平成の日本

人口学への招待日本人の国際化日本人特殊論日本人と英語湾岸戦争と日本の対応中国の接客文化日本的経営における労働者税の歴史森林と農地の喪失日の丸と君が代1日の丸2日の丸3歴史に学ぶということ田中真紀子と鈴木宗男日本的思考縮みゆく国日本民主主義と貧困・・・
流行語に見る平成 / 昭和59[1985]昭和60昭和61昭和62昭和63平成元年[1990]平成2平成3平成4平成5平成6[1995]平成7平成8平成9平成10平成11[2000]平成12平成13平成14平成15平成16[2005]平成17平成18平成19平成20平成21[2010]平成22平成23平成24平成25平成26[2015]平成27平成28平成29平成30・・・
 

雑学の世界・補考   

人口学への招待

少子・高齢化はどこまで解明されたか
若年層の未婚化・晩婚化の傾向と少子化の進展は密接に結びついているが、少子化による人口減少のトレンドは西欧・北欧の先進国をはじめとする世界各地に広まりを見せており、日本一国だけの特殊な現象ではない。本書はなぜ、少子高齢化が進むのか?なぜ、人口は増減するのか?という疑問について、人口学の基礎知識や方法論を参照しながら解説した新書であり、903円という新書価格を超える豊かな知見と鋭い指摘を得ることができる。
新書版にしてはページ数が多くて学術的な文体で記述されているので気軽に読めるという雰囲気ではないが、統計資料に基づく内容は正確であり人口学の基本概念・基礎理論を一通り理解するためには最適の入門書として位置づけることができる。現代日本の少子高齢化や晩婚化・未婚化の問題を考える場合に、なぜ、わざわざ社会科学(統計学・経済学)の一分野である人口学の研究データや基礎理論を参考にしなければならないのかと思う人もいるだろうが、少子高齢化の原因や背景を理解するためには人口動態・人口転換の問題を避けて通ることはできない。
人口規模・平均余命・既婚率(初婚年齢)・出生率などの客観的な統計データを前提として、社会的な価値観(規範意識・共同体感覚)や個人のライフスタイルの変化を考察することで、人類の社会集団全体に共通する人口増加要因や人口減少要因が見えてくる。人口動態の急速な変化に伴って、年代別人口比率のバランスの崩れや賦課方式の社会保障制度の継続性という問題が起こってくるのだが、急速な少子化・人口減少が進むと現役世代が減って既存の社会保障システムや経済生活水準を維持することが難しくなり、短期的には国民生活は大きく混乱する恐れがある。第1章 人口学の基礎では人口学の基本概念やコーホート(同時出生集団)の統計学的処理の有用性について詳しい説明が為されており、異質性の先入観(各種属性に対する思い込みや恣意的区分)によって引き起こされるシンプソンのパラドックスにも言及されている。
20世紀後半までは、人口学的な問題意識の中心はT.R.マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766-1834)が人口論(1798)で指摘したネズミ算的な人口爆発(人口急増)にあり、自然発生的な人口減少(人口急減)の可能性はほとんど考えられていなかった。開発途上国を中心とした急速な人口爆発が続けば、地球の食糧資源とエネルギー資源が枯渇して先進国もろとも生存の危機に晒されるのではないかというのが人口問題の中心であり、現在においても基本的に人口減少よりも人口増加を懸念する意見は強くある。現在の世界人口は約67億人であり、21世紀中には100億人を大きく超える可能性が高いとされているが、著者の河野稠果(こうのしげみ)は国連の予測データを上げて、2050年頃に130億人に到達しないレベルの人口規模で安定するとしている。Wikipediaの世界人口のページでは、2050年に最大で約107億人という下方修正された予測が出されている。
先進国では出生率引き上げのための少子化対策が模索される一方で、途上国では出生率引き下げのための教育水準の向上や避妊教育(避妊器具)の普及が行われているが、人間社会の人口動態を理想的・政策的にコントロールすることは殆ど不可能である。更に、生活水準と教育水準が上がって女性の社会進出が進み避妊の知識が普及すると、個人主義的な社会環境が整備されて必然的に出生率が低くなるという法則性が見られる。現在の開発途上国も経済発展が実現すれば出生率が低下する可能性が高く、世界一の人口を抱える中国にも少子化・人口減少の傾向が見られるようになっている。途上国の人口爆発による食糧資源の不足や軍事的な生存闘争などの問題を考えると、世界規模では人口減少には歓迎すべき部分も多いが、人類の人口規模をどのくらいに維持できれば地球環境に最適化できるのかという客観的指標は存在しない。
一定の人口規模で人口置き換え水準を維持するように安定しなければ人類の人口は減少し続けることになるが、世界のすべての地域が先進国化する未来予想図はイメージしにくいので、当面は先進国の人口減少を尻目に世界全体では人口増加傾向が続くものと予測されている。日本が現状の人口規模を維持するための人口置き換え水準は、出産可能な女性が一生に産む子どもの数の合計特殊出生率で2.07(2.08)であるが、2007年の合計特殊出生率は1.34となっている。出産可能な女性の人口そのものが減少することを考慮すると、1億2千万の人口規模を維持することは困難な状況になっており、今後50年で人口ピラミッドの底辺(若年人口)の面積は非常に小さくなっていく。1950年代の日本の人口ピラミッドは、平均寿命が短いこともあって高齢者が非常に少なく若年層が非常に多い途上国型の三角形のピラミッドであったが、2000年の人口ピラミッドでは、高齢者が急増して若年層が減ったことで三角形のピラミッドの形が崩れている(高齢者と若年者の人口がほぼ等しくなり、50代前後の団塊世代の人口が厚くなっている)。
人口動態(人口規模の増減)は出生・死亡・移動という極めてシンプルな人口変動の3要素で規定されるが、人口動態には人口構造という社会構成員の各種属性(性別・年齢・職業・教育水準・結婚の有無・労働力状態)が影響するので、少子化対策として確実に人口をコントロールできるような支援対策や援助活動というのは原則的に存在しない。また、高齢社会対策(社会保障対策)として出産を奨励すると、新たに生まれてくる子どもを社会の労働構成単位(社会保障の担い手・税負担者)としてイメージする人が増え、かえって出生率が低下するという逆効果を生じる危険もある。現代日本で出生率がなかなか改善しない原因としては、現役世代(30代以下の若年労働者層)の経済生活状況が平均的に厳しいこともあるが、生まれてくる子どもの経済負担(社会保障負担)が大きくなり過ぎるのではないか(それに対して親としての十分な保護や支援が出来ないのではないか)という不安も関係している。
先進国で少子化現象が深刻化しやすい背景には育児の負担・苦労もあるが、途上国と違って自分の子どもを家庭の労働力や老後保障として位置づけることが難しくなっており、生まれてくる子どものために生活環境や経済条件をある程度整えてから産みたいという気持ちが強くなり過ぎていることも影響しているだろう。過去の日本と現在の日本では、出産育児に対する責任感や親孝行の倫理観に大きな違いが生まれており、経済的困窮を抱えたままで子どもを産むことへの夫婦の抵抗感が強くなり、親の老後保障を期待して子どもを産むことは倫理的に好ましくないという社会風潮が生まれている。この背景には、社会の高学歴化による教育コストの増大や格差社会における子どもの就業困難(低所得化)への不安が存在している。
そのため、子どもを安心して育てられる低コストで質の高い教育環境の整備や育児を行う親世代の安定雇用の実現が有効な少子化対策として急務になっているのだが、日本のGDP比の教育費は依然として主要先進国の中で最低レベルのままである。有効な少子化対策を本格的に行っていくためには、従来の出産・育児支援や保育所・小児医療施設の増設、親の育児教育と合わせて、思い切った公教育(一部の大学教育)の無料化や子どもの医療コストの軽減を推進していく必要があるのではないかと考える。 
人口モメンタムの加速度
第2章 生命表とその応用では、形式人口学の始祖のグラントとハレー彗星の発見者ハリーが作成した生命表(死亡表)の読み方と意味合いについて書かれているが、生命表とは人口減少の直接的原因となる死亡モデル(死亡率の年齢別推移の統計データ)のことである。生命表には年齢別・男女別・年次別の生存率・死亡率・平均余命がまとめて記載されているが、生命表はコーホート(同じ年次に産まれた出生集団)の10万人の死亡データとして統計的に処理されている。
本書には2005年の女子の生命表が掲げられているが65〜69歳の年齢で生存率が93.1%であり、現代に生きる女性では65歳以上になっても9割以上の人が生存することを示しており、長寿社会(高齢化社会)を統計的にも証明している。医療水準・栄養状況・公衆衛生・社会福祉に恵まれた現代人は、特別な致命的疾患や偶発的な事件・事故に遭遇しない限りは、60代以下で死去するリスクがほとんどないのである。そのため、よほど極端に出生率が上がらない限りは、現代の先進社会はほぼ必然的に高齢化する傾向にあると言って良く、いったん高齢化の流れが生まれると人口ピラミッドの逆三角形化(若年層・出産可能な女性人口の急減)を抑制することは極めて困難である。
少子高齢化社会が急速に進展している理由は、新たに子どもが生まれないことと平均余命が非常に高くなっていることの二つであり、大正時代の1920年代には65歳の女性の生存率は約35%(20歳でも約70%しか生存率がない)であったので、仮に生まれる子どもの数が少なくても高齢化は殆ど進展しなかったと推測される。第2章では、平均寿命(0歳時点の平均余命)についても正確な解説が為されており、1935〜36年の平均寿命である男性・46.9年、女性・49.6年というのは平均的に男性が46.9歳で死に、女性が49.6年で死ぬという意味ではなく、現代の高齢者が昭和初期の高齢者よりも30年長生きするようになったわけではない。明治〜昭和初期の平均寿命の低さの要因の多くは、乳幼児死亡率の高さと若年層の結核・感染症などによる死亡率の高さに由来するもので、いったん大人になったものが平均して40代くらいで死んでいたわけでは全くない。各年代の総生存延べ年数を出生児数で割った平均余命は、高齢者が長生きすることだけで伸びるわけではなく、乳幼児期・青年期・壮年期の死亡率が低下することで大幅に引き上げられるのである。
生命表を見ても分かるように最も理想的な人口動態は、死亡率が下がって高齢者が増えた時に、高齢者の社会保障を支える若年者(乳幼児)も同時に増えるということであるが、世界のどの地域を見ても死亡率が下がって出生率が上がるという現象の持続は全く見られない。日本の戦後の高度経済成長期のように、一時的に死亡率が低下して出生率が上昇し団塊の世代のような人口の多い世代が生まれることもあるが、結果的には一時的な人口増大+人口再生産の停滞が高齢化社会の問題を生み出すことになってしまう。先進国で出生率が上がって途上国で出生率が下がることが望ましく、死亡率の低下と出生率の上昇が同時進行して一定の人口規模(年齢別人口比率)で均衡することが望ましいわけだが……現実に発生する人口動態の現象はその正反対の現象(先進国で出生率低下・途上国で出生率上昇・死亡率が低下すると出生率が減少)であり、死亡率の低い先進国が少子化になるのは法則的な現象でもある。この先進国の人口動態の法則性については、第4章 人口転換で実証的に詳述されている。
第3章 少子化をめぐる人口学では、同じ年次に出生した集団であるコーホート(同時出生集団)の統計調査について解説が為されており、スウェーデンとスイスのコーホート出生率(同年に生まれた女性の出生率)のデータが示されている。スウェーデンでは1980年代から1990年初頭にかけて出生率が上昇し1993年から再び下落して、最近はやや出生率が回復傾向にあることから、スウェーデンのローラーコースター出生率と呼ばれている。スウェーデンでは景気回復と若者の失業率低下・第2子以降の出産に対する福祉的インセンティブ・将来の社会設計への希望が出生率の回復と相関しているが、スウェーデンではかなり前から相当に手厚い家族支援政策(育児手当・育児休暇と休業手当)が実施されているので、現状以上の出生率の底上げは景気回復以外には難しい状況にある。
第3章では、実際の人口集団に固定された年齢別出生率を当てはめた場合のシミュレーションについても書かれており、出生率が高くても低くても一定の出生率が続けば安定人口に行き着くことが理論的・数理的に証明されているのである。安定人口というのは人口が同じという意味ではなく、人口が減少傾向にあっても年代別人口構造比率が同じという意味であるが、仮に日本で1.20台の低い女性特殊出生率が長く続いても、最終的には人口ピラミッドのラインは安定人口で落ち着くことになる。現在の日本は、50代以上の中高年の人口が大きくなっているので、少子高齢化社会における現役世代の負担率がどこまで上がるか分からないという不安があるが、外国人の移民政策を採らないとした場合の長期的予測では一定の負担率の高齢社会に行き着くという可能性も高い。
その場合にも、人口減少という経済生産力低下の問題は依然として残るわけだが、現在の日本の少子化問題が深刻なのは新たな子どもが産まれないということもあるが、それと同程度に高齢者に対する現役世代が少なくなるという相対的な年齢別人口格差の問題が大きいのである。高齢者と現役世代の人口比率が一定に安定した安定人口の条件下では持続可能な制度設計が行いやすいというメリットもある。当然、現役世代よりも高齢者が多いので高負担社会にはなるであろうが、現在の少子高齢化の進展過程よりも社会の混乱や不安は小さくなるという可能性がないわけではない。
そう考えると、無理のある少子化対策(ペナルティ付きの出産奨励など)を強引に推し進めて一時的に出生率の高い世代を生み出すというやり方は余り賢明ではなく、世代間の出生率の格差をできるだけ小さくして安定した出生率が長期間にわたって続くようにすることが大切である。どこかの時点で安定人口にソフトランディングするのが現実的な解決策の一つということになるが、人口減少のスピードを減速させて人口置き換え水準に近い出生率にまで引き上げることが課題になってくるだろう。本章では、人口の増減に影響する人口モメンタム(惰性)という概念が出てくる。長期的に人口増加が続くとプラスの人口モメンタムが発生してその後に多少出生率が低下しても人口増加が続くことになり、反対に長期的に人口減少が続くとマイナスの人口モメンタムが発生してその後に多少出生率が回復しても人口減少が続くことになる。
プラスの人口モメンタムは一見好ましいように思えるが、どんな人間も必ず年老いて高齢者になることを考えると、プラスの人口モメンタムを掛ければ掛けるほど高齢社会の問題が深刻化するリスクも出てくる。プラスの人口モメンタムが大きくなると、その後の世代が産まなければならない子どもの数のハードルが高くなるという問題が出てくる。仮に現在の日本で2.07以上の女性特殊出生率を実現できても、1億5千万や2億といった人口を日本列島で安定的に養うことが困難であることから、どこかの時点で人口減少に転じなければならなくなる。
特に、ある年代の人口のパイだけが一時的に大きくなると社会保障のコストが非常に大きくなるので、医療が発達した長寿社会における急激な人口増加は急激な人口減少以上に長期的リスクを押し上げる作用がある。人口爆発と呼ばれる途上国の多くで社会保障問題がそれほど深刻化しないのは、社会保障制度の未整備(家族単位の自己責任による老後保障)や若年人口の大きさがあるからだが、一番大きな理由は高齢者になる前の段階での死亡率が先進国とは比較にならないほどに高いからである(日本でさえ1950年代までは半数以上の人が70歳まで生存できなかったが、生活水準の向上と医療制度の整備は比較的短期間で実現するケースが少なくなく、経済成長期の過程で年代別の人口に大きな落差が生まれやすい)。
永遠に人口を増やし続けることが物理的にもマインド的にも不可能な以上、無理のない現役世代の負担率で社会保障制度・社会福祉制度を維持できる人口規模と年齢別人口比率を実現できるかが大きな問題になってくる。人口が極端に減少しないレベルでの人口置き換え水準への近似を実現して、年代別人口比率が一定になる安定人口に到達することが最終的な目標になってくるのかもしれない。女性特殊出生率が大きく上がったり下がったりという変化がなければ、高齢者と若年者の人口比率が一定の安定人口に落ち着くことになるが、現在の日本の60代以上の人口の大きさや平均寿命の延長傾向などを考えると短期的には現役世代の負担は非常に大きくなる。日本の人口問題における喫緊の課題としては、今後数十年のスパンの高負担社会の期間をどのようにして乗り越えられるか、人口減少社会における新たな制度設計・コミュニティやライフスタイルを再構築できるのかという点に集約してくる。  
人口転換論が示す人口動態
第4章 人口転換−「多産多死」から「少産少死」へ−では、人口統計学のグランドセオリーである人口転換論についてイギリスの事例などを元に解説しているが、人口転換論とは簡単に言えば経済活動の発展・教育水準の向上・安定秩序の確立によって多産多死の段階が終わって少産少死の段階へと転換するという理論である。人口転換論では、政治・経済の近代化に成功して経済的に豊かになった社会は必然的に死亡率の低下→出生率の低下という人口動態の変化を経験することが示唆されているが、工業化・都市化・教育制度の発展などによる近代社会成立の過程では、死亡率の低下と出生率の低下の間のタイムラグによって急激な人口増加(人口爆発)が生じることになる。
過去には、死亡率が低下しても出生率が低下しないインドなどの事例があり、人口転換論はすべての地域・民族には適用できないのではないかという疑念が生まれたことがあったが、インドの経済成長が急速に進み始めると高かったインドの出生率も段階的に低下し始めた。本書によると、2007年の段階で45の先進国、28の途上国で現在の人口規模を維持できる人口置き換え水準を下回るようになっており、世界人口の43%を占める地域において長期的には人口減少が進むと予測されている。なぜ、工業化・都市化・教育の向上が進む近代社会が成立すると、必ず出生率が減少に転じるのかという理由については明確であり、近代社会の専門的な職業区分と子どもの人権の普及が進むと子どもの即時的な経済的価値(教育投資が不要な労働価値)が極端に低下して、子どもを多く持つことの実際的なメリットが失われるからである。
時に、現代人が自己中心的になったから子どもを産まなくなったとか、独身者が生活水準を下げたくないからわがままで子どもを作らないとかいう俗説が語られることもあるが、こういった主張には途上国では貧しいからこそ家内労働力としての子どもがいないと生計を維持できないという差し迫った現実的な視点が欠落している。出生率の高い途上国の多くでは、子どもが好きだからとか子どもを大切に育てたいからという理由だけで子どもを産むわけではなく、切実な経済的理由・家内労働力と老後保障の必要性から子どもを産まざるを得ないのであって、その事情は昭和初期までの農業経済中心だった日本にも当てはまるところがある。
現代日本の出産育児事情を、経済構造・雇用システムの違う過去の日本や途上国の出生率と比較することは端的に無意味であって、現代のワーキングプアの人たちが子どもを増やせば増やすほど将来の暮らしが楽になるなどということは有り得ないというのが現実である。自然発生的な人口増加は、子どもを持つことによる生活上のメリットや将来の安心がない限りは起こらないと予測されるが、特に高学歴化が進む先進国では、平均所得を得る仕事に就くために教育投資と技能訓練が必要であり、ひとりひとりの子どもに必要な育児・教育コストが非常に高くなっているという事情がある。
先進国においても、子どもは長期的に見れば意図せずして精神的安心や経済的援助の恩恵を与えてくれるかもしれないが、短期的には子どもの養育と教育に大きなコストがかかり、無闇に子どもの数を増やすことは親子共倒れになるリスクと背中合わせである。そのため、子どもを育てることに大きな喜びや生き甲斐を見出す人でも、1〜3人の範疇に収まる人数しか子どもを持とうとしないと考えられる。オーストラリアの社会人口学者・コールドウェルは、利益の世代間の流れが出生率低下の最大の要因であるとし、過去には子から親への利益の流れが多くあったが、現在では反対に親から子への利益の流れが主流になっているので、子どもを出来るだけ多く持とうとする生存戦略を取る大人の数は大幅に減少したのである。
人口転換論は、死亡率の低下→人口の急増→出生率の低下→人口の減少といったサイクルで捉えることができるが、産業革命後の近代社会で死亡率が大幅に低下した理由として医療の発展・経済生産力の成長・公衆衛生の改善・感染症の撲滅・栄養状態の改善・飢餓の消滅・社会インフラと流通網の整備・戦争の減少などが上げられている。クリーランドは死亡率の低下に続いて出生率の低下が起きる原因として義務教育の普及(識字率の上昇)・教育水準の向上・市場経済への移行・国際的な家族計画運動の普及(避妊の方法や習慣の導入)・死亡率の低下を上げているが、その中でもっとも決定的な要因は平均余命を引き上げる死亡率の低下だとしている。確かに、平均余命の高い国で出生率の高い国は一つも存在せず、反対に平均余命の低い国のほとんどは高い出生率を維持していることから、生物学的な生存戦略の観点からも死亡率の低下(長寿社会の実現)と出生率の低下には深い相関があると推測できるのではないかと思う。
オランダの人口学者ヴァン・デ・カーとベルギーの人口学者ロン・レスタギが提唱した第2の人口転換論では、ピル(経口避妊薬)を使った避妊革命、法律婚をしない事実婚(同棲婚)の増加、離婚率の上昇と近代家族モデルの変容に着目して、母子家庭の増加という貧困の女性化を伴う出生率低下が進行していると主張するが、この第2の人口転換論の事態は北欧・西欧社会には当てはまっても、事実婚やシングルマザーの少ない日本には殆ど当てはまらないのではないかと思う。第5章 生殖力と出生率――生物的・行動的「近接要因」では、日本の出生率低下の近接要因として、不妊症や排卵障害・避妊・人工妊娠中絶・セックスレスなどの問題が語られているが、日本の少子高齢化の主要原因の多くは第6章 結婚の人口学――非婚・晩婚という日本的危機の章を読んでもらうと分かりやすいだろう。日本の未婚化(非婚化)・晩婚化の問題については、このブログでも過去に何度か取り上げて、社会経済的要因・心理的要因・結婚の規範性や社会的圧力低下の要因などを考えてきたので改めて詳述しない。
本書の第6章 結婚の人口学――非婚・晩婚という日本的危機では、国連人口部の結婚要因モデルやアメリカの人口学者チャーリンの1.結婚できる人の供給、2.選択(相手の魅力)、3.資源(自分の魅力)という結婚条件などを元に、なぜ日本の男女がなかなか結婚しなくなったのかを考察している。非婚化・晩婚化のマクロな視点での要因をまとめると、結婚の経済的情緒的メリットの減少・結婚相手のミスマッチ・お見合い結婚の衰退・結婚に対する規範性や周辺圧力の弱まり・20〜30代の男性の経済格差の拡大(自立的な家庭生活の困難)ということになるのではないかと思う。結婚しても構わないという恋愛相手はいるのに結婚に踏み切れないという人では経済問題がキーになっており、恋愛の段階で相手がなかなか見つからないという人にはお見合いのような紹介制度の衰退がキーになっているのではないだろうか。
生涯にわたって絶対に結婚したくないという人は現代の若者でも極めて少数派であることから、魅力的な相手と出会う機会と結婚生活が可能な所得水準・雇用待遇などの条件が整えばある程度までは晩婚化対策を行えるのではないかと思う。日本ではシングルマザーの比率が極端に低いので、出産可能年代における結婚率が上昇して経済状況が良くなれば、必然的に出生率のほうも回復する可能性はあるだろう。いつかは結婚して子どもを産みたいと思っている女性にとっては、晩婚化の進展は出産機会の喪失につながるリスクでもあるので、結婚の意志がある異性と気楽に出会える機会の増大と経済生活上の安定というのが最も確実性の高い少子化対策になってくる。
本書の第9章では、マイナスの人口モメンタム(惰性・加速度)の蓄積は、人口崩壊による国家衰退につながるという論調につながっていくが、人口減少が加速するとどうなるのかという予測や人口減少に対する価値判断と対策については終章 人口減少社会は喜ばしいかを参照してみて欲しい。人口減少の急速な進展には国民負担を増大させ国力を疲弊させる悪影響が大きいが、少子化・高齢化・人口減少の法則論的な流れが不可避である以上、高齢化の負担を如何に緩和して子どもを持つ喜びや希望をどのようにして強化していけるのが重要になってくる……2050年以降に本格化すると予測される人口減少社会において持続可能な経済システム・社会保障制度を整備するためには、一人当たりの生産性と負担率の上昇か、外部から人口を流入する移民政策かといった話になってくるのかもしれないが、一人一人の税負担が限界に達しないレベルで安定人口にランディングするような方策はないのだろうかと考えさせられる。  
 
日本人の「国際化」議論における日本特殊性の信念 / その内容と問題点

はじめに
本稿は、日本人の「国際化」に関する議論における、日本を特殊化・特殊視する傾向を問題にする。
日本人論の執筆者およびその読者、また、日本人論を受けて別の議論(日本人の「国際化」や異文化理解をめぐる議論)を展開する人々のあいだには、日本の文化、社会構造、日本人の行動・思考様式をめぐって二つの信念が存在する。一つは、それらには他国とは異なる独自の特徴・性格があると考える、日本的特殊性への信念。もう一つは、その日本的特殊性は他に類をみないほど独特で、外国人がそれを理解するのは難しいと考える、日本特殊性の信念である。
つまり、日本を特殊化・特殊視する信念である。この二つの信念は混同して扱われがちだが、区別してとらえる必要がある。たとえば、日本的特殊性を論じていても、それが一般的な国民性論のなかに位置づけられているのであれば、それは他国の国民性を論じる文脈とそう違わないものになるはずである。つまり、日本人の国民性を論じるにしてもイギリス人の国民性を論じるにしても、それぞれの対象に対するスタンスは基本的には等しいということができよう。
いまではそうした国民性の議論そのものに欺瞞性が指摘されているが1)、ここではその批判はひとまず措いておくことにする。しかし一方で、日本的特殊性には他国に類をみない独自性があって、日本人がアメリカ文化を理解するようには、アメリカ人は日本文化を理解できないという立場をとる場合、その議論には日本特殊性の信念、すなわち日本の文化、社会構造、および日本人の行動・思考様式を特殊化・特殊視する信念が強く働いているということができよう。
日本人論が学問的な領域で批判の対象となるときは、つねにこの日本特殊性の信念が問題とされてきた。日本人論は、その多くが一般読者向けの雑誌や本で展開される議論ではあるが、その議論には学者・研究者が多く参加している。そのため、議論も学問的な装いを帯び、その主張は一般読者には学問的真理として受け止められやすい2)。当の著者が仮に「余技」のつもりで書いていたとしても、その議論で提示される「理論」や「概念」が、別の日本人論執筆者によって学問的な事実や前提として引用されることがある。先行の日本人論研究や論考は、その伝播力も懸念して、学問的な主張としてそれを批判してきたのである。
本稿も同様の批判的観点を有している。本稿では、特に日本人の「国際化」について論じられた議論に注目し、その議論において、日本人論で示された日本特殊性の信念が、事実や前提として用いられている点を例示する。また、それらの例から、そうした「国際化」の議論において日本文化や日本人がどのように位置づけられ、論じられているかをみていく。
日本人の「国際化」に関する議論は、1970 年代から90 年代初めにかけてさかんに行なわれた。
「国際化」はもともと経済分野での用語であって3)、政治・経済の領域においても「国際化」に関する議論は行なわれているが、本稿で取り扱うのは、「『国際化』の時代に日本人はどのように行動すべきか」、「日本人はどうしたら『国際化』できるか」といった、人の国際化に主眼をおいた、文化面での議論である。そこでは「国際化」という言葉と並んで、「国際人」、「国際派」、「国際性」、「国際感覚」などの言葉も見出すことができる。この議論には、日本人論と同じように、学者・研究者が参加し、他に、海外滞在経験を持つ評論家、ジャーナリスト、官僚出身者、企業人などが参加した。
本稿では、日本人の「国際化」というテーマにおいて、日本が特殊であるという命題が前提となって、それにもとづいて日本人の「国際化」の必要性が説かれている点を指摘するが、この点において先行の日本人論研究・論考が行なった批判とはその内容が異なることになる。その区別を明らかにするため、本稿では先行研究・論考が日本特殊性の信念に関して、どのような点を懸念していたのかという点を先に振り返っておくことにする。したがって本稿の構成は次のようになる。第1 節では、日本人論において日本特殊性の信念がどのように強まっていったのかを、日本人論における論調の変化という点に注目して明らかにする。また、日本特殊性の信念を正当化する根拠となる、日本をとりまく諸条件についても取り上げる。第2 節では、先行の日本人論研究・論考が指摘した、日本特殊性の信念の果たす機能について振り返る。それら研究・論考ではむしろ日本特殊性の信念が日本人にとって有利に働く局面が注目され、イデオロギー的として批判されている。ここではそうした先行の批判における問題点も指摘する。
そして第3 節で、日本人の「国際化」論において日本特殊性がどのように表れているかを例示し、「国際化」という文脈において日本文化や日本人がどのように論じられるかという点を明らかにする。
本稿で取り上げるこのような日本特殊性の信念に関する問題は、日本人の自己認識、自集団(=日本人)認識を考えるうえで重要である。こうした信念の有無・強弱が、日本人の自己認識、自集団認識に大きな影響を与えている。したがって、「国際化」の文脈で日本文化や日本人がどう位置づけられているのかという点を明らかにすることは重要な意味を持つと考える。 
1.日本特殊性の信念の強化 
(1) 日本人論における論調の変化がもたらした影響
戦後日本における、日本人論(日本文化論)の論調の変遷を辿った青木保の次の指摘は、日本人論において日本特殊性の信念がしだいに強まっていったことを示すものである。
しかし、「否定的特殊性の認識」における「日本文化」の「前近代的」「非民主的」な自己評価から「歴史的相対性の認識」の時代までは、ある意味では、「開かれた」日本文化論がみられたのに対し、その「肯定的特殊性の認識」の時期に入るに従い、「日本文化」中心主義が台頭してきて、逆に「閉じられた」日本文化論に傾斜してゆくのは、「日本文化論」というものの性格を示すものではないかと思われる4)。
青木の分類では、「否定的特殊性の認識」の時期は1945 〜 54 年、「歴史的相対性の認識」の時期は1955 〜 63 年、「肯定的特殊性の認識」の時期は、さらに前期と後期が区別されて、前期が1964 〜 76 年、後期が1977 〜 83 年にそれぞれ相当する。それは敗戦の原因を日本的特殊性の前近代的・非民主的性格に求め、徹底的に批判し、反省した時期から、相対的な価値を認めるようになった時期を経て、やがてその特殊性に積極的な意味を与えるようになった時期をさしている。
日本的特殊性が前近代的・非民主的という位置づけをされていた時期には、それは否定され改善されるべきものであった。しかし一方でそれは、そうした近代化論や民主化理論によって、日本社会は分析しうるものとしてとらえられることを意味した。したがって、この時期には日本社会に日本的特殊性は存在しても、それは後進性を示すひとつの特徴であって、欧米由来の理論で分析できないような日本独自のものとしては受け止められていなかった。
こうした傾向からの変化の萌芽は、すでに「歴史的相対性の認識」の時期に見出すことができる。文化人類学者の梅棹忠夫は、『中央公論』誌上で発表された論文「文明の生態史観序説」(1957 年)5)のなかで、「しかし日本は、戦争にまけても、依然として高度の文明国である」と述べ、その根拠として巨大な工業力、全国に張り巡らされた交通通信網、完備した行政組織、教育制度、教育の普及、豊富な物資、生活水準の高さ、高い平均年齢、低い死亡率、発達した学問、芸術を挙げた6)。そして、西欧の「一元的発展段階説」に代わって、諸文明の平行進化の可能性を示してみせた。
この背景には、日本経済の成長と日本社会の発展という現実面での変化がある。敗戦からの立ち直りは、必ずしも「否定的特殊性の認識」の時期に指摘されたような、日本的特殊性の否定・改善を必要としなかった。このことが民主化理論や近代化論とは異なる視点で日本社会を分析する必要性を生じさせた。
こうした相対化の観点を一気に押し広めることに成功したのが、文化人類学者の中根千枝である。中根は『中央公論』誌上で発表された論文「日本的社会構造の発見」(1964 年)のなかで、和服を作るのに最も合理的な方法は、西欧伝来の「センチ尺」を用いることではなく日本で昔から使われていた「鯨尺」を用いることであるという巧みな比喩をあげ、それと同様に日本社会の構造もそれに応じた理論を用いなければ正しく説明できないと主張した7)。この論文は日本的特殊性への評価を否定から肯定へ変えたという点よりも、それを分析するための新たな理論的骨子を提供したという点で、以降の日本人論の方向性に大きな影響を与えることになった。
日本特殊性の信念についても同様のことがいえる。中根は先の論文に加筆・修正する形で『タテ社会の人間関係』(1967 年)を上梓するが、そこでは先行の論文では比較的抑えられていた日本特殊化・特殊視の傾向をはっきり示すことになる。たとえば「…という特徴は日本以外の他の社会ではまず見られない」という主張が、この著作の随所で見受けられるようになる8)。
こうした日本の独自性・異質性を強調する箇所は、青木の「肯定的特殊性」という分類とは裏腹に、どちらかというと日本的特殊性に対して否定的な評価を下している場面に多い9)。そして次の箇所は、日本的特殊性の特殊化・特殊視傾向をはっきりと示している。
日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。少なくとも、社会生活において、日本人はインテリを含めて、西欧やインドの人々がするような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣をもっていない。(中略)
論理のない世界に遊ぶ・・・ということは外国人にとっては一つの芸当とみえるかもしれない。(中略)しかし、この論理のない世界というものを、そして、それを社会生活のなかで、これほど機能させるということを、そうした慣習を共有しない人たちに説明することは実にむつかしい。
日本人、日本社会、日本の文化というものが、外国人に理解できにくい性質をもち、国際性がないのは、実は、こうしたところ―論理より感情が優先し、それが重要な社会的機能をもっているということ―にその原因があるのではなかろうかと思われる。(傍点引用者)10)文化人類学者が「社会構造」の比較という形をとって展開したこの議論において示された日本特殊性の信念は、その与える影響も大きかったものと思われる。
中根『タテ社会の人間関係』と並んで「肯定的特殊性の認識」の時期の日本人論を代表する作品として位置づけられ、当時ベストセラーとなった、精神医学者土居健郎による『「甘え」の構造』(1971 年)においても、日本特殊性の信念が前面に押し出されている。この作品のなかで土居は「甘え」が日本語独特の語彙であるという認識から11)、「甘え」が日本人の精神構造を理解するための鍵概念であり、またこのような心理を許容する日本の社会構造を理解するための鍵概念であると説明する。このなかで紹介される、日本語の流暢なイギリス人女性がそれまでは英語で話していたのに、「甘える」という表現を使う箇所のみ日本語を使った、その理由を彼女はこれは英語では言えないからと答えたというエピソードは12)、読者に「日本人のことは外国人には理解しづらい」という考えを抱かせるのに十分な働きをしているように思われる。
この時期には学者・研究者によって、土居の「甘え」概念と同様、日本語に特有とされる語彙を概念として用いて日本人を説明する議論が多く提出された。ただ、そうした議論のすべてが日本特殊性の信念によって貫かれていたというわけではない。しかし、中根の「タテ」・「ヨコ」や土居の「甘え」のように、日本文化・日本社会・日本人を理解する鍵概念として、それらの概念も取り込まれていった。 
(2) 日本をとりまく諸条件
日本人論の執筆者およびそれを受け取る側には、日本特殊性の信念を支える、日本をとりまく諸条件がある。後述するように、それらは結局、比較のための準拠集団を恣意的に設定したことによる信念にすぎないが、比較にもとづいた客観的事実のように論じられる点に特徴がある。
日本特殊性の信念を支えるものは、まず、日本国内の同質性の認識である。その根拠とされるのが、第一に、日本人の単一民族説である。この際、その対抗概念としてアメリカの多民族社会が挙げられている。第二に、日本が島国であるという地理的条件である。この場合は、比較の相手として、ヨーロッパの陸続きの国々が選ばれる。第三に、鎖国という歴史的条件である。これもヨーロッパにおける国境をめぐる度重なる戦いの歴史が比較として挙げられることが多い。第四に、日本人が集団主義的で、欧米人が個人主義的だという説明である。これらの条件を挙げることによって、あたかも日本国内が同質であるかのように説明がされている。単一民族説を用いた説明のなかから、一例を挙げよう。
まず重要なのは、日本がほとんど単一民族で成り立っていることである。しかも、ただ単一民族というだけではなく、単一言語を喋り、ほぼ単一風俗であり、また単一に近い宗教を持っている。そうした中にどっぷりとつかり、お互いになれあって生活している。家族や親族ばかりではなく、学校でも、職場でも、また地域でも、そして日本中がそうである。
そのために、何事につけても、いわず語らずのうちにツーカーと通じ合い、みんながほとんど画一的といえるような考えや感じ方をしている。しかも、その程度はきわめて著しいうえ、当然だとみなされている。小さな部族社会ならいざ知らず、一億人もいる一国内がほとんどそれで満たされているというのはほとんど世界に例がないといえよう。(傍点引用者)13)
この際に、欧米が対抗概念として想定され、それが多様性をもった社会として想定されている点に注目したい。しかし別の文脈で、たとえば日本的特殊性を非合理的、非論理的、集団主義的などと特徴づけるときは、その対抗概念として、合理的、論理的、個人主義的特徴をもった「欧米」の姿がきわめて一元的に論じられることになる14)。対抗概念として想定される欧米イメージはきわめて恣意的なものである。
次に挙げられるのが、日本の「周辺」性の認識である。これは特に日本語や日本人のコミュニケーション様式を取り扱う際において顕著である。ある語彙や表現が日本語に特有というだけで日本特殊性の根拠となるのは、日本人自身が日本語を「周辺」に位置する言語として取り扱っているからにほかならない。その際、対抗概念となっているのは、「中心」としての欧米言語、特に英語である。
日本特殊性信念の根拠となる日本語の特徴として、@主語を頻繁に省略する点、A一人称・二人称の種類が非常に多い点、B肯定・否定の区別が文末に現れる点、C否定が二重にも三重にも使われる点、D複雑な敬語を持つ点などが挙げられている。これらはそれぞれ、@日本人の主体性の欠如、A自我の弱さ、B性格の曖昧さ、C不明確・不明瞭さ、D強い上下関係の意識を示すものとして論じられている。
また、日本人のコミュニケーション様式の特徴としては、非言語的コミュニケーションの多用、多弁を嫌う傾向、結論をぼかす傾向、“Yes” を多用する傾向、会話における論理性の欠如、情緒的表現を好む傾向、文を構成せずに単語だけ話す傾向、型通りの挨拶しかできない傾向、知的ユーモアに乏しいことなどが挙げられている。日本語の特徴にしても、日本的コミュニケーション様式の特徴にしても、列挙されている例を見るに、そこにはそれらの特徴を取り上げ、論じる者の価値判断が介入していて、それは明らかに否定的なものである。こうした例には枚挙にいとまがないが、ここでは次の一例だけ挙げておこう。
日本人はおしなべて、論理には弱いようだ。日本語が論理性に欠けているから、そういう印象が強いのかもしれない。「英語は、概して、きわめて論理的な言葉である。つまり、あらゆる細部を、意図する意味を誤り伝えることなど、ほとんどありそうもないほど適確に表わすことができる言葉なのである。同じことが、大なり、小なり、他のヨーロッパの言葉にも言える。ところが、日本語は、直観の言葉であり、心情的な言葉である」と、ロンドン生まれで日本の大学で英文学を教えているA・ターニーは言う。(中略)
ともかく多少は論理性がなくても、日本人同士のホモジーニアス(同質)な社会では以心伝心、目は口ほどにものを言うのである。たとえば、レストランに入っても、「僕、カレーライス」、「私、ハンバーグ」というふうな最小限の言葉で意味が通じる。「私は、ハンバーグを食べたいと思います」というふうにはならない。家庭でも、できるだけ短い言葉で用が足せるようになっている。「お茶!」とか、「僕、オフロ」。それを聞いて、だれも揚げ足を取って、「君はオフロなのですか。そうではないでしょう。オフロに入りたいのでしょう」とはまぜかえさない奇妙な文化が形成されている。言葉は、コミュニケーション手段として決定的な役割を果たしてはいない。言葉は、いわば” 木の葉っぱ” 程度にしか見なされないということだろうか。日本語はコミュニケーション手段として歴史的に軽視されてきたので、論理性が培われてこなかったのか、それとも論理性の必要なコミュニケーションが社会的に要求されてこなかったので、言葉にもともと論理性がないかも、いずれかだろう。(傍点引用者)15)
この例で「以心伝心」という言葉が用いられているように、日本人のコミュニケーション様式に非言語的コミュニケーションの占める割合が多い根拠として、「以心伝心」、「腹芸」、「ツーカー」などの概念が用いられる。この非言語的コミュニケーションについては、異文化コミュニケーション研究の領域では現在でも異文化コミュニケーションの重要なテーマとして取り上げられている16)。そこでは、言語表現やしぐさがどれほど文化的コンテキストに依存しているかが問題とされ、言語によって「高コンテキスト/低コンテキスト」の差があると説明される。
日本人のコミュニケーション様式は文化的コンテキストに高く依存するとして高コンテキストに位置づけられる。
さて、ここまで日本特殊性の信念を支える諸条件をみてきたが、日本の同質性を強調するにしろ、周辺性を強調するにしろ、比較の準拠集団として用いられているのはほとんど欧米に限られているのが特徴的である17)。しかも、そこで紹介されているのは、日本の同質性を語る際には、多様性に寛容で、個人個人を尊重する欧米の姿、日本語や日本人のコミュニケーション様式について論じる際には、雄弁性、論理的、合理的といった特徴をそなえた欧米言語文化の姿と、恣意的に選択され、かつきわめて理念化されたものである18)。したがってこれら日本特殊性の信念を支える諸条件も、実際のところは非常に実証に乏しいものであるといえる。 
2.日本特殊性の信念に対する先行研究の批判について
日本の文化、社会構造、日本人の国民性は特異で、外国人にとってはわかりづらいものであるという日本人論の執筆者に見られるこうした信念に対して、先行の日本人論研究・論考ではどのような考察が加えられてきたか。これを明らかにするのが本節の目的である。まずは、その内容を振り返ることにする。そして、その批判内容の問題点を指摘する。 
(1) 先行研究・論考の批判内容
1980 年代、日本人論がまだ学問的真理を帯びた言説として受け入れられていた時期にいち早くその方法論的問題点を批判した杉本良夫とロス・マオアは、日本人論のなかの「日本特殊独特説」、本稿でいうところの日本特殊性の信念が支配のイデオロギーとして機能する点を指摘している。彼らはそれを、対外的機能、対内的機能、自己充足予測の三点に区別して説明している。
対外的機能とは、海外諸国に対して「日本文化は日本人にしか理解できない」という命題を打ち出すことにより、国際問題における政府の対応、海外における日系企業の活動、個人レベルでの日本人の行動などをいずれも正当化する役割を果たすことをいう。杉本とマオアは、文化相対主義がここでは交渉を自分たちに有利なものにするための手段として用いられているとして厳しく非難している19)。
次に対内的機能だが、これはその役割がさらに細かく分けられている。第一は、日本的特殊性を優れたものとして評価するとき、その評価が国民に催眠術的な作用をもたらすという点である。第二は、政策決定や企業の労使交渉の場において、日本特殊独特説が、政府や企業に有利に機能するという点である。日本に独自のものであるという説明を用いることによって、政策や労務管理について、他国との比較によって生じる国民や労働者の不満を封じることができるのである。第三は、日常の社会生活においても、日本特殊独特説が現状を正当化する働きをするという点である。そして第四に、日本をユニークだと主張することが、異文化理解の専門家にとってお金を稼ぐ手段になっているという点である。日本特殊独特説が流行すれば、日本と外国との異なる点について知りたいという需要が高まる、彼らはそれを講演や自著で披露することによって利益を得るということである。したがって仮に日本と海外とは類似性が高いという考えが広まれば、この手の人々にとっては不利に働く、と説明されている20)。
最後に自己充足予測についてだが、これはアメリカの社会学者R・マートンの用いた概念で、ここでは、日本は特殊だといっているうちに当初は不正確であったはずのその予測が現実化してしまうことをさしている21)。杉本とマオアは、「日本社会は他の社会とちがってタテ社会だ、グループ主義の社会だ、コンセンサス主義の社会だという説が、たとえ、かりにデマであったとしても、巷に流布するにつれて、人びとがそれを信じこみ、その結果、こうした傾向に合わせて行動するため、『ウソから出たマコト』になっていくことも、可能性としては考えられる」と説明している22)。
ハルミ・ベフも、杉本らと共に日本人論(ベフは「日本文化論」と表記)のイデオロギー性を早くから非難した研究者の一人である23)。ベフは日本人論が繰り返し書かれる理由に注目し、それを次のように説明する。
第一は、「大衆消費財」として日本人論が書かれるという説明である。ベフによれば、日本の大衆が望んでいるのは、世界に冠たる経済先進国として誇れる自画像であるという。大衆は自分ではその裏づけを取れないので、「文化論者」にそれをやってもらう。ベフの見解では、「少々事実をまげてでも、日本文化のよさ、そしてユニークさが強調される文化像が日本人の自尊心をくすぐり、大衆にもてはやされる」という24)。西洋の日本研究者もこれに対応して、肯定的な論調の日本人論を書く。ベフはその理由として、西洋の日本研究者は基本的に日本びいきが多く、日本をバラ色のレンズで見たがり、その結果、日本が好意的に描かれているモデルになびくことになるという点と、研究で日本人とのつながりを保っておくために「日本人によく思われる」必要があるという理由をあげている。ベフによれば「日本がよくまとまりのとれた調和社会であるというモデルを主張する人の方が、日本の『恥部』に焦点を当てたモデルを主張する人よりも、日本では受けがいい」という25)。
第二に、これはベフがもっとも強調する理由であるが、日本人のアイデンティティの不安を払拭するために、日本人のユニークさを前面に押し出した日本人論が書かれるという説明である。日本人は明治以来、一貫して欧米文化を模範としてきた。それでも、公の場では「洋式」、私の場では「和式」という棲み分けができていたのだが、「国際化」の時代になって、「洋式」が私の領域にまで踏み込んできた。欧米文化の攻勢は日本人のアイデンティティの危機に直結する。ベフの説明では、「文化論は日本人、日本文化のアイデンティティーを設定し、国際化した日本人にも、欧米化した日本文明にも、確固とした、ユニークな日本文化が残っていること、否、その日本文化が日本文明の核心をなしていることを証明し、そうすることによって、日本人に自信をもたせ、また安心感をいだかせる」という26)。日本のことは日本人にしか理解できないとする言説は何よりアイデンティティの危機から日本人を救い出すものである。
確かにそのような目的で、その民族の独自性が強調されるという例はある。たとえば、言語文化的にマイノリティに位置する民族が、支配的な言語文化に吸収されるような危機的な状況に立たされたときに、あえて自分たちの言語にこだわることがある。これは実験研究においても明らかにされている27)。そこでは、外集団から自分の言語を卑下された被験者は、積極的に内集団に通用する言語やアクセントに切り替えるという反応を見せている。こうすることによって、みずからの社会的アイデンティティを肯定的なものに保とうとするのである28)。
第三に、比較を断ち切るためにユニークさを強調するという説明である。日本人は西欧諸国と比較されると、劣等感を抱く。ユニークなものは質的に異なるために、比較ができない。これまで劣等に位置づけられていたものが、等価となる。それによって、劣等感から解き放たれるとする説明である29)。以上がベフによる批判である。
最後にもう一人あげておきたい。戦後日本におけるナショナル・アイデンティティの欲望を満たす表象・言説について論じる阿部潔は、日本人論を文化ナショナリズムの言説と位置づけて、これを批判的に論じている30)。阿部は敗戦直後から80 年代までに日本的特殊性へのとらえ方が否定的なものから肯定的なものへと変化したこと、80 年代に一度批判にさらされた日本独自論の言説が90 年代に新たな形で「特殊性」を自画自賛する色合いを強めたことに注目して、日本人論がいかに日本人のナショナル・アイデンティティの確認に寄与してきたかを論じる。
阿部の説明によれば、「政治的な次元で『ナショナルなもの=日本らしさ』を自己主張することを封印された『日本人』に対して、『日本文化論/日本人論』は、『日本人であること』をヨリ文化的な次元で積極的かつ肯定的に是認することを保証してきた。その意味で『日本文化論/日本人論』という言説ジャンルは、戦後一貫してナショナル・アイデンティティの供給源であり続けてきたのである」ということになる31)。 
(2) 先行の批判の問題点
以上、日本人論における日本特殊性の信念がもたらす影響についての先行研究・論考の見解を振り返ってみたが、それらは、特殊性の信念が自民族優越論や文化相対主義を盾に取った支配イデオロギーに結びつくことに懸念を抱き、批判している点で共通している。確かに、この時期の政策において「文化」が特に重視され、大平正芳首相が「文化の国際化」を唱え(1979年)、中曽根康弘首相が「たくましい文化の国」と「国際国家」とを合わせて説いた(1982・1983 年)ように、それが外交の重要な一手段として位置づけられたことは32)、日本特殊性の信念が、時の政府の戦略に組み込まれたことを示している。特に、大平政権下における『文化の時代』(1980 年)と題する政策研究会の報告書においては、日本文化を「近代合理主義に基づく物質文明」の対概念として位置づけ、「近代を超える時代」に要請されるものとして積極的に評価している33)。この点においては、先行研究者の批判は適切であるといえる。
しかし、先に引用した箇所も含めて、ベフの次のような見解には、疑問をはさまざるをえない。
・・・「経済大国」を自負している日本人にとって、これらの特徴は日本人の自負心をそそるものでなければ、そのニーズを満たしたことにならない。自負心を傷つけるようなもの、たとえば終戦直後の日本論のように日本文化をせめてやまないようなものは現代日本では受け入れられない34)。
この見解は果たして適切であろうか。先述したように、日本特殊性の信念の根拠となりうる、単一民族や島国、鎖国、あるいは日本語の問題が取り上げられる際、その論調はむしろそうした特殊性に対して否定的なものであった。同じように、日本人論によって注目されるようになったさまざまな概念、たとえば、「タテ・ヨコ」、「ウチ・ヨソ」、「甘え」、「イエ社会」などの概念が、読者によってどう解釈されたかについても検討の余地を残している。
その証拠に、先に引用した『「甘え」の構造』の著者、土居健郎は、のちに出された著書のなかで次のように述懐している。
例えば、本書が出版されてそれ程間もない頃から、わが国社会の仕組みで何かよからぬことが問題となる際に、「あれは甘えの構造だ」という声が聞かれるようになったことを多くの読者が覚えておられるだろう。(中略)たしかに本書の中で「甘え」の効果が芳しくない場合のことが論じられている。特に戦後は自立の重要性が声高く叫ばれるようになったので、そのような社会風潮を背景にして「甘えの構造」がよからぬことの代名詞にされてしまったのであろう。35)
土居の述懐に少し補足すると、土居自身は「甘え」を、日本人の社会関係においては積極的な役割を果たすものと評価したのであった。しかし、述懐にもあるようにそうした「甘え」概念を受け取った人々は必ずしも土居の思惑通りには解釈しなかったようである。
また、もう一つの根拠として、日本人論の「消費」の側面に注目した吉野耕作が、自身の聞き取り調査から、一般の読者が日本人論における自省論から賞賛論への移行を意識、確認していなかったことを明らかにしている点を挙げることができる36)。ここで吉野は、聞き取り調査の対象者が、学者・研究者の書いた日本人論を直接読むのではなくて、評論家やジャーナリスト、企業人によってより平易な言葉を用いて「再生産」された日本人論を読んでいることを明らかにしている37)。その過程で、先の諸概念に対する解釈も変わる可能性があるのである。
ベフについてはもう一点、欧米の日本研究者が日本びいきや日本人との関係を保つという理由から肯定的論調の日本人論の生産に貢献しているという見解にも問題がある。日本の成功の要因について分析した社会学者エズラ・F・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)はともかくとして、日本について広範囲にわたる考察を行なった元駐日大使で日本学者のエドウィン・O・ライシャワーの『ザ・ジャパニーズ』(1977 年)や、国際問題研究家Z・ブレジンスキーの『ひよわな花・日本』(1972 年)を見るに、その論調は必ずしも日本人に好意的なものばかりではない。また、日本の世界における孤立を指摘する議論や、日本的特殊性を滑稽なものとして描く日本人論も、やはり同時期の外国人によって書かれている。そして、それらはいずれも日本人に広く受け入れられたのである38)。
これらの点から、日本特殊性の信念が、別の議論においてどのように反映されているかを見る必要がある。特に、日本的特殊性は外国人にはわかりづらいとする信念が前提とされているがゆえに、その議題が重要なテーマとなっている議論に注目したいと思う。次節で取り上げる日本人の「国際化」というテーマはその最たるものではないかと思う。 
3.「国際化」論にみられる日本特殊性の信念
この節では、日本人の「国際化」論を例示し、日本特殊性の信念のもと、日本的特殊性がどのように論じられているかについて明らかにしたい。
日本人の「国際化」に関する議論は、日本の対外経済進出にともなって発生した諸外国との経済摩擦が大きな推進力となった。「文化摩擦」という言葉が用いられたように39)、経済的な摩擦をもたらす日本に対する非難の声や誤解に対して、文化面における相互理解の不足が原因として注目されるようになった。その際、日本人は自文化をどうとらえ、自国民の行動様式・思考様式をどのようにとらえたか、これを実際の議論から読み解くのが本節での目的である。
先述の先行研究では、「日本特殊独特説」が対外的に日本式の行動様式を正当化する根拠として用いられるという指摘がされていたが、当時の議論からはその逆の見解も見出すことができる。すなわち、日本特殊性の信念が、日本人に批判的・否定的な論調の議論に結びつく例である。それは政策においても見ることができる。次の例は、1974(昭和49)年に、「教育・学術・文化における国際交流について」という文部大臣の諮問に対して、中央教育審議会が提出した答申の内容である。
我が国は、過去一世紀の間、欧米諸国の文明を積極的に取り入れつつ、近代国家形成のために努力してきた。この間における我が国の目覚ましい発展は、国民の英知と不変の熱意によるものであり、特に現今の我が国は、欧米諸国と並んで国際社会に対して、大きな影響力をもつに至り、また、我が国に対する国際社会からの期待も大きなものとなっている。
しかしながら、このような近代国家形成の過程を顧みると、我が国は欧米諸国の知識・技術を個別に吸収することに急であって、諸外国に対する総合的な理解や我が国に対する諸外国の理解を深める努力に欠けるところがあった。
このような我が国の発展過程における特異な経緯は、地理的事情により、異質文化との日常接触が困難であったこともあり、往々にして、国民一般の国際理解や国際協調の精神の欠如をもたらし、独善にして閉鎖的な行動様式を生み、特に、近年における海外活動の拡大に伴い、我が国に対するいたずらな誤解と不信を招く背景となっている。(傍点引用者)40)
ここでは、日本に「特殊独特」とされる行動様式は、むしろ独善的で閉鎖的なもの、また、いたずらな誤解と不信を招くものとして否定的にとらえられている。また、諸外国に対する理解の努力と並んで、自国に対する諸外国の理解を深める努力が日本人に求められている点も特徴的である。たとえば欧米に対して日本人が仮に誤解や不信の念を抱いたとしても、それが欧米が日本に自文化を理解させる努力を怠ったためだという解釈にはならないだろう。だがその逆のことは堂々と語られているのである。そのような非対称性は、日本特殊性の信念にもとづくものであるといえよう。
同じような例として、「日本の条件」と題するテレビ番組を担当したNHK のプロデューサーの次の意見を挙げることができる。
戦後、一億一千万人の日本人は、日本語という世界共通語になりにくい言葉を使い、単一民族として、四方海に囲まれた島国で、独特の文化、伝統、国民性をもちながら暮らしてきた。明治以来、欧米からひたすら知識を摂取し、近代技術を採り入れ、自分のものにしてきたが、日本から文化を送り出す努力は、ほとんどしなかった。
以心伝心、和を重んずる風土の中で、日本人だけが住みやすい社会をつくって、外国人はよそものとして無意識のうちにわけへだてをしてきた。外国人の目からみると、日本商品だけが洪水のように押し寄せるけれど、日本人は発言しない。日本という国が、なんとも気味の悪い存在に見えてくる。(傍点引用者)41)
この発言には、「以心伝心」、「和を重んずる」、「よそ」など、「肯定的特殊性の認識」の時期に、日本文化を理解する鍵概念として取り上げられた言葉が引用されている。しかし、それらはむしろ日本人の否定的側面を論じるために用いられている。これは先述の土居の述懐に通じるところがある。また、「外国人」の目から見た、明らかに偏見に満ちた日本人像が、日本人を批判する文脈で用いられている。ここで使われている「洪水のように」といった日本人の集団主義や同質性を示唆するメタファーは、他の「国際化」論においても見ることができる42)。
日本人に自文化を紹介する努力が欠けているために軋轢や葛藤が生じる、という見解は他の「国際化」論者においても見られる。その例を挙げる。
「 鷹揚さ」は、自国の文化を他国に紹介するといった文化的活動にも出し惜しみをしない、というところにまで及ばなければならない。
だが、日本のそうした活動に対する予算の比率は、米国、フランス、イギリス、西独等に比べるとはなはだ低い。(中略)
これでは相変わらず、歌舞伎、能、生け花、茶道の日本、その一方でのカメラ、ラジカセ、自動車そしてハイテクの日本、というきわめてワンパターンな日本像しか持ってもらえないのは当然と言わざるをえない。(傍点引用者)43)
「 日本人論」においてだけでなく、すべての領域において、文化の相違をこえて自分の社会を説明するという能力はおろか、それが必要だという意識さえない。(中略)
いや、日本の文学もかなり外国語に翻訳されており、日本人でノーベル賞をとった人もいるではないか、といわれるかもしれない。そういう考え方が一般的だが、実はそれこそが問題なのである。少しの翻訳書があるということは、体系的・比較論的な説明をしたということではない。しかもたいていの場合は、翻訳が外国人によるものであり、日本人は翻訳さえしていないわけである。そのかわりに、外国語からの翻訳や翻訳的紹介はおびただしくある。(傍点引用者)44)
文化交流の面からみると、日本はこれまで他国の文化を受け入れることだけに一生懸命で、こちらの文化を諸外国へ紹介し、伝えることには消極的であり過ぎた。(中略)アメリカ大統領の名前は大部分の日本人が知っていても、逆に大部分のアメリカ人は日本の首相の名前を知らないという調査結果がいつぞや発表されたことがある。これは、アメリカ人を責める前に日本人自らが日本を知らしめる努力の至らなさを反省すべきであろう。(傍点引用者)45)
いずれの例においても、責任を日本側に求める姿勢が見られる。二番目の例はより具体的で、海外における日本の書物の翻訳に、日本人が携わっていないことが批判的に述べられている。
これも先にしたことと同じように、日本で読まれる外国の書物は、当該国の人間が日本語に翻訳してから日本へ送り出すものなのか、三番目の例も同様に、アメリカ大統領を知らない日本人がいるのは、アメリカがそれを日本人に知らせる努力を怠っているからなのかという逆の問いを設定すると、それがいかにいびつな見解であるかが明らかになる。これらの見解は一見、外国人に対する「善意」を示す解釈のようにも受け取れるが、実際のところは強い日本特殊性の信念、すなわち「日本人のことは外国人には理解しづらいのだから、われわれが理解させなければならない」という信念にもとづいた解釈であるといえる。したがって、「国際化」も日本人にとっては他国民以上に難しい課題であると説明される。その例を挙げる。
国際という概念を個々の「ヒト」に当てはめて考えてみた場合の国際化は、知的・心理的・情熱的にコスモポリタンな態度とメンタリティーを個々人の中に作り上げていくこと、すなわち己を知り、自国を知り、そして世界を知り、しかも必ずしもすべての点で他者に同意することなしに互いに違和感を感じない精神構造・態度を確立することにあるといえよう。地理的、歴史的、人的に孤立してきた日本人が、このような精神構造・態度を確立するのは容易な業ではない。日本は、考え方や態度、体型や容貌においてお互いにほぼ完全に日本的であると感じている人びとだけによって形成されている社会である。しかも、日本人は、他のいかなる国民も話すことのない言語、他のいかなる国の一般教育課程の中にもほとんど取り入れられていない言語を話しているという点で、近代世界史上の主要指導国としてきわめて異例な存在であるといわねばならない。こうした背景を思うにつけても、日本人をコスモポリタン化し、ひいては日本社会を国際化するという目標を達成することが、きわめて難しい課題であり、十分な心構えが必要であることがあらためて痛感されるのである。46)
こうした信念にもとづけば、日本人の「国際化」に関する次のような結論は当然の帰結であるといえる。
このように、固有の文化的アイデンティティをもっているだけに、私たちは、どのようにすれば摩擦を最小にできるかということについて努力しなければならない。まず、「日本人とは」「日本国とは」という自己認識の努力が必要であろう。次に心掛けるべきは、私たちのあらゆる文化を翻訳することである。と同時に、私たちは鎖国的メンタリティーをもっているだけに、一方で外向けの自己紹介の努力を重ね、他方で異文化理解の努力もしていかなければならない。(傍点引用者)47)
日本を世界的視野で眺めず、なおかつ前述したような意味できわめて特異な存在である事実を明確に認識せずに、やみくもに「国際化」を唱えても正しい「国際化」を実現することにはならないだろう。ここで私の言う正しい「国際化」とは、まず日本が正しく諸外国を理解する努力を惜しまず、またそれ以上に大事なことは、ややもすると他国に理解されにくい要因を持つわが国を正しく世界に理解させる不断の努力をすることである。(傍点引用者)48)
一時代前とは違って、現在は西洋諸国の側が日本を理解し、日本に接近する手がかりを求めている。それに応えて、われわれの文化的行動様式の特性を彼らに理解可能な仕方で説明しようと努めることが、われわれの責務であるように思われる。(中略)
さらに、人間の文化的行動様式と言語構造は不可分の関係にあるのだから、日本的行動様式の特異性を日本語というこれまた極めて特殊な言語を参照枠として解釈するだけでなく、これをむしろ西洋語による西洋的思考に置き移して考えてみることが、西洋人の立場での日本理解を促進する助けになることは明らかだろう。(傍点引用者)49)
この信念が強い排外意識をともなっていることは、以上の例からも明らかである。しかし、それは先行の日本人論研究・論考が指摘したような、日本人の優越感をくすぐるような言説においてのみ現れることではない。日本人に特異・独自であるだけに、日本人にそれを伝える努力を求めるという言説においても、この信念は現れるのである。
日本人に努力を求めるということは、そういう努力をしない日本人を否定的・批判的にとらえる傾向にむすびつく。日本人は自分の行動様式・思考様式はそのままでは「国際社会」では「不可解なもの」・「通用しないもの」として認識する。次の二例はその点をよく示している。
これらは、いずれも異文化コミュニケーション論を担当とする大学教授によって書かれた文献からの引用である。
東京の私立大学で経営学を講じ、国連本部でも働いた経験をもつ先生が、こんな話をしていたのを思い出す。
「五、六名の日本人学生をレストランに連れて行き、彼らが注文する食事をどのように決めるのか、その決定の仕方を見ていると、学生の『国際性』の度合いを測ることができると思うんですよ。
二十種類以上もあるメニューのなかから、リーダーシップのありそうな学生がスパゲティー・ナポリタンを注文したりすると、残りの学生はほぼ右へ倣えとばかり、同じ料理を注文する。この場合は、国際性がいたって低いと判断する。これとは逆に、一人一人が
仲間の学生の注文に影響されずに、それぞれが異なった料理を注文すると、彼らの国際性は高いと採点する。だが、ほとんどの場合は前者です」(傍点引用者)50)
日本人の私にもしばしば不愉快になるものに、若い人のにたにた笑いがあります。何のためににたにたしているのか分かりません。街中のお店でもときどきお客の質問に対してにこにこではなく、にたにたしている若い店員がいます。「にたにた」は「うすきみ悪い顔をして笑うことを表わす」(『新明解国語辞典』三省堂)ことですので、相手に不愉快な感情を与える笑い方です。自信なさそうな不可解な笑い方も含まれます。反対に「にこにこ」は、余裕のある相手に好印象の与える笑い方です。「にたにた」と「にこにこ」を混同してはなりません。(引用者注:「好印象の与える」の箇所は原文ママ)
大学でも授業中にあてて分からない場合などにも「にたにた」が見られます。本来分からない場合には困った顔をしなければなりません。相手に気を使ってのことと想像しますが、このような場合には相手より自分のことに気を使うべきでしょう。分からないのか分かるのかはっきりしないのは気味が悪い。まず国際的には通用しないものだということ、そして国内的にも通じない人たちがいるということを念頭に置くべきです。(傍点引用者)51)
いずれの例においても、登場する「日本人」があらかじめ不利な役割を担わされていることは明らかである。しかし、そうした著者にとって否定的・批判的に映る行動の主体を「日本人」に負わせることによって、日本人の「国際性」・「国際感覚」のなさを説く議論は多い。このように、日本特殊性の信念は、日本人に対して否定的・批判的な論調の議論にも反映されているのである。 
おわりに
本稿では、日本人の「国際化」に関する議論における、日本特殊性の信念、すなわち日本を特殊化・特殊視する信念に注目し、それにもとづく日本文化や日本人の論じられ方を問題にした。「国際化」論に大きな影響を与えた日本人論での日本特殊性の信念は、欧米近代社会とは必ずしも一致しない日本社会の成長・発展を説明する議論のなかで強められていった。したがって、先行の日本人論研究・論考においては、肯定的論調の日本人論にみられる日本特殊性信念に注目が集まり、そのイデオロギー的機能が指摘されたが、そこでは日本人に対する否定的な論調の議論においてもその日本特殊性信念が機能している点が見逃されていた。そこで、本稿では「国際化」という転換点を機に、日本人に変化を促そうとする議論に注目し、そこに表れる日本特殊性の信念を明らかにした。「国際化」論では「外国人には理解が難しい」とする日本特殊性の信念は、むしろ日本人にとっては改善されるべきものとして位置づけられている。
あるいはそれを外国人にも正しく理解されるように伝える努力が求められる。そのような努力を怠る日本人に対しては、日本人自身から「不可解である」、「国際的に通用しない」など、否定的・批判的な評価を下されることになる。この場合厳しい視線が「日本人」に対して向けられているといってよいだろう。こうした視線が日本人の自己認識、自集団認識を規定しているということが考えられる。しかし、そこで言われている「国際化」とは結局欧米的価値観を基準にしているに過ぎず、導き出される日本的特殊性も欧米との比較、特に理念化された欧米との比較にもとづいたものにすぎない。その点で日本人論と同様の問題を有しており、まさに日本人論の言説がそこで「再生産」されている点を確認することができるのである。
「国際化」という言葉は最近ではあまり用いられなくなってきているが、ひきつづき「異文化理解」や「異文化コミュニケーション」という文脈で同様の議論が見受けられることがある。
そうしたテーマでの言説にも注目する必要がある。
さて、本稿ではこうした日本特殊性の信念の内容を取り上げたが、長期的な視点としてはこのような自己認識のあり方を、集団間関係における個人のアイデンティティに関する文脈のなかに位置づけて理論的に分析したいと考えている。これについては次稿以降の課題とする。 

1)平野(2000)208−209 頁。
2)小熊(2000)367 頁。
3)喜多村(1990)。
4)青木(1990;1999)160 頁。頁数は文庫版(1999)のもの。以下同じ。
5)梅棹忠夫「文明の生態史観序説」『中央公論』1957 年2 月号。梅棹によると、この論文に「序説」という言葉を追加したのは編集者であって、梅棹自身は、これに続けて本論を書く意図はなかったらしい。そのことはこの論文が再録された梅棹(2002)に書かれてある。
6)梅棹(1957;2002)105−106 頁。頁数は(2002)のもの。
7)中根(1964)。
8)また、たとえば次の箇所は論文を本に収めるにあたって次のように書き改められている。論文「日本的社会構造の発見」: 「インドには『アンタッチャブル』(不可触賤民)といわれる下層グループがあるが、この人たちや、自分たちと異なる言語を話すグループ、あるいは異なるカーストに対する態度は、この日本人の態度とは一見似ているが違うものである。」〔同上、59−60 頁〕 本『タテ社会の人間関係』:「インドには『アンタッチャブル』(不可触賤民)といわれる下層グループがあるが、他のカーストの人たちと、この特殊な人たちとの間の関係にさえ、日本人の『ヨソ者』に対するような一種の緊張関係、ひどい感情的差別の誇示はない。」〔中根(1967)49−50 頁〕 このように、本では日本の特異性が強調されている。
9)この本が肯定的な評価を一方的に下しているわけではないことは、青木も言及している。青木、前掲書、94 頁。
10)中根、前掲書(1969)181−183 頁。なお、引用文の「・・・」部分はダッシュにより次の一文が挿入されている。「しかもきわめて容易に日常生活の場で行なわれ、それが公的な関係に交錯するほど、社会生活全体のリズムのなかに、その重要な(潜在的とはいえ)部分として位置づけられている」
11)『「縮み」志向の日本人』(1982 年)の著者、イー・オリョンが指摘したように、土居の認識は英語との比較によって生じたものであり、韓国語にも「甘え」の語彙があって日常的に使われていることから、正確なものとはいえない。
12)土居(1971;1981)11 頁。頁数は第2 版(1981)のもの。
13)稲村(1980)212 頁。
14)杉本とマオアはこれを「西洋一元論」として、日本人論の方法論的問題点の一つとして挙げている。杉本・マオア(1982;1995)164−165 頁。
15)寺谷(1998)60−61 頁。
16)例として、石井ほか編(1997)、鍋倉(1997)、西田・グディカンスト(2002)などが挙げられる。
17)中根の作品では、インドが比較の対象に選ばれているが、そのインド文化は、しばしば欧米文化の代理としての役割を担わされている。
18)杉本とマオアはこれを「異質なサンプルの比較」として日本人論の方法論的問題点として指摘している。杉本・マオア、前掲書、161−162 頁。
21)これは”self-fulfilling prophecy” のことで「予言の自己成就」とも訳される。
23)ベフ(1987;1997)。
27)Bouhris & Giles(1977).
28)社会的アイデンティティ(social identity)とは、「個人の自己概念の一側面で、ある社会集団の成員であること、そしてその成員であることの価値や感情的意味づけをともなう知識にもとづく自己概念」のことをさす。Tajfel(1978)、 p. 63.
29)ベフ、前掲書、133 頁。
30)阿部(2001)。
32)平野(1985)。
33)『文化の時代』(1980)。
34)ベフ、前掲書、61 頁。
35)土居(2003)3−4 頁。
36)吉野(1997)210 頁。
38)日本特殊性の信念を持ちながらも、日本人の外国人の手による日本人論への関心は高い。たとえば筑紫哲也編『世界の日本人観・総解説』(1985 年)からその関心の高さがうかがえる。
39)国際関係論を専門にする衛藤瀋吉が「英語のculture conflict を訳したもの」として「文化摩擦」の語を用いている。衛藤(1980)9 頁。
40)文科省ホームページより。
41)玉井(1981)265 頁。
42)栗田ほか(1987)410−411 頁、天沼(1989)104−105 頁、寺谷、前掲書、175−176 頁など。
43)天沼、前掲書、79 頁。
44)金山(1989)26−27 頁。
45)及川(1990)164 頁。
46)加藤ほか(1987)424 頁。
47)矢野(1986)166 頁。
48)及川、前掲書、145−146 頁。
49)木村(1993)31−32 頁。
50)井上(1990)11 頁。
51)大崎(2000)144−145 頁。 
 
