天守閣

天守閣弘前城松本城犬山城丸岡城彦根城姫路城松江城備中松山城丸亀城高知城伊予松山城宇和島城
城址諸説 / 福島正則小田原城大坂城名古屋城江戸城躑躅ヶ崎館高崎城笠間城河越城水戸城山形城小諸城掛川城二俣城会津若松城松前城五稜郭金沢城足利城址佐野城址太田城址桐生城跡宇都宮城址南埼玉郡城址北葛飾郡城址越谷城址さいたま城址町田城址安土城天主と大坂城天守豊田城豊福城・・・
 

雑学の世界・補考   

現存天守閣のある12城

近世城郭の変遷
戦国時代 (中世) 山城
山上に造られ、土塁・空堀で防御。城下町は限られた重臣と直属の商工業者で形成、軍事的には利点あり政治経済の中心とはなりえない。恒久的建物はない。
天正・文禄期(1573-1596)
信長の安土城・秀吉の大坂城の出現。石垣による防塁、城内の恒久的建物群、城漆喰塗込の天守。兵農分離による近世城下町の出現。山城から平城・平山城へ。戦略的拠点としての天守・天守台不定形矩形。
望楼型天守 松本城(大天守・渡櫓・乾小天守/文禄2-3)
慶長前期・関ヶ原戦前(1597-1600)
戦略的拠点としての性格が強い天守。天守台は不定形矩形、望楼型天守。
岡山城・広島城
慶長後期・関ヶ原戦後(1600-1615)
関ヶ原戦以後家康は近畿・中国・四国の豊臣大名牽制のため領国支配の権威のシンボルとして見栄えのよい白亜の天守を築城。これらの天下普請に加わった大名により建築技術が全国に普及。近世城郭最盛期の城郭建築出現。天守台正しい矩形に築造可能・層塔型天守出現。
姫路城・彦根城・犬山城・高知城・松江城・丸岡城・初代宇和島城・初代伊予松山城・初代弘前城
江戸期城郭・元和以後(1616- )
一国一城令により規模を制限された城郭。
丸亀城・備中松山城・松本城(辰巳附櫓・月見櫓/寛永10-11) 
天守閣について
戦国時代以前の中世の城は山城といわれ、数十から数百m位の山の上に作られた、防御的機能に重点を置いたものが多く、城下町の発達も余りみられませんでした。また、天守閣というような大きな建物もなく、現在の遺跡としてもあまり見るべきものが残っていません。旅先で見かけるのは、安土桃山時代以降の城で平城、平山城と呼ばれ、平地に聳え、軍事、政治の中心となっていたものです。規模も大きく、当時は石垣や土塁の上に天守閣や櫓が立ち並び、周囲を威圧していました。しかし、現在でも城の威容を保っているものはあまりありません、江戸時代には170余もあったのですが、今でも昔のままの天守閣が聳えているのは、12城にすぎません。又、近年鉄筋コンクリートで外見だけ復元したものも少なくありません。堀が埋められたり、石垣が崩されたりして、ほとんど形をとどめていないものさえあります。全く残念なことだと思います。ただ、最近になって、木造で江戸時代のままに復元しようという動きもあって、白石城(宮城県)、白河小峰城(福島県)、掛川城(静岡県)で木造天守閣が建てられ、周りの景観も整備されて、往時の姿を伺えるようになりました。
弘前城

 

所在地 青森県弘前市白銀町
城種別 平城・平山城
築城年 1611(慶長16)年
築城者 津軽信牧
別名 高岡城
天守成立年 1810(文化7)年
天守構築者 津軽寧親
天守閣構造 3層3階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 櫓3基、櫓門3棟、石垣、土塁、堀
関東以北では、唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存の三層天守は、1611年(文化7)に本丸辰巳櫓を移築、改修したもので、御三階櫓と称されました。本来は1611年(慶長16)、津軽信枚公が完成させた5層天守が聳えていたのですが、2代信牧公のとき1627年(寛永4)の落雷で焼失しました。現存天守閣の特徴は、見る方向によって姿が異なり、二の丸から見える東面、南面にだけ千鳥破風を飾り、本丸から見える北面、西面は銅扉の連窓としていることです。また、城跡には他に3基の櫓と大手門はじめ5棟の櫓門が残り、国の重要文化財に指定されています。石垣、土塁、堀なども残っていて、往時の状況を彷彿とさせる城跡です。
松本城

 

所在地 長野県松本市丸の内
城種別 平城
築城年 1504年(永正元)
築城者 島立貞永
別名 深志城、烏城
天守建造年 1597年(慶長2)頃
天守建造者 石川康長
天守閣構造 5層6階、連結複合式
文化財指定 国宝
他の遺構 小天守、櫓2基、復元門2棟、石垣、堀
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成年代は諸説あってはっきりしませんが、1597(慶長2)年頃、石川康長によるものと考えられています。5層6階の大天守は二重の渡櫓によって、3層の乾小天守と連結され、東に2層の巽付櫓と月見櫓を伴う、見事なL字型の連結複合式天守です。屋根は寄棟づくりで、各層に千鳥破風や唐破風が見られ、窓は少な目です。城としては、1504年(永正元)、島立貞永が築いた深志城がそのはじまりでしたが、1550年(天文19)、武田信玄によって落城しています。その後、武田氏がこの城に城代を置いていましたが、1582年(天正10)、勝頼の代になって織田信長に滅ぼされました。それからの深志城は信長の城代がおかれていましたが、本能寺の変によって信長が倒れてからは小笠原氏が入り、小笠原貞慶のとき城の名を松本城と改めました。豊臣秀吉の時代になって、石川数正が入封し、現在の松本城の築城にとりかかり、1598年(慶長3)、主要部分が完成しました。関ヶ原合戦以降は、小笠原秀政が入封し、江戸時代になって戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏と城主が変遷しました。しかし、1726年(享保11)、戸田氏が入封して以後は安定し、廃藩置県を迎えたのです。天守閣群の昭和の大修理以降、城跡の復元工事が続けられていて、1960年(昭和35)に黒門が、枡形の二の門と塀は、1989年(平成元)、そして太鼓門が1999年(平成11)に復元されました。  
犬山城

 

所在地 愛知県犬山市犬山
城種別 平城
築城年 1537年(天文6)
築城者 織田信康
別名 白帝城
天守建造年 ?
天守建造者 ?
天守閣構造 3層4階、複合式
文化財指定 国宝
他の遺構 復元櫓、復元城門、石垣
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成年代ははっきりしません。しかし、1965年(昭和40)に解体修理されたおりに、金山城天守を移築した形跡は見あたらなかったため、従来から言われていた日本最古の現存天守ではないのではと考えられるようになりました。木曽川の絶壁上に聳え、付櫓のある3層4階の望楼型複合式天守で、南面と北面に唐破風があります。この城は木曽川河畔の断崖上に立ち、江戸時代の学者荻生徂来が唐の詩人李白の「朝に白帝を辞する彩雲の間・・・」という漢詩から連想して白帝城と呼び、別名となっています。また、日本で唯一かつての城主成瀬家の子孫による個人所有の城としても知られています。犬山城は織田信泰により1537年(天文6)に創築され、その後、石川氏、小笠原氏等が入り、近世の犬山城が完成されました。1617年(元和3)尾張藩の付家老成瀬正成が入り、廃藩置県まで成瀬氏の居城となりました。 
丸岡城

 

所在地 福井県坂井郡丸岡町霞
城種別 平山城
築城年 1576年(天正4)
築城者 柴田勝豊
別名 霞ヶ城
天守建造年 1576年(天正4)?
天守建造者 柴田勝豊
天守閣構造 2層3階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 門、石垣
日本最古の現存天守閣として知られていますが、1576年(天正4)に織田信長の家臣柴田勝家の甥勝豊によって築かれました。2層3階の天守は、入母屋櫓上に望楼を乗せた初期望楼型の独立式天守で、最上階に廻縁高欄をめぐらし、石瓦で葺かれています。本能寺の変後、勝豊が近江の長浜へ移ると、城主は安井氏、青山氏、今村氏とめまぐるしくかわりました。その後、1613年(慶長18)に本多成重が4万3,000石で入城しましたが、4代重能の時、お家騒動に因を発して除封となりました。かわって有馬清純が5万石で入部し、廃藩置県まで、8代160年間続きました。 
彦根城

 

所在地 滋賀県彦根市金亀町
城種別 平山城
築城年 1603年(慶長8)
築城者 井伊直勝
別名 金亀城
天守建造年 1606年(慶長11)
天守建造者 井伊直孝
天守閣構造 3層3階、複合式
文化財指定 国宝
他の遺構 櫓4基、太鼓門、馬屋、石垣、土塁、堀
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成は1603(慶長8)年、井伊直孝の時ですが、旧大津城天守閣の資材を使って再築されたものとされています。この城は、大坂の豊臣氏、西国大名に備える戦略的目的から、幕府の全面的支援を得た天下普請となり、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じて完成しました。3層3階の天守は、付櫓を持つ複合式で、華灯窓や武者窓、唐破風、千鳥破風などに飾りの付いた美しい姿をしています。築城以来、廃藩置県まで井伊氏が居城しました。城跡には、天守閣以外に櫓4基、太鼓門、馬屋、石垣、土塁、堀が現存し、往時の城郭の様子を今にとどめています。また、旧表御殿の外観(一部内部)を復元した彦根城博物館が建設されています。 
姫路城

 

所在地 兵庫県姫路市本町
城種別 平山城
築城年 1609年(慶長14)
築城者 池田輝政
別名 白鷺城
天守建造年 1609年慶長14)
天守建造者 池田輝政
天守閣構造 5層6階、連立式
文化財指定 国宝
他の遺構 小天守3基、櫓26基、門15棟、石垣、土塁、堀
国宝に指定されている4天守閣の一つで、現存天守の完成は1609年(慶長14)、優れた築城家として知られる池田輝政の時です。日本一の名城と評判の高い姫路城は、その外見の美しさから「白鷺城」と呼ばれ、1994年(平成5)には世界文化遺産にも登録されています。5層6階の大天守と東、乾、西の小天守を渡櫓で結ぶ、連立式天守で、近世城郭の最高技術水準を示しています。各層の逓減率があまり大きくなく、安定感あり、千鳥破風、唐破風が巧みに組み合わされ、白漆喰総塗籠となっています。この城は今から約670年前の1333年(元弘3)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が、ここ姫山に砦を築き、その子貞範が館を設けたのがその始まりとされています。しかし、最近では、黒田重隆と職隆が、1555年(天文24)から1561年(永禄4)の間に御着城の出城として築いたという説が有力となっています。その後、1580年(天正8)、羽柴秀吉が中国攻めの根拠地として3層の天守閣を築きました。池田氏の後は本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏めまぐるしく城主がかわって廃藩置県を迎えます。天守閣群の他に、櫓26基、門15棟、石垣、土塁、堀などが残り、城郭建築の宝庫と言われています。 
松江城

 

所在地 島根県松江市殿町
城種別 平山城
築城年 1611年(慶長16)
築城者 堀尾吉晴
別名 千鳥城
天守建造年 1607年(慶長12)
天守建造者 堀尾吉晴
天守閣構造 5層5階、複合式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 付櫓、石垣、堀
山陰地方で唯一の現存天守閣のある城跡として知られています。現存天守は、1611(慶長16)年、堀尾吉晴の築城によるもので、小高い岡に立地し、周囲に内堀をめぐらした典型的な平山城です。5層6階の天守は望楼型で、付櫓を持つ複合式天守です。2層までは、黒の下見板張りで、簡素で実践的な造りで、初期天守閣の姿を今に伝えています。市内をめぐる外堀もほとんど残っていて、武家屋敷なども残存し、旧城下町の風情も残されています。堀尾氏の無嗣改易以後は、京極氏、そして松平(越前)氏の支配で230年続き廃藩置県を迎えます。現在は、城郭の復元工事によって、1960年(昭和35)本丸一の門と南多聞の一部が復元され、1994年(平成6)に三之丸と二之丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二之丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)が復元されました。さらに、2000年(平成12)に二之丸南櫓)が、翌2001年(平成13)中櫓、太鼓櫓、それらをつなぐ約130mの塀が復元され、125年ぶりに往時の姿をよみがえらせました。 
備中松山城

 

所在地 岡山県高梁市内山下
城種別 山城
築城年 1240年(仁治元)
築城者 秋庭重信
別名 高梁城
天守建造年 1683年(天和3)
天守建造者 水谷勝宗
天守閣構造 2層2階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 櫓2基、土塀、石垣
全国で唯一山城跡に残る天守閣として知られています。現存天守は、1683(天和3)年、水谷勝宗によって造られたもので、臥牛山(標高478m)の一つの峰にあります。2層2階の独立式天守で、天守の位置は標高430mもあり、日本三大山城の一つとされています。この城は、1240年(仁治元)に秋葉重信が築いた高梁城が始まりとされています。秋葉氏五代の後、守護職となった高橋宗康は、城域を小松山まで拡張し、松山城と改名しました。応仁の乱以降、この城をめぐる争奪戦は激しく、めまぐるしく城主が入れ替わっています。関ヶ原の合戦以後は、一端幕府直轄領になり、1617年(元和3)に池田氏が城主となってからは、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と変遷して廃藩置県を迎えました。現在は、天守閣以外に現存する二重櫓、石垣があり、1997年(平成9)に、本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元され、江戸時代の雄姿がよみがえりました。 
丸亀城

 

所在地 香川県丸亀市一番町
城種別 平山城
築城年 1597年(慶長2)
築城者 生駒親正
別名 亀山城
天守建造年 1642年(寛永19)、改築1660年(万治3)
天守建造者 山崎安治、京極高和
天守閣構造 3層3階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 門3棟、石垣、堀
平地から本丸までの石垣の高さは60mを超え、日本一といわれています。現存天守は、1642年(寛永19)に山崎安治によって築かれましたが、1660(万治3)年に京極高和によって改築されています。3層3階の天守は、小ぶりな独立式ですが、そこからの讃岐平野の眺望はすばらしいものがあります。この城は、生駒親正によって、西讃岐の守護のため築かれた平山城ですが、1615年(元和元)徳川幕府が発布した「一国一城令」によりいったん廃城になりました。しかし、生駒氏の転封後、代わって入封した山崎家治によって丸亀城は再建されます。その後、京極氏の居城となり、廃藩置県まで続きます。現在は、天守閣以外に現存する大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋とともに、山の4囲に廻らされたみごとな高石垣が平山城の偉容を残してくれています。 
高知城

 

所在地 高知県高知市丸の内
城種別 平山城
築城年 1601年(慶長6)
築城者 山内一豊
別名 大高坂城
天守建造年 1747年(延享4)
天守建造者 山内豊敷
天守閣構造 4層6階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 本丸御殿、多聞櫓2棟、門4棟、石垣、堀
現存する天守は、山内一豊の築城当時のものではありません。1727年(享保12)、城下の大火によって天守閣ほか多くの建造物が焼失してしまい、その2年後から普請を始め、1747年(延享4)、山内豊敷の時に、ほとんど同じ工法で再建されたものです。4層6階の天守は、望楼型の独立式で、最上階に高欄を廻らしています。また、書院、櫓、門など本丸部分の建物を完全に揃った形で残しているのが大きな特徴です。この城は、関ヶ原の戦いで掛川7万石から一躍、土佐22万石の太守となった山内一豊が築き始めました。しかし、完成を見るのは二代藩主忠義の頃のことです。山内氏は16代260余年続いて、廃藩置県を迎えました。 
伊予松山城

 

所在地 愛媛県松山市丸の内
城種別 平山城
築城年 1602年(慶長7)
築城者 加藤嘉明
別名 勝山城・金亀城
天守建造年 1853年(安政5)
天守建造者 松平勝善
天守閣構造 3層3階、連立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 櫓5基、門8棟、塀、石垣、堀
姫路城、和歌山城と共に三大平山城の一つとされています。現存天守は、創建時の天守が1784年(天明4)に落雷によって焼失した後、1853年(安政5)に再建されたもので、当時の城主は12代松平勝善でした。3層3階の天守は、層塔型の連立式で、大小天守と2基の隅櫓が長方形の中庭を造っています。この城は、1602年(慶長7)に加藤嘉明によって創築され、工事は25年を費やし、完成をみたのは1627年(寛永4)のことで、この時には嘉明は国替えになっていました。その後を継いだ、蒲生氏も無嗣断絶となり、松平(久松)氏が城主となってからは廃藩置県まで続きました。現在は、天守の他、櫓5基、門8棟、塀、石垣、堀などが現存し、加えて1966年(昭和41)よ始められた復元工事によって、本丸の小天守、隅櫓2基が木造で復元されて、連立式天守の偉容を回復しました。また、二の丸の復元整備も進められ、櫓や門、塀が復元され、二之丸史跡庭園や大井戸も見学できるようになりました。 
宇和島城

 

所在地 愛媛県宇和島市丸の内
城種別 平山城
築城年 慶長年間
築城者 藤堂高虎
別名 鶴島城
天守建造年 1665年(寛文5)
天守建造者 伊達宗利
天守閣構造 3層3階、独立式
文化財指定 国指定重要文化財
他の遺構 門、城塁、石垣
国内で最も西に位置する現存天守で、藤堂高虎創建の天守を、1665年(寛文5)伊達宗利の時代に再築したものです。3層3階の天守は、層塔型の独立式で、南面・北面に2つ、西面に一つの千鳥破風を配し、優美な入母屋造り白壁塗です。この城の歴史は古く、941年(天慶4)藤原純友の乱に、橘遠保が築城した丸串城にまでさかのぼるとされています。しかし、近世城郭として整備されたのは、豊臣秀吉によって封ぜられた藤堂高虎が南予七万石の領主になってからのことです。1596年(慶長元)から大規模な築城工事が開始され、高虎は丸串の名を宇和島と改めました。その後、富田氏へと城主は代わり、江戸時代になってからは伊達氏の居城となり廃藩置県まで続きました。現在は、天守の他に上立門、城塁、石垣が残されています。 
 
弘前城 (高岡城)

 

弘前城1
東日本唯一の現存天守は青森県弘前市にあります。弘前駅からは距離があるので、交通機関を利用して弘前城まで向かいます。自動車ならば、弘前公園周辺の駐車場に止めることになります。ただ、GWの桜の時期は混雑するので注意が必要です。それでも、一見の価値はあるとは思います。
弘前城は三重の堀がめぐらされており、ほぼ全ての曲輪が残ります。天守はもちろん現存ですが、他にも櫓3棟、門6棟が現存です。特に、弘前の城門は、門の前面に高麗門などを設けていないことや屋根を高く配して全体を簡素な素木造りとしています。つまり、弘前の城門が全国でも古式な部類とされるものです。
本丸には石垣が多用されています。下乗橋から見る石垣の上の天守は、よく写真で見かけます。その他の曲輪は土塁と水堀で囲まれています。現在の天守は3層ですが、以前は5層の天守が建てられていました。それは、東北でも数少ない大規模な天守でしたが、落雷で焼失しました。再建された天守は、一回り小さい現存天守です。
天守内部は、現存の重厚感があります。後に造られた天守では、窓が史実よりも大きいことがあるのですが、ここではあまり外を見渡せません。狭間から覗く程度のことしか出来ず、城は実践設備であることを実感します。天守以外にも、城内を歩いてみれば、その貫禄が伝わってきます。
当時、津軽は南部領だったが、群小の土豪が群雄割拠していた。この時、大浦為信(後の津軽為信)は、南部氏の内輪もめを好機として、小田原征伐中の豊臣秀吉に参陣して、津軽地方の本領安堵の朱印状を押してもらった。この時に、津軽に改姓する。南部氏は、この3日遅れで到着したのだった。
文禄3年(1594)、為信は堀越城に移り、城を拡張して津軽経営に乗り出そうとした。だが、堀越城は軍事上に不便であったので、高岡・鷹ヶ岡と呼ばれていた土地に築城することにした。慶長8年(1603)には、築城が開始されたが、翌年に京都で客死してしまう。工事は一時中断となった。
後を継いだ三男・信牧は、慶長14年(1609)に築城を再開、幕府の許可を受けてから1年1ヶ月という短時間で完成させた。4万7千石には、身に余るほどの威容を誇る城となっている。この時に築かれた5層天守は、寛永4年(1627)に落雷で焼失している。長らく弘前には天守が建てられなかったが、文化7年(1810)に建てられたのが、現在の3層天守である。幕府が5層天守の建造を許可しなかったため、本丸辰巳櫓を改造して現在の姿になったと考えられている。
津軽氏は12代に渡って津軽を領した。9代・寧親の時の表高は10万石であるが、実収入は検地で30万石、収入全体では100万石近かったという話もある。これは津軽氏の開墾の成果だった。
弘前城は明治維新を迎え、津軽氏の藩政も終わりを告げる。明治28年(1895)、市民に開放されて以来、桜の名所として親しまれている。 
弘前城2
季節によりその表情を変える。とても魅力的である。
弘前初代藩主:津軽為信により慶長8年(1604)高岡(現在の弘前)に計画され町割、地割が始まり、為信没後3年慶長15年(1610)二代目藩主信牧により着手。翌年の慶長16年(1611)わずか1年3ヶ月で完成する。雪の多いこの青森でわずか1年3ヶ月での築城には疑問があるとされる。
この弘前城は廃藩置県に至るまで260年もの間、津軽氏代々の殿様の居城でした。
本丸は海抜50m、高岡城(鷹岡)と呼ばれていた。
岩木山を前に、岩木川の流域や平野を見下ろす台地の上にあり、津軽平野一帯を支配するのに適当な位置にある。三重の堀(本丸、二の丸、三の丸)をめぐらし、六つの郭(くるわ)、天守閣、三つの隅櫓(やぐら)、五つの城門が今も残されており、いずれも重要文化財です。面積は約490000m2、城のつくりは”平山城”とよばれる。
本来は、六つの郭(本丸〜四の丸、北、西の郭)、櫓は八つ、城門は十二からなる大掛かりな城であった。現在残されている隅櫓は、植物園から見える「辰巳櫓」、南内門からも見える「申未櫓」、二の丸方面に見える「丑寅櫓」の三つ。城門は南内門、追手門、東内門、四の丸北門、東門の五つ。
城門は周辺を土塁で築き、門の前面に特別の門を設けていないことや、一層目の屋根が高く全体を簡素で素木造りであることから、全国の城門の中でも古形式の櫓門でもある。
現在の天守閣は九代目:信寧(のぶやす)により消失後の文化7年(18010)、本丸東南隅櫓を改築し三層の天守が築かれ今に至る。
天守閣は当初、本丸の西南隅に五層であったが、城完成後16年目の寛永4年(1627)9月10日激しい雨と共に雷鳴がとどろき、天守の屋根の鯱に落雷。五層目が燃え、四層目に移り、釣っていた鐘に引火しこれが三層目の弾薬庫に落下その瞬間爆発がおき雨の夜空に火柱が立ち上がり焼け落ちたのだ。模様は信牧が「御日記」に書き記している。
天守閣が残る城、築城形態の全貌を遺す城跡として今日まで保存されているのは全国でも類例が少ない。 
弘前城3
桜の名所として人々に親しまれ、国の史跡に指定されている、弘前城は東を奥羽山地、西を岩木山、南を白神山地に囲まれる。弘前盆地内の台地高岡を利用し、弘前藩の2代藩主の津軽信牧(信枚)によって築かれた。
弘前藩祖・津軽(大浦)為信は、南部氏の支配下から脱出して独立し、大浦城、次いで、堀越城を本拠に、戦国大名としての地位を確立した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで為信は東軍に属し、美濃大垣城攻めに参加しており、徳川家康から4万5千石を安堵され、まもなく2千石を加封された。
弘前藩の基礎を固めていく為信は、堀越城が小規模で守備にも不安があったため、慶長8年から高岡に新たな居城を築き始めた。
高岡は東に土淵川、西に岩木皮、駒越川が流れる天然の要地で、この地を選んだのは為信の軍師で北条流軍学に長じた沼田面松斎だと伝わる。
だが、新城と城下町の築造が進展しないまま、為信は同12年に京都で没した。
為信の遺封を継いだ三男の信牧は、慶長15年から東海吉兵衛を補佐役、宮館文左衛門を惣奉行に任命し、本格的な築城を開始した。
領内から人夫を多数動員し、江戸の大工を招き、石垣用に岩手山麓や付近の山々を切り崩し、大光寺、浅瀬石など旧城の用材を利用して工事を急ぎ、翌16年5月、信牧は五層の天守がそびえる新城に移った。
弘前城は本丸・二の丸・三の丸・北の櫓・西の櫓・内北の櫓・西外櫓(のち城外となる)から成り、天守閣のほか櫓8、城門12が建ち、三重の堀をめぐらし、東西約615m、南北約950m、面積約0.58kuの規模であった。
重臣たちの屋敷を二の丸・三の丸・北の櫓に置き、郭外に侍町・町人町・足軽町を区画した。
その後の城郭と城下町の整備によって、城の南から東にかけて「南塘」と呼ばれる大池が作られた。
この溜池では、人馬の水練が行われた。
さらに城南の茂森山を崩して堀を掘り、土塁・虎口・桝形を設け、長勝寺を中心に禅宗寺院30余を配した。
また、北方に神明宮と八幡宮、東に浄土宗・浄土真宗などの寺町と東照宮・薬王院を配置し、城下の防備を堅固にしている。
寛永4年(1627)9月、落雷にあって五層の天守閣が炎上、焼失した。
天守閣の鯱に雷が落ち、三層目が焼け、そこに吊るしてあった時の鐘が二層目に貯蔵されていた火薬の上に落下し、大爆発を起こしたという。
その後、凶作や地震、江戸の大火、蝦夷地(北海道)警備などで藩庫の出費が重なり、天守閣の再建はかえりみられなかった。
江戸後期、9代藩主寧親治世下の文化2年(1805)に蝦夷地警衛の労を称されて7万石、同5年には10万石に高直しされると、体面を保つために同6年末から平井則知・吉村昌承を作事奉行に再建工事が始まり、7年10月に三層の新天守閣が完成した。
再び城郭の形態は整えられたが、この工事は藩財政を一層悪化させ、百姓一揆を誘発する一因になった。
藩祖為信の独立をめぐって、南部氏との確執は後代まで続いた。
そして文政4年(1821)、寧親は江戸より弘前に帰る途中、急に予定路を変更した。
これは、盛岡南部藩の浪人相馬大作(下斗米将真)らが、両藩境の檜山付近で寧親の行列を襲撃しようとしたのが事前に探知されたからであり、これを世に相馬大作事件、檜山騒動といい、大作はのちに江戸で捕らえられ、処刑された。
慶応4年(=明治元年,1868)、12代藩主津軽承昭は奥羽越列藩同盟をいちはやく脱退し、新政府軍に加わった。
この恭順が認められ、明治維新・廃藩置県後も本丸御殿や武芸所などを除いて取り壊しを免れ、現在まで旧状をほぼとどめ、天守閣・丑寅櫓・辰巳櫓・南門など9棟が、国の重要文化財に指定されている。 
弘前城4
弘前城(ひろさきじょう)は青森県弘前市にあった城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し、また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁がおかれた。
概要
江戸時代には弘前藩津軽氏47,000石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612m、南北947m、総面積385,200平方mに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、1棟の天守、3棟の櫓、5棟の櫓門が現存する。天守は日本に12箇所残されている現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つであり、国の重要文化財に指定されている。司馬遼太郎は『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
歴史
天正18年(1590) 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原攻めにあった豊臣秀吉より南部氏に先駆けて45,000石の所領安堵の朱印状を受ける。大浦を津軽と改姓。
文禄3年(1594) 為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定。
慶長5年(1600) 為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2,000石の加増を受け47,000石の弘前藩が成立。
慶長8年(1603) 為信、鷹岡に築城を開始。
慶長9年(1604) 為信、京都にて客死し、築城は中断する。
慶長14年(1609) 2代信枚(信牧)、築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行う。
慶長16年(1611) 僅か1年1か月で弘前城落成。
寛永4年(1627) 落雷により5層5階の天守を焼失。以後、200年近く天守のない時代が続いた。
文化7年(1810) 9代藩主津軽寧親、3層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(天守)が建てられた。
明治4年(1871) 東北鎮台の分営が置かれた。
明治6年(1873) 東北鎮台の分営を廃止。廃城令発布により廃城処分とされ、この後、本丸御殿や武芸所等が取り壊される。
明治27年(1894) 旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として一般開放するため、城地の貸与を願い出て許可される。
明治28年(1895) 弘前公園として市民に一般開放される。
明治31年(1898) 三の丸が陸軍兵器支廠(のち第8師団兵器部)用地となる。
明治36年(1903) これ以降桜が植えられ、桜の名所となる。
明治39年(1906) 北の郭の子の櫓と西の郭の未申櫓の櫓2棟が焼失。
明治41年(1908) 皇太子(後の大正天皇)が、公園を「鷹揚園」と命名する。
明治42年(1909) 1906年の藩祖為信公三百年祭の記念事業として、高さ約4mの津軽為信の銅像が本丸に建立された。
昭和12年(1937) 現存建造物群8棟(三の丸東門除く)が国宝保存法に基づく旧・国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
昭和19年(1944) 第二次世界大戦における金属供出により前述の銅像が撤去された。
昭和25年(1950) 文化財保護法の制定により、現存建造物群(三の丸東門除く)は重要文化財となる。
昭和27年(1952) 国の史跡に指定される(禅林街の長勝寺構と最勝院を含む新寺構もあわせて指定)。
昭和28年(1953) 三の丸東門が国の重要文化財に指定され、現存建造物の全て(9棟)が国の重要文化財となる。
昭和56年(1981) 公園管理人宿舎・作業員詰所となっていた二の丸東門与力番所が、 昭和54年(1979)より文化庁の協力の下、現在地に移築復元される。
昭和60年(1985) 国の史跡に堀越城跡が追加指定されるのに伴い、史跡名称が「津軽氏城跡」(弘前城跡)に変更される。
平成11年-12年度(1999-2000)の発掘で、北の郭の館神(たてがみ)跡から本殿跡や鳥居礎石が発見される。
平成14年(2002) 国の史跡「津軽氏城跡」には弘前城跡、堀越城跡に加え、種里城跡も追加され、総指定面積は約105万4千平方mとなった。
弘前藩

 

弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩である。津軽藩(つがるはん)ともよばれるが、あくまでも通称である。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。
津軽氏は、元は大浦氏を称した。大浦氏は大光寺氏などと同様に南部氏の支族であったが、戦国時代末、初代藩主となる為信が南部氏内部に起こった争いを機に周辺の豪族を滅ぼして勢力を広げた。為信は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めた。
弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市尾島地区など)2000石の計4万7000石。元禄2年(1689)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1000石を召し上げられて4万6000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)を取得した。その後、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった盛岡藩主南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から南部藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。
明治元年(1868)の戊辰戦争では、新政府に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。 
歴代藩主
津軽家(弘前津軽家)
外様 47,000石→46,000石→70,000石→100,000石
初代 - 為信(ためのぶ)〔従五位下、右京大夫〕( -1607)
2代 - 信枚(又は「信牧」 のぶひら)〔従五位下、越中守〕(1607-1631)
3代 - 信義(のぶよし)〔従五位下、土佐守〕(1631-1655)
4代 - 信政(のぶまさ)〔従五位下、越中守〕(1656-1679)
5代 - 信寿(のぶひさ)〔従五位下、土佐守〕(1679-1731)1千石収公により46,000石
6代 - 信著(のぶあき)〔従五位下、出羽守〕(1731-1744)
7代 - 信寧(のぶやす)〔従五位下、越中守〕(1744-1784)
8代 - 信明(のぶはる、のぶあきら)〔従五位下、土佐守〕(1784-1791)
9代 - 寧親(やすちか)〔従五位下、土佐守〕(1791-1820)蝦夷警護により70,000石→高直しにより100,000石
10代 - 信順(のぶゆき)〔従四位下、出羽守・侍従〕(1820-1839)
11代 - 順承(ゆきつぐ)〔従四位下、左近将監〕(1839-1859)
12代 - 承昭(つぐあきら)〔従四位下、土佐守・左近衛権少将・侍従 藩知事 贈・従一位〕(1859-1869)  
支藩 / 黒石藩
弘前藩の支藩に、陸奥国津軽郡黒石(現:青森県黒石市)に置かれた黒石藩(くろいしはん)がある。黒石藩は本家4代藩主信政が藩主就任時幼少だったため、幕府の指示により叔父の信英(3代藩主・信義の弟)を本藩の後見人とすべく、明暦2年(1656)信政が本藩を継ぐと同時に弘前藩より5,000石を分知されたのに始まる。旗本黒石八代目となる親足の代に至り、文化6年(1809)弘前本藩より更に6,000石の分与があり、1万石の外様大名として柳間に列した。居城は黒石陣屋(黒石城)。信英は分知の際、賀田・猿賀・青森を希望したが叶えられず、津軽家の為信時代の拠点の一つ、黒石に配されたと伝わる。5000石の内訳は、黒石周辺2000石、平内周辺(現青森県東津軽郡平内町)1000石、弘前藩の飛び領地上野国大舘(現群馬県太田市尾島地区など)一帯2000石。また、歴代当主(政兕以降)は、本家である弘前藩主(上記)からの偏諱を受けている。 
お家騒動  

 

津軽騒動
慶長12年(1607)初代藩主為信の死後、為信の三男信枚と長男信建の遺児・熊千代が藩主相続を争った騒動。
熊千代を擁立したのは信建側近で信建・信枚の妹婿である津軽建広(旧姓大河内氏)で、彼は幕府に対し熊千代の藩主相続を訴え本多正信に訴状を提出した。訴状は正信に受け入れられ熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。
結局直次の主張が容れられ、慶長14年(1609)に幕府から信枚の藩主相続を認められた。それを受け、信枚は熊千代派の粛清を行い、金信則は自刃、津軽建広らは大光寺城に立て籠もったが、高坂蔵人の活躍によって落城した。また、村市館では、熊千代の母方の祖父一戸兵庫之助が、松野大学信安と激闘を繰り広げた。
後、熊千代は肥後の加藤氏に仕えたが病弱のため辞し、信枚から合力金を受けて江戸に住し若くして死去したと言われている。津軽建広は津軽追放を命じられ、江戸城に医師として仕えた。追放後も津軽姓を名乗り続け、『寛政重修諸家譜』にも弘前津軽氏、黒石津軽氏とともに記載されている。
高坂蔵人の乱
慶長17年(1612)に2代藩主津軽信枚と津軽騒動で信枚側につき活躍した、重臣高坂蔵人が1人の児小姓を奪い合った騒動。
騒動の発端は慶長17年2月27日津軽信枚のお気に入りの児小姓八木橋専太郎を高坂蔵人が久里九兵衛の屋敷に招き、幾度もの命令にも関わらず八木橋専太郎を帰さなかったため、八木橋専太郎を弘前城に呼びつけ殺した。そして、3月3日久里九兵衛の屋敷を攻め立て、久里九兵衛は寺に逃げ込み切腹して果てた。さらに、高坂蔵人の南部藩への脱藩計画も発覚、その翌日弘前城に挨拶に来た高坂蔵人を竹森六之助、東海吉兵衛、服部孫助、兼平源助が殺した。その知らせを聞き、屋敷を取り囲まれた高坂蔵人の家来たちは、屋敷に火をつけ、下町馬屋町の戸田茂兵衛の屋敷へ逃げ込み、鉄砲を弘前城に撃ち込んだため、またも屋敷を取り囲まれ、激しい斬りあいの末一人残らず討ち取られた。高坂蔵人の母・同士、連判の士80名余りの家族・親類・縁者が斬罪になり、逃亡する家臣も多数出たため、弘前藩の家臣数が半分にまで減ったといわれている。
船橋騒動
寛永11年(1634)、3代藩主信義の時に起こったお家騒動。
背景 / 2代藩主信枚の側室・辰姫は藩の飛び領地上野国大舘で暮らしており、3代藩主となる信義も大舘で産まれ育った。その時乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻である。
元和9年(1623)に辰姫が死去したため信義は江戸弘前藩邸に引き取られ、信枚の死後寛永8年(1631)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって対立は決定的となった。
騒動と幕府による裁定 / 寛永11年(1634)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入し藩主信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。
裁定が下ったのは2年後の寛永13年(1636)、信義は若年であり態度も神妙であることから咎めはなく、喧嘩両成敗として譜代派中心人物は長門の毛利家、船橋半左衛門親子らは伊予の松平家にお預けとなった。
正保の騒動
正保4年(1647)、3代藩主信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟で幕府旗本の信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企てがあった。計画段階で信義へ密告があり大きな騒動となる前に防がれている。(この密告者が信英の弟・津軽百助信隆だとされている。)異母弟や妹婿も処罰したが、信英については関与が明らかでないことやすでに旗本の身分であったことなど信義自身が信英に好意的であったことからなにも咎められなかった。
企ての背景には複数の要因があり、そのうち主なものは以下のとおり。
信義は藩政に功績がある反面酒乱であったといわれ女性関係にも問題があった。それら不行跡が幕府の目に留まり藩が処罰されることを恐れた。
信英は幕府に小姓として召し出されてから旗本へと出世し文武ともに優秀であった。
船橋騒動(前述)後から信義は積極的に藩政を指示し藩主権力の強化に努め、それに既得権益を失いたくない一派が反発した。
信義は長男だが母は側室の辰姫であり石田三成の孫にあたる。それに対し信英は次男ではあるが母は正室の満天姫であり徳川家康の義理の孫である。そのため幕府の感情への配慮、また幕府に阿るため、先代信枚の頃から信英を擁立したい一派が存在していた。
津軽兵庫信章越境事件
元禄2年 (1689)、 4代藩主津軽信政の異母弟である津軽兵庫信章は、一族を引き連れて久保田藩との藩境にある石の塔を通り、無断で久保田藩へ越境した。連絡を受けた津軽家や幕府の指示で津軽兵庫と一族は久保田藩から弘前藩へと呼び戻され、家族は別れ別れにされて生涯蟄居の身となった。一族は経済的にも苦しく悲惨な最期を遂げた。
越境の理由にはいくつかの説があるが、信政との不和や山鹿系家臣を優遇する信政の偏った人事に対する不満から、弘前を出て久保田藩か紀州藩に仕えようとしたともといわれる。  
津軽家文書解題
伝来
本集に収録した津軽家文書は、今次大戦の戦禍を遁れて、東京都新宿区下落合の津軽邸に保管されていたもので、昭和二十三年に原蔵者津軽義孝氏から、直接当館に引継がれた総点数約三、五〇〇点に及ぶ文書・記録類である。
系譜
津軽藩は、陸奥国高岡(弘前)を居城として、表高四万六千石、(後七万石を経て十万石となる)を領知した大名である。津軽為信を初代とするこの津軽藩は、その藩祖に多くの異論がある。例えば、津軽氏をもって南部の一門とし、初代を金沢右京亮とする説と、「金沢氏は津・軽の後監たりし人、故に津軽の系譜に加うべきでない」という外崎覚氏の説等がそれであるが、幕府に提出された系図及び年譜等で、歴代藩主の略系譜を示せば、次の如くである。  
津軽氏略系図(弘化三年「系図」による)
 初代  二代  三代  四代  五代
 為信  信枚  信義  信政  信寿 信興
初代 為信 幼名翁津軽右京大夫従四位下
戦国大名のうち戦略家としても名高かった為信は、関白太政大臣近衛尚通の庶子(一説には堀越城主武田紀伊守守信の)として天文一九年(蓋吾)に生まれた。永禄一〇年家督相続(実は大浦城主武田為則の娘阿保良姫聾養子との説あり)をした後、石川城攻撃からわずか一七年で津軽統一事業をなしとげ、この時から津軽氏を称するようになったという。文禄三年(蓋茜)豊臣秀吉より津軽三郡と合浦一円の四万五千石を安堵され、さらに慶長六年に徳川家康より関ケ原役の戦功として、上野国勢多郡に弐干石を加増されて都合四万七干石を領知するに至った。慶長一二年(宍〇七)京都にて残。享年五八。謡瑞祥院。室の由緒は不詳である。一説に武田為則二女戌姫(阿保良姫力)・栄源院。(慶長一三年卒)。
二代 信牧(信枚ともかく) 幼名平蔵従五位下越中守
天正一四年(蓋益ハ)、為信三男として生まれ、父為信の残後、遺命により慶長↓二年(宍。七)襲封。同二二年入部し、慶長一六年(蓋一)には、その居城も堀越から高岡城(弘前)に移った。以後寛永八年(宍…)正月江戸で卒するまでの二四年間創業期の藩政をあずかった。享年四六。譲 津梁院。室は徳川家康の養女満天姫(下総関宿城主松平因幡守康元の第三女)。葉縦院(寛永一五年卒)。
三代 信義 幼名平蔵従五位下土佐守
信牧嫡男として元和五年(宍冗)正月弘前に生まれ、寛永八年遺領を継ぎ、同一〇年一〇月入国。寛永一一年土佐守に任じ、明暦元年(芙蓋) 一一月、三七歳をもって江戸において卒。自撰歌集「愚詠和歌集」の名をもって知られる如く、中院通茂の門人で歌道を奨励する一方、画もよくしたと伝えられる文人でもあった。誰 桂光院。室は松平図書康久女。慶林院(貞享三年卒)。
四代 信政 幼名平蔵従五位下越中守
正保三年(一六輿)七月生。明暦二年遺領を継ぎ、万治元年閏二一月越中守に任ず。その治世五四年問に文武の振興.新田開発.林政等に功績あり。とくに儒学・神道の造詣において当代大名中特筆すべき人物であること遮周知のところである。寛文元年に入部の日より始まる御日記によって、時の治政全般を知りうる。山鹿素行の「中朝事実」 「聖教要録」等の諸本は、この時期に弘前で出版されたものである。
宝永七年(至○)卒。享年六五。』誰 妙心院。死後高照神社に杞り、後に藩祖為信を合祀していることは、彼が第二の藩祖といわれるゆえんであろう。室は増山弾正少弼正利女。涼松院(寛文一三年卒)。
五代 信寿 初め信重幼名平蔵出羽守後土佐守竹翁また栄翁
寛文九年(菱)五星・貞享元隻一戸出翌惹≡年土佐守に隻、宝永七年四四歳毒艇、正徳二窪初入国した.享保九年には名乗を信寿と改め、同一六年五月に隠居、同年七月剃髪して竹翁と称し、元文二年六月には、また栄翁と改名している。延山。子三年に七八歳で病残した。歴代藩主の中でもとくに文武に秀れ、絵入俳書「独楽従然草」の編集、藩の正史「津軽一統志」の編纂(山。子保一六年)などで知られ・武芸でも一刀流を学んで免許皆伝をうけている・誰玄圭院。.室は松平宮内少輔忠尚女曾渡姫。法雲院(享保一四年卒)。
信興 幼名磐麻呂従五位下右京亮越中守
元禄八年(宍登)七月生。宝永七年一二月越中守となる。享保一六年(一七…と月三六歳で早世し、受封するに至らなかった。誰瑞厳院。室は太政大臣近衛家熈の猶子綱姫(実は醍醐大納言冬基女)。梅応院(山。子保,一四年卒)。
六代 信著 従五位下幼名勝千代出羽守
由、子保四年(葦二星。父藩ハ阜世に吉、山。子保芙年吾祖父信寿の隠居と同鷺西歳で家督相続した。同年三月出羽守窪 じ、墾。子元年五月弘前大火の直健入部し奈、その一謂後に二六馨病死した.譲顕休院.室は有馬玄蕃頭則維の妻美知姫・懲院(宝暦四年卒)。
七代 信寧 従五位下幼名岩松 土佐守右京亮 出羽守越中守
一斐四年(ヨ、充)生.塵。子元年澱護這蓼攣宝暦三年二一呈佐守径じ、同奉五暑入国・宝暦七年砦棄同八年出翌さら髪杢年越中守と馨.在晴乳井貢による宝暦改蒙行われを明和三年の奄震翫馨の災害霜次ぎ多讐治世であった。天明四年(麦四)江戸で卒。享年四六歳。謹 戒光院。室は松平大和守明矩女翼姫Q真寿院(文化六年卒)。
八代、信明 幼名熊五郎後に松五郎従五位下出羽守土佐守
宝暦δ年(薯)育量前で出生.案六年従五位下出羽守となり、天明元年に土佐守に任じ、天明四隻月襲封・同八月入国した。実学と武芸とを奨励し、大いに風俗の矯正、綱紀の粛正を図った。寛政三年(一茎)七月江戸にて卒す。享年三二・誰 体孝院・室は松平大和守朝矩女喜佐姫。瑠池院(天保八年卒)。
九代 寧親 幼名和三郎従五位下出男守従四位下越中守侍従右京大夫
明聖年(萎)分知黒石藩の六代藩主津軽左近蓋.茜男として出生し、案七年家篇続の後、本薙軽信明の査養子として寛政三年襲封。同年出羽守に任じ、同四年入部、同八年越中守となる。文化二年五月には表高四万六干石(四万七千石の内千石上ケ地となる)が・幾塁、、、備の功として七万石に加増され、さらに同年五年三是策西蝦鑑再警固のた姓、一〇万石に高直し嚢・従四位歪鰹’られた。文政三年には蝦夷地鎮定の功により侍従に任ぜられた。施政の面では藩校稽古館の創設と寛政律の完成、備荒や藩士在村による新開奨励などに特筆すべきものが多い。文政八年四月隠居し、右京大夫となり、天保四年五月桃翁と号した。同六月剃髪し、数目にして七三歳で卒。誰 上仙院。室は杉浦丹波守正勝女伊祢姫。薫心院(天保一二年卒)。
一〇代 儲熈 幼名雅之助 従五位下 大隅守 従四位下 越中守 侍従 出羽守
寧親第享と髪寛政三年(垂)星まれる.文化二年大隅守窪じ、文政七年従四位下に叙せられ、同八年家督相続。同年五月初 入国し、越中守に改める。文政一〇年将軍家斉の位階昇進祝賀の際、猿輿を用いたため、同年四月逼塞を命ぜられたが、問もなく(三ヶ月後)御免となる・天保五年一二月侍征に任じ、同一〇年三月隠居して如海と号レ、弘化二年出羽守に改む。文久二年(至e一〇月卒。享年六三。譲寛廣院。室は田安中納言斉匡女金姫(始め欽姫)。仙櫻院(嘉永四年卒)。
一一代 鷹藤 新之助後順徳左近将監 従五位下 大隅守従四位下越中守 侍従和泉守
松平伊豆守信明(三河国吉田藩主)第三子として寛政一二年(天OO)に生まれ、文政四年支封津軽甲斐守親足養子となって、同七年初御目見、同八年甲斐守親足の家督を相続し、左近将監に任ぜられた。次いで天保一〇年本藩一〇代椿主信順養子となり襲封す。天保二二年に順承大學と略、同年入部した.弘化元年従四位歪鰹盈、塵年越中守嘉永三年侍従窪じ、安政六年隠居莚元窪和泉守となる。慶応元年(天査)二月卒。享年六六。誰 政徳院。室は有馬兵庫頭氏貞妹泉姫。彰信院(嘉永元年卒)。
承祐 幼名武之助大隅守
家門津軽直記順朝嫡男として、天保九年(杢八)二月に生まれる。同一四年本藩二代藩主順承の仮養子となり、弘化三年には正式に智養子となる。嘉永六年二月初めて御目見、同年一一月大隅守に任じ、安政元年従四位下に叙せられたが、安政二年(天蓋)七月家督相続せずして一八歳で早世。謹 有孝院。
一二代 承昭 幼名寛五郎初め護明 後承烈従五位下従四位下土佐守越中守侍従左近衛権少将 弘前藩知事
天保一一年(甚○)細川越中守斉護(肥後熊本藩主)四男として生まれ、安政四年六月二代順承女常姫の智養子となり・承烈と改名した。同年一二月土佐守、翌五年従四位下に叙せられ、安政六年二月家督を相続した。同時に越中守に任じ、承昭と名乗る・同年二一月侍従・元治元年左近衛権少将となる。明治元庫には奥羽鎮撫の功により高一万石永世下賜され、,同年一二月に奥州触頭となる・同三年に初代弘前藩知事に任ぜられた。明治一七年に伯爵となり、正二位を授けられ、勲二等に叙せられた。大正五年(充宍)七月卒。享年七七・詮 寛徳院。室は順承女常姫(始め玉姫)。明光院(文久元年卒)。  
文書の概要
本史料目録に収めた津軽家文書は、現存する津軽藩関係史料の約三分の一と目されていを文書・記録類である。
もともと津軽藩史料の多くは、寛永四年(一杢七)八月の落雷による天守閣炎上と、宝暦年中に乳井貢によって行われた旧記類の焚書で焼失しているのであるが、たまたま当館の参考図書として架蔵している「寛政三年ラ丸御宝蔵御書物轟道具目録」によぞ照合すると・、絵図の一部を除く大部分が、当館に引き継がれていることが判明した。つまり、二度の焼失を免かれて国元のコあ丸御宝蔵」に納められ.ていたものが、いつの時代にか江戸の藩邸に運ばれ今目に至ったものと考えられるのである。かくしてコあ丸御宝蔵」文書を含む当館に移管された津軽家文書は、麺い藩贅料の蔀であぞ、こ走樂支配に関するものは難である・その森分の藩贅凝采地である弘前の市立図書館榛存されている.中でも弘前市立図書館所勢四代肇信勢入国の旦寛文元年)吉初薯.「御国日記」及び「江戸日記」合わせて約四、五〇〇冊姦め、御用格・御用留凄記秘鑑・年代記簾その中繁なすあで』あ両蓼合わせて始めて、一藩の大名文書ということができをであろう。同図書館所蔵史料は、「弘前図書館郷土資料目録」(既刊四冊、昭和三五年〜三九年)で概要が判明するので、これを参照していただきたい。
そこで本目録に収載された文書・記録類は、古くは永享・宝徳の「口宣案」及び天正・慶長期の「御内書」が数点含まれているほかは、年代的には寛永以降明治に至る、主として徳川中期以後の史料がその大宗をなしている。内容的には系譜・由緒書及び藩史等が比較的整備されているほか、蝦夷地警衛A新田開発、江戸藩邸に関する絵図類などが大部分を占めている。また藩主自ら学んだ山鹿流・山本勘介流を中心とする兵法に関する兵書・武術書類及び儒学の書籍なども多い。また対南部関係を示すいわゆる相馬大作一件や戊辰戦争関係文書は、当時の藩情を知る好箇の史料であろう。
以下これらについて項目順に概述する。  
文書の分類
領知関係史料
寛文四年四代家綱を初めとする領知朱印状・判物の原本と、それらの写、及び領知目録が、原本・写共に完備している。この領知状は、元来版籍奉還の際に領知確認の証として明治政府に提出したはずのものであるが、いかなる理由で、下附された本証が、しかも歴代のものすべてが津軽家に残ったものかは判明しない。なお領知状が一二代家斉までは朱印状、家慶以後は判物の形式を採っているのは、文化五年一〇万高直しによる津軽家の家格昇進によったものであろう。
「御朱印改」として掲げた項は、分知された津軽伊織家が元禄三年断絶し、上知した以後の領知状の記載が「津軽郡一円」とされていないのに対して種々訴願を提出した関係のものである。
また領知状下附の際、藩が提出する郷村育同辻帳もここに分類した。ちなみに貞享元年の郷村帳をみると、表高は四万七干石(陸奥国津軽郡一円四万五千石上野国勢多郡の内弐千石ー合二ニケ四村)に対し、新田高が津軽郡に約一〇万九、八五〇石、上野国に四八O石で合約二万石となり、裏高は一五万七千石までに増加していることがわかる。
次に「所替一件」として収めた史料は、元和五年七月、福島左衛門太夫政則が、領国安芸靴周防を改易とたり、弘前に配流し・代わりに・津軽氏が一〇万石の格をもって信濃国川中嶋(最初は越後)に国替されようとした一件に関するもので、この時藩主信枚は、はじめ幕命をうけて、家臣に転封に当.ての諸指令を出している.しかしその直後に信枚は、津軽の領地が表高こ茜万華石であるが、実高建かに」○万石を超えていること、それに祖先の土地を離れることの不都合等を理由に、不本意を表明し、急遽、重臣服部長門・白取瀬兵衛等を江戸へ出立させ、遂に転封は中止になっている。その経緯は「信枚公御代目記」 〔二九〕(交書番・万、以下同断)等に詳記されている・なお文化五年一二贔夷地再永警固のた竺○万逗加増された時の関係史料も「高直」として・とも雰類し亀.その他、文化δ年暴奉行吉提出した「御郡中村桑臼上帳」及び元禄国絵図調製の際の道程絵図・禽図唐擦る弘前城下図奮宜上この項に編入してある。
藩侯関係史料
ここでは津軽家の系譜類と、歴代藩主及びその宗。親族の公私にわたる生活に関係ある史料を載せたが、とくに勤役の関係史料は、別項目を立てた。
「系譜」では、藩祖系譜が多く、歴代系譜としては、寛政年間ヱ幕府への家譜差出の際の作成に係るもの及びそれ以後のものが多い。とくに系図改については、津軽家と近衛家との関係を示董料奎軸窪し、こ走「築天年御系胤改詣近衛龍山様吉賜嘗し御状写」〔三〇八O〕には「政信は近衛尚通公猶子たるに問違ひなし」と記して、その関係を説明している。
明治に入ってからは、国史編集のために、修史館より系図提出を命ぜられた時の書類も比較的よく揃「ってヤる。
「家督」では分家の相続も含め、また参勤の際に提出した仮養子願を重出した。詳細は「参勤」の項を参看されたい。
「官位」の項には・慶長五年初代為信が右京大夫に任ぜられた口宣案を初め、歴代藩主の口宣案・位記・宣旨と、官位昇進の際の譜手続並びに官物且録を配列した。、なお本文書中最も古い「永享六年源家光任右京亮口宣案」と「宝徳三年源家信任右京亮口宣案」とを藩祖にかかわるものとしてこの項の冒頭に掲げた。
「吉凶・仏事」の項のうち祝儀関係は、主として袖留・前髪執・婚礼等の公儀に対しての伺書などであって、その規式に関するものはき規式の項に譲った。婚姻の大部分は、田安家より入嫁した一〇代藩主信順の妻欽姫と、鎌姫に関するものである。また「疾病」の中に、藩侯のものの外、便宜上将軍の病気平癒祈願をも含めてあることを断わっておく。
「規式」では禁裏・公儀に対するものと、藩主自身のものとに区分し、 「賞罰」には、一〇代信順が文政一〇年将軍家斉の位階昇進祝賀・の際、猿輿を用いたため、逼塞を命ぜられた時の心得方並びに諸儀礼伺書を収めた。
「衡書」は、土産献上隼嚢び三季(暑中寒宇馨)の答礼状であるが、とくに秀吉案印状(四通)・判物(一通)は、九戸討伐軍令状・巣鷹商売停止令・鷹宿継送令状等、、内容的に興味深いものである。殊にそのうち一通の宛名が、津軽右京亮でなく、南部となっているのは、藩祖に関する疑問にもかかわる史料であろう。なお末尾に、鷹献上についての南部右京亮宛織田信雄の答礼状を付載した。
「御日記」の項のうち・ 「為信公御代目記」から「信寧公御代目記」までは、後年の編纂にかかるものであり、天明から文化度の在姻・在府日記は九代寧親自筆の日記で、記載記事も身辺記事から藩政一般に及び、唖史料的価値は高い。
「屋敷」欄係の史料は国元の屋敷に関するものは少なく、大方は江戸の藩邸のものである。「屋敷図」では、寛文期の屋敷図を始め、上・中.下屋敷の屋敷地と、その普請関係のものが多い。とくに文政一〇年戸越屋敷一件は「柳原中屋敷御用二付差上、代地として戸越屋敷を拝領」する過程を知り£鍾料である.なお、富田屋敷は足軽屋敷があ・た現弘前市内富田町であ葛患われるが・未だその所在罐認していない。
勤役関係史料
勤役中、津軽藩にどって最大の出動は、蝦夷地の警固である。本州の最北端に位する当藩は、寛文九年の蝦夷蜂起以来、その鎮圧及び警備の任に当り、その関係史料約三盲数十点は、本文書中でもとくにまとまっ七いる史料の一つである。
寛政九年九月幕命によって箱館塾一、口備を命ぜられ、その後寛政二年に一時免ぜられたが、文化元年八月には、再び南部藩とともに、永久東蝦夷地警備を命ぜられ、その功により翌年五月七万石に、さらに同五年には、永久西蝦夷地警備を命ぜられると同時に、一〇万石高直しとな・花この間の松前入用・勤番所御固人数・武器調・絵図釜、警鍾関するもの絵か・寛政五年の蘭焚来塑件書響含まれている。この項に収載の近藤重蔵の蝦夷図・樺太図と、秦穏丸の「蝦夷島奇観」は珍本とされているものである。
順序は前後するが、このほか「勤役」の中では、 「御手伝普請」の項に収めた安永四年の甲州川々川除御手伝普請勘定帳-(八冊)は大部のもので、使用材料の数量・価格塁る毒詳鯉記入さ発好史料である・「御預人」は・元和七年会計上朶始末か窃嬰命慧れた美濃代纂原袈盛清の孫覆套嚢と、築三年朝鮮との外交文書藍の罪髪り津軽緩説た、宗対馬守家老柳川豊前調興及び梶川左門等の、御預けより病死までの経緯に関する史料である。
法制関係史料
法制史料は、「幕法」と「藩法」及び「職制」に大別した。 「幕法」には寛永三年以降の武家諸法度を初め、供奉条目.諸士法度等があるが、中でも御仕置定書・刑法大秘を含む刑法秘書などが比較的よく揃っている。
「藩法」としては、寛文四年より延宝三年に至る御定書・江戸御定書・同御留守中御定書は、内容的にも施政の具体的な処理規定を記したものが多く、藩政研究には欠くことの出来ない基本的史料と言えよう。
「職制」に関する史料は僅少で、旧藩職制と、各部署の勤用記を収載した。
前述のように、本項関係の基本奥料の大部分は、弘前図書館所蔵文書に含まれているので、とくにこれによって補定していただきたい。
藩政関係史料
藩政の基本史料としては、みるべきものはあまり多くない。一方比較的藩史類は多く、なかでも、五代信寿の山口子保一六年に編纂された官撰史書「津軽一統志」 (一〇巻)、内藤官八郎編「弘藩明治一統誌」(一七冊)と、外崎丈人編「弘前藩記録拾遺」「弘前藩史草稿」(四四冊)等注目されるものがある。
「巡見」の項に収めた史料は、幕府巡見ではなく、藩主及び諸役人の領内巡察、あ為いは廻郷関係のもの若干にすぎ癒い。
「南部一件」は九代寧親が、国元への帰途、南部の下斗米秀之進(相馬大作〉・良助が、藩主寧親を狙撃しようと忍んでゼることが発覚し、急に大間越に道を変えて帰藩し、事なきを得た周知の事件に関するものである。秀之進は召捕られて江戸で処刑されたが、ここに収めた史料は、主として事件発生後のもので、早道(隠密)による南部探索と、大作の召捕.吟味.処刑までの津軽家の動向を示す史料である。
「戊辰戦争」関係史料は比較的豊富で、弘前藩戊辰日記、奥羽同盟、・諸藩との往復文書など興味深いものが多い。
「戸口」の項の領分人数改は、藩より大目付に報告した天保五-安政五年の控本であり、引藩校」は九代寧親の創設した稽古館に関するものである。
藩財政関係史料
貸借関係史料のほかに、あまり纒った史料はない。調達金関係の多くは、狩谷液斉で有名な津軽屋三右衛門を初め、茨木屋・鳥羽屋・鴻池等の御用商人に対する頼状で、化政期の受払諸帳簿とともに、藩財政窮乏化の過程を示す史料である。
「新田開発」。津軽藩の新田開発は、すでに藩政初頭より積極的に着手され、正保二年幕府に提出した「津軽知行高之帳」(弘前市立図書館蔵)によると、表高四万五千石に対し五万七干石余の新田高がある。さらに郷村帳〔エハ三〕 の寛文四年御改以後(享保二年迄)の新田高は、.一九万七、三〇七石となっている。本目録に収載した史料は、ほとんど文化.文政度のものであるが、これらは藩政中期以降の津軽平野開拓の一斑を明らかにするものである。すなわち、 「田畑開発大都見込調」,「開発場所大都調」を中心に、その開発方法と開発反別・さらにはその収納に至るまでの詳細を知ることができる。ちなみに文化六年郡奉行差出の「御郡在開発方調帳」によって、藩政中期の開発情況をみるど、七ケ年で約一、九八八町余、この仮高一四、六四九石余となっており、いかに新田開発が積極的に行なわれたかが窺われる。
軍事関係史料
この項では、戦法の具体的史料たる「軍役」 「備立」を含む「軍事」、および「武学」とに大別した。
「武学」でば津軽藩は四代藩主信政が、山鹿流兵法の奥秘であ惹「大星伝」・ど、小野次部右衛門に一刀流免許皆伝をゆるされたほど熱心であったことを反映し、山鹿流を始め、山本勘介流等の兵書.武術書類が多い。 「兵法雄鑑」 「武教全書」を始めとして、これらの兵書の講談を、信政自ら筆記し、覚書をしたためたものも、この項に配列した。
藩士関係史料
藩士に関するものには、特筆すべきものがない.わずかに藩主よりの知行分状卓道分限帳釜がある・亮明治編纂した鼠軽潜 記伝類」(九冊)は、公族(津軽家の一門)とその夫人、 藩士及び文学・兵学・武術・諸礼・孝義・勧農・医道・歌道・芸道の練達者の列伝で、ことに藩士の系譜を知るこあできる唯あ貴重奎料であるので・この項の「講」鏡列した。
寺社関係史料
享和三年の寺誌分膿(七冊)は、藩領内の寺社の縁起・撃建箸知至の量料雰る・その他は麿西年以降の募寺寺領宛行状妙見堂・津梁院の作事百沢寺(栞山)宛の聖など・直蓬主と関係の深い露ある寺社の史料である。
学芸関係史料
「学問」は四代藩主信政が山鹿素行の高弟として、古学・軍学を研究した結果とみられる山鹿素行の著述本を含む儒学関係の書籍が大宗をなし、吉川神道関係の史料も若干散見する。なお、「茶道」・「香道」・「歌道」ともに、この藩においては藩侯の嗜好を越えたものが多い。
遊芸関係史料
徳川時代を通じて津軽は、鷹の飼育讐ぞ名高い.本項配列のあ繧、養鷹に関する貴重螢料があ久庭熊狩貧梨北国ならではの興味深いものである。
絵図
本目録においては、絵図類肉容分類宅そ摯れの関係習編入した.例えば領内図は嶺知」に、屋激図は「糞」量敷舅新田開発はその項に区分して収録した。ここでは著名な文化の伊能忠敬のぼ本図(沿海実測図)と、それぞれの項に分類し得ないもの、及び他領の地図を纒めて記載した。
昭和四十一年三月三十一目   
津軽信牧

 

津軽信枚1
(つがるのぶひら、信牧とも書く)は、弘前藩2代藩主。津軽為信の三男。母は側室の栄源院。正室は徳川家康の養女・満天姫(松平康元の娘)。側室に高台院の養女・辰姫(石田三成の娘)。
慶長元年(1596)、兄の信建・信堅とともにキリスト教に改宗している。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの折、親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたとも言われている。石田重成(石田三成の遺児)を匿ったことが確認される津軽氏だが、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が書かれている。これが津軽信枚が家康本陣に詰めていたとされる一史料である。戦後数々の親石田・西軍方的な動きなどが不問となり、津軽一族で父・為信、兄・信建を差し置いて、ひとり信枚だけが論功叙任されていること、わずかながらも上野国中に加増2千石を受けていることなどから、前述の説が真実味を増す。
慶長12年(1607)、父・為信の死により家督を継承する。翌年、兄・信建(父・為信より先に夭逝)の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。一時津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。その後津軽建広ら熊千代派閥の粛清を行った(津軽騒動)。
慶長14年(1609)には先代より整備が始まっていた高岡城(弘前城)築城の正式許可が下りる。これを受け、5万石に満たない大名としては破格の、大天守をも持つ城郭を構築し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。「幕府は北辺警備の都合も考慮して、大城郭築城を許可した」とも言われている。
また、徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正則養子の福島正之)を妻とし、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。
実は信枚にはそれ以前に辰姫を妻としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。この辰姫は高台院の養女という身分であったが、実父は石田三成であり、幕府を憚った措置であるとも、また幕府側からは津軽家の態度を試す措置であったとも受け取れる。その後、江戸でも国許でもない前述の上野国の飛び領地に住んだ辰姫を、信枚は参勤交代のたびに訪ね、仲は睦まじかったと伝わっている。辰姫は、元和5年(1619)に信枚の長男信義を生み、数年後死亡した。信義誕生の翌年には満天姫にも男児(信英)が生まれている(ただし、信英については側室の生まれとする地元の資料があるとされ、満天姫の子ではないとする意見もある)。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣に徳川方として兵を率いて参陣したが、家康は信枚に江戸勤番を命じた。後に弘前藩が編纂した『津軽一統志』では「津軽は北狄の圧(おさえ)(略)要服の地たるにより(略)在国を憑(たの)むところなり、早速帰国に及ぶべし」と帰国を命じられたことにされている。
元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主である福島正則に津軽への転封を、津軽家には越後への転封を命じる内示を出した(福島正則は満天姫の前夫である福島正之の義父である)。一見これは栄転に見えるが、実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではない。この内示は実現寸前となり、信枚は移転費用捻出の借金策や家中の準備をさせる旨、家臣に通達している。しかし、転封は行われなかった。これは一般には、信牧や家臣団、満天姫、南光坊天海らの運動により中止となったとされている。この移転話が持ち上がった背景は諸説あるが、関ヶ原の戦いでの家中二分策に対する咎とも、いまだ豊臣家に温情的な津軽家中に対する咎とも、幕閣の派閥争いの飛び火ともされている(福島正則は最終的に信濃川中島藩に移された)。
寛永5年(1628)8月、それまで高岡と呼ばれていた城下の地を「弘前」と改めた。弘前だけではなく、陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷または江戸との交易ルートを整備した。これが現在の青森県庁所在地である青森市となる。領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。
寛永8年(1631)1月14日、江戸藩邸にて死去した。48歳。家康養女である満天姫との子、つまりは家康義孫である信英(次男)など10人近い男子に恵まれたが、跡を継いだのは辰姫の子、つまりは石田三成の孫である長男の信義であった。長男であること、そしてなにより信枚の強力な意志によって、信義跡目と定められたと伝わっている。
津軽信枚2
慶長元年(1596)、兄の信建・信堅とともにキリスト教に改宗している。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの折、親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたとも言われている。石田重成(石田三成の遺児)を匿ったことが確認される津軽氏だが、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が書かれている。これが津軽信枚が家康本陣に詰めていたとされる一史料である。戦後数々の親石田・西軍方的な動きなどが不問となり、津軽一族で父為信、兄信建を差し置いて、ひとり信枚だけが論功叙任されていること、僅かながらも上野国中に加増2千石を受けていることなどから、前述の説が真実味を増す。
慶長12年(1607)、父・為信の死により家督を継承する。翌年、兄・津軽信建(信健は父・為信より先に夭逝)の遺児・津軽熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。一時津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。その後津軽建広ら熊千代派閥の粛清を行った。(津軽騒動)
慶長14年(1609)には先代より整備が始まっていた高岡城(弘前城)築城の正式許可が下りる。これを受け、5万石に満たない大名としては破格の、大天守をも持つ城郭を構築し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。「幕府は北辺警備の都合も考慮して、大城郭築城を許可した」とも言われている。
また、徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正則養子の福島正之)を妻とし、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。
実は信枚にはそれ以前に辰姫を妻としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。この辰姫はかの高台院の養女という身分だが、実父は石田三成であり、幕府を憚った措置であるとも、また幕府側からは津軽家の態度を試す措置であったとも受け取れる。その後江戸でも国許でもない前述の上野国の飛び領地に住んだ辰姫を信枚は参勤交代の度に訪ね、仲は睦まじかったと伝わっている。辰姫は、元和5年(1619)に信枚の長男信義を生み、数年後死亡した。信義誕生の翌年には満天姫にも男児(信英)が生まれている。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣に徳川方として兵を率いて参陣したが、家康は信枚に江戸勤番を命じた。後に弘前藩が編纂した『津軽一統志』では「津軽は北狄の圧(おさえ)(略)要服の地たるにより(略)在国を憑(たの)むところなり、早速帰国に及ぶべし」と帰国を命じられたことにされている。
元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主である福島正則に津軽への転封を、津軽家には越後への転封を命じる内示を出した(福島正則は満天姫の前夫である福島正之の義父である)。一見これは栄転に見えるが、実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではない。この内示は実現寸前となり、信枚は移転費用捻出の借金策や家中の準備をさせる旨、家臣に通達している。だが転封は行われなかった。これは一般には、信牧や家臣団、満天姫、南光坊天海らの運動により中止となったとされている。この移転話が持ち上がった背景は諸説あるが、関ヶ原の戦いでの家中二分策に対する咎だとも、いまだ豊臣家に温情的な津軽家中に対する咎だとも、幕閣の派閥争いの飛び火だともされている(福島正則は最終的に信濃川中島藩に移された)。
寛永5年(1628)8月、それまで高岡と呼ばれていた城下の地を「弘前」と改めた。弘前だけではなく、陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷または江戸との交易ルートを整備した。これが現在の青森県庁所在地である青森市となる。領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。
寛永8年(1631)1月14日、江戸藩邸にて死去。48歳。
家康養女である満天姫との子、つまりは家康義孫である信英(次男)など十人近い男子に恵まれたが、跡を継いだのは辰姫の子、つまりは石田三成の孫である長男の信義であった。
長男であること、そしてなにより信枚の強力な意志によって、信義跡目と定められたと伝わっている。  
津軽信枚3
天正14年〜寛永8年(1586-1631)、 津軽藩二代藩主。津軽藩初代藩主津軽為信(つがるためのぶ)の三男。為信は南部氏から独立し徳川家とのつながりを重視した。2代藩主となった信枚は南部氏の侵攻に備え、慶長16年(1611)に弘前城を築いた。その後、城下の整備、商業振興、灌漑整備等に尽力、国力の増強に努めた。また、寛永元年(1624)には弘前の東照宮を建立。これは、信枚の妻である満天まて姫(徳川家康の養女)の願い出と、天海僧正の力によると言われている。信枚は、東照宮(始めは東照社)を城内に造り、城を攻めるものは東照宮、つまり徳川家を攻めることだとし城を守った。46歳で没。 墓は、津梁院・谷中墓地。  
 
松本城

 

 
松本城1
築城主 / 小笠原長棟、石川数正・康長父子
松本城は、長野県松本市にあった城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
松本城は戦国時代の深志の砦を創始とする。当時この地方を制していた小笠原氏が永正元年(1504)一族の武将島立右近に命じて築城させたものと伝えたれる。その後、同族坂西氏が居城していたが、天文19年(1550)武田晴信(信玄)がここを占領し、信濃支配の兵站基地とした。 天正10年(1582)のいわゆる「武田崩れ」、および本能寺の変後の混乱に乗じて、小笠原貞慶が旧臣の援けをえて深志城を回復し名を「松本城」と改めた。堀と土塁で城を強化するとともに城下へ町屋を移した。 豊臣秀吉の天下統一に伴って小笠原氏は関東へ移封、代わって石川数正が入城した。数正は秀吉の負託(関東への備え)にこたえるため松本城の建設に力を尽くした。平城の経営に強い意欲を持つ石川氏は、小笠原氏の企画した城造りを大きく超える本格的な近世城の造営に着手した。天守はじめ御殿、門、櫓、塀など主要建造物を築造し、城下町を整備した。
歴史
戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中(井川)に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。
その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の役以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
享保12年(1727)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。
明治維新後、明治5年(1872)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。明治30年代ころより天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、 明治36年(1903)より大正2年(1913)まで「明治の大修理」がおこなわれた。
明治9年(1876)6月19日 不審火により、当時筑摩県庁となっていた二ノ丸御殿が全焼。当時、県庁の移転と旧長野県との合併問題をめぐって紛争が起きており物議をかもした。跡地には明治11年に松本地方裁判所が建つ。
昭和5年(1930) 国の史跡に指定された。昭和11年(1936)4月20日には天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定され、 昭和27年(1952)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて国宝に指定されている。
昭和25年(1950)より昭和30年(1955)まで解体復元工事(「昭和の大修理」)。
昭和53年(1978) 旧二の丸御殿跡にあった裁判所が北側に移転し、旧庁舎は日本司法博物館として島立地区に移築された。
平成2年(1990) 黒門二の門および袖塀が復元される。
平成11年(1999) 太鼓門枡形が復元される。
平成12年(2000) 松本城周辺市街化区域が都市景観100選に選ばれている。
平成13年(2001) 乾小天守の一般公開を開始。
平成18年(2006)4月6日、日本100名城(29番)に選定された。
平成23年(2011)6月30日に長野県中部を震源とする地震により、天守の壁等25ヵ所にひびが入る被害を受けた。
天守
典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落しを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した 昭和30年(1955)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。
天守の建造年
天守の建造年には、いくつかの説がある。「天正19年(1591)説」、「文禄3年(1593)説」、「慶長2年(1597)説」、「慶長5年・6年(1600-1601)説」、「慶長20年(1615)説」である。いずれも、主に大天守の建造年を示したものである。
天正19年説は、大類伸・鳥羽正雄の共著『日本城郭史』に見られる説で、宮上茂隆は平成4年(1992)に発表した論文において石川数正とその子康長により建てられた第1期天守の建造年と考え、大天守ではなく現在の乾小天守であると主張している 。
慶長2年説は、昭和15年(1940)に城戸久が論文において述べた説で、当時定説となっていた竣工文禄3年説また慶長5年・6年説を否定し、文献を元に文禄3年着工、慶長2年竣工が至当であると主張している 。
慶長20年説は、大坂の役(1614-1615)前後の建造とする宮上茂隆の説と同様で慶長20年(1615)に小笠原秀政によって建造されたとするものである 。
層塔型天守に分類されているが、慶長2年(1597)建造とする場合、最初の層塔型天守とされる丹波亀山城(1609年 - 1610年ごろ建造)に10年以上先立つので、建築史の観点から望楼型と見なすことがある。その一方で、 昭和25年(1950)から昭和30年(1955)に行われた解体修理の時、いくつかの改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、各重の屋根には多くの破風を取り付けた姿であったと推定されており、松平氏により付櫓と月見櫓が増築された寛永10年(1633)に現在のように造りかえられたと考えられている 。
天守の傾き
貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたといわれる伝説があるが、これは城が傾き始めた明治になってから作られた話である。現在では天守の傾きの原因は、軟弱な地盤の上に天守の基礎工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化により建物の自重で沈み込んだことにあると見られている。 
松本城2
松本城は信州松本平の中央、女鳥羽川水系を濠とする平城である。
松本城本丸には、往時より変わりない天守閣群(乾小天守・渡櫓・大天守・辰巳付櫓・月見櫓)が聳え、その姿を濠に写している。
無骨だが重みのある天守で、五層大天守をはじめとする天守建築群はいずれも国宝で、姫路城と並んで桃山文化を代表するものである。
姫路城の白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁板に塗った“黒く輝く城”であり、本丸を囲む広大な濠に映える姿から「鵞湖城」ともいう。鵞湖とは諏訪湖の雅称でもある。
城郭は本丸を核に二の丸、三の丸が囲む輪郭式縄張で、面積はおよそ十二万坪(約四十万平方m)に及ぶ。
天守閣群へは渡櫓から入り、大天守4階には天井が一段と高い、有事の際の城主居所となる御座所の間があります。
防御面から階段は上に行くほど急になり、狭間が多く設けられ、石落し・武者走りなどの実戦的な造りが注目される。また、柱はチョウナ削りで荒々しく、格子窓から射しこむ外光が明と暗を演出し、戦乱の時代の雰囲気を感じ取れます。
本丸・二の丸とも石垣や土塁がよく残され、内濠と外濠(3重目の惣濠も一部残存しています)も大部分が残っています。
建物の復元や城内の整備も順次行なわれていて、これまでに、本丸黒門一の門、本丸黒門ニの門、二の丸裏門橋、本丸埋の橋、二の丸太鼓門などが復元されています。
御殿跡については、本丸では、建物跡の輪郭を、二の丸では、建物のあった位置と部屋割を平面表示しています。
広い濠越しに、北アルプス・美ヶ原などの山並みを背景に眺める複合連結式天守閣群の雄姿は、見る角度により趣の違う絶景を堪能出来ます。
松本城は戦国時代の1504年(永正元)に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城に始まるという。
1550年(天文19)に甲斐の武田信玄に攻められて落城し、小笠原氏は去った。以後、32年間に渡って武田氏の信濃攻略の戦略拠点となり、馬場信春が城代を務めた。
1582年(天正10)に武田氏が滅び、小笠原貞慶が復帰して城を大修築して、本丸・二の丸・三の丸を設け、堀と土塁を巡らし、虎口が5カ所に置かれ、名を松本城へと改めた。
天正18年の“小田原征伐”後、豊臣秀吉は、徳川家康を関東に国替えさせ、信濃松本には、小笠原氏に替えて、家康の筆頭家老から秀吉のもとへ走った石川数正を入れる。数正は近世城郭の建設と本格的な城下町づくりに着手した。
数正は1593年(文禄2)に死没。嫡男の康長が遺業を継ぎ、今に残る大天守・渡櫓・乾小天守を完成させた。
石川康長の改易後、信濃飯田(長野県飯田市)より小笠原秀政が父貞慶の故地に8万石で入り、その後は、松平(戸田)氏(2代)・松平(越前)直政・堀田正盛・水野氏(6代)と替わる。
代官預かりの期間を経て、1726年(享保11)、志摩鳥羽より戸田光慈が6万石で入り、9代続いて明治の廃藩を迎える。
辰巳付櫓・月見櫓は、結城秀康(徳川家康の次男)の3男・松平(越前)直政の時代(1624-1643)の建造です。
信州の城に生きた家康ゆかりの女性たち
“牡丹の寺”で知られる玄向寺(松本市大村)に、徳川家康の生母である「於大の方(伝通院)」の木像がある。木像が松本にあるのは、実家の水野氏の子孫が六代にわたり、松本城主となったからである。
松本城は、実は家康一族の女性たちと縁が深い。目まぐるしく城主が変わった松本城で、天守を築いたのは石川氏だが、徳川から豊臣に寝返って大名となった石川数正の夫人の供養墓が、松本市里山辺の兎川寺にある。だが彼女については一片の逸話さえ伝わっていない。家康ゆかりの女性たちについては、いまでも、山高く空気の澄んだ信州の美しい月のした、おおくの人々の間で語り継がれている。
戸田康長の正室・ 松姫は家康の異父妹
元和三年(1617)に松本城主となった戸田康長の正室は、松姫であった。松姫は於大の方の娘で、家康の異父妹にあたる。
家康にとって戸田氏は、まことに複雑な想いを抱かせる家であった。生母於大の実家水野氏が、今川氏を捨て織田氏に味方したことで、今川氏に属する家康の父・松平広忠は於大と離縁し、後妻に戸田氏から真喜姫を迎えた。真喜姫が家康の継母となったのである。
家康は六歳の時、今川氏の人質となるため、岡崎から駿府(静岡県)に送られるが、これを護送したのが戸田氏だった。戸田本家は当時、今川氏に遺恨を抱き、また真喜姫を岡崎城の本丸に住まわせなかったことで、広忠にも不快の念をもっていた。そこで家康を織田家に売り飛ばしてしまった。
怒った今川氏は戸田氏を攻めて、真喜姫の父宗光、兄の尭光を殺した。実家を失った真喜姫は、夫の広忠の死後も岡崎にとどまり、家康も今川氏の人質を解かれた後、真喜姫の面倒を見ている。
ところで尭光の弟で仁連木城(愛知県豊橋市)にいた宣光は、父・兄と同じ道をとらなかったため、仁連木戸田氏は生き残り、やがて家康を支える家臣となった。
この仁連木戸田氏の康長は、六歳で父忠重を失うと、家康は康長を哀れんで家督相続を許し、五歳の松姫を許婚にした。彼女はふくよかな美人だったとされ、長子永兼を産む。しかし彼女はわずか二十四歳で仁連木城に死んだ。松姫は夫が松本城主になる前に若死にし、松本を知らない、だが、松本の地に彼女は生きていた。
現在、松姫は陽谷(ようこく)様として、城近くの松本神社に祀られている。その理由は、松姫の産んだ永兼が病弱のため城主になれず、側室が産んだ康直が家督をつぐが、その頃から戸田家に不運が続いた。これは、わが子が藩主になれなかったのを恨む松姫の祟りだといわれるようになったからである。
関が原合戦の布石となった 家康の子女(福姫・虎姫・熊姫)
天正十年(1582)に深志城を松本城の名に改めたのは信濃の守護を努めた小笠原氏であった。武田信玄に侵略された小笠原氏は一度松本を去るが、戸田氏が入部する前、秀政が八万石で入封した。しかし秀政は、その二年後の大坂夏の陣において世子忠脩とともに戦死した。この秀政の妻を福姫といい、家康の孫娘であった。
福姫は家康が正室築山殿との間にもうけた嫡子信康の娘だった。母は織田信長の娘徳姫。その徳姫の信長への讒言により、築山殿と信康を殺害せねばならなかった家康の苦渋をわずかに慰めたのは、遺児となった福姫と熊姫(ゆうひめ/本多忠政の妻)というあどけない孫娘だった。
福姫は天正十八年(1590)に、十四歳で秀政に嫁いだ。彼女は子宝に恵まれ六男二女をもうけたが、慶長十二年(1607)に疱瘡のため三十一歳で没した。妻の死は三十九歳だった秀政にはショックで、ただちに剃髪し、家督を忠脩に譲り、隠居している。
この福姫が産んだ二人の娘は、蜂須賀家と細川家に嫁ぐが、蜂須賀至鎮(阿波徳島藩初代藩主)と長女虎姫との婚約は、豊臣秀吉の死後、天下をねらう家康が、勝手に大名との婚約を結んだ最初のものであった。これに石田三成らが怒り、やがて関が原合戦へと至る。虎姫は家康の養女とされ、化粧料三千石をもらい、わずか九歳で至鎮(よししげ)に嫁入りした。
なお、秀政と福姫との間のもう一人の娘・千代姫は、徳川秀忠の養女として、細川忠利(肥後熊本藩初代藩主)に嫁いでいる。  
松本城3
創始
松本城は、戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりです。世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護・小笠原氏は館を東山麓の林に移します。その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構え守りを固めました。深志城もこの頃、林城の前面を固めるために造られました。その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めたのです。
天守の築造
豊臣秀吉は、天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。このとき松本城主小笠原秀政が家康に従い下総へ移ると、石川数正・康長父子が代わって入り、城と城下町の整備を進め、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は文禄2年から3年(1593〜4)と考えられています。
なぜ黒い?
石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将でした。秀吉の大坂城は黒で統一されていました。松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしと思われます。また、松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。ちなみに関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造されました。
連結複合式天守
天守のうち、大天守・渡櫓・乾小天守のまとまりを連結式天守と呼び、戦いの多い時代に造られたため、石落しや狭間が多く、窓は少なく、守りやすくなっています。大天守・辰巳附櫓・月見櫓のまとまりは複合式天守と呼び、平和な時代になってできたため、戦うための備えがありません。二つの形式を合わせ連結複合式と呼ばれます。
武田信玄の深志攻め
天文17年(1548)小笠原長時は武田信玄と塩尻峠で戦い、敗れました。信玄は、天文19年(1550)深志(松本)に攻め込みました。武田軍の勢いに小笠原方の兵は戦力を喪失し武田方に従いました。小笠原長時は林城を脱出し、信濃国北部の有力な武将・村上義清を頼り松本を去ったのです。
戦国時代の初めの頃
松本が深志と呼ばれていた頃で、信濃の守護・小笠原氏が治めていました。戦国時代の初めの頃に、井川の館(井川城)を林(里山辺)へ移し、その背後に山城を造りました。「林城」です。この林城を中心にして小笠原氏の一族や家臣が守る城が、各地に造られていました。今の松本城は、深志城の場所です。「深志城」は、島立氏が造り守っていました。
武田信玄の深志城築城
信玄は、松本平を治める城として深志城を選びました。信玄がどのように深志城を造り変えたかの記録はありませんが、江戸時代の松本城の出入り口(馬出)に、その名残があります。

「松本城」という名まえはいつ頃つけられたの?
戦国時代の1582年、小笠原氏はこの地にあった「深志城」を回復し、名まえを「深志城」から「松本城」に改めました。それまで深志とか府中と呼ばれていたこの地はこのころ「松本」と呼ばれるようになりました。
松本城の天守が建てられたのはいつ頃?どんな時代?
1593年から3年間かけて、天守、乾小天守(いぬいこてんしゅ)、渡櫓(わたりやぐら)、本丸御殿、二の丸御殿が建てられました。秀吉が家康に関東を与えた頃で、松本城は家康をにらむ臨戦体制の役目をする城でした。
国宝「松本城」って天守のことを指すの?
天守だけでなく、乾小天守(いぬいこてんしゅ)、渡櫓(わたりやぐら)、辰巳附櫓(たつみつきやぐら)、月見櫓(つきみやぐら)を合わせた松本城天守五棟の建物を国宝「松本城天守五棟」と言います。
松本城の天守はだれが建てたの?
小笠原氏に代わり松本城に入封した石川数正が計画を立て、長男の石川玄藩頭康長が造営工事をしました。
ところで松本城の城主の名前を教えて?
松本城の城主は6家変わっています。古い順から、石川氏、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏で、その後再び戸田氏が城主になりその歴史を閉じます。
松本城の天守の高さはどのくらい?
29.4mです。ビルの高さにすると、ほぼ10階建てになります。
今の松本城の形は石川康長が完成させたの??
石川康長が造営したのは天守、乾天守、渡櫓ですが、その40年後の1633年頃、城主松平直政により辰巳附櫓(たつみつきやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)が増築され、今のバランスがとれた天守の姿になりました。
松本城の別称は何て言うの?
深志城(ふかしじょう)です。よく言われる烏城(からすじょう)は誤りです。
月見櫓は殿様が観月するために作ったの?
1633年、戸田氏のあと城主になったのは、時の将軍家光の従兄弟にあたる松平直正でした。将軍家光は京都からの帰りに善光寺参詣するため、松本城に立ち寄ることになり、直正は家光のために急遽、「辰巳櫓(たつみやぐら)」と「月見櫓(つきみやぐら)」を造りました。この時、時代は太平の世となり石川康長が造った戦国末期の松本城の雰囲気とはまったく違った、風雅な建物が増築されたのです。しかし、中山道のがけ崩れにより家光の善光寺参詣は中止され、松本城を訪れることはありませんでした。
松本城はなぜ黒いの?
石川氏は豊臣秀吉の信頼のあつい武将でした。秀吉の大阪城は黒で統一されていました。 松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしと思われます。
月見櫓(つきみやぐら)をもつお城はほかにもあるの?
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは、松本城と岡山城だけですが、天守と一体と  なっているのは国宝「松本城天守五棟」だけです。
ところで、「松本城天守五棟」が国宝に指定されたのはいつ?
昭和11年4月20日、天守五棟が国宝に指定されました。その後、文化財保護法により 再度、昭和27年3月29日に「国宝」に指定されています。  
松本城4
松本城の縄張り
松本城は、三重の水堀に囲まれています。内側から「内堀」、「外堀」、「総堀」と呼んでいます。ただし、本丸の北側では内堀が外堀と接続していて外堀と一体化しています。
内堀に囲まれた中が「本丸」、外堀に囲まれた中が「二の丸」、外堀と総堀の間が「三の丸」です。
本丸には、天守の建物と御殿(本丸御殿)があり、二の丸には、御殿が2棟(二の丸御殿と古山地御殿、のちに古山地御殿の西に新御殿が建つ)と米蔵などの蔵が建ち、西側部分には茶屋などが設けられていた時期もありました。三の丸には家老をはじめとする上中級の藩士の屋敷が置かれていました。総堀の城側には土塁が築かれその上には塀が廻っていて、城内を容易に見通すことはできませんでした。
総堀の外には城下町が広がり、善光寺街道が南から北に通っていました。善光寺街道沿いには町人たちの家が立ち並び、その外側には寺社地が置かれていました。
城への出入り口は5ヶ所あります。大手門には枡形を備え、他の東・北・北不明(あかず)・西不明のそれぞれの門の前には馬出(うまだし)を配しています。この馬出の形は武田氏の馬出の系譜をひいているといいます。城への通常の入り口は東門で、そこから太鼓門、黒門、本丸へと進みました。城下の北部に住んだ武士たちは北門が通用門でした。
これらの城内及び周辺の城下町は、明治時代に大火に見舞われ建物の多くを失いましたが、町筋や町名に当時の面影を残しています。
松本城のできごと
1582(天正10) 小笠原貞慶が旧地を回復し、深志を松本と改める。
1593(文禄2) 石川康長によって松本城天守の工事が始まる。
1613(慶長18) 石川康長が改易され、小笠原秀政が入封する。
1615(慶長20) 大坂夏の陣で小笠原父子が戦死する。
1617(元和3) 戸田康長が入封する。
1633(寛永10) 松平直政が入封し、以後月見櫓・辰巳附櫓・八千俵蔵などを建設する。
1638(寛永15) 堀田正盛が入封する。
1642(寛永19) 水野忠清が入封し、以後水野氏統治の時代に松本城下町の姿が整う。
1649(慶安2) 松本領内の総検地が始まる。
1686(貞享3) 全藩的な百姓一揆「加助騒動」がおきる。
1724(享保9) 松本領内の地誌『信府統記』ができる。
1725(享保10) 江戸城で刃傷事件を起こし水野家は改易される(松本大変)。
1726(享保11) 戸田光慈が入封する。
1743(寛保3) 幕府領5万石を預かる。
1825(文政8) 大規模な百姓一揆「赤蓑騒動」がおきる。
1864(元治元) 水戸浪士と和田峠で戦う。
1866(慶応2) 第2回長州出兵に加わる。
1868(慶応4) 戊辰戦争で東征軍に加わり北越へ出兵する。
1869(明治2) 戸田光則は版籍を奉還する。
1871(明治4) 廃藩置県で、松本県引き続き筑摩県になる。二の丸御殿に筑摩県の県庁を置く。城内の門や塀の破却が始まる。
1872(明治5) 天守の建物が払い下げになる。市川量造が買戻しに奔走する。
1876(明治9) 筑摩県庁(二の丸御殿)が焼失する。
1901(明治34) 小林有也が天守修復に尽力する。
1930(昭和5) 本丸と二の丸の一部が国史跡に指定される。
1936(昭和11) 天守が国宝に指定される。
1950(昭和25) 国の事業で天守の解体修理が始まる。
1952(昭和27) 文化財保護法に基づく国宝に指定される。
1999(平成11) 太鼓門が復元される。
歴代の城主
石川氏
  数正   1590年に和泉国から8万石で入封
  康長   1613年に大久保長安事件に連座し改易九州佐伯へ配流
小笠原氏  
  秀政   1613年に信濃飯田から8万石で入封 妻「福姫」は家康の孫
  忠真   1617年に播磨明石へ転封
戸田氏     
  康長   1617年に上野高崎から7万石で入封 妻「松姫」は家康の義妹
  康直   1633年に播磨明石へ転封
松平氏
  直政   1633年に越前大野から7万石で入封 家康の孫
        1638年に出雲松江へ転封
堀田氏   
  正盛   1638年に武蔵川越から7万石で入封 家光の老中
        1642年に下総佐倉へ転封
水野氏 
  忠清   1642年に三河吉田から7万石で入封 家康生母「於大」の実家筋
  忠職
  忠直
  忠周
  忠幹
  忠恒   1725年に江戸城内で刃傷事件を起こし改易(松本大変)
        その後幕府が松本城を収公する
戸田氏
  光慈   1726年に志摩鳥羽から6万石で入封 戸田氏は松本へ再度の入封
  光雄
  光徳
  光和
  光悌
  光行
  光年
  光庸
  光則   1869年版籍奉還 最後の藩主
市民が守る
江戸時代が終わると城は不要なものになりました。そのような中で、現在まで松本城を守り続けてきたのは、住民の力でした。松本城は市民によって守られてきました。廃藩置県になって藩は解体し、城郭は売り払われたり取り壊されたりされる運命となりました。松本でも明治4年末ころから門や櫓などが壊され始めました。
天守を買い戻した市川量造 ─明治初期─ 
天守は当時のお金で、235両永125文で個人に売却されました。これを知った松本町横田の副戸長であった市川量造は、天守がみすみす壊されてしまうことを憂い、これを買いもどそうと尽力します。地元ばかりでなく東京や大阪にも足を運び、人々に広く募金を呼びかけました。さらに天守をつかって、当時はやりであった博覧会を開き人々に骨董品の展示を見てもらって、その観覧料を資金にあて買い戻しに成功しました。
また、博覧会後には本丸を植物試験場にして新しい植物の栽培に挑戦もしました。このような市川の努力によって、天守は売却・破壊の危機を乗り切ることができました。
天守を修繕した小林有也 ─明治後期─
二の丸には、明治18(1885)年県立の松本中学校の校舎が建てられました。その初代校長として迎えられたのが小林有也です。小林は大坂の伯方(はかた)藩の重臣の子として生まれました。明治になって大学南校に学び、わが国最初の東京大学物理学専攻の理学士となっています。松本中学校の開校にさいし校長として迎えられ、大正3(1914)年死去するまで29年間校長を務めた傑物でした。
市川が植物試験場とした本丸が、明治33(1900)年同校の校庭として使用されるようになりました。これをきっかけに小林は天守閣保存運動に乗り出します。明治34年「松本天守閣保存会」を発足させ人々の賛同と寄付を得ながら、明治36年から修繕工事を始め大正2年に完了させました。その主たる工事は建物の傾きの補修と筋交いをいれるなど補強と外面を整えることでした。
昭和の大修理 -昭和20年代-
明治の修理後、時間の経過とともに再び建物に傷みが見えるようになりました。太平洋戦争後、松本城を視察した連合軍総司令部美術顧問による文部省への勧告があり、時の市長や市民の熱意によって、昭和25年から5ヵ年の年月をかけて解体修理が行われました。この事業は文部省直轄の国宝保存事業の第1号でした。つづいて姫路城も同様に修理が行われますが、松本城の素屋根を掛けるためにつかった丸太が姫路城の工事でも再活用されています。
解体と平行して調査も行われ、その結果にもとづいてかつての姿にもどす工事がなされました。そして、現在私たちが目にする松本城の姿になりました。工事中すっぽりと覆っていた素屋根がはずされ、北アルプスを背景に凛とした漆黒の天守が再び全貌を表したとき、市民の感慨もひとしおでした。
現在
松本城を保存・活用する活動は、日々継続して行われています。保存整備計画に基づき、黒門枡形や門の復元、二の丸御殿跡の発掘調査と整備、さらに平成11年には太鼓門の復元などを実施し、最近では総堀の土塁跡の一部復元も行われました。今後も地道な調査・研究を積み上げながら、松本城の保存・整備・活用を行っていきます。
多くの市民の力で松本城は支えられています。お城にみえる観光客の皆様に松本城や町の魅力をより知っていただこうとユーモアを交えながら案内するボランティアグループ、糠袋を使って天守の床を一生懸命に磨く床磨きボランティア、草取りや落ち葉の清掃に来てくれる小中学生、イベント活動などを蔭から支えてくれている古城会のメンバーなどなど、さまざまな形で市民が活動しています。 
松本城5 / 歴史年表
1550年〜1582年
縄張りを巡らしてまちづくりを行った
1550(天文19)年甲斐の武田信玄は、信濃府中に侵攻し守護小笠原氏を敗走させた。
小笠原氏の本城は里山辺にあった「林城」であるが、平坦地にあった支城である「深志城」を整備し、以後33年間信濃経営の基地とした。近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の縄張りは、ほぼこの時期に出来上がっていると考えられている。1582(天正10)年武田氏が滅び旧地を回復した小笠原氏は、深志城を松本城と改めた。
(戦国大名が群雄割拠していた頃)
戦国時代まで信濃の国を治めていた「小笠原氏」は武田信玄によって国を追われた。
この国を追われた33年間に、武田氏は治水工事を行い、松本城を取り巻く「まちづくり」を行ったのである。
1593年〜1594年
松本城を建築
豊臣秀吉は1590(天正18)年小田原の戦いの後、石川数正を松本に入封させ、関東の徳川家康を監視する5重6階の松本城天守(天守・渡櫓・乾小天守)を1593(文禄2)年から1594年にかけて築造させた。
さらに総堀を浚い、土塁を築き土塀を建て、諸櫓や楼門を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行ない、近世城郭として松本城を整備した。天守の壁は上部が白漆喰で下部は漆黒の下見板が張られていた。鉄砲戦を想定して堀幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼をうが穿ち、土塁上には狭間付き土塀を廻した。また、「馬出し」をともなった虎口や攻撃的な横矢掛を備えた外枡形で堅固な戦略拠点とした。
(豊臣秀吉が天下を治めた頃)
豊臣秀吉は、もともと徳川家康の家臣であった石川数正・康永親子に命じて徳川家康を監視させる為のお城として松本城を造らせた。
立派な天守は、わずか2年の間に築城されている。大天守は「京間」そして乾小天守は「江戸間」と寸法が違っている。渡り櫓でつながっているが、時期を同じくしてつくった割には、床に不自然な段差がある。いろいろと想像させられる。
1633年〜1634年
巳附櫓と月見櫓を増設
泰平の世になって付設された辰巳附櫓と月見櫓? 石川数正・康長父子によって天守・渡櫓・乾小天守が築造されてから40年後の1633(寛永10)年から1634年頃、3代将軍家光の従兄弟松平直政が辰巳附櫓と月見櫓を増設した。一国一城令が出され城郭の普請についても厳しい統制がなされている中、御家門大名松平氏にしてできた増築である。この2棟には際立った武備は見られない。総檜造りで三方取り外し可能な舞良戸や朱の刎高欄を巡らし、天井は船底天井に仕上げられている。また、壁は白漆喰の大壁造りで瀟洒な造りになっており、戦略的な天守と好対照をなす泰平の「元和以後の江戸期」の城郭である。?松本城の天守は戦略的拠点としての城郭と、泰平の世の優雅な櫓が「連結複合」した天守群である。 (徳川家康に政権が移った頃)
松本城が築造されてから、わずか40年の間に、石川氏、小笠原氏、戸田氏、松平氏と城主が変わって行く。石川氏は旧主君の徳川氏により1613年に改易されてしまっている。念願かなって戻った小笠原氏も「転勤」していくのである。月見櫓をつくったのは徳川家の親戚にあたる。松平直政氏。
徳川家によって城の増築が厳しく禁止されていた時代にあって、風雅な櫓を作れたのは親戚ならではのことである。
1685年
貞享騒動
江戸時代、貞享2年(1685)という年が不作で、人々は城主に年貢が納められなかった。翌年も豊作ではなかったが、この時の城主、水野忠直の家来は、更に苛税を図ったため、安曇郡中萱村の多田加助ら、村々の庄屋級の人達が連合して殿様に減税を申し出し出た。村々の百姓達何千人も集まって城につめかけた。役人達は「願いはすべて聞きとらす」といって百姓をだまして解散させた。その夜、村に帰った主謀者たちを捕え、江戸にいる殿様に騒動の治ったことを報告し関係者を処罰した。処罰されたのは、中萱村の多田加助・楡村の小穴善兵衛・大妻村の小松作兵衛・氷室村の川上半之助・堀米村の丸山吉兵衛・梶海渡村の塩原惣左エ門・浅間村の三浦善七・岡田町の橋爪善七・笹部村の赤羽金兵衛・執田光村の望月戸右ヱ門らである。刑場は出川と勢高で、磔8人、獄門20人ということであった。極刑を受けると知りながら百姓の願いを代表して領主の政治を批判し、実力行動に出たためこのような目にあったのである。
(水野氏の政治)
松本城、時の城主は水野氏。1642年以来、水野氏は6代83年在城したが、6代目の忠恒は1725年、将軍吉宗に拝謁を終えて退出する際に江戸城中松の廊下で毛利家の世子・師就にいきなり抜刀して斬りつけてしまうという刃傷事件を起こしてしまい改易となっっている。
騒動の首謀者、多田加助については、、その恨みで松本城を傾かせたという伝説がある。そして水野氏の乱心もこの祟りだという、まことしとやかな説がある。 
松本城6
信州松本平の中央に位置する松本城は、天守が現存する12城のうちのひとつで、犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている。女鳥羽川を天然の濠とし、本丸、二の丸、三の丸とも、ほぼ方形に整地された輪郭式の平城で、本丸を中心に三重の水堀をめぐらしていた。現在は、本丸、二の丸跡が松本城公園として整備されている。5層6階の大天守を中心に3層の乾小天守を2階の渡櫓で連結し、2層の辰巳附櫓と1層2階の月見櫓を複合したL字型の複合連結式層塔型と呼ばれる構成で、5棟とも国宝に指定されている。天守の外壁は各層とも上部は白漆喰で、下部は黒漆塗りの下見板で覆われていることから、鴉城(からすじょう)とも称されている。また、天守の石垣がなだらかなのは、ここ深志一帯が湿地帯であったため、力を分散させるためであったという。貞享年間(1684-88)頃から昭和の解体修理まで、この天守は大きく傾いていた。これは石垣下の基礎が朽ちて、軟弱な地盤に天守の自重で沈み込んだためであるが、貞享3年(1686)加助騒動という百姓一揆で、磔刑に処される際に天守を睨んで絶叫した多田嘉助(かすけ)の祟りだと考えられていた。本丸の桜の木は、「清正公駒つなぎの桜」である。肥後熊本城主の加藤清正(きよまさ)が、武蔵国江戸からの帰りに松本城に立ち寄った。城主の石川玄蕃頭は清正をもてなし、「土産として駿馬2頭のうち、お気に召した方を1頭差し上げる」と言った。清正は感謝し、「貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。2頭共申し受けるのが礼儀と心得る」と言って2頭とも持って帰った。この時に駒をつないだ木であると伝わる。現在、松本城公園には、二の丸の御金蔵も現存し、黒門枡形、太鼓門枡形、埋の橋(うずめのはし)が復元され、本丸御殿跡と二の丸御殿跡には平面標示による建物位置が示されている。今後も丑寅櫓や屏風折塀などが順次復元される予定であるという。 
永正元年(1504)信濃国守護職の小笠原貞朝(さだとも)は一族の島立右近太夫貞永(さだなが)を深志の地に配して、深志城(深志の砦)を築かせた。のちに小笠原氏の家臣である坂西(ばんざい)氏が城代として置かれた。この深志城が松本城の前身であり、小笠原氏の本城である林城(松本市大字里山辺)を防衛する支城群のひとつに過ぎなかった。天文17年(1548)小県郡南部へ侵攻した武田晴信(はるのぶ)は、上田原の戦いにて、北信濃を支配する村上義清(よしきよ)に大敗する。この敗北に動揺した諏訪西方衆(諏訪湖西岸の武士)らが反乱を起こし、これに呼応して信濃国守護職の小笠原長時(ながとき)が塩尻峠に布陣した。武田晴信は甲斐躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)を出陣し、遅速行軍で情報収集や内応工作をしながら上原城(茅野市)に着陣して、その夜のうちに塩尻峠から勝弦峠に展開する。早朝の武田軍の奇襲攻撃と、小笠原軍後陣の三村駿河守長親(ながちか)、西牧四郎右衛門信道(のぶみち)の内応によって、挟撃された小笠原軍はあっけなく敗走した。この塩尻峠の戦いでは、特に諏訪衆の活躍が勝利に貢献したと伝わっている。再び信濃侵攻を再開した晴信は、松本平に進出し、小笠原氏の居城である林城の南方8kmの場所に、村井城(松本市大字芳川小屋)の築城を始めた。天文19年(1550)小笠原氏との決戦のため村井城に入った武田軍は、まず林城の出城であるイヌイの城(場所不明)を攻略して勝鬨をあげた。これに戦慄した小笠原長時は林城を捨てて村上義清のもとに亡命、林城の支城である深志城、岡田城、桐原城、山家城などは相次いで自落した。晴信は深志城の戦略的な重要性に着目しており、林城を破却して、深志城を信濃攻略の拠点として改修した。松本城にみられる丸馬出しや枡形などの防御施設は、この時の武田流築城術に拠るものと言われている。深志城には馬場信春(のぶはる)を城代として置いた。天文19年(1550)戸石城の戦い、天文20年(1550)平瀬城の戦い、その後の川中島の戦いにおいて、深志城は兵站基地として機能している。 
天正10年(1582)織田信長の武田征伐において、武田勝頼(かつより)から離反して織田軍の先鋒として活躍した木曽義昌(よしまさ)は、信長から木曽谷の安堵のみならず安曇、筑摩2郡を与えられ、深志城に入城した。同じく天正10年(1582)本能寺の変によって信長が討たれると、小笠原長時(ながとき)の弟である貞種(さだたね)が越後国の上杉景勝(かげかつ)の支援を受けて、木曽義昌から深志城を奪った。これに対して小笠原長時の三男である貞慶(さだよし)は徳川家康の支援を受けて、旧臣とともに信濃国に侵攻、小笠原貞種を越後に退去させて、安曇、筑摩などの旧領と深志城を回復する。小笠原貞慶は嫡男の秀政(ひでまさ)を人質として家康に帰属し、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いに関連して、羽柴氏に応じた上杉景勝の青柳城(筑北村)、麻績城(麻績村)を攻撃し、深志城に迫った木曽義昌を追い返して、木曽氏の居城である福島城(木曽町)を攻めるなど上杉氏、木曽氏を牽制した。しかし、天正13年(1585)徳川氏の筆頭家老であった石川伯耆守数正(かずまさ)が人質の小笠原秀政を連れて羽柴秀吉のもとに出奔したときに、小笠原貞慶も同じく秀吉に従った。この時、徳川氏家臣となっていた保科正直(まさなお)の高遠城(伊那市)を攻撃して、反徳川色を鮮明にしている。貞慶は深志城を改修して、深志の地を松本と改名した。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役で戦功のあった貞慶は、讃岐半国を与えられるが、秀吉に追放された尾藤甚右衛門知宣(とものぶ)を保護したため、秀吉の怒りに触れて改易された。小笠原貞慶、秀政父子は再び徳川氏の家臣となることを許され、徳川氏の関東移封に従って下総国古河に3万石を与えられた。その後の松本城には、石川数正が10万石で入城した。かつて酒井忠次(ただつぐ)とともに徳川氏の2人の家老として活躍した数正は、抜群の指揮能力によって家康の三河兵団を率いて、多くの戦功を立てた。のちに秀吉の調略によって出奔せざるを得なくなったのだが、「家康の 掃き捨てられし 古ほうき(伯耆) 都に来ては 塵ほどもなし」という落首からも分かるように、徳川氏の家老時代に比べ影が薄くなり、世間の評価は低くなった。文禄2年(1593)数正が病没すると、その遺領は長男康長(やすなが)が8万石、次男康勝(やすかつ)が1万5000石、三男康次(やすつぐ)が5000石と分割して継いだ。 
石川数正が着手した松本城の近世城郭への本格的な改修と城下町の整備は、康長の代に完成した。現在にみる大天守、乾小天守はこの時に造営されたものであり、発掘された金箔瓦も豊臣大名として入城した石川氏時代のものである。現在の松本城の大天守は最上階が大きくズングリした外観であるが、これはかつて望楼として高欄がめぐっていた最上階を、寒地に即して内部望楼式に改めたためであることが解体修理工事で明らかになった。太鼓門枡形の櫓門の脇には、高さ約4m、周囲最大約7mの巨石が組み込まれている。これが玄蕃石(げんばいし)と呼ばれる石で、築城工事の際に、あまりの重さ(約22トン)のため人夫が不平を訴えたところ、石川玄蕃頭康長はその人夫の首を刎ね、生首を槍先に刺して、人夫達に運搬を強要したため玄蕃石と名が付いたという。慶長5年(1600)関ヶ原合戦ののち、徳川家康の天下になっても、東軍に与した石川康長は外様大名としてそのまま松本を治めることができたが、慶長18年(1613)大久保長安事件に連座して康長兄弟は全員改易となった。石川氏に代わって、小笠原秀政が飯田から8万石で再び入封する。元和元年(1615)大坂夏の陣において、松本城の守備を任されていた長男の忠脩(ただなが)が、徳川家康に無断で小笠原秀政隊に合流した。家康は勇気をたたえて従軍を許すが、天王寺・岡山の戦いで毛利勝永(かつなが)隊と戦い敗北、小笠原秀政隊は壊滅して父子ともに討死、重傷を負った次男の忠真(ただざね)が跡を継いだ。元和3年(1617)小笠原忠真が播磨国明石に転封になると、その後の松本藩主はめまぐるしく変わり、戸田康長(やすなが)、三男の庸直(やすなお)、松平直政(なおまさ)と替わった。寛永11年(1634)頃の松平直政の時代に、3代将軍家光(いえみつ)が善光寺参詣のため松本城に立ち寄ることになり、風雅な辰巳附櫓と月見櫓を増築したが、中山道の崖崩れにより参詣は中止されたという。この月見櫓は、平穏な時代を反映して、壁がない吹き放ち造りで、高欄を三方にめぐらせている。松平直政が出雲国松江に転封すると、堀田氏、水野氏と続き、享保10年(1725)戸田氏が志摩国鳥羽より再び入封し、9代続いて明治維新を迎えた。 
松本城の歴史的価値 

 

はじめに
松本城天守、世界遺産暫定一覧表記載継続審議となる
(1) 「世界文化遺産特別委員会」における調査・審議結果について松本市と長野県は松本城に関する「世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書」を平成18年11月30日に文化庁「世界文化遺産特別委員会」に提出した。
平成19年1月26日審議結果が発表され、追加記載に提案のあった24文化遺産の中から以下4件を「世界遺産暫定一覧表」に追加記載することが適当とされた。
○ 富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県/沼田市􀀂藤岡市􀀂富岡市􀀂下仁田町􀀂甘楽町􀀂中之条町六合村)
○ 富士山(静岡県/富士宮市􀀂御殿場市􀀂裾野市􀀂小山町􀀂三島市􀀂清水町􀀂静岡市 山梨県/富士吉田市􀀂身延町􀀂西桂町􀀂忍野村􀀂山中湖􀀂鳴沢村􀀂富士河口湖町)
○ 飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群(奈良県/明日香村􀀂桜井市􀀂橿原市)
○ 長崎の教会群とキリスト教関連遺産(長崎県/長崎市􀀂佐世保市􀀂平戸市􀀂五島市􀀂南島原市小値賀町􀀂新上五島町)
松本城は今回「継続審議」とされた。以下に掲げるのは「世界文化遺産特別委員会」の松本城に対する評価である。
○松本城
高い技術により築造され、天守閣をはじめとする城郭の主要建築が残存する我が国唯一の平城の事例として、価値は高い。なお、現時点での個別の課題は次のとおりである。
1主題
主題及び顕著な普遍的価値について、検討が必要。その際には、近世の大名文化を背景に形成された城郭又は城下町の観点から本資産の位置付けを明確化するとともに、城郭のみの資産構成が適切であるのか、あるいは城郭にいては既登録の「姫路城」、暫定一覧表に既記載の「彦根城」との統合が可能であるのか等について、検討が必要。
ただし、城下町の観点から捉えた場合には、他の提案の中に主題の類似するものがある。
2資産構成
城郭の堀及び土塁等の骨格を表す諸要素の保存状況、城郭と一体を成す城下町の諸要素に対する評価の視点が必要。
ここでは、松本城が高い技術により築造されていること、城郭の主要部分が残存する日本唯一の平城であることが評価されている。
個別の課題として主題及び普遍的価値の検討が求められた。主題ということは「松本城」という取り上げ方についてである。すなわち、世界遺産選考の基準が改められ、近年は「一群の構成資産が相互に関連性、連続性を持ち、総体として独自の文化を表しているようなものを含め、資産の内容􀀂構成が多様化する傾向がある。」という動向を踏まえて単体で世界遺産を目指す方向の再考を求められたのである。そして、既に世界遺産に登録された「姫路城」、暫定一覧表に既に記載されている「彦根城」との統合が可能であるかについて検討するという行き方があることを示唆している。
このことは􀀂姫路城􀀂彦根城􀀂松本城等をリンクして「日本の近世城郭群」という資産名での登録を検討課題としみてはどうかという示唆である。また、城下町の観点から捉えた場合は他の提案の中(今回􀀂金沢市「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」􀀂高岡市「近世高岡の文化遺産群」􀀂萩市「萩城􀀂城下町及び明治維新関連遺跡群」が城郭と城下町を提案している。)に主題の類似するものがあると指摘している。
資産構成について今回「松本城」は13件を上げている。
􀊱天守 􀊲乾小天守 􀊳渡櫓 􀊴辰見附櫓 􀊵月見櫓 􀊶黒門枡形 􀊷太鼓門枡形 􀊸本丸御殿跡 􀊹二の丸御殿跡 􀊺 内堀 􀊻外堀 􀊼 総堀の一部 􀊽西総堀土塁跡
これらの保存状況と城郭と一体をなす城下町の諸要素の評価の観点が必要としている。
(2)世界遺産運動の新たな展開
平成19年1月23日を境に「松本城を世界遺産にāの運動は新たな段階に入ったといわざるを得ない。松本城をグローバルな視点から世界の類似施設と比較研究を行い顕著な普遍的価値とは何かを検討するとともに、平成11年策定の「松本城およびその周辺整備計画」を着実に実施に移していかなければならない。このことは、松本城が日本の城郭としてもつ普遍的価値に加え、世界の顕著な普遍的価値をもつ資産として整備していくことである。もし、世界に通用する普遍的な価値にもう一歩ということであれば、世界遺産登録に向け、松本城の普遍的で歴史的な価値を世界にどうアピールして行けばよいか、新しい視点を見出さなければならない 。
1.松本城天守の歴史的特質
(1)武田信玄によって整えられた戦国時代の名残の縄張りを残す松本城
1550 年(天文19)甲斐の武田信玄は信濃の府中松本に侵攻し守護小笠原氏を敗走させ、これを手中にした。以後33 年間深志城を整備し信濃経営の兵站基地とした。近世松本城の本丸􀀂二の丸􀀂三の丸の縄張りは、ほぼこの時、出来上がっている。1582 年(天正10)武田氏が滅び、旧地を回復したのは小笠原氏で、深志城を松本城と改めた。
1坂西氏(ばんざいし)とその居館
小笠原氏の城将坂西氏の館城は、平地に築かれた方1丁(約120m)四方の館で周囲に堀をうがってその土を掻き揚げて土塁を造り防塁としていた。この主郭部分は現松本城本丸付近と今の所は考えられている。また、東正面虎口の外には柵木を巡らした二の郭が存在したとも考えられている。
館城は日常生活の場に防備を施した簡易の城であり、坂西氏は郭内に自らの居館と親族の殿舎を置き、物見櫓を配置し土塁上には柵木が設置されていたと推定されている。
配下の武士は郭外に住み平時は農業を営んでいた。二の郭の門前では市が開かれていたと考えられている。
小笠原時代坂西(ばんざい)氏館城(1500 年頃)
2武田氏と深志城の縄張り
天文19 年(1550)武田信玄は小笠原氏を追い信濃府中を手中にする。武田氏は小笠原氏の本拠の山城の林城を破却し湿地帯の中の深志城に着目し、林城自落4日後の天文19 年7 月19 日に修築の鍬立(くわだて)を行い、23 日には 総普請に取りかかっている。近世の松本城の縄張りには武田流築城術の特徴である馬出が次ぺージ図のように4ヶ所、さらに、南門も馬出であったと推定されることから、武田氏時代には次頁の図のように坂西氏館は大きく改変されたと考えられる。
城将は馬場信房􀀂信春父子で、郭を広げ􀀂堀は3重に広げられ土塁が本丸􀀂二の丸􀀂三の丸の周囲に構築された。
この広大な城地は征服地にあって郭内に兵力を蓄え村上氏􀀂上杉氏と対する信濃経営上、戦略物資の集積を図る兵站基地として必要な広さであったと考えられている。又、現在の研究では女鳥羽川は武田氏時代にその土木技術もって今のように曲げられたと推定されている。この時代は本丸も二の丸も三の丸もすべて土塁で囲まれ、石垣はなかった。
したがって、松本城の土塁は武田氏時代にその原型が築かれたと考えられる。
近世松本城への5つの出入口は武田氏時代の馬出であったと推定されている。
馬出の構造
1 南大手門
2 東門馬出
3 北門馬出
4 北不明門(北あかずの門)馬出
5 西不明門(西あかずの門)馬出
3戦国時代の城下町
信濃の守護小笠原氏は当初井川の館に本拠を置いていた。やがて戦国時代になると山辺林に本拠を移した。深志城は小笠原氏時代本城である林城の支城であった。
戦国大名小笠原氏の城下について考える。
下図が示すように小笠原氏林城の城下町は山城の下に侍の屋敷が並んでいる。武具等戦いにかかわるお抱えの職人の住まいがあったと推定される。また、家臣団の全てが城下に住んでいたわけではない。兵農分離が進んでいない戦国期ではすべての家臣を農村から引き離し城下に集住させることは不可能であった。
林城の城下
したがって物資の集散地であり「市」が立っていたのは古い伝統をもった松本の市町であった。
林大城
林小城
武田信玄が林城を破却し支城であった平城である深志城を3重の堀に囲まれた城地に改修したのは、偏に交通の便のよさと物資の集散地としての地の利であったと推定される。既にあった市町の地域に戦国大名武田氏が城を整備したのである。天文19年には、武田氏は村上氏と対立しており東北信への兵站基地としての役割を深志城は負うのである。天文20年には中信の平瀬城、天文21年には安曇郡小岩岳城を攻め、天文22年には村上氏を4月9日に埴科葛尾城から追い、4月22日には第1回川中島の戦いがおこなわれている。
武田氏は天正10年に滅び33年間の支配は終わりとなった。残念ながら戦国大名武田氏の城下町松本の様子は不明である。
4 近世松本城下町の形成
織田信長による安土城下町は城下に家臣団を集住させ、大名に直属していた商工業者と市場の商職人の区別をなくし城下へ集合させ近世城下町が出現した。小笠原氏から水野氏までの松本の城下町の成立過程を以下に示す。
松本城下町は水野時代で一応の完成をみる。
城下町は防備がほどこされた町である。経済効率を考えれば街路は碁盤の目状が理想である。
「遠見遮断」とか「前方遮断」という一本の道を屈曲させて設置したり、丁字路、喰い違い、鍵の手等の防衛上の工夫がされている。
また、寺の配置も考慮されている。寺は城下町のはずれに寺町として配置されている。松本の場合は城下の東側にラインを作っている。寺は町屋より堅固に造られており、敵が侵入してきたとき城兵が城を出て城下末端の寺院でまず敵を迎え討つことができる。つまり、城の出丸的役割を担っている。
鍵の手 丁字路 喰い違い
松本城は以上見てきたように戦国大名武田氏の城下町から小笠原から水野氏までかかって近世城下町として完成をみた。
5藤堂高虎の城下町
近世城下町はさらに発展をとげる。四国今治の城下町は慶長6年(1601)から町割が開始された。次頁、図a に見られるように辰の口に続く南北の町筋を本町とし、海岸側から風早町􀀂本町􀀂米屋町􀀂室屋町と四筋として(中浜􀀂片原町は後になって成立)、城下町の防備を意識して町屋の北側に寺町を東西に配している。道路は直線的に通されている。このプランを遂行したのは藤堂高虎で、高虎は泰平の世の到来を予測し、都市の経済発展を強く意識して交通の便を考えて直路を採用している。高虎は城下町の街路の直線化を伊予の板島􀀂大津でもおこなっている。
図bは藤堂高虎が建設した上野城下町である。ここには防衛のための丁字路はみられない。商業の振興を重視し町筋を直線化して何本も並立させ、しかも道幅を拡大している。しかし、城下町防御の配慮は怠りない。本町筋では遠見が遮断されている。三筋町の南の馬場がありその前面は忍者町・鉄砲足軽屋敷・さらに西には城代藤堂采女の下屋敷が置かれい城下町東南の寺町も防御の役割をになっている。高虎は武家屋敷と町屋が分離して一体感にかけていた筒井氏時代の城下町を否定して両者と寺社を有機的に結合させた新たな城下町を建設した。 
(2)中仙道・甲州街道を固め関東の家康を監視する豊臣方の城として築造された松本城
1豊臣政権下、徳川を監視する戦略的な城郭としての松本城
豊臣秀吉は1590 年(天正18)小田原の戦いに勝利し天下を掌握すると徳川家康を関東に移した。そのため、小笠原氏は徳川氏に従い松本を去った。秀吉は石川数正を松本に入封させ江戸の家康を監視する五重六階の松本城天守を1593 年(文禄2)から1594 年(文禄3)にかけて築造させた。この時建てられたのは天守􀀂渡櫓􀀂乾小天守の3棟である。石川数正とその子康長はこのほかに総堀を整え、土塁を築き土塀を建て、諸櫓や門楼を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行い近世城郭として松本城を整備した。また、鉄砲戦を想定し堀幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼を穿ち、土塁上の土塀にも2000 余の狭間を作り武備を固めた。
秀吉はライバル家康を監視するために沼田􀀂上田􀀂小諸􀀂松本􀀂高島􀀂甲府に膝下の武将を配置した。松本城はその城の一つであった。 これらの城からは金箔瓦が出土しており秀吉の権威を背景に松本城天守は築城されたと推定される。
東海道筋は幾重にも秀吉恩顧の大名を配置し家康に備え、中仙道􀀂甲州街道からの大坂進攻に備えて上図のような包囲網が敷かれた。
当時の火縄銃は有効射程距離は50〜60mで、50m 離れて3 􀋟の板を撃ぬく威力をもっていた。
内堀は迎撃できるぎりぎりの凡そ60m の幅に造られた。
天守のある本丸は総堀􀀂外堀􀀂内堀の3重の堀にかこまれていた。堀の内側には土塁が築かれその上には銃眼付きの土塀が廻されていた。本丸は石塁で防御されていた。
土塀は死角をなくすためにジグザグの折塀(おれべい)となっていた。
天守には115 の銃眼が穿たれ、壁は1􀀂2 階は28cm、それ以上の階では20cm 程と銃弾が貫通しないようになっていた。
松本城の鉄砲の数は藩所有のもので文化16 年に927 梃あった。この様に松本城は鉄砲戦を考慮に入れた備えがなされた戦略的城郭であった。
2戦略的城郭から領国支配の拠点としての城郭へ
松本城天守は黒漆で塗られた下見板のために黒い色をしている。壁の1/3は白漆喰で2/3が下見板である。織田􀀂豊臣の時代を略して織豊期(しょくほうき)と呼ぶがこの織豊期、1600 年関ヶ原の戦以前に造られた天守には下見板が使われている。
当時の建築において白漆喰で壁一面を塗った場合、雨がかかる下2/3は崩れやすかったため、下見板を張り雨をはじく黒漆を塗布した。1583 年に建造が始まり2年後に完成した秀吉の大坂城も下見板張られていた。その上、秀吉は白漆喰の壁部分も黒漆を塗り真っ黒な大坂城を出現させた。これは、天下の富と力を手に入れた秀吉が城飾りとしての金の金具を目立つように、貴族の間で最高の色とされていた「黒」を選んだからといわれている。
関ヶ原の戦いを制した家康は、秀頼及び西国の豊臣恩顧の大名を封じ込めるため下図のように大坂包囲網を敷いた。
国替えによる大名配置と新たな築城によって家康が名古屋よりも西の東海道、大和街道、山陽道、山陰道沿いの諸国と瀬戸内海を掌握し、秀頼と近畿􀀂中国􀀂四国􀀂九州の豊臣方大名の広域監視体制を作り上げていった。
この徳川系の天守は下見板を使わず白漆喰の総塗籠の「白亜の天守」であった。
下見板は耐水性の面で白漆喰より優れていた。白漆喰は10年から20年ぐらいしかもたない。耐水性の劣る総塗籠の天守が造られた理由はその「外観のよさ」からであると考えられている。すなわち、城郭が戦略上の拠点から領国支配の中核としての性格を強めることになったからである。領国支配の象徴として白亜の天守が西国を中心に造られ全国に波及した。
したがって松本城が黒いのは、松本城が戦国末期の戦略的城郭の性格を築城当時はもっており、下見板を使用して戦略施設としての性格をあらわにしていたためである。
松本城は1593年から94年にかけて石川数正􀀂康長父子により築造された秀吉側の城である。
関東の徳川家康を監視する城として築かれた。戦国末期、鉄砲戦に備えた武備が城全体に施されている。
3松平直政によって増築された瀟洒な月見櫓
数正􀀂康長父子により天守が築造されてから40 年後、1633 年(寛永10)、三代将軍家光の 従兄弟松平直政が入封し辰巳附櫓と月見櫓を付設した。この二棟には際立った武備は見当たらない。総檜造りで 三方取り外し可能な舞良戸や朱の刎高欄を巡らし、天井は船底天井に仕上げられている。
また、壁は白漆喰の大壁造りで瀟洒なつくりになっており、戦略的天守と好対照をなす泰平の世の櫓である。
このように松本城天守は戦う機能を備えた天守と泰平の世の優雅な櫓が複合した現存する我国最古の5重6階の城郭建築である。 
(3) 軟弱地盤に匠たちが工夫をこらして造った松本城天守
1土台支持柱
松本城天守から城山に抜ける抜け穴があったという伝説がある。そして、天守の抜け穴の入り口は天守一階の北東隅といわれてきた。昭和25年よりおこなわれた解体修理の際それが確かめられた。
天守の解体が終了し天守台が現れた昭和27年3月3日発掘がおこなわれた。写真のような直径50cm 程の穴が発見された。やがてその数は16に及び穴の上部に柱状の遺物をともなうものが発見され、抜け穴はなく、土台支持柱が16本埋められていたことが確認されたのである。
2筏地形・土留の杭列
松本城は先述のように複合扇状地の先端(扇端)にあって堀の水は得やすいが、軟弱地盤であるため天守台を築くにあたり「筏地形(いかだじぎょう)」という工法がとられている。
筏地形(いかだじぎょう)
堀底に松の丸太を筏のように敷き詰め、その上に二本の胴木を置きその上に根石を据え、石垣を積み上げた。
右の図は安定地盤の上に積み上げられた石垣の仕組みであるが、胴木は地面の上にすえられ杭で固定されているのみである。
筏地形は軟弱地盤で石垣全体が沈まないように工夫された工法である。
松本城の石垣は「野面積」といわれる。
自然の石をほとんど加工せず積み上げた石垣で石材間の隙間を埋めるため、石を詰めてある。間詰石(まずめいし)という(松本城は飼い石と呼んできた)。石積みの背後のこぶし大の石を込め石(栗石)という。これは排水のために入れる石である。 
(4)望楼型天守から層塔型天守へ移行する過渡期に位置する松本城天守
天守1階の4 面の壁はみな内側に湾曲している。西側では中央で13cm内側に入っている。
天守2階の壁も同様に4 面内側に湾曲している。これは1 階の柱が一番外側(側柱)と壁側から2 番目の柱(入側柱)が1・2 階通し柱になっているからである。
このことは天守台上面が昔の「木製の糸巻状」になっているからである。
これは、石垣が天守台天端の中央部が内側に湾曲して積まれているからである。すなわち、天守台上面は正矩形になっていないということである。松本城の造られた時代には天守台上面を正矩形にする石積技術が確立していなかった。
土台は天守台石垣の天端にあわせて写真のように部材を短くして配置されている。したがって石垣の湾曲が壁に反映して天主1階・2 階の壁が湾曲するのである。
土台を短くして土台が石垣の歪みにあうように造られている。天守台の湾曲が1610 年(慶長15)以降は石積みの技術革新によってなくなり、天守台上面が正確な矩形に普請できるようになった。松本城天守のように天守台が不等辺四角形の場合、一重目が天守台の天端を反映して矩形にならず規格化された部材で全体を組み上げることができなかった。
この石垣普請にかかわる技術的向上は層塔型天守建築を普及させることになった。(それまでの天守は望楼型天守と呼ばれている。)正矩形の天守台を造りその上に規格化された部材を用いて組み立てた。工期が短縮され、費用も安くすみ構造上の無駄がなくなったのである。
犬山城の天守台は北辺より南辺が1間長く台形となっている。姫路城天守台は南東隅が鈍角のため北辺が1/3間長くなっている。この上に望楼型の天守が築かれている。
望楼型天守
望楼型天守は天守が誕生したときからある古い形式である。1階あるいは2階建ての入母屋造りの建物を設けその屋根の上に2階から3階だての望楼をのせたものである。
層塔型天守
層塔型は五重塔や三重塔を太くしたような形式である。各階の屋根は四方に均等に葺き下ろされる。構造的に見ると上階を下階から規則的に逓減(小さくしていくこと)させて順番に積み上げる形式である。用材の規格が容易になり城郭建築のように工期の短縮を至上とする場合は有効であった。
初期の層塔型天守は破風のない質素なものであったがやがて望楼型天守のように破風で飾られた層塔型天守も出現した。その他の層塔型天守:小倉城(慶長15)・名古屋城(慶長17)・宇和島城(寛文5)・備中松山城(天和3)・伊予松山城(嘉永3)松本城を建築史家は層塔型天守に位地づけている。
しかし、天守台は不等辺四角形できちんとした長方形ではない。1・2階の城壁は石垣の歪みを繁栄して内側に湾曲している。また、3階は下から2枚目の屋根裏階をもっており層塔型天守とはいいがたい面がある。また、1階ごとに決まった逓減率になっていない。下から1枚目の屋根と4枚目の屋根は出桁によって屋根の垂木を支えているが、2枚目3枚目の屋根はその下の階の天井部分がこれを支えている。また、時代的に見て藤堂高虎によりはじめて築かれたのは層塔型天守丹波亀山城(慶長15 ・今治城として慶長13 年に建てられた天守を移築)であるが、松本城はそれに先立つ文禄3〜4 年(1593〜94)に建てられており層塔型天守とはいいがたい面がある。現在の建築史家は松本城天守を慶長20年(1615)小笠原秀政により建てられたという旧来の説を主張している。現在、松本城築城懇談会により築城を文禄3〜4 年とする説が有力である。こうした今までの誤った築城年代から松本城を層塔型としていると考えられる。 
松本城天守は左の図のごとく1階の45cm上がった東西7間、南北6間の長方形の部分は上階の重量を受け止めるため土台が2重に入っている。そのため武者走り部分より45cm上がったのである。土台で受けとめた重量は天守台の中の16本の栂の柱に伝わり地面に伝えられる。天守の重さが天守台石垣にかからないように工夫されている。「柱筋が通っている」範囲は6階から1階さらに土台支持柱までである。
このように見てくると、歪んだ天守台に造られた天守ではあるが天守台の上に正しい長方形の身舎を造り上階を組み上げている。これは不定形な四辺形の上に入母屋の建築物を造り3階以上で方形に調整した望楼型天守から発想された技術がここに生かされているようにも思える。したがって、松本城は純粋な層塔型天守ではなく層塔型天守が生まれ出る過渡期の技術によって造られた天守ということができよう。
松本城天守の骨組みを見ると太い柱と梁を組みあげている。柱も側柱は29cm×29cm、入側柱は24cm×24cm、その階だけの管柱は21cm×21cmと位置によって太さが違っている。南北方向の桁材は21cm×27cm、東西方向の梁材は21cm×29cm程である。したがって今日の住宅と比べると天守の柱の強度は10倍の重量に耐え、80倍の折り曲げる力に対抗できるとされている。 
2. 松本城天守の国内類似施設から見た唯一性
(1)戦国末期に、戦略的城郭として造られ現存する我が国唯一の五重六階の天守松本城を除く国宝3 城の天守は1600 年、関ケ原の戦い以後徳川政権下で領国支配のため権威を誇示する目的で築造された白亜の天守である。それに対して、松本城天守􀀂渡櫓􀀂乾小天守は秀吉が家康を監視するために造らせた武備で固められた下見板張りの黒を基調とした天守である。
(2)松本城は国宝4城のうち、唯一の平城である。
松本城天守は国宝4城の中では唯一の典型的な平城である。複合扇状地の先端に築かれた天守は軟弱地盤ゆえに天守台内部に16 本の支持柱を埋め込み天守台を強化し、堀底に筏地形を施こして石垣を積み上げる等、他の天守には類をみない工夫がなされている。
※ 松本城は平城である。戦国時代山城は守りには利があったが、武士団を居住させ、商人や職人を住まわせ商工業を展開させるには不便であった。平城の防備のために水堀りを三重にも巡らし、土塁・土塀を堀の内側に構築して防備を固めた。
松本城は梯郭式+輪郭式といわれる形式である(姫路城・渦郭式/彦根城・犬山城・連郭式)。国宝4城の中では松本城は唯一の平城である。
(3)戦国末期の戦略的天守と泰平の世になって付設された櫓が連結複合された城郭
豊臣時代の戦略的な拠点としての天守と、徳川時代の瀟洒な櫓が複合し、建築様式の違いが明確にわかり時代の変遷を感じられる城郭は他に類を見ない。
(4)松本城総堀の両側より防御用の杭列が発見された極めて貴重な歴史遺構
昭和45 年追加指定された松本城総堀の両側から防御用の杭列が発見された。この遺構の発見は米沢城の事例に次ぐもので、「大坂冬之陣図屏風」に描かれ大坂城の堀の防御用の杭と同じ役割を果たしていたものと推定されている。極めて貴重な歴史遺構である。 
小笠原貞慶

