神道

神道の世界八幡神道と仏教神道と儒教穢れと結界穢れ
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雑学の世界・補考   

神道の世界

宗教には、大きく分けて世界宗教と民族宗教がある。世界宗教とは民族を超えて世界で広く信仰される宗教で、キリスト教・イスラム教・仏教をいう。それ以外の各民族に根ざした宗教が民族宗教であり、ユダヤ教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、ジャイナ教などがよく知られている。中国で生まれた儒教や道教は、その影響は中国を超えているが、一応、民族宗教とされている。
そして、日本の民族宗教は、広い範囲にわたる信仰、習俗、実践が複合されたものである。これがかなり後になってから、中国から朝鮮半島をへて伝来した外来宗教、つまり仏教や儒教と区別するために「神道」と呼ばれるようになった。
意外なことに、「神道」という言葉は日本のオリジナルではない。もともと中国で古くから使用された言葉であり、儒教の五経の一つ『易経』には「観天之神道、而四時不_、聖人以神道設教、而天下服矣」とある。これにはさまざまな説があるが、だいたい「神異の道」または「霊(くす)しき道」と解釈されている。
これに対して、日本の神道は「神の道」であるとする見方もある。「神」ということは宗教的崇拝の対象をさすことになるため、「神道」という言葉をもって祭祀の意味に解釈するようにもなった。ことに中国の民族信仰が道教という形になって打ち立てられてからは、広く一般に宗教そのものを「神道」と呼ぶようになったのである。
『後漢書』の西域伝によれば、インドからの仏法についての記述に「莫有典書、若無神道」とあり、また「西方有神、名曰仏」ともある。この場合の「神道」は「仏教」をさしているので、一般に宗教を示したわけである。
同じ意味で、「神道」は日本上代の民族信仰を示し、今日まで広く使われてきた。そのため、仏教や儒教を削ぎ落としてきたとはいえ、神道そのものの概念ははなはだ不明確である。歴史的に見ても、その時代、文献の種類や性質によって違っており、古くから「神道」という言葉が見える文献、およびその意図を明らかにすることが求められてきた。なぜなら、それこそが古来の日本人の宗教そして神道そのものを明らかにすると考えられたからである。
神道は、日本人にとって、ごく身近に存在している宗教だ。しかし、あらためて「神道とは何か」と問われると、よほど神道に近い人でも明確には答えにくいものである。神道研究のメッカといえば、なんといっても、国学院大学の神道科だ。その国学院大学教授を務めた神道神学者の小野祖教でさえ、「神道とは何か」との問いは、「専門家でも、必ずしも十分な用意をもって答え難いとなげく。また、知っていることより、知らないことの方が多い」と述べている。
たしかに神道はわかりにくい。よく、日本固有の民族宗教であるとか、アニミズムであるとか、自然崇拝と祖先崇拝と天皇崇拝の三つの要素から成るものであるとか説明される。もちろん、それも間違いではないけれど、神道の持つ広大で豊かな世界を前にしては何とも物足りない感がある。そういった中で、国学院で小野祖教に神道を学んだ経験を持つ一人の宗教哲学者がすっきりとした説明をしてくれる。鎌田東二氏である。神道学者として研究人生のスタートを切った鎌田氏は、世界のあらゆる宗教や神秘主義にふれていくうちに、とらえどころのない「神道」の形を宗教哲学者として浮き彫りにしていった。
鎌田氏によれば、「神道」という言葉には二つの意味があるという。ともに「かみのみち」であるが、一つは、「神からの道」、もう一つは「神への道」である。英語で言えば、“The Way from KAMI”と“The Way to KAMI”の二つの“KAMI WAY”である。
「神からの道」とは、永遠の宇宙進化とも宇宙的創造行為とも言える。神道ではそれを「ムスビ(産霊)」の神あるいは力ととらえ、そのムスビの力の発現のプロセスの中に過去・現在・未来があると考えてきた。その意味では、「神からの道」とは、存在の流れであり、万物の歴史である。それは、永遠からの贈り物であり、存在世界における根源的な贈与なのである。それが神話や伝承として伝えられてきたのだ。
それに対して、もう一つの「神への道」とは、その根源的な贈与に対して心から感謝し、畏敬し、返礼していく道である。それが祈りや祭りとなる。鎌田氏は、著書『神道とは何か』に、「祈りも祭りも共にそうした根源的な贈与に対して捧げられる返礼行為であり、感謝と願いである」と書いている。
また鎌田氏は、別の著書『神道のスピリチュアリティ』において、神道をキリスト教や仏教と比較して表現している。しばしば、キリスト教は「救いの宗教」、仏教は「悟りの宗教」と類型化される。むろんキリスト教の中にもグノーシス主義や神秘主義などの「悟りの宗教」的な流れはあり、仏教の中にも阿弥陀仏如来の極楽浄土信仰などのような「救いの宗教」的な要素もある。単純にそれ一色で覆われているのではないけれども、その宗教の原点や原型を「救いの宗教」「悟りの宗教」として表現することは不可能ではなく、非常にわかりやすいと言える。
そして、そのような言い方で神道を表現するとしたら、「畏怖の宗教」であると鎌田氏は述べる。神道は、「救いの宗教」でもなく、「悟りの宗教」でもなく、第一義的に、「畏怖の宗教」であるというのだ。歴史的に見れば、教派神道や神道系新宗教の中には「救いの宗教」的なものも、「悟りの宗教」的なものもある。しかし、神道の原点や原型には厳然と、「畏怖の宗教」の原像が刻印されていると鎌田氏は主張する。
そのことは「カミ」という言葉に端的に表れている。「カミ」という名称の語源については、「上」「隠身」「輝霊」「鏡」「火水」「噛み」など古来より諸説があるが、定説はない。だが、江戸時代の国学者である 本居宣長は大著『古事記伝』で、「世の尋(つね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と「カミ」を定義した。つまり現代の若者風に言えば、「ちょー、すごい!」「すげー、かっこいい!」「めっちゃ、きれい!」「ありえねーくらい、こわい」「ちょー、ありがたい」などの形容詞や副詞で表現される物事への総称が神なのである。 

 

さて、神には「チハヤブル(千早ぶる)」という枕詞がつく。この意味を知るには、日本人の霊魂観について知らなければならない。現代における最高の神道テクストである鎌田氏編著の『神道用語の基礎知識』に沿って、説明したい。
霊魂を表す一音節の古語に、「チ」「ミ」「ヒ」などの言葉がある。「チ」という言葉を持つ神名は、火の神カグツチ、木の神ククノチ、草の神ノヅチ、雷の神タケミカヅチ、そして大蛇のヤマタノオロチなどを古典の中に見つけることができる。これらの神名は自然現象や自然物の霊格を表すが、チはそのような自然の中に潜む生命力や勢いを意味している。だから「チハヤブル」という神の枕詞は、神の霊威であるチが凄まじい勢いで活動するという意味で、「血」「乳」「力」などの言葉も同じように根源的な生命力や霊威を表す観念に基づいている。
「チ」の神よりも広い概念を持つのが「ミ」の神であり、海の神ワタツミや山の神ヤマツミという自然の神が代表的だ。
「ヒ」はより抽象的な霊力を表す語であり、マガツヒノカミ(禍津日神)やナオヒノカミ(直日神)などに見られる。宇宙に誕生した最初の神であるアメノミナカヌシ(天之御中主)と並んで「造化三神(ぞうかさんしん)」に数えられるのが、タカミムスビミ(高皇産霊尊)とカミムスヒ(神皇産霊尊)の二柱の神だが、いずれも「ムスヒ」という語が見られる。これは、一音節で霊力を表す「ヒ」に、自然に生成するという意味の「ムス」がついた言葉である。「産霊」という表記がそのまま示しているように、万物を創造する霊力であり、天地生成の根源的な霊力を意味する。
霊魂を意味する言葉には二音節のものもある。現代人にも理解されやすい「モノ」「タマ」「カミ」がそれだ。「カミ」については、すでに述べた。「モノ」は現代では物質のことであると思われているが、古くは霊魂を意味した。古代の氏族である物部氏の「物」は、この豪族が祭祀や軍事という神や人命を司る役割にあったことに由来する。
「モノより心」という言葉に代表されるように、物質と霊魂は正反対にあるものと現代の日本人は見ている。しかし、天地開闢(てんちかいびゃく)の神話には、日本の神々が自然物を創造したのではなく、天地の間にある物から神々は生まれてきている。したがってユダヤ・キリスト教のような霊魂と物質の二元論ではなく、いわゆる物にも霊性を見るという世界観なのだ。
平安時代になると、モノは「物の怪(け)」
という表現で、怨霊や死霊を意味するようになる。これも本来は邪悪なものではなかった「オニ」と同じように、神々よりも低いレベルの霊的存在と見られたわけである。この古代的なモノ感覚は、中世に広まった妖怪の観念を生むことになる。
モノやオニは邪悪な方面へと働き、人々に恐れられたが、「タマ」という表現は人間に恵みをもたらす霊格として使用された。タマには、振り動かされることによって活性化される生命力と、身体から遊離しようとする場合の二つのタイプがある。それぞれ「魂振り」「魂鎮(しず)め」の鎮魂の儀式によって、人の状態を良い方向に導こうとした。タマとは、人の身体にあって人を健全に生かしめ、幸いをもたらす霊魂なのである。また、「生霊(いきりょう)」という言葉があるように、普段と異なる精神状態のときには、人に死をもたらすことなくタマは身体から離れ出ることがあると考えられていた。
また、神や人の霊の作用として、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つがあるとされる。和魂は静的調和、荒魂は動的活動、幸魂は幸いをもたらす働き、奇魂は霊妙な作用を讃えた名称である。それぞれ個別に奉納されることがあり、伊勢神宮内宮である荒祭宮にはアマテラスの荒魂が祀られ、大神(おおみわ)神社にはオオクニヌシ(大国主神)のもとに海の彼方から幸魂と奇魂がやってきて、三輪山に住むようになったことによる。タマが身体から離れようとすることがあるとされていたように、身体を離れた魂が別の場所で活動することがあると考えられていたのだ。
神道は、神々とともに人間の霊魂を探求する学問でもある。それは「心霊主義」と訳され、一九世紀にイギリスで盛んになったスピリチュアリズムが日本に入ってきたとき、その受け皿となったのが古神道や神道系の新宗教であったことが証明している。余談ながら、テレビや出版で大活躍している某霊能力者は、国学院の神道科出身であるという。
「チ」「ミ」「ヒ」などの古語が広大な世界へと拡張していく背景には、神道の「言霊(ことだま)思想」がある。これは、口に出した言葉が現実に何らかの影響を与える霊力を持っているとする考え方だ。つまり、音声としての言葉が現実化していくとされ、「祝詞(のりと)」を奏上する場合などは特に誤読のないように注意された。現在でも、結婚式の席における「別れる」とか「切れる」といった言葉や、受験のときに「落ちる」という言葉を使わないようにするのも、このような言霊の信仰に由来している。
それと関連して、自分の意思や感情を積極的に言葉に出すこと、つまり、言いたいことを言う行為は「言挙げ」として良くないものとされた。特にその言葉が自分の慢心によるものであった場合、悪い結果がもたらされるゆえにタブー視された。
たとえば『古事記』には、ヤマトタケルノミコト(倭建命)が伊吹山(いぶきやま)に登ったとき、山の神が白猪になって現れたが、ヤマトタケルが「これは山の神の使者であるから、今でなくとも帰りに殺そう」と言挙げして先に進んだところ、その神の祟りにあって苦しんだとある。神への信頼があれば、わざわざ言挙げする必要はなく、言挙げは神と人との一体感を冒すものである。このような考えが、日本を「言挙げせぬ国」としてきたのである。しかし、その「言挙げせぬ」伝統ゆえに、後から日本に伝来してきた仏教の経典に書かれた豊かな言語世界の前で劣勢に立たされた事実を忘れてはならないだろう。 

 

鎌田氏によれば、宗教にはまた、「伝え型の宗教」と「教え型の宗教」の二種があるという。伝承型宗教と説教型宗教と呼んでもよい。仏教やキリスト教やイスラム教などの世界宗教はまた、創唱宗教でもある。すなわち、ブッダやイエスやムハンマドといった開祖を持つが、神道は、いつ誰が始めたとも知れず、神話や儀礼として部族や民族の伝承の中に伝えられてきた伝承型宗教である。それは「伝承の森」とも「伝承の海」ともいえる共同性に支えられて存在してきたものであると鎌田氏は述べている。
「畏怖の宗教」であり、「伝え型の宗教」である神道は、日本人の心の奥の奥にまで影響を与えていると言える。ふだんは神仏など信じない人でも、厄年を迎えるとどうも不安になり、神社で厄除け祈願をすると安心する。伊勢神宮の心御柱(しんのみはしら)にならって言えば、日本人の心の柱となっているのが神道である。
なんといっても日本人のアイデンティティの根拠は、神話と歴史がつながっているという物語だ。神話によると、現在の天皇家の祖先が天を支配するアマテラスオオミカミにつながることを日本人は知っている。ツクヨミノミコトが海を支配し、スサノオノミコトが地を支配したことも知られている。アマテラスはいまも伊勢神宮に祀られており、その子孫が皇室であるとされている。ツクヨミの場合はほとんど記録に残っていないが、スサノオは出雲の神へと連なり、その子孫が連綿と続いて、一族の一人は戦前の東京市長も務めていた。
このように神話時代が現在まで続いているのは日本だけであり、そこに日本文化の最大の特色があると言う人もいる。いわゆる歴史的事実ではないけれども、神話の時代と断絶しないでつながっているという感覚は、戦後の日本において、公の場から追放された。
ただ、国民は神話につらなる伝承から切り離されることを全部望んでいるかというと、潜在的にはそうではないと私は思う。たとえば新年になると、明治神宮だけでも元日に三百万人以上の参拝人が集まる。世界のいかなる教会でも一日に数百万人も押しかけるということを聞いたことがない。そのありえない現象が日本中の神社において見られ、すっかり正月の風物詩となっているのである。日本人は誰が命ずるのでもないけれど、アイデンティティのもととして、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるごとく神社へ行く。受験勉強で忙しい受験生はなおさら行く。ここに日本人の潜在的欲求を見るような気がする。
また、日本人は正月になると門松を立て、雑煮を食べ、子どもたちにお年玉をわたす。ここにもインプットされた神道のデータが作用している。門松によって、「お正月さま」といわれる神霊や祖霊をお迎えする。鏡餅をつくって床の間にお供えし、雑煮を食べ、神霊の力とその年の魂、つまり年魂(としだま)をいただく。本来、お年玉とは、その年の魂をいただくことを意味した。それは古くは餅で表されたが、やがては子どもに対する小遣いのお金として表現されるようになった。お年玉とは、その一年が無事息災で健康に生きられるよう年魂(としだま)をいただく象徴的行為なのである。お年玉とは、クリスマスプレゼントのように、神様からのプレゼントなのである。鎌田氏は、『神道とは何か』で次のように述べる。
「つまりそれは、魂の贈与であり、生命の贈与であった。その命の贈与によって、今ここに私たちが生きていくことができる。その贈与する偉大な存在、神霊や祖霊に対して感謝の念を表すことが正月の儀礼である」
正月七日になれば七草粥。十五日になれば小正月やトンド祭り。二月になれば節分祭や豆まき。三月に雛祭りで、五月に鎧兜を飾って端午の節句。六月の晦日(みそか)には
大祓(おおはらえ)によって半年分の罪汚れを祓い清め、夏越(なごし)の祓を行う。七月には七夕。八月にはお盆の先祖供養を行い、九月には中秋の名月を祝う。十月、神無月には日本の神々はみな出雲の国に出かけて神集いをする。ゆえに出雲では十月を神在月(かみありづき)という。十一月には収穫感謝祭である新嘗祭(にいなめのまつり)を行い、十二月には冬至の家庭祭祀をして、カボチャを食べたり、ゆず湯につかったりする。このとき、宮中では鎮魂祭が行われる。そして十二月の大晦日には一年分たまった罪汚れを祓い清める大祓を行う。
日本人は、このような季節季節の祭りを年中行事としてとり行うのである。これは、めぐりゆく季節、変わりゆく自然と人々の暮らしを調和あるものに結びつけていくための生活の知恵や工夫であり、祈りと感謝でもある。祭りの中には、日本人の日々の暮らしの祈りや願いや感謝の心が「かたち」となって、込められているのである。「祭りのない神道はない」という言葉があるが、それは教義や戒律などではなくて、そのような日々の暮らしに宿る神道の姿を重視した言葉なのであろう。
では、祭りとは何か。鎌田氏によれば、祭りは自然と人間と神々との間の調和をはかり、その調和に対する感謝を表明する儀式であるという。さらに、祭りには四つの意味があるという。第一に、神の訪れを待つこと。第二に、お供え物を奉(たてまつ)ること。第三に、その威力と道にまつろうこと。第四に、神と自然と人間との間に真釣(まつ)りが、すなわち真の釣り合い・バランス・調和が生まれること。
だから祭りのない神道はありえないし、神道の精神と具体的な実践は、大は国家の祭礼や祭典から、中は町や村といった共同体の祭り、そして小は各家庭の祭りに至るまで、さまざまな祭りを通して表されることになるのである。
鎌田氏の師である小野祖教も、神道の本質を祭祀に見て、祭りを非常に重視した。彼は、共同執筆した『世界の宗教総解説』の「神道」の項に次のように書いている。
「私は、まず、神道を知る為には、神話を研究せよという古い神道家の訓(おし)えをすてたいと思う。神話は大切だが、これを括弧に入れて、まず祭祀を考えてみよと提唱したい。また、いろいろな神道があるが、祭祀中心の神道だけを頭に置き、いろいろな説に煩わされないようにしようと提唱したいと思う」 

 

昔から神道家は神話を重視して、解釈を立てようとした。これは、きわめて自然であり、当然であると言えるだろう。なぜなら、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『旧事本紀』など神道と関わりが深い神典・神書といわれるものの重要な部分が神話であるからだ。
吉田兼倶は「天地を書籍となす」と述べ、本居宣長は『古事記』を中心とし、平田篤胤(ひらたあつたね)は「祝詞」が本だと言った。そして小野祖教は、祭祀を成り立たせている発想の中に神道解明の鍵ありと考えたのである。つまり、祭祀は言葉以上に言葉であり、祭祀が語るところを読みとれば神道がわかるというわけだ。
「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」であることを本居宣長は『古事記伝』で説いている。「まつり」の語源は「たてまつる」の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのである。その「まつる」に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意味となる。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのである。
さて、祭りにおいては「ハレ」と「ヶ」が重要になる。やまと言葉では日常生活を「ヶ」(褻)と呼び、日常の生命力が枯渇すると「ケガレ」(褻枯れ)となる。そこで神を迎え、神にふれて生命力を振るい起こすためにも「まつり」が必要となるわけだ。神を迎える前には「いみ」の期間がある。積極的に身を清める「斎(いみ)」と、消極的に身を守る「忌(いみ)」の二つがある。禊(みそぎ)の原義は「身滌(みそそ)ぎ」とされるが、禊や悪を払拭する祓いには潔斎(けっさい)の意味がある。潔斎とは、神聖な行事の前に、飲食などをつつしみ、沐浴(もくよく)などをして心身を清めることである。
神道においては、このような浄化の儀礼が重要である。それは大きな儀式の前の斎戒や死の穢れに対する忌みといったいくつかの節制からなる。もともとはすべての信者によって実践されていたが、今日では神職によってのみ執り行われている。祓いは、祓串(はらえぐし)を用いる浄化の儀式だが、これを執り行う権利があるのは神職だけである。祓いの後には、榊(さかき)の若木を「玉串」として奉奠(ほうてん)する。榊とは、収穫の象徴としての聖木なのである。また、神に捧げる歌や踊りや「祝詞」を伴った、米や酒などの奉納が儀式の中核をなす。
さて、「いみ」が終わると、いよいよ神を迎える。「まつり」の本番となり、日常のケ(褻)から非日常のハレ(晴れ)に入る。海や川や野をはじめとする種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)をお供えして祈る。日本の古い祝詞には、神への感謝の言葉のみが記されているが、現在では特定の願い事を書き入れることが多い。
そして、神をまつり、神とふれあって人間の魂を振るい起こすために「鎮魂(ちんこん)」を行う。古くは鎮魂を「みたまふり」と訓(よ)んでいたが、今では文字通りに魂を鎮(しず)めることとされている。鎮魂とともに、歌舞などの芸能も奉納する。そうして「まつり」の本番が終了すると、非日常のハレから日常のケに戻る。神送りを済ませて「直会(なおらい)」となり、神に供えた御神酒(おみき)などを飲んで、ハレの世界からケの世界へと帰還するのである。そして酒盛り、つまり「饗宴」となるわけだ。
現在ではこうした形が簡略化されていることが多いが、宮中儀礼、特に天皇の即位の祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)などには、祭り本来の精神と形式が受け継がれている。時代とともに簡略化が進んでも、ケからケガレ、ケガレからハレ、そしてハレからケという祭りの基本構造に変わりはない。
「褻枯れ」としてのケガレは、「気枯れ」であり、「穢れ」でもある。人間が死ぬと、「穢れ」という生命の輝きを奪う状態が発生する。そのようなものは徹底的に排除しなければならないが、もし穢れてしまったときは、禊や祓いを行って取り除く。しかし、そもそも穢れないことが一番いいわけである。
神道に詳しい作家の井沢元彦氏は、この考え方が日本における軍隊の問題にきわめて大きな影響を与えたとの興味深い見方を示している。古代から平安時代中頃にかけての日本には、まだ国家が確立されていなかったということもあって、軍隊が存在した。当時は、戦いとなれば、皇族といえども剣で人を殺傷するのは当然であり、たとえば、蘇我・物部の紛争の際は聖徳太子が自ら剣を取って戦っている。また大化の改新では、後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が自ら剣を抜いて蘇我入鹿(そがのいるか)の首を討ち取っている。しかし井沢氏によれば、人を殺傷するのは、穢れ思想を持つ日本人にとってはできるだけ避けたいことであった。そのため、時代が下って社会が平和になると、まず皇族がそういうことをしなくなり、次に貴族たちもやらなくなっていったという。
平安時代の中頃には、中国から律令制度が輸入され、国防省としての「兵部省(ひょうぶしょう)」や、警察・検察、つまり犯罪者を逮捕し処刑する部門としての「刑部省(ぎょうぶしょう)」が置かれた。本場の中国には「穢れ」という思想がなかったために軍隊や警察・検察も機能していたが、日本では「穢れ」の思想ゆえに人を殺す仕事が嫌われ、兵部省も刑部省も有名無実の存在となってゆく。当然ながら、取り締まるものがいなければ、国は大いに荒れる。そのうち、国家では対応できないような大強盗団まで登場するようになった。さすがに都では対策を考え、その結果、「検非違使(けびいし)」というものが設けられた。都の治安を守ることを目的としたが、彼らは犯罪者の処刑は行わなかった。平安時代中期には、日本は死刑執行を停止していた。これは、死刑は穢れるからという理由で、やり手がいなくなったからである。同じ理由で、犯罪を取り締まる役職に就く者もいなくなった。井沢氏は著書『神道・仏教・儒教集中講座』で次のように述べている。
「あまりにも強盗などが横行して困り果てた貴族たちが、自分たちは絶対にそんな仕事はしたくないが、下級貴族なら、金さえ出せば穢れ仕事でもやる人間がいるだろうということで、下級貴族に、本来の律令にはない官をつくってやらせたのが、検非違使なのです」 

 

この「穢れ」思想は、後世の武士の誕生も用意した。自分たちの手は絶対に汚したくないという人々が中央で政権を握り、国家警察は機能せず、軍隊も存在しないというのは、国として異常事態である。そんな異常事態が続く中で、大規模な強盗団、野党団に対抗するためには、世界中どこでもそうであるように、武装して自分たちで自分たちの財産や生命を守る以外には道はない。すなわち、武士団の誕生である。
人を殺せば穢れを浴びるというが、放っておけば財産が盗まれてしまうのだから仕方がないではないか。こちらも武装して悪者どもを叩き斬るしかないではないか。これこそ、武士の論理であり、それはきわめて現実的な理論であると言える。つまり、「穢れ」という考えがなければ、武士の誕生派ありえなかった。井沢氏は同書で、「なぜ武士が興ったのかということを突きつめていくと、実は穢れという神道思想があったから、ということになるのです」と述べている。
たしかに、穢れ思想のない中国や西洋では、王族が武器を取るのは当たり前であり、中国の皇帝もヨーロッパのキングも王者はすべて剣を帯びている。自分の身は自分で守るのが当然であり、手を穢したくないから、戦争は他の人間にやらせるなどという発想はありえない。とすれば、「穢れ」の思想による武士の誕生とは、世界史的に見てもきわめて特殊な例なのである。
「穢れ」は人間の死に関わる思想である。神道では、人間の死後の世界についてはどう考えていたのだろうか。人の日常生活が営まれている世界は「中つ国」と呼ばれるが、それに対する他界や異界については『古事記』や『日本書紀』にさまざまな名称で語られている。神々の集う天上世界としての「高天原(たかまのはら)」は別格としても、「黄泉の国」「根の国」「常世の国」「海郷(わたつみ)」などがある。古代人の感覚では、自分の行動範囲や視界を越えた彼方に魂の故郷があると考えた。沖縄でも、東方海上に「常世の国」に似た豊穣の霊地「ニライカナイ」が存在すると信じられていた。仏教の阿弥陀仏信仰に基づく「浄土」が西方の彼方にあるとされたのに対して、ニライカナイが東方の彼方にあるとされたのは興味深い。
神道の歴史を見てみると、古代の神道においては神々に対する特別な崇敬が含まれていることがわかる。もともと神道の神々は聖域というものを持っていない。それは崇拝の対象が自然のさまざまな力であれ、祖先であれ、単なる概念であれ、同じことである。神域が決定されるのは、神を崇める儀礼がとり行なわれる時に限られる。
神域は神のおわす場所であり、神は山や森や滝といった自然の一部と結びつけられている。神道といえば、現代の人々はまず神社をイメージし、神をまつる本殿や神を拝む拝殿などを連想する。しかし本殿などができるのは後のことで、六世紀に仏教が入ってきて寺院をつくった影響を受けたためである。古くは神聖な山、つまり神体山である「神奈備(かんなび)」、神の来臨する岩や石である「磐座(いわくら)」、あるいは神のよりつく樹木である「神籬(ひもろぎ)」などに神を仰いでまつってきたのである。
現在でも古くからまつられている神社の中には、本殿のないものがある。たとえば奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社には本殿がない。標高四七六メートルの美しい円錐形の三輪山そのものが神体山なのである。奈良市の春日大社も、天理市の石上(いそのかみ)神宮も、古い絵図を見ると本殿が描かれていない。
日本の神社を代表する伊勢神宮や出雲大社には本殿はある。しかし、いずれも木造の簡素な建造物にすぎない。時に、神社の本殿は中国建築のモチーフによって装飾されている。また伊勢神宮には、ニ0年ごとに再建される「御遷宮」の伝統があり、ニ00六年がその年にあたる。
日本の伝統的な生産活動は農業であり、それが季節ごとの祭りや儀礼に関わっている。神道には集団による儀式だけでなく、個人的な祭儀も存在する。エリアーデによれば、神道におけるシャーマニズムの制度と憑依の祭儀は古代的なものであり、これらの信仰の基底にある宇宙論は初歩的であるという。この宇宙論には、宇宙の垂直的な三分法が含まれる場合もあれば、水平的な二分法が含まれる場合もある。すなわち、垂直的な三分法とは「天上界―地上界―死者の地下界」であり、水平的な二分法とは「現世(うつしよ)―常世(とこよ)=永遠の国」である。
もともと古代の日本には社会を構成する諸集団があり、それぞれ固有の神を奉じていた。それが、天皇家を中心とする大和朝廷による国土の統合によって、天照大御神を崇拝するようになったのである。七世紀には、中国の政治制度の影響を受け、「神祇」すなわち神々を監督する中央官庁として「神祇官」が設置された。神祇官はすべての神々を記録したが、その目的は朝廷がそれぞれの神に聖域を設け、それぞれの神にふさわしい崇敬を捧げることである。一〇世紀には、朝廷は三千近い神域を維持している。
儒教が五一三年に五経博士ともに百済から伝わり、仏教も同じく百済から五三八年に伝来した。仏教は、最初、八世紀には国家によって奨励されるようになっていたが、神道とのあいだで、さまざまなドラマが演じられた。
黄金に輝く仏像とともに仏教が日本に入ってきたとき、朝廷では物部氏を中心とした神道派が反対したが、その後紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、六世紀の終わりには大和の斑鳩(いかるが)の地に法隆寺が造営されるまでに盛んになった。神は没落し、鎮護国家の仏教を受け入れた奈良時代の僧たちは、「神々は迷っている」と口々に述べ合った。そればかりでなく、僧たちは神々にありがたい経を聞かせて救おうとさえしたのである。完全に「仏が上で、神は下」という関係ができあがったのだ。そのように高々とした態度で、あちらこちらの神社に祭神を済度するための神宮寺がつくられ、それによって神々は没落をまぬがれたとされた。
ここに八幡神というものが豊前国の宇佐に出現する。後世奈良時代の、津々浦々に八幡社が建てられ、現在では二万五千社を数える。
しかし、奈良時代までは宇佐にしかこの神はいなかった。宇佐こそ、全国におよぶ八幡信仰の発祥地である。 

 

宇佐には、秦(はた)氏とみられる渡来人の一派が住んでいた。『日本書紀』などによると、秦氏は遠く秦の始皇帝の子孫と称していたという。秦の滅亡後、流浪した秦氏は朝鮮半島の漢帝国領であった楽浪・帯方郡にいたようで、五世紀はじめ頃に渡来したとされる。農民の集団ながら、異文化の匂いがあった。秦氏に関しては、大和岩雄氏の大著『秦氏の研究』に詳しい。
さて、仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐の秦氏の集団の中で、八幡神という異国めいた神が湧出した。この神は風変わりなことに、シャーマンである巫女の口を借りてしきりに託宣を述べる。それももっぱら国政に関することばかりで、司馬遼太郎などは「よほど中央政界が好きな神のようであった」と、『この国のかたち』で揶揄している。
それまで大和にもシャーマンはいたが、八幡神のように政治好きではなかったのである。
この神は五七一年に湧出したとき、「われは誉田(よだ)天皇である」と名乗った。つまり、応神天皇のことである。最初から人格神だったことで、冬至の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせる。さらには、その正体を天皇であると明かしたことによって、朝廷も無視できなくなった。
そればかりではない。仏教が盛んになると、今度は「昔、われはインドの霊神なり。今は日本の大神なり」と託宣したのである。なんと、もともとは仏教の発祥地であるインドの霊神であったと宣言し、新時代に調和したのだ。聖武天皇は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きを大いに喜び、七三八年、宇佐の境内に勅願によって弥勒寺を建立させた。これが神宮寺のはじまりであり、後に全国に広まった。シャーマニズムの八幡神がアニミズムの八百万の神々を新時代へ先導しはじめたのであり、世界の宗教史上でもきわめて珍しい出来事であろう。
さらに聖武天皇が大仏を奈良に大仏を鋳造し、東大寺を建立したとき、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣した。聖武天皇は非常に喜んで、大仏殿の東南の鏡池のほとりに手向山八幡宮を造営した。これは東大寺の鎮守の神としてである。つまり、神社が寺院を守護したわけである。仏の下に置かれていた神は、このことによって同格に近くなった。これが、平安時代に入って展開される神仏習合という、完全なる同格化のはじまりになったと言えるだろう。
平安時代になると、空海が宮中に真言院を設けた。そして宮中のお黒戸には位牌がまつられ、皇室の菩提寺としての伝統は京都の泉湧寺(せんにゅうじ)に受け継がれている。
日本仏教が特に思想的な創造性を発揮した鎌倉時代には、密教の影響が強い天台神道および真言神道が登場した。天台神道は「山王神道」と呼ばれ、真言神道は「両部神道」と呼ばれている。それに続く数世紀には、神道を仏教から解放しようとする渡会家行(わたらいいえゆき)の「度会神道」(伊勢神道)や吉田兼倶の「吉田神道」などの流れが出てきた。江戸時代においては山崎闇斎(やまざきあんさい)の「垂加神道」に代表されるように、神道と儒教の統合も見られた。
江戸時代で忘れてはならないのは、国学の勃興である。契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)らが現れ、『古事記』『万葉集』をはじめとする日本の古典について深く研究し、契沖の『万葉代匠記』、真淵の『万葉考』、宣長の『古事記伝』、篤胤の『古史伝』などのめざましい成果を残した。学問方法は、契沖の文献主義から春満の古道尊重に移っていったが、古語・古義に通じてはじめて古道の理解が得られるという認識で共通し、儒学の古文辞学の方法に似ている。
国学者たちは古典の研究を通して「日本および日本人」を研究したが、その基盤に神道があったことは言うまでもない。
特に本居宣長は、神代から伝わる神の御心のままで人為を加えない日本固有の道としての「惟神(かむながら)の道」を求めた。具体的には、仏教や儒教との混淆を批判して「復古神道」を唱え、外来文化の影響を受ける以前の完全に純粋な神道の復興をめざした。生涯に一万首の歌を詠み、日本的な美的感性としての「もののあはれ」を論じたことでも有名である。
また、近年になって再評価の著しい平田篤胤は、天狗のもとで五年間修行してきた「神童」寅吉や、前世の記憶を鮮明に覚えている「生まれ変わり少年」の勝五郎、江戸時代の「妖怪大戦争」である稲生物怪録(いのうもののけろく)といった超常現象や怪奇現象を真面目に研究した稀代のオカルト学者であった。それと同時に、夢の中で本居宣長に弟子入りするほどの宣長の信奉者であり、彼の国学は復古神道の流れを継いだ国粋主義的な「平田国学」として幕末における尊王攘夷の志士たちの思想的拠り所とされた。
江戸時代には儒教を学問化した儒学が思想的主流となりつつも、神道と仏教とが混ざり合った「神仏習合」が実質的な国家の宗教だったが、明治時代になると、一八六八年の「神仏分離令」によって、純粋な神道が国家の宗教となった。「国家神道」である。
明治の宗教改革は、皇室を中心とする神道、神域で実践される神社神道、教派神道、そして民間神道などに神道を区分した。皇室の諸儀礼は私的なものだが、神社神道に対してかなりの影響をおよぼした。神社神道は、一八六八年から一九四六年までのあいだ、国家神道そのものであった。その後、神道は中央集権的な組織である「神社本庁」が管轄している。
国家神道の時代は、神職は神道を管轄する官庁である「神祇官」に属する官吏であった。神祇官は、その後、神祇省、教部省、内務省社寺局と変わっていったが、一方で政府は、信教の自由を認めることを余儀なくされていたのである。それは、まず第一にキリスト教の禁制を中止することを意味していた。だが、大日本帝国憲法は、国家によって正式に認められていない宗教は存在する権利がないとして、政治的にはキリスト教を否定しており、神祇官の立場は複雑だった。
神祇官はまた、一九世紀後半以降に現れた新しい諸宗教の分類という、きわめて困難な問題を解決する必要に迫られた。その結果、神道として識別するには曖昧で疑わしいものもあったが、一三の新しい教派が「教派神道」として認められたのである。明治政府のもとでは、神社神道は祭祀を専門としたため、布教活動は民間の神道教団に委ねられたという事情も、教派神道の誕生につながった。 

 

そこで一派独立して活動を展開した神道一三派とは、すなわち、黒住宗忠が開いた「黒住教」、新田邦光が開いた「神道修成派」、千家尊福(せんげたかとみ)が開いた「出雲大社(いずもおおやしろ)教」、宍野半(しんのなかば)が開いた「扶桑教」、柴田花守(はなもり)が開いた「実行教」、平山省斎(せいさい)が開いた「神道大成教」、吉村正秉(まさもち)が開いた「神習教」、下山応助が開いた「御嶽(おんたけ)教」、稲葉正邦を初代管長とする「神道大教」、佐野経彦が開いた「神理教」、井上正鉄(まさかね)の弟子が開いた「禊(みそぎ)教」、川手文治郎(赤沢文治)が開いた「金光教」、中山みきが開いた「天理教」である。
このうち、独特の教義を展開させた金光教や天理教は神道系新宗教に、それ以外は教派神道に分類される。また天理教は一九七0年に教派神道連合会を脱会し、神道と分かれた。「ほんみち」は天理教の分派である。
神道系新宗教では他にも、大本教の存在を忘れることはできない。大本教は一八九二年の正月に突如、艮(うしとら)の金神(こんじん)が降りてきて神憑(かみが)かりになったという老女・出口ナオによって開かれた。一八九八年にナオと出会った上田喜三郎こと後の出口王仁三郎の手によって急速に信者を増やしていったが、須佐之男命の魂を持つという王仁三郎の時代の枠にまったくとらわれないハイパーなアナーキー性のため、一九二一年と一九三五年の二回にわたって当局から大弾圧を受け、今では大本教そのものとしては衰退してしまった。
しかし、「生長の家」を創立した谷口雅春をはじめ、「世界救世教」の教祖である岡田茂吉、「三五(あなない)教」の中野与之助、「神道天行居(しんとうあまのゆきだて)」の友清歓真(ともきよのりさね)などがいずれも、かつては王仁三郎の弟子であり、大正期の大本教の青年幹部を務めた事実を知れば、大本教がまさに現代宗教の「おおもと」であったことがわかる。さらに、念写の福来友吉と並ぶ「心霊学」の大家であった浅野和三郎や、合気道の開祖として知られる植芝盛平らも王仁三郎の右腕であったと聞けば、今さらながらに「日本霊学のダム」としての大本教の巨大さを思い知らされる。
そして、民間神道。これは、アマテラスをはじめとする伊勢神宮系の「天津神(あまつかみ)」でもなく、スサノオをはじめとする出雲大社系の「国津神(くにつかみ)」でもない神々を信仰するもので、民間信仰と言い換えてもよいものである。その信仰の対象は、八幡神、稲荷、天神、明神、道祖神、屋敷神、竃(かまど)の神、便所神などである。
これらの民間神道あるいは民間信仰を研究する学問が日本民俗学であった。柳田國男(やなぎたくにお)をパイオニアとする日本民俗学は、ヨーロッパのフォークロアや歴史学や民族学などとともに、国学をその祖先の一つとした。江戸時代における国学は「私たちはどうしてここにあるのか」という日本人のアイデンティティを求めるべく、『古事記』をはじめとした古典研究を続けていった。一方、日本民俗学は明治以降の西洋の文物や思想の流入、そして変化する生活を前にして、やはり日本人のアイデンティティを求めていったのである。
柳田國男と並ぶ日本民俗学のビッグネームには折口信夫(おりくちしのぶ)や南方熊楠(みなかたくまくす)がいる。柳田は『遠野物語』のような民間伝承から日本人の生活文化全体を研究し、最後は『海上の道』で日本人のルーツを追った。
折口は、本居宣長と同じく歌人でもあり、古代的世界にその心を置きながら「マレビト」「常世」「神の嫁」など、独自の用語を駆使しながら独特な学問世界を切り開いた。
また、博物学者としても世界的に有名であった南方は、『十二支考』などの画期的な著作を残しながら、一九0六年の神社合祀令に反発して反対運動を続けた。
それぞれ、「日本人とは何か」を求めてゆく過程で、江戸時代の国学者たちと同様に日本人の心の柱である神道を避けて通ることはできなかったのである。 
 
八幡について

 

八幡とは何であろう。古代より信仰されている神といわれている。ハチマンなのか、ヤハタなのか。
源頼義によって、男山石清水より鎌倉へ勧請されたのは、前九年の役(一〇五一〜六二)の時、武運長久を祈る為であった。その男山石清水へ、宇佐より勧請されたのは、八五八年清和天皇の代である。
「大安寺の僧行教、宇佐に参詣の時、神霊のお告げにより勧請。正八道を示して権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱することを得たり。
八幡=八方に八色の幡を立てる。密教の習慣で、西方の阿弥陀の三昧耶行仏、菩薩の徳を示現するもの。
根本=八正の播を立てゝ、八方の衆生を済度するという根本の誓い。
八正道=仏典にいう、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精神・正定・正恵」『神皇正統記』北畠親房著。松村武夫訳。
以後、王域鎮護の神として尊ばれた。ハチマンとは八流の幡である。八幡と称せられたのはこの時からと思われる。その幡は密教の伝来して来た後、起こった信仰対象なのか。その前より存在した宇佐八幡とは何か。
宇佐八幡の祭神は『延喜式』によれば、中央、比売神。左側、八幡大菩薩。右側、神功皇后。三座という。菩薩号は、この社に早くから僧徒が関係したからつけられたものであるが、『続日本紀』天平勝宝元年の宣命には、広幡(ひろはた)の八幡(やはた)の大神と呼ばれて、未だ菩薩号はない。社伝によれば、黄金をもってその御神体としたという。
『扶桑略記』『八幡宇佐託宣集』『宇佐八幡宮縁起』などの諸書によれば、欽明三二年に八幡神が菱潟の池の辺に鍛冶翁(かじのおきな)として初めて現れたという。大神比義(おおみわひぎ)という人物がこれを奉祀し、五穀を断ち、三年の祈念後、示現を乞うと、神は三才の小児の姿と現じ、託宣した。それによると、最初辛国(からくに)の城に八流の幡とともに、天降り「日本の神となって衆生を済度しようとねがい、神と現れたのであり、われは日本の広幡八幡麿である」といったとある。
この神は鍛冶神としての機能を持っていたらしく、鍛冶翁に現じたこともその一例であるが、ことに「奈良の大仏が鋳造された時、宇佐から大神(おおみわ)朝臣杜女(もりめ)が上京して『八幡神が天神地祇を従えて、銅の湯を水とし、わが身を草木土に交えて大仏鋳造を授けよう』との託宣をした」(『巫女考』柳田国男)
応神天皇を本地垂迹(ほんちすいじゃく)して八幡大菩薩と尊号したのは聖武天皇で、杜女の託宣を喜び、謹んで、参議石川年足を奉迎使として、宇佐に差遣し、御霊代(みたましろ)を守護して都へ上らせた。東大寺境内の手向山八幡がこれである。後に杜女に利用されて道鏡事件を引き起こした。
宇佐の神は、初めは比売神がこの地の土豪宇佐氏の氏神として発足したと思われる。
田川郡香春(かわら)神社の本宮は、北の三ノ岳の東麓にある旧採銅所村の古宮八幡宮である。ここには豊比祥(ひめ)命が祭られ、『三代実録』には祭神は辛国息長(からくにおきなが)比祥神と記されている。
「神名の辛国は韓国であるとともに、香春社の祠官赤染氏は新羅系渡来人であるから、香春神社は彼ら渡来人の氏神であったに相違ない。また採銅所村というのは、名の通り銅の産地で、そこにある清祠殿では、古来宇佐八幡に納める神鏡を鋳造していた。だから、あるいは八幡神の本処はこの香春だったのかも知れない。宇佐の祠官の一人である辛島氏「勝(すぐり)」姓も渡来人で、新羅系と推測され、古く豊前の屯倉(みやけ)の民秦部(はたべ)を率いて大和の秦氏と結んでいた。八幡神は、新羅の神ではなかったかとも考えられているのである」(『八幡信仰の研究』中野幡能。『古代九州の新羅王国』泊勝美)
『続日本紀』天平九年(七三二)四月条に「伊勢の神宮・大神の杜・筑紫の住吉・八幡二社及び香椎宮に遣使し、奉幣して、もって新羅の無礼の状を告ぐ」とあるのが初見であるが、以後、官社として急速に名を著す。
「ちなみに『式内社』で菩薩号をもつ神社は、宇佐のほか、常陸の大洗磯前(おおあらいいそざき)薬師菩薩社・酒列(さかつら)磯前薬師菩薩社・筑前の八幡大菩薩箱崎宮、だけである」(岡田米夫)
継体天皇の代、震旦(しんたん)国、陳(ちん)大王の王女大比留(おおひるめ)女が七才で男子を出産した。王女は「朝日の光、胸にさすを見て懐妊した」と申し上げた。王は驚き、母子ともにうつぼ舟に乗せて海に流し、「流れ着いた地を所領せよ」と放ちやった。舟は大海に浮んで、日本の大隅の磯の岸に着いた。その王子の名を八幡と号し、この舟の着いた所を、八幡崎と名付けた。大比留女は筑前の国若椙山に飛び入って、のちの香椎聖母(しょうも)大明神と祭られ、王子は大隅の国に留まって、正八幡と祭られた。「正」をつけて宇佐とは別派の八幡とした。大隅八幡宮(鹿児島県姶良郡鹿児島神宮)、一一一三年・『惟覧比丘筆記・二二社註式』
全国の多数の八幡の本社は宇佐八幡であろうが、八幡宮又は八幡社と呼ばれても、必ずしも御神体は応神天皇とは限らない。正八幡大隅鹿児島神宮は一例である。他の神を御神体としている八幡もあると思う。
なぜ応神天皇が八幡神なのか。宇佐についていえば、天皇の生涯に宇佐は全く関係がない。それがどうして宇佐に応神天皇が祭られるようになったか、この疑問は早くから起こり、すでに江戸時代から研究が始まり、明治以後にも盛んに行われた。が、現在も不明である。
応神天皇は出自が色々と論じられている謎の天皇で、『古事記』にはツヌガのイササワケの神(気比の大神)と名を交換して、ホムタワケという名になった、と書かれている。
故にその前はイササワケと称していたことになる。「ホムタの発音は、奈良朝以前はハダと発音しているし、肌膚の語を当てている」(『古語拾遺』)
『日本書紀』には、応神天皇は生まれた時、腕の上に鞆のような形の肉が盛り上がっていた。鞆は弓を引く時左の腕につける革の具で、巴の形を描く。上古俗に鞆をホムタといった。それ故名をホムタワケと称した。と書かれている。「してみると『日本書紀』でいう鞆の意味ではなく、秦族を示唆するのであろうか」(『北陸古代王朝の謎』能坂利雄)
応神天皇は十二代景行天皇の直系の孫ホムタワカの三人の娘の入り婿になっている。ホムタワケの名はその為ではないだろうか。先の天皇の直系が絶えて他から入り婿するのは、天皇系図では応神以後、二三代顕宗(播磨の豪族)は二一代雄略の娘と、二六代継体(越前の豪族)は二四代仁賢の娘と。
応神は直前に崇神系(イリ王朝)。景行系(ワケ王朝)があり、ホムタワケはその系統につなげたと考えられる。
宇佐八幡は宇佐氏の氏神であった。宇佐氏は渡来氏族で、新羅系と推測され秦氏と結んでいた。それを習合した八幡は八流の幡のことで、仏教伝来後の密教の信仰対象である。
密教は空海(弘法大師)がもたらしたものということになっているが、斉明天皇の代に祆教(けんきょう拝火教・ゾロアスター教)が入って来たといわれている。密教は祆教と仏教が習合した宗教である。空海がもたらした以前に八幡信仰があってもおかしくない。その上に応神天皇が八幡に習合された。宇佐氏の氏神と、密教の八流の幡の信仰と、応神天皇が習合して、八幡大菩薩になったのである
源頼義の嫡男義家が石清水八幡で元服し、八幡太郎と名乗った。その義家が武士の鑑と仰がれ、理想の人物とされた為、鎌倉武士はこの神を守護神とした。八幡が広く信仰されるようになったのは、武士の台頭以後のことである。
バハン船=一般には和冦や海賊の船が八幡大菩薩の旗をたてていたので、八幡船をバハン船といったと解釈されているが、確実な史料で見る限りでは倭寇の船団を直接バハン船と称した用例はない。八幡と書いてバハンとは読めない。バハンは日本の戦国時代以降使用された言葉で、日本側では「ばはん」「八幡船」と記するほか、「奪販・番船・破帆・破番邑・波発・白波」などの文字が海賊・海寇の意味で使用されている。語源は外来語と考えられる。江戸中期以後は転じて密貿易を意味するものとなった。江戸中期につくられた『南海通記』には倭寇が八幡宮のノボリを立てていたので、八幡船と呼ばれたとの記事があり、この考えが明治に至るまでもちいられた。
 
神道と仏教

 

日本に仏教が伝来したのは、六世紀半ばとされている。五三八年の欽明天皇の時代に、百済の聖明王が使者を遣わして、「釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅像一_(かねのみかたひとはしら)・幡蓋若干(はたぎぬがさそこら)・経論若干巻(きょうろんそこらのまき)」を献上してきた公伝をもって、わが国への伝来の最初としている。
五木寛之氏などはこの通説に異論を唱え、すでにその前から仏教は民衆レベルに伝わっていたはずだとしている。いずれにしろ、朝鮮の王から伝えられてきた「仏教」を前にして、天皇がその受容の可否を群臣にたずねたことは間違いないだろう。そのとき、蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教の受容、すなわち「崇仏」を答申した。諸外国でも仏教を採用しているのだから、日本だけがその流れに乗り遅れてはならないというのである。
それに対して、物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「廃仏」を主張した。その論拠は、日本には日本固有の神である「国神」がおられるから、「蕃神」という外国の神を崇拝する必要はまったくないというものだった。
相反する答申を得た天皇は、「試しに拝んでみよ」と仏像を稲目にと仏像を稲目に授けたという。かくして稲目は、自宅を寺にして、授かった仏像をそこに安置した。ところが、しばらくして疫病が流行し、廃仏派はそれを仏教のせいであるとした。異国の神を崇拝したために、日本の神が怒ったというのである。彼らは、稲目に授けられた仏像を難波の堀江に流し捨て、寺も焼き払った。
その後、五八四年の敏達天皇の時代にも、百済から二体の仏像が届けられ、稲目の子の蘇我馬子(そがのうまこ)がいただいて、個人的に崇拝した。しかし、このときもまた疫病が流行したのである。廃仏派は再び仏教のせいにして、天皇から破仏の命令をもらって仏像を焼き、さらに出家していた三人の尼を笞(むち)で打ったという。しかし、今回は疫病はおさまらず、それどころか、病人たちから「身が焼かれ、笞で打たれる思いがする」といった声がでてきたのである。
ここに形勢は逆転した。逆に、仏像を焼き、尼を笞打ちにした祟(たた)りによって、疫病が流行したのだとされたのである。馬子は新たに願い出て、自分だけは仏教を信じてもよいという許可を得て、寺を建立する。
敏達天皇の後に即位したのは、仏教に心を寄せる用明天皇だった。しかし、まもなく疫病で没し、その後は崇峻天皇を経て女帝の推古天皇が即位した。
推古天皇の摂政こそは、日本宗教における偉大な編集者である聖徳太子であった。太子は自ら仏典の注釈書である『三経義疏』を著すほどの崇仏論者で、ここにおいて、わが国の仏教はようやく軌道に乗ったのである。太子が日本仏教の道を開いたのだ。太子の時代の七世紀以後、神道と仏教の間に存在した当初の対立・緊張関係はなくなり、両宗教は平和的に共存しはじめる。
奈良時代になると、日本の神々も仏教を信仰し、仏道修行をするといった考え方が起こってくる。常盤国鹿島大神や伊勢国多度大神、若狭国若狭彦大神などが「神の身を受けているゆえに苦悩は深い。よって仏法に帰依して神道から逃れたい」という内容の告白を行ったのである。中世日本史を専門とする歴史学者の義江彰夫氏は、著書『神仏習合』に次のように書いている。
「八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国いたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることを苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきたのだ」
このような動きを的確にとらえた仏教側は、民間を遊行(ゆぎょう)する僧たちの手で神々を仏教へ説教的に取り込むよう働きかけた。こうして遊行僧による神々の仏教帰依の運動がはじまるのである。九世紀半ばには、元興寺(がんごうじ)の僧であった賢和が遊行の途上で近江国奥津島に堂宇を構えた。そこで、夢の中で奥津島大神の声を聞き、「世俗のしがらみを脱しえない神霊の身を救ってほしい」との告げにしたがって、神宮寺を建てた。神宮寺とは、神社のうちに建立された寺院のことである。こうして賢和は、配下の村々と国家を鎮護したいという大神の願いを実現させたのである。
すなわち、神宮寺とは仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いをかなえる場だった。文献に出てくる神宮字の最初は、奈良時代の気比(けひ)神宮寺であるが、神宮寺は主として遊行僧たちの手によって、その核となる部分、すなわち神像を設置した堂宇が建てられることから出発したのである。
そして、神宮寺においては神前読経が行われた。神に仏法を教え聞かせるわけである。
この神宮寺こそは世界宗教史上に特筆すべきもので、義江氏も次のように同書で述べる。
「八世紀から九世紀半ばまでの神宮寺生成確立の歴史を通して、何よりも注目したい宗教構造上の特徴は、日本各地に、他国に例を見ない、神社(基層信仰)と寺院(普遍宗教)が正面から結合し、仏になろうとして修行する神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が、本来の神社の一隅または近接地に生まれてくるという事実であろう」
インドにおいては、大局的には仏教はヒンドゥー教に丸ごと取り込まれる道をたどった。中国仏教は老荘思想と統合することはあるけれども、仏教寺院内に道教の寺院が建てられた例はない。またヨーロッパでは、キリスト教の教会と接してケルトの聖地が併存することなど考えられない。この意味において、神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰すなわち神道が、それぞれ独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた形で結ばれるという、日本独自の宗教構造のあり方を示している。
義江氏は、怨霊信仰、浄土信仰、本地垂迹説など、神仏習合に関わる諸問題は、いずれも神宮寺に見られた神仏の関係を基礎として発展的に生まれてくる問題であるとし、「神宮寺の出現は、まさに神仏習合を歴史学的に解明しようとするさい、第一に解くべき鍵なのである」と述べている。
ここで考えてみたいのが、「神仏習合」という言葉である。似たものとして、「神仏混淆」という言葉がある。この二つの言葉は一般には同じこととされており、辞典や百科事典でもそのように解説しているものが多い。しかし、宗教評論家ひろさちや氏などは、この二つは厳密には異なるものだと主張する。
神宮寺における神前読経に代表されるような、神道と仏教の平和共存的あり方を「神仏混淆」と呼ぶべきで、それに対し「神仏習合」とは神と仏がまったく一つに融合してしまうことだと、ひろ氏は著書『仏教と神道』で述べている。 
ことわざに「神と仏は水波の隔(へだ)て」というものがあるが、神と仏は水と波の関係で、形は違っても元は同じだと見るのである。そのような見方や考え方が「本地垂迹説」であり、だいたい一〇世紀頃からこのような思想が成立した。本地垂迹説とは、本地すなわち真実の姿である仏や菩薩が、民衆を救済するために迹(あと)を垂(た)れて、わが国の神々となって現れるというものである。まさに仏が水であって、その水が現実的には神という波になるわけだ。そこで、日本の神々には「権現(ごんげん)」という呼び名がつけられた。
本地垂迹説のルーツは仏教の仏身論で、垂迹は神に限らない。しかし日本では、仏教伝来当初から神仏の関係が問題とされた結果、神を護法神と位置づけ、または仏によって救済されるべき存在とする段階をへて形成されてきたのである。
平安中期からは、八幡宮の本地は阿弥陀仏や釈迦仏であり、伊勢神宮の本地は大日如来であるとするなど、個別の神社について本地仏を特定するようになった。また、平野・春日・日吉・北野・熊野・祇園などの主要神社で相次いで本地の仏や菩薩が定められ、それらを祭る本地堂が建立された。
中世に入ると、この関係を絵画化した「神道曼荼羅」も現れたが、一方で天台本覚思想の影響で神仏ともに本地とする説も生まれた。さらに鎌倉中期には、「神が本地で仏が垂迹」というように神仏関係を逆転させた伊勢外宮神官の度会(わたらい)氏による「反本地垂迹説」も登場したのである。
また、神道と仏教は「修験道」という混血児を生んだ。修験道は、もともと神道の縄張りであった日本古来の山岳信仰に仏教、特に密教の影響を受けて、平安末期頃に実践的な宗教体系を作りあげたものである。密教色が最も濃いとはいえ、そこには儒教や道教の影響さえ見られ、まさに混ざり合った宗教と呼べるものだ。山岳修行による超自然的霊力の獲得と、呪術宗教的活動を行う山伏に対する信仰が中心である。
宗教学者の中沢新一氏は、著書『芸術人類学』所収の「山伏の発生」というスリリングな論文を次のような書き出しではじめている。
「発生期の修験道について考えようとするときに見逃せないのは、東九州の修験霊場に伝承されている記録類である。宇佐がその地帯の文化のひとつの中心地であり、そのあたりは早くから百済・新羅系の帰化人集団の活躍が見られたところである。多数の技術者を擁していたその集団は、まず田川郡の香春岳(かわらだけ)の周辺に定着している。香春岳には銅が産出するので、そこが開発の中心となった。そして、彼らはおいおい国東半島に向かって拠点を拡大していったのである。五世紀後半から六世紀にかけての話である」
しばらくして、中央の記録に宇佐出身の宗教者とおぼしき人々の記事が登場する。彼らは「豊国法師」と呼ばれる行者であった。五八七年に用明天皇の病気平癒祈願のために、豊前から豊国法師と称する一行が宮中に召されている。彼らの正体は謎に包まれているが、それより百年ほど前に雄略天皇が御不慮であったさいに宮中に召された「豊国奇巫」の後身ではないかと推測されている。豊国奇巫といえば、明らかに朝鮮半島系のシャーマンであろうから、その後身である豊国法師も、おそらくシャーマニズム的な奉仕だったのだろうと中沢氏は述べる。豊国法師には験力があったのだ。
中沢氏は、柳田國男の巫女研究の跡をたどりながら、「修験道の原初をあきらかにしていくためには、どうしても東九州から朝鮮半島の南部までをひとつに包み込んだ大きな圏域のことを考えにいれなければならないという認識に、たどり着くことになる」と述べる。
このような発生をした修験道の開祖は、七世紀から八世紀にかけて活躍した役小角(えんのおずの)であるとされている。一般には「役行者(えんのぎょうじゃ)」と呼ばれる彼は不思議な霊力を持っていたようで、山中にあって鬼神を自由自在に使役していたとか、超能力で空中を飛行したといった類の伝説が多く残っている。彼の正体は山岳修行者であることは明らかで、吉野の金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)やその他の山々を開いた。だが、土着の山岳修行者との間に軋轢が生じ、彼らによって伊豆の大島に流刑されたのである。
中沢氏は、国家権力と無関係に次々に各地修験の開山をなした役行者は、「権力の獲得」という点に関して、天皇と鏡の像のようにそっくりな姿をしていると述べている。天皇は魔術的儀礼と神話の力によって、自然の懐から力の源泉を持ち去って、それを社会ノただ中に「国家の権力」としてとらえることに成功した人物である。
これに対して、修験者である役行者は、聖なる山や森に踏み込んで得た力の秘密を、社会の中に持ち込んで、それを自分の政治権力とすることを拒絶したとして、中沢氏は次のように書いている。
「途中まではこの列島の『王』として出現した天皇とまったく同質の行為をおこなって、力の源泉に近づいていった修験の祖は、いつまでも聖なる山と森の中にとどまり続けることによって、王のなした行為の最大の批判者となる可能性さえもった。役行者という存在は、原初の修験が突き動かされていた思想の本質を、もののみごとに表現しているからこそ、列島修験すべての祖となったのであろう」
山岳は、もともと神道の縄張りであった。山そのものが神であると考えるのが神道であり、各地の霊山には土着の山岳修行者がいた。もちろん、神道系の修行者である。奈良時代になって、そこに仏教系の修行者が加わったのである。私度僧や聖(ひじり)といった人々が主で、正式な僧侶ではなかったが、彼らが山岳で修行して呪力を身につけ、陀羅尼(だらに)や経文を唱えて、民間で呪術や祈祷を行ったのである。役行者も、もともとはこのような人々の一人であったのだろう。
平安時代になると、最澄と空海がともに唐から新仏教としての密教を伝えてきた。この密教は特に山岳修行を重視した。密教僧が山岳修行によって加持祈祷の力を身につけることは「験(げん)を修める」と呼ばれ、それを修めた者は「修験者」「験者(げんざ)」あるいは「山伏」と呼ばれたのである。修験道はまさに、「山伏道」なのだ。
中世期になると、修験道は天台系の「本山派」と真言系の「当山派」に編成される。本山派は京都の聖護院(しょうごいん)を本山とし、熊野一帯を修験霊場とする。当山派は京都の醍醐寺三宝院を本寺とし、吉野の金峰山、大峰山を修行道場とする。その他、出羽三山、九州の英彦山、四国の石鎚山など地方でも独自の山岳霊場がつくられ、修験集団が形成された。 
江戸時代になると、幕府は全国の修験者を本山派か当山派に所属させ、山伏の遊行を禁止したため、彼らは町や村に定着して、加持祈祷などの呪術的活動を専門にした。
このように、本地垂迹説に基づく神仏習合にしろ、修験道にしろ、ともに神道と仏教が混ざり合い、神と仏が共生するという離れ業を日本人は行ってきたのである。しかし、もともと神と仏は原理的に異なる存在である。その違いを鎌田東二氏は三つの標語にして非常にわかりやすく説明している。すなわち、
第一に、神は在るモノ、仏は成る者
第二に、神は来るモノ、仏は往く者
第三に、神は立つモノ、仏は座る者
つまり、神とは森羅万象、そこに偏在する力、エネルギー、現れであるが、それに対して、仏は悟りを開き、智慧を身につけて成る者、すなわち成仏する者である。
また神は祭りの二羽に到来し、訪れてくつモノであるが、それに対して、仏は悟りを開いて彼岸に渡り、極楽浄土や涅槃に往く者である。
さらに神は祭りの場に立ち現れるがゆえに、神の数詞は一柱、二柱と数えるのに対して、仏は悟りを開くために座禅瞑想して静かに座る者で、その座法を蓮華座などと呼ぶ。たとえば、諏訪の御柱祭や伊勢神宮の心の御柱(みはしら)や出雲大社の忌柱に対して、奈良や鎌倉の大仏の座像などは、立ち現れる神々の凄まじい動のエネルギーと、涅槃寂静に静かに座す仏の不動の精神との対照性を見事に示しているのである。
このように、神と仏の違いは非常に大きい。ある意味で対極に位置するものでありながら、日本で神仏習合が進んだのは、なぜか。鎌田氏によれば、もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る自然観や精霊観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからである。その自然観や精霊観を「アニミズム」と呼ぼうが、「森羅万象教」や「万物生命教」と呼ぼうが、もっとシンプルに「自然崇拝」と呼ぼうが、実態は同じである。そこには、「一寸の虫にも五分の魂」が宿り、「仏作って魂入れず」という言葉で肝心要のことに注意を喚起してきた文化がある。その文化の根幹には「八百万(やおよろず)」の思想があり、それは肯定の思想の極致と言える。そう、八百万主義とは全肯定の思想なのである!
神と仏は原理的に異なるものであったとしても、日本人の心の中ではずっと平和に共生してきた。神仏は分離されるものではなく、表裏一体をなし、密接不離の関係にある。ときには本地垂迹し、互いに変換しあい、変容しあう間柄だったのである。
その意味でも、一八六八年(明治元年)に「神仏分離令」が出されたことは不幸な事件であった。それまで蜜月関係を続けていた日本の神仏は。ここで制度的にはっきりと分離されることになった。そしてその後、一部地方で激しい「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が起こり、寺に火をつけたり仏像を破壊したりするという事態を招いたのである。
梅原猛氏は、このとき殺されたのは仏ばかりではなく、神もまた殺されたのであると述べている。仏だけでなく、習俗信仰的な神々も廃仏の対象となっていたからである。梅原氏はまた、伝統的な神仏殺害の報いが現在の道徳崩壊という形で徐々にあらわれてきているともいう。神仏分離および廃仏毀釈によって、すべてを肯定し、すべてを尊重する日本の美徳は失われ、その大きな代償を私たちは、いま払っているのである。
修験道もまた、明治政府の修験道禁止令によって廃止されてしまう。本山派、当山派の修験者は、強制的にそれぞれ天台宗、真言宗に所属させられた。もちろん、中には神職に転じて神道に戻った山伏もいたし、宗教から離れて帰農した者もいた。江戸幕府といい、明治政府といい、修験道への対処ぶりを見ると、やはり中沢新一氏が述べるように、修験道は国家権力の問題と密接に関わっていたと思わざるをえない。
最後に、全肯定の八百万主義の象徴として「七福神」について述べたい。七福神とは恵比寿、大黒天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人、毘沙門天のことをいうが、仏の世界と神々の世界のビッグネームたちがまさに「呉越同舟」しているのである。
鯛を抱えて釣竿を持つ恵比寿は、イザナギのミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれた神であるヒルコノミト(蛭子命)とされている。生まれながらにして障害があり、三歳になっても脚が立たなかったため、両親は葦舟(あしぶね)に乗せて海に流したという。中世以降、このあまりにも悲惨な運命の神は一転して福神となり、ふくよかな笑顔の「恵比寿さま」と尊称されるようになった。
大きな袋を背負い、右手に打ちでの小槌を握った大黒天は、もともとインドの神であった。仏教では大日如来の化身とされ、仏法の守護神である。凄まじい形相をした戦闘の神であったが、中国に渡って厨房の神となり、留学していた最澄が帰国後にこの大黒点を比叡山延暦寺の守護としたのだった。その後、出雲神話のスターであるオオクニヌシノミコトと一体化し、現在のイメージに至っている。
芸術を司る弁財天は、インドの河の神だったが、日本で宗像大社の祭神で海の神であるイチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)と一体化した。
もともと中国の学識豊かな禅僧とされた布袋は、弥勒菩薩の化身でもあった。頭長短身の老人である福禄寿と、仙人の寿老人は、中国生まれの道教の神である。仏教の四天王のひとつとして知られる毘沙門天は、護国護法の神であり、多聞天の別名を持つ軍神である。
このような七福神を、玄侑宗久氏は「やおよろず」そのものとして高く評価する。また神道学者の井上宏生氏は著書『神さまと神社』で次のように述べている。
「七福神には日本の神もいれば、もとはインドや中国といった外国の神々と日本の神とが一体化した神もいる。これらの国籍を越えた神々にあたらしい役目を与えられ、七つの神々が呉越同舟したのである。そして、室町時代以降、福を願う町民たちの間で七福神信仰が生まれ、今日なお、根強い人気を集めている」
明治まで何の疑問もなく、神と仏を同時に信仰してきた日本人であったが、神仏分離令によってその信仰は封印された。しかし現在でも七福神を愛する心の奥底には、神と仏を同時に求める日本人の無意識があるようだ。 
 
神道と儒教

 

日本の民族宗教である神道と、中国の民族宗教である儒教は、どのように関わりあってきたのだろうか。
何よりも儒教は、日本固有の信仰における「神道」化に影響を与えている。この歴史的事実はこれまであまり問題にされてこなかった。日本に渡来して以来、儒教は宗教としてではなく、ひたすら政治や道徳的な徳目としてとらえられてきたからだろう。
『古事記』によると、応神天皇の時代に百済王が阿直岐(あちき)を日本に派遣し、良馬を献じた。そのとき、経典に詳しい阿直岐は、皇太子の菟道稚郎子(とじのわきのいらつこ)に儒教を講じたという。その翌年、百済の五経博士である王仁(わに)が『論語』一〇巻、『千字文』一巻を持って来日し、皇太子の師になったとある。
一般にはこの記録が日本への儒教渡来の始まりとされているが、異説もある。儒教が渡来したとされる四世紀頃、日本と朝鮮半島との関係はかなり密接だった。しかも日本は軍を派遣し、三八度線近くまで進出、高句麗の好太王と戦ったりしており、文化の交流も盛んであったと予想される。儒教的知識も断片的ながら日本に伝わっていたことは間違いないだろう。だが、紀元前二世紀頃の前漢において儒教は国教となっていたが、三世紀頃の魏晋時代には道家の思想を取り入れていた。したがって、三世紀の邪馬台国の卑弥呼の時代には、儒教はすでに九州あたりに道教とともに入っていた可能性がある。卑弥呼が通じていたという「鬼道」には、どことなく原始儒教すなわち「原儒」のシャーマニズムを思わせるものがある。この想像には、古代へのロマンが強く呼び起こされる。
しかし、儒教が本格的に日本に入ってくるのは、やはり聖徳太子の時代から近江朝にかけてだろう。儒教の精神は律令に大幅に取り入れられているとされる。大陸から高度の文化を輸入した日本では、その法制を導入することで国家の骨格を作り上げたが、その際、中国で律令制度を支えていたさまざまな宗教的儀礼や習俗までを輸入することはできなかった。日本に儒教は伝来しても、その核たる「礼」抜きでの伝来だったと言われるゆえんである。
そのため、もっぱら合理的で世俗的なものとして律令制度は受け入れられた。日本の土着の信仰は従来のままで、その上に律令制度が築かれたわけだが、土着の宗教と律令との間には、当然ながらあまりにも大きな落差があった。律令制度を維持していくことは、土着の宗教が持っていた組織力や文筆の力ではとうてい不可能だったのである。
律令制度では、太政官と並ぶ形で神祇官が設けられた。しかし、式部省の管轄する大学が、律令制度そのものを維持するために必要な知識や学問を伝授する場となった。また、中務省に所属する陰陽寮が、律令制度の運用に必要な中国伝来の儀礼を掌握していた。さらには、治部省の玄蕃寮が管轄する仏教寺院が、律令とは別系統の大陸伝来の文化を総合的に管理し、仏教に対する学問と、多方面にわたる技術を継承していたのである。
律令官人は、律令制度を支えるための必要な知識や学問を身につけることを建前としていた。しかし、彼らが習得すべきであるとされた知識や学問とは、本場の中国の場合と異なり、宗教的性格の薄い世俗的なものにすぎなかった。
土着の神祇信仰は、現実の政治の場できわめて大きな役割を果たしていた。たとえば国司の任務の第一には、任国内の神祇を祀ることがあげられていた。神祇の制度が詳細に整備されるだけの現実的な裏づけがあったとしても、貴族の観念の中では、神祇の祭祀とは単に政治のために必要な儀礼であるくらいにしか考えられなかったのである。もちろん貴族が学ぶことを課せられていた中国伝来の学問から見れば、本場である中国の祭祀と神祇信仰との間には越えがたい隔たりがあったに違いない。でも、そのことは貴族にとって、思想や信仰における深刻な問題ではなかったのだ。
貴族は、神祇の世界を客観的に理解しようとしなかったが、それはまた、本来は中国において律令を支えていた「礼」や「易」の儒教的世界に対する無関心でもあった。世俗的なものとして受容した律令と、土着の神祇信仰との組み合わせは、日本の貴族が中国における宗教や儀礼の持つ意味を理解する道を閉ざしてしまったのである。
しかし、律令制度が揺るぎはじめたとき、事態は変わった。貴族が習得すべきとされていた外来の知識や学問のみでは社会の現実に対処できなくなり、貴族たちは神祇の世界に関心を持つようになる。彼らはまず、古来の有力な神社とその祭礼の由来を尋ねて、知識を広くした。それに応じて、数々の縁起や祭礼の記録も作られた。
神祇に対する貴族の関心を一身に背負ったのは、言うまでもなく神官だった。全国の主要な神社は、律令的な秩序のもとで国家に厚く保護され存続していた。だが、平安時代の後半になると、社領の変質とともに古くからの有力な神社は経済的な基盤を失いはじめ、神社を支えていた神官はその再編を迫られていたのである。
また、律令制度がゆるみ宮中の祭祀が衰退しはじめると、その存在基盤が揺るぎはじめた神祇官人の間に強い危機感が生まれ、神祇についての特殊な知識や技術を伝えていることを強調する者も現れた。彼らは、伝承の一部を公開しつつも、神秘的な権威づけのために一部は秘伝とし、祭祀の伝承者として彼らが特別な禁忌(きんき)を守っていることをアピールしようとしたのである。こうして、神祇に関する記述が生まれはじめた。
神祇への重視から神道には儒教的要素が取り入れられはじめたが、それにはもう一つ理由があった。仏教に圧倒され、日本の神々が仏の脇役に転落していく中で、仏が主で神が従という「本地垂迹説」が日本人の信仰において主流となっていった。しかし、これに反逆する人々も現れ、日本の神々があくまでも主で仏を従とする「反本地垂迹説」を唱えた。
この説を南北朝の時代に展開したのは伊勢神宮の外宮(げぐう)の神主たちで、この反本地垂迹説は「伊勢神道」と呼ばれた。伊勢神道は度会行忠(わたらいゆきただ)によって理論化が進められ、度会家行(わたらいいえゆき)がさらに進めた。家行は、日本の神々を最上位に置き、儒教や仏教はそれに従うものとした。それによって、日本における天皇の地位を歴史的かつ宗教的に明らかにしようとしたのである。 
家行の『類聚神祇本源』の第一巻は「天地開闢篇」となっているが、それまでの神道論が天地の聖性の経過をたどろうとしているのに対して、理論的な関心のみで貫かれている。また、構成が「漢家」と「本朝」に分けられ、「本朝」が官家・社家・釈家に細分されていることからもわかるように、中国の典籍に拠りながら仏典も参照するという方針をとっている。そこには膨大な典籍が引用されているが、その広がりは当時の神官の知識の範囲を示すものとされている。「漢家」の項では『老子』『荘子』『列子』といった書物とともに、『周易』や『周子通書』などの儒教書も見られる。
家行の神道論を受け継ぎながら、新たに儒教思想を緩用して神道的な政治思想を生み出したのが、『徒然草』を書いた吉田兼好の兄としても知られる慈遍であった。彼の『旧事本紀玄義』では一貫して儒教的な政治道徳が述べられているが、そこでは『類聚神祇本源』が『老子』や『列子』などに依拠しつつ究明しようとした天地開闢の問題から転じて、儒教的な「天」への恩恵への傾斜がはっきりと示されている。しかし、その説明はあくまで神道的な表現をとりながら進められ、最後は伊勢神道の教説で結ばれているのである。
慈遍の政治論は儒教の思想によって支えられていたが、それと土着の宗教とを結ぶ存在として天皇があった。なお、後に吉田兼倶が『旧事本紀大成経』で神仏儒一致論としての「根本枝葉果実説」を展開するが、これの原型を『旧事本紀玄義』に見ることができる。
土着の信仰であった神祇信仰は、もともと人に説く教説を持っていなかった。社領を再編して神社を建て直すことに努力を傾けた神官は、信徒を獲得するために神社の権威と神々の霊験を説きはじめた。
そこで重要なコンセプトとなったのが「禁忌」である。禁忌の論には二つの側面があった。その第一は、とりたてて教説といえるようなものを持たない神官を、一般の信者から区別する役割である。神官の呪術的な力を保障するには厳しい禁忌に服していることが必要であり、それこそが神官の権威を人々に認めさせることになるのである。また第二の側面は、その信者にとって、禁忌の一部に服することが唯一の信仰上の行為であると考えられた点である。このような背景のもとに、神道論の多くは禁忌の問題にふれ、禁忌を媒介として教説を示すことになった。
宮廷を中心として整えられていた神祇の祭祀は、律令制度が解体していく中で急速に衰微していった。そのとき、自分たちこそが神祇の伝統的な禁忌を厳重に守り伝えているという誇りが神官たちを支えていたのである。神祇の官人が守るべき禁忌の基本は、『神祇令』に定められたいわゆる「六色の禁忌」で、神事に従う者は、喪を弔うこと、病を問うこと、宍(しし)を食うこと、刑殺を判(ことわ)って罪人を決罰すること、音楽をなすこと、穢悪の事に預ること、の六項の禁を厳重に守らなければならないとするものであった。
神道論の中では、さまざまな禁忌は神の託宣という形で説かれる。『倭姫命世記』をはじめ、いわゆる「神道五部書」には、伊勢神宮の祭神の神託として六色の禁忌が取り込まれ、後の神道論に対して権威を発した。禁忌は神道にとって唯一の教説であり、神祇信仰の信者にとっては内面的な心と結びついた問題であった。そのため、禁忌は神道論において繰り返し説かれる中で、託宣としての神聖化から教義の形成へと次第に向かっていったのである。
そして、やはり『類聚神祇本源』がその流れを作っていった。同書の第一三巻にあたる「禁誡篇」は、さまざまな文献の中から禁忌に関する条文のダイジェストだが、神道論における禁忌の範囲がよくわかる。ここで注目すべきは、『礼記』を引いて禁忌というものを一般化しようとしていることだ。
こうして神道論における禁忌は、単なる祭祀参加者の守るべき禁制から、個人の修行という宗教的な存在に変化していくのである。家行は、『類聚神祇本源』の最終巻である「神道玄義篇」で、神道の目的は人間の心の「清浄」の状態を実現することであると説いた。そして、「清浄」に到達するのは「六色の禁法を以て潔斎の初門と為す」と説いた。
この主張は、神道における禁忌に対する考え方を決定づけたと言ってよい。このように禁忌の問題を媒介として、土着の神祇信仰は一気に宗教化を図ったわけだが、神道としての宗教的な形態を整えようとしたのが吉田兼倶の『唯一神道名法要集』であった。神祇の儀礼を整えることは神道家の共通の関心だったが、その方向は古い祭祀の伝統を守ることにあった。伝統的な祭祀の再解釈は繰り返し行なわれたが、積極的に新しい祭祀を創出して儀礼を組み立てていく作業は行われなかったのだ。それを神祇信仰の上に立ちながらも強行した人物こそ、中世神道界のヒーローである吉田兼倶だった。
彼は京都の吉田神社の神主だったが、日本の神々を最高として、仏教も儒教も道教も脇役であり、日本の神々に輝きを与える存在であると主張した。これが「吉田神道」である。
神道に対する兼倶の思想は『唯一神道名法要集』に要約されているが、兼倶が整えた祭祀とその儀礼のあとを追う形で唯一神道の教義が作られ、儀礼が重視されていることがよくわかる。
臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などの「鎌倉仏教」の教団が民衆の間に本科雨滴に浸透し、教団の組織を形成していくのは室町時代になってからであった。この時代になって、ようやく仏教は明確な教団の組織を通じて、宗教的な機能を発揮するようになるのである。「仏法」という漠然とした形で存在していた仏教のあり方は大きく変化していった。このライバルの変化に影響されて、神祇信仰も新しい発展を遂げる必要があるという考え方が起こり、そのためには教団の組織が不可欠とされたのである。いち早くそうした状況に対応した兼倶は、儒教的要素を取り入れて儀礼を明確にしていく中で、組織を拡大していったのである。
兼倶は学究肌ながら、すぐれた政治力にも恵まれ、室町幕府の八代将軍、足利義政の妻である日野富子の信任を受けた。彼の影響力は朝廷にまでおよび、吉田神道は幕末までの三00年もの間、神社界を支配したのである。
吉田神道からは吉川惟足(きっかわこれたる)を創始者とする「吉川神道」が出てくる。惟足は、君臣の道や徳といった儒教の倫理を押し立て、それを日本の神々と結びつけようとした。すなわち、日本の神々と儒教の合一を唱えたのである。後の会津藩主である保科正之に認められて幕府の神道方という要職に登用され、保科は惟足の弟子となった。他にも、紀州徳川家の徳川頼宣(よりのぶ)、加賀藩主の前田綱紀(つなのり)らの大物を弟子とし、吉川神道は大いに広まった。 
惟足と同時代に度会延佳(わたらいのぶよし)という伊勢神宮の外宮の神官がおり、伊勢神道を発展させて「度会神道」を提唱した。伊勢神道では儒教や仏教は日本の神々に従うとされたが、延佳は日本の神々と儒教を合体させた。そして、儒教でいう君臣、親子、兄弟、朋友といった道こそが日本の神々にふさわしい道であると説いたのであった。
仏教学者の末木文美士氏は、日本の神々と儒教の関係は不思議であると述べている。聖徳太子の頃、儒教は仏教の陰に隠れた存在だった。中世以降の貴族社会では貴族や僧侶といった知識人たちの教養を担っていた。隋や唐から渡来した儒教を学び、それに親しむのが知識人の証明だったのである。そこに宗教の匂いは感じられない。それなのに、なぜ吉田兼倶や吉川惟足や度会延佳たちは儒教に関心を示したのか。末木氏は著書『仏教vs倫理』に次のように書いている。
「もともと神々の世界には教義は存在しなかった。それが渡来の神々にも寛容だった理由だったし、逆に、求心力という点では弱点だった。仏教の脇役に甘んじてきたのもそのためだった。そこで神々の側にいた人々は強力な援軍を探しはじめ、それが君臣の道や徳を説く儒教だった。儒教の論理が日本の神々の世界を補強してくれたのである」
儒教は、儀礼の形成のみならず、教義の確立という点でも神道をサポートしたわけだ。神道にとって、儒教は格好の「道具」であったという見方もできるだろう。しかし神道側からだけでなく、江戸時代には儒教側からも「儒家神道」と呼ばれる合体論が多く生まれたのである。江戸初期の朱子学者である藤原惺窩にはじまり、その門人の林羅山によって、
神道と儒教の一致を説く思想が積極的に提唱された。羅山はその著『本朝神社考』の序文において、従来の本地垂迹説や神仏混淆説を批判し、「日本が神国であり、神武天皇が天神(あまつかみ)のあとを継ぎ、その道を広めた。これがすなわち神道であり、王道である」とし、この王道こそはシナの聖賢の道と同一のものであることを唱えた。この「神道即王道」の観念によって神儒一致論を主張した羅山は、その考えを『神道伝授』において一歩進め、自らその神道説を「理当心地神道」と名づけたのである。
羅山以後、朱子学派、陽明学派、古学派、独立学派、水戸学派など学派の別にかかわりなく、神儒一致論を説く儒学者たちが現れたが、これには二つの立場があった。儒教を主とし神道を従とする「儒主神従」と、神道を主とし儒教を従とする「神主儒従」である。
前者の立場をとるのは朱子学者の林羅山、貝原益軒、陽明学者の三輪執斎などである。後者のそれは朱子学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、陽明学者の熊沢蕃山、古学派の山鹿素行、独立学派の帆足万里(ほあしばんり)、二宮尊徳、水戸学派の徳川斉昭(なりあき)、藤田東湖、会沢正志斎などである。
そして多くの儒学者によって唱えられた神儒一致論を内容とする神道説は、「垂加神道」を創唱した山崎闇斎という最大のヒーローを生んだ。「垂加」とは、伊勢の託宣にも見える神の降臨と加護の意味で、闇斎の神号でもあった。闇斎は朱子学を学んだのち、神道にも深く沈潜し、吉川神道や度会神道などを集大成して、独自の「神儒習合」の神道説を唱えた。その内容は、神仏習合思想を批判し、天と人との一体性を強調して、心の本性を明確にするために朱子学の理念から「敬」の尊重を主張、社会体制や秩序の安定と維持を説くものであった。
鎌田東二氏は、現在では伝説の書とされている荒俣宏編『世界神秘学事典』において、闇斎に代表される儒学神道のポイントは二つにしぼられると述べている。一つは、反仏教の立場である。現世を否定する仏教に対し、現世えの忠孝を基礎とする儒教は、同じように来世観というものを持たなかった現世主義の神道と、比較的よくなじんだ。即身成仏を説く密教が、神道教義の確立に力を貸せたのも、やはり同じような理由によるのだろうと鎌田氏は推測する。この神道が来世的宗教の性格も持つのは、キリスト教の考え方に影響された平田篤胤が出た後のことである。
そして、儒学神道のもう一つのポイントは、「理」ということだ。儒教の根本的な教えである「理」は理屈の理。この漢字の意味は、玉すなわち結晶が正しい配列で並ぶという「里」を示し、混乱や無秩序がない状態を指している。具体的にはアマテラスオオミカミのしろしめす自然の道に従うことと、心の中に宿る神の声に従うことであり、三種の神器における玉はそのシンボルであるという。
ところで、この儒学神道が成立したのとほぼ同じ頃に、もう一つのムーブメントが重なった。直接的には文学を学ぶ人々の側から、『古事記』『日本書紀』『万葉集』あるいはそれよりも古い「祝詞(のりと)」や「片歌(かたうた)」などを再検討して、中国風文芸とは一線を画した古い日本の本来的な文芸に新しいイマジネーションを求めようとするムーブメントである。言語学と芸術論を二本柱とした、このまったく新しい復古派を「古学神道」という。儒学神道のヒーローが山崎闇斎なら、この古学神道における最大のヒーローとは、国学者の本居宣長である。
よく知られているように、宣長は激しく儒学を批判したが、そこには「やまと心」と「漢意(からごころ)」の問題があった。「言挙げせぬ」神道の精神を重んじる宣長は、理論的な儒学を「あげつらい」の小賢(こざか)しい学問と見ていたのである。「近代日本最高の知性」と呼ばれた小林秀雄は、畢生の名著『本居宣長』に次のように書いている。
「宣長の正面切った古道に関する説としては、『直毘霊(ナオビノタマ)』(明和八年)が最初であり、又、これに尽きてもいる。『直毘霊』は、今日私達が見るように、「此篇(クダリ)は、道といふことの論(アゲツラ)ひなり」という註が附けられて、『古事記伝』の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。そこで、『皇大御国(スメラオホミクニ)』を黙して信ずる者の、儒学への烈しい対抗意識だけが、明らさまに語られる事となった。当然、人々の論難は、宣長の独断と見えるところに向って集中した」
後年、『直毘霊』を刊行して間もなく、宣長は還暦を向え、自画自賛の肖像画を作った。その賛が、名高い「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」の歌であった。宣長は国学の専門家として、また生涯に自ら一万首を詠んだ歌詠みとして、よく知っていたこの古歌を取り上げたまでであった。しかし、ここに出てくる「やまと心」という言葉は、儒学者には耳障りで挑発的な響きを持ったのである。 
そして、宣長は「漢ごころ(漢意)」を排斥した。宣長の師である賀茂真淵がまず、『古事記』などの神典を正しく理解するには古えの心(古意)(いにしえごころ)を得なければならず、その古意を得るためには漢意を除き去る必要があると教えた。この教えは宣長において「漢意批判」として体系化される国学の思想方法論である。
『古事記』の伝承における古えの心(古意)は、漢意を取り除くことによってはじめて明らかにされるというのである。つまり、古意とは漢意を排除することによって明らかにされる日本古代固有の心意なのである。言うまでもなく、漢意とは、外部から日本に導入された漢字文化にともなわれた儒教に代表される考え方であり、物の見方のことである。
現代における宣長論の第一人者で、倫理学者の子安宣邦氏は、著書『本居宣長とは誰か』に次のように書いている。
「漢意の問題とは、国学思想のもっとも重要な側面を形成するものであることが明らかになります。国学とは日本文化の固有性をもった学問であり思想だと規定することができますが、この固有性への志向は、文化における外来的なものの排除的剔出(てきしゅつ)の傾向をともなうのです。このように漢ごころの問題は、国学的イデオロギーを特質づけている固有と外来、内部と外部、そして自己と他者といった二項対立的な思考の枠組みを形成するものとしてあったのです」
宣長の漢意批判は漢字そのものへの批判にもつながり、漢字によって書かれた『日本書紀』を漢意的な解釈に汚染されたものとして低く評価し、彼が「あるが中の最上(かみ)たる史典(ふみ)」と呼んだ『古事記』よりも下に位置づけた。宣長以前は、ずっと『日本書紀』の方が上だったのである。宣長は、千年以上も「久しく心の底に染着たる漢籍意(からぶみごころ)のきたなきこと」に気づき、『古事記』の「古語のままなるが故に、上代の言の文も、いと美麗(うる)はしきもの」であることを悟ったのである。そして鎌田氏の表現を借りれば、古学から古道への真の正しき回路が開けるという古学革命を達成したのだ。
このように、儒学を徹底的に批判した宣長の人生には一つの大きな謎があった。彼が、書き遺した「遺言書」である。死の一年ほど前の一八00年七月に長男の春庭と次男の春村宛に書かれたものだが、日本人の「遺言書」の歴史があるとしたら、その中でも最も異例な、異様とさえいえる内容のものであった。自らの死に備えた「遺言書」といえば、死を迎える者の感慨が何らかの形で書かれていることを予想するが、宣長の「遺言書」は人の予想をまったく超越したものである。
その内容とは、納棺・埋葬・葬送・葬式・戒名・墓地・祥月(しょうつき)などについての詳細な指示書そのものであった。自身の葬儀や墓地のあり方をディティールに至るまで事細かに図入りで指示しているのである。彼は世のしきたりにしたがって葬儀は樹敬寺で仏式で行われることを指示しながら、自分の遺骸は生前自ら定めた山室山の「本居宣長之奥津紀(おくつき)」に前夜内密に葬るように指示している。また納棺についても、蓋の閉め方、釘の打ち方まで述べている。
墓地についての指示に続いて、墓参についての指示がある。さらに毎月の祥月の供え物の内容、祥月に一度は歌会を催すべきであること、歌会の客に対しての支度は「一汁一菜」であることまで指示しているのである。まさに異様としか表現できない「遺言書」である。
生前の宣長は「死」について、わが古えにあって人は「ただ死ぬればよみの国へ行く物とのみ思ひて、かなしむより外」なかったのだとドライに言い切っている。この言い切り方には、死の不安を抱き、仏教に救いを求める世の人々の心を斟酌(しんしゃく)する趣きはいささかもない。一般に、死に関心を抱かない者は葬儀にも無関心である。唯物論者がその好例だ。しかし、宣長の「遺言書」には、偏執的ともいえるほどに葬儀への関心が示されていたのである。
宣長の「遺言書」は大きな謎とされ、小林秀雄の『本居宣長』でも冒頭に出てくる。その『本居宣長』の新潮文庫版の下巻の最後には「『本居宣長』をめぐって」と題する小林と江藤淳の対談が掲載されている。この対談には、次のように「遺言書」の話題が出てくる。
「小林ああいう遺言を書いたという事は、これはもう全く独特なことです。世界中にないことです。それがとてもおもしろい::。
江藤宣長の葬儀のときには、やはり遺言のとおりにはいかなかったのでしょうね。
小林それは幕府の奉行所から文句が出て、あのとおりにはいかなかった。空(カラ)で行くというような奇怪な事でして、後で、どういう申しひらきが出来るかという事でね。
江藤冠婚葬祭といいますが、葬いというものは、やはり人生の終わりの儀式ですから、あらゆる文化の中で葬儀とか葬礼というものは、その文化の表現として重要なものだと思います。たとえば『礼記』の中にも葬いのことは細かく規定されていますが、お葬式というものは大変大切なものだと思います」
結局、二人は宣長の謎の「遺言書」および葬儀についての結論を出していない。江藤の「宣長の学問の一番深いところにつながっている」とか小林の「あの人の思想のあらわれ」などの簡単なコメントの後、他の話題に移っている。謎は謎のままである。しかし、私には思い当たる節がある。江藤淳が述べているように、葬儀や葬礼は重要な文化の表現である。そしてそれを細かく規定した『礼記』とは言うまでもなく儒教の書物である。儒教こそは最も葬礼に価値を置く宗教に他ならない。もうおわかりかと思うが、宣長の「遺言書」の葬儀についての尋常ならぬ思い入れは、きわめて儒教的なのである。
実は、「遺言書」は葬儀、墓地、墓参についての長々とした指示の後、最後に「家相続跡々惣体(そうたい)の事は、一々申し置くに及ばざるに候。親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門断絶これ無き様、永く相続の所肝要にて候。御先祖父母への孝行、これに過ぎざるに候、以上」という言葉をもって閉じられる。この最後の言葉だけがいかにも「遺言書」らしいなどと言われているが、これはもう明らかな儒教思想以外の何物でもないではないか。
私は、宣長は学問としての「儒学」は否定しても、宗教としての「儒教」は肯定していていたのではないかと思う。そのように考えると、「遺言書」の謎が解ける。宣長の「遺言書」はまさに儒教思想のエッセンスだ。
儒教の核心は「礼」の思想にあるが、それは葬礼として最高の形で表現される。日本に儒教が伝来し、それによって律令制度が作られたが、あくまでも「礼」抜きのものであった。宣長は逆に、腹周りの贅肉のようにまとわりつき臍(へそ)である「礼」を隠している儒学的な理論には反発したが、「礼」そのものには深い共感を覚えたのではないか。
彼は気軽に古歌を取り上げたところ、そこに出てくる「やまと心」が儒学者たちを刺激し、彼もまたそれを受けて「漢ごころ」批判れたが、その根本の根本において儒教をリスぺクトしていたように思えてならない。
日本史上において儒学の最大の批判者であった本居宣長は、儒教の最高の理解者にして実践者でもあったのだ!
葬儀について詳細に指示しつつ、最後は先祖や父母への孝行を指示した宣長の「遺言書」こそは、死の直前にその根本においての儒教肯定をカミングアウトするという、「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「宣長コード」であったと私は思う。 
 
穢れと結界に関する一考察 「ケガレ」と「ケ」

 

1.はじめに
「ケガレ」の観念1は祭祀を執り行う者にとって重要な要素となっている。祭りに際しては、人々は物忌み、忌み籠りをおこなっており、「ケガレ」を避けることを常としている。物忌みとは神事を執り行うため、心身の「ケガレ」を取り除き、精進・潔斎することである2。「ケガレ」に触れないよう物忌みをおこなったのは、特定の祭祀に関係する人々だけではない。年越しの大晦日など先祖霊が戻ってくるような前日には、各家庭でもおこなわれていた。既に『万葉集』の東歌(三四六〇)にも「誰そこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を」というのがあり、「いはふ」という言葉が使用されている。この場合の「いはふ」は、潔斎の意味に用いられている。
この「ケガレ」とはどのような状態または行為を表すのであろうか。『延喜式』の臨時祭の条では、「穢悪事」として、人間の死穢や産褥、動物の死穢や産褥、喫宍、またその他に改葬、傷胎、懐妊、月経、失火、埋葬なども挙げている。この「ケガレ」の解釈について、多くの研究者が様々な方法で定義を試みている。
江戸時代の学者である谷川士清は、彼の著書である『和訓栞』の中で、「触穢をいふ気枯の義成へし。」と記し、穢については「けがらわし、けがらひ」と訓を付けている。
同様に、桜井徳太郎氏は「ケガレ」が「ケ3・枯レ」の意味であり、「ケ」が生命エネルギーつまり米作りを中心とする生産活動や豊饒性を指し、それが枯れた状態が「ケガレ」であるとした4。つまり「祭り」はこのような生命の枯渇(「ケガレ」)を復元させる意味を持つのである。彼はつまり、「ハレ」(祭り、神聖さ)を「ケガレ」との連続性において捉えている。
「ケガレ」と「ハレ」の関係について、波平恵美子氏は桜井氏とは異なり、『記紀神話』おける「ケガレ」の状態を重視し、「ケガレ」観念と対立するものとして「ハレ」観念を説いている。波平氏は、「ケガレ」は「ハレ」と対立するもので、「ハレ」は「ケガレ」の連続性ではなく、「ケガレ」を排除することで「ハレ」が成立すると述べている5。
確かに『記紀神話』では、「キタナシ」は、汚穢、穢、垢、濁、悪、「クラシ」は、黒、「アシ」は、悪邪、凶、「アラシ」は、荒、疎、麁、「シコ」は、醜、凶、「マガ」は、禍、悪、禍害、枉、凶などの字が用いられて、汚穢の状態や心情、生理的嫌悪の状態を示しているようにも見える。またその正反対の言葉として、明、赤、丹、清明、正、善などが使用されている。
しかしながら、例えば、『字統』(白川静)によれば、悪の原義は、凶事に望む心情を示し、凶は枉死者の霊を鎮める印が原義、穢は雑草が生い茂ること、荒は、草が地を覆うことであり、荒妙(織目の粗い粗末な織物)などの例がある。また祝詞、祈年祭などに「御服は、明妙、照妙、和妙、荒妙。」と連続的に挙げられ、対にはなっていない。
このことから、自然な状態または望ましい状態とは違う異質の心情、状態を示す言葉として使用されるのみで、明確な対立項と見なすことが可能かどうか疑問である。この問題については、「神・鬼」、「魂・魄」などと同様な問題を含んでいると思われる(拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文参照のこと)。
また「ケガレ」を宗教性だけの狭義な範囲で捉えるのではなく、広い意味で捉え直すことは中世都市京都の在り方を考える上でも必要と思われる。
この論文では、拙論「境界神と飛礫の呪術」(『言葉と文化』第2号、名古屋大学大学院国際言語文化研究科 2002年3月)での研究を踏まえながら、中世日本の社会の様々な事象を考察することで、「ケガレ」、「ケ」の2種の観念を改めて見直し、「ケガレ」が両義性を持つ観念であり、「ケ」と異質な状態を示す観念であることを明らかにしたい。 
2.死穢について
まずここでは死穢についての資料に基づき、忌服(黒不浄)に関して考察してみたい。
資料として重要と思われるものの中に以下の記述がある。
『日本書紀』の「皇極紀」では、「皇極天皇元年五月(642年)。翹岐が児死去ぬ。是の時に翹岐と妻と、児の死にたることを畏ぢ忌みて、果たして、喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗死亡者あるときは、父母兄弟姉妹と雖も、永ら自ら看ず。此を以て観れば、慈無きが甚だしきこと豈禽獣に別ならんや。」と述べ、死の穢れを恐れる百済王の子供である翹岐を批判している。
また『隋書』巻八一東夷伝・倭国条では、倭国における葬送儀礼について、「死者は歛むるに棺榔を以てし、親賓、屍について歌舞し、妻子兄弟は白布6を以て服を製す。貴人は三年外に殯7し、庶人は日を卜して痙む」とあり、古代の殯があらゆる階層で行われていることを記述している。
天皇の殯の初見は『日本書記』(欽明三二年 571年)で、五月から4ヶ月間欽明天皇の殯がおこなわれたことが記されている。この殯の期間は、新しい天皇即位までの期間であり、よく皇位継承の争いがあった。『日本書紀』(敏達一四年 585年)には、敏達天皇の賓の儀式中に起こった穴捕部皇子などの謀反が記載されている。この謀反は、死者を前にして、死者の後任を争うという特異な例である。上述した「皇極紀」から遡ると、60年ぐらい前の史実である。この例から、この時代は、生と死が対立したものではなく、連続性があるものと考えられており、生者と死者との距離感が非常に近かったこという事実を暗示しているのではないだろうか。
大和朝廷で大喪の時、殯の神事に奉仕し、屍について歌舞した品部を遊部というが、フランス国立東洋言語文化研究所のフランソワ・マセ氏は、その著書「殯解釈の一試論8」の中で、「酒食をもって歓待する行為(遊び)は、現代行われている葬儀の儀礼とは違い、生を肯定し、同時に死者と生者の世界を結びつけることにより、新しい秩序の誕生と正常な生活の再会への道を開くという機能を持っていた。」と述べている。
また殯では、一定期間死者の側で鎮魂歌舞したことから、吉野祐子氏は沖縄などに残る習俗から「もがり」の「も」を「身・み」の古形とし、「がり」を「かれ」とし、「もがり」を「身離れ」と推定している。死者は腐蝕し、血肉は脱落していく。それを近親者は見守る義務があった9。
上述した資料から考察すると、古墳時代においては、生者と死者との距離感は非常に近い。この時代、死は自然と社会との均衡を崩すものと考えられ、それを浄めるものとしての儀式を執り行い、その儀式がマセ氏の言うように秩序の回復と正常な生活の再会への道を開く機能を果たしていたのではないかと思われる。そして、死を生の連続性の中で捉えており、死体そのものに対する恐れの観念は希薄だったようである。
『日本書紀』大化二年(646年)三月二十二日の条の詔には『大化の薄葬令10』が含まれているが、この『大化の薄葬令』が古代の死生観に大きな変化を生んだように想像される。その中には、華美な葬送方法の規制、殯の禁止、葬送の旧俗(殉死、殉馬や財物副葬、死者のための断髪、股刺、誄)の禁止などが挙げられる。この旧俗の禁止事項のなかに、辺郡から徴集された役民が帰郷の途中に病死すると街道沿いの家が死者の仲間に祓除を行わせ、財物を強要することを禁ずる項目が見える。
この習俗は死の忌みの典型で、古代から死穢があった証拠とされているが、共同社会の規律が共同体に属さない人間の死によって崩れるための措置とも考えられる。この場合、共同体の一員の死とそうではない他人の死との区別化が見て取れる。
その一方、『類従国史』延暦十一年(792年)八月四日条に「禁葬埋山城国紀伊深草山西面。縁近京城也。」や『日本後紀』延暦十六年(797年)正月二十五日条に「山城国愛宕葛野郡人、毎有死者便葬家側、積習為楽。今接近京師、凶穢可避。宜告国郡、厳加禁断ヲ加。」という勅がある。延暦十六年の勅は、「若シ犯違アレバ、外国ニ移貫セヨ。」と厳しい内容になっている。また『葬送令』には「凡ての皇都及び道路側近。並言語文化論集 第]]W巻 第1号びに葬埋することを禁ず」と記されている。つまり、死者を家の脇に葬るのはごく普通だったことが推察される。死穢を嫌っているのは明らかに朝廷側で、民衆が普通に行っている家の側への死体の埋葬を凶穢として禁止しようとしているのである。
『大化の薄葬令』以降、奈良時代末から平安時代初めにかけ、朝廷側の死体に対する「ケガレ」観念が大きく変化したのは事実であろうと思われる。例えば、上述した「殯」の天皇の葬送儀礼に携わっていた土師氏11がその出自を示す姓を隠すように、改姓を行い、秋篠、菅原、大枝などに変わっていること、『大宝令』で山陵の所在地を定め、奉幣、荷前使等が行われていたが、この時期になると、死穢を恐れて陵墓に行くことを忌避するようになったことなどが挙げられる12。
このように朝廷側が死穢を忌み嫌うようになった主な原因をどのような理由に求めたらよいのであろうか。岡田重精氏は『古代の斎忌(イミ)13』のなかで、イミ・イムの研究から、「イム」という言葉が、清浄なものを特別扱いして、隔離する意味の「斎」と不浄なものを特別扱いして、隔離する意味の「忌」の両義性を持ち、「斎」は、神事に際して、積極的に慎むこととなり、それに対して、「忌」は、消極的な神事・公事を退避する意味の服忌となった。そして、この「忌」の観念の発達が、社会集団の規範や体制を脅かし、混乱させ、危険力を誘発し伝播する行為や事象である不浄(「ケガレ」)を糾弾し忌避させる機構を作り上げたと述べており、そのような機構の成立に陰陽道や仏教の影響を挙げている。
ところで岡田氏は、「大祓祝詞」が罪と災(禍)を記し分けていることと死穢について全くふれていないことから、「穢れとは生理的なものに係わる死や出産、月経、結婚、食肉のことであり、死自体も災禍である。これらは禊ぎの対象となる。14」とも述べている。この岡田説の「大祓祝詞」が罪と災(禍)を区別しているという指摘は、天武天皇以降の朝廷側の思想が大きく影響しているからだと思われる。
天武天皇は、陰陽道・先進的文化の摂取に積極的だった人物であった。また、陰陽呪術の具体的な実践者・理解者であり、その具体的効果を知っていたようである。『淮南子15』には、「天道16」を掴み、「地利」を握り、「人心」を掌握し、時期を読んで行動すること、そうした者が優れた将の用兵であると書かれている。つまり兵法として、陰陽五行思想に基づく術数、気象観測術、天文観測術、卜筮、吉凶を知ることが重要だったのである。陰陽道を利用することが、神秘的な王権の権威の昂揚にもつながり、権力の維持にも密接に関係してくるのである。
特に陰陽道の思想の中にある、「天人相関説17」は、為政者にとっては非常に大きな危険性を含んでいる。君主の勢力維持と自然現象との関係の思想部分は、君主が善政を行えば、天はこれを瑞祥し、君主が無道を働くと、天は、地震、日蝕、洪水などの災異をおこし、君主を譴責するという説で「災異説」とも呼ばれ、政府の横暴を規制する思想として中国では定着した。
これは、革命によって王朝や帝位が交代する理論である「五行相剋説18」(木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ。)とも関係を保ち、為政者にとっては危険な思想でもある。従って、時の権力者は、天文を観測し、暦の制作を独占することで、瑞祥などを自分の独占としようとしたと考えられる19。仏教にもそういった銷災致福の呪術としての機能を要求したのであり、解脱の教えを求めたのではなかったであろう。陰陽道の日本への影響は『記紀神話』の中にも認められ、イザナギノ命の呪的逃走だけでも、桃子三箇を使用することで、悪霊を追い返すことや此岸と彼岸を別け隔て、その間に塞の神をおくところなどにも現れている。
ただ、『淮南子』は、宇宙の原初唯一絶対の存在カオスから生まれ、澄んで清く、明るく軽い《陽》の気が昇り、「天」となり、重く濁って、暗い《陰》の気が下降し「地」になったという。つまり、大元から陰陽の二気に別れ、天と地になり、両者の性格は、相反するものとしても、もともとカオスから生じた一つのものであり、お互いに交換、交合しあい、往来しあうのである。明るく軽い「陽」の気である「魂」は、天に昇り神になり、重く濁って、暗い「陰」の気である「魄」は、地に降り鬼になるのである。
このように考えると、日本の神・鬼が相反する性格、両義性を持ちながら、お互いに関係しあうことも、古代日本人が原始的に内包していた本来的に輪郭があいまいな神という概念が、中国文化の強い影響で思想的により明解に理解できるようになった結果かも知れない。従って、イザナギノ命の呪的逃走神話をすぐに二元論と結びつけるのは早計かも知れず、仏教の影響も考慮に入れて今後の課題としたい。
また、「イム」という言葉が、「斎」と「忌」という両義性を持っていた証拠として、延暦二三年(804年)に成立した『皇太神宮儀式帳』では、「忌柱」(現在の心御柱)と表記されており、祭祀に使用する神聖さをあらわすものに忌鍬、忌種を当てていることが挙げられる。また、六月一日に行なわれる宮中儀礼の中で、天皇に献上する御飯を「忌火御飯」と呼ぶ例もある。大同二年(807年)に斎部広成が撰した『古語拾遺』では、従来の忌部氏から斎部氏に表記が変化していることも注目される20。
既に述べた岡田氏の「大祓祝詞」が死穢について全く触れていないという説から考察すると、死、出産、月経、結婚、火災など自然と社会の均衡が崩れる出来事は、「ケガレ」と考えられ、その「ケガレ」を祓い清める行為である「禊ぎ」は、秩序の回復と正常な生活の再会への道を開くための機能であったと思われる。ここで疑問は、「大祓祝詞」が死穢について触れていないのは何故かということである。祝詞という祝祭に関することであったため、死穢について明言を避けたのであろうか。陰陽道の影響から、罪及び災禍が中心に考えられたからであろうか。それとも古墳時代の死に対する伝統的影響がまだ残存していたからだろうか。この祝詞の成立が七世紀後半頃であることを考えると、古墳時代の死生観の影響力がまだあったと考えてもよいのかもしれない。
もっとも、10世紀半ばに成立した『延喜式』臨時祭の条には、死穢の規定が明記されており、公事に参加できない期間などの規定も明らかである。しかしながら、このような死穢観念が本当に貴族にまで深く浸透していたのであろうか。
『小右記』の中に、後冷泉天皇の母嬉子が死亡した時、臨終に際し、死者の名を井戸に向かって、または、屋根に登り空に向かって呼び、死者を蘇生させようとする招魂(魂呼ばい)の儀式を陰陽師が行った記述が見える。万寿二年八月七日(1025)、道長の娘尚侍(嬉子)の死亡の夜、「昇東対上<尚侍住所>魂呼。近代不聞事也。彼院者太后御座處、尤可有忌諱・・・」とあり、赤斑瘡のため19才で死んだ尚侍(嬉子)の薄命を悲しんだ道長は、太皇太后(彰子)の御座所であるからという批難(死穢に関する観念からか?)にもかかわらず、尚侍の蘇生を願ったのであろう。
また同じ『小右記』が、長元元年(1028年)十二月二〇日の条で重服の人の荷前儀への参加拒否に関して、荷前の幣は神道に準じており、穢れを忌むことはないと返答している。『延喜式』臨時祭の条にも「陵墓」に到ることは穢れに当たらないことも明記されており、死穢の問題はより混乱している。
道長の例は、民間では近年にいたるまで存続していた招魂(魂呼ばい)という儀礼を朝廷の要職にある人物でさえ、死穢を無視して行った例である。荷前儀への参加拒否の例や「陵墓」に関しては穢れに当たらないとする『延喜式』臨時祭の条の例も、古墳時代からの慣習が、この時代にも存続していたことがわかる。このように朝廷側が死穢を避けることを重要視しても、民間の習俗や古墳時代の伝統が、中世前期には朝廷の内部でさえ残っていたのである。
『源氏物語』の「蜻蛉の巻」では、宇治の里の人々が京の人々より葬儀をより大がかりに行い、死を恐がる度合いが強いと作者が観察している点も考察の上では重要である。
葬式の喪を大がかりにおこなうことは、古代の葬送儀礼と同じように思われ、死を恐がっていたとは即断できない。『源氏物語』の作者は、宮廷人として盛大な葬儀に死の穢れのみを見ており、民間では当時まだ存続していた古墳時代と同じような大がかりな葬送の意味を忘れて、死を恐がる度合いが強いと感じたのではないかと思われるからである。
ここまで古墳時代から中世初期にかけての様々な資料を検討してきた。次項では『記紀神話』の時代の「ケガレ」の観念を考察することで、「ケガレ」と「ケ」の関係を論じてみたい。 
3.「ケガレ」「ケ」
既に前項で記述したが、「大祓祝詞」が罪と災(禍)を記し分けている。」という岡田説は本居宣長が罪や穢や過を包括する概念として不浄を捉えていることと大きく異なる。
本居宣長は『大祓詞後釈』で「世々の物知り、ただ此字(罪)にのみ見ず見て、都美てふ本の意を考えず、ひたすら悪行とのみ心得たるから、解得ざること多くして、くさくさ強たることのみいひあえる也、(略)世ににくみいとふた食いは、みな都美なればこれに挙たる条々にも、穢と姦と災と悪行と種々の都美あり、其中に穢災などは、おのづから有事にて、ことさらに犯す罪にはあらざれども、世ににくみきらひて、わろき事なれば、これも罪也。」と述べ、「穢と姦と災と悪行」がどれも罪だと述べている。
『日本書紀』の「仲哀紀」で仲哀天皇が神の怒りのため死亡し、そのため国々の罪を集めて大祓をした記述があり、その時の罪が、「生剥」、「逆剥」、「畔離」(畔を壊すこと)、「溝埋」(水路を埋めること)、「屎戸」(祭事においての穢れ行為)、「上通下通婚」、「馬婚」、「牛婚」、「鶏婚」、「犬婚」などである。ところで『延喜式』の大祓の祝詞では、この九つの罪の幾つかを細分化し、それに「樋放」、「頻蒔」、「白人」、「こくみ」(瘤や疣)、「昆虫の災い」、「高津神の災い」、「高津鳥の災い」、「畜仆し」、「蠱物」などを国津罪と呼んでいる。
『記紀神話』の中で語られる罪は、このような罪を犯すことで、キタナキものやケガワラシキものが発生し、村落共同体にも影響を与える。従って、祓を行なうことでキタナキものやケガワラシキものを取り除く行為をする。そのためには罪を犯した人が贖をする必要がある。スサノヲノ命は「逆剥」、「畔離」、「屎戸」などの「国津罪」を犯し、贖物の品物を渡し、鬚、手足の爪を抜かれ、追放されることで罪を祓ったのである。この点では上述した、辺郡から徴集された役民が帰郷の途中に病死すると街道沿いの家が死者の仲間に祓除を行わせ、財物を強要した事実と同じ枠組みで捉えられる。共同体に属さない人間の死が、罪とみなされ、キタナキものやケガワラシキものを発生させ、共同社会の規律が崩れるため、贖を要求し、祓21を行わせたのであろう。
水蛭子の誕生も、声をかけたのがイザナミの命であったというタブー違反によって生じており、またイザナギノ命の有名な呪的逃走も黄泉の国の訪問というタブーを犯すという罪によって成立し、禊・祓を行うことによって罪を償っているとも考えられる。
ところが、災いに関しては、『記紀神話』で、例えば、祟神天皇時代、疫病で人々が飢え、苦しみ、その原因が大物主神の「タタリ」であるとされ、崇神天皇が、大物主の子孫の大田田根子を探しだし、この神を祭らせたところ、疫病が治まり、天下が安定したとの記述はあるが、災が罪とはなっておらず、10世紀成立の『延喜式』の大祓の祝詞によって初めて災が「国津罪」と現れるである。8世紀に成立した『記紀神話』の中で、本居宣長がいうように「穢と姦と災と悪行」のどれもが罪と認識されていたのかどうかは疑問である。
ただ『記紀神話』において「ケガレ」は、穢、汚、汚穢れ、穢悪のように表現され、また罪穢とも記述されていることから、「穢」と「罪」は未分化の状態であることは確かである。また、釈日本紀所載の『備後国風土記逸文』で、豊かな巨旦将来は、一晩の宿を求めた身なりの貧しい旅人を、追い出したのに対し、その兄、蘇民将来は一夜の宿を貸し、決して粗末に扱わなかった。その後、疫病が広まった時、弟一族は全て死に絶えたが、兄一族は疫災を免れ、代々栄えたと言う。「汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は、免れなん。」
この話は、寺社縁起として全国に分布し、言い伝えられているが、上述した大物主神と同じく、神を大切にしなかったことが災いとなり罪となるなら、「穢と姦と災と悪行」のどれもが罪と認識されていたのかも知れない。
しかし、薗田稔氏も、本居説とは違い、穢は、罪や災いと同様に共同体社会に異常事態をもたらす危険とみなされて回避や排除の対象であるが、穢は災いとともに、生理的異常や災害など自然的に発生する危険であり、罪穢は災いと違って共同体内部に生起する現象であると述べている22。
確かに、「大祓祝詞」が「罪と災(禍)を記し分けている。」のは間違いがないところである。また、災いは共同体内部に生起する現象とも言い難い。しかし、災禍については、陰陽道の影響を強く受けた朝廷において、特に重要視され、罪と災禍が区別された可能性はある。一方、中世史前半に発展した御霊神の民間での形態に鑑みれば、災いそのものは、ある個人または社会共同体全体がその個人を含む社会共同体全体に及ぼした罪に対する贖いの要求と捉えることも可能であり、「ケガレ」は罪から発生したものと考えることもできる。
拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文では、陰陽道など中国的な影響の強い朝廷側の発想と民衆側の発想という文化的基盤の差異が、災禍をも「タタリ」の信仰と捉える形で発展したと考察している。そして、ここで、「ケガレ」を民衆の側から定義すると、以下のように言い換えることも可能であろう。「ケガレ」は、「タタリ」のように、災禍も含む罪から発生したものであり、罪や災いと同様に共同社会に異常事態をもたらす状態を示している。また「ケガレ」は災いとともに、生理的異常や災害など自然的に発生する危険なものでもある。従って、罪に対する贖いの要求から発生した災いも、共同体内部に生起する現象である。
上記の問題提起から考察すると、『大化の薄葬令』の詔で、辺郡から徴集された役民が帰郷の途中に病死すると街道沿いの家が死者の仲間に祓除を行わせ、財物を強要することを禁じた例から、全ての種類の死者がこのような祓の対象であったのだろかという疑問が生ずる。そこでまず祓とはどのようなものであったのか考察してみたい。『字統』(白川静)によれば、犬の犠牲を用いることで、邪悪を祓ったものが原義で、水辺で招魂続魄したとのことである。因に、禊も同じく水に臨んで黻除を行うもので、時期はどちらも三月上巳であった。
この時期の中国は桃の花が咲く季節であり、祭りは農耕儀礼的要素が強く、男女の結合によって生命の蘇生、誕生を迎え祭る儀礼が多い。また祓や禊に代表される招魂続魄の風俗も霊魂は不滅であり、生命が死から復活できるとの信仰から、春に万物が蘇生し、生命の神も復活する時に、それぞれ離れていた魂魄を呼び戻そうとした儀礼である23。
従って、祓や禊は、陰陽・魂魄のバランスを取る呪術であったように思われる。そして、自然死とは違って、突然起こる横死のような死が、中国でも危険なものと認識されていたように、古墳時代において、突然の死が自然と社会との均衡を崩すものと考えられており、祓や禊に付加された機能は、それを祓い浄めることで、秩序の回復と正常な生活の再会への道を開くという機能ではなかったのだろうか。つまり祓や禊という儀式によって、「ケガレ」から「ケ」に移行させるのである。
また、奄美諸島や沖縄では、畳の上で死んだ自然死の死体は村の共同墓地に葬られるが、自然死以外の死(死亡原因によって期間が違う)は数年間村の境界に棄てられ、風葬にまかされた風習が存在している。このように横死は社会共同体の秩序の危機を招くもとされ、「ケガレ」と見なされていたのではないだろうか。
古墳時代はのみならず、平安時代初期にあっても、民衆が死者を家の脇に葬り、軒の下に埋めていたのは、前項で論じたように、ごく普通のことであった。従って、自然な死は横死と違い、必ずしも民衆にとって、「ケガレ」の対象ではなかったことも想像される。また、畿内においても鳥部野24や船岡山25が古くから民衆の風葬送の地であったこと、『今昔物語26』にも死んだと思われて道に捨てられた男が通り合わせた男に介抱され蘇生した話、『続日本後紀』承和九年(842年)、十月十四日の条に、京南の嶋田や洛東の鴨河原で骸骨を集めさせ、掃除したという記述などからも、人々が死体を野辺に捨てる風習を持っていたことも間違いない。『三代実録』貞観十三年(871年)閏八月二十八の条には、百姓の葬送の地であった河原の開墾を禁ずる記述も見える。
しかしながら、自然な死者は家近くに土葬し、横死者は風葬するなどの相違があったことを資料から見つけることは難しい27。災害などの事実は詳しい資料が残っていても、一般的な風習に言及するような資料が無いからである。従って、多くの資料に残る風葬の風習も横死者だけの可能性もあるのである。この時代は疫病が相当流行し、『続日本紀』では、「長屋王の変の後、735年から太宰府管内で天然痘が大流行し、2年後の春には、京都、夏には、大和、伊賀、駿河、伊豆、若狭などまで広がり、公暁以下天下百姓まで相次いで疫死するものは、数えきれず、近代以来未曾有のことである。」と記述している。9世紀から10世紀にかけても、多くの史書に疫病の記述が見え、「御霊信仰」の流行もこの疫病の流行とも関係している28。
また、中国の横死の観念には、自然死の人間を祖霊として祭る親族が存在しない場合も自然死した人間でも横死者と同じ扱いであることにも注目したい。従って、人口の大幅な流入という原因から、村落共同体のような秩序ある領域を平安京という都市が簡単に構築できなかったという問題からも、朝廷側が死穢を忌み嫌う観念をより発展させた理由として考えられる。村山修一氏は、796年から887年の間に正式に京戸に貫付された地方豪族の数は、正史に現れただけで約443名に達すると述べている29。また『類聚三代格』巻十九、寛平三年(891年)九月十一日によると、非合法的に京都に移住し、賄賂を使って、住民になった者が多かったことが分かる。また当時の制度では、京都、畿内の百姓の負担が畿外より軽いため、京畿に流入する百姓の数も相当多かったと思われる。
『類従国史』巻百五十九 田地上 班田には、延暦十九年(800年)十一月二十六日に、勅令で、京畿に流入した百姓を戸籍に貫付することを禁止してもいる。
ところで、このように歴史的背景から考察すると、「ケガレ」はある意味では、自然秩序が乱された状態を一般に示すと思われる。従って「ケガレ」は、生理的なものに係わる出産、月経、結婚のことであり、死自体も災禍であり、禊ぎの対象となるのではないだろうか。「ケガレ」とは「ケ」という日常の普通の状態から隔たった状態を指し示していると考えられる。
民俗学では、「ケ」が「気」か「褻」か、またその他「ケ」の原義について、様々な議論がある30。しかし、日本史の資料の検討を通して判断すると、「ケ」は「気」ではなく、公ではないこと、つまり普段、あるいは日常を意味する「褻」ではないかと考えられる。家で着る服を褻衣、家で働く人々を褻子、日常生活空間を褻居(けご)と称する例もある。住居空間の囲炉裏端を褻座と称し、その褻座に座るのが、その家の中心である主婦である31事例もある。また『字統』(白川静 平凡社)によれば、「褻」はふだん着を意味する。
女性の「ケガレ」に関して、すでに拙論「境界神と飛礫の呪術」(『言葉と文化』第2号 2001年3月 名古屋大学大学院国際言語文化研究科)で、「女性は、神が自己の側に選び取った神聖な存在として認識されるが、同時に神が憑いたことで、女性も神と等しく、両義性を有する存在となっており、出産という行為は現世と異界の通路となることであり、女性はそこで異質の存在となる。」と分析した。つまり「ケガレ」も両義性を有し、「ケ」ではない状態であり、自然的規律の回復が必要な状態を示しているのではないだろうか。
「ケガレ」とは、「ケ」という日常から乖離した状態を示し、怖れ慎む状態である。つまり「褻」が枯れている現状を示している。神自体も祭りに於いては、餅、団子、豆など「魂・神」は丸いものに寄りつくと考えられており、寄りついた物は、神の両義性に応じて、神聖視されると同時に、穢れた存在とも考えられ、火、水、塩、泥など浄化作用を持つと考えられているもので、祭りの後、破棄されたり、焼かれたりする。
女性に対する神聖と不浄の交錯するイメージもあちこちの伝統的祭りの中に残存し続けている。生理(赤不浄)、出産(白不浄)など、いわば、豊饒の象徴である対象を、「ケガレ」の状態とみなし、そのような状態にある女達を隔離する一方で、その場所は、時には、浄化した人(物忌みを終えた人)しか入れない場所であり、内と外(異界の地)の境(神の来る場所)とか家の中で神との関連が深い場所(納戸32、出産の場所または家の財産を置く場所)であるのはよい例である。
「ケガレ」は「ケ」という日常と乖離し、神や鬼と等しく両義性を持つものと考えられる。また、波平氏の論のように「ケガレ」が「ハレ」という対立する二元的方向性を持つものであるなら、その後の中世史に現れる「聖」と「穢」を合わせ持つ人々の存在を明確に分析できないように思われる。
このような人々の分析は5項に譲り、次項では、平安京という都市において、このような日常的秩序を保つ「ケ」の空間と「ケガレ」の空間を区別する手段を考察してみたい。また日常の生活の外と見られる住居の敷居も死体を埋める例があり、「ケガレ」の空間が境界として此岸と彼岸、この世と他界を結ぶ役目を担っている、つまり、生者の世界と死の世界の中間に位置し、この二つの異質な世界をつなぐ機能を果たしている可能性を考察したい。 
4.結界と境界について
結界は元来仏教用語で、結ばれた界の意味であり、浄域を意味する言葉である。結界を張るとは、つまり空間を内と外に分類し、内を聖なる空間、外を俗なる空間と見なす行為である。注連縄も結界を示すものであり、その内側の清浄を保つため、また魔の侵入を防ぐ目的がある。このような結界の観念が「ケ」という日常空間と「ケガレ」の空間を区別する手段となっていったと思われる。もちろんそこには陰陽道の影響も大きかったであろう。
陰陽道独自の疫神祭である「四角四界祭」も本来は鎮謝、慰霊などの神祇官である卜部氏が司った呪術的祭祀であった。神祇祭祀では「道饗祭」といい、鬼魅が外から京都に進入するのを避けるために、京都の四隅の路上で饗応し、鬼魅を押し止めるのである。
この祭りは、毎年六月と十二月に行われていた。この「四角四界祭」は、鬼神から御所の四隅を護る「四角祭」と都の四堺を護る「四界祭」に分別される。祭りに際して、陰陽師による占卜をおこない、天皇個人や御所内に漂う邪気、悪気、穢れた気が存在するかどうかを調べる。存在を感じた場合、「撫物」などの依代を使用し、「撫物」に鬼気を依り付け、四界の境界の外に捨てる。つまり陰の気を取り払い、俗なる異空間に追い返したのである。
アレキサンドル・グラ氏の研究33による追儺式の祭文に現れる日本四方考も日本と他の区域の境界を定める結界であったと思われる。その祭文には疫鬼を日本の外(陸奥、遠値嘉34、土佐、佐渡)に追い払う所作が述べられている。このように大きな結界・境界だけでなく、家の内部にも結界が作られるようになる。それは塗籠である。『竹取物語』にも「嫗、塗籠の内に、かぐや姫を抱かへてをり、翁も、塗籠の戸鎖して、戸口にをり。」とあり、その他『源氏物語』、『宇津保物語』、『栄華物語』にも塗籠の言葉が見える。
池浩三氏によれば、この塗籠という部屋の構造は、聖所の機能を果たしていると述べており、寝所の機能や塗籠が成立した初期の段階では、窓がなかったことも、彼は指摘している35。塗籠と呼ばれる部屋の機能は、納戸の機能と共通性があるように思われる。平安時代の貴族達の思考をより深く分析するため、塗籠を将来の研究課題としたい。
さて結界は内なる清浄と外なる俗・穢を分けることが本来の形であったが、東京国立博物館蔵の『春日権現記絵』には、疫病に冒され死ぬ寸前の病人の家の前に結界が張られ、結界には、道祖神(病疫神)に象徴される石の他に、幣串が立てられている。また『餓鬼草紙』第四段に見受けられる五輪塔の周囲の囲いを『絵巻物による日本常民生活絵引』では忌垣としている。神社などを囲う囲いは齋垣であるが、すでに上述したように「齋」と「忌」は両義性を持つ言葉であり、「齋垣」・「忌垣」は「ケ」と「ケガレ」を区別するものとして使用されているのであろう。罪を犯した者の家を囲むのも同じ発想から来ていると思われる。
さて、ここで結界を張ることで生じる内と外、つまり現実の「ケ」の生活空間を遮る境界について考察する必要がある。日本における境界は、国境、郡境、荘境がまず挙げられるが、その他にも、畦、道、橋、山、川、谷、海、葦原、神社、墓などが挙げられる。海に境界が存在していたことは、寛仁三年(1019年)、太宰権帥が、刀井の入冦の時、味方の兵船に「日本の境を限りて、襲撃すべし。新羅の境に入るべからず。」と訓令しているところからも明らかである。
また古代社会では、物品交換、会合、歌垣などを高所や大木の生えている神聖な場所などで行ったが、それは、「市」と呼ばれ、人々が多く集まる場所という意味でもある。
このような場所も「境界」と認識されている。「境界」と考えられている橋のたもとや河原などには、商業、遊女、刑場36、葬送の存在が顕著であり、境界は空間的に理解されていたと思われる。従って、ある村とその隣村の境界は、必ず一定の共同的空間が設けられてもいた。
日本語の峠は、一つの境界と考えられるが、「手向け」の意味から来ており、神仏や死者の霊にものを供えることである。越えていく坂道の途中は、村と他の村を隔てている非現実的世界、霊的世界であったと考えられる。また村と村の境界線は、ある一定の空間を設けて定められていた地域があり、その一定の空間を異空間とし、霊的存在の居住空間を作っていた。そこで、境界を司る境界神について分析することで、霊的存在の居住空間について考察してみたい。
日本に於ける境界神は複雑な形態を有している。境界神は、道祖神、塞の神、岐神、道陸神などと呼ばれており、『倭名類聚鈔』では、道祖をサエノカミ、岐神をフナトカミ、道神をタムケノカミとしている。このタムケは、道中の安全を祈った手向けからきており、峠の語源ともいわれている。
『常陸国風土記』では、水田を開拓しようとした人間が「夜刀神」に妨害され境の堀に杖をたて、人間界と神の領域を隔てたとあり、『記紀神話』では、イザナギノ命がこの世と黄泉国を分けるために投げた杖がなった神が、「岐神」であると描かれている。
このように、この境界神は、人間と神の領域、此岸と彼岸を分け隔てる役割を持っており、村、辻などにそれらの神を象徴するものが置かれ、一方では、外部から入り込む邪悪なもの(悪霊、疫神など)を防ぐ役割を担っていが、他方では、道祖神は悪霊だという習俗もある。
この神のシンボルは石であり、『記紀神話』から推定すると此岸と彼岸、この世と他界を結ぶ役目を担っているのだろう。つまり生者の世界と死の世界の中間に位置し、この二つの異質な世界をつなぐ役目を果たしているのである。胞衣や臍の緒を処分するとき、便所の側に埋めたり、村の堺に埋めたりする行為や死者を軒下に埋めるという習俗から分かるように、神のシンボルは、死と再生の儀礼の中心的な役目も果たしている。
また軒下をくぐると赤ん坊が授かるという言い伝えも、異空間を跨ぐことで再生儀礼をおこなっているとみることができる。
便所神は生殖の神と見なされ重要な存在である。筆者は内と外の二つの異空間の問題を論じているが、屋敷を内的な空間とすると、屋敷の裏に存在し、直接生命に関わる、血、糞便、精液、唾などがある便所は、外的な空間とみなすことも可能ではないだろうか。便所神が竈神や井戸神または堺神と同様な扱いを受けるのは、生命維持に関するということでもっともであろうと思われる。宮田登氏も厠や便所そのものにあの世とこの世の霊魂の出入り口というとらえ方をしている(『神の民俗誌』42ページ 人文書院1979年)。
また境界にはよく石が置かれるが、石は産神と見なされ、出産の穢れを嫌わない神である山の神、帚神、臼神、杓子神、道祖神、地蔵などに象徴されているのも重要な要素である。そして石が「ケガレ」の空間と「ケ」の空間を分けているのである。
ここで辻や河原を舞台として生活する人々に焦点をあて、それら「境界」的異空間、秩序ある世界とは異なる世界にすむ人々の原理を掘り起こす必要があると思われる。 
5.境界に住む人々
「ケ」という日常の空間以外の「ケガレ」の空間に住居する人々は平安時代に寺社、貴族に従って都とその周辺に集まるようになってきた山僧、神人、駕輿丁、娼婦など非農業的生産(狩猟、漁労、商工業、金融など)にも携わっている人々である。
彼らはまた「童子」と呼ばれ共通して童形であり、「童」の語源や歴史的なこの言葉の見解を考察することも必要である。さてそれでは、童形をした「童子」とはどのような人々で、社会のなかでどのような役割を担っていたのであろうか。
「童子」は垂髪、乱髪で表されており、「京童37」、「鬼童子」、「穢多童」などの他、「八瀬童子38」、牛車を扱う「牛飼童」、寺院、神社やなどの下働きをする「堂子(「童子」、「童男」または「堂童子」)」、「神人(寄人)」なども童形である。ここでは、「堂子」、「神人」についてその役割を考えてみたい。
「堂子」は「沙弥」となる前に従者として寺院に仕え、寺院全体の警備、管理、保全、生活に関わる必需品の確保、仏供灯明の管理の他、領地の管理など僧侶の掌握の及ばない仕事を行った。また修二会、修正会など特定の仏教行事で、法会の進行を担い、例えば修正会で「鬼役」を務めるなど、行事には重要な役割を果たしていた。
東大寺の修二会や四天王寺聖霊会の舞楽法要では、「堂童子」の下に「堂子」が置かれ、火祭りの火を持ち、穢れを払う役や「堂童子」を持ち上げ、鐘を打たせる役を果たしている。「神人」は律令制のもとで「神奴、神賤」と呼ばれた人々で、平安時代末期から現れ、本社に属する「神人」を「本社神人」、末社に属する「神人」を「散所神人」という。彼らの役割もまた「堂子」と同じく社内外の掃除、警備、管理、保全、生活に関わる必需品の確保、神事の際の雑役なども役割として務めており、勿論、領地や領民の管理や把握なども行った。京都の祇園社の「犬神人」などが特に有名である。
ここでもう少し詳細に大寺院の組織について考察してみたい。平安時代以降、寺院の組織は、貴族や地方の豪族出身で裕福な主に学問を学ぶ「学生、学僧、学侶」などと呼ばれる勢力と、「行者、行人、禅衆、堂衆」などと呼ばれる学生の召使いの「童子」、仏に献花する「中間法師」などの下級僧侶で、主に修行によって仏に仕える勢力に二分化されていた。延暦寺では、平安時代末期、両勢力の対立が顕著化し、『源平盛衰記』によれば、彼ら「行人」が高利貸しなどで富を蓄積し、発言力が増したために起こった対立だと分析している。彼らの中には、荘官に任命され、荘園の実質的な経営にも関与するものもいた。東大寺でも中世、黒田荘39の支配に大きな役割を担ったのは、「堂衆」と呼ばれる勢力であった。
こうした集団は、合議制が中心となっており、多数決による意志決定が普通である。これは元来「僧」が「僧伽」と呼ばれる釈迦に帰依した弟子の集団「サンガ」の略語であり、「サンガ」の伝統を受け継ぎ、「一味和合」の精神に従っていたからかもしれない。
またこの「サンガ」は自由意志に基づく共同目的のための組合でもあった。
この「堂子」や「神人」の集団行動の中で特に既述すべきものに朝廷への訴訟に対して神木、神輿をかついでの実力行使があり、「僧兵」と呼ばれる集団となっていることである。比叡山の日吉社の「神人」による強訴は、例えば嘉保二年(1095 年)10月24日、「天台衆徒爲訴申美濃守義綱害山僧事相具神輿。参陣之間。中務丞頼經相禦之。射神人大衆40。件事依爲赦前犯。不被裁許。」と『百練抄』とあるように頻繁に起こっていた。興福寺の神木をかついでの強訴、東大寺堂衆や祇園犬神人の強訴も『百練抄』だけでも10数回数えられ、『本朝世紀』などにも久安五年(1149年)大炊寮御稲田供御人(神人)数百人が、御稲を小輿に乗せ院に強訴した例もみえる。時にはこうした「堂子・神人」達の集団は堂や社殿に閉じ籠もり、数々の訴えを起こしたことも『百練抄』のなかで垣間見える。
神人達が朝廷に訴えを起こす時、御輿を使用するのはどのような理由があるのだろうか。実は御輿は形代と同じ意味であり、神の降臨する聖なる場である。仮面、刀剣、位牌、塚、山車の他、櫛、鏡、鈴なども御輿と同じ形代である。また堂や社殿も潔斎や忌籠をすることで神を迎える聖なる場であり、神木、稲もまた神の依代である。また彼らの住む場所、仕事を営む場所は此岸と彼岸を結ぶ境界であることが多い。また祇園社の「犬神人」の基本的な仕事は「キヨハラエ(清祓)」にあり、彼らはまた「つるめそ」とも呼ばれた。この意味は弓を制作していたことが起源であり、弓は邪悪を打ち払う働きがあると信じられている。目に見えない悪霊、穢れなどを、弓を弾く音で追放し、弾いて放たれた矢で占うことが弓の役割である。梓巫女などもそうした弓で憑巫となる。
能の『葵上」でも弓を使用し、怨霊を呼び出すことが伝えられ、『太平記』にも弓の呪術が描かれている(巻第十五)。
こうした「堂子」や「神人」が童形でいることは重要な要素を持っているように思われる。一般に今でも児童(童)が「七歳までは神の子」というように神の「尸童(よりまし)」としての役割を有し、神社などの祭りなどで重要な位置を占めるように、大人になっても童形でいることが、神仏との交流を現実に表し、人々の敬意を受ける要因になっているのではないだろうか。彼らは共通して別の世界との交流を明示または暗示しており、この世のものではない霊力、呪能を身につけた存在として認識されていたのではないだろうか。古代において神意に発するものと信じられた風刺・予言の流行歌は「わざうた」とよばれたが、「童謡41」と表記されたことも一例として挙げて、今後の研究課題としたい。
また既述した祇園の「犬神人」は、弓を竹で制作していることも考察に値する。竹は神の降臨する場所を現す重要な要素となっており、全国に残る「湯立」の神事や地鎮祭にも結界を示す聖域として現れている。罪人の屋敷を閉ざし、処刑場を囲むにも竹を使用しており、中世農民が逃散する場合も、屋敷、家財、作毛(稲穂)、田畑を笹や柴で囲むことで、それらの保全を計り、現実にその手段は有効であった42。竹は神の依代であり、囲まれた場所が神の領域つまり「ケ」ではない空間になっていることを示す手段であったことも想像される。
ここで問題になるのは、「神人」や「童子」が「神奴」・「仏奴」と称されることで、石母田正氏を代表として、歴史学が彼らを奴隷や従属民と見なし、差別の対象であったとしていることである。勿論、「童」の語源は農奴や作男を指した(『字源』白川静)。
しかしながら、例えば、古代国家が良民と婚姻を禁じている人々には、特殊な技術職人集団43もおり、技術の独占のため、一般への普及を恐れた可能性も否定できない。またそのような人々は、神との交流があるため、特殊な技術の才能を持ち、普通の人々と婚姻を結べない状態であったのではないかとも考えられる44。彼らは、拙論「境界神と飛礫の呪術」紀要『言葉と文化』2号で、女性に関して分析したのと同様に、神との交流が可能のため、神聖さと共に穢れも併せ持つ存在と見なされていた。つまり「ケ」の場所以外の異空間に居住していたからである。「神人」や「童子」に関しても、女性と同じように、神に従い、神の依代となる存在と認識される存在であるなら、神と同一化した、両義性を持つ存在として考えられるのではないだろうか。従って、尊敬される存在であると同時に、畏怖の対象でもあった。
また『八坂神社文書』上、一二四六号、文和二年(1353年)犬神人等申状によれば、清水の感神院「犬神人」が「職掌人」であると主張している点も重要である。彼ら「堂子」や「神人」は自立して職業に従事していることは、確実であり、「キヨメ」という行為も職能の一つと考えていた可能性も高い。また荘官として、活動する「堂子」、「神人」も多かった。「寺奴」として差別の対象となっていたなら、東大寺の修正会において、「学生」と「堂子」が対等の役割で一つの集団を作り、重要な儀式を取り行うのであるが、そのようなことも不可能であったのではないだろうか。従って、彼らが、奴隷・従属民という考えは再考に値すると思われる。
またこのような「童人」・「神人」が「職45」と認識されているならば、中世における「官位請負制」の中でこのような聖なる人々と天皇との関連やここでは詳細に分析しなかった「白拍子」などの遊女や博打打ちなどの関連性を「七十一番職人歌合」とともに深く再考する必要があると思われる。彼らもまた聖なる人々と考えられ、天皇との「官位請負制」の関連の中で分析、考察される必要があるからである。
もう一つ注目したいのは、彼らの役割の一つ「キヨメ」という職掌に関し、「祓う」行為と中世寺社の膨大な富の蓄積の関連性である。秋の収穫期に「初穂」として受け取った籾を春まで「聖なる領域」に保管し、浄め、穢れを除き、春には種籾として貸し出し、秋に利子を付けて返してもらう権利を神社、寺院は認められていた46。既に述べたように、スサノヲノ命が、「国津罪」を犯し、贖物の品物を渡し、罪を祓ったこと、辺郡から徴集された役民が、帰郷の途中に病死すると、街道沿いの家が死者の仲間に祓除を行わせ、財物を強要したこと、またある男が8年間「干萎え病み枯れぬ。」となった原因がもともと「うれづくの物を償はざりき。」というような罪を犯していたという『古事記』の記述などから、祓には財物による贖や償が必要であったことが想定される。
従って、「キヨメ」と呼ばれた職業人が、「祓」を行う際に財物による、「贖」・「償」を求めたことが、富の蓄積つながったのではないかと考えるのである。
白川静の『字統』や他の辞書『字源』の記述には、「払う」という言葉にはお金を払うといった現代的意味は存在せず、「払う」は強く除くという「祓う」と同様の使用が見られるのみである。また「贖」の原義は、財をもってその罪を贖うことであり、「償」は贖罪の意味を持つ言葉で、財産などで賠償することをいう。このことからも、「童人」・「神人」の「職」と「祓い」は、古墳時代以来の罪・穢に対する贖や償の伝統のなかで理解することが可能であろうと思われる。 
6.結語
中世の「ケガレ」を分析しようとする時、古墳時代から続く民衆の「ケガレ」の意識とそれとは違う陰陽道の影響を強く受けた朝廷側の「ケガレ」観念が、双方入り混ざって資料に反映しているため、より複雑で、理解しにくいものなってしまっている。この両者の文化的基盤の相違が御霊信仰を生んだことは、すでに名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文「古代の呪術とその分析」で分析した。そして、この「ケガレ」と「ケ」の問題は、御霊信仰を研究する場合に不可欠な要素でもある。
「ケガレ」と「ハレ」が二元的対立項であったなら、中世の「ケ」の空間以外の場所に居住する人々は遥か古代から差別される人々であったろう。しかしながら、彼らは「ケガレ」の場所に居住することで、「ケ」の住民から畏怖の対象ともなり、また神・仏との交流可能な異能の才の持ち主とも思われたのではないかと考える。結界も清浄の空間を定めることが目的より「ケ」の空間を定めていた。「ケガレ」の空間との相違を図った可能性が高いと思われるが、平安時代の寝所であり、聖なる空間であった塗隠や齋垣及び忌垣をより深く研究することで、明確にしていきたい。
民衆生活に関する資料が少ない中で、官の側の資料の矛盾点を探す以外に中世前期の民衆文化を明らかにすることは難しい。従って、民衆の「ケガレ」観念と朝廷側の「ケガレ」観念が融合されてきたと思われる中世後期の文献を分析し、中世前期との相違を明らかにすることで、中世前期の民衆文化を研究する足がかりを探り出したい。特に、齋垣・忌垣などの結界の構造は、中世前期の京都という都市の在り方と聖域としての天皇の関連性、「ケ」と「ケガレ」との関連で非常に重要だと考えている。このテーマをより詳細に分析することで、天皇と境界に居住する人々との関連も追及していきたい。 