「異文化適応」論の中の日本人特殊論について

はじめに
日本の文化や日本人の行動・思考様式の独自性を強調する言説、いわゆる日本人論(日本文化論)については、それを学問的な主張と見なすことに疑問の声が上がって久しい。しかし「異文化」を冠する議論では、なおこうした日本人論的主張を目にすることができる。本稿は、そうした言説を分析する試みである。具体的には、日本人の異文化適応についての議論を取り上げ、まずはそこで論じられる「日本的」特性の内容・特徴を明らかにする。つづいてその特徴の一つとしての「『日本的』特性の独自性の強調」(本稿では「日本人特殊論」という呼び方も併用する)に注目し、そうした主張の立論上の問題点を指摘する。最後に、そうした独自性強調の言説の、後発の議論への影響を明らかにする。
異文化との接触を前提として、そこで生じるさまざまな事象について分析・考察する試みは、大きく分けると、異文化コミュニケーション研究・異文化間心理学・異文化教育の分野で行われてきた。それらはいずれも学際的な性格を持ち、互いの研究成果を生かし合う関係ではあるものの、異文化適応というテーマについては、なかでも異文化間心理学の分野において進められてきたということができる。この分野には心理学をはじめとして、文化人類学・精神医学などの研究成果が活用されている。
異文化への適応については、20 世紀初頭にはすでに米国において精神医学者による移民についての事例の報告・調査などが行なわれていたが、研究のテーマとして多くの関心を集めるようになるのは、第二次大戦後以降のことである(高橋、1983; 箕浦、1987)。その背景には、米国へ留学する外国人留学生の増加や、外国企業からの駐在員とその家族の増加、あるいは逆に米国から海外へ赴く人々の増加がある。とくに1960 年前後より心理学者が文化接触過程に関心をもつようになり、適応に関する理論的な研究も進められるようになった。「カルチャー・ショック(culture shock)」の概念が文化人類学者のオバーグによって提唱されたのも、ちょうどこの頃である(Oberg、 1960)。
日本においては、1960 年代半ばに、米国で学ぶ日本人留学生の生活適応・精神衛生に関する報告が精神医学分野から提出されたが(稲永他、1965; 島崎・高橋、1967a; 1967b)、日本人の異文化適応についてさかんに論じられるようになるのは、カルチャー・ショックの概念が定着する1980 年代以降である。当然その背景には、海外渡航・滞在を経験する日本人の増加がある。
それと並んでこの時期は、日本と諸外国との間の「文化摩擦」の問題がさかんに論じられていた時期でもある1 )。日本文化の特性が、他の文化との葛藤、緊張、対立を生んでいるということが、当時の政府を含め、多くの人々の共通認識となっていた。そのような中、カルチャー・ショックは個人レベルにおける文化摩擦と見なされた(星野、1982)。このことが日本人の異文化適応に関する議論において、「日本的」特性が注目され、その独自性が強調される背景になっていることは間違いない。
本稿は、異文化適応に関する議論の中で、日本人を特殊と見なす言説が受け継がれている点を明らかにすることを目的としているが、そこへ辿り着くまでに、そうした言説の実証性の乏しさを明らかにするのに多くのページを割くことになった。これは、後発の議論があまりに無批判にそうした言説を受け入れていることから、改めてその実証性を問う必要性に迫られたためである。本稿では、後発の議論で参照・引用される文献が、少なくともその文献の論じ方では「日本的」特性の独自性を証明できないという点を改めて明らかにしておきたい。そのうえで、そうした言説が後発の議論へと受け継がれている点を問題にすることにする。 
1.不適応の要因とされる「日本的」特性の内容と議論の特徴
「日本的」特性の独自性を強調する言説(「日本人特殊論」)は、日本人のカルチャー・ショックや不適応の要因を日本人の行動特性に求めようとする議論において表れる。この節では、そうした議論を取り上げて、記述内容とその特徴を見ていくことにする。
日本で異文化適応に関する議論がさかんになるのは、先述のとおり1980 年代であるが、社会人類学者の中根千枝はかなり早い時点からこの問題に着目していた人物である。彼女は、著書『タテ社会の人間関係』(1967 年)においてすでに、日本人の行動特性がいかに「国際性」に欠けるかについて論じている。そして、つづく著書『適応の条件』(1972 年)において、カルチャー・ショックを取り上げ、日本人と現地社会の住民との文化の違いによる衝突について論じている2 )。『タテ社会の人間関係』が今日では代表的な日本人論の一つとして位置づけられているように(青木、1990; 南、1994)、両著作とも、列挙される日本人の行動特性が日本人に特有なものとして論じられている点に特徴がある。
精神医学者稲村博の『日本人の海外不適応』(1980 年。本稿では1980a)にも同様の傾向が指摘される。稲村は、1977 年度から3 年間にわたる文部省科学研究費の特定研究「東アジアおよび東南アジア地域における文化摩擦の研究」に、精神医学の分野から参加した研究者の一人である。この著書はその成果の一部である。そこでは在外日本人の不適応の症例の紹介と並んで、不適応現象の分類、適応の法則性の分析、そして日本人の行動特性についての考察が行なわれている。また、この著書と前後する形で、同様の知見が、心理学・精神医学分野の雑誌や文献においても披露されている(稲村、1979; 1980b; 1980c; 1980d) 3 )。
稲村の著作と同様に、在外日本人の症例を紹介しながら、適応一般に関する考察や日本人の特性に関する考察を行なっているのが、臨床心理学者近藤裕の『カルチュア・ショックの心理』(1981 年)である。この著作では、中根や稲村の著作がすでに参考文献として挙がっている4 )。
それと並んで、その他の日本人論も参照・引用されている。
日本で異文化適応に関する議論がさかんになるのは1980 年代以降なので、これらの著作はその先駆的な存在として位置づけられる。それゆえに、後発の議論においても参照・引用されていることが多い。日本人の異文化適応の問題を論じるうえで、影響力を有してきた議論であるということができる。以下に、それらが論じる「日本的」特性の内容と特徴を挙げてみたい。 
1-1.「日本的」特性の内容
結論を先にいえば、彼らが「日本的」な特性として述べているものは、「自文化中心主義」と「集団主義」の二点にまとめられる。まずはこれを論者自身の表現に近い形で拾ってみよう。
@ 中根:「日本的システム」の強制(中根、1972)
中根はシステムという概念を提示し、次のように説明する。個人の社会生活は無数に張り巡らされた複雑なシステムの中で行なわれている。それぞれのシステムは機能の強弱、可変性の度合において必ずしも同じではない。この統合のされ方は社会によって違っていて、この違いが大きいときに、私たちは「文化が違う」という認識をもつのである。そして、日本人の場合とくにカルチャー・ショックがひどいのは、日本人が国内において自分たち以外のシステムに触れる機会が少なく、海外においても自分たちのシステムを押し通そうとするためである。
A 中根:厚い「ウチ」の壁(同上)
日本人の不適応の要因としてもう一つ挙げられているのが、日本人の人間関係に存在する「ウチ」と「ソト」の概念である。日本人はウチ(内側)にいる人間との関係は大事にするが、ソト(外側)の人間とはおそろしく疎遠である。これは日本人の、異質を認めない連続の思想に起因する。したがって異質なものを異質と認めて、そのうえで付き合っていくということができず、国際的な人付き合いの弊害となっている。
B 稲村:日本人が固まること(稲村、1979; 1980a; 1980d)
稲村が挙げるのは、日本人の固まる傾向である。これは先進国においても、発展途上国においてもみられるという。そして「その極端さは各地で注目され、多くの場合に奇異で不可解なものと受けとられている」(稲村、1980a: 138)。日本人の固まる傾向は、現地住民との間に誤解や軋轢を生んでいる。それと同時に、日本人同士の間でも問題を引き起こしている。
C 稲村:自己完結性と対人疎通性の乏しさ(同、1979; 1980a)
もう一つが、日本人の自己完結性・対人疎通性の欠如である。自己完結性とは、心理的な自立度の高さを示している。対人疎通性とは、見知らぬ者にも心が開かれていて、すぐに打ち解けられる能力の高さを示している。稲村によれば、日本人はこの二つの能力が共に乏しいという。これが日本人の「国際音痴」を生み、不適応を起こす要因となっていると説明される。
D 近藤:自文化中心主義(近藤; 1981)
近藤はまず前提として、日本人は異文化に対する受容性が低いと論じる。日本人は外国にあって、自然環境や物質環境にはさほど問題なく適応できる一方、人的環境や精神環境には適応に問題を生ずることが多い。このような精神面での受容性の低さの原因として、近藤は日本人に根強く存在する自文化中心主義を挙げる。そして、島国・単一民族であること、歴史的に異文化との交流が少ないことが、日本人の自文化中心主義を強固なものにしていると論じる。
E 近藤:集団への依存性(同上)
日本人の行動特性は、つねに他者に依拠する点にある。したがって、日本人は集団での行動を好み、それに依存する傾向がある。このような人間関係に慣れている日本人は、個人としての生活が求められる異文化社会においては、たちまち弱さを露呈してしまう。したがって日本人は日本人同士で集団行動をとることを好み、これがまた現地社会との距離をますます大きいものにしている。
以上が、「日本的」特性の内容である。 
1-2.議論の特徴
次に、これらの議論の特徴について述べる。
@ 独自性の強調
彼らの議論の最大の特徴は、彼らがそれぞれ挙げた特性を単に「日本的」とするだけではなく、他国に類を見ない、きわめて独自性の強いものであるととらえていることである。読者にそのことを印象づけるために、彼らはどのような論じ方をしているか、ここではこの点に注目したい。
その第一の方法は、日本を例外的な存在として強調することである。稲村の記述からその例を挙げてみよう。
( 引用者注:現地従業員が概して「愛社精神」に欠け、条件のいい会社へあっさり転社することについて)「もっともこれは、日本人以外はみな同じ習慣のほか、価値観や人生観の相違から出たもので、一概に非難することはできない。むしろ日本のほうが例外と知るべきであろう。」(同、1980a: 65. 下線部は引用者によるもの。以下同じ)
同様の表現を、稲村は他の箇所においても用いている5 )。
中根の場合は、「日本対他の国々」という対立図式を鮮明にして、日本の独自性を印象づけている。中根については、先行の論考では、彼女のインド社会における調査経験が日本社会を論じる動機となっていると説明されているが(青木、1990)、中根のインドの位置づけ方は、単なる日本とインドの比較とは言いがたいものがある。彼女の場合は、明らかにインドは単独で日本と比較される対象ではない。それは、次の例によく表れている。
「 このような日本的人間関係に比べて、中国人・イギリス人・インド人などの場合はずいぶん違う。」(中根、1967: 58)
「 この種の人間関係(引用者注:友人関係)は、インド人ばかりでなく、欧米人やその他多くの人々に通ずるもので、国際的な仕事には、こうした関係が重要なベースになっている。残念ながら、こうした関係は日本人の場合にはあまり機能しない。(中略)その意味で日本のシステムは国際性に欠けるものといえよう。」(同、1972: 42)
同様の表現は他の箇所にも見られる6 )。このように、インドと述べるその後ろには中国や欧米が存在し、日本と対立する形で位置づけられている。日本側に割り振られる特性、また、それに対して外国側に割り振られる特性から察するに、中根の場合、インドや中国は建前であって、その本音は欧米との比較にあるのではないかと思われる。いずれにせよ、日本とその他の国々という対立図式が描かれ、その差異が強調される。そして、「日本的」特性は、二番目の例にあるように「国際性に欠ける」と論じられるのである。
独自性を印象づける第二の方法は、地理的条件・社会的条件などを持ち出して、日本の「単一性」を強調することである。その代表的な例が、「島国」と「単一民族」を引き合いに出すパターンである。それによって、日本が古来より孤立し、隔絶した国であったかのように論じるのである。これは三者ともに見られる傾向である。それぞれ一例ずつ引用しよう。
「 日本人の場合、特にカルチュア・ショックがひどいのは、日本社会というものが同一民族で構成されており、島国で、大陸にある国のように異なる文化をもつ社会と隣接していないため、自分たち以外のシステムが存在するということを、国内にいて実際に知る機会が皆無であるためである。」(中根、1972: 14)
「 ことにわが国のように、海に隔てられた島国で、単一民族が長い世紀にわたって独特の文化を育てている場合には、海外で生活する時の文化摩擦はただならぬものがある。不適応現象の頻発も、けだし当然といわねばならない。」(稲村、1980c: 983)
「 このような日本人の根強い自文化中心主義はどこから生れてきたのだろうか。いろいろな要因が考えられるが、基本的には、日本が島国であるという自然環境と、単一民族であるという社会環境が、日本人の自文化中心主義を育てる土壌となっているということは否定できないだろう。」(近藤、1981: 122)
以上のように、「単一性」が強調されるとともに、日本人の不適応の根幹を成すものとして論じられている。これに対して、外国については多人種・多民族の行き交う複合民族・複合文化のイメージで語られている。「単一性」ですら日本独自の特性であるかのように論じられている。
また、この際の、論者による日本人の均質化には著しいものがある。日本人全員をあたかも同質であるかのように論じているのだが、その記述はきわめて観念的で、偏見の入り混じったものである。たとえば近藤は、日本人について「島国で長年にわたって異文化との接触なしに、どこを見ても同じような顔をした人がいて、同じ言葉を語り、同じようなことをやっているといった環境にどっぷりつかった状態・・・」(近藤、1981: 130)と述べている。この「同じような顔をしている」、「同じようなことをしている」という見方は、ステレオタイプの典型的なパターンといえよう。こうした認知上のバイアスは、本来は外集団(out-group)に対して生じるものであるが(Ostrom & Sedikides、 1992) 7 )、ここではそれが内集団(in-group)に対して働いている。ここでは明らかに、外部から見た日本イメージが近藤の中で内面化されているといえよう。そうしたバイアスで論じる「日本的」特性にどれほどの妥当性があるかは、大いに疑問である。
A 日本人の行動・振る舞いに対する嫌悪感
不適応の要因として挙げられているだけに、「日本的」特性の内容には否定的なニュアンスが漂っている。論者たちには、これらの特性は日本人が改めるべきものとして映っているのである。したがって、彼らは他の日本人が取る行動に対して非常に敏感に反応する。他の日本人が(とくに海外で)「典型的な日本人」の行動・振る舞いをしようものなら、論者たちは非難の矛先をその日本人に対して向けることになる。この例を中根から引こう。
「 (引用者注:ロンドン大学で)社会人類学の同僚とお茶を飲みながら談笑していたとき、ちょうどアメリカの大学の出張講義から帰ったばかりの教授が「そういえば、チエ、君を知っているという××教授(日本人)に会ったよ。」と私にいっておいて、一同を見まわし、「それがとてもおもしろかったんだ。僕は彼が民族学者だというので、ミス・ナカネとお知り合いですか、ときいたんだ。彼氏曰く『よく知っています。』、ところがその後でいうことがふるってるんだ」。そこでちょっと間をおいて、彼はいかにもいたずらそうにオチを次のようにつけたのである。「『しかし、彼女は私の後輩0 0 なんです!』と」。その時、話し手も聞き手も一度にどっと笑ったのである。」(中根、1967: 86. 傍点原文)
日本において、ある知り合いが先輩・後輩の間柄にあるとき、そのことに触れるのは何ら不自然なことではない。中根だってそのことは十分に知っているはずである。しかし、彼女はそうした典型的な日本的行動・思考様式を海外で表明することには否定的なのである。外国人とともにその日本人の発言を嘲笑するという行為にそれは表れている。そうかと思うと、もう一方では、外国崇拝を露骨に見せる日本人を、「アチラにイカレタ」タイプとして批判する(中根、1972: 62)。どちらにせよ、日本人の行動・振る舞いに対しては、厳しい視線が注がれるのである。
この点は、他の社会にも日本と同じような特性が見られた場合の、論者の「解釈」の違いにもよく表れている。たとえば、稲村は日本人の特性として「固まる傾向」を挙げているが、さらに読み進めれば、この傾向は中国人・ユダヤ人・インド人にも見られると書かれてある。しかし、稲村によれば、彼らの固まり方は日本人とは大きく異なるという。たとえば中国人との違いについては、次のように論じている。
「(引用者注:中国人の)固まり方は邦人などよりはるかに徹底したものといえる。
ところが、彼らはどの土地でも強固で安定した座を占めており、その社会で認められ、あまり奇異な目でも反感でもみられていない。(中略)
なるほど邦人も、日系移民は南北アメリカなど諸国に住み、その国の人になり切って貢献をしている。(中略)しかしながら、彼らの姿勢はどこか中国人とは違う。もっと必死であり、せっぱつまっていて、ゆとりや自然さがない。ひたすらにがむしゃらなのである。
(中略)確かに日本人は生真面目でおとなしいのだが、それ以上にあまりにも姿勢を正し、けなげすぎるのである。おおらかさやゆとりなどはない。
邦人の固まるのは、そうした内容の固まり方であり、そのために窒息しそうなほど緊張した雰囲気がしばしば漂っている。(中略)こうした緊張が、当然ながら他面では精神障害者を生み出すことにもなる。」(稲村、1979: 322-323)
この記述を見れば明らかなように、これは中国人と日本人とが現実に異なるというよりは、稲村の解釈が異なるのである。「おおらかさやゆとり」の有無についての根拠はまったく示されていない。また、ユダヤ人との比較でも、日本人については、「邦人の固まり方などまさにかわいいおままごとのようなものである。あまりに単純で、そして未熟な露骨さに満ちている」(同上: 323)と論じられる。日本人に対しては、否定的な評価が下されているのである。
近藤は、日本人の自文化中心主義を示すものとして、日本で道路の標示やレストランのメニューが英語で書かれてない点を挙げる。同時に、外国で逆のことが存在する点、つまり外国で日本語の標示やメニューが期待できない点にも一応は触れている。しかし、それについては看過したままで、日本での事例についてのみ、次のように述べている。
「 だが、国際用語となっている英語が、だいたい世界の主要国の公共施設に用いられているように、日本においても英語(ローマ字だけでなく)の標示をするという親切さがあってしかるべきだと筆者は考える。いずれにせよ、このような例は外国人の立場を無視した日本人の姿勢を示すものと考えられるのである。」(近藤、1981: 127-128)
このように、日本の場合は日本人の自文化中心主義に起因するものとして解釈されるのである。だがその直後に、今度は日本語が話せる外国人に対して日本人が英語で話しかけるという事例が紹介される。そして、これについては「日本人の異質なものに対する受容性の低さ」(同上: 128)と解釈される。外国人の言語に合わせる・合わせない、いずれにしても日本人が非難される点では共通している。解釈に際して、日本人の行動・振る舞いに対する論者の嫌悪感が先に立っていることがよくうかがえる。 
2.日本人特殊論の方法論的問題点
前節では、不適応の要因とされる「日本的」特性が、あたかも日本独自のものであるかのように論じられている点を明らかにしたが、本節ではこの立論上の問題点を指摘したい。
このような問題を分析するにあたって参考になるのが、日本人論についての批判的研究である。日本人論の批判的研究は、議論の立論のあり方を問題にするものと、議論のイデオロギー的性格を問題にするもの、個別の記述内容の正しさを検討するものとに区別されるが、本節で参考にするのは、一番目の批判的研究である。この研究の代表的な例として、社会学者杉本良夫とロス・マオアの一連の研究が挙げられる(杉本・マオア、1979a; 1979b; 1979c; 1982)。
@ 比較なき特徴づけ
これらの議論の問題点は、第一に、「日本的」特性の独自性を強調しておきながら、その根拠となる他国との比較がほとんど行なわれていない点にある。日本人論における同様の問題点を、杉本とマオアは「比較なき特徴づけ」と呼んでいる(杉本・マオア、1982)。
「日本的」特性について論じている箇所には、「日本人は○○である」あるいは「日本人の場合、○○である」といった命題が繰り返し登場する。それを証明するために、具体的な例が示されたり、その根拠となる別の命題が示されたりする。しかし、繰り返されるのは日本に関する命題ばかりで、他国がどうなっているのかという点にはほとんど触れられない。そこでは、「他国は日本とは異なる」ということが前提となっているのである。次に示す例は、それぞれ「日本人」について述べられているものである。まずは引用しよう。
「 たとえば、現地でコックをやとっても、そのコックに現地料理をいろいろ作らせて、その中から好きなものを発見していくというよりは、日本の家庭料理を作ることをおぼえさせるという方向が圧倒的に多くの日本人滞在者によってとられている。」(中根、1972: 17)
「 海外で仕事をする多くの日本人は、それと知らずに、一方的に自分たちのシステムを相手におしつけてしまっている場合が少なくない。」(同上: 32)
このように述べる一方で、同様のシチュエーションにおいて、他の国の人々がどのような行動をとるのかという点については、まったく触れていない。もしこれらを日本人に特有の行動特性であると論じるならば、外国人の場合には、日本人のケースとは逆の、「現地料理から好きなものを発見していく」、「自分たちのシステムを相手に押し付けない」という行動が明らかにされなければならないのだが、そうした比較は行なわれていないのである。
また、次のような例にも「比較なき特徴づけ」の問題を見出すことができる。
「 (引用者注:日本人の)もう一つの特徴は、独特のスケープゴート(いけにえ・非難の対象)づくりである。スケープゴートは何も日本人だけがつくるわけではなく、他の国の人々もそれぞれにつくっている。しかし、日本人のそれは非常に独特な点の多いのが注目される。」(稲村、1980a: 155)。
この場合も、「独特」と述べるからには、他の国の人々と何が異なるかを明らかにしなければならないはずだが、この文章で触れられているのは日本人のケースばかりであって、外国人についてはまったく触れられていない。それで、なぜ「独特」といえるのか。その根拠は本文中からは見出すことができないのである。
A 命題間の矛盾
第二の問題点は、列挙される命題に矛盾が生じていることである。杉本とマオアは、中根の『タテ社会の人間関係』を取り上げた際に、この問題を「命題間の矛盾」と呼んで指摘している(杉本・マオア、1979b)。
この点については興味深いことに、中根においても稲村においても、「外国に対する知識」という命題において、共通する矛盾を引き起こしている。日本人は国外に自分たち以外のシステムがあるということをよく理解していない、よって自分のやり方を相手にも押しつけようとする、というのが先述のとおり中根の議論の骨子であった。稲村においても、日本人の異質文化に触れる経験の乏しさが不適応につながっているという主張がされている。しかし、これらとは別に、「日本的」特性がいかにユニークなものであるかを論じる文脈においては、反対に、外国人の日本に対する知識の乏しさが強調されている。すなわち、日本人が期待しているほど日本は外国人に知られているわけではないので、日本人はきちんとそれを認識して行動せよ、と彼らは主張するのである。その文脈では彼らは次のように述べている。
「 これらの国々(引用者注:欧米・中国・インド)の全体像ならびに特色が相当よくわかっているのに対して、日本の場合、知られているのは、私たち日本人からみると、極端な側面の断片的な部分であるために、イメージとしては何となく気味がわるいものとなっており、まったく知られていないより、マイナスの効果さえもっている。」(中根、1972: 122)
「 欧米の白人至上主義的な考えは今日なお頑固なほど徹底した面があって、差別するかしないかは別として、意識にも視界にも日本など入っていないかにみえる。日本がどこにあるかも知らなければ、どんな特徴があるかも全く知らない人が多い。」(稲村、1980a: 44)
外国人について述べたこれらの箇所と、日本人について述べた「日本人のソトに対する興味、関心には驚くほどの限界がある」(中根、1972: 131)・「これら(引用者注:海外での失敗)はみな無知によるもので、相互の差の正しい認識が欠落していることから生ずる」(稲村、1980a:208)という箇所に、どれほどの違いがあるだろうか。外国に対する知識が不足しているということでは、両者共通しているのではないか。ところが、一方では何ら問題にされずに、もう一方では、それが日本人の自文化中心主義を示す根拠として用いられているのである。これは先にも述べたように、論者の解釈の違いが反映されているのであって、命題としては明らかに矛盾をきたしているといえよう。
また、論者たちは日本人の外国に対する知識の乏しさと、「島国」・「単一民族」といった「単一性」とを強く関連づけて論じているが、上で引用した記述内容を見れば、「複合民族」・「複合文化」であるはずの他の国々においても、外国(この場合、日本)に対する無知は生じているのであるから、この点を安易に「単一性」と結びつけて論じることの妥当性も問われることになる。
以上のように、「日本的」特性の独自性を強調する議論には、立論上その妥当性が疑われる箇所が存在する。論者たちのいう日本の独自性とは、さまざまな事例の検証を経て引き出されたものではなく、結論があらかじめ存在するものということができよう。したがって取り上げられる事例は、すべてその主張にとって都合の良いものばかりであり、その主張と相反するような、すなわち日本と他の国々の共通点を示すような事例は挙げられないし、その可能性も検討されていない。ところが、論者たち自身の気づかないところで、その矛盾があらわになっているのである。
このような点から、上記の議論の「学問的主張」としての価値には大いに疑問符が付けられる。しかし、問題はこれらの議論がそうした批判をあまり受けることなく、後発の議論へと引き継がれている点である。次節でこの点について述べることにする。 
3.日本人特殊論の「再生産」
この節では、独自性強調の言説が後発の議論に与えている影響について考察する。異文化適応についての議論がさかんに行なわれるようになるのは、先にも述べたとおり1980 年代以降である。精神医学やその他の分野で異文化接触やカルチャー・ショックに関する特集が組まれ8 )、単行本の形でもそれらのテーマを扱った書物が出版されるようになった。また、一般的な「適応」や「精神病理」の問題を扱った文献の中にも一章を構成する論文として、異文化接触状況での問題を扱った論文が組み入れられるようになった。
そうした論文群の中に、本稿で扱ってきたような、日本人特殊論の影響を受けた論文を見出すことができる。いわば言説の「再生産」がそこで行われているということができるのである。
日本人特殊論の再生産については、社会学者の吉野耕作が、日本人論で導き出された「理論」が、異文化マニュアルという形で商品化・大衆化されることを明らかにした(吉野、1997)。
また、異文化間教育学者の馬渕仁も、実際に海外で生活している日本人や、異文化に関心をもつ日本人が、日本人論で論じられるような特性を日本人独自の特性として認識していることを明らかにした(馬渕、2002)。このように、日本人特殊論の再生産状況は、先行研究によっても明らかにされているが、この二つの研究はいずれも、学者・研究者の導き出した「理論」が、より大衆の現実に即した形に書き直され、伝達されていく、いわゆる「大衆化」という方向での再生産に着目したものであった。それに対し、本稿では、前述のとおり、日本人を特殊と見なす見解が、学問的性格をもつ議論においても再生産されている点に注目する9 )。 
3-1.先行の議論の積極的援用とその妥当性
日本人特殊論からの影響を示す、そのもっともわかりやすい例は、参照の事実が文章中で直接言及されているものである。次に挙げる例は、『異文化コミュニケーションの理論』(2001 年)の、「異文化適応理論」と題する項目における記述である。
「 中根(1972)によれば、諸外国の人々と比較して、日本人が異質文化について理解し効果的に対応できるまでにはより長くかかる(約5 年)。稲村(1980)は、海外で生活する日本人に不適応が多い理由として、1 人になったときの耐性の弱さを指摘している。」(久米・遠山、2001: 123)
ここでは中根と稲村の著作を参照したことが明記されている。問題はこれらが「異文化適応理論」の諸説の一つとして扱われている点である。中根や稲村の議論における実証性の問題は、すでに前節において指摘したとおりである。ここでも、これらの知見がどれほどの根拠のもとに導き出されているかを疑ってみる必要がある。そこで、やはり実際の参照元の箇所に当たって、どのような議論が展開されているかを確認してみることにしよう。まずは中根から。彼女は次のように述べている。
「 日本人が現地の人々と真剣にとりくんだ場合、その理解度が相当な水準に達し、仕事がスムーズにできるまでには、現地経験通算五年はかかるものと思われる。私は、たまたま昨年、東南アジア、インドで多くの海外駐在の方々にお会いしたが、その中で群をぬいて優秀な方だと思ったのは、五年以上の外地経験をもたれているきわめて少数の方々であり、その方々の意見は、二〜三年滞在の方々のそれと、はっきり異なる性質をもっていた。(中略)こうしてみると、私たちを制約している日本文化をのりこえて、異質の文化に対応できるようになるには、だいたい五年という年数が必要と思われる。
アメリカのビジネスマンの場合、日本でちゃんと仕事ができるようになるのには少なくとも三年かかるという。」(中根、1972: 173)というのが、該当する箇所であるが、これをもって先の文章のように「(日本人の場合は)諸外国の人々と比較してより長くかかる」と結論づけるには、あまりに拙速な印象を受ける。「五年」とは、中根の印象から割り出された数字にすぎないし、アメリカ人についてはただの伝聞にすぎない。日本人は2・3 年滞在している人よりも5 年滞在している人の方がしっかりしている、アメリカ人は日本でちゃんと仕事ができるようになるには3 年かかるらしい、と、これだけで日本人の方が適応により長くかかるというにはあまりにも根拠が乏しいといわざるをえない。
次に稲村のケース。彼は、日本人の「自己完結性の乏しさ」について述べている箇所で、「1人になったときの耐性の弱さ」に触れている。それは次のように論じられている。
「 ・・・日本人は、一般にこれら二つのもの(引用者注:自己完結性と対人疎通性)が現状では乏しいものと思われる。そのうちことに自己完結性が乏しく、相互依存的であるばかりか、心理的にも未熟な点がある。(中略)このために、日本人同志が集団になっている時には一般にとても適応力が強いが、一人だけ放り出されるとまことに弱い。借りてきた猫のようにおとなしくなり、無口になってしまうほか、孤独と疎外感に耐えられなくなってしまう。この自己完結性に関しては、白人などに比べると全般に日本人は格段に弱いとみなさざるを得ない。」(稲村、1980a: 225)
という箇所が該当するが、問題は稲村の記述がどこまで実証に耐えうるかという点である。
ここでは「白人」との比較が言及されているが、文章中には「比較なき特徴づけ」で述べたとおり、やはり具体的な比較の証拠は示されていない。そもそも稲村が「白人」に対して貧困なイメージで語っていることは、他の箇所での「白人などと違って、邦人は一般に生真面目であり、スマートな異性交遊に慣れていない」(同上: 48)という記述からも明らかである。しかも稲村は同様の記述を他の文献でも繰り返している(稲村、1980b: 51; 1980c: 1007; 1980d:157)。このような見解から割り出される「日本的」特性がはたして妥当なものといえるのか、この点はやはり大いに疑わしいといわざるをえない。
ところが、上の文献と同様に稲村の自己完結性・対人疎通性についての見解をあたかも「学問的真実」であるかのように引く例は、『臨床精神医学』誌上の論文(阿部・宮本、1987)や、『異文化コミュニケーション』と題する学習者向けの書物の中の論文(久米、1996)においても見ることができる。
日本人特殊論からの影響を示す別のパターンとして、ある事象について、一般的理論で説明可能なところを、「日本的」な特性と位置づけて説明する事例が挙げられる。その例としてここでは日本人女性の帰国適応問題に関する伊佐雅子(2000)の研究を取り上げよう。伊佐はこの中で、帰国後の再適応の問題に直面する日本人女性の事例を挙げて次のように説明している。
「 日本は同質性の高い国であるので、内と外の間には明確な区別がみられる。有名な文化人類学者である中根(1967b)(引用者注:『タテ社会の人間関係』)によれば、日本は縦社会である。グループのメンバーだと見なされれば、グループ規範にそって行動することが期待される。また、グループ内の統一を図るため、敬意を払うことが求められている。そのため、人々の間には強い感情的な絆がみられ、それが内と外の間の区別となっている。(中略)つまり、グループがすでにできている所に、新参者が入り、新しいネットワークを築いてゆくことは至難の業なのである。」(伊佐、2000: 200-201)というように、中根の「タテ社会」論を用いて説明している。中根はこの「理論」を日本社会の特性を、そしてさらにはその独自性を説明するものとして用いており、伊佐もそれを支持しているものと思われる。しかし、ここで述べられているような集団内での規範への同調や、成員同士の連帯意識というものは、集団に関する研究においては基本ともいえる概念であって、日本人の集団に限った話ではない(たとえばマートン、1961〔Merton、 1949〕: 八・九章)。すなわち一般的な理論で説明が可能なのである。
そもそも中根の用いる「ウチ・ソト」概念も、彼女はあたかもそれを日本特有の概念であるかのように扱っているが、それが内集団・外集団の集団間関係で一般的に観察される事象とどのように違っているのかについては、十分検討されていない。たとえば中根は日本人の人間関係について、『適応の条件』の中で、自己に近い順に第一・第二・第三カテゴリーというものがあって、それが同心円状に広がっているような図を提示しているが(中根、1972: 127)、それは、オルポートが内集団の構成について提示した図と似通っている(オルポート、1961〔Allport、 1958〕: 39)。また、中根は「日本人の仕事ならびに社会生活は、基本的にはすべて第一、第二カテゴリーの中で営まれ、第三カテゴリーの人とは、その時々のビジネスでつながっているだけである」(中根、1972: 115)と述べているが、近しい者との関係が重要になるのは、どの国の社会においてもそう変わらないだろう。中根はこれを日本的な人間関係と位置づけて「自己(集団)中心的、主観的な認識方法」(同上: 123)と論じているが、他の社会でも同様の関係が存在することが明らかになった場合、中根は同じような評価を下すのだろうか。中根の文章から垣間見える日本人の行動・振る舞いに対する嫌悪感から察するに、「自己中心的・主観的」という評価も、「日本的」特性と位置づけたうえで下されている評価であるように思われる。
こうした問題は、そもそも、一つの社会には一通りの人間関係しか存在しないと考えていることから生じているのであって、この点については『タテ社会の人間関係』が出されたのち、他の研究者によっても指摘されている(たとえば米山、1976; 南、1980。日本人論の批判的研究の立場からは杉本・マオア、1982)。
以上のように、ここでは先行の文献が積極的に参照され、援用されているケースを取り上げ、それらの文献を根拠として用いることの妥当性について検討してみた。結論としては、前半の例でも後半の例でも、自説の根拠として用いることができるほどには、先行の文献において論証がきちんとなされているわけではないということができよう。しかし、そうした議論が学問的な性格の強い文献においても支持され、「再生産」されていることを見ることができるのである。 
3-2.立論および論調の継承
次に、文章中に中根や稲村らの名前は出てこないものの、彼らの提示した「日本的」特性やそれに似た特性が、日本人特殊論のニュアンスをもって用いられている例を取り上げたい。その際に注目すべきが、「島国」や「単一民族」といった条件が、日本の独自性を主張する根拠として用いられている点である。たとえば次の例は、その論理展開も含めて日本人特殊論の影響がはっきりと表れている。
「 日本は島国であるために自然の国境がある。その点、世界的視野に立てば、特殊な国であると言えるだろう。つまり、日本人は国境というものを固定的にとらえ、不動のものとみなし、閉鎖的な思考に支配されてきた。また、国境の観念が非常に強い日本人は、異民族、異文化とのコミュニケーションがはなはだ苦手であると言われる。」(平山、1992: 211)
まず「島国」であること自体が特殊であるとされ、その条件に付随する形で「日本人は国境の観念が強い」、「日本人は閉鎖的である」、「日本人は異文化コミュニケーションが苦手である」という命題が示されている。しかし、これもいわゆる言いっぱなしの状態であって、この命題の真偽についてはまったく問われていない。たとえば、この見解に対して「大陸の諸国は、隣国と陸続きで接しているために、絶えざる緊張関係から国境の観念が強い」という逆の命題を立てることも可能であろう。そしてその命題に沿ったエピソードを並べることもできるだろう。
その場合、「島国」という条件は何らその命題の根拠にはなりえないのである。同様の問いを他の命題にも当てはめてみれば、これらの命題がまったく自明のものではないことが明らかとなる。しかし、このような論理展開で命題を提示するパターンは、他の論者にも見られる。それを大まかに区別してみると、「日本人は自文化中心主義的である」(星野他、1983; 阿部・宮本、1987; 川端、1995)、「自文化を客観視する経験に乏しい」(近藤(喬一)、1983)、「閉鎖的である」(柴田、2001)、「異なる経験をもつ人への寛容度が低い」(伊佐、2000)などと分けることができる。だが、そのいずれにおいても、他の集団においても同様の命題が当てはまる可能性がはじめから切り捨てられているという特徴を指摘することができる。
そして上記の命題を見れば明らかなように、やはり異文化適応という文脈においては、日本人には非常に否定的な特性が付与されているといえるだろう。日本人は日本人自身によってあらかじめ、異文化適応について他国の人々よりも遅れをとった存在として見なされている。いいかえれば、日本人の目には他国の人々が異文化適応を日本人に比べてずっと上手にこなしている存在として映っているのである。したがって、彼らの目に付くのは、先行の議論がそうであったように、自分以外の日本人の行動や振る舞いである。自分以外の日本人の一挙手一投足に、不適応の原因を見出さずにはいられない。次の例には、それがよく表れている。 ( 引用者注:ボストンに日本人が多く住むアパートがあるということに触れたあと)「こうしたアパートに住む日本人達は、当然のようにアパート内や近所では日本語で会話する。
奥様方や子供達同士も日本語で会話する。同じエレベーターに外国人が乗りあわせていようとも、気を遣うこともなく平気で日本語で会話をする。」(吉田、2001: 122)
この論者はそれを苦々しく思っているわけだが、こうした行為はとくに日本人に限られたものではないはずである。しかし彼はこうした事例を挙げながら結局「海外における日本人にとっての『異文化ストレス』の原因の多くは、我々が持つ価値観をそのまま海外で通そうとする結果起きる摩擦によるものであり、他民族の文化を理解しようとしない姿勢にある」(同上: 132)という結論に達している。
以上のように、日本人特殊論が後発の議論においても、先行の議論と非常に似通った形で展開されていることがわかる。つまりそこでは、先行の議論がかなり信頼性の高い議論として受け入れられている点を指摘することができる。そして同時に、日本を特殊視する視点や「日本的」特性を体現する日本人の行動・振る舞いに対する否定的感情も引き継がれ、「再生産」されている点も指摘することができる。 
おわりに
本稿では、異文化適応に関する議論のうち、不適応の要因を日本人の行動特性に見出す議論を取り上げ、その議論に見られる日本独自性の信念を問題にした。そして、その信念が、議論の実証性の乏しさにも関わらず、後発の議論にも引き継がれている点を指摘した。これによって、日本人の特殊性を強調する言説が、学問的な議論の場においてもなお受け入れられ、「再生産」されている状況を明らかにしたつもりである。
また、もう一つの注目点として、異文化適応の文脈で語られる日本人特殊論に対する論者のスタンスがあった。議論を見て明らかなように、論者は日本人の行動特性に対して、否定的・批判的であった。同時に、それを日本特有のものと位置づけていた。したがって、この論理的帰結は、日本人の振る舞いや行動に対する否定でしかありえない。日本人は、日本人自身によってあらかじめ不利な役割を担わされ、異文化への「適応」という文脈でその修正を求められるのである。先述の吉野耕作は、日本人論の読み手(消費者)の多くが、日本人論を「日本自省論」の延長としてとらえていたことを明らかにしたが(吉野、1997)、それは読み手が、こうした議論に触れてきた可能性を示している。読者は、「日本的」特性を異文化にはそぐわないものとしてとらえ、反省するよう動機づけられるのである。
しかし、こうした議論の最大の欠点は、適応すべき異文化の実像にはまったく迫っていないことである。日本と対置されるのは漠然とした「外国」であって、それは「複合民族」・「複合文化」とは名ばかりの、きわめて単一的なイメージで語られる存在でしかありえない。それは結局、否定すべき「日本的」特性への対概念が並べられた、日本人の理想像の投影に過ぎないのである。こうして描き出される異文化が、実像とかけ離れていることは言うまでもない。異文化適応に関する議論の根本的な条件が欠如しているのである。
これは、この時期の、日本人が日本人自身、そして異文化を語る際の一つの特徴を示している。今後はこの点を、論者の当時の日本社会における立場や位置取りなども考慮に入れて考察していく必要がある。 

1 )「文化摩擦」は、国際関係論を専門とする衛藤瀋吉によって提唱された言葉で、異質の文化が接触したときに起こる文化同士の対立や、人間の心に起こる心理的な緊張や葛藤を表わしている(衛藤、1980)。ただし、衛藤自身は、この言葉を、「同時にそこから新しい価値も生まれ、新しい文化も生まれてくる・・・決してマイナスの価値のみではない、きわめて中立的な概念である」(同上: 12)と述べている。
2 )中根(1972)は「カルチュア・ショック」と表記している。
3 )稲村の論文の特徴として、参考文献がほぼ自著で占められ、他の研究者の文献の参照が非常に少ないという点が挙げられる。
4 )一方、中根(1967; 1972)や稲村(1980a)には、参考文献が記されていない。
5 )他の例その一、(引用者注:自己完結性の欠如について)「これは邦人にきわめて著しく、他の民族にはほとんどみられないほどその程度が著しい。」(稲村、 1979: 327. 下線部は引用者。以下同じ)。その二、「日系企業では現地責任者の権限がきわめて小さいことである。(中略)これが白人企業との大きな違いであり、またほとんどの国の習慣とも異なる。」(同、1980a: 66)。その三、(引用者注:各人の分業が徹底していることについて)「なおこれは、途上国だけのことではない。欧米など先進国もみなそうである。そもそもが、彼らが植民地で教え、それが今日世界中の習慣となったのであろう。いずれにせよ、その点に関しても、日本はほとんど例外に属する国といえよう。」(同上: 75)。
6 )例その一、「外国に滞在しているインド人・中国人・ヨーロッパ人たちが現地において、ゆうゆうとして仕事をし、落ち着いた生活をしているのは、実にこのネットワークの存在にあるのである。」(中根、1967: 61)。その二、「・・・日本人はインテリを含めて、西欧やインドの人々がするような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣をもっていない。」(同上: 181-182)。
7 )これは「外集団均質性効果(out-group homogeneity effects)」と呼ばれている。
8 )精神医学分野では、この分野の学術雑誌に掲載される個別の論文をはじめとして、1984 年には『社会精神医学』(7 巻1 号)誌上にて「海外移住者の精神衛生」、1987 年には『臨床精神医学』(16 巻10 号)誌上にて「文化摩擦と精神医学」、『こころの科学』(77 号、1998 年)誌上で「異文化とメンタルヘルス」という特集が組まれている。また、それより少し広い分野を扱う雑誌においては、『現代のエスプリ』誌上において「カルチャー・ショック」(161 号、1980 年)、「異文化接触と日本人」(322 号、1994 年)、「異文化ストレスとの遭遇」(412 号、2001 年)がそれぞれテーマとして組まれ、『青年心理』(84 号、1990 年)誌上で「異文化の体験」という特集が組まれている。
9 )中根『適応の条件』は講談社現代新書から、稲村『日本人の海外不適応』はNHK ブックス(日本放送出版協会)からと、一般読者にも手に入りやすい形で出版されている。したがって、そうした文献では、学者の手によるものとはいえ、「日本的」特性の独自性をやや誇張して書いているということは考えられるのである。しかし、そうした主張が、学問的性格をもつ議論においても引き継がれている点を指摘することができる。本稿で注目するのは、そうした議論での再生産状況である。 
 
日本人と英語

日本人は英語に弱いとの定評がある。私はその(定評)が果たして正しいものかどうか、詮索もしないで、なんとなく受け入れているが、考えてみると不思議なことである。言葉としては非常に困難?とされている日本語をこなす民族が英語などmaster出来ないというのはおかしいことである。しかし、日本人が英語に上達し難い理由は色々とありそうなので、私の観察を元にして考察して見たい。
話し言葉の発達には、生後5才までの環境が重大で決定的な影響を及ぼすことは疑いのないことであり、特に、舌の微妙な動かし方は5才、少なくとも10才までに訓練しないと、(本当)の発音は出来ないものであると私は信じている。
この論で行くと、masterできる言葉は発音に関する限り、10才までに仕込まれたものだけが、「MOTHERTONGUE」となって、それ以外はAcquiredLanguage(第一外国語、第二外国語というように)となるわけである。
ヨーロッパにはスエーデンとかオランダなどに生まれた人の中では、自分の母国語以外に英、独、仏語を自由に操る人が多いと聞いている。その理由は子供の時から色々な言葉を話す人に接するChanceが多いからだと思う。
スエーデン語はオランダ語とか、デンマーク語、ドイツ語、フランス語、果ては英語と似通った点が多いのかも知れない。少なくとも、日本語と英語ほどにはかけ離れたものであるとは考え難い。
また、フランス生まれの人は隣国の英語やドイツ語を話すことも割合簡単?であると聞くが、フランス人はフランス語以外を使いたがらないとの評判がある。
さらに、ラテン系のイタリヤ人は英語が下手であるという評判があるが、イタリー語が話せる人が英語を習うのに苦労するという理由は私にはピンと来ない。
とにかく、外国語が上手になる為には10才になるまでに(訓練)を始めるに越したことはない。それに、子供の時に一種類以上の言葉が耳に入ったからとて、子供はconfuseして言葉の発達が遅れることは無さそうである。全くのところ、子供にはいくら刺激が多くても、それにうまく適応する能力があるということらしい。
私の知り合いで、アメリカで生まれて、日本語を話す家庭に育ち、英語を話す小学校に3年生になるまで通学した時点で日本に行き、英語からは完全に遠ざかって成年に達してから、アメリカに再入国した人がある。その人は、子供の頃使っていた英語は何一つ憶えていなかったが、英語の発音には苦労しないで、アメリカ人流の英語に戻ることが出来たとか。これは、舌の動きに関するCoordinationは10才頃までに、既にestablishされていたということを物語っている。そして、一旦establishされた発音の仕方は、なかなか努力しても変えにくいものであることは、(お国言葉)とか(地方訛)などが直りにくいことでも明らかである。
したがって、日本語という(訛)を直して英語にすることが如何に困難であるかは容易に理解出来る。
日本人の家庭に生まれた子供が、学校教育で英語を習い始めたのは、昔は中学校に入ってからであった。しかし、それでは、日本人は英語の会話能力がうまくならないので、実用にならないということを戦後になって発見?して問題視するようになって、英語の学習開始時期を早めて、小学生の低学年の時からに変更するとか聞いたが、そんな程度の(早期)発音訓練開始では中学生の13-14才の場合と大同小異でもう時期遅れであることは明らかである。
(日本人が英語に強くならないわけ)について書かれた本は枚挙に遑無いので、政策を改良する役にいる人々には、よく分かっているのだと思うのだが、合議している間に、段々と当たり障りないものに変わって行って、英語教育の開始時期を少し早めたり、授業時間も増やすとか、会話にも重点をおくなどの改良策になってしまうのであろう。
申すまでもなく、英語には日本語には存在しない発音に満ちているのだから、一旦日本流の発音で日本語を話すようになってから、新規に英語の発音の為に舌の動きを変えることは無理な相談である。耳から覚えたのが母国語で目から覚えたのが外国語という原理は厳然としている。
日本では(象形文字)を中国から輸入したとしても、それについている発音は日本流に適当に(取捨選択)して(簡単)にして使っている訳で、何でも自分の(都合)や(好み)に合わせて取り入れるやり方は、漢字だけに限られたことではなく、その他の外国語についても同様である。
現在の日本語の一、二割は外来語を日本語化したものであると想像されるが、その発音は本来の発音とは(似ても似つかない)ものになってしまっている。その理由は漢字以外の外来語は仮名で書いて発音を再現する方法で一般に広めたからである。
英語の場合は学校で正規の学習課目として教えてくれるのであるから、英字で書かれた本を読む時に発音記号があることを必ず紹介してくれる。しかし、生徒はつい便利?なカタカナの振り仮名を密かに付けて発音記号の代用にすることを始める。そして、いくら先生が口を酸っぱくして正しい英語の発音を教えても、クラスにはどうしても日本流の発音から抜け出されない生徒がおり、正しい発音法は結局主流にならないまま、段々と日本流の発音が幅を利かすようになるのを私は経験している。
社会に出ると、新聞や雑誌に氾濫している(英語)は英字ではなくて、カタカナで書かれた和製のカタカナ英語のみが、大手を振って横行しているのだから、英語流の発音は使うと返って野暮と見られるのではないか。従って、日本に居る限り、英語はその意味が分かれば知識人として通用する訳となり、本来の英語流の発音は問題にされない。
このような、日本の社会で育った人がアメリカに来て会話をするのに苦労するのは当たり前である。
英語には、アクセント(Accent)とか、イントーネーション(Intonation)が発音の重要な位置を占めているので、日本語流にアクセントを抜いたり、間違った所に付けたりしては、向こう様に通じないことは勿論である。
概して、日本語には、割合アクセントが少ないものであるが、アクセントを何処に付けるかで、同じSpellingでも全く違った言葉になることがある。日本人は会話の途中で日本語を違ったアクセントで聴いても、すく漢字を思い浮かべて間違えて取ることは少ないが、会話の場ではなく、カタカナのみで書かれた電報文を読む際には、漢字の付け間違いをして、意味を取り違えることが多いものである。
アメリカ生まれの日系二世の中には、耳で聞いて覚えた日本語を(上手)に話す人があるが、日本語の発音の(裏)にある漢字は知らないで話している人が多い。だから聴いている人に取っては、仮名による電報文を聴くようなものになりかねない。これは、日本語はphoneticな言語ではなく、(漢字)に頼る(目で見る言葉)であるということである。日本語を(生かじり)した外国人が、変な所にアクセントを付けて話す傾向があるのは、逆に言えばphoneticな英語ではアクセントも大事であるということを示している。
本来、(話し言葉)というものは、耳で聴いて覚えるものであるから、生来(聾)の人がいくら頑張って、書き表した字を目で見て音を再現しようとしても、まず不可能であろう。日本人が英語の本だけに頼って英会話を習はうとしても、基本の発音を身につけてないと、相手には通じないおそれがある。なお、既に述べたアクセント(抑揚)が、単語一つ、一つの他に、文章全体にもあるので、本からは、どうしても読みとれない発音の(奥義)が隠されてしまうということである。
アクセントのことでは、私が今でもよく覚えている経験がある。それは27才で初めて英語の世界に投げ出された時のことであるが、日本でよく使っていた言葉、Esophagus(食道)を日本流に発音したところ、どうしてもアメリカ人に理解してもらえないので、字でEsophagusと書いたら、ああ、Esophagusかと、全く違った発音をして分かってくれたものだ。そのことがあってからは、日本で言い慣わした発音から脱却して(正しい)英語流の発音に切り替えるのに並々ならぬ努力をしたものだ。
敗戦後の日本では、(生きた英会話)が特に強調され始めたが、その理由は、日本人が学校で習った(英語)が会話では、全然通用しないことに気づいた為である。その上、日本の学校で英語を教えていた先生も、押し並べて英会話には困ったという笑えぬ悲劇が語り草になった。しかし、私の中学校での英語教師が1960年に初めてのアメリカ旅行に来て、私の(通訳)なしで、英会話が出来たのを見て、感心したものであるが、この先生は例外であったのかも知れない。
英語のアクセントのことはさておいて、英語を話す時の難関となるのは、英語の発音そのものが日本語には存在しないということである。耳から入って来た英語の音をその通りに真似て再現することは10才以上の日本人には至難であるのは、既に述べた通りであるので、英語を習うのが難しいというのは理の当然であろう。
アルファベットでも、D、F、T、Vなどの発音は日本語にはないので仮名では表しようがない。また日本語ではLとRは区別しないで使う習慣である。しかし、Vについては(ヴィ)というカタカナを発明したものの、日本人の多くはVをBと発音してしまうので、Television(TV)はテレビが正式語となってしまっている。
この他に、見逃せない英語の(多様性)の例では、日本語での母音である、(ア)(イ)(ウ)(エ)(オ)の五種類を英語では何十種類にも使い分けていることである。例えば、Cupを日本人は(コップ)と言ったり、(カップ)と書いているが、英語の発音では、Cop(警官)と混同しないように言い分けている。また、WorkとWalkでは、日本語だ前者を(ワーク)、後者を(ウオーク)と書き分けることは出来ても、いざ発音となると、両者を上手に区別して使うことは可成りの訓練がいると思う。こんな例で分かるように、英字のa,u,oの発音は一筋縄では日本字に置き換えることは出来ない。
それから、EarとYearでも英語ではちゃんと区別して、それと分かるように発音しているが、日本人は、あまり気に掛けないですます癖がある。
また、細かい発音の違いも気を付ければ英語に近い発音ができるものもあるが、分かっていても、舌がうまく廻らないで、(お手上げ)の英単語がある。それは、RとLが混じっている時で、Relativeのような単語はまだしも、Parallelはややこしく、alreadyとかEarl,earlyなどとなると、うんと難しくなる。
日本人が英語を習う時に立ちはだかる障壁としては、発音のみでなく、英語では文章の組み立て方が全然違っていることと、思考様式も変わっていることなどが加わって来る。
英語を習い始めの頃に誰でも一番困るのは、YesとNoの使い方が英語では日本と(反対)であることであろう。それから、主語のすぐ後に動詞が来ることとか、動詞に過去形があったり、現在完了形があったり、数え上げればいくらでも相違点が出て来る。
日本人が英語で会話する際に、一旦日本語で話す内容を考えてから、それを英語に直すという段階を経ないで、いわゆる(英語で考える)習慣を身に付けるようになるのは容易なことではない。
ここで、日本人が英語の世界に身を投じて、英語を喋ることを余儀なくされた場合、辿る過程に触れて見たい。
まず、最初の半年間は、耳から入って来る英語が(隔靴掻痒)の感で、あやふやの期間である。そして、自分の話す英語は、それまでに習い覚えていた日本式英語をたどたどしく口にするより致し方がない。いわば、相手の言うことはろくに分からないで、自分の意志だけを向こうに知らせる努力をする(一方的会話)である。
(石の上にも三年)という如く、同じ職場に半年いれば、職場で耳にする会話は大体聞き取れるようになる。これが自分の関係する仕事とは違った話題となると話しは別であり、テレビやラジオから流れて来るアナウンサーの話す内容が確実に理解出来るようになるのは、少なくても5年は必要であると思う。
しかし、アメリカに来た日本人が、こちらの小学校以上の学校に入って、授業を受ける時には5年も待っておれないので、Handicapを抱えたまま他の生徒に伍して行かねばならないが、十代の年齢では1,2年もすれば取り残されないでやって行けるようである。
成人となって日本語がestablishしている人が、アメリカで(耳が慣れた)半年から、1,2年すると英語は(曲がりなり)にも話せるようになるものの、自分では(トチトチ)しているようで、(卑下感)がつきまとうものである。言いたいことを、まず頭の中で考えて、英語を組み立てて、いざ口に出すと、発音もアクセント(抑揚)もメチャメチャであるのが痛いほど耳に付いてやり切れない、イライラする、癪にさわる、情けなくなることの繰り返しである。
上手な英語とはお義理にも言えないまでも、相手から聞き直されたり、(失笑)を招かないで、込み入った話を、言い残しなく説明し切るまでに上達するには、どうしても5年はかかると見てよい。
日本からアメリカへ短期間の旅行者として来た人には、英語で(苦労)して折角の旅行の楽しみが殺がれることはないと思うが、なにがしかの仕事を持って数年アメリカに留まる人は、英語で(苦い体験)をしたまま日本へ帰ることは疑いない。しかし、同じ数年であっても(留学生)として学業を終えて日本に帰る人は、アメリカでは、英語で(揉まれる)苦労はあるにしても(学生)だからと自分に言い聞かせることが出来るし、日本に帰れば、アメリカで仕入れた英語の能力についてうるさく値踏みされることはないと思う。それに、アメリカで数年(生きた英語)に接して日本へ帰った人が、本場で聴いて自分なりに真似して改良された(日本人英語)を使っても、日本人(日本居着きの日本原住民)には通用しないだろうし、(アメリカ仕込み)の英語は評価もされないに違いない。
それどころか、もし、本人が(ウロ覚え)で本物とは程遠いアメリカ英語を振りかざしても、日本人からは、アメリカかぶれした(キザ)な野郎だと言って、嫌われるのではないかと思う。また、日本人にありがちな(ヤッカミ根性)も働いて、(ご苦労様でした)と温かい目では受け入れてくれないというのが現実であろう。そして、本場の英語を聞き慣れた耳には、暫くの間は日本で横行している、カタカナ英語に違和感を持つに違いない。
アメリカで培った英語の会話能力も、日本の環境では次第に衰えて行くのは致し方ないが、聞き取り能力はあまり低下しないまま保って行けるのは有り難いと思うべきであろう。
日本人が英語を話すのが上達しない理由の一つとして、よく指摘されているものに、日本人はプライドが高くて、(見栄っ張り)である為に、(盲、蛇に怖じず)で間違いだらけの英語でも(恥も構わず)口にすることが出来ない傾向があるという説を聞くが、これには私も同感である。しかし、同じくプライドが高いと思われる中国人や、韓国人は日本人より英語が上手であるように見えるのは何故であろうか。
中国語は動詞を主語のすぐ後に持って来るし、言葉に抑揚もあるので、日本語よりは英語に少し近いという理由も考えられないでもないが、それでは、韓国語を母国語とする人が英語をうまく話す理由は何処にあるのだろうか。
私は日本人の(実力以下に評価されたくない)という強い(感情・意識)の他に、(遠慮)とか(消極性)が伴っていることが、外国語の習得に邪魔になるのだろうと憶測している。
日本で一定見を持った人が、もどかしい思いをして、英語で自分の意見を述べた時には、(後味の悪い不快感)がつきまとうであろうことは容易に想像出来るものである。従って、日本人は(馬鹿にされないように)初めから(沈黙は金なり)の(鉄則)を実践する傾向があるのかも知れないし、また、本人は日本に帰れば地位は保証されているのだから、無理して英語が上手になる必要もないと割り切っているということも、英語が上手にならない理由として考えられる。
日本で医学校を卒業して数年、大学付属病院の医局員をして(アメリカ留学)する人が近年とみに増えて来たが、その大多数は英語の会話能力を要求されない研究施設に2年を契約期限として渡米するので、英語が出来ないので仕事から外されることはないが、患者を治療する臨床面の仕事に就いた為、英語で苦労した人の例について述べて見たい。
その一人は、東海岸のさる有名な大病院に行く前に、半年ばかりLosAngelesでAdult向けの英語補習校に通って(準備)したものの、受け入れ側の病院では英語の会話能力が不十分として突き返されたものである。
もう一人の例は、私の庇護の下でもあったが、一年足らずの間、患者を取り扱う仕事を勤めて、帰国する際に、所謂、SailingPermitを貰う為DowntownのImmigration-IRSOfficeに出向いたところ、係りの(女史)が彼の英語会話力に(難癖)をつけて、本当に給料を支給された仕事をしたのか?と疑われたことがあった。
これらの例で見るように、日本から来た医者の場合には、一年未満の滞在期間では、充分な英語の会話力がつかないと言うことを実証しているが、その理由として、日本人の(性格)に根差した(遠慮)も無視出来ないのではなかろうか。
それでは、日本人一世でアメリカに居着いてしまった人の英語は5年、10年、20年経った時点でどの程度に達しているのだろうか?
その人の英語の習熟度を占う上で一番重要な要素となるのは、渡米時の年齢であると私は見ている。
そして、その年齢を(1)16才以前の人、(2)16才から20才の間の人と、(3)20才以後に来た人の三つのグループに分けて考えればよいと思う。
アメリカでの義務教育は一応HighSchoolであるから、16才以下の人では、否応なしに英語の学校に通わされることになって、英語は勿論(自家薬籠中)のものになる可能性が高いが、日本語とそれに伴う日本の文化が中途半端な域で止まり、(正統の日本人)として成長するかどうかは分からないと思う。しかし、このグループの人は16才以上になって英語を使い始めた人よりは、英語の発音も含めて会話力は確実に優れているように観察される。
16才を過ぎて20才までにアメリカに入った人は、こちらでHighSchoolやCollegeのCourseを取って一人前になって世に出ても、発音に関する限り、日本流の(痕跡)を残したままの英語しか操れない(宿命)からな抜けだすことは出来ないと思う。しかし、このグループの人は日本字を書く能力は失わないで済むし、日本流の思考方式も堅持して、アメリカに何年留まっても(アメリカナイズ)しないで、日本人としてのIdentityを失うことはないと思う。
20才を過ぎてからアメリカに移住した人は、日本人としては(筋金入り)で、それだけ英語には馴染めないまま、その人の生活環境に必要なだけの上達度で(頭打ち)で一生を終えることになるのが定則であろう。戦前、この年齢層でアメリカに移住した人達の間では、特殊の(一世英語)を発達さしたものだが、新一世はこの(一世英語)とは無関係であると思う。
(旧一世)にしろ(新一世)にしろ、英語社会で(宮仕え)とか(会社勤め)の道を選んだ人は、(個人業)の人に比べて、英語をうまく使いこなす為に、並々ならぬ努力をしなければ、認められないし、昇進など出来ないものであることは言うまでもない。
(3)のグループの人はいくら頑張っても、日本人特有のアクセントを克服することは出来ないが、その人の(英語を使っての会話)から発散する(実力)、(魅力)を印象づければ(聞きづらい)英語でも(大目)に見てもらえると思う。
日本語の社会で成人に達してから、英語の社会に入って対話したり、演説したりする時には、(見振り)で言葉の助けをすることが出来るが、手紙とかメモをテープに吹き込んで、記録者にタイプしてもらう時には、(身振り)がいうことを効かないので、より正確な英語が要求されることは言うまでもない。
私は渡米して、すぐ、その英語を吹き込む(作業)を否応なしに始めさせられて以来、約40年、手術記事、入院・退院時の所見と総括、QualityAssuranceのMeetingの記録などもdictateしなければならなくなり、平均すれば毎日1,2件のDictationをやり続けることになった。しかし、Dictationの場合は、時々のPauseが許されるし、また言い直しとかも出来るようになっているので便利であり、(同時通訳者)のような、待ったなしの(高級技術)は要らないものである。
最後に、アメリカでは、日本でのように(以心伝心)には頼れないので、Communicationの為には、どんどん、英語を使わねば、誤解すら招くおそれがあることをわきまえておいた方がよいことを付け加えて、この稿を終えたい。 
 