 

(おがさわら さだよし)戦国時代の武将。信濃国守護小笠原長時の三男。
父長時の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと武田氏に対抗するが、天文17年(1548)の塩尻峠の戦いにおいて敗退し、長時親子は信濃を逃れて同族の京都小笠原氏や三好氏を頼り京へ逃れている。京において長時親子は信濃復帰を望み運動しており、永禄4年(1561)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(大阪府高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している(永禄4年閏3月付小笠原貞虎(貞慶)書状「本山寺文書」)。
その後、長時とともに信玄により駆逐された北信豪族を庇護した越後の上杉謙信のもとへ寄寓し、本山寺に対して祈願文書が発給された永禄4年には上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、永禄4年の第四次合戦を契機に北信を巡る争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。
天正7年(1579)、長時から家督を相続する。長時は上杉謙信の死後に会津蘆名氏のもとに奇偶しているが、貞慶は織田信長に仕えて関東における諸大名への対武田交渉を担当している。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、信長から信濃筑摩郡に所領を与えられた。同年6月、信長が本能寺の変で死去した後は徳川家康の家臣となり、天正11年(1583)、家康から松本城を与えられ、大名として復帰を果たした。
天正13年(1585)、家康の宿老であった石川数正が家康のもとから出奔したとき、数正に従って豊臣秀吉のもとへ赴き、その家臣となった。天正18年(1590)、小田原の役で前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、かつて秀吉の怒りに触れて追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買って改易された。
その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、下総古河に3万石を与えられた。文禄4年(1595)死去。享年50。  
安曇、筑摩地域の歴史
小笠原長清(鎌倉時代)
長野県の中世の歴史において、木曽義仲と並んで重要な人物は、この人になるのではないでしょうか。加賀美長清(かがみながきよ)とも呼ばれ、父は甲斐源氏の加賀美遠光で、母は鎌倉幕府の侍所を勤めた和田義盛の娘になります。加賀美氏は、甲斐国の小笠原(山梨県明野村)を拠点としていたことから、小笠原の姓を名乗っていました。
平安時代末期、甲斐源氏も平家に従っていましたが、治承4年(1180)源頼朝が挙兵すると、小笠原長清も頼朝の元に馳せ参じました。以後、源平合戦や奥州藤原氏討伐などに参戦し、戦功を重ねたと云われます。
承久3年(1221)承久の乱では、鎌倉方の東山道軍の大将軍として御家人を率い、鎌倉幕府の勝利の立て役者ともなりました。
八ヶ岳の南部に位置する小笠原を拠点としていたことから、信濃国の諏訪地域と佐久地域の何れへも進出できる地にあり、小笠原長清は息子を佐久地域の荘園の地頭に任命(伴野氏、大井氏の始祖となる)するなど、信濃へ勢力を広げていきました。後に、鎌倉幕府から室町幕府にかけて長清の血脈を継ぐ者達が、信濃守護として君臨していきました。
江戸時代における長清の血脈は各地に及び、幕末においては松尾小笠原家の越前国勝山藩、府中小笠原家の肥前国唐津藩、豊前国小倉藩(香春藩、豊津藩)、小倉新田藩(千束藩)、播磨国安志藩(あなしはん)、旗本などがある。
小笠原一族の分裂と統一(室町時代〜戦国時代)
鎌倉時代から信濃国守護として君臨してきた名門小笠原家ですが、必ずしも完全な統治を続けてきたわけではなく、一族の争いや周辺諸国人等との戦闘に明け暮れ、ついには信濃国守護としての人望を集めきれずに戦国時代の露と消えました。ここでは小笠原政康から始まる小笠原氏の分裂時代からの家系図を紹介します。
【小笠原三家】
長基-----長秀
   │----長将---持長---清宗---長朝---貞朝---長棟---長時---貞慶 (府中家)
   │----政康---宗康---政秀 (鈴岡家)
      │---光康---家長---定基---貞忠---信貴---信嶺 (松尾家)
永享12年(1440)常陸国の結城を本拠としていた結城氏朝が室町幕府に反抗しておこした結城合戦の翌年に、信濃国における武士の頭領として君臨してきた小笠原政康が病死しました。
小笠原政康の遺言によると、
「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘(飯田市付近)は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする。」
小笠原持長は府中(松本市付近)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良(飯田市付近)を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。
そして、文安3年(1446)になると両者の戦闘が開始され、宗康は決戦を覚悟して弟光康に惣領職と所領の一切を譲り戦闘に全力を注ぎましだ。当初は宗康勢が優勢でしたが、善光寺付近での合戦で持長に破れると、持長軍がしだいに優勢となり、宗康は討ち取られてしまいました。
これにより小笠原家は、府中(小笠原持長)と鈴岡(小笠原政秀)と松尾(小笠原光康)の3つの勢力に分裂し、以後三家の対立は深まっていきました。これが守護家としての力が弱まっていく原因にもなります。
応仁の乱が終了した頃になると、諏訪大社上社と下社の争いに府中の小笠原長朝(持長の孫)が介入します。府中の小笠原長朝は下社を支援し、上社を支援する伊賀良の小笠原と戦いました。また、小笠原長朝は筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族の反発を受け、安曇地方の北部で勢力を持つ仁科氏(大町市付近)とも争うことになります。
小笠原長朝は、仁科氏との戦いや諏訪政満による府中の直接攻撃などを受け形成がしだいに不利になっていきます。そして、ついには鈴岡の小笠原政秀に攻撃を受けて本拠地である林館(松本市)を占領され、府中の小笠原家を滅亡の危機にさらしてしまいました。逃亡した小笠原長朝は、自分が叔父である小笠原政秀の養子となることで許され、再び府中に戻る事ができました。
数年後、鈴岡の小笠原政秀が松尾の小笠原定基(光康の孫)に謀殺されます。この期に乗じた定基は、伊那地方へ進出しますが、それをチャンスとみた府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間にわたって伊那地方へ進撃し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏しました。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家の基に統一されました。統一した小笠原長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中〜伊賀良までの完全支配を達成しました。
そして、この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信(信玄)と戦うことになります。 
小笠原一族の滅亡(戦国時代)
天文11年(1542)武田晴信が諏訪地域を領有したことにより、小笠原長時と武田晴信との対立は本格的となりました。天文14年(1545)武田晴信が上田原の戦いで小県郡を領有している村上義清に破れ、その時に諏訪地方の統治を命じられていた武田晴信の家臣である板垣信方が討死したのを受けて、今こそ武田晴信を討つチャンスと捉えて諏訪大社下社まで討ち入って周辺を放火して武田軍を威嚇しました。
その報を受けた晴信は、慎重に甲府から軍を進め、対する小笠原長時は5,000の軍勢で塩尻峠(岡谷市と塩尻市境)に陣を張り、武田軍との決戦に備えました。しかし、早朝に武田軍の強行軍による奇襲を受け、小笠原軍は壊滅状態に陥りました。打ち破った武田晴信はすぐには安曇野に侵攻せず、佐久や上伊那の地盤を固め、天文18年(1549)から本格的に小笠原長時の攻略を始めました。小笠原氏配下である大町の仁科道外をはじめ、家来衆が次々と寝返り、城を明渡したり降伏などし、小笠原長時の周辺がしだいに崩されていきました。奈良井川と梓川の合流点にあった平瀬城に小笠原長時は逃げましたが、敵わないみて村上義清を頼って小県に向かいました。その後、長時は村上義清の援護を受けて数度、府中(松本市周辺)の奪回を試みますが全て失敗しました。
失意の小笠原長時は、飯山地方に根を張る高梨氏の取り成しにより越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、息子の小笠原貞慶を託しました。そして、長時自身は一族が領していた伊那の鈴岡城に入りますが、武田軍の攻撃により下条(下伊那郡下條村)→駿河国→伊勢国と流浪を続け、京都の三好長慶の元に身を寄せました。しかし、三好氏が織田信長によって滅ぼされ、居所を失った長時は再び上杉謙信を頼り、謙信死亡後は会津の芦名氏に身を寄せました。そして、長時は最後にこの地で家来に刺されて死亡するという悲惨な運命を辿ります。 
織田信長の安曇野侵攻(戦国時代)
小笠原氏の滅亡により、甲斐の武田氏による安曇、筑摩地域の支配が始まります。深志城(松本市)を中心として武田信玄の家来である馬場信房が2郡を統制しました。しかし、武田信玄の死後に発生した長篠の戦い(愛知県鳳来町)において馬場信房が討死し、その数年後織田信長の信濃侵攻が開始されました。安曇、筑摩地域の諸将は戦わずして織田信長に降伏し、最も早く武田氏を裏切った木曽義昌が領有する形となりました。
しかし、それからたった3ヶ月後に織田信長が本能寺で討たれると、この地は北から越後国の上杉景勝が侵攻し、南から駿河、遠江、三河国の徳川家康が侵攻してきて両者の力が均衡する場となりました。最初に侵攻してきたのは小笠原貞種(小笠原長時の弟)を擁護していた上杉謙信で、深志城を奪取しました。しかし、三河国に身を寄せていた小笠原貞慶(小笠原長時の子)が徳川家康の援助を受けて伊那地域から塩尻(塩尻市)に入り、在地の元家臣らをまとめて深志城を奪回しました。これを黙っていられないのが木曽義昌で、小笠原貞慶に攻撃をしかけますが逆に撃退されて小笠原貞慶に本拠地である木曽まで攻めこまれてしまいました。その後、豊臣秀吉、徳川家康により両者の争いが停止され、木曽義昌と小笠原貞慶は徳川家康の管轄下におかれました。 
豊臣秀吉の影響(戦国時代)
豊臣秀吉による小田原征伐(神奈川県)の後に、徳川家康の関東移封が行われました。徳川家康の管轄下にあった小笠原貞慶は下総国の古河に移封となり、木曽義昌は下総国の網戸に移封となり、代わって安曇、筑摩地方には豊臣秀吉の調略によって徳川家康から引き抜かれた石川数正が配置されました。
石川数正、石川康長父子は深志城の改築を始め、石川康長は深志城を松本城と銘々しました。豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦が発生しますが石川康長は徳川方につき各地を従軍しました。関ヶ原の戦いの後に、石川康長は松本を安堵されますが、大久保長安事件に関与していたとされ改易されました。 
文禄慶長の役(戦国時代)
全国を統一した豊臣秀吉は、日明貿易の復活に期待して、まずはその手前に位置する朝鮮国を味方にしようとしました。しかし、朝鮮国は明国との長年の関係から応じるつもりはなく、天正18年(1590)の秀吉の使節による要求を拒絶しました。これにより天正19(1591)年肥前国名護屋城を築き、文禄元年(1592)には全国の諸大名に動員令を発して16万の兵力が朝鮮半島へ送られました。
文禄元年2月20日石田三成・大谷吉継が京都発、21日浅野幸長が京都発、24日羽柴秀勝が京都発、3月16日前田利家が京都発、17日徳川家康・佐竹義宣・伊達政宗が京都発、18日小諸藩主の仙石秀久1,000人、松本藩主の石川数正500人が京都を発しました。その他信濃衆としては、諏訪高島藩主の日根野高吉300人、飯田藩主の毛利秀頼1,000人、上田藩主の真田昌幸500人が九州の名護屋城へ出陣しました。
石川数正は、もともと徳川家康の宿老として活躍してきましたが、小牧長久手の戦いで家康の和議の使者として秀吉のもとに赴き、翌年豊臣秀吉の誘いに乗って家康のもとを出奔して秀吉に仕えました。この時に小笠原秀政も伴って家康のもとを出奔しており、数正は松本の地を与えられ、秀政は飯田の地を秀吉から与えられたのでした。
しかし、石川数正は名護屋城にて滞陣中に発病して、文禄元年12月名護屋か京都の何処かで病死しました。ある書物によると「数正フグの肉食シ毒死」と書かれています。この後、天下を取った徳川家康にしては、出奔した石川数正と小笠原秀政をどのように扱うか考えたことでしょう。石川家は大久保長安事件に連座して改易、小笠原秀政は大坂夏の陣で徳川秀忠から不戦功をなじられて、後日に無理をして討死しました。
慶長の役には信濃衆は出陣していません。 
江戸時代の松本藩(江戸時代)
改易された石川康長の後に飯田(飯田市)を与えられていた小笠原秀政が松本城に入りました。これにより再び小笠原氏による安曇、筑摩地域の統治が始まったことになります。元和元年(1615)大阪夏の陣には、小笠原秀政、忠脩親子が出陣し討死したが、秀政の子の小笠原忠真がその跡を継ぎました。そして、数々の功績が認められて播磨国(兵庫県)明石へ加増移封になりました。これ以後、安曇、筑摩地域は10万石以下の大名が幾度となく交代となり、余った領地は天領とされました。 
徳川将軍家より見た小笠原家
豊臣家が滅亡した翌年、元和2年(1616)徳川家康が死亡しました。大きな後ろ盾を無くした2代将軍徳川秀忠は、自分の力を全国に示す為に数十万という大軍(各地の大名)を要して京都へ上洛し、さらに全国各地の大規模な大名配置換えを実施しました。
松本藩小笠原忠真の明石移封もこれにあたります。小笠原家は、徳川家康よりは徳川秀忠の軍勢の1部として多くの戦いに編成されてきました。徳川秀忠より譜代大名としての信頼が深く、重要な位置に配置されたのです。江戸から見ると明石は、強力な外様大名がひしめく西国の入口に位置し、大阪城を中心とした山陽道の要になります。暫くして小笠原氏は明石藩から小倉藩(北九州)に移封になりました。移封後すぐに明正14年(1637)島原の乱が勃発し、大きな失態を犯し改易になる可能性がありましたが幕末まで存続しました。小倉藩は幕末の第2次長州征伐において小倉城を長州藩に落とされたりするなど激動の歴史を歩んで行くことになります。 
松本藩の混迷(江戸時代)
小笠原忠真が明石に移封された後に配置されたのが戸田(松平)康長になります。徳川家康の譜代中の譜代家臣で、始めて松平姓を与えられた人物でもあります。しかし、この移封から安曇、筑摩地域の完全な支配体勢が崩され、筑摩郡のほとんどが幕府天領、高遠藩領、高島藩領となってしまいました。戸田康長が死亡すると息子の戸田康直が跡を継ぎますが小笠原忠真と同様に播磨国明石藩へ移封となりました。
戸田康長→戸田康直→播磨国明石へ
次に配置されてきたのは越前国(福井県)大野から来た松平直政で、結城秀康(徳川家康の息子)の3男です。そして、暫くして松平直政が出雲国松江へ移封すると、次は堀田正盛が移封されてきました。堀田正盛は当時の3代将軍家光に子供の頃から仕えてきた人物で(堀田正盛の父である堀田正吉が春日局の娘を嫁に貰う)、老中となって権勢を揮っていました。しかし堀田正盛は、下総国佐倉へ移封の後に徳川家光の死に伴って殉死しました。
代わって三河国吉田より水野忠清が7万石で入封しました。この水野氏によりしばらく松本藩が続くのですが享保10年(1725)に藩主水野忠恒が江戸城中にて発狂刃傷に及んで改易されました。
水野忠清→忠職→忠直→忠周→忠幹→忠恒→旗本へ
そして、水野氏の改易により一時天領となっていた松本藩でしたが、約100年前に明石へ移封して行った戸田氏が再び帰ってくることになりました。戸田氏は明石藩に移封してからも、美濃国加納藩→山城国淀藩→志摩国鳥羽藩と流浪を繰り返し、ようやく松本に帰ることができました。
戸田光慈→光雄→光徳→光和→光悌→光行→光年→光庸→光則(明治維新) 
水野忠恒発狂事件(江戸時代)
享保8年(1723)松本5代藩主水野忠幹が若くして死亡すると、子供がなかったことから遺言どおり弟の忠恒が22歳で6代藩主となりました。元々藩主となる予定が無かった忠恒は酒色に荒く、弓矢鉄砲で遊ぶ日々を送っていました。
藩主となってから2年目になると婚姻のはこびとなり、大垣藩主戸田氏長の息女を娶ることになりました。水野家の祝言が終り、忠恒は戸田家の祝宴に出向きましたが、夜間に発狂し、心配する家臣をよそに翌日婚儀御報告として江戸城に登城しました。城内で将軍徳川吉宗への拝礼を済ませて退城する際に、松の廊下で長府藩毛利家の世継ぎである毛利師就(もうりもろなり)とすれ違うと突然抜刀して斬りかかりました。毛利師就は鞘刀で防戦し、忠恒は廊下番戸田右近将監に取り押えられました。
忠恒は取り調べにおいて、「自分の領地が没収されて、毛利師就にそれが与えられるものと思って斬りつけた」と証言しました。毛利師就は、「忠恒とは面識もなく、宿怨があるわけでもなく、いきなり斬りつけられた」と証言しました。
これにて毛利師就はお咎め無く、忠恒は罪を問われて川越藩にお預けとなり領地は没収となりました。嫁いだ大垣の戸田氏長の息女は嫁いで1週間程で大垣藩へ帰るはめとなりました。忠恒は、元文4年(1739)叔父の水野忠穀の江戸浜町邸にて死去しました。(墓所は伝通院)
松本藩取り潰しの際に、名門水野家の廃絶を惜しむ声が強く、父水野忠周の弟である忠穀(ただよし)が佐久郡7,000石旗本で辛うじて断絶を免れました。しかし、7万石の家臣を養うことはできず、多くの家臣は城下を去り、他家に仕官したり、土着して農民となった者もいました。現在、松本の地にはかつての水野家臣の子孫が多く住んでいるそうです。
高野町村 1,065石 佐久町
宿岩村 179石 佐久町
中畑村 162石 八千穂村
上畑村 462石 八千穂村
八那村 100石 八千穂村
馬越村 47石 八千穂村
本間村 73石 小海町
高柳村 377石 佐久市
取出町村 281石 佐久市
本新町村 317石 佐久市
前山村 567石 佐久市
前山新田 58石 佐久市
今岡村 228石 佐久市
落合村 341石 佐久市
香坂村 488石 佐久市
海瀬新田 69石 佐久町
内山村 1,997石 佐久市
清川村 623石 臼田町
上中込(大奈良) 972石 佐久市・臼田町
合計 8,411石  『享保17年(1732)水野忠穀知行所村高帳』より佐久郡7,000石
一方、佐久に領地をもらった水野忠穀の跡を継いだ忠友、忠成の時に駿河国沼津(静岡県沼津市)に5万石を賜わり、再び大名として返り咲きました。この時に水野家を去った家臣も一部が再度奉仕しました。この沼津藩が明治維新まで続きます。 
千石街道(江戸時代)
戦国時代の頃から整備されはじめた「ちくにかいどう」、「せんごくかいどう」とも呼ばれる道が松本と日本海(現在の新潟県糸魚川市)を結んでいました。糸魚川市から姫川に沿って信濃国に入ると険阻な山道が続き、冬は数mの積雪となるので、馬ではなく牛や人によって物資を運搬したと言われます。
江戸時代に入ると一般の旅人は千国街道を使用せず、もっぱら物資の運搬専用の街道となっていきました。主な運搬品は「塩」「肴」「越中木綿」「高岡金物」「輪島漆器」「九谷焼」などの北陸地方の特産品と信濃の特産品でした。
日本海から塩を運搬する道なので、別名「塩の道」と呼ばれました。塩は湿気を吸うとニガリとなって溶けだし目減りするので塩は俵に詰めて運ばれました。また乱暴に運搬すると、隙間からこぼれてしまうために、大変な苦労だったと言われます。
松本宿→成相新田宿→穂高宿→池田宿→大町宿→沢渡宿→飯田飯盛宿→塩島新田宿→千国宿→来馬宿→大網宿→越後国へ 
石川数正

 

石川数正1
(いしかわ かずまさ)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。酒井忠次と共に徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。信濃松本藩の初代藩主とすることが通説となっている。
家康の近侍
天文2年(1533)、石川康正の子として三河で生まれる。徳川家康が松平竹千代の幼名を名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕え、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男松平信康と駿府に留め置かれていた家康の正室築山殿を取り戻した。永禄4年(1561)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍した。
家康の懐刀
永禄5年(1562)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。このため戦後、家康から家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになった。松平信康が元服するとその後見人となった。永禄12年(1569)には家康の命令で、叔父の石川家成に代わって西三河の旗頭(旗本先手役)となった。
また、軍事面においても元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。
天正10年(1582)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされる(この説は後に数正が秀吉方に与したという結果論から作られた説とも)。
謎の出奔
天正13年(1585)11月13日、突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡した。理由は謎であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」等諸説入り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。
数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。この改革に尽力したのが、織田・徳川連合軍によって武田家が滅亡した際に、家康が信長による武田の残党狩りから匿った武田の遺臣達である(『駿河土産』)。
豊臣の家臣
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。この時出雲守吉輝と改名したとも伝わる。天正18年(1590)の小田原の役で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本10万石に加増移封された。
文禄2年(1593)に死去。享年61。しかし没年には異説もあり、文禄元年(1592)に死去の説もある。
家督は長男の康長が継いだが、遺領10万石のうち、康長は8万石、次男の康勝は1万5000石、3男の康次は5000石をそれぞれ分割相続することとなった。 
石川数正2
石川康正の嫡男で、家成の甥にあたり、助四郎(あるいは与七郎)と称した。石川家の祖は河内源氏の八幡太郎義家の 6男・義時の 3男で、河内国壷井の石川荘を領していた石川義基(石川源氏)といい、数正の家は三河に下った石川氏の与党という。
祖父・清正、父・康正と代々松平家に仕える家柄に生まれた数正は、天文18年(1549)、家康公の父・松平広忠の死去で家康公が今川氏の人質として駿府へと赴く際に、供の者に選ばれ、そのお側頭として同行し、家康公と苦労を共にしている(したがって、年齢は家康公よりもだいぶ上であったと思われ、天文 2年(1533)生まれともいう)。
数正は、徳川氏譜代の中でも酒井忠次とともに両家老と称され、戦功のみならず、政治的手腕に長けていたことで重用された。永禄 3年(1560) 5月、桶狭間において今川義元が倒れた後、家康公と織田信長が同盟を結ぶと、その外交手腕を発揮し、駿府に単身乗り込み、義元の子・氏真を説得し、今川氏の人質となっていた家康公の正室・瀬名姫(築山御前)、嫡男・信康を無事に岡崎に連れ戻すことに成功している。
永禄 6年(1563)に三河一向一揆が起こると、父・康正は家康公に反旗を翻したが、数正は家康公に尽くし、翌永禄 7年(1564)、数正は西三河の諸士を付属され、旗頭(組頭)として軍団を指揮し、元亀元年(1570)の姉川合戦、その後も三方ヶ原・長篠合戦に従い、又、遠江攻略の諸戦でも先鋒として出陣し、多くの戦功を挙げ、徳川氏の勢力拡大に大いに貢献した。これら多くの活躍により数正は、譜代の最上席として、一門に準ずる地位を与えられていた。
しかし、天正13年(1585)11月、突如、岡崎を出奔し、羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになる。これは前年の天正12年(1584)、秀吉との間に小牧・長久手合戦が起こり、秀吉と和議が成立した時、家康公の使いとして秀吉に祝詞を述べに赴いた数正が、和平論者として秀吉に認められ、その家臣になることを勧められたためとも言われているが、謎とされている。数正は出奔した翌年の天正14年(1586)、秀吉より和泉国 14万石を与えられ、従五位下に叙任され、それまでの伯耆守から出雲守に改称した。その後、豊臣の武将として九州征伐、小田原の陣に従軍し、同18年(1590)には、信濃国松本城主として 8万石を領した。文禄元年(1592) 3月には文禄の役に従軍、肥前国名護屋城に出陣したが12月に陣中で没した。同月14日には京都の七条河原で葬礼が行われている。
筆頭家老ともいうべき数正の出奔は、譜代の諸将に大きな動揺を与え、家康公も徳川氏の軍事組織の機密が漏れることを憂慮して、急遽、軍備・軍団編成を甲州流(武田流)に改めたと言われている。数正の晩年は徳川譜代の家臣からその変心を非難され、不遇のうちに生涯を終えたと伝わっている。又、その遺骸も密かに三河の本宗寺(愛知県岡崎市美合町)に埋葬されたという。 
出奔事件1
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。
秀吉との外交を担当していたが、次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉との外交を担当していたが、秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
秀吉との外交を担当していたが、対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
松平信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
松平信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
山岡荘八の小説『徳川家康』では、家康の家臣には外交に向かない無骨者の三河武士が多いため、家康や本多重次との暗黙の了解のうちに、あえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目を引き受けたという設定になっている。 
出奔事件2
天正十三年(1585)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。
この石川数正出奔事件については、11月12日と11月13日の2つの説がありますが、とりあえず、本日書かせていただきます。
戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・
なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康の幼少の頃からの補佐役、あの人質時代にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。
そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。
その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・。
その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。
そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻ったわけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。
そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んだのです。
もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。
駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。
後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。
しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。
その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。
その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。
そして、元亀元年(1570)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。
この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。
自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。
ところが・・・です。
天正七年(1579)に事件は起こります。
その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。
通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています。
もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。
が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページで書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。
『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。
あれだけ手塩にかけた若君ですよ。
岡崎城の城代家老ですよ。
この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考えられないですよね。
おそらく、この時、数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。
それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?
そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。
おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。
しかし、それでも数正は、天正十年(1582)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越えの時には、家康を守って行動をともにしています。
ただ、その直後です。
信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。
戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。
ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。
もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。
この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。
かくして、天正十三年(1585)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。
ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。
彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。
あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)の名護屋まで、兵を率いて赴いています。
ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。
寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからに他ならないでしょう。
徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。
おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。
結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。 
 
犬山城

 

犬山城1
別名 白帝城 尾張徳川家付家老成瀬氏居城
犬山城は木曽川南岸標高約40mの崖の上にそびえ、天守は全国の現存するもののなかで最も古いとされています。地形的にみると、丘陵と周囲の平地をあわせた「平山城」ですが、天守の背後の木曽川が自然の要害となっているのが見て取れます。
 犬山城は天文初め頃、織田与次郎信康によって創建されたとされていますが、以後、とくに木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要な拠点として重きをなしてきました。
天守の構造
1階:上段の間・武者隠しの間・納戸の間 / 城主の居間とされ、床が高く畳が敷き詰められ、床・違い棚が設けられた書院造りの間です。これは、江戸時代(文化年間)の改造と考えられています。その北は、万一を警護する武士の詰所となっており、東は、納戸の間が配されています。それらをとりまいて武者走りの板の間があります。
2階:武具の間 / 中央が武具の間で、西北東の三方に武具棚が備えられています。
3階:破風の間 / 唐破風は、元和〜貞享の七十余年の間に、成瀬氏により増築されたといわれます。南北に唐破風、東西に千鳥羽破風が設けられています。
4階:高欄の間 / 回廊は、成瀬氏による増築とされ、高欄と廻縁がまわる望楼となっています。
城主一覧 (城主・城代名/年代/参考)
織田与次郎信康 天文6(1537)-天文16(1547) 木の下より現在地に城郭設定する。稲葉山(斉藤道三)攻めで戦死する。
織田十郎左衛門信清 天文16(1547)-永禄8(1565) 信康の4男 織田信長従弟で、連合で勢力を強化していたが、後に信長に犬山を襲われ甲州へ逃れる。
池田勝三郎信輝(恒興) 元亀元年(1570)-天正9(1581) 信長の家臣。桶狭間の戦いで戦功あり。後に、尼ケ崎城へ移る。
織田源三郎信房 天正9(1581)-天正10(1582) 信長の5男で、池田恒興の娘婿。本能寺変で父に殉ずる。
中川勘右衛門定成 天正10(1582)-天正12(1584) 信長次男信雄の家臣で、豊臣秀吉家臣池田恒興に攻められ戦死する。
池田紀伊守信輝入道勝入(恒興) 天正12(1584) 小牧・長久手の戦いで戦死する。秀吉、犬山城に入城する。
加藤作内丞泰景 天正12(1584) 秀吉の家臣。小牧・長久手の戦いがこう着状態となり秀吉一時還軍で番手となる。
武田五郎三郎清利 天正12(1584)-天正15(1587) 小牧・長久手合戦後、秀吉より信長次男織田信雄に城が返却され、信雄の家臣武田が城主となる。
土方勘右衛門雄良 天正15(1587)-天正18(1590) 信雄の家臣。後に、信雄が秀吉により配流される。
長尾武蔵守吉房 天正18(1590)-文禄元(1592) 秀吉養子秀次が遺領を与えられ、秀次の実父長尾が城主となる。
三輪出羽守五郎右衛門 文禄元年(1592)-文禄4(1595) 秀次の家臣。秀次、秀吉と不和になり自刃する。
石川備前守光吉(1万2千石) 文禄4(1595)-慶長5(1600) 秀吉の家臣。木曽谷代官を兼務する。関ケ原の合戦で西軍にくみし、退城。
小笠原和泉守吉次(2万7千石) 慶長6(1601)-慶長12(1607) 徳川家康4男松平忠吉の家臣。
平岩主計頭親吉(9万3千石) 慶長12(1607)-慶長17(1612) 家康9男徳川義直(尾張藩主)の家臣。
元和3年(1617)以後尾張藩付家老成瀬家が城主となる。
成瀬家の先祖は
さかのぼると藤原鎌足の子孫である関白二条良基といわれます。良基が、諸国流浪中に今の足助の里に一時住み、子を設けました。この子が後に成瀬郷に住みつき、その里の名をとって成瀬と名乗ったといわれます。
犬山城の城主となった初代の成瀬正成
永禄10年(1567)、三河に成瀬正一の嫡男として生まれました。幼名を小吉といい、幼年時代から徳川家康に小姓として仕え、天正12年(1584)小牧長久手の戦いで初陣。その後功績をあげ、家康に信任された側近の一人となりました。慶長15年(1610)、家康の命により家康の九男である義直の補佐役を仰せつけられました。慶長17年(1612)に犬山城主平岩親吉が逝去してから不在となっていた犬山城を元和3年(1617)に将軍徳川秀忠より成瀬氏が拝領。寛永2年(1625)1月17日に病没。
犬山城と成瀬氏
徳川家康九男義直が尾張藩主となり、義直の尾張入りに際して傅役(もりやく)の成瀬正成が犬山城主となって以後、成瀬氏は二代正虎(寛永2・1625―万治2・1659)、三代正親(万治2―元禄16・1703)、四代正幸(元禄16―享保17・1732)、五代正泰(享保17―明和5・1768)、六代正典(明和5―文化6・1809)、七代正壽(文化6―天保9・1838)、八代正住(天保9―安政4・1857)九代正肥(安政4―明治2・1869)と犬山城主を世襲するとともに代々尾張藩の筆頭家老を務めました。
なお、近代以降は明治2年(1869)版籍奉還に際しては、九代正肥が犬山藩知事に任ぜられ、犬山「藩」が公的に成立しましたが、その後の明治4年には廃藩置県により廃城が決定し、成瀬氏の犬山城主に終止符がうたれました。しかし、明治24年(1891)濃尾大地震により天守と西面北端の付櫓や城門の一部が倒壊すると、その修理に際して城は再び旧犬山藩主正肥に譲与され、以後十代正雄、十一代正勝、十二代正俊と平成16年(2004)3月まで成瀬家が代々犬山城を所有してきました。  
犬山城2
国宝の犬山城は、天守が現存する12城のうちの1つで、3層4階地下2階の小振りな天守は、南面東端と西面北端に単層の付櫓が付属し、入母屋の上に望楼をあげる複合式望楼型天守という古い様式となる。現存する天守が建てられた年代については、天文期説や慶長期説などあるが、現在の姿になったのは成瀬正成(まさなり)が改修した元和3年(1617)頃である。犬山城は背後に木曽川が流れ、河川と急峻な崖によって守られる、いわゆる「後ろ堅固」な平山城である。木曽川に面する三方を断崖とした丘陵に本丸を置き、続いて杉の丸、樅(もみ)の丸、桐の丸、松の丸を階段状に連ねて配置し、内堀をめぐらしている。その南側に三の丸を置き、さらに城下町も取り込んだ惣構えの構造であった。木曽川を眼下に見下ろす天守は、唐の詩人李白(りはく)が「朝(あした)に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日にして還る、両岸の猿声啼きやまざるに、軽舟すでに過ぐ万重の山」と叙した長江沿いの景観に似ることから、江戸時代の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)は白帝城と雅称した。犬山城は明治時代に廃城となり競売に出された。諸櫓や城門は処分されたが、天守は大きすぎて買い手がつかず県の所有として残った。その後、明治24年(1891)東海地方に日本史上最大の直下型地震といわれる濃尾地震が発生、犬山城の天守は半壊し、付櫓や城門なども倒壊した。この地震による被害は大きく、災害復旧をおこなう愛知県は犬山城の修復までは手が回らなかった。取り壊しが検討されたが、住民や旧家臣団を中心に保存の声が上がったため、元城主である成瀬正肥(まさみつ)に犬山城の修復と保存を条件に、天守と城地を無償譲渡した。ここに全国でも例を見ない個人所有の城が誕生した。その後、犬山城は成瀬氏が代々所有してきたが、平成16年(2004)財団法人犬山城白帝文庫が設立され、この財団が犬山城を所有・管理することとなった。往時、犬山城には14基の櫓が存在しており、本丸に2層の弓矢櫓、小銃櫓、大砲櫓、単層の千貫櫓、多聞櫓があり、杉の丸に2層の御成櫓、器械櫓、樅の丸に2層の屏風櫓、桐の丸に2層の道具櫓、宗門櫓、松の丸に2層の未申櫓、辰巳櫓、それ以外に2層の川端丑寅櫓、単層の井戸櫓があった。このうち、宗門櫓が江南市の個人宅に移築され現存しているという。瑞泉寺(犬山市大字犬山)には犬山城の搦手門である内田御門が移築され現存している。他にも、黒門が徳林寺(大口町余野)に、矢来門が専修院(扶桑町大字柏森)に、松の丸門が淨蓮寺(一宮市千秋町)に、松の丸裏門が常満寺(犬山市大字犬山)に移築現存する。一方、本丸にある本丸門(鉄門)は模擬櫓門であり、小銃櫓跡にある櫓(永勝庵)も模擬櫓で、当時の建物とは一切関係ない。天文6年(1537)織田信長の叔父である織田与次郎信康(のぶやす)が、木ノ下城(犬山市大字犬山)を廃して、現在の犬山城の南西の丘陵である三光寺山に築城したのが犬山城の始まりである。天文16年(1547)信康が斎藤道三(どうさん)との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死すると、嫡子の十郎左衛門信清(のぶきよ)が跡を継ぐ。信清は信長の従兄弟にあたるが、永禄元年(1558)浮野の戦いでの恩賞に不満があり、木曽川対岸の美濃鵜沼城(岐阜県各務原市)の大沢治郎左衛門正秀(まさひで)と示し合わせ、信長にことごとく反目していた。一説には軽海の戦いで弟の勘解由左衛門信益(のぶます)を戦死させた恨みともいう。そして、ついに美濃国を治める戦国大名の斎藤龍興(たつおき)とも手を結んだ。 
美濃と尾張の国境線である木曽川に面した犬山城は、美濃勢にとって尾張攻略の強力な橋頭堡となりうる。信長は丹羽長秀(にわながひで)に東美濃方面の攻略を任せ、長秀がまず取り組んだのが犬山城の調略であった。永禄7年(1564)信清の家老で、黒田城主の和田新介定利(さだとし)と、於久地城主の中嶋豊後守が丹羽長秀に内通を約束、このため犬山城は目立った抵抗もできず信長軍に陥される。織田信清は武田氏を頼って甲斐国に逃れ、その後は犬山鉄斎と称した。これにより、織田信長の尾張統一は完成する。犬山城は一門衆の柘植与一(ともかず)に与えられた。柘植与一とは、『織田系図』などでは織田信康の六男、『尾濃葉栗見聞集』では織田信清の弟である信益の六男となっている。しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの当時から、織田信清とは絶縁関係であった。『織田系図』には、諱として与一と載せられているが、通称が誤り伝えられたものかも知れない。その後、犬山城の城主はめまぐるしく交代した。元亀元年(1570)信長の乳兄弟であった池田勝三郎恒興(つねおき)が、姉川の戦いの戦功により、1万貫の領地と犬山城を与えられて城主になるが、天正9年(1581)織田源三郎信房(のぶふさ)に代わった。織田信房とは、武田家で人質となっていた信長の五男坊丸である。初め、美濃岩村城(岐阜県恵那市)の女城主であったお艶(つや)のもとに養子に出した。お艶は信長の叔母で、坊丸に岩村遠山家を嗣がせるためである。ところが、岩村城が武田軍に攻略され、坊丸は甲斐に送られた。天正9年(1581)武田家が滅亡する前に、武田勝頼(かつより)によって信長のもとに送り返され、犬山城主となっている。天正10年(1582)本能寺の変で信房が長兄の織田信忠(のぶただ)と共に討死すると、犬山城は信長の次男で清洲城主の織田信雄(のぶかつ)によって支配され、中川勘右衛門定成(さだなり)が城代を務めた。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉方の軍勢が伊勢国に向けて出陣、これを受けて中川定成は、犬山城の守備を叔父であり瑞泉寺の住職である清蔵主(せいぞうす)とわずかな守備兵に委ねて伊勢に入った。犬山城の手薄な守りを知った大垣城主の池田恒興は、旧知の住民らの手を借りて、一夜にして犬山城を落としてしまう。この時の犬山城は、まだ三光寺山にあったと『犬山里語記』にあり、現在の天守がある場所には白山神社が鎮座していた。主戦場である清蔵主の討死の地には、榎が植えられたと伝わり、現在も成長した大榎と石碑を見ることができる。犬山城の急変を知った中川定成は、犬山に向かう途中の美濃池尻堤(大垣市)で、池田恒興に味方する池尻平左衛門によって闇討ちされた。犬山城には羽柴秀吉が大坂より着陣して、小牧山城(小牧市)に陣を構える織田信雄・徳川家康連合軍と対峙した。仏ケ根の戦いで池田恒興、森長可(ながよし)が討死したのち、戦闘は膠着状態が続いたため、秀吉は加藤光泰(みつやす)に犬山城代を命じて、一旦軍勢を引き揚げた。秀吉と信雄が和睦すると、尾張国は引き続き信雄が領有することとなり、犬山城には武田五郎三郎清利(きよとし)が城代として入城、天正15年(1587)からは土方勘兵衛雄久(かつひさ)が城代を務めた。天正18年(1590)信雄が秀吉の勘気に触れて改易された後、尾張国は羽柴秀次(ひでつぐ)が引き継いだ。犬山城には、秀次の実父である三好武蔵守吉房(よしふさ)が入り、天正19年(1591)より吉房の次男の羽柴秀勝(ひでかつ)、文禄元年(1592)より吉房の従兄弟の三輪吉高(みわよしたか)が入封している。 
文禄4年(1595)豊臣秀次が失脚すると三輪吉高は犬山城を退去した。代わって、豊臣秀吉の家臣で、金切裂指物使番(きんのきりさきさしものつかいばん)を務めた石川貞清(さだきよ)が、1万2千石で入城した。秀吉の金切裂指物使番とは、金色の靡きやすく切り裂いた指物を使用した使番のことで、『武家事紀』には金切裂指物使番として貞清を含めた32名が紹介されている。貞清は信濃国木曽谷の太閤蔵入地10万石の代官も兼務しており、木曽材の伐り出し、およびその輸送路である木曽川を一元的に管理していた。そして、天正19年(1591)文禄・慶長の役の拠点である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の普請工事を担い、文禄元年(1592)から朝鮮出兵に従軍する。文禄4年(1595)これらの功績により一躍12万石に加増されている。慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなると、次の天下を狙う徳川家康は、それを阻止しようとする五奉行の石田三成(みつなり)と対立、慶長4年(1599)三成の奉行職を解任させて、近江佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居を命じている。そして、家康は摂津大坂城(大阪府大阪市)の西の丸を本拠として居座り、味方を増やすために独断で豊臣大名への加増や転封を実施した。この多数派工作によって、細川忠興(ただおき)を豊後国杵築6万石、堀尾吉晴(よしはる)を越前国府中5万石、森忠政(ただまさ)を信濃国川中島13万7千石に転封し、宗義智(よしとし)に1万石を加増している。そして、森忠政の転封により空き城となった美濃金山城(岐阜県可児市)を石川貞清に与えた。これには貞清を家康陣営に引き入れようとする意図があったものと考えられている。慶長5年(1600)貞清は拝領した金山城の天守、御殿、諸櫓、諸城門、侍屋敷にいたるまで全てを解体し、古材を筏に組んで木曽川を下り、犬山に移築したという伝承が残る。世にいう金山越(かねやまごえ)である。伝承によると、移築されたのは天守のほか、弓矢櫓、小銃櫓、屏風櫓、道具櫓、本丸御殿、内田御門(金山城大手門)、三の丸屋敷門などで、犬山・金山(可児市兼山)の双方の古記録にも多数残されている。昭和36年(1961)犬山城天守の解体修理における調査の結果、移築の痕跡が見あたらなかったため、天守移築説は否定されたが、金山城の発掘調査の結果により、金山城の天守台は付櫓も含めて犬山城の形状とほぼ一致することが判明しており、天守だけ移築しないということは考えにくい。森家の川中島への引っ越しには約1ヶ月半を要し、その後に金山城の解体および運搬が可能なる訳だが、間もなく関ヶ原の戦いが勃発してしまう。この短い期間でこれほどの規模の移築を完了させるのは困難であったと考えられ、大部分は後に犬山城主となる小笠原吉次(よしつぐ)が引き続きおこなったものと思われる。これを裏付けるように、『正事記』や『犬山城主附』では吉次の時代に金山越が行われたとしている。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて、石田三成が毛利輝元(てるもと)を総大将として挙兵すると、石川貞清は家康の期待に反して、三成の西軍に加担した。石田三成は6千の兵を率いて垂井に進み、美濃大垣城(岐阜県大垣市)の伊藤盛正(もりまさ)を説得して開城させている。そして、清洲城(愛知県清須市)に迫るが、福島正則(まさのり)の家臣である大崎玄蕃に拒否されたため、濃尾国境を流れる木曽川で東軍を食い止めようと考えた。こうして、織田秀信(ひでのぶ)の美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)を中核に、犬山城、美濃竹鼻城(岐阜県羽島市)を結ぶ防御ラインを構築している。 
西軍の防衛拠点となった犬山城には、稲葉貞通(さだみち)・典通(のりみち)父子、稲葉方通(まさみち)、加藤貞泰(さだやす)、関一政(かずまさ)、竹中重門(しげかど)ら美濃・尾張の武将も籠城した。しかし、援軍の武将たちは東軍の井伊直政(なおまさ)に内通してしまい、岐阜城が落城すると石川貞清を残して勝手に撤収してしまった。そして、犬山城の東方の瑞泉寺に東軍の福島正則の軍勢が集結し始めると、石川貞清は単独での籠城をあきらめ、捕縛していた東軍の山村良候(よしとき)を解放、犬山城を放棄して関ヶ原本戦に向かった。空き城となった犬山城には、西軍の生熊長勝(いくまながかつ)が入城して守備している。関ヶ原本戦で石川貞清は宇喜多秀家(ひでいえ)隊の右翼にあたる口北野付近に布陣、東軍の井伊直政隊が宇喜多隊に突撃をおこなって戦端が開かれた。緒戦は西軍が有利であったが、小早川秀秋(ひであき)隊の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅する。石川貞清は犬山城に逃れ、生熊長勝と共に籠城するが、ついにあきらめて東軍に降伏開城した。石川貞清の領する犬山12万石は没収されるが、池田輝政(てるまさ)の助命嘆願や、籠城中の人質解放が評価され、貞清は黄金1千枚で助命される。その後、剃髪して宗林と号し、京に隠棲した。関ヶ原の戦いの後、桜井松平忠頼(ただより)が2万5千石で美濃国金山に転封、金山城と犬山城の守備を務めた。金山城は既に犬山への移築工事が始まっていたため、忠頼は犬山城に居城することになる。慶長6年(1601)松平忠頼は遠江国浜松5万石に転封となり、その後、清洲城が家康の四男である松平忠吉(ただよし)に与えられ、同時に小笠原吉次が、徳川家康の命によって忠吉の付家老となり、3万5千石で犬山城を与えられた。この時代、現在の位置に天守が移され、二層から三層に改築された。また、犬山の城下町も整備され、犬山城は近世城郭へと成長している。慶長12年(1607)松平忠吉は病没、嗣子がなく断絶したため、小笠原吉次は下総国佐倉3万石に国替えとなった。同年、徳川家康の九男である徳川義直(よしなお)が53万石で清洲城主となり、犬山城には義直の後見人である平岩親吉(ちかよし)が付家老として12万余石で入った。しかし、慶長17年(1612)親吉は世継ぎがないまま亡くなり断絶、犬山城には城番が置かれることとなる。元和3年(1617)同じく尾張藩付家老の成瀬正成は、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)から犬山城を拝領し、3万5千石で犬山城主となった。成瀬正成は、もとは下総国栗原4千石および甲斐国内2万石、三河国加茂郡内1万石の合計3万4千石の大名であったが、慶長15年(1610)家康たっての依頼により、やむなく徳川義直の補佐役として陪臣になった。このため、一城を拝領して大名に準じる別格の扱いを受け、尾張藩の付家老として高禄を与えられた。以後、成瀬氏は2代正虎、3代正親、4代正幸、5代正泰、6代正典と犬山城主を世襲するとともに、尾張藩の筆頭家老を務めたが、時代が下ると完全に陪臣の扱いになってしまう。7代正寿(まさなが)や8代正住(まさずみ)のときに尾張徳川家からの独立運動が盛んとなり、同じく尾張の竹越家、紀伊の安藤家と水野家、水戸の中山家の御三家付家老五家が協力して家格向上に努めたが、徳川御三家の反対などで実現できなかった。結局、独立が認められるのは、大政奉還後の明治新政府からであり、明治2年(1869)版籍奉還によって公式に犬山藩が成立、9代正肥が犬山藩知事に任ぜられる。しかし、2年後の明治4年(1871)廃藩置県により犬山藩は消滅してしまう。 
犬山城3
愛知県犬山市にあった城である。現在は江戸時代前後に建造された天守が現存する。また天守が国宝指定された4城のうちの一つである。
木曽川沿いの高さ約88mほどの丘に築かれた平山城である。別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。
前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。この際の建築用材は金山城の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承がある。江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した元和3年(1617)ごろである。近年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人に譲渡されている。
文明元年(1469) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
天文6年(1537) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。
天文13年(1544) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる
永禄7年(1564) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。
以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。
本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
天正12年(1584) 突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。
豊臣時代には石川貞清が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、昭和36年(1961)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。
慶長6年(1601) 小笠原吉次が城主となる。
慶長12年(1607) 平岩親吉が城主となる。
元和3年(1617) 親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。 
犬山城4(白帝城・愛知県犬山市)
犬山城の下の木曽川を日本ラインと呼んでいる。この「ライン」はドイツのライン川にちなんだものという。ライン川の川沿いには多くの古城が立ち並んでいる。木曽川沿いの両岸にも多くの山城が存在していたので、それになぞらえているというわけだ。犬山城は確かに風光明媚ないい城である。しかし、本場のライン川の城郭群と比べたら、やはり比較にはならない。こちらの方がそうとう見劣りしてしまう。というわけで、この「日本ライン」という名称を聞くとちょっと気恥ずかしいような気になってしまう。群馬に行くと「日本ロマンチック街道」というのもあるが、これも同様だ。どうも「日本ハワイ」というのと同じ感覚がしてしまう。日本の城を喩えるのに何も西洋の名所をださなくてもいいのになあ・・・。こういう喩え方というのはどんなものだろうか。犬山城の別名の白帝城というのは三国志で有名な劉備玄徳が没した城の名前である。河に臨む岩山の城ということで、喩えたものだが、こちらの方がまだイメージ的には許せるという感じがある。
犬山城は木曽川に臨む岸壁の上にある。もともとこの要害を利用して居館が営まれていたものだろう。その後城はしだいに拡張され、尾張徳川家の家老成瀬氏の居城となるに至って近世城郭として整備されていくこととなった。 
本丸には国宝の天守がある。この天守は美濃の金山城を移築したものだという伝承があり、そのため天文年間に建てられたものというようにかつては言われていた。つまり日本最古の現存天守というわけである。しかし、金山城に本当に天守が存在していたかどうかはっきりしない上に、解体修理の結果、特にそのような移築された形跡がないということもあって、現在では現存最古の天守という称号は丸岡城に譲っている。そうはいっても天守そのものは古風な望楼式のものである。この天守も、もともと現在の形状であったわけではなく、3,4階の望楼部分は後で建て増しされたものと考えられているようだ。
犬山城と言えば、以前は「日本で唯一の個人所有の城]ということで知られていた。成瀬氏の子孫の個人所有であったのである。しかし、さすがに個人でこの城を維持するのは税金を払う上で相当の負担になっていたようである。04年、城は財団法人白帝文庫の所有となった。したがって、現在はこの法人が管理している。
本丸から台地基部の方に向かって地勢が傾斜しており、ここに段々に数郭が置かれている。中央部に階段を配置して、その両脇に郭を並べるという形式は寺院に近いものであるが、こういう縄張りそのものが城の古態を示しているのかもしれない。
この樅の丸に財団法人白帝文庫がある。また、桐の丸は現在は護国神社が祭られている。この桐の丸の下に黒門があり、枡形を形成している。その脇には深さ5mほどの空堀が存在しているが、この堀は中世城郭の面影を残したかのような堀である。この部分までは、だいたい旧状が残されている。
その下の三の丸は現在はだいぶ破壊されており、ここには駐車場やお土産屋が立ち並んでいる。周囲を囲んでいた水堀も、一部切り通しの道路となっている他は、ほとんど埋められてしまったようだ。
古図を見ると、三の丸の南側にも、侍屋敷群があり、周囲を堀が取り巻いていた。そして南側の中央部には内枡形を備えた大手門が存在していた。そしてさらにその外側にも外構えとも言うべき堀に取り巻かれていた外郭部が存在していたようだが、この辺りはすっかり宅地化されていて、現在ではその面影はまったくない。現在の犬山城を見ると、城域面積はとてもささやかなものに見えてしまうのであるが、本来は外郭ラインも備えた巨大な城郭であった。 
犬山城5 (白帝城)
犬山城は濃尾国境を画する木曽川の懸崖上に築かれている。江戸時代の儒者荻生徂徠の目には、中国長江の渓谷の山上に築かれた白帝城の水墨画的な風情と李白の詩の発する情景とが重なって映ったのであろう。徂徠はこの城を「白帝城」と呼んだという。
白帝城こと犬山城の創築は天文六年(1537)、織田信康によるとされている。しかし、信康の築いたのは現在地ではなく三光寺山(現在の犬山丸の内緑地であり、三の丸跡である)であった。
信康は信長の父信秀の弟であり、信長の叔父にあたる。その信康が犬山城の前身である木ノ下城主となったのは天文初年のことといわれている。ただし、その経緯についてはよく分かっていない。それまでの木ノ下城主は織田寛近(とおちか)であり、伊勢守系守護代(岩倉城)の一族であった。寛近は台頭著しい信秀の協力者であったようで、信秀の美濃攻めに際してはその中核となって出陣したといわれている。ただ、後継者に恵まれなかったために信秀の弟信康が寛近の養子となって後を継いだものとみられている。
その信康がそれまでの木ノ下城(犬山城の南南西約1km)を廃して移城を決意したのは当然のことながらより堅固な城を求めてのことであった。それが三光寺山であった。天文十三年(1544)、信康は信秀の道三攻めに加わり、稲葉山南方で討死した。
信康の後、子の信清が継いだ。信清は信長の岩倉城攻め(永禄二年/1559)に加わっており、友好的であったようだが、美濃の斉藤義龍の誘いに乗り、次第に信長から離れていった。
永禄六年(1563)、信長は小牧山城に居城を移し、美濃攻略の拠点とした。美濃攻略を目指す信長にとって、反抗的な信清の犬山城は邪魔な存在となっていた。
永禄八年(1565)、信長は信清の支城(小口城、黒田城、楽田城)を降すと続いて犬山に攻め寄せ、城下に放火して攻め立てた。かなわずとみた信清は城を脱して落ち延びた。後に甲斐に亡命して犬山鉄斎と称したという。
犬山城を手中にした信長は丹羽長秀を城主として配した。永禄十年(1567)、城主は柘植長定に替わり、元亀元年(1570)からは池田恒興が城主となった。
天正九年(1581)、信長は摂津の戦線で活躍する恒興を兵庫城主に栄転させ、替わりに信長の末子信房を城主とした。信房は武田家の人質として十年近くを甲斐で過ごしていたが、この年になって武田勝頼から返還されて来たのであった。天正十年(1582)、信房は本能寺の変で二条城に散った。
清洲会議で信長の次男信雄が尾張を領することになり、犬山城には信雄の部将中川定成が城代として入った。
天正十二年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康が衝突する小牧・長久手の戦いが起きた。大垣城主となっていた池田恒興は秀吉に味方して犬山城を攻め取った。恒興は勇戦して長久手に討死。
戦後再び信雄に返されて家臣の武田清利が城代となった。天正十五年(1587)、土方雄利が城主となった。
天正十八年(1590)、小田原合戦後の国替えで尾張は豊臣秀次が領することになり、実父長尾吉房が犬山城主となった。翌年、吉房は清洲城主となり、犬山城には吉房の子羽柴秀勝(秀吉の養子)が入った。
天正二十年(1592)、秀勝は朝鮮の陣中に病没したため、秀次家臣の三輪吉高が城代となった。文禄四年(1595)、秀次切腹により吉高は犬山城を退去した。
新たに犬山城主となったのは秀吉の直臣石川光吉で、一万二千石を領した。慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、犬山城には西軍勢七千七百騎が集結して東軍徳川勢の来襲に備えたが、東軍先鋒の福島正則勢が迫ると光吉はあっさりと城を明渡して退去した。光吉は関ヶ原の本戦で義父大谷吉継とともに戦ったが、敗戦によって戦場を落ち、池田輝政の仲立ちで死罪を免れた。
戦後、尾張は家康の子松平忠吉に与えられ、犬山城はその家臣小笠原吉次が城主となった。吉次はその後七年間城主であったが、この間に犬山城は現在地に移ったとされている。
それは諸記録から慶長六年(1601)のこととされ、この時に現天守の一・二階部分が建造されたといわれている。
慶長十二年(1607)、松平忠吉が病没して嗣子なく断絶となった。このため小笠原吉次は下総佐倉三万石に移った。
その後、尾張は徳川義直の封地となり、家老の平岩親吉が犬山城主となった。親吉没後は甥の平岩吉軌が城主となり、元和三年(1617)に成瀬正成と替わった。
現天守の三・四階、つまり望楼部分が増築されたのは正成の時代であったとみられている。さらに唐破風は正成の次代正虎の頃に増設されたものと推定されている。
めまぐるしく城主が替わった犬山城も成瀬氏が城主となってからは九代続いて明治を迎えるに至った。
犬山城天守の建造過程が数次に渡ることが明らかになつたのは昭和三十六年(1961)から行われた解体修理によってである。もちろん、天正期に金山城から移築されたとの説もあり、天守建造をめぐる論議は今後の課題として残され続けている。  
犬山城の歴史

 

築城
天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、以後、中仙道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、以後戦国時代の攻防の要となりました。
池田恒興入城
天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となるが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。
秀吉入城
天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄(のぶかつ)との間で「小牧・長久手の戦い」がはじまりました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣中川定成でしたが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城しました。以後小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。
小笠原吉次入城
その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城。
成瀬氏、犬山城拝領
江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
天守以外取り壊し
明治4年(1871)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。
濃尾大地震で天守半壊
明治24年(1891)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」によって天守が半壊するという大きな被害に会いました。そのため、同28年に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復されました。
国宝に指定される
昭和10年、国宝に指定されました。昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理完了。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。 
織田広近

 

(おだ ひろちか、織田廣近、生年不詳 - 延徳3年(1491)9月)) 戦国時代の武将。父は織田郷広。岩倉城主で尾張上四郡守護代でもある「織田伊勢守家」当主の織田敏広の弟。子に寛広、津田武永(織田寛近)、広忠(与三郎)。通称は遠江守。幼名は千代夜叉丸。通称は与十郎。法名は「珍岳常宝庵主」。諱は郷近とも。
長禄3年(1459)、愛知県丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。文正元年(1466)、尾張守護の斯波義廉に従い、広近は一門衆のほか、大軍を率いて朝倉氏景(後の越前守護)とともに上洛している。。
文明元年(1469)、尾張丹羽郡に木ノ下城(犬山城)を築城し、小口城から移った。同年2月、徳林寺(後の吉祥山妙徳寺)を建立した。文明7年(1475)、嫡男寛広を兄敏広の養子としたため、もう1人の子寛近(津田武永)に家督を譲り、小口に隠居所・万好軒(現在の吉祥山妙徳寺)を立て、閑居した。
文明13年(1481)8月、清洲城主で尾張下四郡守護代でもある「織田大和守家」当主の織田敏定と子の寛広と共に上洛し、8代将軍足利義政に貢ぎ物をした。『蔭凉軒日録』によると長享2年(1488)、美濃龍門寺領を巡って、京都の蔭凉軒主から広近宛に書状が送られた。このことから隣国美濃にまで影響力を持っていたのが窺える。
織田信康

 

(おだ のぶやす、生年不詳 - 天文13年9月22日(1544年10月8日?) 戦国時代の武将。犬山城築城主。織田信定の子。織田信長の叔父にあたる。通称、与次郎。法名は伯厳又は白厳。
尾張国の武将で「織田弾正忠家」の当主・織田信定の子として生まれる。天文2年(1533)7月11日、兄の信秀が主家筋の「織田大和守家」(清洲織田氏)織田達勝と争った際、和平成立後、兄・信秀の代理として清洲城に出向いた。また、1537年には犬山城に入城し、「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。兄信秀に従い、今川家との小豆坂の戦い等で戦功を挙げるなど、政戦両面で活躍した。天文13年、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死。没年については天文16年(1547)ともされる。信康の子の信清は信秀・信長に対して反抗的であったため、犬山織田家は「織田弾正忠家」の敵対勢力の一つとなる。 
 
丸岡城

 

丸岡城1
福井県坂井市丸岡町霞にあった城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁となった。
丸岡城は、福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市興善寺およびあわら市蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
歴史
天正4年(1576) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
天正10年(1582) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
天正11年(1583) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
慶長5年(1600) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
慶長17年(1612) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主となった。
寛永元年(1624) 福井藩二代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
元禄8年(1695) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。
明治4年(1871) 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。
明治34年(1901) 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。
昭和9年(1934) 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。
昭和23年(1948) 福井地震のために倒壊。
昭和25年(1950) 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される。
昭和30年(1955) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
天守
望楼型の天守北陸地方では丸岡城の天守のみが現存している。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。現在、見られる天守は、昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955)に部材を組みなおして修復再建されたのである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。
独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。
天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあるが、それについて犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合、 天正4年(1576)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、慶長元年(1596)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もある。 
丸岡城2(霞ヶ城)
丸岡城は、丸岡の街の北東部、家並みを見下ろす小高い丘の上に残る平山城です。
丘は昔、継体(けいたい)天皇の御子椀子(まりこ)皇子がうぶ声をあげたという伝説にちなんで、椀子岡と名づけられ、いつの間にか、丸岡と呼ばれるようになったという。
丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(1576)北ノ庄城(福井)の支城として築城したお城で(別名、霞ヶ城)、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財です。
天守は初期天守の特色を濃厚にあらわしています。
現存の二重三層の天守閣は、入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼(廻縁をぐるりと巡らした望楼)を乗せた形式は、犬山城や高知城と同様であり、直線的な屋根の破風、太い出格子、黒い板壁などは初期天守に顕著な特徴だそうです。
また、各層に銃眼や物見窓を設けている姿も、血で血を洗う戦乱期を思わせるものがあり、天守建築における過渡的の型を知ることができます。
石垣は、「野づら積み」という古い方式で、すき間が多く、粗雑な印象ながら排水が良く、大雨に崩れる心配はありません。
現在、城郭一帯には、数百本のソメイヨシノ桜が植えられ、毎年4月の開花時期にその別名霞ヶ城の名にふさわしく、花の霞に浮立つ古城の眺めは一しお旅情をそそるものがあり、県下の景勝地として有名です。
歴史
今から400年以上前、わが国の戦国時代といわれる頃、北陸地方には、武士・郷士・僧兵の間に永年騒擾(そうじょう)が続けられていた。
天正3年(1575)織田信長は、これら北陸地方の一向一揆を平定すべく、大軍をこの地方に動員して当時丸岡の東方4km余の山中にあった豊原寺を攻略した。
この時、幾多の寺坊は悉く兵火により焼失してしまった。
信長は、この恩賞として柴田勝家に越前(現在の福井県北部の嶺北地方)を与えて守護職とし、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。
勝家は、その養子で甥に当たる伊賀守勝豊を豊原に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせた。が、柴田勝豊は交通の利便性などから、翌天正4年(1576)豊原より丸岡に移り築城した。
丸岡城は、その昔、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説により、この城を一名「霞ヶ城」とも言われている。
天正10年(1582)の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移ると、城主は安井家清・青山修理亮・忠元・今村盛次と代わり、慶長18年(1613)本多成重が4万3,000石で入城した。
成重は、”鬼作左”の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。
重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の”おせん”は、幼名を仙千代といった成重のことである。
本多氏は、4代重能の元禄8年(1695)、お家騒動に因を発して除封となり、かわって有馬清純が5万石で入部、8代、160年間伝えて、明治維新に及んだ。
大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。
昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
構造
静かな家並みの広がる町の中央部、霞山と呼ばれる丘陵上に、丸岡城は、小さいながらも素朴な姿を今に伝えている。古風な野面積みの石垣の上に立つその天守は、北陸地方に残る唯一の現存天守である。
また、日本現存天守閣の中で犬山城と共に初期の古い形式のお城である。
屋根の交錯を避けた独立的破風を有し、各層軒廻り木部を外にあらわしている太い出格子、黒い板壁、それに各層に銃眼や物見窓を設けた装いは、いかにも初期の天守様式を伝えるもので、上層は城主の居館としての機能を備えた回縁勾欄付きの望楼式となっている。
外観は、上層望楼を形成して通し柱がなく、1層は2層、3層を支える支台をなしており、内部が3階であって外部は二重で内外一致していない。
しかも、屋根は、いまも福井市内で採れる笏谷(しゃくたに)石と呼ばれる石を加工した「石瓦」で葺かれているのが全国的に希な特徴である。
この様な古調に富んだ望楼式天守は、後の時代に建った松本城、彦根城、松江城、姫路城、松山城、宇和島城、高知城など層塔式天守と比較すると如何に城郭建築の初期のものであり、また如何に建築学上貴重なものであるかを教えられるもので、昭和9年(1934)1月30日国宝に指定された。
その後、昭和23年(1948)6月28日の福井大震災により倒壊したが、昭和26年12月再建に着手し、昭和30年(1955)3月30日修復再建された。
城郭は、武家の興起によって、単に軍略的な攻防野戦の目的からの山城より一転して、政治的、経済的且つ交通上の利便から、平山城(おか)、そして平城(平坦地)へと築城するようになり、周囲に大きな濠を掘るものに変わってきた。
丸岡城は、平山城の形式を持っており、構架法や外容など古調を表現しており、わが国の城郭建築史上現存している天守の中で最も古い様式で、規模は小さいがその価値は大きいものがある。 
伝説

 

丸岡城の伝説 (その1)
一度ならず一度、三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになった。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた後家。しかも、二人の子持ちのうえ、片眼を失明していた。
お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められた。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立った。
だが、お静の約束は、果たされなかった。
お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになった。そして時折現れては、恨みごとを述べたという。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っている。
また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになった。
堀の藻を刈り取る時の作業唄にも、『堀の藻刈りに降るこの雨はいとしお静の血の涙』と唄われるようになった。
『蛇の井』と呼ばれていたかどうかは記憶にはないが、地元に育ち、お城のまわりを遊びまわった子供の頃、たしかにお城には、防護網を掛けたそう深くもない空井戸があった。 
丸岡城の伝説 (その2)
ある時、奇襲によって、城は幾重も包囲された。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦につとめた。敵前にむかった男どもは全滅。美しい姫が女中どもの指揮をとった。
姫はつぶらな眸に無念の露を湛えて『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』と、して玉の肌の紅葉を散らせた。
敵勢は破竹の勢いをもって、軍馬を進め、ついに出丸の攻略にかかった。その折、俄に霞が吹き出した。敵兵の一寸前は闇と化した。
ここで、寄せ手は退却、城は無事であったが、この霞は姫の化身だった。今もこの伝説の井戸が天守入口近くに霞の井戸として残る。
やはり、私が知っている言い伝えの、『美人のお姫様が人柱になり、築城後は、お城に危機が迫ると大蛇になって、霞を吐き、お城を隠し、守った。』というほうが夢があると思う。(前の伝説1と次の伝説3の話がゴッチャになってしまったのかと思ったことも?) 
丸岡城の伝説 (その3)
城の別名『霞ヶ城(かすみがじょう)』にちなむもので、そのいわれは、もともとこのお城には守護神の大蛇が棲んでいて、いざの時に、霞を吐いて城を包み隠すからだというのである。
元来、この地は『継体(けいたい)天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられている。
古くは、『麿留古平加(まるこのおか)』と呼ばれていた。それが『丸子の岡』となり、やがて『丸岡』という地名を生んだとされる。
だから、この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるのだという。
しかし、実際には、この地方は九頭竜(くずりゅう)川の支流竹田川が流れていることもあって、気象的に朝な夕なに霞がよく立ち込める多雨多湿の土地であるというのが、本当のところのようだ。 
丸岡城の歴代城主

 

丸岡城を初めて築いたのは柴田勝家の甥、柴田勝豊である。
織田信長から、越前(現在の福井県北部の嶺北地方)の守護職を命じられた柴田勝家は、天正3年、その養子で甥に当たる伊賀守勝豊を勝家の本拠北の庄城(現在の福井城)の一支城として豊原(丸岡の東5km)に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせたが、翌天正4年(1576 桃山時代)豊原より丸岡に移り築城し、四万五千石で入城した。
天正10年に勝豊が近江長浜に移り、しばらくの間、勝家の臣、安井家清という者が城番として居た。
ところが、天正11年勝家が賎ヶ岳の戦であえなく敗北したときから、越前の勢力図も塗りかえられた。
丹羽長秀が北の庄城に入ったとき、その臣青山加賀守宗勝も四万六千石で丸岡に入城した。
慶長5年(1600)宗勝の子忠元が関ヶ原の役に西軍に組したため没収され、同6年、結城秀康の越前領有にあたって、臣今村掃部盛次が二万五千石の城番として丸岡を領有した。
しかし盛次も慶長17年(1612)の越前騒動の責任をとって失脚し、翌年に本多成重(四万三干石)が入った。重能が丸岡城を現在の縄張りに改めたりもしたが、四代のとき、お家騒動(丸岡騒動)を起こしたため没収。
元禄8年(1695)有馬清純が越後糸魚川より移り、維新まで八代、160年続いた。そのように城主がめまぐるしく変わっていたのてある。明治3年(1870)3月藩籍奉還後、官有となりました。
その後民有になり、その間に建物(館・門・塀・武家屋敷など)は売却され、石垣は壊れるままに放置され、明治34年(1901)町有になりました。 
長浜城
柴田勝豊

 

柴田勝豊1
(しばた かつとよ) 戦国時代・安土桃山時代の武将。
弘治2年(1556)、柴田勝家の家臣・吉田次兵衛の子(またはその養子で渋川八左衛門の子)として生まれる。生母は柴田勝家の姉であり、勝家の甥にあたることから、その養子となった。天正4年(1576)、北ノ庄城の支城・丸岡城を築き、その城主となって4万5,000石を領した(『武家事記』)。
天正9年(1581)、信長の京都馬揃えでは勝家とともに上洛し、参加した。
天正10年(1582)6月、織田信長没後の清洲会議で勝家の所領となった近江長浜城の守備を任された。しかし、勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇することと、従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、12月に羽柴秀吉の家臣・大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。
しかしすでに病を得ていたため、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。賤ヶ岳の戦いの直前、京都東福寺にて病死した。享年28。勝家滅亡の8日前のことであった。
養父・勝家に冷遇されていたとはいえ、秀吉に寝返った武将として後世の評価は高くない。しかし、勝豊の守る長浜城と長浜城下について
1.秀吉が築いた城であり、秀吉には城の造りが手に取るように分かる点
2.秀吉が長年に亘って治めていたため、戦になった場合に領民が秀吉に加勢する可能性がある点
3.勝家の本拠越前国から遠く離れた飛び地として敵地に孤立しており、籠城したとしても援軍を期待できない点
の諸点を鑑みれば、無用に将兵に被害を出さずに城を明け渡すという穏当な判断は、一国一城の大将として評価できるものである。 
柴田勝豊2
(?〜1583) 安土桃山時代。柴田氏一門衆。伊賀守。長浜城城主。柴田勝家の養子。
父は吉田治兵衛(渋川八左衛門とする説もある)。
母は柴田勝家の姉(妹説あり)。
柴田勝豊は、勝家の甥にあたるために、養子に迎えられ、織田信長配下の「柴田軍団」の一員となる。
勝家が信長から北陸経営を任されると、勝豊は、天正3(1575)年、越前国豊原寺城に封じられる。
翌天正4(1576)年には、丸岡に移り、丸岡城を築城している。
天正10(1582)年、『本能寺の変』によって、信長が明智光秀が引き起こした謀反の前に横死し、続く『山崎合戦』で、光秀を討った羽柴秀吉が、時代の中心に躍り出る。
「清洲会議」によって、勝家は、信長の妹のお市を室とし、秀吉の居城であった長浜城を手に入れる。
勝家は、対羽柴軍の最前線に位置する長浜城に勝豊を置くこことする。
こうして「清洲会議」から間もなく勝豊は長浜城へ入る。
の勝豊の入城に際しては、秀吉自らが出迎え、宴会を開き歓待している。
しかし秀吉は、この年の12月、電光石火の進軍で長浜城を5万の軍勢で攻囲。
圧倒的な羽柴軍を前にして、勝豊は、秀吉に降伏する。
勝豊は長浜城を無条件開城した上で、羽柴軍に編入される。
天正11(1583)年2月、前田利長が先陣として近江国に出陣し、3月になると、柴田勝家が本隊を率いて近江国へ出陣して来る。
『賤ヶ岳合戦』の勃発である。
この時、勝豊は、北国街道を側面から押さえる堂木山砦に布陣し、南下して来る柴田軍を殲滅せんとしていた。
しかし、当時、病魔に犯されていた勝豊には、前線で指揮することは困難であった。
このため開戦直前に長浜城に入る。
長浜城で秀吉の見舞いを受けるが、重態であったために秀吉の斡旋により京都に入って、医師の治療を受けたが、時既に遅く、合戦の結果を知らずに亡くなる。
亡くなった場所は、東福寺とも、本法寺とも伝えられている。
柴田勝豊は、柴田勝家の養子の中でも、一番の年長者であったと思われることから、当初は柴田家の家督相続の可能性のあった人物であった。
それは勝家が北陸方面を担当するようになって、早い段階から城を与えられていることからも、柴田家中での地位が伺える。
しかし勝豊と同じく勝家の甥である佐久間盛政が、織田信長も一目置くほどの武将に台頭する等、柴田家中も変貌を遂げて来る。
正月の年賀の席上で、勝家が、勝豊を差し置き一番最初に、盛政に盃を取らせようとして、勝豊が烈火の如く怒ったと言うのも、この時期の事と思われる。
これらのことの積み重ねが、勝豊の心の中に、盛政への敵愾心と、勝家への猜疑心を、植え付けていった。
そのような状況下で、天正10(1582)年、勝豊は長浜城主に任じられることとなる。
この人事については、一般に「左遷」であるとする意見が多い。
しかし勝豊の室が稲葉貞通の娘であることから考えると、長浜城の勝豊、清水城の稲葉一鉄、曽根城の貞通、そして岐阜城の織田信孝と言う羽柴秀吉に対して圧力を加える「封じ込めライン」を構築するための意図で、勝家が抜擢した戦略的人事であることが判る。
なお勝豊の室の母については、織田信長の姉(妹説あり)であるとされているが、貞通と婚姻した時期が、天正10(1582)年以降とされており、勝豊の室である娘の年齢について謎が残る。
信長の姉は貞通に輿入れする前は神保氏張の室であったことから連れ子か、もしくは貞通の養女であったのかも知れない。
長浜城主となった勝豊は、すぐさま北近江の坂田郡、伊香郡、浅井郡に対して、徳政を発布し民心を慰撫する等、その経営に尽力している。
それから間もない10月、一鉄と貞通が、秀吉側に付く。
推測ではあるが、これ以降、勝豊の義父である貞通から勝豊に対して、秀吉側に付くように働きかけがあったと思われる。
それは養父を選ぶか、義父を選ぶか、の選択であった。
そして勝豊は答えを出す。
11月22日に、長浜城内において、勝豊は、家臣たちを前に勝家への「弾劾十七ヶ条」を読み上げた上で、勝家に恩義を感じる者は丸岡城へ戻るようにと、宣言したのである。
この「弾劾十七ヶ条」が、史実であったか、どうかは疑問も残るが、西美濃の稲葉父子が秀吉陣営に加わったことで、長浜城は敵地に突出した形となり、頼みの北陸方面との連絡も、雪によって遮断され、ここに至り勝家からの離脱を決意したと思われる。
やがて秀吉が5万の兵を持って長浜城を攻囲し、勝豊は無条件開城し降伏する。
その後、勝豊は病に倒れ、『賤ヶ岳合戦』では決戦を前にして戦場を離れ療養に入っている。
勝豊が不在の間に、副官として勝豊部隊を指揮していた山路将監が、合戦の途中で羽柴軍から柴田軍に寝返り、盛政部隊を誘導している。
この将監の裏切りから考えるに、一般に勝豊の病は結核等であると伝えられているが、実情は将監に毒を盛られた可能性が、高いのではなかったろうか。
だとすれば勝豊の死は、権謀術策渦巻く戦場での「戦死」であったとも言えよう。
柴田勝豊は築城や城下の経営に非凡な才能を見せており、巷間言われるような無能な武将では決してなかった。
ただ武功優先主義の柴田家中にあって、異質であっただけだった。
だが後世、徳川氏の天下になると、秀吉による「天下統一」の功績は抹殺されることとなる。
その秀吉に加担した勝豊も、また「裏切り者」として扱われ、法名はおろか、墓さえも歴史の荒波の中に消し去られてしまい、現在には何も伝えられていない。
 
彦根城

 

彦根城1
現存十二天守のひとつである彦根城は、国宝に指定された国宝四城でもある。標高136mの彦根山に築かれた彦根城は、彦根山が金亀山の異名を持つことから金亀城(こんきじょう)とも呼ばれ、江戸幕府における譜代大名筆頭の井伊氏14代の居城として栄華を極めた。彦根山の南北に細い尾根を削平し、南から鐘の丸、太鼓丸、本丸、井戸曲輪、西の丸、出曲輪、観音台、山崎曲輪を直線的に連ねた連郭式平山城である。麓には二の丸、三の丸を配し、城域を内堀、中堀、外堀と三重の堀で囲んだ惣構(そうがまえ)の城郭であった。彦根城の建築物には多くの移築伝承が残り、大津城(大津市)から移築の天守を始め、佐和山城(彦根市古沢町)から太鼓門櫓と佐和口多門櫓(非現存)、小谷城(長浜市湖北町)から西ノ丸三重櫓、長浜城(長浜市公園町)から天秤櫓(てんびんやぐら)、他に観音寺城(蒲生郡安土町)からも移築されたと伝わる。建物や石材の移築転用は費用削減と工期短縮のために行われたものと考えられている。現在、彦根城の中心となる本丸には天守しか残っていないが、かつては藩主の居館である御広間(おんひろま)や宝蔵、矢櫓、着見櫓(つきみやぐら)なども建てられていた。牛蒡積み(ごぼうづみ)の天守台にのせられた天守は、附櫓(つけやぐら)と多聞櫓(たもんやぐら)を伴う3層3階地下1階の複合式望楼型で、比較的小ぶりであるが、屋根は入母屋破風(いりもやはふ)、切妻破風(きりつまはふ)、唐破風(からはふ)を多様に配置している。1層目の大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸となっているが、2層目と3層目には花頭窓(かとうまど)を配し、3層目には高欄(こうらん)付きの廻縁(まわりえん)を巡らせるなど、外観に重きを置き、変化に富んだ姿を見せている。その構造は、通し柱を用いず、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に望楼(ぼうろう)を乗せる古い形式を残している。昭和32年(1957)から行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)頃であることが判明した。また、建築材を詳しく調査した結果、もともと4層5階の天守を縮小して移築したものであることも分かった。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城の4層天守を移築した可能性が考えられている。彦根城は一度も戦いを経験することがなく、平和な時代の天守には歴代藩主の甲冑(かっちゅう)などが収納されていた。江戸時代の天守は軍事施設というより、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割に変わっていた。「いろは松」という松並木に沿った登城道の正面に佐和口があり、その枡形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓である。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの城門の1つ。表門に通じる入口として、大手門に通じる京橋口とともに彦根城の重要な城門であった。現存する佐和口多聞櫓(重要文化財)は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に2層2階の櫓が建ち、多聞櫓に連結している。多聞櫓は佐和口の枡形を囲むように二度曲折し、中堀に向って三角と四角の狭間が交互に配置されている。この多聞櫓の右端には、かつて2層2階の櫓門が枡形を見下ろすように架かっていたが、明治初年に解体され、現在は石垣のみが残る。ちなみに枡形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体されており、現在の櫓は昭和35年(1960)に復元されたコンクリート製の建物である。この非現存の多聞櫓は佐和山城から移築したものであったという。 
太鼓丸に現存する天秤櫓(重要文化財)は、大手門と表門からの道が合流する位置に築かれた櫓である。この櫓を上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2層櫓を設け、中央に門が開く構造となっている。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようで、江戸時代から天秤櫓の名がある。このような構造の櫓は全国でも他に例がないという。鐘の丸から本丸へ伸びた尾根は、天秤櫓の外側で大堀切によって断ち切られている。堀切には廊下橋が架かっていたが、廊下橋は非常時には落とし橋となり、この橋がなければ天秤櫓の高石垣を登らないと本丸に侵入できない。『井伊年譜』には、天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものであると記されている。解体修理によって、天秤櫓は移築された建物であることが判明し、「上り藤」や「三つ柏」など井伊氏とは異なる紋瓦が確認されているが、長浜城大手門と断定するには至っていない。嘉永7年(1854)天秤櫓は大規模に修理され、建物のみならず石垣の半分が積み替えられた。このため、現在の天秤櫓の石垣は左右で積み方が異なり、右手が築城当初に越前の石工たちが築いたと伝える牛蒡積みで、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の落し積みである。本丸への最後の門となるのが現存する太鼓門櫓(重要文化財)で、南側には続櫓が付設されている。この櫓門は背面の東側の壁がない。櫓ではたいへん稀な例であり、一説には櫓の中に置かれた太鼓の音が響くための工夫とも考えられているが明確ではない。太鼓門櫓も、築城時にほかの場所から移築された建物であった。長い間、太鼓門櫓は、彦根築城以前に彦根山に存在した彦根寺の山門を移築したものと考えられていた。彦根寺は観音信仰の古刹として高名で、彦根山に向かって西に伸びた巡礼街道は、かつて彦根寺への参拝者が後を絶たなかったことに由来する。こうした観音霊場では、古くから納札(おさめふだ)を寺の建物などに打ち付ける習わしがあった。太鼓門櫓の柱に古い釘穴がたくさん残っており、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれたようである。ところがこの説は太鼓門櫓の解体修理によって否定された。建物部材調査によって、移築前もどこかの城の城門であったことが判明、しかも規模の大きかった城門を縮小して太鼓門櫓としていたことが分かった。ただ、それがどこの城の城門だったのか分かっていない。彦根城内には、天守の他に2基の3層櫓が存在した。1基が現存する西の丸三重櫓(重要文化財)で、もう1基が明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓である。西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた大堀切に面して構築された。堀切の底から見上げる三重櫓の高石垣は絶壁のようにそそり立っており、搦め手方面からの敵に対して侵入を阻んでいる。三重櫓には装飾的な破風などはなく、きわめて簡素で、東側と南側にそれぞれ1階の続櫓を付設している。この建物は小谷城の天守を移築したものとの伝えがあるが、柱や梁などの部材の8割近くが江戸時代後期の嘉永6年(1853)の大修理で取り替えられており、解体修理では移築された痕跡は確認できなかった。彦根城には馬屋(重要文化財)も現存している。城内に馬屋が残るのは全国でもここだけである。また、全国的にも珍しい「登り石垣」が、城内の5ヶ所に築かれている。登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵において、日本軍が朝鮮各地に築いた倭城(わじょう)の築城技法で、国内では例が少なく、淡路洲本城(兵庫県洲本市)や伊予松山城(愛媛県松山市)などにしか存在しない。 
養老4年(710)近江国の国司であった藤原房前(ふささき)によって、彦根山に亡母の供養のため彦根寺が建立された。藤原房前の護持仏であった金色の亀の背に乗った一寸八分の観音像を本尊としていたため、彦根山は金亀山とも呼ばれるようになった。彦根寺の御堂は、彦根城の観音台のあたりに存在したと考えられる。この彦根寺は目に御利益のある観音霊場として知られ、平安時代には名刹の聞こえ高く、白河上皇をはじめ、多くの都人が参拝に訪れたと文献に見える。参拝者が彦根山に登る前に、道中に背負っていた連着(れんじゃく)を解く場所があり、そこに腰掛石としての露頭石がいくつかあった。この場所は現在の連着町として地名に残る。『彦根城由来記』によると、代々の古老たちは藤原氏時代から現存する唯一の遺物として、この露頭石が失われることを心配し、この石を腹痛石と呼び、「触ると腹が痛くなる」と言い伝えて大切に守り継いだ。現在、連着町四辻に祀られている石がそれである。豊臣政権時代、五奉行の一人であった石田治部少輔三成(みつなり)は近江国佐和山19万4千石の所領を与えられ、5層天守がそびえる佐和山城を居城としていた。当時、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と落首に唄われるように、石田三成の身分不相応なものとして佐和山城と家臣の島左近が挙げられている。智勇兼備の名将として世に知られた島左近清興(きよおき)は、もともと大和国を治めていた筒井氏の家臣であったが、主人と意見が合わず出奔していた。天正14年(1586)軍勢の指揮が得意でなかった三成は、牢人していた島左近に懇願して家臣として召抱えることに成功している。当時、4万石の所領であった三成は、その半分である2万石を島左近に与え、今後加増があるたびにその半分を与えることを約束したという。しかし、島左近は主人と同等では恐れ多いということで、1万5千石にしてもらい、以降は加増を受けなかった。石田三成は豊臣政権による天下泰平を願っていたが、豊臣秀吉の死後、露骨に政権奪取を企てる徳川家康と対立するようになる。この対立は日本中の大名を巻き込んだ関ヶ原の戦いに発展、慶長5年(1600)石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍はついに関ヶ原で激突した。当初は石田隊、宇喜多隊、大谷隊、小西隊の奮戦により西軍優勢であったが、西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となった。そして、小早川秀秋(ひであき)や脇坂安治(やすはる)らの裏切りによって西軍は総崩れとなる。敗北を覚悟した島左近は、正面の田中吉政隊、黒田長政隊に突撃し、奮戦の末に敵の銃撃によって斃れたという。島左近の勇猛さは東軍諸将のあいだでも語り草となり、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても、突撃の号令を発する島左近の悪夢にうなされたと伝わる。三成は再起をかけて戦場から脱出し、伊吹山中に逃れた。その後、小早川秀秋ら関ヶ原で裏切った大名たちを先鋒とする15,000の軍勢が佐和山城を包囲した。このとき佐和山城には三成の父である石田隠岐守正継(まさつぐ)を主将に、兄の木工頭正澄(まさずみ)ら2,800余が籠城していたという。佐和山城の守備は固く、大軍を相手に善戦するが、関ヶ原での西軍敗北を知り戦意は喪失、石田一族の自刃と引き替えに城兵を助命することで開城に合意した。しかし連絡不徹底により、田中隊が城内に乱入、混乱した本丸から火の手が上がり、悲惨な落城となってしまった。その後、三成は田中吉政(よしまさ)の追捕隊に捕縛され、京都の六条河原で斬首される。石田三成は処刑される時も潔い態度を崩さなかったという。 
慶長6年(1601)徳川四天王のひとりである井伊直政(なおまさ)は、関ヶ原の戦功によって石田三成の旧領である近江国佐和山18万石を与えられ、上野高崎城(群馬県高崎市)から佐和山城に移った。しかし、佐和山城は中世的な山城で、落城により荒廃していたため、佐和山の北方にある磯山に居城を移そうと計画していた。ところが、慶長7年(1602)井伊直政は、関ヶ原の戦いで島津勢から受けた鉄砲傷の悪化によって急逝してしまう。直政の跡は、13歳の嫡子直継(なおつぐ)が継ぎ、新城の築城構想も引き継がれた。直政より後事を託された筆頭家老の木俣守勝(もりかつ)は、居城の移転計画を徳川家康に諮る。その結果、移転先は佐和山城の西方約2kmにある彦根山に決まり、慶長8年(1603)彦根寺を山下に移して、彦根城の築城が開始された。この彦根城には、摂津大坂城(大阪府大阪市)に君臨する豊臣氏と、豊臣恩顧の西国大名たちに備えるという戦略的な目的があった。水陸の交通の要衝である当地を重視するとともに、この地に残る石田色を払拭したいという江戸幕府の意向が強く働き、幕府の全面支援を得た天下普請となった。幕府は3人の公儀奉行を派遣し、近隣の伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名に助役を命じている。この築城は豊臣氏との対決に備えて完成を急ぎ、突貫工事がおこなわれた。近江国の各城から多くの建築物が移築されたのはこのためである。慶長12年(1607)天守が完成すると、井伊直継は彦根城に入城している。慶長19年(1614)大坂冬の陣が勃発、病弱であった井伊直継に代わって庶弟の掃部頭直孝(なおたか)が参陣した。この直孝には昔から徳川家康の落胤であるという風聞があったが真偽は定かではない。井伊直孝は真田丸の戦いにおいて、軍令違反の突撃をおこない、敵の策に陥って味方に大損害を生じさせた。徳川家康から咎められたものの処罰はされず、それどころか、慶長20年(1615)徳川家康の命によって、兄の直継が上野国安中3万石に移され、井伊家の家督は直孝に譲られた。そして、大坂夏の陣においては藤堂高虎(たかとら)とともに先鋒を務め、敵将の木村重成(しげなり)、長宗我部盛親(もりちか)を打ち破り、「井伊の赤牛」や「夜叉掃部」と恐れられ、冬の陣での雪辱を遂げた。これより江戸幕府では「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」という陣立てが慣例となる。井伊直孝はその後も加増を得て30万石+幕府御用米5万石となり、元老として幕政を主導した。このため、『井伊家系譜』では直孝が2代藩主とされており、彦根城を築城した直継の存在が消されている。井伊氏は、3代直澄(なおずみ)、4代直興(なおおき)、10代直幸(なおひで)、12代直亮(なおあき)、13代直弼(なおすけ)と群を抜いて大老職を排出し、江戸幕府の重鎮としての位置を占め続けた。なお、13代直弼が、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼で、青春時代を過ごした屋敷が彦根城下に埋木舎(うもれぎのや)として現存している。明治6年(1873)明治政府により廃城令が公布され、多くの城が失われる中、彦根城の破却も進んでいた。明治11年(1878)彦根天守が800円で売られ、解体のための足場が組まれていたが、明治天皇が北陸巡幸で彦根に立ち寄った際、随行した大隈重信(しげのぶ)は彦根城の消失を惜しみ、天皇に奏上して保存が認められた。他にも、延宝7年(1679)4代藩主の井伊直興により造営された槻御殿と呼ばれる彦根藩の下屋敷が、庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称して残されている。近年、表御殿が復元され、彦根城博物館として利用されている。 
彦根城2
日本の滋賀県彦根市金亀町にあった城である。江戸時代および明治2年(1869)の版籍奉還後から明治4年(1871)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。天守は国宝、城郭は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
近世にあたる江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)のほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により 明治11年(1878)に建物が保存されることとなったのだという。
天守が国宝指定された四城の一つに数えられる。平成4年(1992)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されているが、世界遺産登録は厳しい状況にある。滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された。
構造
城の形式は連郭式平山城。また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。なお、城の北側には玄宮園・楽々園という大名庭園が配されており、これらは国指定の名勝である。
地理特性
湖と山の間、5kmほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672)・姉川の戦い(1570)・賤ヶ岳の戦い(1583)・関ヶ原の戦い(1600)など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。 戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。
建築
彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が築いた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。
時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)」といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理[昭和32年-昭和35年(1957-1960)]のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている。
歴史
徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。 佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、 慶長7年(1602)に死去した。 その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、 慶長8年(1603)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。慶長11年(1606)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。 元和2年(1616)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、元和8年(1622)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、 寛永10年(1633)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。 なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためであり、徳川幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として徳川時代の大半を過ごした。
安政元年(1854)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。 向かって右手が築城当初からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。
幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。 
彦根城3 (別名・金亀城)
幕末安政の大獄で有名な彦根藩十三代藩主である大老井伊直弼など、時代と共に幕府の中核となる人物を輩出した徳川家譜代の井伊氏三十五万石の居城である彦根城は、市街地北部の琵琶湖湖畔に望み、今も往時のままの美しい姿を、満々と湛える濠の水面に映し出している。
関ヶ原合戦に功のあった井伊直政は、慶長6年(1601)徳川家康から近江国石田三成の旧領十八万石を与えられた。
上州(群馬県)の高崎三万石から佐和山城に入った直政であったが、城は落城した惨状のままで、とても使えたものではなかった。しかも、修築しようにも中世の山城で交通が不便なうえ、戦闘形態が鉄砲主体の時期には不適当な城だったので、新たに近世城郭の建設を、西の湖畔の磯山に築城しようとした。
しかし、直政は、関ヶ原の合戦時島津勢を追撃した時の鉄砲傷が原因で慶長7年に病没し、かわって嫡男の直継(のちの直勝)が家督を継ぎ、父・直政の意志を継いで築城にあたった。
だが、直勝はまだ幼少であったので、重臣の合議で計画を進めることになった。家老の木俣守勝の進言により、直勝は、琵琶湖北東岸の金亀山を最適地として同8年(9年説も)から築城を開始した。
彦根は交通の要衝で、かつ大坂にいまだ歴然たる権力を保持している豊臣氏や他の西国大名に対しての防衛ラインという戦略的な地でもあった。そのため家康は、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の七ヶ国十二大名に強力を命じるなど、一大名の築城ではなく幕府の総力をあげた国家的事業となった。
築城開始が慶長8年(1603)(9年説も)で、天守は二年足らずで完成したが、さらに元和2年(1616)から表御前の造営をはじめとする城郭改造や外郭の拡張整備等の第二期の工事を行なって、三代目直孝の元和八年(1622)ようやく完成という二十年の歳月をかけた大工事だった。
これだけの大がかりな築城の裏には、家康のとって、この地方における信長・秀吉時代の残影を徹底的に取除こうという意図もあったといわれる。
ゆえにこの時、天守は近くの京極高次の大津の城から移されたと伝えられ、所在が正しければ天正年間(1573〜92)の初め大津に創築されたことになる。
その他、西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城から、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から、太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように、各所の城から運び込んで移築されたといわれる。
城地の亀山(彦根山)は琵琶湖にのぞむ独立した小丘で高さ136m、山上に本丸を置き、その西北一段低く西の丸を設け、本丸の東南には空堀をへて太鼓丸、鐘の丸の郭を造成した。
山麓に主郭、三の丸を造り、堀には湖の水を引き入れた。主郭には御殿があり、ここが藩主の住まいと政庁だった。
現在の天守は三重三階で小規模であるが、初層の四方にそれぞれ二つずつ切妻破風を、上層には唐破風をかけ、最上層の窓を火頭窓にするなど、変化に富んだ姿をみせている。
彦根城は天守だけでなく多くの櫓を残しており、城郭としてのまとまった美しさを今日に伝える数少ない遺構の一つである。
井伊氏ははじめ十五万石の石高であったが、大坂の陣の戦功で五万石加増、さらに寛永10年(1633)に十万石の加増、別に預け高と称する五万石があったので三十五万石の大大名となった。
万延元年(1860)3月3日に十三代藩主で大老職にあった井伊直弼が水戸藩士などに襲撃斬殺されたため幕府としても仕方なく十万石の減封処分とした。ために幕末には二十五万石の石高であった。
井伊氏によって築かれた彦根城は、そののちの明治維新を迎え、廃藩置県まで一度の領主替えもなく井伊氏十四代が在城し続けた。
新政府の廃城令によって、姿を消していく城のなかで、今なおその雄姿を見ることの出来るのは、明治11年の廃城撤去の寸前に大隈重信が視察し、その名城の消失を惜しみ明治天皇に、その旨を奏上したことにあった。 
佐和山城
鎌倉時代、佐々木定綱の六男、佐保時綱がこの地に館を構え、15世紀中頃には、六角氏の支配のもとに小川左近大夫を城主として、犬上坂田両郡の境目の城となったと伝えられている。
戦国時代、佐和山城は度々戦乱の舞台となり、多くの武将の居城となった。なかでも、元亀元年(1570)の姉川合戦では、敗走した浅井勢の磯野員昌が籠城し、8か月にわたる攻防がくりひろげられた。のちに「難攻不落の城」と称えられた所以である。
その後、丹羽長秀・堀秀政・堀尾吉晴と引き継がれ、石田三成のとき「佐和山惣構」の普請が行われた。
佐和山城の歴史は古い。鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱(さだつな)の六男時綱(ときつな)が、佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えます。その後、佐々木氏は湖南の六角(ろっかく)氏と湖北の京極(きょうごく)氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境目(さかいめ)の城として攻防が繰り返されました。戦国時代に入ると、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権(はけん)を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦(そうだつせん)が展開されることになります。
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝(ようしょう)を守る城として重視されました。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀(にわながひで)を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持しました。秀吉の代も、堀秀政(ほりひでまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)そして五奉行(ごぶぎょう)筆頭の石田三成(いしだみつなり)の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。この間、佐和山城はしだいに整備され、三成の時代には山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華(ほっけ)丸などが連なり、山下は東山道(とうさんどう)に面して大手門(おおてもん)が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町がすでに形成されていました。
佐和山落城
関ヶ原の合戦より遅れること2日、小早川秀秋(こばやかわひであき)ら関ヶ原の寝返り組を主力とする15,000人の兵が佐和山城を包囲しました。三成は関ヶ原で敗れて湖北に逃走中であり、このとき佐和山城には三成の父正継(まさつぐ)を主将に兄の正澄(まさずみ)ら2800余人が布陣していたといいます。佐和山の守備は固く、執拗(しつよう)な攻撃によく耐えたようですが、兵力の違いはいかんともし難く、ついに佐和山城は落城しました。
佐和山城から彦根城へ
関ヶ原合戦後の論功行賞(ろんこうこうしょう)により、三成の居城であった佐和山城が与えられたのは、彦根の初代藩主となる井伊直政(いいなおまさ)です。慶長(けいちょう)6年の(1601)正月、直政は上野(こうずけ)国高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入りました。ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年死去します。直政より後事を託された家老木俣守勝(きまたもりかつ)は、城の移築計画を徳川家康に諮ります。佐和山・彦根山・磯山(いそやま)(米原市)の3山を候補に彦根山への移築を決定しました。佐和山は中世以来の山城であり、敵将であった石田三成の居城でもありました。戦国時代をへて、戦の形態が山城を拠点としたものから、平地での足軽を主体とする集団戦に様変わりしたこと、城とともにその周囲に広大な城下町が発達したことなどが考慮され、近世的な平山城である彦根山が選定されたのでしょう。
慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。その際、佐和山城は破城(はじょう)を受け、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれました。こうして佐和山城は草木の生い茂るままに歴史の中に置き去られ、わずかに「佐和山城跡」の看板が往時を物語るばかりです。佐和山城の痕跡は全く残っていないのでしょうか。
1.切通し
井伊家伝来の佐和山城絵図に「かもう坂通り往還(おうかん)」と記される切通しです。佐和山城が城として機能していた時代には、佐和山城の北を限る道であり、東山道と琵琶湖岸の松原をつなぐ道として、旅人や牛馬が頻繁に往来しました。江戸時代になり道中に龍潭寺(りょうたんじ)が建立されたため、「龍潭寺越え」とも通称されるようになりました。切通しを南に折れると「西の丸」を経由して「本丸」に至ります。
2.西の丸
彦根藩主井伊家に伝来した3枚の佐和山城絵図を見ると、西の丸には3段の曲輪(くるわ)が描かれ、いずれも上段に「焔(塩)硝櫓(えんしょうやぐら)」、下段に「塩櫓(しおやぐら)」と記されています。ただ、現在は下段を「焔(塩)硝櫓」と通称しており、名称の混乱が見られます。
また、絵図には描かれていませんが、西の丸の西方に伸びる尾根上から、明瞭に残る2段の曲輪や土塁(どるい)を確認しています。土塁の位置などから、切通し道方面からの侵入に備える曲輪であったと考えられます。この尾根の先端には、清凉寺の第18世住職漢三道一(かんざんどういつ)が文化5年(1808)に建立した「石田群霊碑(いしだぐんれいひ)」が存在しています。
3.現存する本丸の石垣
本丸跡を大手(おおて)方面に下がると、登城道が小曲輪(しょうくるわ)(平坦地)と切岸(きりぎし)(急斜面)を経ながら本丸に向かうようすを確認することができます。その途中では、岩盤上にわずかに残る石垣を確認することができます。この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられます。本丸跡の外周では、このような石垣を7箇所で確認することができ、本丸跡の石垣の想定ラインを復元する上で貴重です。
4.千貫井(せんがんい)
本丸跡の南西部の山腹に穿(うが)たれた千貫井は、山上に築かれた城にとって千貫にも値する貴重な井戸でした。 
構造

 

天守
彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長(けいちょう)9年(1604)に始まり、20年近い歳月をへて完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館(きょかん)である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、そして「着見櫓(つきみやぐら」なども建っていました。
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望ぼう楼ろうを乗せる古い形式を残しています。昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)ころであることが判明しました。
また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城(大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。
戦とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦を経験することなく平和な江戸時代を送りました。この時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑(かっちゅう)などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。
天秤櫓
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。
この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。
けれども詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さを感じさせます。
大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切(ほりぎり)」と言います。堀切には橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。
天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されていますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っておりません。
天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。中でも嘉永(かえい)7年(1854)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。
堀切から天秤櫓を見上げてみてください。右手の高石垣が、越前(現在の福井県北部)の石工(いしく)たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積(ごぼう)み」。そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」です。
西の丸三重櫓
彦根城内には、天守のほかにも2棟の3階建物がありました。1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪(くるわ)の三重櫓でした。今回は、国の重要文化財に指定されている西の丸三重櫓をご紹介しましょう。
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い堀切(ほりぎり)(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手(からめて)(裏手)方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。
この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。
なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴(つづ)った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐(きまたとさ)に預けられていました。当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。
佐和口多聞櫓
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝(ます)形がたを囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中濠に開く4つの門の1つ。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。
重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間(ざま)が交互に配置されています。
現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。
かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。 空地はその名残りです。ちなみに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現在の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物です。
佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和(げんな)8年(1622)までには建てられていたと考えられています。
その後、明和(めいわ)4年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものです。
太鼓門櫓
本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしています。
櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。
太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓、そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった、彦根寺の山門を移築したものと考えられてきました。彦根寺は観音信仰の寺として広く知られていました。彦根山に向かって西に伸びた「巡礼街道」は、かつて、彦根寺へ多くの都人が参詣したため付けられた名称ですが、こうした観音霊場では納札を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあります。太鼓門櫓には門の柱に古い釘穴がたくさん残っており、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布していたようです。
ところがこの説は、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定されました。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物も、どこかの城の城門であったことが判明したのです。しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。ただ、それがどちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。
馬屋
表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。
馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています。
その数は21。つまり21頭もの馬を収容することができたのです。馬屋は、さらに現在の売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていません。
馬屋は藩主などの馬を常備したものでした。こうした馬屋の他にも、かつて表御殿(現在の彦根城博物館)の玄関脇には客用の馬屋がありました。また、槻御殿(現在の玄宮楽々園)やお浜御殿などの下屋敷には、馬場(ばば)があって馬の調教が行われていました。
武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても、著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて、藩内で武術が学び継がれました。馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部(かみおおりべ)の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及しました。8代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られますが、藩士も250石以上は馬扶持(うまふもち)を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠りませんでした。
こうした馬に関する役職として馬役(うまやく)がありました。彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていたのです。
玄宮園
玄宮園は、隣接する楽々園とともに、江戸時代には「槻(けやき )御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。槻御殿は、延宝5年(1677)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。
玄宮園の名は、中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられます。
園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、一説に中国の瀟湘(しょうしょう)八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、 江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。そのほか玄宮園図には「鳳翔台(ほうしょうだい)」「魚躍沼(ぎょやくしょう)」「龍臥橋(りゅうがばし)」「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」 「春風埒 (しゅんぷうれつ)」「鑑月峯(かんげつほう)」「薩埵林(さったりん)」「飛梁渓(ひりょうけい)」「涵虚亭(かんきょてい)」の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。
玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていました。池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が開き、大洞(おおほら)の弁財天堂や菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、あるいは松原のもう1つの下屋敷である御浜(おはま)御殿への御成りには、そこから御座船(ござぶね)で出向いたようてす。
楽々園
楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷で、槻御殿と呼ばれていました。現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。
槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。江戸時代初期には、重臣の川手主水(かわでもんど)の屋敷があったとも伝えられていますが、下屋敷の普請にあたり、大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった表御殿(現在の彦根城博物館)をはるかに凌駕しています。
井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。現在、枯山水となっている庭園がそれですが、古絵図を見ると満々と水をたたえています。
御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されました。「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目されています。 
彦根藩

 

近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。
慶長5年(1600)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年(1602)に死去した。嫡男直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年(1606)完成し彦根城に入城した。
元和元年(1615)、直継は病弱で大坂の陣に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野安中藩に3万石を分知され移封となった。代わって参陣し活躍した弟の直孝が藩主となった。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を2代とした。
直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、元和元年・元和3年(1617)・寛永10年(1633)の3度にわたりそれぞれ5万石の加増がなされた。よって30万石の大封を得る大大名となった。更に天領の城付米預かりとして2万石(知行高換算5万石)を付与され35万石の格式を得るに至った。
彦根藩井伊氏は幕閣の中枢を成し、雅楽頭酒井氏・本多氏など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。また、直澄・直興・直幸・直亮・直弼と5代6度(直興が2度、直孝が大老になったかどうかは賛否両論である)の大老職に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。
歴代藩主の中で最も有名なのが、幕末に藩主となった直弼である。嘉永3年(1850)、兄直亮の死去により藩主となった。13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題で南紀派に属し、一橋慶喜ら一橋派と対立し徳川家茂の14代将軍就任に貢献する。安政5年(1858)に大老に就き、勅許を得ず日米修好通商条約に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む安政の大獄といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、万延元年(1860)に桜田門外の変で水戸藩浪士らに暗殺された。同年、藩主に就いた次男の直憲は、文久2年(1862)に直弼の罪を問われ10万石を減封された。
元治元年(1864)、禁門の変での功により旧領のうち3万石を回復する。また天誅組の変・天狗党の乱・長州征討にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、大政奉還以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。
慶応3年(1867)、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、家老岡本半介は旧幕府軍と共に大坂城に詰めたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山や本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領している。
明治4年(1871)、廃藩置県により彦根県となった。後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。
明治17年(1884)、井伊家は伯爵となり華族に列した。 
赤備え
赤備え(あかぞなえ)は、戦国時代の軍団編成の一種。具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。
武田の赤備え
武田軍の赤備えを最初に率いたのは後代に「甲山の猛虎」とも謳われた飯富虎昌で、騎兵のみからなる騎馬部隊として編成された。 もともと朱色は侍の中でも多くの首を上げた者にのみ大名から賜るものだった。そこで、各武将の二男(自領は父からは譲られず、自らのやり働きで稼ぐしかない)たちに朱色で統一した赤備の部隊を組織化。現代風にいえば、切り込み隊として組織した。永禄8年(1565)に虎昌が義信事件に連座し切腹すると、虎昌の部隊は彼の実弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ、同時に赤備えも継承したという。飯富虎昌・山県昌景の両者は『甲陽軍鑑』において武勇に秀でるとともに武田家及び武田軍の中心として活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える。また、『軍鑑』によれば武田家中では山県昌景と共に小幡信貞、浅利信種の2名が赤備えとして編成され総勢千騎だったという。
発給文書においては、元亀3年・天正2年の武田信豊宛武田家朱印状など武田氏の軍制において装備外装に関する規定が存在していたことを示す文書が見られる。元亀3年文書では信玄が信豊に対し装備を朱色で統一することを独占的に認められており、天正2年文書では武田勝頼により信豊の一手衆が黒出立を使用することを許可されており(これは『軍鑑』や『信長公記』長篠合戦時における記述と符合している)、武田軍では一手衆ごとに色彩を含めて兵装の規格化が整えられていたと考えられている。
武田の赤備えが強すぎたため、「赤備え隊=精鋭部隊または最強部隊」というイメージが諸大名の間で定着したと言われる。その後、徳川精鋭部隊の井伊直政や、真田信繁(幸村)が赤備えを採用したことでもこの事実が読み取れる。
井伊の赤備え
武田氏滅亡後、本能寺の変による武田遺領の争奪を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。以後幕末に至るまで井伊家の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされた。
大坂の役の折、家康が煌びやかな井伊直孝(直政の子)の隊を見て平和な時代で堕ちた赤備えを嘆いた。その中で使い古された具足を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣団であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。
赤備えが最後に表舞台に立ったのは、アメリカの黒船艦隊来航に備えた相模湾から江戸内海の警備である。嘉永6年(1853)6月3日の浦賀来航の様子を描いた「ペリー浦賀来航図」に、彦根勢の赤い陣羽織や旗差物などが描かれている。
慶応2年(1866)の第二次長州征伐では井伊直憲率いる彦根藩が芸州口の先鋒を務めた。長州藩のミニエー銃に対し、彦根藩は赤備えに火縄銃という古来より伝わる兵装で挑むが、小瀬川を渡ろうとした所を長州軍石川小五郎率いる遊撃隊のアウトレンジ戦法を受け一方的に敗れる。この時、赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。
真田の赤備え
慶長20年(1615)大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が編成した。敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われている。武田家由来の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せた。 
井伊氏

 