1 忌服(黒不浄)、産穢(白不浄)、月経(赤不浄)の三種類が存在する。
2 「イム」には、不浄を避ける意味の「忌む」と「潔斎」のように身を清め、神を「斎む」の相反する意味が存在し、元来、神聖さをあらわす表現は、二重の意味があったものと思われる。つまり、畏怖すべき神聖さは、不浄という観念(邪悪)も併せ持っていたと考えられる。この「不浄」という言葉には、衛生観念は存在せず、穢れという観念で捉える方がわかりやすい。拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文参照。
3 「ケ」には食物、食事の意味がある。『日本書紀』(敏達十四年 585年)に敏達天皇の賓において、殯宮で食事に奉仕する者として「豊御食炊屋姫(とよみけかしきひめ)」後の推古天皇の名が見える。
4 日本民族学会研究大会(1972年五月)
5 『ケガレ』東京堂出版 1985年
6 「白」は魄(陰の気)が従う色で、悪霊追放と関係がある。また死喪のとき乗る車も白い車である(『儀礼』及び拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文)。また倭建命の霊魂が白鳥で表現されるのも興味深い。韓国の習俗でも死者の親族は葬式のとき、白い服を着る。
7 殯の語源は「仮り喪」を逆さに読んだという説、「神避り」の説と二つある。その行事は肉体から遊離した魂魄を呼ぶ招魂(魂呼ばい)と死者の魂魄を慰撫する2つの儀式が順におこなわれた。『記紀神話』では、天若日子の死の際、喪屋を作り、八日八夜遊びをおこなった記述がある。「遊び」とは、鎮魂舞踏のことである。『La mort et les funérailles』フランソワ・マセ 1986年POF参照。
8 「祭儀と呪術」『日本歴史民俗論集9』吉川弘文館 1994年 34ページ
9 『日本人の死生観』70〜71ページ 人文書院 1995年。沖縄などに残る習俗が古代日本と関連性があるかどうかは疑わしいが、古墳からは、別火で生活した跡も発見されており、興味深い。
10 『大化の薄葬令』には「西土の君」(魏の文帝・武帝)の言に学びとあり、身分による葬制も定めることから朝廷が中国の影響を受け、天皇を中心とした国家成立に向かっていることが分かる。このような国家成立については、拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文も詳細に分析している。また火葬の開始(700年)もそれまでの死生観を大きく変化させたと思われる。天智天皇の死を悼む(倭大后作、万葉集148)「青旗の小幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はわぬかも」と持統天皇の死を嘆く(手持女王作、万葉集418)「豊國の鏡山の石戸立て隠りにけらして待てど来まさず」を比べると、約30年の差で死生観'8Cセに変化が起きていることが推定される。因に、持統天皇の葬法は火葬であった。
11 土の原義は地主神の形から来ている。地中より物を生み出す者の意味もある(『字統』白川静)。土師(はじ)は「はにし」とも読む。天皇の葬送儀礼、陵墓建築などに携わる。また土器の製作も行った氏族である。
12 和田萃「陵墓」治定の問題点 『「陵墓」からみた日本史』1995年 青木書店 参照。
13 『古代の斎忌(イミ)』77〜92ページ 国書刊行会 1982年
14 『古代の斎忌(イミ)」85ページ 国書刊行会 1982年
15 『淮南子』(淮南王劉安撰: BC122)
16 天帝の道、超自然の宇宙の道理。
17 天(自然)と人(人事)とは対応関係があるという説で、成立は前漢時代。
18 この理論は周の火徳から秦の水徳へといった形で、秦王朝成立時に利用された。
19 『延喜式』巻八に東文忌寸部が横刀を献ずる呪法にも「左東王父、右西王母」の言葉があり、陰陽道の影響が見える。
20 「斎」の表記が『古事記』では「湯」の字が当てられていることも「湯立て神事」との関連も合わせて重要であるが、将来の研究課題としたい。
21 祓には触穢時に行う「凶事祓」のほかに「吉事祓」という二つの祓が存在する。
22 『秘められた意味』藤田富雄編「残響の彼方―神話の宗教的試論」薗田稔東京大学出版会1977年及び『世界宗教大辞典』(1991年 平凡社)「穢れ」の項(薗田稔記述)参照。
23 『桃の民俗誌』王秀文「日本研究19」国際日本文化研究センター紀要 1999年 参照。
24 現在の京都東山区の南西部(清水寺以南、泉涌寺以北、鴨川以東)。
25 現在の京都北区北大路堀川の南、千本北大路の東(後に火葬場や刑場に用いられた)。
26 『今昔物語』第十七巻二十六話で、棄てられていた男は病気で死んでおり、棄てたのは妻であった。
27 『延喜式』に改葬という言葉が見えるため今後の研究課題としていきたい。
28 拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文参照。
29 『日本都市の生活の源流』村山修一 1953年 29〜37ページ 関書院
30 谷川士清は、彼の著書『和訓栞』の中で、「触穢をいふ気枯の義成へし。」と記述。尾畑喜一郎氏は怪我をするなどの「ケガーレ」説、柳田国男や桜井徳太郎氏の「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」の関連性から考察する説、「ハレ」、「ケ」、「ケガレ」の三つを対立させる波平恵美子氏の説など。
31 『ケガレの民俗誌』宮田登 1996年 人文書院 参照。
32 納戸は、一般に茶の間または座敷の奥にあり、寝所であり、出産の場所でもあった。また稲の種もここに保管され、神棚もおかれていた。従って、納戸の機能が生殖と稲霊の再生に結びつき、神聖な場所と考えられるようになった。宮田登「女の霊力と家の神」『家のフォークロア』1983年 144〜158ページ 人文書院 
33 「儺祭詞にみえる疫鬼に対する呪的作用について」参照。アレキサンドル・グラ 『言葉と文化』第3号 名古屋大学大学院国際言語文化研究科 2002年三月
34 ここで注目することは、五島列島に遠値嘉の字が当てられていることである。嘉には祓い清めるための祝いを加える意味がある。また佐渡には粛慎(みしはせ)人と呼ばれる人々が住んでいた(欽明紀五年十二月の条など)。『日本書紀』では、蝦夷より北に居住する人々にも粛慎の字をあてている。
35 「第七章 聖所としての塗籠」『源氏物語 その住まいの世界』池浩三 1988年 中央公論美術出版
36 処刑場は境界に設置された。なお、古代から中世にかけ、ヨーロッパのように刑罰にあたる表現はなく、中世では殺された人の触穢の扱いは普通の死者と同じ扱いであり、殺傷者も特別な差別はされていない。
37 京都における若者、下人、従者の総称。
38 京都の八瀬の集団で、男女共、長髪の童形で知られる。天皇の葬送に携わった。
39 三重県名張市で中世東大寺の最重要荘園の一つで黒田荘と呼ばれた。
40 「堂子」のこと。
41 『日本書紀』皇極記「古人大兄を立てて天皇とせんとす。時に童謡有りて曰く・・後略」
42 勝俣鎮夫『一揆』「変身と変相・逃散の作法」194ページ参照 1982年 岩波新書(黄)
43 鉄刀の鋳造に携わる集団、靭や弓削などの製作者や諸工人。
44 律令では良賎の身分を峻別、通婚を禁止した。しかし、平安初期には既にこの制度は崩れ始めており、中国の制度を模倣したが、実情に合わなかったのではないかとも思われる。因みに、これまで土地の従属民と見なされてきた百姓に関しても、以下に記述する例から、百姓の社会的地位という点で、今後さらに研究されるべき課題であると思われる。例:中世百姓が年貢・公事の義務を怠らなければ、自由に他の土地へ行くことが可能であり、預所や代官を罷免する事も可能であった(網野善彦『日本論の視座』1993年 小学館ライブラリー)。戦国時代に、領主が領主たり得ないとき、百姓に年貢・公事の義務はないという思考があった(勝俣鎮夫「戦国時代の村落」『社会史研究』6号 日本エディタースクール 1985年)。新井白石の『折りたく柴の記』には、百姓が新しい領主を気に染まないという理由で拒否し、幕府に直訴可能などの記述がみられる。
45 『貞丈雑記』によれば、「職」は禁中の役儀であり、官舎がなく勤める者を「職」という。『貞丈雑記1』官位の部 270ページ 平凡社
46 これを出挙といい、国が直接行う「公出挙」、寺社、貴族、豪族などが行う「私出挙」に分別される。国は3〜5割、「私出挙」に至っては5〜10割の高利が国から認められていた。
 
穢れ(けがれ)

 

歴史
特定の人・物・場所などを穢れとして忌避する観念は、地理的にも歴史的にも広範な社会でみられる。日本でも、死や出産などを穢れとして忌む風習は各地で一般的であったが、いつごろ、こうした観念が成立したかは明らかでない。〈魏志倭人伝〉や『日本書紀』に、死者と接した後に水によって浄化したとの記事がみられることから、おそらく死を穢れとする観念は六国史以前から存在したと思われる。しかし穢れの具体的な内容は、歴史史料と民俗資料とでは一致しないし、また時代によっても一様でない。したがって穢れの観念と、それを固定的・人格的に担う存在としての被差別部落の成立との関連は、なお検討が必要である。
穢れとその伝染
史料の中で穢れとされている事象を大きく分類すると、1人間の死や改葬など、2人間の出産や女性の生理・妊娠など、3六畜と称される馬・羊・牛・犬・豕【いのこ】(猪)・鶏の6種の家畜の死・産、4家の火事の4つになる。穢れはまたその発生源から他の人や場所に伝染する。『延喜式』【えんぎしき】や『新儀式』【しんぎしき】には、穢れている人物あるいは場所を甲とすれば、以下、乙・丙・丁と伝染するとされている。ただし穢物のそばにいただけで感染するわけではなく、穢物や穢れた人に直接触れたり、穢物の存在する特定の空間内で着座あるいは着座・飲食することで感染するのである。その特定の空間とは、家・舟・車・田など垣根や塀・壁で閉鎖された空間を指し、こういう空間は、一面では穢れの侵入や伝染を防ぐ防壁となると同時に、他面、穢れが侵入した場合は空間全体が汚染される。これに対して河原・畑・路のような無限定の開放空間はすぐそばに穢物があっても、そこを通過する人間は穢れに伝染しない。さらに穢れは、井戸・風呂などの滞留する水、穢物にかかわった火の使用、食物・櫃・巻軸・死者の衣服など特定の物を経由して間接にも伝染する。
穢れの本質
穢れは死体や汚物のように目に見える事象に伴っていたとしても、実際にそれ自体が見えるわけではない。ある事象が穢れであるか否かは、見る人間の側の分類意識が決定しているのである。そうした観点からすると、前述の穢れはいずれも、通常の人間の日常生活の秩序、すなわち一定の成員が家畜とともに田畑を生活の基盤として暮らしているという、その生活のあり方を脅かすような事象であるといってよい。このことは伝染の仕方にも示されている。すなわち死者やその縁者と空間を共にし、あるいはそうした席で飲食を共にするということは、相互の人間的連帯の表現なのである。そうなると穢れというのは人間集団と、その生活環境を含む秩序が脅かされることに対して、人間の持つ不安の表明であるということができる。
神が人間社会の価値を代表するものだとすれば、そうした神が穢れを忌避することは当然だともいえる。穢れとされる事象に、謀反などの政治的反逆や神社・神物の汚破損などの神聖冒涜行為も含まれているのは、穢れの観念が家族・村落のように日常的な小規模な生活秩序から比喩的に拡大され、天皇と神々とをめぐる国家秩序にまで適用されるようになった結果といえよう。
穢れの結果
穢れに触れた人々は、一定期間、内裏に参内することや神社に参ることを慎む必要がある。古代国家の規定には、死穢【しえ】は30日、産穢【さんえ】は7日、六畜の死穢は5日、同じく産穢は3日、失火穢【しっかえ】は7日などとあった。神が穢れに触れた結果として起こるのは、1天候・自然・社会の異変(干害・水害・地震・兵乱)、2皇族らの肉体的変調、3御所への物怪【もののけ】の出現、4穢れを御所や神社へ持ち込んだ人物への神罰(鼻血が出る、狂気になる)、といった災いや病気などである。
民俗的観点
民俗学では、漢字の<穢>を用いず<ケガレ>と仮名で表記し、ハレ・ケ・ケガレの三極構造の中で理解している。穢の原点は、死者から発生する死穢である。たしかにケガレは触穢の対象として存在しているが、ケガレの原義について考える必要がある。谷川士清『倭訓栞【わくんのしおり】』では、穢は<気枯れ>と表記している。ケが<気>であることは、ハレとケが有機的に連関していることを示唆している。気は日常生活を維持する活力を意味しており、人間が毎日ふつうの生活を送る状態であり、ふだんの生活総体を指している。そのケが枯れるというのは、<気離【けか】れ>のことであり、人の活力が弱まったり、低下していることを指す。すなわち、日常のケは、つねに流動的であり、生活を営む状況は時間の経過とともに衰える方向にある。ケは次第に、自然と<ケカレ>になっていくと理解される。気枯れ・気離れになると、一般に人間は元に戻って、元気になろうとし、さまざまな儀礼を行なうのである。ケガレからケに復するための生活文化を<ハレ>とよぶ。たとえば、人が生をうけて成長し、やがて死に至る一生の間の冠婚葬祭や、生活のリズムを整えるために設定された年中行事の祭りや節供(句)?どに表現されている。ハレは<晴>または<公>の意味である。晴れの儀礼はケガレを祓い、かつ浄めることを目的としている。
ケガレはケとハレの中間に位置し、ハレとケを媒介するものとなっている。人はケガレが累積していることを前提にして、ハレの儀礼を実修し、ケに戻ろうとする。かくてケガレ・ハレ・ケの循環が成り立つことにより、人は日常生活を継続することができるのである。ケガレは原義の上では、不浄の穢とは異なる意味をもつが、それが副次的に解釈されることにより、いわゆる触穢の対象となった。気が身体から遊離することは、たとえば体調が不全で病気の状態になる。そうした気カレが続行して、完全に気が離脱すると死穢が生じる。身体の物理的な腐敗の状況は<汚ない><汚らわしい>と説明され、死穢と同意になる。<汚ない>という感覚は血穢【けつえ】にもある。体内から血が出ることは、怪我による出血、次いで女性の出産・月経の出血がある。谷川は、怪我は<穢れ>からきていると指摘している。血穢が女性独自の生理と結びつき、女性差別【じょせいさべつ】の要因の一つとなった。また身体からの排泄物も<汚ない>対象となった。排泄物である糞尿や唾【つば】、垢【あか】なども汚穢の対象である。死穢をはじめとする汚穢は、不浄物であるから浄化の対象になる。汚穢を排除する具体的な行為がキヨメであり、儀礼の中の重要な装置としてセットされている。ケガレは即物的なものであるが、同時に精神的なものでもある。ここでケの原義が気とされた点は重要である。穢が汚穢とストレートに結びつく以前に、気離れと理解する。気離れが元気の状態になることで、人間生活が豊かなハレの文化を創造できることになる。民俗学的には、ケガレを以上のように説明することにより、死穢・血穢・汚穢一般の現象が、ただちに不浄視されないような知識を養うことになる。
宗教的観点
平安時代の『延喜式』には、死穢に甲乙丙丁の段階があり、死者を出した甲穢の所へ行って座った本人と家族は乙穢になり、乙穢の所へ行って座った本人と家族は丙穢となる、というような記事が見え、〈穢れ〉が伝染するごとに弱くなっていくという、〈穢れ〉の強弱(重い・軽い)の観念が記されている。そして〈強い(重い)《穢れ》であるとみなされた場合〉には、排除・忌避されることによって差別を受けた。15世紀初頭の御霊社の〈服忌令〉には〈月のさはりの人、十一日すきてまいるへし〉などとして、穢にかかっているとみなされた者がその穢の軽重の種類によって参詣をはばかるべき日数が異なることが示されている。
歴史的に展開してきた日本社会においては、〈穢れ〉(〈穢れ〉とされること)は払われるべき不浄のもの、という観念をつねに随伴させてきたといえるが、被差別部落民とされた人々との関係では、多く祭りの場から〈穢れ〉た者とみなされて排除されてきたことや、明治のいわゆる〈解放令〉の発布後、いくつかの地域では被差別部落民とされてきた人々が神社でお祓いを受けて〈平民〉になったという事実が報告されている。1980年代の事例では、真言系の仏教教団に属する寺院住職の〈烏芻沙摩明王【うすさまみょうおう】〉差別お札の配布事件が問題とされたが、このお札には、〈若し人死かばねと/婦人の産屋と/六畜(ちくしょう)の産屋と/一切の血の流るる所と/或いは旃陀羅(えた)のたぐいの/屠者等穢人(穢れたる人を見)/或いは大小便所/及一切穢所(一切の穢れたる所に入らば)/誦此解脱咒(この真言を唱うべし)/云々〉という、女性や被差別部落民とされた人々の〈穢れ〉をはらう効能が記されていた。このお札の事例では明らかに女性や女性の生理、被差別部落民とされた人々等々を〈穢れたもの〉〈不浄のもの〉とみなし、〈はらわれるべきもの〉として位置づけている。
一方、〈穢れ〉や不浄といった観念は、日本社会にのみ存在しているわけではない。インドにおけるカースト制度、〈穢れ〉や不浄観を研究したルイ・デュモン等によれば、〈穢れ〉には、集団的・個人的および永続的・一時的なそれがある、という。デュモンの研究を日本における被差別部落民とされた人々の〈穢れとされてきた〉事象に援用するなら、〈穢れとされて〉被差別部落民とされた人々は、〈集団的〉に、しかも〈永続的〉な〈穢れ〉をもっていると〈みなされてきた〉のである。この図式に従うなら、同様に女性は〈個人的〉で〈永続的〉な〈穢れ〉をもつものと〈されてきた〉といえよう。
文化人類学的観点
ケガレ概念は多義的に用いられていて、民俗学をはじめ文化人類学、宗教学、社会思想史などの領域で論じられているが、それぞれの接近視角が異なっていて、体系的な学説としてはまだ定立されていない。
民俗学では〈ハレ・ケ・ケガレ〉の循環構造で説明する見解が主流になってきている。日常生活である〈褻【け】〉の世界を支える活力が枯れる状態がケガレで、ケガレは〈気・枯れ〉(気・離れ)とする。アニミズム思想に基づく〈気〉は、万物を動かすエネルギー源であるが、それが萎【な】えてくると、再び活性化させるために祭りやハレの儀式があると説くのだが、体系化された理論としてはまだ成熟していない。
一方、ケガレには古くから〈穢れ〉が当てられてきた。生理的な不浄感を表す〈汚れ〉と同義とみて、〈浄・穢〉の観念から、とくに死・産・血にかかわるものをケガレとして忌避し、排除するようになった。
文化人類学では、ケガレは〈安定した秩序を攪乱する異分子〉〈既成の文化体系を破壊する危険な要素〉〈境界領域にあって分類できない曖昧なもの〉を指す。この場合のケガレは、それ自体で存在する実体概念ではなく、一定のシステムとのかかわりにおいて生じる関係概念である。そのようなシステムの攪乱をあらかじめ防ぐためにタブー(禁忌【きんき】)が設けられて、それを侵犯したものはケガレとして排除される。
もう一つは、第三項排除や*スケープ・ゴートに関連するケガレ論で、主として社会人類学や社会学の領域で論じられてきた。世界史を通じて広く見られるのだが、国家が社会システムをつくりあげていく過程で、権力をもった支配者が聖なる地位について、清浄で高貴な血筋であると自称するようになる。そして、〈貴〉種に対して〈賤〉民を特定し、先住民族を〈夷狄【いてき】〉とし、周縁の民を〈*化外【けがい】の民〉として差別し排除する作業がすすめられていく。このように異分子を特定して、その内部から外に追いやることによって、自分たちの中心性や共同性を確立していくのである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれにも、食穢や*同火共食の禁止を中心にケガレ観念が見られるが、その起源については、宗教学の領域でもまだ体系的に解明されていない。
差別との関連でいちばん問題なのは、ヒンドゥー教【ひんどぅーきょう】とその深い影響を受けた密教系の仏教一派のケガレ観である。ケガレは次々に伝染していく〈悪しき生命力をもつ実体〉としてとらえられる。接触によって伝染するところはポリネシアの〈マナ〉の観念とよく似ているが、このようなケガレ観念は、967年に日本で施行された『延喜式』にはっきりと規定されている。
この甲穢→乙穢→丙穢→丁穢とケガレが伝染するという社会思想は、平安期は貴族社会に留まっていたが、鎌倉・室町期ごろから民衆社会にも広がっていった。神聖な天皇が居住する京都では、ケガレを清めることは聖なる王域を維持するための日常的な業務とされた。このようにして〈けがれ−キヨメ〉が国家的装置として制度化されたのだが、ケガレの処理者として動員されたのが、宿非人・*犬神人・*河原者・三昧聖【さんまいひじり】・*乞食などの*非人層であった。そして、王都の軍事警察を主管していた*検非違使をもってケガレの認定にあたらせ、同時に穢物除去の担当官とした。
女性差別の根本にはやはりこのケガレ観があり、死・産・血の〈三不浄〉をもろに身に受けている者として女性をとらえ、寺社における〈*女人禁制〉として制度化された。身体障害者を〈五体不具〉のケガレとして、〈業【ごう】〉の思想によって宿命づける思想もしだいに広がっていった。そしてケガレにかかわるさまざまの禁忌が、各地方の寺社の門前に制札として掲げられるようになると、不浄観に基づく差別が民衆社会にも広く滲透していった。
〈三不浄〉の思想は、インドを中心に広がったヒンドゥー教の思想が源流となっているが、このケガレ観は、ヒンドゥー教の影響を強く受けた密教を通じて日本に伝わり、陰陽道や神道と習合しながら、賤民差別・女性差別・障害者差別【しょうがいしゃさべつ】を定着させる宗教的基盤となった。
江戸時代では〈服忌令【ぶっきりょう】〉(1684)と〈生類憐みの令〉(1685)、さらにその一環としての〈捨牛馬禁令〉が、仏教の〈不殺生戒〉に基づくケガレを、ヒンドゥー教の〈浄・穢〉観に基づくカースト制的種姓差別に旋回させる一つのきっかけになった。近世に入って定立された〈穢多・非人〉の身分呼称は、文字通りカースト制の〈浄・穢〉観による人間の分類であり差別であった。江戸時代中期の『神祇道服忌令秘抄』はその典型で、今日のケガレ差別の基礎になる因習・迷信がすべて列挙されていて、ケガレ観を固定させる大きな画期となった。
しかし、このようなケガレ観の実態は虚偽意識としてのイデオロギーであり、近代諸科学が定立されるにつれて、この観念体系はしだいに解体されていったのである。明治維新後の新政府はケガレと禁忌、*迷信の根源となった*六曜にかかわる法令をすべて公式に廃止したが、いまなお伝統的因習として、一種の共同幻想として残存している。
女性と穢れ
女性と穢れとの関係は、女性の公的空間からの排除や劣位にとどめおくことの正当性の根拠として表現され理解されてきた。つまり<女性は穢れているから、こうした排除や劣位とみなすのは当然である>と理解され主張されたため、<女性が穢れている>とみなされる傾向が完全に払拭されれば、女性の地位は男性と同等になると考えられがちである。実際、男女共学の普及や女性が男性と同じ職種に就き同じ職場で働く傾向が強くなるにしたがって、女性を穢れているとみなす傾向は消滅しつつある。現在、女性が完全に排除されるのは、特定の神社の特定の神事や一部の民間信仰の行事、一部地域の漁業活動、伝統的な生産活動の一部、地下工事の掘削現場、大相撲などごく少数の事例に限定されてきている。しかも<女性は穢れているから排除されている>と説明されることはなく、<伝統的に男性のみが参加する行為であるから>と公的には説明され、女性排除の態度を維持している。したがって、少なくとも現時点では、女性を穢れた存在とみなす傾向は解消寸前であり、女性の社会的地位の向上の大きな障害とはなっていないと言える。
しかし、以下述べる根拠のゆえに、女性を穢れとみなすことと女性差別の傾向との関係を理解することは、差別の構造を解明する一助となるといえよう。
女性の存在そのものが穢れているとされる状況は、民俗レベルでは漁業や狩猟、山林伐採などその活動が男性に限定されているだけではなく、いずれも女神によって人間の男性が守護されているとみなされる領域や空間と結びついている。また、女性の特定の状況を穢れているとみなす場合は、月経、妊娠、出産など女性の生殖能力が発現したときである。女性の生殖機能こそ、女性を男性から鋭く区別し対立・対置させるものである。
つまり、男性と女性との区別を明確化し、明白に提示する方法として、日本をはじめいくつかの文化(その数はけっして少なくない)では、女性を穢れているとみなして女性に<印づけ>をし、男女の境界を提示したということができる。その<印づけ>が男性の側に起こることがなかったのは、生殖において女性の機能は男性より明確であり、かつ人間社会の存在においてより重要であったからだと理解される。
社会が存続するうえでもっとも重要な生殖の機能を示す状況・状態が蔑視や嫌悪や排除の対象となり、結果的に女性を社会的劣位に置くことになったのは、男女の関係が家族、親族集団、地域社会、国家など、すべての社会集団のレベルで不均衡となり、男性主体に組織化されたことによると考えられる。また集団の存続の要素としての生殖が、個人レベルにとどめられたことによるとも考えられる。
 
神道雑話

 

■1
1、神道は、諸宗教の一つです
日本に生まれ、日本だけに広まった宗教です。ですから民族宗教といわれています。世界中に広まって、多数の民族で信仰されているキリスト教やイスラム教、仏教といった世界宗教とよばれる世界宗教とは、神に関しての考え方が全然違います。また神道は、同じ民族宗教であるヒンズー教ーやユダヤ教などとも神観念や教義や祭などの様々な面で異いを持っています。
2、神道は民族宗教の一つ
神社は、この日本の風土の中から発生し、日本民族の信仰形態に沿って展開してきた神道施設で、寺(仏教)ではありません。要するに神道の神は神社に祭られているのです。神道は、ヨーロッパ・中東・インドなどの風土や民族の中で成立し発展してきた世界宗教とは同じ土俵では論じられません。ヒンズー教のような民族宗教の一派として理解することが肝要です。
3、テレビに良く出てくる神
現代の我々は、テレビ等のマスコミからニュースとして紹介される、キリスト教やイスラム教の神々のことが印象に残ります。しかし、神道の神は神社の扉の奥深く、或いは御輿の中にいて、ちっとも目に見えません。日本の神を描いた絵画や、神像もあるのですが、普通の人の目に触れることは、ほとんどありません。
4、神道の神々は身近な神々
神道の神には、キリスト教のゴットやイスラム教のアラー、或いは仏教のブッダ、ユダヤ教のヤーフェといったような、絶対的な力を持った神はおられません。ですから、ある意味、これらの宗教にくらべると、物足りなく感じると思われるかも知れません。しかしそのように感じるのは、我々が、いつも他人の家の中ばかり見ていて、他人の家のありようが普通だと思い込んでしまっているからなのです。
5、日本の神々を少し忘れかけた日本人
実際は、自宅には、他家(ヨーロッパ・中東・インド等の外国)には無い沢山の素敵な神々がいることを知らないのです。現在の日本人は、日本の神々のことを少し忘れかけているのです。現代の我々は、伝統的な日本の神々を忘れてかけていることさえ忘れてしまっているといえます。
6、神道は宗教です
現代の我々日本人は、宗教というと、どうしてもキリスト教を標準の尺度としてしまいます。ですからキリスト教を標準の尺度とした場合、神道は宗教でないように思われるかも知れません。しかしそれは宗教を狭く捉えている為で、神道は宗教で、宗教の一つなのです。
7、法律上の神道とは
今日の日本で、宗教を取り扱う法律は、宗教法人法第二条には、「この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう」。として、神社、寺院、教会、修道院その他をあげています。
8、神道は宗教法人法で包摂しきれない
この規定は、確かに寺院、教会、修道院にはあてはまるといえます。しかし神道に当てはまるとはいえないのです。なぜなら神道には、教義というものが無いのです。また、神社は教義を広め、信者を教化育成することを主たる目的にしているわけでもありません。
9、宗教法人法にそぐわない神道
つまり煎じ詰めると、神道は、宗教法人法の宗教を規定する三要件(教義・儀式・信者)で満たしているのは儀式という一要件だけということになるのです。教義も無く、信者を教化育成するのでもなく、儀式行事を行うことを主たる目的とする宗教団体ということになります。
10、宗教法人法を超越している神道
そういう点からいえば、神社は宗教法人法に完全には当てはまらない宗教団体ということになってしまいます。そこから、果たして神社は宗教法人法にいう宗教団体に該当するのか、という疑問も提起されてくるのです。
11、宗教法人法は教育基本法と同じ発想
実は、こうした問題が起こるのは、戦後の昭和26年に制定された宗教法人法が、宗教団体を規定するモデルを西欧世界のキリスト教的宗教観に則っている為に、法律として神道を包摂しきれていないからなのです。神道は、戦後の宗教法人法がモデルとしたキリスト教や仏教とは違った環境で育まれてきた宗教だということを、宗教法人法の策定者が理解していなっかたということなのです。神社は教義や信者がいなくても、日本では広く運営・維持されてきたのでした。
12、神道の神々は日本人の背丈に合った神
神道の神々は、西洋や中東・インド・中国に比べれば小さい神様です。小さな地域の中で小さな神々の日本の歴史であり、文化だったのです。そしてそうした小さな神々に懐かれて守られて生きてきたのが日本人なのです。日本には沢山の神社が町や村、野や田んぼ、畑、にあり、町の路地裏にまで祠があります。
13、神の国の実態
つまり、神々が国土の隅々に住まわれています。ですから、こうした状態を「神の国」といっても全然間違いではないのです。神々が住んでおられる国だから、神の国なのです。我々は神々の住まわれているこの国に一緒に住まわせてもらっているのです。
14、近代神国思想の弊害
神々が住まわれているほどの国だから、外国に侵略されれば神が護ってくださる国というのが「神国」という意味だったのです。しかし一方でこの語は、独善性も持っていましたから、どんどん深刻な意味にもなりました。今日では、「神の国」とでも言おうものなら、選民思想であり、国体思想であり、軍国思想であるということにされてしまいます。しかし、我々は神の国ではなく、神々の国に住む民族であることを誇りとしましょう。 
■2

 

1、神道は宗教とは
今回が実際上は最初の講義ということになりますね。前回は序にあたるようなものでした。神道が、現在の我々が宗教といった場合にイメージする、神が主宰する宗教とは随分と違った宗教であることを強くいいましたが、やはり立派な宗教なのです。
2、神を戴いている
神道では全知全能の神がこの世を支配しているのでもなく、この世を主宰しているのでもないのです。神を戴いて、その力をもらっている世界といった方が適切です。
3、神道の世界範囲
そもそもが神道は、現代のような地球規模での世界認識が可能であった時代に発生したのはなく、この世とは、海に囲まれた日本国のことだけと思っていた時代に発生したのでした。海の彼方は、あの世で、常世(とこよ)の国、或いは常夜の国と考えていた時代の世界観から出発したのでした。やがて海の彼方に他国が沢山存在するとことを徐々に知りつつ、展開してきた宗教なのです。ですから、今日の神道信仰の中には、神道が通過してきた各時代の世界観を基にして成立した信仰が多数存在していますし、神道はそうした信仰を抱えています。
4、自然崇拝
例えば、自然界にある岩・木・泉、或いは穀物の米等には神霊が宿り、神そのものであるとする自然信仰は縄文・弥生・古墳時代から培われてきた信仰といえます。
5、神国信仰
そして前回話題にした神国信仰は、鎌倉時代の元寇に際して、日本の暴風雨によって蒙古軍の軍船が博多湾で壊滅してしまったことから発生した信仰といえます。
6、人神信仰
また、国のために身命を落とした人を、神として祀る信仰(今日の靖国信仰)が発生してきましたのは、近代日本が歩みを始めた幕末から明治維新にかけて発生してきた信仰なのです。戦国時代・江戸時代始めでは、豊臣秀吉とか徳川家康といった特別偉大な功績をあげた人だけが神として神社に(豊臣秀吉なら豊国神社、徳川家康なら東照宮)祀られたに過ぎないのでした。それが徐々に人が神として祭られるの資格が緩和されて、藩祖とか藩主、さらに義人(直訴を申し出た庄屋さんなど、直訴はそれ自体で死罪だったのです)が神として神社に祀られるようになり、幕末になって、やっと長州藩の準正規軍である奇兵隊の戦死者が祀られるようになったのです。そして明治になって、国民皆兵の兵隊の戦死者が祀られるようになりました。以上に紹介した三つの信仰は、皆現代の神道信仰に生きた信仰として包摂されています。現代の神道には、このような時代ゝゝの信仰がたくさん含まれているのです。
7、神道に教典は無い
神道を理解する上で大事なことは、神道は信仰箇条が書かれた教典、例えば仏教ならお経、イスラム教ならがコーラン、キリスト教なら聖書、ユダヤ教ならトーラー、天理教なら「おふでさき」などでです。そういった教義を記した教典といわれるものを持っていない宗教なのです。
8、古事記・日本書紀は?
神道の教義が記された教典があるわけではないのですが、神道では古事記、日本書紀などを聖典視しています。けれども、古事記・日本書紀に教義が具体的に記されているわけではないのです。記されているのは、物語的・歴史的な記述がほとんどです。なにせ日本書紀などは、国の正史として編纂された、謂わば国家選定の歴史書なのです。確かにそれらの記述の一部に今日の神道の教義とされる部分もありますが、それは日常の信仰箇条を定めたとはいえません。また、全国の大部分が所属する神社本庁が神道の教義として定めている教典もないのです。
9、日常生活に織り込まれた神道信仰
神道は、日本人の生活の中にとけ込んでいる宗教なのです。ですから生活そのものが教典なのです。昔は日常の生活を逸脱する人も少なかったので、自然な日常生活をすること自体が神道の教えの実践だったため、日常生活を深く反省して、敢えて教義として定める必要もなかったのです。日常生活の実践が、即ち神道の生活そのものだったのです。しかし近代の日本人は、神道以外の様々な価値観に基づいて生活するようになった為に、今日では日常生活から神道を知ることは極めて難しくなっているといえます。
10、説教しない神主さん
教典がないということは、神主さんに取っては大変なことなんです。立派なことと思ったことを真理として語っても、それは神主さん自身の経験や見識で判断していることで、「教典に、こう書いてあるから」と自己の見解を権威付けることもできないし、自己の見解が確かに真理であるとの保証は、自己の確信以外によるべき根拠がないのです。神主さんが、お坊さんや、神父さん(カソリック)、牧師さん(プロテスタント)のように、説教をするでもなく、真理を語ることもないのは、こんな所に理由があるのです。尤も、真理であるという根拠は、結局は、お経や聖書に書いてあるからという以上の根拠があるわけではないのです。
11、教典の拘束力
しかし信者とは、教典に書いてあることを信じるということが信者であることの条件です。したがって、教典を疑うということはしません。つまり宗教の強さは、懐疑を断ち切ったところから出発するのです。したがって教典の記述を疑うことができない仕組みになっているのです。デカルトの「考える故に、吾有り」ということは、いくら疑っても疑う吾がある。これは疑いようのない真理であるとして(ある意味で懐疑を止めたところ)から近代哲学が出発したように、教典も疑うことができない真理が書いてあると確信することから、信仰に入るのです。したがってどの宗教に於いても、、教典は疑えない真理が書かれているとされ、絶対的な権威を持つわけなのです。教典とは、それほど宗教にとっては重要なものなのです。現代物理学における相対性理論や量子力学理論以上のもので、数学に於ける定理のようなものなのです。
12、神道の底力
そうした教義というものを神道は持ち合わせていないのです。しかし、それにも拘わらず他宗教との競争(例えば、仏教・道教・キリスト教との対峙)に生き残って、現在の日本に営々として繁栄しているのです。それが何故なのか、このことに明確な回答を出せた研究者は今日まで、まだ誰もおりません。
13、正統と異端
もし誰かが神道の教義を説いたとして、教典とかあれば、その教義が正しいか否か判別することもできるのですが、それが出来ないのです。しかしその分、神道には良いことがありました。神道では、未だ異端とされた教えはないのです。つまり、教義の排斥という歴史がないのです。したがってキリスト教のような、異端と正統との激しい対立の歴史も生まれなかったのです。
14、神道の寛容性
神道の寛容性というのは、神道のこういった生い立ちに、一つはあると思われます。そして神道に排斥の論理がないということが、神道が日本に滅びずに繁栄してきた理由の半分があると理論的には考えられます。しかし後半分の神道のアイデンティティが壊されない受容性は何によって裏打ちされ保証されているのか、その点が最大の謎として残ります。
15、神道と天皇
天皇制というのは、一つの重要なキイワードとなるといえますが、戦後左翼思想の支配論理のイデオロギー論に引き込まれてしまっては、真実の姿が現れて来ないと思われます。天皇という存在が神道のアイデンティティにどのような役割を担っているのか、支配者という視点からではない冷静な分析がなされるならば、これまでとは全然別の位置付けがなされると思われます。
16、ことば化されていない神道
ところで、神道は日常生活に溶け込んでいるのですが、このことは神道が意識して明確に言語化されていないというだけで、宗教として原始的であるということではないのです。例えば、我々が日常使っている日本語ですが、子供から大人まで使っている言語です。頭のいい人も、それほどでもない人でも、使用する上で不自由を感じることは有りません。考えなくても言葉は、出てきますし、人に伝達できます。つまり話せます。しかし、日常会話を可能にしている日本語は、音韻的に厳格で非常に複雑な規則性を踏んで話されているのです。日本語の文法構造なども、国語学的に分析すると、普通の人なら一生掛かっても理解することができないくらい複雑なのです。しかし我々は、平然とその言語を使っているのです。つまり、用いる人が、ある事柄を合理的に理解していなくても、その事柄を上手に使えるからといって、その事柄が単純で幼稚なものであるということにはならないのです。複雑な重量計算をされないで江戸時代に立てられた東大寺大仏殿が、地震にも倒れず、数百年建っていいるという現実があるのです。
17、日本語の中に溶け込んだ神道
そこで敢えていえば、神道とは日本語の中に最も深く溶け込んでいるといえるのかも知れません。契沖・賀茂真淵・本居宣長・柳田国男・折口信夫などの神道の最高級の研究者が、和語(日本語)や方言論などの最高級の研究者であったこと。あるいは現代的に言えば研究者であると同時に詩人・歌人という日本語を操る言葉の芸術家でもあったことは、神道が日本語の中に組み込まれていることを深く暗示しているのではないかと思われるのです。
18、神道の原初性
何度も申しますが、神道は、その教義が言語化されていないからといって、劣った宗教とはいえません。ただ、キリスト教や仏教などの他の宗教に比べて言語として教義化されていないという意味では、プリミティブ(原始的、原初的、深く思惟が加えられていない、初期の段階にある)なままで、近代を迎えた宗教であるといわれても、仕方がないかもしれません。 
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1、量的には仏教
神道が、日本文化に占める目に見える量的分量というのは、そういう意味では少ないといえるかもしれません。仏教に比べると、仏教の圧倒的な日本文化への貢献に驚嘆するしかありません。但し、目に見える量的分量ということは、その視覚に訴える範囲でということです。たとえば建築物や文化財としては、寺と神社の国宝の数など比較すれば、圧倒的に仏教でしょう。日本の宗教思想、文学作品、各種芸道(茶道・華道)等々の伝統文化といわれる分野における仏教の存在は、正に圧倒的です。仏教に較べれば、明治以後に流入したキリスト教を基礎とする西洋文化でさえ、小さなものだといえましょう。但し、今日に於いては、キリスト教的西欧文化の存在は、非常に大きくなっているといえます。
2、質的には神道
しかし問題になるのは、仏教にしろ、西欧思想にしろ、それらは日本文化に影響を与えた主体であるけれども、影響された日本文化の当体ではないということです。仏教などは、かなり日本文化に内在化しましたが、内在化する中で日本化されてしました。
3、仏教の日本化
日本に根を下ろした平安仏教以降の日本仏教と、奈良時代に唐から伝えられた中国仏教、中国に伝わる以前のインド仏教、さらに原始仏教との違いは、少し勉強してみれば、驚嘆するほどの差異があります。その象徴的な点は、日本の仏教が死者の霊を弔うことに活動の重点を移したことに明確に読み取れます。仏教根本の哲理である涅槃寂静に入るのなら、霊魂の存在など消えていくはずです・・・・。しかし、日本仏教では霊魂世界を浄土世界として発展させて展開しています。浄土に死者の魂は赴き、浄土の世界で祖先と一緒に暮らすという教えになっているのです。日本仏教が何故、そうした霊魂観を内包させたのかと云えば、仏教が日本に土着化する際に、日本的生死観を取り込むことを行い、それに成功して、そうした霊魂観、来世観を発展させたといえるのです。それ故に、仏教は日本文化に内在化できたとも云えます。
4、神式葬儀は江戸時代に復活
それ以来(少なくとも平安時代以降から近代に至るまで)、日本において葬祭の葬の分野は、仏教の担当で有り続けたのでした。近世になって日本人としての自覚に目覚めた際に、日本古来の葬式の仕方があるはずだと、国学者などが必死に探求したのですが、ついにそうした日本古来の葬儀の仕方を発見することは出来なかったのでした。つまり日本古来の葬儀は、約千年も前に絶えてしまっていたために、日本古来の葬儀の仕方を歴史から取り出すことは不可能になっていたのでした。そしてこの間の日本人の葬儀を代替したのが、日本仏教だったのです。神道は、祭のみの担当となって、仏教とこの日本では棲み分けていたのでした。
5、日本的生死観
では、こうした日本に内在化した日本仏教の日本的な生死観の原型はどこに見出されるのかといえば、それは古事記・日本書紀に記された日本神話世界に見出されます。その典型的な神話が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の死した妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会うために行った黄泉国訪問の神話です。
6、古墳石室と黄泉の国
伊弉諾尊が体験したものは、肉体は腐り果てても死後の国(黄泉の国)で現世と同じように活動している伊弉冉尊の姿(霊魂)だったのです。この神話は、死後行く世界でも死者の霊魂は、そのまま生き続けているという日本人の生死観の原型といえるものなのです。死した伊弉冉尊がいる黄泉の国の最初のイメージは、明らかに古墳の石室内の空間です。それがやがて、死体が埋葬されている地下世界へとイメージが拡大され、それが目に見えるような死後世界へと展開していきます。よく考えてみると、そこには我々の死後の世界のイメージの原型があると思われます。このイメージが、仏教の天国・地獄、あるいは浄土世界と入れ替えられて、今日の我々の死後世界のイメージになっていると考えると、よく理解できます。この生死観を仏教が取り入れたから、日本仏教は日本人の死を取り扱うことができる宗教として日本人に受け入れられ、日本人の葬の分野に於いては仏教が日本に内在化したということが出来ましょう。
7、神話は民族のアイデンティティ
前述したように、では仏教やキリスト教の影響を受ける当体とは何かと問うた場合、そこに立ち現れてくるのが、日本の神話世界であり、その神話世界の神々を戴いている神道なのです。神道は、そうした日本の神話の世界をその核に持っている宗教であり、その核を保持したまま、日本の歴史に展開し、日本の歴史を形作ってきた存在なのです。神道が、そうした日本のアイデンティティの当体にあるのではないのかという認識は、早くから日本文化を研究する西欧の研究者によって指摘され、認識されてきました。今日では、神道がそうした当体であることを疑う研究者はおりせんし、そうした認識がある故えに、日本文化に興味を持つ外国人は神道のことをとても知りたがるのです。
8、神道は永遠の謎
しかし、これまで神道を研究した数多くの研究者がおりますが、今日までのところ、神道の全体と核心を適切に説明しきった研究者はいないのです。それ故、神道の研究はこれまでも、そしてこれからも盛んであると思われます。
9、成長し続ける神道
もっとも神道を全部説明出来ないということには、本質的な理由があると考えられます。それは、神道は現在も成長し変化していると考えられる存在なのです。どんどん成長する子供を説明しきれません。説明したとたんに、子供は次の姿に変貌しているのですから・・・。第二回講義で説明したように、神道には固定化された教義というものがありませんので、如何様にも展開するのです。新しい信仰が、次々に生み出されていく、そういった宗教なのです。つまり神道は、日本と共に変貌していくのです。
10、神道の説明の困難さ
神道と日本文化との関わりを説くことは、非常に難しいのですが、以上のような認識に立つことによって、神道の歴史も解りやすくなると思います。 
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1、神道知識の必要性
神道の研究を志す程の人はなかなかいないと思います。しかし祭礼や神社の歴史を分析しなければならない人、或いは日本文化を研究しているが、どうしても民族信仰である神道の理解が必要になったという人もおられると思います。
2、神道の入門書
そこで、入門書や概説書を探されても、適当な神道の入門書というものが無いのが、実は現状です。街の書店には、岩波新書や講談社現代新書、研究社文庫などに何冊か入門書的な書籍があります。しかし、個別テーマの書ばかりで、全体を包括的に扱った本はありません。また、神道を厳しい視点から著述する執筆者が多く、神道サイドに立って真摯に書かれているものは余りありません。
3、神道を学べる大学
日本に於ける神道の専門大学は、東京の國學院大學(神道文化学科)と三重県伊勢市の皇學館大学(神道科)の二校があります。しかし残念ながら、これら二校の神道科の先生が執筆された適当な入門書というものもありません。これらの大学の先生方の著作は、専門研究の書物が主体となりますから、仕方のないことかと思います。
4、書店で入手出来る入門書
そこで、一般大学で神道を研究している先生や評論家などが書いた本に頼ることになりますが、神道を専門に総合的に扱った本はありません。また、歴史読本などの特集号に神道や神社を特集したものがありますので、そういった書物が入門書ということになってしまいます。しかしこうした本は体系的、系統的記述の仕方でないため、どうしても情報が細切れになってしまっていて、辞書を読むようで、深みがありません。
5、適切な神道入門書はありません
そこで、入門書や概説書を探されても、適当な神道の入門書というものが無いのが、実は現状です。街の書店には、岩波新書や講談社現代新書、研究社文庫などに何冊か入門書的な書籍がありますが個別テーマの書ばかりで、全体を包括的に扱った本はありません。また、神道を厳しい視点から著述する執筆者が多く、神道サイドに立って真摯に書かれているものは余りありません。
6、神道が関わる範囲は広範
尤も、神道は外見以上に範囲が広汎な世界なのです。神道の思想、信仰、習俗、習慣から全国各神社の歴史・祭礼・特殊神事・神社建築・宝物まで多種多様です。また扱う人々も、天皇から一般庶民までと多様です。扱う時代は、縄文・弥生から現代に至る全ての時代が入ります。神道に影響した宗教では、仏教・キリスト教・道教・陰陽道・儒教があります。また神道が影響を受けた文化は、朝鮮・中国・インド・西洋の諸文化があります。
7、神道の総合的な概略書
ですから、神道の概略を記述するというだけでも大部の書物になってしまいます。例えば、小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』(神社新報社発行)でも720頁です。神道史のみを概説した『解りやすい神道の歴史』(神社新報社発行)で300頁です。しかし、これらの書籍を読んでも、解説者による解説がなければ、初学の方にはよく理解できないと思われます。
8、戦前の概説書
こうした中で、戦前の本(昭和7年刊)ですが、清原貞雄『神道史』(650)は良い概説書と思われますが、神道史専門の概説書で、叙述も詳細です。価格も3500円ぐらいです。太田亮『神道史』(昭和13年、1300円)は、我が国系図学の大家の著作ですから、内容は濃いです。
9、神道考古学の概説書
また神道の考古学方面からの研究では、大場磐雄『祭祀遺跡』(650頁、角川書店、昭和45年)を推薦します。これらの書籍で、考古学から文献史学までの全時代の神道を一応把握できます。
10、専門的概説書
岩橋小彌太『神道史叢説』は、通史ではなく、専門分野の研究の幾つかを著作にしたものですから、系統的解説をしている著作ではありません。宮地直一『神道史序説』も、とても入門者にとっての序説でなく、専門研究者の序説です。但し、宮地直一は、後述するように、近代神道史学の基礎を造った第一人者ですから、神道の史的研究とは、神道の歴史をこのように考察していくものかという、正統的研究のお手本です。神道の研究をしてみたい方は、宮地博士の著作を早い時期に読んでおくことは必須のことです。
11、戦後の概説書が無い理由
戦後の神道の通史的概説書は、個々の研究が進展して細分化してしまいましたので、それを体系的・系統的に概括することが難しくなり、適当な本がありません。以上に紹介した本は、古本のWeb検索エンジン「スーパー源氏」などからで入手できます。値段も余り高価なものではありません。
12、神道の辞典
神道の辞典としては、いろいろ出ていますが、安津素彦・梅田義彦監修『神道辞典』(堀書店発行)が、詳し過ぎず、執筆者も戦後の神道学を構築した人たちですので、手頃かと思います。神道を研究するなら座右におくべきかと思います。神道の最も詳しい辞典は、宮地直一、佐伯有義監修『神道大辞典』ですが、これは図書館などで、見ればいいでしょう。しかし、やはり現在の新刊書でということを望むならば、何冊かのテーマ別の概説書を読み、全体像に迫るというしか方法がないと思います。
13、戦後イデオロギーのトラウマ
神道では、天皇を非常に大切な存在としています。神道に於いては、天皇は最高祭祀者(以下の言葉は適切ではないかも知れませんが、最高神主、或いは大神主=オオカンヌシということでもあります)。ですから、第二次世界大戦(日本での公式名称は大東亜戦争)後に、あの戦争に至らしめた責任を天皇に帰せしめようとするマルクス主義的左翼による戦前の体制批判の論調が世論を席巻しました時代に、そうした左翼思想をもった評論家や文化人・歴史研究者は天皇制批判を繰り広げました。その過程の中で、神道も彼らの研究の対象となったのでした。
14、左翼による天皇制批判に連動する神道批判
その際に、彼らは、戦前の国家主義体制を支えたのは天皇制であり、その体制を精神面から支えたのは、神道であるとして、激しく神道を批判したのでした。したがって、神道を敵視する立場から神道を研究するわけですから、そうした人たちの神道の研究書に従えば、天皇は人民統治手段として神道を用い、神も支配したという結論に導かれる論理になっており、神道は超国家主義的宗教とされました。
15、反体制運動としての靖国神社の政治利用近年の例でいえば、最近の靖国問題を機に靖国神社を扱った書物が、たくさん出版されています。
そうした本は一見靖国信仰の解説を通じて靖国神社の理解を深めさせるのかと思って読んでいきますと、実は靖國神社は戦争で戦死することを美化するために国家によって造られ、天皇の為に戦死した人を祀る宗教施設であるとして、靖国神社を断罪することを目的として書かれている本であったりするのです。しかもそうした靖国関連本が実に多いのです。そうした本と、そうした左翼の批判から靖国神社を擁護する真摯な靖国神社の紹介を目的とした本が、同じ本棚に混在して並べられているのが現状です。
16、報道機関の偏見に満ちた神道報道
戦後左翼の継承者は、現在も非常に多いのです。テレビに良く出てくる評論家や学者は、国家寄りの事を言うと出演させられなくなるようで、国家や伝統文化を批判していなければ、テレビに出演し続けることはできないようになっているようです。したがって神道は、右翼でウルトラナショナリズムの権化であるかのような印象を持たれている方々が、今日でもまだ多いと思います。
17、神道の非政治性
しかし実際の神道は、国粋主義の宗教でもなく、超国家主義の宗教でもないのです。戦前の一時期に、国家が国家主義的政策に国民を導こうとして神道を利用した時期があり、その歴史が国家に批判的で左翼的な戦後文化人によって宣伝され、その宣伝が日本人に印象付けられて、神道が狂信的国家主義の中核にあるといった誤ったイメージのレッテルが神道に貼られてしまっているだけなのです。しかし実際の神道は、超国家主義者の集まりでも、なんでもないのです!天皇を頂いた神聖政治がなされることを教義としているわけでもないのです。
18、批判的神道本の長所
左翼的執筆者による神道の本なのですが、実に良く調べて書かれている場合が多々あります。したがってそうした本でも、神道を勉強してみたいと考えている人には、かなり良い入門書となります。そこで、そうした書物を読む場合には、先ず執筆者がどのようなイデオロギー的立場で書いているのか見定め、知識を得ることを主たる目的にして、執筆者が織り込んでいる批評や感想は読み飛ばしていくようにするといいと思います。また、あくまでも参考書として読むのであって、指針の書としてはいけません。他方、執筆者が宗教家などの場合は、記述がロマン的(幻想的)になっていたり、祭りの意義や解説になると、感性的な解釈を行なって、論理や論証に辻褄の合わない飛躍が織り込まれてしまったりしていますので、そうした本も御用心下さい。
19、勉強のコツは先生を探すこと
それでは、どのような勉強の仕方が一番よいかといえば、神道を良く知っている方に導いてもらうのが一番です。考古学のような、思想や信仰からではなく、物から考える考え方を持った人などは、教わるには良いと思います。
20、神道は右翼でも左翼でもない胴体
神道は右翼の印象が強いですから、神道の勉強をすると右翼的思考に引き込まれるのではと、恐れる方もおられるかも知れません。でも、きちんと勉強していけば、大丈夫!右翼でも左翼でもない、胴体の思想を持った人になれますからご安心下さい。
21、民俗学から入る
神道へは、民俗学方面から入ると入りやすいと思います。しかし民俗学はロマンの徘徊する世界ですから、同時に歴史学からも勉強が必要です。但し、その歴史学もマルクス主義的歴史学(近年は随分下火になりましたが、現在も左翼史観の学者は多いです。日本中世史の研究者などはそういった方が多いように思います)ではいけません。
22、民俗学・歴史学の共用
そこで、正統的な勉強を目指すなら、民俗学と歴史学をミックスさせる仕方がいいかと考えます。私の場合は、最初は本居宣長の「うひ山ふみ」・「玉勝間」(岩波文庫)から入りました。本居宣長の「古事記伝」は余りに分量が多いので、専門研究する段になったら、関係箇所を読むぐらいでいいです。平田篤胤は個性が全面に出ていますから、初学の人には却って負担になります。賀茂真淵も余裕が付いてからでよいでしょう。
23、推薦の国学者
私が推薦する国学者は、伴信友です。伴信友の研究は、現代の神道史学でも学問的に充分通用する研究です。伴信友は、神道考証史学の元祖といえます。伴信友の諸著作『神社私考』・『鎮魂伝』・『正卜考』・『瀬見小河』などは、厳密な考証が加えられ、しかも論理も明快で整理されており、今から150年ほど前の人ですが、時間よる研究の古さを感じさせない研究ばかりです。
24、柳田国男・折口信夫から
民俗学的研究は、やはり柳田国男の『海上の道』・『祖先の話』・『日本の祭り』・『妹の力』・『故郷七十年』ぐらいは読んでおきましょう。また、折口信夫の『古代研究』国文学編・民俗学編T、U(折口信夫全集、第1巻・第2巻、第3巻)、神道宗教編(折口信夫全集、第20巻)も読んでおきましょう。折口民俗学は現在の神道学に於ける様々な解釈の基礎になっている説が多いので、これらの著作は必読です。
25、研究に必読文献
神道文献史料としては、『日本書紀』・『古事記』・『風土記』(岩波日本古典文学大系に所収は最初から最後まで全巻読破してください。)、『続日本紀』も全巻目を通して下さい。神道研究には最低限の基礎です。その他は研究に必要になってから読んでも間に合います。
26、神道の歴史から始めましょう
私が、なぜ神道史学を重んじるかといえば、神道の理解には、思想面から入ると思想・信条が先行して現実から遊離してしまう危険があるためであり、また現代の宗教を扱う学問の宗教学からの理解では、他宗教との比較ばかりが論じられることになって、神道固有の世界に意義を見いだしたり発見する悦びを味わう前に他宗教に魅力を感じ興味が移ってしまうからです。宗教学的理解は、神道の独自性・固有性にしっかり気付き、神道の魅力を自覚た後の方が良いかと思います。 
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1、今日の神社本庁傘下神社
今日の日本で、宗教としての「神道」の宗教施設を「神社」といいます。そうした全国の神社が加入しているのが「神社本庁」です。神社本庁も全国の各神社も、それぞれが一宗教法人です。したがって神社は宗教法人法の適応を受け、文部省に監督されます。こうした今日の神道を、我々は「神社神道」といっています。
2、単立神社
ただし、全国の神社が全て神社本庁に加入しているわけではなく、伊勢神宮・靖国神社・明治神宮・伏見稲荷大社・日光東照宮等は神社本庁に加入していない単立の神社です。そうした神社は、神社本庁傘下の神社と違いまして、いろいろな事柄で神社本庁の監督を受けず、各社全く独立した運営がなされています。しかし、そうした神社で働く神主さんたちは、神社本庁認定の神職資格を持つ人たちですから、関係は親密です。大きな神社ばかりではなく、小さな神社でも神社本庁に加入していない単立神社がいくつもあります。また神社神道ではありませんが、神道式で祭祀を行なういろいろな宗教法人もあります。
3、全国の神社の数
現代の神道の趨勢という場合、日本に於ける神社数や神職数が一番目安になる数字と思われます。神社本庁発行の平成18年7月の『若木』によりますと、神社数は79,051社、神職総数21,594人です。
4、神社の職制(宮司、祢宜、権祢宜)
今日の神社は、規模の大きい神社も小さい神社も職制を敷いています。一般的には、上位職から宮司(ぐうじ)・祢宜(ねぎ)・権祢宜(ごんねぎ)と称します。これらの職に就いている人の一般名称を「神職(しんしょく)」といいます。つまり神職=社員と同じ意味です。「宮司さん」とは、会社でいう「社長さん」ということです。したがいまして、祢宜や権祢宜を「宮司さん」と呼んでは決していけないのです。以下、祢宜=部長・課長、権祢宜=平社員というランクになります。尚、規模の大きな神社では、宮司と祢宜の間に「権宮司(ごんぐうじ)」という職を設けているところがあります。今日も使います「神主さん」いう呼称は、神職の一般名称ですから、宮司、祢宜、権祢宜を「神主さん」といっても、何の失礼もありません。
5、神社本庁の発足まで
現在の神社本庁傘下の神社は、大東亜戦争の敗戦に伴いGHQ(連合国総司令部)によって実施された昭和20年12月の神道指令により、神社神道と政府とが分離されたところを起点として出発しています。翌昭和21年2月3日に神社本庁が宗教令(昭和26年制定以前の宗教法人法の前身)下に宗教団体として出発しました。
6、別表神社
その為に、今日では戦前の国家管理時代の神社制度とは違った、新たな神社制度を用いています。今日の神社本庁傘下の神社は、神社本庁の定める別表(べっぴょう)神社とそれ以外の非別表神社に大きく二分されます。
7、官国幣社時代
明治から戦前(大東亜戦争)を、官国幣社時代と呼んでいます。この呼称は、当時神社の大祭などに国家から幣帛料(金銭)がお供えとして供えられ、その幣帛料が宮内省式部寮から支出される神社は官幣社、大蔵省から支出される神社は国幣社とされたのでした。この官幣社(91社)と国幣社(100社)、そして別格官幣社(27社)を総称して官社といい、これ以外の神社を民社といいます。官国幣社制度は、明治政府によって全く新たに作り出された制度ではありません。平安時代の神社の社格制度を手本として、そこに新たな要素も加えて明治政府が作った社格制度といえます。[図表T]に旧官国弊社時代から現代への変遷を神社数で整理しましたので、これを見て頂きたいと思います。旧官国幣社がそのまま別表神社に移り、民社の一部も別表神社になりましたが、民社の大部分は非別表神社になって現在に至っています。
8、官社と民社
官国幣社制度下では、神社は官社(218社)と民社(110,077)に大きく二分されていました。官社は、中央・地方の古くから有名な神社や皇室と関係の深い神社が殆どですが、その数は神社全体からみれば、非常に僅かなものでした。近代日本国家が加えた神社への国家保護といっても、実質的な費用面からの保護は官社という神社全体のほんの一部だけで、民社にはそうした支援はありませんでした。民社とされた大多数の神社は、独自で神社の運営費用を得なければならず、氏子(うじこ)と呼ばれるその神社が鎮座する地域住民や、一般参拝者から得られる収入によって維持・運営されていたのでした。また、官国幣社の神職は国家の待遇官吏で、内務大臣・地方長官が任命し、俸給も支給されていました。准公務員ですから官国弊社の神職は鼻が高かったようです。しかし大部分の民社の神主には、そうした待遇は有りませんでした。
9、現代の神社は国から完全独立
戦後の神社には、旧官国幣社といえども、国家からの財政的支給は一切無く、一宗教法人として、民間会社などと同じように収入の一切は自前で得なければならなくなってます。近代神社制度の変遷を簡単な年表として[図表U]に纏めますと次のようになります。
10、官国神社制度の特徴
明治政府は、鎌倉時代から約700年間続いた武家政権から政治権力を天皇に回復させた明治天皇を、神武天皇の再来として、当初は「神武創業」を基本理念としました。そのことから、天皇の日本国全体の神祇の祭主という立場が強く意識され、それにともなって、天皇及び皇室祭祀、また国内神祇祭祀の充実が図られ、国家祭祀化が進められることになりました。その手本になったのが、奈良時代の律令政府の政治体制でありました。その象徴的な面が神祇官を、諸官の最高官として再興したことに現われています。しかしやがて、西洋列強国の仲間入りするには、そうした1100年も前の統治体制では立ち行かないことを知り、神祇官は、神祇官→神祇省→神社局へと格下げされていったのでした。
11、近代の国家と神社
近代の神祇制度の充実を踏まえると、国家による国内神祇への期待は大変大きなものであったこと思われます。それは、取りも直さず、近代日本国家が困難な西欧列強との競争の中で、如何に国を護って行かなければならなかったかということであります。国内の神祇の力の発動を期待しなければならないほどに、国家自身が非常な危機感に苛(さい)まれていたことの証左だといえます。幕末から明治の歴史を繙けば解るように、天皇が自ら国家権力の奪取を望んだのではなく、倒幕に参加した諸藩が日本本来(古来)の天皇を中心とした政体を望み、再度、天皇を国家政治体制の頂点に戴いたということなのです。当時は、日本本来ということは、日本古来ということ同義でありましたから、一面では日本全体の神祇の祭主という天皇の立場に合わせて、古代の神祇祭祀体制の再建が図られて、昭和二十年に至ったといえましょう。
12、戦後の神道史の概括はこれから
戦後から現在まで神社神道を論ずるのは、まだ時期尚早かもしれません。戦後の神社神道がどのような特徴を持ち、どのような方向に進んでいるのか、渦中にある現代の我々には、冷静に分析できないのではないかと思います。 
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1、神社と氏子
神道が実際に営まれている場所といえば、それは神社です。神社には、境内があり、社殿があって、地域の人々が氏子(うじこ)として神社を支えています。
2、寺請制度に代えての氏子制度
氏子というのは、明治時代に江戸時代の寺院の寺請制度(江戸幕府による人々の戸籍管理)廃止に伴い、これを氏子制度として神社に代替させようとした制度で、この制度下で使われた名称の名残です。しかしこの制度は途中で放棄されました。但し、この制度は法制化された制度ではありません。氏子というのは、一定地域の神社と住民を一氏族と仮定し、奈良時代の氏族制度に範をとって、神社と住民との関係を、氏(うじ)とその氏に所属する氏の子の集団と見立てたものです。
3、神社の宝物は歴史
さて、神社にとって、また氏子にとって、大事なものは境内や社殿、宝物等沢山あります。しかしそれら中で一番大事なものは何かというと、実は「神社の歴史」なのです。私の恩師が、さる大学の神道史の碩学が神社に調査に来られた際に、碩学の先生からこの話を伺ったということなのですが、この言葉、考えれば考えるほどに、真理ではないかと思われる近年です。私が、この話を恩師から伺って以来十五年にもなりますが、以来大事にしています。神社にとって当該神社の歴史が一番大切だということは、由緒ある有名な神社、或いは大社といわれるような大きな神社から、田舎の小さな神社にも、あてはまります。
4、地域史と神社史との一体性
神社にとって歴史が何故それほど大事かといえば、実は神社の存在というのは、神社の存在する地域の歴史と密接不可分の関係にあるからなのです。もっといえば、当該地域の主要な歴史、特に文化というか精神史というのは、その地域の神社の歴史を再構成すれば、概略を描けるのです。特に、地域の神社がどのような際に創建されたのかということを調べれば、その地域の最も重要な歴史が何であったのかわかります。
4-1、東京の場合
例えば東京です。関東が一躍脚光を浴びたのは平安時代の中期の平将門の乱でしょう。
神田神社 / 神田神社創建の社伝では、その平将門の鎮霊がなされて神田神社が創建されたのが鎌倉時代の延慶2年(1309)とされています。
日枝神社 / やがて江戸に初めて城を造った太田道灌(おおたどうかん)が文明十年(1478)に赤坂の日枝神社(山王日枝神社)を祭ります。
富岡八幡宮 / 徳川幕府が開府されてからは、江戸勧進相撲発祥の地として有名な富岡八幡宮が寛永4年(1627年)創建されます。
靖国神社 / そして江戸に都が移って近代日本の首都として江戸が東京となった明治2年(1869)に東京招魂社が創建され、それがやがて明治12年に靖国神社と改称されたのでした。
明治神宮 / その明治の象徴である明治天皇を祭る明治神宮は大正9年(1920)代々木の地に創建されました。
乃木神社・東郷神社 / その明治天皇に殉死した乃木希典夫妻を祀る乃木神社は大正12年(1923)の創建です。大日本帝国海軍の英雄東郷平八郎を祀る東郷神社は昭和15年(1940)の創建です。
東京に於けるこれらの神社創建は、正に近代日本と帝都東京が輝いていた時代と一致しています。また、近代以前の江戸の地に於ける神社の創建は、この地の歴史の大事な時期とも一致します。
4-2、下関の場合
他に、典型的地方事例として山口県下関市を見て見ましょう。
住吉神社・忌宮神社 / 神功皇后の三韓遠征の時代に創建されたと伝えられるのが、住吉神社(長門国の一宮)と二宮の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)です。
赤間神宮・厳島神社・大歳神社 / 源平合戦に因んで創建された神社では赤間神宮(壇ノ浦の合戦で入水した安徳天皇を祭っています)・厳島神社・大歳神社があります。
中山神社・桜山神社・乃木神社 / 幕末から明治にかけては天誅組の挙兵で知られる中山忠光卿を祭る中山神社、奇兵隊の戦死者を祭る桜山神社、そして乃木神社が創建されています。
これらの神社の創建は下関が日本史に燦然と登場して輝いた時期と一致します。
5、日本史と神社の歴史も一体
以上の二例を挙げましたが、各地の神社創建の歴史を調べてみれば、みなさんもなるほどと思われるはずです。神社は、その地の歴史的モニュメント(記念物)でもあるのです。したがって視点を大きくとれば、日本の神社の歴史を辿れば、日本史の重要な要点も描き出せるということになるのです。このように神社の創建と地域の歴史の画期とは一致するのです。ではそうしたことが何故起こったのか。神社創設には、なぜそうした地域の歴史が刻まれているのでしょうか。
6、神社創建の要因
実は神社が創建される要因は、村の田畑が開墾されたとか、そういった社会経済史の変動による場合があります。或いは、当該地域に疫病がはやったとか、洪水に見舞われた、戦乱の舞台になったとかという場合もあります。つまり、当該地の記憶に残る程の重要な事件を契機に神社が造られるということが多いのです。そして、それは住む人々の大事な心の記憶ということでもあるのです。住む人々の心というのは、宗教に反映されやすいのです。今日までの日本では、地域の人々の最大公約数的な宗教は神道であり神社だったのです。それゆえに神社に地域の人々の心が反映されてきたのでした。それ故、当該地域の心の歴史を神社の歴史に見ることができるのです。
7、地域と神社一体性
神社創建の契機を辿ると、その地域にとっての重大事件があった時々、或いは時代が大きく変わった時に新しい神社が創建されていくことは以上の説明でお解かりいただけたかと思います。加えて神社の面白いところは、古い時代の神社はそのまま新しい神社と共にその地域に残るのです。
8、神社の興廃
神社に関わっている人には常識的なことなのですが、「寺はお坊さんが居なくなったら無くなってしまうが、神社は神主が居なくても無くならない」といわれています。例え神社の社殿が無くなっても、後には小さな石の祠などが残ります。もしそうした石の祠が無くなっても、自然石や樹木、果ては森・藪になっても、たいがい人がそこに住んでいる限り、その場所は大切に扱われます。
9、地域の歴史は神社に残る
これが神社と歴史の関わりの面白い点であり、神道研史研究の醍醐味なのです。ですから、逆にある地域の歴史を知ろうとした場合、当該地域にある神社の創建年代を古い順に並べて行きますと、その地域にとってどのような事柄が重大であったのかが示されていることが解ります。地域に住み、地域の神社の歴史に触れる機会が多いと、そんなことに気付きます。 
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1、神道信仰
神道の勉強が少し進んできますと、神道の信仰として、八幡信仰・御霊信仰・天神信仰・熊野信仰・稲荷信仰・伊勢信仰などと共に、吉田神道・伊勢神道・復古神道といった神道があることを知ります。前者の場合の信仰は、該当する神と、其れを信仰した人々が実際に多数いたということで、神道信仰とすることができます。そうした信仰は「○○信仰」として、極端いいえば神の数だけ名付けることができる信仰といえます。
2、神道説
これに対して後者の吉田神道・伊勢神道・復古神道といった神道信仰は、神とそれを信じた多数の人々といった意味での信仰とはいえません。これらの信仰は、諸家神道(しょかしんとう)といって、神道をいわば家業としていた家や神道の研究家がいいだした信仰で、神道信仰というよりは、神道説といえるものです。したがって多数の人々に信じられた信仰とは区別しなければならないと考えます。因みに「吉田神道」とは、江戸時代に全国の神社を采配する権限を幕府から許されていた吉田家の神道説、「伊勢神道」とは伊勢神宮の外宮(げくう)の神主であった度会氏の人々が唱えた神道説、「復古神道」とは本居宣長や平田篤胤といった江戸時代の国学者が唱えた神道説です。このように「○○信仰」と「○○神道」は違うことを認識しておきましょう。
3、神道思想説
神道説の世界に入り込みますと、非常に理念的信仰世界ですから、仏教やキリスト教でいう教理論的なものになってきます。私などは、思考がとてもついていかないので、専ら研究は前者の「○○信仰」に限定しています。諸家の神道説は、神道の特化された信仰になりますから、神道の本質的・本源的信仰を知りたいという人には、不向きな知識といえるかも知れません。これらの神道説は、信仰を思惟したものですから神道信仰の応用編、つまり神道思想と考えた方が良いかと思います。神道を信仰として研究したいという方々には、前者のテーマでの研究をお勧めしたいと思います。しかし、神道の思想的な面を知りたいと思われる方は、後者のテーマでの勉強をお勧めいたします。これまでの日本人が自己の神道信仰をどのように思惟して展開させたのか、その足跡を辿ることは、大変面白いと思います。但し、そうした思想家の著作は、膨大な量ですし、神道の神々の系譜なども縦横無尽に使われていますから、そうした事柄に耐えられる相応の知識を備える覚悟が必要です。
4、両部神道・土御門神道
これらの神道信仰や神道説の他に、神道には、仏教や陰陽道との接点に生まれた信仰があります。密教との接点に生まれたのが両部神道(りょうぶしんとう)です。陰陽道との接点に生まれたのが土御門神道(つちみかどしんとう)といわれるものです。
5、修験道
また、日本では山岳という場で神道と仏教が接触して生まれた修験道(しゅげんどう)というものがあります。修験道の研究はおもしろいです。北は、東北の出羽三山(月山・湯殿三・羽黒山)、関東では富士山、神奈川県の大山、中部の立山、北陸の白山、近畿では熊野三山、中国では大仙、四国では石鎚山、九州の彦山など、日本の名山とされるほとんどの山にその跡をたどることができます。
6、山伏
山伏が、そうした山岳信仰の担い手でした。里人も、そうした山伏の験力、護摩の力を信じて、祈祷やいろいろな祭りなどしてもらっていたのでした。但し、山伏は仏教の正式な僧侶からすれば、格下の者でしたから、下位の者として扱われていたのでした。しかし、それ故人々とは親しく交わっていたのであり、今日でも地方の家々で行われる荒神祭などは、昔は山伏さんにしてもらっていたなどといったことが伝えられています。この修験道は明治五年に政府の政策で廃止されることになり、山伏は民間人に還俗させらてしまったため、山伏の活動は日本から消されてしまったのでした。今日では、細々と第二次世界大戦後に信教の自由のもとに復活した仏教各系の修験道教団の山伏がいる程度です。山伏は、山に伏して(だから山伏というのです)山の霊力を身に付けているから、験力(げんりき)が有るとされたのですが、いかがわしい山伏も数多くいたために、近代明治政府はそうした山伏の活動を認めなかったのでした。
7、善にも悪にもなる宗教の両義性
宗教は、絶対善と考えてはいけないように思います。それを担う人々によって善にも悪にもなる性質のものだと考えなければなりません。どんなに初期は立派でも、金儲けに堕落していく宗教もたくさんあります。あるいは最初は情けないような宗教であったものが、どんどん立派になっていく宗教もあります。宗教は、山の稜線を歩んでいるようなもので、常に左右の谷に転げ落ちる可能性があるのです。神道も、またそうした宗教であることに変わりはないのです。8、伝統的宗教の安全性こうした宗教の両義性の可能性は、人々がしっかり認識しておくべきことなのですが、現在の日本人には、こうした宗教の危険性というものが全く知らされていません。新興宗教が危ういのは、この可能性が未だ試されていないからであり、伝統的宗教が安心なのは、なんどもそうした誘惑に耐えてきたという歴史の保証があるからなのです。
9、人に教わることの危険性
さて今回の講座では、八幡信仰や両部神道などといった語を多数用いていますが、これらの語はWeb検索で調べることが出来ますから、余り神道について知識のない方は調べて、理解して下さい。自分で調べるということが非常に重要なことです。いや最も重要なことなのです。人から教えてもらえるということは一見便利なことのように思われますが、しかしそればかりだけでは良くないことなのです。自分で調べる力が付かないからです。研究は、自分で歩き回って、探し回って、やっと見つかるものです。
10、神道研究のコツ
しかし見つけるだけでは研究は成り立ちません。それをどう料理したらよいのか、そこでまた指導してもらう先生の助けが必要になります。そのコツを先生から一度だけ教えてもらえれば、研究者として自立できます。そこが、なかなか難しいのです。そうした先生には、なかなか出会えないものなのです。大学では大学院に進めば、指導してくれる教授などに出会えますが、それにはお金も時間も必要です。
11、論文とレポートは違う
また、研究論文を書くのは、レポートとは訳が違うのです。やはりセンスが必要です。センスがあるか無いかは、論文を読んでみれば解ります。後は、自分のセンスを信じて努力するだけです。
12、論文を発表の難しさ
論文を作成しても、それを発表する場を獲得する必要があります。それが、また難しいのです。掲載が見送られた投稿論文が返却されてくることは辛いものです(私も経験しました)。
13、神道信仰の実態とは?
さて、それでは神道でいう「○○信仰」とは、どのような実態をいうのでしょうか。例えば、稲荷信仰とは何なのかと・・・。端的にいえば、稲荷神が信仰されて稲荷神社に人がお参りしている。或いは稲荷神社が建立されたということなのです。稲荷信仰とは、商売繁盛に御利益があるから、お稲荷さんにお参りして祈祷してもらう、稲荷神社のお札を受けるとかということです。或いは家に稲荷神を祭る祠(ほこら)や神棚を設けること以外のものではないのです。稲荷の神を信仰するといっても、稲荷神が信者に要求する生活上の掟があるわけではありません。これが熊野信仰であっても、伊勢信仰であっても、八幡信仰であっても同じでなのです。
14、信仰故えの掟
但し希に掟が求められることがあります。島根県美保神社では事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭神としてお祭りしているのですが、この神様は早朝の鶏の鳴き声で急がされ、足に怪我をしたということから、氏子は卵を食べてはいけないという掟あります。また八坂神社の神紋がキュウリの切り口に似ているいることから、信仰する人はキュウリを食べてはいけないということがあります。しかしこれらは、信仰の掟というほどではなく、禁忌という程度のものです。
15、多神信仰
このように神道の神信仰ということは、神が定めた事柄を忠実に遵守するといった事柄の信仰ではないのです。神道では、特定の神を信じているから、他の神を信じてはいけないということもありません。入信儀礼も脱会儀礼もありません。
16、祭る信仰
神道の信仰とは、端的にいえば、「○○神」を祭る気持ちを持つか否かということだけなのです。神道に於いては、「祭」ることが最も大切で、それが神道の本質なのです。そこで問題となるのが「祭る」ということになります。「祭る」ということは、究極的には「大切に遇する行為」ということなのです。神を、どのように大切に遇するのかという、その仕方や、遇し方の差異によって様々な「祭り方」が編み出され、そうして祭がされるのです。
17、茶道に見られる神道的世界
茶道に於いて、亭主が客をどのようにもてなすかという基準に基づいて、道具、手前、掛け軸などが選ばれ、茶会が組み立てられるのと同じなのです。私は少しだけ茶道に触れただけですが、茶道の世界はなんと神道的世界そのものなのかと驚いたものでした。茶道が発達したのは、仏教的世界の寺院ですし、今日でも茶道の最高階位の「乱(みだれ)」の相伝を受けるには、得度を受けなければならないとされているそうですし、掛け軸も大徳寺の僧侶の揮毫したものが重宝されるなど、仏教が茶の湯の精神なのですが、茶の湯世界の心の使い方が「祭る」という行為に、実に近いと私は思っています。 
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1、祭りの祭祀
神道に於いて、最も本質的なこと、それは祭りといえます。もう少し専門的な語で云うと祭祀(さいし)といいます。
2、祈る宗教・祭る宗教
第一回の講義でも述べましたが、神道では他の宗教でいう「祈る」ということが祭祀に代替されています。しかし祭祀は、それ以上に祈った事柄の実現を神に迫ることを目的としています。つまり祭祀は神を促すといえます。
3、祭祀の目的
したがって祭祀を何故行うのかと云えば、願いを神に伝え、神に実現してもらおうとするからです。神道では単に神に願いをすることを祈願といいます。しかし祈願は、祭祀とは少し違います。
4、祭祀の対象
祭祀とは神に対して祭祀することで、神に満足を与え、それによって我々の願いを神に実現してもらうのです。謂わば、神に願を実現してもらう対価として祭祀が行なわれるのです。したがって対価を払うことなく、願いの実現を図ろうとする祈りや祈願とは違うといえるのです。神道の神々は、人の働き掛け(祭祀)に応える神でもあるのです。
5、唯一絶対神
そういう点では、人からの対価に依って神の意志が左右されることはなく、全く神の意志だけによって神の意志は発動するという、キリスト教やイスラム教とは違います。神の意志が、人からの働き掛けによって全く左右されないということなのですから、そのような神に対しては、人は祈ることしかなしえないことになります。それが絶対神なのです。「絶対神」とは、字義通りにいえば、対抗する何者(他の神も)も絶えて無い神、ということになりましょう。正に唯一絶対神なのです。キリスト教やイスラム教に祭祀ということがないように見えるのは、そうした神の神性に違いがあるからだといえましょう。
6、外国神・相対神
ところが、神道の神々は、他の神々の存在を認める神なのです。仏は六世紀に伝来した当時は、神道からは蕃国神(=あたしくにのかみ、「蕃」とは外国という意味です)とか、外国神と記されていたのです。十六世紀に伝来した当初は、キリスト教の神をも日本人は外国神と考えていたのでした。神道の神々は、他の神々との間に自身を位置づけています。そういう意味では、相対神といえます。また、絶対神でないために、我々から遠く隔絶した世界の神ではなく、割と身近に居られる神ということができます。ですから、我々からの働き掛けが届くところに居られ、応じてくださる神ということになるのでしょう。
7、祭祀と祈願
今日の神社では、主に祭祀と祈願の二つが行なわれています。祭祀は、祭りを行なって、神に悦んでいただくことです。これに対して祈願は、神様に悦んでもらうこととは関係なく、神に願うだけの行為です。神主さんが、祈願者の願いを神に取り次ぐのです。祈願者は、神主さんに、自分の代わりに願いを神に伝えてもらっていると思っていますし、神主さんは、仲介者(神道の用語では仲執持=なかとりもち、といいます)として、祈願者の意図を誤り無く、神様に伝えようと一生懸命になります。その神主さんの言葉を聞いて、神様が祈願者に働き掛けるのです。
8、祈りと祈願の違い
こういう意味では、願いをも持つ人が、直接、神に祈る「祈り」と、祈願とは違うということにもなります。「祈り」に一番近いのは、参拝して手を合わせるという行為でしょう。祈願は、神主さんが祝詞(のりと)をゆっくりと丁寧に朗誦するように一度読むだけで、繰り返し読むということはありません。神主から神様に伝えてもらうこの祈りを、祈願(きがん)、祈祷(きとう)、或いは神楽(かぐら)ともいいます。みなさんが、神社に行かれる時は、子供が生まれた時の初宮参り、新車を買ったときに行く交通安全の祈願、厄年の厄除け祈願などが殆どと思います。但し、初詣などは、気軽な祈りということになりましょう・・・。
9、祈願は戦後の神社の姿
したがって、神社は祈願ばかりをしているように見えます。皆さんは、それが神社の本質だと思って居られるかも知れませんね・・・。しかし、それは大いに違うのです。神社では、祈願の外に、祭祀ということが日々行なわれているのです。神社では、祈願ばかりが目立つようになっている今日の風景は、実は近代・近年のことなのです。神社での祈願が盛んに行われるようになったのは、戦後のことといってさえいいのかも知れません。
10、伝統的神社の風景
では、戦前の神社では何をしていたのかといえば、もっぱら祭祀を行なっていたのでした。それが、神社で古代から連綿と行なわれてきた伝統的な風景だったのです。神社が建てられたのは、実は神社で祭祀を行うことが目的だったのです。祭祀あっての神社という神社の本質は、今日も全く変わっていないのですが、一般の人には祈願者や参拝者で賑わう神社社頭の風景ばかりが、目につくようになっているというだけなのです。
11、祭祀施設としての神社諸施設
神社は、祭祀を行なうために建てられた建物なのです。祭祀を行なうのは、何に対して行なうのか、それは神様に対して行ないます。したがって、神が居られる建物として本殿(ほんでん)があります。その神様を人々が拝む場所が拝殿(はいでん)と呼ばれる建物です。基本的には、神社は本殿と拝殿の二つの建物によって構成されます。そこに、社務所・参集殿・神門(しんもん)・手水舎(てみずしゃ)などの様々な建物が附属するのです。
12、社殿祭祀と社殿外祭祀
ところで、ここから神道の祭祀は、大きく二つに分かれます。つまり祭祀が、神社で行なわれる社殿祭祀と、神社以外の場所で行なわれる社殿外とに二分されます。
13、招神祭祀と常在神祭祀
神社以外の場所で祭祀を行なう場合、そこに神様はいないわけですから、当然その場所に神をお迎えするということになります。そうした祭祀は、招神祭祀(学問的には神籬祭祀=ひもろぎさいし、といっています)とでもいえばいいかと思います。また、神社のように神が常に居られる場所で行なう祭祀は、常在神祭祀とでもいったらいいでしょうか(祭祀の分類にはいろいろな仕方があるのですが、これは私の分類名ですから一般に承認された分類ではありません)。
14、祭祀の多様性
この大きな二つの祭祀型が、祭祀の目的によって様々に変化させられるのです。祭祀の仕方(順序)、これを式次第(しきしだい)といいますが、この二型を式次第でいうと次のようになります。
15、二種の祭式
第一類型の、神様が常駐する場合の祭祀は、本殿の扉の開閉がありますので、開扉→献饌(けんせん=お供えを献ずる)→祝詞→玉串拝礼→撤饌(てっせん=お供えを下げる)→閉扉となります。
第二類型の神を招く場合は、降神→献饌(けんせん=お供えを献ずる)→祝詞→玉串拝礼→撤饌(てっせん=お供えを下げる)→昇神となります。
第二類型の場合では、神様をお招きすることから、降神(こうしん=神を招く)、昇神(しょうしん=神に帰っていただく)という儀が加わりますが、本殿の扉の開閉がなくなりますので、開閉扉がなくなります。祭りによって、この二つの型に様々な儀式や行事が挿入されます。多くの場合、神事に深く関係する事柄、例えば舞・地鎮の儀などの諸儀は、祝詞と玉串拝礼の間に挿入されます。そして、神事に深い関係を持たない電文披露や挨拶といったことは、閉扉或いは昇神の後に行なわれます。御神酒を頂く直会(なおらい)や宴会は、祭祀とは別ですから更に後になります。どんなに複雑な祭祀でも、この流れに沿って行なわれます。さて、こうして神道の祭祀を紹介しているのですが、皆さんは外国人には理解出来ない日本人だけが持っている神観念の世界に、既に導かれていることをご存じでしょうか。
16、神道の神は何処へでも移動可能
神様を、どこにでもお招きすることができるということです。恐らくこの説明を何の違和感もなく、皆さんは受け入れられていると思います。しかしキリスト教やイスラム教、或いは仏教でもいいですが、他の宗教で、原理的には神様を何時・何処にでもお招きすることができる、といった宗教があるでしょうか。アラーやゴットや仏を何処かの木や石に、自由にお招きできるといったことがあるでしょうか。
17、神道のアニミズム性
実は、神を神霊として、何時何処にでもお招きできるとする神観念を持っているのは、今日の先進国世界では日本の神道ぐらのものなのです。現在ではなくなってしまいましたが、未開民族(二十世紀中期までは世界の辺境にはまだ存在していました)の宗教などには、このような神観念がありました。それをアニミズム(有霊信仰)といいます。しかし神道は未開社会の宗教ではなく、世界でも有数な開き尽くされた科学の最先端国の一つである日本社会で信仰されている宗教なのです。
18、アニミズムは原始性か?
こうした神道のアニミズム性は、これまでは日本の未開部分の残滓として扱われたりしてきました。宗教の発展段階説というものが十九世紀・二十世紀では盛んでした。これはダーウィンの進化論の影響なのですが、社会学説としては資本主義社会から共産主義社会への必然的発展という論理に組み替えられました。それが宗教の場合にも適用され、原始宗教→民族宗教→一神教へという宗教発展段階説となりました。したがって最後の一神教が最も発展した姿であり、最高度の宗教であるという説明がなされてきたのでした。
19、社会進化論は西欧至高思想
こうした思想や学説に対して、これはキリスト教中心主義の西洋思想に過ぎないという見解が一般に知られるようになったのは、二十世紀半ばぐらいからでした。私なども中学生の時にバラクラフの「西洋の没落」を読んで非常なショックを受けたことを覚えています。
20、宗教発展段階説は虚構の学説
実際は、原始宗教も民族宗教も一神教も、並列して進展してきたのであって、バトンタッチしながら発展して来たのではないのです。そう考えないと、西欧キリスト教世界にあるオカルト性や魔女信仰や、サンタクロース、神秘主義、黒魔術といった原始的な神話や呪術宗教性を説明できないのです。原始宗教も民族宗教も一神教も、当該社会でどの宗教がマジョリティー(多数派)であるかマイノリティー(少数派)であるかという違いに過ぎないといえるのです。当該社会は、そのどれかの宗教色が色濃くでているだけで、社会の発展段階に応じた宗教が信仰されているわけではないのです。
21、イスラム教とキリスト教と仏教
かつて、あれほど仏教が盛んであったシルクロードの中央アジア諸国は、今ではイスラム教の国なのです。これを発展段階説で、どのように説明するのでしょうか。仏教からイスラム教に進化したのでしょうか。ならば、キリスト教も次の段階としてイスラム教になると、説明されるものなのでしょうか。しかも発展段階理論に従えば、キリスト教もイスラム教も数千年後には、次の発展段階に移行し、より高等な宗教に代わることになるのです・・・。嘗ては世界宗教とされる仏教の盛んであったインドが、現在は民族宗教のヒンズー教の国で、発展段階説に逆行している国ということになるのです。
22、宗教の発展は欺瞞
宗教は展開するのであって、発展するのではありません。発展というのは一種の信仰であり、事実に沿う言い方ならば、展開というほうが正しいと思われます。物理的な事柄には、確かに発展という表現が当てはまる場合がありますが、精神的事柄には価値判断が伴うため、発展という表現は当てはまらないと思われます。したがって神道のいう、神霊は何処にでも移動が可能で、しかも分霊も自在という神観念に基づいて行なわれる祭祀を、原始的な神観念に基づく祭祀とすることは出来ないのです。
23、神道の歴史環境
日本では、こうした神霊観念が何故失われることなく、今日でも盛んなのかという疑問に対しては、結局、日本人は唯一絶対的な神観念を受け入れる必要がない歴史と環境の中で、生きてこられたという以外に、相対的神観念を持ち続けてきた理由を探し出せないように思われます。この相対的神観念と神霊観に基づいて、神々への祭祀が行なわれ、祈願が続けらてきたのです。
24、現代アフリカの祈祷師
最近、サッカーのワールドカップで、アフリカの国などは、祈祷師が競技場にいて試合に関与したり、選手が呪いめいた動作をしてるのが、画面に一瞬流れますが、あれは彼らの今日の文化なのです。原理的には、我々と違わないところにいるようで驚いています。本当は、それを奇異に感じる我々がおかしいのですね。そうした文化を持った国々と共存していることを、今まで知らなかっただけだったのです。外国といえば、東北アジアや中東・西欧の一部の国の文化しか知らなかったのです。現代に在る以上、プリミティブ(原始的)でも何でもないのです。現代的なのです。 
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1、祭祀は神をもてなす
前回の祭祀の講義では、祭祀が招神型祭祀と常駐神型祭祀に二分されることを述べました。神道の祭祀は神への礼拝や祈りを目的とするのではなく、人々の願望の実現を図ってもらうように、神を促すことを目的とする働きかけです。それには、神が喜び、満足する必要があります。その為に祭祀を行うことによって、神を喜ばせ満足してもらわなければなりません。その報果として、神が人々の願いを実現してくれる。そうした信仰が基本にあって祭祀が執行されるということです。
2、祭祀と儀式の違い
祭祀と紛らわしいのが儀式です。神道でいう儀式とは、神への直接的働きかけの希薄な儀のことです。例えば「神前結婚式」などは神の前で行いますが、神を祭る事が主たる目的ではなく、神の前で結婚の諸儀式を行うことが主たる目的です。したがって、結婚祭ではなく結婚式なのです。また神社では、一年の6月30日と12月31日の半年毎に、人の罪を除去する大祓(おおはらえ)を行いますが、大祓も「大祓式」といって、「大祓祭」とはいいません。これは祓の神を祭ることを目的としているのではなく、祓えの儀式を行うことが主目的だからなのです。
3、festivall(催し物)と祭りの違い
神道(神社)では、祭祀のことを単に祭(まつり)ともいいます。本来、祭りとは神を祭ることから、「祭り」といったのです。今日では「納涼夏祭り」・「植木祭り」・「陶器祭り」、或いは「文化祭」・「体育祭」等、「○○祭」と銘打った祭りが横行しています。しかしこういった祭りは、いわばfestival(催し、お祭り騒ぎ)ということであって、祭りの本義である神を祭ることを止めてしまったもので、祭りの崩れた姿なのです。祭りの本質である、神に対する祭りを祭祀といいますが、祭祀ではお祭り騒ぎといったことはなくなります。お祭り騒ぎは、本来は、祭祀が終わった後に、祭祀が終わったことを人々が喜び合い歓喜し狂躁することだったのです。
4、流行の御輿の担ぎ方
お祭り騒ぎとは少し意味が違いますが、御輿が町々を回る御輿渡御は、本来は氏子の住む町内に神社から神を迎えることを喜んで、「わっしょい、わっしょい」と氏子が御輿を担いでいたのです。しかし昨今では、御輿を揺さぶって振り回す力を担ぎ手が誇示し、豪快さを競い合い、騒ぐばかりとなっている神輿渡御(みこしとぎょ)が多々あります。それがお祭りの賑やかしとされるようになってしまいました。これは神の存在をないがしろにしているから為せる技なのです。これは神輿担ぎがスポーツのようになっていることをしめしています。よく考えれば、神様をそんな乱暴に扱うことなど出来ないはずなのです・・・。御輿の上に人が上がるなど本来は出来ることではないのです。勿論、神様を二階の窓や、神より高いところから見下ろすことも、ついこの間までは謹んでいたのです。昔の人などは、そんなことをしたら罰があたると恐れていました。
5、御輿くぐり
それで神輿くぐりといって、神様の下を通ることで、神の力を直接浴びようとする風習があるのです。
6、神は喜ぶか?不作法か?
今日では、女性も御輿に上がって、しかも神様の真ん前に尻を向けて御輿の上に立っていることが、粋な女であるかのように周囲はもてはやしますが、それを目の当たりにして、私などは倒れそうになりました。それこそ「オー、マイゴット」でした・・。しかし祭りとは本来、そのような乱暴なものではありませんでした。まして神社で行う祭りの祭祀となると、そうした祭りとは天と地ほどの違いがあります。神道では、「祭祀」という語を使って、一般でいう「祭り」と区別しています。「祭祀」とは、宮中や神社の祭りのことです。したがって宮中や神社での祭りのことを「宮中祭祀」とか「神社祭祀」といいます。
7、神への恐れ
祭祀において、最も恐れられることは、祭祀に不行き届きがあって神の不興を買うことです。神の不興を買う、あるいは神を怒らせることは、神の力を頂けないことになるからです。そのため、祭祀では神に対して失礼がないよう万全の注意が払われます。
8、単体祭祀
祭祀は、通常は一つの祭祀ですが、大きくなると幾つもの祭祀が組み合わされて行なわれます。謂わば、単体の祭祀です。
9、複合祭祀
しかし大きな祭祀になると、幾つもの祭祀や儀式が数日間に分けて行なわれます。謂わば、複合祭祀です。まるで演劇の第一幕から最終幕まで演じられるようなものです。一つの祭祀は大体30分から一時間ぐらいが普通です。長くても二時間です。数日にわたる祭祀は、大きな祭祀目的の為に幾つもの祭祀が組み合わされ、全体で一つの祭祀となっているのです。例えば神社の大祭などでは、例大祭・御~幸祭・神賑行事などの、いくつもの祭祀や行事が数日間にわたって組まれます。
10、特殊神事
全国の神社には特殊神事といって、古くから受け継がれてきた祭祀がありますが、そうした祭祀には一週間に亘る祭祀さえあります。多くの場合、個々の祭祀は主体となる祭祀に収斂していくように組まれているのですが、古い祭祀になりますと、当該祭祀とは一見したところ直接関係しないような祭祀や行事が含まれている場合があります。しかし実は、そうした祭祀や儀式に主祭祀の意味が残されていて、主祭祀の方が本来の祭祀執行の目的から変化してしまっている場合もあるのです。こうした点は祭祀の意味や意義を分析する際には、非常に厄介な点となりますので、気を付けなければなりません。つまり、ある祭祀の本質を見極めようとする場合、その祭祀の中のどの祭祀が本体となる祭祀であるかを見定めることが非常に重要な眼目になります。この判断を誤ると、当該祭祀の意味を履き違えた解釈をすることになります。
11、祭祀研究の重要ポイント
本体祭祀とは余り関係が無いと思われるような祭祀や儀式にこそ、当該祭祀の本義を知るための重要なヒントがまぎれていることがあるのです。
12、通過儀礼
祭祀や祭りを理解する場合に重要な概念として、「通過儀礼」という概念があります。古典的著となっていますがA・.ファン・へネップに「通過儀礼」という著があります。この著作は、神道の祭祀を理解する上に、非常に有効な概念ですから、是非読まれることをお勧めします。
13、人生儀礼
普通、通過儀礼という場合、我々は人生儀礼を想定します。宮詣り、七五三詣り、成人式、結婚式、厄年、古稀や喜寿の年祝い、最後は葬式といったような・・・。人生を一つの始終のある道に見立て、その節目を通過する祭の儀礼を、普通は通過儀礼というのですが、通過儀礼の概念はもっと多様なものなのです。
14、空間の通過儀礼
例えば、道路から家に入る際に家の門を通って、玄関を通って、家に入ります。門を通過しようとする際に、名乗ったりチャイムを押して要件を告げます。これも実は通過儀礼なのです。そして玄関から家に入る時に靴を脱ぎます。これらは、空間の通過儀礼といえるものなのです。もしこうした所作をしなければ、日本では非常識とされます。つまりこうした一連の行為が日本社会に於ける人の家を訪ね、家に入る際の空間移動に伴う通過儀礼なのです。
15、加入儀礼・脱会儀礼
或いは、飲み会に遅れていった時などに、駆けつけ三杯など強要されますが、これは先に飲んでいた者達の仲間に加入する為の加入儀礼なのです。ある集団から別の集団に入る時には、そうした加入儀礼や脱会儀礼をしなければなりません。そうした儀礼も通過儀礼として捉えられるものです。入学式・入社式・入門式や卒業式・送別会・葬式も通過儀礼の一つといえます。神道の祭祀には、そうした通過儀礼が儀式として組み込まれています。神道をよく知らない人には、そうした儀式が、何故祭祀に組み込まれているのかよく解らないと思われます。祭祀の中で儀式がどのような役割を持っているのか、連続して行われますからなかなか解らないのです。
16、神道祭祀の通過儀礼
祭祀では、最初に神主さんに大麻(おおぬさ)で祓われますが、これは祭祀に参加できるような清浄な体に清められるということで、その祓えを受けることで、やっと祭祀が行われる場に入る資格を得るということなのです。これは俗界から聖界な場所に入るための通過儀礼ということです。神社の鳥居を潜って手水舎(てみずしゃ)で手と口を洗うのも同じことです。ですから口をすすいだ水は、吐き出さないといけないのです。飲んでしまうと俗界で口の中に付いた不浄の塵を体内に飲み込んでしまうことになってしまいますから、口をすすいだ意味がなくなってしまいます。
17、清めの儀礼
手を洗うのは、具体的な汚れを落とすのではなく、きれいな手を清めることなのです。物理的な手・口の汚れは、神社に来る前に落としてくるのが常識です。
18、祭祀の前後の通過儀礼
神社での祭祀は、普通には、お祓いに始まり、御神酒の拝戴で終わります。神社以外でも同じです。しかし厳密にいうと、祭祀は身を清めることから始まり、直会(なおらい)という饗応に終わるのです。饗応とは、本来は祭祀で祭った神と共に参会者が会食することだったのです。神が食し、人々もそれを食することで、神と共になることだったので、饗応は非常に大事な祭祀の部分なのです。神社では直会(なおらい)が、祭祀の中の儀式として行なわれることもあります。
19、神道「饗応祭祀」の重要度
新天皇になられた天皇が、一度だけ天照大神にその年にできた新穀を供膳し、自身も食される大嘗祭(だいじょうさい)では、新天皇が天照大神に饗応する儀が中心神事として執り行われるのです。饗応そのものが祭祀として行なわれていたことは、宮中ばかりではなく、実は民間でも行なわれていました。
20「アヘノココト」
有名なのは奥能登の「アヘノココト」などがそうです。これなどは、神への饗応そのものが神事となっています。こうしたことから神道の祭祀に於いては、神との食の饗応にこそ、その本義があるのではないかとされるものなのです。神道の祭祀において最も本質的祭祀は、神と食事をすることであったことは確信的なことなのです。
21、「笑い講」
山口県防府市小俣に伝えられる「笑い講」は、奇祭として地元のマスコミが毎年とりあげる年末行事です。この行事では講員同士が大笑いを競い合うことから、その部分だけが報道され、大笑いばかりが有名になってしまっていますが、本質は笑うという予祝儀礼の行為をもって終わる講員による饗応と考えられる民間祭事なのです。「笑い講」の講員資格が「○○名(みょう)」という家に限られることからすれば、中世村落の有力な里長(さとおさ)達が大歳神を迎えて行なった饗応の収穫祭、そして講員同志の笑い較べによる翌年の予祝儀礼が、今日に伝えられたものと考えられるのです。
22、祭祀の断片化
古い祭りや神事、民間行事には、このように、祭祀のある部分だけが残ってしまったものが多々あるのです。その部分のみが何故残っているのかということは、その部分にこそ、神事執行の本来の意味があった故と考えられます。しかし前後にいろいろな事柄が付け加わったために祭事の統一性が失われ、今日では祭事の全体像が解らなくなっているのです。
23、祭祀集団の閉鎖性
祭祀や祭りを研究したり理解しようとする場合には、以上のような祭祀の仕組みを知っておかなければなりません。内部の人は、興味本位の部外者には伏せることも多いのです。
24、祭祀の禁忌
祭祀には様々な決まりや禁忌があり、外部の人には、なかなかわかりにくいことが多々あります。それは神社以外の場所で行なわれる場合も同じなのです。 
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1、祭祀の制約
祭祀には、様々な制約が設けられています。その制約は、祭る神への配慮から設けられたものです。ですから、それらの制約を知っていなければ、祭祀を理解しにくく、正確な祭祀の意味が解らないということにもなります。
2、斎戒
そうした祭祀に於ける制約の一つとして、神道では祭祀を行なうにあたって、祭祀に参加する者達が身を清浄にする斎戒(さいかい)が行われます。斎戒をしない者は祭祀に参加できません。斎戒は、それほど神道の祭りの重要な部分を占めているのです。しかも古くは、斎戒の仕方如何で、祭祀の成就が左右されるほど、斎戒は重要であったのです。第九回講座で述べましたように、斎戒は祭祀に入るための通過儀礼と位置づけると理解しやすいのです。
3、沐浴
現在一般的に行なわれているのは、沐浴(もくよく)や禊ぎです。斎戒(さいかい)を潔斎(けっさい)ともいいますが、潔斎は主として水を用いることになります。斎戒となると、食事の調理に用いる火を別火(べっか)にしたり、女性との接触をさけるなど、様々な禁忌があり、潔斎よりもう少し広い意味になります。
4、穢れの忌避
斎戒では、先ず祭祀従事者と外部との接触を絶つことが行なわれます。また、祭祀従事者は穢れに触れないように致します。万一喪が掛かっている場合は、祭祀への参加を遠慮します。
5、穢れとは何か?
では、何が穢れかというと、それが問題で、現在は明確な規定をすることができにくくなっています。「穢れ」という語には、現代的解釈が加えられてしまっていて、この語はとてもデリケートな語になっているのです。
6、葬の穢れ
祭儀に直接的な穢れとしては、葬があります。しかし葬式や死体が何故穢れであるかということも、今日では問題視されるようになっているのです。浄土真宗が勧めている「清め塩」の廃止運動などがそうです。こうしたことから伝統的な穢れの説明を、現代社会は受け入れ難い状況にあります。したがって穢れは、現代では明確に規定しにくい状況になっているといえます。問題解決の方向としては、旧来の穢れの解釈を狭義の解釈とし、広義の解釈を再構築しなければならないと思われます。
7、遺体の穢れとは
そうした現代的問題は別として、伝統的には死や死に伴う事柄が穢れとされてきました。例えば、血を流すといった事柄がそうです。即ち、多量の血を流すことは、死の危険を意味しますから、血は穢れとされました。
8、産穢
お産も大量の出血を伴いますので、産穢とされていました。このあたりになると、医療の発達した現代人の感覚には少し合いません。穢れは、直接的で素朴な感情が、様々な社会事象や仏教の不殺生の戒律などとも結びついて日本社会社に広がった観念ですので、死以外にも様々な穢れが考えられるようになったといえます。
9、穢れの呪術論的解釈
死を穢れとして忌む風習は、古典的になりますがフレーザーの呪術論(「金枝編」第一巻、岩波文庫)で説明すると納得の行く説明ができるかと思います。フレーザーによれば、呪術(マジック、まじない、呪い)は共感原理に基づく呪術とされます。共感呪術は、「類似は類似を生む、あるいは結果はその原因に似る」という原理に基づく類似呪術と、「かつてたがいに接触していたものは、物理的接触のやんだ後までも、なお空間を距てて相互作用を継続する」という原理に基づく感染呪術に大別されます。この分類からすれば、死に触れることを回避する風習は、感染呪術思考に基づいているといえます。物に触れることで、触れた物に感染するという呪術思考です。つまり、生きている人が死体に触れる、或いは死体に近づくと、生きている人は死に感染すると考えられた為に、死体が忌避されたと思われます。
10、感染呪術
しかし感染呪術を応用すれば、逆も可能なのです。神道には感染呪術的思考が応用された独特の呪術思考があるといえます。それは「感染させて移してしまう」という思考原理です。例えば、災いから逃れたければ、他のものに触れて、災いをそれに移せばいいのです。
11、ひな祭りの本義
雛祭り行事は、娘の災を雛人形に移して、その雛人形を海や川に流すことが起源です。流し雛とは、そういうことなのです。
12、禊ぎの原理
禊ぎ祓えも原理的には同じです。水に罪穢れを移して流し遣り、身(心)を清浄な状態に立ち返らせることなのです。感染を移してしまえば、感染源は感染から解き放たれるという思考原理です。こういう思考原理をもつ神道ですから、生まれながらにして組み込まれてしまっている罪といった原罪観は成立しません。神道に於いては、罪や穢れは洗い流せるものなのです。
13、罪・穢れは流し遣る
神道では、人の心身は本来、罪や穢れの全くない無垢な心身であるとされています。人の心身は本来そうしたもので、生活していく中で、そうした心身に様々な罪穢れが付着してしまうと考えておりました。「赤子のように」といえば、罪穢れの全くない状態をいいます。
14、神聖な産湯
赤ちゃんは、母の胎内から血まみれの状態で生まれてくるのですが、産湯に浸かって洗い清められ、全く無垢な体となります(ですから産湯は神聖視されるのです)。そんな状態が本来の人の心身なのです。血まみれで生まれてくる赤ちゃんは、血という罪穢れに包まれて生まれてくるようなものだから、お産は産穢とされたとした神道学者がいます。そのような解釈の方が、宗教的でドラスチックな解釈ですから、惹きつけられる解釈ですが、そうではありません。
15、血は穢れの対象に非ず
神道では元来、血は穢れの対象ではなかったのです。それが不殺生の戒律を重んずる仏教の影響で、血を穢れとするようになったのです。そのため、大変な出血を伴うお産も産穢とするようになったのです。
16、血は神聖な生命力
本来は、血は生命力で、それが大量に体外に出されるから、血が放出されることを穢れとしていただけだったのです。尤も多量の血を見るということが、日常で余り無い生活をしている者には、多量の血を見ることが気持ちいいものでないことは、古代人も現代人も変わらないと思われます。
17、穢れの語源説
私には、穢れを「気(け)が枯れた」状態とする語源説は、やはり有力だと思えます。気とは「気力・水っ気」という言葉に象徴されるように、生命力のことをいいます。したがって気(け)が枯れた状態を穢れと言い表したとする語源説です。この語源説と感染呪術論を結びつけると、穢れを以下のように説明できます。即ち、「気(け)が枯れたに状態」に接触すると、触れた人も感染して「気(け)が枯れた」状になると考えらた為に、穢れを非常に恐れ、忌避するようになった」。このように説明すれば、穢れの解釈は納得できるように私には思えるのです。
18、神道は、人のリセットは可能とする
大人になって、罪・穢れがいっぱい身に付いてしまっても、その罪穢れを洗い流せば、罪穢れのない無垢な状態に立ち返られると神道では考えられていますし、それが基本的な神道信仰です。日本人は、「人間、死ねば仏」といいいますが、死んで仏に成るとの教えが仏教にあるわけでないのです(但し、日本天台宗の本覚思想の仏性論になると、万物に仏性が宿るという思考があったと思います)。仏教は、死んだぐらいで仏になれるほど甘くありません。これは神道的信仰が仏教的に言い換えられているだけなのです。
19、霊魂の無垢性
身体に着せられた罪の重い鎧であっても、身体が滅びることで、罪の鎧は形骸となって残り、身体から抜け出る魂には罪穢れは付いていくことは出来ない。したがって清浄無垢な魂だけがあの世へと旅だって行く。そのように日本人は考えていたのです。そうした神道の考え方が、仏教の衣を借りて語られているに過ぎないのです。
20、神道祭祀の心
神道祭祀における祓えの諸儀式は、このような神道の基本信仰に基づいて行なわれる儀式なのです。実は、罪穢れとは、ある物に人間が付加した人間の感情ですから、物理的に実在する存在ではないのです。したがって当然に物理的な罪穢れの解消法も無いわけです。そこで、禊ぎや斎戒などの感染呪術的方法で、罪穢れを祓い遣ろうとするのです。
21、第一次思考の呪術思考
呪術思考は、人間にとって最もプリミティブで第一次的な思考の仕方ですから、現代人にとっても習慣的普通の考え方として溶け込んでいるのです。しかし理屈で合理的に考えれば、誤った思考であることは解るのですが、なかなか乗り越えにくい思考なのです。
22、感性に馴染んでいる呪術思考
現代人も呪術的思考から抜け出せないのは、呪術的思考が我々の感覚に馴染んでいるという呪術思考の特性にも原因があると思われます。科学思考は事象に沿って起こる人間の感情を考慮しないからです。ここに現代でも、呪術思考を迷信として排除し、棄てることができない理由があるのではないかと思います。
23、呪術思考の合理性
しかし呪術思考には、自然界の成り立ちに沿っている面もあるのです。特に感染呪術思考は近代疫学の解き明かした病原菌による感染症の原理に通じている思考方と思われるのです。感染呪術思考は、病原菌が介在するようなことには真理であると思えます。したがって感染呪術思考を呪術思考だからといって全て否定できないのです。
24、社会人類学的知識の必要性
余談ですが、神道の祭祀の原理の分析には人類学、それも社会人類学的知識が非常に役立ちます。神道の説明には、こうした視点がもっと導入されてもいいと思われます。
25、斎戒の必要性
祭祀は古代に始まったものですから、当然こうした感染呪術的思考を強くもっています。そこで、祭祀を犯す危険のある事柄が、祭祀を行なう者たちによって、祭祀の場に持ち込まれないようにする為に、祭祀の参加者に斎戒や潔斎が課せられたと考えられます。潔斎と同系統のものは、手水・水垢離・塩盛などです。神道の重要な祭祀を行なう場合には、祭祀する神主には、潔斎が課せられています。潔斎した神主が、更に手水をし、お祓いを受けることによって、謂わば三重に清められて祭祀に従事するというのが現代の神道の祭祀です。但し普通の祭祀では、神主・参列者共に手水とお祓いだけの、謂わば二重の潔斎です。しかし古い祭祀になりますと、潔斎が何重にも設けられ、斎戒の種類も多くなり、しかも期間も長期になります。
26、斎戒の非日常性
正確な意味での斎戒とは、日常生活を停止して、祭りに入る為の生活をいたいします。普通は、一晩だけですが、長期の場合ですと一週間、一月、三ヶ月、或いは一年、三年といった斎戒もありました。現代の神道では、そんなに長期の斎戒はとても不可能ですから、祭祀前日からの参籠(さんろう)という斎戒が普通です。参籠とは、要するに神社に泊り込んで神社境内から一切外に出ないことです。昔は、お籠りといって、祭りに参加する村人達も神社に参籠したりしておりました。神道では、何故それほどの厳格な斎戒が要求されたのかということは複雑な問題ですから、別の機会に講義したいと思います。
27、時間感覚の変化
現代のような忙しい時間を過ごさなくてもよかった近代以前では、時間というものに、人はストレスを感じずに過ごせたように想像されます。近代以前では、普通は、一年間ほとんど同じ場所で生活をして、隣の村にいくことさえなかったと考えられます。生活も実に単調な生活で、毎日同じ物を食べ、同じ物を着、同じ単純な労働をして、刺激のない生活をしていたでしょうから、刺激の坩堝の中で生きている現代人には、例え一週間の斎戒であっても、実にストレスを感じ、苦痛に感じられるものです。
28、私の斎戒体験
私自身は一週間の斎戒を何度か経験しましたが実につらく感じたものです。神道の斎戒とは、原則的に何もしないということです。私が経験した斎戒では、具体的には頭髪を洗わない、髭を剃らない、爪を切らない、声高に話さない、音を立てない。刃物等の光る物を避ける。外光を室内に入れないで祭祀奉仕者のみでなるべく一緒にいる。したがってテレビ、ラジオは聞けないし、電話も掛けられません。外部の人と視線を合わせることを避け、話をしない。個人的な読書もできない(一日数時間の読書習慣を持っていた私には、これが一番堪えました)。室内に籠って、動くと物音を立てますから体操も控えます。こんな斎戒をしていると、本当に精力が日に日に減退していくのが実感されます。その代わりに、感覚が敏感になってきます。夜もだんだん眠れなくなります。それでも布団に籠って朝まで床を出ることはしません。女性を見ることも、話すこともなくなりますから。そうした感心も消えていき、性欲もどんどんなくなっていきます。とにかく、とても意気消沈したような感じになるのです。そうした生活をして、いざ最終日の祭祀の日になります。深夜から朝明けまでの六時間近くに及ぶ祭祀でしたが、誰も途中でへばることもなく、平然と長丁場の連続する祭祀をこなしていきます。そして全く粗相なく、祭祀が完了してまいます。この時になって、初めて長期の斎戒の意義が理解されるように思われました。長期の斎戒を通じて、集中力が高められ、心身が調えられて、祭祀奉仕者間の連携が強くなり、祭祀の完全執行に不足無いまでに祭祀従事者同志が高められていくのです・・・。
29、斎戒により神の側に近づくことが許される
斎戒をして、神の側に近づいて、神に奉仕できるということは、大きな喜びと、満足を祭祀者に与えるもです。
30、解斎の必要性
しかし厳重な斎戒は、心身ともに非常に疲れるものです。ですから、斎戒を解く時は、用心して日常に溶け込んでいきます。これを解斎(げさい)といいます。具体的には張り巡らした注連縄と杭を外していいく等します。それは聖から俗、非日常世界から日常世界へ回帰する為の通過儀礼でもあるのです。
31、斎戒の伝統
今日の神道の祭祀は、厳格な斎戒を行なうことは少なくなりました。しかし祭祀には、本来そうした厳格な斎戒がともなっていたものなのです。
32、持衰(じさい)
神道に於けるこうした斎戒の伝統が実は大変古くからの風習であったことは、女王卑弥呼の邪馬台国や倭国の様子を記した文献として有名な「魏志倭人伝」から知ることができます。「魏志倭人伝」には、古代日本人が中国へ来るために渡海する際に行なっていた「持衰(じさい)」という風習が記されています。
33、『魏志倭人伝』
「その行来や渡海、中国にゆくには、いつも一人の男子に、頭をくしけずらず、しらみがわいてもとらず、衣服は垢で汚れ、肉を食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰と名付ける。もし、行く者が吉善であれば、生口(倭の留学生・捕魚者・捕虜・奴婢口・動物など)や財物をあたえるが、もし病気になり災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。」(「魏志倭人伝」、現代語訳、岩波文庫)この様な風習は、正に斎戒に通じる習俗といえると思われます。
34新年の言寿(ことほぎ)
さて、後数日で、新年を迎えます。晦日には大祓えをして半年の罪穢れを祓って新しい年を迎えます。歳神様が新しい年を運んで来て下さるのです。新しい年がやって来たから、これを祝って「明けましておめでとうございます」と言寿(ことほぎ、言葉で祝うこと)をするのです。
35、初詣の意味
歳を送り、歳を迎える。こういったことも実は神道信仰に則った行事であり、大きな意味で祭祀ということも出来ます。新しい年を迎えられたお祭り騒ぎが初詣ということなのです。皆さん、来年も又、私と一緒に勉強してまいりましょう。では、良いお年をお迎え下さい。
36、祭祀研究の心得
神道の祭りの分析には、祭祀の時系列の変化の分析だけではいけないのです。その祭祀の中の一つ一つの局面にどのような意味があるのか、その宗教的意味を汲み取る姿勢と情熱を持って研究することが必要です。神道の研究とは、人々の心の軌跡を分析することに外ならないからです・・・。 
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1、祭祀の多回性
神道の祭祀の特徴一つとして、一回だけ行なわれる一回性祭祀と、何度も繰り返される多回性祭祀があります。家を造る祭の地鎮祭・上棟祭や土木工事などの起工式、竣工式などの祭祀は一回性の祭祀です。
2、一年周期
神社や民間神事で行われる祭祀は、一年をサイクルとして毎年繰り返し行われる多回性祭祀です。多回性の祭祀といっても、次から次へと連続して何度も行なうといった祭祀ではなく、毎年繰り返されるという意味での多回性祭祀です。行なわれる期間(サイクル)と祭祀を例えてあげますと次のようになります。[図表T]
3、大祭・中祭・小祭
今日の神社神道の神社で行なわれる祭祀は、大祭・中祭・小祭の三種に分けられます。大祭として、例祭・祈年祭・新嘗祭・鎮座祭、中祭として歳旦祭・元始祭・紀元祭・天長祭・明治祭・昭和祭があり、小祭として節分祭などの祭祀があります。
4、農業祭祀
祭祀に周期性があるのには訳があります。神道の祭祀は、一年という農耕のサイクルを基本としているからです。神社にとっても、氏子達の生活が安泰であることから、自然にそうなったものと思われます。春の農耕初め、そして種まき、風水害、旱、病害、収穫祭、次年収穫の予祝といった何千年も昔から続いてきた日本人の生活リズムに合わせて、神々への祭祀も行なわれてきたのですから、当然といえましょう。
5、神社祭祀
しかしながら、神社には、そうした農耕祭祀とか、季節に基づく祭祀(例えば、歳旦祭・節分祭)とは違いながら、毎年繰り返される祭祀があります。特に古社には、そうした祭りが大いのですが、そうした祭りは、当該社の創建や重要な由緒を伝える祭祀が多いのです。日本の神社には創建されて千数百年にもなる神社が沢山あります。そうした神社には、創建に因んだ祭祀が、創建以来今日まで、延々と続けられて来た事例があるのです。しかも、それらの祭祀は余りに長い間続けられて来た為に、現在では、当該祭祀の本来の目的や意味が解らなくなってしまっている場合が多いのです。
6、祭祀研究の醍醐味
そうした祭祀を研究すると、良くない例えなのですが、推理小説の謎解きのようで、非常にわくわくする興奮を味わうことがあります。なぜって、論文にして発表するまでは、当該祭祀の本義を知っているのは、この世で自分ひとりだけなのですから・・・。神が自分だけに微笑み、褒美をくれたように思えるのです!論文が発表されるまでの数ヶ月間、知ったことの悦びは自分だけのものなのです。そうした祭祀を研究し、幸運にも史実にたどり着くことができた時の興奮が(史実が、正に眼前に見えるような景色なのです!)、実はこれが神道や神社研究の醍醐味なのです。
7、神社創建祭祀
そうした神社創建に関わるような祭祀で有名なものは、宇佐八幡宮の仲秋祭(明治以前までは、放生会と呼ばれていました)、賀茂神社の(御阿礼神事)、春日神社のおん祭等があります。しかし有名でなくても、歴史のある神社の年間祭祀には必ずといって良いほどにそうした祭祀があります。
8、永劫回帰の思想
祭祀が、何故繰り返される性質を持つのか、このことを非常に明瞭に説明しているのが、ミルチャ・エリアーデの説明です。私が三十年も前に学んだ学説ですから、今ではもっと新しい学説がなされているかもしれませんが、エリアーデは祭祀の繰り返しの理由を、「永劫回帰の思想」と説明しています。つまり、祭祀が繰り返されるのは、最初に祭祀が行われた時を再現するためとされるのです。例えば、神社にとって一番意義深いのは、やはりその神社が創建された時です。
9、祭祀の回帰性
当該神社が、何故、何の為に、何時、誰が、どうやって創建したのか、その神社の存在意味そのものです。祭祀は、その創建された時を再現して、原点に回帰する為に行なわれるといえるのです。神が鎮座した原点に回帰し、それを再現することで、神の鎮まるその神社の存在意義を再認識するという事なのです。
10、再生の原理
時間の経過と共に減退して行く最初の信仰の力強さを、原点に回帰して、再現することで、最初のエネルギーを回復し、力強さを取り戻す再生の原理なのです。神への祭祀という視点からすれば、時の経過と共に減退してしていく神の力を、原点に回帰して、再現することで、神の力を再生させることだともいえます。
11、神の怖さ
宗教を知ろうとする者が、気を付けなければならない危険とは、神のこのエネルギーに無頓着なことなのです。感性が敏感な人は、心にその用意がなければ、自身が破壊されるか、深刻なダメージを受けてしまいます。一方、感性が鈍感な人は、最後まで真実にたどり着くことが出来ずに、神と宗教を知ったと思ってしまいます。つまり、入り口でぐるぐる回っているだけなのです。ですからいつまで経っても神に近づくことができません。
12、私の神道研究の目的
私が何故、神道を勉強し、研究したのか?それは、自身の神道信仰を探す為でありました。ですから、歴史が好きで、神道の歴史を研究しているわけではなかったといえます。その為、純粋に歴史学的分析第一主義の研究手法はとりませんでした。日本人は神道のどのようなことを、どのように信じたのか。それが目的でありました。そして、そのような信仰は、自身の信仰として受け入れられるのかという目的を抱いているように思います。 
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1、まえがき
私が、当神道講座で、これまで神道の葬儀や死について講義をしてこなかったことには理由があります。正直に申しますと、これまでは神道の葬に関することを勉強したり、研究したり、考えたりしないようにして来たからです。それには些かの理由もあります。葬儀のことを勉強したりしていると、身近に不幸があったり、気が滅入ってしまい、自分自身の精神状態が不安定になるからです。毎日、死や、遺骸、墓、霊魂などのことを考えていると、本当に精神的に圧迫されているような変な状態になります。神道の研究者が、墓や葬儀書を読み続けて精神状態が不安定になったという話を聞いたこともあって、それ以来、自分にはそういう研究は向かないと考えました。相当、精神的にタフで、さっぱりした性格の人でなければ、葬式の勉強などするものではないと思います。ご用心下さい。しかしながら神道が宗教である以上、それを解説するのに、人間の生ばかり説いて、死に関して全然解説しないということは、やはり片手落ちとは思っては居りました。このことは、「神道講座」というテーマに大変バランスを欠いていたことは言うまでもありません。しかし最近、母が亡くなったことで死のことを説くことに躊躇していた理由もなくなりましたので、以下に神道の死について説くことにいたします。
2、神道葬の始まり
第三回講義「神道と日本文化」で若干触れましたが、神道に於いては、神葬に関する事柄は近世になるまで長らく関心がもたれませんでした。やっと中世室町時代の吉田神道にいたって、埋葬した遺骸の上に神社を建立するという形で、神式の自覚が始まったということができます。それまでは吉田家の歴代の当主であっても仏式の葬儀がなされていたのでした。つまり神道を司る公の家でさえ仏式の葬儀が行なわれていたのでした。、吉田家で仏式から神式への転換が始まるのは吉田神道を大成した室町時代末期の吉田兼倶(よしだかねとも)からだったのです。
3、天皇の仏式は聖武天皇から
日本に仏教が伝わって以来、日本人は死や死後の世界に関することは、みな仏教から教わってきたのでした。天皇でさえ、天武天皇から葬儀に初めて僧侶が入り、火葬は持統天皇・文武天皇からされ、聖武天皇以降は仏式で天皇の葬儀が行われるようになったのでした。天皇や貴族であってもそうだったのです。ただ出雲大社、諏訪神社、高良大社などの古い神社に続いた有力な古社家には、古くからの葬儀の仕方が伝えられていました。しかし、そういった葬儀の仕方も、広く世間に広まるということはなかったようです。
4、庶民の葬式は近世から
尤も、葬儀をあげることができる人々は社会の上級層という限られた階層と考えるのが適当でしょう。庶民の葬には、念仏聖などの仏教僧でも、下級の僧が埋葬に関わっていたようです。九州は筑後国の高良山は、山内に三十ぐらいのお寺を抱えていたのですが、その中でも山内の僧侶などの葬を取り扱う寺は極楽寺という特定の寺であり、仏教に於いても葬にたいしては拘りがあったこと知って、驚いたことがあります。
5、仏教の葬式仏教化
仏教寺院が世間の葬儀を一手に引き受けるようになったのは、近世徳川幕藩体制の寺請制度で、過去帳が仏教寺院に具備されて、徳川幕府の命によって、寺が地域の一人一人の戸籍管理を行なうようにようになってからといわれております。葬を取り扱うことによって、寺院は安定した収入源を得ることになったのですが、代わりに寺の僧侶は、仏教本来の活動である布教や教化といったことに後ろ向きになったとされています。近世以前の寺は葬儀以外での宗教活動が非常に活発だったのです。
6、神葬祭の開始は江戸時代
従って、神道の死後の世界は、江戸時代の国学者によって闡明(せんめい)されるまでは、詳しく考えられることはなかったのです。せいぜい神話の黄泉の国が死後世界として知らされていたに過ぎなかったのでした。インターネットのwebページなどの中には、神道に死後世界観が構築されていないことを以て、未熟な宗教として紹介するwebさえあり、いいかげんなものです。近代になると、柳田民俗学が民俗行事などの分析から、日本では、古代から人の死後は、魂は里近くの山々に行き祖霊となり、そこで子孫を見守っている。そして祖霊は、春や盆になると、山を下りて里に帰って来、お盆や秋が終わると山へ帰っていくと説かれるようになりました。この民俗学的解釈が、今日の神道での霊や祖霊、死後世界の基本的な考え方になっているといっていいかと思います。死骸に対しては、埋め墓に埋葬し、普段は埋墓とは別の所に参り墓を造って、そこに詣っていたともされるようになり、これを両墓制といいます。つまり死骸に対しては重きを置かれなかったように説かれています。これには神道が死骸に対して穢れの対象として捉えていた伝統と無縁ではありません。神道では、死や死骸を穢れの最たる物として、非常に神から遠ざけてきた伝統があります。
7、神社にはお墓が無い理由
神の清浄を犯す最大の要素が死穢とされてきましたから、今日でも神社境内には墓は建てられず、喪がかっかった人々の参拝を控えるなどの禁忌が厳しくまもられています。今日でも近親者に不幸があった場合、百日間は神社の鳥居を潜らないようにと言われております。
8、死は神の力を弱める
死体が穢れているから神社境内への参入が厳しく阻止されたといわれていますが、本当は神々の力を弱める尤も危険な要因が死ということであったから、死に関わる事柄を少しでも神社境内に持ち込まさないようにすることだったのです。しかし死を忌むことを穢れという言葉に置き換えて表わされてしまったのが不幸なことでした。
9、神は生命力
神は生命力や力で充ち満ちた存在と考えられた為め、人々が最も恐れたのは神の生命力や力が落ちることだったのです。ですからそうした力や生命力がなくなったことの象徴である死を、神に触れさせたくなかったのです。穢れのことについては、当講座の第10回講座神道「神道祭祀に於ける斎戒」の「穢れの忌避」以下に詳しく解説していますから、参照して下さい。神道に、死後世界を詳細に教える教義がないということは、神道が一見不甲斐ない宗教のように見えるかも知れません。しかし本当にそうでしょうか。なぜなら、今日の日本人では死後世界の存在を考え信じることが出来なくなりつつあるのではないかと思われるからです。
10、変化する日本人の死後観寧ろ現代では、物理的存在としての死後世界はありえないと、多くの日本人は考えているのではないでしょうか。
したがって今日では受け入れられないような死後世界の教説を構築しておかなかったのは、却ってよかったのではないかと思われるのです。現代の日本人は、死後の世界の存在を疑問無く信じられるでしょうか?
11、仏教・キリスト教の来世観
仏教の教えのように、死んだら渡し賃を払って三途の川を渡り、天国の極楽浄土の仏の世界に行き、幸せな生活を送り、逆に地獄に堕ちれば閻魔大王の前で現世での罪状を白状して裁きを受け、嘘をつけば舌を抜かれて熱地獄、針地獄、血地獄をさまよわねばならない。或いは、キリスト教のように神の前に進み、ひたすら最後の審判の時を待っている。といった世界を、普通の日本人は信じられないのではないかと、私には思われるのです。私は、現代の日本人は、そうした死後の世界を殆ど信じていないと考えています。
12、緩やかな死後観
ただ、全く想定しないのでは、なにか心の安定が得られないことも事実ではないかと思うのです。したがって天国や極楽浄土ではないにしろ、極めて存在の薄い魂や霊が織り込まれている死後世界を想定しているのではないかと思えます。神道では、死後の魂や霊は、現世での罪や穢れといったことがらからは浄化され、無縁になってしまった存在と考えています。この考え方は伝統的です。
13、神と人は両極
神道では、神であることと、人であることの定義が截然と区別されているのではないのです。神と人は対局の存在なのですが、神が少しづつ変化していくと人になり、人が少しづつ変化していくと神になるといった意味で繋がっているのです。例えば、黒色と白色が対局になっていて、黒を少しづつ薄めていくと白になり、逆に白を少しづつ黒くしていくと黒になる、つまりグラデュエイトと表現したらいいでしょうか。
14、神と人の同居
したがって極めて人間的な神がいる一方で、極めて神のような人もいるとされるわけなのです。神話の中では、神様でも怒りにまかせて人を殺してしまう神がいたり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)ように泣き叫ぶ神がいたりで、神々が表わす感情はギリシャ神話の神々のように人間的です。ただしギリシャ神話のようなスーパーミラクルな神はいません・・・。そうした神観念が神道的とされるわけです。したがって人も神とされる信仰が長い時間をかけながら成長してまいりました。奈良時代以前では応神天皇や神功皇后、天武天皇といっ特別な功績をのこされた天皇だけが神とされただけでした。人が神に祭られる資格が歴史を経るにしたがって緩和されていった様子は、第2回講座「神道の特徴」の中の「人神信仰」に要約していますからそちらを参照して下さい。
15、現代の神道葬
神道葬で葬儀をあげた人は、男女ともに(姓名)に命(みこと)を付けて称されます。つまり、「倭太郎命(やまと、たろう、の、みこと」というようにです。しかし伝統的神とまったく同じ扱いかといえば、やはり神の方を尊んで区別しているといった方がいいかと思います。人の場合、神ではなく、霊神(みたまのかみ、或いは、れいじん)と称して区別しています。
16、神葬祭
現代の神道では、伝統的な霊魂観に則って、神葬祭という、きちんとした葬儀の仕方が確立されていますし、神式の墓の形式・墓地もあります。年祭も一年、三年、五年、十年、三十年、五十年、百年とあります。但し、弔い上げということはなのですが、百年を過ぎると祖先霊と合祀してしまうようです。先述したようなことから、神社神社境内に墓地を設けたり、遺骨を預かる納骨殿を設けることはできません。もし設ける場合は、そういった施設は神社が鎮座する境内地とは別の場所に建造することになっています。神式の場合は、霊園などに墓地を求めます。
17、靖國神社に遺骨は無い
靖國神社には、戦死者の遺骨が祭ってあると思っておられる方がいると思います。しかし靖国神社境内には一切お骨などはないのです。霊を祭っているだけなのです。霊神というのは神道という宗教の神霊観ですから、神道を信じていない人には、本来信じられないものです。したがって厳密にいうと、神道を否定する人や無神論者やキリスト教者達にとっては、霊神などあるはずのないものなのです。むしろそのようなものは存在しないと言わなければならないのです。あると言えば、無神論者ではなくなりますし、キリスト教徒でもなくなります。この辺が信仰のパラドックス(逆説)的な所です。キリスト教徒ならば、人霊など存在しなとしなければなりません。人は死後は神の前にいって最後の審判を待っているのだから、神社などにいるはずがないと言わなければならないのです。つまり靖国問題は信仰問題などではなく、信仰という皮を被った政治思想問題なのです。神道では、死者の霊が、極楽浄土や墓地や天国地獄、或いは教会の墓地に行くなどとは決して説きません。そんなことを言えば、神道の自己否定ということになります。
18、神々と祖先がいる死後世界へ
高天原(たかまのはら)とはいいませんが、人は死ねば神々も居られる世界へ帰っていくと考えていいかと思います。なぜなら神話の教えるところによれば、我々日本民族の祖先は伊弉諾尊・伊弉冉尊から産まれた(作られたのではないのです!)のですし、神々も人も順々に幽世(かくりよ)に行かれたのですから、その子孫である我々も隠れられた神々や祖先がいる幽世(かくりよ)に行くと考えていいのではないでしょうか。つまり宗教が違えば、それぞれ、それを天国といったり、極楽といったり、神の国と言っているに過ぎないのかも知れません。
19、葬祭の分化
近年の神道の研究では、神道の葬と祭は古墳時代ぐらいまでは分化していなくて、やがて葬祭が分れ、そして奈良時代ころから祭だけに神道はなったのではないかとも考えられていますしかし私は、やはり葬と祭はあくまでも別々であったと考えています。それが奈良時代の律令祭神社制度の中で葬が神社から排除され、神社は祭だけの場に特化したと考えています。そして今日の神社神道では、葬が復旧されて徐々に葬も重視されてきているということが出来ましょう。 
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1、神道に於ける仏教の地位位置
神道にとって仏教というのは、優秀なライバルであると共に、ある意味で教師でもあったと思われます。神道が、この強力なライバルと対等になるには、実に千数百年の時を必要としたことは、全く驚嘆に値します。しかもその期間は、圧倒的に仏教が優勢であったのです。神仏習合は、八世紀の奈良時代始めからはじまり、実に十九世紀の明治時代に神仏分離令が出されるまでの、1100年間に亘って行なわれた日本の宗教文化現象であったと言うことが出来ます。
2、神仏習合の終わり
しかしそうした宗教現象は、明治の神仏分離令によって完全に消えたのかといえば、そうではなかったのでした。穏やかな神仏習合状態は現在までも続いているということができます。もっともそれは、神道と仏教という教団レベルに於ける習合ということではなく、日本人の信仰状態としてまだ続いているという意味に於いてです。
3、何故、神仏習合は続いたのか?
仏教が何故、そのように圧倒的に優勢でありながら神道を飲み込んでしまうことができなかったのか、或いは神道を圧し潰してしまうことができなかったのかということは、これまでも日本人の信仰の多重性や化寛容性、或いは信仰のいい加減さの故として説明されています。しかし、これでは情緒的な説明に流されていて十分な説明とはいえないように思われます。
4、神仏習合を成立させた仏教側の要因
神仏習合には、大きく二つの原因が考えられます。一つは、仏教の側にあります。仏教がキリスト教やイスラム教のように他宗教に対して、攻撃的ではない非攻撃的な宗教であったことです。キリスト教やイスラム教が伝播した地中海地域や中東、西アジア、東南アジア、南北アメリカなどの地域では、現地の土俗宗教であったマニ教・ゾロアスター教、或いはインカの神々などは皆滅ぼされてしまいました。しかし仏教が伝播したアジアでは、中国人の土俗習教である道教や、インドの土俗宗教であるヒンズー教などは滅ぼされずに残っています。寧ろ、一度は仏教に席巻されたものの、現在では逆にこれらの地域では仏教は殆ど勢力のない状態です。そうした意味で、神道が出会った宗教が仏教であったことは、神道にとって実に幸運なことであったと思われます。仏教は、土俗の神道の神々を否定すのではなく、神々を自身の諸仏の世界に取り込んで、仏の世界の一部に位置づけることで、神道と共生する方向を採ったのでした。
5、仏の多身説
仏教では、仏の悟りに至る様々な段階や、前世、来世などによって、仏が様々な姿をとるという仏の多身説があり、また輪廻転生の考えもあったことが幸いし、そうした教説が神道の神々を仏の様々な化身として仏教に取り込んでしまいました。こうした教説は、神道の神々を仏教に同化させてしまうには、大変都合のいい教説であったといえます。
6、神仏習合を成立させた神道の要因
もう一つの原因は、神道の側にあります。神道が、仏教がどんどん日本に入ってきた時期には、神道のアイデンティティー(自身が自身であることの証明)を強固に確立していなかったということです。つまり神道は仏教を、自身とは異質で、対局するが故に排斥しなければならない、といった方向に駆り立てられなかったのでした。
7、崇仏は勝利という仏教の宣伝
いや神道による仏教排斥は、物部氏(排仏派)と蘇我氏(崇仏派)との対立抗争としてあったではないかといわれる方もあるかと思います。排仏派は、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に棄てたとされる事件は、聖徳太子らの崇仏派(蘇我馬子)によって排仏派(物部守屋)を討ち滅ぼされた史実として、学校の日本史でも教えられましたから、皆さんもよくご存じかと思いますが、この話には大きな疑問符が付くのです。実は、この話は、仏教側から語られた仏教に都合のいいように作り替えられた史実なのだと、今日ではいわれているのです。
8、物部氏滅亡の真実
実際は、物部氏と蘇我氏が権力争いをして、物部氏が負けて滅ぼされてしまったという史実があるだけなのです。たまたま物部氏が伝統勢力として在来の神祇を重んじていたのに対して、蘇我氏が新興勢力で新来の仏の信仰に熱心であったということだったのです。しかし、新旧の勢力の政治抗争の史実が、崇仏派の排仏派への勝利という話として言い換えら、その部分が強調されて語られたのです。しかし、史実の真実は、物部氏(伝統勢力)と蘇我氏(新興勢力)の権力争いということなのです。
9、政治抗争の宗教抗争へのすり替え
もし真に宗教対立であったならば、崇仏派の勝利の後には、神祇の否定や排斥の歴史が生まれなければならないはずなのですが、そうした歴史は全く語られていないのです。そうした歴史が起きなかったということは、つまりこの事件は神仏の宗教的対立ではなかったということなのです。仏教はこの政治抗争にかこつけて、これを神仏の宗教抗争の果てに仏教が勝利した史実(歴史的)として、日本布教の為にうまく利用したということなのです。
10、天皇の姿勢が左右した
この事件で最も重要な点は、神祇祭祀の最高祭祀権を持つ天皇が、神祇を脅かす存在として仏教を考えていたなどということが、全く伝えられていない点です。天皇は、仏教の流入に全然危機感を持っていないのです。神道の最高責任者が、仏教を容認しているのですから、そもそも神仏の宗教的・政治的対立は成り立ちません。もし仮に天皇が排仏をとなえていたならば、仏教がこれほどの一大政治勢力として日本史に燦然と足跡を残すことはなかったと思われます。この天皇の姿勢が、仏教の受け容れに最も重要な要因であったことを示すいい例が、明治以降の仏教です。天皇が、その信仰姿勢を明確に神道に回帰させて以降、仏教は政治勢力として力を振るうことはなくなってしまっているのです。仏教にとっても幸運だったことは、仏教弾圧をする中国皇帝のような最高権力者が日本の天皇に一人もいなかったということではないかと思われます。中国では、外国の教えである仏教に十分対抗できる諸子百家のような思想が国内にあったため、外来の仏教だけが唯一の優れた教えではなかったのです。
11、昔からあった舶来信仰
これに対して、日本にはそうした仏教に対抗する思想は国内にはなく、優れた教えは全て朝鮮・中国・インドといった国からの外来の思想であり、それらの教えを受け入れて国造りをしてきたという思いがあったのです。ですから海外からの教えは、みな貴い教えであり、排斥する理由もなかったのです。仏は外国から来た神として大切にされたのでした。しかし一方で、恐らく仏教が渡来する数百年前から、天皇が治める日本は、神祇の力を戴いて統治するという政治原理が確立され、神祇の祭祀権は天皇が持つとの政治体制が確立されており、天皇の祖先神は天照大神であり国内統治者たる公の存在としての務めは国内諸神祇への祭祀であるという原則が出来上がっていたと考えられます。
12、公的には神道、私的には仏教
したがって、天皇は個人の私的信仰としては仏教に帰依しても、歴代天皇の天皇としての務めは神祇の祭祀であり、これを棄てることはしなかったし、出来なかったのでした。そのため国内諸神祇は天皇を戴く国の政治体制において不可欠の信仰が向けられるべき存在として整備、護持されたのでした。ここに神仏が共存する空間が成立したといえます。つまり国土や天皇・国民の物理的保全を願う信仰は神祇信仰に、国家・天皇及び国民の精神的保全の信仰は仏教にという信仰の分業が成立したのでした。こうした基本的信仰構造を基に、神仏習合が展開したといえます。それにしても仏教が牙を持った宗教であったならば、必ず神祇排斥という事態が生まれたに違いありません。仏教に、そうした神道排斥の歴史がないということは、やはり神仏習合には、本質的に仏教の宗教的性質に負うところが非常に大きいということがいえるのではないでしょうか。
13、神仏習合のモデル理論
神仏習合の歴史を、史実の検証に基づいて整理し、詳細に、そして体系的に跡付けたのは、辻善之助という、明治から昭和に活躍し、日本仏教史の大家となった学者でありました。辻善之助の神仏習合論は、その後ながらく、神仏習合論の定説とされてきましたから、一般の人たちにも、神仏習合を整理した辻の神仏習合史モデルというのはよく知られていると思われます。
14、辻の神仏習合論の破綻
しかしながら、今日の神仏習合論からすると、辻の学説は過去のものとなっており、辻の神仏習合論は既に破綻した学説なのです。このことを、以前研究論文として纏めたことがありましたので、研究編に「辻善之助神仏習合論の全面的批判」として掲載ことにいたします。専門的研究ですが、みなさん挑戦されてみませんか。 
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1、宗教に於ける音楽
宗教にとって音楽は非常に大事なものなんです。音楽は、人の情感に直接訴えかけることができますから、情感に訴え掛ける深さに於いて、それは視覚を上回ります。
2、神楽
神道なら、雅楽(ががく)や神楽(かぐら)、とくに神楽は聞いて見て楽しいものです。テンポの速い石見神楽(いわみかぐら)なんかは面白いです。高千穂神楽(たかちほかぐら)の一つなどは、仕草がとても素朴でユーモラスです。一口に神楽といいますが、全国にはものすごい数の神楽があるんです。
3、雅楽
神道では、もう一つ雅楽といわれるものが、音楽となっています。もっとも雅楽の源流はインドや中国から奈良時代に朝廷に伝わったものです。ですから雅楽は、仏教寺院でも大変盛んに演奏されるのです。そして民間にも広まりました。九州北部の民謡となっている黒田節も越天楽(えてんらく)という雅楽曲の旋律が使われていることは有名です。「酒は飲め飲め、飲むならば」と歌いながら皆さんも越天楽と聞き比べてみてください。
4、ヒンズー教
シタールという楽器を用いるインド音楽も、曲が最高潮に達して、終わった瞬間、ヒンズーの神(シバ神)と合一することを目的しているといいます。音楽は神との接触を助けるのです。
5、仏教音楽
仏教のお坊さんが、お経を朗誦することを声明(しょうみょう)といいますが、実にいいものですし、哀調を帯びて、本当に無常観を感じさせてくれます。鎌倉時代などは、イケメンで声の良い若いお坊さんの声明や念仏が評判となり、多くの貴婦人が寺に集ったという、艶っぽい話もあります。
6、天女の音楽
平等院鳳凰堂に行きますと、天井に天女が描かれていますが、実はこの天女は音楽に合せて舞っているのです。ですから良く心の耳を澄ますと、天上界の音楽が聞こえてきます。どんな音楽か、想像しただけで楽しくなります。きっとむちゃくちゃ幸せになれる音なんだろうと思います。
7、新興宗教にも盛んな音楽
現在の新興宗教も、歌を歌ったり踊ったりしますね。宗教には、音楽や歌、そして踊りが大事な要素なんです。何よりも信者間の一体感を高めます。踊りや歌は、集団人々の心を興奮させ、その興奮は悦びへと変容していきます。
8、盆踊りは念仏踊りから発生
お盆の季節に盛んな盆踊りも、念仏踊りから発生したものが多いのです。それは踊って死者の霊を慰めるのが本来の目的でした。そう、お盆は、祖先や死者の霊が郷里に戻ってくる時なのです。それが精霊(しょうりょう)迎えであり、精霊送りの盆行事なのです。
9、教会にパイプオルガン
パイプオルガンも、大きな大聖堂や教会で賛美歌等を歌う為に用いられたのです。あの巨大な楽器は大きな教会などでなければ入りません。西洋音楽では合唱などが盛んですが、その元は教会で賛美歌を歌うことにあるのです。西洋人は合唱が実に上手だということですが、その背景には幼い頃から教会に毎週礼拝に通って賛美歌を聞き歌っている素地があるからだと思います。
10、宗教は知識だけではだめ
このように、宗教を勉強する人は、音楽を聴いて感性を磨いておくことが必要なのです。本の文字からや、神社の建物からだけ神道を知ろうとしても、それは一面的で浅いものなのです。神道は宗教ですから、知識だけではありません。感覚、情感といった面からも触れていかないと、広く知ることは出来ても、深く知ることは出来ないのです。 
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1、現代の諸問題と神道
神道は、今後はどのような展開を遂げて行くのだろうか。今日の神道は、これまでの伝統的信仰を基本とし、その教説は古事記・日本書紀・古語拾遺といった、千年以上も前に書かれた古典を教学の典拠として成立している。したがって、現代が直面する様々な問題に関しても、それらの古典に教説の根拠を求めざるをえない状態にある。つまり今日的問題の、例えば科学技術の飛躍的進歩によってもたらされた生命の誕生に関わる遺伝子操作や脳死の問題、臓器移植等の生命倫理に関する問題、また自然改造・破壊といったことへの問題、更に近代的国民国家の下に於ける社会的男女間格差等の差別問題、民主主義や基本的人権、国民国家と宗教の在り方等の問題に関してなどである。要するに、これらの諸問題に関して、記紀の古典には書かれていないため、神道の教えとして明確に善悪を説くことが出来ないのである。こうした状況は、何も神道に限って起こっている問題ではない。紀元前五世紀頃の釈迦の教えを基本としている仏教、一世紀頃のキリストの教えに基づくキリスト教、七世紀頃のマホメットの教えのコーランを聖典とするイスラム教などの世界宗教に於いても、第二次世界大戦以後の急激な科学技術の発展によって出現した二十世紀中期以降の現実世界の諸問題に対して答えることができないのである。それは聖典や教典を絶対視する宗教であるほどに、教典成立以降に出現する現実世界に対して、宗教的説明や価値判断をすれば、教典からの逸脱となり、しなければ信者の苦悩する現実世界の諸問題から信者を救えないというジレンマ(進退両難)に陥ってしまうからである。幸いに、十九世紀までは基本的に紀元前五世紀の延長といえる現実世界であったために、そうした旧世界での宗教的教義と現実世界に切実な乖離はなかったのであるが、二十世紀以降の現実世界はそれ以前の現実世界と全く違った様相を呈したのであった。つまり十九世紀を境として、それ以前を旧世界とし、以降は新世界と区別しなければならないといえるのである。日本では第二次世界大戦までは、基本的に旧世界の延長線上で考えることも出来るが、第二次世界大戦以後の日本社会は戦前の延長線上で考えることは出来ないと思われる。このような前提に立てば、旧世界における様々な宗教的教義は、もはや現実世界の人々が最も苦悩する重要な或る部分を解決することができないことが明らかのである。幸いに、神道には教典がないために、そうしたジレンマに陥ることはないのだけれど、逆にそうした問題に答えようとすると、神道内部(神道学者・神職)での意見集約が出来ず、またこれを判定する典拠もなく、神道としての教理的・教学的判定を下せないという陥穽(かんせい)に陥ってしまっているといわざるをえない。このように考えると、神道は、これらの問題についてはいづれも神道としての判断停止の状況にあるということができるが、果たしてこれを打破する方法はあるのだろうか。そして、もし答えなかった場合には、神道を信仰する人々が減少し、神道は衰退するのだろうか。
2、神道の特性
しかし神道は果たして、こうした問題について答える使命があるかという別の視点に立つと、神道は、そうした問題を解決することを目指す宗教ではないことに思い至る。むしろ神道は、そうした問題に宗教として答えることはできないといわねばならない。なぜなら前述したように、神道には教義となる教典がなく、したがって神道自体が自己規定されておらず、新世界における諸問題について是非や善悪を示す根拠や基準を持っていないからである。即ち、神道は人間倫理や真理を追究すべく成立した宗教でないことは、此までの講義でかなりくわしく説明してきた。神道が宗教としての成立している空間は、人間及び社会の倫理や真理を追究する宗教とは、全く別の空間である。神を祭祀するという行為が、神道が成り立っている基盤であるが、その神からは恵みや災厄がもたらされるだけであって、神から人に対して真理や倫理・規範が啓示されることはないのである。神道の場合、神の意志は古くは託宣という形で示されたこともあるが、今日では託宣は特別な心理状態に於ける人間心理の発露として分析がなされていて、現在では託宣を神の意志表示として信じる者はいないであろう。以上の考察からすれば、神道が様々な現代的問題に対して自己の立場を自ら垂範することはできないものとなる。寧ろ、日本社会の価値観が変化した時に、神道の教義もそれに対応して変化するとされるものであろう。従って、そうした諸問題に対する日本社会の全体的姿勢が明確になった後に、神道がそれに対応して変化し、神道の宗教的立場が確立されるということになると思われる。宗教が神々の教えに根拠をおいて、そうした諸問題を解決しようとすることは、むしろ妥協を許さないかたくなな姿勢を鮮明にするだけではないのだろうか。
3、天皇の位置付けについて
天皇と神道との関わりにしては、現代神道においても、その教義は三大神勅(天壌無窮の神勅・宝鏡奉斎の神勅・斎庭稲穂の神勅)を以て説かれる。つまり本質的には、旧世界の神道教学のままなのである。ただし、熱狂的国粋主義思想からは解放され、天皇の現人神説などは、ほとんど見られない。天皇は、日本国家の政治的存在として巨大な存在であるが、一方で神道においては最高祭祀者としての宗教的立場にある。この二点は旧世界では合体していた。ところが新世界では、日本国家からの宗教性が排除される方向が採用されたために、公には天皇の政治的存在のみが残されて、宗教的地位は天皇の私的信仰とされることになった。その結果、宗教的存在としての天皇は、神道や神社世界に於てのみ重要なことになったのである。戦後の神社界では、天皇は天照大神を祭る皇孫の最高斎主として神聖性を具現した至高の存在としての位置付けがなされているようである。この点は、天皇を国民統合の象徴としている現代日本社会とは非常に異なっている点であろう。しかしながら神道界に於いて、天皇ということに関して発言することは、発言すること自体が批判される恐れが強く、発言者は神社界から排除されるほどの危険をはらみ、だれも発言できない状況といえる。神社界が天皇に非常な神聖性を認めていることは、神道の成立の経緯から当然なのだが、現代日本社会や国家が、天皇へのそうした神聖性を認めない方向にあり、日本社会と神道界との天皇に関する考え方の隔たりは拡大しているといえよう。この隔たりは、神道や神社神道の大きな課題であろう。しかし現代の象徴天皇観の思想が今後も不変であるという理由はどこにもない。これも一つのイデオロギーに基づいた天皇観なのであり、時間の経過とともに別の傾向が開かれるというのが歴史的必然なのであるから、時代に迎合した性急な議論は控えるべきであろう。重要であるのは、神道にとっての天皇は、記紀以来の伝統である「至高の斎主としての存在」という位置付けは、神道に於いては、今後も不変と思われる点である。
4、神道信仰と日本社会
現代の都市型社会の拡大は、これまでの地域における氏神を核とした神道の氏神型信仰が成り立たなくなりつつある状況をもたらしている。また都市在住の核家族型社会は、氏神信仰ではなく、崇敬神社信仰へと大きく変貌している。このことは、氏子を基盤に運営されている氏神神社の衰退と、逆に一部の特定崇敬型大規模神社への信仰の集中と、当該社の繁栄を生みだしている。特に都市以外の農山村地域の氏神神社の経済的疲弊は激しく、その結果としてそうした神社の後継神主の途絶は現実的で早急の問題である。つまり神職としての神社からの収入が無ければ、生活は困難であり、結婚し家庭を持つことさえ出来ないからである。まして田舎の低所得の神主に嫁ぐ女性はいなであろう。これに対して、都市部における神社は経営も比較的よく、したがって後継神主の確保も難しくない状況にあるが、都市部においても氏子地区という地割りが形骸化し、氏子と氏神という意識も希薄化している。したがって、氏子からの神社収入は少なくなり、そのため専任神職である場合は、所得も低くなる。そこで他に職を持つ兼任神職となることが多い。だが田舎の神職はそうしたことさえ出来ないのである。こうした実態を総合的にいえば、これまでの氏神型神社信仰が、崇敬神型信仰へと大きく転換を遂げつつあるということができる。つまり、富める神社と、経営が成り立たない富めない神社との二極化が進行しているのである。今後の神社信仰は、ますますこの傾向が進展するものであろう。そして近い将来、山間地の小規模神社の多くが廃絶してしまうと考えられる。
5、社会的環境の変化
こうした社会的環境変化は、伝統的神道信仰をどのように変化させたのだろうか。地方から都市への人々の移動という人的環境変化によって引き起こされるのは、伝統的稲作農耕を主体とした日本的な村落共同体の祭祀(五穀豊穣、収穫祭、里神楽等)の維持ができなることであった。そして同時に、村落の家庭で行われていた家庭内祭祀や習俗の断絶であった。南洋諸島などの島では、島の女性のみによって行なわれていた祭祀(イザイホー)などは、島民人口の減少によって祭祀奉仕者がいなくなり、執行が途絶えてしまった祭祀が現にある。今日でも、農山村の家々では、自家が耕作する土地や所有する山には、荒神といって藪や樹木そのものを祭ったり、或いは水神として田畑や屋敷のいたるところに小祠を建てたり、神聖な木や藪には、場所そのものが神が宿るとして様々な神を祭って祭祀が行なわれているのであるが、そうした神々を祭る祭祀は、農山村の人口の減少と共に廃絶していっているのである。実は、これらの信仰は極めてアニミズム(精霊信仰的)であって、こうした信仰は、神道信仰を醸成する最も基盤となる信仰となるものである。このような信仰が基礎をなして、万物に神が宿る、或いは八百万神々の存在を認める神道信仰を成り立たせているといえる。これに対して、すでにマスコミ等で取り上げられて有名な農・山・魚村の共同体祭祀は、伝統文化としてなんとか維持され、伝承されている。それは祭りの時にのみ、都会に出て生活している者達が田舎に帰り、共同体祭祀に参加して、なんとかそうした伝統的祭祀を継続させているからである。しかし、そうしたことは祭祀参加者から素朴で真摯な信仰感情を失わせ、信仰の希薄な、単なる伝統行事へと祭祀の形骸化を産んでいるのである。だが、そうした維持の努力も、やがて祭祀行事の中止という結果となるであろう。これは農山村、或いは漁村でも同じことである。こうした社会環境の変化は、そうした集落内の各家々で行なわれていた家庭内祭祀が、親から子へと伝えられなくなり、消えていっていることも意味しているのである。
6、共同体信仰から個人信仰へ
こうした都市型社会の拡大にともなう、集落社会の消滅は、学問的には、あれほど一世を風靡した民俗学の衰退という事態さえ起こしている。つまり民俗学の対象とするフィールド自体が日本社会から消えつつあるために、民俗学調査そのものが成立しないのである。今日進行している社会環境の変化は、農山村に住み、生活して、初めて感覚的に存在が納得させられる地域神や、農耕神、山の神といった存在への信仰を衰退させており、今後はそうした信仰は、細々と受け継がれていくことになるであろう。しかし都市住民の家庭からも、実は神道信仰の習慣・習俗は、どんどん消えていっているのである。住まいからの、神棚・床の間・座敷の消滅であり、竈の消滅に依って台所に竈神を祭る習俗は、とうの昔に過去の信仰でしかなくなっている。家長が、年末の玄関に注連縄を張り、神棚の正月飾りをし、一月元旦の早朝に起きて、若水を汲み、神棚に供える、という風習も、もうはや消滅している。このように都市の世俗社会からも、神道的風習はどんどん姿を消しているのである。しかしながら他方で、神社への観光参詣や、一部有力大規模神社への参拝者の集中という現象がある。「初詣」や「酉の市」といった有名神社への参拝は年々益々盛んになっていて、衰える様子はない。そうした現象に見られるのは、流行の強い信仰であり参詣である。マスコミが報道するだけで、或いはNHK大河ドラマで放送されるだけで、参拝者は急増し、関西の「恵方巻き」といった、きわめて現世利益的な俗信仰が全国的風習になるのである。これらの信仰は、基本的には特定神や神社への個人信仰や個人行事であって、神道が伝統としてきた共同体信仰とは別種の信仰である。つまり日本社会では、共同体信仰が衰え、個人信仰が非常に盛んになっているのである。例えば、靖国神社信仰などは、正に日本国家という一国全体という巨大な共同体信仰の中で育まれてきた信仰なのであるが、その一枚岩の共同体意識が分裂し、国民全体での信仰が成り立たなくなってしまったために、今日では靖国神社は、個々人の個人信仰の次元で議論される。そのために、議論がかみあわないのである。靖国信仰のような信仰は、国家間の戦争といった国家共同体に非常な危険が起こり、強烈なナショナリズムの高揚が起こらない限りは、今後は静かに営まれていくといえよう。すでに戦争当事者達の第一世代は希少になり、その子供達の第二世代に移行し、全くそうしたナショナリズムの感覚を知らない第三世代へとさらに移行しつつあるからである。中国と韓国及び北朝鮮が成熟し、強烈なナショナリズムを必要としない国家になっていけば、靖国問題は沈静化し、本来の姿となっていくであろう。
7、人格神から再び自然神へ
神道の神々は、奈良時代に急激に広がった仏教の影響を受けて、それまで自然神(海・川・山・野・湖沼などの、それ自体を神とする、或いはそうした所に神々が住んでいるとの神観)の神性のままに信仰されていたのであるが、仏教と接触することによって、奈良時代初めに先ず八幡神が応神天皇という明確な人格神とされた。そして平安時代に入ると神仏習合が進み、人間の姿をした仏や諸仏と同じように、神も人のような姿と心を持つ存在と考えられるようになっていった。これに加えて、現実に生きていて理不尽なままに病没していった菅原道真を天神とするように、人が神になれるという信仰も始まった。そうした信仰は、怨霊信仰となって流行し、更に戦国時代時代からは豊臣秀吉・徳川家康を神として祭るようになった。そして近代では、戦死した国民兵士を神として祭る靖國神社や明治天皇を祭る明治神宮が創建され、乃木希典を祭る乃木神社、東郷平八郎を祭る東郷神社、そして護国神社は昭和十四年から二十年まで創建されつづけたのであった。こうした流れは神道の神々の人格神化という大きな流れの中に位置づけできるものであろう。しかしながら、そうした人を神として祭る神社の多数の創建という現象は、1945年以後は、ぴたりと止んでしまっているのである。一方で、戦後も企業の敷地内に創建される神社もあった。たとえば出光石油などでは、創業者の信仰から宗像神社が全国の出光精油所敷地内に勧請創建された。或いは商売繁盛などから、証券会社や企業の敷地内や屋上、或いは社屋内にも神社や神殿が新たに設けられている例は多数ある。しかし、創業者が神として祭られたという例は寡聞にして聞いたかとかがない。このように考えると、幕末以降に急激に発展してきた人を神として祭る信仰形態が、戦後の靖国信仰を以て、大きな曲がり角に立ったのではないかと思われてくるのである。前述してきたような、戦後の劇的日本社会の変化によって、そうした近代の靖国信仰を含めた、神の人格神化という信仰とは別に、今日の人々は旧社会とは違う新たな神道信仰を持ち始めているのではないかと思われる。即ち、再び自然神的神道の神を求めるようになっていると思われるのである。科学知識の発達によって我々の人知は、これまでは神の領域と見なされてきた世界の問題が、実は人知によって解決できる領域であったことを知るに至っている。そして現代の日本人は、人とは、そうした巨大で深淵な自然世界に一瞬に存在する存在に過ぎないことを自覚している。神々の世界とは、そうした人間の世界を包摂した自然世界であることを、これからの日本人は、ますます望むのではないのだろうか。したがって、今後の神道の神々は、人格神的神であるよりも、自然神的神として思惟される方向に展開すると考えられるのである。そうした自然神として、たとえば富士山も阿蘇山も、その自然が神格化した神として考えられたような古代の自然神的日本の神の姿に回帰していくのではないかと思われるのである。地域には、その土地の自然が神となり、産土神として産土神社に祭祀されているとされていくのではないだろうか。つまり神道の神々の自然神への回帰という方向で、今後の神道の神々は姿を変えていくものと思われるのである。そういう意味で、自然神→人格神と歩んできたこれまでの千五百年の神道の人格神化というプロセスは、そのベクトルを逆にし、今後は人格神→自然神へのプロセスを踏んでいくのではないかと考えられるのである。勿論、それは、これまでの逆戻りのプロセスではないであろう。そのプロセスが、何十年か何百年か何千年か分らないが、そうした長い長い変化が今後の神道世界を形成していくのではないかと思われる。私は、神道の未来を悲観的に考えてはいない。しかしながら神道が、近代の一時期に陥ったように、余りに純粋化してしまうことは非常に危険に思える。清濁併せ持つ未来の神道を願う者である。 
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1、現代神道の環境?
現代の神道にとって最も大きな環境的変化の一つは、仏教・キリスト教・イスラム教、それから分派した宗派など、本質的に神観念が違う宗教諸派との共存といえましょう。そしてもう一つは、脱宗教化した社会が、普通の或は理想の社会であると考えるようになった日本社会の変化ということでありましょう。こうしたの社会観を支える思想が、「宗教とは、基本的に個人信仰に還元される」とする思想です。つまり「個人が集まって信仰集団を形成するのであって、その逆ではない」という考え方です。これを「信仰の自由」として保証する憲法や宗教法人法などの法体系があります。こうした現代日本社会の中で、宗教は寺・神社・教会・葬儀場・墓地といった特別な場所や施設にしか存在しない存在となってしまいました。つまり個々人の場で、公の場から宗教は追放されてしまっているのです。しかも個々人の場である家庭に於いても、仏壇、神棚は、日常の家庭生活では関係のない空間となっています。
2、近代神道の環境
しかしながら、つい半世紀前(つまり戦前)までの日本社会では、毎朝、仏壇の前でお経を唱え、神棚には手を合わせるといった日常生活に組み込まれた宗教的時間を日本人は持っていたのです。これは基本的には、それより百年前の明治の初めと、それほどの変わってはいませんでした。近代にはあったこうした風景を、小泉八雲が詩情豊かに描写しています。小泉八雲は、明治23年4月に40歳で日本にやって来たのですが、8月には英語教師として松江中学に赴任し、松江には1年3ヶ月滞在しました。松江で最初に住んだのが、大橋川に掛かった松江大橋が間近に見える富田旅館で二ヶ月間滞在しました。その富田旅館から見た、橋と川岸の早朝の様子を描写した文は、生活に組み込まれた当時の日本人の宗教生活を実に良く描いており、私がこれまでに最も感動した文章の一つですので、紹介します。
小泉八雲−「神の首都・・・松江」−
「庭先の川端から手を拍つ音が起こって来る。対岸の埠頭の石段を下りる男女が見える。銘々が帯に小さな青い手拭いを挟んでいて顔と手を洗い口を漱ぐ。是は神道の祈りを捧げる前に必ず行なう潔斎である。それから顔を朝日に向け四たび手を拍って拝む。白色の長い高い橋の上からも、他の柏手の音が反響の如くに出でてくる。あの異様な形の船の上から、手も足も裸の漁師が黄金色した東雲の空を拝んでいるのだ。もはや柏手の音が増して殆ど鋭い音の連発となった。夫れは人々が皆朝日−お日さま−天照大神を拝んでいるからだ。朝日に向かってだけ手を拍つ者もあるが、大概は西の出雲大社へ向かってもそうする。顔を東西南北へ次々に向けて群神の名を微唱するものさえ随分ある。天照大神を拝した後で一畑山の高峰を眺めて盲人の眼を開き給う薬師如来の大伽藍のある所に向かい仏教の様式に随って掌を合せながら軽く擦るものもある・・・・手を拍つ音がやんで1日の仕事が始まり出す。カラカラと下駄の音が段々高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、どうしても忘れられない。」
3、明治生まれの祖母
私が、この文章を読んで思い出したのは、もう四十年も前に亡くなった祖母の朝の姿でした。祖母は、朝早くお日様に向かって柏手を打っていました。祖母は確か明治35年ごろの生まれだったと、母に聞いたことがあります。しかも彼女は、北海道の生まれです。北海道のような新しい土地に生まれた人でも、天照大神に向かって、朝は柏手を打つという習慣を持っていたのです。私の母は、子供の頃、祖母が毎朝唱えるお経を、寝床のなかで、覚えてしまったと話していた。そして母は死ぬまで覚えていた。こうした宗教的時間を、つい半世紀前までの日本人は日常生活の中に持っていたのでした。しかし、今日、こんな時間を持っている日本人は、殆どいないだろう。日常生活の中から、宗教的時間が無くなってしまっているのが現代である。
4、日常から締め出されてしまった宗教
現代人が持つ宗教的時間とは、殆どが非日常時間と思われます。そうした時間とは、例えば葬式です。或は各種の人生儀礼です。しかもそれを体験する場所は、神社や寺、或は葬祭場といった専用の特殊な場所なのです。こうした現代に対して、近世までの神道には、正月・お盆などに家庭の中で行なわれた神棚の設えなどの家庭祭祀があり、また村々で行なわれた村落祭祀、そして神社で行なわれた神社祭祀の三本が柱となっていたといえます。ところが現代神道では、この内の家庭祭祀が廃絶してしまいました。村落祭祀は地方では行なわれていますが、都会での共同体祭祀は廃絶してしまったといっていいでしょう。こうした変化を要約すると、現代の神道祭祀とは神社で行なわれる祭祀と、少なくなりましたが地域の共同体で行なわれる祭祀だけということになります。こうした家庭祭祀や村落祭祀の衰退に対して、神社に於ける祭祀は、近世以前の神道よりははるかに多く、そして盛んになっていると考えられます。つまり全体的に見ると、神道祭祀が家庭や地域から神社へと移ってしまったと考えられるのです。しかしこうした移行の中で、最も深刻なのは、村落祭祀が著しく衰退していることではないかといえます。なぜ最も深刻かといえば、村落祭祀の中に、神道の最も神道的な特徴があると思われるからです。例えば、お神楽なんかが、そうでしょう。現代の神楽は、芸能という以上に芸術といった世界に踏み込んでいます。神事芸能というよりもショーとして、なんとかホールのステージで行なわれるのです。こうしたことは、かつて陶芸が歩んで来た道を思い出させます。陶芸は、芸術になってしまいました。随って陶工は陶芸家、つまり芸術家になってしまっているといえます。上品過ぎて、近づけないです。神道も、人々の日常生活から切り離されてしまった先にあるのは、何か崇高な存在として祭り上げられて、高尚すぎて親しみのない、硬質な宗教となってしまうのではないかと私は、恐れています。神道を、日本人の日常生活の中に、どのようにしたら復活させることが出来るのか。実は、そのことが現代神道に課せられられている最も大きな課題ではないかと思われます。朝は、お日様に柏手を打ち、山に入る時は山に向かって柏手を打ち。そんな行動が現代人に始まったら、新しい神道の始まりではないかと、私は思うのですが・・・ 
 