湾岸戦争と日本の対応

私の中東認識
湾岸戦争というのは通俗的には1990年、平成2年8月2日にイラク軍がクエートに侵攻した事によって始まったとされている。
事実の流れとしてはそうに違いない。
ところが中東情勢というのはそう単純なものではないと思う。
当時の報道を見る限り、イラクのサダム・フセイン大統領というのは「悪の権化」のような報道のされた方をしていたが、中東情勢というのはそうそう勧善懲悪的な図式では語れないのではないかと思う。
これはイラクのサダム・フセインを擁護するわけではなく、サダム・フセインをしてああいう行動に走らせた何かがあるような気がしてならない。
サダム・フセインだとて馬鹿ではないはずだから、何かの勝算があったから、ああいう行動に出たものと解釈するが本当だろうと思う。
イラクがクエートに侵攻する前に、フセインは駐イラクアメリカ大使に探りを入れていたし、駐米イラク大使もアメリカ国務省に探りを入れていた。
その時の状況では、イラクがクエートに侵攻してもアメリカは行動を起こさない、という確証を得ていたわけで、それでイラクはそういう行動に出たものと思う。
サダム・フセインだとてそれくらいの事はするのが当然であろう。
ところがいざ行動を起してみると、アメリカの対応は今までの予想と全く逆であったわけで、即時撤退を要求してきたわけである。
これではフセインも振り上げた拳の下ろし様がなかったわけである。
中東情勢というのは厳密に言えば、大昔のベトウインの世界から一歩も前進していないわけで、西洋とは価値観が根底から違っているわけである。
それはある意味で、人間の本質がそのまま現れているということで、むしろ進化した社会になればなるほど、人間の存在というのは自然の摂理から遠のくわけである。
中東というのは、それこそ地球の襞のあちらこちらに分散して生き延びてきた人間の末裔なわけで、それを一括りにしてベトウインと我々は呼び慣わしているが、それは原始の人間の姿なわけである。
それは未開というわけではない。野蛮人というわけでもない。
未開とか野蛮という言い方は、進化した社会に住む人間の奢りだと思う。
「アラビアのロレンス」という映画を見ると良く理解できるが、部族と部族は、基本的に理解しあえる事はないわけで、その中でも便宜的に利害が一致するもの同士が、ゆるい枠の中で共存共栄を図ろうというものが今日の中近東の情勢だと思う。それがエジプトであり、イランであり、イラクでありクエートであったわけである。
ところが、ここに石油というものの存在が価値を持つようになってくると、そのゆるい枠が石油を取り込もうという思惑で、大きくなったり小さくなったり、離合集散するようになったわけである。
この地に住む人々にとって、石油というものがなければ、相変わらずラクダに乗ってアラビアン・ナイトの世界でおれたわけである。
石油というものがこの世に注目を集めるようになる前までの、この地の人々の関心は、言わずと知れた宗教である。
キリスト教徒とか、イスラム教とか、が最大の関心ごとであったが、そこに石油というものが出現すると、その埋蔵量を巡って、西洋先進国が札びらでほっぺたを叩くような態度で中東に乗り出してきたわけである。
だから、ただでさえ糸が輻輳したようなところに、またまたわけのわからないトラブルの元が持ち込まれたのである。
石油の埋蔵量の多寡で、それぞれの利害関係が微妙に異なっているわけで、彼等が西洋に対して一致団結し様にも、それぞれに利害得失が違っているので、それが出来なかったわけである。
彼等は太古からアラビアの砂漠地帯に小さな集落を作って、部落単位に個々に生きて来たに違いない。
天候により、又は転変地変により、集落の中で恒常化した生活がしにくくなると、隣りの集落を襲い、又逆に襲われたりして、生き延びてきたわけである。
ところが彼等の外の世界が近代化をなし、その結果として、覇権を西洋以外の地域に向けるようになると、必然的にアラビア半島もその影響を受けざるを得なくなったわけである。
そこにもって来て、中東と西洋では根本的に宗教の相違ということがあったわけで、この相違は双方で合い交わる事がなかったわけである。
だからその双方をお互いに尊重し合いながら、認めざるを得なかったわけである。宗教の相違よりも、もっともっと根源的な相違は、やはり近代文明との格差の存在であった。 
銃と石油の利権
その中でも特に顕著な近代文明にとって有利な特徴は銃の存在である。
人殺しの道具としての銃の存在と言うものは、アラビア人の羨望の的であったわけである。
便利なものというのは、宗教の強制による価値観というものを乗り越えて、人々は欲しがったわけである。
人殺しの道具としての銃は、アラビア人の持っていた刀よりも遥かに効率的で、便利な人殺しの道具であったわけである。
銃を大量生産できた西洋というのは、その銃を媒体として、世界に君臨出来たわけである。
人殺しの道具が進化したという事はどういうことかといえば、それは当時の人というのは、民族が違えば人ではなく、豚か猪、はたまた馬か牛程度の認識でしかなかったわけである。
だから古代ローマ、はたまた南北戦争前までのアメリアというのは、奴隷というものを動物として、人間の形をした動物として使っていたわけである。
奴隷というのは形は人間と同じであるが、使う方の立場の人間からすれば、人間のうちに入っていなかったわけである。
この皮膚の色の違う奴隷というのは、何もアメリカのみの現象ではない。
アラビア半島でも、古代ローマでも、古代ギリシャでもいたわけである。
古代ローマにしろ古代ギリシャにしろ、人間として認められているのは、市民権を持った一部の人間のみで、その一部の人間が自分達のユートピアとしての社会を作る上で、古代民主主義というものを考えついたわけである。
だから古代の民主主義というのは、人間の形をした人を全部包含するものではなかったわけである。
もともと基本的人権などという意識は毛頭なかったわけで、人間の形をしていても、動物扱いを受けていた人たちが掃いて捨てるほどいたわけである。
そういう状況の中で、西洋の人々が、人殺しの道具として、銃というものを考案すると、それは人を殺すのに非常に効率よく、合理的であったわけである。
貧民であったとしても、銃さえ持てば、王様であろうが、重臣であろうが、自分一人でやっつける事が可能になったわけである。
刀ではそうはいかない。目標にたどり着くまでに自分の方がやられてしまう。
しかし、銃ならば離れた位置からそれが可能なわけである。
それで近代化に乗り遅れたアラビア半島のあらゆる種族も、銃の魅力には勝てなかったわけである。
銃の魅力がわかると、今度はそれを如何に取り込むか、と言う事に人々の知恵は働くわけであるが、そこで銃と交換するに値するものがあるかどうかで、アラビア半島の種族間でいろいろな駆け引きが暗黙のうちに行われたわけである。
その時、西洋人の欲しがる石油というものを持った種族は、有利にその銃の取引に応じれるが、その資源を持たない種族は、それを横目で羨ましそうに見ているほかない。
石油という資源を原資として、銃、兵器、武器というものを媒介として、このアラビア半島は西洋列強を手玉に取っていたわけであるが、これらの種族の長と言うのは、意識の面で近代的な思想を身につけていたわけではない。
デモクラシーなどには全く興味を示さず、意識の面では古代文明そのものであったわけである。
それが19世紀から20世紀に至って、人殺しの道具としての銃というものは限りなく進化したわけで、人類は究極の兵器まで手中に入れたが、アラビア半島における人々の意識は一向に進化することなく、中世以前のままでいたわけである。 
砂漠で生き抜くという意義
サダム・フセインにとって、イラクの国民と言うのは、ラクダ使いの末裔でしかないわけで、恐らく人のうちには入っていないに違いない。
ただただ自分に奉仕するだけの人間で、如何に不便をかこっても、如何に殺されようとも、如何に教育が行き渡らなくても、サダム・フセインにとっては痛くも痒くもないに違いない。
これは基本的に砂漠の民の潜在意識でもある。
サダム・フセインだけの邪な考えではなく、砂漠に長く生き続けて来た人々の潜在意識なわけで、砂漠の民とすればそれでなければ生きては来れなかったわけである。それを西洋の価値観で「悪」と決め付けることは簡単であるが、それは砂漠の民に「死ね」と言っている事に等しいわけである。
あの地球上で最も過酷な地域で生き残るためには、何をさておいても、まず自分自身が生き抜かなければ、種族全体が生き残れないわけである。
種族全体が生き残るためには、自分の同胞であろうと、自分の仲間であろうと、全体の足を引っ張る人間は、抹殺しておかない事には種族全体が滅亡してしまう事を彼等は知っているわけである。
あの砂漠の中では、決して偽善や、奇麗事が通じないということを彼等は知っているわけである。
「人は生まれながら平等である」とか、「基本的人権」などというものは、偽善とか奇麗事のたわごと以外の何物でもない、と言う事を彼等は知っているわけである。あの風と砂漠と、不毛の大地の中で生を受けた人々は、まず第一に自分の生命の維持こそが一番の先決で、その鉄則を守らない事には、種そのものが消滅してしまう事を知っていたわけである。
「人は生まれながら平等だ」とか「基本的人権」などと言っておれるのは、恵まれた地域の、恵まれた環境で育ったお坊ちゃんの戯言に過ぎないわけである。
その恵まれた環境のお坊ちゃん的発想でおれるのは、地球規模で見た場合、こういう過酷な環境下で暮らしている人々がいるからである。
それが証拠に、今のイスラエルとアラブ諸国の関係を見れば、イスラエルと言うのは、アラブという過酷な環境下で生きている人々を踏み台にしているから、その確執が未だに克服されないでいるわけである。
イスラエルの人々と言うのは、その苛酷な環境を、物質文明の利器を利用して克服しようとしている。
ところがアラブ諸国と言うのは、中世以来の過酷な環境下で生き抜いてきた手法を捨てようとしないわけで、ここで価値観の衝突が起きているわけである。
イスラエルという国も、よりによってあんな回教徒の真ん中にユダヤ教の国など作らずに、広いオーストラリアか、アメリカの真ん中か、ロシアの草原の中に国を作ればよかったものを、よりによってイスラム教徒の一番過激なところに作ったものだから、何時まで経っても戦争が絶えないわけである。
あの中東戦争は基本的に宗教戦争である。
イスラエルという国家が大きくアメリカに依存していることは否定のしようが無い。それはユダヤ教徒というものが、アメリカ社会で大きな影響力をもち、アメリカ市民として、大きな影響力をもった人々がイスラエルという国を支援しているからで、イスラエルからアメリカの支援を断ち切ると言う事はありえない。
アラブ諸国からすれば、それは非常に面白くない事だと思う。
アメリカとイギリスの関係というのは兄弟の関係になぞれるが、アメリカとイスラエルの関係は、親子の関係ではないかと思う。
そしてユダヤ教とイスラム教では何処まで行っても相容れないわけで、この戦争は半永久的に続くものと思う。
ところがイラクのサダム・フセインが何ゆえにクエートに侵攻したかと問えば、それはやはり石油であったろうと思う。
石油というのは、いわば金のなる木なわけで、それが欲しくてクエートに侵攻したのではないかと思うが、その経過についてはマスコミで散々報道されているので、今更屋上屋を重ねるつもりはないが、21世紀の日本にとっては最も考えなければならないことを、この湾岸戦争というのは持っているからそれに言及したいと思う。 
世界情勢に疎い我々
問題は、遠い遠いアラビア半島の戦争に日本はどのように対処すべきだったかと言う事である。
日本は直接参加をせず、150億ドルを供出し、戦後、掃海艇を派遣した事は周知の事実であるが、それで果たしてよかったのか、という国民的論議は不完全燃焼のまま今日に至っているのではないかと思う。
アメリカに協力して直接参加をするや否やの論議のとき、我々国民の側では、この中東という地域が、日本からあまりにも遠くの地域なるがゆえに、日本の石油がここからきているという事を忘れてしまっていた。
そのことを忘れて、いきなり鉄砲を撃つか否かという論議になってしまって、戦争という言葉を聞くとすぐに鉄砲をぶっ放す話に短絡的に行ってしまう。
国連が日本に求めてきた要求というのはそんな単純なものではなかったはずである。戦争というとすぐに鉄砲をぶっ放す話に論議が摩り替わってしまうところが近眼視的な視野である。
問題の根本は、日本のエネルギーの供給元の紛争に如何に対処すべきか、という事でなければならないのに、戦争に直接介入するや否やという点に論議が集中してしまった。
それは問題の把握が目の前の事象にのみ目がいってしまって、背景が全く見えていなかったという事である。
戦後の半世紀を過ぎても、我々、日本民族というのは全く世界の情勢分析に疎い。自分達の生活の基盤がこの中東の石油に依存しているということを忘れたまま、戦争するか否かという点にのみ論議が集中するということは、歴史の教訓ということが全くなされていないと言う事である。
半世紀前、日本があの大東亜戦争に嵌りこんだ原因は、「中国から撤退せよ」というアメリカの提案を拒んだからであり、その中国を我々の生命線だと思い込んで、ここを手放せば我々は餓死するに違いないと思い込んだが故である。
そのときの我々、日本国民の感情というのは、「鬼畜米英、何するものぞ」、イケイケドンドンという雰囲気であった。
これは当時の国際情勢というものを全く知らないものの、井戸の中の蛙の独り善がりの現象、思い上がりに過ぎなかったわけである。
それと全く同じ現象が、この湾岸戦争でも起きていたわけである。
自分達の生活の基盤である石油の供給元の戦争であるにもかかわらず、自らは全く関与しようとせず、傍観者を決め込んでいたわけである。
これは何も鉄砲を持って砂漠に行けという意味ではない。
その前に、大局的な見地から考えなければならない事が山とあるわけで、考えてばかりいて、時期を失してはならないが、そうならないためには常日頃から備えておかなければならないわけである。
ところが我々の発想と言うのは、そういう事を考えるだけも、「戦争を擁護するものだ」と言うわけで、村八分にしかねない。
民主主義の名を語りながら、社会的制裁を加え、村八分しておきながら、言論の自由を声高に叫んでいるわけである。
帝国主義的な民族主義を鼓舞するつもりはないが、日本民族の生死に関わる問題であるにもかかわらず、遥か遠く離れた地域の紛争なるが故に、その重大さがさっぱり判っていないのである。
外国の事情に疎いというのは、我々が極東の島国なるが故に、致し方ない面も確かにあるが、それはこれだけ情報通信が発達した今日、言い訳にはならないと思う。それよりも我々の国民の意識が唯我独尊的になっている弊害の方が大きいと思う。我々は島国なるが故に、異邦人との接触の仕方が不味い。
異邦人と我々、日本人というものをなんとなく潜在意識の中で差別、選別、隔離しているのではないかと思う。
世界の常識は日本の非常識で、日本の非常識は世界の常識という現実を受け入れようとしないわけで、物事は話し合いで解決できる、と未だにその呪縛から自らを解き放とうとしていない。
現に湾岸戦争のとき、土井たか子が現地に飛び、国連のデ・クレアルが現地に飛び、猪木代議士が現地の飛び、世界の著名政治家がサダム・フセインを説得に掛かったが、一向に聞き入れられなかったではないか。
サダム・フセインだとて彼は彼なりに面子があるわけで、一度上げた拳はそう簡単に引っ込めるわけには行かなかったわけである。
戦争は誰も好き好んでするものではない。
クエートだとて、自分の国がイラクに蹂躙されても黙ってされるままでおれば、それ以上の戦争にはならないわけである。
ところがそれではクエートの主権国家としての面子は丸つぶれであるし、普通の主権国家だとすれば、自分の国の国民を守る義務があるわけで、それを成すには国連に要請して、国連の力でイラクの暴力というものを除去しなければならなかったわけである。
国連の中で、国連を代表して、何処の国が世界の警察官たりえるであろうか。
アメリカが警察官の役目を果たさなかったならば、代わりに何処の国がそれを成しえたであろうか。
ソビエット連邦解体後のロシアにそれが出来たであろうか。
中華人民共和国にそれを成しえる力があったであろうか。
フランス、イギリス、ドイツにそれをするだけの国力がありえたであろうか。
1991年という時点で、やはりそれはアメリカ一国しか警察官の役をする国はありえなかったわけである。
そしてイラクの行為は国連が「侵略である」と、「理不尽な行為である」と、「してはならない行為である」と認めたわけで、その国連の決議に基づいてアメリカは行動していたわけである。
いわばお墨付きをもらって晴れてイラクに立ち向かったわけである。
アメリカの一般市民感情からすれば、何故に中東の石油に依存している日本のために、アメリカの青年が血を流さなければならないのか、と言う事になるのは当然である。
アメリカにとっては、中東の石油なぞ、有っても無くてもアメリカは一向に困らないわけである。
なのに何故アメリカの青年がアラビアの砂漠で戦わねばならないのか、彼等には相当に不満なはずである。
けれども彼等は世界全体のために、あの砂漠で血を流しているわけである。
日本のためとか、アメリカのためという狭い枠ではなく、世界の人々に平和を、という大きな理念で戦っているわけである。
我々の同胞の中で、進歩的と称する人々は、こう言う事を全く無視した議論を展開しているわけである。
戦争は、人殺しの好きな人間が、国家の金で、趣味で人を殺している、というような、陳腐な思考で以って歪曲して理解している。
戦争は政治の延長線にあるものだ、ということは歴史的に見て真実である。
だとすれば、我々は大いに政治に関与して、戦争というものを抑止する方向に目を向けなければならない。
そのことは、平和、平和と念仏さえ唱えていれば戦争は起きない、ということではない。
戦争というものを理性で以って深く研究して、話し合いが通じない時はどうするのか、と言うことを常に研究しなければならないわけである。
話し合いで解決できない事は、この世に五萬とあるわけで、日本が戦後戦火を全く交えた事が無いというのは、話し合いで事がすべて解決したということではない。
話し合いで事が解決したわけではなく、話し合ってばかりいて事は全く解決されていないが、武力の背景がないので、問題が先送りされているだけである。
裁判でも、係争中は犯罪が犯罪と確定しないのと同じで、事は何も解決されていないが、金持ち喧嘩せずと言う状況が続いているだけの事である。 
戦略的思考の欠如
素直に考え見れば、全エネルギーの大半を中東に依存している日本が、あの湾岸戦争で一兵たりとも出さないとなれば、アメリカも怒って当たり前だと思う。
アメリカの一般市民からすれば、「何故日本ために我々が血を流さねばならないのか」と、アメリカの母親からすれば「何故日本のために息子を死地に追いやらねばならないのか」と言う疑問は当然である。
日本の母親は息子を戦場に送ってはいけないが、アメリカの母親ならばいいのか、と言う疑問は当然起きて当たり前である。
それに対して日本の進歩的知識人はどう応えるのか。
日本のマスコミはそれに対する答えと言うものを出していない。
問題提起はするが答えをきちんと出す事はしていない。
騒ぐだけ騒いで、問題が他の関心ごとにスライドしていくと、答えを出さないまま、新しいお祭りに関心を向けてしまうわけである。
だから問題は尻切れトンボのまま忘れ去られてしまうわけである。
我々は何故あの湾岸戦争で一兵たりとも戦場に現役の兵士を送る事を拒んだのであろう。
我々は1945年、昭和20年に大東亜戦争に負けて以来というもの、占領軍の監視付きで作った憲法の中で、戦争の放棄ということを謳っている。
言わずと知れた憲法第9条である。
しかし、論理的に戦争を放棄すると言う事がありえるであろうか。
論理的に戦争を放棄すると言う事が自己矛盾を含んでいるので、集団自衛権とか、個別的自衛権などと言う、わけのわからない言葉だけが空回りしているが、人間がこれから先生きていく上で、戦争の放棄などと言う事がありえるであろうか。
確かに、戦後半世紀、敗戦以降というもの、日本は自ら銃を執って戦うということはしてこなかった。
それはアメリカが日本に大きな核の傘というもの被せていてくれたからであって、アメリカという大きな庇護者の陰に隠れる事が出来たからである。
それがため、自ら銃を持って戦う場面は無かったが、その分、主権国家としての自主権というものが踏みにじられるのは致し方ない。
日本の領土内にアメリカ軍がいるというだけで、アジアにおける大きな抑止力になっていたわけである。
戦後半世紀間というもの、日本は戦争をした事がないのは、平和憲法のお陰だなどという馬鹿がいるが、そういう人は全く世界の情勢というものがわかっていない人ではないかと思う。
世界の情勢がわからないと言う事は、基本的に人間がわかっていないと言う事に他ならない。
人間というものが善意で動いていると能天気な認識しか持っていない人だと思う。我々はアメリカに基地を提供しているから、アジアの紛争に巻き込まれずに来れたわけで、平和憲法など屁のツッパリにもなっていないわけである。
自分で自分の手足を縛っておいて、弱肉強食、生き馬の目を抜く国際社会にデビュウしているわけで、日本の国連への供出金が世界各国の中で一番多いということは、それだけ我々は世界各国から毟り取られているわけである。
なんのかんのと煽てられて毟り取られているわけである。
平和憲法などと奇麗事を言われて、自分の手足を自分で縛っておいて、経済大国などと煽てられ、国連へ一番沢山の金を出させられているわけである。
金持喧嘩せずの典型的な事例である。
私は何も積極的に戦争を仕掛けて、他国の生存権を脅かしてもいいといっているわけではない。
ただ「売られた喧嘩は何時でも買う用意があるよ」と言う事を相手に知らしめることが出来ればそれで良いわけで、何が何でも鉄砲をぶら下げて相手に攻め込む必要は無いわけである。
湾岸戦争のとき、アメリカが世界の警察官の役を引き受けなければ、何処の国がそれを引き受けるのかといいたい。
もしアメリカがその役を引き受けなければ、イラクのサダム・フセインは、クエートに居残って、クエ−トの人々は路頭に迷う事になるわけである。
日本が一兵たりともあの湾岸戦争に兵士を送らなかったということは、暗にクエートに「イラクの成すままでおりなさい、あなた方は路頭に迷っても致し方ない」ということを言っているに等しいわけである。
だから湾岸戦争後においてクエートがニューヨーク・タイムズがニューズ・ウイークだか知らないが、その謝礼広告を出した時、日本の名前がなかったわけである。
それを見て日本の識者は、「それ見たことか!」と自分達の政府の不手際を手玉にとって哄笑していたが、その哄笑は世界から日本国民に向けられていたわけである。政府が笑われる、日本政府が世界の笑いものになる、と言う事は日本国民が笑いものになっているわけである。
日本民族が笑いものになっているわけである。
日本国民と日本政府というのは別のものではないわけで、日本政府イコール日本国民なわけである。
日本政府というのは日本国民が選んでいるわけで、朝鮮人や中国人が日本政府というものを作っているわけではなく、日本国民が日本政府というものを作っているわけで、その日本政府が笑われていると言う事は、日本国民全体が笑われているわけである。
湾岸戦争では、日本の石油の事があまり表面に出ずに、目先のドンパチのことだけが取り沙汰されたが、ここにも日本の戦略的思考の欠如が現れている。
日本のおかれている状況というものを考えれば、目先のドンパチよりも、戦略的な先の見通しの方が余程大事なわけである。
戦後の日本人の戦争に対する思考というのは、すぐにドンパチの話にしてしまうが、戦争というのはそういう単純なものではないはずである。
本当に目先のドンパチを避けようとすれば、戦略的に世界の外交の場で、上手に立ち回れば、それこそ戦争を、つまりドンパチという銃火を交えずに事を処す事が出来るわけである。
日本国憲法のいう第9条の理念というのは、基本的にそのことをさしているわけである。
武力行使というもので物事の解決を計るのではなく、外交という話し合いで物事を解決するように努めましょう、というのが本旨である。
そのためには常に戦略的な視野にたって世界の動きを見ていかなければならないが、その戦略的というところに関心がいかずに、目先の事ばかりに視点が向いているわけである。
我々、日本人はこの戦略的な思考ということが実に下手で、その真の意味を理解することなく、アメリカと安保条約を結ぶと戦争に巻き込まれるから駄目だ、という論法で日本政府を糾弾しているわけである。
それならばアメリカと安保条約を結ばなければ、中華人民共和国が日本を庇護してくれるか、大韓民国が日本の庇護者となってくれるか、そんなことは天地がひっくり返ってもありえない。
安保闘争の時、アメリカと条約を結べば戦争に巻きこまれると云った人たちの戦略的発想というのは今日どう評価すればいいのか。
彼等は日本国民に嘘をいっていたではないか。
それは戦時中の大本営発表と同じで、嘘八百を並べていたのと同じではないか。 
人間の本質を知らない我が同胞
日本の政治家というのは、与野党の議員とも、日本の政治というものを党利党略のための道具としている。
2002年2月の、鈴木宗男自民党議事運営委員長の北方支援の有り方を巡って、本人が証人喚問に応じなければ、平成14年度の予算委員会の審議をしないと言っている。
予算委員会の審議を人質として、党利党略を計ろうとしているわけで、こんな馬鹿な話はありえない。
平成14年度の予算委員会と、鈴木宗男の証人喚問は、全く別の次元の問題なわけで、証人喚問に応じなければ予算委員会の審議をしない、などと言う事があってはならない事だと思う。
「風が吹けば桶屋が儲かる」式の唐突な議論であるが、それが通るのが日本の政治の不可解なところである。
国会におけるこういう問題は何も今回だけの事ではなく、日本の国会ではこれが普通の常識とさえなっている。
その前の田中真紀子外務大臣の更迭の問題でも、これと同じパターンであった。
彼女も、予算審議で野党の攻撃をかわす目的で、小泉首相は田中真紀子の更迭を決断したわけで、田中真紀子のしようとした外務省の改革と、予算審議とは何の関係もないにもかかわらず、野党が予算審議においてその問題を槍玉に挙げ、拒否する構えを見せたものだから、予算案を速く通過させねばならないと考えた首相の判断であったわけである。
本来、予算案の審議と外務省内部のごたごたとは関連のない話でなければならないのに、それを関連つけて政治そのものが党利党略で回ってしまっているわけである。それは当然国民不在の政治という事になっているわけである。
細川内閣以降というもの自民党単独では国会の過半数を維持できないので、連立を組まなければならなくなった。
三党連立して、それでようやく過半数を維持でき、綱渡り的な政権運営になっているが、問題は過半数に限りなく近い野党の存在なわけである。
鈴木宗男のような自民党議員の存在を許している自民党も、又野党も、国会議員として矜持が欠けていると思う。
事ほど左様に、戦後半世紀の日本の政治というのは、物の本質を究めるのではなく、表層的な損得勘定ばかりで動いてきたわけで、目の前の現象のみを追いかけてきたわけである。
戦後の進歩的な知識人が愛して止まない日本国憲法でも、彼等自身あれが戦勝国の押し付けということを知っていながら、敢えて火中の栗を拾うという試練を避けて通ろうとしているわけである。
そしてその開き直りの方便として、世界で類を見ない平和理念を盛り込んだ憲法、世界に誇り得る憲法である、などと豪語しているわけである。
人間は理念では生きておれない、という事が判っていない。
理念で生きておれれば夢を食う獏である。
人間は、現実に即した生き方を選択しないことには、生き長らえないのである。
不老長寿の薬は人間の夢であるが、それはいくら科学が進歩したとしてもありえないわけで、この地球上でいくら立派な理想を掲げても、この地球上に住んでいる人間というのは善意の人ばかりではないわけで、人間の理想を無条件で信じ込んでいるという事は、逆に人間と言うものを知らないということの証左でもある。
人間というものを知らないものだから、自分の同胞についても全く知らないわけで、日本人の半分が保守で、残りの半分が革新であるという現実を見ようとしていない。政治家でも、進歩的知識人でも、安易に国民という言葉を使う。
「国民が望んでいる」「国民が納得しない」「国民が怒っている」「国民を馬鹿にした処置だ」等々、こういう表現で自分以外の第三者を指す時に、国民という言葉を安易に使っているが、そういう表現に接すると、それを聞いた者は本当に日本の全国民がそう思っているかと思ってしまう。
ところが蓋を開けてみると誰もそんなことは信じていないわけである。
そこで厄介なのがマスコミの存在である。
19世紀以降の人間の社会というのは、地球上の如何なる地域でも、マスコミというものを抜きでは考えられない。
そして、マスコミが真実を伝えていることは事実であるが、マスコミの伝える事実と実体とは必ずしも一致しないわけで、野党議員が「その施策では国民は怒っている」という発言を報道したとすると、その発言そのものは真実であるが、国民が本当に怒っているかどうかは別の次元の問題である。
それで、そのマスコミの受け手の側としては、マスコミが、つまり新聞やラジオ、テレビが「国民が怒っている」と言っているので、「この場合は怒らなければ世情に乗り遅れるに違いない」、と思い込んでしまうわけである。
この例の場合、意図するしないに関わらず、マスコミが世論形成をした事になってしまう。
マスコミは野党議員の発言をそのとおり嘘を交えず真実を報じたにちがいないが、その発言の中に虚偽があったとしたら、マスコミの意図とは無関係に、誤った世論形成が成されてしまうわけである。
戦後の日本の進歩的知識人というのも、この風潮と言うか、このカラクリというか、その落とし穴に綺麗に嵌り込んでいるわけで、日本国憲法は世界に類のない立派な憲法だ、などという錯覚に陥っておるわけである。
考えてもみなさい。自分から「私はどんな事をされても戦争は一切しません」と言う主権国家が何処にあるかと!!!!。
「叩かれたら叩き返しますよ!」というのが普通の人間の普通の感覚である。
「叩かれても私は叩き返しませんから、どうぞ叩いてください」と公言する主権国家が何処にあるか、ということである。
自分で自分の手足を縛っておいて、「さあ皆さん仲良くやりましょう」という主権国家がこの地球上に日本以外にありうるであろうか。
これで日米安保がなくなったらどうなるのであろう。
戦後の日本の知識人は、日本が半世紀間も銃火を交えずに来れたのは、「平和憲法のお陰だ」などとのたまわっているが、これほどの破廉恥も又とない。
我々は半世紀の間何処の国とも戦争をせずに来れたのは、日米安保のお陰である、と言う現実がどうして理解できないのであろう。
そのことは、彼等は、人間というものが全くわかっていないと言う事だと思う。
平和憲法を金科玉条のようにしている人々は、又あの大東亜戦争の二の舞をしかねない。
半世紀というタイムスパンの中で、日本も、また世界も、50年前とは大きく変わっているわけで、その変化ということを微塵も考慮に入れることなく、50年前の憲法を時代に合わせて考え直す事を拒否するということは、あの明治憲法を「不磨の大典」としたのと同じ轍を踏んでいる事になる。 
日本民族の実態
あの湾岸戦争の時、我々の対応は、「我々には平和憲法があるから兵員は供出できません」という言い方で協力を拒んだわけである。
あれが「我々は平和憲法をもっているが、それを押してでも超法規的処置で以って正義のために参加する」と言うものであれば、世界の日本に対する評価は逆転していたに違いない。
イラクへの制裁と言うのは、国連のお墨付きで行われたわけであるから、その国連への全面的な協力には、国内法を変えてでも貢献すると言う事であれば、世界の日本を見る目というのは自ずから変わってくるに違いない。
我々は高度経済成長をとげ、世界でも屈指の豊かな国となり、日本人の多くが海外に行き、海外に留学し、海外からも人が来ているにもかかわらず、何故こうも閉鎖的なのであろう。
自分さえ良ければそれで由とする風潮が何故抜けきれないのであろう。
我々の意識というのは、江戸時代の我々の先輩諸氏の意識と全く変わっていない。勝海舟や坂本竜馬の時代と何も変わっていないように見える。
「井戸の中の蛙、大海を知らず」そのものである。
しかし、20世紀後半、大東亜戦争以降の日本というのは、もう居ながらにして「井戸の中の蛙」ではないはずである。
アフガニスタンやアフリカのコンゴの山奥に住んでいるわけではなく、情報と言うのはあらゆるメデイアを通じて飛び交っているわけで、決して江戸時代のような「井戸の中の蛙」ではないにもかかわらず、潜在意識として、井戸の中の蛙的なところが抜けきれていないのは如何なる理由によるものであろう。
やはり民族としての精神が腐っている、としか言い様がないように思う。
この拙文を書いている最中に図書館から借りてきた本を読んでいたら、あの終戦の時、昭和20年8月において土浦か何処かの予科錬の部隊というか、学校と言うべきか、そこの在校生が復員、終戦で解散になって郷里に帰る際、近所の住民は集団でその予科錬の生徒に対して石を投げたと言う事を読んだ。(神保威「石もて打たれし終戦時の思い出」)
これを読んだ時、実に情けない気持ちになった。
アメリア占領軍が進駐してくる時、かって中国の戦線に行った人たちは、アメリカ占領軍の婦女暴行、凌辱を真剣に心配したとあり、それは体験から出るものに違いないとも書いてあったが、まさしくこれが日本の大衆の実像であったわけである。つまり、自分達が中国でそういう事をしてきたものだから、勝った側としては当然そうするものと思っていた、と言う事を如実に表しているわけである。
よく引き合いに出される南京大虐殺も、あの数字には全く信憑性はないとはいうものの、日本の兵隊が無為な殺戮をしたことは事実だと私は確信している。
問題は、この「日本の兵隊」という言い方が曲者で、これは日本政府、当時の言葉使いで言えば、「大日本帝国政府が徴兵制でかき集めた日本の大衆」と言うのが本当の実体であろうと思う。
日本の大衆、もう一つ言い方を変えれば、我々のお爺さんや、父や、叔父さんの世代、これらの総称としての「日本の兵隊」、日本の民衆が大陸に渡って、中国人を動物なみに扱い、悪い事して憚らなかったわけである。
その悪い事の中には、婦女子の凌辱から、物取りから、殺傷まで全て含まれているわけで、自分達がそういう事をしてきたものだから、占領軍も同じ事をするに違いないと言う危惧をしたわけである。
ここで我々の先輩諸氏の名誉のために一言弁護しておけば、中華人民共和国成立前の中国では、彼の地の人々は、近代国家として主権国家の国民という概念では括れなかったということは事実であろうと思う。
日本軍と、国民党と、共産党と、夜盗、強盗、山賊、匪賊、馬賊が渾然一体と化していた、という背景は考慮する必要がある。
だからと言って、無為な殺戮が人としての倫理に鑑みて、許されるわけではない。我々、日本民族、大和民族の実体というのはこういうものであったわけである。
日本の内地に居た人たちはそういう実体を全く知らなかったわけである。
銃後で、千人針や慰問袋を作りながら留守を守っていた母親や妻達は、自分達の夫や父親は、前線では苦労して敵の正規兵と戦っていると信じていたわけである。
徴兵制で駆り集められた「日本の兵隊」達、つまり我々の父やおじいさん、はたまた兄や弟、つまり日本の大衆、民衆というのは、中国大陸に渡ると鬼と化していたわけである。
それと同時に、当時の日本のインテリー・クラスと言うのは、これは又これで、まったく見下げた人達ばかりであったわけで、日本民族というのは上から下まで、箸にも棒にもならなかったわけである。
戦争中はそういう人達が天下を取っていたわけである。
そういう人達が終戦、この言い方も非常に欺瞞に満ちた言い方で、正しくは敗戦と言うべきであるが、敗戦でその居場所がなくなった途端、今まで体制に何一つ文句を言わなかった銃後の人々が、若い元予科錬に石を持って追い討ちをかけたわけである。
これが日本民族の実態であったわけである。 
日本人の命乞い
それが外国の領土で人殺しをする戦争から開放されて、経済戦争という新しい戦いの場に出て行くと、これは直接的な人殺しが伴っていないものだから、自分は良い事をしているつもりになっていたが、暗に相異して世界から総すかんを食ったわけである。
相手の人を殺したわけではないから、自分では何一つ悪い事をした記憶がないわけである。
ところが相手から見れば、日本の洪水のような輸出攻勢というのは、自分の国を消滅にするものと写ったわけである。
無理もない話で、「井戸の中の蛙」では相手の心情を察する事が出来ないわけで、自分は何一つ悪い事をしていないつもりでも、相手がどう思っているかと言う事を考えないものだから、反撃を食うわけである。
この相手の気持ちを慮る、と言う事が我々は不得意なわけである。
それは相手が異民族だから相手の気持ちを察する事が出来ないわけで、我々同胞のうちでは、目上の人の気持ちを慮ると言う事は、ある意味で我々の特技でもある。それが異民族に対しては通用しないわけである。
ここに日本の常識は世界に非常識となり、世界の非常識は日本の常識となるわけである。
湾岸戦争で、国連決議に基づいて世界がイラクのフセインを成敗しようというときに、中東の石油に一番依存している日本が、一兵たりとも出さないでは、クエートが感謝広告を出さないのも無理はない。
我々の祖国は、事ほど左様に上から下までまともな人間がいないわけで、ただただ烏合の衆がアメーバ−のように不定形にうごめいているだけの集団なわけである。国家主権という硬い殻で固まった主権国家ではないわけである。
領土が侵されようが、領空を犯されようが、人が浚われようが、いくら共産主義に洗脳されようが、自分さえ食うに困る事がなければ、全体のことなどどうでもいいわけである。
従軍慰安婦に金を出せと言われればハイハイと出し、強制労働に金を出せと言わればハイハイと出し、教科書を直せと言われればお説ご尤もと言っているわけである。こういう国に対して、相手も武力・軍事力を使うまでもなく、口でさえ言えば、言っただけ金が出てくるわけである。
こんな有り難い打ち出の小槌のような国は、地球上広しと言えども他にはないわけである。
極東の小さな4つの小島に住む人の集団というものを、客観的な視野で、天上から敷衍して眺めてみると、この島に生きてきた人々というのは、離れ小島という地理的制約を受けてどうしても純粋培養になりがちである。
他民族、異民族と接する機会が少ない分、自分達だけのテリトリー内の生活環境下で、自分達だけの文化を作り出したわけである。
その中で生を維持するには、仲間との協調が最も大事で、仲間との意思の疎通で齟齬をきたすともう逃げ場ないわけである。
その仲間との意思の疎通を促すものが、ある種のプロパガンダであったわけで、このプロパガンダというのに統治する側のものもあれば、統治される側のプロパガンダもあるわけである。
それは時代によってプロパガンダの重点が、左に寄ったり右に寄ったり、座標軸が定まらないわけである。
我々が日本民族である限り、このプロパガンダに影響される、という民族の本質は変わらないのではないかと思う。
我々は離れ小島の住人という地理的制約から、異民族、他民族との接触というものが不得手で、自分で認識したもの以外には発想が及ばないのではないかと思う。
大東亜戦争中は、「大儀に殉ずる」ことが人としての価値ある事、美しい生き方だというプロパガンダに傾倒し、戦後はその逆向きのベクトルが世の中のプロパガンダとなったわけである。
戦争中、若くて優秀な人材が皆、海軍兵学校、陸軍士官学校、予科練習生に志願したのは、国家の大儀に殉ずる事は美しい事だ、というプロパガンダに幻惑された面は確かにある。
それと同じパターンを戦後も踏襲しているわけで、軍隊というものは諸悪の根源だ、という思い込みがプロパガンダ化しているわけで、価値判断の基底にこの思い込み、刷り込みが、潜在意識として存在すものだから、基準点が最初から左の方に移動してしまっているわけである。
「軍隊というものは諸悪の根源だ」という我々、戦後の日本人の刷り込みというのは、世界には通用しないわけで、世界では軍隊そのものが主権そのものであったわけである。
軍隊を持ってはじめて主権国家として成り立つわけで、軍隊は主権の象徴である。そして、軍隊を持っているから何時も何時も戦争したがっているのかいえば、それは全く逆で、戦争などで自分の国の軍隊を使いたくないから、外交という話し合いの場で紛争を解決しようと努めているわけである。
それが世界の普通の常識である。
しかし、20世紀も後半となり、21世紀が目の前に来た時、世界は完全にグローバル化しており、核兵器と言うのは地球上で5カ国6カ国も持っている現状を見れば、如何なる主権国家といえども、自分の国だけで、一カ国だけで、単独では自分の国を自分で守る事さえ不可能になってきたわけである。
つまり、自分の国の主権そのものが、自分の国の軍隊だけでは守れないわけである。そこでお互いに連携しあって、相互扶助と同時に相互防衛という事なるわけである。イラクがクエートに侵攻し、国際連合がイラクに即時撤退を勧告し、イラクの行為を侵略と認定した時、全地球規模でこの相互扶助と相互防衛が認知されたわけである。
クエートは被害者であったわけである。
地球村でも地球市でもいいが、その住民であるクエート家に、イラクという泥棒が入った時、棍棒を持って駆けつけたのがアメリカであり、イギリスであり、フランスであり、韓国であったわけである。
地球村の大金持の日本は、ぬくぬくとした暖かい家の中に居て、棍棒を持ったアメリカにタクシー代を出しただけという構図である。
これではクエートが感謝の新聞広告から日本を抜くのも致し方ない。
日本が半世紀前の戦後の何も無い日本ならば、それでも通るかもしれない。
ところが21世紀に差し掛かろうとする今日の日本は、半世紀前の焼け野原の日本ではないわけで、やはり金持になった以上、金持にふさわしいノブレス・オブリッジというものが必要なわけで、それを示してはじめて世界は日本というものを正当に評価してくれるわけである。
日本はその後で掃海艇を派遣したではないか、という反論もあろうかと思うが、火事の後のもく拾いのような仕事を嬉々としてやるところに、戦後の日本の自堕落な面が露呈しているわけである。
国連への供出金は一番沢山出しておきながら、与えられた仕事といえば、火事場の後の焼け跡のもく拾いでは、世界から如何に馬鹿にされているかという事である。誇り高き男ならば、悔しくて悔しくて、悶絶死しなければならないような状況にもかかわらず、それを選んだのはほかならぬ我々自身である。
命さえあれば、石の地蔵さんにも命乞いをしている図である。
民族の名誉も誇りも、自分の安逸な生活を維持するためにかなぐり捨てて、ただただ命乞いをしている図である。
その命乞いの結果、日本は世界でも稀に見る長寿国になったわけで、長寿国になればなったで老害に悩まされる、という新た問題が浮上してきている。 
「打ち出の小槌」日本
物事には長短がある。
そして表裏、裏表がある。
それはメリット、デメリットいう言い方もされている。
湾岸戦争に自衛隊を派遣するしない、という事柄にもメリット、デメリットがある。政治の決定は、湾岸戦争に自衛隊を派遣してもデメリットの方が多い、という結論に達した結果として、150億ドルの金で済ませたわけである。
これは政治の結果とはいうものの、当時の日本の総意を代弁しているわけである。我々の同胞の中には、法律を改正してでもアメリカに協力して派遣すべきだ、と云う人がいたとしても、それはその他大勢の声にかき消されて、政治の結果としては実現できなかったわけである。
当時の海部総理大臣は、国民の総意としての意見に迎合して、自衛隊を派遣するという事とをせず、金で済ませたわけである。
そのことは国民的な総意に沿った、いわゆる民主的な政治をしていたわけである。政治を語るとき、政治家のリーダー・シップという事とがよく言われるが、政治家のリーダー・シップというのは、国民の総意に真っ向から対立して、国民が「止めておけ」というのを無視して、自分の所信を押し通すことではなかろうか。
我々国民というのは、国民の声に迎合する首長をよしとするのか、国民の意向に逆らってリーダー・シップを発揮する首長をよしとするのか、どちらの選択がベターなのであろう。
不思議な事に、戦後の反体制勢力というのは、そのどちらも由としないわけで、とにかく上に立つ者は何でもかんでも悪人と決め付けているわけである。
そのことは同時に、自分達の選出した政府が信用ならないというのは、完全なる無責任体制でもあったわけである。
大戦中に、我々、銃後の一般国民というのは、当時の大日本帝国政府の大本営発表に騙され続けていたわけで、その反動というのは理解できる。
しかし、戦後の体制というのはマッカアサ−の指令で完全に民主化されたわけで、自分達が選出した国会議員が、自分達の政府の首脳、つまり首相と政府要員閣僚を出しているわけで、これは民主的手法による篩が掛かっているということである。戦前のように、天皇陛下が首相を任命するというものとは大いに違っている。
そのことを故意に無視して、戦前と同じ感覚で政府与党というものを糾弾しているわけである。
物事にはあらゆるものにメリットとデメリットがついて回るわけで、政府のする行為にも当然それがついて回るわけである。
だから本当の民主的な国会運営における反対政党というのは、そのデメリットの部分を縮小する方向に、法案の修正を図るように仕向けるのが本当の野党の使命であり、存在価値である。
ところが最初から絶対反対では物事が先に進まないではないか。
湾岸戦争で「一兵たりとも派遣してはならない」というのは、まさしく葦の髄から天を覗いているようなもので、これほど今日の世界情勢を無視した発想も又とないはずである。
我々は憲法第9条で、自分で自分の手足を縛っているのだから、国連の庇護に依存して生きているわけである。
そして日本が世界で一番金持の国になれたのは、世界が秩序ある貿易を保証してくれていたからである。
そのお陰で、日本は中東の石油に依存しながら、経済発展が可能になっていたわけである。
そういう状況を加味すれば、湾岸戦争に「一兵たりとも出してはならない」という発想には至らないはずである。
自衛隊を派遣するという事は、アメリカの行った「砂漠の嵐」作戦の前線に立って、イラク兵と鉄砲を撃ちあうという事を指す物ではない筈である。
そんなことをすれば逆にアメリカは困るはずである。
多国籍軍が日本に期待していることは、やはり後方で弾薬を運んだり、食糧を運んだり、航空機の部品を運んだりすることであったわけで、禄に殺しのテクニックも持たない日本の自衛隊が、砂漠の前線にいきなり出るということは、どんな素人の軍人でも考えられない。
ここで強調しておかなければならないことは、今の自衛隊員というのは、旧大日本帝国陸海軍のように、徴兵で集められた有象無象の日本大衆としてのモラルの欠いた人間の集団ではないということである。
大東亜戦争の戦史を紐解けば、我々の先輩としての旧軍人達のおぞましい行為が次から次へと出てくるのは一体どう言う事なのであろう。
戦後の反体制を旗印にしている人々は、あの戦争は一部の日本人の中の極悪人が推し進めて、銃後の一般国民はむしろ被害者であるという論調であるが、どうしてどうして、われわれの先輩諸氏で徴兵で駆り集められた下層部分の兵士、つまり我々の父や夫の中にも、極悪非道な行為をした人が数限りなくいたわけである。
そういう倫理的に非常に低いレベルの人間が、戦後日本の大衆という名で、国民という名で、平和憲法などと占領軍が押し付けた憲法を後生大事に抱えているわけである。
こういう無責任体制だからこそ、湾岸戦争でも「一兵たりとも出してはならぬ」という論法になるわけである。
国連の庇護の元に生かされていながら、その国連の要請には金で応えて由としているわけである。
地球規模で見た場合、金で兵役を逃れようとする人は、掃いて捨てるほど居る。
どんな主権国家の国民でも、どんな民族でも、兵役というのは忌み嫌われており、金で免れればさっさと金を払って、その兵役の義務を免れようとする人間はいる。しかし、そういう人間を人は信用しないわけで、卑怯者とか、弱虫とか、腰抜けとか云って差別し蔑むわけである。
普通の人ならば、嫌な事を承知で、国の為、自分の国家のため、自分の属する民族の為と思って、我を殺して兵役につくのである。
嫌だからやらない、嫌なものは嫌だでは、人間として一人前に見てもらえないのは当然である。
湾岸戦争の時の日本の対応というのはまさにこれであったわけである。
だけれども、日本がいくら世界秩序の中で駄駄をこねたとしても、だからと言ってそれだけの理由で日本を抹殺することは出来ないわけである。
むしろそういう情けない国でも、打ち出の小槌という存在価値だけはあるわけである。
金に困った時は、日本に対して少し脅しをかければ、欲しいだけ金は出てくるわけで、相手の国にしてみれば、湾岸戦争におっとり刀で馳せ参じてもらうよりも、打ち出の小槌で居てもらった方が便利なわけである。
日本が積極的に世界秩序の維持に関与するよりは、傍観者で居てもらって、必要な時に金だけ出してくれる存在の方が彼等にとっては都合が良いのかもしれない。
世界は日本をそういう目で見ているのではないかと思う。 
 
中国の接客文化

第一章 商業文化の伝統 
小論文を執筆した際に導き出された結論は、「日本では、小売の場での店員の購買者に対する態度は接客となるが、中国では、それは接客の範疇には入らないのではないか」というものであった。では、なぜ日本では接客となるのに、中国ではそうならないのであろうか。この違いには、両国の商業文化の伝統が関わっているのではないかと思う。
そこで、この章では、日本と中国それぞれの、商業文化の伝統について見ていく。まず第一節では、近代までの商業史を見る。第二節では、その中で商業活動が盛んだった時代、都市をピックアップし、実際の商業生活の様子から、商業における接客の位置を導き出す。そして第三節では、それら商業を支えた倫理について見ていき、商業の場で何が重要視されたのかを見ていく。 
第一節中国の場合

 

1)商業史
中国商業に関する最古の記録は、春秋戦国時代(前770〜前221年)にまで遡る。この時代は、それまでの奴隷制経済から封建社会へと変化し、製鉄技術の発明により生産力が著しく向上し、空前の社会経済繁栄期であった。商業や都市も大変栄え、斉の臨溜や趙の邯鄲などの大都市では人口も多く、商人もたくさん行き交っていた。この時代の主な取引物は鉄、塩で、それを取り引きする商人が大活躍し、製鉄、製塩業が盛んだった。市場もすでに存在し、北方の馬から南方の象牙まで何でも揃っていたという。一部の商人は買い占めに専念し、大金持ちになる者もいたらしい。また、この時にはすでに最初の貨幣である刀銭(資料1)、布銭(資料2)などの青銅貨幣が製造され、流通していた。刀銭は燕、斉で使用され、布銭は趙、魏、韓、秦で使用されるなど、各地で使用される貨幣が異なっていたようだが、秦の統一後に統一され、円形方孔銭(資料3)となった。
この時代はわりと自由に商業活動を行っていたが、漢代(前206〜前220年)になると、漢朝の統治者が重農抑商政策を実行したことで、一転して商業活動が規制されることとなる。これは農業が天下の根本であり、商人はしばしば投機をして物価を操るので、社会を不安定にさせているとの考えからだと言われる。つまり、商業行為は不道徳だとし、商人が社会的に認められていなかったのである。そのため商人は抑圧された。その例には、商人の絹製衣服の着用禁止や、重税の徴収、商人とその子孫の官吏登用の禁止などが挙げられる。この政策のおかげで、漢代の商業は発展を制約されることとなったのである。つまりは国家が商業に介入し、統制したということである。この時代、長安には「市」と呼ばれる商業専門区があったが、市内には官吏が置かれて商業税の徴収を管理したり、市場価格に統一的な規定があったりと、自由な商売はできない状況にあったことからもそれを窺うことができる。また、この時代の貨幣は五銖銭(資料4)という銅銭で、私鋳されたものであった。こうすることによって貨幣価値下落と物価騰貴の克服を目指したとされ、この貨幣は隋まで使用された。
唐代(618〜907年)になると商業が発達し、市も大きく発展したが、この時も市は国家統制下にあった。とはいえこの時にはペルシア人などの外国商人も活躍するようになり、市には彼らの店舗が大変多かったという。市が国際的になってきたのである。また、市はかつてに比べて複雑化し、「行」と呼ばれる同種の商店が集中する区域が出現したり、各都市に市舶司を設置し、海上貿易の事務を統括するというシステムも誕生した。唐末になると「草市」という非公認の市や、「鎮」という商業都市が多く出現するようになった。
中国の商業史において、最も経済変革が行われたのは宋の時代(960〜1271年)だったとされる。この時代にはそれまでの制度が崩され、商業のあり方が大幅に変化した時代であった。まず、以前は商業活動区域である市と、住居区域である坊とがあり、その境が存在していたのだが、宋代になるとそれが取り払われ、商業活動が特定の区域に制限されることがなくなった。また、それまでの市は営業時間が厳格に定められていたが、それもなくなったので、深夜まで営業する夜市や、朝早くから営業する朝市も活発に行われるようになった。都市の周囲と農村の交通の要衝付近に、大量の交易市場が出現するようになったのもこの時代である。これらの市場は日増しに増える定住者を引き付け、発展を遂げ、やがて都市や唐末から普及してきた鎮となった。ちなみに、鎮と同じく唐末に多く出現した草市は、農村の定期市として各地に成立した。これら都市や鎮での交易は大変盛んで、非常に賑わっていた。そして、この交易の発達により、一大商品交換網が形成されるようになった。都市の内部では、「行」に同種の店が集まり、同業者組合を結成する現象が見られた。これらの組合には「行頭」「行老」と呼ばれるリーダーがいて、政府は彼らを通じて商業の統制を行ったらしい。以前の国家統制よりは緩和されたが、こういう形で商業を統制しようとする動きはあったのである。しかし、商業は著しく発達していた。そのため、貨幣も大量に流通していた。当時は銅銭、鉄銭、金、銀などの金属貨幣が多く流通しており、この内の銅銭は海外にも大量に流出し、日本でも流通するようになった。また、北宋前期には、携帯しやすいようにと、世界最初の紙幣である「交子」(資料5)が発行された。これが益々商業発展を促すこととなった。
明代(1368〜1644年)になると、またもや都市に変化が現れる。それまで都市は消費の拠点であったのだが、この頃になると手工業が発達してきたことで、都市が生産の拠点となってきたのだ。また、このような生産都市となったことで資本主義が芽生えてくるのである。蘇州や松江は紡績業中心の生産都市であったが、明代中期頃になると「機戸」と呼ばれる者が登場する。これは数十台の紡績機と大量の資金を持ち、機房という工場を建て、そこで労働者を雇って織物を生産する者のことを言う。つまり、機戸とは早期の資本家なのである。彼らに雇われる労働者は「機工」というが、まさに機戸と機工の関係は資本主義的生産関係だったのである。商人も当時は巨大な資本を獲得し、広域商業網を展開する者がいた。代表的なものとして、山西商人や新安商人を挙げることができる。彼らは大資本を獲得して原料を大量に仕入れ、製品化して全国規模で商売をしたりしていた。
清代(1644〜1911年)前期頃の手工業生産は、明代にも増してさらに発達した。乾隆時代には、政府が商人の鉱山開発を奨励したので、鉱山業が迅速に発展し、景徳鎮の製磁業の規模も拡大した。この発展を基礎に商業も繁栄し、各地に商業都市がいくつも出現した。当時の北京は全国的な取引市場で、そこに全国各地の特産物がすべて集められて、そこから辺境の少数民族地域に輸送され、売りさばかれていた。商人らはこうして資本を蓄え、やがて機戸のように織機を持ち、機織業者に与えて織物を織らせ、完成した製品を低価格で買い取って売りさばき、利益をあげるようになっていった。彼らも早期の資本家と言える存在だったのである。しかし、そのような中、打ち出されたひとつの政策により、工商業は大打撃を受けることになる。それは18世紀、乾隆帝の時代に打ち出された。乾隆帝が清朝は物資が豊かで外国と通商をする必要がないと考えたこと、外国商人の往来が良からぬことを引き起こすのを恐れたことから、欧米船の来航を広州一港に制限し、あとの港はすべて閉鎖するという、いわゆる閉関政策をとり、対外貿易を厳しく制限したのである。この政策は、西方植民者の侵略活動が起こっていたのに対する防衛作用をもたらしたのだが、一方では中国が持っていた、対外貿易に関する主導権を喪失させたため、政策が打ち出されてからというもの、手工業の進歩と発展は阻まれ、同時に世界と隔絶したため、外国と生産技術の交流等を行えなくなった[1]。 
2)商業における接客の位置−宋代開封の商業生活から
以上のように、ここまでは中国の商業がどのような歴史を辿ってきたのかを見てきたが、ここからは、実際の商業生活の場で接客がどのような位置にあったのかを考えてみたい。
先ほど商業史を見た際にも述べたが、中国で最も商業のあり方が変化し、また最も賑わった時代は宋代だとされる。都市には商人が集住し、商品経済が展開する場となっていた。そのため、この時代に栄えた首都「開封」も商業が非常に盛んで、商人が牛耳る町であったという。商店街は早朝から深夜まで賑わい、繁華街には、書籍、薬などを扱う店が多く立ち並んでいた。また、開封には贅沢な人々が多く、彼らは金銀の装飾品など高価な物を好んだ。そのため、金銀、香辛料などの高級品店が非常に多かった。これら高級品を扱う店は繁華街の周辺にもたくさんあり、開封においては、こういった奢侈品の商いが主要であったという[2]。
このように非常に華やかな都市であった開封での商いの様子を記した資料は多く残されており、中でも「清明上河図」は、清明節の都城内外の繁華の様子をきわめて精密刻明に描写しており、社会生活、経済生活の資料として価値のある図として有名である。したがって、ここでは宋代の開封にスポットを当て、この「清明上河図」から商業における接客の位置を探ってみようと思う。
「清明上河図」を見ると、色々な特徴が見えてくる。一見すると、商いで賑わう華やかな街であることから、宋代の開封でいかに商業が盛んであったかが読み取れる。しかし、もう少し細かく見てみると、その他にも面白い特徴が見られるのである。まず、飲食店以外の店舗では、購買者は全員立ったままの様子が見られる。座っているのは店員くらいで、あとはその場に立っているか歩いているかである。購買者が休憩のために椅子に座っている風景は見受けられない。これは資料6を見ると分かる。しかし、次に資料7と資料8を見てほしい。この図で描かれている店には椅子とテーブルがあって、そこに座る人の姿が見える。椅子やテーブルがある店舗は他にもあるが、大抵は飲食店、酒亭である。資料7はその飲食店の図である。テーブルの上に皿などの食器が見られることからそう判断できるだろう。しかし資料8を見ると、先ほどと同様に椅子とテーブルがあるが、テーブルの上には何も置かれておらず、飲食店を示すような看板なども見られない。そのため、これを見ただけでは、大抵が飲食店だとは言っても、そう断定することはできない。
では、この店は一体何の店なのだろうか。これらの店について、小林和子は「テーブルと腰掛から見た『清明上河図』[3]」で、この図から見える、ある特徴について述べている。小林は、これらの「職種不明の建物」は、共通して「川縁ぎりぎりの所に建っており・・・」と述べ、また店のつくりの点では、
画面から推定できる範囲でいうと、テーブルと腰掛が並ぶ客場が室内にあるものと、吹き抜けにしてある開放型とがあるが、・・・特徴的なのは屋内型でも川にテラス状に張り出した形のもので、・・・しかもこれらは建物にも築地塀がある点が共通している
と述べている。そしてこれらの特徴を踏まえて、「こうした店は、中国では何というか知らないが、日本でいう回船問屋ではないか」と結論を出し、そして、「そうなるとテーブルと腰掛が並ぶ客場は商談をするための応接場だということになる」とも言っている。
これらの店のテーブルと椅子が、以上の小林の考察の通り、「商談をするための応接場」だとすれば、これらのテーブルや椅子は、購買者のためのものではないと言えるだろう。買い物の合間に休憩するためのくつろぎ場としてあるのではなく、あくまでも商取引のためにあるのだと考えられないだろうか。だから図の中で、購買者は立ったままであったのだろう。ということは、中国の小売の場は商品の売買を一番に考え、購買者を客としてもてなすことはない、ということではないか。
以上、「清明上河図」の特徴である、購買者は立ったままである、ということについて考えたが、図の中には、もう一つ共通して見られる特徴がある。それは、女性客がほとんど見られない、ということである。これについても小林は次のように述べている。
・・・『清明上河図』はいわれているように“清明節でにぎわう開封の町”ではなくて“物流の繁栄する港町開封”を描いたものだったということになる。このため描かれているのは・・・問屋街なのではないだろうか。そう考えると女性が少ないのもうなずける。問屋街だからやってくるのは商取引のための男達だけで、普通の買い物や遊びに来るような女はいないのである。
つまり、この図は開封の問屋街を描いたもので、商取引が中心となるから女性がほとんど見られない、ということである。小林の考察の通り、この図が問屋街を描いたものだとしたら、図として描かれるほど商取引が活発であったということ、そしてそこから商業は商品売買を中心としていて、接客の機能を持つ場はほとんど必要なかったのだと言えないだろうか。
ここまでは、小売の場を見てきたが、接客自体を商品としている接客業の様子についても見ておく必要があるだろう。
開封では、サービス業はとても充実していたという。酒亭、食堂は開封で目立つ職業とされていた。以下は、ある飲食店の接客の様子である。
・・・客が座につくと、一人のボーイが箸と紙とを持って、一わたり客の注文をきく。・・・
都の人は贅沢だから、さまざまな注文をする。ボーイは聞きおわると、番台のそばに立って始めの方から節をつけて復誦し、番台の内の番頭に知らせる。・・・どれもみな各人の注文に合っていて、間違いがあってはならぬ。一つでも間違っていたら、客からの知らせで、主人が必ず怒鳴りつけ、あるいは給料を減らしたり、ひどい時には馘にする[4]。
上の例から見ても、接客業を営む店では、店員の訓練がよく行き届き、接客に関して厳しかったようである。
中国の商業は、接客業では、接客が仕事だからその点に関しては徹底されているが、小売業となると取引が中心となり、この場合は顧客に対する接客は行われないのではないだろうか。つまり中国の小売の場は、商品売買を目的とした場所で、接客のための場所ではないのだと考えられるだろう。 
3)商業を支える倫理
ここまで中国の商業がどのように変化してきたのか、また実際の商業生活の様子を見てきたが、ここではその商業がどのような倫理によって支えられ、またその倫理は商業とどのように関わったのか、ということについて見ていきたい。
そこで、以下、余英時『中国近世の宗教倫理と商人精神』をもとに記述を進めていくこととする。この文献は、著者の余が、中国の宗教倫理、つまり仏教、道教、儒教の倫理の世俗化が中国の商人に与えたであろう影響を、これら三教の世俗内的倫理を分析し、その発展と社会的変遷を概括することで追及することを目的として書かれたものである。この文献では、もとは世俗外的な性格を持つ仏教、道教が世俗化し、それが元々世俗内的な教えであった儒教にも影響を与え始める。こうして誕生した新たな儒教、「新儒教」を、中国商業を支えた倫理としている。
では、その「新儒教」とはどのようなものなのであろうか。これは安史の乱(755〜763年)以降に勃興してきた教えである。それまでの、春秋期から宋代までの儒教の教えは、士など、社会指導者の育成のための教えで、一般民衆のための教えではなかった。だが、儒教は漢代から政治に使われるようになり、儒家が台頭してくる。儒家は皇帝に仕えて政治を助けたり、また武帝に仕えた董仲舒、公孫弘らは儒教の国教化を推進し、儒教を中国における正統教学とすることに成功した。しかし、その後仏教が入ってきて隋、唐代に最盛期を迎えると、儒教は仏教に押され、その地位が低下していった。そこで、その反省から、この儒教をそれまでとは趣の違う教えにしようとする動きが出てくる。その動きの中、活躍したのが韓愈である。彼は儒学が社会生活を指導できるよう求め、「人倫日用」の儒学を提唱した。それはつまり「世教」としての儒学、言い換えれば民衆を対象とした儒学であった。これが先ほどから言う「新儒教」なのである。
こうして勃興した新儒教であるが、最大の特徴は、仏教と密接に関わりながら世俗内的精神を推し広げたということである。つまり、仏教のシステムを取り入れながらも、仏教には元々存在しない世俗内的教えを行ったということだ。それは、朱子学で知られる朱熹が、儒教の学規作成にあたり仏教の学規である『百丈清規』を手本としていることからも窺える。また、宗教には超越的な理想世界である「彼岸」と、現世的な世界である「此岸」という観念が存在するが、先ほども述べたように儒教は世俗内的教えであるので、此岸は認識しても彼岸が認識されていなかった。修心の教えや精神の帰着点がなかったのである。だが、新儒教では仏教の影響で儒教の彼岸が認識されるようになる。新儒教に修心の教えができたということだ。ただし、それは仏教のように此岸と全く別物なのではなく、「不即不離」の関係にある。つまり、仏教の最終目的は此岸を捨てて彼岸に登ることであるが、新儒教において彼岸は「天理世界[5]」で、あくまでも此岸を肯定するのだ。仏教では世俗活動と修心は別物とされるが、新儒教ではこの世俗活動自体が修心となるのである。そして、その世俗活動を勤倹に行うことによって人々の心が安んじ、理を得て彼岸なる天理世界へ到達できるのだ。だから新儒教の精神を一言で言えば、「社会に対する責任感が発展したもの[6]」と言うことができる。
以上のような特徴が新儒教にはあるのだが、ここで新儒教の分化について少し触れておきたい。
新儒教はいくつかの宗派に分化していくが、中でも朱子と陸象山の二大宗派が有名である。彼らの教えは、此岸で儒家の文化秩序を打ち立てようとした点では共通している。しかし、教えの対象に関しては相違点が浮かび上がる。朱子は士農工商の四民のうち、士を中心とした上層社会の人間を教えの対象とし、一方、陸象山は士だけでなく、一般民衆も教えの対象としていた。この二派はそういう相違から対立することになるのだが、南宋になると、士が指導的立場にいる社会となったため、朱子一派が新儒教の正統とされるようになった。これは明代まで続くことになるが、明代に王陽明が出現すると、両者は対等となった。では、この王陽明はどのような教えを説いたのだろうか。それは言うなれば、儒教倫理と士以外の農工商の人間との隔たりを打破して全民衆対象とし、自力による自己救済の教えを説いたのである。つまり教えは朱子一派のものであるが、その対象は陸象山派の唱えた、全民対象というものであったという事である。王陽明のこうした教えは後に陽明学と言われるが、その教えは「知行合一」「致良知」とされる。これは「良知」(万人が本来持つ自己能力)によって自己救済する実践論である。陽明学派は、後にさらに分化していくことになるが、新儒教の根本的教義は、この自己の力で自己救済する、ということに集約されていると言えるだろう。
さて、ここまでは中国商業を支える倫理となった新儒教について述べてきたが、ここからは、これが商業とどのように関わったのか、ということについて述べていきたい。
新儒教の商業との関わりを見るには、まず宋代以降の社会について見ていく必要がある。宋代以降、つまり16〜18世紀頃の社会では、大きな経済改革が起こり、商業のあり方が変化し、商業活動が、時間的にも場所的にも制限されることなく展開されるようになった。そのため商業は非常に盛んになり、商人は社会の中で地位を獲得し、士の多くは商家から出ているという現象が起こっていた。この頃の様子を沈犇(1798〜1840年)が、「…後世では商人の子であってはじめて士となれる…[7]」と述べていることからも、そのことは言えるであろう。それまでの社会では商人の地位は最低であったが、この頃には社会的に非常に高い地位を誇っており、もはや士と大差がなくなっていたのだ。このように商業の勢力が非常に大きくなってくると、やがて人々の間で、士も自身の力で生計をたてること、家族を養うことが必要だという考え方が生まれてくる。学問よりも「治生」(生計をたてること)が大切であるとし、その手段として商業が注目されるようになってきたのだ。こうなってくると、もはやそれまではっきりと引かれていた士と商の境界は曖昧なものと考えられ、一部では士と商の逆転という考えまで見られるようになったのである。このことを、余は文献中で、「新四民論」として紹介している。これは王陽明の考えである。当時、利を得ることを好むことは、商人よりもむしろ士の方が凄まじかったという。これでは名前が違うだけで、士も商人も同じであると考えた王陽明は、この論を唱えたのだという。それ以降、従来の士農工商の序列が士商農工と変化し、さらに清代には、「士は商に及ばない」という説まで出てくるようになった。ここまで商業が台頭してくると、商人達は、商業をより良くするため、商人道を獲得しようという姿勢を見せるようになる。ここで注目されたのが、新儒教だったのである。
では、なぜ儒家思想に注目したのだろうか。それは、彼らが、儒家の道理が商業経営の助けになると信じたからである。そのため、商人の地位が高まり、商業が盛んになった16世紀頃から、商人らが自らすすんで儒教を学ぼうとするようになり、儒教の知識と道徳規範を得るようになった。彼らは学んで得た知識を使って商業経営を行い、それと同時に道徳規範によって自己を律していた。商業経営に使用された知識としては、「治人」「知事」「治国」、すなわち「人を善く知り善く任す」というものが例として挙げられる。また、彼らが自己を律した道徳規範としては、「勤倹」「誠信・不欺」がある。善く働き、善く倹約する、誠実で欺くことはない、というものだが、これは新儒教の倫理で中心的位置を占めるものでもある。
では、最後にここまで述べたことをまとめてみたい。商人達は、最初は地位が低かったが、やがて自分達の職業である商業が社会の中で認められるようになった。これは、余が文献中で「商人自身と士太夫がともに商業を見直し始めたことにより、商業はついに壮厳神聖な意義を獲得したのである[8]」と述べていることからも分かる。そしてその商業をより良くするため、商人達は商人道を求め、儒教を学び始める。この儒教の知識で経営をし、道徳倫理に従って自らの行いを律した。つまり、儒教の教えは商人が商人道を確立し、地位をより向上させるために使われたのである[9]。 
第二節日本の場合 

 