井伊氏は藤原氏後裔の氏族の一つ。平安時代、遠江国(現・静岡県)井伊谷で誕生し、以来中世の動乱期には度々その武勇が語られるほど徐々に勢力を拡大。徳川四天王に数えられる大名、井伊直政へとつながっていく。
寛弘七年(1010)正月元旦。遠江国井伊谷の八幡宮神主が、御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく、聡明で貴人の相があったという。しばらくは神主の手で育てられたその子は、七歳の時、遠江国司藤原共資の養子となり、藤原共保(ともやす)と名乗るようになった。
やがて成人した共保は故郷の井伊谷に館を構えるようになり、地名にちなんで家名を「井伊」と改めた。井伊家の始まりである。
井伊共保生誕の井の側には橘が生えていた。諸説あるが(注1)その逸話から、後の彦根井伊家では、「彦根井筒」や「彦根橘」と呼ばれる家紋を取り入れている。
平安時代中ごろから井伊氏は武功をあげ、井伊谷を中心に勢力を拡大していった。
鎌倉時代には日本八介(はちすけ)(注2)の一つ井伊介(いいのすけ)を名乗っていた。井伊介は遠江国を代表する有力領主であった。
南北朝時代には、南朝方に加勢。敗戦を喫する。以後、敵対していた今川氏の支配下に置かれ受難の時代が続く。
戦国時代、今川氏に反旗を翻すが敗戦。再び支配に置かれる。
天文元年(1532)井伊家二十代直平が井伊谷に龍泰寺を建立。永禄三年(1560)、今川義元軍に加えられていた直平の孫、井伊家二十二代直盛は桶狭間で織田信長軍と奮戦。討ち死にする。後にその法名「龍潭寺殿(りょうたんじでん)」にちなみ、寺名を龍潭寺と改め、現在にまで伝わっている。
直盛には実子がなく、従兄弟の直親を養子に迎えていた。桶狭間の合戦の翌年、その直親に子が生まれた。「虎松」と幼名がつけられた。
その翌年、今度は、直親が徳川家康と懇意にしていることに腹を立てた今川氏真が、直親を謀殺。幼い虎松が残された。当主不在となるため、七十五歳という高齢で直平(虎松の曽祖父にあたる)が再び当主となるが、これもすぐに毒殺されてしまう。
永禄八年(1565)、ついに井伊家では当主となる男子がいなくなり、虎松もまだ五歳と幼かったので、虎松の祖父直盛の娘、次郎法師が当主の役目を担った。次郎法師は虎松を育てながら、国政もおこない、女性地頭(注3)と呼ばれた。 永禄十一年(1568)、徳川家康の進攻が始まり、井伊家もその軍門に下る。この時、虎松は奥三河まで逃れ、そこで八歳から十四歳までを過ごすことになる。
天正三年(1575)、虎松十五歳。徳川家康の家臣となることを決心する。家康が鷹狩りに出掛けた際に、虎松はつてを使って接見。家康は、虎松の父、直親が家康に味方しようとしたために謀殺されたことを覚えており、その罪滅ぼしも兼ねて虎松を家臣に加えた。
虎松は家康より万千代という名をもらい、戦国時代を駆け抜けていくこととなる。やがて成人した万千代は、井伊家二十四代井伊直政と改名。徳川四天王の一人とまでいわれる武将へと成長していくのであった。
注1) 奈良の三宅氏が井伊谷に荘官として着任し、井戸の側に住んで「井端谷」を名乗ったのが井伊氏の祖とする説もある。三宅氏の家紋は橘である。
注2) 介は国司の次官の役職。有力な地方豪族が選出されていた。
注3) 地頭とは中世の在地領主のこと。 
井伊直政
戦国の世にあって、数々の艱難辛苦を味わってきた井伊氏。謀略と戦乱の末、ついにわずか二歳の嫡男を残すのみとなる。その子の名は、虎のように強く、常磐の松のように栄えるようにと名づけられた「虎松」。この虎松こそ、後に「井伊の赤鬼」と呼ばれ、徳川四天王筆頭に数えられる猛将・井伊直政の幼き日の姿であった。
井伊直政が誕生したのは永禄四年(1561)の井伊谷であるとされる。時は戦国。折りしも、甲斐国(注1)の武田信玄と越後国(注2)の上杉謙信が壮絶な戦闘を繰り広げたとして有名な川中島の戦いと同年である。直政の幼名は虎松。虎のように強く、常磐の松のように末永く栄えることを願ってつけられたその人生は、生を受けたその瞬間から動乱の中に生きることを宿命づけられていたのかもしれない。
虎松が生まれる前年、祖父・直盛が桶狭間の合戦(注3)で戦死している。生後1年で父・直親が謀殺され、その翌年には高齢ながら再び当主を継いでいた曽祖父・直平が毒殺された。たった3年間で次々と当主が命を落とした井伊家には、もう総領を継げるものは幼い虎松を残すのみとなっていた。 さすがに年端もいかない幼子が国政を行うわけにもいかない。また、同じ頃虎松の母はすでに浜松頭陀寺の松下家に再婚していたため、虎松を養育する者もいない。この時、虎松の後見人として名乗りを上げたのが次郎法師祐圓尼である。後に女性地頭と呼ばれ、女性ながら戦国時代の一国の政を執ることになる。虎松はその庇護の下、八歳まで育てられる。
永禄十一年(1568)、徳川家康が三河(注4)より奥山を越えて遠州(注5)に進出。井伊谷を中心に遠江国を治めていた井伊家はその所領する土地もろとも家康の支配下に置かれることとなった。この時、龍潭寺南渓和尚の手により虎松は戦乱を避け、奥三河の鳳来寺へと逃がされていた。実質、井伊家は城も領地も家臣団も失い、その家中には虎松一人きりの状態となったのである。
天正三年(1575)、父・直親の十三回忌法要を執り行った際、次郎法師とその母・友椿尼、南渓和尚が相談し、虎松を家康の家臣にすることを決める。戦国の世に生きる処世術であろう。虎松十五歳であった。家康が三方原へ鷹狩りに出たのにあわせて、井伊家の親類である松下源太郎と次郎法師に付き添われ、虎松は家康に謁見。父・直親と親交のあった家康は虎松を家来とした。自分の幼名・竹千代にちなみ、虎松に万千代を名乗らせた家康は、三百石を付与するのであった。当時、城も家臣もない一介の武士に三百石はかなりの俸禄である。家康が何故、急に現れた虎松にそこまでしたのか。それは単に、父・直親との親交が理由だけではなかったのかもしれない。
ともあれ、家康の家臣団に加わった虎松改め井伊万千代は、武勇を天下に知らしめていくことになる。
遠州東部の高天神城は、徳川氏と武田氏のせめぎ合いで入れ替わり立ち替わり占拠しあう、緊迫した拠点であった。天正四年(1576)、家康が出陣すると、井伊万千代もそれに従った。出陣の前に家康のお声掛かりで、男子が始めて甲冑を着るときの儀式「甲冑着初め式」を行っていた万千代は、威勢よく初陣に臨み、家康の寝所に忍び込んだ敵の忍者を討ち取り功名を上げた。この働きにより、井伊家は三千石に加増されることになる。
家康からの寵愛も強かった万千代は、その翌年には一万石、そのまた翌々年には二万石と俸禄を急激に増やしていく。そして、天正十年(1582)。織田信長の甲州征伐に参加した家康と供に万千代も参戦。信長家康連合軍は武田勝頼率いる戦国最強と謳われた武田軍勢(注6)を打ち破り、甲州を平定した。
信長は家康への褒美として、駿河国(注7)を与え、その返礼として家康は安土城を訪ねる。同年六月、家康を大阪・京都で歓待しながら中国地方の毛利氏領地下に手を伸ばそうとしていた信長は家臣の明智光秀の謀反により志半ばで討たれてしまう。世に言う本能寺の変である。
光秀謀反の報せは、ちょうど大阪の堺にいた家康の耳にも届いた。堺から家康の居城である駿河まで、通常の街道を選べば光秀がいる京都を通過しなければならない。信長と懇意であった家康もまた、光秀軍に命を狙われている。それを回避するために、家康は鈴鹿山中伊賀の山越えをして伊勢まで出、そこから駿河へ帰ることを決断した。河内、山城を経て伊賀路に至る難所には、光秀の勢力や山賊が待ち構えていた。辛くもそれらを交わしながら、伊勢まで辿り着いた家康は海路より三河国岡崎城まで帰りつくことができた。井伊万千代もこれに従っており、伊賀越えでは勇壮な働きを見せ、家康を守ったという。この時の働きへの褒美として万千代は家康から孔雀の羽で織った陣羽織を授かる。この陣羽織は今も新潟県三島郡与板町の歴史民俗資料館に保管されている。
その年の秋。万千代は家康に従って甲州に入国する。
十一月。万千代元服。二十四代井伊兵部小輔直政を名乗る。この時、家康が配下としていた武田二十四将の一人・山県昌景の家臣団を井伊家臣団に加えた。山県昌景は兜から甲冑具足に至るまで真っ赤に染め上げた赤備え(注8)を軍勢のシンボルとしていた。これに感化された直政は、家臣団を赤一色の赤備えにする。
時に直政二十二歳。後に「井伊の赤鬼」と呼ばれた伝説の始まりである。
注1) 甲州。現在の山梨県。
注2) 現在の新潟県。
注3) 織田信長と今川義元の合戦。井伊家は今川氏の支配下にあり、参戦していた。
注4) 三州。現在の愛知県西部。
注5) 遠江(とおとうみ)国のこと。現在の静岡県西部。
注6) 武田氏は信玄亡き後も、息子の勝頼が統率し、最強の騎馬軍団を誇っていた。
注7) 現在の静岡県東部。
注8) 赤備えばかりが有名だが、他にも黄一色の黄備えなどというものもあった。赤備えを着ている軍勢は強いという噂があり、直政もそれに倣ったともいわれる。 
次々と軍功を上げ、異例の功名を遂げる井伊直政。断絶寸前となっていた井伊家再興を成し遂げ、ますます発展していく一方で、次第に周囲から孤立していく。それでも直政には先陣を切って戦場に駆ける理由があった。
井伊直政という人は、まったくのゼロの状態から井伊家を再興した英雄である。しかし、思えば、その双肩には常に「育ててくれた人の期待」「徳川直参の旗本(注1)でないことへの引け目と嫉妬」が重く圧し掛かっていたのであろう。功を為すことでしか生き残れない動乱の世を、直政はまるで焦燥感に追い立てられるかのように駆け抜けていく。
天正十一年(1582)。先年に元服をし、晴れて井伊家二十四代の家督を継いだ井伊直政は、松平周防守の娘で徳川家康の養女になっていた花と結婚する。元服とともに、旧・武田家臣団をはじめ、徳川家の旗本衆の一部を家臣として加えられ、石高も4万石にまで加増された。直政はこれを生みの母親に報告する(注2)。母は名門・井伊家の再興に歓喜の涙を流したという。しかし、そこで直政は育ての母である次郎法師が亡くなったことを知り、悲しみの涙を流すこととなった。おそらく、直政が自身の出世を最も報告したかった人は、幼い自分を養いながら井伊家の灯を守り続けた次郎法師であったに違いない。直政は井伊谷の龍潭寺に墓参し、先祖の前でしばらく手を合わせた。
井伊家再興が成ったといっても、戦乱が終わったわけではない。直政が故郷へ錦を飾ったのと同じ年、織田信長の跡目争いを利用した賤ヶ岳の戦い(注3)が勃発。戦いに勝利した豊臣秀吉は、信長の次男・信雄を大坂城に呼ぶが、主家を居城に呼びつけるとは何事かと信雄はこれを拒否した(註4)。そこから急激に織田家と豊臣家の仲が悪化していく。翌年(1582)、織田信雄が徳川家康に援軍を求めたため、実質上、豊臣家対徳川家の戦乱へと発展していくこととなる。後に「小牧・長久手の戦い」として語られる戦役の始まりであった。
3月から始まった戦に、直政は赤備え隊を率いて出陣。秀吉軍2万に対して家康軍1万という劣勢の中で、直政は自身も赤一色の身ごしらえに南蛮渡来の白熊(はぐま)(注5)の毛皮を背中にまで垂らし、兜には鬼の角のような天衝(注6)をあしらったいでたちで真っ先に渦中へと切り込んでいった。長槍で敵を蹴散らしていく様子はまさに鬼神――「井伊の赤鬼」の姿であった。直政は小柄な体つきで、顔も少年のようであったというから、赤備えは威厳を示すのにもってこいであった。なにより、家康の信頼を篤くするためには目立って功をあげる必要がある。赤備えはそれにも一役かっていたのである。
戦の後半では、直政は家康軍の片翼、3千の軍勢を任せられていた。どんな戦であろうと、真っ先に仕掛けることを本懐としていた直政の働きにより秀吉軍は敗退(注7)。同年11月に講和を迎えた。
「小牧・長久手の戦い」後、家康は秀吉から再三大坂へ呼び出されていたが、身の保身を考え、それを断り続けていた。しかし、秀吉が母の大政所(おおまんどころ)と妹の朝日姫を人質として預けるという条件を出してきたため、家康は断りきれず、人質と交代で上洛した。このとき、秀吉の母と妹の警護を任されたのが直政であった。
直政は朝夕必ず大政所を訪ねては懇切に世話をしたという。敵地で心細い思いもあった大政所は直政の接し方に心を打たれ、秀吉の元に帰るときは是非道中も警護してほしいと望んだ。
このとき、井伊直政の人柄が分かるちょっとしたエピソードがある。
大坂まで母と妹を護衛してきた井伊直政に気をよくした秀吉が、自ら茶をたてて直政を労おうとしたときのことである。その茶会にかつて家康の家臣でありながら、今は秀吉に寝返った武将、石川数正が同席していた。それを見つけた直政は「先祖より仕えた主君(家康)に背いて、殿下(秀吉)に従う臆病者と同席は御免被る」と激怒しながら言い放ったのである。直政にとって、自身をここまで取り立ててくれた家康は絶対であり、それを裏切るなどということは最も唾棄すべきことであったのであろう。
そもそも、井伊家は徳川直参でないのにもかかわらず、直政はそれらを押しのけて筆頭に名を連ねるような異例の出世をしている。それは当然、周囲からの妬みや嫉みの対象となる。ひとたび足元をすくわれれば転落する世の中である。直政が家康という後ろ盾をどれほど頼りに思っていたか、それはいわずもがなであろう。直政は家康に対して、奇妙なほど実直に誠実であろうとした。それは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどのものであったという。家臣にもそれは徹底して行われ、些細なミスにも刀を抜き切りかかることが多かったという。それでついた渾名が「人斬り兵部(注8)」。全ては家康に認められるためであった。
戦場では大将であるはずなのに、真っ先に切り込むため、いつも陣中の指揮は筆頭家老の木俣守勝が取っていたという。直政にとって、家康への手柄を示すのは自身でなければならなかったのだ。しかし、家臣からすれば、それは破天荒が強すぎてついていけるものではなかった。規律と統制に守られた軍であったが、心から直政に追従しようというものはあまりいなかったといわれる。筆頭家老の木俣氏でさえ、徳川直参に戻してほしいと家康に訴えていたほどである。
鬼神のごとく戦場を駆け巡った直政の生傷は絶えることがなかった。何度も軍功をあげるが、家中でのその扱いは決して厚遇されたものではなかったようである。しかし、直政は己の信じた道をすすんでいく。
孤高に、ただ、ひたすらに。
そして、戦国時代は終局を迎える。天下分け目の関ヶ原の足音がもうすぐそこまで来ていた。  
注1) 直参(じきさん)とは主君に直接仕えること。井伊家は北条氏の家臣であったこともあり、直政は飛び入りで徳川家に入ったため、直参ではない。旗本(はたもと)とは、大将直属の役職で、戦場では本陣を守る重要な役目を任される。
注2) このとき直政の母は浜松頭陀寺の松下家へ再婚していた。
注3) 織田信長の後継をめぐる争い。信長の次男・信雄を擁した羽柴秀吉軍と信長の三男・信孝を擁した柴田勝家軍が近江国(現在の滋賀県)の賤ヶ岳附近で戦った。勝利した秀吉は名実共に天下人として確たる地位を獲得した。
注4) 居城に呼ばれて赴くというのは、臣下が主に対して行う行為である。秀吉はもともと織田家の家臣であり、信雄もそのつもりでいたことがすれ違いの契機となった。
注5) 南蛮はポルトガルやスペインのこと。南方の海を回って来日してきたことからそう呼ばれた。ちなみに北周りで来日していた国は紅毛という。白熊(はぐま)とはヤク(チベット高原に生息するウシ科の動物)のこと。
注6) てんつき。兜の前立て物のひとつ
注7) 森長可(信長の小姓・森蘭丸の兄)を討ち取る戦いなど、ほとんど直政が先陣を切ったといわれている。
注8) 直政が兵部小輔(ひょうぶしょうゆう)という官位を得ていたことから、こう呼ばれた。
赤鬼と恐れられ、人斬り兵部と渾名され、それでも止まるところを知らず戦乱を駆け抜けていく。
江戸時代、幕政に欠かせない井伊家の礎を一代で築き上げた井伊直政は、まさに戦国を切り開いた英傑であった。
群雄割拠の戦国時代もやがて大国が小国を飲み込み、より強大な国同士が睨み合う勢力図へと変容を遂げるころになると、どの戦国大名にも片腕と称される武将の存在が確認できるようになる。徳川家康にとっての片腕は井伊直政を置いて他にはいないだろう。後に、徳川十六神将の一人に数えられ、四天王筆頭(注1)とまで呼ばれた直政。中国地方の大名である毛利家を支えた武将・小早川隆景から「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と称されることもあった。その気になれば覇権争いに名を連ねてもおかしくないほどの実力を有していたと噂されていたのである。下克上の世の中において、しかしながら、直政が天下を握ろうと野心を覗かせることは、終になかった。ひたむきに家康のためだけに戦場に向かうのである。
天正十八年(1590)、関東を制圧した北条氏と大阪の豊臣氏の軋轢から戦乱が勃発した。小田原城周辺で繰り広げられた「小田原の役」である。徳川家康も豊臣軍に与して参戦。直政もそれに従った。
この戦役は、小田原城に立てこもりゲリラ戦を展開した北条軍と城を取り囲んで応戦した豊臣軍という形に分けられる。双方にとって辛抱強さが試される持久戦であった。両軍ともにじりじりと戦力を削られながら戦を続けたのである。どの武将も攻め手を決めかねて動かない中、唯一、小田原城内にまで攻め入った武将がいた。井伊直政率いる赤備え隊である。直政は城内の篠曲輪に夜襲をかけた(注2)。後にも先にも、この戦役で小田原城が戦場となったのはこのときだけである。
やがて、北条氏が降伏することで戦が終わると、豊臣秀吉は奥州を平定して天下統一を成し遂げた。北条氏が領有していた関東はそのまま徳川家康に与えられ、徳川家が江戸での基盤をもつはじめとなる。軍功をあげた直政も、家康から上州箕輪十二万石(注3)の領地を与えられ転居、壮大な城を築城した。このとき、直政には正室の子である万千代(注4)と側室の子である弁之介(注5)、それから娘が一人いた。
徳川家康の関東移封に伴い、家康の四男・松平忠吉も忍十万石(注6)を領した。このとき、忠吉に妻を持たせることとなり、直政の娘がその夫人となる。井伊直政は徳川家と晴れて姻戚関係にまでなったのである。家康の恩義に尽くすことにその身を捧げてきた直政にとって、それは至上の瞬間であったであろう。
慶長三年(1598)、直政は箕輪城を廃し上州和田に移る。より壮大な高崎城を築城する。
そして翌々年。長かった戦国時代が終わりを告げる。
慶長五年(1600)9月15日。豊臣秀吉没後の覇権争いから徳川家康を中心とする東軍と石田三成(注7)を中心とする西軍に全国の武将が二分する戦に発展。後に天下分け目と称される「関ヶ原の合戦」が起こったのである。
この歴史の行く末を決定づけた大戦であるが、その開戦には直政のよるところが大きい。
その日。関ヶ原は早朝から立ち込めた濃霧で、隣の軍の様子も判然としなかったらしい。家康から先陣を任されていた福島正則はじっと開戦の時期を待っていた。2時間ほど両軍は睨み合っていたという。そこに直政が義理の息子となる忠吉をつれて現れた。ただならぬ直政の雰囲気に気づいた福島家臣団はそれを止めようとするが、直政は頑として歩を緩めなかった。直政は言う「ここにおわすは、家康公のご子息にして松平下野公である。下野公は初陣のため、後学に先陣を物見に行く」。家康の息子であるという言が効いたのか、福島軍に通り道が出来ると、直政はそのまま敵陣へ突進。忠吉が宇喜多秀家軍(注8)に発砲した銃声により、戦の火蓋は切って落とされたのだった。
直政にしてみれば、徳川家の命運を左右するような戦で、徳川家ではない福島正則が一番乗りの名乗りを上げることが我慢ならなかったのだ。『徳川が動いたために開戦した』という結果がほしかったのである。
戦が始まると、両軍入り乱れての混戦となった。直政は忠吉とともに島津義弘(注9)の陣中に切り込み瓦解させた。敵が敗走をはじめても直政は追撃の手を緩めることはなかった。これまで勝ち取ってきたやり方である。そこにいたのは、家臣団ですら置いて行きがちに真っ先に戦乱を駆け巡る「孤高の赤鬼」の姿であった。傷を負うのは当たり前のことで、それでも命を落とさずにこれまでの軍功を上げられたのは、直政には武勇と強運という天賦の才が備わっていたからであろう。
しかし、その強運も底をついたのか、そこで直政は致命傷を負う。
隠れ潜んでいた島津軍の伏兵が放った凶弾を受けたのである。幸い急所を逸れ、右腕に当たったのは運が良かっただろうが、やがてその傷が直政の命を奪う決定的なものとなるのである。
当初、戦は西軍有利と誰もが疑っていなかったが、蓋を開けてみれば、勢いづいた東軍の勝利であった。直政が強引にきった先陣の勢いに乗った結果であるといえるかもしれない。
慶長六年(1601)、直政は戦場での武功により加増。石田三成の本拠であった近江佐和山十八万石を拝領し、佐和山城に移った。
しかし、直政は戦で受けた銃創から敗血症(注10)を併発し、床に伏せるようになった。
己の死期を悟った直政は、郷里である井伊谷に帰れないことを悔やみ、近江国にも井伊谷と同じ龍潭寺を建立することを遺言とした。
そして、戦乱で荒廃した佐和山城より住み良く立派な城を築城することも加えられた。
慶長七年(1602)、春まだ浅い二月十一日。井伊直政没。享年四十二歳であった。
直政の遺体は佐和山城下の程近くを流れる芹川の中州に運ばれ、嫡男・直継をはじめ多くの家臣団が見守る中、荼毘に付された。当時、一角の武将が死ぬときには、家臣団が殉死することは珍しくなかったが、直政の死に追従する家臣は一人もいなかったという。「孤高の赤鬼」は最後まで一人で動乱を駆け抜けていったのである。その遺骨は彦根の清涼寺と井伊谷の龍潭寺に分骨されて葬られた。
翌年、徳川家康が征夷大将軍に任命される。三百年間泰平と謳われる江戸時代の始まりである。
戦国時代の只中に生まれ、駆け抜け、時代の終焉とともに生涯を閉じた井伊直政。彼の言葉の中にその精神が垣間見られるものがある。
病床の枕元に筆頭家老の木俣守勝を呼んだ直政は後事についてこう言い残したという。
「井伊家があるのは徳川殿のおかげであることを忘れてはならぬ。家督を継ぐものは代々、御奉公第一、忠節一筋を心掛けることを申し送るよう務めろ」
後に、譜代大名筆頭として7人もの大老(注11)を輩出し、江戸幕府には欠かせない大名家となった井伊家の歴史はここから始まったのである。
注1) 徳川家康に仕えた側近で江戸幕府の創業に功績を立てた4人の武将を顕彰して四天王と呼ぶ。井伊直政のほかに、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政があげられる。また、直政、忠勝、康政の3人を特に挙げて、徳川三傑と呼ぶこともある。
注2) しのぐるわ。小田原城内に設けられた囲いのこと。別名「捨て城」とも呼ばれ、敵に占領されることが前提の砦。ここに気を取られている間に本城から兵が攻め込み、一網打尽にする役割を担っていた。直政は攻め入るも、深追いはせず敵兵四百ばかりをとり撤退した。
注3) 現在の群馬県箕郷町。上州とは上野国(こうずけのくに)のこと。
注4) 後の井伊家二十五代当主にして、彦根城主初代となる井伊直継。後に弟に家督を譲り直勝と改名、上州安中三万石に転封される。
注5) 後の井伊家二十六代当主にして、彦根城主二代となる井伊直孝。
注6) 現在の埼玉県行田市。武蔵忍城は関東7名城の一つに数えられている。読みは「おし」。
注7) 近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)出身の戦国武将。近江佐和山十九万石の城主。豊臣秀吉政権下五奉行の一人。数々の戦で軍功を上げるも、関ヶ原の合戦で敗北。伊吹山中に逃れるも捕らえられ、六条河原で処刑された。
注8) 豊臣秀吉政権下五大老の一人。関ヶ原の合戦では本田忠勝軍と激戦を繰り広げるも敗退。
注9)薩摩国(現・鹿児島県)の武将。関ヶ原の合戦では、当初家康側につくはずであったが、いざこ ざにより西軍に加勢。東軍から激しい追撃を受けるも応戦しながら撤退。このとき、井伊直政と松平忠吉に手傷を負わせる。戦地から街道を外れ、険しい鈴鹿山中を横切って逃れたルートは「島津越え」として今もその名をとどめている。
注10) 細菌によって引き起こされる感染症の一つ。直政は戦で受けた銃創から破傷風に感染し、敗血症を合併して病に倒れたといわれている。
注11) たいろう。江戸幕府において将軍の補佐役を担い、臨時に老中の上に置かれた最高職。井伊家は7人(厳密には6人・内一人が再任)もが大老職に就き、その数は群を抜き最多である。 
井伊直継
長かった戦乱の時代が終わりを告げ、新しい徳川幕府の指導の下、日本は泰平の世を歩み始める。
近世の幕開けとともに彦根城と藩の基礎を築き上げたのが初代城主直継である。
群雄割拠の戦国時代が終わりを告げたといっても、時代は突如泰平に治まるというわけにはいかない。徳川家康が征夷大将軍に任命されたということに反目する地方の戦国大名は多く、いつ日本全土を巻き込むほどの戦乱が勃発してもおかしくない不安定な情勢はなおも続いていた。これから数十年という歳月をかけ、様々な人たちの尽力により安寧の礎を築いていくのである。
戦乱の中、赤鬼と恐れられた井伊家二十四代直政に嫡子が誕生したのは天正十八年(1590)のことであった。ちょうど直政が家康軍として小田原北条氏と矛を交えていたときの頃である。正室との間に生まれたその子は直政と同じ幼名、万千代と名づけられた。直政期待の嫡男という見込みもあったのだが、どうやら万千代は生来病弱であったらしい。父の豪傑な気質をあまり濃く受け継いではいなかった。
同じ年、直政の側室に次男・弁之介が誕生している。
万千代は、それでも、父が次々と武功を挙げていく傍らですくすくと成長する。この頃になると、直政は自他共に認める徳川四天王の筆頭としての地位を不動のものとしていたはずであるから、大勢の家中に見守られる中、万千代は息災な日々を過ごしていたのだろう。
しかし、それも長くは続かなかった。
慶長五年(1600)に勃発した関が原の合戦で直政被弾。その傷が元で2年後に生涯を閉じる。頭首の急逝により、井伊家は万千代を新頭首にすえた。このとき、万千代13歳。名を井伊家二十五代直継と改める。些か若すぎる元服であった。
盛大に直政の葬儀を執り行った直継には、父が残した戦乱の事後処理が待っていた。しかし、未だ年端もいかない直継が藩政を執ることは難しく、筆頭家老の木俣守勝が助言するなどして協力していたようである。
まず、直継が取り掛かったのは、父の遺言である「新城築城」であった。
徳川家康から、関ヶ原の褒賞として近江佐和山十八万石を与えられていた井伊家であったが、佐和山城内は度重なる戦で荒廃しており、なにより、敵方であった石田三成の居城に住まうことを忌み嫌った直政は、生前、常に違う場所に城を築くことを望んでいた。佐和山は中仙道と北国街道を見張るためには最も重要な軍事で拠点であったのだが、直政のプライドが許さなかったのだろう。当初、直政は琵琶湖岸の磯山(注1)に新城を建設しようとしていた。
直政没後、家督を継いだ直継の元に、西国の防衛拠点として新城築城をするようにと幕府から伝令が下る。佐和山城にいた若い直継はその建設予定地に悩んでいた。そこに家老の木俣守勝が再検討の末、琵琶湖から広がる内湖に浮かぶ彦根山(注2)にすることを進言し、直継の同意の下、築城工事が着工する運びとなった。
彦根城の始まりである。
この事業は、幕府管理の下で行われた天下普請であった。国を挙げて彦根城築城に臨んだのである。幕府から3人の公儀御奉行が派遣され、周辺7カ国12大名が手伝いに当たらされる大工事であった。大津城の天守、小谷城の三重櫓、長浜城の天秤櫓、佐和山城の太鼓門櫓など近江国内有数の建造物を移築し建設に当てられた。
慶長十一年(1606)、第二期工事までが終了し天守が完成すると同時に直継は入城する。彦根城主の誕生であるとともに、彦根藩の始まりであった。
井伊直継という人は、戦乱を駆け抜けた父に似ず、旧体制を打ち崩すより新体制を固めることに秀でていたようである。
江戸時代の草創期というのは、まだ細かい戦が続いている時代であるが、直継は父ほど後世に語り継がれるような武勇は見せていない。それどころか、生来の病弱が障ってか、参戦しないことも多かったという。そのかわり、城や街道の整備に心血を注ぎ、新時代の体制を作り上げていった。
慶長十九年(1614)、豊臣氏の最後の抵抗となる大阪の陣(注3)が勃発。再び天下を二分する争いとなった。
先代直政の頃から徳川家の信頼が篤かった井伊家にも参戦するように招集がかかるが、直継は体調を崩しており、戦列には加わらないで上州安中(注4)の関所警備を行った。直継に変わって弟の直孝が戦場に赴き、期待通りの武功を挙げる。
頭首であり、なにより兄の直継より、弟の直孝の方が活躍したという結果を重んじた徳川幕府は、彦根藩の頭首交代を命じる。直孝が彦根城2代目城主として入城、直継は上野国安中三万石に分家として転封されることになる。直継が父から受け継いだ近江の地で、嫡男としての役割は十数年程度であった。
直継はこれを機に直勝と名を改め、わずかな家臣を引きつれ居を移っていく。
安中に移った直勝は城下町や関所の整備を行ったといわれる。この地でもその礎を築くことに専心したのである。
その後、直勝は西尾藩(注5)、掛川藩(注6)と移り住み寛文二年(1662)に遠江国で生涯に幕を下ろした。井伊家の分家として残った直勝の子孫たちは、後に越後与板に移り住み幕末まで続く家系となる(注7)。
病弱が故にか、戦場での功績は薄いものの、新時代の礎を築くことに尽力した井伊直勝。享年73歳。途中で彦根城主を明け渡した弟・直孝より長寿であったことは皮肉である。
注1) 現在の滋賀県米原市磯あたり。
注2) 別名・金亀山ともいう。このため彦根城を金亀城と呼ぶ場合もある。防衛力としては佐和山城に劣るが、琵琶湖の水運から街道交通の要所を見渡せる屈指の防衛拠点であった。
注3) 徳川家康と豊臣秀頼の間でおこった戦乱。慶長十九年(1614)の「冬の陣」と翌年の「夏の陣」をまとめた呼称。大阪の役ともいう。この戦により、徳川幕府が豊臣家を滅ぼすことになった。
注4) 現在の群馬県安中市安中。長篠・設楽原の戦い以降、一時廃城となっていたが、井伊直勝入城により復興、明治まで続いた。
注5) 現在の愛知県西尾市。
注6) 現在の静岡県掛川市掛川。
注7) 現在の新潟県長岡市。彦根井伊家に対して与板井伊家と称する場合もある。直政からの家老小野玄蕃の子孫と松下源太郎の子孫は与板井伊家に従い、代々家老を務めた。また、井伊直政が戦中に着用したといわれる孔雀の羽で織った陣羽織が当地の資料館で保管されている。 
井伊直孝
江戸幕政を語る上で欠かすことができない存在、井伊家。譜代大名の中で大老職を輩出した数は群を抜く。
江戸幕府で最高職といわれる大老.。その元となる元老にまで選ばれたのが、彦根城2代目城主にして、井伊家二十六代、掃部守直孝である。
その姿は赤鬼と呼ばれた父に引けをとらないものであった。
井伊直政の次男・弁之助が誕生したのは、兄・万千代と同じ天正十八年(1590)のことであったといわれる。弁之助はその出生からして謎に包まれている。まず、母親が判然としない。直政の侍女であったとも、駿河国の農民の娘だったとも伝えられている。出生地もまちまちで、駿河国藤枝(注1)か隣町の焼津とするのが有力な説である。
一つのとある風聞が古くから伝わっている。
曰く。「弁之助は徳川家康の落胤である」
その真偽は定かではないが、この二人は容姿から言動までよく似ていたらしい。
弁之助は、やがて井伊家当主を継いで彦根城2代目城主・直孝となる。徳川幕府からの信頼も篤く、加増に加増を重ねられ、十五万石からスタートした彦根井伊氏は直孝の代で三十万石(+城付米五万石)という譜代大名でも有数の大大名に落ち着くのである。
弁之助は、やはり正室の子ではなかったためか、兄の万千代と違い、父親の側で育てられるということはなかったようである。6歳で上野国安中の北野寺に預けられ(注2)、そこで幼少期を過ごす。父と離れて暮らす弁之助にとって、当時音に聞こえた直政の武勇は憧れであったに違いない。いつか数える程しか会っていない父のようになりたいと幼い弁之助は思いを馳せたのである。
こんなエピソードがある。
弁之助が13歳の時、近くの民家に盗人が入るという事件があった。それを聞きつけた弁之助は夜半にも関わらず犯人を追いかけて捕まえる。この勇敢な出来事は、父・直政の耳にも入り、上州箕輪の居城に弁之助を呼び寄せた。弁之助にしてみれば僥倖である。憧れの父に会えるのだ。それは天にも昇る思いであったのかもしれない。直政に呼び出された弁之助は、雪が吹き込む場所にひざまずき、微動だにせず父を待ったという。緊張していたのだろうか。その様子に感動した直政は、褒美として子犬を一匹与えたという。
慶長五年(1600)。赤鬼と恐れられた父・直政が天下分け目の関ヶ原で被弾すると、兄の万千代が直継と改名して家督を継いだ。同じ頃、弁之助も井伊直孝と名乗りを改め、父の居城である近江国佐和山城内に移り住んだ。
2年後、戦傷で直政が落命し、兄が新しく築城を始める。
慶長十三年(1607)。上州刈宿(注3)五千石に移り住む。未だ、歴史の光は直孝には降り注いでいない。そのまた2年後、慶長十五年(1609)。直孝は一万石に加増される。そのとき、予想だにしなかった巡り会わせが起こる。徳川二代将軍秀忠の側近くに仕えることを家康から命じられたのである。
何故、家康がそれを命じたのかは判然としない。父・直政がお気に入りだったからなのか、そのほかに直孝を取り立てる理由があったのか。
そして、このときから幕政に欠かせない井伊直孝の歴史は始まるのである。
このころ直孝は京都伏見城在番を勤めている。
慶長十九年(1614)。関ヶ原からの禍根を巡り、江戸徳川家と大坂豊臣家最後の衝突となる火蓋が切って落とされた。世に言う「大坂冬の陣」(注4)である。
井伊家も徳川家譜代大名として先陣を命じられる。しかし、当主の直継は生来病弱で、武将としての貫禄にも欠けていた。そこで、白羽の矢が立ったのが直孝である。
直孝は兄に替わり、井伊宗家四千の軍勢の頂点に立たったのである。
これは、またとない好機であった。
赤鬼と恐れられた父の気性をもっとも色濃く受け継いでいたのが、他ならぬ直孝であった。寡黙で剛健、誠実でひたむきなその様は、幼い頃に憧れた父の姿であった。
その影を踏襲するかのように、鬼の角のような天衝をあしらった兜、甲冑具足まで赤一色に染め上げられた赤備えを身に纏い、先頭に立って戦乱の中に飛び込んでいったのである。
直孝は後世にこう呼ばれることになる。「井伊の赤牛」、そして――。
「夜叉掃部やしゃかもん」。
鬼を継いだ夜叉(注5)の姿であった。
大坂冬の陣は苛烈な戦であったという。
豊臣側は関ヶ原のときに比べると数が減ったとはいえ、後藤、長宗我部、木村、真田と歴戦の武将たちが未だに残っていた。数で勝る徳川軍も劣勢を強いられることが少なくなかった。
直孝は徳川家康の近親である松平忠直とともに大坂城攻略の内、八丁目口突破を任されていた。当初は、勝敗はあっという間に決まるだろうと誰もが思っていたという。直孝とて、それは例外ではなかった。
それは父譲りの赤備えの装束が証明していた。
これまでどんな戦でも、井伊家は赤備え隊を率いて勝ち鬨を挙げてきたのである。勝利の条件のようなものだった。
しかし、直孝の考えもよもや及ばなかったのであろう。
赤備え隊は、井伊家に限られた特権ではない。
豊臣軍として八丁目口に布陣を敷き、直孝を待ち構えていたのは、真田幸村率いる赤備え隊であった。
戦国時代。
強さの象徴といわれた赤備え同士が邂逅したのである。
注1) 現在の静岡県藤枝市。ここに直孝が産湯に使ったと伝わる井戸があり、直孝建立の若宮八幡宮がある。隣は焼津市。焼津市中里が直孝出生地とする説もある。
注2) 農家に預けられたという説もある。
注3) 現在の群馬県渋川市白井周辺地域。
注4) 江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。大坂の役とも。翌年の「夏の陣」とあわせて語られる。
注5) 古代インド神話や仏教経典に登場する悪鬼のこと。 
直孝が目指したのは父の背中であったのか。 彦根城下町を形作り、江戸幕府において井伊家の地位を確たるものにした二代城主は夜叉と呼ばれた男であった。
大坂冬の陣は血で血を洗う凄惨な戦いであった。
謀略と裏切りと罠と混戦で敵味方問わず、双方多大な戦死者を出していた。
そんな中、井伊直孝は彦根藩兵4000を率いて赤備えの先陣に立っていた。
迎えるは、真田幸村(注1)の赤備え隊。
これが並みの武将であるなら、あるいは、直孝の敵ではなかったのかもしれない。父、直政と同じく、戦場を真っ先に駆け抜け、数々の武功を挙げることができたであろう。しかし、相手は真田。「日の本一の兵(つわもの)」と呼ばれた智将である。その巧みな戦術の前に直孝は武運にも見放されるのである。
当初、豊臣側の真田幸村が出城として構えていた真田丸は、徳川家臣の前田利常が攻めていたが真田の挑発に踊らされその軍勢を瓦解させてしまう。
利常軍の突撃を見て居ても立ってもいられなくなったのが井伊直孝と松平忠直であった。血が騒いだのであろう。直孝は「我々も!」と急に突撃を開始した。
しかし、真田幸村はそれを事前に読んでいた。完璧なまでの防御がすでに完成していたのである。二重の柵の間にはまり、身動きが取れないでいる直孝軍を豊臣側の木村重成(注2)が一斉射撃。次いで、横から参戦した真田軍も射撃に加わり、直孝軍は500人の死者を出す大被害となった。
豊臣軍はある程度痛めつけると、また城内へ引き返していった。
直孝は、兄の替わりに参戦したこの戦で、敗北の苦汁を嘗めたのである。
戦はなんとか講和を迎える。
結果としては、大坂城の外堀を埋めるという徳川に有利な形で終えることとなったが、受けた傷跡は浅いものではなかった。
直孝は、急に突撃をしたことを軍令違反として徳川秀忠に咎められ、処罰されかかったが、家康が「味方諸軍を勇み立たせる結果となった。よくやった」と褒めたため、処罰は免れた。
翌年。
慶長二十年(1615)、直孝は家康より正式に彦根城主に命じられる。18万石の内、15万石を拝領。残り3万石は兄・直継にわけられた。二代目城主の誕生である。
しかし、冬の陣で無様をさらした直孝に何故、こうも家康は入れ込むのか……。
落胤という噂は、あながち間違いではないのかもしれない。
同年5月。
再び大坂で戦役が勃発する。世に言う夏の陣である。
直孝は前回の汚名返上のためにもと、再び赤備え隊を率いて参戦する。
当初、直孝は先陣を任された藤堂高虎(注3)とともに、道明寺方面に向かおうとしていた。
しかし、直孝は戦場の臭いを嗅ぎ付けることには長けていたのであろう。向かう方向には戦場がないこと察知した直孝は、「このまま作戦通りに」と進言する老臣たちの意見を無視し、突如として若江方面に転進する。そこには前回の宿敵であった木村重成が待ち構えていた。
直孝軍から銃撃を開始。戦の火蓋が切って落とされた。
最初こそ互角であったが、やがて直孝軍が勢いを増し、木村軍を打ち破る。(注4)
この戦での直孝の活躍は目まぐるしい。
木村重成を討ち取った後、豊臣秀頼を追い詰め自害させる。やがて、徳川の本隊が大坂城を取り囲むと、真っ先に火矢を放ち、淀殿をも追い込んだ。
それはまさに夜叉の所業であった。
夏の陣の結果、彦根の井伊直孝は天下に名を轟かせた。
その後、井伊家は5万石が加増され、直孝も従四位下・侍従へ昇格。これを島津家の薩摩旧記では「日本一の大手柄」と賞賛している。
その後、井伊家は京都の監視と畿内への抑えとして加増が繰り返され、嘉永10年(1633)には30万石(+城付き米5万石)に加増され大大名として揺るぎなく確立したのだった。
直孝は、3代将軍徳川家光のもとに元老(注5)の立場で迎えられ、意見があるときはいつでも拝謁できる地位となった。このため、直孝自身も江戸住まいとなり、居城の彦根にはあまり帰らなかったといわれる。
幕府での直孝に向けられた相談事は、主に軍事方面が色濃かった。
お隣の大陸で清(注6)に滅ぼされた明の遺臣らが江戸幕府に助けを求めたことがあった。
幕臣らは、これに参戦し、巷にあふれ出た浪人を戦地に送ろうと計画していたが、直孝が「豊臣家の朝鮮出兵を再現するのか」と一喝し、計画を潰したのだという。愚行だと諌めたのである。やがて、明は滅び、江戸幕府はその類災を被らずに済んだのである。
その後、直孝は4代将軍・家綱の側でもご意見番として活躍するかたわら、彦根城下の整備にも力を入れた。現在の彦根城下町の基礎が大体固まったのは直孝の頃だといわれる。
直孝にしてみれば、幼い頃に憧れた父・直政の偉業を継ぐことを本懐としておいたのだろう。
戦乱とともに生きた父・直政の背中を追い、重なるような生涯を目指した直孝。
晩年にこんな逸話を残している。
直孝は、父同様に家臣に厳しい質素倹約をさせ、自身もそれを身上とし、家臣よりも簡素な衣類で過ごしていた。やがて床に伏すようになり、医者に「不養生だから病になるのだ」と進言されると、次のように応えたという。
「その方は名医ではあるが、戦には疎い。戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬよ」
万治二年(1659)井伊家二十六代直孝、永眠。享年69歳。
遺骨は縁の深い世田谷の豪徳寺(注7)に葬られた。
この後、井伊家は譜代大名として群を抜く大老職を排出する家系の道を歩んでいく。
注1) 真田信繁が正しい。幸村は後の講談や小説で使われた名前。日の本一の兵(つわもの)と評される豊臣家臣の武将。
注2) 豊臣家家臣の武将。秀吉の息子、秀忠とは幼馴染であった。実直な性質で、夏の陣の講和の際、家康の返事が曖昧だと声を荒げたといわれるほど、曲がったことが嫌いであった。歌舞伎の演目「木村長門守」の主人公は彼である。
注3) 戦国時代から江戸前期にかけての武将。伊予今治藩主。出身は近江犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)
注4) 木村重成の首は直孝の家臣・安藤家の菩提所であった彦根城下の宋安寺(現在の滋賀県彦根市本町)に葬られ、現存している。
注5) 後の江戸幕府最高職の大老となる役職。大政に参与する役職で、鎌倉幕府の執権と同じような役割を担っていた。1638年土井利勝・酒井忠勝が元老職に就いたのがその起源とされる。
注6) 1644年に建国。清朝ともいう。明の支配下で、満州に住む女真族のヌルハチが1616年に独立して建国した後金国がその前身で、ヌルハチの子ホンタイジ(太宗)が玉璽を握り、大清皇帝を名乗ったところからはじまる。
注7) 現在の東京都世田谷区豪徳寺にある。井伊家の菩提寺でもある。招き猫に誘われて寺に立ち寄った直孝が急な雨から逃れたという伝説がある。 
井伊直澄
嫡男でないのに家督をついだ三代目城主。
温和な人柄で穏やかに治世を行った彼もまた、数奇な星のめぐり合わせの下にいた。
彦根三代目城主は直澄という。
幼名、亀之助。先代城主・直孝の五男として生を受けた彼は、本来ならば家督を継ぐこともなく、平穏な生涯を送るはずだったのかもしれない。向き不向きという言葉が正しいかは置いておくにしても、直澄自身は城主という派手な役職をけっして望んでいたわけではなかった。
鬼よ夜叉よと呼ばれてきた直孝とは違い、17年間、終ぞ穏やかな治世を崩すことはなかったのである。
直澄について語るなら、その兄・直滋を避けることはできない。順当にいけば、この兄こそが三代目を継いでいたはずだった。
直滋は先代・直孝の長男として生まれた(注1)。早くから徳川二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に寵愛されて育ち、江戸城下で何不自由ない暮らしをおくっていた。譜代大名筆頭にして徳川四天王の家系の嫡男であったためか、乳母日傘で可愛がられていたのだろう。それが直滋にとっての仇となった。
成長した直滋は、将軍の後ろ盾もあってか(注2)、資質がすこぶる大度であったという。良く言えば、はっきりとした物言いで一本筋の通った性格。悪く言えば、負けず嫌いで威をかざす性質である。それが、何よりも、質素倹約を厳命としていた父・直孝と反目する引き金となっていた。
直滋は、その言を持って、父すらもやり込めてしまうことがあったという。
かたや、父においても、命を守らない家臣を斬って捨てたという夜叉の直孝である。似たもの親子であるのだが、この場合それがいけなかった。
直孝が欲していたのは、自分とよく似た子ではなく、自分の言うことを聞く子であったのだ。どうも、長男のことはよく思っていなかったらしい。直滋が他から可愛がられれば可愛がられるほど、家督を譲るのを拒むようになっていった。
直滋も父の性格をよく知ってか、家督を継げないと知るや床に伏すようになった父を置いて、百済寺(注3)にさっさと遁世を決め込んでしまった。
混乱したのは彦根井伊家であった。急に跡継ぎが出家してしまったのである。井伊家譜にも「どういうわけだかはっきりしないが、出家してしまった」と記録がある。当主の直孝は病床にあり、日者(注4)のような力は弱まっている。早く次代を決めなければならない。そこでにわかに着目され、白羽の矢が立てられたのは、彦根城内の三男部屋に住まいしていた直澄であった。
直孝が没すると同時に、直澄は彦根城主を継いだ。
彼は直孝の遺訓を守ることに徹したのだという。終生、節約に努めつつ、武具を新調し、徳川幕府の危機にはいつでも出陣できるよう用意を怠らなかった。しかし、泰平の世となった時代において、それは地味な作業でしかなかったとする声も高い。
直澄はそれに不服を唱えることはなかった。むしろ、好んで地味な立場でいようとした節もある。
直孝は、本来なら五男で家督を継ぐことなどない自分にその座を譲った、大恩ある父である。直澄にはその遺志こそ全てであったのだろう。
直澄は父から「お前(直澄)の縁談の件だが、その必要はない。兄(直時)の子を養子にとりなさい」と言われたのを守り、生涯独身であったという。
父親にしてみれば、『譜代筆頭の井伊家への縁談は、きっと徳川家に迷惑が及ぶに違いない。ただでさえ、その地位をやっかむ輩が多いのに、わざわざ助長することもない』という思いがあったと思われる。直滋が将軍家光から家督を継いだら100万石に加増してやるといわれたのを聞いて激怒したというエピソードからもそれはうかがえる。井伊家に向けられた余計な非難の種は、たとえわが子の結婚といえど、払おうとしたのである。
そして直澄は、父の気持ちを十分に汲んでいた。
元来、直澄は穏やかな気質で争うよりもなだめるタイプであった。
それは幕府の中で大老職についても変わることがなかったようだ。
こんな逸話が残っている。
ある日、直澄は徳川光圀の伴として、4代将軍・家綱の茶会に参じたことがあった。将軍が直々に点てた茶を水戸のご老公様が召し上がるのを側で見るのが役目である。当然、直澄自身が一滴たりとも口にすることはない。
ここで事件が起こる。家綱は茶を点てるのに慣れていなかったのか、一人では飲みきれない量をご老公に出してしまった。今さら引っ込めるわけにもいかない。出された光圀も天下の将軍が出してくれた茶を残すわけにもいかない。場は一瞬にして不穏な空気に包まれた。
そこに進み出たのが直澄であった。
「将軍様がお点てになったお茶など勿体無くて頂戴する機会はございません。ご老公様、もしもお飲み残しであるようなら、是非拙者にも賜れないでしょうか」
光圀は胸をなでおろし、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。光圀が将軍の点てた茶を残すという無礼も、大量に作りすぎたという家綱の恥も、直澄の一言で回避されたのである。
穏健で機智に富んだ三代城主・直澄。
この時代、彦根藩では、全国で唯一、牛肉の味噌漬けが作られる(注5)など、文化的な発展もめまぐるしい。穏やかな治世であったからこそ、直澄がいたからこその世の中であった。
また、直澄は父・直孝の供養する石塔を多景島に建てている。いつまでもその恩を大儀に感じていたのだろう。
延宝四年(1676)正月。江戸にて没。享年52歳であった。
彦根清凉寺蔵のその肖像画は、やはり穏やかな表情で描かれている。
注1) 慶長十六年(1612)江戸で生まれる。幼名は直孝と同じ弁之助。後に靱負ゆきえと称した。
注2) 十七歳で従四位下、侍従に任じられている。これは異例のことで、父の直孝ですらその官位になったのは25歳のことである。寛永九年(1632)には、江戸詰めにより彦根に帰れない直孝に代わり、将軍・家光から彦根の国政を裁決せよと命じられている。(まだ当主をついでもいないのに)
注3) 滋賀県東近江市にある天台宗の寺。山号を釈迦山と称する。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の一つとして知られる名刹。直滋の墓所がある。
注4) 往年。昔日。
注5) 反本丸へんぽんがんという。江戸幕府は基本的に肉食を禁止していたため、滋養をつける薬として全国に出回った。これは幕末まで続き、幕府や他藩から要求が絶えなかったという。近江牛が名産となるはしりとなった。 
井伊直興
「長寿公」とも呼ばれた4代目城主。
長生きはしているのだが、けして最長寿というわけではない。
中興の英主として語り継がれるその姿がその訳を如実に物語る。
四代目となる直興が江戸で生まれたのは明暦二年(1656)のことである。幼名・吉十郎。彼の父親は先代藩主の直澄ではない。
直澄には妾腹の子があったのだが、三代城主・直孝の遺言により生涯結婚せず、その跡は兄・直時の子である吉十郎に任せることに決められていた。
祖父・直孝の遺言により直澄の養子となっていた吉十郎は延宝四年(1676)、直澄没に従って城主となり、名を直興と改めた。
後に「中興の英主」として語り継がれる四代目城主の治世の始まりである。
延宝八年(1680)、将軍・家綱が亡くなり綱吉が征夷大将軍を任じられた返礼として直興は朝廷への使者を命じられ、天盃および真利の御太刀を賜るという功績を挙げる。
元禄元年(1688)には徳川家康の霊廟である日光東照宮改修総奉行を任じられ、これも遂行している。
江戸幕府において、これまでの井伊家といえば軍事的な相談役の位置に置かれることが多かったのだが、この頃よりそこに少しばかりの変化が見られるようになる。
元来、この直興という人は大掛かりな工事を行うのに向いていたのかもしれない。後述もするが、周囲への気配りを怠らず面倒見のいい気質であったようで、工事現場の監督のような仕事は天職ですらあったのかもしれない。
直興は城主となった翌年から彦根城内に下屋敷(注1)と庭園の建造を行っている。世は元禄時代。幕府の政策に倣い全国で造園や寺院の修繕が行われたが、彦根藩でもそれを率先して行ったのだろう。
完成した庭は、山を楽しみ水を楽しむという意味を込めて「楽々園」と名づけられた。同じく、造成されたのが、唐の玄宗皇帝の離宮にちなんで名づけられた「玄宮園」である。玄宮園は近江八景を景観に取り入れられ、江戸初期の名園として今も訪れる人の目を捕らえて離さない。
また、松原港と長曽根港の改築も直興が手がけたといわれる。
このように土木事業に専心した藩主であった。
中でも最も有名なのは、やはり彦根城の北東の方角にあった大洞山の中腹に壮大な弁天堂(注2)を建立したことだろう。
元禄八年(1696)六月、弁天堂建立に際し、領内あまねく貴賎・僧俗・老幼を問わず、全ての領民から一文ずつの奉加金を募っている。藩を挙げ、全員で建築したという結果がほしかったのだろうか。(注3)このあたり、気配りが行き届く直興の性格が表れているように思う。
日光東照宮の改修をそれ以前に終えていた直興は、その経験を惜しみなく大洞弁財天に注ぎ込んだ。(注4)東照宮とよく似た彫り物などが再現され、「彦根日光」と称される名刹として今も名を留めている。(注5)
やはり、面倒見のいい人柄においてこそ、直興という人物であったのだろう。それは個人の利益を追うものではなく、常に大局的な見地で世の中を見ることが出来たからである。直興は先々の治世にまで目を向けていた。
元禄四年(1672)、直興は藩士に命じて各家の由緒書を提出させている。「侍中由緒書」というこの75冊は、藩士の家系履歴が後世に至って紛糾することのないようにと気が配られたものであった。
土木事業に専心し、幕府・朝廷・藩内からの信も篤かった直興であるが、しかしながら、必ずしも順風満帆な生涯であったというわけではない。
直興には33人という多くの子がいたが、ほとんどが夭折している。直興自身も病気がちで元禄十年(1678)に大老に任じられるが、3年後に病気を理由に家督を8男の直通に譲って彦根に帰り、直治と名を改めて養生に努めた。
しかし、直通が先に逝き、次を弟の直恒に継がせたがこれも直興より先に命を落としてしまう。そのため、すでに出家し覚翁と改名していたのを捨て、直該として再び藩主に付かざるを得なくなってしまった。
7代目藩主直該は4代目直興と同一人物なのである。
幕府から再び大老職を命じられるも、跡継ぎである直惟が元服するのを待っていたかのようにすぐに隠居して彦根に帰ってしまった。そのとき再び直興と名をもどし、入道し全翁とまた改名した。
2回藩主を経験し、2回大老を勤め上げ、4回も改名した直興。
享保二年(1717)四月、彦根にて没。享年62歳であった。
遺言により遺骸は、永源寺(東近江市永源寺高野町)に葬られた。送られた戒名は長寿院覚翁知性。そこから直興は「長寿公」とも呼ばれる。
後に直政、直孝に告ぐ名君と評価され、幕末の大老・井伊直弼がもっとも尊敬し手本にしようとした四代目直興。
「長寿公」とはその治世の穏やかな様が持続したことへのおくり名でもあるのかもしれない。
注1) 槻御殿けやきごてんという
注2) 大洞山の中腹にある真言宗醍醐派の寺院。正式には長寿院というが、大洞弁財天として親しまれている。彦根城の鬼門除けの寺院として建てられ、今は商売繁盛を祈願する人々で賑わっている。
注3) 領内から25万9526人から鳥目二七〇貫三三八文の寄進が集められた。長寿院境内内の阿弥陀堂には寄進者全ての霊位が戦国以来の近江領内の城主・館主とともに祀られている。
注4) おそらく日光東照宮改修に引き連れていた甲良大工をここでも使ったのだろう。
注5) 弁天堂の意匠のほか、ここには百間橋の残木で作った1万体の大黒天像が楼門と経蔵の中に安置されている。 
井伊直通
藩主としての在任期間は僅か9年。若くして世を去った直通は、後世にも語り継がれる優しき藩主であった。
父親である先代城主・井伊直興には33人と子が多かったが、ほとんどが夭折している。男子は元服以前に命を落とし、女子も他家に嫁いだ3人以外はみな早逝している。その中で次代を継ぐ白羽の矢が建てられたのが直通であった。
直通は元禄二年(1689)に江戸で生まれた。直興の第19子。男子としては8番目であった。幼名は亀十郎。兵助ともいう。直通は藩主を継いでもしばらく経つまで彦根城に入ることがなく、江戸の藩邸で過ごしている。
先に述べてしまえば、この5代目の城主もまた、二十二歳という若さでこの世を去ることになる。他の兄弟たちと同じく病に倒れるのがあまりにも早すぎたのだ。十三歳で藩主を継いで在任中に逝去。僅か9年間の城主であり、彦根にいたのはその短い人生の半分にも満たない。
短期間にも関わらず、しかしながら、領民からは「仁慈の君」として篤く信頼されていたという。
直通に関する逸話は多い。いずれも、美談として語られるものだ。
わざわざ高禄の武士を選んで土木作業をさせた。江戸時代は、武士の家禄は先祖の働きで大体の家禄が決められていた。家督を継いだ当人は大した働きをしていないのに高禄を得ている家もあったのだと思われる。そこには、やはり妬みややっかみがあったのであろう。直通は土木事業の役目を与えることでその非難を退けたのである。
他にも奢侈な生活を戒めるために空腹時といえども粗食しか口にしなかったとか、家宝の壺を割ってしまった家臣が側役に罰せられるのを「壊れた器のために人を罰する無意味さ」を説いて免じたなどなど。
その人柄を彷彿とさせる佳話の数々である。質素倹約に努めながら、常に優しさを湛えた藩主であった。
直通は万事この調子の人であったらしい。
その優しい人柄に家臣も領民も慕われた藩主であった。
歴史にもしもはありえないが、それでも、あえて仮定しよう。
もしも、直通が早逝でなかったならば、直政や直孝、そして父の直興と並び称される名君として後世にまで語り継がれていたのは間違いないだろうと。
数あるエピソードの中でも極め付きなのがこれだ。
将軍に代わり京都へ伺候する御代参の仕事を命ぜられたときのことである。
直通は生まれてはじめて彦根城に入城した。
そして、泣いたのである。
一城の主が人目もはばからず、家臣団の前で大粒の涙をこぼしたのだ。家臣たちはその様子に驚き、その涙のわけを直通に尋ねたのだという。
「先祖の武功により(井伊家は)この城郭を賜った。そして、今、自分は数万の領民に主と仰がれているという幸福を思うと、知らずに涙が溢れ出て止めることが出来ないのだ」
井伊家二十九代目、井伊直通。宝永七年(1710)彦根にて没。光照院天真義空の名が謚られ、市内の清涼寺に葬られている。 
井伊直恒
僅か50日しか在任出来なかった城主がいた。
残された資料も少なく、多く語られることの無いその背後で時代が変容しようとしていた。
江戸時代、上方を中心に絢爛な文化が花開いた元禄時代を終える頃になると、やがて世相は混迷の様相を呈してくるようになる。全国的な大飢饉や政治への不安が蔓延してくるのである。それを思えばこの時期、彦根城の城主が度々替わっているのも、驚くべきことではないのかもしれない。
しかし、それでも、在任が僅か50日にも満たなかった藩主がいたということには唖然とさせられる。
前述もしたが、四代目城主直興の子はほとんどが夭折している。(注1)直興が最も懸念していたのは、跡継ぎのことではなかったのだろうか。
徳川四天王を勤めた直政以来、井伊家は幕府の庇護の下にあった。特別扱いを受けていたというわけではないが、それでも優遇されてはいたのだと思う。そうでなければ、嫡子が元服しないまま早世するのが続く家系には、他家から養子を招くか、お家取り潰しで新しく転封して藩主を据えるか、いずれにせよ、それなりの処置がとられていたはずである。
そうならなかったのは、直政の血筋を絶やさないように配慮した幕府の力が大きく働いていたのだろう。その絶大な力ゆえ、僅か50日といえど継がなければならない宿命があったのだ。
その名は直恒なおつねという。
直興の十男で、元禄六年(1693)に江戸で生まれた。幼名は松之介、安之介。ずっと江戸で育ち、おそらくは本人もよもや城主を継ぐなどとは思ってもいなかったはずである。
元禄十六年(1703)に元禄大地震と呼ばれる記録的な災害が関東地方を襲っている。江戸城下も8000戸が倒壊する被害であった。(注2)
宝永四年(1707)には富士山が最後の大噴火(注3)をおこし、その火山灰は江戸に降り注いでいる。
このような状況の中、松之介は戦々恐々としながら生きていたに違いない。遠く離れた彦根のことまで気にかける余裕があったかどうか、それは甚だ疑問である。
転機は急に訪れた。
宝永七年(1710)三月。直興の跡を継いでいた兄の直通が彦根藩家老に対し次のようなことを申し出た。
「この度、日光東照宮へ社参することになっている。もしも不慮の事が起こっても、私には子どもがいない。万が一のため、弟の主計頭(注4)が十九歳だ。これを養子として跡継ぎにしておきたい」
彦根から日光まではかなり距離があるにしても、直通が不慮の出来事まで気にしなければならなかったのは何故なのだろうか。これは推測に過ぎないのだが、体の弱かった直通は、己の道行きに何かしらの勘働きのようなものがあったのかもしれない。不吉な予言というわけではないが、この申し出からわずか4ヵ月後、直通は彦根で生涯を終えている。二十二歳の若さであった。
そして兄の遺言通り養子となり、六代目城主を継いだのが直恒であった。
その後、50日弱。
直恒もまた病に倒れ、兄よりも若くして世を去ることになる。
同年10月。江戸藩邸にて没。
謚号は円城院徳厳道隣。遺骸は曽祖父・直孝と同じ世田谷豪徳寺に葬られた。
その若すぎる死に慌てたのは彦根藩中はもとより、江戸幕府でもあった。
跡継ぎが無い井伊家は、このままでは直政の血を途絶えさせてしまうことになる。そこで担ぎ出されたのが、療養のため隠居していた父・覚翁(直興)であった。覚翁は直該と名を改め、次の息子が家督を相続できるようになるまで藩政を執ることになる。(注5)
不吉と不安が国土全体を覆い始めていた江戸中期。
直政が彦根を拝領し、その子らによって彦根城が築城されてからちょうど100年が過ぎようとしていた。
注2) マグニチュードは8.1と推定。関東全体で12ヶ所から出火、家の倒壊約8000戸、死者約2,300名、約37,000人が被害と推定される。津波については熱海で7m程度の波の高さと推定される。 大正12年(1923)の関東地震と同タイプの海溝型地震である。
注3) 富士山三大噴火の一つ。噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。上から順に第一、第二、第三宝永火口が重なり合って並んでいるが、第一火口が最も大きいため麓から見ると第一火口のみ目立つ。この時以後富士山は噴火していない。
注4) 直恒の事。
井伊直惟
激しい気性の持ち主である反面、文化面での功績も多く遺した8代目の城主。
混迷する世相の中で藩政に活力をもたらせようとする姿には、故郷に対する強い想いがあった。
父親の直該なおもり(直興)が2度目の藩主となったとき、直惟なおのぶは僅か十一歳であった。幼名を金蔵という。3代目城主・直澄以来の彦根生まれである。直興の22番目の子として誕生したのだが、兄たちが矢継ぎ早に世を去っていく中で、幼い頃から城主としての運命を背負っていた。
正徳四年(1714)。金蔵が十五歳になるのを待ちかねたように、幕府で大老を務めていた父・直該が隠居。金蔵はその跡を継ぎ、直惟と名を改めて8代目の藩主の座に着いた。翌年には十六歳の若さで、日光で行われた徳川家康百回法要に将軍・家継の名代として代参する大任をこなしている。(注1)
世相は、ちょうど華美な文化の後にやってくる低迷の時代である。大きな飢饉と政治不信が沸き起こる中、直惟は彦根藩に活気をもたらそうと力を振るうことになる。
直惟は苛烈な性格であったらしい。
様々なことに積極果敢に取り組み、藩政の安定に心血を注いだ。
同じく気性の荒かった祖先の直政や直孝を範としていたのかもしれない。彦根生まれであるということで、より郷土へ馳せる思いも人一倍強かったのだろう。
このように述べれば、それまでの兄たちが穏やかな藩主であったのに、直惟だけが急に激しい気性を持ち得たように思われるが、それは少し違う。直惟もまた、兄たちと同じく病気がちであった。実際のところ、直惟も真摯に藩政と向き合っていただけではなかったのだろうか。兄たちの時代と違い、激しくなければ領民を牽引していけないくらい世の中が疲弊していたのである。
幕府中興の英主・8代将軍吉宗の享保の改革と同じ時代である。改革は必要に迫られて行われる。数年間、将軍自らが断行しなければならないほど、世の中は不安定になっていたのである。質素倹約・武芸奨励が推し進められ、文治的に偏っていた政治を幕初の武断的に戻すような形で威風再興が努められていた。彦根においてもそれは例外ではなく、直惟によりそれに応じた法令がしばしば出されている。(注2)
激しい気性は、その趣味にもよく現れている。
直惟は鷹狩りをよく好んでいたらしい。
歴代の彦根藩主の中で最も狩猟を好んだ城主と言われており、大規模な鷹狩りを何度も行っている。これも武芸奨励の一環であり、領内に足しげく通い現状を具に見ようとする市井だったのだろう。彦根藩領内にはその度に鷹狩り場が整備された。(注3)
また、直惟は一面では絵画や詩文に巧みでもあり、多くの作品を残している。自作品以外にも伝統や文化を重んじることを心掛けていたようで、永源寺の能舞台(注4)、湯谷神社の手水鉢(注5)などは直惟の寄進であると伝えられている。遠祖・井伊共保に縁の井伊谷神社の神域補修事業を行ってもいる。
歴史に名を残すということは、古文書に残る法令を多く発布した政治上手な人物を指すだけではない。現在まで伝わる有形無形に残される遺業というものもある。
そういった意味では、直惟は近江国の歴史に深く名を刻んでいるといえるだろう。
後世になって、その姿が再現されることもある。
坂田神明神社の「蹴り奴振り」という伝統的な行列祭がある(注6)。足を跳ね上げる所作が特徴の伝統文化であるが、その由来には直惟が欠かせない。神明神社は享保十八年(1733)に直惟が造営したといわれている。その大名行列の様子を模したのがこの奴振りであり、春祭りの際に奉納されている。
彦根城石垣の改修など、今も残る建築事業の多くは直惟が行ったものが多い。そういった面から藩政を律しようとしていたようである。
直惟は、例えば直政や直孝のような、華々しく語られる活躍はしていないのかもしれない。しかし、現在の彦根を象るものは直惟抜きには語ることが出来ないものが多く含まれていることもまた事実である。
享保の改革に準じて行った直惟の藩政であったが、その厳しい執政は病弱な身体を確実に蝕んでもいた。
事実、直惟自身は藩主の座についてから11年目。将軍・吉宗の子である家重が元服する際、先例通り加冠の任を命じられるが、病身を理由に一度は断ろうとしている。(注7)
直惟の藩政は、中興とまでは言われぬものの、悪化させることはなかった。しかし、防ぎきれない天運というものがある。
享保十七年(1732)、西日本を中心に記録的な冷夏が襲った。梅雨が明けぬまま夏まで雨が降り続き、作物は育たず害虫が大量に発生した。大量の餓死者を出す空前の天災であった。
江戸四大飢饉のひとつ、享保の大飢饉である。(注8)
これが直惟に直接堪えたのかどうかは判然としない。
ただ、これから僅か二年後。直惟は弟の直定に跡を継がせたいと幕府に懇願し、江戸を去っている。病気の治癒が理由であった。
養生に努めたものの、更に二年後――。
元文元年(1736)、生まれ故郷の彦根にて永眠する。37年間の生涯であった。これは62歳まで生きた父・直興と比べずとも、若すぎる死であった。
後世に数多くの足跡を遺した直惟は、直政と同じ彦根清涼寺に葬られ、今も故郷の土地を見守っている。
注1) これは、時の将軍・徳川家継が7歳とかなり幼かったためであると思われる。将軍として政治を行う年齢ではなく、側用人たちが変わりに執政していた。将軍より幾分か年齢も上で、徳川家からの信頼も篤い直惟に白羽の矢が立てられたのだろう。ちなみに、将軍・家継は9歳で早世し、跡継ぎがいなかったため御三家から吉宗が呼ばれることになる。
注2) 享保元年に出された振舞の法度、及び徒党立致すまじき事にはじまる十一ヵ条など。また、享保の改革で取り入れられた上米も彦根藩から幕府に献上されている。
注3) 坂田郡丹生山(米原市)や犬上郡正法寺山・平田山(彦根市)など。愛知郡(愛荘町)や神崎郡(東近江市)などでもしばしば行われた。
注4) 東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派総本山
注5) 米原市米原。伝統的な曳山が伝わっている。
注6) 米原市宇賀野。「元伊勢」とも呼ばれる天照大神を祀る神社。
注7) このときは幕府に許されなかったため実現していない。
注8) 被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人にも達した。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。 
井伊直定
歴代の城主の内最も巨躯で、直興の子としては一番の長寿。
自らが先に立って藩主かくあるべしと範を示したその姿は、近世中期の鑑のようであった。
直定は四代・直興の息子の内、最後に城主となった人である。
直興の子らはほとんどが短命であったとは先々から述べてきたが、故に、直系の孫が生まれることも稀であったのだろう。相続権は順々と下の弟たちへ送られながら、次代を担う嫡男が育つのを待ち望んでいた。
直定が彦根で生まれたのは元禄十五年(1702)2月13日。幼名を又五郎といった。兄の直惟が生まれてから二年後で父・直興の十四男である。ただし、女子を含めると直惟が22番目で直定が30番目であるから、兄が生まれてから2年の間に7人も女子が生まれていることになる。父はなんとか健康な子が生まれることを願っていた。
最後になってその願いが叶ったのか、直定は兄弟たちの仲では最も長生きしている。
直定が城主の座に就いたのは、長じてからかなり後である。やはり、他の兄たちと同じく、直定自身もよもや一城の主としての任が自分に回ってこようとは露ほども思っていなかったに違いない。
正徳三年(1713)。11歳のとき、直定は従五位下因幡守を叙任し1万石を与えられる。本来ならばそれで終わっているはずであるのだが、享保十九年(1734)に兄で当時の彦根城主直惟の懇願によりその嗣となり、翌年、正式に藩主を継いだ(注1)。直定、時に33歳であった。20歳代で亡くなる兄弟が多い中、この年齢であることがすでに異例の長寿であったのかもしれない。
確かに、直定はがっしりとした体躯であったらしい。井伊家歴代の赤備え具足が最も大きいことからもそれがわかる。ただし、須らく健康であったかどうかは甚だ疑問である。藩財政が圧迫されるなか、質素倹約を徹底し、藩士の禄を半減させざるを得なくなると自身も一汁一菜の粗食に転じてそれを遵守し続けた。魚を食べるのは1日と15日の月に2回と決めていたというから、十分な栄養が取れていたとは思えない。直定も、兄たちと同じく病弱ではあったのだ。幸運にも生きていることが出来たというほうが正しいのかもしれない。時代全てが困窮していた。
直定の人となりは、実直で威儀厳然としていたという。
幕府の奏者番そうじゃばん(注2)を務めたこともあり、規律を守ることを旨として自ら率先してそれを実践していた。それは、自国の領民たちが逼迫した生活を送っているのに、大名だけが贅沢はできないという強い意志の現れであった。
こんなエピソードがある。
直定は江戸城内にも常に握り飯弁当で、他の大名たちの贅美を尽くした食事を嘲っていた。井伊家はこれまで数人の大老を輩出してきた幕府でも重要な家柄である。その頭首が粗食であることを陰で笑う諸大名は多かっただろうが、直定は意に介することもなく城主としての範を示して見せたのである。
また、他の大名が珊瑚を珍重し自慢しているところへ、「我が庭にある草の実より採れた珊瑚也」と藜蘆りろの実(注3)を送るなど、大名が奢侈に驕る風潮を戒めている。
厳しく真面目すぎるほどの直定であったが、けして融通が利かない堅物であったというわけではない。家臣のことをよく気にかけ、よりよい藩政を目指していた。
ある日のことである。
直定は槻御殿から望遠鏡で大洞弁財天の辺りを見ていた。大洞の茶店では酔って暴れてそのまま船に乗って内湖を渡ってこようとする藩士の姿があった。
直定はこれに気付かぬ振りをしつつ、側にいた近侍の家臣たちに望遠鏡をよく覗いてみるように勧めた。 困ったのは家臣たちである。ここで酔った藩士の名を挙げれば、後で必ずきつい罰が下されるであろう。告げ口をしたことで余計な不穏は招きたくないと、景色の絶景ばかりを褒めて藩士については触れなかった。
その近侍の中に加田某という人物がいた。この人だけは違う思いであったらしく、「あそこで酔っているのは誰それである」と得意満面で直定に報告した。
近侍の家臣たちは肝を冷やした。藩政とは城主だけがワンマンで執り行うわけにはいかない。ここで密告したとこが知れ渡れば、現在の安定した政治にも影響がでるはずである。自分たちにも累が及ぶかもしれない。
しかし、直定は加田某の言葉を聞かなかったかのように座を立った。その際、小声で「(加田某は)大名の傍には置いておく人材ではないな」と零したという。
直定は、近侍の家臣たちを試したのである。大局的な藩政を省みず、自身の出世だけで同僚を密告することを恥じたのだ。
将軍家重の子・家治が元服する際、直定は将軍に代わって日光に代参して加冠の役を勤め上げるなど大きな仕事もこなすが、生来の病弱は相変わらずで、長く城主を続けられないという自覚があったようである。しかし、子の直賢なおかたがまだ幼いので、兄の子の直≠ネおよしを嗣子として次代を託すこととなった。
宝暦四年(1754)、彦根に帰ろうとした矢先のことである。藩主を継いだばかりの直≠ェ在任60日で死去し、彦根に帰ることができなくなってしまった。他には跡を継げる年齢の子どもはいない。
直定は伊達遠江守村候むらどきの弟、伊織を養子に迎えて跡を継がせようと幕府に願い出るが、直政以来の血筋を変えることになると許されず、次の嫡男が育つまで直定が再勤するように命じられることになった。
これが他藩のことであれば、養子を他所から迎えることも容易かったのだろう。彦根藩で井伊家であるからこそ、直定は病身をおして二度目の藩主を務めなければならなかった。
しかし、直定の身体は藩主の激務を続けられるほど、もはや若くはなかった。
同年、同じく兄・直惟の子である直幸なおひでを嗣子とし、その翌年に家督を継がせてそそくさと彦根に帰ってしまう。名を大監物だいけんぶつ(注4)と改めて養生に努めるも、さらに翌年の宝暦六年(1756)に五十九歳の生涯を終えた。
大柄で生真面目。おそらく、威圧的な雰囲気を醸し出しながら諸大名の範であろうとした直定の姿は、先ごろまで頻発した大きな天災もなく、上昇はせずとも安定した世相の鑑であったといえる。
謚号は天祥院泰山定公。その遺骨は市内の清涼寺に葬られている。
注2) 城中における武家の礼式を管理する役職。
注3) 「れいろ」とも。シュロという植物の仲間。
注4) 元は宮中の役職の一つで、倉庫の鍵などを管理するものだった。後に武家が名前として使うようになる。 
井伊直
長命であれば歴史に名を刻んだであろう城主。
僅か60日余りのその在任は、井伊家を守ろうとする時代に翻弄されながら濃く語られる姿であった。
城主の座というのは、なろうと努力して得られるものではない。基本的には長男が跡を継ぐのだが、長男が夭折したため弟や親戚に順番が回されたり、男児がいないことで他家から養子を入れたりする。中には器量不足な城主や内紛・天災などが原因で藩が荒廃し、幕府によってお家取り潰しの上、全く地縁のない大名が新しく城主として据え置かれる場合もある。250年間続いた江戸時代において、全く城主一族が替わらない方が珍しい。
その点、彦根藩は特別であったのだろう。井伊直政が近江国を拝領して以来、幕末までずっとその血統が保たれている。これは異例と換言してもいい。彦根藩中だけが他藩に比べて安定していたわけではない。ご多聞に洩れず何度も危機に遭っている。それでも直政の血筋が続けられたのは、偏に家康以来の幕命であり、幕府の意地のようなものであった。
ただでさえ、日本中が不安定な世相に飲み込まれていた江戸時代中期。多くの彦根城主がそうであったのと同じく、9人目の城主を継がざるを得なかった井伊直≠ネおよしは数奇な運命に翻弄された一人であるのかもしれない。
直≠ェ江戸藩邸で生まれたのは享保十二年(1727)9月。父は直惟なおのぶ。後に彦根城主となる人である(注1)。その次男として生まれ、幼名を金之助といった。
宝暦四年(1754)6月。先代、直定が病気を理由に幕府に隠居を申し出たのが受理された(注2)。直定には直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる直≠ナある。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。直定は「直≠ネら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直≠ェ城主となった。28歳の出来事であった。
直≠ェ城主を継ぐのは急な出来事であったようだ。嫡男でなく甥にその座が譲られたことはおそらく家中でも幾ばくかの物議を呼んだ。直≠フ人格を見定めようとした風潮があったようである。
城主であるなら威風堂々と構え、上から厳しく物言いをするのが常である。そのような風潮など弾き飛ばしてしまえばいい。実際、歴代の彦根藩主もそれを踏襲してきた。しかし、直≠ヘ少し違った。
直≠ニいう人は、家臣団以下の意見をまずよく聞くことを第一としていた。トップダウン一辺倒な城主でなく、民意を尊重する姿勢を目指したのである。
家督を継いだ時、江戸藩邸から直≠ェ彦根家中へ施政の方針を示している古文書がある。
その中で直≠ヘ「先代・直定公がご病気のためご隠居せざるを得なかったのは本当に残念なことです」と前置きをした上で今後の彦根藩が取り組んで欲しいことを列挙している。これまで幕府や藩から出された法令を守ること。倹約に励み、武芸、家芸を守り立てること等々(注3)。
そして何度も繰り返されるのが「何か問題があったら、私のところか側役まで相談しなさい。恐縮することはない。相談しないまま有耶無耶になってしまうことの方がよくない。私は皆の意見を聞くことを決して厭わない」というような文面である。
これは他の城主にはあまり見られない。
直≠ヘ厳しく命令を下すだけでは誰もついてこないことを知っていたのであろう。同じ書面には「私も政治について完全に明るいというわけではない。間違いだってあるだろう。その都度、きちんと意見を言ってほしい。そこから考えていきたいのだ」とも書いてある。
彦根藩でも直≠フ実直で真摯な姿勢に感銘し、尊敬の眼差しをもって迎えることとなったのであった。
このまま直≠ェ施政を行えば、彼は紛れもなく名君として歴史に名を刻んだのだろう。
しかし、歴史はそれを許さなかった。
正式に藩主となってすぐ、これから頑張ろうと意気込んでいた矢先に、直≠ヘ病に倒れるのである。
それはひどく体調を損ねるものであった。
心労がたたったのか、流行り病にやられたのか、それは判然としない。直≠ヘ身体を動かすこともままならず、床に伏せてしまった。
藩主としての意気込みを家中に送った2ヵ月後。直≠ヘもう一度家中に書面を送っている。そこには「病気で伏せってしまって、藩政が満足に出来ない。このままではよくないので私は隠居し、次の代に託そうと思うが、私には子がいない。養子として御用番の松平武元殿を迎えたいと思う」と書かれてあった。
これが他藩であるなら、その願いは幕府に聞き届けられたのだろう。しかし、直≠ヘ井伊家である。たとえ養子といえども、他の血筋が入り込めない幕府の意地がある。
結果、幕府は養子を認めず、代わりに先代・直定が未だ存命であるので、次代が育つまでの再任が命じられた(注4)。
直≠ヘこの決定に安堵したようである。先ほどの書面を出した2日後にまた新たな書面を家中に送り、「直定公が再任なさることになり、安心して養生せよとお達しがあった。井伊家の家柄をご贔屓に取り計らってくれた上意は冥加至極である。その上、安心して養生せよとまで言われて有りがたく思っている」と述べている。
遠く江戸藩邸にいて、よほど彦根藩のことが気になって仕方なかったのだろう。そこでようやく気が緩んだのかもしれない。
その手紙を彦根に送った翌日。宝暦四年8月29日。直≠ヘ江戸で息を引き取る。
城主に在任してから僅か60日余りしか経っていなかった。
法号は見性院観刹了因。井伊家縁の世田谷豪徳寺に葬られている。
注3) 依怙贔屓することなく公平に裁判すること。上役に媚びへつらうだけの風潮を戒めること。若い才能を伸ばしてやること。火の元に気をつけることなどが列挙されている。
注4) 幕府の中で会議が開かれ、井伊家の血筋を守るべきか話し合われた結果、養子縁組は棄却された。松平氏といえば徳川家の親戚である。にも関わらず、井伊家の血筋を続けることが第一とみなされた。 
井伊直幸
江戸時代中期、藩主が取るべき立場と何であったか。
領民のため、最も肝要であるのは何であるのか。
それを諭すように伝える姿勢を貫いた藩主がいた。
江戸時代も中期を過ぎた頃となれば、度重なる天災や政治不信、商業重視の政策で農村から人が離れていくようになるなど、騒然とした世の中となってくる。日本各地が混沌とした状況に置かれる中、藩主には些細なことを切り捨ててでも大局的な見地から治世をおこなうか、時勢に逆行してでも領民の細かな悩みを救うか、二者択一の資質が求められていた。10人目に彦根城主となった井伊直幸なおひでにおいても、それは例外ではなかった。
直幸は直惟(注1)の三男として享保十六年(1731)に彦根で生まれた。幼名は大之介、岩丸、民部などといい、後に直英なおひで(注2)と名を改めた。
父が藩主であった直英にも、勿論、嫡子としての資格はあったのだが、父が亡くなったときにはまだ五歳と年端も行かなく、その資格は叔父の直定(注3)に譲られることになった。基本的には藩主の嫡子がその跡を継ぐわけであるから、直英は一度藩主になる資格を失った形となる。ただ、叔父の直定にも相応な嫡男がいなかったため、直英の兄・直(注4)がその養子となった。
直英は若い頃から大志を秘めた人であったらしい。何とかして困窮した様相の彦根藩を自分の手で立て直したいという思いが強かったのではないだろうか。藩主になることを、これまでの誰よりも望んでいたような感がある。もしかすると、在任60日余りで夭折した兄の遺志を継がねばならないという使命を感じていたのかもしれない。
宝暦四年(1754)、兄が亡くなり、元服まで満たなかった直英に代わって幕命により叔父が再び藩主となった。
一度隠居していた叔父は藩主としての激務に未練などなかったらしく、就任早々他家から養子を探しはじめた。彦根でこれを聞いた直英は大いに焦り、取り乱したという。順当にいけば嫡子のない兄の遺志を継ぐのは自分であるはずなのに、年若いというだけでその資格を再び失いかけたのである。しかし、為す術もなく、この時は家臣に諌められて開運を待つしか出来なかった。
果たして、幕府は井伊家に他家からの養子を許さず、明けて宝暦五年(1755)、直英は叔父の養子となり、藩主となった。
藩主として、直英は領内の隅々までに気を配っている。奢侈しゃしな風潮がはびこり退廃していく城下を戒め、農村の窮乏を救おうと、触書で何度も諭している(注5)。直英が選んだのは、領民の安泰を第一に考える藩主の道であった。
かといって、時勢に逆らうことを選んだわけではない。先例どおり、幕府が井伊家に課した職務はそれまで以上に勤め上げた(注6)。
宝暦十年(1760)、将軍名代として京都に上り、時の天皇に拝謁した。天皇と相見えることなど、幕府の将軍ですら簡単にはできないことである。直英はこれを我が身至高の喜びと思ったのだろう。以降、名前を直幸と改めた。
藩主として厳しく倹約を励行しながら領民のために働いた直幸は、やがて幕府へ推挙されて大老となった。天明四年(1784)、53歳のときである。
直幸が大老に就いていた時代、世の中混乱の底に巻き込む出来事が起こる。浅間山・岩木山の大噴火、そして冷害・多雨がもたらした天明の大飢饉である。
全国で数万人の餓死者を出したといわれる未曾有の天災後、それに伴って米価が高騰、地方では百姓一揆が起こり、江戸・大坂の都市部では米屋をねらった打ち壊しが頻発するようになる。農村から人は離れる一方で荒廃し、そこに疫病が蔓延した。数年間に及ぶこの事態の犠牲者は30万人以上とも言われる。
しかし、その中にあって、彦根藩では一人の餓孚者も出さなかったといわれている。
当時、江戸にいた直幸の計らいで領内各所に施粥場が設けられ、藩の倉から領民に米が与えられたからである。直幸は彦根を離れても領民への思いは少しも変わっていなかったのだ。
直幸が大老であるときは、俗に言われる「田沼時代」である。老中・田沼意次おきつぐ(注7)が中心となって商業を重視した政治で、貨幣というものが、良くも悪くも見直された時代であった。直幸は田沼と志を同じくしていたらしく、供に執政を行っていた。
よく、直幸を指して、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れた人物と評されることがある。この真偽は定かではない。
ただ、言えることは、農業より商業の発展を重んじた田沼と違って、直幸は農業こそ治国の根幹であると常々諭していたこと。元より芳しくなかった藩財政であるにも関わらず、領民の危機には倉を開けることを厭わなかったのは、紛れもない事実であるということだ。
直幸に関するこんなエピソードがある。
直幸が大老として江戸にいる間、彦根藩で実質的に執政していたのは息子の直富なおとみであった(注8)。
威厳漂う父と違って、直富は温厚な人柄であったらしい。しかし、父の意思を最も組んでいたのもまた直富であった。
直幸が江戸にいたときの冬。彦根藩市中で大火があり、終夜鎮火せず、大きな被害を出した。直富は早速藩庫を開いて罹災者に米金を与えたところ、それが莫大な量になっても収まらなかった。家臣が「藩の財政が厳しくなっています。これは、御父上(直幸)様に許可をとってから開くべきだったのではないでしょうか」と進言したところ、温厚な直富は激怒して「江戸にいる父上に許可を取っている間に被害者が増えることくらいわからないのか。そんなことになった方が父上もお怒りになるはずだ。領民を救うことが先決と言われるに決まっている」と言い放ったという。
直幸の意思がどのようなものであったか、この言葉から全て伝わってくるようだ。
父・直幸と同じく領民のためを思った直富は、ゆくゆくは名君として歴史に名を刻まれたのであろうが、藩主に就く前に若くしてこの世を去ってしまう。故に、歴代城主には数えられていない。
直幸が目指したのは、領民の細かな思いまで聞き届け、大局も見誤らない姿であった。直幸が残した古文書には「仁憐」という言葉が繰り返し登場する。おもいやることのできる心という意味である。一部の者たちだけが他人の迷惑を顧みず、私利私欲に走る風潮を嫌い、須らく領民のための藩政を貫こうとしていたのだ。
天明七年(1787)、大老職を辞すも、幕府からの特命を受けてしばらくの間、政務に参決する。寛政元年(1789)に病を患い、江戸にて没。
享年59歳。謚号は大魏院弥高文山。世田谷の豪徳寺に葬られた。
その後、日本の近世は折り返しを向かえ、一層混迷の色を濃くしていくことになる。
注2) 後述のよるが、改名するまで「直英」が正式な名前である。
注5) 古文書に「農ハ国之本」、「農は国家之基ニ而是処ニ仁憐不行届候而ハ何様之政蹟も難相立事と存」などの言葉が随所に見られる。
注6) 明和二年(1765)には、徳川家康150回忌で将軍・家治に代わって日光代参を勤めてもいる。
注7) 江戸時代中期の老中。将軍の信頼が篤く、矢継ぎ早に出世した。商業を奨励し、各地の開拓開発も行った。天明の飢饉に対する執政の失敗から失脚する。俗に「田沼時代」と呼ばれる一時代を築いた。一般的に、田沼を中心とした賄賂政治が横行していた政治腐敗ぶりがささやかれるが、実際にはその真偽は判然とせず、議論の余地があるとされる。
注8) 直幸の三男。宝暦十三年(1763)〜天明七年(1787)。享年25歳。彦根藩の領民のことを第一に考えていたらしく、病に倒れた際も、家臣が京都から呼んだ名医の診察を受けるのを断った。その後、しかたなくその名医の診察を受けるが、名医が帰るとすぐに薬を火鉢にくべて燃やしてしまった。それに驚く家臣らに「名医を呼んでくれた志はありがたいが、私が他所から呼んだ医者にかかったとあっては藩内の医者に申し訳がたたない」と言ったというエピソードがある。 
井伊直中
世の中が緩やかに、しかし確かに動き始めた時代。
積極的に領内に関わり、現代まで伝わる遺構を残した藩主がいた。
いわゆる幕末とは、激動の時代であったと語られる。佐幕派・開国派、尊王攘夷、欧米列強との不平等条約――。様々な思惑が入り混じって、文字通り時代を激しく揺り動かしていた。当然のことながら、その動きは幕末になって唐突に発生したわけではない。歴史の中で少しずつ積み重ねられてきたものが、少しずつ緩やかに動き出した結果である。
世の中が激しさを増す少し前。新しい時代に向けて徐々に動き始めていた江戸時代後期。井伊直中が藩政を執ったのはそんな時代であった。
直中が江戸で生まれたのは明和三年(1766)のことである。直幸の七男で、幼名を庭五郎といった。
父・直幸は幕府大老としての任に就き、彦根藩の執政はもっぱら直中の兄である直富に任されていた(注1)。直富は領民のことを思いやる人柄で、誰もが時期城主に相応しい器と認めていたが、彦根在国中に病に倒れ25歳の若さで早逝してしまう。その結果、直中に嗣子としての白羽の矢が立てられることになった。天明七年(1787)のことである。
寛政元年(1789)、直中は亡くなった父の跡を襲って藩主となった。
寛政という年号が示すとおり、世の中は江戸時代三大改革の一つといわれる、老中・松平定信の「寛政の改革」只中である。それまでの重商主義的な政治を改め、徹底した倹約が勧められていた(注2)。直中もこれに倣い、藩内を厳しく引き締めていく。
父・直幸の遺金として領民に金を与え、家臣たちには徹底した倹約を勧めた。町会所を設けて消防の制を強め、新田開発を進めるなど、藩の力を回復させることが直中の第一に捉える事であったのだろう。
直中自身は文武両道に長けた人で、特に鉄砲に関しては米村流の奥義を極めて「一貫流」という流派を興すまでであったといわれている。
ところで、直中といえば、現代にも当時の面影を色濃く残しているものを二つ作っていることに触れなければならない。稽古館の創立と天寧寺の建立である。
稽古館は寛政十一年(1799)に建てられた彦根の藩校である(注3)。算術や天文学などの学問から砲術などの訓練まで、藩士の教育がここで行われた。当時一流の教育機関であったらしく、諸藩から視察が訪れている。やがて弘道館と名を変え、彦根藩士の高い学力の支えとなった。城郭の中に立てられた建物一部が、現在も金亀会館として残されている。
天寧寺は彦根五百羅漢の寺として有名である(注4)。腰元が不義の子を身ごもったと知った直中が怒りこれをを罰した。しかし、後になってその相手が自分の息子であったことを知った直中はひどく悲しみ、腰元と孫の菩提を弔うために天寧寺を建立した。ここに祀られている五百羅漢は一体ごとに違った表情をしている。「亡き親、子供、いとしい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」といわれ、多くの人が足を運びその中から親しい人と似た顔を探したのだという。直中が建立したときの思いが伝説となって現代まで語り継がれているのかもしれない。
その他にも、佐和山に石田三成の慰霊するために直中によって建てられた碑が現存している。
文化九年(1812)、直中は息子の直亮に藩主の座を譲って隠居し、天保二年(1831)に彦根で死去した。享年62歳。市内の清涼寺に葬られた。
直中が彦根藩主に就いていたころというのは、それまで閉じられていた風土にあった日本が徐々に開かれていた時代である。ロシアやイギリスといった列強が通商を求めて日本に開国を迫る事件が頻発しておきている(注5)。これは幕府内で大きな立場にあった井伊家にも無関心でいられない事態であった。やがて、直中の息子達がその潮流に巻き込まれていくこととなる。
彦根城築城から200年。間もなく後に幕末と呼ばれる時代が始まろうとしていた。 
注2) 8代将軍・徳川吉宗の孫の松平定信が行った改革。緊縮財政と風紀取締りを徹底した。定信自身による改革の達成はならなかったが、このときの取り組みは後の江戸幕府に受け継がれることになる。
注3) 江戸時代、諸藩が子弟を教育するために設けた学校のこと。現在の市立彦根西中学校の建つ場所が稽古館のあった場所とされる。
注4) 現在の彦根市里根町に建立されている。
注5) イギリス船がオランダ商船と偽って長崎に入港し、強引に薪水給与をもとめたフェートン号事件(文化五年)やロシア軍艦の艦長を日本が拿捕したゴローニン事件(文化8年)など。
井伊直亮
近海に何度も現れるようになった外国船。
日本が一つの国として判断を仰がれていたその時。幕府最高職の大老に就いた彦根藩主の物語。
日本近海にアメリカ・イギリス・ロシアなどの列強が姿を頻繁に現すようになっていた時代。もはや幕府や藩などといった枠組みで対していくことに陰りすら見え始めていた。それまで、近世以前の小国の集合体としてあったこの国は、少しずつ一つにまとまり始めるようになってくる。「日本」という国が200年間の鎖国を破り、世界の中でどう立ち回っていくか――その決断が迫られていた。時の大老は井伊直亮なおあき。彦根藩12代目の藩主である。
寛政六年(1794)、直亮は井伊直中(注1)の三男として江戸で生まれた。幼名は弁之助。兄の直清が病弱であったため、文化九年(1812)父の譲りを受けて藩主となった。18歳のことである。
直亮が藩主となった時代は、江戸を中心とした文化が花開いた化政時代に当たる(注2)。多くの人たちが学問や芸術・娯楽に心血を注ぎ、結果として、それらの分野が発展する礎となった。江戸時代の文化と聞いて、現代人が思い浮かべるイメージは大体この頃に大成した姿である。しかし、それはあくまでも、一部の限られた人たちにとっての文化でしかなかった。地方に目を向ければ、繰り返す飢饉に安定しない政情、高利貸しを狙った打ちこわしや伊勢神宮へのお蔭参りが流行するなど、不穏な空気は日に日に色濃くなっていたことに変わりはなかった。
天保六年(1835)、直亮は請により大老職に挙げられる。内憂外患という困難な時代、幕府により白羽の矢が立てられたのが井伊家であった。特に、異国船が頻繁に出現するようになり、先年のフェートン号事件のように傍若な振舞を許してしまったことなどから(注3)、幕府は外国を脅威と考え、文政三年(1825)に「異国船打ち払い令(注4)」を出したばかりの緊迫した情勢での推挙であった。
直亮が大老となって1年半後、天保八年(1837)。日本近世史のターニングポイントともいわれる大きな事件が起こる。
日本人漂流民を乗せたアメリカの商船モリソン号が浦賀に来航。漂流民を渡そうとしたが、異国船打ち払い令により時の浦賀奉行が砲撃を加えて追い返してしまった。その後、モリソン号は薩摩藩にも立ち寄ろうとするが、ここでも砲火という手痛い歓迎を受け、日本人漂流民を乗せたまま去っていってしまった。
後に「モリソン号事件」と呼ばれるこの出来事は、交渉もなく砲撃に出た幕府への批判と列強を呼び寄せる口実となり(注5)、政治への不信が強くなっていくきっかけとなった。
時の大老がこの出来事についてどこまで詳細に関与していたかは判然としない。だが、おそらくは直亮の耳にも届いていたはずである。幕府内部では外国との通商を認める開国派と欧米を疎ましく思う攘夷派の意見が対立するようになっていた。
直亮の姿勢はといえば、意外にも外国の文化を積極的に取り入れようとしていたようである。
天保十二年(1841)、大老職を辞して後任を老中の水野忠邦(注6)に託した直亮は彦根藩に戻る。
藩内では洋書の購入や蘭学者の登用を推奨した。これは「世界の中で日本のおかれている状況を鑑みるに、余りに出遅れている。それは数百年間も列島の中に閉じこもってきた無知からくるものだ。まずは、先進の知識を知ることから始めなければ」という、直亮の強い意志があったためといわれている。
この考えは、保守的な家臣たちには受け入れられず、結果として、彼らを無視するようになったため「むつかしき殿様」と影で揶揄されていたという。
直亮は言葉よりもまずは態度で示す人だったのだろう。
その気持ちはしばらくして、家臣たちに伝わることになる。
弘化四年(1847)、彦根藩は幕府から相模国海岸警衛を命じられる(注7)。このしばらく前、大陸では清王朝がイギリスに大敗を喫するアヘン戦争が起きており、いよいよ日本へも列強が押し寄せようとしていた。この脅威に耐え切れず、幕府は「異国船打ち払い令」を撤廃。薪水給与を認めるようになると、今度は開国通商を求める外国船がますます増えるようになった。
彦根藩が警備を命じられたのは、将軍の最も近くで外国船が出現する相模湾であった。
直亮は学んだ知識を元に、西洋式軍隊の練成に努め、列強の急な開国要求に応じたのである。
たしかに、直亮は西洋趣味であったのかもしれない。それまで日本が遅れてきた科学の分野に強く興味を持っていたようである。藩内の発明家・国友一貫斎(注8)が発明した反射望遠鏡を喜んだとか、楽器の蒐集に熱心であったとか、いろいろな逸話が残っている。
だが、直亮の目指したのは、趣味を突き詰めることではなく、この国の行く末を考えての行動だったのだ。「むつかしき殿様」といわれようとも、列強の急襲に備えていたのではないだろうか。
この時代、他藩では物騒な譲位思想が生まれようとしていた。しかし、彦根藩はそれに当てはまらない。それは、藩主の直亮が欧米列強について慎重であったからで、なおかつ、藩の財政が安定するくらいの政治手腕を見せたことに他ならない。
しかし、やがて国中が変化の潮流に巻き込まれていくようになると、ことは彦根藩だけの問題では済まなくなってくる。
嘉永三年(1850)、井伊直亮、彦根にて没。享年57歳。遺骸は清凉寺に葬られた。
それから、僅か3年後――。
嘉永六年(1853)、アメリカ合衆国海軍マシュー・C・ペリーがアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
幕末の始まりである。 
注2) 元号でいう文化・文政時代に花開いた町人文化。江戸を中心に浮世絵や川柳など文芸が盛んに行われた。
注3) イギリス船フェートン号がオランダと船籍を偽って長崎に来航。港の中で人質をとり薪水給与を求めた事件。結果として、時の長崎奉行と鍋島藩家老が切腹することになった。
注4) 外国船が来航した祭、理由の如何を問わず砲撃で打ち払えという法令。「無二念打ち払い令」とも。
注5) 幕府の政策を批判した洋学者・渡辺崋山や高野長英らが逮捕されるという「蛮社の獄」と呼ばれる事件も引き起こした。幕府への批判は高まっていく一方だったようである。
注6) 江戸時代三代改革の内の一つ、天保の改革を行った人物。幕政の建て直しを計った。
注7) 現在の神奈川県相模湾沿岸に当たる。
注8) 本名・国友藤兵衛。現在の長浜市国友町出身。元は彦根藩内で代々鉄砲鍛冶を生業とする跡取り。自作の天体望遠鏡で太陽の黒点を観察し、懐中筆や気砲など様々な発明品を残した。
井伊直弼
激動の幕末を動かした大老・井伊直弼。
その表舞台で語られる姿はほんの一部にすぎない。藩主にはなることが出来ない定めを背負い、不遇の扱いの中で前向きに生きようとしていた。
安政七年(1860)弥生三日。
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この時期には珍しい雪模様であった。
この日。江戸城桜田門のすぐ外側で時の幕府大老が暗殺された。後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、幕末は一つの転換点を迎えることになる。
大老の名は井伊直弼。
13人目の彦根藩主である。
直弼は文化十二年(1815)、先々代の藩主、井伊直中(注1)の十四男として彦根で生まれた。幼名は鉄之介、鉄三郎。
直弼はいわゆる庶子しょし(注2)である。兄弟の内、早く生まれた者が世継ぎとなり、その他は分家をするのが通例の世の中。直弼は、5歳のときに母を、次いで17歳のときに父を亡くしている。父の跡は、兄の直亮が継いだ(注3)。家督は兄の子が継ぐことが本筋であり、直弼が藩主となる可能性はここでほぼ途絶えていた。
武家社会において、庶子にはいくつかの身の振り方があった。井伊家では跡継ぎ以外の子は、他家に養子に出るか、家臣の養子となってその家を継ぐか、出家して寺に入るのが決まりとされていた。
しかし、直弼が元服を過ぎても、その行き先が決まることは無かった。
父が藩主をしている間は、藩主の家族が生活する下屋敷・槻御殿けやきごてんで暮らしていたが、兄・直亮が藩主となると城下の控え屋敷の一つ「尾末町御屋敷」で暮らすようになった。これは藩主の正式な家族として扱われなくなったことと同義である。この屋敷は、当然、槻御殿のような立派な建物でもなく、材料も一段下の物。大名の家族の住居としてはきわめて質素で、中級藩士の住居とほぼ同格であったという。庶子であるのに城内から出ていけない身分は、いわば無駄飯食いとみなされる。大名にとってはやっかいな存在なのだ。直弼は三百俵捨て扶持すてぶちという、わずかながらを与えられながら表舞台から隠されて暮らすよりほかなかった。
そんな中、直弼が城を出る好機が巡ってくる。
直弼が「尾末町御屋敷」で暮らすようになってから3年。天保六年(1935)、直弼20歳のとき。一緒に暮らす弟の直恭とともに、日向国延岡藩内藤家7万石(注4)からどちらかを養子にと声がかかったのである。直弼は弟とともに江戸へ向かった。
順番から言えば、弟より直弼に養子縁組が回ってくるのが当然であった。他国とはいえ、一国の大名家に跡継ぎとして入るわけで、これまで、庶子として後ろ指を指されることもあった窮屈な生活から脱出することができる。この時、直弼は大いに喜んだそうだ。
しかし、皮肉なことに、延岡藩は直弼よりも直恭を養子に選んだのである(注5)。直弼は失意の内に江戸を離れたといわれている。
彦根に戻った直弼が詠んだ歌がある。
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」
自身を、生涯花の咲くことのない埋れ木と同じだと悲嘆したのだ。
しかし、直弼は、ここで自分にしか出来ない業があると思い直し、「この困窮に耐え、器を磨くべし」と住居を「埋木舎うもれぎのや」と名付けて精進することを心に決めた。
「埋木舎」時代の直弼は儒学・国学など様々なことを学び、和歌、俳句、茶、能など文化面で才能を遺憾なく発揮した。特に茶では石州流を修め、新しい一派を興すほどであった(注6)。
また、武術においても日々惜しみなく修練を重ね、剣術、槍術、柔術、居合いなどを趣味としていた(注7)。「余は一日四時間眠れば足りる」と時間を惜しんで文武習得に励んでいた。後に直弼の腹心となる長野主膳ながのしゅぜんと出会い、師弟となった(注8)。
この頃の直弼は、もはや表舞台には立つ事がないという一種の諦観から開き直ったようにも見える。それは、庶子として惨めな処遇に耐えなければならなかった自分への克己であったのかもしれないし、または、自分をそのように扱った井伊家への反発であったのかもしれない。表には立つ事が無くとも、自分のできることを成し遂げようと前向きに生き抜くことを選んだのである。
ただ、やはり世間の目は冷たく、裏切られるような思いをすることも少なくなかったようである。
大きな口論をすることもあったらしく、趣味を極めるような生活は思い描くほど上手くいっていなかったのかもしれない。
「むっとして もどれば庭に 柳かな」
直弼が好んだといわれる俳人・大島蓼太りょうたの句である。 この世捨て人然とした直弼が、後に彦根藩主となり、やがて大老として日本史を動かす表舞台に立つことを、この時はおそらく本人もまだ知らないでいる。  
注2) 嫡男ではない武家の男子のこと。
注4) 現在の宮崎県延岡市周辺の藩
注5) 後に内藤政義と名を改め、藩政に尽くした。
注6) 茶の湯に関する直弼の著書『茶湯一會集』の冒頭には、有名な「一期一会」の言葉が記されている。
注7) 居合いの新心流から新心新流を興した。
注8) 長野主膳の若い頃のことは詳しくは分っていないが、志賀谷(米原市)に私塾を開いていたとされる。部屋住み時代の直弼もここへ通い、長野主膳を師と仰いでいた。長野主膳は聡明な人で、国学を学び、直弼とも多く書簡や歌のやりとりをしている。やがて、直弼が藩主となると彦根藩校の国学方として取り立てられ、直弼の腹心として篤い信任を得た。
世子として急に表舞台に立つこととなった直弼。
同じ頃、近海には欧米列強が続いて現れ、時代は開国へ向けて速度を増していた。
弘化三年(1846)、藩政の表舞台に立つことも、城を出ることも叶わず、不本意の塊を抱えたまま世捨て人然とした暮らしを埋木舎で続けていた直弼に急な転換点が訪れる。
兄で、藩主の直亮(注1)の子である井伊直元が急逝したという報せである。
直亮には他に嫡子がなく、幕府への体面上、井伊家の血統を絶やすことが出来ない彦根藩が、次代を担う跡継ぎとして白羽の矢を立てたのが直亮と同じ先代藩主・直中(注2)の血を引く直弼であった。
直弼は、兄の養子となり、正式に彦根三十万石の世子(注3)となる。同時に従四位下・侍従・玄蕃頭げんばのかみに叙位・任官。直弼30歳の冬の出来事であった。
彦根藩の世子は、定府と決められていた。直弼は15年間暮らした埋木舎を出、江戸の外桜田(注4)にある彦根藩の上屋敷に移った。藩主が帰国して江戸にいない場合、代わりに溜間とどめのま(注5)に出仕して幕政に参画するのが勤めとなる。直弼はこの時、内外の情勢について見識を深めていく。元来、勤勉で努力を惜しまない直弼は、欧米、中国、朝鮮、蝦夷、琉球など諸外国についての見識を深めていったといわれる。これが、後に開国へと導く礎となっていくのである。
弘化三年といえば、アメリカ東インド艦隊のビッドル司令官が浦賀に軍艦を率いて来航し互市を求めたのをはじめ、フランス、デンマークなど欧米列強の黒船が頻繁に日本近海に出現していたころであり、鎖国政策に支えられてきた江戸幕府が不安に揺れ動いていた時代でもある。旧態依然としたシステムを維持していくか、未知にして負のイメージばかりが先行する新しい門戸を開放するか、選択を迫られていた。
翌年、幕府は相模湾及び房総半島周辺の海岸線防衛を増強することを決める。警護に抜擢されたのが会津・川越・忍おし・そして彦根の四藩だった。彦根藩が任されたのは三浦・鎌倉両郡にわたる相模湾沿岸十数里。四藩の内、もっとも警備船が長く、特に外国船渡来の要衛にあたる場所である。いわば、黒船から国を護る最前線にあたる場所であった。
彦根藩は代々、京都守護を任せられた家柄である。加えて、西国三六カ国の抑えという地位にもあった。本来なら、国防の最前線に立つことは無かったはずである。
よほど幕府からの信頼が篤かったのか、何かの間違いか、その役目の現場責任者となったのが、江戸にいた直弼であった。直弼自身、まさかと疑う気持ちがあったのだろう。しかし、そこで妙な言いがかりを持って危険な役目から早々に身を引こうとしなかったのは、やはり井伊家の血筋というべきである。
「藩祖(注6)以来、先鋒を務めるのが井伊家の家柄なのだから、最前線に置かれるというのも相応しい。一旦、世間が驚くほどに手厚く勤めた上で、これまで通りの京都守護専任に戻ればいい」
直弼は常に、時代の前を向いていた。
嘉永三年(1850)年末。兄の直亮が亡くなり、直弼は正式に彦根藩主を継いだ。彦根藩主の代々に倣い掃部頭かもんのかみに遷人。そこには世を儚んだ若かりし日の姿はもう無かった。
しかし、藩主になったとはいえ、不安定な幕政、迫り来る列強、藩内の政務、直弼が心休まることは無かった。特に海外情勢を知るための『オランダ風説書(注7)』では、アメリカの艦隊がいつ来日してもおかしくないことを予言している。気を抜いている間などなかった。
嘉永六年(1853)、直弼は参勤交代の決まりにより、黒船の脅威を気にしつつも、一度彦根に帰国する。途中、藩領であった佐野(注8)を巡視した後ようやく彦根城にたどり着き、旅装束を解こうとしていた矢先の話である。
同年7月8日。アメリカ東インド艦隊司令長官であるマシュー・C・ペリーが旗艦「サスケハナ」を筆頭に4隻の艦隊を率いて浦賀に入港。長崎へ回航せよとの幕府の申し出を無視して江戸湾に侵入。警備の彦根藩士が見守る中、湾内を自由に巡航し、時折、号砲を轟かせた。これは、幕府のみならず、日本中が太平の眠りから覚める恐怖となった。
幕府の使者がとりつぎ、ペリーはフィルモア大統領の親書を手渡すと、翌年再訪することを告げ、湾内の測量をしてから去っていった。
彦根にいた直弼は穏やかではいられなかった。予想より早くペリーが退帆したため、増援部隊を派遣するまでには到らなかったが、それでも相州警護の総責任者として、再び出府しなければならない。未だ長旅の疲れの癒えていなかった直弼は慌しさの中、体調を崩してしまう。しかし、直弼は病身を押して、江戸へと舞い戻っていった。
注3) 武家の跡取りのこと。嫡子。
注4) 現在の東京都千代田区霞が関附近。
注5) 江戸城で名門譜代大名が詰める席。
注6) 井伊直政のこと。ここでは、かつて関が原の合戦で、直政が先陣をきったことを言っている。
注7) 鎖国中、欧米で唯一の貿易国であるオランダに対し、長崎のオランダ商館長に幕府へ提出させたヨーロッパに関する情報書類。
注8) 現在の栃木県佐野市。 
尊皇攘夷、開国、公武合体、佐幕、倒幕……あらゆる角度から様々な思いが吹き荒れた幕末。
日本史を語る上で決して欠かすこの出来ない大老は、固い信念の下、次の時代を見据えていた。
江戸に戻った直弼を待っていたのは、焦燥感と疑心で暗雲の立ち込めた江戸城だった。ペリー来航は、もはや諸藩や江戸城だけで片付けることの出来ない問題として日本中に波紋を広げている。開国か攘夷じょうい(注1)か、250余年続いた江戸幕府は究極の2択を迫られていた。
併せて、彦根藩に問われた責任も大きかった。直弼は、今や溜間とどめのま(注2)詰大名の筆頭である。加えて、ペリーが来航した浦賀と応接地の久里浜(注3)は彦根藩が警備担当地区であった。
安政元年(1854)、幕府は再び来航したペリーと日米和親条約にちべいわしんじょうやく(注4)を締結。下田と箱館を開港し、ここに江戸幕府の矜持であった鎖国体制は崩壊した。彦根藩は、警護地区を江戸湾近海に変更した。
本来、彦根藩が務めていたのは天皇家を護る京都守護である。この頃になってくると、黒船は、江戸湾近郊に出現するのみとは限らなくなっていた。京都に近い紀伊水道や大阪湾にも頻繁に現れている。実際、事の重大さを鑑みた朝廷は、天皇による彦根遷幸せんこう(注5)を真面目に検討していた。幕府は、彦根藩の海岸警備の任を解き、京都守護職に戻す。重要な場所を、地の利に通じた彦根藩に託したのであり、また、伝統の家格を回復するという直弼の悲願が叶った瞬間でもあった。
しかし、時代は風雲急を告げる幕末。歓喜に割く時間などない。彦根藩が京都守護の任についた直後、京都御所が炎上。直弼は江戸城で幕政に参加しながらも、新たに禁裏御守護隊を結成して御所や公家の不安を除くことに奔走せねばならなかった。
その間にも、欧米列強は手を休めることなく、不平等条約の締結を催促し続けてくる。未だ開国の準備が整っていない日本は、外からの脅威と内からの不満を抱え、一触即発の状態にあった。文字通りの内憂外患。直弼の体が休まることはなかった。
安政三年(1856)、先の条約で開港した下田のアメリカ領事館にタウンゼント・ハリス(注6)が赴任。通商条約締結を目的とした江戸出府を希望してくるようになる。
外国人が江戸城に登城するなどこれまで考えられなかった事態である。この頃、江戸城内は水戸藩らの尊王攘夷派と老中・堀田正睦ほったまさよし(注7)らの開国派の対立が深刻になっていた。埋木舎時代の頃から世の中を学ぶことを欠かさなかった直弼は、溜間詰となった今もそれは変わらず、諸国の情勢や『オランダ風説書』などから、国を守るためにはいち早く列強と通商貿易を開始すべきと、開国を勧めていた。
徳川御三家(注8)のひとつである水戸藩と幕閣の最高責任者である老中の対立は、そのまま江戸城内を二分した。
そこへハリスの江戸出府要請である。ハリスは日に日に不満を募らせた進言をしてくるようになっていた。このままでは武力行使に打って出られる可能性もある。太平を貪ってきた幕府の武力では、欧米の最新式火力には太刀打ちできないのが明らかなのは、先の黒船騒動で歴然としていた。
攘夷派の中には過激な意見も飛び交うようになってきた。開国派の堀田老中といえど、それを抑えることはできないでいる。また、これほどの大事であれば、天皇の許可がなければ通らない。時の孝明天皇は公武合体(注9)で諸外国の脅威から脱しようとする攘夷派であった。当然、ハリスの思惑が叶うことなく、開国派は肩身の狭い思いをしなければならなかった。城内での立場から、その矢面に立たねばならなかったのは、他でもない直弼であった。
時を同じくして将軍の跡継ぎ問題がおこる。13代将軍の徳川家定には嫡子がなく、その跡継ぎを巡って、御三家の一つである紀伊和歌山藩主・徳川慶福よしとみ(注10)を擁立した南紀派と御三卿(注11)の一人・一橋慶喜よしのぶ(注12)を擁する一橋派の対立となった。一橋派の中心は、水戸藩らの雄藩が占めており、以前からこれに相対していた直弼は南紀派を推した。
溜間詰大名筆頭である直弼の言葉は、重大な責任を負う。そのまま国政を動かす責任となって直弼自身に重く跳ね返ってきていた。
安政五年(1858)、直弼は、同じ南紀派から挙げられて史上12人目の大老に就任する。埋木舎で自身を果敢なんでいた人物が、将軍に次ぐ国政の頂点まで上り詰めたのである。
大老となった直弼が、まず取り組んだのは外交であった。
アメリカ領事のハリスには、もう何度も条約調印延期を伝えて続けている。痺れを切らすのは時間の問題である。しかし、朝廷は直弼が大老になったとき、開国を勧める南紀派が勢いづいて攘夷をうたう一橋派を排斥し始めたのを面白く思っていない。南紀派から大老に挙げられた直弼に勅許ちょっきょ(注13)が下るはずもなかった。刻一刻と決断を迫られる中、直弼は悩みに悩んだ。
調印をしなければならないことは明白である。しかし、勅許を待たずして調印してしまえば、後に困難な事態を惹き起こすことも明白。直弼は、江戸城内が無断調印を決行すべきと盛り上がる中、最後まで勅許が降りるのを待っていた。
じっくりと朝廷、幕府、諸藩の意見をまとめ、国中で一枚岩となった上で調印に臨もうとしていた直弼の目算は悲しくも実現することはなかった。
アメリカのみならず、フランス、イギリス、ロシアなどの大国が江戸湾内で武力をちらつかせるようになったのである。このままでは日本が第2の阿片戦争(注14)の舞台となりかねない。
直弼は、違勅の誹りを覚悟の上で、また、事後全ての責任を取ることも含めて、苦渋の決断をせねばならなかった。
歴史に“もしも”は許されないが、しかし、仮に、直弼がこの時、決断を下していなければ、近代日本は世界の中で取り残されていたかもしれない。
同年6月。横浜沖に碇泊中のアメリカ軍艦ポウハタン号の船上で、日米就航通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく(注15)が締結された。日本はついに、閉じていた門戸を開き、次に訪れる時代へ向けて、国を開いたのである。
予想通りというか、必然というか、勅許を待たずして調印に踏み切った直弼に避難が集中した。特に、攘夷派からは完全に敵視されることになる。時の天皇をはじめ、雄藩の多くを向こうに回さざるを得なかったのを最も悔やんだのは、おそらく直弼自身だったのだろう。
しかし、もはや人間一人の思惑では収拾がつかないほど世の中は騒擾し、混乱していた。
孝明天皇が水戸藩に対して戊午の密勅ぼごのみっちょく(注16)を下すと、江戸城内は派閥間の争いが顕著となっていった。敵味方の暗闘が繰り広げられ、大老にいたっては、城内で出されたあらゆる茶湯を口にしてはならないと言われるほど、命の危険が常に身近に潜むようになったのである。一方、京都では、政変を目論む尊王攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士らが集まるようになってきていた。直弼が、いくら責任を一人で負うことを決していたとはいえ、それだけでは収拾するはずもなかった。佐幕か倒幕か、事態はその局面を迎えようとしていた。
幕府よりの立場だった関白が尊皇攘夷派によって辞職に追い込まれると、幕府から老中自ら京都に出向いて首謀者を逮捕。これを皮切りに空前の大弾圧が始まる。後にいう「安政の大獄」である。
京都でも江戸でも、逮捕され処罰される人が後を絶たなかった。「安政の大獄」で弾圧されたのは100名以上に上るといわれる(注17)。徹底した弾圧製作は多くの血を流す結果をみせた。大老はその筆頭に居なければならなかった。直弼一人が大獄の首謀者と目され、敵味方問わず、非道な仕打ちを行う「井伊の赤鬼」と揶揄し、畏れるようになっていた。
直弼は、しかし、大獄を望んではいなかった。出来る限り“小獄”で終えられるよう、各方面への根回しを怠らなかったともいわれる。開国を断行したことは後悔していない。しかし、その責任があるのならばとらなければならないのも道理である。
直弼は避けられない世の中の流れから目を逸らすことなく、常に次の時代を見ていたのだろう。
直弼自身も、また、志士から命を狙われる存在となった。
周囲からは、その身を案じ、大老を勇退してはどうかという進言もあったが、直弼は最後まで責任を果たすため、頑としてそれを拒んでいたという。
「春あさみ 野中の清水氷居て そこのこころを くむ人ぞなき」
直弼が勇退を勧められたときに詠んだといわれる一首。
今は自分の政策を理解してもらえないが、もう時代は冬を越えて春を迎えている。いずれ、自分の真意を汲み取る人が出てくるだろう……。
直弼は、自分の信じた道を、実直に歩む決心を固めていたのである。
安政七年(1860)。
大獄は未だ続いている。
志士たちが不穏な動きをしているらしいとの情報は、おそらく直弼の耳にも届いていたと思われる。だが、直弼が信念を曲げることはなかった。
そして同年弥生3日。
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この季節には珍しい雪模様であった。
幕府の要職に就く者は、節句の祝いを述べに登城するのがならわしである。
外桜田にあった井伊家の上屋敷からは桜田門を通って城内に入るのが決まっていた。
この日。
江戸城桜田門のすぐ外側で、時の幕府大老が暗殺された。
後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、大獄は沈静化し、幕末は一つの転換点を迎えることになる。
大老の名は井伊直弼。
国を開き、近代への礎石を築いた人物。
13人目の彦根藩主である。
注1) 江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想。
注2) 江戸城内で有力譜代大名らが集った場所。幕政にも影響力を持っていた。
注3) 浦賀、久里浜ともに、現在の神奈川県横須賀市東部にある地名。
注4) 日本の鎖国を終わらせた条約。薪水給与のための下田と箱館(後の函館)の海港・漂流民の救助、引渡し・アメリカ人居留地を下田に設定する・片務的最恵国待遇などが条約の主な内容となった。不平等条約として明治以降も日本外交にのしかかる。
注5) 天皇が朝廷や日本の中心を移すこと。
注6) アメリカ合衆国の外交官。初代駐日大使。14代将軍・徳川家茂に謁見し、日米修好通商条約を締結した。日本には5年9ヶ月滞在した。
注7) 下総国佐倉藩の第5代藩主で幕末の老中。「蘭癖らんぺき」と呼ばれるほどの西洋通で、開国論者だった。同じ開国論者の直弼とも親交が深かったといわれるが、将軍後継問題で、開直弼とは相対する一橋派に属したため、後に大老となった直弼に罷免され失脚する。しかし、これは直弼にとっても苦渋の決断であったらしく、後に安政の大獄で多くの一橋派が弾圧されている中、堀田正睦だけは不問となっている。
注8) 徳川将軍家の親戚筋にあたる家系で、将軍家と同じ徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋を使用できることが認められていた家系。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家がある。
注9) 江戸時代後期、公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再構築を図ろうとした政策。孝明天皇は後に妹の和宮かずのみやを14代将軍・家茂に嫁がせ、公武合体を勧めた。和宮は皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例。
注10) 後の14代将軍・徳川家茂いえもち
注11) 江戸時代中期に分家した徳川氏の一族。8代将軍・徳川吉宗からの血筋となる。田安徳川家、清水徳川家、一橋徳川家がある。
注12) 後の15代将軍・徳川慶喜。日本史上最後の幕府将軍となった人物。
注13) 天皇から直接下される命令。
注14) 清とイギリスの間で1840年から2年間起こった戦争。清国は敗戦し、強引に不平等条約を締結させられ、近代に到るまで実質上、イギリスの影響下に置かれていた。
注15) 日本とアメリカの間で結ばれた通商条約。不平等条約の一つ。下田港を閉港し、新たに神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の5港を開港すること・領事裁判権をアメリカに認めること・江戸、大阪の開市・自由貿易・片務的最恵国待遇などが決められた。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結んだ(安政の五カ国条約)。
注16) 孝明天皇が正式な手続きを経ないで、水戸藩に直接、勅書を下賜した出来事。安政の五カ国条約に対する詳細な説明と公武合体を進める旨が記してあった。幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府が蔑ろにされ威信が傷つけられたということであり、安政の大獄を起こす引き金となった。
注17) 日米修好通商条約への無断調印と将軍・家茂就任に反対する派閥に属していた尊皇攘夷派や一橋派の大名、公家、志士らが弾圧の対象とされた。吉田松陰や橋本佐内といった活動家の処刑や、水戸藩や尾張藩藩主の蟄居など大々的に行われている。「桜田門外の変」を引き起こすきっかけとなった事件であり、後に直弼の評価を「維新の志士を弾圧した大悪人」か「開国を断行して日本を救った政治家」と二分する事件の一つとなっている。 
井伊直憲
先代藩主暗殺をうけ、次代を継いだ藩主・井伊直憲。
時代が区切られる狭間で、近世から近代へつないだ彦根藩主最後の列伝。
大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺された事実(注1)は、瞬く間に江戸城内、朝廷をはじめ、日本中に広がった。世情は、佐幕か倒幕かで揺れる幕末である。佐幕の旗手であった直弼の死は、彦根藩だけでは持て余す大事であった。
やがて時代は、一つの区切りを迎える。
近世から近代へ。旧態から新態へ。先祖から受け継ぎ、次代へと渡す架け橋を担う人物に後の世が託された。
井伊直憲なおのり。
彦根藩最後の藩主である。
直憲は、直弼の次男として嘉永元年(1848)に江戸で生まれた。幼名は愛麿よしまろ。
幕政の中心であり、「井伊の赤鬼」と恐れられた父に比べると、かなり穏やかな人柄だったようである。
直憲の身辺が慌しくなるのは、元服を控えた12歳のことである。
万延元年(1860)、父・直弼が水戸浪士らによって暗殺されたという報せは、彦根城内を混乱させた。
当時、大名の不慮の死は、理由の如何を問わず家名を断絶させるのが幕府の方針であった。藩主とは、一国と命運を共にする者のことである。それが謀殺されても、家名を続けさせたとなれば、幕藩体制が根幹から危うくなる。ましてや、幕政の最高責任者である大老が暗殺されたのだ。江戸城としても看過できるはずがなかった。
戦々恐々としたのは、彦根城である。このままでは、藩祖・直政から続く彦根井伊家は取り潰しとなるのは必至。しかも、藩主が暗殺されたのにも拘らず、仇討ちをしないまま、只、幕府からの命令を黙って待っていたとなれば、世の笑いものとして語り継がれることになるだろう。
藩主を失い、尚も、後ろ指を指されていかねばならないのなら、せめて復仇だけは果たしたい――というのが彦根藩士らほとんどの思いであった。
本人たちの自白により、犯行は水戸学派の手によるものであったことはすでに彦根まで伝わっていた。このまま水戸と一戦交えるべきだという機運が高まり、一触即発の緊張が城下に伝播していた。
その空気を急ぎ収めねばならなかったのは、他でもない江戸幕府であった。彦根藩は譜代大名の筆頭。対する水戸藩は徳川御三家の一つである。いわば、身内同士。京都などでは倒幕の志士たちの暗躍が激しくなってきている中、江戸城内に争いの火花を持込むわけにはいかなかった。彦根と水戸の衝突は、是が非でも回避せねばならなかった。
幕府は、悲しみと怒りに湧き立つ彦根を押さえるため、異例中の異例ともいえる方策を取る。
「大老は登城中に大怪我を負ったため、療養中」と発表したのである。直弼の死が公でないのならば、井伊家を潰す必要はなくなり、彦根藩の怒りも鎮まるだろうとの計らいであった。
直弼の死は、こうして一時的に隠されることとなった。藩主が暗殺されたのにも関わらず、彦根藩には何の咎めも下されることはなかったのでる。
このとき、新しく藩主として指名されたのが、直憲であった。しかし、この幕府の苦肉の策は、すぐに覆されることとなる。
直弼が暗殺されると、当然の事ながら、反直弼派が幕政の中枢を担うようになった。これまでの直弼の為政は全て悪行であったと判じられるのに、時間はかからなかった。条約調印は詔勅を無視した大罪。安政の大獄は至上の悪行。大老は暗殺されても仕方なかった――と世間は断じるようになったのである。
若い彦根藩主・直憲は、その非難を一身に背負わねばならなかった。
彦根藩は歴代の役職であった京都守護職を罷免され、10万石が没収された。桜田門の変から生きて帰った家臣と直弼の側近は、直憲の命により処罰された(注2)。
直憲は、一大名として、幕府の命令を遵守した。それは、藩内の家臣や領民らを守るために他ならない。依怙地になって復仇を叫ぶことは容易であったろうが、藩のため、家名のため、領民のため、あえて険しい道を選んだのだろう。
彦根藩最後の藩主は、藩の行く末を史上で最も深く考えていた人物だったのである。
失墜した藩の信頼回復のため、汚名を返上するため、直憲は東奔西走する。
世の中は倒幕へ傾きかけている。青息吐息の江戸幕府は、それでも抗うことをやめない。
文久三年(1863)、クーデターにより薩摩藩や会津藩などの公武合体派が長州藩などの尊皇攘夷派を朝廷から追い出す(注3)と、対立は目に見えて激化。錦の御旗を手にした者が正義であると、両陣営が天皇を巡って武力衝突を繰り返すようになる。
彦根藩は幕府軍の先鋒として、禁門の変(注4)、長州征伐(注5)などに参加した。この時、直憲は、藩祖・直政が先陣を切った関ヶ原の合戦での出で立ちと同じく、伝来の赤備え姿で身を固めていたと言われている。
彦根藩は武功をあげ、召し上げられた10万石の内、3万石を回復するまでになったが、少し遅かったといわざるを得ない。時代の方が先に区切りをつけようとしていた。
西洋式の武力を有した反幕府軍の前に、幕府は次第に劣勢を強いられるようになった。加えて、長州藩や薩摩藩が倒幕に向けての詔勅をとり、名実共に官軍と称されるようになる。幕藩体制の崩壊は、目前であった。
彦根城内でも、時勢を読むべきとの声が高くなっていた。このまま、幕府軍に与していては、やがて来る新時代に於いても彦根は汚名を被るだろうと言う者と、玉砕しても藩の意地だけは貫き通すべきだと言う者の口論が後を絶たない。決断は、藩主である直憲に委ねられた。
これが、他の藩主あれば、また別の決断を下したのかもしれない。直政から「徳川に従うべし」と言い遺されてから、彦根藩はそれを矜持としてきた。譲れない信念であった。
しかし、この時の藩主は、直憲であった。
藩の、家臣の、領民の、全てのこれからを最も深く考えた人物である。藩としてのプライドより大切な物があると直憲は判断を下すことになる。
慶応四年(1868)。直憲20歳。
先年、王政復古の大号令(注6)により、670年ぶりに朝廷へ政権が戻ったことにより、官軍は倒幕へ向けて勢いを増していた。
この年、新たに設立した明治新政府が旧江戸幕府勢力を一掃する戊辰戦争(注7)が勃発。
井伊家は、当初、その前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参加するも、大敗(注8)。以降、官軍として立場を変え、戦っていくことになる。
直憲は、その後、幕府軍の有力人物であった元・新撰組の近藤勇を拿捕するなどの功績を挙げつつ、新時代を迎える。 廃藩置県(注9)まで彦根知藩事として過ごし、後に華族令(注10)で伯爵と列せられた。
時代は江戸から明治へ。長かった近世はようやく幕を閉じる。
江戸時代から彦根に続いた、藩主たちの列伝もここで一区切りである。
注2) 桜田門外の変から無傷で帰邸した7名の藩士や直弼の側近であった長野主膳などが処刑されている。
注3) 文政の政変。八月十八日の政変ともいう。
注4) 朝廷を追われた長州藩ら尊皇攘夷派が、再び天皇を手に入れようと挙兵。御所周辺で薩摩藩ら公武合体派と武力衝突を起こした事件。京都御苑の西門にあたる蛤御門周辺が激戦区となった。
注5) 禁門の変で御所側に向かって長州軍が発砲したことで、朝敵とみなし、朝廷が幕府に長州征討の命を下したことに端を発する出来事。2度にわたって合戦が行われた。
注6) 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に朝廷(天皇)が発した、政権が天皇に移った事を宣言する政変。内容は、摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもの。
注7) 王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応四年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。慶応四年/明治元年 - 明治二年(1868年 - 1869)。鳥羽・伏見の戦いをはじめ、宇都宮城の戦い・上野戦争・東北戦争(会津戦争を含む)・箱館戦争など各地が戦場となった。途中、勝海舟らの手により、江戸城が無血開城した。
注8) このとき、戦場には赤備えの甲冑が点々と残されていたとも言われている。
注9) 明治四年(1871)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。先年の版籍奉還で人民と土地が天皇の下に帰属している。これにより、地方分権だった幕藩体制が中央集権の明治新政府体制へと移ることになる。
注10) 江戸時代の身分制度である士農工商を廃止し、四民平等で始まった明治政府が設けた新しい身分制度に基づいた法令。皇族・華族・士族・平民のうちの華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の区別が設けられた。華族には江戸時代の大名などが任命されている。
 
姫路城

 

姫路城1
兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にあった城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、ユネスコの世界遺産や日本国の特別史跡となっている。日本さくら名所100選に選定されている。
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山に築かれた平山城である。日本における近世城郭の代表的な遺構である。
この歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる(異説もある)。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの、天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となるという幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。
天守が国宝指定された所謂『国宝四城』の一つであり、近世以前の建造物が多数現存する。そのうち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また 平成5年(1993)ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
江戸時代や戦国時代を舞台とした時代劇を始めとして映画などのロケが行われることも多く、しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。
名称の由来と別名
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来は以下のような説が挙げられている。
姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から。
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもあるが、日本の城郭の異称は音読みするのが普通である。
他にも以下のような別名がある。
出世城 羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる。 不戦の城 幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃しているものの築城されてから一度も大規模な戦火にさらされる事も甚大な被害も無かったことから。 
歴史
姫路城の築城者は南北朝時代・1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範とする説が有力であり、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。
安土桃山時代、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主として入り、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる城郭に改修された。輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので担当する大名が頻繁に交替している。池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた酒井忠邦まで約270年間、6氏31代の城主によって治められた。
築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代の1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏と対立して力を弱め、細川方についた赤松氏が播磨を奪還した。
16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その家臣であった黒田重隆が城代として姫路城に入った。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。
天正元年(1573)まで黒田氏が代々城代となり、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。
天正4年(1576)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。
天正8年(1580)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(3層と伝えられる)を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀(あが)落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。
天正10年(1582)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため 天正11年(1583)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが天正13年(1585)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。 慶長6年(1601)、木下家定は備中足守2万5,000石へ転封する。
池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて慶長6年(1601)から8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている。
元和3年(1617)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。
元和4年(1618)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。 寛延2年(1749)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行なっている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。 
伝承
刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)
姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている。
長壁姫(おさかべひめ)
姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪。様々な伝説がある。
開かずの間
大天守3階から4階へと続く階段の下にある小部屋。吉川英治の小説『宮本武蔵』内の光明蔵の章に武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をしたという表現があるが、これは創作とされ本来は倉庫として使われていた可能性が高い。 大正元年(1912)に一般公開されて以来、非公開であったが大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』に連動し、平成14年(2002)9月1日から平成15年(2003)5月5日まで特別公開され武蔵の人形が置いてあった。小説での池田輝政との関わりも創作とされるが藩主の本多忠刻とは関わりがあったとされる。
姥が石(うばがいし)
羽柴秀吉が姫山に3層の天守を築いていたとき、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られる。他にも古代の石棺を石垣として使用している。石垣に使えそうな石をまさしくかき集めた名残である。
棟梁源兵衛の伝説
棟梁・桜井源兵衛は築城の大仕事を終えて、妻と共に天守を見に訪れた。ところが妻は「東南方向に少し傾いているのではないか」と言う。これにショックを受けた源兵衛は天守から鑿(のみ)をくわえて飛び降り自殺をしてしまったという。秀吉時代の話とされるが史実の源兵衛は輝政時代の棟梁であり、しかも彼が自殺した証拠はない。東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことだが、「昭和の大修理」で本当の原因は礎石が沈んだためであると確認された。
播州皿屋敷
浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。
皿屋敷は、お菊という女性の亡霊が皿を数える怪談話の総称。
播州(現・兵庫県)姫路市が舞台の『播州皿屋敷』、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』が広く知られる。他に北は岩手県滝沢村・江刺市、南は鹿児島県南さつま市まで日本各地において類似の話が残っている。江戸時代にはこれらの話が浄瑠璃・歌舞伎の題材とされている。
播州皿屋敷 / 永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。 乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。 以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。 やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
番町皿屋敷 / 牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。 その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
四神相応
姫路城の東に市川・西に山陽道・北に広峰山・南に播磨灘という配置から、それそれに関わる四神の利益を得られる四神相応の地として見立てられることがあり、さらにそれが播磨ゆかりの陰陽師・道摩法師によって見出だされたという伝説がある。 
姫路城2
巧妙な螺旋式縄張
お城の要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。
美しい連立式天守閣
5重6階の大天守と3つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)でつながり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風(はふ)や唐(から)破風が、白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめつくり)の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。
昔を伝える「不戦・不焼の城」
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっています。
規模
大天守の高さ 姫山(標高45.6m)、石垣が14.85m、建物が31.5mで合計海抜92m
心柱の大きさ 東西に2本、高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cm
面積 内曲輪(うちくるわ)以内の面積は23ヘクタール(230,000平方m)。また外曲輪(そとくるわ)以内の面積は233ヘクタール(2,330,000平方m)。内曲輪の面積を甲子園球場のグラウンド部分(14,700平方m)と比較すると、約15.9倍に。また皆さんが座られるスタンド部分も含めた球場全体(39,600平方m)と比較すると約5.9倍になります。 
歴史
元弘3年(1333) 赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築く。
正平元年(1346) 赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。
嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。山名持豊、姫路城を治める。
応仁元年(1467) 応仁の乱。赤松政則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる。
天正8年(1580) 羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉、3層の天守閣を築く。翌年完成。
天正13年(1585) 木下家定、姫路城主となり16年間治める。
慶長5年(1600) 関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。
慶長6年(1601) 池田輝政、城の大改築を始める。9年後完成。
元和3年(1617) 池田光政、鳥取城へ移る。本多忠政、姫路城主に。三の丸、西の丸、そのほかを増築。
寛永16年(1639) 松平忠明、姫路城主となる。
慶安2年(1649) 榊原忠次、姫路城主に。その後、松平、本多、榊原各氏が城主に。
寛延2年(1749) 酒井忠恭、前橋から姫路へ。明治維新まで酒井氏が城を治める。
明治2年(1869) 酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に。
昭和6年(1931) 姫路城天守閣、国宝に指定される。
昭和26年(1951) 新国宝に指定される。
昭和31年(1956) 天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。
昭和39年(1964) 天守閣群の全工事完了。
平成5年(1993) ユネスコの世界文化遺産に登録される。 
雑学
白鷺城の名前はどこから?
諸説ありますが一つは、黒い板張りの岡山城に対比して白漆喰総塗寵造の姫路城をこう呼んだという説。また、城のある丘が「鷺山」とも呼ばれたところから、という説。また、城が白鷺の飛ぶ姿に見えるためとか、昔からゴイサギが多くすんでいたから、などといわれています。
築城にかかった人手と時間は?
お城が現在の姿に近くなったのは、1601年着工の大改築によります。この工事は1609年に完了していますので、実年数は8年、足掛け9年かかったことに。動員された延べ人数は2,500万人以上と推定されます。
お城にいた侍の数は?
池田氏時代で300石以上の武士が500人余り。次の本多氏のころ、本多忠政の家来が700人以上、忠刻の家来が500人以上、足軽、小者まで加えると父子で約4,000人。榊原氏時代で3,000人。江戸時代末期、酒井氏が最後の城主であったころは2,200人ほどでした。
門の数は?
外曲輪(そとくるわ)まで含めて昔は84の門がありましたが、現在21の門が残っています。
狭間(さま)の数は?
鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は997を数えます。
濠(ほり)の幅や深さは?
幅は広い所で34.5mで、平均20m。深さは平均すると2.7m内外です。
腹切丸で本当に切腹があった?
「腹切丸」とは俗称で、正式には「帯郭櫓(たいかくやぐら)」といいます。建物の形が、時代劇に出てくる切腹の場を連想させるので、いつのまにか、このような名が付いたようです。当時、罪人の切腹は屋敷内の庭先などで行われるのが普通でした。ここは神聖な城内で、城主の住居のあった備前丸にも近い場所であり、切腹が行われたとは考えられません。
秘密の抜け穴は?
抜け穴があるとの伝説が昔からありますが、調査の結果、発見されていません。しかし、濠の中に水面下に隠された堤があり、この堤の上をたどれば、歩いて濠を渡ることが可能です。このような非常の場合の間道としての工夫は、随所に見られます。
姫路城が23円50銭で売られた?
廃藩置県により、無用の長物となった各地の城は、保存に巨額の経費がかかるため、次々に廃棄され、売りに出されました。姫路城も例外でなく、競売の結果、市内の神戸清一郎という人がわずか23円50銭で落札。ところが、買い取ったものの取り除きに莫大な費用がかかるため、権利を放棄したとのことです。 
伝説
「姫路」の名の由来
「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥(はこ)丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。
榊原騒動
姫路城主榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始じめました。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓高尾を落籍。姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。
これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾されます。
やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従い、共に越後高田へと下ったのでした。
棟梁・桜井源兵衛の死
池田輝政による姫路城築城の時、完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれています。その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。
輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、やっと完成した姫路城。しかし、彼には、丹精込めて造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてなりませんでした。
そこで妻を伴って天守に登ると、「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されてしまいます。「女の目に分かるほどとすれば、自分が計った寸法が狂っていたに違いない」とがくぜんとした源兵衛は、まもなくノミをくわえて飛び下りたといわれています。
実際に城が東南に傾いていたのは解体修理で確かめられています。本当の理由は、東と西の石垣が沈んだためでした。
お菊井戸
城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。
姥(うば)が石
羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼(うす)を差し出しました。
これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。
宮本武蔵の妖怪退治
木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていました。そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。
木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。
お夏・清十郎
清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年。訳あって、19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出ますが、いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲に。しかし、2人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしますが、捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで、25歳の若さで処刑されてしまいます。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩くのでした。 この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになりました。 悲劇の2人の霊をなぐさめる比翼塚が、野里の慶雲寺にあります。 
姫路城主
姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日にいたっています。
赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年のことです。
江戸時代姫路城城主
池田輝政 てるまさ 1600年 慶長5年
池田利隆 としたか 1613年 慶長18年
池田光政 みつまさ 1616年 元和2年
本多忠政 ただまさ 1617年 元和3年
本多政朝 まさとも 1631年 寛永8年
本多政勝 まさか⊃ 1638年 寛永15年
松平忠明 ただあき 1639年 寛永16年
松平忠弘 ただひろ 1644年 正保1年
松平直基 なおもと 1648年 慶安1年
松平直矩 なおのり 1648年 慶安1年
榊原忠次 ただつぐ 1649年 慶安2年
榊原政房 まさふさ 1665年 寛文5年
松平直矩 なおのり 1667年 寛文7年
本多忠国 ただくに 1682年 天和2年
本多忠孝 ただたか 1704年 宝永1年
榊原政邦 まさくに 1704年 宝永1年
榊原政祐 まさすけ 1726年 享保11年
榊原政岑 まさみね 1732年 享保17年
榊原政永 まさなが 1741年 寛保1年
松平明矩 あきのり 1741年 寛保1年
松平朝矩 とものり 1748年 寛延1年
酒井忠恭 ただずみ 1749年 寛延2年
酒井忠以 ただざね 1772年 安永1年
酒井忠道 ただひろ 1790年 寛政2年
酒井忠実 ただみ⊃ 1814年 文化11年
酒井忠学 ただのり 1835年 天保6年
酒井忠宝 ただとみ 1844年 弘化1年
酒井忠顕 ただてる 1853年 嘉永6年
酒井忠績 ただしげ 1860年 万延1年
酒井忠惇 ただとう 1867年 慶応3年
酒井忠邦 ただくに 1868年 明治1年 
姫路城3
兵庫県の播州平野中央に位置する姫路城は、全国に12ヶ所にしか存在しない現存天守を有し、かつ松本城、彦根城、犬山城とともに国宝四城のひとつである。築城以来、戦火や破却の危機を免れてきたため、天守群を始め城郭中枢部の多くの建造物が完存し、規模だけでなく優美さからも日本一の名城と言われる。大天守、小天守、渡櫓など8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。さらに平成5年(1993)ユネスコの世界遺産に登録された。姫路城は典型的な平山城であり、姫山(標高45.6m)に本丸と二の丸、鷺山に西の丸を設け、これらを取り巻く三の丸を内堀で囲んでいる。この区画を内堀といい、他にも水曲輪、腰曲輪、帯曲輪などがあり、これらは、いの門、ろの門など、いろは順に名付けられた城門によって細かく区切られ、姫路城の特徴である螺旋状の縄張りを形成している。現在、三の丸は広場に、出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。内堀の外周には侍屋敷で占められた中堀を、さらに中堀の外周には城下の町屋や寺町が立ち並ぶ外堀を配置している。しかも城下町を内包した惣構えの構造となり、それらを含めた梯郭式の縄張りの広さは230ヘクタールもあり、江戸時代中期には人口3万人を抱える一大城塞都市となっていた。姫路城の天守群は、五層の大天守(5層6階地下1階)と、3基の三層小天守(東小天守、西小天守、乾小天守)から構成され、天守の間を2重の渡櫓で結んだ連立式天守である。姫路城の大天守は、破風(はふ)という大小さまざまな屋根によって形づくられている。唐破風、千鳥破風、大千鳥破風など、姫路城はこの破風のデザインと配置の妙に尽きると言われている。この大天守は東西2本からなる25mの大柱で、5700トンの重量を支える構造であった。2本の大柱を中心に、主なものだけで420本の柱と270本の梁が整然と組まれ、姫路城の骨格を作り上げている。現在の姫路城の築城は、ちょうど関ヶ原合戦と大坂の役の間であったため、極めて実戦本位の造りに仕上がっている。これ以降は、元和元年(1615)の一国一城令によって、江戸幕府の許可なく新たな築城や城の改修が出来なくなったため、江戸城や名古屋城といった天下普請を除いて、姫路城に続く規模の城郭は現れなかった。にの門西面の唐破風の上には、羽柴秀吉に姫路城を献上したことで知られる黒田官兵衛孝高(よしたか)ゆかりの十字架を焼き付けた鬼板瓦がある。黒田官兵衛はキリシタンの洗礼を受け、ドン・シメオンという洗礼名を持っていた。秀吉は姫路城を改修する時、黒田官兵衛に紋瓦を造ることを許したという。そして、官兵衛は一枚の十字架の瓦を造った。その後、姫路城を近世城郭に改修した池田輝政(てるまさ)も、この一枚の十字架の瓦を黙認して現在に残している。厳しいキリシタン禁制の時代を経て、十字架の瓦が残るのは姫路城だけである。池田氏の時代には、西国の毛利氏など豊臣恩顧の外様大名を監視するために西国探題の機能を担っており、池田一族で播磨・備前・淡路の三国を押さえていた。二の丸の三国堀という名は、これにちなんでいると言われる。本多氏の時代、藩主本多忠政(ただまさ)の嫡男である忠刻(ただとき)には、徳川家康の孫にあたる千姫が嫁いでいた。千姫はお市(織田信長の妹)の孫でもある。はじめ豊臣秀頼(ひでより)に嫁いだが、大坂の役で落城した摂津大坂城(大阪府大阪市)より助け出された。姫路城西の丸の化粧櫓は千姫の化粧料10万石で造営されたもので、もともとは鷺山と呼ばれて出城があったが、この鷺山出城を削って西の丸に整備している。 
姫路城の天守が置かれている姫山は、奈良時代初期に編纂された播磨国風土記によると日女道丘(ひめじおか)と呼ばれていた。中世になると姫道山(ひめじやま)といい、麓の村を姫道村といった。姫道は姫路とも書いたので、姫山が姫路という地名の起源とされている。そして中世の姫道山の山上には、天台宗寺院である称名寺が存在した。元弘3年(1333)播磨国佐用荘の地頭であった赤松円心(えんしん)こと赤松則村(のりむら)は、後醍醐(ごだいご)天皇の皇子である護良(もりなが)親王の令旨を受けて、反鎌倉幕府勢力として挙兵する。赤松円心は姫道山に仮の砦を築き、一族の小寺頼季(こでらよりすえ)に守備させたという。この時代には寺院に防備を施して一時的に城郭として利用する例が多いので、姫道山の砦も山上の称名寺を利用したものと考えられる。この元弘の乱において、赤松円心は六波羅探題の軍勢を相手に大いに活躍し、鎌倉幕府滅亡に貢献した。しかし、後醍醐天皇の建武の新政においては恩賞も少なく、与えられたばかりの播磨国守護職を解任されるなど優遇されなかった。これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局派に敗れた結果といわれる。建武元年(1334)護良親王が失脚すると、新政における赤松円心の立場は失われた。その後、足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇に反旗を翻すと、赤松円心は足利側に味方、京都方面から進撃してきた新田義貞(よしさだ)を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を播磨国赤松の白旗城(赤穂郡上郡町)でくい止め、ついに撃退した。足利尊氏は官軍を破り、京都に入って光明(こうみょう)天皇を擁立する。一方、後醍醐天皇は吉野に遷幸して朝廷は分裂、それぞれ正当性を主張した。これにより南北朝時代が始まる。貞和2年(1346)赤松円心の次男である赤松貞範(さだのり)が、南朝方に備えるために姫道山に城郭を築いた。この城は姫山の城と呼ばれ、小さな居館の周囲に堀や柵を巡らせ、木戸を設けただけのものと考えられているが、現在の備前丸、天守曲輪あたりに築かれたこの城館が姫路城の始まりとされる。赤松貞範の築城年代については、姫山の土中に埋もれていた板碑に「貞和二年」の年号と、一結衆などの銘が刻まれていたことから、赤松貞範が築城の際に称名寺を山麓に移し、山上にあった墓碑を取り除き、その供養のために建てた板碑と解釈され、古文書類に記載されている「貞和の頃」、「貞和年中」、「貞和二年」といった築城年を裏付ける唯一の遺物としている。この板碑は、姫山から移転した称名寺である現在の正明寺(姫路市五軒邸)の境内に存在する。貞和5年(1349)赤松貞範が床山城(場所不明)に移ると、姫路城には目代として守護代の小寺相模守頼季を置いた。以後、小寺氏が姫路城の目代を世襲している。室町幕府における赤松氏は、京極氏、一色氏、山名氏とともに四職となって幕政に参画、赤松円心が足利尊氏から授けられた播磨国守護職に加え、円心の長男の範資(のりすけ)に摂津国、次男の貞範に美作国、三男の則祐(のりすけ)に備前国の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となった。ところが、嘉吉元年(1441)赤松満祐(みつすけ)・教康(のりやす)父子は、結城合戦の祝勝会と称して室町幕府第6代将軍である足利義教(よしのり)を京の自邸に招き暗殺した。いわゆる嘉吉の乱である。赤松一族は将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去、播磨国に戻って守りを固めた。しかし、山名持豊(もちとよ)を中心とした幕府軍の追討を受け、赤松満祐・教康父子は敗れて自害した。これにより播磨国守護職は山名持豊に与えられる。 
嘉吉3年(1443)吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝の勢力が後花園天皇の御所を襲撃し、三種の神器の一部を奪って比叡山へ逃れた。この禁闕(きんけつ)の変は数日で鎮圧され、天叢雲剣は取り戻したが、神爾(八尺瓊勾玉)は持ち去られてしまった。小寺藤兵衛、間島彦太郎ら赤松氏遺臣団は、室町幕府に対して赤松氏再興を条件に後南朝勢力から神璽を奪い返すことを約束する。そして、長禄元年(1457)遺臣らは南朝の自天王と忠義王を殺害して神璽の奪還に成功、長禄2年(1458)5歳の赤松政則(まさのり)は再興を許され、加賀半国、備前国新田庄などが与えられた。さらに、応仁元年(1467)応仁の乱が起ると、赤松政則は東軍の細川勝元(かつもと)に属して山名一族を一掃、旧領の播磨・備前・美作を回復する。この時、赤松政則は姫路城を拠点とし、本丸、鶴見丸を修築した。文明元年(1469)赤松政則が置塩城(姫路市夢前町)に移ると、姫路城には小寺豊職(とよもと)が入り、豊職-政隆-則職と姫路城主を歴任する。ちなみに、現在の姫路城に残る「との一門」は、赤松氏の居城である置塩城から移築したという伝承があり、板張りの壁で石落しがないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。永正16年(1519)小寺政隆(まさたか)は御着城(姫路市御国野町)を築き、小寺則職(のりもと)の頃からこの御着城を本城としていたようで、支城となった姫路城には家老の八代道慶(どうけい)を派遣していた。姫路城の上山里曲輪に播州皿屋敷で有名なお菊井戸が存在する。これは永正年間(1504-20)姫路城主の小寺則職を毒殺しようとした家臣の青山鉄山(てつざん)と、その探索を命じられたお菊の話で、正体が露見したお菊は家宝の10枚の皿のうち1枚を隠され、不始末を理由に責め殺されて井戸に投げ込まれた。それから毎夜、皿を数えるお菊の声が井戸から聞こえるようになったという話が残されている。また姫路市内の十二所神社にはお菊を祀ったお菊神社もある。次の小寺政職(まさもと)の代になると、主家の赤松氏は衰退し、小寺氏が独立した勢力として台頭した。この時、広峯神社の神官と目薬を売って財を成した黒田重隆(しげたか)・職隆(もとたか)父子を登用し、家老職に引き上げ、姫路城を任せている。黒田重隆は居館程度であった姫路城を中世城郭に改修した。黒田職隆の子が有名な黒田官兵衛孝高である。この頃の播磨国は東に織田氏、西に毛利氏という二大勢力に挟まれており、播磨の小大名たちは去就に悩んでいた。黒田官兵衛は織田信長の才能を高く評価しており、天正5年(1577)信長の命で播磨国に進駐した羽柴秀吉に従い、居城の姫路城を提供して秀吉の播磨平定に尽力した。天正6年(1578)播磨の大勢力である別所長治(ながはる)が織田氏に反旗を翻し、さらに織田家重臣で摂津国の荒木村重(むらしげ)が謀反を起こしたため、播磨は混乱を極めた。黒田官兵衛は荒木村重の説得のため摂津有岡城(伊丹市)に乗り込むが失敗、捕縛されて土牢に押し込められてしまう。それから1年後に有岡城が落城して、黒田官兵衛は救出されたが、足が不自由になっていた。天正8年(1580)別所長治は滅び、同調して織田氏から離反した小寺氏も討伐されたが、小寺氏の家老でありながら秀吉に従った黒田官兵衛は、秀吉の与力として織田氏に仕えることになる。秀吉は中国攻めの本拠として姫路城を近世城郭に大改修、浅野長政(ながまさ)に縄張りをさせ、黒田官兵衛を普請奉行として修築を行い、天正9年(1581)現在の大天守の位置に3層4階の天守を築いた。 
羽柴秀吉は城の南側に大規模な城下町を形成し、姫路を播磨国の中心地とすべく整備した。この際、姫路の北側を通過していた山陽道を曲げ、姫路城下を通るように改めている。この姫路城改修の際、秀吉は石垣に使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた老婆がこれを聞き、商売道具の石臼を差し出した。秀吉はこの志に大変喜び、天守台の石垣に使った。この話は評判になり、人々が競って石を寄進したという。この石臼は、姥が石(うばがいし)と呼ばれて現存している。また、姫路城のほとんどの壁は白漆喰壁だが、ほの門の内側にある油壁は粘土に豆砂利を混ぜ、もち米のとぎ汁で固めたもので、鉄砲の弾もはじき返すほどの頑丈さである。この壁だけ時代が古く、秀吉築城時の遺構と考えられている。天正10年(1582)羽柴秀吉が備中高松城(岡山県岡山市)を水攻めにしていたところ、本能寺の変が勃発、秀吉は高松城主清水宗治(むねはる)の切腹を条件に毛利輝元(てるもと)と講和し、全軍で京都に急行した。この中国大返しで、姫路城は中継点として重要な役割を果たしている。天正11年(1583)天下統一を進める秀吉は大坂城を居城とし、姫路城は弟の羽柴秀長(ひでなが)に与えた。続いて、天正13年(1585)秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)に移ると、秀吉の義兄である木下家定(いえさだ)が2万5千石で姫路城主となった。慶長5年(1600)関ヶ原合戦にて、徳川家康の東軍に加わり戦功をあげた池田輝政が、三河国吉田から播磨一国52万石の大大名となって姫路城に入城する。池田輝政は家康の意を受けて、西国の豊臣恩顧の大名に備えるため、9年の歳月をかけて姫路城を大改修、五層七階の大天守の他、現在見られる大規模で堅固な城郭にした。秀吉時代の天守は解体され、乾小天守の用材として転用している。このように姫路城には西国探題としての重要な役目も課せられた。池田輝政は、次男の忠継(ただつぐ)が備前国岡山28万石、三男の忠雄(ただかつ)が淡路国洲本6万石、弟の長吉(ながよし)が因幡国鳥取6万石を領しており、一族で計92万石もの大領を有して、世に西国将軍と称される。池田氏は輝政-利隆-光政と3代続くが、元和3年(1617)池田光政(みつまさ)が幼少のため要地を任せられず因幡国鳥取へと移封になる。代わって伊勢国桑名より本多忠政が15万石で姫路城主となった。江戸幕府は山陽道の要地を押さえる姫路城を重要視しており、本多氏のあとも、松平氏、榊原氏など徳川氏の親藩・譜代大名が次々と入れ替わり居城した。寛延2年(1749)酒井忠恭(ただずみ)が上野国前橋から15万石で入封してからは、酒井氏が明治まで10代続く。しかし広大で豪壮な姫路城は、石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、巨額の財政赤字に苦しんだ。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず地盤沈下してしまい、天守は見事に傾いていたという。「東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか」などと歌われるありさまであった。明治元年(1868)鳥羽・伏見の戦いにおいて、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)が老中として幕府軍に属したため、姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。姫路藩兵と新政府軍は一触即発の状態であったが、摂津国兵庫津の豪商北風正造(きたかぜしょうぞう)が仲裁に入り、15万両という巨額の献金を新政府軍側に払って戦闘を回避、姫路城は難を逃れ無血開城した。このように世界遺産の姫路城は、破壊の危機を一人の商人の私財によって免れている。 
形式と構造

