燃え上がるのを防ぐには「初期消火」が重要だということが指摘されているが、比喩であれ文字通りの意味であれ、はじめは小さかった火事が大火災になるかどうかは「初期消火」の成否によって分かれるというのも、これと似たところがある。
一般論として、漸進的変化が閾値に到達する少し手前の時点で、その先の経路に関する予測を考えるなら、二通りのシナリオを想定することができる。1これまでは微小な変化が漸進的に進むだけだったが、まもなく閾値を超え、一挙の激変が起きるだろうという予測と、2これまで進行してきた漸進的変化は閾値に達する前に停止し、激変のないままに尻すぼみに終わるという予測である。そのどちらが実現するかは、事後的にしか分からず、事前にはただ確率論的に考えるしかない。もっとも、自然科学や経済学などの「複雑系」研究においては、この確率を精密な数学的手法で計算することができるのに対し、人間社会の歴史事象の多くの場合については、あまりにも雑多な要因――しかもその多くは定量的に測ることができない――が関与するため、確率論的に考えるといっても、しょせんは「目の子」の勘に頼るしかないといった差異があるだろう。この点は科学的精緻さという観点からは非常に大きな差だが、ともかく単一の結末を必然的にもたらす決定論的法則という発想をとらず、むしろ確率論的発想をとる点、また通常は連続的な変化が条件次第で時として一挙的激変(カタストロフィー)を引き起こす可能性を認める点には、ある種の発想の共通性があるといってよいのかもしれない。 
三 三谷史観のソ連解体への応用  
明治維新を例にとった三谷の歴史観は、他のさまざまな歴史的事件についても適用可能ではないかと思われる。そこで、これを私自身の専門に引きつけて、ソ連解体の場合について考えてみたい(なお、明治維新とソ連解体は犠牲者の少なさという点でも共通するが、これについては既に前述したので、ここでは繰り返さない)。
多くの人の漠然たる一般的見解として、ソ連解体は「起きるべくして起きた必然的な成り行き」と捉えられていると言ってよいだろう(12)。そして、その「必然性」の根拠は、「誤った理論に基づいて構築された、非合理的かつ圧制的な体制だから、そういう体制は長続きするはずがない」というところにおかれている。これはあまりにも広く普及していて、異を唱えることなどほとんど思いもよらないというのが現状である(ごく少数の未練論者がいないわけではないが、ここでは度外視する)。しかし、内容を離れて発想の型に注目するなら、これは典型的に「歴史必然論」的な発想――その意味ではヘーゲル・マルクス的発想とも言い換えられる――である。圧制的な体制が倒れて自由が勝利するというのは「目的論」的な発想だし、大変動を単一の根本原因(誤った理論に基づく非合理的な体制)に帰する発想でもあり、要するに、本書で三谷が批判している歴史観の典型ということになる。
これに対し、三谷理論をソ連解体に適用するなら、ソ連解体もまた、「必然」でもなければ、特定の「根本原因」に帰されるものでもなく、多様な要因が連鎖的に積み重なっていくうちに、思いがけず実現してしまった、ある特異な過程という風に捉えることができるはずである。ゴルバチョフが登場した一九八五年の時点で、その後のソ連がとりうる経路について考えるなら、それは単一ではなく、無数とはいえないまでもいくつかの数のシナリオがあり得たはずだ、と考えることができる。そうしたシナリオとしては、1実際にその後に起きたような解体、2各種矛盾を弥縫策でしのぎながら、不透明な状態がだらだらと続く、3急激な保守反動(古典的なスターリン体制への復古)、4ゴルバチョフが期待したような、平和的で犠牲の少ない漸進的体制転換(私の表現では、社会主義の「安楽死(13)」)、などが考えられる。これらのシナリオのうちどれがどのくらいの確率をもっていたかを厳密に計算することはもちろんできないが、ともかくそうした複数のシナリオがあり得た以上、現に生じた1は「必然」とか「法則的結果」ということではなく、また実現確率が最も高かったとは限らないということになる。4についていうなら、その実現確率は相当低かったというのが大方の見解だろうし、私もそう思う。ただ、確率がゼロでなかった以上、三谷史観に則っていえば、「実現確率が低かったものが意外に実現したかもしれない」という考え方もありうるはずである。
このようにいうと、ソ連が解体しなかった方がよかったとか、ゴルバチョフの狙いが達成されていたらよかったという「未練論」と誤解されるおそれがある。だが、必然論を批判し、あり得たかもしれないオールタナティヴを考えることは、決して「未練論」と同一ではない。「こうだったらよかったのに」という心情的な議論ではなく、あくまでも研究上の一つの手順、一種の思考実験として、「こういう可能性もあり得た」「現に生じたことが唯一の可能性だったわけではない」と考えることは有意味である。なお、三谷はこうした歴史上のオールタナティヴないし「歴史におけるif」に関連して、カーの「歴史とは何か」を批判している。「歴史を考えるには、反事実的仮定が本質的に重要」であり、「ifを考えねば未来への選択は不可能になる」というのである(注33)。この指摘自体は当たっているが、ここでのカー批判はやや性急であるように思う。私自身、カーの見解には問題が含まれていると思うし、「歴史におけるif」を考えないわけにはいかないという点で三谷と同意見だが、そのことと「未練論」批判とは区別することができるはずである(14)。
実際問題として、ペレストロイカ前夜のソ連において、大衆が当時の体制に強い不満をいだき、爆発寸前だったというような事実はない。そのため、変化の最初のきっかけは、「下からの反乱」ではなく、現体制の改良を目指す「上からの改革」として始まった。ソ連共産党書記長となったゴルバチョフの始めた改革の試みが結果的に共産党体制解体に行き着いたのは、三谷が明治維新を「士族層の不可解な自殺」と特徴付けるのと似たところがある(15)。
ゴルバチョフ政権下で言論が自由化し、各種政治統制がゆるめられてからは、様々な言論や大衆運動が登場し、それはやがてゴルバチョフの思惑を超えて展開していった。だが、そのような大衆運動にしても、少なくとも最初の数年間は、「社会主義」というシンボルに対しては肯定的イメージを持つ人々が大多数であり、「既存の社会主義とは異なる、よりよい社会主義」を目指す運動という性格が濃厚だった(16)。つまり、ある時期まで、ほとんど誰も――ごく少数の、孤立した人々を除けば――体制転換など全く考えていなかったのである。ところが、その後の様々な事態の積み重なりの中で、一九九〇‐九一年になって、急激に体制転換のうねりが高まった。これはまさに、三谷のいう《原因よりも過程重視》の歴史観察に適した事態ではないだろうか。
三谷がこのような見方をどう受け止めるかは、ただ推測するしかない。かつて左翼的イデオロギーに凝り固まった歴史家たちから仲間はずれにされていた経験をもつらしいから、そうしたイデオロギーの張本人ともいうべきソ連体制は非常に疎ましいものであり、それが消えてなくなったのは明るく喜ばしいことだと感じているかもしれない。念のためいえば、私自身もソ連体制は非常に疎ましいものだと、もとから考えていた。ただ、それがそう簡単には消え失せないだろうという想定の下、そうした疎ましい体制の存立メカニズムの解明を長期課題として設定していたところ、「長期課題」であるはずの相手があまりにもあっけなく消滅して、脱力感を覚えた。私がソ連解体は必然とはいえないと考えるのは、ソ連体制が立派なものだったと考えるからではなく、疎ましい存在が長続きすることは大いにあり得るし、そのような存在の存立構造の解明も重要な研究課題たり得ると考えるからである。
そうした感覚の問題は別として、論理のレヴェルで三谷史観をソ連解体過程に当てはめるなら、先に述べたような捉え方が自然ではないだろうか。そして、それはソ連解体の把握として、現在隆盛を極めている安易な必然論よりもはるかに歴史の実相に迫るものであるように思われる。 
(1)これは単なる儀礼的な挨拶ではない。私の若い頃には、社会科学の主要な理論は西欧諸国の経験を基礎にして構築されるものであり、日本をはじめその他の諸国の歴史は単なる応用ないし特殊例として扱うという発想が優勢だったが、それから数十年を経る中で、日本という特異な事例を基礎にして独自の社会科学理論を構築することができるのではないかという発想が徐々に拡大してきたように思われる。とすれば、社会科学のどの分野を学ぶ者にとっても、「日本」という場を対象とした議論を視野の外に置くことはできないということになる。こういうことを漠然と感じるようになってからも、もう結構長い時間が経っており、あれこれと思いをめぐらすこともあるが、なかなかそれを具体化することができないというのが現状である。
(2)そうした非系統的な読書の一つの産物として、小熊英二「〈民主〉と(愛国)」の読書ノートを書いたことがある。その他、坂野潤二の政治史研究、各種の日本的経営論・労使関係論などから様々な刺激を受けているが、それらを踏まえた自己流の考えをまとめる段階には程遠い。
(3)三谷博「あとがき――「歴史認識」をめぐって」(山内昌之・古田元夫編「日本イメージの交錯――アジア太平洋のトポス」東京大学出版会、一九九七年)。短文なので、頁数指示は省略する。
(4)たとえば、「常人に安定したアイデンティティを与えること」は学問的歴史学にはできないので、「国民説話」の役割だとされている。
(5)代表的には、大沼保昭「東京裁判から戦後責任の思想へ」東信堂(種々の版があるが、私が利用したのは、一九八七年刊の増補版)。
(6)塩川伸明「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第二‐四章。
(7)当時「近代化論」批判の有力な論者だった和田春樹は私の師の一人だが、一九六〇年代に和田が書いた近代化論批判の文章を今の時点で読み直すと、過剰なイデオロギー色があると感じないわけにはいかない。もっとも、これはあくまでも今から振り返っての後知恵だということを断わっておくべきだろう。近代化論についての私見は、塩川伸明「現存した社会主義」勁草書房、一九九九年、第V章第2節、および「《20世紀史》を考える」第六章参照。
(8)ペレストロイカ期のソ連で、主として民族紛争がらみで何度か衝突事件が起き、一定の犠牲が出たことはあるが、それは体制転換是か非かという対抗軸と直接関わるわけではなかった。また体制転換後に大規模な内戦や武力衝突の起きた旧ユーゴスラヴィア、タジキスタン、チェチェンなどの例もあるが、それらはあくまでも体制転換以後の新しい情勢の産物である。体制転換の決断それ自体についていえば、意外なほど平和的かつスムーズに進行したというのが基本線である。
(9)最先端の自然科学理論を歴史学に摂取しようとした試みの例として、冷戦史研究で名高いギャディスの著作があるが、あまり成功しているという感じを受けない。ジョン・L・ギャディス「歴史の風景――歴史家はどのように過去を描くのか」大月書店、二〇〇四年。
(10)E・H・カー「ロシア革命の省察」みすず書房、一九六九年、二四五‐二四六頁。
(11)レーニンとスターリンの連続・非連続をめぐっては膨大な議論がある。さしあたり、塩川伸明「終焉の中のソ連史」朝日新聞社、一九九三年参照。
(12)小さな言葉づかいの問題だが、「ソ連崩壊」という表現が広く一般に使われているのも、そうした歴史解釈を暗に前提しているように思われる。「崩壊」でも「解体」でも大差ないようなものではあるが、「崩壊」の方が「自然の勢いとして必然的に起きた」というニュアンスがより濃いような気がする。所詮は漠然たるニュアンスの問題だから、それほどこだわるわけではないし、私自身も時に「崩壊」の語を使うことがあるが、「自然の成り行き」という含意を避けるためには、「解体」の方がふさわしいように思う。
(13)「安楽死」とは、旧体制の核心的要素を放棄するという意味では「死」だが、それをできるだけ苦しみのない穏やかな方法で実現しようと努めるという趣旨である。旧体制を改良して温存するという「改良」ないし「再生」路線と「安楽死」とは、外観的には似たところがあり、区別が難しい面があるが、原則的には「死」と「再生」との違いがある。ゴルバチョフは当初「社会主義再生」路線から出発し、ペレストロイカの過程を経て、なし崩しに「安楽死」路線に至ったというのがここでの解釈である。塩川伸明「ソ連とは何だったか」勁草書房、一九九四年、第W章、「《20世紀史》を考える」第9章など参照。
(14)「ソ連とは何だったか」第W章、「《20世紀史》を考える」第11章。
(15)「自殺」という特徴づけは、かつての共産党エリートが今でも生き残っている以上不適切ではないかという批判がありうる。確かに、旧共産党エリートの一部は体制転換後に「ノメンクラトゥーラ資本家」として生き延びているが、それはそれなりの適合・変容過程を経てそうなったのであり、何の変化もなしにそのまま残存しているわけではない。江戸時代の支配層のうち「士族の商法」に失敗して没落した人たちと、新時代にそれなりに適合して「近代化エリート」になりおおせた人の比率がどのくらいだったのかを、現代ロシアにおける旧共産党エリートの生き延びの度合いと比較するのは興味深い課題であるように思われる。
(16)なお、中欧諸国ではもともとの社会主義化過程が外発的だったため、政治統制が一旦ゆるむと短期間で脱社会主義論が優勢になった。これに対し、内発的な社会主義国たるソ連やユーゴスラヴィアでは旧体制定着度がより深かったため、言論統制解除が直ちに脱社会主義論を隆盛させることにはならなかったが、中欧諸国の変動の波のあおりを受けたことと、数年間のペレストロイカの試みが期待されたほどの成果を生み出さなかったことへの幻滅とが相まって、政治変動を急進化させ、ついには体制の激烈な解体に行き着いた。体制転換過程の概観として、塩川伸明「ペレストロイカ・東欧激動・ソ連解体」歴史学研究会編「講座世界史・11・岐路に立つ現代世界」東京大学出版会、一九九六年、ペレストロイカの末期に絞り、特定テーマについて具体的過程を跡づけたものとして、「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」「国家学会雑誌」第一二〇巻第七・八号(二〇〇七年)。 
 
「ナショナリズムの由来」大澤真幸  
1
本書の著者、大澤真幸について、私はこれまで名前は一応知っており、多少気になってはいたものの、作品を読んだことはほとんどなかった。専門が違うとか、分厚い大著が多いということも理由の一つではあるが、それが全てではない(異なる専門分野の大著を読むためには時間的・精神的なゆとりが必要で、そう簡単にいつもできることではないが、できる限りそうしたことにも挑みたいという風に、私は常日頃念じている)。
私はある時期、社会学に惹かれたことがあり、本格的に学んだとはいえないものの、自己流にある程度かじってみたこともある。一口に社会学といっても、壮大な社会理論を構築するタイプのもの(ウェーバー、パーソンズ、富永健一、見田宗介=真木悠介等々)と、具体的事例に即した実証的社会調査に力点をおくものとがあるが、私はある時期まで前者に惹かれ、それから後者の重要性を感じるようになり(これは歴史学について、壮大な歴史理論よりも具体的な実証研究を尊重するようになったのと並行している)、しかしそれに没入することもできないまま、あまり社会学文献は読まなくなる、という経過をたどった。大澤が一連の著作を刊行し始めたのは、ちょうど私が理論社会学に興味を失い始めた時期と合致していた。大澤の師の一人に当たるらしい見田=真木の一連の著作を読み、一定期間熱中してから醒めつつあった時期である。私が大澤の名を早い時期から一応知りながらも、あえて読もうという気にならなかったのは、そうした不幸な巡り合わせによるところが大きい。
そういうわけで、ほとんど作品を読んでこなかった中で、例外的に面白いと思ったのは、大澤編の「ナショナリズム論の名著50」である。これは私自身が深い関心をもつテーマを扱い、しかも多数の書物について簡潔な解説を集めた非常に便利な本で、私も多くの恩恵をこうむった。この本の中で大澤自身が担当したのはゲルナーとスミスに関する二つの章だが、そのいずれにおいても、末尾の参考文献一覧に、大澤真幸「ナショナリズムの由来」講談社、二〇〇二年近刊と記されている(1)。それ以来、私は本書の出現を待ち続けてきたが、ようやくそれが具体的な形をとったわけである(どうでもいいことだが、二〇〇二年刊と予告されていた本が〇七年になって現われたことを批判するつもりは私にはない。ゆっくりと丁寧に仕事を進めるのは私のモットーでもある)。
楽屋話めいたことをもう一つ記すと、現在、私自身が本書と似たタイトルの小著(正式の題名は未定)を書く予定であり、本書の刊行はちょうどその構想を練っている最中というタイミングだった〔補注〕。私の執筆途中の本は、紙数が厳しく制約された薄い本で、詳しく丁寧な議論を展開することはもともとできない性質のものだが、とにかくそういうものを書こうとしている矢先に、似たタイトルの大著が出たとあっては、平静ではいられない。ひょっとして、自分の書こうと思っていることが全てこの大著に盛り込まれているかもしれず、もしそうだとしたら私の本は出す意味がなくなってしまう。自著の準備そのものを完全停止するか、あるいは少なくともこの大著との関係において自分の小著の位置づけを明確化するか、いずれにしてもかなり大きな路線変更を余儀なくされるだろうという予感をいだきながら、この本に向かうことになった。
〔補注〕この本は、その後、「民族とネイション――ナショナリズムという難問」(岩波新書、二〇〇八年)として刊行された。
誰かの本を読んで、その感想をまとめる際に自分の側の楽屋話をするのは、一般的にいえば不必要なことで、みっともないとさえ言えるが、今回の場合、こうしたことを断わっておかないと、どうして以下のような感想をいだき、それを文章化するのかがはっきりしないだろうから、あえて冒頭に手の内をさらすことにした次第である。
さて、上記のような予感をもちつつ本書に向かってみた結果、読後感を一言でいえば「肩透かし」である。本書と私の準備中の著書とは、タイトルに外観的類似性があるにしても、実質においては驚くほど接点が少ない。ほぼ完全に異なった主題と狙いをもつ本である。おかげで、私としては自著の構想に変更を施す必要はほとんどないということになった。これほどの厚さをもつ本でありながら、私が書こうと思っていることとの重なりがごく僅かだというのは驚くほどだが、これはもちろん、いい悪いの話ではない。著者と私の関心の方向性がまるで異なっているというだけのことである。
そうはいっても、もちろん、本書の膨大な内容の中に私の関心を惹く個所がないわけではないし、執筆中の拙著との接点も、わずかではあるが、皆無ではない。大著が出たすぐ後に似たタイトルの小著を出す者としては、どうしてタイトルの類似性にもかかわらず実質的接点が乏しいのか、またわずかにもせよ接点があるのであれば、それはどこであり、その点についてどういう風に考えるのかをまとめておく必要があるだろう。この読書ノートはそういう観点から書かれたので、満遍ないバランスのとれた書評を目指したものではないということを先ずもって断わっておかねばならない。以下では、ときおりかなり不満めいたことを記すが、それは大半の場合、「私が正しく、大澤が間違っている」という主張ではなく、「私の関心と大澤の関心はまるでスレ違っている。彼の関心事は、おそらくある種の読者にとっては非常に面白いのだろうけれども、少なくとも私にはピンと来ない」という感慨のようなものである。関心の違いを言い争っても始まらないが、とにかくどこでどのようにスレ違っているかの確認だけはしておきたいというのが小文の趣旨である。 
2
いま述べたように、この読書ノートは本書全体についての満遍ない論評を目指すものではないが、それにしても、自分の関心ばかりに引きつけた印象論に終始するのでは、あまりにもバランスを失し、我田引水になってしまうだろう。そこで、とりあえず本書の構成を確認し、全体的な構想についての感想を述べることから始めたい。
本書は予告編、第一部「原型」、第二部「変型」、補論、そして「結びに代えて」からなっており、そのうちの第一部は古典的ナショナリズムの分析、第二部は二〇世紀末以降の現代的状況の分析と位置づけられている。このような構成は一応スッキリしていて、分かりやすいものといえるだろう。第一部と第二部にそれぞれの内容を簡単に要約した「総括」がついているのも、大著を読み通すのに疲れてしまいそうな読者のことを配慮した親切な書き方といえる。逆に、索引がついていないのは不親切で、大きな欠陥である。読み終わった後で、何らかの印象を残した個所を再確認しようと思っても、索引がないと当該個所を探す手がかりがなく、これだけの厚さの本を全部読み直す気力も出ず、再確認できないままとなりかねない。
予告編に書かれているように、現代はもはや古典的ナショナリズムの条件が失われつつある時代だが、にもかかわらず――というよりもむしろ、それだからこそ――現代的な意味でのナショナリズムが大きな問題として登場している。このことの確認から出発して、古典的ナショナリズムおよびそれと区別される現代ナショナリズムについて考えるという問題設定には共感するところが大きい。こうした課題を全体に先立って提示した予告編は本書の中で最も分かりやすく、その先を知りたいという気分に読者を誘う。
古典的ナショナリズムについて論じた第一部も、本書の中では比較的分かりやすい部分に属する。おそらく、ここでの対象がこれまでに多くの研究で解明の進んだ主題だという事情が関係しているだろう。一九世紀から二〇世紀半ばにかけてのナショナリズムに関しては、膨大な研究の蓄積があることはいうまでもない。大澤はそれらの中でも特にベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」を重要な出発点としつつ、それを独自の角度から修正する形で論を進めている。アンダーソンにおさまりきらない重要な論点としては、資本主義についての独自の捉え方――アンダーソンも「出版資本主義」を重視しているが、大澤の着眼はそれよりも広い――があり、それとの関係で古典的ナショナリズムが位置づけられている。これらのうち、いくつかの点については、後で個別に取り上げて考えてみたい。
続く第二部は、予告編を読んだ段階では二〇世紀末以降の現代の状況を集中的に論じるのだろうと予想したが、実際には、二〇世紀中葉あたりの事柄が多く取り上げられている。大きな柱となっているのは、クレオール文学、サバルタン論、そして在日韓国・朝鮮人文学者の作品の分析などである。これらがそれ自体としては二〇世紀前半ないし中葉の事柄であるにもかかわらず「現代的ナショナリズム」論の中で重要な位置を与えられているのは、大澤なりの独自の戦略があるようだが、その戦略がどういうものなのか、私には十分理解できなかった。この点についても、後で多少考えてみたい。
その後にくる補論は、いささか特異な位置を占めている。著者の意図としては本論を補足する重要な意義を与えられているらしく、「補論」にしては長大だが、私にはその意義が読み取れなかった。いずれにせよ、これは補論ということなので、この読書ノートでも末尾で補論的に取り上げることとしたい。
本書の末尾には、「結びに代えて――救世主について」という部分がおかれている。通常の書物の「結びに代えて」は本論の内容を要約しつつ締めくくるものであることが多いが、この「結びに代えて」はむしろ全く新しい論点――それも一種の宗教哲学的な議論――が繰り広げられている。私にはこれが本論とどう関わるのかも、どうしてナショナリズム論の末尾におかれるのかも、全く理解することができなかった。この部分については純然たる「謎」として残しておくほかない。 
3
大澤の文体は冗舌で、そのため時として冗長に流れるところもあるが、個々の文章自体は明快であり、理論に力点をおいた書物のわりには読みやすい。これも大きなメリットというべきだろう。理論を論じようとする著作の陥りがちな通弊として、あれこれの理論家の概念枠組みや特異な用語(一種のジャーゴン)を乱発し、表面的な言葉の華麗さに幻惑されるあまり、著者自身が何を言いたいのかが分からなくなるということがよくあるが、本書の場合、借り物の議論ではなく著者自身の頭の中で練られた論の展開という性格が明確であり、そのおかげで、何を言いたいのかが分からずに欲求不満に陥るということは比較的少なくて済む。もっとも、個々の文章ないしパラグラフは比較的分かりやすいにしても、それがどのように組み立てられて、どういう方向に議論を展開しようとしているのかという点になると、よく分からない個所が少なくない。それは書物の基本性格と関係しているのではないかと思われる。
著者自身がどう考えているかはともかく、私の印象としては、本書はあくまでも理論社会学の本だということを強く感じる。題名に引きずられてナショナリズム論の本かと思って読むと、実はそうではなく、著者自身の社会学理論の展開が最大の目標であり、ナショナリズムはそのための単なる素材として利用されているに過ぎないのではないか、つまり端的にいって本書はナショナリズム論それ自体を狙いとした本ではないのではないか――これが私のいだく最大の疑問である。
本書のあとがきで、大澤は第一に「理論性」、第二に「固有名」に特に留意したとして、「真に普遍的なものだけが、特異性の襞に触れるのである」と書いている。本文よりも先にあとがきを読んだ私は、当初、「固有名」を「固有性」と読み違え、もしこれが本当に達成されているなら、それは素晴らしいことだが、果たしてその抱負は本当に満たされているだろうかという問題意識をもちながら(2)本文に向かった。読み進むうちに、本書には「理論性」は充満しているが「固有性」はほとんど完全に欠落しているという印象を懐いた私は、これはどうしたことかと思って、もう一度あとがきを読み返すと、「固有性」ではなく「固有名」とあることに気づいた。「固有名」という表現が「固有名詞」とどう区別されているのかは分からないが、とにかく本書には確かに固有名詞はたくさん出てくる。その限りでは、大澤の自負は完全に外れているわけではない。だが、あれこれの固有名詞(特定の時代、特定の地域に生きた特定の人々)がまさにどのような意味でその時代・地域・問題状況の刻印を帯びているのか――私の考えではこれこそが「固有性」の中身をなす――という点についての関心は、本書にはほとんど感じられない。
これは歴史家と理論社会学者の最大の違いだろう。歴史家にとっては、時間と地域を特定した対象について、大量の一次資料を「資料批判」の精神で点検しながら、可能な限り実証的に再現しようと試みることが主要な課題となる(こう書くと、実証史学は時代遅れだというポストモダニズムや「新しい歴史学」からの批判を知らないのかという批判を浴びそうだが、それは別問題である(3))。これとは対照的に、大澤著の叙述は時間・空間を自由自在に行き来しており、個別性への執着がほとんどない。個々の事例について論じる際に、一、二冊の二次文献だけをもとに対象のイメージを形成しているような個所も珍しくない。「固有名」は多くても「固有性」が欠けているという私の印象は、ここに由来する。取り上げられた事例がどのような意味で当該問題にとって代表的なのかということの検討も、ほとんどなされていない。そんなことはどうでもいいから、とにかくたくさんの「固有名」を自分の理論図式の中にとりこみ、位置づけること――これが大澤の問題意識であるようにみえる。金太郎飴的に繰り返される「第三者の審級」その他の用語は、どのような事例についても適用できる打ち出の小槌、あるいはヘーゲルの「絶対精神」のようなものであり、森羅万象がこの理論体系の中に位置づけられるという具合になっているように見える。あまりにも多くのものを説明する図式は、そのことによってかえって無内容になってしまうのではないかと私などには思えるのだが、理論社会学にとっては、できるだけ多くのものを説明してしまいたいという欲求が作用するのだろうか。 
4
ともかく第一部から検討していこう。既に述べたように、古典的ナショナリズムを主題とするこの部分は、本書の中では比較的分かりやすい。もっとも、ここでの主たる関心の対象はネーションないしナショナリズムそれ自体なのではなく、「近代社会固有の存在としてのネーション」という把握を前提に、ネーション/ナショナリズムを生み出した近代社会とはどういう社会か、その構造、その生成過程などを一般論的に論じることに主たる狙いがあるように思われる。一言で言って、本書はナショナリズム論というよりは、理論社会学の応用問題としての近代社会論の書物ではないかと思われてならない。
考察の素材としては、様々なネーション/ナショナリズム論が取り上げられているが、中でも圧倒的に大きな位置を占めているのはベネディクト・アンダーソンの所説である。といっても、単純にアンダーソン説を引き継ぐというのではなく、それを批判的に再検討し、再解釈したり、補足したりするという作業が行なわれているが、そうした作業が重視されていること自体、アンダーソンが重要な出発点となっていることを物語る。たとえば第T章における問題設定はほぼ忠実にアンダーソンをなぞっているし、第W章で俗語による出版、官僚の「巡礼の旅」、公定ナショナリズムの三側面からナショナリズムを特徴づけているのも、議論の型としてアンダーソンと同じである。ただ、その内容および解釈においてアンダーソンでは不十分だとして、一定の修正を施して自己の理論社会学体系の中に位置づけ直そうとする点に大澤の独自性がある。ついでにいえば、第一部ではエスニシティの問題にはほとんど触れられていない――エスニシティは第二部で出てくる――が、これもアンダーソンの「想像の共同体」がネーション論であってエスニシティ論でない(彼の後の著作「比較の亡霊」では、この点が自己批判されて、エスニシティが重視されている)ことと関係しているのではないかと思われる。
本書と私自身の研究との接点は僅かではあるが皆無ではないと先に書いたが、そうした接点については、特に取り出して考えてみる必要があるだろう。一つには、「ネーション成立より前の帝国」と「ネーション以降の帝国」との相違という論点がある。現代まで視野に入れた第二部では、ネーション以前/同時/以降という三区分になっている。これは私の言葉で言えば、「国民国家」観念成立以前の帝国(前近代の帝国)と「近代帝国主義」の区別――これにごく最近の「新しい帝国」を加えれば三区分となる――に相当する(4)。もっとも、私の場合はこれらそれぞれの歴史的個性に関心があるのに対し、大澤の場合は、それらを壮大な統一的理論図式の中に位置づけることに関心があるようで、関心の方向性が違っている。
別の論点だが、旧宗主国の言語が旧植民地の国語として採用されるのは「世界中どこでも見られるきわめて一般的な現象」だという指摘がある。これは言語政策を研究テーマの一つとする私の関心を引く論点であり、多少立ち入って検討するに値する。
いま引いた大澤の文章は、「一般的」という言葉を緩やかな意味で受けとるなら妥当な指摘といえるが、ここでの「一般的」とは、前後の文脈からして、「普遍的」に近い、より強い意味をもたされているのではないかという風にも受け取れる。もしそうなら、旧宗主国の言語が「旧植民地の国語として採用されている」というのは、いくつかの事例があるにしても、それほど一般性をもつ現象ではないといわなくてはならない。
おそらくこれが最もよく当てはまるのは、ラテンアメリカ諸国におけるスペイン語(およびポルトガル語)だろう。それは、これら諸国の国家建設を担ったのが先住民ではなく、イベリア半島から移住してきた人たちの子孫――生まれも活躍範囲も現地に限られているが、母語はスペイン語ないしポルトガル語――だったという事情による。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダにおける英語(ケベックの場合はフランス語)についても同様である。しかし、これら以外の旧植民地諸国について同様のことをいうことはできない。
フィリピンの場合、確かにホセ・リサールはその小説をスペイン語で書いた。しかし、その後のアメリカ支配が英語を優越的なものにしたため、いまでは大多数のフィリピン人はスペイン語を知らず、そのため、リサールの小説も原語では読めないものになっている(5)。そして、法的には、タガログ語を基礎として形成されたフィリピノ語(かつての呼称はピリピノ語)が公用語とされている。インドの場合、連邦全体としては多言語的であるために英語を共通の公用語として残さざるを得ない状況が続いているが、それは妥協としてであり、公式にはヒンディー語を「国語」(国家語あるいは国民語)とすることが目指されており、また州ごとにもそれぞれの公用語がある(6)。こうして、フィリピンでもインドでも、スペイン語も英語も「国語」として位置づけられているわけではない。インドネシアの場合、もともとオランダ語があまり広められなかったせいもあり、マレー語から創り出された「インドネシア語」が多言語社会統合の核と位置づけられている。その他、事実として旧宗主国の言語が優越的である旧植民地は珍しくないが、それはどちらかといえば「やむを得ざる事情」と意識されており、「ナショナリズム」の観点からは、現地の言葉――その中から選ばれたあるヴァリアントを元に、近代社会での利用に適するような加工を施されたもの――に基づく新しい「国語」(国家語あるいは国民語)の形成と普及が目指されることが多い。その成功度には個別の事情による差があり、新しい「国語」の普及と定着はしばしば多くの困難をかかえるが、ともかくナショナリズムの論理は旧宗主国の言語を無条件に「国語」とすることを正当化しているわけではない(念のためにいえば、ここで問題にしているのはあくまでも言語についてであって、西欧起源の様々な観念や制度の輸入は別問題である)。この問題に関する大澤の議論は、南北アメリカやオセアニアのような新大陸(移民国家)におけるネーション形成とその他の地域におけるネーション形成の差異を無視して、前者を性急に一般化したものになっている。アンダーソンがラテンアメリカに着目したのは、旧大陸中心のこれまでの議論では摘出できない論点を発掘するためだったが、それを直ちに一般論として受けとめてしまうなら、古典的ナショナリズム論の欠落を正そうとして逆の極端に行き着いてしまう。