1)商業史
弥生時代から、すでに商品の交換のようなものは行われていたとも言われるが、日本の商業が本格的に開始されるのは、律令制が安定した奈良時代以降(701年〜)のことである。中央政府の権力が畿内に確立し、地方行政の中心地であった国府に人が集まり、財貨が集積して都市化すると、非生産階級の都市民が市を成立させた。この市は、需給充足の場とされ、租、調、庸[10]の交換の場であった。例として大和橿原の軽市が挙げられる。この市は日本最古の市としても知られる市である。また、河内飛鳥(大和橿原市)の餌香市や、大和三輪の海柘榴市のように、神社や仏閣の辺りにも市は成立した。交通の要衝にもたくさんの市が開かれた。703年には、藤原京に東市、西市と呼ばれる大規模な市が設けられ、これは律令制が崩壊するまで、日本経済の中心として存在していた。また、日本最古の宣伝、広告が創作されたのも、この両市であったとも言われる。このように国内の商業は成立したのであるが、一方では大陸と朝貢貿易も行われていた。この貿易は日本に幣制を取り入れる契機となり、また奢侈品とその技術が日本に伝えられた。この貿易に影響を受け、各市では奢侈品の取引の比重が大きくなり、また日本政府は貨幣の導入を果たそうとし、708年に和同開珎を鋳造し、その後も金貨、銀貨、銅貨の鋳造も行った。しかし、いずれも貨幣としての機能は果たさず、まじないや祭祀の道具として使われたに過ぎなかった。
鎌倉時代(1192〜1338年)になると、荘園が発展し、それを単位とした経済が生まれた。農業生産を主体とした自給自足経済で貨幣は鋳造されていなかったが、宋から大量に流入した銅銭はあった。しかし、この時期、これは一部では流通していたようだが、全国的にはそれほど流通していなかった。鎌倉後期に入ると、新しい商品流通組織が誕生する。これは、各地方の荘園からの年貢輸送をめぐって組織された。この組織が輸送を担っていたのだが、やがて年貢の米輸送量が増加してきた。そうなると輸送のために労働力が浪費してしまうので、年貢が米の代わりに貨幣になった。こうして貨幣の需要が高まってきたのである。これが大量に流通するようになったため、市場は発達し、定期市がたち、年貢であった米も市場で売却された。そしてこれに伴い商品流通が盛んになると、貨幣の現送が不便なので、鎌倉時代後期頃から遠隔地の金銭取引には手形が使われるようになった。さらに商人や手工業者は平安時代に成立した「座」と呼ばれる同業組合を形成し、自らの商売の存立、発展をはかった。座は幕府ではなく神社や寺社に座役をおさめ、その見返りに寺社、神社などから庇護され、製造、販売の独占権など、様々な特権を与えられた。また、この頃には神社が組織した廻船組織が出来上がり、主に塩、鉄を運搬していた。これも神社によって庇護された団体であった。この時期は、商業を営む団体が、神社や寺社の権力で守られていた時期であったと言える。
室町時代(1338〜1573年)になると、各地に市が形成され、座が発展し、交通が盛んになり、貨幣流通も発展した。この頃の市は定期的に開設されるようになった。この現象の背景には、農業生産の上昇がある。生産が上昇すれば余剰生産物も多くなる。農民達はこれを市場で売りさばいたが、余剰が多ければ多いほど、市場に出回る生産物の量も増える。そのことが定期市を普及させることになったのである。月6回開かれる六斉市などが一般的だったが、都市では常設市が増加し、毎日開かれるようになったらしい。大都市では特定の商品のみを扱う市場が出現した。これは、商人が市場を経営する寺社や領主に税を支払い、市場での専売権を手に入れたためである。同業組合の座は室町時代にもできていたが、この時代に発展の頂点に達した。ところで、室町時代の商業と言えば、問屋が発生したことがその特徴であると言える。つまり、卸、小売のネットワークが形成されたということだ。問屋は鎌倉時代に年貢の米を輸送していた、商品流通組織の中の、門丸という役職が発展したもので、最初は年貢輸送を主としていたが、室町時代後半になると、地方特産商品が増大したため、そのような一般商品の取扱いを主とするようになった。また、年貢輸送業者から脱出して、委託販売にも従事するようになった。さて、以上のように室町時代の商業は発展したのであるが、この時代の貨幣はどうなっていたのだろうか。この頃の貨幣は、それまでは貨幣として使用されていなかった金が使用されていた。鎌倉時代に使われていた手形も、室町時代にはさらに発展した。ところが、実はこの時代はそれまで座や廻船組織のような商業団体を庇護していた、いわゆる「神の権力」の弱体化が現れるようになってきた時代でもあった。完全に弱くなったのではなかったが、その影響で一部の商人の自治的力が高まってくる。そして、商人道が意識されるようになってきたのだ。中世は、専業化した商人が少なく、商業も社会の中で一つの独立した産業として確立していない段階であったのだが、これを機に商人の力が高まり、商業が社会の中でその地位を獲得する兆しが見え始めた。
次に安土、桃山時代(1573〜1603年)の織豊政権の頃の経済政策について述べる。織田信長の政策としては、主に楽市楽座政策が挙げられる。これは、寺社や神社などの権力を弱体化させるための経済政策である。信長はこの政策により、1577年に中世的残存勢力の経済基盤であった座の持つ特権を撤廃し、城下町に座外の者の新規参入を認めた。つまり市場保護育成のためにそれまでの座の特権を撤廃したのである。彼の政策でそれら勢力は基盤を失い、弱体化した。豊臣秀吉の政策は基本的に信長のそれを継承、発展させたものだが、貨幣、度量衝の統一、貿易政策が異なっている。秀吉は信長が成し得なかった統一貨幣を鋳造し、貿易の保護、奨励を行った。また、商人を大阪に移住させ、商業経営の中心とした。また、この戦国時代には初期豪商と呼ばれる商人が出現した。彼らはいわゆる「半官半民」の商人で、都市の特権的商人であった。
江戸時代(1603〜1868年)になると、さらに商業の仕組みが変化してくる。この時代に最も商業が変化したとされる。慶長、元和の時期には徳川政権の基盤が確立して平和が続いたため、幕府は都市建設に力を入れた。巨大都市が次々に建設されて人口が増え、消費需要が膨大となった。本来はそれぞれの領地内での自給自足を望んでいたが、現実にはそれは不可能で、ある領地内で生産不可能なものは他の領地から仕入れなければならず、消費しきれない物は外へ売却しなければならない。そこで、それまでは領地内の城下町と農村との間で取引されていたに過ぎなかったのだが、領地間で全国的に商品が流通するようになったのである。この全国市場での商品流通は、交通、運輸機構の整備により、飛躍的に発展した。その例として、廻船を挙げることができる。江戸時代になって航路が整備され、益々活躍するようになった。また、消費が膨大になったことで、商品産地間生産物の量的競争が始まった。しかし、その、ただ量さえあれば良いという風潮が、量よりも質の良い商品を求める風潮へと変化し、代わって商品の質的競争が起こる。江戸中期(18世紀後半)には、その産地ならではの特産物を中心に作るようになり、品質を重視するようになってきたのである。
話を江戸前期に戻すが、この頃には商業勢力も変化した。それまでの初期豪商が衰退し、それに代わって問屋商人や市場の仲介人などが商業の新たな勢力となった。つまり、民間型の勢力となったのである。変化した部分はまだある。それは商業の機能分化が行われるようになったという点である。例えば問屋は、従来は商品取引業務や運送業などを一体で兼業していたが、生産物を集めて港に運ぶ積み出し問屋と、港でそれを買い取って販売する荷受問屋に分化し、さらに特産物のみを扱う問屋、ある国の商品のみを扱う問屋というようにさらに細かく分化した。
江戸後期になると、流通機構の内部に変化が現れてくる。まず全国流通勢力が登場する。北前船主、尾州廻船はその勢力として有名である。次に田沼時代に株仲間の認可による商工業の保護、育成、財政収入の確保を行ったことで、株仲間による商業独占がおこった。彼らは特権商人として全国で商業を支配していたが、この頃に彼らの支配範囲外で商品生産者が現れ、局地市場を形成し、自由取引の要求とギルド的な商業独占の廃止を要求した。そして株仲間と反株仲間の市場をめぐる争いとなり、生産者側の圧力もあって天保寛政、天保期には株仲間体制を排除する政策をとった。こうして特権的商人による独占はなくなり、商品の自由取引ができるようになったのである。
ところで、江戸時代の貨幣はどうなっていたのだろうか。江戸幕府は豊臣秀吉の通貨統一政策を受け継ぎ、金、銀、銭の三貨を発行した。そして商業発達に伴って貨幣の流通も盛んになる。そこで金融業が発展し、信用制度も大阪を中心に発達することになる[11]。 
2)商業における接客の位置−江戸の商業生活から
では、ここでも第一節と同様に、日本の商業の場では接客がどのような位置を占めていたのかを、江戸時代の中心地であった、江戸の商いの様子から見てみようと思う。
江戸は最初、徳川幕府の軍事都市として整備された、武家の都であった。しかし、18世紀後半に武家経済が行き詰まり、町人勢力が伸張してきてからは、全国の文化センターのような様相を呈するようになり、武家の都から江戸っ子たる町人の都となって江戸文化が築かれていくこととなった。下町の中心部である、日本橋、神田などには絵師や歌人など、あらゆる職人が集中し、貨幣価値も安定して、町人達は平和な日常生活を送っていた。当然商いも盛んだったようで、その商いの様子が描かれた図絵が数多く残されている[12]。
ここでは、それらの図絵を見ながら、商業生活における接客の位置を考えてみたいと思う。
日本の商いの様子も、中国と同様に非常に賑わっていることが分かる。そして、やはり細部をよく見てみると、いくつかの特徴を見つけることができる。まず、店舗を構える店では、飲食店以外の店でも購買者が座る場所が設けてあったり、店先の畳間に購買者が腰掛けている様子が見られる。資料9がその様子であるが、購買者らしき人が畳に腰掛け、店員と何か話している。畳でなくても、資料10のように、椅子のような所に、これまた購買者と思われる人が座っている様子も見られる。ここから、今日のデパートなどでも休憩所が設けられているように、当時の店も購買者が買い物中でもくつろげるように、こうした椅子などを設けていたのではないか、と考えることができる。
また、これらの図に描かれている店員を見ると、姿勢を崩している店員は一人もいないということが分かるであろう。どの店員もきちんと正座をして応対している。それに対して、購買者の方は適当に腰掛けているように見える。したがって、この図から店員は購買者に対して、常に丁寧な態度で接していることが分かる。
次に、資料11を見てみよう。これは、ある呉服店の商いの様子が描かれたものであるが、天井から何枚か紙が下げられている。この図からは何が書いてあるのかは分からないが、これは三谷一馬『定本江戸商売図絵』の中で、次のように説明されている。
絵の右上に下がっている紙の裏側には八番鶴衛門九番亀之助と書いてあります。これは手代の名前で、客が馴染の手代のところへ行って注文しやすいように配慮したものです[13]。
当時の店では、販売促進のための接客が存在したということが、ここから分かる。
以上述べてきたことは、小売の場で見られる様子である。この三つの場面から言えるこ
とは、接客業のように、接客自体が商品であるというわけではないにも関わらず、訪れる購買者への配慮があるということだろう。店に備えられている椅子には購買者とおぼしき人が腰掛け、くつろいでいる姿が見られるし、店員は、応対の際には正座をし、丁寧な態度で購買者を相手にしている。また、呉服屋の例のように、購買者の便宜を考えて、わざわざ手代の居場所を示す紙をぶら下げるという工夫も見られる。このように、購買者への配慮が十分になされている。ということは、接客業以外の商業領域においても、購買者を「客」としてもてなそうとしていたと考えられないだろうか。
これまで、小売の場における接客について見てきた。そこで、小売の場でも接客は存在したのではないか、という説を導くことができた。では、接客自体が商品である接客業では、どのように来店者と接していたのだろうか。ここでは例として、料理茶屋、風呂屋、そして遊郭を見ていくことにする。
まず、料理茶屋を見てみる。料理茶屋とは、いわゆる割烹店のことである。ここでも来店者に対しての様々なサービスが見られる。まず料理だが、これは来店者の数に合わせて、多くもなく、少なくもなく、少し余る程度の量を出して客を満足させ、かつ支払いが少しでも少なくなるようにする。そして、料理だけでなく、食前食後には煎茶とお茶菓子を出す。料理が余れば持ち帰りも可能で、来店者が頼めば店で入浴して帰ることもできたらしい。また、帰りが夜遅くなって外が暗い場合は、店が使い捨ての提灯を用意し、それを帰宅する際に持たせる、という気遣いまで見せたという[14]。
風呂屋も江戸に盛んだった接客業の一つであるが、先ほどの料理茶屋のように、来店者に対する店側のサービスがあった。その一つに休憩所の存在がある。風呂屋の建物は二階建てになっていた。一階は風呂場だが、二階は入浴をすませた来店者が茶汲み女がサービスで入れた茶を飲みながら、菓子を食べたり、碁や将棋に興じたりする、入浴後の休憩所であったのだ。(資料12)他にも、資料13に見られるように、流し男という、来店者の背中を流す者もいたし、番台では石鹸の代わりの糠袋や、貸手拭までそろえていたらしい。
遊郭でも、資料14に見られるように来店者に対してサービスをしていたようである。来店者のために立派な部屋があり、遊女は相手の男性が帰宅する際には送るという場面も見られた。
以上で見てきたことから、接客自体を商品とする接客業に携わる人々は、ただ単に来店者の要望に応えるだけではなく、それ以外にも色々と気を回していたことがわかるだろう。
以上のように、当時の商人達は、接客業でも小売業であっても、来店者に対して接客を行っていたのである。 
3)商業を支える倫理
第一節では、中国の商業を支える倫理として宋代に成立した新儒教を取り上げ、その教義の特徴と商業との関わりについて見た。ここでは、日本の商業を支える倫理は何なのか、そしてそれが商業とどう関わってきたのかを見ていくことにする。
日本の商業を支えた倫理としてよく知られているものがある。それは、江戸享保期に活躍した石田梅岩(1685〜1744年)が祖と言われる「石門心学」である。これは徳川吉宗の時代に急速に普及したものであった。当時は、金融システムが崩壊し、各藩の財政は緊迫している状態、言わば大不況の時代であった。そのため商家が次々に倒産するという事態が起こることになる。不安が募る商家の間では、経営体制を強固なものとするべく、家訓の導入が叫ばれるようになり、やがてそれは普遍化した。そこで家訓導入に先立ち、注目されたのが、町人学問として知られた石門心学だったのである。
では、この石門心学とはどのような教えを説いたものだったのだろうか。次にこれを見ていきたい。しかし、その前に、この心学の祖である石田梅岩とはどのような人物だったのかについて少し触れておこうと思う。
石田梅岩は、丹波の山村出身で、幼い頃に京の商家に奉公に出された。一旦帰郷するものの、再び京に出て商家に奉公し、並行して独学で儒教を学んだ。その後、小栗了雲に師事した。そして1729年に悟りを開き、町人を集めて心学講座を開くようになった。この講座で教授した心学が、石田の名をとって石門心学と呼ばれるようになったのだ。ちなみに、彼はこの講座で月三回ゼミナールを行い、弟子を育成していたという。この時の問答の抜粋が、『都鄙問答[15]』に掲載されている。この弟子達によって、石門心学は伝承され、今日まで商業の拠り所とされているのである。
それでは、その教えの内容について述べていくこととする。石門心学の教えは石田梅岩の天人合一的な開悟体験を基盤とした思想展開であり、町人のために広めた「知合一致」の儒学である。商人を市井の臣とし、社会的職分遂行の上では武士にも劣ることはないとするとともに、悪徳商人を非難し、例えば商取引は一対一の対等な場で行うべきである、というような商業道徳の確立を説いたとされる。つまり、この教えは商人の地位を向上させるために使われたのである。それは、石田梅岩の、商いにおける利潤追求は罪悪ではない。武士が禄をはむのと、商人が利潤を得ることと同じである。ただし、商いは正直にすべきで、けっして卑怯な振る舞いがあってはならない[16]。
という言葉によく表れている。また、「仁、義、礼、智」の四つの心を備えれば、商売相手の「信」を得られ、益々商売が繁盛するという教えもある。ここで言う「仁」とは、他人への思いやり、「義」とは人間としての正しい心、「礼」とは相手を敬う心、「智」とは知恵を商品に生かす心、「信」とは信用、信頼を意味する。すなわち、来店者への思いやりの心と敬う心、正しい心を持ち、知恵を商品に生かして商いをすれば信頼を得ることができ、それによって商売繁盛できる、ということである。先ほども紹介したが、石田梅岩が心学のゼミナールを行った時の問答を記した『都鄙問答』にもこのことについての問答が掲載されており、自分が儲かり、相手が損をするのは本当の商いではなく、来店者に喜んで商品を買ってもらおうという気持ちをもって、心をこめて売買することで適正な利潤を得るようにすれば、福を得ることができ、人の心を案ずることができるのだ、と言っている。また、ここでは石門心学の中心思想である「倹約」と「正しさ」の大切さを述べており、効果的に物を用いることが大切であるとか、物事の無駄を省けばすべてに余裕が生まれると言い、そして正しい商売をするには正しい心を持たなければならず、正しい心を、仕事を通して修養することで、来店者の信頼を得ることができると言っている。以上が、石門心学の教えの概要である。
さて、ここまでは石門心学とその祖である石田梅岩について一通り見てきた。では、次にこの石門心学が日本の商業とどう関わったのかについて見ていこうと思う。
石門心学が注目されるようになった背景については、先ほど述べた通りである。吉宗時代の財政難を乗り越えるため、家訓の導入が叫ばれたことで注目されるようになったのである。そのため、この時代に活躍した商家の家訓を見ると、この石門心学に傾倒する者が多く、そして商家経営に広く利用されていることがわかる。入江宏の著書『近世庶民家訓の研究−「家」の経営と教育−』で、
心学の斉家論や家業観は町人社会一般に広く滲透し、一方心学者は民衆における生活倫理、実践道徳を積極的に吸収し、それを体系化、合理化することに努めたから、商家一般の倫理思想と心学の説教とを明瞭に区別することは困難であることも指摘しなければならない[17]。
と述べられていることからも、心学が町人に普及し、もはや商家の家訓そのもののようになっていた、そこまでの影響を及ぼしていたことがわかるだろう。
ではここで例として、今日でも大手デパートとして知られている、大丸の経営理念を取り上げてみたい。
大丸は今日、大手デパートとして有名であるが、1717年に下村彦右衛門が開いた大文字屋という呉服店を前身とする。今日の「大丸」という名に変わったのは享保13年のことである。大丸はその後、1736年に京の東洞院船屋町に本店を新築し、その時に店是として「先義後利」と定めた。これは、一言で言えば顧客第一の理念で、徳義を重んじていた。利益を追求するよりも顧客第一で商売をしていれば、利益もそれに応じて上がってくる、というこの理念は、まさに石門心学の教えにかなっていると言える[18]。
以上、日本と中国の商業文化の伝統について見てきたが、最後にここで分かったことをまとめてみたい。
まず共通していることは、日本でも中国でも、初めは商人の社会的地位が低かったが、やがて経済の成熟に伴って商業の地位が高まったことで商人が力を持つようになり、商人道を求めるようになる。その商人道の中身となったものが、中国では「新儒教」、日本では「石門心学」であり、どちらも儒教の教えであったということである。
ここまでを見ると大部分が共通しているように思われるが、当然違う部分も存在する。
まず、実際の商業の場の様子を見ると、日本の場合は、接客業だけでなく小売業でも、店員が購買者に対して様々なサービスをしている様子が窺え、小売の場での店員の購買者に対する態度は、接客の要素があることが分かる。一方、中国の場合では、小売の場では購買者に対して特にサービスをしている様子が窺えないので、店員の購買者への態度は、接客とはならないことが分かる。つまり、この違いは、中国では宋代、日本では江戸時代からすでにあったのだと言える。
また、日中それぞれの商業倫理にも違いがある。日本の「石門心学」は商売相手を敬い、正しい心をもって商売をすることで信用が得られ、それが利益に結びつくという教えであるので、利益追求を肯定していると言える。しかし、中国の「新儒教」は、世俗活動を勤倹に行うことによって社会貢献をすることを重視する教えであり、利益追求を肯定する要素は見られない。
つまり、日本の商業の場では利益追求が重視されるが、中国ではそれよりも社会に貢献することが重視されていたということが言える。 
[1]以上、一章第一節「商業史」については、尾形勇、岸本美緒編『新版世界各国史3中国史』山川出版社、1998年。『世界の教科書シリーズ5入門中国の歴史−中国中学校歴史教科書』小島晋治他訳明石書店、2001年を参照
[2]伊原弘『中国開封の生活と歳時−描かれた宋代の都市生活』山川出版社、1991年、219、220頁を要約
[3]小林和子「テーブルと腰掛から見た『清明上河図』」『アジア遊学』No.11勉誠出版、1999年
[4]入矢義高、梅原郁『東京夢華録−宋代の都市と生活』平凡社、1996年、163、164頁
[5]天理とは、人欲(外からの触発により発動する感性的欲求)と対になる概念で、自然のままの本性のこと。(日原利国編『中国思想辞典』研文出版、1984年を参照)
[6]余英時『中国近世の宗教倫理と商人精神』森紀子訳、平凡社、1991年、128頁
[7]『落帆楼文集巻二十四』同上、151頁所収。
[8]余、前掲書、217頁
[9]以上、一章第一節「商業を支える倫理」については、同上、「中篇儒家倫理の新発展」、「下篇中国商人の精神」を参照
[10]律令制度の税制の中心となるのもの。租は口分田の面積に応じた米、調は特産物、庸は一定量の布、米であった。(下中弘編『大百科辞典』平凡社、1984年を参照)
[11]以上、一章第二節「商業史」については、西江錦史郎『エコノミックQ&A6日本経済史』学文社、1996年。伊藤雅俊、網野善彦、斎藤善之『「商い」から見た日本史市場経済の奔流をつかむ』PHP研究所、2000年を参照
[12]高橋雅夫編『図説大江戸の賑わい』河出書房新社、1987年、4、5頁を要約
[13]三谷一馬『定本江戸商売図絵』立風書房、1986年、38頁
[14]高橋幹夫『江戸あきない図譜』青蛙房、1993年、180〜182頁を要約
[15]石田梅岩の主著。4巻16段。1739年刊行。石門心学の中心的経典。(下中、前掲書を参照)
[16]廣瀬久也『信仰と商い』朱鷺書房、1999年、226、227頁
[17]入江宏『近世庶民家訓の研究−「家」の経営と教育−』多賀出版、1996年、337頁
[18]以上、一章第二節「商業を支える倫理」については、廣瀬、前掲書、「京の春夏冬石田梅岩と石門心学」 
第二章 「客」の伝統 

 

「客」について『日中英言語文化事典』を見ると、日本語では、「現在のきゃく(客)はおもに、そこへ尋ねて、あるいは招かれて来る人の意(「来客・客間」など)と、金を払って見たり利用したりする人の意(「乗客・客席」など)で用いられている」とされ、中国語では「“客”とは本来のところを離れてよそに行き、しかもそれは永久的なものではないという観念に関係するもの」とされている。また、英語では、「よそ者である客(guest)は招待されてもてなされ、次に今度は自分が主(host)となるわけで、この関係は相互的である」とされている[1]。
つまり「客」には、「よそ者」(stranger・visitor)と、「招待客」(guest)という二つの核心があることが分かる。
そこで、ここでは、この「客」という概念について、この二つの核心を念頭に置き、中国、日本それぞれについてどうなっているのかを、より精密に見ていくこととする。 
第一節 中国における[客] 

 

1)その字義と語義
この節では中国における[客(ke)]を見ていくが、最初にこの[客]という文字の字義と語義を整理し、この文字がどのような意味を持っているかを見ていくこととする。
字義にはいくつかの説がある。その例として、藤堂明保と白川静の説を挙げてみたい。
まず、藤堂説であるが、彼は『漢和大字典』の中で次のように説いている。
各は足が四角い石につかえて止まった姿を示す会意文字。格(支える木)−閣(門の扉を止める杭)−擱(つかえてとまる)などと同系の言葉で、ひっかかって止まるという意を含む。客は「宀(屋根、家)+音符各」の会意兼形声文字で、他人の家にしばし足がつかえて止まること、またはその人
一方、白川は『字統』の中で次のように説いている。
宀と各に従う。宀は廟屋、各は祝祷して神に祈り、神霊がそれに応えて下降する意で、神の各(いた)ることをいう。・・・その廟に各るものを客といい、客とは客神の意。・・・先王朝の祖霊は、二王三格として、周の廟祭に参向する定めであり、その後裔たちが、客神としてこれに臨んだ。すなわち異族神参向の儀礼である。・・・客とはそのような異族神であり、すなわち「まれうど」である。・・・
つまり、この二つの説を一言で言えば、藤堂は、「よそ者としてある場所を訪れ、一時的に留まること」としており、白川は「異族神の参向のこと」としている、ということである。
では、次に[客]という語がどのように定義されているかを見てみることとする。先ほどの『漢和大字典』と、諸橋轍次の『大漢和辞典』での定義を見てみると、『漢和大字典』では「まろうど」「よそから来た者」「旅人」「いそうろう」「見知らぬ人を呼ぶことば」「他人の家に食客としてやっかいになる。また、他郷に旅してとどまる」「自分がその事がらに当面していない。よそごと」と定義されている。一方、『大漢和辞典』では「よせる、よる、身をよせる」「まらうど」「上客。一座の尊敬する人」「かかり人」「外来者」「あひて」「たびびと」「たび」「居處の定まらない者」「人、士」「とくい、得意」「来しかた、過去」「姓」「おびえ」という定義が見られる。
ここまで[客]の字義と語義を見てきたが、これらに共通する特徴は、つまり、一時的に本来ある所を離れて別の場所にやってくること、或いはそこに留まること、またそれを行う者である言えるだろう。藤堂の唱えた字義では「他人の家にしばし足がつかえて止まること」とあり、一時的に他の場所にとどまるという意味を示しているし、白川説でも「祈りに応えて廟に異族神が降りてくること」としており、一時的に他の場所にやってくるということを示している。また、語義にも「よせる、よる」「旅人」「よそから来た者」という言葉が見えるので、ここからもそう言えるであろう。
この、本来あるべき所を離れて別の場所に行くこと、またそれを行う者で、それは一時的なものという意味は、字義、定義からだけでなく、[客]が形成する語彙にも見ることができる。例えば、「客遊」は「他郷に遊ぶ、流浪する」、「客戸」は「新たに他の地方から入籍した民戸」、「客人」は「他郷にある人、寄留の民」、「客水」は「不意の洪水」という意味で使用される。また、“流浪の民”“漢民族のユダヤ人”などとして有名な「客家(はっか)」も、異郷へ移動してきた「よそ者」という意味の普通名詞が、固有名詞に転化したものである。ここからも、[客]が先ほどのような意味を持つ文字であることが窺えるだろう。
しかし、ここで一つ気づくことがある。冒頭で、「客」には「stranger・visitor」と「guest」という、二つの核心があることを述べたが、[客]の字義や語義を見る限りでは、「stranger・visitor」の意味を表すものはあっても、「guest」の意味を表すものは見当たらないということだ。辞書では、「客遇」、「客待」(賓客として待遇する)、「客禮」(客として禮遇する)という語彙も見られ、一見「guest」の意味を示しているように思われるが、少し違うのである。日本においての解釈は、「賓客」というと「大切なお客様」という意味とされるが、元々の意味は違っている。これは「賓客」の「賓」という文字の字義と語義を見てみるとよくわかる。ここでも藤堂説と白川説を出してみたい。
字義について、藤堂は『漢和大字典』の中で次のように説いている。
もと「宀(やね)+ぶた」の会意文字で、小屋の中に豚を並べていれたさまを示す。くっつく、並ぶの意を含む。賓はその下に貝(財貨)をそえた会意兼形声文字。礼物を持って来て、主人と並ぶ客をあらわす。・・・
一方、白川は『字統』の中で次のように説く。
宀と万と貝に従う。古くは に作り、賓の初文。万の形は犠牲の下体の象形で、廟中に犠牲を供えて神を迎える意であり、賓とは客神をいう。賓は にさらに貝を加えた形である。・・・字は賓迎を初義とし、のち異姓の神に専用されるようになって、賓客の義となる。・・・のちまた外使を迎える儀礼を賓といい、外使に贈物をすることを賓送という。・・・春秋期には同族の人をも含めていったらしく「賓客及び我が父兄」という例が多い。本支の関係が次第に分化して、自分の家廟に属しないものを賓客と称した。・・・ 賓主の義よりのち主従の義となって、賓従、賓服のように服従するもの、また客人や食客なども賓という。・・・
語義については、藤堂明保の『漢和大字典』では「まらうど」「主人と並んでペアをなす大切な客」「転じて付属するもの」「主に対して従の地位にあるもの」「大切な客として扱う」「順序よくくっつけて並べる。また、順序よく並ぶ」「くっつく。つき従う」「おしのける」「男女がくっつく」という意味が示されており、諸橋轍次の『大漢和辞典』では、「まらうど。敬い待つ来客」「客として宿る」「客としてもてなす」「うやまう」「みちびく」「つらねる、つらなる」「したがふ」「したがへる」「あふ」「むこ」「かみ」「ほとり」「官名」「物のさま」「姓」「しりぞける。すてる」「賓客を集める」という意味が示されている。つまり、ここから言えることは、大切であるには変わりないが、「従の地位にあるもの」「つき従う」などの意味もあることから、主人に従う立場の者であるということである。また、『漢和大字典』には、「賓客」の意味として、「客分として養っておく、いそうろう。食客」と記されている。日本での意味だと、「賓客」は「大切にもてなされる存在」であるだけであり、よって主人がへりくだって尽くす対象とされるが、本来の意味は、主人にとって大切ではあるが、「主人に従う者」であるのだ。
ではここで、先ほどの「客遇」「客待」「客禮」という語彙に返るが、以上のことから、ここでの「賓客として待遇する」という意味は、主人が下手に回って待遇するという意味ではなく、主人が自分の従者に対して待遇するという意味となる。ということは、これらは「guest」とは一見似ているようで違った意味を持つのだと言えるだろう。
つまり、これまでに述べてきたことを総合して考えると、[客]という文字には、「よそ者」という意味しかなく、「guest」に当たる意味はない。そして、主人と[客]の関係は、[客]が上位に立つのではなく、主人が[客]の上位にある、上下関係なのであるということがわかるのである。
字義と語義については以上のことがわかった。では次から、「よそ者」(stranger・visitor)の扱いと、「guest」とはならない「賓客」の扱いについて、もう少し具体的に見ていこうと思う。 
2)「stranger・visitor」への対応
ここでは、中国における「stranger・visitor」の扱いについて、中国の民俗から詳しく見ていくことにする。ここで着目する民俗は、「新年の財神来臨」習俗である。ここで言う「財神」とは、中国の民間信仰の中での、「財産に恵まれ、幸せを授ける神様[2]」のことである。この「財神」が新年になると各家を訪問するという行事が、中国の様々な地域で行われている。しかし、この「財神」は、乞食や貧乏人の姿でやってくるのだという。この来臨習俗について、以下、黄強の『中国の祭祀儀礼と信仰』に拠って見ていくこととする。
まず、この「新年の財神来臨」習俗は、年始の時、各家を訪れた乞食が戸口に立って、大声で「財神が来た」と叫び、持ってきた「財神の絵」を戸口に貼る。一方、各家の主人は、必ずお金や米、餅などをこの来訪者に施すというものであり、そして、これに類する習俗は中国の各地域で見られるという。
例えば、四川省新繁県では、旧暦正月元旦に、「送財神」という行事があり、この日、村の貧乏人は「財神」の姿に扮装し、各家の庭に立って金を請う。この来訪者は、家の主人からお金をもらうと、すぐ別の家を訪ねる。また、ある貧乏人はこの日、財神の絵を持って、各家の戸口で歌を歌って金を乞う。
また、広東省広州では、正月元旦の日、乞食のような姿の子供が「財神」と書いた紙を持って、「財神が来た」と叫びながら各家を訪問する。家人は彼らに金を施してこの紙を受け取る。
湖南省長沙市では、同じような「送財神」の行事がある。正月元旦から三日まで、乞食や貧乏人は、「趙玄壇騎虎[3]」と書いた紙を持って、「財神進門来、四季広招財、富貴多子孫、天選状元来・・・」とめでたい文句を唱えながら各家を訪問する。彼らは主人から金や米などをもらうと、すぐ別の家を訪ねる。
以上のように、黄強はいくつかの地域の例を挙げているが、これ以外の地域、たとえば江蘇省、復建省、雲南省などにもこのような行事が存在するとしている。
では、これらの具体例を見たところで、この「新年の財神来臨」行事の特徴を整理してみようと思う。この特徴としては、三つ挙げられるだろう。その三つとは、新年に、乞食や貧乏者が各家を訪れるということ、この来訪者は「財神」という性格を持ち、めでたい言葉などを通して人々の幸せを予祝する存在であること、各家の人々は、この来訪者にお金などを施すということ、である。訪れる者が子供である所もあるが、そのような地域でも、この三つの特徴は現れているのではないだろうか。
ここまで、この「新年の財神来臨」習俗について、これがどのようなものであるのかを述べてきたが、ここで注意しておきたいことがある。それは、黄強が、この「新年の財神来臨」行事は、ある前提に基づいて行われている、としていることである。その前提とは、来訪者は、「乞食」に化身し、人間に幸福や災難をもたらす「神仙」であるという観念である。この観念は、迎え入れる側と訪ねる側の両方が持っており、これによって来訪者が「神仙」であるとみなされ、受け入れられる存在になると彼は述べている。
ところで、この観念はどのように形成され、人々が意識するようになったのだろうか。黄強は「そのような観念は、直接的な経験から作り上げられるものも、間接的に口頭伝承や噂から形成されるものもある[4]」と述べ、その過程を示唆する例をいくつか挙げているが、ここではそのうち一つを挙げてみたいと思う。それは八仙人の一人である、鉄拐李の伝説である。以下がその内容である。
ある日、太上老君と華山で会見する約束になっていたので、弟子に、自分の魂はここを去って華山にいくが、身体は残しておく。魂が七日たっても帰ってこなかった場合は、身体を燃やしてもよいが、それまでは絶対に動かしてはならないと言い置いてでかけていった。ところが弟子は、六日目に母が死んで家に帰らなければならなくなったので、鉄拐の身体を燃やして急いで家に帰ってしまった。七日目に帰ってきた鉄拐の魂は、入るべき身体がなく困ってしまった。けれども、幸いにして近くの路傍に倒れていた、片足しかない乞食がいたので、その身体に入って再生した。そのために、鉄拐李は乞食のような醜い格好の男となったのである[5]
このような伝説は他にもあるのだが、この例を見ても、乞食が神仙とされる、という観念が形成されたことはわかるであろう。
これまで「新年の財神来臨」行事について見てきたが、黄強は「なぜ神仙は乞食や貧乏者など、自分と反対の姿で来訪するのか」という点についても言及しているので、次にそれに触れてみたい。彼は、これら神仙は人間を試すために来訪するのではないかと言っている。大抵、乞食や貧乏人のような者が訪ねて来た場合、来訪された側の人間の態度としては、手厚くもてなすか冷遇するかである。神仙はこの態度を見て、もてなしてくれた者には幸福を、冷遇した者には罰を与える「審判神」の役割を持つのではないかというのだ。そのため、彼は「人々は、神から幸福を得るという「期待」の思いと、神の立腹によって災難を受けるという「恐れ」の観念を持っている」と述べている[6]。
以上、中国の「新年の財神来臨」習俗について見てきたが、最後にここから見えることを整理してみたいと思う。
まず信仰の内容としては、来訪者を神と捉え、この来訪者は人間に対して、もてなせば幸いを、冷遇すれば災いを与える存在であると考えられている所において、後に述べる、日本の「まれひと信仰」と似ている。しかし、注目したい点がある。それは、中国において、この来訪者、つまり「stranger・visitor」を迎えて金などを施すのは、「来訪者は「神仙」である」という観念があるからであるという点だ。ここから考えられることは、来訪者を神とみなす、つまり人間として捉えていないからもてなしの対象となるのではないか、ということである。訪れる側も迎え入れる側も「来訪者は神仙だ」という観念を持っているために来訪者が受け入れられるということについては、先ほど挙げた通り、黄強も述べている。これは、言い換えれば、来訪者は「神だから受け入れる」ということになるだろう。ということは、これが人間として捉えられた場合には、受け入れること、もてなすことはしないのかもしれない。つまり神であるから受け入れるが、見知らぬ「人間」だったら受け入れない、ということがあるのかもしれない、と考えることができないだろうか。このように考えると、中国では「見知らぬ人」はもてなしの対象とならないということも言えるのではないだろうか[7]。 
3)「賓客」への対応
1)では、「賓客として遇する」という語彙があり、これは一見「guest」の意味であるように見えるが、実は違うのだということが、「賓客」の「賓」という字の字義と語義を見ることでわかった。ここでは、この「賓客」の扱いについて、もう少し詳しく見ていくことにする。
「賓」の字義と語義は第一項で見た通り、「主に対して従の地位にあるもの」「したがふ」「うやまふ」などである。このことから、「賓客」は大切に扱う存在なのだが、主人に対して従の地位にあるもの、つまり主客の間には上下関係があるのではないか、と考えられることが分かった。
60〜70万条もの詞目が収録され、詩文の創作や詩章の検索に使用される[8]『佩文韻府』で[客]を見てみると、『礼記』、『史記』を出典とするものが多く目立つ。ここでは、その『礼記』『史記』における出例から、中国における[客]がどのようなものかを見てみる。
では、まず『礼記』から見ていくことにする。『礼記』とは、中国古来の礼の規定、及びその精神を雑記した書物のことで、礼運、楽記、中庸、大学、学記など49篇から成る。また儒家の経典として、三礼、十三経の一つに数えられる書物でもある[9]。この『礼記』「坊記篇」に「天子は四海の内に客禮なく」という一文がある。これは、「天子は四海のうちで、客礼をもって対応されることはない」という意味である[10]。
つまり、天子はこの世界のどこにおいても常に主人であり、[客]としてもてなされることはない。天子を[客]としてもてなすということは、天子の主人になるということであり、天子より上に立つということだと言える。ここからも、中国において主客の関係は、上下関係なのだということが分かるであろう。
では次に『史記』を見てみたい。『史記』とは、司馬遷が書いた中国最初の通史で、当時の中国を中心に、すべての世界にわたる全歴史過程を総合的、体系的に叙述したものであり、本紀(有史以来の主な王朝の編年史)、世家(諸侯の国々の歴史)、列伝(人物の伝記)から成る[11]。ここでは『史記』「孟嘗君列傳」から例を挙げてみたい。
孟嘗君は・・・諸侯の賓客であった者たちをよび寄せた。・・・孟嘗君は自家の財産を投げうって、この人々を手厚く待遇した。・・・身分にかかわらず、皆自分と対等に遇した。・・・[12]
ここで言う「賓客」とは、主人に養われ、主人に従う存在である「食客」のことであるが、ここで、孟嘗君は、この賓客を自家の財産を投げうってまで手厚くもてなした、と言っている。これは、主人は[客]を大切に扱うのだ、ということと、[客]は主人に従う立場にあると言っても、臣下ではないということを示しているのではないだろうか。もし臣下であるなら、自分と対等に遇することはないはずだからである。
また、『史記』中に見える食客の逸話からは、主人に従うということは、主人のために尽くし、時には主人のために死ぬということであること、この賓客は主人が選ぶものだが、逆に賓客の方も主人を見て、従うに値すると思える人物であれば「食客」となるという性質があることが分かる。このことからも、賓客と主人の関係は、義に基づく関係であり、上下関係ではあっても主従関係とは性質が異なることも分かる。
以上、「賓」の字義と語義から中国における「賓客」を見てきたが、ここで分かったことは、中国において[客]は主と上下関係、義に基づいた関係にあるということである。このことから、中国の[客]が商業の場と関わりを持たない概念であることは確かと言えるのではないだろうか。 
第二節 日本における「キャク」 

 

1)その語義
日本語としての「客(キャク)」は、中国から漢字が流入した際に[客(ke)]という漢字の持つ意味と似た意味の和語が訓としてつけられ、日本語で使用されるようになった。そのため、第一節で見てきた[客]の意味と似てはいるが、すべての部分が共通しているというわけではない。したがって、ここでは[客]という字につけられた訓、つまり日本にもともと存在し、或いは中国の[客]とは別個に発展した「キャク」の概念を見ることとする。そして、その言葉と中国の[客]との意味の共通部分と相違部分を明らかにしていきたい。
日本に漢字が入ってくる以前から[客]と似た意味を持つ言葉に、「まれひと(まらひと、まろうど)」という和語があった。この言葉が、漢字の流入後、[客]という字につけられた訓なのである。ここではこの「まれひと」の語義、定義を見ていき、漢字の[客]のそれと比較してみようと思う。
では、「まれひと」の語義だが、これは日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』の説と白川説を見ていくこととする。
まず『日本国語大辞典』では、「まろうど」について次のように記されている
(1)マレヒト(稀人・希人)の音便転。
(2)賓客は待たれるところから、マラはマタレヤの反、ウトはヒトの義。
(3)ムカエラレビト(迎被人)の義。
(4)客人の意の夷音から。
一方、白川は『字訓』の中で、「まらひと」について次のように説いている。
音便にして「まらうと」という。「と」は清音。「まら」は「まれ」の古形。凡俗ならざるものをいう。また「まれひと」ともいい、他から稀に訪れてくる人の意。[神代紀下]に「客(まうと)」の訓があり、その「ま」は霊の意であろう。「まうと」「まらひと」はともに賓客の意で、もと客神をいう語であったと思われる。・・・
この二つの語義をまとめると、「まれひと」とは、迎えられる人という意味の言葉であるということが言える。
また、『日本国語大辞典』では、「まれひと」は「他から来た人」「珍客」「客人」「たぐいまれな人」「傑出した人物」と定義されている。
以上のように、「まれひと」の語義を見たが、ここからわかることは、「まれひと」は稀な存在で、迎えられる人という意味であるということである。これはやはり「まれひと」に関連のある語彙を見てもそのような意味を持つということがわかる。例えば、「まろうどい(客居)」は、「客を通すところ、客間、客殿」、「まどうどの司」は「外国客の接待をする役」、「まどうどがた(客方)」は「客人として扱われるがわ」、「まろうどがみ(客神)」は「外国からはいってきた神、外国渡来の神、神社の入り口などに小祠を設けてまつる神」、「まろうどごと(客事)」は「客としてもてなすこと」という意味で使用されている。これらの語からも、「まれひと」が先ほど挙げた意味であることはよくわかるのではないだろうか。
では、「まれひと」の語義からこの言葉の持つ意味を見たところで、漢字の[客]の意味と比較してみると、両方とも、他から来る来訪者、よそ者という意味を持つということがわかる。つまり、冒頭でも述べた、「stranger・visitor」という核を共通して持っているということである。核となる部分が共通しているから、漢字が日本に流入してきて、それに日本語の訓をつけようとした際、この「まれひと」が[客]という字の訓として採用されたのだろう。
しかし、[客]と「まれひと」、この二つの語義と語義を今一度細かく見てみると、両者の間に大きな違いが見られる。それは、[客]には「stranger・visitor」の意味はあるが、「guest」の意味はない。しかし、「まれひと」にはどちらの意味もあり、かつ「客」にはない「guest」の意味合いが強いということだ。「よそ者」(stranger・visitor)の意味が共通しているため、[客]と「まれひと」が結び付けられたのだろうが、これを見ると、実は[客]と「まれひと」の間には根本からズレがあるようである。
「まれひと」の語義については以上のことがわかった。では次からは、この「まれひと」について、厳密に言えば「まれひと」の持つ「stranger・visitor」と「guest」という二つの核について、さらに具体的に見ていこうと思う。 
2「stranger・visitor」への対応
ここでは、「客」の持つ二つの核のうち、「stranger・visitor」について、それが日本ではどのように捉えられているのかを、日本の信仰民俗から見ていく。
日本には、古代より伝統的な信仰として、「まれひと信仰」と呼ばれるものがある。「まれひと」については第一項でも説明したが、『日中英言語文化事典』では、次のように定義されている。
「客」は和語で古くは「まれびと[まらひと・まらうど]」といい、まれに来る人の意とされている。この場合の「まれ」とは機会が少ないというだけでなく、その存在もまれであるという意味であり、それゆえに、「まれびと」は丁重にもてなすべきものだった。・・・遠方からやってくる、定期または不定期の旅人であり、・・・共同体の外から来る人は、もてなせば幸いを、そうしないと災いを置いていく者と考えられたからである。そのような力をもつ「まれびと」とは、しばしば神のように扱われ、また神そのものであった。「客」のこうした性質上、人びとは喜んで迎えはするが、早々に出立を願う気持ちがある。ことわざに「客と鋏はたつがよい」「ほうきにほっかむり」「草履に線香」など、早く客を送り出す文言が多いのは、・・・「客」とは敬しておいて遠ざける非日常的存在であるという意識が潜在的にあるからだろう[13]。
要するに、「まれひと」は来訪を待たれる存在でありながら同時に尊ばれ、畏れられる、まさに粗末には扱えない、神のような存在であるということだ。
この「まれひと」に関する信仰が「まれひと信仰」であるが、これについては、民俗学者、国文学者、歌人であり、「折口学」という学問体系の祖である、折口信夫(1887〜1953年)の「まれひと論」が有名である。折口は、最初「まれひと」は神のみを示す言葉であったが、やがてこの言葉が含むものが多様化し、神のみでなく、妖怪、祖霊など、霊的存在とされるものはすべて含むようになったのだとする。このように多様になった「まれひと」の例として、折口は以下のような例を挙げている。
まず一つ目の例は、奥羽地方の「なまはげ」と呼ばれる「まれひと」である。この、なまはげの他にも「なもみはげたか」「がんぼう」「もうこ」などと様々なものがあるらしい。これらは恐ろしい姿形をした妖怪であるが、家々に踊りこみ、その家の不徳を除去してくれる存在とされている。実際、奥羽地方では小正月、または元日に蓑と恐ろしい仮面をつけた若者が、唱え言、またはうなり声をあげながら家々に踊りこみ、去っていくという行事が行われている。折口は、この、なまはげのような妖怪も、家々に幸いをもたらすべくやってくる「まれひと」としているのである。
また、京都では、初春に「たたき」「すたすた坊主」という非人が家々を訪問し、祝言を述べて回る。これは、訪れる者が違うだけで、行うことは先ほどの「なまはげ」などと同じである。「すたすた坊主」については、「其常用文句は「すたすた坊主の来る時は、世の中よいと申します」と言ふ、元来明年の好望なることを予約するものであつた[14]」と言っており、折口はこれも「まれひと」の例として挙げている。
三河北設楽郡で正月に行われる、「花祭り」という行事についても、折口は、「さかきさま」と称する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を踊り越え、家の中で「べんべをふむ」と言う・・・此も春のまれびとの屋敷を踏み鎮める行儀である[15]」と言い、彼はこの「さかきさま」も「まれひと」としている。
また、「まれひと」は正月のみでなく、臨時に来訪することもあるとしており、婚礼の時に「まれびと」がやってくるという例も示している。讃岐三豊郡や三河南北設楽で見られる、「水かけ祝い」「床避り」がそれである。「水かけ祝い」は、「まれびと」の来訪に備えて夫婦二人の常在所となる処を清めること、「床避り」とは、結婚初夜に夫が家を去るというもので、「花嫁はともおかたと称する同伴のかいぞへ女と寝ね「お初穂はえびす様にあげるのだ」・・・[16]」と言うのだそうだ。ここでは、「まれひと」の含む範囲が広がり、妖怪などの霊的存在まで含むようになったとする折口が、元々の意味である神も、変わらず「まれひと」として捉えていることがわかる。
また、折口は沖縄県八重山列島に伝わる、「あんがまあ」という行事についても述べている。これは、盂蘭盆に帰ってきた祖霊が村の家々に教訓、非難、激励を行い、家人はその祖霊を迎えて饗応するというものであるのだそうだ。実際は、この祖霊は村の若者の仮装で、盆の三日間、夜に村中を回り、迎えられる家で饗応を受け、そこの家人に教訓、非難、激励を行う。家人は祖霊達の心に添おうと、楽器演奏をしたり舞いを舞ったり、時には祖霊らの注文を聞き、それに応えるなど、色々と努力をするのだという。
このように、折口は日本各地の風俗を、「まれひと」の例として多く挙げているが、これらの例から、最初は神のみを示す言葉であった「まれひと」は霊的存在をすべて示すようになったと言っている。これは、「なまはげ」のような妖怪や祖霊を「まれひと」としている所からもそう言えるだろう。
折口の主張はそれだけではない。彼は、その後も「まれひと」は変化していったとも言っている。人々は「まれひと」を稀な存在として丁重に遇していたのだが、「まれひと」の含む存在の範囲が広がり、神という意識が薄れてきたため、やがて「まれひと」を遇する方法が、人間の賓客を遇する方法としても使用されるようになったというのである。そこで、「まれひと」の内容がさらに広がることとなり、「まれひと」のもてなし方法が人間のもてなし方法ともなったことで、人間の賓客も「まれひと」とされるようになってしまったという。これで、「まれひと」は神を含む霊的な存在のみでなく、人も含むこととなった。したがって現在の「まれひと」は、神、霊的存在、人間のすべてを含み、訪れることが珍しく、尊ばれ、来訪を待たれる存在であるが、畏怖される存在でもある、というのが折口の考える「まれひと」なのである。
ここで言う「まれひと」は、見知らぬ来訪者、つまり「stranger・visitor」であるが、「まれひと信仰」ではそういう来訪者(まれひと)を神のような存在として敬し、畏れ、丁重にもてなす。そして日本では、折口の挙げた例に見られるように、この「まれひと信仰」が全国各地に広く根付いている。ということは、日本では「stranger・visitor」を神のように丁重にもてなすという風習が広く根付いているのだと言えないだろうか。歌手の故三波春夫氏の名言とされる、「お客様は神様です[17]」という言葉は、つい最近のものだが、実はこの言葉にこめられた精神は最近のものではなく、実は日本人は古くからこのような精神を持っていたのではないだろうか[18]。 
3)「guest」への対応
2)では、「キャク」の二つの核のうち、「stranger・visitor」について、「まれひと信仰」から見てきた。ここでは、もう一つの核である、「guest」について、宇野信夫編『日本の名随筆74「客」[19]』の描写から見ていくこととする。
この文献は、編者宇野信夫をはじめとする作者による「キャク」にまつわる随筆集で、戸坂康二の「もてなし」、豊島与志雄の「太宰治との一日」、田山花袋の「紅葉山人を訪ふ」など、36作品を収録したものである。ここでは、これらの作品の中から、斉藤茂太の「客のもてなし方、もてなされ方」、江崎真佐子の「もてなし」の二作品から「guest」を見ていく。
まず、斉藤茂太の「客のもてなし方、もてなされ方」から見る。これは著者である斉藤茂太の考える「キャク」のもてなし方、また、「キャク」としてのもてなされ方とはどういうものかが書かれた作品である。
彼は作品中で、自宅に人を招いて酒を飲む場合のもてなし方を次のように述べている。
・・・外で飲んで、その酔った勢いで自宅に人を誘う場合である。・・・まず、女房教育としては、そんなときでも笑顔を絶やすな、ということである。・・・客が帰ったあとならいくら鬼のような顔になってもいいが(といっても限度がある)、せっかくの客人の前では、そのそぶりも見せてはいけない。笑顔が最大のもてなしなのである。・・・さて、客人が家に上がったとする。そこでのポイントは、息つくヒマも与えず何かがパッと出てくることである。・・・[20]
これは、酒を飲むために人を招く場合の話である。この場合は、著者も作品中で書いているが、大抵「家人の非難を浴びやすい」。招く本人はともかく、たとえばその妻などにとっては、あまり関わりたくない「キャク」であるのではないだろうか。しかし、斉藤はここで「笑顔を絶やすな」、「笑顔が最大のもてなしなのである」と述べている。「キャク」の前では常に笑顔で対応すべきだというのである。また、そのような「キャク」にも気の利いたサービスをするのが良いとしている。「キャク」が家に上がったらすかさずおしぼりが出てきたり、つまみが出てきたりするのが良いという。つまり、「guest」として招いた「キャク」に対しては、その人を気遣い、笑顔でもてなすべきなのだ、ということであろう。
この「キャク」を気遣う、という気持ちは、他の作品にも見ることができる。では、次に江崎真佐子の「もてなし」を見てみる。この作品も、先ほどの作品と同様に、著者がある日本人の女性に昼食に招かれた時のエピソードを通して考えた、よいもてなしについて書かれた作品である。そのエピソードの中で、食事中に招かれた他の「キャク」と、アメリカの女性の接待について話をしている場面がある。次がその描写である。
・・・食事中に、その日の客四人の日本の女たちが、急に、アメリカの女性の接待の味気なさに、ほこさきを向けました。主食もサラダもパンも、一皿に乗せてしまう、ビュフェーの時は仕方ないにしても、ちゃんとテーブルについた時でもそうする。ああすると、サラダのドレッシングが、ほかの食べ物にも移ってきて、味はめちゃめちゃになる。と、一皿もりがまず矢面にたたされました。・・・私も、まだ客がテーブルに座っている間に、ホステスが、集めたお皿を流しの蛇口の水を流したままでざっと洗い、皿洗い器に入れるあのやり方が好きではありません・・・
また、自分ならこのような場合どうするか、ということについて次のように述べている。
確かに、私のようなあまりきのよくない日本の女でも、客をする時には、たとえ洗う皿数が多くなるとしても、汁けのあるものの味がまじってしまわぬように気を遣います。また、もともと使い人なしで十人もの客をするということ自体が無理な話ですので、客が手伝いを申し出ることは要を得ているとは思いますが、せめて私の家におよびした時ぐらいはゆっくりした気持ちで食事をしてもらいたいと思いますので、皿集めや後片付づけは、私一人でしたいからと、最初に申し出ます。・・・客が帰ったあと、・・・食器を洗うのはたいへんですけれど、こういうことも、客をすることの一部だと思っております。・・・[21]
最初の引用部分は、アメリカの女性の接待についての不満であるが、一皿盛りに対する不満がある。また、著者自身も、「私も、まだ客がテーブルに座っている間に、ホステスが、集めたお皿を流しの蛇口の水を流したままでざっと洗い、皿洗い器に入れるあのやり方が好きではありません」と不満を述べている。二つ目の引用部分では、そのアメリカの事例を踏まえて、そのような場合はどのような接待を心がけるべきか、ということについての著者の意見が述べられているが、この描写からは「キャク」への気遣いが重要なのだということが読み取れる。先ほどの斉藤の作品の中にも、「キャク」を気遣うということに触れられていた。つまりここからわかることは、日本では招いた「キャク」に対して、ただ料理をふるまったり歓迎したりするだけでなく、その人のために常に気を遣い、様々なサービスもして非常に丁重に扱うのだということであろう。
以上、第二章では日中における「客」の捉え方について見てきた。ここから、日本でも中国でも、同じ「客」という字を用いるが、その含意や範囲は違うということが分かる。
それは以下のような点である。
まず、日本の場合、和語の「まれひと」には「stranger・visitor」と「guest」という二つの核がどちらも存在し、「stranger・visitor」は「guest」のようにもてなす対象とされる。
しかし、中国の場合、[客(ke)]は「stranger・visitor」の意味は持つが「guest」の意味は持たず、そして「stranger・visitor」はもてなしの対象とはならない。また、主客の間には一種の上下関係があるということが言える。
つまり、「客」は、日本でも中国でも「見知らぬ人」を示すのには変わりはないが、その人に対する対応は日中の間に違いがあるのだと言える。日本では見知らぬ人でも招待客でも、どちらももてなしの対象となるが、中国では見知らぬ人はその対象とはならない。 
[1]赤祖父哲二『日中英言語文化事典』マクミランランゲージハウス、2000年、560〜562頁
[2]黄強『中国の祭祀儀礼と信仰 下巻』第一書房、1998年、184頁
[3]「趙玄壇」とは、中国の有名な財神のことをいう。(同上を参照)
[4]同上、193頁
[5]同上、195頁
[6]同上、202、205頁
[7]以上、第二章第一節「stranger・visitorへの対応」については、同上を参照
[8]孟慶遠他『中国歴史文化事典』小島晋治、立間祥介、丸山松幸訳 新潮社、1998年より要約
[9]下中弘編『大百科事典』平凡社、1984年より要約
[10]『礼記』の解釈については、市原享吉、今井清、鈴木隆一『全釈漢文大系第十二巻 礼記(下)』集英社、1978年、221、222頁を参照
[11]下中、前掲書より要約
[12]水沢利忠『新釈漢文大系第89巻 史記九(列伝二)』明治書院、1993年、26頁
[13]赤祖父、前掲書、560頁
[14]折口信夫全集刊行会『折口信夫全集1古代研究(国文学篇)』中央公論社、1995年、23頁
[15]同上、45頁
[16]同上、50頁
[17]この言葉は三波春夫のステージコピーであり、日本全国に広く浸透した。また、1972年の流行語にもなった。
[18]以上、二章第二節「stranger・visitor」への対応については、折口信夫全集刊行会、前掲書を参照
[19]宇野信夫編『日本の名随筆74「客」』作品社、1988年
[20]同上、165頁
[21]同上、188、189頁 
第三章 日本の社会・経済 (略) 
おわりに

 

本稿は、接客文化の背景にある商業文化と「客」の伝統、その伝統の上に成り立つ現在の接客文化がどのようになっているのかを、日本と中国の場合で比較することで、中国の接客文化の特質を明らかにしようとしたものである。
第一章では、商業文化の伝統について見た。ここでは、日本では江戸時代にはすでに小売の場で接客が行われており、一方中国では、宋代の頃にも小売の場は接客の場とはされていなかったことが分かった。また、日本でも中国でも、最初は商人の地位が低かったが、経済の成熟に伴って地位を獲得したこと、商業を支えた倫理の内容がどちらも儒教の教えであったことは共通しているが、日本のそれは利益追求を肯定するもので、中国のそれは利益よりも社会貢献を重視する教えであった点が違うということが分かった。
第二章では、「客」の伝統について見たが、ここでは、日本語の「まれひと」には「stranger、visitor」の意味がどちらもあるが、[客]という漢字には「stranger・visitor」の意味はあれど「guest」の意味はないこと、日本では「stranger・visitor」は「guest」のように、また神のようにもてなす対象とされるが、中国では、それはもてなしの対象とはならないこと、また、中国における主客の関係は一種の上下関係であることが分かった。だから当然、主客は常に入れ替わる。
第三章では、日本の社会・経済は、社会主義的要素も取り入れてはいるが、基本的には利益追求を目的とする資本主義経済である。一方中国は、現在、社会主義で、そのまた先にある共産主義を目指しており、今はその前段階として市場経済を導入している状態にあることが分かった。また、現代の労働倫理については、日本には現代でもやはり、利益追求を肯定する倫理があり、一方の中国では、現代においても利益より社会貢献を重視する倫理があることが分かった。そして最後に実施したアンケート調査の結果からは、現在の中国における小売の場での接客の位置づけや商業倫理は、市場経済を肯定する現在の政治・経済を大きく反映するものではあるが、基本的にはこれまでに見えた特徴が、現代にも根強く見られることがわかった。
では、以上に見たことを踏まえて、ここで日本と中国の接客の特徴をまとめてみようと思う。
まず、日本の接客は、誰でも対象となる。誰であっても「キャク」と呼ばれる人は、すべて神のようにもてなす。招待客ももてなしの対象だし、小売の場での来店者もそうである。そして、小売の場での売上向上のための手段として用いられるものでもある。一方中国の接客は、招待客はその対象となるが、日本と違い、小売の場への来店者はその対象とならない。また、基本的に小売の場では売上向上のための手段としては用いられない。
つまり、日本の場合は、接客の範囲が招待客をもてなす場合から商店などで来店者に対応する場合までと非常に広いが、中国では、招待客を、主人として精一杯もてなす場合のみが接客なのである。おそらく、対応される側、いわゆる「客」の立場になった時、日本人は、商店に来店した場合でも招待された場合でも、無意識のうちに丁重にもてなされることを前提としている。だが、中国では現在、市場経済の導入に伴い、小売の場での売上向上のための接客も導入されてきており、購買者もそれを歓迎しているようだが、伝統的には招待した人をもてなす場合のみが接客とされてきたので、接客を受けることが来店の際の前提となっていない、つまり、商店で店員が来店者をもてなさなくても気にならないのではないだろうか。また、誰かを招待した場合は、日本でも中国でも、招待客が接客の対象となる点は同じである。しかし、中国では招待した際に、主人はその場の一切を取り仕切って招待客をもてなす、つまり名実共にその場の“主人”であるという、一種の上下関係があるが、日本にはそのような関係はなく、主客はある意味対等であるという違いがある。日本と中国では、接客の範囲が違うだけでなく、主人と「客」との関係も違うのである。
だが、日中の接客文化は、招待客が接客の対象となること以外にも、それぞれの接客文化の背景となる商業文化と「客」の伝統の上に、現在の接客文化が成り立っているという点で共通している。中国社会は、経済発展により変化しているが、この伝統に基づいた価値観は現代人の行動等に影響している。しかし、現在、中国は市場経済を導入している関係で、本来、接客の範囲に入らないはずの小売の場で、売上向上のために接客を行う所が増えてきているようである。もしかすると、これから先、商業文化の伝統に変化が起こり、日本と同じく、小売の場が接客の場とされるようになるのかもしれない。
本稿は、中国の店員の来店者に対する態度に疑問を感じたことから出発し、中国の接客文化とはどういうものなのかを見るために執筆したが、これを通して、最初に抱いた疑問を解決することができ、日本と中国の接客文化が大きく違うことが分かった。筆者が中国の店員の態度に疑問を感じたのは、中国で小売の場は接客の場とならず、見知らぬ人間はもてなしの対象にならないからであり、小売の場が接客の場となり、見知らぬ人間ももてなしの対象となる日本とそこが違っているからであった。また、筆者は、中国人は食事などに誘った方がおごるという話をよく聞いており、招待されると料理がたくさん出てくることについては実体験もある。どちらも日本では見られないことだと思っていたが、この違いは、中国では主客の間に一種の上下関係があり、主人がその場を取り仕切ることが前提とされているが、日本ではそのような関係がなく、主客はある意味対等であるという違いがあるからであったのだ。
これから先も、このように自文化とのズレに遭遇する機会は多いだろうし、その度に疑問を感じるだろう。だが、今回筆者は、このようなズレに遭遇してもこの違いを認め合い、その違いをプラスと考えていこうとする姿勢が必要だと感じた。これからは異文化と自文化のズレを見つけても、それも一つの文化として認識し、その文化と自文化の、どちらか一方の基準で判断せず、その違いを楽しもうと思っている。 
 
「日本的経営」における労働者像と仕事の倫理

 