伊勢の斎宮

 

このテーマで、私は日本の神祭りにおける男女の役割分担という大きな、しかも根本的な問題を解明しようとかんがえています。
日本本土の神社祭祀で神職の役割は男性が独占しています。各地の民間の祭りでは、いまだに女性の関与をタブーとしてきびしく禁じているところもけっしてめずらしくはありません。しかし、その他方で、沖縄のお祭りのほとんどは女性の神女(ノロ)主宰で、男性は補助者の地位にとどまっています。
このような現象について、これまでの学説は、本来、祭りは女性が主宰するものであったが、男性中心社会が到来し、しかも仏教や儒教の女性蔑視思想の影響のもとに、男性が祭祀権を女性からうばって独占するようになったと説明してきました。
こうした祭祀における女性差別を赤不浄=血の穢れとして説明した柳田民俗学の学説も大きな役割をはたしています。たとえば、最新の民俗学の成果を集成した『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)の「血穢」の項では、
女性特有の出血である月経と出産時の荒血は、穢れたものとみなされてきた。これらは赤不浄・アカビなどとも称され、死の黒不浄とともに忌むべき大きな穢れとされた。産の穢れを白不浄と呼ぶ地域もある。穢れは火によって感染すると考えられたため、月経中の女性はその期間、産婦は出産が近づいたころから産後の忌明けまで、家から離れて別小屋で忌篭りの生活を送った。別小屋がない場合も、食事を作る火は家族とは別にした。月経・荒血に限らず血を穢れとする観念は、当初、神社・神事の禁忌として現われた。古くは血は豊穣をもたらすものとされたが、死穢を連想させるためか次第に忌まれるようになり、九世紀中ころに至って穢れとされるようになった(後略)。
とのべられています。
この解説は事実の指摘としてはこのとおりなのでしょうが、いくつか疑問がうかんできます。
A血がけがれているとかんがえられるようになったのはなぜか。
B血穢が観念されるようになったのは、九世紀中ころとあるが、それ以前の祭りはすべて女性が主宰したのか。
C古代、女性が祭りを主宰していたとすると、なぜそれができたのか。
このような日本の祭りの根幹にかかわる疑問を解く鍵が、じつは伊勢の斎宮にあります。
伊勢の斎宮は、古代から中世にかけての、伊勢神宮に未婚の内親王または女王が斎王(いつきひめみこ、斎宮ともいいました)として派遣され奉仕したことをいいます。天皇の即位直後に斎王がえらばれ、一代に一人が伊勢で神につかえるというこの制度のはじまりは、天武天皇の代の大伯皇女(おおくのひめみこ)で、中世の後醍醐天皇の祥子内親王を最後に廃絶しました。
斎宮は決定後の一年間は宮城内の初斎院で、ついで宮城外の野宮でさらに一年間の潔斎の生活をおくります。そののち大勢の官人にまもられ、盛大な行列をくんで伊勢にむかいます。これを斎王群行といいました。それ以降は多気の斎宮で精進潔斎の生活をつづけました。
しかし、斎宮の実際の神事関与は、神宮のもっとも大切な祭りで三節祭とよばれる、六月・十二月の月次祭と九月の神嘗祭に神宮に参入して玉ぐしをささげるだけで、それ以外のときは、斎宮で篭りきりの生活をおくっていたのです。
その間、実際に日常的な神事をにない、また三節祭でも重要な奉仕をおこなっていたのは、物忌とよばれた数人の童女(一部は童男)とその補佐役の物忌父を中心とした男女専従神職者たちでした(義江明子氏『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館・1996年)。
この物忌と物忌父の関係は通常の神社祭祀における神子と神主の関係に対応しているとかんがえることができます。童女が奉仕したのは初潮以前の血穢のない女性がえらばれたものとみられます。彼女たちは、月事がはじまると退任しなければなりませんでした。
しかし、重大な疑問は、9世紀半ば以降、女性の血の穢れがことさらに忌まれた時代になぜ、日本の神社の総元締めともいうべき伊勢の斎宮(そして賀茂の斎院も)で成人女性が重大な祭祀に関与しつづけたのでしょうか。
この疑問を解決するのに役立ちそうな学説を提出している研究者がいます。重要なものを整理してつぎに紹介しておきましょう。
a神懸りする巫女とそれを聞いて神意をうらなう男性との男女ペアの専従神職者で祭祀をおこなうのが日本の祭りの原型である。(岡田精司氏『古代祭祀の史的研究』塙書房・1992年)。
b古代祭祀で専業神職者が男女ペアで奉仕したのは、一つは模擬的生殖儀礼をおこなうためであり、ほかの一つはそれぞれの生業の成果の捧げ物をするためであった。中世以降でも、伊勢神宮では、神饌調備や養蚕・御衣織成には成人女性が一貫して神事に関与した。(義江明子氏前掲書)。
c弥生時代の前期・中期ごろまで、耕起から収穫までの一連の農作業では、播種以前の労働は男性、その後は女性を中心にいとなまれた。(小笠原好彦氏「国家形成期の女性」『日本女性生活史T原始・古代』東京大学出版会・1982年)。
これらの学説を参照しながらも、それとは異なる視点から、以下に私の考えをのべます。
日本の古代祭祀の専従神職者は、
(1)男性のみ
(2)女性のみ
(3)男女ペア
の3種があり、基本的にこの形態は現代にまでうけつがれています。このように、多様な専従神職者の形態があったのは、祭りの原理そのものが多様だったからです。
日本の祭りの主宰者における男女の性差を決定してきた原理は、
経済原理
神懸りの能力
仏教・儒教
の3種がありました。この3種を総合してかんがえないと日本の祭りの本質はみえてきません。先に参考としてかかげた、岡田、義江、小笠原三氏の従来説と私の論の立て方の相違をよく検討してみてください。
生活物資生産形態または経済原理の相違によって祭祀の形態が決定されるという法則は日本にかぎらず普遍的にみとめられることです。日本でもつぎのような例をあげることができます。
狩猟型東北マタギの熊祭りなど
採集・雑穀型沖縄八重山諸島のプールなど
稲作型大阪住吉神社の御田植祭など
漁労型沖縄本島国頭のウンジャミ
混合型長崎県長崎市の長崎クンチ
熊祭りはアイヌのイヨマンテが著名ですが、アイヌは狩猟経済にとどまらず、女性もかかわる採集経済にはいっていましたので、イヨマンテには女性も参加しています。むしろ東北にいまものこるマタギの人たちが山中で執行する熊祭りが、純粋に男性だけの祭りとしての性格をのこしています。これは経済原理が男性中心の狩猟段階にとどまっているために祭りも男性中心になっている例です。
沖縄の各種の祭り、たとえば典型的には、久高島のイザイホーなどに男性が関与できないのは、女性の神懸りの能力を前面におしだした祭りだからです。総じて、女性が祭りに専従者として参加することができたのは、その神懸りの特性によるものが多かったとおもわれますが、各地のお田植祭りなどで女性の参加する例は、経済段階における役割分担によるものといえます。
本土の各種の祭りから女性が排除されたのは、通説のように、仏教や儒教の差別観念の影響とみることができます。日本における血穢の観念を育成したのも奈良・平安仏教でした。日本の仏教が、女性も成仏できるとする女人往生を教理でみとめるようになったのは、鎌倉仏教の浄土宗や浄土真宗、日蓮宗まで待たなければなりません。
沖縄や日本の神道祭祀の総元締め伊勢神宮(賀茂神社)で、のちのちまで女性が祭りで重要な役割をはたしつづけることができたのは、女性も生活物資生産に参加して役割を分担した経済原理と神懸りの能力によって、女性が祭祀の主宰者となった古代の遺制をそのままにたもちつづけることができたからです。
そのさい、沖縄は本土をはなれた地理的文化的環境よって、そして伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、まさに王権の力によって仏教の影響をうけずにすますことができたからです。  
 
御霊会に関する一考察 (御霊信仰の関係において)

 

1.はじめに
「御霊信仰」とは、特定の個人の霊が個人または社会に祟り、災禍をもたらすという信仰で、奈良時代から平安初期に広まり、祖霊信仰と共に、現在に至るまで、日本人の信仰の基礎をなすものといわれている。政治的に抹殺され、非業の最後を遂げた人々の怨霊の復讐に、平安初期の朝廷の周辺の人々は、恐れおののいた。例え、怨霊の復讐が時の権力者の方に向けられていても、最終的には疫病、天災などをもたらし、民衆をも苦しめる。このような「御霊信仰」の成立には如何なる要因が必要であったのであろう。
要因の第一に、人々が個別性の霊の存在を意識して初めて「御霊信仰」が成立すると考えられる。「個」の意識、人格観念の十分な発達しなければ、個人の怨霊の復讐などありえないからである。そしてこの時代にあって、「個」の意識は中国的文化を十分享受できる階級にのみ発達したはずである。唐の制度を模倣し、官僚が自分自身の努力で地位を確保できたからである。要因の第二に、それに対して、民衆の意識には疫病や災害が、共同体の「穢れ」などに起因するという祖霊神的発想があったと考えられる。従って、彼らが「御霊信仰」をどのように捉えていたのかが重要な鍵になる。
さて、高取正雄氏や岩城隆利氏は、地方豪族の信仰が京都に入り、このような「御霊信仰」が発展したと考えている(どちらも京大文学部読史会創立50年記念「国史論集」)。
また疫病神がこの信仰の中心となっているのも特徴の一つであり、井上満郎氏は、御霊信仰は疫病神の信仰であり、都市神と捉えている1。もう一つの問題は、祖霊信仰と御霊信仰が全く別の信仰形態であるという提案である。先学の諸氏の多くは、この二つの信仰を別の信仰と考えている。しかし、堀一郎氏2や菊池京子氏3も著者と同様に疑問を投げかけている。
2000年に、名古屋大学大学院国際言語文化研究科に提出した修士論文「古代の呪術とその分析」では、中国文化の影響下にあり、陰陽道の強い示唆をうけた当時の朝廷と、その影響が僅かで古代からの習俗を維持していた民衆の文化的相違が「御霊信仰」を生んだことを、歴史的、政治的分析を踏まえ証明しようとした。その論では、「御霊信仰」は、疫病神への信仰、または祟りの神への信仰としての側面だけで捉えられるような信仰ではなく、社会階層の発想の相違によって生まれた都市神への信仰であり、御霊神が流行神であることを示した。
この小論では、宮廷陰陽師の天皇に対する権限が増加してきたことが「御霊信仰」を成立させる契機となったことに言及したい。律令制時代、占い、造暦、吉凶判断が主な仕事であった陰陽寮の役割が、平安期初期には、王墓に対する鎮謝、慰霊などや疫神祭なども取り仕切るようになる。その役割の変化が「祟り」の構図を顕著化したと考えるからである。彼らの祭祀は国家独占的なものであり、天皇は天上と対応した存在であるだけでなく国家そのものであった。従って政治的に抹殺された人々の怨憎の対象は天皇=国家であった。
そこで、このような「御霊信仰」を掘り下げるために、まず「御霊信仰」生んだと思われる「御霊会」を分析し、当時の朝廷と民衆の文化的相違をより明確にしようと思う。このテーマは8世紀から10世紀における「御霊信仰」の成立のみならず、後に朝廷の周
辺の人々の中で強い影響を及ぼす「穢れ」の観念の成立にも関係している。「御霊会」は疫病神との関係が非常に深く、陰陽道の呪術には疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、祓う呪術が存在したからである。 
2.朝廷側の「御霊会」
「御霊会」とは、疫病を流行させ、災害を起こす怨霊を鎮めるための祭りで、『三代実録』貞観五年(863年)五月二十日の条の神泉苑4における「御霊会」が、朝廷で行われた初見の史料とされている。
「於神泉苑修御靈會。勅遣左近衛中將從四位下藤原朝臣基經。右近衛權中將從四位下兼行内藏頭朝臣常行等。監會事。王公卿士赴集共觀。靈座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修延律師慧逹為講師。演説金光明經一部。般若心經六巻。命雅樂寮伶人作樂以帝近侍皃童及良家雅子爲舞人。大唐高麗更出而舞。雜伎散樂競盡其能。此日宣旨。開苑四門。聽都邑人出入縦觀。所謂御靈者。祟道天皇、伊豫親王、藤原夫人。及觀察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅。冤魂属。近代以来。疫病繁發。死亡甚衆。天下以爲。此災。御靈所生也。始自京畿。爰及外国。夏天秋節。修御靈會。往々不斷。(後略)」。
御霊神として、京都の上御霊・下御霊5の両神社に祀られている人物は、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣6、他戸親王7、吉備真備8、菅原道真9、井上内親王10であり、『三代実録』には、これらの人物のうち5人が御霊と記されているのである。
早良親王は、延暦四年(785年)に、藤原種嗣が暗殺された事件に関わっていたとされ、乙訓寺に幽閉された(「式部卿藤原朝臣を殺し、朝廷を傾け奉り、早良王を君為さんと謀りけり。」『日本紀略』)。しかし、彼は罪を認めず、飲食を断ち、無実を主張、流罪地淡路国へ配される途中死亡、遺体は淡路で葬られた。その後、桓武天皇の夫人藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が相次いで死亡し、皇太子の安殿も病気に罹る。占いによって、延暦十一年(792年)六月十日、早良親王の祟りと出たため、親王への陳謝を行った。平安京への遷都の理由の一つが、この親王の祟りから逃れるためともされている。また延暦四年(785年)から延暦十年(791年)にかけて大風による水害、旱魃による飢饉、痘瘡などの疾病が大流行した。延暦七年(788年)には、大隅国の曾乃峯(霧島山)の噴火、延暦十九年(800年)には、富士山が噴火し、災禍が続いたため、同年早良親王に対し、崇道天皇と追称した。(このような追尊の例は他に存在しない。)
伊予親王は、桓武天皇と藤原吉子との間に生まれ、当時の天皇である平城天皇の異母弟である。大同二年(807年)十月二十七日、藤原雄友(吉子の兄)が、伊予親王に謀反の疑いがあると藤原内麿に報告し、天皇は、十一月二日に、母子共々、大和国川原寺に幽閉した。十一月十二日には、親子共々毒を飲んで自害した。歴史的には、皇位継承の絡んだ疑獄事件で、藤原氏諸流の権力争いであった。諸々の闘争が終結した弘仁元年(810年)権力を握った嵯峨天皇が、二人の霊や早良親王の霊を慰める法要を行っている。なお、大同元年から二年(806年〜807年)にかけては、悪疫の流行があり、大同三年(808年)には、京都内に放置されている死骸を埋葬、疫病沈静のため、諸大寺に大般若経を奉読させ、祈願している(『日本略記』)。
下級官吏であった橘逸勢は、承和九年(842年)七月十七日、承和の変(藤原良房が計画した政治的陰謀で、伴健岑等が謀反を企てたと逮捕され、計画に加わったとされた皇太子恒貞親王、藤原愛発等も追放された)に連座し、伊豆に流される途中の遠江国(『続日本後記』)で死去した。後に名誉回復し、仁寿三年(853年)には、従四位下に任命されている(『文徳実録』)。なお、承和五年(838年)十月十四日、京都西山の南から北にかけて長さ30丈、幅4丈余りの白い虹が出現、同月二十二日から二十六日にかけて東南の空に彗星が出現、陰陽師がどちらも凶非と判断し、これを橘逸勢の祟りとした(『続日本後記』)。
文室宮田麻呂は下級官吏で、謀反の疑いで承和十年(843年)に逮捕され、伊豆国に流された。その地で死亡したかどうかは、史料が残っていない。『続日本後記』によれば、彼は新羅人と交易を行っていた人物で、難波にも家があった。
以上のように、時の朝廷に対し、どの人物も謀反を起こし、流罪になり、その地で死亡しているのが共通点である。またその謀反は、本人自身が企んではいないと思われていることも重要である。藤原広嗣、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王らにもそれは共通している。従って、国家に対する大罪を犯したと見なされ、京都以外の地で死亡した人々で、その罪が冤罪であった人物が「御霊神」となったと思われる。また、これらの事件前後は、自然災害や疫病の被害が大きかったことも重要な要素である。
上述したような公の「御霊会」が行われる以前、正史には疫病の流行に対し、陰陽道的「疫神祭」を行っている記述が見える。「疫神祭」は、神祇祭祀では「道饗祭」といい、鬼魅が外から京都に進入するのを避けるために、京城の四隅の路上で饗応し、鬼魅を押し止めるのが目的である。この祭りは、普通、毎年六月と十二月に行われた。これと同じような目的の祭りには、「鎮花祭」があり、春の花が散る時、疫神が分散し、病気を流行させるため、それを鎮めるための神事を執り行う(崇神天皇11が大田田根子12に大物主神を祀らせたのが始まりとされる大神神社とその摂社である狭井神社の祭が有名。なお、京都の今宮神社の祭も「鎮花祭」で、「やすらい花」と呼ばれる。)。
しかし、「疫神祭」が始まったと思われる宝亀年間には違う時期にも行われている13。上述した他戸親王、井上内親王の事件から疾病などが起こったと朝廷では考えていたのだろうか、『続日本紀』宝亀二年(771年)三月五日の条、宝亀六年(775年)八月二十二日の条など、「疫神祭」が別の時期に行われた例である。なお、宝亀七年(776年)五月二十九日には、宮中で大祓の後に、大般若経読経も行っている。
卜部氏が古代から司っていた呪術的祭祀である「道饗祭」は、疫病の大流行と共に、陰陽寮を中心とした陰陽師が朝廷での権威を高めることによって、「疫神祭」として、名称が変化して来る。「疫神祭」は、陰陽道系の祭りとして「四角四界祭」とも呼ばれ、鬼神から御所の四隅を護る「四角祭」と都の四堺を護る「四界祭」に分別される。祭りに際して、陰陽師による占卜をおこない、天皇個人や御所内に漂う邪気、悪気、穢れた気が存在するか否かを調べる。存在を感じた場合、「撫物」などの依代を使用し、「撫物」にこれらの鬼気を依り付け、四界の境界の外に出てもらったのである。
『延喜式14』の「畿内堺十処疫神祭」では、「撫物」に人形(ひとがた)として、金銀人像が使用されている。『延喜式』では、金装横刀二口、金銀の人像2枚、烏装横刀六口が用意され、東西文部が祓刀を上り、祓詞を読むと記されている。呪言では最初に陰陽道の主な神15を述べ上げ、銀の人像、金刀を献じて、穢れを除き、長寿を祈願する。
ここで注目すべきことは、銀の人像は災禍を取り除く(『延喜式』の呪言では銀人を捧げ、災禍を除き、金刀を捧げ、帝祚を延ばすことを請うとなっている。)「撫物」であるなら、金の人像はどのような役割を担っているのかということである。陰陽道的な発想から考察すれば、金の人像は陽を表現し、銀の人像は陰であり、二つが一つとなって初めて、穢れを消し去り、福をもたらすと考えることもできよう。この場合、刀も二服あり、元来は、金および銀刀または烏刀と対であった可能性もあり、この「疫神祭」はまさしく、銷災致福の呪術としての機能を持った行事であったと思われるのである。
朝廷側の「御霊会」を考えるとき重要なのは、このような陰陽道の朝廷周辺の人々への影響力である。貴族政治の担い手達は、陰陽道的思考のもとで、この祟りを考えていた。触穢の意識や災異思想の中で御霊を考え、「個」や「社会」に祟るものとして恐れた。
国家の最高権力者、最高の祭司者として天皇はその頂点におり、罪、穢れを総て引き受け、祓う役目があった。
その例として『三代実録』貞観五年(863年)の神泉苑における「御霊会」の史料が挙げられる。「天下以爲。此災。御靈所生也。始自京畿。爰及外国。」という表現は、御霊が成す災いは、京都から派生していると述べているのである。だからこそ『三代実録』の貞観七年(865年)六月十四日の条では、「(前略)禁京畿七道諸人寄事御霊会。私聚徒衆。走馬騎射小兒聚戯不在制限。(後略)」とし、民衆が「御霊会」を行うことを禁じたのである16。
実は、朝廷は「御霊会」だけを禁止しているのではない。『続日本紀』によれば、宝亀十一年(780年)十二月十四日の条に「(前略)此來無知百姓。搆合巫覡。妄崇淫祠。蒭狗之設。(中略)宜嚴禁断。如有違犯者。(後略)」として、淫祠を禁止し、集まる者に対して、罰則を設けてもいる。淫祠とは、度を過ぎて天に哀訴し、祝祷することを意味し(『字統』白川静平凡社)、過去には、天平二年(730年)九月二十七日の条にも「(前略)安藝周防國人等妄説禍福。多集人衆。妖祠死魂。有所祈。又近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人。少乃數千。如此徒深違憲法(後略)と見える。
天平勝寳四年(752年)八月十七日の条には、「捉京師巫覡十七人。配于伊豆。隱伎土佐等遠国。」となっている。これは、慶雲二年(705年)十二月十九日に定められた「令天下婦女自非神部齋宮々人及老嫗。皆髻髪。語在前紀至是重制也。」に則していると思われる。
このことは、巫覡達が髪を伸ばしていた事も考えられ、中世の境界に住む人々、例えば、髪を延ばしていたことで男女供大人になっても、八瀬の童子と言われた京都八瀬村の住人の役割を考察する上でも、非常に興味深い。また一方では、大宝元年(701年)に施行された僧尼令で、僧尼身分の異動と寺院以外での宗教活動の制限、官許を得ないで出家する私度僧を認めず、民衆教化の禁止など僧尼の民衆への接触を極端に畏れていること、陰陽道に詳しい僧侶達を還俗させ、官僚機構に組み込んでいることなど新進の大陸技術である陰陽道の民衆への浸透を恐れていることもよくわかる17。
もう一つ重要なことは、この「御霊会」が神泉苑で行われたことである。神泉苑は、延暦十九年(800年)七月に天皇の行幸があって以来、苑池での三月上巳の曲水の宴、相撲、重陽の祭りなどにも用いられた。空海が善如竜王を勧請、雨乞いの修法をしたという伝説もあり、神泉苑は請雨修法の道場とされている。「御霊会」が行われた場所と同じ場所で、様々な呪法が行われた形跡があり、神泉苑は、公的な呪術の場となっていた可能性もあるのではないだろうか。
『日本略記』には、天長二年(825年)閏七月十九日の条で、「令宮中左右京五畿内七道諸國。講説仁王般若経。承前之例也。咒願文者。豫仰當時達文章者作。小僧都空海被配東宮講師。」とあり、天長四年(827年)五月二十一日の条では、「遣使畿内七道諸國走幣祈雨。一百僧於大極殿讀大般若経三个日。」及び、五月二十六日の条では、「命小僧都空海。請佛舎利内裏。禮拜灌浴。亥後天陰雨降。數剋而止。濕地三寸。是則舎利靈驗之所感應也。」となっている。
『高野大師御広伝』では、「炎旱のため神泉苑に請雨経法を修し、善如竜王を勧請し、雨があったため、小僧都に任命された。」となっているが、上述したような正史の資料には、この祈雨作法が神泉苑で行われたという記載はない。しかし、その後、正史では、貞観十七年(875年)、6月15日の真雅僧正以降、たびたび、真言宗の秘伝である祈雨作法が神泉苑で行われたことが記されている。
ここで問題は、このような祈雨が何故仏教的色彩に彩られているかということである。仏教伝来以来、朝廷は仏教を鎮護国家のための新しい技術と考えていたことを、既に拙論「古代の呪術とその分析」(修士論文、名古屋大学大学院国際言語文化研究科)で分析した。そして元来、『法華経』や『華厳経』にも攘災招福を祈る密教的な思想が存在し、7世紀頃『大日経』および『金剛頂経』などは、このような除災招福を祈る現世利益的な形で儀礼、呪法として集約され成立している。従って、日本における二大仏教である天台宗、真言宗もこのような現世利益を背負った形で存在していたのである。
具体的にこの問題を考察する場合、特に重要な人物は道鏡(宝亀四年、772年没)であろう。彼は、陰陽師を後々輩出する弓削一族の出身であり、北辰菩薩妙見呪、太白仙人呪などを含む『陀羅尼集経』や『大金色孔雀王呪経』などに詳しく、特に後者は祈雨止雨に効果があるとされていた。また『十一面観音呪経』も道鏡が写経させており、この経は障難抜除に優れているといわれている。
彼が宮廷で重要な地位にいた時代に、このような密教的影響が朝廷陰陽師達に伝わったと考えることも可能であろう。高山寺所蔵の『宿曜占文抄』では、彼が宿曜秘法を孝謙天皇に伝授し、病を回復させている。陰陽道と仏教がどのように結びつき、中世の思想を形成していったかを考察することは非常に重要であり、将来の研究課題としたい18。
さて、このような雨乞いでは水の神様として、龍が大きな役割を果たしており、龍は雷神でもあり、古代中国では龍は太鼓、舞楽、音楽をも創作したとも考えられている19。
後の『太平記』十五巻や『お伽草子』の俵藤太の竜宮訪問でも鐘の宝物を貰った話になっており、その説話の中では、龍は大蛇になって勢多橋に横たわっていた。また神泉苑で行われた三月上巳の曲水の宴などは、唐代に中国でも行われていたが、元々は桃の咲く頃に水辺で行われた招魂続魄であり、豊饒を祈願する農事儀礼でもあった20。
この項では、宮廷で行われた「御霊会」に関して幾許かの分析を行った。次項では、民衆側の「御霊会」を考察し、相違点、類似点を分析することで、「御霊信仰」の成立の原点を掘り起こしてみたい。 
3.民衆側の「御霊会」及び朝廷側の「御霊会」との接点
朝廷で行われた「御霊会」と同じ名称で、民衆側が「御霊会」を開催していた資料もいくつかある。二つの「御霊会」は同じ趣旨で行われていたのだろうか。『祭神御事暦等取調書草案、祇園社本縁録』の貞観十一年(870年)には、「(前略)同十四日、率洛中男児及郊外百姓而送神輿干神苑以祭焉。是号祇園御霊会爾来、毎歳六月七日十四為恒例矣。」とある。この資料からは、多くの民衆が祇園社に集まり、御輿を担いで祭りを毎年行っていたことがわかる。それ以外にも上述した『三代実録』の貞観七年(865年)六月
十四日の条には、「(前略)禁京畿七道諸人寄事御霊会。私聚徒衆。走馬騎射小兒聚戯不在制限。(後略)」とあり、よくある祭りの風景が描かれている。このことから、畿内の多くの郡や郷などで地域単位の「御霊会」が開かれていたことが推測される。
少し時代は下るが、『今昔物語』「巻二十八第七近江国矢馳郡司堂供養田楽話第七」では、以下のように田楽を行い、笛を吹いたり、拍子を叩いたり、ささらを鳴らしたりして「御霊会」のイメージとは大きくかけ離れたものが行われている。田楽を行うのは、五穀豊穣を祝うためである。「(前略)而ル間。此ノ田楽ノ奴原、或ハ馬ノ前ニ打立チ、或ハ馬ノ後ニ有リ、或ハ蕎平ニ打立チテ打行ク、然レバ供奉『今日ハ此ノ郷ノ御霊会ニヤ有ラン。』(後略)」。
ここで、豊饒儀礼の祭祀の特徴を箇条書きで記載すると以下のようになる。
一激しい音を出すこと(叫び、物を叩く)。
一神輿などを激しく揺り動かし、豊饒をもたらす神を呼ぶ。祭り後、神を送る。
一祭りの際の性的シンボル:アルコール、食物などの過度の採取、乱交、抑制の解放、男性性器、女性性器を思わせる物の存在。
一丸い物の存在:餅、団子、豆などまたそれらなどで作った食物。
一火、水、塩、泥など浄化作用を持つと考えられているものの存在。
一沈黙21:祭りの最中、互いに話すのは、タブーとされている祭が多い。また、「直会」時に、それまでの沈黙に反し、声を立て騒ぐ。
祇園祭り(天王祭)は、全国でも勇壮な祭りとして知られ、京都の八坂神社や愛知県の津島神社、兵庫県の廣峯神社、品川区の天王社などで激しい水掛けなども行われ、神輿が海に投げ込まれたりもする。これらの祭りは、旧暦で言えば、15日を中心として行われる水祭りであるが、氏神の前で茅の輪くぐりをするなど祖霊信仰と関係していると思われる。
『釈日本紀所載』の「備後国風土記逸文」では、須佐之男神は貧しい旅人を装い、家を訪ねる。豊かな巨旦将来は、一晩の宿を求めた身なりの貧しい旅人を、追い出したのに対し、その兄、蘇民将来は一夜の宿を貸し、決して粗末に扱わなかった。その後、疫
病が広まった時、弟一族は全て死に絶えたが、兄一族は疫災を免れ、代々栄えたと言う。
「汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は、免れなん。」須佐之男神は、疫病神、豊饒神、水神、農業神そして豊穣神と見なされ、『記紀神話』では、天照大神の弟として、天上では悪、罪、穢の象徴ではあるが、天上から追放され、降り
立った出雲国では祖霊神とみなされている。
また『常陸風土記』の筑波郡の条に新嘗の夜、神祖が訪ねてきて、一夜の宿を求め、福慈の岳で拒まれ、筑波の岳でもてなされたとある。「是をもちて、福慈の岳は常に雪ふりて、登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて、歌ひ舞ひ飲み喫ふこと、今に至
るまで絶えざるなり。」
従って、両者の「御霊会」の相違として注目されるのは、朝廷側の「御霊会」に神輿などに代表される依り代が見当たらないことである。これは、民衆側の「御霊会」が祖霊神を呼ぶ神祭りの儀式であったからではないだろうか。疫病が蔓延したとしても、神話に見られる祖霊神の来訪であり、そのための神輿であったことが想像される。また歌舞や飲酒また大声を立てる22など豊饒祭祀には欠かせないものもあったであろう。
しかし、朝廷側の「御霊会」がおこなわれた神泉苑で、祈雨を請う儀式が行われた事実は、現実に旱魃などで困っていただけでなく、津島神社などの激しい水掛けにも代表されるような水神=祖霊神を修法で呼ぼうとしたという可能性も考えられる。朝廷での「御霊会」開催日時と祈雨を請う儀式の日付が非常に似通っているからである。また上述した「御霊会」の初見の資料の中でも、散樂や舞い、音楽なども行われていることから神輿などに代表される依り代はなくとも、神を呼ぶ儀式であったとも想像できる。
さて、ここで古代日本文化のなかには、死んだものを祀る例は存在していないことに注目したい。日本の『律令』は、唐の『律令』を模倣し、『近江令』から始まり、『大宝律令』で法典として完成した。現存している『養老令』の注釈本、『令義解』のその第六編、「神祇令」の中に祠令がないと井上満郎氏は指摘している23。「神祇令」は、国家が、どのような神を祭るか定めたものだが、他は、全く中国のそれの模倣なのに、天神(天津神)、地祇(国津神)は存在しても、個人の魂を祭るための「令」、「祠令」が無視されている。従って、当時、廟を作る観念は発達していなかったと解釈できる。つまり7世紀後半には、魂の個別性に関する意識が存在しなかったことになる。
従って、朝廷の行う「御霊会」のなかに内包されている「御霊神」への信仰は、「個」の意識は存在し始めていたとしても、祖霊信仰と少なからず習合した信仰とも考えられる。そして、このような水神や豊饒に対する呪術の場が、「御霊会」が行われた場所と同じであることも何らかの繋がりがあるのではないだろうか。
この問題を解く鍵は、『記紀神話』の、祟神天皇の時代、疫病で人々が飢え、苦しみ、その原因がある神の「タタリ」であるとしてその名が挙げられている大物主神(意富美和之大神)であろう。この神は、三輪山伝説24によると、蛇体の神であり、岩窟に居住していた。崇神天皇が、大物主の子孫の大田田根子を探しだし、この神を祭らせたところ、疫病が治まり、天下が安定したという。この神は蛇体ということで、雨の神・雷神でもある。蛇は、水辺や湿地帯に生息し、水の神またはその使者と見なされ、雨乞いの対象
となり、雷神とも見なされたのである。
長野県の諏訪神社などでも藁蛇を作り神社に飾るのは、祭神が蛇であったためと考えられる。吉野裕子氏によれば、諏訪神社で行われる「御室御占神事」では旧暦12月22日から翌3月寅日まで諏訪上社の前宮境内にある竪穴住居の中に藁製の大蛇が据えられ、この蛇の前で占により、氏子を決定するという25。また蛇はその頭部が男性性器に似ているところから男根自体を象徴し、豊穣をもたらすとも考えられている。従って、蛇が一族の祖であると言う伝承(九州・緒方一族、越後・五十嵐一族など)も多く、この三輪山伝説も『古事記』に神婚説話を残している(「神武段」勢夜陀多良、「崇神段」活玉依昆売)。
蛇信仰には、このような父系的要素以外に母系的要素も見受けられる。『今昔物語』の中にみうけられるように26蛇が女性を指す場合も多い。これは、蛇がとぐろを巻いた状態が女性性器を思わせるところから来ているという説も存在するが、脱皮することによって、新生を得ることと子供の出生を脱皮になぞらえた再生思想が古代に存在したという見方もある。
ところで『山城国逸文風土記』の賀茂社創設つまり山城国の祖霊神は水神・雷神である。「可茂というは、日向の曽の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古いの御前に立ちまして、大倭の葛城山の峯に宿りまし、そこより漸に遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河の随に下りまして、葛野河と賀茂河との会う所にいたりまし、加茂川を見はるかして、言りたまいしく、『狭小くあれども、石川の清川なり。』とのりたまいき。よりて、名づけて、石川の瀬見の小川という。その川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき。その時より、名づけて賀茂という。賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみあいて生みませるみ子、名を玉依日子といい、次を玉依比売という。玉依比売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。(中略)いわゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に座せる火雷神なり。」
このように、朝廷側の「御霊会」においても水神、雷神と思われる京都の祖霊神が関係している可能性も十分あるのである。また、「御霊会」の目的が官民両方とも祖霊を祀るという同様の趣旨なら、「御霊会」が行われる時期も非常に重要だと思われる。朝廷側の「御霊会」は、文献上の初見の史料では、五月二十日に神泉苑で行われた。また民衆側の「御霊会」は、六月七日から十四日である。時期もほぼ同時期である。太陽太陰暦の暦では夏至の頃である。
さて、ここでは、その反対の冬至の儀式を考察することで、この問題を分析してみたい。宮中で、11月23日に執り行われる新嘗祭、元来は、「にいあえ」と思われ、新しく収穫された穀物を饗(あえ)、つまり神に供え、共食する祭りであり、民間では、石川県につたわる行事「アエノコト」などがその代表的な祭りである。『令儀解』にも上卯相嘗祭の規定が見える。その前日執り行われる魂振りの祭儀では、天皇、皇后の御魂を鎮め、活力を与え、御代長久を祈り、活力を与える。魂結び(霊魂が身体から遊離していくのを鎮め、とどめる呪術)、鎮魂(たましずめ:魂を落ち着かせ、鎮める呪術)があり、肉体から遊離とする魂や肉体から遊離した魂を肉体に落ち着かせる。
このような「タマ27」は魂および魄と記し、魂が陽に属する気であるのに対し、魄は、陰に属する気なのである。古代中国においては、魄は死者の霊魂を意味し、魂は陽の気であり精神を、魄は陰の気で肉体をそれぞれ司り、人間の死後、魂は、天に昇り、神となり、魄は、地に降り、鬼となる。しかしながら、この「魂・魄」のそれぞれは、神霊的な存在であり、生者に祖霊として禍福をもたらすものと考えられている。
従って、特に陰陽のバランスが崩れる季節のその変わり目(冬至、夏至、春分、秋分)にあるいろいろな祭儀も、元々は、この「魂・魄」を鎮めるため、祀るために必要だったと思われる。以上のことから、夏至に行われるこのような「御霊会」も、先祖霊の来訪儀礼や「魂・魄」の安定化を懇願する儀礼であったと推測するのである。
実際には、公的行事として、夏至を祀る儀礼はない。しかし、この前後に行われる祭りは、水神祭、夏越しの祭り、大祓など冬至の祭りと類似点も多く、水辺の儀礼、先祖儀礼、豊饒儀礼、病魔退散などと関係している。ここで、朝廷側の「御霊会」と民衆側の「御霊会」は同じ主旨であったのかと推定もできる28。
しかし、ここでは、敢えて、朝廷側の「御霊」を「ごりょう」と呼び、民衆側の「御霊」を「みたま」と呼ぶことにする。民衆側の「御霊会」は先祖霊を祀る祭りであると考えるからである。また、反対に朝廷側の「御霊」を「ごりょう」と記すのは、朝廷側は「個」としての怨霊の復讐を慰撫するのが本来の目的であったからである。
「御霊信仰」が成立するためには、祖霊信仰との習合が必要であったという条件からこの問題を分析するために、京都という都市の成り立ちから考えてみたい。都は平城京から長岡京へ延暦三年(784年)に遷都し、長岡京造営に功績があり、早良親王も事件に関わった藤原種嗣が暗殺されたため、延暦十三年(794年)には、平安京に都を移している。その急な造営のため、京都は大幅に人口が増えたと思われる。それは、百姓だけでなく、地方の豪族も多数移住していった。村山修一氏によると、延暦十五年(796年)から仁和三年(887年)の間に正式に京戸に貫付された地方豪族の数は、正史に現れただけで約443名に達すると述べている29。
それだけではなく、『類聚三代格』巻十九、寛平三年(891年)九月十一日の条によると、非合法的に京都に移り住み、賄賂を使って、住民になった者が多かったことが分かる。また当時の制度では、京都、畿内の百姓の負担が畿外より軽いため、京畿に流入する百姓の数も相当多かったと思われる。貴族達は、延暦十九年(800年)十一月二十六日に、京畿に流入した百姓を戸籍に貫付することを禁止したことからも想像できよう30。
こうした流入は、京都を急激に都市化した。しかし、流入した彼らは、それまで住んでいた祖霊神と土地が結びついた一つの社会から離れ、祖霊神の庇護もなかった。祖霊神とは、家族や血縁集団の守護神的属性をもつ先祖と見なされる霊魂である。勿論、このような守護神的属性をもつ先祖神は、同時に疫病神的性格も合わせ持つ。そこで、京都に流入した人々にとっては、疫病を接点として、疫病をもたらす神が祖霊的な性格を持つ神とみなすようになったとも考えられる。
異界で無残にも死んでいった人々の怨恨の「魄」は、祖霊神を持たない京都の新しい民衆にとって、疫病神として畏れながらも、新しい土地の神と考えたのではないだろうか。上・下御霊の両神社も京都御所の「産土神31」として重要視され、公的にも当時の朝廷に認知され、民衆にも親しまれているのもこのような思想の影響があると思われる。
ここに、二つの階層の接点が考えられる。「御霊信仰」が「個」の意識なしには、ありえない政治的な祟りという面だけでなく、疫病神的祖霊信仰に近い面も併せ持つ理由が想像されるのである。
2項で上述したように、古代中国文化のなかには、死んだ「個」の霊に対して廟を作り祀ることは在っても、「御霊神」のように死んで祟るものを祀る例は存在しておらず、朝廷の行う「御霊会」のなかに内包されている「御霊神」への信仰は、祖霊信仰と習合した信仰である。そして、それが、あくまでも、「個」の霊に対する恐れの信仰であったことが「御霊信仰」の重要な要素である。また、都の新しく移住して来た民衆にとっては「御霊神」も祖霊神と同じ性格を所持する存在と認識されていたはずである。
「御霊信仰」には、祖霊信仰と同じく両義的な性格が際だっている。神は、優しく豊饒を約束する存在でもあるが、同様に厄災をもたらす存在として、畏れられもする。従って、民衆にとって、御霊を慰撫する儀式は、疫病神、祖霊神を慰撫する古代からの祭儀に近かったのだろう。このような状況の中から「御霊信仰」が成立して来たのではないだろうか。
そこで、ここでは「御霊神」になるための条件と陰陽道との関係について考えてみたい。前項で指摘したように、彼らは全て、権力者達の生活・文化基盤の外、つまり異界の地で死んでいる。このような異界に関しては、既に拙論「境界神と飛礫の呪術」『言葉と文化第2号』名古屋大学・国際言語文化研究科・日本言語文化専攻(2001年)で詳細に分析した。境界神は、死と再生の儀礼の中心的な役目を持ち、此岸と彼岸、この世と他界を結ぶ役目を担っている。つまり生者の世界と死の世界の中間に位置し、この二つの異質な世界をつなぐ役目を果たしていると分析している。このような境界神は「道祖神」と習合し、また『記紀神話』のなかで天孫した神々の道案内をする猿田彦と同一視され、豊穣を約束する神なのである。
『本朝世紀』天慶元年(938年)九月の条に、京の街頭で、大路小路の巷に陰陽の性器を彫って色彩した男女の人形を対向して立て、弊束や香花を捧げるとある。この神は、疫病から村を護る役目をも担っている。「(前略)児童猥雑、礼拝慇懃、或棒弊帛、或伴香花、号曰岐神、又称御霊。未知何祥。時人奇之。」ここでは「岐神」つまり「道祖神」は、御霊とされてしまっている。
民間では、「道祖神」は悪霊だという習俗もあり、左義長の火祭りでは、火に投げ捨てられることもある。これも祖霊信仰の一側面であり、『今昔物語』「巻十三天王寺僧道公、誦法花救道祖語第三十四」の中では、行疫神の先導役も務めている。「(前略)曉ニ成ル程ニ、道祖返リ来タリヌト、聞ク程ニ、年老タル翁来レリ、誰人ト不知ズ。道公ニ向テ、拝シテ云ク、『(中略)此ノ多くクノ馬ニ乗レル人ハ行疫神ニ在マス。國ノ内ヲ巡ル時ニ、必ズ翁ヲ以テ前使トス。若シ、其レニ不共奉ネバ笞ヲ以テ罵ル。此ノ苦、實ニ難堪シ(後略)』。」
このように境界神は疫病神との関係も深く、豊穣との関連性もあるように、生きている人間世界と彼岸つまり死の世界の中間に存在し、この二つの異質な世界を繋ぐ役割を担っているのである。従って、陰陽道の呪術として、疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、それを祓う呪術が存在し、京都という天皇を中心とした日常の場所以外で,つまり境界の外で御霊となる人々が死んだからこそ、疫病を流行らせる祖霊神的怨霊「御霊神」として認識されたと思われる。 
4.結語
貴族達は中国文化の影響を受け、「個」の意識を認識し、やがて御霊が天災、疫病などで自分達に祟っていると意識し始めた。陰陽道の呪術には疫病、悪霊、凶を「穢れ」とし、祓う呪術が存在し陰陽師が御霊を祓うようになった。「穢れ」を祓うというのは、社会生活基盤の外、異界へ帰ってもらうということである。朝廷は「御霊会」を開催したが、民衆も既に「御霊会」と朝廷から呼ばれるものを行っていた。そして、この「御霊会」が一つの接点となり、「御霊神」と呼ばれる神が生まれた。「御霊信仰」とは、貴族側から見れば、個の「祟り」を鎮めるものであり、民衆側から見れば「御霊神=疫病神=祖霊神=産土神」である。
しかし、朝廷側には、2項で分析したように、民衆側の祖霊神=疫病神的発想は「個」の意識を除いては既に持っていた。そのような両方の接点から「御霊信仰」が成立したと考えられる。ここで、「御霊会」が行われたとされる公的資料に見られる日付にも注目したい。朝廷側の「御霊会」の日付は正しく夏至の頃である。一方民衆側の「御霊会」の日付は、現在のお盆、つまり祖霊が戻ってくるの日付と合致する。この興味深い事実は、将来の研究課題とし詳細に分析したい。
さて陰陽道は元来陰陽の均衡を追及する呪術であった。従って、京都の上御霊・下御霊の両神社に祀られる御霊神は、敵を倒し、その敵を祀ることでその土地の守護神とするようなヨーロッパ的な発想はないといっても間違いないであろう。「御霊神」の出発点は朝廷側にとっては、「個」の怨霊=陰であっても、陽との均衡が保てれば、やがて民衆側の京都という都市の祖霊神的没個性の中に埋没していってしまうであろう。
しかしながら、陰陽道には上述したように仏教の影響もあり、「個」の怨霊=陰は、魂の浄化を待つといった形で解決されていったのかも知れない。ここで例として、「追儺」を挙げる。「追儺」は悪鬼を払い、疫癘を除く新年を迎える儀式で大儺や儺とも言う。『和漢三才図絵』によれば、「秦中歳事記」の一巻に「歳除の日に儺する。鬼神の状をした二老人をつくり、儺翁、儺母という。」とあり、『周礼』では、「方相氏という呪師が熊の皮をかぶり、黄金の四つの目のある面をつけ、玄衣、朱裳を着け、戈を持ち、盾を掲げ、疫鬼を追い出した。」とある。また、『公事根源』に「大舎人寮が鬼面をかむり、陰陽寮が祭文を読み、上卿以下が鬼を追う。」とある。『延喜式』では、大舎人寮の舎人が鬼、大舎人長が方相氏となり、『周礼』の古制にならっている。
実際、民衆文化として残存している「追儺」の儀礼には、大鬼、小鬼または大儺、小儺の存在など陰陽の均衡が取れている例が多い。しかし、朝廷の「追儺式」では、やがて、元来「穢れ」を祓う役割を担った方相氏が鬼と見なされ、追い出されるなど『周礼』から変化し始める。この儀式では、方相氏が鬼面を付けて行うため、仏教的な鬼の観念から、鬼を嫌う方向へ儀式が変更されていった可能性もあるのである。
他の例として、「神祇令」の成立には、『大唐開元令』の影響があるが、日本側には中国側にない肉食禁止の規定がある。また『令集解』(九世紀後半成立)には、「穢悪」について、「(前略)或余悪謂佛法等並同者。(後略)」とある。しかし、『令義解』(九世紀前半成立)には、「謂。穢悪者。不汚之物。鬼神所悪也。」と記されているのみである。
このように、中国古来の陰陽道的な祭祀の中に、陰陽寮が受けた仏教的影響度を詳細に掘り起こすことで、陰陽道の日本的変化を考察することを将来の研究課題としたい。このことは、「御霊神」に対する朝廷側の発想を再度考察、分析することにも結びついていると考えている。 

1『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻105〜106ページ雄山閣出版1984年
2『我が国民間信仰史の研究(二)宗教史篇2』463ページ創元社1953年
3『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻38ページ雄山閣出版1984年
4神泉苑は、大内裏の東南にある広大な圓池で、禁苑とされており、延暦十九年(800年)七月に天皇の行幸があって以来、苑池での三月上巳の曲水の宴、相撲、重陽の祭りなど様々なことに用いられた。
5御霊を祀った神社である。上御霊神社には、早良親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、他戸親王、吉備真備、菅原道真、井上内親王、下御霊神社には、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、吉備真備、菅原道真とそれぞれ8人ずつ祀られており、八所御霊と呼ぶ。創建は、平安初期である。
6藤原家の権力拡大の邪魔になる吉備真備を除こうと太宰府で挙兵、肥前で斬殺(740年)。
7他戸親王は、井上内親王の子供、宝亀二年(771年)皇太子になるが、光仁天皇の呪詛事件に絡んで大逆の罪により宝亀三年(772年)皇太子を廃され、翌年、大和国に幽閉、(775年)獄死。
8吉備真備は、橘諸兄に重用されたが後に九州に左遷され宝亀六年(775年)死亡。
9菅原道真は、宇田上皇の重用により出世。醍醐天皇の時、藤原時平に次ぐ地位を確保、醍醐天皇を廃そうとした罪により昌泰四年(901年)太宰府に左遷、延喜三年(903年)彼の地で死亡。
10井上内親王は光仁天皇の妻で宝亀三年(772年)、光仁天皇の呪詛事件に絡んで皇后位を廃され、宝亀六年(775年)、息子(他戸親王)と同じ日に獄死。
11第十代の天皇で、『記紀神話』によると、大物主神などを代表とする多くの国津神を祭り、また天照大神を伊勢神宮に祭るなどして伊勢神宮と斎宮制の確立など王権と宗教の分離を行ったと見なされている。
12『記紀神話』の中で、三輪氏や賀茂氏の始祖とみなされ、玉依姫と蛇との間の子である。
13「疫神祭」の初見は続日本紀の宝亀元年(770年)六月甲寅の条「祭疫神於京師四隅、畿内十堺。」である。この祭りの形式は、延喜式に詳細に定められている。(巻三、神祇三、臨時祭、宮城四隅疫神祭と畿内堺十処疫神祭)1410世紀初頭(延喜五年905年)の成立だが、平安初期の禁中における年中儀式や制度をまとめたもの。
15皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、東王父、西王母、五方五帝、四時四気。
16『三代実録』貞観五年(863年)五月二十日の条では、「開苑四門。聽都邑人出入縦觀。」と述べ、神泉苑を民衆に開放し、行事を見物させている。一方では、民衆に「御霊会」を行うことを禁じながら、他方では、朝廷側の行事を見せる行為に呪術の独占を目指す政治的意図を感じさせる。
17拙論「穢れと結界に関する一考察」『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集第24巻第1号』2002年参照のこと。
18『続日本紀』の天平寶字二年(758年)八月十八日の条に「勅。大史奏云。案九宮經。來年己亥。當會三合。其經云。三合之歳。水旱疾疫之災。如聞。摩訶般若波羅密多者。是諸佛之母也。四句偈等受持讀誦。得福徳聚不可思量是以天子念。則兵革災害不入國裏。庶人念則疾疫癘鬼不入家中。(後略)」とあり、また宝亀五年(774年)にも同様の勅が出ている。このことからも、陰陽道と仏教の結びつきが見て取れる。
19『神霊の音ずれ』59〜86ページ朱家駿思文閣出版2001年
20拙論「穢れと結界に関する一考察」『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集第24巻第1号』(2002年)参照のこと。
21氏神神を祀る祭りに特に多くみられる。また石川県能登に残る「アエノコト」の神事や愛知県国府宮の「裸祭り」、京都の相楽郡の小正月における「忌籠祭」(祭りの続く3日間は沈黙を保つ)など沈黙を強いる祭りは多い(名古屋外国語大学紀要第2号拙著「鬼の分析」参照)。
22大声を立てる行為は中国古代の嘯との関係で将来の研究課題としたい。
23『御霊信仰』「御霊信仰の成立と展開」民衆宗教史叢書第5巻104ページ雄山閣出版1984年
24奈良県櫻井市北部にある標高467mの山。『記紀神話』には、多くの伝承が残されている。
25『蛇』「ミシャグチ神とその祭祀」198ページ法政大学出版局1989年。
26『今昔物語集』二十九巻第四十「此レヲ見ルニ、早ウ、我ガ吉ク寝入ニケル、マラノオコリタリケルヲ、蛇ノ見テ寄テ呑ケルガ、女ヲ嫁トハ思エケル也ケリ。然テ婬ヲ行ジツル時ニ、蛇ノ否不耐テ死ニケル也ケリト。」
27魂魄を表す「モノ」、「タマ」、「レイ」の分化の過程は、「古代の呪術とその分析」修士論文名古屋大学大学院国際言語文化研究科(2000年)を参照のこと。
28『令義解』(九世紀前半成立)では、「季夏月次祭謂。於神祇官祭。興祈年祭同。即如庶人宅神祭也。」となっているが、夏月次祭は、水神祭・名越の祭りを指しているのだろうか。今後の研究課題としたい。
29『日本都市の生活の源流』29〜37ページ関書院1953年
30『類従国集』「巻百五十九田地上班田」
31産土神は、元来は、生まれた土地の神の意味であり、氏神的な意味は存在しなかった。しか、後世共通化する。 
 
陰陽道の幻想

 

多くの人を惹きつけてやまない陰陽道ですが、その姿は大きく誤解されています。酔生夢死でも何度か触れましたが、ここで、まとめておきたいと思います。
まず最初に、陰陽師は、払魔師つまりエクソシストではありません。呪術師でもありません。その実体は、ただの占星術師でしかありません。現在では、夢枕莫のイメージからか、呪術、魔法のスペシャリストと言うイメージが与えられている陰陽道ですが、全くの間違いと言えましょう。
陰陽道の本筋は、暦法と占星術にあります。もちろん、術法が存在しないわけではありません。本来、密教とは、各宗教の秘術、秘技の事を指すのであり、キリスト教の密教はエクソシストが、仏教の密教は、真言が、道教には呪禁があります。古い書物などでは、陰陽道は日本独自。としているものもありますが、明らかに、道教とその呪術である呪禁をベースに組み立てられています。
非道い言い方をすれば、陰陽道の呪術は、借り物ばかりです。式神の使役は、巫げき、呪禁(ナタクが有名)、密教(護法童子)など、霊的存在を使役するのは、陰陽道よりも優れたものが沢山あります。符術は言うまでもありませんね。道教がその先達です。ただし、神社やお寺でいただけるお守りの類は、実は陰陽道の符から始まっています。
陰陽道の呪術を分類するなら、マテリアルマジック、つまり術具を使用した魔術に分類されます。符や丹といった、道教、中国魔術ですね。しかし、その呪術も、迷信と恐怖心を利用した原始魔術の域を出ておらず、体系化されていった、密教や神道にかき消されていきます。
安倍晴明の事例を見ても、怨霊や霊的存在と直接対峙することはまずありません。彼のする事は、呪詛返しであり、託宣であり、相手のかけた呪いの儀式、もしくは呪術の焦点具(呪いの元になるもの)を見つけだすことです。しかし、これらの能力も晴明自身の能力に依存しており、陰陽道の呪術とは、ほぼ無縁と言っても良いほどです。
また、陰陽道には、祟りをやり過ごしたり、怨霊などを寄せ付けないようにする為の、いわば予防接種的呪術しか存在しません。風邪を引かないように、するための方法は存在していても、ひいてしまったら医者に行け。と言う、家庭の医学の様なものです。医者、つまり、密教や神道に、ですね。
そもそも、陰陽師の仕事は、大きくは、儀式に最適な日程を、天体の運行から算出します。小さくは、その日の縁起の良い方向、悪い方を取り決めます。方違えと言われる参内方式ですね。もっとも、大きな仕事は、暦の作成です。この事からも、分かるように、陰陽道とは日本における占星術師であり、呪い師なのです。
しかしながら、暦を読む。と言うことは、古代では世界を読む。と言うことに等しく、それはまた、世界の法則、自然の理を解明するという事なのです。陰陽五行説は、アジアで生まれた共通の自然法則基礎理論であり、呪術を使用する必要はなかったはずなのです。

日本オカルティズムの源流である陰陽道は、陰陽五行説をもって、他の宗派に多大な影響を与え、またその理論を応用した、技術/産物である呪術を逆輸入し、自らを変革していったのです。冥府や死後の世界を持たない陰陽道は、仏教の冥界観に間借りし、仏教や神道は、その論理体系を吸収していきます。宿曜(仏教系占星術)や亀卜(神祇官の占い)などにも、陰陽五行の思想が流入しています。
オカルティズム、すなわち神秘学は、安っぽいおまじないの事ではありません。実は、世界の理を探り、精神世界の法則を見つけだそうとする学問であり、神秘学に身を置くものは、精神世界の数学者でなければなりません。学問的であったが為に、民衆の支持を得られず、武家社会になると、陰陽道は、朝廷というパトロンを失った学者のごとく、消えていきました。陰陽道は、宗教ではありません。陰陽道にあるのは、世界の法則を読むと言う、学術的な探求でしかありません。
最後にもう一度繰り返します。陰陽師はエクソシストではありません。魔法使いですらありません。そもそも、陰陽道は、宗教ではありません。陰陽道には、死後観も、冥府観もありません。厳密には、泰山府君(密教では閻魔天)が現世と来世を支配し、生命の長短を支配しているわけで、死後観や冥府観が存在しないわけではありません。
神道や道教、エジプトの古代宗教のごとく、現世と幽世の区別が無く、死者の住む世界として存在していたのかも知れません。一条戻り橋の逸話や、泣き不動の逸話を考えれば、納得は出来ます。しかし、安倍晴明が、天皇の原因不明の頭痛が、前世に起因している。と託宣を告げ、見事平癒したと言う逸話もあり、矛盾します。
現世と幽世の差が明確でない死後観の世界では、輪廻は否定されます。現世と幽世の差が稀薄であるからこそ、死後の国でも、生前の姿で生活していると信じられたわけです。住む世界を幽界、冥界に移しただけと言うわけです。そのため、死後も個人であり続けると考えられており、それ故に、キリスト教では輪廻思想を否定しているわけです。
ただ、平安期の優れた験力をもつ者たちの逸話は、全て安倍晴明と言う虚像に集束されていた(もしくは、陰陽寮の人間が意図的に集束させていた)ので、各宗派の寄せ集めになっている感じも受けますので、ドコまで信用して良いのかは、各人の判断次第でしょう。
泣き不動の逸話として進化した、安部晴明が行った泰山府君への祭祀がありますが、重病にかかった高僧の平癒を、弟子たちが晴明に依頼したが「病は重く、自分の命と高僧の命を交換しても良いと言う人間がいれば改めて祈祷してみよう」と言い、師から見放されていた最下僧が、志願。師も回復し、最下僧は死を待ったが、その兆候なく、晴明は泰山府君の計らいで一命は取り留めたと告げた。と言うもの。
コレは、言ってなんですが、吉本新喜劇のネタのごとく『適切な後継者を選ぶために、晴明と高僧が一芝居うった』としか、私には解釈できません。高僧と謳われているからには、死への恐怖などあるわけもなく、命乞いとも言える延命を望むような人物が高僧と呼ばれるでしょうか。入滅に際し、泣き叫び、恐れおののくのでは、僧侶とは言えません。
また、泣き不動の逸話では「汝が師に変わるというなら、我は汝に変わって冥府へ行こう」と不動明王が泰山府君の前に行き、不動明王と気がついた泰山府君が、その無礼を詫び、師と弟子は無事に生き延びる。と言う話になります。
コレはコレで、不動明王の方が上位に設定されており、陰陽道の失権を如実に現していると言えます。

ともあれ、私を含めた殆どの日本人が想像する来世観や、死後観と言ったモノは、浄土系仏教の手によるもので、もともと、どの宗教も死後観は、それほど重視していなかったのかも知れません。
しかし、呪いによって人を殺したり、泰山府君への祭祀で延命を施したりする割には、魂を冥府へ送り届けたり、彷徨っている御霊を鎮めたりと言う記述は、確認できませんでした。あくまで防御措置であり、結界というバリアを張るに過ぎないのです。橋姫の逸話も、正体は見破りますが、結局神社を建てて祀ることで解決します。
御霊を鎮められない。と言うことは、葬送儀礼を持たないと言うことであり、それはつまり、魂の安息を認めない。と言うことです。陰陽道には、怨霊を解脱/退去させるべき世界を持っていません。異世界からの力を現世で具現化する方法は知っていても、魂の安息地は持っていないのです。現世利益を追求する呪い集団と言えましょう。
あれほど、陰陽道に傾注し、陰陽師によって権勢を得た藤原道長さえ、晩年の死の床で願ったのは、極楽往生でした。陰陽道の泰山府君のもとではなく、仏教の浄土へ行くことに頼り、阿弥陀如来像と自分の手を糸で結んでまで極楽往生を願ったのです。それを考えると、やはり呪力を買って重用していたのではなく、その情報収集能力や間諜としての能力を買っていたのかも知れません。
現代でも占い師には、悩みや相談を平気でうち明けるものです。そうした政敵の情報を道長に還元していたのかも知れません。暗殺者と言うより、現代で言うCIAや諜報部局だったのかも知れませんね。
ともあれ、エクソシストや払魔師では無い。と言う証拠事例の一つとして、平安京の遷都を上げましょう。平安京の前。長岡京は造営途中で放棄されました。それは、造営の責任者藤原種継の暗殺を発端とした一連の事件にあります。暗殺の黒幕に仕立て上げられた早良親王が、延暦四年に抗議の断食にて絶命。その後、桓武天皇の近親者に不幸が続発します。
このことを陰陽寮の陰陽師たちは、早良親王の祟りであると進言し、自らが良縁であると算定した平安京への遷都を促すのです。本当に払魔師や悪魔払い師ならば、早良親王の御霊を鎮めるはずではないでしょうか?。吉凶のみを占い、平安への遷都を促した陰陽師たちは、中世ヨーロッパの宮廷に巣くった、無責任な占いで貴族達から金を巻き上げた魔術師達と変わりません。
そして、陰陽寮の役人、つまり陰陽師たちは、長岡京を廃棄し、平安京へ移り、早良親王に崇道天皇を追号させました。こののち、平安京を安泰させることで、自分たちへの権勢は確保され、また、陰陽師が政治へ介入して行くことになるのです。この時代の政治家達は、多かれ少なかれ、政敵を謀殺した事があり、恨まれているはずですから。
平安京が安泰をもたらし、政治が安定することで、陰陽道への迷信、噂は真実となり、原始呪術のごとく伝説が一人歩きを始めていくのです。つまり、貴族、平民を問わず、怨霊の祟りに対する恐怖心をあおり、それを防ぐことが出来るのは陰陽道であると言う迷信を植え付けることに成功したわけです。怨霊とは、すなわち生き残った(加害)側の恐れがあって初めて成立する存在です。陰陽師たちは自分たちで、怨霊を作り出し、払う。安定した仕事の供給元を得たわけです。
逆説的な事を言えば、利休の一言が、ただの湯飲み茶碗を名器にしてしまうように、安倍晴明の一言であらゆるものが呪いの焦点具になったと言えます。安倍晴明は伝説が一人歩きをはじめてしまい、元の姿が無くなっていると言えるでしょう。名も無き術者の伝聞が、安倍晴明と言う実像に吸収、と言うよりは陰陽師たちの巧みな宣伝によって、かすめ取られていったと言えるでしょう。
その証拠に、死が当たり前になってしまった武家社会では、陰陽道は活躍できませんでした。斬り殺すことが商売の武士達は、いちいち殺した相手のことを気にしていられなかったのでしょう。首級(相手の首)を床の間に並べて、武勲の誇りとしていたぐらいですから。
権力者と結び、地相を見たりしていましたが、平安時代のような権勢は得られず、本来の暦法、天文に納まっていました。権力者を操るのではなく、権力者に良いように利用されるようになっていったのです。突き詰めるならば、陰陽道の占星術は、仏教や神道に吸収されており、独自性を保てなかったと言えます。
結局、戦乱の世では、救いの手である本質的な宗教、仏教や、神道が尊ばれたのです。斬られて死んだらどこへ行くのか。斬り合いを常とする武士はそう考えたのかも知れませんし、平民達も飢饉や戦乱で荒れた現世に利益を求める気にはなれなかったのでしょう。平安貴族達も、死を感じ始めると、陰陽寮から仏教へ乗り換えていったようですが。老い先が見えた者には、占いでは救えないようです。

最後に、最近、テレビに出てくる陰陽師は、皆、偽物と言って良いでしょう。一応の正統は天社土御門神道に継承され、あとは民間呪術へ埋没していきました。私はいざなぎ流は修験に属すると思いますので。ですから、現状での陰陽師は新興宗教と同じく自称でしかありません。土御門の系譜なら、神職ですのでね。ほとんどの陰陽師は、修験(と言うか雑密)の技を使います。修験者と言うよりは、陰陽師の方が世間受けが良いからでしょう。テレビ局の作為というのも感じられます。「最強陰陽師」と言うタイトルなのに、明らかに真言密教系の尼僧が主役だったり、していますから。
特に、狩衣を着て現れる人は詐欺師と言えますね。「お前は何物ぞ」って霊に怒鳴ってましたな。こうした恫喝によって、相手に自白させる手法は、修験で良く行われる方法です。また、文語を使う必然性は、まったくありません。陰陽師ならば、ビシッと相手の正体を占いや、なんかで暴露して欲しいですね。
まぁ、被験者に信用して貰うための第一歩なんでしょうけどね。民間術者は、昔から心理カウンセラーでしたから。心霊現象、特に憑依に関するものは、多重人格の発露です。心理学用語で言う、シャドウが発現した状態といえます。その民族、宗教、文化に依存した形で発現するのは、患者の意識と知識によるものです。西洋では悪魔が多く、日本で怨霊や、キツネなどになります。
まぁ、信頼関係さえ、成立できれば、ただの飲料水でも癌は治るのですから(いわゆるプラシーボ効果)、多重人格の発露も治るでしょう。各種流派のある心理療法も、同じ症状なのにある人は快癒したのに、もう一人はダメ。と言うことはざらにあり、つまるところ無条件で、無意識層まで信頼しているかどうかによるところが多いようです。イワシの頭も信心から。よく言ったものです。
ま、逆に日本の心理療法師とか、精神分析医たちには、憑き物落としの技法でも見て勉強して欲しいです。説得や、説法をすることで、その人格を認め、整合していくわけですから。りっぱな心理カウンセラーと言えましょう(笑)。初見の医者を信頼するよりも、同門の聖職者を信用する方が、壁は低いでしょうしね。
ただし、注意していただきたいのは、ここで述べたモノは、狭義の意味での陰陽道に関してです。広義で捕らえるとなると、その思想や技術は、各宗教、呪術に深く影響を相互に与え合っているため、捕らえることが出来なくなります。故に、理としてでなく、技術として、術を使うモノは、全て修験と呼んで良い。私は、そう考えます。
なお、天社神道は、その名の通り神道ですので別物と、考えております。陰陽道そのものを見る。と言う観点ですので。 
暗殺者としての陰陽師
一つの仮説として、お読みいただけると大変助かります。
日本版道教とも言える、陰陽道ですが、日本で流布している間なのか、意図的なのかは分かりませんが、道教の根幹とも言える神仙思想、それに伴う不老不死の探求と言ったモノがそぎ落とされています。なかでも、西洋で言う錬金術にあたる、仙丹についてまったく切り離されているのは、不思議でしかたありません。
密教僧空海が入山、開山した山々のほとんどから水銀が取れることは有名です。密教の本流を中国から、日本へ移した空海ですから、密教においても丹の製造は、重要だったといえます。陰陽道は、鉱脈を密教に押さえられたため、仙丹作りから手を引いたのでしょうか?。日本へ私渡してきた道士の目的は、蓬莱山の探索にあったと思われます。そんな道士が、仙丹作りを知らないわけがありません。
秘中の秘として、隠蔽されたか、本来の仙丹とは別の使用がされたのではないか。水銀を服用するコトは、人を死に至らしめることが出来る。そちらに目を付けたのではないか。と言うことです。マテリアルマジックである道教を色濃く継いだ陰陽道が、丹だけ使用しないのは不自然です。
日本において、修験道と陰陽道とは不可分です。道教における修行法、つまり神通力や超常能力の修得法に特化したのが、修験道であり(そもそも、修験道とは、験を修する。つまり、験力、超能力を手に入れる為の手段です)、道教の呪いや占星術をそのまま引き継いだのが、陰陽道といえましょう。つまり、伝播の初期段階に、山岳に入り、修行を続けた道士と、街に入り占いで生計を立て始めたか、その違いだとも言えます。まぁ、山岳には、雑密を初め、他宗教の修行者達もいて、ごちゃ混ぜになっていくのですが。
つまり、山岳修行を禁止していた密教に較べ(寺を出て、山にはいることは、出世コースから外れることを意味する)、陰陽道の方が、山人たちと密接なつながりがあったといえます。
また、修験者と忍者は同根であると言う説もあります。険しい山道を常とする彼らは、里人からすれば、驚異的な身体能力を持っていたとしても不思議ではありません。山には危険も多く、獣をはじめ、野盗や追い剥ぎなども居たでしょうから、護身の為に体術なども身につけていたでしょう。薬草類にも詳しかったはずです。つまり、薬となる草も、毒となる草も知っていたはずです。
式神とは、これら体術系の山人であったのではないかと言うことです。独特の山中他界観を持つ日本人にとって、自分の住む場所から一山越えた先は、異世界、つまり魑魅魍魎が跋扈する魔界だったのです。そのため、見慣れぬ風体をしていれば、それだけで、異界の住人扱いをされていたとしても、不思議ではありません。
現に、上代吉野川上流にすんでいた穴居の土着民を国栖(くず)と呼んでいたり、土蜘蛛と呼ばれた妖怪も、実は穴居にすむ土着民(山岳民族)では無かったという説が浸透し始めています。
晴明が使役した十二神将の式神を、晴明の妻が怖がるので橋の下に住まわせた。と言う裏付けにならないでしょうか。また、絵画に記された式神は、なぜか大陸様式の衣装を着ていることが多い。と言うのも理由になりましょう。
陰陽道の呪術が、厄よけや結界張りがメインで、晴明にしても、呪詛返しや、呪詛を逸らすことしかしていないコトは「陰陽道の幻想」で述べました。そして呪術のほとんどは、相手方の無知や、恐怖心を利用した暗示であるコトも述べました。
しかし、暗示にかけるためには、相手が無条件で信用する実例や伝説が必要となります。日本で唯一の天文機関であった陰陽道にしてみれば、月食、日食を言い当てるのはたやすく、その始まりと、終焉を預言して行くだけでも、多大な効果を持ったでしょう。そして、それを築き上げるのに、一役買ったのが、仙丹では無いか。と言うことです。
藤原道長が、愛犬に救われた話も、出てきたのは二つの土器を合わせたもの。中に揮発性の毒が入ってたトラップだったのでは無いでしょうか。犬はその嗅覚で、危険を察知したのではないでしょうか。仙丹は、主に水銀を原料に作られます。水銀は猛毒です。それらの鉱物系の毒の知識に加え、草木系の毒の知識もあったでしょう。それを組み合わせれば、多少の誤差は生じても、納得できる範囲で、相手の死を予見できたのではないでしょうか。
つまり、加持祈祷は、迷信、暗示を増長するためのパフォーマンスにすぎず、その実、暗殺実働部隊である式神、ひいては山人、つまり忍者によって毒を盛られていたのでは無いでしょうか。別に天井裏に潜み、直接毒を盛る必要はありません。忍びの草のごとく、下働きを抱き込んだり、色仕掛けでいくらでも、服用させられたはずです。
水銀の服毒による症状は、水俣病患者と同じです。幽鬼のごとくやせ衰えて行く様は、悪霊に取り憑かれ、生気を失っていると思われても無理無いでしょう。
陰陽道には、危険だからかも知れませんが、呪いに関して、具体的な術のかけ方は知られていません。片鱗すら覗かせません。むろん、修験や、民間呪術に埋没してしまったから。と言うこともあるでしょう。しかし、元来陰陽道の呪文や儀式はいい加減なものであり、暗殺部隊の実働によって支えられていた。と言う理由にならないでしょうか?。伝えようにも、伝えることが出来なかったのかも知れません。
陰陽師自らが呪殺、暗殺を一つの売りにしていたのか、天変地異を予見し、吉凶を占い、世界の理を探求する陰陽道ならば、生殺与奪は得意に違いない。と思いこんだ貴族達の依頼を断りきれなかったからかは、不明です。ですが、売りの一つにするならば、マニュアルとも言える書の一つも出来ているはずでしょうから、苦し紛れに始めた。とする方が有力ではないでしょうか。
 
太陰族と太陽族

 

神話世界を二大トーテムの対立で分類する。
世界の神話を見ていると、どの神話にも少なからず共通項が存在することに気が付きます。その共通項の一つ、太陽族と太陰族(月)の対立構造で世界は成り立っている。と言う仮説を立ててみます。事例の収集が少ないため、論拠に乏しいところがありますので、反論など大歓迎です。
まず、太陽族とは、トーテム(ここでは、部族のシンボル程度の意味)を太陽に関連するモノを持つ部族です。そのトーテムとは、鳥(鷲や鷹が多い)、牛、菊の花、色として黄金、などがあげられます。日本に限定するならば、ご神体が鏡であることもあげられるでしょう。太陽はもちろん、風や雨の神とされることも多いのが特徴です。
続いて、太陰族は、トーテムに月に関するモノを持つ部族です。そのトーテムは、蛇、もしくは竜です。日本では、勾玉をご神体とする神です。水、銀と言ったものに関連する傾向があるようです。ただし、天から降る雨は、太陽神族のモノである。と言う認識なのか、雨は除外され、河川や海、湖と言った、地に貯まった水が支配領域となります。
さて、こうした対立構造を仮説するに至ったのは、各地で、鷲と蛇の対立の神話が存在することです。大筋は、よく似ていて、まず鷲の方がちょっかいをだし、蛇が反撃します。この後、蛇が勝つか、鷲が勝つかで、その神話を持っていた文化・文明が、太陰と太陽どちらよりの文明であったかを判断して見ようと言うものです。
また、直接的に、太陽神と月神の主従(どちらが年長であるかと言うこと)でも、例外が少なからず存在しますが、判断対象となるでしょう。
その一例に、バビロニアの「借り物の翼(世界最古の物語/H・ガスター/現代教養文庫805)」にも、見られます。蛇と鷲は仲が良かったが、鷲が裏切り、神の手助けをうけて蛇が逆襲すると言う粗筋です。「借り物の翼」では、この後エタナの物語と集合していくのですが、本来は、二編の物語だったのは明確です。
少し、東に移行して、インドでは、ガルーダ(鷲)とナーガ(蛇)の対立の物語があげられるでしょう。賭けに負けて、ナーガの母に隷属することになった、母を取り戻すためにガルーダは、ナーガと交渉。ナーガは、その身柄をアムリタ(不死の霊薬)と交換すると約束し、ガルーダは、ヴィシュヌの神殿に乗り込むのですが、捕らえられます。しかし、事情を話すと、ヴィシュヌの乗り物になるのならば、分けてやると言われ、ガルーダは承伏。ちゃんと交換するのですが、アムリタを飲む前に、沐浴した方が良い。と薦め、その隙にアムリタをももって逃げてしまう。
と言う筋書きです。ただし、アムリタは、葉っぱの上に数滴落ちており、それをナーガは嘗め続け、不死に近い力を得たと、となっています。また、葉っぱを嘗め続けたために、舌が切れ、二股になったとも説明しています。
インドでは、蛇(竜)は、トコトンいじめられています。ベルトにされたり、ロープ代わりにされるヴァスキ。ベッド代わりにされるアナンタなどです。
キリスト教は、もっと如実です。悪は蛇であり、竜なのは、実例を挙げるまでもないでしょう。ラハブ、サタン、リヴァイアサン、色々です。
カナアンでは、ヤムとバアルの戦いがあげられます。
日本では、天津神(大和朝廷)は太陽神の系譜であり、太陽鳥たる八咫ガラスを従えています。対して、出雲朝廷の神々(国津神)です。大国主が巨大な蛇とされることや(三輪山の神話)、出雲大社の神在祭の儀礼で、セグロウミヘビを神の使いとしているところからも、太陰族と認めて良いでしょう。
神話代の争いごとを列記していけば、鳥(鷲)と蛇(竜)の戦いであったことは、納得していただけるのではないでしょうか。神武東征にしても、八咫ガラスと言う鳥に導かれて勝利し、ティアマトを打ち倒して、マルドゥークは王となります。
ただし、これらの部族も、一枚岩ではありません。太陽神族には、鳥と牛、菊をトーテムにしていると書きましたが、おそらく、鳥ごとに異なる部族だったはずです。鷲や鷹、烏、と言った具合です。また、太陰神族も、蛇とまとめられていますが、数多くの支流が存在したはずです。
内部争いの様相を見せるモノもあります。例えば、モーゼの逸話では、モーゼがシナイ山で40日間の苦行(回峰行の様ですが)を終え、戻ってみると、黄金の牡牛像を祭るグループが、台頭しており、モーゼはそれを滅ぼします。コレは、菊花族と牛族の内部抗争だったはずです。モーゼの家紋は菊花紋ですので。
細かな派閥が存在していたモノの、二大勢力の対立構図であることは、御納得いただけたのではないでしょうか?。そもそもの設定、太陽神族が、鳥や牛、菊花をトーテムとする事を立証していないために、論拠は弱いですが。その辺りのことは、じっくりと煮詰めていきたいと思います。

余談ですが、不思議なことに、この蛇と鷲は、共通項目があります。この二つは、なぜか財貨の神とされることが多いのです。弁財天の象徴は、白蛇ですし、ナーガの出身地である地下世界も、宝石で彩られていると言われ、蛇の抜け殻を財布に入れておくと、財運がつく。と言う俗信もあります。
対して、鷲、鳥の方も、ヘルメスや毘沙門天など、財産の神とされるモノは、どこかに羽根、もしくは羽根をモチーフとしたモノを身につけている。とされます。
また、双方ともに、若返りや不死の象徴でもあり、蛇は脱皮を繰り返す事で、鷲もまた、羽根の抜け替わる事で、若さを保つ。と言われています。そのため、若返りの秘宝、「通常、魔法の草」を蛇が持っている。と言う設定になっていることが多いのです。
しかし、それでも財貨の神として崇拝される理由にはなりません。考えられることは、それらのトーテムを持っていた部族が、金持ちだったので、神話という物語にする際、揶揄されたのではないか、と言うことです。
また、蛇と薬草は切り離せません。薬草を不用意に摘もうとすると、蛇を驚かせて、噛まれてしまう、と言う警告かも知れませんし、ヘビ族が薬草に長けていたからかも知れません。
物語としての神話だけでなく、歴史書や教則本としての神話。と言う観点も忘れてはいけないでしょう。 
 
御厨

 

神領・社領
各地に神戸という地名があり、カンベ・コウベ・ゴウド・カムトなどと訓まれる。これらはいずれも古代の神戸があったところで、歴史的にはカンベと訓むのが正しい。また神田という地名も各所にある。神戸も神田もともに古代の神社の領地で、総称して神領といった。
神戸というのは、中央政府によって各神社に寄せられた封戸のことで、戸は家族の集合体であり、それが神社に直属せしめられたのである。その戸口(家ごと)から租庸調、つまり税と労役とが神社に貢進提供されるのであって、『令義解』に、神戸の封丁は社殿の修造およびその他の雑事に役し、租と庸とは神社の祭祀料と神職の俸禄等に充用するとある。
神戸が人を対象とするのに対し、神田は土地の領有形態である。とはいっても、神田は国家の公地(公田)をその神社に賃貸した地子田であり、厳密には私有地ではなかった。それがのちには半ば領有地として恒常化した。神田は御戸代田とも、神戸田地ともいうように、神戸の民または近傍の農民をして耕作させ、神社はおおむね生産物の二割を田租として徴収した。
このように、神戸と神田とは神社の経済を支える収入源であり、従って神社が、神戸・神田を支配する形も生れた。また、神戸の数が一郡にわたって広く存在してたところを神郡といった。神郡はその郡の租庸調の大部分が、その神社の収入となったから、あたかも郡全体が神領のようであった。令集解・延喜式などから神郡を拾うと、
主要大社と主な神郡
伊勢神宮/伊勢国度会郡・多気郡・飯野郡
安房神社/安房国安房郡
鹿島神宮/常陸国鹿島郡
香取神宮/下総国香取郡
日前国懸神宮/紀伊国名草郡
出雲大社/出雲国意宇郡
宗像神社/筑前国宗像郡
などがある。伊勢神宮の神郡は、度会・多気・飯野三郡を道後三郡、員弁・朝明・三重三郡を道前三郡といい、これに安濃・飯高両郡を合わせて八神郡とも称した時代があった。 
神領の変遷
平安時代中期以降、全国的に荘園が増大したが、それに伴って従来の神戸・神田は次第に有名無実となっていった。そして、有力な神社は進んでそれを私有化しただけでなく、皇室や中央の権門勢家たちが自己の所有する荘園をこぞって社寺に寄進することも盛んとなり、各地に神社の荘園が成立した。
神社の荘園のうち、やや特殊なものとして御厨・御園がある。御厨はミクリともいい、もとは神社経済を賄う台所を意味した。それがのちに神領をさすことばに転じた。とはいえ、史料的にみると御厨は、ほとんど伊勢神宮と賀茂神社とに限られている。そして、鎌倉時代初期の神宮雑例集によると、伊勢神宮の御厨・御園の数は全国で四百五十余処にわたったとあるが、同末期には千三百ケ処にも及んだことが知られる。御厨・御園からの供進物は米穀が主で、野菜・山菜・海草・魚介にわたった。賀茂神社の御厨も少なくないが、一般の荘園の方が多かった。
賀茂神社をはじめ、春日神社・石清水八幡宮など、著名な大社はいずれも巨大な荘園を全国にわたって領有するようになり、これらは例えば「春日社領何々荘」などといい、社領と呼ばれた。社領から貢上される収入が各神社の経済を賄ったのである。
社領は名目的には領地であるが、実際には一定の率に則ってその土地の生産物を収納するものであった。社領には武力はなかったので、鎌倉時代には社領保護のために、守護使の入部を禁じたりした。しかし、中世後期になると、在地の武士たちが社領を徐々に浸食し、さらに戦国時代には群雄によってその殆どが奪われていった。そして、これを決定的にしたのが豊臣秀吉の太閣検地で、社領はすべて没収され、代わりにいくばくかの所領(石高)を朱印地の名で別途に安堵されたのであった。
近世における各神社の所領は、一律に幕府または大名から「与えられた土地」として保有し、そこから上がる年貢を主財源として神社の経済は運営された。太閣検地によって没収、整理された社領は、あとを受けた江戸幕府がそれを追認しつつ新しく配分するという形で成立した。幕府からは将軍の名において「社領安堵の証明書」が交付されたが、それには将軍の朱印が押されたため、「朱印状」といい、またその土地を朱印領(正しくは朱印地)と称した。
主要大社の朱印領(石)
伊勢神宮42,000春日神社22,000日光東照宮10.000石清水八幡宮6,757出雲大社5,000駿河東照宮3,000賀茂御祖神社2,700住吉神社2,116鹿島神宮2,000大宰府天満宮2,000宇都宮二荒神社1,700新宮惣社1,320津島神社1,293金峰蔵王神社1,013香取神宮1,000戸隠神社1,000諏訪(上下)神社1,000南社宮1,000熊野三社1,000宇佐八幡宮1,000
朱印状に対して、大名が交付する券状を「黒印状」と呼んだ。それは、大名の黒印が押されたからで、黒印状による社領は黒印領といった。
このように近世における神社の財源は朱印領・黒印領であったが、有力な氏子や崇敬する町人・農民たちからの幣帛に代わる米穀・金銭の献納もあり、一般参詣人の賽銭も少なくなかった。また、著名な大社では、祭典などにあたって、朝廷・幕府・諸候から幣帛その他が奉納された。
時代の変革
明治になると、神社に国家の特別な保護が加えられるようになり、社地は国有地ながら、法人としての神社に管理が委ねられるようになった。しかし、神社は公共性を有するところから、財産の保管.出納については、内務省もしくは地方官庁が監督することになった。そして、伊勢神宮のみは政府直轄として維持管理され、その他一般神社では、地方官庁などからの神饌幣帛料のほか、賽銭・祈祷料・寄付金などの収入があり、これが祭典費・維持費・神職の俸給などに支出された。また、官国幣社は国庫から供進金を受けていた。
戦後は、神道指令によって、神社は国家管理から分離され、境内の国有地はその神社に譲渡されたが、一切の保護援助は打ち切られて自主運営に委ねられた。 
 
神仏習合 (神仏混淆)

 

土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。一般的に日本で神祇信仰と仏教との間に起こった現象を指すが、広義では、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象をも指す。以下、日本における神仏習合について述べる。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。 
仏教の伝来
552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)と『日本書紀』にはあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられている。
寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できる。 
神宮寺の建立
日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになった。715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望であったと考えられている。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を進めたのだと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在として見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。 
大乗密教による系列化
これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて確立しようとしていたが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来すると見られている租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院として認められることを望むようになってきた。
朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説を整えた中央の大寺院として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。
この一方で、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。 
怨霊信仰
他方で、このような密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担ぐことにより王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。
この動きは9世紀には御霊会の流行を引き起こしたが、これが神祇信仰に従来からあった怨霊祭り上げの風習に加えて、密教の側からの鎮魂も行われた点に神仏習合の類型を見ることが出来る。特に菅原道真の怨霊が天神信仰へと発展するに際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響であることを示している。
この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。 
ケガレ忌避の論理
このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた。
神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、清浄とケガレの二極が強調されるようになった。このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり物忌み中心に変わってきていることが確認されている。
神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗しこれと共生することを可能とした。10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として、神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる。 
本地垂迹説
しかし、浄土思想の普及は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった。仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)を取ってこの世に出現してくるという本地垂迹説は、このような仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる。絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。
また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった。
更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞(おおはらえのことば)の密教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の密教的説明の試みが活発化し、いわゆる中世日本紀といわれる現象が見られるようになった。
ただし仏教の天部の神々も元はヒンドゥー教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、それら土着民族の神々を包摂してきた歴史がある。仏教にはそのような性質が元々具わっていたことが神仏習合を生んだ大きな要因であった。 
神本仏迹説
鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には朱子学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。
しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。 
 
日本の宗教−神道と仏教の歴史的関係−

 

神仏習合(しんぶつしゅうごう)
日本固有の神祇信仰と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象。他文化と交流のある世界では一般的な現象のこと。たとえば、中国でも仏教と道教が習合し、寺院に神がまつられ、道観に仏が祭られることがある。
日本では千年以上のものあいだ複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。
神仏習合のはじまりは神宮寺の出現である。霊亀年間(715〜17)の越前国気比神宮寺や、養老年間(717〜24)の若狭国若狭彦神宮寺の建立はその先駆けをなす。
神を仏の鎮守としてまつったのは政治支配側の政策的なものであるのに対し、仏に対して神を低く位置づけるのは、一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものである。後発の仏教にとってすでに日本で広く信仰されている異教の神の祟りを抑えると同時に、髪に対する信仰をそのまま仏に対する信仰へと変化させることができた。
承平五年(935)のころ、筑前国筥崎宮の神を権現と呼び、寛弘元年(1004)ころ、尾張国熱田神社は権現とよぶ称するにいたった。
権現とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の先駆を示すものである。
奈良時代より御霊信仰が高まり、貞観五年(863)京都神泉苑の御霊会では仏教色が強く加わるようになった。以後、洛中・洛外にあらわれた多数の御霊社は、多くの旧来の疫神祭祀に密教徒が関与したものである。
中世には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、本地垂迹思想が徹底するところとなった。
明治元年(1868)、神仏判然令が出されて神社付属の社僧は復飾させられ、宮寺制は解体して習合体制は終わりをつげた。 
本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)
仏・菩薩が人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現われるという教説。このように形而上の存在であるはずの仏が現実の世界に姿形をとって現われるという思想は、大乗仏教の教論に広くみられるものであった。
日本における本地垂迹説は、聖武天皇の時代にまでさかのぼる。朝廷は、高度な外来文化としての仏教を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和しようとしたが、神仏習合の思想としての本地垂迹説が、一般に広まるのは平安時代も中期以降のことと考えられる。
仏教が伝えられた後、神祇は衆生と同じく煩悩の苦しみに沈んでおり、神は仏になるための修行の過程にあるものと説明され、そのような思想を背景に、奈良時代から平安時代の前期に多くの神社に、神宮寺が建てられた。
神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると、多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。
本地垂迹説が広まり、日本人の多くに受け入れられるようになると、日本においては、仏法は、垂迹の神々なくしてはありえないという考えが広まり、垂迹の神こそ本体であるとする反本地垂迹説(神本仏迹説)が芽生え、室町時代に入って次第に広まっていった。
江戸時代以降、本地垂迹説に集約される神仏習合の信仰は、庶民の間に広く受け入られるようになったが、しかし、国学者による復古神道の思想が広まると、本地垂迹説に基づく神道説は俗神道として排斥されることになり、明治時代の神仏分離政策によって否定されることになった。 
神仏分離令(しんぶつぶんりれい)
明治政府が発布した法令で、明治元年(1868)3月17日「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」を所見とする一連の布達を総称していう。
明治政府は江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策をすすめた。その過程で神社の中から仏教的色彩を排除しようとしたのが、神仏分離政策である。
このように神社から仏教色を取り去っていく政策が着々ととられていった。この波にのり、これまでの僧侶の風下におかれていた神官たちは、この時とばかり明治政府の威をかりて、神仏分離にとどまらず、廃仏毀釈運動を展開し、全国各地で廃仏が行なわれた。
明治政府は、神仏分離が廃仏毀釈でないことをしばしば力説している。 
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
仏教寺院や僧侶を排斥する思想や行動。
江戸時代にも小規模ながら各地で行なわれている。
江戸時代、寺請制度により檀家を寺院の経営基盤とした僧侶たちは、自宗の信仰はもとより、教学や修行に対する厳しさをなくし、信仰抜きの民衆収奪に専念した。
寺院僧侶の生活の華美に対する批判、堂塔伽藍の寄付の制限、戒名料の制限、宗祖の遠忌の寄付の制限、葬祭への出費の制限などがみられ、おびただしい統制がくりかえされている。僧侶は民衆がキリシタンでないと保障する寺請証文を書くこととひきかえに、さまざまな要求を民衆に課しているが、これが逆に民衆の廃仏毀釈思想をますます強めることにつながっていった。
幕末には、これまで際限なく収奪していた寺院僧侶に対して徹底的に批判がなされることになった。
明治元年(1868)の神仏分離令の施行後、江戸時代の仏教国教が神道国教に急旋回し、伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策が着々と推進されていった。
一方寺院僧侶から収奪の限りをつくされていた民衆も廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・汁物などの破却・焼却に手を貸した。全国で破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数といわれているが、現在までの調査・研究ではその総数はまだ把握できない。→神仏分離令
明治6年にキリスト教禁止令が解かれると、寺院が握っていた寺請の権限はなくなり、檀家への支配の法的根拠はなくなった。
さらに江戸時代に民衆の熱狂的信仰に支えられた各地の霊場信仰・山岳信仰の中心であった山伏やその寺、また禅宗の一派として大勢力を誇った普化宗はこの時期すべて姿を消されてしまった。民衆信仰に対する大弾圧が廃仏毀釈の名のもとに行なわれている。
廃仏毀釈運動は江戸時代の信仰をくつがえすとともに、国家神道推進の強力な思想として展開していったのである。
 
神仏習合思想 / 伊勢神宮と仏教

 

神道と仏教という異なる宗教が結びつくということは意外と思われるが、奈良時代にはすでにその萌芽がみられる。その具体的な事例が神宮寺の創設であった。神宮寺は、神祇(じんぎ)に仕えることを目的として神社に付属した寺院で、伊勢神宮に関しては『続日本紀』文武天皇二年(六九八)十二月二十九日の条に「多気大神宮(寺)を度会郡に遷す」とあり、同天平神護二年(七六六)七月二十三日の条には「使い遣して丈六仏像(じょうろくぶつぞう)を伊勢の大神宮寺に造らしむ」と記されている。また、神護景雲元年(七六七)十月一二日には朝廷から伊勢国逢鹿瀬寺(おうがせじ)をもって永く大神宮寺とすべき宣旨が下され、官寺としての神宮寺が成立することとなった。
神宮寺は造営された当初は神社を法楽によって護持することが主務であったと考えられるが、平安時代になると次第に変化していくこととなる。それは神仏習合思想の台頭であった。これは日本の神祇信仰と仏教が結びついて、教義や祭祀行法、儀礼が生み出された宗教現象であり、仏と神の関係は、仏菩薩は衆生を救済するために神として顕現したとする本地垂迩(ほんちすいじゃく)説がその中心的な思想である。伊勢神宮の場合は、皇祖神である天照大神を祀るということで畏れおおいとして具体的な仏菩薩の名はあげられていなかった。
それでも、『大神宮諸雑事記=だいじんぐうしょぞうじき』や『東大寺要録』本願章第一には、伊勢神宮の禰宜延平(ねぎのぶひら)の日記にいうとして、天平十四年十一月三日のこととして「右大臣正二位橘朝臣諸兄。為勅使参入伊勢大神宮。天皇御願寺可被建立之由、所被祈也。袋件勅使帰参之後、同十一月十五日夜。示現給布皇御前玉姫坐。而放金光底宣久。当朝ハ神国ナリ。尤可奉欽仰神明給也。而日輪者大日如来也。本地者盧舎那仏也」として、東大寺建立にあたりそれを伊勢神宮に祈願したところ聖武天皇の前に玉姫が現れて、日輪すなわち天照大神は大日如来であり、本地は盧舎那仏=るしゃなぶつ(大仏)としているように延平の頃には大日如来を天照大神と同体とする考え方がすでに存在していたことを窺わせる。とくにこの東大寺と神宮の関係はその後も深く、文治二年(一一八六)には東大寺大仏殿復興祈願を目的として重源(ちょうげん)が大規模な伊勢参宮を行っている。
そのことを記した『東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記』(M34)には、夢告(むこく)によって重源が神宮参詣を決意し、四月東大寺僧綱以下六十名の衆徒を率いて神宮に赴き、書写してきた大般若経を供養転読している。この重源を初めとして鎌倉時代になると貞慶、無性、叡尊ら南都の僧たちの伊勢参詣は盛んとなっていく。とくに西大寺の叡尊(えいぞん)は文永十年(一二七三)、同十二年、弘安三年(一二八○)の三度伊勢参籠(さんろう)を行っているが、そのいずれもが勅命を奉じての元冠退散祈願であった。
この伊勢参籠で得た託宣は『学正記』等に記されているが、それと記述内容が一致する文書が西大寺の大神宮御正体(NO30)に納入されていた。その大神宮御正体は木製黒漆塗両面扉付箱形厨子の内部に二面の鏡を胎蔵界曼茶羅と仏眼仏母曼茶羅、金剛界曼茶羅と愛染曼茶羅を描いた板絵に嵌(は)め込んでおり、胎蔵界大日如来を内宮として、金剛界大日如来を外宮の御正体としたのである。密教と神社の神を本地垂迩として事例は、たとえば滋賀県の気比大社(けひたいしゃ)を金剛界、広島県の厳島神社を胎蔵界とみなしたことがあるが、内宮外宮をもって金胎一体としたのは外宮と内宮からなる伊勢神宮ならではの発想であろう。
伊勢神宮を密教的に解釈することは、奈良室生寺の大神宮御正体(図)にも見られる。これは大形の白銅鏡に蓮台にのる輪宝、そこから独鈷杵(とっこしょ)を束のように立て、先端の独鈷に蓮台上の三面宝珠を薄肉陽鋳であらわしたもので、三面宝珠の一個あてに「東」「招」「西」の文字を刻している。外区には「大神宮御正体本地 右太玉相殿左春日相殿」「弘安十一年戊子卯月二十一日」「沙門重如」と銘文が記されている。宝珠の文字は東大寺、唐招提寺、西大寺を示すことは間違いなく、密教の宝珠を御正体とした南都寺院の舎利信仰と伊勢神宮を結びつけたものと解釈できる。
これらの例は寺院からの伊勢信仰であるが、一方の伊勢神宮でもとくに神官たちは仏教と深くかかわっていた。伊勢神宮の実際の祭祀は、内宮は荒木田氏、外宮は度会氏が禰宜の家系として執り行っていた。もと神宮八ヶの内の三津定泉寺にあったと伝える三重県明星寺の薬師如来坐像(NO25)は久安元年(一一四五)、荒木田氏、渡会氏によって造られたことが像内銘文によって知られる。また、神宮の東に位置する朝熊山経ヶ峯から出土した通称第三経塚からは、法華経、観普賢経などを納めた銅経筒、土製外筒、阿弥陀三尊来迎鏡像などが出土した(NO26)。そのうちの観普賢経の奥書に、「平治元年八月十四日雅彦尊霊為出離生死往生極楽書写了」とあり、この経巻が雅彦の極楽往生を願って書写されたことがわかる。また法華経にはその奥書に度会氏の一族と思える名が多く見られるところから度会氏がその造営に深くかかわっていたことが窺われる。
観普賢経にある雅彦は『豊受太神宮禰宜補任次第』にみえる外宮の禰宜であり、平治元年四月十五日に没した度会雅彦とみて間違いなかろう。経塚はもともと末法思想の流布によって仏の教えが届かなくなる末法の世こ、永くその教えを伝えようとして経典を書写して地中に埋納した施設であったが、次第に現世安穏や衆生救済を願うように変化していく。この雅彦のために造営され経塚は、極楽往生を願っての意趣であり、紳官自身の仏教信仰をよく示している。また同地から発見された別の陶製経筒には、「奉造立 如法経亀壱口事 右志者為現生後生安陰 大平也 承安三年八月十一日 伊勢大神宮権禰宜 正四位下荒木田神主時盛□□散位宗常」の銘が刻されている。銘文中にも記される荒木田時盛は伊勢神宮の権禰宜であり、渡会宗常とともに承安三年(一一七三)に如法経を納めた経塚を造営したことが知られる。
仏赦と神社の結びつきは皇祖神を祀る伊勢神宮こあっても例外でなく、本地垂迹説の思想を受け、平安時代から鎌倉時代には密教の教理によって神宮をも取り込んでいくようになったのである。また神官にとっても人としての死後の世界を示す仏教の思想を受容していたのであった。 
 
辻善之助 神仏習合論 批判

 

はじめに                             
辻善之助が明治四十年(一九〇七)に発表した「本地垂迹説の起源について」(1)は、今日では学問的な使命は終えているとされる。しかしこの学説への厳しい批判が行なわれてこなかったために、神仏交渉研究史上の定説(2)という名誉は与えられたままである(3)。辻説への根本的批判は、はやくに津田左右吉によって提起されていた(4)。また近年では、吉田一彦氏(5)が行なっている。即ち、日本の神仏習合思想は日本固有の宗教思想ではなく、中国の仏教思想の輸入であるとの指摘である(6)。
しかし津田左右吉は詳細な論証をしておらず、また吉田一彦氏も神仏習合思想ロジックが中国仏教の習合ロジックに見出されるという点は論じるものの、包括的神仏習合論の再構築には至っていない。
したがって今日までのところ、我が国の神仏習合の全体像を提示しているのは辻説だけであって、辻説に代わる包括的な神仏習合論モデルは未だ提唱されていない。
そこで新たな習合論モデル作成の為には、辻説に対して包括的な批判を加え、辻説の学問的誤りを明確にしておかなければならないと考え、以下の論述を進めることにした。 
第一節 辻の図式的要約の論理構造
定説とされている辻の神仏習合説とは、次のようなものである。
神明は仏法を悦ぶ(1) ……神明は仏法を擁護する(2)……神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する(3)……神明は衆生の一つである(4)……神明は仏法によりて悟りを開く(5)……神即ち菩薩となる(6)……神は更に進んで仏となる(7)……神は仏の化現したものである(8)
神が仏となっていく上昇過程を説明するこの八要約は、論理的で明快であり、しかも以下に述べるように、辻が文献史料を用いてこの要約を論証しているために、この要約は史実そのものと考えられ、定説化するに至った。
しかしながら辻説で先ず疑問に思われるのは、思想とは数百年もかけて、このように整然とした単線的発展を遂げるものかという点である。辻の要約に、そうした疑念を感じるのは、この要約に進化論的発達史観を感じ取るからである。
しかし、たとえ発達史観的要約であったにしても、辻の図式的要約が正しいものならば問題はない。だがそうではない。この図式的要約自体に問題があるといえるのである。なぜなら論証に用いられた史実が、この図式的要約に沿うように操作されているからである。つまり辻説は、史実に沿って図式化されているのではなく、図式に都合がいいように史実が当て嵌められているのである。
前述のように、辻の図式的要約は八つで構成されている。そしてこれらの要約は一見すると、第一要約から第二要約が導かれ、第二要約から第三要約が導かれるというように、一つの結論が次の前提となり、その前提から次の結論が導かれるという八段の論証形式をとっているように見える。しかしながら整理すると、実際の論証は、(1)・(3)・(5)・(7)と(2)・(4)・(6)・(8)の二系統に分かれた二重の四段論証になっているである(7)。
(1)神明は仏法を悦ぶ        (2)神明は仏法を擁護する
          ↓                 ↓
(3)神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する  (4)神明は衆生の一つ
          ↓                 ↓
(5)神明は仏法によりて悟りを開く    (6)神即ち菩薩となる
          ↓                 ↓
(7)神は更に進んで仏となる      (8)神は仏の化現したもの
しかも(1)悦・(2)擁護という前提から、(3)業苦煩悩・(4)衆生という結論を導くことは出来ず、これらの要約は、前提から結論が導かれる他の項目とは異質である。したがって(1)悦・(2)擁護を除外して、(3)・(4)以降に注目してみると、内容的には問題はあるが、形式的には(3)業苦煩悩→(5)悟り→(7)仏となるが、実はこれは仏教教理における釈迦の解脱への過程そのものである。また、(4)衆生→(6)菩薩→(8)仏となるが、これも釈迦が仏になっていく過程そのものである。つまりどちらも、釈迦が仏となる発展段階の記述になるのである。
さて、この論証の結論は、実に驚くべき結論と思われる。辻に従えば、古代インドに生まれた釈迦一人に起こった宗教的発達が、時も場所も違う千数百年後の日本という国で、しかも日本の多数の神々に起こったということになるのである。果たしてそのようなことが、実際に起こりえるだろうか。 
第二節 「神明は仏法を悦ぶ…神明は仏法を擁護する」の史実
「神明は仏法を悦ぶ…神明は仏法を擁護する」という要約の論証に使われている史実は、『続日本紀』文武天皇二年(六九八)の伊勢神宮記事の頭注の「大神宮寺」(当史料は明治四十年発表の辻論文には引用されていない)という記載、或いは「武智麿伝」の気比神宮寺、天平十三年(七四一)宇佐八幡への納経度者造塔、天平勝宝元年(七四九)宇佐八幡の大仏造営賛助上京という史実である。
辻のいう「大神宮寺」とは、伊勢神宮の神宮寺のことである。辻は、『続日本紀』文武天皇十二月乙卯(二十九日)条にある「大神宮」を、辻の時代に出版されていた国史大系『続日本紀』の頭注によって「大神宮寺」とするのが正しいとするのである。しかし今日の新訂増補国史大系『続日本紀』では「大神宮」とだけあり、そうした頭注もなくなっている。この条の「大神宮」を、「大神宮寺」とすることが出来ないことは、田中卓氏(8)の考証からもいえ、「大神宮寺」或いは「太神宮V」とはすることは共に出来ないのである。
伊勢神宮には、天平神護二年(七六六)七月二十三日に使いが遣わされ、丈六の仏像が造られた(9)。しかし宝亀三年(七七二)八月になると、月読神が祟りを為したことによって、度会郡にあった神宮寺を飯高郡瀬山に移したが(10)、それでも神郡(度会郡・多気郡)に近いという理由から、さらに遠くに移転させることになったのである(11)。つまり伊勢神宮では、奈良時代の後期には神郡はいうに及ばず、神郡に隣接する郡からさえ神宮寺が遠ざけられていたのであった。伊勢神宮では、平安時代には忌詞を以て仏に関する詞を言い換えたほどであることからも、天照大神が仏法を悦び仏法を擁護するといった思想が、たとえ奈良時代中期にあったとしても、直後には神祇の中心である伊勢神宮からは、仏の隔離(神宮近辺からの排仏)が始められていたのであった。
「気比神宮寺」のことは、『家伝』「武智麿伝」に記述され、気比神が宿業に苦しみ、仏教に帰依し、神宮寺が建立されたことが記されている。
八幡神には、天平十三年(七四一)に納経・度者が行なわれ、境内に三重塔が造られたれたことは『続日本紀』(12)に記載され、天平勝宝元年(七四九)大仏造営賛助上京も史実として証される(13)。
これらのことからいえば、気比神・八幡神は「神明は仏法を悦ぶ…神明は仏法を擁護する」という要約に合致する神といえる。しかし逆に、これらの史料による限り、こうした思想をもっていた神は、天平時代では気比神と八幡神だけということになる。伊勢神宮を始として、畿内や畿外の大多数の神社の神々には、奈良時代前期に仏教を悦び擁護したということを伝える信憑性ある史料はないのである(14)。
つまり辻が主張する「神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する」という思想が、奈良時代前期に幅広い思想として日本にあった(15)とはいえないのであり、一部の神々にそうした思想が認められるだけなのである。 
第三節 「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する…神明は衆生の一つである」の史実史料 
次に、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する…神明は衆生の一つである」という要約であるが、この要約に用いられる史料は、「武智麿伝」・「多度大神宮伽藍縁起資財帳」・「陀我神」(『日本霊異記』下巻 第24)・「和気清麿の神願寺の縁起」(『日本逸史』巻三十二)・「若狭比古神」(『日本逸史』巻三十七)である。
辻は、これらの史料の年代を以下のように比定する。「武智麿伝」は天平宝字(七五七〜七六五)頃の作とし、この時代の思想を表しているとする(17)。また、『多度大神宮伽藍縁起資財帳』は、延暦二十年((八〇一)に書かれたものであるが、天平宝字七年に満願が丈六の弥陀を作ったことが本文にも記されているから、天平宝字年間(七五七〜七六五)に遠くない頃のものとする。「陀我神」(『日本霊異記』)は、この話が宝亀年中(七七〇〜七八一)のことであると文中に記されている。「和気清麿の神願寺の縁起」は、延暦十二年(七九三)以前のこととする。「若狭比古神」も、文中では、この託宣は養老中のこととされているが、天長(八二四〜八三四)に近い頃の思想としている(16)。つまり辻は、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する…神明は衆生の一つである」という要約を証するこれらの史料が、奈良時代後期及び安時代初期の思想を示す史料であることを示そうとしているのである。
したがって(1)(2)・(3)(4)の要約は、奈良時代前期の天平時代(七二九〜七四九)から奈良時代後期・平安時代初期頃までの思想展開の図式ともされているのである。
さて、これらの神々は、神身である為に業苦煩悩し、それ故に仏法に帰依したいと告白する神々とされているのであるが、辻はそのことを以って日本の神々が人間と同じ衆生の一つであるとする。この点を検討したい。
辻は、日本の神々が仏教でいう護法善神と考えられたとして、日本の神々を衆生の一人であるという要約を導き出している。では、護法善神とはどのような神なのだろうか。仏教では、世界を地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・縁覚起界・声聞界・菩薩界・仏界の十界で成り立っているとする。この内、地獄界から天上界までの六界を凡夫の迷いの世界、縁覚界以上の四界を聖者の悟りの世界とする。
諸天善神とは、人間界より一つ上の天上界の神々で、帝釈天・梵天・四天王と同じ界にいる神々である。衆生界とは、仏界以外の九界を総称する意味もあるが、辻は人間界の意味で用いていると思われる。何故なら、朝廷が日本の神々に階位を奉っているが、これは神を人間と同じと見ているためと述べているからである。
當時の思想によって神を考ふれば、直ちに了解できる。即神は人間と同じく、迷界の中にあり、衆生の一であるとみれば、人間に位階ある如く、神にも位階があって然るべきことである。」(『日本仏教史の研究』七六頁、『日本仏教史』第一巻では、この文章は削除されている)
つまり辻は、日本の神々が人に与えられると同じ階位を与えられるような存在なのであるから、人間の一人という意味での「衆生の一つ」であると結論しているといえるのである。
ところが気比神・多度神などは、優婆塞を高木の上に置く、或いは災害を起こすほどの力を持つといった神々である。八幡神も三韓を制圧した威力ある神である。ということは、奈良時代後期・平安時代初期では、辻のように、これらの神々は非力な人間である衆生の一つと考えられていたとすることは出来ない。つまり、日本の神々を人間と同じ衆生の一人とする辻の要約は成り立たないのである。
日本の神々は、衆生の人間を遥かに超えた力を持った、仏教でいう天上界の神々に相当しているのである。それ故、日本の神々は天上界の四天王と同じように、仏法を擁護することができるのであり、仏法を護る日本の神々というのは、こういう位置づけならば理解されるのである。
したがって、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する」という要約は誤りではないが、「神明は衆生の一つである」という辻の要約は誤りである。繰り返すが、日本の神々は、衆生の一人と見られたのではない。辻も最初は護法善神として規定しているのであるから、理屈からすれば日本の神々を「衆生」と断ずることはできないはずである。それにも拘わらず、辻が日本の神々を「衆生の一人」と断じたのは何故なのか。そこに、日本の神々を仏より遙かに低い存在に位置付けようとする辻の意図を感じないわけにはいかないのである。
以上の考察からすると、奈良時代後期に「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する…神明は衆生の一つである」という思想が、一般的な思想としてあったということは成り立たないのである。 
■第四節 「神明は仏法によりて悟りを開く…神即ち菩薩となる」の検証
次には、「神明は仏法によりて悟りを開く…神即ち菩薩となる」という要約であるが、辻のこの要約は、主として八幡神に向けられたものである。しかし八幡神を含めて、平安時代初期の史料に、悟りを開いて菩薩になったと語られた神々は一神もいないのである。八幡神が悟りを開いたと託宣したという記録もない。多度神もそうである。
承和十一年(八四四)の解文とされ、八幡神の最も古い縁起とされる『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(18)には、八幡神は、延暦二年(七八三)(19)に衆生を済度するために菩薩を号したとされるのみで、悟りを開いたといった言説は全くない。また、八幡神が悟りを開くために仏法に帰依するといった言説も全然伝えられていない。
八幡神は衆生を済度する菩薩であると自ら宣言したのであり、そこに辻のような悟りを開くに至る八幡神の内面的発達が語られているわけではないのである。
八幡神と仏教との関係は、神宮寺である弥勒寺の前身であった弥勒禅院の建立が、八幡神が小椋山へ鎮座する神亀二年(七二五)と同時と伝えられていることから(19)、早い時期から神仏一体の関係にあったといえる。
そうした仏教と深い関係があった八幡神は、延暦二年(七八三)(20)に突如菩薩を号したとされているだけなのである。ただし、『日本三代実録』貞観三年(八六一)の正月二一日条に「然則使 三八幡大菩薩、別得二解脱一、令二諸餘名神々力自在一」との記事がある。これは東大寺大仏の修理完成に当たっての記事であるが、これからすれば八幡神は、九世紀半ばに菩薩地から仏地に達したとされたことになる。しかしながら八幡菩薩を解脱させて仏地に達せしむとしたのであって、衆生たる八幡神が悟りを開いて菩薩になったとされたではないのである。
以上の考察からすれば、八幡神が悟りを開いた故に、衆生から菩薩になったとの史実はないのであり、あるのは奈良時代後期に多度神が菩薩を称した、或いは平安時代初期の八幡神が菩薩を称した、そして仏地に達せられたという思想があっただけである。 
■第五節 「神は更に進んで仏となる…神は仏の化現したものである」
辻は、本地垂迹説発生の理由を次のように述べている。
さてこの神が佛の化現なりとする思想は、如何にして起つたかといふに、予輩の考ふる所では、之はさきに神に向かって菩薩號をつけたる思想の、更に一転したものであろうと思ふ。前の時代では、神明は衆生の一であるが故に、佛法の力によりて悟りを開いて進んで菩薩地に至るといふ考えであつた。しかるに今度はそれが一歩を進めて、菩薩より佛にまで至るやうになつたのである。是に於て神明は即佛であり、神佛は元同體であるのであるが、ただ権りに化して神として現れて居る。かういふ考えから本地垂迹の説が起つたものであろうと思ふ。(『日本仏教史の研究』一六四頁、『日本仏教史』第一巻四二六頁)
この辻の論述が成立するためには、神は菩薩であっては仏と同体になれず、神が菩薩から仏にならなければ、神仏は同體とされないという前提が必要となるものであろう。しかしながら本地垂迹説が成立したとされる十世紀以降でも、神々に観音菩薩・勢至菩薩・龍樹菩薩といった本地仏(21)が説かれているのである。それからすれば、神が菩薩から仏に進んだ故に本地垂迹説が発生したとはいえないことになる。また、辻の本地垂迹論に従えば、菩薩位では仏の垂迹神にはなれないことになるのであるが、菩薩を号したまま本地仏が定められ、いわんや菩薩さえ号していない多数の神々にも本地が定められたのであるが、そうした神々が悟りを開いたとか、解脱したとも説かれているわけではないのである。
更に八幡神に菩薩号をつけた理由も、「前の時代の思想では、神明は衆生の一であるが故に、佛法の力によりて悟りを開いて進んで菩薩地に至るといふ考であつた」というのは、辻が説いているだけで、そうした言説が記された文献史料があるわけではないのである。
八幡神の本地が、十二世紀初期の堀河天皇の康和頃に阿弥陀と比定されたからといっても(22)、以後も八幡神が菩薩という号を称していて、八幡如来と号したのでもないのである。
辻の理論に沿うならば、寧ろ本地垂迹説が発生する十世紀にこそ、八幡神の本地仏が阿弥陀とか釈迦と説かれていなければならないであろう。
辻の本地垂迹論によれば、本地仏が説かれる資格があるのは、唯一解脱させられた八幡神だけなのであるから、他の神々にはその資格がないということになるであろう。
しかし八幡神以外の多数の神々にも本地垂迹説が説かれたのである。つまり、神々が菩薩から仏になった故に本地垂迹説が説き起こされたという辻説は史実に合っていないのである。 
■第六節 辻説の根本的誤り
さて、これまでの検討によって、辻の神仏習合史の要約が、幾つもの史実の誤った認識を基に構築されており、史実に則ったものでないことが明らかになってきたと思われる。辻は、一部の史実を全体の史実に拡大したり、別々の史実を繋ぎ合わせたりという史料操作を行なって、仏教教理の鋳型に沿った日本の神々の歴史を作り上げたのである。辻の八つの要約で、史実といえるものを朱色にしてみると次のようになる。
神明は仏法を悦ぶ…神明は仏法を擁護する…神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する…神明は衆生の一つである…神明は仏法によりて悟りを開く…神即ち菩薩となる…神は更に進んで仏となる…神は仏の化現したものである
朱色でない要約は史実の裏付けがないのであり、こうした要約は、実は辻の思考の産物に過ぎないのである。そして史実の裏付けの無い要約三つを繋ぐと「神明は衆生の一つである…神明は仏法によりて悟りを開く…神は更に進んで仏となる」となり、これは正に辻の神仏習合論の骨格そのものである。つまり史実の裏付けの無い要約が、実は辻説を支えていることになるのである。更に、史実の裏付けの無いこれらの要約の最終要約の発達として本地垂迹説の成立が説かれているのである。
辻が、神仏同体論である本地垂迹説が説かれるためには、日本の神々が仏になるほどに宗教的(仏教的)発達を遂げていなければならないと考えていたことは、次の辻の文に如実に表われている。
神はまだ悟りの開けぬ解脱せざる衆生である。之が進んで悟りを開けば、菩薩となる。それがもう一つ進めば佛となる。是に於て神佛は始めて同體となる。奈良時代の思想では、神はまだ衆生であって、菩薩にもなって居らぬ。故に神仏同體などゝいふ説は勿論存在し得ないのである。右の如き思想によって、遂に神に菩薩號をつけたり、また神の爲めに神前の讀経するようになるのである。」(『日本仏教史之研究』七七頁、『日本仏教史』第一巻四四四頁)
この辻の論であるが、よく読んでみれば、これほど日本の神々を見下した文は他にないのではないかと思われる。神仏同体となるには、神々が解脱しなければならないとしたのは辻善之助に始まったことであって、それ以前に辻の説いたようなことをいった者はいないのである。 
■[注]
(1) 辻善之助は、明治四十年(一九〇七)に「本地垂迹説の起源について」(『史学雑誌』十八編の一、四、五、八、九、十二号掲載)を発表した。
(2) 山折哲雄「古代における神と仏」(『神と翁の民俗学』四十五頁、講談社学術文庫、一九九一年)。
(3) そうした研究史の紹介は、注(2)同書に詳しい。また、林淳「神仏習合研究史ノート」(『神道宗教』一一七号、一九八四年)も要領を得た研究史の要約がなされている。
(4) 津田左右吉「日本の神道」(『津田左右吉全集』第九巻所収。岩波書店 昭和三十九年。初出『東洋学報』昭和十二年〜十四年)。
(5) 吉田一彦「多度神宮寺と神仏習合−中国の神仏習合思想の受容をめぐって−」(『古代王権と交流4 伊勢湾と古代の東海』(名著出版、一九九六)。
(6) 辻も本地垂迹説を日本固有の論理ではなく、法華經と共に渡ってきた仏教史教義と考えていた。「然しながら、普通の本地垂迹説の如きも、法華の渡つて以來、佛教の教義としては夙に知られていたであろうにも拘らず、之を日本の神に應用して、佛本神迹説の現はるゝまでには、多くの年所を經たことは、既に上来述べた通りである」(限定版『日本仏教史』第一巻、四七九頁、岩波書店、昭和三十五年発行)。しかしながら辻は、本地垂迹説は奈良時代の初期神仏習合思想が発達したものと考えていたのである。「神と佛とは、固より別物として竝び行はれて居たのであるが、その思想が漸次発展して神仏同體の説となり、佛教の教理を以て、之が解釋を試み、つひに垂迹説の極めて煩雑なる組織を立て、その間にいろいろと附會して、所謂山王一實神道及び兩部習合神道などといふものができて、某の神は某の佛の權化であると、一々その解説つけるやうになつたのである。その思想と比べて見れば、その發達の間に非常なる相違を來したのである(『日本仏教史』第一巻、四七三頁)。
(7) 辻善之助の神仏習合論は、明治四十年(一九〇七)に「本地垂迹説の起源について」が『史学雑誌』に発表された。しかし「本地垂迹説の起源について」は、大正八年に金港堂書籍株式会社から発行された『日本仏教史の研究』にも収録されている。また昭和十九年に岩波書店から『日本仏教史』上世編として発行され、昭和三十年に全十巻の完結を見た。明治四十年・大正八年・昭和十九年のそれぞれを比較すると、明治四十年発表の「本地垂迹説の起源について」と大正八年とでは多数の異同があり、また大正八年と昭和十九年の刊行本の間でも多数の異同がある。つまりそれぞれが削除・修正・加筆が加えられているのである。また明治四十年では穏やかであった論調が、大正八年と昭和十九年で論旨が明快になっている反面、非常に激しい表現や論調になっている。しかも重要と思われる論証が省かれてしまっている箇所などがあり、辻の神仏習合論の思考過程を詳しく辿るには、この三つの刊行文を付き合わせてみなければ理解しにくい点がある。そこで当論文では、明治四十年『史学雑誌』発表の論文、大正八年金港堂書籍株式会社発行の『日本仏教史の研究』所収の「本地垂迹説の起源について」、昭和三十年刊行(但し当論文では昭和三十五年発行の限定版)の『日本仏教史』第一巻第三節「本地垂迹」、それぞれからの引用を行なって辻説の分析を行なうことする。
(8) 田中卓『神宮の創祀と発展』一二五頁(『田中卓著作集4』、国書刊行会、昭和六十年)。井後政晏氏も田中氏の検討を支持されている「『大神宮司』の成立の問題」(皇學館大学神道研究所紀要8、平成四年)。
(9) 『続日本紀』天平神護二年七月丙子(二十三日)
(10) 『続日本紀』宝亀三年八月甲寅(六日)条。
(11) 『続日本紀』続日本紀、宝亀十一年二月朔条。
(12) 『続日本紀』続日本紀、天平十三年閏三月甲戌(二十四日)条。
(13) 『続日本紀』続日本紀、天平勝宝元年十二月条。
(14) (5) 吉田一彦氏論文によれば、大神神社の「大神寺」は宝亀元年(七七〇)以前であり(『日本高僧伝要文抄』所引く『延暦僧録』の浄三伝)、また満願による鹿島神宮寺の建立も天平勝宝年中(七四九〜七五六)のこととされるが(『類聚三代格』巻三天安三年(八五九)二月十六日太政官符)、これらを確実な伝承とするのは問題があるように思われる。
(15)「さて、以上の神佛習合の現象、即一、伊勢太神宮、二、気比神宮寺、三、天平十三年宇佐八幡宮への納経度者造塔、四、宇佐八幡の大佛造営賛助上京は何を意味するか、即この四つの事件の根底には如何なる思想が横はつて居るかといふに、畢竟神が佛法を悦び、その供養を受け、之を護るといふにあるのである。」(『日本仏教史の研究』66頁から67頁。「さて、右の神佛習合に関する四つの事件は何を意味するかといふに、これ等は、畢竟神が佛法を悦び、その供養を受け、之を護るといふにあるのである。」(『日本仏教史』第一巻441頁)。
(16) 『日本仏教史の研究』58頁。
(17) 『日本仏教史の研究』71頁〜74頁。
(18) 『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(『神道大系 神社編四十七 宇佐』所収)。
(19) 『東大寺要録』の弘仁十二年の官符によれば、天応の初め(七八一年)とされる。
(20) 『東大寺要録』所載の弘仁十二年八月十五日の官符に拠れば、菩薩を号したのは 天応(七八一〜七八二)の始めとされている。
(21) 清原貞雄著『神道史』七七頁〜九六頁参照。
(22) 『日本仏教史の研究』一六三頁 
 
揖夜神社と黄泉比良坂

 