もう一つ、これは第一部よりも第二部の方で主に論じられている点だが、多文化主義に対する批判を取り上げてみたい。大澤は「普通は、偏狭なナショナリズムに対抗していると見なされている、リベラルな寛容」の「代表例」として多文化主義を取り上げ、「多文化主義はまことに結構な思想であって、非の打ち所がないということになるのか?」という問いを出している。そして、多文化主義が主唱する諸文化の平等と相互尊重は、実際には、アパルトヘイトとほとんど同じことになってしまう、「多文化主義を理論的に純化していけば、ある種の極端なナショナリズムを信奉する最も過酷な差別を、完全な平等として、ありがたがって受け取ることが求められることになるのだ」と批判している。「多文化主義の狡猾さ」「その欺瞞は一層深い」といった言葉もある。
多文化主義が「まことに結構な思想であって、非の打ち所がない」などという代物でないという点では、私も同意見である(7)(「狡猾」「欺瞞」といった言葉づかいは事態をカリカチュア化して描き出し、議論を浅いものにしているのではないかという気もするが)。だが、これはそれほど大げさに言い立てるほどのことだろうか。確かに、一部には、多文化主義を非常に高く評価する人たちもおり、そうした人たちに対する一種の解毒剤としては、この議論はある程度有効だろう。しかし、「多文化主義さえ広まれば万事解決」というお目出たい人々がそれほど圧倒的であるようには思われないし、多文化主義に対する批判的検討も、これ以前に絶無であるわけではない。むしろ文化人類学者(民族学者)たちの間では、そうした認識はかなり一般化しつつあるのではないだろうか(8)。この点に関する大澤の記述は、結論自体は同感できるにしても、やや不必要に力みすぎているという印象を受ける。 
5
私の研究と接点をもつもう一つの論点は、シヴィック・ナショナリズムとエスニック・ナショナリズムの二分法に対する批判である。これは重要な問題で、やや立ち入って検討するに値する。最初に確認しておかねばならないのは、この二分法に対して批判的という点では私も大澤と立場を同じくするということである(9)。しかし、その結論をどのように導き、どのような含意をもたせるかという点について考えていくと、いくつかの疑問が出てくる。
その一つは研究史の理解に関わる。先ず大澤はロジャース・ブルーベーカーを「コーンに正確に従って」と特徴づけ、シヴィック・ナショナリズムは同化主義的、エスニック・ナショナリズムは差別(差異)主義的なものになるという個所に「ブルーベーカーによれば――、必然的に」という言葉を添えている。しかし、私の理解では、ブルーベーカーの「フランスとドイツの国籍とネーション」は、確かに独仏両国を対比的に描いているとはいえ、単純な二分法に陥るのを避け、対比の説明要因に関して多次元的であり、歴史的可変性の要素も含んでいる(10)。しかも、彼は後の論文(大澤著の文献一覧にも載っている)で、シヴィック・ナショナリズムとエスニック・ナショナリズムの二分法に対する鋭い異論を提起しており、彼の議論は到底この二分法の枠には収まらない(11)。
他方、大澤はアンソニー・スミスは二分法を「硬直的な地政学的区分として使用することを批判している」という点に注目して、自説により近いとしているが、これについても疑問がある。スミスの「ネイションとエスニシティ」は、小さな留保を伴っているとはいえ、基本的に「西」=領域的・市民的モデル、「東」=エスニックなモデルという二分法図式を提出したものである(12)。同じスミスが数年後に書いた「ナショナリズムの生命力」では留保がもう少し詳しく展開されているが(13)、前後の文脈を見ると、これは二分法が過度に図式主義的になるのを避けるために付けた軽い断わり書きに過ぎず、基本構図そのものを変更するようなものではない。実際、この留保に続く個所には、「このような批判にもかかわらず、ナショナリズムのイデオロギーを、より合理的なものとより有機的なものとに分けるコーンの哲学的な区別は有用である。……〔レッテルは注意深く取り扱わねばならないという留保〕にもかかわらず、概念上の区別から重要な結果が得られる。市民的・領域的なネイション・モデルは、ある種のナショナリズム運動を生み出す傾向がある。……他方、エスニック的・系譜的なネイション・モデルは、独立以前は分離主義的あるいはディアスポラ的な運動を、独立以後は領土回復主義あるいは「汎」運動を生み出す傾向がある。この類型論では両者が混合している事例はもちろん、多数の亜変種を無視することになるかもしれない。しかし私は、これによって多くのナショナリズムの基本的論理が捉えられると考えている。……これを土台として、エスニック・ナショナリズムと領域的ナショナリズムとのあいだの区別を中心に、ナショナリズムを暫定的に類型化することにしよう」と書かれている(14)。これはまさしくシヴィック/エスニック二元論そのものである。実をいえば、二分法の祖と通常みなされているハンス・コーンにしても、後世の論者が往々にしてカリカチュアライズして描き出したほど安直な図式だけで満足しているわけではなく、もう少しニュアンスに富んだ議論を出していた(15)。とすれば、スミスはコーンを殊更に図式主義的に描き出すことで自らとコーンを分かってみせながら、実際には二分論を基本線で維持しているのであって、彼がコーンを超えたというのは過大評価であるように思われる。むしろ、先に挙げたブルーベーカー論文の方がより明確に二分法図式を批判しているのであって(16)、どうも大澤のブルーベーカーおよびスミスに対する評価はうなずけない。
もっとも、大澤は「ナショナリズム論の名著50」収録のスミス論では、もう少しスミスに対して辛い評価をしていた。そこには、スミスは原初主義と近代主義の対立を克服すると称するが実際は「両説の折衷的な妥協案」に過ぎないとの批判がある(17)。そして、スミスの結論には同調できないと明言した上で、彼の議論を生かすためには、その説明を「総体として反転」させる――あるいは「逆立ち」にさせる――べきだと主張している(18)。「反転」とか「逆立ち」という比喩的表現で何を言わんとするのか十分読みとれないが、この点を掘り下げるなら面白い方向に発展する可能性があるようには思える。ところが、本書ではこの論点が展開されておらず、わりとあっさりとスミスに同調してしまっている観がある〔補注〕。私見を差し挟むなら、スミスの師に当たるゲルナーがやや単純な「近代主義」に傾きすぎたのに対し、スミスがそれに修正を施して歴史的要素を持ち込もうとした意図は共鳴することができるが、スミスの修正はあまり成功しているとは思えない。このようにゲルナーとスミスの双方に批判的だという限りで、おそらく大澤と私はある程度似たところがあるのではないかと思うが、本書のスミスに関する記述は前著における短い示唆を特に発展させてはおらず、スミスをどのように「反転」ないし「逆立ち」させて発展させようというのかは不明なままである。
〔補注〕その後に著わされた大澤真幸「ナショナリズムという謎」(大澤真幸・姜尚中編「ナショナリズム論・入門」有斐閣、二〇〇九年には、この問題に関する補足的説明がある。
シヴィック/エスニックの二分法に関しては、もう一人マイケル・イグナティエフの名が挙げられることがよくある。本書の六四七頁にも、イグナティエフの名前が「シヴィック・ナショナリズム」論者として挙げられている。確かにイグナティエフは、「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」付論の「帰属の政治学」や「民族はなぜ殺し合うのか」(原題 Blood and Belonging)の序で、「市民ナショナリズム」と「民族ナショナリズム」の対比をしている(19)。こうした個所だけをそのまま読むと、彼が二分法の代表的論者と見なされるのも当然のように思える。しかし、彼の一筋縄でいかないところは、それとはかなり異なった方向性を示唆する記述も同時に行なっている点にある。たとえば同じ「民族はなぜ殺し合うのか」には次のような個所がある。
「民族ナショナリズムのうねりに対し、世界の、ことに英国のコスモポリタンたちは、とんでもないうぬぼれを抱いてはいないだろうか。自分たち以外はみな狂信的で、自分たち以外はみなナショナリストだといううぬぼれを(20)」。
ここでイグナティエフ論を展開している余裕はないが(21)、一面では思想史家として出発し、哲学的理論に深い関心をもちつつも、他面では、現代世界のアクチュアルな問題に引きつけられ、時として理論的考察からかけ離れた熱い感情論をほとばしらせるという両義性が彼を特徴づけている。こうした両義性は理論整合性の欠如につながることもあるが、他面では、そのおかげで過度の図式主義から免れさせることにもなる。イグナティエフの面白いところはそういった不整合性にこそあるように、私には思われる。ナショナリズム論に関しても、一見したところ単純なシヴィック/エスニック二分論を出していながら、他面でそれにおさまりきらない観察を示してもいるという点こそがむしろ注目される。大澤に限らず、この点を見落としたまま、彼を二分法論者という整理だけで片づける人が多いのは、せっかくの面白さを読み落とすことになるのではなかろうか。
以上、研究史理解にこだわって論じてきたが、次に大澤自身の積極的主張について見てみよう。この問題に関する結論的な部分で、大澤は次のように書いている。
「シヴィック・ナショナリズムは、ナショナリズムの普遍主義的局面を、エスニック・ナショナリズムは、ナショナリズムの特殊主義的局面を、それぞれ抽離したものにほかなるまい。ナショナリズムの謎は、この両局面の独特の交錯にこそある。これらを分離して、――理念的には排他的でありうるような――二類型に仕立てあげることは、ナショナリズムのこの中核的な謎への視野を失うことを意味する。……両者は異なるものではない。両者が同じであることにこそ、謎がある」。
この指摘には、それ自体としては共感することができる。だが、同時に、あまりにも抽象的であるように感じる。また「同じ」であるはずのものがどうして「排他的」であるかのように立ち現われるかの解明も、ここにはない。
私見を述べるなら、フランスのナショナリズムは、自己意識としては――そしてまた多くの論者の見解でも――シヴィック・ナショナリズムの典型とされているが、実は、背後にエスニック・ナショナリズムの要素を隠しもっている。他方、旧ユーゴスラヴィア諸国のナショナリズムは、大多数の西欧の論者からエスニック・ナショナリズムの典型というレッテルを貼られているが、実は、当事者たちが西欧のシヴィック・ナショナリズムに憧れ、それを模倣しようとして行動したことの結果的所産とみるべきである。このように考えるなら、「フランスはシヴィック・ナショナリズム、旧ユーゴスラヴィアはエスニック・ナショナリズム」という通説的二分法が維持できないことは明らかだが、だからといって、「両者は異なるものではない。両者は実は同じなのだ」というだけでも、片がつくわけではない。実際には正しくないのに、あたかもフランスがシヴィック・ナショナリズムの典型であるかのように見え、旧ユーゴスラヴィアがエスニック・ナショナリズムの典型であるかのように見えるのはどうしてなのか、という点をこそ問わねばならない(22)。しかし、大澤著にはそうした問題意識は見当たらない。
その上、別の個所で大澤は、西方キリスト教圏と東方キリスト教圏(およびイスラーム圏)の違いを強調し、そのことをもって、古典的ナショナリズムの理想が西欧でのみ成功した理由としているが、これは実質上、「西のナショナリズム」と「東のナショナリズム」という二分法の再来になってしまっている。宗教的伝統は確かに一つの重要な要因ではあるが、そのことをもって各国のネーション形成の特徴を理論づけてしまうことは、固定的な二分法の安易さを再現してしまうのではなかろうか。 
6
先にも述べたように、本書第一部は大きな枠組みとしてアンダーソンを出発点とした部分がかなりの比重を占めているが、それだけにおさまらない部分としては、独自の資本主義論がある。これは既成のマルクス主義とは相当異質であるにしても、マルクス的な発想の型を一つの重要な準拠枠としていることは明らかである。たとえば、「剰余価値」に関する頁の叙述は、重要な点でマルクスから離反した結論を出しているが、議論の型は――「剰余価値」という用語を含めて――マルクスそのものである。「近代化」とか「市場経済」という用語を使う代わりに、「資本主義」という概念にこだわること自体、マルクス的理論の系譜の影響を物語っている。予告編でネグリとハートの著書を取り上げ、その批判的検討から議論を始めていることも、「並みのマルクス主義」には満足しないが、広い意味でその系譜の理論に執着するという態度を物語っている(更にいえば、アンダーソンにしても、「マルクス主義者」という枠で論じられることはあまりないが、広い意味ではその系譜に属している)。
こういうわけで、大澤の議論は、通常「マルクス主義」という言葉で思い浮かべられがちなものとは大きく異なっているものの、理論史的にいえば、その系譜の中に自覚的に位置し、その独自な発展を図ったものという性格を帯びている。そのこと自体は決して批判されるべきことではない。それどころか、猫も杓子も「市場経済」について語り、マルクスについては全面的に忘れ去ったようなふりをしている今日の風潮の中では、これは勇気ある態度であり、貴重だと私は思う。
ただ不思議なのは、そのようにマルクスと「資本主義」にこだわる著者が、これほど広汎な主題を扱った本書の中で社会主義についてほとんど触れていないことである。「資本主義を超える」ことを掲げながら、それを達成しなかった「現存した社会主義」という歴史的経験についての、このような無関心は何を物語るのだろうか。問いに答えられないというだけならまだしも、そもそも問いを立てようという姿勢さえ感じられない。私自身が「現存した社会主義」を研究対象としていることから(23)、これは一種の我田引水、無い物ねだりと言われるかもしれない。しかし、「資本主義」という用語を避けて「近代化」とか「市場経済」という用語を専ら使う人ならいざ知らず、論の中心を「資本主義」ということにおいている人が、それと表裏一体の関係にある「社会主義」については無関心でいるというのは、どうにも理解しがたい。
本書の中でソ連をはじめとする旧社会主義諸国に触れた個所は極小だが、そうした中で稀にソ連に言及した個所では、次のように書かれている。
「ボリシェビキの政治と行政は、ロシア民族主義(ナショナリズム)に貫かれていた。たとえば、党の要職は、ロシア人によって独占されており、タタール人を初めとするムスリムには開かれていなかった」。
これは世間一般に通俗的に広まったソ連イメージをそのままなぞった感じの記述である。このようにいうと、「いやそうではない。世間一般ではボリシェヴィキはロシア・ナショナリズムを克服し、諸民族の平等を達成したと考えられてきたので、そうした通説に対して果敢に挑戦したのだ」という風に受け取る人がいるかもしれない。だが、そのようなソ連の公式見解が日本で広く受容されていたのは、今から数十年前の話である。はるかな昔、ソ連公式イデオロギー賛美論が主流だった時代があったことは歴史的事実だが、そのような古くさいものを今頃批判しても、さしたる意味はない。ソ連公式イデオロギーに批判的な立場からの研究は、一九五六年のスターリン批判とハンガリー事件――いまから半世紀以上!も前のことである――に始まり、中ソ対立、プラハの春(一九六八年)、ソルジェニツィンの一連の著作発表と国外追放、アフガニスタン侵攻、ポーランド「連帯」運動と戒厳令等々といった世界史の流れの中で着実に増大してきた(24)。その中で、ソ連公式イデオロギーの威信は一九六〇‐八〇年代を通じて低下し、ソ連に関する批判的な見解は――イデオロギーや社会体制全般についてであれ、民族政策についてであれ――ソ連解体を待つまでもなく常識化、いや陳腐化さえしていた。もっとも、いま述べたような専門家の間の研究動向に比して、非専門家の間での受けとめ方の変化には大きなタイムラグがあり、ソ連解体を機に「ソ連公式見解は嘘の塊だった」という考えが一挙に大量現象化した。それは時代状況を考えれば無理からぬことではあるが、一つの極論から他の極論に走る類の安易かつ皮相なものであり、まともな研究者のとる態度ではない。そして、一九九〇年代以降の、より新しい研究は、過去の研究蓄積を踏まえつつ、それだけにはとどまらない見地を多面的に提出しつつあるのであって、そこにおいては、右に引用した大澤のような通俗的見解はまさしく克服の対象となっている(25)。
著者がさしたる関心をもつことなく軽く触れただけの事項について、わざわざ批判するのは無用のことかもしれない。ただ、この程度のお粗末な認識で満足しているのは、およそ本気でソ連なり社会主義に取り組もうとする気がないことを物語っているということだけは言っておかねばならない。そのことと「資本主義」への執拗な関心とは一体どういう関係にあるのだろうかという疑問は大きな謎として残る。 
7
これまで主に第一部について検討してきたが、そろそろ第二部の検討に移ろう。予告編の記述からは、第二部こそが本書の中心部分――第一部はそれを理解するための前提という位置づけ――という風に受け取れる。それだけ重要なパートであるはずなのだが、論が錯綜していて、本筋を読みとるのが難しい。
もっとも、いくつかの主要な個所に注目するなら、話の道筋をある程度理解することができないわけではない。予告編で大澤はネグリ=ハートの「〈帝国〉」を重要な出発点とし、その大きな欠落は、グローバルな資本主義の時代にナショナリズムの嵐が吹き荒れているのはなぜなのかという問いにあると述べている。この問いに答えるためには、「国民(ネーション)」という単位に有意味性を与える条件のあった「古典的ナショナリズム」の時代と違い、そうした条件の失われた二〇世紀末以降に高まっている「現代的ナショナリズム」の性質について考えねばならない、というのが予告編の問題提起だと受け取ることができる。
第二部の冒頭はこの問題提起をうける形で、資本主義の展開の果てにナショナリズムは無意味なものになるだろうという多くの人の予想は裏切られた、それはなぜか、という問いを提出している。それほど多くの人が「ナショナリズムは無意味となる」と予想していたのかどうかにも疑問の余地はあるが、その点は今はおくことにする。ともかく、このような前提に立てば、現代は「ナショナリズムの最後の波」よりももっと後の時代のはずなのに、実際には「最後のさらに後」の波が現われているということになる。大澤はこれを「ナショナリズムの最後・後の波」と名付け、「人が民族の差異に拘泥することの社会的な必然性がまったくなくなってしまったかのように見えるまさにそのときに、つまり、民族の差異が完全に瑣末なものに転じてしまったかのように見えるまさにそのときに、現れている」と説明する。
この問題意識は重要であり、私も基本的には共感する(もっとも、やや極端に図式化されているのではないかという疑問もあるが、それはさておくことにする)。問題は、ここから先どのように論を展開するかにある。
大澤の議論は次のようなものである。産業化のある段階においては、「ネーションという文化的単位」を同時に政治的な単位として分立させておくことに、経済に即した機能的な価値があった。交流密度の高い良質な市場をつくり出すための「公共財」の投資範囲として、ネーションの範囲が最も効率的だった。主要なメディアたる印刷メディアが情報を収集し、また発信することができた領域は、主としてネーションの範囲だった。人の移動に関しても、たとえば鉄道のような交通機関はネーションの内部の移動に有利だった。しかし、これらの条件は二〇世紀末以降、全て失われている。この現代的ナショナリズムは一九世紀的ナショナリズムと違って、一方では、国民‐国家を民族(エスニシティ)という、共同性のより細かい単位へと分解していく運動としてあらわれ、他方では、国民‐国家を、インターナショナルなより大きな政治単位のうちに解消していこうとする指向性と連動している。
この説明は大筋としては一応当たっているように思える。だが、よく考えてみると、いくつかの疑問が浮かぶ。右の説明は、あたかも「ネーションという文化的単位」が固定的なものとしてあって、それと政治的単位(国家)との合致が合理的だったり、そうでなくなったりする、という風に読める。そして古典的には合致していたものが、現代的にはより小さな方向とより大きな方向とに引き裂かれている、というのが論旨であるように読める。しかし、「ネーションという文化的単位」自体が、実際には様々な線引きを許容し、より小さい方向にもより大きな方向にも変化しうるものである。口語としては無限に多様である俗語を文章語化する際に、どのような範囲で「標準形」を設定するかには様々な選択の余地があるし、一旦ある範囲で文章語規範が確立した後でも、それと政治的単位をどのように合致させるかにはいくつかのヴァリエーションがあった。一八七一年のドイツ統一は、抽象的可能性としていえば、より小さな単位(プロイセンとかバイエルンとか)で落着することもあり得れば、より大きな単位(オーストリアやスイスのドイツ語圏まで含んで)になることもありうる中での一つの選択だったことはいうまでもない。
鉄道、河川交通、電信網等にしても、それらがどういう範囲でどういう風に引かれるかは、「国民国家の時代だったから」ということで一義的に決まるものではなく、それらをどのように引くかをめぐって複雑な国際関係が展開された(今日では、これに航空宇宙産業、石油やガスのパイプライン、電気通信回線等々が加わるだろう)。ある範囲での交通通信手段の発達がその領域内のコミュニケーション密度をその外部との間よりも濃密なものにし、「国民国家」形成の重要な条件となったのは事実だが、他面では、それらが国境を超えて広がるという現象も一九世紀末‐二〇世紀初頭の段階で既に見られ、それがアンダーソンのいう「初期グローバル化(26)」を可能にした。これらのことは大澤も事実としては十分承知しているだろうが、先の説明では、これらの可変性・流動性が表に現われていない。むしろ、一九世紀‐二〇世紀前半にはある地理的範囲が「文化的単位」「経済的単位」「政治的単位」として調和的に存在したかのような表現になっている。
「予定調和」という言葉があるが、ここでの大澤の議論はその逆で、いわば「過去調和」的――現代には調和がないが、過去にはそれがあったはずだ――になっている。かつてあった「均衡」が今では破れたというのだが、かつて「均衡」があったように見えるのはあくまでも今日から振り返ってみてのことで、当時の状況を歴史に即して考えるなら、やはり特殊主義と普遍主義という相反する方向を目指す複数のヴェクトルが同時的に存在し、それらがせめぎ合い、どこに「均衡」があるかが不確定なままに、様々な「あり得べき調和的関係の候補」の間の模索と闘争が繰り返されていたはずである。おそらく第二部における大澤の主要な関心が現代にあり、歴史に関しては現状を引っ繰り返して過去に投影する形で論じていることが、このような印象を与える要因ではないかと思うが、歴史自体に関心をもつ立場からは、このような議論は現実から遊離しているように思われてならない。
関連して、ここでは、「エスニシティ=民族(27)」という概念が、「国民‐国家」よりも小さな単位として定義されている。しかし、これも、ネーションを固定的に考えるから、エスニシティが「それよりも小さい」ものと映るのではないだろうか。ネーションにしろエスニシティにしろ、様々な線引きによって様々な単位で形成される可能性があるのであって、両者の大小関係は、エスニシティがネーションより小さい場合もあれば、一致するとみなされる場合もありうる(アメリカではネーションより小さい単位がエスニシティだという理解が一般的だが、これはむしろアメリカ的特殊性であって、一般性を主張できることではない)。あるネーションの中の小単位とみなされていたエスニシティが「われわれこそネーションだ」と主張することもあり、その運動が強まればそれが「ネーション」とみなされるようになる。こうした流動性・多義性を無視して、エスニシティを「ネーションよりも小さな単位」と断定するのは、無意識のうちにもせよ、既存のネーションの範囲を固定的なものとみなしてしまっているからではないだろうか。
「普遍主義と特殊主義の二つの傾向の交錯と接合」「特殊主義と普遍主義という背反する方向を目指す二つのベクトル」という指摘は重要であり、共感するところが大きい。しかし、この構造それ自体は、一九‐二〇世紀の古典的ナショナリズムの時代と、二〇世紀末以降の新しいナショナリズムとに共通している。後者に新しい点があるとしたら、それは、普遍的・グローバルな方向への傾斜が技術的要因から格段に強まったこと、それと同時に、そのことに対する特殊主義的な反撥もまた強まっているという状況にある。このような私見と大澤の議論とは重なりあうようにも見えるが、大澤は古典的ナショナリズムの時代における「均衡」の存在をやや誇張しているのではないか――先に書いた「過去調和」的発想――という疑問もぬぐえない。 
8
いま述べたような疑問はあるが、とにかく大澤は、もはや客観的条件がなくなったにもかかわらず逆説的に強まっている現代的ナショナリズムの成立メカニズムを、独自の論理で解明しようとしている。その柱をなすのは、「アイロニカルな没入」という論点である。大澤によれば、現代のナショナリズムはもはやネーションを物神崇拝するが故のものではない。ゴミがゴミでありながら芸術でありうる(本書冒頭に言及されたマルセル・デュシャンの現代芸術の例)のと同じように、今日のナショナリズムはかつてのような自明性・絶対性をもたず、いわばゴミのようなものだが、だからといって無力なわけではない、というわけである。
「アイロニカルな没入」という概念はそれ自体としては大変興味深い指摘であり、いろんなことを考えさせる。ただ、これはナショナリズムに限られず、その他の様々な事柄について当てはまる観点であり、殊更に「ナショナリズム論」とされる必然性はないのではなかろうか。デュシャンの例(購入した男性便器を「泉」と題して現代芸術展に提出した)が冒頭におかれているのは、大澤の意図としては現代ナショナリズムを説明する手がかりという位置づけのようだが、読む者としては、むしろこれはナショナリズムに関わらない多種多様な事柄を説明する概念だという気がしてくる。「ナショナリズムもまたその一例だ」という例示に挙げることはできるにしても、他ならぬナショナリズムに固有な話ではないように思われる。
第二部の最後近くでは、ろう者共同体が「民族である」とされた上で、それ以外にも、自身を民族や部族に類比させている集団は少なくないとして、ゲイ・コミュニティ、没頭しているオタク的趣味によって連帯する共同体、何らかのアディクション(薬物などの中毒)を媒介にしたセルフヘルプ・グループなどが挙げられている。これらはいずれも作為性・媒介性と自然性・直接性の交錯を特徴としており、作為性・媒介性に注目すればアイロニカルな距離をとっていると見なすことができるが、自然性・自明性に注目すれば、人はその性質を宿命のように受けとっているということで、ここでも「アイロニカルな没入」という概念が有用だとされる。
ここで取り上げられている様々な事例は、それ自体としては興味深い着眼だと思う。しかし、挙げられている具体例に即して考えるなら、オタク共同体は自己の趣味に「アイロニカルな距離をとっている」と見なせるにしても、ろう者たちが自己のろう者性に「アイロニカルな距離をとっている」と見なせるだろうかという疑問が湧く。薬物中毒から脱却しようと必死になっている人たちの集団も、そのような自己のあり方に「アイロニカルな距離をとっている」とはあまり思えない。ここに列挙された例は、伝統的には民族と見なされてこなかった集団が自己を民族に類比させていることがある――あくまでも「そういうこともある」ということであって、「必ずそうだ」ということではないと思うが――という限りで共通するかもしれないが、それを「アイロニカルな没入」で括れるかは疑問である。
いってみれば、この「アイロニカルな没入」という観点は、現代ナショナリズムの説明にとって、ある意味では過小であり、ある意味で過剰である。「過小」というのは、現代ナショナリズムのうちこの観点で説明されるのは一部だけ――最もよく当てはまるのは、おそらく現代日本の「ぷち・ナショナリズム」(大澤の表現では「J‐回帰」現象)だろう――であり、それとは大きく異なったナショナリズムもあるからだが、「過剰」だというのは、この観点はナショナリズム論を離れて、他のいろいろな現象について適用可能だからである。デュシャンの作品とかオタク共同体などは、ナショナリズムとは異なった文脈で「アイロニカルな没入」という概念が効果を発揮する例だろう。とすれば、本書はナショナリズム論として書かれるのではなく、むしろ「アイロニカルな没入」論として書かれた方がずっとスッキリしたのではないかと思われる。
これと同じような感想は、本書刊行の少し後に大澤が「朝日新聞」に寄稿した論考についても感じる(28)。その論考で大澤は「表の規範」と「裏の(反)規範」という観点を呈示し、たとえば学校における校則(表の規範)に対し、むしろそれを破るような仲間集団の裏ルールの方が個々の生徒にとっては大きな意味をもっていると指摘する。そして、今日のナショナリズムも、「人権」のような「表の規範」の偽善性を暴く「裏の(反)規範」に見立てられる、というのである。
この論自体は重要な点を衝いており、共感するところが大きい。近年強まった風潮――そのものとしては以前からあったにしても、近年になって一段と強まったように感じられる――として、「人権」とか「差別はよくない」とか「弱者の権利擁護」といった言葉が、「空しい言葉」「偽善」「鬱陶しくて抑圧的な旧世代知識人のお説教」という風に受け取られ、それらをひっくりかえす言説が「本音」として快哉を博する――大澤の文章にある表現を借りるなら「妖しい魅力を発する」――という傾向があるように思われる。このような傾向に対して、いくら「それはよくない」ということを理性的に説いても、それ自体が「表の規範」でしかないために、「空しい言葉」「偽善」「鬱陶しくて抑圧的な旧世代知識人のお説教」というステレオタイプを再生産し、ますます「裏の(反)規範」の側からの反撥を強める、という悪循環状況があるように思われる(29)。私自身がこの間、こういうことを考えていたので、大澤のこの問題提起には共感を惜しまない。だが、この論点もやはりナショナリズム論という文脈では、一面で過小――現代日本の青年層を念頭におくなら確かに妥当だが、それ以外の様々な事例を広く念頭におくなら、あまり当てはまらないケースが多い――であり、他面で過剰――ナショナリズム以外の様々な現象について広く当てはまる――だと思われてならない。大澤自身が説明に使った学校の校則と「非行」の関係にせよ、フェミニズム・バッシングとか、「人権派」叩きとか、各種差別反対運動へのバックラッシュなど、どれもナショナリズム論とは別個の文脈で、この概念が有用性を発揮する例だろう。
こういうわけで、「アイロニカルな没入」論にせよ、「表の規範と裏の(反)規範」論にせよ、それ自体としてみれば大変興味深い議論なのだが、ナショナリズム論という文脈で展開されると、どうしても「一面で過小、他面で過剰」という印象がつきまとい、もう少し違った文脈で展開した方がよかったのではないかという風に思われてならない。この読書ノートの前の方で、「これはナショナリズムの本ではないのではないか」と書いたが、それはこうした感想とも関係している。 
9
これまで記してきたような不満はあるが、それでも第二部のはじめの方と最後のあたりはある種の対応関係があり、予告編とも呼応して、それなりの話の筋をつかむことができる。これに対して、その中間の部分――その多くがクレオール、サバルタン、「在日」文学者等にあてられている――は、個別テーマとしては面白いが、全体の中での位置づけがよくつかめない。時期としても、二〇世紀末以降の現代的現象ではなく、二〇世紀中葉にさかのぼっているし、話題としても、通常の意味でのナショナリズム論が主として取り上げる事項からは隔たっている。著書の頭の中では、これがナショナリズム論(それも二〇世紀末以降の)の重要な一角をなすようだが、どうしてそのように言えるのかが、少なくとも私には十分飲み込めない。そのため、これらの点に関わる私の感想も、全体の骨格を離れた断片的なものとならざるを得ない。
とりあえず、「サバルタンは語らない」という論点について考えてみよう。サバルタン論はここ十年ほど一種の流行となっており、多くの人によって論じられている。それに大澤が関心を寄せるのも分からないではない。だが、どうしてこの問題がナショナリズム論のテーマになるのかは、少なくとも自明ではない。「サバルタン」とは、いうまでもなく「従属者」というほどの意味の言葉であって、ネーションとかエスニシティと直接関わっているわけではない。元来インド史の文脈で提起されたという意味では植民地主義の問題とある程度関わっているが、それが流行語化したのは元来の文脈を離れた一般化がなされたからであり、その一般化はどちらかといえばジェンダー論・テキスト論・歴史認識論などに関わっていて、ナショナリズム論とのかかわりはむしろ希薄なのではないだろうか。
それはともかく、大澤がこの問題――主に参照されているのは、インドにおけるサティ(寡婦殉死)の風習をめぐるガヤトリ・スピヴァクの議論である――に、どのように迫っているかを見てみよう。