はじめに 「日本的経営」をみる視角
高い生産性を誇る日本の企業のつくり出した「豊かさ」と、それにともなうべき生活のゆとりと充実感のなさが指摘されはじめてから久しい。「過労死」を生み出すほどの長時間労働に対して、「なぜ日本人は死ぬほど働くのか」といった海外からの不思議な眼差しが寄せられている。一方で、欧米をしのぐほどの経済的な成長をもたらした日本の生産システムへの憧憬の念も存在する。本稿では、豊かな社会「日本」における「働きすぎ」の現象を、企業労働とさらには「働く」こと一般に注目しながら検討する。その際に、企業を中心とする日本の生産のあり方を、従来の「日本的経営」という概念でおさえておきたい。
「日本的経営論」にも様々な系譜があり、一口で説明できないが、ここでは簡単のために「文化論的アプローチ」と「制度論的アプローチ」に分けて概括しよう。
日本の経営のあり方を、その文化(意識)の特徴から説明しようとする方法は、古くからあり「日本文化論」とも関係しつつ論じられてきた。それは主に、日本人の伝統的な資質として、「集団主義」「忠誠心」「勤勉さ」などを指摘する。その文化的な起源をいつの時代に求めるかには諸説があるが、少なくとも近世=江戸時代までにはそれらの基本的な姿が確立されたとみる。それが近代の資本主義の発達のなかで、企業経営において展開することによって、「日本的経営」が生成してくる。会社という「集団」に価値をおき、そこに「忠誠」を尽くすことによって「勤勉」に働く、これが伝統に裏付けられた日本の経営の強みである。
これにたいし、企業における制度のあり方から日本的経営を説明するアプローチがある。それを大きく分けると、1終身雇用や年功賃金などの雇用慣行、2「ジャスト・イン・タイム方式」や「QCサークル」にみられる労働の組織的編成、3「能力主義」的な人事管理、をそれぞれ重視する見解がある。このうち、1の日本的雇用慣行は「文化論的アプローチ」ともつながって、それが日本の労働者の会社に対する忠誠心を強めるものだと説く。2の労働編成については、労働者の能力を引き出す柔軟な生産システムを形づくるという積極面と、企業に労働者を従属させる手段であるという否定面の両方の指摘がある。そして、3の能力主義管理は、労働者に「強制された自発性」という労働態度をとらせるシステムとして作用する。
これらの日本的経営論のうち、伝統的文化を重視する立場は、昨今の日本社会の変貌を反映してか、ややかげりがみられる。最近では、労働編成や人事管理を含めた生産システムの分析が盛んである。本稿では、鈴木良始の『日本的生産システムと企業社会』の検討から出発するが、彼のいう「強制」と「自発」のメカニズムを追求していくと、労働者の勤労意欲をもう一度考えてみる必要に突き当たる。このことは、日本の「豊かさ」をつくり出した企業労働者と、広くは働く者全体の仕事に対する倫理といったものを問題にすることでもある。
伝統的な「忠誠心」や「集団主義」が薄れ、若い人々を中心に享楽主義的な文化が広がる中、「会社」への志向性には依然根強いものがある。とはいえ、そこに企業主義の強固さを見て取るだけでなく、「仕事」に(場合によっては「遊び」にすら)向けられるこだわりのような熱心さを問題にしたい。それはある意味で、日本人の「勤勉さ」という労働観を根底から考え直してみることかもしれない。そして、そのことを通じて、企業や会社という枠を超えた文化的意識をとらえ直す作業の手始めとしたい。 
第一節 日本の労働者の働きぶり
「能力主義管理」と労働 分析(1)
鈴木良始の分析は、日本の企業労働者の「すさまじい働きぶり」に対する「なぜそこまで」の疑問に答えようとする。その勤労態度を、彼らの勤労意欲の高さ=「勤勉さ」から説明することは、過去の調査的資料からは実証されない。日本の労働者は、意外に低い仕事への満足度と勤労意志しか示していない。では、企業の管理的要請によって「働かされている」だけなのかというと、それでは彼らの示すある種のエネルギッシュな活力を説明できない。あまり高くない勤労意欲と苛酷な労働をこなす働きぶり、この矛盾する意識を事実として認めつつ分析する。
苛酷な労働を、企業の管理条件によって「仕方がない」と覚悟させられる「強制」の側面と、労働者自らの内面から受容する「自発」の面がある。その自発性のゆえに積極的なエネルギーも発揮される。この「強制」と「自発」の両側面の独特の絡み合いから「日本的経営」の特徴が説明される。そしてこの説明を、労働者の欲求と企業の論理の交錯線上に生まれてくる「能力主義管理」制度の分析から始める。
日本企業において、一九六〇年代後半から導入されてきた「能力主義管理」の性格として、「絶対考課」の処遇制度があげられる。それは、昇格・昇給などの人事考課を行う際に、労働者一人一人の職務遂行能力を客観基準に基づいて評価し、処遇するという制度である。これに対し「情意考課」とは、「規律性」「積極性」「協調性」「責任感」などの労働者の態度や意欲を評価しようとするものである。
さて、日本企業の労働者に対する要請水準は常識的な範囲を超えるものであり、矛盾やストレスを醸し出す要因を常にはらんでいる。仕事に追われ人生に余裕のもてない過労状態、家庭崩壊を招きかねないほど家族とのコミュニケーションのとれない長時間労働、など放置すれば労働意欲をくじきかねない。さらに高じれば企業論理そのものへの反抗が生じるかもしれない。この事態を封じ込め、高い水準の労働要請を維持するために「情意考課」が動員される。それはたとえば、企業論理に疑問を表明する者に対する、感情的なまでの職場八分となってあらわれる。
このような「情意考課」は、高い労働への要請水準に対する否定的意識を吹っ切って、「どうせやるなら積極的に」という前向きの態度を誘発する。「絶対考課」の明瞭な評価基準は、この挑戦的態度に肯定的に応える。やればやった甲斐があるというのである。
この明瞭さと曖昧さの結合した「能力主義管理」によって、高い労働水準が強制される。企業の突きつける絶対的な水準を受け入れるかどうか、労働者は企業価値の受容と格闘させられる。そして個人的事情がどうであれ、要請水準をクリアできない者は、遅かれ早かれ「能力」のない者として排除される。このことは普通の労働者にとっては、ほかに選択の余地のないほどの強制力である。
第二に競争的な強制である。生活費の負担が増加し始める中年期に、昇進・昇格の格差、場合によっては出向・配転・単身赴任という選別にさらされることになる。このような競争が身に迫るなかで、労働者は「ふるい落とされたくない」「同期の者に遅れをとりたくない」という防衛意識を示す。
このように「能力主義管理」は、「会社の要請に応えて働かなければ干されてしまう。手を抜けば将来の選別が待っている」と考えさせる。こうして強制される労働を「仕方のないこと」として消極的に受けとめていたのでは、その働き方は非常な精神的苦痛を伴うであろう。労働が仕方ないのであれば、むしろそれに意識を適合させて前向きに立ち向かおうとするのが自然であろう。この追いつめられた心理的な環境のもとでの意識の転換を促すのが、「能力主義管理」のもつ「自発」の側面である。「絶対考課」の示す明瞭な役割期待・評価水準に応えることによって、自分の存在意義を確認できる。やるべき要請の意義と内容が明らかであり、それに対して努力すれば評価がなされる。その要請にともなう矛盾や苦痛を振り払い、組織に前向きに貢献する「やり甲斐」に賭けようとするのは必然的ともいえる 。
「強制された自発性」?
このようにみてきた鈴木の論旨は、やはり「強制された自発性」論を展開したものといえようか。常識の範囲を超えた高い労働の水準が、企業によって否応なく要請される。それは苛酷で厳しい内容であるが、それをクリアすることが労働者の人生にとって、選別と競争をくぐり抜けるための必須条件である。いやそれ以前に、企業の突きつける高い要請水準そのものが、彼らにとっては逃げ場のない強制力なのである。「能力」を示さない者、示そうとしない者は否定され排除される。そうであるのなら、その労働の苛酷さ、厳しさの精神的苦痛を吹っ切って、前向きに仕事に取り組むことによって、「やり甲斐」に賭けようではないか。これが、鈴木の摘出して見せた日本の企業労働者の心理プロセスである。
私はこの分析を、それがすべての労働者の心理をいいあてたものだとは思わないが、従来の「生産システム」分析にとどまらず、より深く彼らの内面に立ち入ったものとして、共感をもって肯定する。と同時に、強制の心理的圧迫を振り払い、仕事のやり甲斐に挑戦的に自己投企してゆく労働者の「積極果敢さ」の心理を、さらに追跡する必要を強く感じる。それは、鈴木も指摘しているように、特に上昇志向の強いエリート社員に広くみられるところの、仕事そのものの達成感を求めて挑戦する自己実現意欲である。そのことは、確かに企業社会のすべてを語るものではない。しかし、エネルギッシュな活力とみえる企業のバイタリティを語るためには、避けては通れない課題であろう。
鈴木は、日本の労働者はそれほど高い勤労意欲を示していないと読みとる。「仕事以外に大切なことがある」のであったり、「できればほかの仕事をしたい」という要求にも注目する。このことは、私のみる限りでは、仕事に自己投企する以外でも何かエネルギーをそそぎ込む充実した対象を求めている心理のように思える。その対象が「運よく」現在の仕事であったならば、爆発的なエネルギーが発揮されるのではないか。それしか選択の余地がないという追いつめられた心理環境は、ある意味で最終的なスプリングボードではないのか。強制の彼方に見出した自発性が、自己目的として日々の生活態度を律する力をもちはじめても不思議ではない。
とはいえ、「強制」のもつ側面をもう少し分析しておこう。およそ働くということつまり仕事というものは、多かれ少なかれ「強制」の側面をもたざるをえない。一人で働いてものをつくるような場合でも、納入の期限があり他者との競争がある。企業社会における「強制」の主体は、いうまでもなく企業とその管理者であろう。しかしそれを「自発的」に受容するというときには、自らをして自らを強いるという「自己強制」ともいえる心理がはたらく。確かに大枠では強制なのであるが、そのもとで遂行する仕事そのものへの執着、「自分で納得できる仕事ぶり」を求めてもいよう。
仕事の達成感と使命感
鈴木は、要請労働水準の異常な高さを別とすれば、「絶対考課」形式のもつ仕事の到達度・達成度に対する正当な評価は、「文句なく労働者の論理である」と言い切る。そうだとすれば、仕事の達成感を求める心理は、ごく自然なものであろう。問題は、「労働水準」の非常識的な高度さであり、それを労働者に突きつけてくる企業のあり方だという。では、なにゆえに企業はその非常識な高水準を強制可能としうるのであろうか。それは、仕事の充実感・達成感を無限に追求しようとする労働者の勤労意識によって支えられているとみるのは、誤った見方だろうか。
確かに彼らは、「いまの働き方がベストだとは思っていない。できれば別の仕事の仕方をしたい」と感じてもいるのだろう。その否定意識を吹っ切って現在の労働に没入せざるをえぬよう強制するのが、日本の企業管理制度だ。だが、これだけではみえてこないものがある。制度的要因に還元しつくすことのできない、労働と仕事の倫理である。明白な管理制度による強制のないところでも、自らに鞭打って過密な労働をこなす人たちのいることを、われわれは知っている。社会の変革を願う知識人や戦闘的な労働組合活動家、自らの力と才覚で経営にかける起業家等々。彼らもまた、「別の働き方」を思い描くことがあるが、それでもいまここでやっておくべき仕事があるのだという強い勤労倫理をもっている。このことが、結果として彼らに企業労働者と同じライフスタイルや労働観を共有させている事実は、それほど驚くにあたらないだろう。
では、ここには企業社会とちがってなんらの「強制」もなく、「自発性」のみが労働の動機なのだろうか。そう捉えては事態を正しく把握できない。社会に貢献しようとする強い使命感からくる、周囲の役割期待への応答。フォーマル/インフォーマルな様々な人間関係のもたらす、断りきれない仕事の要請。総じて、周りの人間が彼に寄せる社会的な信頼と期待が、そしてそれに応えようとする彼自身の誠実さが、「強制力」としてはたらく。それは、企業における「情意考課」と同じく、基準が実に曖昧で、他者の期待に応えようとする自発的な圧力である。そして、それを十分に全うできないことは、社会的信用を失うという形で彼にはねかえってくる。
これはこれで、「自発化された強制」とでもいうべき状況であろう。社会的な見えざる強制が内面化されて、自己強制に転化している。それはまた、自分自身の仕事を納得のいく形で仕上げたいという誠実な勤労意識によっても裏打ちされている。周囲に期待もされる、自己の納得できる達成感もほしい、このときの意識は「強制」であろうか、「自発」であろうか。ともかくそこには、仕事への誠実さとしての勤労の倫理がある。この内面的倫理は、企業労働者の働きぶりを支える意識にも共通して存在するのではないか。確かに企業では「強制」の側面は比較にならぬほど強い。その強制を実効あるものにする管理制度も強固に存在する。しかしその中でも、仕事に挑戦し自己を賭けていくときの内面的な厳しさがあろう。
以上、内面から発する倫理的な意識についてみてきたが、次ぎに鈴木の書にしたがって管理者との関係について考えよう。 
第二節 日本の職場と管理
職場の管理者 分析(2)
「能力主義管理」は、日常的には職場管理者の生身の姿を通じて執行される。それゆえ管理が、管理者の個人的人格による労働者に対する人間関係の色合いを帯びる。ここに日本独特の「人間」としての管理者像が形成されてくる。
「能力主義管理」の「強制」は、仕事配分や人事考課などに関して管理者のもつ幅広い裁量権から発する。しかしこの「強制」は、露骨な企業論理を強圧的・一方的に押しつけるものとは意識させない。高い管理的要請は、管理者自身が労働者の成長を心から「期待」していることの現れとして行われる。管理者は企業の要請を代行しているのではなく、まさに「彼のため」を思って温かく「期待」をかけている、という行動をとる。この管理者の「期待」は、ほかに選択肢のない強制を労働者が自ら選びとったのだと意識させるのにふさわしい様式である。際限のない労働の密度と量を受け入れ、それを否定する態度を放棄することを、労働者は温かく期待され強制される。このように「強制」は人間関係の色合いを帯びている。
また職場管理者がたんなる末端管理者ではなく、部下の個人的な生活にまで配慮するとき、彼は「人間味」を帯びた役回りを演ずる。そして彼が職場の利害と意向を代弁するかのような素振りとることによっても、管理の「強制」という側面が和らげられる。また、管理者の要請に対して労働者が自ら同一化していけば、管理者は面倒見のよい温情をも示す。管理者の「期待」に労働者が積極的に応えれば、その努力に対して温かい個人的評価が得られる。彼の「期待」に応えるすべての部下の努力を、しかるべく評価し処遇することによって初めて、労働者は管理者に納得して帰依するのである。
激しい働きぶりへの挑戦は、上司の「期待」に個人的に応え、彼のために働くというやり甲斐、力ある者としての上司に依存し、彼の個人的評価を受ける喜びといったものに支えられている。このような情緒的意識が生ずるのは、労働者の側であって、管理者もそれを共有すると考えるのは適切ではない。それは、日本人の人間性や依頼心によるものではなく、職場管理者の管理行動がつくりだすものである。幅広い裁量権を持つ管理者と日常的に接し、彼とうまくやっていくしかないとき、労働者は、絶対的権力者としての彼の「父性」に依存し、その価値観に自己を同一化させる精神の退行現象をすら示す。
このような心理的メカニズムを、鈴木は、取調官による被疑者の虚偽自白強制や、ナチス強制収容所の例を引いて確認しようとする。情緒的依存をつくり出す管理手法は普遍的であるが、それが企業社会に広く深く根を張っていることが日本的特質である 。
管理の「向こう側」
ここでの分析は、ほとんど何もつけ加えることがないほどリアリティを感じさせる。その叙述方法は、資料からえられる実証というよりも、著者の労働現場に対する深い洞察に裏付けられた心理過程の読み込みである。ただやはり、ここでも企業管理者の側の作為的な能動性が優位に展開されている。情緒的人間関係は管理「手法」であり、日本人の心性によるものではないといわれる。これでは、管理者の内面にある人間的な心理の考察が抜け落ちてしまう。制度に還元できない管理者自身の行動倫理を見つめる必要がある。とはいえ、その課題は私の手に余るものであり、逆に労働者が管理者の「父性」へと志向せざるをえない意識について考えてみよう。
その意識を根底において支えるのもまた、労働者の内面から発する仕事に自らを賭ける倫理であるように思える。つまり、上司たる管理者は彼にとっては仕事の上での先輩・先達者であり、見習い指導してもらうべき「規範」像である。管理的要請を受容するのも、上司の活力ある仕事ぶりと先進的な指導性を信頼するからこそである。管理者に対する絶対的帰依と見えるものも実は、個人的感情をともなう、仕事倫理の体現者たる指導的上司への憧憬と尊敬に満ちた信頼ではないか。まさにこの仕事の倫理的規範を「体現」しているがゆえに、彼は絶対者たりうるのである。
場合によっては、労働者は管理者の「向こう側」を見ているともいえる。仕事に挑戦する以上、管理者の発する要請をも乗り越えて、仕事の倫理の命ずる使命感に駆られて働くのである。これはこれで、管理者の温かい眼差しと好感的な評価を誘うのであるが。管理的要請の「彼岸」に存在する仕事の倫理的規範。これは、前述した自らに鞭打って労働する人々の心性にも相通づるものであろう。しかし、このような心理は、鈴木のいう、自白を強制する取調官や強制収容所の洗脳とはちがう面をもっている。「強制」の構造を抜きにしても、なおかつ仕事の規範へと志向する倫理性。これは、そこまで強制が内面化されたというよりも、内面的な倫理意識があって、「強制」はそれにいっそうの拍車をかけているのだといえよう。
以上はやはり、労働者−−しかもエリート志向の強い層に照準を合わせたと見られる−−の内面から発する意識を考察しようとしたものだった。次ぎに、職場集団についての分析をみよう。
職場集団と管理について 鈴木の分析(3)
欧米の職場編成では、労働者の職務・権限が明確に区分され、管理者の責任において統括される。これに対して日本企業においては、作業者の職務範囲が柔軟で広く、それが各人の間で曖昧に重なり合っている。そして、作業者集団と管理者が一体となって課題遂行の責任を負うというシステムである。このような集団的職場編成(チーム制組織)に一定の条件が加わると、職場仲間への配慮というかたちをとった「強制」力が各人に作用する。「休暇をとったり欠勤すると仕事が遅れて仲間に迷惑をかける」「自分の持ち分を達成しなければ、今日の生産計画に追いつかず、みんなが残業しなくてはならない」等々と意識される社会的強制力である。
その条件とは、組織上各人の働きぶりが他の労働者に影響すること、一定の労使関係を背景とした管理的条件である。まず、互いに仕事を補い合うという作業組織のあり方によって、仲間集団の心理が巧みに利用される。しかし、より重要なことは、余裕のない労働負荷が与えられているという管理的条件である。一人の労働者の失敗や仕事の遅れ、欠勤・病欠などに対して、作業の調整をする人的・時間的な余裕のないきつさが、職場仲間への配慮という出勤強制となるのである。
集団的職場編成においては、余裕のない高密度労働の管理的要請が、タテの管理的圧力としてあらわれず、職場仲間に迷惑はかけられないというヨコの社会的強制として働く。ヨコの「強制」は、余裕のない労働条件を許し、それを規制できない一定の労使関係のもとで機能する。仮に、労働者の集団的な発言力によって、仕事量や人的配置を規制できるのであれば、この強制力は弱まるであろう。一方、集団的職場編成による働き方そのものが、労働者間のつながりを強め「自発」性を誘うことにもなる。強制されているという意識を吹っ切って、前向きに苛酷な労働過程のなかに飛び込めば、「みんなと一緒にがんばって、互いに仕事のうえで信頼しあう喜び、仕事を通じて認めあう喜び」という肯定感が意識される。職場の仕事上の人間関係が強いほど、きつい労働をともに耐え、一緒にがんばって仕事に励むことができる。
ここで鈴木が強調するのは、この「自発」の側面を、集団的な労働意欲を合理的に生み出す日本企業の肯定的特質、とみてはならないということである。集団的労働意欲の自発性は、労働者が過不足のない程度に仕事の量と速度を決め、仲間と協力して課業遂行に努めるという世界において真に発揮される。苛酷な労働条件を他律的に与えられる日本の労働者は、避けることのできない厳しい仕事のなかに見出す「自発」の契機を、精神的な浄化剤とするのである。多くの労働者は、「私は純粋に自発的に働いているのではない。もしも選べるなら、もっと別の働き方をしたい」と思っている。これが、日本の労働者意識のあり方である 。
以上が鈴木の分析であった。
「労働者意識」の分析について
いままで私自身の見解も交えながら、鈴木良始とともに日本の労働者の働きぶりをもたらす諸要因と意識のあり方を考察してきた。しかし、この「意識」というものの分析にとっての固有の難しさが存在するのは明らかであろう。労働者の意識は、彼らがそこで働く職場の制度や管理システムによって一義的に規定されてしまうわけではなく、各人の個性や性格、価値観といったものに大きく左右される。それでもなお、日本の労働者の「全体としてみた」激しい働きぶりに対する「なぜ」という疑問は禁じえない。そこに何らかの共通の労働意識を仮定してみたくなるのも自然であるが、それが何であるかという意識の内面を「客観的」に取り出してみせるのは至難の業である。
以下の節では、このことにも留意しつつ論を進めよう。 
第三節 マルクスからみた「労働」
「自己の解釈学」
前節までみてきた日本人の勤労意識は、すべての労働者にあてはまるものとして描き出されたわけではない。それは、ある意味で上昇志向の強い「エリート」であったり、物事に誠実にとりくむ意識の強い「職人気質」の人であったりする。しかも、「会社人間」や「企業戦士」といわれるような、企業社会に自らを同質化し、そこに何らかの忠誠心を抱くというよりも、「仕事人間」「働き中毒」といった、仕事そのものに自分の人生を積極的にかけていく人々を念頭に置いている。それゆえ、企業=会社で働く労働者だけでなく、仕事に情熱を燃やす知識人や教育者、自由業、「起業家」といった層をも視野に入れている。彼らは等しく、外的な「強制」の枠によって否応なく働かされているというよりも、自らの内面的な労働意欲に強くつき動かされている。
そして「彼ら」と呼んだ人々の姿は、ここで率直に告白すると、私自身の意識のあり方を共感的に読み込んだものでもある。したがって、叙述の方法としては、「客観的」に労働者の意識を分析するというよりも、自己の「主観的」な労働意識のあり様を彼らの内面に投影するという作業でもあった。こうすることによって、自己意識の「告白」を越えた「自己の解釈学」として倫理を考察する糸口にしようとした。ここでは、方法論の展開を全面的に行う余裕はないが、私にとって学問とは「自己の解明」なのだとだけいっておこう。
資本と労働「搾取」
さて、鈴木良始の著書を通じて、私なりに日本人の「労働規範」を抽出してきた。しかし、鈴木自身はマルクス主義の影響を強く受けていると思われるので、彼は「規範」といった見方を自覚的にとってはいない。そこで、マルクスの『資本論』を参照しながら、マルクス主義の「労働」についての考え方をみておこう。
マルクスによれば、資本主義とは何よりも資本(家)による労働(者)の搾取と支配の体系である。資本主義の原動力はあらゆるものの商品化であり、労働力の商品化によって決定的になる。労働者は、生活に必要なものを商品として、すなわち貨幣で購入するというかたちで入手せざるをえない。それは彼が、自給自足や自分の商売だけで生きてゆくことがほぼ不可能だからである。そして生活用品はほとんどすべて企業が生産し供給する。この企業の生産物を購入するための貨幣を、労働者はどうやって調達するのか。それには、自らの商品化された労働力を資本(家)に売ることによって、賃金というかたちで貨幣を手に入れるしかない。つまり雇われて働く以外に道はないのである。このことをマルクスは、労働者が生産手段から切り離されていると表現した。
雇用されて賃金をえるために働くというだけでは、資本による労働の搾取と支配といった構造はよく理解できないかもしれない。しかも、資本とか資本家とは具体的に誰のことをいうのかもよくわからないであろう。ここでは、資本家という言葉で、かなり上級の企業管理者(取締役会のレベル)と一応理解しておくが、諸説があり決して正確なものではない。現在ではむしろ誰が「資本家」かといったことよりも、その会社の経営責任を負う企業そのものあり方が問われている。その意味で、マルクス主義者といわれる人々の間でも、「資本」という語は企業社会の責任を担う構造の全体をさすようである。
では、資本(家)が労働者を搾取するとはどういうことであろうか。よく誤解されるように、劣悪な労働条件と低賃金で労働者をこき使い、資本家が必要以上にあくどくもうけるという意味では決してない。労働者のつくり出した生産物価値から、賃金と原材料や機械設備などの必要経費を差し引いた価値が「利潤」としてあらわれる。そして資本(家)の追求する目的は、この利潤を最大限にすることだ。利潤を大きくするためには、賃金コストを下げるか、生産性を上げてより短時間に多くの生産物をつくり出すかである。こうして、労働者の手元に入る賃金より以上に、必要経費を差し引いた剰余価値を追求することそのものを、マルクスは「搾取」と呼ぶ。だから「適正な利潤」が存在するときでも「搾取」はなくならないのである。
利潤の追求=搾取の方法は、技術革新によって生産コストを下げるのを別にすれば、労働者をより長時間・高密度に働かせて、同じ賃金量でより多くの生産物をつくり出すことである。そのためには、怠惰な労働態度や反抗的な姿勢を封じ込めて、厳しい規律のもとに労働者を働かせる必要がある。ここに、資本(家)の権威としての労働の指揮・監督つまり「管理」が登場する。この管理そのものは、強圧的で厳格な支配強制というよりも、人を動かし働かせる場合には必ず必要となるものである。その意味で、管理は作業手順・労働工程の「計画」であり、これを指導し指揮するのが「管理者」である。
しかし、資本主義の目的は利潤の追求なのであるから、ここでの管理者は資本(家)の意志を身にまとった搾取の執行者として現れる。労働者の労働の規範といったものは、ここではあくまで、管理者に要請され外的に強制される規律である。鈴木の念頭にもこういった構図があるように思われる。それゆえ、日本企業の労働(者)のあり方をみる場合にも、「自発」の側面だけを肯定的に取り出してはならないという。企業(管理者)は、「搾取」を実行しているのであり、決して労働者自身が積極的に働いているのではない、と捉える。また、過労死を生み出すような現代の日本の企業社会のあり方は、労働者集団による企業管理構造への規制力が弱いことに求められる。
「労働過程論」
このような搾取され強制的に働かされているあり方を、マルクス主義では「疎外された労働」と呼んでいる。これに対してマルクスは、労働そのものの肯定的側面を表す議論として、「労働過程論」を叙述している。そこでは、労働は、人間の社会を維持していくうえで必要不可欠な行為として捉えられ、「資本主義」という規定をはずして考察されている。労働とは、人間が自然に働きかけて、彼にとって有用なかたちで使用できるものをつくり出すことである。このとき人間は、ただやみくもに行動するのではなく、ある一定の目的と計画をもって合理的に生産する。あらかじめできあがってくる生産物のイメージ=青写真を頭のなかに描き、それを設計図として生産労働を行う。こうしてはじめに「目的」として観念されたものが、最終的に生産物のなかに実現される。
この生産労働において特徴的なことは、労働者は目的に向かって計画的に行動しなくてはならないことだ。労働そのものが彼にとって楽しみとして感じられなくても、意志を集中させて雑念を振り払い、自分自身をコントロールしなくてはならない。この自己制御は自分による自分の管理であり、労働とは本来的に管理の要素を含んでいるともいえる。つまり、自分の頭による意志を動員して、自分の体である手足を制御することが労働である。このとき頭脳は生産の目的を常に意識しながら、肉体の作業活動を計画的に監視する。これが一人の労働者の内に統一して行われるとき、労働は自己管理・自己規律としてあらわれる。
以上は、労働過程を、一人の労働者が自然に相対して合目的的に活動する行為として捉えたものであった。これが資本家と労働者というある一定の生産関係のもとにおかれるとどうなるか。目的と計画を司る頭脳の労働が資本家の側に、その指揮に従って作業を遂行する肉体の労働が労働者の側に、この両方に分離するというのがマルクスの基本的な考え方である。頭脳労働と肉体労働の分離、これは搾取の別の表現でもある。このことからも、鈴木のいうような企業管理者と労働者との対立的関係が読みとれるであろう。
自己目的としての労働
さて、このようなマルクスの考え方に対して、私自身の見解を述べておこう。マルクスの労働過程論は、簡単にいうと「目的」と「制御」の概念から成り立っている。しかじかの生産物をつくるという目的が与えられると、この目的達成のために合理的・法則的に労働が行われる。その際に、労働者は自らを目的と法則に従うように制御して活動する。その制御を司るのが、頭脳的な意志であり、制御されるのが作業行為そのものあるいは肉体的活動である。資本主義においては、制御者が資本(家)として、制御される者が労働者としてあらわれる。このとき、生産の目的を掌握しているのは資本であり、労働者はその意志の体現者である管理者に制御される。
ここでの問題点は、誰が(何が)その「目的」を与えるのか、また、はたして目的にしたがった活動はそんなにも合理的・合法則的に遂行されるのか、ということである。労働過程における目的である生産物そのものを決定する究極的な根拠は存在しない。目的そのものを選択する合理的な根拠はないのである。そしてまた、合目的的活動とみなされる労働も、常に、目的にとっての手段として、いわば法則の解としてあらわれるわけではない。労働とは、それが何のためになされるのかということについても、また、その遂行のプロセスにおいても、きわめて曖昧で、ある意味で非合理的な要素を含むものである。
先に、労働過程が一人の労働者にとって自己管理・自己規律となる論理をみた。この場合でも、労働は、目的にしたがって自己を律する行為というよりも、様々な方向へ展開していくダイナミズムをもっているといえる。労働とは、何よりも「流れ」なのである。さらに、資本とその管理者によって、外側から労働の目的が与えられ厳しい規律のもとにおかれる場合でも、決してすべての自由度が奪われるわけではない。現場の決定権と裁量の度合いが高まることに呼応して、労働のもつ「流れ」としての側面が強くなる。このことは、企業労働を「強制された自発性」としてのみ捉えてはならないことを意味する。何度もいうように、労働者の内面から発する勤労意欲の発現する余地がここに存在する。
資本主義において、労働が「疎外された労働」としてあらわれる最大の要因は、労働の遂行とその結果が他者によって管理され評価されることであろう。鈴木のいうように、作業の密度・量・速度といったものを労働者自らが決定できず、労働の結果も「人事考課」によって管理者に評価される世界である。これは、生産の目的が資本の掌中にあり、労働者がそこに介入できない企業における雇用労働では、絶対的な制限である。しかし、その制約条件のなかでも、労働における局所的な自由は確実に存在する。その局所領域を拠点にして、労働そのものに内在することによって、厳しい管理のあり方を突き抜けていく可能性がある。つまり、局所的自由のなかで自己を最大限発揮することによる、自己実現の要素である。
このことは、労働者が生産の目的を内面化し、自らを資本に一体化させることを意味するのだろうか。疎外された苛酷な労働を自発的に引き受けることによって、「吹っ切れた」意識で働くのか。個々の労働者においては、そのようにあらわれることもあろう。しかし、私が一貫して追及しようとしてきたのは、その資本と同一化したかのように見える、エネルギッシュな働きぶりを生み出す意欲である。管理され制御された労働であっても、その労働自体を至上なるものとみなし、自己目的化することは可能である。「何のために働くのか」と問うのではなく、働くことそのものを至高性として享受する。このとき、強制された労働の側面は背景に退き、自己の存在をかけた天職ともいえる意識が生じる。
このような意識のあり方を、前に、「管理(者)の向こう側をみている」と表現した。それは労働の使命感である。管理者は、その使命をもたらす伝達者にすぎない。この労働の使命感や内面的な勤労意欲は、どこから生じるのであろうか。もちろん、この感覚は、すべての労働者によって共有されているものではない。繰り返すように、これは自己の労働観の投影としての像であるが、私は、これがたんなる虚像であるとは思わない。
さて、最後に、内面的な労働意欲を解明する手がかりとして、ヴェーバーの考察に学びながら考えてみよう。 
第四節 「プロテスタンティズムの倫理」と労働観
ヴェーバーの分析から
ここでは、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をとりあげて検討する。
禁欲的プロテスタンティズムの代表例として、十六・七世紀のカルヴィニズムをとりあげよう。「ピュウリタニズム」とよばれた禁欲的運動では、生活態度を律する禁欲的道徳は、来世の思想と密接に結びついていた。この来世観念は、当時のもっとも内面性豊かな人々を無条件にとらえており、それが生活上の道徳的革新を生み出した。その根源的な思想内容を知ることによって、個々人の生活態度を方向づける心理的起動力が明らかとなる。
カルヴィニズムのもっとも特徴的な教義は、恩恵による選びの教説(予定説)である。《人間は生まれながらに罪の状態に堕落し、自らの力で悔い改めることはできない。神はその栄光を顕現するために、自らの決断によってある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定した。この選びの決断は、神の自由な恩恵と愛によるものである。神は、永遠の生命に予定された人々のみを、有効に召命する。》カルヴァンの思想においても、人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。あらゆる出来事は、至高の神の自己栄化の手段として意味をもつにすぎない。神のみが自由で、どんな規範にも服さないのであり、救いの運命は神の絶対の決意による。神は永遠の昔から各人の運命を決定し、宇宙のすべての処理を終えた、人間の理解を絶する超越的存在である。
この悲愴な非人間性をおびた教説の結果は、何よりも、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗教改革時代の人々にとっての人生の決定的なことがらは、永遠の至福という問題だった。これについて人間は、永遠の昔から定められた運命に向かって、孤独の道を辿らなくてはならなくなった。牧師も聖礼典も教会も彼を助けることはできない。選ばれたものだけが、神の言葉を霊によって理解しうるのだから。この教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したことが、カトリシズムとの決定的な違いである。例えば、真のピュウリタンは、いっさいの宗教的儀式なしに近親者を葬った。これは、救いのためのあらゆる迷信を排斥した「呪術からの解放」であった。
このような教えに際して、信徒の心に生じてきた疑問は、私はいったい選ばれているのか、どうしたらこの選びの確信がえられるのか、ということだった。自分が救われているのかという問いに対しては、やがて、誰もが自分は選ばれているのだという主観的な確信をもてと勧められた。この自己確信を獲得するためのもっともすぐれた方法が、絶え間ない職業労働に厳しく打ち込むということであった。職業労働によってのみ、宗教上の疑惑が追放され、救いの確信が与えられるというのである。
日本人の労働観
プロテスタンティズムの倫理においては、超越的な絶対者としての神の存在が、決定的な重みをもつ。神はあまねく人々の心を照らし出す絶対的な規範である。人間は、この神の御心にかなうようにふるまい、そして神の栄光を増大させることを究極の目的とする。その人生における手段が、禁欲による道徳的な生活態度であり、合理的な秩序を求めて営まれる勤労である。そこには、神の規範に服する秩序だった合理性がみられる。職業労働そのものは、この神の規範にしたがい神の栄光に資するものであるかどうかが厳しく問われる。逸脱的な快楽行為や本能的な享楽は激しく排斥され、道徳的禁欲に律せられた生活態度が求められる。しかし、禁欲的な職業労働は、あくまで神の命ぜられる規範に沿うところの、「天職」であり「召命」である。
このプロテスタンティズムの職業倫理と日本の労働観の違いについて考えよう。プロテスタンティズムが超越的な絶対者としての神をもつのに対して、日本においてはそのような労働の究極的な根拠づけが存在しない。確かに、欧米へのキャッチアップを目標としていた高度成長期には、貧困からの脱却と豊かさの追求が「目的」としてわれわれの前にあった。しかし、その「豊かさ」が達成されると、労働そのものの究極的な目的が見失われてしまう。いやむしろ、絶対神なき日本社会においては、そもそも労働を意味づける普遍的な理念が存在しない。ここから、目的と終局(=エンド)を見失ったエンドレスな際限のない労働世界が繰り広げられることになる。それは、労働そのものが自己目的となった世界でもある 。
プロテスタンティズムの伝統をもつ社会が、絶対者との内面的な緊張関係の経験から、第三者としての規範的ルール=契約を見出したのに対し、神なき日本は、ルール性の欠如した無際限な労働を課すことになった。同じく「天職」倫理とみられるものが、一方では神の栄光への貢献であるのに比して、日本においては、企業への貢献をも越える「サラリーマン道」として、無限に歩みつづけるべき果てしなき道と化す。そこでは、仕事に無限に自己を投企することが求められ、過労死や家庭崩壊といった自己とその近しい世界の破壊に至るまで停止することがない。
プロテスタンティズムが、絶対神との対峙から生まれる孤独な内面的感情を、勤労的な生活態度の心理的起動力にするのに対し、日本においては、そのような超越者−自己関係によって形成される「内面」をもたない。宗教的意識があるとしても、彼岸での救済を求める来世観念よりも、現世利益への志向の強い呪術的要素を多分に含んでいる。超越的な絶対者の経験がなく、現世=此岸での幸福に価値をおく社会での内面形成とはどんなものであろうか。そこでは、現世の人間関係である「世間」そのものがある種の規範となり、常に周囲の視線の中で自我を形成してゆく。その不安定な内面的自我が、仕事への無際限な自己投企によって「道」を求めようとしているのか。このあたりが、今後の検討すべき課題でもある。 
むすびにかえて
本稿では、日本の労働者の激しい働きぶりに注目し、その勤労態度をもたらす要因を探ろうとした。前半で紹介した鈴木良始の見解では、日本企業の「能力主義管理」制度と、そのもとで否定的意識を吹っ切って働く労働者の姿が浮き彫りにされた。これに対して筆者は、企業労働者だけにとどまらず仕事に自己を挑戦的に投企していく人々を念頭において、その勤労意欲を問題にした。その際、「日本の労働者」とひとくくりにするよりも、筆者自身の仕事に対する規範意識めいたものとだぶらせながら、彼らの仕事感覚に迫ろうとした。そこからでてきた考察は、「強制された自発性」ではなく、内面から発する労働意欲=自己目的化した労働という論点であった。
さて、「過労死」を生み出すような激しい企業社会を何とか変革していこうという願いをもつ研究者も数多くいる。その研究者自身が自らの仕事に献身的に没頭して「過労」状態に陥るという皮肉な事態すら生まれている。このことの教訓は、「企業」社会のあり方を批判して、その管理制度や「強搾取」の構造を明らかにするだけでは、無際限な仕事への没入という事態を打開できないであろうということである。したがって、労働時間の法的規制を含めた政策的なコントロールやそれを勝ち取る市民的な運動に期待をかけるのは、事柄の一面しか見ていないことになろう。
はっきり言うと、「会社人間」ではなくても「組合人間」であったり、要するに自分の生活の大部分を占める活動を、一つの方向性をもった「仕事」に投企していく勤労態度そのものが問題なのである。その意味では、「ライフスタイルを変えよ」という論者の意見を全く無視するわけにはいかない。しかし、仕事よりも遊びを、余暇時間をレジャーに、といったかけ声だけでは解決できない問題点もはらまれている。その「遊び」や「レジャー」そのものを、またしても無際限に追求する強迫的衝動を内面に宿す場合があるからである。
このように見てくると、「過労死社会」「働きバチ症候群」の日本から脱却する道は、かなり困難な様相を呈しているといえよう。たとえ「勤労意欲」そのものが衰退し、若い人々を中心に享楽主義文化が定着しても、そこにまた新たな「無際限な欲望」が生まれてくるであろう。これに対抗して、絶対的な規範や超越者の論理を導入することは、時代錯誤的な試みである。しかし、ひとりひとりが「多方向に炸裂する多様な欲望」を認めつつ、自らが「天」とあおぐ規範=道を独自に追求することによって、エンドレスで無際限な行動様式を自己の内面から克服することは可能ではないか。その道程がエンドレスなものでないことを願って結びとしたい。 
 
税の歴史と国家

 

1、はじめに
まず「税」とは何か、税はどのように発生したものであろうか?
「税」は「租税」ともいい、総じて言えば政治社会の発現以来、王・領主・国家などが人民を支配し、政治を行うために必要な物や労働力や金などを、人民から強制的に徴収するものである(「古代の税制」田名網宏著)とされている。
しかし、今回の我々の学習ではもう少し広義に解し、原始的集団生活を行う上で必要な権力者への貢物・自然の摂理が明らかになるまでの宗教的活動への供物・貢物などを含めて考えることにした。
古代社会では、風雨・日照り・寒暖・火災などの自然現象に対する恐怖から救われようとして、いわゆる「予言者」「神の使い」的な者への貢物が発生したであろうと推測する。
又、定置農耕で共同生活をはじめ部族単位の生活を営むようになり、余剰生産物が蓄積されるようになった頃から、他の部族との競合がはじまり、収穫物の略奪を防ぐために「用心棒」(傭兵)を依頼する必要性が発生したかもしれない。
又定置農耕では水理の共同作業が発生し、原始的公共事業が生ずる。
この時の「税」は「使役」であり、かなり後年までこの「使役」が税の主をなす。
部族が征服や合併により次第に大きくなり原始的国家としての体をなすと、その時代の権力者のへの貢の体制が整い、律令制が確立し、税として確立されてくる。
国家の重要な課題の一つ、侵略者からの「防衛」は、そのコストがその時々の交通手段の発達により増大する。
手押し・馬車による荷車・木製による船が主たる交通手段である頃は、周囲が山に囲まれた盆地(邪馬台国・平城京・平安京)がその目的を達し、多額の防衛費を必要としないが、野山を越えて攻め入る戦車、空母より飛来するジェット戦闘機、遥か遠方より無人で誘導されてくるミサイルなどが開発された今日は、それを防ぐための莫大なコストを要する。
又主要道路も、多数の長い橋を必要としない山間部に設け、公共事業を少なくしていたのであるが、物流量が多くなると平地の臨海部に道路を必要とし、橋梁等の負担が多くなった。
一般的な税制の始まりは大化の改新(645年)から大宝律令(701年)であり、班田収受法・公地公民制の「人頭税」(課税客体は人)である。
そのため課税台帳としての「戸籍」(人別帳)を作成した税は「租」(米)「庸」(使役又は布)「調」(布や絹等の各地物産)であった。
「租」は3%であり、財政というよりむしろ朝廷その他の主食賄い程度であり、「庸」は使役、「調」は生活物資・副食材の提供である。
これらの代用提供物である織布は、近代の「自動織機」が出現するまでその需要は高く、物々交換経済においては、その汎用性において「貨幣」の役割をはたしたのではないかと考える。
この頃の日本の人口は約500万人、耕作地に労働力を貼り付ける「奴隷制度」と実態は変わらず、女子は男子より税が軽いため、村民すべて女性という村もあったという。
又、この重税から逃れるため土地を離れ寺社が運営する「荘園」に逃げ込む者が多くみられ、ここでも現実労働環境は前者とその実態は変わらない。
邪馬台国以後この頃までは中央集権国家(東海以西であるが)の政体であるが、この「荘園」が力を持つに至り、律令体制が崩壊し、その税制も農地の収穫高を課税客体とする「年貢」と変化し、「米」の流通と貨幣経済の発展につれて「税」の主流となる。
以後明治維新まで中央政府に対する納税ではなく、地方統治者に「年貢」を納める「地方分権」(地方自治)の時代に入る。
武士の勃興により各地で群雄割拠や天下統一の変遷をみるが、このときの政府(幕府)は変則的な中央政府であり、全国的な支配権は有するが課税権は自身の直轄領(徳川幕府では400万石余り)でのみに限定されており、財政基盤の裏付けのない中央政府であった。
地方統治者は中央政府に従属の意思を示せば、ほぼ完全な自治権が保証され、その領内の税(年貢)の取立てについては中央政府の干渉(今の地方税法のような)もなく、自主取り決めにより、五公五民又は八公二民(薩摩藩)等、全国画一的なものではなかった。
この矛盾点を孕んだ政府(幕府)が衰退していく頃に、「黒船来航」を迎える。
この国家存亡の危機に改めて強力な「中央集権国家」へと急遽変革を断行するのであるが、その施策の一つ「廃藩置県」はその時主体的に活動した下級武士階級を失業させる(一部新政府役人になった者以外)ものであり、それを甘んじて受け入れた国家感に敬服し、その近代的国家体制の原型を構築してゆく作業は、日本の歴史上最も躍動的でダイナミックなものであった。
この時に断行された「地租改正」(米納から金納へ、米の出来高から土地面積へ)は政府の財政基盤を安定させるものであり、政策を現実化させるには優れた改正であった。
又、これを断行するために「度量衡」の整備がおこなわれ、測量技術の発達により面積の正確性が上がり、枡の整備・統一により合理的な納税環境が整えられた。
この整備は納税環境にとどまらず、公共土木事業の基礎をなし、鉄道・道路・治水治山事業や尺貫法への統一等、社会全体の進歩をもたらした。
このことにより独立国の維持が可能となったが、その後勃発した「日清戦争」特に「日露戦争」に勝利したため、軍部独裁国家へと進むことになるが、この時「戦費調達」のためさまざまな税制が導入され、現在においてもその残骸が制度に残ってしまう結果となった。
又近年、肥大化した「中央集権国家」のマイナス面が多々指摘され、「地方分権」が叫ばれているが、長年中央依存で暮らしてきた地方自治体が、主体的に運営する能力を取り戻せるかどうかが問われる。
又税制において、課税客体を財産の所有・所得の稼得以外に消費を取り入れ、「消費税」を導入した。
「税の逆進性」と「補足の公平性」をそれぞれの根拠に、賛否分かれるところである。
日本国家の歴史的変遷の表・裏に常に現れる「宗教」は、その時々の時代において寺社が経済力と政治力を有するが故である。
なぜなら、過去の日本における先端技術はその多くが「仏教」や「キリスト教」と共に僧や宣教師が持ち込んだものであり、実経済社会を管理していたと考えられる。
日本各地に言い伝えられている"弘法大師"の神ワザ的「医療技術」「土木技術」等は、その留学先「唐」で習得した「先端知識・技術」のなせるものではなかったかと、私はそんな"ばちあたり"な想像をするものであります。 
2、縄文・弥生時代(原始社会の税)
創世期〜旧石器時代以前(4〜5万年前以前)
今からおよそ500万年前までは日本列島はユーラシア大陸と陸続き260万年前頃から約1万年前までは10万年単位で寒冷な時期(氷河期)と温暖な時期(間氷河期)が繰り返され、現在は約1万年前に終わった氷河期の後の間氷河期にあたる。
旧石器時代(5万年前〜1万5千年前)
旧石器時代の化石人骨は、ほとんどが沖縄県で発見されたものであるが、これは本州の土壌のほとんどが酸性であるため古い化石人骨や有機物は残らないことが原因である。沖縄県で発見されるのは沖縄県には石灰岩地帯が多く、人骨が保存されやすいことが原因。
縄文時代(1万5000年前〜3000年前)
温暖化により陸地の植物が代わり木の実などの山の食料が豊富になり、海面上昇により遠浅の海が形成され魚介類も豊富なる。そのような環境変化により従来の狩猟を行いつつも旧石器時代には不可能であった定住生活へと大きく変化することになる。
環状集落定住集落平和な時代共同作業
弥生時代(3000年前〜3世紀中頃)
3000年前頃、大陸から北九州付近に縄文人とは異なる身体的特徴を持った「渡来系弥生人」がやってくる。
弥生時代の集落については、縄文時代に比べて規模が大きくなり、村の周囲を堀で囲んだ「環濠集落」(かんごうしゅうらく)、高地に築く「高地性集落」が見られるようになる富の蓄積が可能となり階級、権力という社会のしくみが形成されていく。
争い発生兵役?
耶馬台国
魏志倭人伝「軍隊」の存在を証明する記述「兵用矛、盾、木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃、或骨鏃」「収租賦」「有邸閣」と記されており、租税があり、税物を収納する倉庫もあった。 
3、飛鳥・平城京・平安京(律令国家の税)
大宝律令(701年)
天武天皇は豪族を新しい支配体制に組み入れようとした。そして、律令や国史の編さんにも着手し、持統天皇はこれをうけついで、689年、飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)を施行し、694年飛鳥から藤原に都を移し、701年文武(もんむ)天皇、刑部(くさかべ)親王(しんのう)、藤原不比等(ふひと)らの手によって大宝律令が制定され、日本は律令国家として形をととのえた。律は刑罰法、令は国家の行政機構とその運用の基本を役人に示した行政法。
1.中央・地方の管制
政治を行う太政官(だじょうかん)は、太政大臣(だじょうだいじん)・左大臣・右大臣八省によって施行。
2.公地公民制
すべての土地と人民を国家の領有とするとともに、官僚制による強力な中央集権制を樹立しようとした。
3.戸籍・計帳制度
戸籍は六年ごとに作られる人間の登録簿毎年作られる計帳は、この戸籍を基準にして年ごとの変化を記し、その結果として、今年どれだけの調庸が課せられるか記した台帳である。
4.班田収授法
6歳以上の男女に、男子には二段(約23アール)、女子にはその3分の2。律令制的土地制度の基幹。
5.税制
律令国家の税制は、租・庸・調を中心として、調副物(ちょうそわつもの)、雑徭(ぞうよう)、歳役(さいえき)、兵役(へいえき)、仕丁(しちょう)、出挙(すいこ)、義倉(ぎそう)。
平城京遷都(710年)
文武(もんむ)天皇が若くしてなくなったあと、その母が即位して元明(げんめい)天皇となると、710年、平城京をきずき、藤原京から都を移した。これは律令国家の成長にあわせ、水陸の交通が便利で、宮都にふさわしい土地に都を移した。
1.律令制の変質
良田百万町歩開墾計画(りょうでんひゃくまんちょうほかいこんけいかく)
田地開墾促進する三世一身法(さんせいっしんほう)を施行
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を施行公地公民制の基盤を覆(くつがえ)す性格
2.田地拡大政策
百万町歩開墾計画(722年)
三世一身法(723年)
墾田永年私財法(743年)
平安京遷都(794年)
光仁(こうにん)天皇の後を継いだ桓武(かんむ)天皇は、新たな政治基盤を確立するため、寺院などの旧勢力の強い奈良から、水陸交通の便利な山城の地に都を移すことを考え、まず長岡京へ、ついで794年平安京へ遷都した。
1.税制
年貢(ねんぐ)年貢は官物などの公的な税の系譜を引くが、荘園領主が徴収するもの。
公事(くじ)律令制の調にあたり、物産品・手工芸品などを荘園領主に納入する。
夫役(ぶやく)国衙(こくが)や荘園領主が新たな労働役の徴収制度として成立させたのが夫役である。
2.班田収授法の終焉と律令制度の崩壊
田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等律令制の基本であった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。
3.王朝国家体制
国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓層の成長国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長。
4.荘園
大名田堵(だいみょうたと)は各地で勢力を強め開発領主。成長した開発領主は、国司や他の領主の干渉をしりぞけるために、中央の有力な寺社・貴族に郡や郷を寄進して荘園。
中央政府から太政官符(だじょうかんぷ)や民部省符(みんぶしょうふ)によって租税の免除を認められる
国免荘(こくめんしょう)不入(ふにゅう)の権を得るところも多くなった。

税の制度は、大宝律令に始まり、その根本は諸外国に対抗できる強力な国家を作るための財政を確保することが目的であり、それを自然に効率よく徴収するためにつくられている。租庸調制については、当時、役人は少なく年間3%の租の税で役人が食べても余るほどあったため、庸調を中心とした人頭税を中心としていた。徴収方法についても、庸・調については直接都に運搬しなければならず、相当の労力を要したと考えられる。そのため農民の負担が大きくなり、浮浪・逃亡・偽籍などが増加したため戸籍・計帳制度が機能しなくなったことから律令制は崩壊していった。その後、税の中心は人頭税から田租に移行されが、寺社や有力な貴族たちには免税などの特権が与えられ富と権力を手に入れていた。このようにいたるところに不合理と不公平がみられ、その根底には支配権力者側の恣意が大きく働いていた。 
4、鎌倉・室町・戦国・織豊(群雄割拠の地方自治と税)
1.鎌倉時代(1192年〜1333年)
鎌倉時代は守護、地頭や荘園領土のもとで経済が発達した。守護・地頭は源頼朝が勅許を得て各地の荘園・公領においた職で、権力拡張の結果次第に領主化するようになった。特に地頭は荘園や公領において毎年一定の年貢の進納を請け負い、自らその地の実質的支配権を握った。農民には年貢のほかに公事と夫役が課せられていた。
中世の村の税→土地に対する課税
大田文(おおたぶみ)と呼ばれる荘園の田積、領有関係を記載した文書により課税が行われる。
大田文・・・鎌倉時代を中心に作成された一国ごとの国内の公領・荘園(しょうえん)の田積(でんせき)。領有関係を記した文書。田文(たぶみ)、田数帳(でんすうちょう)、田数目録、作田惣勘文(さくでんそうかんもん)、図田帳(ずでんちょう)などともいう。
中世の商業の税→権利に対する課税
商人や手工業の職人の間に同業組合のような「座」が設けられた。商人達は、幕府や寺社に運上(一種の税金)を納めることによって、その権利を保護された。主な座は材木座、絹座、炭座、米座、檜物座、塩座、魚座の七座。当時座(職能)で生計を立てていた人々は、奇人や神人になって課税を逃れようとした。
中世の貨幣
基本的に信用取引で、地方の荘園では、地元あるいは近くの都市で送るべき年貢を手形に換え、これを領主に送付した。領主はたいてい畿内に住んでいたので、教徒や奈良、堺など対応できる承認の住む場所へ行き、そこで米銭を受け取った。
2.室町時代(1336年〜1574年内戦国時代1467年〜1574年)
基本的には鎌倉時代の農業、商業が発達。ただし、室町時代末には幕府の力が弱まり、寺社の力が強くなる。室町時代には、税の中心は年貢だったが、商業活動の発達により商工業者に対しても税が課せられた。例えば、全国の街道には淀川流域だけで380、全国では660ヵ所の関所が設けられた。関所では関銭(通行税)として、海上や河川を通行する船から金銭を徴収した。陸上の場合は、人・馬ごとに課せられ、およそ人は3文(現在の価値だと50円〜70円程度)、馬は5文であった。また関銭は関によって異なり、旅人より商人、荷物では徒歩者のものより、車・馬の荷駄の方が高かった。
中世の村の税→土地に対する課税
検注帳を作り直し。
検注帳(けんちゅうちょう)とは、古代・中世の日本の荘園において検注の結果を集計して取りまとめた帳簿のこと。条里の坪付順に、坪内の田地一筆ごとに面積、斗代、耕作権所有者名(年貢負担者)が記載。地名や各坪内の屋敷・畠などとともに様々な給免田の種類、面積が注記されている。権利が移動した場合には何度も追筆が加えられており、詳細な土地把握がされる。
中世の商業の税→権利に対する課税
乱世の経済は誰が握ったのか?それは寺社である。ではなぜ寺社が握ったのか?
その理由は次の2つである
寺社は様々な利権を持っていた。利権のあるところには銭が集まるので、その銭が資本となり大きな勢力となる。寺社は自前の武力をもっていた。寺社には銭が集まるので、自ら武装をしないと襲われてしまう。そのため武装集団を雇い、大きな力を持った。寺社は主要道路に勝手に関所を作り、通行料を徴収した。最も大々的に行ったのが比叡山延暦寺である。 
5.安土桃山時代(織豊時代)(1574年〜1603年)
楽市 楽座 太閤検地
商業
定期市の発生
行商人の出現
見世棚の登場…見世棚=常設店舗、都市部(京都・奈良・鎌倉)に出現。
座の結成・・・平安時代末期から結成、室町時代に発展。
問丸(問)の登場
為替(割符、替銭)の発行・・・遠隔地取引、決済の方法(現金を送る代わりに手形などで送金)
借上の登場・・・高利貸し(担保・質物をとらない)
代銭納の開始…荘園領主に対して年貢を銭で納入(現物納→代銭納)
頼母子・無尽の登場・・・民間の庶民の相互金融機関
宋銭の大量流入→年貢の代銭納、金融機関(借上など)の発達
(1)戦国大名の政治
土地・人民の一円支配(直接かつ完全なる支配)
経済力の強化=産業育成
軍事力強化
(2)城下町・・・大名の領国経営の中心
⇔城郭の変化(山城→平山城・平城)
織田信長の政治
(1)土地政策
指出検地の実施・・・指出(土地台帳)の提出←旧勢力の打倒(公家・寺社の経済地盤を奪う)
(2)経済政策
楽市・楽座・・・美濃加納(1567)、近江安土山下町(1577)
関所の撤廃(1569)・・・支配地域で実施
都市の直轄・・・都市からの徴税
豊臣秀吉の政治
(1)太閤検地(天正の石直し、文禄検地)・・・大名知行制の確立、兵農分離
(2)荘園の消滅、土地の複雑な権利関係の清算
(3)兵農分離・・・百姓を土地に固定、武士と百姓の中間層の消滅
(4)石高を基準にした知行・軍役体系の確立
(5)江戸幕府に継承→江戸幕府は改めて全国的に検地を実施 
6、江戸時代の幕藩体制(変則的な国家と税)
1.江戸時代の税制概略
(1)江戸幕府の体制
江戸時代は、徳川幕府が全国を統一していた時代であった。しかし、徴税については、幕府の直轄領についてのみであり、直轄領以外については、それぞれの藩が独自に課税していた。
(2)江戸時代の税
江戸時代は、徳川幕府が全国を統一していた時代であった。そして国内は、幕府領・旗本領・藩領・寺社領などに分かれており、税の種類や税率はそれぞれ異なっていた。
江戸時代の税は、大きく年貢(=本年貢、本途物成(ほんとものなり)と諸役(小物成(こものなり)・高掛物(たかがかりもの)・夫役(ぶやく)・国役(くにやく)など)に分かれる。
年貢は田畑にかかる税で、小物成(こものなり)は田畑以外にかかる税であった。また、高掛物(たかがかりもの)は村高(=村の石高)や持高(=百姓が耕作する土地の石高)にかかった税である。
この他に、江戸時代には、特定の仕事に課税される運上・冥加、また、臨時の事業や財政の穴埋めのために賦課される上納金もあったが、江戸時代の税の中心は本途物成(ほんとものなり)、いわゆる「年貢」であった。
(3)検地
検地帳に登録された耕作者は、土地の耕作権を認められる代わりに税を負担する義務があった。また、検地によって定められた土地の石高(米の収穫高)は、これ以後年貢や諸役などを課税する時の基準となった
(4)年貢の課税・納入
領地の村に宛てて「年ねんぐわりつけじょう貢割付状」を出し、その年の年貢の額を通知した。
村では領主から通知された年貢を村の百姓ごとに耕作地とその石高(米の収穫高)をまとめた名寄帳をもとに割り当てを決定した。すべて納入が終わると領主から「年貢(ねんぐ)皆済(かいさい)目録(もくろく)」が村に宛てて出された。
(5)年貢以外の諸役
商工業者には運上・冥加。
幕府は国役(くにやく)金を全国または特定の国に対して国家行事、例えば朝鮮通信使が来た時や主要な河川の普請(ふしん)を行う時に賦課助郷に指定された村では、宿場を補助するために人馬の供給を行うことを義務づけられていた。
(6)課税の免除・減免
寺社領には朱印地・除地があり、基本的に領主は年貢を課税できなかった天候不順や災害などによって飢饉や凶作に見舞われた時、村では領主に年貢の減免を願い出た領主は年貢を減免することもあった。
2.年貢率
江戸時代の年貢率は開幕当初は七公三民とされていたが、その後どんどん下落していくことなる。六代家宣の頃の年貢率は2割8分9厘であったともいわれている。
生産性の向上によって、名目年貢率と実際の年貢率との乖離が激しくなったと思われる。
この年貢率は田畑の等級が同じなら一律であったため、下層農民にとっては苦しいものであっても、上層農民にとっては、生産力の上昇分は余剰として蓄積された。これは農民階層の分裂が生じた一因となっている。
3.江戸幕府の財政
初期の頃は財政に余裕あり。
三代家光による浪費。
佐渡金山の枯渇。
綱吉の時代(元禄のころ)には赤字経営。
長崎における海外交易赤字による金銀の流出、明暦の大火・大地震・富士山の噴火などの災害復興事業による出費。
財政再建対策を荻原重秀(おぎわらしげひで)に考えさせる。→貨幣の改鋳
8代将軍徳吉宗による享保の改革(米将軍)。
全国の諸藩大名に上米(あげまい)の令。
幕府の財政は好転した。
田沼意次(老中)の登場「田沼時代」(1760年代-1786年頃)。

重商主義的な改革による財政の立て直しを図る(年貢外の収入に重点を移行)。
積極的な改革により幕府財政の立て直しに成功。
重商主義から来る金銭崇拝的傾向。賄賂政治が横行したとされる。
重農主義者の松平定信(まつだいらさだのぶ)ら譜代大名から反発。浅間山の噴火・天明の大飢饉発生により財政悪化。失脚。

松平定信による寛政の改革(田沼時代の全否定。質素倹約・超緊縮財政)。
棄捐令(きえんれい)(旗本、御家人が札差(ふださし)から借りた金のうち、6年前以前に借りた分はご破算、また5年前までの借金の返済利率は低利で年賦払いになった。)
株仲間の解散。
臨時費が膨張。
蝦夷地を幕領に編入(開発や防衛のために収入より支出の方が多くなっている)。

朝鮮通信使来聘の費用。
水野忠邦による天保の改革。
天保期には歳出は毎年200万両を超し、6年は300万両を超過している。2年・4年・6年は赤字。黒字の年も改鋳益金がなければ収支が償う年はない。「貨幣秘録」によると、改鋳益金は納金額の20%台から30%台もあり、11年は41.2%、12年は51.4%に達している。それでも5年・6年は不足、13年も赤字であり、天保期は改鋳益金によって不足を補う財政構造となっている。

幕末期は貨幣改鋳による益金では足りないほど軍事費や償金が莫大になる。
資金の調達手段は外国からの借款や国内商人の信用に基づく金札の発行など。
幕末期の新経費の例
嘉永6年の江戸湾砲台築造計画で、台場9ヶ所で金75万両余り、海軍創設費は外国から購入した軍艦代金が333万6000ドル、長崎・横須賀の製鉄(造船)所には158万ドル、横浜造船所・横須賀製鉄所建設費約240万ドル、生麦事件償金11万ポンド(44万ドル)、下関事件償金300万ドル、長州征伐費437万7000余両など、幕末には財政的には破綻状態。
4.幕府が例外的に全国的に課した税
(1)宝永の国役金(くにやくきん)
(2)上米(あげまい)制
(3)御手伝普請(おてつだいふしん)や幕府諸儀礼、儀式の費用負担
5.百姓への税
(1)年貢
(2)小物成(こものなり)
(3)夫役(ぶやく)
(4)国役金(くにやくきん)
(5)高掛金(たかがかりきん)
(6)村入用(にゅうよう)費
6.商人への税
(1)御用金(ごようきん)制度
(2)冥加(みょうがきん)金
(3)運上金(うんじょうきん)
7.旗本・御家人への税
(1)小普請金(こぶしんきん)
8.江戸御府内(ごふない)の町民税
(1)公役(くえき)
(2)国役(くにやく)
(3)町入用費(まちにゅうようひ) 
7、明治維新と近代国家創生(強力な中央集権国家と税)
1.明治・大正・昭和初期における主な税とその成立背景
日本が開国から明治維新の頃、世界資本主義は自由主義段階から帝国主義段階へと移行。新しい行政機構や軍事機構の構築、近代的な産業の導入が必要となり、これに伴う財政需要が増大。
明治第1期(慶応3年12月〜明治元年12月)には歳入総計に対する租税収入が9.5%であるのに対し、紙幣・国債発行による収入は87.1%、明治10年前後には租税収入の割合が80%〜90%(地租が80%〜90%を占めていました)となった。
日本国内では商工業が未熟、貧弱であり国家の支援により商工業を先進国と同程度のレベルまで高める必要があり、そのため、商工業への課税は軽度なものとせざるを得ず、結果、田租を継承する以外に方法はなかった。
(1)地租改正
時代背景
国内の状況
神田孝平の改租意見
神田孝平は、1830年(文政13年)生まれ、伊藤玄朴が開いた蘭学塾「象先堂」で学び、明治4年には兵庫県知事(7代目、職名は県令)に就任。なお、兵庫県知事には、伊藤博文(初代)、陸奥宗光(4代目)、も就任している。神田は、明治2年4月、公議所に対し「田地売買許可の議」を提出した。要点は次のとおり。
・田地の売買を許可する。
・各土地について沽券を作成する。
・地租は、沽券価格に応じて金納、定額で納付する。
・田畑だけでなく市街地や山林原野にも課税する。
地租改正法公布
地租改正事業の完結
(2)その他諸税
・地券証印税(明治5年2月24日成立・明治19年8月登記法の成立と同時に廃止)
・登録税(明治29年3月27日成立・現在の登録免許税の原型)
・営業税(明治8年地方税として成立・同29年に国税化・大正15年営業収益税の創設により廃止)
・相続税(明治37年12月31日成立、現存)
・財産税(昭和21年11月成立、21年3月3日午前零時現在の賦課)
・富裕税(昭和25年5月11日成立、昭和28年末廃止)
・不動産取得税(昭和15年成立、同25年一旦廃止、同29年再成立、現存)
この時期の税としては、上記の他、「酒税」「関税」など現在の租税体系に残っているものや、「入場税」「燐寸税」「臨時利得税」など、比較的短期間にその役割を終え、消滅していったものもある。
2.所得税法の創設と法人税の誕生
(1)所得税の創設
明治20年3月19日勅令第5号をもって所得税法(29条)が公布され、7月1日から施行された。
所得税法の発案は、明治7年に政府雇用外国人ルードルフが伊藤博文参議(太政官の職の一つ)に提出した「収入税法律案」にあるとする説がある一方、明治17年に松方正義大蔵卿(大蔵卿は、明治18年12月から大蔵大臣と改称された)が三条実美太政大臣に提出した「所得税草案」にあるという説もある。加えて、明治14年東京府会によって提義された「実入税賦課に関する建議書」とする説もある。
所得税導入の理由としては、
・軍艦、砲台などの海防充実のための財源
・北海道水産税の軽減を埋め合わせるための財源
・人民の負担の均等化(不均衡の是正)
・議員を選挙で選ぶ際の選挙資格を政府の身内である官僚をはじめとする新興富裕層に与えるため
(2)法人税の誕生
日清戦争終結から4年後の明治32(1899)年、所得税法は抜本的改正が行われ、第1種(法人所得税)第2種(公社債利子税)第3種(個人所得税)に区分されることになった。(3分類所得税と一般に言われるこの所得税制度は昭和15(1940)年の税制改正により総合所得税と分離所得税の2本立て体系に改正されるまで続く)。法人税「法」の成立は昭和15(1940)年であるが、広い意味ではこの時に法人税は誕生したと言える。 
 
森林と農地の喪失をどうするか

 

1 森林と農地の喪失こそ最大で、深刻な環境破壊
今一番深刻な問題は何かという議論をしようと思います。
それは、世界の森林と農地の喪失です。発展途上国の森林や農地はどんどん砂漠化しています。先進国アメリカの農地もどんどん砂漠化しています。
なぜそういうことになったのかといえば、それは科学技術の向上による穀物の過剰生産と自由貿易と累積債務の3つが原因です。
まず、科学技術の向上でアメリカとヨーロッパで穀物を過剰生産してしまいました。穀物がたくさん取れるので、人類は飢えから救われた、という能天気な人がいますが、それが逆に将来の飢えの原因になっているのです。ここでも、経済学を忘れています。
穀物の過剰生産によって、先進国で穀物価格は下落しました。需要を超えて供給したからです。そうすると、農民が失業することになります。しかし、自動車産業とかの工業部門でも合理化が進み、過剰になった農民を全面的には吸収できません。そこで、先進国の白人政府は、穀物は戦略物質であるから、農民を失業させてはならない。穀物が不足することになったら、未来の戦争に負けることになる。
そこで、過剰生産した穀物に補助金をつけて自由貿易で世界中に売りまくることにしました。その第一の標的は日本でした。今、1億2千万の人口が外国の穀物で生きています。その理由は日本の穀物の値段はアメリカやヨーロッパのの値段より高いので簡単に穀物の流れができたのです。
ところで、日本以外の発展途上国では、穀物の値段はアメリカやヨーロッパよりも安いのです。そこでアメリカとヨーロッパ諸国は穀物輸出に補助金をつけて相手の国の値段で売ることにしました。このように戦略物資としての穀物を維持するということと、農民の失業をなくすという2つの目的で売りつけることにしたのです。世界中に穀物を安い値段で売りつける。しかも援助物資として小麦を無料で配ることもしました。
しかし、ただより高いものはありません。先進国から安い穀物が自由貿易で流れてきたために、発展途上国の農民は対抗できず失業することになります。先進国で農民が失業しない代わりに、発展途上国の農民が失業するのです。穀物の輸出は失業の輸出だったのです。発展途上国の農民が失業すると、農地は放棄され荒れることになります。土壌は雨によって流されてしまいます。そこは砂漠になります。
アフリカの農民たちの食べ物はキビ(ミレット)でした。これを農民が生産して都市で売って生活していたのですが、援助物資で小麦が入ってきて、都市の人たちは小麦の美味さを知ってしまって食生活が変わってしまいました。そうすると、小麦しか買わなくなってしまいます。つまりアフリカ諸国の農村の穀物は、都市で売っても買ってもらえないことになりました。
このことは、日本でも当てはまります。学校給食でパンばかりたべさせられた子供は、大きくなっても米に戻らず、パン食で、アメリカから小麦の輸入が続いています。日本は先進国ですが、穀物問題に関する限り、発展途上国なのです。かって、自給率が落ち込んでいたイギリスやドイツが、今では小麦輸出国であることに注目する必要があります。
それから、第2次大戦後、あちこちで国が独立したというのが非常にまずい状態を引き起こしています。独立したとたんに、世界の金貸しが独立政府に金を貸してまわります。利息が欲しいからですね。
国家は倒産しない、という前提があるので、いくらでも貸します。その結果、そのお金を返すことと利息を払うことのためにそこらのあちこちの国の貿易額の半分近く、返済と利息払いに使われました。
1982年から先進国ら発展途上国へ流れる金額よりも、発展途上国から先進国に流れる金額の方が大きくなっているのです。富は貧しい国から豊かな国へと流れています。このように累積債務も砂漠化の大きな原因の一つとなっています。 
2 自由賀易で、富は貧しい国から豊かな国へ流れる
このように、穀物の過剰生産と自由貿易と累積債務が世界の砂漠化の原因ということになるのですが、その中でも自由貿易が最大の原因です。
これまで、国際経済学では、この貿易の壁を無くして、自由貿易にすることが世界を幸福にすると宣伝してきました。
しかし、これはごまかしでした。そのポイントは貿易商の存在を隠したことにあります。国際経済の本を開いてみて下さい。貿易商なんて言葉は1つも見当たりません。国家間の貿易と書かれています。しかし、そのような貿易は、バーター貿易の北朝鮮との貿易以外には存在しません。必ずそこには貿易商が存在します。国際経済学という学問は現実をまったく見ていないのです。
なぜかというと、国際経済学という学問を支配しているのは貿易商だからです。現在の貿易商とは多国籍企業ということになります。彼らの存在を隠して、ボロ儲けできるように国際経済学は作られているのです。
わたしは、物理学から経済学に転向したのは、経済学はそもそも商学の発展したものと思っていたからです。すでに、わたしは、日本の豊かな森林は、江戸以後の日本の商業が作ったものとの考えに到達していましたから、この議論を世界に広げてみようと思ったからです。
ところが、商学はわたしの期待とは違うのです。マーケッティングという商業技術の研究をする人はいるのですが、商業そのものの研究がなされていないことが分かったのです。 
3 商学の基礎から考える
商業とは、営利を目的として所有権を交換し、または他人の行為を代行することなのですが、商業はなぜ儲かるのか、について明確に書いた教科書がありません。儲かるのは当たり前といったのでは学問ではありません。リンゴが落ちるのは「当然」ではなくて、これから万有引力論にまとめることで力学という学問になったのです。これによって力学の未来が開けました。
そこで、商業はなぜ儲かるのかを考えてみることにしました。それには、商業史を勉強すればよいと思いました。出会ったのが三井の商法でした。三井は大坂で幕府の米を買い、江戸で支払うと約束し、米を大坂で売却して銀を得、その銀を持って京へ行き、呉服を仕入れて、江戸へ運び、これを売って小判を得て、この小判で幕府に米の代金を払って、残りで大儲けしたのです。これは、わらしべ長者の物語そのものです。
すべて等価交換なのに、なぜ商人は儲かるのでしょうか。それはすべての人々に価値観の違いがあるからです。別の言い方をすれば、人々に需要の違いがあるのです。この違いが儲けの原因です(2、3)。
たとえば、米と魚の干物の価値観が農村と漁村で違います。農村では米1升と干物1束が等しいとします。漁村では米1升と干物2束が等しいとします。
ここで面白い事実に気が付きました。農村出の商人が商売をする場合と漁村出の商人が商売をする場合では違いがあるのです。1升の米が農村から漁村に移動する場合を考えますと、農村出の商人が商売すると干物は2束漁村から農村へ動きます。ところが、漁村出の商人が商売すると干物は1束しか動かないのです。
町の商人がやってきて、この商売をしますと、1升の米が町から漁村へ流れ、漁村から農村へ2束の干物が流れ、2升の米が町へ流れます。商人のいる町は純利益として1升儲かるのです。要するに商人を出したところに財産が集まるのです。 
4 富は発展途上国から先進国へ一方的に流れ出ている
この問題を貿易に適用してみました。長崎貿易を例にして、絹、金、銀の出入りを考えてみたのです。そうすると、日本から一方的に金が流出した原因が分かりました。等価交換しても、貿易は対称ではないのです。
どちらの国の商人が貿易するかで、結果はまるで違うのです。貿易商のいる国は儲かるのですが、貿易商のいない国は単なる等価交換です。これが、貿易商のいない発展途上国から、貿易商のいる先進国へ資産が移動する原因となっています。
ところで、貿易商だけが利益を得るのではありません。貿易商を出している先進国は、貿易商に対して所得税や事業税をかけますから、利益が得られます。しかし、貿易商を出さない発展途上国は見かけ上の等価交換で損をする一方です。世界の貿易商のほとんどを所有するアメリカが高度の繁栄をするのは、このような秘密があったからです。日本やヨーロッパの繁栄の理由もここにあります。発展途上国がますます貧しくなるのは貿易商を持たないからです。
これを解決する方法が関税です。これによって、貿易商を出さなくてもこの貿易で利益が得られることになります。関税は、所得税や事業税と同質の税金で、国が儲けの分け前を徴収する方法だったのです。先進国が貿易商に所得税や事業税をかける権利をもつのと同様に、貿易の相手国はこの貿易に輸出入関税をかける権利があるのです。これによって、貿易による利益は先進国だけでなく、発展途上国にも配分されることになるからです。
ところが、WTOは、自由貿易と称して貿易規制だけでなく、関税の撤廃をかかげて発展途上国から財産を強奪しています。これが発展途上国をますます貧しくさせ、その環境をこれほどまでも破壊する最大の原因だったのです。
しかも、自由貿易とは、資本と商品の移動を自由にすることですが、労働力の移動は不自由なままにしていることも大問題です。先進国では農民の失業を防ぐために穀物の輸出は発展途上国の農民の失業でした。この失業者を先進国は受け入れ制限し、その結果発展途上国はますます貧しくなったのです。(2、3)
人口の移動の自由を伴わない商品と資本の自由化は、世界の富をますます片寄らせ、世界の環境をますます破壊し、正義ではありません。自由貿易というからには、労働の移動も自由でなければなりません。
そして国は倒産しないという仮定のもとに貸し付けがなされ、その返済と利息払いが積み重なって累積債務となり、発展途上国はますます無理が強いられ、その自然環境を破壊し続けています。
この自由貿易と債務をこのままにしておけば、世界の破滅は間もなくです。この世界砂漠化の出発点は、先進国での穀物の過剰生産でした。これは科学技術の向上の結果で、人力で穀物を生産する代わりに、石油に働かせて穀物を生産した結果です。世界の砂漠化を防ぐには、まず、穀物生産を調整する必要があります。
日本の環境の歴史を学んで得られた結論は、社会と環境の間の物質の出入りが重要ということでした。社会が環境から養分を収奪したとき、環境は痩せてはげ山になりました。逆に、社会が環境に養分を戻したき、環境は豊かになりました。 
5 日本は肥料を生産し、輸出する
ここで、先進国に仲間入りしながら、穀物輸出にかかわっていない日本の進むべき道を考えてみようと思います。それは、他の先進国とは違う商業(貿易商)の道を歩むことです。つまり、江戸文明の商人の伝統を見習うことです(5)。
江戸文明の商人は、漁村から農村へ肥料を運びました。その肥料で米や綿を生産し、これを都市に届けました。そして都市から手工業製品を他の都市と農村や漁村へ運んで、利益を得ていたのです。
現在、発展途上国の農民たちは、肥料を求めています。これがあれば、定住生活ができて、しかも焼畑で森林を焼く必要はないのです。しかし、発展途上国の農民には現金がなく、肥料を買う需要がないのです。そこで、日本商人の役割は、世界の農地に肥料を供給することです。その方法は、かつて江戸時代の商人がしたと同じように、農民やその政府に対して、肥料の掛け売りをすればよいのです。
日本は、工業力を発揮して化学肥料を作ります。また、漁業加工品の廃物から得られる有機肥料を扱います。さらには、南洋の豊富なオキアミから魚油と肥料を作ります。商人が肥料を買うだけでなく、自家生産もすればよいのです。
このようにして得た各種肥料を発展途上国に廉価で供給します。そのようにしても利益は確保できます。比較優位の手法というのですが、この肥料を安く売ることにより、相手国の貨幣を手に入れて、これで相手国の安い商品を購入し、日本に持ち帰り、高く売れば儲かるのです。
さらに、これによって発展途上国の農地は回復し、先進国に対抗できる農産物を産出できることになりますから、比較優位の商品の生産力もあがることになります。日本の商人が儲けた上で、発展途上国の農地はだんだんに豊かになっていきます。
しかも、江戸文明の経験が示すように、発展途上国の農地が豊かにになれば、野鳥などの野生動物が農地の周辺に森林を作ってくれますから、再び発展途上国に緑がよみがえることになります。
日本人の祖先は武士の理不尽な支配下にあって揉み手で商談をまとめてきた江戸時代の商人です。その子孫の健闘を願います。 
 
日の丸と君が代1

 

古今東西を通じて、国旗・国歌はその国民の統合の象徴であり、各国民はそれなりの敬意を払って来た。もちろん、どの民族にあっても、国旗・国歌に敬意を払わない国民は存在したし、個人的心情として、国民統合の象徴など必要ないとする考え方もあったであろう。しかし、どの民族にあっても、そのような考え方は一部の個人に止とどまり、また、堂々と公言できる事柄とはされないのが、その社会の一般的な「世の習い」であったに違いない。
ところが、唯一、現代の日本民族だけは、かなりの国民が国旗・国歌を軽侮し、かつそうすることが望ましい行為であると公言し続けている。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。
この現象は、現代の他の民族からは極めて異様な事柄であると見られているに違いない。また、未来の日本国民からは極めて異常な時代であったと回顧されるに違いない。
このたびの東京地裁による日の丸・君が代訴訟の判決は「日の丸・君が代に関する懲戒処分は行過ぎた措置で、裁量権の乱用である。」とした。この限りでは、あるいは法律的に妥当な判決と言えるのかも知れない。しかしながら、この判決はその判決理由で、国民統合の象徴である国旗・国歌を軽侮する風潮を是認してしまった。そのことは、古今東西の全民族に共通の「世の習い」に反する行為を是認してしまったことを意味する。
国旗・国歌が国民統合の象徴であると同様に、皇室もまた日本国民統合の象徴である。今回の判決理由を記した裁判官は、皇室に対しても次ぎのような判断を示すつもりであろうか。「わが国で皇室は明治時代以降、第2次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定しがたい歴史的事実である。」

「国民統合の象徴って、どんな意義があるのだろう?」と、身近な人間から疑問を呈された。そこで改めて考えてみた。
大部分の人間は自分の所属する組織・社会に対して、所属しない他の組織・社会に対するとは異なる特別の感情を抱いだく。たとえば、家族、親戚の集まり、友人サークル、同級生、所属企業、お隣り近所、在住市町村、在住都道府県、所属する国に対して、特別の愛着を持つ。自らの生活を成り立たせている人間社会そのものに対する信頼と愛着から生じるパトリオティズムである。
この愛着の理由は、それらの所属する組織・社会から何らかの恩恵を受けているとの認識に基づくものであろう。なお、ここで言う恩恵は単に具体的な利益に止まらず、所属することを誇りに思う、そのなかに居ればほっとする、懐かしさを感じるなどの精神的利益までをも含めて言っている。
そしてこの愛着は、自分自身もまた、所属する組織・社会に対する貢献および不利益の回避に努めて行きたいとの意欲に繋がる。組織・社会の構成員のこれらの意欲は、各組織・社会が安定を保ち、向上・発展して行くために貢献しよう。そしてそのことは各構成員個人の利益に繋がる。
各種の組織・社会のなかでも国は、法律・制度を同じくする範囲として、ときに個人の利害を最大限左右する可能性を有している。したがって、そのような組織・社会である国の安定と向上・発展とは、その構成員である国民各個人にとって、極めて重要である。
「国民統合の象徴」の意義はここにあろう。つまり、その国民であることの恩恵の実感とその国民として国の安定や向上・発展に寄与したいとの意欲の喚起がその意義であろう。そのため、古今東西の人類の歴史を通じて、あらゆる民族が国旗や国歌、皇室制度などに対して、「国民統合の象徴」として敬意を払って来た。
ところが、唯一、現代の日本民族だけは、かなりの国民が国旗・国歌を軽侮し、かつそうすることが望ましい行為であると公言し続けている。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。

この項は「大日本史 その他の日韓歴史問題」からの引用によった。
敗戦後、日の丸の掲揚は連合国軍総司令部の指令によって、禁止・制限されていた。ところが、1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサー連合国軍最高司令官の年頭メッセージは、日の丸の自由使用を許可した。
このことについて、1月3日の朝日新聞「天声人語」は次ぎのように記した。
マツクアーサー元帥の年頭の言葉には、春風と秋霜とを同時に感ぜしめるものがある。いさゝか過賞の感じがせぬでもないが、ほめられながら激励されるのは決して暗い氣持のするものではない。
日本人に関する日本人の評論は、とかく厳きびしすぎる傾きがないでもない。それは、内側からの自己反省でもあるのだから、当然のことではある。しかし少々薬がきゝすぎて、日本人がとかく悲観的になりすぎるきらいもないではない。どうせダメなんだという劣等感をいだくようになつては、日本の再建は覚束おぼつかない。日本人のいゝ所を見つけて温かい愛情の感ぜられる評論が、今の日本にはもつともつと必要なのではなかろうか。
正月のお年玉として、國旗の掲揚が無制限に自由になつたことは、やはり楽しいことである。 正月の町や村に門松が立ち晴着姿の羽根つき風景があつても、門毎に日の丸の旗のひるがえつていないのは、画龍点睛がりょうてんせいを欠くの観があつた。
この数年間は、國旗のない日本であつた。 國旗を掲げるのにその都度つど一々許可を得るのでは氣のすゝまないのは偽りのない國民感情である。講和條約の締結までは、自由に國旗を立てられる日は來ないものと実はあきらめていた。
しかし今、日本経済自立への旗印として、マ元帥は日の丸の旗を完全にわれわれの手に返還してくれたのだ。 忘れられていたこの旗の下もとに、われらは耐乏の首途かどでをし、再建と自立への出発をするのである。
さて國旗は自由を得たが、國民の手に國旗はない。戰災で國旗を失つた家々は、立てようにも國旗がなく、この喜びを分つこともできないのだ。
マ元帥は國旗の自由をはなむけした。政府は國旗の現物を配給すべきである。
かつて日本国民には、国旗を掲揚できない時代があった。そしてそのことが許可されたとき、朝日新聞でさえも、大歓迎したものであった。