 

縄張(基本配置)
典型的な平山城。天守のある姫山を中心として、その周囲の平地まで含めた縄張となっている。全体としては、姫山の北方を起点に左回りに3重の螺旋を描くような構造であり、梯郭式縄張を成す。1周目を「内曲輪(くるわ)」、2周目を「中曲輪」、3周目を「外曲輪」という。曲輪とは区画の事である。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。中曲輪・外曲輪は周囲の地形を利用し城下町を内包した「総構え」である(詳細は後述)。内曲輪以内の面積は23ヘクタール(230,000m2)、外曲輪以内の面積は233ヘクタール(2,330,000m2)となっている。
姫山北部には、築城以前の姿のままで残されている「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、今のところその存在は確認されていない。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。かつてはその名の通り水運のために利用されていた。
輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は 元和元年(1615)の徳川幕府による一国一城令によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修ができなくなったこともあり、一大名のもので姫路城に続くほどの規模の城は現れていない。
防御装置
城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が総数997個あり、開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。形は丸・三角・長方形の穴が開いており長方形のものが「矢狭間」、ほかが「鉄砲狭間」である。長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている。さらに天守の壁に隠した隠狭間、門や壁の中に仕込まれた石落としなど、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。
内曲輪
内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門などいろは順に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係については右の画像の説明文を参照。
内曲輪の通路と門 / 内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。
例えば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。
「菱の門」は伏見城から移されたという伝承があり、長押形の壁に火灯窓を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は置塩城から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢や槍などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。
現在「大手門」と呼ばれている大型の高麗門は昭和13年(1938)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲んだ厳重な枡形を形成していたが、明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。
本丸
天守丸・備前丸 / 天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や対面所などは明治時代に焼失している。
水曲輪・腰曲輪 / 天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2m分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている。理由については、秀吉時代の遺構という説があるが、防備の上で特に高い塀を必要としたという説もある。
天守群 / 姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守のひとつで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。
姫路城の最初の天守は天正8年(1580)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。
2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階、天守台中に1階(計7階)(5層6階地下1階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、各天守の間は2重の渡櫓で結ばれている。この構成を「連立式天守」という。天守は全て2重の入母屋造りの建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。各階の屋根は天守を支えるため少しずつずらされ、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95センチm高さ24.6mの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので、やはり3階床下付近で継いでいる。
外観は多様性に富み、複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)が設置されている。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれているが、大天守2重目南面では唐破風下に出格子(でごうし)を設けている。また、釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。
大天守の内部は、地下には厠や流しを設け台所を付属させ、地上1階・2階は同様の構造で、身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。3階も武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。4階にも同様に石打棚がある。5階を経て、最上階は部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など住居風の意匠を用いている。
姫路城の天守は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700トンである。かつては6,200トンほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。今日では天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。
二の丸
秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。三国堀は捨て堀とされ秀吉の時代は空堀であったといわれている。
帯曲輪(腹切丸)/ 天守の南東にある帯曲輪(おびくるわ)は城の防御において射撃などを行なう場所として築かれた。1重1階地下1階の帯郭櫓と1つの井戸が設けられている。櫓は外側の見た目では平櫓であるが、内側からは2重の多門櫓に見える。帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、実際に切腹が行なわれたことは考えにくいという。
上山里曲輪 / 「お菊井戸」が残っている。
三の丸
かつて三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。建物や庭園は明治時代に取り壊され現存しておらず、三の丸跡のうち本城跡は千姫ぼたん園に、向屋敷跡は三の丸広場となっている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東側に位置する出丸は姫路動物園の一部になっている。
西の丸
現在、西の丸には櫓群とこれらを結ぶ渡櫓(長局)と、その北端に位置する化粧櫓が残っている。長局には侍女達の部屋があり百間廊下(長さ約300m)と呼ばれている。化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に、千姫の化粧料10万石で 元和4年(1618)に建てられたものである。千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。 
赤松貞範

 

徳治元年-文中3年/応安7年(1306-1374) 南北朝時代の武将。赤松則村(円心)の次男。兄に範資、弟に則祐。子に頼則。号を春日部雅楽助という。
嘉暦元年(1326)頃は摂津国・長洲荘の荘官を兄である範資と共に勤めている。建武2年(1335)には中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わる。この戦の後、尊氏が反新田義貞を叫んで挙兵し、それを討つため義貞が出陣した。三河の戦にかち伊豆へ向かう義貞軍を尊氏軍が箱根で迎撃した戦で、竹下に展開していた貞範の軍は三百騎で、脇屋義助七千騎に突撃を敢行した。これを見て義貞方の大友貞載が寝返ったため戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。
室町幕府成立後は、一時期美作守を代任していた事があり尊氏の長子で直義の養子である足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。
南北朝の動乱の際は北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活躍し、室町幕府の確立に尽力した。1346年(正平元年/貞和2年)に姫路城の基礎である城を築いた。 
黒井城

 

兵庫県丹波市にある山城。別名を保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)ともいう。国の史跡。
標高356m、猪ノ口山の三方尾根伝いに曲輪群を配置し全山を要塞化している。建武年間に赤松貞範が築城。戦国時代には赤井直正の居城となる。天正7年(1579)、赤井直義の時、明智光秀に攻められ落城。斎藤利三が城主となり、今日の規模にまで改修した。山崎の戦いの後、堀尾吉晴が入城。関ヶ原の戦いの後、川勝秀氏が城主となるがその後廃城となった。約250年間存続した。
『嘉吉記』によると、足利尊氏に従軍し、新田義貞軍と戦った功績により建武2年(1335)12月12日丹波国春日部を赤松貞範に所領され、この時に築城が始まったと思われているが、これに対して猪ノ口山にはまだ築城されていなかったという意見もある。軍事的な緊張があって初めて城が築かれるので、戦闘が終息する時期に築城するのはおかしいというのがその理由である。 その後、赤松五代、約120年間この地を統治していたようである。
もっとも赤松氏が春日部領を直接統治していたわけではなく、代官を代々配置し、遠隔統治していたのではないかと思われている。
その後の経緯については、現在史料が確認されていないので詳しくは解らないが、赤松氏に代わり荻野氏が春日部領を次第に納めていったのではないかと考えられている。大永6年(1526)11月の八上・神尾山両城の戦いで黒井城の城主、赤井五郎が兵3000を率いて神尾山城の包囲軍を背後から襲い掛かったという記録があるが、赤井五郎という人物が後に黒井城で活躍する赤井直正一族とどのような関係があるのか不明である。その後の記録では天文年間(1532年-1554)に荻野秋清が黒井城主となっていた。一方、赤井氏は氷上町の後屋城を拠点としていた。赤井時家の息子、赤井直正を荻野正元に質子として朝日城に送っていた。荻野正元の息子が黒井城の城主、荻野秋清である。
赤井直正は荻野秋清へ年初の挨拶に黒井城に出向いていた。その後、荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取ってしまう。原因や経緯については諸書にさまざまな説があり、正確な理由は不明であるが、同年8月5日付の『赤井時家書状』によれば、赤井直正は再び朝日城に預けられていることが確認されているので、父荻野正元が放った刺客ではなかったかと思われている。
赤井直正は悪右衛門直正と名乗り、黒井城を拠点に戦国武将の道を歩み始める。 赤井直正は細川晴元派であったと思われており、晴元の没後もその政敵である三好氏との戦いを続けた。永禄7年(1564)に多紀郡へ侵攻、翌永禄8年(1565)には、三好氏方の松永久秀の弟、松永長頼(内藤宗勝)を福知山市にある和久城付近で打ち取り、丹波国から反細川晴元勢力を一掃し、但馬国、丹後国へ勢力を拡大させていった。
元亀元年(1570)3月、織田信長に拝謁した赤井直正(この時は改姓し荻野直正と名乗っていた)と赤井忠家は服命し、氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。ところが山名祐豊らが、氷上郡にあった山垣城(青垣町)の足立氏を攻め立てた。黒井城の赤井直正と赤井忠家は即応し、山垣城に救援に向かい山名祐豊軍を撃退した。その後勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫った。山名祐豊は織田信長に援軍を要請、織田信長は当時信長包囲網にあい、とても援軍を出せる余裕はなかったが、天正3年(1575)明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになる。
赤井直正は竹田城から黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。明智光秀は黒井城を包囲し、攻城戦が2ヵ月以上となった翌天正4年(1576)1月15日、波多野秀治軍が明智光秀軍の背後をつき、総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。
赤井直正や弟の赤井幸家は、吉川元春に援軍を要請していたが、援軍は到着しないまま翌天正5年(1577)10月、明智光秀は細川藤孝、細川忠興の増援を得て、第二次丹波国征討戦が開始される。このような緊迫した中、翌天正6年(1578)3月9日、武功高き赤井直正(荻野直正)が病死してしまう。一説には、「首切り疔」の病ではなかったかと言われている。
赤井直正の子、赤井直義は幼少であったため、弟の赤井幸家が後見となり赤井家の統率することになり明智光秀軍に備えた。しかし、明智光秀軍は波多野秀治の八上城の攻城から取り掛かった。1年余り包囲策をとり、飢餓状態と内部工作により同年6月1日開城した。
また、明智光秀軍は八上城包囲中に、八上城と黒井城の分断を目的に金山城(柏原町)を築城し、氷上郡の西部を羽柴秀長に、氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、黒井城の支城を押さえ孤立無援にした。
そして、八上城落城から約2ヵ月後の8月9日、黒井城もついに落城した。
明智光秀は重臣の斎藤利三を氷上郡に置き統治させた。斎藤利三の娘である春日局(幼名:福)はこの地で生まれた。本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀であったが、逆に山崎の戦いで敗れると明智光秀の勢力は完全に丹波国から駆逐されてしまう。
その後、黒井城に入城したのは羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴であったが、天正12年(1584)羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、赤井直正の弟赤井時直が黒井城と余田城(市島町)で徳川家康に通じ立て篭もった。
これを最後に黒井城は歴史に幕を閉じ、廃城になったと思われる。 
 
松江城

 

松江城1
関ヶ原の戦い[慶長5年(1600)]の後、功績により戦勝徳川方家臣の「堀尾吉晴」「堀尾忠氏」親子が24万石で出雲・隠岐の太守となる。
堀尾吉晴(ほりおよしはる)
尾張の国生まれ。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕える。姉川・長篠の合戦・備中高松城水攻め・山崎の合戦等で活躍。遠江浜松12万石を拝領、後に嫡子忠氏に譲る。
堀尾忠氏(ほりおただうじ)
浜松城城主で、関ヶ原の合戦の戦いでは家康に従い功績をあげた。
堀尾吉晴、忠氏親子は広瀬の月山富田城に入府。※前城主「吉川広家」は岩国へ転府
新たに築城場所を松江とした。
•築城場所選定中慶長9年(1604)に忠氏急死(27歳)。
•忠氏の遺志を継いで亀田山(かめだやま)に慶長12年(1607)からあしかけ5年の歳月をかけ築城。
•慶長16年(1611)に竣工。完成数カ月前に吉晴公死去(69歳)。孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる。
松江藩主
堀尾(ほりお)氏 [外様(24万石)] 慶長5年-寛永10年(1600-1633)[3代(33年間)]
遠江浜松城より[松江開府の祖 吉晴]---[初代藩主 忠氏(ただうじ)]---[忠晴(ただはる)]---[無嗣絶家] •初代藩主の忠氏は松江城着工前に死去。初代城主の吉晴は松江城竣工直前に死去。3代忠晴が城主となる。
特に吉晴公は「松江開府の祖」、今日の松江を築いた恩人として崇められている。
京極(きょうごく)氏 [外様(26万4千石)] 寛永11年-寛永14年(1634-1637)[1代(4年間)]
若狭小浜城より[初代 忠高(ただたか)]---[無嗣絶家] •世継ぎなく1代で改易
松平(まつだいら)氏 [親藩(18万6千石)] 寛永15年-明治4年(1638-1871)[10代(230年間)(明治維新まで)]
信州松本城より[初代 直政(なおまさ)]---[綱隆(つなたか)]---[綱近(つなちか)]---[吉透(よしとお)]---[宣維(のぶずみ)]---[宗衍(むねのぶ)]---[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]---[斉恒(なりつね)]---[斉貴(なりたけ)]---[定安(さだやす)] •初代直政公は 松平秀康(結城秀康…徳川家康の二男 越前福井藩主)の三男。
•7代治郷公(不昧公)は地上産業振興、治水新田開発による石高増により財政再建。
借金経済は改善し蓄財をつくる。そして、茶禅一昧の独自の境地を開くもととなり、茶人大名と称せられるようになった。松江のお茶文化を作った大名でもあり、名君として名を残している。
明治8年広島鎮台は、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった。※当時米一俵が3円弱といわれた。
松江城の見どころ
櫓3棟復元
かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓があった。このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13年に約125年ぶり(明治8年取壊し)に復元した。
地階と井戸
地階(穴蔵の間)は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫である。中央には、深さ24mの井戸があるが、北方の池の底とほぼ同底で常時飲料水が得られた。
石落とし
2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落としで、石垣に近づく敵に石を落とすようになっている。外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落としである。
桐の階段
板の厚さ約10センチm、階段の幅1.6mで1階から4階の各階の間に設けてある。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものである。
寄木柱
柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。
石垣
「※野面積み」と「※打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法。
石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要したと云われています。
松江城は5年間で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしました。
石垣積みは、穴太頭二人が ※穴太衆(一族)・子供衆(見習い)を従え、石工は大阪から招き石垣を構築しました。
※穴太衆(あのうしゅう)・・・石垣築成集団
穴太とは地名(大津市坂本町穴太)。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った達人がいました。松江城の石垣もこの「穴太衆」が招かれ築成しました。
※野面積・・・自然石や割石を積む方法
※打ち込み接(はぎ)・・・石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方。 
松江城2
島根県松江市殿町にあった城。別名・千鳥城。天守が現存し、国の重要文化財に指定されている。城跡は国の史跡に指定されている。
城は松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。
構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。
江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。天守からは宍道湖を眺望できる。天守内部には松江市街のミニチュア模型が展示されている。現在、指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。ほか、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。
歴史
鎌倉時代から戦国時代かけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とした。
慶長12年(1607) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
慶長16年(1611) 冬、松江城落成。(堀尾吉晴はこの年6月に完成目前で急死している。)
寛永10年(1633) 堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易となった。
寛永11年(1634) 京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
寛永14年(1637) 忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶(のちに他国で再興される)。
寛永15年(1638) 信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封。以後、明治維新まで続く。
明治4年(1871) 廃藩置県により、廃城となる。
明治6年(1873) 廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円で払い下げられすべて撤去された。天守も180円(当時の価格)で売却されることとなったが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納めるかたちで買い戻され、保存されることとなる。
明治22年(1889) 当時の島根県知事、籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織される。
昭和9年(1934) 国の史跡に指定される。
昭和10年(1935) 天守が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定される。
昭和25年(1950) 文化財保護法の施行に伴い、天守は重要文化財に指定される。
昭和35年(1960) 本丸一ノ門と南多聞の一部を復元。
平成6年(1994) 三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元。
平成12年(2000) 二の丸南櫓と塀(40m)を復元。
平成13年(2001) 二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元。
天守
天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけている。意匠は下見板張りで桃山文化様式である。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落が8箇所あることを特徴としている。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例である。最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。
人柱伝説
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城では盆踊りをしなかった。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。
天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである。 これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。 
松江城3
千鳥城とも。
松江城(島根県松江市殿町)は、『太閤記』などの著者・小瀬甫庵の主人であった松江開府の祖・堀尾吉晴が慶長十二年(1607)から足掛け5年の歳月をかけて、慶長十六年(1611)に築城とされる。
吉晴は関が原の合戦で東軍に属し、戦後出雲地方など24万石で入国した。当初は月山富田城に入っていたが、当時の潮流通り、交通が不便で城地の狭い山城を廃止し、宍道湖北岸の極楽寺山に平山城を建築した。
その時、選地を巡って堀尾父子に意見相違があって工事着工に時間を要したという。
城主は、堀尾吉晴、京極忠高(いずれも嫡子が無く、お家取潰し)の後、徳川家康の孫・松平直政が信州松本から移封され、明治維新まで、松平氏十代234年間に亘って、十八万六千石を領した。
この城には人柱伝説などあるが、現在に残る貴重な残存天守閣を誇っている。
千鳥が羽根を広げたように見える千鳥破風の屋根が見事なことから、別名「千鳥城」とも呼ばれている。山陰地方で唯一現存する天守閣は黒塗りの下見板で覆われており、その荘重かつ優美な姿は訪れる人々を魅了。平成十三年には南櫓、中櫓、太鼓櫓が約125年振りに復元された(『松江市資料』)。 
松江城4
豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関ヶ原の合戦などで武功をたてた堀尾吉晴は慶長5年(1600)出雲隠岐両国23万5千石の大守として広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。
城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20〜30米の内濠をめぐらす。
標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。
天守は本丸の東北隅に築かれている。
二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。
本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。
城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり、藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山石(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾氏3代、京極氏1代といずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守として威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。
馬溜
馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。
入口には大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。
西側にある高さ13mの高い石垣や、南・東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1mほどの腰石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。
この入口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。
発掘調査より、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内堀へ通じる石組水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかりました。
史跡松江城二之丸下の段の遺構
この二之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ2棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。
延宝7年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)と、その子民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
さらに18世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに5棟も新造されたが、この内3棟は天保年間に建てられたものである。
やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治8年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。
その後、一帯は運動場となり明治33年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行なわれたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
松江市では、昭和47年度から3次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。
二の丸
二の丸は、本丸の南側に位置する南北72間(約141.8m)、東西62間(122.1m)の曲輪くるわです。
江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる「御廣間おひろま」や生活をしたり私的な接客や面会などを行った「御書院ごしょいん」はじめ「御臺所おだいどころ」、「御式臺おんしきだい」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた「太鼓櫓たいこやぐら」や、城下の監視や倉庫に使われた「南櫓みなみやぐら」、「中櫓なかやぐら」をはじめとする5つの櫓などがありました。
これらの櫓、御殿などの建物は、明治維新とともに無用の施設となり、明治8(1875)年に取り壊されました。
その後は公園として利用されてきましたが、平成5(1993)年に策定した「史跡松江城環境整備指針」に基づき、江戸時代の遺構復元整備することとなりました。
事業は、発掘調査の成果をもとに、古写真、絵図、文献史料を参考にして、「南櫓」、「中櫓」、「太鼓櫓」、「井戸屋形いどやかた」などの建物および「塀へい」を実物大にて復元し「御廣間」跡、「下御臺所しもおだいどころ」跡、「御式臺」跡を平面整備し平成13(2001)年春に完成しました。 
松江城5
堀尾吉晴により、築城開始から5年の歳月をかけ、慶長16年(1611)に完成。
本丸にそびえる天守閣は、桃山初期の城郭の特徴を残し、華やかな造りを排した実戦本意の造りとしても知られています。
別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張り。外層5層、内部6階で、城内には松江の街や城の関連資料が展示され、最上階は望楼式になっていて、松江市街を一望できます。
天守閣の最上部の屋根にあるシャチホコは、木彫りで銅張り、高さは約2mもあり、これは現存しているモノでは最も大きいもの。
山陰随一の名城として広く全国より観光客を集めています。
堀尾吉晴は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城。
しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)に完成しました。
城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20〜30mの内堀をめぐらしていました。その堀尾氏に替わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めましたが、寛永15年(1638)病死したため京極氏は1代で終わりました。
同年、徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入城。
以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えます。
松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でもなお松江の人々に不昧公の名で親しまれています。
松江城は明治になって城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却されるところでしたが、有志の保存運動で救われ、山陰地方で唯一の天守が今に残ることとなりました。 
松江城6 (別名・千鳥城)
松江城は、全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣である。
天守閣の大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目である。
豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関ヶ原の合戦などで武功をあってた堀尾茂助吉晴は、慶長5年(1600)出雲・隠岐両国二十三万五千石の太守として広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ、大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由から、この極楽寺山(亀田山ともいう)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし、慶長16年(1611)に一応完成をみた。
城地の広さは、東西360m、南北560mあり、周囲に幅20〜30mの内濠をめぐらす。
標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多聞がめぐっている。
天守閣は、本丸の東北隅に築かれ、望楼様式を加えた複合天守で、外観5層、内部6層である。
壁の大部分は、白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のある無骨な体裁に、桃山風初期の荘重雄大な手法(千鳥破風、華頭窓、鬼瓦、附櫓、牛蒡積み等)をみることができる。
木彫り青銅張りの鯱は、日本現存の木造のものでは最大で高さ2.08mであり、入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌。
二ノ丸は本丸の南側に一段低く隣接し、御書院や御広間などがあった。
本丸の東側の平地は二ノ丸下の段と呼ばれ、藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。
城山の南には、三ノ丸(今の県庁付近)があり、藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市東部の大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され、堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる松平出羽守直政が信州松本から移封され、以来、松平氏10代234年間出雲十八万六千石を領した。
明治8年(1875)、城内の建物は全部とりこわされたが天守閣だけは有志の奔走によって保存され、昭和25年(1950)〜30年(1955)の解体修理を経て現在に至っている。
櫓3棟復元
明治8年(1875)に取り壊わされた二ノ丸櫓3基と土塀が、古写真や発掘調査結果をもとに、平成13年4月に約125年ぶりに復元された。
太鼓櫓(木造、一重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積70.459u)は、内部に太鼓が置かれ、時を告げる役目を担っていた。
中櫓(木造、一重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積69.833u)は、大手虎口を見下ろす場所に位置し、大手を監視する。
南櫓(木造、二重櫓、入母屋造、本瓦葺、延床面積105.2u)は、三ノ丸が一望され、さらに城下南東方向までを含めた監視が役割であった。
地階と井戸
地階(穴蔵の間)は、龍城用生活物資の貯蔵倉庫である。中央には、深さ24mの井戸があるが、北方の池の底とほぼ同底で常時飲料水が得られた。
石落し
2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落しで、石垣に近づく敵に石を落とすようになっている。外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落しである。
桐の階段
板の厚さ約10センチm、階段の幅1.6mで1階から4階の各階の間に設けてある。階段を引上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものである。
寄木柱
柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、領主・堀尾茂助吉晴の苦心の作である。 
松江城7
松江城は、島根県松江市殿町にある現存天守を持つ輪郭連郭複合式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。日本100名城(64番目)に選定されています。
なお日本三大湖城の一つでもあります。
松江城は、松江市街の北部にあり、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。本丸を中心に東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいます。さらに二の丸の南には一段低く三の丸があります。
天守は5層6階、高さ30mの桃山様式天守として築城当時のまま現存しており、国重要文化財に指定されています。
江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心でした。現在は城跡が松江城山公園となり観光名所となっています。また、桜の名所として日本さくら名所100選にも選ばれています。
松江城がある地には既に鎌倉時代には末次城が築かれていて戦国時代には尼子氏の領地となっていましたが、尼子氏が毛利氏に滅ぼされ、出雲地方は毛利氏の領有となっています。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍についたために領地を大幅に削減され、出雲国・石見国を失い、戦功のあった堀尾忠氏が、出雲国24万石を得て月山富田城に入城し松江藩を立藩しています。しかし月山富田城は中世山城であり統治には不便であったので、地の利に優れた末次城址に居城を築くことになりました。ところが慶長9年8月4日(1604年8月28日)には、忠氏が急死し、子の堀尾忠晴が藩主となり、祖父である吉晴が執政しています。 慶長12年(1607)には、末次城のあった亀田山に築城を開始しています。堀尾吉晴は、城の完成直前に慶長16年6月17日(1611年7月26日)に急死していますが、 慶長16年(1611)冬には松江城が落成しています。
ところが堀尾忠晴が寛永10年9月24日(1633)に死去し、嗣子が無く堀尾家は断絶してしまいます。
寛永11年(1634)には京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で入封しています。忠高は、三の丸の修築を行い、この時代に松江城の全容が完成しています。
ところが寛永14年(1637)には忠高が嗣子無く没してしまい、京極氏は廃絶してしまいます・・・、と言いたいところですが、さすがに名門京極家、甥の京極高和が播磨龍野6万石で再興しています。
寛永15年(1638) 信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封しています。
松平直政は、結城秀康の3男で、いわゆる越前松平家の系統となります。現在国宝となっている松本城の月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行っている人物です。この松平家がこれ以後、明治維新まで続いています。
明治4年(1871)には廃藩置県により、松江城も廃城となっています。明治6年(1873)には廃城令が公布され、天守を除く建造物は全て破却されています。天守も米100俵で売却されることとなったのですが、有志の運動により保存されています。
昭和9年(1934)には国史跡に指定されています。翌年昭和10年(1935)には天守が旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されています。
戦後になり、昭和25年(1950)には文化財保護法の施行に伴い、天守は国重要文化財となっています。しかしこれだけの規模の天守がなぜ国宝に指定されなかったのでしょうか。
昭和35年(1960)には本丸一ノ門と南多聞の一部を復元しています。
平成6年(1994)に三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元しています。
平成12年(2000)に二の丸南櫓と塀(40m)を復元しています。さらに平成13年(2001)には二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元しています。
このように松江城は現存天守以外にもいくつかの建造物を復元し、城内を整備しています。また石垣、堀も現存していて、当時の様子をよく残しています。 
松江城物語

 

戦国の出雲の中心であった富田城
重厚な戦国の遺風を今日に伝える松江城は、堀尾吉晴が築いた。"関ヶ原合戦"後、吉晴は出雲(島根県)に封じられたが、彼がまず居城にしたのは能義郡の月山富田城(現/安来市)であった。富田城は、鎌倉時代に出雲の守護となった佐々木義清以来、山名、京極、尼子、毛利の各氏が居城にして出雲を統治し、戦いを繰り返した城である。ことに戦国時代の尼子と毛利の攻防は、熾烈を極めた。
尼子氏は三代経久のとき大いに武威を誇り、山陰・山陽の諸国を従えて、「陰陽十一州の太守」と称された。しかし、安芸(広島県)の毛利元就が台頭してくると、次第に圧迫される。そして、六代義久のとき、富田城は毛利勢から三年に及ぶ攻勢をかけられた末に落城、尼子氏は事実上滅亡した。
忠臣の山中鹿助幸盛は、出家していた勝久を押し立て尼子氏の再興を目指すが富田城の奪還に失敗。以後、各地(但馬、因幡、播磨)を転戦し、織田方の羽柴秀吉の協力を得るが、播磨上月城(兵庫県佐用町)で毛利軍に敗れ、勝久は切腹。鹿助は護送される途中に斬殺され、七難八苦の生涯を閉じた。
その後、富田城は元就の孫・吉川広家が城主となるが、"関ヶ原合戦"で毛利本家の輝元が西軍についたため、領土を大幅に減封され、広家も周防岩国に転封された。
吉晴・忠氏の武功で得た二十四万石
慶長五年(1600)九月の"関ヶ原合戦"から二ヵ月後の十一月、堀尾吉晴は富田城に入った。吉晴は尾張国(愛知県)丹羽郡御供所の出身で、若くして織田信長に従え、羽柴秀吉に属した。その容貌はきわめて柔和で「仏の茂助(元服名)」といわれたが、戦場では常に先陣をきって敵陣に突入して武功をあげ、しばしば信長から賞された。また秀吉に従った合戦では、播磨の三木城(兵庫県三木市)攻め、備中高松城攻めでも武功をあげ、さらに明智光秀と戦った"山崎の戦い"では天王山を占拠して、戦いの帰趨を決定づけた。
これらの戦いぶりに秀吉は「仏の茂助ではなく、鬼の茂助というべし」と称賛したという。さらに"賤ヶ岳の合戦"、"小牧・長久手の合戦"、"小田原北条氏攻め"でも力をいかんなく発揮し、秀吉から「日ノ本無双の剛の者」と称えられ、遠江浜松城十二万国に封じられ、中村一忠・生駒親正とともに豊臣政権の三中老として活躍したのである。
豊臣秀吉が没し、前田利家と徳川家康の間に亀裂が入ると、吉晴は両者の融和にに努めたが、やがて家康の度量に心服していく。利家没後、家康と石田三成が対立すると、吉晴は家康に与した。家康は吉晴に、秀吉の遺志として越前府中(福井県越前市)五万石を隠居分として与えた。吉晴は浜松城を子息の忠氏に継がせ、自らは府中に在城することになる。
"関ヶ原合戦"の前、家康が会津の上杉景勝を討つべく東上すると、浜松にいた吉晴は従軍を願った。だが上方の情勢を懸念する家康は、吉晴に越前府中に戻り大坂方の動向に対処するよう命じ、忠氏を同行して江戸に進軍した。
吉晴は越前府中に帰る途中、三河(愛知県)の池鯉鮒で刈谷城主の水野忠重(家康生母の於大の弟/勝成の父)と親交を深めた。ところが、その場に同席した加賀井秀望が突然、忠重を斬殺した。驚いた吉晴は加賀井を斬り倒したが、水野の家臣は吉晴が二人を殺害したと勘違いし、斬り込んできた。吉晴は全身に十七ヵ所の傷を負いながらも、窮地を脱する。後日、加賀井は石田三成と親交があり、水野に西軍参加を要請する密使であったが、意見の相違から水野を殺したことが判明、吉晴の冤罪は晴れたのである。
"関ヶ原合戦"後、家康は吉晴・忠氏の功績を称え、出雲・隠岐二十四万石に封じた。しかし、傷が癒えない吉晴は隠居し、忠氏の後見となった。
宍道湖のほとりに城普請の名人が築城
吉晴・忠氏父子が入城した富田城は、長く出雲統治の本拠だったが、中世の山城で防御には利点があるものの、政治・軍事・経済・交通の要地ではない。慶長八年(1603)、幕府が城地移転を許可すると、宍道湖と大橋川を隔てた亀田山(末次城址)が新城の候補にあがった。
ところがその後、忠氏が二十六歳の若さで急死する。吉晴の孫の忠晴が七歳で跡目を継ぐが、その間築城は中断。工事が再開されたのは、忠氏の喪が明けた慶長十二年(1607)の春であった。城の縄張は「太閤記」の著者で軍学者の小瀬甫庵が行ない、工事の監督は加藤清正と並ぶ城普請の名人といわれた、吉晴自身があたった。
それから四年後の慶長十六年(1611)、松江城は完成したが、その雄姿を見ることなく吉晴はすでに同年六月に没していた。吉晴は生前、武功話を求められても、ただ笑うだけで決して自分の武勇を誇ることはなかったという。今日でも、吉晴の築城を褒め称える松江市民は多い。吉晴が築いた城下町は武家屋敷を今に伝えて、旅人を歴史のロマンに誘っている。
忠晴は富田城から松江城に移るが、在城二十二年で死去、嗣子なきために堀尾家は三代で断絶した。
堀尾氏に代わって城主となったのが若狭小浜城主の京極忠高であった。忠高は斐伊川その他の治水に努め、「若狭土手」の地名を残している。しかしわずか四年で病死し、やはり嗣子がいなかったため、京極家は断絶となる。
藩の財政を再建した茶人大名・不味(ふまい)
京極氏に代わって松江藩主となったのが、越前福井藩主・松平(結城)秀康(徳川家康の二男)の三男・直政である。直政は信濃松本から出雲十八万石余(隠岐は預地)に転じ、以後松平氏十代が明治維新まで治政する。
寛永十五年((1638)、松平直政は松江城に入ると、天守の荒廃と傾きを知って早速修理を行った。藩主は直政から綱隆・綱近と続くが、幕府隠密の報告書といわれる「土芥冠讎記」には、直政は「吝嗇にして(家臣)に禄を賜る事なく」とあり、綱近も祖父の直政に劣らぬ吝嗇家であると記されている。これは二人の性格というよりも、松江藩の財政が疲弊していたことを示している。
藩の財政難は、度重なる天災や幕府への公務の出費で、綱近・吉透・宣維を経て、六代宗衍のときにピークに達した。宗衍が一両を求めたところ江戸藩邸になく、近習が江戸中を駆け回るが、「出羽様(松江藩主)御破滅」と松江藩の破産状態の噂が広まっていたため、借金に応じる者がいなかったといわれる。  宗衍は財政改革に取り組んだが、さしたる効果は上がらず、三十九歳で隠居させられ、子の治郷(不味)が明和四年(1767)、十七歳で藩主となった。治郷は、経世家として知られる国家老の朝日丹波に再建を委ねた。
財政再建の第一歩は、まず足許の藩財政を粛清し、無駄な出費を抑えることであった。また借金や負債の棒引きを図る。だが、これは消極的な手法で、財政を黒字に転換するには生産性を向上させなければならない。そこで松江藩は、治水土木・灌漑などのインフラ整備による新田開発等を行ない、木綿・染物・造酒・蠟燭などの地場産業を振興させた。折しも幕府老中・田沼意次による商品経済化の時代であり、儲かる産業には藩をあげて支援して生産、それを御手船(藩の海運船)で国外に積極的に搬送して、利益を作り上げる仕組みを作り上げていった。
その結果、約五十万両といわれた借金は次第に返済することができ、治郷の治政の後半には、九万両を蓄財するまでになった。この余裕から治郷は、茶道具の蒐集に情熱を注ぐことになるが、治郷の茶道への造詣は、若いときの精神修養として始まっていたのである。
「知足-足ることを知る」を心の基本にすえる禅道と、茶道の"茶禅一如"を修行した治郷は不味と号し、宗納を茶名とした。その茶風は千利休の侘び茶を根本におき、大名茶と町人茶の各流派の真髄を統合したもので、不味流といわれる。治郷は茶道の清貧な心を説いた「贅言」や、名器を分類した「古今名物類聚」などを著して、茶道文化の成熟に寄与した。今も松江に根付く茶道などの文化は、治郷時代の大いなる遺産といってよいだろう。
幕末の松江藩を動揺させた二つの事件
治郷の行財政改革の手腕と文化人としての見識は、諸大名の手本になったという。治郷の後の藩主は斉恒・斉貴と続き、美作津山藩松平家より入った定安のときに幕末を迎え、鎮撫使事件と隠岐騒動の混乱に巻き込まれた。
松江藩は親藩として、二度の“長州征伐”に出陣したが、最後の将軍徳川慶喜が大政を奉還すると、朝廷への恭順の意思を明らかにした。だが、山陰道鎮撫使の西園寺公望を擁する因幡鳥取藩は、松江藩の軍艦八雲丸の動向が不審であるとして詰問状を発した。八雲丸が宮津に入港する際、葵の旗を掲げていたためである。京都守護にあたっていた定安は鎮撫使に謝書を送り、執政の大橋筑後は切腹を覚悟したものの、藩あげて鎮撫使に恭順することで解決をみている。
一方、隠岐騒動は、尊皇攘夷の思想に固まる神官と庄屋層が起こしたものである。彼らは自らを正義党と呼び、隠岐は天皇領になったとして松江藩兵を追放、自治機関を設置した。松江藩兵の攻勢で自治体制は一時崩れたが、再び復活し、明治二年(1869)に隠岐県が設置されるまで住民自治が続いた。維新の激動期とはいえ、藩役人を追放して自治機関を設立したことは特筆すべきことである。
同年に藩主の定安は松江藩知事となり、四年(1871)の廃藩置県によって松江県を経て島根県に編入される。松江城は島根県庁に譲渡されたが荒廃し、四年後には入札で払い下げられた。天守はわずか百八十円であったという。このとき、二百六十年の歴史を誇る松江城の潰滅を惜しんだ簸川郡の勝部本右衛門という豪農の働きかけで、入札は中止され、広く有志から集められた資金によって城は保存された。
堀尾吉晴

 

安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。豊臣政権三中老の一人。出雲松江藩の初代藩主。尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
天文13年(1544)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれた。父は岩倉織田氏(織田伊勢守家)の重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。
当時、岩倉織田氏は傍流である「織田弾正忠家」織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため浪人となった。その後、尾張を統一した信長に仕えたが、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。
その後は秀吉に従って各地を転戦し、永禄10年(1567)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたと言われている。天正元年(1573)には、近江国長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨国姫路において1,500石、後に丹波国黒江において3,500石に加増された。
天正10年(1582)の備中高松城攻めでは、敵将清水宗治の検死役を務める。山崎の戦いでは中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波国氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。
天正11年(1583)には若狭国高浜において1万7,000石となり大名に列する。翌天正12年(1584)には、2万石に加増された。
天正13年(1585)、佐々成政征伐にも従軍。田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられている。天正15年(1587)の九州征伐にも従軍し、正五位下、帯刀先生に叙任された。
天正18年(1590)の小田原の役にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国・浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。この後、九戸政実の乱にも従軍して功があったという。
秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。
慶長3年(1598)の秀吉死後は徳川家康に接近し、老齢を理由に慶長4年(1599)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。本戦直前の7月、三河刈谷城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した。吉晴も槍傷を負ったが、重望を討った。このため9月の本戦には参加できなかったが、代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。
慶長9年(1604)に忠氏が早世する。家督は孫の堀尾忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。また同年、伯耆国米子の中村家における御家騒動(横田騒動、または米子騒動)においては、中村一忠の応援要請を受け、他家でありながらも出兵して騒動を鎮圧している。
慶長16年(1611)、松江城を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。
逸話
戦場では勇猛さを見せつける武将であったが、温和な性格で人望を得ていた。このため、「仏の茂助」と称された。
吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い。
温和な性格だけではなく、秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣であったことからその影響力も大きく、家康と石田三成の対立を仲介したこともあったという。
文禄の役の後、明の万暦帝が秀吉を「日本国王」に任命する誥命を送付したものの、秀吉はこれに激怒して吉晴に下げ渡した。吉晴は国書の見事さにそのまま持ち帰って家宝としていたが、後に娘が石川忠総に嫁いだ際に嫁入り道具として持たせた書画の中にこれを加えた。そのため、この国書はそのまま石川家に伝わり、後に重要文化財とされた。戦後、一時期民間に流出したものの、後に大阪市が買い取って大阪市立博物館(後に大阪歴史博物館に移転)の所蔵品として現在も保管されている。従って、時代劇などで激怒した秀吉が国書を破り捨てるシーンは後世の創作によるもので史実ではない。
織田信長が狩に出ていたとき、その目の前で吉晴は大きな猪と取っ組み合いをした末に討ち取った。これを見た信長は吉晴の勇を気に入り、足軽大将に取り立てたという(藩翰譜)。 
月山富田城 (がっさんとだじょう)

 

島根県安来市広瀬町富田に所在した城郭。月山(標高197m)に営まれる。歴代の出雲国守護職の居城で、戦国時代には大名尼子氏の本拠地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。 慶長5年(1600)以降、堀尾氏が城主となるが、慶長16年(1611)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となった。昭和9年(1934)、国の史跡に指定された。
歴史
保元・平治頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承あり。
承久3年(1221)の承久の乱の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり、彼国に下向し、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る。
1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 出雲源氏の惣領塩冶高貞が幕府の追討を受ける。
1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年) 佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚を守護代とする。
吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となる。
1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 山名時氏、出雲国守護となる。代々歴任。
1391年(南朝:元中8年、北朝:明徳2年) 山名満幸、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となる。
明徳3年(1392) 京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とする。代々歴任。
文明16年(1484) 守護代尼子経久所領横領により追放され、塩谷掃部介が守護代となる。
文明18年(1486) 尼子経久、不意をついて当城を奪回。
(尼子経久、勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となる。城域を拡大・整備する)
天文6年(1537) 尼子経久、孫詮久(晴久)に家督を譲る。
天文10年(1541) 尼子経久没す。
天文12年(1543) 大内・毛利連合軍に攻められるが、新宮党尼子国久らの奮戦により撃退。
天文21年(1552) 尼子晴久、足利義輝及び朝廷より山陰山陽八ヶ国守護、従五位下修理大夫に任命される。
天文23年(1554) 尼子晴久、新宮党を粛清する。
永禄3年(1560) 尼子晴久急死し、義久が家督を継ぐ。
永禄8年(1565) 毛利氏の包囲を受け、篭城。
永禄9年(1566) 兵糧が尽き、開城。義久捕らえられ、安芸国へ送致される。城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城。
永禄10年(1567) 城代として天野隆重が居城。
永禄12年(1569) 尼子氏旧臣山中幸盛ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。
元亀元年(1570) 毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。
慶長16年(1611) 堀尾忠晴が松江城に移り廃城となる。 
 
備中松山城

 

備中松山城1
松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にあった山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。国の史跡。日本100名城。四国の愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶ。城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守などが国の重要文化財に指定されている。
城のあった臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。
現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には高梁高校がある。
歴史
仁治元年(1240)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。
慶長4年(1600)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。
元和3年(1617)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681) - 天和3年(1683)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。
水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
慶応4年1月18日(1868年2月11日)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。
明治6年(1873)廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され次第に荒廃していった。
昭和初期に山上の建物が修復され、昭和16年(1941)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受ける。
昭和25年(1950)文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定される。
昭和31年(1956)11月7日、国の史跡に指定される。
昭和35年(1960)高梁市が管理団体となる。
平成6年(1994)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。
天守
松山城の天守は、構造などは不明であるが毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられている。 現在見られる天守は、天和元年(1681)に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれる。
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至った。また天守に通じる石段は、敵の侵入を遅らせるために、直角に曲げられている。1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られているが、城内で火を使うことは禁じられ、ほとんど使われることはなかったといわれている。一段高い場所にある「装束の間」は、城主の御座所であるとされ、また城が攻められた時に城主が自害をするための場所であるともされる。2階には、愛宕権現や成田明神など9柱の神を祀った「御社壇(ごしゃだん)」と呼ばれる舞良戸で仕切られた部屋がある。外観は、建物高さが約11mほどで現存する12か所の天守の内では最も小規模であるが、12か所の内では最も高所にある。腰板張りで1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている。  
備中松山城2
現存天守を残す最も高い山城 / 別名 高梁城 / 所在地 岡山県高梁市内山下 / 築城年代 天和元年(1681) / 築城者 水谷勝宗 / 主要城主 三村氏(戦国時代)、小堀氏、水谷氏、板倉氏(5万石)/ 種類、形式 山城、近世大名の居城 / 遺構、現状 現存天守・櫓、石塁 / 城跡(国)史跡、天守・櫓(国)重文
高梁は城下町の趣きを今に残す。町の北に標高480mを最高に大松山、天神山、小松山、前山の400m級の山容がそびえるが、松山城は臥牛山といわれる小松山の山上にある。天守閣や二重櫓、一部の土塀が現存していて、これらは国の重要文化財に指定され、日本で現存天守を持つ最も高い山城として有名である。現在の天守は、江戸時代の水谷氏によるものである。
また、高梁市は城郭などの復元のため、平成7年から大規模な工事を行い、本丸の東門や南門、二つの平櫓などを昔通りに再建し、城の威容は一段とました。
備中松山城は、江戸時代にめまぐるしく城主が交代した事で知られているが、これは、後継者がいないためのお家断絶や転封によるものだが、これ以前の戦国期にも、城主がいくたびも代わっている。それは、この城が備中制覇のために重要な意味を持っていたからである。山陰と山陽を結ぶ伯備往来の中ほどに位置する高梁は、東西の主要街道も交差する。この要地を抑えるため、備中の有力武将に山陰の尼子氏や安芸の毛利氏、備前の宇喜多氏が絡んで、激しい争奪戦を繰り返した。
天正の備中兵乱(1575年・天正3年)  毛利氏の三村氏撲滅作戦
備中の有力者三村氏が、備前の宇喜多氏との戦いである明禅寺合戦に敗れた後、毛利氏の援助によって勢力を回復し、松山城に入るが、その後、毛利氏と宇喜多氏が接近することにより、逆に毛利氏に松山城を攻め滅ぼされてしまう。
天正の備中兵乱時の三村方の主な城
松山城(高梁市・三村元親、幸山城主・石川久式)、 成羽城(成羽町・三村親成)、 鶴首城(成羽町・三村左馬充)、 国吉城(川上町・三村政親)、 猿掛城(矢掛町真備町・三村平部)、 佐井田城(北房町・三村左京)、 新見城(新見市・三村・元範)、 鬼身山城(総社市・上田実親)、 荒平城(総社市・川西三郎左衛門)、 美袋山城(総社市・三村民部)、 幸山城(山手村・友野石見)
松山城陥落後の備前常山合戦  三村氏一族の最後の合戦
常山城(玉野市・上野隆徳)
御根小屋
江戸時代以降の松山城主はこの山城には、ほとんど登城する事なく、麓に居館(御根小屋)を設け、日常生活や実質的な藩政一般は、ここで行われていた。 
備中松山城3
たかはし市街地の北端に聳える臥牛山(がぎゅうさん・標高480m)。北から、大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、その城郭域はこの四峰の頂きを中心に全域に及んでいます。
通常、「備中松山城」と呼ばれているのは、このうちの小松山の山頂(標高430m・比高370m)を中心に築かれた連郭式の山城部分と山麓の御根小屋部分との近世城郭を指しています。
備中松山城は日本三大山城の一つ(他に、大和高取城・美濃岩村城)に数えられ、山頂の城址に建物が残っているのは、三大山城の中では備中松山城だけであり、現存天守閣も残っています。
建物だけでなく、天然の岩盤を巧みに取り込んだ高石垣が見事で素晴らしい。特に、大手門跡枡形虎口周辺の高々と築かれた石垣群は、見る者を圧倒し、威圧して寄せ付けない景観をなしている。
小松山城搦手の水の手門跡から大松山城・天神の丸への遊歩道が整備されている。近世城郭の小松山城とはまた違った雰囲気の中世城郭のこちらも、時間があれば訪ねてみたいものだ。
備中松山城のみどころは、山頂部の城跡だけでなく、山陽道と山陰道を繋ぐ要衝に位置し、備中の中心地として古くから栄えてきた城下町たかはしらしく、御根小屋跡・武家屋敷・出城としての機能を持つ寺院群やその他の史跡が残り、藩政時代の面影が色濃く留められています。
城主はめまぐるしく入れ替わっいますが、中でも、宿敵宇喜多直家への怨念と織田・毛利の二大勢力の狭間での“備中兵乱”で滅亡した三村氏の、小領主の悲哀を感じさせる史実に心打たれるものがあります。
この城の歴史は古く、鎌倉時代の1240年(延応2)、有漢郷(上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭重信により、臥牛山のうちの大松山に砦を築いたのが始まりとされる。
南北朝時代に入り、備後三好氏の一族の高橋氏が大松山に入城。この頃、縄張りは小松山まで拡張された。
その後は高氏、秋庭氏、上野氏、庄氏、尼子氏とめまぐるしく城主が替わった。
1561年(永禄4)、安芸の毛利元就の後ろ盾を得た成羽鶴首城主三村家親が、尼子氏の城代吉田氏を討ち、備中松山城主となった。
1575年(天正3)、家親の子三村元親は、“備中兵乱”で毛利輝元により滅亡させられ、その後、毛利氏の東方進出の拠点として城番が置かれた。
“関が原の合戦”(1600)後、備中国は徳川氏の直轄領となり、奉行として小堀正次が入り、父正次は4年後に他界、子の政一(後の遠州)がその職に就き、山麓にあった三村氏の旧館跡に陣屋を築き御根小屋とし、山上の城郭修築に着手したが、途中の1617年(元和3)、転封となり改修は小松山に限られた。
替わって、因幡鳥取(鳥取県鳥取市)から池田長幸(恒興の孫)が入るが、子の長常は無嗣改易となる。
続く1642年(寛永19)、常陸下館にあった水谷(みずのや)勝隆が備中成羽を経て5万石で入り、勝宗・勝美と3代続く。廃城まで威容を誇った城郭建造物は水谷勝宗による1681(天和元)〜1683年の大改築時の造営と言われている。
勝美死去により無嗣改易(後に弟が旗本となり、名跡存続)、領地没収となった時、その任務は播磨赤穂城主浅野長矩に下り、城受け渡しの任にあたったのが家老大石内蔵助であった。
水谷氏三代の後、上野高崎より、安藤氏が入り2代続き、その後、石川氏と続く。
家康の懐刀といわれ、京都所司代を務めた板倉勝重の後裔・板倉勝澄が、1744年(延享元)、伊勢亀山より5万石で入封し、板倉氏は8代続いて明治を迎える。
なお、陽明学者山田方谷を登用し、藩政改革を進めた板倉氏7代備中松山藩主勝静(8代将軍の孫で寛政の改革を施した磐城白河小峰城主松平定信の孫で養嗣子に入る)は、その藩経営に見せた経営手腕を買われて老中となり、“安政の大獄”による投獄者の赦免を行い、また、第一次長征で山陽道先鋒を務めるなど、沈み行く幕府に忠節を尽くしたリベラル派エリート閣老として有名です。 
備中松山城4
高梁は備中国のほぼ中央に位置し、しかも、この国を南北につらぬく高梁川の中流ようしようにあり、水陸交通の要衝である。そして、山陽と山陰ににらみを利かせる重要な戦略し上の位置を占めており、高梁を支配することは備中国を治めるのに重要な意味をもった。このため、早くから高梁の臥牛山に城が築かれたのである。ろうぎゆう臥牛山は、老牛が腹ばいになり、草をかんでいる姿に似ているところから名付けらろうぎゆうふくそうざんさいこうほうてんじんまるれたと言われ、「老牛伏草山」とも呼ばれていた。
最高峰の天神の丸の標高は四七八・やまはだ三mで、この地方では第一級の山である。しかも、山肌が急で、山城を築くのに適していた。しもたいこまるみね臥牛山は、北から大松山・天神の丸・小松山・前山(下太鼓丸)と四つの峰からなっている。現在、一般に備中松山城と呼ばれているのは、臥牛山のうち小松山(標高てんしゆかく四三〇m)を中心に築かれている近世の城を指している。天守閣のある城としては標高四三〇mというわが国で最も高い場所にある城であり、全国にその名を知られている。
臥牛山に初めて城を築いたのは、一二四〇(延応二)年、相模(さがみ)(神奈川県)の豪族(ごうぞく)だった秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)と言われている。秋庭氏は承久の乱で鎌倉幕府方として戦い、その功で有漢郷(うかんごう)の地頭となった人物であり、この時の山城は簡単な砦であったとされている。
秋庭氏五代の後、元弘年間(二一三二〜三四年)には、高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうさえもんむねやす)が備中の守護となって城をひろげ、高橋氏三代のあとは秋庭氏七代、上野氏三代、庄氏三代と栄枯盛衰を重ねたと伝えられている。一五六〇(永禄三)年、成羽の城主三村家親が毛利氏の援軍を得て庄氏をくだし備中松山城主となったが、この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになった。備中兵乱によって三村氏は滅(ほろ)ぶが、この時の松山城は、本丸は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ三本松・天神の丸・相畑・左内丸・馬酔木丸などの砦二一丸が築かれており、臥牛山全体が難攻不落の城塞となっていた。
備中松山城は重要な戦略上の拠点であったばかりに、中世には絶えず血生臭い争奪がくり返されたのである。三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の備中支配の拠点となった。織田信長の支援を得た山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が尼子勝久を立てて播磨の上月城(兵庫県)で兵を挙げ、これを討つため毛利氏が出兵したが、この時、毛利輝元は松山城に陣所を置いている。毛利氏に降伏した山中鹿之助が無念の最期をとげたのは、松山城へ護送される途中の阿部の渡しであった。
山中鹿之助は幼名を甚次郎(じんじろう)といい、母から尼子氏の再興を図れとさとされ、鹿の角と三日月のついた先祖伝来の冑を授けられた。そして、鹿之助と改名し、「願はくは、我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという。出雲(いずも)の富田城(島根県)で戦い、数々のてがらを立てて勇名は味方だけでなく敵方にも知れ渡った。
しかし、長い籠城の末、食糧もなくなって毛利方に降った。その後一も初志を貫いて苦節1数年、一五七八(天正六)年、織田信長の支援を得て尼子勝久を立てて毛利の大軍と戦った。しかし、多勢に無勢の尼子氏はついに毛利氏に降伏し、主君尼子勝久は自刃した。鹿之助は七難八苦はもとより望むところと、主君に主家再興の志を告げ許しを請うてわざと捕われの身となった。そして、毛利方の支配する松山城へ護送される途中、阿部の渡しで討たれ、遺体は観泉寺(かんせんじ)の住職が葬り、中洲に榎を植えてその下に五輪の塔を建てたといわれる。この五輪塔は洪水で流され、その後松山藩士前田市之進が現在地に碑を建てたと伝えられている。
毛利氏は関ケ原の戦ののちに備中から後退し、備中国奉行小堀遠州(くにぶぎようこぼりえんしゆう)が松山城を守った。一六一七(元和三)年には池田長幸(いけだながゆき)が六万五千石で松山藩をたてたが、その子長つねみずのやかつたか常に子どもがなく、一六四一(寛永一八)年には絶えてしまった。
翌年には水谷勝隆が五万石を与えられ成羽から入城した。水谷勝隆の子勝宗(かつむね)の代になって、幕府のゆるしを得て松山城の大修築(だいしゆうちく)が行われた。これによって、現存する二重櫓をはじめ、大手門(おおてもん)、二の平櫓、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所)、足軽番所などが新たに建てられ、松山城が完成した。
しかし、水谷氏も三代で子どもがなかったために、一六九四(元禄七)年家が絶え領地は取り上げられた。その後の松山城には安藤重博(六万五千石)、同信友、ついで一七一一(正徳元)年から石川総慶(六万石)が入城した。最後の松山城主は、石川氏にかわって伊勢の亀山(三重県)から移って五万石を領した板倉氏であった。板倉氏は、一七四四年、旧防守勝直が入城してから明治にいたるまで七代一二五年間続いたが、とくに、七代目勝静は江戸幕府の老中という重い役について将軍徳川慶喜を助けて国の政治にたずさわった。
天守閣は、松山城では三重櫓と呼ばれ、外観は三重であるが、実際は二階建てである。初屑には囲炉裡があり、装束の間という城主だけが入る一段高い別(あこ)れ棟(むし)の剖屋がある。二屑目の正面には御社檀(ごしやだん)を設けて宝(ほう)剣を御神体(ごしんたい)として祭っていた。全体に窓は大きくて数も多く、城内は明るい。天守の裏の二重櫓は、天守とともに本丸を構成(こうせい)する重要な建物である。十塀(どべい)は、土を練ってレンガ状にし、それを積み重ね、白壁(しらかべ)で仕上げたものである。矩形(くけい)の穴を矢狭間(やざま)(弓欠を射る)、円形のものを筒狭間(鉄砲をうつ)という。
御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、その麓に発達した集落を指し、武士はふだんはここに居住し、戦時には山城にこもった。江戸時代の松山藩では、「城」といえば藩王の館であり政務が行われた御根小屋を指し、登城するといえば御根小屋へ出仕することであった。小松山の城は「山城」と呼ばれていたのである。藩主が板倉氏の時代、ふだんは山城には山城番数人が城内三の丸の足軽番所に常駐し、城内の警備と施設の管理に当たっていた。現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、県の史跡に指定されている。石垣、庭園等に当時のおもかげをしのぶことが出来る。
明治の廃城令以後、松山城は荒れるにまかせていたので、城地や建物は朽ちて倒れ、かろうじて天守閣と二重櫓が雑木や草におおわれながらも残っているという、いたましい姿になっていた。一九二九(昭和四)年、由緒ある山城の面影を残そうとする松山城保存会の人たちが復旧(ふつきゆう)に立ち上がり、一九三九(昭和一四)年には当時の高梁町が町議会に図り、天守閣の解体修理(かいたいしゆうり)、二重櫓と土塀の補修に着手、町内会や中学生たちの勤労奉仕もあって、一九四〇(昭和一五)年復元、修理が終わった。そして、翌年には、近世式城郭のなかでもその構成に中世式の名残りを多くとどめている典型的な山城として「国宝」に指定されたが、一九五〇(昭和二五)年の文化財保護法の制定にともない、新たに国の重要文化財として指定された。 
備中松山城5
歴史背景
備中松山城は、仁治元年(1240)、秋庭重信が臥牛山の主峰大松山に砦を築いたのが始まりとされる。
戦国時代には、三村家親が城主となり備中支配の拠点となった。家親は、毛利元就と組んで勢力を拡大していき、備中国を統一。さらに美作、備前などにも兵を進め、宇喜多直家と激しく対立するようになり、戦いを有利に進めていた。しかし、家親は、永禄九年(1566)、直家の配下に暗殺されてしまう。跡を継いだ息子の元親は、永禄十年(1567)、復讐に燃え宇喜多氏討伐の兵を進めるが大敗(明禅寺合戦)。その後、天正二年(1574)、毛利氏が仇である宇喜多直家と結んだため、元親は毛利を離れ、織田信長と手を結ぶこととなる。これに危機感を感じた毛利家は、小早川隆景が8万ともいわれる大軍を率いて三村氏討伐を開始。元親は備中松山城を「砦二十一丸」と呼ばれる出丸を築いて臥牛山全体を要塞化していたため、毛利軍率いる隆景は城を取り囲んで無理攻めせず、周囲の城から落としていった。備中松山城は裸城となり、城が包囲されて1ヶ月もたつと三村軍は内部から崩れ始め、元親も自刃して城は陥落する(備中兵乱)。以後、毛利家の東部進出の拠点として機能し、その支配は関ヶ原の戦いで毛利家が減封されるまで続く。
関ヶ原の戦い後は、徳川幕府の城番として、小堀正次、政一(遠州)親子が城に入り、修改築をおこなった。以後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と次々と城主が代わった。その中で、現在の残っている城郭に大規模な改修を行ったのが水谷勝宗である。
幕末に備中松山藩を支配した板倉家は、幕府の重鎮であったため、戊辰戦争では当然、新政府軍の標的となったが、留守である藩主に代わり山田方谷(備中松山藩の藩財政を立て直したことで有名な人物)が無血開城することとなる。ちなみに、藩主の板倉勝静は、最後まで幕府に忠誠を尽くし、五稜郭まで新政府軍と戦った忠臣であった。
城について
備中松山城は、日本三大山城の1つで、現存天守が日本で一番高い所(標高約480m)に位置する。というよりも山城で現存天守が残っているのは備中松山城だけである。城の縄張りは、臥牛山全体におよび、江戸時代には南の山裾に「御根小屋」といわれる藩政を行う御殿も建っていたそうだ。
この城の魅力は、何といっても峻険な岩盤の上に築かれた石垣である。この最初に見える石垣群を眺めるだけでも十分来た甲斐があるといえる。天守はやはり、高所に建てられていたものなので小ぶりであり、平地に築かれた他の城の大天守に比べれば当然見劣るが、これが残ってあること自体がすばらしい。ただ、改修される以前の天守はぼろぼろで傾いていたようなので、現存としてはかなり手が加えられていて、新しく感じられる点は残念なところではある。
また、小松山に築かれた近世城郭の奥には、中世城郭の大松山城跡があるのでそちらにも足を延ばせば、この城の全体が把握できる。
備中松山城関連年表
延応二年(1240) 有漢郷の地頭・秋庭重信が臥牛山の大松山に砦を築く。
永禄四年(1561) 成羽鶴首城主・三村家親が毛利氏の支援を得て、尼子氏の城番・吉田左京亮を討ち、備中松山城主となる。
永禄九年(1566) 三村家親が宇喜多直家に暗殺される。
次男の三村元親が家親の跡を継ぎ備中松山城主となる。
永禄十年(1567) 三村軍、明善寺合戦で宇喜多軍に大敗。
元亀三年(1572) 毛利氏と宇喜多直家が和睦し、手を結ぶ。
元親、毛利を離反し、織田信長と手を結ぶ。
天正二年(1574) 小早川隆景率いる毛利軍が三村氏の備中諸城の攻撃を開始する。
天正三年(1575) 小早川隆景、備中松山城を落とす。元親は自害し、三村氏は滅ぶ。(備中兵乱) 以後、関ヶ原の戦いまで毛利領
慶長五年(1600) 西軍についた毛利氏は、備中松山城を没収され、代わりに徳川家の城番が置かれ、小堀氏が城に入る。
その後、池田氏、水野氏、水谷氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と代わり明治維新。 
備中松山城6
全国で最も高いところにあり、現在でも臥牛山(がぎゅうさん)上に天守閣が残る非常に特徴的な備中松山城。
鎌倉時代の鎌倉時代の1240(仁治元)年、秋葉(秋庭)重信が築城した大松山、天神の丸と、次第に拡張され、さらに関ヶ原の戦い頃から本格的に整備された小松山、丸山の4つの峰から成っています。現存する天守閣は小松山にあり、小松山城とも呼ばれます。その標高は約430m。
さて、戦国時代には毛利元就の支援を受けた三村家親、元親の親子が領有し、宇喜多直家と激しく争い、一時は城を失うことも。さらに、宇喜多直家と毛利元就が手を組むと、三村元親は織田信長と手を組み、毛利氏に対して反旗を翻します。備中松山城は、臥牛山の大半を要塞化し、さらに本城としての機能が小松山に移るなど改造されていきますが、三村氏は敗北し滅亡。毛利氏の支配するところとなり、元就の孫である毛利輝元は対織田信長の前線基地として、備中松山城を大改造しました。
ところが関ヶ原の戦い後に毛利氏は領土を周防、長門の2カ国に削られ、徳川家康は備中松山の地に備中代官を設置。これに伴い赴任した小堀正次、小堀政一(遠州)が荒廃した備中松山城の大部分を修復。さらに池田長幸、池田長常の親子を経て、1642(寛永19)年に水谷勝隆が5万石で入城し、城下町の整備に乗り出しました。
水谷氏が断絶すると、赤穂藩より一時的に大石内蔵助良雄が1年ほど預かり、さらに安藤氏、石川氏を経て1744(延享元)年に板倉勝澄が5万石で入城すると、以後は明治維新まで板倉氏が備中松山城を支配しました。
現在、天守閣と本丸二重櫓、三の平櫓東土塀が残るほか、大松山城部分には大池という、読んでそのままの遺構なども残存。さらに、平成9年に本丸の主要建築が復元され、かつての威容を取り戻しました。 
備中松山城(高梁市内山下)7
松山城が正式名称だが、伊予の松山城と区別するために、備中松山城とか高梁城などと呼ばれている。松山という名の山は全国に無数にあるから、そこに築かれた城はみな松山城というわけだ。
この松山城の歴史は古く、鎌倉時代に築かれて以来、幾度となく戦乱を経験している。現在の天守は、天和元年(1681)に水谷氏によって建てられたものである。現存天守としては唯一の現存天守だがこの天守が残ったのは、あまりに急峻な山上にあったため、ずっと放って置かれたためである。そのため古写真で見ると、ぼろぼろで、半分崩れかけて悲惨な状況になっている。よく倒壊しなかったものだと思う。近年では櫓や塀も復原されつつあるらしい。
松山城と言えば有名なのはなぜか大石蔵助で、元禄年間に水谷氏が廃絶になったときに、城の受け取りに来たのが彼だったのである。それゆえか、山道の途中に「大石蔵助腰掛け石」というのがある。そういえば「危険、猿と目を合わすな」という立て札も山中にあった。野生の猿がけっこう生息しているらしい。私の弟は以前然1人でここで野宿したことがあるが、夜中に猿の大群が天守の上や周りで大騒ぎし、かなり怖かったという。とてもまねできん。
松山城の歴史
松山城の歴史は古い。備中松山は伯備往来の主要な街道沿いにあり、この城を押さえることには大きな意味があったらしく、かなり早い時期からこの山は注目されていたようだ。
ここに最初に城を築いたのは、鎌倉時代、承久の変で戦功を挙げて備中に所領を得た、秋葉重信であったという。秋葉氏は相模の三浦一族であったというから、関東から遥か山陽までやってきたのである。この時、秋葉氏は大松山城を築いたというが、これはあくまでも詰めの城であって、平素の居館は山麓のどこかに置いていたのであろう。
正慶元年(1332)頃、備後三好一族であった高橋宗康が松山城に入城した。この宗泰によって城域が拡大され、小松山(近世松山城)の部分まで城として取り込まれたという。その頃からそれほどの城域を持っていたとすると、南北朝期の城としては、かなり広大な城であったといえるだろう。
室町時代になると、備中守護となった高越師秀が在城する。しかし、足利尊氏に属した秋葉氏が奪還して、再び城主の座に収まった。
しかし、枢要の地にある松山城ではその後も騒乱が繰り返され、城主はめまぐるしく代わっている。足利家臣上野信孝、庄高資らであるが、やがて三村氏が城主となる。この三村氏こそが、戦国大名としてこの地域に勢力を誇った一族であり、三村国親、元親らの名前が知られている。しかし、三村元親は備前の新興勢力宇喜多直家に明禅寺合戦で破れ、西からは毛利氏の圧力を受け、結局、天正3年(1575)、毛利氏の攻撃によって松山城を脱出、山麓の松蓮寺で自殺した。これによって三村氏時代は終焉を迎える。
それ以後、松山城は毛利氏の持ち城となり、城には、天野五郎左衛門、桂民部大輔らといった毛利氏の家臣が城代となっていた。
慶長5年(1600)、関が原の合戦で西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元は失脚し、長門・周防二国に押し込められ、備中の所領を失ってしまう。その後の松山は幕府の直轄領となった。この時に代官として赴任した小堀正次、息子の小堀遠州政一は小松山の城郭の改修を行ったという。
天和3年(1617)には、鳥取から6万5千石の大名として移封された池田備中守長幸が城主となる。だが、寛永9年(164)には、備中成羽藩の水谷勝家が移封されてくる。水谷氏は城の改修を積極的に行い、現存の天守、二重櫓、土塀といった建造物は、水谷時代に築かれたものだといわれる。
水谷氏といえば、その先祖は、下野久下田城にいた水谷蟠龍斎であり、チバラギ人としては妙な親しみを感じる。関東からこのような場所に移封されていたとは、ちょっと意外でもある。ところで、水谷氏が関東にいた頃には、城に石垣を用いることなどまったくといっていいほどなかったのだが、この城では見事な高石垣を随所に見ることができる。いったいいつの間に水谷氏は石垣の築造法を覚えたものであろうか。
この水谷氏は、嗣子なく改易となる。その際の城明け渡しに、赤穂藩の大石蔵之助が訪れたという話はとても有名である。水谷氏の後は、安藤氏、石川氏、板倉氏と続く。5万石の板倉氏時代は8代に渡って安定して続き、やがて明治維新を迎えるに至る。
日本三大山城というのは、ここと美濃岩村城、大和高取城の3つを指すという。どれも近世城郭でありながら高い山の上に城を築いていることが異質な城であるが、備中松山城の場合は、山上の城域も狭く、3つの中でも中世城郭の名残を多く留めているように思われる。急峻な山上にしては、わりと広いスペースを確保してはいるが、やはり大人数が籠城できるような規模ではなく、詰めの城として意識されていたものであろう。これほど見事な詰めの城を築いていても、近世段階では実際にはほとんど使用されることはなかったであろう。
この城のもう1つの特徴は、近世城郭部分のさらに奥に、中世の山城遺構が延々と残されているということにもある。具体的には近世城郭部分を「小松山城」、古城の方を「大松山城」と呼んでいるということであるから、奥の大松山城の方こそ、中世松山城の主要部分であったという可能性も高いであろう。その時期には、小松山城は、出城のような場所であったかもしれない。
さらに大松山城との間には、天神之丸と呼ばれるピーク部分もある。大松山城とは別の峰にあるので、これも一種の別城郭といってもかまわないかもしれない。そうやって見てくると、松山城は、3つの山城が複合した城であったというようにも見える。
松山城は観光地でもあり、場所はすぐに分かるのであるが、車で行った場合、普段は山上まで進入することができないので気をつけたほうがよい。以前来た時(1985)には車でかなり上まで行けたのであるが、観光で訪れる人が増えたせいであろうか、現在は山麓の駐車場に車を置いて、シャトルバスに乗って上がるようになっている。シャトルバスは中腹のふいご峠までしか行かないので、そこから城址までは山道を20分ほど歩いていかなければならない。けっこうきつい道である。
しかし、城が見えてくると、その疲れも一気に吹き飛ぶ。いきなり見えてくる重層な石垣は、見るものを圧倒するほどのものである。特に天然岩盤の上に築いた部分は、めくるめくほどの高さと防御力を誇っている。建物がなくとも、かなりの迫力をもって迫ってくる。
と、このように石垣は立派ではあるが、上記の通り、城域はそれほど広いものではない。近世城郭とは思えないほどの面積しかないが、急峻な山上にあるのであるから、それは致し方がないといったところであろう。
本丸には天守閣が残されている。現存天守は12しか存在していないわけであるが、このような山中に現存しているという天守はここだけである。あまりに山の中にありすぎて、解体もされずに放って置かれたのが、かえってよかったらしい。ただしそのため、昭和20年頃に修復される前の天守はぼろぼろで崩壊寸前になっていた。
天守は2層でしかなく、小規模なものではあるが、それでも現存建造物であるというだけでワクワクしてくる。ちなみに現存建造物はこの天守と背後の二層櫓、そして大手門付近の土塀の3つだけであり、以前来た時には実際にそれだけしかなかった。しかし、現在では復元が進んでおり、平櫓や土塀などが再現されていた。この調子だといずれ、山上の城郭は将来的には築城当時の状態のようになっていくのであろうか。そうなったら、また訪れてみたいものだ。
さて、前回の訪問では、近世城郭部分だけしか訪問していなかったのであるが、今回は、そのさらに背後にある大松山城をも訪ねてみよう、ということになった。近世松山城の北のはずれまで行くと、山道を降りていく道があり、その先に石垣で区画された堀切がある。そこが近世松山城の終点であり、木橋を渡って山道を登っていった先が中世遺構ということになる。観光客の多い近世部分とは異なり、道こそはあるものの、こちらにはまったく人の気配がない。
境目の堀切から進んだ所には、天神之丸、せいろうの壇、相畑などと呼ばれている曲輪群が存在しており、それだけでもけっこうな規模をもっている。ここで注目すべきなのは、相畑周辺に残っている石垣群である。近世松山城の石垣と比べると、相畑周辺で見られる石垣は、高さが2mくらいのものがほとんどで、石の大きさも小ぶりである。そういったことから、この辺の石垣は、近世松山城に伴うものではなく、中世段階から存在していた可能性が高いものである。山上にはけっこう石材が豊富にあるので、比較的早い時期から石材の使用が行われていたのではないかと思われる。
天神之丸の脇を過ぎて、西側の山稜に上がって行くと、そこが大松山城跡である。むやみに歩いても自分の現在位置がどこなのか分からなくなってしまいそうだが、途中に標識や石碑などがあるので、かろうじてここが大松山城なのだということが分かる。しかし、大松山城は、その名称とはうらはらに、段郭を並べただけの城で、あまり面白い城ではない。城そのものが高い山の上にあるので、改めて防御構造に念を入れる必要はなかったのかもしれない。上の図は3の郭で途切れてしまっているが、実際にはその西側下に3段ほどの腰曲輪がある。しかし、それだけの城である。
注目すべきなのは、天神之丸と大松山城との間にある池である。山上ではあるが、10m×20mほどと、かなり大規模な池が存在しており、現在でもかなりの量の水を湛えている。周囲がしっかりとした石垣造りになっているところを見ると、近世段階で手を入れられたものであるらしい。形状は長方形だが、四方に窪んだ部分があり、桟橋のようなものを出して、水汲み場にでもしていたようである。
この池から下に降っていくと、非常に大きな吊り橋がある。これも意外だ。このような山の奥にこんな立派な吊り橋を造っても、訪れる人はほとんどいないであろう。観光用にしてはあまりにも寂れすぎている。通行上の必要性があったとも思われず、なんのために造ったのか、よく分からない吊り橋である。
吊り橋入口からさらに降ったところには番所跡があった。わずかではあるが、ここにもそれなりの石垣が残っている。近世段階で、こちら側から敵が来るということはほとんど想定外であったであろうが、一応、こんなところにも番所を置いて警戒を怠らなかったのであろう。近世になっても、このようなところまで城域として意識されていたのである。それにしても、こんなさびしい場所に番で来る人はさぞかし不安だったことであろう。近世松山城そのものが、普段はほとんど人気がなかったであろうから、このような場末の所にいるのは、サルのような獣たちばかりであったに違いない。こんな所で番をしていたくないなあ、と感じたしだいであった。 
備中松山城 (高梁城・小松山城)8
概略
所在地 /岡山県高梁市
藩名 / 備中松山藩(高梁藩)
城主 / 小堀正次・政一(遠州)=備中代官、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉勝澄以後8代
現存 / 天守・二重櫓・三の平櫓東土塀(以上重文)
歴史
1240年、秋庭重信が臥牛山の上のほう大松山に築城したと伝えられるが詳細不明。
史実としてはっきりしてくるのは元弘(1331-34)年間に備後の三好氏の一族である高橋宗康が大松山に入城した頃からである。このころ城塞は大松山から小松山まで拡張されたらしい。のち高橋氏は現在の倉敷市へ転じ、高越師秀が備中守護として入城するが1362年に秋庭重盛によって追われ、以後秋庭氏が6代にわたって守護代として在城した。
その後、上野氏・庄氏をへて、1561年に毛利元就の支援を得た三村家親が入る。しかし家親は66年に宇喜多直家に暗殺され、その子・元親も67年に直家に大敗。備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出するが、71年には再び三村元親が毛利氏の加勢を得て松山城を奪回。72年に将軍足利義昭の仲裁で毛利・宇喜多両氏が和睦すると、元親は織田信長と結び毛利氏に反旗を翻し、74〜5年にかけて毛利・宇喜多連合と三村勢との間で備中諸城をめぐる激戦が繰り広げられる(備中兵乱)。これによって三村氏は滅亡する。このころの松山城は本城が小松山に移り、臥牛山全体が一大要塞となっていた。
三村氏滅亡後は毛利氏の出城となったが、1579年に宇喜多直家が織田信長と結び毛利氏に反旗を翻した。この激戦の中、毛利輝元は松山城を前線基地として選び、輝元自ら指揮して普請も行ったことが記録に残されている。1582年、備中高松城の水攻め(その間に本能寺の変→秀吉の中国大返し)以後、織田・毛利の攻防は終了し、高梁川を境に西が毛利、東が織田ということになるが、その中で川の東にありながら松山城は毛利氏所領となった。
関ヶ原の合戦後、家康は没収した毛利氏の所領の東端にある松山城に、西国目付としての備中代官を置き、小堀正次をこれに任命した。正次は4年後に死去しその子・政一があとを継いだ。彼が茶道家にして江戸城二の丸庭園なども手がけた作事の名人でもある小堀遠州である。小堀父子は松山城荒廃のため麓の頼久寺にて政務をとっていたが、1605年頃から城のすぐ麓に御根小屋を整備し、あわせて小松山城の修築も始められた。頼久寺に残る庭園は彼の築庭によるものである。(政一は1608年に駿府城普請奉行となり、その功によって従五位下遠江守に叙任されたため「遠州」と呼ばれている。)
小堀遠州は1619年に近江小室藩に移封されると、かわって池田長幸が入るがその子・長常で断絶。1642年に水谷(みずのや)勝隆が5万石で封ぜられた。彼の入城後まもなく正保城絵図を幕府に提出しているが、そこに描かれた縄張りは後世とほとんど変わりがない。加えて池田氏時代には城の改修に関する記録がないこともあわせると、小堀氏時代に計画した天守や一部の櫓に関してはほぼ出来上がっていたものと考えられる。しかし二重櫓や二・九・十の平櫓や大手門・搦手門・二の丸櫓門などが出来上がるのは正保城絵図以後に持ち越しとなったようだ。
茨城県下館から転封してきた水谷氏の治世は、高瀬舟による高梁川の水運などの産業振興政策で評価が高い。また現在の天守は1683年に水谷勝宗によって3年がかりで修築されたものである。しかし勝隆・勝宗・勝美の3代で1693年に水谷氏は断絶。城の受け取りをつとめたのが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩である。備中松山藩中は城に立てこもり抵抗の気配すらあったたため、大石内蔵助良雄は丸腰で単身城内に入り、備中松山藩家老・鶴見内蔵助と対談。この二人の内蔵助の話し合いによって城は無事無血開城された。以後、大石は一年近くこの城に滞在している。
その後の松山城は安藤氏(6万5千石)、石川総慶(6万石)をへて、1744年に板倉勝澄が伊勢亀山から5万石出入り以後8代続いて明治を迎える。7代目・板倉勝静(かつきよ)は、財政難の危機を乗り越えるために山田方谷(ほうこく)を登用。借金返済の猶予を大坂商人に強引に迫る一方、柚子をつかった菓子「ゆべし」や鉄鉱山開発で農具などを作って売った。また信用が落ちた古い藩札を買い取り公衆の面前で焼き捨て、かわって発効した新しい藩札には兌換を義務づけた。このようにして8年間で、10万両の借金から逆に10万両を有する豊かな藩となった。また、方谷はすぐれた教育者でもあり、藩校・有終館の学頭もつとめ、長岡の河井継之助も彼の教えを受けている。
板倉勝静は山田方谷を登用しての藩政改革が評価されて寺社奉行を務めたが、安政の大獄で井伊直弼に反対して罷免させられた。1861年、寺社奉行に復帰、翌年には老中に昇格し、幕末の混乱する政局の安定化に努めた。生麦事件の賠償問題などから一時罷免されたが、程なく老中に再任された。15代将軍慶喜から厚い信任を受け、会計総裁に選任され、幕政改革に取り組む一方、大政奉還の実現にも尽力した。その後、戊辰戦争が起きると奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。
国元の方谷は、勝静に松山の領民の事を第一に考えて欲しいと諫言する。しかし松平定信の孫(つまり8代将軍吉宗の玄孫)として生まれた勝静にとっては将軍家を見捨てる事は出来ない相談であった。勝静の幕府軍参戦の情報を得た新政府は、近隣の岡山藩などに対して松山城攻撃を命じた。留守をあずかっていた方谷は、領民を戦火から救うために松山城を明け渡し、勝静を隠居させる決断をした。以後、方谷も新政府の度重なる出仕要請を受けることなく1877年に死去した。
備中松山藩は朝敵だったためか、昭和初期(1929)に二重櫓の改修を行うにあたっては「造林人夫収容小屋兼火の見台」の名目としていた(六の平櫓の古材を利用)。しかし1939-40年という日中戦争開戦後(太平洋戦争直前)には高梁町民あげての天守改修工事を行ってもいる。(明治初期の写真ですでに天守西側は崩れかけていたらしい。)二重櫓はこのあと1957-60年に解体修理されている。
さらに平成に入ってからは、1997年に五・六の平櫓とその間の南御門が歴史的復元されている。また2001年からは約2年かけて天守の修復工事がなされた。これは天守西の石垣が孕んできて天守の建物も最大22センチも沈下して傾いたため、西側入口付近を解体、石垣も解体撤去し積み直すところから始めた大規模なものであった。そんなわけで近年に撮影された五・六櫓を前に従えた天守の写真は、復元の2つの櫓同様にずいぶんときれいになってしまっている。 
備中松山城の概要9
備中松山城は、岡山県高梁市にある現存天守を持つ連郭式山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。
日本100名城(68番目)に選定されています。
なお現存12天守では唯一の山城です。日本三大山城の一つでもあります。
この備中松山城は、仁治元年(1240)、備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭であった秋葉重信が大松山に備中松山城を築いたのが最初です。元弘年間(1331年頃)には高橋宗康が小松山まで城を拡張しています。
城が築かれた海抜約430mの臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構が残っています。
現存する天守、二重櫓、土塀の一部が国重要文化財に指定されています。また石垣も現存している他に櫓、門、土塀が復元されています。
天守は、複合式望楼型2重2階です。外観は、建物の高さが約11mであり、現存12天守のなかでは最も小規模ですが、12か所の内では最も高所にあります。まあ、現存12天守では唯一の山城であり標高も430mと高いのです。
外観は白い漆喰塗りの壁と腰板張りからなり、1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓などはいずれも縦連子窓となっていて、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられています。
この備中松山城は、かなり頻繁に城主が変わっていますが、中国地方の要となる戦略上の要衝であったからと言えます。
戦国時代に入り、上野信孝の一門の上野高直が信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入った際に、次男の上野頼久が備中松山城に入っています。頼久は、備中松山の臨済宗天柱山安国寺(頼久寺)を再興し菩提寺としています。頼久の跡は、嫡子の上野頼氏が継いで備中松山城主となっていますが、頼氏は天文二年(1533)に庄為資によって攻め滅ぼされています。
この後は、庄氏が備中松山城主となり、備中半国を支配するようになりますが、やがて次第に庄氏をしのぐ勢いとなった三村氏が台頭し、備前国の宇喜多直家との対立が深まり、永禄6年(1563)頃に戦が始まっています。この頃になると庄氏は宇喜多氏の配下となっていたようですが、三村氏を後押ししていたのが安芸国の毛利氏でした。毛利氏は、尼子氏を滅ぼして強大な勢力を持つようになっていたのです。ただし、九州の大友氏、備前国の宇喜多氏も強勢を誇っていたことと尼子氏の残党が各地で毛利氏を攪乱していたので、備中を完全に征服するまでには至っていなかったのです。
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が死去しています。しかし毛利元清は備中へ攻め込み、備中松山城を落城させると、元亀3年(1572)に戦功のあった三村元親を備中松山城主としています。この時点で備中国は庄氏から三村氏の支配となったと考えられます。三村元親は備中松山城を大松山・小松山を範囲とする一大城塞として整備しています(現在も石垣の一部が残っています)。
ところが天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返っています。この裏切り劇は、毛利氏が三村氏の天敵であった宇喜多直家と結んだのが原因でした。
元親の父であった三村家親が宇喜多直家に暗殺されていたことで、両家の間には深い遺恨があったのでした。宇喜多直家は実力では三村家親にはとてもかなわないので卑怯な手段をとったというわけですが、この直家あちこちで悪事を重ねていますね。三村元親は叔父・三村親成や竹井氏など一部重臣の反対を押し切り、織田信長と通じたため、翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続くことになりました(備中兵乱)。しかし備中松山城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害しています。これにより戦国大名としての三村氏は滅亡しました。備中兵乱の後、備中松山城の地は毛利氏の領有となっています。
慶長4年(1600)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れたため備中国が没収され、徳川幕府が城番として小堀正次・政一を置いています。この頃、麓に御根小屋が築かれています。何しろ城は標高430mの山上にあって麓と往き来するだけでもたいへんなのでこのような措置が執られたのでしょう。もう山城の時代ではなかったのでしょう。
またこの時点では既に天守が存在したと言われているので、毛利氏時代には既に天守が建造されていたと考えられます。
元和3年(1617)には因幡国鳥取藩より転封された池田長幸が入城し、備中松山藩6万3千石が成立しますが、寛永18年(1641)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶してしまい、備後福山藩主の水野勝成の家臣が城番となっています。
寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681)〜天和3年(1683)にかけて天守を建造するなど3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となっています。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶しています。ただし水谷家は勝美の弟・水谷勝時に3000石が与えられたため、旗本としては存続しています。水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となっています。
元禄8年(1695)に安藤重博が上野国高崎藩より6万5千石で入封しますが、正徳元年(1711)には美濃国加納藩へ転封になっています。同年、石川総慶が6万石で入封しています。延享元年(1744)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いています。この備中松山藩は藩主が早世で断絶したり、転封されたりとなかなか定着しなかったのですが、板倉氏が藩主となってからは定着しています。
7代藩主の板倉勝静は明治元年(1868)の戊辰戦争で、旧幕府軍に最後まで忠義により与して函館まで転戦したため、備中松山藩は新政府の追討を受ける事態になっています。同藩の執政であった陽明学者の山田方谷は当時江戸にいた勝弼を新藩主に迎える事として川田剛を使者として迎えに行かせています。しかし、当時は備中松山藩は朝敵と見なされていて、同藩関係者への新政府の監視の目は厳しかったのです。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かっていますが途中で新政府軍の兵士に発見されてしまいます。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士達も驚いて通行を許可したために無事備中松山に到着したと言われています。ううむ、義経と弁慶ですね。
慶応4年1月18日(1868年2月11日)には備中松山藩は執政山田方谷の決断で無血開城していますが、明治2年(1869)2月には新政府から所領を5万石から2万石に減封された上で、勝弼への家督相続が認められて藩主となっています。同年10月には松山を高梁と改名し、11月には藩知事となっています。
明治4年(1871)2月、新政府の命令で東京へ赴き、そのまま同年7月の廃藩置県で免官となっています。
明治6年(1873)には廃城令が公布され、麓にあった御根小屋は取り壊されています。城の建物は払い下げられ天守以外は放置されて荒廃しました。
昭和初期には天守が倒壊しかけたため昭和5年から数回に分けて修復され、昭和16年(1941)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受けています。昭和25年(1950)には文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定されています。昭和31年(1956)11月7日には国の史跡に指定されます。
平成6年(1994)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されて、現在の姿となっています。 
備中松山城10
城の始まりは鎌倉時代の仁治元年(1240)有漢郷の地頭・秋庭三郎重信が大松山に砦を築いたことによると伝えられる。今に残る城郭は江戸時代の天和3年(1683)時の城主水谷勝宗が小松山に(標高430m)築いたもので、現存する日本の城の中で最も高い所にあり、山上の天険を利用した近世式の城郭として全国に名高い。
元弘年中(1331〜34)、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。そのあとも、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄4年(1561)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。
元亀3年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正2年(1574)冬から翌3年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。
関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長10年(1606)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永19年(1642)、水谷勝隆が入城する。
水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から3年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝ラ・勝職・勝静・勝弼と七代続き廃藩置県を迎える。 
秋庭氏

 

秋庭氏は桓武平氏三浦氏の分かれといわれる。すなわち、三浦義継の子津久井義行の子義光が秋葉三郎を名乗ったことに始まるとされる。しかし、この秋葉氏がのちの備中秋庭氏につながるのか否かの真偽は不詳である。
三浦義継―津久井義行―秋葉三郎義光―義方―義高
秋庭重信は、承久の乱後、鎌倉幕府から戦功の賞として備中国有漢郷の地頭職に補せられた。いわゆる新補地頭の一人であった。その後、任地に赴き、現在の上房郡有漢町貞守、台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築き、以後、約18年間ここを居城とした。
元治元年(1240)、備中路における最大の軍事拠点となる臥牛山の大松山に、初めて城を築いたのも秋庭三郎重信であった。
鎌倉幕府は新見東寺の荘園紛争につき、領家新見九郎貞直の横領を止めさせるように、秋庭備中守(重明)を備中における実力第一人者として命じたが、効果もなく、貞直の横領は重明が備中松山城主となるまで続いた。また、重明は有漢町の土井に屋敷を構え、その正面に防備を施した常山城を築き、地域荘民からの信頼も得て、徐々に国衆としての地位・軍力を確立していった。正平年間の頃には、京都の足利義詮の御教書を受け、新見荘領家職の乱暴まで止めさせている。
建武以前の秋庭氏は
三郎重信―又四郎信村―平六重連―小三郎義継―三郎重知
南北朝の内乱の初期には、松山城主は秋庭氏に替わって、高橋氏の四代23年間と高氏の七年間の支配期間があった。その間、秋庭氏は高氏の執事などを務めていたが、正平十七年(1362)に至って秋庭信盛は山名氏に通じ、高氏を追放して松山城を回復した。応永六年(1399)大内義弘が泉州界で幕府に背いたときに、信盛は将軍足利義満に属して出陣した。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍義教を殺した時には、元明は細川管領家に従い幕府討伐軍に属して、播州へ出陣して播州蟹坂、次いで白旗城攻めに加わり、赤松満祐を討ち取るなどの戦功を立てた。文安二年(1445)細川勝元が室町幕府管領となると、その側近にあって重用され、勝元の奏者番を務め、文正元年(1467)頃には摂津守護細川勝元のもとで守護代を務めていた。
応仁・文明の乱が起こると、東軍細川勝元に従い、京都・摂津で西軍山名勢と戦い、応仁元年九月には京都・東岩倉山に三千騎を率いて陣を敷き、備前三石城主浦上則宗の助けを得て、押し寄せた山名勢三万騎と戦ってこれを撃ち破った。
元明のあとを継いだ元重は、幕府管領細川政元の側近として重用され、その奏者番を務めた。長亨元年(1487)将軍足利義尚が起した近江の佐々木高頼討伐に従い、明応元年にも将軍義材の高頼討伐に従軍した。延徳三年〜永正四年(1489〜1507)京都・東寺領新見荘の所務名代を務めた。この頃、秋庭氏は京都に住むことが多かったようで、永正六年(1509)に、元重は松山城を去って有漢郷に帰り土着したという。
その後、各地で豪族が勢力争いに明け暮れる、戦国時代に突入するのであるが、その時代には武将家としての秋庭氏の姿は見いだせない。
建武以後は
三郎信盛―三郎重明―八郎頼重―平之允頼次―備中守元明―七郎重継―備中守元重  
水谷勝宗

 

元和9年-元禄2年(1623-1689) 備中松山藩の第2代藩主。初代藩主・水谷勝隆の長男。母は寺沢広高の娘。正室は青山幸成の娘。子は水谷勝美(次男)、水谷勝時(三男)、娘(平山常時室)。官位は従五位下。左京亮。
幼名は弥太郎。寛文4年(1664)、父の死去によりその跡を継ぐ。このとき、弟の水谷勝能に2000石を分与した。寛文6年(1666)、京極高国が改易されたとき、丹後宮津城の守備を務めた。貞享元年(1684)、外様大名から譜代大名に列せられたが、このために江戸城における勤務が極端に長くなったため、しばらく藩政は嫡子の勝美と家老の鶴見良俊が担当した。勝宗の藩政においては、新田開発や水路の建設、城下町の建設などに尽力している。また、3年にわたって松山城の改修を行っており、現存する重要文化財の天守は、勝宗の時代に現在の姿となったものである。元禄2年(1689)閏正月に隠居して家督を勝美に譲り、同年2月19日、桜田屋敷で死去した。享年67。
高梁市の町並み 
高梁(タカハシ)市は岡山県の中央部西寄りに位置する。
松山城は備中制覇のための拠点として重視され、幾多の興亡を繰り返してきたが、中でも戦国時代末期、毛利と織田の勢力衝突地点として、毛利八万余騎とする軍勢に、織田方に通じた松山城は天正3年(1575)落城し、城主三村元親は自刃した。
関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)から幕府領、元和3年(1617)から松山藩領、元禄6年(1693)から幕府領、元禄8年(1695)から松山藩領。
慶長5年(1600)から幕府領となり、備中国奉行小堀政一(遠州)が当地に入り、松山城の修築や城下町の整備が行われた。松山城は山城で通常領主が政務を行うのはために山麓に御根小屋があり、そこで代々領主が政務を行った。
元和3年(1617)松山藩主として池田長幸が6万石で、寛永19年(1642)水谷勝隆が5万石を領して松山に入城したが、元禄6年(1693)跡継ぎがなく断絶した。
以後領主は安藤氏2代、石川氏一代、そして延享元年(1744)板倉氏が5万石で入封し、以後廃藩置県までこの地を領した。
現在の城郭は天和3年(1683)、時の城主水谷勝宗が修復したもの。天守閣は昭和15年にも修築された山城で、現存する山城としては日本一高い場所にあることで有名だ。
寛永19年(1642)から元禄6年(1693)に水谷家三代によって松山城の修復、新田開発、高梁川の川開き、社寺の建立や寄進、城下町の整備などに功績を残した。
水谷氏に跡継ぎがないため断絶になり、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が在番を命じられたことにより、元禄6年(1693)城代となった家老大石良雄をはじめ、不破数右衛門・武林唯七など後の赤穂義士で有名な人々が一時在城したこともある。
主な交通機関は、高梁川を上下する高瀬舟で、高梁は産物集散の要地でもあった。旅人たちも多く集まり商家も賑わった。
伝統的な商家や町家が軒を並べる本町、下町、鍛冶町などにその名残が見られるし、河岸の土蔵にも当時の繁栄がうかがえる。町の通りは遠目遮断になっていて、辻々で少しずらせたり、T字型や曲折させて城下のようすを見通せないようにしてある。
御根小屋跡が内山下の現県立高梁高校にあり、松山城主の日常居館として、また領内を治める政庁として設置され、事実上本丸としての機能を果たしていた。その廻りに武家屋敷があった。今でも高下川沿いと石火矢町に武家屋敷の土塀が続く。
観光駐車場の横に大きな商家がある。下町の商店街筋に主屋があり、入り母屋造り、中二階建て、平入り、桟瓦葺、格子、二階は黒壁の虫籠窓の重厚な商家であり、紺屋町筋から国道180号線に面して長々と白壁のナマコ壁の土蔵が連なる。このような土蔵群は紺屋川と高下川の間の国道180号線(高梁川)沿いに多く見られる。高梁川を利用した高瀬船での物資集散地だったからだ。
本町の伝統的な町並みの商家は、江戸時代から明治初期にかけて建築された商家である。切り妻造り、二階建て、平入り、白壁、桟瓦葺、千本格子の重厚な商家が連なる。池上家(商家資料館)は享保年間(1716〜36)にこの地で小間物屋の「立花屋」を始めた。代々小間物屋を営みながら、高梁川水路の船主、両替商などもして財を築いた。現存する建物は天保の大火災の後、天保14年(1843)に7代目当主によって建てられたものだ。
石火矢町では、道の両側に土塀が続き、格式ある門構えの家並みが見られる。この辺りは100石程度の中級武士の屋敷があったところで、その中に武家屋敷館がある。この建物は天保年間(1830〜44)に建てられた、旧折井家で160石馬廻り役を勤めた武士の屋敷であった。
山の手には頼久寺がある。お城の石垣のような寺院である。禅院式蓬莱庭園は小堀遠州の作で、遠州庭園の傑作中の傑作といわれている。
また、高梁市の南東部に松連寺がある。隣接する泰立寺薬師院と共に城砦を思わせる石垣の立派さは他に類を見ないもので城下町のお寺らしく、まさしく砦である。
「秀吉の水攻め」備中高松城

 

「秀吉の水攻め」
清水宗治(46歳)備中高松の地に名を残す
天正10年6月4日窮地にたった宗治は、城兵の命を救う為、この備中高松の地で自刃しました。後に秀吉は小早川隆景に会うとこの話を持ち出し、すばらしい武士であったと宗治をたたえたそうです。
備中七城「備中高松城」
備中七城 / 備中高松城を含めた備中の七つの城。これらの城主の関係はよくわからないところもありますが、戦の前、隆景が三原城へ七城の城主を招待しているので、宗治を中心にした協力関係であったのかもしれません。また、冠山城の林氏には宗治の娘が嫁いでいます。
各城には毛利から援軍の将が派遣されており、宗治と共に自刃した末近氏もその1人でした。援軍のはずが信長の誘いに乗って寝返った者もおり、当時の信長に勢いがあった事がよくわかります。
備中七城の形 / 七城の並びを見ると、南北にのびた弓のような城の配列です。備中高松城を守るというよりも、信長軍をここから先へ通さないという城主達の意思を私は感じるのですが、皆さんはどう思われますか?
本丸
現在城跡として確認できるのが本丸です。清水宗治が城主の時よりも、江戸時代に少し高さが高くなっています。本丸南面には、宗治の首塚が石井山から移築されてあります。北側の道路際の斜面の下には、石積が数段残っているそうですが、現在は土に埋もれて見ることはできません。首塚の横には、宗治の時世の句「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」の碑と、地元で長年研究され、高松城の保存に尽力された故高田氏の像が立っています。南には、幸山城や福山城も見え、毛利勢が陣取った岩崎山や日差山もまじかに見えます。その山々に毛利の旗が立った時はきっと篭城の兵も勇気づれられたことでしょう。毎年、宗治の命日にあたる6月4日に近い、6月の第一日曜日に、ここで地元の方、ゆかりの方、清水家の方など参列され、宗治を偲んで、宗治祭が行われています。
首塚
秀吉が宗治の首実検をした後、家臣に供養塔を石井山にあった寺宝院につくらせました。その供養塔が「首塚」と呼ばれています。首塚は長く石井山にありましたが、不便な石井山より宗治の城であった高松城へ移してあげたいという地元の働きかけにより、明治42年本丸に移されました。この首塚の石は、4つの石を積上げた不思議な形をしていますが、資料館で聞いた話では、当初は正しい形だったものが、長い間にいくつかの石が紛失した為、現在の姿になったようだということです。1つの石には宗治と兄月清入道の姿が刻まれており、その後宗治を偲んで造られたものでといわれています。毎年6月の第一日曜には、首塚の前で「宗治祭」が地元保存会によりとりおこなわれています。
自刃の地
清水宗治の自刃跡は、南側駐車場の道を隔てた反対側に並ぶ三つのお寺の一番奥にあります。宗治は自刃することが決まると、城内にはまともな小船がなかったのか、秀吉陣に小船を用意して欲しいと願い出ています。家臣達には城内をくまなく掃除させ、後の事や城明け渡しの事を指示し、自らも篭城で伸びたヒゲを抜かせていたと伝えられています。どうしてヒゲを抜くのかと聞いた者には、秀吉に笑われては恥じだと言ったそうです。また、宗治と共に自刃を願い出た家臣には、主君(毛利)の為にたった1人の武士でも残らなければならないと諭しています。そして6月4日朝、秀吉の用意した小船に兄の月清入道、末近信賀(毛利より加勢)、弟の難波伝兵衛、家来の白井与左衛門、高市之允、介錯人の国府市正と乗り込みました。秀吉から頂戴した酒を酌み交し、誓願寺(舞)を舞った後 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」時世の句を詠んで切腹、月清入道らも次々と切腹し、宗治の首は秀吉の家臣である堀尾茂助に渡され、秀吉の陣へ届けられました。

城の形態 / 沼城
城主 / 清水宗治(水攻めに敗れ、城兵の命を救う為に1582年6月4日湖面に小舟を浮かべ自刃)
毛利側 / 城内三千 毛利本隊4万(毛利輝元、吉川元春、小早川隆景...)
織田側 / 織田本隊3万(秀吉2万、宇喜多1万)
当時の様子 / 天正10年4月、秀吉率いる信長軍3万は高松城をとり囲んだ。宇喜多勢が幾度となく攻めこむが敗退するなどし、そのうち毛利本隊が高松に近づいてきた。苦慮しているところで、黒田官兵衛は秀吉に「水攻め」を提案する。全長3km、高さ7.2m、底辺幅24mの大工事は、12日間で完成、足守川の水を引き入れた高松の地は数日で水につかり、高松城は湖の孤城となった。これには援軍の毛利勢も手が出せず、秀吉と毛利の和議が進む事となる。城主清水宗治は、6月4日城兵と毛利を救うため湖面に小船を浮かべ自刃する。その直後、毛利は6月2日に明智光秀によって織田信長が自害した事を知るが、追撃せず兵を引いた。秀吉は明智光秀を討つべく、2万の兵を3日で姫路に帰還、これを「中国大返し」という。
城兵 / 3000〜5,000人
場所 / 岡山市高松
現在の状況 / 備中高松城の本丸は本丸跡として保存されています。本丸の南側は公園となっており、蔵を改造した資料館が建っています。ここには、昭和におこった足守川の氾濫による高松地区の洪水の写真があります。二の丸や三の丸は民地となっており、最近は宅地開発が進んでいます。しかし、周囲には畑や田んぼがあり、穏やかな田園風景を残しています。  
清水宗治
名 清水宗治(しみずむねはる)幼名才太郎 長左衛門
生まれ 清水村(現総社市) 誕生の日は不明
両親 父 清水宗則 母 不知 
兄弟 兄 月清入道 弟 難波伝兵衛(共に宗治と自刃)※
妻 正室 備中高松城主石川氏娘
子 宗之 景治(源三郎) 娘(中島元行へ嫁ぐ) 娘※
先祖 諸説あるがはっきりしていない
お城 備中高松城
主君 毛利家 小早川隆景
時世の句 浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して
享年 46歳 1582年6月4日自刃
家紋 巴紋
菩提寺 備中国分寺 清鏡寺(山口県光市)
法名 高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士
宗治の逸話 
はじめに 宗治の話はたくさん残ってはいません。広く名が知られるようになるのは、亡くなって後のことです。それでもいくつかの、宗治公らしい逸話が残されています。義理堅き武将宗治がどんな人であったか、きっとわかってもらえるような気がします。
源三郎の誘拐
天正6年、宗治は播州の上月城攻めに参加しておりました。上月城をめぐっては、信長と毛利の間で奪い合いが続いていましたが、お家復活を目指す山中鹿助率いる尼子の残党が信長の後押しをもらい、上月城に入っていました。
ある日、留守居をしていた家臣が備中高松城から馬を走らせてやってきました。聞けば、信長と通じた家臣が、嫡子(後継ぎの男子)源三郎を誘拐しようとし、とりあえず城に追い込んで留め置いている、急ぎ城へ帰れとの知らせ。寝返った家臣の要求は、息子を返してほしくば戦から手を引けとの条件でした。
しかし宗治は、慌てるどころか自分の持ち場から離れず、「武士の子として生まれたからにはわかっているはず、今ここをはなれるわけにはいかない。主君に後々迷惑をかけてはいけないので、もし逃げ出すようなことがあれば、その時は源三郎もろとも殺してもかまわぬ。」と家臣に命じます。そして主君毛利には知らせませんでした。
その話を伝え聞いた小早川隆景は、宗治を呼び「心配であろう。急ぎ城へ戻って連れ戻すがよい。」と宗治の帰還を許しました。宗治は馬に飛び乗り備中へ、罪には問わぬ事を条件に無事息子を取り戻すのです。そしてまた上月城へ向かい、自分の持ち場についたと伝えられています。
三行の遺言「身持ちの事」
天正10年6月4日、清水宗治は自刃(切腹)しました。享年46歳。義理堅く勇敢であった事から、本当に惜しまれた武将でした。宗治の息子、源三郎は小早川隆景の三原城へ人質にだされておりました。人質というのは、同盟者が裏切らないために主君に大切な家族を預けるのです。
自刃の前日、宗治は源三郎に「身持ちの事」という書状を残しました。今でいう遺言書です。この書状を源三郎、後の景治(かげはる)は肌身はなさず持ち、萩の屋敷でなくなったときもお守り袋の中から出てきたという話が残っています。
   身持ちの事
   恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ
   朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ
   談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな
       六月三日                清鏡宗心
切腹の前日に、秀吉に恨み一つ、悔しい思い一つしたためるでもなく、別れをおしむわけでもなく、10才前後の息子に残した三行の遺言。ユーモア、短文、センスのよさ、宗治らしい親としての暖かさが感じられる遺言のように感じます。
現在、山口県光市文化センターにて保管されています。  
家系図
宗治の父、宗則以前の詳しい流れはわかっていません。清水家は、次男宗治が跡を継ぐこととなりました。宗治は備中高松城主石川久孝の娘を嫁にもらい、久孝が亡くなった時に跡目相続に名をあげることができました。宗治の子供は下の家系図の他にもおり、冠山城主の林重真も宗治の娘を嫁にもらっていたとあります。水攻めの際には、宗治と、宗治の兄月清入道(宗知)、弟の難波伝兵衛(宗忠)が共に自刃をとげています。(自刃は毛利からの加勢、末近を加えた4人)
宗治の跡を継いだのは正室の子であった次男の景治(かげはる)。宗之は城を出、そののち関ヶ原の合戦の前哨戦、伊勢安濃津城の戦で亡くなったといわれている。
清水家-戦国時代
信長を打った明智光秀を倒し、秀吉の天下統一が現実味を帯び、毛利家は隆景が中心となって、秀吉と本格的な和睦を目指します。秀吉の配下となると、四国攻め、九州への出陣となり、清水家も隆景の家臣として働きます。四国、九州へ、望まぬまま秀秋の家臣をおしつけられた時代もありました。
川辺への引越しと「ダザー様」
秀吉と毛利との間で和睦が成立し、城明渡しが決まると、清水家や家臣達は城を出なければなりません。宗治の妻子や残った家臣達は、家財道具を持って、高梁川の西「川辺」という所へ移住しました。三原城に人質として出されていた宗治の子、源三郎が輝元公よりお暇をもらい、ここをあてがわれてのことでした。輝元公から源三郎へくだされた書状には父宗治を「古今希に見るすばらしい武将だった」と書かれていました。
大勢の家臣が家財道具をもって移動した為に、川辺付近は大騒ぎ、地元有力者の蔵に入れたとか・・・。その名残りからか、川辺には「駄財=ダザー様」という鎮守様が残っています。
秀吉からの申し出「宗治の子を大名に・・・」
その後、秀吉が隆景と会った折、秀吉から「清水宗治には子(源三郎)がおったな、1、2万石を与えて大名にしよう」という申し出がありました。隆景は帰りしな川辺に立ち寄り、その旨伝えましたが、源三郎は「父の節目もあり、ご厚意は大変ありがたいのですが、このまま毛利家に奉公させていただきたい。」とこれを断ったといわれています。
後に秀吉に拝見する機会があった折、宗治はすばらしい武将であったと言われたそうです。隆景も秀吉に会うとこの話(備中高松の戦)が出たと後々語っていたそうです。
宗治の子、景治 小早川隆景の家臣時代 文禄の役
元服し、源三郎は隆景と宗治の名前から1文字をもらい「景治(かげはる)」と名を変えました。
天正13年、隆景は秀吉の四国攻めに参加、伊予方面を攻めました。長曽我部は降参、隆景は伊予領(愛媛県)を秀吉から与えられます。この時、隆景は秀吉から貰う事を断り、毛利家を通してもらうよう秀吉に頼んでいます。景治は喜多郡内に300貫の地をあてがわれましたが、1年9ヶ月で再び筑前に移動となります。
天正14年には九州平定の為に隆景は九州へ出陣。翌年、九州を平定した秀吉は、伊予にかわり筑前・筑後を隆景に与えました。
隆景が筑前・筑後にいる間に朝鮮への出兵が決定し、秀吉が肥前に名護屋城を築城、隆景も各地の大名と同じように名護屋に陣を構えるなど、かなり多忙な時期だったと思われます。景治は文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵「文禄の役」に参加、隆景軍は碧蹄館で明軍を破り、功績が認められ景治は輝元より書状を賜りました。
景治、小早川秀秋の家臣時代 
子のなかった秀吉は秀秋(当時は秀俊)を養子にしましたが、側室淀の方にお世継ぎが生まれると、秀秋を輝元の養子にしようとした為、隆景は毛利家を守る為に我が養子としました。隆景は秀秋をとても丁重にもてなし、早々に小早川家の家督を譲ります。その時、家臣として残されたのが、清水、草刈、能島村上の外様大名でした。景治は断りましたが、隆景はそれを許さず、筑紫野や、大宰府、小郡付近の一部2600石を知行としてあてがい残したのです。
大阪から福岡の名島城へ秀秋と家臣を案内した景治と中島元行でしたが、道中、中島元行は秀秋の家臣から無礼な振る舞いを受け、備中へ帰ってしまったが為に後に大騒ぎにもなりました。
秀秋は二度目の朝鮮出兵「慶長の役」で大手柄を上げるものの、実の子かわいい秀吉が秀秋の活躍をよしとせず、筑前筑後の領地を取り上げてしまいます。清水家はこの前後で備中へ帰ったものと推測されています。すでにこの時隆景は三原で没していました。
関ヶ原の戦いの頃の清水家
慶長3年(1598)秀吉が没すると、天下は二分されます。石田三成文献派と徳川家康武闘派は対立、そして1600年関ヶ原で天下分け目の戦がおこるのです。景治の元にも三成から是非参戦してほしいという書状が届きましたが、景治はこの時も毛利家に仕えたいと誘いを断り参陣しませんでした。宗治の長男であった宗之は高松を去った後、右田毛利に遣え、関ヶ原の戦に関係する安膿津城攻めで亡くなったといわれています。39歳でした。
関ヶ原の後、4国を2国に減らされた毛利でしたが、清水家は現在の山口県光市に2500石の知行地、萩には屋敷をかまえ、毛利一門家老職に継ぐ寄組士として迎えられたのでした。その頃毛利は激しいリストラを行っており、ひじょうに清水家が優遇されたことがわかります。  
 
丸亀城

 

丸亀城1
高さ日本一の石垣に鎮座して400年の歴史を刻む丸亀城。大手門から見上げる天守閣は威厳に満ち、夕暮れの天守閣は優しさをまとって、心を和ませます。 400年の時を経た今日でも決して色あせることなく、自然と調和した独自の様式美をはっきり現在に残しているのです。幾百年の風雪に堪え忍び、現代にその歴史を伝え続ける石垣。大地に根を張り屹立する姿は、荘厳さに満ち、三日月のごとき美しい曲線は、時に女性のような柔らかさをのぞかせます。強さと優しさが同居する石垣の美は、丸亀城を象徴する壮大なオブジェといえるでしょう。
大手一の門
大手一の門は、ひとかかえもある大きな柱や梁(はり)でしっかりと組まれ、大手の正門らしい威厳と風格を備えています。東側には、出陣に際し武者を一堂に集めた桝(ます)形があります。丸亀城の桝形は、他には見られないほど大きなもので、非常に特徴的です。大手一の門は、寛文10年(1670)に建築され、藩士が太鼓を打ち、刻(とき)を知らせていたことから”太鼓門”とも呼ばれています。
大手二の門
江戸時代の初めに建てられた、丸亀城の表門で高麗門とも言われます。大手とはお城の正面のことを指し、追手とも書きます。大手二の門は丸亀城の顔にふさわしく、石垣に使用されている石は大きく、ノミの跡も美しく仕上げられています。
見返り坂
傾斜が急で、時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになりました。頭上に覆いかぶさる木々が、四季折々の美しさを覗かせ、心をなごませます。
石垣
内堀から天守閣へ向け、4層に重ねられた丸亀城の石垣は、高さにして約60m、日本一の高さを誇ります。また、扇の勾配で知られる美しい曲線は、丸亀城の美を代表する石の芸術品としての風格を漂わせています。
高浜虚子の句碑
「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」65歳の高浜虚子は、丸亀城を訪れ、三の丸の高台からの眺めをこのように詠みました。俳人の目にとまった美しい風景が、城下に広がります。
月見櫓跡
三の丸広場の南東のすみに、わずかに残る礎石があります。これが、月見櫓の跡です。ここからの眺望は素晴らしく、ゆるやかに流れる土器川と飯野山の姿が美しく見えます。しかし、その風流な名とは裏腹に、ここは物見のための櫓であったと推察されています。
吉井勇の歌碑
「人麿の 歌かしこしと おもひつつ 海のかなたの 沙弥島を見る」約千三百年前、万葉の歌人柿本人麻呂が坂出沖の沙弥島の海岸で作った歌が万葉集にあります。吉井勇はお城から沙弥島を眺め、人麻呂の歌をしのんで、この歌を作りました。
二の丸
現在、二の丸には桜が植樹され、市民の憩いの広場となっています。この広場のまん中に二の丸の井戸がありますが、この井戸は日本一深い井戸で、その水面は内堀の水面とほぼ一致するといいます。あまりにも深いので、城の抜け穴伝説までもが存在します。
三の丸
二の丸、本丸を鉢巻き状に取り巻く、帯曲輪の石垣群は三の丸を一周しています。別名腰曲輪と呼ばれるこの石垣群にそって歩くと、吉井勇の歌碑や搦手門跡、三の丸井戸などの興味深い史跡が数多く見られます。
天守閣
暗色の石垣と鮮やかなコントラストを奏でる白亜の天守閣は、全国でも珍しい木造天守閣として知られます。丸亀城の天守閣は、やや小ぶりではありますが、独特の工夫がこらされており、それを感じさせないほどの風格と威厳を備えています。
御殿表門
旧藩主居館の表門だった御殿表門は、かつて「玄関前御門」とも呼ばれ、周辺は本丸にも劣らない厳重な構えになっていました。この門は、お城の門としては珍しい薬医門造りで、屋根越しに見える天守閣との調和はすばらしいものです。
番所長屋
御殿表門の西側に接する番所長屋は、御殿へ出入りする者を見張った長屋です。大変簡単な作りとなっていますが、門の外側からは中の様子が分からないようにするなど、細かい工夫がこらされています。現在では、番所・交替部屋・詰所・御駕籠部屋が残っています。  
丸亀城2
讃岐国、現在の香川県丸亀市にあった城である。別名、亀山城、蓬莱城ともいう。
丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む、輪郭式の平山城である。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60mの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22mある。頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存する。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15mあり、現存三重天守の中で最も小規模である。
内堀の周囲には侍屋敷が建ち並び、この周囲を外堀が方形に取り囲みんでいた。侍屋敷は明治時代に大半が取り壊され跡地に善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小・中学校などが建てられた。外堀は明治頃まで存在していたが、琴平参宮電鉄の路線延長とその後の廃線や旧国道11号(県道33号線)の整備などにより、年とともに減少し、一部残されていた南側の箇所も今は埋め立てられ、外濠緑道公園として整備されている。
城跡の全域は国の史跡に指定されており亀山公園となっている。天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、そのうち天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されている。天守の最上階からは、瀬戸大橋など瀬戸内の風景を眺めることができる。
歴史
室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。
慶長2年(1597)豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。
慶長7年(1602)6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。
元和元年(1615)一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限。城を破却から守った。
寛永17年(1640)生駒氏、お家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封となる。
寛永18年(1641)山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封。丸亀藩が立藩。
寛永20年(1643)城の改修に着手。幕府が家治に、瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備える為の城をつくらせたのではないかと云われ、幕府は丸亀藩に銀300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事をやらせている。
万治元年(1658)山崎氏、3代で無嗣断絶し改易となる。代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。
万治3年(1660)高和は城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更した。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓が完成した。
延宝元年(1673)32年の歳月を要し大改修が完了。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものである。
明治2年(1869)三の丸の戌亥櫓が火災により焼失。
明治6年(1873)名東県の広島鎮台第2分営が設置される。
明治10年(1877)現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が始まる。
大正8年(1919)丸亀市が山上部を借地し、亀山公園として開設。
昭和18年(1943)天守が国宝保存法に基づき旧国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
昭和23年(1948)外濠の埋め立てが始まる。
昭和25年(1950)天守の解体修理。
昭和25年(1950)第1回の丸亀お城まつりが開催された。
昭和25年(1950)文化財保護法施行により天守は重要文化財となる。  
丸亀城3 (別名・亀山城、蓬莱城)
丸亀城は、安土桃山時代の慶長2年(1597)に生駒親正が丸亀平野の海抜66mの亀山を中心に、その山すその平地に外堀と内堀を巡らせてに築いた平山城であり、亀山城または蓬莱城ともいわれた。
豊臣秀吉に信任された親正は、天正十五年(1587)に讃岐一国を与えられ、播州赤穂から十七万三千石の領主として入封し、高松城を築き、本城としていたが、老齢に達したので、東讃岐を隠居領にあて、西讃岐を嫡男の一正に譲り、丸亀城を建て城主とした。
城は慶長2年(1597)から築城に掛かり、同7年(1602)に完成した。
慶長5年(1600)に関ケ原の合戦が起こったが、父の親正は西軍の石田三成方、子の一正は東軍の徳川家康方と父子が東西に分かれた。戦後、勝者の一正は讃岐一国を与えられて高松城を居城とし、親正は高野山に閉居した。
丸亀城には城番が置かれたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城と決定したが、領主正俊は、建物を破棄せずに要所要所に樹木を植えて隠し、後日に備えた。
生駒氏は四代高俊の時、家中騒動が起こり、除封となった。
この後肥前国天草郡豊岡城主から寛永18年(1641)に西讃岐に入封した山崎家治は翌年から丸亀城を再建することとし、山上の曲輪の縄張りを新たにし、石垣が修築された。現代の城郭はほぼこの時代のものである。
城は翌年から三十年余りを費やして現在見られる城の規模を造りあげた。
現存する三重三階の天守はこのとき築造されたもので、初層に石落しの張出しをもち、屋根に唐破風と千鳥破風をかけており、小規模ながら城下から見上げると堂々としている。
そんな山崎氏も三代にして無嗣除封となり、万治元年(1658)播州(兵庫県)龍野から京極高和が六万石で転封し、その後は代々京極氏の居城となって、明治維新まで続いた。
京極氏の寛文10年(1670)には北の大手門櫓と西曲輪の御殿が新しく造営された。
丸亀城のみどころは何といっても石垣の美しさである。内堀から天守閣に向けて四段階に積み重ねた石垣は、”扇の勾配”とも清正流”三日月勾配”とも呼ばれ、下の方は緩やかに組み、頂きに至っては垂直となる独特の反りをもたせてあり、天に向かって弧を描いて反り返る様は見事である。
また、外堀(内部を外郭という)は東西がおよそ六町(約650m)南北八町(約870m)、内堀(内部を内郭)は東西四町(約430m)南北三町(約320m)の規模からなり、外郭にはかって藩士たちの住宅がありました。
内郭は、大手門から入って山上にある本丸まで、螺旋式に登る構造で、本丸の北面に天守閣を配し、その東側一段低いところに二の丸が、更に一段下がったところに三の丸があります。
この三の丸は、本丸と二の丸をすっぽりと取り巻く格好の腰曲輪によって、防衛をより強固なものにしたといわれています。
堀の正面出入口には、敵を追いつめるために討って出た追手門(大手口)があり、内堀に架け渡された石橋を渡ると、大手二の門である高麗門があります。これは、表門にふさわしく、石垣に使用されている石は大きく、しかもノミの跡も美しく仕上げています。
この門を入ると周りを石垣で囲んだ桝形があり、桝形の広場の西に大手一の門である櫓門が厳重な守りを固めています。この門は、櫓門に太鼓が置かれて刻を知らせたところから”太鼓門”の名で親しまれています。
大手桝形の北側の一辺は、二の門を中心に東西を土塀によって仕切っており、土塀の腰羽目には東側に二ヶ所、西側に三ヶ所の狭間があります。現存する丸亀城建物では、天守閣と大手門の土塀にのみ狭間の遺構が残っており、特に大手門の狭間は、切り石を六段に積んだ武者走りも備えた立派なものです。
明治二年(1869)の大火で、天守と一・二の門以外は何も残っていないが、小山を利用した城山に螺旋式に幾重にも築かれた石垣の総高は日本一で、城下から見るとことのほか美しい。  
丸亀城4
標高約66mの亀山に築かれた平山城で別名亀山城と呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があります。東西約540m・南北約460mのうち内ぼり濠内の204,756m2が史跡となっています。丸亀城は山上を高石垣で巡らせた「石の城」と形容されている名のとおり石垣の名城です。
丸亀市の中心市街地の始まりは、慶長2年(1597)、生駒親正(いこまちかまさ)・一正(かずまさ)による亀山への築城に始まる。
このころの城造りは、織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁(どるい)で囲み防御した「総構(そうがまえ)」で、このような城郭を近世城郭と呼ぶ。
生駒氏は築城に先立ち、慶長元年(1596)に宇多津より人を移住させている。今の御供所町、北平山町、西平山町である。
慶長20年(1615)、大坂夏の陣により豊臣氏が滅び、徳川氏の天下となる。徳川幕府は武家諸法度を制定し規制を行う。一国一城令により生駒氏は、高松城を残し、丸亀城や引田城を廃城した。丸亀城下の商人も高松城に移った。これが高松市丸亀町の由来である。
生駒氏の丸亀城絵図は、前田尊敬(そんけい)閣文庫や国会図書館に残っている。絵図によると、天守は山上の最高所中央部に建っていた。また、「縄張り」と呼ばれる城の形も現在の形とは違っている。
平成5年度の天守横の石垣修理時に、石垣に埋もれた生駒氏時代と推定される石垣が発見された。また、丸亀城東南の山麓には延長約80m、高さ約4mの野面(のづら)積みの石垣があり、生駒氏時代の古い石垣を見ることができる。
これらの絵図に武家屋敷や城下町の記載はない。
正保2年(1645)、山崎氏が幕府の許可を得て廃城となっていた丸亀城を再築するときに作成した絵図が、国立公文書館に残っている。正保城絵図(しょうほじょうえず)と呼ばれる絵図で、この絵図には城郭・武家屋敷・城下町の記載がある。
山上の縄張りは現在の形とほぼ一致し、扇の勾配の高石垣は、山崎氏の手によるものである。この絵図には古町(こまち)と書かれた箇所がある。生駒氏時代からある町で今の御供所町、北平山町、西平山町、本町、南条町、塩飽町・城西町二丁目・中府町五丁目の一部がこれに当たる。また、大手町を除く番丁の武家屋敷地は当時の道路や区画が今も残っている。
本丸
山上の最高所が本丸です。本丸には天守の他に隅櫓(すみやぐら)・多聞(渡櫓(わたりやぐら))や土塀が巡っていました。発掘調査で確認されたこれらの石垣や雨落ち排水路を一部復元しています。
丸亀城天守(昭和18年国指定重要文化財)
三層三階の現存木造天守です。建物の高さは約15mあります。1階北側には石落しや狭間(さま)があり、唐破風(からはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)で意匠を凝らしています。この天守は、四国内では最も古く、万治三年(1660)に完成しました。日本一小さな現存木造天守です。
二の丸
山上で二番目に高い位置にある平場(曲輪)です。平成6年度に整備されました。本来、石垣上には長崎櫓や番頭櫓(ばんとうやぐら)をはじめとする四棟の櫓と多聞が巡り、大手には櫓門(やぐらもん)がありました。
二の丸井戸
丸亀城で最高所にある井戸です。現在も水を湛(たた)えており、絵図には三十六間(約65m)と記されています。丸亀城築城にまつわる悲しい伝説のある井戸です。
三の丸
本丸・二の丸を巡る平場(曲輪)です。月見櫓・坤櫓(ひつじさるやぐら)・戌亥櫓(いぬいやぐら)の三棟の櫓がありました。
月見櫓跡
三の丸南東部角に位置する2階建て櫓の跡です。讃岐富士「飯ノ山」を正面に望みます。
三の丸井戸
山崎氏時代の絵図に描かれている井戸です。深さ三十一間と記されており、抜け穴伝説のある井戸ですが、明治初期の建物取り壊しの際に本丸建物の壁土や瓦が井戸内に堆積し、現在は空井戸となっています。
戌亥櫓(いぬいやぐら)跡
戌亥櫓は明治2年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災により消失しました。火災で焼けた石垣は赤く焼け、柱のあった場所は黒くなっています。藩邸(はんてい)が全焼した大火災の状況を生々しく伝えています。
吉井勇の歌碑
三の丸戌亥櫓跡のそばに「人麿の歌かしこしとおもひつつ海のかなたの沙弥島を見る」と歌われた歌碑があります。
搦手(からめて)口
三の丸南側の搦め手口は山崎氏時代の大手になります。この場所は石垣を巧に配し、城内でも一番堅固に造られた場所です。また、この石垣は加工した大きな石を用いているところがあります。
帯曲輪
三の丸下段を帯状に巡る曲輪です。
石垣の継ぎ足し
隅角(すみかど)部分でないのに算木積(さんぎづ)みをした石垣が見られます。本来ここが角になっていました。横に石垣を継ぎ足して、最後に上にも石垣を継ぎたした跡です。他に本丸・二の丸・三の丸でも石垣の継ぎ足し箇所が見られます。
角石に線引き
角石の角にノミで線引きした箇所があります。美しい隅角ラインを作り忘れたのでしょうか。
山下曲輪
山下の平地を山下曲輪と呼びます。
大手一の門・二の門(昭和32年国指定重要文化財)
内濠(うちぼり)の北側中央部に位置しています。城内側の櫓門(やぐらもん)を一の門、濠端(ほりばた)の高麗門(こうらいもん)を二の門と呼んでいます。寛文(かんぶん)十年(1670)京極氏のときに完成しました。一の門は櫓内に太鼓を置き、城下に刻を知らせたことから太鼓門(たいこもん)と呼ばれています。
藩主玄関先御門・番所・御駕篭(おかご)部屋・長屋(昭和38年県指定有形文化財)
この門は京極氏の屋敷の表門にあたります。形式は薬医門(やくいもん)です。この門に接して番所・御駕篭部屋・長屋があります。芝生広場や資料館は藩主の屋敷のあったところです。
かぶと岩
この岩は岩頸(がんけい)と呼ばれ火山噴出し口への通路部にあたる火成岩(安山岩)が侵食を受け円柱状に露呈(ろてい)したものです。京極氏の屋敷地内にあります。江戸時代の絵図にはこの岩上に社が描かれているものがあり天神山と記されています。
見返り坂
大手門から山上に向かう山道は見返り坂と呼ばれています。
石垣の美
三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣のなかで最も高いところです。20m以上の城壁が続き、隅角部(すみかどぶ)は算木積(さんぎづ)みと呼ばれる積み方で扇(おうぎ)の勾配(こうばい)と呼ばれる美しい曲線美となっています。
丸亀城の石垣は、主に築城技術が最も発達した山崎氏のときに築かれました。城内には野面積みされた石垣や打ち込みハギや切り込みハギを用いた石垣が見られます。また、石垣には「△」や「田」など刻印のある石や石の表面をノミで加工した痕跡が残るものや石を割った矢穴の跡があるものが見られます。
高浜虚子の句碑
見返り坂を折れて少し登ったところ右手側に「稲むしろあり飯の山あり昔今」虚子と記された句碑があります。
伝説
石垣にかかわる悲しい伝説
羽坂重三郎は、丸亀城の石垣を完成させた功労者で、常に仕事をするときは裸になって一生懸命働くことから「裸重三」と呼ばれました。殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけあって完璧だ。これでは、空飛ぶ鳥以外にこの城壁を乗り越えるものはあるまい」とご満悦でした。ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒を下されば、容易に登ることができます。」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁を登ってしまいました。殿様は、重三郎を生かしておけば来敵に通じた場合、恐ろしいことになると考え、城内の井戸の底を重三郎に探らせて、その際に石を投じて殺してしまいました。その伝説の井戸が二の丸井戸です。
人柱伝説
シトシトと雨の降る夕暮れ、一人の豆腐売りが作事場付近で豆腐を売りつつ通行していました。これを待ち構えた人夫たちは、豆腐売りを捕らえ、用意した穴に投げ込み、お城の人柱として、生き埋めにしてしまったのです。以来、雨の降る夜は城の犠牲となった豆腐売りの怨霊がトーフトーフと泣き続けるのだと言われています。  
丸亀城5
丸亀城は、香川県丸亀市にある現存天守を持つ輪郭式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。また日本100名城(78番目)に選定されています。
丸亀城は、室町時代初期に管領細川頼之の重臣奈良元安によって丸亀平野の海抜66mの亀山に砦を築いたのが最初です。その後、安土桃山時代の慶長2年(1597)に生駒親正が亀山を中心に、その山裾の平地に外堀と内堀を巡らせて現在の丸亀城を築いています。
丸亀城の縄張りは、ほぼ四角形で亀山の周囲を堀(内堀)で囲む輪郭式平山城です。石垣は、山麓の内堀から山頂まで四重に重ねられ、下の方は緩やかで、頂上は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっているのが見物です。
総高60mの石垣は日本一高い石垣と言われていて、三の丸石垣だけで一番高い部分は22mもあります。頂部の本丸には1660年に建てられた御三階櫓が現存し、現在は現存天守として扱われています。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15mとなり、現存三重天守の中で最も小規模な天守となります。ただし、高さだけなら11mの備中松山城が最も小規模です。ただしこちらは二重天守です。
当時の絵図面では、内堀の外側には侍屋敷が建ち並び、さらにこの周囲を外堀が方形に取り囲んでいます。しかし侍屋敷は明治時代に大半が取り壊され、その跡地に善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小中学校などが建てられています。まあ、ありがちですね。
外堀は明治頃までは存在していましたが、開発により次第に埋め立てられ、一部残されていた南側の箇所も今は埋め立てられ、現在では外堀は消滅しています。
城跡の全域は国史跡に指定されていて亀山公園として整備されています。建築物としては天守、大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋が現存しており、天守、大手一の門、大手二の門は国重要文化財に指定されています。
慶長2年(1597)、豊臣政権時代に生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城として丸亀城を築いています。慶長7年(1602)には6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成しています。と言ってもこの時点では天守もないし、今に見られるような大規模な石垣もなかったのですが。
元和元年(1615)には一国一城令により丸亀城は破却されるはずでしたが、3代藩主・生駒正俊は城の要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限して城を破却から守っています。
しかしかなり危険なことをしたものですね。
寛永17年(1640)には4代藩主・生駒高俊が生駒騒動のため出羽国矢島1万石(現・秋田県由利本荘市)に減転封となっています。寛永18年(1641)には山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封し、丸亀藩が立藩されています。
家治は寛永20年(1643)には丸亀城の改修に着手しています。幕府は丸亀藩に銀300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事で城の改修を急がせているのは、かなり異例です。
これは瀬戸内海の島々にいたキリシタンの蜂起に備えさせるためと言われています。ですが、既に破却されていてもともとあるはずのない丸亀城ですので、実は幕府は城が破却されていないとお見通しだったのでしょうね。しかし残念ながら家治は城が完成をするのを見届けないまま、慶安元年(1648)3月17日、55歳で死去し、跡を継いだ山崎俊家も慶安4年(1651)10月26日に丸亀にて死去してしまいます。享年35歳。その跡を継いだ山崎治頼は明暦3年(1657)3月6日にわずか8歳で死去し、山崎氏は城の完成を見ないまま無嗣断絶で改易となっています。
もっとも山崎氏の名跡は叔父の山崎豊治が5000石の交代寄合として継承しています。
代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封し、以後、明治時代まで京極氏の居城となっています。
万治3年(1660)に高和は城の裏口にある海側の搦手門を大手門に変更しています。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓(天守)が完成しています。
寛文10年(1670)には北の大手門櫓と西曲輪の御殿が新しく造営されています。
延宝元年(1673)にはようやく32年の歳月を要した城の大改修が完了しています。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものです。その後、明治維新を迎えます。
明治2年(1869)には三の丸の戌亥櫓が火災により焼失しています。
明治6年(1873)には陸軍省の所管となり、名東県の広島鎮台第2分営が設置されています。
明治10年(1877)から現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が始まっています。
大正8年(1919)には丸亀市が山上部を借地し、亀山公園として開設。
昭和18年(1943)には天守が国宝保存法に基づき旧国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
昭和23年(1948)からは外濠の埋め立てが始まる。昭和25年(1950)には天守の解体修理が始まっています。
昭和25年(1950)に第1回の丸亀お城まつりが開催された。(同年の「解体修理」記念行事)
昭和25年(1950)には文化財保護法施行により天守は改めて国重要文化財に指定されています。
昭和28年(1953)3月31日に国の史跡に指定される。
昭和32年(1957)には大手一の門・大手二の門が国重要文化財に指定されています。  
城山(きやま)城跡
丸亀城三の丸月見櫓跡から東を眺めると、飯野山(讃岐富士)の向こうに標高約462mの高原状の山「城山(きやま)」が見える。
城山には城山長者の伝説がある。瀬戸内に逃げ込んだ悪魚退治をした日本武尊(やまとたけるのみこと)の子武殻王(たけかいこおう)(讃留霊王(さるれおう))の子孫が城山長者で、城山の山頂に立派な屋敷を建てて住んでいた。長者には足の不自由な一人娘がいて、大金をつぎ込んで車道(くるまみち)を造り、娘は車に乗って毎日車道からの景色を楽しみ、散歩したという。
西暦662年に白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐に破れた日本は、西日本の防備を固めるため、九州北部から瀬戸内沿岸に次々と山城(やまじろ)を築いた。
その築造年代や立地から、これらの山城を「古代山城」と呼んでいる。
城山の山頂部とその付近は、約1300年以上も前に築かれた古代の朝鮮式山城の跡である。城跡の遺構は、朝鮮百済の公州山城や扶余の半月城、林川の聖興山城と同じ築き方をしている。高松カントリー倶楽部の敷地内に石塁や城門、水門などが残り、山頂付近にマナイタ石やホロソ石と呼ばれる石造物が点在する。これらの石造物は城門の基礎石と考えられており、城山長者の伝説にある車道も見られ、標高400m前後に第一車道、100〜150mほど下がって第二車道が数kmにも及ぶ。丸亀市側にはマナイタ石と土塁や車道が残る。ただ、頂部礎石群が不定間隔で散在する状況から、城山城の未完成説もある。
『日本書紀』(667)に屋島城(やしまのき)を築いたことが記録されているが、城山の記録はなく、大正13年に初めて福家惣衛(ふけそうえ)により、「城山城址」として『史蹟名勝天然記念物調査報告』に概要が報告された。
近年、屋島城の城門調査や岡山の鬼ノ城などは整備がなされ、古代山城の解明が進んでいる。当時、城内には建物や倉庫を築き、周囲に石塁や土塁を巡らせ防備し、城の入口には城門を構えていた。
城山はまだ、不明なことが多い。この東山麓は坂出市府中町で、正史に記録はないが、讃岐国の国府があったとされる場所である。備讃瀬戸を眼下に見ることのできる城山は国府の防備を担う重要な山城と推測される。  
領主・藩主