「この慣習〔寡婦殉死〕の禁止に対して、論理的に可能な言明は、次の二つであるように見える。1「白人(男性)が茶色の男たち(インド人男性)から茶色の女たち(インド人女性)を救った」という言明と、2「女たちは本当に死ぬことを欲していた」という言明である。……/二つの命題によって、論理の空間は尽くされているように見える……。つまり、二つの命題の和は、十分に包括的で普遍的なものに見えるのだ」。
「この二言明〔右の引用文における12と同じもの〕は、相互に排他的であると同時に、論理的に可能なケースを尽くしているように見える。……矛盾律と排中律にしたがう通常の論理を前提にすれば、一方が真で、他方が偽でなくてはならない」。
このように述べた上で、「通常の論理」では可能な全てを尽くしているはずの1と2が「インド人女性の観点からすると、どちらの命題も受け入れがたい」と指摘され、その「謎」を解くために独自の哲学的議論が繰り広げられている。カントに依拠したこの哲学談義は、それ自体としてはなかなか興味深いし、結論も一応うなずけるが、そのもっと手前の地点で、一つの素朴な疑問が湧いてくる。というのも、1と2が「論理的に可能なケースを尽くしている」わけでないことは、特に高度かつ難解な哲学によらなくとも、「通常の論理」で十分説明がつくように思われるからである。
先の1と2はともに全称命題の形をとっている。しかし、これらの命題において語られている「インド人女性」「インド人男性」「白人男性」のいずれも――ついでにいえば、「白人女性」も、また「白人」でもインド人でもない様々な女性と男性も――決して単一の存在ではない。それぞれの主体の複数性に気づきさえすれば、1と2が「論理的に可能なケースを尽くしている」わけではなく、いずれも不当な一般化であることは明白である。主語だけでない。これらの命題の述語についてみても、「救った」とか「本当に欲していた」とはどういうことを指すのかについて様々な解釈がありうるので、一義的に真偽を決めることはできない。ある人が「自分はこれこれのことを自ら欲して行なった」と言い、他の人が「それはそう思いこまされているからにすぎない。「自ら欲して」と本人が語るのは、それほど深く思いこまされているということだ」と言うとき、どちらが正しいのか――あるいはそもそも正解がありえないのか――議論は尽きない。更にまた、1の裏には「だから白人男性は正しい」、2の裏には「だからインド人男性は正しい」という判断が前提されているが、いずれにしても男性の視点からの評価しか問題とされておらず、「全てを尽くして」などいないのは明らかである。こういう風に考えれば、12が「論理的に可能なケースを尽くしている」わけではなく、いずれをも拒否する立場はいくらでもありうることになる。それなのに「通常の論理」ではこれ以外にありえないとするのは、「通常の論理」というものを馬鹿にしすぎているのではないだろうか。
もう一つ、「サバルタンは語らない」という表現(第二部第U章第1節の表題にもなっている)についても、小さな疑問がある。スピヴァクはその有名な論文の表題を「語ることができるか」という疑問形にする一方、結論部では「語ることができない」という断定的否定文を使っている(30)。疑問形の表現は否定を含意する修辞的表現だと考えるならば、どちらでも同じことかもしれない。しかし、微妙な差異があると考えることもできる。疑問形の表現はあくまで問題の提示であり、読者の頭を揺さぶることが狙いであるのに対し、断定的否定文は結論を明示することによって、問題提起よりもあっさりとした回答を与えて、一件落着としてしまうように見える。そのことと関係するのかどうかは分からないが、訳者の上村忠男によれば、後のスピヴァクは「サバルタンは語ることができない」という一句を自ら取り消したという(31)。ところが、大澤は多くの個所で「語らない」「語りえない」「発話の不可能性」という断定的な否定表現を使っている。これは「語ることができるか」という疑問形の表題に込められた狙いを単純化してしまうのではないかという気がする。ついでにいうと、「インド人女性の観点からすると、どちらの命題も受け入れがたい」という言い方も、語れないはずの当事者の「真の意図」を――本来代弁できないはずであるにもかかわらず――事実上代弁するような表現になってしまっている。ここには非常に微妙な問題が介在しており、大澤を批判するだけですむ話ではないが、ここでは問題の提示にとどめておく(32)。 
10
第二部ではこの他にも多くの論点が取り上げられているが、その一つとして、「イスラーム原理主義あるいはイスラーム主義」がある。これ自体がいくつかの要素に分かれ、その相互関係を見定めるのが結構難しいのだが、ここではとりあえず次の個所に注目してみたい。
大澤は「イスラーム原理主義あるいはイスラーム主義」について論じた部分の冒頭で、旧ユーゴスラヴィアのムスリム人(表記については注33の後半を参照)をとりあげ、「ムスリムのエスノ・ナショナリズムがまさに、イスラーム主義の形態をとる」好例だとしている。だが、ここには大きな錯誤がある。旧ユーゴスラヴィアにおけるムスリム人カテゴリーが「宗教的集団ではなく、エスニック・グループとして」人口統計上数えられるものだというのは、大澤自身が記しているとおりである。つまり、これはボスニア=ヘルツェゴヴィナ住民のうち先祖がムスリムである人が自己を「セルビア人」(先祖が正教徒)とも「クロアチア人」(先祖がカトリック)とも申告したくないときに選ぶことのできるカテゴリーなのであって、本人がイスラームを信奉しているかどうかとは関係がない。ましていわんや、「イスラーム(原理)主義」とは何の関係もない(33)。実際、ボスニアのムスリム人は、一九九三年末以降、自らの民族名称を「ボスニア人(ボシュニャク人)」と変更した。それは欧米諸国の人々に自分たちのことを「イスラーム教徒」と見なしてほしくなかったからである。これを「イスラーム(原理)主義」の一例として扱うのは全くの見当違いである。
大澤は続く個所で、内戦の中で人々が民兵に「お前はセルビア人かムスリムか」と問いかけられ、そのことが帰属意識を固定化させ、昂進させたと指摘しており、これ自体は正しい。だが、そこで問われたのはまさに「宗教的集団としてではなく、エスニック・グループとして」の帰属選択であり、「イスラーム主義」とは何の関係もない。イスラームを信じようが信じなかろうが、内戦の中で「敵か味方か」と問われれば、どちらかに属すると表明しないわけにはいかない(「中立」とか「半々」とか答えるなら、両方から敵として扱われるおそれがある)。自分の親族が「セルビア人」によって殺されれば、自分は「ムスリム人」だと言うしかない。そのことは、自分がイスラームを奉じることを全く意味しないし、原初主義的な「民族」意識への固着でもない。「奴らは顔つきも、言葉も、生活習慣も俺たちと違わない。けれども、奴らは俺の肉親を殺した。だから奴らは敵だ」。これが内戦の論理である。決して、「宿命的な人種のような属性」としてコミットするわけではない。「人種」としては何の違いもない――当事者もそう認識している――けれども、現に敵味方に分かれてしまった以上は、「敵」との闘いに必死にならざるを得ないということである(34)。
旧ユーゴスラヴィアのムスリム人について述べたすぐ後に、大澤は「だが、逆に、イスラーム主義を、むしろナショナリズムに抗する政治的・文化的運動と見なす論者もいる」と続けている。イスラーム主義がナショナリズムに抗する運動だというのはイスラーム地域研究の常識である(イスラーム圏が広い範囲の多数の国々を包括する以上、「イスラーム信徒共同体」全体への忠誠心と個別ネーションへの忠誠心が矛盾するのは当たり前である)。旧ユーゴスラヴィアのムスリム人(ボスニア人)は「イスラーム主義」とは無縁だからこそナショナリズムと結合するのであって、この関係を「逆に」と表現するのは当たらない。にもかかわらず大澤がこのような形で論じるのは、イスラーム主義が古典的ナショナリズムとは対立するにしても、現代のナショナリズム自体が「古典的ナショナリズムを解体する運動」なのだから、その意味ではイスラーム主義も「ナショナリズムの最後・後の波の内に含めることができる」と論じたいからのようである。「古典的ナショナリズム」と対立するものを「現代的ナショナリズム」と名付けるというのは、言葉の定義次第でそうも言えるしそうでないとも言えるという類の話で、特に賛成したり反対する必要を感じない。ただとにかく、旧ユーゴスラヴィアのムスリム人はこの文脈で取り上げる必要のないテーマであって、これを「イスラーム主義」が「ナショナリズム」化した例だと論じるのは、かえって論の説得力を弱める。
話がやや離れるが、旧ユーゴスラヴィアについては、別の個所で、「エスニック・クレンジング(民族浄化)」への言及がある。そこでは次のように書かれている。
「ここで編み出されたのは、異民族の女性をレイプすることによって、その異民族の絶滅や改造を図る、という手法である。ナチスでさえも、ユダヤ人の女性を妊娠させることで、ユダヤ人の絶滅を促進しようとは考えなかった」。
この叙述は、宣伝戦の中で広められた「ナチスさえもしなかったような蛮行」というイメージを、何の批判的検討もなしにそっくりそのまま鵜呑みにしたものである。言説というものが「事実」を模写したものなどではないということは常識であり、ポストモダニストの間では特に強調されていることのはずである。にもかかわらず、ここではプロパガンダ上の言説が「事実」と受け取られている。そのあまりにも素朴な態度には驚くほかない(35)。別の個所にも、「今日(異民族に対して)最も寛容性が低く、排外的なナショナリズムは、旧社会主義圏の、とりわけ旧ユーゴ地域の民族紛争の内に見ることができる」とあり、大澤自身の偏見をはしなくも露呈している。 
11
本書は全体として「ナショナリズム」と呼ばれる諸現象をどのように理解するかという理論的課題に向けられており、あくまでも「理論の書」であって、実践的な処方箋を出そうとするタイプの書物ではない。「ナショナリズム論」というと、ややもすれば口角泡を飛ばした政治論争――一方の側に熱烈なナショナリスト、他方の側にこれまた熱心なナショナリズム否定論者が対峙するという構図――を連想しやすいが、そうした構図から距離をおき、実践的立場はさておき、ともかくこの対象を冷静に理解しようと試みる努力は貴重なものである。本書の中で、現実的な政治論争に引きずられた感じの部分はほとんどないが、そのことは本書の価値を高めこそすれ、低めるものでは全くない。
そうではあるのだが、本書の中には、ごく僅かに、そして暗示的にではあるが、ある種の価値観や実践的姿勢を示唆するかに見える個所がいくつかある。学者といえども人間である以上、冷静な理論書の中に実践的価値観をほのめかす個所があってもおかしくはないが、それが書物全体の議論とどのように関わるのかという疑問はどうしても出てくる。
本書の基調は、「ナショナリズムは時代遅れだ」といった類のナショナリズム批判は無効だという指摘におかれているが、そのような理解を前提にした上で、かといって「ナショナリズムはそれほど危険な思想ではなく、敵視する必要はない」といった弁護論を展開するわけでもないとしたら、どのような方向に希望を見いだすことができるのかというのは、そう簡単には答えられない、深刻な問いである。大澤は正面からの回答を提示しているわけではないが、ごく部分的に、望ましい方向性を示唆するとおぼしい記述がある。しかし、それはまさしく短い示唆にとどまっているため、それをどう受けとめてよいのか、戸惑いが生じる。
積極的な方向性らしきものが最も明示的に述べられている個所としては、次の文章を挙げることができる。
「それ〔特異な逆説を経由した、積極的で主体的な表現の可能性〕は、古典的なナショナリズムを否定はするが、それを超えてもうひとつのナショナリズムへと転態してはいない、境界部に位置する可能性である。たとえば、クレオールの新しい文学の内に、こうした可能性が姿を現しているのであった。この切り立った細い境界部に踏みとどまるところに、確かに、もうひとつの積極的な可能性が残されていたはずである」。
ここでは、クレオール文学――およびそれとある程度類比的な「在日」の文学者たちの作品――の中にある種の可能性があるという考えが示唆されている。本書第二部でクレオール文学および「在日」の文学者たちが大きな位置を占めているのは、おそらくそうした考えと関係しているのだろう。だが、その「可能性」が具体的にどのようなものなのかは、これだけを読んでもあまりはっきりしない。
右の引用文には、「古典的なナショナリズムを否定はするが、それを超えてもうひとつのナショナリズムへと転態してはいない」という個所があった。「もうひとつのナショナリズム」へと行き着くことなく「細い境界部に踏みとどまる」ことが重要だ、というのはそれなりに分かるような気がする。では、次の文章はどう解釈すべきだろうか。
「金鶴泳にとって、父との和解ならぬ〈和解〉が、日本人としてのそれでも、朝鮮人としてのそれでもない、「在日」という移行状態に対応した民族性の自覚をもたらしていた。……こうした原理は、クレオール性やディアスポラとしての性格に立脚したナショナリズムを結節する機制を説明する論理として、一般化させていくことができるのではないか」。
ここにある「日本人としてのそれでも、朝鮮人としてのそれでもない、「在日」という移行状態」という言葉は、先の「細い境界部」に対応するようにも見える。しかし、そのすぐ後に「クレオール性やディアスポラとしての性格に立脚したナショナリズム」とあるのは「もうひとつのナショナリズム」ではないのだろうか(「日本人」や「朝鮮人」だけでなく「在日」というカテゴリーも、物神崇拝や排他的忠誠心の対象に――常にとは限らないにしても、少なくとも論理的可能性として――なりうるはずである)。次の文章でも、ある種の特異なナショナリズムが肯定的に捉えられているようにみえるが、そのことと「もうひとつのナショナリズム」否定の関係はどうなっているのかという点が気になる。
「ここに説明してきたような、現代的なナショナリズム〔クレオール的な、あるいはディアスポラ的なナショナリズム〕にあっては、共同体の特殊性・特異性は、積極的に要求されている。特殊性・特異性は、普遍化への障害ではなく、むしろ、それを通じてこそ、「真の〈普遍性〉」への通路が開かれる(かのように見える)からである」。
「こうしたナショナリズム〔クレオール性に立脚したナショナリズム〕の思想的な可能性を、最も高い部分において代表しているのが、グリッサン〔マルティニクのクレオール作家〕ではないだろうか」。
右の第二の引用文に続く個所には、「普遍性ということについての通常の理解が、ラディカルな仕方でひっくり返されている」という文章がある。これは「朝日新聞」掲載の大澤の文章(前注28)で「真の〈普遍性〉を見いだす」ことを呼びかけ、「真の〈普遍性〉は〔全ての葛藤や差異が中和されるような〕容器ではない。むしろ葛藤そのものに内在しているはずだ」とあるのとつながるようにみえる。だが、これもレトリックに頼った記述で、具体的にどういうことを指しているのかがつかみにくい。そして、「他者が、まさに他者である限りにおいて接近してしまうこと」という結論的呼びかけも、あまりにも雲をつかむような話だという印象が残る(アフガニスタンで活動している中村哲医師の名が挙げられているが、これは唐突の感があり、それまでの抽象論が、いきなり呈示されたこの具体例とどう結びつくのか分からない)(36)。
クレオール論やディアスポラ論はここ十年ほど一種の流行のようである。確かに、特定の「民族」「エスニシティ」「領土」「国家」等々に固定化された発想法を超える上で、こうした問題領域に着目することには一定の意義があるだろう。だが、問題なのは、「クレオール性やディアスポラとしての性格に立脚したナショナリズム」とは具体的にどういうものなのかという点にある。特に重要なのは、それが「クレオール性」「異種混淆性」「ディアスポラ性」などを新たな物神崇拝の対象とする固定化・閉鎖化をもたらし、「もうひとつのナショナリズム」と化してしまう可能性にどのように対処するのかという疑問である(37)。
もうひとつ付け加えるなら、ここで取り上げてきた個所では文学者たちの思想的営為が主要な考察対象となっている。他の個所でも文学作品が多数利用されていて、それが本書の一つの特徴をなしているが、ここで問題とする個所ではそれが特に顕著である。社会現象・社会問題・社会運動・社会思想などについて論じる際に文学作品を素材とすること自体に異を唱えるつもりはないが、それが社会科学にとって何を意味するのかについての説明がもっとあってもよいのではないかという気がする。大多数の文学者にとって最も切実なのは個人としての生き方に関わる次元である。もちろん、それは社会から孤立したアトムとしての個人ではなく、社会的背景の中にある個人であるはずだが、ともかく関心の方向性が文学者と社会科学者とでは違っていて、前者では「社会を背景とした個人」、後者では「個々人によって織りなされる社会」に焦点がおかれるのではないだろうか。
ある民族集団の中に生まれ、その民族のナショナリズムへの忠誠とそれとは別種の忠誠とがともに強く要求される環境の中で育ち、引き裂かれる思いをする人は数多いが、そのような相克にどのように立ち向かうかは各人ごとに個性的であり、多様だろう。ある人が苦闘の果てに自分なりの生き方を見出していく様を描いた文学作品は、読む人に感動を与えるが、それは社会問題・社会運動・社会思想としてのナショナリズム問題をどう考えるかという問題とは次元を異にするのではないだろうか。それに、そうした忠誠心の相克と苦闘というテーマは、民族・エスニシティ問題に限らず、階級的帰属だろうが、宗教だろうが、職業的利害だろうが、その他あらゆる場面で見出されるものであって、殊更にナショナリズム論という文脈でだけ問題化されるものではない。ある文学者がある作品の中でどんなに感動的な場面を描いたとしても、それが社会現象としてのナショナリズムにどう立ち向かうかという問題の回答を与えることにはならないのではなかろうか。 
12
補論「ファシズムの生成」に移る。本書が通常の歴史学とおよそ異なった性質の仕事だということについてはこれまで述べてきた通りだが、この補論は、時間的にも空間的にも絞られた対象(一九三〇年代のドイツ)を取り上げており、また末尾の文献目録を見ると、次のようにかなり多数のドイツ史研究者の著作が挙げられていて、「この補論は本文と違って歴史研究に近づいているのかな」という予感をいだかせる。
文献目録からドイツ現代史関係のものを抜き出してみると、次のようになる。フリードレンダー「ナチズムの美学」、同「アウシュヴィッツと表象の限界」、ヒルバーグ「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」、平井正・木村靖二・岩村行雄「ワイマール文化」、平島健司「ワイマール共和国の崩壊」、井上茂子ほか「1939ドイツ第三帝国と第二次世界大戦」、蔭山宏「ワイマール文化とファシズム」、カーショー「ヒトラー――権力の本質」、木村靖二「兵士の革命」、小岸昭「世俗宗教としてのナチズム」、コーゴン「SS国家」、熊野直樹「ナチス一党支配体制成立史序説」、栗原優「ナチズム体制の成立」、同「ナチズムとユダヤ人絶滅政策」、リンゼ「ワイマル共和国の予言者たち――ヒトラーへの伏流」、南利明「ナチス・ドイツの社会と国家――民族共同体の形成と展開」、三宅立「ドイツ海軍の熱い夏」、望田幸男「二つの近代――ドイツと日本はどう違うか」、村瀬興雄「ナチス統治下の民衆生活」、同「ナチズムと大衆社会」、中井晶夫「ヒトラー時代の抵抗運動」、中村幹雄「ナチ党の思想と運動」、西牟田祐二「ナチズムとドイツ自動車工業」、野田宣雄「教養市民層からナチズムへ」、小野清美「テクノクラートの世界とナチズム――「近代超克」のユートピア」、大野英二「ドイツ問題と民族問題」、ポイカート「ナチス・ドイツ――ある近代の社会史」、同「ワイマール共和国」(英語版)、シェーンボウム「ヒットラーの社会革命」、篠塚敏生「ドイツ革命の研究」、シュテファーン「ヒトラーという男」、山口定「ファシズム――その比較研究のために」、同「ヒトラーの抬頭」、山本秀行「ナチズムの記憶――日常生活からみた第三帝国」。
このリストをみるなら、これらを活用して書かれた補論は本論とは違って歴史に近づいたものではないか、言い換えれば歴史家にとっても読みやすいものになっているのではないか、という期待を読者がいだいてもおかしくはない(少なくとも私はそうだった)。ところが、そういう期待をもって補論を読んでみると、驚くべきことに、ここに挙げられた膨大な著作を活用したとおぼしき個所はほとんどない。わざわざリストアップするからには、大澤は一応これらを読んだ上で書いたのだろうが、それらは大澤の思考にほとんど何の痕跡も残さなかったかのごとくである(38)。
これらの文献が多少なりとも本文に反映している個所を探すなら、まず強制収容所に関連して、コーゴンその他いくつかの著書が使われている。しかし、これらは歴史的分析というよりも、当事者の回想的叙述を素材として想像力を駆使したイメージの描写といった性格のものである。小岸昭の著作も何度か言及されているが、これは文学的イマジネーションを羽ばたかせた評伝ともいうべきもので、通常の意味での歴史書ではない(念のために断わっておくが、ここで「通常の意味での歴史書」かどうかということは価値評価とは無関係で、単純にジャンルの違いを指している)。多少なりとも通常の歴史書を参照したらしいのは、私の気づいた範囲では、ナチズムの「近代性」およびそこにおけるテクノクラートの役割に関連して小野清美その他若干の著書に言及した個所だけだが、これはごく一般論的な文脈でのものであり、特異な論点を出しているようには見えない(39)。そして、これ以外の歴史書の大半は、わざわざリストアップされているにもかかわらず、完全に黙殺されている。
こういうわけで、この補論は文献目録の与える印象とは違って、およそ歴史研究と縁遠いものになっている(繰り返すが、これは善し悪しの問題ではなく、ジャンルの違いを言っているだけである。前注38も参照)。むしろ、ここで圧倒的な重点がおかれているのは、ハイデガーをめぐる考察である。実際、この補論は「ファシズム論」というよりは「ハイデガー論」と銘打った方が、はるかに内容にふさわしかったろう。
いうまでもなく、ハイデガーは二〇世紀最大の哲学者と目されている人であり、その彼がナチズムを支持したことがあるという事実は、多くの人々の関心を引き、これまでも様々な形で論じられてきた(私自身は、そうした議論の内容に通じていないが)。それはそれでよいが、どうしてそれがファシズム論の主要な内容となるのだろうか。哲学者や思想史研究者がこの問題に大きな関心を寄せるのは分かる。だが、それは歴史的現実としてのファシズムないしナチズムとどういう風に関わるだろうか。
敢えて乱暴な言い方をしてしまうなら、一九三〇年代のドイツ(およびその周辺諸国)に生きていた人々の圧倒的多数は、哲学などという学問にほとんど何の関心ももっていなかっただろうし、ハイデガーという人の名前も聞いたことがなかったかもしれない(名前は辛うじて知っていたとしても、読んだことのない人が圧倒的多数だろう)。そのような「ハイデガーのハの字も知らない」ような膨大な大衆がその時代をどのように生きたのか――この点にこそ、歴史としてのナチズムないしファシズム論の課題があるという風に考える私のような人間の見地からすれば、この補論で書かれていることは、およそまるでピンと来ない。「大事なことが書かれているのかもしれないけれども、私には関心がありません」としか言いようのない話である。
私とても、哲学に全く関心がないというわけではない。若い頃は人並みにヘーゲル、マルクス、新カント派、サルトル、メルロー=ポンティなどを読みあさったことがあるし、その後も、ウィトゲンシュタイン、フーコーその他の哲学書を折に触れてひもといたり、あるいは自分の頭で哲学っぽいことを考えることをしないわけではない。ただ、専門分野としての哲学を自己の職業とするわけでない場合に重要なのは、いわゆる「哲学学」ではなく、自分自身でどのように考えるかという「自前の哲学」である。日本の哲学は「哲学学」だということが指摘されるようになって久しいが、その状況はどれほど変わっているのだろうか。ここ十年ほど、日本では一種の哲学ブームが起きていて、哲学の入門書・概説書などが広い範囲の読者層に売れているようだ。それはそれで結構なことだし、私自身もそのいくつかを読んで、恩恵をこうむったりもしている。ただ、多くの読者の需要はおそらく「自前の哲学」模索のための手がかり獲得に向けられているのだろうと思うが、供給の側は、「この機会に哲学学を売り込もう」という思惑も紛れ込んでいるのではないかという気もする。
話がやや逸れてしまったが、大澤の場合、第一部や第二部の叙述から推して、おそらく「自前の哲学」をもっているのだろうと思われる(実際、そこにおける哲学議論には、私でも何とかついていける)。しかし、この補論では、なまじハイデガーという「超大物」を主要対象として取り上げたせいで「哲学学」に引きずられてしまっているのではないかと思われてならない。とにかく、「哲学学」とりわけ「ハイデガー学」に通じていない私にとっては、この補論はフラストレーションばかり掻き立てるものだった。 
13
大著であるだけに、この読書ノートもずいぶん「長編」になってしまったが、本書では数多くの論点が取り上げられており、私なりに興味を惹かれながらもここで触れなかった点も多く残っている。断片的に例示するなら、たとえば、「終わり」の不在ないし失効をめぐる議論、各所に出てくるカント哲学の解釈、Coda=Children of Deaf Adultsについての議論(第二部第X章(40))などはそれぞれに面白い論点であるように思う。もっとも、それらの本書全体の中での位置づけ、そしてどうしてナショナリズム論の中でこれらが重視されねばならないのかとなると、分からないとしか言いようがない。
これらとは別に、私自身の研究上の関心と重なる論点も、これまで触れた以外にいくつかある。最も大きな点としては、現代のグローバル化の中で、一方ではアメリカの権威が相対化され、トランスナショナルな「帝国」は決してアメリカ合衆国と等置できないが、にもかかわらず、他方ではそのグローバル化の中で主導的な位置を占めているのはやはりアメリカだという二重性の問題がある。しかし、各所で論じられているわりには、この一見逆説的な事態をどう理解するかに関する大澤自身の積極的考えは十分読みとれない。もう一つ、二〇世紀末の東ヨーロッパのナショナリズムの興隆の背景には「(西)ヨーロッパ性」の濃度をめぐる競争があるという指摘も、私自身の専門と関わって関心を引くところだが、短い言及にとどまり、十分展開されていない(また、これは何も「二〇世紀末」の特殊な状況ではなく、もっと古い背景をもつ)。こういった風なことを拾い上げていけば切りがないが、長文になりすぎたことでもあり、とりあえずこの辺で打ち切っておきたい。
振り返ってみると、ずいぶん数多くの不満を書き連ねてしまった。とはいえ、このノートを書く過程で自分自身の考えを整理することは、私にとって貴重な機会ではあった。ここに書き連ねたことの多くは、以前から考えつつあったとはいえ、本書を読み、著者との対話を試みる過程でより明確化してきたものであるので、そうしたきっかけを与えてくれたという意味では、著者に感謝しなくてはならないだろう。
各所で述べてきたように、大澤と私とは、専門も、世代も、関心の方向性も、思考法のパターンもおよそかけ離れており、私にとって大澤は、「徹底した他者」である。そのような「徹底した他者」との対話の試みであるこの読書ノートは、多くの誤解を犯している可能性があり、いずれにせよ「外在的批評」との反論を免れないだろうが、それでも私にとってこれを書くことはやはり有意義だった。それというのも、先に紹介した大澤の言葉――「他者が他者である限りにおいて接近してしまうこと」という呼びかけ――をもじっていうなら、この読書ノート自体が、私にとって徹底的な他者である著者に接近しようとする試みだったからといえるかもしれない。 
(1)大澤真幸編「ナショナリズム論の名著50」平凡社、二〇〇二年、二七四、三一三頁。
(2)本文で引用したのと同じ個所で、大澤は「理論が指向する普遍性と、固有名が照準する特異性とは、矛盾すると考えている人がいる。だが、それは間違いである」とも書いている(八七六頁)。私は両者が「矛盾する」とは考えず、その限りでは大澤と同意見だが、どうやって結合させるかは非常に難しい問題であり、一方を達成すればそれが直ちに他方に通じるというような簡単な関係ではないと考える。ひょっとして、大澤は普遍性さえ達成すればそれが直ちに特異性の理解にも繋がると考えているのだろうか。もしそうなら、それはそう簡単にはいかないと言わなければならない。
(3)歴史学の方法・視角・テーマ設定・手法・資料選択などについて、「伝統的」なスタイルを墨守することなく、様々な角度から新しい模索がなされるべきなのは当然であり、諸方面からの「実証史学批判」には多くの面で傾聴すべきものがある。ただ、とにかく個別性ないし固有性への執拗な関心と「資料批判」(ここでの「資料」には非文書資料も含まれる)の精神まで捨てたのでは、およそ歴史研究そのものが成り立たなくなってしまう。この問題については、塩川伸明「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第一〇章参照。
(4)塩川伸明「民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T」岩波書店、二〇〇四年、二二‐二五頁。やや詳しくは、近刊の著書(「民族とネイション――ナショナリズムという難問」岩波新書)で展開予定。
(5)アンダーソンはリサールがスペイン語で書いた事実と並んで、いまではその作品が原語で読まれなくなったということを重視している。ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊――ナショナリズム・東南アジア・世界」作品社、二〇〇五年、第一〇、一一章。だが、大澤は前者のみに注目し、後者には触れていない。
(6)鈴木義里「あふれる言語、あふれる文字――インドの言語政策」右文書院、二〇〇一年。
(7)ソ連の民族政策・言語政策が――一般的に懐かれがちな通念とは異なって――一種独自の多文化主義・多言語主義の性格を帯びていたこと、そしてまさしくそれが各種の矛盾を生み出していたことについて、塩川伸明「ある多言語国家の経験――ソ連邦の形成・変容・解体」(多言語社会研究会二〇〇六年度大会における講演)参照。偏狭なナショナリズムを超えるはずの多文化主義が「まことに結構な思想であって、非の打ち所がない」というわけにはいかないという事情と、資本主義の諸矛盾を超えるはずだった社会主義が「まことに結構な思想であって、非の打ち所がない」というわけにはいかないという事情との間には並行関係があり、この対応は偶然ではない。
(8)一例として、杉島敬志編「人類学的実践の再構築――ポストコロニアル転回以後」世界思想社、二〇〇一年所収の諸論考(同書については、私のホームページに読書ノートがある)参照。多文化主義の実践のかかえる様々な矛盾の諸相については、関根政美「エスニシティの政治社会学」名古屋大学出版会、一九九四年、第七章も参照。
(9)塩川伸明「国家の統合・分裂とシティズンシップ」塩川伸明・中谷和弘編「国際化と法」東京大学出版会、二〇〇七年、八五頁でこの二分法に対する批判を簡単に提示したことがある。より詳しくは近刊の著書(「民族とネイション――ナショナリズムという難問」岩波新書)で展開の予定。
(10)Rogers Brubaker, Citizenship and Nationhood in France and Germany, Harvard University Press, 1992(「フランスとドイツの国籍とネーション」明石書店、二〇〇五年)。
(11)Rogers Brubaker, "The Manichean Myth: Rethinking the Distinction between "Civic" and "Ethnic" Nationalism," in H. Kriesi, K. Armingeon, H. Siegrist and A. Wimmer (eds.), Nation and National Identity: The European Experience in Perspective, West Lafayette, Indiana: Purdue University Press, 2004.ブルーベーカーはこの論文の中で前著「フランスとドイツの国籍とネーション」への自己批判を行なっているが、それは自説の全面的転換ということではなく、前著で十分展開されていなかった論点をより鮮明にする中で前著の一部を手直ししたという性格のものである。
(12)アンソニー・スミス「ネイションとエスニシティ」名古屋大学出版会、一九九九年、一五九‐一八〇頁。
(13)スミス「ナショナリズムの生命力」晶文社、一九九八年、一四七‐一四八頁。なお、この個所は大澤、三六八頁にほぼそのままの形で紹介されている。
(14)同右、一四八‐一四九頁。
(15)Hans Kohn, The Idea of Nationalism: A Study in Its Origins and Background, with a New Introduction by Craig Calhoun, New Brunswick and London: Transaction Publishers, 2005 (originally published in 1944).