揖夜神社(いやじんじゃ)と黄泉比良坂(よもつひらさか)−斎明天皇紀五年条をめぐって−  
猪目湾と猪目洞窟、古くは洞窟前面が崩壊した土砂で埋まっていて上部に小さな口が開いているだけだった。その入り口から洞窟奥にいたる30mほどの斜面が黄泉比良坂といわれていた。
はじめに
平成十二年に出雲大社境内から金輪で束ねられていたと考えられる直系3mを越す巨大な柱が出土したことから、これまで疑問視される向きもあった古代出雲大社が東大寺大仏殿より高い建物で、地上まで長さ一町もの橋で結ばれた高層神殿であったことの信憑性が高まった。尤も今回発掘された遺構は鎌倉時代のものである可能性が高いとされ、この遺構が古代の社殿そのものに直結しているわけではない。
しかし巨大柱の遺構から、鎌倉時代に高層な建物であったことが予想され、高層であることは、本殿が東大寺大仏殿よりも高いとが記された『口遊』が作られた平安時代には、既にそうであったことを示している。
こうした論議から、ではいったい何時の時期から出雲大社の社殿がそのように高層に造られるようになったのかという問題が提起されている(1)。
そこで古代出雲大社が、そのような高層神殿を以て造営された時期を示すとして、『日本書紀』斉明天皇紀五年条「命出雲国造。修厳神之宮」の記事が再び注目されることになった。
しかしながらこの記事の解釈の上で問題となるのは、「神之宮」が出雲郡の出雲大社のことなのか、古代では出雲国第一の社格を持っていた意宇郡の熊野大社のことなのかという、最も基本的な点で見解が分かれていることにある(2)。また出雲大社・熊野大社のどちらであったにしても、斎明天皇は何故そのような巨大な神殿を以て祭らねばならなかったのか、その理由も判然としない。そこで当論文では、この二点に議論を絞って考察を加えたい。 
1 『日本書紀』斎明天皇紀五年条の問題点
問題となっている斎明天皇紀五年条の記述は、次のようなものである。
是歳。命出雲国造。闕名。修厳神之宮。狐噛断於友郡役丁所執葛末 而去。又狗噛置死人手臂於言屋社 。言屋此云伊浮瑯。天子崩兆
前述したように、「神之宮」を意宇郡の熊野大社とする説と、出雲郡の出雲大社とする説があり、旧来は出雲大社とするのが当然のように考えられていた。しかし井上光貞氏(3)や上田正昭氏(4)が熊野大社説を提唱されたことから、今日ではこの熊野大社説も有力な説になっている。
井上氏は、「於友郡は意宇郡に他ならず、言屋社は神名帳の意宇郡揖夜神社であり意宇郡の神社に他ならず、言屋社をキヅキと関連せしめる理由は一つも存しないのである」として熊野大社説を提唱された。この井上氏の論断には、井上氏の出雲国造成立史論が基礎となっている。
井上氏によれば、オウ(意宇郡)勢力がキヅキ(出雲郡)勢力を制圧したとし、意宇郡を根拠地とする出雲国造が出雲郡を制圧して出雲大社の祭祀権を握ったと推定する。また熊野大社には出雲国造継承儀礼である火継神事が存在することから、出雲国造は熊野大神を祖先としていたと推定し、意宇郡を出雲国造の根拠地として重視するのである。 一方、上田氏は、大宝令の注釈書の『古記』には、出雲大社は国つ神(地祇)とされているのに対して、熊野大社は天つ神(高天原系)とされ、熊野神は意宇郡を根拠とする出雲国造が祭る神とされていることから、出雲国造に命じての「神之宮」の修厳は熊野大社を指すとされている。加えて「神之宮」の修厳の文に続いて、於友(意宇)郡の役丁が執る所の葛が噛み断たれたことや、狗(いぬ)が死人の手(ただ)臂(むき)を意宇郡の言屋社に置いたことが記されるのは、この修厳が熊野大社であることを明らかに示しているとされる。このように上田氏は、言屋社が意宇郡に存在したことは、「神之宮」が熊野大社であることの傍証とされるのである。
狐と狗の内、狐が於友(意宇)郡の役丁が執る所の葛を噛み断った点に関しては、出雲大社説(5)の側から、出雲郡の出雲大社の修厳に意宇郡の役丁が動員されたことは、朝廷が出雲国造に命じての修造なのであるから、出雲郡以外の意宇郡の役丁が徴集されても自然のことで、何ら不思議でないとの反論が出されている。
さて、「言屋社」に狗が死人の腕を食い置いたことが、なぜ天子(斎明天皇)の崩御の兆しとして考えられるに至ったのか。また、これらの記述が何故「神之宮」の修厳記事に連続して記されるのかについて、上田氏は次ぎのように述べている。
この言屋の社あたりが黄泉の国の入口にあったとされる黄泉比良坂の地であり、『古事記が「今、出雲国の伊賦夜坂という」としたところであった。死の観念と言屋社が結びつくのも、こうした黄泉の国観と関係がある。だからこそ『日本書紀』の編纂者らは、この条に注記して「天子の崩(かんあがり)ります兆(きざし) なり」とのべ、斉明女帝急死の前提であったかのように解釈したのであろう
上田氏は、言屋社が黄泉の国の入口にあたる地として考えられていたとして、日本書紀編纂者がこの事件を記したのは、狗が死人の手臂を言屋社に置いたことを斉明天皇崩御の前提として考えたからではないかとされ、黄泉国観との関係に注目している。
だが、上田氏は黄泉国観との関係を指摘しながら、何故これを大国主神との関連に於いて考察しなかったのだろうか。記紀神話では、出雲の熊野大神と黄泉国には何の関係も見出せないが、出雲大社に鎮まる大国主大神と黄泉国とは実に深淵な関係を持っているからである。
死人の腕が置かれたのが何故揖夜神社だったのか。揖夜神社に死人の腕が置かれたことは「神之宮」の修厳になぜ関係しているのか。何故、意宇郡の役丁が執る葛だけが噛み切られたのか。
実は、出雲国造・「神之宮」の修厳・意宇郡役丁の執る葛の噛い断ち・揖夜神社に置かれた死人の手臂・斉明天皇の崩御という事象には、大国主大神が深く関わっているとする深刻な信仰を見出すことができるのである。そこで先ず揖夜神社から考察を始めることにしたい。 
2 揖夜神社と『古事記』黄泉比良坂
さて、揖夜神社の社名である「揖夜」とは一般的に古代神社の社名がそうであるように、地名から採られた神社名と考えられる。
揖夜神社は、現在の島根県東出雲町揖夜字宮山に鎮座する式内社である。中世以来、所謂意宇六社に数えられ、『延喜式』には「揖夜神社」、天平五年(七三三)勘造の『出雲国風土記』には意宇郡内「伊布夜社」として記される。
揖夜神社の鎮座する地である「揖夜」という地名は、次に述べるように、『古事記』の伊邪那岐命が黄泉国から現世に逃げ帰る黄泉比良坂段に登場する。
即ち、黄泉の国から現世に逃げ帰る伊邪那岐命と伊邪那美命は、現世との境をなす黄泉比良坂で対峙して、互いに絶妻・絶夫の誓いを言い渡す。そして、それは「是以、一日必千人死、一日必千五百人生也」という宿命を現世にもたらし、これが現世に神が定めた掟となったのだった。
この現世と黄泉国の境をなした黄泉比良坂を、『古事記』は次のように記している。
故、其所 レ謂黄泉比良坂者、今謂 二出雲国之伊賦夜坂 一也
黄泉比良坂は「今の出雲国の伊賦夜坂なり」としているが、ここに「出雲国」と国名を以て記していることは、この記述は少なくとも国郡制が敷かれた大化時代以降ことであることになろうし、更にいえば『古事記』が編纂された当時としての「今」と云えるのではないだろうか。つまり、『古事記』が編纂された奈良時代初期を背景に記された注記と思われる。
本居宣長(6)を始めとして現代の研究者まで、この「伊賦夜坂」の地名を、『出雲国風土記』意宇郡に記載される「伊布夜社」、或は『日本書紀』斎明天皇五年条の「言屋社」の鎮座地に比定している。
今日の地形に於いても、揖夜神社は東の安来方面から来ると、なだらかな丘陵を越えて出雲国府が置かれた意宇平野へ入る謂わばその入口に位置する場所に鎮座している(揖夜神社から出雲国府跡までは平野で、道は平坦である)(7)。
今日の揖夜神社が、この丘陵を大きく離れて移動したという伝承もないことからすれば、伊賦夜坂=黄泉比良坂は、この丘陵を越えて揖夜神社の近くを通っていた坂道ではなかったかと思われる(8)。
こういう地理的環境からすれば、揖夜神社は道祖神的な神としても存在したと考えられる。しかし『古事記』の世界で云えば、揖夜神社は普通の境界神ではなく、大和国家の神話的・宗教的世界観に於ける死後世界としての黄泉国へ至るその入口にある道祖神となるのである。
つまり中央大和朝廷の世界では、現実世界に存在する具体的な死後世界への入口として、黄泉比良坂を伊賦夜坂に比定していたと考えられる。しかしながら出雲国に於いて、黄泉国への入口とされていたのは意宇郡ではなく、出雲郡宇賀郷(現平田市)北の海浜の西方の窟戸なのである。
即、北海浜有 レ礒。名 二脳礒 一。高一丈許。上生 レ松。芸至 レ礒。里人之朝夕如 二往来 一。又木枝人之如 二攀引 一。自 レ礒西方有 二窟戸 一。高広各六尺許。窟内有 レ穴。人不 レ得 レ入。不 レ知 二深浅 一也。夢至 二此礒窟之辺 一者必死。故俗人。自 レ古至 レ今。号 二黄泉之坂・黄泉穴 一也 (『出雲国風土記』出雲郡条)
「 脳(なづきの)礒(いそ) 」は日本海に面した海岸にある岩塊であり、付近には弥生時代・古墳時代の人骨が実際に発見された猪目洞窟があり、今日では『風土記』に云う黄泉之坂・黄泉穴を、この猪目洞窟に比定する説が有力である(9)。
しかし重要と思われるのは、この猪目洞窟の裏側にあたる南西五キロの位置に出雲大社があることである。古代では出雲大社の南には巨大な神戸水海が広がり、そこには西流してきた斐伊川が流れ込んでいる状態で、築杵郷の出雲大社や宇賀郷の「脳礒」地域一帯は、出雲国でも最も北西の奥まった地域といえるのである。後述するように、このような地に出雲大社が存在すること自体に非常に重要な意味があったと考えられる。
出雲国に於けるこうした黄泉之坂・黄泉穴の実際の存在故に、『古事記』をして、出雲国を代表する郡である意宇郡の中心部にある意宇平野に入る最後の境界丘陵にあった伊賦夜坂を黄泉比良坂として描かせたのではないかと思われる。
したがって、このような伊賦夜坂=黄泉比良坂のあった土地の揖夜神社に死者の手臂が置かれていたということは、「斉明女帝急死の前提であったかのように解釈したのであろう」と云う以上に、黄泉国からの何らかの意思を表示した事象として日本書紀の編纂者が理解した為に採録したと解するべきではないかと思われる。
では、黄泉国の何者が斉明天皇へそのような伝言を送ったのだろうか。そして其は何故だったのだろうか。 
3 斉明天皇の特異性
斉明天皇は斉明七年(六六一)七月に筑紫の朝倉宮で崩御されるが、その時の年齢は皇胤紹運録や水鏡では六十八歳、帝王編年記では六十一歳とされている。崩御は出雲国造に「神之宮」の修厳を命じた斉明五年から僅か一年半の後であった。
斉明天皇は事業を起こすことを好まれた天皇として有名であるが、『日本書紀』斉明天皇紀には、斉明天皇が非常に人目を引く建築(田身嶺に建てた「 (た)観(かど )(の)」、或は「両(ふた )(つ)槻(きの)宮(みや)」・「天(あま )(つ)宮(みや)」とも称された)を行ったり、土木工事(「狂(たぶ )(れ)心(ここ )(ろ)渠(のみ )(ぞ)」)をしたことを記している。
さて、周知のように斉明天皇は皇極天皇が重祚された天皇であるが、皇極天皇退位は六四五年であり、斉明天皇即位は六五五年で、この間に十年の孝徳天皇時代を挟んでいる。つまり壮年期と老年期の二度天皇位に就いているのであり、特に二度目は在位中に死を迎えることになったのであった。
前述したように、書紀斉明紀には事業を起こすことを好む天皇と記されているが、同じ天皇でありながら、皇極紀には事業を起こしたことなど全く記されていないのはどうしたことなのだろうか。
本質的に事業好きな性格ならば、皇極紀にもそうした何らかの記事があって然るべきであろう。しかし、そうしたことが全くないということは、事業好きであったことは斉明天皇時代に特有の何か原因があったと考えなければならないのではないだろうか。
そこで斉明天皇の行なった事業の内容を検討したい。第一に、田身嶺(多武峯)に建てた「観」と言われる建物である。この建物は「天(あま )(つ)宮(みや)」「両(ふた )(つ)槻(きの)宮(みや)」と表記されていて神道的施設とも解することも出来るが、夙くに黒板勝美氏(10)が指摘されたように、道教との関係が注目され、岩波日本古典文学大系『日本書紀』の注記にあるように、道教の神々を祭る「道観」に近い建物と言う方が適切ではないかと思われる(11)。神道的祭祀の為の社殿ならば、そうした社殿は山を遥拝する形で、山の麓に造営されるのが一般的と云えるからである。
それに対して、道教ではそうした施設を「廟、宮、院、祠、観」などと称して仙郷とされる山々に営んでいたからである(12)。この内「宮」は、もともと天子の行宮や避暑地の別荘であったものが祭祀場となったり」とされるものであり、両(ふた )(つ)槻(きの)宮(みや)という行宮風の名称に適合しているように思われる。
第二に、「狂心渠」であるが、近年の酒船石遺跡から発掘されている壮大な石垣や、特に給水施設と思われる亀石の石造物は、神道的というよりも、大陸的・道教的雰囲気を示しているように思われる。こうした施設を造る為の石を運ぶのに掘ったのが「狂心渠」と揶揄されたことは、心が狂った、つまり狂信的に行なわれた工事と考えられるのであり、為政者の心をそのように狂信的に突き動かすのは、宗教的信仰が最も可能性が高いと思われる。
また、そうした信仰に基づいた工事が、為政者の狂心として人々に理解されたことは、それが人々にとって馴染みのある在来の信仰ではなく、馴染みの薄い外来の信仰であった為ではないかと思われる。
では斉明天皇がそうまでして得たかったものは何かといえば、老境に差し掛かかっていた、その年齢に原因した何かではなかったかと思われる。つまり斉明天皇が求めたのは不老長寿であり、それを可能とするとされたのは当時では道教の仙術以外にはないからである。
以上のように斉明天皇が最も恐れたのは、老衰であり、死ではなかったかと考えられる。斉明天皇は、この老衰を避ける為の方策として、多武峯に「観」を建て道教的神々を祭り、また酒船石遺跡の壮大な石造施設を造る為の石を運ぶ水路「狂心渠」を掘らせたのではないかと思われる。この石造施設が何であるのか、これまでのところ明確ではないが、そうした不老長寿を与える何らかの道教的祭祀施設ではなかったかと思われる。
そしてもう一方の、死を避ける為に斉明天皇が行なったのが、死後の世界を司どる神である大国主大神の怒りを和らげ慰めることを目的とした「神之宮」の修厳ではないかと考えられる。
大国主神が幽界を司る大神であることは、神話の語るところであろう。次には、そうした大国主神の神格を検討することにしたい。 
4 斉明天皇と大国主命
斉明天皇に大国主神への信仰と畏れを抱かせたのは、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠(おち )(の)智(いら)娘(つめ)との間にできた孫の健王の存在と思われる。健王は八歳にして斉明四年五 月に薨去したのだが、斉明天皇の悲しみは尋常ではなく、自身の死後には健王を自墓へ合葬するよう命じた程であった。何故、斉明天皇が健王をそれほど愛しんだのか、その理由は健王が物を言うことが出来なかったことにあった為と思われる。
其三曰 二健皇子 一。唖不 レ能 レ語。(『日本書紀』、天智天皇七年二月丙辰条)
斉明天皇は健王のこうした能力的負荷を実に不憫に思い悲しまれたと同時に、言葉を言えるようになることを願ったと思われる。
而して実際に唖から解放された皇子がいたのだった。垂仁天皇の皇子である本牟智和気皇子である。『古事記』には、本牟智和気皇子が唖であるのは、出雲大神の祟りのせいであり、垂仁天皇の夢に「我が宮を天皇の御(みあ)舎(らか)の如(ごと )(お)修(さめ)理(つく)りたまはば、御子必ず真(ま)事(こと)登(と)波(は)牟(む)」と出雲大神は語り、本牟智和気皇子が出雲に至って大神を拝んだ帰り、肥川の仮宮に居た時、皇子は言葉を話し始めたとされている。
このような出雲大神の激しい祟りを伝える物語を『古事記』が採録していることは、そうした伝承が斉明天皇時代の大和朝廷の人々にも良く知られていたことを示していると考えられる。
大国主大神が子供の物言う能力を司どる神として出雲の国でも信じられていたことを窺えるのは、『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の記述からである。
大穴持命(大国主大神)の子の阿遲須枳高日子命は壮年になっても言葉をしゃべることができないでいたが、大穴持命が夢に願ったところ、阿遲須枳高日子命は話す事ができるようになり、「三沢」という地名を云ったとされる。この三沢には出雲国造が朝廷へ神賀詞奏上に行く際、禊に用いる沢水が流れ出るところとして、次のような言い伝えが記される。
爾時、其沢水活出而、御身沐浴。故国造神吉事奏、参 二行朝廷 一時、其水活出而、用初也。依 レ此、今産婦、彼村稲不 レ食。若有 二食者 一、所 レ生子已不 レ云也。
出雲国造が神賀詞奏上に朝廷に行く際に禊に用いる神聖な沢水であるから、その水を用いて作った米を妊婦が食べると子供が唖になると云って食さないと云う伝承として解される。この伝承全体を論理的に辻つま良く説明はできないが、要するに子供の唖を神聖な沢水を得ることで解決したのが大穴持命(大国主神)であることになり、逆説的であるが大穴持命は子供の唖を治す神として信仰されていたことが窺われ、同時に大穴持命の怒りをかえば、子供を唖にして祟りをなす神として信仰されたのではないかと思われる。
而して、朝廷に於いて健王を唖にしてまで大国主神が怒りを向ける存在といえば、父の中大兄皇子、或は祖母で天皇である斉明天皇以外にいないと思われる。
天神と大国主神とは深遠な約束の上で国譲りが行なわれたことを、現代の我々は単に神話として捉えている。しかし古代に於いては、国譲り神話で取り交わされたことは、神代に於ける天神と大国主神との約束事であり、その事は天神の皇孫が履行しなければならないと考えられたのではないかと思われる。
その約束事とは、『古事記』では、大国主神の住居を皇孫の殿舎と同じように宮柱を太く、高天原に千木が高く聳え立つように造ってくれたなら、この地に隠れるとの約束事であり、そうして出雲の多芸志の小浜に御舎が造られたとされている。
また『日本書紀』では、大国主命の天日隅宮の柱を高く太く、板も広く厚くし、天穂日命をして大国主命の祭祀をさせると高皇産霊尊が大国主命に約束したところ、大国主命は「顕露」のことを治めるのは皇孫に譲り、自分は退いて「幽事」を治めると言ったと記されているのである。
大己貴神報曰、天神勅教、慇 二懃如此 一。敢不 レ従 レ命乎。吾所 レ治顕露事者、皇孫當 レ治。吾将退治 二幽事 一。(巻神代下〔第九段〕一書第二)
大国主命は、『古事記』では国譲りをして出雲の一地域に隠れ住むとして描かれるが、『日本書紀』では「顕露事」即ち現実世界を治めることは皇孫に譲り、自分は退いて「幽事」即ち死後世界を治める神となるとして描かれている。
以上の考察によって、大和朝廷にとっての大国主大神の神格は、死後の世界を治める神であり、この神を怒らせると朝廷に対しては天皇の皇子を唖にすることで現世にその怒りを表す神であり、この神の怒を鎮める方策は、その社殿を天皇の殿舎ほどに柱を高く太く、板を厚くして、荘厳な社殿を造って、天穂日命の孫に懈怠なく祭祀を行なわせることによって果たされるとして畏怖された神、とすることができるのではないだろうか。
こうした出雲国の大国主神の神格が、斉明天皇に至って、健王の死を通じて一際鮮明に想起されたのではないだろうか。老齢となっていた斉明天皇にとっては、健王の死を通じて大国主神の怒りが斉明天皇自身に向けられていて、その身代わりに健王が祟られ唖となったまま死んだと思い込ませたのではないだろうか。
このように斉明天皇の近親者に大国主神の怒りを知らせる兆候が明確になったのに加えて、斉明天皇の治世面では、新羅が唐の援助を受けて百済侵攻を窺っており、これは当然大和朝廷にも波及する百済の危機であり、朝鮮半島の三韓とは海を隔てて対峙する最前線に鎮まる出雲国の大国主神が怒り大和朝廷に祟ることは、国内の安定に深刻な状況を作り出すことに直結する事態であることは誰の目にも明らかであったに違いない。
したがって朝廷は何としても、出雲の大国主神の怒りを鎮めなければならない状況に立ち至っていたと思われる。
では何故に大国主神が斉明天皇に怒っているのかと言えば、皇孫が大国主神と天神との約束を履行していない、つまり天皇の殿舎のような荘厳な宮を、大国主神を祭るために修造していないことにあるとするのが神話の教えるところであろう。したがって大国主神の怒りを鎮めるには、その壮大な神の宮を修厳することが最適の方策ということになるのではないだろうか。
ところで、ここでこれまで触れないで来たが、「修厳神之宮」の読み方である。これを岩波古典文学大系では「神(かみ)の宮(みや)を修(つく )(り)厳(よそ)はしむ」と読んでいるが、むしろ国史体系本の古訓(釈日本紀)のように「 (イ)厳(ツカ )(シ)神(ノカ )(ミ)宮(ノミ )(ヤ)を修(ツク)らしむ」と訓じるほうが適切に思われる。大国主神の宮は、神宮という和やかな建造物というよりも、恐れ多い神を祀るに相応しい荘厳な宮でなければならず、それ故「厳神之宮」という特別な宮でなければならなかったとされるのではないかと思われるからである。
さて、上述した状況の下に、斉明天皇は大国主神の怒りを鎮める目的を以て、大国主神に天神が約束したような天皇の殿舎に勝とも劣らない「宮」を大国主神の為に修造することを思い立ったのではないだろうか。即ち「厳神之宮」の修造を、大国主神の祭祀を高天原の天神に命じられた天穂日命の孫である出雲国造に詔したとされるのではないだろうか。 
5 厳神宮の修造と揖屋神社
これまでの考察によって、斉明天皇五年に何故、朝廷が出雲国造に神宮の修造を命じたのか、その理由や背景が明確になってきたのではないかと思われる。そこで、当論文の最初の課題であった、なぜ狐が意宇郡の役丁の執る葛を噛い断ったり、狗が揖屋神社に死人の手臂を噛い置いたことを、斉明天皇の死の兆しとして日本書紀の編者は捉えたのか、そのことを最後に考察しておきたい。
朝廷が神宮の修造に取りかかっていたにも拘らず、それに動員した意宇郡の役丁の執る葛に禍が加えられたのは、大国主神が修造に関して何らかの不満を示したものと思われる。
例えば修造を急がせる意味に解される。また狗が死人の手臂を噛い置いたのも、大国主神の苛立ちを示し、一刻も早く神宮を完成させなければ、大国主神の怒りが鎮まらないことを伝える大国主神からの意思表示と考えることが出来る。
死人の手臂が置かれた所が、黄泉国に通じる黄泉比良坂があるとされた揖夜の揖夜神社であることは、黄泉国の大国主神からの意思が表される場所としては、寧ろ全くこの上なく相応しい場所であろう。
そして狐と狗の両事件が意宇郡であることは、意宇郡には出雲国府が置かれることからも、意宇郡が出雲国に於ける大和朝廷の拠点となった郡で、他郡に抜きん出て大和朝廷には重要な郡であった為ではないかと思われる。意宇郡には、天神から豊葦原中津国平定を命じられて高天原から派遣された天穂日命の孫である出雲国造が、天神の熊野神を祭って居住していたことは象徴的でさえある。
また岸俊男氏(13)が指摘されたように、仁徳天皇即位前紀に登場するこの郡名と同じ名前の淤宇宿祢が出雲臣の祖とされ、天皇に附属する倭屯田の管理をしていたとされることからも、意宇郡と大和朝廷には実に深い関係が見いだされる。
出雲の国譲り神話を何らかの史実が反映した神話とし、この史実を宗教面から見るならば、大和朝廷から派遣された天穂日命がその平定に困窮し、そこに中央大和から直属軍が派遣され、ようやくにしてそれまで出雲国を作り治めていた大国主命一族を服属させ、大国主神の祭祀権を天皇に譲渡させ、天皇はその祭祀を大和朝廷派遣軍の先発隊として苦心した天穂日命に命じ、そうして天穂日命の孫である出雲国造が大国主命の祭祀を管掌することになったと解釈されるのではないだろうか。
出雲が古代神話世界で大きな比重を持たされているのは、その平定が大和朝廷にとって非常に困難であった故に、その史実が国譲りを代表的する事例として象徴的に神話化された為ではないかと考えられる。そうした史実があったため、大和朝廷は、最も力強く抵抗した大国主神を出雲国でも最も奥まった地に押し込め、天皇の殿舎と同じような社殿を造って丁重に祭祀を行なって鎮めることが必要だったとされるのではないだろうか。
斉明天皇は、健王が唖になり、百済が不安定なったことは、大国主神が怒っている為と感じ取り、その怒りの理由が社殿の壮大さの不足故と考えて、それまでよりは格段と柱も太く、高層で巨大な社殿の修造を出雲国造に命じたのではないかと思われる。
このように大国主神をして黄泉国を治める神とする視点から、出雲国造・「神之宮」の修厳・意宇郡役丁の葛・揖夜神社の死人の腕・斉明天皇崩御の関連を考察するとき、大国主神が朝廷にその神思を表すには意宇郡こそが最も相応しい郡と云えることが明らかになるのである。
それ故、井上光貞氏のように「言屋をキズキと関連せしめる理由は一つも存しないのである」ということは出来ず、寧ろ密接な関係を見出すことができるとされなければならい。したがって斉明天皇五年の神宮の修厳は、将に出雲郡の出雲大社であったとされなければならないと思われる。 
[注]
( 1) 岡田莊司「古代出雲大社神殿の創建」(『神道文化』十二号、平成十二年十月一日)。
( 2) 両説に対して研究者がとる立場は、注一岡田論文を参照。
( 3) 井上光貞「国造制の成立」(『井上光貞著作集』第四巻、一九八五年、岩波 書店。初出『史学雑誌』六〇−一一、一九五一年)。
( 4) 上田正昭「山陰文化の伝統」(『古代の日本』4、角川書店、一九七〇年)。(5) 新野直吉「古代出雲の国造」(『出雲教学論攷』所収、出雲大社、昭和五十 二年)。
( 6)『島根県史』一先史時代・神代、「黄泉比良坂」参照。
( 7)『意宇郡(松江市・余郡)神社明細帳』(島根県立図書館所蔵)には、「昭和二十一年六月二十三日法人届写」として揖夜神社の由緒の条に次のような記載 がある。「往古豫母都平坂ハ揖夜神社ヨリ六町去テ今地名平賀ト云又伊賦夜坂ハ 字神子谷ト云是也ト古老ノ口傳アリ」。また『八束郡誌』本篇(名著出版、昭和四十八年)第二章揖屋村第三節名所舊跡「一、伊賦夜坂」には「揖夜神社御由緒取調書」という記録を引用して、「按ずるに、再尊の諾尊を追ひつゝ、夜見國より渡り來ましゝ比良坂は、蓋し意東村の西の坂下ならん。然云う故は、此地は南方に聳立せる荻山、高野山の支脈の北に突出せる間に、揖夜・意東・出雲郷・岩坂・日吉等の村落を成せり。而して其支脈は南北に彎曲し東西に起伏したる丘陵 なり。故に海岸に近き部分は海抜百尺内外ならば坂路峻嶮ならず、概ね平易なれば則ち比良坂と呼び稱へたり。其比良坂を今平賀といへり。此地に小祠あり、平 坂と稱し、諾再二柱を祭る、此の祠は維新の神社取調書に漏れたるにより、官簿には無かるべきも、村民は厚く崇敬せり。即ち意東村と揖屋村との中間にして、 昔年よりの古路なり。今は縣道となりて益々平易なる坂なり。又一説に平賀の南に継ぎて又意東村より越え來る平坂あり、字夜見路越といひ、其の谷を夜見津といふ、云々。」
( 8) 中村太一「『出雲国風土記』の方位・里程記載と古代道路」(『出雲古代史研究』第二号、一九九二)。
( 9) 平成九年に、私も猪目洞窟を訪ねたが、その時の洞窟は高さ十二米、幅三十六米という巨大な洞窟であって、とても風土記に云う「高広各六尺許」の窟戸には比定できず疑問に思っていたのであるが、この疑問は加藤義成氏『修訂出雲国風土記参究』(昭和五十六年版、松江書店。初版昭和三十二年)の「宇賀郷」の次のような注釈を読んで氷解した。「昭和十五年の頃は、崖崩れの土砂で穴口は高さ一米弱幅二米ばかりの櫛形をなし、穴口から石を転がし入れると、共鳴しながら転入したが、その後土砂を取るようになって変形し、昭和二十三年漁港修築の際この穴口の土を取ったところ、縄文期から弥生時代・古墳時代に及ぶ考古資料と共に、人骨十数体、副葬品多数が発掘され、正しく黄泉の穴であることが分かった。穴口は今は崩されて高さ十二米、幅三六米の右を斜辺とした直角三角形で、奥へ次第に小さくなって三七米にも及ぶ漏斗状をなし、その先は鷺浦に続くといわれている。この穴から三三米の扇状の斜面が黄泉の坂に当たる。」。
(10) 黒板勝美「我が上代に於ける道家思想及び道教について」(『史林』第八巻一号、大正十二年)。
(11) 福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡』(朝日新聞社、一九八七年参考。(12) 奈良行博著『道教聖地』(平河出版、一九九八年)、「1−道教聖地の山水と宮観」。
(13) 岸俊男「『額田部臣』と倭屯田」(『日本古代文物の研究』塙書房、一九八七年)。 
 
国造の祭祀職への遷移

 

はじめに
国造が神主職に就いていた明確な例は、出雲国造に見られる。また律令国造の議論から律令期の国造が祭祀職の職務に就いていたとする見方が一般的に定着している。しかしながら実際には、「国造」祭祀職がどのように形成され、実態として機能していたのか、その中で国造はどのような祭祀職としての役割を担っていたのかといったことは不明な点が多い。また神主や祝を含めた律令祭祀職制全体の中で国造祭祀職の考察がされているわけでもはない。
大化改新が行われ、国郡制が敷かれた以降の国造、所謂「律令国造」の祭祀職としての位置付けがなされる史料的根拠とされているのが、天武五年・十年の諸国大祓への国造関与、大宝二年の大幣受領のための国造入京の記事である。しかしながら、これらの史実を検討すると、何れも国造制の国造の職務である地方統治者としての務めの一つと考えられ、祭祀職といえるような恒常的職ではなく、国造制から国司ー郡司制への過渡期に於ける旧来の慣例に基づいた国造の務めではないかと思われるのである。以下では、これらの事柄の検討を通じて、律令形成期・完成期に於いて国造=祭祀職という解釈が的確なものなのか考察するとことにしたい。 
一、国造・郡司と神社祭祀職
諸国に於いて国造家に出自すると云われている社職家は、管見によれば次にあげる神社に見出される。
  国名  神社    社職   氏族名 典拠
 1 肥後国 阿蘇神社 大宮司 阿蘇公氏 阿蘇大宮司系図
 2 豊後国 宇佐神宮 大宮司 宇佐公氏 宇佐大宮司宇佐氏系譜
 3 伊予国 大山祇神社 大祝 越智直氏 大祝系図・縁起
 4 長門国 住吉神社 神主 穴門直氏 山田家系図
 5 出雲国 出雲大社 神主 出雲臣氏 『続日本紀』
 6 安芸国 厳島神社 神主 佐伯氏 史料通信叢誌 第壱編厳島誌所収文書
 7 吉備国 吉備津彦神社 祢宜 加陽氏 国造本紀
 8 石見国 物部神社 神主 金原氏 『古事類苑』神職上
 9 隠岐国 玉若酢命神社 神主 隠岐国造 『古事類苑』神職上
10 因幡国 宇部神社 神主 伊福部氏 伊福部氏系図
11 但馬国 粟鹿神社 祭主 神部氏 粟鹿大明神元記
12 丹後国 籠神社 祝 海部直氏 海部系図
13 大和国 大倭神社 神主 大倭直氏 『続日本紀』
14 紀伊国 日前・国懸神社 神主 紀直氏 『続日本紀』
15 尾張国 熱田神宮 神主祝 尾張氏 熱田大宮司千秋家譜
16 伊豆国 三島神社 神主 矢田部氏 「伊豆国造伊豆宿祢系譜」
17 武蔵国 氷川神社 神主 武蔵国造氏 武蔵国造系図
こうした国造氏族との関係を色濃く伝える社職は郡司氏族との系譜を持つ社職でもある。また国造ではないにしろ、郡司出自を系譜を称する社職も多い。郡司との系譜を伝えるのは、次にあげる氏族である。
   郡名       神社    社職  氏族名 典拠
 1 ● 筑前国宗像郡 宗像神社 神主 宗像朝臣氏 延暦十九年太政官符(「類聚三代 格」巻七
 2 △ 伊予国越智郡 大山祇神社 大祝 越智直氏 越智系図・縁起
 3 △ 摂津国住吉郡 住吉神社 神主 津守宿祢氏 住吉松葉大記第十八、津守浄化山(第十七代)
 4 ● 出雲国意宇郡 出雲大社 神主 出雲臣氏 延暦十七年太政官符「類聚三代格」巻七
 5 △ 吉備国賀夜郡 吉備津彦神社 祢宜 加陽氏 扶桑略記巻第二十二寛平八年条善家秘記云
 6 △ 因幡国法美郡 宇部神社 神主 伊福部氏 伊福部家系図
 7 ● 紀伊国名草郡 日前・国懸神社 神主 紀直氏 続日本紀神亀元年十月十六日条
 8 ● 常陸国鹿島郡 鹿島神宮 宮司 中臣鹿島連氏 天安二年太政官符「類聚三代格」巻三
 9 ● 下総国香取郡 香取神宮 宮司 香取連氏 香取系図
10 ● 安房国安房郡 安房神社 神主 安房斎部氏 斎部本系帳(系図)
11 △ 伊豆国賀茂郡 三島神社 神主 矢田部氏 伊豆国造伊豆宿祢系譜
12 △ 甲斐国八代郡 浅間神社 祝 伴氏 続日本後紀貞観七年十二月九日条
13 △ 信濃国諏訪郡 諏訪神社下社 祝 金刺氏 武居大祝系図
●印は神郡、△印は一般公郡であるが、これらの神社の社職は、文献や系図から郡領の系譜が推測される。また△印を付した社職家の内、大山祇神社−大祝(越智直氏)・吉備津彦神社−祢宜(加陽氏)・宇部神社−伊福部氏(神主)・三島神社−神主(矢田部氏)・諏訪神社下社−祝職(金刺氏)は国造の系譜をも称する氏族である。
しかしながら、これらの神社社職の出自を裏付ける史料は、大部分が系図であることは、系図史料が後世に自家を権威付ける必要に迫られて、自家を有力氏族の系譜に繋げる傾向を持つ点、或は系図は後世に追記架累されることから、改編や改竄を受けやすいという史料的特殊性を持っているため、系図を基に当該氏族の国造・郡司の出自を推定をすることには慎重でなければならない。
これらの諸社職の中で、国造にも郡司にも就いていたことが明確に国史に記載されるのは出雲国造と紀伊国造であり、両氏族は国造就任の際に宮中への参内儀礼を行なうことが『延喜式』に規定されている。しかしながら何故この二氏のみがこうした参内儀礼を課せられたのか、その理由は恐らく二氏が領した国の奉斎神と朝廷とが特別深い関係を有していたことによると思われるが、解っていない。。
しかし、それにしても国造や郡司の系譜を称する神社社職家は、何故このように多いのだろうか。これには神社社職家が伝統的権威を必要としたために国造や郡司を自称したとばかりとは考えられず、やはり神社社職と国造・郡司職(神郡以外の郡に於いても)が関連している何らかの歴史的史実があるためではないかと思われるのである。 
二、所謂「律令国造」の職掌
国造が大化改新以降の律令整備期に於いて各国内で世俗的権力を喪失し、その職掌が祭祀職に移り宗教的権力のみを持たされるようになっていったと、近代歴史学に於いて明確に提唱したのは津田左右吉(1)であった。しかし、津田以前に於いても、近世の薗田守良(一七八五〜一八四〇)は、『新釈令義解』の諸国大祓条の註釈で、大化改新で国造が郡国の治めるのを止めてから「国守国造の職はわかれ国造は神祭るの執業となり、その権勢を失いしかとも」(2)と記しているように、国造=祭祀職説は津田左右吉の創始した説ではない。
津田左右吉は次のように述べる。
大化の改新の後、舊來の國造(及び縣主などの地方的豪族)はなるべく郡司に任用して從前の生活と社會的地位とを保持し得られるやうにしたのであるが、何時のころからか國造の地位を一國一人に限ると共に、それに或る職務を帯ばせ、また其の地位を朝廷の任命によるものとし、昔からの國造の家が無い國には新にそれを置いて、何人かに其世襲的地位を與へたのであらうと思ふ。其の時期は固より明らかでないが、持統朝の状態が上記の如きものであったとすれば、それは遅くとも天武朝であったはずであるが、後に述べるやうな理由から、余はむしろ天智朝ではなかつたかと臆測する。(『日本上代史の研究』第五章「改新後の国造」)
津田が立論の基礎としたのは、続日本紀慶雲三年十月条の「摂津国造凡河内忌寸石麻」の記載であった。摂津国は国郡制の敷かれた後の存在なのであるから、この摂津国造は大化以降の新設の国造とされねばならないとするのである。また山背国造・大倭国造・葛城国造・阿波国造・紀国造・讃岐国造が元来カバネである「国造」の他に、カバネとして直を持っていることから、カバネの直が与えられたのは大化以降のことと考え、天智天皇の庚午年籍時には直姓を持っていたとするのである。
そして国造に直姓が多いのは、「一定の方針によつて朝廷から與へられたことを示すもののやうであり」(238頁)とし、その理由を「國造が政治的權力を失つに伴たことであろうと推測せられる」(238頁)という推論を行って、前掲の結論を導き出している。そして最終的に、
大化以後の何の時にか、国造が新しい意味での公の職掌と地位とを有するものとなり、國ごとに一人づつ置かれたことは、承認せらるべきであらう。然らば其の職掌は何であるかといふに、續紀大寳二年二月の条に「爲班大幣、馳駅遣諸國々造入京、」とあるのを見ると、神社の祭祀に關するものであつたことが推測せられる。
とする。しかしそうすると、律令制の国守の職掌が「祠社」とあることと、国造の職掌が重複することから、国造の職掌は国内すべての神社が対象ではなかったとする。津田左右吉は、国魂の神社が大化以降の天智朝に一国に一社定められたと推定して、この国魂の神社の祭祀に関与していたとするのである。
地方的豪族と其の土地の神社との間には昔から密接の關係があり、豪族は其の神の祭主でもあつたらしいから、此の新制度は畢竟それを繼承したものであるが、政治的意味から一國に一つの國魂神社を定めたにつれて、其の神社の祭主に國造の稱號を保持せしめ、又は新しく與へたのであろう。(231頁)
こうした津田左右吉の解釈が起点となって、津田以後には植松考穆氏の国司祠社任務の国造への委任説(3)、虎雄俊哉氏の国の代表的神主説(4)、新野直吉氏の地方神祇官説(5)が提唱されたが、この中で津田左右吉の議論を最も良く継承発展させていると考えられるのが新野直吉氏の説と思われるので、次に紹介しておきたい。
私は彼らの職掌は管国の諸祭祠事であると考えている。そして国守の祠社の職掌との関係は太宰帥が祠社を掌りながら、主神が「諸祭祠事」の職務をおこなっているのと同然だと考えるのである。国守が神祇行政や神祭の統轄をおこなうのに対し、国造は祭祀行事や神祭の直接の主務執行者なのであろう。いうまでもなく祭祀と言っても、諸祭祠事とは単に或る神社の祭祀に限るものではないし、また神社祭祀だけに止まるその管国内の公的神事一般を含んだものであると考えられる。したがって、それはやはり恒常的な職掌を持つ一つの官職名であるとすべきである。(6)
津田左右吉の提唱した一国一国造、即ち新野直吉氏の言う律令国造の存在は、今日では疑問視され、私も篠川賢氏の「天平期以前の国造は前代の残存国造」(7)という方が妥当な説に思える。また律令国造の祭祀職掌が律令形成期に特別に国造に持たされたものとされる点、或は津田左右吉のように大化以降に国造が政治権力を喪失した代償に宗教的職掌を与えられたとする点は疑問に思われる。また新野氏の云う、九国二島を管掌する太宰府の主神のような管国内の祭祀行事や神祭の直接の主務執行者という職掌把握を、一国を管掌する場合の統治組織に当て嵌めるのは拡大し過ぎた解釈と思われるが、部分的には国造の職務に該当していると思われる。
国造が国内の祭祀職掌を新たに与えられたという説に疑問を覚えるのは、国内の諸祭祠事も国司が行なっていて、国造が担当する事柄はなかったと考えられるからであり、そうした祭祀には国造が関与していたとは考えにくいからである。
そうではなく、大化期以降の国造は領域国内の政治権力を中央政府にから派遣された国司に奪われ、自氏族の神社の祭祀職や、国内的規模で行なわれる祭祀(例えば大祓)の在地祭主的地位へと追いやられていったとされるものなのでないだろうか。 
三、律令制完成期に於ける祭祀職としての国造の地位の変化
これまでの研究によって明らかにされているように、律令期に於ける国造の国家祭祀に於ける地位の変化は、諸国大祓の際の祓物の国造への負荷、及び諸神へ奉る幣帛の神祇官への受け取り者の推移によって窺うことができるとされるものであろう。 養老神祇令諸国条にある次の規定は、『令集解』所引の次の古記の文章から大宝令でも同文であったことが確かめられるとされるものである(8)。
凡諸国須二大祓者一。毎レ郡出二刀一口。皮一張。鍬一口。及雑物等一。戸別麻一条。其国造出二馬一匹一
しかしながら「其国造出馬一匹」という規定は、延暦期の養老令の注釈書である『跡記』になると、
跡云 雑物以上。郡司之物令レ備。但无二国造一者、不レ出レ馬耳。
国造がいなければ馬は出さなくてもよいとなり、また、『穴記』でも「若国造闕者、无レ馬也」とされるのである。つまり大宝・養老令では予め国造の存在が前提にされて令が規定されているが、延暦期の成立とされる『跡記』等の注釈書になると、国造の存在が闕していること踏まえた注釈が一般化しているのである。また祓物としての馬を郡司が代わって出すのではなく、祓物としての馬自体が不要とされるようになっていたのである。このように延暦期では国造の姿は消え、郡司が主体となっていた。
また、大宝・養老令諸国大祓条では「郡司−国造」の順番に記されるのであるのに、平安朝初期では「郡司−(国造)」となってしまっている。 国造の存在が、奈良時代末期の律令制の「再建期」においては、このように衰退しているのであるが、律令諸国大祓規定の法源と見做されている律令形成期の天武天皇期では、諸国大祓に於ける国造の地位は平安時代初期とは、全く逆である。天武天皇五年(六七六)八月辛亥の詔では、
詔曰。四方為二大解除一。用物則国別国造輸。祓柱馬匹。布一常。以外郡司各刀一口。鹿皮一張り。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稲一束。且毎レ戸麻一条。
とあり、「郡司−国造」ではなく、「国造−郡司」の順であることが既に指摘されている(9)。また天武天皇十年 (六八一)七月丁酉には、
令二天下悉大解除一。当此時。国造等各出二祓柱奴婢一口一而解除焉。
「国造等」となっていて、国造だけが明記され、郡司は記されおらず、こうしたことから天武朝では、「大解除」を行う祭主(主催者)としては国造がその地位にあったことが知られる。
大祓に用いられる重要な用物の拠出者が、天武朝では「国造―郡司」、奈良朝では「郡司―国造」、平安朝では「郡司―(国造)」となっていることから、元々大祓の主要な用物を出すのは、「国司」ではなく国造や郡司であったことが知られる。このことを傍証するように、国別の国造がいなければ、国別の用物である馬も無くていいとされていて(古くは、官物で用意されていたようであるが)、国司の関与が規定されていない。このことは、諸国大祓の本質が在地者の祓えであったことを端的に示しているように思われる。
即ち、諸国大祓の用物を国造・郡司が負担して、国司が祓物を課せられる対象とならなかったのは、諸国大祓で祓われなければならない罪が、一義的には在地者の犯した罪とされていた為ではないかと考えられる。つまり大祓で対象となる一国内の罪は在地者の犯した罪と考えられていた故に、中央から赴任する国司はその対象とならず、重い祓物を課せられる対象とされなかった為ではないだろうか。しかし何れにせよ、天武朝の大祓に国司が入っていないことは、国造が律令整備期の天武朝では未だ在地者の長である伝統が強かったことを推測させる。
郡司については、坂本太郎論文の「郡司の非律令的性格」(10)からすれば、郡司は国司と本質的に違っていて、その選出は『令義解』には「部内」と標記され、『令集解』には「土人」とあって、在地の者、即ち在地豪族の者から取られたと考えられる。選叙令の郡司任用規定の註には「其大領少領才用同者先取二国造一」とある。また、『日本書紀』大化二年正月の詔に、
其郡司、並取下国造性識清廉、堪二時務一者上、為二大領少領一、強幹聡敏、工二書算一者、為二主政・主帳一。
と記されていることは、大化二年のこの詔が、やがて大宝・養老令の規定となったとされるものであろう。たとえ、この詔が、原詔そのものでなく後世の改作を受けているとしても、日本書紀編纂時に於いて、大宝令に於ける郡司任用の国造優位規定の法源が大化改新の詔にあると認識されていたとされるものであろう。郡司が在地豪族の中から選ばれるということは、国内郡司には必然的に国造一族の者が含まれていたと考えられ、大化改新時期に近いほどに国造郡司の権威は非国造郡司の中で高かったと思われる。つまり天武朝では、国造が在地者の長であるとの伝統と権威が未だ強く保持されていたと考えられる。 
四、諸国大祓の祭祀者
さて、諸国大祓条の国造が祭祀職としての称ではないとすると、諸国大祓は誰が執行したのだろうか。朝廷での大祓が渡来氏族の東西文部により、漢音を以って祓詞《呪詞》が奉奏され、人形が使用されるなど中国的宗教儀礼の伝統を色濃く持っていた。したがって諸国の祭祀職である祝等が、祭祀職として大祓にを行なったとする解釈は唐突と思われるであろう。
しかしながら六月・十二月大祓や諸国大祓が律令の神祇令に規定されていること、また恒例の大祓の内裏に於ける御贖儀(みあなものぎ)では、中臣が祓麻を奉り、東西文部が祓刀を奉呈し祓詞を漢語で奏上して後、この刀を賜るが、御贖儀が終わった後は、「百官男女」が祓所に参集して中臣が祓詞を宣り、卜部が解除を為せと規定されている。このことから恒例の大祓に於ける天皇以外の祓は、主として神祇官の中臣や卜部が執り行っていたと解釈される。
中央に於ける大祓執行の様子からすれば、諸国大祓(12)が行なわれるのも国衙の付近と考えられる(13)。それならば諸国大祓で実際に解除を執り行う祭祀者は国衙に近在する神社の祝が考えられるのではないだろうか。
日本書紀皇極元年七月甲寅(十六日)条には、旱に際して、村々の祝部の教えに従って牛馬を殺して神々を祭ったことが記されている。
戊寅、群臣相語曰、隋二村々祝部所教一、或殺二牛馬一、祭二諸社神一。或頻移レ市。或祷二河伯一。既無二所効一
この祭祠で、牛馬を殺して諸社の神を祭ることを以って固有の信仰とするか、或いは市を移すということや、河伯に祷ると云ったことなどからも中国渡来の祭祠(15)とするかで、見解が分かれている。しかしながら皇極期に於いて神社の祝部が、殺牛馬という漢神祭に共通する祭祠の知識を持ち、人々に教え、祭らせたということは、神社の祝部が旱を止める祭祀として、中国的祭祀を行うことができたことを示していると思われる。であるならば、祝が人形等を用いる中国的祭祀の大祓も執り行うことが可能だったことになるのではないだろうか。 
五、大祓に於ける馬の意味
天武紀に、祓柱の馬を「輸」せとあることから、これを国造の朝廷への貢馬と解釈し、貢馬の拠出を大祓の歴史において相対的に古い時期に属するとして、諸国大祓における国造貢馬を、国造の大和国家への臣従を馬飼の形式において表示することにあったとする高橋富雄氏(16)の見解がある。
また祓柱の奴婢も、天皇の命を贖うものであったとする神野清一氏(17)の説がある。両氏の解釈は、馬と奴婢を共に天皇へ献上されるものとする点で共通するが、神野清一氏は、馬と奴婢とを滅罪犠牲になぞらえ、更にそうした理解を発展させて、それらは天皇の命を贖うものとされたのであった。
しかし国造に課せられた馬と奴婢とを、共に天皇の命を贖うものであるとする解釈は、諸国大祓の祭祀目的と矛盾することになる。諸国大祓執行の趣旨が、諸国の人々の罪を悉く祓うことにあることは明らかと思われ、それからすれば国造の馬や奴婢も国造自身の罪に対する贖い物と考えなければならない。
また大祓の実態からすれば、中央大祓に於いて、天皇は自己の罪の贖いとして多数の御贖物を出している。それからすれば国造が出す馬や奴婢は、諸国大祓に際して出さなければならない諸国の主である国造自身の罪の贖い物と解される。したがって諸国の人々の罪が贖われた結果として、国家の頂点にある天皇の身も守られることにはなるが、これを直接に天皇への贖い物と解釈することは、対象がすり返られた解釈になると思われる。
大祓に馬が出されるのは、大祓が服属儀礼だからではなく、貴重な馬が贖い物として相応しいものであったと同時に、人々の罪を遠い彼方に運ぶ運搬手段(18)として考えられた為と思われる。勿論、馬が水と関係深いという信仰も、馬を用いる大きな理由と思われる。
また、諸国大祓執行当初に祓物に奴婢が出されたことも、人々の罪を代わりに引き受ける形代としての役目を負わされていたからではなかったかと考えられる。それ故、土馬・人形が盛んに用いられるようになる奈良時代以降(19)では、奴婢そして馬が大祓の用物としてはよされな消えていったのではないかと思われる。
さて、『貞観儀式』割注によれば、祓物が置かれた南に馬が引き立てられていた。 
先レ此神祇官陳 二祓物於朱雀門前路南 一、分 二置六處 一、但馬在 二其南方 一、北向、
また『北山抄』でも、「北面、記文云、六疋牽二立朱雀門橋北一。又積二置稲四五束許一」と注される。こうしたことからも、馬を用いる意味は、祓物を運ぶ用途にあったと考えられる。
朱雀門前の大祓の馬も、祓物を川に流す為にこれを運ぶという用途が考えられるのであり、それが終われば、馬もその役目を終えた考えられる。
『令集解』では、「今説」として、行事を主としてて執り行った者(今行事)が、国造の出した馬を得るとされていて、馬が供犠牲されたようではない。
但国造所出レ馬。祓訖之後。所レ至不レ見耳。今行事使レ得耳。
馬が国造に返されないことは、馬が国造の罪の贖いとして出され、また各戸からの贖いとして出される麻一条も川等に流されてしまうと考えられることから、拠出した馬を国造が再度受け取ることになると、国造の贖いが成立しなくなってしまう故に、馬は国造に返されなかったと考えられる。
また、『延喜式』臨時祭の天皇一代一度の「羅生御贖」(20)にある「奴婢八人、馬八疋」も、この大祓に於ける用途と同じ意味と考えられる。
五畿内・七道諸国を対象とする『延喜式』規定の大祓が、天皇一代一度の大嘗祭前の大祓であることからすれば、諸国大祓に於ける国造の馬一匹や奴婢一口というのも、天皇羅生御贖と相似した諸国国造の贖物と考えられる。
大祓の用物を財産刑的な贖物(21)と解するか、或いは宗教的な祓物(22)と解するかで、見解が分かれている。しかしながら祓物をそのように二者択一的に解釈するのではなく、馬や奴婢は宗教的な祓具ではあるが、その祓具としての由来に財産刑的刑罰の贖いという意味を持っていたと両義的(23)に考えるべきと思われる。したがって郡司が出す刀以下の雑物や各戸が出す麻も、刑罰的贖い物という意味を帯びた宗教的な祓具とされるものであろう。
ところで神野清一氏は、馬や奴婢が大祓で供犠として殺されて、水中に遺棄されたと推測された。供犠としての殺牛馬が行われたことは漢神祭に見られる祭祀であり、考古学的にも発掘遺物として確認されるところである。また漢神祭は祈雨・止雨(24)、或いは疫行神の追儺と考えられ、そうした祭祀の場合も、国府の井戸や川辺(25)、或いは郡衙(26)といった大祓と似た場所である。
つまり漢神祭との類似性からも、大祓に於ける殺馬の可能性を全く否定することはできない。しかしながらそうした殺馬殺牛の遺跡から、牛馬の遺骸と一緒に人形が発掘されたという報告や論及はなく、いずれも祈雨・止雨祭祀の供犠として解釈されている。
大祓の祭祀の執行意義からすれば、供犠牲を行う必要はないのであり、そうしたことは寧ろ禁止されることではなかったかと思われる。もし行われたとしても最初期だけで、直ぐに人形や土馬に代替されるようになったとされるものではないだろうか。
平城京の発掘調査においても、大祓の祭祀場(祓所)となった場所からは、多数の人形・土馬が発掘されているものの、馬や人の骨は発掘されていないようである(27)。繰り返すようだが、こうした供犠を行う祭祀は、大歳神や河伯などの漢神祭であって、大祓ではなかったとされるものであろう。
何よりも天武五年八月辛亥(十六日)の大祓に続いて、翌日の壬子(十七日)に諸国に詔して行われたのは、死刑以下の処罰の一等減刑であり、捕らわれている生き物を解き放って功徳とする仏式行事の「放生」だったのである。
朝廷が、旱の解消を目的として多数の人馬を贖いや供犠として殺し、他方では生き物を解き放つという相矛盾する宗教行事を連続して行ったとは思われない。しかも天武天皇は還俗して天皇に就いたとはいえ、壬申の乱の直前には、例え方便であったとしても、一度は落飾されたことのある天皇であり、その葬儀には初めて僧尼が参加した天皇である。殺生を嫌う仏教に篤く帰依された天武天皇が、罪を祓うことを目的とする祭祀で、これに逆行する罪作りの行為を行わせたとは考えられない。
『大祓詞』にあげられる国罪の中には「生膚断」・「死膚断」があり、従来はこれを生きている人の肌、及び死んでいる人の肌を断つ罪と解してきたが、井上光貞氏(28)は夫々「傷害」・「殺人」と踏み込んだ解釈をしている。また律令には、殴殺に関する多数の刑罰が規定されていることは、当時に於いても人の殺傷を最も深刻な罪とする観念が成立していたことを示している。更に大化二年三月二十二日の「薄葬令」として有名な詔にも、
凡人死亡之時、若經レ自殉死、或絞レ人殉、及強殉二亡人之馬一、或為二亡人一、蔵二宝於墓一、或為二亡人 一、断レ髪刺レ股而誄。如レ此舊俗、一皆悉断、縦有二違レ詔、犯一 レ所レ禁者、必罪二其族一。
とあり、人・馬の殉死の旧俗を禁じ、これに違反した場合を罪にすると断じて、人が死んだ場合でさえ、その故人に所属した親しい人馬を殺すことは旧俗として禁じられ、罪する対象とされているのである。
以上の検討からすれば、犯した罪を祓うことを目的とする大祓で、馬や奴婢を供犠することは、逆に罪を作るという倒錯した祭祀になってしまうのであり、諸国大祓でそうした人馬の供犠を行ったとは考え難い。 ここで大祓を考察する際の基本的問題を確認しておかなければならない。それは大祓が神祇令に規定するところの諸祭祀の中で、非常に異質な祭祀であるという点である。
なぜなら祭祀対象となる神のいない祭祀であり、強いていえば人間の犯した罪を海の彼方に祓い遣る祭祀だからである。神祇令に規定される祭祀の大部分は「祭られる神」に対してなされるが、大祓は神を祭る祭祀ではない。したがって大祓を祭祀という範疇に入れること自体、厳密な意味では相応しくないとも思われるが、宗教的行為であることは間違いないところであり、当論文では祭祀として扱った。
以上の考察から、天武天皇十年の国造とは、国造制の国造を意味していると思われる。また「国造・郡司・各戸」ということは、在地の人々全体、即ち律令整備期に於ける一国全体を表していたと思われる。つまり天武天朝に於ける国造は、在地者の長という国造制下の伝統が強く残っていた為に、大祓の用物が課せられたと考えられる。
また、平安朝でも大祓の用物を出すのは郡司とされているが、郡司は祭祀職名ではない。この点からも、天武五年・十年大祓の際の国造とは、祭祀職としての職名ではなく、当該国を代表する伝統的在地者の長という意味であったと云えるものであろう。即ち、国造は大祓を執行する祭祀職ではなく、大祓を主催する「祭り主」(11)の立場にあったと考えられる。 
六、神祇官への幣帛の受領
国造が律令期には各国の祭祀職を職務としていたとする見解のもう一つの根拠になっている神祇官への幣帛受領の為の国造入京を検討することにしたい。
祈年祭・月次祭・新嘗祭に夫々班幣があり、この班幣の対象になった畿内・諸国の神社の祝部が神祇官に参集したことは、『延喜式』四時祭式上の祈年祭条や、貞観十七年(八七五)三月二十八日の太政官符「応 レ附二送税朝集等使諸社不レ受祈年月次新嘗祭幣帛一事」(『類聚三代格』第一巻「祭并幣事」)から知られるところである。 また諸国祝部のこれら四箇度の班幣受領が、奈良時代の宝亀六年(七五五)には、既に不参の弊に陥っていたことは、貞観十年(八六八)六月二十八日官符「応レ科二上祓祈年月次新嘗祭不参五畿内近江等諸国者祝一事」(『類聚三代格』第一巻「科祓事」)に引かれる宝亀六年(七七五)六月十三日官符から知られるところである。
右大臣宣、頒レ幣之日祝部不レ参。自レ今以後不レ得二更然一、若不レ悛宜二早解替一者、望請不レ論二有位無位一還レ本永懲二将来一者、
奈良時代の宝亀六年には祝部不参が状態化していたことは、逆に祝部の班幣受領がかなり以前からの制であったことを窺わせる。この班幣受領の為の諸国祝部等入京の起原を、大宝二年二月の国造庚戌条に求めたのは渡辺晋司氏(29)であった。
是日。為レ班二大幣一。馳レ駅追二諸国々造等一入レ京。(『続日本紀』大宝二年二月庚戌条)
渡辺氏は、当条を大宝律令制下で畿内から諸国に拡大されて初めて行なわれた祈年祭班幣(30)の受領の為に、諸国国造等(祝部も含む)が入京した記事と解釈されたのであった。加えて出雲国造の神賀事の奏上には国内の祝を伴っていたことからも、大宝二年の国造入京には祈年祭に預かる祝部が含まれるとされた。
班幣受領者が、国造から祝部へと交代していったとする渡辺説は、岡田精司氏(31)によって、物理的に神祇官への諸国祝参集は不可能ではないかとの問題が提起されたものの定着し、国造の地方祭祀担当者としての位置付けの有力な根拠となっている。
確かに渡辺氏の説くように、祝部入京と大宝二年の国造入京は繋がっている事項と思われ、幣帛受領の為の諸国祝部入京の起源は大宝二年の国造入京に(31)求められるものであろう。しかしながらこのことを以って、祈年祭班幣の受領の任務が大宝二年の「国造」から、後に「祝」に変化したとするのは聊か性急と思われる。なぜなら国造が諸国班幣に際して入京したことが記されるのは大宝二年だけで、大宝二年以前も以後も、班幣に国造が関与したことが記された史料は全くないからである。
つまり、国造が中央での神祇祭祀や班幣に常態的に関わっていたとすることには疑問が持たれるのである。ただし渡辺氏の云うように、祈年祭の班幣が全国的規模に拡大されたのは大宝二年からであり、それ以前は畿内が班幣対象域とされるものであろう。
祈年祭の開始は、『年中行事秘抄』(32)に記される記事の「官吏記云、天武天皇四年二月甲申、祈年祭」から、天武天皇四年(六七五)が最も確実視され、また『延喜祝詞式』所載の祈年祭祝詞の成立も遅くとも大宝令制定期と考えられ、岡田莊司氏(33)は天武・持統朝に比定されている。
しかし祈年祭祝詞には「集侍神主・祝部等、諸聞食登宣」とあるだけで、神主・祝部の称はあるが、国造はないのである。また、月次祭祝詞にも新嘗祭祝詞にも国造という名称はない。
朝廷の班幣でいえば、相嘗祭班幣に預かる神社としては天平九年(七三七)以前の実態を記していると考えられる『令集解』の「古記」には、摂津国は住吉神社、大和国は大倭神社があり、紀伊国には日前・国懸須・鳴神等があるが、その班幣を神祇官に受領に来るのは「神主等」とあり、「国造等」とされてはいない。
相嘗祭の初見(34)は、書紀天武天皇五年(六七六)の十月丁酉(三日)「祭二幣帛於相新嘗諸神祇一」とされるが、天平九年頃の成立とされる「古記」にも、その幣帛を受領に神祇官に来るのは「神主等」と記されるだけである。
こうした相嘗祭の例から、畿内では幣帛の受領が各神社の神主・祝といった社職の職務で、国造の職務ではなかったと思われる。畿内にも続日本紀慶雲三年(七〇六)十月十二日条にあるように、攝津国造凡河内忌寸石麻呂や山背国造山背忌寸品遅といった国造がいたことからすれば、祈年祭祝詞の成立時期の上限と考えられる天武期から大宝期には攝津国や山背国にも国造は存在していたとされるものであろう。
また、前掲した貞観十年(八六八)六月十三日官符の「応レ科二上祓祈年月次新嘗不参五畿内近江等国諸社祝一事」によれば、宝亀六年(七七五)六月十三日の官符には、既に祝不参の処罰が規定されている。
以上の検討からすれば、奈良時代後期に祝の任務とされた班幣受領は、畿内においては奈良時代以前も神主・祝の任務だったと考えられる。
そこで大宝二年二月の諸国国造入京が班幣受領の為であったとすれば、諸国への班幣は大宝二年から諸国国造と国造に率いられた祝に変化したとしなければならなくなる。また宝亀六年(七五五)には祝部だけに変化していたということになる。一方で、畿内では神主・祝が班幣受領をしたということになるであろう。
しかしそのような変則的なことが行われたであろうか。寧ろ、畿外国でも畿内国と同じく、原則的には神主・祝が班幣受領の職務を担っていたとされるものではないだろうか。(但し、畿外国の場合、奈良時代初期に神主の設置はほとんどなく、班幣受領は「祝」が担ったと思われる)。
つまり班幣が各神社に対して行われたことからすれば、畿内・畿外に拘わらず、班幣は各神社の神主・祝が受領に来るのが原則で、奈良時代に入っても神主・祝によって行われていたとされるもののではないだろうか。
上述のように考察してくると、幣帛を神祇官で受領して、それを国に持ち帰って国内神祇に奉るといったことは、国造に与えられた職掌であったとは考え難くなる。つまり大宝二年の国造入京は他の特別な理由があった故と思われる。西 山徳氏(35)が指摘されているように、「大宝令が完成を機会に、この法令に基づく最初の祈年祭」だった故に、国造が動員され入京した特例とするべきと思われる。しかしながら早川万年氏(36)の指摘されるように、大宝二年に国造が大幣受領の為に召されたこと自体の意義は認めざるを得ない。
だがその点は、諸国国造が当該国の神社の統括に関係していたためというよりも、国造は大宝二年においても諸国在地者の伝統的代表者であったために、国造が諸国の祝を率いて入京させる命が下されたとされるものではないのだろうか。
律令整備期の国造が、旧来の国造として、そうした務めを行っていたことを窺わせるのは、律令整備期にあたる朱鳥元年(六八六)九月の天武天皇殯の際の誄(しのびごと)記事と思われる。この誄には「壬生事・諸王事・宮内事・左右大舎人事・左右兵衛事・内命婦事・膳職事・太政官事・法官事・大蔵事・兵政官事・民官事・諸国司事・隼人・馬飼部・百済王・国造等」とある。
この順序は、天皇を中心として、内から外、重から軽の順序といえるものであろうであろう。而して国造が最後になっていて、そうしてこの記事は歌舞を行なうと続くのである。
次国々造等、随二参赴一各誄之。仍奏二種々歌舞一。
更に翌年の持統天皇元年の天武天皇陵を築く際にも国造が動員されている。
冬十月辛卯朔壬子、皇太子率 二公卿百寮人等并国司国造及百姓男女 一、始築 二大内陵  一。
しかしと、ここでも国造は国司の次に記され、国造の次には百姓男女しか記されていない。こうした点から、天武期には、国造は既に有力な政治勢力とは見なされておらず、天皇の殯宮に誄をすると共に、各国々の歌舞の人々を引き連れ仕え奉る存在へと形骸化していた。即ち、国造が京(朝廷)に対する地方諸国在地者の象徴的代表へと変化していたことが推察される。
天武天皇の時代でさえ、朝廷は重要な事柄ならば地方の神祇にも国造を通じてではなく、使いを遣わして幣を奉っていたのだった。例えば朱鳥元年(六八六)八月辛巳、恐らく前年の十月の大地震に関連してと思われるが、土佐神に秦忌寸石勝を遣わして幣を奉っている。
辛巳、遣 二秦忌寸石勝 一、奉 二幣於土佐神 一。
さて、土佐神の場合のような一神への奉幣ではなく、幣の修理(新造)に三ヶ月を費やすほど大量の幣を諸国の神祇に初めて大々的に奉る大宝二年の祈年祭であれば、対象となる諸国内の神祇の多数が対象になったと考えられる。
したがって、大宝令が完成を機会に、この法令に基づいて全国の神社に幣帛を奉る最初の祈年祭に、諸国在地の象徴的代表者である国造が在地の神々を祭る祭祀職である祝を率いて入京するということは、大幣をわかつ祈年祭には、全く相応しい動員であったと思われるのである。しかしながら「造大幣使」が続紀大宝元年十一月丙子条だけであることからすれば、「惣祭天神地祇」といった大々的祈年祭は大宝二年だけで、以後は天皇即位の場合だけになり、例年の祈年祭班幣は規模が縮小されて、ごく有力な神社だけが預かることになり、「大幣」といえる祈年祭班幣は行えなくなってしまったと考えられる。 
七、出雲国造の特殊性
ここで、国造と各国内祭祀・祭祀職との関係が検討される場合に参考とされる出雲国造が神賀詞奏上の際に国内官社に預かる神社数に相当する人数の国内祝を伴って入京したという史実を考察しておきたい。
この就任儀礼を、出雲国造の大和朝廷に対する服属儀礼(37)とする見方もあるが、出雲神話からすれば出雲国造出雲臣は天神に命じられて出雲国内を平定した天皇側の臣の子孫である点、そして『神賀詞』には出雲国造が服属を誓う詞が全然入っておらず、出雲国造が天神に命じられた大穴持命を鎮め祭るという使命をまっとうすることで、天孫の治める現世の大八島国を安泰にするという復命の言辞である点などからも、出雲国造の就任儀礼は諸国国造任命の際に一般に行われていたと考えられている服属儀礼の遺例とされるものではなく(38)、出雲国造に課せられた非常に特別な任務に基づく天皇への復命を旨とした就任儀礼と考えられるのである。
この神賀詞には、出雲国造が出雲国内諸神へ奉る幣を前にして忌み籠り、そして祭祀する出雲国内最高祭祀職としての姿を伝える次のような言辞がある。
伊射那伎能日真名子。加夫呂伎熊野大神。櫛御気野命。国作坐志大穴持命。二柱神乎始天。百八十六社坐皇神等乎某甲我弱肩尓太襷取挂天。伊都幣能緒結。天乃美賀秘冠利天、伊豆能真屋尓、麁草乎伊豆能席登苅敷伎天、伊都閉黒益之、天能□和尓斎許母利弖志都宮尓忌靜米仕奉弖
(いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、くしみけのの命。国作りましし大なもちの命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を某甲が弱肩に太襷取り挂けて、いつ幣の緒結び、天のみかび冠りて、いづの真屋に麁草をいずの席と苅り敷きて、いつへ黒益し、天の□わに斎み籠りて、しずの宮に忌ひ靜め仕えまつりて)
出雲国造が国内諸神に、朝廷から奉られた幣を前に忌屋で国内諸神を祭る姿は、出雲国諸神の祭祀に責任を負う祭祀職としての出雲国造の職掌を如実に示している。岡田莊司氏は、出雲国造就任儀礼の初見が霊亀二年(七一六)で、神祇氏族の忌部宿祢子首が和銅元年(七〇八)に出雲守に就任していることから、この時期に出雲国造就任儀礼が成立していったと推定され、「八世紀の出雲国造就任儀礼が二月祈年祭に集中していることは注意してよい」(39)とされている。
こうした見解からすれば、寧ろ大宝二年祈年祭に出雲国造が国内の祝部を率いて入京し大幣を受領したことを範として、出雲国造就任儀礼が案出されたと想定することさえ視野に入ってくるものであろう(40)。つまり律令国家は、朝廷が非常に恐れた死後世界を司る大国主神の祭祀を行なう最も重要な使命を負った出雲国造をして、大宝二年の国造・祝部の大幣受領の入京を範とし、これを出雲国造代替わりの際の復命儀礼として制度化し、出雲国造がこれを行なうことで、律令国家の揺ぎ無い安泰を祭祀面から図るために、この就任儀礼を創出したとも考えられるのである。 
八、国造・郡司の神社社職化
国造や郡司の職にあった氏族が、神社の祭祀職についていくことは、或る意味で当然の成り行きであったと思われる。なぜなら地域に於ける有力神になるのは、当然当該地域の有力氏族の信仰を受けねばならないと考えられ、したがって当然国造氏や郡司氏に篤く信仰される神でなければならなかっただろうと推測される。
国造氏や郡司氏一族が信仰する神である故に、地域の人々からも崇敬を受けて、いよいよ神威ある神とされ、有力神社となり、名社となって、名~や諸国一宮などに発展していったことは充分予想されるところであろう。
また、そうした神社が氏族神であった場合、氏神の祭祀を執行するのは、氏族の長、即ち氏上が行なったのであり、氏上は、そうした祭祀執者の長としていわれる場合には、「神主」と称されたのであった。神主と氏上が表裏の関係にあった例は、大神氏の氏上が大神神社の神主とさてれいたことに明確に表われている。
したがって氏の長にある氏上が国造であった場合、その国造が奉斎神社の神主となることは出雲国造・紀伊国造・大和国造に明らかに見出される。これらの者は「国造」との称号で記されているが、祭祀者としては「神主」の称が用いられているのである。また郡領が奉斎神社の神主に就いて例は、同じく意宇郡郡領であった出雲国造(熊野大社、出雲大社)、宗像郡郡領であった宗像氏(宗像神社)に見出される。
こうしたことから、国造故に神主であったわけではなく、また郡領故に神主であったわけでもない。それぞれが氏の長であった故に、奉斎神社の神主であったのである。
しかしながら奈良時代の末には、神主と氏上も氏族内で分けて分担されるようになったのではないかと推測される。そうした事例として、天平十九年(747)には大和神社神主は大倭宿祢水守であったことが『続日本紀』から知られる一方で、大和国造は大倭宿祢小東人(後に改名して長岡)が天平九年(737)頃に父の五百足から継承し、神護景雲三年(769)十月三日に卒していることから推察されるのである。
平安時代に入ると神主は神社社職の職称として氏上から独立し、一族の中から適任者を充てる職とされるようになったのであった。延暦十七年(788)正月二十四日に次の太政官符が出された。
応一任二諸国神宮司神主一事
右・被大納言三位神王宣・。奉レ勅。掃レ社敬レ神。銷レ禍致レ福。今聞。神宮司等一任終身。侮黷不レ敬。祟屡臻。宣乙自今以後。簡擇下彼氏之中潔清廉貞堪二神主一者上補任。限以二六年一相替甲 (『類聚三代格』第一巻)
この官符によって、神主が任限のある官職と同じ扱いとなり、官職と同じような神社社職としての神主職とされたことを意味しているものであり、神主が奉斎氏族の主長が就く役職ではなく神社の祀職として独立した職となったものと解されるのである。
この太政官符の出雲国造への適用が、延暦十七年(788)三月二十九日の官符であり、出雲国造(熊野大社・出雲大社の神主)・の郡領兼帯が禁じられたのであった。
応レ任二出雲国意宇郡大領一事
右被二大納言従三位神王宣一?。奉レ勅。昔者国造郡領職員有レ別。各守二其任一不二敢違越一。慶雲三年以来、令三国造二帯郡領一、寄二言神事一、 動廃二公務一、雖三則有二闕怠一、而不レ加二刑罰一。乃有二私門日々益一不レ利二公家一。民之父母還為二巨蠹一。自今以後。宜下改二旧例一国造郡領分レ職任レ之上
延暦十七年三月廿九日   (『類聚三代格』巻七)    
また、延暦十九年(800)十二月四日には「応レ停三筑前国宗像郡大領兼帯神主事一」(『類聚三代格』巻七)の太政官符が出され、宗像郡領による宗像神主兼帯も停止されたのであった。
この出雲国造と宗像神主の例は、それまで特別扱いされていた出雲国造・宗像神主という神郡という特別な郡においてもさえも、奉斎氏族の主長による奉斎神社祭祀職と郡行政職の主長の占有は認められなくなったことを意味ていると考えられる。 
まとめ
さて、以上のように律令期における国造の祭祀職としての位置付けを、その根拠とされる(イ)諸国大祓、(ロ)神祇官への幣帛の受領について検討してみたが、律令国造の祭祀職という位置付けは難しく、前体制に於ける諸国の統治者としての役割の残滓を継承した一部の律令国造がいたと捉えるのが適切と思われる。したがって国造の地方神祇官といった把握は誤った解釈といえる。国造は、元来が領域内の武力を掌握して、大和朝廷の地方軍(41)をなす極めて武官的存在であったのであり、律令形成期に減殺されつつも、そうした武力を掌握して国造を称し、郡司職へと改変されていった。そして郡司もまた、平安時代初めには祭祀職との関係を絶たれていったと考えられる。 

( 1) 津田左右吉著『日本上代史の研究』(『津田左右吉全集』第二巻所収)、第二編第五章「改新後の國造」。
( 2) 『新釈令義解』(『神道大系 古典編九 律・令』所収)。
( 3) 植松考穆「大化改新以後の國造に就いて」(早大史学会『浮田和民博士記念史学論文集』六甲書房、一九四三年)。
( 4) 虎尾俊哉「大化改新後の国造」(『芸林』四―四)。同「大化改新後国造再論」(『弘前大学国史研究』六)。
( 5) 新野直吉著『日本古代地方制度の研究』(吉川弘文館、昭和四十九年)。第二章第一節3「地方神祇官国造」一八九頁。同『国造と県主』《日本歴史新書》(昭和四十年)二律令国造「1律令国造の成立とその職務」参照。
( 6) 新野直吉著『日本古代地方制度の研究』(吉川弘文館、昭和四十九年)。第二章第一節3「地方神祇官国造」一八九頁。
( 7) 篠川賢『国造制の成立と展開』(吉川弘文館、昭和六十年)。
( 8) 註24同書二〇五頁。
( 9) 高嶋弘志「律令新国造についての一試論」(『日本古代史論考』、吉川弘文館、一九八〇)。
(10) 坂本太郎「郡司の非律令的性格」(『日本古代史の基礎的研究』下、一九六四年)。
(11) 熊谷保孝「新国造の職掌」(『政治経済史学』一〇一、一九七四年)。
(12) 「二 諸国大祓考」(三宅和朗著『古代国家の神祇と祭祀』二一六頁)。
(13) 金子裕之「仏教・道教の渡来と蕃神崇拝」(金関恕・佐原真編『古代史の論点5《神と祭り》』、一九九九年、小学館刊)一八六頁。同「平城京と祭場」(『国立歴史民俗博物館研究報告』7、一九八五年)二八〇頁。
(14) 佐伯有清『牛と古代人の生活』(至文堂、一九六七年)一三五頁。
(15) 井上光貞「神祇令の特質とその成立」《4犠牲》下出積与氏は道教祭祀とする(『日本古代の神祇と道教』吉川弘文館、一九七二年)。
(16) 高橋富雄「国造制の一問題―その貢馬の意味―」(『歴史学研究』224、一九六〇年)
(17) 神野清一「天武十年紀の天下大解除と祓柱奴婢について」(『歴史評論』366号、一九八〇年)。
(18) 水野正好氏は、馬は行疫神、祟り神の乗り物とした。「馬・馬・馬―その語りの考古学」(『奈良大学文化財学報』第二集、一九八三年)、三十頁〜三十一頁。
(19) 金子裕之「平城京と祭場」(『国立歴史民俗博物館研究報告』7、一九八五年)、二九〇頁「要約」参照。
(20) 三宅和朗「諸国大祓考」(『古代国家の神祇と祭祀』、吉川弘文館、平成七年)。
(21) 石尾芳久「天津罪国津罪論考」(『日本古代法の研究』一九六五年)。
(22) 井上光貞「古典における罪と制裁」(『日本古代国家の研究』、一九六五年。『井上光貞著作集』第一巻再録、一九八五年)。
(23) 矢野建一「天下(四方)大祓の成立と公民意識」(『歴史研究』六二〇、一九九一年)。
(24) 笠井敏光「祈雨祭祀と殺牛馬」(『国家と仏教』、永田文昌堂、一九七九年)は、殺牛を漢神信仰、殺馬を水信仰と分け、この二つの要素が結合して祈雨へと発展したとする。
(25) 『周防の国府跡』(防府市教育委員会、一九九〇年)。
(26) 註14佐伯有清『牛と古代人の生活』、一五〇頁〜一六七頁。水野正好「祭礼と儀礼」(『古代史発掘』10「都とむらの暮し」、昭和四十九年、講談社)。
(27) 註19、同氏論文。
(28) 註22、井上光貞論文。
(29) 渡辺晋司「律令制下の祝部入京の起源について」(『史学研究集録』5、一九八〇年)。
(30) 渡辺晋司「大幣と官社制度」(『神道及び神道史』第31.32号、昭和五十三年)。
(31) 岡田精司「律令祭祀制の特質」(菊地康明『律令祭祀論考』所収、一九九一年)。十頁。
(32) 『年中行事秘抄』(『続群書類従』巻第八十六)
(33) 岡田莊司『平安時代の国家と祭祀』(続群書類従完成会、平成六年)二十頁。但し祈年祭祝詞の成立時期については、飛鳥・藤原京から大宝律令制定時まで諸説があり、西宮秀紀論文「『祝詞』にみえる神祇職」(大阪市立大学大学院研究科『人文論叢』第8号、一九七九)に略説されている。
(34) 二宮正彦「相嘗祭の一考察」(『史泉』十六、十七、一九五九年)。黒崎輝人「相嘗祭班幣の成立」(『日本思想史』十三、一九八一年)。田中卓「神嘗・相嘗・大嘗めの関係について」(『続大嘗祭の研究』一九八九年)。菊地照夫「律令国家と相嘗祭」(『律令国家の政務と儀礼』平成七年、吉川弘文館)。
(35) 西山徳「造大幣司考」(『増補 上代神道史の研究』所収)二二六頁。
(36) 早川万年「律令祭祀における官幣と国幣」(虎尾俊哉編『律令国家の政務と儀礼』所収、吉川弘文館、平成七年)一七二頁。
(37) 上田正昭「山陰文化の伝統」(『古代の日本』4、角川書店、一九七〇年)二二五頁。 瀧音能之「出雲国造神賀詞奏上儀礼の成立過程」(『遠藤元男先生頌寿記念 日本古代史論苑』)。新野直吉「古代出雲の国造」(『出雲学論攻』所収、出雲大社発行、昭和五十二年)一六五頁。
(38) 榎村寛之「出雲国造神賀詞奏上儀礼の衰退期について」(『出雲古代史研究』一〇、二〇〇〇年)。
(39) 岡田莊司「古代神祇祭祀と杵築大社・宇佐八幡宮」(今谷明編『王権と神祇』所収、思文閣出版、二〇〇二年)十三頁。
(40) 大浦元彦「『出雲国造神賀詞』奏上儀礼の成立」(『史淵』45-2、一九八6年)で、大浦氏は「「~賀詞」奏上の史料上の初見は霊亀二年であるが、その成立は大宝二年の諸国国造の中央召集に起因し」とされる。
(41) 森公章「評制下の国造に関する一考察」(『日本歴史』469)〈二 評制下の国造―軍事面を中心に〉。鬼頭清明「白村江の戦と律令制の成立」(『日本史研究』一三九・一四〇号、一九七四年)。岸俊男「防人考」(『日本古代政治史研究』塙書房、昭和四十一年)。 
 
神仏習合の死霊観 ―奈良・平安期において―

 

はじめに
神仏習合は仏教が日本に入って固有の神祇信仰と融合してできた、日本の独特な信仰様式である。明治時代の神仏分離で、形式上の神仏習合は見えなくなったが、神仏習合の悠々たる歴史は抹殺できない。神仏の交渉は早く、仏教が日本に公伝してきた欽明朝にのぼれる。崇仏・排仏の争いと大化の改新を経て、徐々に積極的に習合の道へ歩み始めた。同時に、神仏習合に関する現象も文献に登場してくる。仏道に帰依しようとした神々の託宣によって、建立された神宮寺は最初の習合現象といってもいい。『藤原家伝・下』霊亀元年(七一五)に、気比神の託宣によって建てられた気比神宮寺は文献での初見である。しかし、習合の先駆となすものは天平勝宝元年(七四九)の宇佐八幡の上京である。
後に、八幡神は護法善神として八幡大菩薩という菩薩号が与えられ、本地垂迹において阿弥陀如来の垂迹とされた。要するに、神仏習合はその流布とともに、信仰だけでなく、建築、思想などの面にも影響を及ぼしてきた。さらに、この影響は仏教布教の中心地――京にとどまらず、多数の遊行聖の努力で、神仏習合の信仰、思想などが庶民の間にも受容されるようになった。それで、神道と仏教は互いに他を排除することなく、二種の異なった信仰様式がその特殊性において対立しながらも、ひとつの生活の中でともに生かされ、京から地方へ、貴族から庶民へ、神仏習合は日本に深く、広く浸透してゆき、日本宗教の独特な重層面をなし、日本人の信仰、思想に大いに影響してきた。
したがって、神仏習合は諸学者の従来の関心を集め、宗教、思想、文化などの角度から様々な研究成果が挙げられている。他界観について、柳田国男氏は、日本人の他界観には矛盾するような思想があり、一つは仏教の他界観であり、人間は死後、西方の極楽浄土へ行くと信じられているが、もう一つは土着の宗教観念であり、死後、人間は山の奥へ行くと思われる。日本人はこのような矛盾に関心を払わずに、二つの矛盾するような他界観をそのまま持っている、と論じた。このような神仏習合の他界観は、神仏習合の信仰様式の影響で形成した、日本人の独特な観念にほかならない。では、歴史上における神仏習合の発生、展開はどうであったか。それを受け入れた人々の信仰意識に、何か影響を及ぼしたか。以下の先行研究を通して見ておきたい。
逵日出典氏が「山岳修行者の活動と神仏習合の展開」で、神仏習合の現象を論じた。氏によると、神仏習合の端緒を開いたのは、山岳に入って修行した仏教徒である。それら山岳修行者が地方を遊行し、豪族層をはじめ大衆と盛んな接触が行われていく中で、神仏関係に大きな転換が起こってくる。つまり、山岳修行者による神身離脱思想の鼓吹と、神宮寺の建立が、神仏習合の初めての現象を起こした。この間、八幡神が上京して中央への進出を実現し、中央においても習合現象の定着をみるに至った。
では、神宮寺をはじめとした神仏習合は、当時の人々にどのように受け入れられたのか。飛鳥時代から奈良時代にかけての造像銘などに、「願此功徳、現世親族福延万世、七世父母随意住、含霊之類同斯福力」のような附記がよく見られる。竹田聴洲氏は、「七世父母」という言葉自体は、中国六朝時代の造像銘にしばしばみられるが、それが実際に使用されている内容についてみると、果たして祖霊の観念に基づくものである、と論じた。要するに、当時の人々にとって、仏教の受容は固有観念――祖先信仰に基づいたのである。祖先追善のための造像などは、祖霊を祀ることと同じ意義を持っていると思われていた。霊魂をめぐって、最初に仏教を受容した上層階級の人々の間には、神仏の習合現象がはやくあらわれた。
ところで、上層階級ほどの教養を持っていない下層社会――民間において、神仏習合の受容状況はどうであったか。神仏習合の霊魂観を中心に本稿で追究してみたいと考える。考察資料の選定においては、神仏習合が活発に展開した奈良、平安時代に成立した『日本霊異記』と『今昔物語集』という両説話集を取り上げる。説話集自体は、歴史書ほどの史実性を持っていないが、集められた説話は当該時代に広く流布していた話である可能性が高く、その主題から外れた背景、設定からは、当時の世相のより真実な一面が反映できることは認めなければならない。ゆえに、本稿は『日本霊異記』と『今昔物語集』を通じて、神仏習合が活発化した奈良・平安期を中心に、当時の神仏習合の死霊観を考察したい。また、現代日本人の他界観にも見える習合現象の原像を改めて描いてみたいと思う。
さて、本論に入る前に、神道と仏教、それぞれの死霊観を簡単にまとめておきたい。神道が「生」の宗教であると梅原猛氏は論じたが、神道は完全に「死」と無関係というわけではない。神道古典の一部ともされる『古事記』には死にかかわる話が見える。周知の黄泉国と天若日子の話に、伊耶那美の黄泉国(穢国)への赴きと天若日子の「天之加久矢」にあたった神話が記されている。それは二人の神の死と言い換えればいい。この二人の神の死亡に対して、天の岩戸と大国主命の話に、天照大神と大国主命の各々の復活が記されている。要するに、神道の死霊観には、死後の世界、穢れや蘇生の観念が存在している。反して、仏教は死後世界への関心が顕著である。因果応報による六道輪廻、浄土往生などが周知である。つまり、人間の死生は連続的であり、業によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道に輪廻したり、「衆苦あることなく、ただ諸楽を受く」という浄土へ往生したりする観念である。相当に異なる両観念は、神仏習合が進んでいるうちに、融合して日本の独特な死霊観を形成してきた。 
1  『日本霊異記』における神仏習合の死霊観
『日本霊異記』或いは『日本国現報善悪霊異記』は、八世紀末から九世紀初めに書かれた日本最古の説話集である。『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。景戒著、変則漢文で書かれ、上・中・下の三巻からなり、合計116話が収められる。奈良時代の話が多く、古いものは雄略天皇の頃とされる。場所は東が上総国、西が肥後国と当時の物語としては極めて範囲が広い。その中では畿内と周辺諸国の話が多く、とくに紀伊国の話が多い。登場する人物は、庶人、役人から貴族、皇族まで、僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。奇跡や怪異についての話が多いが、説話の大部分は、善をなして良い報いを受け、悪をなして悪い報いを受けたという因果応報の話であり、仏教説教の意味合いと色彩が強い仏教説話集とされている。だが、それぞれの話は、民間で流布していた怪談などを素材にして仏教的な解釈をつけたもののはずであるから、日本の土着の宗教観念と仏教教義との習合の名残は見過ごすことはできない。以下において、神道と仏教との習合現象があった死霊観に関する話を取り挙げながら、『日本霊異記』における神仏習合の死霊観を検討する。
中巻・5話「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」は、異教に迷って牛を殺した者が、悟って償いに放生をし、死後に閻魔王宮で、殺生と放生のいずれか多数決による裁判を受け、蘇生して仏法を修し、その生を終えたという話である。
話には、ある「富家長公」は漢神を信じ、その異神を祭り、七年を期間として一年ごとに牛を一頭ずつ殺し、合計七頭を殺してしまったが、後に「忽得重病 又逕七年間 醫藥方療猶不癒」、ゆえに「而祓祈禱」をしたが病はいや増しになった。したがって、殺生のせいで、病になったと思うようになり、あらためて斎戒を受け、放生の業を修し始めた。ここまではこの話の前半であり、この部分からあの「富家長公」の生きている間の信仰状況が窺がえる。「漢神」という殺生を誡めない異神を信じ、また「祓祈禱」という神事をも行い、放生で仏教にも帰依した。現世利益を中心に、多数の信仰を持っていたようであるが、そこから、当時民間において、神道、仏教以外の信仰様式も存在し、信仰の多様性が分かる。信仰における多重性は古くの奈良・平安期にすでに現れていたわけである。また、日本土着の穢れ意識が読み取れる。やはり穢れを病の原因、病を災厄としたからこそ、神事に頼って祓えをしたのであろう。
ところが、話が進んで、様々な作法を試みたあげく、あの「富家長公」は死んでしまった。そこで、物語の舞台は「閻魔王宮」に移った。あの「富家長公」は閻魔王宮に落ち、裁判を受けたが、たくさんの放生の功徳で、地獄に陥ることなく、「乘擧而荷」蘇生した。後半の話から、あの「富家長公」の死後の経歴と蘇生がわかる。生前と比較すると、死後の世界は、生前のような多数の信仰様式が見えなくなり、単一の仏教世界となっている。さらに、蘇生してから、もっぱら仏教を信じるようになり、一生を終えた。したがって、この「富家長公」の最終信仰は仏教であるといってもよい。死を境にして信仰が変わったのは、僧侶の説教のような外部影響によるものではなく、あの「富家長公」自らの経験から発生したと暗示しているのであろう。さらにこれを通して、仏教の霊験性を強調しようとしたと考えられる。その場合、蘇生は当時仏教が民間で布教するため、庶民の仏教に対する信仰心を引き起こすための看板のような存在であったと推測される。
さて、話の編纂者の説教意図はとにかく、当時の民間における多様な信仰様式は見過ごしてはならない。それは、あの「富家長公」が生きているうちに、漢神、神道、仏教などを信じたことから分かる。古来の神祇信仰とした神道に対する信仰は、あまり検討する必要はないが、信仰対象が漢神や仏へ変更したのは何故か。漢神信仰の原因は明記していないが、仏教に帰依する契機は、病を癒すためであった。つまり、重病にならなければ、仏教を信じないかもしれない。ここに、「富家長公」の信仰の現実性があらわれると同時に、当時における仏教の普及状況もある程度推測することができる。七世紀初めの頃から、上層社会に広く認められた仏教は、民間への浸透はかなりの時間がかかったようである。そして、民間への浸透は「富家長公」のような有力者から始まったと考えられるのである。
中巻・7話「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」は、智をほこる智光法師が、行基菩薩を誹った口禍で、死後地獄の責め苦を体験し、蘇生後、懺悔し、行基に帰依し、その遷化の後を追った話である。
ここで注目したいのは、智光法師の死後の話である。智光は死後、「閻羅王使二人 來召於光師 向西而往 見之前路有金樓閣 問 是何宮 答曰 於葦原國名聞智者 何故不知」、実際にその金樓閣は智光に誹られた行基の「將來生之宮」である。その門の左右に、二人の神人が立ち、「問曰 是有於豐葦原水穗國 所謂智光法師矣 智光答白 唯然」。引き続いては、様々な地獄についての詳しい描写である。人を焼き煎る「阿鼻地獄」等。智光は行基菩薩を誹った罪を滅ぼすため、業苦を嘗めてから「愼黃竈火物莫食 今者忽還」と言われ、蘇生した。
仏教説話としての性格ははっきりと見られるが、「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」のような言葉も目立っている。十部の神道古典とされる『古事記』にも『日本書紀』にも「葦原中國」という言葉遣いが見られる。『日本書紀』によると、「葦原國」は「豊葦原千五百秋瑞穂之地」である。
神道では、天空の世界を「高天原」、地上の世界を「葦原中國」、地下の世界を「根国」と言う。この説話に出てくる「葦原國」、「豐葦原水穗國」は神道の地上世界、所謂「葦原中國」であることは疑いないであろう。また、「黃竈火物」と同じような意味を表す言葉も、『古事記』や『日本書紀』に見られる。『古事記』の神代巻に「黄泉戸喫」、『日本書紀』の神代巻に「飡泉之竈」とある。どちらも黄泉国の煮焚きしたもので、食べると、黄泉国の者になり、二度と人間の世に戻れないとされている。
『古事記』、『日本書紀』と『日本霊異記』それぞれの成立時代をあわせて考えると、『日本霊異記』に出てくる「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」などは、『古事記』や『日本書記』への踏襲である可能性もある。
さらにまた、「葦原國」、「豐葦原水穗國」、「黃竈火物」を通して描き出そうとしているのは、神道の地上世界と死後世界であろう。だが、この話はあくまでも行基を神聖化するための仏教説話である。
閻魔宮や阿鼻地獄などの描写は、仏教の死後世界を世間に伝える同時に、「不妄語」という妄語をしてはいけないという教義を説教しようとした、と考えられる。そこで、神道の観念を積極的に導入してきたのは、仏教布教の目的を実現しようとしたのかもしれないが、神仏習合の死霊観も同時に現れてきた。つまり、神道の地上世界「葦原國」、「豐葦原水穗國」で生きていた人間が死んでから、生前の業によって仏教の閻魔宮に来て裁判を受け、「黃竈火物」を食べ物とする地獄などに行くというわけである。死後の世界は仏教的な世界であるが、生前の世とされた神道の地上世界の後続であり、神道の黄泉国に重なった世界でもある。 
2  『今昔物語集』における神仏習合の死霊観
『今昔物語集』は、12世紀初頭に成立したと見られる説話集であり、作者は不明である。全31巻で、インド・中国・日本の三国の約1000余りの説話が収録されている。『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっていることから由来している。『今昔物語集』の話はすべて創作ではなく、他の本からの引き写しであると考えられている。もととなった本は『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などが挙げられる。それまでの説話集の大成ともいえる。
平安末期のみならず、それまでの各時の世相をも伝えている。したがって、『今昔物語集』を対象に奈良・平安期の神仏習合の死霊観を考察すると、『日本霊異記』を補充することができる。以下、本朝仏法部と本朝世俗部(巻11―巻29)の部分を対象にし、神仏習合の死霊観の表現がある話を取りあげてみようと思う。
16巻・29話「仕長谷観音貧男 得金死人語」は、長谷参詣の帰途、死人を担ぐ人夫に取られた生侍が、死骸の化せる黄金により富をなしたという話である。
三年間絶えずに長谷觀音に参詣した男は、長谷からの帰途で死人を担ぐ人夫に取られ、死人を引かされた。死人に対して、「奇異ク怖シク思フ」が、仕方なくて持たされ、いわゆる「此ル目ヲ見ル」と、哀れに思った。その死人は極めて重いし、一人でなかなか「川原」へ持ち行きがたいしと思いながら、「泣ク事无限」ことであるが、とりあえず男はその死人を家に持ち帰った。その重くて堅い死人を「木ノ端ヲ以テ指ス」、「小石ヲ以テ扣ケバ」、死人には黄金があることを発見した。結局、男はその黄金の死体を打ち割り、売った金で富人になった。
話のあら筋からみると、これは長谷観音の霊験譚といってもいい。だが、面白いのは、同じ死体に対して男が前後に表した違う反応・態度である。最初に死体を持たされた時、「奇異ク怖シク思フ」、「泣ク事无限シ」などの言葉の羅列から、男の死体に対する気持ちが十分に読み取れる。そのような感受を引き起こした原因を追究してみると、それはやはり死や死体そのものが穢れで、忌避すべきという観念から発したのであろう。黄泉国から戻ってきた伊耶那岐は禊祓をしたように、死や死体は接触どころか、できるだけ避けるべきである。しかし、黄金が入っていることを発見した男は、避けずにあえて死体を割って売った。前半にはっきりと読み取れる穢れの意識は、後半になると、少しでも感じられなくなった。このような甚だしい変化は、恐れに対する物質的な欲望の勝利、神道の穢れ意識に対する仏教霊験の勝利であろう。
ところで、この話は『今昔物語集』の本朝仏法部に収められたものであるから、根本的に伝えたいのは観音の霊験である。ところが、背後に流れていたその男の信仰意識にも注意すべきだと思われる。
仏教に帰依して信仰していたが、潜在意識や生活習慣となってしまった神道の観念・意識は、消えてしまったわけではない。穢れに触れたら、祓をしたり物忌みをしたりするのに、この男は何もしないどころか、恐れながらも死体を割った。それこそは上層社会の人々の穢れに対する敏感さとのよい対照である。当時の民間において、庶民の信仰状況はかなり緩やかであったとも思われる。緩やかであったからこそ、神、仏が矛盾せずに習合し、ひいては人々に受け入れられたのであろう。
16巻・35話「筑前國人 仕観音生浄土語」は、香椎明神の祭に年預が、魚、水鳥を捕えんとして誤り池に転じ落命した、その池には、極楽往生のしるしとして後一面に蓮花が咲き広がったという話である。
この筑前国の年預は、とくに観音に仕えて観音経を読み、信心深く観音に帰依している。鳥を捕らえるため、男は池に落ちて死んでしまったが、その夜、父母の夢に現れ、極めて嬉しげに父母に「我レ、年・、道心有テ、悪業ヲ不好ズト云ヘドモ、神事ヲ勤メムガ為ニ、適ニ殺生ヲセムト為ルニ、三寶助給フガ故ニ、罪業ヲ不令造ズシテ、既ニ他界ニ移テ善キ身ニ生レニタリ」、「我レ生タリシ時、観音ニ仕テ観音品ヲ朝暮ニ誦シ故ニ、永ク生死ヲ離レテ浄土ニ生ル、事ヲ得タリト」などと言った。要するに、生前、男は観音に帰依して「不殺生戒」を守ってきたようであるが、神社の年預として魚や水鳥を捕って香椎明神へ奉納する勤めもある。「戒殺」と「殺生」という信仰と勤務の板挟みで悩んだ年預は、結局池に落ちて魚や鳥などを捕えないままで死んだ。さらに、両親の夢に現れてきた年預の話によると、年来の観音信仰の功徳で、今度の死によって殺生の罪業を作らずに浄土への往生を遂げたという。
この話から、香椎明神に仕えていた年預は、同時に観音にも帰依したことが分かる。また、神仏習合が活発に展開した奈良・平安期において、香椎明神という神はまだ仏や菩薩との交渉が見られない神であると推測できる。だから、仏教信仰に要求された「戒殺生」と明神に要求された生け贄との衝突が生じた。すると、仏道に帰依して神身を脱しようとした神々と同様に、神官でありながら、仏道への帰依を通じて死後の往生を遂げようというのは、この年預の願望であろう。そのため、神道の劣勢――人間の死後の極楽世界への憧れ・意欲が叶えないことがあばかれてくる。だが、神道の劣勢こそ、神道と仏教との習合を促成し、神仏習合の信仰様式が認められたのであろう。
興味深いところは、年預に説かれた彼の死後世界である。「他界ニ移テ」と「浄土ニ生ル」は、前後の文脈からみれば、同じ死後に行ったところである。すると、「他界=浄土」という結論となる。ところで、「浄土」は疑いなく仏教用語であるが、ここの「他界」はどうであろう。神道の「他界」とは、人が死亡してから、その魂が行く、または亡くなった祖先が住まうとされる場所である。山上他界、海上他界、地中他界などの多様な他界がある。それに、「他界」そのものは善悪の区別がないという。
一方、仏教用語としての「他界」は梵語で、この世以外の世界のことを指す。広義では、六道の一つである人間道以外、浄土も入り、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上は、全部他界である。浄土は他界の一つであるが、他界は必ずしも浄土とは限らない。ゆえに、この話に出てきた他界は神道の他界のことである。そのため、「他界=浄土」より「神道他界=仏教浄土」のほうがもっと適当であると考えられる。この年預が死後に行った世は、山上他界であろうと海上他界であろうと、善の世界であり、「衆苦あることなく、ただ諸楽を受く」る浄土のようなところである。ここの他界は浄土と重なっているところで、浄土と区別せずに当時日本人の死後世界を構成していた。
16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕観音得活語」は、死後、一夜を経て蘇った蓮秀は、妻子に死後の経歴や蘇生を語った話である。
醍醐寺の蓮秀という僧は、生きている間に、毎日観音経を百巻読み、また、常に賀茂の神社に参詣した。後に、重い病気にかかって死んだが、一夜を経て蘇生した。妻に自分の死後の経歴を以下のように語った。途中、険しい峰や深い山を超え、広くて深く、恐ろしい河に至った。所謂三途河というところである。そこで、此方の岸にいる「奪衣婆」という鬼形の嫗が蓮秀の衣を奪おうとするときに、「四人ノ天童、俄ニ・テ、蓮秀ガ嫗ニ与ヘムト為ル衣ヲ奪取テ、嫗ニ云ク、『蓮秀ハ此レ、法花ノ持者、観音ノ加護シ給フ人也。汝ヂ、嫗鬼、何ゾ蓮秀ガ衣ヲ可得キゾト』」。すると、嫗は掌を合わせて蓮秀を敬い、衣をも取らなかった。そのあと、天童は蓮秀に、ここは「冥途也、悪業ノ人ノ・ル所也。汝ヂ、速ニ、本国ニ返テ」と教え、蓮秀とともに返った。が、途中、もう二人の天童が来た。
「我等ハ此レ、賀茂ノ明神ノ、蓮秀ガ冥途ニ趣クヲ見給テ、令将返メムガ為ニ遣ス所也」といった。
最後に、蓮秀は蘇り、病も平癒した。
この話は、蓮秀という僧侶の死後世界における経歴や蘇生を通して、法華経や観音の霊験を高揚しようとしているが、結局奪衣婆の衣奪いを止め、蓮秀が法華経の持者であることを奪衣婆に教え、蓮秀を冥途から蘇らせたのはほかならぬ賀茂明神が派遣していった天童たちである。ゆえに、この話は賀茂明神の霊験譚ともいえる。そこから、蓮秀という仏教の僧侶は、神道をも信じていたことが判明するが、さらにまた、賀茂明神という神は仏教の死後世界における出来事を知っていただけではなく、介入することもできたことが分かる。これは、ここまで取り上げられた話でも、なかなか見ることができない現象である。神道は主宰した「生」の世界に仏教が進出することはよくあり、しかも死後の世界で仏教との重なりがよく見られるが、仏教が強勢を示した「死」の世界に、神道の進出はほとんど見られなかった。
さて、この話に出てきた、観音の意志を伝える役目を担当した賀茂明神は、一体どんな存在であるのか、少し言及しておく。賀茂神社は、奈良時代により早く神宮寺が設けられた神社の一つで、祭った神は釈迦如来もしくは観音菩薩を本地仏としたのである。したがって、この話に出てきた賀茂明神は、神である同時に、観音菩薩の垂迹でもある。だからこそ、天童を冥途に派遣し、観音菩薩にも賀茂名神にも帰依した蓮秀を救わせたのであろう。この話は、当時の賀茂神社における神仏習合の状況をよく反映しているだけではなく、本地垂迹の思想に影響された死霊観をも表現していると考えられる。要するに、神仏一致と同様に、神仏の死霊観も一致する。
29巻・17話「攝津國耒小屋寺盗鐘語」は、小屋寺の鐘楼に頓死した老客僧を弔った若者たちは、兼ねてより共謀した賊の一味で、死穢で人の寄らぬことを利し、まんまと鐘を盗み出したという話である。
八十歳ばかりの老僧が、小屋寺の鐘楼に泊まり、無事に二泊を過ごしたが、その次の日に、小屋寺の鐘撞きの法師が老客僧を見に行ったところ、老客僧が「死テ伏セリ」のこと(実は死んだふりであった)を発見した。急いで住持に報告すると、住持は「周(アワテ)タル気色」になり、「驚テ」、鐘堂へ確認に行った。「戸ヲ細目ニ開テ臨ケバ」、老法師が確かに死んでいた。後に、このことを寺の僧どもに告げると、僧どもは、「由无キ老法師ヲ宿シテ、寺ニ穢ヲ出シツル大徳カナト」と言い、腹立つこと限りなしという。だが、老法師の死体を取り捨てるしかないが、「御社ノ祭近ク成ニタルニハ、何デ可穢キゾト」という理由で、「死人ニ手懸ケムト云フ者一人无シ」であった。
しばらくしてから、老法師の子供と称する二人の男が現れ、泣きに泣き、後に来た四、五十ばかりの人たちと一緒に、老法師の死体を持ち出すことになった。その間、「僧房共ハ鐘堂ヨリ遠ク去タレバ、法師ヲ将出スヲモ出テ見ル人无シ。皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ聞ケバ、後ノ山本ニ十餘町許去テ、松原ノ有ル中ニ将行テ、終夜念佛ヲ唱へ、金ヲ叩テ、明ルマデ葬テ去ヌ」。つまり、死穢を恐れてこもっていた小屋寺の住僧たちは、男たちが一晩中念仏を唱え、金を叩いていたのを葬儀をしているのだと思いこんでいた。後に、寺の僧どもは、「此ノ法師ノ死タル鐘堂ノ當リニ、惣テ寄ル者无シ。然レバ、穢ノ間、卅日ハ鐘搥モ寄テ不搥ズ。卅日既ニ畢ヌレバ」、鐘撞きの法師が鐘堂を掃除に行くと、大鐘がなくなっていることを発見した。
それほど長い話ではないが、老法師が死んだ後の描写は詳しく、話の大部分を占めている。そのうち、老法師の死や死体を取り出す時の僧どもの反応はいきいきと、とりわけ詳しく描かれている。「由无キ老法師ヲ宿シテ、寺ニ穢ヲ出シツル大徳カナト」という皮肉な言い方で、僧どもの怒ったふりもよく表している。また、「法師ヲ将出スヲモ出テ見ル人无シ。皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ」という描写は誇張に聞こえるが、前後の文脈に合わず、意図的な強調でもない。では、僧どもが怒った、また恐ろしがっていた反応を引き起こしたのは一体何であろうか。やはり、死穢によってもたらした恐怖感であろう。死そのものは、「寺ニ穢ヲ出シツル」ものであり、死体に触ることは、「穢キ」ことであり、死後の三十日は「穢ノ間」である。一言で、死は穢れで、忌むべきものであった。
ところが、この話が出来た場所は寺であり、主人公は僧どもである。仏に帰依し、仏法を信じていた僧侶であっても、死による穢れを恐ろしがり、伝統的な死後観念から脱することが出来なかったわけである。死後観念を主な看板にして布教する仏教は、当時の日本人の死後世界を豊かにしたが、古来の死にかかわる穢れ意識はなかなか克服できなかったようである。ここから、日本の宗教信仰の伝統性を認めなければならない。仏教を受け入れ、仏道を辿っていた礎石は、固有の観念で築かれたものである。固有の神道観念と仏教教義との駆け引きで、今度は死穢の意識において神道が勝った。 
3 神仏習合の死霊観の帰納
[1] 死霊観習合の可能性
神道と仏教が習合できたには、歴史の背景・環境などの外部条件と、宗教の利益定位、宣教方式などの人為要素が大きな動因となる。同時に、両宗教それ自体にも相互の排斥から融合へ導く要素が含まれている。それらの要素をもとにしてはじめて、神道と仏教との習合ができ、さらに神仏習合の死霊観ができたのである。以下で、死霊観において神道と仏教が習合することが可能となる基点を検討してみたい。
(1) 死をめぐって
死は宗教の永遠な話題といっても過言ではなく、いつも宗教の関心を集めるところである。世界三大の宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教、どれも例外ではない。生きている人間の死に対する無知、不安や恐怖感等は、宗教が存在する為の前提の一つであり、宗教教説の一部分を構成することが多い。
仏教では、死は今までの輪廻の終わりである同時に、もう一回の輪廻の始まりでもあると説く。往生を別にして、死は留まりもない輪廻でのただ一つの乗り換えの駅のようである。死は常に話題となり、かかる教説も充実に整っている。
神道は死の宗教ではないといわれてきたが、死に関わる意識や表現がないわけではない。日本人に嫌われる「穢れ」が、常に死や血に結びついていることからも、死にかかわる観念の存在が分かる。
本論に入る前に引用した『古事記』の話の通り、神道の神も、いろいろなことで高天原から離れて死後の世界である黄泉国へ行ったり、葦原中国から離れて死後世界へ向かったりする。神そのものはなくなるというわけではなく、ただもとの生活していた世界を後にするわけである。要するに、死は居場所が変えられたり、変わったりすることを意味する。
したがって、死の観念において、神道も仏教も、死が存在の消失ではなく、何か別の形式で、どこかで継続することとされている。こういう「霊魂」の不滅・永遠性は、仏教にも神道にも認められている。
(2) 蘇生をめぐって
生と死の区別は存在さえすれば、人間の死に対する反感が消えないと言える。「食色、性也」であれば、それらの前提ともいえる生命の存続こそが人間のもっとも根本的な欲求である。故に、古代から、長寿不死の霊薬を求める人が絶えずに現れてきた。さらに、死んでもまたこの世に戻り、蘇生できることも期待されるようになった。このような期待は多くの説話集にも読み取れる。
仏教には蘇生についての教義が無いが、因果応報の話で、果報としての蘇生は珍しいことでもない。
死後、六道輪廻に陥ったものが、閻魔王の裁判によって人間の世界、元々の世間への蘇生が許されることはある。その蘇生は、善因から善果を生ずる説教に応じる、まことの善報である。
神道古典としての『古事記』や『日本書紀』には、蘇生、復活の話が天照大神や大国主命の身に見える。天照大神が天の岩戸にこもったことを死とされ、いろいろな儀式を通して、神たちに天の岩戸から引き出されたことを蘇生とされている。また、神兄たちに二度も殺された大国主命が、二度とも神産巣日神の力で復活した。要するに、死んでも、儀式や神様の力で、蘇生・復活できる。さらに、蘇生の観念は神話の世にとどまらず、臨終あるいは死の直後に死者の名を呼ぶことで、死者の霊魂を呼び戻して蘇らせる「魂呼び」の習俗をも生み出した。
蘇生とは、神道においても、仏教においても、死に反して、もとの世界、つまり死ぬ前に生活した所へ戻ることである。引き続き、死までの肉体、霊魂のままで生命を持ち続け、存在し続けるのである。仏教の蘇生は普通、善業からの善果とされているが、神道における蘇生は、業によらず、人間的な意志によってできたものであると思われる。
(3) 霊魂の帰着
霊魂は、一般的に肉体のほかに別に精神的実体として存在するものと考えられる。それに、人間の霊魂が肉体の死後も存続するという霊魂不滅の観念も周知である。では、その不滅の霊魂は、肉体がなくなると、どこへ行くか、またどこが霊魂の最善の行き末であるか。
仏教では、死後の霊魂は人間の生きる道を離れ、次の行き先が決められるまでの時期――中有、空間――閻魔宮を経て、あらためて六道輪廻を繰り返したり、往生したりする。そのうち、浄土への往生は最善の報いであり、浄土は最善の帰着とされている。
神道では、人が死んだ後、その霊魂が他界へ行くとされる。さらに、山上他界、海上他界、地中他界の多種の他界がある。霊魂そのものも時間とともに変化するものである。死んだばかりの霊魂は死穢を持ち、子孫がこの霊魂を祀ることによって、だんだん死穢がとれ、浄化されていく。「端山」のような山で一定の年月が過ぎ、その霊魂はすこしずつ穢れや悲しみから超越し、清い和やかな神になり、祖霊・氏神になってから、他界へ行く。つまり、神になり、他界へ行くのは、すべての霊魂の帰着である。
以上で、神道、仏教の死霊観が習合する基点を検討してきて、不十分なところはまだ存在するが、神道、仏教双方とも霊魂の存在・不滅を認め、霊魂の存続する所に対する構想があることが判明した。
仏教は死の観念を切口に、浄土の最善を看板に掲げ、日本人の精神的な需要を満足させるうちに、神仏習合の死霊観が生まれ、さらに『日本霊異記』と『今昔物語集』の話に吸収されたのではないか。
前述で取り上げた六つの話には、いずれも死とのかかわりがあり、その中で、『今昔物語集』の16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕觀音得活語」という話では、蓮秀は法華経や観音の利益で、蘇生が可能となったが、それは賀茂神社の明神の助けがなければ、地獄から戻るのも無理であっただろう。蘇生するには、垂迹神からの利益も、本地仏からの利生もともに無視することができない。また、『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」では、「他界=浄土」という意味合いが読み取れるように、神道の他界と仏教の浄土は同一となった。異なった信仰系統に属する二つの死後世界は、一つの主題をめぐって重なりあい、一致するようになった。
[2] 習合死霊観の特色
(1) 神仏の機能配分
神道は日本人の原始信仰であり、祖先信仰と自然信仰を両柱とするものである。石田一良氏が神道に対する研究からまとめた神道の原理通りに、「生活中心主義」「共同体主義」「函数主義」は神道の特徴である。石田一良氏は「神道は各時期に共同体の生活意志を神格化にするものである」と説いた。
故に、あくまでも、神道が関心するのは、現世の生活に緊密にかかわる物事である。そして、神道はいわゆる教説がまだ体系になっていない段階で、仏教の伝来を迎えた。神道に反して、仏教は現世より、来世のほうが重視され、それなりの教説も充実している。日本に入ってきた仏教は、自らの発展を図るために、積極的に日本の固有文化と調和し、日本の土着宗教である神道と融合していった。そして、神道と仏教が融合し合い、競争し合ううちに、各々の特徴によって、それぞれの機能や主宰する領域も確立してきた。つまり、神道は継続して日本人の生の世界を、仏教は神道の強調していない分野――死の世界を支配するようになった。生きる間に神社に参拝して神に祈願をし、死後、地獄に落ち、閻魔宮で裁判を受けて後の行き先が決まるような様式は典型的である。
『日本霊異記』の中巻・5話「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」、『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」、16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕觀音得活語」などでは、当時の日本人の信仰状況がよく表されている。つまり、生きている間、信仰を神――神道に寄せたり、または多数の信仰を持ったりするが、死後のよい帰着はやはり仏に求めなければならない。死後の他界観などの死霊観はほぼ仏教が支配していた。現代の学者梅原猛氏は、現代日本人の宗教信仰には、神道は生の宗教で、一方、仏教は死の宗教であるという特徴を論じたが、現世のことを神道に、死後のことを仏教に委ねるという信仰の傾向、様式は、古く奈良・平安時代には既に存在したのである。
(2) 穢れへの執着
習合は文字通りに相異なるものなどが折衷・調和することである。神仏習合は、日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が折衷して融合、調和することである。対抗・折衷・融合のうちに、神道と仏教は、互いの教説が補充されたり、克服されたりしてきたあげく、「神」に「仏」があり、「仏」に「神」があるような神仏習合の思想だけでなく、それなりの死霊観もできた。以上で述べたように神仏の機能配分の傾向はあったが、なかなか調和できなかった要素もある。それは神祇信仰における穢意識である。穢れは忌避すべきという観念は、陰陽道の導入によって一層肥大化するようになった。忌避・排除の方法においても祓から物忌という、より厳格な道がとられることとなった。『弘仁式』をはじめ
とした諸格式に、穢れによる物忌のことが詳細に規定されていた。穢れの対象、種類及び種類によって忌の日数、感染の範囲など、一々明確に決められている。このように肥大化した穢意識は、仏教との習合過程において、弱まるどころか、かえって強くなってきたようである。
例えば、『今昔物語集』の29巻・17話「攝津國耒小屋寺盗鐘語」で、仏法に帰依した僧たちでも、死体に手を出すことを恐れ、死体の穢れを避けるために、「皆恐テ房ノ戸共ヲ差シテ籠テ」という恐ろしがっている反応を示した。また、『今昔物語集』の16巻・29話「仕長谷觀音貧男 得金死人語」にも、男の死人に対する「奇異ク怖シク思フ」気持ちはやはり、死体の穢れを恐ろしいと思っていたのであろう。神仏習合において、死に関わることをほぼ独占していた仏教は、神祇信仰に強く根付いていた穢意識に勝つことはできなかった。
穢れ、とくに死穢は土着の意識であり、固有の文化の代表として、それなりの伝統性を持っていると思われる。神道習合の過程に、穢れ意識に対する固執から、日本の固有文化の伝統性と固執性、日本文化の主体性が表現されていると考える。外来の文化をいつも積極な体勢で吸収するようであるが、ただし、それはひたすらの自我改造ではなく、固有文化に対する執着も強く持っているということであろう。
(3) 現実な応報観
共同体の現実利益を本位に、神々を祭ったり、祈願したりするのは、古来の神道信仰である。さらに、「私有」意識の出現につれて、神々に個人的な利益を求める信者も、個人的な祈願を叶えてくれる神々も現れてきた。しかし、公的な祈願といい、私的な祈願といい、人々が求める利益は、あくまでも生活、現実関係のものである。人々は神社へ参詣したり、奉納したりすることを通じて、神々からの現実的な「応報」を求めていた。さて、「応報」とは、仏語で、善悪の行いに応じて受ける吉凶・禍福の報いである。神々からの利益を「応報」というのは、不適当かもしれないが、良い「応報」は信仰の区別と関係なく、すべての信者が憧れて求めるものであろう。ただ、仏教の世界において、究極な追求は現世の利益より、来世の往生である。つまり、この輪廻の世を脱して浄土へ成仏することである。
異なる「応報」への求めは、神仏習合の展開を妨げなかった。代わりに、神仏習合の独特な応報観を促成した。それは、『日本霊異記』の中巻「依漢神祟殺牛而祭又修放生善以現得善悪報緣 第五」、「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」、『今昔物語集』の16巻・36話「醍醐僧蓮秀 仕観音得活語」と、『今昔物語集』の16巻・35話「筑前前國人 仕観音生浄土語」との対照から分かる。『今昔物語集』の16巻・35話「筑前前國人 仕観音生浄土語」に現れたのは、一層仏教的な構想に相応しい、浄土への憧憬である。反して、以外の三つの話から伝わってきたのは、応報による蘇生のありがたさである。要するに、成仏の代わりに、死後に元の生活世界へ蘇生することは、もっと好ましい「応報」とされていた。この現実色彩が強い応報観念には、神道の現世中心主義からの影響がないとは考えられない。
(4) 重層の死後世界
死霊観について、前述で論じたように、霊魂の乗り物である肉体の機能がなくなった後、霊魂というもの、また続けて存在するのか。存在することを前提としたら、霊魂は人間が死後、何が変化するのか。肉体の変わりにどんな形態で存在し続けるか。この世に存在し続けるのか、または別の世へゆくのか。これらの死後の様々なことをめぐって構成する意識や観念、または一種の信仰とは、死霊観であると思う。そのうち、いわゆる他界観は、死霊観の重要な一部分を構成する。
日本人の伝統的な意識では、葬られた場所によって霊魂は山、海、地下のような異なった他界へ行く。そこで、他界の場所は区別するための基準になるが、諸他界には本質的な相違はない。反して、仏教では、人間の霊魂の行き先は人の生前において為した業によるものであるから、良し悪しの相違は大いに存在する。輪廻・転生はやはり「苦」の継続で、ただ仏様のいる所である浄土は「極楽」の世である。そここそは生き物の最善の帰着である。では、神仏習合の死霊観はとうであろうか。『日本霊異記』、『今昔物語集』に表現された死後の世界は、仏、仏法だけに治められていないようで、他界へ行くことは往生であり、往生は他界へ行くことに等しい例も見える。『今昔物語集』の16巻・35話「築前國人 仕觀音生凈土語」には、「他界ニ移テ善キ身ニ生レニタリ」、「永ク生死ヲ離レテ浄土ニ生ル、事ヲ得タリト」という話がある。実際に、二つの文句は同じような意味を表している。つまり、この話で、「他界=浄土」である(この「他界」は神道の言葉であることは前にすでに論じた)。同じ死後世界は他界でもあるし、浄土でもある。最善の死後の行く末において、他界は浄土に同一化された。
同時に、死穢で満たされ、恐ろしい黄泉国の存在は、最善の浄土によって相殺されなかったようである。『日本霊異記』の「智者誹妬變化聖人而現至閻羅闕受地獄苦緣 第七」に、行基菩薩を誹った智光法師が、口禍で死後に落ちたところは、明らかな地獄のようであるが、その地獄には黄泉国の煮焚きしたものとされた「黃竈火物」もある。ゆえに、一言で智光法師が死後に落ちたところは地獄であると判断しがたくなる。そこは、単一な仏教世界より、黄泉国を地獄に同一化した最悪の死後世界であろう。死後世界において、神道と仏教は、互いの習合できるところを踏まえながら、善の帰着に他界と浄土を、悪の帰着に黄泉国と地獄を同一化したのである。それこそが、当該時期の死霊観の特徴の一つであり、重層の他界観を表現している。 
おわりに
以上、『日本霊異記』と『今昔物語集』を中心に、奈良・平安期における神仏習合の死霊観を考察し、当該死霊観の大まかなイメージを知ることができた。神道、仏教それなりの理念が混合になり、できた習合の死霊観であるから、特質を追究するには、神道的な要素が強いか、それとも仏教的な色彩が濃いか、紛らわしくてなかなか一言で表現しにくいと思う。とくに、死後世界、または他界観に関する習合は、もっとも顕著である。そして、当時の人々も単純的、現実的な欲求を持ちながら、神道と仏教との相違より、人間の死後のよりよい帰着にもっと関心を寄せていたのであろう。日常生活にも染み込んでいた神道的な考えをもとに、仏教の他界観がまんまと融合してきた。「浄土即是他界、他界即是浄土」というごく楽天的な意識は、当該時期の他界意識といってもいいと思う。だが、習合の死霊観において、神仏の区別は完全に見えないというわけでもない。死の世界における仏教の大きな比重、穢れ意識における神道の強勢などは、神・仏それぞれの突出した表現である。
ところで、それぞれの説話を通じて、かかる時期の神仏習合の展開状況もうかがえる。以上六つの説話は、異なる説話集から取り上げた話であるから、作品の編纂時期、意図などにおいて、一定の相違があるのは当然である。『日本霊異記』の両説話は、聖武天皇の世(七二十四―七四十九年)の話であり、『今昔物語集』からの四つの話は、八世紀以後の話と判断できるが、具体的な成立時間は不明である。ところが、実際に、『今昔物語集』の16巻・35話「筑前國人 仕観音生浄土語」以外の五つの話は、発生場所が全部京中心の畿内地方である。摂津国の富家長公、河内国の智光法師、京の生侍、京醍醐寺の蓮秀、摂津国の小屋寺、それぞれの話どちらも京や京周辺の地域を舞台にして展開したのである。
では、八世紀頃の京における神仏習合の状況を一応見ておきたい。気比神宮をはじめ、宇佐八幡宮、伊勢神宮などの王権レベルの神社には、相次いで神宮寺を建立した。ゆえに、神仏習合という信仰様式は、八世紀の京において、すでに王権からの認可を得たわけである。さらに、このような信仰傾向は、京から畿内へ、中央貴族から地方豪族へ、徐々に浸透、拡散していった。多数の遊行聖の努力で、奈良後期になると、鹿島神社、多度大社などの地方レベルの神社にも神宮寺が建てられるようになった。飛鳥時代の瓦の出土から、当時の寺院址とみなされるものは全部で四十六カ所あり、其の内、大和二十八カ所、河内五カ所、和泉四カ所、山城四カ所、摂津三カ所が数えられている。飛鳥時代の仏教発展の気運を受けついだ八世紀以後の時期において、神仏習合がもっとも活発に展開された地域は、果たして京を中心とした畿内地方である。京は政治の中心だけではなく、文化の中心地でもある。
京の先進文化を最初に接触できた地域は畿内であり、最初に接触できた人々は畿内地方の豪族である。
この事実は、以上に挙げたいくつかの説話が裏付けていると思う。摂津、河内などの畿内の国々は、京で認められた神仏習合の発揚地であり、さらにそれを各地方へ伝播するための掛け橋である。同時に、地方の豪族は、神仏習合の唱導者となり、神仏習合の流布に大きな働きをした存在であった。
また、話の主人公たちにもう一度注目したいと思う。話に登場した鋤田寺の智光法師、醍醐寺の僧蓮秀、小屋寺の僧侶たちは、みんな仏法を宣揚する僧侶である。しかも、神仏習合の展開過程で、神社に神宮寺を建立したり、神宮寺の運営を担当したり、寺院に神社を勧請したり、その土地の地主神を寺の守護神としたりした役目もまた、主に僧侶が担ったのである。すると、逵日出典氏が論じたように、神仏習合にもっとも関与していた、神仏習合を展開する主な役割を担っていたのは、やはり僧侶であろう。積極的に習合を実現しよう、普及しようとした人々には、地方の豪族がいる、と義江彰夫氏は論じたが、表側に立っていた、神仏習合を積極的に広めようとしたのは、あくまでも仏教側及び仏教徒の僧侶たちであると思う。権門への接近によって、神仏習合は国家王権の認可を得たが、地方への布教は容易いことではなかったようである。なぜかというと、深奥で、論理的な教義より、現実な利益のほうに関心が集まったのは、庶民の信仰心であったからだ。病を癒すために、仏教に帰依し始まった富家長公、死穢を気にせずに金死人を割って売った生侍から、当時の人々の信仰の現実性、弛緩性が読み取れるのではないか。したがって、信仰様式にとどまらず、死霊観までも影響を及ぼした神仏習合は、当時の京を中心とした畿内地方において、顕著な発展を遂げたわけである。
神宮寺の建立、僧形神像の出現などは、終始仏教と神道が習合した外在表現である。それによって、朝廷の王権からの認可を受けながら、仏教の日本における伝教、発展を実現した。だが、信者、とくに民間の信者はどのように神仏習合を受け止めていたか。それは神宮寺や神像を通じて、なかなか読み取れないものである。かわりに、民間にひろく流布した説話などは、かえってそれをより鮮明に反映していると思う。『日本霊異記』、『今昔物語集』などの説話には、神仏習合が活発に展開したその頃における人々の信仰心があらわれているのであろう。さらに、本稿で取り上げた『日本霊異記』、『今昔物語集』の諸説話は、当時の民間に生活していた僧侶、庶民などの神仏習合の死霊観をいきいきと伝えている。
奈良・平安時代、四百年あまりの期間における神仏習合の死霊観を考察するには、単に『日本霊異記』と『今昔物語集』からの幾つかの説話を拠り所にし、説話分析の方法に偏って考察するのは、かなり不十分であると思われるが、本稿を通して奈良・平安期における神仏習合及びその死霊観の一隅を明らかにすることができれば、ありがたいであると考える。民俗学、歴史学と関連しながら、奈良・平安期における神仏習合の死霊観に対する一層深い考察を後の論稿に期したいと思う。 

 1 村山修一『習合思想史論考』(塙書房、1987 年、6 ページ)
 2 和辻哲郎『続日本精神史研究』(岩波書店、1940 年、64 ページ)
 3 梅原猛『世界中の日本宗教』(四川人民出版社、2006 年、114 ページ)
 4 逵日出典「山岳修行者の活動と神仏習合の展開」(『日本の宗教文化・上』所収、高文堂出版社、2001 年、116−148 ページ参考)
 5 河内西琳寺の縁起に「宝蔵安置金銅弥陀居長一尺六寸 銘文」として記された銘文である。
 6 竹田聴洲「七世父母攷」(『葬史と宗史』、竹田聴洲著作集・7所収、国書刊行会、1994 年)
 7 『日本霊異記』(日本古典文学大系、岩波書店、1982 年)
 8 『今昔物語集』(日本古典文学大系、岩波書店、1981 年)
 9 注3 参照
10 『古事記』(日本古典文学大系、岩波書店、1982 年)
11 高橋鐵『日本の神話』(光文社、1967 年、90 ページ)
12 『日本書紀』(日本古典文学大系、岩波書店、1982 年)
13 注6の197 ページの注釈十三
14 仏教説話集。源為憲著。3 巻。984 年(永観2)撰し、冷泉天皇皇女尊子内親王に奉った。上巻は釈尊等の本生説話、中巻は日本の僧俗の事歴、下巻は月次法会の来歴。元来絵を伴っていたが、現在、絵は伝わらず詞のみ。三宝絵詞とも。
15 天台宗の鎮源の撰。3 巻。長久(1040〜1044)年間成る。中国宋代義寂の著した同名書を範として編纂した、日本の法華経霊験譚を集めた説話集。大日本国法華経験記。本朝法華験記。
16 身分の低い侍。
17 福岡市にある香椎宮の祭神のことである。
18 寺社などで、雑務を扱った職。多く一年交替の輪番とした。
19 三途河は人が死んで初七日に渡る河。生前になした業により、緩急異なる三つの瀬を渡るものとされるゆえに、この名がある。
20 途河にいる、鬼形の嫗は、所謂奪衣婆で、亡者の着衣を剥ぎ取り、それを受け取った懸衣翁が衣領樹の枝に懸けると、罪の軽重に従って枝の垂れ下がり方が異なるものと言われる。
21 注7の五。ここで、皮肉たっぷりの用法に従っていることと注釈した。
22 朱熹注『孟子』・「告子章句下」(上海古籍出版社、1987 年、85 ページ)
23 石田一良『日本文化−歴史の展開と特徴』(上海外国語教育出版社、1989 年、273 ページ)
24 注3 参照
25 石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究総説」、「飛鳥時代寺院とその性格」(『伽藍論攷』所収、養徳社、1948 年)
26 義江彰夫『神仏習合』(岩波書店、1996 年、15 ページ)  
 
聖徳太子「神仏儒習合」思想

 

日本の神道は、ごく素朴な自然発生的な信仰であります。特徴としては、ユダヤ教の旧約聖書やタルムード、キリスト教の旧・新約聖書、イスラム教のコーラン、仏教の般若心経のような経典を持ちません。
すなわち、神道には明確な教義や教典がない為に、他の宗教のように戒律により人を縛るという事がありません。 
神道における八百万の神の概念は、森羅万象に神が宿ると考え、雷や台風などの自然現象、山、滝、大石などの自然物が対象であり、それに先祖崇拝の思想が重なって出来ています。これは、別に日本特有のものでなく、世界中で見られる宗教の原始形態といっても良いでしょう。
その原始的形態が、今日まで聖典も戒律もなく続いてきた事も奇跡的な事でありますが、神道においては宗教としての絶対的価値観である「神の言葉と掟」を持たないが故に、他の価値観と共存する可能性を秘め、神道に永遠の命を与えたという事もできます。
仏教が最初に日本に入って来たのは、「古事記」によると、欽明天皇(在位540−571)の時代で、欽明天皇は百済から贈られた仏像を蘇我稲目に授け、蘇我氏で祀るように仰せられました。ここから、蘇我氏の仏教独占がはじまり、後に政治利用する事で、強大な権力を得るようになっていきます。
用明天皇(在位585−587)は、国家元首としてではなく、個人的に仏教に参拝しましたが、蘇我氏をはじめとする崇仏派は、天皇の公式参拝を求め、仏教を国教に指定するよう迫りました。
ここで、日本で初めて宗教が大きな政治問題に発展します。もし、天皇が仏教を国教として認めたなら、神道を捨てなければならないからです。用明天皇は、この問題を残したまま亡くなり、崇仏派の蘇我馬子と神道派の物部守屋の間で、日本史における唯一の宗教戦争が起こり事になります。
結果は、蘇我氏の勝利に終わり、崇仏派と見られた祟峻天皇(在位587−592)が蘇我氏によって擁立されましたが、祟峻天皇はその仏教の政治利用と、神道否定の危険性に気がつき、神道を保護しようとした為、蘇我馬子に殺害されてしまいました。
仏教は権力闘争に利用され、人々の殺戮が繰り返されたわけですが、何のための宗教でしょうか?
崇峻天皇が亡くなった後、推古天皇(在位592−628)の時代となりますが、東アジアでは初めての女帝です。この時、天皇家に聖徳太子という大天才が現れます。
太子は、叔母である推古天皇の摂政として、政治的発言を確保すると共に、仏教と神道を両立させる道を考え出しました。それが、「神仏儒習合」思想です。
「神々は敬わなければならないが、敬ってもなお祟るのが日本の神々である。その祟りを鎮めるものが仏である。よって、我々は仏も敬わなければならない。」
という考え方で、「神道を幹とし、仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて、現実的な繁栄を達成する。」とし、他の宗教を否定する事無く、融合させる思想を考え出しました。
これが、今日の日本人が、正月は神社に初詣に行き、結婚式は神道で挙げ、葬式は仏教で行い、仏壇の中には先祖の位牌があり、祖先崇拝をしているという、日本人の宗教生活を形づくっているものです。一見デタラメのようで、実はちゃんとした聖徳太子の思想に裏打ちされたものなのです。
この思想は、一神教の仏教と、多神教の神道を、それぞれ別の宗教体系のままで、同時信仰することを許容し、推奨したもので、宗教理論的には、世界に類のないものです。
こうして、聖徳太子の「神仏儒習合」思想が普及した結果、日本には深刻な宗教対立がなくなり、同時に厳格な宗教理論や信仰心もなくなっていったと考えられます。
これが、後の日本人に与えた精神的影響は大きいものがあり、日本人は宗教的戒律にとらわれる事無く、外来の優れた文明や文化を簡単に受け入れる事ができるようになり、一つの神の言葉や掟を、真に受けて信じる事はせず、全ての文明や文化の優れた部分のみを、取り入れる習慣を身につける事ができるようにました。
宗教の違いとは、本質的な倫理の違いであり、何が正しいかという意味での対立であり、信仰とは客観的事実や利害損得ではなく、神の教える聖典と戒律によって定められたものであります。
よく「信じる事に言葉は要らない」と言われますが、その通りでありまして、信仰する事に対して、別に理論的説明をする必要はありません。
しかしながら、宗教信仰の慣習を持つ人々は、神の言葉の下に、思考停止となり、全ての事柄に対しても、絶対的な価値や正義を持ちたがる傾向があります。また、それがなければ不安になり、自分自身の言動の基準を失ってしまうからであります。
そういう意味で、私は古い宗教の戒律にとらわれる事無く、「宗教からの自由」を得た日本人は、他の文明や文化の優れたところを、フレキシブルに吸収していく事ができる事によって、日本という国家は時代を経るに従って、発展が加速化されているのだと思います。
また、いうまでもなく、天皇制を持つ事による国内の安定化も、国家の発展に大きく影響しているのは言うまでもありません。
我々日本人は、飛鳥時代の偉大なる思想家、聖徳太子に感謝しなければならないと思います。 
 
神仏習合

 

仏教公伝以来七世紀末ころまでの一世紀半余りに及ぶ時間(約170年間)は、日本における仏教興隆期であるとともに、古来の神祇信仰の仏教が接近し、やがて両者が習合に至る素地の形成期でもあった。この素地を踏まえて、神仏習合が現象となって現われる。最初の習合現象はどのようにして起こり、どのような形で現われたのであろうか。神仏習合現象が発生するには、仏教伝来以来の時間的経過の中で、単一ではなく、複数の各面において徐々に素地が形成されていったと考えるべきであろう。ここでは四つの側面にまとめて述べていくことにしよう。
[1] 神祇・仏教両者の内容面より形成する素地
神祇・仏教両者の内容は大きく異なるが、両者とも他を排斥する一神教ではなく、多神教であるという共通点をもっている。これは重要な要素であり、多角的に物事を摂取し、何事にも融通のきく解釈ができる日本人にとって、両者間を接近させる出発点になったと考えられよう。また、仏教の中に諸天(しょてん)というものがある。釈迦が仏教を開いて後、インド固有の神々を仏教の中に取り入れ、仏法守護の役割をそれぞれに課して諸天とした。わが国において、これら諸天は日本固有の神々に相応すると考えられるようになっていく。仏教を教義的理解を通してではなく、神祇信仰にもある呪術的・現世祈願的なものに期待する形で受入れ、仏教の一段と高度な呪術に影響されることが大きくなっていく。仏教のこのような直観的理解は、仏教のもつ外見面の相違が神祇信仰にも影響を及ぼすこととなり、人格神の登場や神社に社殿が建てられるなどの現象をみるに至る。以上のことがらに、両者の接近・習合に至る一つの素地の形成を見出すことができるであろう。
[2] 仏教受容面より形成する素地
仏教本来の立場からすれば一つの矛盾ではあるが、祖先崇拝と結合して仏教が受容され、また仏教を祭祀的な面において受容したり、さらに、海上から訪れてくるものはまさに祖霊、「まれびと神」として受容されるなど、いずれも習合の素地を形成するものである。一方、社会構造面からみると、四・五・六世紀は豪族(氏族)間の抗争が激化した時期であり、豪族たちの支配が再編成を繰り返していく。この中で本来の豪族の守護神(氏神)が、新たに編入された被支配者に対して従前のような威力を発揮できない。(日本の神祇は地域的閉鎖性をもっていた)いわば支配の上で危機的状況に迫られた豪族たちは、ここに普遍的神性として仏教を受容する基盤ができていった。したがって、地方における仏教はまず豪族によって受容され、一般大衆(農民)は豪族を通して間接的に仏教を受容した。その中で、仏は何よりも荒ぶる神を鎮めるものとして受容され、大衆の間に「神も仏もない」という意識を培い、やがて、習合現象が地方を舞台に起る素地が形成されていく。
[3] 国家の宗教政策より形成する素地
伝来の仏教は、しばらくの間、天皇(国家)の立場において受容されなかった。したがって、当初の日本仏教は氏族仏教として展開した。本格的に天皇の立場において仏教を受容するのは、七世紀後半の天武天皇である。天皇は、『金光明経』・『仁王経』・『法華経』など、鎮護国家の経典(いわゆる護国の経典)を重視し、公的な立場において受容する。つまり律令国家の中に仏教を組み入れることにより、国家仏教として成立し、ここに神仏は同格となる。それは、2の氏族社会が仏教受容に至った宗教意識の、より一層の明確化の上に立っていたともいえよう。神仏同格を打ち出した国家は、さまざまな”国の大事”にさいして、神祇・仏教の双方に祈願することになる。このような動向の中にも神仏習合の素地が生まれる。
[4] 仏教徒の山岳修行より形成する素地
大化改新の七世紀後半から急速に盛んとなる仏教徒による山岳修行は、仏教徒が山に入ることに意味があり、彼らが山に陳鎮まる神々や諸霊を避けて通るわけにはいかなかった。彼らはまず、神々や諸霊を祈り祀って、その協力と保護を得ることにより、自らの修行を可能とすることができたであろう。したがって、仏教徒の山岳修行を通じて、神仏の接近はおろか、きわめて自然な形で、どの面よりも先んじて神仏習合の端緒(行為の上で)を開いたのである。