現代の日本には、自国の国旗・国歌を軽侮し、かつそのことを正しい行動であると主張し続ける国民が、多数に存在する。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。このような現象は、古今東西を通じて、世界の全ての国で見られた例ためしがなく、世界史的に極めて異様な現象である。
国旗・国歌は「国民統合の象徴」とされる。「国民統合の象徴」の具体的な意味は、国民が自主的に国旗・国歌を尊重することによって、その国民であることを強く意識し、自国や自国民を信頼し、尊重して、自国の安定や向上・発展に貢献したいとの意欲をもって行動することを意味する。したがって、日の丸・君が代を尊重せず、軽侮することは、「日本や日本人を信頼せず、尊重せず、日本の安定や向上・発展に貢献したくない。」と意思表示していることを意味する。
このように説明すると、必ずや、国旗・国歌はともかくとして、日の丸・君が代には歴史的に問題があると言い出す人々が出現することであろう。そのような意見に対して、海音寺潮五郎は「史談切捨て御免」のなかの「世相直言・日の丸の旗」で、次のように記している。
今日、日本人の一部に、日の丸の旗にともなう記憶には不愉快なものが多いから、新しく国旗を制定すべきであるという声があるが、了見のせまい話だ。
国の長い歴史の間にいろいろなことのあるのは、個人の成長過程と同じだ。放蕩ほうとうしたこともあるだろうし、親兄弟をなげかせたり、友人知己に迷惑をかけたりしたこともあるだろう。顧みて恥じるところの全然ない人もあるだろうが、そんな人はごく少なかろう。反省と後悔は忘れてはならないが、こだわってはならない。国の場合も同じだ。顧みて恥じるところのない国がどこにあろう。どこの国もいろいろな時期を経験して来ている。日本だけが悪かった時期にこだわるべきではない。
日章旗が日本人の誇りであり、全世界の有色人種の誇りであり、希望の光であった時代もあったのだ。国旗をかえようなどというせまい了見を捨てて、これを美しくて、かがやきに満ちて、さわやかで、誇りあるものにすることを考えるがよい。そのたくましさのない国民の後悔から、なんのよきものが生まれてこよう。こんな国民は、国旗をかえても、二十年後にはまたかえようというだろう。
 
日の丸と君が代2

 

1990年に文部省が学校での式典に日の丸・君が代を義務づけたことによって、この問題をめぐっては緊迫した議論がおこなわれてきました。多くの学校で教員と管理職との間ではげしい議論が行われ、毎年、3月4月になると都道府県別の日の丸・君が代の実施率が新聞の紙面をにぎわせています。1998年には広島県の県立高校の校長が、卒業式での日の丸・君が代の取り扱いをめぐって、県教育委員会と県教職員組合との板挟みにあって自殺したという痛ましい事件にまで発展しました。そうした緊迫した状況がある一方で、生徒たちはこの問題について蚊帳の外におかれています。議論に参加する機会がないばかりか、ほとんどの学校で日の丸と君が代の歴史的背景すら知らされていません。しかし、式典の主人公は彼ら生徒たちであるはずです。式典の主人公であるはずの生徒たちが、議論において蚊帳の外におかれ、この問題の歴史的背景も知らされないまま決定事項に従わされるというのは、きわめて非民主的な状況です。その背景には、政治が国民世論の議論によって動くのではなく、政府の決めた方針を「国策」として国民に徹底させてきたという日本社会の体質があります。また同時に、こうした社会問題について、生徒が自律的に判断するのではなく、学校の方針に従っていれば良いとしてきた教育現場の問題もあります。
この回の授業では、日の丸・君が代をめぐる状況や歴史的背景を解説し、賛否両論を紹介した後に生徒たちに考えてもらうことにしました。日の丸や君が代を前にしたときに、「起立せよ」と号令をかけたり、あるいは「立つな」と命じるのではなく、ひとりひとりが自分の頭で判断できるようにしていくことこそ民主社会の基本ではないでしょうか。
「君が代」の歌詞と意味
きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで
[ 天皇(の治める世の中)は 千代に八千代に(永遠に)続く。それは小さな石が大きな岩になり、こけがむすほど末永く。]
『日本教科書大系近代編第二十五巻唱歌』より。
此歌ハ、古今集中ノ古歌ニ、「わが君は、千世に八千代に さざれ石の、いはほとなりて、苔のむすまで」トアルト、或ル唄ヒ物ニ 、「君が代は、千世に八千世に、云々」ト改メテ、用ヒ来リタルヲ、 終ニ其楽譜ヲ作リテ、 天皇陛下ノ万歳ヲ祝スルノ歌曲ト作シタルモノナリ。此曲ハ、今日、殆ド我国歌トシテ、祝日祭日ナドニ、一般ニ 用ヒラルルコトトナレリ。故ニ何レノ学校ニ於テモ、能ク習熟セシメンコトヲ要ス。
君が代のルーツは平安時代に編纂された「古今和歌集」の和歌で、天皇または君主の治世が末永くつづくことを願う歌だった。歌のなかの「きみ」が「天皇」なのか、それともたんに「主(我が君)」を指しているのかは、はっきりとしていない。しかし、明治のはじめに君が代が国歌として用いられることになった際、政府によって、天皇の治める世が末永く続くよう願う歌と定義され、学校やその他の場で、天皇の治世をたたえる歌として教えられるようになった。1892(明治25)年に当時の文部省の音楽教科書担当官が作った教科書にも、やはり「天皇陛下の万歳を祝う歌である」と書かれており、天皇制をナショナリズムの根幹にすえた戦前の政策によって、君が代は広く浸透していった。 
日の丸・君が代をめぐる状況
日の丸・君が代は明治期に国旗・国歌として定められる。明治維新の後、新政府は中央集権的な国づくりをすすめていく。江戸時代の人々にとって、帰属意識の対象は「日本」ではなく、藩であり故郷の村であり、それが「くに」であった。そうした幕藩体制の中で藩や地域社会に分断されていた帰属意識を改革し、国民に「日本人」としての民族意識を根づかせていく。それは19世紀の帝国主義の時代のなかで、日本が欧米列強の植民地化という危機感をいだき、列強に対抗できる国づくりをすすめるための意識改革といえる。また、天皇を新国家の中心にすえ、天皇制を国民の求心力とすることで日本人意識の形成を促進した。天皇という主権を持ち不可侵の聖なる存在を国家の中心にすえることで、国民の意識を統合し、同時に政府の権威を高めるという二重の役割を持たせた。そのため、明治期につくられた国歌は「君が代」という天皇制をたたえる歌となる。一方、日の丸は江戸時代末期に薩摩藩の提案で日本の船に日の丸をかかげるようになり、明治初期に日本の船舶の国籍を表すものとされた。そのルーツは源平の合戦時に日の丸の扇を船にかかげたものだといわれている。(国際連盟加入時に、日本政府は皇室紋章である菊の紋を国旗のデザインにしようとしたが、ドイツ・フランスから一家系の家紋を国旗にするのはふさわしくないと批判され、取りやめたといわれている。パスポートのデザインは日の丸でなく、皇室紋章に由来する菊の紋になっている。)
昭和初期から敗戦までのファシズムの時代に、日の丸と君が代は日本の国家主義と軍国主義の象徴となっていく。期間としては20年足らずと短いが、愛国心の高揚や尊皇の精神を高めるために日の丸と君が代は用いられ、日本の近代史の中で国旗と国歌がもっとも人々の目と耳にふれた時代だったといえる。学校では皇民化教育が行われ、天皇の臣民として天皇と国家のために命をささげることが務めとされた。また、出征兵士の送迎会では日の丸が振られ、君が代が斉唱された。そのため、この時代を経験してきた人たちには、日の丸や君が代に嫌悪感をしめす者が多い。また、日本軍によって侵略され、植民地支配を受けたアジアの国々では、日の丸や君が代は侵略者の象徴として受けとめられており、現在も不快感を持つ人たちが多い。
第二次世界大戦後、新憲法が制定され、主権は天皇から国民に移り、日本は民主国家としてスタートすることになった。日の丸・君が代は法的には国旗・国歌とは定められず、あいまいなまま残されることになった。ただし、戦前からの慣習によって、国連やオリンピック等の国際大会では日本国を表すものとして、国旗・国歌として扱われてきた。
いくつかの世論調査では、日の丸については国民の約90%が国旗として支持し、君が代は約70%が国歌として支持している。(ただし、この支持には「まあべつにいいんじゃない」という消極的支持もふくまれる。)敗戦から半世紀が経過し、日の丸・君が代に戦争を連想する世代よりも、オリンピックをはじめとしたスポーツの国際大会を連想する世代が増加していることがこの支持率になっていると考えられる。また、1990年代以降、野球やサッカーといったプロスポーツの試合で君が代の斉唱が行われる頻度が増加したため、支持率は上昇傾向にある。
国旗や国歌が「自由・平等・博愛」や「民主主義」や「人民主権」といった普遍的理想を表している社会においては、政治的立場に関わりなく、人々が国旗や国歌によって表される理念へ敬意を示す場面が見られる。アメリカでは、右翼も左翼もしばしば星条旗を拠り所に自らの主張を展開し、フランスでも同様の傾向がある。しかし、日の丸と君が代にはそうした理念がなく、戦前の天皇制ナショナリズムの普及徹底をすすめる政策の一貫として国旗と国歌が用いられたため、現在でも日本では、右翼は日の丸と君が代をナショナリズムの象徴として神聖視し、逆に左翼は敵視するという政治状況が生じている。
1990年、文部省は学校での式典で日の丸・君が代を義務づける。したがわない教師には罰則をもうける。
1999年、国旗・国歌法が成立し、日の丸が日本の国旗、君が代が日本の国歌として法的に定められる。法律制定にあたって、有馬朗人文部大臣は、児童・生徒に強制するものではなく、教育現場での国旗・国歌の徹底をすすめるものでもないとしているが、この法律をきっかけに、各地道府県の教育委員会による日の丸・君が代指導が徹底されると予想される。
外国のケースをあげると、アメリカでは社会の様々な場面で国旗や国歌にふれる機会が多い。国家行事だけでなく、プロスポーツの試合や学校行事でも星条旗がかかげられ、星条旗よ永遠なれが演奏される。また、Tシャツのデザインやカバンのデザインにも星条旗がしばしばもちいられている。こうした傾向は第二次世界大戦からの慣習で、戦時下における国威発動と愛国心の高揚としてスポーツイベント等で国旗掲揚と国歌の演奏が行われるようになったことに端を発している。第二次大戦後、アメリカはソ連との冷戦に突入し、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争と戦時体制が続く。そうした状況下で、スポーツイベントや学校の式典での国旗への敬礼と国歌の斉唱というセレモニーが慣習化し定着していった。1960年代末から70年代にかけてのベトナム反戦運動が高まった時期には、こうした慣習が批判されたが、2001年9月11日のニューヨークテロ事件とその後のアフガニスタン攻撃・イラク戦争によってアメリカ国民の愛国心が高まっており、現在、様々な場で星条旗がかかげられ、星条旗よ永遠なれが斉唱されている。ただし、公立学校で星条旗への敬礼を強制することは、信教の自由を保障した合衆国憲法の修正1条に違反するという連邦裁判所の判決が出ており、実施されていない。また、80年代のレーガン政権時代に、政府への抗議として星条旗を燃やす事件が起き、この事件を期に国旗を冒涜する行為を禁止する国旗保護法が制定されたことがあったが、1990年に連邦裁判所はこの法律が合衆国憲法に違反するものとして無効であるという判断を出している。一方、ドイツでは、国旗や国歌は国家行事以外ではほとんど目にすることはない。第二次世界大戦後、西ドイツはナチス時代のハーケンクロイツを廃止し、ワイマール時代の黒赤黄の三色旗を国旗として復活させた。現在の統一ドイツもこの三色旗が国旗になっている。ドイツではハーケンクロイツだけでなく、ナチスを表現するものを公共の場に持ち出すことは法律で禁止されている。表現の自由を侵害することになるが、それよりもナチス時代を再びくり返さないことを優先し、こうした政策をとっている。現在の三色旗は国際会議やスポーツの国際試合でもちいられる程度で、ドイツの町中で国旗を見ることはほとんどない。ナチス時代にハーケンクロイツが様々な場で掲げ振られていたのとは対照的な状況といえる。祝日に国旗をかかげる家はなく、学校行事でも、国旗の掲揚や国歌の斉唱はおこなわれない。日本と違ってドイツの学校では、始業式や卒業式といった式典がなく、起立斉唱の号令をかけて国歌を歌ったり、国旗に礼を示すこともない。また、国歌の歌詞がドイツ民族の優秀さをたたえる帝国主義的な内容であることから、1番と2番は廃止されて3番だけが残っている。ただし、演奏されることはあっても歌われる機会はほとんどなく、オリンピックやサッカーのワールドカップのようなスポーツの国際大会でも、ドイツ選手が国歌を歌う姿はめったに見られない。 
参考意見 / 賛成
日の丸・君が代は、戦前より国旗・国歌として日本人に親しまれてきた。現在も多くの国民に支持されている。だから、法律には規定されていなくても、事実上、国旗であり、国歌である。オリンピックなどの国際的な場で、日の丸と君が代の他に日本の象徴は考えられないのはその証拠だ。
現在、日の丸と君が代は日本人の誰もが知っている。また、多くの日本人が支持している。この状況で、新しい国旗や国歌を作る必要などない。また、日の丸や君が代に変わる旗や歌など考えられない。
天皇制も多くの国民が支持しており、日本の象徴として定着している。このことは民主主義と天皇制が両立している証拠だ。そういう日本で、国歌が「君が代=天皇の歌」であることはとくに問題はないはずだ。また、民主主義の本場、イギリスでも国歌は「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」だ。
国の象徴として、旗や歌は欠かせない。独立国なら、どこの国にもある。それは国旗や国歌が人々をまとめる心のよりどころになっているからだ。
現在の国際社会は、国が人間の社会の大きな単位になっている。それぞれの国によって、社会制度の人々の暮らしも違っている。もし、日本人が国際社会の中で日本という国をほこれないとしたら、それは不幸なことだ。日本という国に愛着がわくように、日本独自の文化や歴史にもっと目を向けられるようにするべきだ。日ごろから国旗や国歌にふれるのは、そういうことに目を向けるきっかけにもなる。
旗や歌は自分たちの社会のシンボルとして、大切なものだ。例えば、ソ連が崩壊したときに、ロシアの人たちはソ連軍の戦車に抵抗するため、ロシアの旗をかかげ、ロシアの歌を歌って、自分たちをはげました。国旗や国歌というのは、そういう神聖なものだ。日本でも、もっと大切にされるべきではないか。
愛国心や民族意識と軍国主義とは別のものだ。国や民族を愛する気持ちと、軍国主義とを結びつけて考えるのは短絡的すぎる。自分の国や民族を愛する気持ちが、即、他の民族への敵意につながるというわけではない。そのふたつは本来は別々のもので、分けて考えれば、ナショナリズム(民族主義)は危険なものではない。
アメリカでは、日常的に星条旗がかかげられ、様々な場所で「星条旗よ永遠なれ」が演奏され歌われる。日本でももっと日常的に日の丸や君が代に接して、もっとこの国の社会について愛情を深めて行くべきではないか。そのためにも、学校の式典などで日の丸や君が代に接するのは良いことだ。 
参考意見 / 反対
戦前、日の丸は日本の国家主義・軍国主義の象徴だった。それはちょうど、ナチス時代のハーケンクロイツと同じ役割を持っていた。ドイツでは戦前の反省からハーケンクロイツは廃止され、法律で禁止されている。日本が民主国家になったというのなら、国旗も新しくするべきだ。
君が代は明らかに天皇の支配をたたえる歌だ。この歌は戦前、国民に天皇崇拝を強制して、国家主義に利用されてきた。戦後、日本は天皇主権から国民主権の国にかわったはずだ。それなのに、国歌が「君が代」というのはおかしい。
日の丸・君が代に反対している人は少数だが、その数は無視できない数字だ。また、「何となく賛成」という人とは対照的に、反対している人の多くははっきりと拒否している。国のシンボルである国旗や国歌について、国民の意見が分かれているのは悲しいことだ。反対している人に押しつけるのではなく、国民全員が納得できる国旗や国歌を新たに作るべきだ。
愛国心や民族主義はくり返し戦争の原因になってきた。戦争になったとき、必ず政治家は国民に愛国心を強制する。ナショナリズムと軍国主義は深く結びついていて、それを別のものだというのは無理がある。
国旗や国歌はナショナリズムとして悪用されることも多い。確かに、植民地から独立したばかりの国などでは、国旗や国歌が人々の心を支え、支配者に抵抗し、国をまとめていくよりどころになる。しかし、愛国心をあおることで、自分の国が最もすぐれているような錯覚を起こさせ、まわりの国を侵略したり、支配したりすることも多い。戦前の日本やドイツがその典型的な例だ。そういう歴史を持つ日本が国旗や国歌にこだわるのは、再び戦前のような過ちを犯すことになる。今、日本が日の丸や君が代にこだわり、国民に強制したりするということは、そういう歴史から何も学んでいないということではないだろうか。
近年、ユーゴスラビアでおきた内戦は政治家がナショナリズムをあおりたてたことが原因だ。それがきっかけで、異なる民族同士が憎しみあい、殺しあうという悲惨な状況に広がっていった。その中で、民族の国旗や国歌は互いの憎しみをあおる働きをしていた。政治家が国民に愛国心を強制し、国旗や国歌を押しつけるというのは、非常に危険な状況だ。
オリンピックやサッカーのワールドカップで、日の丸を振り回し、ナショナリズムをあおるのは決して良いことではない。確かに、「がんばれニッポン」を連呼し、ナショナリズムをあおれば盛り上がる。ヒトラーや以前の共産主義国がスポーツを政治の道具として利用してきたのもそのためだ。しかし、選手は自分自身のために競技をするのであり、「お国のために」戦う兵隊ではない。国旗を振り回し、国ごとにメダルの数を競い合うような国際大会はスポーツ本来の姿をゆがめてしまう。
愛国心というのは、国民一人一人が心の中にそっと持っていればいいものだ。自分が愛国者であることを声高にとなえたり、他人に愛国心を強制したりするべきものではない。まわりから、愛国者であることを強制される社会というのは恐ろしい社会だ。
確かに、日の丸や君が代が好きな人は大勢いる。しかし、そのことと学校のような場での強制とは話が違う。日本では、日の丸や君が代について、過去の歴史から抵抗を感じている人も大勢いる。にもかかわらず、一方的に日の丸や君が代を強制するのは「思想の自由」に反している。
学校での日の丸・君が代の強制は行き過ぎだ。君が代を歌わなかっただけで、生徒がどなられたり、教師が謹慎させられたりというのでは、戦前の国家主義のようだ。
確かに、アメリカの社会では様々な場で国旗と国歌が使われるが、学校のような場で強制してはいない。それは思想の自由を重んじているからだ。
アメリカ人の星条旗への思いは、たんに愛国心と言うだけでなく、「民主主義」や「自由」への思いも込められている。アメリカは様々なところからの移民で成り立っている国だから、国旗や国歌はそういう国民をまとめていくためのシンボルになってきたからだ。それに対して、日本の場合、国の成り立ちがまるで違う。そのため、日の丸は「民族主義」や「国家主義」のシンボルという性質が強い。星条旗と日の丸を同じように論じるのはおかしい。 
新聞記事
卒業式と国歌 強制しないことの定着を(毎日新聞 2000.3.2)
3月の声とともに、学校の卒業式シーズンに入った。全国の多くの公立高校は今月初旬、小・中学校は、中旬以降がピークになる。広島県の県立高校の校長が、卒業式での日の丸・君が代の取り扱いをめぐって、県教育委員会と、県教職員組合との板挟みにあって自殺したのは、昨春のことだった。それが国旗・国歌法成立の引き金になった。同法施行後、初めての卒業式という巡り合わせになる。
何より強調しなければならないのは、二度と広島のような悲劇を起こしてはならないということである。教育現場には、取り組むべき重要な問題が山積している。卒業式での日の丸・君が代に膨大なエネルギーを注ぎ込み、あげくに正面衝突をするような事態は、不毛であり、不幸である。未来に向かって羽ばたく子供たちを祝い、励ます、心のこもった卒業式にすることが大切だ。
国旗・国歌法は、日の丸・君が代を国旗・国歌と規定しただけで、尊重規定は盛り込まれておらず、罰則もない。思想・信条の自由を侵すものでないことはもちろんで、小渕恵三首相は、「国民生活に何らかの影響が生じることとはならない」と衆議院本会議で述べている。焦点となった教育現場での指導の在り方についても、当時の有馬朗人文相らが、児童・生徒に強制するものではなく、対応いかんによって不利益を受けることはない、と再三にわたって答弁したことを忘れてはならない。そうでなければ、法の成立自体が難しかった。
卒業式、入学式での国旗掲揚・国歌斉唱の実施を求める根拠になっているのは、学習指導要領である。以前から「児童・生徒の内心にまで立ち入って強制する趣旨ではなく、あくまで教育指導上の課題としての指導」との政府見解を示してきたが、それは、国旗・国歌法の施行によっても変わらない。文部省も「学習指導要領に基づくこれまでの指導に変化はない」と繰り返している。
文部省調査では、すでにほとんどの学校の式で、国旗掲揚、国歌斉唱が行われている。文部省、教育委員会は、淡々と指導すればよい。学校や生徒の判断で別の形の卒業式を計画しているところに対して、画一的な横並びを強制すべきではない。特に高校生ともなると、どんな卒業式にしたいかを自分たちで考え、判断する過程、体験は重要だ。戒めなければならないのは、過剰反応である。法の成立後、「君が代を歌わない自由はない」(高松市教育長)、「国旗・国歌を尊重しない人は、日本国籍を返上していただきたい」(岐阜県知事)などの発言が相次いだ。理解を欠いた言動だ。
卒業式をめぐっても、行き過ぎが目に付く。横浜市教委は、国旗・国歌についての教職員の対応などを調べる用紙を配布した。自民党神奈川県連は、県立高校の実施状況を調べるため県議を派遣する計画を立てた。その後、自主参加に切り替えたというが、踏み絵を迫るとも受け取られる行為は好ましくない。日の丸・君が代に反対する側についても同じことがいえる。推進にしろ、反対にしろ相手に強制すべきではない。
卒業式は、子供も親も教師も心から祝えるものであってほしい。国旗・国歌がもとで、対立と混乱の場となったのでは、本末転倒である。
日の丸・君が代 反対する教員は処分 都教委が通達(毎日新聞 2003.10.23)
卒業式や入学式での日の丸掲揚と君が代斉唱について指導を強化している東京都教育委員会は23日、式典で校長の命令に従わない教職員は処分する方針を決め、都立学校の全校長と区市町村教委に通達した。
都教委によると、00年度の卒業式からすべての都立高校・盲・ろう・養護学校で日の丸掲揚と君が代斉唱は行われている。しかし、実施指針は「国旗は舞台正面壇上に掲揚する」「教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」となっているのに、一部の学校では日の丸を三脚に立てたり、斉唱の際に着席したままの教員がいたという。このため、都教委はこの日、都立学校長全員を都庁に呼び出し、「従わない場合は、服務上の責任を問われることを教職員に周知するように」との通達を手渡した。
一方、都教職員組合は通達に反発。中山伸委員長は「法的根拠のないまま力ずくで強いるのは、憲法が保障した思想・良心の自由を侵し、権力を振りかざして人の心と教育を管理・統制しようとするもので、断じて許せない」とする談話を発表した。
日の丸・君が代 強制は自由侵害で違憲と提訴 都立高教員ら(毎日新聞 2004.01.30)
卒業式などで日の丸に向かって起立したり、君が代を斉唱することを強要するのは憲法で保障された思想・信条の自由を侵害するとして、東京の都立高校などの教職員228人が30日、東京都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求める訴訟を東京地裁に起こした。
都教委は昨年10月、日の丸の掲揚位置を「舞台壇上の正面」、君が代は「ピアノによる生演奏」と指定し、「教職員は国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」と決めた。職務命令に従わない教員は処分することを宣言した。これまでは、式典進行に当たって「歌うのも歌わないのも『内心の自由』です」と案内していた学校もあったが、都教委はこうした説明も禁じた。会見した尾山宏弁護団長らによると、処分後に取り消しを求めるのでなく、処分を防ぐための裁判は極めて異例という。
東京都教育委員会の話 訴状を見ていないのでコメントできない。
都教育委 「君が代」で、高校教諭ら8人処分へ(毎日新聞 2004.02.13)
東京都教育委員会は12日、創立記念式典などで「君が代」斉唱時に起立しなかった都立高校教諭ら8人を「職務命令違反」として処分する方針を固めた。都教委は昨年10月、「命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とする異例の通達を学校現場に出しており、通達後、初の処分となる見通しだ。都教委は卒業式シーズンを控え、日の丸掲揚と君が代斉唱の徹底を図りたい考えだが、教職員組合は「内心の自由に踏み込む行為だ」と反発している。
都教委は通達とともに卒業式や入学式の実施指針を決め、▽国旗は舞台壇上の正面に掲揚する▽教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する――などと細かく規定した。その後、都立学校で開かれた創立記念式典などに職員を派遣し、行事の様子をチェックしていた。また、式典を開いた都立高・養護学校の校長も同通達・指針に基づき▽着席の指示があるまで起立している▽音楽教員は国歌斉唱に際してピアノ伴奏する――などの職務命令を出した。しかし、君が代斉唱時に起立しなかったり、退場した教職員がいたため、12日の教育委員会定例会で審議し、文書訓告以上の処分にする方針を決めた。
都高等学校教職員組合(都高教)は「内心の自由は尊重されなければならず、起立しなかっただけで処分するのは不当だ」としている。
石原都知事の発言録より なぜ忌避わからない 国旗・国歌巡る訴訟(朝日新聞 2004.2.3)
「彼らが国歌・国旗をなぜ忌避するかということの具体的な理由がいまだによくわからない。強制されるのはだれもみな嫌なものかもしれないけども、国歌・国旗というものを保有しない国家というのは私は聞いたことはないし、そういうものの象徴的な存在が、国家という共同体に属している人たちのエネルギーを喚起もするんで、私は国歌・国旗の存在というものを信じるし、国がそういうものを国歌として、国旗として認めた限り、私はやっぱりそういう行事の中に、先生が出席しないのは構わんかもしれないけどね、心ある先生がそれを一緒に歌う、国旗っていうものにちゃんと敬意を払うということは、私はやっぱり教育なり、重要なしつけの一つだと思いますけどもね」
(30日、記者会見で。日の丸・君が代を強制する違法な通達などで精神的苦痛を受けたとして、教職員らが都教委などを相手取り、国旗に向かって起立する義務がないことの確認などを求めて提訴したことについて、考えを問われて)
式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違法」 東京地裁(朝日新聞 2006年09月21日)
卒業式、入学式で教職員に国旗に向かって起立しなかったり国歌斉唱を拒否した東京都立校の教員が大量処分を受けたことをめぐる訴訟で、東京地裁は21日、違反した場合に処分することを定めた03年の都教委の通達は「少数者の思想良心を侵害し、違法」とする判決を出した。難波孝一裁判長は、(1)教員らには起立、斉唱の義務はないことの確認(2)不起立・不斉唱、ピアノ伴奏の拒否によって処分をしてはならない(2)原告401人に対する1人3万円の慰謝料支払い命令――を言い渡した。
判決はまず、日の丸・君が代の歴史的な位置づけについて「第二次大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい」と指摘。「国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗、国歌と規定された現在でも、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と述べた。
これを踏まえ、「教職員に一律に起立・斉唱とピアノ伴奏の義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になる」として都教委の通達と校長の職務命令は違法だと結論づけた。 
生徒のレポート(1997)
僕は小学校の頃、君が代を覚えさせられた。それ以後、学校では事あるごとに歌わされてきた。しかし、歌詞の意味など理解していなかったし、理解しようともしなかった。今回の授業ではじめて君が代の歌詞の意味を知った。この歌をめぐる歴史や対立もはじめて聞いた。歌詞の意味を聞いたら腹が立ってきた。「天皇の治める世の中は……」なんじゃこりゃ?日本は国民主権じゃないの?民主主義じゃないの?「千代に八千代に続く……」はぁ?これはだまされたと思った。僕はこの歌の意味は知らなかったが、日本の国歌ということで誇りを持っていた。卒業式で歌えたことも光栄に感じていた。それなのに、この歌詞は何だ。戦前の日本とまったく変わっていないじゃないか。日本の民主主義なんて言葉だけで、まったく中身は変わっていないみたいだ。見た目ばかりをかざりたてて、ちっともおいしくない料理みたいなものだ。うわべを変えるのは簡単だけど、中身を良くするのはむずかしい。だから、日本の社会はこういうことずっとをあいまいなままにしてきた。この歌にはそういう日本の状況がつまっているように思う。賛成派の主張は、「これが日本の伝統」とか「他に考えられないし考えたくない」とか「心のよりどころだ」とか、民主主義自体を否定しているみたいだ。日本が民主主義国家になったというのなら、それにふさわしいものに変えた方がいいと思う。とりあえず、君が代は歌いたくない。
日の丸と君が代は日本の国を一つにまとめてきた象徴だと思います。「日の丸ときたら日本」というくらいに定着しているので、いまさら違う国旗に変えるというのは無理があると思います。ただ、君が代に関しては、少し考えた方がいいと思いました。なぜ、君が代をサッカーや野球の試合で歌うのか、卒業式や入学式で歌うのか、少し疑問に感じるし、義務づける必要はないのではないかという気がしました。卒業式で君が代を歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎させれたりというのはいきすぎだと思います。
日の丸は親しみやすくてわかりやすいので、わざわざ変える必要はないと思う。君が代については、歌詞を変えた方がいいと思う。小学生が歌わされても意味が分からないだろうし、歌詞も古いので好きになれない。そもそも今は天皇の治める世の中ではないので、今の社会にあっていないと思う。学校の式典では、いつも「国歌」あつかいされているが、法律では国歌と決められていないのに、義務づけるのはおかしいと思った。
たんに日の丸はセンスがないと思っていただけだったが、戦争中、日の丸がナチスのハーケンクロイツと同じ性質を持っていたと知ってびっくりした。君が代は以前から好きではなかったが、歌詞の意味を聞いてますます嫌いになった。君が代斉唱の義務づけはやめて欲しい。あんな意味の歌を卒業式やサッカーの試合で歌わされるなんて、私たちもサッカー選手もお国のために戦う兵隊ではない。アメリカの国旗と国歌は、国民が中心の国だということが伝わってきて、すてきだと思う。日本もそういう国民がみんなでいっしょに作り上げた国旗や国歌にするべきだと思う。
僕としては、日の丸と君が代をとくにどーこーは思わない。日の丸はかっこわるいとしか思わない。君が代はけっこう好きだけど、「君が代は千代に八千代に」の部分は問題ありだと思う。それに、日の丸や君が代を国旗・国歌として認めるかどうかは、人それぞれでいいと思う。卒業式で起立しなかった人を処罰したりするのはまちがっている。
君が代と日の丸と日本人って、セットになっているようなイメージがある。個人的には、日の丸ってかわいいと思う。なんか、プチョっとした感じ。私は日の丸や君が代をかえる必要はないと思う。旗や歌をかえたからって、社会や私たち自身が変わらなければ意味がないから。
歴史の時間にも、戦争中に日本軍が行ったひどいことを教わった。しかしその一方で、始業式や終業式では、日の丸をかかげて、君が代を歌う。日の丸・君が代はなんだか戦争賛美に思えるし、戦前のファシズムの象徴に見える。学校のしていることは矛盾しているように思えるし、起立して君が代を歌う自分も偽善者になったような気がして、いつも始業式や終業式の時は嫌な気分になる。ただ、自分のなかにも日の丸への愛着心や愛国心みたいなものがある。ボーイスカウトで、日の丸をあげて敬礼したりするが、その時には、日の丸を誇りに感じることもある。(といっても、ボーイスカウトは右翼団体ではない。)もし、日本の旗が日の丸ではなく、他の旗に変わったとしたら、こういう気持ちにはならないだろうと思う。多くの人にとって、日の丸はそれくらい定着していると思う。君が代は明らかに天皇賛美の歌だが、日本人に定着しているという点では日の丸と同じで、他に変わるものはないと思う。そもそも、国家という存在自体、ナショナリズムやファシズムの芽を持っているものではないか。自分の国が世界一だと思いたい気持ちは、アメリカでもイギリスでもドイツでも同じだと思う。だから、旗や歌をかえるよりも、国家というものへの意識から変えてないと根本的な解決にはならないと思う。
俺は日の丸や君が代をたんに旗と歌としてしか考えていない。だから、沖縄での日の丸を焼いた事件での判決も重すぎると思う。
日の丸に対して、悪い気持ちを抱いている人がいることは確かなのだから、それを国旗として国の象徴にしているのは適当ではない。少数意見だからといって、切り捨てていいものではない。
確かに、君が代を強制して歌わせるのはおかしいと思う。それは思想の自由に反している。ただ、新しく国旗や国歌を作るというのも、無理があると思う。約80%の人が日の丸や君が代を支持しているからだ。それを無視して新しい旗や歌を作るというのは民主的じゃないと思う。それに、国旗や国歌が変わっても何も変わらないと思う。だから、学校の式典では、歌いたくない人は歌わなければいい。それだけのことではないかと思う。
日の丸はおぼえやすい。あんな貧相で気の抜けた国旗は他にないので、かえなくていいと思う。しかし、国歌はかえるべきだ。君が代は暗すぎる。あれじゃ葬式だ。アメリカの国歌みたいな活気があって力強い曲が国歌にふさわしいと思う。学校の式典でも、日の丸はかまわないが、君が代は勘弁してほしい。
君が代は意味を理解するとムカついた。卒業式でも歌いたくない。
私は今までよく考えたことがなかったが、日の丸は好きで、君が代は嫌いだった。日の丸はかわいい感じがしたし、君が代は暗い感じがしたからだ。でも、意味を考えてみると、ふたつとも今の日本にはあわないと思う。じゃあ、新しく変えればいいのかというと、これだけ定着していることを考えると、どうかと思う。私自身、あまり変えて欲しくない。ただ、公立学校の卒業式では、両方とも別にいらないと思う。(どうせ、みんなめんどくさいくらいにしか考えていないだろうし。)私立の場合は、やりたければやればいいと思う。日の丸や君が代の意味って、知らない人が大勢いると思う。こういうことは私自身もふくめて、子供も知っておかなければいけないことだと思う。
日の丸の支持率が90%近いというのはおどろいた。そんなに大勢の人があの旗に愛着を持っているのだろうか。でも、日の丸や君が代の歴史的な意味を知らない人がほとんどではないだろうか。意味を知らない人が「まあ何となくいいんじゃない」くらいに思っているのだとしたら、それは支持でも何でもないと思う。新しい旗ができてそれなりのデザインだったら、「まあ別にいいんじゃない」くらいに受け入れられるだろうからだ。日の丸や君が代の持っている意味をよく考えた上で、賛成か反対かを判断しないと、支持率なんて意味のないことだと思う。にもかかわらず、学校でやっていることはそれの全く逆だ。日の丸や君が代の意味を教えもしないで、一方的に強制するのは、政府の人がそうやって国民を操ろうとしているからじゃないかという気がする。「考えるな、言うとおりにしてればいいんだ」って。なんだかバカにされているような気分だ。
戦争中、この旗や歌のもとに、大勢の命がうばわれていった。そういう日の丸と君が代の意味を知っていれば、「別にいいんじゃない」「悪くないんじゃない」とは言えないはずだ。この旗と歌は歴史的に重たい意味をもっている。星条旗と日の丸をくらべると、明らかにその性質は違っている。星条旗にはたんに愛国心だけでなく、「自由」への思いが込められている。それに対して、日の丸は排他的な愛国心そのものだ。それは天皇をたたえ、国民を束縛する。僕は個人的に日の丸が好きな人に対してまで文句を言うつもりはない。しかし、学校の式典に義務づけるのと、個人として自分の家に日の丸をかかげるのとは意味合いがまったく違う。日の丸・君が代の義務化のどこに「民主政」や「思想の自由」があるというのか。日の丸の義務づけは戦争中と何ら変わりない。将来、日の丸・君が代が、法律でも国旗・国歌として定められる時が来るかも知れない。その時、ほとんどの人が日の丸・君が代を支持したとしても、僕は認めるつもりはない。それは戦争中、天皇をたたえ、日本の侵略の象徴だったものだ。学校で愛国心などという前に、日本の歴史(正しいやつ)を教える方が先ではないのか。
私は日の丸や君が代は日本になくてはならないものだと思う。いまさら、別の国旗や国歌を作るのは無理があると思う。日の丸や君が代がなくなってしまったら、学校での卒業式や入学式はどうなってしまうのか心配になる。君が代は日本だけの歌なのだから、国歌にふさわしくないなんて日本人として恥ずかしいと思う。国旗が燃やされた事件があったけれど、国旗を燃やしてどうなるというのだろう。それほど日本や日本の旗が嫌なら、日本から出ていけばいいと思う。
日の丸や君が代にこういう意味があることを初めて知った。特に、君が代の歌詞が「天皇の治める世の中は……」という意味だと知ってショックを受けた。意味も知らずに歌わされてきたなんて。今は天皇を神として政治をする世の中ではないと思う。民衆一人一人が政治に参加する時代だというのに、こんな歌が国歌として扱われていたら、世の中良くならない。確かに、この旗や歌に愛着をもっている人もたくさんいると思う。でも、そういう人の多くは、たんに子供の頃から親しんでるからとか、日の丸が戦争中にもっていた役割や君が代の歌詞の意味を知らないだけだと思う。国旗や国歌を新しくするなら、今がチャンスだ。21世紀を平和の世紀にするためにも、今世紀中に戦争の影を引きずっている旗や歌に決着をつけるべきだ。今、変えることができなければ、この先もできないだろう。ドイツではナチスの旗を禁止している。私たちも「別にいいんじゃない」とか「自分に関係ない」とかじゃなくて、歴史や社会のことをもっと良く知り考えるべきだ。政治や社会にもっと積極的に働きかけて良い社会を作ろうとしなければ何もかわらない。このままでは、また戦争をやろうとする人間が日本に出てくるかもしれない。
日の丸も君が代も強制することはないと思う。強制には反対だが、私は日の丸も君が代も日本国を象徴しているのだから大切にするべきだと思う。ただ、君が代の歌詞は「象徴天皇」の意味から大きくはずれているし、曲だけにするといいと思う。
戦前、日の丸と君が代は軍国主義の象徴に使われました。今の日本は民主国家です。国旗も国歌も変えるべきだと思います。君が代の歌詞は今まで知りませんでした。多くの人がそうだと思います。だから、もっとわかりやすく、親しみやすい歌に変えた方がいいと思います。所沢高校の入学式でも、校長が君が代と日の丸をやろうとして対立していたけれど、強制するのはおかしいと思います。この旗や歌を嫌だと思っている人もいるわけだから、そういう人の気持ちも考えるべきだと思います。そういう意味でも、みんなが納得できるような国旗・国歌を新しく作った方がいいと思います。
今から国旗や国歌を変える必要はないと思う。日の丸や君が代は日本に定着しているから、オリンピックなどで使われるときも日本という感じがしてなかなかいいと思う。そういうとき、私は感動するし、日の丸や君が代じゃなければ、我が国という感じがしなくなってしまう。日の丸や君が代に戦争中の嫌な思い出がある人もいるだろうけど、それも日本という国の歴史のひとつとして、旗や歌にそういう思いが込められているのもいいと思う。今の天皇陛下はすごくいい人だし、私は反感を持っていない。ただ、入学式や卒業式で日の丸や君が代を押しつけるのはまちがっていると思う。それがなくたって式はできるし、卒業のお祝いや先生への感謝に日の丸や君が代は関係ないと思う。それに、君が代を押しつけるというのはやっぱり天皇主権を押しつけることになってしまうんじゃないかと思う。
天皇を個人的に嫌っているわけではない。ただ、天皇をたたえる歌を国歌として、公式な場で歌うことを決めている国の方針が気にくわない。それに、学校でも君が代の歌詞の意味も教えずに、国の方針なんだからとにかく歌えというやり方も気にくわない。こういうやり方は、戦前・戦中の軍国主義とほとんど変わっていないと思う。民主主義は思想の自由を認めると言うことでもあるはずだ。君が代を好ましく思っていない人も大勢いるのに、そういう人を無視して天皇をたたえる歌を押しつける日本のやり方は、形は民主主義でも中身は軍国主義だと思う。
日の丸は戦争中に日本軍がアジア各地を侵略したときに盛んに振られた旗だ。日の丸が軍国主義を連想させるのは当然だと思う。ドイツが戦後、ナチスのハーケンクロイツを法律で禁止したように、日本も日の丸をやめた方がいいと思う。にもかかわらず、現在、日本政府は日の丸や君が代にこだわっているというのは、過去の侵略の歴史を何も反省していないということだ。学校の式典で、日の丸と君が代が強制され、歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎処分になるというのでは、日本の政府のやり方は戦前から何もかわっていない。それに、君が代の歌詞は国民の歌・国歌というよりも「君歌」だ。「君歌」は国民主権の国の国歌ではない。
日の丸は別にあってもなくてもいいものだと感じる。私はこだわりも反発も感じないので、わざわざかえて新しい国旗を作ることもないと思う。君が代についても同じで、新しく作り替えることもないと思う。ただ、学校で強制するのは良くないと思う。
はっきり言って、君が代はいらない。日の丸はあってもいいと思う。君が代はいかんせん暗すぎる。変な言い方だけど、老人のための葬式の歌という感じだ。歌詞も今まで気にしなかったけど、今さら、天皇がどうしたもないだろうという気がする。もっと、厳粛でかつ若々しい感じの歌を考えるべきだろう。これからの日本を支えていくのは若い力なのだから、若い人が新しい国歌と作るといいと思う。日の丸については、「なんか日本」という感じがする。批判する理由もないと思う。学校の式典でわざわざ義務化したのは、そうでもしないと日の丸も君が代も影が薄くなってしまっているからだろう。義務化には疑問を感じるが、そうしなければならないほど愛国心も薄れてしまっているという感じもする。
日の丸・君が代は現在の法律では、国旗・国歌として定められていないという。それなのに、入学式・卒業式で義務づけられていることに、「なぜ?」と思うのは当然のことだろう。所沢高校で生徒たちが日の丸・君が代に反発したのも当然だ。僕も反対だ。それに君が代を歌わされることは、歌詞の意味からいっても「天皇に従え」と言われているようで、嫌な気分になります。この歌は始めから終わりまで、国民については何も言っていなくて、「天皇の世は……こけがむすまで末永く続く」と天皇さえよければ国民はどうでもいいような感じがする。一日も早く新しい国歌を作るべきだと思う。
私は小学4年の時まで、君が代という歌を知りませんでした。4年生の時に転校して、新しい学校では音楽の時間に毎時間、君が代を歌わされました。意味も知らなかったし、短い歌で楽だし、日本らしいし、別にいいと思っていました。今回、歌詞の意味を聞いて、「へー」という感じですが、この歌に反対するほどではありません。ただ、日の丸や君が代が嫌いな人もいるのだから、学校の式典で義務づけることはないと思います。一方で日の丸や君が代はこれだけ定着しているんだから、今さら新しい国旗や国歌にかえる必要はないと思います。あと、参考意見に「オリンピックやワールドカップで日の丸を振り回すのは良いことではなく、ナショナリズムがスポーツ本来の姿をゆがめる」とありましたが、これは深く考えすぎで、ひねくれた考えだと思います。応援している人は選手をはげましたいという純粋な気持ちで日の丸を振っているだけだと思います。
戦争中、日本は天皇を頂点とする軍国主義の社会だった。そういう中で大勢の人が戦死していった。にもかかわらず、上の立場の人は命令を出すばかりで自分は生き残り、戦後もその責任をとってこなかった。君が代をきくとそのことを連想する。なぜ今、日の丸や君が代を強制するのか。なぜ、学校の式典に日の丸や君が代が関係あるのか。憲法に思想や信条の自由をいっているのに、実際の日本の社会ではそれが生かされていないのではないのか。僕は小学校のときに親から君が代の意味を教わった。僕はあまり頭の良い方ではないが、だいたいの意味は理解できた。日本人の70%が君が代を国歌として支持しているというけど、そういう人たちの多くは、歌詞の意味を知らないのではないのか。学校の式典で大声で君が代を歌っている子は、誰からも歌詞の意味を教わっていないのではないかと思う。なんだかかわいそうな気がする。 
授業担当者から「天皇制と日本社会について」 
国旗がはためき、国歌が斉唱される。愛国心が唱えられ、人々は国家というワク組みを強く意識する。そういう社会状況はたいてい戦争によってもたらされます。国家間の戦争ほど、国家というワク組みをめぐって敵と味方がはっきりわかれる状況はないからです。ニューヨークの同時多発テロ後のアメリカ社会はその典型的なケースといえます。国旗や国歌はたかが旗や歌にすぎませんが、そうした状況下において、旗や歌はたんなる国の識別記号という意味を大きく越え、愛国心を奮い起こさせる政治的装置として人の心に強く働きかけます。皆でともに歌い皆で旗に敬礼することで、連帯感や大きなものに帰属することの高揚感を得ることができます。そのため、現在の国際情勢を19世紀と同様に国家同士の利益が衝突する力の関係としてとらえる人にとっては、国旗や国歌によって国民の愛国心を高め、つねに他の国への警戒を怠らないことが必要ということになります。次の産経新聞の社説はそうした主張の典型といえます。
産経新聞 2004.2.23
「国家は力と利益の体系であり、戦争行為を情緒的な正邪で語ることほど本質をぼかすものはない」
「北朝鮮の国家犯罪である拉致事件が明らかになり、国民は国家や主権を強く意識するようになった。自衛隊がイラクの復興支援のために派遣され、日本は新たな国際貢献に向けて一歩を踏み出した。学校での国旗・国歌の指導がますます重要な時代である」
一方、現在の国際情勢を国家間の力のぶつかり合いからしだいに脱しようとしている過渡期としてとらえ、国家はやがて多様な民族がともに暮らすゆるやかな共同体になっていくと考える人にとっては、国旗や国歌で愛国心を高め国家のワク組みを強固なものにしようとする行為は時代錯誤となります。つまり「国家は力と利益の体系」であるとするヘーゲル的な一元国家観が、20世紀前半の世界にナチスドイツや日本の超国家主義をもたらし、その結果、口にするのも憚られる惨劇や侵略戦争をひきおこしたことを理解していれば、愛国心や国家への忠誠心を強調する行為には、常にそこに異質な者を排除しようとする危険性をはらんでいることに気づくはずだし、この20世紀の惨劇の歴史から少しは我々が学んでいるのならば、愛国心を強要するような愚かな行為を再びくり返すべきではないというわけです。次のオルトマイヤー氏の発言はそうした立場からのものです。
朝日新聞 1994.10.21
「私自身は国歌は無用だと思う。外国人が人口の1/4をしめるフランクフルトでは、学校によっては生徒の半分以上が外国人だ。私の学校もそうだ。その生徒たちに、なぜドイツの国歌だけを歌わせなくてはならないのか。いま、ドイツという領域には多くの民族が暮らしている。ひとつの民族の統合の象徴としての国歌は、いらない」
「世界にはいろいろな国がある。ようやく植民地のくびきから脱することのできた国では、民族主義的な国歌には意味がある。ドイツのような大国は違う。大国は侵略戦争を正当化するような国歌は持つべきではないと、私はいっている」
現在の日本では、日の丸や君が代を意識することはめったにありません。しかし、半世紀前には、この旗と歌のもとに多くの兵士を戦場へ送り出し、アジアを侵略した歴史を持っています。第二次世界大戦後の日本社会は、戦争中の出来事をどうとらえ、後世に伝えていくのかをめぐって、常に水面下で政治的対立が続いてきました。日の丸と君が代をめぐる世論の対立もそのひとつといえます。日本社会にファシズムの熱狂がおきたのは昭和初期から敗戦までの20年足らずですが、日本の近代史の中でもっとも日の丸と君が代が愛国心を奮い起こさせる政治的装置としてもちいられた時代といえます。そのため、この時代を体験した人たちには、日の丸や君が代について、親近感を抱くか嫌悪感を示すかはっきり分かれる傾向がみられます。
作家の城山三郎は、当時の軍国教育を受け、熱烈な軍国青年として戦争末期に海軍に志願入隊した経験の持ち主です。彼は特攻隊員として終戦を迎え、戦後、自分があれほど熱狂し、身も心もささげた天皇制や皇国という大義はいったい何だったのかと考えるようになります。そして、大義とそれを利用して自分の半生を奪い、仲間の命を奪ったものたちへ怒りを抱くようになります。その怒りが彼の創作活動の原動力になっています。彼の詩に「旗」という作品があります。
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も
ひとはみなひとり ひとりには ひとつの命
走る雲 冴える月 こぼれる星 奏でる虫 みなひとり ひとつの輝き
花の白さ 杉の青さ はらの黒さ 愛の軽さ みなひとり ひとつの光
狂い 狂え 狂わん 狂わず みなひとり ひとつの世界 さまざまに 果てなき世界
山ねぼけ 湖(うみ)しらけ 森かげり 人は老ゆ
生きるには 旗要らず
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
限りある命のために
明治維新後、明治の新政府は天皇制を新たな国づくりの中心に据え、制度と思想の両面で天皇制を日本社会の求心力としました。その背景には、19世紀の帝国主義の時代という中で、欧米の植民地化に対抗できるだけの中央集権的な国家にしなければならないというせっぱつまった状況がありました。この天皇制を軸に約80年にわたって日本は近代国家としての姿を形成してきたため、日の丸と君が代には天皇制の問題がついてまわります。君が代はその歌詞から直接的に、日の丸は臣民として国家の主権者である天皇に忠誠を誓うことの象徴という間接的な意味で。現在の憲法では、天皇には主権はなく、日本の象徴という役割を与えられていますが、言うまでもなくその水面下にはきわめて宗教的・思想的なものをはらんでいます。そのため、日本人が天皇制の問題に触れるとき、たんなる政治的議題ではなく、非常に神経質で激しやすい問題になります。天皇の戦争責任を主張した元長崎市長が命をねらわれたり、天皇制を批判した新聞記者が刺されたりしたのもそのためです。文部科学省が学校の式典で日の丸・君が代を強制したのも、信者による布教活動の一環と見ることができます。本気でそれを信じているのか、それとも天皇制という権威を政治に利用しているだけなのかはわかりませんが、天皇制は政治に携わる者にとってきわめて便利な存在であることはたしかです。そのため、政府としては日の丸と君が代の学校の式典での義務化も「押しつけている」という認識はなく、「良いものを広めている」という認識しかないように思います。この認識が、これだけ賛否のわかれる問題を国民的議論なしで一方的に制度化するという強引な手段につながっているのではないかと思います。
ところで、イギリス人は政治ネタのジョークが大好きで、王室から福祉制度までかなり毒のあるジョークにしてしまいます。テレビドラマや雑誌には、エリザベス女王やチャールズ皇太子をネタにしたかなり下品できわどいジョークが頻繁に登場します。そんなイギリス社会でも唯一ジョークのネタにできないものがイスラム教だそうです。イスラム原理主義組織がイスラム教を批判する者の暗殺を支持して以来、イギリスのメディアはイスラム教に対して非常に神経質になっているそうです。その話をしたイギリス人は、日本のテレビ番組に政治や皇室についてのジョークが全くないのを不思議がっていましたが、日本の政治には天皇制という宗教と一体化した部分があり、そのなかには政府関係者もふくめてきわめて狂信的な信者をかかえていることがそうした状況をもたらしているといえます。そういう意味で、日本の社会は、制度的には西洋型の民主社会ですが、実態はむしろ、政教一体のイスラム社会に近いように見えます。政財界と国粋主義の思想家が結びついていたり、狂信者のテロが言論を制限している点も共通しています。そもそも、国家の象徴である天皇が同時に宗教的祭司でもあるというのは、権力の中心に常にファナティックな危険性をはらみ、同時に異質なものを排除しようとする作用をもたらすので、民主社会としてはきわめていびつな姿です。戦後の総理大臣が「日本は単一民族国家」や「日本は神の国」といった発言をくり返していることもそうした背景に由来するものといえます。 
 
日の丸と君が代3

 

古今東西を通じて、国旗・国歌はその国民の統合の象徴であり、各国民はそれなりの敬意を払って来た。もちろん、どの民族にあっても、国旗・国歌に敬意を払わない国民は存在したし、個人的心情として、国民統合の象徴など必要ないとする考え方もあったであろう。しかし、どの民族にあっても、そのような考え方は一部の個人に止とどまり、また、堂々と公言できる事柄とはされないのが、その社会の一般的な「世の習い」であったに違いない。
ところが、唯一、現代の日本民族だけは、かなりの国民が国旗・国歌を軽侮し、かつそうすることが望ましい行為であると公言し続けている。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。
この現象は、現代の他の民族からは極めて異様な事柄であると見られているに違いない。また、未来の日本国民からは極めて異常な時代であったと回顧されるに違いない。
このたびの東京地裁による日の丸・君が代訴訟の判決は「日の丸・君が代に関する懲戒処分は行過ぎた措置で、裁量権の乱用である。」とした。この限りでは、あるいは法律的に妥当な判決と言えるのかも知れない。しかしながら、この判決はその判決理由で、国民統合の象徴である国旗・国歌を軽侮する風潮を是認してしまった。そのことは、古今東西の全民族に共通の「世の習い」に反する行為を是認してしまったことを意味する。
国旗・国歌が国民統合の象徴であると同様に、皇室もまた日本国民統合の象徴である。今回の判決理由を記した裁判官は、皇室に対しても次ぎのような判断を示すつもりであろうか。「わが国で皇室は明治時代以降、第2次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定しがたい歴史的事実である。」 
「国民統合の象徴って、どんな意義があるのだろう?」と、身近な人間から疑問を呈された。そこで改めて考えてみた。
大部分の人間は自分の所属する組織・社会に対して、所属しない他の組織・社会に対するとは異なる特別の感情を抱いだく。たとえば、家族、親戚の集まり、友人サークル、同級生、所属企業、お隣り近所、在住市町村、在住都道府県、所属する国に対して、特別の愛着を持つ。自らの生活を成り立たせている人間社会そのものに対する信頼と愛着から生じるパトリオティズムである。
この愛着の理由は、それらの所属する組織・社会から何らかの恩恵を受けているとの認識に基づくものであろう。なお、ここで言う恩恵は単に具体的な利益に止まらず、所属することを誇りに思う、そのなかに居ればほっとする、懐かしさを感じるなどの精神的利益までをも含めて言っている。
そしてこの愛着は、自分自身もまた、所属する組織・社会に対する貢献および不利益の回避に努めて行きたいとの意欲に繋がる。組織・社会の構成員のこれらの意欲は、各組織・社会が安定を保ち、向上・発展して行くために貢献しよう。そしてそのことは各構成員個人の利益に繋がる。
各種の組織・社会のなかでも国は、法律・制度を同じくする範囲として、ときに個人の利害を最大限左右する可能性を有している。したがって、そのような組織・社会である国の安定と向上・発展とは、その構成員である国民各個人にとって、極めて重要である。
「国民統合の象徴」の意義はここにあろう。つまり、その国民であることの恩恵の実感とその国民として国の安定や向上・発展に寄与したいとの意欲の喚起がその意義であろう。そのため、古今東西の人類の歴史を通じて、あらゆる民族が国旗や国歌、皇室制度などに対して、「国民統合の象徴」として敬意を払って来た。
ところが、唯一、現代の日本民族だけは、かなりの国民が国旗・国歌を軽侮し、かつそうすることが望ましい行為であると公言し続けている。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。 
敗戦後、日の丸の掲揚は連合国軍総司令部の指令によって、禁止・制限されていた。ところが、1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサー連合国軍最高司令官の年頭メッセージは、日の丸の自由使用を許可した。
このことについて、1月3日の朝日新聞「天声人語」は次ぎのように記した。
マツクアーサー元帥の年頭の言葉には、春風と秋霜とを同時に感ぜしめるものがある。いさゝか過賞の感じがせぬでもないが、ほめられながら激励されるのは決して暗い氣持のするものではない。
日本人に関する日本人の評論は、とかく厳きびしすぎる傾きがないでもない。それは、内側からの自己反省でもあるのだから、当然のことではある。しかし少々薬がきゝすぎて、日本人がとかく悲観的になりすぎるきらいもないではない。どうせダメなんだという劣等感をいだくようになつては、日本の再建は覚束おぼつかない。日本人のいゝ所を見つけて温かい愛情の感ぜられる評論が、今の日本にはもつともつと必要なのではなかろうか。
正月のお年玉として、國旗の掲揚が無制限に自由になつたことは、やはり楽しいことである。正月の町や村に門松が立ち晴着姿の羽根つき風景があつても、門毎に日の丸の旗のひるがえつていないのは、画龍点睛がりょうてんせいを欠くの観があつた。
この数年間は、國旗のない日本であつた。國旗を掲げるのにその都度つど一々許可を得るのでは氣のすゝまないのは偽りのない國民感情である。講和條約の締結までは、自由に國旗を立てられる日は來ないものと実はあきらめていた。
しかし今、日本経済自立への旗印として、マ元帥は日の丸の旗を完全にわれわれの手に返還してくれたのだ。忘れられていたこの旗の下もとに、われらは耐乏の首途かどでをし、再建と自立への出発をするのである。
さて國旗は自由を得たが、國民の手に國旗はない。戰災で國旗を失つた家々は、立てようにも國旗がなく、この喜びを分つこともできないのだ。
マ元帥は國旗の自由をはなむけした。政府は國旗の現物を配給すべきである。
かつて日本国民には、国旗を掲揚できない時代があった。そしてそのことが許可されたとき、朝日新聞でさえも、大歓迎したものであった。 
現代の日本には、自国の国旗・国歌を軽侮し、かつそのことを正しい行動であると主張し続ける国民が、多数に存在する。しかも、その多くが次代の国民の薫育に最大の影響を有する教職者であるように見受けられる。このような現象は、古今東西を通じて、世界の全ての国で見られた例ためしがなく、世界史的に極めて異様な現象である。
国旗・国歌は「国民統合の象徴」とされる。「国民統合の象徴」の具体的な意味は、国民が自主的に国旗・国歌を尊重することによって、その国民であることを強く意識し、自国や自国民を信頼し、尊重して、自国の安定や向上・発展に貢献したいとの意欲をもって行動することを意味する。したがって、日の丸・君が代を尊重せず、軽侮することは、「日本や日本人を信頼せず、尊重せず、日本の安定や向上・発展に貢献したくない。」と意思表示していることを意味する。
このように説明すると、必ずや、国旗・国歌はともかくとして、日の丸・君が代には歴史的に問題があると言い出す人々が出現することであろう。そのような意見に対して、海音寺潮五郎は「史談切捨て御免」のなかの「世相直言・日の丸の旗」で、次のように記している。
今日、日本人の一部に、日の丸の旗にともなう記憶には不愉快なものが多いから、新しく国旗を制定すべきであるという声があるが、了見のせまい話だ。
国の長い歴史の間にいろいろなことのあるのは、個人の成長過程と同じだ。放蕩ほうとうしたこともあるだろうし、親兄弟をなげかせたり、友人知己に迷惑をかけたりしたこともあるだろう。顧みて恥じるところの全然ない人もあるだろうが、そんな人はごく少なかろう。反省と後悔は忘れてはならないが、こだわってはならない。国の場合も同じだ。顧みて恥じるところのない国がどこにあろう。どこの国もいろいろな時期を経験して来ている。日本だけが悪かった時期にこだわるべきではない。
日章旗が日本人の誇りであり、全世界の有色人種の誇りであり、希望の光であった時代もあったのだ。国旗をかえようなどというせまい了見を捨てて、これを美しくて、かがやきに満ちて、さわやかで、誇りあるものにすることを考えるがよい。そのたくましさのない国民の後悔から、なんのよきものが生まれてこよう。こんな国民は、国旗をかえても、二十年後にはまたかえようというだろう。 
 
歴史の中の現代、現代の中の歴史 / 歴史に学ぶということ

 

現代人と歴史的関心
現在は20世紀後半に始まる技術革新とそれよって引き起こされた社会の構造的変化のインパクトが余りにも巨大で根本的なるがゆえに、単に伝統的手段や方法のみならず内容までもが時代遅れであるかの様に軽視されている。聖書に「新しい酒は新しい皮袋に」という言葉があるが、現代の状況は新しい酒(知)が新しい皮袋(手段・方法)を必要としたというよりも、技術革新によって、立派な皮袋を新調したものの、何を入れるのが相応しいか判らずに、ともかく目新しいものを何もかも手当たり次第に詰め込んでいるのにも似ている。歴史に徴してみるならば、政治的社会的革命であれ知的革命であれ、革命の担い手はしばしば、ただ伝統的である、古いというだけで、その内容を充分吟味することなく多くの貴重なものを破壊し投げ捨ててきたが、現在の技術的革命と随伴する社会的構造変化の担い手にも同様の反復をみることができるのではないだろうか。
上記のような考えに対して、楽観主義者は直ちに反論して次のように言うだろう。「いつの時代もそうであったように、時と共に事態はそれなりのところに収まるものさ」と。つまり現在の状況が混乱や無秩序に見えるとしても、それはいわば産みの苦しみの一時的過程であり、やがて新たな内容と秩序の世界が出現する、というのである。従ってこのような考えにおいては、新しい時代のシステムの中で(最高の)成功者として適応する方法を確立することが最大・最重要の関心事になるであろう。なるほど自然現象のみならず、歴史や社会現象においても、確かに動的状況は、いずれ何らかの均衡を伴う静的状態へと移行するであろう。ただしその静的均衡がどのような内容と質のものに落ち着くかということが問題として残ると考えられるが、社会的自然(成り行き任せ)主義者ともいうべき楽観主義者にとってそのような問題は関心の埒外であろう。ともかく、現代の技術革新によってもたらされた新しい社会は、M.ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の終わりで予言した「末人:DerletzteMensch」の世界、すなわち自分たちこそ人類の頂点に到達したとうそぶく「精神欠落の専門人、心欠落の享楽人」が、我がもの顔に振舞うのに都合のよい世界にますます近づいているという思いさえ禁じえない。
上に述べた歴史的転換期の中、知識・情報化社会そして科学立国のいわれる今日の日本の教育において、学習の内容は圧倒的に技術的なもの、非歴史的なものによって占められている。そこでは、あらゆるもの事が現在価値にどれだけ貢献しうるかどうかの基準から見られている。もちろんいかなる時代においても人間の行動の焦点が現在に置かれている..
ことは共通しているであろう。しかし近代以前の社会においては、思考や行動の焦点が現在にあるとしても、「温故知新」すなわち歴史への立ち返りは行動様式の日常的原則であり、人々の意識や行動に対し、超越や永遠や過去(=昔)といった概念が圧倒的な影響力を行使していたのは指摘するまでもない。
しかしながら神話的思考、すなわち神話で語られる世界をリアルなものとして捉えて、現在を神話世界の一部として生きるという生活様式は、今日日本のみならず、ごく少数の部族を除き、近代化と呼ばれる生活様式の進展と反比例して各地で急速に消失した。日本における天皇制国家の成立からその崩壊までの期間、公教育が推進した皇民化教育は近代化の中での時代錯誤的意図的な神話的思考と生活の強制であったが、太平洋戦争の敗戦によって国家的強制の「箍(たが)」が外れたこと自体は喜ぶべきことではあるが、たがが外れるや否や日本人の意識と生活における世俗化は急速に進んで今日に至っている。数年前に発覚した高等学校における世界史未履修問題は、こうした状況の下で、教育における歴史に対する関心と認識の衰退を図らずも露わにした象徴的出来事であった。
昨今の学生生徒が歴史上の偉大な先人達についてどれだけの知識を持っており、また関心を持って彼らに接近しようとするだろうか。花形スポーツ選手や人気タレントと称される人々の細々とした「かっこいい」動静に対する覗き見的関心はごく自然に働く一方で、歴史上の偉大な先人達については、教科書的知識を通してごくわずかに与えられる知識以上に能動的に関ることは皆無とはいえないまでも、極めて小さいのではないだろうか。大学、短大で筆者が担当する授業で学生に尋ねた結果からの推量に過ぎないが、伝記と呼ばれるものはおろか、読書そのものの量は、団塊の世代以上の年代の人々の学生生徒時代に比べれば格段に少なくなっていると思わざるをえない。かつて、湯川秀樹とかA.シュヴァイツァーの伝記は小学校高学年次のごく当然の読書対象ではなかっただろうか。
もちろん他方で、昔日とは比較にならないさまざまで且つ大量の情報に晒される中で、現代の青少年は、時代が要請する日常的現実的知識や生活技術を易々と獲得する術において、いわゆる団塊の世代以上の年代の人々とは比較にならない程の巧みさを身につけていることも確かであり、パソコン、携帯電話などICTの活用に関してはいうまでもない。
このような変化は、単に歴史上幾度となく繰り返されてきた古い知識と新しい知識の交代の一つとして片付ければよいとも考えられる。なるほど技術的革新は、その新しい技術によって動かされる社会が必要とする新しい知識を要請し、新しい知性を産み出すというのも事実であろう。しかしながら、技術的革新や変化によって生活の手段や質が変わっても、それによって人間の本性が直ちに変わるとは考えられない。ごくまれな突然変異を除けば、生物、特に高等といわれる生物の進化ないし変化は、何千年いやそれ以上の時間単位の中で緩やかに進むに過ぎない。例えば、古代アテナイのソポクレスやプラトンの詩的、哲学的作品とそこに開示される世界や人間についての把握と表現は、現代の詩人や哲学者の構想力や思索力に劣っているといえるであろうか。彼等が描く人間の現実と真実の姿は、現代人が己と己の身の周りで日々出会う人間の姿と大差ないであろう。
人間は他の生物と同様、生まれ、成長し、老いて死ぬ時間的存在であるばかりでなく、意識において現在のみならず過去と未来に生きる歴史的存在であるという特異な生物である。現代の高度に技術化された社会そのものがこの特異な能力による膨大な知的集積によって可能となったものであるのだが、現代人はその到達した成果に酔いしれて、もはや歴史に学ぶ必要はないかのような錯覚に陥っているかに見える。現代的事象の本質をより的確に理解するうえでも、次第に光彩を失っていく未来に対してせめて次善の方途を探るためにも、われわれは歴史の中に現代を、逆にまた現代の中に歴史を見るという態度を忘れてはならないと考える。 
ある事例
時代の転換期にはその時代を象徴する人間が登場する。インターネット技術と巧みな宣伝戦略による社会的認知の獲得いわゆるブランド化、そして企業買収の手段を駆使して、学生時代に立ち上げた会社を短期間に巨大化し、30歳で100億円を稼ぎ出し、『稼ぐが勝ち』(2005光文社)と題した自著の冒頭で、「この本が、皆さんが100億円を稼ぎ出すヒントになればと思っております。稼ぐが勝ち、です」(6)と豪語したF氏は、さしずめ現代を象徴し体現する人間の一例である。
第二次大戦後の日本の体制と価値観に対して何の疑いも持たずに生きてきた彼の親を含め同時代の大衆は、まやかしの幻想の中で踊らされたのであり、「かつて滅私奉公で会社に尽くしてきた親父たちは、要するに、山ほどだまされてきた」(23)、という歴史・社会認識が彼の「稼ぐが勝ち」という単純明快な思考と行動の出発点となっている。彼の認識によれば、幻想に過ぎない右肩上がりの経済成長を前提とした旧来の社会システムの中で一方的に搾取されているのが若者であり、社会の年功序列構造は若い世代が汗で稼いだ分を搾取することで維持されている。したがって「優秀な若者は旧来のシステムに乗るだ...け損」(28引用文中の傍点は筆者、以下同じ)なのだということになる。彼は、現代を20代30代の若者が社会の最前線で大活躍できた明治維新と終戦直後と同様の時代の転換期であり大きなリセットが必要な時期である、と認識する。しかし、こうした彼は決して新しい社会の預言者でもなく革命家でもない。彼は彼以前にすでに動き出していた社会のリセットの大波に気づいてそれにたくみに乗りかつ振り落とされた何人かの内の一人であったに過ぎない。彼は「気づいた人の勝ち」の小見出しの下で、ブログの登場によって「新しいお金の流れが出現」(198)していることを説明して、「要するに、インターネットの登場によって何でも売れる時代になったということです。そこに気づいた人が、大金持ちになれる、それだけの話です」(199)と記しているが、まさに彼はその「気づいた人」の一人である。「気づいている人間にはチャンスがたくさん巡ってくる」(29)のであり、「この時代の転換期に、旧来の社会システムの破綻に気づかず、ぼんやりしていれば他人から搾取されるだけ」であり「それが良い悪いという話ではありません」(同上)という彼の言葉には先に述べた楽観主義者の典型的姿を伺い見ることができる。
優勝劣敗、強栄弱衰の結果の相違をもたらす力の形態は、社会の歴史的状態によって異なる。ある時代ある社会においては、腕力・体力といった自然的資質であり、またある時代ある社会においては武器とその操作能力である。現代という自らの歴史的社会的条件が資本主義社会であり「資本主義社会という土俵の上で戦う」(119)ことを充分自覚している彼は、この社会で勝利する力を知力の抜け目ない行使であると考えている。「優秀な...頭脳を持っていながら、わざわざ破綻しかけた旧制度のシステムに乗っかるのはばかげたこと」(41)であり、就職というのは、単純化していえば、「他人のリスクコントロールの支配下」に入る、「要するに自分の運命を他人に支配される」(38)ことだから、「『自分は馬鹿だから、自分よりもっとあたまのいい人に自分のリスクコントロールをしてもら...いたい』という人は就職すればいいのだろう」(同)というのである。「他人の力を利用した人間が金持ちになる」資本主義社会における「会社とは他人の力を利用するための仕組み」であり、彼にとって「会社とは人を使うためのツール」以外の何物でもない(46)のである。
彼はそれに続けて、図らずも彼の根本的人間観の一端を吐露する言葉を記している。
「振り返ってみると小学生の頃から人を使っていました。別にガキ大将とか不良グループのリーダーとかそういうのではありません。友達をうまく利用する、といったほうがいい...でしょう。『こいつは金持ちだから仲良くしておこう』とか『この友達はこういう利用方法がある』といった感じで、友達を値ぶみしていたわけです」(同)というのである。さ...らに別の箇所でも彼は臆することなく、「僕は自己中な人間です。根本の部分に『自分さ...えよければいいかな』というのがあります。これは小学生のときから一貫してそうです。 ...ぜんぜん変わっていません」、「『世の人のためになるのが私の生まれてきた使命だ』みたいに本気に信じている人もいます。しかしそれだって結局は自己快感です。ボランティアをした結果、最終的に自分が気持ちいいからするだけの話です。人のためになっていると...思い込むのが快感。誰でも人に喜ばれると嬉しいものです」と記す(155)。 ...「自己中はやはり人間の基本だと思っている」(同)彼の人間観からすれば、彼の会社...の彼以外の創業仲間が4年後には一人もいなくなったことについても、バイト先の社長に教えられた、会社の「法則」の必然的事例として対処すればよいことでしかない。彼は安価なネット内職の労働力として引きこもりやフリーターの利用を提言しているが、その際彼が記している、「僕は彼らの生き方を否定していません。人にはそれぞれの価値観があ...るはずです。それはそれで勝手にやってくれ、でも利用できることは利用し合おうよ、と...いうだけの話です」(130)という言葉は、そのまま創業仲間にも向けられたことであろう。
自己中は彼の場合、自覚されているのみならず全肯定されるのである。
彼によれば日本人はお金について間違った認識によって教育されているという。「『金を持っているやつが偉い』これは当たり前の話」(69)であり、「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買える」(70)という。「みなゲンキンなものです。良いか悪いかは抜き...としてそれが事実です。金を持っているやつが一番強いのなら、金持ちになればいいということ」であり「人を動かすのはお金です」(71)と断言する。 
同時代的類比
こうしたF氏の考えは、彼自身がどこまで自覚しているかどうかは別として、現在の思想的脈絡においては、個人の自由を最大限主張するリバタリアニズムlibertarianismに連なるものということができる。個々のリバタリアンの主張には幅があるが、大衆的電子フリー百科事典ウィキペディアでは、「((前記略)、レッセフェールを唱え、経済や社会に対する国家や政府の介入を否定もしくは最小限にすることを主張する、(後期略)」と説明されている思想的立場である。文中の「レッセフェール」とは、もともと18世紀フランスの重農主義者が用いた用語で、自由放任ないし無干渉主義を指している。したがって、「自由至上主義」(蔵研也)もlibertarianismの有力な訳語候補であろうが、現在はリバタリアニズムの方が一般的なようである。1976年のノーベル経済学賞受賞者M.フリードマンはリバタリアニズムの代表的思想家と目され、その思想がいずれも「小さな政府」を標榜したアメリカのレーガノミズム、英国のサッチャリズム、そして日本の小泉構造改革政策のバックボーンをなした考えの一つであるのは言うまでもない。日本においてリバタリアンを自認する蔵研也氏は、『リバタリアン宣言』(朝日新書2007)のまえがきで、「『人間の自由の制限は非効率的であり、それ以上に非道徳的である』という英米的な自由思想について書きたいと思って」いて、自らそれが「普通の日本人としては極めて変わった思想です」と認めている(4)。
氏によれば、リバタリアニズムの考えからすると、「人々は自らの意思によって行動する自由と権利があり、それに伴った責任を負います。それが大多数の人間から見て愚かしい行為であったとしても、それを他人から強制されない自由意志によって行なう限り、それを愚行権として認め、他人が物理的な強制力を持ってやめさせるべきではないと考える(48)のだという。先のF氏の「人にはそれぞれの価値観があるはずです。それはそれ...で勝手にやってくれ」の言葉は図らずもそうした考えの具体例であるといえる。「後見主...義的な国家の役割を否定する」(同)リバタリアニズムにおいては、個人や法人の社会的行動は最大限自由な競争に任せ、その結果としての優勝劣敗、強栄弱衰に対しても最小限の社会的調整に止めることが理想的なことにならざるをえないが、『稼ぐが勝ち』はまさにこうした考えを分かりやすく展開している。 
近代に見る歴史的類比
さらに、先に述べたF氏の人間観の背後には、彼自身が直接どれぐらい読んでいるかは別としても、俗流とも言うべき一種のニーチェ思想の残照を伺うことも不可能ではない。
ニーチェは、現行の道徳における善悪の区別は、弱者のルサンチマンを基礎とした特定の(道徳的)遠近法に基づいたものに過ぎないとして、「すべての価値の価値転換」を唱え、「すべて偉大であるとは道徳に関してその圏外に立つことであると解する」(『権力への意志』断章120(130)。先に引用した彼の、「人にはそれぞれの価値観があるはずです。それはそれで勝手にやってくれ」とか、「良いか悪いかは抜きとしてそれが事実です」という考えは、既成の道徳に拘束されず「自己中」を新たな原理として据えるという点で、ニーチェ的である。ただし、ニーチェが「金(かね)本位」の上に新しい道徳を築こうとはしていないのは勿論である。彼は、「はっきりと私は言っておく、エゴイズムは高貴な魂の本質に属する、と。私がエゴイズムといっているのは、<われわれがそれである>ごとき存在には他の存在が本年的に隷属しその犠牲となるべきであるという、あの動かしがたい信念のことだ。高貴な魂は、おのれのエゴイズムという事実をば、何の疑いもいだくことなく、そこに冷酷とか強制とか恣意とかを感ずることさえもなしに、むしろそれが事物の原法則に基づいたものであるかのように受けとる。──これに名をつけようとする段になると、高貴な魂は言うであろう、『これは正義そのものである』と」(『善悪の彼岸』319〜320)と記すが、これらのことばには、F氏が自らの精神を高貴な魂と自負したかどうかはともかく、彼の「自己中」な考えと対人関係の本質が的確に表現されている。ニーチェは更に、「彼はおよそ<上>を仰ぎ見ることを好まず、──自分の前を、水平に、ゆっくりと見渡すか、下を見おろすかする。──彼は自分が高みに立っているのを自覚している」(321、と続けているが、これもまた当てはまる。 
古代アテナイに見る歴史的類比
更に『稼ぐが勝ち』の著者の考えと生の流儀は、意識的にか否かは別として現代の思想や近代の革命的な思想家の思想に棹を差しているばかりでなく、繁栄の絶頂期であると同時に、市民の殆どがまだそれと気づかなかった没落前夜の古代のアテナイにも極めて類似した形で存在していた。プラトンの『ゴルギアス』にソクラテスの対論者として登場するカルリクレスは、古代のアテナイにおけるそうした思想と生の流儀の典型である。
カルリクレスは、法律習慣(に根拠を置くもの)と自然(に根拠を置くもの)とを区別したうえで「この両者は大抵の場合、互いに相反する」(482D)(加来彰俊訳『ゴルギアス』岩波文庫、2000=1967、以下の引用も同書)。つまり、法律習慣は世の大多数を占める力の弱いものが自分たちの利益を考えて、より力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちに押し付けたものに過ぎないのである。以下に長くなるが、もともと古典学者であった前述のニーチェの発想に決定的な影響を与えたと考えられる有名な箇所をあえてそのまま引用するが、カルリクレスによれば「われわれはその法律なるものによって、自分たちのなかのもっとも優れた者たちや最も力の強い者たちを、子供の時から手もとにひきとり、彼らの性格を型通りに作りあげて、(中略)、彼らをすっかり奴隷にしているわけだ。平等に持つべきであり、そしてそれこそが美しいこと、正しいことだというふうに語り聞かせてだね。しかしながら、ぼくの思うに、もしかして誰か充分な素質を持った男が生まれてきたなら、その男は、これらの束縛をすべてすっかり振い落とし、ずたずたに引き裂き、(中略)、また自然に反する法律や習慣のいっさいをも、これを足下に踏みにじって、このわれわれが奴隷としていた男は、われわれに反抗して立ち上がり、今度は
逆に、われわれの主人として現れてくることになるだろう。そしてそのときこそ、『自然の正義』は燦然と輝き出すことになる」(483E〜484A)というのである。
更に、「自然そのものが直接に明らかにしているのは優秀な者は劣悪な者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多く持つのが正しいということ」であり、「すなわち、正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことであるという風に、すでに決定されてしまっているのだ」というのが「正義の自然本来のあり方」である(483C〜E)、と主張される。
こうしたカルリクレスの主張に対して展開されるソクラテスの論理と思想について論じることは、もはや当小論の枠を越えることであり言及しないが、ニーチェを介して、いや媒介なしにも、カルリクレスの思想と流儀がF氏の考えと流儀に強度の親近性を持っており、原理的に通底していると言っても的外れではない。 
おわりに
現代イギリスの歴史家、E.H.カーは歴史の機能について、「歴史から学ぶというのは、決してただ一方的な課程ではありません。過去の光に照らして現在を学ぶというのはまた現在の光に照らして過去を学ぶということも意味しています。歴史の機能は、過去と現在の相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にあるのです」と記しているが、更に現在と過去を深く理解すること、すなわち現在と過去の事象の本質を両者の相互連関の中でより的確に認識することは、生命の連鎖という未来へと開かれた人間存在にとって、未来へのより妥当な選択を行なうためにも不可欠であると付け加えたい。もちろんすべての歴史を学ぶことは不可能でありまたその必要はないであろう、正・負、善・悪、いずれにせよ歴史の中から典型的指標的事象を選択抽出し、未来を見据えながらそれらと現在との相互連関の中でわれわれの状況を認識し、未来への洞察力を研ぎ澄ますこと、これが現在のわれわれの為し得ることであり、正に焦眉の急ともいうべきものではないだろうか。
歴史の外に立つ超越者やわれわれの所有する科学は、カー・ナビのように自動的に正しい未来への方向を指示してはくれないようである。むしろ科学技術の加速度的発達は人類の歴史の幕引きも加速度的に早めており、たとえ将来科学が歴史の方向指示器を人類に提供することが可能としても、それまで人類社会がもつかどうかさえ真剣に考えて見なけれ
ばならない時にわれわれは立ち至っているのではないかとさえ思われるからである。 
 