(16)前注11。二分法図式批判については、その他に、Stephen Shulman, "Challenging the Civic/Ethnic and West/East Dichotomies in the Study of Nationalism," Comparative Political Studies, vol. 35, no. 5, June 2002; 渋谷謙次郎「言語問題と憲法裁判――ソ連解体後の「デモス」と「エトノス」の弁証法」早稲田大学「比較法学」第三五巻第二号、二〇〇二年、三‐八頁なども参照。
(17)大澤編「ナショナリズム論の名著50」、三〇三頁、なお同趣旨の指摘は本書七二‐七三頁にもある。
(18)同書、三〇七、三一二頁。
(19)マイケル・イグナティエフ「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」風行社、一九九九年、二一六頁、同「民族はなぜ殺し合うのか――新ナショナリズム6つの旅」河出書房新社、一九九六年、一二‐一七頁。
(20)「民族はなぜ殺し合うのか」二六頁。これ以外にも、彼が単純な二分論に満足していないことを窺わせる文章は各所に散在している。
(21)「ヴァーチャル・ウォー」および「軽い帝国」に関する私の読書ノート参照〔補注。その後、塩川伸明「民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治」有志舎、二〇一一年、第三章に収録〕。
(22)ついでにいえば、「公定ナショナリズム」の「典型」がロシア帝国に見られるという通説も、私見では間違っている――一九世紀後半‐二〇世紀初頭のロシア帝国が「公定ナショナリズム」の政策をとろうとしたことは事実だが、それはきわめて不徹底かつ中途半端なもので、「典型」には程遠い――が、にもかかわらず、そのような見解が広まっている(大澤も二八六、四〇六頁でそのように書いている)のはどうしてなのか、というのも興味深い問いである。
(23)塩川伸明「現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔」勁草書房、一九九九年参照。
(24)日本におけるロシア史研究の回顧として、塩川伸明「日本におけるロシア史研究の五〇年」「ロシア史研究」第七九号(二〇〇六年)参照。
(25)ソ連民族政策史について詳しくは、塩川伸明「多民族国家ソ連の興亡」全三巻、岩波書店、二〇〇四‐〇七年、より簡略には、同「《20世紀史》を考える」勁草書房、二〇〇四年、第八章、また前注7に挙げた講演も参照。近年の欧米における研究も多数にのぼるが、特に大きな影響力をもった重要な著作として、Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939, Cornell University Press, 2001がある〔補注。この本の邦訳は「アファーマティヴ・アクションの帝国」明石書店、二〇一一年として刊行された。この邦訳書に付した私の解説も参照〕。
(26)梅森直之編「ベネディクト・アンダーソン、グローバリゼーションを語る」光文社新書、二〇〇七年。
(27)他の個所でも、「民族」の語に「エスニシティ」とルビを付けたり、「民族」を「エスニック・グループ」と言い換えたりしており(五九九、六二三頁など)、両概念が完全に等価であるかのように扱われている。しかし、日本語の「民族」という言葉は、英語のエスニシティと対応させて使われることもあればネーションと対応させて使われることもある多義的な言葉である。大澤も大分離れた個所で「民族」の語に「ネーション」というルビを振っている(八二〇頁)。同じ語に異なったルビが振られることがあるのは、言葉の両義性を念頭におくなら驚くに値しないが、問題なのは、そのことについて何の説明もない点である。
(28)大澤真幸「ナショナリズム」「朝日新聞」二〇〇七年九月一五日。
(29)私はこの問題について、ごく簡単な問題提起だが、市野川容孝「社会」に関する読書ノートの末尾で触れたことがある。
(30)G・C・スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」みすず書房、一九九八年、一一六頁。
(31)上村忠男「得策ではなかった結語?」「現代思想」一九九九年七月号。
(32)サバルタン問題については、スピヴァク自身への疑問を含めて多くを論じなくてはならないが、まだ本格的に論じる準備はない。さしあたり、小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」および杉島敬志編「人類学的実践の再構築」への読書ノートの中で簡単に触れたことがある。
(33)六七六頁の注32には、「ただし、この頃には、ボスニアの「ムスリム」たちの大部分は、すでにイスラーム教の信仰と実践を放棄していた、ということを認知しておかなくてはならない」と――正当にも――書かれている。だが、この認識と、「イスラーム原理主義あるいはイスラーム主義」の例だとする本文の記述の関係は、何も説明されていない。なお、日本語での表記として、「信者」を意味する「ムスリム」よりも、端的に民族名を指すことが明らかな「ムスリム人」を使う方が無難であり、日本の旧ユーゴスラヴィア研究者の大半は通常この表記をとっている。大澤はそうした専門家たちのほぼ一致した用語法を無視して「ムスリム」と書いているが、これはミスリーディングな表記であり、この注の冒頭に引用した認識を裏切っている。
(34)ひょっとしたらここには、ボスニア紛争に関するイグナティエフのミスリーディングな叙述が影響しているのかもしれない(イグナティエフが取り上げているのはセルビア人、大澤が書いているのはムスリム人で、話題が異なるが、捉え方には共通性がある)。イグナティエフという人が一筋縄ではいかない書き手であり、鋭い洞察と首尾一貫性の欠如を同居させていることについては前述したが、ボスニア内戦に関する彼の記述には、興味深い観察から一挙にミスリーディングな結論に飛躍するところがあり、しかもそれが多くの人に影響――私見では悪影響――を及ぼしているように思われる。あるセルビア人兵士との会話を紹介した個所で、彼は「セルビア人とクロアチア人は全く共通点のない根本的に異なる二つの民族だという民族主義的な神話」への屈服とか、「洗礼を受けて以来、正教会の礼拝に出たこともなかったのに、今になって、やっぱり「我々」は正教徒で、「かれら」はカトリック教徒なんだと思い出したわけだ」等と書いている(マイケル・イグナティエフ「仁義なき戦場――民族紛争と現代人の倫理」毎日新聞社、一九九九年、五〇、五九頁)。だが、彼自身の紹介するセルビア人兵士の言葉には、どこにも宗教への言及もなければ、「セルビア人とクロアチア人は全く共通点のない根本的に異なる二つの民族だ」という考えも表明されていない。これはイグナティエフが勝手に押しつけた解釈であって、セルビア人兵士が実際にそのような観念に基づいて行動していたと考えるべき根拠はない。イグナティエフ「ヴァーチャル・ウォー」についての私の読書ノート参照。
(35)いうまでもないことだが、このように指摘することは、だから「民族浄化」はなかったとか、大量レイプはなかったと論じることを全く意味しない。この複雑な問題については、私の研究ノート「「民族浄化」という言葉について」、「コソヴォ問題と「人道的介入(干渉)」論――日本における国際政治・国際法研究者の言説をめぐって」、またイグナティエフの「ヴァーチャル・ウォー」および「軽い帝国」に関する二つの読書ノートなど参照〔補注。これらの文章は改稿の上、塩川伸明「民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治」有志舎、二〇一一年に収録された〕。
(36)本書全体の最後の個所には、「このとき、愛は、ナショナリズムを結節するような閉鎖性を脱し、普遍的な社会空間を準備するような無限に開放的な形式へと転換するはずだ」とある(八二八頁)。これはあまりにも唐突なご託宣であり、理解不能というほかない。
(37)「クレオール主義」について私自身はあまり通じていないが、小田亮の二論文に示唆されるところが大きかった。小田亮「しなやかな野生の知――構造主義と非同一性の思考」「岩波講座・文化人類学」第一二巻(思想化される周辺世界)、岩波書店、一九九六年所収、同「発展段階論という物語――グローバル化の隠蔽とオリエンタリズム」「岩波講座・開発と文化」第三巻(反開発の思想)岩波書店、一九九七年所収。これらに触発された私なりの考えは、塩川伸明「帝国の民族政策の基本は同化か?」「ロシア史研究」第六四号、一九九九年、二七‐二八頁で簡単に述べたことがある。
(38)ひょっとしたら、大澤は既成の歴史学の総体に対して強く否定的な見解をもっており、そこから学ぶべきものは何もない、黙殺が最もふさわしい、と考えているのかもしれない。もしそうなら、結論への賛否はともかくとして、一つの重要な問題提起あるいは挑戦状ということになる。しかし、そのように明言されているわけでもなければ、仮にそう考えるとして、その論拠が説明されているわけでもない。
(39)「ファシズムには、さまざまな観点から見て、近代的と見なしうる性格が備わっている、ということが、研究者たちによって自覚されてきた」(六九三頁)とか、「近年のナチズム研究は、ナチ体制下で、技術者やテクノクラートが重用され、彼らが積極的なナチスの支持者になっていたということを実証している」(七三〇頁)とあるが、こうした点は「近年の研究」を待つまでもなく常識であり、実際、ここで挙げられている文献の多くは一九七〇‐八〇年代のものである。
(40)なお、ろう者および手話言語について、私はこれまでほとんど何も知らなかったが、たまたま本書を読んだ直後に、次の論文に接することができた。小嶋勇「日本手話と言語権の実践」渋谷謙次郎・小嶋勇編「言語権の理論と実践」三元社、二〇〇七年所収。
(41)なお、私自身はハート=ネグリの帝国論をめぐる一連の論争にあまり通じていないが、現代的な「帝国」がアメリカを指すのかそうでないのかという問題を考える際には、ハートとネグリの話題の書物は「九・一一」の直前に書かれており(原著初版、二〇〇〇年)、その後のアメリカの単独行動主義的軍事介入をまだ見ない時点のものだという事情を考慮する必要があるのではないかと思う。 
 
日本史雑話  
お布令一枚で廃仏毀釈をスラスラ行った日本人
明治の初年に廃仏毀釈があった。奈良の興福寺は、いまで言うなら東京大学、叡山は京都大学、というほどの権威をもった存在なのに、それが一片のお布令で、何の抵抗らしい抵抗もなしに、明日からは春日神社の神主になったりするんですね。
こういう文化大革命が上からおこなわれるときには、国家は兵隊を寺なら寺にさしむけ、とり囲み、場合によっては銃剣で圧伏し、死人が何人か出る…というのが普通でしょう。
それがお布令一枚で廃仏毀釈という世界史上類のまれな文化大革命がスラスラ行ったというところに、日本人と日本史の本質の一部をのぞくことができます。お布令というものは、徳川時代から続いています。″お上のこわさ″に対する強度の畏怖感があるんですね。それにしても、郵便でお布令が舞いこんだくらいの軽い手続きで、興福寺ともあろう仏教上の大権威が、昨日までの仏教を捨ててしまう。捨てるだけではなく、昨日まで拝んでいた仏さんを風呂の薪にして、その湯で坊さんが温まっているんです。昨日までは仏教だったが、きょうからはもう神道だ、ということで、これがほとんど絶対的な正義なんですね。 
大阪人について
大阪人は律義者でないということはいえませんが、ともかくも権力というものに対して伝統的になめているところがある。権力のなかでももっとも権力的な軍隊社会というものにはどうも適合しない。それが、維新から明治初年いっぱい、日本のまがり角ごとに、新徴募の幕府歩兵や新徴募の鎮台兵にさせられて登場する。哀れですな。
ともかく大阪人というのは、日本のなかで特別に研究していい集団の一つでしょうね。
長距離トラックを運転している連中がよく言うことですが、下関を出発して山陽道を走りつづけ、やがて神戸をへて大阪にはいってくると、気がゆるむ、という。大阪には、体臭としてそういうものがあるらしい。ルールへの遵法精神が大阪へ入るとゆるむというのです。何かここでは、ルール抜きでやっていいような感じで、そんな気分になるらしいのですが、そこでつい事故を起こしてしまう。大阪を通りすぎて京都をぬけ、滋賀県草津から東海道に入ると、自然気分がかわる。ちょっと緊張してくる。静岡をすぎるころから、これから東京に入るんだということで非常に緊張するそうです。
つまり東京は、ひとを緊張させる何かをもっているのでしょう。ルールに対する厳しさというようなものは、封建時代から日本人が引き続きもっている緊張感に支えられていて、その匂いが、おなじ日本の都会でも、東京のほうがはるかに強いのでしょうね。
当然かもしれません。城下町であった東京と、町人の町であった大阪とでは、フライパンにしみついた油のちがいがあって、それが東京人・大阪人それぞれの体臭になっている。これはなかなか抜けきれるものではないようですね。 
新選組という組織を発明した不思議
私は土方歳三という人を一所懸命みつめているうちに、彼のことが少しわかってきた。そこで小説に書いたわけです。それは新選組と土方との関係、と言いますか、彼が新選組をどのように考え、どのように作り、動かしていったか、ということなんです。
新選組というのは、日本人が最初にもった機能的オルガノンなんですね。
当時、たしかに藩というものがありましたが、これは人を養っている組織というか、機構であって、ある統一的な目的をもったシャープな組織ではない。組織の名に価いするものでは、新選組が開祖です。これはやはり、日本の文化史上、特筆大書すべきことで、その新選組が誕生するのは、文久三年の春ですね。
なんで彼らがこんな組織を発明したのか、それが不思議でしようがなかった。使っていることばだけでも、非常に新鮮な感じがする。たとえば局長とか、副長助勤とかいうことばですね。
これは実は、前からあったことばで、昌平黌の寄宿舎の寮長補佐のことを、舎長助勤というんです。昌平黌の寮生活は、旧制高校の寮を想像してもらえばわかる。寮の委員長を舎長と言い、委員長補佐のことを舎長助勤と言っていたんです。
新選組の成立当時、山南敬助という、仙台藩を脱藩してきた、ちょっとしたインテリがいたんですが、彼が江戸で昌平黌と関係のある連中とよく付き合っていますから、まァ彼あたりがそんなことを思いついたのかもしれない。
新選組のシステムでは、統率者が局長の近藤勇であることは、明快ですね。だが指揮者は副長の土方歳三なんです。局長を神聖視して上に置いて、現実に手を汚す指揮は副長がおこなう。その副長に助勤がくっついている。ヨーロッパ風の軍隊でいうと、副長は中隊長、助勤は中隊長を補佐する中隊付将校です。中隊付将校はまた、それぞれの小隊を指揮する小隊長である。新選組のシステムは、この軍隊の制度そのままなので、オランダかフランスかの中隊制度から学んでいる、ということがわかります。
これをアレンジして、彼自身が中隊長になり、局長は統率者としてさらにその上に置いておく。責任は全部副長のところにくる。彼が腹を切れば済む。局長はそうする必要がない。責任は副長のところで止まる。ここいらの組織感覚は日本的とも言えますが、シスキムはヨーロッパ風、ことばは昌平黌などからとってきている。ともかくもそうして、一つの組織をつくりあげたというのは、たいへんおもしろいことですね。
土方の新選組における思考法は、敵を倒すことより町味方の機能を精妙に、尖鋭なものにしていく、ということに考えが集中していく。これは同時代、あるいはそれ以前のひとびとが考えたことのない、おそるべき組織感覚です。個人のにおいのつよすぎるさむらいのなかからは、これは出てこないものです。
たとえば加賀藩などのちゃんとした藩士が脱藩して、新選組に入ったとしても、ちょっと考えつかないものでしょうね。こういう鋭い組織感覚は、日常戦闘している者でなかったら考えられない。
百姓、町人、とくに町人です。自分の生き死にを賭けて商売していたりするときに、こういうことを思いつくことができるのでしょう。百姓にもそういう場合がありますし、漁師の場合でも、システマティツクに動かないと漁ができないことがある。が、さむらい、とくに江戸のさむらいは、そんなことは知らないし、考えられない。そこで土方の生い立ちが問題になるわけですね。 
勝海舟の偉さ
幕末には、そういう身分関係がゆるんできていますが、それでも勝海舟といえば、幕府の元軍艦奉行で、お殿様ですよ。その彼が、幕府の第一次長州征伐の始末のために、長州境の芸州広島に行く。単身で行くわけです。このお殿様が単身で行くところに、勝のえらさがあるんですが、そのえらさも、彼の身分を考えてみないと、よくわからない。
勝は、家茂の側近が自分を嫌っていることをよく知っていますから、はたして自分に交渉についての全権が委任されたのやらどうやら、後方に疑いをもちながら行く。しかし、彼は戦争を終熄させるための、非常にうまい手を考えていた。広島に泊まって、翌日は時間の余裕があったから安芸の宮島を見物している。
宮島の厳島明神の社頭にゆくと、神主がいる。その神主に、折角ここまできたのだから短刀を寄進したいと申し入れる。しかし神主は彼をうさんくさげに見て、受けられないと言う。
「くれてやるのに受け付けないとは何だ。おれは寄進する、あんたはうけとるだけでいいじゃないか」
「いや、御寄進はけっこうですが、それには作法があります。ざんねんだが受け付けられません」
とラチがあかない。しかしやがて神主の口ぶりから察して金を出せば寄進ができるとわかった。それで金子を添えて、ようやく受け付けてもらった。これがいま、宮島の社宝になっているんです。
神主は勝のことを、そんなにえらい人間だとは思っていない。勝自身、風来坊のように供もつれずにやってきているんですね。幕府の全権大使が、です。−それがそれくらいの身軽さで出かけてきている。ここに勝の人間というぬきさしならぬものが出てくる。日常性といいますか。
その翌日に長州の代表と会見するわけですが、その会見場所は、最初からのとりきめでこの宮島の厳島明神だった。明治以前は神社仏閣は治外法権の場所ですから…。
会見のとき、勝は座敷にすわつている。が、長州の連中は、縁側にびっしり並んだまま、座敷に上がらない。ついでに言いますと、軍事的には長州が幕府をやっつけているんです。幕府は負けている。その勝っているほうの代表たちが、負けている幕府代表がいくらあがれあがれといっても座敷に上がらない。長州藩士にすれば自分たちは陪臣の身で、相手の勝は直参のお旗本だから、というのです。
長州代表たちは皆縁側にひしめいていて、ともかくも上がらない。革命を起こそうという連中が、そうだ。このあたりにも歴史の体臭というものがあります。
勝は機略家ですからね、「それじゃァ、私から降りてゆくまでだ」といって煙草盆をもって、のこのこ濡れ縁のほうに出て行く。それでみんなどっと笑って、それではしようがない、上がらせて頂きます、とぞろぞろ座敷に上がっていくわけです。長州の連中、勝は話せる男だと思ったでしょう。勝も長州の荒胆をつかんだつもりです。
こういう情景がビビッドに浮かんでこないと、時代の雰囲気とか、当時の人間の意識とか、それぞれの人間像やそのえらさ・おもしろさなどがつかめない。
一言で言えば、歴史小説を書くときのデテールの問題ということになりましょうが、やはりその当時の人間が生きていた日常を、作者が同じように生きてみるということになりましょうか。歴史を見てゆくうえで、どうもこれは大事だとおもいます。 
竜馬は構想が大きいから姿勢が柔軟
竜馬には論理がないだけで、テーマはある。竜馬のテーマは、大統領をもつアメリカのような国をつくることなのでしょうね。多分に茫漠としたテーマなんでしょうけれども竜馬は、攘夷論者といっしょに走っているときには、自分も攘夷論者のようなことを言って、そのテーマを決じて片鱗も見せない。もし見せたら、仲間が彼を斬るでしょう。彼は尊皇の問題についても、多分に乱臣賊子の思想を抱いていたような気配があります。しかし彼は、ついにそれも口に出さない。そういう点では、実に老獪だし、柔軟です。
西郷の人間主義の構想も大きいが、竜馬の構想のほうが、はるかに具体的で、目に見えますね。構想が大きいために、姿勢が柔軟になれるのかもしれません。 
信長は自身の成功を見習わなかった偉さ
信長も頑固なように見えて、非常に柔軟です。信長に非常に感心することがあります。
彼は桶狭間でいちかばちかのバクチをしますね。しかし彼は、その生涯のうちに、こんなバクチは二度と打とうとしない。こんなものは百に一つぐらいしか当たるものではない。そのことを彼はよく知っていたのでしょう。
その後の信長の戦いかたは、味方が敵の数倍になるまで待っています。それまで、外交につぐ外交で、敵を弱らせておく。あるいはダマしておく。これなら確実に勝てる、というときになってから行動をおこす。これは勝つのが当然でしょう。だが、敵に数倍する軍隊を集めるという政治力と、それまで時を待つというその持久的なエネルギーは、彼の巨大な構想から出るわけです。大きな構想に沿った戦いかたをするのです。
それよりも、自分が桶狭間で成功したのは奇蹟だった、マグレだった、ということを知っている。これが彼が他の人とあきらかにちがう偉さではないでしょうか。普通の人間だったら、オレはやったぞ、と生涯の語り草にして、「あれを見習え、諸君!」とか何とかいうことになるでしょう。しかし、彼はついに、自分自身の成功を見習わなかった。
信長のすごさはそこにあるようです。 
竜馬は長崎を発想点に政情を観望
坂本竜馬は西郷隆盛を抜け目なくしたような男だ、とその両人をよく知っている大久保一翁が言ったといいますが、たしかに彼には抜け目ないところがある。西郷は革命において尭舜の空想的理想国家を夢見た。竜馬はあくまで貿易という大実務が夢だった。そのちがいが抜け目なさとして出ていますし、抜け目なさがそういう夢をもたせたのでしょう。京都で新政府が成立した直後に、実務上の大官をきめるための会議があって、各藩のリーダーがそのリストを出す。土佐藩の、竜馬が提出したリストに彼の名が入っていない。そのことを座長格の西郷が不審におもい、それをただすと、私はそんなものになるつもりでここまで生死の境をくぐってきたわけではない、役人にはなりませんよ、と答えているんです。さすがの西郷もこの巨きな無欲におどろいたといいますが、しかし抜け目のないはずの男が根っからの無私無欲だけでそんなことを言うはずがない。
このあたりをよく考えてみると、彼の野望は政府の大官になるというようなちっぼけなところにはなかったわけです。彼は長崎という特殊な地理的・経済的位置を発想点にして、そこから幕末の政情を観望し、その錯綜しきった情勢を鎮める方法をつぎつぎに考えついてゆくわけですが、そういうかれの着想は他の人から見れば、たしかに、奇想天外にもみえた。しかし、その野望と長崎という性格、位置をふくめた発想点に身をおいてゆくと、あるいは私たちでもそういうような着想は得られたかもしれない。
薩長連合にしても、大政奉還にしても、そうした発想点から生まれた。長崎を発想点にしているから、薩摩とか長州とか土佐とかの藩に密着した考えにならない。つまり彼の考えは、何かに″属して″いないわけです。
さきの見える人間が、その構想を打ち樹ててゆくについて、格別な場をみつけてそこに立つ、というのは大切なことですね。竜馬が天才だとしたら、あちこち歩いた上で、彼のそうした発想点である長崎に、自分自身を移動させてもっていったということにあるでしょう。その発想点においてはじめて彼は、現在と未来とのあいだを往復する。 
義経を見る日本人の判官びいきの困った問題
無名の人間が一朝にして有名になるということは、義経以前には、日本の社会にはなかった。いまで言うなら、美空ひばりでも石原裕次郎でも、スターの誰でもが味わうことを、日本歴史のなかでは義経が最初に経験するわけですが、そのときに義経の自己崩壊が始まるわけです。
自己崩壊とまで言うと義経がかわいそうですけれども、まァ法皇や関白にもかわいがられ、都の人気者になって、ある程度いい気になる。もうひとつ義経の困るところは、政治感覚が全くないという点です。
兄の頼朝が鎌倉にいる。頼朝の政権の基盤は鎌倉の大小の地主たち、つまり関東武士ですね。彼らはその権益を守るために頼朝を摸して、京都の律令体制にチャレンジしている。しかし義経はその律令体制の寵児となって、兄の立場を理解できない。そして、知らず識らずのうちに京都と鎌倉との抗争の渦中に巻きこまれていく。
頼朝にとっては、弟が体制側のとりこになり、そして大きな人気を得ているために、これが鎌倉に地主政権を打ち樹てようという目的の邪魔になる。邪魔者どころか、最大の敵になっていくわけです。そういう事情を、やはり頼朝の協同者である義経は理解しなけれはいけないのです。
大きな勢力を背景に戦争した人間が、いかに軍人とはいえ、わかっていなくてはいけないことを、義経は全く理解せず、逆に兄の無理解を悲しみながら没落していく。この、悲しみながら没落していくというところだけをとりあげて、日本人は感動してしまうんですね。
義経の困った点は、というより日本人の判官びいきの困った問題は、われわれ日本人が、頼朝の鎌倉政権が確立したおかげで、ちょっと人間らしい生活をもつことができた、という点を見ないことです。頼朝のやったことは、日本史上最大の革命かもしれません。頼朝こそ、律令制社会の矛盾から当時の日本人を救ってくれた革命の恩人なんです。このことを見ずに、その邪魔者であった義経にだけ同情の涙をそそぐ。あれだけの武功をたてた義経が没落していく、これがどうにも悲しい…。ここに日本人のメロディーが始まるわけで、それではやはり困るんじゃないか、という気持がありました。
こんな歴史的条件のなかに置かれた一人の青年・義経とは、どんな人物で、判官びいきとはどういうことか、ということで小説を書いたのですが、やはり読者がもっている既成のイメージというのは、なかなか抜けないんですね。 
南北朝時代は利権抗争で創造的なものはでない
そのけんかざたに、宋学の観念史観を翻訳した水戸史学が、″勤王″というバカバカしいフィルターをかけてしまった。九州の果てまで騒ぎがありましたから、九州の地方紙などでも、誰それは勤皇方である、誰それは賊軍である、といまでも書いているところがあります。
つまりは相続の争いなんで、中央の偉い人を頼るのに、オレは足利尊氏だ、オレは宮方に頼る、ということだっただけのことなのです。
ところが宮方つまり後醍醐天皇派には、そういう時代把握も社会把握もできない。把握しようという感覚すら稀薄である。そういう社会の矛盾から起こったさわぎだということを知らなくて、後醍醐天皇派は建武中興という、奇妙な、お公卿さんのたわごとのような古代政治を復活させようとする。そんな滑稽さが、官方にはあるんです。
どうにもならない、バカバカしい低能政権ができたわけです。誰もが怒るのは当たり前で、昨日まで官方だった人間までが足利旦那につく。尊氏がひとたび起つや、天下は風をのぞんで彼になびいていくわけです。
尊氏はしばしば戦いに敗れるわけですね。それでも九州へ行って、また兵を募ると、その傘下に集まる者が多い。結局、彼はよくぞこれだけ集まったと思われるほどの大軍を率いて上京し、湊川で宮方の正成を破るわけです。
尊氏はなぜ強いのか。それは彼にしたがっていたら、本領が安堵できると、ひとびとが考えていたからです。
当時のひとびとは、戦国時代とちがって、領地をふやすことをさほどには考えてはいない。権利保全だけです。伯父さんに横領されていた土地を自分のものに取り返す、という一家内部のいざこざのとり鎮めなんです。それが全国で何万件とあるわけで、それを尊氏によって解決してもらおう、というのです。
尊氏は、腹の大きな、そういうことがよくわかった人なんですね。彼自身、同じ社会の人間だから、感覚的にも十分わかるんです。
しかし、そこからはずされた人たち、権利のアウトサイドに立たされた人間は、宮方に残存しています。この人たちは吉野朝廷と連絡しながら、尊氏軍に対して抗争するのですが、しだいに微弱になって、滅びていく。
南北朝時代の抗争とは、ただそれだけのことで、そこに動いている力やエネルギーは、すべて権利、利害にからまるものです。それに特殊な史観のフィルターをかぶせれば、何らかの光を発することもありますが、やはりそれはイリュージョンであって、現実は利権のための抗争です。
小説を書き始めると、そうした現実がわかってくるんですね。それで空しくなって、書きづらくなる。創造的なことが出てこないために、しだいに苦しくなり、ちょうど胃液も何も出ないのにものを消化しようとするような、そういう身体の状態になって、衰弱してしまうのですね。
もうひとつ、南北朝の時代には、時代の美意識というものがない。鎌倉時代には鎌倉武士は美意識があった。私たちがいかにも痛快だと思うような、畠山重忠とか、生田の森でえびらに梅をさして戦った梶原景季だとか、そういうものがあった。そういう美意識が鎌倉時代の末期には衰弱し、しかも新しい美意識はまだ生まれていない。ここにあるのは利権・利害だけですから、小説にはなりにくい。ある種の小説にはなりますでしょうが…。
歴史小説というものは、前時代の美を打ち壊すか、あるいはそれに乗っかるか、その態度が最初に必要なのですが、そのための素材が何もない。現実は果てもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられて、一見すばらしい風景にみえるんです。だから、うかつにそれに乗ってダマされてはいけない。作家たちも、ずっとダマされてきたんです。観念史観にせよ、唯物史観にせよ、史観というもののこわさがそこにあります。ときに歴史をみる人間に、麻酔剤の役目をします。 
西郷や大久保などの体制製造家は悲劇
体制製造家、あるいは体制製造論者はみな生命が危いですね。西郷は自分の考えている体制構想が大久保にうけいれられない。そのために薩摩に帰って私学校を起こし、やがて反乱の総大将となって、城山の露と消える。江藤は西郷よりも前に、佐賀の乱で殺される。大久保が江藤を殺すわけです。体制製造法のたたかいというのは、こういうものですね。
大久保が考えている体制、西郷が考えている体制、そして江藤が考えている体制は、大きな共通項があって、本質はあまり変わりません。色合いやらにおいやらが少しずつちがうだけです。体制製造家大久保にとっては、他の体制製造家たちが敵なんですね。大久保自身は無私なんですが、日本のためにならないということで二人を倒してしまう。そしてこの大久保も、西郷が死んだ翌年ですか、紀尾井坂で死ぬ。
体制製造家の悲劇というものがあるんですね。その生涯はまことに華麗で、しかもすさまじい。だが、これは人間のなかにはめったにない才能です。処理家のほうは、たとえば東京大学法学部が生産し得るわけですし、いくらでも出てきますけれども、新たな体制を創始する人間はなかなか出ないんですね。
そう考えると、織田信長の偉さもわかってきます。彼はまさに体制をつくっていく。彼の生涯もまた華麗ですけれども、やはり終わりを全うせず、創業半ばで死んでいく。 
家康、伊藤らの処理家が成功
秀吉も多分に体制製造家としての一面をもっていますが、しかし彼には処理の才能が多分にあって、信長の創始したものをうけつぎ、アレンジしていく。家康はそれを処理しただけですね。製造家じゃありません。だから生きながらえる。三河の国主であったころから、あれだけの戦乱のなかを彼が生きぬいていけたのは、″水は方円に従う″で、器が変わればそれにしたがっていくからです。オリジナルなビジョンがないから、それができるんです。そのかわり彼は処理の名人です。
徳川氏の封建制度というのは、日本のためのものでもだれのためのものでもなく、徳川家一軒のためのものです。その制度は家康の処理感覚から生まれたもので、製造感覚から生まれたものではありません。それを家康の養成した官僚たちが維持相続していく。中央集権ではなく地方分権で、これをそのまま全国的に統一するために、警察力で抑えようとする。
こういう徳川体制のありかたに私たちは強い不満を感じますけれども、それでも徳川封建制度の残した幸福がひとつあります。
朝鮮人の友人と話し合っていますと、朝鮮の不幸は日本のような封建時代をもたなかったことだ、というように感じることがあります。そういうものはヨーロッパにもあった。これが近代社会に参加するための手形になるわけで、中国と朝鮮はその手形をもたなかった。しかし、ああいう王家を中心とした官僚制度では、日本のような封建制度はできなかったですね。
体制製造家が集れて、処理家が成功の果実を食うんでしょうか。
西郷・大久保らは、ともかく維新後まで生き残りましたけれども、あるいは彼らも、幕末に死んでいるべき人たちかもしれない。もう少し前には、吉田松陰とそのグループがいて、死んでいる。竜馬もそうです。橋本左内は革命家かどうか疑問ですが、彼も死ぬ。結局、最後に果実を食うのは、伊藤博文とか山県有朋とかの処理家でしょう。
山県の前には、大村益次郎という体制製造家がいて、死んでいます。彼は軍隊を様式化し、徴兵制度でいこうとするが、それにはかならず士族の反感、攘夷家の反感を買いますから、どうしてもその生命が危険になるわけです。
処理家には敵がいない。処理するだけでビジョンがないから、敵対関係が生じない。もちろん人間にとって、どちらが偉いかということはないので、まアどちらが華麗であるかということなんですね。どちらのタイプが好きか、という問題でしょうね。
ただ処理家には、どうにもならない感じがあります。家康はまず信長といっしょに歩く。さらに秀吉ともいっしょに歩いて、相手が弱ってくると、たしかに弱ったかどうか、呼吸の具合まで手でおさえて確かめてから起ち上がる。物事を創っていくには、ある大胆さと進取の気象といいますか、それに支えられた行動性が必要なのですが、処理家はやはり何かを創っていくタイブではありませんですね。しかし、処理家の一生は幸福と安全にみちています。 
日本人は社会を組みあげていくことが正義だと思っている
ところが札入をしたら、徳川のために最後で戦おうという意見が、三票しかなかっが。
当時の日本人にとって何が正義かと言えば、徳川への忠誠心も当然ながら正義なんです。しかし、それは小さき正義である、という考え方がある。新しい時代に参加することこそが、何にもまして正義だ、という考えかたですね。
しれが大勢を占めた。日本人を考える上で重大なことです。関ケ原の場合もそうだった。福島正則や加藤清正も、徳川方についた。彼らは秀吉の恩顧で、給仕上がりから大名にしてもらった。彼らは秀吉の遺児のために働かなければならない立場にある。それなのに、明日からは徳川体制だ、というところに正義を感じて、徳川方につく。こういうことが日本歴史のなかで、そういうことばが使えるとすれば大きな「エネルギー」になっています。
この間題を、軽薄とか無節操とか、よくモラルという窓から見たがる。モラルで見ることももちろん必要ですが、モラルだけで見たがると、歴史がわからなくなります。
日本人はどうも、社会を壊してしまうことはいけないことだ、と思っているようなのです。そして、社会を組みあげていくことが正義だと思っているらしい。一つの社会が壊れたら、すぐ新しい社会を組みあげていきましょう、というところがある。新しい社会ができると、立場立場で非常に不満ではあるけれども、作ることに正義を感じて妥協してしまう。福島正則も加藤清正も豊臣家への不忠の臣として語られていません。徳川体制をつくる上での有力な協力者だったという″正義″の上でかれらのモラルは浄化されています。ジ・ヲセフ・フーシエを悪人だと考えるのは多分に西洋的なのかもしれません。
普通、社会を構成する能力のない住民というものは、無能力の場合は別ですが、シャープすぎるほどの理論家が多いんです。はげしい議論があって、ついに相手を許せずに、おたがいに議論のなかで共倒れになってしまう。そこに妥協がない。日本人はその点、不満を抱きながらも妥協してしまう。
たとえば鳥羽伏見の戦いの段階で、全国の武士階級に、「薩長を主体とする京都政権をあなたは認めますか?」というアンケートを出したとしら、九割九分まで「認めない」というところにマルをつけると思うんです。本心はそうなんですね。さらに「京都で天皇を擁している薩長を主体とする新政権が、新しい時代をつくると思いますか?」と言えば、「思います」と答えるでしょう。分裂しているわけです。日本人の心の二重構造性を考えないと、歴史は見にくいのではないでしょうか。
最後に第三間として、「そこで、あなたはどういう行動をとりますか?」と問えば、○も×もなく、沈黙する。しかし動かざる沈黙ではなく、無言のうちに新しい時代に参加していく。そういうところがあるのですね。そういうことが、いいわるいはべつとして、時代を進めていく大きなエネルギーになっている。 
日本はひとつの体制ができるとマスのエネルギーがそこに殺到する
日本史というものは、注意してみると、なかなかおもしろいものです。
日活戦争(明治二十七〜二十八年)に勝ったときに、各国のあいだに、日本研究とまではいきませんが、ジャーナリスティックな意味で、日本を新しく見直すということが流行した。そのなかに、アメリカの海軍軍人だったと思いますが、私たちからすれば頬が赤くなるようなほめことばで、日本の歴史を評価したものがあるんです。
それによると、まず評者は日本歴史からほめにかかる。日本史をみるとなぜ日本が勝ったかがわかるのだという意味で。日本はヨーロッパの一流国に匹敵する歴史をもっていると評者はいう。義経の壇ノ浦の破滅戦は、トラファルガーの戦いにおけるネルソンよりも優れている。関ケ原の戦いでの家康の戦略と戦術は、ウォーターローのウェリントンよりもまさっている。しかも、大規模な戦いをしながら、その戦後処理は非常に組織的な処理のしかたで、一つの社会を作りあげていっている。こういう歴史を見ていくと、日本人はひょっとすると、英国人よりも優れているのかもしれない、という。そういう日本評価なんです。