 

生駒雅楽頭親正(いこま うたのかみちかまさ) 天正15.8(1587)〜慶長5.9(1600)14年 讃岐国領主、高松城を居城とする。慶長2(1597)丸亀城の築城開始。
生駒讃岐守一正(さぬきのかみかずまさ) 慶長6.5(1601)〜慶長15.3(1610)9年 高松城に移り丸亀城に城代を置く。
生駒讃岐守正俊(さぬきのかみまさとし) 慶長15.4(1610)〜元和7.6(1621)12年 元和元年(1615)一国一城令により丸亀城廃城。
生駒壱岐守高俊(いきのかみたかとし) 元和7.7(1621)〜寛永17.7(1640)20年 お家騒動により所領没収、出羽国矢島へ転封。
山崎甲斐守家治(やまさき かいのかみいえはる) 寛永18.9(1641)〜慶安1.3(1648)7年 讃岐国二分。天草富岡から西讃岐へ転封。
山崎志摩守俊家(しまのかみとしいえ) 慶安1.6(1648)〜慶安4.10(1651)4年 外濠の修復、領内の治水事業、満濃池のユルの修復工事。
山崎虎之助治頼(とらのすけはるより) 慶安5.2(1652)〜明暦3.3(1657)6年 8歳で没、嫡子なく絶家。叔父豊治、備中成羽へ転封。
京極刑部少輔高和(きょうごくぎょうぶしょうゆうたかかず) 万治1.2(1658)〜寛文2.9(1662)5年 播州龍野から転封。天守完成。
京極備中守高豊(びっちゅうのかみたかとよ) 寛文2.12(1662)〜元禄7.5(1694)32年 大手門を現在地に移す。中津に別邸(現中津万象園)を建てる。野々村仁清の愛好家。
京極若狭守高或(わかさのかみたかもち) 元禄7.6(1694)〜享保9.6(1724)31年 庶兄高通に多度津1万石を分ける。仁清の愛好家。
京極佐渡守高矩(さどのかみたかのり) 享保9.8(1724)〜宝暦13.9(1763)40年 藩校の建設。将軍吉宗の要請により家宝を上覧する。
京極能登守高中(のとのかみたかなか) 宝暦13.10(1763)〜文化8.1(1811)48年 備荒貯蓄米法を行い領民救済。福島湛甫を築く。伊能忠敬の讃岐測量。
京極長門守高朗(ながとのかみたかあきら) 文化8.3(1811)〜嘉永3.7(1850)40年 隠居 敬止堂を風袋町に設け領民に開放。新堀湛甫を完成。金毘羅参詣客のため丸亀・大坂間月参船の定期往来船を設ける。団扇作りの奨励。玄要寺に墓所。
京極佐渡守朗徹(さどのかみあきゆき) 嘉永3.7(1850)〜明治2.6(1869)20年 西讃府誌の完成。明治2年藩籍奉還。丸亀藩知事。明治四年廃藩置県後の県知事。  
丸亀城年表
1532〜55 天文年間 丸亀山、奈良氏の支配下にある。『南海通記』
1587 天正15 生駒親正、讃岐国に封ぜられる。
1597 慶長2 生駒親正・一正父子、丸亀城築城に着手する。
1602 慶長7 生駒一正、丸亀城から高松城へ移り丸亀城に城代を置く。
1615 元和1 一国一城令により丸亀城廃城となる。
1640 寛永17 生駒氏所領没収。出羽国由利郡矢島に転封となる。伊予大洲藩加藤氏の預かりとなる。
1641 寛永18 天草郡富岡城主、山崎家治、西讃岐5万石余の領主となる。
1642 寛永19 山崎家治、生駒氏の城跡地に城地を決定する。
1643 寛永20 山崎家治、当年の参勤交代を猶予される。幕府から銀300貫を得て丸亀城を再築する。
1645 正保2 幕府の命により丸亀城の絵図を提出する。(正保城絵図)
1649 慶安2 幕府、山崎氏に丸亀城の修復・普請の指示をする。
1656 明暦2 高松藩の記録によると丸亀城中残らず焼失という。
1657 明暦3 山崎氏絶家。大洲藩加藤氏在番する。
1658 万治1 京極高和、丸亀藩主となる。石高6万67石。
1660 万治3 丸亀城天守完成する。
1670 寛文10 丸亀城大手門を南から北の現在地に移す。城内城屋敷の建設。
1688 貞享5 下金倉村の海浜の中州へ京極家別邸をつくる。(現中津万象園)
1694 元禄7 高或3代藩主となり、兄高通に多度津1万石を分ける。
1707 宝永4 丸亀で大地震が起こる。
1768 明和5 画家・俳人の与謝蕪村、富屋町の妙法寺に滞在する。
1777 安永6 天守鬼瓦銘。翌年に城内の普請完成。
1789 寛政1 十辺舎一九、丸亀に上陸し、善通寺・金毘羅参詣をする。
1806 文化3 福島湛甫を築く。
1833 天保4 新堀湛甫を築く。
1854 安政1 丸亀大地震が起こる。
1869 明治2 京極朗徹、版籍を奉還する。城内屋敷の建設。
1874 明治7 陸軍省の所管となった丸亀城の番丁に丸亀営舎が完成する。
1876〜77 明治9〜10 この頃城内の櫓、多聞が取壊される。
1919 大正8 丸亀市が山上部を借地して亀山公園として開設する。
1926 大正15 国有地の一部が払い下げられる。
1943 昭和18 丸亀城天守国宝となる。
1945 昭和20 内濠以内の城跡が公園として一般開放される。
1946 昭和21 南海大地震が起こる。
1948 昭和23 外濠の埋め立てが始まる。
1950 昭和25 天守の解体修理が完成する。翌年天守が重要文化財となる。
1953 昭和28 丸亀城跡が国指定史跡となる。
1957 昭和32 丸亀城大手門が重要文化財となる。  
京極家

 

永禄6年(1563)、京極高次は足利義昭(あしかがよしあき)に仕えていた京極高吉(たかよし)と浅井長政(ながまさ)の姉・マリアの長男と して生まれました。
この頃の京極家は、北近江(きたおうみ)の守護を務めた名門というかつての栄光は影を潜め、応仁(おうにん)の乱以後の内紛により没落していました。
高次は、わずか8歳で織田(おだ)家の人質となり、信長(のぶなが)に仕えて幼少期を過ごしました。
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれます。
このとき高次は、京極家再興の志のもと、光秀について羽柴秀吉(はしばひでよし、のちの豊臣)の長浜城を攻めました。
そのため秀吉と敵対しましたが、後になって姉の龍子(松の丸)が秀吉の側室となることで許されました。
以後、秀吉に仕え、近江国高島郡1万石の大溝(おおみぞ)城主、近江八幡2万8000石、大津6万石の城主へと出世します。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、はじめは石田三成(いしだみつなり)らの西軍に加わりますが、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東 軍に味方し、居城の大津城で籠城戦を行いました。戦いに敗れ開城しましたが、毛利(もうり)軍ら1万5000の西軍部隊を大津で引き止め、関ヶ原での本戦に参戦させなかった戦功が高く評価され、家康から若狭(わかさ)国小浜(おばま)8万5000石を与えられました。
そして慶長14年(1609)、小浜 で47歳の生涯を終えました。
京極高次は、時の天下人「信長」「秀吉」に仕え、「家康」とも親交を結ぶことにより、京極家再興の夢を実現し、京極丸亀藩につながる礎を築きました。
永禄11年(1568)、初は小谷城主・浅井長政と信長の妹・市の次女として生まれました。
姉は秀吉の側室淀(茶々)、妹は家康の子・徳川2代 将軍秀忠(ひでただ)の御台所(みだいどころ)・江。
三姉妹は幼くして2度の落城に遭い、父母を失うという悲しい運命を背負います。
その後三姉妹は秀吉の保護を受け、初は秀吉の計らいで、天正15年(1587)大溝城主でいとこの京極高次に嫁ぎました。
関ヶ原の戦いの前哨(しょう)戦である大津籠城戦では、高次やその姉・松の丸と城中にとどまり、共に奮闘しました。
慶長19年(1614)と翌 年の大坂冬、夏の陣では、徳川と豊臣が争います。仲を引き裂かれた姉・淀と妹・江との間に立ち、和平交渉に奔走したのが、出家して常高院(じょうこうい ん)と名乗っていた初でした。
しかしその努力もむなしく、大坂城落城により淀と甥の秀頼(ひでより)を失います。
乱世が終わり泰平の世へと移り変わる頃、常高院は江戸で静かな日々を送っていました。
寛永7年(1630)、夫、父母の菩提(ぼだい)を弔い、やがては自身も入るであろう安住の寺として、小浜の地に常高寺を開山しました。
そして3年後の寛永10年(1633)に江戸屋敷で息をひきとります。
4 度の落城を経験するなど、生涯のほとんどは乱世の奔流(ほんりゅう)に巻き込まれたつらく厳しいものでしたが、夫を支えて共に京極家のお家再興を果たしました。
京極家は、高次の跡を継いだ長男・忠高(ただたか)の時代に、出雲(いずも)国松江(まつえ)へ国替えとなります。
ここで出雲隠岐(おき)26万 石余りという最大の領地を治めることになりました。
しかしその治世は、忠高の死により3年で終わりを告げます。忠高には跡継ぎの男子がなく、京極家にお家 断絶の危機が迫ります。
幕府は先代の高次の戦功と忠高の幕府への忠孝を評価して、甥の高和(たかかず)に跡を継がせる決定を下しました。
ただし出雲国松江 は没収され、播磨(はりま)国龍野(たつの)6万石へ国替えさせられました。
万治元年(1658)、高和は龍野から丸亀へ移り、初代京極丸亀藩主となりました。
以後京極家は7代にわたり明治維新までの210年間、丸亀藩を治めました。
高く美しい石垣の上に鎮座する丸亀城の天守。これは初代丸亀藩主・京極高和の時代に完成されました。
2代藩主・高豊(たかとよ)は、城の大手を南から北へ移し、大手一の門、二の門を整備します。
また、高豊は茶道や絵などの文化に造詣が深く、中津に庭園(現在の中津万象園) を造りました。
琵琶湖に見立てた池に、近江八景をイメージした8つの島を配したのは、京極家の故郷・近江をしのぶ心からでしょうか。
名君として名高い6 代藩主・高朗(たかあきら)は、金毘羅参詣の玄関口として新堀湛甫(たんぽ)を整備し、うちわ作りを奨励しました。
港には時代の波をくぐりぬけた太助灯籠 (とうろう)がシンボルとして立っています。高朗は丸亀をこよなく愛し、晩年はこの地で過ごし生涯を終えました。今も南条町の玄要寺境内の京極高朗侯墓所 に眠っています。
このように丸亀には、京極家ゆかりの遺産が今日まで大切に守られ、受け継がれています。 
丸亀城 / 天草四郎の乱に築城のノウハウを学ぶ

 

海からどう見えるかを徹底的に考えた
丸亀城が現在に残る姿になるまでには70年近い歳月がかかっている。1587年に生駒親正が亀山に高松城の支城を築き、引き続き本格的な築城に着手するが一国一城令で廃城になる。その後幕府の命を受けた山崎家治が再建。山崎家が絶家後、京極高和によって仕上げが施され、1660年にようやく完成する。この城の造りが九州の天草四郎の乱に影響を受けていると言えば不思議に思うだろうか。
生駒親正が築城した当時の最大の脅威は土佐の長宗我部氏、その証拠に大手門は今と反対、内陸側に向いた南にあった。時代は下り、天草四郎の乱をようやく平定した幕府は海上防衛の重要性に気付き、丸亀・高松・今治の三つの城を瀬戸内海の守りの要にしようと、廃城になっていた丸亀城をわざわざ銀300貫を与えてまで特別に再建させる。山崎家治は九州・天草の乱後、城の再建・藩の立て直しに尽力し、その功績により丸亀に加増転封された人で、反乱軍の残党や南蛮船の脅威をイヤというほど痛感していた。その経験を活かし、石垣や井戸の配置を決めたのだという。
往年の丸亀城はほとんど海辺にあり、海に対してだけ睨みをきかせていたといっても過言ではなさそうだ。山崎家が嫡子のないまま絶家した後には京極高和が城主となるのだが、この人は本丸の中心にあった天守を海側にぎりぎりいっぱいまで移動させ、しかも海から見たときに立派に見えるよう、天守を“斜に構え”させたのだという。いかに海からの視線を気にしていたのか、陸上に対する警戒や気遣いは、京極氏の時代にはほとんど見られないのだ。
優美な“扇の勾配”と“気勢い”を持つ石垣
石垣は、橇に載せた石を坂道で上に運び、落として築く。決して石を持ち上げて積み上げたのではない。なので、石垣と坂道は建築上必要不可欠なものなのだが、武士にとっては攻められやすい坂道などむしろあってはならないもの。しかしこの城は坂道を持ったままだった。これも陸の防衛に力を入れていなかった表れなのかもしれない。スイス人のエメ・アンベールの手による「幕末日本絵図」には当時の丸亀城が描かれており、その中にもはっきりと坂道が描かれている。
この城の魅力を語る上で石垣は欠かせない。丸亀城の代表的な石の積み方は「野面積み」、「打ち込みハギ」、「切り込みハギ」だ。ちなみに“ハギ”とは“つぎはぎ”などのハギ、つまり“接ぐ”という意味。大部分の石垣には切り出した石を一見無造作に積み、すき間を埋めるための小さい石を差し込んだ「打ち込みハギ」という技法が使われている。ぐらぐらと不安定そうに見えるが、それを安定させて積み上げるのが職人の技。すき間の多さは、むしろ水が抜けやすい利点がある。大手門など城の重要な部分・見せる場所に使われるのは、切り出した石をぴったり組み合わせた「切り込みハギ」。それは問答無用に整然とした美さを持つ。
一番高いところで高さ22mもある石垣が四層に重なる城壁の見事さはなかなか言葉で表すことができない。下の方は緩やかに、上に行くほど切り立っていく反りの美しい曲線は「扇の勾配」、「三日月の勾配」とも呼ばれ、見るものを魅了する。 
 
高知城

 

高知城1
高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。江戸時代、土佐藩の藩庁がおかれた。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。
城郭の形式は梯郭式平山城。高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を外堀として利用している。戦国時代以前は大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城であった。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成した。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。
高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城である。明治6年(1873)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
歴史
南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称した。
延元3年(1338):後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎える。
興国2年(1341):松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦い落城。廃城となる。
長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、天正15年(1587)にこの地に築城した。ただし、天正13年(1585)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある。
天正19年(1591):元親は、3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。
慶長6年(1601):関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長6年(1601)8月:浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家(どど つないえ)を総奉行に任じ、翌月より浦戸湾に面した地の利がある大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江の口川など川の治水工事に着手した。当時、周辺は湿原が広がるデルタ地帯であった。
慶長8年(1603):本丸と二の丸が完成。一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長15年(1610):度重なる水害を被り、2代忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611):三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成した。
享保12年(1727):高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。
享保14年(1729):8代豊敷は、深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手。
寛延元年(1748):天守ほか櫓・門などが完成。天守は小振りとなったが外観は焼失前の姿が復興された。
宝暦3年(1753):再建完了、現在見られる建造物の大半は、この時に再建されたものである。
明治6年(1873):廃城令に伴い、高知公園となる。この際に、現存建造物以外の建造物が破却された。
昭和9年(1934):天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
昭和25年(1950):天守等15棟は文化財保護法の施行により国の重要文化財に指定される。
昭和34年(1959)6月18日:国の史跡に指定された。
天守
南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれている。創建時のものは享保12年(1727)に焼失し、延享4年(1747)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっている。
独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもある。天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであるという。
平面寸法は、初層と2層を総二階造りで8間×6間、3層と4層を4間四方とし、5層と最上層は3間四方である。高さは18.5m。国の重要文化財に指定されている。 
高知城(別名・大高坂城)2
高知城は南北朝の頃、この地方の豪族大高坂山松王丸が居城し、北朝方と戦ったが、落城しそののちは廃城になっていた。松王丸の城は砦ほどのものであったという。
現在の高知城は、「駿馬と妻の十両」で知られる山内一豊によって築かれたものである。
室町時代、土佐岡豊を本拠として勢力を伸ばした長宗我部氏は、一時は四国4ヶ国を治めるほどであったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部元親は秀吉に破れ、戦後土佐一国を安堵された。
天正14年、九州征伐の軍に元親も加わり、九州に出征したが帰国後、大高坂山の地に築き岡豊城からここに移った。しかし当時大高坂山は城下を河川の流れるものが多く、度々の洪水に逢って居城三年にして浦戸城を築きここに移った。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属した宗我部盛親は、戦後領地没収され、翌年替わって山内一豊が、遠州(静岡県)掛川から、一躍土佐(高知県)一国二十万石の太守に抜擢され、長宗我部盛親の居城だった浦戸城に入城した。
しかし、浦戸は城地が海辺に片寄ってたので、近く地形を案じた一豊は、慶長六年(1601)に古くは国府の所在地で、廃城となっていた北方の大高坂山に新しく築城を開始した。
築城の工事は本丸の造成とともに河川の治水工事から始まった。鏡川、江の口川はじめ多くの川の水流を変える工事は大工事であったが、大高坂山の本丸にはさらに盛り土をしてその高さを42mまで上げた。着工二年後の慶長8年、本丸など主要部分が完成し山内一豊が入城し、大高坂山を改め河中山とした。
慶長十年、一豊が世を去ったのちも二代目の忠義の時代に工事は続き、同十六年三の丸が竣工、起工以来十年にして全城郭が完成した。
かくて、高知城は、名実ともに南海随一の名城としてその雄姿を誇った。
しかし、八代豊敷の享保12年(1727)城下をひとなめにした大火のため追手門を残しほとんどを焼失してしまった。
八代目山内豊数は享保14年から再建に着手し、宝暦三年(1753)完了した。現在残る天守はこのときのものである。
城は、はじめ河内(こうち)山城と称したが、慶長十五年、二代藩主忠義のときに高智山城と改名、これを略して高知城となったのは後のことである。
高知城天守は、外観は四層とも五層とも見えるが内部は六階、白亜だが搭載型の変形で最上層に望楼風高欄がついている。この天守には珍しく御殿が付属していて懐徳館と呼ばれているが、正殿上段の間、溜の門、納戸、玄関があり、大名の生活を偲ばせる。
本丸には天守、正殿の他、東多聞、廊下門、詰門、西多聞、黒鉄門などの建物が残り城郭建造物の様式を見せる。
明治維新後、公園化のため多くの建造物が撤去されたが、本丸及び追手門等十五棟が残され、城跡と共に創建当時のの形がほぼ完全な状態で残っている全国でも有数の名城である。天守・本丸御殿・廊下橋・櫓門・多聞櫓などが標高四十四mの山上に立ち並び、当時の姿を伝える。
なかでも天守は延享四年(1747)に再建されたもので、創建時の形をほぼ忠実に再現しているが、その規模は旧城には及ばず、今更ながら藩祖一豊の雄図がしのばれる。
この天守には天守台がなく、本丸内から直接一階に入るのが特徴である。
本丸と二の丸それぞれに独立性をもたせ、その間を廊下橋で結んでいる。
どちらかで最後まで攻防できる構造をもつ完成度の高い近世城郭であった。  
高知城3
高知の街の中心に、そのシンボルとしてそびえ立つ高知城。関が原の戦いの功績によって、徳川家康から土佐の国を任されることになった山内一豊が築いたお城として有名です。
高知城は一度は城の大半を火災で焼失しましたが、その大部分が再建。天守閣と追手門が残っている城として、日本に残されているたった三つのお城のうちの一つとなっています。その中でも追手門から天守閣が一つの画面に収まるのは高知城だけという、貴重なお城でもあります。
2006年NHK大河ドラマで一豊と妻・千代を描いた物語「巧妙が辻」が放送されると、高知城もその舞台として多くの観光客を集めました。ドラマに合わせたさまざまなイベントが開催され、・・・。夫婦二人三脚の物語に感銘を受けた人は多く、今でも高知城にある一豊や千代の銅像の前で記念撮影をする姿が見られています。
また、高知城周辺は、春の桜や梅をはじめ四季折々の美しい風景が広がります。花や緑に囲まれて、高知城はその優美なたたずまいを保ち続けています。
歴史
今なおその優美な姿を残す高知城。しかしそこには、さまざまなドラマがありました。
慶長6年、関が原の戦いで徳川家康側について勝利した山内一豊は、土佐の一国を任されました。 入国した一豊は浦戸城に入りますが、ここでは手狭と感じ、新たな城の建設にとりかかります。 それが、現在の高知城でした。
一豊は大高坂山を築城の地と定め、百々綱家(どどつないえ)を総奉行に任命し城の建設に あたらせます。1603年には城の大部分が完成し、一豊は入城。このときに「河中山城」と命名されます。
第2代土佐藩主・忠義の時代、水害が相次ぎ、「河中」の名は嫌われ「高智山城」と改名されます。 これが現在の「高知城」、そして「高知」の都市名の由来とされています。
その後も藩主の城としてその役割を担ってきた高知城でしたが、ここで悲惨な出来事が起こります。1727年に城下町を襲った大火。それにより高知城も追手門を残し城の大部分が失われて しまったのです。
その後1729年、第八代藩主・豊敷は高知城の再建に着工に取り掛かります。 1748年には天守閣が再建されたほか、1753年には三の丸が完成し、高知城の大部分が元の形を取り戻します。
明治時代に高知城を襲ったのは、世に吹き荒れた廃城令でした。これにより高知城も公園化されることとなり、一般に開放されます。このとき、現在の建物を残してすべての建造物が取り壊されたのです。
しかし1934年には天守など15棟が国宝(その後文化財保護法により 重要文化財に指定)となりました。そして、高知城は今日までその美しい姿をとどめているのです。
天守閣
天守閣四重五階の望楼型天守。国の重要文化財にも指定されています。高知城では天守閣まで上ることが できるようになっています。天守閣までは急な階段が続きますが、そこから見る景色は絶景。高知の街並みを 360度見渡すことができます。
追手門
追手門高知城の入り口、一際堂々とたたずむのは追手門。1727年の大火の際にも被害を受けなかったのは この追手門だけと伝えられています。敵の侵入を防ぐため、三方向からの攻撃が可能な枡型の造りになっています。
本丸
本丸本丸には天守閣をはじめ、重要文化財に指定されている建物が多く存在します。武器を収納しておくために 使われた東多聞や警護の武士の詰め所となった西多聞など、歴史をうかがい知ることのできる貴重な財産です。 
天守閣

 

外観
天守は初め、一つの軍事的建築物であったが、城郭の発展に伴い規模を大きくし、領主の権威を象徴する城の中心的建築物へと発展した。それはもともと大きな櫓の上に小さな望楼を載せた形式から発生したとされ、初期の天守のほとんどが望楼型天守である。望楼型天守は、大きな入母屋造りの屋根の上に回り縁をもつ望楼を載せた形式のもので、丸岡城や犬山城の天守がその典型である。その後天守は、上層にいくに従って各階の面積が規則的に減っていく層塔型天守へと発展するが、この形式の天守には入母屋造りの破風はなく、屋根は寄棟造りを原則とした簡単なものとなり、津山城天守、大坂城天守がその例である。
断面
高知城の天守は望楼型天守の典型である。外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せている。天守最上階には、初代藩主一豊が、先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられているが、この形式は、当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものであった。構成上から見ると、高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものである。
「御城築記」によると、高知城天守は慶長8(1603)年に完成したと思われる。享保12(1727)年の大火によって焼失し、現存天守は寛延2(1749)年に再建されたものである。
昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿がそのまま踏襲されていることが明らかとなった。現在、古天守を持つ城は、全国にわずか12城しか残っていない。高知城天守はその中の一つとして初期の古い様式を今に伝えており、現在国の重要文化財に指定されている。

鯱というのは、頭は龍のようで背中に鋭いトゲを有する想像の魚で、海に棲むので防火の効があるという考え方で、城郭建築に多く用いられている。高知城では追手門の鯱は瓦であるが、天守の上重、下重の計4個の鯱は青銅製で、いずれも形が整っていて美しい。この鯱は、宝暦7年(1757)と寛政4年(1792)いずれも7月26日に大暴風雨で墜落し、寛政4年のときは、鉄門を登ったところの左手にあった横目(役人)の控所の屋根を貫いた。
山内一豊

 

山内一豊1
山内一豊は、天文14(1545)年、尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれた。
父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていたが、弘治3(1557)年、織田信長の手のものに襲撃されて討ち死にしたとも、永禄2(1559)年、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたとも言われている。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなった。
一豊は流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。
また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13(1585)年に近江長浜2万石、天正18(1590)年に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し土佐一国を与えられた。
当時の土佐は、長宗我部氏の除封による混乱の状態にあったため、土佐受取りのため井伊直政の家臣2人が一豊の弟、康豊とともに派遣された。
長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、派遣軍はこれを武力によって鎮圧する一方で、康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開した。
一豊は慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城した。  
歴代土佐藩主(藩主名・在任年数・在任期間)
 1 一豊(かつとよ)4年10月 慶長5年11月〜慶長10年9月
 2 忠義(ただよし)50年8月 慶長10年11月〜明暦2年7月
 3 忠豊(だだとよ)12年11月 明暦2年7月〜寛文9年6月
 4 豊昌(とよまさ)31年3月 寛文9年6月〜元禄13年9月
 5 豊房(とよふさ)5年7月 元禄13年11月〜宝永3年6月
 6 豊隆(とよたか)13年8月 宝永3年8月〜亨保5年4月
 7 豊常(とよつね)5年4月 亨保5年5月〜亨保10年9月
 8 豊敷(とよのぶ)42年1月 亨保10年10月〜明和4年11月
 9 豊雍(とよちか)21年7月 明和5年1月〜寛政1年8月
10 豊策(とよかず)18年4月 寛政1年10月〜文化5年2月
11 豊興(とよおき)1年1月 文化5年2月〜文化6年3月
12 豊資(とよすけ)33年10月 文化6年5月〜天保14年3月
13 豊熈(とよてる)5年4月 天保14年3月〜嘉永1年7月
14 豊惇(とよあつ)1月 嘉永1年9月〜嘉永1年9月
15 豊信(とよしげ)、容堂 10年2月 嘉永1年12月〜安政6年2月
16 豊範(とよのり)10年4月 安政6年2月〜明治2年6月※最後の藩主  
高知城の歴史
土佐24万石を襲封した山内一豊によって創建され以来約400年余りの歴史を有する南海の名城として名高い。
慶長6年(1601) 山内一豊土佐国に入国し浦戸城に居城。 現在の城山・大高坂山を新城の地と定め江戸幕府へ報告。 百々越前を総奉行として築城の命を下し地鎮祭を催す。 鍬初式を行ない築城着工にかかる。
慶長8年(1603) 本丸と二ノ丸の石垣工事が完成。 本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓が竣工。 初代藩主山内一豊が入城する。 この日城内において盛大な祝宴が催された。 大高坂山の地名を「河中山」と改める。
慶長15年(1610) 河中山を「高智山」と改める。
慶長16年(1611) 三ノ丸が完成し、着工以来10年目にしてほぼ全城郭が整う。
寛文4年(1664) 追手門を再建する。
享保12年(1727) 城下町の大火で追手門を残し天守閣はじめほとんどの建物を焼失する。
享保14年(1729) 深尾帯刀を普請奉行に任命し再建に着手する。
延享3年(1746) 本丸の再建に着手する。
寛延2年(1749) 天守が完成、現在の天守閣はこの時のもの。
宝暦3年(1753) 三ノ丸完成し、着手以来25年目にしてほぼすべての建物が整う。
享和元年(1801) 追手門の大修理を行う。
弘化3年(1846) 天守閣の修理を行う。
明治6年(1873) 明治4年(1871)廃城令により天守閣等の本丸周辺建造物と追手門を残し城郭建造物がとり払われた。
明治7年(1874) 高知公園として一般に開放される。
昭和9年(1934) 国宝に指定される(昭和25年文化財保護法により重要文化財となる)。
昭和23年(1948) 天守閣をはじめ各建造物の修理を始める。
昭和34年(1959) 修復工事完成。 
山内一豊2
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏の当主。
父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原氏の娘か)。祖父は山内久豊。兄に山内十郎、弟に山内康豊。妻は内助の功で知られる見性院(「千代」の名で有名だが、実名かどうかは定かでない。若宮友興の娘とも遠藤盛数の娘とも言われる)。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。のちに康豊の嫡男・山内忠義(第2代藩主)を養子とした。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いにおいては徳川方に与した軍功により土佐国9万8千石を与えられた。のち、高直しにより20万2,600石を領した。土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。
山内氏の出自について、江戸時代後半に作成された『寛政重修諸家譜』に土佐藩が提出した内容によれば、藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔である。ただし、首藤山内氏の明らかな末裔は戦国時代当時には別に備後に存在し(この山内氏はその後毛利氏に帰属し、江戸時代まで続いている)ている一方、一豊の山内氏は曽祖父以前から八代分について名前すら伝わっておらず、首藤山内氏の末裔であるか否かは不明である。また会津地方では蘆名氏に仕えた山内氏(首藤山内氏の庶流)の子が流浪して信長に仕えたのが一豊であるとする伝承もあるが、これは尾張時代の一豊の事績と合致しないために否定されている。
一豊の山内氏が尾張国(愛知県西部)に名を表すようになったのは一豊の祖父・久豊からであると考えられている。それ以前については丹波三宮城(京都府船井郡京丹波町三ノ宮)あたりを拠点としていた小豪族がそれに当たるとも考えられるが、定かではない(その可能性をにおわせる史料は残っている)。ただし一豊の父・盛豊については尾張上四郡を支配する守護代・岩倉織田氏に重臣として仕えていたことは間違いない。
「山内」の読みについて、多くの歴史参考書や辞典などでは「やまのうち」と訓むとされてきた。これは、先に書いたとおり土佐山内氏が祖先であるとする首藤山内氏が「やまのうち」と訓むことによる。現に首藤山内氏が苗字の元とした鎌倉・山内庄(神奈川県鎌倉市山ノ内)の地名は「やまのうち」と訓む。
一方、一豊の山内氏は、既出の『寛政重修諸家譜』には「やまうち」と平仮名でルビがふられている。また、淀殿の侍女大蔵卿局による一豊宛の書簡には平仮名で「やまうちつしまどの」となっており、これらの点から最近では「やまうち」と訓むのが正しいと考えられている。「一豊」の読みについては、一般的には「かずとよ」と訓まれてきたが、一豊が偏諱を家臣に与えた際の訓みから「かつとよ」と考えられている。
2006年の大河ドラマ『功名が辻』では、「かつとよ」「かずとよ」いずれの読みとするか製作サイドでも最後まで問題となったが、山内家より「親しまれている名前で呼んでやってください」とのメッセージもあり、ドラマでは「やまうちかずとよ」と読むことになった。
生涯
尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城に、岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、のち信賢)の配下で、父盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559)に岩倉城が落城した際、父盛豊が討死ないし自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。
一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。永禄11年(1568)頃に織田信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力となったと考えられる。
元亀元年(1570)9月の姉川の戦いで初陣し天正元年(1573)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。
「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573)の間であったと見られる。
これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。この際、秀吉が自身の郎党を持たないことから秀吉の直臣となったとも考えられる。なお、禄高400石は、同僚の浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが同じ時期に100石台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。
天正5年(1577)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲などに参加している。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっている。この後、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主として2万石を領した。同じく秀次の宿老に列した大名として田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らがいる。なお、天正大地震によって一人娘の与祢姫を失っている。このころ従五位対馬守に任官。
天正18年(1590)の小田原の役にも参戦し、山中城攻めに参加している。まもなく遠江国掛川に5万1000石の所領を与えられた。掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主・中村一氏とともに行っている。また朝鮮の役には他の秀次の宿老格であった諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出している。文禄4年(1595)には秀次が謀反の疑いで処刑され、一豊と同じく秀次付き重臣であった渡瀬繁詮はこの事件に関わって秀次を弁護したために切腹させられた。しかし一豊は他の宿老の田中・中村・堀尾らとともに無関係の立場を貫き、連座を免れた。このときに秀次の所領から8000石を加増されている。
秀吉の死後の慶長5年(1600)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると東軍に与している。この最中、一豊は下野国小山における軍議(いわゆる「小山評定」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言しその歓心を買っている。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が提案したものを盗んだといわれる(新井白石『藩翰譜』)。ただし東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていたことは事実である。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、なんらかの打ち合わせをしていたと考えられる。関ヶ原の戦い本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の功績を高く評価され、土佐国一国・9万8000石を与えられた。のち、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。
土佐領主
慶長6年(1601)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要なポストを主に旧臣で固めて長宗我部勢力を排除した。さらに、長宗我部氏の遺臣らを桂浜の角力大会に招いて捕縛して73名を磔にして殺すなど、あくまで武断措置で対応した。このために命を狙われる危険性があり、高知城の築城の際などには6人の影武者と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)。
各地にくすぶりを残し、この課題(以前からの山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした差別的扱い)は次代から幕末になるまで引き継がれ、坂本龍馬などの人物が生まれることになる。また、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(奉行は関ヶ原の戦いの後に浪人となった百々綱家を7000石で招聘、慶長8年(1603)完成)、城下町の整備を行った。また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。
また、領民に対して食中毒を気にし、鰹を刺身で食べることを禁じた。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。
慶長10年(1605)、高知城にて病死。享年60。
法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)。 
山内一豊3
出生から流浪まで
山内一豊は、天文十四(1545)年、岩倉織田氏の家老をつとめ、尾張國黒田城を預かっていた山内盛豊の第二子(幼名を辰之助)として尾張の国に生まれ、長男の十郎、弟の康豊、そして三人の女姉妹がいたとされます。一豊の少年時代、尾張の織田家は諸派に分かれて抗争を続けており、最大勢力を誇っていたのが織田信長でした。弘治三(1557)年七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、父盛豊が手傷を負い、長兄十郎は討死したとされ、当時13歳であった辰之助は、母や弟妹達とともに家臣に救われ難を逃れました。永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めにより父盛豊が死去してからは岩倉も追われ、織田浪人として尾張を始め美濃や近江を流浪し、山内家の親戚に身を寄せては転々としたといわれています。
信長家臣時代
『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に桶狭間の戦い以後頭角を現してきた織田信長に仕えるようになったといわれています。『一豊公御武功御伝記』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。元亀元 (1570) 年、朝倉氏と戦った金ヶ崎城の戦後の天正元(1573)年、越前刀根山の朝倉追撃戦で朝倉家でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し、首級を挙げました。勘右衛門は強弓の名手であったとされ、一豊は左目尻から右奥歯にかけて矢が貫通する傷を負いながらも勘右衛門を討ち取り、劇的な殊勲を挙げました。これらの功績により天正元 (1573) 年、秀吉に与えられた領国の一部である近江唐国(滋賀県虎姫町)四百石を信長から与えられ領主となり、これが戦国武将山内一豊としての始まりでした。
秀吉家臣時代
天正五(1577)年頃には信長の直臣から羽柴秀吉の麾下に入り、鳥取城攻めや高松城攻めなど、多くの戦に参加し、播磨有年(兵庫県明石市)七百石、播磨印南郡五百石を与えられています。天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉の天下取りのために働く事になり、小牧長久手の戦いが終わった頃には、近江長浜城五千石に入りました。しかし、天正十三(1585)年、近江地方を襲った大地震で一豊夫妻の娘・与禰が崩れた建物の下敷きとなり圧死するという出来事がありました。秀吉が天正十八(1590)年の小田原征伐において北条氏を滅ぼし、天下統一を果たし、一豊は同年九月二十日、正式に相良、榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。掛川は秀吉にとっても天下統一を強固なものにするために東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示したのです。
秀吉の命を受け赴任した一豊は、徳川おさえの基盤づくりとして、掛川五万石の規模にしては大規模な本格的都市計画を実行します。それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。一豊の計画は城郭だけにとどまらず、城下町の整備も大々的に取り組みます。この頃、秀吉が行った兵農分離や兵商分離発令により、人々の生業が定着した時代で、これに従って職業別に町割りを行って城下町を形成しました。その名残りは現代の町名にも見ることができます。
また天正十九(1591)年には、大井川下流の志太・榛原を洪水の害から守るため、駿府城主の中村一氏と協力して大井川の治水工事に着手し、相賀赤松山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行っています(天正の瀬替え)。
家康に忠節を表明
出世した一豊は豊臣政権下で秀吉の配属を離れ、中村一氏や堀尾吉晴らと共に関白秀次(秀吉の甥)の補佐役をつとめました。しかし、文禄二(1593)年、淀君に実子秀頼が生まれると、秀吉は秀次の素行不良を理由に切腹を命じ、秀次一派に対しても徹底的な静粛が行われ、当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。このように晩年、その奇行から家臣の信望が薄れた秀吉でしたが、慶長三(1598)年八月に没すると、世はふたたび権力争いの動きが高まり、ここで天下取りに動き始めたのは秀吉自身が危惧したとおり徳川家康でした。関ヶ原の合戦前の慶長五(1600)年7月、秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら豊臣家の反家康勢力を束ね、これに対抗しようとしました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大阪から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が陣中にあった一豊のもとへ届きました。文は文箱に入れられ、文箱には封印が施されていました。一豊は封を解かず、これを家康に献上しました。箱の中に入っていたのは三成陣営に属する増田長盛、長束正家が連名した大阪方への勧誘状と妻の添え状であったと伝えられています。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明したのでした。慶長五(1600)年7月25日、千代の文を見た家康はついに三成が動き出したことを知り、西上すべく諸将の意見を聞くため小山軍議が開かれ、この席上で一豊は、進軍経路上に位置する自分の掛川城を家康のために明け渡すと公言しました。これにより軍議の流れが決まり、参加していた諸将も家康に味方する流れとなりました。
 また、一月前の慶長五年6月、一豊は伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山にある久遠寺に茶亭を建てて饗応しています。秀吉の死後、権力争いを窺う秀吉家臣諸将に対して、一豊は早くからポスト秀吉は家康であると言動に含めながら、権力の流れを家康に運ぶ手助けにもなっていたのでした。関ヶ原の合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられているとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城の主人となったのです。
晩年の一豊
一豊の土佐入国は簡単には進みませんでした。土佐の国の旧領主・長宗我部氏の遺臣(一領具足)への対応に手を焼く事となりました。遺臣たちが長宗我部氏が本拠地としていた浦戸城に立てこもって抵抗する浦戸一揆が起こり、まずは先立って弟の康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。翌慶長六(1601)年一月、鎮静した土佐に入国しました。 一豊が土佐に入国してまず行ったのは、後に年中行事となる馬の駆初めや、相撲大会を催して民衆の不満をなだめることでしたが、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。それでも民心はおさまらず、滝山一揆の鎮圧などに苦慮することになりました。一豊は土佐に入国して五年後の慶長十(1605)年9月20日、61歳でこの世を去り、高知の真如寺山に葬られましたが、妻千代の死後、京都の大通院に移されました。実子はなく、家督は弟の康豊の子、忠義に継承されることになりました。大通院の堂内には夫婦墓が並んでいます。大名の夫婦墓はきわめて稀なことで、夫妻の仲の良さを暗示しているようです。
山内一豊4
城下町掛川を築いた戦国武将山内一豊
天文十五年〜慶長十年(1546-1605)
下克上の戦国時代、信長、秀吉、家康の天下取り。山内一豊は、この三人の権力者に巧みに仕え、権力闘争を乗り切った戦国武将です。その武勇よりも妻千代の内助の功が広く人々に知られ、決して派手ではないこの武将の一生は、掛川の今日と深いつながりがあります。
遺児から戦国の乱世に
山内一豊は、天文十四(1545)年、但馬守藤原盛豊の第二子として尾張の国に生まれました(幼名辰之助)。父盛豊は、二分していた織田家の信安方に仕え、家老となり葉栗郡黒田城を預けられていました(年号不明)。弘治三(1557)年七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、父盛豊が手傷を負い、長兄十郎は討死。当時13歳であった辰之助は、母や弟妹達と家臣に救われ難を逃れましたが、永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めで父盛豊死去により岩倉も追われ、織田浪人として流浪の中に時を過ごしたといわれ、山内家の親戚に身を寄せては転々とします。この苦難に満ちた永禄二年、辰之助は元服して通称を伊(猪)右衛門、一豊と名乗ることになりました。
朝倉攻めの武勇 -信長家臣時代-
翌永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで信長が頭角を現しました。『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、一豊は、身を寄せた牧村政倫が織田の家臣となった永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に、信長に仕えるようになったといわれています。『一豊公御武功御伝記』や『近代諸士伝略』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。
元亀元年三月、織田信長の上洛に従い、四月二十日朝倉義景征伐のために京都を出立して、羽柴秀吉配下として一豊もこれに従軍。金ヶ崎の合戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを友人で見方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。
この手柄により、秀吉に与えられた領国の一部である唐国二百石を信長から与えられたのが、山内一豊戦国武将としてのスタートでした。
掛川城と城下町の大都市整備に着手-秀吉家臣時代-
天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉は、天正十八(1590)年の小田原征伐において後北条氏を滅ぼし、天下統一を果たしました。家康は関東へ移封され、家康の旧領には秀吉配下の大名が配置されました。
一豊は同年九月二十日、正式に相良.榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。時に一豊46歳のこと。秀吉にとって天下統一を強固なものにするために、掛川は大井川をひかえて東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示したのです。
秀吉の命を受け赴任した一豊は、徳川おさえの基盤づくりとして、掛川五万石の規模にしては大規模な本格的都市計画を実行します。それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。一豊の計画は城郭だけにとどまらず、城下町の整備も大々的に取り組みます。この頃、秀吉が行った兵農分離や兵商分離発令により、人々の生業が定着した時代で、これに従って職業別に町割りを行って城下町を形成しました。その名残りは現代の町名にも見ることができます。
また天正十九年には、大井川下流の志太・榛原を洪水の害から守るため、駿府城主の中村一氏と強力して大井川の治水工事に着手し、相賀赤松山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行っています(天正の瀬替え)。
妻の内助と変わり身の早さで栄転-家康に忠節を表明-
出世した一豊は秀吉の配属を離れ、中村一氏や堀尾吉晴らと共に関白秀次(秀吉の甥)の補佐役をつとめました。しかし、文禄二(1592)年、淀君に実子秀頼が生まれると、秀吉は秀次に切腹を命じます。当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。このように晩年、その奇行から家臣の信望が薄れた秀吉でしたが、慶長三(1598)年八月没。世はふたたび権力争いの動きが高まり、諸将はその政治的手腕を問われることになります。
関ヶ原合戦前の慶長五(1600)年7月。秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら西軍方の確約に奔走します。悲観したガラシャ夫人が自害するなどの事件が起き、緊張が高まっていました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大坂から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が一豊のもとへ届きます。一豊は、この密書を開封せず家康に手渡しました。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明したのでした。
また、一月前の慶長五年6月、一豊は伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山にある久遠寺に茶亭を建てて饗応しています。秀吉の死後、権力争いを窺う秀吉家臣諸将に対して、一豊は早くからポスト秀吉は家康であると言動に含めながら、権力の流れを家康に運ぶ手助けにもなっていたのでした。関ヶ原合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられるとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城の主人となったのです。
武勇の誉れから政治手腕の時代へ
いったい一豊はこのような渡世術をいかにして身に付けたのでしょう。楽市楽座や南蛮文化吸収、人質や婚姻政策で、一気に権力への階段を上りつめ非業の死をとげた織田信長。足軽から身を起こして天下統一を果たした豊臣秀吉。多感な若年時代に個性的な二人の武将に仕えた一豊は、彼らの政治手腕をつぶさに見て吸収していったのでしょう。そして時代は武勇の戦いから政治の戦いへ。どちらかというと武勇よりも官僚的能力に長けた一豊が成功したのは、時代の流れと言えるのかもしれません。慶長五(1600)年7月25日、諸将の意見を聞くため小山軍議が開かれ、この席で一豊は家康への城明け渡しを提案。諸将が同意して誓書を提出したとあります。しかしこれは一豊の創案ではなく、日頃交友の深かった浜松城主堀尾忠氏の考えでした。このような一豊を室鳩巣は「人の分別を取って自分の功に成さる事とて恨み申されけり」と言っています。一豊には、人の言を機会をとらえて功名に結び付ける才知を持つ、いわゆる「ずるい人」という評価も一方にあったのでしょう。
土佐鎮圧-晩年の一豊-
土佐の国を賜った一豊の入国は、すみやかには進みませんでした。長宗我部の遺臣たちが浦戸城に立てこもって抵抗する浦戸一揆が起こり、まずは先立って弟の康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。翌慶長六(1601)年一月、どうやら鎮静した土佐に入国しました。 一豊が土佐に入国してまず行ったのは、後に年中行事となる馬の駆初めや、相撲大会を催して民衆の不満をなだめることでした。それでも、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。それでも入国から二年経って民心はおさまらず、滝山一揆の鎮圧などに苦慮しています。
一豊は、入国した慶長六(1601)年から河中山(こうちやま*5)城を築城しています。この工事視察の時、巡見笠、面頬、袖なし羽織り姿の一豊が、常に同じ背丈装束の五人の影武者と共に巡視したといいます。人々はこれを「六人衆」と呼び、これには多分に嘲笑が込められていたようです。このような、戦国の乱世をくぐって出世した武将とは思えない細心の警戒心は、一豊よりも妻千代が高名を成した所以ともいわれます。
一豊は土佐に入国して五年後の慶長十(1605)年、61歳で没しました。高知の日輪山に葬られましたが、千代の死後、京都の大通院に移されました。大通院の堂内には夫婦墓が並んでいます。大名の夫婦墓はきわめて稀なことで、夫妻の仲の良さを暗示しているようです。 
山内一豊5
山内一豊といえば、その奥方の内助の功の話で有名である。
彼がまだ織田家の侍であったころ、馬を買う金がなかった。困っているのを見かねた奥方が、手鏡の中から、黄金10枚をとりだし、
「これでお買いなさい」
と一豊に与え、馬を買うことができたという。この「美談」で一豊は織田の家中で一種の名士となった。
山内一豊は、豪傑というわけでもなく、名将智将というわけでもない。強いて言えば、ひどく生真面目で律義だというのが取柄の人物であった。
律義といえば婦人にも律義であった。実子がいない(女の子がいたが地震で死亡)にもかかわらず、当時の武将としては稀有なことに妻のほかに側室を持たなかった。妻を愛していたということもあっただろうが、若い時から苦労を共にしてきた妻に対して義理を欠くと思ったのであろう。
織田、豊臣と2代に仕え、数多くの戦場を駆け巡った一豊が得た所領は遠州掛川6万石。その彼が一躍、土佐24万石の大大名になるのは関ヶ原合戦の後のこと。54才である。
関ヶ原合戦直前、徳川家康が石田三成の挙兵を聞いたのは、会津の上杉征伐の途上、下野(しもつけ=栃木県)小山の陣においてであった。一豊もその陣にいる。家康はここに豊臣恩顧の諸将を集め、石田につくか徳川につくかを協議させた。世に言う「小山会議」である。
この会議の席上、「徳川につく」と最初に表明したのは福島正則である。ついで一豊が進み出て、
「お味方つかまつる上は、居城掛川城を兵糧ごと内府(家康)に差し上げ、拙者は人数ことごとく引き連れて戦場に臨む所存でござる」
と、思い切ったことを表明した。これによって家康の進路にあたる東海道に城をもつ大名は一豊にならって城も領地も家康に差し出さねばならなくなり、家康に加担することに多少なりともためらっていた一座の大名もことごとく家康に味方せざるをえなくなった。そしてこれが関ヶ原における家康勝利の要因になったのである。
関ヶ原の決戦において、一豊は後方の予備隊におかれ、なんの武功もなかったが、戦後の論功行賞において、家康は彼を掛川6万石から大抜擢し、一躍、土佐24万石に封じた。
「かの、対馬守(一豊)になんの武功がござるや」と言う左右の幕僚の意見もあったが、家康は、
「戦場においての槍働きなどだれでもできる。山内対馬守の小山での一言こそ関ヶ原の勝利を作ったのだ」
といってとりあわなかった。と、すれば一言で土佐一国を得た、と言っていい。変動期でこそ起こりうる話であろう。
しかもこの話、付録がある。
じつは、城も領地もすべて差し出すという凄まじい例の案は一豊の独創ではなかった。堀尾忠氏という一豊と親しい大名がいたのだが、その堀尾と小山会議に出る直前に徳川と石田のどちらにつくか相談した。堀尾は一豊に徳川に付くことを話し、
「徳川殿につくと決めた以上は、家運を開く機会ゆえ、拙者の城も領地も徳川殿に差し出すつもりでござる」
と、秘策というべき腹案を話した。その秘策を堀尾が発言する前に一豊が発言したのである。
一豊、一世一代の発言も、実は他人の案の寸借だったと言うのも、何かこの人らしいエピソードである。
土佐という国は、関ヶ原合戦当時、長宗我部(ちょうそかべ)氏が治めていた。当主の長宗我部盛親は負けた石田三成についたので、徳川家康に土佐の領土を取り上げられることになった。残った、長宗我部の家臣たちは土佐の国内に浪人として残った。そこへ、「進駐軍」として乗り込んできたのが、山内一豊である。
6万石から24万石に、領地が4倍に増えたわけだから、当然、家臣も増やさなければならない。このような場合、家臣の増員の何割かはは現地でおこなう。そうしなければ浪人になった侍たちが不満をもって反乱をおこす恐れがあるからだ。山内家もそのようにすべきだった。
ところが、山内家は家臣の増員を京都、大坂で行い、土佐へ乗り込んだ。当然、土佐では浪人になった長宗我部侍が反乱を起こした。
土佐に入国してからの一豊の生涯は、この長宗我部侍の反乱を鎮圧し、弾圧したりするのに費やされた。このようになったのも、いきなり大国を与えられたが故に招いた不手際が原因であった。
一豊の死後だが、山内家では他藩にない制度をつくる。郷士制度である。旧長宗我部侍への懐柔策が目的で、彼らを正式に郷士とし、田の作り取りを認め、武士の待遇をすることにした。これでようやく反乱が収まった。しかし、身分差別が手厳しく、同じ藩士でも高知城下に住む上士は、郷士を百姓同然にあつかい、その差別を藩は占領政策として200数十年奨励してきた。
人種が違うとまでいっていい。上士と郷士とは明治に至るまで、顔かたちが異なっていたと言われる。このあたり、アメリカ開拓史の白人とインディアンとの関係に酷似している。
徳川300年の間、押さえこまれていた郷士=長宗我部侍が群がるようにして起ちあがったのは、幕末になってからである。この階級から、坂本竜馬、武市半平太、中岡慎太郎といった人々が出て、幕末の風雲に飛び込み、ある者は、山内侍に弾圧され、ある者は脱藩しながら倒幕運動に参加し、やがて、薩摩、長州とならんで倒幕の原動力となった。
江戸幕府が、土佐の郷士階級出身の坂本竜馬が画策した大政奉還によって終焉したのは慶応3年(1867)、関ヶ原合戦から267年後のことである。長宗我部侍たちの関ヶ原は267年たってようやく終わったといえる。
関ヶ原の合戦は徳川幕府を生んだが、山内一豊の小山会議での発言が関ヶ原における徳川の勝利の一因となり、一豊は土佐の領主になった。そして山内家がつくった郷士階級出身の坂本竜馬がこんどは徳川幕府を終わらせた。このことを考えると、何やら歴史の因果というか、巡り合わせのようなものを感じる。 
見性院

 

(けんしょういん 弘治3年-元和3年(1557-1617) 安土桃山時代から江戸時代の女性。土佐国高知藩祖・山内一豊の正室。名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない。
出自は諸説あり、『寛政重修諸家譜』の記述により浅井氏家臣の若宮喜助友興の子説が有力とされてきたが、慈恩寺蔵の美濃郡上八幡城主・遠藤氏の系図に、遠藤盛数の女が山内一豊室であるとの記載があったことなどから、遠藤盛数の子説も有力になってきている。「まつ」の名は、討ち死にした若宮友興の娘「おまつ御両人」に宛てた浅井長政の安堵状が存在することによるが、このまつは一豊ではなく山内家臣の五藤為重に嫁いだことが明らかになっている。一方「千代」の名は、後述する新井白石が『藩翰譜』に記したエピソード中に出てくるが、こちらは一豊の養子となった忠義の実母の名と混同したとも言われ定かではない。なお、NHKの大河ドラマ『功名が辻』では、司馬遼太郎の原作に従い「千代」とされた。
父が遠藤盛数(永禄5年(1562)死去)とすれば、母は東常慶の娘で兄は後に八幡藩主になる遠藤慶隆である。しかし、見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母(天正10年(1582)死去)とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。
山内家には『東常縁筆古今集』はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが死去に当たり養子の土佐藩主山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも盛数の子説の根拠である。 
内助の功
『常山紀談』4巻「山内一豊馬を買れし事」による嫁入りの持参金または臍繰りで一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、主君信長の馬揃え(軍事パレード)の際に信長の目につき加増された話(類話に『治国寿夜話』)やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。歴史上においては、関ヶ原の戦いの前哨戦において石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名である。司馬遼太郎は「千代がいなければ一豊が国持ち大名になるなどありえなかった」と言い『功名が辻』の題材に捉えた。
千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は江戸時代中期の新井白石『藩翰譜』や室鳩巣『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。
一豊と千代のエピソードは、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして教科書などに多く採り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。それらを含めた見性院を題材とした作品は、山内一豊を題材にした作品を参照のこと。
子と余生
一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが、天災(天正大地震)により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお、育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前、あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。
一豊は弟・康豊の子・忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫・一豊が慶長10年(1605)秋に亡くなると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払い、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んで、そこで余生を過ごした。晩年は、母から贈られた『古今和歌集』『徒然草』などの和歌集を熱心に読んで過ごしたとされる。死去に際しては宗家がその最期を看取り、本人の遺言により、料紙箱や所有している和歌集が山内忠義へ贈られた。これらの和歌集は、後に幕府に献上されている。
元和3年(1617)、山城国(京都)で死去。享年60。奇しくも夫・一豊の享年と同じ年齢であった。墓所は高知県高知市の山内家墓所。京都妙心寺にも山内一豊夫妻の廟所がある。 
エピソード
へそくりで馬を買う
一豊が織田家に仕えたばかりのころ、安土へ東国一という名馬を馬喰が売りに来た。しかし余りの高額に、誰一人手を出せなかった。この馬で「馬揃え」に臨めば、さぞ信長公も感心されるだろうにと思った一豊は、その日帰って「貧乏ほど悔しいことはない」と、妻の千代に浮かぬ顔でこぼした。これを見た千代が訳を尋ね、「馬はどれくらいするのですか」と問うと、「十両だ」と一豊。千代は、ここが夫の生涯の一大事と考え、大切にしまっておいた十両を鏡箱から取り出し、そっと夫に手渡した。その金で名馬を手に入れた一豊は、ほどなく行われた馬揃えに名馬にまたがって堂々参加。これが信長公の目にとまり、信長の家来衆でなければ買う人もなかろうと、わざわざ東国から出てきたのに、空しく帰さず、よく織田家の恥をすすいでくれたと誉め、家も貧しいのに武士として大変立派な心がけと非常に感心し、二百石を賜ったという。これをきっかけに、一豊は出世していった。
笠の緒の密書
秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600)、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めるため、6月に大阪を出発し、一豊もこれに加わった。しかし、7月、下総の古川に到着した際、石田三成が家康を討つために挙兵したらしいことが伝わり、軍議が7月25日、下野の小山で開かれることになった。このとき、家康軍とともにあった一豊ら諸将は、秀吉の重臣三成に従うのが自然で、妻子も大阪にいたため、身の振り方に大いに迷った。ところがこの軍議の前夜、一豊のもとに早飛脚が着いた。飛脚は一豊の部下で田中孫作(米原市高溝)という。孫作は文箱とともに、笠の緒により込んだ一通の密書を一豊に手渡した。密書は千代夫人からのもので、「大阪のことは心配せず、家康に忠節を尽くすように」としたためてあったという。一豊は、文箱にはこれと同様の書状が入っていることを察知し、文箱を開封もせずにそのまま家康に届け、二心がないことを証した上で、家康側に就く決心を固めた。一豊は、翌日の軍議の席上、一豊の居城である掛川城を明け渡し、甥を人質に差し出すことを家康に申し出、諸将もこれに従った。これによっていち早く西へとって返すことができた家康は、関ケ原で三成を討った。この天下分け目の合戦に勝利した家康は、名実ともに天下人となったが、この家康勝利の糸口をつけたのは、まさに千代夫人の笠の緒の密書だったともいえるわけである。 
 
伊予松山城

 

伊予松山城1
四国・愛媛県松山市にある城跡。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城である。日本三大平山城にも数えられる。山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。この中では、姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式で、日本三大連立式平山城にも数えられる。
幕末に建築された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、当時の土木技術としては特筆される深さ44mにおよぶ本丸の井戸などが保存されている。敷地一帯は国の史跡に指定されており、建造物21棟は国の重要文化財に指定されている。
歴史
慶長7年(1602)、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した 。
慶長8年(1603)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
元和5年(1619)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、幕府の命を受け、嘉明が広島城受領のため赴く。
寛永4年(1627)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。
寛永11年(1634)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。
寛永12年(1635)7月に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎える。
寛永19年(1642)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。
正保4年(1647)、寛永の鎖国後、長崎に2隻のポルトガル船が入港したため、定行が家臣とともに海上警備に赴く。この時に持ち帰った南蛮菓子の製法が、銘菓タルトの原型とされる。
元禄16年(1703)2月、松平定直が幕府から江戸松山藩邸での預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹。
天明4年(1784)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。
文政11年(1828)、藩主・松平定通が文武の振興のため、藩学の拠点として明教館を創設した。
安政元年(1854)2月8日、時の藩主・松平勝善が天守本壇を落成させる。
安政6年(1859)5月、勝海舟の設計により、武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に砲台を築造する。
元治元年(1864)6月、幕府の命を受け、禁門の変に出陣。薩摩藩・桑名藩とともに長州藩と戦い、御所南門などの警備を行う。
慶応2年(1866)6月、幕府の命により長州征伐に出陣。屋代島を占領するも、速やかに兵を津和地島および興居島に引き揚げる。
慶応3年(1867)、藩主・松平定昭幕府老中職となる(大政奉還により辞任)。
明治元年(1868)、土佐藩が松山城を受領・保護(藩主は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される)。
明治3年(1870)、松山城三之丸が焼失。2年後に二之丸も焼失。
明治4年(1871)、廃藩置県により松山藩から松山県となる。
明治6年(1873)の廃城令による破却に本丸は遭わなかった。主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられるが入札はなく、解体のみ行われたようである(大蔵省所管)。同年、愛媛県が成立。
明治19年(1886)より昭和20年(1945)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。
明治24年(1891)、俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表する。また、 明治28年(1895)には、「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む(JR松山駅前に句碑がある)。
大正12年(1923)、松山城(本丸)が久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降、市の所有となっている。
1933年の松山城放火事件や戦時中の空襲により大天守を除く幾つかの建造物が火災で焼失。戦後の昭和40年代から忠実に復元され現在に至る。
昭和10年(1935)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定される。
天守(大天守)
創建当時には、現在、三重天守の建つ天守台に五重天守が建てられていたとされており、1642年に3重に改修している。それは、本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれているが理由は不明である。その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、現在も保存されている大天守は、黒船来航の前年である1852年に、石垣普請とともに再建工事が完了し、安政元年(1854)落成した3代目で、連立式3重3階地下1階構造の層塔型である。幕末に親藩大名松平(久松)家により復興されたものであるためか普請の精度は高く、建築材料には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用されている。五重天守である福山城天守(9間×8間)のものをしのぐ規模の切込みハギの石積み天守台(8間×10間)の内側に、地下1階が造られ、3重3階の木造内部には、層塔型天守の特徴とも言える武者走りが各階に設けられており、その内側である身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、かつ、床の間を設けている。外部は1・2階に黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられ、また、3階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には、格式を高める目的で実用でない外廻縁、高欄が付けられている。なお、鯱を含め屋根は瓦葺である。 日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられている。
仕切門内塀
本壇内庭の北側の防備を固める高麗門が仕切門であり、天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。ここを通過すると内庭の入口であり、櫓門である内門に達する。また、仕切門内塀は、本壇北側の石垣に面するとともに、南に折れ曲がって玄関多聞櫓(げんかんたもんやぐら)に達することから、本丸北曲輪や北隅櫓下の石垣に対する防備を担っている。
三ノ門東塀
本壇内庭の東側の防備を固める三ノ門は脇戸を省略した高麗門で、三ノ門東塀とともに二ノ門内側や天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。ここを通過すると大天守正面と筋鉄門東塀に挟まれた通路に至るが、天守の玄関がある連立式の特徴である内庭の入口には櫓門である筋鉄門が置かれている。
筋鉄門東塀
高麗門の一ノ門から薬医門の二ノ門にかけては、本壇入口に位置する単層櫓の一ノ門南櫓、一ノ門東塀、本壇の南東に位置する単層隅櫓の二ノ門南櫓、二ノ門東塀、二ノ門と筋鉄(すじがね)門東塀に接する単層櫓の三ノ門南櫓で仕切られた枡形となっている。また、筋鉄門東塀は大天守正面にある渡塀で、一ノ門やその南櫓と小天守とともに一ノ門前に虎口を形成する役割を担っている。
紫竹門西塀
紫竹門(しちくもん)は、西と東の続塀によって本丸の大手(正面)と搦手を仕切る役割を担う高麗門で、続塀には、弓矢や鉄砲で敵を狙うため正方形や長方形の狭間が設けられている。なお、紫竹門を含め、重要文化財に指定されている本壇(天守曲輪)一帯の建造物は、安政元年落成にかかるものであり、屋根には建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。
戸無門
高麗門の建築様式で、慶長の創建当初から門扉がないので戸無(となし)門の名がある。この門の手前にある太鼓櫓下の通路は、乾門方面(実は行止まり)と戸無門方面へ敵を分散させるための迷路となっている。
隠門続櫓
櫓門となっている隠(かくれ)門は、筒井門に達した敵の側背を襲うための埋門(うずみもん)となっている。隠門続櫓ともども小規模ながら、築城当時の面影を見ることができる。なお、築城時は「尾谷三ノ門」と呼ばれたとの説がある。
乾櫓
古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、搦手(からめて:裏側)方面の防備のための2重の隅櫓である乾(いぬい)櫓は、窓は格子・突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落しが設けられている。
野原櫓
「騎馬櫓」とも呼ばれる野原櫓は、西北の本丸石垣に面して建てられた二重櫓で、大入母屋屋根の中ほどに2間半の2階を載せており、望楼起源説による大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まったとする論拠となる構造で、石落し狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残る。 
伊予松山城2
松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築いた四国最大のお城です。
門櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた日本一の連立式天守を構えた平山城を言われております。
また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。
松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。
城郭建築は桃山文化の象徴です。武家諸法度により新たな(天守の)築城や増改築が禁止されたため、江戸時代を通じて作事(建築)技術は衰えていったと考えられています。しかしながら、幕末に落成した松山城天守は見る方向によって意匠が異なる複雑かつ厳重な連立式の構成となっており、本壇の石垣部分の普請(土木)技術を含め完全な桃山文化様式の技法といえます。
江戸幕府の武家諸法度は、天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたため、天災などで失った天守の再建を断念した城郭もありました。しかも、将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守も再建されることがなかったため、何とか再建の許しを得ても幕府に遠慮して「御三階櫓」と名乗ったりするご時世でした。
このような中、防備が厳重な連立式の本格的な大小の天守群の建造を、幕末に松山城ができたのは不思議とも言えます。しかも、本壇(天守丸)に、切込みハギの石垣を用いるなど、初代の加藤氏普請時より格段に精度の高い築城だと考えられています。
天守
大天守(重要文化財)
大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。また、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されています。大天守、小天守、隅櫓を廊下で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式城郭といわれています。大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。
連立式天守
連立式天守とは城郭の象徴である天守の構成分類の一つで、大天守・小天守・櫓を四方に配置し、多聞(たもん)櫓(長屋形式の櫓)でつなぐ形式をいいます。建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われており、「現存12天守」の中では、姫路城と同じ構成となっています。
松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。
歴史
松山城の創設者は加藤嘉明です。嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成します。当時の天守は五重で偉観を誇ります。しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。
そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。
なお天守は寛永19年(1642)に三重に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興しました。これが現在の天守です。その後、昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められました。
年表 (西暦/城主名/居城年(年数)/摘要)
1603 加藤嘉明(禄高20万石)慶長8年(25)慶長6年築城許可、同7(1602)年着工し、同8年正木城より移る。天守五重。寛永4年会津40万石に転封。
1627 蒲生忠知(禄高24万石)寛永4年(7)蒲生氏郷の孫、出羽上の山城より移封。二之丸完成。寛永11年逝去、嗣子なく断絶。
1635 松平定行(禄高15万石)寛永12年(24)寛永12年伊勢桑名より転封。徳川家康の異父同母弟松平定勝の子、寛永19年天守を三重に改築。
1658 同 定頼 万治元年(5)
1662 同 定長 寛文2年(13)
1674 同 定直 延宝2年(47)今治藩主松平定時の子、延宝2年就封。
1720 同 定英 享保5年(14)
1733 同 定喬 享保18年(31)
1763 同 定功 宝歴13年(3)
1765 同 定静 明和2年(15)
1779 同 定国 安永8年(26)天明4年天守への落雷で焼失。
1804 同 定則 文化元年(6)
1809 同 定通 文化6年(27)文政3年天守再建工事にかかる。
1835 同 勝善 天保6年(22)安政元年天守再建なる(現存)。
1856 同 勝成 安政3年(13)
1867 同 定昭 慶応3年(1)
1868 同 勝成(再任)明治1年(2)松平姓を返上し旧姓の久松となる。
1869 明治2年 版籍奉還明治3年三之丸全焼、同5年二之丸焼失。
1923 大正12年 久松定謨伯より城郭を寄贈され松山市の所有になる。
1933 昭和8年 小天守・南北隅櫓・多聞櫓放火のため焼失。
1945 昭和20年 乾門など戦災のため焼失。
1958 昭和33年 馬具櫓を鉄筋で復興。
1968 昭和43年 小天守・南北隅櫓・多聞櫓・十間廊下を木造で復興。
1971 昭和46年 筒井門を木造で復興。
1972 昭和47年 太鼓門を木造で復興。
1973 昭和48年 太鼓櫓を木造で復興。
1979 昭和54年 天神櫓を木造で復興。
1982 昭和57年 乾門同東続櫓を木造で復興。
1984 昭和59年 艮門同東続櫓を木造で復興。
1986 昭和61年 巽櫓を木造で復興。
1990 平成2年 太鼓門西塀を復興。
2006 平成18年 天守など7棟保存修理工事完了。
伊予松山城3 (別名・金亀城)
松山城の創設者である加藤嘉明は、元徳川譜代の武士であった広明を父にもち、6歳の時父が美濃国で逝去後、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20歳の時に賎ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。
その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に任ぜられ、また文禄(1592)・慶長(1597)の役には九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増される。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦においては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった加藤嘉明は、慶長7年(1602)道後平野のほぼ中心に位置する勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割りを行い、工事に着手した。
翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という公称が公にされた。
その後も工事は継続され、24年後寛永4年(1627)になってようやく完成をみた。
松山城は、海抜132mの勝山山頂部分に本丸を置き、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、北側に北の郭、東側に東の郭を設けた広大な規模を持ち、姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城であった。
本丸と二の丸の標高差は九十mあるが、この間にも山の稜線沿いに渡塀・石垣が構築されている。
本丸の全長は三百mにも及び、地形をうまく利用して櫓・門を配置し、壮大な石垣を築いて防御を固めている。
当時の天守閣は五層で偉観を誇った。
しかし、嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津に転封される。
加藤嘉明の会津転封後は、蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入封し、二ノ丸の造築を完成させたが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目で京都で病没し、嗣子がないので断絶する。
その後寛永12年(1635)7月伊勢国桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封ぜられて以来、14代世襲して明治維新に至った。
定行は寛永16年(1639)に幕府の許可を得て天守の改築にとりかかり、寛永19年に五層であったものを三層に変えた。
しかし天明4年(1784)元旦に落雷にあい、天守をはじめそのまわりの建物すべてが焼失した。
その後、藩の財政上の理由などによりなかなか再建されず、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て十二代藩主定穀(のちの勝善)の代の安政元年(1854)にようやく天守等の建物が再建された。これが現在の天守閣である。したがって松山城天守は城郭建築史における最末期の建造物である。
昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのために焼失しましたが、現在も天守は存在し、さらに、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められており、本丸一帯の小天守、太鼓櫓などの建物も復元され、本丸上の建造物は藩政時代の様相を再現している。
築城工事の逸話
築城に際し、まず本丸の位置が決定され、石塁の完成に全力が集中された。この時使用された石材は、付近の産地から産出したものも少なくなかったが、すでに廃城になっていた湯築城および正木城から運搬されたものも多かった。この運搬に際して次のような逸話がある。
正木地域から魚類を行商する婦人を『おたた』と呼んだ。このおたたが、嘉明の命を受け小砂を入れた桶を頭に載せて正木から松山へ持ち込んだ。このために、その桶を御料櫃と称するようになり、また嘉明の夫人が握飯を配り人々の労をねぎらったという。
その後、工事が進み瓦を山上に運ぶ頃、工事が渋滞したため、足立重信は近郷の農民を動員して三方から人垣を作らせ、手ぐり渡しにして一夜の間にその全部を運ばせ、嘉明を驚かせたと伝えられる。
明治維新と松山城
松山藩は松平家の入部により親藩大名となった。したがって幕末においては幕府側として「禁門の変」や「長州征伐」に参加したため明治維新では朝敵として追討を受けることになる。
当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしとする恭順論者と、薩・長藩と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主松平定昭は恭順論を入れ、ここに松山藩は朝廷に対し王命に敵対する心底のないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に入れ、藩主が常信寺において謹慎することとなった。
これにより松山藩の誠意は新政府の認めるところとなり追討は免れる。
このため松山城は戦火にさらされることなく、無事その姿をとどめた。
その後、廃藩置県により松山城は兵部省の管轄となったが、城郭廃止の命により大蔵省の所管となり、やがて大正12年(1923)、旧藩主久松定謨氏より松山市に寄贈を受けたものである。  
伊予松山城4
1600年 慶長5年 関ヶ原戦で戦功のあった 加藤嘉明が勝山に築城。1600年慶長7年から1627年寛永4年に完成。25年を費やしている。
加藤嘉明は 何をやるにしても一所懸命で、城造り 町造りも徹底した完璧主義。松山20万石には似合わない大規模な城で隅々にまで気を配っている。
26年も続く大規模建築ができたのは領民支配、農民統制がとれ善政を行ったからである。
山が余り高くなく 132mの勝山山頂は南北に二つの峰があったのを、平らに削り 山頂に本丸を山腹に二の丸を山麓に三の丸(城の内)を配した城構えで、いわゆる平山城である。
松山城は姫路城.和歌山城と同じく本丸の奥に独立した天守曲輪である「本壇」を形成する。
本壇は本丸北側中央に8mの石垣を築き 大天守.小天守.南隅櫓.北隅櫓と多聞櫓.渡櫓で結ばれた連立式天守である。
石垣は野面積み 角の部分は算木積み(積み上げた石がきっちり接着するように造られ、長方形の石を一段ごとに互い違いに積み強度を高めている。また 鼓石という工法で 石の形が鼓のように細長く胴がくびれているために、地震が起こっても崩れない。
壁は火災に遭った時 全て外に倒れ内側に火災が及ばない。
土塁も崩壊する時は 敵のいる外へ向けて倒れる。
松山城は他の城に比べて 櫓.門が多い。攻めてきた敵に対して側面から攻撃しやすい構造になっている。
攻守の優れた戦略的な城。詰めの城として山麓に居館、そして城下町とした。
大手門を過ぎ戸無門.筒井門へ 取り付くと、そこえ 隠門から敵の背後を襲う仕組みとなっている。
そして太鼓門を入り本丸へ出る。そこに至るまでの防備は急なつづら折りの虎口で厳重に守られている。
本丸は132mの山頂に 二の丸は山麓に 北側には北の郭 東側には東の郭。本丸の全長は300mに及び地形を利用し櫓.門を配置 壮大な石垣で防御を固めた。
本壇に入り天守に至るには複雑な迷路で行く手を何度もさえぎる。本壇入り口には一の門南櫓.二の門南櫓.三の門南櫓が守りを固める。本壇の天守外曲輪と天守内曲輪には虎口を固めるため、要所要所に櫓がある。
松山は平山城として非常に優れた地形をしていた。典型的連立式天守として姫路城.和歌山城.伊予松山城が代表される。
天守曲輪には大天守.一の門南櫓.二の門櫓、本丸では乾櫓.野原櫓.紫竹門.隠門が現存する。
天守は1784年天明4年の元旦に落雷により焼失、70年を経て1854年安政元年に現存の天守等が完成。
城郭建築史上最末期の建物として現存する。その他は戦災で焼失したが本丸一帯は復元された。
これらの建造物は藩政時代を再現している。腐食に強い楠の巨木が柱.梁に使われ、千鳥破風.黒の下見板張りの様式は慶長時代の面影を残している。
本丸と二の丸の標高差は90m 鬱蒼とした木々に覆われ、急なつづら折りになった石段を不安な気持ちで降りること20分、忽然と眼下に二の丸が現れる。
二の丸は藩主の私的な住居である奥御殿と政治を行う表御殿がある。
1627年寛永4年加藤嘉明の会津転封後、蒲生忠知tadatikaが二の丸建築群を完成整備した。
蒲生忠知は加藤嘉明により完成した城に1627年から1634年の7年間をこの二の丸で過ごした。
広さは1.8 ヘクタール 表御殿.裏御殿.櫓.門等は小さな藩の城郭程ある。
注目すべき点は大井戸で日本最大級。東西18m.南北13m.深さ9m 古図では三カ所の石階段があり、汲み上げた防火用水を床下を通って火災現場に運ぶ仕組みになっていた。又 浄化装置もある。
先人のすばらしい偉業である。残念な事に明治5年1872年の火災により焼失、昭和59年の発掘調査で発見された。
蒲生忠知は氏郷の孫。氏郷の子 秀行の二男。長男忠郷は会津60万石を継いだが25才で死に世嗣がなく、忠知も30才で死に蒲生家は断絶する。
城郭の三大要素は 経始keisi(縄張り).普請(土木工事).作事(建築工事)で経始.作事は親藩大名が行う。普請は堀.外壁天守等の土台石垣の土木工事で外様大名が受け持つ。
現存天守を持つ12城の内 名城の条件 経始.普請.作事の遺構を備えている城は松山.丸亀.松江.姫路.彦根。東照権現と呼ばれた家康の姓である松平の「松」を付けた名前が全国に広がった。松は常緑樹で四季変わること無く樹齢も長く長寿のイメージと美しい様相を見せる木「神の木」とも云われた。(松山.松阪.松江.会津若松.松代など)  
加藤嘉明・松山藩

 

伊予国は江戸時代、宇和島藩・吉田藩・大洲藩・新谷藩・西條藩・今治藩・小松藩・松山藩の8藩に分割された。関ヶ原の戦いで徳川家康側についた加藤嘉明が戦功によって10万石を加増され、海抜132m、周囲4kmの勝山(味酒山・みさけやま)を切り開き松山城を築城した。松山城は姫路城、和歌山城とともに、日本三大連立式平山城に数えられている。  
加藤嘉明と松山城
加藤嘉明は永禄6年(1563)三河国永良郷の生まれ。
父・岸教明(きしたかあき)は家康の家臣であったが、永禄5年(1562)三河一向一揆で一揆側に与して、一揆敗北後に流浪の身となった。その後、相次いで両親を失った嘉明は、少年期には馬喰をして辛苦の時期を過ごした。
15歳で秀吉の家臣・加藤景泰(かげやす)に見出され、小姓として秀吉に仕えることとなった嘉明は、この頃から加藤姓を名乗った。
天正11年(1583)4月の賤ヶ嶽の戦いで七本槍の一人として頭角を現し3千石を与えられ、天正13年(1585)に淡路志知城1万5千石を与えられた。
文禄4年(1595)には文禄の役の功績で加増され、福島正則と交代して松前(まさき・正木)6万石の城主となった。正木城は現在の松山城の西南・伊予郡松前町にあり、海岸に面している。公領4万石の管理も任された嘉明は正木10万石の城主となった。
関ヶ原の戦いで家康側について功績を上げ20万石を与えられた嘉明は、正木城が手狭なため築城許可を願い出て許され、慶長7年(1602)1月に築城を開始した。
嘉明が築城を企図した勝山は、南北朝時代に南朝が砦を築いた場所であった。
松山城築城の普請奉行に任ぜられたのは足立半右衛門重信と山下豊前の2名。嘉明も直接縄張りに携わった。
山頂への築城には多大の労力が必要とされたが、普請奉行の名采配で工事は着実に進行し、嘉明は慶長8年(1603)10月には入城し、勝山に数多い赤松にちなみ、この地の名称を「松山」に変えた。
松山城は本丸を山頂に、平時の屋形城を山麓に設けた実戦向きの城である。
出丸の北郭・東郭も出城に近いもので、戦闘を意識した築城プランが見える。
松山城の築城に際して普請奉行の足立重信は、まず石手川(当時は湯山川と呼ばれた)の流れを変える工事に着手した。
城下町を建設するためには、雨期になると決まって氾濫を繰り返し、勝山の麓を湿地帯としてしまう湯山川の流れを変えることが第一番の仕事であった。
土木工事の才を持つ重信は流れを変えて氾濫を防ぎ、田畑の灌漑を行い、且つ城の防衛ラインとした。
築城開始時の勝山は南北2つの峰があったが、足立重信は峰を削って谷を埋め、城郭建築可能な台地としてそこに本丸を築いた。
また谷にあった井戸には枠を積み上げてそのまま利用できるよう残した。現在、天守閣広場にある井戸がその名残である。
(足立重信の墓は御幸・来迎寺にある)
勝山頂上に築かれた本丸には5層6重の天守閣とともに小天守が築かれ、隅櫓と多聞櫓で天守曲輪を形成する連立式天守閣の構造がとられた。
天守は勝山の北の峰に築かれ、北側は断崖になっていた。
山頂におかれた本丸に対し、二之丸は中腹から南麓の平坦部に築かれ、その西南部に三之丸(堀之内)がおかれ、外周に堀がめぐらされた。二之丸、堀之内は明治3年(1870)、明治5年(1872)に火災に遭い焼失、後、市街地として組み入れられた。 
嘉明の城下町作り
加藤嘉明は家臣の屋敷割を自ら手がけたと言われる。
本丸東の東郭には嘉明の重臣・河村権七、北郭には佃十成、西堀端に足立重信の屋敷が作られた。
三之丸は城主が住む居館があるので高禄の家臣と精強な家臣団の家があった。
百石取り以上の家臣は堀之内や代官町(1〜4番町)に設けられ、本丸・二之丸・三之丸を囲む。
百石取り以下の家臣や足軽・中間は御徒町八町や町外れに置かれた。
寺町は城郭防御の一旦を担うため城北の御幸寺山麓に設けられた。
来迎寺・長建寺・千秋寺等が建てられている。
商人町は嘉明が豪商・府中屋念斎の意見を採択して西北部に「古町三十町」を造り、自ら二十町の縄張りをおこなった。 ここでは商工業発展を目指して地租が免除され、商人・職人の誘致が行われて職業別に町名がつけられた。
(畳屋町、鍛冶屋町、紺屋町、呉服町、魚町、米屋町、風呂屋町、etc.)
また城下を発展させるため強制的な移住も行われ、松前町や唐人町、道後町、今市町が移された。
城下への西の出入口となる三津口には同心が住み、町の治安を守った。
松前城下から町人を召集し、瀬戸内海交通の要所となる港町・三津浜を整備して松山城下の外港として御舟手(水軍)を置いた。松山の古町と三津浜は三津街道で結ばれ、瀬戸内海と結ぶことで水運貿易による松山城下繁栄を試みた。
元和5年(1619)頃から三津の朝市と呼ばれる魚市がたつようになった。
松山城では本丸、二之丸、三之丸と造営は続き、寛永4年(1627)にほぼ完成した。
しかし、嘉明は完成直前の2月、会津若松の城主として転封され、2代目城主として出羽国上山城より入城した蒲生氏郷の孫・蒲生忠知(ただちか)が最終的に松山城を完成させた。
忠知は寛永11年(1634)参勤交代の途中、京で病のために没し、嗣子が無かった蒲生家は断絶、幕府は中国・四国地方を抑える要として久松(松平)定行に藩主を命じた。 
松平家と松山 
久松家は家康の生母お大(伝通院)が再嫁した先であり、定行は伝通院の子・定勝の嫡男である。従って、定行の入部により松山藩は親藩となり、幕府にとっては高松藩とともに四国の要としての役目を果たすことになった。
寛永12年(1635)に伊勢桑名城主・久松(松平)定行が入部して以降、明治維新まで15代、松山城は237年にわたり松平家15万石の居城となった。同じ年、定行の弟・松平定房は今治藩3万石の領主として入部した。
寛永16年(1639)定行は城の大改修に取りかかった。寛永19年(1642)天守閣を3層4重に改め、赤土の山であった勝山に植林を行った。
定行が完成した天守閣は天明4年(1784)に戸無門・高麗門とともに落雷で焼失、藩財政の行き詰まりと天明の大飢饉の影響で再建までには時間がかかり、安政元年(1854)にようやく天守閣の再建が終了した。
定行は製紙・茶・牡蠣等の殖産興業にも熱心であった。又、干拓開発にも着手し、以降、明治に至るまで松山藩の新田開発事業は持続した。 
享保の大飢饉
享保17年(1732)の大飢饉に於ける松山藩の被害は甚大であった。
赤かび病による麦の凶作、加えて長雨とウンカ大発生による稲作の潰滅は松山藩全体を危機に陥れた。
藩では緊急用食糧(飢食)を支給する等の手当をしたものの、人口の約19%にあたる34,200余人が餓死したと伝えられる。
麦種を守って餓死した作兵衛の話はこの時のものである。伊予筒井村の小作農民・作兵衛は享保の飢饉に直面して妻・父・長男を次々餓死で失い、自らも麦種一斗を村人に託して餓死した。彼は後世・義農と称され、明治14年(1881)には義農神社が建立された。
この飢饉で多数の犠牲者を出した松山藩は農業行政の改革を迫られ、安永4年(1775)には貯銀米・備荒貯蓄の法が定められた。
松山藩が最も厳しい財政困難に直面したのは11代・定通(1804〜1835)の時であった。度重なる凶作、莫大な借入金の利子支払いに加えて、親藩として日光廟の修理への上納金3万両が定通の双肩にのしかかってきた。
定通は藩政の改革を行い、家臣給与の減俸を更に進め人数扶持給与とし、倹約令を施行すると同時に豪商や豪農に御用銀米を課し、上納した町人や農民に苗字帯刀を許す策をとり、財政建て直しを図った。
困窮する下級武士には給与を与えながらも農業を許し、更に救助米を与えた。厳しい政策の一方、ともすれば乱れがちになる士風を保つために藩校・明教館を開講して文武の奨励にもあたった。 
松平家と学問
松平家は4代・定直(さだなお)を始めとする好学の藩主を歴代輩出し、松山は文芸の盛んな城下町となった。
定直は儒学や国学に通じ、大月履斎(りさい)や大山為起を松山に迎え、自らも学んだ。
書道の明月、南画の吉田蔵沢も松山の出身である。
元禄時代以降は学問が量的に普及した時代である。学問により政治・社会を探究してどのようにあるべきかを問い、そこから自己の職分・本分を学ぼうとする姿勢が追究された。
儒学においても現実を客観的に見て実態を知ろうとする傾向が強くなり、荻生徂徠の登場によって思想界は新しい時代を迎えた。
徂徠の思想は為政者の社会的責任を明確にし、そこから政治姿勢を探り出すというものであり、時代が生み出した社会の諸問題の責任所在を明確化させた点で画期的なものであった。
徂徠の門下は徂徠の書斎に掲げられた額の名から「けん園社中」と呼ばれ、活発な活動をした。伊予でもけん園派が隆盛で僧・明月や宇佐美淡斎、杉山熊台(ゆうだい)等が出た。
10代藩主・定則は幼少より叔父・松平定信の薫陶を受け学問興隆に熱心で、文化2年(1805)に杉山熊台を登用して藩士の邸宅内に学問所・興徳館を創設した。
興徳館は生徒数が増え、文政4年(1821)に修来館と名を改めて三の丸東門付近に新たに建てられ、文政11年(1828)、11代・定通が修来館を藩校・明教館として日下伯厳(くさかはくがん)や高橋復斎(ふくさい)を登用して開講した。
朱子学者が登用されたのは松平定信による寛政の改革の影響で幕府の学問が朱子学に定められたこと(1780年 寛政異学の禁)により、松山藩でも朱子学を基本路線としたためである。
明教館は2千500坪の敷地に学問所・講堂・寄宿寮・蔵(蔵書館)等を備え、小学校と大学に別れ、8才以上、徒士(かち)以上の者が入学を認められて四書五経を中心にカリキュラムが設けられた。 
幕末の松山藩
徳川親藩の松山藩は、ペリー来航以来、幕府方としての行動を余儀なくされ、万延元年(1860)には神奈川台場を建設したり、京都守護を命ぜられたりした。長州征伐にも出兵し、第二次長州征伐では周防大島を攻撃・占領した。
しかし、長州藩の巻き返しにあえなく敗北、退却したが、このことが長州の恨みを買うことになった。
慶応3年(1867)、徳川慶喜による大政奉還時に14代藩主・松平定昭は老中職についていた。国元での藩主老中職就任反対運動にあい、大政奉還後は老中職を退任したが、松山藩=佐幕派の世間の見方は固定化されてしまった。
鳥羽・伏見の戦いが始まると摂津梅田村(現・大阪駅付近)の警護にあたっていた松山藩は藩兵を引き揚げ、政局を見守ったが、高松・大垣・姫路の諸藩とともに朝敵とされ、追討令が下った。
藩内は徹底抗戦と恭順派に分かれて紛糾したので定昭は三上是庵(ぜあん)の意見を聴くべく是庵を招聘した。
三上是庵は松山藩士で高橋復斎らに崎門学を学び、後、志をたてて江戸で学んだ後、松山藩から離れて自由な立場で学問に邁進した。 この間、吉田松陰や梅田雲浜(うんびん)らと親しく交わり、相互で影響を深めた。彼の思想は尊皇思想を根幹とし、大政奉還による王政復古を唱えていた。
慶応2年(1866)に松山に戻った是庵は、定昭に15万石の領土を朝廷に返還して恭順の意を表すよう説き、定昭に菩提寺・常信寺に隠棲するよう献策した。定昭は恭順に踏切り、前土佐藩主・山内容堂が問罪使を派遣して朝廷の意を伝えると、常信寺にこもって隠退し、恭順の意を表した。
土佐藩は無血入城して城を保護し、5ヶ月間駐留した。土佐藩の隊長・小笠原唯八の配慮で、長州征伐の恨みをはらそうと乗り込んできた長州藩をなだめて帰したため、松山領内は混乱を回避することができた。
やがて15万両の献金を条件に占領が解かれたが、15万両は財政に苦しむ松山藩にとって重圧であり、士族はわずかな金を与えられて士籍を離れた。
藩主・定昭は蟄居を命ぜられ、勝成が復職して松平姓から久松姓に戻るよう命ぜられた。
松山は昭和20年(1945)7月26日、第二次大戦の空襲で城を始めとして町の主要部分が廃墟になった。太鼓門、太鼓櫓、続門、巽櫓が焼失したが、その後松山市民の情熱で松山城は見事に木造復原された。 
加藤嘉明

 

加藤嘉明1
(かとう よしあき) 安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。近江水口藩加藤家初代。
父は徳川氏(松平氏)に仕えていた徳川譜代の武士である加藤教明(岸教明)。賤ヶ岳の七本槍の1人。通称は孫六。「嘉明」は晩年になってからの名乗りではじめ「繁勝」を名乗る。
秀吉時代
永禄6年(1563)、三河国(愛知県)の徳川家康の家臣である加藤教明の長男として生まれる。生まれた年の三河一向一揆で父の教明が、一揆側に属して徳川家康に背き、流浪の身となったため、嘉明も放浪する。
やがて尾張国(愛知県)で、加藤景泰(加藤光泰の父)の推挙を受けて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出され、その小姓として仕えるようになる。織田信長死後の天正11年(1583)には、秀吉と織田家筆頭家老の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いで、福島正則、加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。
秀吉は信長の統一政策を継承し、嘉明は天正13年(1585)の四国攻め、天正15年(1587)の九州の役、天正18年(1590)の小田原の役などに水軍を率いて参加した。それらの武功から、天正14年(1586)には淡路志智において1万5,000石を与えられ、大名となっている。
文禄元年(1592)からの秀吉の朝鮮出兵である文禄の役では、水軍を統率して李舜臣指揮の朝鮮水軍と戦った。その功績により、文禄4年(1595)には、伊予国(愛媛県)正木(松前町)に6万石を与えられている。その後、慶長の役においては、漆川梁海戦で元均率いる朝鮮水軍を壊滅させ、蔚山城の戦いでは明・朝鮮軍の包囲で篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ蔚山城(倭城)の清正を救援する武功も立て、10万石に加増されている。
関ヶ原
慶長3年(1598)8月に秀吉が死去すると帰国し、豊臣政権における五奉行の石田三成らと五大老の徳川家康の争いでは家康派に属する。
慶長4年(1599)、五大老の前田利家の死後に加藤清正らが三成殺害を企てた事件には、嘉明も襲撃メンバーに参加している。
慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝の謀反を主張し、討伐を発令すると嘉明も従軍する。家康らの大坂留守中に三成らが挙兵し、引き返した東軍(徳川方)と美濃(岐阜県)で衝突して関ヶ原の戦いに至ると、嘉明は前哨戦である岐阜城攻めや、大垣城攻めにおいて戦い、本戦では石田三成の軍勢と戦って武功を挙げた。留守中の伊予本国でも家臣の佃十成が毛利輝元の策動を受けた侵攻軍を撃退している(関ヶ原の戦い#伊予方面)。 戦後、その功績により伊予松山20万石に加増移封され、松山城を建築するが、完成する前に会津藩40万石に転封された。城が完成するのは蒲生忠知の時代のことである。
江戸時代
豊臣恩顧の大名であったため、家康に危険視されることを恐れて慶長19年(1614)からの豊臣氏との戦いである大坂冬の陣では江戸城留守居を務め、慶長20年(1615)の大坂夏の陣では2代将軍・徳川秀忠に従って徳川方として参加した。
元和5年(1619)には福島正則の改易で広島城の接収をおこなった。
寛永4年(1627)、会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減転封された後を受けて、会津藩40万石に加増移封された。寛永8年(1631)9月12日に江戸で死去した。享年69。
人物 / 武略
加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の1人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。
関ヶ原の前哨戦である岐阜城攻防戦では井伊直政が「岐阜城など一気に総攻めにして抜くべき」と述べたのに対して「岐阜城は堅固な城。一気に抜くことなど不可能で、精々根小屋を焼き払えるくらいだ」と述べて反対した。このため作戦をめぐって口論となり刀に手をかけるまでになったが、諸将が抑えてその場は落着した。だが嘉明は「敵は守りを充分に固めておらず一気に抜くことができる」と戦場を見て冷静に分析。そして攻め寄せた池田輝政と福島正則によって東軍はほとんど兵を損なわずに岐阜城を陥落せしめ、諸将は嘉明の作戦能力を賞賛したという(真田増誉の『明良洪範』)。
人物 / 政治
築城や城下町の建設などにも力量を発揮した政治家でもある。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、彼の騎馬に乗った銅像が建立されている。
人物 / 家臣に対する対応
嘉明は「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と発言している。力が弱かったとしても団結力と連携を活かせば恐るべき抵抗力を発揮するからとの理由である。逆に豪傑肌の人間は「勝っているときは調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と手厳しい。塙直之との確執もこの人間観に起因している部分が大きい。
嘉明の家中では槍の柄は長短いずれであっても可とされたが、槍穂の長さは4寸(約12センチ)と定められていた。つまり短すぎると甲冑・具足を貫くことができても身体にまで届かぬことがあるため「己を慎む者に失敗は無い。何事にも馴れたつもりで功者ぶる者は必ず仕損ずる者である」と嘉明は常に言っていたという。加藤家は平素からの躾を大切にすることが、一旦急の場合でもまごつかず失敗せぬものとされていた(山鹿素行の『武家事紀』)。
寛大な一面もあった。嘉明は南蛮渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は近習を叱るどころか残り9枚の小皿を悉く打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている(真田増誉の『明良洪範』)。
あるとき、小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという(真田増誉の『明良洪範』)。 
加藤氏(嘉明家)2
加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。加藤嘉明の加藤氏も景道の後裔を称している。景恒の代まで武田氏に仕え、その子景俊の時に三河国に移ったという。
ところが、『寛政重修諸家譜』には「加藤左馬丞朝明。清康君に奉仕し、三河国加気郷を領して加藤を号す。長男加藤孫次郎教明、広忠卿・東照宮につかえたてまつり、永禄六年一向門徒に一味し、のち三河国を退去す」と記されている。一説に、左馬丞朝明は岸氏ともいうが、加気郷の所在および岸氏の出自は不明である。
嘉明の出世
さて、教明が三河国を出奔したのは、永禄六年(1563)に起きた三河一向一揆に際して一揆に属し、主君家康と戦ったことが原因であった。三河を出た教明は諸国を遍歴したのち、足利義昭に仕え、ついで羽柴(豊臣)秀吉に仕え近江国矢島に三百石の知行を与えられたという。一方、教明が三河を出奔したとき、嫡男の嘉明は生まれたばかりの赤ん坊だったが、家人に抱かれて三河を脱出した。そして、十二歳の頃には近江国で博労していた。そして、十五歳のとき、美濃に馬を売りにいったとき、加藤景泰に見出され、その推挙を受けて羽柴秀吉に仕えるようになったと伝えている。教明の経歴、嘉明の博労説、いずれも確証があるわけでもなく、嘉明が一代で大名に出世したことだけは事実である。
いずれにしろ、嘉明は秀吉の長浜時代に仕えたことは確かなようで、数少ない秀吉子飼いの家臣であった。秀吉に仕えた嘉明は信長の四男で秀吉の養子となった秀勝に付けられた。ところが、秀吉が中国に出陣すると秀勝の許しをえず従軍、秀吉正室の怒りをかったが、嘉明を見込んだ秀吉によって三百石の食録を受けて直臣に加えられた。天正十一年(1583)、秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の合戦で敵将浅井則政を討ち取る手柄を立て、加藤清正・福島正則らと並んで「七本槍」の一人に数えられ三千石を与えられた。
天正十三年、四国征伐に従軍すると水軍を任せられて活躍、翌年、淡路国志智城主となり一万五千石を領する大名になった。翌十五年には九州島津攻め、十八年には小田原北条攻めに従軍、淡路水軍を率いて戦功をあげている。そして、文禄元年(1592)、朝鮮出兵が開始されると脇坂安治らとともに水軍の将として出陣したが、朝鮮水軍に苦戦を強いられ多くの戦死者を出した。戦後、一連の功によって加増を受け、伊予松前六万石に封じられた。
慶長二年(1597)、ふたたび朝鮮に渡海、藤堂高虎・脇坂安治らとともに朝鮮水軍を巨済島の戦いで撃破する功をあげた。帰国後、三万七千石を加増され統べて十万石の大名に出世した。とはいえ、淡路島にある江善寺には「高麗陣打死衆之碑」が遺されていて、嘉明出世のかげには多くの兵卒の死があった。
加藤氏の浮沈
文禄・慶長の朝鮮役は、磐石を思わせた豊臣政権に亀裂を走らせる原因となり、秀吉の晩節を汚す汚点ともなった。朝鮮に出兵した加藤清正・福島正則らの諸将(武断派)と、秀吉のもとで兵站を担った石田三成らの官僚(文治派)との間に埋めがたい溝が生じたのである。慶長三年、秀吉が病没すると豊臣政権をめぐって徳川家康と石田三成が対立、それに武断派と文治派の対立が絡まり、事態は泥沼化していった。そして、慶長五年、関が原の合戦が起こった。
秀吉の没後、嘉明は家康に接近しており、合戦が起こると福島正則らと大垣城攻めに参加、関が原の決戦では黒田長政らとともに家康方として奮戦した。結果、十万石の加増を受け、二十万石を領する大大名となった。嘉明は勝山の地に拠を移すと、新たに松山城の築城に着手し、新しい城下町を松山と改めた。以後、徳川大名として順調に過ごし、慶長十九年の大坂夏の陣では江戸留守居役をつとめ、翌年の夏の陣では秀忠に従って出陣した。元和八年(1622)には、秀忠の世子家光の「鎧着初め」の式に鎧を着せる大役を果たした。
そして、寛永四年(1627)、蒲生氏のあとを受け会津四十万石の太守となった。このとき、嘉明はいったん会津移封を辞退したが、重ねて命を受け辞すことあたわず会津に移住した。二十四年を費やした松山城が完成した年で、嘉明にすれば断腸の思いがどこかにあったのではなかろうか。ちなみに、松山には減封を受けた蒲生氏が入部した。
嘉明の死後、家督は無事嫡男の明成が継承した。ところが、明成は重臣堀主人と確執を起こし、出奔した主人は明成謀反のことを幕府に提訴し、将軍家蜜の直截で主人の敗訴となった。それでもおさまらない明成は、「会津四十万石に代えても主水の身柄を受け取りたい」と訴え、主水の身柄を受け取ると極刑に処して溜飲を下げた。しかし、その代償は会津四十万石の改易処分であった。しかし、嘉明の勲功によって、明成の子明友に近江水口二万石が与えられ家名は存続した。 
加藤嘉明3
子飼いの将
「賤ヶ岳七本槍」の一人。加藤教明の子。幼名は孫六。初名は茂勝。徳川家康家臣の父・教明が、三河一向一揆の際に主君と敵対して浪人。近江に移って羽柴秀勝(織田信長の四男)に仕えると嘉明もそれに伴って秀勝に仕えた。が、豊臣秀吉が播磨遠征に赴くと、嘉明は秀勝に無断で従軍。逆に秀吉にこの行いを称賛され、晴れて秀吉の直臣となった。賤ヶ岳の戦いで浅井則政を討ち取る戦功で3千石を拝領。天正13年(1585)には淡路志知1万5千石に加増された。以降は主に豊臣家の水軍の指揮官となり、四国征伐・九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵には水軍を率いて活躍。その間にも逐一加増され、慶長3年(1598)には伊予松前10万石の大名となっている。
疑惑の目
秀吉没後は家康に従い、嫡男・明成と家康の養女(保科正直の娘)を婚姻させ、関ヶ原の戦いで東軍に属した。本戦においては石田三成の隊と戦う他、崩れかかった福島正則を援護。さらに敗走する西軍を追撃する味方の中で嘉明の部隊だけが陣形を整えていた。その様は家康をして「何事にもつけ巧者である」と感心させたという。戦後、伊予松前20万石に加増。大坂の陣には徳川方に属すことを決めるが福島家に次いで豊臣家への内通を疑われ、彼等らとともに江戸留守居を命じられる。おとなしく観念し、代理として明成を従軍させる(冬の陣)。夏の陣では参陣を許され、将軍の周囲を護衛した。
政宗の監視役
大坂の陣では豊臣恩顧の大名として幕府から警戒された嘉明だが、晩年は信頼を得たようである。福島家改易の際には万一の挙兵に備えて備後に出陣。徳川家光の鎧着の介添役も務める。寛永4年(1627)会津転封を固辞した藤堂高虎が代わりに奥州の要所・陸奥会津40万石の大守に嘉明を推挙(この時の美談は戦前、教科書に載っていたらしい)。長年築城に取りかかっていた松山城の完成目前の嘉明は老齢と武勇の士が絶えたことを理由に固辞したが受け入れられず、やむなく会津へ移る。伊達政宗の抑えであるが、かねて不仲の政宗は恐怖と感じず大言を吐いたという。嘉明は鉱山開発・交通網の整備などを行い若松の発展に大きく寄与した。同10年(1631)死去。遺言として会津返上を願い出たが、聞き入れられなかった(結局は子の明成が返上するが)。加藤(嘉明)家は豊臣恩顧の大名ながら、福島家・加藤(清正)家等と違い、明成が御家騒動を起こした際にも大名(近江水口2万石)としての存続を許されている。 
諸説

 

石垣について
登り石垣とは
「登り石垣」は、中国にある「万里の長城」と同じく、山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的のため、ふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させたもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法と言われています。
国内の現存12天守の城郭では、松山城のほか彦根城だけにその存在が確認されており、当時の東洋三国(日本・朝鮮半島・中国)の築城交流史をうかがえる重要な資料として評価されています。
松山城では
水軍の将であった加藤嘉明公は、朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を拠点としており、その経験から松山城築城に際しても、「登り石垣」をふもとの二之丸と標高132mの本丸間の防備として用いたものと考えられています。
松山城の「登り石垣」は、南側の部分はほぼ完璧な形で残っていますが、残念ながら北側は一部分しか残っていません。古図には完全な形で描かれていることから、幕末以降に何らかの理由で、取り壊わされたものと思われます。
石垣
石垣は、近世城郭の大きな特徴で、中部地方より西に作られた城郭に壮大なものが築かれているのも特色の一つです。江戸幕府は、一国一城令や武家諸法度などにより、石垣の新設はもとより、修復に至るまで厳しく取り締まっており、城の防備能力を大きく左右することの証しともなっています(それに比べ天守以外の櫓の修復などについては、まだ緩やかでした)。松山城の石垣は、倭城の経験がある加藤嘉明公により、ほとんどのものが築かれており、特に本丸の高さ14mを超える屏風折の石垣などは壮大なもので、軍事目的を超えた芸術性をも楽しむことができます。なお、天守のある本壇の石垣は親藩松平氏によって再建されたと言われており、一段と美しい仕上がりとなっています。石垣が描く扇状の曲線美と、その上にそびえる壮麗な城郭、これも松山城の魅力の一つです。
石垣の刻印(サイン)
石垣をよく観察していると、さまざまな模様の刻印を見かけることがあります。この理由は、いろいろな説がありますが、一般的には、石工組頭のサインと言われています。これは、複数のグループが石積み作業に携わっていることから、責任を明確にするため、石材のグループ分けや石工達の作業範囲の区切りのために付けられたというものです。
松山城の紋章
松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍、徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」(三つ葉左葵巴)となっています。松山城の築城に着手したのは、西国大名であった加藤嘉明公ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に藩主となった蒲生忠知公が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。そして、1635年に松平定行公が藩主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。この間、天守は1642年に五重から三重に改修され、更に1784年の落雷で焼失した後、1854年に再建されました。これが今の松山城大天守で、現存12天守の中では、唯一、親藩(松平氏)が建築し、「丸に三つ葉葵」(通称:葵の御紋)が付された城郭となっており、わが国最後の完全な城郭建築である天守は、黒船来航の翌年に落成したことになります。
松山藩の松平家は、明治政府より旧姓である久松(家紋は星梅鉢)を名乗るように命じられ、華族に列せられた後、大正12年(1923)に松山城を松山市へ寄贈しました。当時、二之丸と堀之内は陸軍省の管轄で、一般市民の自由な立ち入りはできませんでした。
天丸とまつ姫
重要文化財である天守は、平成16年から平成18年にかけて大改修を行いました。松山城の「しゃちほこ」の材質は瓦ですが、標高約160mの位置で風雨や寒暖にさらされているため、81年目で交替しました。現存天守の築城が1854年であることを考え合わせると、今回の「しゃちほこ」は3〜4代目といったところでしょうか。新調されたしゃちほこの愛称を平成18年に全国へ公募したところ、南側(一の門から見える方)のしゃちほこが「天丸」、北側のしゃちほこが「まつ姫」と命名されました。この一対のしゃちほこが松山城のてっぺんから松山を見守っています。
侍の似顔絵
平成16年10月から平成18年11月まで、松山城の重要文化財である天守などを保全するための大規模な修復工事が行われました。これは、白ありによる被害の拡大や年数経過による瓦や壁などの傷みが大きくなったためで「平成の大改修」とも言われました。この工事の過程で発見されたのが、江戸時代に下見板の裏面へ墨で描いたと思われる侍の似顔絵です。この板が使われていた場所(大天守の2階)から推測すると、焼失後の天守本壇の再建時(1848-1854)の落書きだと考えられています。また、ここに描かれているのは誰なのかは分かりませんが、上から見た侍が紋の付いた「かみしも」を着用していることから、工事の指揮・監督をしていた作事奉行かもしれません。この下見板は天守閣内に展示してあります。
松山城大天守の不思議
天守とは戦闘のときにこそ、その存在価値があるのです。防衛の要として一大事のときにだけ籠城。日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もありません。床は板張りで天井板もないのが通例です。ところが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっているのです。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まであります。これは何を意味するのでしょう。当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定ではありません。 
 
宇和島城

 

宇和島城1
四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。国の史跡に指定されている。
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74m(80mとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。五角形平面の縄張り「空角の経始」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。
高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
さらに宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には『空角の経始』、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は堀も海も埋め立てられている。明治以降は、大半の建物が撤去されたが天守、大手門などが残され、昭和の空襲により大手門を焼失して現在は、天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。
歴史
天慶4年(941) 警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。
嘉禎2年(1236) 西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。
天文15年(1546) 家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。
天正3年(1575) 家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。
天正13年(1585) 豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。
天正15年(1587) 隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。
文禄4年(1595) 藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。
慶長元年(1596) 高虎、大改修に着手。
慶長6年(1601) 現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。
慶長13年(1608) 富田信高が伊勢国より転封し入城。
慶長18年(1613) 信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614) 伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封。
元和元年(1615) 秀宗、入城。
寛文2年(1662) 2代藩主・宗利、老朽化した城の改修に着手。
寛文11年(1671) 改修竣工。
明治4年(1871) 明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。
明治33年(1900)頃から櫓・城門などが解体される。
昭和9年(1934) 天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
昭和12年(1937)12月21日、国の史跡に指定される。管理団体は宇和島市。
昭和20年(1945) 太平洋戦争時、空襲により大手門焼失。
昭和24年(1949) 伊達家、天守と城山の大半を宇和島市に寄贈。市の管理下に置かれる。
昭和25年(1950) 文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定される。
昭和35年-昭和37年(1960-1962) 天守を解体修理。
天守
当初、藤堂高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662)から寛文11年(1671)に伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられたという。
慶長期
高虎の天守は、自然の岩盤の上に地業を施して天守台とし、初重に大入母屋屋根、2重目以上の平面は複雑に突出した外観であったが、初重平面はほぼ歪みのない正方形で、広島大学大学院教授三浦正幸は、この技術が後の歪みのない正方形平面を必要とする層塔型天守に応用されることとなったのであるという。実際にこの後、藤堂高虎によって亀山城に層塔型の天守が建てられている。
寛文期
現在に伝わる天守である。廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。壁には狭間や石落しなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であるといわれるが、実際はすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている。
外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げの各重に千鳥破風、唐破風を配置した外観である。天守の入り口には唐破風屋根で開放的な造りの玄関が用いられている。妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、また屋根瓦にも「九曜」が用いられている。 
宇和島城2 (別名・鶴島城)
宇和島は古くは板島といい、この地に初めて築城された年代は明らかでないが、天慶4年(941)橘遠保が宇和地方の豪族となり、砦を造ったともいわれている。
現在の城山は当時島であり、要害の地であった。
嘉禎2年(1236)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代天文15年(1546)高串道免城主の家藤監物の居城となって、板島丸串城といわれていた。
その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には豊臣秀吉が四国討伐を行うと、伊予は小早川隆景の所領となり、松前城を本拠とした。この時板島には、持田右京が城代として置かれた。
その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。この頃の板島丸串城は、山上の砦と山麓の屋形程度にすぎなかったものと思われる。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって、厳然たる城郭を築きあげた。
当時の宇和島城は外郭の約半分が海に接する海城であるとともに、標高八十mほどの山の頂上に本丸を築いた平山城でもあった。
現在でも宇和島市の市街地は、城を中心に五角形の形をなす。これは慶長元年(1596)に築城の名手である藤堂高虎によって構築されて以来のことである。
慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全般の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
この折に天守が建て替えられて、今でも遺る層塔型の新天守となった。
天守は、独立式で三層三階本瓦葺き、白壁の総塗りごめ造りで荘重である。正面最上層の屋根に唐破風、二層に大型の千鳥破風、その下に二つの千鳥破風を並べ、最下層にこれらの総てを受けた玄関に大型の唐破風がある。これらは各層の屋根とよく調和して、美しい姿と安定感をもち、江戸時代初期の貴重な天守となっている。なお、上り立ち門(市指定)や二の丸・藤兵衛丸・長門丸・代右衛門丸などの石垣遺構もよく保存されている。
しかし特徴であった五角形の外堀は明治維新後埋められ、建物も順次取り壊されてしまった。
さらに昭和20年(1945)の戦災で追手門(国宝)を焼失したので今はわずかに天守と上がり立ち門を残すのみとなった。
昭和24年1月、城山の大部分と天守は伊達家より宇和島市寄付され、市の管理に属した。同35年10月天守は国の文化財保護委員会(現文化庁)の許可を得、同委員会の指導監督の下に、解体修理を行い、同37年10月をもって、新装の姿を復元した。 
宇和島城(城山)3
”伊達十万石の城下町”と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた宇和島市は、日本屈指のリアス式海岸地帯にあります。城はその最深部、現市街地のほぼ中央にあり、慶長元〜6年(1596〜1601)の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張となっていました。石垣や天守、矢倉は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されていきますが、基本的な城構えは高虎時代のものを引き継いでいます。
現在、堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万平方mは失われてしまいましたが、本丸・二之丸などの郭を含む約10万平方mの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つに数えられる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されています。
また城山には400種の草木がうっそうと生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽玄の美の世界は、一見の価値があります。
天守
宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666)頃に再建、3重3階総塗籠式(そうぬりごめしき)、層塔型(そうとうがた)の天守です。各階の装飾性の高い破風(はふ)や懸魚(げぎょ)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。万延元年(1860)、昭和35年(1960)に大修理を受けていますが、昔の姿を今もなお伝えています。 
藤堂高虎

 

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
浅井家臣時代
弘治2年(1556)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民と変わらない状態になっていた。幼名を与吉と名乗った。
はじめ近江国の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。
豊臣家臣時代
やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、天正4年(1576)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に仕えて3,000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。後に秀吉から5,000石をさらに加増され、1万石の大名となる。
天正13年(1585)の紀州征伐に従軍し、秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。また、方広寺大仏殿建設のための材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられていた。天正15年(1587)の九州の役では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。
天正19年(1591)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。この時、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。
慶長2年(1597)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近する。豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。
慶長5年(1600)、家康による会津征伐に従軍し、その後の織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦する(岐阜城の戦い)。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。
戦後、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20万石に加増されている。
江戸時代
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢国津藩主・富田信高の宇和島藩への転封で今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
慶長19年(1614)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。
高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を造営し、釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという(釈迦如来像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。
家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、元和6年(1620)に秀忠の5女・和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。寛永4年(1627)には自分の敷地内に上野東照宮を建立している。
一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で会津藩と高松藩、熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。
晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630)10月5日に死去。享年75。後を長男の高次が継いだ。養子の高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。
墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市の高山神社に祀られている。屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。 
逸話
家臣への対応
ある時2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。この時高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうということかららしい。
高虎は家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え、「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという(江村専斎の『老人雑話』)。
加藤嘉明との対立
慶長の役において加藤嘉明と功を競い、終生仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
別の話もある。会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという(『勢免夫話草』)。
何度も主君を変える
高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し、「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世訓に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
徳川家康との逸話
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。
関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。
高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康は「どうしてだ?」と訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(高虎は大坂の役のあと、家臣らに自分が死んだら誰が殉死するか尋ねて、家康にそれを止めてくれるように頼んだことがあった)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという(山鹿素行の『武家事紀』)。
秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で。上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという(古賀桐庵の『良将達徳鎖』)。
元和2年(1616)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海大僧正を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。
政治家
武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。
三大築城名人の1人と言われる程の城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。
その他
講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。 

宇和島

 

宇和島城は、古くは板島と呼ばれ、かつては海岸線に沿った島であったといいます。
その板島に築かれた宇和島城の始まりは判然としないようですが、天慶四年(941)、藤原純友を追討した橘遠保がその功により宇和郡を領したとの記録が残され、いまも天然の良港を有していることから、平安時代には既に海賊の基地のひとつであったと推測されています。
鎌倉前期、この地方は西園寺公経の所領となり、室町末期には西園寺配下の武将家藤監物が板島丸串城に移り城主となったと記録されています。
秀吉による四国平定の後の天正十三年(1585)、小早川隆景が伊予国二十四万石を与えられると板島城はその支城となり、その2年後には大洲城主戸田勝隆の支城となり、板島丸串城には城代が置かれていました。
豊臣秀吉の四国平定の後は、小早川氏、戸田氏と城主が代わり、文禄四年(1595)、藤堂高虎が七万石の領主として入封します。
現在の地に天守が完成したのは慶長6年(1601)で、藤堂高虎が南予に入封してから約6年の歳月をかけ築城したものです。
高虎は入封後に板島を宇和島と改称しますが、高虎は板島の地形を利用して奇抜な縄張りを計画します。
板島の山頂に天守を抱く平山城として、その山麓を五角形に切り取り海と内堀で囲み構えとしたのです。
これが、現在の宇和島城を中心にすえた市街地形状に大きな影響を及ぼします。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍についた高虎は加増されて二十万石の大大名となります。
新たな居城として東伊予の今治の地に築城を始め、慶長十三年に今治城が完成するや高虎はそこを本拠として移り住みますが、この年高虎は伊勢国の津二十万石に転封となります。
宇和島には、代わって富田信高が十万石で入部します5年後には改易となり、慶長十九年(1614)、伊達政宗の長男秀宗が宇和島十万石に封じられ、以降、伊達家九代の藩主が維新までつづきます。
秀宗の母親は正宗の正室でなかったため、仙台の本家を継げなかったのですが、大坂冬の陣の戦功として、新たに宇和島十万石の大名に封ぜられたのでした。
当時、宇和島の地はまさしく「陸の孤島」でした。
伊達秀宗の一行が始めて宇和島の地に入ったとき、摂津(大阪府)の湊から船出し、海路で瀬戸内を通り豊後水道を抜けて、板島北側の大浦の浜に上陸したといいます。
江戸初期、城山(板島)の西側はすべて海でした。
現在の朝日町、寿町、築地町、そして枡形町、明倫町なども江戸期以降の埋立地で、伊達秀宗が入部した時には、麓まで海が迫っていた板島は陸繋島でした。
しかも、これを陸から分断するように堀を回し、「陸の孤島」宇和島の中でも、城山は宇和島の中でも孤島だったのです。
宇和島の八代藩主伊達宗城は、殖産興業を中心とした藩政改革を行い、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施するとともに、幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手しました。
宗城は、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と称され、幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えます。
しかし、宗城も公武合体論から最後まで脱却できず、鳥羽伏見の戦いに及んでも中立をとったので、藩としては新政府の主流に属すことはできませんでした。
「陸の孤島」宇和島が松山や本州と鉄道で結ばれるのは、昭和20年の国鉄予讃線の開通を待たなければなりませんでした。
この年の5月から8月にかけて、断続的に9回もの空襲が宇和島を襲います。特に7月28日の空襲は大規模なもので、3900世帯、13500人が罹災し、市街地の大半を焼失してしまいました。
昭和49年、宇和島と土佐高知を結ぶ国鉄予土線が全線開通し、大正期に3万人だった宇和島市の人口は、昭和55年に7.1万人を越えますが、それからは減少をつづけています。
平成の大合併により、旧北宇和郡の3町と合併して新「宇和島市」が発足、人口は9万人を超えて南予地方の中核都市となりました。
リアス式海岸を生かした養殖水産業(真珠、ハマチなどの魚類)が盛んではありますが、産業経済面では芳しくなく、人口流出が止まりません。 
 
城址諸説
福島正則

 

今でも戦国大名として根強い人気を博している福島正則(ふくしままさのり)という武将がいます。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦において東軍(徳川方)の主力として大活躍し、戦功によって備後国と安芸国49万8千石の大 々名となりました。しかし正則の晩年は信濃国高井野村において配所生活を送る不遇なものとなりました。その5年間という短い信濃国での人生について、あまり知られていないので紹介します。
栄華を誇った豊臣家が滅んでから4年後の元和5年(1619)6月9日、幕府老中から牧野駿河守忠成と花房志摩守正成に下記の奉書が渡されました。内容は 、福島左衛門大夫正則の領地を没収するにあたって1広島に派遣される人選について、2正則の妻の扱いについて、3正則の財産の扱いについて指示したものでした。この様な嫌な役目の使者として牧野忠成(越後国長岡藩主)が選ばれ ました。もしも広島召し上げを聞いた福島正則が逆上した場合、その使者は殺されるかもしれません。そういったリスクを少なくするために、 福島正則の側室の兄である牧野忠成が選ばれました。もう1人の花房正成は旧宇喜多家の家臣で、既に64歳を越えていました。宇喜多秀家が八丈島へ流されるとそこへ米を送り続けた情に厚い人物で、幕府にとっては殺されても影響の無い人物だったから選ばれたと思われます。
『幕府老中連署奉書』
1.左衛門大夫(福島正則)の御請取(領地)の次第、酒井宮内少輔、本多縫殿助を廣嶋(安芸国広島)へ遣わす事。
2.左衛門大夫の内儀(側室の牧野右馬允康成の娘)は、何方へ成りとも、かの覚悟の次第差し越すべく事。
3.金銀米銭、その他家財等、左衛門大夫の所存次第を以て、両国の舟でこれを運送すべく。ならびに家中の輩、妻子、家財相違有間敷事。      以 上
              6月9日  安藤対馬守(重信)
                     板倉伊賀守(勝重)
                    土井大炊助(利勝)
                     本多上野介(正純)
         牧野駿河守(忠成) 殿
         花房志摩守(正成) 殿
福島正則改易の理由は、「先に広島城の普請御制禁に背きにより、本丸そのほか悉く破却するべきむね仰せたまわりながら、少なく石塁を毀ちて命に応ぜし形なし。しかのみならず、無入たるに託してむなしく数日を送るの状、重疊等間のいたりに思し召した為」とされています。これまで福島正則の改易は、武家諸法度に反して無断で広島城の修築を行ったためと一般的に言われてきましたが、これを見ると無断修築の後に本丸など全てを壊せと命じたが、石垣を一部壊しただけで、日数をかせぎ、命令に応じなかったためと書かれています。もしもこれに応じていれば改易までは至らなかったかもしれません。いずれにせよこれにより、49万8千石が没収されて陸奥国津軽郡4万7千石に移封となることが伝えられました。
その後の7月2日、酒井宮内大輔忠勝と牧野駿河守忠成が、老中奉書をもって「津軽は遠路たるにより、領地の辺りに移さるべき旨」として、津軽行きの取り止めが福島正則に伝えられました。最初の改易通告からこの1ヶ月間に何があったのでしょう?
それは津軽家の大反対があったからと云われています。津軽氏は豊臣秀吉の時代に、南部氏から宿願の独立を果たして津軽郡4万5千石を手に入れました。そして慶長16年(1611)に 、数年かけて高岡城(後の弘前城)を建設し、青森の開港や新田開発などの大事業を成し遂げていました。それらの努力が福島正則との入れ替えによって水の泡と消えてしまいます。当時の領主であった津軽信枚(のぶひら)は、陸奥国大沼郡出身の天海を介して幕府に反対を申し入れました。何故津軽氏がこのような問題に巻き込まれたのでしょうか?一説には関が原の戦いにおいて、家中を二分するお家騒動を起こしたためだと 云われています。さらに津軽と福島の接点と言えば、津軽信枚の正室満天姫になります。満天姫は元々福島正則の養嗣子(別所重宗の子)であった福島伯耆守正之の正室でした。徳川家康の養女として嫁いだのですが、夫の正之は慶長12年(1607)正則に狂気した者として幽閉され、殺されてしまいました。その後、彼女は正之の子を身籠り(後の大道寺直秀)ながら津軽氏へ再婚していきました。 こういった腐れ縁も理由になっていたかもしれません。何れにしても、表向きはこれまでの功労によるものとされ、津軽信牧には加増の越後国村上10万石(一説に川中島ともある)が言い渡されました。信牧は家臣を江戸へ派遣して「ありがたい話しですが、津軽は先祖代々の土地で相伝の地でもある。先祖の墓もあり苗字と同じ地なので辞退したい。」と申し入れました。さらに「4万5千石のままにて10万石格の勤めを果たすので、移封を取り消してもらいたい」と言上しました。老中側も「尤もである」として、取り消しとなったと記録にあります。
7月22日、福島正則には津軽郡に代わって、越後国魚沼郡の内2万5千石と信濃国高井郡の内2万石の合わせて4万5千石が与えられました。 9月になっても正則が配所へ移らないので、幕府は催促しました。そして10月上旬に、高井郡高井野村の堀之内(高山村)という場所にあった、それまで幕府代官所(井上新左衛門)として使用していた屋敷に入って蟄居生活を送りました (高井野へ移る前に須坂に2年間居住したとの説もありますが、場所や理由が不明です)。 この屋敷は現在、長野県指定史跡「福島正則屋敷跡」として一部が保存されています。当時の屋敷の大きさは、東西54間、南北50間、幅3間の土塁を巡らし、さらにその外側に3間の空堀がありました。この高井野村は正則領として最大の石高の村でした。
正則が与えられた領地は下記になります。(参考)
〜領地目録〜
○高山村 / 高井野村、中山田村、駒場村、奥山田村、黒部村
○須坂市 / 村山村、中島村
○小布施町 / 小布施村、羽場村、矢島村、松村神田村、雁田村、清水村、六川村、山王島村、北岡村、中小塚村
○中野市 / 間山村、更級村、新野村、篠井村、新保村、東江部村、西江部村、草間村、立ケ花村、牛出村、安源寺村、安源寺新田村、栗林村、片塩村、吉田村、岩舟村、西條村、一本木村、竹原村、若宮村、七瀬村、大俣村、厚貝村、間長瀬村、金井村、上笠原村、下笠原村、壁田村、越村、赤岩村、柳沢村、田上村、松川村、北大熊村、荒井村、田麦村、小田中村、高遠村、灰塚村
○山ノ内町 / 戸狩村、夜間瀬村、上条村、寒沢村
上記村々の名は、現在の字名となって生き続けているものもありますが、明治時代の合併によって消滅した村名もあります。参考として掲載した地図を見ても分かるとおり、福島正則領は中野市(旧豊田村除く)と高山村のほぼ全域と、山之内町と小布施町の半域を占めていました。福島正則領以外の村々は、中野市では中野村が旗本河野氏、大熊村が松代藩、小沼村と桜沢村が幕府、岩井村が飯山藩の領地 。小布施町では、押切村が飯山藩、飯田村・中条村・大島村が旗本小笠原氏の領地。山ノ内町では、佐野村・湯田中村・沓野村が幕府領。高山村では牧村だけが旗本小笠原氏領でした。 よくこの時の記述に「福島正則は川中島2万石を」と書かれたものを見掛けますが、実際には旗本の近藤重直と井上庸名が伊那郡へ移封されるのと引き換えに、川中島ではなくもっと北側を与えられました。当時の呼称で川中島に該当する松代は、広島城受け取りにも出向いた酒井忠勝の領地でした。正則がここを与えられたのは、酒井忠勝がその監視役に選ばれ、 移封し易い旗本領がちょうどその北側にあったためであるとも云われます。先に述べた7月2日酒井忠勝が使者となった書状に「領地の辺りに移さるべき」とあり、自領の川中島の付近の事を差しているともとれます。
福島正則は、家老の津田三郎兵衛、星野甚左衛門、津田四郎兵衛、大岡猪右衛門など30人ばかりだけを引き連れて、信濃国へ移封しました。そして出家して「高斎」と名乗りました。その他判明している家臣としては、中村忠左衛門、大西孫左衛門、松浦庄左衛門、滝惣左衛門、林九郎左衛門、水谷又左衛門、牧村喜兵衛、小泉九郎右衛門などで、多くに正則と同じ「左衛門」と付いているのが興味深いです。それから1年も経たない元和6年 (1620)、ともに関ヶ原などで戦ってきた嗣子の福島忠勝が病死しました。忠勝は高井郡小河原村(須坂市)の大乗寺に葬られました。大乗寺には大きな石塔が残っていますが、「正勝」と刻まれています。元々正勝という名で、将軍秀忠より「忠」の字を賜って忠勝と名乗っていたので、このような不遇な扱いを受けた恨みも重なって「忠」の字を外して墓石としたのかもしれません。これによって正則は、理由は明かではないのですが越後国魚沼郡2万5千石を幕府へ返上しました。
元和7年(1621)3月、江戸にあった屋敷を幕府に没収され、姫路藩主の池田忠雄に与えられました。 この頃から福島正則は領内の検地や新田開発をしきりに行いました。この時に築いた「大夫千両堤」という長さ80m余の堤防が高山村を千曲川に向かって流れる松川沿いに残されています。
寛永元年(1624)7月13日福島正則は死亡しました。享年64歳。幕府は堀田勘左衛門正利を検使として配所へ派遣しますが、家臣の津田三郎兵衛が事前に雁田村岩松院(小布施町)において火葬してしまい、それにより領地2万石は没収となりました。京都の妙心寺に墓所を設け、高井郡雁田村の岩松院には霊廟を造りました。
これにて福島家は無禄となるかと思われましたが、福島正則の息子である正利は、徳川秀忠(正宗の刀、青木國次の脇差、きのめの肩衝)、徳川家光(大光忠の刀、大森義光の脇差、あふらの茶入)、徳川忠長(切刃貞宗の刀、義光の脇差、修理肩衝)へ宝物を献上しました。この甲斐もあってか寛永5年 (1625)2月、正利に大熊村、高井野村、雁田村、駒場村、山王島村、中島村 の3千石が与えられ旗本となりました。旗本なので、正利自身は江戸で過ごし、高井野村へ来ることは無かったと思われます。そして正利は12年後の寛永14年(1637)に死亡し、子が無かったために再び福島家は領地没収となりました。それから45年後の天和2年(1682)、京都に居住していた福島忠勝妾腹の福島正長の子正勝、いわゆる福島正則のひ孫が、旗本として2千石を与えられ御家の存続が叶いました。
現在、福島正則死後の旧領民が書いた文書が残っています。そこには「高斎」と呼び捨てにされています。通常は○○殿や○○様と敬称を付けたり、名の前を一行空けたりしますが、正則はされていません。当時の村々の者達にとっては単に流罪人に過ぎなかったのかもしれません。
福島政則年表
1561年 尾張国美和にて生誕。
1583年 賤ヶ岳の戦いで戦功をたてる。
1595年 清洲城主となる。
1600年 会津征伐・小山会議・岐阜城攻撃・関ヶ原の戦い
1615年 豊臣家滅亡の際には、江戸城にて留守部隊を命じられる。
1619年 減封、蟄居。
1620年 正則嫡子、正勝死去。越後の所領を返上する。
1621年 領内の総検地を行う。
1624年 死去する。享年64歳。
 
岩松院(信州小布施町)
正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定め海福寺の寺号をつけました。墓は高さ2.5mの五輪塔、台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれています。岩松院は、葛飾北斎の鳳凰天井画でも有名です。 
 
小田原城

 

 
小田原城1
神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、江戸時代には小田原藩の藩庁があった。
北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。3代当主北条氏康の時代には、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
北条時代において外郭は総延長9Kmに及んだ。慶長19年(1614)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。
復興天守現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。佐倉城や川越城などのように、土塁の城の多い関東地方において主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは 寛永9年(1632)に始められた大改修後のことである。2代藩主大久保忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
なお、小田原藩大久保氏の大名となった支藩(分家)には荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)がある。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633)と元禄16年(1703)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは 宝永3年(1706)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。  
室町時代
元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったが、室町時代中期、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げた。
明応4年(1495)(ただし年代をそれ以後とする説もある)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。
1561年、上杉謙信が越後から侵攻。鎌倉を陥落させた後11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍を撃退。
1569年、10月1日から4日にかけて甲斐から進撃してきた武田信玄の軍勢2万余りに包囲される。信玄自身落城させるのは不可能と悟っており、大きな戦闘はなく、城下に火を放つ程度であったという。とはいえ本拠を荒された北条氏の面目もあり三増峠の戦いの前哨戦となった。
安土桃山時代
天正18年(1590) 豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。一般的に小田原征伐(最近は「小田原合戦」が主流)と呼ばれるこの戦役において秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成した(宇都宮仕置)。
江戸時代
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。小田原旧城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏(藤原北家宇都宮氏流)が居城した。一方北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)1万余石を治める外様大名として明治に至っている。  
 