以上、四つの側面にまとめて習合の素地形成をみたが、要するに、[1][2]がまず形成し、七世紀後半に至って[3][4]が決定的なものに導く形で登場した。しかも[4]は重要な素地であるとともに、習合への端緒を開いていたことは注目に値する。 
本地垂迹説
本地垂迹説は一挙にまとまった形で現れたのではない。
この思想は「本地」と「垂迹」から成るが、垂迹思想の方が先に現れてくる。
垂迹は本来「迹(あと)を垂(たれ)る」という意味であり、垂迹の語が文献上に初めて認められるのは、貞観元年(859)八月、延暦寺の恵亮が賀茂神と春日神のために、年分度者(毎年決まって得度させる僧)を置くことを請う上表文に、「皇覚の物を導くは且つは実、且つは権。大士の迹を垂るるは、或は王、或は神」とある文(「日本三代実録」)である。
皇覚は如来、大士は菩薩の意であり、権は実に対する仮のものをいう。
つまりこの文は、仏菩薩は真実の姿で現れることのほかに、時には仮の姿である神として現れることがあるといっている。
続いて、承平七年(937)十月四日、大宰府より箱崎宮に出された宝塔造立を命ずる牒(文書)に、「彼宮此宮その地異なりと雖も権現菩薩垂迹猶同じ」
と記されている部分があり(「石清水文書」)、一段と発展した形(垂迹思想のみならず権現思想まで登場する)をみることができる。
これは、かつて最澄が全国に六所宝塔院を創立し、各塔ごとに一千巻の『法華経』を書写して納め、その功徳によって鎮護国家と天下泰平を祈ろうと発願したことに由来する。
ところが最澄の生前およびこの時期に至るまで、五ヶ所の宝塔院は完成していたものの、豊前宝塔院だけが未完成であった。
塔に納める書写の経典も寛平年中(889〜898)に焼失していたので、承平五年(935)より箱崎神宮寺で改めて写経がおこなわれ、ついで塔が建立される。
先の文書の文言は場所を移したる優の説明であり、宇佐と箱崎とで土地は異なっていても、権現大菩薩(つまり八幡菩薩)が垂迹されることに変わりはないという意である。
これらの文献を通して、垂迹とは、仏や菩薩が衆生を救うために、仮に日本の神々になって現れたという意であり、垂迹の結果として出現した神が権現ということになろう。
このような垂迹思想・権現思想は、やがて一つのまとまりをもって本地垂迹説として結実する。
本地とはものの本源・本来の姿をいい、ここでは仏や菩薩の本来の姿をいう。
したがって本地垂迹とは、本源としての仏や菩薩が、人間を利益し、衆生を救うために、迹を諸方に垂れ、神となって形を現わすという説のことである。
この説がある程度のまとまりを示したのは、十世紀後半のことと考えられる。
この思想の根底は権実思想の問題であり、インド・中国でも教理上重要な役割を果たしてきたが、わが国では法華一乗(大乗)の立場にある天台宗において、教学研究の中で本地垂迹を説くことが多かった。
前章において八幡大菩薩の顕現が八幡宮寺、とりわけ弥勒寺僧集団の経典研究によるところが大きかったことを述べたが、弥勒寺は天台宗と結んでいたのであり、経典にもとづく神仏関係の研究に熱心であった事情が理解できるであろう。
本地垂迹説も当初においては漠然としたものであり、単に、権現や垂迹の思想として認めうるのみであった。
初期本地垂迹説は十一世紀を迎えるころともなると、全国的にかなり普及したようである。
たとえば、寛弘元年(1004)十月十四日の大江匡衡が尾張国熱田神社に、大般若経を供養したときの願文に「熱田権現の垂迹」という語がみえる。
また、同四年(1007)八月十一日、藤原道長が金峯山(吉野山)に埋経した経筒の銘の中に蔵王権現の語がある。
これらは当時を代表する人物が用いていることから、権現思想が相当広く普及していたことを物語るとみてよい。
さらに、『今昔物語』にも蔵王権現・熊野権現などの語がみられ、一般的にはほぼ十一世紀前半ころまでこのような状態が続いたものと思われる。
十世紀の段階では漠然とした形でしかなかった本地垂迹説も、十一世紀半ばから十二世紀(平安時代中末期)には、具体的となり、深まりをもって普及していく。
その端緒となったのが本地仏の設定であろう。
つまり、この神の本地(本源)は何という仏・菩薩であるかということが、具体的に決められていくのである。
いいかえれば、この神は、この仏が垂迹したものであると、説明されるようになっていく。
全国各地の神社に祀られている神々の一つ一つに対して、本地仏が決められていくのである。
この動向においても、やはりどこよりも先んじていたのが宇佐の八幡神宮であり、十世紀半ばころまでに、宇佐を中心とした地域で八幡神に対する本地仏の設定がなされていたようである。
十二世紀以降の文献には実に多くの事例がみられるようになる。
『長秋記』長承三年(1134)二月一日条に、熊野の本地仏として、三所の丞相が阿弥陀仏、両所は千手観音、中宮は薬師如来、五所王子の若宮は十二面観音、禅師宮は地蔵菩薩、聖宮は龍樹菩薩、児宮は如意輪観音、子守宮は正(聖)観音と示している。
平清盛が厳島神社に奉納した経巻の願文には、当社の本地を観音と記す。
次に春日社の本地仏について、『春日社古記』承安五年(1175)三月一日条に、一宮は不空羂索観音、二宮は薬師如来、三宮は地蔵菩薩、四宮は十一面観音とみえる。
さらに、『卅五文集』には祇園三所権現の本地を、薬師如来・文殊菩薩・十一面観音とし、『古事談』では賀茂の本地を観音、伊勢神宮と厳島社の本地を大日如来と記している。
最後に『諸神本懐集』には実に多くの神々の本地を記すが、その主なものを示しておく。
鹿島大明神=十一面観音、天照大神=観音、素戔鳴尊=勢至菩薩、熊野三所権現、二所三島の大明神、八幡三所、祇園=薬師如来、稲荷=如意輪観音、白山=十一面観音、熱田=不動明王、などである。
以上のように、全国各地の大社から小社に至るまで、その祭神の一つ一つに本地仏が設定され、本地垂迹説は具体性をもって普及していくことになった。
なお、本地仏の設定は貴族・僧侶ら知識人たちが、研究と思考の結果としてなしたものであるから、ひとたび設定されても後に変わる場合もあったり、異説が生じる場合もある。先に示した事例からもうかがいことができるであろう。 
反本地垂迹説
本章ではもっぱら本地垂迹について述べてきた。
この説は、要するに仏が根本であり神は仮の姿であることを主張した。
この説を中心に、神に対する理論づけの試みがなされるようになり、中世の期間中に四つの神道論の誕生をみた。
すなわち、伊勢神道・山王神道・両部神道・唯一神道がそれである。
このうち、山王神道(天台の神道)・両部神道(真言の神道)の、二つは僧侶による研究の結果、生み出された神道論であり、その理論的拠所は本地垂迹であったことはいうまでもない。
ところが、伊勢神道と唯一神道は本地垂迹説に対抗するものとして、出現するので注目される。
ここではこの二つの神道論について述べておこう。
伊勢神道は伊勢に起った神道なのでこの名がある。
これは、伊勢外宮の神官度会(わたらい)氏が唱えたもので、度会家行(1256〜1362)によって大成された。
その成立は、「神道五部書」の成立をもっていう。
五部書の成立時期は従来諸説あったが、建治三年(1277)九月から弘安三年(1280)六月にいたる時期に、求められるようになった。
まさに未曾有の国難と称された元寇の時期に相当する。
五部書のいうところ、神徳とともに国家の永久性を説き、それを明示するものとして、三種の神器と神勅(「古事記」「日本書紀」)に焦点を置く。
その理論化は仏教臭を排除しようとする意図から出たもので、易や老荘の思想を用いてなされている。
従来の神国思想においては、神の加護を受ける国という観念のもとに説かれていた。
しかし五部書では、一歩進んで、神明と天皇とが一体であり、神器と皇位が一体であることを強調している。
これを踏まえて、このような神道の本義を体認するためには、清浄と正直とをもって神の心に接することを必要とし、万事は一心より起るのであり、みずからの心を清め正しくすることでなければならないとする。
ここで注意するべきは神と仏の峻別であろう。
これまでの神仏習合思想をぬぐいすて、仏教その他の思想的影響から神道の自主独立を促している。
神道古来の姿を意識し、神道みずからが明確な理論と主張をもとうとしていることに、大きな意義がある。
これを受け、伊勢神道を体系化したのは度会家行である。
彼の代表的著作である「類聚神祇本源」によると、仏教の流布を神道の化現であるとしており、神主仏従の思想をうち出している。
中世神道論の最後に登場するのが、京都の吉田山(吉田神社)に発する唯一神道(吉田神道)である。
この神道論は、吉田兼倶(卜部兼倶)によって確立されたものであり、兼倶の「唯一神道名法要集」に典型的な形となって現われる。
彼は豊かな卜部家の家学の伝統と成果を背景に、吉田卜部家の神道を確立したのである。
「唯一神道名法要集」がいつ成立したかはさだかでないが、彼が日蓮宗との間に論争を起した明応六年(1497)の前後といわれている。
時は室町時代も末期の戦国乱世に突入していた。
「唯一神道名法要集」にみる兼倶の神道論は、まず、これまでの神道を分類して、本迹縁起神道・両部習合神道とし、新たに元本宗源神道を提唱する。
そして、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉であり、神道は万法の根本であって、仏教・儒教はみな神道の分化にすぎないという。
ここに、仏教・儒教の説を用いながらも、神道を主(根本)とすることが”唯一神道”の主張となる。
元本宗源神道・唯一神道、両者の意味するところは同一である。
鎌倉時代からしだいに芽生えてきた反本地垂迹説への方向が、唯一神道の成立によって明確なものとなった。
伊勢神道の神主仏従(つまり反本地垂迹)への思想の逆転は、注目に値するものであるとともに、それが未曾有の国難といわれ、戦国乱世といわれた屈指の激動期に関わっていることも、大いに考えさせられることであろう。 
 
神仏習合の背景

 

晴れてさえいれば、静岡或いは清水の街角から、いや見る限りの駿河の野から、いつも仰ぐ事の出来る、二つの峰を持った龍爪山は、すばらしい山である。遠く赤石の山々を背景に、あたりに聳えて、類いのない名山である。小さい時分からこの山の麓に住んで、ずっと親しみと、畏敬とをもって眺めて来た。昔は「龍爪山・山の神権現」とも、或いは「龍爪山権現」とも、又単に「龍爪権現」などとも呼ばれていた。その神のまします山の歴史を、そのありしままの姿を、私なりに考えてみたいと思うのである。その理由は、この山の戦後のいちじるしい荒廃もさることながら、長い間歴史と共に歩んだその真の姿が、遺跡なども含めて、今急速に亡び、まさに人々の心から、遠のき、忘れ去られようとしている。時代の変遷とは、そのようなものかも知れないが、その事を大変惜しいと思うわけである。 
神仏習合
龍爪山の事を書き始めてから、瞬く間に一年が過ぎて行った。この間いろんな都合で、仕事は思うように進まなかった。然し一年やそこらで、龍爪山の歴史や、その時代時代の姿を、書きあげる事はむずかしい。それは始めから想像されていた事であったが、やって行くうちに、果せるかな次から次へと関連の事柄が出て来た。それらを避けて通るという訳にはいかず、自分なりに調べて、又他の文献で考証できるものは考証し、確かめて行くという仕事は、本来学者ではない私の力には、多公に余るものであった。
兎に角やって行くうちに、この仕事は単に龍爪山の沿革を調べて、それを書き綴るという事に、とどまらなくなって来た。龍爪山を書き乍ら、龍爪山をはみ出して行ったのである。
現在の穂積神社の歴史は、ほんの短期間であり、─とはいえ、明治維新から百余年を経ているが─その前に「龍爪権現」といわれる、千年以上も続いた歴史があるのである。それはこの地方に、国が始まって以来の霊山であり、信仰の山であった。
現在龍爪山について書かれた書物は、いくつがあるが、それらは多くは明治維新後の─正確にいえば神仏分離後の─穂積神社について書かれたものである。又それ以前の事について書いた書物も、穂積神社を見る目を、単に先へ延長したものに過ぎず、龍爪権現の記事としては、必ずしも当を得たものとは思われない。
明治元年神仏分離令によって、神仏が分離される以前の龍爪山は、今述べた如く、大昔からの霊山として、神仏習合の山であり、修験の山であり、民俗信仰の山であった。この神仏習合の実態を抜きにして、龍爪山の歴史を語る事はむずかしい。というよりは、それは空論をあげつらうに似て、意味がないと思われる。
兎に角、龍爪山の歴史を書き始めて、まず第一に立ちはだかったのは、この山に於ける神仏習合のあり様であった。神仏習合とは一体何であるか、その本質や長い歴史、または人々とのかかわり合いなど。まずこの事の理解なくしては、仕事は前へ進まなかったのである。
これ等の事を取り扱う学問は、主に仏教民俗学とか、仏教考古学といわれるものであろう。いずれも煩瑣な、広範囲の対称を取り扱う学問で、素人である私達には、多分に手に負いかねるものである。
龍爪山の歴史を書くつもりが、いつの間にか、龍爪山を素材にして、私なりにこれらの学問の真似事を綴るという羽目になってしまった。
さてこの神仏習合という事への理解が、現代人の頭の中にはないといったが、ないと云うよりは稀薄というべきであろうか。これは明治政府の二教分離、神道国教化という政策と、それを押し進める教育によって、この伝統的な習俗への認識は、現代人の頭の中から、払拭されて行ったのである。
神は神、仏は仏という截然たる二分化の考え方は、或る意味ではまことに理解に便であり、合理的であるとさえ思われるのであるが、私達の先祖が理解した神仏とは、必ずしもそうしたものではなかった。神仏は常に習合し、混淆して、神仏(かみほとけ)として人々とかかわったのである。この時代と共に流れ続けた考え方、これを抜きにして、過去の日本文化を語る事は出来ないと思う。私達は今一度、日本歴史に於ける神仏習合の実態を、とくと見直してみる必要があるのではなかろうか。
ともあれ明治元年に始まる二教の分離政策は、必然的に廃仏毀釈を伴って、多くの貴重な文化財が、失われていった。文化財ばかりでなく、千年以上も続いた伝統的習俗も、思考も、自らの手で一朝にして破壊し去った。誠に惜しむべき出来事であったと、その関係の史書は伝えている。 
仏教伝来
それではここで仏教が我が国に伝来し、そしてどのように受け入れられたかという事を参考までに述べてみたい。
欽明天皇の時代538年(上皇法王帝説)、百済の聖明王が仏像と経論を献じた。これが日本への最初の公式仏教伝来といわれている。その時大臣(おおおみ)の蘇我氏と、大連(おおむらじ)の中臣氏とが、互いに賛成反対に回って争った。
反対派の中臣氏等は、「我が国には国神があり、みだりに他国神を崇めるべきではない。」といいこれに対して賛成の蘇我稲目は、「他国で貴いとするものは、我が国でも又貴ぶべきである。」と主張した。この国神を崇めるか、または外来神を貴ぶかという対立は、保守的なものの考え方、或いは進歩的な考え方という、両者の立場の違いもあったが、結局は2つの政治勢力の、権力争いであったのである。仏教教義に対する賛否の論議ではなかった。
仏教の日本への伝来は以外に早く、先に述べた法王帝説では538年とするが、他の文献では、この公式伝来よりも約50年早い487年に、泥土で仏像を作ったという記録もある。思うに印度で始まり、中国朝鮮と伝わった仏教は、当時朝鮮半島と密接な関係にあった日本へは、民間レベルで自然に伝わって来たものであろう。それは5世紀の後半から、6世紀の半ばへ掛けてであろうと、思われる。
5世紀の後半から6世紀前半といえば、あの魏志倭人伝の世界から、あまり遠い年代ではない。倭入伝に出て来る世界は3世紀の事であり、大和朝廷による日本国の大体の統一は、4世紀の半ば過ぎと云われている。仏教は日本国が誕生し、1世紀をすこし過ぎた頃には、己に伝来していたのである。因みに、中国への伝来は67年とされ、朝鮮半島へ伝わったのは、372年頃からとされている。
日本民俗学の大先達柳田国男は、日本の民俗から仏教色を取り除いて行けば、そこに日本民族固有の民俗(常民の風習)が現われると考えたと云われている。理論的にはまさにその通りであろうと思われる。しかしそこに現われて来るものは、一体どのような文化であろうか。或いは稲作を伴って渡来した南方的文化であろうか。それともアルタイ系の北方的、騎馬民族的文化であろうか。更にこの二者が複合という形に於いてであろうか。いずれにせよ日本国家が形成されて間もない時代であるから、そこに現れるものは、日本固有の民俗というよりも、むしろ先行文化的民俗といった方が、当っているように思われる。常民の風習とはそのような形であろうと思われる。この先行文化が、すぐ後からやって来た高度な文化仏教の影響を受けて、古代日本の文化を築いて行った。
私は先にも述べた如く、民俗学者でも、歴史学者でもないので、その辺の事は断言出来ないが、仏教は非常に古くから、日本民俗形成にかかわったと思っている。むしろその主役を演じたと言ってもいいではないか。 
原始信仰 ─大穴牟遅の世界─
先行文化としてより多く日本文化の母体となったのは、稲作を伴った南方文化であるといわれている。この稲作を生活の手段とする民族は、弥生時代を通じて、いく波か日本へ渡来し、各地に移り住んだ。登呂遺跡もその1つであろう。尤も縄文時代の人々も、弥生時代の人々と無関係ではないと云われている。とするならば己にその昔、ルーツを同じくする人々が、日本列島に住みついていたのであろうか。
ここで日本古来の原始宗教とはどういったものか、という事について書いてみたい。
日本民族のもった原始宗教とは、「みくまりの神」のような自然神、或いは遠い先祖の霊といったものの崇拝であったといわれている。この自然神をおそれ、又民族の祖霊といったものを祀るのが、原始宗教であった。この神格は、現在われわれが考えるような、全智全能の神というものではなく、或る時は人々に恵みを与え、又或る時には災いをもたらすという、原始的な神であった。
この自然神、祖霊神の祀りは、民俗的方法によって祀られて来たものであろうが、6世紀の中頃までに仏教が伝来すると、次第に仏教的方法で祀られ、仏教的な教義によって意義づけられて行くようになる。特に白鳳、天平時代により、仏教が国教化されるに伴い、益々仏教的な色合いを濃くし、神仏習合の度を深めて行ったのである。
更に「役の行者」による修験道が成立し、深山幽谷で修業がなされるにつれて、山霊祖霊への信仰は、この修験道の中へ吸収されて行く。各霊山は修験道の行場となり、山そのものを神と崇める、神体山となって行くのである。この龍爪山も、東海に於ける一つの神体山であった。
以上は神仏習合の歩みであるが、先ず始めに固有神道があり、それに伝来の仏教が重なって行ったとする考え方は、先に常民の風習で述べた如く、必ずしも当を得たものではない。神道もまた仏教の影響によって、時代を経て後から理論づけられ、体系づけられて行ったのである。
扨て先程触れた祖霊信仰であるが、日本列島へ渡来した南方系の民族は、遠い先祖の霊を慰めて、高い山の上、或いは岬の先端等に於いて、火を焚く風習があった。丁度現今の盂蘭盆の迎え火、送り火の類いである。遠い海の彼方の先祖へ送るシグナルであるから、遥か海上遠く迄見える高山の頂、或いは岬の突端で、それは焚かれたのである。その火は「龍の灯」・「龍灯」と云われた。大昔の龍爪山の山頂でも焚かれたのである。恐らく焼津の高草山あたりでも、そうではなかったか。「浜当目」とは、「浜遠目」であるといわれている。岬では三保の岬がそうである。「三保」は「御火(みほ)」という事であろう。
祖霊とは文字通り祖先の霊である。いつも人々の心のよりどころであった。遠く離れて来た故郷(常世の国)の先祖の霊である。
この祖霊は古事記の出雲神話に出てくる、「帰(よ)り来る神」であった。海上を舟に乗ってやってくる神であり、国つ神の大己貴命・少彦名命の神である。この国つ神は、北方的なイメージを持つ天孫降臨の天つ神に先だって、「葦原の中つ国」の国作りをした。「天の下つくらしし大神」であり、「オオナミチ・スクナミカミ」の作らししと万葉に歌われた神である。二神は力を合せて国土経営に力を尽された。併しその国土は、後に天つ神へ国ゆづりされ献納された。この事は歴史的には、或いは大和朝廷を築いた勢力が、古くからの地方王朝を、自己の版図の中へ編入したもの、とも見られている。
この大己貴・少彦名の二神は農業神であり、「五百津鉏(スキ)鉏(スキ)なほ取らしに取らして、天の下つくらしし大穴持命」・(たくさんの鉏をもって国づくりされた大穴持命)という事で、或いは登呂の田を耕した古代の人々にとって、身近に尊崇した先祖神であったかも知れない。更に想像を逞しくすれば、この神は弥生時代の初期に、南方部族を引きつれて、日本へ渡来した偉大な指導であったかも知れない。この英雄は久しい以前に死んだが、いつの間にか神と崇められて、常に人々の心のささえとなった。この英雄の霊は死んで故国へ帰ったが、いつも亦この地へ、子孫達の心を鼓舞する為に帰って来た。そのように信じられたのである。即ち弥生時代の人々の心に「帰り来る神」であったのである。
この大己貴・少彦名二神の足跡は、単に出雲の国にとどまらない。少くとも日本の東海地方─広い意味─に広まっているのではなかろうか。西奈村誌に、「龍爪山に因める事」として、
「龍爪山の後方双峰、俚俗一名薬師嶽と今一つは文珠ケ嶽なり。こは文徳天皇の斎衡3年12月29日
常陸の国鹿島郡大洗磯前にて海水を煮て塩となすもの、夜半に海原を望見すれば、光輝くもの天に見へ、明日出て見れば両奇石水にありけり。高さは各一尺ばかり。神造物と見へて人間の石にはあらざりけり。
煮塩翁私(ひそか)に異しと思ひ、去る後の1日亦出でて見れば、20余の小石彩色尋常に非るが、向ふの二石左右にありて、さながら待り奉るが如し。因て国の守に申、其の時人に憑りて、吾は大奈母知、少比古奈命也。昔此国を造訖て東海に去往きしが、今亦民を済はんがため、更に亦帰り来ると詔いき。と之に因り駅使を立奏聞す。故に二社に祭らせ玉ひぬ。延喜式に所謂大洗磯前薬師神社、酒列磯前薬師神社是也。
此の二神を薬師(くすし)の神と申し奉るにより、此の二神の座す後峯なれば、奇麗が嶽と誰云ふとなく称へしを、何の時か字音に誤りて薬師の仏名を思ひ、一峰薬師如来ならば、亦一峰を文珠ケ嶽と呼なし、竟に近時石の小堂再建せらるるに至れり。」
この塩煮翁の話は「文徳実録」に出ている。この話は「神像(かみかた)石」の信仰であるといわれているが、この東国に大己貴・少彦名の二神が出現した事に変りはない。このように大己貴・少彦名二神出現の伝説は、その他各地にあると云われている。「常陸の国」はまた「常世の国」(常陸風土記)とも呼ばれていた。因みにこの神像石は、「沙門像(かた)」の岩となって現われたと記されている。
この西奈村誌の記述は、神仏分離、排仏毀釈のほどぼりの、まだ冷めやらぬ時に書かれたものであるから、記事が所々そのむきに書かれている。「延喜式に所謂大洗磯前薬師神社、酒列磯前薬師神社是也」とあるは、実際には「大洗磯前薬師菩薩神社、酒列磯前薬師菩薩神社」と、「薬師菩薩」の二字が入っているのである。「大洗磯前(おおあらいいそぎき)・酒列磯前(さかつらいそぎき)」の後ろだから「奇麗」(美しい)というのは、すこしこじつけであるが、大己貴・少彦名の二神は、治病攘炎の神ともいわれ、薬師(くすし)の神でもあった。
龍爪山頂に、薬師如来が祀られているのも、無関係ではないのである。これは習合したというよりも、一体と見做されたのであろう。
さて「龍灯」は岬の先端で焚かれ、海の見える高い山の頂きで焚かれたといったが、祖霊神もまた海から山に登り、その頂きに鎮座したのであった。高い山の頂上から、遠い常世の国の故郷と相対したのである。大己貴・少彦名の二神も、龍爪山上の亀石の上へ鎮座ましまして、龍爪権現として、永く万民和楽、無病息災の神徳を山麓有縁の人々に垂れ給うたのである。
因みに焼津高草山の奥の院は、西麓の三輪明神であるといわれている。三輪の神もまた、大己貴・少彦名の神であった。このように、神体山、修験山の祭神には、大己貴・少彦名の二神を祀る事が多い。というよりは深い関係にあるのである。この事は非常に意義が深いと云わねがならぬ。想像を逞しくすれば、大和朝廷による日本統一の前に、大己貴命の世界があったのではなかろうか。万葉にも歌われた「天の下つくらしし大神」とは、一体どのような大神であったのであろうか。
ここでちょっと「亀石」について一言するならば、亀石とは帰(よ)り来った神の鎮座する処(石・岩)の事で、亀形をした石の事ではない。伊豆の亀石峠の如く、その石は山上にあるのが普通である。阿部正信の駿国雑誌には、珍石の部にいくつか亀石が記されている。珍石としての紹介であるが、その中には明らかに神の座であると思われるものが、いくつかある。 
教分離思想
神仏の習合思想と、惟神の神国思想とは、長い間我が国の精神界を二分して来た考え方である。しかしながら、現在考えられるような神国思想は、歴史的には極く限られた一部の人々によって、信奉されて来たと思われる。尤もこの考え方は奈良時代記紀編纂の時代に、己にあったといわれるが、質が必ずしも同じではない。現代につながるものは、そのような過去の底流があったにせよ、江戸時代初期の国学の勃興と共におこり、平田篤胤の神学を経て、明治の国家神道へと進んだのである。その時から一般国民の間に定着した、と見做すべきであろう。
それ以前の神道の系譜は、神仏習合の考えのもとに生じた。即ち天台系の山王一実神道、或いは真言密教の両部神道といったものである。この両部神道の影響を強く受けて、伊勢度会(わたらい)神道が発生した。この度会神道の神典神道五部書は、密教と習合したものであるといわれている。
あの「更級日記」の作者(菅原孝標の娘)は、「アマテルオンカミ」は「いづこにおわします神仏かは」、と書いている。更級日記の作者といえば、当時一級のインテリーであろう。又「大日本は神国なり」という書き出しで南朝の正統を主張して書かれている「神皇正統記」の著者北畠親房も、度会神道の影響を強く受け、神仏習合の神道観が強いと云われている。このように神道も習合色が深かったのである。
唯一神道と云われる京都吉田神社の吉田神道は、独自の神道思想を作り上げたと云われているが、その教義の中には、仏教教義を参酌する処が多いとされている。吉田家は神祗長上と称し、江戸時代には全国の鎮守以下の宮社の大半を、自己の支配下に入れてしまった。初代の龍爪神官である瀧紀伊も、吉田家から神職免状を受けているのである。
以上が明治に至るまでの、神仏二道の関係であるが、神仏分離という考え方は、大乗仏教の高度な理解や教義への批判という事ではなく、常に二教の、人々とのかかわり合いの部分でのみなされた。つまり政治的な理由がいつも主であったのである。
古代日本を形成する文化は、通説として南方的農耕文化を基盤とし、その後へ北方的狩猟文化が渡来したと云われている。
この南方的、照葉樹林的文化は、一面親仏教的文化であるという事が出来ると思う。仏教と発生の地域を同じくするというか、広い意味でのルーツを同じくすると考えられる。日本に仏教が受け入れられ、神仏が習合したのも、そのような地盤であった。神とは国つ神の事であり、神体山で大己貴命が権現として崇められたのは、そのような必然性が、そこにあったというべきであろうか。天つ神の天照大御神が、大日如来となり、盧遮那(るしゃな)仏に擬せられたのは、時代が更に下ってからの事である。
ここで習合の仏教について一言するならば、この仏教というのは、現代の所謂大乗仏教の事ではない。その当初は国神にまさる霊力ありと信じられた神(仏)の教え、呪術的な密教であったのである。
さて南方部族の後から、北方的狩猟交化を伴って日本へ渡来した人々は、或いは征服者として乗り込んで来た、とも云われている。所謂騎馬民族の征服説である。
ともあれ北方的ツングース的文化は、南方的照葉樹林的文化とは対称的で、仏教にはあまり縁の無い文化であったと思われる。
この二つの相反した文化の地下水脈が、長く日本民族の底流にあって、二教相剋の政治的な、或いは嗜好的な、原因となっているのではなかろうか。このように考えるのは、私の独断であろうか。
以上長々と書いたが、龍爪権現の習合の歴史を考える上での、私の基本的な考えを述べたのである。私はこの部面で、考えている事の大部分を書き尽したが、他に二、三残した事がないでもない。しかしそれは後日を期する事にしたい。
この文には一々参考文献を附けなかった。或いは附けた方がよかったかも知れなかったが、最初はもっと簡単に、さらりと書くつもりでいたのである。それがいつの間にか、理屈ぽくなってしまった。
しかし大己貴命を、弥生時代の日本国王に擬したり、仏教と神道二教の対立を、南方的、北方的文化の相剋と推論したりして、或いは独断に過ぎるかも知れないと思っている。
これ等を除いた他の歴史的記述は、殆んどの文献をそのままか、やや内わに記述したと、私は思っているのであるが。
ただ神の歴史として、あまりにも仏教的に書かれていると、思われるかも知れないが、過去の神仏習合の深さというか、意味といったものを、ここでじっくり問い直し、考え直して戴きたいと思うのである。
私は日本の民俗学は、源を訪ねて行けば、八、九割は仏教民俗学に、或いはその関連の民俗学になってしまうと思っている。現在諸地方に行われている恒例の神事なども、もとを正せば大半は仏事に、或いは習合の祭事という事ではなかったろうか。 
龍爪山名の由来
最後にあまり「仏・仏」といった罪ほろぼしに、龍爪山の山名について、書いて見たいと思う。龍爪山の山名の由来については、古来からいくつかの説がある。その中には人によく知られているものもあるが、それらを掲げてみると、次の如くである。
(1)龍爪を落して山名とする。
昔夏雲がたなびいて一龍がくだり、あやまって木の枝に爪を落した。野叟がそれを拾ってから、この山を龍爪山と名づけた。
(2)時雨匝(じうそう)山という事。
時雨がいつも山の嶺を匝めぐって降っているので、そのように呼ばれた。又は微雨峰、慈雨峰などとも云われている。
(3)瘤双(りゆうそう)山という事。
山容から来た名称である。こぶが2つある山(山頂が2つ)という意味である。
(4)龍灯山という事。
先に触れた如く、「龍灯」とは遥か遠くの故国に向って焚く火の事である。これは祖先の霊を祀る為とも、航海の安全を願う為とも云われている。「龍の火」とも云った。「リュートー」が「リューソー」になった。
以上の4つである。(1)、(2)の説は昔からよく言われている所である。徳川時代の駿河関係の地誌には、殆んど載せられている。そして二者とも、「日本武命が東征の折、草薙のあたりで休まれて居ると」という、伝説が附加されている。
さて(1)の説は古伝説としては面白いが、現実性に乏しいと思う。龍が下ったというのは、夏に龍爪山を黒雲が覆って、雷鳴がとどろき、或いは落雷した事などの、神秘的表現であると思われる。落雷によって裂けた生木などを、爪の跡といっのてあろうか。
しかしながらこの気象現象から龍と爪とを取り出して、「リューソー」と音読し、山名としたとするのは、いかなるものであろうか。どうも必然性に欠けると思われる。始めから「リューソー」という音(名称)があって、後からこの話を附会したものと私は見る。
(2)の時雨匝というのは、常に時雨が峰を匝(めぐ)って降っているということで、「ジウソー」が「リューソー」といわれるようになった、というのである。これは龍爪山の一名を「時雨ヶ嶽」というので、しぐれ勝ちな山の様子を、よく現わしているという事が出来る。龍爪山がしぐれると、間もなく里も街もしぐれて来る。
しかしこの「ジウソー」がどうして「リューソー」になったのか、これまた転訛の必然性が見当らない。わざわざ「リューソー」としなくても、「時雨嶽」とか「時雨松山」などで充分足りるのである。
これは同類の言葉、時雨霜とか、微雨峰、慈雨峰なども、同じようなことが言える。やはり(1)と同じく、「リューソー」という音が始めにあって、それに附会したものであろう。
(3)の瘤双山というのは、山の形状から云ったものである。二瘤山という事であるが、音はそのまま「リューソーザン」となる。この説も徳川中期頃からの説であろうと思われるが、ごく一部の人によって説えられて来た。
この説も当っていないと私は思う。何故なら大昔からの霊山に、その山に誇を持つ地元の人々が、二瘤山などという山名を附けるであろうか。もっと素晴らしい名をつけるに相違ない。それに二瘤に見えるのは、龍爪南麓もずっと東から見た場合である。静岡市の中心あたりからはむしろ三峰に見えるし、安倍方面からは単なる一塊の大山としか見えない。それに瘤双を、リューソーなどと、わざわざ音で呼ぶことも不自然である。やはり始めから「リューソー」の音があって、後から色々推量して字を当ててみたものであろう。
(4)について、私は龍爪山の山名の起りは、この「龍の火」から来る「龍灯山」であろうと思う。太古の祖霊の座す山として、年に何度かその聖なる火は炎々と燃され、その真火な炎は、山麓のはるか遠方からも、或いは遠い海の彼方からも、よく見えたに相違ない。「リュートー」がいつか「リューソー」になって行った。
「リュートー山」という名の山もないわけではない。周智郡春野町と、磐田郡佐久間町の境に聳える龍頭山(1,352米)がそれである。「晴れた日には頂上からの眺めはすばらしく、富士山をはじめ南アルプスの山々や、遠州灘も一望できる。」と、角川地名大辞典に記されている。この「龍頭山」も大昔は「龍灯山」であったのではなかろうか。
吉田東伍著「大日本地名辞書」には「龍爪山とは、山神龍蔵権現を祀っていることによる。」と記載されている。しかしこの説には賛同しがたい。何故ならこの「龍蔵権現」なる言葉は、徳川時代の駿河関係の地誌、例えば駿河国志にも、駿河記にも、駿河雑誌にも、又その他の古書には、どこにも見当らない。或いは龍爪権現の音の書き誤りではなかろうか。又は龍爪蔵王権現の意味であろうか。
龍蔵権現なる言葉は、織田得能の仏教大辞典にも、又中村元の仏教語大辞典等を見ても、見出す事は出来ない。只一つ、その昔、みちのくに黄金花咲くと歌われた、金華山の黄金山神社の本尊が、龍蔵権現とも、金華山弁財天とも呼ばれていた、と記されている。
以上で龍爪山の山名の由来の考察を終りとするが、更に加えて、隣国の中国に、龍爪山という山名と地名が一つずつある事も附記したい。 
 
出口王仁三郎の霊界からの警告

 

21世紀、超弩級の「ヒの雨」が降る
いま私たちの社会構造や意識は、目に見えないところで大きな変化を生じはじめている。
しかもその変化は、いままでにない超弩級の文明的変化で、そうなれば21世紀には、これまでの人類社会が、まったく別な世界に生まれ変わってしまう、そんな予感がきわめてリアリティを帯びてくる時代を私たちは生きている。
元NHKディレクターで文明評論家の浦達也氏は、これをいみじくも「あの世がこの世になる時代」と表現し、「レトロ・フューチャー」というキーワードで説明する。「レトロ・フューチャー」とは、「過去と未来を合わせ鏡にして、たがいに照射する混合ビジョン」だという(『仮想文明の誕生』光文社)。これは、まさに過去と未来が反響するかのように照応する『霊界物語』の時代の到来を予感させる言葉ではないか。
いずれにせよ、これから私たちが直面することになる変化は、どんなかたちであれ、人間の存在の仕方まで変えてしまう「種の進化」に近いような変化になることはまちがいない。
この進化の引き金はすでにひかれている。まだまだ大峠はつづく。「種」としての再生と破局のドラマは永続革命のようにつづくのだ。
「火の雨」とは核の恐怖だけではない。「ヒの雨」とは、人間が進化のためにくぐりぬけなければならない「霊(ひ)の雨」でもある。
王仁三郎は「今の世」のかなたに、「大未来」すなわち「ミロクの世」があるという。そして、ほんとうの「ミロクの世」は、「今の世」とはまったく違う位相にある世界だという。
『霊界物語』には、「大過去」つまり神代に地球の現界で起こったことがおもに記されている。しかし常識的にいって、その当時の人間は、原人レベルにとどまっていたはずである。まさか『霊界物語』は、その原人の物語ではありえない。35万年の過去には、『霊界物語』の世界と、原人の世界とが同じ地球上に、同時に存在していたのである。
そういうことがありえない、と考える人は、いまだに手応えのある現実がひとつだと思っているからにすぎない。そのような現実に対する素朴な存在論そのものが、21世紀になると崩壊するだろう。
過去と同じく、未来にはふたつの世界が共時的に存在することになる。
どんどん人間が進化してゆく過程で、ある種の人びとは、いねば異次元の「大未来」、ほんとうの「ミロクの世」へとスパイラルに移行する。
だが、進化から振るい落とされた人間は、大三災、小三災によって廃墟となった都市空間をドブネズミのように彷徨いあるき、無限地獄のような闘争を繰り返すことになる。そういう人びとが救われるためには、さらに王仁三郎の再臨を待たねばならないのである。
またある人びとは、永久に脱出が不可能な、ネガティブなヴァーチャル空間に閉じ込められることになるのかもしれない。脳とコンピュータがインタラクティブ(双方向)になるということは、基本的には進化の契機になるが、また別の観点からいうと、一定数以上の悪思念に凝り固まった脳が存在すれば、悪思念によって支配される袋小路のような負のヴァーチャル空間が実際に出現するということにもなる。
王仁三郎の言葉に「立て分け」という無気味な言葉がある。これまで人類が経験したことのない大進化(大峠)の過程で、この世自体の「立て分け」が行なわれる、と読み取れる確言である。
王仁三郎は昭和17(1942)年に仮出所したあと、陶芸作品に没頭する日々を送る。晩年の王仁三郎は、その波瀾の生涯とは対照的な静かな毎日を送った。それは、人間としての王仁三郎に、わずかに許されたやすらぎのときであったともいえる。
ところが、王仁三郎はある奇妙な行為にその最後の情熱を燃やす。わずか1年のあいだに、約三千個におよぶ陶器を焼きあげるのである。その光輝くような独特の不思議な色彩感覚は、のちに専門家から「天国の美」と絶賛され、耀?(ようわん)と名づけられる。
みずからを壮大な「器」と化して、霊界と現界の交感磁場の創出を、未曽有のかたちでくわだてた出口王仁三郎──その彼がひたすら焼きあげた「器」には、なんの思いがこめられていたのだろうか。
無心に土をこね、最後の霊的造形力で「型」となし、みずから窯に火をくべて焼きあげる王仁三郎。そのとき、彼は産霊(うぶすな)の土に霊的な命を仮託し、燃え上がる紅蓮の炎のなかに、あらたな宇宙の創造を準備したにちがいない。
現界での命を限りあるものとした出口王仁三郎にとって、それは最後のエネルギーの燃焼でもあった……。
王仁三郎はかつて「わしのは予言ではなく預言」だといったことがある。
「預言」とは、すなわち「言を預かる」という意味である。神は警告を発するが、いったんその言を預かる。そして再三の警告にもかかわらず人民や指導者がいうことをきかぬときに、いよいよ「いうてきかしてわからねばきかしてみせる」のである。
また、王仁三郎は、こうも言っている。
ことさらに神は地獄をつくらねど己がつくりて己がいくなり、その時期は近づきつつある。
 
三千世界大改造の真相 / 出口王仁三郎

 

日本が世界の雛型(相似形)であるということは、最近では多くの人が知るところとなっています。その地形が世界の縮図のようになっているだけでなく、日本で起こることがやがて規模を大きくして世界のどこかで起こると見られています。そのことを早くから明らかにしていたのが、神霊世界の大巨人と言われる出口王仁三郎でした。そして、当時は「世界の雛型である日本で起こることは、まず大本で起こる」と言われていたのです。神霊界からの導きでそのことを熟知していた出口王仁三郎は、世の立て替え・立て直しの模型(かた)づくりの意図を持って、官憲による2回に及ぶ大本の弾圧を誘発したと見られています。その1回目の弾圧が模型となって、日本は第二次世界大戦に破れ、原爆の投下という形で悲惨な終戦を迎えます。しかし、大本の2回目の弾圧が1回目とは比較にならないほど徹底的な破壊を伴う激しいものだったことからして、それが日本に移写された場合は、1回目をはるかに上回る悲惨な形になると見られているのです。そのことが、出口王仁三郎が「自分の死後にトドメの予言が降ろされる」と予告した日月神示によって、いま明らかにされています。それは、聖書にある「終末」や「アセンション(次元上昇)」とも相通じる中身となっており、今日の世界情勢や地球の状態から判断してますます現実味を帯びつつあります。世界の雛型の国に住む私たち日本人にとって、決して無関心ではおれない問題です。 
これから起こる日本の2度目の立て替え
王仁三郎によれば、大本は「型」をするところであるが、この「型」にも2種類あるという。ひとつは、神霊界に起こったことが、その写しとして地上現界の大本の中に現象化することである。これは「模写(かた)」と表記される場合もある。今ひとつは、これから地上界に起こる立て替え・立て直しを、大本の内部において「型」として演出すること。これは「雛型(かた)」と表わされる。
こうした意味において、『大本神諭』には次のような神示が多く出されている。
世界にある事変は、明治三十二年から大本の中に模写(かた)がして見せてあるぞよ。
大本の雛型(かた)は、神界の仕組みであるから世界中へ映るぞよ。
この綾部の大本は、世界に出来てくる事を前に実地の型をして見せてあるから、十分に気をつけておくがよいぞよ。
このような大もうな御用、真実の御用になりたら人民の中では出来んから、模型(かた)を命じて御用さすぞよ。
これらはすべて神界で起こった立て替え・立て直しの仕組みが、現界では大本に反映し、大本で型として出されたことが世界に写っていくことを述べたものである。
さらに、この移写の仕方には、三段の型と呼ばれるものがある。簡潔に言えば、神界で起こったことは、続いて幽界に反映し、そして地上現界に写る。立て替え・立て直しの経綸の場合、その“受け皿”的役割を担った大本に写ってくる。
また、大本に起こった立て替え・立て直しの型は、まず日本に写る。その後に世界に移写していくというものだ。つまり、いずれの場合も三段階を経るということである。
大本は、明治25年旧正月から昭和18年元旦の50年の間に、この「三段の型」を実演したのであった。
明治25年から昭和18年までの50年間のうち、大本は2回にわたる「立て替え」を経験している。「第一次大本事件」と「第二次大本事件」である。
大本にあったことが日本に移写するとすれば、日本においても「立て替え」が2回起こらなくてはならない。
第1回目の立て替えである「第一次弾圧」は、日本においては大東亜戦争における敗戦という形で写ってきている。しかし、大本の場合もそうであったように、一度目のこの立て替えにおいて、すべてが壊されたわけではない。
一度は無条件降伏に追い込まれ、体制改革を受け入れた日本であったが、その立ち直りは極めて迅速であった。日本人ビジネスマンは企業戦士などと呼ばれて世界中を駆けめぐり、世界第2位の経済大国になるまでに成長した。
これは、大本が第一次弾圧の痛手を乗り越え、宣伝使の活躍によって世界の五大陸にまで支部を設立し、いわゆる「大本の黄金時代」を築いた時の“型”が、そのまま移写されたものではないか。とすれば、第二次弾圧の移写である日本の2度目の立て替えは、これから起こることになる。
第二次弾圧というのは、規模においても、残虐さにおいても、第一次弾圧をはるかに上回るものであった。とすると、日本にこれから起こるであろう「第二次立て替え」は、大東亜戦争末期に現出した立て替えとは比べものにならないものになる。
ともかくも、王仁三郎の言うように、大本は「型」を行なうところであった。そしてその「型」には、“善”の部分もあり、“悪”の部分もあった。
50年間に及ぶ大本の雛型神業は、けっして平坦なものではなかった。むしろ、いろいろな人間が集まり、つねに様々な思惑が渦を巻いていた。大本の内部でも多くの派閥が発生し、互いに反目し合うこともあった。
大本内部でのゴタゴタは、初期のころから枚挙に暇のないほどある。特に、開祖存命中は、王仁三郎に対する風当たりは、大本内部においてかなり強かったようだ。しかし、大本とは雛型をするところである。そこには、善的な型も悪的な型も含まれる。
『大友神諭』には、次のように記されている。
大本にありた事件は、大きなことも小さなことも、善いことも悪しきことも、皆世界に現れてくる。
大本は‥‥いつになりても善い“かがみ”と、悪い“かがみ”とが出来る大望な所である。
万古末代、善と悪との鏡を出して、善悪の見せしめを致す世界の大本となる尊いところである。
大本は善悪二つの世界の型を出すところ、他人に傷はつけられぬから、ナヲの血筋に悪の御役をさせるぞよ。
「ナヲの血筋に悪の御役をさせる」とある通り、大本内部を攪乱させる人物は、ナオの血統から出ている。長女の大槻米夫妻、それに三女の福島久夫妻がこれに当たるとされる。(中略)
王仁三郎は、昭和20年8月、広島に原爆が投下された直後、泉田瑞顕氏にこう語ったという。
日の雨が降るというのは、この程度(広島原爆)のことではない。今は序の口で、本舞台はこれからじゃ。
それに王仁三郎は、息を引き取る数日前、「わしの役はこれで終わりじゃ」とも言っている。
王仁三郎は、50年に及んだ雛型経綸を遂行する役目を終えて昇天した。そして、今や大本で演じられた善悪の雛型が日本に拡大し、移写する段階に来ている。王仁三郎の放った予言は、これから成就するのである。 
三千世界の大峠はこれから来る
大本に見られるような、それまで抑圧されていた神々――それはいわば日本の国祖神ともいうべきものであるが――の復権の兆候は、すでに江戸末期より起こり始めている。黒住教、天理教、金光教といった各霊的磁場の発生がそれである。
そしてこの動きは、明治25年旧正月に、出口ナオの肉体を機関として降ろされた“初発の神勅”につながってくる。
ナオに憑かった“艮の金神”は、その神勅の中でこう断言する。
三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神はこの世に居らんぞよ。
しかし、ナオの存命中に、そのような大変革は起こらなかった。王仁三郎の存命中にも、とうとう起こらなかった。
では、この“艮の金神”なる神の言葉は、まったくの戯言だったのだろうか。王仁三郎が放った数々の予言は、完全な妄想の産物だったのだろうか。
その答えは、今さら言うべくもないが、そうではない。
この言葉や予言が実現するのは、これからである。
日本は現在、経済的には豊かになり、市場に物資はあふれ、国民は飢えることもなく平和に暮らしている。
だが、今の世の中が、金・物主体、我れ善し、強い者勝ち主義の上に成り立ち、神をなきものにしている「体主霊従」の世であることには変わりはない。日本の国民は相変わらずエスタブリッシュメントたちに支配され、搾取されている。日本だけではない、世界中が同じ状況にある。とすれば、その世を立て替え・立て直し、「霊主体従」の神の世にするという予言は、これから成就すると見た方がよい。 
『大本神諭』『伊都能売神諭』、そして『日月神示』へ
王仁三郎によれば、大本における「地の準備作業」の期間というのは、明治25年旧正月から昭和18年元旦までの、満50年間である。
その準備神業の期間が終わったとされる翌年の、昭和19年6月10日、大本とは関わりのないところで、不思議なことが起こる。
神道研究家の岡本天明は、神霊に導かれるかのように、この日、千葉県成田市台方にある麻賀多神社の境内末社、天之日津久神社に参拝していた。本来画家である彼は、このころ矢立と画仙紙を持ち歩く習慣があり、この日も例外ではなかったという。
参拝を済ませ、社務所で休んでいると、突然、彼の右腕の血管が怒張し、見えざる力に司配されて制御がきかなくなった。たまらず、持っていた矢立を画仙紙に当てたところ、勝手に自分の右手が動き、スラスラと文字を書き始めた。これが『日月神示』の発祥である。
以後、およそ16年間にわたり、この神示は断続的に書記されていく。
『日月神示』は、内容をつぶさに比較検討すれば明らかだが、出口ナオの『大本神諭』、王仁三郎の『伊都能売神諭』の流れを汲むものである。
本来、この神示は大本内部で出されるはずであったと言われる。しかし、戦前における厳しい言論の統制下にあり、しかもいずれ徹底的な弾圧を受ける大本では、本質的な部分を伝えることが難しかったので、大本とは別のところで降ろされたのである。
したがって、『日月神示』は、黒住教の発生から、天理、金光、大本へと至る霊脈の流れを完全に受け継いでいる。しかも、「三千世界の立て替え・立て直し」という根本大改造を主宰する神の意志の、本質的部分が含まれているのがこの神示なのである。
しかし、この神示が降り始めた当初の天明は、事の重大性に気づいていない。
原文は、漢字、かな、記号が入り混じり、とても読めたシロモノではなかった。
また、天明自身、もともと霊媒的な体質を持ち、過去にも様々な霊的な研鑽を積んできており、霊が憑かるということもそれまでに何度もあった。この当時は苦労に苦労を重ね、貧のどん底にまで落ちていたため、『日月神示』が出た時も、「自分のごとき者に憑かる霊だから、どうせ大したものではあるまい」と、放っておいたという。(中略)
岡本天明は、明治30年12月4日、岡山県に生まれた。若い頃から画家としての天分に目覚め、上京して苦学しながら、画業の研鑽に励んでいる。
大正8年頃、天明は知り合いの子供によって、大本の本部に連れて行かれる。そこで色彩に関する講義を聞いて感銘を受け、大本に入信することとなった。(中略)
大正10年の第一次大本事件により、天明も職を失うが、(出口)日出麿の誘いにより、創刊したばかりの『人類愛善新聞』の編集長に就任する。しかし、昭和10年に起こった第二次弾圧により、『人類愛善新聞』も手入れを受け、天明も再び失業し、路頭に迷うことになった。これを機に、天明は大本とも無関係になったというわけである。それまでは、大本とも深く関わっており、王仁三郎から直接、論稿の代筆を依頼されることもあった。(中略)
その後、天明は鳩森八幡神社の代理神主を務めることになった。天明が成田の天之日津久神社に参拝に行ったのはこの頃のことである。
後に天明は、矢野シンという協力者によって、自分に降りている神示が、経綸上極めて重要視されていた「日の出の神」からのものであると知らされるのである。(中略)
そして数カ月後、天明は大本本部に赴き、この神示を調べて欲しいと差し出している。しかし、悲しいかな門前払い同様の扱いを受けてしまう。再度訪ねてみても、まったく相手にされず、その時は男泣きに泣いていたという。
取り次ぎの者が、大本の外部に降りた神示などというものに理解を示すわけがない。王仁三郎がこれを見たとしたら、また違っていたであろうが‥‥。
ここで、王仁三郎の遺した詠歌を明らかにしたい。今まで秘められていたこの詠歌に記された予言は、『日月神示』に示された内容と驚くほど酷似しているのである。 
王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』
王仁三郎は、昇天前、『続・瑞能神歌』という題の予言を口述し、筆録させていた。
泉田瑞顕氏は、筆録したこの神歌を大事に保管し、今までほとんど公開することもなかったが、この度、本書において発表することにした。
王仁三郎が、この神歌をいつ口述したのかは、泉田氏も昇天された今、確認できない。ともかく、過激な予言内容により発禁処分を受けた『瑞能神歌』に続編があることさえ、あまり知られておらず、それだけでも価値があると思われる
『瑞能神歌』に詠われた内容は、ほとんどが大東亜戦争による日本の敗戦――すなわち、日本の一度目の立て替えを予言したものであった。『続・瑞能神歌』は、これから起こる二度目の立て替えと、世界の立て替えを予言したものとみて間違いない。
以下、ほぼ全文を掲載させていただくことにする(公開が許されていない箇所については、伏せ字とするか、削除させていただいた)。
シベリア狐は死にたれど醜(しこ)の曲霊は種々に
妖雲呼んで東天は北から攻め入る非道さよ
オホーツク海や千島船カラフト島をゆさぶりて
雪割草の間より暗雲低く仇鳥(あだどり)の舞い下り上る怖ろしさ
北海道から三陸へなだれの如く押しよする
ここを先どと連合の戦の場や神の国
華のお江戸は原爆や水爆の音草もなき
一茫千里大利根の月の光もあわれぞかし
残るは三千五百万○○○○○○の旗の下
どっと攻め入る○○○○の○○○○沿いや人のなく
非義非道の場所せまく○○○○○○○○○○
あわれ崩るや○○○血汐に赤き統一も
○○○○の殺戮もここに終りて神の子は
再び原始にかへるぞかし
大江の幽山に立籠めし醜の邪霊の重なりて
今は九尾の本姿世界隅々またがりて
組んずほぐれつのたうつる姿は哀れ曲津神(まがつかみ)
○○○○○○○○○○
物質界の曲津神狂人の如く振舞いて
世は様々の相克ぞ
世の大本も散り失せて月の輪台の影あわれ
お蔭信心なしいたる信徒も今ははなれ去り
真実の三千五百万残る教の幕開きは
此の時からと高熊の山の五十鈴や清水台
国常立の大神の岩戸開きはこのときぞ
固き厳に手をかけて振うて落す地獄道
ノアとナオとの火水霊現れ出でてゆさぶれば
一天にわかに掻き曇り矢を射る如く流星の
地球に向いて落ち来たる大地一度に震動し
吼えば地軸の回転も止るばかりの大音響
物質浄土は忽ちに地獄餓鬼修羅場と化す
山は崩れて原野裂け人はあわれに呑み込まる
身の毛もよだつ凄まじさ今明かに書き置くぞ
三段いよいよ開く時三千余年の昔より
国の御祖の選まれし (中略)
神代乍らの祭政一致開き始めて日の本の (中略)
ここに従ふ三五(あなない)の人の心ぞ尊とけれ
宇宙を拝し宣りませば世界は輝きおのころの
東天に向い伏し拝む地上天国この秋ぞ
一読しておわかりの通り、これは明らかに日本の大峠と世界の大峠を予言したものである。
日本の立て替えについては、シベリア方面から外国の軍隊が、突然に攻め入ってくることが記されている。この外国軍は、「北」からやってくる。そして北海道、三陸を通り、なだれの如く押し寄せて、日本列島を占領する。
さらに、首都東京には核攻撃もあることがハッキリと示されている。
このような大動乱により、日本の人口は3500万人になるという。そして非道な殺戮が、ある一定期間続き、残された因縁の身魂は再び原始の生活に還るとある。
続いて世界の立て替えが始まるが、この神歌によれば、空から流星が降ってくるのだという。
これをきっかけに、地軸を揺るがす大激変が起こり、地球全土は修羅場と化す。そして、ありとあらゆる大掃除が行なわれた後、岩戸は開かれ、祭政一致の世となり、地上天国が顕現する、というのである。
王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』に示された予言は、このように厳しく、悲惨なものとなっている。
だが、『日月神示』に示された未来予言も、まさにこの『続・瑞能神歌』と共通する部分が多い。それらの予言の一部を見てみよう。 
同じことを二度繰り返す仕組み
大本では、立て替えは2度あった。大正10年の第一次大本事件と、昭和10年の第二次大本事件の2回である。
これが雛型として日本に移写して来るとすれば、日本の立て替えも2度あることになる。1度目は、大東亜戦争における敗戦という形で実現した。そして、2度目の立て替えは、これから起こる。
日月神示には、日本の立て替えが2度あることが、戦争終結以前の昭和19年の頃より、明確に示されていた。
それによれば、日本は戦争に負けても再び勢力を盛り返す。しかし、これは悪が再び栄えた形での復興であり、結局また同じことを繰り返すことになる。そして大本の雛型がそうであったように、破壊の程度は2度目の方がはるかに深刻なものになるという。
同じこと二度繰り返す仕組みざぞ。このことよく腹に入れておいてくだされよ。
出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ。グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ。
いま一度、悪栄えることあるぞ。心して取り違いないように致されよ。
神の国、一度負けたようになって、しまいには勝ち、また負けたようになって勝つのざぞ。
まだまだ俘虜(とりこ)になる者沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ。いずれ元にかえって来るから、元にかえってまた盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ。次に捕らえられる者出てくるのざぞ。次はひどいのざぞ。これも因縁ざぞ。
今度捕らえられる人民沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺する者も出来てくるぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出てくるぞ。それまでに一度盛り返すぞ。
今の世は地獄の二段目ぞ。まだ一段下あるぞ。一度はそこまで下がるのぞ。今ひと苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ。地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めんところざから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ。
王仁三郎も、『続・瑞能神歌』の中で、大峠の段階として“三段の幕”が用意されていることを予言している。
日本は、戦後の荒廃から立ち直り、見事に経済復興を成し遂げ、再び国力を盛り返した。しかしその一方で、日本人は、かつて美徳とされた多くのものを失った。精神的には、日本の歴史上、ここまで堕落した時代はないと言える。
金・物主体の我れ善し主義は、老若男女の区別なく、子供に至るまで浸透し、国家の長たる政治家たちはその親玉のような存在である。
今や日本の人民は、神示にある通り完全に“骨抜き”にされてしまった。現在の日本人は、国土を守ろう、国家を守ろう、家族や同胞を守ろうという意識さえない。神の道とは何か、真の日本精神とは何かなどということは、寸毫だに考えない。
今、外国軍から強大な武力をもって攻め込まれれば、何の苦もなく日本は陥ちる。そして土地や財産はすべて略奪されるだろう。それが、夢物語ではなく、まもなく現実となって起こることが、神示によって警告されているのだ。 
世界が1つになって日本に攻めてくる
『日月神示』には、日本の2度目の立て替えは、世界が1つになって日本潰しにかかることによって起こること、そしてその企みは、国民の知らぬ間に水面下で進み、アッという間に現出することがハッキリと示されている。
大きアジアの国々や、島々八十(やそ)の人々と、手握り合い神国の、光輝く時来しと、みな喜びて三千年、神の御業(みわざ)の時来しと、思える時ぞ神国の、まこと危うき時なるぞ。夜半に嵐のどっと吹く、どうすることもなくなくに、手足縛られ縄付けて、神の御子らを連れ去られ、後には年寄り不具者のみ、女子供もひと時は、神の御子たる人々は、ことごと暗い臭い屋に、暮らさなならん時来るぞ。宮は潰され御文皆、火にかけられて灰となる。この世の終わり近付きぬ。この神示(ふで)心に入れ呉れと、申してあることわかる時、いよいよ間近になりたぞよ。
またたきの間に天地引っ繰り返るような大騒動が出来るから、くどう気付けているのざ、さあという時になりてからでは間に合わんぞ、用意なされよ。
一日のひのまにも天地引っ繰り返ると申してあろがな。ビックリ箱近づいたぞ。
世界一度にキの国(日本)にかかりて来るから、一時は潰れたように、もうかなわんと言うところまでになるから、神はこの世におらんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたように見える時が来たら、神の世近付いたのぞ。
メリカ(アメリカ)もキリス(イギリス)は更なり、ドイツもイタリーもオロシア(ロシア)も、外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。
世界中総がかりで攻めてくるのざから、一度はあるにあられんことになるのぞ。大将ざからとて油断は出来ん。富士の山動くまではどんなこともこらえねばならんぞ。上辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ。
神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近付いたぞ。八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。
世界が一体になって攻めてくることは、このように『日月神示』の中にくどいほど出されてあるが、そうなった時、最初に火蓋を切るのは「北」であるようだ。
『続・瑞能神歌』で王仁三郎は「北から攻め入る非道さよ」と予言した。
『日月神示』にも、まるで同じことが示されているのだ。
北から来るぞ。神は気(け)もない時から知らせておくから、よくこの神示、心にしめておれよ。
北に気付けと、北がいよいよのギリギリざと申してくどう気付けてありたこと近うなりたぞ。
嵐の中の捨て小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも判るまい、メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、梶も櫂さえ折れた舟、どうすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、それでは神も手が出せぬ、腐りたものは腐らして、肥料になりと思えども、肥料にさえもならぬもの、沢山出来ておろうがな、北から攻めて来る時が、この世の終わり始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終わりと思えかし、この世の終わりは神国の、始めと思え臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意を急ぐぞよ。 
地球規模の大激変と“みろくの世”の実現
日本は世界の雛型であるが故に、地上世界の立て替えは、まず日本から起こり、それから世界へと拡大移写していくのが順序である。
王仁三郎は、「日本は世界の床の間であるから、まず床の間から掃除を始めるのである」と語ったという。
その世界の大掃除が始まる時期について、『霊界物語』にはこう書かれてある。
天に王星顕はれ、地上の学者、智者の驚嘆する時こそ、天国政治の地上に移され、仁愛神政の世に近づいた時なので、これがいわゆる三千世界の立替、立直しの開始である。
世界の立て替えに関する予言についても、『大本神諭』や『伊都能売神諭』よりも、その続編であり、完結編とされる『日月神示』の方がより詳しい。
次は、『日月神示』に示された世界の大峠に関する予言のごく一部である。
外国から攻めて来て、日本の国丸つぶれというところで、元の神の神力出して世を立てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のようになるぞ。
元の世に返すというのは、たとえでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ。生の物食うて暮らさなならんし、臣民取り違いばかりしているぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ。
立て壊し、立て直し、一度に成るぞ。立て直しの世直し早うなるかも知れんぞ。遅れるでないぞ。立て直し急ぐぞ。立て直しとは、元の世に、神の世に返すことざぞ。元の世と申しても泥の海ではないのざぞ。中々に大層なことであるのざぞ。
地震、雷、火の雨降らして大洗濯するぞ。よほどシッカリせねば生きて行けんぞ。
月は赤くなるぞ。日は黒くなるぞ。空は血の色となるぞ。流れも血ぢゃ。人民四ツん這いやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ。大地震、火の雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でも逃れることは出来んぞ。天地まぜまぜとなるのぞ。ひっくり返るのぞ。
三分の一の人民になると、早うから知らせてありたことの実地が始まっているのであるぞ。何もかも三分の一ぢゃ。大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ。三分むづかしいことになっているのを、天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ。堪忍の堪忍、我慢の我慢であるぞ。
今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ。今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ。一度は仮死の状態にして、魂も肉体も、半分のところは入れ替えて、ミロクの世の人民として甦らす仕組、心得なされよ。神様でさえ、このこと判らん方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。
半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。今のやり方ではどうにもならなくなるぞ。今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ。灰になる肉体であってはならん。原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。岩戸開きとはこのことであるぞ。少し位は人民つらいであろうなれど、勇んでやりて下されよ。
大掃除はげしくなると、世界の人民皆、仮死の状態となるのぢゃ。掃除終わってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて、息吹きかえしてミロクの世の人民と致すのぢゃ。
神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震、雷ばかりでないぞ。臣民アフンとして、これは何としたことぞと、口あいたままどうすることも出来んことになるのぞ。四ツん這いになりて着る物もなく、獣となりて這いまわる人と、空飛ぶような人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ。獣は獣の性来いよいよ出すのぞ。火と水の災難がどんなに恐ろしいか、今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ。それが済んでから、身魂磨けた臣民ばかり、神が拾い上げてミロクの世の臣民とするのぞ。どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな。高い所から水流れるように、時に従いて居れよ。いざという時には神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。人間の戦や獣のケンカ位では何も出来んぞ。くどう気付けておくぞ。何よりも改心第一ぞ。
このような地球的規模の大激変を通じて、地上界に存在するありとあらゆるものが大掃除を受ける。そして物質のすべてが質的な転換を起こし、次元的に高い波長の「半霊半物質」に昇華して再生し、ここに“ミロクの世”、すなわち地上天国が顕現することになる。
それまでに十分な身魂磨きができておらず、この物質次元の急激な転換についてこれない人々は、結局淘汰されることになる。
『日月神示』から推測されるのは、そのような厳しい立て替え・立て直しのプログラムである。 
ある日突然始まる日本の2度目の立て替え
われわれは今、平和で豊かな社会の中にどっぷりと漬かっている。
ただ日常の雑事にのみ追われ、国家のことだとか、世界のことだとか、人類のことを考え、その行く末を案じている人というのは、それほど多くはない。
しかし、最近になって、ごく普通の人の中にも、日本人の傲慢で刹那的な生き方に疑問を抱き、経済的繁栄の代償として、何か大切なものを失ってしまったことに気がつく人が増え始めている。
このままでは済まないのではないだろうか――というような、危機的な何かを感じ取る人もいるようだ。
実際には、われわれ人類は大峠の坂を登りつつある。そして、ある日突然、日本の2度目の立て替えが始まる。
この大峠を乗り切るには、身魂が磨けていなければダメだという。では、その身魂を磨くとは具体的にどういうことなのか。
また、神示によれば、大難は小難に変えることができるという。では、どうすれば大難を小難に変え、悲惨極まる地獄絵図を見なくて済むのか。
これらに対する解答は、すべて出口王仁三郎の唱えた主張や『伊都能売神諭』あるいは『日月神示』などのなかに盛り込まれていると言ってよい。 
無政府状態と生活基盤の崩壊
『伊都能売神諭』は、来たるべき社会的大混乱を見通し、こう予告している。
天が地となり、地が天となるぞよ。天災地妖が続いて起こるぞよ。目も鼻も口も開かぬようなことが出来るぞよ。餓鬼が段々と増えるぞよ。思わぬ国替を致す人民も沢山あるぞよ。段々人気(ひとけ)が悪くなるばかりであるぞよ。医者と坊主と葬式屋の豊年は続くぞよ。米は段々騰貴(あが)るばかりで、何程金銀出しても手に入らぬ事になるぞよ。用意が肝心であるぞよ。(大正7年12月25日)
少しでも食物の用意を致さねば、後で地団駄踏んでも追いつかぬ事になるぞよ。四ツ足の餌の奪(と)り合いが始まりて来るぞよ。未と申とが腹を減らして惨たらしい酉合いが始まるぞよ。今までの世界の人民の苦しむ大戦争を喜んで、結構な事になりて金銀を積んで高ぶって居りた人民は気の毒ながら、真っ逆様に地獄のどん底に落ちて苦しむぞよ。(大正7年12月22日)
また、『日月神示』には、さらに厳しいことが記されている。
神は気(け)もない時から知らしておくから、よくこの神示、心にしめて居れよ。一日一握りの米に泣く時あるぞ。着る物も泣く事あるぞ。いくら買い溜めしても神のゆるさんもの一つも身にはつかんぞ。(昭和19年6月30日)
政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなってしまうぞ。覚悟なされよ。(昭和20年6月12日)
一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな。米ばかりでないぞ。何もかも、臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ。臣民ばかりでないぞ。神々様さえ今度はなくなる方あるぞ。(昭和20年8月27日)
日に日に厳しくなりて来ると申してありた事始まっているのであるぞ。まだまだ激しくなってどうしたらよいか判らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る所も着る物も住む家も食う物もなくなる世が迫って来ているのざぞ。(昭和19年12月12日)
こうした神示は、いずれも終戦前に出されたものだが、日本の一度目の立て替えにあたる大東亜戦争による敗戦のことのみを指しているとも思えない。
日本の二度目の立て替えでは、国家社会は無政府状態に陥り、国民は上から下まで、日常の生活基盤を失うことになるだろう。貨幣は何の価値もなさなくなり、衣・食・住は完全に欠乏する。
特に食べ物に関しては、“一握りの米に泣く”ような、非常に厳しい状況となるようだ。飽食の時代に生きた日本人、中でも高度成長期以後に生まれた若い世代には、到底耐えきれない試練である。
われわれは今、日の恵み、月の恵み、地の恵みに対する感謝を忘れ、天地から授かった食べ物を、“当たり前のもの”と思い、毎日飲み食い三昧に明け暮れている。
そんな中、大食糧難が突如として起こる。その時に現出する社会的混乱は、まさに修羅場と呼ぶにふさわしいだろう。
ところが、神示には、これもすべて“行”だとある。
今度の行は世界の臣民皆、二度とない行であるから厳しいのぞ。この行出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ。この行出来ねば灰にするより外ないのぞ。(昭和19年8月14日)
今は神の力は何も出ては居らぬのざぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな。早く身魂みがいて下されよ。外国は○、神の国はゝと申してあるが、ゝは神ざ、○は臣民ぞ。○ばかりでも何も出来ぬ。ゝばかりでもこの世の事は成就せんのぞ。それで神かかれる様に早う大洗濯してくれと申しているのぞ。神急けるぞ。この御用大切ぞ。神憑かれる肉体沢山要るのぞ。今度の行は○を綺麗にする行ぞ。掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。(同上)
われわれが、大峠を目の前に何をすべきかということは、ここに挙げた神示の中にすべて盛られていると言ってよい。
つまり、これからは一人ひとりが本当の意味で神憑かれるような身魂にならなくてはいけないということだ。神(ゝ)が人の肉体(○)に憑かり、神人合一となることによって、初めてその人は救われ、世もまた立ち直るのである。
「今度の行は○を綺麗にする行ぞ」とある。肉体を掃除することこそが、行であり、身魂磨きであるというわけである。
○にゝが宿った者のみが救われる
さて、それでは“身魂磨き”の具体的な方法とは何か。どのようなことを実践すれば“肉体を掃除”することができるのか。
これについては様々な説が取り沙汰されている。すべてに対して感謝と反省の気持ちを持つことだとか、朝夕の礼拝を欠かさぬようにすることだとか、いろいろなことを言う人がいる。そうしたことも無論大切なことと思われる。
だが、神示や神諭によれば、最も重要かつ最優先すべき“身魂磨き”の方法とは、正しい食生活を実践することである。
日々どんなものを食べ、血肉としているかによって、肉体を掃除することもでき、また逆に汚すことにもなり得る。正しい食べ物を正しく食べることの励行こそが、最も肝心の身魂磨きである。『日月神示』には、そうしたことが明確に示されている。
食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ。初めの行ざぞ。(昭和20年12月7日)
正しき食べ物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。自分の喜びを進め進めて天国へ入ることできるのぢゃ。悪い食べ物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。(昭和27年1月30日)
衣類も家も土地も、みな神から頂いたものでないぞ。あづけられているのであるぞ。人民に与えられているものは食べ物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食べ物節してこそ、ささげてこそ、運開けるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。‥‥ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。(昭和27年6月9日)
泉田瑞顕氏は、その著書である『世の終りと神示の生活革命』(言霊社)の中で、大本の筆先に基づいた“身魂磨き”の方法として、まず「体霊」の浄化から始めるべきだと説いている。
体霊とは、肉体を養い、守護する霊のことで、衣食住に対する欲望や、男女間の性欲などはみな体霊の働きであり、この体霊を浄化して正常化していくことが、身魂磨きの第一歩だと断言している。
出口聖師(王仁三郎)は、この体霊のことを副守護神と申され、人間が肉体をもってこの世に生まれ出た時から付与されている正霊だと説明されている。ところが副守護神には後天的に憑依した邪霊がいる。
この邪霊が人間本来の副守護神(体霊)の正しい働きをゆがめて、人間を体主霊従の動物的生活に陥れる元凶である。現代社会に生活している人間はほとんどこのような後天的憑依霊、すなわち邪霊に災いされて、天賦の霊性を発揮出来なくなっていると神様は申されている。
そこで身魂磨きの第一歩は、この後天的憑依霊、俗に言う“つきもの”を改心さして、各自の肉体から追放することである。そのためにまず第一に必要なことは、食生活を改め、食生活を規制することだと申されている。
日本人には日本人に適合した正しい食べ物があり、正しい食べ方がある。この原則を無視して、無茶苦茶なものを無茶苦茶に食っているから次第に血液が濁り汚れて動物化し、日本人に付与された天賦の霊性を発揮出来なくなっているのである。(中略)
要するに、世の終りに対処する日本人の身魂磨きの方法は、神示に従って日本人に適した衣食住の生活をやることである。特に食生活を改めるということが最も重要である。 
人間に許された食べ物とは五穀野菜類のみ
四ツ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ。(昭和36年5月6日)
牛のもの食べると牛のようになるぞ。猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の食べ物は、定まっているのざぞ。いよいよとなりて何でも食べねばならぬようになりたら、虎は虎となるぞ。獣と神とが分かれると申してあろがな。縁ある臣民に知らせておけよ。日本中に知らせておけよ。世界の臣民に知らせてやれよ。(昭和19年8月31日)
日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。今度は共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ。(昭和21年11月17日)
つまり、ここで示されているのは穀物菜食の実践である。
“四ツ足”というのは、四本の足を持つ動物、すなわち牛や豚といった獣類を主に指す。“四ツ足”は人間の性に近い生き物であるから、これを食べることは“共食い”となる。よって、肉類を食べてはならんというのである。
肉類とは、正確に言えば、すべての動物食がこれに該当すると見てよい。“五穀野菜の類”の中に、動物性食は含まれていない。
肉を喰らえば、血液が汚れると同時に、霊性が下がる。結果、低級な波長と交流し、自らを地獄的な世界に堕としめることになる。 
王仁三郎も正しい食の実践を説いている
穀物菜食が人間に適した食であることを説いた神示や神典類は、『日月神示』だけに限らず、他にもまだまだたくさんある。
王仁三郎の直受した『伊都能売神諭』にも、“四ツ足”を食べることや、身につけることを禁ずる記述が出てくる。
今の日本の人民は、皆外国人の真似を致して、牛馬の肉を食い、猪、鹿、犬猫、何でも構わず、四ツ足と見たら共食い致すようになり、たまたま謹みて四足獣(よつあし)を食わぬ人民があれば、時勢遅れの馬鹿と申して嘲笑(わら)うようになりて了うて、この神州清潔(きよらか)の国土(くに)も、神聖至浄(きよらか)の臣民も皆汚れて了うて、今日の国家の状態、神の住居を致すべき場所が、地の上には錐(きり)一本立つ場も無き所まで曇りて了うて居るぞよ。それで元の神政に致すについては、一旦世界の大掃除、大洗濯が始まるから、日本の人民なら一日も早く大洗濯のあるまでに身魂を清めておかぬと、ツゝポに落とされて苦しまねばならぬぞよ。(大正8年1月5日)
世が段々下るに就て、皇極天皇(642〜645年まで在位)の時代より日本の人民がそろそろ牛馬の肉を食うようになり、天賦天皇(673〜686年まで在位)の時代には益々盛んになり、血穢れを扱うたり、牛馬を殺したり致す餌取(えと)りというものが出来て、‥‥今の日本の人民は上から下まで牛馬の肉を食い、毛や皮を頭の先から足の爪先まで着けるようになりて、日本中が皆○○のやり方になりて了うて居るから、日本の国は隅から隅まで汚れ切って、牛や羊の血を呑み、児(こ)には牛や羊の乳を吸わして、是れが文明の世じゃと得意がり、血も肉も霊魂までもさっぱり四ツ足に化(な)り切りて居るから‥‥神国の姿は遠くの昔から亡びて居るから、今度は艮の金神、この世のエンマが出て参り、世の大洗濯を致して、元の清らかな神国の神政に立て直して、松の代五六七(みろく)の代と致して天地総方の神々様や人民に御目にかけるぞよ。(同上)
この神諭の中で“艮の金神”は、肉はおろか、牛乳をはじめとする乳製品さえ否定している。また、身につける物として、獣の皮を多く使用していることを厳しく批判している。
今の世の中、コートやジャケット、靴、鞄、財布、バッグ、ベルト等々、ことごとく皮を使っている。だいたいブランドものといったらすべて革製品である。
動物を殺し、その死骸の皮を剥いで作ったものを身につけることは、明らかに神意に背くだけでなく、その人の霊性をも堕とす。軽視しがちな点ではあるが、これも身魂磨きにおいては重要なところである。
浅野和三郎は、大正7年3月1日の『神霊界』に、「身魂が磨けて霊性が上がって来れば、肉類など自然と食べる気がしなくなる」という意味のことを書いている。
日本人も随分明治以降堕落し、外国系統の守護神に憑依せられ、肉食などを好むようになりましたが、一旦身魂を磨くが最後、牛肉などは到底口にすることが出来なくなるのは、大本研究者の常に実験する所であります。国常立尊は此の濁り切りたる守護神と人民との大掃除をなさるのであるから、実に大事業なのであります。
また、王仁三郎自身も、大正9年2月号の『神霊界』で、次のような論稿を載せている。
肉食のみを滋養物として、皇国固有の穀菜を度外する人間の性情は、日に月に惨酷性を帯び来たり、ついには生物一般に対する愛情を失い、利己主義となり、且つ獣欲ますます旺盛となる。不倫・不道徳の人非人(にんぴにん)となってしまうのである。虎や狼や獅子などの獰猛なるは、常に動物を常食とするからである。牛馬や象の如くに、体躯は巨大なりといえども極めて温順なるは、生物を食わず、草食または穀食の影響である。故に、肉食する人間の心情は、無慈悲にして、世人は死のうが倒れようが凍えておろうが、そんなことには毫末も介意しない、只々自分のみの都合を計り、食、色の欲のほか、天理も人道も忠孝の大義も弁知しないようになってしまうのである。
こういう人間が日に月に殖えれば殖えるほど、世界は一方に不平・不満を抱くものができて、ついには種々喧(やかま)しき問題が一度に湧いてくるのである。今日の為政者たるものは宜しく下情(かじょう)に通ずるを以て急務とし、百般の施設はこれを骨子として具体化して進まねばならぬのである。
‥‥まず何よりも大本神諭に示させ給えるが如く、第一に肉食を廃し、身魂を浄めて神に接するの道を開くを以て、社会改良の第一義とせねばならぬのであります。
当時の大本は、粗衣粗食を旨としていた。王仁三郎以下、幹部役員も皆、一汁一菜という簡素な食事を実践していたようだ。
しかし教団としての規模が大きくなるにしたがい、こうした方針が徹底できなくなり、結局何でも食べるようになっている。天恩郷にある宿舎のゴミ箱には、魚の頭やら鶏の骨やら、エビの殻、刺身の具(つま)、腐った白米などが捨てられていたという。
だが、王仁三郎は、こうした幹部たちの食事の乱れを、たしなめることもなかったようだ。
肉食をすれば霊性が堕ち、邪霊からの悪しき波動を受けやすくなるのを、彼は十分心得ていたはずである。そこには、邪霊に操られた官憲の手により、大本を叩き潰してもらうという雛型を演出するための密意があったと見るべきなのだろうか。
いずれにせよ、現代の日本のグルメ文化が、まさにそうした食の乱れた頃の大本の姿とよく似ていることだけは確かである。 
まず急務とされる食生活の改善
“身魂磨き”という言葉は、あまりに抽象的であり、そのため様々な解釈が可能である。
だが、一つ言えることは、どんな行法をしようが、どんなに素晴らしい信仰を持とうが、根本の食生活が改善されなければまったく意味がない、ということだ。
むしろ行とは生活そのものであり、中でも正しい食生活の実践ができていれば、特別な身魂磨きの行などは必要ないのである。そのことが、『日月神示』に次のように示されている。
神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国の御仕事している臣民には、行は要らぬのざぞ。このことよく心得よ。(昭和19年10月19日)
とは言え、日常の食事から動物性食を排除し、神示にあるような穀物菜食を実践することはなかなか困難である。その実行と継続には相当の意志の強さと、熱意が必要となってくる。
また、通常人の場合は、食べる物のことまでとやかく言って欲しくないものだ。彼らは言う。好きな物を食ったり飲んだりして生きた方が、人生楽しいではないか――と。
それはその通りである。しかし、神の道というものは、言葉を換えれば宇宙の絶対法則であり、秩序であるから、神とこの道に従わねばならない。
肉食は明らかにこの道に反するのだ。道から外れた生き方を選択する人は、その見返りとしての不幸現象が起きる。
いかなる善人であろうと、悪人であろうと、大宇宙(大神)の眼からは関係がない。絶対平等である。
霊性が上がれば、必ず穀物菜食に自然と改まるものだ。それは穀物菜食を好む身魂のこまやかな波長が、高級な神霊の世界と交換交流するためである。だから、霊的(宗教的)指導者で、その人物がどの程度の霊性の身魂かを見分けるのは、至極簡単である。その人が平素何を食い、何を飲んでいるかを知ればいい。
少しでも肉食をしていたら、その人は指導者の器ではない。酒、煙草も不可である。 
王仁三郎の言う「日本魂」に還れ
国常立尊は、王仁三郎の筆を通じ、次のように説いている。
天地開闢の初めの世からの約束の時節が参りたから、愚図愚図致して居れんから、今の静まりて在る間に一日も早く身魂を磨いて居らんと、東の空から西の谷底へ天の火が降る事が出来致したら、俄(にわか)に栃麺棒を振ってアフンと致さなならぬようになるぞよ。それで一日も早く日本魂を磨けと申すのであるぞよ。
このように前置きし、真の日本魂とはどういうものかを朗々と説いている。
日本魂と申す物は、天地の先祖の神の精神と合わした心であるぞよ。至善至愛の大精神にして、何事にも心を配り行き届き、兇事に遭うとも大山の如く、ビクとも致さず、物質欲断ちて精神は最も安静な心であるぞよ。天を相手とし、凡人と争わず、天地万有山野海川を我の所有となし、春夏秋冬も昼も夜も暗も雨も風も雷も霜も雪も皆我が言霊の自由に為し得る魂であるぞよ。
如何なる災禍に遭うも艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来する如く、世事一切を惟神(かんながら)の大道に任せ、好みもなく恨みも為さず、義を重んじて心裏常に安静なる魂が日本魂であるぞよ。
常に心中長閑(のどか)にして、川水の流るるごとく、末に至るほど深くなりつつ自然に四海に達し、我意を起こさず、才智を頼らず、天の時に応じて神意に随って天下公共の為に活動し、万難を弛まず屈せず、無事にして善を行なうを日本魂と申すぞよ。(中略)
誠の日本魂のある人民は、其の意志(こころ)平素(つね)に内にのみ向い、自己(おのれ)の独り知る所を慎み、自己の力量才覚を人に知られん事を求めず、天地神明の道に従い交わり、神の代表となりて善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)の如き人格を具えて自然に光輝を放つ身魂であるぞよ。
心神常に空虚にして一点の私心無ければ、常永(とこしえ)に胸中に神国あり、何事も優れ勝りたる行動を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ且つ恵む、富貴を欲せず羨まず、貧賤を厭わず侮らず、只々天下の為に至善を尽くすのみに焦心す、是の至心至情は日本魂の発動であるぞよ。
天下修斎の大神業に参加するとも、決して慌てず騒がず、身魂常に洋々として大海の如く、天の空しうして鳥の飛ぶに任すが如く、海の広くして魚の踊るに従うが如き不動の神を常に養う、是れが神政成就の神業に奉仕する身魂の行動でなければならぬのであるぞよ。
凡人の見て善事と為す事にても神の法に照らして悪しき事は是れを為さず、凡人の見て悪と為す事にても神の誠の道に照らして善き事は勇みて之を遂行すべし。天意に従い大業を為さんとするものは、一疋(ぴき)の虫と雖も妄りに之を傷害せず、至仁至愛にして万有を保護し、世の乱に乗じて望を興さぬ至粋至純の精神を保つ、是れが誠の日本魂であるぞよ。
今度の二度目の天之岩戸開きの御用に立つ身魂は、是れ丈けの身魂の覚悟が無ければ到底終わりまで勤めると云う事は出来んから、毎度筆先で日本魂を磨いて下されと申して知らしてあるぞよ。(大正8年2月21日) 
 
真正日本神道

 

現代ではごく普通の人が異次元の存在とコンタクトを取ったり、UFOや「進化した宇宙人」からのメッセージを受け取ることができる時代になっています。テレビやインターネットの普及によっておびただしい情報が飛び交うようになり、その影響で私たちの脳がどんどん進化している現れと見ることができます。人は進化する生き物だと言われていますので、これはある意味では素晴らしいことかも知れません。しかし、異次元に関する知識が不十分なまま、安易に交流を始めますと、極端な場合は魂を乗っ取られるという悲惨な状態に陥る危険性があります。現象的には「脳ジャック」という形で、いつもなにか独り言をつぶやいたり、見えない空間に向かって話しかけたり、突然にプッツンときて異常な行動に走る、といった状態です。それが顕著に現れ始めているのが今日の日本社会の姿ではないかと思っています。ここでは、中矢伸一氏の著書を通じて、異次元(神様や霊の住む世界)に関しての基礎的な知識をご紹介したい。 
神憑かりの類別
幽斎神道における神憑かりには、大きく分けて「自感法」「他感法」「神感法」の3種類がある。
自感法というのは、自分一人で瞑目合掌し、ときには印を組み、鎮魂の祝詞を唱えるなどして、自分自身の身に意図的に神憑かり現象を誘発せしむるものである。
他感法は、二人一組になって対座し、一人が神を自分の身に降ろす被憑依者の役となり、もう一人は、憑依現象を促し、その人に降りた神が如何なる神であるかを見分け、神意を尋ねる役となる。前者を神主、後者を審神者(さにわ)と言う。
神感法は、被憑依者としての人間の都合に関係なく、突如として神からの発動が起こるものである。前の二法が人間側からの働きかけによって発動が起こるのに対して、この方法は、あくまで神(霊的実体)の側から起こされる一方的な憑依現象である。
天理教の教祖・中山みき、大本教の開祖・出口なお、そして日月神示の降りた岡本天明などは、みなこの神感法によって神意の伝達を受けたのである。
この三種に共通するのは、どれも有形のものということである。神憑かり現象が起こったことが、第三者の目から見て、特に意識しなくても明確に確認できるのである。
これに対して、無形の神憑かりというものがある。神が憑かっていることが、本人にも自覚できず、他人にも識別できないというものだ。あえて言うなら「無感法」ということになる。
歴史に遺る名作を数多く生み出す音楽家や芸術家、人類の文化発展に貢献する発明家など、本人は特別に自己の意識状態を表現するのに「ポゼッション」とか「トランス」などというオカルト的な言葉を好まず、むしろ単なる「インスピレーション」の類に入れたがるとしても、明らかに霊学上は無形の神憑かり、すなわち無感法に属するケースである。
また、特に後生に名を残すこともない普通の人であっても、本人も周囲も知らないうちに無形の神憑かり状態となっていることもある。
実は、本当の神憑かりというものは、人間の感覚からすれば、識別が大変難しいものなのである。神(高級霊)の波長というものは、あまりにも微妙かつ繊細であるため、本人にさえも神が憑かっているとはわからないのである。
誰の目にも「あの人には何かが憑(つ)いている」と判別できるケースは、むしろ異常であり、要注意だと言える。 
真実の神は直接人間には憑からない
本当のことを言えば、そもそも神が人間に憑かるなどということは起こりえないのである。究極的存在としての神は、人知を超越している。だから、われわれ人間は「神」という言葉を使い誤っていると言える。神が存在するらしいことはわかるが、その神とは如何なるものであるかは、絶対に知りうるものではない。
ただし、神が直接的に人に憑かるという意味でなければ、確かに神憑かり現象は起こりうる。というのは、重層的次元構造をなす神霊界においては、媒介的存在である神霊(高級霊・天使・聖霊など)の段階を中継することによって、神意を感受することは可能であるからだ。このように「神」からの直流的な意思の流れを「正流」という。
だが、この正流とて、現代人ではなかなか受けることはできない。つまり、神からの正流を受けられるほど身魂の清浄な人が、ほとんどいなくなっているからである。
人間は誰しも内的には神性を具有しているが、現在はあまりにも曇り(穢れ)をつみ過ぎて、これがほぼ塞がった状態にある。この神性が甦ったときにはじめて、ある程度の神界との交流が、媒介役を通じて許されることになるだろう。
曇りをつんだ状態で、無理に神界との交流をはかろうと試みれば、低級なる霊的世界と通じることになる。だから、自感法や他感法などによってこちら側から神へ働きかける行法は、極めて危険なのである。
これまでは、それなりに霊格が高く霊的因縁のある人物に、神界から一方的に伝達される神感法(自動書記など)の形が取られてきたが、これとて人類史上めったに起こるものではない。
日月神示には、次のように示されている
霊人(高級霊)は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。(中略)
神が直接、人間を通じて人語を発し、また書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語にしても、その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ぬのである。(『地震の巻』第十二帖)
高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤もらしく人民の目には映るものであるぞ。高度のものは、その人民のミタマ如何によって、それと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降(くだ)って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。(『龍音之巻』第三帖)
浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応はほとんどないぞ。(同・第十六帖)
この意味からすれば、“神憑かり”というより“霊憑かり”という言葉を使った方が妥当なのかもしれない。 
鎮魂帰神について
「鎮魂」は、精神を統一し、心を澄ませることによって神界との交流をはかろうとする行法。
「帰神」は、いわゆる「神憑かり」になることを言う。一般的な方法としては、神霊が降りる神主の役と、神主に憑かった神が如何なる神であるかを査定し、問答を交わす審神者(さにわ)の役の二人で行なう。この場合、神が降りた神主役の人の霊魂は覚醒状態にあって、自分に憑かった神の状態を客観的に観察することができるという。
守護神には「正守護神」「副守護神」「本守護神」の三種があると言われる。
出口王仁三郎は、その違いについて『霊界物語』の中の「聖言」(第48巻)において「聖霊の善なる者を正守護神といひ、悪なる者を副守護神と云ふ」とし、正守護神とは「人身を機関として天国の目的即ち御用に奉仕すべく、神より造られたもの」であり「副守護神なる悪霊に犯されず、よく之を統御し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加わるものである」と述べている。
つまり、これを整理して解釈すれば、その人の精霊(霊魂)が、高度な霊界からの直流的な正しき流れを受けるときは善なる霊、すなわち正守護神となり、本来神より天国の御用に奉仕する目的で与えられた肉体の正しき主となる。一方、低級な霊界からの歪んだ外部的流れを受けるとき、その人の精霊は悪霊、すなわち副守護神となる。
この副守護神の影響に振り回されることなく、よくこれを統御できるようになれば、その精霊は本守護神となり、天人の列に加わることになるというわけである。
これら3タイプの守護神は、自分とは別物の外部霊のことを指しているわけではなく、霊的な自分の進化の段階と考えてよい。つまり、低級な波長の霊界に翻弄される段階では、その人の精霊は副守護神であり、高級霊界の正しい波長と交流できるようになれば正守護神となり、さらに悪しき波長の世界を完全に統御し、影響を受けぬ自分となれば、神的自分としての本守護神となるのである。
日月神示にはこのことが、同じ言葉でもって次のように示されている。
霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。(『冬の巻』第一帖) 
鎮魂帰神法の実際 / 谷口雅春の場合
元大本信者で、後に「生長の家」を創立する谷口雅春は、はじめて綾部(大本の本部のあるところ――なわ註)を訪れて鎮魂帰神法を受けたときの体験を、『神霊界』(大本の機関誌――なわ註)誌上で発表している。
もともとキリスト教の信者であった谷口は、大本を訪れた当初、大本の人生観に対しては「人生の妖怪化」という印象を受け、激しい反発を覚えたと告白している。しかし、鎮魂帰神を受けてみると、何と自分に憑依していた狐の霊が現れ、自分の口を使って喋りだした。この強烈な体験を通じ、谷口は「一切の人生の機構(からくり)が明瞭になったような気分がした」と述べている。
その体験の一部始終は、次の通りである。
鎮魂帰神が始まると、施術者は谷口に対し、この肉体に憑かっている神はどなたですかと尋ねた。しかし彼は、帰神などは自己暗示による現象に過ぎないと固く信じ、施術者の暗示などにはかかるまいと抵抗する。
当時の大本では、憑依霊に口を切らせる(言葉を喋らせる)ために、最初に「ウシトラノコンジンサマ」と言わせることが慣例だったようで、このときも施術者は、谷口に、まず艮の金神の“ウ”から声に出してみるように促した。
谷口は、そんな馬鹿なことを言ってたまるかと頑迷に抵抗を続け、口を噤んでいたが、下腹部で何者かが動くのを感じ、それが次第に上へせり上がってきて喉が詰まりそうな感じになった。そして、唇が痙攣するようにピクピクと動き出すと、くしゃみを堪(こら)えているよりも苦しいような状態となり、ついに“ウー”という声が出てしまった。
それからは順次、“シー”“トー”“ラー”というように、ついに「ウシトラノコンジンサマ」と言わされてしまったのである。
「艮の金神様が言えましたら、貴方の御名前を伺いましょう」
「‥‥‥‥」
「御名前はないんでしょう。あるなら言ってごらん」
私(谷口)はこの時どんな神の名を連想したかと言いますと、ゴッド、エホバ、宇宙の太霊、天帝と言うような名でした。
「ミクルミヒコノミコト」
こう言って、ある霊怪な腹中の一存在が答えるのでした。それは私の全く連想しない神の名前なのです。私はそんな名前の神があるやらないやら全く知ってはいないのです。それ故、私はこの答えが暗示に対する連想作用であると考えることが出来なくなりました。
「美久留美彦(みくるみひこ)様は、どこにお祀りしてございますか」
「明石の浦」
「お供え物は沢山ありますか」
「ある、ある」
「何かお供えがしたいんですが、何が一番お好きですか」
「油揚げが一等好きだ」
「この肉体に食わせれば好いんでしょう」
「そうだ、そうだ」
私は、私の口を使ってなされるこの会話に驚いていました。何故と言って、私自身が大変油揚や天麩羅が好きであったのですから。そう言うよりも憑依物(つきもの)が私の肉体を使って天麩羅を好いていたという方が真実に近いのかも知れません。(『神霊界』第89号「つかれたる人」)
こうしてついに憑依霊は、その正体を露呈した。さらにこの狐は、谷口の肉体には29年前に彼が生まれたのと同時に憑いたこと、その理由は、自分(狐)が谷口の父親によって罠にかけられて殺されたため、恨みに思い、谷口に憑いて父親を殺させ、復讐を遂げようとしていたことを白状したのである。
谷口の父親は既に他界していたが、実際、生前は何度、実父を殺そうと思ったかしれないという。それは、谷口の恋愛問題が原因だったのだが、その恋愛も、憑依霊の告白によれば、相手の女性に仲間の一匹が憑依し、狐どうしが互いに恋愛し合っていたというのだ。
自分の口から語られる憑依霊の言葉を明瞭な精神状態で聞きながら、谷口は驚きと興奮を隠せなかったようである。
その頃私達は恋愛の神聖ということを考えていました。『恋は霊と霊との囁きである。二人は互いに夫婦になるべく運命づけられている』私たちは二人の恋愛を導いた運命の神様に対して『どうぞ二人を一緒にして下さい』と頼んでいました。
今から考えてみますと、両人の心に恋愛を植えつけさし、そして私の一家を惑乱し、私の父親を殺そうとした運命の女神は、実は天麩羅と油揚とが大好きな狐に過ぎなかったのです。私の思想感情嗜好等の一切は憑依物に左右されているので、何処までが狐の心情で、何処からが自分自身の心情であるか全く区別することが出来ません。憑依物が欲するものを欲し、憑依物が恋するものを恋し、憑依物が嗜好するものを食し、そして『自分の欲求に忠実なるものだけが自分自身の生活を生活するのだ。他の人は奴隷に過ぎない』と思っていた私が、実は狐の奴隷であったとは、何という皮肉なことであったでしょう。(同上) 
現代人はほぼ全員が副守護神に翻弄されている
谷口は憑依霊という言葉を用いて、正守護神を「先天的憑依霊」、副守護神を「後天的憑依霊」とも表現している。
そして、大本の鎮魂帰神の主要目的は、後天的憑依霊たる副守護神を改心させて、正守護神の主権を回復することにあり、人間はそうなったときにはじめて、本来の人としてのあるべき姿を取り戻すことができるのだ、という意味のことを述べている。
次にその箇所を引用しよう。
副守護神が改心し、先天的憑霊なる正しき守護神が吾々の肉体を守護するようになると、肉体の精神状態がすっかり浄化され、嗜好も一層人間らしくなります。鎮魂の主要目的は副次の憑霊を改心せしめて、正位の守護神の主権を回復することであって、その目的さえ達すれば、一切の病癖は随伴的に回復します。
従って、病癖に対する対症的暗示もしくは説得は不要であります。鎮魂帰神の施法中、審神者(さにわ)は決して酒を飲むな、淫欲を貪るな、四足獣(よつあし)の肉を食うななどと、憑霊に対して命令はしませぬ。しかし、霊が帰順すれば、何の暗示も与えずに大酒が飲めなくなり、淫欲は恬淡となり、四足獣の肉などは全然食べられなくなります。
単に大本の名称を聞いただけで霊が帰順して、それ以後肉を食べれば忽ち三日位下痢を続けて、消化器を洗濯される人などもあります。正統の天孫族たる日本人は、神界の規則に依れば、獣肉類を食べるべきでないのであります。それ故、霊が帰順すれば霊そのものが神界の規則に従って生活して行くから、何の暗示も説得もなくして獣肉類が食べられなくなるのです。
吾々の現在意識は憑霊の意識との複合せるものでありますから、憑霊が肉を食べたいと思えば、自分が肉を食べたくなり、憑霊が手淫をしたくなるならば、自分が手淫をしたくなるのであります。自分が肉を食べたいのであるか、狐が肉を食べたいのであるか、自分は人であるのか、人が狐であるのか――大抵の人はそうした倒錯した生活を送っています。(『神霊界』第89号「皇道大本雑和」)
鎮魂帰神法によって表面化する霊的現象の具体例は枚挙に暇がない。谷口雅春ほどの人物であっても、初期の頃は狐霊などの低級霊に憑依され、想念を狂わされていたのである。
現代の人間は、とくに副守護神の活動が旺盛で、外流の影響を強く受けており(ほとんど外流の渦中に生きていると言ってよい)、同一波長を持つ低級な霊界(粗雑で、歪んだ波長を持つ世界)との感応を起こしやすい状態にある。現代人では、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言い過ぎではないだろう。
副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。このため、副守護神が活発に働いている人が多い社会は、物質的な生産活動や経済活動が促進される。そういう社会的傾向が主流になると、文明は著しい発達を遂げることになる。
しかし、その反面、霊的(精神的)な向上への道は閉ざされ、高級なる霊界からの直接的な流れである正流が受けられないため、いつまでたっても正守護神に復帰できず、ましてや本守護神にまで位が上がることなどは不可能となる。
副守護神により生み出された文明は、短期的にはめざましい発展を見せるが、やがて行き詰まり、悲惨な末路をたどることになる。 
危険だらけの鎮魂帰神
およそどのような鎮魂法や帰神法であっても、こうした修法により起こりうる神人感合の現象というのは、間違いなく副守護神による作用である。この理由は、現代人では外流の影響を受けていない人がほぼ皆無だからである。
鎮魂帰神により副守護神を改心させるというやり方は、実は危険この上ないものがある。一柱、二柱の憑依霊を改心させ、帰順させたとて、本人の想念状態に変化が見られなければ、また憑依霊は呼び込まれる。よほど熟達した者でなければ、かえって低級な霊たちに翻弄される結果となるのである。
私も大本系の某教団において、鎮魂帰神の行法を習練したことがある。このときも、出てくるのはせいぜい先祖霊であり、ほとんどが魑魅魍魎であった。霊界と呼ぶべき世界が実在することを体験して確認するという意味はあるかもしれないが、あまり深くかかわると危険である。
実際、その教団では、病気治癒などの奇跡的現象が起こることも稀にはあるが、全般的に見て、むしろ霊的に悪しきものを引き込み、入信前よりさらに不幸になってしまうケースが多い。ひどい場合には、取り返しのつかない重傷を負ったり、病気になったり、命を落とすことさえある。
霊界などというものには、その道に本当に精通した人でもない限り、関わるべきではないと断言できる。
日月神示にも、鎮魂帰神を戒める記述は多く出されている。
神憑かりよくないぞ。やめて下されよ。迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあろうが。皆々心の掃除すれば、それぞれに神憑かるのぢゃ。(『風の巻』第九帖)
霊人と語るのは危ないぞ。気つけてくれよ。人は人と語れよ。(『黄金の巻』第十八帖) 
人はすべて神憑かっている
“霊能”が開発されてしまって、いわゆる“神憑かり”状態になる人物も、最近では増える傾向にあるようだ。このような霊媒体質者の神秘力を信じる人たちが集まって、集団を形成し、宗教的活動を行なったり、実際に宗教法人になってしまうところもある。
こうした霊能力にはよほど気をつけなければならない。霊眼(ビジョンが見えること)や霊耳(霊の声が聞こえること)には、間違いが多い。否、あえて言えば、低級霊による所産の場合がほとんどなのである。
とにもかくにも、人為的に神人感合に至らんとする鎮魂や帰神といった修法は行なうべきではない。また、霊性や身魂磨きのために、そうした修法を行なう必要もまったくない。
人間は誰しも、正守護神の次の段階として、本守護神という神的自分を持っている。その意味からすれば、誰でも“神憑かっている”状態にあるわけである。神的自分を持たない人間など一人もいないのだ。
日月神示にはそのことが次のように示されている。
人間は皆、神憑かっているのであるぞ。神憑かっていないもの、一人もおらんのぢゃ。(中略)霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。心を肉体として住んでいるのぢゃ。(中略)
人間の言う神憑かりとは、幽界の神憑かりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。神憑かりでも神憑かりと判らん神憑かり結構ぢゃなあ。マコトぢゃなあと知らしてあるのにまだ判らんか。(『白銀の巻』第六帖)
いつでも神憑かれるように、神憑かっているように、神憑かっていても、我にも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百姓が己を忘れ、大地を忘れ、鍬を忘れている境地が、マコトの御霊鎮めであり、神憑かりであるぞ。(『月光の巻』第四十九帖)
本当の神憑かりとは、正守護神に復帰した人のことを言う。つまり、外流の影響を受けずに正流と想念的交流が常時行なわれるに至った人ということである。
高度な霊界になるほど、繊細で微妙な波長となるため、神憑かりといっても、自分にも他人にもわからないような、判別不明のものとなる。つまり、「無形の神憑かり」となる。そうなってこそ真の神憑かりであり、われわれはみな、かくあらねばならないのである。
日月神示にはさらに、次のように示されている。
仕事は行であるから、務め務めた上にも精出してくれよ。それがマコトの行であるぞ。滝に打たれ、断食するような行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国から生まれる食べ物頂きて、神国の御仕事している臣民には、行は要らぬのざぞ。このことよく心得よ。(『日月の巻』第三帖) 
 
大本神諭

 

『大本神諭』天の巻、火の巻について
出口ナオの「筆先」は、神政実現のための神の経綸を述べ、大本教教義の基礎となった。貧しい生い立ちのナオは、もともと読み書きができなかったので、神意のままにおのずから手が動いて書いたとするこれらの文章の意味が、自分でもよく分からなかったという。「筆先」は、ほとんど平仮名で記され、漢字は「一」から「十」までの漢数字のほか「大、中、小」等が用いられているにすぎない。その用紙は、綾部に近い黒谷産の手すきの和紙で、紙の大きさはまちまちである。「筆先」は、この和紙に墨で書かれたが、筆はとくに穂先の腰の強いものを用い、墨を充分につけて強く書いているので、にじんで判読しがたい箇所もある。
「筆先」の述作は、昼夜を問わず行なわれ、その際には、ナオは水行をして机に向かい、寒中でもいっさい火気を近づけなかった。「筆先」は1893年(明治26年)から1918年(大正7年)にいたる24年間にわたって書かれたが、明治30年代、とくに日露戦争前後の1904〜1905年の間に集中的に述作された。その分量は、半紙20枚綴りに換算して約1万冊に達するという。
王仁三郎は、教内でただひとり、神から「筆先」に手を加えて整序し漢字まじりの普通の文体に改めることを許されたとして、ナオの晩年の1917年(大正6年)から、「筆先」を『大本神諭』と題して発表した。『大本神諭』は膨大な「筆先」から王仁三郎が選んで、文意を整え文体を改めて公表した文章であり、「表の神諭」「神諭」とも呼ばれる。他に王仁三郎が神示を受けて書いたとする神諭があって、「裏の神諭」「伊都能売神諭」と呼ばれている。
1920年(大正9年)8月、当局は前月末刊行されたばかりの『大本神諭』火の巻を、「不敬」と過激思想を理由に発売を禁止し押収した。この発禁処分につづいて、翌1921年(大正10年)2月、大本教は第一次の弾圧を受けた。
『大本神諭』は「天の巻」「火の巻」につづいて「水の巻」「地の巻」が刊行される予定であったが、この弾圧により、『大本神諭』そのものの発表、公刊も困難となった。これを機に、大本教は「筆先」と開祖中心の信仰から大きく方向を転換し、『大本神諭』にかわる新教典として、王仁三郎によって『霊界物語』が述作されることになったのである。 
明治25年旧正月‥‥日
三ぜん世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道(しんどう)、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりておるぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれておりても、まだ目が覚めん暗がりの世になりておるぞよ。用意をなされよ。この世は全然(さっぱり)、新つの世(さらつのよ)に替えてしまうぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除をいたして、天下泰平に世を治めて、万古末代続く神国の世にいたすぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ。
天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現れて、世の立替をいたすぞよ。世の立替のあるということは、どの神柱にもわかりておれど、どうしたら立替ができるということは、わかりておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝腎〔心〕のことは、わかりておらんぞよ。
東京は元の薄野(すすきの)になるぞよ。永久(なごう)は続かんぞよ。この世の鬼を往生さして、外国を、地震雷火の雨降らして、たやさねば、世界は神国にならんから、昔の大本からの仕組みが成就いたす時節が廻りてきたから、苦労はあれど、バタバタと埒(らち)をつけるぞよ。
世界中のことであるから、何ほど智恵や学がありても、人民ではわからんことであるぞよ。この仕組みわかりてはならず、わからねばならず、わからぬので改心ができず、世の立替の、末代に一度の仕組みであるから、全然(さっぱり)、学や智恵を捨ててしもうて、生まれ赤子の心に立ち返らんと、見当がとれん、むずかしい仕組みであるぞよ。今までの腹の中の垢塵(ごもく)を、さっぱり放り出してしまわんと、今度の実地まことは、わかりかけがいたさん、大望な仕組みであるぞよ。
からと日本の戦いがあるぞよ。このいくさは勝ち軍(いくさ)、神が蔭から、仕組みがいたしてあるぞよ。神が表に現れて、日本へ手柄いたさすぞよ。露国から始まりて、もう一と戦があるぞよ。あとは世界の大たたかいで、これから段々わかりて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。そこへなるまでには、なかなか骨が折れるなれど、三千年余りての仕組みであるから、日本の上に立ちておれる守護神に、ちっとわかりかけたら、神が力をつけるから、大丈夫であるぞよ。世界の大峠を越すのは、神の申すように、素直にいたして、どんな苦労もいたす人民でないと、世界の物事は成就いたさんぞよ。神はくどう気を附けるぞよ。 
明治26年‥‥月‥‥日
お照らしは一体、七王も八王も王が世界にあれば、この世に口舌(くぜつ)が絶えんから、日本の神国の一つの王で治める経綸(しぐみ)がしてあるぞよ。外国は獣の○であるから○○に致すぞよ。この日本は神国の世であるから、肉食(にくじき)などは成らぬ国を、余り汚して、神はこの世に居れんように成りたぞよ。世界の人民よ、改心致されよ。元の昔に戻すぞよ。ビックリ箱が開くぞよ。神国の世に成りたから、信心強きものは神の御役に立てるぞよ。今まではカラと日本が立ち別れてありたが、神が表に現れて、カラも天竺も一つに丸めて、万古末代続く神国に致すぞよ。艮の金神はこの世の閻魔(えんま)と現れるぞよ。
世界に大きな事や変わりた事が出てくるのは、皆この金神の渡る橋であるから、世界の出来事を考えたら、神の仕組みが判りて来るぞよ。誠の改心が出来るぞよ。世界には誠の者を神が借りておるから、だんだん結構が判りて来るぞよ。善き目醒ましもあるぞよ。また悪しき目醒ましもあるから、世界の事を見て改心いたされよ。新たまりて世を替えるぞよ。今までよかりた所はチト悪くなるぞよ。これも時節であるから、ドウも致しようがないなれど、一人なりと改心をさして、世界を助けたいと思うて、天地の元の大神様へ、艮の金神が昼夜にお詫びをいたして居るぞよ。
この神が天晴れ表面(おもて)になりたら、世界を水晶の世にいたすのであるから、改心をいたしたものから早くよくいたすぞよ。水晶の御代になれば、この世は思うようになるぞよ。水晶の霊魂(みたま)を改めて、神が御用に使うぞよ。身魂の審判(あらため)を致して、神が綱を掛けるぞよ。綱掛けたら神は離さぬぞよ。この日本は結構な国であるぞよ。元は神の直系(じきじき)の分霊(わけみたま)が授けてあるから、外国の霊魂とは、一段も二段も上の身魂であるぞよ。言葉もその通りであるぞよ。それに今の日本の有様は、全然(さっぱり)外国と同じ事に曇りてしもうて、神国の名ばかりになりておるから、元の先祖の神は悔しいぞよ。
これから世界中神国にいたして、世界の神も仏も人民も、勇んで暮らさすぞよ。神、仏事、人民などの世界中の洗濯いたして、この世を翻(かえ)すぞよ。信心強き者は助けるぞよ。信心なきものは気の毒ながら御出直しでござる。神は気を付けた上にも気を付けるぞよ。モ一つ世界の大洗濯をいたして、根本から世を立て直すから、世界が一度に動くぞよ。東京へ攻めかけるぞよ。
てんしは綾部に守護がいたしてあるぞよ。あとはよくなりて、綾部を都といたすぞよ。世界は何でなりとも、見せしめがあるぞよ。綾部に天地の神々のお宮を建て、三千世界を守るぞよ。世界がウナルぞよ。世界は上下に覆(かえ)るぞよ。この世は神国の世であるから、善き心を持たねば、悪では永うは続かんぞよ。金神の世になればどんな事でもいたすぞよ。珍しき事が出来るぞよ。 
明治26年旧7月12日
艮(うしとら)の金神、出口直の手を借りて、世界の事を知らせるぞよ。明治の人民は、「金さえありたら何も要らぬ」と申して、欲ばかりに迷うて、人に憐れみということをチッとも知らずに、田地を求め、家倉を立派に建て、我が物と思うておれども、世が元に還るから、昔の日本魂でないと、この先は一寸も行けぬ世になりて、日本魂の誠の人民の光が現れるぞよ。
艮(うしとら)の金神が表面に現れて、世を構うようになると、今までのように利己主義(われよし)の世の持ち方は致させんから、思いの違う人民が多数できてくるぞよ。金銀を用いでも、地上(おつち)から上がりたもので国々の人民が生活(いけ)るように、気楽な世になるぞよ。衣類食物家倉まで変えさして、贅沢な事は致させんぞよ。世界中揃うて喜ぶ政治に致さねば、神国とは申されんぞよ。
今まで世に出ておれた神々様も守護神も人民も、何も判りもせんのに世を持ち荒らしてしもうて、この世はさっぱり畜生原になりておるのにどうすることできんような経綸(やりかた)では、万古末代の世は立ちては行かんぞよ。
金銀をあまり大切に致すと世はいつまでも治まらんから、艮(うしとら)の金神の守護になりたら天産物自給その国々の物で生活(いけ)るように致す仕組みがしてあるぞよ。
日本は神国、神の守護の厚き国であるから、日本の人民が先に改心致してくださらんと、世界へ鑑を出さねばならぬ国であるから、あまりグズグズ致しておると、外国の方が改心が早くなりて、日本は世界に恥ずかしき事が出来いたすから、疑いをやめて、生まれ赤子の精神になりて、神の申すことを聞いて、霊魂を磨いて神国の行為致してくだされよ。後にも先にもない末代に一度よりない大望な霊魂界と現世界との大革正(おおたてかえ)であるぞよ。神の申すことは毛筋ほども違わぬことばかりであるぞよ。
明治31年旧5月5日
今の世界の人民は、服装(みなり)ばかりを立派に飾りて、上から見れば、結構な人民で、神も適わんように見えるなれど、世の元を創造(こしら)えた神の眼から見れば、全部(さっぱり)四ツ足の守護となりて居るから、頭に角が生えたり、尻に尾が出来たり、無暗に鼻ばかり高い化け物の覇張(はば)る、暗黒の世に成りて居るぞよ。虎や狼は我の食べ物さえありたら、まことに温順(おとな)しいなれど、人民は虎狼よりも悪が強いから、欲にきりがないから、なんぼ物がありても、満足(たんのう)という事をいたさん、残酷(むご)い精神(こころ)になりてしもうて、鬼か大蛇の精神になりて、人の国を奪ったり、人の物を無理しても強奪(ひった)くりたがる、悪道な世になりておるぞよ。
もうこれからは改心をいたさんと、艮の金神が現れると、厳しうなるから、今までのような畜生のやり方は、いつまでもさしてはおかんぞよ。善し悪しの懲戒(みせしめ)は、覿面(てきめん)にいたすぞよ。今まで好きすっぽう、し放題の、利己主義(われよし)の人民は、辛くなるぞよ。速く改心いたさんと、大地の上に置いてもらえん事に、変わりて来るから、神がくどう気を付けるなれど、智恵と学とで出来た今の世の人民の耳には、入りかけがいたさんぞよ。
一度に立て替えをいたせば、世界に大変な人減りがいたすから、日時を延ばして、一人なりとも余計に改心さして、助けてやりたいと思えども、どのように申しても、今の人民は聞き入れんから、世界に何事が出来いたしても、神はもう高座から見物いたすから、神を恨んでくださるなよ。世界の神々様、守護神殿、人民に気を付けるぞよ。
無間の鐘を打ち鳴らして、昔の神が世界の人民に知らせども、暗黒の世であるから、神のまことの教えは耳に入らず、外国の獣の真似をいたして、牛馬の肉を喰ったり、洋服を着て神の前をはばからず彷徨(うろつ)いたり、一も金銀(かね)、二も金銀と申して、金銀でなけら世が治まらん、人民は命が保てんように取り違いいたしたり、人の国であろうが、人の物であろうが、すきさえありたら奪ることを考えたり、学さえありたら、世界は自由自在になるように思うて、畜生の国の学に深はまりいたしたり、女と見れば何人でも手に掛け、妾や足かけをたくさんに抱えて、開けた人民のやり方と考えたり、恥も畏れも知らぬばかりか、他人はどんな難儀をいたしておりても、見て見んふりをいたして、我が身さえ善ければよいと申して、日本魂(やまとだましい)の種を外国に引き抜かれてしもうて、徴兵を免れようとして、神や仏事に願をかける人民、多数出来て、国の事ども一つも思わず、外国に国を奪られても、別に何とも思わず、心配もいたさぬ腰抜け人民ばかりで、この先はどうして世が立ちて行くと思うているか、判らんと申しても余りであるぞ。
病神がそこら一面に覇をきかして、人民を残らず苦しめようと企みて、人民のすきをねらい詰めておりても、神にすがりて助かることも知らずに、外国から渡りて来た悪神の教えた、毒にはなっても薬にはならぬヤクザものに、たくさんの金を出して、長生きのできる身体を、ワヤにしられておりても、夢にも悟らん人民ばかりで、日本魂の人民は指で数えるほどよりかないとこまで、世が曇りておりても、どうもこうもよういたさんようになりておるくせに、弱肉強食(つよいものがち)の世のやり方をいたして、「これよりほかに結構な世のもちかたはない」と申しておるぞよ。
日本の国の上に立ちておりて、今までけっこうに暮らしておりて、天皇のご恩ということを知らずに、口先ばかり立派に申しておりても、「さあ今」というところになりたら、元から利己主義(われよし)の守護神であるから、チリチリバラバラに逃げてしまうものばかりが出てくるぞよ。それで神が永らく苦労いたして、一人なりと人民を改心さして、日本魂を拵えて、世の立替の間に合わしたいのであれど、今の日本の人民は、サッパリ四つ足の精神になりておるから、何ほど結構な事を申して知らしてやりても、今の今まで改心をよういたさんように、曇りきりてしもうたから、神もモウ声をあげて、手を切らなしようがないが、これだけ神が気を付けるのに聞かずにおいて、あとで不足は申してくださるなよ。
外国は獣の霊魂になりてあるから、悪が強いから、心からの誠ということがなきようになりて、人の国まで、弱いと見たら無理に奪ってしもうて、奪られた国の人民は、あるにあられん目に遭わされても、何も言うことはできず、同じ神の子でありながら、あまり非道いやり方で、畜生よりもモ一つ惨いから、神が今度は出て、世界の苦しむ人民を助けて、世界中を桝掛け引きならすのであるぞよ。
外国人はだんだん世が迫りて来て、食い物に困るようになりたら、日本の人民を餌食にいたしてでも、とことんやり抜くという深い仕組みをいたして、日本の国をとろうといたして、長らくの仕組みをしておるから、日本の人民はよほどしっかりと腹帯を締めておらんと、末代取り戻しのならんことが出来(しゅったい)して、天地の神々様へ申し訳のなきことになるから、艮の金神が三千年余り世に落ちておりて、陰から世界を潰さんように辛い行をいたして、経綸(しぐみ)をいたしたので、モウ水も漏らさんようにいたしてあるなれど、神はそのままでは何もできんから、因縁のある身魂を引き寄せて、憑かりてこの世の守護をいたすのであるから、なかなか大事業であれど、時節まいりて、変性男子と変性女子との身魂がそろうて守護がありだしたから、いろは四十八文字の霊魂を、世界の大本綾部の竜宮館にボツボツと引き寄せて、神がそれぞれ御用を申しつけるから、素直に聞いてくださる人民がそろうたら、三千年余りての仕組みが、一度になりて来て、一度に開く梅の花、万古末代萎(しお)れぬ花が咲いて、三千世界は勇んで暮らす神国になるぞよ。
日本の人民の天からの御用は、三千世界を治め、神の王の手足となりて、我が身を捨てて、神皇の御用をいたさなならぬ国であるから、外国には従われぬ尊い国であるのに、今の日本の人民は、皆大きな取り違いを致しておるぞよ。 
明治31年旧11月5日
改心致せと申すのは、神は身魂の調査(あらため)がしてあるから、改心ができぬと出直しを致さなならぬ事があるから、金神がくどう申すのじゃぞよ。現世で御役に立てる身魂と、国替え(=死ぬこと)さして使う霊魂と、また神へ引き取る霊魂とあるによって、改心致せば天地の大神様へお詫びを致してやればお赦しあるから申すのじゃぞよ。今度の世の立て替えは新(さら)つに致さねばならぬから、欲は要らぬぞよ。欲を致して貯めておりても、新つの世になるのであるから、神気をつけるぞよ。
世界の人民よ、一日も早く改心なされよ。それについては、日本の人民の改心が第一であるぞよ。日本の人民さえ改心致せば、世界は良い世になるのじゃぞよ。 
明治32年旧7月1日
艮(うしとら)の金神が表になると、一番に芸者娼妓を平らげるぞよ。賭博(ばくち)も打たさんぞよ。家の戸締まりもせいでもよきようにいたして、人民を穏やかにいたさして、喧嘩もなき結構な神世にいたして、天地の神々様へ御目に掛けて、末代続かす松の世といたすぞよ。 
明治34年旧3月7日
天も地も世界を平均(なら)すぞよ。この御用を済ましてくださらんと、今度の大望な御用は分かりかけがいたさんぞよ。分かりかけたらば速いぞよ。世の立て替えは水の守護と火の守護としていたすぞよ。 
明治35年旧3月11日
艮(うしとら)の金神表に現れて、これからは善き事致した人民と、悪しき事致した人民とを立て分けて見せるから、永らく筆先で知らした事が判りてくるぞよ。
人民というものは万物の霊長と申して、神にもなれる性来(しょうらい)の結構な霊魂をいただいておりながら、これだけ曇らしてしもうて、誠の神の教えが何も解らんようになりたのは、外国の教えを世界一の善きものと思い迷わされて、肝腎の日本魂を外へ宿替えさして、さっぱりカラ魂(=外国魂)とすり替えられておるからであるぞよ。
いよいよ艮の金神が世界のお土の上を一切守護致す世になりて来たから、この闇の世を日の出の守護に致す神界の経綸(しぐみ)の御用の力になる神があれば、申しておいでなされよ。この世をこのままにして置いたなれば、日本は外国に取られてしもうて、世界は泥海になるから、末法の世を縮めて松の世に致して、日本神国の行状(おこない)を世界の手本に出して、外国人を従わして、万古末代動かぬ神の世で、三千世界の陸地の上を守護致して、神、仏事、人民を安心させてやるぞよ。
そこへなるまでに、世界にはモ一つ世の立て替えの大峠があるから、一日も早く改心いたして、神に縋(すが)りて誠の行ないに替えておらんと、我さえ善ければ、人は転けようが倒れようが見向きもいたさん精神でありたら、神の戒め厳しいから、到底この大峠は越すことはできんぞよ。 
明治38年旧4月16日
この世の本から変性女子(へんじょうにょし=出口ナオ)の霊魂(みたま)が拵えてありての、今度の二度目の天の岩戸開きであるから、ちょっとやそっとには解るような浅い経綸(しぐみ)でないから、改心いたして身魂を研くが一等であるぞよ。世の本の誠の生き神は今までは物は言わなんだぞよ。世の変わり目に神が憑(うつ)りて、世界のことを知らせねばならぬから、出口直は因縁ある霊魂であるから、憑りて何事も知らせるぞよ。世が治まりたら神は何も申さんぞよ。
狐狸や天狗ぐらいは何時でも誰にでも憑るが、この金神は禰宜(ねぎ)や巫女(みこ)には憑らんぞよ。何ほど神憑かりに骨を降りたとて真の神は肝心の時でないと憑らんぞよ。何も解らん神が憑りてまいりして、知った顔をいたしていろいろと口走りて、肝心の仕組みも解らずに、世の立て替えの邪魔をいたすから、ちょっとの油断もできんから、不調法のないように気をつけてやるのを、「野蛮神が何をぬかす」ぐらいによりとりてくれんから、まことに神も出口直も苦労をいたすぞよ。神憑かりで何もかも世界中のことが解るように思うていると、全然了見が違うぞよ。
明治40年旧7月11日
今度の境界(さかい)の峠を越すのは、身魂の洗濯をしておらんと、物が前後(あとさき)になりたから、世界の洗濯が早い所と、身魂の洗濯とが一度になる所もあるぞよ。今度の境界の峠は金銀では越せんから、神徳でないと越せんから、身魂の磨き合いをしておりてくだされよ。醜い心で何ほど金銀を積みておりたとて、やむを得ず悪い方へついて行かなならん事ができるから、よく見てお陰をとるがよいぞよ。醜い個々で貯めておりても、貯めておるものはみな罪穢(めぐり)であるから、罪穢を除去(とり)ておると、楽に峠が越せるぞよ。この世の物はみな天地の所有(もの)であるから、いったん天地へ引き上げてしまうから、人民の心を入れ直さんと怖いぞよ。 
明治41年旧6月8日
今度の地の規則を破りたら、末代世に上がられんから、今の今まで気をつけてやるから、このことに気のつかんような守護神は到底改心はできはいたさん。厭な事であるが、底の国行きがたくさんあるぞよ。
日本の国の身魂はえらい曇りようであるぞよ。外国の方が余程ましであるぞよ。日本の人民は欲が深いから、外国の人民に騙(ばか)されて、日本の国を自由自在、気随気儘(すきすっぽう)に致して、日本の国はさっぱり汚してしもうて空き地はないぞよ。この曇りた日本の国を元の神代へ立ち返りて、水晶の世に致すのは、日本の人民の心をさっぱり水晶の心に持ちかえて、元の神の心と同じ心になりたら、それを神代と申すのぞ。この醜い日本の国は小さい国であるから、改心さして世の立て替えを致したいと思うたなれど、選択(たてわけ)ると、純良身魂はなんぼもないのが厭なことであるぞよ。 
明治41年旧10月10日
この結構な日本の国の日本魂の性来という種子(たね)がないようになりてしもうておるのを、元の日本の国にねじ直さなならんので、骨が折れることなれど、日本の国は末代続かせねばならぬ霊(ひ)の元の天地の大神のお住まいを致す国であるから、この先は外国の悪神の自由にはならんぞよ。 
明治41年旧10月15日
この先は、「人気(ひとぎ)の悪い所から酷(ひど)い事がある」と申してあるが、何もかもが一度になりてきて、一度に開くぞよ。そこまで行かんと世界中は判らんから、何も知らずに悪の働きしている利己主義(われよし)の守護神が、まだ邪魔を致すなれど、判りてくるほど、何となく心が寂しくなりてきて、「善の道にはかなわん」と往生いたすように、地の底へ落としてありた日本の国の大和魂の種で、元の昔に立ち返りてねじ直すのであるから、これまでし放題にしておりた守護神は大分つらいなれど、世は持ちきりには致させんぞよ。
誠の道を立てるのは、我が身を棄てて、我の体は砕けても、今度の大望な御用を勤めあげて、元の活き神がみな揃うて世に上がるのであるから、それについては、我の事は捨て置いて、他人(ひと)を助ける心の人民でありたら、天晴れ表に出るに近うなりたぞよ。 
大正元年旧7月4日
生まれ赤子の本心に還らんと神の心は判らんから、肝腎の御用は勤まらんぞよ。これからは善と悪とを立て分けて、万民(みな)に改心をさせてやるぞよ。
外国の悪神が、この世のできん先の泥海の際からの悪計(たくらみ)で、悪の仕組みがこれまではトントン拍子にきたなれど、悪神の天下は寿命が短いぞよ。大本をなきことにして途中から致した事は末代は続かんぞよ。もう悪神の世は済みたぞよ。日本の国の上の守護神が、外国の施政方針(やりかた)の真似を致して利己主義(われよし)の暴政を致すから、日本の国の今のこの有様であるぞよ。
これまでの心を改革(かえ)ておらんと、気の毒な人民が大多数(たっぴつ)にできるぞよ。それでは可哀想なから、日々今に続いて警告(しら)しておるなれど、人民はどないに申してもよう了解(わけ)んから、露骨(ひらとう)に申して知らしてやるぞよ。出口直の口でそのまま見せてやりても、よう得心いたさぬような有様であるから、役員(とりつぎ)の口では改心が難しいはずであるぞよ。世界の人民に憑(つ)いておる悪霊の邪魔が強いから、なかなか神の申す事はよう判(わ)けんのであるぞよ。
天地からの御懲戒(おいましめ)があると世界の人民に可哀想な事ができるから、明治25年からくどう知らしておるなれど、いまだに判る人民が一人もないぞよ。誠の事を口では誰も申すなれど、口と心と行ないが違うから、真正(まこと)の日本魂の人民は上流(うえ)にも下流(した)にもないぞよ。それで、「世界の立て替え立て直しが困難である」と申すのであるぞよ。
世界には「何から破裂いたそうやら知れん」という事が申してあろうがな。戦争(いくさ)ばかりでない、天災ばかりでもないぞよ。何ごとも一切の改革(たてかえ)であるぞよ。世界は一旦は日増しに混雑になりて来るぞよ。この神を表面(おもて)に出すには、「どんな辛抱でも致す」という心のある守護神に使われておらんと、肉体にはできん事であるぞよ。みな霊魂(みたま)の因縁性来よりできは致さんから、筆先通りが出てくるのであるぞよ。時節が来たのであるぞよ。 
大正元年旧8月19日
大国常立尊が今表になりたところで、神界の役に立てる霊魂は一つもないが、よくもこれだけ曇りたものであるぞよ。
この方が世界中のことをいたさなならんから、何彼(=いろいろ)のことが一度になりて忙(せわ)しうなると申すことが、毎度筆先で知らしてあろうがな。 
大正4年旧6月11日
身魂の磨けた日本の人民を容器(いれもの)にして、それぞれのことに使うから、日本魂にならんと、真正(まこと)のことはできんぞよ。 
大正4年旧11月26日
何も解らん四つ足の守護神のどないにもならぬドウクズは、天の規則通りにいたして、埒(らち)よくいたさねばモウ仕様はないぞよ。この先で何時までも改心のできぬ悪魔に永う掛かりておりて、世の立て替えできんような邪魔をいたした守護神は、気の毒が今に出来(しゅったい)いたすぞよ。
ドウクズのウジ虫同様の、醜(みぐる)しき聞き分けのないものは、一所へ集めて、固めて灰にしてしまうから、悪いものに悩まされて生命を取られるような肉体は、ウジ虫同様、海外(むこう)の悪い眷属(けんぞく=従者)と、もひとつ下級(した)の豆狸というように、論にも杭(くい)にもかからんものの弄びに遭うているのは、肝腎の神の綱の切られている身魂であるぞよ。こんな守護神の宿りている肉体は取り払いにしてしもうて、この世界の大掃除を始めるぞよ。
天地の神の御恩も判らぬような、畜生より劣りた、名のつけようのないものは、末代の邪魔になるから、天地の規則通りに決めるから、悪の守護神の中でも改心のできたのは、今度の立て替えで焼き払いになるところを助けてやるぞよ。ウジ虫の中からでも助けるべき身魂があれば、選りだして善の方へ回してやるぞよ。
神からは、この上人民に知らせることはもうないから、大峠が出てきてから、「どないでも改心をしますで、赦してくだされ」と何ほど申しても、赦すことはできんぞよ。
根本から大洗濯をいたして、末代世界の口舌(=ケンカ)がないようにいたして、外国の“害をする身魂”が、学でこの世を暗闇にしてしもうて、正味のないカラの教えやら仏のやり方は、世の大本からの教えでない。途中からできたものは末代の世のやり方には用いんぞよ。
大正4年旧12月2日
二度目の世の大革正(たてかえ)は、戦争と天災とで済むように思うて、今の人民はえらい取り違いをいたしておるなれど、戦争と天災で人の心が直るのなら、埒(らち)ようできるなれど、今度の世の立て替えは、そんな容易いことでないぞよ。昔から立て替えはありたなれど、臭い物に蓋をしたようなことばかりがしてありたので根本からの動きの取れん立て替えはいたしてないから、これまでのやり方は、身魂は総曇りになりておるから、今後は一番に身魂の二度目の立て替えであるから、何につけても大望であるぞよ。これほど曇り切りておる三千世界の身魂を、水晶の世にいたして、もうこの先は曇りのかからぬように、万古末代、世を持ちて行かねばならんから、なかなか骨の折れることであるぞよ。
これまでの世のやり方は、日本の国では用いられん、外国の極悪のやり方に変わりてしもうておるのを、日本の人民は知らず知らずに、させられておりたのであるから、分からんのはもっとものことであるぞよ。日本の神が抱き込まれて、神の精神が狂うておるのであるから、人民が悪うなるのは当たり前であるぞよ。
もひとつこの先を、悪を強くいたして、この現状(なり)で世を立てて行くどえらい仕組みをしておるなれど、もう悪の霊(みたま)の利かん時節が廻りてきて、悪神の往生いたす世になりて来たから、我の口から我が企みておりたことを、さっぱり白状いたす世になりたぞよ。
世界の身魂が、九分まで悪になりて、今まで世を持ち荒らしてきた守護神に、改心のできかけがどのようにもできんから、神も堪忍袋を切らして、一作(=いっきょ)にいたせば八九分の霊魂(みたま)がなくなるし、改心いたす間がもうないし、これほどこの世に大望なことは、昔から未だない、困難な二度目の立て替えであるのに、何も知らんヤクザ神に使われておると、何も判らんぞよ。
善の行(ぎょう)は永いなれど、善の方にはこの世に何一つ知らんことのないように、世の元から行がさしてあるから、この先は、悪でし放題に行なしに出てきた守護神がつらくなるぞよ。どんなこともしておくと、何事も堪れる(こばれる=堪えられる)なれど、行なしの守護神に使われておると、世の終いの始まりの御用は勤まらんぞよ。
善と悪の変わり目であるから、悪の守護神はジリジリ悶えるようになるから、一日も早く改心いたして、善の道に立ち返らねば、もうこれからは貧乏動きもなさんぞよ。善の守護神は数は少ないなれど、どんな行もさしてあるから、さあ今というようになりてきた折りには、何ほど烈しきことの中でも、気楽に神界の御用ができるから、一厘のお手伝いで、日本の国の大本には、肝腎の時に間に合う守護神がこしらえてありて、世界のとどめを刺すのであるから、日本の国は小そうても、大きな国には負けはいたさんぞよ。日本は世界から見れば小さい国であれど、天と地との神力の強い本の先祖の神が、三千世界へ天晴れと現れてご加勢があるから、数は少のうても、正味の身魂ばかりで、どんなことでもいたすぞよ。
大正5年旧11月8日
今の世界の人民は、この世に神は要らんものにいたして、神を下に見下して、人民よりエライものはなきように思うているが、立て替えの真っ最中になりてくると、知恵でも学でも、金銀を何ほど積みておりても、今度は神にすがりて、まことの神力でないと大峠が越せんぞよ。
今度は神がこの世にあるかないかを、解(わ)けて見せてやるから、悪にかえりておる身魂でも善に立ち返らな、この神の造りた陸地(おつち)の上にはおれんようになるから、改心をいたして身魂をよく磨いておらんと、何彼(=いろいろ)の時節が迫りて来たから、万古末代取り戻しのならんことが出来(しゅったい)いたすから、くどう気をつけるのであるぞよ。これだけ気をつけておるのに聞かずして、我と我が身が苦しみて、最後(どんじり)で改心をいたしてももう遅いぞよ。イヤな苦しい根の国、底の国へ落とされるから、そうなりてから地団駄踏みて、ジリジリ悶えても「そんなら赦してやる」ということはできんから、十分に落ち度のないように、神が人民を助けたい一心であるから、何といわれても今に気をつけるぞよ。
これからは心と口と行ないと三つ揃うた誠でないと、今度神から持たす荷物は重いから、各自(めんめ)に身魂を十分に磨いておいてくだされよ。改心と申すのは、何事によらず人間心を捨ててしもうて、知恵や学を頼りにいたさず、神の申すことを一つも疑わずに、生まれ児のようになりて、神の教えを守ることであるぞよ。身魂を磨くと申すのは、天から授けて貰うた大本の身魂の命令に従うて、肉体の心を捨ててしもうて、本心に立ち返りて、神の申すことを何一つ背かぬようにいたすのであるぞよ。学や知恵や仏を力にいたすうちは、まことの身魂は研けておらんぞよ。
早い改心は結構なれど、遅い改心は苦しみが永いばかりで、何にも間に合わんことになるぞよ。艮の金神で仕組みいたして、国常立尊と現れて、善一つの道へ立て替えるのであるから、経綸(しぐみ)どおりが世界から出てきだすと、物事が速くなるから、身魂を磨いておらんと、結構なことが出てきても錦の旗の模様が判らんようなことではならんぞよ。
大正5年旧11月8日
世に落ちておりた身魂は、どんなつらい修行も致しておるから、「さあ、ここ」というところではビクともせずに楽に御用が勤まるぞよ。世に出ておりて、いままで結構に暮らしてきた上流(うえ)の守護神よ、一時も早く改心なされよ。もう世が迫りて来たから、横向く間もないぞよ。
これからは悪霊の利かん時節が回りてきたから、今までのような優勝劣敗(つよいものがち)の世の持ち方は神が許さんぞよ。日本は欲な人民の多い国、外国は学の世であるから、どんなことでも致すぞよ。日本の人民は神の国に生まれながら、神をおよそ(=適当)にして、利己主義(われよし)の強欲ばかりを考えて、金のことになりたら、一家親類はおろか親兄弟とでも公事(=裁判)をいたす惨(むご)たらしい身魂になりきりておるぞよ。これでは神の国の人民とは申されんぞよ。
日本は神が初発にこしらえた国、元の祖国(おやぐに)であるから、世界中を守護する役目であるぞよ。世界の難儀を助けてやらねば、神国の役目が済まんから、日本の国の人民を一番先に神心にねじ直して、外国人まで一人も残らず神心に複(か)えてやらねば、日本の神と人民の役が済まんので、艮(うしとら)の金神が天の大神様へお詫びを致して、世の立て替えを延ばしてもろうて、一人でも多く日本魂に致したさに、昼夜の気苦労を致しておるのだから、日本神国の人民なら、ちとは神の心も推量致して、身魂を磨いて世界の御用に立ちてくだされよ。もう世が迫りて来て絶体絶命であるから、どうする間もないぞよ。神は急けるぞよ。日本の人民が早く改心を致してくださらんと、世界中の難渋が激しくなりて、何もかも総損ないとなるぞよ。
日本の国に神が仕組みた世界の誠を外国は何も知らずに、日本の国を我が物に致そうとしているが、エライ企みは奥が浅うて狭いから、ここまで九分九厘はトントン拍子に来たなれど、天の時節がまいりて、悪神の世の年の明きとなりて、悪の輪止まりで、死にもの狂いを致しておるなれど、どこからも仲裁に入ることもできず見殺しで、余り我が強すぎてどうしようもないぞよ。 
大正5年旧12月3日
悪い霊魂をこのままこの世に残しておいたなら、いつまでも世界は水晶の世にならんから、改心のできぬ霊魂は、二度目の世の立て替えの経綸(しぐみ)どおりの成敗に致して、悪の霊魂を平らげてしまうぞよ。いつまでも神の申すように致さぬしぶとい霊魂は、天地からそれぞれの厳罰(いましめ)を致すぞよ。 
大正7年旧正月12日
外国は悪が強いから、どこまでも執念深(しつこ)う目的の立つまでやり通すなれど、九分九厘という所まできた折りに、三千年の神が経綸(しぐみ)の奥の手を出して、外国を往生いたすのであるから、日本は大丈夫であれども、罪穢(めぐり)の深い所には、罪穢の借銭済(しゃくせんな)しがあるから、今のうちに改心をいたさんと、日本にも厳しき懲罰(いましめ)が天地からあるぞよ。
日本の国は本が霊主体従(ひのもと)であるから、外国の霊魂は来ることのならんように立て分けてありたので、誠に穏やかにありたなれど、世が逆さまに覆りて、今の日本の状態(ありさま)であるぞよ。さっぱり上下へ世が覆りてしもうて、日本の神国へ四つ足が渡りてきて、上から下までの見苦しさというものは、天地の誠の神からは眼も開けて見ることができんぞよ。この世を結構と申して大きな取り違いをしておりて、よいということも悪いということも、善し悪しのわからん見苦しき四つ足が上へ上がりて、大将などとは凄まじきことなれど、こういう世がいったんは出てくると申すことは、世界を創造(こしらえ)る折りからよくわかりておるので、日本の国には外の身魂ではようわかりもいたさんぞよ。
今の人民は神がいつまで言うて聞かしても、人を威(おど)すくらいにしかよう取らんから、一度にばたついても間に合わんぞよ。「にわかの信心は役に立たぬから、常から信心いたせ」と申して知らしてあるぞよ。「世界に恐いことが出てきだした」と申して逃げ込んで来ても、大峠の真っ最中になりたなら、何ほど力のある神でも、そんなことにはかかりてはおれんように忙しくなるから、「常に信心をいたせ」と申して、ここまでに気をつけてあるぞよ。
世に出ておる方の守護神が、向こうの国の大将に気に入るような悪力がありたなら、どこまでも上げてもらえる邪神らの世となりておりたから、悪いことのし放題、悪神の自由でありたなれど、もう時節が廻りてきたから、この時節のことをいたさな世は立ちて行かんぞよ。今までは物質の世でありたから、学がここまで蔓延(はびこ)りて、学力でどんなことでも九分九厘までは成就いたしたなれど、もう往生いたさなならんようになりてきたぞよ。
大正7年旧正月23日
艮の金神、国常立尊が、変性男子の身魂の出口直の手を借りて、明治の25年から今に引き続いて知らしておいたことが、何もかも一度に破裂いたす時節が近寄りて来たから、何時までも我を張り欲に迷うて、利己主義(われよし)のやり方ばかりいたしておる守護神よ、人民よ、ここまでに神が気を付けてやりておるのを、何時も啼く烏のように思うて油断をいたしておると、思いがけないことが出来いたして、ビックリ虫が出るぞよ。腰が抜けて顎が外れて、物もろくろく言われず、「アフンといたして、四つん這いになりて苦しむようなことが出来いたすぞよ」と、毎度申して知らしてあることの実地が現れて来るに近うなりてきたぞよ。
今までの人民は、神がいい加減な嘘を申して、人民を脅すように思うて、まことにしておらんから、今に神が知らして気を付けるのであるぞよ。嘘のことならこれだけ何時までもくどうは申しはせんぞよ。実地が一度になりて来たら、どうにもこうにもしようのないことが、日本の国にもでけるから、万古末代取り返しのつかんことであるから、これだけに気を付けるのであるぞよ。
外国にはどういうことがあろうともしようはないなれど、日本の霊主体従国(ひのもと)にあまりの災禍がありてはならんから、初発から日本の守護神と人民が、みな揃うて日本魂に復(なら)んと、この結構な神国に産霊(わか)してもろうて、これほど結構な教えを口に含めるように言い聞かしてもろうても、あまり悪心が強うて利己主義で、ちっとも神の申すことが耳へ入らんとは、まことに天地の神へ恐れのほどがもったいのうて、冥加に尽きるぞよ。日本の国は世界にまたとない結構な神国であれども、今の人民は冥加が尽きておるから、「外国の方が何もかも日本よりは良い」と申して、これまでに外国に精神から従うてしもうて、今の日本の上下の体裁、往きも還りもできよまいがな。
天地の先祖の誠の御用は、ちっと優秀(ちごう)た身魂でないと成就はいたさんぞよ。これまでのやり方は、日本の国民(くに)が外国風に化(な)りてしもうて、世に出ておれる守護神がみな体主霊従(からみたま)であるから、日本魂の生粋がただの一厘よりないぞよ。九分九厘がみな向こう方であるから、実地を神が始めると、なかなかの大望であるから、何につけても骨の折れることであるぞよ。日本人の身魂がさっぱり外国人の身魂になりきりておるから、これほど世界の苦しみが多くなりて来るのであるぞよ。それで陰から日本の人民に、「早く精神を入れ直せ」と申して、これほど直々の取り次ぎに長い間の苦しみをさせておるぞよ。
これから先に何事が出来いたしても、騒がす狼狽えずに、こうなりたらああする、ああなりたらこうするという、確かな経綸が判りておらずに、行き放題のやり方では、トンと行き詰まりた折りには、人民がみな飢餓(かつえ)におよぶことが出てくるぞよ。畜生国のように終いには人民を餌食(えば)にせんならんようなことができようもしれんが、何ほど詰まりて来ても、日本の国は共喰いというようなことはできんぞよ。
お土から出来た物であれば、どんな物を喰ても辛抱が出来るから、「大根の株でも尻尾でも赤葉でも、常から粗末にするでないぞよ」と申して、毎度気を附けてあるぞよ。平常(つね)から心得の良いものは、最後(まさか)の時によく判るぞよ。お土を大切に思う人は、正勝(まさか)の時にも余り困りはいたさぬぞよ。天地の大神を真実一つの心で信心いたす身魂でありたら、何ほど難渋な中でも、神がつまみ上げてやるなれど、「他人(ひと)はどうなろうが、我さえ信心いたして良くしてもらいたい」というような未熟な精神(こころ)では、十分な守護はないから、万度参りをいたしたとて、実地が出てきてからの改心は間に合わんなれども、改心さえ出来たなら、今日の間にでも善の方へ代えてやるから、一日も早く天地へお詫び申して許してもらうよりほかに仕様はないから、発根と心を持ち直すより仕様はないぞよ。
外国の守護神が、何時までも体主霊従(あく)の世が続くように思うて、向こうの国の今の経綸(やりかた)で、日本へ攻めて来て一戦下(いちころ)に奪略(とり)て、世界中を我の物にいたす仕組みをしておるなれど、今度はどちらの国も敵わんとこまで行くなれど、向こうの国の悪神の目的は、トコトンまで戦(や)ってやりおうせて、向こうの国の大将の遊園地(あそびどころ)にいたして、世界中を悪神の頭の所有(もの)といたして、もう一段上へ上がりて、王の王になりて、末代の世をこのままで続かしてやろうとの大きな計略(たくみ)をいたしておるぞよ。
けれども日本は神国であるから、外国の霊魂では、出来も解りもいたさん経綸がしてあるから、日本の元の一輪の霊魂には、到底敵わんぞよ。
悪の胤(たね)は今度は残らず平らげてしもうて、2度目の世の規則通りに、善一つの道にしてしまうぞよ。そうしておいて、外国へ善の模範(てほん)を見せて、悪の頭を改心さして助けてやらねば、日本の神と人民の天職(やく)が済まんのであるぞよ。
もうこれからは悪の性来の醜(みぐるし)き身魂は、日本の国は申すにおよばず、この世界のお土の上には一寸の場所にも置かれんことに、末代の規則がきまるから、チッとでも混じりがありたら、選り出して厳重に戒めをいたすぞよ。
この世は天地の大神の世であるから、外の身魂では立ちては行かんから、これから先の世は、どの身魂でもということには行かんぞよ。ここへなりて来ることは初めからよく判りておるから、外の身魂に永らくの間気をつけて、口で含めるように、言葉と筆先で知らしてある通りに、世界のことが出てくるから、守護神も人民も大きな間違いが出来てくるぞよ。
「世界のビックリ箱が明く」と申して毎度知らしてあるが、何彼(=いろいろ)の時節がまいりて世界中の大騒動となるぞよ。向こうの国にも、日本の身魂にも、大分苦しむことがあるぞよ。日本の国が外国の身魂と同じことになりておるから、天地のビックリ箱を明けて、一度に目を覚ましてやらねば、余り悪しぶとうて、改心の出来かけがいたさんぞよ。 
 
人類を救う霊性と食の秘密

 