ただここには、たしかに妥当な、おもしろい指摘があります。国によっては、その歴史をしらべていっても、ウンザリするほどおもしろ味のないものもあります。関ケ原も、壇ノ浦の大ドラマもない。
日本人は、歴史のなかで見ると、やはり能力があるということになるでしょうか。ここからただちに、日本人の一流性という結論をひき出されては困るのですが、ともかく日本の歴史は、眺めるに価いするものをもっています。
ひとつには日本人の組織能力、社会を組みあげる能力が高いということですね。こういう国は割合少ない。日本人は大化の改新以来、何べんも社会を壊したり作り直したりしてざましたが、そのなかで絶対的な、大岩盤のような貴族階級を作らずにきていますでしょう。階級がつねに微妙に流動している。たとえばこの歴史のなかで、徳川三百年が最も長い政権ですが、それ以前には、この諸大名も土民だった人たちです。
このような能力は、民族のどういう性格から生まれるのかというと、「明日からはベッタンが流行るぞうツ!」ということと関係があるようだ。廃仏毀釈で、明日からは春日神社の神主だ、というのも同様で、ひとつの体制ができると、マスのエネルギーがそこに殺到する。そこでパッと社会ができてしまうのですね。
そういう民族の性格を、私はこれまで自己嫌悪の目でみてきた。いまでも自己嫌悪はあるのですが、それは貴重な、一種の能力でもあるのではないか、とも思えるのです。 
日本はアジアではない
資本主義というのは官吏が全部お金を吸いあげていく制度だと息づているのが東アジアです。蒋介石氏というのは偉大な人物だけれど、彼でさえ天下をとったら、もとの中国を引きつがざるをえない。だからすぐ宋美齢一家がいろんなことをしたり、親類一統にいたるまで全部権力につくわけです。あれは十等親くらいにいたるまで全部親類ですから。もし拒否したら礼、つまり中国的秩序をなくすわけで、全部わいわいぶらさがってくる。
これは李承晩やベトナムでも同じことです。そういうことで落さんも結局は台湾に落魄せざるをえなかった。あまりにもひどくなったので民心が離れたのです。さいわいにして毛沢東は非常に違う原理でやってきたので中国はもうそういうことはなくなるだろうと思います。なくなるとしたら一大奇跡ですけれど。
ともかくも日本はそういうことかちまぬがれていたわけです。だから明治維新を東アジア的な場所から見ると非常にふしぎな事件ですけれど、同時に日本が明治維新をやったことは、十九世紀の世界の列強以外の国々から見れば非常にうらやましいらしい。
日本人というのは東南アジアに行ってもそんなに評判はよくないかも知れない。ただ一つ、日本人に対してうらやましいと思うのは維新をやったことだと、東南アジアあたりの知識人は思っているようです。
明治維新というのは志士がえらかったのかといえば、そんな馬鹿な話はないわけで、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、或いは機能とかが、作動していって明治維新が成立し、その後もうまくいくわけで、それは東アジアとは別の国ですね。
だから、福沢諭吉が『脱亜論』を書いたり、脱亜論的なことは今の知識人には「アジアの中にいるくせに脱亜論などといいやがって」と評判が悪いですけれど、これは福沢も間違っているし、それを批難する側もまちがっている。日本は始めから脱亜なんです。
むろん「俺はアジア人じゃないんだ、俺は準白人なんだ」といっていばるというのは絶対おかしいですが、しかし、アジアではない、アジア的な原理で動いてきたことはないんだということは、はっきりしておかなければならない大事な、そしてあたりまえの平凡なことだと思います。(歴史と風土) 
西郷びいき
では、なぜ西郷びいきが存在するのか。それは自分個人の、たとえばあを大学教授なら大学教授がいろんなことで、人にいったところであまり通用しないようなプライベートな怨念もこめて、現実の日本というものに不満を持っている。そういう場合、さかのぼっていくと西郷につながっていくんですね。西郷がもしあの時に成功してくれていれば、そしで大久保のごとき者がいなければ日本はもっとよくなったろうと。そうすると果たせなかった夢というのは日本の歴史の中にあるわけです。それが西郷やその範疇にいるものに仮託されていくのですね。この願望は日本人がこの日本列島に続く限り、ぼくはあり続けると思うんです。ですから西郷という存在もまた、反政府主義の側の巨大な原点であるということが出来るでしょう。(歴史と風土) 
河井継之助の優れた世界感覚
継之助の世界感覚が非常に鋭く、かつ乾いたものだった一つの例は、万一の場台には藩主父子をフランスに亡命させる手配までしていたことでしょう。亡命という考え方を日本人が持つにいたるのは、左翼運動ができ上がったころで、それ以前には皆無といっていいくらいです。明治初年に反政府反乱を起こした江藤新平らにしても、僕等からみて何故亡命しないのだろうと不思議に思えるくらいでしょう。そのくらい我々日本人というのは閉鎖社会の中にいたわけで、河井継之助が非常にサラサラと亡命を考えたということは、当時としては驚異的な世界性の持ち主だと思うんです。
まあ、それやこれやを考えてみまして、継之助という人が体の中に入ってくるような感じになったんです。彼の写真も何枚かみましたが、それぞれ全部違う顔をしているんです。こういう人物というのはちょっと端猊すべからぎるところがあるでしょう。撮られるたびに顔がかわっているというのは相当に複雑な人間であることはたしかですね。北越戦争で大奮戦して、もう少しで東京の新政府の国際信義を危うくするというところまで善戦したわけですが、戦い利あらず、傷ついて会津へ退却する途中で死ぬわけですね。その時、若党の松蔵に棺桶をつくらせ、自分の体を焼く薪を刈らせるでしょう。戦慄しましたね。これだけの人物というのはちょっといないんじゃないか、こういう精神というのはどうなっているんだろうと、たいへんな感銘をうけて、そこから『峠』の世界にのめりこんでしまったんです。
ですから『峠』は私の作品の中でも一番愛着の強い作品の一つなんです。先日、パリで傍らを案内してくれたソルポンヌの留学生がたまたま長岡の出身でしてね、母方が御殿医の家なんです。「じやあ、小山の艮運さんの相役の林さんか」と聞くと、その通りだというわけです。そこでまた、『峠』の話がパリのカフェのテラスでひとしきりでたんですけれども、ふっと、継之助はこのフランスに牧野父子を亡命させようとしたんだな、と感じましてね。改めて継之助の世界性を思い、面白い人物がいたものだな、と思いましたね。(歴史と風土) 
風土が人物を作る
戦国時代に、たとえば上杉謙信の越後、長曾我部元親の四国といった非常に強力なブロックが心くつか成立しますね。おもしろいことにその土地では今でも地方新聞がたいへん盛んなんですよ。
越後には「新潟日報」がある。伊達政宗のエリアには「河北新報」、長曾我部の土佐には「高知新聞」があって、島津のそこには「南日本新聞」がある。もちろん信長、秀吉、家康を出した尾張・三河地方には「中部日本新聞」があるといった具合なんです。
これらの地方新聞は経営も安定していて、発行部数も多く、非常に勢いがいい。「高知新聞」などは四国を席捲して「四国新聞」になりたいという意欲をずっと持ち続けている。長曾我部のエネルギーが風土の中にこもっているようなところがあるのです。ほかの新聞の場合も同じだと思います。
ところが戦国時代に活躍しなかった県では新聞の成立がなかなかむつかしいのですねたとえば三重県や奈良県、千葉県では県紙がふるわない。もっともこれらの県は東京、大阪の近郊県であり、大新聞の勢力範囲にあるわけですから、県紙が育たないという見方もできるのですが、大阪からわずか電車で四十分という京都には、「京都新聞」というとても有力な新聞があって、大阪の新聞をはばむ力をもっている。
いったいこれはどういうことなのかよくわかりませんが、逆もまたいえるわけで、越後地方という広大なブロックは、上杉謙信のような天才が出なくてもそれに似たものを押し出すエネルギーがあったんじゃないかと思われるわけです。上杉謙信はむしろそういうエネルギーのもとで成立しているのであって、もし謙信が三重県なり奈良県に生まれていたら、なんでもないお医者さんであり、お坊さんであったかも知れない。どうもそこによく解明できないなにかがあるような感じがするんですよ。「人間の風土」といってしまえばそうなんですけれども、取材でいろんな地方を歩きますが、いったいこれはなになのかよくわかりませ。(歴史と風土) 
明治期には汚職はなかった
明治はおもしろい時代であったという感じがあります。明治期には汚職はなかったといっていいでしょう、初期に井上響の大きな汚職がドカドカあっただけで。その井上はもうフクロだたきにあって傷だらけになり、江藤新平の追及の前に、かれは追いつめられであやうく政治生命を失うところだったですね。今日みられる汚職、たとえば学校の校長さんが裏口入学をさせてやったり、役人が金品をもらって便宜をはかってやったりするようなことは、明治の教育者、官吏にはないですね。そうでなければ資本主義は育ちませんね。(歴史と風土) 
秀吉の若き頃・主人をクビにする下克上
(若き頃に松下から暇を出されたときに、自分から主人をクビにした)「クビにする権限は、主人だけにあるのではない。部下にもあるのだ」下克上というのは「下の者が上の者に取って替わる」ということだが、単にそれだけではない、理念があった。おそらく、孟子の「放伐の論地」に基礎を置いている。孟子の放伐の論理は、かれのいうもう一つの権限委譲の方法、すなわち「禅譲の論理」に対置されるものだ。孟子の説は、次のようなものだ。
「人の上に立つ王は、徳がなければならない。徳というには仁の道の完全な実現だ、これが欠けたときは王は徳をもつ後継者に、そのポストを譲らなくてはならない。ポストを譲る方法が、話し合いで平和裡に行われるのを禅譲という。しかしこの話し合いが行われず、徳がないにもかかわらず、王がいつまでもポストにしがみつくときは、実力を行使してその王をポストから追うことができる。この実力行使を放伐という」 
社訓は少ない方いい・三本の矢
企業における「社訓」あるいは「社員心得」などでもそうだが、「なになにをしてはいけない」「なになにすべきだ」という項目が多ければ多いほど、その会社は不安定だということがいえるからだ。会社が安定していればそんなものは必要ない。
だから、そこに所属している人たちが、自発的に自分を律することが多いところは、決して社員心得などはもっていない。あるいは、あっても少ない。つまり「こうすべきだ」とか「こうしてはならない」という教えが全面に出てくるとおうことは、そういう教えを示さなければならないことが現実に起こっているということの証拠なのだ。
教えというのは、あってはならないことがあるから、それを止めるためにしめされたものなのである。
毛利元就の場合も同じだった。かれは、本家を継いだ息子の弟たちが、勝手気ままに、それぞれ養家先を盛り立てるので、これは毛利家全体の秩序を乱すと判断したのだ、したがって、三本の矢の教えというには、むしろ吉川元春と小早川隆景に対して、「少し慎め。おまえたちは、少し増長している」という教えだったにちがいない。 
家康の分断管理
各パートパートの責任者に「なにちゃんいる?」といって、「これはきみだけに話しておくけど」と、恩着せがましい態度をとりながら秘密めいた指示を与える。きみだけだといいながら、じつは全部の責任者に同じことをいう。家康の分断管理の妙である。 
藤堂高虎の二番手主義
大阪の陣が終わった後、二代将軍徳川秀忠は京都の二条城の改築を思い立った。設計を藤堂高虎に命じた。高虎はすでに、築城の名人としての名が高かったからだ。このとき高虎は、設計図を二通つくった。家臣が「なぜ、二通おつくりになるのですか?」と聞いた。高虎はこう答えた。
「もし一通しかつくらずに、上さまが、このとおりでよいと仰せられたら、その功はわたしのものになる。上さまのお考えが入り込む余地がない。しかし二通つくってお出しすれば、こっちがよくてこっちが悪いというご判断が可能になる。そうすれば、上さまのご意志が反映できる。主人に仕えるとこは、善はすべて主人のものとし、悪は家臣が身に引き受けるようにしなければならない。もしも家臣が自分の功を衒って、主人の徳をおおうようなことをすれば、かならず周りの者から足を引っ張られる。悪評を立てられる。慎まなければいけない」 
雑賀衆の多彩な事業展開
雑賀衆は単なる鉄砲集団ではない、かれらの展開した事業は次のようなものだ。
ベースとしての農業。
海運業。これは雇い主の兵団や物資の輸送などである。
貿易業。和歌浦の良港を擁するかれらは、遠く鹿児島の坊ノ津港を中継基地にし、対明(中国)貿易を行っていた。
傭兵業。間接的な関わり方でなく、戦争が起きると直接戦闘に従事するために雇われる。雇われ先は、三好一族その他だが、なんといっても、一向宗の総拠点石山本願寺が多かった。
一揆の助っ人業。本願寺の要請で北陸方面に遠征したこともある。
一揆煽動業、近江一帯の、一向一揆の火つけには雑賀衆も加わっていたと思う。
漁業。
製塩業。
鍛冶業。とくに鉄砲製造業。
海賊業。
こうみてくると、雑賀衆はこのことのゲリラ集団とはまったく性格を異にする。つまり、単に収入を目当てに技術を売るという集団ではない。多種にわたる事業集団だ、したがって、財政力が強い。財政力が強いということは「自己完結性」が強いということであり、別なことばでいえば「地域の自治力」が強いということである。
自治力が強いといえば、堺や博多の商都が思い出されるが、これらの自治力はすべて「防衛」という守りの姿勢だ。しかし雑賀衆は違う。かれらはつねに打って出る。アウトプット(出力)によってその名を高めていく。 
危機管理の条件
現在は組織にせよ、個人にせよ「それぞれが危機に襲われている」といわれる。
そこでこれに向かい合い、解決するためには、次の六条件が必要だといわれる。
(1)先見力(2)情報力(3)判断力(4)決断力(5)行動力(6)体力
つまり、危機を管理するためには、まず危機の実態を知らねばならない。そのために情報を集める。しかし、集める情報のなかには正確なものもあり、不正確なものもある。ガセネタも入ってくる。役立つ情報もあれば役立たない情報もある。
そこで集めた情報を分析し、問題点を摘出する。これが判断力だ。次に、「この危機はどうやって克服できるか」と、対応策や解決策の選択肢をあれこれ考える。いまのように多元化した価値社会では解決策は単一ではない。かならず複数の選択肢ができる。そこで今度は、「どの選択肢を選べばよいか」という意志の決定が必要になる。場合によっては判断中止あるいは見切り発車が必要になる。
そしてさらに決断したことは実行しなければならない。そこで行動力が必要になる。
しかし、これらの情報収集段階からの諸行為も、「この先、世界はどう変わるのか。日本はどうなるのか。そのなかで自分の属する組織や自分個人はどうなるのか」という見通しを立てることが必要だ。そこで先見力があがってくる。とくにいまは国際化社会、情報化社会といわれるから、世界の一角で立った波のしぶきが日本のどんな片隅にも飛んでくる。世界の動きと無縁では人間行動は成立しない。
それと先見力かた行動力に至る行為も、人間の頭と体による営みなのだから、やはり健康が必要だ。そこで最後に体力というのがあがっている。もうひとつ付け加えればこの六条件に「評価・判定」が必要だろう。
行動への踏き切り(戦国武将の生き残り術)
後天的な資質(つまり現在のことばを使えばそれぞれの生涯学習によって培った人間性)だけでなく、先天的な資質(生まれつきのもの)も大いにものをいう。
そしてまたこの”なら”というのは理屈ではない。情感(センチメンタル)にもとづくものだ。人間は”和”と”情”をあわせもった存在だが、”なら”は主として”情”に訴える。
「人生意気に感ず」「あ・うんの呼吸)「以心伝心」
などの理屈(知)を越えた要素が行動のモチベーション(動機付け)になる。そうなると”なら”と思わせるほうも、「こうすればみんなが”なら”と思うだろう」という計算はできない。
いってみれば、「決断」までは”知”の力によって分析や選択肢の選定はできるが、「行動」への踏み切りは”情念”だ。英雄たちはそれがあった。 
人は少しは純な者を雇え
信玄はつねづねいっていた。「人間で、百人のうち九十九人にほめられるような人間は、ろくなやつではない。人の顔色ばかりうかがっている軽薄者か、才覚者か、盗人か、ねい人か、この四つのどれかだ」 
山本五十六 / パーフェクトでない魅力
楠木正成は、後醍醐天皇に召しだされる前は"悪党"と呼ばれていた。大きな寺や社に納められる年貢(税金)を途中で奪ったからだ。しかし、かれはこれをわたししなかった。全部近隣の貧しい民に与えた。また、いつも民衆と一緒になって暮らしていた。
山本五十六も同じだ。かれは、格好をつけなかった。かれ自身はずいぶんと人見知りをし、好きな人間と嫌いな人間があったようだが、「連合艦隊司令長官には誰がいいか」ということが話題になると、ほとんどの者が、「それは山本五十六中将以外ない」と異口同音に答えたという。つまり、山本五十六は、リーダーにおける本体の条件を満たしていただけでなく、プラスアルファになる人間的付加価値の面で、他のリーダーが及ぶことができないような面をたくさん持っていた町だ。並べてみれば、軍人としての責務感が非常に強かったこと、いうことと行うことが一致していたこと、私欲がまったくなかったこと、ズバ抜けて部下思いであったこと、誠実であったこと、人の意見をよくきいたことなどだ。また、子供のときに見た曲芸の術を覚えて、いろいろな席で皿回しをやっては、列席者を沸かせたということも、魅力のうちにはいるだろう。
これらのことは、トップリーダーとして、普通なら格好をつけて品位を保つところを、自分の弱点や人間的に人の善さをぜらけだしたということだ。これは取りも直さず、山本五十六が"人間の傷のいたさ"を知っていたということだ。自分の傷がいたいからこそ、人の傷をいたわろうとするやさしさがあったということだ。これが、山本五十六の人望を高めていたゆえんだろう。またかれは、よく、「いまどきの若者は、などと絶対にいうな」といっていた。そのことは、若者の中に潜む可能性に大いに期待していたということだ。だからかれは、「若いやつが何をしたかだけでなく、何ができるかも考えてやれ」といっていた。それは現代の新人類論争にも、温かい理解を示すものとして、五十六の人間的奥の深さを感じさせる言葉だ。一辛口でいえば、山本五十六や楠木正成は、パ−フェクト(完全)なリーダーではなかった。しかし、完全でないからこそ、後から従う者がその部分に入り込めたということだ。それが、山本五十六や楠木正成への親しみを増加させた。言葉を換えれば、その人間の中に他者が参加できたということだ。他者の参加を厳しくはねつけるリーダーは、結局は敬遠され、あるいは嫌われ嫌われる。その意味で、この二人は"愛される"リーダーだったのである。 
渋沢栄一 / 多種多様な人材を育てた
渋沢栄一は、営利事業でも、「無類のオーガナイザー(組織者)」だったといわれる。しかし、その組織を組み立てるのはあくまでも人だ。そうなると、組織の基になる人材をまず発見しなければならない。そして育成する。この人材の発見については、渋沢栄一は類いまれな目利きだった。
栄一が社会事業関係で発掘した人材には、瓜生岩子、安達憲忠、光田健輔、田中太郎、川口寛三、高田慎吾、小沢一などがいる。このうち、田中太郎は栄一の後の二代目養育院長であり、川口寛三は三代目院長だ。
また、監獄学の大家であり、犯罪者の感化事叢に独特な道を開いた留岡幸助、もと幕臣・与力のキリスト教信者で貧民救済にカを尽した原胤昭、救護法の大家であり、方面委員(いまの民生委員)制度を考えだした原泰一、救世軍の山室軍平、孤女学院をつくり、特に知的障害者の問題に関心を示した石井亮一、救貧は防貧を考えなければならず、そのためには教化を重要視しなければいけないといって東京府慈善協会(現在の東京都社会福祉協議会)をつくりだした井上友一など、枚挙にいとまがない。
ここに掲げた人々が口を揃えていうことは、「渋沢栄一先生のためなら」ということだ。つまり、この"なら"が栄一にこれほど多方面にわたる事業を完成させたゆえんなのだ。これらの人々は、栄一の熱意と努力と誠実さと人柄に打たれて、「渋沢栄一先生ためなら」と思った。つまり日本人の特性である、人生意気に感ず、以心伝心、あかいはあ・うんの呼吸が、理屈を超えて生まれでたのだ。
この辺が、渋沢栄一が「無類のオーガナイザー」だといわれるゆえんだろう。 
日蓮 / 迫書もプラス・パワーに転化する
日蓮の主張は、法華経のみを仏の教えとしない他宗教者をすべて論破することにあった。論破どころではなく、敵視していた。そのために、他宗教者たちから憎しみの念を持たれた。他宗教者の中には、時の権力者と結託して、日蓮に数々の迫害を加えた考も多い。日蓮が特に敵視したのが念仏者である。ところが、この頃の日本には念仏者が多く、特に支配階級で信仰する者が多かったから、日蓮の主張は当然こういう層をすべて敵にまわしたということになった。
日蓮は、安房小湊に生まれて、子供の頃は近くの清澄山で修行をした。この地域の支配者は東条景信といって、鎌倉幕府の御家人である。が、東条も念仏者だった。したがって、日蓮がしだいに念仏者を敵にまわしたことを知ると、東条は日蓮の迫害にかかった。逃れた日蓮は鎌倉で松葉谷に居を構えたが、今度は鎌倉の念仏者たちから、しばしば襲撃を受けた。身をもって難を逃れ、安房に戻ってくると、今度は東条が小松原というところで待ち伏せをしていて、日蓮を斬り殺そうとした。松葉谷でもそうだったが、他の者が被害を受けても、ふしぎに日蓮だけは助かっている。伊豆の流罪では、海中の岩礁に置き去りにされたが、このときも付近の漁師によって救われた。小松原でも、日蓮自身も数箇所斬られたが、命は助かった。これは理屈のつけようのないことで、その後も日蓮はしばしば危難に遭遇するが、その度に難を逃れる。鎌倉竜ノロでは、斬罪の刑に処せられたが、このときも刀がかれの首をはねる前に助かっている。佐渡に流されたときも、ほとんど飢え死にさせられるような状況におかれたが、島の夫婦の協力によって救われる。
かれの生き方が、常に私利私欲がなく、民衆にのみ深い愛情が注がれていたからだろう。口でいわなくても、民衆は日蓮の生き方の中からそれを敏感に察知する。そして、このお方は、われわれの味方だ。われわれの苦しみを救おうとして、ご自身が自らその矢面に立っていらっしゃるのだ」と思う。だから、自分の身が危なくても、まず日蓮を救おうという気になるのだ。そして実行する。これは、日蓮の宗教心がいかに本物であり、また強いものであったかを物語る。
同時にまた、かれの説く教えが、現世における救いを目標にしていたからである。日蓮は、「来世で救われるから、今生ではいくら苦しみやつらい思いをしてもがまんできるはずだ、という教えは間違っている。この世で苦しむ民衆は、いま生きているうちに救われなければならない」と説き続けた。
そして、そのよりどころが法華経だと告げるのである。この来世救済でなく(今生救済を主張する日蓮の教えは、日々、苦悩のどん底にある民衆を勇気づけた。それが、しばしば日蓮を訪れた危難を、民衆自身が身を挺して救うててれたゆえんでもあるだろう。
そして日蓮は次々と自分に襲ってくる危難を「これは色読だ」といった。色読というのは、自分の身体を通じてお経を読むということである。かれは自分の身体をはじめ、環境に加えられる迫害を、そのまま「経を読む」ことだと喝破したのである。したがって、お経を読んでいるのだから、どんなにつらいことや苦しいことを強いられようと、かれはへこたれなかった。むしろ、それを自分の前進のための肥料にした。 
日蓮 / 歴史から時代を予見する
もうひとつ、日蓮の鋭いところは、いままで書かれた書物の中から将来を予測したことである。現在のような激動する狩代に生き一適わたしたちには、よく「先見カが必要だ」といわれる。日蓮は、モンゴ〜の襲来を予言した。また、最高権力者内部における内輪もめを予見した。これは現実になった。モンゴルは二回日本を襲った。北条家の内部でも内輪もめが何度も起こった。とのことによって、「日蓮という坊さんは、時代の先読みのカにもすぐれている」と評判になった。
しかし、日蓮はこういう予言を、単に超能力によって行ったわけではない。かれは、そういうことを、万巻のお経の中から発見したのである。酷似する時代状況を認識すると、コレコレの時代にはこういうことがあったということをお経の中から読みとった。
それを発表しただけだ。これも大いに学んでいいことではなかろうか。
すなわち、「古いことはみんなダサい。学ぶところは何もない」という風潮がいま一部にある。しかし、日蓮が、万巻の経に埋まって、次々と読み抜きながら、そのときの時代相に照合させて、「こういう時代にはこういうことが起こる」ということを見抜いたのは、やはり違った意味でわれわれがいま学んでいいことのような気がする。
こういうように日蓮の生涯を見てくると、決していま生きているわたしたちと無縁ではない。学ぶところがたくさんあるのだ。 
 
ムスタファ・ケマル・アタテュルク  
(Mustafa Kemal Atatürk, 1881-1938) オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。
1881年、オスマン帝国領マケドニアの州都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ (Ali Rıza Efendi) と母ズュベイデ・ハヌム (Zübeyde Hanım) の子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、サロニカ幼年兵学校の数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ(大尉)が「ケマル」(「完全な」を意味する)を付け加え、ムスタファ・ケマルとなった。なお、『ユダヤ百科事典』によると、テッサロニキのユダヤ人の多くは、ムスタファ・ケマルをユダヤ教デンメ派(シャブタイ・ツヴィを救世主として信奉し、イスラム教徒のふりをしながらユダヤ教の戒律を守り続けた)の隠れユダヤ人の子孫と断言しているという。
ムスタファ・ケマルは、父の希望で、シャブタイ派カパンジュ分派に属するシェムスィ・エフェンディが開校し西洋式教育を実施していた学校 (Şemsi Efendi Mektebi) に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして、母がラグプ・エフェンディと再婚したため、ムスタファ・ケマルは、ホルホルス街区の叔母の家に身を寄せた。サロニカ幼年兵学校では、フランス語教官メフメド・ナーキ (Nâki Yücekök)、モナスティル少年兵学校 (Monastir Military High School) では、歴史教官メフメド・テヴフィク (Mehmet Tevfik Bilge) らの影響を受けた。
ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校(陸士1317年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド (Mehmet Esat Bülkat)、オスマン・ヌーリ (Osman Nuri Koptagel) らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト(ジェベソイ)、メフメド・アーリフ (Mehmet Arif Bey)、サーリフ(ボゾク)、アフメド・フアト(ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル)、キャーズム・カラベキル、キャーズム・「キョプリュリュ」(オザルプ)らと親交を深めた。1902年2月10日に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1905年1月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大57期、5席)して、研修のためダマスカスの第5軍に配属された。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、ダマスカスで軍医ムスタファ (Mustafa Cantekin) や陸大同期のリュトフィ・ミュフィト (Lütfi Müfit Özdeş) と共に「祖国と自由」(Vatan ve Hürriyet) を設立した。その後、無断でサロニカに戻り、マケドニア支部を設立したという。1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立し、1907年6月20日に上級大尉 (Kolağası) に昇進したムスタファ・ケマルが1907年10月13日にサロニカの第3軍司令部に転属されたときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されていたため、ムスタファ・ケマルも同協会に加入した。しかし、同協会ではタラートや、ジェマルが力を持っており、立憲革命の成功で、レスネのニヤーズィ・ベイ (Ahmed Niyazi Bey) やエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得した。
1908年6月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1909年1月13日、第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。1909年の3月31日事件 (31 March Incident) を鎮圧するため、サロニカの第3軍とアドリアノープル(現エディルネ)の第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブルに派遣されたが、ムスタファ・ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第3軍司令部に戻った。1910年9月6日から11月1日まで第3軍士官養成所に勤務した後、再び第3軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施されたピカルディ大演習に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ムスタファ・ケマルは一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩協会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した。1911年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった。 
伊土戦争
1911年9月29日にイタリアがリビアに侵攻したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイ (Yakub Cemil) ら統一と進歩協会の志願者たちとともにトリポリタニアに赴くことになった。1911年11月27日、船上で少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」としてアレクサンドリアを経由して陸路ベンガジに向かった。12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官となったが、1912年1月16日、左目を負傷し、1か月ほど治療を受けた後、1912年3月11日にデルネ地区司令官に任命されゲリラ戦を展開した。 
バルカン戦争
第一次バルカン戦争の勃発によりトリポリタニアから呼び戻されたムスタファ・ケマルは、ウィーンで目の治療を受け、11月24日にダーダネルス海峡地区混成部隊司令部の作戦課長に任命され、同部隊がボラユル軍団として再編された際も作戦課長の任務を継続した。1913年1月26日のボラユルの戦い (Battle of Bulair) で軍団主力のアリ・フェトヒ・ベイ指揮下の第27師団が、スティリヤン・コヴァチェフ (Stiliyan Kovachev) 将軍の指揮するブルガリア第4軍隷下のゲオルギ・トドロフ将軍の指揮する第7リラ歩兵師団の前に敗北した。バーブ・アーリ襲撃 (1913 Ottoman coup d'état) 事件を契機にエンヴェル・ベイらが実権を握り、5月13日にロンドン条約が調印され、アドリアノープル(現 エディルネ)がブルガリア王国に割譲された。第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出て、7月15日にケシャンを、7月17日にイプサラを、7月18日にウズンキョプリュを、7月21日にはカラアーチとディメトカ(現 ディディモティホ)を経由してアドリアノープルを奪還した。ムスタファ・ケマルは、同日街に入り、8月10日に街を離れた。その後、10月27日にソフィア駐在武官に任命された。ソフィアでは、陸軍大臣となったコヴァチェフの娘ディミトリナ・「ミティ」・コヴァチェヴァ (Димитрина "Мити" Ковачева / Dimitrina "Miti" Kovacheva) に接近した。1914年1月11日以降、ベオグラードとツェティニェの駐在武官も兼任した。 
第一次世界大戦
第一次世界大戦中の1915年1月20日、第19師団長に任命され、2月25日、エサド・パシャの指揮下にある第3軍団の予備兵力として、ガリポリ半島(英語版)のエジェアバド-セッデュルバヒル周辺に展開した。3月23日、ダーダネルス要塞地区司令部司令官ジェヴァード・ベイの命令で、第19師団は、エジェアバドの後背地にて予備兵力とされ、ザンデルス・パシャの指揮のもとに第5軍が新設されると軍予備とされた。
1915年4月25日、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行し、ムスタファ・ケマル・ベイは、オーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸したアルブルヌ地区に急行し、前進を食い止めた。6月1日に大佐に昇進した。1915年8月6日夜半、英軍は、増援の第9軍団をスヴラ湾に上陸させた。ザンデルス・パシャは、サロス集団司令官アフメド・フェヴズイ・ベイ (Ahmet Fevzi Big) にアナファルタラルでの即時反撃を命令したが、手間取ったため、ムスタファ・ケマル・ベイに同地区の指揮権を委譲し、8月8日よりアナファルタラル集団司令官となった。英軍の前進を食い止めたムスタファ・ケマルは、ルーシェン・エシュレフ(ユナイドゥン)らイスタンブルのメディアにより「アナファルタラルの英雄」として報じられ、名声を獲得した。8月19日以降、第16軍団司令官も兼任した。
12月10日、アナファルタラル集団司令官を辞任し、1916年1月27日、エディルネの第16軍団司令部に着任し、同軍団とともにディヤルバクルに転進し、ワン湖とチャパクチュル(現 ビンギョル)との間の80キロメートルの戦線を受け持った。ガリポリ戦での軍功で軍務期間が加算され、1916年3月19日、「ミールリヴァー」に昇進しパシャとなった。その後、8月7日にロシア軍よりビトリスとムシュを一時的に奪還した。1917年3月7日、第2軍司令官代理となった後、ヒジャーズ遠征軍 (Hejaz Expeditionary Force) 司令官への就任が提案されたが、これを固辞した。7月5日、第7軍司令官に任命されたが、ユルドゥルム軍集団 (Yildirim Army Group) 司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して、第7軍司令官を辞任してイスタンブルに戻った。10月9日、再度、第2軍司令官への任命の辞令が出されたが、赴任する前に、11月7日に総司令部付とされた。
1917年12月15日から1918年1月5日まで、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。6月から7月にかけて、療養のために、ウィーンとカールスバート(現 カルロヴィ・ヴァリ)に滞在したが、メフメト5世が亡くなったため、8月2日にイスタンブルに戻った。帰国後、8月7日、パレスティナ・シリア戦線でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団隷下の第7軍司令官に任命され、スルタンに即位しメフメト6世となっていたワフデッティンから「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年9月19日に開始された英連邦軍のメギッド攻勢(ナブルスの敗北)の後、9月20日、メフメト6世の主席副官ナージ・ベイを通じて休戦を勧め、自らの陸軍大臣への就任を求める電報を打った。その後、オスマン帝国軍はアレッポまでの退却を余儀なくされ、10月30日夕刻に調印され翌31日正午に発効した休戦協定の第19条に規定されたドイツ人とオーストリア人の国外退去命令に従い、ザンデルス元帥が退任し、ムスタファ・ケマルがユルドゥルム軍集団司令官に就任し、11月7日まで同職に留まった。 
トルコ共和国の建国