田中真紀子と鈴木宗男

 

「佐藤優が語る外務省の内幕―田中真紀子追放劇」 (2009/3)
最近の週刊誌、雑誌で、佐藤優の二つの外務省批判を見つけた。それを二回にわけて解説する。その第一回目は、発売中の週刊文春4月2月号に出ていた田中真紀子追放劇の内幕である。
田中真紀子と鈴木宗男は、外務官僚がもっとも警戒した政治家であった。使い道がなく危ない言動ばかりしていた田中真紀子外相(当時)は一日も早く排除しなければならない存在であった。
田中真紀子と違って鈴木宗男(すずきむねお)は利用価値があった。人事権を振り回して恫喝(どうかつ)したり、外交に口出しする鈴木宗男は、外務官僚にとっては恐れられる存在であったが、同時に鈴木宗男は外務省の予算獲得や権限拡充という組織防衛には役立った。
鈴木宗男に取り入る不利をして出世競争に利用するという点で使い道はあった。さんざん利用した後で、邪魔になった頃に追い出せばいい。毒をもって毒を制した後に、すべての毒を排除する。これが田中真紀子追放劇の内幕であった。
週刊文春(2009年)4月2日号で佐藤優が語っている以下のごとき田中真紀子追放劇は当事者である佐藤しか知らない貴重な情報である。
私にとっては、ついこの間まで一緒に仕事をしていた先輩、同僚たちの卑劣な動きを思い出させてくれるドラマの再現でもある。
平成13年(2001年)5月、佐藤優は当時の事務次官である川島裕に次官室に呼ばれてこう言われたという。
「婆さん(田中真紀子)は外交には関心がない。興味があるのは、機密費問題で外務省を叩くことと、人事だけだ」
田中真紀子の事を「婆さん」と呼ぶのはいかにも川島次官らしいもの言いだ。その川島次官は同年6月に赤坂のTBS会館地下の「ざくろ」で鈴木宗男と密かに会って、「田中外相では外交ができなくなります。外務省を守ってください」と頼み込んだという。
「ざくろ」は外務省が会食でよく使う場所だ。もちろんその食事代は機密費から支払われる。そして佐藤優は、田中外相攻撃を依頼してきた幹部がもう一人いた事を鈴木宗男から聞かされる。
「おい、佐藤さん。飯村(豊いいむらゆたか)官房長が来て、田中外相をやっつけて下さいと言うんだ・・・」
飯村官房長は私の同期の一人である。同じく私の同期である谷内正太郎や田中均と次官ポストを争った功名心の強い男である。川島次官の片腕として外務省を守る事によって自らの生き残りを図ったのだ。
田中真紀子は翌2002年1月に外相を更迭される。知りすぎた鈴木宗男が邪魔になった外務省は、今度は鈴木宗男バッシングを始める。その時の情景を佐藤は次のように再現してみせる。
「鈴木さんとの関係でキミが一番苦労しているのだから、(今度は)鈴木批判に回れ」
私にこう持ちかけてきたのは、ほかならぬ飯村氏でした・・・

発売中の月刊誌「新潮45」の4月号に佐藤優でしか書けない外務官僚の困惑ぶりを見つけた。外務官僚は小沢政権の誕生に恐れおののいているという。
今年の2月末、佐藤優は全国紙(朝日新聞と思われる)の記者から次のような話を聞いた。
「自民党から民主党に政権交代があっても、外交はわれわれ専門家が行うので変化はない」そううそぶく外務省幹部にその記者はこう言った。
「そうかな、認識がちょっと甘いんじゃないですか。鈴木宗男さんは、民主党と選挙協力をしているんですよ。民主党政権になれば、鈴木さんが外務副大臣になって戻ってくるんですよ。それが政権交代というものです」
それを聞いたとたん、その外務省幹部は震え上がったという。
この話を聞いた佐藤優は3月初旬のある夜、鈴木宗男とゆっくり話す機会があったので、鈴木宗男にその事を確かめたという。そうしたら鈴木宗男は次のように答えたというのだ。
「本気だ。3ヶ月でもいいから、俺は外務副大臣になって、徹底的に人事を行なう。無駄なカネと部局を全部カットする。俺は外務省の連中に言われるままに予算や定員をつけた。それが国益のためになると考えたからだ。しかしそれは間違いだった。その罪滅ぼしだ・・・
それよりも俺(鈴木宗男、引用者註)はもっと面白い事を考えている。田中真紀子先生と手を握ろうと思うんだ。そして田中先生と二人で、外務省の機密費に手をつける・・・」
佐藤優はその記事の最後にこう書いている。
「・・・機密費問題をめぐる真実や、外務省の『隠れた財布』になっている国際機関(拠出金)についての真実が表に出れば、背任や横領を構成する事案が山ほど出てくるであろう・・・」
実はその通りなのである。外務官僚がもっとも恐れている秘密なのである。外務官僚が小沢政権誕生を心底恐れるわけである。外務官僚はどんな手を使っても小沢政権誕生を阻止しようとするだろう。
おりしも小沢代表の続投をめぐって壮絶なバトルが繰り広げられている。その帰趨は、単に小沢一郎の政治生命や民主党の政権交代がかかっている問題にとどまらない。国民から隠されてきたこの国の権力犯罪が明るみにされるかどうかの瀬戸際なのである。官僚支配と国民主権の最終戦争なのである。 
外務大臣としての田中真紀子
日本の内閣の方針と合わない言葉を公言
2001年4月26日に外相に就任。日本政府の閣議でミサイル防衛構想について反対の立場を決めたことはないのにも関わらず、眞紀子はアメリカ合衆国のアーミテージ副長官との会談でミサイル防衛構想への批判を公言したが、彼女の発言は日本の政策転換とは受け止められなかった。
外国要人との会談を直前に中止
外相在任中、アメリカのパウエル長官との電話で、アーミテージ副長官が来られることは楽しみにしていると語った。しかし、2001年4月に、アーミテージ副長官が日本に来て小泉首相に会うための日程を決めようとした時、彼女は直前にこれをキャンセルした。
金正男の身柄拘束後の対応
2001年5月1日、北朝鮮の金正日の長男、金正男が出入国管理法違反により成田空港内で入国管理局に身柄拘束された。眞紀子は「そんな人を(日本に)置いておいて(北朝鮮から)ミサイルが飛んで来たら大変なことになる。すぐ帰さないとだめ!とっとと追い出して!」と発言した。この発言を根拠として、法務省・入国管理局の管理下に置かれたまま(警察・検察への引き渡しもないまま)すぐに退去強制させられた金正男の処遇を、外務大臣の彼女の差し金だと主張している人も一部にいる。
日朝平壌宣言調印や拉致被害者問題などで北朝鮮との関係に火種を抱えていた小泉首相・官邸の意思が介在していたかどうかは不明である。眞紀子の地元である新潟では拉致が多発していた事も無視出来ない。この時の田中眞紀子の対応は拉致被害者問題が社会問題化し、日朝平壌宣言が履行されていない現在は、金正男が拉致問題解決に非常に有利な外交カードであったにも関わらず、安易に取調べも無しに対北朝鮮摩擦だけを考え出国させた事は非常に問題があったという声も後に挙がっている。
アメリカ合衆国の機密情報を漏洩
アメリカ同時多発テロ事件の直後、眞紀子は機密情報であるアメリカ大統領の避難先を記者会見でしゃべってしまった。当時国民の間で圧倒的な人気を誇る眞紀子の外相罷免を避けた小泉首相は、とりわけ対米外交において外相の頭越しに外交を行わせるようになる。この件が外務省や官邸への不信と怒りを呼んだ。
指輪騒動
2001年11月1日、田中眞紀子は指輪を紛失したことを上月豊久秘書官の責任にして、買いに行かせ、その結果イランのハラジ外相との会談に遅刻した。民主党の長谷川清議員が指輪騒動について追及した時には、議員会館の長谷川議員の部屋の電話が、熱烈な支持者からの多数の抗議申し入れで鳴り続ける騒ぎになった。
小泉首相の靖国神社参拝を批判
2001年5月に唐家璇(中国外相)と会談したとき、唐に「小泉首相に靖国神社参拝をやめなさいとゲンメイ(言明または厳命)しました」と言われた。眞紀子は、小泉首相の靖国神社参拝に強く反対した。小泉首相の靖国神社参拝に関して、「今の中国を見てください。株やって儲けて、ロールス・ロイスやベンツに乗っている若い人がいる一方で、年収数千円という貧しい人がいる。そうやって国内の不満が爆発しそうなところに、小泉さんが靖国神社へ参拝するからデモが起こるんです。あの人は、日本の国益とか世界平和なんて考えていないのです」と批判した。また、「小泉さんが、煮干しの出がらしみたいな顔して『俺は靖国行く』っていうからおかしくなった。あの人はホントにタチが悪い」と批判した。
「触らないで下さいよ!」
2001年7月に、群馬県で参議院選挙に立候補した吉川真由美を応援するための演説をするはずであったが、田中が応援演説の予定の午後4時よりも1時間以上前に群馬県庁前に到着し、応援すべき候補者が来るのを待たずに勝手に演説を始めた。このため吉川は別の場所で演説していたが、これを中断して群馬県庁前へ急行、田中と一緒に演説を始めた。田中は「これから新潟に行って外務省の用事があるもんですから、あと4分だけで終わりにしますが、候補者、どの人か知りません。駅についてチラシをもらうまで男か女かも知りませんでした。名誉のため、市議や県議をやったから国会に行ってみようとか、政治家の娘だから国会に行ってみようというのは税金の無駄遣いなんです。」と駅前で演説した(吉川は元群馬県議会議員であり、元衆議院議員熊川次男の娘。「政治家の娘」云々は群馬県を選挙区とする小渕優子のことかと思われるが、もちろん田中自身も政治家の娘である)。吉川が田中の批判的な発言をなだめるために、にこやかに「そんなぁ」と言いながら、田中の肩へ手を回したが、田中は「この候補者、なんておっしゃるんですか。知らないから触らないでください。知らない人に触られたくありません。では地元に用事がありますし、外務省に用事がありますのでこの辺で失礼します」と駅前の大衆に向かって演説した後、すぐに帰った。報道によれば外務省での公用などなく、地元の用事とは、新潟でのクラシックコンサートを見ることだったとされている。田中眞紀子の事務所には、事前に吉川についての資料が送られていた。結局吉川は落選した。田中は党紀委員会にかけられたが、小泉首相側はこれを擁護した。
「外務省は伏魔殿」
外務省を「伏魔殿」と呼んで、外務省・外務官僚の閉鎖的な様子を鋭く表現し、外務省機密費流用事件や自身の進めようとした外務省改革・人事で外務省と対立した。この「伏魔殿」という表現は、閉鎖的な外務省を表す言葉としてマスコミで度々使われた。
更迭と外相辞任
外務大臣在任中、北方領土返還をめぐる方針や外務省改革などを巡り、当時の衆議院議院運営委員長で、外務省に強い影響力を持っていた鈴木宗男との抗争や官僚との軋轢が報じられた。2002年1月29日、アフガニスタン復興会議へのNGO参加問題を発端として、再び鈴木宗男や官僚と激しく対立。田中はNGO擁護の立場を取ったが、外交の停滞を要因に小泉首相から、野上義二外務事務次官と共に更迭された。また、鈴木宗男も衆院議院運営委員長を辞任した。
田中は「一生懸命やってきたつもりだったんですが」とカメラの前で涙を流した。圧倒的な人気を誇る彼女を更迭したことで、小泉内閣の支持率は30%程度急落した。 
鈴木宗男
(1948- 〉 日本の政治家。前衆議院議員(8期懲役刑確定に伴い2010年〈平成22年〉9月15日に失職)、新党大地代表(初代、収監中は浅野貴博が代行)。新党大地・真民主代表。
かつては国務大臣北海道開発庁長官(第66代)、沖縄開発庁長官(第35代)、内閣官房副長官、衆議院議院運営委員長などを歴任。地方や弱者を軽視する新自由主義経済政策を強く批判し、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視。又、北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保、北方領土問題の解決等を訴えている。
鈴木宗男事件において最高裁に上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(後述)。
疑惑・逮捕・落選
2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中真紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた(辻元は7年後の2009年に外務委員会で「(自分が追求した案件については)裁判でもその事実は出ておらず、確証がなかった。そのような言葉遣いをしたことを反省している」と陳謝している)。3月15日、自民党を離党。6月19日、やまりん事件のあっせん収賄容疑を理由として衆議院本会議にて逮捕許諾決議が可決され逮捕された。6月21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決されたが議員辞職はしなかった。7月20日、あっせん収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で、また、政治資金規正法違反の罪でも併せて起訴された。
2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈(2002年12月と2003年4月に保釈を申請しているが「罪証隠匿の恐れがある」として却下された)。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。同年10月、胃癌を手術。2004年の参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第一審で受託収賄・あっせん収賄・政治資金規正法違反・議院証言法違反の4件で有罪となり「懲役2年の実刑、追徴金1,100万円」の判決が下された。鈴木は一連の事件を全て否定した上で「国策捜査」と批判し即日控訴した。2008年2月26日に東京高等裁判所においても控訴棄却となり、即日最高裁判所に上告した。
鈴木宗男衆議院議員を巡る汚職事件
2002年1月、田中真紀子外務大臣への野上義二外務事務次官からの報告としてアフガン会議においてNGO代表が参加拒否された問題に鈴木宗男衆議院議院運営委員長が関与した疑惑が浮上。鈴木はこの問題に対して全否定をし、鈴木と田中の争いに発展。田中外相、野上次官は小泉純一郎内閣総理大臣の裁定で更迭され、鈴木は衆議院議院運営委員長を辞任して自民党を離党した。
しかし、その後も様々な疑惑が浮上したことで鈴木宗男は国会で2月に参考人招致され、3月に証人喚問をされた。6月19日にあっせん収賄罪の逮捕状が出されて衆議院で逮捕許諾決議が可決されて逮捕され、6月21日には衆議院で鈴木宗男への議員辞職勧告決議が議事録上では全会一致で可決された(鈴木は議員辞職を拒否)。その後、鈴木宗男は受託収賄罪や政治資金規正法違反も容疑となり、9月には証人喚問において3件の偽証をしたとして告発され、議院証言法でも訴追された。
この事件は北方領土問題に絡む事件が注目されたが、その際にバルト3国を除く独立国家共同体(CIS)加盟12ヶ国を支援することを目的とした国際機関の「支援委員会」が舞台となった。「支援委員会」は1993年1月に作られた国際機関であったが、「支援委員会」に資金を供与するのが日本政府一国のみで日本以外の国の代表は空席状態であったため、日本政府一国が決定した事業を支援委員会が執行するという変則的な国際機関であった。「支援委員会」は2003年に廃止となった。
一連の事件で7件12人が起訴され、全員の有罪が確定した。 
集中審議で再確認した鈴木宗男氏と田中前外相の“いかがわしさ”(2002/3)
2月20日の衆院予算委員会の集中審議は、いくつかのことをあらためて確認させてくれた。
まず、鈴木宗男氏のいかがわしさだ。共産党の佐々木憲昭議員が外務省の内部文書「国後島緊急避難所兼宿泊施設メモ」なるものを示しながら問うていた。地元で「ムネオハウス」と呼ばれる宿泊施設の工事の入札資格を「根室管内(の業者)に限定すべきだ」と鈴木氏が外務省に指示したというのだ。
佐々木議員は以下のような生々しいやりとりがあったはずだと問いつめた。
「道東ならいかがか」(外務省)
「やはり根室管内だろう」(鈴木氏)
予算委員会集中審議の会場はここでどっとどよめいた。根室管内といえば鈴木氏の地元である。地元の業者しか入札できないということだ。事実この工事は地元の業者が請け負った。あまりにもあからさまな地元への利益誘導の要求に外務省側も戸惑ったのだろう。そこで少し範囲を広げて、せめて道東ではどうかと外務官僚が尋ねたのだ。小腰をかがめるようにして尋ねたであろう官僚の姿が目に浮かぶ。審議でのこのくだりに期せずして起きた笑いは、こうした一連の光景が多くの人の脳裏をかすめ、鈴木氏ならば“さもありなん”と感じたからではないだろうか。
それにしても鈴木氏の海外での動きには、日本の国益という視点から、厳しいチェックが必要である。なぜ北方領土問題が“四島一括”から“二島先行返還問題”に後退したのか。1956年の日ソ共同宣言で歯舞、色丹の日本への返還が決定され、93年には日露共同宣言で、エリツィン大統領が北方領土問題は二島ではなく四島問題で国後、択捉、歯舞、色丹であると、固有名詞まで明記した。それが今では歯舞、色丹はともかく、国後、択捉についてはその帰属について交渉するという線にまで後退した。
この後退に、鈴木氏がどこまで関与しているのか。外交資料を開示し、説明する義務と責任があるはずだ。国会は、国益をかけて調査すべきである。
集中審議からは一方の田中真紀子氏のいかがわしさもよく見えてきた。田中真紀子という人は、本当に自身を振り返ることのない人なのだ。謙虚さに欠けるために、失敗から学び成長していくことができないのだ。小泉首相による野上義二事務次官と田中氏の同時更迭について、緊急事態に直面して小泉首相は適切な判断ができなかった、首相の判断は間違いだと批判した。
想い出すのは金正男が偽造パスポートで入国した時だ。北朝鮮の次の指導者かともいわれている人物の不法入国を調査もせずに“すぐに出しなさい!”と言って国外に出させたのが田中氏だといわれている。米国への同時テロでは、米国国務省の避難先をマスコミに喋ってしまった。
すでに幾度も報じられてきたこうしたことは、彼女自身が緊急時に適切な判断ができないことを示している。小泉首相に大上段から攻めかかるのもよい。しかし、そのことの前に、少しは自らを反省せよ。だが反省もなく田中氏は言うのだ。自分は外交をしっかりやったし、空白を招いたことはないと。
田中氏はまた、国会答弁などで嘘をつくことは許されないと語気強く述べた。嘘はいけない。当然である。だがこの点に関しても、彼女自身どれほどの“嘘”を重ねてきたことか。それもまた、これまでに報じられた事例から、いやというほどみてとれる。
真紀子氏の応援部隊長ともみられている平沢勝栄議員が語っていた。
「真紀子さんの貢献は鈴木さんの悪を表に出したことに尽きます」確かにそうだ。そしてこの一連の騒動のもうひとつの“成果”は、田中真紀子という人物を、決して国家の要職につける愚は二度と犯してはならないということが明らかにされた点だ。 
なぜ麻生太郎しか田中真紀子を批判できないのか
このところ、麻生太郎政調会長の田中真紀子外相批判がますます激しくなっている。例えば、20日に福島県いわき市で行われた講演会では、田中が外相就任直後「新しい歴史教科書をつくる会」編集の教科書を批判したことに対し、
「田中真紀子なんか(つくる会の)教科書を読んだこともないのに、悪いとかなんとか(言っている)」と、田中を呼び捨てで批判している。
また以前にも、田中が鈴木宗男前総務局長と国会で激しいやり取りをした際に鈴木の質問時間を削減しようとしたことに対し、
「国会を無視して私に質問するなとか、質問を減らせ、というのは間違いなくやってはいけないことだ。行政府が立法府に言ってはいけないセリフで、ちょっと待て、と言わざるを得ない」とこれまた激しく非難している。なぜ麻生は田中をここまで非難するのだろうか。
小泉純一郎首相は、本来政調会長には平沼赳夫経済産業大臣を起用するつもりでいた。しかし、平沼の所属する江藤・亀井派の激しい反発によって平沼起用を断念し、その代わりとして麻生を起用したのである。なぜ麻生を起用したかというと、橋本派に近い古賀誠前幹事長が森喜朗前首相に推薦し、森が首相に進言したためとみられている。麻生と古賀は同じ福岡選出で親しいからである。
こう記すと、まるで麻生は橋本派の代弁者であり、守旧派だと断定されるかもしれない。麻生の発言は悪しきもののように思えてくる。しかし実際は違う。鈴木の質問時間削減問題も、教科書問題も、言葉は激しいものの正論である。そう考えると、先の問題提起に修正を加えなければならない。なぜ麻生しか田中を批判しないのだろうか、もっというと、「なぜ麻生しか田中を批判できないのだろうか」
そもそも守旧派とは何だろうか。守旧派という言葉が使われ始めたのは、宮沢内閣末期に経世会(現橋本派)を飛び出し、自民党を離脱した小沢一郎(現自由党党首)が経世会を指したことから始まる。小沢は自らを改革派と称し、守旧派(経世会)を徹底的に非難した。これによって国民の支持を得た小沢は非自民連立政権細川護煕内閣を設立、自民党は野党に転落し、55年体制は終了した。
しかし、昨日まで守旧派にいた者が突然踵を翻して改革派を名乗るというのは、長期的な視点から見ると矛盾が生じるものである。結果的に自民党は政権に復帰し、小沢の描いた政界再編は終了した。
この時使われた守旧派という言葉が、再び使われている。対象は同じく旧経世会。そして細川内閣時と同じく、守旧派は絶対的な悪とされ、何をしても非難される状況になっている。たとえそれが正論であっても…
守旧派という言葉自体に誤解がある。守旧派というのは、一勢力によって一方的に命名されるものである。必ずしも旧体制にしがみつく勢力ではない。「守旧派=悪」というのは、既に前提条件が間違っている。
確かにこれまで守旧派がとってきた密室・金権主義は非難されてしかるべきである。だからといって、「守旧派=悪」と決め付けるのは、あまりに短絡的だ。彼らも正しいことを言うことはあるのだ。彼らの意見にもしっかり耳を傾ける必要がある。
麻生はこうも発言している。
「(田中に対して)おだてるばかりで誰も批判しないのはどうか。自分のすることはすべて正しいと思うのは危険だ」(6月7日横浜市自民党女性集会にて)
「小泉改革の足を引っ張るのは麻生太郎と言われる。今の状況は少々異常だ」
「批判や異なった意見を堂々と言えないと、戦前の翼賛政治や、全体主義、ファシズムと同じになる」(前述の福島県いわき市の講演会にて)
批判勢力をモラルという観点から潰すのは、批判勢力を金や数の力で潰した経世会とやっていることは同じである。現在の日本には、小泉内閣は正義で橋本派は悪、という図式が浸透しすぎているのではないか。我々は各人が自由な意見を出すことのできる制度が民主主義の基本理念であることを忘れてはならない。 
田中真紀子外相更迭騒動と政局を読む (2002/6)

 

政局の危惧と真偽の判断
アフガン復興支援国際会議での一部NGOの排除問題をめぐる田中真紀子元外相の発言に端を発した「言った言わない」の問題が、思わぬ大きな政局問題に発展してきている。小泉改革をめぐる問題が、単なる政治次元にとどまらない、戦後日本の経済・社会構造にかかわるだけに極めて注目してきたが、今回の田中真紀子元外相をめぐる政治の展開は、その根底をある意味で照らし出すものといえる。
政治経済を構造的に変えるには、それ相当の強く安定した政治基盤を必要とする。うたかたのような世論調査による内閣支持率を充てにすることは本来できないはずである。力強さと将来への持続性がない政権による構造改革は、いかに進めようとも、その結果責任を誰も負うことができないからである。小泉政権が2年後にも存続している保障はどこにもない。恐ろしいことである。次の政権は果たして何を言い出すのだろうか。これまでの政権がそうであったように、小泉政権もうたかたの政権であると見たほうが現実的であるはずだ。にもかかわらず、政権成立の当初から、何か絶対的な真理や正義を遂行するような政権の構えが演出され、マスコミもその雰囲気づくりに精を出してきたと言っていえないことはない。が、ここに来て、小泉政権批判が噴出し始めたようだが、そして、田中真紀子元外相が一端ついえ去ったかに見えたもののあたかもヒーローのように脚色されてきているのを見るにつけ、日本政治の危うさを深刻に感じざるを得ない。
あまりにもうたかたのような感情に流れていて、何が事実であり、何が虚偽であるのかさえわからない状態、また、我々国民は、何を持って事の真偽を確かめればいいのかさえ定かならざる状態にあることについて、一度じっくりと考えなければならないのではないか。時々の一時的な感情で理解できるほど政治というものは甘くない。世の中を変えるということは簡単なことではない。が、恐ろしいことには、世の中というものは、多くの感情的な風潮によって知らず知らずの間にとんでもない状態に変わってしまうものである。その変化に危惧するところがあれば、誰かがそれを指摘し、警鐘を鳴らさなければならない。世情の流れに掉さすことは容易なことではないが、世の識者には、本来その役割が期待されているのではないのだろうか。
田中真紀子騒動とその後の政局は、こうした問題の本質を結果的に明らかにするものであり、また、それに対する認識とそれへの対応の仕方によって、日本は重大な局面を迎える事になる。そうした思いから、身の程をわきまえず、これに検証と考察を加えることにした。我々国民が通常入手できる情報をもとに、いかに事の真偽を判断し、いかに理性的にあり方を考えるかということの実験として。
この小さな私の生涯の生涯のテーマは、ホームページのプロローグにも掲げました以下の課題です。昨今の日本政治の現状を見るにつけこの思いは強くなるばかりです。
新しい民主主義のシステムを求めて−道徳律から利害調整へ
個別利害から全体的利害へ=合意の形成
敵対関係から合理的調整機能の形成へ 
1.はじめに
ブッシュ米大統領の小泉政権への対応は、ある意味で象徴的であった。本当は日本のデフレスパイラルを心から心配しながら、表向きは小泉政権の構造改革を全面的に支持し、何ら心配のない同盟関係を演出して見せた。日本への批判は、ほとんどなかった。これは、私自身の権力というものの理解からすれば、小泉政権は、もはや批判に絶えられない程度までの弱体化に陥っていることの証明といえる。アメリカが強い批判をすれば、政権は持たなくなるのである。事態は深刻である。
さて、緒方貞子氏を共同議長として、成功裡に終わったはずの東京におけるアフガン復興支援会議。終わるや否や実に変な事件が発生した。一NGOの処理をめぐるトラブルが、しかもそのNGOも最終的には出席できたにもかかわらず、その蒸し返し議論が大きくなって、NGO問題をはるかに超えた次元の、小泉内閣の二枚看板の一枚、人気外相の更迭へと発展した。舞台演劇としては、一気に面白みが倍加してきた。本当の政治として、こうした世論の沸き方がいいか悪いかはともかく、事情に直接タッチしていない我々一国民は、何を基にして、それらのやり取りの真偽を判断していけばいいのだろうか。新聞解説にしても各種各様のなか、事実というものの不可思議さにたじろぎながらも、事の真偽を考察する訓練をしておかないと、いずれはとんでもない虚構性に落とし込まれかねない。そんな思いで、新聞記事をたどりながら、事の真偽に迫るとともに今後の政治的問題点を考察する試みをすることにした。今回の事件は、日本国民の今後にとって、それだけの重要性を持つものと考えるから。
そこで、今回の事件を取り上げ、以下のような試みを実験してみることにした。
1 .田中真紀子外相更迭にいたるやり取りの真偽の程を検証することを通して、小泉政権の政治的問題点を考察する。
2 .真偽の検証は、新聞記事など、私たち一般国民が触れることのできる情報の比較考量に、一定の基礎的判断を加えることによって、あくまで一国民として知り得る情報の中で考察する方法を用いる。
その理由は、これによって判断できないのであれば、国民に開かれた民主主義は根底から崩壊するし、新聞やマスコミの役割自体が、虚妄の上に成り立っていることになるからである。とはいえ、私自身は、この種の危惧をある種抱かないわけではないがゆえに、わざわざこうした手法をあえて採ろうとしているのかもしれない。
問題は、まず、1更迭に至る「事の真偽」について考察する必要がある。ついで、2田中真紀子外相更迭による小泉内閣支持率とその後の影響をどう見るか、さらに、3田中外相更迭の背景と意味するもの、その後の国会を中心とした展開を考察するということになろう。
流れはこうである。
1月21、22両日、日本で開催されたアフガン復興支援会議にNGOのピースウィンズジャパン(PWJ)が外務省が出席を許可するNGOから排除されたが、そのことが新聞報道で明らかになったことから、田中真紀子外務大臣の指示で、外務省は改めて出席を許可し、最終日に出席できた。これが「NGO排除問題」ということであるが、このこと自体は、外務省にとって体裁の悪いことではあっても、通常であればよもや政局に発展するような類の事件ではなかったであろう。問題は、鈴木宗男議員の絡みの有無にあった。
田中真紀子外相は、このPWJの排除に鈴木宗男議員の関与があり、そのことを野上次官や他の外務省幹部が自分に鈴木議員の名前をあげて指摘したと国会で答弁したことから、問題大きくなるとともに、政府与党内の矛盾として発展した。これについて、政府の調査報告書では、鈴木議員の介入はなかったということであり、田中外相は結果として「国会に虚偽の答弁」をしたことになった。
この段階では、田中外相は、かねてから更迭したかった野上義二外務事務次官の更迭のチャンスとして、そこにねらいを定めて国会で発言していたが、そのことが、結果として、自分自身の更迭の条件になってしまった。直前には、鈴木議員は、自ら衆議院の議事運営委員長辞任を官邸に伝えていたし、野上次官も辞任の覚悟をもっていた。が、田中外相は、野上次官更迭が成功すると確信していたようであった。逆転である。
次いで第二幕。田中真紀子外相更迭後の小泉内閣の支持率が急落し、世論調査の支持率の高さで政権を運営してきた小泉内閣の土台が揺らぎかねない状況が現出する。そして、田中前外相が国会の参考人招致質疑で、小泉総理を、総理自身が「抵抗勢力になった」というほどの厳しい発言が、多くの国民の共感をすら呼ぶという事態になってきた。一時は勝利の美酒を飲んだであろう外務省と鈴木議員は、いまや外務省改革の是非が問われ、鈴木議員は、自民党離党はおろか議員辞職にすら発展しかねない窮地に立ちつつある。小泉構造改革は、一方では、改革イメージの強化へ玉砕覚悟の突進をしかねない反面、基礎条件としてはもはや当初の改革路線は修正せざるを得ない状況下にあるといえる。デフレスパイラルとあいまって、まさにレイムダックの状況に陥ってきているとの評論は多い。
第二章は、すでに第三章にないっているのかも分からない。「NGO排除問題」に端を発した騒動は、今や外務省をめぐる鈴木宗男疑惑全般へと飛躍していき、まさに政局へと発展した。鈴木議員一人がそれほど悪いのか、問題はもっと深い政府・自民党と外務省の体質から来ているのかがいよいよ問われだしたのであるが、その与野党の攻守をみていて、どちらに采配が上がろうとも、なにか救いのない状況に陥りつつある感はいなめない。 
2.田中真紀子外相更迭の経緯 / 何が事実か、本当は何をどう理解すべきか。
今回の田中真紀子騒動の直接の問題は、あくまでNGO排除にかかる鈴木宗男議員の関与如何に関する外務省及び政府の見解と田中真紀子外相の発言との矛盾である。これに端を発して、或いはこうしたことが発生する底流は、本来事柄の真偽とは別次元の問題ではある。目的が善であれば、嘘をいってもかまわないということにはならないし、国政というものは、理性的に真実を明らかにして進められていくのでなければ、かつて言われたように、「劇場国家」として「激情でもって」揺れ動いていくあり方は、21世紀にはもうやめてもらいたい、国民をばかにするやり方はごめんである、ということだ。
しかし、いずれにしても、NGO排除をめぐる真偽と意味を探った上で、その底流及びその後の政局の展開についても考える必要がある。
まず最初、ここでは田中真紀子外相更迭の経緯についてみていきたい。
みていくに当たって、あらかじめ主な人物などについて触れておく必要があろう。
主な人物などについて
NGOの大西健丞ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)統括責任者
NGOというのは、non-governmentalorganizaitionの略で、非政府組織などと訳され、もともとは国連の場で、国連諸機関と協力関係にある政府以外の非営利組織を指すのに使われていた言葉が広まったもので、最近では、開発、経済、人権、人道、環境等の地球規模の問題に取り組む非政府・非営利の組織を指すのに使われています。日本国内のNGOの数は400以上あるとされている。
ピースウィンズジャパン(PeaceWindsJapanese)は、国際的支援を必要とする戦争や貧困による難民対策を主にした外務省からの助成金も交付されている団体で、今回のアフガニスタンでも活躍していて、外務省とも現地でかかわっていた。
NGOの活動は、日本そのものが対外的活動に関心が高くない中で、これまで一般的にはあまり知られた存在とはいえなかった。
また、非政府組織や非営利組織といった捉え方も、阪神大震災でボランティア活動が大きく寄与するまでは、これまた一般的にはあまり目にすることもなく、市民運動そのものには長い歴史があるものの、これまでの市民運動は比較的政治に関係しており、こうした昨今の捉えかたによる政治と別次元のいわば自立したボランティア精神による市民運動に対する一般国民の認識と関心の高まりはこれからの課題であるといえよう。
そこで、大西氏の1月18日朝日新聞での言葉であるが、民間と政府との意識の乖離というのはよく生じることであるが、公と私というものの立場の違いを承知しないとなかなかその真意はつかみにくいものである。一方的に、外務省サイドの狭量さとして受け止められているけれども、大西氏の政府に対するスタンスないし意識に問題なしと言い切っていいかどうかには若干の疑問は残る。
外務省
外務省は、公金不正事件をはじめこれまでベールに包まれていたある種の聖域の官庁として、特別なステータスの中で実にぬくぬくとしていた信じられない体質が露呈されてきていた。そしてそれが、日本外交の権威見識にかかわる領域の問題にまで深まっているように見受けられるようになっていた。田中真紀子外相でなくとも、人事、会計を軸とした外務省改革は喫緊の課題である。しかし、外交は、国の利害がぶつかり合っている現在、一日も手を緩めることはできない。省内問題にのみ目を向けているわけにはいかない。外交本来の仕事をしつつ省内改革を実行しなければならないのであるが、田中外相と元々の小泉総理の意識には、そうした面は弱かったのであろう。
さて、官僚は今や悪の巣のように思われているが、時の政権は、いかに責任を持つとはいえ、この10年来を振りかってみれば、変転の常にあり、ビジョンは示しても結果責任は全く果たせていない。官僚の弱体化と退廃は、政治の退廃から来ていることを忘れてはならないし、政治と政権が変転するとき、官僚をコケにして行政はならないといえよう。その意味で、外務省は、国家を担っているという強い自覚と規律にたって自己改革を果たす必要がある。
今回の騒動が、単なる騒動を超えて政局にまで発展した一因には、外務省の行政官僚としての基礎的な資質の問題があった。鈴木議員と外務省との関係がいかなるものであれ、外務省が自らの責任で対処するべきときに、外部の有力者の言を利用するなどということは本来ありえないことである。恐らく他の省庁であれば、いかに有力議員の圧力を受けていようとも、外務省として執行するべき事柄は、執行の段階では自らの判断として発言し行為するのはあまりにもあたりまえのことであったであろう。これだけをみても、外務省が省としての責任を放棄している様がわかるのである。
野上外務次官について言えば、田中外相と鈴木議員との関係が犬猿の仲であることは、あまりにも周知の事であり、田中外相の理解を得るために鈴木議員の名前を使うことなどあり得るはずはない。いかに外務省といえども、次官にまで上り詰める人物は、そこの心得なくしては絶対にありうるはずがないといえる。もし仮に、田中外相に鈴木議員の関与を言っていたとすれば、それは、何の益もないどころか、全てをぶっ壊す意図があったということで、正気の沙汰ではないことになる。
鈴木宗男衆議院議員(自民党北海道比例代表)
自民党総裁選に出馬した後に自殺した故中川一郎の秘書を努めたのち、衆議院議員になり、橋本派にあって野中広務元自民党幹事長の傘の下でその手足としてよく活動していた。北海道選出ということから北方領土問題とのかかわりが深く、対ロシアとの関係も含め、外務省とは深い関係にあったようである。最近では、衆議院議事運営委員長という要職についていたが、今回の騒動で、党対外経済協力特別委員長の役職とともに辞任している。
鈴木議員の外務省への関与と外務省の受け止めとは、極めて相対的な関係であり、このあたりの問題は、外務省の体質の理解との関係で一概には言えないものがあろう。外務省の体質が先か、鈴木議員の関与が先かの問題である。それとともに、鈴木議員の政治力が鈴木議員一人の力によるものではなく、自民党の要職を歴任し、しかも自民党最大派閥の橋本派の次代のホープとされていたことが根底にあるのは明らかであろう。
今ひとつ、PWJのアフガン支援会議排除に至る以前から既に鈴木議員とPWJの大西氏が直接幾度か会っているということからすれば、両者の関係では互いに基本的な問題点についてはわかっているはずであり、主として問題は、外務省の対応姿勢にかかっているものと思われる。
この人物は、田中真紀子外相とは対蹠的に、いわば地べたを這いずりながら努力に努力を重ねて今日の地位を築いてきたのであろう。その地位を築いた土壌が、自民党の古い体質の中であったところが不幸といえば不幸であった。
かつての自民党主流派などが、小泉・田中政権誕生以来、「抵抗勢力」とのレッテルが張られ、また、小泉・田中政権の影響で、自民党に対する支持率も大きく高まることから、全体的に鳴りを潜めている中で、あえて「抵抗勢力」としての悪役を買って出ていたところは、人によって評価の分かれるところであろう。この辺りも、今回の注意すべき点である。
田中真紀子外相
この人の解説は今や全く必要のないほどの有名人となってしまった。しかし、この人ほど、冷静に見なければならない人もまたないであろう。田中外相の父は、言わずとしれた故田中角栄元首相で、日本列島改造に代表されるいわばバブル期に頂点に達した土建国家の創始者である。政治家として頂点を極めるとともに、土建国家の領袖として財も成し、その財を田中真紀子は相続した。およそ庶民とは隔絶した生活にある。売りにしている主婦感覚に疑問なしとしない。
人気を得るための演出と政治的執行能力との間には大きなギャップがあるようであるが、これは、父であった田中角栄の傍で、いっかどの政治家たちを小さく、侮って見ていたことからくるのであろうか。努力して権力を築き上げた父の基本的な側面には何ら学んでいないようである。
人物的には、多分傍若無人の部類に入るのであろうが、この人が主婦層を始めとした多くの国民に受ける面は、実力ある政治家をコケ落とすところにあるのであろう。
虚言癖は多分そのとおりと思われる。虚像と実像をきちっと判断することが必要であろう。
いずれにしても、政治家たるもの、政治的執行能力抜きに、評価を下すことはできないが、そうした面とかけ離れた評価をこれほど受けた人物は他にないであろう。
今日、先に見た鈴木宗男という地べたから這いずり回って苦労して地位を築いてきた人物が悪の象徴のように扱われ、かつてはより大きなスケールではあっても多分同様の方式で頂点に達した田中角栄を父として持った恵まれた人物が正義として扱われる状況に、矛盾のような何かを感じざるを得ないのはひがみからなのであろうか。
飯島勲総理秘書官
小泉総理の演出は、多分この人がやっているのであろう。これほど代議士と一体の代議士秘書も珍しいのではないかと思われる。単なる総理秘書官というよりは、小泉総理そのものといえる程なのではないかとさえ思われる。が、田中外相更迭後、新聞や週刊誌にでて解説めいたことを述べるなど、秘書としての分をわきまえない面が現れたのは、それだけ小泉総理が窮地に立ったという認識があるからなのであろうか。
講談社文庫で『代議士秘書』を出していおり、なかなかの役者と思われるが、日本の舵取りにかかわる政策的な見識はあまりないように見受けられる。
福田官房長官
父は故福田赳夫元首相で、一見サラリーマン風で、ちょっととぼけた感じは父親似かもしれないが、強面の小泉総理の下で官邸を仕切っている状態や、田中外相とのやり取りを見ていると、なかなかに芯の強さを感じさせる。田中外相が、外務官僚とドタバタやっている状況のなかで、実質的な外交を官邸が行うことの役割を担っていたといわれる。
淡々とした語り口や物事の進め方は、田中外相とは好対照の人柄のようだ。
小泉純一郎総理大臣
日本の戦後外交史上でもかつてなく重要な時期にあって、外相がその任にないことが分かりながらも、そもそもの小泉内閣誕生の最大の功労者である田中真紀子議員の人気が内閣支持率の重要なファクターであることから、外相を更迭することなく、騙し騙し活用してきていたのが遂に限界に達したということなのであろう。外交に携わらない外相という不名誉な記録をつくった責任は、小泉総理自身にあるともいえよう。
しかし、更迭による被害はまさに想像以上であったといえよう。なぜ、今まで更迭できなかったのかが改めて理解できると言うものである。 
更迭に至る「事の真偽」について
「お上の言うことはあまり信用しない」という言葉をどう理解するか、はそもそもの入り口だろう。表面的には、そこから「NGO排除問題」が起こり、それを捉えた野上降ろし、さては大逆転の田中真紀子更迭、さらにまたまた大大逆転の小泉内閣への大打撃と外務省と鈴木宗男議員への壮大なる疑惑へと発展した。常識的には何とも不可思議な大転回である。が、それにはそれぞれの大いなる思惑がぶつかり合っていたのであり、本当は、一言半句の言葉の問題ではなっかのだろう。けれども、目的は何であれ、嘘によって問題を進めるやりかたほど国民をコケにしたやり方はない。許されない。小さな嘘は、やがて大きな嘘になり、そして、国民は所詮は与野党に操られるだけの存在にされるのである。氾濫する情報の中から、数少ない真実の情報を見出す心得は訓練されなければできないものである。幾たびでも繰り返したいのは、政治は決して甘い、単純なものではないということである。
まず、ピースウィンズ・ジャパン統括責任者大西健丞氏の発言の受け止め、次いで田中外相の発言、さらに外務省と外務省をめぐる諸々の関係を見た上で、田中外相更迭の経緯を検証していきたい。
NGOピースウィンズ・ジャパン統括責任者大西健丞氏の発言をどう理解するか
この発言を理解するには、次の事柄が焦点となる。
焦点
・「お上の言うことはあまり信用していない」という表現をどう理解するか。
・PWJと外務省との関係及び鈴木宗男議員との関係並びに大西氏のスタンス
・NGOの理解とピースウィンズ・ジャパンについて
(1)「お上の言うことはあまり信用していない」という表現について
これは、1月18日朝日新聞「人」欄に掲載された記事の中で使われていた表現で、この表現は、3月4日の参院予算委員会参考人招致での答弁でも本人が認めているので間違いはない。この表現は、人によって評価が真っ二つに分かれている。民間人の自由な発言でそのことを問題すること自体が外務省や鈴木議員の専横であるという捉え方が大方であるが、他方で、NGOとはいってもPWJの場合は、政府(外務省)から相当なる資金援助を受けていて、政府を批判できる立場にないのではないかという見解である。が、参院参考人招致での本人の答弁では、そこでいう「お上」は、国連であったという。そうなると、この表現は寸足らずもいいところで、その紹介記事を書いた朝日新聞の記者ともども、あまりにも思慮に欠けているといわざるを得ない。朝日新聞について言えば、その紹介記事の見出しは「アフガン暫定政権とも渡り合うNGO代表」というのであり、これなど、お愛嬌として見過ごせばそれでいいのだろうけれども、当のアフガン政権がこれを見ればどう思うのだろうか。引っかかれば引っかかるあまりにも誇大な表現である。こうしたところからマスコミによる虚像というものが形成されるのであろうその見本のようなものである。
参考人招致での大西氏本人の答弁からは、いわばこの問題は肩透かしを受けた感じがあるが、他方で、国連のことを「お上」といったのであれば、これこそが大問題である。
NGOとは、もともと国連憲章によって位置付けられた各国政府から独立した民間団体なのであり、国連自体の内情にいろいろ問題があろうとも、とりわけ難民対策などは国連との関係抜きにはNGO活動はありえないのである。大西氏の個人的な動機や思いの中にいろんなものがあってもいい。けれども、マスコミに登場する以上は、社会的存在としての人物となるのであり、そうした面での未熟さは相当なものと言えなくはない。が、それはある意味で仕方のないこと、今回のような経験を通して成長していくものであろう。問題はそうなると朝日新聞にあるといえる。新聞は社会の公器であるという。記者には、当然のこと社会的な判断力がなければならない。ある人物を取り上げる場合、その人物が社会的に未成熟であればあるほど、その人物との接触の中で、結果的な教育というものがなされなければならないし、新聞に登場させるときには、誤解の生まれないように表現については慎重かつ的確でなければならない。単に本人が使った言葉であるからといって、短絡的にその言葉だけを強調して使うことはあってはならないのである。結果としてこういう事が分かった。
大西氏本人の発言から「お上」云々は肩透かしに終わったとしても、それ以前から既に外務省や鈴木議員との接触があることから判断して、相当な意識のズレはあったのであろう。そうしたこれまでの経緯という文脈からすれば、「お上」は、外務省・日本政府を指していると見なしても決して不自然ではない。
次に、復興会議出席拒否の問題では、大西氏は1月30日記者会見に臨んで、「鈴木代議士の圧力で外務省が政策をねじ曲げたことが最大の問題だと思う」(読売1/31)と述べ、外務省とのやり取りも披瀝している。参考人招致でも改めて繰り返されている。しかしそこには、外務省の局長といえば高官であるが、その辺りの立場の人の本来のあり方というものは理解されていないので、やり取りはやり取りとして、関与があったかなかったかの正確な証明にはならない。あくまで、大西氏本人の認識としてそうであったということに過ぎない。大西氏が、出席拒否の原因が鈴木氏にあると認識したこと自体は、当該外務省高官としては成功したということになるのだろう。この点については次に述べる。
今日一つ大西氏の発言で取りざたされているのは「外務省はだれも北部同盟の有力者の電話番号を知らない」(読売1/31)というもので、これなどは雑談での自慢話しならともかく、報道関係者に言うべき事柄ではない。いざとなればいかな外務省でも、知り得る方法はあるであろうから。これについては実際は外務省も知っていたという説もある(上坂冬子『正論』2002.4)。これなども、未熟最上の何ものでもないが、こうした「お上」をあげつらう態度はあまり建設的な意識によるものとは思わないが、通常の社会システムのなかで働いていない、自由をモットーとした方々にはありがちな事かもしれない。
(2)外務省との関係及び鈴木宗男議員との関係並びに大西氏のスタンス
外務省は当初、他の幾つかのNGOとともに復興支援NGO会議の参加許可をPWJにも内示していたが、19日になって、宮原中東二課長から参加不許可の方針を伝えた。不許可を決定するにあたり、同日、重家俊範中東アフリカ局長は、1月18日朝日新聞のインタビュー記事で信頼関係が損なわれたと指摘し、会議への参加辞退を要請したが、受け入れられなかったという経過をたどった。(2/8「政府の調査結果」読売2/9要旨掲載)
他の情報がないので分からないが、恐らくアフガンで活動するNGOが他にあまりなく、団体の活動上の性格も含めて外務省はPWJとの接触を深めたのであろう。大きな流れとしてはPWJもその要請に貢献してきていたものと思われる。が、節々に見える短絡した発言に代表されるような体質に外務省としてもそれなりの不和感を抱いていたのであろうが、その辺りは、外務省一般というよりは、接触するここの職員や政策レベルの高官などによって種々の違いはあるものである。したがって、大西氏も、「外務省内にも良心がある人を何人も知っており、その人たちと連携していきたい」(京都夕1/30)と述べている。その辺りが、外務省批判よりも鈴木批判に傾斜する要因となる面も考えられる。
鈴木議員は、幾度か大西氏またはPWJを呼んで直接話をしている。そこで通常の常識で考えられることは、直接あって話しをするということは、極めて陽性かつ明瞭であるということである。圧力をかけるときには、通常の常識からすれば、自分は表面には現れないのである。その点、きわめて明快な態度を鈴木議員は取っていたことからすれば、指導的に直言はするが、排斥までは考えていないということになる。が、本当は、鈴木議員は相当な思い上がりがあると同時に、意識は相当な小人物であるということかも知れない。直接あってしかも排斥するということになれば、自分が不利になることぐらいは、ちょっとそれなりの経験のあるものなら常識的に分かっている事柄だから。
そこで再び外務省の問題になるが、「鈴木さんが記事に怒っており、参加を認められない」と1月20日未明に外務省担当者が電話をかけた(読売1/30)ということ。こうしたことは、本当なら、漏らしてはならない内情を伝え合うほどの深く良好な関係が大西氏とその担当者に間にはあるということで、こうした内輪話は公の場では通常検証材料にはならない。真偽は不明なのである。外務省として公に伝えるときは、それが高官であろうと現場の担当職員であろうと個人の思いは抜きである。そこに外部有力者の意向を明示することなど本来ある筈がない。そこで考えられるのは、手っ取り早い説得材料として、鈴木議員の「意向」を活用するということ、こうしたやり方は、担当者が自分の責任を回避し、相手に悪く思われず、しかも結構勝負が早い場合が多いというそれなりの経験から、後先のことを考えずにその手法を使ったのかな、ということは私などの最初に気づくことである。兎に角、件の担当者には行政責任への自覚がないといえる。しかもその御仁がどうやら中東アフリカ局長であるというから驚きである。外務省や政府の公式見解から、鈴木議員の関与によって出席拒否を行ったというようなことは、どんな場合であってもあり得ない事柄である。それを認めたとき、それだけで外務省と政府は崩壊することになる。こうしたことは何も政府や行政に限ったことではなく、およそ組織というものは、組織の責任範囲では、どのような経過があろうともすべて結果責任を負うことによって成り立っているのである。ま、近年、こうした結果責任を負わない政治家や官僚が多すぎるようになったという情けない傾向にはあるが。
(3)NGOの理解とピースウィンズ・ジャパンについて
ここで、NGOとピースウィンズ・ジャパン(PWJ)に関する一応の理解をしておきたい。
NGOは、1945年6月26日に成立した国際連合憲章第71条で、社会経済理事会がその権限内にある事項に関係ある民間団体と協議、取り決めを行うことができるという条文を根拠として発展してきたもので、憲章の日本語訳で単に「民間団体」となっているが、英文ではそれは「non-governmental or ganizations」である。それを今日ではより正確に「非政府組織」と訳すようになり、またその訳にふさわしい実態を我が国も備える時代になってきたといえる。国連社会経済理事会では、1950年2月の288号決議によって具体的方向性が打ち出される。
NGOの性格の第1は、国家利益に拘束されない、国家の束縛から自由であるということ、その意味で「非政府組織」であるということ。第2は、その「非政府組織」であることの意味がかかわってくるが、その活動は国境を越えた、すなわち国を超えた連携のもとで活動を行っているということ、その限りで、組織が国際的団体であると国内的団体であるとは問われていない。が、第3は、それには「営利組織」と「非営利組織」とがあるため、通常は営利を目的としない「非営利」組織ということである。
こうした「営利を目的としない」「非政府組織」の国際的な活動は、国家間の矛盾の解消されない中で、時代とともに役割の重要性を備えるに至っている。「非営利・非政府組織」で国家利害に拘束されないということは、元来相当なボランティア精神と経済的基盤がなければ成り立たない、実際半端な組織ではないといえるが、日本国内に存在する400からのNGOの多くはその組織の身の丈にあった自立した活動を行っているようである。
これに対して政府では、外務省がその支援を通じて、国家として容易に執行できないレベルの国際協力の実を挙げるために、資金的な援助も行っているようであるが、それが単なる資金援助から外務省の委託事業の受け皿化への方向も見受けられるようになってきているのではないかとも思われる。民間への外部委託の方向は、今の政府の基本方向であり、事の是非を越えて兎に角外注できるものは外注にという傾向の中に外務省もなければ良いがという気はするが、この辺りはまだ確証はない。
そこでPWJの性格であるが、くわしいことはわからないが、PWJがHPで公開している2000年度会計報告によると、収入総額約7億6千2百万円の内会費収入が約3億6百万円、国連等助成金約2億3千1百万円、政府助成金・補助金5千3百万円となっている。そこで気になるのが、3億円の寄付金の恐らく大部分が一特定企業の関係者によるものであることと、国連等助成金も外務省からの資金の還流であろうということである。これについて、2000年1月22日の日経新聞で「官を超えるNGO外交」の表題でPWJを紹介している中で、「資金は草の根運動に支えられている。大阪に本社を置く化粧品会社の販売代理店の女性三千人が売上の1%を寄付する「1%クラブ」の活動を展開している。年間3億円をピースウィンズに寄付するパワーを誇る」とある。恐らくもとはこれによって支えられてPWJの活動は可能となったのであろう。また、政府助成金に関しては、1999年6月14日の毎日新聞で「政府NGO補助、拡充へ顔見える国際貢献の一環」という表題の記事で、ユーゴスラビア・コソボ自治州紛争の和平合意による難民支援が本格化するのを契機に、NGOの海外支援活動への費用補助制度を拡充する方針を紹介している。それまでの制度では、NGOが外務省に申請した事業費の4分の3で、1500万円以内、人件費は対象外であったが、欧米の政府助成も参考にして、人件費の一部も補助対象とするとともに、補助金額の上限も引き上げる方向で検討しているということ。また、当面するコソボ難民支援では、2億ドルの政府拠出を表明しており、初の試みとして、7000人収用の難民キャンプ運営計画を進めている「ピース・ウィンズ・ジャパン」に対して「この2億ドルの中から、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を経由して、活動費用を実質的に肩代わりする方針だ」と紹介している。恐らくこの二つが以後のPWJの性格を形作っていったのであろう。この二つの新聞記事は、共にPWJのHPに掲載されている。 
NGOとPWJに対する若干の評価の紹介
NGOやその一つとしてのPWJは崇高な活動体である。が、何事もそうであるが、その実際上の実態を知らずして、個々のNGOやPWJをはなから正義の代名詞として使うことはできない。まして、そこから発せられる情報を無条件に正しいものとして受け止めることも正しいやり方ではない。ここでは、PWJのあり方に対する疑問を指摘している論評などを紹介することにした。
[上坂冬子]「未熟な人が起こした無用の混乱」(2/2産経「正論」)
雑誌「正論」4月号でも曽野綾子との対談「田中眞紀子外相更迭騒動をきる!“清く貧しい”NGO信仰にだまされるな」に同趣旨のものがさらに突っ込んで語られている。
田中真紀子元外相に関して、「外相としては未経験すぎる」、「この人は組織改革を目指すといいながら、組織の何たるかについて無知だったことが決定的な欠陥だった」、「向こう見ずのキャラクターは、不況で停滞しがちな人々の鬱積を晴らし期待を抱かせたりもしたろうが、社会は無手勝流で動くものではないことくらい大人なら誰でもわきまえている。」、「要するに田中真紀子外相更迭の一件は、職業分野として未経験、人間として未成熟な人が不相応なポストに就くとどうなるかという好例で、日本をゆるがすような大問題であろうはずがない」となかなか手厳しい。
そして、PWJの大西健丞氏について、「もし私が外務省の担当者だったら会議のオブザーバーとして、この人を除外するだろう」と、1月18日の朝日新聞の記事を読んだ上で断定している。その理由として、「彼は『外務省はだれも(アフガンの有力政治家の)携帯電話番号をしらなかったから』自分がお膳立てしたとか、『お上の言うことはあまり信用しない』などど発言している。/前者は現地NGOとして当然の役目だし、後者は政府に警戒心を抱かせる発言だ。しかも記事によれば彼が『官僚や経済人の背中を押して』政府拠出の資金プールをつくり、これがアフガン支援に活用されたとある。つまり彼はNGO活動をつづけるために、政府の資金をアテにしていたことになる。」、このように「一方で(政府に)資金を求め、他方で『信用しない』と公言するのは卑怯である。田中外相が官僚組織と対立してことを進めようとして失脚したのと同様、大西氏も政府と対立して活動を進めるのが正義であるかのように考えているとしたら幼稚すぎる。」と述べられている。
雑誌『正論』の対談ではさらに具体的に問題が指摘されている。かの大西氏は、アフガン復興支援会議からPWJとともに排除されたジャパン・プラットフォーム(JPF)の議長でもあるようなのですが、このJPFは、NGOと経済界、政府が一体となった支援組織で、純粋なNGOではなく、政府や経済界などからの資金を集める組織で、その資金は傘下のNGOの活動に使われている。大西氏は、この資金を集め配分する側とその配分を受ける側との両方の代表者となっていることに対して、「こういうことは、常識のある人ならしないし、まわりも許しません。外務省も何をしているんでしょう。」(曽野)と大西氏の基本的なスタンスと外務省のNGOに対する対応姿勢の問題点を指摘している。
すなわち、NGOの基本はあくまでボランティアであり、政府から自立したものであること。また、外務省も、JPFの大部分の資金は外務省からのものであり、そうである以上政府協力組織としての性格があるのであろうけれども、現実には、JPFの表決権の6人中の1人でしかないことに対して、現在の政府協力組織としての性格と純粋のNGOとしての活動との混在状況に対する整理を明確にするべき必要性が指摘されている。「人身事故が起きたり、殺されたり、誘拐されたりする」ような「ときは政府が補償することにして、海外で本当に命がけでやれるような組織をきちっとつくり直すべきだと思います。税金を使う以上、さっきあなたがいったGCO(政府協力組織)を発足させて現在のNGOのあいまいさを払拭しなきゃ無理だと思う」(上坂)と。
また現実のNGOの堕落についての指摘もある。「NPOという組織をつくったときから堕落が始まったんです。」(曽野)。NPOというのは、ノン・プロフィット・オーガニゼーション(非営利組織)ということであるにもかかわらず、それが一種の職業のようなことになりつつある状況について、「この方(大西氏)、どうしてお暮らしなのか。どこから収入あるのか。」と、また、「昔、緒方貞子さんが、『NGOデモするか。NGOシカできない。そういうデモシカNGOが増えてきた』とおっしゃていた。……職がない。金がない。そんな人たちがアゴアシの面倒を見てくれて、小遣いをくれるNGOへ入った。当時はまだNPOがなかったの。いま猫も杓子もNPOよ。」(曽野)と、なかなか手厳しい批判が展開されている。「政府から一切お金をもらっていないNGOと、国民の税金をもらって資金の足しにしているNGOとはキッチリ分けなきゃいけませんね。」(上坂)。もっとも、これには先に触れたように外務省の対応の仕方という問題もあるが。
[小米朝流]「NGOに税金使うな」(産経2/16「小米朝流私的國際学」)
『週刊ポスト』連載の「ビートたけしの21世紀毒談」(2月22日号)から「あの問題のNGO(非政府組織)の大西って代表、ちょっと太めじゃねえか…どうもいい生活してるんじゃねえかって思わせるものな…よけいなお世話だって叱られそうだけどさ」「NGOは、実際は持ち出しのボランティアじゃなく、しっかりと国民の税金を使ってる団体だってのがよくわかったんだよな」というところを引用し、次のように言う。
「私は目からウロコが落ちた。NGOと言えば奉仕のイメージが強かったけれど、実情は経費の半分を外務省が出していたんだ。なのに、名前は非政府組織。何だかややこしいなあ。慈善だと思ったら、偽善だった?/もちろんNGOのなかにも的を射た活動をしている尊敬すべき団体はある。でも、それはほんの一部じゃないかな。だって、NGOと称する団体は六千を超えると言われているのに、問題は一向に解決しない。/この際、政府はNGOに金を出すのをやめようよ。そうすれば、どこの団体が真のボランティア精神で活動しているかが見えてくる。」
乱暴すぎる言い回しではあるが、ことの本質は得ていて、NGOそれ自体の自立性、政府との関係、政府のNGOの活用の仕方など考えるべき点を提示していると言える。
[現地有力者が証言「NGO」大西代表パキスタンで飛び交う「悪評」](週刊文春2/28)
「総力特集真紀子・宗男対決全深層」の一翼として収められているが、なにかためにするようなねらいをもった記事の感じがしないではないが、これによってPWJの組織実態や性格は窺うことができる。
ここでは、PWJは、もともと資金の潤沢な組織で、アフガンの現地では、必ずしも現地の実情とマッチしていない状況が指摘されているが、それらの点については他に情報がなくいかんとも判断しかねるが、極度に治安の悪い中での活動の仕方や政府の対応の仕方など考えるべき点を提示していると思われる。が、PWJ設立に際しての大阪に本社を置く特定企業「エルセラーン化粧品」との関係などはJWPの性格を知る情報である。 
田中外相の発言の真偽と意図
一NGOの取扱が大変な政局に発展していった原因は、田中外相の発言にあるが、その発言の何が事実で何が嘘なのか、またそれは単なる事実の指摘なのではなく、一定の意図があってのことなのか、そこのところが明らかにならないと、素朴に言葉だけを追うことにはならない。で、田中外相の発言の真偽と意図を明らかにするには、次の事柄が焦点となる。
焦点
・田中外相の発言内容とその真偽
・田中外相の意図野上次官更迭への執念
・菅民主党幹事長との「連携」
(1)田中外相の発言内容とその真偽をめぐって
事の発端は1月24日衆議院予算委員会の質疑で、田中外相が、外務省がNGOを排除した問題について、『野上義二外務事務次官から鈴木宗男衆院議運委員長(自民)の意向に従った結果だったとの報告を受けている』(MainichiINTERACTIVE1/24)と答えたことにある。さらに具体的には、菅直人民主党幹事長の『(NGOの出席を拒否した)諸般の事情は鈴木氏の『口利き』なのか』という質問に対して、「『21日の電話でも、今朝の予算委前にも、次官が具体的に名前を言って認めていた』と述べ、鈴木氏の関与を野上次官が認めていたことを明らかにした」(前掲同)ということ。これに対しては、当然野上事務次官も、鈴木議員も否定している。
鈴木氏は記者団に対して、「『言及しただけで問題になるなら何もいえない』と説明したうえで、外相の言動を批判し」(前掲同)ている。
野上次官は、「同日、記者会見し、『私から具体的な名前を挙げて、大臣に報告した事実はない』と否定。『参加をめぐって私をはじめ外務省の現場の人間もそういう形の接触を持ったことは一切ない。一部の政治家からの圧力で参加拒否したというのは全くの誤りだ』と、鈴木氏からの圧力を全面否定、逆にNGO団体による『信頼関係を損なう言動』が原因と、NGO団体側を批判した』(前掲同)のである。
こうした外務大臣と外務事務次官との真っ向からの事実関係の違いに対して、自民党の大島理森国対委員長は翌25日午前に田中外相から事実関係をただすも、田中外相からの説明は国会での答弁の域をでなかった。が、そのあと、田中外相は、記者団の前で、「私は一生懸命仕事をしてるのに…」と涙した。その時にも「21日に重家俊範・中東アフリカ局長や野上次官と話した時も、特定の議員の名前を挙げ話しがあった』と主張。24日朝の打ち合わせについては『鈴木宗男さんのことで話をした。役所が言っていることが正しく、国会議員は正しくないんですか』と語った」(前掲1/25)。その夜、小泉首相は「涙は女性の最大の武器」といって、物議をかもしたが、これもその評価は分かれる。なお、この段階では、重家中東アフリカ局長は、この日の「(衆院)予算委で『多くの国会議員から会議について意見、照会はあった。これは通常のことだ。鈴木議員からもNGOについての全般的な意見はあったが、個々の参加、不参加について具体的な話はない』と述べ」(前掲1/25)ている。
1月28日の衆院予算委員会では、田中外相が重家中東アフリカ局長と野上事務次官がともにNGO参加拒否問題で鈴木氏の名前を挙げたと答弁したのに対して、重家局長と野上事務次官はともにそれを否定した。が、重家局長は、一端否定した後に「大臣の答弁の通りかと思う」と答弁を修正、さらにその後には再び否定するなど答弁は二転三転した(前掲1/28)。
こうしたことから委員会は、28日夕から夜にかけて空転し、野党が政府に統一見解を求める。政府は、福田官房長官が政府見解をまとめ、同日夜に衆院予算委理事会で示すが、野党はその内容に納得せずに反発し、景気対策のための平成13年度第二次補正予算案は野党欠席のまま衆院予算委で可決される。
政府統一見解要旨は、(1)NGOの参加決定にあたり、特定議員の主張に従ったことはない(2)外相と事務当局の答弁の相違があるが、引き続き関係者の申し述べを聴取し、事実関係の確認に努める―などで(前掲1/28)、基本において、特定議員の関与はなかったというものである。
政府は、翌29日朝、官房副長官の阿部晋三と古川二郎によって、田中外相のいう、1月24日の衆院予算委に臨む直前の外務省勉強会で野上次官から鈴木氏介入の言及があったかどうかについて、外務省の野上事務次官と関係職員から事情を聴取したが、「外相の答弁に沿う証言は確認できなかった」という。その調査結果を文書化し、同日夕、大島自民党国対委員長が野党側に示し、衆院本会での補正予算案の採決に応じるよう求めるが、野党は拒否し、補正予算案は、野党欠席のまま衆院本会議で可決され、参院に送付される。
その間、田中外相は、菅民主党幹事長と接触、政府の外務省幹部の事情聴取について「全体として了解した覚えはない」と伝えていた。
こうしてみると、当初田中外相と野上事務次官の見解の違いが、重家中東アフリカ局長の「大臣の答弁の通りかと思う」との答弁があったことで、外務省自身の発言に疑義が生じる事態となるが、官邸サイドの調査の結果、外務省事務サイドから田中大臣に鈴木議員関与の発言はなかったことになり、官邸と田中外相との見解の差となるが、政府見解には当然当該大臣の意見も含まれているものであり、その違いが生じることは、外務大臣としての適格性にかかわることになる。そこで、「綿貫(衆院)議長は29日、政府が与野党に示した調査報告書について渡辺恒三副議長と協議。外務省幹部がそろって鈴木宗男衆院議院運営委員長の介入は『なかった』と回答したとする報告書の提出は、『政府として、外相が虚偽の答弁をしたと認めたに等しい。衆院として閣僚の虚偽答弁は看過できない』との結論に達した」として、福田官房長官に「異例の『善処』要請を」するに至る。(京都1/30)
以上のような田中真紀子外相と外務省事務当局及び官邸の見解の違いの分析は後のこととして、本来このようなことは政府内部の問題であり、それを外部的に拡散させるということは、組織の長たるものの基本的な資質や能力にかけるのみでなく、組織の長としての責任性にも欠けるものであるということは基本的に考慮しておく必要がある。なぜこのようになったのか。一NGOへの対応自体ではとてもではないが政局に発展する事柄ではない。にもかかわらずそうなったのは、そのことを意図して利用する考えがあったからであるといえよう。
(2)田中外相の意図野上次官更迭への執念
NGO一般論ではなく、あくまでPWJという特定の一NGOの取扱いが今回の問題であり、しかもすでにそれは解決済みであったことからすれば、通常の考え方からすれば何も問題化する必要のないものである。にもかかわらず、わざわざ委員会答弁で鈴木宗男議員の関与を「外務事務次官の発言」を利用して問題化することに、田中真紀子議員の思惑があったとするなら、以後の展開はすっきりと理解できる。
鈴木宗男議員は、小泉―真紀子政権の異常なる人気の前に橋本派をはじめとする旧来の自民党主流派が沈黙化しているなかで、いわば悪役を買って出ていた存在であり、田中外相とは対立的な関係にあったといえる。また、田中外相の外務省掌握がままならない中で、野上事務次官や外務省幹部との関係もうまくなく、外務省人事を自分の思い通りにしたいという意思は元々明瞭にあった。そのための、格好の材料として、NGO出席拒否問題が使われたというのが、おおかたの新聞などによる解説から浮かんでくる田中真紀子外相の意図である。鈴木宗男議員の関与を顕在化させつつ、その実は、野上事務次官の更迭をはじめとする外務省人事の掌握である。
1月30日の朝日は、「田中氏は、……参加拒否問題を突破口に、民主党と連携する形をとりつつ、野上義二事務次官の更迭機運を作ってきた。」「NGOの参加拒否は、明らかに野上事務次官ら外務官僚の判断ミスだった。対立関係にある鈴木宗男衆院議院運営委員長が絡んでいたことは、田中氏にとって勝負をかける格好の材料と映ったようだ。舞台づくりは成功したかに見えた。/ところが田中氏は、鈴木氏の参加拒否への関与について、特定の場を明示して、外務省幹部から話があったと言い切った。たちまち幹部からの反論にあい、国会の混乱とともに自民党の更迭工作も始まる。かけは失敗した。」とし、1月31日読売は、「小泉が田中更迭を決めた背景には、田中が野上の更迭をあくまで求める余り、民主党幹事長の菅直人と連携を深めた事情もあった」(「外相・次官更迭検証」)とし、1月31日の毎日は、「野上氏のクビを取ろうとした外相と、一気に『真紀子包囲網』を敷いた自民党、外務官僚の衝突が頂点に達した時、小泉純一郎首相や外相、自民党幹部ら主役たちはどう動いたか。」を追い、「田中氏は、対立を深める野上氏と黒白をつけるようと一気に賭けに出た」が、「『返り討ち』に遭った末の予想外の解任」(「検証外相更迭」)、「(野上次官の対応は)『言語道断』――。田中氏は28日の衆院予算委員会で、これまでにない過激な表現でNGO排除問題での野上氏更迭に照準を絞った。同日の国会の混乱を受けて、田中氏の狙い通り、政府・与党内には野上氏更迭論が浮上した。勝利はほぼ田中氏の手中にあるように思われた。」などである。
これに対して、野上事務次官のほうでも「今回の騒動について『鈴木さんとNGOとの戦いに名を借りた僕のクビ取り劇。真紀子さんの作戦だったが裏目に出た』と、田中氏への怒りを隠さなかった」(毎日1/31「検証外相更迭」)ようで、自分が田中外相のターゲットとされてきたという認識であった。
1月28日の衆院予算委員会での田中外相の答弁では、「『所掌事務に専念して実をあげるのに協力するスタッフを求めていくのは当然で、トラブルが多いのは好ましくない』と述べ、野上次官らは不適任だと示唆した」(MainichiINTERACTIVE1/28)というように、この日に野上次官追い落としの最高潮に達し、現実に更迭の気運も一部にはあったということで、田中外相自身は功を奏したと考えていたようであった。それだけに、29日深夜の自分自身の更迭は意外かつ心外であったのであろう。
(3)菅民主党幹事長との「連携」
単に事実を述べるだけならば、何も野党幹事長と連携する必要はないにもかかわらず、菅直人民主党幹事長と「連携」していたことも明らかになっている。28日の政府統一見解は、当然外相見解もそこに含まれるものであり、29日には一方では、政府「統一見解について『内容を了承している。自分の国会答弁と矛盾していない』と述べるなど、慎重な態度をとり始めた」(読売1/30)にもかかわらず、他方では「菅氏と接触。外相に不利とみられる外務省幹部聴取結果について菅氏が『了解したのか』とただしたのに対し、外相は『全体として了解した覚えはない』と述べた」(京都夕1/30)というように、菅幹事長との接触の深さを感じさせる。
菅幹事長は、そのころ「ある戦略を練っていた」という。それは「外務省職員の一人が鈴木に必要以上の便宜を図っているとの情報をつかみ、この職員の個人資料を取り寄せ、田中とも連携して追及の準備を整えていた」(読売1/31)という。菅サイドでは、田中外相と連携して、鈴木議員と外務省を追及し、それを梃子に政局に発展させることなどは当然視野に入っていたのであろう。その動きは野上次官にも反映し、「野上の決意の背景には、外務省バッシングに向けた田中と菅との連携もあった」(読売1/31)ということで、野上次官のほうでは「田中を辞任に追い込むことが自らの務めと思い定めていたフシすらうかがえる」(読売1/31)というまさにバトルの状態である。ちなみにここでいう「外務省職員の一人」というのは、その後明らかになった佐藤優元主任分析官のことであろう。
田中外相サイドからの菅幹事長との関係については、前項で1月30日の朝日や31日の読売の解説記事からすれば、あくまで野上次官の更迭を求めて提携したのであり、政局にする意思はなかったものと思われる。
ここから明らかなのは、田中外相、菅民主党幹事長、野上外務事務次官それぞれに思惑を持っているということであり、鈴木宗男のみが大人しく静観しているという図である。第三者から見て誰が事実を語っているかが分からないのも当然であろう。語るものに最初から意図が働いているのだから。元々の食い違いである、田中外相と野上次官との発言の違いはなぜ生じたのか、そのことの理由が明らかにならないと本当のところは見えてこないのであるが、両当事者は見解を変えない限り、状況や環境、それぞれの人物、立場というものから判断せざるを得ないのであるが、すでにおおよその推測はできるにしても、お互いに根本的な弱点を持っており、官邸サイドの調査報告にしても、28日段階の報告の第1次案から最終案に至る過程で、第一次案にはあった「特定の議員と特定のNGOに言及したことはある」という部分が青木自民党参院幹事長の立場への配慮として削除されるというややこしい問題も生じさせている。 
外務省の問題性
今回の一連の経過を見て強く感じるのは、外務省という役所の特異性のようなものについてである。外務省が自らの仕事を遂行するにおいて、誰の、また何処からの関与や介入が在ろうとなかろうと、その仕事の遂行責任は外務省自身にあるのであるが、そうした点の責任性の自覚の問題、これはその後の展開にも強く表れている。また、外務省の責任と外務大臣の責任とは別個のような感じも田中外務大臣を見ているとするのであるが、では、外務大臣とは一体なんなのか、単なる一個人なのかというおかしなことにもなりかねない。外務省という行政組織とその組織の長としての外務大臣の関係がおかしいときには、それは政府の問題として総理大臣が何らかの指導や判断をしなければならないが、こうした問題についてはほとんど整理されることがなかった。
元来、外務省の問題は、外務大臣の問題であり、外務大臣の問題は内閣の問題である。したがって、国民の立場からすれば、外務省の問題は時の内閣の問題にほかならないが、役人集団としての外務省と政治家としての外務大臣、そして官邸の三者をそれぞれ別個の問題としてマスコミでも取り上げている。およそ内部事情に過ぎない問題を、大げさに取り上げることが、結果として、外務省の問題から、外務大臣や官邸すなわち総理大臣の責任を回避させる役割を担ってしまっていることになっている。
ここでは、外務省としての問題性を明らかにする上での主な点について整理していみることにした。
(1)NGO出席問題に関する外務省の責任性について
まず、沢山あるNGOの内どのNGOを会議に出席させるかどうかという問題は、いうまでもなく外務省が自らの判断で決めることである。介入や関与があろうとなかろうと、それをどう受け止めるかは外務省自身の責任性の問題であり、よしんば介入を受け入れたとしても、受け入れた以上は、外務省は自らの責任においてその後の対処はしなければならない。
政治問題化してしまったからそうではなくなったが、元来、NGOの出席如何の問題は、その団体自体に極めて特別な政治にかかわる問題があるのでない限り、いちいち外務大臣や官邸の指示を仰ぐというようなレベルの事柄ではない。ここでの問題は、いったん内定を伝えた後にそれを取り消したことによるその後の波及効果を十分測定できていなかったことと、その取り消しにあたって、鈴木宗男議員の名前が使われた節があること、さらに、それをこともあろうに、省の最高責任者である外務大臣が蒸し返したこと、加えて外務官僚の高官ともあろうものが、鈴木議員関与の如何について肯定するような答弁を一度はしたこと、などであろう。
繰り返せば、いかなる関与があったにしても、出席問題を決めるのは外務省であり、外務省が諸々の条件を考慮して、最終的には外務省の責任で決定するものである。当然のこと、外務省が自らの判断で決定したということになり、それに伴う責任の一切は外務省自身にある。それに対し、仮に、外部圧力によって、出席問題を扱ったということになれば、その時には、外務省が自己決定能力と自己責任能力を放棄したことになり、外務省の省としての地位は崩壊することになる。したがって、外務省としては、仮に鈴木議員の強力な圧力があったとしても、それを公式に認めることは絶対にあり得ないという性質の事柄である。政府の調査結果で、そのことは明らかであり、そこでは鈴木議員の関与は否定されている。にもかかわらず、中東アジア局長が委員会答弁で、田中外相の発言に会わせてしまったのは官僚としては全くの失格で、自己責任能力の欠如を示すもので、事の真偽とは別に、こうした人物は信頼できないことになる。こうした文脈でいけば、鈴木議員の関与は、外務省の役人がPWJを手っ取り早く断る理由に使ったという見方に十分な信憑性があることになると同時に、そうした使われ方をしやすい鈴木議員の日頃の不徳の存在ないし脇の甘さも指摘することができる。この辺りの問題について、1月31日読売新聞の「外相・次官更迭検証」では、1月20日未明に、外務省担当者が「鈴木さんが記事に怒っており、参加を認められない」と大西氏らに電話をかけた、や「鈴木は今回、直接、外務省に掛け合った訳ではなかったが、重家らが鈴木の意向を忖度し、参加拒否を通告したのだ」、「もともと今回のNGO排除問題は、『ピースウィンズ・ジャパン』の統括責任者・大西の言動に反発する外務省内の空気を受け、重家らが鈴木の“虎の威を借りる”形で参加拒否を伝えた―というのが真相だ」、「重家の判断ミスで外務省が責められているのに、重家が保身に走っているように野上に映った」という分析にも端的に触れられている。
そこで外務大臣の鈴木議員関与発言は、自分が外務省という行政組織の長としての自覚を持たない、組織の責任者としての不適格性を遺憾なく示すものであるが、しかもそこに十分なる思惑がもたれていて、外務省中枢部への攻撃が目論まれているということになると、あれだけのキャラクターである、省内はハッチャカメッチャカになるのはあたりまえで、その場合には、外務省対策は官邸、すなわち小泉総理の仕事となる。
(2)機関としての外務大臣と外務大臣である一政治家との関係
田中外務大臣と野上事務次官との見解の違い、厳密にいうとそれは見解の違いというような大層なものではなく、単に「言ったのか、言わなかったのか」、ただそれだけのことである。しかもそれは、外務大臣以下の外務省内の内部問題であり、それを国会の場で外務大臣自身が本来の建前もわきまえずに暴露的に発言してこだわる、こうした場合には、外務省内の幹部と第三者は一体どのような反応をすればいいのだろうか。マスコミでは面白おかしく対立を煽って囃し立てていたようであるが、当事者としては余りにも常識はずれの展開に、恐らく困惑と怒りの渦中に入ってしまったであろうことは想像に難くない。一度外務省内に身をおいてみて考えて見れば、今回の外務大臣の対応と、それをコントロールできなかった官邸の対応に、どうしようもないやり切れなさを感じざるを得ないことが理解できるはずである。
さて、外務大臣は外務省のどういう位置にあるのであろうか。案外分かりにくいのが、政治家個人としての外務大臣と、外務省の最高責任者としての外務大臣という二つの面をどう理解するかがある。外務大臣は、最高責任者であるから、その人の発言には、何を置いても外務省の役人は従わなければならないのであろうか。外務大臣の発言は、全て、外務省としての意思を表したものなのであろうか。外務大臣に就任していても、政治家としての一代議士の発言には、個人的な見解や、選挙区向けの政治的発言など、いくらでも外務省にかかわらない発言はある。そこで必要となってくるのは、外務省の機関としての外務大臣と、外務大臣の肩書きを有している一政治家としての立場の整理された理解、自覚を当の外務大臣がいかに心得ているかである。その心得のない場合には、外務省の組織は組織としての体をなさないことになってくるし、そこのところを第三者は指摘しなければならない。閣僚の一員としてと同時に外務省総体の意思から離れた発言は、それは、外務大臣の肩書きは有していても、外務大臣としての発言ではなくなることになる。そして、そのことを理解しない場合には、外務大臣としては適格性を欠くということになる。
外務大臣が外務省の意思を表さなくなったとき、事務次官以下はどのような態度をとっていくことになるのだろうか。恐らく、その実情を官邸に訴えるしか方法はないのであろう。そして官邸がそのことを理解し、然るべき手を打たない場合には、外務省は組織としては崩壊過程を歩むことにならざるをえなくなる。
今回の外務省と外務大臣の対立劇を見ていて不思議に思えたのは、副大臣が全くといっていいほど組織的な役割を果たし得ていなかったことである。よくわからないが、省議というものが、外務省と外務大臣との間では、いかにも組織的に積み上げられているようには見受けられないことを証明しているのではないか。副大臣の顔が対外的には見えていなくとも、省内の意思形成には当然然るべき役割を果たしていなければならないにもかかわらず、大臣と次官以下との対立劇に対して、報道を通してみる限り、何らの役割も果たしえていないのである。
(3)鈴木議員と外務省、そして官邸との関係
鈴木議員と外務省との関係は、実際のところ、小泉政権になってから微妙に変化してきていたのであろう。小渕政権から森政権にかけては、自民党内の有力外交メンバーとして自民党が認めていただけではなく、政権自身も鈴木議員を活用してきていた。外務省と鈴木議員との関係が深まるのは当然のことであり、そのこと自体に従来であれば何ら問題があるわけではない。
しかし、役人の世界での最後の聖域とでもいうべき外務省にも、その閉ざされた世界ゆえの不正経理の実態が明るみに出、その実情把握と外務省改革が小泉内閣の課題ともなっていたことから、その辺りの問題から、小泉政権下の外務省と鈴木議員との関係にも変化が生じるようになってくる。また、小泉政権が、驚異的な国民支持率による小泉−田中内閣であったことから、橋本派を中心とした従来の自民党主流派幹部の小泉政権への態度があいまいにならざるを得ないなかで、鈴木議員が小泉政権への意見を明確に表明していたことも、政権と鈴木議員との関係として押さえておかなければならない。しかも、田中外相にもとでの外務省の対応に対しては、鈴木議員は多分に批判的であり、田中外相との関係は軋轢状態であった。こうしたことと、不正経理に表れた外務省の体質上の問題、そこには官邸への機密費上納問題もあるが、そうした問題の解明よりも、鈴木問題へ展開していったこととに何らかの意図的なものがあったとすれば、それこそ許せないことであるが、そこら辺りの問題は不明である。
さてそこで外務省の問題であるが、NGO排除問題以外で鈴木議員が外務省から問題として指摘されているものの全ては、いわば外務省と鈴木議員との蜜月時代の産物である。外務省という組織を守るという大儀のためであろうとも、人間としての次元でこれを見た場合には、あまりのあさましさに恐ろしい気がする。同じ穴の狢の“裏切り”なのであろう。そうした中で、召還にも応じない東郷和彦前オランダ大使や佐藤優前国際情報局主任分析官の態度には、人間レベルでの信頼性を感じることになるといえば不謹慎なのであろうか。
鈴木議員と外務省との関係は、つまるところ、与党自民党と外務省との関係、さらには政権と鈴木議員との関係ということに尽きるのである。そこには小泉政権の誕生が深くかかわっているものの、小泉政権そのものには、実際上の具体的な戦略も手立てもなく、全くの無策でありながら問題の暴露化への道を進んでいったことになる。そこには、組織の破壊はあっても新たなる構築への兆しは見えない。まして、本来の外交上の対露、対中、対韓国、北朝鮮戦略は崩れる一方に見える。鈴木議員問題によって、4等や2島に関係なく、ロシアとの関係は振り出しに戻った感がある。
今回の問題を通して、外務省と外務大臣との関係は、その当事者に自浄作用がなくなっていることを白日の下に晒すことになったが、そのことに対する小泉首相とその官邸は、何らの指導性を発揮することもなく、外務大臣を更迭することだけに終わったのである。 
作為と小さな事実のなかで
既に指摘してきたことであるが、今回のNGO排除問題は、それ自体は政局に発展するような大層な問題でなかったにもかかわらず、結果的には一大政局に発展し、次々と役者が舞台から消され、遠からず「そして誰もいなくなった」という芝居がかった状況に本当になりつつあるが、そうなるには、やはりそれぞれの「思惑」があったからである。小さな事実に対する、「飽くなき思惑」とでもいおうか。
それぞれの思惑を改めて振り返ると、重要なポイントは
・田中真紀子:野上次官が、NGOのPWJ出席拒否に鈴木議員の関与があったことを述べたということによって、それを否定する野上次官の更迭をもくろんだこと、
・小泉首相が、既に田中外相の限界を感じながらも人気の高さゆえにためらっていた更迭をこの事件をきっかけに実行すると同時に、鈴木議員に対して表裏の対応を見せ、鈴木議員追い落としの条件を作ったのではないかということ、
の2点に集約されるが、とりわけ、小泉首相の思惑が重要であったことが、時間の経過と共に明らかになってくる。
すなわち、鈴木議員に対する官邸サイドのスタンスは、政府の二度にわたる調査報告に明らかなように、鈴木議員の介入はなかったと結論づけており、その点についてのぶれはない。今回の一連の経緯に対する鈴木議員の動きはほとんどなく静かに見守っているというスタンスであったが、結局、衆議院議事運営委員長辞任を表明することになる。そして田中外相の更迭となる1月29日夜、小泉首相は、鈴木議員に電話で「あなた一人をやめさせるようなことはしません。」と告げたという(毎日1/31「検証外相更迭」)。しかし、田中外相更迭後2月1日には、参院予算委員会で、鈴木議員に関して「外務省は鈴木議員を気にしすぎた。そこを厳しく反省すべきだと外務省に強く指示しているから今後、鈴木議員の影響力は格段に少なくなるだろう」、「与野党共通にどんな意見を役所に言っても結構。見識を持ってそれを判断するのは役所だ」(日経2/2)と答弁しているだけでなく、さらに2月4日の衆院予算委員会では、「首相は『変な議員の変な声に田中前外相は気がついた』と鈴木氏批判をさらに強め」る(朝日2/5)のである。こうなると、NGO出席問題では鈴木議員の関与はないと一方では公式見解を出しながら、他方では、その根本要因は鈴木議員にあるといっているようなものである。問題を収めるのではなく、拡大しようとする意図が明確にあるとしなければならない。小泉首相のこうした姿勢が、単なるNGOの取扱問題を超えて、鈴木議員のその後の疑惑問題追及への誘いとなっていったということは振り返ってみれば明瞭なのではないだろうか。 
3.内閣支持率とその後の影響
今回の田中真紀子外相騒動の結末は、骨格だけでいえば、外務省も官邸も「鈴木議員の関与・介入はなかった」として、それを政府の公式見解としているにもかかわらず、田中外相が「関与があった」と政府とは逆の発言に国会の場でこだわったことに対する田中外相更迭処分であった。野上次官と鈴木宗男議員はその余波に過ぎないといえよう。しかし、小泉首相は、田中外相が外相としての適格性を著しく欠いてきたこれまでの経緯の中でも更迭してこなかったのはその人気の高さゆえであったのと同様に、今回も更迭の理由をあいまいにした。すなわち、補正予算可決を前にした国会運営混乱を回避するためという理由で、しかも関係した当事者三人の「三方一両損」というような情緒的な対応であった。それは、一言でいって、更迭してなお、田中真紀子外相の人気に阿ねていたのであろう。そして、更迭となった田中真紀子の対応にも多少微妙なところはあった。しかし、個人的にも小泉、田中ともに世論の高支持率を受けていた小泉−田中政権が、単独の小泉政権になり、しかも権力争いでは敗れたものの、田中真紀子には更に「正義」の風が吹くことにより、小泉改革そのものの真偽にも疑問がもたれるようになるなどによって、小泉内閣の支持率は一気に落ち込むことになる。
直後の各新聞社等による内閣支持率を前回と比較して示すと次の通りである。
                前回
1/31テレビ東京/56%   86%(前年12月)日経掲載
1/31-2/1読売新聞/47% 78%(1/19,20)
1/31-2/2産経新聞/48% 71%(前年7月)
2/2-3京都新聞/58%    80%(前年12月)日本世論調査会
2/2-3朝日新聞/49%    72%(1月)
2/2-3毎日新聞/53%    77%(1月)
1/31-2/1産経Web/28%
概ね20〜30ポイントの下落である。「超高率の支持が普通の高支持に戻ったと見ることもできる」(毎日社説)或いは「異常から『適正値』に」なったという見方はそれ自体としては一般的な見方であったろう。問題は、その後どうなるかであったが、2002年6月現在で概ね40%前後の支持率であることからすると、じりじりと漸減しているもののよく持ちこたえているとはいえよう。これについて、毎日新聞の社説(2/5)では、「支持率の急落は小泉改革に影響を与えざるを得ないだろう」、それは「自民党内には改革に強い異論があ」り、「中央省庁には『各論反対』が根強」く、したがって「改革推進の最大の原動力は世論の支持であったからだ。」とした上で、「世論の支持状況からも小泉改革は分岐点を迎えたといえそうだ」が、「改革が停滞するとの懸念が内外から出ている」と指摘し、「小泉改革は具体化の段階に入る。掛け声だけでは進まない。その過程で古い政治との妥協を続けるなら『消極的期待』は簡単に『期待はずれ』へ転じて、支持が先細りになることだけははっきりしている。50%前後の支持率をラストチャンスととらえた方がいい。」と述べているのは「小泉構造改革」の何たるかは別にして、一般的な見方を代表していよう。以後そうした見方に従うような経過をたどってきていると一応いえるだろう。
すなわち、田中外相更迭後の小泉内閣は、当初の構造改革を毅然と進めること以外にその後の政権維持の保障はないということであるが、それに対して、青木幹雄自民党参議院幹事長が「国民の支持率と党内の支持率とが合わせて100%であることが政権安定の条件」であるというような趣旨から、小泉政権も国民世論の支持が低下すればその分自民党内の支持を高めなければならいと指摘していて、小泉政権を自民党内根付かせて融和していく意図を明示している。田中外相更迭から現在にいたるまでの数か月間は、まさにこの辺りをゆれながら進んできたといえるのであろう。 
4.小泉政権の今後と併せて / 結び
小泉政権は、もともと内向きの政権で、国際的な視点や感覚を大切にしてこなかった。加えて、田中外相は、日本の国益を担った外交よりは、私的思惑と外務省の内部問題にのみかまけて、激動する世界の潮流の中で、日本がいよいよ取り残されていくような状況を生み出してきた。
マスコミや国民世論にしても、旧来型の自民党体質と小泉政権の突出的な手法による乱暴な政権運営との軋轢に興味を持ちすぎ、事の本質の重要性を大切にすることを怠ってきた。改革か抵抗かといういかにも安っぽい二者択一論に日本中が沸いたのであるが、このような安っぽい政治論議は、高まれば高まるほど政治そのものがゆがんでくるのである。間違った関心なら、ないほうがましである。
小泉内閣が掲げる基本課題は「構造改革なくして成長なし」という。実はここのところが一番問題で、「構造改革」とは一体なんなのかについて、小泉首相自身の思いは、当初自ら語っているところからすれば、「構造改革」そのものの理解は、橋本内閣のものと基本的には違いはなく、異なる部分は「郵政三事業の民営化」であるといっていたように、小泉首相自身の主張は郵政民営化でしかないのである。とすると、郵政民営化以外の政策は、橋本派などかつての自民党主流派との戦いを前提にしたなかでの多分に成り行き的なものであるといえる。
この場は、日本の構造改革を論じる場ではないけれども、戦後高度成長を成し遂げていく過程は、同時にその成長に応じて世界に対して国を開いていく過程であった。しかし、経済的に国を開くということは、国内産業の激変をもたらすだけに、方向性としてはそうでなければならないのは当然でありながらも、実際上には、激変を緩和し、国内体力を築くなどそれへの備えを整えつつ進めていく、それが政治というものであった。中曽根内閣によって大きく舵は切られていたが、橋本内閣の「構造改革」によって政治改革と共に資本自由化へのかなり決定的な舵は切られたのである。以来今日まで、経済の落ち込みによって挫折したはずの橋本行革が敷いた路線を基本的には歩んできているに過ぎない。省庁再編成や官邸のリーダーシップ性、直接金融から間接金融への、すなわち資金調達の銀行から証券へのシフトの転換、財政投融資制度の漸進的な解消、さらにはペイオフ実施など現在それによって混乱の極みにある問題はほとんどが橋本内閣で打ち出された問題である。しかも、それらの問題は、自民党政権を倒した連合政権においても踏襲され、そして、小渕、森内閣を経て、今、小泉内閣が担っているのである。こうしてみると、「構造改革」そのものは、その是非を超えて、与野党共に担っていて、基本的には歯止めになるべき勢力は一部政党を除いては与野党ともにないといえる。あるのは政治的リーダーシップ争いである。
考えてみるとあまりにも奇妙だったのではなかったか。民主党が小泉構造改革を支持し、改革の速さを競おうというかと思えば、与党である自民党の主要な勢力が「抵抗勢力」に擬せられて小泉政権とあたかも対立しているかのような図式化が図られてきた。これではまともな政治ができるわけがない。自民党の総裁が自民党の主要な勢力と対立関係にあり、「自民党をぶっ壊す」という。そういう言葉だけが踊るような政治からの脱却には、マスコミ界の冷静な分析が要求されるはずである。
政治を預かるということは、とにもかくにも我が国の日常的な経済的社会的生活を安定、向上させることにその能力と責任が問われることになる。日常性は知らないが、とにかく将来のために激変承知で変革を進めるというようなことは、政治の世界では許されない。政治と経済との関係は、経済的激変を緩和するために政治があるといっても過言ではないのである。既得権益との関係で、改革者が「善」で、改革に対する抵抗者が「悪」というゆうような単純な善悪論で政治を進めるとき、そこには国民を愚弄したファシズムの匂いが漂ってくるのである。既得権益にしろ、新しい時代への転換に容易についていけなくなりつつある産業にしろ、そこのはそれによって生活している多くの国民があり、その現在ある姿を観念で否定して無視することはできない。現実を変えることの意味と困難さ、かえるに当たっての備えを考えるところにこそ政治があるし、時間はかかってもそこから初めて改革は地に付いたものとして進んでいくものである。
現実に進行するデフレへの政策力のない内閣に、戦後50数年にして立ち向かうべき世界へ向かっての真の開国への構造改革などでき得るはずはない。小泉内閣になって特に感じるようになったことに、結論が先にあるということ。結論を導き出すに当たっての過去の経緯と十分なる現状分析に欠けていることである。アイデアを多用した結論についていけないものは全て「抵抗勢力」なのであろうか。与野党を含めて、今や我が国は大きく揺らぎだしている。舵取りがなくなってきたのである。
改革路線の起点ともなった中曽根改革の時には相当な論議となっていたように記憶している。が、橋本行革では、その内容をめぐってはあまり議論は沸かなかった。橋本内閣は、経済を読み誤ったにしても、それによって改革路線を挫折させる選択をした。今思えば、賢明だった。しかし、現実にはそこで打たれた布石が、その時にはあまり気付かれなかったけれども今や大きな影響をもち、私たち国民はそれに振り回されている。小泉改革は、一見国民に語りかける姿を見せながら、実際上は問答無用の進め方であり、本当は日本の進路についても幾つかの選択肢があるはずであるにもかかわらず、選択肢は提示されず、国民の総意形成上の努力はない。民と政・官の対立を醸成して、民の一部の意見を、或いは結果として官の意向を生かす方向になっていて、民本来の状況把握やその全体的な意向は汲み取られていない。
このつたない草稿は、新聞を中心としたマスメディアから、政治を中心とした事柄の真偽に何処まで迫れるかをテーマとした。かなりの不確かさを感じてはいたものの、結論的には、テレビなどと違って、新聞からは、丁寧に読めばまだまだそれ相当のことが分かり得ることが確かめられたように思う。しかし、構造改革を例にあげたように、事の本当の経緯や本質について理解するには、かけるところが多いのも事実である。その点では、総合月刊雑誌に期待しなければならないところは大である。
我々国民が、愚民として扱われないために、心して、一つ一つの事柄について、表面的な“言葉”と、比喩に惑わされることなく、事実を事実としてきちっと認識することによってこれからのあり方を自ら判断していく訓練を一刻も早く始めることが寛容と考える。これが、田中真紀子騒動を通しての、そしてまた、小泉構造改革のもたらした教訓ではないのだろうか。劇場国家の政治的演劇をサッカーのW杯と同じようなレベルでみるのではなく、悲しい現実ではあるが、政治と経済は、つまるところ自ら考えるしかないということを、教えているのである。そして、それにはテレビとは違って、新聞類は、自分自身の視点を持って丁寧に読めばという前提条件がつくが、まだ十分活用に値するのである。 
 