小田原城天守閣
天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものです。古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60mの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。
常盤木門
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成しました。常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
銅門
銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
小田原城2
近世の小田原城は本丸を中心に、東に二の丸、三の丸を配置し、西に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪(雷曲輪)、北に御用米曲輪を設けていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に南曲輪、二の丸南側に御茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁財天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。本丸に複合式層塔型3層4階の天守を置き、往時には8基の櫓と13棟の城門が造られた。江戸末期には海防のため、海岸の3ヶ所に台場が建設され、32門の和・洋式大砲が配備されている。元禄16年(1703)の大地震により小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまうが、天守は宝永3年(1706)に再建されて、小田原城の象徴として明治時代までそびえていた。しかし、明治3年(1870)から明治5年(1872)にかけ、城内のほとんどの建物は破却された。さらに、大正12年(1923)関東大震災により、唯一現存していた二の丸平櫓は石垣とともに倒壊、それ以外の石垣もことごとく崩壊し、本丸周囲の鉢巻土塁もすべて失われている。昭和25年(1950)関東大震災で崩れたままになっていた天守台の石垣が修復され、昭和35年(1960)その天守台に宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や天守模型を参考に、鉄筋コンクリート造りの天守が外観復興された。しかし、観光用ということで最上階に本来存在しなかった高欄が取り付けられている。続いて、昭和46年(1971)明治初期に撮影された古写真などを参考に、常盤木門(ときわぎもん)が木造で復元された。本丸の正面に位置する常盤木門は、多聞櫓と渡櫓から枡形を形成し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが判明している。常盤木とは常緑樹の意味である。平成9年(1997)発掘調査や古写真、絵図などを基に、銅門(あかがねもん)が当時の工法で忠実に復元された。二の丸の表門である銅門の名称は、大扉などに使われた飾り金具に銅が用いられたことに由来する。枡形門形式であるが、一の門が埋門と珍しく、二の門は櫓門となる。平成21年(2009)には馬出門が復元された。馬出門は大手筋となる馬屋曲輪に位置し、二の丸を守るため高麗門形式の馬出門と内冠木門から枡形を成す。昭和10年(1935)二の丸南東隅の二の丸平櫓が復興されたが、予算の関係で半分の規模となっている。小田原城の三の丸への出入口は、大手口、幸田口、箱根口があり、それぞれ大手門、幸田口門、箱根口門を設けていた。当初は箱根口の付近にあった大手門を、稲葉氏が小田原藩主であった寛永10年(1633)に、3代将軍の徳川家光(いえみつ)の上洛に備えて、江戸に向く地に大手門を移し、東海道から大手門までの道は将軍家が小田原城に入るための御成道として整備された。現在、この大手門の北側の櫓台のみが現存している。そして、この北櫓台の石垣の上には鐘楼が建てられている。この鐘楼はもともと三の丸の浜手御門にあったものだが、大正年間(1912-26)この場所に移された。貞享3年(1686)の『貞享三年御引渡記録』に「小田原の時の鐘は昼夜撞いている」という記事があり、現在も朝夕6時に撞かれて時を知らせている。南方の箱根口門から入城すると、小峰橋と銅門に架かる住吉橋を経て二の丸に入ることができる。江戸時代、将軍家にお茶を献上するために、宇治から御茶壺道中と呼ばれる行列によって御茶壺が運ばれた。小田原城内には運搬されてきた御茶壺を保管するための御茶壺蔵が設置されており、この御茶壺が小峰橋を往復したため御茶壺橋とも呼ばれた。  
幸田口は、北条氏時代から江戸時代前期にかけての中世小田原城の大手口であったと考えられている。現在も幸田口門跡の周囲には、三の丸の土塁が残されている。現在の小田原城址公園は、近世小田原城の主郭部である。戦国時代に関八州に覇を唱えた小田原北条氏の本城である中世小田原城の主郭部は、裏手となる標高69mの八幡山にあった。現在の県立小田原高等学校のある一帯で、八幡山古郭と呼んで近世小田原城と区別している。北条氏の5代当主の氏直(うじなお)は、従臣を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ有力支城を強化して総動員体制を整えていた。特に小田原城と城下町をまるごと囲む全長9kmにおよぶ長大な大外郭(だいがいかく)を構築して決戦に備え、これにより中世城郭史上類のない戦国期最大の城郭が完成した。そして、秀吉との交渉は決裂、氏直は国境線を固めるとともに、小田原城に6万の主力部隊を投入し、領内100ヶ所におよぶ支城群の防備を固めて防衛体制を整えた。一方、秀吉の軍勢は水陸あわせて22万といい、徳川家康、織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷(うじさと)、羽柴秀次(ひでつぐ)、宇喜多秀家(ひでいえ)、池田輝政(てるまさ)、堀秀政(ひでまさ)などが小田原城を包囲した。そして、3ヶ月におよぶ籠城戦を展開する。北条氏は各地の支城に籠って防戦し、機会を見計らって反撃に転じる作戦であったが、主力部隊の籠る小田原城を大軍勢で封鎖されている間に、各地の支城が個別撃破され、次第に孤立していった。ついに氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出ている。しかし、秀吉はこれを認めず、主戦派であった氏直の父で4代当主の氏政(うじまさ)、その弟の氏照(うじてる)に切腹を申し付け、氏直は高野山に追放となった。そして、氏政、氏照の介錯役を2人の弟である氏規(うじのり)が務めた。そして役目を終えた後、その太刀を自らの腹に突き立てようとしたところ、徳川家康により派遣されていた榊原康政(やすまさ)、井伊直政(なおまさ)らが駆け寄って取り押さえ、説得して思い留まらせた。家康は氏規が自害する可能性を危惧していたのである。家康と氏規は、幼少時にともに今川氏の人質として駿河今川館(静岡県静岡市)で過ごしており、旧知の仲であったとされる。こうして小田原北条氏は滅亡した。戦後、北条氏の領土であった関東250万石は徳川家康に与えられ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から転封となった。家康は武蔵江戸城(東京都千代田区)を居城とし、小田原城には豊臣秀吉の指示もあり4万5千石で大久保忠世(ただよ)を配置した。このとき、城の規模は三の丸以内に縮小された。徳川家の中でも勇将として知られる大久保忠世は、かつて三河一向一揆で家康の家臣の半分以上が一向一揆軍に加わり、家康が窮地に立たされているとき、大久保一族をあげて家康に味方して活躍した。そして、一揆が鎮圧されると、一向一揆軍に付いた本多正信(まさのぶ)や渡辺半蔵などの帰参を助けている。忠世は病が重くなり死期を悟ると、三河一向一揆の際に徳川家康から賜った感状を取り出し、後世に伝えるべきものではないとして破り、家臣に命じて柩に入れさせた。これは、一揆に参加して、忠世のとりなしで帰参した者たちへの思いやりであったという。文禄3年(1594)忠世が没すると長男の忠隣(ただちか)が6万5千石に加増されて跡を継ぎ、慶長15年(1610)には老中として幕閣に入った。ところで、かつて小田原城内には「氏康柱」というものがあった。  
北条氏3代当主の氏康(うじやす)のとき、家臣の荒川某という者が逆心を企てたため、氏康は家臣がいる前でこれを手討ちにした。このとき太刀は、勢いあまって鋒書院(ほこしょいん)の柱に大きく切り込んだという。この柱に付いた刀傷は北条家にとって重要な遺産となり、柱に蓋を取り付けて、氏康の死後も大切に保管された。そして、ときどき蓋を開けては不心得の懲戒のために見せしめたという。ある時、徳川家康が上洛の途中で小田原に立ち寄り、かの有名な「氏康柱」を見せるよう城主の大久保忠隣に命じた。これに対して忠隣は、鉾書院の老朽化が激しく柱根も朽ち果てたため、近ごろ建て直しをおこない、その柱も捨ててしまったという。しかし、その昔に鈴木大学が使っていた弓ならば、今も玄関にかけてあるので、こちらを見てもらおうとした。すると、家康はたちまち不機嫌になり、忠隣に説教を始めた。北条家は初代早雲(そううん)、2代氏綱(うじつな)の時代には伊豆と相模の2ヶ国のみを領したが、氏康の代になると次第に版図をひろげて、ついに関八州に覇を唱えた。しかも氏康といえば、まだ若年の頃、河越夜戦にてわずか8千の兵で上杉氏の8万3千の大軍を切り崩し、天下に武名を轟かせた英傑である。その氏康の名を背負った柱なのだから、朽ちたとしても根を継ぐなどして保存しておけば、後々までも見る人の武道の励みになるものを、勝手に捨ててしまうなど軽率なおこないである、と言うのである。そのうえで、「大学の弓などは叩き折って捨ててしまえ」と怒鳴った。家康から叱責された忠隣は、全身に汗をかいて退席したという。江戸幕府が成立すると、幕府内部では大久保忠隣とその与力であった大久保長安(ながやす)を中心とした武断派と、家康の謀臣として権勢を振るう本多正信(まさのぶ)・正純(まさずみ)父子を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、政治的な確執によって激しく対立した。大久保派には本多忠勝(ただかつ)、榊原康政が与し、本多派には土井利勝(としかつ)、酒井忠世(ただよ)が与した。慶長17年(1612)岡本大八事件が発生すると、本多派の権勢は衰退し、大久保派が優位に立つこととなった。大久保長安とは「天下の総代官」といわれた人物で、慶長5年(1600)大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、慶長6年(1601)甲斐奉行、石見奉行、美濃代官の兼務を命じられている。さらに、慶長8年(1603)佐渡奉行、所務奉行、慶長11年(1606)伊豆奉行にも任じられ、全国の金銀山の統轄の一切を任されていた。もともとは、武田信玄(しんげん)に仕えた大蔵太夫十郎信安(のぶやす)という猿楽師の次男であり、信玄に見出されて家臣として取り立てられ、武田領国における鉱山開発などに従事したという。甲斐武田家が滅亡すると、長安は家康の家臣として仕え、大久保忠隣の与力に任じられて、大久保姓に改めた。天正19年(1591)には家康から武蔵国八王子に8千石の所領を与えられるが、北条氏照の旧領をそのまま与えられたらしく、実際には9万石あったという。まったくの外様でありながら、慶長8年(1603)には老中となり、異例の昇進を遂げている。しかし、晩年になって各地の鉱山からの金銀採掘量が低下すると家康からの寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていった。慶長18年(1613)大久保長安は卒中で死去する。このとき、派手好きであった長安は、自分の遺体を黄金の棺に入れるように遺言したという。大久保派の主要人物である長安の死により、本多派の反撃が始まった。  
本多正信・正純父子は、大久保長安が不正に金銀を着服し、謀反を計画していたと讒言、黄金の棺の存在を知った家康は激怒した。埋葬されていた長安の遺体を掘り起こし、安倍川河原で斬首して晒し首とした。さらに長安の7人の息子は全員処刑され、姻戚関係にある諸大名も連座して処分された。長安の寄親であった大久保忠隣は、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)からの信任も厚かったため、この大久保長安事件での処分は免れている。しかし、本多派の陰謀はその後も続き、慶長19年(1614)ついに改易となった。忠隣失脚に連座して大久保派の全員が改易され、忠隣の居城であった小田原城も大部分が破却された。小田原城には小田原北条氏が築いた大外郭という惣構えがあり、『北条五代記』などに「めぐり五里」と記載されるように、城下町全体を包み込む外郭の周囲は総延長9kmにおよび、戦国期には日本最大の城郭であった。徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、この小田原城の惣構えを撤去させている。結局、本多正信は、大久保忠世から三河一向一揆の際に受けた恩を、その息子である忠隣に仇で返したことになる。以後5年間は小田原城は幕府直轄の番城となった。家康の死後、井伊直孝(なおたか)は徳川秀忠に対して、冤罪により井伊家預かりとなっていた大久保忠隣の赦免を嘆願しようとしたが、忠隣は家康に対する不忠になるとして固辞した。ただし、大久保忠隣の嫡孫に当たる大久保忠職(ただもと)は、外祖母が家康の長女である亀姫であり、家康の曾孫にあたるため、武蔵国騎西藩2万石に蟄居させるだけに留めて、特別に大久保家の存続が許されている。元和5年(1619)阿部正次(まさつぐ)が上総大多喜藩3万石から5万石で小田原へ入封したが、4年後には武蔵岩槻藩5万5千石に転封となり、小田原城は再び番城となる。寛永9年(1632)稲葉正勝(まさかつ)が下野真岡藩4万石から8万5千石で入封した。正勝は春日局の実子である。春日局が3代将軍の徳川家光の乳母であったことから、正勝も乳兄弟として幼少時より小姓として家光に仕えていた。春日局は、明智光秀(みつひで)の筆頭家老であった斎藤利三(としみつ)の娘で、お福といった。元和9年(1623)お福は大奥総取締役になり、家光のために大奥の組織を作り上げた。そして、家光に世継ぎが誕生し、それが4代将軍の家綱(いえつな)、5代将軍の綱吉(つなよし)である。幕府内で絶対的な権力を持ったお福は、寛永6年(1629)将軍の名代として後水尾天皇に拝謁した。官位のない者が天皇に謁見するということは前代未聞の出来事であった。この時に朝廷から与えられた称号が春日局であった。春日町という地名が残る現在の東京都文京区全体が春日局の領地であったという。寛永11年(1634)には徳川家光が小田原城の天守に登り、武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。稲葉氏は、正則(まさのり)、正往(まさみち)と3代続き、いずれも幕府の老中に就任している。現在に残る近世小田原城の遺構は、寛永10年(1633)の大地震の後、稲葉正則によって大々的に改修したものである。貞享2年(1685)稲葉正往は越後高田藩10万3千石に転封を命じられ、翌貞享3年(1686)大久保忠朝(ただとも)が下総国佐倉藩9万3千石から10万3千石で入封した。忠朝は大久保忠隣の三男である教隆(のりたか)の次男で、寛文10年(1670)本家の大久保忠職の養子となり、延宝5年(1677)幕府老中、天和元年(1681)老中首座と昇進し、忠隣の改易で失った旧領小田原への復帰を果たした。以後は大久保氏が10代続き明治維新を迎えている。  
 
大坂城

 

 
大阪城1
大坂城の位置する上町台地は、西と南が緩やかな斜面となり、摂津平野の淀川河口に渡辺津があった。瀬戸内交通と京を結ぶ要衝であった渡辺津は、熊野、高野、四天王寺、そして南都(奈良)を結ぶ中継基地であった。織田信長をてこずらせた石山本願寺は、この大坂の丘にあった。石山という地名は、ここが巨大な前方後円墳であったことに由来する。往時の大坂は今より海が深く食い込み、城地の辺りは大阪湾に岬状に突き出した小高い丘で、築城の適地であった。大阪城公園には復興天守をはじめ、乾櫓、千貫櫓、多聞櫓、一番櫓、六番櫓、大手門、桜門、青屋門などが存在する。大坂城は豊臣秀吉のイメージが強いが、現在に残る遺構は徳川氏の築城のもので、秀吉の大坂城はその地中に埋まっている。
元亀元年(1570)11世法主顕如(けんにょ)こと本願寺光佐(みつすけ)は、石山本願寺の破却と大坂退去を要求する織田信長に抵抗して、11年にわたって攻防戦を繰り返した。いわゆる石山合戦である。天正8年(1580)顕如は信長と和議を結び紀伊国鷺森へ移り、その子の教如(きょうにょ)はなおしばらく抵抗したが、ついに開城となる。石山本願寺は退去時の混乱で出火し、ことごとく焼亡してしまった。信長は石山本願寺の跡を整備し、「大坂之御城」として丹羽長秀(にわながひで)を留守城代に置いた。天正10年(1582)織田三七信孝(のぶたか)を総大将とする四国遠征の直前に本能寺の変が起こる。このとき、丹羽長秀とともに大坂城で四国遠征の待機をしていた織田七兵衛信澄(のぶずみ)は、信長が誅殺した弟の信勝(のぶかつ)の子で、妻が明智光秀(みつひで)の娘であった。疑心暗鬼にとらわれた信孝と長秀によって攻められた信澄は、大坂城二の丸の千貫櫓で防戦するが討ち取られる。千貫櫓の名称は、信長の石山本願寺攻めの時、この隅櫓からの横矢に悩まされ「あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはない」と話し合ったことに由来する。
天正11年(1583)豊臣秀吉の大規模な大坂城の築城工事は、越前北ノ庄城(福井県福井市)の柴田勝家(かついえ)を滅ぼした頃から始まる。縄張りは石山本願寺の曲輪を利用して、本丸、二の丸、櫓や殿舎などがつぎつぎと築かれた。天正18年(1590)小田原の役で見た相模小田原城(神奈川県小田原市)の惣構えにならって、大名や家臣団の屋敷など広範囲を惣構えで囲った。秀吉の晩年にはおよそ2km四方にも及ぶ大城郭が完成し、五層八階の天守をはじめ、天下人の居城にふさわしく広大かつ堅固であった。慶長3年(1598)秀吉は辞世を「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわの事も 夢のまた夢」と詠じて没すると、慶長4年(1599)天下を狙う徳川家康は大坂城西の丸に入城し、天守を築き上げ威勢を示す。家康は謀略を駆使して、秀頼を盛りたてて豊臣家の安泰を図ろうとする石田三成(みつなり)を関ヶ原合戦に持ち込んだ。
関ヶ原合戦で勝利をおさめたのち、征夷大将軍に任じられた家康は、慶長19年(1614)20万の大軍で大坂城を囲んだが、城の守りは鉄壁であった。そこで、家康は和議を申し入れ、徳川方が惣構えを取り払い、豊臣方が三の丸と二の丸の塀と柵を撤去することで合意した。しかし、徳川方は惣構えを壊すだけでなく、機に乗じて三の丸の堀を埋め、石垣を崩し、さらに二の丸の堀まで埋めてしまった。そして翌慶長20年(1615)大坂夏の陣で裸城となった大坂城天守は内応者により炎上、山里曲輪に逃れた秀頼と淀殿は助命嘆願が叶わず籾蔵の中で自刃し豊臣右大臣家は滅亡した。その後、大坂城は松平忠明(ただあきら)に与えられたが、元和5年(1619)からは幕府直轄となり、翌元和6年(1620)2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされる。秀吉の築いた城地に10mほど盛土して、まったく新しい石垣、用材をもって新しい大坂城を築いた。以後、大坂城は関西における鎮府として、幕末までその役割を果たした。
大坂城・大阪城2
(おおさかじょう) 摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、昭和34年(1959)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。戦国末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、 天正8年(1580)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされる。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。
現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。
歴史
上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に天正11年(1583)、豊臣秀吉が築城を開始した。
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう)と称えた。
築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。慶長4年(1599)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。
慶長8年(1603)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の 慶長20年(1615)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、元和5年(1619)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌元和5年(1620)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て 寛永6年(1629)に完成した。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に 寛文5年(1665)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。
江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。
構造
台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。
豊臣氏大坂城
縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲しており、現在の大坂城の地下7mから当時の石垣が発見されている。台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。
徳川氏大坂城
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また、天守など建物も構造を踏襲せずに造り替えられた。徳川氏の目的は、この改修工事を口実として、諸藩に財政を支出させ、抵抗する勢力の力を削ぐことであった。 その結果、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になったが、総床面積から高さまで豊臣氏の天守を越えるものが上げられ、二重の堀は江戸城をしのぐ程のものとなった。
天守
大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、いずれも外観、位置等が異なる。以下に記した。
初代天守(豊臣大坂城)
豊臣大坂城のものと見られている平面図「本丸図」では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの「日本史」にある。
天守の復元案には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も三浦正幸などから出されている。黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。
元和期天守(徳川大坂城)
徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態であった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。
天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の2つがある。2つの指図は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置である。
復興天守
現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って昭和3年(1928)に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により 昭和6年(1931)に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。
建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造(世界最古)にサスペンション工法を用いて建てられた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」として利用されている。
外観は、大坂夏の陣図屏風を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。
平成7年(1995)から平成9年(1997)にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を迎え、最も長命の天守になった。平成9年(1997)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。
遺構
現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。また、桜門の高麗門については、明治20年(1887)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであるが、国の重要文化財に指定されている。
また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。 石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている。
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。
ただ、村川行弘(現・大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。また、 平成15年(2003)には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。
大坂城3
秀吉の大坂城は「旧城」を改造して築かれたという。では、秀吉以前の城郭とは、いったい誰のどのような城だったのだろう?
石山本願寺の繁栄
明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という地名が見られる最初の文献である。天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺とした。この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、次第に難攻不落の城砦として強化された。また、次第に寺内町も発展し、11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えた。
石山合戦
織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団であり、その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、天正8年(1580)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、堂塔伽藍は全焼し、現在もこの時代の遺構は謎に包まれている。 『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述べられている。信長は本能寺の変に倒れたが、この地に築城を期していたことは想像に難くない。
秀吉は天下統一の拠点として権威と権力を象徴する難攻不落の巨城を築いた。豪壮華麗なその姿は「三国無双」と称された。
黄金色に輝く大天守
天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城である。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、すべての面でそれを凌駕することをめざした。秀吉創建の大天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いた。また、秀吉は自ら好んで多くの来客に本丸内を案内してまわり、金銀の装飾にあふれた奥御殿の内部、大天守の各階に納められた財宝の山など、空前の富の集積を誇示して来訪者を驚嘆させた。
築城の規模
秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けとなった。 領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして政治・経済・軍事・文化の中心都市として城下町大坂が建設されたのである。
大坂冬の陣
秀吉の死からわずか2年後の慶長5年(1600)、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した。慶長8年、家康は江戸に幕府を開き政権を掌握したが、豊臣家は徳川幕府成立後も天下掌握の夢を捨てられず徳川家との間に緊張関係を持続させていた。こうした状勢のなか、京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がクレームを付けたことをきっかけに、慶長19年(1614)大坂冬の陣が開戦された。約10万の豊臣方は軍勢の大半が浪人衆の寄せ集めで統制力に欠けていたにもかかわらずよく防ぎ、攻めたてる徳川方20万の大軍を惣構の中へは一兵も突入させなかった。秀吉が築き上げた天下の名城は、やはり難攻不落の堅城だったのである。 しかし、講和による終戦の結果、大坂城は講和条件であった惣構・三の丸の破却に続いて強引に二の丸の堀まで埋め立てられ、本丸ばかりの裸城にされてしまった。
大坂夏の陣
大坂冬の陣講和によって城を裸城とされた大坂方は、埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手がけた。これが再軍備とみなされ、冬の陣からわずか5カ月余りで夏の陣開戦となった。慶長20年(1615)の夏、河内方面、大和方面から攻め上ってくる徳川方15万5千余りの軍勢に対し、豊臣方は防御の薄くなった大坂城では籠城作戦がとれず、敵の大軍が一つに合流する前に撃破することとした。5月6日早朝大阪方は河内方面に兵を進め、先制攻撃を仕掛けたが、結局は大坂城へ退却せざるを得なかった。そして、その翌日、決戦の場となった大坂の町中を悲惨な混乱に巻き込みつつ、ついに大坂城は落城したのである。さらに、翌8日、山里曲輪にひそんでいた豊臣秀頼・淀殿らも発見されて自刃、豊臣家も滅亡するに至った。
幕府は西日本支配を確立するために、大坂城と結びついた豊臣氏の威光を完全に払拭し、より豪壮な新城を築く必要があった。
大坂城再築
大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、家康の孫である松平忠明に与えられた。忠明は、大坂の町の復興に努めたが、この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620)2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。
築城の経過
秀忠は普請総奉行に選ばれた藤堂高虎に、「石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に」と強調したという。築城工事のうち、堀の掘削や石垣の構築は西国と北陸の諸大名64家が幕府の命を受けて担当し、建物の建設は幕府の直営で行われた。元和6年から始まる第1期工事では、東・北・西の外堀の構築と西の丸などの建物、寛永元年から始まる第2期工事では内堀の構築と本丸御殿など、さらに寛永5年から始まる第3期工事では南外堀の構築と二の丸南部の建物の建設が行われた。天守の建設は第2期に行われ、その石垣は熊本城主の加藤忠広が築いた。天守建物は寛永3年の竣工で、外観5層・内部6階、高さ58、5mに達する巨大な建造物であった。
大阪城の石垣
現在の大阪城の石垣は、すべて徳川時代のもので、豊臣時代の石垣は、その下に埋もれていてまだ、発掘途上の状態です。現在の天守閣は、昭和六年に大阪市民の寄付によって再建されたもので、当時は、下記の図面が発見される前で、天守閣がどのような造りになっていたのかがわからない状態でしたが、大阪市民は「ぜひとも太閤さんの大坂城を再現したい!」と、黒田家に残る「大坂夏の陣図屏風」に描かれた外見だけを再現したんです。その後、昭和34年に、初めての本格的な地質調査が行われて、その豊臣時代の石垣が土の中に埋もれている事がわかり、さらにその翌年に、宮大工の中井家のご子孫の家から本丸の図面が発見されたのと、最近になって三の丸の図面が発見され、今は、三の丸の発掘調査が現在進行形です(天守閣博物館では、現在の進行状況が展示されています)。難攻不落と呼ばれたのは、豊臣時代の大坂城ですが、豊臣時代の図面は、たぶん上記の2枚しか発見されてないと思いますので、その全容は未だ謎で、調査中といったところでしょうか。
ただ、今の段階でも言える難攻不落の最大の理由は、やはり立地条件でしょう。あそこは、はなから攻め難い場所なのです。豊臣時代の頃以前は、あのあたりは、海に近く、縦横無尽に川が走る湿地帯だったんです。(「石山合戦配陣図」)
大阪市東区史の古地図
この古地図は偽書説もあるが、それはひとえに河堀口から茶臼山の南の川底池に川が流れていることによる。しかし、この位置に川が流れている古地図は、これ一つではなく、石山合戦配陣図など合戦図で見ることがある。なお、戦国の合戦図では、東区史の古地図よりも、上町台地を横切る川が1,2多い。
東区史の古地図の最大の特色
在り処が知られていなかった寺社が、かなり現在知られている位置に近いところで示されている。
1「百済寺」は四天王寺周辺(画像)に出てくるが、これの位置は伝承では知られていたものの、ちょうどこの位置にある堂ヶ芝廃寺が百済寺であることは、近年になってわかったものである。
2石山(現・大阪城)周辺(画像)では、「熊野一之王子社」や「生玉社」や「座摩社」の位置が、大阪城築城の前の伝承どおりの位置にある。大阪城築城によって多くの寺社が移転したが、伝承で元の位置が漠然と知られるだけなので、それぞれの位置関係まではわからず、推定ではなかなかこのような地図にはなりにくい。
3石山(現・大阪城)周辺(画像)の「天王寺跡」は、水運については非常に重要な拠点になる位置にある。
確かに百済川の下流でもある。
朱書の注
朱書の注は、その多くが摂津名所図会によると思われる江戸時代のもので、参考にはなるが、残念なことに必ずしも正確ではない。あまり知識がない人が書いたように見える。
例えば、申庚 南門土塔町超願寺是之 の書き込みは、「庚申」の間違いの上、超願寺と一緒になってしまっている。
確かに庚申堂は超願寺のすぐ近くにはあるが、少なくとも江戸時代には同じものではない。
堀江について
そもそも、江戸時代に大和川が開削されるまで、狭山川が狭山池から流れてきていたので、(東区史の古地図で、南から堀江に流れてくる川に狭山川という書き込みがある)この古地図にいう堀江には水が十分供給されていたはずである。江戸時代にはまだ名残があって、少なくとも、摂津名所図会では、源ヶ橋付近(天王寺町、国道25号線沿い)は湿地帯で蛍の名所だと今の乾燥した様子からは想像もできないことが書かれている。地形としては現在でも、25号線沿いにいくらか谷地形が残っていて、庚申堂の南の谷の底になる所には、清水があり、地蔵が祭られている。
考古学では、谷地形があっても、茶臼山の川底池の水面まで、8メートルも高低差があるとして、東区史の古地図は否定されている。が、同じ台地上を東西に横切る川がもう一つある。住吉大社の南の「細井川」も水面が地面からかなり低く、名前のとおりの川である。上町台地を越えるために、細く深い井戸のような川が必要だからであろう。今はまだ、水のある細井川は何とか残っているが、近い将来埋められてしまう可能性もなくはない。
おそらく、大和川が江戸時代に開削されたことによって、狭山川の河道が断たれ、住吉南部の人々が水不足に悩んだように、古地図にある堀江も水が減り、上町台地を越えられるだけの十分な水量を保てなくなり、埋められてしまったのではないか。
 
名古屋城

 

 
名古屋城1
「尾張名古屋は城でもつ」といわれた名古屋城は、関ヶ原合戦後に江戸幕府を開いた徳川家康(いえやす)が、東海道の要所として、また大坂方への備えとして天下普請で築城したものである。ほぼ正方形の本丸を中心として、南東に二之丸、北西に御深井丸、南西に西之丸を配し、さらに南方に広大な三之丸を構えた。五層六階の天守は従来の望楼式から脱却して連結層塔式の先駆であった。名古屋城でもっとも名高いのは金鯱である。城の大棟に鯱を掲げることは室町時代の前期、城郭形態の完成した頃から始まったと言われる。当時は火除けのまじないであったものが、後には城主の権威の象徴として大棟に飾られた。名古屋城の金鯱は3度(享保・文政・弘化)改修され、その度に金の純度が低下したという。近年、江戸時代後期の宝暦年間(1751-64)に行われた「宝暦の大修理」の際の工法を示す修理図面など12点が発見された。修理図面や関連文書のほか、天守周囲の景観を描いた「御天守上見通絵図」などで、当時の作事奉行であった寺町平左衛門の名を記した袋に入っていた。宝暦の大修理とは、名古屋城の大天守が天守台石垣の変形と沈下で傾き、これを修復するために高さ36mもある大天守を長さ100m以上の太縄で引っ張って保ち、その間に石垣を補修するとともに建物内部も修理するというもので、大変な難工事であった。
昭和5年(1930)名古屋城は勇壮な天守と優美な御殿により、城郭建築として国宝第1号に指定された。その後、第二次世界大戦下の昭和20年(1945)名古屋空襲で大・小天守、本丸御殿をはじめ建物のほとんどを焼失したが、焼失をまぬがれた三つの櫓(東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓)、三つの櫓門(表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)は、重要文化財に指定され現存している。本丸に現存する東南隅櫓(辰巳櫓)と西南隅櫓(未申櫓)の2つの櫓は、いずれも二層三階の同一様式の櫓である。御深井丸の西北隅櫓(戌亥櫓)は別名を清洲櫓ともいう。この櫓は清洲城の小天守を移築したものと長く伝えられてきたが、解体修理の結果、元和5年(1619)に建築された新造の櫓であることが判明した。三層三階の最上層は入母屋造り本瓦葺で、清洲城の古材を多く用いて建てられている。
慶長12年(1607)徳川家康の四男で清洲城主の松平忠吉(ただよし)が関ヶ原合戦で負傷した傷がもとで没すると、家康は九男の徳川義直(よしなお)を清洲に封じた。しかし清洲城は五条川の氾濫する低地にあり、城地は狭くて大規模な野戦や籠城にも不向きであったため、家康は豊臣氏との決戦を見据えて、濃尾平野の要地に大規模な城郭を築城することとした。小牧・古渡・那古屋の候補地のうち、水害や水攻めの心配のない立地条件から、廃城となっていた織田信長ゆかりの那古屋城址に築城を決めた。また一説に、土木技術の進展も影響したとする見解もある。名古屋城の南東には名古屋台地が広がるが、当時は台地上では生活用水が取れないとされていた。しかし、この頃になると、台地上でも井戸が掘れる技術が開発され、那古屋の方が城下町のさらなる発展が見込めると判断されたのではないかという。慶長15年(1610)加藤清正(きよまさ)、福島正則(まさのり)、池田輝政(てるまさ)、黒田長政(ながまさ)、前田利常(としつね)等、北国や西国の諸大名20家に名古屋城の普請を命じ、清洲から名古屋への遷都をおこなった。
慶長15年(1610)天守台の石垣や堀などの普請が完成し、慶長17年(1612)天守や諸櫓、諸門などの作事がほぼ完成、慶長20年(1615)から本丸御殿や二之丸御殿が順次完成していった。特に本丸御殿は、玄関、表書院、対面所などが連続した武家風書院造の典型であり、建築や絵画、工芸史において最も豪壮華麗と言われる安土桃山から江戸初期に造られた近世城郭御殿の最高傑作であった。慶長19年(1614)大坂合戦において徳川義直は初陣を飾る。冬の陣では天王寺付近に布陣、野田・福島の戦いで家臣の千賀信親(のぶちか)が水軍を率いて活躍している。夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは後衛を務めた。元和6年(1620)徳川義直は本丸御殿から二之丸御殿へ移居し、本丸御殿は将軍上洛時の宿舎とした。寛永11年(1634)3代将軍徳川家光(いえみつ)の上洛にあわせて、本丸御殿に上洛殿を増築している。その後、明治維新をむかえるまでの約250年間、名古屋城は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の筆頭である尾張徳川家62万石の居城として、初代藩主義直から16代藩主義宣まで続いた。しかし、尾張徳川家は御三家筆頭でありながら、将軍職につく人物を輩出することはなかった。
名古屋城2
尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。
歴史
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。 天文元年(1532)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、 弘治元年(1555)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は慶長14年(1609)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。 慶長15年(1610)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
現代にみる清洲越しの距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月。 普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、 慶長17年(1612)までに大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した慶長17年(1612)頃から徳川義直が名古屋城に移った元和2年(1616)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。
寛永11年(1634)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。
明治5年(1872)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。明治6年(1873)には名古屋鎮台となり、明治21年(1888)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
離宮時代の名残、本丸隅櫓に残された菊花紋瓦 保存された本丸は、明治24年(1891)に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。
明治26年(1893)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は昭和5年(1930)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。
昭和12年(1937)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。
太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、昭和20年(1945)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。
構造
立地
名古屋城の空中写真(上が北)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
縄張
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
本丸
本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。
本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた。
馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。
南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。
1.まず馬出しへの土橋を渡り、石塁に突き当たり横に折れ、
2.本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、
3.馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、
4.二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、
5.一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。
天守
天守は本丸の北西隅に位置する。連結式層塔型で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、本体36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m2に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。
大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、 宝暦5年(1755)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。
壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。
小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の3層天守よりも大きい。
大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたいう説がある。 根拠としては大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図が残されており、また大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる。
天守は慶長17年(1612)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、 昭和20年(1945)の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。
昭和32年(1957)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は 昭和33年(1958)6月13日、竣工式は昭和34年(1959)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。
本丸御殿
城主(藩主)が居住する御殿であったが、元和6年(1620)将軍上洛時の御成専用とすることになり、以後藩主は二の丸に居住した。しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠と家光のみで、その後は尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。御成専用とするだけあって、当時の二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。これら殿舎等はすべて第二次世界大戦で失われたが、内部にあった障壁画の一部は取り外されて隅櫓などに収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定され、再建天守に保存されている。現在本丸御殿の再建計画が実施されており、平成21年1月19日に着工した。
二の丸
当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二の丸に将軍の御座所を設けていた。家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折にはこちらに滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二の丸にあった平岩親吉(慶長16年(1611)没)の屋敷を改修して、 元和4年(1618)二の丸御殿とした。それ以後、二の丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二の丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三の丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。二の丸御殿は二の丸の北側に位置し、南側に馬場があった。
二の丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。
黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二の丸庭園があった。この二の丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。
現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。
西丸
西丸(にしのまる)は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。西丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは 明治43年(1910)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西丸には名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。
御深井丸
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路でつながっていた。櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。3層3階のその規模は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。 慶長16年(1611)に清洲城天守または小天守を移築したものと伝えられているため清洲櫓とも呼ばれている。解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清洲城から移築されてきた可能性も指摘されている。戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。
また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。 平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録された。
その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。
 
江戸城

 

 
 
 
江戸城1
江戸城は太田道灌(どうかん)の築城時と、江戸幕府成立時の二時期に日本の城郭に大きな変革をもたらした。とりわけ戦国時代の地方城郭は江戸城をモデルとした伝承や記録が多く、太田道灌の築城技術の創意は特筆すべきものがある。この頃の江戸城は、江戸期の本丸部にあたり、根城、中城、外城の三郭を構成し、神田川を外堀としていた。三曲輪の大手口は、今日でいう汐見坂門付近である。江戸時代の江戸城は徳川将軍家15代の居城であり、江戸幕府の最高政庁であった。その規模は広大で、徳川家康の造営した内城域(本丸、二の丸、三の丸、西の丸)、それを取り囲む中城域(北の丸、吹上曲輪など)、その外側の外郭惣構え、出城の御浜御殿から構成される。現在も天守台、富士見櫓、伏見櫓、桜田二重櫓(巽櫓)、百人番所などが現存する。百人番所とは、甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎組の忍者が昼夜交代で100人ずつ詰めて警護したことによる。また、徳川家康の側近であった天海(てんかい)が住職を務めた川越の喜多院(きたいん)は、寛永15年(1638)川越大火で山門を除くすべての伽藍を焼失するが、3代将軍の徳川家光(いえみつ)は、堀田加賀守正盛(まさもり)に命じて江戸城紅葉山の別殿を移築・復興させた。このため喜多院(埼玉県川越市)には、江戸城の御殿が客殿、書院、庫裏として移築現存しており、豪華な家光誕生の間、春日局化粧の間を見ることができる。
平安時代末期、桓武平氏の流れをくむ江戸四郎重継(しげつぐ)が江戸の台地を利用して居館を築いたのが江戸城の始まりといわれる。武蔵国豊島郡江戸郷を領した江戸氏は武蔵秩父党の一族であり、鎌倉時代には河越氏、畠山氏とならび武蔵国の有力な豪族として栄えた。室町時代になると、延文3年(1358)鎌倉公方足利基氏(もとうじ)の執事畠山国清(くにきよ)の命により、江戸遠江守が新田義貞(よしさだ)の子義興(よしおき)を多摩川の矢口の渡しで謀殺した。これにより江戸遠江守は雷神となった義興に祟たられ死んだとされ、江戸氏は勢力も人望も失って衰退する。のちに江戸へ進出したのは太田道灌である。このころ、扇谷上杉持朝(もちとも)は古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と対立しており、古河公方の南下を防ぐため、家臣の太田道真(どうしん)・道灌父子に江戸城、岩付城(埼玉県さいたま市)、河越城(埼玉県川越市)の築城を命じた。当時は利根川が江戸湾に注いでおり、利根川を境として東関東は下総古河城(茨城県古河市)を拠点とする古河公方が支配し、西関東は山内・扇谷の両上杉氏が掌握していた。
長禄元年(1457)太田道灌は、江戸郷を見渡す丘に江戸城を築き入部した。江戸城には江戸湾に接する丘の上に静勝軒(せいしょうけん)という高閣望楼建築があり、この天守のはじまりのような建物が、東国の守護・守護代クラスの城郭に大きな影響を与える。大石定重(さだしげ)は柏の城(埼玉県志木市)に万秀軒(ばんしゅうけん)、上杉顕定(あきさだ)は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に随意軒(ずいいけん)、太田道真は越生の居館(埼玉県入間郡越生町)に自得軒(じとくけん)を構えた。大永4年(1524)相模を平定した北条氏綱(うじつな)は、武蔵進出のために扇谷上杉朝興(ともおき)と高縄原で衝突した。高縄合戦に敗れた朝興は江戸城に退却するが、江戸城を取り仕切っていた太田資高(すけたか)が北条氏に内応して、北条軍を江戸城内に導き入れたため、朝興は江戸城を放棄し河越城に落ち延びた。入城した氏綱は、本丸に富永政直(まさなお)、二の丸に遠山直景(なおかげ)、香月亭に太田資高・康資(やすすけ)父子を配置し、その後は北条氏の有力支城として機能した。北条氏の時代にも道灌の静勝軒は存在し、「富士見の亭」と呼ばれる。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役の際、江戸城代の遠山景政(かげまさ)は相模小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。江戸城は景政の弟である川村秀重(ひでしげ)が守備したが、浅野長吉(ながよし)、前田利家(としいえ)、徳川氏家臣の戸田忠次(ただつぐ)らの包囲軍に開城した。関八州の太守となった徳川家康は江戸城を居城と定めて入城し、慶長8年(1603)征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。家康は江戸城を天下普請により整備し、道灌の静勝軒の場所には富士見櫓を築いた。静勝軒は土居利勝(としかつ)が貰い受け、下総佐倉城(千葉県佐倉市)に移築し、本丸の銅櫓として存続した。家康の造営した天守は、2代将軍秀忠(ひでただ)、3代将軍家光がそれぞれ建て直した。特に、寛永15年(1638)家光が造営した5層6階の天守は、天守台も含めた高さが約60mもあり、現在の20階建てビルに相当、日本最大の木造建築物であった。しかも、天守の壁には、当時は高価であった銅を貼り付けていた。しかし、明暦3年(1657)振り袖火事とよばれる大火で天守を焼失し、以後再建されることはなかった。江戸城の本丸に大奥(おおおく)跡が存在する。大奥とは将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所で、江戸城天守台の近くにあり、本丸の約6割を占めるという広大さである。この場所には最盛期で3000人の女性が暮らしていた。大奥の年間予算は、江戸幕府の年間予算の1/4もあり、その予算の半分は女性の着物などに使われるという華やかさであったという。この江戸城大奥の礎を築いたのは春日局である。春日局こと斎藤福(ふく)は江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母であった。天正7年(1579)お福は丹波黒井城下館(兵庫県丹波市)で斎藤利三(としみつ)の娘として誕生した。父の斎藤利三は明智光秀(みつひで)の重臣であり、光秀の従弟にあたる人物でもある。天正10年(1582)明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒すことに成功するが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れると、斎藤利三も捕らえられて処刑された。お福は親類縁者を頼って各地を転々とし、小早川秀秋(ひであき)の家老である稲葉正成(まさなり)の後妻となる。その後、徳川将軍家の乳母となるために正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604)江戸幕府2代将軍徳川秀忠と正室お江与との間に次男の竹千代が誕生すると、お福が竹千代の乳母に任命された。この将軍家の乳母の仕事は、京都所司代板倉勝重(かつしげ)が一般公募したものという話も伝わる。ちなみに長男の長丸は既に早世しており、竹千代が世子として扱われた。慶長11年(1606)三男の国松が誕生、乳母になつく竹千代を疎んでいたお江与は国松を溺愛し、乳母に任せずに自分自身で育てた。通常であれば兄の竹千代が将軍になるはずであるが、徳川秀忠は恐妻家で知られており、お江与が国松を次期将軍に推せば、秀忠はこれに同調する可能性があった。さらに、江戸城内でも国松を世継ぎにという声が次第に高まってきた。これらに悲観した竹千代は自害を試みたともいい、乳母のお福は非常に危機感を募らせていた。慶長16年(1611)お福は伊勢参りと称して江戸城を出て、徳川家康が隠居している駿河駿府城(静岡県静岡市)に向かった。お福は決死の覚悟で家康に直訴する。これが世に言う春日局の抜け参りであった。この努力により次期将軍は竹千代に決まり、後にお福には将軍の乳母として3千石が与えられている。現在の東京都文京区全体がお福の領地であり、文京区には春日町という地名も残っている。元和9年(1623)徳川家光が3代将軍に就任すると、お福は家光のために大奥を組織的に整備した。大奥は将軍の世継ぎを絶やさないために機能し、これによって家光に世継ぎが誕生、それが4代将軍徳川家綱(いえつな)と5代将軍徳川綱吉(つなよし)であった。寛永6年(1629)幕府内で絶対的な権力を築き上げたお福は、将軍に代わって後水尾天皇に拝謁するということまでこなしていた。この時に朝廷から従三位の位と春日局の称号が与えられた。その後、官位は従二位にまで昇叙している。のちに大奥では、乳母が授乳する際は黒子のように覆面をする奇習ができた。これは春日局のように、将軍と乳母のつながりが深くなり、政治に介入されるのを避けるためだったと伝わる。明治元年(1868)江戸城は明治政府に明け渡され、東京城と改めたが、翌明治2年(1869)には皇居となった。
江戸城2
武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。国の特別史跡に指定されている。現在は皇居として利用され、本丸・二ノ丸・三ノ丸部分は、皇居東御苑として無料で開放されている。
江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
歴史
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川・荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。秀吉に後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。
天下普請前
家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であった為、徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築。また道三掘や平川の江戸前島中央部(外濠川)への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
慶長8年(1603) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。
慶長11年(1606)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、 外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台の築造:黒田長政
石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請:吉川広正、毛利秀就、
城廻の普請:遠藤慶隆
などであった。 翌慶長12年(1607)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
慶長16年(1611)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
慶長19年(1614)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。これらによって諸大名は著しく疲弊した。
元和期天下普請
元和4年(1618)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
元和6年(1620)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
元和8年(1622)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また寛永元年(1624)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
寛永5年(1628)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
寛永12年(1635)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。
寛永13年(1636)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。 寛永14年(1637)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。
最後に万治3年(1660)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
明暦3年(1657) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。
慶応4年(1868)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。
明治2年(1869) 東京奠都。皇城と称される。
明治6年(1873) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。
明治21年(1888) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
大正12年(1923)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
昭和20年(1945) 空襲で大手門が焼失。
昭和23年(1948) 皇居と改称された。
縄張
本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしている。逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができる。石垣を多く見ることができるが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたものである。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城であった。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかない。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。
本丸
本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の中心。関東入国時に本丸と二ノ丸の間にあった空堀を埋めている。その後、本丸御殿の拡張の為に、元和の改修時に北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった東照宮を廃して規模を拡張している。寛永期に残存していた出丸は的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては両者を大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積を大きく縮小させている。
二ノ丸
本丸と同じく入国時に三ノ丸の間にあった空堀を埋めている。元は本丸の帯曲輪の様な存在であったが寛永期に拡張されて二ノ丸御殿が造られる。内部は石垣で複数に区画がなされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。
三ノ丸
入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。
西ノ丸
『聞書集』、『霊岩夜話』、『参考落穂集』などによれば、天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。 文禄元年(1592)から翌年にかけて、西ノ丸は創建された。創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門の内側は西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至った。
紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。かつては日枝神社が祭られており、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵・書物蔵があった。
西ノ丸下
入国時はほぼ日比谷入江だった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、天海の屋敷の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は 寛文8年(1668)まで不明門であった。
大手前・大名小路
開幕前は侍衆・町人が混在している居住地であったが、開幕後は大名屋敷地となる。大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や春屋・小普請屋敷・北町奉行所が、大名小路には評定所や南町奉行所があった。
建築物
天守
太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607)・元和度(1623)・寛永度(1638)と三度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた。
慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、慶長11年(1606)に先ず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓を繋ぐ形で天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であった為、当時の地勢では北西にあることになる。天守は同年中に上がり1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、9重(『日本西教史』)とある。慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、天守台は駿府城や淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型としている。駿府城などとは異なり、自然石と切石の間が狭いので多聞櫓などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。廻縁・高欄はなく、また最上階入側縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。作事大工は中井正清としている。
一方、内藤昌は『中井家指図』は元和度天守のものとしており、慶長度天守は5重7階、腰羽目黒漆、廻縁・高欄の後期望楼型であったとしている。作事大工は三河譜代の大工木原吉次、中井正清も協力したとする。
西ヶ谷恭弘は天守台の構造は宮上説と同じだが、天守は後期望楼型とする大竹正芳の図を宮上説とは別に紹介している。また三浦正幸門下の金澤雄記は20間四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした後期望楼型の天守を考証している。その後、三浦正幸は『津軽家古図』を慶長度としている。
内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、『慶長見聞集』『岩渕夜話別集』でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。
元和度天守
元和度天守は元和8年(1622)から翌年にかけて天守台・天守共に建築された。位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、そこに建てた(『御当家紀年録』)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広・浅野長晟の手による天守台の規模は慶長度の3分の1、寛永度天守と同じく南側に小天守台があり(『自得公済美録』)、高さも7間に縮小されている。天守内部には東照宮があったとされている。天守は5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、天守台を含めた高さは約30間とされる。元和度天守については宮上は旧津軽家の『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』を、内藤は前述の通り『中井家指図』をそれぞれ比定している。
宮上案では寛永度天守との違いは各破風の下に張り出しが設けられているのが特徴で、これは作事に当たった譜代の鈴木長次、木原家の下にいる三河大工に見られる意匠としている。屋根は銅瓦葺、壁は白漆喰としている。
内藤案は一部の破風が異なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で銅瓦葺でない以外は内藤案と同様の見解を採っている。
西ヶ谷案は『武州豊島郡江戸庄図』より初重を2階建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。
元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因する説や、仙台城天守(未完)への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説があるが、詳しい所は不明である。
寛永度天守
寛永度天守は寛永13年(1636)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之・浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは踊り場的な意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じだが、大坂城と同じく東側の登り口以外に西側にも橋台と接続する形で出入口が設けられていた。構造は5層5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、銅瓦葺である。高さは元和度と同じ30間、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広。
明暦3年(1657)の明暦の大火で、過失により開いていた二重目の銅窓から火が入り焼失している。再建計画時に寛永度と同様の天守を建築する予定だったたので多くの資料が提出されており、確定的な図面が残されているので正確な姿が判明している。
規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間
地階…「12間×10間」
一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本
二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
五重目…「8間×6間」 桁行8間4尺×梁間6間3尺、柱数55本
焼失後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。
御殿
御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿がある。この内、三ノ丸御殿は元文年間に廃絶されている。本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として江戸城の中心的な役割を持ち、二ノ丸御殿は将軍別邸、西ノ丸御殿は隠居した将軍や世継の御殿として用いられた。
本丸御殿
本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在している。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行っていた。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られており、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。将軍の御殿としての最初の本丸御殿は 慶長11年(1606)に完成、その後元和8年(1622)、寛永14年(1637) 同16年焼失、同17年(明暦の大火で焼失)、万治2年(1659)(弘化元年(1844)焼失)、 弘化2年(1845)(安政6年(1859)焼失)、万延元年(1860)(文久3年(1863)焼失)と再建・焼失を繰り返している。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移している。
表・中奥
主要な御殿として西側に大広間・白書院・黒書院・御座之間・御休息が雁行しながら南から北に配置されている。表東側には表向の諸職の詰所や控室、中奥東側には側衆配下の詰所・控室や台所などがある。大老・老中・若年寄の執務・議事場は当初は御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋が設けられた。彼らと将軍の仲介者である側用人又は御側御用取次は中奥の中央に詰所があった。表は儀礼空間であったので御殿の改変は少ないが、中奥は各将軍の好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥は大奥と異なり構造的には断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口のみ出入ができた。しかし表の役人は中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず、奥向の役人とは時計之間で会話を交わしていた。
大広間
本丸御殿中で最高の格式と最大の規模を有する御殿。東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物である。寛永17年の大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央に中庭が設け、屋根を低くするようになった。大広間は将軍宣下、武家諸法度発布、年始等の最も重要な公式行事に用いられ、主な部屋は上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回りで配置される。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間の権威を象徴している。また南面の向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事があるときの能の催しではその内の一日を町入能として、町人が南庭で能を見ることを許した。
白書院
大広間に次ぐ格式を有する御殿。大広間と松之廊下で繋がっており、上段・下段・帝鑑之間・連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍の応接所として公式行事に用いられ、御暇・家督・隠居・婚姻の許可への御礼時に諸大名はここで将軍と面会していた。他に年始の内、越前松平家・加賀前田家とはここで対面をし、また勅使・院使を迎える際には下段を宴席の間としていた。
黒書院
白書院と竹之廊下で繋がっており、主な部屋として上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿が檜造に対し、総赤松造となっている。将軍の日常生活における応接所として用いられた。
御座之間・御休息
これらは将軍の居住空間として前者は上段・下段・二之間・三之間・大溜で構成される中奥の応接所で政務を執る場、後者は上段・下段のみで寝室や居間として用いられた。中奥は表向の役人は原則として出入りを禁じられていたが、将軍とお目見えする時のみは御座之間に入ることができた。当初、将軍は御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られている。御休息は将軍の代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷の周辺も改造が多い。例えば能を好んだ徳川綱吉の時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所が中庭の二ヶ所に設置されている。逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、一時期は廊下の一部を区画してそこで寝起きをしていた。
二ノ丸御殿
寛永13年(1636)に最初に建てられた御殿は小堀遠州の手によるもので、表向の機能が省略された極めて遊興性の高いものであった。南西にある築山を背後に有し白鳥濠と繋がる池の中には能舞台(水舞台)があり、対岸の畔にある御座や濠に突き出た釣殿から観覧することができた。中央は御殿群があり、東側にも池や築山、池の中島にある御亭や御茶屋・御囲・学問所や御文庫があった。しかしこの御殿は5年後には早くも取り壊され、 寛永20年(1643)には本丸御殿を簡略化した御殿が完成する。この御殿も明暦の大火で焼失し、越谷別殿を移築している。この後も宝永元年(1704)、 宝暦10年(1760)に工事や再建が行なわれたが、慶応3年(1867)に焼失してその歴史を終えることになる。
西ノ丸御殿
本丸御殿と同じく、表・中奥・大奥としきられ、おもな部屋をあげれば、遠待・殿上間・虎間・大広間・大廊下・溜間・白木書院・帝鑑の間・連歌歌間・山吹間・菊間・雁間・竹間・芙蓉間・中間・桔梗間・焼火間・躑躅間・柳間・梅竹間・檜間・蘇鉄間などがある。御殿や櫓などは 寛永11年(1634)、嘉永5年(1852)、文久3年(1863)の三度にわたって焼失した。明治元年(1868)4月、朝廷に明け渡された当時の殿舎は4度目の建築であったが、 明治6年(1873)5月5日に焼失した。守備は西丸小姓組が行った。

江戸城は幾度の火災によって焼失し、現存する伏見櫓・富士見櫓・巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板を青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落しとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城や小田原城などの城郭にも施された。初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城や名古屋城にも同様に用いた。 明治4年(1871)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のもが記されている。
多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。

虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門とを構成して建てられた。大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乗門、不完全なものが北桔橋門にあるだけである。
櫓門は桁行は15間から20間、梁間が4間から5間ほどのものが建てられ、最大では、桁行25間(赤坂門・芝口見附新橋門)のものもあったが、享保9年(1724)以降は24間×5間(下乗門)のものが最大となった。ちなみに、最小規模は4間×2間(山下門)である。
三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であり、現在の大手橋は大橋と呼ばれていた。江戸時代、勅使の参向、将軍の出入り、諸侯の登城など、この門から行うのが正式であった。また、ここの警備は厳重をきわめ、10万石以上の譜代諸侯がその守衛に勤仕し、番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたった。
西ノ丸大手門は、手前の橋場に建てられた高麗門とその後方の桁行18間×梁間4間の櫓門で構成されていた。現在の皇居正門で、高麗門は現存しない。 
太田道灌
室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。
幼少期
鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務め才幹をうたわれた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。『永享記』などによると鶴千代は鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校(栃木県足利市)でも学び、幼少ながらその英才ぶりが世に知られた。
『太田家記』によれば、父・資清が俊英にすぎる鶴千代を心配して「知恵が過ぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。例えれば障子は直立してこそ役に立ち、曲がっておれば役に立たない」と訓戒すると、鶴千代は屏風を持ち出し「屏風は直立しては倒れてしまい、曲っていてこそ役に立ちます」と言い返した。
『寛政重修諸家譜』によれば、ある日父・資清は筆をとって「驕者不久」(驕れるものは久しからず)と書いた。すると鶴千代はこれに二字書き加え「不驕者又不久」(驕らざるものも久しからず)とした。
百年以上後の江戸時代に書かれたものなので、そのまま事実とは考えられないが、道灌の才気と物おじしない毅然とした性格を示す逸話として知られる。
文安3年(1446)15歳にして元服し、資長を名乗った(初名は持資だったという説もある)。享徳2年(1453)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。
家督相続
関東管領上杉氏は山内上杉家、犬懸上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家に分かれ、このうち山内家と犬懸家が力を持っていたが上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後は山内家が関東管領職を独占し、太田氏の主君扇谷家は山内家を支える分家的な存在であった。
父・太田資清が主君・扇谷上杉持朝を補佐していた時代に、鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲実の対立から永享の乱へと発展し、足利持氏は室町幕府軍に滅ぼされ鎌倉公方は中絶する。後に幕府によって持氏の子足利成氏が鎌倉公方に、憲実の長男・山内上杉憲忠が関東管領に任じられると、山内憲忠の義父である扇谷持朝の要望により太田資清が、山内家家宰長尾景仲と共に、関東管領である山内憲忠を補佐した。長尾景仲は太田資清の義父で、道灌にとっては母方の祖父にあたる。康正元年(1455)頃には品川湊近くに太田家は居館を構えたという。同年12月、正五位下に昇叙し、備中守に転任。
ところが享徳3年(1454)に関東管領山内憲忠が、鎌倉公方足利成氏に暗殺され、上杉一門は報復に立ち上がって武蔵高安寺(東京都府中市)にいた足利成氏を攻めたものの、翌享徳4年(1455)分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、当時の扇谷家当主顕房(持朝の子)も討たれてしまう。幕府は足利成氏討伐を決め、駿河守護今川範忠率いる幕府軍が鎌倉に攻め寄せる。敗れた成氏は下総古河城に拠り、古河公方を称して抵抗。古河公方成氏は上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたため、関東地方はほぼ利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断されてしまった。これを享徳の乱と言う。
康正2年(1456)、太田道真(資清の法名、文安4年(1447)以前に出家)は子・資長(後の道灌)に家督を譲った。以後、資長(道灌)は政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の扇谷家2代にわたって補佐して、結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事になった。
古河公方成氏方と戦うために早急に防御拠点を築かねばならず、顕房死後に扇谷家当主に復帰した持朝の命で、康正2年(1456)から長禄元年(1457)にかけて太田道真・資長(道灌)父子は武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、埼玉郡に岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いた。(岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、近年道灌と対立していた古河公方成氏方の忍城主成田顕泰の父・成田正等によって築城されたとする資料が見つかるに及んで、最近では後者の学説の方が有力となっている)
江戸築城
更に古河公方方の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。資長(道灌)は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。
『永享記』には資長(道灌)が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある。また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた資長(道灌)の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっている。これらの霊異談は弱体化していた古族江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説がある。江戸城が完成して品川から居館を遷したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)であったと言い伝えられている。
江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営した。江戸城城主となった資長(道灌)は、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの茶代にあてたという。
諸書を求めて兵学を学び、殊に『易経』に通じて当時の軍配者(軍師)の必須の教養であった易学を修め、また武経七書にも通じていた。『太田家譜』によると管領細川勝元に兵書を贈ったとされる。資長(道灌)の兵法は「足軽軍法」と呼ばれた。これは、それまでの騎馬武者による一騎討ちを排して、当時、登場し始めていた足軽を活用した新時代の集団戦術と論じられることが多いが、実のところ「太田家記」に名称だけが書かれているだけで実態は不明である。
飛鳥井雅親、万里集九などと交流して歌道にも精通して、様々な和歌が残されている。有名な「山吹の里」の伝説はここから生まれた。文明元年(1469)から文明6年(1474)頃に著名な歌人の心敬を品川の館に招いて連歌会を催し、これは「品川千句」と呼ばれる(優れた歌人の父・道真も「河越千句」を行っている)。また、文明6年には心敬を判者に江戸城で歌合を行い、「武州江戸二十四番歌合」が残っている。
長禄2年(1458)、8代室町将軍足利義政の異母兄・足利政知が関東に下向して堀越公方と称したが、古河公方成氏方との戦いは膠着していた。『太田家記』によると寛正6年(1465)に資長(道灌)は上洛して将軍義政に関東静謐の策を言上したとある。この上洛については他の史料に所見がなく疑問とされているが、近年の研究では寛正3年(1462)に扇谷持朝が堀越公方政知と対立して、政知の側近渋川義鏡の讒言によって扇谷持朝に謀叛の疑いをかけられて、三浦時高、大森氏頼・実頼父子、千葉実胤ら扇谷家の重臣が隠遁する程深刻な事態に陥ったため、両者の対立の収拾に数年かかっていた事が明らかとなっており、資長(道灌)が扇谷持朝に代わって幕府に対して弁明あるいは関係修復するために上洛した可能性も指摘されている。
文正元年(1466)、関東管領山内房顕(憲忠の弟)が死去。前年から上杉方は武蔵五十子(埼玉県本庄市)に城をつくり、古河公方成氏方と対峙していた。この五十子陣で以後、18年に渡り両軍は対峙することになる。山内家は越後上杉家から養子に入った顕定が継いだ。
翌応仁元年(1467)に京で応仁の乱が勃発。同年、父・道真が長年仕えた扇谷持朝が死去、跡を孫で16歳の上杉政真が継いだ(前年に家督を継承)。
文明3年(1471)、古河公方成氏方が攻勢に出て武蔵を突破して箱根山を越え、長駆、堀越公方政知のいる伊豆へ進撃せんと図った。上杉方は古河公方成氏軍を撃退して古河城へ逆襲して陥落させたが、足利成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びた。一旦は上杉方が優勢となったが、成氏方は反撃に出て文明4年(1472)に古河城を奪回し、文明5年(1473)には五十子の陣を強襲して扇谷政真を討ち死にさせてしまう。若い政真には子がおらず、資長(道灌)ら老臣が協議して政真の叔父にあたる上杉定正を扇谷家当主に迎えた。
この頃に資長は出家して道灌と称した(備中入道道灌)。「道灌」を名乗り始めた正確な時期は不明だが、「道灌」名義の初出は文明6年6月の歌合記事である。
長尾景春の乱
文明5年、山内家家宰長尾景信が死去した。跡を子・景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ。長尾景春は従兄弟である道灌に謀反に加わるよう誘った。道灌はこれを断り、主君・扇谷定正と父・道真もいる五十子の陣に赴き関東管領山内顕定へ、懐柔するために長尾景春を武蔵国守護代につけ長尾忠景を一旦退けるよう進言したが、山内顕定は受け入れなかった。それでは、直ちに長尾景春を討つよう進言するが、山内顕定はこれも受け入れなかった。
文明8年(1476)2月、駿河守護今川義忠が遠江で討ち死にし、家督をめぐって遺児の龍王丸と従兄の小鹿範満が争い内紛状態となった。小鹿範満は堀越公方の執事犬懸上杉政憲の娘を母としており、道灌は小鹿範満を家督とするべく、犬懸政憲とともに兵を率いて駿河に入った。
この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢盛時(後の北条早雲)が仲介に入って、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と犬懸政憲も撤兵した。『別本今川記』によると、この際に道灌と北条早雲が会談して、早雲の提示する調停案を道灌が了承したとある。従来、早雲は道灌と同じ永享4年(1432)生まれとされ、主家に尽くした忠臣道灌と下克上の梟雄早雲とのタイプの異なる同年齢の名将が会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって早雲は素浪人ではなく将軍直臣の名門伊勢氏の一族であり、年齢も24歳若い康正2年生まれ説が有力となっている。
道灌が駿河に出張していた同年6月、長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って古河公方と結び挙兵した(長尾景春の乱)。翌文明9年(1477)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走。長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。更に石神井城(東京都練馬区)の豊島泰経が長尾景春に呼応したため、江戸城と河越城の連絡が絶たれる事態となる。
同年3月、道灌は兵を動かして長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略。江戸城の至近に拠る豊島氏は早期に滅ぼさねばならず、4月、道灌は兵を発して豊島泰経・泰明兄弟を江古田・沼袋原の戦いで撃破し、そのまま石神井城を落して豊島氏は没落した。5月、道灌は用土原の戦いで長尾景春を破り、景春の本拠・鉢形城を囲んだが古河公方成氏が出陣したため撤退して、早期に景春を討つ好機を逃した。
道灌は上野へ侵攻して塩売原で長尾景春と対陣するが決着はつかなかった。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、翌文明10年(1478)正月、古河公方成氏は和議を打診してきた。
同年4月に武蔵の小机城(神奈川県横浜市港北区)を包囲した。「太田家記」によると城の守りが堅固な上に、攻め手が小勢なため包囲は数十日に及んだが、道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌をつくって兵に歌わせ士気を鼓舞してこれを攻め落とした。続いて長尾景春方の諸城を落として相模から一掃。
12月に和議に反対する古河公方の有力武将であった千葉孝胤を境根原合戦で破り、翌年には孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤を擁して、甥の太田資忠を房総半島に出兵させ、反対派を一掃した。だが、千葉氏の拠点の一つであった臼井城攻略中に資忠は戦死、臼井城を落として千葉孝胤を放逐したものの、太田軍が撤退するとすぐに孝胤が巻き返して自胤側勢力を下総から一掃したために、千葉孝胤と長尾景春の連携を絶つという目標は達したが、もう一つの目標である千葉自胤の下総復帰は達成できなかった。
なおも抵抗を続けていた長尾景春も文明12年(1480)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落した。そして文明14年(1482)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。
道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。「太田道灌状」で「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。
道灌暗殺
道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。
『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ扇谷定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として古河公方成氏に預けている。
文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。
『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。
道灌暗殺の原因については、力が強くなりすぎた道灌が下克上で自身にとって代わりかねないと恐れた扇谷定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるための山内顕定の画策に扇谷定正が乗ってしまったとも言われる。『上杉定正消息』の中で扇谷定正は、道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また道灌が山内顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。
道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになった。
翌長享元年(1487)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げる。
やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる。
逸話
山吹伝説
道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、伝説の地に比定されている。また、落語にこの故事をもとにした『道灌』という演目がある。
夢見ヶ崎
川崎市幸区にある「夢見ヶ崎(ゆめみがさき)」という地名は、道灌の見た夢に由来しているという。多摩川と鶴見川に挟まれ、近くを鎌倉街道が走るこの場所は、築城するのにとても適した場所であったが、この地に宿営していた道灌が「一羽の白い鷲が私の兜を掴んで南西の地へ持っていってしまった」という夢を見て不吉だと感じ、築城を断念したとされる。そのため兜を南西の地へ埋め、新たに築城する場所を探したとされている。ちなみに現在は川崎市立夢見ヶ崎動物公園の東端にある9号古墳跡地に太田道灌碑と八幡宮が、横浜市鶴見区駒岡3丁目には兜塚の碑が建てられている。
謀反鎮圧
あるとき、道灌の家臣が謀反を起こして館に立てこもった。道灌は兵士を差し向け、突入時に後方から「あの者は殺すな」と叫んだ。すると謀反した家臣はもしかして自分だけ助かるのではないかと思い、剣先が鈍くなり、全て討たれてしまった。
将軍の猿
将軍足利義政は一匹の猿を飼っていた。この猿は御所に参内する大名たちに飛びかかって引っ掻き、大名たちは難渋していたが、将軍の猿のために苦情も言えなかった。太田道灌が上洛して御所に参り、猿はいつものように飛びかかろうとするが、道灌がにらみつけると怯えて縮こまってしまった。大名たちは道灌の威に驚いた。 道灌は上洛するとこの猿のことを知り、猿師に賂を渡して猿をしたたかに打ちすえておいたのである。そのため、猿は道灌に睨みつけられると怯えてしまった。大名たちはこれを知り道灌の知恵にさらに驚いた。
臨終の際の歌
道灌は刺客に槍で刺された。道灌が歌を好むことを知っている刺客は上の句を読む。
かかる時さこそ命の惜しからめ
道灌は致命傷に少しもひるまず下の句を続けた。
かねてなき身と思い知らずば
これは新渡戸稲造著書「武士道」(1899)に紹介した。勇気ある真に偉大な人物が死に臨んで有する「余裕」の一例としている。 
 
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

 

 
 
躑躅ヶ崎館1
永正16年(1519)に造営された躑躅ヶ崎館は、天正9年(1581)に新府城(韮崎市)へ移転するまでの62年間、信虎(のぶとら)、信玄(しんげん)、勝頼(かつより)と続いた武田氏3代の居館である。相川のつくり出した扇状地の扇頂部に位置した館は、西に湯村山、東に大笠山、夢見山、愛宕山が張り出し、北は帯那山(おびなやま)の深山に囲まれた天然の要害であった。現在、武田信玄を祀る武田神社の境内と、その周囲が館跡となっている。約200m四方におよぶ城域を有する館の内郭は、周囲に土塁と堀をめぐらし、東曲輪と中曲輪、西曲輪(人質曲輪)から構成される。また北側に北(隠居)曲輪、稲荷曲輪、味噌曲輪、南側に梅翁(ばいおう)曲輪を付設している。もっとも、永禄年間(1558‐69)の古図によると、当初は東曲輪と中曲輪のみの単郭形式で、武田信玄の時代から除々に拡張されたものと考えられる。中曲輪は本丸にあたる場所で、ここに主殿、本主殿を庭園とともに構え、甲斐国守護職の居館と政庁の役割を果たした。また中曲輪の南側には楼閣の亭建築が築かれていたことが各種古図から分かる。東曲輪には大手口である東門が開かれ、角馬出が存在、発掘調査により角馬出の外側に全長約25m×幅約5m×深さ2m以上と推定される三日月堀の存在も明らかになっている。武田流築城術の象徴ともいうべき三日月堀は、武田氏が侵攻した信濃国や駿河国では多く見つかっているが、山梨県内では新府城で確認されているのみであった。西曲輪は信玄の長男義信(よしのぶ)の御座所として、今川義元(よしもと)の娘との婚礼に合わせて造営したと『高白斎記』にみえ、義信夫妻の居所であったが、それ以前もしくは義信自刃後は人質曲輪として利用されたと伝わる。また北(隠居)曲輪は、信虎駿河退隠に従わなかった大井夫人が除髪して住居したところであり、これによって大井夫人は御北様と呼ばれた。躑躅ヶ崎館の周囲には武田氏の有力家臣団の屋敷が区画されて立ち並び、躑躅ヶ崎館の北東2.5kmにある要害山に詰の城である要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれた。現在、武田神社の社殿が鎮座する場所が中曲輪跡で、宝物殿のあたりが東曲輪跡、甲府市藤村記念館のあたりが西曲輪跡である。武田神社への参道として朱塗りの橋が架かる南側には当時入り口はなく、橋を渡った両側にある石垣も後世のもので、躑躅ヶ崎館の遺構ではない。
永正4年(1507)甲斐源氏嫡流で甲斐国守護職の武田信縄(のぶつな)が没すると、嫡男の信虎が14歳で武田家18代当主となった。このとき、信虎の叔父である勝山城(甲府市上曽根町)の油川信恵(あぶらかわのぶよし)は、郡内の小山田弥太郎らと共に反旗を翻した。翌永正5年(1508)信虎は勝山城を奇襲して油川信恵を討ち取り、さらに小山田弥太郎をも討ち、郡内地方の反乱軍を掃討している。永正16年(1519)信虎は山梨郡古府中に躑躅ヶ崎館を築いて、川田館(甲府市川田町)から本拠を移した。居館の周辺に家臣団屋敷を配し、外側には商人町や職人町を置いて、中世城下町の建設を目指したものであった。ところが、家臣や有力国人に対して、居城を廃して城下町に屋敷を移すように命じたところ、この施策に有力国人は激しく反発した。永正17年(1520)西郡(にしごおり)の豪族で上野城(南アルプス市)の大井信達(のぶさと)、信業(のぶなり)父子、東郡(ひがしごおり)の豪族で栗原氏館(山梨市)の栗原信友(のぶとも)、峡北の豪族で獅子吼城(北杜市)の今井信是(のぶこれ)が反旗を翻す。いずれも武田氏の庶族である。信虎は軍勢を3隊に分けて鎮圧に向かった。東郡に進軍した部隊は、都塚で栗原氏を破り、栗原氏館を焼き払った。峡北に向かった部隊も今井氏を降し、西郡の部隊も今諏訪で大井氏を破った。このとき信虎は、大井氏との和睦の条件として、信達の娘(大井夫人)を正室として迎えた。甲斐国の統一を果たし、守護大名から戦国大名へと成長した信虎は、国外の強敵と戦っていくことになる。大永元年(1521)駿河国の今川氏親(うじちか)は甲斐国に軍勢を侵攻させた。総大将の福島正成(くしままさなり)率いる1万5千の大軍は、大島の戦いで武田軍を破り、富田城(南アルプス市)、勝山城を攻略して躑躅ヶ崎館に迫った。信虎は懐妊中の大井夫人を躑躅ヶ崎館の詰の城である要害山城(甲府市上積翠寺町)に移して今川軍との決戦に臨んだ。このとき山麓の積翠寺で産んだ太郎が、のちの武田信玄である。世継ぎ誕生に沸く武田軍は、飯田河原の戦いに続いて、上条河原の戦いでも圧勝、福島正成をはじめ600余を討ち取り、今川軍を撃退した。この福島乱入事件によって、信虎は国内での支配権を確固たるものにし、本格的な信濃国への侵攻を開始する。
天文10年(1541)信虎が駿河国の今川義元の館に赴いた際、重臣の板垣信方(のぶかた)や甘利虎泰(とらやす)らに擁立された長男の晴信(後の武田信玄)は、甲駿国境の万沢口に足軽を出して封鎖し、信虎の帰国を阻止した。このクーデターによって父を追放した晴信は、甲斐武田氏の19代当主となり、信虎の信濃国侵攻事業を引き継いだ。信虎追放の理由は、信虎に疎まれた晴信が廃嫡を恐れての事だけでなく、信虎の独裁に対する国人衆の不満によるものでもあった。天文12年(1543)躑躅ヶ崎館は、城下の道鑑屋敷より出火した大火によって全焼してしまう。晴信は家臣である駒井高白斎政武(まさたけ)の屋敷を臨時の館として、躑躅ヶ崎館を再建したという。天文16年(1547)武田晴信は『甲州法度之次第』を制定する。それには「晴信行儀に於て、その外の法度以下に相違の事あらば、貴賎を選ばず目安を以て申すべし、時宜に依り、その覚悟を成すべし」とあり、主君が自らも従うべきと定めた法律は、戦国時代に極めて珍しいものであった。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言に象徴されるように、武田信玄は人心の掌握に長けており、武田二十四将を始めとした家臣達が信玄のために卓越した能力を発揮した。このため、群雄割拠の戦国時代において、北方の上杉謙信(けんしん)、東方の北条氏康(うじやす)、南方の今川義元といった強大国に囲まれながらも、破竹の勢いで勢力を拡大し、甲斐、信濃、駿河の3国に加え、上野、遠江、三河、美濃、飛騨、越中の一部にまで版図を広げ、推定120万石の領国を形成した。また、信玄はその生涯のうち、一度も甲斐国に攻め込まれたことがなく、甲斐国内に新たな城を築城する必要もなかったため、堀一重の躑躅ヶ崎館を本拠とし続けた。元亀元年(1570)室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)は、織田信長との関係が悪化すると、信長討伐の御内書を諸国に乱発し、武田信玄、朝倉義景(よしかげ)、浅井長政(ながまさ)、毛利輝元(てるもと)、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力にも呼びかけて信長包囲網(反信長同盟)を形成した。元亀3年(1572)信長包囲網の中心的存在だった信玄は、戦国最強と恐れられる武田軍団を率いて躑躅ヶ崎館を出陣し、織田信長を討つべく上洛を開始した。信濃国伊那郡から遠江国に侵入し、三方ヶ原合戦で徳川家康を壊滅させて、三河国に侵入した。ところが、翌元亀4年(1573)三河野田城(愛知県新城市)を攻略した直後から信玄の持病が悪化し、武田軍団の進撃が止まった。信玄は鳳来寺(愛知県新城市)で回復を待ったが、病状はいっこうに良くならず、躑躅ヶ崎館に帰陣することを決意する。しかし甲斐国に引き返す途中、信濃国伊那郡駒場にて53歳で病没した。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」、これは信玄の辞世の句である。死に際した信玄は、後継者の勝頼に喪を3年のあいだ隠すように命じ、義理に厚い上杉謙信を頼りにするよう告げたという。家督を相続した武田勝頼は、信玄の時代よりも版図を拡大するものの、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗してしまい、無敵であった武田氏の勢力は衰えた。躑躅ヶ崎館では織田氏の攻撃に耐えられないと判断した勝頼は、天正9年(1581)躑躅ヶ崎館よりも要害の地である七里岩の断崖上に新府城の築城を始め、普請半ばで入城した。そして躑躅ヶ崎館は、府中の移転に反対する家臣達への圧力のため徹底的に破却された。天正10年(1582)織田・徳川連合軍による甲斐・信濃侵攻によって、名門武田家は滅亡する。織田信長は、その論功行賞として、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の巨摩郡を除いた甲斐国と信濃国諏訪郡を河尻秀隆(ひでたか)に与え、上野国と信濃国小県郡・佐久郡を滝川一益(かずます)、信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を森長可(ながよし)、信濃国木曽谷および安曇郡・筑摩郡を木曽義昌(よしまさ)、駿河国を徳川家康に与えた。しかし同年、織田信長が本能寺で討たれると、甲斐国は天正壬午の乱を経て徳川家康の領土となった。この頃、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、甲斐の統治を任された家臣の平岩親吉(ちかよし)が居城した。天正18年(1590)徳川家康が関東に移封すると、甲斐国には羽柴秀勝(ひでかつ)が入封して甲府城の築城を開始し、天正19年(1591)続いて入封した加藤光泰(みつやす)が甲府築城を引き継いだ。武田神社の北西には石垣の天守台が現存している。この天守台と主郭内部を区画する石垣等は、武田氏滅亡後に築かれたもので、躑躅ヶ崎館は羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政(ながまさ)らが甲府築城の期間に居城としており、その頃のものである。梅翁曲輪も加藤光泰の家老の井上梅雲斎(ばいうんさい)の屋敷であったことによる。江戸時代、武田二十四将の土屋右衛門昌次(まさつぐ)の屋敷跡は、魔縁塚(まえんづか)と呼ばれ、里人は恐れて近づかなかった。安永8年(1779)甲府代官の中井清太夫が魔縁塚を発掘したところ、「法性院機山信玄大居士 天正元年癸4月12日薨」と刻まれた石棺が出土し、中から骨片や灰などが出てきた。この報告を受けた幕府によって、この場所が武田信玄の墓と定められ、現在も甲府市岩窪町に存在する。 
躑躅ヶ崎館2
山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または城)。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。
甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。
戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。
県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。
立地と歴史的景観
戦国時代、各地で守護館を中心に政治的・経済的機能を集中させた城下町の整備が推進されたが、甲斐守護の武田氏は、信昌時代に居館を甲府盆地東部の石和から川田(甲府市)へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成していた。
16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた信虎は、永正16年(1519)に盆地中央に近い相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせている。『高白斎記』や『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったという[1]。信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。また、同時に裏山に要害山城を築き守りを固めた。
信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。
晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。
甲府は要地であったが、天文17年(1548)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、勝頼期には 天正3年(1575)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き、 天正10年(1582)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田氏の武田征伐の結果、武田氏は滅亡する。
武田氏滅亡後、入府した河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、まもなく本能寺の変が勃発し、その後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。 天正18年(1590)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。
構造・遺構
広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造られている。)等から構成され、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば 天文12年(1543)には館の一部を焼失したが、再建されている。
現在、跡地は大正8年(1919)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の 昭和15年(1940)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。
城下町(武田城下町)
武田城下町は館を機軸に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、京風町並を意識していたことが指摘されている。考古学的には城下町整備当初から設定されていたかは不明であるが、文献史料では高野山成慶院「甲斐国供養帳」や二次史料において街路の地名が見られる。
居館の建設と平行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中整備が行われ、城下町の北面には家臣団屋敷地が整備され、南面には商職人町が整備された。城下町南端の一条小山(後に甲府城が築城される)には鎌倉期に創建された一蓮寺の門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺の門前町が発達した。また、東西の出入口武には三日市場や八日市場などの市場が開設され、城下町と外部の境界にあたる上木戸には刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた堺町には牢屋もあった。城下町はこれらの空間的に独立した町場も包摂した。
外縁には詰城として城砦群が発達し、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山(のちに甲府城が築かれる)にも山城や砦が築かれ、居館と詰城、支城による府中防衛体制を整えた。
 
高崎城

 

 
北部に赤城山、榛名山、妙義山を望み、烏川に沿って築城された高崎城は、輪郭梯郭複合式の平城で、本丸を中心に西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋が輪郭式に配置され、二の丸、三の丸が梯郭式に配置されていた。また遠構え(とうがまえ)と呼ばれる総構えも構築された。高崎城に天守はなく、本丸西側の土塁中央にあった御三階櫓が天守の代用であり、本丸の四隅には、乾(いぬい)櫓、艮(うしとら)櫓、巽(たつみ)櫓、坤(ひつじさる)櫓という2層の隅櫓が存在した。近年、農家の納屋として利用されていた乾櫓が、本来の位置とは異なるが城域に移築復元された。入母屋造りで腰屋根を巡らした乾櫓は、白漆喰で仕上げられており、もとは御三階櫓に続く土塁上の1m足らずの高石台の上に築かれていた。高崎藩の記録『高崎城大意』に乾櫓の記述があり、「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とあるように、安藤重博(しげひろ)の時代に平屋の土蔵のような建物を乾櫓に改築したことが分かる。現在の乾櫓の石垣は、設置面積を少なくするための模擬石垣である。また乾櫓の隣には、無双窓の番所が付属した三の丸東門が移築現存された。往時の高崎城内には16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。このうち乗篭の通れるくぐり戸が付いていたのは東門だけで、通用門として使用されたという。市街化の進んだ高崎城跡は、遺構のほとんどが消滅しており、三の丸土塁と水堀の一部しか残っていない。城跡の一部は史跡公園や城址公園として整備されている。高崎城は徳川四天王のひとり井伊直政(なおまさ)が築いた壮大な平城で、中世の和田城の跡地を取り込んで造られている。高崎の地は古くは赤坂の荘と呼ばれており、中世においては和田氏の和田城が存在した。この上野和田氏は、桓武平氏良文流の三浦氏一族である和田義盛(よしもり)の後裔と伝えられている。和田義盛は鎌倉幕府の有力御家人で、幕府創設以来の功臣として初代侍所別当という要職に就いていた。しかし、建暦3年(1213)泉親衡(いずみちかひら)の乱に和田一族が関与したことをきっかけとして、執権の北条義時(よしとき)との間に確執が生じ、これが原因となって武蔵七党の横山党や反北条勢力と結んで挙兵に及んだ。強大な軍事力を擁する和田一族は、鎌倉の大倉御所(神奈川県鎌倉市)に攻め込み、3代将軍の源実朝(さねとも)は避難、緒戦は和田氏が優勢であった。しかし、北条義時は鎌倉幕府の御家人を集結させて反撃し、ついに由比ヶ浜で和田義盛を討ち取った。この和田合戦では和田一族のほとんどが討ち取られているが、上野和田氏の祖について、『上野国誌』によると、和田義盛の七男の六郎左衛門義信(よしのぶ)が、和田合戦のときに逃れて上野国に蟄居したとある。一方『和田記』では、始祖を六郎左衛門義信の弟にあたる義国(よしくに)としており、義国は和田合戦に敗れて葛西谷を切り抜けて、西上州の群馬郡和田山に退いて蟄居したとある。いずれにしても、上野和田氏の祖は寛喜2年(1230)に赤坂へ移住したといわれる。南北朝時代になると、和田高重(たかしげ)が南朝に属して、寺尾城(高崎市寺尾町)に拠る尹良(ゆきよし)親王を奉じていたらしい。また室町時代になると、関東管領の山内上杉憲実(のりざね)に従った和田義信(よしのぶ)によって、正長元年(1428)赤坂の古城跡に和田城が築かれたという。一方『上毛伝説雑記』には義信の子信忠(のぶただ)が、応永25年(1418)に築城したと記しており、詳細は不明である。
この和田城は、下之城(高崎市下之城町)や並榎の砦(高崎市上並榎町)と別城一郭の構造であった。その後の関東は争乱の時代に突入する。永享9年(1437)鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)が持氏討伐を命じた永享の乱や、永享12年(1440)足利持氏の残党や下総国の結城氏などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を擁立し、下総結城城(茨城県結城市)に籠城して室町幕府に反乱を起こした結城合戦、享徳3年(1455)再興した鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉憲忠(のりただ)を謀殺したことにより勃発した享徳の乱など、関東は鎌倉(古河)公方方と関東管領方に分かれて合戦を繰り返した。このとき、和田氏は一貫して山内上杉氏に属しており、着実に勢力範囲を拡大していった。天文7年(1538)和田信輝(のぶてる)は上杉朝定(ともさだ)と北条氏綱(うじつな)が戦った河越付近の戦闘で戦死し、嫡男の業繁(なりしげ)が当主となった。主家である関東管領上杉憲政(のりまさ)は、天文14年(1545)河越夜戦にて北条氏康(うじやす)に惨敗したあとも、北方に勢力を拡大する小田原北条氏に抵抗を続けたが、関東管領家の権威は失墜し、退勢はおおいがたい状況であった。天文20年(1550)北条氏康の率いる2万の軍勢が山内上杉氏の居城である平井城(藤岡市)を攻撃すると、上杉憲政は越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から脱出した。上杉憲政が越後に退去してしまうと、和田業繁は姻戚関係にある長野業正(なりまさ)の籏下に属した。弘治3年(1557)関東管領上杉憲政の養子となった長尾景虎(かげとら)は、永禄3年(1560)上杉憲政を擁して8千の兵で関東に出兵すると、反北条勢力だけでなく、それまで北条氏に服属していた北関東の国人衆は一斉に離反して景虎のもとに参陣した。永禄4年(1561)越後国から直江実綱(さねつな)が率いる増援部隊が到着し、関東の諸将を含めるとおよそ10万の大軍にふくれあがった。長尾景虎は北条氏の本城である相模小田原城(神奈川県小田原市)にこの大軍で攻め寄せ、1ヶ月におよぶ力攻めをおこなったが、守りの堅い小田原城を落すことはできなかった。この小田原城攻撃に和田氏も含まれていたようである。その後、長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣して、山内上杉氏の家督相続と関東管領職の就任を内外に示し、上杉憲政から上杉姓と偏諱を与えられて上杉政虎(まさとら)と改めた。この関東管領就任式のおり、居並ぶ諸将が腰をかがめて拝礼する中、武蔵忍城(埼玉県行田市)の成田長康(ながやす)だけは馬上にいた。成田氏は藤原道長(みちなが)の後裔であり、祖先は鎮守府将軍の八幡太郎義家(よしいえ)に騎馬のまま挨拶することを許された名門と言われ、その古例に則ったのである。しかし、それを知らない上杉政虎は無礼を咎めて、扇子で成田長康の顔面を打ち据えて烏帽子を落とした。怒った成田長康は兵をまとめて居城へ引き上げており、上杉政虎の高圧的な態度に不信を抱いた関東の諸将は、成田氏にならって鎌倉を離れる者も少なくなかったという。この事件を契機に和田業繁も上杉政虎から離反しており、上野西部に侵攻してきた甲斐国の武田信玄(しんげん)に従うことで家名を保とうとした。この頃、業繁の弟の和田喜兵衛は上杉政虎の元へ人質に出ており、政虎に気に入られて近習を務めていた。第4次川中島の戦いでは、激戦の末、上杉政虎と和田喜兵衛の主従わずか2騎で高梨山を目指して退却したという逸話が残る。
この和田喜兵衛は上杉輝虎(室町幕府13代将軍の足利義輝から一字を賜って政虎から改名)への従属を主張し、和田家中は分裂、ついに和田喜兵衛は上杉輝虎率いる越後勢を和田城攻撃に導いた。一方の武田信玄も交通の要衝である和田城を重視しており、土屋昌次(まさつぐ)や横田康景(やすかげ)を援軍として派遣している。永禄6年(1563)上杉輝虎は和田城を攻撃、和田業繁はわずかな城兵でよく守り、上杉軍を厩橋城(前橋市大手町)に退かせた。その後も上杉輝虎は永禄8年(1565)と永禄9年(1566)に和田城を攻撃しているが、横田康景の率いる鉄砲隊の活躍などにより、攻略することはできなかった。和田業繁は西上野先方衆の騎馬三十騎持として、武田信玄とともに各地を転戦した。天正3年(1575)長篠の戦いにおいて、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼(かつより)は三河長篠城(愛知県新城市長篠)を包囲、織田信長や徳川家康の援軍に備えて武田信実(のぶざね)を鳶ケ巣山(とびがすやま)砦(新城市乗本)に配置した。この時、和田業繁は武田信実に属して北方の君ケ臥床(きみがふしど)砦(新城市乗本)を守備していた。その後、鳶ケ巣山砦は徳川軍の酒井忠次(ただつぐ)の奇襲によって乱戦となり、後詰めに向かった和田業繁は多くの将兵を討ち取られたうえ、鉄砲に撃たれて負傷してしまう。和田隊が総崩れとなって潰走する中、家臣の反町大膳亮幸定(ゆきさだ)と矢中七騎(和田七騎)は踏みとどまって、負傷した和田業繁と嗣子の信業(のぶなり)を救出した。戦場からの脱出には成功したものの和田業繁は信濃国駒場にて没してしまう。家督を相続した和田信業は、甲斐武田氏で最大級の動員力を誇った跡部勝資(かつすけ)の長男で、和田業繁の婿養子であった。天正10年(1582)織田信長によって甲斐武田氏が滅ぼされると、上野国には信長の武将である滝川一益(かずます)が関東管領として厩橋城に赴任した。滝川一益は小田原北条氏と友好関係を築き、和田信業をはじめ上野国の諸将は滝川一益に従うが、まもなく本能寺の変が発生した。織田信長の死が確実となると、関東から織田勢力を駆逐するために北条氏直(うじなお)、北条氏邦(うじくに)の5万6千の軍勢が上野に侵攻、迎え撃つ滝川一益の2万弱の軍勢と上武国境の神流川で衝突した。この神流川の戦いは、第一次合戦では滝川一益が北条勢を追い落とすものの、第二次合戦で滝川勢が総崩れとなり惨敗した。この時、反町幸定は北条側で戦っており、かつて助けた和田信業とは敵味方に分かれている。敗れた滝川一益は厩橋城にて酒宴を張り、上野衆に人質を返還、関東経営を放棄して本領の伊勢国に引き返した。その後の和田信業は小田原北条氏に降っており、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原の役の際には、相模小田原城に籠城した。和田城は信業の嫡男である和田業勝(なりかつ)が留守を預かったが、前田利家(としいえ)、上杉景勝(かげかつ)等の北国軍に包囲されて落城する。そして、小田原城が20万余の大軍に包囲されて開城すると、和田信業は紀伊国の高野山に隠棲したという。小田原城に入った秀吉は、徳川家康に対して北条氏の旧領である関東地方7ヶ国、およそ250万石を与えた。この時、井伊直政が家臣中第一位の上野国箕輪12万石、続いて榊原康政(やすまさ)が上野国館林10万石、本多忠勝(ただかつ)が上総国大多喜10万石に配置されている。徳川家康の関東入封後、和田城は使用されずにそのまま廃城となっていたが、和田の地が中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の要衝であり、その監視をおこなう城郭が必要となってきた。
慶長3年(1598)家康の命により箕輪城(高崎市箕郷町)の井伊直政が、和田城跡を取り込んで大規模な近世城郭を築城した。この頃、和田の地を高崎と改めて高崎城とし、箕輪城から本拠を移転して、多くの建築物も移した。井伊直政は「井伊の赤備え」と呼ばれる徳川氏の精鋭部隊を率いており、小牧・長久手の戦いの活躍によって「赤鬼」の異名をとる猛将であった。慶長5年(1600)徳川秀忠が率いる徳川本隊は、関ヶ原に向かう途中、高崎城に3万の大軍で3日間滞在したが、広大な城郭のため不都合は生じなかったという。関ヶ原合戦で西軍の敗北が決定的になると、進退極まった島津義弘(よしひろ)隊は戦線離脱のため、大胆にも敵中突破を試みた。捨て奸(すてがまり)の戦法によって、勇猛な島津兵のほとんどを失いながらも、東軍の執拗な追撃から島津義弘を逃すことに成功している(島津の退き口)。この時の追撃戦で、井伊直政は重傷を負うものの、島津豊久(とよひさ)を討ち取った。さらに石田三成(みつなり)の居城である近江佐和山城(滋賀県彦根市)攻めでも活躍しており、井伊直政はこれらの戦功により石田三成の旧領である近江国佐和山18万石に移封となった。しかし、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が原因で、慶長7年(1602)に佐和山城で死去している。井伊直政が佐和山城に移った後、高崎城は総社城(前橋市総社町)の諏訪頼水(よりみず)が城番として管理し、慶長9年(1604)に酒井家次(いえつぐ)が5万石で入封した。その後、元和2年(1616)に戸田松平康長(やすなが)が2万石、元和3年(1617)に藤井松平信吉(のぶよし)が5万石と、めまぐるしく藩主が変わっている。元和5年(1619)安藤重信(しげのぶ)が5万6千石で入封すると、安藤氏が3代にわたって高崎城の大改修をおこない、この時期に御三階櫓が建てられたという。寛永9年(1632)2代藩主の安藤重長(しげなが)の時代に、徳川忠長(ただなが)が高崎城に幽閉されている。徳川忠長とは、江戸幕府2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の三男であり、駿河、遠江、甲斐国の55万石を領し、駿河大納言と呼ばれていた人物である。兄の徳川家光(いえみつ)は春日局に育てられたが、正室の小督の方に育てられた忠長は寵愛され、次期将軍職を噂されるほどであった。結局、春日局が徳川家康に訴えたことで、3代将軍は家光に収まるが、家光と忠長の兄弟の確執は決定的となった。寛永9年(1632)殺生などの乱行を理由に忠長は改易、高崎藩に預けられて自害させられる。高崎城下の長松寺(高崎市赤坂町)には、徳川忠長が幽閉された高崎城の書院が移築現存しており、「忠長切腹の間」も存在している。元禄8年(1695)5代将軍徳川綱吉(つなよし)の側用人である大河内松平輝貞(てるさだ)が5万2千石で高崎城に入る。しかし、宝永6年(1709)に綱吉が死去すると、宝永7年(1710)6代将軍徳川家宣(いえのぶ)は松平輝貞を越後国村上に左遷、今度は家宣の側用人である間部詮房(まなべあきふさ)を5万石で高崎に入封させ、7代将軍徳川家継(いえつぐ)の代まで続いた。家継が夭折して徳川吉宗(よしむね)が8代将軍となると、享保2年(1717)間部詮房は越後国村上に左遷され、再び松平輝貞が7万2千石で高崎城に復帰した。その後は、この大河内松平氏が10代続いて8万2千石で幕末を迎える。元治元年(1864)水戸藩の天狗党が筑波山で挙兵する事件が発生し、京都へ向かう天狗党の軍勢が高崎藩領を通過した。高崎藩はこれを見過ごさず、天狗党を追撃して下仁田で戦闘におよぶが、この下仁田戦争で高崎藩は天狗党に敗北している。
 
笠間城

 

 
笠間城は佐白山(さしろさん)の山頂部を中心に築かれおり、関東地方に珍しく石垣を使用した山城である。山頂の天守曲輪から、本丸、二ノ曲輪、帯曲輪、三ノ曲輪、千人溜りを配置し、各曲輪には白壁の塀をまわし、要所には殿主櫓、八幡台櫓、宍ケ崎櫓を配置していた。現在、天守曲輪には見事な天守台が残り、そこには二層の殿主櫓の廃材を利用して建てられたという佐志能神社が建つ。本丸の南端は八幡台櫓跡であり、西端は宍ケ崎櫓跡となる。二層二階の八幡台櫓は、明治13年(1880)城下の真浄寺に移築され現存しており、他にも2つの城門が城下の民家に現存している。登山路の黒門跡近くに、巨大な「大黒石」がある。これは鎌倉時代の正福寺と徳蔵寺の戦いの際、正福寺の僧兵が佐白山の山頂から転がしたもので、徳蔵寺側の僧兵に大きな被害を与えたという。
鎌倉時代初頭、佐白山には100余房を有する正福寺があり、北方の七会(ななかい)にあって300余房を有する徳蔵寺と寺領をめぐって対立し、武力衝突に発展した。兵力に劣る正福寺側は、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)の宇都宮頼綱(よりつな)に援軍を要請した。元久2年(1205)頼綱は要請に応じ、甥の塩谷時朝(ときとも)を将とする軍勢を送り、徳蔵寺を殲滅した。ところが宇都宮軍は、その後も帰国せず、佐白山麓に陣を構えてとどまった。不安になった正福寺側は佐白山に立てこもり、宇都宮軍に滅ぼされることになる。承久元年(1219)塩谷時朝は、破壊した僧坊の跡に笠間城を築城して、笠間氏を称するようになったという。この伝承には疑問な点も少なくないが、南北朝時代以降、笠間氏がこの城を本拠としたことは間違いなく、時朝から17代目の綱家(つないえ)のときには、小さいながらも戦国大名の地位を占めていた。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役の際、宇都宮氏は豊臣側につくが、笠間綱家は北条側に味方した。相模小田原城(神奈川県小田原市)が降伏開城すると、宇都宮国綱(くにつな)は秀吉の命により笠間城を攻め落とし、380年間続いた笠間氏は滅亡する。その後、宇都宮氏の家臣である玉生高宗(たまにゅうたかむね)を笠間城に置いた。文禄元年(1592)宇都宮国綱は朝鮮出兵(文禄の役)に出陣して、増田長盛(ましたながもり)の指揮下で、釜山(プサン)において戦功をあげる。ところが、慶長2年(1597)浅野長政(ながまさ)が実施した太閣検地の結果、宇都宮氏の所領申告に不正があったと摘発され改易となった。これは浅野長政の三男長重(ながしげ)を宇都宮氏の嗣子にという提案を宇都宮国綱が断ったためといわれる。慶長2年(1597)慶長の役に際し、戦功によっては宇都宮氏再興を許すという秀吉の内意を受けた宇都宮国綱は、朝鮮半島に渡って必死の戦いを展開したが、秀吉の死によって再興の願いは絶たれた。
慶長3年(1598)蒲生秀行(ひでゆき)が18万石で下野国宇都宮に封じられると、家臣の蒲生郷成(さとしげ)が笠間領3万石を与えられ、笠間城を守備する。『笠間城記』によると、郷成が天守曲輪に櫓を建てたとあり、笠間城の改修や城下町の拡充に取り組み、今に残る城郭は、このときにほぼ完成された。慶長6年(1601)蒲生秀行は会津に60万石で転封し、笠間城には松平康重(やすしげ)が3万石で入封。その後、小笠原、松平(戸田)、永井氏を経て、元和元年(1622)浅野長重が5万3千石で城主となるが、子の長直(ながなお)の代で播磨国赤穂に転封となった。長直の孫は『忠臣蔵』で有名な赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)である。以後、井上、松平(本庄)、井上氏を経て、延享4年(1747)牧野貞通(さだみち)が8万石で笠間城主となり、明治まで9代続いた。 
 
河越城

 

 
川越は、古代には「河肥」、中世には「河越」という文字が使われ、近世に至って「川越」となった。河越城は武蔵野台地の北東端に位置しており、入間川が城の西から北にかけて大きく曲がって流れている。北に赤間川(新河岸川)、東に伊佐沼を擁し、南は泥湿地となり要害の地であった。本丸跡には現在も本丸御殿の一部が残り、二の丸は川越市立博物館となっている。現存する本丸殿舎としては、土佐高知城(高知県高知市)とここの二ヶ所だけとなる。また、天神曲輪にあった三芳野神社は、平安時代初期の創建とされ、河越城の築城後は城の守護神として祀られた。河越城内のため警護が厳しく、一般の参詣は難しかった。童謡「通りゃんせ」は、その様子が歌われたものと伝えられる。近世の川越城にも天守はなく、二の丸の北東に二層の菱櫓、本丸の北西に二層の虎櫓、南西に三層の富士見櫓があり、城内で一番の高所にあった富士見櫓が天守代わりとなっていた。なお、戦国期の富士見櫓は井楼矢倉であったらしい。川越のシンボル「時の鐘」は、寛永年間(1624-1644)に、川越藩主酒井忠勝(ただかつ)によって最初に建てられたものである。
河越の地には、鎌倉御家人として名高い河越氏が館を構えていた。河越氏は武蔵国留守所惣検校職を相伝した。この職務は守護代、目代に相当する重席であった。河越氏は応安元年(1368)平一揆の乱の河越合戦で滅びている。その後、河越は扇谷上杉持朝(もちとも)に宛がわれた。扇谷上杉氏は古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と対立し、長禄元年(1457)持朝は太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子に命じて河越城を築城した。江戸城(東京都千代田区)、岩付城(さいたま市)とともに古河公方に対する築城であった。道灌は江戸城にあり、河越城は道真が城代として守った。河越築城当時の関東地方は、下総古河城(茨城県古河市)を拠点とする古河公方足利氏と、山内・扇谷の両上杉氏が争っており、文正元年(1466)にも、河越城西方の大袋原で古河公方軍と河越城兵の豊島一族が合戦している。当時の河越城は、のちの本丸と二の丸を合わせたくらいの規模であり、扇谷上杉氏は以後六代にわたり約80年間、河越城を居城として武蔵の経営を続けた。
大永4年(1524)北条氏綱(うじつな)は、扇谷上杉朝興(ともおき)を高縄原合戦で破り、江戸城を攻め落とした。敗れて河越城に逃れた朝興は、白子原合戦、蕨城(蕨市)攻略、小沢城(神奈川県川崎市)攻略などに成功し北条氏に反撃するが、圧倒的な組織力を誇る北条軍を突き崩すことはできなかった。天文6年(1536)朝興が河越城で病没したのを受けて、北条氏綱は河越城攻撃のため三ツ木(狭山市)まで進出した。跡を継いだ朝定(ともさだ)は、籠城策はとらず野戦での決戦を挑むが、敗れて松山城(比企郡吉見町)に逃れる。氏綱は、北条為昌(ためまさ)を河越城主とした。為昌は相模玉縄城主を兼務する氏綱の子である。天文14年(1545)扇谷上杉朝定は河越城を奪回するため、山内上杉憲政(のりまさ)、古河公方足利晴氏(はるうじ)と結んで、八万余騎の連合軍で北条綱成(つなしげ)の守る河越城を包囲するが、翌天文15年(1546)救援にきた北条氏康(うじやす)の夜襲に遭い連合軍は壊滅する。世にいう「河越夜戦」である。上杉朝定は討死し、扇谷上杉氏は滅亡した。これにより武蔵の豪族は相次いで氏康に降伏し、北武蔵にまで北条氏の勢力が浸透した。
北条氏の支城となった河越城は、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役に際し、前田利家(としいえ)に攻められて落城した。北条氏の旧領を引き継いで関東に入封した徳川家康は、酒井河内守重忠(しげただ)を川越城主として1万石を与えた。以後、江戸城の出城のごとく位置付けられた川越城には、徳川の重臣や譜代大名が配置され、交代も激しく行われた。寛永16年(1639)島原の乱を平定して川越に入封した松平信綱(のぶつな)の時代に、川越城は近世城郭の形態を整えた。信綱は、城域を約二倍に拡張し、櫓や門を増築するとともに、城下町を区画し、川越街道の整備、野火止用水の開削、また新河岸川の舟運も開いた。これより川越は、江戸への物資の供給地として栄え、蔵造りの町並みは小江戸と称された。なお、明治5年(1872)の廃城で、河越城の建物は本丸御殿の一部を除いて破却された。 
 
水戸城

 

 
千波湖(せんばこ)と那珂川に挟まれた東西に長い水戸台地の東端に水戸城は築かれた。東から下之丸、本丸、二之丸、三之丸と続く連郭式平山城である。南側に大きく広がっていた千波湖と、北側を流れる那珂川を天然の外堀とし、東側は低湿地であったため、西側だけが陸続きになっていた。下之丸は東二之丸とも浄光寺曲輪ともいい、現在は水戸第一高校の運動場になっている。曲輪の東端に浄光寺門、その南側に物見櫓があった。水戸第一高校の校舎がある場所は本丸跡だが、城米の保管蔵と思われる板蔵が4棟あるのみで、近世水戸城の中心は二之丸であった。本丸の北西隅と南西隅にそれぞれ2層2階の物見櫓が存在、二之丸とは深い空堀で仕切られており、現在は堀底をJR水郡線が通過している。本丸と二之丸は本城橋で連結し、本丸側には薬医門形式の橋詰門が存在した。この橋詰門は安土桃山時代の建築様式が見られることから佐竹氏時代に造られたものと推定されており、そのまま水戸徳川氏に引き継がれ、現在は水戸第一高校の敷地に移築現存している。二之丸は、本城橋から西に伸びる道路の北側(現在の水戸第二中学校)に土木小屋、杉山口門、祠堂(歴代藩主御廟)、彰考館(しょうこうかん)などが建ち、南側(水戸第三高校、茨城大学附属小学校・幼稚園)に二之丸屋形(御殿)および三階櫓が建造され、東側に柵町口門、南端には二之丸帯曲輪、南西隅に角櫓、西側には大手門が枡形を伴って存在した。水戸城には天守が造られなかったため、寛永年間(1624-44)に造営された三階櫓を天守の代用としており、水戸城のシンボル的存在であった。三階櫓は石垣の櫓台ではなく、地面の礎石の上に直接建てられており、古写真によると非常に趣のある建物であった。三之丸に渡るための大手橋は、文禄5年(1596)佐竹氏時代に架けられた橋がそのまま利用された。三之丸は北三之丸、中三之丸、南三之丸の3地区に分かれ、重臣屋敷が建ち並んでいたが、天保12年(1841)中三之丸に藩校弘道館(こうどうかん)が建設された。三之丸の西側には町屋地区とを区画する大規模な堀と土塁が現存し、古絵図から空堀であったことが確認できる。水戸城は関東地方の特徴である土塁、土堀の城郭で、近世になっても石垣は使用されなかった。石垣構築の計画は2度あり、慶長14年(1609)徳川家康が水戸城代の芦沢信重(のぶしげ)に石垣構築を命じて、元和元年(1615)本多正信(まさのぶ)、酒井忠世(ただよ)に準備をさせた。しかし、翌元和2年(1616)家康が没したため実現しなかった。次に寛永13年(1636)江戸幕府3代将軍の徳川家光(いえみつ)も石垣構築を命じ、石材の切り出しをおこなっていたが、慶安4年(1651)家光が没したため結局実現しなかった。このため、徳川御三家のひとつ水戸徳川家の居城にしては非常に質素で、同じ御三家である尾張藩の尾張名古屋城(愛知県名古屋市)や和歌山藩の紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)とは比べものにならない。徳川御三家の天守はそれぞれ昭和まで現存していたが、太平洋戦争の空襲によって全て焼失しており、水戸城の三階櫓だけ再建されなかった。水戸藩は佐竹氏の居城をあまり改修しなかったため、水戸城には戦国時代の佐竹氏の築城術がよく残ると言われている。
水戸城の築城は古く、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡る。平安時代中期に常陸国の大掾(だいじょう)職に任命された平国香(くにか)は、常陸国を本拠として桓武平氏国香流の祖となる人物である。承平5年(935)一族間の争いから甥の平将門(まさかど)と戦い、石田館(筑西市)で敗死、これは承平天慶の乱(平将門の乱)に発展していく。天慶2年(939)将門は常陸・下野・上野の国府を次々と占領、上野国で八幡大菩薩の使いという者の託宣を受けて、天皇に対して新皇を称し、常陸・下野・上野・武蔵・相模・伊豆・下総・上総・安房の関東9ヶ国を制圧して独立国を築いた。翌天慶3年(940)平国香の長男貞盛(さだもり)は下野国押領使の藤原秀郷(ひでさと)とともに将門を相手に戦い、ついに将門を討ち取った。平貞盛は常陸国に多くの所領を得て、甥の維幹(これもと)を養子として継がせた。この平維幹は常陸国の大掾職に任命され、子孫は代々大掾職を世襲したため大掾氏と名乗るようになる。大掾氏は吉田、豊田、行方、鹿島、真壁、東条、下妻、小栗といった有力な8支族をはじめ多くの分家を輩出した。平安時代末期、大掾氏は常陸国の在庁官人の頂点に君臨し、嫡流は筑波郡多気に本拠を置いて多気氏を名乗って栄えた。大掾氏庶流の吉田太郎盛幹(もりもと)の子で、那珂川北岸の諸郷を領した長男の吉田太郎幹清(もときよ)と、那珂川南岸の諸郷を領した次男の石川次郎家幹(いえもと)は吉田郡内で勢力を伸ばした。この石川家幹の次男が馬場小次郎資幹(すけもと)と名乗り、水戸城の前身である馬場城(馬場館)を築いたと伝わる。この馬場資幹が築いた居館は、近世水戸城の下之丸あたりに存在したという。建久4年(1193)大掾氏嫡流の多気義幹(たけよしもと)が、常陸国守護職の八田知家(はったともいえ)の讒言により失脚すると、庶流の馬場資幹(すけもと)が大掾氏の惣領となり大掾職に任官した。その後、馬場大掾氏は府中の府中城(石岡市)に移り、馬場城は一族が在城する水戸地方支配の拠点となる。室町時代初期、室町幕府3代将軍の足利義満(よしみつ)の頃に、惣領の大掾満幹(みつもと)が馬場城を改修した記録が残っている。応永23年(1416)前関東管領の上杉氏憲(うじのり)が鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)に対して反乱(上杉禅秀の乱)を起こすと、大掾満幹をはじめとする大掾一族は上杉氏憲に味方した。結局、上杉氏憲は破れて鶴岡八幡宮で自害し、足利持氏によって上杉氏憲の残党狩りや、加担した豪族の処罰がおこなわれる。大掾氏も水戸周辺の所領を没収され、鎌倉公方派であった河和田城(水戸市河和田)の江戸但馬守通房(みちふさ)に与えられた。大掾満幹は馬場城の明け渡しを拒否し、城を占拠し続けたが、応永33年(1426)大掾一族が青屋ノ祭事(青屋祭)に参列するため府中に集まり留守にしている隙に、江戸通房によって馬場城を急襲されて奪われた。その後、大掾氏はたびたび馬場城の奪回を企てたが成功せず、以後は江戸氏累代の居城となった。永享元年(1429)大掾満幹父子は足利持氏の命により鎌倉で殺害され、常陸平氏嫡流の大掾氏は府中周辺の一勢力に没落する。江戸通房に占拠された馬場城は大掾氏時代から拡張されて、近世水戸城本丸部の内城(うちじょう)、二之丸部の宿城(しゅくじょう)、下之丸部の浄光寺の3曲輪より構成され、江戸氏7代の居城として164年間続く。また、この頃より水戸という地名が使われ始めた。江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族と伝えられており、名目上は常陸国守護職の佐竹氏に属していた。
享徳元年(1452)13代当主の佐竹義俊(よしとし)が弟の実定(さねさだ)に追放される事件が起こると、江戸通房は実定側に加担、佐竹氏の内訌を利用して独立性を強め、水戸周辺に領土を拡大する。延徳2年(1490)佐竹義治(よしはる)が没すると、佐竹義舜(よしきよ)が15代当主を継いだ。ところが、有力支族の山入義藤(よしふじ)、氏義(うじよし)父子を盟主とする山入一揆と、それに加担する江戸氏らの攻撃によって、佐竹義舜は居城である太田城(常陸太田市)を奪われてしまう。この時、江戸氏は水戸北西部の佐竹領を押領している。明応元年(1492)山入義藤が没すると、明応2年(1493)磐城地方の岩城親隆(ちかたか)、常隆(つねたか)父子の斡旋により、孫根城(城里町)に逃れていた佐竹義舜と山入氏義の和議が成立し、江戸氏も押領地を返還した。ところが山入氏は太田城を明け渡さず、逆に孫根城の佐竹義舜を攻めた。これに対し江戸氏は佐竹義舜に協力して、永正元年(1504)太田城を奪還して山入氏を滅ぼしている。これによって江戸通長(みちなが)、通雅(みちまさ)の勢力は佐竹領にも及ぶようになった。そして永正7年(1510)佐竹義舜は江戸通雅、通泰(みちやす)父子に対して佐竹一族と同格の待遇(一家同位)とする起請文を与えて、江戸氏を独立した勢力と認め、江戸氏の戦国大名化が実現した。佐竹氏と江戸氏は協調して、佐竹氏が北方の陸奥南部、江戸氏が南方の常陸南部というように方向を定めて勢力を伸ばす。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役の際、江戸重通(しげみち)は小田原北条氏の働きかけにより秀吉の動員令に応じなかった。一方、18代当主の佐竹義重(よししげ)は小田原に参陣して秀吉から常陸国に54万石の支配権を認められた。佐竹義重、義宣(よしのぶ)父子は秀吉の朱印状を後ろ盾に常陸国の平定に乗りだす。まず、江戸氏に馬場城の明け渡しを要求するが拒否されたため、総攻撃により馬場城を占拠、江戸重通は結城城(結城市)の結城晴朝(はるとも)を頼って逃れた。ついで府中城を攻撃して大掾氏を滅亡させている。翌天正19年(1591)には南方三十三館と呼ばれる鹿島、行方郡の国人領主を太田城に招いて全員を謀殺した。全国屈指の大大名となった佐竹義宣は、居城をそれまでの太田城から馬場城に移して水戸城と改めた。そして水戸城の大改修をおこない、内城を古実城(こみじょう)と称して本丸に、宿城を天王曲輪と称して二之丸にして、さらに浄光寺曲輪、三之丸を設置した。また城の正面を東側から西側に移し、橋詰門や大手門を建て、城下町を整備するなど近世水戸城の基礎を作りあげた。慶長5年(1600)関ヶ原合戦において、佐竹氏は旗色を鮮明にしなかったため、慶長7年(1602)徳川家康によって出羽国久保田18万石に減封を命じられた。佐竹氏の水戸在城はわずか12年であった。佐竹氏が秋田に移るとき、領内の美人をすべて連れていったため、秋田には美人が多く、茨城には美人が少ないと言われている。他にも、佐竹氏が秋田に入封するとハタハタの漁獲量が伸び、一方の常陸では全く獲れなくなったため、ハタハタが佐竹氏を追って秋田に行ったと伝わる。また金銀などの鉱物資源についても同様な伝説が残っており、佐竹氏が領民から慕われていたことが伺える。佐竹氏家臣の車丹波守猛虎(たけとら)は接収された水戸城奪還のため、大窪兵蔵久光(ひさみつ)、馬場和泉守政直(まさなお)らと一揆を企て、300余騎で水戸城に押し寄せたが、徳川方の松平康重(やすしげ)らに鎮定され、車猛虎ら首謀者は吉田台(水戸市吉田町)で磔刑に処せられた。
車猛虎には嫡子がおり、この善七郎は徳川家康を父の仇として恨んだ。そして、植木職人となって家康暗殺のため武蔵江戸城(東京都千代田区)に潜り込み、植木バサミを家康の顔面めがけて投げつけた。しかし、ハサミは家康に命中せず暗殺は失敗、城内は騒然となったが、家康の寛大な措置で許されている。ところが善七郎は、再び家康暗殺を企てて失敗している。再度許された善七郎は江戸浅草の非人頭に任命され、車善七の名を代々世襲したという。家康の治世になると、水戸城には下総国佐倉より武田信吉(のぶよし)が15万石で封ぜられた。武田信吉とは家康の五男で、織田信長に滅ぼされた甲斐武田氏の断絶を惜しんだ家康が武田の名跡を継がせたものである。しかし、翌慶長8年(1603)武田信吉は嗣子なく早世したため、家康十男の徳川頼宣(よりのぶ)を20万石で封じ、慶長14年(1609)には徳川頼宣を駿河国駿府に移して、下妻から家康十一男の徳川頼房(よりふさ)を25万石(のちに28万石に加増)で封じた。この徳川頼房が徳川御三家のひとつ水戸徳川家の祖であり、初代の水戸藩主であった。2代藩主の徳川光圀(みつくに)は水戸黄門として有名で、明暦3年(1657)より『大日本史』の編纂に着手、水戸藩および水戸徳川家の事業として引き継がれ、明治39年(1906)の完成まで250年の歳月を費やしている。この『大日本史』の編纂が水戸学の源流となり、水戸藩に尊王思想が育ったと言われる。3代藩主の徳川綱條(つなえだ)の時代に35万石となるが、水戸城には天守はなく、櫓や多聞も極端に少ない。この質朴さが水戸徳川家の家風と言われている。三之丸跡に現存する国指定特別史跡の弘道館は水戸藩の藩校で、正門、正庁および至善堂が国の重要文化財に指定されている。9代藩主徳川斉昭(なりあき)によって天保12年(1841)に開館し、文武両道の理念のもと儒教、剣術、槍術、数学、天文学、医学、薬学、蘭学など幅広い内容で人材育成した。江戸幕府15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)も5歳の時から弘道館において教育を受けたという。徳川斉昭は天保13年(1842)に偕楽園も創設している。偕楽園の名称は『孟子』の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節から取ったもので、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三大庭園に数えられる。偕楽園は庭園という名目で造営されたが、有事の際の隠し砦でもあったという。江戸時代において大名庭園の名目で出丸が造られる例は少なくなく、水戸城の弱点である西側を補う出城としての側面も持っていた。偕楽園南側の崖の上に建つ2層3階の好文亭は、まるで櫓のようである。幕末の尊王攘夷という思想は水戸藩から始まった。安政5年(1858)の日米修好通商条約の締結や安政の大獄によって、尊王志士達から恨まれていた大老の井伊直弼(なおすけ)は、安政7年(1860)桜田門外の変によって水戸藩浪士に暗殺される。水戸藩内でも尊皇派の天狗党と佐幕派の諸生党が対立していた。元治元年(1864)天狗党が尊王攘夷を旗印に筑波山で挙兵する事件が発生した。この天狗党の乱は諸藩を震撼させたが、武田耕雲斎の率いる天狗党の主要メンバーが越前国新保で加賀藩に投降して、幕府の命により全員処刑された。これにより水戸藩は諸生党に占拠されて完全な佐幕派となってしまう。明治元年(1868)戊辰戦争において新政府軍が幕府勢力を一掃する中、会津戦争から敗走してきた諸生党は、水戸城にて天狗党と戦った。この時の弘道館の戦いによって弘道館の文館、武館、医学館、天文台や、水戸城の多くの建物を焼失している。
 
山形城

 

 
山形城は、山形盆地の中央に位置する輪郭式平城であり、外側の三の丸は東西1.5km、南北1.9km、平城としては全国有数の規模である。天守はなかったが、二の丸の三層櫓、本丸の二層隅櫓3基をはじめ、多くの櫓を持つ壮大な城であった。別名の霞ヶ城の由来は、慶長5年(1600)直江兼続(なおえかねつぐ)率いる上杉軍が最上領に侵攻した際、富神山(とかみやま)から指呼の距離にある山形城を望んだが、霞のため所在が分からなかったことによる。上杉軍は山形城を攻めるため、10日間も山頂から確認し続けたが、ついに霞は晴れなかったため、この山を十日見山(富神山)と呼ぶようになった。山形城の本丸と二の丸が霞城公園として残っており、二の丸東大手門が復元された。現在、本丸大手門(一文字門)の復元工事がおこなわれている。また、歌懸稲荷神社の西側に三の丸土塁が残る。
南北朝時代の延文元年(1356)足利一族で奥州深題の斯波家兼(しばいえかね)は、最上地方の南朝方勢力を抑えるために次男の兼頼(かねより)を出羽按察使として山形に入部させた。山形城は、延文2年(1357)最上郷金井庄に兼頼が居館を構えたことに始まる。兼頼は南朝方であった寒河江(さがえ)の大江氏と戦い、応安元年(1368)の漆川の合戦などで大江氏を降した。兼頼は最上氏を名乗り、領内を山形と改め、四方に勢力を拡大していく。2代直家は、長男満直を山形に、次男頼直を天童に、三男氏直を黒川に、四男義直を高櫛に、五男兼直を蟹沢に、六男兼義を成沢に配置し、3代満直は、長男満家を山形に、次男満基を中野に、三男満頼を大窪に、四男満国を楯岡に配置して、最上四十八楯といわれる勢力圏を築いた。これにより、最上川以東の村山地方一帯は最上一族が蟠拠する状態となった。
永正11年(1514)伊達稙宗(たねむね)は楢下口、小滝口から北進して最上領の上山城(上山市)と長谷堂城(山形市長谷堂)を攻撃した。最上義定(よしさだ)は寒河江大江氏の応援を得て応戦したが大敗してしまう。義定は稙宗と和して稙宗の妹をもらうが、永正17年(1520)義定は子のないまま死去した。こうして、山形城は伊達氏の監督下に置かれる。稙宗は村山地方の反伊達勢力を鎮圧し、大永2年(1522)中野義清の次男義守(よしもり)を最上宗家の後嗣に定めた。しかし、天文11年(1542)伊達氏の内乱(天文の乱)が勃発。義守は稙宗を援けて置賜に出兵し、伊達氏支配からの独立に成功する。天正2年(1574)最上義光(よしあき)が最上家11代当主の座に着くが、領内の一族や国人衆は義光に反抗した。義光は権謀術数を駆使して、継嗣問題で対抗した中野城(山形市大字中野)の中野義時(義光の弟)をはじめ、上山城の上山満兼、小国城(最上町)の細川直元、東根城(東根市)の天童二郎三郎、鮭延城(真室川町)の鮭延秀綱、尾浦城(鶴岡市)の武藤義氏と次々に破り、谷地城(河北町)の白鳥長久を山形城に招いて謀殺し、寒河江城(寒河江市)の大江堯元を自刃させ、天童城(天童市)の天童頼久を敗走させるなどして村山地方を平定。天正18年(1590)小田原に参陣して、豊臣秀吉から24万石の本領を安堵された。
慶長5年(1600)徳川家康は上杉景勝(かげかつ)の討伐のために下野国小山まで進軍したが、大坂で石田三成が挙兵したため軍を返した。この時、景勝は米沢城主の直江兼続に東軍の最上領への侵攻を命じる。兼続の大軍は最前線の畑谷城(山辺町)を落とし、志村伊豆守光安の守る長谷堂城を包囲した。同時に横田旨俊は上山城を囲み、庄内地方からも志駄義秀、下吉忠らが山形城を目指した。しかし、上山城の里見民部は物見山の戦いで上杉軍を撃退し、長谷堂城も猛攻に耐えた(長谷堂合戦)。関ヶ原の戦いで西軍敗北の報を受けた直江兼続は、上杉軍の撤退を開始、これにより最上軍の追撃戦に変わった。最上義光はこの戦功により庄内三郡と秋田の由利郡を加増され57万石の大大名となった。その後、元和8年(1622)義光の孫、義俊(よしとし)のとき、世継ぎ問題に絡む重臣間の争い(最上騒動)が起こり、最上家は改易されて近江国大森1万石に減封となってしまう。山形城は鳥居忠政(24万石)、保科忠正(20万石)など次々と城主が変わり、弘化2年(1845)水野忠精(5万石)が入封して以降、明治まで水野氏が世襲する。
 
小諸城

 

 
小諸城は浅間山の南麓に位置し、南西は千曲川の断崖、北は地獄谷、南は南谷に囲まれた丘陵地の最端部に築城されている。この城の縄張りは三角形であり、城下より低い場所に位置しているため、穴城と呼ばれた。ここは中山道、北国街道の中継地であり、北信、南信、上州を繋ぐ交通の要衝であった。
小諸城の起こりは、平安末期から鎌倉時代にかけて『源平盛衰記』や『平家物語』に登場する木曽義仲の武将小室太郎光兼が現城址の東側に館を築いた。その後、佐久地方の豪族大井氏が小室氏の勢力をおさえて、長享元年(1487)大井光忠が鍋蓋城(現在の本町と市町の間)を築き、その子光安が鍋蓋城の支城として乙女坂城(現在の小諸城二の丸跡)を築いた。天文12年(1543)甲斐の武田信玄が鍋蓋城を攻略し、山本勘助、馬場信濃守信房らに城の大改修を命じている。天文23年(1554)現在の縄張りの小諸城が完成し、武田信豊(のぶとよ)を城主として佐久平の本格経営に当たらせた。
天正10年(1582)織田信忠を総大将とする武田討伐の織田軍3万が伊那口より北上すると、武田信豊を総大将とする武田軍5千は上原城から木曽谷制圧に向かった。信豊は鳥居峠の合戦で木曽義昌に敗退し、小諸城まで逃げ戻ったが、城代の下曾根覚雲斎に二の丸で謀殺されてしまう。武田氏滅亡後、滝川一益(かずます)は上野一国と信濃国の小県・佐久の二郡を与えられ、小諸城は一益の統治となる。一益は関東管領として上野国厩橋城(群馬県前橋市)にいたが、本能寺の変がおき、北条氏直(うじなお)との神流川(かんながわ)の合戦に大敗して、小諸城まで退却する。ここで依田信蕃(よだのぶしげ)に小諸城を渡し、本領の伊勢に帰った。信蕃は武田氏滅亡後は徳川家康に属しており、出身である佐久地方統一に活躍し、佐久、諏訪二郡を与えられ小諸城代となった。しかし、岩尾城を攻略中に狙撃され戦死してしまう。家康はその死を悼み、信蕃の子康国に松平の姓を与え、小諸6万石を与えた。天正18年(1590)小田原の役にて康国が上野国石倉城で戦死すると、豊臣秀吉は小田原の役の功により仙石秀久(せんごくひでひさ)を小諸城に5万石で封じた。秀久は三層の天守閣を始め近世城郭へと大修築を行った。秀久が二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建て現在の小諸城が完成した。
関ヶ原合戦の際、中山道を利用して西上する徳川秀忠(ひでただ)軍3万8千が小諸城に着陣し、上田城(上田市)に籠る真田昌幸(まさゆき)、信繁(のぶしげ)ら2千5百と対峙した。数で勝る秀忠軍は上田城に使者を派遣して真田父子に降伏を促したところ、真田昌幸はあっさりと開城に同意したうえで、城の掃除をしたいので数日待って欲しいと申し入れた。これを聞いて喜んだ徳川秀忠であったが、なかなか城を明け渡さない真田氏に苛立ちを隠せなかった。これは真田昌幸が秀忠軍の足止めを目的とした時間稼ぎのための嘘で、籠城の準備を整えた真田父子は改めて徳川秀忠に反旗を翻した。怒った徳川秀忠は軍勢を上田城に殺到させたが、真田氏の巧みな戦いに翻弄されて攻めあぐね、時間を空費した挙句に上田城攻略をあきらめた。この第二次上田合戦で真田父子は秀忠軍を十分に足止めさせたので、徳川秀忠は関ヶ原合戦に間に合わなかった。元和8年(1622)仙石忠政は信州上田に6万石で転封すると、小諸城は、松平忠憲(5万石)、青山宗俊(3万石)、酒井忠能(3万石)、西尾忠成(2万5千石)、石川乗政(2万石)、石川乗紀(2万石)と続く。元禄15年(1702)牧野康重が1万5千石で入封すると、明治維新まで牧野氏が10代続いた。 

掛川城

 

 
掛川城は、遠江国佐野(さや)郡掛川に存在した梯郭式の平山城で、東遠江の中心に位置した。標高56mの丘陵最頂部に天守丸を置き、その脇に腰曲輪、前面に本丸、東側に二の丸と三の丸、西側に中の丸、南側に松尾曲輪、北側に侍屋敷の竹の丸を配している。掛川城の北側を乾堀、本丸の南側を松尾池という水堀で囲み、本丸虎口を三日月堀、十露盤(そろばん)堀で守り、南を流れる逆川(さかがわ)を外堀として取り込み、惣構えで城下町を囲んでいた。近年、掛川城には天守が再建され、この複合式初期望楼型3層4階の天守は戦後初の木造復元天守である。掛川城の天守は、慶長元年(1596)山内一豊(かずとよ)によって初めて築かれた。この天守は、3層目に高欄の付いた白漆喰総塗籠のものであったようで、その外観から「東海の名城」と讃えられた。しかし、東海地方は地震の多い場所で、慶長9年(1604)の地震で天守は大破するが、元和7年(1621)松平定綱(さだつな)によって再建された。さらに、宝永2年(1705)の地震で再び大破した。このときも天守は再建されている。幕末の安政元年(1854)に起きた安政東海地震で掛川城は大きな被害を受け、天守も半壊の状態となった。このときは天守台まで崩壊したため、幕末の混乱のなかで天守は取り壊され、そのまま再建されることはなかった。このように掛川城には、山内一豊が創建した天守、松平定綱が再建した天守、幕末に倒壊した天守の3つが存在したことになる。このうち記録からその形状が分かるのは、定綱の天守と、幕末の天守である。正保元年(1644)江戸幕府から提出を命じられた『正保城絵図』には定綱の天守が描かれており、白漆喰総塗籠の望楼型天守の3層目に高欄が付き、2層目の屋根は唐破風となっている。また、天守台石垣には平屋の櫓が付いている。嘉永4年(1851)天守台北側の石垣と芝土手が崩壊し、その修理のために幕府に提出した『御天守台石垣芝土手崩所絵図』には幕末の天守が描かれており、2層目に唐破風という点は同じだが、3層目の高欄はなく、2層と3層目が下見板張りとなる層塔型天守であった。他に安政東海地震での被害状況を示した『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』にも幕末の天守が描かれている。掛川城の天守を復元するにあたり、どの時代の天守を復元するかが問題となったが、山内一豊が創建した天守と決まった。しかし、一豊の天守については資料も少なく、復元は困難であった。そこで、一豊が土佐高知城(高知県高知市)の天守を建てるにあたって、「遠州懸川の天守之とおり」と指示したことが『御築城記』に記載されていることから、逆に高知城天守を参考にすることとなった。現存する高知城天守は、江戸時代末期の再建ではあるが、創建当初の天守を忠実に復興したとされるため、一豊が創建した当時の姿に近いものであると考えられている。資料不足による推定部分も少なくないが、平成5年(1993)復元天守は完成した。天守本体は大きくないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せている。また、掛川城には黒土塁に囲まれた二の丸御殿が現存しており、国の重要文化財に指定されている。御殿が現存するのは武蔵川越城(埼玉県川越市)、山城二条城(京都府京都市)、土佐高知城(高知県高知市)と掛川城の全国で4ヶ所のみである。この御殿は、文久元年(1861)太田資功(すけかつ)によって安政東海地震で倒壊した二の丸御殿を再建したものである。書院造の御殿は、公的式典の場、藩政の役所、城主の公邸としての機能を併せ持つ施設であった。
本丸には城下に時刻を知らせた太鼓櫓が現存する。この櫓は三の丸南東の逆川に面した断崖上にあったが、昭和30年(1955)荒和布(あらめ)櫓のあった現在の場所に移築された。太鼓櫓は『正保城絵図』に3層櫓として描かれており、天守に次ぐ大きな櫓であったが、安政東海地震の再建により、単層櫓に物見の二階部分を設けた現在の形状に変更されている。平成7年(1995)には天守に続いて大手門も復元された。二階部分に漆喰塗籠造りで格子窓付の櫓をおき、庇屋根を付けた楼門造りの櫓門で、掛川城で最大の城門である。山内一豊が設けた大手門は安政東海地震で倒壊し、安政5年(1858)に再建されたが、明治になって民間に払い下げられ火災に遭い焼失した。道路などの関係で実際の位置には建てることができず、やむなく北側に50mほどずらしている。また、大手門番所が現存しており、大手門の復元に伴って同所に移築した。この番所は明治になって元静岡藩士の谷庄右衛門が居住用に譲り受けたもので、大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しい。そして、大手門と大手門番所の位置関係は正しく再現されている。他にも『正保城絵図』を元に四足門(よつあしもん)が復元された。井伊直好(なおよし)が万治2年(1659)に創建した大手二の門(玄関下御門)も油山寺(袋井市村松)の山門として移築現存しており、国の重要文化財に指定されている。また、蕗の門が円満寺(掛川市掛川)の山門として現存しており、龍雲寺(菊川市西方)の裏門も掛川城の城門が移築されたものである。応永年間(1394-1428)掛川の小豪族である鶴見氏が築いた城砦が、掛川城の起源となる。その後、文明年間(1469-86)駿河国守護職の今川義忠(よしただ)の命により、重臣の朝比奈備中守泰煕(やすひろ)が現在の掛川城の北東約500mにある子角山(ねずみやま)に遠江国への侵攻の足掛かりとして掛川城を築いた。現在の龍華院(掛川市掛川)のあたりを主郭とする連郭式平山城で、こちらを掛川古城と呼び区別している。今川氏親(うじちか)は宿願であった遠江平定を成し遂げており、永正5年(1508)には正式に遠江国守護職にも補任されている。永正10年(1513)朝比奈氏は、信濃国守護職の小笠原氏の南下に備えるため、現在の龍頭山の地に新城を築いており、掛川古城は出城として残された。そして、掛川城は今川氏の遠江支配の拠点として機能した。9代当主の今川義元(よしもと)の頃には今川氏の最盛期を築いており、所領も駿河・遠江・三河・尾張の一部にまで拡大し、尾張の織田信長を脅かせていた。ところが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討ち取られてしまう。家督を継いだ今川氏真(うじざね)は戦国大名としての器量が乏しく、父の無念を晴らすといった気概はなかった。そのため、属将であった三河国の松平元康(のちの徳川家康)の独立を許してしまう。元康は織田信長と清洲同盟を結び、三河岡崎城(愛知県岡崎市)を拠点に東に侵攻を開始した。一方、甲斐国の武田信玄(しんげん)は、相模国の北条氏、駿河国の今川氏と甲相駿三国同盟を結んでいたが、衰退の一途をたどる今川氏真に同盟の破棄を決意する。永禄11年(1568)信玄は今川領である駿河国と遠江国を大井川を境にして家康と分け合う密約を結び、駿河国に侵攻した。今川氏の本拠である駿府は武田軍によって短期間で占拠され、今川氏真は掛川城へ逃れた。一方、遠江国には西から徳川氏が侵攻してきた。掛川城主は朝比奈泰煕から、泰能(やすよし)、泰朝(やすとも)と3代続いている。
家康は掛川城を包囲して攻めたてるが、掛川城の守りは固く、朝比奈泰朝の奮戦により半年近くの攻城戦となる。家康は掛川城攻略のために、北側にある龍尾神社(掛川市下西郷)に本陣を置き、周囲に付城などを築いて掛川城を包囲した。掛川城の天守台の脇に霧吹き井戸が現存する。この井戸には伝説があり、家康が掛川城に攻撃を仕掛けた際、井戸から霧が噴き出して城全体を覆い隠し、徳川軍の攻撃から城を守ったと伝わる。このため、掛川城は別名を雲霧城という。永禄12年(1569)家康は激戦のすえ、掛川古城跡である子角山を奪取して本陣を移した。ところが、信玄は密約を破り、信濃国から秋山信友(のぶとも)を遠江に侵攻させたため、家康は力攻めをあきらめて今川氏真と和睦した。朝比奈泰朝は掛川城を開城し、主人の今川氏真とともに掛塚湊から船で伊豆国戸倉に移り、北条氏の庇護を受けている。掛川城は徳川氏の持ち城となり、これによって遠江一国を手中に収める。掛川城には城代として譜代の重臣である石川日向守家成(いえなり)・長門守康通(やすみち)父子を配置した。その後、家康は駿河国を領有した信玄と争うようになり、掛川城は武田氏に対する防衛の拠点となった。元亀3年(1573)武田信玄の西上作戦においては、徳川家康は三方ヶ原の戦いで惨敗しているが、掛川城は攻撃されずに維持し続けている。天正18年(1590)豊臣秀吉によって家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から関東に移封となると、掛川城には秀吉の直臣であった山内対馬守一豊が近江国長浜から5万1千石(のち5万9千石)で入部した。秀吉は家康を関東に封じ込め、東海道筋にその監視役として秀吉の腹心の大名を配置している。それは東から、駿河国駿府の中村一氏(かずうじ)、遠江国掛川の山内一豊、遠江国浜松の堀尾吉晴(よしはる)、三河国吉田の池田輝政(てるまさ)、三河国岡崎の田中吉政(よしまさ)であった。一豊は掛川城の大規模な修築をおこない、天守、大手門の造営など近世城郭としての体裁を整え、城下町の整備などに力を注いだ。一豊によって造られた天守は、白漆喰総塗籠の外壁を京都聚楽第(京都府京都市)に倣い、黒塗りの廻縁・高欄を摂津大坂城(大阪府大阪市)に倣ったと考えられている。山内一豊は、岩倉織田氏の家老であった山内盛豊(もりとよ)の三男として生まれる。やがて岩倉織田氏が同族の織田信長と対立すると、永禄2年(1559)尾張岩倉城(愛知県岩倉市)は落とされ、父の盛豊は討死した。主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。こうして戦災孤児から身を興した一豊は、賢い妻の機転に助けられ豊臣大名にまで出世していた。妻の千代は、江戸時代より内助の功の理想像とされ、名馬をヘソクリで購入した話は、江戸時代の書物である『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』などに紹介されて広く知られた。一豊が織田信長に仕え始めたころは非常に貧しかった。その頃、東国一の名馬を織田家に売りに来た者があったが、高くて誰も買えなかった。一豊もこの馬を買って出世の手がかりにしたかったが、とても購入できる額ではなかった。これを聞いた千代は、夫の一大事の時に使うように持たされていた嫁入りの持参金である黄金十枚を渡して名馬を購入させた。この判断は見事に当たり、馬揃えの際に一豊の名馬が信長の目に留まり、事情を聞いた信長は関心して、「家もさぞ貧しからんに、武田、北条の家中さえ買わぬに、わが家中にて買いえたる事の神妙さよ、信長の家の恥をもすすぎ、且つは武士のたしなみ、いと深し」と言い、一豊に馬代として200石を加増したという。
山内一豊が掛川に在城した45歳から55歳までの10年間は、一豊の人生における最大の転機であった。慶長5年(1600)徳川家康は豊臣恩顧の大名たちを引き連れ、会津征伐に出陣した。山内一豊もこれに従軍している。しかし、下野国小山まで進軍したところ、大坂で石田三成が挙兵したという知らせが届き、小山評定を開いている。この前日、山内一豊のもとに千代からの使者が到着していた。届けられたものは、西軍に味方することを勧めた増田長盛(ながもり)と長束正家(まさいえ)の連署による書状が入った文箱と、使者である田中孫作の笠の紐に編み込んだ密書である。一豊はまず密書を読んですぐに焼き、文箱は封を切らずに家康に差し出した。家康は、何が書いてあるかも分からない文箱をそのまま差し出した一豊の潔さに、二心ない証を感じとり非常に喜んだという。さらに翌日の小山評定において、家康に従っていた諸将が去就に迷う中、山内一豊が先頭を切って家康に味方することを宣言し、人質を出して、居城の掛川城を家康に明け渡すと伝えた。おそらく千代の密書に書かれた筋書きだと思われる。この逸話は『山内一豊武功記』や『谷川七衛門覚書』に記されている。一豊と千代は豊臣秀吉の亡きあと、徳川家康に従うことで家運を開こうと考えたのである。この評定の場では、一豊の発言をきっかけに、諸将もこぞって家康に忠誠を誓い、東海道に居城を持つ大名は城を明け渡した。こうして家康は会津征伐を中止し、石田三成との決戦に向かうことに決した。関ヶ原の戦いの始まりである。掛川城とその城下町は、東海道を西上する東軍の大軍勢を迎え入れており、兵站基地として機能した。そして、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、戦場での武功の少なかった山内一豊であったが、その言動を勲功第一と高く評価し、土佐一国20万石という大幅加増で報いている。わずか200石から身を興し、土佐国の太守となった山内一豊の一生は、妻の賢い判断が効いたものであったといえる。慶長6年(1601)下総国小南から久松松平定勝(さだかつ)が3万石で掛川城に入り、掛川藩の初代藩主となる。松平定勝は久松俊勝(としかつ)の四男で、母は於大の方であり、徳川家康の異父弟にあたる。松平定勝には定吉(さだよし)という嫡男がいた。この定吉は智勇兼備の若武者で、家臣団の信頼も厚かった。慶長8年(1603)家康が掛川に訪れたとき、定吉は伯父に自分の技量を見てもらおうと空を飛ぶ鷺に向けて矢を放ち、見事に射落とした。その場にいた者は賞賛したが、家康は褒めるどころか定吉を戒めた。結果的に成功したからよいが、もし失敗していたら物笑いの種になるだけであり、腕に覚えがあっても、それを誇って軽率な行動をすべきではないと言うのである。その後、松平定吉は恥ずかしさのあまり自害し、定吉の後を追って家来が20数人も殉死したという。定吉とその殉死者は城外に葬られ、遠江塚(掛川市下俣)が築かれた。久松松平氏は2代で移封し、その後も掛川藩は譜代大名を中心に目まぐるしく入れ替わった。安藤直次(なおつぐ)、久松松平定綱(さだつな)、朝倉宣正(のぶまさ)、青山幸成(ゆきなり)、桜井松平氏2代、本多忠義(ただよし)、藤井松平忠晴(ただはる)、北条氏重(うじしげ)、井伊氏4代、桜井松平忠喬(ただたか)、小笠原氏3代と藩主が変わっている。延享3年(1746)掛川藩領を中心に日本左衛門(にっぽんざえもん)らの盗賊団が跳梁したため、この失態により小笠原長恭(ながゆき)は転封を命じられ、代わって太田資俊(すけとし)が5万石で入封すると太田氏が7代続いて明治維新を迎えた。 