1918年11月13日、イスタンブルのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(Üçler Misâkı) と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・メフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した。そして、イスタンブルに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャが、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、「バンドゥルマ」号で出航し、5月19日、サムスンに上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。
抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。
この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」を改めさせ、現世権力である「スルタン」の地位を奪った後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。 
大統領時代
1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおけるクルド人宗教指導者シェーフ・サイード(シェイフ・サイト)の反乱など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。
これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。文化面では、1931年、私財を投じて「トルコ歴史協会」、その後「トルコ言語協会」をアンカラに設立した。経済面では世界恐慌後、トルコと接するグルジア出身ということもあり、ムスタファ・ケマルに好意を抱いていたソビエト連邦(モスクワ条約でトルコ独立戦争の同盟国であった)のヨシフ・スターリンが1932年に巨額の融資と経済顧問団を派遣、1934年5月からトルコも五カ年計画を導入する。また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「肝硬変は「ラク(トルコの蒸留酒)」のためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。
ムスタファ・ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにムスタファ・ケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。ムスタファ・ケマルの後はイスメト・イノニュが継ぐが、有能ではあってもカリスマ性は無かったイノニュの時代には停滞し、再発展は第二次世界大戦後まで持ち越される。 
ケマル主義
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。
ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られているのが現実ではある。
彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。
ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念式典が行われる。
また、イスタンブルには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。
トルコにおけるこうした徹底的なムスタファ・ケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とムスタファ・ケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年の9月12日クーデター以前は、徹底的な政教分離主義はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。 
ムスタファ・ケマル・アタチュルク 2
トルコ共和国の創設者であり初代大統領であるムスタファ ケマル アタチュルクは、「トルコの父」と称され、国の抜本的改革の成功と実績を収めた偉大なる人物。 「アタチュルク」とはトルコ語で「トルコのリーダー」という意味なのです。
1915年ダーダネルス(ガリポリ)の戦いで兵士の中の英雄として登場し、1919年トルコ国民自由戦争のカリスマリーダーとなったのです。1920年代には多くの侵略軍の攻撃に対し印象的な勝利をおさめ、国を独立へ向け着実に導くことにより、600年間続いたオスマントルコ帝国に終わりを告げ、1923年新しい政府を組織しトルコ共和国を建国し、初代大統領となりました。
トルコ共和国の大統領として1938年で死去するまでの15年間、ムスタファ ケマル アタチュルクは多くの改革を徹底的に導入。それは政治的、社会的、法律的、経済的、そして文化的なもので他の国に類をみない程の完璧さでした。
1923年10月29日、それはトルコ人の歴史の中の運命の日です。その日、国の解放者であるムスタファ ケマル パシャはトルコ共和国を宣言。スルタンやカリフの地位を持つ時代錯誤の帝国ではなく国民のための独立国家を作り上げるために立ち上がったのでした。そしてイスラム人達の国の中では最初の共和国となったのです。
毎年10月29日の独立記念日には、各地でアタチュルクを称える祝典が華々しく開催されます。アタチュルクの銅像は花で飾られ、国中トルコ国旗で満ち溢れ、パレードや花火などで共和国である喜びを分かち合います。
毎年11月10日アタチュルク逝去の日には、各地で彼を追悼する式典が行われます。朝9時05分、彼の死の時間には空砲が鳴り響き、人々は立ち止まり1分間の黙祷を捧げます。船の汽笛や車のクラクションが鳴り響き、トルコ全体が悲しみの時間を共有します。イスタンブールのドルマバフチェ(Dolmabahce)宮殿にある時計が常に9時5分で止まっているというのは有名な話です。新聞やテレビ・ラジオではアタチュルクの功績についての特集が組まれ、彼が好きだった音楽を流しつづける番組等が放送され、トルコ全体が彼への感謝の気持ちと共に彼を偲びます。
ここではアタチュルクの8つの基本改革を紹介します。
法律の改革
1926年から1930年の短期間で、トルコ共和国は法律の改革を成し遂げました。
イスラム法律の廃止
非宗教的法律体系の導入
スイス、ドイツ、イタリアをモデルとした新しい民法典、刑法典、商業上の法律の確立
すべての国民−男性も女性も、富める者も貧しい者も−みな法のもとで平等あるとすること、これにより法の堅固な基礎を固めました。
社会の改革
非宗教的政治と教育をメインテーマとし、宗教は個人の倫理であり、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒も全ての人が自由な思想のもとに生活できる環境を整えました。結果として、非宗教的社会が現実のものとなりました。アタチュルクが共和国宣言をした時、「新しいトルコ共和国は人民の国であり、人民によって作られる国である」と演説しました。
トルコ帽の禁止
女性のスカーフの禁止
全国民が苗字を持つこと
イスラム暦から西洋暦への変更
経済の改革
共和国になるまでに数多くの戦争を続けたため経済は非常に落ち込んでいましたが、共和国を繁栄させるためには経済の独立が必要であるとして数多くの目標を持って改革をすすめました。
農業の開拓
産業の成長と先進技術の導入
炭鉱、交通、製造業、銀行、輸出、住居、通信、エネルギー、機械化の推進
GNPを5倍にする
言語の改革
「教育の基礎は読み書きの簡潔さである。そのためにはラテンアルファベットをもとにした新しいトルコアルファベットが必要である。」と言い、誰もがそのような試みは困難であると考える中、アタチュルクのリーダーシップのもと文字の大改革を実行しました。1928年それまで千年間も使われていたアラビア語がラテンアルファベットに置き換えられました。
当初アタチュルクは専門家に「どれくらいの期間必要になるのか?」と尋ねると彼らは「少なくとも5年間は必要です。」と答えました。するとアタチュルクは「では私達は5ヶ月でやり遂げる。」と言ったそうです。
1920年代が終わろうとするときには新しいトルコアルファベットが完全に導入され、8母音21子音合計29文字のトルコアルファベットは子供達にとっても容易に覚えられ、西洋の言語の習得にも役立ちました。また、数千の単語がアラビア語やペルシャ語を起源とするものでしたが、それらをトルコ語に変えたり他の外国語を借用したりすることでアラビア語やペルシャ語を排除するような改革も同時に行い、トルコ語を独自のものとして確立したのです。
アタチュルクの言語改革はこうして大成功をおさめ、トルコの歴史重大なる出来事のひとつとして考えられています。
女性の地位の改革
「この世の中で見るもの全てが女性によって作られたものである。」
トルコ女性に男性と同様の権利と機会を与えるためにアタチュルクは多くの改革を手がけました。1926年に制定された新民法典では一夫多妻制を廃止し離婚や遺産についても女性に男性と同等の権利を与えることを承認。また小学校から大学までを通じ男女共学にしました。
アタチュルクは国民開放戦争時代に得た女性の支援と協力を大変賞賛していたのです。「トルコ社会において女性は知識、学問、文化において男性にひけをとっていない。おそらくもっと進歩しているのだろう。」
アタチュルクは全政治権利においても女性に男性と同等の機会を与え、1930年代半ばには国民議会に18名の女性議員を持つこととなりました。その後トルコは世界最初の最高裁判所裁判官を誕生させました。アタチュルクの改革によりトルコは数多くの医者、弁護士、技師、教員、作家、芸術家など優秀なる女性を生み出したのです。
教育の改革
「政府の最も創造的かつ重要な義務は教育である。」
アタチュルクは社会と経済の発展を刺激するには教育が最も重要なものであると考え続けていました。彼は独立戦争後、教育省の大臣になりたいと考えていたほどです。アタチュルクは共和国の大統領として、トルコ社会に存在する全ての人々に教育を浸透させるための努力を惜しみませんでした。自らチョークやえんぴつを持ってクラスルームや公園、その他どこへでも出かけていき子供から大人にまで文字の読み書きを教えました。そしてトルコは子供や大人に向けての学校教育プログラムを始めたのです。
小学校から大学院までの授業料は無料
非宗教的教育
男女共学
小学校の義務教育家
読み書き能力を向上させるためのプログラム
文化と芸術の改革
アタチュルクは「文化はトルコ共和国の基礎である。」、「文化は人間を立派にする基本的要素である。」と考え、彼の文化に対する見解は世界文明の最も価値あるものとして国が生み出した創造的遺物を保護しました。そして最も素晴らしいものを作り上げるために、古代固有の文化等の遺産の中で世界文明の芸術、技術などの利用などを考慮しました。セルジュクやオスマントルコ帝国などイスラム文化以前の文明であるヒッタイトやフリジアン、リディアンなどを含むアナトリアの文明の研究を推進しながら、トゥルク民族達sの作り上げた文明についてもその伝統的文化を広範囲にわたってその源泉を調べました。
そしてアタチュルクが大統領を務める期間には多くの芸術が花開きました。多くの博物館が開設され、西洋音楽、オペラ、バレエ、観劇なども広く取り入れられました。トルコ中には多くの施設が建設され若い人達や芸術家が集まれる場所やスポーツや文化活動ができる場所が開放されるようになりました。多くの出版物も出され、映画界が成長し始めたのもこの頃です。
内に平和、外(世界)に平和
外国の侵略軍に対して多くの戦いを終え勝利を勝ち取ったアタチュルクは平和の価値を知り、大統領時代に最高の安全確保をしました。「平和は国民にとって繁栄と幸福を達成させるために最も効果的なものである。」と唱え、他国との友好条約や協約を結び、「トルコ民族は全ての文明国家の友人である。」と主張。そしてギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、イラン、イラク、アフガニスタンと協約を結び、ソビエト連合、アメリカ合衆国、英国、ドイツ、イタリア、フランス他の国々とも友好関係を維持しました。
1930年代前半にはギリシャの大統領と平和協力条約に調印。1932年には国際連盟からメンバーになるようにと招待されました。
このようにアタチュルクのたゆまない努力はトルコ共和国を平和に導いたのです。1938年の彼の死において国連は「真の国際平和調停者」と賛辞し、1981年のアタチュルク生誕100周年においてUNESCOは「戦争を嫌う偉大なるトルコ政治家」として敬意を表しました。
アタチュルクのトルコ近代国家形成と世界に対する貢献は、アタチュルクを歴史的人物としての地位を確立させたのです。 
雑話 1
ケマル・パシャと日本人 / 明治天皇を崇敬したケマル・アタチュルク
ケマル・パシャ(アタチュルク)は「新生トルコの父」とよばれ、トルコ共和国を建国し、初代大統領となった人人です。第一次世界大戦のとき、オスマン帝国はドイツ側に属しており、ケマル・パシャは軍を指揮し、ダーダネルス海峡の強行突破を図ろうとした英仏連合軍の上陸部隊を撃退し、その勇名は内外に轟きました。
大戦後、ケマル・パシャは戦勝国によるオスマン帝国分割工作に抵抗し、国民軍を組織し、大正8年(1919年)、臨時国民議会を召集します。翌年にはアンカラに大国民議会を召集し、占領軍の下にあるイスタンブール政府を非合法なものとして反旗を翻しました。
ケマル・パシャの最大の敵はギリシャ軍で、ギリシャ軍はアンカラを目指して進撃してきました。大正10年(1921年)1月から4月にかけてケマル・パシャ軍はアンカラ西方約200キロのイノニュにおいてギリシャ軍と二度にわたり大会戦し、撃退しました。さらに7月にギリシャ軍が大攻勢をしかけてくると8月、サカリア河の戦いでギリシャ軍を打ち破り、翌年には「前進あるのみ。目標は地中海」とギリシャ軍に徹底的な攻撃を加え、決定的な勝利を収めました。これには連合国側も無視できなくなり、ローザンヌ条約を結んで講和を行いました。
このケマル・パシャ軍に日本から武器弾薬が贈られたといわれています。浄土真宗西本願寺第二十二世宗主大谷光瑞が関わったとされています。大谷は明治33年(1900年)にトルコに訪れており、その後、中央アジアの仏跡探検を行っています。トルコ革命がおきると大谷は側近の上村辰巳をトルコに派遣し、上村は大正9年(1920年)にケマル・パシャに面会しました。そこでケマル・パシャ軍が各方面から武器援助を求めていることを知り、日本に帰国して大谷と相談し、日本政府要人に働きかけ、歩兵銃1万挺、重機関銃500挺、弾丸十数万発を都合つけました。大正10年(1921年)6月30日、武器を載せた貨物船は横浜を発ち、25日かけてメルシン港に入り、その5日後にアンカラに到着しました。トルコの命運をかけたサカリア河の戦いに間に合ったのです。
この武器を贈った話はトルコ側の資料が見られないため、創作であるという見方もあるようですが、戦前からトルコ大使館に勤務していた塩尻彦一氏がこの話を語っており、やがて裏付ける資料が出てくるかもしれません。
熱血軍人、橋本欣五郎はトルコの日本大使館付駐在武官として約3年勤務し、ケマル・パシャに心酔しています。ケマル・パシャの強力なリーダーシップ、革新的専制政治に惹かれていきました。そして日本に帰国すると「桜会」を結成し、国家革新運動を遂行しようとしています。(三月事件、十月事件)
トルコで活躍した日本人というと山田寅次郎が有名ですが、ケマル・パシャは士官の頃、山田寅次郎から日本語を教えてもらっています。トルコ革命後の大正12年(1923年)、寅次郎はトルコに行き、共和国記念祭に出席し、ケマル・パシャに再会しました。
寅次郎は日土貿易協会通じて日本とトルコの親善交流に尽力し、昭和3年(1928年)にはトルコ軍艦・エルトゥールル号の遭難将士の追悼祭を和歌山県大島村の樫野崎でトルコ大使を招いて開催しました。翌年には追悼碑が完成しました。さらに昭和天皇が和歌山巡幸の際にわざわざ樫野崎を訪れ、碑前に挙手、会釈したのです。これを聞いたケマル・パシャは感激し、トルコの手でも弔魂碑を建てることにし、昭和12年(1937年)6月3日、昭和天皇が樫野崎に行幸された吉日に碑の除幕式が行われました。
ケマル・パシャは国造りの規範を日本に求めたといい、彼は執務室に明治天皇の遺影を飾り、崇敬の念を表していたといいます。
※「パシャ」は高官、高級軍人に与えられる称号。「アタチュルク」は父なるトルコ人という意。 
雑話 2
トルコと日本
初めてトルコに行った時、私は驚いた。
日本人と言うだけで、タダで何かをくれたり、親切にしてくれたり。
それまで、日本人というだけでボラれそうになったり、「JAP!」なんて言われた事はあっても、こんなことはなかった。そして、仲良くなったトルコ人がこんな事を言った。
「日本は世界で唯一の被爆国。何もない所から這い上がって、世界の大国になった。こんなに小さな国が、ロシアも破った。真面目で、頭の良い日本人を心から尊敬している」
母国を誇りに思う日本人がどれだけいるかは別として、こんなふうに言ってもらえて、正直嬉しかったし、感激した。そして、私もそんなトルコを知りたいと思った。
彼は続けた。
「僕ら(トルコ人と日本人)は、もともとは同じ民族なんだ。西に残ったのがトルコ人で、東へ渡って行ったのが日本人なんだ。兄弟よ!」
俄かに信じ難い話だったが(そういう説も実際にあるらしい)、何であれ親近感を持って歓迎してくれるならと、素直に喜んだ。(笑)
兄弟だからって事ではないだろうが、和歌山串本沖で遭難したトルコ人を助けたエルトゥールル号の話は有名だし、(*串本では遭難忌を毎年行っていて、トルコもほぼ毎年、軍艦を串本に派遣して敬意を表しているそう。)
イラン・イラク戦争の時、危険を冒してトルコがイラクに残された日本人216名を救い出した事も、ご存知の方は多いだろう。(*その為、陸路で帰国を余儀なくされた、トルコ人も大勢いた)
この友好関係は、古くはトルコ建国の父・アタチュルクが日本を手本にしたことから始まる。
(日露戦争の折、日本へ向かうロシアのバルチック艦を海峡を封鎖して迂回させ、密かに日本を手助けしたのもトルコ。*厳密には、協力を依頼したのは日本人)
そして今日、先日、トルコのエルドアン首相が来日した時、折りしも日本人3人がイラクで拘束されていた。
首相は小泉総理と会談した際に「救出にトルコは全面的に協力する」と申し出てくれたのだった。そして、ワールドカップでトルコが日本に勝ったとき、トルコの新聞では「泣くな、サムライ」と、自国の勝利を讃えるのと同じ位の賛辞が、紙面を飾っていたという。
トルコ人と日本人
「トルコ人」とひとくちに言っても、島国で単一民族の日本人とはちょっと事情が違う。
「純粋なトルコ人」は、"いない"と言っても過言ではない。(厳密に言えば、どの人種もそうなのだろうけれど)地理的な事も有り、複雑な混血化が進んでいる。
(*因みに、トルコ女性の国際結婚相手はドイツ人が一番だそう。日本人との組み合わせは、まだまだ少ないらしい。トルコ男性はトルコ女性との結婚を望むけれど、女性は外国人との結婚を望む人が多いとか。一番人気は堅実なドイツ人)
古代ローマ、ギリシャ人の血を引くといわれるイズミルの人たちは美男美女が多いことで有名だし、ロシアに近い黒海沿岸の人には金髪、青い目、2段鼻の人が多い。
もちろん、東に行けば、アラブ系の顔で、アラビア語を話す人もいる。イルハンもそうだが、タタール系の人はまさしくアジアの顔で、肌も湿度を帯びてキメが細かい。実際アリフも「イタリア系」に思われる事が多いが、ルーツはボスニア・ヘルツェゴビナだ。
トルコという国は、旅行会社によるとリピート率の高い国なんだそうだ。
確かに私の周りでも、「もう2度とトルコに行きたくない!」と言っている人はいない。「また行きたい」という人が圧倒的に多い。それは、食べ物が口に合うとか、遺跡が素晴らしいとか「トルコ」の魅力もさることながら、「人が良かったから」という事が大いに影響しているように思う。
勿論、どこの国にも色々な人がいて、一概には決め付けられないけれど、確かに「トルコ人」は、日本人の「ツボ」にはまるのではないだろうか。
ミスワールドを排出するほど美男美女が多いのに、(多くは)決してつんけんしていない。
人懐っこく、ジョークが好き。
下手なトルコ語でも、ジョークでも、貶すことなく喜んでくれる懐の深さ。
喜怒哀楽が判りやすく、ストレート。
(これは、感情を抑えがちな日本人には、胸のすくような快感)
そうはいいつつ、日本人のように本音と建前がある。
言わずして察する・察して欲しい。というアジア人特有の湿った感情も理解出来る。
つまり、白人のような容姿の美しさと、ラテンのような天真爛漫さ、アジア特有の心の機微も、兼ね備えたトルコ人は、日本人の心に訴求するものがあるのだろう。
そうそう!子供の頃の憧れ、世界150ヵ国を旅した、かの兼高かおるさんが、「一番好きな国は何処ですか?」という問いに、「トルコです」と即答していらしたのが、とても印象的だった。
*ここで言うところの「純粋な〜人」「〜人」「〜系」という分類・呼称は、学術的には正確ではありません。ご了承ください。
歴史の影にこの男あり
山田寅次郎(1866−1957)
トルコと日本の友好関係を語るときに、この人は外せないだろう。何を隠そう、ケマル・アタチュルクの恩師でもあり、先に書いた、ロシアのバルチック艦迂回の為の先手を打ち、日露戦争の諜報員として重要な役目を果たしたのは、この山田寅次郎に他ならない。
1866年に江戸で生まれた寅次郎は、学業と語学に長け、正義感に溢れる青年だった。エルトゥールル号の悲劇を知った彼は、遠方からやって来て、異国の地で命を散らしたトルコ人に同情。すぐさま個人的に募金活動をはじめ、得意の弁舌を生かし全国を行脚。現在の金額で数千万円もの募金を集めた。そして、その募金を外務大臣に届ける。「どうかこれを、トルコの遺族に渡して欲しい」と。寅次郎の心意気に打たれた時の外務大臣青木周蔵(彼もまた、山縣有朋内閣のキーパーソン)は、寅次郎自ら募金を届けるように助言をしたのだった。
募金活動開始から2年後、寅次郎は単身トルコに渡る。幸運にも、皇帝アブドゥル・ハミト二世に迎え入れられ、寅次郎はそこで思い掛けない申し出を受ける。「トルコに残って、士官たちに、日本の精神と、日本語を教えて欲しい」寅次郎はその申し出を快諾。トルコに残り、多くの優秀な士官を育てる。(トルコでは、士官学校を出ている人たちは別格扱いのエリート)
その中に、後にトルコ建国の父となるケマル・アタチュルクがいた。(寅次郎自身はその事を知らず、後にアタチュルクから知らされて知ったという。そういった意味でも、トルコ建国の裏には、寅次郎の、ひいては日本の精神が、少なからず流れていると言っても過言ではないだろう。)
1914年、第1次世界大戦が始まると、トルコと日本は準交戦国になってしまった為、寅次郎は断腸の思いで帰国。再びトルコの土を踏むことはなかった。トルコと日本の友好に捧げた日々は、20余年にも及んだ。その後も寅次郎は、日本のトルコ大使館設立に尽力。トルコに渡るきっかけともなったエルトゥールル号遭難の地、串本に慰霊碑を建立。
離れていてもその心には、常に第二の故郷、トルコが棲んでいた。 
 
復活のトルコ共和国  
奇跡の英雄ケマル・パシャ〜帝政から共和制へ
奇跡の英雄について語りましょう。
ムスタファ・ケマル・パシャについて書かれた最も良質の日本語資料は、三浦伸昭の小説「アタチュルクあるいは灰色の狼」です。って、俺の本じゃん(笑)。このwebでも全文読めるので、興味があれば、そちらをどうぞ。
客観的に見て、ケマル・パシャは世界史上で最高の英雄の一人です。それなのに、彼のことを知っている日本人は異常に少ない。彼の事績どころか、名前すら知らない人が日本国民の99%でしょう。どうしてかと言えば、やはり「白人優位主義」の影響でしょうね。ケマル・パシャは、ヨーロッパ世界では非常に評判が悪く、ほとんど悪口ばかり言われます。あるいは、意図的に無視されます。なぜなら彼は、トルコ全土を領有しようとしたヨーロッパの野望を、完膚なきまでに打ち砕いたからです。それに激怒したヨーロッパの「白人様」の悪意を、純朴で単純な日本の自称・知識人が真に受けると、ケマルは「評価に値しない低レベルのダメな人」ということになって、日本に伝わってしまうのです。
だけど、いい加減、「白人様」の言いなりになるのは止めたらどうでしょうか?「白人様」が常に正しいわけではないことに、日本人は気付くべきです。
さて、ムスタファ・ケマルは、1881年にバルカン半島のサロニカ(現ギリシャ領)の庶民の家に生まれました。オスマン帝国は階級差別が存在しない国だったので、庶民出身であっても成績優秀だったケマル少年は、士官学校でエリートコースに乗ります。
この時期のオスマン帝国で特筆すべきなのは、エリートに対して徹底的な西欧型教育を行っていたことです。前述の通り、老帝国は「西欧化の構造改革」を強く志向していました。大宰相ミドハト・パシャが憲法を発布したり、スルタン・アブドルハミト2世が強権政治をやったり、「青年トルコ党」が革命をやったのも、方法論が違うだけで、全てこの一点を目指していました。そうした志向を反映して、この国は、将来が嘱望される優秀な若者たちに西欧型のエリート教育を行っていたのです。考えてみれば、「青年トルコ人」の登場こそが、その最初の教育成果だったと言えるでしょう。
我らがムスタファ・ケマルも、こういった潮流の中にいました。そして、後に祖国のためにケマルとともに命を捨てて戦った仲間たちが、彼と同年配の若者だったのは決して偶然ではありません。最晩年のオスマン帝国は、息絶える寸前になっていても、愛国心に溢れる優秀な若者たちの大量育成に成功していたのです。この事実こそが、トルコ人国家とトルコ民族を救います。
今の日本も、せめて「教育」だけでもマトモなら、前途に少しは希望が持てるんですけどねえ。現状では、21世紀の日本こそ「絶望」の二文字しか出てきません。
さて、早熟なケマル少年は、祖国の西欧化を妨害するのは「オスマン帝国の存在そのもの」だと気付きます。そこで、早くから政治結社に参加して革命運動を展開するのですが、「赤いスルタン」アブドルハミト2世に見つかって逮捕されてしまいました。本来なら、ここで殺されてもおかしくなかったのですが、学校の先生や大勢の知人友人が庇ってくれたので助かりました。チンギス・ハーンやナポレオンやカストロにも、似たような逸話がありますが、英雄とは人徳と強運の持ち主なのです。
スルタンに憎まれたためにエリートコースから外れたケマルは、それでもめげずに「青年トルコ党」に接近して党員になります。しかしながら、エンヴェルら幹部連中と政見がまったく合わないため、下級構成員に貶められました。そのため、伊土戦争でもバルカン戦争でも第一次大戦でも、ケマルは最も危険な最前線での不利な戦場指揮を強いられています。
おそらく、この時期のケマルは腐っていたでしょうけど、これこそが彼とトルコ人の大幸運でした。なぜなら、彼が「政治の中枢とは無縁」のままに「豊富な実戦指揮経験」を養い、そして「どんな逆境にも折れない精神力」を身につけたからです。また、軍才に優れた彼は、しばしば圧倒的に優勢な敵を打ち負かし、内外に勇名を馳せました。1915年の「ガリポリの戦い」がその好例です。
現行政権に深く失望し、断末魔の危機に陥ったトルコ人が真に必要としたのは、そのような一匹オオカミ型の強いリーダーだったのです。
しかもケマルは、皇太子時代のメフメット6世の侍従武官を務めた時期があり、エンヴェル・パシャとも既知の間柄だったため、中央政界の枢機に通じていました。そんな彼は、スルタンが保身のために、第一次大戦で荒廃した祖国を西欧列強とギリシャに売り渡そうとしていることに気付きます。
1919年5月、帝都イスタンブールを飛び出したケマルは、小アジア東部で士官学校時代の友人たちや「青年トルコ党」の残党を結集して、占領軍への抵抗運動を始めました。「大国民議会」の樹立です。
この運動を潰すために、英仏伊ギリシャ、アルメニア、クルド人のみならず、スルタンまでもが討伐軍を差し向けてきます。周囲360度からの猛攻です。
危機に立ったケマルは、驚天動地の奇策で乗り切りました。すなわち、ロシア(ソ連)との同盟です。ケマルは、オスマン帝国の不倶戴天の仇敵・ロシアと手を組んだ時点で、すでにオスマン帝国そのものを見放していたのかもしれませんね。そして、ロシアからの援助を受けて、ケマルは足並みのそろわない侵略者たち(分割後のオスマン領の取り分を巡って、互いにいがみ合っていた)を、卓抜な作戦で分断して各個撃破しました。そして、ギリシャとの最終決戦に勝利します(1922年8月)。
こうして、ケマル率いる「大国民議会」は、相次ぐ勝利の結果、西欧列強がトルコに押し付けようとしていた「セーブル条約(トルコを分割解体して植民地にする内容)」を撤回させ、祖国を強固な独立国として維持することに成功したのです。まさに、奇跡のような大成功でした。
こうして、絶大な国民的人気を得たケマルが、売国奴のスルタン・メフメット6世を廃位し追放したのは1922年11月。続いてカリフ制を廃止し、オスマン家の皇族全員を国外追放したのが1924年3月。
これが、600年も続いたオスマン帝国の呆気ない滅亡でした。
ムスタファ・ケマルを大統領とする「トルコ共和国」が発足したのは、これに先立つ1923年10月29日。しかし、ケマルの真の偉大さが発揮されるのは、この時からでした。
嵐のような「トルコ革命」の開幕です。 
トルコ革命〜世界史上最大の偉業
ムスタファ・ケマル大統領は、57歳で病死するまでの15年間で、トルコの抜本的構造改革に着手し、ほぼ完全な成功を収めます。オスマン帝国が、数百年かけてついに出来なかったことを、わずか15年でやり遂げてしまったのです。その偉業は、世界史上でも他に類例を見ないものでした。
日本人が自慢する明治維新など、トルコ革命に比べたらゴミみたいなもんです。坂本龍馬なんぞ、ケマル・パシャに比べたら鼻クソみたいなもんです!
などと、自虐的に言う必要はないですけどね。なぜなら、ケマル大統領が目標とし、かつ心の支えにしたのは、明治天皇と明治維新だったからです。つまり、トルコ革命の方が明治維新より成果は巨大だったけれど、その道標となったという点で明治維新は偉大だったのです。
今日のトルコ人が親日的な理由は、敬愛する初代大統領が「日本を尊敬していた」という事実も大きいのだろうと思います。
では、ケマルの成功の理由について分析して行きます。
そもそもオスマン帝国の構造改革は、どうしてこれまで上手く行かなかったのか?
それは、1多民族の雑居ビル国家だったから。2イスラム教を中心にした宗教国家だったから。3諸外国といつも戦争していたから、です。ケマルは、この3つの問題点を、天才的な手法で解決したのです。
まず、1について。
これまで述べて来たように、西欧とロシアの近代化は「国民」の創設から始まりました。これに対して、多民族から成る雑居ビル国家だったオスマン帝国は、「国民」概念を成立させることが出来ず、そのために近代化に着手できない状況でした。
そこでケマルは、祖国を「トルコ民族の国」へと大改造したのです。具体的には、アラブ人やギリシャ人やアルメニア人らの生活領域をトルコから切り離し、祖国の領土範囲を「トルコ人の居住地域」に限定しました。そして、国内に住む異民族に、なるべく外国に出て行ってもらったのです。
もっとも、20世紀初頭の相次ぐ敗戦によって、オスマン帝国の異民族居住地の多くはとっくの昔に外国に奪われるか独立していたので、ケマルはその状況を現実的に活用しただけなのですが。
ともあれケマルは、祖国を「トルコ民族の国」と定義づけることで、一体的な纏まりのある近代的な国民国家を樹立したということです。
ただし、自分の国を海外に持てなかった異民族は、その後もトルコ国内に居続けたので、民族問題が全て解決されたわけではありません。特に、最大の異民族であるクルド人との軋轢は、今でもトルコが抱える大きな問題の一つです。
次に2について。
オスマン帝国は、冷酷王セリム1世のエジプト征服以来、カリフ(イスラム教の教祖)を世襲する国でした。これは、常にイスラム教を最優先に考えて行動する足かせを嵌められたことを意味します。具体的には、聖典「コーラン(クルアーン)」と近代化が対立した場合、常に前者を優先して、後者を諦めなければならないのです。
つまり、トルコが近代化を図るためには、この足かせを外すことが必須でした。ところが、カリフを代々世襲するオスマン家には、それは絶対に不可能でした。だからこそ、オスマン帝国の構造改革は最終的に失敗していたのです。
ケマル大統領が、無慈悲とも思える態度でスルタン制とカリフ制を廃止し、オスマン家の人々を国外追放したのは、祖国をイスラム教の足かせから自由にしたかったからなのです。
ただし、ケマルは宗教を否定したわけではありません。宗教と近代化のプライオリティーを変更し、両者が対立した場合に、後者を優先するようにしただけです。すなわち「政教分離(世俗主義)」をやったのです。だからこそ、トルコ国民の90%以上が、今日でも熱心なイスラム教徒のままでいます。
最後に3について。
オスマン帝国が構造改革に失敗していたのは、外国と年がら年中戦争して、人口減と財政難に陥っていたからでもあります。
そこでケマルは、「完全平和主義」を打ち出しました。巧妙なことに、彼は独立戦争で西欧列強とギリシャをコテンパンに叩き潰し、新生トルコの強さをさんざんに見せつけた後で、これを言い出したのです。諸外国は「ケマルのトルコ」の強さを骨身に染みて思い知らされていたので、トルコの平和路線をむしろ大歓迎しました。こうしてトルコ共和国に恒久的な平和がもたらされ、構造改革に特化できる環境が作られたのです。
さて、以上の成功を土台にして、ケマル大統領は大胆な構造改革を実施していきます。首都をイスタンブールからアンカラに遷し、憲法に基づく議会制民主主義を実施し、近代的な民法と税制を整備し、太陽暦の導入、民間企業の育成と工業化、農地の拡大、鉄道網の整備、普通教育の敷衍、ラテン文字の普及、男女の平等化、労働者の待遇改善などなど、内政面での成功がたくさんありすぎて、具体的に挙げていったら目が回るほどです。
外交面でも、西欧列強と粘り強く交渉して、オスマン帝国を数百年にわたって苦しめた「不平等条約(カピトレーション)」の完全撤廃に成功しました。
これらの成果を、わずか15年で達成したのです。
こうした結果、トルコ国民の生活は劇的に改善され、奇跡的な向上を遂げました。私が「世界史上最大の偉業」と呼びたくなる理由が分かるでしょう?
もっとも、ケマルは保守的な抵抗勢力を押さえ込むために、そのカリスマ性を武器にして、しばしば独裁者のように振舞っています。それでも彼は、私利私欲に走ることなく、敵対者を虐殺するようなこともなく、その権力を祖国の平和な発展のために100%注力しました。つまり彼は、「祖国を平和な民主主義国家に改良するために、独裁権力を行使した政治家」なのです。だから、現代のトルコ人で、ケマルを「独裁者だった」と考える人はほとんどいません(白人様は、「悪い独裁者だった」とか悪口を言うけどね)。
全人生を祖国の復興のために捧げつくしたケマルには、妻子もいませんでした(白人様は、ホモだったからとか、EDだったからとか、DVだったからとか悪口を言うけどね)。財産もほとんど有りませんでした(白人様は否定するけどね)。
過度の飲酒と過労がたたって、執務中に倒れたのは1938年11月10日。臨終の報を聞いた全国民が、実の父親を失ったかのように慟哭の声を張り上げたと言われます。
ムスタファ・ケマルは、その死の数年前に、アタチュルクという名を議会から贈られています。アタチュルクとは、「トルコの父」という意味です。彼は、その名に少しも恥じない人生を生き抜いたのでした。
今日でも、トルコ国内のあらゆる場所に「アタチュルク」の名を冠した施設があります。トルコ共和国の紙幣の絵柄は、全て「アタチュルク」の顔です。
私の文章を読まれた方はきっと、「なるほど、そうなっても当然の人物だったのだな」と納得されることでしょう。 
アラビアのロレンスと中東問題
閑話休題して、第一次世界大戦の話に戻ります。
いわゆる「中東問題」は、実はこの時に始まったのでした。
第一次大戦に際して、イギリスは敵国オスマン帝国を倒すために、様々な策略を巡らしました。1ヨーロッパ列強による、終戦後のオスマン領の分割を定めた「サイクス・ピコ協定」。2ユダヤ人財閥から資金を得る目的で、終戦後のパレスチナ(オスマン領)にユダヤ人国家を樹立する約束をしてユダヤ人の歓心を買った「バルフォア宣言」。3そして、アラブ人をオスマン帝国から離反させる目的で、終戦後の中東にアラブ人の国家を樹立する約束をした「フサイン・マクマホン書簡」。
これらの条約は、互いを否定しあう矛盾したものでした。特に2と3は、パレスチナにユダヤ人国家とアラブ人国家を並立させることを意味します。これが領土争いの原因となり、今日まで続く収拾不能な国際問題になってしまいました。
そもそも中東やアフリカ北部は、21世紀の今日でも政治的に不安定な地域です。中東戦争、イラク戦争、クルド人問題、ハマス、ヒスボラ、そしてスーダンでの大虐殺、エジプトやリビアでの流血の革命騒ぎ。これらの問題は、ヨーロッパの「白人様」が、オスマン帝国を分割解体する過程で、恣意的に領土分割を行った結果生じたのです。
前述のとおり、オスマン帝国は多民族による雑居ビル国家でした。異民族と異文化に非常に寛容で、それだからこそ様々な民族や部族や宗教の平和的な共存が可能だったのです。これは、トルコ人の偉大な知恵だったと言って差し支えないでしょう。その知恵を、武力と謀略で無慈悲に踏みにじったのが「白人様」です。その結果、非常に多くの紛争が起こり、非常に多くの人々が不幸になってしまいました。
日本人は、この事実を知ってなお、「白人様」を崇拝するのでしょうか?