とどめの神典・日月神示に流れるマコトの食の教え 
プロローグ / 宗教家・霊能者たちに見る霊性と食のかかわり
1991年の5月末に、私は初作『日月神示』を刊行した。このころ、私はまだ「食べ物」が健康や精神に及ぼす影響についてはほとんど関心がなかった。
そもそも私には、何を食べようが感謝していただくようにすれば問題はないという持論があり、自信を持っていた。というのも、私は元来好き嫌いなく何でも食べる方で、健康診断以外に医者の世話になったというのは、中学生のころ以来、全然ないのである。
食べ物を無駄にすることが嫌いだったから、自分の分については必ず残さずに食べた。腹いっぱいであっても、捨てられてしまうよりはと胃に押し込むこともあった。
菜食主義者などというものは一種の贅沢者のことであり、飢餓に苦しむ人々のことなど眼中にない自己中心主義者か、自分の美容と健康のことしか頭にないナルシストがやるものだという偏見を持っていた。
ところが日月神示を見ると、「臣民の正しい食」としての指示が何カ所も書かれており、「日本人には肉類禁物であるぞ」とか、「臣民の食物は五穀野菜の類である」などと、繰り返し強調されている。困った。私にあの「ベジタリアン」になれというのか。
日月神示に示された正しき食とは、要するに穀物菜食である。これを実践せよと言うのだ。それが御神意ならば、即改めよう。私はそう心に決めていた。しかし、内心では迷いはあった。そのため、初作の『日月神示』では、敢えて神示に示された「食」の箇所には触れていない。
その後、『日月神示』の反響がものすごく、いろいろな人たちとの出会いがあり、それに伴い新たな知識が自然ともたらされることになった。マクロビオティックについて、古代からの日本の伝統食について、アメリカの最新栄養学事情について‥‥等々。
それらを統合すると、どうやら神示にある「臣民の食」とは、何かの比喩ではなく、そのままの意味らしい。そして、出版社より『日月神示』の続編を依頼された時、次作の中ではどうしても「正しい食」について訴えねばならないと思った。
こうして1年後に刊行されたのが、『日月神示・神一厘のシナリオ』である。この中で、私は1章分を割いて、「食」に関する神示を軸にその整合性について訴えた。この章を読んだ人で、その日から食を改めたという人がかなり多いことがあとで判り、実に感慨無量であった。
かつては大本教(正しくは「大本」)でも、開祖・出口なおの「お筆先」を通じて肉食を禁じる神勅が降りていた。そしてあの出口王仁三郎聖師も、魚はある程度認めてはいたものの、肉食の非と菜食の有効性について堂々と説いている。
したがって、その大本系神示の続編、あるいは完結編と見られている日月神示に、同様の記述があることは当然のことである。むしろ、そうした記述がない方がおかしい。
他の神道系新宗教はどうか。調べてみると、天理教の中山みき教祖は、ほぼ菜食の慎ましい食生活であった。菜食とか粗食というより、みきの場合は断食が目立つ。常人では考えられないほどの長期にわたる断食を、たびたび行なっているのだ。
黒住教教祖の黒住宗忠、金光教教祖の川手文治郎の場合は、特に菜食を説いてはいない。しかし、この二人はどちらも大病を患い、医者からもサジを投げられ、死を宣告されるに至ったところで復活するという回生体験をしており、これが立教につながっているという共通点を持っている。当然、大病を患っていた期間というのは、ほぼ絶飲絶食状態に置かれていたはずである。そのように身体の禊ぎが行なわれて後、初めて高級神霊からの啓示が降ろされたわけである。
水野南北の開運説は、別名「節食開運説」とも言われるように、粗食こそが運を開く最大の秘訣であるとする。美食、大食こそが凶運をもたらすのであり、人は食を慎み、肉食を戒め、奉仕と感謝の心で生きれば必ずや天に通じることになり、運は開き富み栄えるという。
こうしてみると、人の「霊性」と「食」というものには重要な相関関係があるらしい。霊性というのは科学的な用語ではないけれども、なにか精神の奥底に位置する魂の部分、その輝きの度合い、透明度というものに比例して、いわゆる「霊格」というものの高低が定まってくる。
霊性が浄らかで透明度が高いということは、波長が精妙であるということであり、霊性が曇っていて、魂の透明度が低いということは、波長が粗雑である、ということになる。波長が細やかであればあるほど、天人、天使といった高級なる神霊たちと交わりやすくなり、反対に、波長が荒々しければ、低級なる霊たち、動物霊や地獄霊といったものと感応しやすくなる。
その霊性に、日常の食というものが重大な影響を及ぼしているとすれば、まさに大変なことになる。食を正して血を浄めれば、肉体細胞が浄まることになり、それは結局、魂のレベルまで左右する。「身魂磨き」とは、そういうことも含まれているのではなかろうか。
見方を変えれば、食を改めることで、人は自分の霊性を高めることがたやすくなる。身魂磨きにはずみがつく。自分自身を救うことにつながる。そうした人が増えれば、世界の大難は小難に変わるということになるだろう。
日本こそ、穀物菜食の宗主国のような国のはずである。その国の国民は現在、過去から受け継いだ尊い食習慣を忘れ、グルメ、美食に走り、暴飲暴食に明け暮れている。
一方で、正神復権の予兆とともに、マコトの「食」のあり方を説く動きが、小さいながらも始まっている。そうした流れの「とどめの啓示」こそが、日月神示なのであった。だから神示には、「臣民の食」についての指針が出されているのだ。これは日月神示で初めて出されたものではなく、悠久の過去から培ってきた人類の叡智であり、その復活を願う太古の人々からの呼びかけであったのである。 
欧米において盛んな菜食主義
西洋における菜食主義の伝統はかなり古い。知られている限りでは古代ギリシャにまで淵源をさかのぼることができる。
肉食文明が栄えたのは西洋であるが、その反面、菜食主義も絶えることなく現代にまで受け継がれ、欧米各国のベジタリアン人口は東洋と比べて圧倒的に多い。
菜食を実践する動機は様々のようだ。健康のため、精神修養のため、動物愛護のため、宗教上の理由のため、といったところである。
欧米は肉食が“極まった”文化圏にあるため、菜食の有効性に目覚める人が多く、そのため菜食者たちはある程度の「市民権」を得ているところがある。
もちろん、日本の歴史もそうとう古い。
縄文時代の食生活は、日常の摂取カロリーの約8割が植物性の食物から摂っていたというデータがある。例えば、海岸沿いにある千葉県古作遺跡の縄文人の人骨の炭素と窒素の安定同位体比の分析により、主要食料カロリーの80パーセントを栗やクルミなどの植物で補っていたことが判っているし、内陸部にある長野県北村遺跡の場合も、エネルギーの大部分を木の実に依存していたことが判明している。
古作遺跡の場合、80パーセントの残りのうち11パーセントが魚介類で、9パーセントが小型の草食動物である。熊、鹿、猪などの大型動物はほとんど含まれていない。
このように日本人は、縄文時代の頃より、必要なエネルギーの大部分を植物性の食料から摂取してきたのである。
西洋での歴史も古く、古代ギリシャまでさかのぼる。
彼らが菜食を実践した理由は、彼らの思考に基づいている。つまり、本当に肉体にも精神にも良い影響を与える「正しい食べ物」は何かということを徹底的に考え、肉食が害を及ぼすものであることを知り、その結論を、様々な秘儀とともに思想的に体系化していったのである。 
ピタゴラスの菜食の教えを受け継いだプラトン
プラトンの代表的著作といえば、『国家』であろう。彼はこの著作の中で、理想的な国家のあり方を論述している。
彼の考えた理想国家における食べ物とは次のようなものである。
大麦粉のパンや小麦粉のケーキ、塩やオリーブ油やチーズで料理した根菜や野菜、エンドウ豆、イチジク、樫の実、ぶどう酒など。獣や魚の肉は、その中にはまったく入っていない。
彼が肉食を理想国家の中から除去した理由には、現代で言うエントロピーの増大など、環境問題にまで配慮していたことが挙げられる。プラトンは、今から2000年以上も前に、すでに今日の人類社会が直面している危機的状況、すなわち様々な問題が噴き出す未来社会像を予見している。そして、その主な原因を、「肉食」をもとにした奢侈(奢りやぜいたく)にありと指摘していたのである。
それから人類の歩んだ道のりは、まさにプラトンが懸念した通りのものとなった。
現代では、肉食文明は洋の東西を問わずに世界を席巻し、肉となる家畜の飼料を生産するために膨大な穀類があてられ、環境に様々な悪影響を及ぼしているだけでなく、慢性的な食料不足を生み出している。
先進国における食のぜいたくが、発展途上国においては飢餓をもたらしている。一方では食物が有り余り、大量の残飯が捨てられているにもかかわらず、一方では動物飼料のトウモロコシの一粒さえ口にできず、死んでいく人たちがいる。
しかも肉食は、精神(霊性)に影響を与えて理性を狂わせ、争う心を起こしやすくなる。肉体的にも様々な害を及ぼし、奇病・難病・業病が流行り、医療費は増大し、国民は重い税負担を強いられる。子どもたちの心は荒れすさび、イジメや校内暴力の嵐が吹き荒れる。さらには、出生率の低下が起こって人口の減少という事態になり、遠からず民族滅亡の憂き目にあう。
ここまで判っていながら、なおも肉食を是とする人(何を食おうが大した問題ではないと言う人)は、もはや正常な思考力を失ってしまっているとしか言いようがない。
環境問題に関心を持つ人々は年々増えており、熱心に市民の啓発運動を展開している人たちもいる。それはそれで大変に結構なことだと思う。
しかし、肉食問題を避けて環境問題を説くのは、いわば燃えさかる火事現場にガソリンをかけ続ける放火魔を見て見ぬふりをしながら、家屋が燃え落ちる危険性と消火の必要性を訴えるのと同じである。
問題の根本はこの放火魔(肉食)にあるのであって、これを除去することが急務の課題であり、最優先されるべき事項であるはずなのだ。 
菜食主義のガンジーの言葉
私の心にとって、子羊の命が人間の命と比べて、より尊くないなどということは、少しもない。たとえ人間の体のために子羊の命を奪うことが必要だという場合でも、私は気が進まないであろう。ある生き物が、無力であればあるほど、その生き物は人間の残酷さから、人間によって保護される資格を、より多く与えられている。
それが正しいか誤っているか知らぬが、人間は肉や卵やその類のものを食べてはならないということは、私の宗教的確信の一部である。我々自身が生命を保つための手段であるといっても、それには一種の限界があるべきである。命そのもののためであっても、ある種のことはしてはならない。
ガンジーの、肉食に対する否定的見解は、このように徹底したものであったが、あまり食べ物の面ばかりに拘泥するのも誤りだ、という意味のことも強調している。
人間が普通に生きることができる状況であれば、それが成長や病気のいかなる段階であろうとも、またいかなる風土の下であろうとも、肉食がわれわれにとって必要であるとは私は考えない。
もし我々が他の動物より優れているとするならば、我々人間がより低級な動物たちの世界を真似することは誤りである。(中略)
しかし、人格形成における、あるいは肉欲の克服における、食べ物の重要性を過大評価するのは誤りである。飲食物は、無視されてはならない強力な要因である。しかし、インドにおいてしばしばなされているように、すべての宗教を飲食物の点から判断することは、飲食物に関する抑制をすべて無視して食べるのと同じくらい、誤っている。
単なるジーヴァダヤー(動物に対するやさしさ)は、我々の内なる「6つの不倶戴天の的」すなわち肉欲・怒り・どん欲・熱狂・高慢・虚偽を、我々が克服するのを可能にしてくれるものではない、ということは覚えておくべきである。
もし、自己を完全に征服し、善意に満ちあふれすべてのものに愛を降り注ぎ、すべての行為において愛の法に従っている、というような人がいたら、教えてほしいるたとえ、日の人が肉を食べる人であったとしても、私は個人的には、その人に、私の尊敬に満ちた賛辞を捧げるであろう。
他方、毎日蟻や昆虫に餌をやり、かつ殺生はしないけれども、怒りや肉欲で深く染まっている人のジーヴァダヤー(動物に対するやさしさ)は、推奨すべきものはほとんど何も有していない。そのようなジーヴァダヤーは、いかなる精神的な価値をも持たない、機械的な善行に過ぎない。それはもっと悪いもの、すなわち、内面的な堕落を隠すための偽善的な目隠しでさえある可能性がある。
つまり、ガンジーが唱えているのは、精神(心)こそが物質(体)よりも優位にあるということである。単に健康を保つためとか、絶対に殺生をしないと誓約したから肉食をしない、という理由で菜食を実践したところで、それは表面的なものにすぎない。肝要なのは精神的な部分であり、心の面である。
自己の欲望を制し、心を常に正しく保ち、強く普遍的な愛を周囲に分け与える。その現れとして、菜食の実践がある。その逆はあってはならないし、またあったところで、それは偽善に過ぎないと、彼は言うのである。 
「この世にはまずない苦労をした」出口なお
大本開祖・出口なおと、聖師・出口王仁三郎の食にまつわる神諭や発言について触れておきたい。
出口なおは、「この世にはまずない苦労をした」と後に述懐しているように、その大半の人生を、現代人ではとても考えられないような辛苦にあえぎながら過ごした。食ももちろん粗食。粗食というよりも、白湯の中にわずかに飯粒が浮いているのがその日の御飯というような、栄養失調状態の暮らしを長きにわたって送っていた。しかも、毎日、屑買いなどの重労働に耐えながらである。
また、なおは、帰神の始まった節分の日より、13日間の絶食と、75日間の寝ずの水行を敢行している。絶食は、なおの意志で行なったものではなく、神がなおに箸を持たせなかったのだと伝えられる。なおはこの間、一粒の米も口にせず、時折神前に供えた水で喉を潤すだけだったという。
「艮の金神(うしとらのこんじん=日月神示の神様と同じ名前――なわ註)」との交流が始まり、信者らしきものが形成されだした明治30年の頃、なおは既に60歳になっていた。教育らしい教育を受けたことのなかったなおは、平仮名や片仮名さえ読めなかった。それでも「艮の金神」は、なおの手を使い、平仮名を主体とし、一から十までの漢数字を混ぜた「お筆先」を書かせ、膨大なメッセージを綴っていく。これが、半紙10万枚以上、1万巻にも及ぶ大本神諭である。
大本神諭の中で、「艮の金神」は、肉食に代表される「外国」の悪しき文化が日本に流入していることを徹底的に批判する一方、粗衣粗食の重要性、贅沢の禁止などを説いている。その一部を、以下に紹介してみる。
日本の国は肉食なぞはしられぬ国であるぞよ。(明治31年旧11月1日)
今の婦人(おんな)は畜生の肉喰ったあとの骨なぞを、櫛などに致して、何もかも外国の真似ばかりを一生懸命に見習うて、歓びているものばかりであるから、日本の国がさっぱり汚穢(けが)れてしもうて、畜生原となり果てて、神の居る場所もないようにして、今度の世の立替について思いの外大変な骨の折れる事であるぞよ。神政成就(みろく)の世の教えに致すには、婦女子の頭の道具から清らかにして、変えてしまうぞよ。(明治36年旧11月9日)
外国の四ツ足の真似を致して、結構な家の内で、牛や馬の肉を煮いて喰うたり、首に畜生の皮を捲いたり、畜生の毛で織った物を肌に着けたり、それがさっぱり四ツ足の性来が現れて居るのであるぞよ。(大正6年旧11月23日)
ご覧のとおり、「艮の金神」の神言は、大変にストレートで厳格なものである。牛馬などの四ツ足を喰うことに関しては、断然と非難排撃している。
これについては、なおの昇天直後より、「艮の金神」こと国常立尊(くにとこたちのみこと)が憑かり、意志を受け継ぐ形で伝達したとされる、出口王仁三郎の神諭(伊都能売神諭)にも、同様のことが書かれている。 
晩年になるほど菜食主義になった出口王仁三郎
大本で聖師と称されている出口王仁三郎も、玄米菜食の有効性を提唱していた。しかし、明治期の若い頃は、「コタツ以外の四ツ足は何でも食べた」と言われる。ひどい話だが、かつて獣医学を独学で学んでいた20代のころは、犬や猫までも食べていたという。
そのように「極めた」ところで、悟るところがあり、開祖の影響も受けて次第に菜食に近くなっていったのであろう。ただし、大本では肉食は禁じているが、魚は臣民に許された食物とされている。それは、伊都能売神諭にもハッキリと示されていることでもあり(「日本人は何処までも五穀野菜と鮮魚よりほかのものは口へ入れることは許していない」という一節)、この点、日月神示と相違している。日月神示は「臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ」とあり、鮮魚は抜けている。
王仁三郎は、まだ上田喜三郎であった29歳の時、「松岡」と名乗る仙人に誘われ、高熊山に篭もった。そして1週間にわたり、身は高熊山山中の岩窟に端座したまま、魂は神霊界を駆けめぐり、その結果、「過去・現在・未来に透徹し、神界の秘典を窮知(きち)し得るとともに、現界の出来事なぞは数百数十年の後まで知悉」するに至っただけでなく、この修行によって天眼通、天耳通、天言通、自他心通、宿命通の五大神通力を体得し、救世の使命をはっきり自覚したという。この高熊山修行が回心体験となり、上田喜三郎は出口なおのもとへと導かれ、やがて世界の大本へと躍進させる「出口王仁三郎」として大成するのである。
さて、王仁三郎も、肉食の害毒と菜食の有効性についてはたびたび言及している。
「獣、鳥、魚などの肉は、いったん食物として消化されたものが肉となったのであるから、それを摂取してもあまり益はない。獣肉をたしなむと情欲がさかんになり、性質がどう猛になる。肉食をする人は本当の慈悲の心はもたない。
肉食を主とする外国人は、親子の間でも情愛が少ない。たとえば遺産があっても子には譲らずに伝道会社に寄付するというようなものである。
神に近づくときは肉食をしてはよくない。霊覚を妨げるものである。(「肉食の害」昭和7年2月)
魚は智を養うものである。野菜を食べると憐れみ深くなり、仁に相応し、米は勇に相応する。(「智・仁・勇の食物」昭和7年2月)
米は陽性のもので、これを常食すれば勇気が出る、そして陽気である。麦は陰性のものであるため、陰気になる傾向がある。くよくよしたり、いつも泣き言を並べたりするようになるのはこのためである。野菜を食えば仁の心が養われる。魚類を食えば知恵がわく。故に魚類も月に一度や二度は必ず食わねばならない。米と野菜と魚類とで、智・仁・勇となる。
肉食をする者には仁の心は少ない。故に野菜を常食とする日本人にして初めて愛善の心があり、外国人には稀である。肉というものは一度、草や野菜等を喰って、その栄養素が肉となったのであるから、あまり栄養もない。そして肉によって養われた細胞は弱い。日本人は米を食い、野菜を食うから、すなわちまだ肉とならない栄養を摂るから、細胞が強い。また、日本人の歯は臼歯といって、米を噛みこなし易くできているが、肉食人においては臼歯がとがっている。(「食物」昭和7年12月)
わたし(王仁三郎)は近ごろになっていっそう菜食主義になった。魚などもたいがい嫌いになった。それでもうまく料理して原形がないようにしてあればよいが、頭や尾がついたままの姿を見ると、むごたらしくて、一度に食欲がなくなってしまう。切っても血の出ない野菜食にかぎる。(「食物」昭和8年11月)
このように、王仁三郎は儒書の『中庸』で言う智・仁・勇にかけ、智恵を養う食物は魚、仁を養う食物は野菜、勇を養う食物は米と説いていた。ちなみに、上の引用文にある昭和7年、8年という年は、王仁三郎がすでに60歳の坂を越えていた年であった。 
エピローグ / 新世紀日本人の霊性を甦らせるために
近年、狂牛病だのO−157だのといった奇病が流行ってきている。こうした病は、人類の飽くなき肉食、飽食の文明に対する、自然界からの警鐘と捉えるべきではないだろうか。
日月神示に「訳のわからん病流行るぞ」と示されている通りの世の中になって来ている。
そのような大自然からのしっぺ返しを喰らいながら、人類は残る者と淘汰される者の篩い分けが行なわれていくのかも知れない。
その「篩い分け」作業の大きな基準となるのが、その人が何を食べているか、ということではないかと思う。むろん、食べ物だけで判断することはいささか無理があるが、大きく影響を与えることは疑いようもない。
現に神示には次のように示されている
臣民の食べ物は定まっているのだぞ。いよいよとなりて何でも食べるようになりたら、虎は虎となるぞ。獣と神が分かれると申してあろがな。縁ある臣民に知らせておけよ。日本中に知らせておけよ。世界の臣民に知らせてやれよ。
最後の段階に入ってきたら、食べる物によって「神の臣民」と「獣」とに分かれるという警告である。そして、事実そういう状況になってきている。
最近では環境問題の観点からも肉食の非を論ずる風潮が出てきた。
肉というのは極めてエネルギー転換効率の悪い食品である。肉1キログラムを清算するのに、10キログラムの植物性タンパク質が必要と言われる。肉食文化に慣れた先進国の人間の食欲を満たすために、畜産が行なわれるわけだが、地球上には牛だけで約13億頭も存在している。
これらの牛たちは世界の陸地面積の4分の1で草を食んでおり、穀物総生産の3分の1を消費する。実は人間の胃におさまる穀物よりも、家禽の餌にまわされる穀物の方が圧倒的に多いのだ。飢餓は天災ではなく人災である。食料は地球上に有り余っている。
貴重な森林資源は牧草地のために伐採され、野生生物の生息域は失われる。毎年イギリス一国に等しい面積の熱帯雨林が失われているが、その大半は畜産のための牧場づくりが目的である。
加えて、家禽から日々輩出される膨大な糞尿の問題がある。この凄まじい量の糞尿からはアンモニアとメタンガスが大気中に放出される。アンモニアは酸性雨の主要原因であり、メタンガスは二酸化炭素に次ぐ温暖化現象の主要要因になっている。
さらには、家禽に与える飼料に含まれる重金属が、これを食う人間の健康を損なっているだけではなく、糞尿となって大地に浸透し、深刻な水質汚染をもたらす。時刻で処理しきれない糞尿は、発展途上国にまで搬送して捨てられる。そのために輸送コストがかかり、また輸送には当然エネルギー(化石燃料)の消費が伴う。
肉食産業と環境問題に関するデータは、まだまだ挙げていったらきりがないほどだ。
日本国内にいて、日本人同士で日々生活していると判らないかも知れないが、世界の潮流は穀物菜食の方向に急速に移行しつつある。
例えばインターネットでベジタリアン関連のホームページを検索してみるだけでも、その情報量の多さに圧倒されるだろう。
アメリカ、カナダの北米地域、イギリス、ヨーロッパ各国、オーストラリアといった先進国で、ベジタリアンの活動は活発に行なわれ、盛んに情報交換や人的交流が行なわれている。
そうした中で、特に日本は一歩も二歩も遅れを取っている。
先進各国では過去の遺物となった栄養指針に未だにすがり、自由化の圧力に屈する形で素直に外国の食産業や商社に胃袋を握られつつある。そこには、かつて穀物菜食の宗主国とさえ言えた真の日本の姿は、見る影もない。
私たち真実を知る者は、まずは率先して情報を発信し、日本の伝統に秘められた食文化、太鼓の先哲から受け継がれている叡智を訴える必要がある。そしてどんどんとネットワークを拡げ、海外にいる「神の臣民」と手を結び合うべきだ。
私たちにはそれを行なう使命があると思う。
「和」という字は禾(のぎへん)に口と書く。禾とは穀物の総称である。「穀物を口にする」と書いて「和」と読むのである。
こうした文字に隠された霊妙なる神の意志を、私たちは悟らねばならない。そして、悟った者から、明日と言わず今からでも、実践と普及に努めなければならない。
そうした人たちが一人でも多く現れてくれれば、それだけ人類社会を襲う予定の大難は小難へと変わり、輝かしい理想社会に穏やかにシフトすることが可能となるだろう。 
 
天理教『おふでさき通訳』

 

「おふでさき」について
『おふでさき通訳』によりますと、天理教の「おふでさき」は明治2年から同15年の間に、教祖(おやさま)・中山みきに降ろされたものとされています。天理教の神さま(親神=天理王命)は、教祖に「おふでさき」以外の一切の文字記録の執筆も閲覧も禁じたと言われています。教祖が筆を執ると、暗闇でもひとりでに筆が動いて、言葉がお歌となって紙に記されたとか。一般的に“自動書記”と言われている現象です。従いまして、ここにご紹介している「おふでさき」の語り手は天理教の親神さまということになります。
『大本神諭』天の巻の冒頭に次のような神示があります。
‥‥天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮(うしとら)の金神が現れて、世の立て替えをいたすぞよ。世の立て替えのあるということは、どの神柱にも判りておれど、どうしたら立て替えができるということは、判りておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝腎のことは判りておらんぞよ。(明治25年)
この神示によりますと、天理教は世の立て替えを告げる神示の草分けということになります。“一厘”の肝腎のことはわかっていないとありますが、残りの九分九厘は知らしてあるということですから、天理教の教祖(おやさま)に降ろされた神示の内容は『大本神諭』と一致しているものと思われます。
ということは、2つの神示の一致する部分こそが、世の立て替えに関する重要な教えであると見ることができます。ということで、その「一致する部分」が何であるかを確かめてみたいと思います。
神示の解釈は芹澤茂氏の解説を参考にしましたが、私の独自の解釈を加えていますので、天理教の教団での解釈とは異なっている部分があることをお断りしておきます。 
いまゝでハ神のゆう事うたこふてなにもうそやとゆうていたなり
このよふをはじめた神のゆう事にせんに一つもちがう事なし
だんだんとみへてきたならとくしんせいかな心もみなあらハれる
今までは、神の言うことを疑って、何でも「嘘だ」と言ってきたが、この世を始めた神の言うことだから、千に一つも違うことはないのだ。これからだんだんと現象が現れてくるから得心せよ。心で思ったことはみな現象として現れるのだ。 
よろづよのせかいぢふうをみハたせバみちのしだいもいろいろにある
このさきハみちにたとえてはなしするどこの事ともさらにゆハんで
やまさかやいばらぐろふもがけみちもつるぎのなかもとふりぬけたら
まだみへるひのなかもありふちなかもそれをこしたらほそいみちあり
ほそみちをだんだんこせばをふみちやこれがたしかなほんみちである
このはなしほかの事でわないほとに神一ぢよでこれがわが事
霊界・現界を含めたすべての世界(三千世界)を見渡すと、(これから人類が進む)道の状況もいろいろ違うようだ。これから先は道に例えて話をしよう。どこの地域のことと限定しているわけではない。これからは山があり坂道があり、茨の道に崖道もある。剣(「戦争」の暗喩)の中を通り抜けたら、火(火災=火山の噴火、核戦争)の中もあり、淵中(洪水、津波)もあり、それを乗り越えたら道が細くなっている。だから、簡単に通ることはできない。細い道(=終末の大峠)を越せば大きな道に出る。これが本道(=神の世)である。この話は関係ないことではない。神の一条の大事な話なのだ。自分に関することと思っておきなさい。 
これからハをうくハんみちをつけかけるせかいの心みないさめるで
上たるハ心いさんでくるほとになんどきにくるこくけんがきた
ちゃつんであとかりとりてしもたならあといでるのハよふきづとめや
このつとめとこからくるとをもうかな上たるところいさみくるぞや
たんたんと神のしゆごふというものハめつらし事をみなしかけるで
にちにちに神の心のせきこみをみないちれつハなんとをもてる
なにゝてもやまいいたみハさらになし神のせきこみてびきなるそや
せきこみもなにゆへなるとゆうならばつとめにんぢうほしい事から
このつとめなんの事やとをもているよろづたすけのもよふばかりを
このたすけいまばかりとハをもうなよこれまつたいのこふきなるぞや
これからはあの世(神霊界)とこの世(物質界)を行き来できる「往還道」をつくっていく。この世の人間の心を改心させるためである。守護神が改心するに従って、いつ大峠が来てもおかしくない時節となったのだ。お茶の葉を摘んであとを刈り取ってしまったら、そのあとに出てくるのは新しい木(ようき=幼木)である。このように、人が改心すること(ようきづとめ)が大切なのである。この改心はどこから始めると思うだろうか。それは守護神からまず改心するのである。これからは神の守護によってだんだんと珍しいことを見せていく。神が一日も早くと急いでいるのに、人民はなんと思っているのか。何があっても病気や苦痛というものはなくなる。神の急ぐ気持ちを伝える手伝いをしてほしいのだ。なぜこんなに急いでいるのかというと、改心した(ようきづとめの)人間がたくさん必要だからである。では、何のために「ようきづとめ」をするのかと思っているだろう。それはすべての守護神と人民を助ける段取りをするためだ。助けると言っても今だけのことではなく、万古末代のきまり(古記)となるのである。 
これからハからとにほんのはなしするなにをゆうともハかりあるまい
とふぢんがにほんのぢいゝ入りこんでまゝにするのが神のりいふく
たんたんとにほんたすけるもよふだてとふじん神のまゝにするなり
このさきハからとにほんをハけるてなこれハかりたらせかいをさまる
いまゝでハ上たる心ハからいでせかいなみやとをもていたなり
これからハ神がたいない入りこんで心すみやかわけてみせるで
これからは外国と日本の話をする。何を言おうとしているのかは、すぐにはわからないだろう。外国人の守護神が日本の地に入り込んで勝手気ままにしているのが神の立腹の原因なのだ。だから、だんだんと日本を救う段取りをして、外国人を神の思うままにする。これから先は外国の守護神と日本の守護神は分けていく。これを分けることができたら世界は平穏になるのだ。これまでは守護神の心の違いが分かっていなかったので、みんな同じだと思っていただろう。これからは神が人間の体内に入り込んで、心の違いをすっきりと分かるようにしてみせる。 
これからハ水にたとゑてはなしするすむとにごりでさとりとるなり
しんぢつに神の心のせきこみわしんのはしらをはやくいれたい
このはしらはやくいれよとをもへどもにごりの水でところわからん
この水をはやくすまするもよふだてすいのとすなにかけてすませよ
このすいののどこにあるやとをもうなよむねとくちとがすなとすいのや
このはなしすみやかさとりついたならそのまゝいれるしんのはしらを
はしらさいしいかりいれた事ならばこのよたしかにをさまりがつく
このはなしさとりばかりであるほどにこれさとりたらしよこだめしや
これからは、水に例えて話す。水が澄んだり濁ったりすることから理解してもらうことにする。神が急いでいるのは、人間の魂に「しんのはしら(真の柱)」を早く入れたいからである。この柱を早く入れようと思っても、魂が濁り水のように濁っているためどこに入れたらよいかわからないのだ。この濁り水を早く澄ます段取りをどうすればよいかと言えば、それは水嚢(すいのう)と砂に掛けて澄ますようにするのだ。そんな水嚢がどこにあると思ってはいけない。心に思うこと(むね)と、口から出る言葉(くち)とが砂と水嚢の働きをするのである。この話がすっきりと理解できたら、そのまま真の柱を入れる。真の柱をしっかり入れたら、この世の中は平穏になるのだ。この話を頭で理解できたなら、その理解の程度を試すことにする。
「むねとくちがすいの(水嚢)である」という内容を、芹澤氏は「胸=悟り」「口=諭し」と解釈されていますが、「おふでさき」全体を読みますと、「胸=心に思うこと」「くち=口から出る言葉」と解釈するほうが意味が通じます。これは『大本神諭』や『日月神示』でも述べられている「心、口、行ない」のうち「心、口」に対応しているのです。以下は『大本神諭』天の巻の中の一節です。
これからは、筆先通りが世界に現れて来るから、心と口と行(おこない)と三つ揃うた誠でないと、今度神から渡す荷物は重いから、‥‥
このように、私の場合、「おふでさき」の解釈にあたっては『大本神諭』と『おふでさき通訳』を交互に読んでいますが、2つの神示の波長はまったく同じものです。“取り継ぎ”が、かたや中山みき、かたや出口ナオという違いがあるだけで、神示の響き(神意)には違いが感じられません。
実は、この「おふでさき」に基づいて宗教団体をつくったことに関して、『大本神諭』の神さまは痛烈に批判されているのです。その最も厳しい内容を以下にご紹介しておきます。
‥‥天理、金光、黒住、妙霊、皆この大望がある故に、神から先に出したのであれども、後の取り次ぎは神の心がわからんから、皆教会にいたしてしもうて、神の思わくは一つも立たず、口過ぎ(=生活を立てること)の種に神をいたして、我が神の真似ばかりを致して、日本の神の名を悪くいたしておるが、これが四つ足の守護であるぞよ。教会の取り次ぎよりも、平の信者の方に誠があるぞよ。今の取り次ぎ、「これでよい」と思うておるから、真の生き神の申すことは、ちっとも耳に入らんぞよ。‥‥(『大本神諭』火の巻)
この神示を読みますと、神の言葉を正しく理解し、伝えていくことが、いかに難しいことであるかが分かります。常に謙虚に受けとめていきたいと思います。そういう意味では、私の解釈もけっして「これしかない」と申しあげているつもりはありません。もともと神示には何通りもの解釈法があるとも言われますので、これもひとつの参考意見としてお読みいただきたいと思います。 
このよふのにんけんはじめもとの神たれもしりたるものハあるまい
どろうみのなかよりしゆごふをしへかけそれがたんたんさかんなるぞや
このたびハたすけ一ぢよをしゑるもこれもない事はしめかけるで
いままでにない事はじめかけるのわもとこしらゑた神であるから
この世の人間を創造した元の神については、誰も知らないであろう。泥海の中から身を守る方法を教えはじめ、それによってだんだん文明が栄えてきた。このたびは(世の終わりにあたって)人間が助かるための一番大切な方法を教えるのだが、これも今までに一度もなかった事を始めるからである。今までに一度もなかったことを始めるというのも、世の元を創造した神であるからできるのである。 
だんだんとせかいぢうをしんぢつにたすけるもよふばかりするぞや
そのゝちハやまずしなすによハらすに心したいにいつまでもいよ
またさきハねんけんたちた事ならばとしをよるめハさらにないぞや
いまゝでハなにの事でもしれなんだこれからさきハみなをしゑるで
だんだんと、世界中を真実に助ける段取りばかりするのである。それが終わったらあとの世は、病気もなく、死ぬこともなく、体が弱ることもなく、自分が望むならいつまでも生きておれるようになる。またその先もっと年限が経ったとしても、老いるということが全くないのである。このように今までは知らなかったことを、これから先はなんでもみな教えることにする。 
このよふハいかほどハがみをもふても神のりいふくこれハかなハん
めへめへにハがみしやんハいらんもの神がそれそれみわけするぞや
これをみていかなものでもとくしんせ善とあくとをわけてみせるで
このはなしみな一れつハしやんせよをなじ心わさらにあるまい
をやこでもふうふうのなかもきよたいもみなめへめへに心ちがうで
この世でいかに我善しの気持ちを持っていても、神の怒りを受けたらどうしようもないのだ。自己中心の考え方はしてはいけない。神がその心の中を見分けてしまうのだ。神が善い心と悪い心は見分けてしまうから、そのことをよく理解しておきなさい。この話はどんな人間でも必ず心に留めておきなさい。人間は一人として同じ心ではないはずだ。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも、みなそれぞれに心の中は違っている。 
いまゝでハなにをゆうてもみへてないもふこのたびハせへつうがきた
これからハよふきづとめにまたかゝるなんの事やら一寸しれまい
これまでハいかなハなしをといたとてひがきたらんでみへてないぞや
これからわもふせへつうがきたるからゆへばそのまゝみへてくるぞや
今までは何を言ってもこの世に現れていないが、いよいよ現れる時節がきた。これからはまたようきづとめ(=新しい世の生き方)の段取りにとりかかるが、何のことかはわからないだろう。これまではどんな話をしても期日が来てないので実現しなかった。これからは時節が到来したので、言えばそのことがそのまま実現するようになる。 
けふまでハなによの事もせかねとももふせきこむでをふくハんのみち
このみちハせいなみとハをもうなよこれまつだいのこふきはぢまり
このにんぢうとこにあるとハゆハんでなみのうちさハりみなくるであろ
このさハりてびきいけんもりいふくもみなめへめへにしやんしてみよ
このはなしなんとをもうてきいているかハいあまりてくどく事なり
どのよふにいけんりいふくゆうたとてこれたすけんとさらにゆハんで
にんけんのハがこのいけんをもてみよはらのたつのもかハいゆへから
しやんして心さためてついてこいすえはたのもしみちがあるぞや
今日までは何事も急いではいなかったが、もう急いで(神霊界と現界を結ぶ)往還の道をつくらなくてはいけない。この道づくりを世間並みのことと思ってはいけない。これこそ万古末代の決まり(法則)となるものである。この(往還の道をつくる対象となる)人民がどこにいると限定しているわけではない。(神霊界とつながると)身の身辺に病気や不幸な出来事が起こってくるだろう。このような不幸な出来事が起こるのは、神の忠告であり、立腹によるものであるから、それぞれによく考えてみるがよい。
この話をどんな気持ちで聞いているか。これは人民が可愛いあまりに説いて聞かせているのだ。どんなに忠告し、立腹していると言っても、決して人民を助けないと言っているのではない。人間が我が子に忠告をするときのことを考えてみよ。腹を立てるのも我が子が可愛いからであろう。そのことをよく考えて、心を決めてついてきなさい。末には頼もしい道があるのだから。 
いまゝでハ心ちがいわありたとてひがきたらんてみなゆるしていた
このたびハなんでもかでもむものうちそうちぢするでみなしよちせよ
むねのうちそうぢをするとゆうのもな神のをもハくふかくあるから
このそふぢすきやかしたてせん事にむねのしんぢつわかりないから
この心しんからわかりついたならこのよはぢまりてつけるなり
今までは心違いがあっても、時節が来ていなかったのでみな見逃していた。このたびはどんなことでも心の中を掃除するので、覚悟しておきなさい。心の中を掃除するというのは、神の深い思惑からすることである。人民の心の中の掃除をすっきり仕上げてしまわないと、本来の心の持つ本当の働きが理解できないからである。この心の働きが理解できたなら、この世(新しい世)の始まりに手をつけることにする。 
いまゝでハ神があらハれでたるとてまだしんぢつをしりたものなし
このさきハどのよな事もしんぢつををしへてをいた事であるなら
それからハ神のはたらきなにもかもぢうよぢざいをしてみせるでな
しんぢつの神のはたらきしかけたらせかい一れつ心すみきる
はたらきもいなかる事とをもうかな心うけとりしだいかやしを
このかやしなにの事やとをもうかなみちのりせんりへだてありても
この事ハなにをゆうてもをもふてもうけとりしだいすぐにかやしを
このかやしなんの事やとをもうなよせんあくともにみなかやすてな
よき事をゆうてもあしきをもふてもそのまゝすくにかやす事なり
この事をみへきたならば一れつわどんなものでもみなすみわたる
今までは神が現れ出たといっても、まだ本当のことを知る者はいない。これからはどのようなことでも、教えておいた本当の神の働きを自由自在にしてみせる。本当の神の働きを見せたら、世界中の人民の心はみな澄み切るだろう。
神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。
次からの神示には「月日」ということばが繰り返し出てきますが、これはその後「おや」と言い換えられ、そのために天理教の神さまのことを「おやがみさま」と呼ぶことになります。つまり、天理教の元となる神さまのことです。それが「日月神示」の「日月」と共通していることにも要注目です。同系統の神さまということを意味してるいるようにも思われます。 
このよふの月日の心しんぢつをしりたるものわさらにあるまい
これまでハいかなる神とゆうたとてめゑにみへんとゆうていたなり
このたびわとのよな神もしんぢつにあらハれだしてはなしするなり
いまからハなにをゆうてもをもふてもそのまゝみへるこれがふしぎや
なにもかもあきをあいづにみへかけるよふきづとめにはやくかゝれよ
この世の“月日”の本当の心を知っている者は全くいないだろう。これまではどんな神であっても目には見えないと言っていたが、これから新しい世になると、その神が本当に現れて話をするようになる。また、これからは何を言っても思っても、そのことがすぐに現象となって現れてくる。なんと不思議なことか。そのようなことがすべて秋(=終末の大峠)を境にして見えるようになる。だから早くようきづとめ(=身魂磨き)を始めなさい。 
いまゝでもたいてくどきもといたれどまだゆいたらん月日をもわく
このたびハなにか月日のさんねんをつもりあるからみなゆうておく
このところたすけ一じよとめられてなんてもかやしせすにいられん
このかやしたいしや高山とりはらいみな一れつハしよちしていよ
このはなしなんとをもふてきいているてんび火のあめうみわつなみや
こらほどの月日の心しんバいをせかいぢうハなんとをもてる
たんたんとくどきなけきハとくけれどしんぢつなるの心たすける
どのよふなものも一れつハかこなり月日の心しんばいをみよ
このよふハ一れつハみな月日なりにんけんハみな月日かしもの
せかいぢうこのしんぢつをしりたならごふきごふよくだすものわない
こゝろさいしんぢつよりもわかりたらなにもこわみもあふなきもない
月日よりをしゑる事ハみなけしてあとハにんけん心ばかりで
今までもほとんど大切なことは述べてきたが、月日(=日月の神)の思わく(=経綸)についてまだ言い足りないことがある。このたびは月日の残念な気持ちが積もり積もっているから残らず言っておく。このいまの世の中において、人民を助ける一番の方法を止められて、まず何事にも“かやし(お返し)”をしないといけなくなっている。
この“かやし”というのは、上に立って権勢を誇っている人民は、その権力を取り払われることになる。いったいどんなことだと思って聞いているのか。それは天火・火の雨・海は津波という形で現れるのだ。それで人民が大変なことになるのを“月日(=日月の神)”は心配をしているのに、世界中の人民はなんと思っているのだろうか。だんだんと説教し、嘆きたい気持ちを説明しているが、誠の心になった者は助けるのだ。どんな者でもみな我が子である。“月日(=日月の神)”がいかに心配しているか(考えてみてほしい)。この世のすべての存在は“月日”の体なのだ。人間の体といえども“月日”が貸し与えたものである。世界中の人民がこの真理を知ったら、もはや豪気・強欲を出すものはいないだろう。心でこの真理を理解しさえしたら、恐いことも危ないことも経験する必要はなくなる。“月日”の教えることをみな消してしまって人間心だけで考えるから(わからないのだ)。 
上たるハそれをしらすにめへめへのわがみしやんをばかりをもをて
月日にハたんたんみへるみちすぢにこわきあふなきみちがあるので
月日よりそのみちはやくしらそふとをもてしんバいしているとこそ
にんけんわが子をもうもをなぢ事こわきあふなきみちをあんぢる
それしらすみな一れハめへめへにみなうゝかりとくらしいるなり
このせかいなにかよろづを一れつに月日しはいをするとをもゑよ
このはなしどふゆう事にをもうかなこれからさきのみちをみていよ
どのよふな高い山でも水がつくたにそこやとてあふなけわない
なにもかも月日しはいをするからハをふきちいさいゆうでないぞや
上に立つ者がそれを知らずに、それぞれが自分のことばかり考えて(=我善し)いるのが残念である。“月日”にはこれからの人間世界の行方(=終末の姿)がだんだん見えてきたが、この先には恐い危ない道があるので、人民に早くその道のことを知らせなければと気になっているところだ。それは人間がわが子のことを思うのと同じで、(可愛い子供が)恐い危ない道に進みはしないかと心配しているのである。
そんなことも知らずに、人民はそれぞれみんな自分のことばかり考えてうっかりして暮らしている。この世界のことはなんでもすべて“月日”が支配していると思っておきなさい。この話はどんなことを意味しているのかと疑問に思うかも知れない。これから先に起こることを見ているとわかるだろう。どんな身分の高い者でも水に溺れることがある。身分の低い人間だからといって必ずしも危険な目に遭うということでもない。
すべて“月日”が支配するのであるから、大きいとか小さいとかいったことは問題ではないのだ。 
これまでもなんでもよう木ほしいからたいていたづねいたるなれども
このたびハたにそこにてハ一寸したる木いがたあふりみゑてあるなり
このきいもたんたん月日でいりしてつくりあけたらくにのはしらや
それからハにちにち月日みさだめてあとのよう木のもよふばかりを
この木いもめまつをまつわゆハんでないかなる木いも月日をもわく
これまではどうしても“よう木(=終末の御用をしてくれる人民)”が必要だから、あちらこちらと探しまわっていたけれども、このたび身分の低い人間のなかにちょっとした役に立ちそうな“よう木”がたくさん見えている。この“よう木”に“月日”が出入り(=憑依する)をして立派な人材に育て上げたら、新しい世を導く国の柱となるだろう。それから先は、毎日“月日”が人民の見極めをして、後継者づくりの段取りだけをすればよくなるのだ。
この終末の御用をしてくれる人民は、女性であろうと男性であろうと関係ない。どのような人民でも“月日”の判断で引き寄せて御用をさせるのだ。 
一れつのむねのうちよりしんぢつにはやくわかりた事であるなら
それからハ月日よろづのしはいするなにかよろづのたすけするぞや
このたすけはやくりやくをみせたさに月日の心せくばかりやで
なにもかもこのせきこみがあるゆへにむねのうちよりそふぢいそぐで
このはなしどこの事やとをもうなよみなめへめへのうちのはなしや
めへめへにむねのうちよりしいかりとしんちつをだせすぐにみへるで
人民がみんなこの真理を理解することができたら、それからは“月日”がすべてを支配して、すべてのことの手助けをしてやるぞよ。この手助けがどのようなものであるかを早く見せたいので、“月日”は心が急(せ)いているのだ。それだけ急ぐことなので、胸の内の掃除を急いでやってほしいのだ。
この話をどこのことだろうと思って聞いていてはいけない。みんな人民一人ひとりの胸の内のことを言っているのだ。それぞれが自分の胸の内を掃除して誠の心になれば、直ぐに真理がわかるようになるのだ。 
いまゝでも今がこの世のはじまりとゆうてあれどもなんの事やら
このたびのぢうよぢざいでとくしんせいまゝでこんな事ハしろまい
月日よりたいないよりも入こんでぢうよぢざいをみなしてみせる
こらほどのぢうよぢざいのしんぢつをはなしするのはいまはじめやで
いままでにも、「今が新しい世の中の始まりの時だ」と言ってきたけれど、人民には何のことかさっぱりわからなかっただろう。このたびは自由自在に手助けをしてみせるから、それを見て得心するがよい。
今までこんな(すごい)ことができるとは知らなかっただろう。“月日”が人民の肉体に入り込んで(=憑依して)、自由自在にコントロールして見せるのだ。神が人間を自由自在にコントロールするという真理について話をするのは、今回が初めてのことだ。 
このせかい一れつみゑる月日ならとこの事でもしらぬ事なし
月日よりみなそれそれとみさだめて善とあくとをみハけするぞや
月日よりなんでこのよにくどいならあしきみへるがきのどくなから
たんたんとをんかかさなりそのゆへハきゆばとみへるみちがあるから
とのよふなものでも月日しんぢつをうけとりたならみなたすけるで
いまゝでハどんなはなしをしたるともなにもみゑたる事ハなけれど
これまてもみなみへきたる事なれどほんもとなるをしらん事から
かみなりもぢしんをふかぜ水つきもこれわ月日のざねんりいふく
この事をいまゝでたれもしらんからこのたび月日さきゑしらする
この世界のことをすべて見通すことができる“月日”であるから、どこで起こることでも知らないことはない。“月日”がそれぞれの人民を見極めて、善と悪の区別をするのだ。“月日”がどうしてこんなにもくどく言うのかと思うだろうが、人民の悪い心や行ないが見えて、その結果がどういう状態になるかがわかっているからなのだ。
だんだんと因果が積もり積もって、牛馬のような畜生の道に落ちていく姿が見えている。それでも、いまどのような心の人間であっても、この“月日”が教える真理を受け取ってくれればみな助けてやるのだ。いままではどんな話をしても、それが形に現れなかったと思っていただろうが、実はこれまでも心に思ったことや言葉にしたことはすべて現象として我が身に降りかかっていたことなのだ。その本元の仕組み(=経綸)がわからないから、因果関係がわからなかっただけなのだ。
雷も地震も台風も洪水も、すべて“月日”の残念な怒りの表現なのだ。このことを今までは誰も知らないから、このたび“月日”が先に知らせておく。 
けふからハせかいを月日みさだめてむねのそふぢにかゝる事なり
このそふぢうちもせかいもへだてないめゑめゑの心みなあらわすで
今日からは“月日(=親神)”が世界を見定めて、人民の心に蓄積しているカルマの掃除を始める。この“掃除”というのは、心の中もそとの世界も同じことなのだ。要するに人民一人ひとりの心(=潜在意識)にあるものを現象として現していくことになる。 
私は『2012年の黙示録』の中で、「カルマは人の潜在意識に沈殿した心の癖(=波動の傾向)である」と述べました。それは一種の精神的エネルギーとして蓄積されていますので、この物質世界に現象として表面化するのを待っているのです。
そして、人がそのカルマの原因となるような心の使い方を続けるならば、さらにそのカルマは蓄積されていくことになります。それはひとくちに言えば「心配する気持ち」だとか「不安な気持ち」などで表現されるものから、人を憎んだり呪ったりする気持ちまでいろいろとあります。
私の本の中では、「気持ち=心=念」と置き換えて、「懸念」「残念」「執念」「怨念」の4つを「マイナスの波動」すなわち「負のカルマ」として説明しました。それらはこの三次元の世界でさまざまな“不幸な現象”として表面化するのですが、その表面化するまでの時間がだんだん短くなっているというのが、これまで述べてきたことでした。
それを『大本神諭』や『日月神示』には神さまの言葉として「時節がきた」と表現されています。つまり、ついに終末を迎えたので、これから大峠となる2012年に向かって時間がますます圧縮され、それにともなって別次元に蓄積されている個人や国、民族、人類全体のカルマが次々に、そして最後は一斉に表面化していくことになるということです。
天理教の「おふでさき」も、じっくり読むとまったく同じことが述べられていることがわかります。しかしながら、明治の初め、まだラジオ放送も始まっていない時代にあって、地方(今の奈良県)に住む一老女(=教祖中山みき)に憑かった神さまが、当時の人民に「世の終末」を伝えるには、言葉選びに大変苦労されたことと思います。
神さまの言葉を受け取った側も、今日のようにマスコミから簡単に情報が手に入るわけではありませんから、言葉の中に述べられている内容を推し量ることには苦労されたことでしょう。しかも、「おふでさき」は短歌の形で言葉少なに表現されていますので、その解釈はさらに困難を極めたことと思います。芹澤茂氏による『おふでさき通訳』の訳文を読んでも、そのままでは理解できない内容がたくさんあります。
そういう観点から、今日世の中に出回っている多くの情報をもとに、再度「おふでさき」の解釈を試みることは意味のあることだと思っています。天理教という宗教団体からすれば門外漢に過ぎない私が、畏れ多くも親神様のお言葉である「おふでさき」の解釈にチャレンジさせていただいたのはそういう判断に基づくものです。 
このはなしなにの事をばゆうならばにほんもからもてんぢくの事
これからハせかいぢうを一れつに月日そうぢをするでしよちせ
この話は何のことかと言えば、日本だけでなく中国やインドなどの外国も含め、世界中の人民の心を一れつに(=すべて)、この“月日(=親神)”が掃除をするということだ。このことを承知しておきなさい。
この「おふでさき」に述べられている「人民の心の掃除」が、単に当時の奈良県に住む人たちや、日本の国民だけを対象にしているわけではないことがわかります。要するに人類全体の問題として述べられているわけで、このことからも並のレベルの神憑かり現象ではないことがうかがえます。 
いかほどにくどきことハりゆうたとてたれかきゝわけするものハない
それゆへだんだんひがらたつけれといつかこれやとわかるめハなし
けふの日ハもふせへつゝがきたるから月日でかけるみなしよちせよ
どれほど言葉で説明し、わからせようとしても、誰もわかるものがいない。そのためにだんだん時間が過ぎていくばかりで、いつになったらわかってくれるかめどが立たない。もう時節が来たから、“月日(=親神)”が出て行って人民の心の中の掃除にかかる。そのことを承知しておきなさい。 
このさきハせかいぢううハ一れつによろづたがいにたすけするなら
月日にもその心をばうけとりてどんなたすけもするとをもゑよ
これから先、世界中の人民はお互いに、すべての面で助け合いをするなら、その「人を助ける」という人民の心を受け取って、今度は“月日(=親神)”がその人民を助けてやろう。(これが「助けるものは助けられる」というカルマの法則なのである) 
なにもかも神のゆう事しかときけなにをゆうてもちがう事なし
しんちつにめつらしたすけをしへたさそこでとのよな事もゆうのや
このよふを初てからにない事をどんな事をもをしへたいから
何でも神の言うことをしっかりと聞きなさい。神の言うことはどんなことも間違いはないのだ。本当に珍しい“たすけ(=カルマの法則)”を教えたいので、いろんなことを言って聞かせている。この世界をはじめてから一度もなかった(終末に関する)ことを教えるのだ。 
けふの日にどのよな事もゆうほどになにをゆうてもしよちしてくれ
いまゝでも神のをもハくまゝあれどひがきたらんでしかゑいたるで
だんだんともふひがつまりきるからハどんな事でもゆうておくぞや
今日はいろんなことを言うが、すべて理解してほしい。今までにも神の思惑はいろいろあったが、時節が来てなかったので言うのを控えていた。しかしながら、いよいよ時節が迫ってきたので、もうどんなことでも言っておくことにする。
「おふでさき」には、ここにあるように「ひがきたらんで」「もうひがつまりきる」という表現がよく出てきます。これは『大本神諭』や『日月神示』に出てくる「時節が来た」という言葉に対応していると見られます。つまり、「終末の大峠が近づく」という意味です。このことは、私が「おふでさき」を終末に関する予言だと断定する根拠の一つでもあります。 
けふまではどんなあくじとゆうたとてわがみにしりたものハあるまい
この心神がしんぢつゆてきかすみないちれつわしやんしてくれ
せかいぢういちれつはみなきよたいやたにんとゆうわさらにないぞや
このもとをしりたるものハないのでなそれが月日のざねんばかりや
高山にくらしているもたにそこにくらしているもをなしたまひい
それよりもたんたんつかうどふぐわなみな月日よりかしものなるぞ
それしらすみなにんけんの心でわなんどたかびくあるとをもふて
月日にハこのしんぢつをせかいぢうへどふぞしいかりしよちさしたい
これさいかたしかにしよちしたならばむほんのねへわきれてしまうに
今日までは、自分が悪いことをしたら、どんなこともすべて自分の身に(“かやし”として)返ってくるということを知っている者はいないだろう。この原理について神が本当のことを言って聞かせよう。みんなよく考えてみてほしい。
世界中の人民はみんな兄弟姉妹なのだ。お互いに他人ということは決してないのである。この元となる真理を理解できる者がいないので、“月日”は常々残念に思っている。身分や地位の高い者であっても社会の底辺にいる者であっても、みんな同じ魂なのである。それよりもぜひわかってほしいことは、人間が使っている体の諸機能はすべて“月日”から貸し与えているということだ。それを知らないものだから、人間心で考えて、人には身分の違いがあると思っている。
“月日”としては、人間はみな同じ魂で、その体は神からの借り物であるということを、世界中の人民にしっかりわからせたいと思っている。これさえちゃんとわかってくれたら、もうお互いが傷つけ合うことになる根本原因はなくなってしまうはずだ。
「人を傷つけることは自分を傷つけること」という新約聖書にも出てくる普遍の真理が述べられています。それは、「人の魂はみな繋がっているから」なのです。お互いに他人と思っている相手も、実は“神”という広大な海にできた別々の波であると見ることができます。その波ができて消えていくまでが一つの人生だということです。
波はすぐに消えて海を構成する水となって還元されます。そしてまた新しい波となって生まれるのです。同じタイミングでできた波をみて、自分と他人、高貴な人と卑しい人、富者と貧者、といった区別をしますが、それはつかの間にできた波の形の違いでしかないということですから、傷つけ合ったり、いがみ合ったりすることは意味がないと諭しておられます。これは道徳律として述べられているのではなく、宇宙の真理が説いてあるのです。 
いまゝでハ月日とゆうてといたれどもふけふからハなまいかゑるで
けふまでハたいしや高山はびかりてまゝにしていた事であれとも
これからわをやがかハりてまゝにするこれそむいたらすぐにかやすで
いままでは“月日”と名乗って説いていたが、もうこれからは名前を変えることにする。今日までは高い地位にある権力者たちが幅を利かして、この世の中を自由にしていたけれども、これからは“親”がそれに代わって世の中を自由にする。この親に反抗する者には、それ相応の報いをすぐに与える。 
いまゝてハ高山とてけんけんとまゝにしていた事てあれども
これからハいかほどたかい山でもなたにそこまゝにさらにてけまい
このさきわたにそこにてハだんだんとをふくよふきがみゑてあるぞや
たんたんとよふぼくにてハこのよふをはしめたをやがみな入こむで
このよふをはじめたをやか入こめばどんな事をばするやしれんで
とのよふな事をしたとてあんぢなよなにかよろつわをやのうけやい
この事をはやく心をしいかりとさためをつけてはやくかゝれよ
今までは高い地位にある権力者たちが威張りちらして、世の中を自由にしていたけれども、これからはどんなに高い地位の者でも、身分の低い人民たちを自由にすることは決してできないのだ。これから先は、身分の低い者の中に、“ようき=用木=新しい世の中を導く人材”がたくさん見えている。
その“ようぼく=用木=ようき”には、これからはこの世界を始めた神がだんだんと入り込む(=憑依する=神憑かる)のだ。この世界を始めた神が入り込めば、どんな驚くようなことをするかわからない。しかし、すべては神が請け負ってやることだから、どんなことがあっても心配する必要はないのだ。このことを心にしっかりと刻んで、早く(心の掃除を)始めなさい。 
これからハこのよはじめてなにもかもない事ばかりゆいかけるなり
このはなしとこの事ともゆハんでなみのうちさハりこれでしらする
どのよふな事でもわがみする事に神のしらんとゆう事はわない
けふの日ハみちがいそいでいるからなどんな事てもはやくみへるで
それゆへにでかけてからハとむならんそこで一れつしやんするよふ
これからはこの世が始まってから一度もなかったことばかりを語るのだ。この話がどこかよその話を言ってるのではない。人民の身の回りに起こる不幸な出来事として現すのだ。どんなことでも人民がすることで神が知らないということはないのだ。
今はもう(終末の大峠への)道が忙しくなって、どんなことでもすぐに現れるようになっている。だから、いろいろな現象が現れはじめてから(心の掃除を始めて)はどうにもならない。そのことをみんなによくわかっておいてほしいのだ。 
いまゝてハなにもゆうたりをもふたりまゝにしていた事てあれとも
このさきわ神がしはいをするからハとんな事でもまゝにてけんで
にんけんのめゑにハなにもみへねども神のめゑにハみなみへてある
こしらゑをやるのハしばしまちてくれとろみづなかいはめるごとくや
今までは何を言っても思っても、(すぐには“かやし”がなかったので)自由にできていたが、この先は神が(言葉や思念を)管理するから、言葉や思念を自由にはできなくなるのだ。人間の目には何も見えていないだろうが、神の目にはこれから先に起こることはすべて見えている。将来に備えて財産をつくるのはしばらく待っていなさい。そんなことをしても、(これからの大峠の天変地異によって)泥水の中に落としてしまうことになるからだ。 
もふけふハなんてもかてもみへるてなこくけんきたら月日つれいく
けふの日ハもふぢうふんにつんてきたなんときつれにでるやしれんで
つれてくも一寸の事てハないほとにをふくみへるがたれもしろまい
いかほとのたかいところとゆうたとてもふけふからわもんくかハるで
さあしやんこれから心いれかへてしやんさだめん事にいかんで
もう今日は何もかも見えているのだ。終末が近づいたら人民を(別次元へ)つれて行かねばならない。今日は十分に時節が迫ってきたから、いつ何時つれにくるかわからないぞ。つれていくと言っても少しの人数ではない。たくさんの人民をつれて行くことになるのだが、だれも(自分のことだとは)思ってないだろう。いくら高い地位にいる者であっても、もう今日からは忠告ではなく警告に変わる。さあもう心を決めなさい。いままでのような(自分さえ善ければよいという)心を入れ替えようと決心しなければいけない。 
月日にハどんなところにいるものも心しだいにみなうけとるで
いまゝでハとんな心でいたるともいちやのまにも心いれかゑ
いんぢつに心すきやかいれかゑばそれも月日がすぐにうけとる
月日にハせかいぢううハみなわが子かハいいゝばいこれが一ちよ
いまゝでハどんなものでもむねのうちしりたるものわさらにあるまい
このたびハとんなところにいるものもむねのうちをばみなゆてきかす
これまでハかへひとよにてへたてたらなにをゆうても一寸しろまい
けふからハよこめふるまもないほどにゆめみたよふになにをするやら
“月日”には、どんなところにいる者であっても、心の状態通りにすべて受け取るのだ。だから、いままではどんな(善くない)心を持っていたとしても、その心を一晩の間にもすっかり(善い心に)入れ替えれなさい。
本当に心を入れ替えて善い心になったら、その心を“月日”がすぐに受け取る。“月日”にとっては世界中の人民はみなわが子だから、可愛いばかりなのだ。この(心の入れ替えという)ことが一番大事にしてほしいことである。
今までは、だれも他人の心の内を知ることは全くなかっただろう。これから(新しい世になれば)、人の胸の内がすぐにわかるようにする。これまでの世では、壁一つ隔てていたら、言っていることが少しと言えども他人に知られることはなかった。今日からは脇目を振る暇もない間に、夢を見たと間違うような(驚くことを)が起こるようになる。 
月日にハせかいぢううのこどもわなかハいばかりをふもているから
それゆへにせかいちううをどこまてもむねのそふぢをしたいゆへから
このそふぢどふゆう事にをもているたすけばかりをふもているから
たすけでもあしきなをするまてやないめづらしたすけをもているから
このたすけどふゆう事にをもうかなやますしなすによハりなきよに
こんな事いまゝでどこにない事やこのしよこふをしらしたさやで
これまてハどこにたつねてもない事やこのたび神がはじめたさやで
“月日”には、世界中の子供(=人民)は、可愛いとばかり思っている。だから、世界中の人民の心の中の掃除(=身魂磨き)をさせたいのだ。この掃除とはどういうことだと思うか。人民を助けるために必要なことなのだ。
助けると言っても、不幸な出来事に遭わないようにするということだけではない。珍しい助けをしてみせようと思っているのだ。この珍しい助けとはどういうことだと思うか。これからは人間は病気もなく、死ぬこともなく、老いて体が弱るということがないようにするのだ。
このような世になるということは、これまではどこにもないことだ。その証拠を早く見せたいと思っている。これまではどこを尋ねてもないことである。このたび、神がそのような世にしたいから(いろいろと述べてきたのだ)。 
すでにおわかりかと思いますが、結論から申しますと「おふでさき」で発せられているメッセージは、『大本神諭』や『日月神示』の内容と同一のものであることがわかります。「おふでさき」を“終末預言”とみなければ解釈できない内容がたくさんありましたが、『大本神諭』と読み比べながら解釈を試みましたので、比較的スムーズに理解することができました。ただし、あくまでも「個人的解釈」ですので、「おふでさき」原文と十分読み比べたうえで判断していただきたいと思います。天理教の信者や関係者の方には、私のような門外漢が、大切な教典に関してこのような大胆な解釈を試みましたことをお許しいただきたいと思います。 
 
日月神示1

 

日月神示(ひつきしんじ、ひつくしんじ)
神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊より自動書記によって降ろされたとされる神示である。原文はほとんどが漢数字、独特の記号、そして、若干のかな文字の混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻有り、天明は、この未発表のものについて「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初はほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者の協力などで少しづつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917-2009)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われている。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的である。その為に、仮訳という副題を添えての発表も有った。
なお、原文を解読し漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになって来たと言われている。 
この本は中矢伸一氏の「日月神示」シリーズの中でも初期の作品の1つです。その中から終末に関する部分のみをピックアップしてみました。
いま世界中で大規模な自然災害が相次いで発生するようになっているため、多くの人が「世の異変」に気づきつつあります。しかしながら、ひところのノストラダムス現象のように、ただ危機をあおり、世を悲観しても、問題は解決しません。私たちは「終末」の意味についてしっかり理解しておくことが大切です。日月神示は聖書と並び、終末に備えるべき心構えを最も的確に表した素晴らしい預言(神から預かった言葉)だと思います。 
大変革はいつ起こるのか
日月神示には、具体的に何年何月に何が起きるといった記述はない。ただし、それをほのめかしたものは、所々に見受けられる。
子の歳真中にして前後十年が正念場。
という記述である。
この「子の歳」が、仮にわれわれに巡って来る一番近い「子歳」を示しているとすると、それは1996年である。
この年を中心とした前後10年とは、1991年から2001年までの期間を指す。あるいはこれが、前10年、後10年を意味しているとすれば、1986年から2006年ということになろう。
いずれにせよ、われわれはすでに「正念場の期間」に突入してしまっている。
各宗教で叫ばれている「世の大峠」「最後の審判」は、もう始まっているわけである。
「子の歳」は1996年ではなく、その12年後の2008年だと思われます。この歳を真ん中にして前後10年というのは、2003年から2013年まで。マヤの予言などから判断しても、2013年から地球は次元上昇することになっています。ということは、すでに2003年から正念場に突入しているのです。(なわ・ふみひと)
具体的に何が起こるかということは、様々な説があり、現時点では不明と言わざるを得ない。ただ、この時にいきなり世界的規模の大変動が発生するという説は、いささか的外れのようである。
私としては、関東大震災のような、比較的小規模な天変地異(それでも実際に起これば未曾有の大パニックになるはずだが)が発生するか、もしくは日本占領を目的とした外国勢力による軍事力の行使が始まる時期と見ている。
総合的な予測としては、大地震の発生などは、いつ起こっても不思議ではなく、またいずれ近いうちに起こるはずのものであることは、心に留めておくべきであろう。
とにかく、世界の大立替えが起こる前に、日本の大立替えが必ず起こる。日本は世界のヘソの国であり、世界を凝縮したカタの国だからだ。したがって、それが人為的なものとして表れるにしろ、自然現象として発生するにしろ、「大峠越え」は、日本から開始されることは間違いない。
ただし、神示によれば、いつどこに何が起こるのかと、そればかりにとらわれ、やっきになって詮索するのは正しくない。大事なことは日々の身魂磨きであり、身魂さえ磨けていれば、どこで何をしていようが、救われる者は救われるのである。
そのことが、『水の巻』第十一帖に記されている。
富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞという心、我れ善し(自己中心)ぞ。何処にいても救う者は救うと申してあろが。 
どのくらいの数の人間が救われるのか
では、実際にどれくらいの人間が救われることになるのだろうか。
日月神示には、「何もかも三分の一になる」といった言葉で示されているが、これが大変動を乗り越えて残される身魂の数が三分の一であることを表わしていると、そのまま捉えるのは少々楽観的過ぎるようだ。
『松の巻』第二帖には、次のように示されている。
神の国を、足の踏むところないまでに汚してしもうているが、それで神力は出ぬぞ。臣民なくなるぞ。残る臣民三分難しいぞ。三分と思えども、二分であるぞ。
ここでは「三分」という言葉を3%の意味で使っていると見るべきだろう。つまり、「残る臣民の数は、3%と思えども2%であるぞ」という意味である。
ただ、この場合でも注意すべきことは、あまり救われる者の数などに囚われて、本質的な部分を見落とすことのないようにしたいということである。本来、どれくらいの数が残るのかという問題は、実はわれわれが考えるべき範疇のものではない。その正確な数字は、「神のみぞ知る」ことなのである。われわれは、ただひたすら、マコトの道を奉戴していることに感謝し、日々の精進に努めることに心を配ればそれでよい。
神示によれば、まず日本に立て替えの現象が発生し、その後に世界の立て替えが起こる。
日本の息の根が止められたと誰しもが思うところまで落とされ、悪神・悪霊の天下と思われた時に、次の段階である世界的規模の大激変が発生する。つまり、日本の立て替えは主に悪神・悪霊たちの力によるもので、世界の立て替えとは、正神直々による神力発動である。
しかし、大局的見地からすれば、そのどちらも大神の働きの現われであり、本来善も悪もないことは、忘れるべきではない。
何もかも、人民まで変わるのが今度の大立て替え。食物も、衣類も、住居も、みな変わるぞと申している時が来ているのぞ。
仏もキリストも何もかもスッカリと救わねばならんのざ。殺して救うのと、生かして御用に使うのとあるぞ。今度はハッキリ区別するのざぞ。昔からの因縁ざぞ。 
すべてが仮死の状態となる
それは、人災や天災をも含めた、「火」と「水」の洗礼であり、陸地の大規模な冠水や隆起、地軸の移動、大地震、大嵐、大雷、大竜巻など、ありとあらゆる異変が同時に発生する大異変である。また、小惑星が衝突するといった外的要因の可能性も少なくない。そして、その大激変のクライマックスには、すべての生き物が仮死状態となることが、ハッキリと記されている。一度は仮死の状態にして、魂も肉体も半分のところは入れ替えて、ミロクの世の人民として甦らす仕組み、心得なされよ。神様でさえ、このこと判らん御方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。大掃除激しくなると、世界の人民みな、仮死の状態となるのじゃ。掃除終わってから因縁の身魂のみを神がつまみあげて、息吹き返してミロクの世の人民と致すのじゃ。月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空は血の色となるぞ、流れも血ぢゃ、人民四ツん這いやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ。大地震、火の雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でも逃れることは出来んぞ、天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ。
この最大にして最後の大激変を通じて、地上物質界は、原子転換のごとき質的な変化を起こす。ありとあらゆるものが半霊半物質という、霊質的に高度な物質と昇華し、生命を吹き込まれる。現在の物質も、必ずこの「霊質」と一体となっている。「霊」と「体(物質)」とは表裏一体のもので、どちらか一方を切り離して考えることはできない。
だが、現在の物質界は、その次元が低く、波長は粗く、従って人間の霊的覚醒も薄く、高級神霊たちとの交流も出来ない状態にある。
来たるべき大激変は、神力の発動によりいわば強制的にその次元への急激な移行が行なわれるために生じる。この時、霊的バイブレーションの低い者たちは、相当な苦しみを受けることになり、霊的昇華に追いつけない者は、肉体的に滅び、淘汰されてしまうことになるのである。
それまでに身魂磨きの出来ている者たちであれば、霊的な質が、新しき世のそれとさほど異なるものではないので、比較的スムーズに移行が可能なのである。その際には、肉体も淘汰されることもなく、大きな苦しみを経験する必要もなくなるだろう。 
ミロク神政の世とは?
日月神示が特に際立って重要である点は、その「ミロクの世」の実現が、人間側にとって決して受け身的なものではないということである。地上天国とは、ただ信じてみたり、拝んでみたりして顕現するべきものではない。実際の行動をもって、つくり上げるべきものなのである。われわれ人間と、神とが一体となって、万有和楽の天国世界を、この世に生み出すのである。日月神示を日々の行動の指針とし、生活することにより、その人の内面に天国が顕現されるであろう。「ミロクの世」とは、そのような人たちが多く現われることにより、はじめてこの世に出で来たるものなのである。
日月神示には、大局的見地からの、地上天国「ミロクの世」に到るまでのおおまかな流れしか示されていない。おおまかな流れは決まっているが、実際の現われ方は、われわれ人間の想念状態の変化や実際の行動などによって、大きくも小さくもなり、厚くも薄くもなる。違って現われてくるのが本当である。したがって、具体的な予言は無意味なものとなる。
神示には、「この世は人間にまかせているのざから、人間の心次第ぞ」と示されている。
予言に頼りすぎた行動をとることは、すべての事象が一人一人の心の反映である事実から目をそらさせ、人間の霊的な進化を阻害してしまう。予言好きの人や、そうしたことに惑乱されやすい人は、この点をよくよく留意すべきであろう。
さて、日月神示によれば、大局的見地から見たおおまかな大改革のプロセスとは、次のようなものである。
1 日本が第二次世界大戦で敗れる。
2 日本が再び勢力を盛り返し、繁栄を取り戻す。
3 「悪」の計画により、日本人は骨抜きになる。
4 外国から攻め込まれ、日本は再び潰される。この時、世界は日本潰しのために一つにまとまる。
5 世界的規模の大変動が発生し、総人類カオス状態となる。
6 あらゆる物質の、質的転換(昇華)現象が起こる。
7 ミロクの世の誕生。 
「悪の計画」が日本人を骨抜きにする
日本は、経済大国として勢力を盛り返し、確かに物質的には非常に豊かになったが、その反面、精神的にはこれまでになかったほど退廃してしまっている。古来から受け継いできた伝統や風土精神は、戦後急速に失われていき、人々は金をすべての価値をはかる物差しとして完全に偶像化した。その時さえよければよい、楽しければそれでいいというような刹那的風潮がもてはやされ、全体のことよりまず自分の利益を優先することに眼目が置かれた。「敬愛」や「誠心」、「忠孝」や「道義」、あるいは「神仏」や「先祖」といった、目に見えないもの、形のないものに対して価値を見出すことは、ことごとくが古臭く、時代遅れと理解されるようになった。いわゆる知識階級や指導的立場にある人々は、唯物科学至上主義を振りかざし、欧米の権威ある筋に裏付けられた情報を何の疑いもなく受け入れ、こぞってわがものとした。その結果、現代の日本民族はどうなったか。
その国の将来というものは、その国の明日を担うことになる子供たちを見ればわかる。日本の青少年の現状を見るがよい。
食生活と生活様式の西洋化に伴い、体格こそ立派になったものの、目は虚ろで無気力、無感動。学力の点では世界最高水準にあるかも知れないが、人格的形成に欠け、道徳的観念は薄く、人間として優れた人物になりたいという気概を持った者はまずいない。肉体的享楽や打算的個人主義に走り、より大いなるもののために尽くすなどという考えはさらさらない。
もちろん、こうしたことは若者だけに見られることではない。総じて、現在の日本国民が興味を持つことと言えば、カネやモノの他には、スポーツ、レジャー、セックス、映画・テレビなどのエンタテインメント、グルメ、ギャンブルなどなど、およそ人格を磨いて霊性を向上させることとはほど遠いものばかり。否、むしろ逆に害のあることばかりに夢中になり、汲々としている。
来たるべきミロクの世とは、高級霊人の住む世界そのままの写しであり、あらゆる殺生のない、嬉し嬉しの天国世界である。四ツ足、虫けらに至るまで、共に手をつないで唄い合う絶対平和、絶対調和の世の中である。この波長の高い、新しき世界に肉体のまま生き残れる人間とは、穀物菜食者のみであることは、間違いないと断言できる。
人間は、このまま自分たちのみの御都合主義による独善的利益を追い求める限り、いずれ必ずその報いを受けることになるだろう。特に、本来守護するべき動物たちを喰らい、大量に殺戮を続けていることは、その罪大なるものがある。世界はそうした大きなメグリの総清算期に突入しているが、その最初の物理的現象は、わが日本に現われるはずである。なぜなら、日本は世界の「雛型」であるからだ。日本が良くならなければ、世界も良くならない。日本の人民もまた変わらなければ、世界の人民もまた変わることは出来ないのである。
神の世と申すのは、今の臣民の思うているような世ではないぞ。金は要らぬのざぞ。お土からあがりたものが光りて来るのざぞ。衣類、食べ物、家倉まで変わるのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあろうがな。誰でもそれぞれに先の判るようになるのぞ。お日様もお月様も、海も山も野も光り輝いて、水晶のようになるのぞ。悪はどこにも隠れること出来んようになるのぞ。博打、将棋は無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきように吹かしてやるぞ。神を讃える声が天地に満ち満ちて、嬉し嬉しの世となるのざぞ。
人力屋、酒屋、料理屋、芸姑屋、娼妓屋、無く致すぞ、世つぶすもとざぞ。菓子、饅頭も要らんぞ。煙草もクセぞ。善き世となったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ。勝手に造ってよいのざぞ。それ商売にはさせんぞ。
この神示によれば、飲食産業や風俗産業などのすべてが淘汰されるというわけであるから、これは今の人間には到底受け入れられない、厳しい通告である。
東京に典型的な縮図を見る現代社会においては、それこそ外食産業や風俗関係の商売が花盛りである。これらのすべてを無く致すと、神示は告げている。
しかし、考えてみれば当然のことであろう。そうした産業の中に、神界的、天国的なものが一つでもあるだろうか。来たるべき高き波長の世界にそぐわぬものは、生き残ることは出来ない。また、己の身魂が磨かれ、波長が高くなってくれば、自然とそうしたものを好まぬようになり、寄り付かなくなる。逆にそのような、間もなく淘汰されるべきものに心魅かれる人は、それら波長低きものとともに、やがて淘汰されてしまう。 
破局は回避出来ないのか
神示に示された内容は、実に厳しい。今の飽食の時代にどっぷりと浸かり、平和ボケした日本人には、到底堪えられない苦難がこれから待ち受けている。しかし、身魂磨きに励むことにより、その苦難を小さくすることは可能である。ここでもう一度、次の神示を見て頂きたい。神示で知らしただけで得心して改心出来れば、大難は小難となるのぢゃ。やらねばならん。戦は碁、将棋くらいの戦で済むのぢゃ。人民の心次第、行い次第で、空まで変わると申してあろがな。
大難であっても、人間の心と行ない次第で、大難が碁や将棋程度のものになる、つまり戦の「型」で済むようになるのである。 
 
日月神示2

 

人類に対する最後通告
現在の日本の社会で暮らしていると、これから世界的な大変動が起こるなどということは到底考えにくい。
物質的には恵まれ、飢えて死ぬようなことはなく、人々は皆それぞれの、個人のことに追われ、自分なりの生活を繰り返しながら毎日を生きている。
この平穏無事な日々が、これからもずっと、半永久的に続くと思って疑わない。日本はこれでよいのか、日本人はこのままでよいのか――そんなことは考えもせず、ただ仕事や遊びに明け暮れる。そういう人が、世間では大多数を占めている。
この平和が、このまま続いて欲しい――誰しもがそう思っていることだろう。
だが、果たして日本国民が現在享受しているこの繁栄、この平和は、今後とも永遠不変に続くものだろうか。思慮深き者であれば、決してそうは思わないはずである。
単に日本のみならず、われわれ人類の近代文明は、あまりにも多大なる犠牲の上に成り立っている。
動物たちへの無益な殺生、自然環境の破壊、資源の浪費、等々‥‥。
人間には地上の代行者として、この世を治めていく天命がある。そのために肉体を持たされているのである。その意味では、人間はこの世の神なのである。
ところが、今の世の人間のあり様はどうであろうか。神の代行を務めるどころか、ガン細胞のごとく地球という星を食いつぶしているではないか。
人間は、このまま自分たちのみのご都合主義による独善的利益を追い求める限り、いずれその報いを受けることになるだろう。特に、本来守護すべき動物たちを喰らい、大量に殺戮を続けていることは、その罪大なるものがある。
世界は、そうした大きなメグリの総清算期に突入しているが、その最初の物理的現象は、わが日本に現れるはずである。なぜなら、日本は世界の「雛型」であるからだ。
日本が良くならなければ、世界も良くならない。日本の人民が変わらなければ、世界の人民もまた変わることはないのである。
今や、悪神・悪霊の日本占領計画の完了は目前に迫っている。しかし、さらに高い視点から言えば、それらの悪神・悪霊が、「悪の御役」となって日本の大掃除をするのである。日本人の祓い浄めをするのである。
それが、メグリの大清算の真の意味であり、来たるべき新しき世界「ミロクの世」に残される人種の選別でもある。 
今は嵐の前の静けさにすぎない
世界は、まさに神示に示された通りに動いている。
今や日本人は、狡猾なる悪神・悪霊たちの謀略により見事に骨抜きにされてしまった。あとはいつ攻め込まれても、何もなす術もないままに「外国軍勢」により占領されることになるだろう。
神示によれば、日本の文化・伝統はことごとく粉砕され、もう二度と立ち上がれまいと誰もが思うところまで落とされる。現在われわれの前に現出しているこの平和は、あたかも「嵐の前の静けさ」を思わせる。
この束の間の静けさの中で、悪神・悪霊たちによる日本占領計画は着々と進行している。しかし、その一方では、救われるべき身魂を探し出し、救済する計画も進行中である。神々によるその救済計画の一端を明かしたものが、この神示なのである。
臣民の肉体に一時は鎮まって、この世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世と致すのぢゃ。花咲く御代近づいたぞ。用意なされよ。用意の時しばし与えるから、神の申すうち用意しておかんと、とんでもないことになるのざぞ。
神の臣民と獣と立て分けると申してあろうが。世の様見て早う改心して、身魂洗濯致して、神の御用つとめてくれよ。
神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出てくるぞ。神は大難を小難にまつりかえているのに判らんか。えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること判らんか。ひどいこと出て来ること待ちているのは邪の身魂ぞ。そんなことで神の臣民とは申されんぞ。臣民は神に、悪いことは小さくしてくれと毎日お願いするのが務めであるぞ。
神の力がどんなにあるか、今度は一度は世界の臣民に見せてやらねば収まらんのざぞ。世界揺すぶりて知らせねばならんようになるなれど、少しでも弱く揺すりて済むようにしたいから、くどう気付ているのざぞ。ここまで世が迫りて来ているのぞ。まだ目覚めぬか。神はどうなっても知らんぞ。早く気付かぬと気の毒できるぞ。その時になりては間に合わんぞ。
いよいよ神が表に現れて、神の国に手柄立てさすぞ。神国光輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。魂磨けば磨いただけ先が見え透くぞ。先見える神徳与えるぞ。
これからいよいよ厳しくなるぞ、よく世の中の動き見れば判るであろが。汚れた臣民、上がれぬ神の国に上がっているではないか。いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。早う神の申すことよく聞いて、生まれ赤子の心になりて神の容れものになりてくれよ。一人改心すれば千人助かるのぞ。今度は千人力与えるぞ。
これから一日一日烈しくなるぞ。臣民心得ておいてくれよ。物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ。
今は神の力は何も出てはおらぬのぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろうがな。早う身魂磨いてくだされよ。外国は○、神の国はヽと申してあるが、ヽは神ざ、○は臣民ぞ。○ばかりでも何も出来ぬ。ヽばかりでもこの世のことは何も成就せんのぞ。それで神かかれるように早う大洗濯してくれと申しているのぞ。神急(せ)けるぞ。
神憑かれる肉体たくさん要るのぞ。今度の行は○(ミ)を綺麗にする行ぞ。掃除できた臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除できた臣民から善き御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たら、この戦は勝つのぞ。今は一分もないぞ。これで神国の民と申して威張っているが、足元からビックリ箱が開いて、四ツん這いになっても助からぬことになるぞ。穴堀りて逃げても、土もぐっていても、灰になる身魂は灰ぞ、どこにいても助ける臣民行って助けるぞ。神が助けるのでないぞ。神助かるのぞ。臣民も神も一緒に助かるのぞ。この道理よく肚に入れてくれよ。この道理わかりたら、神の仕組みはだんだん判りて来て、何という有り難いことかと心がいつも春になるぞ。
今は善の神が善の力弱いから、善の臣民苦しんでいるが、今しばらくの辛抱ぞ。悪神総がかりで善の肉体にとり憑かろうとしているから、余程フンドシ締めてかからんと負けるぞ。
病神がそこら一面にはびこって、隙さえあれば人民の肉体に飛び込んでしまう計画であるから、余程気付ておりて下されよ。
まだまだ敵出てくるなれど、神心になれば、敵、敵でなくなるぞ。敵憎んではならんぞ。敵も神の働きぞ。
世界国々所々に、世の大洗濯知らす神柱現してあろが。これはみなこの方の仕組みぢゃから、皆仲良う手引き合ってやってくれよ。
いざとなれば、昔からの生き神様総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民大丈夫とは申されんぞ。その心通りになること忘れるなよ。早う身魂磨いてくれよ。
この世始まって二度とない世界規模の大変革とは
神示によれば、まず日本に立て替えの現象が発生し、その後に世界の立て替えが起こる。
日本が息の根が止められたと誰しもが思うところまで落とされ、悪神・悪霊の天下と思われた時に、次の段階である世界規模の大激変が発生する。つまり、日本の立て替えは主に悪神・悪霊たちの力によるもので、世界の立て替えとは、正神直々による神力発動である。しかし、大局的見地からすれば、そのどちらも大神の働きの現れであり、本来善も悪もないことは、忘れるべきではない。
神示をつぶさに検討してみると、日本の立て替えが行なわれてから、世界の立て替えに移行するまでのタイム・ラグはほとんどなく、悪の手に染まった近代日本の崩壊と同時に、世界の立て替え・立て直しが始まるようだ。
それでは、その世界の大変革を示した神示のいくつかを抜粋してみよう。
外国から攻めてきて、日本の国丸つぶれというところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ。江戸も昔のようになるぞ。神の身体から息できぬようにしているが、今に元のままにせなならんことになるぞ。
元の世に一度戻さなならんから、何もかも元の世に戻すのざから、その積もりで居れよ。欲張っていろいろ買い溜めしている人、気の毒が出来るぞ。神、よく気をつけておくぞ。
何も心配ないから、神の仕事をしてくれよ。神の仕事しておれば、どこにいても、いざという時には神がつまみ上げて助けてやるから、御用第一ぞ。一日に十万の人死ぬ時来たぞ。世界中のことざから、気を大きく持ちていてくれよ。
神のまにまに神の御用してくれよ。殺さなならん臣民、どこまで逃げても殺さなならんし、生かす臣民、どこにいても生かさなならんぞ。
元の神代に返すというのは、喩えでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ。生の物食うて暮らさなならんし、臣民取り違いばかりしているぞ。何もかも一旦は天地へお引き上げぞ。我の欲ばかり言っていると大変が出来るぞ。
この大掃除、一応止んだと安堵する。この時、富士鳴門がひっくり返るぞ。早う改心してくれよ。
政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時はなくなってしまうぞ。覚悟なされよ。
これまでの改造は膏薬(こうやく)張りざから、すぐ元に返るのぞ。今度は今までにない、文にも口にも伝えてない改造ざから、臣民界のみでなく、神界もひっくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらに御座る守護神さまには判らんのぞ。九分九厘まではできるなれど、ここというところでオジャンになるであろうがな。富や金を返したばかりでは、今度は役に立たんぞ。戦ばかりでないぞ。天災ばかりでないぞ。上も潰れるぞ。下も潰れるぞ。潰す役は誰でもできるが、つくりかためのいよいよのことは、神々様にも判りてはおらんのざぞ。
前にも立替えはあったのざが、三千世界の立替えでなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生き神が天晴れ現れて、悪は影さえ残らぬよう、根本から大洗濯するのぞ。神々様、守護神様、今後は悪も影も残さんぞ。早う改心なされよ。立替えのこと、学や智では判らんぞ。
今度は借銭(悪因縁・メグリ)なしになるまでやめんから、誰によらず借銭なくなるまで苦し行せなならんぞ。借銭なしでないと、お土の上には住めんことに今度はなるぞ。
借銭負うている身魂は、この世にはおいてもらえんことに規則定まったのざぞ。早う皆に知らしてやれよ。立て壊し、立て直し、一度になるぞ。立て直しの世直し、早うなるかも知れんぞ。遅れるでないぞ。立て直し急ぐぞ。立て直しとは元の世に、神の世に戻すことざぞ。元の世と申しても、泥の海ではないのざぞ。なかなかに大層なことであるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れてくれよ。
今の文明なくせんと申してあろうが。文明残してカスだけ無(のう)に致すのぢゃ。取り違い慢心致すなよ。
何もかも、人民までも変わるのが今度の大立替え。食物も、衣類も、住居も、みな変わるぞと申している時が来ているのぞ。
空に変わりたこと現れたなれば、地に変わりたことがあると心得よ。いよいよとなりて来ているのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願いしているのざが、もうおことわり申す術なくなりたぞ。
仏もキリストも何もかもスッカリ救わねばならんのざ。殺して救うのと、生かして御用に使うのとあるぞ。今度はハッキリ区別するのざぞ。昔からの因縁ぞ。
千人万人なら一人づつ手引いてやりてもやりやすいなれど、世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組みであるから、人民早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ。
人民の戦や天災ばかりで、今度の岩戸開くと思うていたら間違いざぞ。戦や天災でラチあくようなチョロコイことでないぞ。あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早う身魂磨いて恐いものないようになっておりてくれよ。肉体の恐さではないぞ。霊(たま)の恐さざぞ。霊の戦や禍は見当取れまいがな。マツリ第一と申すのざぞ。神のミコトに聞けよ。それにはどうしても身魂磨いて神憑かれるようにならねばならんのざ。神憑かりと申しても、そこらに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。マコトの神憑かりであるぞ。
これから起こる世界の大立替えとは、人間だけではなく、動物虫けらに至る、あらゆる生きとし生きるものを対象とした大改革である。天地開闢いらいのこの大激変を乗り切ることのできる者とは、身魂が磨けて、真実の神憑かりとなった者のみに限られるようだ。
また、従来の政治や経済はなくなり、人々の衣・食・住のすべてが変わるとも示されている。これは太古の原始生活に逆戻りするということではない。
想念的には超古代人の純粋さに立ち戻るかも知れないが、ここまで発達した物質文明そのものが崩壊し、この地上から消え去るという意味ではない。物質文明はそのままに、アクだとかカスのみが残らず掃討され、淘汰されるのである。
これは人間の場合も同じと見てよいだろう。すなわち、身魂上のメグリだとか曇りが十分に祓われ、浄化できていない肉体は、淘汰されるということである。
神は待てるだけ待っているという。しかし、世界の大立替えが実際に始まったしまえば、もう議論している暇などなくなってしまう。
なぜなら、その時に起こる大変革とは、「天地まぜまぜになる」ほどの、想像を絶するものだからである。 
すべてが仮死の状態となる
それほど凄まじい大立替えとはどんなものなのだろうか。
日月神示に示された、最終段階における大峠の様子は、他の予言や神典などと比較しても非常に厳しいものと言える。
それは、人災や天災も含めた「火」と「水」の洗礼であり、陸地の大規模な冠水や隆起、地軸の移動、大地震、大嵐、大雷、大竜巻など、ありとあらゆる異変が同時に発生する大異変である。また、小惑星の衝突といった外的要因の可能性も少なくない。
そしてその大激変のクライマックスには、すべての生き物が仮死状態となることが、ハッキリと記されている。
ミロク出づるには、はじめ半ば焼くぞ。人、二分は死、みな人、神の宮となる。西に戦し尽くし、神世とひらき、国ごとに、一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)たりて百千万(ももちよろづ)、神急ぐぞよ。
時節ほど結構な恐いものないぞ。時節来たぞ。慌てずに急いで下されよ。世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。
大峠の最中となったら、キリキリ舞いして、助けてくれと押し寄せるなれど、その時では間に合わん、逆立ちしてお詫びに来ても、どうすることも出来ん。みな己の心であるからぞ。今の内に改心結構。神の申す言葉が判らぬならば、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ。納得の行くように致して見せてあるでないか。
人民一度死んで下されよ。死なねば甦られん時となったのぞ。今までの衣を脱いでくだされと申してあろう。地上界のすべてが変わるのぞ。人民のみこのままというわけには参らぬ。死んで生きて下されよ。立替え、立直し、過去と未来と同時に来て、同じところでひとまず交じり合うのであるから、人民にはガテン行かん、新しき世となる終わりのギリギリの仕上げの様相であるぞ。
残る者の身も一度は死ぬことあるぞ。死んでからまた生き返るぞ。三分の一の臣民になるぞ。これからがいよいよの時ざぞ。日本の臣民同士が食い合いするぞ。かなわんというて外国へ逃げて行く者も出来るぞ。神にシッカリと縋(すが)りておらんと何も判らんことになるから、早く神に縋りておれよ。神ほど結構なものはないぞ。
今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ。今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ。一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れ替えて、ミロクの世の人民として甦らす仕組み、心得なされよ。神様でさえ、このこと判らん御方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。
大掃除激しくなると、世界の人民みな、仮死の状態となるのぢゃ。掃除終わってから因縁の身魂のみを神がつまみあげて、息吹き返してミロクの世の人民と致すのぢゃ。
半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。今のやり方ではどうにもならなくなるぞ。今の世は灰にするより他に方法のない所がたくさんあるぞ。灰になる肉体であってはならん。原爆にも水爆にもビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。岩戸開きとはこのことであるぞ。少しぐらいは人民つらいであろうなれど、勇んでやりて下されよ。
月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空は血の色となるぞ。流れも血ぢゃ。人民四ツん這いやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ。大地震、火の雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でも逃れることは出来んぞ。天地まぜまぜとなるのぞ。ひっくり返るのぞ。
死ぬか生きるかは、人民ばかりでないぞ。神々様も森羅万象のことごとくが同様であるぞ。しばらくの生みの苦しみ。
神が苦しむ時は、人民が苦しみ、人民苦しむ時は神も苦しむのぞ。世界中の苦しみ、地上の苦しみ、天上の苦しみぞ。この大峠を越してから大いなる試しがあるぞ。人の心の難しさ計り知れんほどであるなれど、見て御座れ、見事なこと致して見せるぞ。
この最大にして最後の大激変を通じて、地上物質界は、原子転換のごとき質的な変化を起こす。ありとあらゆるものが半霊半物質という、霊質的に高度な物質へと昇華し、生命を吹き込まれる。
現在の物質も、必ずこの「霊質」と一体となっている。「霊」と「体(物質)」とは表裏一体のもので、どちらか一方を切り離して考えることは出来ない。
だが、現在の物質界は、その次元が低く、波長は粗く、従って人間の霊的覚醒も薄く、高級神霊たちとの交流も出来ない状態にある。
来たるべき大激変は、神力の発動によりいわば強制的にその次元への急激な移行が行なわれるために生じる。この時、霊的バイブレーションの低い者たちは、相当な苦しみを受けることになり、霊的昇華に追いつけない者は、肉体的に滅び、淘汰されてしまうことになるのである。
それまでに身魂磨きの出来ている者たちであれば、霊的な質が、新しき世のそれとさほど異なるものではないので、比較的スムーズに移行が可能なのである。その際には、肉体も淘汰されることもなく、大きな苦しみを経験する必要もなくなるだろう。 
 
三種の神器

 

一 まえがき
「三種の神器」という名そのものはとても有名で、家電製品にまで使われておりました。
しかし真の「三種の神器」がどのようなものであるかについては、あまり知られていないようです。
戦後の歴史教育が軽視したからでしょうが、多少は戦前の教育もうけた私も知らないことが多くあります。
昭和初期の小学生時代、先生から「三種の神器」について習って以来、もう少し詳しく知りたい、という希望をずっと持ち続けてきましたが、多忙な日々を送っていたため、なかなか勉強する機会に恵まれませんでした。
そこで、多少は時間のできた今回、古い時代の史書を元にして、
「三種の神器とは何か」「その歴史はどうなのか」「それは現在どうなっているのか」について、勉強してみました。ここに、その勉強結果を簡単にまとめてみたいと思います。

古くから言われる「三種の神器」とは、つぎの三種の神宝です。
「三種の神器」(サンシュノジンギ/みくさのかむたから)
「神鏡」=「八咫鏡」(やたのかがみ)
「神剣」=「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)(はじめは「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)といわれた)
「神璽」=「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)(または「八坂瓊の五百箇御統」(やさかにのいおつみすまる)
鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象でしたが、とくに皇宮に永く継承されている「三種の神器」は、日本全体の祖神ともいうべき〈天照大神〉の時代に端を発し、それが現在まで――精神としても物としても――伝えられているものであり、日本の歴史において特別重要な意味をもっております。
以下、物としての「三種の神器」についても述べますが、元来それは君民一体の日本民族の精神であり心のよりどころですので、その点は誤解なきようお願いいたします。 
二 「三種の神器」の由緒
高天原において、素戔嗚尊の乱暴に悩んだ〈天照大神〉が天の岩屋にお隠れになったとき、困った神々が岩屋の前に天香具山の聖木・榊を立て、上部に「神璽」をかけ、中ほどに「神鏡」をかけたのが、この二つが歴史に出てくる最初です。
「神鏡」である「八咫鏡」の咫は手指をひろげた長さとされますが、ここでの意味は立派な神鏡ということであり、伊斯許理度賣命(いしこりどめ)がつくったとされます。
鏡をつくる職人集団・鏡作部の祖神です。
(注:実年代の推理は困難ですが、二千年以上前だろうと思われます)
この鋳造のとき、はじめ表に傷ができたので、そのあと無傷のものを造り、これが「神鏡」となりました。
はじめの傷のあるものは和歌山県の日前・国懸神宮のご神体になったという伝承があります。
この神社は神武天皇がご創建になったとされます。
「神璽」と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命と呼ばれる職人集団の祖神です。
家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものです。 「神剣」は、高天原から追放された素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したとき、その尾のなかから出てきた霊剣で、それを和解した〈天照大神〉に献上したものです。これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もあります。
神棚の向かって左の眞榊にこの「神剣」を模した剣がかけられております。
(注:素戔嗚尊が大蛇を斬ったときに使った天十握剣も神剣とされ、その霊威は物部一族の本拠《石上神宮》(現天理市)に奉斎されました。布都斯魂大神(ふつしみたま)と呼ばれ、主祭神のひとつになっております。この神社には、「草薙剣」以外の、神話に出てくる著名な神剣がほとんど祀られています。物としても一部は拝殿奥の禁足地から発掘されています)
〈天照大神〉は、天孫の瓊瓊杵尊が高天原から日向の地に降臨するにさいしてこの「三種の神器」を授け、とくに「神鏡」については、
「此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉(古事記)」 (この鏡を自分(御霊代)だと思って奉斎するように) ――とお教えになりました。
このため「三種の神器」のなかでも「八咫鏡」は別格の存在として扱われてきております。 
三 「三種の神器」の神社への奉斎
「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきました。
しかし、第十代崇神天皇の御宇に、大和朝廷に大きな変化がおこり、「神璽」はそのままでしたが「神鏡」と「神剣」は〈豐鍬入姫命〉(とよすきいりひめ*)が斎王(いつきのみこ)としてあずかって、皇宮外の神社に奉斎することになりました。この神社は〈豐鍬入姫命〉から〈倭姫命〉にかけて何カ所も遷りましたが、第十一代垂仁天皇の御宇に《伊勢神宮》の内宮――皇大神宮――におちつきました。
(*:崇神天皇の皇女で『魏志倭人伝』にある卑弥呼の後継者台与(トヨ)の有力候補です)
このうち「神剣」は、つぎの第十二代景行天皇の御宇になって皇子の日本武尊が東国遠征の途におつきになったとき、伊勢神宮を守っておられた〈倭姫命〉から授けられ、火攻めにあった際に草を薙いで一行を助けたため、「草薙剣」という別名がつきました。
日本武尊は《大和》に帰ることができずに悲運の死をとげますが、そのとき剣がおかれていた近くに熱田神宮ができ、剣はそこに祀られました。
熱田神宮の場所は、昔尾張国だった名古屋市内でありますが、そういう関係でこの「神剣」の管理は尾張一族がおこなうことになりました。
豪族尾張は〈饒速日命〉の天道日女命系の子孫ですが、神武天皇と争った一族の子孫が責任者になったのはおもしろいです。
天皇になれなかった武将を大切にしたともいえるのでしょう。
(注:日本武尊は実質天皇であったという説もありますが、正史では天皇にはなっておりません)
なお熱田神宮の大宮司は、頼朝の時代の直前に尾張氏のかわって藤原一族が担当しますが、その藤原大宮司の初代・藤原季範の娘が頼朝の母親です。
そのため頼朝は伊勢神宮や熱田神宮への崇敬心が高かったと言われています。
《伊勢神宮》は二十年ごとにすべてを作り直す式年遷宮――前回は平成五年でつぎが平成二十五年――がなされますが、そのときは、本殿だけではなく多くの神宝類も同じ形のものをつくりなおします。
このとき二振りの宝剣用にトキの羽が必要なのでトキの絶滅が大問題になったのです。
ただし、「八咫鏡」だけは――当然のことではありますが――絶対に触ることも見ることもなく、慎重に奉斎され新殿に遷される。
新造されるのは、それを収める容器の方で、式年遷宮の中でも最重要な儀式とされています。
熱田神宮の話をくわしくするゆとりはありませんが、境内二十万平米、摂末社四十四、年間一千万の参拝者で賑わう巨大な神社です。
合計百二十五社からなる《伊勢神宮》ほどではありませんが、日本を代表する神社であることは間違いありません。
「草薙剣」のほかにも数々の神宝をもち、国宝二十七、重要文化財七十六、県指定文化財五十三を数えるという、文化財の宝庫でもあります。
さて、崇神天皇の御宇に「神鏡」と「神剣」が神社に奉斎されたわけですが、このとき、別御霊(みたまわけ)すなわち御分霊として似た鏡と剣が奉製され、それを皇宮に奉安することになりました。
したがってそれ以後、皇宮には、新たにつくられた「神鏡」と「神剣」と、そして元来の「神璽」とが、奉斎されることになったわけです。
これもやはり「三種の神器」と呼ばれて、きわめて重要視されてきました。
天皇が即位なさるときに継承されるのは、こちらのほうの神器です。
別御霊が奉製されたときの伝承は『古語拾遺』に記されております。
「磯城の瑞垣の朝に至りて、漸に神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。故、更に斎部氏をして石凝姥神が裔・天目一箇神が裔の二氏を率いて、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、今踐祚す日に、献る神璽の鏡・剣なり。仍りて、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神(ひもろき)を立てて、天照大神及草薙剣を遷し奉りて、皇女豊鍬入姫命をして斎ひ奉らしむ」(難しい漢字は便宜的な使い方をしております。以下同様)
このことを、巖垣松苗は幕末のベストセラー『國史略』においてつぎのように表現しています。
「初め神祖、神寶を瓊瓊杵尊に賜ひて以来十世、牀を同じくして起臥し、未だ嘗て須臾も離れざるなり。是に至りて褻涜(なれけがすこと)を懼れ、剣鏡を模造して御牀に置き、而して皇女豊鍬入姫命に命じ、斎戒して眞寶を載せて奉祀せしむ」
以後、説明の便宜上、皇宮に奉安された「三種の神器」を「神鏡」「神剣」「神璽」と記し、伊勢神宮と熱田神宮に奉斎された神器を「八咫鏡」「草薙剣」と呼ぶことにする。 
四 「三種の神器」の皇居における奉安の場所
「神鏡」は別御霊とはいってもやはり別格であるため、平安時代からは温明殿などの別殿を造営して奉安し、みだりには動かさないことになりました。
これは内侍(女官)がつかさどるので内侍所と呼ばれました。
明治以後は賢所(かしこどころ)と呼ばれるようになりました。
この「神鏡」を祀る賢所と、神々を祀る神殿と、歴代天皇の霊を祀る皇霊殿が、いわゆる宮中三殿であり、天皇皇后両陛下はこの三殿への参拝を毎日欠かしません。
現在この賢所や皇霊殿をお守りする内掌典は、未婚の女性が選ばれて、世俗を避け身を清めて泊まり込んで奉仕しているそうです。
これはおそらく、伊勢神宮の斎王にならっているのでしょう。内掌典長は終身で、他は二年交替といわれます。
一方「神剣」と「神璽」は、はじめは「神鏡」のそばにありましたが、近世以降は天皇皇后が日常お暮らしになる場所のそばに「剣璽の間」をもうけて、そこに奉安しお守りなさることになり、それは今に続いています。
そして、つねに天皇とともにある――という大原則によって、行幸のさいには、「剣璽」も同行(ご動座)されるのがきまりになっていました(*)。
ただし賢所の「神鏡」は別格なので不動である。
(*)この御動座は、終戦後に中断したが、憂国の士の熱望によって、昭和四十九年の伊勢神宮への行幸の際になされたと言われます。 
五 剣璽等承継の儀
皇居内の「三種の神器」は、天皇の代がかわれば、とうぜん新しい天皇がそれをひきつぎます。
皇位の継承にともなって神器も相承されるのです。
ただ、その方法は時代によって変化してきました。
豪族が割拠していた大化改新の前までは、践祚時に有力氏族の代表が「神鏡」と「神剣」をいったん預かって、あらためて新天皇に献上する儀式があったようです。
これは、新天皇を豪族たちが認めたことを証明する重要な儀式だったのでしょう。
ただし「神璽」は内侍が皇居内に奉斎したままだったようです。
つまり皇居内の女官がずっと祀っていたことになります。
「神鏡」>「神剣」>「神璽」の順に格付けされていたことがわかります。
大化改新以後は、祭祀職の忌部(齋部)氏が鏡剣献上を役職としておこなうようになりました。
忌部氏はのちに、同じ祭祀職の中臣氏(藤原家の祖)に圧せられたことを無念に思って、有名な『古語拾遺』を編纂したといわれる一族です。
この鏡剣献上の儀式は平安時代になって、践祚時ではなく大嘗祭――新天皇の最初の新嘗祭――における行事にかわりましたが、八世紀初めにはそれも無くなり、かわりに「剣璽渡御の儀」が成立します。
これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式で、ここではすでに豪族による献上の儀式は影がなくなっています。
そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿などの別殿に奉安したままで動かさないことになりました。
この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれました。
このとき今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽」と日本国の印章である「国璽」であった。
そして同時に今上天皇は、「神鏡」が奉安されている賢所へ、このことを奉告する儀式をなされました。
〈天照大神〉の御霊である「神鏡」は、まったくの別格扱いなのです。
以上が、〈天照大神〉から神武天皇を経て連綿として平成の世までつづく「三種の神器」の継承です。
それは、神武天皇から数えても二千六百六十年(考古学的にはほぼ二千年)も続いております。
もちろんこの長さは、世界に類例がありません。
あるイギリスの貴族が、かつてこの連綿たる長さを知って感激して、神武から昭和まで百二十四代すべての天皇名を暗記して朗詠したというエピソードがあります。
(注:なお実際には最低でも百三十代になるだろう――という説があり、著者もそれに賛成ですが、その内容は略します) 
六 熱田神宮における「草薙剣」の危機
祭政一致の古代におきましては、神器は政争の的でもあって、その継続には困難がありましたが、神社に奉斎されている方は、皇居内の神器ほどの苦難には遭っていないようです。
しかしそれでも、危機は何度かありました。
とくに熱田神宮の「草薙剣」は、つぎのようなきわどい被害にあっていることが、史書の記録に残されています。
〔一〕天智天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅の密偵・沙門道行が、「草薙剣」を神宮から盗んで帰ろうとしました。しかし海が荒れて船が出ず、必死で追跡した神宮関係者によって、大阪湾で捕らえられました。このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だというのでずっと開かずの門とされています。(現韓国の古代王朝との軋轢は、神代から絶えることがありませんでした。朝鮮半島とのトラブルは、古い史書に無数に記されています。たとえば、瀬戸内海に繋留していた大和朝廷の多数の新造船が、半島からのスパイによって放火されて全焼したという記録もあります。実紀年で四世紀後半のことです)
〔二〕新羅の密偵によるこの事件は朝廷でも問題となり、事故再発を防ぐために皇居に置くことになりました。しかし天武天皇のご病気の原因がこのことだとの説が出て、さらに神宮側の懇望もあって、天武十三年(西暦六八六年)に返却がきまり、その年の十二月に熱田神宮に戻りました。
〔三〕熱田神宮の火事は何度もあったようですが、鎌倉時代の西暦一二九〇年に社殿が焼けたとき、火のなかから「草薙剣」を助け出す様子を、ここで奉仕していた貴人の娘が日記に書き残しております。
〔四〕江戸も幕末になった西暦一八三九年に、賊が神社に入って「草薙剣」を奪って逃げました。賊はただちに捕らえられ、剣は無事でしたが、これに懲りて神殿を改造しました。
〔五〕大東亜戦争の末期になった昭和二十年の三月と五月、東京大空襲と同じ時期に、焼夷弾によって神域に大被害が出、本殿の主部だけがかろうじて残りました。このころから神社をねらい打ちに爆撃するという蛮行がなされだしましたので、本殿を解体して隠しました。それから岐阜県の神社の境内に地下の熱田神宮をつくるという計画ができましたが、これは実行されないうちに終戦となりました。米軍の進駐にさいしては、万一の略奪を考えて、「草薙剣」を飛騨の水無神社に隠し、仮殿をたてて奉斎しました。
〔六〕昭和三十年になって、崇敬者の寄付と《伊勢神宮》の古殿の用材によって、本殿の再建がなり、正式に遷宮して、現在にいたりました。
戦後の混乱期には、米軍の神社への無理解によって、ほとんどの神社の鎮守の森が失われ、パリなど欧米の大都市に劣らなかった東京など大都市の緑地比率が、大幅に縮小してしまいました。
もともと神道は諸宗教を超越した日本独自の習俗なので、神社の境内は、信教とは無関係に誰でも入れる場所であり、公園と同じ役目を果たしていたのですが、それが米軍の無理解によって潰されてしまったのです。
また貴重な遺跡である奈良県の前方後円墳なども、米軍のブルドーザーによって壊されて倉庫などになり、そのおりに出土した貴重品がゴミとして捨てられるという被害がたくさん出ております。 
七 伊勢神宮における「八咫鏡」の危機
一方《伊勢神宮》のほうは、さいわい熱田神宮ほどの混乱はなかったようですが、それでも皇室の力が弱まった時期には、遷宮もままならず、正殿も古びてしまって危機に瀕した時期もありました。
「桓武天皇の御宇にあった放火窃盗事件」「平安期における御正殿への乱入事件」「室町後期から安土桃山にかけての百年以上の遷宮中断」・・・などが知られています。(この中断を救って式年遷宮を再開させたのが、伊勢神宮近くの仏寺の尼僧たちの活躍であったことは、あまり知られておりません)
これらの苦難の間も「八咫鏡」は大切に守られてきましたが、意外な危機もありました。
第二十一代の雄略天皇の皇女の稚足姫は《伊勢神宮》の斎王として仕えていました。
伊勢斎王は独身の皇女がつとめる習わしでしたが、雄略天皇三年に、男女関係で讒言があって妊娠していると言われ、悲嘆した皇女は、五十鈴川の川上に「八咫鏡」を埋めて自害してしまいました。
必死で探しているうちに、ある場所に虹がかかったので掘ったところ、「八咫鏡」が埋められていた――という伝承があります。(虹というのは神秘性を強調するための修辞です)
これは『日本書紀』にかなり詳しく記されており、当時の大事件だったことがわかります。
実年代は推定五世紀後半です。
またもちろん、終戦直後には、アメリカの軍人が神域の神木を切り倒して遊ぶなど、危機がありました。
(注:はっきりはしませんが、何らかの形で「八咫鏡」の疎開を図った可能性もあると思います)
戦後は、一宗教法人になってしまったために、やはり遷宮もままならず、緊急的に延期――本来は昭和二十五年の筈が昭和二十八年に延期――するなど苦しい時代がありましたが、熱心な人たちの協力で、やっとまともな姿に復旧しました。
平成五年の式年遷宮においては、四百億円に近い史上最高額の浄財が集まり、そのため現在の《伊勢神宮》は空前の充実ぶりです。
平成二十五年に予定されている第六十二回式年遷宮については、平成十六年四月五日に、天皇陛下より「御聴許」を賜って、北白川道久神宮大宮司において準備が進められることになりました。総額五百五十億円が試算されている大行事です。なお心配は金銭面だけではなく、特殊技能者の不足もあるし、檜のような用材にもあります。今回は社殿以外には代替材を考えているとのことです。 
八 「三種の神器」の実体
つぎに「三種の神器」の実体ですが、これは眼で見てはいけないことになっていますので、公式的には分かりません。
しかし、いろいろなことから、おおまかな推定はついております。
〈一〉「八咫鏡」の実体
伊勢内宮の「八咫鏡」は、厳重な器に入れられて、内宮本殿の中に、人間が夜寝るのに近い形で奉斎されています。つまり、寝間着状の布にくるまれ、敷き布団状と掛け布団状の寝具にはさまれて器の中に安置されています。その器を式年遷宮のときに交換する儀式があり、また時々寝具を交換する儀式があり、それは暗い夜に眼をつぶった神職によってなされるのですが、江戸時代の神職が、眼をつぶったままで入念に触り、それを記録に書き残しているのです。
それによりますと、
「直径が二十センチほどの凸面鏡で、中心に紐を通す輪がついており、裏には同心状の唐草模様のような模様があった」――となっています。
この形状や模様や大きさは、遺跡から出土する弥生時代の各種の鏡と大きくは違っておりません。
容器は、「御樋代」および「御船代」と呼ばれております。
「八咫鏡」はまず、新しい寝具にくるまれた形で「御樋代」に奉安され、その「御樋代」を「御船代」という船型の容器に奉安します。
いずれも檜づくりで、荘重な祭儀としてつくられます。
この「御樋代」の寸法によって「八咫鏡」の大きさが推理できるのですが、それは、
深さ約40センチ(内寸約25センチ)
直径約60センチ(内径約50センチ)――とされています。
したがって、江戸時代の神職の記録と矛盾しない大きさです。
(注:この二つの容器は、新規のものを造るだけではなく、旧殿から新殿に遷宮される途中のわずかな経路の間だけに使われる「仮御樋代」と「仮御船代」も造られます。ご神体の遷宮時には、「仮御船代」をさらに長方形の大きな覆いで覆って、絶対に直視することのできないようにして、旧殿から新殿に運ばれます。古い容器は別の神社に祀られたり埋葬されたりするようです)
この寸法は内宮のものですが、じつは、外宮においても、式年遷宮のときに、まったく同じ形の同じ寸法のものが造られます。
このことから、外宮のご神体も、内宮のご神体「八咫鏡」と、大略同じ寸法形状のお鏡ではないか――と想像されます。
外宮のご神体の由緒については、いくつかの伝承がありますが、ここでは略します。
(注:「八咫鏡」の次に御正殿で重要なものは中央下にある「心御柱」です。遷宮時における古くなった方の心御柱の処置については、面白い話がいろいろとありますが、割愛します。外宮のご神体とともに、著者による別の論考を参照してください)
(注:なお宮中における「神鏡」も、とうぜんながら、似た寸法形状だと拝察されます)
〈二〉「草薙剣」の実体
熱田神宮の「草薙剣」についても、江戸時代にひそかに見てしまった神官の記録があり、それによると剣というよりも鉾に近いものだったとされております。
しかし、もともと鉾の先と古代の剣とはほぼ同じ形状であり、そりのある日本刀を見慣れた江戸時代の人が錯覚したのでしょう。
文書に残されている記録とは、
「長さ五尺の木の箱の中に石の箱がありその中に樟(楠木)をくり抜いた箱があり、そこに黄金を延べ敷いて、その上に鎮座していた。長さは二尺七、八寸くらいで刃先は菖蒲の葉のようで元の部分六寸くらいは魚の背骨のようで、色は全体的に白だった」――というものです。
また、容器の記録としては、前記した一二九〇年の鎌倉時代の火事の際の貴人の娘の日記があり、
「幅一尺長さ四尺の漆の箱のなかの赤地の錦の袋に入っていた」――と書かれています。
さらにもう一つ貴重な記録があります。
それは、先に述べた昭和二十年の飛騨への疎開のときに、袋にくるまれたまま捧げ持った神官の記録です。
それによりますと、
「寸法は二尺ほどで、重さから判断して銅剣らしい」――ということです。
これらを総合しますと、
「長さほぼ六十センチくらいの諸刃の銅剣」――ということになるでしょう。
(注:鉄ではないという事は、色彩の記録からも分かりますが、楠木の箱に入っていたことでも推量できます。楠木だと鉄では錆が早くて持たないと思われるからです)
(なお宮中における「神剣」も、今上天皇の承継の儀におけるお写真に容器が写っており、その大きさから、似た寸法形状だと想像されます)
〈三〉「八坂瓊勾玉」の実体
現在皇居に奉安されている「八坂瓊曲玉」についても、次の資料が残されています。
源平合戦の最終局面で、安徳天皇が壇ノ浦で入水なさったとき、「八坂瓊勾玉」は比較的軽かったために、容器が海面に浮いて、源氏の兵がこれを拾い上げました。
そのとき、何も知らない兵士が中を覗いている有様を、女官の一人が見て、それが伝えられて記録されました。
それによりますと、
「容器は二段になっており、各段に四つの珠玉があった」――そうです。
つまり計八つの珠玉よりなっていることになります。「八坂瓊曲玉」という名前どおりです。
もともと「八坂瓊勾玉」は紐でつないで首にかけるものですが、紐はすぐに消滅してしまうので、勾玉のみが奉安されていたのでしょう。(高森明勅氏の著作より)
もちろん「三種の神器」の科学的な意味での本当のことはわかりませんし、考古学的に詮索すべき事でもありませんが、弥生〜古墳時代の遺跡から多数出土する鏡、剣、勾玉を代表する神宝であることはまちがいありません。 
九 皇居内の「三種の神器」の苦難
先に伊勢神宮と熱田神宮の神器の苦難を記しましたが、皇居内の神器は、皇統の証であるため、南北朝時代など、危機一髪の事件が記録されております。
政争や戦乱にも巻き込まれて、神宮の神器にくらべて、さらに苦難の連続だったと言えるでしょう。
ざっと列記してみます。
〈一〉
「神鏡」は、
「村上天皇の天徳四年九月二十三日(西暦九六〇年)」「一條天皇の寛弘二年十一月十五日(西暦一〇〇五年)」「後朱雀天皇の長久元年九月九日(西暦一〇四〇年)」・・・など平安中期に三度も火災にあって被害をうけ、そのつど修復しましたが、灰燼とはならず、かろうじて形を保ちました。
ただしこの時代に再度新しい「神鏡」を造ったとも解釈でき、そのため、現在の皇居賢所に奉斎されている「神鏡」には、推定三世紀の第十代崇神天皇の御宇の新造を修復したものと、平安期に新造したものと、二面がある――という話が書かれた本もあります。
皇居の火災はその後もあり、
「鳥羽天皇の天永三年(一一一二年)」「後小松天皇の応永八年(一四〇一年)」「後土御門天皇の文明十一年(一四七九年)」「霊元天皇の寛文十三年(一六七三年)」「光格天皇の天明八年(一七八八年)」「明治天皇の明治六年(一八七三年)」「昭和天皇の昭和二十年(一九四五年)」・・・などが知られておりますが、これらのときは、幸いにして「神鏡」はご無事でありました。
〈二〉
つぎに、「神剣」が失われてしまった大事件について、記します。
安徳天皇の寿永四年三月二十四日(西暦一一八五年)、壇ノ浦の源平合戦に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈むという悲劇がありましたが、このとき「三種の神器」も動座して船上にありました。
幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位尼でしたが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽」(=「八坂瓊勾玉」)の御箱をかかえていました。
「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水ののちに浮き上がり、源氏の兵士・片岡太郎經春によって拾われました(平家物語)が、「神剣」は箱がなくしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士や海女たちが動員されて、必死の捜索がなされましたが見つからず、ついに行方不明のままとなってしまいました。
このとき、安徳天皇の母親で清盛の娘にあたる建礼門院も同時に入水したが、源氏の兵士が熊手で引き揚げて助かったそうです(吾妻鏡)。
一方「神鏡」は安徳天皇の乳母の大納言佐殿が櫃ごとかかえて海に入ろうとしましたが、源氏の矢で衣が船に縫いつけられて果たさず、船上に残りました。
この「神鏡」を、何も知らない源氏の兵士が蓋をあけて覗こうとしたところ、たちまち目が眩んだという伝承があります(吾妻鏡)。
このとき船上にあった平家の平時忠が乱暴な源氏兵士を制止して「神鏡」を大切に扱うよう説得し、京都へ戻ってその功績を述べて命乞いしたが入れられなかった――という話もあります。
源義経は、兄の頼朝から「「三種の神器」を大切にせよ」と厳しく言われていたので、助かった「神鏡」を丁重に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻しました。

以上は『平家物語』の有名な一節を元にして記しましたが、当時の史書『吾妻鏡』にはもっと詳しい記述があります。
参考までに、源氏がどのように海に没した「神剣」を捜索したかの記録を、『吾妻鏡』から抜粋しておきます。
元暦二年(1185年)三月
源頼朝が平家追討の弟の範頼に、「三種の神器」を確保するよう注意した記述。平家滅亡のとき、「神鏡」「神璽」は無事だったが「神剣」が海に沈んだ記述。(源氏の兵士が「神鏡」を開こうして目が眩んだ話や、平時忠が制止した話なども)
元暦二年(1185年)四月
源頼朝が弟の義経に、確保した「三種の神器」を朝廷に返還するよう命令。飛脚が義経の戦勝報告を鎌倉に届けたが、その中で失われた「神剣」を探そうとしている旨が書かれていたとの記述。同月下旬、「神鏡」「神璽」が京都へ戻った話。義経が鎧を着て供奉したとの記述。
元暦二年五月
頼朝の弟範頼に鎌倉から飛脚で、「神剣」を探すように指示が出たとの記述。
文治三年(1187年)六月
厳島神社の神主に、海女を使って「神剣」を探すよう頼朝から命令が出たとの記述。
結局、いくら探しても見つからずに終わってしまいました。いまでも瀬戸内海に沈んだ小さな金属を探すなど、至難の技だから、無理もありません。

『増鏡』の冒頭にも、上に関連した「三種の神器」の話があるので、引用しておきます。
寿永二年(1183年)八月二十日、(後鳥羽天皇が)御年四にて位につかせ給けり。――という文章の次に、
「内侍所、神璽、寶剣は、譲位の時かならず渡さる事なれど、先帝(安徳)筑紫へ率ておはしければ、こたみ初て三の神寶なくて、めづらしき例に成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり歸のぼりけれど、寶剣はつゐに、先帝の海に入給ふとき、御身にそへて沈みけるこそ、いとくちをしけれ。」――とあります。
第八十一代安徳天皇が西海にあったとき、入水崩御の前であったが、つぎの第八十二代後鳥羽天皇が三歳と一ヶ月で踐祚された時の記録です。

藤原兼實の『玉葉』(日記体の史書)は、「三種の神器」の危機の時代の詳しい記録であり、かつ、神器の精神論の先駆ともいうべき記述があって注目されます。後鳥羽天皇は、安徳天皇が「三種の神器」とともに西走なさったために、寿永二年(1183年)八月二十日に踐祚されたのですが、その踐祚の日の日記に、つぎのようにあります。
「不得剣璽踐祚之例希代之珍事也」(神器なしの踐祚は例のないことである)
また、新天皇をひろく知らせる即位の式典は元歴元年(1184年)七月二十八日になされましたが、この日がせまった同年六月二十六日に、つぎのように記されています。
「先我朝之習、以剣璽主爲國王、不待璽踐祚之例、書契以來未曾聞、然而依無止事、有立王事、天子位不空一日之故也、然而至于即位者、待剣璽之歸來、可被遂行也」(わが朝廷では神器の主をもって君主とするのであって、神器を持たずに踐祚(*)する例は聞いたことがない。しかし、天子の位は一日も空けるべきでないので、今はやむを得ないが、即位の式典は神器が戻ってからにするべきである)
(* 踐祚は皇嗣が天皇の位を受け継ぐことであり、即位はそれを天下万民に告げる式典のことです)
しかし、神器無しの即位の儀式をせざるをえない事態になったため、同月二十八日の日の日記に、後世注目された見解を記しています。
「不帯剣璽、即位例出來者、後代亂逆之基、只可在此事」(神器を帯びずに即位する例が出てしまったという事は、後に世が乱れる原因になるであろう)
この『玉葉』の翌年の記録――元歴二年四月二十五日から二十八日にかけての日記――には、「神鏡」「神璽」が源義経によって朝廷にもどされたときの有様が詳しく記されています。『玉葉』は天皇に仕えていた要人の記録なので、史実性が高く、貴重です。

なお、この「神剣」が沈んでしまった事件について、『愚管抄』に興味深い解釈があります。それは、武士階級が勃興して皇室をお守りするようになったので、「武」を象徴する「神剣」が不要になった――という以下のような説です。
「抑コノ寶剣ウセハテヌル事コソ、王法ニハ心ウキコトニテ侍ベレ。コレヲモココロウベキ道理サダメテアルラント案ヲメグラスニ、コレハヒトヘニ、今ハ色ニアラハレテ、武士ノキミノ御マモリトナリタル世ニナレバ、ソレニカヘテウセタルニヤトヲボユル也」
『愚管抄』は天台座主の慈円が書いた歴史書であるため、仏教的な運命論で解釈されたのでしょう。
〈三〉
この大事件によって「神剣」が失われてしまいましたので、それからしばらくは宮中においては、「神剣」につぐ宝剣であった清涼殿の「晝御座剣(ひのおましのつるぎ)」で代用しておりましたたが、のちに《伊勢神宮》の祭主が奉った宝剣を用いることになりました。
「晝御座剣」とは、天皇のおられる場所の守り神として重要視されていた宝剣であり、安徳天皇が西国に向かうとき、「三種の神器」とともにこの剣も携える予定だったのですが、周囲の人たちがあわてたため、置き忘れてしまい、皇居に残された――といわれています。
ところがこの第二の宝剣についても、壇ノ浦の二ヶ月後の元歴二年(1185年)五月に皇居に強盗が入って盗まれるという事件が起こりました。
幸いにして警護の武士が取り返しましたが、当時の皇宮は、強盗・殺人・放火など、惨憺たる有様で、のちに源頼朝が必死で治安回復につとめたことが知られています。
第八十二代後鳥羽天皇、第八十三代土御門天皇のあと、第八十四代順徳天皇が承元四年十一月二十五日に即位なさいましたが、そのあとで後鳥羽上皇から《伊勢神宮》で奉製された宝剣が新天皇に奉られました。
そしてその後の天皇は、この新たな宝剣を正式の「三種の神器」の「神剣」として継承され、それ以後これが永世的に宮中の「神剣」となりました。
これが現在の皇居に奉安されている「神剣」です。
したがって皇居内に現存する「三種の神器」のうち「神剣」がもっとも製作年代が新しく、十三世紀の初めです。
つぎが推定三世紀の「神鏡」で、最古が推定二千年以上前の神話時代の作とされる「神璽」です。
〈四〉
南北朝時代には北朝が偽神器をつくったと伝えられるなど、いろいろと危機がつづきましたが、結局は北朝が受け継いで危機を脱しました。
〈五〉
南北朝が合一してから三代目にあたる北朝系の後花園天皇の嘉吉三年九月二十二日(西暦一四四三年)に、南朝の残党が京都の御所に乱入し、宮殿を焼いて「神剣」「神璽」を奪って延暦寺に立てこもったことがありました。しかしすぐに一党は討伐されて、二つの神器はぶじ皇居に戻りました。「神鏡」はこのとき、ご無事のままでした。(「神璽」は、このような危機はあったものの、破損や紛失という事件は無かったようです)
〈六〉
それ以後も危機はしばしばありましたが、なんとかもちこたえ、大東亜戦争末期の空爆にも耐え、終戦のおりの危機も安藤明ら忠臣たちの涙ぐましい努力によってくい止めました。そして神器も皇統も主要な神社も絶えることなく、平成の御代につづいております。いまも今上天皇皇后両陛下は、「三種の神器」への祈りを欠かされません。また神々や皇霊への祈りも欠かされません。さらには主要な神社や御陵への御拝もなさっておられます。政府や宮内庁関係者の信じがたい無情な判断によって靖国神社への御拝が中断しているだけです。

以上概説しました「三種の神器」は、もちろん考古学的な研究対象ではありませんので、注意していただきたく思います。「三種の神器」とは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを共有するわれわれ日本民族の心の歴史なのです。 
十 「三種の神器」の精神的な意味
ここでは、「三種の神器」の精神的な意味について記すことにします。
南北朝時代の南朝の支柱となった忠臣・北畠親房は、南朝の天皇へのご進講のために、『神皇正統記』を著しましたが、そのなかで、『記紀』の記述をもとにして、つぎのように記しております。
「・・・この三種につきたる神勅は、まさしく國を手持ちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはへず、私の心なくして、萬象を照すに、是非善悪の姿あらはれずといふ事なし。その姿に從ひて感應するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。剱は剛利決斷を徳とす。智慧の本源なり。この三徳をあはせ受けずしては、天下の治まらんこと、誠に難かるべし。神勅明かにして、詞約かにむね廣し。剰へ神器にあらはし給へり。いと忝なき事にや。」
すなわち北畠親房は、古代からの伝承をもとに、
「神鏡」・・・正直の本源(日の體)
「神璽」・・・慈悲の本源(月の精)
「神剣」・・・智慧の本源(星の氣) ――であると述べているのです。
つまり天皇は「三種の神器」によって、正直と慈悲と智慧の心を承継し、その心によって統治なさるのです。
江戸時代になると、水戸学の泰斗である藤田東湖は、やはり『記紀』の記述をもとに、天皇の役割を、
「蒼生安寧」――としています。
蒼生とは人民とか百姓とかいった意味です。
人民も百姓も『記紀』に出てくる言葉で、今でいえば国民であるが、『記紀』ではこれを「おおみたから」つまり「大御宝」と称し、宝物であると認識していました。
つまり、
「天皇とは「三種の神器」を先祖から受け継ぐことによって、宝物である国民の安寧が成就するように正直と慈悲と智慧をもってまつりごと(祭祀や政治)を行うことを義務とする存在」(別の言葉でいえば、力ではなく「君主の徳」によって国と国民を統べる存在)――なのです。
権力者が自分の支配下の人々を「至高の宝」としてその安寧を願いつづけるというこの思想は、世界の古代史において珍しいのではないでしょうか。
日本の大和朝廷独自の平和思想です。
伊藤博文の『憲法義解』によれば「うしはく」ではなく「しらす」の思想による統治です。
近世以降は祭政がほぼ分離しましたので、天皇皇后両陛下の主要な役割は政治から離れて「祈り」となりました。
ふだんほとんど報道されませんが、今上天皇皇后も連日祈っておられ、また全国の神社や陵墓をめぐって祈りを捧げつづけておられます。
元東大教授兼白山神社宮司で『少年日本史』で知られる碩学平泉澄の名とともによく語られる「皇国史観」という言葉があります。
これは、
「日本とは「三種の神器」を継承した万世一系の天皇を中心とする「神々の国」である」――という考え方で、その内容は、前述のように、正直・慈悲・智慧の象徴である「三種の神器」を守って、蒼生(国民)の安寧を祈り続ける天皇を中心(象徴)として、先祖や自然や芸術(これらのすべてが神々)を大切にする国だ――という史観のことです。
「皇国史観」という言葉そのものは、戦前や戦中にはほとんど使われませんでした。
平泉澄にしても、「皇国史観」という言葉を使った論文を書いたことは一度もないそうです。それはあたりまえの考え方だからです。
この言葉は戦後に左翼組織が天皇への不当な指弾のためにプロパガンダ用語として使ったために、有名になると同時に誤解が拡がってしまいました。
しかしその実質は以上のようなことであって、本来的に悪い意味はまったくないのです。
なお「天皇制」という言葉も、ソ連共産党が指導するコミンテルンが創作し、大正十二年に日本に輸出してきたプロパガンダ用語とされています。
目的はもちろん日本崩壊で、日露戦争に破れて日本・朝鮮・満州などを植民地にできなかったことへの報復でした。
だから戦前にはほとんど使用されず、戦後になって左翼勢力がさかんに悪用したのです。 
十一 国民の宝としての「三種の神器」および補足
もう一つ注意すべきことがあります。
それは、鏡・剣・玉は、皇室独自のものではなく、古墳発掘でわかりますように、弥生時代から広く一般国民の宝でもあったことです。
ですから、皇室における「三種の神器」は、武力で征圧した独裁者が勝手に創作したものではなく、君民一体の神宝でもあったのです。
この問題について、戦前のベストセラー『國体に対する疑惑』で有名な里見岸雄は、『歴史と天皇』のなかで、つぎのように記しています。
「・・・そこには、三器各個の宗教的な意義だけでなく、政治の理念を象徴するものとしての新性格が生まれてきた。この理念は、三種の神器に於いて、皇祖天照大神の統治意志として観念され、更に規範化されて、歴代天皇の奉ずべき、神命であるとされた。・・・神器の本体は物質でなく理念であり精神であり道である。」

「三種の神器」の心の表現はいろいろあり、なかには牽強付会と思うものもあるのですが、参考までに、そのいくつかをあげておきます。
『日本書紀』において、神武東征の直前、神武天皇が過去を振り返って、「養正・積慶・重暉」(正しい道を養い慶事をつみ、瑞祥を重ねた)とおおせられました。
平安朝以後の仏教教学において「法身・般若・解脱」。
おなじく儒教教学において「知・勇・仁」。これは少年時代の昭和天皇にご進講した杉浦重剛のご進講記録にあります。
明治以降では、「自由・平等・博愛」。
おなじく明治以降のキリスト教で「信・望・愛」など。 
十二 まとめ
甲:天孫降臨のときに皇孫が授けられた「三種の神器」
「八咫鏡」(神代より。伊勢神宮内宮のご神体)
「草薙剣」(神代より。熱田神宮のご神体)
「八坂瓊勾玉」(神代より。皇居の剣璽の間に奉斎)
(注:ここで神代とは、現在の考古学では、西暦紀元直前ごろと考えられます)
乙:皇統の証として皇居に祀られている「三種の神器」
「神鏡」(正直の本源)(推定三世紀の奉製。他に推定十一世紀前後のものも)
「神剣」(智慧の本源)(推定十二世紀に伊勢神宮奉製)
「神璽」(慈悲の本源)(「八坂瓊勾玉」と同じ)
『「三種の神器」とは精神的な存在であり、日本民族の心の歴史である』(当然のことながら、「三種の神器」が安泰の時代は日本人が希望を持って団結している時代であり、「三種の神器」が危機の時代は日本人が仲間内で足を引っ張り合っている時代であります)

おわりに、「八咫鏡」が祀られている《伊勢神宮》の式年遷宮のおりに三天皇がお詠みになった御製を紹介しておきます。
神風の伊勢の宮居のみや柱 たてあらためむ年は来にけり (明治天皇御製/明治四十二年/第57回)
秋さりてそのふの夜のしづけきに 伊勢の大神をはるかをろがむ (昭和天皇御製/昭和四十八年/第60回)
白石を踏み進みゆく我が前に 光に映えて新宮は立つ (今上天皇御製/平成六年/第61回の翌年)
(御白石について:式年遷宮のとき、全国の崇敬者が集まって、直径七センチ強の綺麗な白石を一人一個ずつもって御正殿の周囲に敷き詰めます。これは白石奉献と呼ばれる神事です。平成五年の遷宮時には、この神事に十万人もの崇敬者が参加したそうです。この行事は、ふだんは目にしにくい新しい御正殿を間近に拝む絶好の機会でもあります)
大正天皇ご在位の時代には式年遷宮はありませんでした。明治の終わりが第57回で昭和の初めが第58回です。そこで、遷宮時ではない時の伊勢神宮をお詠みになった御製を示しておきます。
たからかに年浪かへる五十鈴川 神のめぐみの深きをぞ汲む (大正天皇御製)
 
『神道は祭天の古俗』久米邦武

 

久米邦武君の史學に於ける古人未發の意見實に多し、而して余は此篇に於て最も敬服せり、故に既に史學會雑誌に掲載せしものなりと雖も君に請ひて左に之を掲載し以て讀者の瀏覧に供す、余は此篇を讀み、私に我邦現今の或る神道熱信家は決して緘黙すべき場合にあらざるを思ふ、若し彼等にして尚ほ緘黙せは、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゝるべからず、    鼎軒(『史海』編集者(鼎軒)の評)