二俣城

 

 
信濃・遠江・三河の国境山岳地帯を抜けてきた天竜川が、平野部に差し掛かるところに二俣の地がある。天竜川は二俣で大きくU字状に蛇行しており、二俣城は蜷原(になはら)台地の南端部に築かれていた。西側には天竜川の急流が流れ、往時は東側から南側にかけて二俣川が流れて天竜川に合流していた。天竜川と二俣川に囲まれた二俣城の三方は急崖で、北側の台地続きを断ち切れば、独立した山城となった。標高90mの切り立った山を階段状に削平し、北側から外曲輪、北曲輪、本丸、二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪がほぼ一直線上に配置された連郭式山城で、本丸から西側には西曲輪、水の手曲輪が派生していた。現在もこれら大小の曲輪跡がほぼ原形をとどめている。本丸は不整形な方形で、本丸東側の北と南にそれぞれ虎口を設け、北虎口は幅が約3.8mの喰違虎口、南虎口は約4.3mの枡形虎口となっている。発掘調査により、瓦葺屋根の中仕切門が存在したことが明らかになっている。本丸の周囲には土塁または石塁がめぐっていたようだが、現在は西側の一部が欠失している。本丸西側には、高さ4.5〜5m、基底部12.7×11.2mほどの小規模な天守台がある。おそらく5間四方の平面で、北側に付櫓を伴った3層または2層天守が造営されていたと思われる。天守台の築造時期については、徳川家の大久保忠世(ただよ)が武田勢と対峙していた天正3年(1575)から天正10年(1582)頃までと想定され、静岡県では数少ない中世戦国期の天守台として貴重な遺構とされている。家康による浜松城(浜松市中区元城町)の改修と同時期であり、多くの共通点が見られる。石垣は野面積みで、角の隅石組には井楼積みが用いられる。石垣には当地で掘り出される石灰岩が使用されており、加工が容易なことから、浜松城の石垣より丁寧に加工されている。この天守台だけでなく、二俣城の要所には石垣が用いられている。本丸の南側には1.5mほど低い段差で区画された二之曲輪があり、現在は城山稲荷神社が建てられている。周囲には土塁がめぐり、東側に石垣で挟まれた大手門の跡がある。この石垣の上には渡櫓門が存在していたと推定される。二之曲輪の南側には深さ7m、幅5〜6mほどの堀切がある。この堀切は、発掘調査によって箱堀であったことが分かっており、深さもさらに1.5mほど深いことが明らかになっている。この南側が蔵屋敷と呼ばれている区画である。蔵屋敷には土塁や井戸跡を有し、その南端の土塁の内側には石垣が積まれている。その先にも堀切があり、南曲輪の先にも堀切がある。一方、北曲輪は本丸の北側に位置し、現在は旭ケ丘神社の境内となっている。一部に土塁の跡を残し、その北側は二俣城と蜷原砦とを分断する大堀切になっている。さらに本丸、二之曲輪の東西断崖下にもいくつかの帯曲輪、腰曲輪群が存在する。城山の東麓にある清瀧寺(浜松市天竜区二俣町二俣)には、かつて二俣城にあったといわれている井戸櫓が復元されている。二俣城の廃城の際、井戸櫓は清瀧寺に移築され、明治年間(1868-1912)に改築、現在のものは昭和37年(1962)に再建されたものである。清瀧寺には、他にも徳川家康の長男である松平信康(のぶやす)の廟所もある。信康廟入口の宝筺印塔は、当時の二俣城主の大久保忠世、三方ヶ原の戦いで戦死した二俣城将の中根正照(まさてる)、青木貞治(さだはる)、信康の小姓で殉死した吉良於初(おはつ)である。なお、極楽寺(周智郡森町一宮)には「石づりの戸」と呼ばれる戸板が残されており、3枚の戸板に松が墨で描かれている。これは二俣城の松乃間にあった戸板で、松乃間は松平信康の切腹の間であった。
二俣城の起源は明確でないが、寛政元年(1789)の『遠江国風土記伝』により、駿河国守護職の今川氏親(うじちか)の家臣であった二俣近江守昌長(まさなが)が文亀年間(1501-04)に築いたというのが一般的である。遠江の国人であった二俣氏は、文明8年(1476)今川義忠(よしただ)による侵攻を受け、今川氏に降って社山城(磐田市社山)に在城していたが、文亀3年(1503)二俣昌長の代になり、今川氏に反抗する動きに出た。これを知った今川氏親は二俣氏を誅殺しようとするが、重臣達の取りなしにより二俣の地に移されたという。永正11年(1514)昌長は再び謀反の疑いをかけられ、米倉城(周智郡森町一宮)の麓にある極楽寺に蟄居を命じられる。極楽寺の過去帳によると、昌長の没年は天文20年(1551)とある。しかし、二俣昌長の二俣築城説は、その論拠が明らかでなく、信憑性が低いとされる。一方、文献においては、南北朝時代の建武5年(1338)1月の内田孫八郎致景(むねかげ)の軍忠状に「二俣城の戦いで軍功を表す」とあるのが初見となり、文亀年間(1501-04)以前より存在した可能性は高い。戦国時代初頭、遠江国をめぐって今川氏と遠江国守護職の斯波氏が争い、二俣城はその拠点として利用された。ただし、それは現在の二俣城の場所ではなく、北東の平坦地に存在したと推定されており、現在では区別のために二俣古城とも笹岡古城とも呼ばれている。遺構のほとんどは昭和42年(1967)の旧天竜市役所建設の際に破壊され、現在では背後の本城山に土塁が残る程度である。発掘調査により山茶碗、青磁、白磁、井戸枠、柱根などが出土している。さらに、城郭として使用された上限は平安時代末期で、下限は戦国期まで下るがことが明らかになった。『小笠原文書』によると、文亀元年(1501)斯波氏の援軍要請に応えて、信濃国守護職の小笠原貞朝(さだとも)が、斯波氏の拠る二俣城に入ったとあることから、この頃まで二俣城は斯波氏の拠点であったと考えられる。今川氏親の遠江侵攻は明応3年(1494)頃から始まっており、この軍勢を率いたのは叔父の北条早雲(そううん)であった。これに対抗して斯波義寛(よしひろ)は、文亀元年(1501)弟の義雄(よしかつ)を周智郡および北遠の押さえとして出陣させた。斯波義雄は社山城、天方本城(周智郡森町大鳥居)、二俣城を拠点に今川軍と対峙している。同年(1501)社山城の斯波義雄は今川軍に敗れて二俣城に退去したという史料もあり、この年は今川氏の遠江侵攻が激化した年であった。永正3年(1506)には今川一門の瀬名一秀(かずひで)が二俣城に在城したことが『小笠原文書』に記されていることから、この頃から今川氏の拠点となったようである。その後になって二俣昌長が二俣城に配されたと考えられる。永正11年(1514)には、松井貞宗(さだむね)の長男である左衛門尉信薫(のぶしげ)が二俣氏に替わり二俣城に配置された。享禄元年(1528)信薫が病没すると、弟の左衛門佐宗信(むねのぶ)が二俣城を継いでいる。宗信は今川義元(よしもと)の三河進出に従っており、天文年間(1532-55)には三河国の各地で転戦、天文16年(1547)には三河田原城(愛知県田原市)の攻略で「粉骨無比類」の働きにより今川義元から感状を受けている。ところが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、宗信の率いる部隊は本陣の前備えに配置されており、織田軍が強襲した際には本陣を守るために手勢200名を率いて馳せ戻り、懸命に奮戦したが、宗信を始めそのほとんどが討ち取られたと伝えられる。
松井宗信の死後、兄の信薫の子である宗親(むねちか)が二俣城主となったが、永禄6年(1563)曳馬城(浜松市中区元城町)の飯尾連竜(つらたつ)が反乱を起こすと、連竜の姉婿であった宗親も疑われ、駿府で謀殺されている。このため、宗信の嫡子である八郎宗恒(むねつね)が二俣城主を継ぐ。桶狭間の戦いによって遠江の状況は一変しており、三河徳川氏と甲斐武田氏によって脅かされるようになった。特に浜名湖、天竜川地域では徳川氏の進攻に対処するため、今川氏真(うじざね)の指示によって境目城(湖西市吉美)、宇津山城(湖西市入出)、中尾生城(浜松市天竜区龍山町)、二俣城の築城・改修作業が急速におこなわれている。このとき松井氏は、天竜川と二俣川を利用した現在の二俣城の地に新城を築いて、拠点を移したといわれる。しかし、永禄11年(1568)二俣城は徳川家康の侵攻を受け、城将の鵜殿三郎氏長(うじなが)、松井一族の松井和泉守某、松井八郎三郎某らは降参して徳川氏に服属した。この時の松井宗恒の動向は不明であるが、後に武田氏に帰属し、元亀3年(1572)武田氏より2千貫文の知行を宛われている。家康は鵜殿氏長を二俣城番に任じたが、武田信玄(しんげん)の来襲に備えるため、中根正照を主将、松平康安(やすやす)と青木貞治を副将として入城させた。元亀3年(1572)武田信玄は3万の大軍を率いて上洛を志し、信濃から青崩(あおがれ)峠を越えて遠江に進攻した。武田本隊と馬場信春(のぶはる)の率いる別働隊は二俣城を包囲している。信玄は武田勝頼(かつより)に二俣城攻めを命じており、城兵の数は1200人ほどであったが、天然の要害である二俣城は簡単には落城しなかった。この時、信玄の本陣となった合代島(ごうたいじま)とは亀井戸城(磐田市下野部)と推定され、二俣城からは約5kmの距離にある。武田軍は二俣城の孤立を狙い、馬場信春と小田原北条氏の援軍が徳川家康の後詰に備えて社山城山麓の神増(かんぞ)に布陣、穴山信君(のぶきみ)が徳川方の石川家成(いえなり)の掛川城(掛川市掛川)、小笠原氏助(うじすけ)の高天神城(掛川市上土方)を牽制して匂坂(さぎさか)に布陣、山県昌景(まさかげ)が別働隊として東三河の各地を制圧し、二俣城への連絡を断ち切ることに成功している。しかし、二俣城の攻め口は北東の大手口しかなく、しかも大手口は急な坂道になっており、攻めのぼる武田兵は次々と矢弾の餌食となった。寄せ手の大将である勝頼は二俣城を攻めあぐみ、2ヶ月が経過した。二俣城の台地斜面は川に削られた岩盤むき出しの天然の要害であるが、切り立った岩盤上に立地しているため二俣城には井戸がなく、天竜川の断崖に井楼(井戸櫓)を設け、滑車に縄をかけて釣瓶で水を汲み上げていた。それを知った勝頼は、大量の筏を作らせて天竜川の上流から流し、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという作戦を実行した。この作戦は見事に成功し、井楼は崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれた。水が補給できなくなった城兵は戦意を喪失、二俣城での籠城は不可能と判断した中根正照は、武田軍に人質を差し出して降伏し、二俣城を明け渡した。これにより家康の本拠である浜松城は完全に孤立、その後の三方ヶ原の戦いで信玄に挑んだ家康であったが大敗を喫し、二俣城の戦いの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治を始め、多くの将兵をことごとく失ってしまった。『伊能文書』によると、信玄は越前の朝倉義景(よしかげ)に戦勝報告するとともに、織田信長を討つよう出陣の催促をしているが、この手紙の中に二俣城が修築中であることも記されている。
元亀4年(1573)武田信玄は持病が悪化して死去した。さらに、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に大勝すると、家康は失地回復のため大久保忠世を大将に任じ、二俣城の周囲に7つの付城を構築して包囲した。二俣城将の依田信蕃(のぶしげ)はよく戦い、半年間も籠城するが二俣城には後詰もなく、武田勝頼からの開城勧告により降伏している。二俣城といえば、松平信康(のぶやす)が非業の最期を遂げた地としても有名である。永禄2年(1559)信康は家康の長男として駿府で生まれた。母親は正室の築山殿で、この女性は今川一門の関口刑部少輔親永(ちかなが)の娘であり、今川義元の姪にあたる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごした信康は、桶狭間の戦いの後に徳川氏の捕虜となった鵜殿氏長・氏次(うじつぐ)兄弟との人質交換により三河岡崎城(愛知県岡崎市)に移る。永禄10年(1567)信康は信長の娘である徳姫と結婚し、元亀元年(1570)家康が本拠を浜松城に移すと岡崎城を譲り受けた。信康は信長と家康の二字を諱としており、織田・徳川同盟の申し子のような存在であった。天正元年(1573)15歳の信康は三河足助城攻めで初陣を飾り、天正3年(1575)長篠の戦いに参加、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。ところが、織田信長は隣国の信康の武将としての成長に、将来の織田家への不安を感じていた。『三河物語』によると、徳姫は今川氏の血を引く築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579)父の信長に十二箇条の手紙を書いた。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通していること等が記されていたという。この情報の信憑性は低いものであったが、使者で徳川家の家老である酒井忠次(ただつぐ)は弁明できず、信長は家康に2人の処断を求めた。家康は命令を受け入れるしかなく、信康を岡崎城から大浜に移し、そして堀江城(浜松市西区舘山寺町)に入れた。さらに二俣城に移して謹慎させた。その後、築山殿が浜松へ護送中の佐鳴湖畔で、徳川家の家臣である岡本時仲(ときなか)、野中重政(しげまさ)により首を刎ねられた。また、二俣城の信康も家康によって切腹を命じられた。介錯人は服部半蔵正成(まさなり)であったが、鬼半蔵といえども主筋に太刀を振り下ろすことができず、検使役の天方山城守道綱(みちつな)が代わって介錯したと伝わる。享年21歳であった。道綱は嘆き悲しむ家康を見て出家したという。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって廟と位牌堂が建立され、のちに家康が訪れた際に寺に清涼な滝があるのを見て清瀧寺と改めさせた。二俣城はそのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変の後、家康の領土拡大に伴い忠世自身が信州惣奉行として信濃国小諸に在番することが多く、二俣城にはあまり在城しなかった。天正18年(1590)家康の関東移封にともない、堀尾吉晴(よしはる)が12万石で浜松城に入り、二俣城はその支城となった。酒井忠次の嫡子である家次(いえつぐ)の新たな所領は下総国臼井3万石と小禄であった。ちなみに徳川四天王といわれた他の3人は、本多忠勝と榊原康正が10万石、井伊直政(なおまさ)が12万石であった。このため、隠居していた忠次が家康に不満を訴えたところ、「お前も我が子が可愛いか」と暗に信康事件の不手際を責められ戦慄したという。二俣城には吉晴の弟である堀尾宗光(むねみつ)が入城した。その後、慶長5年(1600)堀尾氏が出雲に転封すると二俣城は廃城となった。

会津若松城

 

 
 
会津盆地を流れる湯川沿いの丘陵を利用した会津若松城は、白虎隊の自刃の地である飯盛山を北東に望む旧市街地の南端に位置し、現在は鶴ヶ城公園として整備され、そのほとんどが国の史跡に指定されている。本丸の東側に二の丸、三の丸を配置した典型的な梯郭式の平山城であり、付随する北出丸と西出丸は加藤明成(あきなり)の時代に馬出を出丸に拡張したものである。特に北出丸は、北出丸東側の大手門に近づいた敵を、北出丸の東北角櫓と、本丸の北側から西側にまたがる帯曲輪の北角櫓、二の丸の北側の伏兵郭からの三方より攻撃することができるので、別名「みなごろし丸」と呼ばれていた。事実、戊辰戦争において新政府軍が城内に突入することはできなかった。西出丸から本丸帯曲輪につながる坂は知期理坂といい、西中門跡の石垣上には鐘撞堂が建っている。戊辰戦争の際には、新政府軍の砲火が集中して時守が相次いで斃されたという。本丸にある5層5階の層塔型天守は昭和40年(1965)に復元したもので、内部は鶴ヶ城博物館となっている。往時は天守から南と東に走長屋が延びており、あたかも鶴が翼を広げたようであったという。本丸は他にも、多聞櫓城門の鉄門(くろがねもん)と裏門の2つの城門、干飯(ほしい)櫓、月見櫓、茶壺櫓の3つの櫓に守られており、中でも干飯櫓は若松城にあった11基の二層櫓のうち一番大きなもので、南走長屋によって鉄門や天守と連結されている。平成12年(2000)この干飯櫓と南走長屋が当時の工法によって復元された。かつて本丸には大書院、小書院、奥御殿など沢山の建物が並んでいたが、現在は千家ゆかりの茶室麟閣(りんかく)のみが現存している。また、本丸にあった御三階(おさんがい)という楼閣建築は、城内にはその石垣しか残されていないが、城下の阿弥陀寺に建物が移築保存されている。本丸と二の丸は廊下橋でつながっており、加藤明成の大改修まではこちらが大手口であった。葦名氏の時代には屋根のついた廊下造りの橋であったため、廊下橋と呼ばれる。この橋の左右の高石垣は長さ130m、高さ20mを超え、東日本では最大規模であり「忍者落し」と呼ばれた。若松城は武家屋敷が建ち並ぶ郭内と町屋敷の郭外を、外堀と土塁をめぐらした6kmにおよぶ惣構えにて区画し、16ヶ所の郭門で連絡した。現在では、そのうちのひとつである甲賀町口郭門の一部が残っている。
会津若松城の前身は葦名氏の東黒川館(黒川城)であった。会津地方に盤踞した葦名氏は、平安時代末期に相模国の豪族であった三浦義明(よしあき)の七男の佐原義連(さわらよしつら)を祖とする。鎌倉幕府の御家人であった義連は、文治5年(1189)の奥州合戦の戦功により、陸奥国の会津郡、河沼郡、耶麻郡を与えられた。その後、義連の孫である3代光盛(みつもり)は、相模国三浦郡の葦名郷を本拠としたことから、初めて葦名氏を名乗るようになった。康暦元年(1379)になると7代当主の葦名直盛(なおもり)は会津地方に下向し、至徳元年(1384)直盛によって小高木(小田垣)の地に東黒川館が築かれた。会津守護職に任命された葦名氏は、東黒川館を守護館として政務を執ったという。このように南北朝期の会津地方には守護と呼ばれる存在がいたことが知られており、その影響範囲は会津郡、大沼郡、河沼郡、耶麻郡の会津四郡であったと考えられる。葦名氏は会津守護職を世襲しながら、戦乱の続く会津地方で会津四家(葦名氏、長沼氏、山ノ内氏、河原田氏)のひとつとして続いた。戦国時代になって16代当主の葦名盛氏(もりうじ)が登場すると、黒川城を居城に会津地方を平定し、仙道(中通り)や越後国蒲原郡まで領地を広め、戦国大名葦名氏の最盛期を迎える。永禄6年(1563)室町幕府の『諸役人附』によると、日本全国で「大名」に認められたものは53名で、上杉謙信、武田信玄、北条氏康、今川氏真、織田信長などが名を連ね、奥羽からは伊達晴宗(はるむね)と葦名盛氏が加わった。永禄11年(1568)盛氏は家督を嫡子盛興(もりおき)に譲り、向羽黒岩崎城(大沼郡会津美里町)に隠居するが、天正3年(1575)17代盛興が病没してしまったため、再び黒川城に戻ることになる。家督は二階堂盛義(もりよし)の子で、二階堂氏からの人質として預かっていた盛隆(もりたか)に継がせるが、天正8年(1580)葦名盛氏が没すると、天正12年(1584)18代盛隆は家臣の大場三左衛門に殺害されてしまう。盛隆のあとは、生まれたばかりの亀若丸が継ぐことになる。しかし、この19代当主の亀若丸も天正14年(1586)に3歳で早世してしまい、葦名氏の当主が相次いで死去するという不幸が続いてしまった。葦名氏嫡流の男系は絶えたため、亀王丸のあとを常陸国の佐竹義重(よししげ)の次男喝食丸(かつじきまる)に継がせるか、伊達政宗(まさむね)の弟竺丸(じくまる)に継がせるかで葦名家臣団は対立、佐竹派と伊達派に分裂して争うことになる。結局、佐竹喝食丸が葦名氏20代当主として迎えられ、葦名義広(よしひろ)と名乗った。義広の入嗣によって葦名氏と佐竹氏の同盟関係は確固たるものとなり、佐竹義重は葦名義広とともに出羽米沢城(山形県米沢市)の伊達政宗の攻略を画策する。しかし、葦名義広は幼少であったために蘆名家臣団を掌握することができず、佐竹氏からきた家臣と葦名氏の家臣団が対立するようになる。この内紛に付け込んだ伊達政宗によって葦名領は侵食されていった。天正17年(1589)葦名義弘は伊達政宗を相手に摺上原(すりあげはら)にて決戦を挑むが、大敗して黒川城に敗走、そして実家の常陸佐竹氏のもとに逃れた。この摺上原の戦いで名族葦名氏は滅亡し、会津地方を制圧した伊達政宗は黒川城に入城し、本拠を米沢城から黒川城に移した。伊達氏の勢力はこの頃が最大で、その勢力圏は北は出羽国長井郡、陸奥国宮城郡、西は会津四郡、南は安積郡、岩瀬郡、東は田村郡におよぶ大版図で、現在の山形県、宮城県、福島県にまたがる広大な領地を支配していた。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役において、相模国小田原に遅参した伊達政宗は謹慎を言い渡される。その後、秀吉との対面を許されたとき、死に装束で臣従を誓い、惣無事令(そうぶじれい)に違反した会津領などを没収される代わりに、本領は安堵された。惣無事令とは秀吉が出した法令で、大名間の私闘を禁じたものである。小田原北条氏を滅ぼした秀吉はそのまま大軍を率いて北上し、奥州平定のために会津の黒川城に入った。秀吉は黒川城で奥州仕置(おうしゅうしおき)をおこない、小田原に参陣した大名(最上氏、秋田氏、津軽氏、南部氏など)の所領を安堵し、参陣しなかった大名(大崎氏、葛西氏、和賀氏など)を改易した。会津地方を没収された伊達政宗は本拠を出羽米沢城に戻し、代わって伊勢国松坂から蒲生氏郷(がもううじさと)が会津黒川に42万石(のちに92万石に加増)で入封した。氏郷は文武両道に優れた名将で、この加増移封に対しても「たとえ大領であっても奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ、小身であっても都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と激しく嘆いたと言われる。一方、秀吉は信長も認めた器量人である氏郷を恐れ、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わる。氏郷は黒川の地を若松と改め、若松城の改修と城下町の整備をおこなった。天正19年(1591)茶人の千利休(せんのりきゅう)が秀吉の勘気に触れ切腹させられると、養子の千少庵(しょうあん)は利休七哲の筆頭に数えられる氏郷によって若松城に保護された。氏郷は徳川家康とともに千家復興を願い出て、文禄3年(1594)ついに秀吉は少庵を赦免した。その間、少庵が氏郷のために若松城の本丸に造った茶室が麟閣である。のちに少庵の孫達によって茶道の三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)が興されことになる。文禄2年(1593)蒲生氏郷による若松城が完成し、金箔瓦に下見板張の7層天守を伴った壮大な近世城郭に造り変えたが、文禄4年(1595)病気により40歳で没してしまう。辞世の句は「限りあれば吹かねど花は散るものを、心短き春の山風」である。風など吹かなくても花はいつしか散ってしまうものなのに、春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか、と天下を狙える器量も持ちながら病に倒れた悔しい心境を吐露している。氏郷の跡は13歳の秀行(ひでゆき)が継ぐが、慶長3年(1598)家中を統率できないという理由により、下野国宇都宮18万石に減封となった。若松城には五大老のひとり越後国の上杉景勝(かげかつ)が、陸奥国の会津地方と伊達郡、信夫郡、刈田郡、出羽国の庄内地方、置賜地方、佐渡国など120万石で入封した。これは豊臣政権下において、徳川家康の240万石、毛利輝元(てるもと)の120万5千石に次ぐ石高であった。同年に豊臣秀吉が没すると、上杉景勝は家老の直江兼続(かねつぐ)が五奉行の石田三成(みつなり)と懇意であった経緯から、五大老筆頭の徳川家康と対立することになる。
慶長5年(1600)徳川家康は豊臣恩顧の大名達を率いて上杉景勝を討つべく会津征伐に向かうが、畿内を留守にした隙をついて石田三成ら反徳川の諸大名が挙兵したため、下野国小山から引き返して関ヶ原合戦へと発展した。上杉景勝は東軍の伊達政宗、最上義光(よしあき)らを相手に善戦するが、関ヶ原合戦で西軍が敗れたため家康に降伏、慶長6年(1601)出羽国米沢30万石に減封される。会津には関ヶ原合戦の功により蒲生秀行が60万石で復帰し、忠郷(たださと)と続いた。寛永4年(1627)忠郷が没し、弟の忠知(ただとも)が伊予国松山に24万石で転封となると、代わって伊予国松山から賤ヶ岳七本槍で名高い加藤嘉明(よしあき)が会津四郡、安積郡、岩瀬郡の40万石で入封した。寛永8年(1631)嘉明が没すると、跡を継いだ嫡男の明成は、寛永16年(1639)から若松城の大改修に着手した。北出丸と西出丸の設置や、滝沢峠の開通に伴う大手口の変更、また慶長16年(1611)の大地震で傾いたままになっていた7層の黒い天守を改築し、白漆喰総塗籠造の白亜の5層天守を完成させ、現在の若松城の姿に整えられた。しかし、寛永16年(1639)家老の堀主水と不和になり、堀一族が武装して出奔する堀主水事件が発生し、明成は追手を各地に派遣して探した。堀主水は江戸幕府に訴えるが、「家臣は主君に従うもの」として、明成に引き渡されて処刑された。寛永20年(1643)これら不祥事によって明成は40万石の領地を返上して石見国に隠居した。その後、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の庶子である保科正之(ほしなまさゆき)が会津四郡23万石で入封し、正経(まさつね)、正容(まさかた)と藩主が続いた。この正容の代に松平の姓と葵の紋を江戸幕府から与えられ、徳川親藩として会津松平氏が幕末まで続いた。文久2年(1862)9代藩主の松平容保(かたもり)は京都守護職に命じられ、配下の新選組などを使って京都の尊王攘夷派や倒幕派を厳しく取り締まった。さらに、元治元年(1864)禁門の変による戦いにて、会津軍は京都から長州軍を一掃した。松平容保は「精忠、天地を貫く」と言われた忠義に厚い人物である。このため、慶応4年(1868)戊辰戦争によって江戸城が無血開城した後も、長州藩の私怨により、会津藩は朝敵とされ新政府軍の討伐対象となってしまう。会津藩は庄内藩とともにプロイセン(ドイツ)に蝦夷地を譲渡して同盟を結ぼうと画策するが、宰相ビスマルクが戊辰戦争への中立などを理由に断ったため実現しなかった。板垣退助(たいすけ)率いる新政府軍は圧倒的な戦力をもって若松城下まで侵攻、会津戦争と呼ばれる激戦が繰り広げられた。会津藩兵が籠城する若松城は、最新鋭のアームストロング砲による激しい砲撃にも落城することなく持ちこたえたが、5ヶ月間で2500人以上の犠牲者を出すに及んで、松平容保はついに降伏開城した。

松前城

 

 
 
北海道南西端に位置する松前城は、大松前川と小松前川に挟まれた福山台地上にある平山城で、津軽海峡に面して海防を重視した城郭であった。安政元年(1854)に完成した松前城は、我が国で最後に築かれた天守を備える日本式城郭である。そして、天守建築を備えた城郭は、北海道では唯一の存在であった。日本式城郭は、文久3年(1863)に肥前石田城(長崎県五島市)が築かれているが、こちらには天守は造られず、本丸の二重櫓を代用とした。松前城は三の丸から本丸までを松前湾に向けて雛壇式に築いて、三重櫓(天守)1基、二重櫓3基、渡櫓2基、城門16棟を構え、さらに三の丸には7座の砲台を備えている。これ以外にも城外9ヶ所に砲台が構築されて、32門の大砲が海に向けて配備された。従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。本丸南東隅にあった独立式層塔型3層3階の天守は、昭和16年(1941)国宝に指定され、太平洋戦争による被害も受けず、日本に現存する13天守のひとつに数えられた。しかし、昭和24年(1949)城跡の松前町役場から出火した火事が原因で焼失してしまった。昭和36年(1961)この天守は松前城資料館として鉄筋コンクリート造で外観復興されている。城内の石垣には緑色凝灰岩が使用されおり、緑色の石垣という珍しい城郭であった。寒冷地のため石垣の裏側の凍った土が融ける際に流れ出さないよう、隙間なく石垣が積まれている。これが亀の甲羅に似ていることから亀甲積みといわれる。また、天守や諸櫓の屋根には、寒さで凍みて割れる瓦ではなく銅板を葺いた。天守に付随する本丸御門は現存する築城当時の建物で、国の重要文化財に指定されている。近くには本丸表御殿玄関も残るが、それ以外の建物は、明治6年(1873)の廃城令により、解体され競売にかけられた。箱館戦争で焼失した寺町の阿吽寺(松前町字松城)の修復のため、松前城の堀上門を山門として移築しており現存する。平成12年(2000)二の丸に搦手二ノ門が復元され、平成14年(2002)三の丸に天神坂門が復元された。北海道が文献に初見されるのは、養老4年(720)に成立した『日本書紀』で、渡島(わたりしま)と記述されていた。平安時代末期には蝦夷ヶ千島(えぞがちしま)と呼ばれ、その後は蝦夷ヶ島(えぞがしま)の呼称が一般化したとみられる。江戸時代には蝦夷地と呼び、樺太や千島列島も含んでいた。蝦夷ヶ島に住む人を蝦夷(えぞ)という。ちなみに、古代の蝦夷(えみし)は、大和朝廷への帰属を拒否していた本州東部からそれ以北の集団を指す。一方、中世以後の蝦夷(えぞ)はアイヌを指すといわれ、これらは同じ字を使うが明確に区別する必要がある。『福山旧事記』によると、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に敗れた奥州藤原氏の残党の多くが蝦夷ヶ島に逃れたという。また、『吾妻鏡』によると、建保4年(1216)京都東寺の凶賊や強盗、海賊を蝦夷ヶ島へ流したとあり、鎌倉時代の北海道は朝廷との合意により罪人の流刑地と定められ、多くの罪人が蝦夷ヶ島に送られていた。こうして蝦夷ヶ島に和人の移住者が増えていったと考えられる。鎌倉幕府は津軽安藤氏を蝦夷沙汰代官職に抜擢、幕府の命を受けて流刑地である蝦夷ヶ島への罪人の送致、監視をおこなった。安藤氏は津軽地方の豪族で、十三湊(とさみなと)を本拠として成長している。蝦夷(えみし)の系譜に連なるといわれ、安部貞任(さだとう)の第二子である高星丸(たかあきまる)の後裔と称している。安倍姓安藤氏は蝦夷を代表する氏族であった。それゆえに、蝦夷沙汰代官職に任じられたものと考えられる。
延文元年(1356)の『諏訪大明神絵詞』では安藤太郎堯秀(あきひで)が初めて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官職)になったと記されている。そして、蝦夷は日の本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の3種に分類されるという。日の本は北海道の太平洋側と千島に分布する集団で、唐子は北海道の日本海側と樺太に分布する集団である。渡党は北海道の渡島(おしま)半島を中心とする地域に住んでいた集団のことで、髭が濃く多毛であるが、和人に似ているとある。和人の言葉が通じて、本州との交易に携わったと記録されている。渡党は本州から移住した者と考えられるが、中世の蝦夷にはこれらを含める意見もあり、蝦夷の概念自体が固まっていない。安藤氏は蝦夷ヶ島南部の渡党を被官とし、これを統轄するために一族を代官として派遣していた。代官は大館(松前町字神明)を政庁にしていたと推定される。そして、蠣崎(かきざき)氏ら有力な渡党を道南十二館に配置していた。永享8年(1436)安藤康季(やすすえ)は、勅命により「莫大之銭貨」を寄進して、若狭国の羽賀寺(福井県小浜市)を再興した。『若州羽賀寺縁起』に「奥州十三湊日之本将軍」と記され、安藤氏が日の本将軍と称し、これを後花園天皇も認めていたことが分かる。諸史料によると、室町時代中期までは「安藤」と表記し、それ以降は「安東」と表記する。安藤氏は室町時代も蝦夷管領を世襲しており、松前藩の記録である『新羅之記録』によると、康正2年(1456)安東政季(まさすえ)は、茂別館(北斗市矢不来)の安東家政(いえまさ)を下国守護、大館の下国定季(さだすえ)を松前守護、花沢館(上ノ国町勝山)の蠣崎季繁(すえしげ)を上国守護に任じ、道南十二館の他の館主(たてぬし)を統率させたとある。康正2年(1456)コシャマインの戦いが勃発、これは和人とアイヌによる初めての大規模な武力衝突であった。アイヌ軍は道南十二館を次々と襲い、10館まで占拠した。この戦いで花沢館の客将であった武田信廣(のぶひろ)が総指揮を任されて、奇策によりコシャマイン父子を討ち取っている。この武田信廣は松前藩松前氏の始祖となる人物で、清和源氏武田氏流の傍流である若狭武田氏の出身とされる。花沢館の蠣崎季繁は、武田信廣を婿養子として家督を譲った。蠣崎家を継いだ信廣は、寛正3年(1462)夷王山麓に勝山館(上ノ国町勝山)を築いて本拠を移している。明応5年(1496)松前家2世の蠣崎光廣(みつひろ)は渡党の各館主と共に、大館の下国恒季(つねすえ)の悪政を主家の安東忠季(ただすえ)に訴え出た。安東忠季はただちに軍勢を差し向けて恒季を自害させている。光廣は松前守護職を望んだが、後任は光廣ではなく、補佐役の相原季胤(すえたね)が補任された。永正10年(1513)東部アイヌが蜂起して大館が陥落、松前守護の相原季胤、補佐役の村上政儀(まさよし)が自害した。これは光廣が大館を奪取するために、アイヌに攻めさせたという陰謀説もある。当時の大館館主には、安東氏の代官として蝦夷ヶ島の各館主を統轄する権限が与えられていた。永正11年(1514)光廣は小舟180隻で松前に上陸、大館に入って本拠とし、これを改修して徳山館と名付けた。その後、永正12年(1515)ショヤコウジ兄弟の戦いが起こると、光廣は和睦を申し入れ、徳山館に兄弟を招いて酒宴を開き、そこで酒に酔わせて斬殺している。待機していたアイヌ軍は蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされて、徳山館近くの夷塚と呼ばれる塚に埋めらた。のちに蠣崎氏がアイヌとの戦いに出陣する際、塚からかすかな声が聞こえるようになったと伝わる。
享禄2年(1529)西部アイヌのタナサカシが蜂起した際は、松前家3世の蠣崎義廣(よしひろ)が和睦を申し入れ、館前に広げた宝物を受け取ろうとしたタナサカシを討ち取っている。さらに天文5年(1536)タナサカシの女婿タリコナが攻撃してきた際も、和睦を装い酒宴を開いてタリコナ夫婦を討ち取っている。アイヌは紛争解決手段として、非のあった集団が相手に宝物(イコロ)を差し出すという習俗があった。蠣崎氏はこれを逆手に取ってだまし討ちにした。このように兵力で劣る蠣崎氏は謀略のみで対処してきた。このため、アイヌの不信はつのるばかりであった。天文19年(1550)松前家4世の蠣崎季廣(すえひろ)はこの関係を断ち切るため、夷狄商船往還法度を制定した。これは瀬田内首長のハシタインを西夷尹、知内首長のチコモタインを東夷尹に任じて支配権を認め、松前に来航する商船から徴収した税を両代表に配分した。また、両代表の居所の沖を通る商船は、帆を下して一礼するよう定めた。このように季廣はアイヌとの関係回復に努めたため、アイヌの不信も次第に解消したという。蠣崎氏は檜山安東氏の蝦夷地における代官という地位を築いていたため、季廣は安東氏旗下の武将として、奥州北部の戦いに積極的に参加しなければならず、経済的な消耗が激しかった。天正18年(1590)松前家5世の蠣崎慶廣(よしひろ)は奥州仕置に派遣された前田利家(としいえ)に面会して、豊臣秀吉への取り成しを依頼している。そして、主家の安東実季(さねすえ)の合意のうえで上洛し、聚楽第(京都府京都市)において秀吉に謁見して、諸侯と同格の待遇を得ることに成功した。これにより宿願であった檜山安東氏の臣下を脱することができた。天正19年(1591)九戸政実の乱が発生すると、豊臣家諸将と共に慶廣も従軍している。しかも蠣崎氏の部隊にはアイヌの一隊があり、戦場では神出奇没で、毒を塗った附子矢(ぶしや)の威力も凄まじく一躍有名になった。文禄2年(1593)朝鮮出兵のため肥前国名護屋に滞陣中の豊臣秀吉を訪ねた慶廣は、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主として知行を安堵された。これにより、蝦夷島主という肩書きではあるが、豊臣政権下で大名に準ずる地位を獲得した。志摩守も島(志摩)をもじったものといわれている。この時、慶廣は徳川家康にも謁しており、家康が山丹錦の唐衣(サンタンチミブ)を珍しがったため、これを脱いで献上している。慶長4年(1599)蠣崎慶廣は姓を松前に改めた。一説によると、松平(徳川)氏と前田氏から一字づつ拝領したともいう。慶長5年(1600)松前慶廣は関ヶ原の戦いに参加しなかったため、外様大名の待遇を受けることになった。同年、徳山館南方の福山台地に築城を開始し、慶長11年(1606)に完成した。その規模は東西93間、南北126間で、南東隅に櫓が1基、城門が3箇所に開かれており、のちに物見櫓が2基追加されている。松前氏は城持大名とは認められていないので福山館(ふくやまだて)と称した。慶長9年(1604)徳川家康は諸侯に黒印状を発し、その領知を確定したが、慶廣に対しては異例のものであった。所領は米の生産力に換算して石高で表現し、江戸幕府はその所領が1万石以上の者を大名と定義していた。しかし、当時の北海道では米がとれなかったため、他藩のように石高をもって大名格付する領知方法が当てはまらず、特例として交易権と徴役権を認めることにより1万石待遇とした。松前氏は石高のない「無高の大名」として、大名の最末席に位置付けられた。こうして日本最北の松前藩が立藩して、渡党は明確に和人とされて松前藩士になった。
寛政11年(1799)江戸幕府はロシアの南下政策に対抗し、北辺警護のため松前藩の東蝦夷地を直轄地としている。さらに文化4年(1807)松前藩は西蝦夷地も召し上げられ小名に降格、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。文政4年(1821)幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地に戻されて旧領を回復、再び松前に復帰している。嘉永2年(1849)江戸幕府は外国船に備え、12代藩主の松前崇廣(たかひろ)を城持大名とし、松前城の築城を命じている。松前城の縄張りは、長沼流兵学者で高崎藩の市川一学(いちがく)に一任した。当初、一学は海防上の理由から福山ではなく、箱館の臥牛山(函館山)への築城を勧めたが、予算の問題もあって福山館の場所に築城することになった。松前城は安政元年(1854)に完成、本丸御殿、太鼓櫓等は福山館時代の建物をそのまま利用したという。安政元年(1854)江戸幕府は箱館奉行を設置し、安政2年(1855)松前藩は松前・江差周辺を除く蝦夷地すべてを召し上げられ、替地として陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根などに4万石の領地を宛がわれた。そして、蝦夷地は、松前、津軽、南部、仙台、秋田、庄内、会津の7藩に分担警備させ、防衛力の強化を図った。元治元年(1864)崇廣は外様ながら老中となって陸軍兼海軍総裁に任命されている。慶応3年(1867)大政奉還によって、箱館奉行所は明治新政府の箱館裁判所(箱館府)に引き継がれることになった。ところが、榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府脱走軍は、9艦の軍艦で蝦夷地に上陸、箱館府の守備兵を撃破して五稜郭(函館市五稜郭町)に入城した。そして、捕虜として捕らえた松前藩士に、松前藩の協力を要請する書簡を持たせて松前城に返している。13代藩主の松前徳廣(のりひろ)は、この藩士を節義に反するとして死罪に処した。当初、松前藩は奥羽越列藩同盟に加盟していたが、藩内の勤皇派である正議隊のクーデターによって藩論が転換し新政府に与していた。箱館を占拠した脱走軍の行動は早く、土方歳三(としぞう)を総大将に彰義隊、額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊など700人余が松前城に向けて雪中を進軍した。そして、知内村に宿陣した脱走軍へ松前藩兵が夜襲をかけることにより戦端が開かれた。脱走軍の軍艦「回天丸」が、沖から松前城に艦砲射撃を加えており、松前城の天守台に残る弾痕はこの時のものか、翌年の新政府軍による松前城奪還の際、軍艦「甲鉄」、他4艦からの艦砲射撃のものと考えられる。脱走軍は防衛線を敷く松前藩兵を各所で撃破しながら、松前城東方の台地にある法華寺(松前町字豊岡)を占拠して野砲を配置、城代家老の蠣崎民部および松前藩兵400が籠城する松前城への砲撃を繰り返した。同時に天神坂、馬坂より続く搦手門への進撃を開始した。松前藩兵は搦手門を固く閉ざすが、脱走軍が接近すると突然城門を開いて大砲を撃ち掛けたため、土方歳三は攻めあぐねた。しかし、松前藩兵の「砲弾の装填は城内で行い、大砲を撃つ時だけ城門を開く」戦法を読み取り、搦手門の開門と同時に城内に突入する。松前城は数時間の戦闘で落城しており、脱走軍によって占拠された。松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却している。市川一学による松前城の縄張りは、大手口からの通路は複雑に曲げて効果的な構えとしていたが、搦手側は敵の攻撃を想定しておらず、防御力の低いものになっていた。外国からの侵略を想定して築城した松前城は、内戦により簡単に落城してしまった。明治2年(1869)脱走軍は新政府軍に降伏して松前城は松前氏に帰すが、明治4年(1871)廃藩置県により明治政府の領有となる。

五稜郭

 

 
 
五稜郭は江戸時代末期に築かれた稜堡式(りょうほしき)城郭で、中心の箱館奉行所を守るための外堀が星型五角形の形状をしていることから五稜郭と呼ばれた。稜堡とは中世ヨーロッパで発展した城塞の防御施設のことで、星形要塞は多くの稜堡(三角形の突端部)を持ち、それぞれがお互いに連携して威力を発揮するように設計されている。重火器による戦闘においては、正面射撃だけでなく側面からの射撃を併用すると効果が上がる。この正面と側面からの火線を十字砲火というが、城郭の周囲はすきまなく火線で覆われるように設計しなければならない。稜堡式の城郭は、主郭から突き出た稜堡により、攻め寄せる敵軍に対して死角なく十字砲火を浴びせることができた。大砲が実戦に投入されると、城塞の形状も変化を迫られている。従来の高い城塞では大砲の標的になってしまうので、次第にその高さを低くしていった。しかし、箱館奉行所はそれに反していた。実際に箱館戦争のとき、箱館奉行所上部の太鼓櫓が新政府軍の艦砲射撃の格好の標的となった。それを知った旧幕府軍は慌てて太鼓櫓を撤去したが、すでに射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、砲弾が五稜郭の内部に次々と着弾したという。また城壁は石塁から土塁へと転換していった。石垣でできた城壁は、砲弾が命中したときの破片で城内の兵士を殺傷してしまうが、土塁の場合は砲弾が当たった時の衝撃を吸収する。五稜郭の場合は土塁を築こうにも寒冷な気候に適合せず、冬期に凍った土塁が温かくなると崩壊するという問題に直面した。このため石垣を築いて、その上に土を盛るという手間を掛けなければならなかった。五稜郭は費用不足もあって当初計画より縮小されており、半月堡(はんげつほ)も5箇所に計画していたが、大手口に1箇所しか造られなかった。箱館戦争ののち、五稜郭は明治政府の開拓使によって管理されることとなり、箱館奉行所の庁舎や付属の建物のほとんどは解体されてしまうが、白壁の土蔵である兵糧庫だけは現存している。平成22年(2010)当時と同じ材料と工法で箱館奉行所が復元されている。函館一帯はかつて宇須岸(うすけし)と呼ばれていた。宇須岸という地名は、アイヌ語で「湾の端」を意味する「ウショロケシ」から転訛したものである。享徳3年(1454)津軽の豪族である安東政季(まさすえ)が南部氏との戦いに敗れ、松前氏の始祖となる武田信廣(のぶひろ)らを従えて蝦夷地に渡った。その武将のひとりである河野政通(まさみち)が宇須岸に城館を築いて拠点とした。この宇須岸館(函館市弥生町)は箱館と呼ばれ、函館という地名の由来となる。一説によると、宇須岸館が七重浜(ななえはま)から見ると箱型をしていたためという。他にも、宇須岸館を築くときに鉄器の入った箱が出土したので箱館と呼ばれたという説もある。永正9年(1512)アイヌとの抗争により、宇須岸館は陥落して河野一族は滅びた。寛政11年(1799)江戸幕府はロシアの南下政策に対抗し、北辺警護のため松前藩の東蝦夷地を直轄地として、享和2年(1802)箱館に箱館奉行を設置、翌年には宇須岸館跡に箱館奉行所を建てている。文化4年(1807)松前藩は西蝦夷地も召し上げられ小名に降格、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。文政4年(1821)幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地に戻されて松前に復帰している。これと同時に松前藩は北辺警備の役割を担わされることにもなった。嘉永6年(1853)浦賀沖に現れたペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊は、アメリカ大統領からの国書を呈して、鎖国下の江戸幕府に対して開国を迫った。
江戸幕府はアメリカと日米和親条約を締結して、伊豆国下田と箱館の2港を開港、続いてイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を結んでいる。安政元年(1854)江戸幕府は再び箱館奉行を設置し、安政2年(1855)蝦夷地を松前藩だけでなく津軽藩、南部藩、仙台藩、秋田藩の5藩に分担警備させ、防衛力の強化を図った。そして箱館港入口の岩礁を埋め立て、不等辺六角形の弁天岬台場(函館市入舟町)の建設に着手、さらに箱館山麓の奉行所は港湾から近く防備上問題があるため、内陸の亀田の地に移転が決まった。このとき稜堡式築城法が採用され、弁天岬台場とともに武田斐三郎(あやさぶろう)が設計した。こうして弁天岬台場と五稜郭が元治元年(1864)に完成している。五稜郭の北側一帯には、奉行所に勤める役人たちの役宅が建設され、整然と区画された屋敷町が誕生して、亀田柳野と呼ばれた原野は一大行政区に生まれ変わった。慶応3年(1867)15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、大政奉還により江戸幕府が保持していた政権を朝廷へ返上し、薩長による武力倒幕を避けたが、慶応4年(1868)薩摩藩の挑発に乗ってしまい、京都封鎖のために出兵を命じている。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩・桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。この鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩兵を主力とする新政府軍の5千に対して、旧幕府軍は1万5千の兵力を擁していながら、新政府軍に敗れてしまう。そして、新政府軍は、明治天皇から錦の御旗(にしきのみはた)が与えられて官軍となり、一方の旧幕府軍は「朝敵」としての汚名を受ける事になった。大坂にいた徳川慶喜は軍勢を見捨てて、大坂湾に停泊中の軍艦「開陽丸」で江戸に逃亡した。一方、新政府は東征軍を東海道・東山道・北陸道の三道から江戸へ進軍させた。そして、大総督府下参謀の西郷隆盛(たかもり)と、旧幕府代表として陸軍総裁の勝海舟(かいしゅう)が会談、江戸城を無血開城することに決まり、大総督府に接収された。徳川慶喜は助命されて謹慎のため水戸へ移っている。この無血開城は武器をすべて引き渡すことが条件であった。これに反発した海軍副総裁の榎本武揚(たけあき)は、軍艦引き渡しを断固拒否して、旧幕府海軍の主力艦8艦を率いて品川沖から千葉の館山沖に逃れた。しかし、新政府の要請を受けた勝海舟の説得で、艦隊の半分、観光(かんこう)、朝陽(ちょうよう)、富士山(ふじやま)、翔鶴(しょうかく)を引き渡すことを受け入れ、品川沖に回航した。勝海舟はその後も再三にわたり榎本に自重を求めたが、新政府と対立している奥羽越列藩同盟を支援するため、榎本武揚は品川沖を脱走して仙台に向かった。この脱走海軍の艦隊は、開陽(かいよう)を旗艦として、回天(かいてん)、蟠龍(ばんりゅう)、咸臨(かんりん)と、その後に加わった千代田形(ちよだがた)、神速(しんそく)、長鯨(ちょうげい)、三嘉保(みかほ)の8艦であった。この艦隊には、元若年寄の永井尚志(なおゆき)、元陸軍奉行並の松平太郎、渋沢成一郎が率いる彰義隊の残党、伊庭八郎が率いる遊撃隊など抗戦派の幕臣2千人余が乗り組んでいた。軍艦の開陽丸は、幕府がオランダに造船させた最新鋭艦で、新政府軍が保持する軍艦をはるかに凌ぐ性能を持っていた。オランダ海軍大尉ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言したという。また、咸臨丸は日本で初めて太平洋を往復した蒸気船で、そのときは勝海舟が艦長を務めている。太平洋横断後、咸臨丸は蒸気機関と大砲を外し、運送用帆船として使用された。
仙台に向かった榎本艦隊は銚子沖で暴風雨に遭い、大量の軍需物資を積んでいた美嘉保丸は岩礁に乗り上げて沈没、また大破して漂流した咸臨丸は駿河の清水港で修理していたところを新政府軍に急襲されて降伏した。咸臨丸の乗組員は逆賊として新政府軍に虐殺されている。この時、小船を出して駿河湾に放置されている遺体を収容し、埋葬したのは清水次郎長(しみずのじろちょう)であった。この行為は新政府軍に咎められるが、次郎長は「死者に官軍も賊軍もない」として突っぱねたという。結局、榎本艦隊で仙台湾に着いたのは6艦である。しかし仙台藩が新政府軍に降伏したため、艦隊は蝦夷地を目指して箱館に向かった。新政府が決定した徳川家への処置は、徳川領800万石から駿河・遠江国70万石へ減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの者が路頭に迷うことになる。これを憂いた榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策したのである。仙台では、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた旧幕府脱走陸軍を収容している。桑名藩主の松平定敬(さだあき)、元幕府老中の板倉勝清(かつきよ)、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介(けいすけ)、新選組副長の土方歳三(としぞう)、遊撃隊長の人見勝太郎、衝鋒隊長の古屋佐久左衛門、仙台藩額兵隊長の星恂太郎(じゅんたろう)と、その隊士たちも乗船させた。幕府から仙台藩に預けてあった太江(たいこう)、鳳凰(ほうおう)、長崎(ながさき)を艦隊に加え、さらに気仙沼付近で海賊に奪われていた旧幕府の千秋丸(回春と改称)を奪回しており、榎本艦隊は10艦となった。このうち、千代田形と長崎丸を新政府軍と戦っている庄内藩の救援に向かわせたが、長崎丸は酒田沖で暗礁に乗り上げて沈没、庄内藩の降伏によって千代田形は遅れて箱館に到着した。榎本武揚は艦隊を鷲ノ木(茅部郡森町)に接岸させており、ここは新政府の拠点である箱館より10里ほど北に位置していた。江戸幕府の箱館奉行所は、新政府によって箱館裁判所(箱館府)となっており、知事として清水谷公考(しみずだにきんなる)が派遣されていた。箱館府兵100人余と松前藩兵1小隊のみであった箱館守備兵は、津軽藩兵4小隊、備後福山藩兵700人、越前大野藩兵170人が到着して兵力を増強している。鷲ノ木に上陸した脱走軍3000名は、清水谷府知事の派遣した箱館府兵を峠下・大野・川汲などで敗走させた。五稜郭にあって戦況を窺っていた清水谷府知事は、全軍敗北の報せを受けて五稜郭を放棄、カガノカミ号で箱館港を脱出した。逃げ遅れた津軽藩兵、福山藩兵、大野藩兵は、プロシアのタイパンヨー号を雇い上げて本州に脱出している。こうして脱走軍は無人の五稜郭へ入城して、これを占拠した。箱館港には回天丸、蟠龍丸の2艦が入港、箱館港および箱館を制圧している。そして、箱館港に入港してきた秋田藩の高雄丸は、警戒に当たっていた回天丸にだ捕されて脱走軍に没収されている。脱走軍は高雄丸を第二回天丸と改称して艦隊に加えた。さらに旗艦である開陽丸も箱館港に入港している。箱館を占拠した脱走軍の行動は早く、土方歳三を総大将とした脱走軍700名で松前城(松前町字松城)を攻略、松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却している。脱走軍は松前藩兵を追って江差へ向かうが、途中で開陽丸から江差を占拠したとの報告が入った。陸軍の活躍によって肩身の狭かった海軍は、陸軍援護のために開陽丸を箱館から江差に航行させ、江差沖から艦砲射撃を加えた。しかし反撃がないので斥候を出すと、松前藩兵はすでに撤退していたという。
ところが、夜になって天候が急変する。開陽丸はタバ風と呼ばれる風波に押されて座礁。艦内の大砲を陸側に向け一斉射撃して離礁させようと試みたがうまくいかず、ついに沈没した。救援に駆け付けた運送船の神速丸も荒波の中に引き込まれている。主力艦の喪失は、脱走軍の海軍力を大きく低下させただけでなく、彼らの士気をも大きく落ち込ませる結果となった。現在、江差の鴎島に開陽丸が復元されており、船内には海底から引き揚げられた開陽丸の遺物が展示されている。松前藩主の松前徳廣(のりひろ)は津軽に脱出、蝦夷地の制圧を終えた脱走軍は五稜郭へ凱旋した。そして、蝦夷島政府(蝦夷共和国)の総裁を決めるため、日本で初めて公選入札(選挙)が行われた。この投票結果によって榎本武揚が蝦夷島総裁となり、蝦夷地領有宣言式をおこなった。副総裁は松平太郎と決まり、箱館奉行には永井尚志が就任している。彼らの要求は、大政奉還により生活の糧を失った徳川家臣団を蝦夷地に移住させ、開拓に従事しながら日本の北の守りを固め、明治天皇を中心とした新しい日本の発展に貢献したいというもので、いわゆる蝦夷共和国と呼ばれるような明治政府に対抗する独立国家を目指したものではなかった。明治2年(1869)明治新政府は箱館征討のため、甲鉄(こうてつ)、陽春(ようしゅん)、春日(かすが)、丁卯(ていぼう)、飛龍(ひりょう)、戊辰(ぼしん)、晨風(しんぷう)、豊安(ほうあん)の8艦で品川沖を出航した。宮古湾海戦では、脱走軍の回天、蟠竜、高雄の3艦がアメリカ国旗を掲げて新政府軍の艦隊に近づき、甲鉄艦に乗り移って奪い取ろうとしたが失敗、高雄丸は新政府軍の艦隊にだ捕されている。新政府軍は日本海側の乙部から上陸して、二股、木古内、松前の3方面から攻め、甲鉄、陽春、春日、丁卯、朝陽の5艦による砲撃もあり、松前城の奪還に成功している。二股、木古内から箱館を目指す新政府軍は、脱走軍の頑強な抵抗に遭いながらも徐々に前進していき、脱走軍の占拠地は箱館と五稜郭を残すのみとなった。新政府軍は箱館総攻撃を決行、これにより四稜郭(函館市陣川町)、権現台場(函館市神山町)が陥落している。一方、脱走軍の艦隊は、これ以前に座礁した千代田形が新政府軍にだ捕され、機関をやられた回天が沖ノ口近くの浅瀬で浮台場となっていたため、軍艦として機能するのは蟠龍のみとなっていた。そして、箱館港にて蟠龍は新政府軍の朝陽と激しい砲撃戦を展開しており、朝陽は火薬庫に被弾して轟沈した。その後、新政府軍の軍艦に追われた蟠龍は弁天岬台場脇の浅瀬に乗上げてしまうが、それでも砲弾を撃ち尽くした。脱出した乗組員は蟠龍、回天の両艦に火を放ち、五稜郭に退却している。のちに、函館では「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったという。新選組隊士の守備する弁天岬台場が新政府軍に包囲されて孤立したため、土方歳三は額兵隊2小隊を率いて救援に向かい、一本木関門で七重浜より攻め来る新政府軍に応戦して馬上で指揮を執った。この乱戦の中、松前藩士である米田幸治(まいたこうじ)の銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近がすぐに駆けつけたが鬼の副長は絶命していた。箱館市中は新政府軍に制圧され、箱館山からの砲撃と軍艦による艦砲射撃を受けていた弁天岬台場は降伏した。いよいよ敗北を意識した榎本武揚は、『万国海律全書』は日本に一冊しかない貴重な本で、これが失われるのは国家の損失として新政府軍に贈った。そして、その返礼として五稜郭に酒樽と肴が贈られたという。ここに至って、五稜郭もついに降伏しており箱館戦争は終結した。
金沢城

 

 
金沢城1
石川県金沢市丸の内にあった城である。加賀藩主前田氏の居城だった。
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩4代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。
明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995)まで置かれていた。

典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっている。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。
あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。そのうちのひとつ、妙立寺(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。
城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)が存在した。現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。このうち、いもり堀は復元作業が行われ、2010年4月に再び水が張られた。
白鳥堀は、歩行者・自転車専用の白鳥路(はくちょうろ)として、市民の散策路に利用されている。百間堀は、広坂交差点と兼六園下交差点を結ぶ百間堀通り(百万石通りの一部)となっており、明治44年幹線道路に転用された。これを渡るように兼六園から石川門にかかる石川橋は、この際鉄筋コンクリート橋として架橋されたもので、藩政期は百間堀と白鳥堀を分ける土橋であった。
このほか、城内には内堀が、城外には東西の内外計4本の惣構堀(そうがまえぼり)が掘られていた。惣構堀は後に用水路として転用されている部分が多い。
歴史
天文15年(1546):空堀や柵などを備える城造りの寺院のであった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。
天正8年(1580):佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。
天正11年(1583):賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
天正15年(1587)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った(再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている)。
文禄元年(1592):利家の子、前田利長が再び改造を行った。
慶長7年(1602):天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。
寛永9年(1632):辰巳用水が城内に引かれた。
宝暦9年(1759):宝暦の大火に見舞われる。
明治6年(1873):全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となり、陸軍省の財産となる。
明治8年(1875):陸軍第7連隊が金沢城址に置かれた。
明治14年(1881):火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失。
明治31年(1898):陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続した。 
 
金沢城2
金沢城の前身である金沢御堂(尾山御坊)は天文14年(1545)に一向宗徒によって建立されました。寺院とはいえ当時の加賀国では一向宗徒によって実質的な支配が行われていた為、金沢御堂はその拠点として大規模な城砦として整備されました。天正8年(1580)、加賀侵攻と一向宗の弾劾を行った織田信長が家臣である柴田勝家を派遣し、勝家の武将である佐久間盛政が金沢御堂を攻略、盛政は石川郡と河北郡の領主となり金沢御堂跡を改修し尾山城を築城します。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた前田利家が加増を受け尾山城主になると城の改修が始まり、天正15年(1587)キリシタン大名だった高山右近が前田家の客将として城の普請を任せられると大手、搦手付近を大改修し城名も金沢城に改められました。文禄元年(1592)には後の2代藩主前田利長が2の丸、3の丸、4の丸、北の丸などを増築し、防衛的にも百間堀や高石垣を整備しています。当初、金沢城本丸には5重天守閣が建てられていましたが、慶長7年(1602)、落雷により焼失、その後代用として3重櫓としましたが、その櫓も宝暦9年(1759)の大火により焼失しています。明治時代以降、金沢城は廃城となり破却、または払い下げで城内の建物が次々に失われ、明治14年(1881)の火災で2の丸御殿を中心に多くの建物が焼失しました。その後、金沢城跡には第六旅団司令部や第九師団司令部などが置かれ、第二次世界大戦後は金沢大学の敷地となり一般人からは遠い存在になりました。平成7年に金沢大学が郊外に移転すると金沢城跡は国から石川県に移管され、城内の整備が開始、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、続櫓、河北門などが次々と再建され平成18年に日本100名城に選定、平成20年には金沢城跡として国の史跡に指定されています。金沢城の遺構としては石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫(金沢城土蔵)が城内に残る遺構として国指定重要文化財に指定され、再度移築されてきた無指定の切手門があります。移築されたものは金沢城の2の丸御殿の唐門が尾山神社の東神門に、金沢城2の丸能舞台が中村神社拝殿へ、金沢城内に建立された東照三所大権現社の社殿が尾崎神社社殿へそれぞれ移築されています。現在は金沢城公園として一般市民に開放され市民の憩い場になっていると共に観光名所の1つにもなっています。 
 
足利城址

 

足利城1
栃木県足利市の標高250mの両崖山に平安時代後期に築城された山城で、両崖山城、飯塚山城、小屋城、栗崎城などとも呼称される。1512年以降は長尾氏によって支配された。足利城を巡り、1455年、1564年、1584年、1590年の4度合戦が勃発しており、それぞれ足利城の戦いと呼称される。
足利城の戦い
第一次合戦は関東管領の山内上杉憲忠を殺害した鎌倉公方の足利成氏と上杉氏家臣の長尾氏との間で起こった。『正木文書』に収録されている1455年5月13日の足利成氏書状写には、足利義明が足利城へ赴いたことを受け、計略をめぐらせるよう岩松右京へ命じる旨が記されていた。また、『赤堀文書』に収録されている同年8月29日の書状写には赤堀政綱に対し、近日中に上杉勢が足利庄内へ進駐してくることから、軍勢を整え、軍議をなすよう命じる旨が記されている。『真壁文書』にも真壁尚幹に対し同様の伝令があった旨が記されていたが、これらの結果、軍の対峙のみで終わったのか、合戦が起こっていたのかは現状の資料からは明らかにされていない。
第二次合戦は上杉謙信と佐野昌綱の間に勃発した。1564年11月、上杉謙信は佐野氏が支配する唐沢山城を攻撃するにあたり、足利、館林、新田領などに火を放ち、沼尻に築陣したという記録が残されている。この結果、当地を守護していた長尾政長は、下野国足利衆として上杉方へ属した。
第三次合戦は小田原北条氏の下野国侵攻が本格化した1584年に勃発している。『古今消息集』に収録された4月22日の北条氏勝感状写にて、足利城で長尾顕長と佐野宗綱の戦闘があった事が記されている。
豊臣秀吉により小田原攻めがなされた1590年ごろ、足利城で第四次合戦が行われていた事が示唆されており、『木島文書』『平沼伊兵衛氏所蔵文書』『宇津木文書』などにある1月28日北条氏直感状写には反町大膳亮、辻新三郎、宇津木下総守らに宛てた足利城での戦功を称える言葉が認められている。ただし、本件に関しては相手方がどこであったかについては言及がなされておらず、不明となっている。
足利城2
天喜2年(1054)に藤原秀郷の後裔淵名成行は両崖山に城を築き足利太夫と称して藤姓足利氏の祖となった。藤姓足利氏は5代130年に亘り栄え俊綱と忠綱の時代に全盛期を迎えたという。5代目の忠綱は身長2mを超え力は百人力で声は40キロ四方まで達したという。割り引いて考えても怪力無双の大男で武勇にも秀でていたのだろう。
その忠綱の時代に源氏が没落し平氏全盛の世を迎えた。保元・平治の乱には忠綱も源氏の家人として参戦したのだろうが、足利荘も平氏の所領となるに及んで藤姓足利氏も平氏に忠義を尽くすようになった。治承4年(1180)に源頼政が挙兵すると忠綱は平氏の軍勢に参加し宇治川の戦いでは先陣を切って戦った。しかしその後は源頼朝や木曽義仲ら諸国の源氏が次々と挙兵し平氏の旗色は悪くなっていった。足利俊綱は家臣の裏切りにより殺され忠綱も源氏の一族である足利義兼に追われた後に自害し藤姓足利氏は滅んだ。足利義兼は平地に館を構えたため足利城は荒廃した。
室町時代に至ると古河公方足利氏と争った上杉氏の重臣長尾氏が足利地方を治めるようになる。足利長尾氏初代の景人は渡良瀬川沿いに岩井山城を築き領内を統治したが、3代景長が永正9年(1512)に荒れ果てていた足利城を修築して居城とした。
戦国時代の当主長尾政長は同族である上杉謙信と結び後北条氏に抵抗したが子の顕長は後北条氏の配下となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの時、顕長は小田原に籠城しており後北条氏の滅亡と共に足利城も廃城となった。 
足利成氏
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449-1455)、初代古河公方(1455年 - 1497)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447)とする説も有力。父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。
幼少期には曖昧な点が多い。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説が近年は支持されている。生年に関しても、永享6年(1434)あるいは永享10年(1438)とする解説が混在する。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。
一つ目の説では、嘉吉元年(1441)の結城合戦にて、安王丸・春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、宝徳元年(1449)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。
もう一方で、百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした。佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445)あるいは3年(1446)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447)3月、鎌倉帰還を同年8月27日と特定した。
百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた。成氏がまだ幼い永享11年(1439)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で養われる。
同12年(1440)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の一字を与えられて「成氏」という名が決まり、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された。
鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)
永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護の上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領の畠山持国の支持などの結果、文安6年(または宝徳元)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。
新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。
江の島合戦
鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450)4月には、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる。
難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)。
鎌倉公方の動揺
同じ宝徳2年、成氏は鎌倉に戻った後に代始めの徳政を行った。例えば、9月と10月に鶴岡八幡宮寺少別当が売却した土地を返却させている。関東諸国に向けて、新しい鎌倉公方の権威を誇示する目的であったと考えられる。宝徳3年(1451)、成氏は従四位下左兵衛督に昇進した(『喜連川判鑑』など)。
享徳元年(1452)、室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。
享徳の乱勃発(成氏の攻勢)
享徳3年(1454)12月27日に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。
翌享徳4年(1455)正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した。正月廿一日(21日)・廿二日(22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させた。3月3日には、成氏は下総古河に到着しており、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月に小栗城を陥落させた(『鎌倉大草紙』)。
上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)
山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉を制圧した(『鎌倉大草紙』)。
その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457)10月には修復が終わった古河城に移った(『鎌倉大草紙』)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる。
成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す。
成氏勢と上杉勢の対峙
上杉勢は、康正元年12月に下野天命・只木山の陣が崩壊し、康正2年(1456)9月の武蔵岡部原合戦でも敗退したが、長禄3年(1459)頃に五十子陣を整備し、さらに河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。
一方、成氏も古河城を中心として、直臣の簗田氏を関宿城、野田氏を栗橋城、一色氏を幸手城、佐々木氏を菖蒲城に置くなど攻守網を形成し、両者が拮抗するようになった。
長禄2年(1458)、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方と呼ばれる。以後、おもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵北部の太田荘周辺と、上野東部が主な戦場であった。
この間、幕府は五十子へ諸大名に命じて征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏は命令違反で追放され(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返しており、今川範忠の駿河帰還等もあって編成は思う様に進まなかった。堀越公方の軍事力強化を図り、政知の執事・渋川義鏡の子・義廉に斯波氏を相続させるも、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚してしまいこちらも失敗した。寛正6年(1465)に幕府は今川義忠と武田信昌に関東出陣を命じたが、両者がこれに従ったかは不明。
やがて京都では度重なるお家騒動を発端として諸大名が2派に分かれて戦い、応仁の乱が勃発、幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまった。
享徳の乱終結
文明3年(1471)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(『鎌倉大草紙』)。この遠征失敗の影響は大きかった。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになったため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、本佐倉の千葉孝胤の元に退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城に帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った。
一方、文明8年(1476)、山内上杉家では家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。文明9年(1477)正月、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったのである。
文明10年(1478)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立(『松陰私語』)すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守護上杉房定が幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日(1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体(とひがったい)」)と呼ぶ。この結果、堀越公方足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。
晩年
都鄙合体の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。しかし、その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。長享3年(1489)の文書に政氏の証判が見られることから、この頃には家督を譲っていたとも考えられている。
明応6年(1497)9月晦日(30日)、成氏は古河で没した。64歳であったとされている(『古河公方系図(続群書類従)』など)。
古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455)、第5代鎌倉公方足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。その後も政氏・高基・晴氏・義氏と約130年間引き継がれた。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。
古河公方が成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件であった。旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。
一方、関東における戦国時代は、史料が豊富で研究が先行している後北条氏の発展過程を軸として解説されることが多く、後北条氏以前の実態には関心が比較的低かった。しかし、近年の研究により、関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点とする、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになっている。 後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。
従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。
成立・背景
永享の乱・結城合戦まで
貞和5年(1349)、室町幕府は関東分国統治のために鎌倉府を設置した。関東分国には、上野国・下野国・常陸国・武蔵国・上総国・下総国・安房国・相模国・伊豆国・甲斐国が含まれ、後には陸奥国・出羽国も追加された。
鎌倉府は鎌倉公方とその補佐役である関東管領、諸国の守護、奉行衆、奉公衆らで構成された。鎌倉公方は室町幕府初代将軍足利尊氏の次男の足利基氏を初代として氏満・満兼と継承されたが、次第に幕府から独立した行動を取り始め、永享11年(1439)、第4代鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教・関東管領上杉憲実とが対立した際に、持氏が討たれて鎌倉府は滅亡した(永享の乱)。
永享の乱から翌年の永享12年(1440)に幕府と関東管領上杉氏に反発する結城氏朝を始めとする諸豪族が持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を奉じて下総の結城城に立て籠もると、これを上杉清方が鎮圧する(結城合戦)など、不安定な状態が続く。永享の乱・結城合戦の結果、上杉氏は所領を拡大したが、逆に圧迫された伝統的豪族の反発は後の大乱の遠因ともなった。
鎌倉府再興
足利義教の死後、幕府は持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、文安4年(1447)に持氏の遺児で春王丸と安王丸の兄弟の足利成氏が第5代鎌倉公方に就任した。幕閣内では前管領の畠山持国の支援があり、上杉氏も新たな鎌倉公方が対立する諸豪族との仲介になることを期待した。なお、関東管領は上杉憲実の子である憲忠に交替した。
しかし、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の伝統的豪族と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張関係は改善されず、宝徳2年(1450)には、山内上杉家の家宰長尾景仲及び扇谷上杉家の家宰太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生した。難を逃れた成氏は両者の処分を幕府に訴えたが実現せず、享徳元年(1452)に新たな管領になった細川勝元は、関東管領の取次がない書状は受け取らないなど、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとった。
古河公方成立(享徳の乱)
享徳3年(1454)、成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺をきっかけとして享徳の乱が勃発する。享徳4年(1455)、分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い等、緒戦は成氏勢が有利だったが、室町幕府は成氏討伐を決め、同年6月、成氏が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉が、上杉氏援軍の今川範忠勢により制圧されると、成氏は下総の古河を新たな本拠とした。そこで、以降の成氏を古河公方と呼ぶ。
一方、長禄2年(1458)、室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越を御所としたため、これを堀越公方と呼ぶ。以後およそ30年間にわたり、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。
緒戦で不利だった上杉勢は、五十子陣を始めとして、河越城・岩付城・江戸城などの拠点を整備して反撃に転じ、長年に渡って一進一退の戦況が続いた。しかし文明8年(1476)、山内上杉氏家宰の後継争いに起因した長尾景春の反乱が発生するなど、上杉氏内部の矛盾が大きくなると、ようやく機運が熟して、成氏と幕府との和睦が成立した(文明14年11月27日(1483年1月6日)・「都鄙合体(とひがったい)」)。
この和睦の結果、堀越公方は伊豆一国を支配することとなり、実質的に成氏は関東公方の地位をあらためて幕府に承認されたと考えられる。 しかし、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など、不安定な状態は継続しており、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。鎌倉は相模守護である扇谷上杉氏の支配下にあったが、その後、永正9年(1512)8月頃に伊勢宗瑞(北条早雲)の支配下に置かれることになる。 
足利義氏
戦国時代の人物で、第5代古河公方(1552-1583)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院。正室は北条氏康の娘の浄光院殿。異母兄弟に足利藤氏や足利藤政がいる。
天文10年(1541)1月15日、足利晴氏の次男(異説あり)として小田原城で生まれる(『下野足利家譜』)。幼名は梅千代王丸。父が北条氏康と河越城の戦いで、敵として戦って敗れて幽閉されると、北条氏からの強い意向で古河公方となったが、弘治元年(1555)11月の元服は、古河御所ではなく北条氏の一支城であった葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)で行われた。このとき室町将軍である足利義輝から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け義氏となり、仮冠役は外伯父にあたる氏康が務めた。永禄元年(1558)4月に義氏は、古河公方としては唯一になる鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、8月には公方領国入りを果たすものの、その居城も代々の古河城でなく関宿城とされた。これらの身上は全て、北条氏の政略上のものとして動かされた。
また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、次男で異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原や鎌倉葛西ヶ谷など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。
元亀元年(1570)ごろ、越相同盟の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子北条氏照を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。
天正11年(1583)1月21日、死去、享年43(満42歳没)。法号は長山善公香雲院。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立した。
名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。
長尾顕長
ながおあきなが・弘治2年-元和7年(1556-1621) 戦国時代の武将。下野の足利長尾氏当主。由良成繁の3男で、由良国繁と渡瀬繁詮の弟に当たる。正室は長尾当長の娘。子に宣景、宣長。
足利長尾氏の長尾当長の娘を娶り、その家督を継いだ。天正10年(1582)に長兄国繁と共に滝川一益に仕えたが、その後は後北条氏に従属した。天正13年(1585)、隣国の佐野氏当主佐野宗綱と抗争し、これを討ち取った。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠もって戦ったため、北条氏滅亡後に所領を召し上げられて浪人となる。一時は常陸の佐竹義宣に仕えたが、その後再び流浪の身となった。子の宣景は後に土井利勝に仕えて家老職となったという。
佐野宗綱
さの むねつな・弘治2年-天正13年(1556-1585) 戦国時代の武将。佐野氏の第17代当主で、佐野昌綱の嫡男。父の死後、上杉謙信に度々攻められるが、これを堅城・唐沢山城と自身の知略をもって何度も撃退している。また配下に鉄砲の供出を義務付けるなど、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど 革新的な政策も施している。また、早くから中央政権にも連絡をとっており、1576年6月10日には、 織田信長の推挙によって但馬守に任命され、その礼金を献じている。
はじめ北条氏と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して常陸国の佐竹氏と手を結び、北条氏と戦った。このため1581年、北条氏照に攻められたが、これは佐竹氏の援軍の助けもあり、撃退に成功している。 しかし1585年、北条氏に与する長尾顕長と彦間で戦った際に、敵将の挑発に乗り、単騎で突出したところを鉄砲で撃たれ、落馬したところを討ち取られてしまった。それまで長尾勢との戦いでは遅れをとった事がなく、自身の武勇を過信し、敵を侮った為とされる。
宗綱の死により、嫡子の無かった佐野氏は北条氏から北条氏忠を養嗣子として迎え入れ 佐野氏忠を名乗らせて家名を保った。が、事実上、北条氏に勢力を吸収された形となり 以後、佐野氏は反北条勢力の跋扈する下野国攻略の拠点として重要視される事となる。
1590年の小田原の役で、北条氏が没落し、氏忠も運命を同じくすると 佐野氏は一旦断絶したが、宗綱没後に出奔し豊臣秀吉に仕えていた弟(叔父とも)の佐野房綱が小田原の役で功を挙げたため、再興されている。
那須資胤
なすすけたね・生年不詳 - 天正11年(1583) 下野国の戦国大名。那須氏第20代当主。那須政資の次男。那須高資の弟で那須資郡の兄。子に那須資晴、佐竹義宣室。大田原資清の外孫。修理大夫。
当初、森田氏を継いだが、異母兄で那須氏当主である高資と対立し、一時逐電する。しかし、天文20年(1551)、高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害されると、復帰して家督を継いだ。
当初、佐竹氏と組み、結城氏や蘆名氏と戦っていたが、弘治元年(1555)に北条氏康・足利義氏と手を結んだ。
永禄3年(1560)、小田倉の戦いで、自身も負傷する程の苦戦を強いられ、その際に家臣の大関高増、大田原綱清兄弟を叱責、責任を追及したのを機に、大関氏・大田原氏らとの対立が表面化。高増は佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)を那須氏の養子に迎え、資胤排斥を画策する。以後、佐竹義重の援軍を得た高増と永禄6年(1563)から永禄10年(1567)まで戦いを繰り返し、烏山城下まで侵攻された事もあったが、いずれも撃退。翌年、高増・綱清兄弟は、資胤の隠居を条件に和睦した。
元亀3年(1572)には、佐竹氏とも和睦。この際に資胤の娘と当時3歳の佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲し、那須家領内に佐竹氏の所領を許す形となった。天正6年(1578)には、佐竹氏を中心に宇都宮氏・結城氏・江戸氏・大掾氏と常陸国小川台(現在の茨城県筑西市)で盟約を結び、後北条氏に対抗した。なお、死去の年については天正14年(1586)説もある。 
板倉城1
板倉渋川氏の居城とも(足利市板倉町字要害山) 鎌倉時代の中ごろに足利泰氏の次男板倉(渋川氏の祖)次郎義顕(元の名を兼氏)が築城したと伝わるが、現存する城郭遺構は戦国期のものと推定される。城跡の山頂部は細長く狭隘で風当たりも強く小屋掛けなどには適さないが、東側を除き眺望に優れていることから戦国期には物見砦として利用されたことなどが窺われる。なお、戦国期には小俣渋川家の一族である板倉修理の居城であったというが、居館があるとすれば根古屋とされる東麓付近(現在はゴルフ場)に所在していたものと考えられる。別名を要害山、カリガ城ともいう。
板倉城2
板倉城は、足利泰氏の次男渋川義顕が物見砦として築いたといわれている。城跡はつつじヶ丘ccというゴルフ場のすぐ隣にある要害山にある。現在主郭には雷電神社が置かれており、そこまで登る階段も一応整備されている。城跡は非常に小さく、主郭がある他は、袖曲輪が確認されたに過ぎない。また主郭を東西に分断する堀切のような地形もあるが、どうもはっきりしない。物見砦以上の機能は持たなかったようである。
小此木館
小此木備中館跡(足利市大前町堀の内) 「栃木懸誌」などによれば、戦国時代末期に板倉渋川家(小俣城主)家老の小此木備中守正信が築城したものと伝わる。東西約111m、南北約115mの方形館で、東北に隅欠が見られたという。近年まで東側には堀跡(堀幅約2間)を伴う土塁遺構(高さ約2m)が確認できたようであり、周囲には「堀の内」「馬場」の古地名を残している。
源氏屋敷
伝源義家屋敷跡(足利市借宿町、八幡町 ) 天喜年中(1053-1058)に源義家が勧請したと伝わる足利庄八幡宮の北西約400mの地点に所在する方形館跡で、「源氏屋敷」という字名を伝えて近年まで土塁の一部が確認されたという。延久年中(1069-1073)に下野国司であった源義家が別業(荘園の経営か)を営んだところであるとも伝わるが、その詳細は定かではなくその歴史的経緯も明確であるとは考えにくい。(「栃木県の中世城館跡」などより) 現状は宅地化され加えて区画整理事業が進行中であり、僅かに残されている歴史を感じさせる一部の景観もやがて消失していくものと推定される。
矢場城
矢場氏の居城(足利市新宿町) 永正年間(1504-1521)に新田金山城主由良国繁の弟にあたる国隆が矢場の地に移り矢場氏を名乗り築城したという。以来矢場氏六代の拠点となり金山城の支城として機能したが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻により廃城となったものと考えられているが、その詳細は不明である。(「日本城郭体系 4」より)矢場川南岸の平地であることから、南東約400mに所在する藤本観音山古墳を物見として使用した可能性も想定される。
大将陣
源義家の伝承(足利市) 前九年、後三年の両役(1054-1087)の頃に、八幡太郎源義家が布陣したと伝わり、「大将陣」の地名が残されている。このほか地元には八幡町、堀込町などの関連を窺わせる地名も現存している。周辺はほぼ市街地化され遺構は消滅しているものと考えられるが、北方約200mに所在している明神山の眺望は優れており、当時も含め後々においても物見として利用された可能性は想定される。
浅間山(せんげんやま)
足利長尾氏の支城のひとつ(足利市借宿町、田中町、男浅間神社) 天正年間(1573-1592)頃に足利長尾氏の家臣である岡田豊前守長親により築城されたと伝わる。富士山(ふじやま、ふじさん)城の北端部に位置し、男浅間神社の所在する浅間山に築かれた城郭遺構で、主郭と複数の帯郭群から構成されている。南方には富士山、坊主山の郭塁が100mに満たない間隔で続いているが、構造的に離間していることから別個の城郭として扱った。
主郭と推定される男浅間神社周辺部は神社境内の整備などに伴い、かなり改変されている様子が窺えます。また北東部の腰郭部分は笹薮等に覆い隠されており、その詳細を確認するには至りませんでした。しかし樹木が伐採された男浅間神社が所在する山頂からは、足利城を含む足利市内の城館が一望できます。また赤城山、榛名山、妙義山方面も一望でき、遺構の確認不足を補って余りある光景なのでありました。
富士山城1
足利城の支城(足利市) 天正年間(1573-1592)頃に足利長尾氏の家臣である岡田豊前守長親により築城されたと伝わるが、幾分直線的な防御形式を有していることから、やや古い時代の構造であることも想定される。富士山(ふじやま、ふじさん)城の中央部に位置する梯郭形式の山城であり、主郭と複数郭群から構成されている。東西約20mから35m、南北約110mの範囲に梯郭形式の郭面を有し主郭には物見を兼ねたと考えられるL字型の土塁が残存し、東西の山腹には長大な帯郭を伴っている。南方には富士山、北方には浅間山の郭塁が100mに満たない至近距離で続いているが、構造的に離間していることから別個の城郭として扱った。
富士山城2
富士山城は、足利長尾氏城砦群の一つで、足利富士とも呼ばれる浅間山に築かれている。大きく二つの峰があり、高い方には男浅間神社が置かれている。全山薮化しているので遺構がはっきり確認できない部分も多いが、低い方の峰にはいくつかの削平地があり、段曲輪になっていたようだ。特に堀切や竪堀は確認できなかったので、古いタイプの山城のようである。上杉謙信と北条氏康が覇を競った戦国期には、城としての機能は失われていたのかもしれない。
坊主山
富士山城郭群のひとつ(足利市借宿町、八幡町) 天正年間(1573-1592)頃に足利長尾氏の家臣である岡田豊前守長親により築城されたと伝わるが、現状では堀切は確認されず小口も明確ではない。形態的にはそれ以前のやや古い時代の構造であることも想定される。富士山(ふじやま、ふじさん)城の南端部に位置する小規模な山城であり、主郭(幅約4m、長さ約30m)と複数の腰郭群から構成されている。北方には富士山城、浅間山の郭塁が100mに満たない至近距離で続いているが、構造的に離間していることから他の2か所同様に別個の城郭として扱った。
足利氏館 [鑁阿寺]1
足利氏の館跡(足利市家富町2220) この足利氏館の創築者には諸説もあるが、一般的には足利氏第2代である足利義兼(あしかが/よしかね)説が有力視されているという。また方形館の発生時期については異論もあるが、鎌倉初期の地方武士の館跡の姿を今に伝えるものとされ国の史跡(「足利氏宅跡」)にも指定されている。また、南東側には有名な足利学校も所在している。建久7年(1196)に義兼が館内に持仏堂を建立し後の鑁阿寺(ばんなじ)へと発展し、以後足利氏の氏寺となり現在に至っている。しかし足利氏の居館としての存続期間は比較的短く、13世紀の初め天福2年(1234)には大御堂(国重要文化財)が建立され本格的な寺院への移行が図られたものとも考えられている。
足利氏館 [鑁阿寺]2
足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定されている。寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。足利氏館として2006年(平成18)4月6日、日本100名城(15番)に選定された。
歴史
12世紀の半ばに足利氏の祖・源義康が同地に居館(足利氏館)を構える。
建久7年(1196) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立。
文暦元年(1234) 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺となる。
南北朝時代 鶴岡八幡宮の支配下となる。
大正11年(1922)3月8日 「足利氏宅跡」として国の史跡に指定される。
明治41年(1908) 鑁阿寺本堂が古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
昭和25年(1950) 文化財保護法の制定により、本堂は重要文化財となる。
昭和26年(1951) 真言宗豊山派から大日派として独立。
足利氏館 [鑁阿寺]3
「大日様」と足利市民から親しまれているこのお寺は、その名の通り大日如来を本尊とする真言宗の古刹である。正しくは金剛山仁王院法華坊鑁阿寺という。創建当初は高野山、やがて醍醐寺のそれぞれ末寺、そして長谷寺の直末(じきまつ)であったが、昭和26年、5カ寺を率いて独立、現在は真言宗大日派の本山である。足利市民にとっては初詣のみならず、なにかにつけてお参りする、心のより所としている寺が、この鑁阿寺であるといっても決して過言ではなかろう。
鑁阿寺は鎌倉時代の建久7年(1196)に足利義兼が館の中に営んだ持仏堂(堀内御堂)が始まりといわれる。開山は義兼の護持僧の理真、開基は義兼で法号を鑁阿と称したという。義兼の没後の天福2年(1234)にその子の義氏が追善供養のため大御堂(現・本堂)を建立し寺院化を図った。一説には当時の開創は義兼の父義康(足利氏の祖)の時代の持仏堂にまでさかのぼるという。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、東光院・普賢院・不動院・六字院・浄土院・宝珠院・威徳院・延命院・千手院・金剛乗院・龍福院・安養院の12院の塔頭が6院ずつに分かれ法会を行い、千手院が一山の学頭を務める制度が確立した。南北朝時代の終わりごろからは、鎌倉の鶴岡八幡宮の支配下に置かれたと考えられる。また、鑁阿寺の経済的基盤は足利庄内の寺領であった。
江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、徳川綱吉の生母桂昌院の保護を受けたことはよく知られている。
明治維新後、朱印地は上地(じょうち)となり12院は廃され、一時衰退するが、住職山越氏3代の努力と信徒の崇敬とによって次第に復旧し、現在に至っている。
寺宝としては鑁阿寺文書615通、仮名法華經、青磁の花瓶・香炉、金銅鑁字御正体(みしょうたい)などの国重文があり、建造物としては大御堂(本堂)・鐘楼・一切經堂が国重文に、さらに東西の両門・楼門・多宝塔が栃木県文化財に指定されている。境内の一部が庭園化されていて、ここに憩う人々の姿も多く見られる。初詣、節分の鎧年越、大祭(5月・11月)には多くの参詣人で境内はあふれ、また未・申年の守本尊としても有名だ。
なお、境内には校倉造りの宝庫、義兼の妻を祀る蛭子(ひるこ)堂、大酉(おおとり)堂、御霊堂、出世稲荷堂などがある。境内には句碑をはじめ塔碑類が数多く建っているが、その中で最も注目すべきものは、木食(もくじき)上人が奉納した灯篭で、柳宗悦(やなぎむねよし)によって世に紹介されたが、あまり人に知られていないのは少し残念でもある。このように境内をじっくり歩くと意外な発見に突き当たる。まずは、本堂をお参りしたら境内をゆっくりと散策してほしい。
ところで、室町幕府を開いた足利氏が氏寺である鑁阿寺に対して厚い保護を加えたことは当然のことであるが、寺院化される前は中世の武士の邸宅、つまり館であったことを忘れてはならない。大正11年に足利氏邸宅趾として国史跡に指定されたことは意義がある。水堀と土塁によって防御された館はシンプルだが、りっぱな武士の屋敷だったのである。近年寺の周辺での発掘調査も進められ、界隈の様子も明らかになりつつある。
岩井山城1
足利長尾氏発祥の地(足利市岩井町岩井山) 渡良瀬川に西方と南方を囲まれた比高差20mほどの小山に占地している。文正元年(1466)山内上杉氏の重臣である長尾景人(初代足利長尾氏)が足利荘の代官としてこの地に入部し足利長尾氏の拠点となった。その後永正年間には足利城(両崖山)へと本拠を移したため、以後は同氏の支城として継続したものと考えられる。また「栃木懸誌」によれば、天正年間には長尾顕長の家臣である白石豊後守、淵名上野介が居城したものとされ、唐沢山城主佐野氏との争奪が行われたという。
岩井山城2 / 勧農城
勧農城は岩井山城とも言い、渡良瀬川沿いの独立した小山に築かれた足利長尾氏の本拠である。ちょうど川の中洲のようなところにある独立峰なので、要害性は申し分無い。この城も富士山城と同じく縄張りの形態は古く、段曲輪と土塁だけで構成されていたようだ。特に堀切や竪堀を確認することはできなかった。主郭は薮がひどく、形状を明確に確認することはできなかったが、周囲は土塁で防御されていたようである。主郭の東側にはいくつもの段曲輪があった様だが、墓地になったり梅林になったりしていて後世の改変の可能性を捨てきれない。長尾氏は坂東八平氏の一つで、足利尊氏の母清子の生家であった上杉氏の家宰であった。上杉氏は足利尊氏の母の実家であった関係から重く用いられ、特に尊氏の叔父の上杉憲房は尊氏のよき相談相手となって倒幕戦から一貫して補佐したほか、尊氏が京都争奪戦で敗れて落ち延びる時には尊氏を助けて討ち死にした。上杉氏が室町幕府体制の中で関東管領に任ぜられると、長尾氏もそれに従って上杉各家の領国の守護代となるなど、重きを成した。足利長尾氏は山内上杉氏に従って、享徳の乱などの古河公方足利氏との争乱でも活躍し、勧農城はその軍事駐屯基地として重視されたようである。
県氏館(あがたしやかた)
足利長尾氏家臣県氏の館跡(足利市朝倉町) 「栃木の中世城館跡」の報告書によれば、大将陣近くの八幡山東方の低台地に占地し、近年まで折歪を備えた土塁が残存し約60m四方の方形館であったと推定されている。しかし朝倉町一帯は宅地化が進行し往時の面影をとどめているような場所は殆ど見出すことはできない。県氏は新田、足利氏に従い、戦国末期には足利長尾氏の家臣として後北条氏に属したものとされており、「長尾顕長分限帳」には村上村阿形源内70貫文と記されている。また足利長尾氏の所領宛行状や官途状にも名を残す在地領主の一人である。
中里城1
柳田氏居館(足利市福居町中里) 伝承によれば、足利氏の家臣である柳田伊豆守が南北朝時代に築城したものとされ、近隣の宝福寺には同氏夫妻の墓碑(足利市指定文化財)が現存している。また戦国時代末期には橋本氏が城主となったと伝わるが、足利長尾氏の家臣団を記した「長尾顕長分限帳」に橋本氏の名は記されてはいない。一方五箇村を70貫文にて所領とした柳田平内という人物が記されている。ただしこの人物と柳田伊豆守が同系統の家系であるかについては不明である。別名を柳田氏居館跡ともいわれる館城である。
中里城2
中里城は柳田氏居館跡とも言い、よく街中の平野部にある単郭方形居館跡である。南北朝時代に足利氏の家臣、柳田伊豆守が築いたといわれている。柳田伊豆守の事跡は定かではないが、戦功により足利義満からこの地を拝領したという。この城は、住宅地の奥まったところにあるので探すのにちょっと手間取る。しかも結構新しい1戸建てやアパートが周辺にひしめいており、その中を縫うようにして細い路地を入って行くと突然目の前に土塁が出てくるので、結構ビックリする。方形とは書いたが、真四角ではなくやや五角形に近い歪んだ形をしている。また南西部分は土塁と堀跡が宅地化などで隠滅しているので、往時の正確な形を知ることはできないが、解説板や見学ルートの案内がわかりやすく掲示されていて、非常に親切である。残っている土塁はかなり残存状態が良く、櫓台跡の高台も明確に残っている。また周囲の堀跡も大体想像できるレベルである。市指定の史跡にもなっていて、周辺住民から大切に保存されていることがわかる良好な遺構である。
渋垂城
渋垂氏の居館か(足利市上渋垂町字堀ノ内) 鎌倉期に渋垂氏が築造した方形の居館跡であることが推定されている。しかし渋垂氏については足利荘内の地名として渋垂郷の記述が見える程度である。また戦国時代末期の足利長尾氏の家臣団を記した「長尾顕長分限帳」には、渋垂村で栗原内膳が60貫文を知行していたことが窺えるだけであり、渋垂氏に関するような記述は見られずその消息は不明である。なお、この点について「古河市史」によれば、渋垂伊勢守、渋垂筑前守の両名が、天文、天正期を通じて渋垂郷を本貫地とした古河公方(足利晴氏、足利義氏)の根本被官であったことが記されている。(「戦国人名事典」)
上県城
県氏一族の居館か(足利市) 「栃木県の中世城館」の記述によると、矢場川東岸の低台地(あがた工業団地の東方)に占地し、浄徳寺の南西に所在した方形館であったという。また田代善吉氏が記された「栃木県史」(第7巻)によれば、かつては「高さ4、5尺の土塁があり、その周囲に濠をめぐらした」ことが記されている。然し早くも明治期に耕作地化などにより削平されてしまいほぼ遺構は消滅したという。 ただし「陣屋」の小字名が残るとされ、浄徳寺の開山時期や石造物の年代などから鎌倉末期から南北朝期の築城とも推定をされている。地理的には県氏との関係が窺えるがその証左は不明である。
下県城1
経緯不詳(足利市県町字町屋付近) 矢場川北岸の集落のはずれの平地に占地し、田代善吉氏の「栃木県史」(第7巻)によれば、かつては二重の土塁と堀を有する方形館であったという。また「同書」によれば、天正元年に佐野昌綱は県城主県下野守を討つべく富士源太を遣わして県城を夜襲したともいう。佐野氏あるいは県氏関係の城館のひとつか。別名を県城ともいう。
下県城2
下県城は、県氏の築いた城らしいが、城の歴史も県氏の事跡も不明である。ご存知の方がいたらご教示を請う。城跡は現在、神明宮という神社になっている。境内は周囲の住宅地や道路より一段高くなっており、曲輪があったらしい雰囲気を漂わせている。また畑は逆に一段低くなっていて堀跡を想起させるが、もしかしたら堀というより低湿地帯であったのかもしれない。それ以外の城らしい形跡は皆無である。
小曽根城
小曽根氏の城館か(足利市小曽根町字城谷戸) 田代善吉氏の「栃木県史」(第7巻)によれば、戦国時代末期の元亀天正の頃、足利家臣(長尾顕長の重臣)として小曽根筑前が居城とし、館林、金山をつなぐ重要な拠点であったという。また同書によれば、内山主水の館跡ともされている。なお山崎一氏によれば足利長尾の被官、田部井氏の城と記されている。また「長尾顕長分限帳」(長林寺蔵)によれば、名草城の押番(城代か)として小曽根筑前守が150貫文を知行していたことが記されている。なお、小曽根村には大畑佐渡守が居住し60貫文を知行していた。矢場川北岸の城跡の北側には長さ約40mほどの土塁が残されているというが、宅地化等に伴い余り明確であるとは言い難い。
鉢形城
小曽根氏の居城(足利市高松町鉢形) 矢場川の北岸、東部伊勢崎線の東側の平地に占地し、城跡の西方約1kmには小曽根城が所在している。田代善吉氏著の「栃木県史」(第7巻)によれば、足利家の一党御厨重郎忠国の末孫小曽根玄蕃政義の居城てあったとの伝承を記している。また小曽根政義は館林城主赤井山城守に仕えていたともいわれ、戦国期の館城の形態のものと推定される。なお「長尾顕長分限帳」(長林寺蔵)によれば、名草城の押番(城代か)として小曽根筑前守が150貫文を知行していたことが記されている。
川島氏館1
川島氏の居館(足利市高松町堀の内) 堀の内と呼ばれる方形の主郭と東西の馬場と室用されている外郭部から構成される回字型の二重方形館である。小曽根氏の鉢形城とは指呼の間に所在していることから、その歴史的な関連も窺えるが詳細は不明である。館林城主赤井山城守が永禄年間(1558-1570)に転居したとの伝承ももあるが、赤井氏の家臣である川島勘解由左衛門宗満が在地領主として居館を構築したという説が有力であろう。現在も川島氏の後裔の方が居住されており、別名を高松城、西馬場城ともいう。
川島氏館2
川島氏館は、高松城とも呼ばれ、方形の居館跡である。一説では、館林城主赤井山城守が永禄年間(1558〜70)にこの地に移り住んで築いたとも言われるが、確証はない。「とちぎの古城を歩く」では、赤井氏の家臣川島勘解由左衛門宗満がこの地に入部して館を築いた説を有力視している。宗満の長男勘助は、徳川家康に従って1600年の関ヶ原の戦いで討死し、勘助の弟勘左衛門が遺領を相続して、その子孫が江戸時代を通して名主を務めたと言う。現在もその後裔の川島氏の住居となっている。川島氏館は、現川島氏宅の周囲をほぼ方形に土塁と空堀が囲み、北西隅に隅櫓跡が残っていると言う。又その周囲にも回字状の外郭があった様で、主郭東西に東馬場・西馬場の地名が残っているという。
本覚山城
足利長尾氏の支城(足利市名草下町) 「北郷村郷土史」などによれば、南北朝期に高氏の一族である南遠江守宗継が築城したとの所伝があるという。また戦国時代末期には足利城主長尾顕長の家臣である窪田図書が居城したとも伝わっている。しかし、「長尾顕長分限帳には「名草押番 小曽根筑前守」の名が記されており、城番により防備されていたものと考えられている。なお、戦国時代末期には敵対していた佐野氏の須花城が、同一尾根筋の北方約2.3kmに所在しており、一時は相応の軍事的緊張関係にあったことに留意する必要があろう。
南氏館1
南氏の居館跡(足利市名草中町字堀ノ内) 足利氏の有力家臣であった高氏の一族である南氏の館跡と推定されている。南氏の祖は高師氏の弟頼基であるとされ、「足利氏所領奉行注文」に奉行人の頭人として南右衛門入道と記されている人物に相当するという。「清源寺本系図」(名草城麓に所在する寺院)によると、南頼基は文永2年(1265)に足利荘丸木郷(現在の名草下町)を知行したことが記されているという。館跡は、南遠江守宗継の代、正平年間(1346-1370)前記の築造と推定される。その後、享徳の乱では古河公方勢力として活躍し赤見・樺崎城の合戦で討死を遂げた。また戦国時代後期には足利長尾氏の有力家臣として名草に居住し、南掃部之助が300貫文を知行されている。
南氏館2
南氏館は、現在の金蔵院のある一帯であるといわれている。南氏はもともと清和源氏の嫡流足利氏に仕えた譜代の家臣高氏の庶流である。高氏で最も名を知られているのは、足利尊氏の執事として活躍した高師直であるが、観応の擾乱という足利一門の相克の争いの中で一族ほとんどが族滅された。しかし南氏は生き残り、後に鎌倉公方の下で働いたようである。南氏の中では南北朝動乱期の宗継が最も知られており、尊氏の九州落ちや観応の擾乱での働きなど、太平記に記されている。一時期は尊氏の執事的な役目も負っていたようである。現在では金蔵院周りの土塁はかなり隠滅していて、わずかに土塁の名残らしきものが見られるぐらいである。境内には宗継の孫、南宗氏の墓がある。また近くには、詰城と思われる名草城がある。
名草城1
南宗継の築城とも(足利市) 南北朝初期に高氏の一族である南遠江守宗継が築城したとの所伝があるという。山麓には築城者の菩提寺である清源寺および墓所も所在する。また戦国時代後期には足利長尾氏の有力家臣として名草に居住し、南掃部之助が300貫文を知行されている。(「近代足利市史1」などより)南北朝期に築城された山城について、最終的に戦国期に一部改修したものと考えられる。
名草城2
城の砦(じょうのとや)と呼ばれる名草城址は足利尊氏の重臣南宗継が築城した南北朝時代の山城址で、南氏一族の菩提寺である清源寺(足利市名草中町)の裏山のテッペンにある。
鎌倉末から南北朝期の武将、南遠江守宗継(?〜応安4年・1371)は足利尊氏の有力な家臣の一人で、終始尊氏と行動を共にし、『太平記』や他の文書等に、建武3年(1336)九州多々良浜合戦・湊川の合戦・比叡山攻め、貞和4年(1348)四条畷の合戦などに参陣した事が記述されている。尊氏から非常に信頼され、観応3年(1352)の武蔵野合戦・鎌倉合戦の前後には尊氏に近侍して執事のような役を務めていた。(尊氏の執事・高師直が観応の擾乱で観応2年(1351)に謀殺されたためのピンチヒッターだろうか?)
観応3年(1352)の鎌倉合戦の後、南宗継は祖父・頼基の時代に領地であった足利庄丸木郷(名草)を足利尊氏から拝領し、旧領の紀州(和歌山市名草地区)から移住してきた。『名草』という地名は、宗継が故郷の紀州名草を懐かしみそれまでの「丸木郷」から改めたものと伝えられている。
また、現在では輸入物に押されて下火になったものの、昭和50年頃まで盛んに栽培されていた、名草特産の生姜は、宗継が故郷紀州の生姜栽培を持ち込んで広めたものだという。試しにGoogleで「和歌山市名草地区」で検索してみたら、和歌山市名草地区でも生姜が特産品であることが判明し、ちょっとビックリ。宗継生姜伝説は俄然信憑性を帯びてきた。
城の砦へは、延文2年(1357)南宗継が一族の菩提寺として創建した清源寺から登る。清源寺門前から右手に林道を登って行くとじきに山道となる。朽ちかけた案内板が落っこちていたので木の上に引っかけておいた(たぶんまた落っこちている)。山道に入るとコースの下半分は手入れの悪い荒れた杉の植林地で、折り重なった倒木を跨いだりくぐったりとかなり歩きにくい。植林地を抜けると密度の濃い笹藪に半ば埋もれかけている杣道で、ブッシュもきつくて相当鬱陶しい。少しは刈り払いをしないと、近いうちに藪に埋もれて道がなくなってしまうだろう。尾根に出て右手にコースを採り、ひと登りで頂上。
城の砦は、本丸址・土塁・帯郭・堀切・尾根上に築かれた階段状の腰郭や武者走など、山城の城郭構成の主要部を比較的良く遺存していて、特に本丸址に巡らされている土塁はそこそこ状態も良く感動物ではあるが、いかんせん砦に毛が生えたんだか抜けたんだかといった程度のマニアックな遺構なので、資料と首っ引きで位置確認をしなければただの自然の山にしか見えない。
名草城3
名草城は、名草の地(現金蔵院)に居を構えた南氏の築いた山城で、詰の城であったと考えられる。城が築かれた山は山頂が平らに見えるのでわかりやすく、麓の清源寺脇から登るが、道が完全に消滅していて薮の中を無理やり登っていくので、目印を付けながら登らないと帰り道に迷うこと必定である。ちなみに地図上は、谷一つ隔てた南側から登山道があるように記載されており、迂回する形でそこから登ろうともしたが、こちらも途中で完全に道がなくなってしまい、逆に名草城の南側の急斜面の深い薮を突っ切って直登しなければならないようだったので、結局断念して清源寺に戻ったしだいである。やはりこういう城では道など期待した柔な行動をせず、道なき藪の中に突っ込んでいく強行軍の方が正解な様だ。これほどまで拘って登ったのは、この城が高一族の城だったからである。南北朝フリークとしては必須なのだ。
薮の中を尾根筋に従って登っていくと徐々に視界が開けてきて、地形もなだらかな傾斜に変わってくるが、どこからが城域かは判然としない。山頂近くになると何段かの小さい曲輪が現れてその先に堀切と土橋が現れる。そこを越えると城の中心部である。主郭は周囲に土塁をめぐらし、大手側に虎口を設けている。主郭周囲に狭いが2段ほどの帯曲輪を張り付けている。主郭の北側と南西側の尾根筋に沿っても数段の段曲輪を配しているが、いずれも規模は小さい。面白いのは、尾根の地形を利用しているのであろうが、それぞれ1本ずつの縦土塁でこれらの段曲輪と帯曲輪の間を遮断しているところである。また主郭の背後にあたる西側はこれら二つの縦土塁で挟まれるように曲輪があり、主郭以外ではこの曲輪が一番広い面積を持っている。
この近辺では良くある、主郭周囲に何段かの小曲輪があり、2〜3の堀切で防御した典型的な小型の山城のようだ。
小俣氏館
小俣城南麓の居館跡(足利市小俣町町屋) 足利市一族小俣氏の館跡と伝わり、同氏は代々真言宗鶏足寺の別当職をはじめとして大岩寺などの他の寺院の要職をも相伝したとされている。小俣氏の衰退後には渋川氏がこれに代わり支配したとされており、居館は渋川義昌の時代に築造されたとも伝わるが明確ではないといわれている。北方の尾根筋には比高佐約200mの山城である小俣城が所在する。別名渋川館とも呼称される。
小俣城1
上杉勢の猛攻を受けたと伝わる山城(足利市小俣町城山) 足利宮内小輔泰氏(1216-1270)の六男である、小俣民部卿法印賢宝(「けんぽう」或いは「かたとみ」)の築城とも、泰氏の二男義顕の築城とも伝わっている。しかし同氏の衰退に伴い、南麓の居館と共に、渋川氏(小俣渋川氏)の属城となった。戦国期には古河公方方、山内上杉方、後北条方と主家の変遷を重ねた。なお、城代石井尊空らが敵将荻田備後守、膳備中守を退け、越後上杉軍を敗退させた小俣城の合戦については、元亀3年(1572)のことであり、天文22年(1553)の一連の合戦譚は誤伝であるものと考えられる。天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めに際して、当主渋川義勝は、由良成繁、長尾顕長らとともに小田原城に籠城したが、北条氏の滅亡に伴い小俣城は廃城となり、義勝は秋元氏(深谷上杉氏の元重臣)の預かりとなったという。
小俣城2
小俣城は、源姓足利氏の庶流、小俣氏の築いた城である。小俣氏の没落後、同じく足利氏の庶流である渋川氏が入封して、小俣渋川氏となってこの城を本拠とした。南の北条氏と北の上杉氏による関東を二分した勢力争いでは、小俣渋川氏は由良氏と共に北条方に付き、そのため上杉謙信の軍勢に小俣城を攻められたこともあったようだ。城は、鶏足寺北方にそびえる城山に築かれている。
城の登り口であるが、これが非常にわかりにくい。県道218号線が小俣川を跨ぐ、宝珠坊橋のすぐ手前に、ひっそりと隠れるように立っている馬頭観音が入口である。これが全くわからず、地元の人に聞いて教えてもらった次第である。聞くところでは、城まで登る途中に集合アンテナがあるので、以前は下草の手入れをしに上っていたが、最近はそれもしなくなったとのこと。高齢化が進んでいるためであろう。そんなわけで最近は登る人もいないので、道があるかどうかもわからないといわれたが、思いのほか道がわかりやすく迷わずに登ることができた。それには城めぐりの先達が残して行ってくれた赤いリボンの標識も大いに役立った。
この城の築かれた山は、頂上の手前にそれぞれ100mほど離れて2つほど支峰があり、尾根を伝ってそれらを経由して登っていくこととなる。支峰には、それぞれ物見台と思われる曲輪があったようで、削平がある程度されて曲輪らしい形状をしている。尾根道は薮が少なくて非常に歩きやすく、尾根道に取り付いてからの登城時間は思ったほど掛からない。2つ目の支峰の曲輪を過ぎると一旦やや下りの道となり、そこからまた主郭に向けて登り道となる。途中、大小2つの堀切がある。2つ目の大きい堀切を越えると、いよいよ主郭エリアである。頂上の主郭の回りに、環状に第2郭が巡り、その手前に1〜2段の段曲輪がある構成である。主郭は削平がされているだけで土塁は無く、面積も小さい。主郭虎口にはわずかだが石積みが残っている。第2郭に石がゴロゴロしていることを見ると、もしかしたら主郭は石積みで防御されていたのかも知れない。主郭の北と南西にも数段の段曲輪があるが、いずれも大した大きさではない。
遺構は非常に良く残っているが、全体に規模が小さく、どうも詰の城としての機能だけであったようだ。
八椚城1
八椚氏の居城とも(足利市八椚町313付近) 田代善吉氏の「栃木県史」の記述によれば、天正年間に足利長尾氏が佐野氏に対して備えたものであるとしている。しかし、文明年間に記された「松陰私語」によると、古河公方足利成氏と山内上杉勢の軍勢が足利・佐野の地で交戦し、山内上杉氏の被官である長尾氏の攻撃により、八椚城は赤見城、樺崎城と共に落城した旨などが記されている。ただし「城郭大系」では必ずしもこの八椚城について同一のものとは見ていない。また「栃木県の中世城館跡」では、主郭を東西150m、南北100mほどと推定し、出典は不明であるが、室町時代中期に八椚弾正忠が築城したとの伝承を記している。なお、城跡の中心部には「堀の内」の伝承地名が残るという。
八椚城2
八椚城は、平地の居館跡と思われるが、宅地化で遺構はほとんど隠滅している。わずかにそれと思われる台地と、周囲の畑との高低差が、堀跡であることを物語っているようだ。この城は、古河公方と関東管領上杉氏との抗争の中で、足利長尾氏に攻め落とされたらしい。
小野寺城
小野寺氏の属城(足利市川崎町) 「栃木懸誌」などの記述によれば、渡良瀬川の北岸低台地に占地し往時は東、西、北に土塁と堀を廻らし、東西約160m、南北約42mの方形をなしたという。建仁年間(1201-1204)に小野寺氏第2代の通綱が築城し、その子通業に居城させ、岩船の小野寺城の支城として続いた。しかし、天井18年(1590)13代景綱の時に、足利城主長尾顕長と共に小田原北条氏に与同し滅亡して廃城となったという。なお「長尾氏分限帳」(近代足利市史1)によれば、小野寺遠江守が川崎の地に居を構え300貫文を知行していたことが記されており、小野寺氏の譲状からは河崎3か村を相伝していたことなども窺える。別名を川崎城ともいう。
鳩ノ峰城
戦国期の物見跡か(足利市樺崎町赤坂、佐野市赤見町本願寺) 中世城館としての関係資料は下記の「史跡樺崎寺跡」「奈良文化財研究所遺跡データベース」の2点のみで、築城の経緯や時代背景も明確ではないようです。しかしこの地域の軍事的な緊張関係などから類推しますと、ひとつは文明3年4月(1471)の赤見城、樺崎城、八椚城などが攻略され、古河公方足利成氏が山内上杉氏(長尾氏)に敗北した時期(「松陰私語」より)、あるいは戦国時代末期の足利長尾氏と佐野氏の抗争を背景として捉える視点などが想定されますが、何れも憶測の域を出るものではありません。また所在地については佐野市との行政境に位置しているため、「奈良文化財研究所遺跡データベース」では足利市、佐野市双方からデータベースへの登録が為されているようです。
樺崎城
源姓足利氏の築城か(足利市樺崎町2266ほか) 樺崎寺を創建した源氏姓足利氏2代目の足利義兼との関係が推定されますが、築城の経緯や時代背景については明確ではないようです。時代は下り、文明3年4月(1471)の赤見城、樺崎城、八椚城などが攻略され、古河公方足利成氏が山内上杉氏(長尾氏)に敗北したことが記録されています。樺崎城主であった南持宗は討死を遂げ、上杉顕定、長尾景信、横瀬国繁らは室町幕府将軍足利義政より感状を下賜されています。(「松陰私語」などより)また、戦国時代末期の足利長尾氏と佐野氏の抗争の舞台としても登場し、近接する赤見駒場城などとの相互関係も窺われます。
稲荷山城
戦国期の砦跡か(足利市菅田町) 北西の中腹には菅東山出世稲荷神社が所在する比高差約50mほどの小丘陵の北端部に所在し、「日本城郭大系4」によれば、戦国時代末期に長尾顕長により物見番所として築かれたといわれています。複郭構造を有するなど残存する遺構からは単なる物見以上の機能を有していたものと考えられます。
尻無山城1
戦国時代初期の城郭か(足利市助戸新山町) 東山丘陵の北端部に所在し、標高約60m、比高差約20mで現在は助戸新山公園の一部となっており山頂付近の藪の中には小規模な群集古墳も所在し、また山頂東方には浅間神社などの社殿が祀られています。「日本城郭大系4」などによれば、築城の背景、経緯は不明とされていますが、複数の雛壇型の腰郭状地形から構成され戦国時代初期頃に岩井山城などとあわせて築城されたとの説を提示しています。しかし公園化や宅地などにより、その全容については最早把握し辛い状況を呈しています。 
尻無山城2
尻無山城は、足利市街の北東、国道293号線が新袋川を越える千歳橋のすぐ北西にある丘陵状の小山に築かれた城である。MapFanでは助戸新山城と記されている。城の歴史は定かではないらしいが、おそらくは富士山城などの足利市内の他の城と同様、足利長尾氏の築いた足利城砦群の一つであろう。城跡は一部は公園化しているが、主郭部をはじめとする城の中枢部は、市街地にもかかわらずかなり薮化しており、その分遺構の残存状態は良い。何段かにわたる曲輪群と切岸、土塁などが薮の中に確認できる。また公園化している川沿いの平地部は、元々居館が築かれていたのかもしれない。金刀比羅神社が置かれている丘陵部分も、元はといえば曲輪跡だったのであろう。但し、これらの公園化してしまっている部分は、どこまでが遺構なのかは明らかではない。後世の改変も多いかもしれない。いずれにしても富士山城などと同様、堀切、竪堀などは無く、土塁と曲輪で構成された古いタイプの城である。
樺崎寺跡
樺崎寺跡は、国指定史跡の足利氏宅跡(鑁阿寺)の北東約4.5km、樺崎川が開析した小支谷に八幡山を背に東面して寺域が展開する、足利氏の氏寺跡、廟所跡である。永享年間(1429〜41)作成と推定される「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」(鑁阿寺文書)によれば、樺崎寺は、源姓足利氏2代目の義兼が文治5年(1189)の奥州合戦の戦勝祈願のために創建した。この頃に最初の堂舎、後の赤御堂が建立されたと推定され、赤御堂の南東前面には、中島と立石景石を持つ東西約70m、南北約150mの浄土式庭園が営まれた。「縁起」には「右当寺者為代々先君御菩提所、都鄙之将軍家御墓、五輪石塔並甍」と記されている。
義兼は源頼朝の義兄弟で、鎌倉幕府草創期の有力御家人として活躍した。義兼は建久6年(1196)に東大寺で出家し、樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元年(1199)に同寺で入定し、赤御堂殿と称された。鎌倉時代中頃にかけて諸堂塔が順次建立され、焼亡した堂舎も鎌倉時代後期には貞氏、尊氏の援助により復興を遂げた。樺崎寺は鎌倉公方が参詣すべき祖霊の地で、第5代の鎌倉公方持氏は応永28年(1421)に父満兼の「勝光院殿御追善十三回并御廟供養」を行っている。樺崎寺は足利氏、鎌倉公方の隆盛とともに繁栄したが、15世紀中頃以降は徐々に衰退した。
足利市教育委員会は、昭和59年度から平成11年度まで16次にわたる発掘調査を実施し、古文書や絵図史料に記載されている供養石塔跡、堂舎跡、僧坊跡、浄土式庭園跡などを検出した。確認された遺構の分布は東西約200m、南北約300mの範囲に及ぶ。八幡山の南東側山腹には南から順番に、鎌倉公方持氏が応永28年に供養を行った廟塔及び満兼供養塔の跡(足利氏御廟跡)、義兼供養塔を納めた御堂跡、縁付四面堂の多宝塔跡が並ぶ。赤御堂跡は現在の八幡宮社殿に重なっていると推定され、社殿の北脇で赤御堂跡に至る石段が検出された。東側の低地では地蔵堂跡、下御堂跡、経蔵跡が検出された。樺崎川の東側では、赤御堂跡を正面に臨む地点で東西12m、南北7.5mの範囲に石を敷き詰めた広場跡と南北方向の幅0.6mの小溝跡が検出された。平安時代末から戦国時代の豊富な遺物が出土しており、特に12世紀後半所産の白磁四耳壺は優品で、足利氏の豊かな財力と政治的地位の高さを雄弁に証言する。柿経や木製品、かわらけ、護摩壇の土製炉などは、中世寺院で繰り広げられた儀式と生活の様相を物語る。
樺崎寺跡は、中世を代表する豪族武士団足利氏の12世紀末創建の氏寺跡、廟所跡で、遺構の遺存状態も良好であり、八幡山を借景とする浄土式庭園跡としても東国を代表する遺跡である。足利氏の勢力の盛衰と遺構の変遷も良く一致し、東国の中世史と足利氏、鎌倉公方の仏教文化を代表する中世寺院跡として重要である。よって史跡に指定して保護を図ろうとするものである。
樺崎寺跡は、史跡足利氏宅跡(鑁阿寺)の北東約4.5km、樺崎川が開析した小支谷に、八幡山を背に東面して寺域が展開する、足利氏の氏寺跡、廟所跡で、浄土庭園をもつ中世寺院跡として著名で、平成13年に史跡に指定された。
樺崎寺は、足利氏2代目の義兼が文治5年(1189)に奥州合戦の戦勝祈願のために創建した。義兼は源頼朝と義兄弟の有力御家人で、晩年には樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元年(1199)に同寺で入定し、赤御堂殿と称された。鎌倉時代中期にかけて諸堂舎が順次建立され、鎌倉後期には貞氏、尊氏の援助によって焼亡した堂舎も再建された。樺崎寺は、鎌倉公方が参詣する祖霊の地で、第5代の鎌倉公方持氏は、応永28年(1421)に父満兼の追善13回忌と御廟供養を行っている。樺崎寺は足利氏、鎌倉公方の隆盛とともに繁栄を誇ったが、15世紀中頃以降は徐々に衰退し、明治の神仏分離令で廃寺になった。
昭和59年度から足利市教育委員会が継続実施している発掘調査によって、古文書や絵図史料に記載されている供養石塔類、堂舎跡、僧坊跡、浄土庭園跡等が検出されており、寺域は東西約200m、南北約300mの範囲と推定されている。
今回追加指定する地点は、樺崎川から園池への導水路の推定地と、園池跡の東側、南側の各一部である。樺崎寺跡は、足利氏、鎌倉公方の歴史と仏教文化を示す中世寺院跡であり、園池跡の周辺部を追加指定し、保護の万全を図ろうとするものである。

樺崎寺跡の発掘調査は、昭和59年、法界寺跡第1次発掘調査として始まりました。当初は遺跡の範囲や性格を確認するための調査を行ってきました。平成13年に国史跡となってからは記念物保存修理事業として整備の資料を得るための調査を行っています。
これまでの調査では谷の中央を南北に流れる樺崎川の西側に浄土庭園を中心とした主要伽藍が配置され、その北側と川を挟んで東側に寺で生活するための施設や敷石広場などが確認されました。主要伽藍であるお堂は柱の基礎に石を置いた礎石建物ですが、生活するための建物は地面に穴を掘って柱を据えた掘立柱建物です。
八幡山の東に広がる大きな池は浄土庭園の中心となる遺構です。現在も残る八幡池から八幡宮の参道まで南北約150m、東西約70mあります。池は大きく4つの時期に分けられます。
1期は創建から鎌倉時代、2期は鎌倉から南北朝時代、3期は南北朝から江戸時代、4期は江戸から明治時代です。平成14年度の調査ではさらに細かい修築の跡が確認されました。
池のほぼ中央には周囲に大きな石を組んだ中島があり、池の岸は小石や砂などで化粧されています。西の岸近くからは岩島も確認されています。
また、池にたまっている泥の中からは木製品がたくさん出土しています。泥が水分を含んで、真空パックされた状態で保存されてきたものです。特に注目されるのが柿経(こけらきょう)です。ヒノキの板を長さ20cmくらい、幅1cmくらいの大きさに薄くけずり、表と裏に「法華経」というお経を写したものです。おそらく願い事や儀式のときに池に沈めたものです。かわらけという素焼きの小皿もたくさん出土しています。これも儀式などのときに池に投げ入れたものです。(2010/10)
樺崎八幡宮
樺崎八幡宮の創建は正治元年(1199)足利義氏がこの地に八幡神を勧請し足利義兼の御霊と合祀したのが始まりと伝えられています。この地は建久年間(1190〜99)義兼が母の菩提を弔う為理人上人を招き開山した法界寺(樺崎寺)跡地で、後年、鑁阿寺の奥の院として義兼が念仏を唱えながら生活し正治元年(1199)に入寂しました。その後も鎌倉時代、室町時代と足利氏の庇護となり社領の寄進や社殿の造営など行い繁栄しましたが、戦国時代足利将軍が滅ぶと急速に衰退します。江戸時代に入ると足利氏系の唯一の大名喜連川氏が庇護し社殿の再建など行いますが当時の格式は維持できず明治時代初頭に発令された神仏分離令により法界寺は廃寺となり現在に至っています。本殿は天和年間(1681〜84)の再建されたもので、桁行2間、梁間2間、隅木入春日造り、銅板葺きで両側は高欄付縁張り、建物全体が極彩色で彩られています。江戸時代初期の神社建築であり歴史的背景や意匠が優れている点から昭和61年に足利市指定有形文化財に指定されています。又、樺崎八幡宮境内及び旧法界寺(樺崎寺)跡地は国指定史跡に指定されています。  
遺跡名は「樺崎寺跡」ではなく「法界寺跡」
足利市教育委員長 様
足利義兼公が創建した鑁阿寺の「奥院」につき、跡遺名は「樺崎寺跡」でなく「法界寺跡」に是非改められるよう要望いたします。
   平成一四年二月一二日 前澤 輝政

一、「足利氏源義兼」(以下、足利義兼。久壽元、一一五四〜正治元、一一九九)は文冶二年(一一八六)には「入道し鑁阿と号し、高野山に住み法華坊鑁阿と号す(『高野春秋編年輯録』)また「法花坊鑁阿上人、高野山宝憧院に居住す」(『高野山金剛峯寺御影堂文書』)ともある。
二、そして「凡そ本願上人(義兼 鑁阿)の素意は偏に高野山に擬え、当寺(鑁阿寺)を以って壇上と為し、樺崎をもって奥院に准らう」(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』)ー以下、『仏事次第』という)とある。
三、上記のことから、出家入道し法華坊鑁阿と号した足利義兼は、樺崎の地の「奥院」に当たる一山に「下御堂号法界寺」を建立した。
四、「法界寺なる下御堂」建立ののち、「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元録縁起』では、当初義兼が一堂を建てたところという)、「一切経蔵」、「多宝塔」、「竹内地蔵堂」等の建立(『仏事次第』)が知られるが、「下御堂法界寺」は一山を代表する中心堂宇として、「壇上」である鑁阿寺の中心たる「大御堂」に対する「下御堂」であり、一山の寺名のごときものであったと解せられる。
五、なお、「樺崎山崖」に営んだという一字「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元禄縁起』)を、足利市教育委員会は「上御堂と見立て、それより東側の低地に立地する故に下御堂(法界寺、宝憧院)と称したと考えられる」とするが、上御堂なる堂名は上記の文書他関係文書に見当たらず、「下御堂」とは「赤御堂」より低地にある故でなく、 「壇上」(鑁阿寺大御堂)に対する「下御堂」の意と解される。
六、足利義兼は真言密教の本山高野山金剛峯寺に住み「法華坊鑁阿」と号したのであり、真言密教の主尊たる大日如来、胎蔵界の印相が「法界定印」であれば、鑁阿上人として(鑁は金剛界、阿は胎蔵界の意)としては、そこが一山の中心堂宇であるからこそ「法界」と冠したもので、それは真言密教を奉じたかれ鑁阿上人にふさわしい信仰上の寺名であったと推察される。
因みにー鑁阿上人、義兼の祖父義国の菩提寺は「宝憧寺」であり、父義康は「鑁歳寺」である。ー宝憧寺は「高野山宝憧院」、「宝憧院下御堂、法界寺」、鑁歳寺は「鑁阿寺」なと密教信仰上の寺名が想われる。そして義兼の子息義氏の菩提寺が「法楽寺」であれば、「法界寺」の寺名がいかにも相応しく思われるのである。
七、法界寺の創建は文治五年(一一八九)乃至 建久初年(一一九○か一一九一)頃の鎌倉初期とみられ、建久四年 (一一九三)には「下御堂法界寺」(『仏事次第』)とあり、正安元年(一二九九)に法界寺が焼失後、法印房源助(左馬頭法印、理真上人八代)が「宝憧(幢)院下御堂、法界寺代」(『仏事次第』とあり、およそ鎌倉時代は「法界寺」の寺名が用いられていたことが知られる。そして「樺崎寺」名は文和三年(一三五四)に「樺崎寺別当」(『足利尊氏御教書』)、貞和二年(一三六三)に「樺崎、鑁阿両寺別当」(『足利基氏 補任状』)等、およそ南北朝〜室町時代に知られる。しかも応永二八年(一四二一)、四代鎌倉公方足利持氏が父満兼(三代)のための「勝光院殿御追善十三回并御廟供養」(『足利満兼十三回忌曼荼羅供養供職衆請定』)は「椛崎法界寺道場」とあり、室町時代にも足利源氏の法要等の正式儀式には「樺崎寺」でなく「法界寺」名が用いられていることが知られる。
八、思うに「樺崎寺」とは「樺崎」の地に所在する故、その地名を単に冠したのに相違なく、仏教教義上の寺名でなく俗称であり通称であった。ーそれはかの大和の法隆寺が斑鳩の地にある故に斑鳩寺(鵤寺 伊可留我寺)、法興寺が飛鳥にあるが故に飛鳥寺等と俗称されているのと同じである。
九、また奥州平泉の毛越寺は、「陸奥国平泉円隆寺号毛越寺」(『吾妻鏡胱漏之巻、嘉禄二年一一月八日条』)とありー足利の鑁阿寺の「奥院」が「下御堂号法界寺」であれば、彼は「毛越寺」、我は「法界寺」とこそ称されたのであろう。
十、天保一五年(一八四四)の楽堂(毛ノ国足利北在吐月峯向合主人)著『四十九院地蔵尊順道詣』の文中に「下御堂法界寺」の寺名が記載されており、江戸時代後期でも「法界寺」名が存在し、用いられていたことが知られる。
十一、『足利市史』上巻(足利市、昭和三年)にはー「下御堂法界寺は鎌倉時代より室町幕府時代の中世に至まで隆盛を致ししが、永禄、天正の頃より京都将軍家及ぴ関東管領家の衰微と共に其の運命を共にし、織、豊時代及ぴ江戸時代を経て、明治の初年に至り、僅かに薬師堂一宇(八幡官本社より東南約四町の辺)を存せしが、之も今は全く荒廃して徒に麦秀を嘆つのみとなれば里人其の辺を「ホッケ寺」と呼びしときくも、今はそれを知る者なし」とある。ーこの「ホッケ寺」は法華寺であり、「ホッカイ寺」の転訛に相違なく「ホッカイ寺」は「法界寺」である。