さて、3の仕事で大活躍したイギリス人が、有名な「アラビアのロレンス」です。外交使としてアラビア半島に潜入したトーマス・エドワード・ロレンスは、メッカの地方名士(アーヤーン)だったフサインと手を組んで、彼の長男ファイサルとともにオスマン帝国軍と戦いました。
アラブ人のリーダーだったフサインは、イギリスに唆されて(フサイン・マクマホン書簡)オスマン帝国を裏切ったのです。前述のように、オスマン帝国の地方名士を寝返らせるのはヨーロッパ列強の得意技で、この時も同じことが行われたというわけです。
ただし、映画や本で語られるロレンスの勇ましい活躍は、「白人優位主義」の影響で著しく誇張されているようです。映画「アラビアのロレンス」を見るだけで、そのことは納得できます。アラブ人は、まるで無知蒙昧な原始人だし、トルコ人は「ホモで残虐(笑)」に描かれているでしょう?あれは、真面目に見てはならないギャグ映画だと思うのですが、なんと「アカデミー賞作品」なんですよね。日本人は、みんなこういうのに騙されているのです。
終戦後、フサインが欲しかった豊かなアラブの土地は、全てイギリスやフランスの植民地になりました。フサインも、「白人様」によって騙されたのです。ただし、彼の子孫が建てた国は今でも中東に残っています。それが、ヨルダン王国です。小さくて不毛の土地ですが、いちおうイギリスは約束を守ったつもりなのでしょうね。
ところが、映画「アラビアのロレンス」では、フサインがパレスチナやシリアといった一等地に国を持てなかった理由は、「アラブ人が無知蒙昧な野蛮人だったから」と描かれていますよね。
ともあれ、「アラビアのロレンス」の活躍は、こういった隠微な国際的謀略の観点から見直されるべきものです。 
祖国に平和を、世界に平和を
さて、偉大な英雄ケマル・アタチュルクの死後まもなく、トルコは、いや全世界は大激動に見舞われます。第二次世界大戦(1939-45年)の勃発です。
ナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、先の大戦と同様に、トルコを仲間に引き入れようとしました。英仏植民地のみならず、ロシア(ソ連)とも国境を接するトルコ共和国は、ナチスの世界戦略の中で圧倒的な重要性を持っていたからです。
しかし、アタチュルクの側近であったイスメット・イノニュ第2代大統領は、断固として祖国に中立を守らせました。先代の口癖であった「祖国に平和を、世界に平和を」のスローガンを決して忘れませんでした。彼は、エンヴェルのような愚か者では無かったのです。結局トルコは、最後まで一発の銃弾も撃たずにこの大激動を乗り切りました。
ところが戦後、新たな大激動が訪れます。米ソ冷戦です。
トルコはアメリカと同盟を組み、NATOの一員としてソ連と向き合いました。精強無比なトルコ軍の存在は、ソ連に中東への進出を断念させるのに十分でした。また、トルコ軍は朝鮮戦争にも出陣して大活躍しました。
ソ連勢力が、ユーラシア大陸の一角に閉塞したままに冷戦を敗北したのは(1989年)、トルコ軍の存在と活躍が大きかったのです。
たとえば、「キューバ危機(1962年)」勃発の原因は、ソ連がトルコの核ミサイルに非常に大きな脅威を感じ、対抗策として同盟国キューバに核ミサイルを置いたことにありました。これはつまり、ソ連は常にトルコの脅威を意識し続けたということです。
トルコは、冷戦の最前線に立って、第三次大戦を阻止するという重責を全うしたのでした。「世界に平和を、祖国に平和を」のスローガンを全うしたのでした。
しかしながら、トルコ軍の強さには副作用もありました。冷戦時代のトルコでは、軍部の発言力が非常に強くなり、「故アタチュルクの遺志を守る!」という口実で政治に介入し、しばしばクーデターを起こして政府を転覆させているのです(1960年、1980年)。またトルコ軍は、ギリシャとの民族問題に苦しむキプロス島に突如として派兵し、トルコ系が多く住む北半分を占拠して傀儡国家を築いたりしています(1974年)。なんだか、昭和初期の日本軍の行き方を彷彿とさせますね。
もっとも、軍部が暴走するのは国内経済にも原因があって、冷戦時代のトルコは、強大な軍を維持する必要から慢性的な財政難でした。また、これを解決するために無茶な通貨政策を行った結果、酷いインフレになりました。こういった経済的な困難が、民衆の不満を通じて軍部に栄養を与えていたとも言えるのです。
また、アタチュルク以後のトルコは、アタチュルクが唱えた「世俗主義(ヨーロッパ主義)」と復古的な「イスラム主義(中東・アジア主義)」の鬩ぎ合いの連続でした。こういった思想対立が、様々な政治的・文化的問題を引き起こしているのです。ただし、この二面性こそがトルコのユニークな個性であり、発展の起爆剤になっているとも言えます。
ノーベル賞作家オルハン・パムクの諸作品は、世俗主義とイスラム主義の思想対立を軸にしているものが多くて興味深いです。予備知識の乏しい日本人には、ちょっと内容が難しいかもしれませんが。 
100年の恩返し
多くの日本人が、トルコから深い恩を受けたことを忘れているようです。
「イラン・イラク戦争」の最中の1985年3月、イランに攻め込んだイラクのフセイン大統領は、敵の首都テヘランへの爆撃を開始しました。続いて彼は、無差別攻撃を宣言します。3月19日夜以降、テヘラン上空を飛ぶ全ての飛行機を、国籍にかかわらず無差別に撃墜するというのです。
テヘランに駐在していた世界中の人々が、大慌てで逃げて行きました。しかし、取り残されてしまったのが、200名を越える商社マンなどの在留日本人です。
この当時、自衛隊は海外派遣が認められておらず、日本政府は何も出来ませんでした。頼みの綱の日本航空は、「間に合わない可能性が高い」という理由で飛行機を出しませんでした。労働組合が、従業員を危険にさらすことに頑固に反対したという事情もあるようです。山崎豊子さんの小説で好意的に書かれている「国民航空」(笑)の労働組合の実態は、こういうものでした。この保守的な体質こそが、最近のJAL破たんの原因の一つでもあります。
つまり、約200人の在留邦人は見捨てられたのです。このままでは、イラク軍の空襲で皆殺しにされてしまうというのに。
その時、万難を排して救援機を飛ばしてくれたのがトルコです。在イラン・トルコ大使ビルレル氏は、日本の外務省から救援の依頼を受けた時にこう応えました。「ぜひ、エトルールル号の恩返しをさせてください。トルコ国民は皆、私と同じ気持ちでいます」。そう言われた日本の大使は、何の事だか分からずポカンとしたそうです。
トルコ人は、100年以上も前の「エトルールル号事件」をまだ覚えていたのです。そして、恩返しをする機会を待っていてくれたのです。
夕焼けの中、イラク軍のミサイルの雨を搔い潜ってテヘラン空港に降り立った2機のトルコ航空機は、フセインの告げたタイムリミット20時半ギリギリのタイミングで、215名の在留邦人全員を乗せてイスタンブールへと飛び立ちました。彼らは命を賭けて、縁もゆかりもない日本人を救出してくれたのです。
この時に命が助かった日本人の多くは、1999年のトルコ大地震に際して、義損金を集めたりボランティアに参加したりと恩返しに努めたそうです。
しかし、他の日本人はどうでしょうか?「エトルールル号事件」のことも忘れていたこの民族は、「テヘラン救出事件」をいつまで覚えていられるでしょうか?
日本人の美質の一つは「水に流す」ことです。良いことも悪いことも、すぐに忘れてしまうのです。だけど、それも善し悪しでして、国際親善の歴史は決して忘れてはならないと思うのです。いつかまた、恩返しをする機会が来るまで、「テヘラン救出事件」はいつまでも日本人全員の記憶に留めておくべきでしょう。トルコ人が、そうだったように。 
トルコのEU加盟問題
トルコは、EUがまだECと呼ばれていた時代から、ヨーロッパ連合への加盟を模索していました。トルコ軍は早くからNATOの主力だったし、トルコのサッカーチームもヨーロッパリーグに所属しているのだから、EUになったって特に違和感が無いように見えます。
しかしながら、これが一筋縄ではいかないのです。
そもそも、トルコはヨーロッパなのか?面積で言えば、わずか10%しかヨーロッパに掛っていません。また、EUは基本的に「キリスト教の同好会」なので、イスラム教徒がほとんどを占めるトルコとは別世界です。
それ以上に問題なのが、歴史の中で積み重なった恨みや差別意識です。EUの中でも、かつてオスマン帝国と激しく争ったギリシャやオーストリアが、トルコのEU加盟に強硬に反対しているのがその顕れです。日本が、しばしば歴史の問題で中国や韓国と揉めるのと同じことですね。
そういうわけでトルコが、EUから加入の条件として課される経済目標値や人権向上要求(死刑制度廃止など)を無事にクリアしても、また新たな高いハードルを押し付けられることの連続です。また、EUが声高にトルコを非難する「キプロス問題」や「クルド人問題」ですが、これらの民族問題を生みだしたのは、もともとヨーロッパだというのに、彼らはそのことには頬かむりです。
結局のところ、ヨーロッパ人はトルコに仲間になって欲しくないのでしょう。それが本音なのでしょう。
こういったヨーロッパの態度を見て、一般のトルコ人の中に「イスラム主義」が強まっています。むしろヨーロッパと距離を置いて、中東・アジア世界に回帰しようというのです。
実際、リーマンショック以来のEUの没落ぶりを見ていると、「トルコは、無理にヨーロッパになる必要無いじゃん」と思ってしまいます。
また、トルコはそのユニークな多面的個性を生かし、アラブともイスラエルともヨーロッパともロシアともイランとも仲良くしています。アメリカでさえ、トルコ抜きには中東を語ることができません。だったらトルコ共和国は、どの陣営に属さない「ハブ国家」として生きて行った方が良いのではないでしょうか?その方が、世界平和のためになるかもしれません。
それでも、「ヨーロッパになりたい」というトルコの為政者の強い思いは、オスマン帝国後期からアタチュルクにかけての歴史的な悲願でもあります。すなわち、トルコのEU加盟問題は、「アタチュルク主義」の貫徹か脱却かという、国家の根幹にかかわる大きな問題を孕んでいるのでした。
多くの専門家は「トルコは、後10年でEUに加盟できるだろう」と言っています。だけど、本当にそうでしょうか?また、それで本当に良いのでしょうか? 
これからの世界、これからのトルコ
足早にトルコの歴史を語って来ましたが、纏めに入ります。
今日の世界は、数百年に一度とも思える歴史的大変動期にあります。アメリカやヨーロッパといった「白人様」の大国が衰退し没落し、その反面でBric’sやVistaと言われる後発国が急激な台頭を見せています。ちなみに、トルコはVistaの中の「t」です。
もはや、アメリカやヨーロッパが世界の大番長を張っていた時代は終わりました。これからは、非常に多くの強国が合従連衡して相争う多極化の時代です。
新しい世界では、食料や天然ガスなどの資源競争が頻発するのはもちろん、インターネットの急激な普及にともなう情報戦争になるでしょう。ウィキリークスの問題しかり、中東を揺るがす革命騒ぎしかり。このような世界では、柔軟な心で広い文化を受け入れて、偏りなく情報を処理する者が優位に立つでしょう。
トルコは、それが出来る国の一つです。
これまで述べて来たように、トルコは「万民平等の理想」を高らかに掲げ、自由で豊かで多面的な文化を築いてきました。ヨーロッパでもなくアジアでもなくアラブでもない。だけど、その全ての良い面を併せ持っている。そういった重層的な個性が尊重される時代が来たのです。
そう考えるなら、近年のトルコの急速な経済成長は、決して偶然の産物ではありません。
また、下剋上を身上とする遊牧文化のトルコは、人材登用をフレキシブルに行えます。だからこそ、現在のギュレ大統領やエルドアン首相のような、世界最高峰の優秀な人物をトップに立てて国運を伸ばすことが出来るのです。これは、日本も見習うべきだと思います。
私は、日本人にもトルコと同じように頑張れる潜在的可能性があると思っています。だけど、今の日本人は自分に自信が無さ過ぎます。だから、出来るはずのことが出来ないのです。
また、日本人は内向きに過ぎます。「歴史通」を気取る人も、実は、司馬遼太郎の愛読者とかNHK大河ドラマの愛好家でしかありません。あんなのは、本当の歴史ではなくて、単なる娯楽でしょう。
新潟県の「柏崎トルコ文化村」に建っていたケマル・アタチュルクの銅像が、廃園後に長いこと雨ざらしになっていたことは、トルコ国民を大いに悲しませました。この銅像は最近になってようやく、「エトルールル号」に縁のある和歌山県串本村に引き取られたのですが、この一件は日本人の歴史意識やトルコへの意識の低さの象徴だと思います。
これからの日本人は、娯楽に偏った自国の歴史や「白人様」の顔色ばかりではなく、全世界を広い視野で深く見ていかなければなりません。新しい時代を迎えた新しい世界の中で、強く賢く生きていくためには、それ以外の選択肢は有り得ないのです。
この小論が、そのための一助になれば幸いです。 
 
毛沢東の闇  
 1
先日、NHKのBS特集番組で、中国の文化大革命を3夜連続で取り上げていた。題名を正確に記せば、「民衆が語る中国激動の時代〜文化大革命」というのだが、これをずっと見ていて、私は忘れていた宿題を思い出したような気持ちになったのだ。
なぜかと言えば、2、3年前に文化大革命を挟む前後の時代に興味を持ち、関係の本を何冊か買い集めたことがあったからだ。私が知りたかったのは、毛沢東という複雑な人間の心の闇についてであり、そして林彪が企てたというクーデターの内実についてだった。その他、この時期に聡明沈着な周恩来がいかに行動したか、憎嫉の念に凝り固まった江青がどんな風に暗躍したか知りたかったのである。
だが、手始めに出版されたばかりの中国現代史関連の本を購入して半分ほど読んだところで、探索作業が停滞してしまった。文中に「中央委員会報告」だの、「党中央書記処、総書記」だの馴染みのない文字がぞろぞろ出てきて、甚だ読みにくかったからだ。実のところ、こんな具合に中途でストップしたまま、薄暗い脳味噌の中で仮死状態になっている課題が、ほかにも少なくとも1ダースはあるのである。たとえば、戦前の共産党を崩壊寸前まで追い込んだ「スパイM」の問題がある。警察当局から共産党に送り込まれた「スパイM」が党の最高幹部にまで昇進し、党員に大森銀行襲撃を実行させている。私は、この何とも奇妙な事件の真相を知りたいと思っているのだ。そんな眠っていた問題意識が急に目覚めるのは、今回のようにテレビを見ている場合が多い。私に取ってテレビは、脳組織を活性化する薬剤の役割を果たしているのだ。
――さて、毛沢東の話になるが、戦後の半年くらいまでは、彼の名前はあまり知られていなかった。戦後最初の総選挙で当選した議員の中には、質問演説の中で毛のことを「けざわ・ひがし」と言うものがいたくらいなのだ。
しかし、中国の内戦が激化し、中国共産党が国民党を圧倒する勢いを示すようになると、「長征」のリーダーとしての毛沢東の名前が日本でも広く知られるようになった。エドガー・スノーの「中国の赤い星」がベストセラーになるに及んで、彼は「進歩的人間」の間で人気絶頂のヒーローとして躍り出たのである。
何しろ、この長征で共産軍は、国民党軍の追跡を逃れて1万2500キロもの距離を大移動したのだから、まさに気の遠くなるような話だった。この移動の過程で、10万人いた共産軍が僅か数千人にまで減少したと聞けば、その苦難のほどが推察される。長征に関する本を読んでいて、私が一番感心したのは、移動の途中で多くの兵士が餓死したけれども、一番先に餓死したのが炊事係の兵士だったというくだりだった。私は戦争の末期に最下級の兵卒として軍隊生活を体験したが、兵営の中で一番栄養が好さそうなのは炊事係の下士官やその下にいる兵隊だった。だが、中国共産党の炊事係は、仲間の兵士たちを飢えさせまいと努め、自分の食べる分を後回しにしたから、最初に餓死してしまったのだ。
内戦に勝利して、毛沢東が国家主席になった頃から、マスコミの論調が少しずつ変わりはじめ、毛を賛美するニュースと並んで、彼の独裁を非難する記事が現れ始めた。だが、進歩派日本人の毛に対する信頼は揺るがなかった。彼は、三大差別の撤廃をスローガンに掲げ、それを着々と実行していたからだ。三大差別とは、次の三つだった。
工業と農業の差別
都市と農村の差別
頭脳労働と肉体労働の差別
この三つの差別がなくなれば、完全な人間平等社会が実現する。毛の平等観は徹底していて、運動会などで、学童が競争して一等になったり二等になったりすることも好まなかった。そして、彼は職業に貴賎がないということを実証するためには、すべての人間が天賦の能力を開発しマルチ人間になる必要があると考えていた。そういう万能人間が多くなれば、集団という集団がすべて他に依存することのない自給自足の社会になり得ると考えたのである。
毛沢東は、文化大革命時代に農村を改編して人民公社を発足させている。この人民公社は、内部に工場などをかかえこんだ多機能集団だから、都市などに依存しなくてもやって行ける。毛は、また、高学歴であろうが、無学歴であろうが、給与に高下の差のない社会を理想としていた。中国の若者たちが、毛沢東を熱烈に支持したのも、毛の思想を貫くヒューマニズムに共鳴したからだった。
だが、時代の経過と共に、人道主義的革命家としての毛沢東のイメージにかげりが見えてくる。毛の恐ろしさのようなものを私が実感したのは、彼が民主化論者を一掃するのを見た時だった。
共産中国が発足してしばらくすると、共産党による一党支配を批判し、民主化を望む声がぽつぽつ現れ始めた。こうした動きを不快に思った毛沢東は、施政の参考にするから、百万の花が一斉に咲き出すように、各人の思うところを遠慮なく発表してほしいと訴えたのだ。百花斉放・百家争鳴運動の提唱である。これを真に受けて、いままで政府批判を控えてきた大学教授らが、次々に活発な政策論を展開し始めた。
毛沢東は、百花斉放の運動が頂点に達したところで、政府機関、党機関を総動員して反撃に転じ、民主化を要求した論者を右派分子として厳しく糾弾し、論壇から追放してしまったのだ。そしておいて、「大躍進」運動に取りかかるのである。この運動は、ソ連のフルシチョフへの対抗意識に基づいて着想された、農工にまたがる国民的大増産運動だった。
だが、「大躍進」は無残な失敗に終わり、さしもの毛の地位も揺らぎ始める。この時、中国国内の餓死者は1500万人に達したと言われるから、その被害がどれほど大きかったか分かる。当然、毛への批判がわき上がった。朝鮮戦争の時、中国人民軍を率いて戦った総司令官の彭徳懐などは、「貴方は以前に私を10日間罵った、今度は私が20日間罵る番だ」と毛沢東を満座の中で攻撃している。
当時、毛沢東は党主席と軍事委員会主席を兼ね、劉少奇は国家主席だったが、共産中国のリーダーとしての毛の地位は、こうしたことから劉少奇に奪われそうになった。不安に襲われた毛が、劉少奇を追い落とすために企画したのが文化大革命だったのである。
1965年に始まる文化大革命が10年間続く間に、劉少奇は国家主席の座を追われて獄に入れられ、軍のトップは彭徳懐から林彪に代わっている。この文革も毛の犯した失政の一つで、これは大躍進に匹敵するほどのダメージを国家に与えた。
劉少奇を追放して全権を握った毛沢東は、ナンバー2のポストに林彪を据える。だが、この林彪がクーデターを計画して失敗し、国外に脱出しようとしたものの、飛行機が墜落したために死亡している。その頃、毛は重い病気にかかっていたし、ライバルの周恩来もガンで苦しんでいたから、黙っていても林彪は国家主席になれたのである。それなのに彼は、クーデターを計画した。なぜだろうか。
国家主席と党主席を兼ねていた毛沢東が、国家主席を劉少奇に分け与えたのは「大躍進」運動の翌年のことだった。毛は大躍進が順調に走り出したので、後のことは劉に任せて理論研究に専念したかったのだ。劉少奇は毛にとって革命運動を共にしてきた長年の盟友であり、出身地が近いこともあって毛が最も信頼する同志だった。毛は、念には念を入れて、劉少奇の下にケ小平をつけた。ケ小平は、実務家として衆にぬきんでる存在で、毛に愛されていたからだった。
「大躍進」が失敗に終わり、毛沢東への批判が集中したとき、劉少奇とケ小平のコンビは党内各層からむしろ同情された。本来なら二人は運動の推進者として毛と共同で責任を負わなければならないところだったが、党員たちは大躍進という無謀な計画を強行させたのが毛沢東であり、劉とケはもっぱらそれがもたらした混乱の後始末に追われていたことを知っていたからだ。
大躍進後の中国を建て直すことでも、劉とケのコンビは着々と成果をあげていたから、党員たちは、もはや毛沢東の時代は終わったと感じ始めた。長征以来の旧世代も、声高にスローガンを掲げて国民を鼓舞する時代は終わり、劉・ケのもとで日々のルーティンワークを着実にこなす時代が来たと思ったのだ。党が必要としているのは、革命の闘士ではなく、堅実な実務家だという認識が、党員の共通見解になり始めたのである。
こうした状況下で、毛沢東は再起のチャンスを虎視眈々とうかがっていた。
だが、これまで何時も毛を支持してきた周恩来も今度ばかりは中立を守り、毛を責めない代わりに彼を擁護もしないという姿勢をとり続けていた。革命世代のほとんどすべてが劉少奇を支持する側にまわった今、毛沢東にとって信頼できそうなのは妻の江青とその取り巻きだけだった。だが、江青は党内で奇妙なほど人気がなかった。それに引き替え、劉少奇の妻の王光美の方は、その美貌と才気によって国内のみならず、外国にも広くその名を知られていた。
周恩来は中立、江青は党員に信頼されていないということになれば、毛は林彪を頼りにするしかなかった。
林彪は、毛沢東を厳しく批判した国防部長彭徳懐の下位にいたが、彭徳懐を追い落として国防部長のポストにつくことを狙っていた。彼は毛を非難する彭徳懐に対抗する手段として、毛を賛美し始めていたのである。彼は部下に命じて軍の広報誌に毛沢東の語録を連載させていた(この連載記事をまとめたものが、紅衛兵の教典「毛沢東語録」になる)毛沢東は、この青白い顔をした野心家をあまり信用していなかったが、自分を賛美し続ける林彪を見ると悪い気はしなかった。それで、毛の方からも林彪を公開の席で賞賛するようになった。すると、林彪はこれに力を得て、ますます毛沢東崇拝の運動を広げ、その効果が現れて、若い世代の間に、毛を神格化する空気が徐々に醸成され始めた。
天才的な戦略家である毛沢東は、このチャンスを逃さなかった。絶体絶命のピンチに立っても、常に大胆な戦略によって危機を乗り越えてきた彼は、若い世代を味方につければ、既成勢力に対抗できると考えたのだ。毛沢東は雌伏4年の後に、「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃する論文を書いて、劉少奇と彼に率いられた党官僚に挑戦状を突きつける。文化大革命の幕が、切って落とされたのである。
以後の展開は、あれよ、あれよという間だった。精華大学などの学生が壁新聞を貼りだして毛の動きに呼応したのを手始めに、実権派打倒の動きは高校生から中学生へと波及して行き、天安門広場に数十万の紅衛兵が集結するまでになった。若年世代は至る所で、権威に反抗し始めた。学校の生徒たちは担任の教師をつるし上げて謝罪させ、役所では下僚が上役を会議室に閉じ込め、時には暴行を加えた。これらの「造反」に火を注いだのが、「毛沢東の親友」林彪であり、江青を中心とする「四人組」だった。彼らは、騒動の現場に駆けつけて、ボヤを大火事にして回った。
毛沢東はこうした動きを制止するどころか、「造反有理」(反抗には理由がある)というスローガンで造反を奨励したから、混乱は底なしの広がりを示しはじめた。信じられないような実話がある。ソ連の首相コスイギンが、中国政府の代表者に国際電話をしたら、交換手の娘が、「あなたのような修正主義者の電話を取り次ぐことは出来ません」といって通話を切ってしまったというのだ。
毛沢東は、敵に致命傷を与えるまでは手綱をゆるめなかった。そして、ついに紅衛兵の追求の手は劉少奇のところまで伸びてくるのである。
劉少奇や周恩来は、北京の中南海と呼ばれる地区に住んでいた。ここは政府の高官の住む地区なので堅固な塀によって囲われ、出入り口を門衛が守っていた。だが、紅衛兵たちは門衛の制止を無視して、中南海の内部に押し入ってくるようになった。そして、無断で劉の住宅の中に踏み込み、室内の至る所に「劉少奇10の罪状」というようなビラを貼り付け、劉に反省文を書かせ、二時間も頭を下げて謝罪の姿勢を取らせた。そして電話線を切断し、劉が外部と連絡を取れないようにして意気揚々と引き上げたのだった。
劉にとって耐え難かったのは、紅衛兵たちが彼の子供たちを使って父親を攻撃させたことだった。彼は、離婚した妻との間に一男一女をもうけていたが、この二人も紅衛兵になっていたのだ。毛の妻江青は、劉の娘を呼んで、「あなた方の継母は、あなた方の本当のお母さんをいじめて追い出したのよ。私だって何十年も彼女から圧力を加えられ続けてきたわ」といって、「父を捨て、継母を捨てること」を求めた。
江青が劉の妻を憎む背景には、こんなこともあった。劉の妻王光美は、夫に同行してインドネシアを訪問することになったとき、江青にどんな服装で行ったらよいか助言を求めた。彼女は、片や国家主席の妻、片や党主席の妻という理由で、江青に連帯感のようなものを感じていたのである。江青は、「ネックレスはしない方がいいわね」と答えた。
だが、現地から送られて来た電送写真を見ると、王光美はちゃんとネックレスをしている。これを根に持った江青は、王光美が精華大学の紅衛兵に引き出されて、広場で糾弾されたときに、絹のストッキングとハイヒールという姿にして、首にピンポン球を繋いでこしらえたネックレスを掛けさせた。
劉少奇を糾弾する紅衛兵の動きは、次第に気違いじみたものになっていった。中南海の塀の外は、スローガンを書いた横断幕や赤旗で埋まり、よしず張りの小屋がぎっしり建ち並び、中には劉の処罰を求めて、断食闘争に入るものまで現れた。
劉に対するつるし上げは、彼の邸内で行われた。紅衛兵らは追求の合間に、絶え間なく「毛沢東語録」で劉少奇の顔を引っぱたいたので、劉の顔は腫れあがり、鼻には青いアザが残った。足も踏みにじられて痛み、彼はびっこをひいて歩かなければならないようになった。
中国人の著した「ドキュメント・中国文化大革命」によると、劉は波が打ち寄せるように繰り返し襲来する紅衛兵の追求を受け、肺炎から危篤状態になった。
<劉少奇の肺炎は、このときは一応治ったが、すっかり弱ってしまって、床から起きることもできなかった。顔はやつれ、体はやせ細り、髪も髭もぼうぼうとして汚かった。服を着替えさせ、洗ってやる人もいないし、体を支えて便所に連れて行ってくれる人もいないので、衣服は汚物にまみれていた。長い間床にふせっているため、下肢の筋肉が萎縮して脚はやせこけ、全身に床ずれができた(「ドキュメント・中国文化大革命」)>。
劉少奇がこうした悲惨な状況になったときでも、紅衛兵らは昼夜ベッドのそばから離れなかった。劉少奇が暴力をふるったり、自殺するのを防ぐため、いっそう見張りを強化しなければならないというのだ。かくて、劉少奇の両足は、包帯で固くベッドにしばりつけられ、ゆるめることを許されなかった。
一九六八年十月五日、劉少奇は悲しみと憤りのあまり、二度うめくように泣いた。それ以後、劉少奇は自律神経失調症と脳貧血のために脳軟化の症状を呈し、それがしだいに悪化して、劉は自分で物をのみこむことができなくなった。そのため彼は、鼻からさしこまれたチューブで栄養を取るようになった。・・・・ 十月十七日、劉少奇はついに危篤状態に陥った。点滴がなされ、鼻にはずっとゴム管が差しこまれたままになっており、吸痰器が出てくる痰を吸い出していた。こういう悲惨な状態のまま、彼は、河南省の開封に移され、小さな家に幽閉されたのだった。
十月中旬と下旬、劉少奇はたえず高熱を出したが、適切な治療を受けることができなかったため、十一月十一日の深夜、病状が突然悪化し、息切れがし、唇がまっ青になり、体温が四〇・一度に上がり、十二日の朝六時四十五分、心臓が止まった。救急班が駆けつけたのは二時間後であった。 
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劉少奇が紅衛兵の突き上げを受けて、国家主席のポストを追放された後に、劉の跡を継いで毛沢東の後継者になったのは林彪だった。経歴からすれば、ナンバー2の地位は周恩来が継ぐべきだったが、それを差し置いて林彪が毛沢東の後釜になったのである。
これは林彪が毛沢東賛美を繰り返して、毛の復権を助けたからでもあるけれど、それだけではなかった。林彪は彭徳懐の下で国防部長のポストを狙っていた頃から、着々と軍の内部に味方を増やし、彭徳懐を追い落として軍の実権を握ってからは、共産党中央委員会にも配下を次々に送り込んで委員会内の最大勢力になっていたのである。中央委員会の勢力分布を見ると、林彪グループは江青一派に支えられた毛沢東グループを圧する勢いになっていたから、毛も林彪の存在を無視できなかったのだ。党の中央委員には周恩来を支持する者もいたが、これはごく少数だった。周恩来は、派閥を作ることを意識的に避けていたからだ。
党の副主席になった林彪は、「四人組」と呼ばれている江青グループに接近する。
早くから林彪の野望に気づいてい毛沢東は、林が江青と手を結んだのを見てますます警戒の念を強くした。毛沢東は妻江青の野心にも気づいていて、注意を怠らなかったのである。毛沢東が、自分の跡目を狙う江青を叱責した手紙が残っている。毛は、林彪と江青の同盟関係も最終段階になれば破綻し、両者が食うか食われるかの決戦になると予測していたけれども、そうなる前に両派の力を削いでおく必要を感じはじめたのだ。
そこで毛沢東は、憲法を改正して国家主席のポストをなくしてしまった。国家主席だった劉少奇が追放されてから、このポストは空席になっていたのである。毛は、林彪がこのポストを狙っていることを知っていたのだ。林が党の副主席というポストに加えて、国家主席の座に据われば、彼の地位は不動なものになり、その力は毛沢東を凌ぐほどになる危険性があった。
毛は林彪の長男・林立果が推進する「軍内部の一握りをつまみ出せ」と称する運動に対しても警戒を怠らなかった。父親と並んで国防軍内部の枢要な地位にあった林立果は、反林彪のメンバーを一掃するために、彼らに右翼分子というレッテルを貼り、「人民日報」などに「一握りをつまみ出せ」という論文を載せていたのだ。
毛沢東は、「戦旗」に載っている林彪派の論文を読んで、「軍内部の一握り」という文字の上に×印をつけ、そこに「不相」(相応しくない)という赤文字を記入して林彪に届けさせた。林彪と江青は狼狽した。林彪の妻の葉群は、この件で盟友の江青に愛想を尽かされることを恐れて、「一握りをつまみ出せ」という言葉は最初の原稿にはなかったのに、別の人間が付け足したのだと必死になって弁解している。
林彪関係の本を通読していて驚くのは、林を国のトップに押し上げるために、息子の林立果と妻の葉群が身を挺して活躍していることだ。葉群は夫のライバル羅瑞卿を引きずり下ろすために軍幹部の会合に乗り込み、11時間にも及ぶ大演説をしている。
ヒネケンというオランダ人ジャーナリストの書いた「中国の左翼」という本を読むと、著者は葉群のことをこう説明している。
<葉群についてはほとんど知られていない。彼女は林彪より二十二ほど年下で、一九五九年林彪の国防部長就任後、中央軍事委員会で林彪の秘書をつとめていた。二人の結婚はおそらく六〇年頃と思われる。葉群がようやく政治の第一線に登場しはじめたのは、彼女が四十歳ぐらいの頃である。しかし、葉群は林彪との結婚後、驚くべき野心を示しはじめた>
このあとに続けてヒネケンは、林彪が発表した重要な論文を調べ、それと同じ趣旨の論文をその数年前に葉群が発表していることを明らかにしている。つまり、著者は林彪の演説や論文の起草者が妻の葉群であり、林が実は22歳年下の妻に操られるロボットだったとほのめかしているのだ。いや、ほのめかしているだけではない、著者はこうまでいっているのである。
<このことから、林彪の発想の根源は実は葉群だったのではないかという疑念がわいてくる。そして、これは単に理論面のことだけではない。実際行動においても、林彪と、一九六二年以降しだいに重要性をましつつあった軍総政治部との連絡係りをつとめたのは彼女だった。
・・・・一九六八年、葉群は中央軍事委員会弁公庁主任の要職に任命され、その翌年初めて中央委員に選出され、同時に林彪腹心の将軍数人とともに政治局員に選ばれた。それ以来、彼女は林彪の秘書長のように振舞っていたが、このような状況は多くの人の顰蹙を買っていた。しかし、林彪はどちらかというと内向的な人物で、外部との接触は全て葉群を通じて行なうことを選んだ(「中国の左翼」J・V・ヒネケン)>。
毛沢東は、林彪グループが発信し続けるPRの内容にクレームをつけるだけではなかった。地方巡視の折に各地の軍司令官や幹部を集めて、林彪の動きを警戒するように言い含めている。いよいよ毛は、林彪一派を追放する態度を明確に示し始めたのだ。
「毛沢東や周恩来が強くなれば、こっちが危なくなる」、これが林彪、葉群、林立果をはじめとする林一派の合い言葉になった。彼らは、毛が劉少奇を倒したやり方を片時も忘れなかった。毛はナンバー2を指名し、相手を後継者にしておきながら、そのうちに実権を相手に奪われるのではないかという猜疑心にとらわれ、相手をつぶしにかかる(聡明な周恩来が意識的にナンバー2になることを避けているのは、こういう毛の気質を読んでいるためかもしれなかった)
クーデターを起こして毛沢東を倒す決意を固めた林彪について、アメリカ人の記者サン・スーインは彼には心気症の傾向があったのではないかと言っている。
「彼は口数が少く、いつでも体のことを案じていたね」と、林の率いる軍の政治委員であった高栄韓が記者に語ったという。彼には精神分裂症(躁鬱病?)的傾向があって、鬱のあとには躁が訪れ、モルヒネや阿片をしばしば用いる麻薬中毒患者だったともいっている。林は、寒さ、風、すきま風、暑さそして昆虫が嫌いで、旅行のときはスーツケースに一杯の薬を持っていった。
実際、林彪はじっと静かにしていればよかったのである。あと5年おとなしくしていたら、周恩来も毛沢東も相次いで病没し、自然に彼は中国のリーダーになっていたのだ。彼は毛沢東が国家主席を廃止したあとで、配下に命じてこのポストを再度制定するように建議させている。こんなことをすれば、多くの政治局員から疑念を持たれるに決まっているのだ。
躁状態になったときの誇大妄想なのか、林彪は全権を獲得したら「林王朝」を発足させ、息子の林立果を皇帝にすることを夢見ていたともいわれる。皇帝は後宮に仙女のように美しい女たちを集めていた。だから、彼は林立果のために美女をたくさん用意すべく、全国から多くの娘たちを集めたといわれる。
そのくせ、毛を打倒するプランを考えることに疲れて、林彪は計画の立案と実行を林立果に丸投げする姿勢を見せている。こんなことでは、海千山千の毛沢東に対抗できるはずはなかった。 
 3
林彪の一派が、不穏な動きを示していることは毛沢東の耳にも入っていた。だが、林彪は軍を押さえているから、直ぐに彼を捕らえて糾弾するという訳にはいかない。身の危険を感じた毛は、南方視察を口実に北京を離れて武漢に赴き、そこで軍の幹部を集めて林彪と林立果を攻撃する演説を行っている。それは極めて激しいものだったらしい。
毛の演説内容は、即座に林彪の知るところとなった。彼は決戦の時が来たと感じ、上海にいる林立果に毛沢東暗殺の指令を出した。この時、林彪が頭に描いていた計画は、次のようなものだった。
南方視察の毛沢東一行は、武漢の視察を済ませてから、汽車で上海に回ることになっている。息子の林立果は、これを途中で待ち受けていて暗殺する。毛の暗殺成功というニュースが届いたら、林は自派の北京グループに出動を命じて中央政治局を急襲し、政治局員らを殺害する。こうして林は一挙に党を乗っ取ろうとしたのだった。