日本は敬神崇佛の國なり。國史は其中より發達したるに。是迄の歴史家は其沿革を稽ふることを忽にしたる故に。事の淵底に究め至らぬを免れず。因て爰に其概略を論ずべし。
敬神は日本固有の風俗なり。中比に佛教を外國より傳へ。合せて政道の基本となりたり。其は聖徳太子の憲法に始まり。大化の令に定まる。大旨は格の孝謙帝ノ詔に。(神護二年七月)、〔攘災招福必憑幽冥。敬神尊佛清淨爲先。云云〕とあるにて見るへし。又桓武帝の詔に。(延暦二十五年正月)、〔攘災殖福佛教尤勝。誘善利生無如斯道〕とあるにて。神佛の別を見るべし。葢神道は宗教に非ず。故に誘善利生の旨なし。只天を祭り。攘災招福の祓を爲すまでなれば。佛教と竝行はれて少しも相戻らす。故に敬神崇佛を王政の基本となして。今日に至りたる習俗は。臣民に結ひ着て。堅固なる國體となれり。然れども神の事には。迷溺したる謬説の多きものなれば。神道佛教儒學に偏信の意念を去りて。公正に考へるは。史學の責任なるべし。因て爰に現在の國民。敬神の結習より。遡りて東洋祭天の古俗を尋究し。朝廷の大典たる。新嘗祭・神嘗祭・大嘗會の起り。伊勢内外宮・及び賢所は。みな祭天の宮にして。諸神社に鏡玉劍を神禮に象る由來。神道には地祇人鬼を崇拜する習俗なく。死穢・諸穢を忌避て潔癖を生じ。祓除を科する法より?(幣の下が犬)風を生じ。利害交ありて。人智の發達するに從ひ。儒學・佛教・陰陽道等を傳て。其?(缶+欠)乏を補完矯正するの必要に論及し。千餘百年來敬神崇佛の國となりて。今に至るまで。敬神の道は崇佛と並行はれて。隆替なきことの考を述ん。 
國民敬神の結習
外面より見れば。日本は崇佛國と化したる樣なれども。さにあらざることは。今にも都鄙人民の結習を察すべし。例へば東京の貴賤は。某區に山王祭をなし。某區に神田祭をなし。某は天神。某は稻荷と。各氏神に祭禮をなし。是を毎年の大典となせり。其區は今の行政區に非ず。古農村にてありし時の村區に因るものなり。今は都會となりて。田地なければ。祭禮の本旨を證するに足らず。いづくの田舎も。村々に皆氏神ありて祭禮をなすは。全國に通じたる風俗なり。其氏神の區域は。今の村區と異なる所も多く。祭禮の習例も。各土に少異あれど。大抵新穀の登りたるを以て。濁酒を釀し。蒸飯を炊きて。神酒供饌となし。各其地の古俗によりて祭る。因て供日とも稱す。濁酒蒸飯は古時の生活の?(≒状)にて。祭禮は報本の意を表して。神に福を?(示+壽)るなり。是を衆民の毎年天に事ふる務となし。而して水旱風雨疾病等の節々には。攘災の?(示+壽)祭をなす。又其日々の勤むる所を見るべし。早旦に旅行すれば。野村も裏店も男女となく。朝起れは河流井水に浣嗽し畢て?(示+壽)拜をなす。拍手の聲の聞へぬ里はなし。是神代よりの景象なり。細に其?(示+壽)拜の?(≒状)を觀れば。合掌するもあり。南無の聲聞ゆるもあり。或は上下四方を拜し。或は出日の方に向ふ。立もあり。跪もありて。崇佛にも似たり。或は回教拜日の民かとも誤らる。其は?(示+壽)拜を教ふるもの流々義々なりしによる(佛教の正式を教へられたる者は佛壇に向ふ)此に却て眞率の誠を表せり。實は皆天に?(示+壽)りて。福を求むる所にて。往古の祓禊祭天の遺俗なり。日本人の日本人たる眞面目なり。されば國俗一般に清潔を喜びて。穢を嫌ふこと甚し。支那朝鮮の諸国とは。大に習俗を異にす。泰西人も東洋潔癖の國と稱せり。其潔癖は。敬神より來りたれば。彼衛生の清潔とは異なる所あれども。迚も角も美風なり。支那朝鮮も。厥始は祓除祭天の俗より發達したれど。早く時世の推遷につれて本を失ひ。因て國體も變化して。動搖不定の國域となりたるに。日本のみは建國の初に天神の裔を日嗣の君と仰ぎてより。固く古俗を失はずして。其下に國をなしたれば。今に天子は常日に高御座の禮拜を怠り給はず。新穀登れば。神嘗・新嘗祭を行はせられ。毎年大祭日として。全国に之を祝ひ。御一代に一度の大嘗會を行はせらる。是神道の最重最古なる典なり。雲上の至尊より。野村裏店の愚民まで。毎日毎年天に事へ本に報ふの勤めは一規にして。勸めずして存し。令せずして行はれ君臣上下一體となりて結合したるは國體の堅固なる所にて。思へば涙の出る程なり。衆人の皆稱する。萬代一系の皇統を奉じ。萬國に卓越したる國なりとは。かゝる美俗の全國に感染し。廢らぬ故に非ずや。實に國史に於て緊要なる節々なり。 
東洋祭天の起り
萬國の發達を概見するに。祭天は人類襁褓の世に於て。單純なる思想より起りたる事なるべし。葢人類の始めは。柳宗元の所謂る。草木榛々鹿豕?(≒貔)々なる山野に群居をなし。天然の産物を假りて生活を遂れば。其恩恵の有難くして。寒暑風雨の變化の怖しさに。必ず彼蒼々たる天には此世を主宰する方のましまして。我々に禍福を降し給ふならんと信したる。觀念の中より。神といふ者を想像し出して。崇拜をなし。攘災招福を?(示+壽)り。年々無事に需用の物を収穫すれは。報本の祭をなすことを始たるなり。何國にても神てふものを推究むれば天なり。天神なり。日本にてかみてふ語は。神・上・長・頭・髪に通用す。皆上に戴く者なり。其神を指定めて。日本にては天御中主といふ。支那にては皇天上帝といひ。印度にて天堂といひ。眞如ともいひ。歐米にてゴッドといふ。皆同義なれども。祭天報本の風俗は各異なるのみ。此の如く神は上古人の想像より出たるものなれば。人智のやゝ發達して。風俗の厖雜なるに從ひ。其種類搗スし。終には際限もなく。牛鬼蛇神蟲豸まて敬拜するに至る國もあれど。是は次第に枝葉を追ひたるにて。推究むれば。天神より地祇を出し。神祇より人鬼を出し。終に物怪を信するに至りたるのみ。是も人智發達の初期に於て。多少一度は免れざる事なるべし。印度の人智は早く發達し。六佛出てゝ三生因果の説を始め。二千五百年前に釋迦出て。其意を推闡して衆に説教したれば。信徒より天に代る世の救主と仰かれたり。釋迦とは能仁の義にて。徳充ち道備はりて萬物を濟度するの義と云。是宗教の起りなり。其後六百餘年を經て。猶太に耶蘇出て。亦天降の救主と仰がる。思ふに麥西も耶蘇も。印度釋教の西に流傳して。別派の宗教をなしたるものなるべし。釋教の東に流傳したるも。耶蘇降生の前後よりの事なり。日本の神道は。元來其以前に早くあることにて。救主もなし。三生因果の教もなし。只祭天報本より起りて俗をなし。天神の子を國帝に奉し。中臣忌部等の貴族之を佐け。太占迎神等の法を傳へ。神慮を承けて事を裁制し。祭政一致の治をなしたるは、是國體の定まりて皇統の因て起る根源なり。其時まては單純なる祭天にて。地祇てふものもなし。書紀推古帝の時に。〔新羅任那二國王遣使奉表之曰。天上有神。地有天皇除此二神。何亦有畏耶〕とあるにて。我國體を知るべし。亦神道を知るべし。
釋迦も孔子も耶蘇も。祭天の俗より生れ出たれば。我國體に戻ることなし。神道にも戻るなし。爰に東洋一般に行はれたる。上古祭天の俗を略陳せん。支那の人智は最早く發達し。易傳に(孔子の著)〔庖犧氏仰觀象于天俯察法于地視鳥獣之文與地之宜始畫八卦〕と。是彼邦哲理の發りにて。今を距る少くも五千年前にあり。思ふに其時日本も韓土も。巳に人民は群居をなして。亦祭天の俗をなしたるならん。其後五六百年を經たる比は。彼は少昊氏の衰世となりて。祭天の俗紊亂したり。呂刑に〔民興胥漸。泯々?(林/分)々罔中于信。以覆詛盟(盟約を守らぬを云、)虐威庶戮(惨酷の刑を行ふを云、)方告無辜于上帝。上帝監民罔有馨香。徳刑發聞惟腥。皇帝哀矜庶戮之不辜。報虐以威。乃命重黎、絶地天通。罔有降格。云云〕とあり。國語に楚觀射父之を解釋して。(原文長ければ、漢書郊祀志に引たるを擧、)少昊氏之衰也。九黎亂徳。民神雜糅不可方物。家爲巫史。烝享無度。?(シ+賣)齊盟而神不?(≒盆+蜀)。嘉生不降禍災薦臻?(端の右+頁)?(王+頁)受之。乃命南正重司天。以屬天。命火正黎司地以屬地云云。是謂絶地天通〕といへり。是厥初は純粋に天を畏敬したる人民も。經濟に慣るゝに從ひ。漸神を慢る有様にて。是までは惟一の天神を崇拜したることを證せらる。然るにやがて重は天を郊し。黎は地を祀ると言做し。天神地祇を郊祀し。皇天后土とて。天を父とし地を母とすること始まり。三四百年を經て。虞書に〔類于上帝?(煙の火→示)于六宗。望秩于山川。?(ぎょうにんべん+扁)于群神〕(舜典)と見ゆ。巳に地を祀る。故に日月星辰風伯雨師も祭ることとなる。山川を祀る。故に丘陵墳衍も祀ることとなりて。多神崇拜の俗となりたり。されば人鬼の崇拜も亦起れり。虞書に〔歸格于藝祖〕と。夏書に〔用命賞于祖。不用命戮于社〕(甘誓)とあり。祖とは帝宮の内に明堂を建て。國祖を天に配して祭る。故に祖と稱す。實は祭天の堂なり。社は地祇なり。漢郊祀志に。〔自共工氏覇九州。其子曰勾龍。能平水土。死爲社祠。有烈山氏王天下。其子曰柱能殖百穀。死爲稷祠。故郊祀社稷所從來尚矣。云云。湯伐桀。欲遷夏社。不可。作夏社。(書名)乃遷烈山子柱。而以周棄代爲稷祠〕とあり。因て後人社稷は人鬼を祭るかの疑問起れり。孝經援神契に〔社者土地之主也。稷者五稷之長也〕と見えたれは。後漢の大儒鄭玄〔古者官有大功。則配食其神。故勾龍配食於社。棄配於稷〕と説きて。略一定の説となりたり。されば祖は祭天の堂にて。社は土地の主なれど。頓て習例變りて。宗廟社稷といひ。鬼神といふ語も起り。宗廟には國帝の祖先を祭り。?(示+帝)?(示+合)とて重き祭典あり。是は人鬼なり。社稷には春秋兩度の祭をなし。郡縣にも社稷を置く。村々にも春秋の社祭をなす。猶我供日の如し。即社日は其日なり。唐詩に桑柘影斜秋社散。家々扶得醉人歸とあるにて。其風俗を想像すべし。然れども彼は地祇なり。我供日は天神なり。其主とする神異なり。此く日本支那の俗は相似たれども。實は相異なれば。神祇の事は殊に根元を澄し。紛れぬ樣に考へんを要す。 
新嘗祭神嘗祭大嘗祭
日本の上古は。彼禹貢の冀州に島夷皮服と。楊州に島夷卉服と見ゆ。冀州の島夷は。韓人の皮を以て交通したるにて。楊州の島夷は。倭人の麻穀の木棉を以て交通したるなり。此く四千年前より。三土互に交通したれば。風俗も交互に輸入したらん。然れども倭韓は尚神祇を分つことはなく。純に天を祭れり。又一千年を經て。周初に至り。黒龍江の山野に於て。最_獰文盲と稱したる粛愼さへも。石?(奴/石)?(木+苦)矢を以て交通したる程なれば。倭韓の發達は。彼少昊氏衰世の如きを經過する時代ならん。天皇繼統の世數を人世の通率にて推算すれば。天祖の降跡は二千四五百年前と思はる。周の中葉なり。此時巳に天兒屋命(神産靈の裔)太玉命(高産靈の裔)の二氏。中臣部・忌部を分掌し。中臣は太占・祓除の法を傳へて神に事へ。忌部は齋物を調へて民を率うるは。彼重黎の天地を分掌したるに甚相似たり。其祭天の大典は新嘗祭なり。新嘗祭は天照大神を祭るに非す、天を祭る古典なり其は神代巻に。〔素戔鳴尊見天照大神新嘗時。則陰放屎於新宮。又見天照大神方織神衣居齋服殿。則剥天斑駒。穿殿甍而投納云云〕と見ゆ。是大神窟戸籠りの原因にて、天照大神の親ら新嘗祭神衣祭を行はせられたるにて明證となすべし。又觸穢不淨を忌むの風俗も。みな此時代以前より早くあることなり。且新嘗祭は支那にもあり。爾雅釋天に。〔春祭曰祠。夏祭曰?(示+勺)。秋祭曰嘗。冬祭曰蒸〕(王制も畧同し、周禮は異なり、取らす、)董仲舒は〔祠者以正月始食韮也。?(示+勺)者以四月食麥也。嘗者以七月嘗黍稷也。蒸者以十月進初稻也〕と説き。郭璞は嘗を嘗新穀也と。蒸を進品物也と注す。然れば嘗蒸は同死く新穀を進むる祭にて。我神嘗新嘗兩祭に似たり。我九月に神嘗。十一月に新嘗と分つは。何代比より例なるや。紀の天武五年九月に。〔神官奏曰。爲新嘗卜國郡〕と。十月に〔發幣帛於相新嘗諸神祇〕とあるは。神嘗例幣のことにて。〔十一月乙丑。以新嘗事不告朔〕とある。是を史に見えたる始めとす。
新嘗祭は東洋の古俗にて。韓土も皆然り。後漢書(魏志も同し)に。高勾驪は〔以十月祭天。國中大會。名曰東盟。〕とあり。東盟は東明にて。豐明節會のことならん。?(シ+歳)は〔常用十月祭天。飲酒歌舞。名之爲舞王〕とあり。馬韓は〔常以五月田竟(魏志は下種訖に作る)祭鬼神。晝夜群聚歌舞。輙數十人相随。踏地爲節。十月農功畢亦如之〕とあれば。夏冬兩度の大祭をなし。皆節會を行ふなり。夫餘ハ〔以臘月祭天。大會連日。飲食歌舞名曰迎鼓〕とありて。此國のみ十二月なれど。其趣は同し。我國の嘗祭も。固り兩度行はるゝには非す。式に九月の神嘗ハ伊勢神宮の條に記し。十月の新嘗ハ四時祭の條に記す。神祇令の義解に。〔神嘗祭。謂神衣祭日便即祭之〕とありて。伊勢神宮に於て擧行せらる。天皇ハ神祇官に行幸ありて。奉幣使を發せらるゝまでなり。(前の天武紀の文を見よ)江家次第に。〔天皇宣常毛奉留長月乃神嘗乃御幣會。汝中臣能申天奉禮。中臣微音稱唯退〕とあり。是を例幣と稱す。十一月の新嘗こそ。令に下卯大嘗祭とありて。天皇神祇官(正式は中和院)に於て親祭ある。職員令義解に〔謂嘗新穀以祭神祇也。朝者諸神之相嘗祭。夕者供新穀於至尊也〕とあり。祭畢て。豐明節會を行はる。格の宇多天皇の詔に。(寛平五年三月)〔二月祈年。六月十二月月次。十一月新嘗等。國家之大事也。欲歳災不起。時令順度。預此祭神。京畿九國大小通計五百五十八社〕とあるにて。其大要を知るべし。古は新嘗祭を大嘗ともいひたれど。令に〔凡天皇即位。惣祭天神地祇。〕又〔凡大嘗者。毎世一年。國司行事〕とある。天子一代一度の大祭に混同するを以て。毎年の嘗を新嘗といふことになりぬ。大嘗會は神祇官に悠紀主基兩神殿を新造せられ。天子天之羽衣をめして親祭ある。其は二條良基公假名文の文和大嘗會記あり。就て其概略を見るへし。今上は明治四年十一月に擧行せられたり。是は世に記臆したる人も多かるべし。余は岩倉全権大使に随ひ米國へ航する船中に在りしに。其日米國公使「デロンク」氏。天皇陛下一代一度の大祭日とて。祝辭を演し。祝杯を擧たり。此の如く新嘗大嘗祭は大神宮も親察し給へる古典にて。皇統と共に繼續し。神道に於て最重の祭なれハ。臣民は皆知らざるべからず。 
太神宮も天を祭る
伊勢太神宮には。三神器の鏡劔を(後に劍は尾張熱田太神宮)齋奉ること。普く世の知所なるべし。此鏡は。古事記に。太神宮の詔を記して。專爲我御鏡而如拜吾前伊都岐奉〕とあれば。俗に太神を祠ると思ふも無理ならねど。是も實は天を祭るなり。我御魂の字に注意すべし。此に適例あり。大三輪社は。書紀一書に〔大己貴神曰唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂、今欲何處住耶。對曰。吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處。使就而居。大三輪神之神也〕と見えて。大己貴神の自ら幸魂奇魂を祠たる所なり。魂とは天の靈顯をいふ。さなくては己が己の魂を崇拜するの理あらんや。大神の我御魂と詔給へるも正にこれに同し。又垂仁紀に〔故随大神教。立其祠於伊勢國。因興齋宮於五十鈴川上。是謂磯宮。乃天照大神始自天降之處也〕とあるを熟看すべし。始自天降之處とは。天孫瓊々杵尊西降の時。猿田彦大神の〔吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川〕(紀一書)といひたるに考合すれば。其時天照大神は。高天原(大倭)より伊勢に遷都ありて。東國を經營し給へると思はる。磯宮は其宮址なれは。大神の在す時も必す新嘗殿齋服殿を造りて天を祭り。其大殿にて政事を裁せらるゝこと。崇神以前の式の如くにてあるべし。外宮は其離宮なり。古事記傳に。外宮は師の祝詞考に。萬葉集なる登都美夜の例を引て。其は常の大宮の外に建置れて行幸ある宮を云なれば。即天皇の宮にして。別に主あることなし。然れば此伊勢の外宮も。五十鈴宮の外宮にして。天照大御神の宮なりと云たるは。昔より比なき考にして。信に然ることなり。然れば元來有し天照大御神の外宮に。豐受大神をば鎭祭たるなりとあるは。本居氏諸説の中に。最價値ある金言なり。故に外宮は豐受姫を祠るに非す。磯宮の外宮なり。又磯宮は天照大神を祠るに非す。其大宮の跡に神鏡を齋奉りたるなり。大三輪社には。今も寶殿を造らす。只拜殿のみなりと。是は三諸山を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拜し。別に神體を齋かさればなるべし。伊勢三輪兩神宮の起りは此の如し。皆天を祭るなり。然れども伊勢は天照大神の御魂にて。三輪は大國魂の御魂といへば。直に其人を祭るが如く聞ゆ。因て早き時代より伊勢を天神。三輪を地祇と別ち。之を推究むれば。亦人鬼崇拜の堂の如くにも聞ゆ。因て後世に伊勢を大廟などゝ誤稱するものあり。其は次に辨明すべし。又天照大神の徳を日に比べて天照と申し。大日?(靈の下が女、≒靈女)貴と申奉る。故に五瀬命ハ我日神子孫而向日征虜。此逆天道也と云給ひ。聖武帝は東大寺に大佛を鑄造し給へり。毘廬遮那佛は大日如來なれば。大神を其權化と信し給ふ故なり。天に在て最も人に功用の顯著なるは。日輪に過るものなし。因て大神の徳を賛稱したるにて。大神は日輪のことには非す。又日を天と思ひたるにも非す。大神は天の代表者と信し。日に比べたるなり。大神宮は其詔に我前に拜むが如くせよとの旨に從ひて。其御魂を拜む所なり。漢土の宗廟に國祖を天に配亨するとは。大に異なり。 
賢所及ひ三種神器
賢所には伊勢神體寶鏡の寫しを齋まつる。内侍所といふも是なり。往古は三神器を大殿に奉し。天皇は同牀にましまして。政事をなし給ひしに。崇神帝の時に。鏡劍の寫しを造り。眞器をば大和の笠縫邑に祠りたり。是伊勢神宮の起り也。其時より寫しの鏡劍を大殿におかれたり。是賢所の起りなり。古語拾遺(神武帝の條)に〔從皇天二祖之詔。建樹神籬。所謂高皇産靈・神皇産靈云云〕とあるは別也。其は八神殿と稱し。後には神祇官に建られ。南北朝の比まても存せり。世にはかゝる故事なども知らぬ人ありて。近年春秋二季に皇靈祭を行はるゝにより。賢所は歴代の皇靈を祭る所にて。俗の位牌所の樣なるものと誤りて。拜する人もあるよし。因て此に略辨しおくなり。皇居中に祭天の祠堂を建るは。高麗の古代にも相似たることあり。魏志に〔高句驪好治宮室。於所居之左右。立大屋祭鬼神〕と見ゆ。前にいふ如く。唐虞の文祖も後世に宗廟と變し。人鬼崇拜の靈屋となりたり。高麗も革命數回のすえ。古式は廢れたらん。只我邦のみ一系の皇統を奉して。古式を繼續するは。誠に目出たき國と謂べし。
天照大神の鏡劍玉を天孫瓊々杵尊に授け給ひてより。三種神器と稱し。天皇の御璽となして傳受せらる。其鏡は八咫鏡。玉は八尺勾?(總の糸→王)の御統にて。並に天石窟の前に。賢木に掛て飾りたる物なり。劍は素盞鳴尊の出靈簸川上に於て。八岐大蛇を征服して献したる。天叢雲劍にて。後に草薙劍と稱し。尾張熱田神宮なることは世に隠れなけれども。此三器ハ。もと何用になる物なるや。是迄説く者なし。按ずるに。是は祭天の神座を飾る物なるべし。紀景行帝の條に。豐國(今の豊前)の神夏磯城は。〔拔磯津山賢木。以上枝挂八握劍。中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳参向〕と見え。仲哀帝の條に。筑紫岡縣主の迎へ船には。〔上枝掛白銅鏡。中枝掛十握劍。下枝掛八咫瓊〕とあり。伊覩縣主も〔拔取百枝賢木。立于船之舳艫上枝掛八尺瓊。中枝掛白銅鏡。下枝掛十握劔参迎(中略)天皇如八尺瓊之勾。以曲妙御宇。且如白銅鏡。以分明看行山川海。乃提是十握劍平天下。矣〕とあり。神皇正統記に。三神器を智仁勇に喩へたるは此言に本づく。故に三器は天神の靈徳に象りたるものにて。普通には鏡を神體に用ふ。日本武尊の日高見國へ打入りの船には。〔大鏡懸於王船〕と鏡のみなり。今も神殿に鏡を安んずるは此縁なり。又玉も神體に用ふ。筑前風土記に〔宗像大神自天降。居峙門山之時。以青?(草冠に豚の右+生)玉置奧津宮之表。以八尺紫?(先に同じ)玉置中宮之表。以八咫鏡置邊宮之表。以此三表成神體之形。納置三宮〕とあるにて知べし。(宗像三社は、三女命の玉鏡を納れて、天を祭りたる社なることも明かなり)劍は戦時の式にて。所謂荒魂を表す。故に天石窟前の賢木は劍を挂けず。後世も劍を神體に用ふることは普通には之なし。彼是を考へ合すれば三器を以て神座を飾るは。天安河の會議に創まりたるに非ず。遙の以前より祭天の古俗なるべし。韓土にも似たる風俗あり。魏志に〔馬韓信鬼神國邑各立一人。主祭天神名之天君。又諸國各有別邑。名之爲蘇塗。立大本懸鈴鼓。事鬼神。諸亡逃至其中。皆不還之。其立蘇塗之義。有似浮屠〕とあり。我は鏡玉を懸け。彼は鈴皷を懸く。其物は異なれども。大方は同じ。國邑に天神の社あり。皆これを以て神座とし。社の境内地を定め。其境内にては人を殺し人を捕ふるを得ぬ法なり。我邦社寺の境内は。幕府の時までも守護入部を禁ず。是も其起りの古きことを知るべし。 
神道に地祇なし
神道に地祇なしとは。頗る世聽を驚かすならん。然れども余は神道に地祇なしと信ずるなり。支那の地祇てふ字は。后土を祀り。社稷を祠り。山川を祭ることなどを云。我古代にハかゝる例なし。但し諾冉二尊の八大洲國及山川草木を生ことは。書紀の正文に記して。山神は大山津見神。海神は大綿津見神。(又少童命)土神は埴安。野神は野椎。木神は久々能智などゝ。紀の一書及古事記に載たり。是は山・川・野等を主るものにして。大山津見の子孫ハ吾田國(今の薩日隅)君なり。海神は。記に阿曇連等者其綿津見神之子。宇都志日金拆命之子孫也〕とあり。又姓氏録にも見ゆ。伊豆伊豫の三島社。及隠岐に大山祇神を祠るは。吾田君の兼領地にて。筑前志賀島の海神社は。海神國なるべく。對島・壹岐・隠岐。但馬・播磨等の海神社は。其兼領地なるべきことは。已に史學會雜誌におきて辨したり。夫れ天照大神・月讀命は。日月を祭るに非ず。津守氏の住江津に祠る住吉社は。津神を祭るに非す。山神社・海神社も亦然り。又後世の地神祭。或は北辰祭は。皆陰陽道に出つ。是を以て日本に日月星辰を祭り。山海河津を祀ると思ふ者は。全く歴史を解せざる者の妄説にて。辨するに足らず。爰に辨ぜざるを得ざることは。神武帝以來の歴史に。明かに天神地祇を記し。後に神祇官を置き。神祇令を制し。續紀の元明帝聖武帝の宣命文にも。天坐神地坐神とあり。地祇とは如何なる神をいふにやと考ふれば。神祇令に。〔凡天神地祇者。神祇官皆依常典祭之〕と。義解に〔謂。天神者。伊勢・山城鴨・住吉・出雲國造齋神等類是也。地祇者。大神・大倭葛木鴨・出雲大汝神等類是也〕といへり。出雲國造齋神とは出雲の熊野社にて。出雲大汝神とは杵築の大社なり。熊野社は素戔鳴尊を祭る。因て天神とし。大社は大汝命を祀る。因て地祇としたるにや。其別甚た明白ならねども。支那の皇天后土とは異なることハ明かなり。大神はおほみ王と訓す。大三輪社の事は前條に擧たる如く。大汝命の幸魂奇魂を祠りたる社なれば。亦天神とこそ云べけれ。大倭葛木鴨は。紀に(一書)〔大己貴神之子。即甘茂君〕とあり。記に〔大國主神娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命。生子阿遅?(金+且)日子根神。云云。今謂迦毛大神者也〕とあり。姓氏録に。〔大國主神之後。大田田禰古命之孫。大賀茂都美命奉齋賀茂神社〕とあれば。景行成務の朝に建たる社にて。大三輪社と同體の神社と思ハるれば。地祇は只大國主命のみを云が如し。姓氏録の神別に。天神天孫地祇を分ちて。地祇には大國主・胸形三神・海神・天神・穂分・椎根津彦・井光・石押別等の後を?(≒彙)集したり。海神は住吉神と共に諾尊祓除の時に現生し。筑前那珂郡並に其社あり。宗像社は天照大神の御女なるに。住吉と素戔嗚とは天神に列し。海神と宗形とは地祇に列す。何とも其理の聞えぬことなり。
地祇の起りを繹ぬるに。紀に神武帝宇陀より磯城磐余へ打入の前。〔天神訓之曰。宜取天香山社中土。以造天平瓮八十枚。?(≒并)造厳瓮。而敬祭天神地祇〕とあるを始見とす。其時弟猾の奏には。〔今當取天香山埴。以造天平瓮。而祭天社國社之神〕に作れば。天神地祇と天社國社とハ互文にて。其實ハ同し。時に椎根津彦・井光・石押別ハ。皆軍に從ひたれば。所謂地祇は大三輪社あるのみ。皇師に抗したる登美彦(即長髄彦)ハ。大三輪の一族なれば。此地祇は大三輪社をさすに非ざる明けし。且大己貴命の大三輪社を建たるは。瓊々杵尊の西降し。天照大神伊勢降臨の後ならん。然れば日向の宮に於て。大國魂神を地祇として祀らるゝ故もなし。崇神紀に〔先是天照大神・倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内〕とハ。必ず神武帝の大倭を平定して。大三輪君より五十鈴姫を皇后に納給ふ後のことなるべく。其以前の國社は大己貴に非ざること明々白々なり。是を以て考ふるに天社國社とは。天朝より齋きたるを天社とし。國々に齋きたるを國社とするなるべし。今の官幣社國幣社の如し。祭神にて別つに非ず。故に筑紫の宗像社は國社にて。出雲熊野社ハ天社とし。墨江の住吉社は天社にて。筑紫の海神社ハ國社とするも妨けなし。みな天に在す神を祭るなり。地に顯れたる神にハ非ず。又人鬼を崇拜する社にも非ず。然るに早き時代より此義を誤りたるにや。天社國社を神祇と譯したり。古事記は漢譯の誤なしと稱すれども。紀は〔崇神帝七年定天社國社。及神地神戸〕とあるを。記は〔定奉天神地祇之社〕と書たり。令も其時代に定めたれば。已に神祇の別を誤れり。まして姓氏録は猶百年も後の書なれば。前に論ずるが如き混雜なる分別をなすに至れり。令義解に山城の鴨を天神とし。大倭萬木鴨を神祇としたるも甚疑し。山城の鴨は別雷神社(一に若雷)と稱す。故に天神としたるならん。然れども其創建に遡れば。大倭の京にてありし時ハ。山背は吉野と同しく。青垣山の外の平野にて。此に天社を建られたることは不審なり。思ふに大倭の大三輪社の如く。山城の國社なるべし。平安奠都の後は。其國の産土神なる故に。別段に尊敬せられたるなり。凡諸神社祭神の説は。神道晦みたる後の附會なれば。紛々として影を捉ふが如し。姓氏録に素戔鳴は天神。天穂日は天孫。宗像三女は地祇とするが如く。不倫甚だし。此くいふ故に。神祇は人鬼を崇拜するものゝ如くなりて。益神道の本旨を失ひたり。 
神道に人鬼を崇拜せず
神道に人鬼を崇拜することは。古書に絶えてなきことなり。伊勢大神宮は固より大廟に非ず。忍穂耳尊社の豐前香春にあるハ後に辨ずべし。次て瓊々杵尊の日向可愛山陵。彦火火出見尊の日向高屋山陵。?(盧+鳥)?(慈+鳥)草葺不合尊の日向吾平山陵は。並に延喜式に無陵戸とありて。又〔神代三陵。於山城國葛野郡田邑陵南原祭之。其兆域東西一町。南北一町〕とあり。是は何代に築かれしにや。日向の遠隔なるを以て。陵代を作りて祭られし故に。日向三陵は守戸もなく。終に其處も知れぬ樣に移果たり。(可愛山陵は薩摩穎娃郡に、高屋山陵は同國阿多郡加世田郷鷹屋に在べきなり、)且田邑陵は神社には非ず。墓祭りをなす所なり。是神道の風なるべし。故に神武帝の畝傍山陵にも神社を建てず。綏靖帝以後歴代の天子を神社に祠りたることなし。八幡大菩薩を神功皇后應神天皇といふは。佛説の入たる後の事なり。是は別に説あり。續日本後紀。承和七年五月藤原吉野の議に。〔山陵猶宗廟也。縱無宗廟者。臣子何處仰〕といへり。此の如く。天子に神社を建たる例なきに。臣下には神社を建て。朝廷より祭らるゝことは。斷々あるべき理に非ず。あるハ後世の神社に祭神を附會したるより誤られ。終に神社ハ人鬼を崇拜する祠堂の如く思ひたるのみ。近比に至り。攝津住吉社を埃及波斯の塚穴堂に類すといふ説あり。其は古史を知らぬ人の誤想なり。住吉の三神は筑紫博多を本社とす。神功皇后征韓の還りに。務古水門(今の神戸附近)に建られ。仁徳帝の比。墨江には創建せり。(史學會雑誌に詳か也)三神社を並へ祠たる形の墓堂に似たるも。此地に表・中・底筒男の墓あるべきに非ず。余往年信濃上諏訪社に詣り。寶殿の樣を見るに。甚墓堂に似たり。されども諏訪は健御名方命の領國にて。上諏訪社にて湖東を治め。下諏訪社にて湖西を治めたる跡にて。其社を神名帳に南方富神社とあり。富は刀賣なり。健南方命の其女をして天神を齋かせしめしに因て稱するならん。建築の樣を望みて墓穴の堂と思ふは僻見なり。(後に奧津棄戸の風俗を述ふると并せ考ふべし)
神道に宗廟なし。大神宮を大廟と稱するは。甚しき誤謬なれども。世にかりそめに此く唱へる人もあり。韓土にも之に似たることあり。東國通鑑に。〔百濟始祖十七年(漢元壽元年といふ、西暦紀元前二年)立國母廟〕とあるを熟考するに。我大神宮の如き宮と思はるれども。高麗の末になりてハ。此く誤解したるならん。我諸神社にも是に似たる誤解は甚多し。大國魂社・大神社等は。大已貴其人を祭るに非ず。大已貴命國を造り。其地に建たる社殿なり。すべての天社國社も同例なり。故に國造を國の宮つみと云。此は歴史の考究に甚肝要なることにて。古代國縣の分割。造別受領の跡を徴すべし。例へば豐前國香春神社は。神名帳に。田川郡辛國息長大姫大目命神社。忍骨神社。豐比当ス神社とある三座にて。辛國は韓國なり。息長大姫大目命は以前の領主にて。忍穂耳尊新羅より渡り。此を行在として西國を征定せられ。後に豐姫の受領せし地と思はる。(史學會雜誌第十一號星野氏の論説を参考)社殿は其政事堂也。土佐香美郡に天忍穂別神社あり。別は造別の別なり。紀景行帝の條に。〔當今之時。謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉〕とあるにて知るべし。此も忍穂耳尊豐前より上洛の途次に。暫駐蹕ありし地なるべし。凡神社は古時國縣の政事堂なり。神名帳大和に添御縣坐神社。葛木御縣神社。志貴御縣坐神社。高市御縣神社等あり。猶後世の郡家の如し。美濃に又比奈守神社(厚見郡)あり。比奈守は。紀の景行帝の條に。〔巡狩筑紫國。始到夷守。(中略)乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守還來而諮之。曰諸縣君泉媛〕(日向諸縣郡)とある夷守に同し。魏志に〔到對島國。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。云云。至一支國。(壹岐)官亦曰卑狗。副曰卑奴母離〕とあり。卑狗は彦なり。卑奴母離は比奈守なり。彦は後の荘司地頭の如く。比奈守は荘下司地頭代の如し。是某彦・某姫社。若くは夷守社等は。領主の建たる祭政一致の政事堂にて。某縣社・某縣坐神社と。其義一なり。又倭文・物部・服部・兵主・楯縫・玉造・鏡作・等の神社は。各伴部の地に建たる社にて。久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などと謂か如く。後世の荘衙に同し。前にもいふが如く。宗像社は。筑前風土記に據るに。天照大神の三女。筑紫に身形部を領し。鏡玉を表として。韓土往返の津に建たる三社なり。大和石上坐布留御魂神社ハ。垂仁帝の時に建られたる武庫にて。中に?(音+師の右)靈寶劍をも納めたれば。之を神體として。石上社を建たり。前條に擧たる天香山社は。神を祭る瓮を造る土を出す山なるを以て。往古より祠られたる社なり。常陸風土記に。鹿島郡の鐵礦を鹿島社領として採掘を停めたるも。同し政略なるを知るべし。總て上古の神社は。皆此の如き原由にて。神魂・高魂社を始め。神代に國土を開きたる人の創建したる社と見れば。神名帳諸社の起りは氷釋すべし。盡く祭天の堂に外ならず。然るを其社號に泥みて祭神の名と誤るより。天神地祇の混雜を生じ。人鬼を祭る靈廟にまぎれ。神道の主旨亂れて。遂に謀叛人の藤原廣嗣を松浦社に祭り・大臣の菅原道眞を天滿宮と崇めて。天子も膝を屈め給ふ。歴代の天子ハ一も神社に祭ることなきに。却て補佐大臣より一郡一邑の長までも神に化するは。冠履倒装の甚しきなり。末世の拘忌より。狐を祠りて稻荷とし。蛇を祠りて市杵島姫とし。鼠を崇めて大已貴神と謂ふが如きは。凡下流俗の迷ひにて。論ずるに足らざれども。其?(幣の下が犬)端を啓きたるハ。天神より強て地祇を別ちて。遂に人鬼を混淆し。此く亂れたるなり。佛法の入らぬ以前。陵墓に厚葬の風はあれども。人鬼を崇拜することなく。宗廟の祭もなく。惟大神を祭るを神道とす。是日本固有の風俗なり。 
神は不淨を惡む
神に事へるには清淨を先として。穢惡を忌嫌ふは。神道の大主旨なり。紀一書に。諾尊の冉尊殯?(かばねへん+僉)の所より還り。〔吾前到於不順也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢。則往至筑紫日向小戸橘之木原。而祓除焉。遂將滌身之所汚。云云〕とありて。海神住吉神は生れ。又天照大神月讀尊素戔鳴尊の三貴子ハ生れ給へり。(記も同し)、素戔鳴尊の大神新嘗に當り。祭殿に放屎し。馬を逆剥して齋服殿に投納れたるは。神道破滅。尚武鎮壓の主義と思はる。因て大神ハ位を遜れて窟戸に入給ふに至れり。神道に觸穢を忌むことの至嚴なる此の如し。魏志(東夷傳の倭國)に。〔始死。停喪十餘日。當時不食肉。喪主哭泣。他人就歌舞(誄のことなるべし)飲酒。已葬。擧家詣水中澡浴。以加練沐〕とあれば。中國のみならず。西國まで一般の風俗皆然り。此風に原つきて。清淨を以て神に仕へる式は定まる。所謂る天清淨。地清淨。内外清淨。六根清淨ハ。敬神の主要たり。神祇令に。散齋の内より〔不得弔喪問病食肉。亦不判刑殺。不决罰罪人。不作音楽。不預穢惡之事〕と。義解に〔謂穢惡者不淨之物。鬼神所惡也〕とあり。三代格に。齋月齋日に弔喪問病判署刑殺文書決罰食宍預穢惡を六條の禁忌と云。邦人の肉食を嫌ふも。かゝる習慣より來ることなるべし。後漢書(東夷傳倭○魏志も同し)にも。〔行來度海。令一人。不櫛沐。不食肉。不近婦人。名曰持衰〕と見え。格にも。神社の境内附近にて。屠割・狩獵・牧牛馬を禁忌する等を考合すべし。足利時代まで忌のことをすべて觸穢と云。死喪大祭戦争等には朝を輟め。音奏雜訴評定を停め。行刑を停むるを法とす。徳川時代にても。喪には鳴物を停む。俗に御停止と云是なり。又産穢・血荒・踏合等ありて。出仕を忌避るは。皆神道の遺風なり。
諸穢中に於て尤も忌嫌ふハ死穢なり。古代に人死すれば。其屋を不淨に穢れたりとて棄たり。紀一書。素戔鳴尊の新羅より杉檜?(木+豫)樟苴凾フ種を日本に植しむる條に。〔芍ツ以爲顯見蒼生・奧津棄戸將臥之具〕とあり。奧津の津は助詞なり。奧とは死人の臥したる奧の間にして。棄戸とは艪以て棺を製し。死人を歛し。其處に遺骸を置て棄去りたるなり。陵墓は家の貧富に應して厚葬の風なれども。殯歛葬埋には專業人ありて執行たることならん。後世に穢多の起りもかゝる風俗より生したることなるべし。又歴代天皇の必す宮殿を遷さるゝも。奧津棄戸に原由したることなるべし。格の弘仁五年六月太政官符に。〔?(てへん+僉)天平十年(西暦七百三十八年)五月廿八日格。國司任意。改造館舎。儻有一人病死。諱惡不肯居住〕と見ゆれば。其時代まても此風俗は存したり。韓土も同じ風俗なり。紀の皇極天皇元年五月の條に。〔凡百濟新羅風俗。有死亡者。雖父母兄弟夫婦姉妹。永不自看。以比觀無慈之甚。豈別禽獣〕とあり。其比日本は死を忌嫌ふて親戚皆棄去る風は熄たれども。親しく神社に近つきて事へる家には。此風猶嚴重に行ハれたり。其證ハ北島氏文書の貞治四年(南朝正平二十年、西暦千三百六十五年)十月。出雲國造貞孝(北島の祖なり)目安に。〔自曩祖宮向宿禰人體始。至資孝。四十代。皆止亡父喪禮之儀。打越于神魂社。(隔十餘里)令相續神火神水之時。國衙案主、税所、神子神人等令參集。奏舞楽。遂次第之神役。令一人相傳神職也。而彼孝宗者。五體不具。親父孝宗死去之時。荷入棺拾遺骨。爲觸穢不淨之間。不可奉近付于神體之條。無其隠。云云〕とあれば。國造・大宮司・祭主・神主などの家は。親の葬禮をも打止め。國司立會にて。祓除し。神火神水相續の式禮を擧行したる有様は。彼百濟新羅に異ならざるを知る。神事に濁穢を忌嫌ふにつきて。祓除の法ハ生したり。就ては古來種々の歴史も多く。弊害も亦多かりし。此に其一を擧げん。貞治より少し降り。康暦元年(南朝天授五年、西暦一三七九年)ハ。伊勢外宮の改造久しく期を過ぎたる末にて。十二月廿六日いよいよ遷宮式を擧行せんとするに。禁裏の御衰日なりと。前關白准后二條良基の沙汰にて。又延引したる時。迎陽記に。父参議東坊城長綱の物語を記して曰。〔(前略)不憚御身之慎。被遂尊神之禮者。更不可有其咎。還可有冥感。前賢所爲有如此事。中院禪閤正和興福寺供養。己欲出車之處。或者投入生頭於車中見告之。事可被行哉。可被延引之由。申之輩有之。大義不可憚少。興福寺供養。依此事延引。天下之口遊不可遁歟。所寄清祓可遂供養之由被申。于今爲美談者也。云云〕とあるにて。神事に穢を忌避け。少しの出来事にて。大儀を延引することなど。數々ありたるを知るべし。神事にあつかるときハ。常人さへ此の如し。まして神に仕へるを常職とする人は。死穢を忌嫌ふこと甚嚴なるべきに。時世移りて。今は神職の葬儀を主ることとまでなりたるは。神道の本義に於て甚如何なることなり。 
祓除は古の政刑
神道は穢惡を惡む至て嚴なる故に。祓除を行ひ。身を清淨にして神に事へるを大主旨とせり。上古神宮皇居を別たざりし時代に於て。朝廷の有様は。後の伊勢神宮の如きものなりと想像すべし。國造伴造の分轄する國縣の府治も。盡く其式に倣ひ。因て諸國に天社國社は設けたり。其天社國社に於て取扱ふ事は、年年新嘗祭(即後の氏神祭禮)をなして報本の意を表し。祓除を行ひて攘災招福をなすに外ならず。故に臣民みな毎年農桑諸業より収めたる。粟米布帛等を撰みて神に奉納す。之をみつぎと云。後世に御初穂といふ是なり。災害若しくは罪過に因て。祓除の料を納むるをあがものと云。猶後の贖罪金の如し。朝廷國縣の經濟皆是にて立ち。刑罰も是に依りたり。是を祭政一致の治とするなり。祓除の起りは甚古し。諾冉二尊も筑紫橘小戸の祓除あり。魏志に〔詣水中澡浴〕と記す。(並に前に出)蓋し神道と共に?(しんにゅう+貌)古より來りたることなるべし。其法は中臣家に傳はる書紀一書(天石窟の條)に。〔天兒屋命、則以神祝祝之〕と。又〔掌其解除之大諄辭〕とあり。今の中臣祓は其諄辭にて。原文は簡古なりしを。文武帝の朝に。?(≒柿)本人麻呂修潤したる文なりと云。(衆人の前にて、再三反覆し誦する詞に、甚古拙なる所あれは、人の誠敬を損する故なるべし)神の供物は齋部家にて掌る。古語拾遺に。〔命太玉命率諸部神造和幣〕と。又〔宣太玉命率諸部神供奉其職如天上儀〕(天上は天朝の義と見るべし)とありて。又神武の朝に〔其裔孫天富命率供作諸氏造作大幣〕と。又〔宮内立藏。令齋部氏永任其職〕とある等にて見るべし。神宮皇居の別れたる後は。調貢の法も改まりて。此藏は齋藏・内藏・大藏の三藏に分れ、大寶令に大藏省あり。内藏寮あり。又齋藏は神祇官にありて。祓除の贖物を納めたるなるべし。
祓除の主旨は。支體を清め。心を清め。清淨なる天地に呼吸するに非ざれば。靈顯なる天神の加護を蒙り得ずとの旨なり。是宗教の善根懺悔に近し。されども此旨につきて別に心身を清くする教文もなく。因て世に誘善利生の方を述べたる教典もなし。本居宣長は神ながら言擧せぬ國と誇れども。言擧せぬにて神道宗教をなす程の力なきこと明かなり。而して右に説たる如く。古は祓除を政治の本となし。刑罰も是に因て行へり。素盞鳴尊神の。御田に重播・毀畔・埋溝・挿籤したるうへに。大嘗殿を穢し。重々の罪を犯したるは。神道破滅を主張したる所爲にて。天照大神も御位を遜れんとするに至りしに。諸大臣等盡く服せす。天安河の會議にて。大神の復位を勸め。素盞鳴尊に重罪を科したるは。是國是一定して。皇室の安固したる根柢なり。國史に於て最重最要の節にて。神道の最功力ある處とす。此時尊に〔科之以千座置戸〕とは。釋日本紀に。〔私記曰。座是置物之名也。言置積祓物者。正是千處也。置戸者。是積置此千處之物。便爲其戸。令罪人出其中。故云置戸也〕と釋せり。(余は千處の齋藏を科したるにて、戸は烟戸のことならんと思ふなり)又〔至拔髪以贖其罪。亦曰拔其手足之爪贖之〕とあるは。亦曰の文を是とすべし。其は一書に、〔已而科罪於素盞鳴尊。而責其祓。是以有手端吉棄物。足端凶棄物〕とも。又〔即科素盞鳴尊千座置戸の解除。以手爪爲吉爪棄物。以足爪爲凶爪棄物。乃使天兒屋命、掌其解除之大諄辭而宣之焉。(是は中臣氏の記録に拠たる者と覺へたり齋部氏の記録を?(≒并)せ考ふれは、其贖物は彼氏の齋藏に納むべし)世人慎収己爪者。此其縁也〕とあるに合へばなり。古より貴人には死刑を行ひたる例なし。蓋解除の科に輕重の差等あるまでのことなるべし。其解除には。必す吉凶の兩を重科す。紀の履仲帝五年に。〔則負惡解除・善解除。而出於長渚崎令祓禊〕と見え。三代格延暦二十年五月十四日に至りて。大・中・小祓の物を定めらる。其詔に〔承前。神事有犯。科祓贖罪。善惡二祓。重科一人。條例已繁。輸物亦多。事傷苛細。深損黎元。仍今弛張立例〕とあれば。平安京の初めに至り。始めて兩科を一重に改められたり。 
神道の弊
天地は活世界なり。循環して息まず。常に新陳代謝しつゝ進めり。故に其中に棲息する萬物萬事。みな榮枯盛衰をなし。少し活動を失ひたる停滞物は。頓て廢滅に歸すること。皆人の眼前に觀察する所なり。故に久くして弊れざるものハなし。日本の創世は神道より成り。皇基は是に因りて奠定したり、其主要の節目は。前に述べたる條々に略盡せり。夫も數千年間に漸々と修正改進したる結果なるべく。神武帝の橿原に神人一致の政治を建給ひし時も。多少改革ありたるならん。亦九世を經て。時運益進み。崇神の朝に。神宮皇居を別けられたれば。神物官物も別れ。從ひて齋藏官倉も別れ。調貢の法も改まり。政治兵刑みな改まらざるを得ざれども。古來沿習の餘勢あれば。猶祭政一致の制によりて。漸々と變じたるは見易き情實にて。そは歴史上にも概見する所なり。三韓服屬し。應神・仁徳の兩盛代を經て。履仲。反正・允恭三朝に移る比には。已に刑罰の變革したるを見る。武内宿禰甘内宿禰兄弟權を爭ひたるとき。くかたち〔探湯〕をなしたり。允恭帝群卿國造の氏姓(即譜第)詐冒を改正の時も。〔諸氏姓人等沐浴齋戒。各爲盟神探湯則於和橿丘之辭禍戸(石+甲)。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。得實則全。偽者必害。或?納金煮沸。攘手探湯。云云詐者愕然之。豫退無進〕とあれば。探湯は神に要して詐偽者を發覺する。鞠訊法なるべし。是當時に盛んに行はれたることと見えて。北史(東夷倭傳)に。〔毎訊冤罪。不承引者。以木壓膝。或張強弓。以弦鋸其項。或置小石於沸湯仲。令所競者探之。或置蛇瓮中令取之。曲者即螫〕とあり。是は西國筋の事を觀察のまゝに記したることならん。諸国の國造伴造等支配下には。頗る惨酷の法も行はれたらん。繼體帝二十四年に。〔爰以日本人與任那人。頻以兒息諍訟難決。元無能判。毛野臣楽置誓湯、曰。實者不爛。虚者必爛。是以投湯爛死者衆〕とありて。我朝の任那諸國に人心を失ひたるハ。其等の暴政に由るものなり。此時代人智漸く開け。既に神道にては治むべからず。因て儒学を講じ。亦佛教も流入せんとす。履中帝の時に。安曇連濱子が仲皇子に徒黨したる巨魁なるを以て。事平くの後詔して。〔將傾國家罪當死。然垂大恩。而免死科墨。即日黥之〕と見え。又允恭の忍阪姫皇后も。〔赦鬪?(鶏の左+雉の右)國造死刑。貶其姓謂稻置〕と見ゆ。其年に爲皇后定刑部とあれは。已に死刑其他の刑名も生したり。併し黥は貶等にて。甘内宿禰の紀直に賜ひ。?(≒鬪)?(鶏の左+雉の右)國造を稻置に貶する類にして。黥の刑ハなきことなるべし。履中五年に。〔伊弉諾神託祝曰。不堪血臭矣。因以卜之兆云。惡飼部等黥之氣。故自是後頓絶以不黥飼部而止之〕とあり。記の安康の條に。〔面黥老人來。我者山代之猪甘也〕とあるを見れば、厮養の諸部は黥する習法なることを知るべし。支那歴史の記する所によれば。日本の古は文身の俗なるに。今は東國の賤民に文身俗を存するまでにて。西國には却て其俗なきは。かゝる由縁にて。自然に黥を廢したることなるべし。崇神の朝に神人別れてより。履中帝まで七世を經たれば。時運已に進み。神道の弊を生じたるを見る。
人智の開進して。學藝鬱興し。上下の生活益滿足なる時代となれば。祭政一致の政に依頼し。大占を以て神慮を迎へて事を斷し。諄辭を以て解除をなして刑罰をなすまでにては。國の治安を保つべからず。此時となりては。舊來これに浸染したる風俗には亦?(幣の下を犬に)習を存して。洗除するに困むことあるは必然の理なり。紀の孝徳帝大化二年三月甲申の詔に。〔有被役邊畔民。事畢還郷之日。忽然得疾。臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死於余路。因留死者友伴。強使祓除。由是兄雖臥死於路。其弟不収者多。(其弊一なり)復有百姓。溺死於河。逢者乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴。強使祓除。由是兄雖溺死於河。其弟不救者衆。(其弊二なり)復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。(其弊三なり)復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是甑主乃使祓除。(其弊四なり)如是等類。愚俗所染。今悉除斷〕とあるは。是今の警察違註罪に科する贖銭をば。人民相互に科徴したるなり。神道の死穢不淨を忌嫌ひ。事に觸れ端に就て祓除を強索する陋習ハ。千二百年前迄存して。其時旅行の困難思ひやられたり。公役にて巳を得ざるの外は。郡郷の往來交通絶えて。猶歳月を經るならば。國の繁盛なる道は頓に塞り果てん。此時に當り佛教僧徒等宣教の方便によりて。郡郷を巡りて道路橋梁を修架せしめ。池溝を開き。往來を通し。生産工藝を教へたる功は。歴史に歴々と記載し。文武元明の朝に至り。始めて貨幣を鑄造し。諸國に令して米を行旅に賣らしめ。終に奈良の盛治を見るに至りたり。其大恩は永く忘却すへからす。 
儒學佛教陰陽道の傳播
神道の日本を襁褓の裏に育成して。國體を定め皇統を始めたるは。其最功力ある時代なりとす。然ども成長の後に。時運の進みて。大陸地に萬般の學藝鬱興すれば。我國にも輸入して。益開進せざるべからず。漢の朝鮮を滅ぼし。平壌に帯方郡を置くに當り。我西國より交通する者三十餘國に及ひ。筑紫伊都津を開き。彼郡よりも使節館を建たれば。通譯の人もなかるべからず。漢字も講ぜざるべからず。崇神帝の末には。加羅國地を献して内屬し。任那府を韓土に置れたり。此時已に祭政一致にて治むべからず。必ず漢の儒學ハ輸入したらん。更に遡りて考ふれは。秦人馬韓に移住して辰韓を成し。少名彦命の海を航し來りて。大已貴神と共に國を造り。醫療禁厭の法を教へたる時より。漢學ははや入たるならん。(時代は書紀の紀年を舍て考ふべし)應神帝百濟より博士を召し。皇子に論語千字文を授けしめ給ひしは、儒學の宮中まで上りたるなり。其時の儒學は固より朱子學に非ず。亦唐の註疏にも非ず。大抵晉末に當れば。何晏の集解にて。修身よりは寧ろ政治學に近し。其後繼體帝の朝に。五經博士を召され。天智帝以後は、隋唐の學を主用せらる。皆政治學なり。神道とは其用を異にす。而して儒學の最も主張する天地の郊祀宗廟の?(ころもへん+帝)?(示+合)等は、一も用ふるなくして、猶古來の神道祭天の俗に從はれたるは其慮る所甚深し、神道を説くものゝ特に着眼すべき要點なり。然れども神道は誘善利生の教典なきのみならず。攘災招福にも欠典を感したらん。因て漢學の傳播に從ひて。陰陽道も入たるならん。是は漢代盛んに行はれたる讖緯書に本つく者なり。北史に〔百濟知醫薬・蓍龜。與相術・陰陽五行法〕とあれば。必す此國を經て輸入したらんと覺ゆ。紀の推古帝十年に。〔百濟僧觀勒來之仍貢暦本。及天文地理書。?(≒并)遁走甲方術之書也。是時選書生三四人。以俾學習於勸勒矣。云云。大友村主高?(≒聰)學天文遁甲以成業〕とあり。三代格に。陰陽道は周易・新撰陰陽書・黄帝金匱・五行大義等を主用す。易は五經の一にて。繼體の朝已に學に立たり。緯書の傳はること必早からん。古事記及ひ書紀の一書を熟看するに。神代巻には陰陽説及ひ周時の風俗に附會したる痕跡をまゝ發見す。蓋漢學已に入り。佛教まだ傳はらぬ際に於て。緯書其他の方術を以て。未來を前知し。災害を避ることを講したる結果なるべし。是も亦一時の氣運にして。久しきを經て弊れ。今も民俗に存する陋習は。神道佛教よりも。陰陽説より出たる拘忌甚多し。
儒學は只現在を論す。陰陽道の未然を知るも。誘善利生の旨に乏し。佛教の三生因果を説くは。神道の襁褓を離れて。心理を開闡するに。倔強の教なり。其支那に傳播したるは。我倭奴國の使洛陽に至りし比に端を開き。神功皇后征韓の比は。已に盛んに行はれ。應神帝の比には。高麗百濟に流布したり。其後三韓の往來頻繁になり。筑紫中國筋に流入りたるは必す早からん。史乗に見えたるは、繼體帝の朝に始まる。欽明帝戊午歳(法王帝説に?(據をりっしんべんに)る。書紀の紀年にては宣化帝三年なり)に至り。遂に斷然と百濟より佛典佛像の獻を受給へり。是彼國の後るゝ百五十年なり。文明の競進より論ずれば遅鈍なりとすれども。國の舊俗を守るに厚く。急遽に外教に移らざるは。日本人の氣象にして。國體の堅固なる由縁なり。佛教者は因て實相眞如の體は、我熱信する天神なることを示し。本地埀跡の理を説たるを以て。衆心靡然として之に帰依し。敬神の心を移して。?(≒并)せて崇佛に注き。二百年を經て。敬神崇佛の國となり。佛教の研闡は他國を超越するに至りたるは。歴史上に於て、國の光輝と謂て可なり。佛教の入りたる後は。神社と佛寺と。並に崇敬せられて勝劣なきは。歴史に明白なり。佛に偏して神に疎なりと思ふは僻める説なり。但し佛教も久しきを經るに從ひて弊れたり。委しくは他日を待て論せん。若又神道にのみ僻し。今日まで神道のみにて推來るならは。日本の不幸は實に甚しからん。前條に擧たる大化二年の詔を一顧すべし。崇神帝以後數百年間に。神道の國民を教化したる結果は如何なるぞ。續紀神龜二年七月の詔に。〔今聞諸國神祇。社内有穢?(自/死)。及放雜畜。敬神之禮。豈如是乎。宜國司長官自執幣帛。慎致清淨、常爲歳事〕と。又天平二年九月の詔に〔安藝國周芳國人等。妄説禍福多集人衆。妖祠死魂云有所祈。近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人、少乃數千〕とあり。かゝる人民を開誘する爲めに。唐韓諸國の皆弘むる佛教の方便に依らすして。教典さへ備はらぬ神道の古俗に任せたらば。全國今に蒙昧の野民に止まり。臺灣の生蕃と一般ならんのみ。
神道の日本を育成したるは、慈母の恩あり。されども成人の後まで。永く母の左右にのみ居るべからず。總て地球諸国みな神道の中より出て。種々に變化したれども。國本を維持して。順序よく進化したるは、日本のみなり。神道の時に定りたる國帝を奉して、敢て變改せず、神道の古俗を存して敢て廢棄せす、かの新陳代謝の活世界を通過し、時運にも後れさればなり。凡國には主宰者を立てゝ、政務の本を統べざるべからず、此至尊なる位は斷して人事を以て定め難し、智愚賢不肖を擇まず。只其創世に當り。純に天神を信したる時に於て。神意とて定めたる君主を。國のあらん限り。永遠に奉すべし。此外に萬古不易の國基を定むる方法はなし。日本人民は天神の子孫を天日嗣に奉し、少しも心を變せず、其日嗣の天子に、悪徳の君は一代もなく、又系統の絶える不幸にも逢はず、九世親盡たる疎遠の系統に、此の位を傳ふ不幸にさへ逢はずして、今日に至るは、誠に人力には非し、天神の加護を忘るべからず、他國を見よ盡く人事の?(鹿を三つ合わせた字)忽にて。一度國祚を變更したれは、帝位は國民の競争物となり。常に國基を安定するに辛苦しつゝ經過するに非ずや。我國の萬代一系の君を奉するは、此地球上に又得られぬ歴史なり、其誇るべき國體を保存するには。時運に應して。順序よく進化してこそ。皇室も益尊榮なるべけれ。國家も益強盛となるべけれ。世には一生神代巻のみを講して。言甲斐なくも。國體の神道に創りたればとて。いつ迄も其襁褓の裏にありて。祭政一致の國に棲息せんと希望する者もあり。此活動世界に。千餘百年間長進せざる物は新陳代謝の機能に催されて。秋の木葉と共に揺落さるべし。或は神道を學理にて論ずれは。國體を損ずと。憐れ墓なく謂ものもあり。國體も皇室も。此く薄弱なる朽索にて維持したりと思ふか。歴朝の烈を積み。其神道の中より出たる國を養成せられたる。百廿餘代の功徳は。染みて人心にあり。其間に他の諸國は、一度國本を變動し再び復すへからすして。革命の禍を痛嘆したる歴史を經過したれば。最早皇綱は安固なり。此に觀察して、益盛大富強を圖るべし。徒に大神宮の餘烈にのみ頼むは。亦是秋の木葉の類なるべし。余既に神道の大本に就て。其國體と共に永遠に保存すべき綱領と。國民に浸潤したる美風とを論述したり。其他の廢朽に屬する枝葉と。中世以來の謬説とは。本を振し葉を落して。本幹を傷害せざる樣にすべし。是亦國家に對する緊要の務めなり。 

神道を以て「只天を祭り攘災招福の祓を爲すまでなれば、佛教と並行はれて相戻らず」と云ふ、卓見と云ふべし、若し佛法にして渡來せざりしならんには、神道は或ひは宗教とまで發達したらんも知るべからずと雖も、中途にして佛法渡來し且つ之と共に文學移入したりければ、我神道は半夜に攪破せられたる夢の如く、宗教の躰を備ふる能はざりしなり。後世に至り之を以て宗教となさんと欲するものありと雖も、是れ遅まきの唐辛にして國史は之を許さゝるなり、而して其事實を證するもの著者に若くなし、
鼎軒妄批(『史海』編集者(鼎軒)の評) 
 
出口王仁三郎の大予言

 

日本敗戦の霊的意義 / 第二次大本事件『十二月八日の仕組み』の謎にせまる
出口王仁三郎作『天降天照皇大神聖像』(雨宝童子象)
先ず、本日は久しぶりの王仁三郎の墨画作品の紹介です。
この天照皇大神の神像は雨宝童子(うほうどうじ)とも呼ばれ、密教の両部神道の神の一柱でもあります。
恐らく、殆どの読者の方には、雨宝童子と言っても私同様、聞き慣れない神名(この場合は仏名?)でしょう。
そこで由来を検索してみました。雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに九州の日向に降臨されたときのお姿だそうで、宇宙の真理を現す大日如来の化身として、弘法大師空海が朝熊山でのご修行中に霊眼にて感得され、彫られた尊像だと言うことです。
明治維新以前の神仏習合時代、雨宝童子は天照大神と一体と考えられ、維新後の神仏分離までは、全国からのお伊勢参りの参拝者の中には、天照大神のご神体として雨宝童子像を求め、国に持ち帰るというほど有名だったそうです。弘法大師空海との霊的因縁が少なくないと言っていた出口王仁三郎の作品としても重要な大作の一つのようです。(王仁三郎の作品集でも掲載順で、2作品目に配列されているようです。)
通常、神話では女神とされていますが維新前までは男神とされることも多かったこともあるかも知れませんが、雨宝童子は「童女」ではなく「童子」とされており、何故、弘法大師の霊眼には童子と映じられたのかについての疑問が残ります…この事で私が思い出すのは、王仁三郎が『霊界物語』において、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と、「天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)」ではその神格において異なると述べていることです。
さて、本題に入ります。
普通の勤め人の私が「ライフワーク」等と言って良いのかどうか分かりませんが…実は、日本の近現代史を読むことは私の、ライフワーク的な趣味なんです。
特に最近の政府や大企業の、多くの人命や健康よりも自分たちの利権を最優先の思想が戦前の一時期の日本に相通ずるものがあり、一層興味が深まっているという次第です。
そんな私が王仁三郎の思想に興味を持った切っ掛けは、やはり20年程前に読んだ、ある問題と戦前の世相について書かれた文章がきっかけでした。
元々、10代の若者にありがちな、社会の歪さに違和感を引きずったまま成長し(ネットの所謂中二病?)、今の日本社会の出発点である敗戦に繋がる歴史の流れに纏わる謎に取り憑かれた、と云った所です。
調べれば調べる程、先の大戦における、今日では必然であり明確であるとされている、日本の敗戦の諸原因の影に隠れ、専門家でも解けない謎が気になり出して止まらなくなしました。
そして、その秘密を一生懸ってでも知りたい、という大仰な欲望の命ずるままに書物や資料、ネット情報等を渉猟して来ました。勿論、素人の物好きの範囲ですが…そんな、私が王仁三郎に引き込まれるのは時間の問題でした。
何故なら、大正デモクラシーからの急激な反動である1.15事件や2.26事件等、「昭和維新」が叫ばれた、歴史の大転換期における、数々の事件の舞台裏には、いつも、この「怪人物」出口王仁三郎の名前が見え隠れしていたからです。
そのような具合に出口王仁三郎に興味を頂き、その思想を調べ始めて見ると、最初は右翼の大物を陰で操っていた怪しい宗教団体の教祖というイメージを抱きましたが、よくよく調べて見ると恐ろしくその予言が的中した大予言者、大霊能者、であったと言う記録に行き着き、とうとう彼の著作を直接、読み始めると、それまでの彼に対して抱いていた右翼的なイメージとは正反対の思想の持ち主であることが判りました。
王仁三郎が「皇道主義」を宣揚していたのも単なる右翼的革命を意図したものではなく、国家神道や近代思想によって抑圧されていた古神道の精神性の復活と、大胆な平和主義、海外との協調主義をも唱えていたという一面まで垣間見えて来ました。
そのような王仁三郎の多面性にますます引き込まれた私は、彼の思想の中心である全81巻83冊の大著、『霊界物語』を読むにつれ、「偉大なる宗教者」であるという王仁三郎の本質に触れることになったのです。
しかし、「偉大なる宗教者」出口王仁三郎は、自身が出口直教祖と共に育てた、「皇道大本」という宗教教団を当時の日本有数の組織に育て上げ、教団の高殿の奥に澄まし顔で鎮座し説教を垂れるだけの所謂「宗教者」ではありませんでした。
大本神諭に述べられている通りの「大化け物」だったのです。彼が「大化け物」の本領を発揮したのは特に昭和初期のことです。
昭和10年には、外郭団体を含めると800万人に膨れ上がっていた、文化人、企業家、政治家、軍人、さらには皇族にいたる幅広い支持者や崇拝者、支援者に多大な影響力を持っていた王仁三郎ですが、殆ど意図的と判るやり方で自ら政府当局を刺激し、「第二次大本事件」という、一見すると「第二次世界大戦」と見間違えるような、名称がつけられた大事件を引き起こすのです。
事件により未決勾留され、6年8か月後に裁判により殆ど無罪が証明されて保釈した後は、それまでの活躍に比べるとヒッソリと余生を過ごしたように見えることもあり、心無い研究者は彼のことを「挫折した宗教革命家」「弾圧された右翼の影の指導者」などとレッテルを貼って終わりにしようとする始末です。
さらに、王仁三郎の遺した宗教団体や信者の方々でさえ、大部分が「第二次大本事件」の意義を矮小化しているのかのような定義づけをしているように私には見えるのです。
私個人としては、この「第二次大本事件」に対する捉え方の違いが、大本神諭で「艮の金神」が、出口王仁三郎のことを「三千世界の大化け物」「てんのみろくさま」という救世の神業を担うひとであるとの宣言を受入れるかどうかという「踏絵」ではないかと考えています。
「第二次大本事件」の意義については、、私個人としては前回の記事で、以前読んだ資料をご紹介して「第二次大本事件は王仁三郎の計画が大失敗に終わった証拠だ」と断定する心無い人々に対するささやかな抵抗を試みました。
この前回投稿で言及したように、「第二次大本事件」はキリストのゲッセマネの丘からゴルゴだの丘に到る磔と復活の秘跡に匹敵する程の、出口王仁三郎の真価が顕された事績であり、黒住、天理、金光、妙霊、大本という一連の民衆宗教というエネルギーの奔出が型として表現した日本的霊性の高峰であると思います。
今回の投稿では、「第二次大本事件」という型によって引き起こされた(と私は解釈しています)先の大戦における「日本の敗戦」の霊的意義について、以前読んで感動した記事をご紹介し、「日本の霊性の奔出」という「事実」について読者の皆様が思いを馳せる切っ掛けにして頂ければと思います。

「第二次大本事件『十二月八日の仕組み』の謎にせまる」
   (佐藤光郎、1986、「…」の表記は省略箇所)
…しかし、「第二次大本事件」そのものが経綸上、大日本帝国崩壊をもたらしたという奇想天外な真実を内包するものであるなれば、明治王政復古間なしの時点で、既に大東亜戦争(原文ママ)の開戦と敗戦の「月日」を暗示し、そのうえ何故、かかる大戦が生起しなければならぬのかという神意をも開示している「天理教原典」と、「第二次大本事件」とのあいだに、何か特別な経綸上の関連性が存在すると見るのは当然であろう。
また、「大本」的感覚によれば、天理教は元来「先走り」という先駆的な使命を帯びて天保九年十月二十六日、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市)の中山ミキ(教祖)が「元の神・実の神」の「社」に貰い受けられて開教された天啓の宗教である。
大本神典であり瑞霊(みずのみたま、ずいれい)の御教えである『霊界物語』によると、ミキ教祖は三十五万年前、玉能姫として現れ、出口ナオ開祖の前身である初稚姫と共に素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神業に従仕し大車輪の活躍をしたことが啓(つ)げられている。
とくに、『霊界物語』二十二巻第二十章712節(王仁三郎生誕の七月十二日の日柄に因む)「三の魂」には三千世界立替え立直しに不可欠なる三個の神宝(黄金の玉、如意宝珠の玉、紫の玉)のうち、「紫の玉」が玉能姫に授かり、あの高姫(註:たかひめ−霊界物語にしばしば登場する反面教師的役柄)をして「思いもよらぬ人たちに、肝腎な一厘の経綸をいいつけるとは…妙な神さまも…いや教主もあるものだ。」と地団駄を踏ませたのである。
それほど、素戔嗚尊の御神業、一厘の経綸に神縁ある玉能姫、即ちミキ教祖であるゆえ大正十四年、綾部天神馬場において、出口王仁三郎はナオ開祖(初稚姫)と共にミキ教祖(玉能姫)を二聖として祭祀した…王仁三郎は「大本神諭と天理神諭」と題して両教神諭の比較対照を試みている。
…これらの「事実」をもってしても出口王仁三郎は、大本・天理両教が一厘の経綸上、深い関係に結ばれている事を示唆しておられる、と言えまいか。その意味よりして「第二次大本事件」並びに一厘の経綸の謎を解くために、天理教に垂示された「世の立替えのプログラム」を大本経綸に照応させながら、この主題をつきつめるという本稿の立場は極めて意義深く、且つ重要であると言えるわけである。
…(中略)…さて、十億年という歳月を経て「救世」に始動された月日親神は、そのプログラムを明らかにするうえで「にほん」と「から」の問題を極めて重大なこととして取り上げられている。
今日の天理教教学レベルにおいてなお、この問題はいったい何を意味するものなのかはよく判っていないが、お筆先(天理教の)にはこのことが繰り返し啓げられている。
「今までは唐(から)が日本を儘(まま)にした神の残念何としよやら」
「今までは日本が唐(から)に従ふて儘(まま)にしられた神の残念」
もちろん神示による「にほん」と「から」の問題は、現界の偏狭なナショナリズムに基づいて解釈されるものでないことは申すまでもない。(引用註:これは大本神諭の「がいこく」「外国」「害国」も同じ)…筆者はこの問題について次の様な見解を持っている。
「にほん」と「から」は、飛躍した論理と受け取られるかもしれないが、現界と「合わせ鏡」にある霊界(天理お筆先における『天』という領域に属する異次元界)という次元から放射されて、この現界の個人・世界に決定的な影響を及ぼし「歴史」をも動かす「霊的支配(活動)原理」であると解釈している。
…「にほん」とは月日親神の人類創造原理を集約した神言にして、その活動力を言い…「から」とは月日祖神をして残念・立腹(りゅうふく)とされる状況を集約した神言にして、その霊的支配力を言い…さらに言えば…(引用註:王仁三郎的表現で言う)霊主体従(れいしゅたいじゅう)は「にほん」の霊的活動原理に当り、体主霊従・力主体霊(たいしゅれいじゅう・りきしゅたいれい)は「から」の霊的支配原理に該当する。
要するに、神幽現三界を貫く善と悪の対立した霊的二大原理を「にほん」と「から」と言うのである。今日まで全人類は「霊界」から放射された「から」の霊的支配原理に圧倒され蹂躙(じゅうりん)されて来たのである。そのために、人類は「生老病死」の苦しみをかこち、或いは地球上のいたるところで「戦争」という力主体霊的殺戮の現場を現出させて来たのである。
人を救い導くべき宗教は、出口王仁三郎がいみじくも喝破したように八重垣的「醜狂(しゅうきょう)」(精神的無形の障壁)と変貌し、そして、祈りよりはより強固な八重垣を築く呪文と化した。
…しかし月日親神は約十億年に亘(わた)った「陰からの守護」的在り方を根本的に改めて「表の守護」的在り方、つまり世界を一列に救う大乗的救世経綸に始動されるのである。そのことはお筆先において
「この先は日本が唐(から)を儘にする皆一列は承知していよ」
「今までは唐やと言うてはびかりて儘にしていた今度返しを」
とされている如く、月日親神は「にほん」の霊的活動原理を封鎖した「から」の霊的支配原理に止めを打ち、再び「にほん」を復活させることが主目的であると啓示されている。その未曾有の構想は究極において
「この道を通り抜けたらその先は唐は日本の地にしてある」
「唐の地を日本地にしたならばこれ末代の生き道理なり」
と確示されたように、実に「生老病死」の「からの世」から「病まず死なず弱らず」の「にほんの世」へと立替え立直し、神幽現三界に亘り「にほん」の霊的活動原理を樹立することにある。
…(中略)…ところで月日親神はある重大な事実を三十一文字に託して吾々に投掛けている。即ち、
「高山の真の柱は唐人(とふじん)やこれが大一(だいいち)神の立腹」
「唐人が日本の地々入込んで儘(まま)にするのが神の立腹」
(註:この二首は維新後の西洋某結社が関与すると噂され続けている孝明天皇、明治天皇暗殺・替え玉説やその後も各地で結社が蔓延り、現在は日本を追い詰めている状況にあることの予言とも取れる内容ではないかとも感じていますが、さて真実はどこにあるのでしょうか…)
このお筆先は、明治王政復古間なしの明治七年頃にしるされたものであるが、お筆先一千七百一首中、「とふじん」とは何者であるか、という事を指示しているお歌はこの一首しかない。
何れにしても判ることは「高山の真の柱」こそは月日親神の「大一(第一)の立腹」と激しく指弾される存在、即ち、「とふじん」である、という事である。
これについて大胆な見解を公表した人物がいる。天理教より分かれた「ほんみち」開祖、大西愛治郎その人である。昭和三年と十三年に全国に発布した「書信」「憂国の志に告ぐ」と題するパンフレットをみると、彼はさきのお筆先を引用しながら、日本国体の要、「天皇」こそが「とふじん」である「高山の真の柱」なのだ、と唱えたのである。
大西のこの見解が真実である証拠に、ミキ教祖五十年の「雛型の道」において終始このことを神意として主張したことにより前後十八回の留置・投獄を経験した。なかでも、十八回目の投獄によって「目は見えず、耳は聞こえず」そして寝がえりもままならぬ姿となった。(中山ミキ天理)教祖八十九歳の時である。
…それと呼応するかのように、天理教を「先走り」と宣言した大本の神諭には、天皇制神話をその深部より震撼させるという意味において右の天理神示より、より尖鋭化された告発が投げかけられている。つまり、天皇制神話に対する「対抗神話」として天理教に「泥海古記」がある如く、(王仁三郎の)大本には「国祖隠退・再現」神話を基底音とした驚愕の世界観がある…
「まえの天照大神宮どののおり、岩戸へおはいりになったのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのがうそを申して、だまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受女(あめのウズメ)どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」
つまり、天照大御神の神代における「天の岩戸」事件がそもそも「悪の世」の発端であり、我良し(体主霊従)、強いもの勝ち(力主体霊)の世の発端がここにあると国祖は指弾しているのである…さらにこの「霊的事件」を契機として、素戔嗚尊が天照系の八百万神の謀略により千座の置戸(ちくらのおきど)を背負わされ高天原より放逐(ほうちく)されたわけであるが、その意味する所を読み取れば、追放された素戔嗚尊とはまさしく「押込められた(隠退させられた)」国祖の投影存在であることが判る。
つまり、この「素戔嗚尊追放劇」こそ、紛れもなく国祖引退劇のモチーフを「反復」し「展開」した内容として大本教学上位置づけられるからである。
だからこそ、国祖は「素戔嗚尊追放劇」を自らの引退劇として共感し、天照大御神の「天の岩戸」事件を叱責することとなったのではないか。そして、天照の「一度目の」天の岩戸開きを悪の世の発端として指弾しながら、それに対して今度は「二度目の」天の岩戸開きを救世神・素戔嗚尊が断行し、歓喜に満ちた地上神国を成就する、と国祖は断言するのである。
要するに、幾万もの「神と神との大戦争」によって織りなされて行くのが大本経綸の基本構成であるが、それは、
「押込められた(隠退させられた)側」の神々と「押込めた(隠退させた)側」の神々の二系統に大別されよう。
そして、前者の側につく神々を経綸上、集約し、代表した神名こそが「素戔嗚尊」(引用註:『霊界物語』に記載される神名は、神素戔嗚大神)なのであり、後者の側は、「天照大御神」に現わされていると理解出来るのである。
(中略)…そして、月日親神・素戔嗚尊(国祖)の「残念・立腹」より発せられたこの神の絶叫は、霊界の天照大御神(と、引用註:天照大御神の系統である)現界の現人神天皇が築き上げてきた今日までの「からの霊的支配原理」による霊的ネットワークの解体を急き込んでいるものなのである。だからこそ月日親神は
「日々に神の心の急き込みは唐人(とふじん)ころりこれを待つなり」
と筆先にしるし、「世の立替え」の第一着手は「からの世」の霊的中枢体を排除することから開始する、と明治七年に宣言されたのであろう。
もちろん、これまでの経緯よりして「世の立替え」における月日親神の戦略目標は、この地上界のみにとどまらないことが判る…大本神諭にある如く「今まで世に御居(おい)でござりて世を持ち荒らした神」天照大御神がいる。
その神及び眷属(けんぞく)によって「永らくのあいだ世に落とされた神」素戔嗚尊(・国祖)・月日親神は主権回復を賭けてなんとかしてこの悪神(原文ママ)を倒そうと挑み、ここに、神霊界における「神と神との大戦争」が勃発する。まさに神々のハルマゲドンともいうべき善悪二大神系の総力戦が繰りひろげられる訳である。
ところが、神霊界でかかる大戦争がおこると、その写し世である「地上界」にも当然その大変動が移写されることになる。
さきの「唐人ころり」の天理予言は、このような経綸上の脈略よりその真意を読み取らなければなぬ。と、するならば、その刻限(時節)は…
「今日の日は何が見へるやないけれど八月を見よ皆見えるでな」
「だんだんと十五日より見えかける善と悪とはみな現れる」
この二首の天理お筆先は昭和二十年八月十五日の終戦の刻限(時節)を指す「月日」の暗号であることは明白である。そしてこれは、天理教原典に確示された「世の立替えのプログラム」の中でも、月日親神の「大望事情」(お指図)と言われるほどの重大なる霊的事件であったわけである。
なぜならば、天理教原典では、この「唐人ころり」によって月日親神の第一の残念立腹を晴らし、その直線的延長線上において全世界の人類の心を勇ませ、真実に世界中を助ける経綸を展開され、
「その後は病まず死なずに弱らずに心次第に何時までも居よ」
という世界へと「歴史」を神導することが世の立替えの順序として啓(つ)げられているからである。
その意味よりして、この「唐人ころり」は「からの世」から「にほんの世」へと大転換される神の経綸上のキーポイントであったのである。
また、(王仁三郎の)「大本」的感覚からみれば、この終戦の刻限(時節)は神霊界における「神と神との大戦争」のひとつの結末が人類にもたらした最大級の「大橋」であったわけであるが、このような神霊界の様相を知らぬ(引用註:一顧だにしない研究者や)歴史家は、昭和二十年八月十五日を「歴史のターニングポイント」と喧伝するが霊的に見れば、それどころの騒ぎでない…昭和二十年八月十五日の刻限(時節)は「死と生の断絶」にさまよう全人類を「病まず死なず弱らず」の陽気遊山の世界へ転換すべく月日親神・素戔嗚尊がその神扉を押し開かれた一大記念日たる「第二の岩戸開き」(註:真の岩戸開き)であったのである。
そして、この輝かしき神の栄光を獲得したのが天理教を先走りとした三千世界の立替え立直しを宣言した大本経綸−第二次大本事件−であったのである。
すなわち、昭和十年十二月八日の大本弾圧、そして六年後の同月同日の大東亜戦争勃発(その結果としての昭和二十年八月十五日の大日本帝国崩壊)という、大本と大日本帝国との間に生起した「型と実地」経綸が、天理教で果たせなかった「唐人ころり」を達成したのである。
しかるに、「唐人ころり」を為し得た大本では「第二次大本事件」より五十年を経過した今日においても、あの犠牲は「三千世界立替え立直し」上いったいいかなる意義があったのか、あの弾圧により神の経綸はいかに展開し、前進したのか、という事が判然とせぬまま放置されて来ている…(註:この引用記事の書かれた暫く後に分裂した、大本関連の各三派(教団)によって捉え方や向き合い方が違うようですが…)
…では、何故肝腎の大本においてこれらの事が判然とせぬまま五十年間も放置されて来たのであろうか…弾圧の直接原因となった「昭和神聖会運動」は…昭和十年当時八百万とも言われる協賛者を獲得したが、この白熱した運動は、うなりをあげて渦となりながら、農村の疲弊に立ち上がった軍部の一部青年将校と合流して「昭和維新運動」を唱導し、ここに巨大なる運動体として成長した。
そのために、王仁三郎は「国体変革」を意図しているのではないか、との疑惑を当局より掛けられるに到った。
このような巨大な運動体の中枢にいる王仁三郎に対して側近の大本幹部たちは、当局の弾圧の用意ある旨を告げて運動の手を緩める事を再三再四、王仁三郎に勧告したこともある。しかし王仁三郎は頑として受け入れず、むしろ加速度的に運動を推進した。
困惑する幹部たちを前にして、王仁三郎はこう絶叫した。
「ワシは大本教の出口王仁三郎ではないんだ。世界を救うために出て来たんだ。世界さえ良くなったら大本教なんか潰れてもいいんだ」
そして、王仁三郎はこの言葉通り昭和十年十二月八日未明、島根別院三六亭において当局により検挙され、以後六年八ヶ月の未決入りとなり、全国を席巻した神聖会運動機関は即時、解散。大本も近代宗教史上類を見ぬ凄惨な弾圧の嵐を迎えることとなった。(引用者:大弾圧による被害者とその遺族の皆様に最大の弔意と敬意を捧げずにはおられません…)
そのために、弾圧から五十年を経過せし今日(引用註:佐藤氏がこの原稿を執筆した1986年)に至るも、当時を知る人々は「弾圧が来ることは誰の目にも明らかな状況であったにも拘らず、何故王仁三郎は幹部の制止を振り切ってまで、昭和神聖会運動を推進したのであろうか。そして『第二次大本事件』とはそもそもなんであったのか?」という深刻な疑問を自らに問い続けて来た。
それは心ある人々にとって常に議論の焦点となり、そのあげく、「当局の誤解説」、「神の経綸説」、「必然説」、「出口王仁三郎の贖罪説」、「出口王仁三郎の故意説」が飛び交い今日に到るもその結論は下されていない。
…(中略)…ところが筆者にしてみれば、かかる不毛の議論が今もってなされていること、それ自体が不思議なのである…天理教原典に垂示された世の立替えのプログラムを基本とすれば、天理教を先走りとしたその瞬間から大本は、神国完成という大使命上どうしても「唐人ころりこれを待つなり」という神の大望を達成せねばならぬ責務を負うこととなり、これを遂行するために出口王仁三郎は、意図的に昭和神聖会運動を組織し、強力にこれを推進することにより当局を刺激し、そして、わざと大本を弾圧させるべく当局を追込んだ、ということが明白に確認し得るからである。
まさに、「世界さえ良くなったら大本教なんか潰れてもいいんだ。」と獅子吼した王仁三郎の言葉通り大本は弾圧を受けた。そして、それにより型と実地の「鏡像現象」を生起させ、…「唐人ころり」を−その代償は実に大きかったが−果たし、神国完成に到るおおいなる神扉を押し開いたという、神の栄光を…(王仁三郎は)勝ちえたのである。
…王仁三郎は大日本帝国敗戦(唐人ころり)を「実地」に達成する目的のために、経綸神則上、大本を「型」として必然的に弾圧させなければならず、またその通り大本を追込んで行った。そして、王仁三郎は…天理教原典に確示された、昭和二十年八月十五日という神定の日柄に「唐人ころり」を成就したのである。
かかる王仁三郎の経綸上の足跡をたどって行けば、三千世界立替え立直し上に於けるこれら一連の経綸は、見事というほかないほどパーフェクトに成就された訳であり、そこには、【水も漏らさぬ神の経綸】が実施されたことが確認さればこそすれ…「霊的革命の挫折」などということは断じてないのである。 (以上、引用終わり)

さて、いかがでしょうか?
ご紹介の文章を通じ、日本にも、昭和十年十二月八日、かような凄惨な試練を事前に承知しながら自己犠牲をも厭わず、神の計画をそのまま実施した出口王仁三郎という偉大な人物が存在したということに認識を新たにして頂ければ幸甚です。
また、天理、金光、大本と続く、神の経綸が「水も漏らさず」成就されていることにお気づき頂き、王仁三郎の後継者云々という人物や書物には、クレグレもお気を付け下さいませ。
では、今日も最後に王仁三郎の歌をご紹介します。
治安維持法違反容疑者としてけいさつへ拘留されたる師走の八日
日地月星の団子も食ひあきて今は宇宙の天界を呑む 
 
柳田國男の神道研究 / 茂木栄

 

はじめに
明治以降、戦前までの神社神道は、国家の宗祀とされ、特殊な状況を呈してきた。
伝統的な日本の集落の一般的な風景は、集落の背後には山があり、山宮もしくは奥宮が祀られていた。山の水源から流れ出る水は集落の水田を潤し、水田には田宮が祀られ、家並みは往還(街道)を挟んで発達し、往還から直角に山に向かって参道が延びている。参道の奥にいわゆる鎮守の森があり、神様が鎮まっている里宮がある。山宮、里宮・田宮という垂直の方向性と集落を貫く往還の水平の方向性があり、神社は背後の広大な神体山と広い神社境内地、神田を含む神社の耕作地を持っていた。つまり神社は点ではなく面で存在していた。
明治政府が目を付けたのは、神社の広大な社有地だった。明治四年一月五日付、社寺領上知令の太政官布告が出される。同年五月十四日神社はすべて国家の宗祀たるとし、世襲神職を廃止し以後は精選補任とした。同年七月四日付け、神社の本社建物以外を上地させる旨の太政官布告がだされ、本社建物の雨だれの落ちる範囲の境内地以外は国有地とされたのである。と同時に、これまで一〇〇〇年以上の長きに亘って、神社を守ってきた社家が廃され、地方の有力大社には地方の名士が国家公務員として宮司に就任する例が多かった。
阪本是丸氏は憤りを込めて述べている。
明治四年の社寺領上知によって、神社は広大な自然環境を一挙に失った。今でこそ神社といえば社殿と参道を囲む「現有境内地」という観念が一般化しているが、上知令以前の神社の「境内」とはもっと概念の広いものであったのだ。山林や田畑があり、小川が流れ、そこで人間は神々と共に生きてきた。だが、神をも恐れぬ官僚たちは、神社の境内地を他の封建的土地所有と同一視し、社殿が納まるだけの境内地があれば充分であるといって、他の一切の境内地(山林・田畑等)を強制的に公収したのである。しかし、戦前までの神社人や氏子たちは少しでも昔の境内地に近づけようと努力し、民有地となった旧境内地を買い戻し、さらには国にその返還を求め続ける運動を絶え間なく行った。こうした先人の努力の賜物が現在の神社境内地なのだ。と指摘する。
宗教性とともに政治性を帯びた神社神道という、これまで日本の歴史上に無かった新しい形の神道を作り上げた。そして、敗戦により神社神道の後ろ盾となっていた国家の支えが消える。戦後神社神道は、どのようにその存立基盤を確保して行くべきか大きな課題を突きつけられた。 
一、柳田國男の学問
明治八年生まれの柳田は、東京帝国大学を卒業すると農商務省に入省し、農政官僚としての道を歩んで行く。明治後期の農業の近代化路線を支えたのも柳田國男であった。また、柳田は大正天皇の御大礼の政府側スポークスマンを勤めた。貴族院書記官長という貴族院議長に次ぐ要職にありながら、大正八年には職を辞して官界を去った。農政官僚として日本の近代化(=西欧化)を推し進めてきた柳田は、官職を辞すると、官僚時代とは正反対の日本の伝統と庶民文化の発見、その価値付けの学問構築に邁進して行くこととなる。「日本民俗学」という柳田國男が日本の学問伝統を継承しつつ誕生させた、日本オリジナルな学問がそれである。
日本の近代と柳田國男の研究を『近代化への挑戦―柳田國男の遺産』としてまとめたアメリカ人、ロナルド・A・モースはいう。柳田國男は、日本の立場から近代化に挑戦すれば、日本独特の近代化が生まれるのではないかという発想を持ち、日本各地を調査し比較することで、日本人の慣習と心理に関する根本的事実を解明したいと思っていた。彼が日本の国民性の伝統的根源を探し求めたことは、日本人に共通する感覚に対する興味に端を発しており、日本の近代が国民的一体感を確立しようと努力したことの一部であったと述べている。(ロナルド・A・モース「アマチュア精神に富んだ日本のふくろう」)。柳田國男の創りだした日本民俗学は、ロナルド・モースによれば、国民的一体感確立を一つの目的とした、国民性の伝統的根源を求めた学問であったということができる。
戦後の神道人が注目したのは柳田國男の民俗学であった。柳田國男が理論化した日本固有の信仰は、柳田にとっては広い意味の神道のことであった。神社神道というのは神道の一つのあり方で、民間信仰が基にあって、その上に成り立っているのが神社であるという考え方を戦後の神道人は受け入れたようにみえる。 
二、民俗学と神道の関係に対する戦後神道人の認識
『神社新報』の主張欄で、かつて神社本庁の教学研究所に在籍した佐野和史氏が「『民俗神道』という概念」という、非常に注目すべき論説を書かれている。この内容を筆者なりに、以下の四点にまとめてみた。
@盆と正月が先祖祭、神祭の行事であり、祖霊あるいは穀霊を迎へ、そして送る行事により構成されているということを、我々は多分に柳田、折口両先生、さらには原田敏明先生達以降の民俗学の恩恵によって知識として身に付け、また理解もし納得もしてきた。
A盆の行事は(中略)仏教渡来以前からわが国固有の先祖祭祀の姿を留めるものであって、仏教行事というよりむしろ神道の行事であるとさえ言ってよいものと考えている。こうした民俗学による各種行事の解釈は、ことに戦前に「特殊神事」と呼ばれた伝統的神事芸能の理解の上でも有効であったことから、戦後のいわゆる国家神道を脱却していこうとする神社と神道にとって、重要な理論構築のための原理ともなった。
Bある時期の神道は、自らを説明するのに仏教の教理を応用し、神仏習合を生み、またある時は儒学の学理により、神儒一致の理論が登場したことに似て、昭和の神道の特徴は「民俗学習合神道」ともいえる要素が濃くなった。民俗学の恩恵は、神道学の進歩の上には多大であるが、それを優先させてしまう現象がなくはない。
C民俗神道の概念をどう捉えるか。民俗神道と神社神道の範疇の違いは?といった観点から、戦後の神道の理念的支えとなった民俗学と神道の関係を論じている。
しかし、ここで一つ誤解があるのは、佐野氏は「柳田、折口、原田敏明という特定の三人の先生達以降の民俗学の恩恵により」と認識している点である。おそらく佐野氏は、折口信夫、柳田國男、原田敏明の三人の先生を念頭に置いてこれらを書かれたものと理解するが、戦後の民俗学において神道に対する興味とシンパシーをもって研究に当たった民俗学者はごく少数である。僅かに岩崎敏夫、石塚尊俊、牛尾三千夫といった國學院出身のしかも神職の方たちを数えるくらいであろう。戦後、神道に共感と温かな目を持って研究を進めた民俗学者は國學院大學出身者のみであったといえる。 
三、民俗学者の神道に対する態度
民俗学者の神道に対する態度というのは三つのタイプに分けることができるであろう。
@折口グループに特徴的な考え方である。発生論的な立場から、歴史的には古代民間信仰から神社は成立し、宮廷神道の影響を受け画一化を経て現在に至っている。神社は古代的な存在というふうに考える考え方。
A民間信仰の歴史を遡れば、神社信仰と重なる点が多くなる。民間信仰は日本人の信仰の根底にあって、日本神道の移り変わってきた一つの姿とする。同時に神社もまた日本神道の移り変わってきた一つの姿だというふうに考える考え方、これは柳田國男と若干の柳田のお弟子さん達、原田敏明もおそらくこの第二の道に入ると考える。
B戦後特に顕著な考え方である。民衆というものを支配・被支配の関係として捉え、特に常民文化を尊重する立場から、神社と民間信仰とを切り離して考えるという見方、これは戦後の民俗学者、民俗学界の大きな勢力として民俗学者を育ててきた、教育大系統の民俗学者の方々に非常に多い立場、態度ということがいえるかと思う。
以上三つの民俗学者の神道、それから神社に対するアプローチの態度というものが見られる。
佐野和史氏が「『民俗神道』という概念」という論説の中で、戦後の民俗学が神道の理論的支えとなってきたとするのは少々認識が違う。戦後の民俗学が神道の理論的支えとなったのではなく、戦前の民俗学の成果が戦後の神道の理論的支えになったのである。それはまさに柳田國男の神道研究であったというふうに訂正しなければならないだろう。 
四、柳田國男の神道研究の評価
柳田國男は、「神道のために」の中に折口信夫との「神道の原初形態」と題した対談を収録している。この対談はもともとNHKの「神道の時間」というラジオ番組で昭和二四年二月六日に全国放送したものであった。それだけに大きな影響力があったものと思われる。
折口信夫は柳田民俗学的神道論を次のように評価する。
「神道がこのごろ大変私どもにも変ったような気がいたします。戦争以来神道の重要な部分になっておりました政治性というものがすっかり改められてまいりました。そのために神道が一時は立つ瀬がない、どうなって行くかわからないくらいに案じられておりましたが、その際にちょうど昔からお続けになっておりました先生の神道論が、盛んに出て来まして、ちょっとも政治性がない――悪い意味の政治性のない先生の神道論が、神道にとって、われわれ神道に直接関係あるものから申しますと、本当の救いになったと思いまして、その点感謝しなければならない。」
と述べる。政治性を失い崩壊しかけた戦後の神社界にとって、柳田の民俗学的神道論が神社神道の存在を意味づける理論的な支柱となったのである。
また、柳田國男は文献の記述のみを信じることを戒め、民間信仰での姿と比較しなければ真実がわからない例として「祭と木」「信仰と木」の問題を好んで話題にした。特に「幣帛」を「みてぐら」とする訓みが六国史には多数でてくるが、幣帛とみてぐらは本来違うものであった。それが複合してゆく過程を学生に論ずることを好んだ。柳田は神の依り代、神の依る坐(クラ)を神道の重要な論点と考えていた。 
五、柳田國男と折口信夫 / 神道研究は大正度大嘗祭、依り代研究から
昭和二十六年四月、『神道宗教』に「鳥柴考要領」という論考を柳田國男は書いている。これは『定本柳田國男集』第十一巻の『神樹編』の一番最後に収録されている論考である。
『神樹編』に収録されている「柱松考」とか「柱松と子供」「龍燈松伝説」「旗鉾のこと」などの論考は、戦前における柳田國男の初期神道研究と考えていい論文であろう。これらが書かれ始めたのは大正四年である。大正三年から構想していたのであるが、この時に奇しくも折口信夫もまた同じタイトル、同じテーマで依り代の研究を行っていた。これは良く知られた話であるが、記しておこう。『郷土研究』大正四年三月号に柳田國男の論考「柱松考」が掲載された。四月号、五月号で折口信夫の「髭籠の話」、これが『郷土研究』に載った。これについて折口信夫は、前から投稿していたのに、何時になっても載らないので、採用されなかったのか、どうしたことだろうと非常に落胆していた。すると三月号に柳田の「柱松考」が載って、次号で自分の論文が載ったということを語っている。その後も折口はこのときの大正の大嘗祭の標山に対する関心から、「盆踊りと祭屋台と」、「依り代より『だし』へ」、「幣束から旗さし物へ」、「だいがくの研究」、「まといの話」というように『郷土研究』への投稿、掲載を続けていく。同じように柳田も「諏訪の御柱」、「腰掛石」、「左義長問題」というように、同じような柱、依り代のテーマで、競い合いながら神道研究に入っていくということがいえる。
あまり柳田國男と折口信夫の学問的な対抗を強調することは本意ではない。注目すべきは「鳥柴考要領」という、『神樹篇』の中で一番最後に書かれた論考である。これは先述のように戦後の昭和二十六年四月号『神道宗教』三号に掲載された。 
六、「鳥柴考要領」戦後、柳田國男の神道研究
非常に変わったタイトルである「鳥柴考要領」。「要領」とはいったい何なのか。「要領」というのは柳田國男の言葉を借りると、「終戦の少し前から数年にわたつて心がけてゐる一つの論考の大要を、できるだけ簡単に短い時間で述べ立てる練習をしてみたい」と述べている。「できるだけ簡単に短い時間で述べ立てる練習」それが「要領」ということである。なぜ柳田にそのような練習をする必要があったのか、短い時間で述べ立てることが必要だったのかということを考えてみたい。
『神道宗教』の二号が刊行されたのが昭和二十四年の十二月。ここで「神道の諸問題」という座談会が行われている。当時の堀一郎・岸本英夫・平井直房・安津素彦・白井永二・岩本徳一など、國學院大學に関係する神道の研究者達が集まって、折口先生を囲むという企画が行われた。そこでさまざまな問題が論じられた。このことと「鳥柴考要領」とどのように関係するのかといえば、折口信夫の発言の中で「和御魂と荒御魂」の話があり、推古紀に見える「霹靂木に小き魚となってかかった雷神」の話を折口信夫が紹介している。
このことが直ちに「鳥柴考要領」という論考に結び付いたとは断定できないが、一つのきっかけになったと考えられる。
「要領」があるからには、要領の付かない「鳥柴考」という論文があって然るべきだと考えられるが、これは長い間分からなかった。というのは『定本柳田國男集』にも勿論収録されていない。「鳥柴考」という論文があるかどうかも謎であった。娘婿の堀一郎は「鳥柴考」という論考を柳田國男が書き直しているということを日記の中に記している。であるとするなら「鳥柴考」論文は一体どこへ行ってしまったのだということになる。これが平成八年四月頃、鳥取で発見された。それが鳥取民俗懇話会報二号に掲載されている。そして「鳥柴考」と同時に「鳥柴考の謎と一考察」を、西尾肇氏が執筆している。それによれば、「鳥柴考」は鳥取の郷土史家の家から発見されたものだそうである。当時、終戦を迎える少し前であったというが、鳥柴についての資料を柳田國男が集めていた。それを聞いた鳥取の田中新次郎という方が柳田に資料を提供した。提供したことによって、多分写しをもらったのではないかと西尾氏明治は推測している。田中新次郎のお孫さんが教育委員会に勤めており、今になり偶然、発見された。それを朝日新聞が取上げて、全国的に知られることとなったとの西尾氏の解説である。
柳田國男は「鳥柴考」という論考をやはり書いていた。であるなら「要領」があって「鳥柴考」があるのか、「鳥柴考」が先にあって「鳥柴考要領」をまとめたのかということになる。実際の原稿は昭和二十年の十月二十五日の段階で、「鳥柴考」の書き直しをしていると堀一郎氏が日記に記している。その清書の手が、柳田の三女の堀三千氏によるとなっている。戦後はほとんど鎌田久子先生、丸山久子氏の両氏が清書をしていたということを考えると、やはり戦争直後にこの論考は書かれていて、そして写しが田中家に送られたと推測できる。そうすると書き置いていた「鳥柴考」を『神道宗教』二号「神道の諸問題」で様々論じられたその次の号に、急遽非常にコンパクトにまとめて出したということになる。そう考えると「鳥柴考要領」というのは非常に意味が出てくる。
ここで「鳥柴考要領」の要点を記してみよう。柳田はここで「鳥柴」というクロモジの木の意味を問いたかったのである。神様にお供えするとき、クロモジの木に獲物の肉を付けてお供えする。そういう習俗があるのだと。これは「餅花の福木」であるとか、「御幣餅」、特に中部地方で有名であるが、これらはもとをたどっていけば「幣束」「幣」に至るのだということを、実証的に様々な資料を使って論じている。アイヌの「イナオ」も同類であり、そして門松や拝み松、これに食物を吊り下げたり、食物を直接掛けたり、例えばとろろを掛けるとか小魚を掛けるとか、そういう習俗を論じながら、鳥柴というのは神道における幣束の原形だというふうに論じてゆく。想像するに、それをいわゆる実証的な神道研究の手本というふうに柳田國男は考えたのであろう。
「神道の諸問題」の中では、確かに諸問題をいろいろ論じてはいるが、具体的な話ではなくて、さまざまな問題点を論じているということで、実際に研究者の態度として、実証的に神道研究をするのはどうしたらいいかということは、一切論じられていない。それを柳田は次の号、三号で手本を示したと読むことができる。 
七、『神道宗教』における「門松」論議
それから『神道宗教』十六号に、多分この「鳥柴考要領」を受けた形で特集を組んだのだろうと推察するが、「門松」の特集という、『神道宗教』にとってこれまでのものとは非常に異質なタイトルのものが出てくる。國學院大學の神道研究にとって、習俗・民俗の研究は異端だったようであるが、なぜ門松が急にここで出てきたのか不思議である。とにかく「門松」というタイトルで「共同研究課題欄」というものを新たに設けて始まる。
『神道宗教』の編集を当時担っていた編集委員の一文「編輯委員の辞」から非常に恐る恐るこのタイトルを出しているということがよく分かる。例えば「次に掲載する原稿を御一覧下されば新聞社が街頭から拾った記事とは、些(いささ)か面目を異にしている点にもお気付きのことかと存じます。……毫も本誌読者としての叡智が窺えぬといたしますなら、それこそ由々しい問題であります。とにかく門松という風な卑近な風習をどう処理せられるか伺おうと存じます」というように、こうした民俗学的な具体的なテーマは、読者の反発を予想し、恐々設定している。ということはやはり神道研究にとっては、民俗学的な分野というのは、卑近な風習と考えるのが当時の一般的な考えだったと言えるのかもしれない。民俗学に対する神道学者達の態度というのがあったのであろう。
しかしながらその正反対とも言える先述した佐野和史氏のような認識が、神社人、神道人の間にあるというのも、面白いものである。つまり、民俗学を神社神道存立の理論的支柱とする一方で、民俗学が研究対象とする民間信仰は卑近な習俗であるとの反発があるという両価的な存在であったといえる。 
八、戦後の柳田國男と折口信夫の神道・神社研究
柳田國男が本格的に神道研究に力を注ぎ出したのは、日本の敗戦を悟った時からと考えられる。『日本の祭』『神道と民俗学』『先祖の話』、これらの著作は戦中から敗戦後の日本人の精神と誇りを如何に保つことができるか、この目的のための構想から生み出され、『先祖の話』は昭和二一年四月敗戦直後に刊行されたものである。それから『新国学談』、『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』へと続いていく。『新国学談』は第三冊で終わっているが、「鳥柴考」を『新国学談第五冊』として出そうというふうに柳田は考えていた。これは『氏神と氏子』の中で柳田自身が述べていることで、『新国学談』の刊行をさらに続けていこうということが構想としてあったのである。
柳田國男がなぜここで戦中から急に神道研究に乗り出していったかということについては、ロナルド・モースの見解がある。それは『炭焼日記』から「友人や親類縁者を失ったとき人々はいかにそれを迎えるか、といったことに思いをめぐらす時、柳田は父(松岡約斎)が関心を抱いていた神道を思い返していた。柳田の戦時期の論文や著書には、彼が宗教的なものへ関心を傾けていったことが伺われる。」と述べている。そして柳田自身、『私の哲学』という昭和二五年に中央公論社から出版された本に、何人かの学者の哲学が書かれてある中で、柳田國男は「村の信仰」というタイトルで一文を載せている。そしてその書き出しは、
「私の生家は神主をしていた。それも世襲の神主ではなく、元来医者であったが医者は流行らないし、三十前後から時代に促されて国学をやった父は、明治初年に私塾と神主をして暮らしを立てたのです。すなわちいわゆる三大人(真淵・宣長・篤胤)の影響を受けた人でした。従ってそういう側の人が多くするように歌をやりました。はっきりとは記憶していないが、私は小さい頃、これが当たり前だと思って感化を受けていたものは神道だろうと思います。」
というふうに自分の哲学ということを述べている。さらに、柳田には「父の死と自作のノリト」という文章があり、柳田國男は自分で祝詞を作って、父親の亡くなった一周忌に自作の祝詞を詠んで慰めた。それは、千葉県布佐に居住していた二十二歳、明治二九年の話である。まともに祝詞が詠める神主さんがいなくて、金毘羅行者に頼んだという。それは、最初お葬式の時に大祓しかできなくて、それは悲しみのためにあまり気がつかなかったけれども、とにかく大祓で済まされたのでは良心が済まぬということで、一周忌の時には自分で祝詞を作ったのだという。
自ら神主になるということも、柳田國男は若い頃経験している。さらに、亡くなった父親に祝詞を自作して慰めるというようなことも行っていた。
最後に堀一郎が『定本柳田國男』の月報の第十一に書いている。
「戦争末期に極端に刹那的な戦局の話や、戦災の絶望的な噂話を嫌われた先生は、すでに遠い戦後の日本に思いを馳せ、精神的支柱を失って崩壊し去るかもしれぬ民族と祖国の将来を、深い憂いをもって日夜考え続けておられたことは、幸いに近くに住み、親しく接していた私にはよく分かった」堀一郎は説明するまでもなく娘婿であった。
「この頃から逝去に至るまで、先生と私との間にはおかしいほど家庭のことも経済のことも問題にならなかった。大部分は日本の神道の将来と日本人の信仰の問題であった。実父約斎先生の強い影響もあって、先生の学問の底には早くから愛国の情熱が流れていたことは、人のよく知るところである。しかし、戦争末期から戦争後にわたる学問は、もはや愛国以上の切羽詰まった憂国の熱情が、神道研究の上に迸った感が深い。しかもそれは決して単に専門神職のための神道研究、理論や考証の学としての神道研究ではなかった。実に精神的混迷の中に投げ出されている一般民衆に、自己と民族に内在している価値を見出させ、そして自信と誇りを実証的裏付けをもって与えようと試みた研究であったことは、見逃してはならないように思う。」
と堀一郎は述べている。つまり戦後の民俗学というのは柳田國男が意図して、戦後の日本を如何に位置付け、そして国民を如何に導くかという思いから出た探求であり、その大きな柱が神道研究であった。それは、柳田が意図した通り神道人、神社界が後々受け入れることとなった。先述の佐野氏の「民俗学習合神道」との認識はその結果だったということができる。 

(1)阪本是丸「神道と土地問題」『神社新報』主張欄、平成二年五月十四日付
(2)ロナルド・A・モース『近代化への挑戦―柳田國男の遺産』NHKブックス、一九七七年刊
(3)佐野和史「『民俗神道』といふ概念」『神社新報』主張欄、平成八年八月十九日付
(4)民俗学研究所編『民俗学の話』第三部「神道のために」昭和二十四年六月刊
(5)柳田國男「鳥柴考要領」『神道宗教』三号、昭和二十六年四月刊
(6)柳田國男「柱松考」『郷土研究』大正四年三月号
(7)池田彌三郎『私説折口信夫』中央公論社、昭和四十七年、一〇四〜一〇五頁
(8)柳田國男「鳥柴考要領」『神道宗教』第三号、昭和二十六年四月刊、一頁
(9)「鳥柴考」『鳥取民俗懇話会報』二号、平成八年十月刊
(10)西尾肇「鳥柴考の謎と一考察」『鳥取民俗懇話会報』二号、平成八年十月刊
(11)「編輯委員」の辞『神道宗教』第十五号、昭和三十二年十二月刊
(12)『氏神と氏子』『定本柳田國男集』第十一巻、筑摩書房、昭和三十八年刊、五一〇頁
(13)ロナルド・A・モース『近代化への挑戦―柳田國男の遺産』NHKブックス、一九七七年刊
(14)柳田國男「村の信仰」『私の哲学』中央公論社刊、昭和二十五年
(15)柳田國男『故郷七十年』『定本柳田國男集』別巻第三、筑摩書房、昭和三十九年、一八九頁
(16)堀一郎「『新国学談』のころ」『定本柳田國男集』月報十一、昭和四十四年刊、七頁
(17)前掲文(16)に同じ 
 
神道の史的価値 / 折口信夫

 

長い旅から戻つて顧ると、随分、色んな人に逢うた。殊に為事の係りあひから、神職の方々の助勢を、煩すことが多かつた。中にはまだ、昔懐しい長袖らしい気持ちを革めぬ向きもあつたが、概して、世間の事情に通暁した人々の数の方が、ど ちらかと言へば沢山であつたのには、実際思ひがけぬ驚きをした。此ならば「神職が世事に疎い。頑冥固陋で困る」など言ひたがる教訓嗜きの人々の、やいた世話以上の効果が生じて居る。而も、生じ過ぎて居たのは、案外であつた。社地の杉山の立ち木何本。此価格何百円乃至何千円。そろばん量りの目をせゝる事を卑しんで、高楊枝で居た手は、新聞の相場表をとりあげる癖がつきかけて居る。所謂「官(クワン)の人(ヒト)」である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言はねばならぬ。
併しながら此方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。又其筋すぢの人たちにしても、其辺の考へは十二分に持つてかゝつて居るはずである。だが、此調子では、やがて神職の事務員化の甚しさを、歎かねばならぬ時が来る。きつと来る。収斂の臣を忌んだのは、一面、教化を度外視する事務員簇出の弊に堪へないからと言はれよう。政治の理想とする所が、今と昔とで変つて来て居るのであるから、思想方面にはなまじひの参与は、ない方がよいかも知れぬ。
唯、一郷の精神生活を預つて居る神職に、引き宛てゝ考へて見ると、単なる事務員では困るのである。社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数へきれぬ程の魂を托せられて居ると言ふ自覚が、持ち続けられねばならぬ。思へば、神職は割りのわるい為事である。酬いは薄い。而も、求むる所は愈加へられようとして居る。せめて、一代二代前の父や祖父が受けたゞけの尊敬を、郷人から得る事が出来れば、まだしもであるが、其氏子・信者の心持ちの方が、既に変つて了うて居る。田圃路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかつた。
其神職諸君に、此上の註文は、心ない業と、気のひける感じもする。けれども、お互に道の為、寂しい一本道を辿り続けて居る身であつて見れば、渋面つくつてゞも此相談は聴き入れて貰はねばならぬ。世間通になる前に、まづ学者となつて頂きたい。父、祖父が、一郷の知識人であつた時代を再現するのである。私ども町方で育つた者は、よく耳にした事である。今度、見えた神主は、どう言ふ人か。かうした問ひに対して、思ふつぼに這入る答へは、いつも「腰の低いお人だ」と言ふのであつた。明治も、二・三十年代以後の氏子は、神職の価値判断の標準を、腰が低いと言ふ処に据ゑて居た。かう言ふ地方も、随分ある。一郷を指導する知識の代りに、氏子も、総代の頤の通りに動く宮守りを望んで居たのである。
かうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとつては、「宮守りから官員へ」のお据ゑ膳は、実際百日旱(ひで)りに虹の橋であつた。われひと共に有頂天になり相な気がする。併し、ぢつと目を据ゑて見廻すと、一向世間は変つて居ない。氏子の気ぐみだつて、旧態を更めたとは見えぬ。いや其どころか、ある点では却つて、悪くなつて来た。世の末々まで見とほして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなつた。閑却せられて居た神人の力を、借りなければならぬ世になつたと言ふ事に気のついたのは、せめてもの事である。だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。自然にせり上つて来たものでないだけ、どうしても無理が目に立つ。我々は、かうした世間から据ゑられた不自然な膳部に、のんきらしく向ふ事が出来ようか。何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたへぬだけの用意がいる。其用意を持つて、此潮流に乗つて、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。
「神社が一郷生活の中心となる」のは、理想である。だが、中心になり方に問題がある。社殿・社務所・境内を、利用出来るだけ、町村の公共事業に開放する事、放課・休日に於ける小学校の運動場の如くするだけなら、存外つまらない発案である。結婚式場となつて居る例は、最早津々浦々に行き亘つて居る。品評会場・人事相談所・嬰児委托所などには、どうやら使はれ相な気運に向いて来た。世間は飽きつぽい癖に、いろんな善事を後から後からと計画して行く。やつとの事で、そろそろ見え出した成績が、骨折りにつり合はぬ事に気がつくと、一挙にがらりと投げ出して、新手の善事に移つて行く。一等情ないめを見るのは、方便善の一時の榜示杭になつて居たものである。神社及び神職が、さうしたみじめを見る事がなければ、幸福である。
抑亦、当世の人たちは、神慮を易く見積り過ぎる嫌ひがある。人間社会に善い事ならば、神様も、一も二もなく肩をお袒(ぬ)ぎになる、と勝手ぎめをして居る。信仰の代りに合理の頭で、万事を結着させてゆかうとする為である。信仰の盛んであつた時分程、神の意志を、人間のあて推量できめてかゝる様な事はしなかつた。必神慮を問ふ。我善しと思ふ故に、神も善しと許させ給ふ、とするのは、おしつけわざである。あまりに自分を妄信して、神までも己が思惟の所産ときめるからだ。信仰の上の道徳を、人間の道徳と極めて安易に握手させようとするのである。神々の奇蹟は、信ずる信ぜないはともかくも、神の道徳と人の道徳とを常識一遍で律しようとするのは、神を持たぬ者の自力の所産である。空想である。さうした処から、利用も、方便も生れて来る。二代三代前の神主の方々ならば、恐らく穢れを聞いた耳を祓はれた事であらう。県庁以下村役場の椅子にかゝつて居る人々が、信念なく、理会なく、伝承のない、当世向きの頭から、考へ出した計画に、一体どこまで、権威を感ずる義務があるのであらうか。当座--に適する事を念とした提案に、反省を促すだけの余裕は、是非神職諸君の権利として保留しておかねばならぬ。其には前に言うた信念と学殖とが、どうしても土台になければ、お話にはならない。信念なくして、神人に備つて居るのは、宮守りに過ぎない。事務の才能ばかりを、神職の人物判断の目安に置く事を心配するのは、此為である。府県の社寺係の方々ばかりでなく、大きな処、小さな処で、苟も神事に与るお役人たちに望まねばならぬ。信念堅固な人でこそ、社域を公開してあらゆる施設を試みても、弊害なしに済されよう。これのない人々が、どうして神徳を落さない訣にゆくだらう。
信念の地盤には、どうしても学殖が横たはつて居なければならぬ。揺ぎ易い信念の氏子にすら気をかねて、諸事遠慮勝ちに、卑屈になつて行くのは、学殖といふ後楯がないからである。神に関した知識の有無は、一つ事をしても、信仰・迷信と岐れて現れる。学術的地盤に立たねばこそ、当季限りの流行風の施設の当否の判断も出来ない。よい加減に神慮を忖度するに止めねばならぬのである。人間は極めて無力なものである。無力なる身ながら、神慮を窺ひ知る道がないでもない。現在信仰の上の形式の本義を掴む事の出来る土台を、築き上げる深い歴史的の理会である。其から又、神の意志に自分を接近させる事の出来る信念である。此境地は、単純な常識や、合理風な態度では達する事が望まれない。
神道は包括力が強い。どんな新しい、危険性を帯びた思想でも、細部に訂正を施して、易々とゝり込む事の出来る大きな腹袋を持つて居る様に見える。処が世間には間々、其手段を逆に考へて、神道にさうした色々な要素を固有して居た、と主張もし賛成もする人が、段々に殖えて来た。此は平田翁あたりの弁証法の高飛車な態度が、意味を変へて現れて来たのである。さうした人々が、自分の肩書や、後押しの力を負うて、宣伝又宣伝で、どしどしと羽をのして行く。常識から見ての善であれば、皆神道の本質と考へ込む人々の頭に、さうした宣伝が、こだはりなしにとり込まれ、純神道の、古神道の、と連判を押される事になる。元々、常識と断篇の学説とを、空想の汁で捏ね合せた代物を、ちよつと見は善事であり、其宣伝の肩に負うた目を昏ますやうな毫光にうたれて、判断より先に迷信して了ふ。源光ににらみ落されたと言ふ、如来に化けた糞鳶を礼拝して居るのだつたら、どうだらう。
此道に関しては、均しく一票を投ずる権利を持つた神職で居て、学殖が浅く、信念の動き易い処から、こんな連判のなかま入りをしたとあつては、父祖は固より、第一「神」に対して申し訣が立たない次第である。大本教ばかりも嗤はれまい。なまなかな宗教の形式を採つたが為に、袋叩きの様なめを見た右の宗旨も、皆さん方の居廻りにある合理風な新式神道と、変つた処はあまりないのである。「合理」は竟に知識の遊びである。我々の国の古代と現代との生活を規定する力を許すのは、其が、どの程度まで、歴史的の地盤に立つて居るかと言ふ批判がすんでからの事である。廉々の批判は、部分に拘泥して、全体の相の捉へられないはめに陥れる事がある。学者の迂愚は、常にこゝから出発して居る。我々の望む所は、批判に馴された直観である、糞鳶の来迎を見て、とつさに真偽の判断の出来る直観力の大切さが、今こそ、しみじみと感ぜられる。
合理といふ語(ことば)が、此頃、好ましい用語例を持つて来た様に思ひます。私は、理窟に合せる、と言ふ若干の不自然を、根本的に持つた語として使つて居る。此にも、今後も其意味のほか、用ゐない考へである。念の為に一言を添へました。
 
八咫

 

神道の根本原理である八咫の原理に迫ってみたいと思います。
八咫とは大きい物を意味しますが、それ以上の意味があるようです。
まずはメルカバーから入っていきます。メルカバーとはエゼキエル書に出てくる象徴です。エゼキエル書のメルカバーが出てくる箇所を引用します。
わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つともそれぞれ顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。顔はそのようになっていた。
翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、他の二つは体を覆っていた。それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。
わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生き物のおのおのに一つずつの輪である。もろもろの輪の作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その形はあたかも輪の中に輪があるようである。その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、いく時は回らない。四つの輪には輪縁と輻があり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時には輪もあがる。霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪のなかにあるからである。
図で表すと次のようになります。
メルカバーの中心は4人のケルビムと言われる天使です。 神はアダムとイヴを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたといいます。また、契約の箱の上にはケルビムを模した金細工が乗せられています。
このケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔は人間の顔、第二の顔は獅子の顔、第三の顔は牛の顔、そして第四の顔は鷲の顔でした。この四つの顔、すなわち、「人間の顔」「獅子の顔」「牛の顔」「鷲の顔」はカッバーラでいう四位階に対応しています。四つの位階とは「流出界」「創造界」「形成界」「活動界」であす。流出界から放たれた神の意思は、最頂部のケテルから滅びの世界のマルクトまで電撃のように駆け下ります。四つの位階は神の創造の業の段階的構造を象徴的に表しています。
この四つの位階は生命の木において次のように表せます。
メルカバーにおける四つの動物は、各自がそれぞれの動物界を代表する長です。人間は全ての動物の上に立つ長、獅子は百獣の王、牛は家畜の王、鷲は鳥の王です。すなわち、人間が「流出世界」、獅子が「創造世界」、牛が「形成世界」、鷲が「活動世界」に対応するわけです。
さらにエゼキエル書には次のようにあります。 生き物の頭上にある大空の上に、サファイヤのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。
四人のケルビムの上には王座があり、そこには絶対神が座っています。これは生命の樹の象徴図形では、最上部の三つのセフィロト「ケテル」、「コクマー」、「ビナー」が構成する『至高世界』と対応しています。また、生命の木の到達点が至高の絶対神であることを意味します。 
メルカバーの構成要素はケルビム、玉座の他に車輪があります。エゼキエル書には次のようにあります。
わたしが見ていると、四つの車輪が、ケルビムの傍らにあるではないか。一つの車輪が、ひとりのケルビムの傍らに、また一つの車輪が、1人のケルビムの傍らにというように、それぞれの傍らにあって、それらの車輪の有様は緑柱石のように輝いていた。それぞれの形の有様は、四つとも同じで、一つの車輪がもう一つの車輪の中にあるかのようであった。
それらが移動するときは、四つの方向に進み、移動するときに、向きを変えることはなかった。先頭のケルビムが向かうところに他のものも従って進み、向きを変えなかったからである。ケルビムの全身、すなわち、背中、両手、翼と、車輪にはその周囲一面に目がつけられていた。ケルビムの車輪は四つともそうであった。それらの車輪は『回転するもの』と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた。(「エゼキエル書」第10章9〜13節)
四つの車輪は緑柱石のように輝いていました。この輝きは神の栄光を意味すると思われます。回転する神の栄光と言えばエデンの園に置かれた創世記に記された回る炎の剣が連想されます。 
さて、ここまでは一般的なメルカバーの解説でした。ここからさらに踏み込んで八咫の原理とメルカバーの関連性を明らかにしたいと思います。メルカバーには4人のケルビムが入っています。そして4人の天使が四方に配置されています。ヨハネの黙示録にも4人の天使が登場します。ヨハネの黙示録から引用しましょう。
この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
この聖句から4人の天使が地の四方を守り、また地を損なう権威を持っていることが読み取れます。さらにエゼキエル書のケルビムには4つの顔がありました。この顔を黄道12星座にあてはめてみます。人の顔は人が水をくむ水瓶座,獅子は獅子座,牛は牡牛座,鷲は昔鷲座だった今の蠍座を示しています。これを図示してやると
まさに四方を表していることが分かります。またメルカバーを上から見ると・・・という具合にオクタグラムになります。このオクタグラムと八咫の原理のオクタグラムは同じものだと考えられます。さてメルカバーは生命の木を表すわけですが、それだけではなく地の四方と神の栄光を現す回る車輪を表しています。わたしはこれが生命の木で表されるカッバーラが神の栄光によって地の四方にまで広められることを現していると考えます。

さて前回の記事でオクダグラムがメルカバーであり、全世界にカッバーラが広まる象徴であるという仮説を立てました。この仮説の元に日本神道の八咫の原理についてかんがえていきましょう。そこでホツマツタエという書物を資料として用います。ホツマツタエには次のようにあります。
太初の神を天の御中主と名づく。地球八面(くにたまやも)を巡り、人を生みて天に帰り給うた。然る後、天祖の神、再び現神(かみ)と生まれて主君となり、天の常立の道を以って人を教え給うた。故に其の神を国常立尊と名づく。この神、地球八面を経営し給いて、八神を生みて八面に別ち君主となし・・・・。
これはすごいことを表しています。その内容に踏み込む前に古事記と日本書記の天地創造を比較しましょう。
古事記には天地創造について次のように書かれています。
天地が初めてひらけしとき、高天(たかま)の原に成れる神の名はアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神。次にタカミムスヒノカミ(高御産巣日神)。次にカミムスヒノカミ(神産巣日神)。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。
その後神代七代というのがあります。神代七代は聖書の地球創造の7日間であると解き明かしています。
1日目
古事記 :次に成りし神の名は、国之常立神
解釈  :常立(永遠)の神がなった。
旧約聖書:光(永遠)の神がなった。
2日目
古事記 :次に豊雲之神。この二柱の神も独神と成りまして身を隠したまいき
解釈  :雲と野を分ける神が成った。
旧約聖書:天と地を分けた。
3日目
古事記 :次に成りし神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。
解釈  :乾いた地と泥地を成す神が成って
旧約聖書:乾いた地を造り、草木を成らせた。
4日目
古事記 :次に角杙神、次に妹活杙神。
解釈  :天空の二本の角で地上を生かす神が
旧約聖書:太陽と月を造り、地を照らした。
5日目
古事記 :次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神
解釈  :雌雄により富ます神が成った。
旧約聖書:産み出し、地に満ちよ。
6日目
古事記 :次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。
解釈  :世界の活性と完成を誉める神が成った。
旧約聖書:生き物は増し、全てはよかった。
7日目
古事記 :次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。
解釈  :地を受ける男女の神がなった。
旧約聖書:アダムとイブに大地を継がせた。
日本書記では天地創造は以下のように書かれています。
天がまず出来上がって、地はその後に定まった。ぞうしてのちに、神がその中に生まれたもうた。そのありさまは、開闢のはじめに土壌が浮かび漂うこと、ちょうど魚が水にうかんでいるようであったが、その時、天と地の中間に一つの物が生まれた。その形は葦の芽のようであって、これが国常立尊(くにのとこたちのみこと)という神になったのである。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)という神が化りいでたもうた。
整理しながら考えましょう。
古事記の原初三神は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。日本書記の原初三神は国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊です。単純に考えれば天之御中主神=国常立尊、高御産巣日神=国狭槌尊、神産巣日神=豊斟渟尊となります。
ところが古事記において国常立尊は後に別の神として登場します。その謎がホツマツタエによってとけます。神代七代において飛鳥先生は1日目を
古事記 :次に成りし神の名は、国之常立神
解釈  :常立(永遠)の神がなった。
旧約聖書:光(永遠)の神がなった。
と解釈しています。
ここでいう光の神とはイエス・キリストです。そうするとイエス・キリスト=国常立尊となります。ここでホツマツタエにもどります。
太初の神を天の御中主と名づく。地球八面(くにたまやも)を巡り、人を生みて天に帰り給うた。然る後、天祖の神、再び現神(かみ)と生まれて主君となり、天の常立の道を以って人を教え給うた。故に其の神を国常立尊と名づく。この神、地球八面を経営し給いて、八神を生みて八面に別ち君主となし・・・・。
これを解釈します。太初の神は天の御中主でした。この神は人を創造して天に一度帰っています。そして現神として生まれて主君となったというのです。現神とは何か?現神とは現人神に近い言葉です。つまり人の姿形で現れたということではないでしょうか。そして現れたのは国常立尊=イエス・キリスト。
実はカッバーラによると天地創造は以下のようになります。エロヒムという名の天の父なる神が、子なる神であるエホバに天地を創造するように命じた。エホバは天地を創造したがその時まだ、肉体をもたない霊の状態であった。エホバは人も創造した。その後天にお帰りになった。しかし、再び地球にこられ、その時はイエス・キリストとして体をもって人の子としたお生まれになった。
ホツマツタエの中にカッバーラが隠されていたのです。 
 
八咫烏雑話

 

三足鳥、八咫烏
『淮南子』「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた」とある。
前漢代の劉安の『淮南子』「精神訓」に「日のなかに※烏(そんう)がいる」とあり、後漢代末期の 高誘が「※」は「蹲」で、そんうは三足烏である」と注を付している。また、後漢代中期の王逸が 前漢代の『楚辞』所収の「天問」に対する注に引く『淮南子』に、「堯が※(げい)に天を仰いで 十日を射るよう命じたところ、九日に命中した。九日のなかにいた九羽の烏〔九烏〕はみな死んで、その羽翼を落とした」とある。すなわち、三足烏とは日精のことである。また、日車〔日を乗せる車〕の御者であるとも伝える。
淮南子(えなんじ)は前漢の淮南王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書。呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。
伏儀と女堝
女堝氏は一般に伏犠氏の妻とか妹とか言われているが、本来洪水伝説にまつわる人物であった。漢代になると、女堝氏は人類の創造者として伏犠氏と一緒に人類の始祖神とされるようになった。ところが、儒教の歴史的論説の中でこの二人はみな上古時代の聖賢な帝王で、特に伏犠氏は歴史上の最も古い帝王(三皇)の初めとされていた。伏犠氏の事績については、儒教の教典である『易・繋辞伝下』に次のように述べている。“古者包犠氏の天下に王たるや、仰いでは即ち象を天に観し、俯しては即ち法を地に観し、鳥獣の文と地の宜とを観して、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。是に於いて初めて八卦を作り、以て神明の徳に通じ、以て万物の情を類す。結縄を作りて罠罟と為し、以て佃し以て漁す”とある。
漢墓出土帛畫及畫像石刻中無不以蟾蜍象徵月亮,同時以金鳥(或金雞)象徵太陽。在伏羲被奉為日神的同時,女媧即被奉為月神。因之月宮古人又稱「蟾宮」,「蟾窟」。月之別名則有「蟾」和「玉蟾」之稱,於是月光也就直稱「蟾光」。著名成語「蟾宮折桂」就是由這個古老的蛙圖騰崇拜脫胎而來。所以,驪山風俗中的拜月及「送中秋」、「送八月節」風俗仍然是一個女媧圖騰崇拜紀念日。
西周中期 鳥形尊
說明:寶雞市博物館藏 高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。
這件西周中期鳥尊高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。鳥尊有誇張之意。鳥身中空,背部開方口,口上似應有蓋。鳥昂首勾喙,雙目圓睜。鳥腹下有極粗壯的三足,?強了尊的穩定性,鳥尾羽?大,從兩邊方折下垂。方形鳥羽和鳥之三足起穩定均衡作用。三足鳥,現實生活中所無,周人鑄三足銅鳥,可能和神話傳說中的太陽鳥—三足烏有關。現藏寶雞青銅器博物館。
中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父が雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。
伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少してしまった出来事が神話に反映したと言われている。
1972年、中国湖南省長沙で、馬王堆漢墓が発見された。馬王とは当初、五代十国時代の楚王の馬殷(907〜930)と考えられていた。
天上界中央に描かれた神
人面蛇身の神として著名なのは、伏羲(ふっぎ)と女媧(じょか)。孫作雲氏は伏羲説を、林奈巳夫氏は女媧説を唱えているそうだ
三日月とひきがえる
月を現すのに満月でなく三日月なのは珍しいとのこと、嫦娥は、後で出てくる后羿(こうげい)という人物の妻。西王母から不死の薬を盗み、月に逃げたが「ひきがえる」の姿に変えられたという伝説がある。上部左側の龍の翼に乗って月を見上げているのが変身する前の嫦娥。赤い太陽の中に、黒い烏が描かれている。この烏を金烏というらしい。後漢以後は三本足の烏が多出するのだが、これは二本足。
太陽の下、扶桑の木にからまっている龍
龍の体の上に4個、尻尾近くに1個、体の下の方に3個の赤い丸が見える。
帝俊の妻羲和が太陽を十個生んだ。最初のうちは規則正しく昇っていたが、ある日悪戯心で一斉に天に昇ったため人びとは日照りに苦しんだ。そこで弓の名人后羿が、九つの太陽を射落とした、という伝説がある。金烏がいる大きな丸が残った太陽で、小さな丸が射落とされた太陽だという説があるらしいが、数が1個足りない。
熊か鼠のような顔をした獣首人身の怪神が、これも、鹿か馬かはっきりしない動物に騎(の)って、鐸(たく)の両側から紐を引っ張って鳴らしている。鐸の柄の上には鉢があり、その上に盛られた穀物を、二羽の飛鳥がついばんでいる。二匹の龍の頭が見える。向かって右が赤龍、左が青龍である。下部、怪しげな魚が二匹交差している。
雲南に住む苗族
「先祖はかつて洞庭湖北の荊州に住み着き、伏犠と女媧を祖霊として仰いでいた」と伝える。日本の伝統である漆、絹、こうじ酒、赤米、納豆、餅、ナレズシ、チマキ、コンニャク、歌垣、鵜飼いなどは、苗族の住む雲南や貴州において今も見うけられる。また、彼らの風俗が一昔前の日本のそれと酷似することも、広く知られている。
鳥の信仰は長江から
7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていた。
ミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。
なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。
鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。
日本人として苗族の調査をはじめて行なった鳥居龍蔵博士
湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を支えた。
苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説
蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。
高句麗古墳壁画に出てくる三足烏
中国吉林地方の五回墳(ごかいふん)4号墓、角抵塚、北朝鮮平南の徳花里1,2号墳など高句麗古墳に描かれた三足烏。
高句麗の古墳の壁画から現われた三足烏。そしてカラスの姿をした立木と十五夜のカラス祭などで神鳥としてのカラスの跡を捜すことができます。また三足鳥は高句麗の雙楹塚、角抵塚、徳興里 1号、2号古墳、鎧馬塚、江西中墓、天王地神塚、長川 1号墳、舞踊塚、薬水里壁画古墳、そして五つのお墓(五回墳) 4号墓、5号墓などに描かれています。
三本足のカラス 八咫鳥(やたのからす)
八咫(やた)とは、長さの単位であり、巨大なものを表すのに使われてきた言葉。
京都の上賀茂神社・下鴨神社は、賀茂建角身命(かもたけつのみこと)、つまり、八咫烏そのものを祀っている。
朝廷では即位の大礼や朝賀の儀式などの際、大極殿正門の左右に日像・月像幢(にちぞう・がつぞうとう)を立てましたが、日像幢の頂部には太陽をかたどる金色の円板に三本足の烏、月像幢の頂部には月をあらわす銀色の円板に蛙と兎とが描かれていました。
天皇自ら籍田を耕して天地神祭祀に使う米をつくったり、正装に赤地の袞竜衣に冕をかぶったり。しかも袞竜衣の左肩には日輪の中に三本足のカラス、右肩には月輪の中にヒキガエル。背には北斗七星、両袖には龍が金糸でほどこされている
聖武天皇の肖像画
赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕(べん)と呼ばれる冠を被っている。袞竜衣の向かって右肩には日輪の中に三本足のカラス、左肩には月輪の中にヒキガエル。称徳天皇の儀礼用衣装もまた肩の部分に三本足のカラスとヒキガエル。背には北斗七星、両袖には天子の印の龍(前足片方だけが4本爪で他の3本の足は3本爪)が金糸で施されている。
妙見菩薩は、また両手に宝珠を持ち、右手の宝珠には「金烏(きんう)」が、左手の宝珠には「玉兎(ぎょくと)」が描かれている。
妙見菩薩は、法華経の行者を守護すると考えられています。日蓮自身の現前にも妙見菩薩が顕現したという話もあり、遺文のなかで北斗七星に言及していることなどから、広く日蓮宗の寺院で祀られるようになりました。
八咫鳥神社
奈良県橿原市五條野町にも、八咫鳥を祀った八咫鳥神社がある。祭神の加茂武津身之命は、八咫鳥大神とも称する八咫鳥。京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の分霊を祀っている。
大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命が葛木山の峰から山代国に移ったと記す。『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む鴨県主(かものあがたぬし)であるとしている。
葵祭りで知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛木山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る。
上賀茂神社の烏跳び
重陽の節句、9月9日。9の数は陽とされて、それが二つ重なる重陽の節句、別名菊の節句、まず禰宜方の刀自が幄舎を出て、弓矢を持って横っ飛びに中央へ進みます。次に祝方が同じように烏跳びをします。二人が交互に跳んで立砂の前に進み、弓矢を砂に立てかけます。次に刀を持って、同じようにして立砂にもたせ掛けます。そして今度は円座を持って烏跳びをし、それに座って「かぁ、かぁ」「こぅ、こぅ」と交互に烏鳴きをします。
2002年に奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に、三本足のカラス「三足鳥」とみられる絵が見つかったそうです。
古代中国の四神(しじん)と世界最古の星宿(星座)図が石室内に描かれた奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)で、天井にある星宿図の日輪(太陽)にカラスとみられる模様、石室北壁面にネズミの頭と人の服装を組み合わせたとみられる獣頭人身像がそれぞれ描かれていることが25日までに、研究者の指摘で分かった。以前に見つかった「寅(とら)」とみられる像と合わせ、壁面には十二支が描かれている可能性が極めて高くなった。日輪内のカラスは古代中国、朝鮮の古墳などにも描かれているが、国内の古墳で確認されたのは初めて。
文化庁などでつくる「キトラ古墳保存・活用調査研究委員会」(座長、藤本強・新潟大教授)が昨年12月、内部をデジタルカメラで撮影した。天井東寄りにある「日輪」内では、黒い鳥の尾羽、翼、脚2本らしい模様が確認された。古代中国の神話で太陽の象徴とされた3本足のカラスとみられる。
山東省嘉祥県洪山村出土 画像石 
絵は三層に分かれている。上層に西王母、西王母の右側に蟾蜍。そして、兎が3匹、仙薬をつくっている。兎の上には3本足の烏。兎のさらに右側に「お座り」状態の九尾の狐。中層左側、男の前には軸と、そこから放射状に伸びるスポーク。およそ半分ほどは車輪ができかけている。男は膝をまげて、当て金と金槌をもって、真っ直ぐな木(?金属?)にカーブをつける作業をしているようだ。男の後ろにいるのは、奥さんだろう。背中には子ども。
西王母画像磚
西王母は中国古代に伝わった神化した人物である。図中の西王母は雲気に満ちた瓶形の籠内に身を置き、頭上に「玉勝」を広げ、龍虎の上に座している。左には西王母がむさぼり食うための三足鳥と戈を握った大行伯が描かれ、右には瑞祥を表す九尾狐と霊芝を持った白い兎が描かれている。龍と虎の下には醜悪なヒキガエルが直立して踊りを舞っている。左下隅には冠をかぶり幅広の帯を締めた人が、両手で笏を持ちうつ伏せになりながら祈祷している。その右の二人はおそらく仙人であろう。この画像磚は「線」によって雲気を表現し、仙境の境地という画面表現を増加させている。 
 
神道と神社

 

神道と神社の施設
『神道(しんとう)』とは万物に霊魂が宿っているというアニミズム(精霊崇拝)や自然信仰から発展したと推測される日本の民族的・伝統的な宗教です。神道はその歴史的な起源から特定の教義や聖典、唯一神を持たない信仰の自由度の高い多神教の宗教であり、山や川、森、岩、野生動物、気象(自然災害)など自然の万物に宿る『八百万の神々(やおよろずのかみがみ)』を崇拝するものです。近代日本の国家神道の神殿である靖国神社に『戦死した祖霊』が神として祀られているように、死んだ祖先や人間(英雄)が神々になるという思想も神道には含まれています。自然界の森羅万象や祖霊、死者、皇祖(天皇家の祖神)への畏敬の念が神道の信仰基盤であり、神道において人間が守るべき徳目はシンプルに『浄明正直(浄く明るく正しく直く)』としてまとめられています。
神や世界の大いなる理法(図らい)に従いながらただあるがままに生きる『惟神の道(かんながらのみち)』が理想とされており、神々との間で五穀豊穣や現世利益の祈願を含めたやり取りをする『祭祀』が重視されています。ヤマト王権が成立してから以降の神道は、森羅万象の神々だけではなく『記紀の日本神話』に登場する神々との結びつきも深くなっており、神道は地縁・血縁などで結ばれた部族・村落の共同体を守護する目的で信仰される民族宗教としての特色が強くなっていきました。神道は日本国内では約1億600万人(日本人のほぼ全て)の支持者・参拝者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載されており、宗教法人として登録されている神社の数は約8万5千にも上るとされています。
神道には“儀礼・祭祀”を中心とした『社人神道』と“学問(教学)・知識”を中心とした『学派神道』とがあるが、神道は大きく以下のような種類に分類することができます。
神道の分類
神社神道 / 神社施設を信仰拠点として、その神社(地域)を支える氏子(うじこ)・崇敬者などが信仰組織を形成して祭祀儀礼を行っている一般的な神道の形態。
皇室神道 / 皇居内にある宮中三殿を信仰拠点として、皇室の繁栄・存続と人々の安寧、五穀豊穣などを祈願している神道の形態。
教派神道(神道十三派) / 教祖・開祖の宗教的な神秘体験や教義的な世界観にもとづく宗教としての神道。
古神道 / 山や川、森、岩、気象(自然災害)など自然界の森羅万象に霊性・神格を認める日本で古代から信仰され続けてきた民間神道の形態。原始神道・縄文神道と呼ばれることもある。
国家神道 / 王政復古(尊王思想)を掲げた明治維新から第二次世界大戦の終結まで信仰された国家権力がその祭祀や教義、神社間の序列を制定した神道。
新思想系の神道 / 大本・生長の家・白光真宏会・世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神道天行居などの比較的歴史が浅く、特定の教祖や教義に基づいて布教されている神道の形態。
神道ではあらゆる事象に神々の霊性を認めて八百万の神を崇拝しますが、『自然崇拝・祖霊崇拝・皇室崇拝・死者の神格化』などの様々な特徴を持っており、特に古神道では神々が鎮座する山や川の自然領域を『神奈備(かんなび)』として聖域化していました。神奈備には神の拠り代(よりしろ)・御霊代(みたましろ)として、『神籬(ひもろぎ)』や『磐座(いわくら)』と呼ばれる自然の事物がありますが、神籬とは鎮守の森や神体山、御神木のことであり、磐座とは巨岩(巨石)のことです。神奈備はまた『常世(とこよ・神の国の神域)』と『現世(うつしよ・俗世の現実世界)』との端境(はざかい)の境界線として機能しており、神々と現世とを隔てる為の『結界』としても認識されていました。
神道に属する神々を祭神としている社を『神社(じんじゃ)』といいますが、日本にある全国の神社の大部分は『神社本庁』という宗教法人が組織的に統括する形式になっています。現在の神社神道の神体は『社(やしろ)』であり、自然の森や山、岩、滝などの『神奈備(かんなび)』は公式にば拠り代としての性格を失っているとされますが、現在でも歴史の古い神社では、社の拝殿・本殿が存在せず、自然の神奈備そのものを賽神として祀っている神社も残っています。神代(上代)の神社は神奈備(神籬・磐座)を御神体として社殿がなかったと推測されていますが、現在の建築物としての社殿を伴う『神社』は、自然由来の神々を祭祀する時に御神体から移して祀られた祭殿が起源であり、これが信仰拠点の建物として常設化したと考えられています。 
神社で祀られている神々
神社で祭祀されている祭神(さいしん)は大きく分類すると、『自然事象に由来する自然神』『神話伝説に由来する伝記神』『人間に類似した身体や性格を持つ人格神(人間神)』に分けることができます。古来からの修験道の山岳信仰では『山』そのものが神とされますがこれも自然神の一種であり、自然神には『自然事象そのもの・気象神・動植物神・地形や地名の神』などがいます。『太陽・月・星・火・雷・風・霧』などの自然の事物・事象、『蛇・大木・龍・狼・牛・狐・熊』などの動植物、『山・川・海・滝・谷・岩・石』などの地形や地名が、自然神として神道の崇拝対象になってきたのです。
記紀(古事記・日本書紀)の日本神話に登場する伝記神・霊能神には、皇祖神とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)や出雲大社に祀られる大国主命(オオクニヌシノミコト)、天皇の祖先であるニニギノミコトなどがいて、伊勢神宮・外宮の豊受大御神も天照大御神の食事を司る食物神として知られています。人格神(人間神)には、『皇祖・皇族神・祖先神・英雄神(功労者神)・学術神・御霊神』などがいて、東京の明治神宮(めいじじんぐう)には明治天皇と昭憲皇后が祭神として祀られており、靖国神社(やすくにじんじゃ)には大東亜戦争(アジア太平洋戦争)における日本軍の戦死者が英霊として祀られています。
祖先神には同じ地域に住んでいる人々や一族が祀っている氏神(うじがみ)、産まれた土地を安らかに守ってくれている産土神(うぶすながみ)がいて、戦争や政治、学問において大きな功労のあった人物も『英雄神・功労者神』として祀られることがあります。平安時代に宇多天皇に重用され『寛平の治』を支えた学者で、醍醐天皇に右大臣に任命された菅原道真(すがわらのみちざね)も『学問の神(近代以降は受験の神)』として福岡県の太宰府天満宮に祀られています。
菅原道真は政敵の左大臣・藤原時平の讒訴(ざんそ=虚偽に基づく訴え)によって、九州の大宰府の大宰権帥(ごんのそつ=副長官)として左遷されてしまったエピソードで知られます。大宰府で無念のまま死没した菅原道真の怨念・祟りによって『天変地異』が続発したことから(そのように朝廷の貴族たちが信じ込んだことから)、朝廷が道真を『天満天神の神』として祀ることを決めました。菅原道真の怨念と怒りによる災いを、神道の信仰で鎮めようとしたと伝えられています。
上杉謙信とライバル関係にあった甲州の戦国武将・武田信玄(たけだしんげん)を祀っている『武田神社』もありますし、金沢藩100万石の基礎を築いた前田利家(まえだとしいえ)を祀る『尾山神社』もあります。織田信長の後継者として天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(とよとみひでよし)も『豊国神社』で祭神になっていて、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開府し天下泰平の世を実現した徳川家康(とくがわいえやす)も『日光東照宮』で神になっています。
近代日本で英雄神として祀られた人物としては、東京の『乃木神社』の祭神(軍神)とされている乃木希典(のぎまれすけ)・乃木静子夫妻も良く知られています。乃木将軍は日露戦争の奮戦の功績を讃えて、国策的に英雄視されることになったものの、日露戦争で自らの作戦・指揮の下で大勢の戦死者を出したことを、死ぬまで忸怩たる思いで後悔していたとされます。明治天皇が崩御(逝去)した後に、乃木将軍は『殉死』とされる自害を断行しており、その忠実無比な忠誠心・精神力を讃えて神(軍神)にされたという経緯もあります。明治38年(1905年)5月27日の日露戦争の海戦で、ロシアのバルチック艦隊を迎撃して打ち破り『東洋のネルソン』と畏怖された海軍大将の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)も、『東郷神社』で国策的な祭神にされています。
神社に祀られている神は、『主祭神(しゅさいしん,主神)・配祀神(はいししん,配神)・相殿神(そうでんしん,合殿神)』に分けられます。『主祭神』はその神社に祀られている神々の中で中心になっている神のことであり、『配祀神』は主祭神と縁・由来のある神で主神に添えられている神のことです。相殿神(合殿神)とは、一つの神社の社殿の中で主祭神と一緒に合祀された神のことであり、多くの神社では主神(主神が二柱以上の場合もある)以外にも配神や相殿神を一緒に祀っています。 
伊勢神宮の信仰・歴史
三重県伊勢市にある『伊勢神宮(いせじんぐう)』は、日本の神社の中で歴史的・権威的に別格とされる特別な神社であり、神社本庁の本宗(ほんそう)とされており、古代期には九州の宇佐神宮(うさじんぐう)、中世期には京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)と並ぶ『二所宗廟(にしょそうびょう)』の一つとして認識されていました。江戸時代には『お蔭参り・お伊勢参り』と呼ばれる伊勢神宮への徒歩での集団参詣が流行となり、年間数百万人規模の参拝者で溢れるようになっていきますが、この時代の伊勢神宮へのお蔭参りは『信仰・巡礼目的(現世利益・来世救済)のお参り』と『観光旅行(物見遊山)目的のお参り』とが混合したものでした。
伊勢神宮は別格の神社(神社の起源的性格も持つ)であることから、正式名称は何も前に地名がつかない『神宮(じんぐう)』であり、ただ神宮というだけで伊勢神宮のことを指すようになっています。明治時代から昭和初期(戦時中)における国家神道の『近代社格制度』でも、伊勢神宮はその歴史的・信仰的な重要性と天皇家の皇祖神との結びつきから『社格の対象外』とされていました。伊勢神宮は和歌山県和歌山市にある紀伊国一宮である『日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)』と並んで、神社の位階(格付け)である神階が授与されたことのない特別な神宮になっていて、その創建年代も内宮の垂仁天皇26年(紀元前4年頃)、外宮の雄略天皇22年(477年頃)と相当に古いものになっています。
伊勢神宮は、太陽を神格化した女神とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀っている『皇大神宮(内宮)』と、衣食住(神饌)の守り神である豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)を祀っている『豊受大神宮(外宮)』の二つの正宮から構成されています。一般的には、皇祖神とされるアマテラスオオミカミは『天照大御神』と漢字表記されますが、伊勢神宮では内宮の主神は『天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)』と呼ばれています。皇大神宮(大神宮)を『内宮(ないくう)』といい、豊受大神宮を『外宮(げくう)』といっていますが、内宮と外宮は地理的に離れた場所にあり、その起源も異なる説話に基づいています。
伊勢神宮は元々『皇室の氏神』であり『皇室・朝廷の権威・正統性』と強い結びつきがありますが、『国家鎮護の最高神』として日本全国の人々からの参拝・崇敬を受けています。古代期には皇室の氏神として、天皇・皇后・皇太子以外の奉幣が禁止されるほどの特別の権威を持っていたと伝えられ、天武天皇の時代に『斎宮(さいぐう・いつきのみや)・斎王(神の意志を承る拠り代となる斎女)』が制度化されて、南北朝時代まで続きました。平安時代の私撰歴史書(僧皇円の著作とされる)である『扶桑略記(ふそうりゃっき)』という書物では、天武天皇の皇女である大伯皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)が初代の斎王とされています。
伊勢神宮とは正確には内宮・外宮との関係が深く格式の高い『別宮(べつぐう)・摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・所管社(しょかんしゃ)』を含めた、合計で125の社宮をまとめたものです。この神宮の125の社宮の所在地は、三重県内の4市2郡にわたって分布しています。中世期には神仏習合・本地垂迹説の教義の上で伊勢神宮は『神道の最高神・最高権威』とされ、朝廷・天皇への崇拝もあって皇室だけの氏神の存在から、日本全国の国家鎮護を司る神として崇拝されるようになり、全国の武士・庶民の信仰も集め始めました。
しかし南北朝の戦乱期には、神宮領が侵略・焼討される被害を受けて経済的基盤を失ったため、神宮は『式年遷宮(しきねんせんぐう=20年ごとに諸神社の正殿を新しく造替して神座を遷す行事)』をする資金的余裕も無くなってしまい、その資金を獲得するために神宮の信者を宣伝活動によって庶民にまで増やしました。更に、各地の講を組織化して参拝客を案内してあげる『御師(おんし)』が出現しました。近世江戸期には、『お蔭参り(お伊勢参り)』が大流行して信仰・巡礼のための参拝だけではなく、いわゆる観光旅行(レジャー)としての参拝も増えました。江戸時代には庶民的な響きのある『お伊勢さん』という愛称も定着していき、弥次さん・喜多さんの『東海道中膝栗毛』の旅の記述でもお蔭参りの盛況ぶりに触れています。
伊勢神宮125社と伊勢信仰の庶民化
伊勢神宮で祭られている天照座皇大御神(天照大御神)は、神道の八百万の神々の中でも皇祖神とされる別格の女神であり、至高至尊の太陽神、国家鎮護の最高神とされています。天照大御神は『皇室の氏神』であると同時に『日本人の総氏神』でもありますが、元々は天皇以外の幣帛(神前へ供物を捧げること)が厳しく禁止(私幣禁断)されていた権威的な神社であり、それが時代が下るにつれて次第に庶民化していったという流れがあります。
伊勢信仰の庶民化の契機となった一つの要因は、前述したように南北朝の戦乱によって神宮領が侵略されて収入源の多くが失われたことであり、伊勢神宮は年中行事や式年遷宮に必要な資金を集めるために、寄付・投げ銭をしてくれる信者の数を増やさなければならなくなりました。また平安時代末期には、既に伊勢参拝の客を案内したり宿泊の世話をしたりする『御師(おんし)』が登場しており、伊勢信仰が日本各地に広まっていき伊勢参りをしたいという庶民も増大していきました。信者を組織化して神道の教えを説いたり伊勢参りを計画したりする『伊勢講』という集まりも作られるようになっていきます。江戸時代に『お蔭参り・お伊勢参り』が大ブームとなり、伊勢音頭という民謡では『伊勢へ行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも』と歌われるようにもなっていきました。
伊勢神宮は皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を『正宮』として、全部で125の社宮(別宮・摂社)によって構成されていることから『神宮125社』と呼ばれます。摂社とは、『延喜式神名帳』に記載されている正宮・別宮以外の神社のことです。 
神社の建築物(施設)と境内の造り
神社の古代(上代)における歴史的な原型は、『神社・神道とは何か?』の項目で説明したように、神々が宿っている“依り代(よりしろ)”と見なされた『神奈備(かんなび)』にありました。神奈備は大きく分けると、鎮守の森で神と見なされた巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲った『神籬(ひもろぎ)』と神が宿っていると考えられていた巨岩・巨石の『磐座(いわくら)』とに分けることができます。
臨時に神を迎えるために、『八脚台』という木の台の上に枠を組んで作り、その中央に榊の枝を立てて紙垂と木綿(ゆう)を取り付けたもののことも『神籬(ひもろぎ)』といいますが、その原義は『(石などで作られた)垣根』です。また、建物の中に玉垣を設けて常盤木を神と見なしていた時代の神社では、その常盤木(常緑樹の榊など)のことを神籬と呼んだりもしていました。
『山岳信仰』の影響で山が神そのものとされることもあり、その山は立入り禁止の『禁足地(きんそくち)』とされたり『神体山(しんたいざん)』と呼ばれたりしました。上代から時代が下るとその神奈備の跡地や鎮守の森に囲まれた神聖な地域に、『神社の社殿』が建設されるようになり、その神社の周囲の領地(神領)が『境内(けいだい)』になっていきました。
鎮守の森に囲まれていることが多い神社の入口には、境内(聖域・神域)と俗界の境界を示している『鳥居』の門があり、その奥の社殿にまで『参道』が長く通じています。鳥居には入り口の正門に当たる『第一鳥居』だけではなく、それに続く『第二鳥居』がある神社もあります。鳥居の周囲から広がって神社の境内を広く囲い込んでいる柵のことを『玉垣(たまがき)』といい、参道の途中には手と口をすすいで清めるために湧き水を溜めた『手水舎(てみずや,ちょうずや)』があります。
神社の境内の最奥にある最も重要とされる建築物が、祭神が宿っているとされる御神体(ごしんたい)を安置している『本殿(ほんでん)』ですが、神社によっては神社の背後にある山や岩、森などが神そのものとされていて本殿が設置されていない神社もあります。大きな神社では本殿の前に、『幣殿(へいでん)』と『拝殿(はいでん)』と呼ばれる建築物があることが多いのですが、『幣殿』というのは『幣帛(へいはく,麻や絹などの織物の意味)』という神への供物をお供えするための建物のことです。本殿と幣殿の手前にある『拝殿』というのは、一般の参拝客が本殿にいらっしゃる神様をお参りするための建物であり、浄財をお布施するための『賽銭箱』が置かれていたりします。
社殿が建設される前の古代の神社では、上記した『神籬(ひもろぎ)』の台を組み立ててから、神籬を神の依り代として祭祀を行っていましたが、その後に神籬を設置していた空間に社殿(本殿)が建てられ始めました。しかし、古代から神々が宿るとされた御神体山(禁足地)や巨岩などを崇拝していた神域では、そのまま本殿を建てずに御山を崇拝するという信仰が残ることになり、御山の麓に供物を奉献する『幣殿』や拝礼をする『拝殿』が建設されたのです。奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)や長野県の諏訪大社(すわたいしゃ)に本殿がない理由は、この『山岳信仰・御神体山(神奈備)の信仰の残存』に拠っています。大神神社は日本最古の神社の一つであり、本殿が無いからといってその宗教的権威が劣るなどという事は全くなく、大神神社には幣殿の最古の形式とされる神に神饌(しんせん)を献上するための『御棚(おたな)』が設けられています。
主神と一緒に主神と由縁のある相殿神を祀っている場合には、本殿の内部に『相殿(そうでん)』という空間が準備されていることもあります。神に供物を供えるための『幣殿(へいでん)』には常時、神の食事となる御幣(ごへい)が立てかけられていることが多く、内部には『神饌案(しんせんあん)』という供物を上に載せて置くための台・机があります。幣殿では神職が祝詞(のりと)を上げることも多いので、『祝詞殿(のりとでん)』と呼ばれることもあります。幣殿の前にある神様の参拝のための『拝殿(はいでん)』は、神仏習合(シンクレティズム)で権現思想が一般的だった時代には、護摩壇のようなお札・木材を燃やす炉が置かれていて、『参籠(おこもり)』と呼ばれる泊まりがけの礼拝が行われていたりもしました。
神社の境内には神社の各種の業務を司ったり神職・巫女が待機するための『社務所』も置かれており、絵馬やおみくじ、お守りを括りつけるための『授与所・御神木』が設けられていたりもします。
神社の建築様式と摂社・末社
神霊が宿っているとされる御神体が安置されている神殿(本殿)の建築様式にはさまざまなものがありますが、以下に代表的な建築様式を示します。
神明造(しんめいづくり) / 三重県の伊勢神宮正殿の『唯一神明造』や長野県の仁科神明宮に代表される最古の神社の建築様式である。茅葺きの質素な屋根の上に、古代から神聖さを象徴する鰹木(賢魚木)の木材を載せており、屋根は切妻造の平入りである。内部には横向きに棟持柱が通してあるが、最もシンプルで昔ながらの建築法である。
春日造(かすがづくり) / 奈良県の春日大社の本殿に代表される建築様式で、古代の鎮護仏教の拠点であった奈良や和歌山の一帯に良く見られるものである。切妻造の屋根であり、入り口の前の階段の上に『階隠(はしかくし)』と呼ばれる庇(ひさし)が造られている。
住吉造(すみよしづくり) / 大阪府の住吉大社に代表される建築様式で、切妻造・妻入りの屋根は直線的で反りが作られていない。建物の内部は前後で二つの空間に仕切られており、それぞれの空間は『室』と『堂』と呼ばれている。
大社造(たいしゃづくり) / ヤマト系ではない大国主命を祀っている島根県の出雲大社に象徴される建築様式で、時代的には相当に古いものと推測されている。建物内の中央に太い心御柱(しんのみはしら)が立てられており、全部で9本の柱で建物全体を支えている。昔は地面を掘って柱を立てるだけの『掘立柱』で造られていたが、慶長期以降の建て替えによって地面に基礎の石を置いてから柱を立てる『礎石立』に変更された。
八幡造(はちまんづくり) / 大分県の宇佐神宮や鎌倉の鶴岡八幡宮など八幡信仰の神社で多く見られる建築様式で、前後に並んでいる二つの社殿をくっつけるような建て方をしており、入り口側の建物を『外殿』、奥にある建物を『内殿』と呼んでいる。
流造(ながれづくり) / 神社の本殿の建築様式としては最もポピュラーで数の多いものであり、側面から切妻造・平入りの屋根を見ると、屋根が前方に向かって流れているように見えることから流造と呼ばれている。古代の神社建築で神聖さを象徴するとされる屋根の上に置く木材の『千木(ちぎ)』と『鰹木(かつおぎ)』がないことも特徴である。最古の流造の神社建築は、京都府の宇治上神社であると推測されている。
権現造(ごんげんづくり) / 幕府の開祖である徳川家康を神として祀っている栃木県の日光東照宮や菅原道真を祀る北野天満宮などに見られる建築様式。本殿と拝殿の2棟を一体化しており、間に『石の間(いしのま)』と呼ばれる少し低い建物を造っていることから、石の間造りとも呼ばれることがある
神社(神殿)の屋根の先端に当たる破風(はぶ)は、十字に交差して突き出ている事が多いのですが、この交差した部分は神殿の神聖さ・特別性を象徴する装飾で『千木(ちぎ)』と呼ばれています。千木は『鎮木・知木』と表記されることもあり、『古事記』の表記では『氷木(ひぎ)・氷橡(ひき)』となっており、古語では『ひ』と『ち』という言葉には神聖な霊力が言霊(ことだま)によって宿っていると考えられていたようです。千木の先端が垂直に切ってあるものを『外削(そとそぎ)』、水平に切ってあるものを『内削(うちそぎ)』と呼んでいます。
千木と同様に神殿の神聖さ・威厳を象徴する装飾として『鰹木(かつおぎ)』と呼ばれるものがあり、これは本殿の屋根の上に棟木と直交する形で並べて置かれている木材です。鰹木はその形態が鰹節(かつおぶし)に似ていることからそのように呼ばれるようになったと考えられていますが、『賢魚木・勝男木・葛緒木・鰹』という風に表記されることもあります。
大規模な神社になるとその境内の内部や外部に『小さな神社』を建てていることがありますが、ある神社の系列に連なっていてその管理下にある小さな神社のことを『摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)』といいます。両者を合わせて『摂末社(せつまっしゃ)』と呼ぶこともありますが、摂末社で祀られている神(=末社神)は、上位の神社(=本社)で祀られている主祭神と縁故関係にあるものが多くなっています。神社の格式の序列では『本社・摂社・末社』の順番になっていますが、その歴史的な古さや由来の権威性では、必ずしも本社が摂末社を上回っているわけではない神社もあります。
神社の境内の内と外を区切っている『玉垣(たまがき)』は、『斎垣(いんがき)・瑞垣(みずかき)』と呼ばれることもありますが、この玉垣は非日常的な聖域(神域)と日常的な世俗世界との境界線として機能しており、鳥居と玉垣が一帯となって特別な神社の聖域を区切っているのです。 
 