以上のごとく、鎌倉時代初期の創建以来、法界寺の最も盛時たる鎌倉時代は「奥院」「下御堂号法界寺」の名であり、真言密教を奉じた開基たる足利義兼公の信仰からも「法界寺」と称されていたのである。
まことに「法界寺」の寺名は開基足利義兼、鑁阿上人(開山は真言密教僧、理真上人『仏事次第』)の信心の表現であり、創建以来のものであれぱ、これが最も尊重されることが至当であり、その遺跡名は「法界寺跡」が正当である。
したがって、遺跡名は「樺崎寺跡」ではなく「法界寺跡」とすべきである。  
 
佐野城址

 

高橋城
古河公方勢力の拠点(佐野市高橋217ほか) 「佐野市史(資料編1)」によりますと、天文年間の戦国期には館林城主赤井山城守の重臣の一人である白石豊前守(長尾顕長の重臣とも)の居城であったという説(伝承)を紹介しています。なお、「日本城郭大系3」において掲載され所在地不詳とされている「野田城」(足利市野田、野田要害とも)については、「栃木県の中世城館報告書」にも記載されているように、恐らくはこの高橋城を指しているものではないかと推定されます。結城合戦の経緯が記された「鎌倉大草紙」によれば、永享12年(1440)には「野田右馬助(後に古河公方の重臣となる)の郎党加藤伊豆守以下が御所方(鎌倉公方)となって、足利庄高橋郷野田の要害に軍勢を集めて上州(上杉方)を討つべく評定を行った」とされています。この点について、野田と高橋は共に地理的に渡良瀬川の北岸に所在するだけではなく隣接していることもその傍証となるものと思われます。したがって、15世紀中葉から戦国時代初めにかけては古河公方の勢力下にあったものとも考えられます。
羽田城
植田太郎の築城(野市上羽田町字南) 「佐野市資料編1」によれば、13世紀半ばの鎌倉時代、後深草天皇(1246-1259)の頃に足利氏の一族である植田太郎が築城し、新田の残党である田中一族と戦ったとの伝承を掲載しています。しかしその内容に年代のずれがあるだけでなく、あくまでも伝承の域を出るものとは思えません。また「栃木縣誌」によれば、「亀ヶ井館 大字羽田にあり、その昔亀田伊賀守政綱という者が初めてこの地に居を定めて、以来相伝され文明年間(1469-1486)左兵衛宗重に至り廃城となったというが、その事跡は不明である」(一部現代語に変換)と記され、「佐野市資料編1」でもこの伝承を紹介しています。残念ながら羽田城の経緯を伝えるものとしては、この二つの伝承以外には残されていない模様です。
免鳥城
佐野氏、長尾氏の確執(佐野市免鳥町字城郷地771ほか) 佐野七騎の一人とされる岩崎三郎義宗がこの地に来住し在名の免鳥を姓とし、大永5年(1525)佐野家当主盛綱の代に免鳥山城守義昌が築城したことが伝わっています。その後免鳥城は佐野氏西方の支城として足利地域を本拠とする長尾氏との勢力の境目に所在していたことから、永禄から天正年間の戦国時代には両者の間において、その影響下にある所領の領有をめぐる激しい争奪の場となった時期があるものとされています。このため城主も赤井氏(佐野氏方⇒長尾氏方、後北条氏方)、高瀬氏(佐野氏方)、浅羽氏(長尾氏方、後北条氏方)と変遷したのち、佐野家当主である佐野宗綱討死により佐野家は後北条氏から養子を受け入れ事実上その傘下へと組込まれました。そののち天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻による後北条氏の滅亡に伴い、現実に支城として機能していたかどうかについては定かではありませんが、いずれにしても名実ともに佐野氏の元へと戻ったものと推定をされます。しかし江戸時代初期の慶長19年(1614)に至り、当時は近世外様大名となっていた佐野家の改易によって城としての役割を完全に終え廃城となったものと考えられます。別名を面鳥城、妻鳥城とも。
堀之内城
(佐野市並木町堀之内506ほか) 免鳥城の北方約1.8kmの旗川東岸の平坦地に所在し、「堀之内」あるいは「館の前」という地名が伝わります。しかし中世城館に関連する伝承もなく、その歴史的経緯についてはほぼ不明としか言いようがありません。なお、城館名称については「佐野市史資料編1」では「堀之内館」、「栃木県中世城館報告書」では「堀之内城」として記載されています。
小中城
壮大な堀跡と土塁が残存(佐野市小中町字堀の内977) この小中城に関しては、築城年代、築城者、城主ともに不明で伝承・記録の類は確認されておりませんが、残存する遺構の状態から館跡と推定したとのことです。なお、現在は空堀のように見える堀跡について、少し以前には水堀の体をなしていた模様です。城館としての領域は一辺が約120mほどの方形をなし、現在は北辺と西辺に明確な土塁と堀跡が残されています。(「佐野市史資料編1」を参照)現状の遺構そのものからは、その築造された時代背景の推定および技巧的な特徴を見出すことは難しいものと考えられます。しかし土塁・堀跡の規模、郭内の広さなどの諸要素からは、戦国時代における佐野氏の有力家臣層の館城という時期が一定期間存在したものと想定するのが妥当であるように思われます。なお、「近代足利市史」(小野寺別系図)によれば、小野寺氏の一族として4代通氏が「小中氏と号した」ことが記され、また各種の譲状から南北朝期から15世紀中葉にかけて佐野荘内小中郷の家督を相伝していたことが記述されていることから、小中城との一定の関わりを示唆するものとして注視されます。
赤見城1
佐野氏の支城(佐野市赤見町町屋) 伝承によれば藤原姓足利氏である足利俊綱が治承二年(1178)に築城し、居城としたといわれている。俊綱は治承5年(1181)の志田義広の乱に与同したが、家臣である桐生氏の謀反に遭い滅ぼされたともいわれている。その後建久元年(1190)に戸賀崎義宗が城主となり城を再興したが、永禄2年(1559)後裔の赤見伊賀守の代に、佐野泰綱の命に反したため常陸へと逃亡した。伊賀守は永禄6年(1563)佐野氏に帰参して大門城を居城とした。 また天正年間には佐野了伯(政綱)が二度にわたり居城としたともいう。戦国時代末期には佐野氏の支城として整備拡充されたものと考えられる。城郭遺構は主郭を中心として北西部と西部が良好に残存しており、別名を町屋城ともいう。(「栃木懸誌」「佐野市史資料編1」などより)
赤見城2
(佐野市) 赤見城は、佐野市街の西北方にある。藤姓足利氏の足利俊綱が最初に築いたと言われる。その後、藤姓足利氏が没落した後、建久元年(1190)戸賀崎義宗が城を再興し、以後赤見氏となって佐野氏の領国支配の一翼を担った。しかし永禄2年(1559)赤見伊賀守が主家佐野泰綱に叛いて城を攻められ、敗れて常陸に落ち延び、その後は佐野氏の支城となったようだ。城跡は、なんと保育園になっており、子供の誘拐なども騒がれる昨今では近づき難いことこの上ない。主郭の土塁と堀跡が、南側が一部壊されているものの極めて良好に残っており、しかもその土塁の高さが、良くある方形居館跡などのレベルを超えており、まさしく城と呼ぶに相応しい重厚なものである。西側は二重土塁となっていて、さらにその重厚感が増している。現在は主郭しか残っていないが、往時は二の丸、三の丸、西の丸、北の丸などを備えた、立派な複郭式の平城であったようで、若干ながら地形の跡にその名残を見ることができる。しかしほとんどは湮滅していて、その外形を追うことは難しい。いずれにしても、これほどの重厚な遺構が住宅地の真っ只中に残っていること自体、奇跡に近い。今後も長く保存してもらいたいものだ。
横小路城
赤見伊賀守の居城と伝わる(赤見町大門字横小路) 「赤見村の地誌」によると永禄2年(1559)赤見城主赤見伊賀守は、佐野泰綱の命に反したため赤見城を攻め落とされ常陸へと逃亡した。のちに伊賀守は永禄6年(1563)佐野氏に帰参して大門城を居城としたという。その地理的条件からは戦国時代末期の佐野氏の支城のひとつとも推定される。東西約220m、南北約180mの正方形に近い城域を示し、国道沿いを中心として土塁跡を確認することができる。大字大門に所在していることから、別名を大門城(だいもんじょう)ともいう。(「佐野市史資料編1」などより)
大門館
(赤見町大門) 出流側東岸の台地上に占地し、規模は東西100m、南北約50mの長方形を形成している。四半世紀以前には東側を除いて土塁が回り西側には堀跡が存したとされるが、近年の宅地化により遺構はほぼ消滅しているに等しいものと推定される。また、その築造者・館主や歴史的経緯も不明とされ、近隣に所在している横小路城(大門城)との関係についても詳らかではないという。(「佐野市史資料編1」などより引用)
小見城
小見氏の築城と伝わる(佐野市小見) 戦国時代中期の永正年間(1504-1520)に佐野越前守守綱の二男小見次郎左衛門尉是綱が築いたと伝わり、本城唐沢山城の西域を防御する支城であったとされている。当該遺構については、「日本城郭全集2」(1967)によれば、「栃木県史巻7」(1936)を引用し、戦前までは林であり、45m四方の周囲に高さ2.4mの土塁がめぐらされ5.4m幅の堀が北と東に残ると記されているが、現在城跡は跡かたもなく畑地や宅地と化していると記されている。しかしこの点について後年編纂された「栃木県の中世城館跡」(1982)では、南北約64mの土塁が残されていたと記されている。一方所在地については、「奈良文化財研究所の遺跡データベース」のデータを辿れば下記画像の個所より南西に約200mすすんだ地点、しかし「日本城郭全集2」の記述をたどると東方約200mの地点を示している模様である。
興聖寺城
佐野氏の有力支城(佐野市吉水町739) 「栃木懸誌」の記述によれば、「大字吉水にあり。安貞2年(1228)佐野太郎国綱が築城して一族である岩崎越前守義基(西佐野(殿か)という)の居城としたが、永正年間(1504-1521)左馬助重永が三好岩崎城へと移り、大永元年(1522)8月から佐野左近将監季綱の居城となった。季綱は常時在城せずその臣下である田沼、中江川、河田、天沼、清水、今宮の各氏が交代で守備した。後に山田若狭が城代として久しく居城した。」 とされている。「日本城郭大系4」「現地解説板」などの記述についても、この内容が元になっているものと思われる。また廃城の時期は慶長19年(1614)佐野氏改易の時期以前と推定をされている。「田沼町史第3巻」に掲載されている絵図によれば、本丸、北二の丸、南二の丸、三の丸から構成された複郭式の城郭で水堀が配されていたとされている。
吉水城
本多正純の居城(佐野市吉水) 現地の古碑などによれば、元和2年(1616)4月に徳川家の重臣本多正純が佐野領41か村合わせて4万石を拝領した際に築城したものと伝わるという。その後元和5年に宇都宮15万5千石を賜り栄華を極めたが、元和8年(1622)城普請に端を発した重臣間の権力闘争に敗れ断絶改易処分となった。吉水城はほぼ同時期に廃城となったものと推定をされている。城域については西方の興聖寺城と重複する部分が少なくないものと想定され、また「佐野領御館野林清水御城内」においても「清水城」とあわせて「吉水の城」と記されているともいう。
椿田城
佐野氏の支城(佐野市船津川町椿田) 伝承によれば、永禄3年(1560)第20代福地寧久(後の昌寧)が唐沢山城の支城として築城し、河越城、忍城、館林城に対したといわれている。しかし現存する遺構から推定する限りでは豪族の居館というのに相応しく、河越城、忍城に対抗できるような規模を有していたものとは考えにくい。福地氏は本姓は赤松氏とされ、福知山城主福地丹波守能久以来福地姓を名乗った。9代輝久のときに下野に移住し福地と名乗り、16代丹波守仲久の時に佐野氏の客将として当地に居住したという。慶長19年(1614)佐野氏改易に伴い帰農し、城は廃城となった。(「佐野市史資料編1」などより)別名を福地城とも。
植野城
堀田氏庶子の近世城郭(佐野市植下町大原) 大老堀田政俊の三男である堀田備前守正高が貞享元年(1684)に築城したが、元禄11年(1698)に近江国堅田に移封され事実上の廃城となったという。その後文政9年(1826)に堀田摂津守正敦により堀田氏1万6千石の陣屋として再興されたが、城主格とされていたので植野城とも呼ぶ。 「日本城郭全集2」には南側土塁上に堀田稲荷が祀られていたとの記述が写真付きで掲載されている。また「国別城郭・陣屋・要害台場事典」によれば、神社の所在する土塁状の地形については、城郭土塁の一部に相当する模様である。推定本丸付近には文化財解説板と黒御影石に刻まれた城絵図の石碑も所在している。なお、同書によると別名を佐野城、植野陣屋、佐野陣屋とも呼ばれるとのことである。
阿曽沼城1
佐野氏一門阿曽沼氏の居城(佐野市浅沼町) 「佐野市史資料編1」によれば、佐野氏一門の阿曽沼四郎廣綱が寿永元年(1182)に築城したとも、或いは「栃木懸誌」によれば、治承寿永の頃足利中宮亮藤原有綱が、唐沢山城の支城として築城し、その四男四郎廣綱を城主としたともいわれている。廣綱は阿曽沼氏を名乗り佐野氏に仕えたが、鎌倉時代末期から南北朝期にかけて一時衰退したものと考えられる。しかし一族はそのまま阿曽沼にとどまり戦国期を迎えた。現存する遺構は戦国期の居館の一部と推定されるが、慶長19年(1614)佐野氏改易に伴い廃城となったものとされている。なお、現在の浅沼の地名は阿曽沼の転訛ともいわれている。(校訂増補下野国誌)
阿曽沼城2
(佐野市) 阿曽沼城は、佐野市内の浅沼八幡宮境内一帯が城域とされる。もちろん、「浅沼」とは「阿曽沼」が転訛したものであろう。この地を本拠とした阿曽沼氏は、藤姓足利氏から分かれた佐野氏の一族で、源平合戦の行われていた寿永年間にこの城を築いたという。南北朝期になって、小山氏に領地を横領されたとも言われるが、場所的に考えて唐沢山城を本拠とした佐野氏の支城群の一翼を担っていたと考えられる。城跡は宅地化でほとんど湮滅し、わずかに八幡宮裏に1本の堀跡が残っているに過ぎない。ただ当時は見ることができず気付かなかったが、GoogleMapの詳細航空写真で見ると、浅沼八幡宮を南東部に配した方形の曲輪跡が追えそうである。機会があれば再度追ってみたい。なお、八幡宮境内に城址の石碑が立っているが、阿曽沼氏の子孫の方の筆になるそうだ。
赤見駒場城
樺崎城の詰城か(佐野市赤見町殿入、足利市樺崎町) 入手できた中世城館としての関係資料は、下記の「史跡樺崎寺跡」「奈良文化財研究所遺跡データベース」の2点のみで、築城の経緯や時代背景も明確ではないようです。しかしこの地域の軍事的な緊張関係などから類推しますと、尾根筋の北側約800mに近接する鳩ノ峰城と同様に、ひとつは文明3年4月(1471)の赤見城、樺崎城、八椚城などが攻略され、古河公方足利成氏が山内上杉氏(長尾氏)に敗北した時期(「松陰私語」より)、あるいは戦国時代末期の足利長尾氏と佐野氏の抗争を背景として捉える視点などが想定されます。何れも憶測の域を出るものではありませんが、近接する樺崎城との相互関係が窺われます。また所在地については佐野市との行政境に位置しているため、「奈良文化財研究所遺跡データベース」では足利市、佐野市双方からデータベースへの登録が行われています。なお、残存遺構の大半が佐野市側に存在しているため便宜上佐野市の城郭扱いをしました。
唐沢山城
(佐野市富士見町) この山城も平安中期に藤原秀郷が築城したといわれています。一時廃城になった後、1180年に藤原有綱が佐野氏を興し唐沢山城を再建しました。 戦国時代の1559年、27代昌綱が城主の時、小田原の北条氏政が大軍を率いて唐沢山城を攻めますが、上杉謙信の援軍もあって勝利しています。 28代宗綱のときには上杉家との仲が悪化し、1567年に謙信が攻めますが、この時も落城はしませんでした。小田原征伐時、佐野氏は北条方だったのですが、宗綱の弟房綱のとりなしで領土を安堵されています。家康の天下になってから、江戸から20里以内の山城禁止令?により、唐沢山城は廃城になり春日岡城(佐野城)に移っています。
アド山城 (阿土山城)
(佐野市) アド山城は、葛生市街北方のアド山に築かれた山城である。カナカナ表記の珍しい山であるが、元々は阿土山と書くらしい。おそらく明治期に陸軍が初めて全国の測量地図を完成させた時に、漢字表記がわからなくて仮にカタカナで記載したものがそのまま残ったのであろう。地域的には唐沢山城を本拠とする佐野氏の勢力圏内であり、佐野氏の支城であったと考えられる。享徳の乱に際して、上杉方であった足利長尾氏に攻められた際に佐野氏が立て籠もったらしい。その他の歴史は不明である。
アド山城は、栃木では有数の峻険な山城で、麓の金蔵院からの比高は220m程。途中の尾根筋の2本の堀切を越えて、城の中枢部に入ってからでも主郭まで比高50mもあり、高低差の大きな縄張である。前述の堀切は、大手と思われる東の尾根筋に築かれているが、いずれも1.5m程の深さを持ったしっかりしたものである。1本目のものは、特に南側に長く竪堀が繋がって掘られている。堀切周辺には城の前衛を成すと思われる曲輪らしい平場や腰曲輪らしいものが散見される。堀切から更に登っていくと城の中枢部に至り、何段かの小さな削平地を越え、更に3本目の堀切を越えて、ようやく主郭周辺に到達する。いずれの曲輪も削平は不十分で規模も小さく、多くの兵が籠められた城ではないことがわかる。途中の曲輪には小規模ながら石積みが2ヶ所見られるという、栃木では珍しい山城でもある。これらの石積みは、いずれも平場を確保する為の土留めであったと思われる。二つ目の石積みは細長い腰曲輪の縁に築かれていて、長さ10m程にわたって2段程の低い石積みが残存している。主郭手前の二ノ郭も規模が小さく、削平は不十分で傾斜している。ここには祠が祀られている。その上の主郭もほとんど自然地形に近い上に狭く、物見程度の役目しか負っていなかったように見受けられる。主郭は南北に細長く、途中を小さな堀切で分断している。主郭の北と東に繋がる尾根筋は絶壁で遮断されていて、改めて防御性を持たせる意味は無いように思えるが、北側には絶壁の先に小さな堀切があり、東側には竪堀がある。特に東側は、ロープを伝って登り降りする70度近い急崖で、20m以上の高低差を降った先の尾根に縦堀がある。関口和也氏作成の縄張図がなければ、普通こんなところまで城域とは思わないだろう。
全体に削平が甘く砦レベルの城であるが、その割りに堀切や石積みの構築など普請はしっかりしており、物見の城なんだか詰城なんだかよくわからない性格に見受けられた。そういう意味でやや特異な城の印象に感じられた。
正光寺城
(佐野市) 正光寺城は、下彦間の正光寺境内の裏にある。あまり知られていないので、期待せずに、まぁよくある居館跡だろうと思って行ったが、予想外に素晴らしい遺構だった。それほど大きい城ではないが、主郭の入り口には土塁と虎口が築かれ、周囲は大きな横堀で防御されている。虎口正面は広い土橋となっている。主郭背後は彦間川に面した急崖となっている要害の地で、横堀はそのまま崖の斜面に接続して掘り切っている。周囲を巡ると、広い平坦地に土塁の遺構らしきものも散見されるので、周囲に曲輪があったようである。また寺の墓地の南側の林の中も広い平坦地となっているので、ここも居館などがあったのかもしれない。なお、寺の境内には、天正13年の須花坂の戦いで戦死した佐野宗綱とその将士の墓がある。それから推察すると、ここは足利長尾氏に対する、佐野氏の国境防衛拠点の一つであったのだろう。佐野氏はその後、次の当主に北条氏政の弟氏忠を迎え入れ、ここに佐野氏は小田原北条氏の勢力下に置かれることになったのである。
 
太田城址

 

金山城1
(太田市金山) 平安時代には砦があったようで、鎌倉時代に新田義重が城郭として整備します。その後一時的に廃城になり新田一族の岩松氏が再入城しました。戦国時代初期に下剋上により横瀬氏が主となり、改築を繰りかえし大城郭として構えることになります。戦国期の横瀬氏の立場は微妙で、最初は古河公方に組し北条とのつながりも強かったようですが、上杉政虎(謙信)が関東管領についた頃には、上杉方となり小田原攻めにも参陣しています。1563年ごろ横瀬成繁は、姓を由良とあらため、66年頃に上杉に背いてからは、数度に渡り越後勢に金山城を攻撃されています。しかし金山城は一度も落ちることなく、難攻不落の城として名を馳せますが、北条氏と運命を共にして廃城になりました。
金山城2
南朝方の新田義貞の敗北によって一旦は廃城となったが、その後さらに堅固に再築され、 戦国時代には上杉、武田、北条などの攻略によく耐え抜いてきた金山城。小田原北条氏の滅亡と共に廃城となったが江戸時代には幕府直轄の御料林となったために良好な城跡遺構が残されたという。関東の山城としては珍しく石積みを多用した「石垣の城」だ。「月の池」「日の池」など石垣で築いた貯水池も見事。本丸跡には新田義貞を祀った新田神社がある。
金山城瓦 / 天正元年(1573)に室町幕府は滅び安土・桃山時代を迎える。この頃金山城主由良成繁は桐生氏(南北朝〜戦国時代まで檜杓山に城を築き桐生地方を支配した。歴代の墓は梅田町西方寺にある)と争い桐生城を攻め滅ぼすなど、新田・山田・佐波・勢多・邑楽などの東毛全域を手中に収め小戦国大名として君臨していた。なお、由良氏に改姓したのは成繁の代で新田氏の本拠地新田郡由良郷の名によったものと推定される。この瓦は金山実城跡から出土したもので平瓦・丸瓦・軒丸瓦の種類がある。そのうち、丸瓦・平瓦には天正2年の年号が陰刻されている。実城の中で瓦を葺いた建築物のあったことをうかがわせる。前年(天正元年3月)には、桐生城をを攻略し、この年には、上杉謙信勢による数度に亘る攻撃を受けた年である。足利義氏の書状にもあるように、城の防備を厳しくし整えるための造作が行われた可能性を示す資料である。
新田荘遺跡(総持寺・長楽寺・東照宮・明王院共境内)
上野国新田荘は新田郡一円に成立した荘園で、中世武士団である新田氏一族の発展の基盤となった地です。
新田荘は、12世紀中頃、前九年・後三年の役を平定し、東国源氏の棟梁として武神と崇められた八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の孫である新田義重(にったよししげ)により開発されました。義重は、新田郡西南部地域の利根川と早川・石田川が合流する「空閑(こかん)」とよばれた荒廃地を開発し、保元2年(1157)3月8日にその開発私領を左衛門督藤原忠雅(さえのもんのかみふじわらのただまさ)に寄進しました。忠雅は新田荘の荘園領主となり、義重を下司職(げししょく)に任命して、初期の新田荘が成立し、その後も義重を中心に開発が続けられました。嘉応2年(1170)新田荘所領目録によれば、東西13km、南北20kmの新田郡全域にわたる荘園へと拡大し、義重はその所領を分割し、妻や子息に相続させることにより、新田氏一族をさらに発展させていきました。
新田荘遺跡は、新田荘に関連する寺社、館跡、湧水地などの性格の異なる中世遺跡群を一括指定したものです。遺跡は、太田市、新田町、尾島町の範囲内に分布した11ヶ所から成ります。
尾島町からは、総持寺(新田氏総領の二町四方の館跡に建てられた寺と伝えられる。)・長楽寺(新田義重の子、徳川義季が創建した寺。)・東照宮(天海僧正の発願により、第3代将軍徳川家光のとき長楽寺境内に移築された。)・明王院(二町四方の館跡に建てられた寺で、新田義貞館跡と推定される。)の4ヶ所が選ばれ、太田市からは、円福寺・十二所神社、新田町からは、生品神社・反町館跡・重殿水源・矢太神沼水源・江田館跡が選ばれました。
江田館
(太田市新田上江田町925) 古くから「江田行義の館跡」といわれています。伝承によると行義は、新田義重の子義季5世の孫といわれ、義貞と共に鎌倉攻めの極楽寺坂口の大将として功をたてました。現在、堀と土塁がよく残り、外郭の大部分は宅地や耕地になっています。周辺にも屋敷跡と思われる堀や土塁が残っています。
江田館跡は、反町館跡と共に、新田町にある中世の平城の代表的な遺構で、俗に「堀之内」と呼ばれる本丸跡は、東と西の両面に「折(おれ)」を持ち、東西約80m、南北約100mの土塁と堀を巡らしています。この館は、江田行義(※)の館と伝えられています。行義は、新田義重の子、義季の4世の孫で、新田義貞の鎌倉北条討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後この地で9代にわたり足利氏の目をしのび、姓を「守下」に改めていましたが、10代目大膳という人が文禄年間(1593年ごろ)に、祖先のこの地に移転してきたといわれています。
※新田義重(新田氏の祖)の遺産は、生前に5人の子息に継承されました。長男の義俊は里見郷、次男の義兼は嫡子なので新田荘、3男の義範は山名郷、4男の義季は徳川郷、5男の経義は額戸郷が分割されました。
江田行義は、徳川義季を初代として、2代目頼氏、3代目有氏、4代目義有、5代目江田行義となります。(参考:『尾島町誌 通史編 上巻』)
反町館
(太田市) 「新田荘」は、平安時代末期の12世紀中ごろに成立した新田氏の荘園です。太田市西部を中心とした地域には、かつて日本の中世史を代表する荘園「新田荘」が存在し、ここを本拠に、新田氏一族が活躍を繰り広げていました。
反町館は、新田義貞が成人してから住んでいたといわれています。現在は、照明寺というお寺になっていて、1月4日の厄落としの日には、歩いて30分もかかる場所まで駐車場になるほどの混雑です。堀には水が絶えることなく、水鳥が泳いでいます。西側の堀でカワセミを見ることがありますが、そこにすんでいるようです。
反町館跡は、江田館跡とともに太田市を代表する館跡で、大規模な堀や、土塁が残されています。土塁は基底部で10〜13m、高さ4〜6mあり、堀は幅10〜20mあります。(ただし、東側の堀は道路改修の際に拡張されたものです。)
館跡の平面形は凸字形で、南側で約120m、北側で約73mあり、東西両側に「折(おれ)」を持っています。出入り口は南東角と西の2カ所にありました。
築造は、鎌倉時代から南北朝時代と推定されます。その後戦国時代になって三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられています。新田義貞がここに移り住み、その後、大舘氏明、新田義興、矢内時英が住んだという伝承もあります。天正18(1590)年、豊臣秀吉の北条攻めで廃城したと伝えられています。
現在の照明寺は、以前は堀の西側にありましたが、正徳4(1714)年、火事にあった際にここへ移転したと伝えられています。照明寺の本尊は厄除け薬師として有名で、毎年1月4日の縁日には、大勢の参詣人でにぎわいます。
徳川館
(太田市) 江戸幕府の将軍家徳川氏の先祖は尾島町にはじまると云われる。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、得川(徳川) を称して居館を築いた。義季から8代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その9代目が徳川家康である。
平安時代末期、後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国に基盤を築いた。義家の子義国は関東に下り、その長子義重が新田の庄を開き、新田氏の祖となった。義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と称した。鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫した。その後、足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れ、親氏は仏門に入って徳阿弥と名乗り、松平郷(愛知県豊田市)に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられる。
長楽寺(ちょうらくじ)は、群馬県太田市世良田町にある天台宗の寺院。山号は世良田山。本尊は釈迦如来。隣接して世良田東照宮がある。国指定新田荘遺跡の1箇所。 歴史 承久3年(1221)世良田義季の開山、臨済宗の僧栄朝を開山として創建されたという。早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には関東十刹のひとつに列せられた。開基当初は臨済宗であったが、徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗となった。
新田館
(太田市) 平安時代末期、後三年の役の内乱を鎮定した八幡太郎義家は、その後東国に強力な武士団を結成し、源氏は東国に基盤を築いた。義家の子義国は関東に下り、その長子義重が新田の庄を開き、新田氏の祖となった。鎌倉時代、世良田は新田庄の経済的・文化的中心地となり、建久4年(1193)源頼朝が那須野・三原の狩の帰途遊覧した新田館はここであると思われる。
新田一族の始祖、新田義重の館址と伝わる。鎌倉時代の世良田は新田の庄の経済的・文化的中心であったところからみて、新田宗家の館であった可能性が高い。吾妻鏡に記載されている、建久4(1193)年、源頼朝が那須野・三原の狩の帰途遊覧したのは、新田館であったと考えられる。太平記に記されている、元弘3(1333)年、鎌倉幕府執権北條高時が世良田に有徳の者多しとて、莫大な軍資金を課し、使者を派遣して無法な「譴責」を加えた。義貞は「わが館の辺を雑人の馬蹄にかけさせつることこそ無念なれ」と怒り、これを捕らえて一人は世良田の里に梟首した。
鎌倉時代の世良田は新田庄の経済的、文化的中心であったところからみて新田宗家の館はここにあったと考えられる。元弘3年(1333)、北条高時は世良田に莫大な軍資金を課し、使者を派遣して無法な譴責(けんせき)を加えた。義貞は 「わが館の辺を雑人の馬蹄にかけさせつることこそ無念なれ」と怒り、これを捕えて一人は世良田の里に梟首した(太平記)。この「わが館」 がここであろう。また、建久4年(1193)源頼朝が那須野・三原の狩の帰途に遊覧した(吾妻鏡)新田館もここであると思われる。
大舘館
(太田市) 新田政義の次男家氏が大舘郷に住み地名を名乗ったのが大舘氏の始まりで館もその頃に築かれた。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めには大舘宗氏が息子たちを引き連れて従軍し奮戦したが宗氏は東勝寺合戦で討死してしまった。南北朝の争乱で大舘氏明は南朝方として戦ったが伊予世田城で籠城の末に北朝方の細川頼春に攻められて自刃している。しかし氏明の子孫は足利氏との同族関係もあり室町幕府の要職を務めて戦国時代を迎えている。室町幕府の崩壊とともに大舘一族は衰退したが子孫は幕臣や帰農して名主階級となり現在までその血脈を伝えているようだ。大館氏は室町時代から戦国時代へと時代が移る頃も大館郷に所領を得ていたが大舘館がその頃も機能していたか、また戦国期への城郭へと変貌を遂げていたかは遺構が残らないために不明であるが耕地整理前まで残されていた遺構の規模を見る限りでは反町城や江田城のような大城郭への発展は遂げていないようだ。
大舘館は、元徳年(1329-31)間に大館氏によって築かれたという。大館氏は、新田政義の二男家氏が上野国新田郡大館に居住し大館氏を称したの始祖とする新田氏の一族である。元弘3(1333)年、新田義貞が後醍醐天皇の令旨を受けて、鎌倉の北條得宗家を攻めた際には、大舘宗氏が一族を率いて奮戦し、東勝寺合戦で討死している。南北朝の頃には、新田一族として南朝方に与しており、子息氏明は後醍醐天皇より伊予守護職に任じられたが、世田城にて細川頼春の軍勢を迎え撃って自刃している。大舘氏は南北朝の合一後、氏明の息義冬が佐々木道誉に見出されて足利義満に仕え大舘氏の多くが奉公衆として遇されて、本貫地である大舘郷の支配が続いた。室町幕府の終焉とともに大舘氏も没落し、一族の多くが帰農したといわれる。
新田政義の次男大舘家氏を祖とする。本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。家氏は上野国新田郡(新田荘)大舘(おおたち)郷(現在の群馬県太田市大舘町)に住み大舘二郎(次郎)を名乗った。家紋は大中黒、酢漿草(かたばみ)が基本であるが、このほかに、二引両や三巴、笹竜胆などを使う家系もある。
家氏の子宗氏は新田義貞の鎌倉攻めに右軍大将として子の氏明・幸氏・氏兼らと参加した。しかし宗氏は極楽寺坂で戦死している(東勝寺合戦)。現在、鎌倉稲村ヶ崎に大舘宗氏主従11人塚が建立され、その事績を残している。嫡系を継いだ氏明は南朝方として活動し伊予国守護となったが、北朝方の細川頼春の攻勢のため世田城で自害した。このほか南北朝の動乱期には大舘姓の武士が南北入り乱れて活躍していることが諸記録に散見されるが、各々の人物の系譜関係については不明である。
その後、氏明の子義冬は佐々木道誉に見いだされ、室町幕府の足利義満に仕え、北朝による治部少輔に任官した。この系統の大舘氏は室町幕府内では、足利氏と同族(源義家子息義国流)の新田氏支族であった所以で、大舘一族は要職を務める至った。
3代軍足利義満の親衛隊として組織された五ケ番衆の第五番衆の番頭を代々務め、大舘一族の多くが奉公衆に所属した。8代将軍足利義政の乳母今参局や義政側室の大舘佐子も大舘氏の出身である。また、佐子の甥に当たる大舘尚氏(常興)は書札礼の大家として有名であり、小笠原氏や伊勢氏とならび室町幕府の故実家として活躍、『大舘常興日記』『大舘常興書札抄』を著した。子の晴光は故実家としてだけでなく、足利義輝と上杉謙信との交渉にも関わっている。
中先代の乱ごろ以降、本貫の地の上野新田荘は足利氏の支配下にあり、父系が足利・母系が新田の岩松氏が直接支配することになる。しかし、それ以降もこの系統の大舘氏は16世紀初頭にいたるまで、新田荘の大舘郷を所領としている(大舘持房行状)。
現在、新田荘の大舘氏の居館跡は大舘館跡として城碑が立つ。ただし遺構はほぼ消滅している。
室町幕府滅亡とともに大舘氏も没落した。ただし足利義昭に仕えた大舘晴忠(晴光の甥)は同じ奉公衆の大草公重の娘を正室としており、公重に男子が無かったため、晴忠と公重の娘との間の子たる公継・公信・高正は、大草氏を継いで旗本として江戸幕府に仕えた。このため血筋は江戸時代も続いている。
また、氏明の子孫としては伊賀国に拠った大舘氏がある。関岡氏ともいい、義冬の兄伊賀守氏清の子孫と伝える。また阿波国の細川氏に仕えた一族もあり、こちらは氏明の子成氏が祖だという。
この他に関東に残存した系統もあり、「上杉禅秀の乱」などに新田一党として大舘氏が参戦している(鎌倉大草紙)。この一派の一部は、戦国時代には後北条氏配下で、武蔵国の他国衆の山口氏の支配の地侍あるいは家臣として土着し、小田原の役による北条氏敗北後に徳川家康が関東に移封になると、在地の名主、村役人階級として帰農したものと思われる。
幕末には、尊王志士の大舘謙三郎がみえる。この謙三郎の系譜関係は不明。彼は新田荘の医家で、この地の領主岩松俊純を盟主にした「新田官軍(新田勤王党)」という草莽の倒幕隊を、彼が中心となって組織し、戊辰戦争で功を立てた。この功績により、この系統の岩松氏が明治政府により新田の直系とみなされ(この他に由良氏も主張するも却下)、明治期に新田に「復姓」し新田男爵家を立てる。一方、幕府側としては、最下級幕臣の大舘昇一郎(本国上野、生国武藏)が彰義隊士として活躍し、丸毛靭負に見いだされ、箱館戦争では小彰義隊頭取になり戦死している。大舘昇一郎も本国上野とあるため、新田大舘氏の系譜であると思われる。
埼玉県所沢市には、宗氏の子孫と伝えている大舘氏があり、もと後北条氏被官の配下で北条氏敗北後、家康の関東入部後に帰農した一派といわれる。室町幕府に仕えた一族との関連は不明。江戸期には筆頭名主となった大舘傳右衛門(助右衛門)家がみえる。この家は領主の旗本・花井氏と関係が深く、家康小姓・花井庄右衛門吉高の廃嫡男子・庄五郎吉政と婚姻関係を結び、この子孫も傅右衛門家の分家筋として大舘姓を称している。のち江戸後期に大舘傳右衛門家から名主職はその配下だった大舘清右衛門家に移り、それを期に清右衛門系が傅右衛門系より優位になり、ついに清右衛門家は花井氏の地代官(名主出身の代官)にもなり、苗字帯刀槍一筋御免となり、弘化4年(1847)には、武蔵国入間郡に「大舘氏碑」を建立し総本家を自称するようになった。その碑文によると、大舘式部義隆という人物が新田義貞の鎌倉攻めに従い戦死し、その子主税義信というのが、新田義興が武蔵国で誅殺されたとき以降、現在の地に帰農したという。しかし大舘義隆・義信なる人物は史料上に見えないし、「帰農」という概念は身分制が固まる江戸期以降のことである。この系譜は、地代官任命時に創作された可能性が高く、信憑性に問題があるとされる(所沢市史編さん関係資料群)。傳右衛門系・清右衛門系を含め、この地域の大舘一族が実際に新田大舘氏の系譜を引くのかは同時代の史料的には確かめられていない。
館林城
(館林市城町) 戦国初期に台頭した赤井氏が、城沼の南側に大袋城を築城し、当初はこちらが館林城であり、戦国中期になると赤井照康が対岸に城を移します。これが現在の館林城の原形で、白狐が尾が曳いて縄張りしたという伝説があり、別名を尾曳城といわれます。照康の息子照景は、謙信が関東に出馬した際に従わなかったため、永禄5年(1562)に館林城を攻められ、城を追い出されています。
後には長尾氏が入城。天正12年(1584)になると北条氏の調略により城を明け渡し、館林城は北条氏規の城代が入城します。 天正18年(1590)石田三成率いる豊臣軍に包囲され開城となり、徳川家臣の榊原氏が十万石で入封し城下を完成させ、徳川譜代数家の入城を経て維新に至ります。
このあたりは利根川と渡良瀬川にはさまれた低地で、当時は沼や湿地がたくさんありました。縄張は城沼の西岸に三の丸、二の丸、本丸を連ねて、沼へ突き出した連郭式で、城下は沼の西側の台地に広がっていたようです。現在、城のあった部分はすっかり埋め立てれられ、市役所、図書館、公園などが隣接する公共の場となっています。
鶉古城
(群馬県邑楽町) 鶉古城は、南北朝時代に築かれた城である。1333年5月、上野より挙兵した新田義貞の鎌倉攻めによって瞬く間に鎌倉幕府は滅亡し、得宗北条高時以下北条一族は鎌倉東勝寺で自刃して果てた。一方、高時の弟で僧籍にあった慧性(北条泰家)は、鎌倉防衛の総大将として分倍河原で新田勢と交戦し、一度は勝利を得たものの体勢を立て直した新田勢に大敗して敗走した。幕府滅亡後、泰家は奥州に潜行したが、一説に北条氏家臣荒間朝春と共に逃れて来て築いたのが鶉古城だと言われている。(但し、上野の新田氏本拠に近く、本当にここに築城して籠もったのか、個人的には疑問も感じる。)後に泰家は、時興と改名して京に潜伏し、建武の新政転覆の謀議を巡らした。これは、中先代の乱の直接の導火線となり、引いては60年にも及ぶ南北朝動乱の契機となった大事件であった。一方、鶉古城は、応永年間(1394〜1428)には多々良四郎忠致の居城となった。更に時代が下って戦国時代には、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形城主の小曽根政義が、小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で鶉古城を守備した。その後は館林城と共に北条氏の支配下に入った様だが、1590年の小田原の役の際、館林落城に伴い鶉古城も廃城となった。
鶉古城は、多々良沼に西から突き出た半島状地形に築かれた城で、西の平野基部と2本の堀切で分断防御していたようである。現在は西側の外堀と土塁のみが残っている。土塁は高さ3m程で、空堀と共に約250mにわたって伸びている。しかし横矢は掛かっておらず一直線の形状で、古い城の形態を留めている。城内部は公園化されて改変を受けており、東側の堀は湮滅している様であるが水路として残っている可能性もあり、どこまで遺構が残っているか判別が難しい。いずれにしても三方を沼地で囲まれた要害であった。太平記の時代に築かれたと言う古い城は、現在は野鳥の楽園となって、水面に平和な時代を映し出している。
片岡城
(群馬県邑楽町) 片岡城は、片岡氏の居館である。平安時代末期に、板東平氏の平国繁がこの地に入部して片岡氏を称した。2代経繁は平清盛に仕えたが、1185年に平家が壇ノ浦で滅亡すると、関東を逃れて土佐に渡って黒岩城主となった。その後経繁は、1194年に片岡から妻子を呼び寄せたが、長男経俊と二男経政は亡き母の供養のため片岡村に残り、三男経氏と二人の女子が土佐に渡った。この系統が土佐片岡氏となり、戦国期には長宗我部氏の家臣として活躍したと言う。一方、故地上州の片岡氏の事跡はこの後不明である。1265年、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となって城下町を整備した際に、ほとんどの片岡の住民は元宿へ移住させられた。この頃には片岡城は廃城になっていたものと思われる。
片岡城は、現在は遺構のほとんどは湮滅し、民家の並ぶ地域の片隅に1本の土塁が残るのみである。しかし解説板が設置され、このわずかに残った土塁が大切に保存されている。
 
桐生城跡

 

桐生城 [檜杓山城]
(桐生市) 別名を檜杓山城(読み?)といい、観応元年(1350)桐生国綱が、麓の館から砦を構えたのが始まりです。五代あとの豊綱は佐野氏からの養子で、以後、佐野の分家の色が高まります。数代へて元亀3年(1572)、助綱の跡を継いだ佐野家の養子親綱は、由利成繁に攻め込まれると親綱は佐野へ逃れ、桐生城は由利氏の居城となります。 成繁は山の麓に館を構え、嫡子国繁には金山城を譲りました。のち、成繁は桐生城を大改修し、今日に見られる遺構はこの時の改修によるものです。
成繁死後、天正12年(1584)北条氏の調略により金山城を奪われた国繁は、桐生城に戻り、天正18年の小田原の役では小田原城の籠城を強制されます。戦後、母妙印尼の奔走により許された国繁は、常陸牛久に国替えとなり、桐生城は廃城となりました。
比高210mの檜杓山の山頂に西から東へ、本丸、二の丸、三の丸で”ひしゃく”の形をした縄張で、本丸が先端部分、細長い二の丸、三の丸が柄の部分のようです。上写真は、二の丸側から撮った本丸とその間にある堀切で、斜面には竪堀も確認できます。本丸は幾重かの腰郭で螺旋状になっており、現在も腰郭の存在は良く確認できます。最高位の本丸はこの城で唯一整備された曲輪で広場に碑などがありました。
三の丸と二の丸の堀切から北へ向かうと北郭があり、先端にも小さい郭の列があるようです。下写真は北郭から堀切を経て一段下がった郭を撮ったものです。このあたりは全然整備されていませんので、本当に北郭からなのかあやしいですが、遺構を見つけた時の快感はたまりません。本丸南から大手へ通じる道は、わずかに道が確認できる程度ですので、踏破はよほどの覚悟が必要でしょう。この大手を経て南麓に館があったようです。 現在は三の丸の搦手から見学するようになってます。
山上城
(桐生市) 山上城は、鎌倉時代に藤原秀郷の子孫、山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となりました。この城跡は群馬県の指定史跡となっています。城の構造は並郭構造で、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでおり、川や谷などの自然を要害とした丘城と言われています。城下町の名残として元町・鍛冶屋などの地名が残っています。
大胡城
(勢多郡大胡町大胡) 大胡氏は藤原秀郷の末裔といわれ、現在の城より西側に館を構えていたようです。天文10年(1541)金山城の横瀬泰繁によって城を攻められ、以後大胡城は横瀬氏に属しますが、永禄8年(1565)金山城の由利(横瀬)成繁は謙信に逆らったため、金山城攻めの前哨戦としてこの大胡城を落し、謙信は北条(きたじょう)高広に大胡城を預けます。
以後しばらくは北条高広の居城となり、本能寺の変後滝川一益が伊勢に戻ると、高広は自身厩橋城に入城し、大胡城には大胡氏の復帰で城を固めさせ、真田昌幸らと結び、北条氏(小田原)に敵対する姿勢を取り続けました。 天正12年(1584)になると、さすがの高広も北条氏に屈服し、大胡氏もそれに従い、高広は小田原攻めの前に死去しています。 役後、徳川の家臣牧野氏が2万石で入城し、元和2年(1616)に廃城となっています。
縄張は北から近戸郭、北城、本城(本丸、二の丸)、三の丸、南郭で構成さらた丘上にある大掛りな城です。二の丸は福祉センターみたいな設備があり、本丸と隣接する部分は大掛りな空堀が存在します。上写真は二の丸にある桝形の遺構で古そうな石垣によるものです。 本丸は周囲が土塁に囲まれあまり整備されていませんが、一応公園にはなっています。簡素な神社があり市街の眺めはよいでしょう。

宇都宮城址

 

宇都宮城
(宇都宮市本丸町) 最初の築城は、藤原秀郷といわれていますが定かではなく、1062年、宇都宮氏の初代となる藤原宗円が、本格的な城郭を構えたのが始まりといわれています。
以来、22代に渡り宇都宮氏の居城となり、小田原攻めにも豊臣方に味方したのですが、太閤検地で宇都宮領内での所領の不正が発覚したため、宇都宮氏は所領を取り上げられてしまいます。(こうなるまでにいろいろ経緯があるのですが...)
その後は城主が数家入れ替わり、本多正純が城主となって有名?な釣り天井事件が起こります。 釣り天井は伝説に過ぎないようですが、正純が幕府の許可なく城郭の大修復工事を行なったため、日光参拝で宇都宮城に立ち寄る将軍家を、暗殺するための釣り天井があるとウワサが流れたようです。
真相はよくある権力争いの陰謀にはまったのでしょう。正純は宇都宮城を、日光口を守るふさわしい城にしたかったようです。正純の後は譜代大名が数家入り、最後は戸田氏に収まり維新を迎えます。戊辰の役で建造物はほとんど燃えてしまい、その後の都市開発もあって遺構はほとんどありません。
飛山城
(宇都宮市竹下町) 永仁年間(1295年頃)芳賀高俊が築城した城で、芳賀氏の本城である芳賀城(真岡市)から、より主家宇都宮氏に近いこの地に築城したとされています。 芳賀氏は天武天皇の末裔清原氏の末裔であり、高俊から4代前の高親の時代に、益子の紀氏と共に宇都宮氏に仕え、以後紀清両党として坂東武者の代名詞となる勇猛を誇りました。
宇都宮氏と芳賀氏とは密接な親族関係にあり、南北朝時代は、常陸にあった北畠親房の南朝軍に対する北朝の最前線の城としての位置づけがあったようです。 良好な関係が続いた両家も、永正9年(1512)宇都宮成綱が筆頭家老の芳賀高勝を殺害すると、天文8年(1539)、芳賀高経は宇都宮尚綱との争いに敗れ幽閉殺害されると、高経の子高照は那須氏と手を組み、天文18年(1549)喜連川の早乙女坂の戦いで、尚綱を討つますが、自身も芳賀氏を継いだ高定に討たれます。
高定の弟高継が継ぐと、秀吉の北条攻めを経て宇都宮氏改易と運命を共にし、飛山城は廃城になっています。
宇都宮市街から東方7kmの鬼怒川左岸台地ある城で、城の北、西の直下は断崖であり、東、南は、二重の堀で区画された広大な平城です。堀の内側には名称のない郭がたくさんあり、手元の縄張図ではT〜Zの記号で表現されています。一番大きな郭は城の南半分を占めるY郭で、空堀をはさみ北半分にX、W、V、U、T郭と北端に向け郭も小ぶりになっていきます。こちらの区画も空堀によるものですが、前記のものよりかは規模はぐっと小さめです。城主のいた本丸部分はT、U、V郭と推測されています。
川崎城
(矢板市川崎反町) 建仁年間(1200年頃)塩谷朝業が築城した城で、朝業は宇都宮家4代業綱の2男で塩谷家に養子に入りました。 歌人としても有名で鎌倉4代将軍実朝の歌の相手をしていた人物です。 実朝の暗殺後の朝業はこの川崎城にて出家し、歌と信仰に余生を過ごしたようです。朝業から13代目の教綱のころ、宇都宮宗家は同族の武茂氏から持綱を相続させますが、これに不満を持った教綱は、応永30年(1423)川崎城近くで、持綱とその家臣を謀殺しています。自身も長禄2年(1458)宇都宮城にて謀殺され、塩谷家は断絶しています。
宇都宮氏17代目成綱の弟孝綱が塩谷家を継ぐ頃には、宇都宮氏と那須氏の争いの全盛で、孝綱の長男由綱が川崎城、次男孝信は喜連川城主となると、次男孝信の妻が那須方の大関氏の娘だったことから兄弟敵味方となり、弟孝信は喜連川城が落城すると、川崎城を奇襲により放火、それを知った兄由綱は自殺、若干6才の義綱は家臣に連れ出され、数年後に川崎城に戻りました。
秀吉の小田原攻めにより塩谷家は改易、川崎城も廃城となりましたが、 義綱は常陸佐竹氏を頼ったため、塩谷家は秋田移封にも伴い、家老格で明治を迎えているそうです。
御前原城
(矢板市中字御前原) 築城は定かでなく源義家の孫頼純による説や、正和4年(1315)塩谷頼安による説がありその時代も大きく異なります。 いずれにしろ川崎城築城後は支城として機能していたようで、小田原攻めで塩谷家が改易になった時は、義綱の庶兄義道の居館でした。かつては壮大な輪郭式縄張でしたが、現在は堀に囲まれた方形の本丸を残すのみです。
 
南埼玉郡城址(宮代町・白岡町・菖蒲町)

 

菖蒲城
南埼玉郡菖蒲町新堀 / 主な城主・金田式部則綱 / 遺構なし
康正2(1456)年、足利成氏(古河公方)の命をうけて、金田式部則綱が築城したと伝えるが、発掘調査などから鎌倉時代から豪族の館だったようである。
下栢間陣屋(内藤氏陣屋)
南埼玉郡菖蒲町大字下栢間 / 主な城主・内藤氏 / 遺構なし
内藤四郎左衛門正成は弓の達人として知られ、徳川家康十六神将の一人に数えられている。徳川家康の関東入封のとき、五千七百石を与えられ、栢間の地に陣屋を構えた。
栢間氏館
南埼玉郡菖蒲町大字下栢間 / 主な城主・栢間(萱間)氏? / 遺構なし
武蔵七党のひとつ野与党に属した栢間(萱間)氏の本拠地と推定される。栢間左衛門二(次)郎行泰は弓の名手だったことが吾妻鏡でわかる。
鳩井氏館
南埼玉郡菖蒲町大字下栢間 / 主な城主・鳩井氏? / 遺構なし
鳩井氏は鎌倉御家人で、鳩ヶ谷の地頭職を務めた。栢間(萱間)氏の後に栢間の地を治めたのが鳩井氏とされる。
菖蒲陣屋
南埼玉郡菖蒲町大字菖蒲
戦国時代、金田佐々木氏の城と考えられているが、推測の域を出ない。
源太山
南埼玉郡宮代町字山崎 / 主な城主・松永源太左衛門? / 遺構なし
江戸時代の世襲名主・松永源太左衛門の屋敷跡と伝えられる。
百間陣屋
南埼玉郡宮代町字山崎 / 主な城主・服部与十郎政季? / 遺構なし
江戸時代の旗本・服部与十郎政季の陣屋と言われる。平成13年に発掘調査が行われ、堀・井戸・建物跡を検出した。 
 
北葛飾郡城址(栗橋町・鷲宮町・杉戸町・松伏町)

 

大河戸氏館
北葛飾郡松伏町大川戸 / 主な城主・大河戸太郎広行 / 遺構なし
大河戸氏は藤原秀郷の系統と伝えられる。大河戸太郎広行は有力な鎌倉御家人。妻は三浦義明の娘。広行は源平合戦・一の谷合戦で源義経17将に選ばれた。
粟原城
北葛飾郡鷲宮町大字鷲宮 / 主な城主・細谷氏?、大内氏 / 遺構なし
鷲宮神社の社領主の城跡。関東武士団の高い信仰があった。大内氏は武士兼神主として活躍。家康の江戸幕府開府後、神主を専業とし武将としては役割は薄らいで行く。
高野城(高野の浅間が城)
北葛飾郡杉戸町大字下高野 / 主な城主・藤堂氏、一色氏 / 遺構なし
南北朝・室町期の藤堂氏、一色氏の城。
関口氏屋敷
北葛飾郡杉戸町大字深輪 / 主な城主・関口氏 / 遺構・水堀、土塁
関口氏は桶狭間の戦いに敗れ、深輪に移った関口刑部少輔氏広が祖と伝えられる。現在も子孫が住んでいる。
杉浦陣屋(おはやし)
北葛飾郡松伏町大字大川戸 / 主な城主・杉浦五郎右衛門定政 / 遺構なし
伊奈忠次の家臣・杉浦氏の陣屋跡。慶長13(1608)年頃に建築。 
 
越谷城址

 

大相模次郎能高館
越谷市大成2丁目 / 主な城主・大相模次郎能高 / 遺構・土塁
大相模氏は武蔵七党の野与党の一族で、能高の時はじめて大相模を名乗ったという。能高は十二世紀後半の人物と考えられているが、発掘調査では室町時代のものしか発掘されていない。
宇田家屋敷
越谷市大成6丁目 / 主な城主・宇田長左衛門 / 遺構・水堀跡・土塁跡
柿木領八か村の割役名主(名主の元締)だった宇田家の屋敷跡。
会田七左衛門屋敷
越谷市神明2丁目 / 主な城主・会田七左衛門政重 / 遺構・水堀跡
会田出羽守資久の養子になった会田七左衛門政重は、成人後、分家としてこの地に屋敷を構えた。関東郡代伊奈氏に仕官し、代官として土地開発に努力した。 
 
さいたま城址

 

寿能城
さいたま市大宮区寿能町 / 主な城主・潮田資忠 / 遺構・出丸跡(県指定史跡)
後北条氏に敵対していた岩槻城の太田資正は、川越城への抑えとして4男・潮田資忠(潮田は母の名前)に寿能城を築かせた。長男・氏資の裏切りにより、岩槻城とともに後北条氏の城となり、「小田原の役」によって役目を終えた。資忠は戦死。
大和田陣屋・伊達城
さいたま市見沼区大和田町1丁目 / 主な城主・伊達房実 / 遺構・土塁
太田氏家老・伊達房実の居城。岩槻落城後は豊臣に、その後徳川旗本になり、同地に陣屋を置いた。
金子山城(別名・高野陣屋)
さいたま市西区高木 / 主な城主・金子彦十郎、高野隼人 / 遺構・空堀
入間・多摩地域を領した金子氏の一族・金子彦十郎の城と伝えられる。江戸時代には豊臣家の遺臣・高野隼人や福田又左衛門の陣屋だったという話もある。
領ヶ谷城(別名・太田窪塁)
さいたま市(旧浦和)太田窪2235 / 主な城主・佐々木盛(守)綱?、太田氏房 / 遺構なし
源平合戦の佐々木盛(守)綱が軍兵・軍馬催促のため拠った城という。盛綱は宇治川先陣争いの佐々木四郎高綱の兄。戦国時代は太田氏房の持城。
真鳥山城
さいたま市西堀 / 主な城主・真鳥日向守 / 遺構なし
畠山重忠家臣、真鳥日向守の城。崖上に築かれ広さ東西三町、南北七町(約300×700メートル)ある要害堅固な城だったという。日向守はこの地の不動尊を本尊とした。
代山城(山田大隅城)
さいたま市緑区大字代山 / 主な城主・山田大隅?、小久保縫殿助? / 遺構なし
岩槻太田氏家臣、山田大隅または小久保縫殿助の居城跡と伝えられるが詳細は不明。
岩槻城(別名・白鶴城、竹束城)
さいたま市岩槻区太田 / 主な城主・太田道灌・資家・資正(三楽斎) / 遺構・土塁、空堀、櫓台(県指定史跡)
築城者は太田道灌とも、父・道真ともいわれ、はっきりしない。別名の白鶴、竹束は岩槻城の築城方法から。「道灌が沼地の築城を悩んでいると、白い鶴が浮かんだ竹に止まった。これを見て道灌は竹の束を編んで、土を盛り、沈める工法を作り出した」。現在の遺構のある場所が道灌時代のものといわれている。三楽斎は最後まで後北条氏と敵対していたが、嫡男・資房は北条氏康と内通。父の留守中に後北条兵を城内に入れ、父を追放(常陸・佐竹を頼る)してしまった。氏資戦死後は後北条直轄領となり、「小田原の役」落城後は徳川家臣の高力清長の城になった。江戸時代には江戸防衛の需要拠点として代々譜代大名が居城。 
 
町田城址

 

成瀬城1
この地は古くから付近の住民に「城山(しろやま)」と呼ばれてきた。近くに根古屋という地名もあり、中世の城跡であると思われるが、城主については、はっきりしない。平安末期から鎌倉初期にかけて、この地を所領したといわれる横山党の鳴瀬四郎太郎の居館であったものを、後に小田原北条氏が改修したものと思われる。
大永四年(1524)北条氏綱が江戸城を攻略し、南武蔵・相模の支配権を完全に握った頃、小机城の出城として修築され、天正十八年(1590)小田原本城の開城とともに廃城となったと思われる。
昭和四十年代後半から城山を含む付近一帯の開発が進み、空濠・土塁・櫓台など、城郭遺構の大半が消滅した。現在残されているのは城郭の一部であり、実際の規模はもう少し大きなものであったと思われる。
成瀬城2
成瀬城は、歴史不詳の城である。城の南東約1000mにあった経塚からは武運長久、息災延命を祈った「天文4年(1535)11月日 四条彦次郎」の銘が記された経筒が出土しており、成瀬城と関連がある有力武士と推定されているようである。また「北条氏所領役帳」では成瀬の地は小山田弥三郎(信茂?)に給されていたと言い、甲斐郡内の小山田氏に小田原北条氏から所領を与えられていたようであり、そこから類推すれば小山田氏の一族か家臣が拠った可能性も指摘されている(日本城郭大系)。以前設置されていた解説板には、小田原北条氏2代氏綱が小机城の支城として築いたとの記載があったようだが、新しい解説板にはこのくだりが削られているので、おそらく史実と異なる可能性が高くなったのだろう。
成瀬城は、恩田川に面し、中世の主要道であった鎌倉街道を北東に見下ろす台地の先端に築城されている。現在は周囲は住宅地となり、城跡も住宅街の中の一公園となっているが、地勢はよく残っている。周囲はコンクリートで固められているが、東側に切岸状の斜面が残り、往時のままである可能性もある。しかしそれ以外の遺構はほぼ皆無で、南側に空堀があったようだが、現在は民家で湮滅している。北端には櫓台があったようだが、ほとんど削られてしまっている。また土塁は全く残っていない。住宅街にわずかに遺構を残す謎の城である。
小山城
標高148m、比高18m。町田市小山に突出した丘陵には、鎌倉時代、小山太郎有高が城郭を築いた場所とされる。小山太郎は、武蔵七党の一つ・横山党の庶流で、源頼朝に従って武功を挙げた人物である。しかし建暦三年(1213)和田合戦で討ち死にしている。
城址は、住宅地の開拓が進み、何ら遺構は見られない。
小山田城1
鎌倉時代、小山田有重の築城。標高120m、比高30m。現在の大泉寺の裏山が城址。
小山田氏は秩父氏の庶流で、有重は承安元年(1171)に小山田の地に居館を構え、近くには小野路城を配した。小山田氏が滅亡した元久2年(1205)年の22年後に、その菩提を弔うために、居館跡に建立されたのが大泉寺という。
その後戦国時代に入ると、国境の要衝として重要視され、扇谷上杉氏によって改修を受け、関東管領の内乱時には拠点のひとつとなり、長尾景春軍によって落城させられている。後北条氏時代、永禄2年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』によって、小山田氏は後北条氏に属す他国衆として、都留郡を本拠としながらも、小山田荘16箇所を領していた。この時の当主は、最後に武田勝頼を裏切った、小山田信茂であり甲斐武田氏と後北条氏の間で生き抜く独立家であった。ここ小山田城もその城郭群のひとつとして使用されていたのであろう。
小山田城2 / 小山田信茂が小山田城主?
武田家に従っていた小山田信茂(1539〜1582)が、町田市の小山田城の城主でもあった
という説があると聞いて、小山田城址に行ってみました。現在の町田市下小山田町にある大泉寺がそれです。大泉寺の裏に城址の史跡があるとかですが、見つかりそうにもありませんでした。
なぜ、大月市の岩殿山城の城主だった小山田信茂が町田市に領地を持っていたかというと、異説もあるようですが、次のようになります。
鎌倉時代に秩父重弘の子小山田有重が、この地に小山田城を築きました。
小山田有重には6人の男の子がいて、長男は幼年の頃に亡くなり、二郎重義はこの小野路の副城である小野路城の城主となりました。
鎌倉幕府の有力御家人であった小山田氏は、北条時政の勘気に触れて、実朝の名において三郎重成、四郎重朝らは、二俣川で殺されて、生き残ったものは離散しました。
生き残った子孫の小山田高家が、新田義貞の挙兵(1333)に参加して領地を取り返しますが、小山田高家は1336年戦死して、小山田領は人手に渡ってしまいました。
一方、生き残った小山田有重の子六郎行幸が、甲州郡内小山田氏として甲州に住み着きました。
それが岩殿山に城を持つ小山田信茂の一族で、信茂は有重から数えて17代目になります。
戦国時代、小山田信茂は武田信玄の配下であったというよりは、信玄の同盟者であって、北条氏からも領土を持つことを認められていました。
小山田越中守信有―小山田出羽守信有―小山田弥三郎信有(若くして死亡)
                 |―小山田(越前守)信茂
町田市下小山田町の旧小山田城の城主は、その当時、小山田弥三郎という人だったのですが、小山田信茂の兄も弥三郎と言いました。
兄弥三郎が若くして死亡し、後を継いだ信茂が、岩殿城のみならず、町田市の小山田城も受け継いだのではないかと思われます。
因みに、小山田信茂の祖父小山田越中守の妻は武田信虎の妹なので、信玄と信茂は縁戚関係にあります。
『武田勝頼を裏切った』と言われ続ける小山田信茂が、町田市下小山田町にも領地を持っていたというのは、近くに住む者には、感慨があります。
小山田有重の母は、小野孝兼の娘なので、有重も横山党の血をひくと言えます。
小山田の近くにかつて横山党の小山有高の居城がありました。
小山有高は、横山党の一員として和田合戦に参加して戦死しています。
『小山田有重』『小山有高』と名前も似ていますし、『小山氏』の田があった場所が『小山』。何かこの当たりがもやもやします。
小山田城3
小山田城は、秩父氏の庶流小山田氏の居城である。小山田氏は、武蔵守平将常5代の孫秩父重弘の次男有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったことに始まり、有重は1171年に小山田城を築いたと言う。また、子の二郎重義を小野路城に配した。その後、1205年に有重の長男稲毛重成が、同族の畠山重忠を讒訴した為に誅殺され、小山田氏は没落した。後の南北朝期に新田義貞の挙兵に加わり、湊川の合戦で義貞を救って討死した小山田太郎高家は、重成の弟行重の後裔と伝わっている。室町時代には、長尾景春の乱で長尾方に対する扇谷上杉氏の拠点として重視されるなど、小山田城は扇谷上杉氏の城として使用された。この時には、1477年3月に長尾勢によって小山田城は攻め落とされた。その後の歴史は定かではない。因みに、武田信玄の時代に甲斐郡内を本拠として勢威を振るった小山田氏は、同族であったと言う。
小山田城は、大泉寺背後の山に築かれており、比高が20m程度と低い為平山城の分類に入っているが、その縄張は山城のものと見た方が良い。それほどの広さを持たない3つの曲輪を連ね、間を堀切で分断した連郭式である。しかし現在大泉寺の羅漢像がたくさん並べられた散策路になっているせいか、堀切はどれもかなり浅くなっている。だが元々大した規模ではなかった様だ。本郭内は削平が甘くデコボコしているが、これも後世の改変の可能性がある。しかし二ノ郭との間の堀切に面して低い土盛があるのは、土塁の遺構なのであろう。本郭西側には横堀と、土橋で連結された帯曲輪が防御を固めている。二ノ郭には目立った防御構造はなく、二ノ郭内部の西の方には内枡形らしい土塁状の遺構が見られる。堀切等の防御構造が少なく、あっても規模が小さいので、かなり古い形態の城の様に感じられる。本当にこの城が扇谷勢の重要拠点として使用されたのか、その縄張から見ると多少の疑問を持たざるを得ないと言うのが、正直なところである。
小野路城1
町田市小野路町にあった城である。郭や土塁、空堀が残り、主郭には小さな社が建っている。 小野小町がその水で目を洗ったら病が治ったという伝説のある「小町井戸」が残っている。
小山田氏が承安年間(1171年〜1174年)に小山田城の支城として築城。 のちに小山田地方は、扇谷上杉氏の版図となり、1476年(文明8年)長尾景春の乱が起きると小野路城は小山田城と共に扇谷・山内軍の拠点となった。 翌1477年(文明9年)小山田城は長尾勢に攻め落とされ、このとき小野路城も落城したと考えられる。
小野路城2
鎌倉時代承安年間(1171〜1174)、小山田重義の築城。現在の大泉寺に居城・小山田城を構えた小山田有重の築城による副城で、その子である二郎重義が守護にあたった。
都内の古城址の中で最も古いもののひとつ。小山田と図師を結ぶ街道に位置することから結道城ともいう。「小町井戸」と呼ばれ、小野小町がこの湧き水で病気を癒したという伝説を持つ水場があり、本郭には小さな祠が祀ってある。
歴史的には史料が少ないものの、小山田城と同じく文明8年(1476)に長尾景春の乱で落城し、その後には後北条氏の要害のひとつになっていったのではなかろうか。 
小野路城3
小野路城は、秩父氏の庶流小山田氏が築いた城である。1171年に小山田有重が小山田城を築き、その支城として子の二郎重義に小野路城を築かせたと言う。その後、1205年に有重の長男稲毛重成が、同族の畠山重忠を讒訴した為に誅殺され、小山田氏は没落した。室町時代の1476年に長尾景春の乱が起こると、小野路城は小山田城と共に長尾方に対する扇谷上杉氏の拠点となった。この乱の最中、1477年3月に長尾勢によって小山田城は攻め落とされたが、おそらく小野路城も同様に落城したと考えられるらしい。その後の歴史は定かではないが、1559年成立の「北条氏所領役帳」によると、この地は大石一族の者が領していたようである。
小野路城は、小山田城東方2km弱の丘陵上に位置する平山城である。地元では城山と呼ばれる山に築かれているが、傾斜がなだらかで山と言うよりは丘陵に近い。主郭には小さな神社が祀られており、その背後には土塁が残っている。主郭の周囲には横堀が取り巻いているが、埋もれているのかかなり浅くなっており規模は小さい。二ノ郭は主郭の西に位置しているが、間はなだらかな傾斜で繋がれていて、堀切による分断は意図されていない。二ノ郭の南尾根筋には小さな枡形虎口が見られる。一方、二ノ郭の北尾根には堀切といくつかの曲輪が連なっている。二ノ郭西側は傾斜が急であるが、それ以外の部分は主郭も二ノ郭も切岸がなだらかで、あまり防御性を感じさせない。主郭からかなり離れた東の尾根道に堀切状の地形が見られ、ここも城域だったかもしれない。いずれにしても小野路城は全体に防御構造が弱く、古い形態の城と思われる。尚、道がわかりづらいので行くのが大変だが、ハイキングコースが整備されているので、場所さえわかっていれば訪城はしやすい。
 
似て非なるもの―安土城天主と大坂城天守―

 

城郭マニアでなくとも、織田信長が築城した安土城が近世城郭の嚆矢として位置づけられることはご存じであろう。通説によれば、信長そして豊臣秀吉の天下統一事業の進捗とともに、石垣を築き天守・櫓そして御殿・大手門を構えた新型の城郭が全国的に普及し、それまでの土造りの中世城郭を駆逐していったとされる。
戦前以来、政治史研究においては信長と秀吉の政権を連続的にとらえてきた。しかしこの常識は、再考されねばならない時期を迎えている。このたび上梓した拙著『秀吉神話をくつがえす』では、現代につながる国家の枠組みの基層は、信長ではなく秀吉によって打ち出されたことを強調した。ここでは、彼らの居城のシンボルである天守に着目して、その相違点を指摘したい。
安土城の「天主」(信長はこのように表記した)は、中世における武家政治の場である主殿建築の系譜にあった。主殿と密接に関係するのが障壁画である。次に、天主内部の障壁画に関連するデータを、『信長公記』の該当部分から表化して示す。
階   障壁画 / 備考
地階  なし  / 石蔵(倉庫)
1階  鵞鳥の間など / 信長の書斎あり
2階  花鳥の間、賢人の間、麝香の間、仙人の間、駒の牧絵の間など  
3階  岩の間、龍虎の間、竹の間、松の間、鳳凰の間、御鷹の間など / 会所機能をもつ 
4階  なし  / 屋根裏(倉庫)
5階  釈迦説法十大弟子図、天人、龍図 / 八角堂
6階  三皇・五帝、老子・文王・太公望・周公、孔門十哲、商山四皓 / 三間四方、紫宸殿の賢聖障子に直結
安土城天主障壁画(1〜4階は主殿部分、5・6階は楼閣部分)(横書き)
石蔵の地階と屋根裏となった四階を除く各階の座敷には、狩野永徳による種々の豪華な障壁画が描かれていた。かつて将軍足利義政が御用絵師・狩野正信に命じて東山御所で障壁画を制作させたように、事実上の将軍だった信長も、自らの執務空間である天主を、当代一の技量を持つ御用絵師によって荘厳なものとさせたのだった。
この表を一見して気づくのは、従来の安土城天主の復元案にみられる問題である。内藤昌氏や宮上茂隆氏の復元案は有名で、これまでも議論を巻き起こしたが、これらに共通するのが、後の天守建築と同様に、防御機能を重視するために壁面を多くとって、開放性が低いことである。
天主の内部空間に描かれた彩色豊かな障壁画は、効果的な採光によってこそ映えるものである。なによりも、窓や戸を大きく採らねば居住は不可能だ。実際に信長は、ここに起居して政務を執り、様々な人と対面したのである。したがってこれまでの復元案には、共通する問題がある。
安土城天主の主殿部分にあたる一階から三階までは、窓や戸を多用したかなりオープンな外観だったのではなかろうか。あえて表現するならば、書院造りの御殿を三層重ねたような構造だったとみる。
筆者は、主殿に楼閣を載せた奇抜な高層複合建築である安土城天主は、将軍足利義満の北山第の中心施設舎利殿(金閣)を意識したものと考える。たとえば、両者ともに最上階が金箔押しの三間四方の禅宗様建築で、その軒には風鐸が下がっていた。
異なるのは、シンボルである。舎利殿の屋根には、朝廷の象徴でもある鳳凰が載っていた。これに対して天主の楼閣一層目の外縁の高欄下の側壁には、遠目にも鮮やかに鯱と飛龍が、また六階の四方の内柱には、下り龍・上り龍が描かれていた。
龍は中国皇帝の象徴であり、中国思想を反映したものだった。龍に関連して、晩年の信長が自らの印章である「天下布武」印に、二頭の龍を縁取ったものを使用していることも想起される(現時点で一三個の使用例が確認されている)。
信長は、中国の政治思想に理想を求めたのである。それは、天主楼閣部分(五階・六階)内部に、三皇五帝や孔門十哲・商山四皓をはじめとする中国古代の聖天子や聖人たちの絵画で満ちていたことが象徴的である。信長は、日本の古典ではなく、東アジアの中心にあった中国の国生み神話に結びつくことによって、中世を超克しようとしたのだろう。
秀吉の創建した大坂城天守は、有名な「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣所蔵)をはじめとするいくつかの絵画史料から、その外観を推測することができる。諸史料からも、安土城天主と同様の地階と地上六階だったことが確認される。しかし、たとえば五階が朱塗りの八角堂だった安土城天主のように、寺院建築を意識したものではなかった。
また当初から、政庁としての機能がなかったことも重要な特徴だ。秀吉を訪問した人々が拝謁するのは、天守ではなく本丸御殿だった。確かに秀吉も、大友宗麟やイエズス会準管区長ガスパル・コエリュなどの賓客を、信長のように天守に案内している。しかし関係史料にも記された通り、天守外観は開口部が少なく、内部は大筒をはじめとする武器が設置されたり、金・銀や茶器などの財宝を蓄えるための倉庫としての役割がメインだった。
興味深いのは、天守内部に秀吉夫妻の寝室があったことである。豪華なベッドを用いており、周囲の部屋には多数の侍女も控えていた。秀吉にとって天守とは、私的な奥向きの場だったのだ。
以上をまとめると、信長の天主は城郭の中心に位置し、主殿建築の上に寺院建築を載せた権力と権威の象徴であり、秀吉の天守は本丸の隅に配置されたことからも城内最大の櫓だったといってよい。その意味で大坂城天守は、その後の近世天守建築に直接影響を及ぼしたといいうる。
このように、二人の天下人の違いの一端は、その居城の天守からもうかがうことができる。信長は、中世的な教養を身につけた軍事カリスマだった。それを象徴するように、彼の天主の内外には中国への憧憬がにじみ出ていた。それに対して秀吉の天守は、金や漆をふんだんに用いて豪華ではあったが、直接それから政治思想をうかがうことはできない。
尾張の戦国大名から出発した信長は、室町幕府を否定し、さらには朝廷権威の取り込みまで画策したが、その背景には中国思想があった。秀吉は、信長の政策を積極的に継承しつつも、天皇を頂点とする既成権威とは対立せず、むしろ徹底的に利用することで、短期間に政権を掌握することをめざした。すなわち自らが関白や太政大臣に就任し、諸大名を公家に推挙し、神国思想を鼓吹することで、日本独自の秩序づくりに専心したのだ。 
 
豊田城 / 常総市の旧石下町

 

豊田城
これより東南方河川を含む一帯の地
豊田城は、後冷泉天皇の永承年間(一〇四六−一〇五三)、多気太夫常陸大掾平重幹の第二子四郎政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部大半、水海道市大半)を分与されて石毛(若宮戸及び向石下)に住し、石毛荒四郎又は赤須四郎と名乗り、周辺一帯に亘ってその勢威を張っていたが、前九年の役にあたり源頼義、義家父子に一族郷党を率いて、千葉常胤らを共に従い、阿武隈川の先陣を始め得意の騎馬戦法を駆使して数度の大功を立て、安倍頼時、貞任、宗任親子を討って凱旋、天喜二年(一〇五四)重き恩賞の栄に浴して豊田郡(江戸期以降の岡田・豊田両郡)を賜り、鎮守府副将軍に列す。名を豊田四郎政幹(基)と改め豊田、猿島両郡の願主として君臨し、館を若宮戸及び向石下と構えるも、後に子孫居所を変え十一代善基、台豊田(今の上郷)よりこの地に城を築いたのが始まりといわれる。
これよりは豊田氏の勢いは大いに奮い、漸次郭の城を整え本城、中城、東城の三館を以て構成広く常総を圧した。
録するに豊田氏の源平相剋の時代にあって源氏に属し、平氏の栄華を西海に追い、文治五年(一一八九)兵衛尉義幹、常陸守護職八田知家に従い奥陸に藤原泰衡を討ち、建保元年(一二一三)同幹重、泉親平の党上田原親子三人をとりこに、宝治元年(一二四七)三浦泰村の乱に連座し、一時鎌倉の不興を買いしも、武威はいよいよ高揚した。
南北朝時代は南朝に与し、北畠親房、護良親王を小田城、関城に擁して戦い、後に高師冬と和解して足利家に従属する。
戦国時代に入り、各地に群雄が割拠するや常総の風雲も急を告げ、対処するに豊田氏は金村城、長峰城、行田城、下栗城、吉沼城、袋畑城、羽生城、石毛城等の支城及び常楽寺、報恩寺並びに唐崎、長萱、伊古立、小川らの諸将を託したが、結城、佐竹の大勢力に次第に領域を狭められつとに威勢の後退を見るに至った。
二十一代政親、二十二代治親の代に至り、殊に下妻城主多賀谷重政、政経の南侵甚しく小貝、長峰台、蛇沼、加養宿、五家千本木、金村の合戦など戦うこと数十度に及ぶ。
もとより要害堅固の城に、武勇の家柄とて、一ときたりとも敗戦の憂目を喫することはなかったが、天正二年縁戚にして盟主なる小田氏治が佐竹勢の為に土浦城が滅亡するに及び、翌天正二年(一五七五)九月猛将弟石毛次郎政重の城中頓死に相次ぎ、治親自身もまた十月下旬の一夜家臣の謀反に遭って毒殺のあいない最後を遂げ、始祖四郎将軍政幹以来五百二十有余年に亘って栄えた常総の名家豊田氏も遂に戦国の露と消えたのである。
一説に、夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れたという。
爾来、城は二十余年の間多賀谷重経、三経の居城となったが、慶長六年(一六〇一)二月二十七日、父政経、徳川家康に追放されて廃城となった。
星霜、ここに三百七十余年、土着の縁者数多しと雖も、城址は一面圃場に姿を変じ、不落の要害も河川の改修にその痕跡を断つ。
今はただに往時を偲ぶよすがとて、僅かに御代の宮、鎧八幡、将軍の宮、城地の字名に過ぎず。
全てはこれ天と地と太古悠久たる小貝川の流れが知るのみである。
昭和四十九年十月二十一日 旧石下町
桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望−良望(国香)−繁盛−維幹−為幹−
重幹−豊田四郎政幹(初代)−善幹(十一代)−元豊(十七代)−
政親(二十一代)−
・治親(二十二代)−治演 武蔵豊田の祖
・政重(石毛氏の祖)−正家
・政忠(東弘寺忠円)

平将門を倒した平貞盛の子孫で最も著名なのは清盛を輩出した伊勢平氏である。貞盛の弟繁盛の子孫では大掾(だいじょう)氏が知られている。「多気太夫常陸大掾平重幹」までの血脈は同一だが、その子政幹(まさもと)が豊田氏の祖となる。
解説文中の「兵衛尉義幹」は惣領家多気大掾氏6代目の人物、「幹重(もとしげ)」は源頼朝の頃に活躍した御家人で豊田氏4代目の人物である。豊田氏12代目(解説文では11代)の善基(よしもと)が正平年間にこの地に城を築いた。これが豊田城の始まりである。
以来、豊田氏はこの城を本城として戦国の世を渡っていく。最終段階では、小田氏・豊田氏VS佐竹氏・多賀谷氏の構図で対立していたが、豊田氏20代目(解説文では22代)の治親(はるちか)が天正三年(1575、解説文の二年は誤り)に多賀谷氏によって滅ぼされる。
「夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れた」とのことだが、草加市柿木町の女体神社には次のような伝承がある。
不思議な力で守られながら、豊田氏の一行は柿木に落ちのびてきました。そして、この柿木を安住の地と定めると、自分たち一行を守ってくれた女体神社に感謝し、筑波山の方向に向けて女体神社を建立しました。また豊田氏は、共に逃れてきた家来や領民と力を合わせ、この柿木の開拓の祖となったということです。現在でも柿木では、筑波山に代参を立てています。
「中城土地改良事業竣工記念の碑」
この地は常総の山野に君臨した名門豊田氏の城跡である。十二代善基は、この地一帯に築城して本拠地となし、若宮戸に祈願寺として開基した龍心寺を現在地に建立し隆盛を誇った。
やがて戦国乱世の弱肉強食の時代に至り、新興勢力多賀谷氏の南侵激しく豊田領は風雲急を告げた。しかし豊田城は堅固であり尋常の攻めでは手中に落ちず、多賀谷は偽って和睦を申し入れ、重臣の白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。
社参した全洞は、雷神宮境内に於て豊田老臣飯見大膳を待受け、言葉巧みに近づき茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、豊田側不利を説き、寝返りの腹をさぐった。
主家の衰微ゆく様を憂い、身の行末を案じていた飯見大膳は、白井全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との甘言に乗り、主君虐殺を決意し天正三年九月、十三夜の月見の宴に事よせて主君治親を毒殺せんと私宅に招請した。
豊田氏の守護神金村雷神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず鳴動があるといわれ、折も折奥殿に震動が起り、宮司の「凶事の起る恐れあり」との具申があった。まもなく石毛城より城主政重頓死の知らせがあり、月見の宴は中止となったが再び十月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて茶会を催した。
治親夫人は、不吉な予感による胸さわぎのため出向くことをとどまる様懇願したが、「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅におもむき、毒酒を盛られて悲運の最期を遂げ、豊田城は逆臣により乗っ取られた。
豊田の遺臣は石毛城に拠り抗戦するも、逆臣の身柄引き渡しと次郎政重の遺児七歳の太郎正家の助命を条件に下妻に降った。
多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に引き渡した。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連れ出し、主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の造った竹鋸を以って挽き割り、大膳一族三十六人の首をはね主君の無念を晴らした。
[ 善良な主君を謀略によって亡き者にするとは。今に残る無念さが伝わってくるようだ。豊田城が逆臣により乗っ取られた後に、豊田の遺臣が拠って抗戦したのが石毛城だという。]

豊田氏の系図
桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望−国香−
・貞盛
・繁盛−維幹−為幹−重幹−将基(豊田氏の祖)−成幹(2)−基善(3)−基重(4)−基道(5)−基友(6)−基富(7)−為基(8)−基将(9)−朝善(10)−基安(11)−善基(12)−治基(13)−親治(14)−豊基(15)−常演(16)−元豊(17)−基政(18)−政親(19)−治親(20)−治演
・政重(石毛城主)−正家
・忠円(東弘寺住僧)
「石毛城跡」石碑 (常総市本石下・八幡神社)
石毛城は、天文元年(一五三二)豊田城主四郎政親が、宗祖将軍将基の遺霊を祭祀させ、近年豊田領への蚕食押領甚だしき、下妻多賀谷氏の抑え、豊田本城の前衛として構築し、石毛の地(一万貫)を分封し、次子次郎政重を拠らしめたと伝えられている。−天文三年織田信長生る−
豊田家宗祖将基(赤須四郎)は、桓武天皇第五皇子葛原親王八代の後胤常陸大掾平重幹の第三子で、前九年の役(一〇五一)に源頼義、義家(八幡太郎)父子に従軍し阿武隈川の先陣乗りの功を立て康平五年戦功により豊田・岡田・猿島の三郡を賜る。さらに後三年の役(一〇八三)にも従軍、功により常陸多賀郡の地(現北茨城市)を賜り、孫政綱を拠らしめたと伝えられている。(現在北茨城市に豊田城跡あり)
豊田氏其の勢盛んなるとき、豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡西部を領有し、十一代基安は南常陸に侵攻し、弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総四隣を圧するものがあった。結城家は重臣多賀谷氏下妻に配し小田・豊田の抑えとした。やがて戦国時代に突入、下剋上・新興勢力の台頭あり、とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城氏より独立を図り、豊田領侵略の機を窺う。
豊田氏は自衛上、先ず隣城手子丸(現豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷に対する備えとして十七代元豊は三男家基に、八幡太郎拝領の甲冑を与えて「これ、我家の至宝なり。今これを汝に伝う。袋畑は下妻の咽喉なり。この家宝と領地を死守せよ」と命じ、豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。
豊竹第十九代政親は常陸小田城主氏治の妹をめとり、親族大名として同盟関係に入り、さらに横堤東端、今の県立石下高等学校(現在の地名館出)附近に出張館を置き備えた。
豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷の攻勢激しく、豊田の旗下行田館(現下妻市)、下栗常楽寺(現千代川村)、総上の袋畑右京、四ヶ村の唐崎修理、長萓大炊、伊古立掃部、豊加美の肘谷氏などを相次いで降し、又小田の旗下にあった吉沼城を攻め城主原外記、其の子弥五郎を殺し、さらに館武蔵守の守る向石毛城を攻め落す。
小田氏治を伯父とする石毛政重は、元来その性勇猛にして、兄治親とともに豊田・石毛を併呑しようと来攻する下妻多賀谷の大軍を永禄元年(一五五八)長峰原(現豊里町)、蛇沼(現豊田)に迎え撃ち、小田氏の援軍を得てこれを撃退す。−この頃上杉謙信と武田信玄川中島に戦う−
永禄四年石毛政重は豊田・石毛の連合軍五〇〇余兵を率いて、宍戸入道と相謀って、加養宿より古沢宿(現下妻市)へ進撃するも負傷し、多賀谷城(下妻城)を目前にして帰城す。−永禄三年今川義元、信長に討たる−
永禄六年下妻多賀谷軍の岡田、猿島進攻に抗して、石毛政重は廻文す。古間木城主渡辺周防守を始めとする岡田、猿島勢これに応じ、三四〇〇余兵を以て五家千本木(現千代川村)に布陣し五〇〇〇余兵の下妻勢と激戦、勝利のうちに和睦(結城晴朝の仲裁)する等積極果敢なるものがあり、豊田本城の前衛としての責を善く果たす。
天正元年(一五七三)再び攻め寄せる多賀谷軍を金村台(豊里町)に迎え撃ち、小田の援軍を得てこれを破る。−この年甲斐の武田信玄卒−
多賀谷軍の攻勢激しく、豊田城・石毛城風雲急を告げる。小田・豊田・石毛は力を合わせ戦うも、守るに精一杯で新進気鋭の多賀谷氏を打倒する程の気概はなかった。−天正二年小田城落城−
常総の諸豪、風を望みて佐竹・多賀谷の膝下に屈し状勢悪化を辿る。天正三年九月十三日、あたら勇将政重も石毛城中にて脳卒中の為、敢えない最後を遂げ、戦乱一期の花と散る。
豊田城主治親の落胆一方ならず、城の守り諸事の手配を家臣に命じた。宗祖将基以来五百有余年、さしも栄えし豊田家も命運の尽きる処か、弟政重の死に遅れること一ヶ月余り、治親も又、叛臣の謀に遭って毒殺され、豊田城は多賀谷軍に乗取られる。治親夫人と幼い二子は真菰に身を包み、小舟に乗って高須賀館(現谷田部町)を経て、武蔵柿木(現埼玉県草加市)に逃れたという。
その夜、豊田家忠臣血路を開き、急を石毛城に告ぐ。
多賀谷氏は時を移さず、重臣白井全洞を将に七〇〇余兵を以て石毛城に攻め寄せる。
豊田・石毛勢二五〇余頑強にして攻めあぐみ、一旦若宮戸常光山迄退き、援軍五〇〇余を加え数日間、死闘を繰り返す。
豊田・石毛勢形勢非なるを以て、相謀り七歳の幼君太郎正家の安泰と主殺しの大罪人飯見大膳の引渡しを条件に下妻に降る。−この年長篠の合戦あり−
石毛太郎正家は叔父東弘寺忠圓に養育され仏門に入り、のち、石毛山興正寺中興の祖として天寿を全うした。寛永十二年(一六三五)六月十九日歿、法号石毛院殿傑山宗英大居士。
石毛城は多賀谷氏一族の拠る処となったが、天正十三年、多賀谷家の内紛により、築城五十四年にして廃城となり、後顧の憂いを除くため焼却されたと言われている。−天正十年織田信長本能寺にて自刃−
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに多賀谷氏西軍(石田方)に与するを以て翌年徳川家康に改易追放され、石毛地方は徳川の天領となり、多賀谷氏の豊田・石毛領支配は二十七年にして終る。
現在の八幡宮は、慶長二十年(元和元年)旧臣等宇佐八幡宮を勧請し、城址に創祀したものと伝えられている。−この年大坂城落ち秀頼母子自刃す−
落城の光陰いま見る四百有余年の星。所縁の苗裔数ありと雖も、過ぎたるは多くを語らず。城地は一望宅地化して、城跡の面影、老榧の残照土塁の一辺に過ぎず、字名の一端に窺い知るのみ。嗚呼、行雲流水ゆきて帰らず、知るはこれ極月除夜の鐘の音、諸行無常と響くなる哉。
[ 石毛城は、豊田氏19代目政親が天文元年(1532)に、北方下妻の多賀谷氏の抑えとして築き、次子政重に守らせたとのことだ。天正三年(1575)に城主政重が急死し、本城豊田城が多賀谷氏の謀略によって落とされた後、豊田勢が最後まで抵抗したのがここ石毛城であった。数日間の戦いの後、豊田勢は力尽きて降伏し、まだ幼かった城主正家は仏門に入った。 ]
「向石毛城址」 (常総市向石下・将門公苑)
[ この地は平将門の「豊田館址」である。将門の生れた場所と言われている。]
この地に拠った坂東の風雲児平将門戦死後、その荘園は平貞盛の領有となる。貞盛は所領を弟繁盛に委任し、繁盛の子維幹を養子として全領を伝え、伊勢の国に領地を持って伊勢平氏となる。(九代後、清盛出現)常陸大掾平維幹の孫重幹の第三子政幹、下総豊田郡石毛荘(若宮戸)に住し赤須四郎(石毛荒四郎)と称す。
陸奥の安倍頼時・貞任叛し前九年の役起こるや、赤須四郎、豊田郷兵を率いて源頼義・義家の追討軍に参陣。阿武隈川の先陣をはじめ、数多くの功により康平五年(一〇六二)、後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ神旗(蟠龍旗)・豊田郷を賜り、名を豊田四郎平将基と改め、ここに豊田氏の祖となる。
将基、館を天然の要害「豊田館」跡に構築して、長子石毛太郎広幹を拠らしめ豊田氏隆盛の礎とする。これ向石毛城の起源なり。また次子三郎成幹を台豊田に配す。その後、奥州の清原氏叛し後三年の役となるや再度豊田郷兵を派遣、その功により常陸多賀郡の地を賜り、館を築き孫政綱を拠らしめる(現北茨城市に豊田城址あり)。豊田氏勢威盛んなるときは豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡の西部を領有し、常総の山野に威武を張った。
豊田郡は古来、大結牧(古間木・大間木)が置かれ馬の名産地であった。豊田氏は源頼朝に各地の地頭らが馬を献上したときも、最良の馬を献じ面目を施している。また、将軍頼朝出向の際には馬牽、騎馬、随兵として一族郎党を率き連れ従うなど信任厚く、寺院造営では雑掌奉行にも任ぜられている。その後、宝治元年(一二四五)、三浦泰村の乱に連座し豊田氏幕廷に勢力を失う。
世移り、まさに弱肉強食の戦国時代。向石毛城は関館氏の一族、館武蔵守が支配する。
永正年間(一五〇四−二一)、時の城主武蔵守宣重自然の地形を、より要害たらしむべく塁を高め、堀を深くし水を引き入れ、橋梁をもって城地を結び大手を拡げ、南に一の塚、北に二・三・四の塚の見張血を設けて防備を固め、豊田城と東西相呼応して守りを固くす。
下妻三十三郷を手中にした新興勢力の多賀谷氏は強豪佐竹氏と結び、小田・豊田領に侵入し領域拡大を計る。天文元年(一五三二)、豊田城主十九代政親石毛城を築き、二男次郎を石毛次郎政重と名乗らせ分封し豊田本城の前衛とす。−天文三年 織田信長出生−
天文年間、下妻多賀谷勢は突如として向石毛領に侵入北辺の前衛第一の陣四の塚(杉山)は弓矢の攻撃に全員討死。三の塚、二の塚も次々と破られ急を本城に知らせるいとまもなく、正月三日、祝宴の一瞬の隙を突かれて焼き打ちされ向石毛城は落城。城主武蔵守は自刃。嫡子播磨は外舅の古間木城主渡邉周防守を頼って落ち、その養育を受ける。重臣増田、松崎、大類、斎藤、草間、軽部等石毛を頼る。ここに向石毛城は廃城となる。
天正三年(一五七五)、豊田市二十代(一説に二十二代)城主治親逆臣に毒殺されて豊田城落城。同四年、古間木城も多賀谷政経の攻略する処となり、城主渡邉周防守討死、播磨は多賀谷に降る。後、多賀谷氏関ヶ原の合戦に佐竹氏とともに西軍に与するをもって領地没収追放される播磨は仏門に入り向石毛城跡に般若山法輪寺を再建し、祖先の菩提を弔い中興の祖となる。
思えばこの地、坂東武士発祥の地として中央・地方の政治史に一大変革をもたらし武家社会創設の遠因となる。一世に名を馳せた武夫の夢も今は僅かに御殿、水泳人、弾正、御城、西館、一盃館、大手、城廻等の字名と、土塁の一辺に痕跡をとどめるのみ。
ここに基金を寄せられた人々に感謝の意を表し、願わくは先覚の魂魄安んじて永劫にとどまり、郷土の発展にあずかって力のあらんことを。
[ 向石毛城は豊田氏初代の将基が構築し、長子広幹を拠らしめたという。前九年の役の頃である。次子成幹は台豊田に配される。今のつくば市上郷のあたりである。南北朝期に豊田城へ移るまで、台豊田が豊田氏の本拠となったようだ。戦国期は豊田勢の館武蔵守が城を守っていたが、天文年間に多賀谷勢により落とされ廃城となった。]
「長峰城址」石碑 (つくば市上郷)
康平五年(一〇六二)豊田家興るや、常陸国筑波郡の上郷は台豊田と呼称され、以来中世約五百年その勢力下にあった。長峰橋のたもとから北に峰状にのびる長峰は字上原の台地が小貝川に臨む断崖絶壁の要害の地であり、縄文以来の古代の住居がある。
戦国乱世の文明十一年(一四七九)豊田家十七代元豊が対岸の下総国豊田郡豊田郷にあった豊田城の支城として長峰城を築き、長峰右近将監が城主となった。永禄元年(一五五八)には長峰原合戦があり、天正元年(一五七三)の金村台合戦を経て、その後、廃城となった。
以来四百有余年の星霜を経るもなお城壕あり。往時のつわものどもの歴戦の跡をとどめている。なお上郷山宗徳院は将監の開基にて創建当時は長峰山即徳院と称してこの地にあった。昭和五十八年一月吉日長峰橋の開通にあたりてこれを刻む。
[ 長峰原と金村台の両合戦とも豊田勢と多賀谷勢の争いだったが、豊田勢が多賀谷勢を退けた。おそらくは天正三年の豊田城落城と命運をともにしたのであろう。]
 
豊福城 (とよふくじょう)

 

豊福は熊本県のちょうど中央、今の松橋町(まつばせまち)にある。豊福と書いて「とよふく」、なんとも幸多き地名だ。豊福のあたりは江戸時代頃は益城郡(ましきぐん)だが、古代から中世にかけては八代郡(やつしろぐん)に属していたらしい。「和名抄」に八代郡豊福郷、「日本霊異記」に八代の郡豊服の郷、が出てくる。また、菊池重治(きくちしげはる)から相良長祗(さがらながまさ)に宛てた年不詳の安堵状に「八代郡並益城郡之内豊福二百四十町」とあるという。なお同安堵状は大永三年(1523)六月のことともいう。
豊福城は、豊福小学校の南東500mくらいのところにある。道案内の標識がなければ分からないくらいのちょっとした高まりだ。もともとは北方の丘陵が南に延びた台地の先端で、築城の際に掘り切って独立丘陵としたものという(現地案内板)。形状は楕円形で、堀切に続く水田地帯が外堀、独立丘陵をさらに細分する堀切が内堀と考えられていて、この内堀の南側に二段の高まりがある。高まりといっても、今では上の段で比高5〜8メートル程度、海抜20メートル程度のものだ。上の段は現在はゲートボール場になっている。
豊福は古くから交通の要衝であったため、その周辺では多くの合戦が行われ、豊福城は争奪の的となっていた(現地案内板)。豊福は、内陸の甲佐(こうさ)から宇土半島(うとはんとう)への交通路、および熊本平野から八代(やつしろ)への交通路(のちの薩摩街道)が交差する位置にあり、また昔は海に面していた。交通の面だけではないと思う。南から攻める相良(さがら)氏にとってはさらなる領地拡大の橋頭堡として、北から攻める名和(なわ)氏にとっては橋頭堡というよりも居城の宇土古城を守る縦深を形成するための拠点として、ともに重要だったと考えられる。
豊福城の築城時期、築城者は不明だ。現地案内板では、建武年間に名和義高(なわよしたか)の代官・内河彦三郎義真(うちかわひこさぶろうよしざね)が八代に下向しているので、その頃の築城だろうと推定している(現地案内板)。名和義高は、元弘三年(1333)に後醍醐天皇を船上山(せんじょうさん)に迎えたあの名和長年(なわながとし)の子である。のち正平十三年(1358=延文三年)名和義高の養子・名和顕興(なわあきおき・実は義高の弟基長の子)が一族を率いて肥後に下り、八代庄の豊福城に入ったという。名和氏の居城といえば八代の古麓城(ふるふもとじょう)であるが、古麓城へ入る前に一旦豊福城へ入ったということだろうか。あるいは、豊福城に入った後に古麓城を築いたのだろうか。そのあたりは、よく分からない。名和顕興は、豊福を占拠して地元の武士たちと争ったという話もある。中央から大人数で移り住もうとすれば、移住先近辺の人々との間にいさかいが起こるのは当然だし、そういう人々が敵方、この場合は北朝方に加わって余計に事態がややこしくなるのだと思う。
一方、相良氏は、遠江国榛原郡(はいばらぐん)相良庄を本願とするとされ、いつの頃からか肥後国球磨郡多良木(たらぎ)を中心に地歩を固めていたらしい。鎌倉時代の寛元元年(1243)に相良長頼(さがらながより)が人吉庄北方を北条氏に没収されており、この奪還が相良氏の宿願だったようだ。鎮西探題滅亡後の正慶二年(1333)六月相良頼広(さがらよりひろ)は大宰府原山の尊良親王(たかよししんのう)の陣所に赴き、翌建武元年(1334)以降、人吉庄北方地頭職の返付訴訟を行った。その申し状に、足利尊氏の東上に際して供奉せんと球磨郡を出立したが八代庄で内河義真と合戦におよび親類若党に死傷者を出した、とある。つまり北朝方であったわけである。しかし、この頃の諸勢力が南北への転身を繰り返したように、相良氏も相良前頼(さがらさきより)は正平二十三年(1368)には南朝へ、今川了俊下向の応安四年(1371=建徳二年)より以前に北朝へ、さらに弘和三年(1383)四月再び南朝方へ帰順し、のち南北朝合一を迎えた。したがって、この頃は相良氏と名和氏は味方同士であった。
相良氏と名和氏が戦争状態に入ったきっかけは、八代高田郷(こうだごう、たかたごう)の争いと云われるが、それより前に芦北郡(あしきたぐん)をめぐる確執があったらしい。芦北地方は、かなり早くから相良氏領と認められていたが、南北朝期に名和氏は水俣・津奈木・佐敷などの諸城に家臣を派遣して北朝方と戦い、芦北を実効支配していた。しかし、相良前頼が南朝方に鞍替えした弘和三年(1383)四月に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)・良成親王(よしなりしんのう)は芦北を相良氏の所領として認め、南北朝合一ののちも守護・菊池武朝(きくちたけとも)が追認した。名和氏としては芦北を取り上げられた格好になり、不満だったと思われる。さらに、相良長続(さがらながつぐ)は守護・菊池為邦(きくちためくに)から宝徳三年(1451)四月一日、芦北を安堵されている。そういった背景を持ちながらも、ともに南朝で戦った仲であるためか、一気に敵対関係に発展したわけではない。その中で高田郷を争うようになる経緯というのは、寛正四年(1463)名和長利(なわながとし=名和義興よしおき、か)が死去したが、名和義興の養子・幸松丸(こうまつまる)が十三歳であったため、一族重臣間で家督争いが起こり、老臣内河式部少輔喜定は幸松丸を奉じて人吉の相良長続(さがらながつぐ)を頼ったという。長続はこれを保護し、宇土の領主・宇土忠豊(うとただとよ)に対し幸松丸の復帰を交渉した。その結果、寛正六年(1465)三月、幸松丸は古麓城へ帰還することができた。幸松丸は、のちに名和顕忠(なわあきただ)と名乗るようになるが、顕忠こと幸松丸は、長続の尽力に対する返礼として高田郷三百五十町を譲ったという。相良氏は高田(こうだ)に平山城を築いた。高田郷は、古麓城のすぐ対岸の球磨川左岸一帯である。建武二年(1335)八代庄地頭職の名和義高は高田郷内志紀河内村(しきがわちむら)を出雲杵築大社に寄進した。この志紀河内村は、現在のJR肥後高田駅と日奈久温泉駅の間の敷川内町に比定される。要するに、高田郷は古麓城の咽喉元というべき位置にある。そのため、この領地割譲は名和顕忠が自発的に行ったものではないだろう、と考えられている。あるいは、相良氏の宣伝ではないか、という見かたもあるが、のちに名和氏が高田郷へ攻め入っていることから、何らかの譲渡はあったはずだ。高田郷を条件に相良長続が幸松丸を庇護した可能性も考えられる。
ところで豊福城であるが、幸松丸が八代に復帰した翌年文正元年(1466)、肥後守護菊池為邦の子・菊池武邦(きくちたけくに)が豊福城にたてこもって父に叛旗を翻したという。その理由や武邦を擁立あるいは支援した勢力などは不明だ。前年の寛正六年(1465)に菊池為邦が筑後半国守護職を大友氏に奪われたことが関係しているのかもしれない。この反乱に対し、菊池為邦の長男・重朝(しげとも)が将となって豊福城を攻め落とし、弟武邦を討ったという。この戦いの後、為邦は家督を重朝に譲り亀尾城に隠居したとされる。
文明十三年(1481)名和顕忠は高田郷の平山城に犬童美作守重国を攻めた。また翌文明十四年(1482)にも相良勢の主力が島津国久・菱刈氏重を援助するために南下している隙をついて高田を攻めている。しかし、この攻撃は成功しなかったようだ。これに対して相良為続(さがらためつぐ)は、文明十五年(1483)島津国久・祁答院重度・北原昌宅・菱刈道秀・天草衆の援軍を得て古麓城を攻め落とし、その裁定を守護菊池重朝(きくちしげとも)に託した。このときは重朝は相良氏の八代領有を認めなかったが、相良為続は翌文明十六年(1484)三月再び古麓城を攻撃、名和顕忠は城を捨てて逃亡したので相良氏の八代領有が実現した。相良氏が八代を望んだ理由は、港を欲したためといわれる。このとき名和顕忠がどこに逃れたのか、よく分からない。その直後の文明十六年(1484)四月十六日、菊池・名和連合軍と相良為続・宇土為光(うとためみつ)連合軍は益城郡木原山の麓の明熊(あけくま)で合戦に及んでいる。この戦いは菊池重朝方が勝ち宇土為光は相良領松求麻(まつくま)に逃れた。しかし、翌文明十七年(1485)菊池重朝・阿蘇惟家・名和顕忠連合軍と相良為続・宇土為光・阿蘇惟忠連合軍が矢部の馬門原(まかどばる)で合戦し、今後は菊池方が敗れた。勢いに乗った相良為続は、長享元年(1487)三月一日豊福城を攻撃、守将竹崎蕃馬允安清父子を討った。為続は豊福城に稲留刑部大輔を入れ、菊池氏は相良氏の八代・豊福領有を認めるに至った。相良氏の勢力が八代を越えて豊福まで及んだわけだ。こののちのことと思われるが、菊池重朝の嫡子・宮菊丸(みやぎくまる=のち武運、能運)と相良為続息女(孫娘とも)との婚約が成立したが、明応二年(1493)菊池重朝の死去に伴い自然消滅した。明応七年(1498)相良為続は豊福城を拠点に隈庄(くまのしょう)に出兵した。為続がどんどん北上しているのが分かる。相良氏の攻勢に対して守護職を継いだ菊池武運(きくちたけゆき)は、翌明応八年(1499)三月十九日豊福を攻め、竹崎城外に布陣した相良勢を破ると、その二日後には古麓城に攻め寄せた。武運の軍勢は名和氏のほか、天草衆や有馬勢も加わっていたという。相良氏の急伸を好まない勢力が加担したものと考えられる。相良為続は城を持ちこたえることができず、人吉に撤退した。古麓城には名和顕忠が復帰した。また、豊福城も守護菊池武運により名和氏に与えられたという。翌明応九年(1500)六月四日、相良為続死去。トントン拍子の快進撃から急転直下、一気に八代までも失い、さらには出水の島津薩州家の出水侵攻、真幸院の北原氏も離反し、おそらくは失意の中であったろう、家督を長男の長毎(ながつね)に譲った。翌文亀元年(1501)菊池武運は天草国衆に小野・豊福を与えた。相良攻めの恩賞という。
ところが、肥後の情勢は猫の目のように変わっていく。文亀元年(1501)守護菊池武運(きくちたけゆき)は守護の座を追われ、島原の有馬氏を頼って、逃れた。その経緯は、宇土為光と隈府城外の袈裟尾野(けさおの)での合戦に敗れたとも、重臣隈部上総介(くまべかずさのすけ)の謀叛によるものともいい、ハッキリしない。
ともかく、菊池武運は島原へ逃亡し、宇土為光が肥後守護職についた。この変化に対して、相良長毎(さがらながつね)は、文亀元年(1501)五月、八代へ出兵、古麓城を落とした。名和顕忠の後ろ楯であった菊池武運の没落に乗じたのだろう。ところが、宇土為光が相良氏の八代領有を拒否した。宇土為光はかつて、明熊の戦いや馬門原の戦いで相良氏と共に戦ってきたが、いざ相良氏が八代を領有しようとすると、自らへの脅威と感じたのか、拒否に出た。為光にとってはパワーバランス上の判断だったのだろう。相良長毎は翌文亀二年(1502)八月にも古麓城を攻め、十月まで包囲を続けたが、一旦兵を退いた。この頃、島原へ逃れていた菊池武運は島原滞在中に能運(よしゆき)と改名していたが、その菊池能運に相良長毎は交渉をもった。能運の菊池家督復帰、すなわち守護職復帰を支援したのだ。かつて古麓城を追い出されたその当の相手に援助の手を差し伸べたのである。長毎には充分な計算があったはずだ。
そして、文亀三年(1503)菊池能運が有馬氏の調達した兵を率い島原から高瀬(現玉名市)に上陸、城重峯、隈部運治らも呼応し、宇土為光との合戦に勝った。為光は筑後に逃れたが、捕えられ斬られた。これに呼応して、相良長毎は同年八月五日、古麓城に攻め寄せた。為光を破った菊池能運も十一月十五日には古麓城攻めに加わった。名和顕忠にしてみれば、自分を支援して城主に復帰させてくれた守護が敵方にいることが納得できなかったことだろう。相良長毎が一枚上手ということかもしれない。名和顕忠は菊池能運の降伏勧告を受け入れ、翌永正元年(1504)二月五日開城し、宇土古城へ移った。。相良長毎が古麓城に入ったのは二月七日という。
このとき、豊福城も相良長毎が手に入れたようだ。ところが、猫の目はまだまだ回っていて、長毎が古麓城に入城した直後、二月十五日に守護菊池能運は急死した。高瀬での宇土為光との合戦の傷が悪化したものともいわれる。能運には嗣子がいなかったため、菊池家には跡目争いが起こる。菊池一族の菊池政隆(きくちまさたか)と阿蘇惟長(菊池武経きくちたけつねと改名)が家督を巡って激しく対立した。このため、相良長毎は豊福の領有を諦めたという。そうなると、豊福城は名和顕忠が占領したものと考えられる。
いよいよ豊福城を巡る宇土古城名和氏と古麓城相良氏の争いが本格化していく。七年後の永正八年(1511)相良長毎は久具川を挟んで名和顕忠と戦ったが、大敗した。ということは、相良長毎が益城へ攻め込んで返り討ちにあったということだろうか。よくは分からないが、この七年間の間に何もなかったということではなく、記録に残っていない合戦があったことは推測に難くない。
久具川の戦いから五年後、永正十三年(1516)十月、相良勢が豊福へ攻め入り、十二月十三日豊福城を占領した。この月、大友義長の依頼により鹿子木親員・田島重賢が相良・名和両氏の調停に乗り出し、相良長毎と名和顕忠・武顕(たけあき)の間で和睦が成立している。相良勢が豊福城を攻め落とした結果の和睦なのか、和睦の結果相良勢が豊福城を占有したのか、分からない。
永正十五年(1518)五月十一日、相良長毎死去。家督はそれより前、永正九年(1512)に三男の長祗(ながまさ=はじめ長聖ながきよ)に譲っており、長毎は隠居して加世(かせい)と号していた。しかし、長祗が元服したのは永正十二年(1515)五月十三日なので、長毎は隠居後も実質的な権力を保持していたと考えられる。
そして前述のように、大永三年(1523)六月と思われる年不詳の菊池重治安堵状で、相良長祗は「八代郡並益城郡之内豊福二百四十町」を安堵された。しかし、その翌年大永四年(1524)人吉の相良長定(さがらながさだ)が謀叛を起こした。長定は長祗の祖父・為続の長兄・頼金(よりかね)の子であった。つまり相良長祗にとって父親の従兄弟だ。長定は犬童長広(いぬどうながひろ)と組んだ。これに対し、長祗は八代から人吉城へ入ったが、八月二十四日相良長定は人吉城を攻撃、翌日落城、長祗は捕えられた。相良長定は家督を称し、長祗は犬童長広の所領である水俣へ移された。長定は津奈木地頭・犬童匡政(いぬどうただまさ)に長祗の殺害を指示、大永五年(1525)正月八日長祗は自害させられた。こうして相良長定が家督を奪ったのであるが、こういうやり方は人々の賛同を得られない。
大永六年(1526)五月十一日相良長隆(さがらながたか)は人吉城を攻め落とし、相良長定を追い出した。長隆は自害させられた相良長祗の次兄であり、出家し瑞堅(ずいけん)と名乗っていたが、長定の謀叛ののち還俗し、長隆と名乗ったものだ。なお、長兄は相良長唯(さがらながただ)だ。人吉城に入った長隆であったが、これに対し兄の長唯(ながただ=のち義滋よししげ)が人吉城の明け渡しを要求した。長隆(瑞堅)は永里城(ながさとじょう)へ移ったが、長唯はこれを急追、上村頼興(うえむらよりおき)の支援を受けて五月十五日永里城を攻め落とした。長隆は自害した。五月十八日、相良長唯は人吉城へ入り家督を継承した。このとき、長唯は上村頼興に対し、次の家督は頼興の子・頼重(よりしげ=のちの晴広)に譲ることを約束したという。今でいう密約であるが、それにしても長定没落から長隆(瑞堅)敗死、長唯の家督継承までわずか七日間、今でいう一週間であり、中東戦争に負けないくらいの激動の七日間だ。
実質的な相良家督となった長唯(義滋)は人吉城を動かなかった。前の家督・長定は八代へ逃れていたが、大永七年(1527)三月八代を離れ、八月に津奈木城(つなぎじょう)へ移った。人吉を追い落とされたとはいえ、長定に従う者はそれなりに多かったようで、長定は葦北(あしきた)でしばらく抵抗を続ける。義滋の軍勢は八月二十二日田浦(たうら)を攻め、翌享禄元年(1528)三月田浦城を落とし、享禄二年(1529)三月に佐敷城(さしきじょう)、十一月に湯浦城(ゆのうらじょう)を落とした。翌享禄三年(1530)正月五日から津奈木城の攻防が始まり、正月二十四日長定は敗れた。津奈木一族、犬童一族の多くが自害したという。相良長定は筑後へ逃れたが、享禄四年(1531)十一月長唯は梅花法寿寺に長定父子を誘殺した。
長期に亙る内紛であり、この間、周囲の勢力が相良領へ進攻する。大永六年(1526)七月十四日、真幸院の北原氏が人吉城へ攻め寄せたが、長唯と上村頼興はこれを撃退した(大岩瀬合戦)。また大永七年(1527)四月二十四日、名和武顕(なわたけあき)の重臣である皆吉伊豆守武真(みなよしいずのかみたけざね)が豊福城を攻め、相良の城将・永留刑部大輔は支えきれず、落ちた。豊福城はまた名和氏が確保することとなった。
天文二年(1533)四月、相良長唯の女が阿蘇惟前(あそこれさき)に嫁いだ。この年の暮には相良長唯と長為(ながため=のちの晴広)は人吉から八代に移った。
このころ、肥後守護は大友家から送り込まれた菊池義宗(きくちよしむね=重治しげはる、義武よしたけ)であったが、義宗は本家に反抗する。天文三年(1534)菊池義宗は隈本城で反大友の兵を挙げ、隈庄城・木山城にも兵を入れた。相良長唯は義宗を支援し、隈庄城に兵を派遣した。これに対して、名和氏の兵が豊福城から出撃、隈庄城を攻めた。この菊池義宗の叛乱に対して大友義鑑は、直接肥後へ兵を送り込み義宗を攻め、三月十八日には義宗は隈本城を出て緑川をはさんで大友勢と戦ったが敗れた。義宗は島原高来へ逃れ、のち相良領に逃れた。緑川の戦いには相良長唯も参加し、菊池義宗を支えて戦ったという。翌天文四年(1535)三月、阿蘇勢と名和勢が豊福大野で合戦におよび、名和勢は大敗した。阿蘇氏は相良氏の縁戚なのでこれに乗じたものか、三月二十二日相良勢は豊福城を攻め落とし、城将皆吉武真は城を捨てて逃れた。またまた豊福城は相良氏のものとなった。
この後、相良氏と名和氏は和議が成立し、天文四年(1535)五月相良長為(ながため=のちの晴広)と名和武顕の女の婚約が調い、翌天文五年(1536)結婚した。その翌年、天文六年(1537)八月二十七日、相良長唯と名和武顕とは松橋で会見に及んだ。もちろんこの婚姻は、将来、相手を家ごと飲み込んでしまおうという野心が、お互いにあったものと推測される。天文七年(1538)三月、大内氏と大友氏が将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の仲裁で和睦した。さらに翌天文八年(1539)十二月二十四日相良長唯は大友義鑑・菊池義宗兄弟の和睦をはかった。これに伴って、相良長唯・長為父子、名和武顕・行興父子、阿蘇惟前の三氏の間で起請文が交換された。こうしてみると、国際連盟成立のころのように平和の訪れという感じがするが、実際には各氏とも大友義鑑・菊池義宗の和睦については懐疑的にみていたようだ。
すでにその直前の天文八年(1539)十一月二十九日、目方能登守(めかたのとのかみ)という人物が隈庄城に押しかけて、十二月一日乗っ取るという事件が起こっていた。目方能登守については、その出自など、全く分からない。目方能登守は豊福にいた相良長唯と面会し協力を求めた。長唯は十二月八日、名和氏の兵とともに川尻に攻め込み、翌天文九年(1540)三月十八日の合戦で勝利した。ただ、このときの相手、川尻方が誰であったかは不明である。大友・菊池の和睦に反対する勢力(阿蘇惟豊派か)だろうか。あるいは、一方で和平工作し、他方で領地を広げようとする相良長唯がやり手だったのかもしれない。なお、目方能登守が占領したころの隈庄城城主が誰なのか、分からない。空き城だったかもしれない。この状況に対して阿蘇惟豊は、天文十年(1541)三月二十三日甲斐親昌(かいちかまさ)に堅志田城を、甲斐親直(かいちかなお=のちの宗運)に隈庄城を攻めさせたが、相良長唯は両城に兵を送って支援し、この戦いは長期化する。ところで、川尻まで進出した相良・名和勢であったが、この川尻の知行を名和氏重臣の皆吉武真(みなよしたけざね)が要求した。皆吉武真は、大永七年(1527)に豊福城を攻め落とし、天文四年(1535)に豊福城を落ちた武将だ。これがきっかけで相良・名和両氏の関係が悪化し、話し合いでも決着せず、とうとう天文十一年(1542)六月十五日、相良為清(さがらためきよ=長為の改名、のちの晴広)と名和武顕女とは離縁した。名和勢はすぐに行動をおこし、同年九月三日には八代海士江(あまがえ)に船で攻めよせ、十二月二十四日には上土城(あげつちじょう)が焼け落ちた。間髪おかず天文十二年(1543)正月、名和勢は隈庄城を攻める甲斐親直に援軍として加わった。名和氏の底力は大きかったのだろう、同年五月八日堅志田城は落城し阿蘇惟前は八代へ逃れ、翌五月九日隈庄城も落ちて目方能登守は逃亡した。その後の目方能登守については不明だ。ちょうどこのとき、五月七日に大友義鑑は肥後守護職を兼帯した。いよいよ豊福城は危機に瀕したが、翌年までしばらくは耐え凌いだ。豊福城が堅城であった証といえよう。天文十三年(1544)三月十三日、豊福城は開城した。相良長唯は蓮性寺住職を使者として阿蘇惟豊に講和を申し入れ、名和氏に小野を割譲した。
またまた豊福城は名和氏のものとなったわけだが、このとき相良氏が和平を申し入れた先が名和武顕でなく矢部の阿蘇大宮司惟豊であったところがおもしろい。阿蘇氏と名和氏の家格を表しているようだ。現代でも、商談にしろ社内調整にしろ、誰かと話をしてうまくいかない場合は、その人の上司に話をもっていくものだ。
天文十四年(1545)十二月、相良長唯・為清は古麓の鷹峰城(たかがみねじょう)で勅使小槻伊治(おづきこれはる)から口宣案(くぜんあん)を拝受し、相良長唯は従五位下宮内大輔、為清は従五位下右兵衛佐に叙任され、また将軍足利義晴の一字を賜り、それぞれ義滋(よししげ)、晴広(はるひろ)と改名した。これ以降相良長唯は義滋を名乗るが、その期間は短く、翌天文十五年(1546)八月二十五日病没した。家督は、約束通り上村頼興の実子・相良晴広が継いだ。なお、義滋と争ってきた名和武顕も同年六月十六日に没していた。
天文十九年(1550)二月十日豊後府内で「二階崩れの変」が起き、大友義鑑は殺害された。これを好機と捉えた菊池義武(きくちよしたけ=義宗の改名)は、三月十四日肥前高来から隈本城に入り挙兵した。義武には鹿子木鎮有、田島重賢らが協力した。これに対して大友義鎮(おおともよししげ=のちの宗麟)は、三月十四日小原鑑元(おばるあきもと)らを将とする大軍を肥後へ派遣した。この叔父・甥の争いの最中(六月か)、名和氏の重臣・皆吉武真(みなよしたけざね)は、あろうことか主家の居城・宇土古城を攻め、名和行興(なわゆきおき)は城を捨て逃れた。皆吉武真の謀叛であるが、その原因は、名和行興と親しい内河氏(忠真ただざね、か)が名和家中で勢力を伸ばしていたためと云われる。いったい皆吉武真という人物は、さきの川尻の要求といい今回の謀叛といい相当我欲の強い人物だったようだが、武将としては有能だったらしく名和武顕は頼りにしていたのだろう。しかし代がかわって行興の時代になると遠ざけられていたのかもしれない。宇土古城を追い出された名和行興であったが、すぐに内河氏の支持を得て宇土古城を攻め落とし、回復した。皆吉武真は逃れて豊福城に立てこもった。しかし六月二十五日、名和勢に攻められて支えきれず相良氏領に逃れた。このとき武真は豊福城を相良晴広に譲る約束をしたという。その後、皆吉武真は再び宇土を攻めたが、討死したという。豊福城を落ちた皆吉武真が宇土を攻めたということは、相良氏の兵を借りたのだろうか?皆吉武真謀叛の顛末には少し違う説もあって、宇土古城を攻めとり名和行興を追い落とした皆吉武真だったが、相良晴広が宇土古城を攻めて武真を降伏させ、豊福城をも占領して、行興を宇土古城に復帰させたという。菊池義武は相良晴広に起請文を書き、名和行興も晴広に起請文を提出したという。相良晴広が名和氏を援けたというのは、あまりピンと来ない。ともかく、この名和氏の混乱のなか、豊福城はまたまた相良氏に渡った。
ところで、菊池義武のほうは同年八月九日に隈本城を攻め落とされ、再び島原へ逃れた。その後の義武は島原・人吉を往復していたが、しだいに行き場が狭められたようだ。天文二十三年(1554)豊後へ向かう途中、城原(きはら)の法泉庵で自害した。肥後の一時代を築いた男の最期だ。そして、翌天文二十四年(1555)八月十二日相良晴広も死んだ。相良家の家督は嫡男・万満丸(まんみつまる=のちの義陽よしひ)が継ぐのであるが、このとき十二歳であったので、晴広の実父、つまり万満丸の祖父・上村頼興(うえむらよりおき)が後見役となった。頼興は高塚城に攻めよせる阿蘇惟豊への対応、天草で大矢野・栖本氏と戦う上津浦氏の支援など、問題山積の相良家を切り盛りした。弘治二年(1556)六月、相良・阿蘇・名和氏の間で講和が成立。老齢の身には厳しい日々だったのか、翌弘治三年(1557)二月、上村頼興は七十九歳で死去した。万満丸は弘治二年(1556)二月九日に元服し頼房(よりふさ)と名乗っていたが、後見役上村頼興が死ぬと、その子の三人、上村城主の頼孝(よりたか)、豊福城主の頼堅(よりかた)、岡本城主の長蔵(ながくら)が菱刈氏と結び、頼房に叛旗を翻した。これは「三郡雑説(さんぐんぞうせつ)」と呼ばれ、三兄弟は球磨・八代・葦北の三郡を三人で「山分け」にしようと図ったという。頼房は同年三月二十七日から三兄弟に与する久木野城(くぎのじょう)の上村外記(うえむらげき)を攻撃した。また豊福城を東山城守に攻撃させ、六月十二日頼堅を自害させ豊福城を落とした。七月二十五日、久木野城を落とし菱刈左兵衛尉重州は討死した。八月十六日岡本城落城、九月二十日上村城が落城し、頼孝は真幸の北原兼守(きたはらかねもり)を頼って落ち延びた。北原兼守は八月十一日頼孝の上村復帰を画し相良氏領赤池口へ侵攻したが、頼房はこれを撃退した。また、菱刈勢の反撃はなおもこの年(弘治三年1557)いっぱい続いた。家督相続早々、危機を脱した頼房は上村地頭に犬童美作頼安を置いた。討ちもらした上村頼孝・長蔵については、のち永禄三年(1560)十一月甘言を弄して誘い、頼孝を水俣城へ、長蔵を古麓城へ移し、七年後の永禄十年(1567)四月殺した。
話は少し戻って、頼房が叔父の上村頼孝と長蔵を誘い出す少し前、永禄三年(1560)三月十四日、名和氏と相良氏は和平を結んだ。これによって豊福城は名和氏に譲渡されたという。どういう経緯で和平に至ったのか、争奪の的・豊福城を譲り渡すということは相良氏に分の悪い状況があったと推測されるが、よく分からない。ともかく、豊福城は名和氏のものとなった。
その名和氏家督である名和行興は、永禄五年(1562)三月十三日死去。跡を継いだのは行憲であったが、七歳の子供だったので豊福城の名和行直(なわゆきなお)が実権をにぎろうとする。行直は行興の弟だ。これに対し内河備後守忠真(うちかわびんごのかみただざね)は、行興の遺言により行憲を後見すると主張し、行直に対抗した。内河忠真はその名前からいって、主家に先んじて肥後に移住した内河義真の子孫だろう。内河忠真が先代の子を守る忠臣だったのか、あるいは私利私欲で幼主を利用する奸臣だったのか、分からないが、ともかく名和行直の望みは阻まれた。ところが、名和行憲は永禄七年(1564)四月八日に死ぬ。この機に豊福城の名和行直は宇土古城を攻め、内河忠真は堅志田へ落ち延びた。五月八日、名和行直は家督を継承した。
その直前の永禄七年(1564)三月、御船城主甲斐親直(宗運)と隈庄城主甲斐下野守の間で争いとなった。何が原因で争うようになったか、不明である。また甲斐下野守も系譜が不明な人物という。同年八月十六日から甲斐宗運は隈庄を攻め始め、これを援けて相良勢も同年八月二十一日隈庄を攻めた。しかし隈庄城は容易に落ちず、戦いは翌年まで続く。相良頼房は高塚城に入って自ら指揮を執り隈庄や豊福を攻撃した。要するに、頼房の本当の狙いは豊福城であったようだ。永禄八年(1565)六月六日、隈庄城落城。隈庄方の甲斐織部佐(かいおりべのすけ)が宗運に協力したことが勝敗を決したという。甲斐下野守は名和行直(なわゆきなお)を頼って宇土へ落ち延びた。この七日後、永禄八年(1565)六月十三日相良頼房は豊福城を攻め落とした。豊福城はまたまた相良氏の領有となったが、これ以降、名和氏が豊福城を奪い返すことはなかった。なお、この戦いの最中、永禄七年(1564)十一月八日、甲斐親直(宗運)と相良頼房(義陽)は久具で会見している。
名和氏と相良氏が激しく奪いあった豊福城のその変遷をまとめると以下のようになる。
1358 名和氏― 1466 (菊池武邦の乱)― 1487 相良氏― 1499 名和氏― 1503 相良氏― 1511? 名和氏― 1516 相良氏― 1527 名和氏― 1535 相良氏― 1544 名和氏― 1550 相良氏― 1557 (三郡雑説)― 1560 名和氏― 1565 相良氏―
その後、大きな変革の時代が訪れ、相良頼房は島津氏に降伏、その島津氏も豊臣秀吉に屈服し、佐々成政、ついで小西行長が領主となるが、これも関ヶ原で敗れる。その激動のなか、豊福城の名前は出てこなくなる。時代が変わり、いつの頃か打ち捨てられたのだろう。
豊福城戦歴
正平十三年(1358=延文三年)、名和長年の孫・顕興が一族を率いて肥後に下り、地頭職をもつ八代庄の豊福城に入った。
文正元年(1466)、肥後守護菊池為邦の子・菊池武邦が豊福城にたてこもって叛旗を翻した。為邦の長男・重朝が将となり豊福城を攻め落とし、武邦を討ったという。この戦いの後、為邦は家督を重朝に譲り、亀尾城に隠居したとされる。
文明十五年(1483)十二月、相良為続は島津国久・祁答院重度(けどういんしげのり)・北原昌宅(きたはらまさいえ)・菱刈道秀(ひしかりみちひで)・天草の志岐・上津浦・栖本氏らの援軍を得て古麓城の名和顕忠を攻め、これを落とした。為続は一旦、高田に退去し、その裁定を守護・菊池重朝(きくちしげとも)に委ねたが、重朝は相良為続の八代領有を認めなかった。
文明十六年(1484)三月、相良為続は再び古麓城を攻撃したため、名和顕忠は城を捨てて宇土に逃亡、為続の八代領有が実現した。
長享元年(1487)三月一日、相良為続は豊福を攻め、竹崎玄蕃允を討ち取って豊福城を占領した。城将として、稲留刑部大輔(いなとめぎょうぶだゆう)を置いた。相良為続は永国寺の普山東堂を使僧として隈府に送り、豊福領有の公認を求めた。守護菊池重朝に対して城為冬・隈部忠直が仲介し、豊福領有を重朝に認めさせた。
明応七年(1498)、相良為続は豊福城を拠点として隈庄に出兵した。
明応八年(1499)三月、相良勢は菊池武運(たけゆき=能運)が率いる肥後・筑後・豊後の兵と豊福で戦い、大敗した。勝ちに乗じた菊池軍は八代古麓城を包囲したため、為続は城を放棄して球磨に逃れた。能運は名和顕忠を古麓城に入城させた。豊福城も名和氏のものとなった。
文亀三年(1503)八月、相良長毎は八代の萩原に布陣した。菊池能運は十一月までには隈部氏や宇土為光を討ち取り、長毎に応じて守山(現小川町)に着陣した。さらにこれに応じて阿蘇惟長も小川に赴いた。文亀四年(1504=永正元年)二月、形勢不利とみた名和顕忠は古麓城を長毎に明け渡し、相良氏が八代・豊福領有を回復した。顕忠は木原城からのち宇土古城に移った。長毎は二月七日、古麓城に入城した。
永正元年(1504)菊池能運が死去。菊池氏は後嗣をめぐり政隆と武経が激しく対立した。このため、長毎は一時、豊福の領有をあきらめた。
永正八年(1511)四月二十四日、相良長毎は久具川を挟んで名和顕忠と戦い、大敗した。
永正十三年(1516)十月、相良長毎は軍勢を豊福へ進め、十二月豊福を奪還した。同月、豊後の大友義鑑の調停により、相良長毎と名和顕忠・武顕(たけあき)父子の間で和睦が成立した。
大永三年(1523)六月、菊池重治は相良長祗(さがらながまさ)に対して八代郡ならびに益城郡のうち豊福240町を安堵した。
大永五年(1525)相良氏の内部に長定の家督簒奪による混乱が起こり、その間の大永七年(1527)四月二十四日、名和勢が豊福城を攻めた。相良の城将・永留刑部大輔は城を落ち、名和の重臣・皆吉武真が入城した。
天文三年(1534)正月、菊池義宗が隈本城で反大友の兵を挙げた。義宗は隈庄城・木山城にも兵を入れ防備を固めた。これに対して、隈庄城には宇土の名和氏の兵が豊福から出撃して攻め寄せた。これは相良氏の兵が隈庄に入っていたためである。
天文四年(1535)三月、阿蘇勢が宇土の名和勢と豊福大野で戦い、宇土勢が大敗した。三月二十二日名和氏重臣皆吉伊豆守は豊福城を捨て、同城には再び相良勢が入った。
天文十一年(1542)六月十五日、相良・名和両家の友好関係は離縁により破れた。名和勢はすぐに行動を起こし九月には八代に攻め寄せ十二月二十四日には上土城(あげつちじょう)を落とした。相良勢も宇土へ大軍を送るなど逆襲したが、天文十二年(1543)五月七日豊後守護大友義鑑は自ら肥後守護を兼任し阿蘇惟豊への援助を強化すると、阿蘇惟前の堅志田城が五月八日、目方能登守の隈庄城が九日に落城し、相良方に不利な状況となった。豊福城への名和勢の攻撃が激しくなり、天文十三年(1544)三月十三日豊福は落城した。
天文十九年(1550)六月、名和氏の老臣・皆吉伊豆守が突如、挙兵して主家名和行興(なわゆきおき)が拠る宇土古城を攻略した。相良晴広は出陣して武真(たけざね)を降伏させ、豊福城を奪い、行興は宇土古城を回復した。菊池義武は晴広に起請文を提出し、行興も義武・晴広に起請文をしたため、大友宗麟に備えて菊池・名和・相良三氏の同盟が成立した。
弘治三年(1557)二月、相良晴広の実父・上村頼興(うえむらよりおき)が死去。この直後、頼興の子、上村頼孝(うえむらよりたか=上村城主)・上村頼堅(うえむらよりかた=豊福城主)・上村長蔵(うえむらながくら=岡本城主)の三人が相良義陽に造反し、三郡を三人で分領しようと謀った(三郡雑説)。相良義陽は同年六月、まず八代の東山城守に命じて豊福城の上村頼堅を攻め、殺害させた。翌七月、頼孝に与同した上村外記父子を久木野砦に攻め、これを大隅の菱刈に追った。八月には上村氏救援のため薩摩・日向の兵が相良氏領内に侵攻したが、義陽は八月十六日岡本城、九月二十日に上村城を落城させた。
永禄三年(1560)三月十四日、名和氏・相良氏和平。豊福城は名和氏のものとなった。
永禄五年(1562)三月十三日、名和行興は死去した。次の家督は行憲が継ぐが、七歳であったため、豊福城にいた行興の弟の行直が名和家の実権をにぎろうとした。しかし行憲の後見役には内河備後守忠真がいて、行直の望みは達せられなかった。内河忠真は行憲後見は行興の遺言であると主張したといわれる。行直は行憲が永禄七年(1564)四月八日に死去すると、宇土に攻め寄せた。支えきれずに内河忠真は、翌朝には宇土を逃れ堅志田に行った。五月八日、行直が家督を継いだ。
永禄七年(1564)三月、御船城の甲斐親直(宗運)と隈庄城の甲斐下野守の間で内紛が起こった。相良頼房(義陽)は高塚城の相良兵を出陣させて隈庄城攻めに参加した。頼房の真の目的は豊福であり、頼房自身、高塚城に入って指揮を執り隈庄・豊福への攻撃を行った。この間十一月八日、久具で甲斐親直(宗運)と相良頼房(義陽)は会合した。
永禄八年(1565)六月六日、甲斐親直は隈庄城を攻め落とし、隈庄城主・甲斐下野守が宇土の名和行直を頼って逃れると、六月十三日には相良頼房は豊福城を攻め落とした。
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。