だが、もしもこの計画が失敗したら、第二段階に移行することになっていた。一味の黄永勝が地盤にしている広州に逃れ、そこで毛に対抗する政権を樹立して持久戦に持ち込むのである。林彪が広州を選んだのは、海峡を隔てて台湾に蒋介石軍が存在することを念頭に置いていたからだと思われる。彼は、いざとなったら、蒋介石と手を組むつもりだったのである。
林彪の間違いは、毛沢東暗殺の実行を年若い息子に託したことだった。
林立果は前々から暗殺実行部隊を編成していたが、そのメンバーは主として彼の若い仲間たちからなっていた。そのため、林彪の指示を受けて、いざ行動に移るという段階になると、各人の思いつきに近い案が次々に持ち出されて収拾がつかなくなった。ある者は、鉄橋を爆破すればといいと言い、ある者は線路脇の燃料倉庫を爆破し、人々が消火で騒然となっている間に車室に乗り込んで殺してしまえと主張する。飛行機で毛の乗った列車を爆破し、蒋介石軍の飛行機がやったと見せかければ、というものまであらわれた。
結局どの案が採用されたか不明のままだったが、直前になって現場に赴いた実行部隊がひるんでしまってチャンスを逃したことは確からしい。襲撃は実行されなかったけれども、林立果グループの奇怪な動きは毛沢東周辺の疑念を招き、毛は予定のコースを変更して急遽北京に戻ってしまう。とにかく、林立果の率いる上海グループは、毛の暗殺に失敗したのである。
計画の失敗を知った林彪は、娘の林立衡を北京にほど近い北載河に呼び寄せている。北載河には林彪の別荘があり、林彪夫妻はこの別荘で事態の推移を見守っていたのだった。夫妻は当初の計画が失敗しことを知って第二段階に移ることを決意し、家族全員で広州に飛ぶために娘を別荘に呼び寄せたのだ。夫妻はこれと同時に息子の林立果にも、上海を離れて別荘に集まるように命じている。
夫妻は娘には計画を明かしてなかったので、彼女を別荘に呼び寄せるに当たって、「前から予定していたお前の結婚式を、取り急ぎ今すぐ挙行することにした」という口実を用いた。そして、自分たちが異様に興奮しているのは、娘の結婚式を控えているからだと見せかけた。
いざ結婚式が始まると、林彪の妻・葉群は感情を抑えることが出来なくなった。彼女にとっては、林立果も林立衡も先妻の子で彼女とは血のつながりがなかった。だが、葉群は娘の婿を抱きしめて激しく泣き出したのである。
林立衡は敏感な娘だったから、両親の行動に腑に落ちないものを感じた。それで用務員を使って事情を探らせてみると、両親は毛沢東暗殺に失敗して南に逃げる相談をしていることが分かった。林立衡が両親と兄を裏切って、周恩来に秘密を告げる気になったのは、彼女も文化大革命の影響を受け、たとえ相手が肉親であろうと毛沢東に仇なす人間を許すことができなかったからだった。
北京にいた周恩来総理は、直ぐに手を打った。彼は中央護衛局に命じて北載河の林彪一家を監視させた。そして、北載河のそばの山海関に林彪が使用しているイギリス製の航空機トライデントが待機していることを知ると、現地の責任者の李作鵬にトライデント機を出発させてはならないと厳命した。
ところが現地の責任者の李作鵬は、林彪の同志だったから直ちにこのことを林彪に急報する。そこで林彪は、南に飛ぶことを断念して、北のソ連に逃れることを決断するのである。広州に到達するまでには中国本土上空を長く飛ばねばならないから、中国機に撃墜される危険があった。だが、北に飛べばその危険性が少なくなると思ったのである。
林彪は専属運転手に防弾装置付きの自動車を用意させて、妻の葉群、息子の林立果と車に乗り込み、フルスピードで山海関の飛行場に走らせた。林彪一家を監視していた中央護衛局の自動車も、その後を急追する。次に述べるのは、先にも引用した「ドキュメント・中国文化大革命」の中の一節である。
<零時二十二分、林彪の車が256号機(トライデント機)の前に到着した。タンク車がちょうど飛行機に給油中であった。林彪一味は車が停まるのも待たないで、あわただしく車から飛び降りた。葉群、林立果、劉捕豊はピストルを手にして、やたらに叫んだり、わめいたりしていた。
「早く! 早く! 早く!飛行機を早く動かせ! 飛行機を早く!」
同時に、飛行機の操縦キャビンの下に走っていって、まだタラップがかけられていないので、キャビンの小さいラダー(ハシゴ)を伝って、一段ずつコックピットに登っていった。彼らは副操縦士、航空士、通信士が搭乗するのが待ちきれず、飛行機の始動ボタンを押し、滑走を強行することを要求した。
飛行場は命令によって夜航灯をつけておらず、飛行機も滑走ランプをともしていなかったため、滑走するとき、飛行機の右翼が滑走路のわきに停まっていたオイル車のタンクの蓋にぶつかって壊れ、翼の上の緑色のガラスのランプ・グローブと飛行機のガラスなどを壊した。零時三十二分、いっさいの通信を遮断して、まっ暗やみの中を、256号トライデント機は離陸を強行した(「ドキュメント・中国文化大革命」)>。
トライデント機が飛び立ったことを知った周恩来は、自ら無線を使って機上の林彪に向かって引き返すように訴えたが返事はなかった。その後も、周は北京の東郊飛行場でも、西郊飛行場でもいいから戻って来てくれ、自分が迎えに行くからと訴え続けさせたが返答はなく、そうこうしているうちにモンゴルにトライデント機が墜落したというニュースが届くのである。
周恩来が、林彪一家の脱走を毛沢東に報告したとき、毛は落ち着いてこう答えた。
「天は雨を降らさねばならず、娘は嫁にやらなければならない。奴を好きなところに行かせたらいい」
――それにしても、林彪はじっとしていれば何事もなく中国最高の権力者になれたのに、どうして暴発してしまったのだろうか。私は、エドガー・スノーの「中国の赤い星」の中にそのヒントが隠されているような気がするのである。
林彪は革命第1世代に属している。長征に参加した第1世代の中では、林彪は最年少者だった。
「中国の赤い星」を読むと、林彪のことを、「28歳になる紅軍の戦術家で、有名な彼の率いる紅軍第一軍団は一度も敗北したことがないと言われていた」と書いてある。彼はその後、軍事的天才という栄光を背に紅軍大学校の校長になっている。
若くして天才といわれた男たちがたどる人生コースには、共通点があるように思われるのだ。自負の念が強すぎて、世俗的な面でも最高の地位につかなければ気が済まないのである。それも、一刻も早く実現されなければならない。三島由紀夫はまだ壮年の段階でノーベル文学賞をほしがり、その夢を断たれた時に暴発して自死してしまっている。
三島には、天才的な才能に加えて、お山の大将になりたがる稚気があった。林彪にも「林王朝」を夢見るような稚気があり、それが彼を悲劇的な死に追いやったように思われるのだ。 
 
「人口減少の経済的帰結」 by John Maynard Keynes (1937年)

未来は過去に決して似ていない…という言葉は良く知られるところです。しかし一般的に言われているように、私たちの想像力と私たちの知識はとても弱過ぎて、未来の何が特に変わるのかを予想することはあまりにも難しいのです。私たちには未来がどうなるかは分かりません。それでも、生きとし生けるものとして、私たちは行動を起こすしかありません。平和と精神的な安寧に浸っている私たちは未来を見通すための手立てがあまりにも少ないということから目を背けがちです。それでも私たちはいくつかの仮説を頼りにするしかありません。その結果として私たちは、慣習というものへ訴えかけてこない知識ではなく、逆に、未来は過去に似ているとする主張のうちの典型的なものへと流されてしまいがちです。これこそが私たちが実際に取ってしまう行動なのです。私が思うには、19世紀における当時の人間の振る舞いを受けた哲学的な見解がもたらした、当時の人々の間にあった自己満足感の基盤をなした部分が、当時の人々にベンサム派の奇妙な仕掛け(*1834年の新救貧法?)を受け入れさせたのですが、別の方向性による、その起こり得る限りの全ての帰結が当時の人々の目の前に現れるようになってきました。その方向性とは一つ目は比較優位の思想、二つ目は当の比較優位の思想に伴う蓋然性でした。…この二つが掛け合わされて、これらの方向性が実行に移されたことにより起こり得た限りの全ての帰結とさらに付け加えられた結果という姿を現したことで、私たちは何をなすべきがが分かるようになったのです。この方法によって、蓋然論的(確率的)なものの考え方による想像上の仕組みを用いて未来を現在と同じように計算できる状態とすることができます。これまで誰もこの説は採っておりません。しかし今日(こんにち)であるからこそ私たちの考えがいつの日か、いくつかのあのような偽の合理主義的な意見の如く影響を与えるようになると私は信じています。
さて私は今晩、合理的であるよりも未来がよりいっそう過去に似ていると思い込もうとする、というこの慣習が重要であることを強調したいと思います。誰も逃れることができないこの振る舞いの慣習…というのは、私が思うには、この慣習は確実な変化を予想するに値する相当な理由がある場合でさえ影響を持ち続けるものだからです。そして、おそらくですが、私たちが未来を見通すに当たり実際に手にしている大きな手がかりのうち最も際立った例は推計人口の趨勢です。人口の安定、そして私たちが数十年ものあいだ経験してきた実に激しい人口の増加に取って代わり、私たちはきわめて短いうちに人口の静止または減少に直面することになる…という未来の姿と切り離せない関係にある社会的または経済的な要因について、私たちはこれまでよりも手堅く知ることができるのです。人口の減少率がどれくらいになるかははっきりしないのですが、しかしほぼ確実なのは未来における変化は私たちがこれまで経験してきたものと比べるとかなり大きなものになるであろうということです。人口動態統計で分析される効果の面において長いけれども一定の時間の遅れがあることによって、私たちは未来に関するかなり多くの知識を得ているのです。それでも未来は現在と異なるという考えが私たちの考えや振る舞いの慣習的な流儀とはあまりにも相容れないため、私たちのほとんどは実際に人口減少問題に関して行動することに対しては激しい抵抗を示してしまうものです。付け加えて申し上げますと、人口が減少へと転じることが露になる結果としていくつかの重大な社会的帰結がもたらされることが既に予言されています。しかし私が今宵特に扱う主題は、この差し迫った変化によってもたらされる一つの際立った経済的帰結に関してです。というわけで、暫くの間、皆さんがこれまでの固着した観念を捨てて未来は過去と異なるという考えを受け入れていただけるような話を、皆さんが十分に納得のゆくまでさせてもらえればと存じます。 

人口の増加は資本財への需要に極めて重大な影響を与えます。資本財への需要…ここでは技術の変化や生活水準の改善については脇に置くこととします…の人口に対する割合が多かれ少なかれ増えるというだけではありません。景気の予想は見込み需要に基づいてよりも現状に基づいてなされることがはるかに多く、人口が増加する時代には楽観的な見方が強まりやすいのです。というのも需要は一般的に見通しを上回ることが、見通しに達しないことよりも多くなりやすいからです。さらにある不一致、これは特定の種類の資本財のある時点における過大供給の結果としてもたらされるものなのですが、こうした状態は素早く是正されます。しかし、人口が減少する時代において、これが正反対になることもまた真実と言えるのです。需要は予想されていたよりも低くなりやすく、そして過大供給の状態を是正するのは容易ではなくなってくる。この結果として悲観的な雰囲気が覆うことでしょう。そして、悲観的な見方が供給能力に影響を及ぼし続けた挙句の果てにとうとうこの悲観的な見方そのものを改め始めるようになるという事態へ至ったとしても、人口が増加から減少へ転じてもたらされる繁栄の道へ向けた最初の結果はとても悲惨なものとなるでしょう。
19世紀とそれ以降における資本財の巨大なる増加の原因を評価するに当たり、私が思うには、人口増加の影響はその他の影響と異なり重要なものとしての扱いをほとんど与えられて来ませんでした。資本財への需要はもちろん、3つの要因に依存します。…人口、生活水準、生産技術です。私が、当期の消費財を効率よく調達する方法として、その長い過程と関連深い重要性があると位置付けている生産技術によって、私の意識の中にある要因は生産期間という形で便利に描写できるようになりました。これは、大まかに言えば、労働が行われてから生産物が消費されるまでの時間間隔の加重平均です。言い換えれば資本財への需要は消費者の数、平均消費水準、平均生産期間に依存するのです。
さて、人口の増加が資本財への需要の割合を増加させることは必然と言えます。…そして発明の進歩が生活水準をどれだけ高めるかを決めるでしょう。しかし生産期間に対する発明の影響は、その時代の特徴に彩られた発明の種類に依存します。交通、住環境水準、公共サービスの改善が消費期間の増大をいくらか促したという特徴を備えていたことは19世紀の真実であったでしょう。よく知られているものとしてとても顕著な例は「ヴィクトリア朝時代の文明化」の特徴とされるものです。しかし同じことが今日においても真実であるかどうかは明らかではありません。現代における発明の多くは、規定の実績分を生産するための設備投資の量を減らす方法を見出すことのために向けられています。消費者の嗜好や生産のための技術が私たちの経験を積み重ねてきた結果として変化を速めてきたことも部分的には寄与したことにより、私たちの選好はそれほど耐久的ではない資本財の種類の方へ非常に強く向けられるようになっています。それゆえ、私は、平均生産期間を実質的に増大させるような現在における技術の変化に頼ることができるとは信じていません。利子率を可能なかぎり変更させることによる影響は別として、平均生産期間が減少してゆく場合でさえ同じかもしれません。そのうえ、平均消費水準はもしかするとそれ自体が、平均生産期間を減少させる影響を及ぼすかもしれません。というのも私たちが豊かになってゆくに従い、私たちの消費はそれを生産するに当たり平均生産期間が比較的短い品目の消費、特に対人サービスへ向かうようになるであろうからです。
さて、多くの消費者が減ってゆき、私たちが生産期間の技術の変化による有意義な伸びに頼れないなら、資本財の純増加への需要は平均生活水準の改善や利子率の低下へ完全に頼りきりになることへ追い込まれます。異なる要因が関係してくることが重大であることの道理を、私はいくつかのとても大まかな数字を使って説明したいと思います。
1860年から1913年までの丁度50年にわたる期間のことをじっくり考えてみましょう。私は技術の変化によって生産期間の長さに重大な変化があったという証拠を一つも見つけられませんでした。統計のうち実物資本の量に関するものに特殊な難しさが見受けられます。しかし私たちの手にできる統計は一産出単位を生産するために使用される資本ストックの量が幅広く変化してきたことを示してはいません。2つの最も高く産業化されたサービス、住宅建設業と農業、が古くから確立されていました。農業は比較的に重要性を伴う形で減少してゆきました。人々が所得の割合のうち非常に多くを住宅の購入のみへ充てた場合に限り、付け加えますと(第一次大)戦後については確かに多くの証拠があるのですが、私は技術の変化によって生産期間が有意議な伸びを示すことを予想したでしょう。戦前の50年間、このあいだは長い期間にわたり利子率の平均がかなり一定であったのですが、私は生産期間の長さが10パーセントを超えることはなかったであろう、と確信しています。
さて、同じ期間に英国の人口は約50パーセントほど増加し、そしてこの人口に対して英国の産業と投資はさらに大きな数値を以て供給されました。そして私は生活水準がおおむね約60パーセントほど高くなったに違いないと思っています。このように、資本財への需要が増加したことは根本的には人口の増加と生活水準の高まりに起因し、そして細かく言えば一消費単位当たりの産業化の増進に応じた類の技術の変化に起因するのです。要約として、人口の数値、これは頼りになるのですが、資本財の増加のうち約半分は人口の増加に対する供給のために引き起こされたものでした。おそらく数値はおおよそ以下のとおりです。ただしこれらの帰結はかなり大まかで、話を先へ続けるための大体の目安であることを強調しておきたいと思います。
. 1860年 1913年
. 100    270  …  実物資本
. 100    150  …  人口
. 100    160  …  生活水準
. 100    110  …  生産期間
結果として、もし静止人口が生活水準の同じ程度の改善と生産期間の同じ程度の増大とを伴ったとすれば、資本ストックは実際に引き起こされた増加分の半分を少し上回る程度の増加を必要としたでしょう。さらに、住宅投資の半分近くが人口の増加により引き起こされていたあいだにおける、対外投資の実質的に高い割合もおそらく先に挙げた原因に起因したものです。
他方で平均所得の増加、家族のサイズの縮小、制度的かつ社会的な影響が、おそらく完全雇用の条件の下で国民所得のうち貯蓄へ向かってゆく割合を高めてきた、と言うことも可能ではあります。私はこれについては確信していません。なぜなら正反対の方向に作用する他の要因、特に最富裕層への課税という要因があるからです。しかし私たちは確かなことを言えると思います…そしてこれは私の主張の論拠として十分ならしめるものなのですが…今日、完全雇用の条件の下で国民所得のうち貯蓄へ向かうであろう割合は各年の国民所得のおおむね8パーセントから15パーセントの間にわたるであろうということをです。資本ストックの増大の一年当たり何パーセントが、この貯蓄率と関係しているのでしょうか。これに答えるためには、私たちはいま存在する資本ストックが国民所得の何年分で表せるかを強調しなくてはなりません。これは私たちが正確に知ることのできない数値ではありますが、大きさの位数として示すことは可能です。皆さんは、私が申し上げる答えがご自身が予想する答えとかなり違うことにおそらくお気づきになるでしょう。存在する国民資本ストックの額は約4年分の国民所得の額と等しいのです。これは言うなれば、もしわが国の一年当たり国民所得が40億ポンドのあたりにあれば、わが国の資本ストックはおそらく150億ポンドであるということです。(私はここでは対外投資を含めておりませんが、含めた数値を挙げるなら、4.5倍です。)結果として、一年当たりの国民所得における新しい投資のおおむね8パーセントから15パーセントの率は、資本ストックの一年当たり2パーセントから4パーセントの増加を意味するのです。
論拠の要点を繰り返させて下さい。私がこれまで2つの暗黙の仮定…特に、富の分配や、蓄えられた国民所得の割合に影響を及ぼす他のあらゆる要因の激しい変化が無いこと。さらにまた、平均生産期間の長さを実質的に変化させるに足りる利子率の幅広い変化が無いこと…を置いてきたことに注意してください。これら2つの仮定を取り除くために私たちは後でまた立ち返ることにしましょう。しかし、これらの仮定の上で、わが国がいま存在する組織を抱えてゆく下で、さらに繁栄と完全雇用という条件の下で、私たちはわが国の国民資産ストックの純増加をおおよそ2パーセントから4パーセントほどもたらすための需要を見つけ出さなくてはならなくなるでしょう。さらにこれは期限無く年々続くこととなることでしょう。それでは次の通り、より低い見積もり…すなわち2パーセント…を用いることにしましょう。というのも、この2パーセントが最も低い数値なら、論拠はより手堅いものとなるからです。
今に至るまで新しい資本財への需要は2つの源より流れ出でて来て、この2つはそれぞれほぼ等しい強さでした。2つを合わせたうちの、半ばを少し下回る方は人口の成長に対する需要としてまみえました。…半ばを少し上回る方は一人当たり産出を増加させる発明とより高い生活水準を可能にする改善のための需要としてまみえました。
さて、過去の経験は生活水準の年間1パーセント以上という大きな高まりの持続がまれにしか実現されなかったことを証明したと示しています。もし発明が稔り豊かなものになったとしても、それ以上に私たちの生活水準を高めることが容易とはならないのです。過去数百年のあいだにこの国で生活水準の改善が年間1パーセント進んだのは10年か20年でしょう。しかし一般的に言われているように生活水準の改善の率は毎年1パーセントをやや上回ってきたように見えるのです。
私はここで区別をいたします、皆さんご注意ください。資本財が生産物を産み出すのに以前よりも労働の量を減らす助けになるような発明と、使用される資本ストックの量の変化を最終生産物の割合の変化よりも“さらに”大きくするような発明とをです。私は前者における革新は未来においてもそう遠くない過去と同じような具合で続くのではないかと思っています。さらにこの革新は近い将来においても、私たちがこの十年を通して経験してきた最高の水準が続くのではないかとはっきり申し上げます。そして私は、こちらの側に属する発明が、完全雇用および静止人口と思われる条件の下でわが国の貯蓄の半分以上を吸収することはまずありそうにないと計算しています。しかし二番目の種類の発明はある方法または別の方法への道を切り開きます。それはまだ明らかではないのですが…ある一定の利子率と思われる状態で…発明の最終的な結果がある方法または別の方法によって一産出単位当たりの資本財を変化させるという道です。
それゆえ、結果として、長期にわたる繁栄の均衡条件を確実なものとするためにはこれから申し上げる(2つの)こと(のうちいずれか1つ)が欠かせないでしょう。“一つ目は”私たちが所得のうちから貯蓄へ充てる割合をある程度小さくする方向へ私たちの制度や富の分配を変えることです。“二つ目は”資本財が産出へ振り向けられる割合がさらに広がることで使われるようになるような技術または消費の方向の非常に幅広い変化が利益をもたらすのに十分となるまで利子率を下げることです。または、もちろん、私たちが賢者たり得るのであれば、両方の政策をある程度まで追い求めることは可能ではありましょう。 

一人当たりの生産要素が増える(国土の姿について古い作家たちが主に思い描いてきたこと)ほど生活水準に多大な恩恵をもたらすに違いないという見方と、人口の成長は人間の生活水準が高まることを抑えてしまうから悲惨であったという見方は、どのように関連して古いマルサス主義者の説を生んだのでしょうか。一見すると、私がこの古い説に異を唱え私が主張の論拠としてきたこととは反対に、人口が減少する局面では繁栄を保つようになるよりもそれ以前に多大な困難をもたらすようになってしまうように思われるかもしれません。
ある意味ではこれは、私が申し上げていることの正しい解説となっています。しかしもし旧マルサス主義者が今も存在しているのなら、私が彼らの本質的な論旨を否定していると彼らに思われないようにしなければなりません。紛れもなく人口の静止は生活水準が高まることを促します。…ただしこれはある条件…特に人口の静止が可能となる生産要素と消費の増加が、然るべき場合によって実際に引き起こされるという条件…の下でのみ可能となることです。というのも私たちは少なくともマルサス主義者の言うものと同じくらい凶暴な悪魔がすぐそこにいることを学んだからです…有効需要の毀損により現れる、言わば失業の悪魔です。おそらく私たちはこの悪魔もマルサスの悪魔と呼んで差し支えないでしょう、というのもマルサスその人が初めてこの悪魔について語ったからです。若きマルサスが人口の事実について身の回りの事象を眺め問題を合理的に説明しようとして頭を悩ませたために、後年のマルサスは…幸運ではないことに、残りの分野における自身の影響が力を持つ限りは…失業の事実について身の回りの事象を眺め問題を合理的に説明しようと頭を悩ませることはもはやありませんでした。さて、マルサスの悪魔Pが鎖につながれていると、マルサスの悪魔Uが解き放たれやすくなります。人口の悪魔Pが鎖につながれているあいだは、私たちは一つの脅威から自由になれます。しかし私たちは非雇用資源の悪魔Uにそれ以前よりもますます晒されるようになってしまうのです。
静止人口の下では、生産期間の長さを有益な方向へ実質的に変化させるために、繁栄と治安を維持することはより平等な所得の分配と利子率の抑え付けによって消費を増加させる政策に完全に依存することになる、と私は訴えます。もし明確な認識と固い決意を以てこれらの政策を行わなければ疑いもなく、一方の悪魔が鎖につながれていることによって私たちが当たり前のものとして得ている恩恵は奪われ、さらには、おそらく他のものまで奪われてしまう耐え難い苦しみを味わうことになるでしょう。
それでもなお多くの社会的および政治的な勢力が必要な政策の変更に反対することでしょう。私たちが段階を踏むことができず政策の変更を行えないということはじゅうぶん考えられます。私たちは過去から学び、政策の変更を行うに当たって妥協する態度へ改めるであろうことを予め見越しておかなくてはなりません。もし資本家階級がより平等な所得の分配を拒み、19世紀に平均的であった数値にだいたい近い銀行預金利子率、投資利益率を維持することを強いてくる(ところで、19世紀に平均的であった銀行預金利子率、投資利益率は今日のものより少し“低い”です。)とすれば、不完全雇用の慢性的な傾向は必ず、活力を奪い社会のありかたを壊す結末をもたらします。他方で、もし時代の精神と今ここにある限りの啓蒙の精神に教え諭され導かれるのであれば、…私がそうなってほしいと信じるように…私たちの考えに従い富の蓄積へ向けて段階的に発展し、人口の静止または減少という状況に適したものになり、恐らく、私たちは自由が維持され現在の制度が自律性を保つ…という最も望ましい世のありかたを両方とも手にすることができます。このあいだ、資本家階級はさらなる“信号の故障”によって、資本蓄積および彼らを社会の仕組みの中でそのふさわしい立場へ就かせる役割を果たす報酬の重要さが減ってゆくに従い、段階的に安楽死してゆきます。
あまりにも急激な人口の減少は明らかに深刻な問題を引き起こし、このような事態の下で、または、このような事態における脅威の下で、予防の措置がとられなければならない理由は今宵の議論が取り扱っている範囲ではないところに強い根拠があります。しかし人口の静止または緩やかな減少は、もし私たちが必要な力と賢さを働かせれば、生活水準を然るべきところまで引き上げることができるかもしれません。このあいだ、いま生活の伝統的なありかたを失っている人々に起きていることを見届けているからには、こうした生活の伝統的なありかたのうちいくつかの部分を保つこともできるかもしれません。
それゆえ、最後に要約いたしますと、私の主張は旧マルサス主義者による結論から逸(そ)れるものではありません。私はただ、一方の悪魔が鎖につながれているときにもし私たちが注意を怠ると、もう一方の静かなる凶暴な、そして、さらに手に負えない悪魔を解き放つのみである、ということを皆さんへ戒めとして申し上げたい次第でございます。 
 
「気概」損ねる人口減少 (2012/11)
人口の“量と質”は一国の経済水準を決める最も重要な要因である。先進工業国では人口の過半が労働力として生産活動に従事しているから、人口が潜在的な供給能力を決める第一ファクターである一方、人口は国内市場の規模を規定するため、国の有効需要を大きく左右する。人口の増加局面と減少局面の違いを経済学はどのように論じてきたのだろうか。
経済学の分野で人口の話をする場合、まず取り上げられるべき人物はトーマス・ロバート・マルサスであろう。人口の増殖力は食糧の増加力を際限なく上回るため、人口は食物の水準以下に抑えられなければならないと論じた彼の 「人口の原理」は、当時の楽観的かつ急進的な進歩主義思想に対して向けられた論駁 (ろんばく)の書であった。
匿名で出版された初版(1798年)では、「人間の完全化と社会の無限の進歩」を唱えるウィリアム・ゴドウィンやニコラ・ド・コンドルセらに対して痛烈な批判を投げかけ、マルサスを当時の論壇の寵児(ちょうじ)とした。
「人口の原理」は、ゴドウィンらとの論争の過程で版を重ねるたびに修正が加わり、様々な限定が付加されて論旨も複雑になった。後に、戦前の日本を含め、真のメッセージは何かに関する「マルサス論争」を生むことになる。ジョン・メイナード・ケインズは、初版の5万語から第5版の25万語まで膨れ上がった事情に対し「あとの版では(中略) 一般原理は社会学的歴史の先駆者による帰納的検証に圧倒され」 「青年の頃の、輝かしい才気と盛んな意気が消え火せている」 ( 「トーマス・ロバートーマルサス」大野忠男訳)と評した。 
需要の開拓が重要に  ケインズの懸念、日本でも
その後、マルサスの人口原理に対して、資本主義体制批判の立場からカール・マルクスが展開した過剰人口論が経済学界で強い影響力を持つことになる。マルクスは、マルサスが供給面から人口過剰の問題を論じたことを徹底批判し、過剰人口は資本制生産様式に固有な現象であるとして、労働需要の面から論ずべきだと主張した。企業が機械の導入などによる省力化を進めることで失業者(産業予備軍)が生まれ、この労働力の過剰が賃金を低水準に保つ圧力になると論じたのである。
マルサスの理論の社会的背景は現代とはかなり異なる。
そもそもマルサスの当初の論点は、貧困は神の人間創造の矛盾を示すのか、あるいは貧困はその人間が生み出した罪であるのか、というところにあった。それが人間の生存の前提としての食糧生産と人口の法則の対峙という図式に変わっていく。人口の増減を食糧生産(所得)の観点からのみ論ずる形に問題が置き換わるのである。
だが現代では、子どもを持つか否かの選択は、所得だけに依存するわけではない。民主制の平等社会では、子どもに教育を受けさせ、立身出世への道を準備してやることが親の務めのひとつにっている。子どもを持ち、育てる費用は、マルサスの時代とは根本的に変わった。教育にかかる直接的な費用だけでなく、子どもを育てるために労働市場から退出したことによる逸失所得も大きい。従って、子どもの数は抑え、家計予算を他の目的に振り向けたかが合理的だという判断が支配的となる。
日本をはじめ世界の多くの国々で問題となっている少子化現象の背後には、こうした個人にとっての合理的な 「意図」と社会全体が生み出す「帰結」との間の齟齬(そご)が存在するのである。
「少子化や人口減少など騒ぐような問題ではない、技術進歩が解決する」と主張する者もいる。しかしこの楽観論は理論的可能性を論じたものにすぎない。人口減少がもたらす社会の「気概」の問題を
軽視していると鋭く批判したのはケインズであった。 
ケインズはベルサイユ講和会議を批判した「平和の経済的帰結」 (1919年)の第2章で、マルサス流の過剰人口論を展開したものの、世界経済が深刻な不況に陥った30年代に入ると人口減少の経済的な帰結を悲観的に論じるようになった。その見解は37年2月に英国の優生学協会の講演で展開された「人口減少のいくつかの経済的帰結」に要約されている。
ケインズの論の進め方は簡単かつ具体的で説得力に富む。まず、我々の想像力は貧困で「将来は過去と似たものだ」と考えがちだが、必ずしもそうはならないと彼一流のシニカルなコメントを披露する。しかしそれでも人口動態に関しては、かなりの程度将来を見通すことができ、人口が増加の局面から減少へと転換する時期が早晩必ずやってくること、その結果、経済にいかなる影響が及ぶかは十分推論できると言うのだ。
人は現在の状態に基づいて将来を予想するから、人口増加の局面では需要は常に想像以上に拡大し、社会にある種の楽観主義が行き渡る。資本供給に行き過ぎやミスがあっても、すぐに吸収される。それに対し、人口減少局面では需要は予想以下に低迷し、資本の過剰供給はなかなか是正されない。かくて悲観的な雰囲気が社会に充満する。
資本需要は3つの要因に規定されることを忘れてはならないとケインズは言う。第一に人口、第二が生活水準、そして第三が資本技術である。第三の資本技術は、その生産の入り口から出口までにかかる「生産期間」を意味している。言い換えると、資本需要は、消費者の数、平均的な消費水準、平均の「生産期間」に依存すると要約できる。
19世紀の資本投資は、交通や公共サービスなど人口要因にそれほど依存しない耐久性の高いものが多かった。ビクトリア朝の文化は、巨大な耐久物から成り立っていたとも言える。しかし30年代の発明は資本節約的なものが多くなり、人々の好みも変化が激しく、資本財がそうした消費者向けの生産に向かうようになった。その結果、技術進歩は 「生産期間」を短くするものが多くなるだけでなく、人々が裕福になると、消費の対象は生産期間の短い「サービス」に向けられるようになる。
こう考えると、人口減少で消費者の数が減り、生産期間も短くなると、資本財への需要をかろうじて支えることができるのは、人々の消費水準の上昇だけになる。ケインズは、1860年と1913年の簡単な数値を示しながら、この期間の資本投資の約半分は人口の増加によるものであり、残り半分が高い生活水準を可能にする資本技術によってもたらされたと論じたのである。 
この議論は何を含意するのか。ケインズは人口増加が貧困をもたらすとするマルサスの原理を必ずしも放棄したわけではない。人口の減少局面で繁栄を維持することがいかに困難かを指摘したのである。人口減少によって有効需要が低迷する結果、「失業の悪魔」 (devil U)が忍び込むというのだ。この「悪魔」はマルサスの「人口の悪魔」 (devil P)ごと同類だとケインズは言つ。「人口の悪魔」はいまや鎖でつながれたものの、人口の減少期には「失業の悪魔」が暴れ出す可能性があると警告するのである。
ケインズはこの「悪魔」に対抗するには、所得の不平等を是正して消費を増やし、利子率を低くして生産期間が長くなるような投資を促す政策が必要だと説いた。さもないと、資本主義社会は労働などの資源が使われないまま慢性的な不況に苦しむと考えたのだ。社会が再配分政策の方向に動かない限り、現行システムの下で自由と独立を謳歌することは困難になるというのがケインズの診断であった。
このケインズの講演は、人口増加は資本需要と消費需要を拡大し、有効需要そのものを増加させることによって経済成長を生み出すと要約できよう。こうした人口と有効需要についての素朴な関係把握に対して、その後批判が加えられたことはいうまでもない。しかしケインズの推論が、事実の重要な一面を突いていることは間違いない。
現下の日本の問題に照らすと、企業や投資家からすれば、人口減少で国内の有効需要が減っても、輸出で国外の市場をつかめばよいと論ずることはできる。「技術進歩かおる」 「労働力が減少しても、国際展開し海外の労働力に頼ればいい」という論理も成り立つ。
こうした議論は理論的には正しい。実際、内需の先細り懸念や円高を背景に、日本でもケインズが見ていた当時の英国と同じように海外投資が徐々に増え始めている。
ただ、このままでは社会全体で進む「気概」の衰弱を避けるのは難しい。ケインズが唱えた公共事業による国内への投資誘導は難しいとしても、国内の投資や消費をどう掘り起こすか。金融緩和だけでは、たとえ企業が生き残ったとしても日本社会の活力は回復できないのである。 
日本の人口論争
戦前の日本では、人口論は経済学の主要な柱のひとつとみなされ、「理性による人間改革と生存権の確保」を標榜する社会主義者と、「私有財産制の下での結婚と家族」を前提とする反社会主義者との対立の構図が存在した。マルクス主義者、国家主義者、自由主義中間派などがマルサス論争にこぞつて参加し、過剰人口が海外移民などで解消できる限度を超えているとする立場と、 「国力強化」のための人口増加の必要を説く立場から、相互批判を展開した。日本の実体人口学の大成者・南亮三郎とその小樽高商時代の教え子・吉田秀夫との問で交わされた「人口の原理」をめぐる論争や緻密な原典研究も、当時の日本のマルサス研究の水準の高さを示すものである。人口動態論は経済に留まらず国家戦略的に論ぜられるべき問題だ。  
 

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