廃仏毀釈

 

廃仏毀釈百年
日本人の「こころ」を変えた神仏分離令。「日本という方法」を歪めた廃仏毀釈。幕末維新のもうひとつのシナリオの連打と加速。明治国教主義。神々の統括主義。国家神道の大号令。ここに、仏教界が突如として矢面に立たされた。弾圧か、排仏か、法難か。本当はいったい何がおこったのか。神仏習合だったこの国に、本来の神仏和解をとりもどすには、どうすればいいのか。

日本には何度も失敗があった。白村江の戦いも、承久の乱も失敗だった。秀吉の大陸制覇は120パーセントの失敗だし(愚挙といったほうがいいが)、天保の改革も70パーセントほどは失敗だろう。
むろんどんな国の歴史にも、どんな民族の歴史にも失敗がある。革命の失敗、改革の失敗、指導者の失敗、戦争の失敗、通貨の失敗、市場の失敗、文化の失敗‥‥いろいろだ。外交もあれば、内政もある。全体の失敗も、部分の失敗もある。失政のばあいもあるし、著しい放置のばあいもある。
失敗の原因には過誤もあれば、鈍感もある。盲信もあれば、過剰もある。原因はいちがいには指摘しがたい。むろんこうした失敗を惧れて、国家が萎縮する必要はない。内外の顔色を窺って右顧左眄することもない。なんであれ決断や実行には失敗はつきものなのだから、進むべきときは進み、後退すべきときは後退するしかないだろう。
しかし、国家の理念や国民の観念を大きく左右する失敗には、取り返しのつかないミスリードや傷痕や価値観の歪みが残映することがある。引きずることがある。ストレスが深くなりすぎることがある。最近のことでいえば、小泉・安倍政権が構造改革や郵政民営化や「美しい国」路線や教育三法に着手しているうちはまだしも、そこに国家の理念(たとえば憲法)や国民の理念(たとえば愛国心)があからさまになってくると、事態はあやしくなってくる。
歴史においてとりわけ最も目立つのは、事態を二者択一に追いこんで、誤った方針を性急粗雑に実践してしまったときである。

明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。
日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。
その神仏習合を鉈で割るように「神と仏」に分断して、制度においても神仏分離した。これは過誤である。ミスリードだ。神道各家や仏教諸派がこのような主張をすることは、いっこうにかまわない。宗教宗派とはそういうものだ。ときに神を争い、仏を取り合うこともある。しかしながら、日本という国家が神道と仏教を分断する必要などまったくなかった。まして廃仏毀釈はよろしくない。
なぜこのようなことがおこったかということについては、いろいろの分析が可能だ。徳川時代の全般をふりかえる必要があるし、幕末維新の異常な平田神道の波及にもメスを入れなければならない。近世仏教史の流れも俎上にのぼる必要がある。寺院と神社の関係、儒学と国学と仏教の関係、寺領や戸籍の問題、幕末の宗教政策の問題、王政復古の内情も、もっと見なければならない。
その後、廃仏毀釈は収まった。それでもいったん施行された神仏分離令がのこしたシステムは、そのまま国家神道として機能しつづけた。しかも、これもまた大問題なのだが、こうした神仏分離と廃仏毀釈についての研究や批判が、あまりにも少ないのだ。まるでこの問題に触れるのがタブーであるかのような、意図的で不気味な沈黙すら感じられる。

神仏分離・廃仏毀釈は岩倉具視や木戸孝允や大久保利通からすれば、王政復古の大号令にもとづく「日本の神々の統括システム」を確立するための政策の断行だった。薩長中心の維新政府からすれば、神権天皇をいただいた国体的国教による近代国家をつくるための方途だった。
が、これはあきらかに仏教弾圧だったのだ。仏教界からすればまさに「排仏」であり、もっとはっきりいえば「法難」あるいは「破仏」なのである。
むろん維新直後の当時は仏教界(とくに浄土真宗)からの猛然たる反対運動の声が上がったのだが、そしてさすがに明治政府はその展開と顛末をうやむやにしていくのだが(そして「信教の自由」を大日本帝国憲法にうたうのだが)、いったん断行された神仏分離による観念や価値観はその後もずっと日本人のなかに曳航されたのである。そのうえおまけに、今日のように近代日本の歴史解釈が東アジア社会のなかで一挙に浮上している時期においてさえ、この大問題はあいかわらず浮上しないままにある。

これは、いささか由々しいことだ。このままでは、日本が長きにわたる神仏習合・神仏並存の歴史をもっていた実態もわからなくなるし、国家神道がきわめて異質なものであった理由も見えなくなる。これらは日本史にながいあいだ流れていた神仏のイメージとは異なるものなのだ。
わかりやすい例をひくのなら、伊勢神宮の内宮信仰が重視されたのも、明治になってからのことなのである(徳川時代では外宮人気のほうが高かった)。いわゆる「靖国問題」の発端は、明治2年の東京招魂社の祭祀が神道式になったことから始まっているのだが、それが神仏分離令によるものだったことも理解できなくなる。
もっとカジュアルなこともすっかりわからなくなるだろう。たとえば、小学校唱歌に「村の鎮守の神さまは」とうたわれる一村にひとつはあるようないわゆる「鎮守の杜」も、明治期に統合整備されたものだったのだし(古代中世の鎮守は寺院にくみこまれていた)、今日ではごくごく当たり前だと思われている神前結婚式ですら、明治末期の大正天皇の挙式が雛型となって初めて日本中に広まったものだった。

この「神仏分離・廃仏毀釈」がどういうものであったかという問題をやや詳しくとりあげたい。
とりあげた一冊は、宮崎県の住職の佐伯恵達さんが綴った乾坤一擲である。研究書ではない。心情吐露の書だ。佐伯さんは長昌寺という浄土真宗系の寺の住職で、曾祖父の住職が廃仏毀釈にまきこまれ、父親がなんとか余命をつなぎ、佐伯さんがその問題の考究に入って、3代ごしの宿願の課題を書いた。怒りのこもった一書となった。書かないではいられなかったと告白しておられる。宮崎県の仏教迫害の実情にもとづいた告発だ。
明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の実情がどういうものであったかということについては、それなりに詳しい資料はある。辻善之助と村上専精と鷲尾順敬による『明治維新神仏分離資料』全10巻(最初は全7巻)という全国的な調査にもとづいた資料はとくにすばらしい。名著出版から新版が刊行されていて、ぼくも図書館でざっと見てきた。
もちろん研究書もある。村上重良の『国家神道』から羽賀祥二の『明治維新と宗教』にいたる研究は、すぐれた問題提起や問題整理をした。圭室(たまむろ)文雄の『神仏分離』や安丸良夫の『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈』といった読みやすい新書もある。とくに安丸の著書は短いものながら、明治の神仏分離・廃仏毀釈が「日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換をもたらした」という視点で貫かれていて、たんに神仏混淆の禁止がおこったというより、「権威化された神々の系譜の確立」こそが神権国家樹立のための神仏分離政策の狙いだったことを強調した。安丸にはこれを発展させた『近代天皇像の形成』もある。
去年には村田安穂の『神仏分離の地方的展開』も上梓された。また、ごく最近になって著されたジェームス・ケテラーの『邪教・殉教の明治』も印象深い。富永仲基・平田篤胤・正司考祺の排仏思想の比較や、葦津実全・釈宗演・八淵蟠龍・平井金三の視点の比較など、たいへんユニークだった。

こういうわけで、神仏分離・廃仏毀釈をふりかえるならこれらのいずれの一冊をとりあげてもよかったのだが、ぼくは佐伯さんの懸命な叙述に惹かれて、あえてこの本を選んだ。宮崎に行ったときに近くの書店で見つけた一冊だ。たちまち『廃仏毀釈百年』の“百年”にぐっときた。そのとき版元の鉱脈社(宮崎の版元)の本をさらに10冊ほど求めて、購入した。
このように本書は地元の住職によって地元の版元が出版したものなので、その半分ほどが宮崎県(また鹿児島県)の廃仏毀釈の悲劇的な実情にあてられている。たいそう悲しいドキュメントではあるが、地元の事情があまりに詳細にわたるので、そのへんのことは割愛せざるをえない。
また、そういう本でもあるので、以下のぼくの文章には安丸良夫の本をはじめ、いくつもの類書を参考にした。

では最初に、明治維新政府が何をしたかというアウトラインを書いておく。一言でいえば神仏を分離した。神仏混淆を断罪した。「神と仏」を分けたのだ。“上級の神々”を国家神道システムにくみこむためだった。
それを慶応4年3月からの維新政府の上からの通達で連打した。まとめて「神仏分離令」(ときに神仏判然令)という。
ざっと順に説明すると、慶応3年3月17日の「神祇事務局より諸社へ達(たっし)」で、「このたびの王政復古の方針は悪い習慣を一掃することにあるので、全国各地大小の神社のなかで、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと唱えて神社の儀式を行っている僧侶に対しては復飾(還俗)を仰せつける」という通達をした。
徳川時代、神社の多くは寺院の僧侶の手によって運営管理されていた。僧侶が社僧あるいは別当という名で神主の役をはたしていたことが多かった。それをやめさせて、神主を兼帯していた僧をすべて還俗させようというのである。還俗とは髪をのばすことをさす。
この通達がいかに早期の着手で、その手際が迅速だったかは、この通達が「五ケ条の御誓文」発表の3月14日のわずか3日後であったことでもわかると思う。王政復古とともに神仏分離がただちに開始されたのだ。
しかし、これはまだ前触れだった。その10日後の3月28日、今度は「太政官達(たっし)」が「仏像を神体にしている神社は神体をとりかえること」「権現・午頭天王などの神号をもっている神社はその由緒をあきらかにして改めること」「本地などと唱えて仏像を神社の前にかけたり、仏教の用具である鰐口・梵鐘を置いているところは取り除くこと」といった命令をくだした。世の神社にかかわる神号や神体から仏教色をいっさい駆逐しようというのだ。

激震が走った。さっそく動き出すものがいた。4月1日、比叡山麓坂本の日吉(ひえ)山王社を、突如として100人をこえる武装した一団が襲った。
日吉山王は長らく延暦寺の管轄になっていたところだ。そこへ「神威隊」と名のる者50名、人足50名、さらに日吉社の社司・宮仕20名が加わって、どかどかと土足で本殿に乱入し、安置されていた仏像を壊し、仏具・経巻のたぐいを次々に放り出して焼き捨てた。仏像の代わりに「真榊」(まさかき)と称する「古物」を置くと、そのほかの七社に対しても同様の傍若無人をはたらいた。
焼却された仏像・仏具・経巻は124点、掠奪された金具や調度は48点。「廃仏毀釈」の最初の断行の例である。リーダーは樹下茂国(じゅげしげくに)という日吉社の社司で、明治政府の神祇官の事務局の権判事に就いていた。岩倉具視と昵懇で、新政府の国教政策チームに玉松操(後出)を引き入れた当人でもある。
事態は一挙に加速する。さらに4月4日、4月10日、5月16日にも「太政官達」や「太政官布達」が出て、政府が社人と僧侶のあいだの私憤と紛擾にメスを入れることを予告し、「このたび全国の神社において神仏混淆は廃止になった」ということ、「仏教を信仰して還俗を承服できないものは神主として神に仕えてはならない」ということを申しのべ、加えて石清水・宇佐・箱崎などが八幡大菩薩の称号をつかっていることを禁止して、以降は八幡大神と称するように規定した。
このため石清水八幡は男山神社に、愛宕大権現は愛宕神社に、金毘羅大権現を祀っていた象頭山金光院松尾寺は金刀比羅宮に、竹生島の弁才天妙覚院は都久夫須麻神社に、奈良多武峰の妙楽寺は談山神社に、あわただしく改称していくことになる。まったく謂れのないことが、次から次へとおこったのだ。

こうして明治元年9月18日(明治に改元され、一世一元が定められたのは9月8日のこと)、「先日、神仏を混淆しないように布告を出した」という念押しが重ねて通達された。
ともかく矢継ぎばやの神仏分離令であり、電光石火の神仏混淆禁止令だった。お上のお達しだから、反論の余地はない。しかも、まだ版籍奉還も廃藩置県もおこなわれていない時期なので(版籍奉還は明治2年9月、廃藩置県は明治4年4月)、この新政府の命令を寝耳に水で受け取るのは藩主か、各地の神社仏閣のリーダーたちだった。一方ではたちまちさまざまな藩内で混乱がおこり、他方ではこうした下命を待ち望んでいたようなところでは、神仏分離や廃仏毀釈に着手する乱暴な動きがさっそくおこった。この日を待ちわびていた藩もあった。
津和野藩には養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていた。とくに幕末には大国隆正(後述)や福羽美静(後述)といった平田国学のごりごりの直流の門下生が教授となって、新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担していた。そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監(後出)は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなった。
松江藩預かりの隠岐(島前と島後)では、「正義党」が結成されて、島後の46ケ寺のすべてを廃絶していった。幕領であった佐渡でも判事奥平謙甫が「北辰隊」とともに乗り込んで、539ケ寺を80ケ寺に廃合する計画に着手した。富山藩でも暴挙がおこった。領内の313ケ寺を各宗1寺にして、全部でたった8カ寺にしてしまおうというのだ。
このほか松本藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などでも、同様の神仏分離と廃仏毀釈が乱暴に進んだ。なかでも本書にも縷々のべられているように、宮崎県では延岡藩・高鍋藩・飫肥(おび)藩で廃寺廃仏がまたたくまに断行され、有無をいわせぬ悲劇的な事態が雪崩を打っていったのである。佐伯さんは「灰となった寺は南九州で一千寺におよんだ」と書いている。
実は幕末すでに薩摩藩ではすべての寺院に廃止令が出たのであった。それが鹿児島県となってからも続いた。これでは暮らしさえままならない。有名な話であるが、やはり廃仏毀釈の波が早くに襲った奈良県では、興福寺が寺院塔頭が維持できなくなって、五重塔を25円で売り払おうとしたことさえあった。

これらの進行に抵抗がなかったわけではない。あとでも少しふれるが、浄土真宗の各寺(本願寺系)の抵抗がとくに強かった。しかしながら全国的にはこれらの神仏分離・廃仏毀釈を通して一挙に神権的国家神道システムの基礎固めは狙い通りに首尾をあげたのだ。
廃合、廃寺、排仏だけではなかった。かつての寺院が神社になったり(石清水が男山神社に、愛宕が愛宕神社に、金毘羅が金刀比羅宮に、竹生島の弁才天が都久夫須麻神社に、多武峰妙楽寺が談山神社になったことはすでにのべた)。
それだけではなく、新たに神社がつくられていった。楠木正成を祀る湊川神社、崇徳上皇を祀る白峰宮、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇を祀る水無瀬神社などは、この時期に誕生した新造神社である。とくに明治2年に九段につくられた東京招魂社は、慶応4年の江戸城で盛大におこなわれた招魂祭をうけたもので、明治8年には嘉永6年以降に国事で倒れたすべての霊を祀ることが決まり、翌9年に「靖国神社」と改称されたまま今日におよんでいる。
これにともなって宮中の儀式にも大きな変更が加えられた。それまで天皇以下の皇族の霊は、平安時代このかたほぼ宮中の「お黒戸」(おくろど)に祀られてきた。お黒戸は民間でいう仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式の慰霊がなされていた。それが明治4年にはお黒戸の位牌が水薬師寺の一室に移され、さらに方広寺境内に新設された恭明宮に移され、その後は京都の泉涌寺が預かることになった(泉涌寺はぼくが大好きなお寺だ)。
また、それまで宮中でおこなわれていた仏教行事が次々に撤廃されていった。真言宗による後七日御修法(これは空海以来の行事)、天台宗による長日御修法、さらに御修大法、大元帥法などがすべて廃止されてしまった。もっと大掛かりな変化は伊勢神宮を歴史上はじめて天皇が参拝したことで、これによってアマテラス信仰と天皇を現人神とみなすシナリオが動き出したのだが、それについては別にゆっくりふれる。

ともかくも、ざっとこういうことが明治維新直後に急転直下の勢いでおこっていったのである。いったい誰がこんなことを断行しようと決めたのか。きっとそのことが気になるだろうから、まずその事実関係から片付ける。
通達や命令を出したのは神祇官と神祇科だった。慶応4年が明けてまもなくの1月17日、前年12月の小御所会議にもとづいて発せられた「王政復古の大号令」を受け、維新政府は太政官のもとに7科を設置、そのひとつに神祇科をおいた。
これを第一次官制というのだが、原案をつくった福岡孝悌は内国科・外国科など6科までを用意したのだが、岩倉らが廟議を通して神祇科を加えた。神祇事務総督に中山忠能(ただやす)・有栖川宮幟仁(たかひと)・白川資訓(すけのり)が、同係に六人部是愛(むとべよしちか)・樹下茂国(←前出)・谷森種松が任命された。
ここで亀井茲監(←前出)・平田鉄胤(かみたね)・福羽美静(←前出)などの平田派・大国派の国学者や神道家たちが登用され、神道国教主義のシナリオが大きく浮上した。あまつさえ神祇官は太政官の上に立つことにさえなった。
このシナリオの浮上には前段があった。すでに幕末期、古代王政さながらの神祇官を再興すべきだという建言や意見書が、猿渡容盛(ひろもり)・三条実万・六人部是香・矢野玄道(はるみち)・玉松操(←前出)らから提出されていて、これが岩倉具視の王政復古プランにくみこまれつつあったのである。
岩倉と国学者・神道家を引き合わせていったのは薩摩の井上石見だった。薩摩の諏訪神社の神職である。慶応3年3月2日の岩倉の書簡に、「神道復古、神祇官出来候由、さてさて恐悦の事に候。全く吉田家仕合に候。実は悉く薩人尽力の由に候」とある。吉田家とは吉田神道の社家たちのことを、薩人が井上石見のことをさす。
これでおよその見当がつくように、以上のお膳立ては岩倉と薩摩藩を結ぶ線の上で動いたものだった。
いまではあきらかなことだが、そもそも小御所会議と王政復古の大号令の内実は、有力な公家(二条・九条・近衛など)と有力な諸藩(越前藩・土佐藩など)を抑えて強行されたクーデターであり、そこには薩摩藩の武力が背景の圧力になっていた。岩倉は薩摩の軍事力を盾にして、明治国家を王政復古させ、立憲君主制による神権政治のスタートを切るシナリオを書いたのである。そこに最初に駆けつけたのが長州藩だったのだ。それゆえ以降は、薩長両藩と岩倉グループが維新政府を牛耳ったこと、言うまでもない。

幕末維新の天皇をいただく神権シナリオの起草者が誰であったかは、これでうすうすわかったと思うが、そのもともとのシナリオにも前段や前々段があった。たとえば水戸学(水戸藩の動向)、たとえば国学(平田篤胤派)、たとえば日本儒学、たとえば日本陽明学である。神仏分離思想はこれらにすでに芽生えていた。
ただし、これらは巧妙に組み合わさって前々段や前段をつくっていったので、いまそれを手短かに語るのは複雑すぎて難しい。けれども、おおざっぱには次のような流れがあったと思えばいいだろう。
大前提になるのは、日本において宗教弾圧の素地がどのようにあったのかということだ。宗派が相互に批判しあったり非難しあったりすることなら、南都六宗の昔からあった。そうではなくて、国家や為政者や政権が、特定の宗教や宗派に規制や排除をかける歴史はどうなっていたかという問題をあきらかにしておく必要がある。すなわちどんな「宗教抑圧のモデル」があったのかということだ。
これについては、第1にはやはりキリシタン禁圧をあげなければならない。信長・秀吉・家康のいずれもが取り組んだ。明治維新においても開国・文明開化とともにキリスト教がなだれこんでくることが予想されたので、維新政府と国学系のリーダーたちはキリスト教の抑圧に躍起になっていた。実際にはしばらくしてキリスト教は解禁され、そして札幌農学校をはじめとするキリスト教教育が始まって、各地にバンドができて、そこから徳富蘇峰・内村鑑三・有島武郎らが輩出するのだが、当初は宗教政策の第1にかつてのキリシタン禁圧モデルがよみがえりつつあった。
また第2には、信長の一向宗追い討ちや延暦寺焼き打ちを思い出さなければならない。こんな激越なことが可能になったという記憶は、その後の仏教界も日本人も忘れるはずはなかった。
さらに第3には、日蓮宗の不受不施派などに対する弾圧もモデルのひとつとして機能した。詳しいことを書かないが、日蓮宗に対する仕打ちのひどさは日本宗教史ではきわめて特異なことで、これがのちの新興宗教や新宗教の強い「負の基盤」になっていったのである。

ついで重要な第4のモデルになるのは、徳川幕府が早期から着手していた「宗門改め」と「寺請制」であろう。幕府は仏教政策として寺檀制(寺院と檀家のシステム)と本末制(本山と末寺のシステム)をもちこんで、ここに戸籍管理体制をくみこんだ人民統括システムを樹立しようとした。仏教体制を整備することによって、そこに人別帳(準戸籍)のしくみを管理させたのだ。
これは、徳川社会では仏教が“国教”になったということにほかならい。心情的なことではない。国家のシステムとして仏教が採用され、それが幕藩体制によって認知されたということなのだ。これによって当然のことながら、社会に仏教システムが流れこんでいった。仏壇の普及や葬儀が寺院の管轄のもとにおこなわれるようになったことに、そのことがあらわれている。
これらのことから、近世日本社会は大きくは宗教抑圧モデルと仏教国教モデルという二つのモデルを先行してもっていたとみなすべきだろう。しかもこのような体制のなか、寺院と神社は仲良く神仏習合的に相乗りしていたのであって、幕藩体制としては寺院のほうに管理責任があるかぎり、国家の民衆管理はほとんど心配ないという見方をしていたわけなのである。
そして、ここまでのことでいえば、このような社会に神仏分離をしなければいけないような、どんな理由も理屈も見当たらなかったのだ。神仏は仲睦まじく共存してもらっていればよかったのである。むろん天皇の神権を強化して幕藩体制を維持する必然性も、まったくなかった。前に書いたように、むしろ幕府は天皇を形式的にして、その権力をないがしろにすることのほうを積極的に選んだのだ。
ところが、ところが、だ。こうした水も漏らさぬ体制が少しずつ軋みはじめたのだった。原因はいろいろあるが、最大の要因は黒船来航という外圧にあった。異教の国に開国を迫られたことにあった。外国との条約には天皇の勅許が必要である。幕府には将軍を“日本国王”とする見方もあったのだが、制度化されているわけではない。やはり天皇を国王とみなすしかない。しかしそれでも、井伊直弼の対外政策と国内政策がそうであったように、幕府は天皇に国家のディシジョンを委ねる気など、毛頭もっていなかったのだ。
が、そのような軋みに、するすると平田国学や水戸藩の動向がからんでくると、事態は一筋縄では説明できなくなっていく。そのとき天皇神権論や排仏思想が頭を擡げてきた。

排仏論のモデルについても検討しておかなくてはならない。ごく端的なモデルだけを紹介するにとどめるが、その先頭を切ったのは荻生徂徠だった(さらに先行して山崎闇斎の「垂下神道」があるが、省略する)。
徂徠は『弁名』や『政談』で、「制度」の検討をすすめればおのずと幕藩体制の矛盾や危機を乗り切れるのではないかと見ていた。そしてその制度の根幹に「天・命・鬼・神」を祭祀することがあると考えた。これは中国儒学の朱子学からは導けないことである。『礼記』や『易経』などの六経に注目した徂徠の独自の日本儒学の結論である。それには古典に戻るべきで(それが徂徠の古学思想)、それならわが国の古代にもそのような「天・命・鬼・神」を祀る思想と慣習があったとみなした。徂徠の「天祖(アマテラス)、天を祖とし、政は祭、祭は政にして、神物と官物と別なし」という文章は、そうした徂徠の祭政一致思想をよくあらわしている。
徂徠の思想を継承発展させて、「天皇祭主論」のモデルともいうべきを提言したのは太宰春台である。春台は、国家が祭祀をおこなわないのは「国家ノ闕典」であると見た。『経済録』には次のようにある。「オヨソ天地ノ間ニアラユル事トイフモノ、人ノ為スコトノホカハ、悉ク神ノ所為ナリ。人ノナスコトモ、人力ヲ尽シタル上ニ其事ノ成就スルト成就セザルトハ、神ノ助ニ依ルナリ」。ようするに神を祀ることを政治の根本におかなくてはならないというのだ。

中井竹山にも注目したい。その主著『草芽危言』は寛政改革のための提言で、さすがに大筋には朱子学的な合理主義が目立つのであるが、その中身にはのちのちの維新政府が実現したものに近いコンテキストが多々ふくまれていた。
むろん当時のことだから、幕府の存在は大前提になっている。しかし竹山は、朝廷を改革し、仏教や民間信仰がもつ俗信的な要素を取り払っていくことが重要であると早くも気がついていた。
竹山は、そもそも朝廷が衰微してきたのは「仏ノ惑ヨリ」おこったことだとみなした。それを戻すには、一方で「暦年帝王ノ内仏説を排シ」、他方で即位礼を本来のありかたにして、天皇がときどき行幸をして民に朝廷崇拝の気風をもたせたほうがいいとする。天皇が院号を称することもやめて、一世一元制にして年号を諡号にするべきだとも考えた。のみならず、皇子や皇女の出家をやめて皇族をふやし、皇族の婚姻制度を一新すべきだとも提言している。
このような見方には、社会の秩序を仏門を離脱した天皇によって取り戻すことの有効性がうたわれている。天皇に権力をもたせるというのではない。社会秩序の混乱や混迷は天皇主義によって回復できるだろうというのだ。

こうして登場してきたのが、平田篤胤の国学や藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学による尊王神国モデルである。
篤胤は『古史成文』の「天地世間の有状を熟観して、神代巻の出来たる上にて神典を読む」という立場から、国学によるコスゴモニー(世界生成論)のようなものをまとめて『霊の真柱』を著した。万物は未分化の「大虚空」(オホゾラ)から天(アメ)・地(ツチ)・泉(ヨミ)の順に生成されてきて、その系譜に神代が確立したというのだ。
さらに『三代考』では、日本の位置づけを試み、皇国は「天地のもと」から生まれたのであって、諸外国は少彦名神と大国主神があとからつくった国々だから、必ずや天に近い皇国のもとに諸国が臣従するはずだという奇説を展開した。総じて神代と皇国を、現世と幽冥界を、日本と外国をひとつながりにするもので、現世をアマテラスに、幽冥界をオオクニヌシに比定した。安丸良夫は「過剰に合理的なるがゆえに奇怪に非合理的な秩序の体系」になっていると評している。
篤胤はまた『出定笑話』では、一向宗と日蓮宗を神敵二宗と決めつけ、一向宗において阿弥陀仏を天照大神の本地仏にしていること、日蓮宗において神祇信仰が恣意的にとりいれられていることを非難した。
どうにも首肯しがたいほどのキマイラ性が濃いものではあるが、皇国思想と排仏思想が入り交じって尊王神国を支えているというこの思想は、やがて草莽の国学者に飛び火して、桂誉重(しげたか)の『済生要略』へ、宮負定雄の『国益本論』へ、六人部是香の『顕幽順考論』へもちこまれ、さらにさきほどのべた津和野の大国隆正の国学へ、その大国を師と仰ぐ亀井茲監や福羽美静の言説などとなって、維新政府の神権イデオロギーの骨格をつくりあげていくことになった。
ただし、このような平田派や大国派の国学は維新後の立憲君主制にもとづく国家神道の確立期においては、そのあまりの奇矯性が禍いして、大きなはたらきをしなかった。島崎藤村の『夜明け前』の主人公青山半蔵の「憤慨」に、そのことがよくあらわされている。
しかし近代日本はそれにもかかわらず、かつて日本史のどの場面でも確立されなかった国家神道というものを確立してしまったのである。

水戸藩の動向がおよぼした影響も大きかった。そのなかで尊王攘夷思想に特段の影響を与え、それが神仏分離や廃仏毀釈につながったのは藤田幽谷の『正名論』と会沢正志斎の『新論』である。
幽谷の『正名論』はむろん孔子以来の正名論の儒学的伝統にもとづくものであるが、徳川社会の文脈でいえば、幽谷の論法は日本社会における「名分」を正すことに徹していた。「天地ありて然る後に君臣あり。君臣ありて然る後に上下あり」という名分、「上、天子を戴き、下、諸侯を撫する」という名分が、日本の歴史に開闢このかた一貫していたことをのべ、それゆえにこそ天皇が万世一系をもって「覇主の業」に君臨していることをあきらかにした。
この幽谷の薫陶をうけた子の東湖は、若くして『回天詩史』を綴って意気軒高をうたい、とくに『正気の歌』では忠君愛国の道義を高らかに律動させて、尊王攘夷の志士の精神を高揚させた。幕末、これほど志士たちが愛唱放吟した詩はない。加えて東湖は『弘道館記述義』なども著して、水戸藩の藩政改革の中心人物ともなって、徳川斉昭のブレーンとして烈火のごとき排仏主義を発揮しはじめたのである。仏教を「胡鬼」、僧侶を「浮屠」と呼び、寺院が取り仕切っていた葬儀を、「自葬式」と称するものに転換させた。
そこへ会沢正志斎の『新論』が躍り出て、「国体、形勢、虜情、守禦、長計」の5章をもって尊王攘夷思想と国体思想を合体させていった。その思想は天人相関説とも神儒一体説ともいえる水戸学独特の折衷的なもので、天に近い国土をもつ日本が天皇のもとに国体を護持していくことこそ、開国を迫られている日本が断固としてとるべき態度だという強調に徹した。
このような気運のなか、水戸藩に仏教や僧侶を極端に軽視蔑視する傾向が広まった。「異化の徒(仏教徒)は横肆(わがまま)にして、天下の穀をついやして浮冗(むだな僧侶)」となっているという非難も日常茶飯事になっていった。天保年間に開始されたその排仏主義は、天保14年には寺社統廃合の令となって、折からの財政悪化の対策に奢侈に傾く寺院の撤廃や廃合が断行されていく。

こんなところが維新以前の排仏型神教主義のモデルであり、神仏分離と廃仏毀釈を正当化するイデオロギーの先行形態だったのである。むろん説明したいことはまだまだあるが、維新とともに神仏分離・廃仏毀釈がおこっていった大筋の理由はだいたいつかめたのではないかと思う。
それにしても、このような流れが薩摩藩から鹿児島県へ、そこから宮崎県になだれこんでいった異様な動向には、目を覆うものがある。本書で佐伯さんが薩摩の一向宗弾圧から筆をおこし、島津久光が菩提寺をすべて神社にしてしまったこと、それが宮崎に及んで飫肥藩や美々津藩の排仏廃寺運動になっていったこと、それが明治4年から6年にかけてピークに及んで、宮崎県でなんと650ケ寺に廃仏毀釈が降りかかってきたことを、詳細にレポートしておられる。
この数はただならない。のみならず、そこに宮崎神宮や霧島神社の創建や改称が加わり、県内全域が高千穂の神くだる地の色彩に塗り替えられていった。佐伯さんは神社や神道を嫌う人ではない。むしろ愛国の人であって、神奈備の心も十分にもっておられる人なのだが、この廃仏毀釈だけは許せなかったのである。
最後に、このようなまるで天災かウィルスのように猛威をふるった神仏分離と廃仏毀釈がどうなっていったのか、その後の状況を一言だけ説明しておきたい。
ごくかんたんにいうのなら、廃仏毀釈はしだいに収まっていった。自然消滅ではない。廃仏毀釈を食い止めるエンジンが火を噴いたのである。そのトリガーとなったのは浄土真宗の抵抗による。とくに西本願寺の島地黙雷(←前出)の活躍がめざましかった。島地は明治4年9月に教部省設立を求める建言を提出すると、その後も大教院がつくられて教導職が全国に神道国教主義を広める段になると、強く「政教分離」と「信教の自由」を主張して、ついに譲らなかった。
島地だけではない。西本願寺の長防グループの僧侶たちの活動もめざましかった。廃仏毀釈はこうした主として浄土真宗の僧侶たちの抵抗と建議によって収束したといえる。
しかし、これによって明治日本から神仏分離の動向が消えたわけではない。むしろ大日本帝国憲法の「信教の自由」のもと、国家神道は非宗教性を纏うことによってさらに拡張され、教育勅語の普及とともに実質的な国教の意匠を翩翻とさせるに至ったのである。 
神仏習合
かつて六興出版という版元があった。かつてといってもそんなに古いことではなく、最近になって書店から見えなくなった。潰れたのかもしれない。『勢多唐橋』『前方後円墳と神社配置』『天武天皇出生の謎』『日本原初漢字の証明』といった、古代史をナナメから切り望むようなメニューが並んでいた。
ときどき摘まみ読んでいたが、この『神仏習合』にはちょっと惹かれた記憶がある。さっきその理由は何だったんだろうかと思い返していたら、冒頭に聖林寺の十一面観音が出ていたせいだと承知した。
その理由もさっきちらちらと思い返していたのだが、本書では十一面観音の美しさが議論されているのではなく、この6尺9寸の端正な観音像がもともとは大神(おおみわ)神社の神宮寺だった大御輪寺にあったことを話題にしていたせいだった。
明治になって日本の宗教史上、最悪の出来事がおこった。神仏分離令、いわゆる廃仏毀釈が断行されたのである。明治維新にはこの未曾有の悪夢が重なっていたことを忘れてはいけない。
それはともかくとして、この神仏分離令によって大御輪寺も大神神社の若宮になることが決まり、仏像も壊されそうになった。この噂を聞きつけたアーネスト・フェノロサが観音像を引き取ってくれる寺を探しはじめ、それで聖林寺に行く先が決まったというのである。フェノロサはすでに光背が壊れていたのを荷車にていねいに積んで、自分も一緒に運んだという。
ところがこの話は風聞らしく、どうもフェノロサ周辺の研究をあれこれ見ていても、こういう“事実”が記録されていない。それでぼくもアタマから外していたのだろうと思う。
というわけで、本書は十一面観音ではなくて、また聖林寺でもなくて、大御輪寺に最初の焦点をあて、そこからしだいに神仏習合・和光同塵の奥へ入っていこうという内容になっている。すなわち、大神神社は奈良末期平安初期から大御輪寺を併存させていたばかりでなく、平等寺や浄願寺といった神宮寺をもっていたという話が起点になっている。
ぼくは訪れたことがないのだが、大神神社の近くには若宮の大直弥子神社があって、これがかつての大御輪寺だったのだという。そうだとすれば、奈良期における三輪信仰とはそもそもが三輪山という神体山を背景にした“三輪の神宮域”という寺社域だったのである。

古代日本の神祇信仰は磐座(いわくら)や磐境(いわさか)や神奈備(かんなび)といった、なんとも曰く言いがたいプリミティブな結界感覚から始まっている。
アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。この時期に、「祓い」の方法や「祝詞」などの母型も生じていったのだろう。アニミスティックな要素やシャーマーニックな要素がこうして神祇信仰として整っていく。

ところが氏姓社会が登場し、有力部族の筆頭にのしあがった蘇我一族の仏像信仰が登場してくると、二つの問題に直面する。日本人(倭人)はこの問題をやすやすと乗り越えていった。
ひとつは、部族的な信仰と氏族コミュニティが実質と形式の両面から離合集散をくりかえしていったことである。これによって「場所どり・信仰どり」ともいうべき神祇合戦がおこなわれた。けれどもこの神祇合戦は、神の数がおびただしく多い日本列島という国土のなかでは、互いに対立するよりも、むしろ互いに融合しながら交じっていったことが多かった。
もうひとつは、「仏」をどう扱うかという問題が急浮上した。神像をもたない神祇にとって、彼の地からやってきた仏像はかなり異色異様なものである。それをどう扱うか。
しかしながら、欽明天皇が百済の聖明王から招来された仏像を「きらきらし」と言い、初期の仏像が「蕃神」とも「漢神」(からかみ)とも呼ばれたように、日本人にとっての「仏」は最初から“神”だったのである。仏教は当初から神祇の範疇としても捉えられる土壌をもっていた。
もっとも蘇我と物部の争いのように、トップで「仏」をとるのか「神」をとるのかという二者択一になっていくと、支配層にとっては決定的なマスタープランの選択になっている。
そこで聖徳太子の時代に仏教こそが「三宝」となり、以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となったのだが、では日本各地でヤシロ化していった場所でも神仏の激しい選択がおこなわれたかというと、そういう過激な競合はおこらなかった。むしろここでは神と仏は融合していったのである。
その最も決定的な証拠が神宮寺や神願寺であった。本書は神仏習合のイデオロギーではなくて、この神宮寺と神願寺の事例を各地に追い求めて、神仏習合の実態がいかに底辺で成立していたかを検証する。

時代が進むにつれ、日本の各地は産土神(うぶすながみ)で埋められていった。初期は神体山を中心に山宮が想定され、ついで里宮が、田畑が重要になってくるとここに田宮が加わった。海辺では沖合の奥津宮、途中の島などに想定された中津宮、岸辺の辺津宮が組み合わされた。
一方、時代が進むにつれ、各豪族が氏族寺を建てていく。蘇我の法興寺(飛鳥寺)、巨勢の巨勢寺、大軽の軽寺、葛城の葛城寺、紀氏の紀寺、秦氏の蜂丘寺(広隆寺)、藤原の山階寺(興福寺)などである。これに百済寺や四天王寺などの大官大寺が加わった。
こうなると、寺院塔頂に勤務する僧侶・尼僧たちの規約が必要になる。僧正・僧都・律師などが決まり、服装をはじめとする服務規定が生じていった。とくにどのような経典を読み、どのように儀典をおこなうかが重要になってきた。詳細はともかく、こうして鎮護仏教システムが中央官僚によって築き上げられ、東大寺の華厳ネットワーク(国分寺・国分尼寺)のように中央から地方へというシステムの流出が試みられはじめたのである。
が、まさにその時期、地方では神宮寺が次々に発生していったのだ。スタートは8世紀のことだった。気比神宮寺、若狭比古神願寺、宇佐八幡神宮寺、松浦神宮弥勒知識寺、多度神宮寺、伊勢大神宮寺、八幡比売神宮寺、補陀洛山神宮寺(中禅寺)、三輪神宮寺、高雄神願寺、賀茂神宮寺、熱田神宮寺、気多神宮寺、石上神宮寺、石清水八幡神宮寺などである。いずれも7世紀から9世紀のあいだに登場した。

神宮寺や神願寺が建立された事情には、たいてい“神託”が関与している。その“神託”を読むと、神が苦悩しているので仏の力を借りたいというような主旨がのべられている。
こうして神宮寺では「神前読経」がおこなわれ、「巫僧」が出現し、寺院の近くの神社を「鎮守」と呼ぶようになっていく。のみならず石清水八幡の例が有名であるが、神に菩薩号を贈るということすら進んで試みられた、「八幡大菩薩」がその賜物だ。
かくして、これらの地方に始まった神仏習合の流れが、やがては本源としての仏や菩薩が、衆生を救うためにその迹(あと)を諸方に垂(た)れ、神となって姿をあらわしたのだという「本地垂迹」や「権現」の考え方に移行していった。
この動きはとまらない。11世紀半ばには「熊野の本地」に知られるように、各地で「本地仏」を争って決めていくというようなことさえおこる。春日五神はそれぞれ釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊の本地仏となり、熱田神は不動明王にさえなったのだ。
なんとも逞しいというか、なんともご都合主義的だというか、それとも、なんとも編集的だというべきか。

注目するべきはこのような本地垂迹説を編み出したのは、すべて仏教の側の編集作業だったということである。
もうひとつ注目しなければならないことがある。それについては別のところで書きたいのだが、このような本地垂迹が進むなかでついにこの編集に逆転がおこり、神社の側からの逆本地垂迹がおこったということ、それこそが度会や伊勢や吉田による「神社神道」というものとなっていったということである。
聖林寺の十一面観音だけでなく、仏像を見るときは、それがどこから旅をしてきたかということを見なくてはいけない。 
■神風と悪党の世紀
日本の支配者は彗星が接近しただけで変わることがある。執権北条貞時もそうして引退した。天人相関説による。地上の悪政があると、それが天上の彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすというものだ。
このような日本に元(モンゴル)が攻めてきた。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)は文永弘安の2度だけではない。サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふくめると、1264年から1360年までの約100年のあいだ、蒙古襲来は繰り返しおこっている。こうした襲来は、為政者や神社仏閣のあいだでは「地上と天上の相関」によって解釈された。
そうだとすれば、蒙古襲来という地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるということになる。それゆえ台風(暴風雨)によって異国人の襲来を撃退できたのは、まことに天人相関説の“実証”に役立った。が、実際には神風ばかりに頼ったのではなかった。地上で天上を扱っているともいうべき神社に祀られている神々も、実はわざとらしく闘った。巫女たちもさかんに神託をもたらした。
本書には、蒙古襲来の状況下、そうした神々が異様な闘いを展開していたという各神社の記録がいろいろ紹介されている。その記述には、これまでの中世史ではみえなかったいくつもの視点が提示されている。

異国人襲来の戦々恐々のもと、台風と神々だけが闘ったのではなかった。
永仁元年(1293)に鶴岡八幡宮に一人ずつが銭指一連を出しあって700人もの民衆がかけつけたときは、鎌倉を大震動が襲ったためだった。マグニチュード7を上回る関東大震災級の地震だったらしい。旱魃・地震・津波などで動いたのは、民衆たちでもあったのである。そしてかれらもまた、やはり「神々の加護」を旗印に闘おうとした。
13世紀と14世紀の日本には、こうした神を味方につけて天変地異に乗じようとする動きが際立っている。
とくに1310年の紅梅殿事件で見せた北野社による理不尽な暴挙や、祇園社の居住者追放事件などに始まった一連の騒動は、いささか異常であった。何が異常かというと、国内のちょっとした敵対者たちを異国人同様の「悪党」とみなし、これを寺社権力が徹底して差別するようになったのである。これを一言でいえば「在地人の既得権侵害と悪党弾圧のムーブメント」ということになるのだが、そこに、数百年にわたって沈静していた神話的な力がにわかに復活し、そうしたムーブメントが“神の戦争”と解釈されたこと、そのことが異常だった。
結局、蒙古襲来をきっかけに、“神の戦争”を名目とし、殺生禁断を建前とする寺社領域の拡張と寺社造営とが全国的に広まったため、山野河海をネットワークしながら生活の場としてきた民衆やそのリーダーたちが苦境に立たされたのである。悪党とはそうした苦境に立たされたリーダーのことでもあった。本書は、そうした風潮が「神国日本」のイデオロギーをつくりあげたのではないかと主張する。

著者は40歳をこえたばかりの俊英で、神領興行法の研究を専門としている。前著の『中世の変革と徳政』(吉川弘文館)は学術論文の積み上げで、かなり堅かった。
本書はその積み上げをいかして、中世南北朝の時代の構造を神国幻想の拡張という視点でまとめた。新書ながらそうとうに構成に工夫を凝らし、それなりに書きこんでいて、歴史の「地と図」がみごとなコントラストを描いている。
神領興行法というのは、武士や民衆が神領の内部にもっていた諸権利を剥奪して社家に戻すという徳政令である。一円神領興行法ともいった。この命令は西の宇佐八幡宮と東の伊勢神宮を先頭に、全国に適用されている。とりわけ伊勢神宮の神領は関東を中心に次々に拡張していった。
下宮を拠点とする伊勢神道(度会神道)が確立していったのは、この勢力拡張を背景にしていた。ただし、伊勢神道とはいえ、この時期の“神道”とは神仏両方の勢力のことをいう。もう少し正確にいえば、この時期に日本の神仏の組み替え(神本仏迹)が遂行されたのである。それによって神祇観を批判するいっさいの反体制宗教勢力が消えていくことになる。著者は、それこそが「中世神国思想の成立」の意味だったろうという。
この神国思想に拍車をかけたのは、従来なら後醍醐天皇だということになっている。もちろんそういう色彩は濃いのだが、後醍醐の建武親政は蒙古襲来以来の公武の秩序を壊し、時計をふたたび百年前に戻して、諸国一宮国分寺の本家を廃止して、新たなしくみで荘園制を復活することにもあった。
しかし、後醍醐の親政は挫折する。そして南北朝の争乱をへて、時局はふたたび幕府の手に戻る。それは蒙古襲来によって一大勢力と化した神本仏迹のシステムが幕府の管理に移っていったことと、「神国日本」の管理が武家の手に移ったことを意味していた。その流れはこれ以降、信長から家康にいたるまで変わらぬところとなっていく。 
神道の成立
よくスピーチや談話の枕につかわれる無責任な話として、ときには海外では笑い話として持ち出される話がある。
日本人に「あなたの宗教は何ですか」と訊くと、たいていは答えに窮するというのだ。たしかにそうらしい。さっと答えが出る日本人は少ない。仏教か、神道か。それとも別の宗教か、あるいは無宗教か。どうも日本人は宗教をどのように自分の問題としてうけとめているのか、わからない。
おそらく多くの日本人は無宗教という感覚にいるだろうものの、とはいえ、仏教や神道を否定する感覚をもっている者がどのくらいいるかというと、かなり低いはずである。初詣をするひとときでも敬虔な気分になっていないとはいえないし、葬儀や法事において仏前で手を合わせていることに躊躇をもっているわけではない。仏教の僧侶ですら多くは神社を否定しないし、他宗派すら否定しないことが少なくない。

それなのに「あなたの信仰する宗教は何か」と問われると、日本人からは答えがなくなっていく。神道に奉じている神職たち(ようするに神主さん)も、あらためて「神を信仰しているか」と言われると、困るはずである。
ぼくは何度か神社神道の会合や青年神職の全国大会などに出席して、多くの神職と話しあってきたけれど、かれらが「神を信仰している」という言葉で自身の立場を表明する場面には、めったにお目にかからなかった。「神を」というときの、その神そのものが多様多岐であるし、仮に神名を特定できたとしても、その特定の神をはたして「信仰する」と言えるのかどうかというと、どうも信仰にはあたらない気がするという意見が多い。
では、日本人は「いいかげん」で「はっきりしない」と断罪されるのか。神も仏も恐れない無宗教民族なのか。むろんそんなことはない。むしろ歴史の中ではつねに神仏とのかかわりを強調しすぎるくらいに強調してきた民族でもあったのである。
というわけで、この日本人の特徴の笑い話にさえされているかもしれない話には、容易に解決がつかない大問題が孕んでいるということになる。

どんな大問題が孕んでいるのかというと、まずは、日本人の信仰的生活感に対して、ヨーロッパの学問や政治や風習が確立してきた「宗教」あるいは「信仰」という概念をもって規定を与えようとするのが難しい。合わないのだ。
これまではどう説明しようとしてきたかというと、日本文化特殊論を持ち出すか、それとも国際的に確立されている宗教学をもってむりやりにでも厳密な特色を炙り出すか、そのどちらかだった。ユニバーサリズムか、パティキュラリズムか、そのどちらかになっていた。が、どうもどちらも役に立たない。
ではたとえば、日本人による日本人のための宗教学によって(そういうものがあるとして)、日本人の信仰形態をうまく説明することはできないのだろうか。もしそういう可能性があるのなら、そのためにはどういうことを考えるべきなのか。

ごく一言でいえば、本書はこのような疑問をもった日本人に対して、歴史の中からひとつの積極的な手がかりをつくろうとしたものだった。
当時、本書は研究者たちのあいだで話題になり、たとえば西田長男さんはぼくにも「あの本はよかったね、あれが新しい出発点になる」と言っていた。西田さんは『日本神道史研究』全10巻がある神道研究の第一人者であった。
けれども、本書が出てまもなく高取正男さんは亡くなり、このような問題を包括的に相談できる唯一の思索的研究者である西田さんも、まもなく亡くなった。
いま、この問題を継続的に議論されているとは言いがたい。誰もが難問すぎて避けるようになってしまったのだ。以前紹介した鎌田東二君の『神道とは何か』でも、「センス・オブ・ワンダー」の感覚こそが神道だという立場が採用され、神道は神教ではないことが主唱されていた。そして、それを日本語でいうと「ムスビ」とか「ありがたさ」とか「かたじけなさ」というものになるというふうに、とうてい宗教学には通用しないような用語になってしまうのだった。

実は海外では、日本学の半分の研究者たちが日本は仏教国だと考えている。理由がある。江戸時代初期に、キリシタン禁圧と宗門人別改めと寺檀制度の確立によって、日本人すべてが仏教徒ということになったからである。
もう半分の研究者たちは、日本をシントーイズムの国だとみなしている。シントーイズムは「神道イズム」のことで、簡単にいえば神社信仰あるいは神祇信仰をいう。
しかし、これらの見方はいまひとつなのである。最初の仏教国判断は、当時の江戸幕府による政治の決断であって、日本人の信仰形態であるわけではない。そう、決めただけのことなのだ。また日本がシントーイズムの国だというのは、明治以降の天皇万世一系主義を重視したり、民衆の鎮守の森の感覚を重視しすぎていて、それらをもってシントーイズムと断定するわけにもいかない。
仏教国でも神道国でもないとしたら、何なのか。そこで浮上してくるのがシンクレティズムだという判断になるのだが、これまた宗教学的にはけっこう無理がある。
たしかに、日本社会の歴史では、仏教と神道は交じってきた。これを総じて「神仏習合」とはいうが、それではそのように習合した宗教を信仰しているのかというと、すなわち日本人の宗教はシンクレティズムだったのかというと、高取さんは堀一郎とともに、日本の神仏習合をシンクレティズムと定義することはできないと言う。せいぜい修験道がシンクレティズムにあてはまる程度ではないかという結論なのである。

本書が古代中世のさまざまな事例を紹介しているように、日本人の習合感覚は神仏の習合だけにはかぎらない。
称徳天皇や桓武天皇の時期はあきらかに神仏儒の習合になっているし、礼儀の感覚がシントーイズムに入ってきている例がかなりある。また、本書ではまったくふれられてはいないけれど、そこに道教の影響が大きく関与していることも少なくはない(吉野裕子さんによる有名な伊勢神宮における「太一」信仰については紹介されているが)。
そうだとすると、シンクレティズムを「重層信仰」というふうに訳せば、それはそういう面もあるわけだが、重層的であるのはひとつひとつの神仏を信仰したどこかの民族や地域の慣習を離れて、それらの神仏などのイコンを日本人が重層したというのではなく、それらのイコンを含めた礼拝感覚やタブー感覚を日本的に重層させた直後から、やっと信仰めいたものが始まっていったというのが実情なのである。
実は仏教だって儒教がたくさん交じっている。仏壇の発達や仏式葬儀の仕方には、儒教からの影響が濃い。が、だからといって仏式葬儀が仏教ではないとはいえない。
こういうふうに、カーブやフォークやチェンジアップのような変化球が、神仏両面において数多く日本の信仰形態には入りこんでいると言わざるをえないわけである。

これは研究者のあいだでは意見が統一しているのだが、日本の近代化のプロセスでは、キリスト教社会でいわれるような「宗教の世俗化」にあたるものが認められない。もともと世俗化されていたからである。とくに神道はそういうものだった。
それでは神道は、のちに世俗化されたのではなくて、もともと世俗宗教(secularreligion)として発生したり確立されていったのかというと、それもあたらない。
そこで著者は、あまり明快ではないのだが、おおむね次のようなガイドラインを提出する。
神道は(そのようによぶしかないから神道と言うだけだが)、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけにはいかない。しかしながら、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。
神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであるはずであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのである。
その理由はイデロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの"事件"に応じて形成されていったものだった。本書の書名の「神道の成立」とは、そういう意味なのだ。
ざっといえば、こういうことになる。だから、本書で神道の定義が読めると期待しても肩透かしに出会う。そのかわり、実に多様な"事件"の組み合わせが少しずつ「神道」を成立させていったことが、深く暗示されるのでもある。

それでは、以下は付け足しになるが、ぼくが本書で示唆をうけた"事件"について、二、三をあげておく。
ひとつは、藤原不比等の一族とは袂を分かって大中臣を名のった意美麻呂、清麻呂の父子が関与した事情のプロセスに「神道」が芽生えていた。またひとつは、大伴家持の「族(やから)に喩す歌」にうたわれた「隠さはぬ赤き心を皇辺(すめらべ)に極め尽して仕へ来る祖(おや)の職(つかさ)」に「神道」が見えていた。
さらにひとつは、各地にのこる産屋の風俗と大嘗祭の神衣(かんみそ)の秘事との関係に、もうすこし冒険的にいえば、それらと寝殿における大庭(おおば)や塗籠(ぬりごめ)の出現との関係に、それぞれ「神道」の超部分が覗いていた。あるいは儒教儀礼の「郊祀」のありように「神道」の外来性のひとつが響いていた。
神道とはそうした"事件"のたびに登場した超関連的なつながりが生んだものなのではないかというのが、高取さんが遺したメッセージだった。
われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。
べつだん宗教学にあてはまらない祈りの日々があったっていいのである。宗教学のほうがいずれベンキョーをして態度を改めればいいだけのことなのだ。高取さん、少し早く亡くなりすぎました。 
王法と仏法
ここには、いくつかの“常識”をくつがえす視点がまわりくどく提案されている。その骨格になっているのは、中世仏教は顕密体制だったのではないかということだ。
ふつうの宗教史では、こうは見なかった。中世仏教は鎌倉新仏教を中心に語るのが“常識”で、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮が主語となっていた。しかし著者の黒田はそれよりも、密教を中心に神道的なるものを含むすべての宗教がいったん顕密体制と寺社体制の中に組み入れられ、これが拡張していったのが中世だったのではないかと見たのである。ここで密教とは台密・真密の両方をいう。いやもっと広い密教OSをいう。
中世仏教では、名目上は八宗が併存している。しかしながら実際にはいくつもの派の教義や作法を兼学する者が多く、しかも全宗派に共通して承認されていた教理があった。それがここでいう密教あるいは密教的中世社会というものだ。中世社会における「分母としての密教」といってよい。

中世、密教が基調にあったのだ。その密教を共通のOSにして、天台法華・華厳・唯識(法相)・律などを組み合わせた教理が、中世の正統的仏教の実態をつくっていた。つまりはそれが中世日本の仏教的な精神世界の「すがた」というものだった。これが黒田のいう顕密体制である。
そのように見るべきなのではないかという黒田には、中世では王法と仏法は必ずしも別々のものではなく、むしろ「王法仏法相依の関係」にあったとみなせる証拠がいくらもあった。
王法とは天皇を中心にした為政者による国の守り方であり、仏法は仏教者による国の守り方であるが、奈良時代の鎮護仏教が聖武天皇その他の“王”によって司られたように、もともと王法と仏法は交差していた。しかし従来の歴史学では、そのような古代仏教性は藤末鎌初あたりでかなり崩れてしまい、そこに法然・親鸞、栄西・道元・日蓮らが出現して、新たなイデオロギーを持ち込んだのではないかと考えられてきた。
別の見方でいえば、「武者の世」(慈円)とよばれた武士の登場の時代に、日本の宗教的体制に大きな変化がおこったという解釈である。これはしばしば武士中心史観といわれる。

しかし黒田はこれに異論を唱えた。王法と仏法はよりいっそう相依相入の度を深め、王法と仏法は武者によってではなく、顕密体制によって広まっていったと見た。
ということは、武士や武士団が果たした役割をそれほど大きなものとは見なかったということである。また武士の役割を機能性や職能性に特定したということである。たとえば院政は上皇が法体の法皇となって一国の秩序の“家長”としての権勢をふるうことであるが、多くの歴史家がこの院政期の北面の武士などから武士の世界が一挙に傘を開いたと見るのに対して、むしろ法皇の存在自体に王法と仏法の親密な接近がおこっているのではないか、そこに顕密体制や寺社体制がからまっていったのではないかと考えたのだ。
もっとも黒田は、王法と仏法が為政者の裡において合体していったと見たわけではない。顕密体制や寺社体制の融合力がその進行をしだいに拡張していって宗教の世俗化を促進し、それがやがては日本の神仏観念に決定的な変質を与えていったというふうに見たわけである。

顕密体制は寺社体制でもある。寺院だけではなく、神社や八幡宮や神宮が一緒くたになっていた。だからそこには、当然ながら神仏習合状態の混合的併進がある。表向きの名称こそは寺院と神社に分かれていても、その教義や教理にはどこか互いに融通しあっているものがある。いわばシェアしあっている。
このことは東アジアの宗教全体から見ても、はなはだ特異な現象だった。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。
ひるがえって、そもそも唐の『祠令』には公的祭祀の別として、「祀」(し=天の神の祭祀)、「祭」(さい=土地の神の祭祀)、「亨」(こう=死者の霊の祭祀)、「釈奠」(せきてん=古来の聖人や祖師の祭祀)の4種が分統区別されていた。これが東アジアの中核にある「まつり」の系統というものだった。しかし日本の『神祇令』は最初の2つを採り入れつつも、早々にそこに即位儀礼や大祓を加えてしまったのだし、あとの2つは「民俗行事」の多様性に任せているようなところがあった。その民俗性こそがやがては「神道」の基盤になる。
しかも日本では、このようなプロセスに仏教が関与した。仏教の考え方によってこそ、そうした神仏習合の多様性は辻褄を得た。どんな辻褄かというと、だいたいは次の4つくらいの解釈が当時にあったのである。
1神は自身が輪廻の世界を流転する存在であることを嘆き、仏法によって解脱することを望んでいる。
2神は仏教を守護する善神である。
3神は仏教経典に説く仏(本地)が、生きとし生けるものを救済するために日本へ化身して現れた(垂迹)。
4神は仏の清浄なたましい(本覚)である。
これらの解釈が交じったものが神仏習合の実態であって、本地垂迹説の内容なのである。この内容すなわちソフトウェアを準備したのが、密教OSなのだ。なにしろ天台教学の「本」と「迹」の関係をめぐる教理が本地垂迹説に流れこんだのだ。つまりは仏教教学が換骨奪胎されたのが、密教OSの上にのった本地垂迹型の「神道」だったのである。
すなわち中世の神々は、仏の「化導」(教化・救済)や、あるいは「化儀」(教化の方式)のひとつのありかたを示すものとしての説明をうけることになったのだ。
ここでは説明を省くが、このような動きが、やがて真言系の「両部神道」や天台系の「山王一実神道」にもなった。では、そうした換骨奪胎がたんなる仏教用語の神道領域への転移や盗用にすぎないかといったら、そうではなかった。そこには、たとえば存覚の『破邪顕正抄』に「仏法王法は一隻の法なり、鳥の二つの翼の如し」という有名な譬えがあったように、仏神の両方のコロスに王法=仏法の合唱がおこったと見るべきなのである。「神道」はこうした融合と分離の繰り返しのなかから成立してきたものなのだ。

このあたりの事情、黒田の説明にはワインディングが多くてわかりづらいところはあるのだが、その主張には当時の学界をたじろがせるものが満ちていた。
ともかくも中世の神道が、顕密体制と寺社体制の融合と分離のなかから生じてきたイデオロギーであったことは紛れのないことだった。しかし黒田はそれとともに、このイデオロギーが王法と仏法の交差点で動くことによって鎌倉新仏教をも巻きこんだことも指摘した。たとえば栄西は「王法といふは仏法の主なり、仏法は王法の宝なり」と言ったのだし、日蓮もしきりに王法と仏法の合致を説いていた。
かくして本書はこのような王法と仏法の融合と分離を扱いつつ、中世のもうひとつの特色がどういうところにあったかということを仮説した。
院政とは何だったのかということ、神道成立の背景に何が動いたのかということ、それらの中心的な担い手は必ずしも寺院だけでも神社だけでもなく、また武士でもなかったこと、それをいうならむしろ武士にさえなりきれなかった「悪党」や「溢者(あぶれもの)」や「野伏」がそうした神仏習合観をシェアしていたこと、したがって『太平記』やさまざまの軍記物を読むには武士にのみ焦点をあてないで、その周辺の動向に注意すべきであること等々、だ。
黒田はこれらのことを執拗に議論してみせて、それまで気がつきにくかった「底辺の中世」をあからさまにしたのであった。本書が名著と言われる所以は、こういう議論の仕方を通して、仏教の世俗化と神祇観の仏教的理論付けが同時におこったことを告げたところにあった。

黒田節と言いたい。悪文の黒田節。黒田俊雄の歴史学や思想史の語り方や論証の仕方のことである。
いまはそうでもないけれど、正直にいえば、ぼくはこの黒田節が長らく苦手だった。そのころ話題の黒田論文にときおり向かってみるたびに、馴染めないものを感じた。
だいたいぼくは学術的論文の書き方が大嫌いで、そこへもってきて「誰某がどの論文でどうこう言ったのは、一定程度の成果はあるものの、しかしながらこの点についての言及が足りず、これを補充するには‥‥云々」といった、持って回った学者たちの言い方に虫酸が走るほうなのだ。すぐれた発見や思索をしている研究者たちがこんなくだらない「論文の書き方」を固守するあまり、結局は学術の魂が学界の溝に墜ちていくのを見るのも嫌だった。
ところが黒田俊雄は、そういう書き方に近いものをもっていながらも、つねにそこから抜け出して新しい主張を交ぜて、頑固なまでに思索をつづけ、新しい中世像を掘り当てた。なるほど研究者にはこういう頑なな粘りも必要なのか。

ついでにいえば、こんなことも当時に感じたものだった。黒田のような悪文を通してのみ、日本の中世像に近づける道があるのだということである。
これは中世にのみあてはまることではあるまい。ひょっとして、「日本の秘密」の知り方には、こうした茨の刺の多い“隘路”がそもそも前提されていると見たほうがいいのではないかということでもある。『愚管抄』や『梅松論』を読むということも、また『古事記』や『日本書紀』を読むということも、きっとそういう隘路を通るということだったのであろう。
学術的読書というもの、いまだそのことの「意味」や「方法」が問われたことはないのだが、ぼくは本書をきっかけに何かのコツをつかんだような気がした。一言でいえば、そこにこそいまだ解きほぐされないままになっている和語のアーキテクチャーを動かす「日本という方法」があるのかもしれないということである。黒田節に接したということが、ひょんなことからぼくにこんな“おつり”をもたらしたのだ。
こうしてぼくは、やっと契沖や宣長に近づくことになったのである。中世を通過することが契沖や宣長の「古意」(いにしえごころ)に近づく早道であったことは、現代日本の歴史学や民俗学が宿命的に孕んだ「方法」というものなのである。われわれはこのようにしてしか「日本」や「日本語」の解読に向かっていくしかないのであろう。日本、忘れやはする! 
鬼の日本史
このレポートは、これからお盆を迎える諸君、鳥居火や大文字の送り火に見とれたい諸君、盆灯籠や精霊流しに心鎮めたい諸君、盂蘭盆や川施餓鬼や二十日盆に今年は気持ちを向けてみたいと思っている諸君、とくに精霊流しがどうして水に流されていくのかを知りたい諸君のために、贈りたい。
こういう本をゆっくり採り上げるチャンスがなかったので、ちょうどいい。

その前に、著者の成果を紹介しておくと、この人は『隠された古代』でアラハバキの伝説や鎌倉権五郎のルーツを白日のもとに曝した人である。おもしろかった。それだけでなく続けさまに『閉ざされた神々』『闇の日本史』『鬼の太平記』、そして本書、というふうに(いずれも彩流社)、日本各地に伝わる隠れた神々の異形の物語を探索してきた。そういう民間研究者だ。たいていの神社を訪ねたのではないかとおもわれる。
そこには土蜘蛛から河童まで、スサノオから牛頭天王まで、稗田阿礼から斎部広成まで、出雲神話からエミシ伝説まで、ワダツミ神から鍛冶神まで、一つ目小僧から酒呑童子まで、歪曲と誇張の裡に放置されてきた“鬼”たちが、斉しくアウトサイダーの刻印をもって扱われる。これは負の壮観だ。
負の壮観なだけではなく、負の砲撃にもなっている。ときには負の逆襲や逆転もおこっている。ぼくは『フラジャイル』のあとがきに、著者からいくつかのヒントを得たことを記しておいた。むろん肯んじられないところも多々あるけれど、むしろぼくとしては、これらの負の列挙にたくさんの導入口をつけてくれたことに感謝したい。著者はごく最近になって、ついに『鬼の大事典』全3巻(これも彩流社)もまとめた。
まずは、この偉業、いやいや異業あるいは鬼業を、諸君に知らせたかった。

では、質問だ。これから始める真夏の夜の「超絶日本・オカルトジャパン不気味案内」(笑)の直前肝試しにいいだろうので聞くのだが、上に書いたアラハバキって、知っているだろうか。
鬼ですか、人ですか、神ですか。知らないよね。
アラハバキは「荒吐」「荒脛」と綴る正体不明の“反権王”のことをいう。江戸時代にはすっかり貶められて土俗信仰の中に押し込められていた。しかし、愛知三河の本宮山の荒羽羽気神社はアラハバキを祭神として、鬱蒼たる神域に囲まれた立派な社殿をもっている。だから何かが、きっとある。が、ここに参詣にくる人は、ほとんどアラハバキの正体を知ってはいない。
推理を逞しくすれば、アラハバキは「荒い脛穿(はばき)」だから、脛巾のこと、すなわち脚絆にまつわる神だろうということになる。ということは遠出の神か道中安全の神か、ちょっと捻って解釈しても、足を守る神なのかなというあたりになろう。ところが、そんなものじゃない。
アラハバキを「荒吐」と綴っているのは、知る人ぞ知る『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)という東北津軽に伝わる伝承集である。そこには「荒箒」という綴りも見える。ホウキというのだから、これはカマドを浄める荒神箒のことかと思いたくなるが、一面はそういう性格もある。ただし東北のカマド神は京都に育ったぼくが知っているカマド神とはまったく異なっていて、かなり異怪な面貌の木彫だ。
まあ、最初から謎めかしていても話が進まないから、ここで著者がたどりついた正体をいうと、これはナガスネヒコ(長脛彦)なのだ。

ナガスネヒコって誰なのか。これも知っている人は少ないかもしれないが、ただのナガスネヒコなら、長い脛(すね)の持ち主という意味だろうから、大男ということで、ダイダラボッチ型の巨人伝説の一人ということになる。
けれども記紀神話の読み取りでウラを取ろうとすると、そうはいかない。『日本書記』では、物部の祖先のニギハヤヒがナガスネヒコを誅殺して、イワレヒコ(神武天皇)に恭順の意をあらわしたというふうになっている。そして、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶ったと記録されている。恐いですね。
なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。
ところが、である。ここが日本神話の謎多きところになるのだけれど、『古事記』ではナガスネヒコが殺されたとは記していないのだ。
このように記紀の記述に違いがあるときは、だいたい記述に疑わしいものが交じっていると考えたほうがいい。おそらく『書紀』にも粉飾があるのだろう。この見方、おぼえておいてほしい。よろしいか。
さあ、そう思って『東日流外三群誌』を読むと、ナガスネヒコが津軽に落ち延びてアラハバキ王になったと書いてある。その証拠のひとつに、津軽の小泊にいくつもの荒磯神社があって、そこにはアラハバキ神としてのナガスネヒコが祭神になっている。
それを荒生神とも荒木神ともよぶ。つまりは荒い呼吸をする猛々しい神だ。世の荒木クンたちの先祖だね。

そもそもナガスネヒコは神武以前の奈良盆地にいた割拠リーダーの一人だったはずである。奈良五條市今井町には荒木山を背にした荒木神社があって、大荒木命あるいは建荒木命あるいは祭神不明となっている。
このあたりはいまでも「浮田の杜」といって、かつては足が地につかないほどの浮き土があった。京都の伏見淀本町にも同じく「浮田の杜」があり、「淀」も「浮」も同じ意味だったということが察せられる。
こうしたことから、どうもアラハバキあるいはナガスネヒコは、こんなふう荒れた土地を開墾したか、まるごと管理していたか、いずれにしても処置しにくいことを収められる荒っぽい一族だったということが推理されてくる。そのナガスネヒコを大和朝廷の先触れたちが利用したのであろう。けれどもナガスネヒコはそれを知ったか、利用価値がなくなったかで、北へ向かう「化外の人」となったのだ。
それともひょっとして、そもそも北のどこかにエミシ王国のようなところがあって、その一部が流れて畿内あたりに来ていたのを、ニギハヤヒが目をつけたのか‥‥。と、まあ、これ以上のことは、『隠された古代』を読んでもらうということになる。
如何でしたかな。以上が枕の話です。

ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。
そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。
では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。

大和朝廷を作りあげた一族は、天孫降臨した一族だということになっていることは、知っているだろうね。天孫降臨なんてカンダタの糸ではあるまいに、空中から人が降りてくるわけないのだから、これは海の彼方から波濤を蹴立てて日本列島にやってきた一群だということになる。
侵略者とはかぎらない。騎馬民族ともかぎらない。馬に乗ったまま来られるはずもないから、なんであれ波浪を操れる一群とともにやってきた。ここまではいいですね。
で、この天孫降臨した一群のリーダーの名は、記紀神話ではニニギノミコトというふうになっている(正式にはヒコホノニニギノミコト)。ついでに言っておくけれど、このニニギから何代も下って登場してきたのが、ニニギの血統を受け継いだイワレヒコ、つまりカムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇だね。
もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。

それでは話を元に戻すが、そのニニギがそうやって上陸した九州のどこかで、ニニギはアタツヒメという女性と出会い、これを娶ったのである。一夜の契りなのにすぐに妊娠したというので、その貞操が疑われたという女性だ。
この女性は誰かというと、薩摩半島の西に野間半島があって、そこに阿多という地域があるのだが、その阿多の女というので、アタツヒメとなった。ここは阿多の隼人が君臨していた地域で、アタのハヤトは大豪族だった。
もっともアタツヒメは俗称で、別名は諸君もよく知っているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜)なのだ。絶世の美女で、姉はイワナガヒメというひどいブスだったというのだが、むろんあてにはならない。
ところが、出雲神話ではこの姉妹はオオヤマツミノカミ(大山津見)の娘だということになっている。これは困る。オオヤマツミの子はアシナヅチ・テナヅチで、その娘は例のヤマタノオロチの犠牲になりそうになった可憐なクシナダヒメ(櫛名田)だ。そのクシナダを娶ったのがスサノオだ。なぜ、そんな娘がニニギの近くに出没することになったのか。
ところがまた他方、『日本書紀』では、ニニギが娶ったのはカアシツヒメ(鹿葦津)で、その別名がコノハナサクヤヒメだったと記している。どーも混乱している。何かがおかしい。

まず、オオヤマツミは字義通りでいえば山を司る神のようなのだが、それだけの意味の神なのかという疑問がある。
たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。
そこで本書の著者は阿多の野間半島に注目して、そこに野間神社があることを知った。そして野間神社を調べてみた。そうすると、東宮にはコノハナサクヤヒメが、西宮には「娘媽神女」が祀られていた。「ろうま」と読む。こりゃ、何だ?あまり聞いたことがない女神だろう。日本っぽくもない。「娘媽神女」とは何なのか。それに、なぜ二人の女神が一対になっているのだろうか。どーも、怪しい。
さあ、ここからがめくるめく推理と謎が一瀉千里に走っていく。やや急ぎたい。

娘媽神女の正体はわかっている。またの名を「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」といって、中国福建省や広東省などの華南地方の海岸部一帯で信仰されている女神のことをいう。中国出身なのだ。娘媽は漢音ではジョウボ、呉音ではナウモと読む。慣用音ではニャンマとかニャンニャンともいう。
つまり海の民の象徴だ。東シナ海・南シナ海を動かしていた海洋一族に深い関係がある。
ぼくもドキュメンタリーを見たことがあるのだが、この海の民たち(蜑民とよばれることもある)は、地元に派手な媽閣廟を構え、船の舳先にはこれまた極彩色の娘媽神を飾って遠海に船出していく、潮風が得意な冒険の民なのだ。
そうだとすると、ニニギが日本に上陸したときは、この娘媽神にまつわる海の一族がなにかと協力していはずだ。海域から考えてもそうにちがいない。いや、ニニギがその一族のグループの一つだったかもしれない。そういう可能性もある。それならニニギが娶ったアタツヒメも、きっとその一族の流れなのである。
とするのなら‥‥アタツヒメとは実はワタツヒメであって、ワタツミ(海津見・綿津見)の一族のことなのではないか。ワタとは海のことをいう。
おそらくは、そうなのだ。ニニギはワタツミ一族とともに九州のどこかに“降臨”し、そこで子孫をふやしたのである。
ということはオオヤマツミ(山の司祭)はオオワダツミ(海の司祭)こそが原型で、その後に列島の内陸に入っていって、山をも圧えたのだろう。コノハナサクヤヒメもきっと本来は娘媽神型の海女神であったのが、オオワダツミがオオヤマツミに変じるにしだかって、山の花を象徴する陸上型の美女に変身していったのだ。

だいたい日本には、おかしなことがいっぱいおこっている。その痕跡がいろいろのところに残っている。
たとえば信州の最高峰のひとつの穂高には、船が祀られている。そして舟を山に上げる祭りがおこなわれている。なぜ船なんぞが山の祭にあるのかといえば、そこに、古代の或る日、海の民が到達したからだ。そこにコロニーをつくつたからだ。
加えてもうすこし証拠をあげておくと、あのあたりの安曇野という地名は、もとは渥美半島から北上して山地に入ったアヅミ一族の名残りの地名なのである。アツミ→アヅミノというわけだね。アヅミとはアマ族のこと、つまり海の民たちの総称だ。
こういうことが、各地でいろいろの呻き声をあげているというべきなのだ。
だんだん話が広がってきたね。が、ここまではまだまだ序の口の話なのである。著者は野間半島で、もうひとつの発見をする。そこには天堂山という山があって、その名は唐人によって、天堂山、天童山、また天道山と名付けられたという記録があった。
ここでやにわに「天道」が浮上する。ここからちょっとややこしくなっていく。ちゃんと付いてきなさいね。

天道童子を知っているだろうか。これがなんとも妙な話なのである。まあ、聞きなさい。
『天道童子縁起』の文面によると、天武天皇が没した686年に9歳だった天道童子は、故郷の対馬を出て都(藤原京)に上って巫祝の修行を積み、大宝3年(703)に帰島したというふうになっている。
その後、霊亀2年(718)に元正天皇が重病に罹ったとき、すわ一大事と陰陽博士が占ってみると、対馬に天道法師という者がいて、これを召して祈らしめよと卜占に出た。知らせをうけた天道童子はさっそく都に飛んで、すぐさま病気平癒をなしとげた。こうしてその後は、その誉れを称えられて、天道童子は母とともに対馬の多久頭(タクツ)神社に祀られているという。母子神になったわけだ。
変な話だよね。でも、ここにはいろいろ気掛かりな暗示が含まれているようだ。たとえばこの天道童子を生んだ母親は、ウツロ舟に中で日輪を飲み込んだときに懐妊したということになっている。
むろんこんな話はあとからいろいろくっつけた牽強付会であろうけれど、それでもいろいろ気になることがある。ひとつはこの話が対馬と朝廷をつないでいること、ひとつはウツロ舟が関与していること、ひとつはタクツ神社という奇妙な名はそもそも何を意味しているのかということだ。

対馬と朝廷が関係していることは、天武持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことを暗示する。しかもこのころ朝廷は罪人や問題人を対馬に流して、そこで管理させていた。
次のウツロ舟というのは、古代の海の民が乗っていた丸木舟のことで、記紀神話では「天磐楠舟」(あめのいわくすふね)とか「天鳥船」(あめのとりふね)と出てくる。これは知っている諸君も多いだろうが、楠などの内側を刳り貫いたのである。つまりはウツなるウツロの舟だ。
なぜこのウツロ舟が重要かというと、まずもって天孫降臨の一族はこのウツロ舟で、その舳先にサルタノヒコを案内役としてやってきたと記述されているからだ(ということはサルタノヒコももともとは海洋関係者だったということだよね)。もうひとつは、日本の伝承や伝説の多くには、幼児を流すときにたいていこのウツロ舟が使われているということだ。あとで説明するが、実はこれはヒルコ伝説につながっていく。
のこる問題はタクツ神社の意味だ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、著者は「タクツ神」は「謫つ神」であろうと推理した。「謫」って、わかるよね。流された者、流竄の者のことをいう。そう、ワーグナーのオペラの主人公たちである。
うーむ、もしそういうことならば、これはたいへんな逆転劇になる。なぜなら「謫つ神」だとすると、天道童子は「流された者」ということになるからだ。となると、どうなるか。
わかるかな、この逆転と逆倒の意味が――。

三つくらいのヨミ筋が考えられるんだね。
第一の仮説は、天道童子は9歳で都に上がって修行を積んだのではなく、もともと呪能のあった者がしだいに力を得たので、対馬に流されたか、海の民の平定のために派遣されたのだ。なぜ対馬かといえば、朝廷はなんとか対馬を支配したかったのである。こういうヨミだ。
第二の仮説は、タクツ神はもともと対馬の氏神か氏の上で、当然に海洋神だった。その子孫の天道童子はなんらかの目的で朝廷に交渉に行った。おそらくは海の民が本来もっていた物語や機能や職能を認めさせたかったのだろう。それを奏上しに伺った。ところが、朝廷はこれを拒絶したか、利用した。そういう経緯だ。
第三の仮説は、さらに過激なものになる。実はタクツの一族は漂着民であって、タクツ神とはもともとそのような漂着・流民のシンボルを集約していたのではないか。すなわち、ニニギが日本に来たときニニギの一族は海の民を利用したのだけれど、その後はその力が疎ましくなって、再び海に流そうとしたのではないか。それは、ひっくるめていえば、“流され王”型のヒルコ伝説を総称している物語の原型のようなものではないかというものだ。
いやいや、どれが当たっている仮説なのかということは、このさい問題ではない。
どうであれ、ここには日本の確立をめぐる二つ以上の勢力の協力と対立とが、その逆の、激突と融和とが、また、懐柔と反発とがひそんでいるのではないかということなのだ。ふーっ。

ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。
もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。
さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。

そうなのだ、実はこれらの女神たちは、もともとのルーツは違っていても、どこかで同じ係累の女神たちになっている。これは日本ではミヅハノメ(罔象女・弥都波能売)に一括内包される者たちなのだ。
ミヅハノメというのは、水にまつわるいっさいの女神のことをいう。「罔象」という字義は「形、小児のごとき水中の妖しき女」という意味をもつ。不気味だね。これを折口信夫は「水の女」と総称したけれど、和名では「水の端の女」という意味だ。
このミヅハノメはおそらく日本で一番多く祀られている女神で、そこから水分神(ミクマリ)、丹生明神(ニブツヒメ)、貴船神、宗像三神、水垂明神、淡島、竜女神、弁天、トヨタマヒメ、乙姫などが次々に“分派”し、あるいは逆に、それらが次々にミヅハノメになった。みんながみんな水々しい神々で、水源や河川や海辺に深い関係をもっていて、しかも女性の姿を象っている。
このうち一番遠いところから漂流するかのように日本に定着したのが弁財天だ。インドからやってきた。本名はサラスヴァティという。娘媽神が次に遠くからやってきたけれど、すでに話してきたように、これは日本の女神に変換されて定着した。それがアタツヒメで、さらにコノハヤサクヤヒメにまで変換していった。
さてと、このような水の女神や海の女神は、シャーマニックな呪能や職能に富むばあいが多く、どこかで必ずや「禊」(みそぎ)とかかわっている。そうだね。
ということは、そこには水に流れていくものたちの運命や宿命、あるいは蘇生や流産もかかわっていたということなのだ。たとえば『中臣祓』という祝詞では「根の国・底の国に坐すさすらふものの姫」というような言い方をする。そこには水子のイメージも重なっている。とくに淡島(淡島様)はウツロ舟に乗せられて流されるという儀式を必ずともなっている。
流し雛を見るとき、日本人ならその意味するところが感覚的にではあれ、なんとなく了解できるはずだよね。

一方、男神で水や海に関係が深い神々も多い。代表的にはオオワタツミ(大綿津見)や海幸彦や宇佐八幡や八幡神だけれど、このほか塩土神やアドベノイソラなどがいる。イソラは海中から出現した神で、顔中にワカメのようなものが覆っている。それが形象化されて、顔に布を垂らして舞う芸能ができたくらいだ。
が、こうしたなかでも最も注目すべきはエビス神やヒルコ神だろうね。二神は名前が違っているけれど、まったくの同一神だ。足が萎え、流謫されている。つねに漂流しつづける神様だ。しばしばウツロ舟で流される。
でも、いったいどうしてエビス=ヒルコは流されたのか?何か罪を犯したのだろうか。ここで、これまでの話がことごとく結びついていく。

まずもって日本列島が海に囲まれた国であることが、大きな前提になる。花綵列島といわれるように、たくさんの島が点々としている。このすべての島嶼を潮の流れが取り巻いている。そこには干満があり、緩急があり、高潮があり、津波があり、そして夥しい漂流漂着がある。椰子の実も鉄砲も、これに乗ってやってきたわけだよね。
なかで、古来の人間の漂着がやはり図抜けていて、この国の歴史に決定的な影響を与えてきた。とくにこの国に君臨した天孫族の一群の到来は、それ以前に流れ着いた一族たちとの葛藤と摩擦と軋轢をつくっていった。わかりやすくいうのなら、ナガスネヒコが先に来ていて、あとからニギハヤヒやイワレヒコがやってきたのだ。
この、先に定着していた一族たちのことを「国津神」といい、あとからやってきた連中のことを「天津神」という。このあとからの連中が天孫降臨族である。
国津神の一族には服属をした者たちもいたし、抵抗した者たちもいた。また天津神に組み込まれた者たちも少なくない。そのような宥和服属の関係が、主に記紀神話に記された物語になっている。
けれども、服属できず、また抵抗した者たちの物語は、徹底的に貶められ、換骨奪胎されて、地方に流された者の物語に、あるいは山中に押し込められた者の物語になっていった。これらが本書でいう「鬼」の物語の主人公なのだ。

他方、国の歴史は子孫を誰がつくるかという歴史でもあるわけだね。そこには女性たち、母になる者たちの歴史が加わった。娘媽神も弁天もミヅハノメもコノハナサクヤヒメの物語も、そのような婚姻の事情がどのようであったかを物語っていた。
婚姻し、子孫を生めば、たいていのばあいはそこで名前がすげ替えられた。オオヤマツミの子供たちがいくつもの名の娘になっているのは、このためだ。記紀や風土記で名前や係累が異なっているなんてのは、当然のことなのだ。

日本人は優美なところも残虐なところもあるけれど、事実を徹底的にリアルに記録するという能力には残念ながら欠けていた。
語り部も史部(ふみべ)も、またそれらの伝承者も、どこでどんな相手に話をするかで、いろいろ工夫というのか、ヴァージョンを変えるというのか、ともかく「柔らかい多様性」とでもいうような話法や叙事性をつくってきてしまったんだね。
それに、初期の日本には文字がなかったから、語り部の記憶も完璧というわけにはいかない。加えて蘇我氏のところで、『古事記』『日本書紀』より古い史書がみんな焼かれてしまった。
そういうわけで、古い時代の各地の信仰や一族の動向を推理しようとすると、なかなか難しい。それでもふしぎなもので、そういう動向のいつくもの本質が、地名や神名や神社名に残響していたりするわけだ。
ともかくも、そのような残響をひとつひとつ掘り起こして組み合わせていくと、そこに大きな大きな或る流れが立ち上がってくるわけだ。それは、海からやってきた者たちの歴史、陸地を支配した者たちの歴史、排斥されていった者たちの歴史、忘れられていった者たちの歴史‥‥というふうな、幾つかの流れになってくる。
それをぎゅっと絞って、対比させるとどうなるかというと、「国をつくった歴史」と「鬼になった歴史」というふうになる。本書はその「鬼になった歴史」をいろいろな視点で綴ったわけだった。

では、ここに綴られた物語で、最もドラスティックな仮説を一言だけ紹介して、この真夏の精霊流しの話を終えることにする。
それは、そもそもアマテラス信仰にまとめられた系譜の物語の原型は、実は海の一族が最初にもってきた物語だったのではないかというものだ。アマテラスの原義がどこにあるかという議論はまだ決着がついていないから、結論的なことなど言えないのだけれど、本書の著者はアマテラスは「海を照らすもの」の意味だったと考えている。字義がどうであれ、ぼくもそういう可能性がそうとうに高いと思っている。
ここでは話せなかったけれど、中世に傀儡子(くぐつ)たちが伝承した説話や舞曲や人形語りがあるのだが、これらはどうみても、海洋型のものなんだねえ。鈴鹿千代乃さんたちが研究していることだ。

日本神話の中核部分の原型は、ことごとく海にまつわっていたんだねえ。そのこと自体は驚くべきことではないだろう。
それよりも、そのような原型の物語はつねに改竄され、奪われ、変更され、失われてきたわけだ。その後も神仏習合や本地垂迹をうけるなかで、大半の“流され王”たちがまったく別の様相のなかに押し込められ、ときに悪鬼や悪霊のような扱いとなったということに、驚くべきなんだろう。そのうえ、そのような変遷の大半をわれわれは看過したり軽視したり、また侮蔑するようになってしまったわけだ。これは悲しいね。
ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などとして、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水としていろいろ持ち出している。けれども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているのかと思いたくなるほどだ。

あのね、話というのは、そもそもそこに凹んだところと尖ったところがあるんだね。尖ったところは、どちらかといえば才能がほとばしったところか、さもなくば我田引水なんだ。
だからこそ絶対に逃してはいけない大事なところは、凹んだところなんですね。そこは痛切というものなのだ。その痛切を語ってあげないと、歴史や人間のことは伝わらない。なぜなら、その痛切は我田からではなく、他田から引かれてきた水であり、そこに浮かんだ舟のことなのだ。
その舟には自分は乗ってはいないで、誰かが乗っている。それが弁天だったり淡島だったり、ミヅハノメだったり百太夫だったりするわけだ。つまり知らない人たちなのだ。
だからそこには、ぼんやりとした灯りがふうーっと流れるだけなのだ。それが流し雛であって、精霊流しなんだね。

さあ、見えてきましたか。鬼というのは、このように語られなくなった者たちの総称のことだったわけだ。異様異体の外見を与えられ、申し開きができない歴史に閉じ込められた者たちのことなんである。
えっ、だから、ほら、語りえないものは示しえない、ということだっけ。戦艦大和はどう沈んでいったっけ。葉隠って、どの葉に隠れることだっけ。 
異神
日本には、神だか仏だか出自も尊格もはっきりしない異形のイコンがたくさんいらっしゃる。ふだん、いかに親しんでいようとも、道祖神と天神と七福神とお地蔵さんの由来をすらすら説明できる日本人は、まずいない。大黒様や「びんずる」さんやお不動さんもよくわからないようだ。
きっと天神・明神・天・明王・菩薩・如来の区別もまぎらわしいだろう。たとえば、北野天神は「天神」とはいいながら菅原道真の怨霊を祀ったものだし、大黒様はインド出身のマハーカーラという憤怒をあらわす自在天化身の「天」でありながら、日本では稲荷信仰に似て田の神と習合したもの、「びんずる」さんは頭がつるつるだからから「びんずる」と呼ばれたのではなく、賓頭盧尊者という名前をもったれっきとした釈迦の弟子で、十六「羅漢」の一人なのである。不動さんは本名は不動「明王」だが、実は大日如来の化身(輪身という)だ。綴り文字からヒントを得ようとおもっても、無理である。金神(こんじん)は道教由来の方位の神だが、金精神(こんせいじん)は大魔羅様ともいわれるように男根神なのである。
ことほどさように、天神と天と明王と羅漢はちがうけれども、そのつどの場面のちがいで特色が変わるようなところもある。いちいち正体を問う必要がある。

日本は八百万の神々がいるのだから、こういうふうに正体がわからない神仏がいくらいらっしゃろうと当然だといえば当然だが、なかには専門家や研究者もよく掴んでいない神仏たちも何体何柱何像も、まじっている。いまだその研究が進んでいない神仏も少なくない。
とくに牛頭天王、新羅明神、魔多羅神、赤山明神、宇賀神といった神々は、その名称からして見当がつきにくい。これらは記紀神話や風土記にもまったく登場していないし、延喜式の神名帳にも記載がなく、親しんだ伝承や物語もほとんど流布していない。それもそのはずで、古代にはいなかった神々なのだ。中世の社会にあらわれた神々なのだ。異国から海を渡ってきた越境神たちなのである。いや神か仏かどうかもわからない。
本書はこのような越境神を「異神」と名付け、その謎を解き、背景にひそむ意味を問うた渾身の一書だった。
著者の山本さんについては「春秋」に『心の御柱と中世的世界』を連載しているときから気になっていたのだが(ぼくとほぼ同じ時期に早稲田の文学部にいた)、それが『変成譜』として戸田ツトム君たちの造本でまとまり、熊野に眠る八歳の龍女が男子に変成(へんじょう)する日本錬金術的世界のめくるめく経緯を世に告げて以来というもの、荒神を暴き、弁才天を脱がし、牛頭天王の居森を襲って、まさに中世神仏習合世界の深秘(じんぴ)をまたたくまに席巻していった。
いつぞやは草月ホールに高橋悠治の新曲演奏会を聴きにいったときは、舞台に静かに山本さんが出てきて、ユージ音楽の一貫として不思議な祭文だか祝詞だか神楽歌だかのようなものを詠みあげていた。ぼくはぼうっとして、日本中世にタイムトリップをしていた。その後は、岩波新書に『中世神話』を書いて、中世神道の何たるかをみごとに解読してみせていた。

なぜ中世の異神の研究が遅れたのか。近世の国学が日本の怪しくも妖しい神仏を避けたのである。あまりに偽書や拡大解釈や捏造が多いからだった。佐藤弘夫に興味津々の一冊『偽書の精神史』があるほどだ。
しかし、そもそも神話とはそういうものなのである。それが古代に生まれていれば認められ、中世に編集されていれば承認できないというのは当たらない。
それに伊勢神宮の外宮の豊受大神のように、『古事記』や『日本書紀』には一度も登場していないのに、のちのち水の神に昇格して外宮を仕切ったという例もある。
山本さんによると、中世神話というものは3つのテクスト群で成り立っている。第1には、「中世日本紀」がある。『日本書紀』が引文されているのだが、傍注・割注・講書・口決をへて、原文とは大きくかけ離れた様相の物語になっているばあいが多い。テクストの中心には卜部兼文・兼方の親子が記した『釈日本紀』や『日本書紀神代巻』がある。
第2に、伊勢神道・山王神道・両部神道・三輪流神道・吉田神道などが形成した「中世神道」である。ここには「神道五部書」と呼ばれるテクスト群があり、度会行忠の『神名秘書』や『古老口実伝』、度会家行の『神道簡要』『類聚神祇本源』から密教的神道の『天地麗気府録』までが待っている。多くが"偽書"と"認定"されている。
第3は、本地垂迹説をもとに語り継がれてつくられていった「本地物語」群で、大要は『神道集』として標準テクストになっている。その基本には、老子の「和光同塵」(光を和らげ、塵に同じうす)をコンセプトとして、仏菩薩がその威光を和らげて汚辱の世に神として化現して、衆生たちを救うという神仏習合の話になっている。これを廻国の遊行者たちが唱導して、やがて説経節や御伽草子や十二段浄瑠璃のようなものへ移行していった。
このような中世神話は、これまでなかなか深く掘り下げてこられなかったが、この20年で一挙に光が当たってきた。やっと日本中世の隠れた相貌がその意外な側面を見せ始めたのだ。山本さんはこのような3つの中世に顕れた神々の専門家なのである。

本書に登場する異神は、最初にも名前あげた新羅明神、赤山明神、魔多羅神、宇賀神、牛頭天王などである。いずれの出自もその後の変容ぶりも聞きしにまさる幻想味にも怪奇味にも富んでいるが、そのうちの新羅明神の周辺だけを紹介する。
11世紀の白河天皇の御代、近江の園城寺(三井寺)に頼豪という有験(うげん)の僧がいた。『平家物語』や『太平記』によると、こんな話があった。
白河天皇が皇子誕生の祈祷を評判の頼豪に命じた。頼豪が100日間精根をこめて祈祷すると、その甲斐あって皇子が生まれた。敦文親王となった。そこで頼豪が祈祷の褒賞として、念願の園城寺の三昧耶戒壇堂の造立勅許を願い出たところ、天皇はこれを認めなかった。頼豪は激しく怒って飲食を断って干死(ひじに=餓死)を決意した。
驚いた天皇は大江匡房を遣わして説得工作をするのだが、頼豪は髪も爪も剃らずに爐壇に籠もると、大魔縁となって玉体(天皇)を悩ましたまま憤死してみせると告げ、結局、行死(おこないじに)した。まもなく皇子の容態が悪くなり、枕元に錫杖をもった白髪の老人がたたずむ姿が人々の夢や幻にあらわれた。敦文親王は4歳で死んだ。頼豪が怨霊となって皇子を憑り殺したという噂がたった。
天皇は悲嘆にくれ、別の有験の僧に祈祷を頼んだ。中宮がふたたび解任して、めでたく皇子が生まれ、のちに堀河天皇となった。しかし29歳の若さで死んだ。これも頼豪の怨霊のしわざにちがいないと囁かれるようになった。

頼豪伝説としてのちのちまで語り継がれた話だが、なんとも凄まじい呪詛である。しかし本当に頼豪が呪詛したかどうかはわからない。頼豪は実在の園城寺の僧である。そういうモデルがいるときは、こういう話にはたいてい歴史的背景がある。
このばあいは、天台宗が円仁と円珍によって充実したのち、その後進たちが対立し、「山門」(延暦寺)と「寺門」(園城寺)に分裂していたのだが、頼豪の話のころはその対立がのっぴきならないものになっていた。そこで白河天皇が山門に配慮して、寺門の勢力が増進することに待ったをかけた。それが寺門を飛躍させたいと願っていた頼豪を憤激させたので、そこから話がしだいに異様になっていったわけである。
異様になっていったのは、頼豪の怨霊によって祟りがおこったと人々が感じたからだ。本当に頼豪が呪詛したかどうかではない。その当時は道真の怨霊から崇徳院の怨霊まで、何かにつけては不運不幸によって左遷されたり死亡してしまったりした貴人や僧侶が、それを恨んで怨霊と化したという話が多かった。中世特有の流行といってもいい。頼豪の話も、その後の皇子の死との暗合で、そうか、やっぱりそのような怨霊の復讐がおこったのかと噂されたのだった。だから、ここまではよくある話なのである。
ところが、このとき人々の幻視に「枕元に錫杖をもった白髪の老人がたたずむ姿」が見えたというのは、これまでにない。いったいこの白髪の老人は何者なのか。

本書はこの老人の正体をあかすための研究書なのだが、結論をいうなら、その老人は新羅(しんら)明神だったのである。では、その新羅明神とは何者か。
実は別の文献、たとえば『水左記』によると、敦文親王は祇園と貴布彌(貴船)の祟りで死んだことになっている。そうだとすると、当時、祇園社は御霊信仰や疫神信仰のメッカだったのだから、皇子はやはり怨霊か疫病で死んだのだろうという見当がつく。
祇園社の牛頭天王は疫神である。"渡りの神"ともよばれていたように異国を出自としている。一方、当時の社会で最も恐れられた疫病は「もがさ」だった。疱瘡(天然痘)である。赤い斑点が出ることを含めて病相も死相も恐ろしい。しかも「もがさ」は新羅の国でおこったと噂されていた。
どうも何かがつながっている。そこで、のちの南北朝の資料のいくつか、たとえば水心が著した『寺徳集』などを見ると、そこではなんと三井(園城寺)の護法神に新羅明神がいて、後三条天皇に祟ったという記事が出ている。いつのまにか新羅明神なるものが園城寺の護法につながっていたのである。
それにしても、なぜ新羅明神などが登場してくるのか。調べてみると新羅明神は康平5年の記録がある藤原実範の『園城寺龍華会縁記』に初出していた。智証大師が唐から帰ってくるときの船に、老翁の姿で示現したとしるされている。ただしこのときは錫杖をもっていない。そこであれこれの経緯を追っていってみると、やはり疱瘡神と関係がある。そのため祇園社とも結びついていったようだ。

しかし、話はこれだけでおわらなかった。山本は次に『源平盛衰記』に注目した。持仏堂に籠もって呪詛する頼豪を説得するために大江匡房を派遣したあとの話として、匡房の報告を聞いた天皇に、関白師実が「園城寺の戒壇を許可されたらどうでしょうか」と進言している場面があった。
関白の進言を聞いたその夜、天皇は夢告をうけた。賢聖の障子の向こうから赤衣の装束を着た老人があらわれて、「ゆめゆめ園城寺戒壇は許さぬ」と言ったというのである。天皇は驚いて誰人ぞと聞くと、「我は比叡山の西の麓に侍る老翁なり。世には赤山とぞ申し侍る」と答えた。
赤山明神の登場である。またしても異神の登場で、しかも赤山明神は天皇に味方するかのように本山(延暦寺)側についている。そうだとするとここにはあきらかに、新羅明神に対するに赤山明神の対立が描かれているということだ。護法神どうしの密かな闘いが始まっていたのだった。
実は赤山明神は円仁が入唐求法をしているときに、登州・山東半島の赤山禅院で冥助をえた神だった。山神である。いったいなぜその赤山明神がこのときとばかりに天皇の夢枕に立ったのか‥‥。

ここからさらにさまざまな推理と実証が展開されていくのだが、紹介はこのくらいにしておく。
この先には、いろいろの符牒と暗号が解読されていく。たとえば、円仁の流れの強化に赤山明神が、円珍の流れの強化に新羅明神がそれぞれ呼び出されていたことの理由である。それは疫病の蔓延などの社会状況のなか、山門と寺門のどちらの派の宗教勢力が解決能力をもっているかを問われていたということである。それがいつしか頼豪というキャラクターの怨霊物語として伝承されていたこと、それにもかかわらず、この新羅明神と赤山明神の対決でも事態はおさまらずに、ここに第3の異神ともいうべき摩多羅神が登場してきたということなどだ。そうした構図が次々に証かされていく。
ぼくはずいぶん堪能したものだった。摩多羅神の正体が知りたいのなら、そして、それが毛越寺や日光輪王寺の延年の舞の姿かもしれないことを知りたいのなら、またこれらの異神にはつねにスサノオの影がつきまとっていたということを知りたいのなら、ぼくの不束な案内などに頼らずに、本書を読むことだ。

中世は、古代とは異なる神話世界が覆っていた時代なのである。ぼくはまだ慣れてはいないのだが、この社会を読むにはちょっと格別の推理の翼を必要とする。何事も、甘くみないことである。とくにそこに中世異神の深秘(じんぴ)や影向(ようごう)がかかわるときは――。 
徳川イデオロギー
すでに諸国の守護たちの力は荘園制と土地経営力の消滅とともに衰退しきっていた。これを一言でいえば、日本には中心政府が不在のままだったということになる。
群雄割拠と一向一揆と土一揆はずっと平行していた。それが戦国時代の特徴である。この平行状態に終止符を打ったのは象徴的には「刀狩り」であろう。こうしたなか、新たな「権力の概念化」が要請されていた。今川や武田の武士団には「家訓」はあったが、その拡張にはまだ手がつけられていない。信長は最初にこれに着手した。
信長の全国制覇のために打った手は、各領国の武士団と家臣団の制圧、一向宗と一向一揆との対決、イエスズ会士との交流によるキリスト教の統御、堺などの都市支配、延暦寺勢力の一掃、安土城の建設など、きわめて広範囲にわたるもので、その対策も大胆で迅速ではあったが、その国家理念は「天下」「公儀」「天道」といった抽象的なイデオロギーの断片で語られたにすぎなかった。
自身こそが神仏も第六禅天魔も超える者だと思いすぎた信長についで、秀吉は信長の政策を踏襲しつつ、なんとか東アジア社会における国家のかたちを強化しようと試みた。また一方では豊国神社の起工にあらわれているように、かなり神道を流用して太閤神話を完成させようとした(信長も「總見寺」の建立で自身の神仏化を図ろうとしたが、死ぬのが早すぎた)。しかしそれも秀吉自身の無謀きわまりない大陸制覇の夢とともに潰えた。

こうした信長・秀吉の未成熟な「権力の概念化」を見ていた家康がとりくんだことは、日本で最初の国家イデオロギーを確立することへの挑戦とならざるをえない。
オームスの本書はそこに注目する。家康の時代に用意できた汎神論的なイデオロギーと家光や家綱の時代に用意できた儒学的なイデオロギーがどのように組み立てられたのか、そこを外からの目で強引に粗述してみようということである。
本書をめぐっては、その後、オームスと大桑斉によってシンポジウムが大谷大学で1週間にわたって開催され、さまざまな議論をよぶことになった。その記録と再編の一部始終は『シンポジウム「徳川イデオロギー」』という本にもなっている。しかしここでは、そうした後日の議論を勘定に入れないまま、本書に拾える重点をぼくなりに尾鰭をつけて案内したい。

三人の先行者をあげておかなくてはならない。藤原惺窩と林羅山と天海である。三人の関係と徳川イデオロギーの関係はやや複雑だ。
藤原惺窩は冷泉家の子(藤原為純の子で藤原定家11世の孫)の血を受けながらも神道家の吉田家の養子となり、播磨の景雲寺に入ったのちに相国寺の首座ともなったという、かなり風変わりな経歴をもっている。首座のときは朝鮮戦役のための名護屋の陣営で御伽衆をつとめ、その直後に小早川秀秋にも仕えた。家康と出会ったのはこのときである。
惺窩が名護屋にいたことは朝鮮文化や朝鮮使節との邂逅をもたらし、とくに赤松広通がアジア趣味の持ち主だったことが影響して、惺窩の目は大陸に向いた。そこで朱子学に目覚めた。しかし、すでにここまでの惺窩には神道も仏教も入っていたわけだから、その思想はしばらくすると儒学的仏教的神道とも神仏的儒学ともいえるものになっていった。林羅山・松永尺五・那波活所・堀杏庵らの門人を育てて後世の人材を育てた。
人材は育てたが、こうした惺窩の思想が徳川イデオロギーの基盤になったとは考えにくい。なかんずく惺窩の朱子学解釈が徳川イデオロギーになったとはさらにいいにくい。惺窩はむしろ、のちの徳川社会にとっては有効な使い道となったわけではあるが、「聖人の道」についての考え方を拓いたといったほうがいい。オームスはそのへんのことを指摘してはいないが、のちに徳川の世が歪んでいったとき、「聖人の道」が失われていると見えたからこそ、江戸後期に陽明学や水戸学が燎原の火のごとく広がったわけだった。

林羅山も最初は仏門(建仁寺)にいた。ただ惺窩とちがって仏教に反発して独力で朱子学にとりくみ、22歳のときに惺窩の門に入った。翌年、二条城で家康に謁見して博識を披露して、2年後には秀忠に講書した。
以降、家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、「武家諸法度」や「諸士法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接、外交文書の起草などに関与した。このように羅山は幕政に深くかかわったのだが、このことと幕府が羅山の朱子学を御用イデオロギーとしたということとは、直接にはつながらない。羅山は僧侶の資格で任用されていたのだし、そのくせ排仏論を展開していたわけである。また惺窩が陸王学(陽明学)にまで視野を広げていたのにくらべると、羅山は朱子の理気哲学に没入していて、理屈ばかりを広げたがった。
むしろ羅山は徳川時代の最初のエンサイクロペディストだったのである。『神道伝授』や『本朝神社考』では朱子の鬼神論にもとづいて神仏習合思想を批判し、『多識編』では中国本草学を紹介し、『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』では兵学を読解し、『怪談全書』では中国の怪奇小説の案内を買って出た。このように、羅山はあまりに広範囲に学術宗教を喧伝したので、のちに中江藤樹や山崎闇斎らに批判されたほどなのだ。
だから羅山も、徳川イデオロギーのシナリオを書いたとはいいがたい。羅山が上野忍岡の私邸に塾を開き、その門人が多く輩出したこと、それがのちに昌平坂学問所の基礎になったこと、その私邸の一角に徳川義直の支援で孔子を祀る略式の釈奠(せきてん)をおこなったこと、こうしたことが羅山の御用イデオロギーの準備に当たったというのが、過不足ないところであろう。
しかし羅山の嗣子となった林鵞峯になると、羅山との共著の『本朝通鑑』、その前の『日本王代一覧』などで、「日本」の正統性が奈辺にあったことを問うて、幕府のオーソドキシーとレジティマシーがどうなればいいか、その突端を開いていた。ここには徳川イデオロギーが少しだけだが、萌芽した。

惺窩や羅山にくらべると天海は、あきらかに家康の神格化のために特殊なイデオロギーを注入し、駆使した。
南光坊天海が駿府で家康に仕えたのは73歳のときである。そのため天海の影響は象徴的か暗示的なものだと見られがちなのだが、それから30年近く、100歳前後の長命を誇ったことを含め、もし誰かが最初の幕閣イデオローグだったとするなら、天海こそが唯一その立場にあったはずなのだ。オームスもそう見ている。
天海の生涯は妖怪変化というほどに、怪しくも妖しく、変化にも紆余曲折にも富んでいる。だいたい出身がはっきりしない。蘆名氏の支族三浦氏の出身といわれ、会津を本貫としているようだが、前半生の詳細はまったくわからない。少年期に台密を修め、14歳から諸国の霊山名山を遍歴し、会津の蘆名盛重に招かれてしばらく滞在し、さらに常陸の不動院や関東の諸寺に止住しながら50歳近くに比叡山に入ったという、はなはだ漠然とした経歴が浮かび上がるだけなのだ。その比叡山に入ったところが東塔の南光坊だったので、ともかくは南光坊天海なのである。
家康に出会ってからは、川越の喜多院の住職や下野の日光山(輪王寺)の主宰を任された。こんな得体の知れない怪僧であるにもかかわらず(いやきっとそうだからこそ)、家康は天海がもたらす「山王一実神道」の理念と論理が気にいった。

そもそも最澄が比叡山を開創したころは、京都の鬼門には「ヒの信仰」(日枝=比叡の信仰)とともに、地主神の二宮権現と大三輪明神を勧請した大宮権現の、山王二聖信仰というものがあった。
それが円珍の時代に山王三聖信仰となり、明達が平将門の乱のときこれを日吉山王に祈って調伏したことで有名になった。『梁塵秘抄』ではすでに山王の神々の本地仏が謳われている。中世、この山王信仰が神道説として『耀天記』に採り入れられ、天台教学との結びつきを強くした。さらに南北朝期に慈遍が『天地神祇審鎮要記』を著して、そこへ伊勢神道や両部神道を入れこんだ。
この山王神道説をもとに、天海が「山王一実神道」を創唱してみせた。天海は、家康を山王の真実(一実)をあらわす東方の権現とみなして東照大権現とし、その大権現はそもそも天照大神を本地とするという論理をつくりあげた。かつて吉田神道が本地仏と垂迹神の関係を逆転させて反本地垂迹説を唱えて成功したように、天海は天照大神に治国利民の法を授けたのが山王権現であり、その山王権現を東において受け取って、それを全国に照射しているのが大権現としての東照家康であるというふうに、畏敬の“筋”を組み立てたのだ。
これはいかにアクロバティックであろうとも、家康がどうしてもほしかった神格化のイデオロギーだった。これこそは信長も秀吉もうまくいかなかった神格の理論付けなのである。しかし家康は死ぬ。
けれども、このアクロバティックな組み立ては、徳川イデオロギーの起源として、以降200年以上続くことになった。家光が家光の墓所を決めるにあたって、天海の案に従って日光を選び、そこに東照宮を建立して大権現を祀り、さらには日光二荒山に眠っていた補陀落観音浄土のゲニウス・ロキと習合させてしまったからである。東照権現は古来の土地と結びついたのだ。

こうして天海は、皇室仏教としての天台比叡のイデオロギーを徳川家のイデオロギーに転換してみせたのである。山王一実神道が背景に天台を抱えていたこと、すでに中世にそこに伊勢神道が交じっていたこと、家康が京都ではなく東方に日本の拠点をおこうとしていたこと、これらを天海は見抜いて仕立てたイデオロギーだった。
このため京都の鬼門に位置する天台比叡を江戸の鬼門にあたる上野に移し、そこに"東の叡山"としての東叡山寛永寺を建立したことも天海のプランになっていた。いま、われわれが見る上野の不忍池は、比叡から見る琵琶湖に当たっている人工池なのだ。
オームスは、これによって京都は江戸に、朝廷は幕府に、伊勢は日光に置き換わったのだと見ている。むろん事態は容易にそのようになっていったわけではないのだが、天海が注入した権現思想は、かつて信長が望んだ「権力の概念化」の実現そのものとなっていった。

本書は、徳川イデオロギーが幕府の命令によって形成されたというふうには書いてはいない。徳川イデオロギーは、惺窩の「聖人の道」や羅山の儒学や天海の山王一実神道をブレンドさせながら、家康から家綱におよんだ江戸初期に、のちの200年あるいは300年にわたって各所で唸りをあげるイデオロギー戦線のための、最初の根をはやしたのだ言っている。
この根はいろいろなところに張りめぐらされた。惺窩の門下からも、羅山の門下からも、また天海の門下の戸隠に拠点をおいた乗因からも、根がはえた。むろん中江藤樹からも熊沢蕃山からも貝原益軒からも根がはえた。そこでオームスがとりあげるのは山崎闇斎である。

もともと幕府がほしかったのは朱子学がもつ「上下定分の理」というものである。そこに語られる「名分」こそ、徳川社会の原理と合致した。羅山はそれを説くには博学すぎた。鵞峯はなかでは「上下定分の理」を説いてくれそうだったが、まだ甘かった。こうしたときに登場してきたのが山崎闇斎だったのだ。
闇斎については以前にもふれておいたので、ここでは目くじらたてた議論の対象にしないことにするが、そのときは闇斎の弟子の佐藤直方と浅見絅斎のほうを重視したので、そこそこの案内をしておくにとどめる。ただし、オームスは闇斎こそは徳川イデオロギーの最も重要なところを用意したと言っている
ちなみに、オームスはもう一人、鈴木正三をあげている。正三は家康の家臣の鈴木重次の長男に生まれた禅僧で、仮名草子の作家としてスタートを切るのだが大坂夏の陣のあとに旗本となって神田駿河台に住み、そのころまったく冴えなかった仏教思想をなんとか浮上させようとした。その禅風は「仁王勇猛の禅法」と、その念仏は「果たし眼の念仏」とよばれ、ぼくはかなり好きな禅僧なのだが、オームスが言うような意味で徳川イデオロギー形成に寄与したというふうにはおもえないので、割愛する。
江戸初期は、沢庵和尚もその一人だが、こういう傑僧はそこかしこにいたはずなのである。けれどもそれをもって仏教イデオロギーの起爆とするには当たらない。かれらはいずれもソリストだった。仏教を国につなげようとは思っていない。

山崎闇斎は京都の針灸医の子として生まれた。賢くはあったけれどもかなりの乱暴者だったので、両親がほとほと手を焼いたようだ。そこで7歳で比叡山に入れられ、15歳で妙心寺に移った。ところがなかなか仏教になじまない。羅山もそうであった。江戸時代初期とはこのように、やっぱり仏教がまことに冴えなかった時期なのである。
その後、闇斎の人生を変える出来事がおこる。闇斎の風変わりなところに目をつけた土佐の一公子が、戯れに土佐の吸江寺に引き取ったのだ。闇斎はそこで小倉三省や野中兼山に出会って衝撃をうける。武士でありながら、儒学を修めていた。とくに兼山が朝鮮朱子学に傾倒して集書していことに感動した。闇斎は居ても立ってもいられずに、土佐南学派の谷時中を紹介してもらって、飛びこんだ。ついに全身で朱子学に服したのである。正保4年には『闢異』を書いて排仏尊儒をマニフェストする。
その闇斎がたんなる儒者としてではなく、徳川イデオロギーの儒者としてどこが注目されるのかというと、寛文5年から保科正之に招かれてその師をつとめたことにある。

保科正之は徳川秀忠の三男で、家光の異母弟にあたる。寛永期に信濃の高遠藩を、ついで山形藩を、さらに会津藩の藩主となって幕藩体制成立期の名君と称された。
家光の死後は遺言によって4代家綱の将軍補佐となり、その後の10年にわたる幕政をほぼ中心的に仕切った。その保科正之を闇斎が指導した。いわば家康以来の朱子学路線はここにおいて、やっと初めて現場の幕政と結び付いたのだ。
ついでながら、徳川幕藩体制はさまざまな要素が組み合わさって確立したものであるが、そこに3人名君と藩政モデルが出現したことが見逃せない。すなわち水戸の徳川光圀、岡山の池田光政、会津の保科正之だ。こではふれないが、池田光政の「花畠教場」からは、かの熊沢蕃山が出た。

保科と闇斎の関係には、さらに特筆すべきことがある。家臣の服部安休が二人を吉田神道の奥義継承者であった吉川惟足に引き合わせたことだ。二人は急速に『日本紀』を、日本神話を、吉田神道を、さらには日本の秘密そのものを学ぶ関係になる。
ここで闇斎が飛躍する。朱子学と神道をドッキングさせたのだ。実はそれ以前から、闇斎は伊勢に詣でたおりに名状しがたいインスピレーションを何度かうけていた。寛文9年には度会延佳や大宮司精長から中臣祓もうけていた。しかしそれはインスピレーションであって、まだ論理でも思想でもなかった。また朱子学とも無縁のものだった。吉川惟足の説明は徹底していた。それを聞いているうちに、闇斎はひらめいた。伊勢神道の奥にひそむものを朱子学の論法によって踏み分けられるのではないか。
こうして登場してきたのが「垂加神道」である。もともと闇斎の朱子学には「敬」と「道」が生きていた。その朱子学のコンセプトと神道の奥義にひそむものが接近した。闇斎は自分にひらめく考えを「神垂祈祷・冥加正直」の「垂加」を採って、「垂加神道」と名付けた。それは闇斎の霊社号ともなる。吉川惟足が、卜部派の神道には「神籬磐境の伝」(ひもろぎうなさかのでん)を得たものに生きながら霊社号が降りるという秘伝があると言ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。
闇斎はたんに神秘主義に走ったわけではない。『神道五部書』に狙いを定めて、これを解読していった。そこに「土金の伝」を見いだして、それを「敬」や「忠」に読み替え、それをもって北畠親房の『神皇正統記』に当たって、日本の「道」がどのように系譜されてきたかを調べた。また『大和小学』では、それらの論法で日本神話を解読してみた。そういうことのすべてが垂加神道なのである。
しかし、これが中国の朱子学とはとんでもなく離れたものになっていることはあきらかである。ただ日本の神々の畏敬に惚れていっただけではないかとも見える。しかし、そうでもなかったのだ。
闇斎は朱子学を日本が咀嚼するとは、中国の事例でなくて日本の事例によらなければならないと確信していたのである。

垂加神道をこれ以上詳しく説明することは遠慮しておくが(オームスはかなり分け入っている)、こうした保科正之と山崎闇斎が神道にまで入りこんで、徳川イデオロギーとして何を準備したかについては、ちょっと確認しておかなくてはならない。
思想としては、ここに神儒一体のイデオロギーが出現した。中身がどうであれ、これはまちがいない。次に、中国の朱子学を日本の朱子学にするための、かなり異様な方法が提案された。方法は異様であるが、ここには藤原惺窩の「聖人の道」は日本の為政者の「聖人の道」でなければならず、それは日本の神々の垂迹と合致していなければならないという方針が貫いた。
それとともに、そこには上から下までの「名分」が通っていなければならないものだった。その名分が通っていく"通り"は、「垂加」するものなのである。この考え方もあまりにも神秘的でありすぎるけれど、そもそも「仁」も「徳」も儒学はそのようなスピリットにもとづいて組み立てられたものなのである。むしろ闇斎はそのスピリットの論理を日本にリロケーションするために儒学と神道を抱き合わせたのだった。
こうした特別なイデオロギーは、当然ながら徳川社会の理論をつくろうとする者に影響を与えるか、ないしは反発を招くはずである。案の定、闇斎のイデオロギーには批判も出た。しかし、このことはたいそう象徴的な出来事であるのだが、寛文6年にこういうことがおきたのだ。保科正之が闇斎を理解しない山鹿素行を幕府内の反対を押し切って、江戸から追放してしまったのである。保科が『武家諸法度』の改訂を完成した3年後のことだった。
名君の誉れ高い保科としては、かなり思い切った処置である。しかし、このことこそ徳川イデオロギーがいよいよ実践されていった証しだったのではないかと、オームスは見た。まさに元禄の世になって、幕府は山鹿素行の思想に従った赤穂浪士を断罪したわけである。

一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。
これは天文学でも同じことで、日本の空はバビロニアや中国とは異なっている。湿気の多い日本では星は見えにくく、占星術も成り立たない。また、暦法も変わってこざるをえない。ここに闇斎の方法を学ぶヒントがあった。実際にも日本最初の天文学者ともいうべき渋川春海は闇斎の方法に気づいて、日本独自の「貞享暦」を考案した。
ついでに、もう一言。垂加神道が逆の作用をおよぼして、新たなイデオロギーを生んだという例も少なくない。その代表的なものが「復古神道」である。
復古神道というのは、仏家神道(両部神道など)・社家神道(吉田神道など)・儒家神道(垂加神道など)のような外来思想の影響を交じらせた神道ではないもの、古来の純粋な信仰にもとづいた神道(そういうものがあっとしてだが)をさすときにつかわれる用語で、狭義には平田篤胤やその後の大国隆正の神道思想をさすのだが、広くは契沖・真淵・宣長らの神道思想をさすときもある。
島崎藤村が『夜明け前』で「或るおおもと」を問うたときは、この古来の「おおもと」を問うたわけなのだ。 
代表的日本人
1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。こんな時期はその後の日本の近現代史に、まったくない。
その3冊とは、内村鑑三の“JapanandTheJapanese”、新渡戸稲造の“Bushido“、岡倉天心の”TheBookofTea”である。
内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で、内村が長らく極貧に喘いでいた34歳のときに書いた。この時期の内村は憑かれたように英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“HowIBecomeaChristian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。
新渡戸の『武士道』は1900年ちょうどのこと、漱石がロンドンに、栖鳳がパリに、川上音二郎と貞奴がニューヨークに向かっていた年である。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただしそこには「愛」だけが欠けていると結論づけた。天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中である。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書だった。

いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著であり、このうち二人が、明治のみならず近現代を通じての日本のキリスト者を代表していることが、注目される。
なかでも内村鑑三のキリスト教は激越なもので、他の追随を許さない。それは、“Jesus”と“Japan”という「2つのJ」にまたがる異様な日本キリスト教というものであり、かつその著作は内村の代表作ともいうべき『羅馬書の研究』を頂点に、生涯の半分におよんだ個人雑誌「聖書之研究」などにも再三言及されたように、「日本人の生活信条の中にはキリスト教に匹敵するものがある」という基本モチーフを秘めたものだった。

本書の書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。その変節は近代史や日本キリスト教史を研究する者には重要だが、ここでは省く。
また、なぜこの時期に国際的に話題をよんだ3冊が日本人によって英文で書かれたかということも、言い出せばいろいろ書きたいことがあるのだが、ふれないことにする。ただひとつだけ言っておけば、ぼくはこの2年ほどのあいだ、この時期のこの3人について、少なくとも7、8回にわたって講義をし、4、5回にわたってこのことをいろいろな場で綴ってきた。3人3冊をめぐる話をしたのはもっと多かったろう。それほどこの3冊をめぐる日本ならびに日本人の思索と行動については、最近のぼくを激しく揺さぶっているのである。
ついでに言えば、今日は2001年3月15日なのだが、この時点で、ぼくにとっての内村鑑三は最も気になる日本人である。実はあまりに内村鑑三を感じすぎて、内村や新渡戸や植村正久や海老名弾正や、また有島武郎や志賀直哉や小山内薫や矢内原忠雄をぐらぐら動かした明治キリスト教というものそのものに、感染しつつある。この感染があまりに過度になれば、あるいはキリスト者を辞さない時がくるかもしれないと、本気でそう思うときもある。

さて、本書に扱われているのは5人の日本人である。キリスト教に埋没しつづけた内村がこの5人を選んだことは、今日の読者には意外な人選であろう。時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村は逆に並べて一冊とした。
なぜこの5人が代表的日本人なのかということは、それを述べようとするだけで、結局は内村の思想と行動のすべてを議論することになる。それは適わないので、エッセンシャルなところだけをつまむことにするが、まず一言でいうと、この5人は内村にとってはキリスト者なのである。このことについては、本書のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。

私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。
何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。

もっともこれだけでは、この5人の日本人がキリスト者であるとは言っていない。5人を自分の宗教的先駆者だと見ているにすぎない。ところが『キリスト伝研究』(先駆者ヨハネの章)では、次のような説明があって、かれらとキリスト教とが深い絆でつなげられている。

其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。

内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのである。おそらくいまどきこんなことを言えば、暴論あるいは無知として笑われるに決まっている。
しかし、内村はこの見方を生涯にわたって捨てようとはしなかった。頑固といえば頑固すぎるほどの男、まさにその通りだが、しかし内村にはひとつのJ(イエス)を、もうひとつのJ(日本)に重ねる使命が滾(たぎ)っていた。「私は2つのJを愛する。第3のものはない。私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない」という有名な宣言にあるように、内村は自分自身のためにも日蓮や藤樹や西郷をキリスト者の魂をもつ日本人に見立てる必要があったのである。
では、そのような見方をして、内村は何をしたかったのか。西洋に育ったキリスト教を非制度化したかった。キリスト教に真の自由をもたらしたかった。そのうえで日本的キリスト教を打ち立て、非武装日本をつくりたかった。つまりは、日本人の魂が解放される国をつくりたかったのだ。

内村鑑三は国粋主義者だったのか。たしかに、そう見える。つねに武士の魂を褒め称えた。『代表的日本人』で西郷を称揚するにあたって、朝鮮との関係を見誤っているのも、そのひとつのあらわれである。けれども、内村はこうも書いた。
「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」。
内村鑑三は世界主義者だったのか。たしかに、そうも見える。内村はつねに日本を世界の動向とともに見た。そこには「太平洋の両岸の中国とカリフォルニアがほとんど同時に開かれて、ここに世界の両端を結ぶために日本を開く必要が生じた」という見方を原点にもっていた。
しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。

これでは内村は矛盾していると言われても仕方がない。実際にも、内村にはナショナリズムとグローバリズムが混じっている。混じっているだけではなく、それが交互に出て、交互に闘っている。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。
ところが、内村は晩年になるにしたがって、この矛盾を葛藤のままに強靭な意志で濃縮していった。そしてついには「小国主義」を唱えるにいたったのである。これが内村の凄いところだった。愛国者・内村は日本を「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。
そう、境界国である。かくて「日本の天職は」と内村は書いた、「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのである、と。
こんな発想は、内村鑑三を除いては、なかなか生まれない。今日の日本人にもちょっとやそっとでは言えない発想である。さらに内村はそのためには日本が世界史上の宗教改革の「やりなおし」を引き受けるべきなのではないかとさえ、考えた。
むろんここには、日本を世界の舞台の主人公として活躍させたいという愛国の情がある。それはそうなのだが、そのためにむしろ小国となって、境界者としての勤めをはたすべきであると考えたその道筋には、われわれがすっかり忘れてきた方針というものが芽生えていたのでもある。
代表的日本人とは、内村鑑三だったのである。 
 
一宮にみる日本海

 

弥生時代に繁栄を支えた潟湖
山陰地方の古代に繁栄したところは、潟湖や湾であること、温泉があることが多いことに関心を持っていた。元同志社大学教授の森浩一氏は、環日本海地方は「潟」を中心として古代文化が栄えた、という説を述べています。
恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』によると、
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。
武光誠氏『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』には、
日本海航路が開けた理由は、次の二点に求められる。第一に日本海沿岸に、自然の地形のままで良港になる潟湖とよばれる砂州が多いことである。第二に対馬海流の存在である。
出雲周辺には、波根潟、神西湖、淀江潟の三つの潟湖がある。しかも、中海と宍道湖の中に安全な港がいくつもできる。そして神戸川、斐伊川、日野川をさかのぼることによって、出雲の海岸部と内陸部との交流がなされる(ちなみに斐伊川と日野川は「肥の川」であり、それは砂鉄が多いことを意味しているという)。
北九州の文化は、間をとばして真っ先に良港の多い出雲に入る。そして、東郷湖、湖山池と久美浜湾・浅茂川湖(離湖)・竹野湖の二か所の中継地を経て能登半島に達する。
(補足すれば、一宮との関連から、因幡と丹後の間の但馬は出石神社と円山川・津居山湾が、籠神社と宮津湾が、若狭彦神社と小浜湾、気比神宮と敦賀湾などもある。)
このような航路を通じて、出雲政権は越までの日本海沿岸をその指導下におくことになった。
航海技術の未発達な古代にあっては、海流に乗ることが効率よく船を進めることにつながった。日本海側の寒流であるリマン海流は海岸から遠いところを流れており、暖流である対馬海流は沿岸部にある。
そのため、日本海航路では南西から北東に行くのは容易であったが、北東から南西に進むのは手間がかかった。その結果、北九州から出雲に多くのものがもたらされ、されに対馬海流を利用して南方の文物も伝わった。
出雲に残る海蛇信仰は、南方の文化への憧れから来るものである。出雲大社には、神官が十月に、沖縄から対馬海流に乗ってきたセグロウミヘビを稲佐浜で捕らえて神前に奉る習慣が見られる。出雲の日御碕神社や佐太神社にも、セグロウミヘビを三方にのせて祀る神事が見られる。佐太神社では「あやしき光、海を照らす」という祝福を行う。
古くは出雲では海蛇だけでなく、南方から海路で伝わった異文化をすべて「あやしき光、海を照らす」と言って重んじた。美保神社には、島根半島に漂着した沖縄の漁具とフィリピンのくり船を収めた倉があるが、そこに「あやしき光、海を照らす」と書かれている。
海流を利用できる出雲には、海流のない瀬戸内海航路上にある吉備や大和より早く、北九州の先進文化が伝わったのだ、と記している。
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。
倭文神社の近くには、弥生人の脳がはじめて見つかった青谷上寺地遺跡がある。今でこそ平野になっているが、弥生時代には内陸まで海が入り込んだ良港だった。渡来人の技術者が様々な工芸品を作り出し、豊かな暮らしの村があったことが考古学の調査でわかっている。羽合温泉がある。
一宮(いちのみや)
一宮とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
1. 原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。
2. 祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。
3. 全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。
必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。
一宮の起源
江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保8年(1837年)の著書 『神社思考』の中で、一宮を定めた事は信頼できる古書類には見えず、いつの時代に何の理由で定めたか詳しく分からないと前置きした上で次のように考察した。それによれば、『延喜式神名帳』が定められた後の時代に神祇官あるいは国司などより諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせたのではないか。また、それらの神社は便宜にまかせ、あるいは時勢によるなどして定められた新式ではないか。以上のように考察しながらも、伴信友は自説に対して「なほよく尋考ふべし」と書き添えた。
現在、一宮の起源は国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、とするのが通説になっている。
一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
二宮、三宮の起源も国司の神拝順とする説があるが、『時範記』に国内をぐるりと一周してくる国司神拝順路が記述されている因幡国では二宮が不詳である。それとは逆に九宮まである上野国では、地図上で一宮から九宮までを順番に線で結ぶと同じ道を行ったり来たりすることになり、『一宮ノオト』では国司神拝の順路として変ではないかと指摘している。通説では11世紀〜12世紀にかけて成立したとされる。
山陰道
出雲国 「出雲大社」「熊野大社」
出雲大社 島根県出雲市 名神大 官大 勅祭社 別表 主祭神 大国主大神
社家 千家・北島両家
本殿様式:大社造
まず日本海国家連合体を語るなら、ここからはじめなければならない。出雲大社は平安時代の『口遊(ずさみ)』は、巨大な様を「雲太、和二、京三」と形容していた。出雲大社が一番大きく、大和の東大寺大仏殿が二番目、京都へ案教の大極殿が三番目だったと伝えている。さらに本殿の高さは十八丈(約48m)とも、三十二丈(約97m)ともいい、このような巨大建造物が平安時代、しかも出雲にあるはずがないといわれていた。ところが近年、本殿近くから巨大神殿の三本柱が見つかったことで証明されたのである。
出雲大社(杵築大社)は、古代の有力豪族は、おおむね一族の祖神を祀っている。ところが、出雲氏の祖神である「天穂日命」を重んじずに大国主の祭祀を職務とした。
別ページに書いているので、詳細は省くが、出雲の一宮はオオクニヌシの「国譲り」神話にあるように、オオクニヌシが出雲大社(杵築大社)へ鎮まることを約束して出雲は平定したと伝える。ではどこからなのか。それはもう一つの一宮・熊野大社からとなるだろう。
熊野大社 島根県松江市 名神大 国大 別表
主祭神 熊野大神櫛御気野命
本殿様式:大社造
全国に熊野神社は多く、紀伊国の熊野三山が有名だが、この熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
『出雲国風土記』には熊野大社と記されていた。その後『延喜式神名帳』では熊野坐神社と記された。
祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。明治に入り、本来の形に復するとして祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」として素戔嗚尊の名を廃したが、後の神社明細帳では「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」となり、元に戻っている。
二宮 佐太神社 島根県松江市鹿島町 式内小社、国幣小社、別表
主祭神 正殿:佐太御子大神、北殿:天照大神、南殿:素盞嗚尊
石見国 「物部神社」
島根県大田市 名神小社 国小 別表 主祭神 宇摩志麻遅命
社家 金子家
本殿様式:春日造変形
物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿の右座に物部氏祖神で主祭神の父神である饒速日命と所有していた剣の霊神である布都霊神、左座に天御中主大神と天照皇大神、客座に別天津神と見られる五神と鎮魂八神を祀る。
宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
石見銀山(大田市)に近い。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山(火山)は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場する。 国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。 『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
隠岐国 「水若酢神社」「由良比女神社」
水若酢神社 島根県隠岐郡隠岐の島町 名神 国中 別表
本殿様式:隠岐造茅葺
祭神 水若酢命
由良比女神社 島根県隠岐郡西ノ島町 名神 村社 主祭神 主祭神 由良比女命
名前に残る織物技術 伯耆一宮「倭文(しとり)神社」
鳥取県東伯郡湯梨浜町 名神小社 国小 別表
祭神 タケハズチ
安産の神として有名な倭文神社は、美しい東郷湖を見下ろす山の中にひっそりとある。
祭神のタケハズチは、古代にこの地方の主産業だった「倭文(しずおり)」という織物技術を持っていた一族の祖先神なのだが、むしろ妻の祭神シタテル姫の方が隅々まで浸透している。
伝承によれば、シタテル姫は出雲のオオクニヌシの娘で、海を伝ってこの地に嫁入りした(山陰海岸の孤立集落では、隣の集落から船で行き来することは、つい戦前まで続いていた)。助産婦のような技術を持った女性だったのだろう。そのまま定住して死ぬまで多くの子どもを取り上げた。地場産業の織物は消えて、安産の信仰だけが残ったという。
このことは、倭文の祭神が実は女神であるシタテル姫そのものだった可能性を示している。古代には男系継承だけでなく女系継承する豪族がいたことがわかっている。天皇家の祖先神・アマテラス(天照大神)が女神であったように、始祖が女性であるのは一般的なことだった。何より織物の技術を持つのは女性であることが多い。
二宮 大神山神社 主祭神 大己貴命 名神小社・伯耆国二宮・国幣小社・別表神社
(本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山
蘇我氏を鎮める因幡一宮「宇部神社」
鳥取県鳥取市国府町 名神大 国中 別表
タケノウチスクネ(武内宿祢)を祀る。
本殿様式:三間社流造檜皮吹
神功皇后は、夫の仲哀天皇の喪に服してから、タケノウチスクネを従え住吉の三神を守り神として新羅征伐に行った。この遠征の帰途に生まれたのが応神天皇だ。この苦難を乗り越えた母子をさせた、端午の節句「こどもの日」に掲げる幟には、応神天皇を抱くタケノウチスクネが描かれるのが定番である。それゆえに子どもを守る神でもある。上り昔の五円札には、タケノウチスクネの肖像画と宇部神社の本殿が描かれていたそうである。当時の五円札は家が建つほどの高額紙幣だった。ここから商売繁盛の神としての性格も加わるようになった。
山陰地方の東端である因幡にタケノウチスクネが祀られているのは、じつは大化改新で滅ぼされた蘇我氏の先祖がタケノウチスクネなのだ。蘇我氏が政治の表舞台で活躍するきっかけとなったのは、出雲を制圧した功績とも言われている。
山陰地方の中心には出雲があり、その東には因幡と伯耆が、反対の西には石見(島根県)がある。歴史・考古学的に見ると、どうやら六世紀ころに蘇我氏の勢力が東から、ライバルの物部氏が西から出雲をめざして争っていたことが読みとれる。それを裏付けるように、因幡一の宮の神は蘇我氏であり、一方の石見一の宮は「物部神社」なのである。こうしてみると大化改新の三年後に宇部神社が創建されたのも、蘇我氏を鎮魂するという深い理由がありそうだ。
二つの但馬国一宮 「出石(いずし)神社」「粟鹿(あわが)神社」
出石神社 兵庫県豊岡市出石町 名神大国中 別表 主祭神 天日槍命(あめのひぼこのもこと)、出石八前大神
本殿様式:三間社流造
社家 長尾家
粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町 名神大県社 本殿様式:流造
主祭神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)あるいは 日子坐王
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。粟鹿神社の近くに但馬最大の前方後円墳 池田古墳や円墳など大きな古墳が多い。鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。出石を本拠とした応仁の乱西軍大将・山名宗全が関係しているのだろうか?)
三宮 水谷神社/養父神社
天皇家よりも古い系図国宝「海部系図」の丹後国 「元伊勢 籠(この)神社」
京都府宮津市 名神大 国中 別表 本殿様式:神明造
主祭神 彦火明命(ほあかりのみこと)
社家 海部家
彦火明命(ひこほあかりのみこと、別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神とし、豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)、天照大神(あまてらすおおかみ)、海神(わたつみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を相殿に祀る。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。
社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮(当社と比定)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。したがって、天皇家の菊の御紋が掲げられているのは、山陰では出雲大社と当神社。
二宮 大宮売神社 名神大 府社 京都府京丹後市大宮町
日本海側の丹後国は丹波国の中心であったが、のち丹波国は丹波国・但馬国・丹後国に分立
北陸道
若狭国 若狭彦神社 福井県小浜市 上社 名神大国中 別表 本殿様式:三間社流造
二宮 下社 若狭姫神社 名神大 本殿様式:三間社流造
主祭神 (若狭彦神社)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
(若狭姫神社)豊玉姫命(トヨタマヒメノモコト)
越前国 氣比神宮 福井県敦賀市 名神大 官大 別表 主祭神 伊奢沙別命(気比大神)二宮 劔神社
加賀国 白山比盗_社 石川県白山市 名神小社 国中 別表 主祭神 白山比淘蜷_(白山比盗_)
伊邪那岐尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ) 二宮 菅生石部神社
能登国 気多大社 石川県羽咋市 名神大 国大 単立 主祭神 大己貴命
二宮 伊須流岐比古神社/天日陰比盗_社
越前国から、のちの加賀国、能登国は分立  
 
大国主命信仰

 

神道は、太古の日