日本的思考

 

日本人の陥りやすい「東西文明対立史観」
戦前昭和史の悲劇を理解する上において最も重要なポイントは、対支那外交及び満州問題をこじらせたのも、軍の統帥権問題さらには天皇機関説問題を政治問題化したのも、基本的には政治家の責任だったということです。もちろん。この時代を主導したのが軍部だったことは間違いありませんが、政治家が党利党略に走らず、軍におもねらず、国家利益を代表する政治家としての自覚と先見性を持って行動していたら、これらの問題はよりスマートに解決できたはずです。
対支那外交及び満州問題については、幣原の方針の方が正しかったと私は思っています。それは、安易な東西文明対立史観に陥ることなく、アメリカとの関係調整をする方向で進められていたからです。できたら、日英同盟の破棄ではなく、それを日英米同盟に進化させる方向で拡大できていればベストだったわけですが・・・。また、統帥権問題は、政友会の森格等が党略上海軍をたきつけて引き起こしたものであること。天皇機関説問題は貴族院が無責任にも右翼に迎合し、また、政友会がこれを倒閣に利用しようとしたことから政治問題化したものでした。
ところで、天皇機関説問題がなぜ政治問題化したか、ということですが、それは要するに、天皇の位置づけについて、それが法の枠内に止まるものか、それともそれを超えるものかという認識が曖昧だった、ということです。前者は、いうまでもなく明治憲法の規定するところ、後者は教育勅語によるものです。美濃部達吉も検察の取り調べでこのことに気づき、後者は「法を超えたもの」であることを、”汗をふきふき”弁明したといいます。つまり、天皇という存在の「精神的・象徴的」性格と、「法的」性格の違いを、美濃部も思想的・論理的に整理できていなかったのです。
伝統的な天皇制では、前者は政治的独裁者の規定ではなく、日本国民の一種の「無私の精神」を象徴するもの。それ故に国民の尊崇を集めうる(=即民去私)となっていた。後者は、名目は天皇としながら実質的な政治的責任は全て補弼者が負うとするもの。これが伝統的天皇制の日本的二権分立のエッセンスだったわけです。これを、10月事件以降、皇道派が統制派の行動を「天皇大権を私する」ものと非難するようになった。確かにこれはまっとうな批判だったわけです。それと同時に、彼等は軍内の「身分」的人事に強い不満を持っていた。(それが彼等の尊皇思想における「一君万民平等」の意味だった)
そうした主張を実現するのに、彼等は、二・二六事件で、それを「君側の奸」を取り除くということを名目に、政府重臣を暗殺するというクーデター行動に出た。これが理解しにくいところで、つまり、統制派に対する攻撃ということなら、重臣ではなく統制派幕僚を襲うべきだったのに、彼等はリストに上げただけで、ただ片倉衷を偶発的に拳銃で撃っただけだった。そこを石原完爾に乗ぜられ、カウンタークーデターを食らうことになったのです。
また、天皇がどうして皇道派青年将校に同情を寄せなかったか、ということが問題とされますが、天皇にしてみれば、当然のことながら、皇道派が軍の統制を破壊するような行動をエスカレートさせることは認められない。もちろん、それまでの軍の独断行動も苦々しく思っていた。それは統帥権の総覧者としての立場からも当然のことで、また国務の総覧者としての立場からも当然だった。まして、天皇の国務総覧の補弼責任を負う重臣らを暗殺するなどという行為を認めるはずがない。
明治維新の場合は、尊皇派は天皇を”自由”にできたからなんとかなったが、明治憲法下の天皇は統治権を総覧しているのだし、統帥については天皇は彼等の最高指揮官だから、その意思を無視するわけには行かない。このあたりの時代の変化を、皇道派の青年将校たちは全く読めていなかった。北一輝の場合は当然判っていたはずですが、皇道派下級将校の「革命的エネルギー」をバックとしていましたから、彼等を理論通りに動かせなかったのでしょう。その負い目が、彼をして皇道派青年将校に殉じさせる結果になったのだと思います。
つまり、皇道派VS統制派という問題は、まず軍内部の問題としては、実力主義に基づく人材登用ができなかったということにあります。また、幕僚将校らの行動が、特に張作霖爆殺事件、三月事件、満州事変、10月事件において、「天皇大権を私する」ものであったことは事実ですから、これを皇道派が非難するのは決して間違いではありませんでした。統制派はこれを持ち出す皇道派の動きを「利敵行為」であるとして苦々しく思っていましたが、「弱み」でもあったので何とか彼等を懐柔しようとしたのです。
で、なぜ彼等は二・二六事件において、皇道派は統制派を直接の攻撃対象とせず重臣らを襲ったかということですが、その根本的な理由は、その時代認識において統制派と共有するものがあったからです。つまり、政党政治や議会政治否定、「神格化」した天皇の下における、軍主導の一元的国家体制の樹立、資本主義から社会主義的統制経済への移行、自由主義・個人主義の排撃ということでは一致していたということです。だから、資本主義自由主義の現状維持勢力である重臣らを暗殺することで、軍首脳に「取り入ろう」としたのです。
そうした「思惑」のもとで重臣らを暗殺することを、「君側の奸を除く」という思想にもとづいて正当化し、それでも天皇を味方に付けられると思ったところに、彼等の錯誤があったわけです。要するにそういった思想的幻想による自己絶対化に陥ったところに、客観的にものを見る事ができなくなった原因があったのです。
もし、彼等が本当にこうした軍の抱える問題点を解決したかったなら、繰り返しになりますが、重臣暗殺というクーデターに出るべきではなかった。そんな行動にさえ出なければ、彼等の言い分はそれなりの正当性を確保することができたでしょう。あるいは、天皇の同情を買うこともできたかも知れません。といっても、これはいわば「ないもの」ねだりで、先に紹介したような軍内の時代認識を彼等も共有していたことが、彼等の言い分の正当性を全てぶち壊しにしてしまったのです。
その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。こうして、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。
この展開はまるで南朝鮮が従軍慰安婦について、能書きを言い出した経緯とよくにています。
従軍慰安婦問題と河野洋平氏の関係については、秦郁彦氏が『慰安婦と戦場の性』で次のような指摘を行っています。
河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧等による等、本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」と「当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とが重複する記述になっており、募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるものとなっている。
河野談話の問題は、政府の調査報告書では募集の主体を「業者」と明示しているのに、河野談話では消えている――つまり主語が落ちている点だと、秦氏は指摘しています。
当時官房副長官だった石原信夫氏は、「第一次調査では募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで納まると思った」が、「慰安婦の証言」(真偽不明)があり、「関与を認めただけでは決着しないと思った」「彼女たちの名誉が回復されるということで強制性を認めた」「”総じて”というのは河野さんのご意向が文章になった」「事実よりも外交的判断を優先させた」と語っています。
当時の日本政府は「これでおさまる」と考えたわけですが、やがて日本国内の反体制派と呼応して日本に国家賠償を要求する運動になっていったわけで、そうした政治判断が甘かったわけです。その後「女性のためのアジア平和国民基金」が設けられましたが、「韓国では、見舞金を受け取ることに批判的な世論のため、ほとんどの元慰安婦は見舞金を受け取らず、韓国政府が認定した元慰安婦200人中、受け取ったのは7人に止まったまま」(wiki「アジア平和国民基金」)だそうです。
外交問題では、日本的な「相互懺悔告解方式」は通用しないということです。事実論はあくまで事実論として、論理を貫徹させておかなければならない、ということですね。韓国も日本と儒教的伝統において似たところがあると思いますが、その過剰な「大義名分論」からする攻撃精神は、日本人とは相当に違っているようですね。といっても日本にもそれに似た人たちが随分増えているようですが・・・。
皇道派、統制派といった見方とは別のものが必要だと見ていますが、気力がありません。
元に何か別なものがあります。
先に申しました通り、皇道派、統制派というのは実は思想的な対立だったのではなく、士官学校卒業後、陸大に進学し幕僚将校になった者に対する、隊付き将校(陸大を出ない限り出世の道が閉ざされていた)の人事上の不満に端を発する、明治維新の脱藩志士をモデルとした倒「幕僚」運動だったのです。本来なら、軍も学歴に関係なく実力主義に基づく人材登用をすべきだったのです。米国がそれをやったように・・・。当時の軍は極端な学歴主義でその弊害が大きかったのですね。
つまり、先に言及したように、思想的には両者の違いはそれほどなくて、そのことは尊皇思想の理論的指導者であった平泉澄が二・二六事件を全く容認しなかったことでも明白です。平泉はおそらくこのクーデター事件で天皇がそれを支持するとは全く思っていなかったのでしょう。というのは、彼には皇道派青年将校のような統制派に対する被害者意識はありませんでしたから。これが平泉の尊皇思想に対する支持が両派にまたがり得た理由です。といっても、さすがに平泉は二・二六事件後警戒されましたが・・・。
今年の夏、目黒にある大川周明の墓をお参りしました。複雑でしたね。
大川周明については、彼が「東西文明対立史観」に陥ったことが、最大の問題だったと思っています。実は、彼は平泉などと違って、日本歴史の解釈ははるかに実態に即していて、観念的な「現人神」尊皇思想にはほとんど陥っていませんでした。この点は北一輝も同じで、大川の『日本二千六百年史』は大変優れているしおもしろいです。この当時の日本の最高知性を以てしても、この「東西文明対立史観」に陥ってしまったのです。次回これについて詳しく論じたいと思っています。
なお、この問題は、現在問題になっているTPP問題にも影を落としているような気がしますね。先の慰安婦問題で述べたように「事実を事実として押し通す」外交交渉力を持たないと言う事もあるのでしょうし、その反動として、いたずらにアメリカ「陰謀史観」に陥るということもあると思います。戦前の場合、こうした史観に陥りさえしなければ、もっと柔軟かつしたたかに支那問題や満州問題を処理できたはずですが、これは、今日の日本の政治家にも至難なのですから、戦前の日本の政治家にこれを期待するのは”野暮”ということなのかもしれませんね。 
狂人と賢者を分ける線  
〈「自己義認(自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神、」を設定し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくり〉
統合失調症を上記のようなものと解釈するなら、
「統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い」と言い得ると思います。
また、「社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか?」とも言えると思います。その社会の未来イメージが明快でメンバー間に共有されている場合は大変能率的ということですね。
問題は、その未来イメージが不明な場合、どういう手順でそれを創り上げ実行に移していくか、ということですが、お説の統合失調症では対応が難しいのではないかと思われます。(私がおっしゃっていることをよく理解していないのかも知れませんが)
ただ、イノベーションの意味を「企業者が行う生産諸要素の新結合」とするなら、まあ「何を作るか」は分かっているわけで、その品質や、生産方法、販路、原材料調達、組織づくりなどにおいて革新的改善を加える、ということですから、確かにそれは先に述べたように能率的に行えると思います。で、ここに異常な結果を生み出すことになる閾値があるとすれば・・・という問いですが、生産活動ではなく政治活動を対象とするなら、前エントリーで述べたような閾値?は存在するとは思いますが・・・?
なお、「夢前案内人」さんの前エントリー「“個” の思想は欧米礼賛なのか」も読まさせていただきました。お説については私も同意見です。ただ、「プロテスタント病」の定義についてですが、本来、プロテスタンティズムとは「信仰義認」であって「自己義認」ではない、つまり、「義人なし」が基本で「人が義とされるのは信仰のみ」ということです。といっても、現実には「この主張により自己義認の連鎖が打ち破れるのは、カトリックとの緊張関係がある場合に限られる」とのことで、そういった緊張関係を失いやすい環境に置かれた場合は、「プロテスタント病」といわれるような症状が出ることになるのです。
まして、それが近代化と共に東アジアの儒教圏にきた場合、特に日本の場合は「生まれながらにして本性=人間性が備わっている」と考える、つまり「義人のみ」の世界ですから、「プロテスタント病」に対する免疫がない。それ故に、伝統的に「去私」が自己修養の目標とされてきたわけで、大正デモクラシー期のように西洋思想が一般大衆に強い影響力を持った時代には、「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」が社会の主導権を握るようになるのです。これに対する反動が、昭和なのですね。
で、「そうならない社会を目指すためには、真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付ける」必要があるのですが、「義人のみ」の世界ではたしてこれが可能か、ということになると、難しいということになる。しかし、ここで参考までに申し上げますと、山本七平によれば、平家物語における倫理規定は「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」という「施恩・受恩の倫理」だったらしく、おそらくこれは、現代においても、日本人の倫理感を無意識的に支えているものではないかと思われます。
といっても、キリスト教も結局、「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きる」(ガラ5:14) のですから、日本人が「人間性を信じる」のは決して悪くない。むしろ有利と言えるかも知れません。実際、上記の「恩の哲学」は「汝の隣人を愛せよ」に昇華する機縁を持つような気もします。といっても、これは共同体における個人倫理であって、利益社会における秩序原理は、契約(=法)と、その下における権利・義務関係であり、日本の組織に求められているのは、身内の談合よりコンプライアンスを重視する、ということだと思います。これは、少しずつ身についているようですね。 
最後に、「“個” の思想」を身につけるためにはどうしたらいいか、ということで、「C・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセス」が大切、ということですが、私もその通りだろうと思います。しかし、その場合、何を意識化するか、が問題になると思いますが、おそらくそれは、「自分を無意識に支配しているものの「意識化」だと思いますが、案外それは、先の「施恩・受恩の倫理」かもしれませんね。
また、「”個”の思想」がなんらかの「権利の主張」を意味するものであるとすれば、一見、この世界には「権利はなく義務だけが存在する」ように見えます。しかし、もう一歩進んで考えると、「受恩の義務を拒否しない」は「受恩の義務を果たす」ことだから、これは、「受恩の義務を行使する権利」とも考えられます。とすると、この「恩」を対人関係から「天」との関係において捉えることができるようになれば、なんだか”すっきり”してくるような気もしますね。(これが即ち明治の「敬天愛人」か)
といっても、それが「神人一体」ではなく、対立関係を基本とする神との「契約関係」(その契約書が”聖書の言葉”、だからその契約書をもとに神と議論することも権利として許される)になるかというと、それは難しいと思いますが・・・と言いつつ、日本人は神に一方的に要求ばかりというか”おねだり”ばかりしていますから、神としても、その内最低限の「契約書」は作りたくなるかも知れませんね。
まあ、江戸時代においては、その「契約書」の内容が「勤勉」とされたことによって、「日本資本主義の精神」が準備されることになったわけですが・・・。  
かっての日本軍の体質 / 体質を戦後に継承したのは「革新陣営」
「最近の原発をめぐる異常な空気は、昔どこかで見たことがあるなと思って、山本七平の『「空気」の研究』を読みなおして驚きました。この本の主題は日本軍の空気ではなく、この本の出た1970年代の日本の空気、特に公害問題をめぐる政治的な空気なのです。
当時、学生だった私にとっては、文春や産経にしか出ない山本は、マイナーな「右派知識人」でした。彼の日本軍についての詳細な分析には感心しましたが、軍を憎む彼が平和を唱える左翼を批判するのには違和感を覚えました。しかしよく考えると、かつての日本軍の体質を戦後に継承していたのは、「革新陣営」だったのです。」
山本七平は、あれだけ峻烈な日本軍隊論を書いているのに、なぜ、同じように日本軍を批判し、その反省の上に立って戦後の平和論を説いている左翼を批判するのか、といった疑問。案外こういった感想を持った方も多かったのではないでしょうか。しかし、逆の見方をすれば、左翼は山本七平の日本軍隊論から多くを学び取ることができるはずなのに、なぜ、彼を執拗に攻撃するのか、といった疑問にもなります。当時の私の印象としては、後者の方が強かったですが...。
いずれにしても、当時山本七平が語っていたことは、戦後的な意味での「左翼・右翼」の枠組みで捉えられるものではありませんでした。その思想的立場は、先に紹介した氏の「『是・非』論と『可能・不可能』論」の中でも、次のように表明されていました。
「確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。」
日本の敗因を考える場合、今日でも、「東京裁判史観」の影響や、中国や韓国による歴史観の強要、あるいは迎合といった問題があります。しかし、山本はそういったものからは全く自由で、一下級将校としてのフィリピンでの戦争体験をもとに、氏独自の視点で、日本の敗戦の原因を考え続けたのです。
彼が、そのことを世間に問うこととなったのは、これは本人の弁によれば全くの偶然の産物で、岡本公三のテルアビブ空港銃乱射事件や、横井さんや小野田さん(「小野田少尉に日章旗と白旗を」)がジャングルから出てきたことがあって、文春に記事を求められ、断り切れずに書いた。(「山本七平の不思議2」)その最初の記事が「なぜ投降しなかったのか」(「テルアビブの孝行息子たち」としていましたが間違いでした。)で、昭和47年、氏が51歳の時でした。
ということは、戦後27年間沈黙していたわけで、その間、何をしていたのかというと、「現人神の創作者」を探索していた」といっています。その成果が『現人神の創作者たち』で、そうした探索の過程で、日本の敗戦の原因についても、数々の発見をすることになったのです。どなたかの”歴史に名を残す”生き方とは無縁ですね。
では、次に、池田氏が指摘しておられる「戦後革新陣営が継承したと思われる日本軍の体質」について、山本七平はどのように考えていたか紹介しておきたいと思います。先に指摘した「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないというのは、日本人の一般的傾向ですが、氏が指摘していたかっての日本軍特有の考え方とは、次のようなものでした。
一、「自分たちは被害者」という自己規定
〈″軍は加害者″は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。しかし私が入隊した昭和十七年、いわば”勝った勝った”の絶頂期ですら、彼らは被害者意識の固まりであった。まず、前に述べた軍縮による四個師団廃止である。彼らはこれを外圧と受けとっていた。・・・
現実問題としては、軍縮は軍人への”首切り”、師団駐留地の”基地経済の崩壊”を意味するから、現在における「国鉄の人員整理」よりはるかに難問であったろう。幕末以来、こういう問題はすべて外圧として処理され、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」という「内心の解決」にその最終的解決を求めたのは、伝統的に今も通用する当然の処置といわなければならない。
だがこれは(昭和になると)「堕落政治家と軟弱外交のため、戦わずして四個師団が殲滅された。」そのため軍は不当な犠牲を常に強いられてきた、という強烈な被害者意識となり、昭和十七年当時ですら、いわば一種の「軍隊内常識」であった。従って彼らは、すべての責任をこの点に転嫁し、日華事変でもノモンハン事件でも、その失態はすべて「政治家が悪い」のであって、軍の責任ではない、という自己正当化に生きてきた。
同時にこれは国軍を統率する天皇が”股肱”を失ったことであり、従って、天皇こそ最大の被害者と規定された。彼らは自らを被害者とし、かつ被害者=天皇の側に立ったわけである。〉  
二、殉教者自己同定と”見えざる牢獄論”、その獄卒=加害者の責任追及
〈次に・・・まず維新の志士を殉教者に見立て、これと自己を同定化するとともに「皇室=見えざる牢獄論」いわば「天皇囚人論」をとり、同時に全日本人が”見えざる牢獄”にあると規定した。この間の彼らの考え方が最も的確に表れているのが、二・二六事件の将校の言動である。(張作霖爆殺事件の河本大作や永田鉄山斬殺事件の相沢三郎さえ”殉教者”扱いされていた=筆者)〉
〈確かに維新以前には、朱子学的思想からすれば、天皇は京都の「見えざる牢獄」におり、これを”解放”して政権の座にすえることが彼らの目的であったろう。だが、昭和の時点では、天皇は立憲君主制の統治者であり、牢獄にいるわけではない。否、それだけでなく、彼らの指揮官である。しかしそう規定したのでは、彼らは喜劇役者になり、殉教者自己同定は成り立たない。したがって、お定まりの通り昭和の天皇も同様に牢獄にあり、そのため、全日本人か牢獄にあると規定せざるを得ない。〉
三、自己無謬性の主張と無謬性の寄託現象
このような彼らの「殉教者自己同定」の基礎にある考え方は、”自分は正しい”という自己無謬性の確信であり、従って、彼らはますます、「自分は正しい、社会は悪い」と感じ、そう主張せざるを得なくなる。この悪循環は、最終的には、無謬性の寄託現象で切り抜けるより方法がなくなるのである。
こうして〈一定のグループが、自己の無謬性を、ある団体もしくはその代表者乃至は象徴に寄託して、その象徴と同じ言葉を口にし、その象徴に従うことで結合する。こう結合すると、その集団は無謬で、他はすべて誤っていることになる。いわば、「私は正しい」から、「われわれの集団は正しい、われわれ以外の社会は間違っている」という形になるのである。
戦前はこれが、仝国家的規模によって行われた。いわゆる大正自由主義時代のプロテスタント病的傾向(各人が”自分は正しい”と主張することで、社会全体の秩序が乱れること=筆者)を、「自由主義」排撃の名のもとに、天皇への無謬性寄託という形で排除しようとした。この中心となったのが軍部〉であった。
〈そして、これが極限まで進むと、「日本は正しい、世界は悪い」という形になり、その表徴である天皇は無謬ということになるのである。これは、図式として記せば、自己の無謬性を天皇に寄託し、その寄託した天皇の「聖旨を体して」行動することによって、自己が無謬となるわけである。〉
ところが、「天皇は無謬であり、その大御心があまねく民に降り注げば、彼らが理想とする平等社会が実現するはず」なのに、現実の社会はそうなっていない。これは、天皇周辺の奸臣がそれを邪魔しているからで、従って、それを排除しなければならない、というふうに考え、天皇周辺の重臣へと攻撃が向けられた。
もう一つのやり方は、無謬性を寄託したのだから、それと自己の無謬性との誤差は、内心の問題として処理してしまう方法である。ただ、このやり方は、その解決そのものが一種の自己義認となるので、その新しい自己義認は、古い無謬性寄託集団を解体さすか、変容さすかして、新しい無謬集団の形成へと進む。
ここで過去とは完全に断絶するが、その断絶期間は、原初の形すなわち「私は正しい、社会は悪い」にもどる。そしてそれが自己義認の新しい寄託先を求めて、新しい社会的統合へと進み出すのである。(左翼の場合は、戦後、スターリン、毛沢東と、その寄託先を求め次々と”裏切られ”ていったことは周知の通りです。=筆者)
四、自己無謬性の時間的・空間的〈現在〉への偏執
以上のようなやり方は、〈六〇年安保のみでなく、戦後一貫して行われてきた、否、戦前からずっとつづいている一つの循環である。われわれは、プロテスタント文化に接触して以来、ほぼこの形態をとりつづけてきた。そしてそれは外部から見れば、考えられぬほど、徹底的な転換を行う社会と見えた。従って、日本人が何を考えているかわからないという批評が出ても不思議ではない。
一億玉砕から、一気に無条件降伏、平和国家へと転換し、また最近では、高度成長から一気にまた逆転した。この転換を外紙が「本能的」と呼んだのは、それ以外に批評の方法がなかったからであろう。いわば、どう見てもそれは理論的とは見えないが、この方法によれば、実に的確に過去を切断して切り捨てられるのである。
この無謬性主張は、空間的な自己集団の無謬性主張だけでなく、時間的な区切りによる「現在の無謬性主張」という形もとる。戦時中の人間にとっては、現在の自分は無謬であり、その体制になる前の大正期から昭和初期の自分は誤っていた如くに、戦後の人間にとって、現在の自分は無謬であり、戦争中の自分は誤っているのである。
従って、反省とか批判とかいった場合、「現在の自分は正しい、その正しい自分から見ると、過去は正しくなかった」という形になり、その反省、批判はすべて、現時点の自己義認の形をとる。そしてその形をとるために、過去を再構成して、現在の自分の無謬性主張の裏付けをすることはあっても、過去と現在を双方共に可謬性のあるものとして、これを対比することはしない。
これは、現在の自己および自己所属集団と他を、共に可謬性あるものとして対比できないのと同じである。もちろん、可謬性を認めれば、自己義認はできないから、これは当然の結果であろう。〉
つまり、以上のような、「自分たちは被害者」という自己規定から出発して、「殉教者」と自分を重ね合わせ、社会全体が”見えざる牢獄”に置かれていると見て、その獄卒=加害者の責任追及を行う。当然、その責任追及を行う自分は「無謬」で、さらにその「無謬」者間の矛盾を解消するため、ある絶対者に「無謬性の寄託」を行う。それによって現在の自己を無謬とし、過去の無謬は切り捨てる、といったやり方。
こうした、かっての日本軍、とりわけエリート青年将校たちに見られた体質を、戦後最もよく継承しているのが「革新陣営」だった、ということは、私も確かにいえると思います。スターリンや毛沢東、金日成と次々と無謬性の寄託対象を変え、それができなくなってからは、人権、環境、原発と無謬性の寄託対象を次々に変えてきた。もちろんそれぞれ重要な課題ではあるわけですが、それを物神化し冷静な科学的議論を封じてきたそのやり方は、かっての軍人のやり方と変わらない、ということです。
では、こうした状態から脱却するためにはどうしたらいいか。

一、対象を対立概念で把握すること。そのためには、まず、人は「善人」でも「悪人」でもなく、「善・悪人」であると知ること。
〈この(「善・悪人」という)考え方は、基本的には、人間を対立概念で把握するということであり・・・人間は、善悪という対立概念で一人の人を把握しているとき、その人はその人間を把握している。だがこのことは、人を、善人・悪人と分けることではない。もし人を、善人・悪人に分類してしまえば、それは、その各々を対立概念で把握できなくなってしまう。〉
さらに、一人格を善悪という対立概念で把握すると共に、それと社会との関係も、いわば法王と皇帝の関係に見るように、精神的秩序と政治的秩序の対立概念で捉える必要がある。つまり、この両者が「全くの相互不干渉で、車の両輪の如くなっている世界である」。日本の場合は、この「対立した諸相を無意識のうちに捨象して、たとえ虚構でも、対立なき『一枚岩的対象』と見たがる」傾向がある。
しかし、日本の歴史をよく調べてみると、特に鎌倉時代以降江戸時代までは、この精神的秩序=文化的秩序と政治的秩序を分立している。これを天皇中心の一元的国家体制に作りかえることで明治維新は成功したが、明治新政府が採用した政治システムは立憲君主制であり、これは、精神的秩序を象徴する天皇と、それを輔弼する形で実質的に政治権力行使する政府との二権分立構造となっていた。この辺りを指摘したのが『日本人とユダヤ人』でしたね。
ところが、この精神的秩序を宣明した教育勅語が想定していた政治体制は、朱子学導入以降の日本儒教の到達点である「天皇を宗主とする家族的国家観に基づく天皇親政」を前提としていました。そのため、立憲君主制下の機関説的天皇制と矛盾することとなり、ついに、昭和に至って、教育勅語の想定する天皇親政が、明治憲法下の立憲君主制、そこにおける政党政治や議会政治を排撃することになったのです。
ただ、国家目標が、西欧の近代国家をモデルとする”追いつき追い越せ”の時代には、この矛盾は露呈しませんでした。しかし、軍が、政治に対して不満を持つようになると、上述したように機関説天皇を”見えざる牢獄”と見なすようになり、その獄卒である「君側の奸」を排除することで、天皇を”解放”し、それによって、一君万民平等社会を実現しようと考えるようになったのです。
もちろん、こうした考え方は皇道派青年将校に特徴的に見られたもので、結果的には、彼らの部隊横断的「脱藩」行動が、軍の統制を乱すものと見なされ、統制派の弾圧を受けるようになりました。といっても、統制派青年将校たちが別の思想を持っていたというわけではなく、天皇機関説を排撃し、天皇と自分たちを統帥権で結ぶことで、天皇中心の高度国防国家を建設しようとしていた点では同じでした。
ところで、先ほど紹介した、日本のより伝統的な二権分立的象徴天皇制と、教育勅語に規定された家族国家観に基づく「現人神」天皇制とは、どういう関係にあったのでしょうか。
この問題を解明したのが、先ほど紹介した山本七平の『現人神の創作者たち』です。その元々の起源は、明末に日本の亡命してきた朱舜水らが持ち込んだ朱子学的正統論にあります。それが、山城の国の一領主に押し込められていた天皇を、倒幕の象徴へと祭り上げていく、その壮大なドラマ・・・なにしろ、この尊皇イデオロギーによって明治維新が成ったのですから・・・。
で、問題は、この明治維新を成功に導いた尊皇イデオロギーと、明治新政府が導入した立憲君主制との思想的な矛盾対立がなぜ精算されなかったか、ということですが、先に述べたように、西欧をモデルとしていた間は、むしろこれが和魂洋才という形でプラスに働いたということですね。
つまり、前者の儒教的「自己抑制」倫理観と、能力主義的かつ合理的な近代国家建設の歩みとがうまくかみ合って、急速な近代化を達成することに成功したということです。だから、この矛盾の持つ問題点が修正されなかったのです。しかし、一応近代化に成功し、今までモデルとしてきた西欧諸国との利害対立が生まれてくると、独自の道を模索せざるを得なくなる。
折しも共産主義思想や国家社会主義思想が世界的な流行を見るようになり、中国では反帝・反日運動が活発化し、日本の中国における権益は危殆に瀕するようになった。一方国内では、大正デモクラシーのもと「プロテスタント病」の様相を呈してきた。また、第一次大戦後の戦後不況に関東大震災、金融恐慌が重なり、国の財政状況は一層厳しくなり、先ほど述べた大がかりな軍縮も行われ、軍人の不満は高まり、「十年の臥薪嘗胆」という言葉も生まれるようになった。
一方、世界の軍事状況は第一時代戦後総力戦の時代に入っており、政治と軍事を一体的に運営しなければならない時代になっている。ところが、こうした危機的状況を前に、政府は国際協調主義を掲げて有効な対策がとれない。また政党政治は腐敗し、資本家は富を独占し格差は拡大している。国内では金解禁の失敗もあって不況は一段と深刻化し、農村不況も身売りをするまでになっている。また、世界恐慌で資本主義経済は破綻し、先進国は次々とブロック経済に走り、このままでは日本の生存さえ危ういく・・・。
まあ、歴史の解説はこれ位にして本題に戻りますが、このような危機的状況下で日本的一君万民平等主義を説く尊皇イデオロギーが復活し、それがさらに強化されて「現人神」天皇制イデオロギー――左翼の人たちが理解している「天皇制」はこれで、それが生まれた思想史的系譜を知らないために、これを天皇制の本体だと思っている――として、軍主導の高度国防国家を支えることになったのです。
この思想は、忠孝一致の家族的国家観に基づく「天皇親政」を理想としていましたが、昭和の軍人は、その頂点に立つ天皇を偶像化=神格化し、その天皇と自分とを結びつけることで、絶対的権力を行使しようとしたのです。戦後は、この天皇をスターリンや毛沢東に置き換え、それと自分を結びつけることで、社会に対する絶対的発言権を行使しようとした人々が沢山いましたね。
しかし、このような最高権力者の偶像化=神格化を行うと、これに対する批判は一切許されなくなる。この点、旧約聖書を見れば判りますが、そこに書かれた指導者像は、モーセにしてもダビデにしても、実に見事にその神格化が排除されていて、彼らは「善」だけでなく「悪」も備えた不完全な人間であったことが、そのまま記録されています。
そうすることではじめて、その歴史的な一人物を歴史的背景のもとに捉えることができる。それと自己とを相対させることで、現在の自己を歴史的に把握することができる。それによって、進むべき新たな道を模索する手がかりを得ることができる。だから、その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」というのです。
これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。
確かに、こうした生き方は、先進国をモデルとして、それに”追いつき、追い越せ”でやってこれた時代には、大変効率的な生き方だったといえるかも知れません。しかし、そうしたモデルを喪失した時代では、まず、「仮定のモデル=前提」を立てることから始めなければならない。そしてその「仮定のモデル=前提」をより正確に把握するためには、それを偶像化してはダメで、それは対立概念によって把握するよう努めなければならない。
このようにして把握された「仮定のモデル=前提」を、これも「仮定の方法論」によってつなぎ、試行錯誤を繰り返しながら新しい道を探し、そして誤るのを当然と考え、誤った場合は、それを記録し、それとの対比の上で次の新しい「仮定のモデル=前提」を立てる。これを繰り返すことで、一歩一歩、未来を切り拓いていく。日本が生き延びるためには、こうしたことができるようにならなければいけない、と山本七平はいうのです。
福島原発の事故も、こうした先進国のモデルなき歩みのなかで犯した、「起こりうる過ち」の一つと考え、その克服の道を模索しなければならないのではないでしょうか。後進国は、それをモデルとすることで、同じ過ちを犯さないで済むわけですから。 
「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考
池田信夫氏が「朝日新聞の主張する『東條英機の論理』で次のような興味深い指摘を行っています。
「きょうは8月15日である。この日に、いつも日本人が自問するのは『日本はなぜあんな勝てない戦争に突っ込んだのだろうか』という問いだろう。これにはいろいろな答があるが、一つは東條英機を初めとする陸軍が日本の戦力を過大評価したことである。陸海軍の総力戦研究所が『補給能力は2年程度しかもたない』と報告したのに対して、東條陸相は『日露戦争は勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからん』とこれを一蹴した。
こういう客観情勢を無視して「大和魂」さえあれば何とかなると考える主観主義は、日本の伝統らしい。朝日新聞の大野博人氏(オピニオン編集長)は8月7日の記事でこう書いている
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。原発をやめる場合、再生可能エネルギーには取って代わる力があるか。コストは抑えられるか。 [・・・]これらの問いへの答えが「否」であれば、「やめることはできないから、やめるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。
私はこの記事を読んだとき、東條を思い出した。ここで「脱原発」を「日米開戦」に置き換えれば、こうなる。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。戦争をする場合、米国に勝てる戦力・補給力があるか・・・これらの問いへの答えが「否」であれば、「勝つことはできないから、戦争はやるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし戦争について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで鬼畜米英を放置すべきだということではないか。まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。大東亜戦争は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。
朝日新聞は、おそらくこれと似たような社説を70年前の12月8日の前にも書いたのだろう。それがどういう結果になったかは、いうまでもない。河野太郎氏も、私の「再生可能エネルギー100%というのは技術的に無理ですよ」という質問に対して「できるかどうかだけ考えていたら何もできない。まず目標を掲げれば、不可能も可能になるんです」と語っていた。
この「東條の論理」には、二つの欠陥がある。まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始めるということだ。これは当然、どこかで「やっぱりだめだ」という判断と撤退を必要とする。その判断ができないと、かつての戦争のような取り返しのつかないことになるが、撤退は誰が判断するのか。また失敗による損害に朝日新聞は責任を負うのか。
もう一つの欠陥は、実現可能なオプションを考えないということだ。最初からできるかどうか考えないで「悪い」原発を征伐するという発想だから、その代案は「正しい」再生可能エネルギーという二者択一しかなく、天然ガスのほうが現実的ではないかといった選択肢は眼中にない。
朝日新聞は、かつて対米開戦の「空気」を作り出した「A級戦犯」ともいうべきメディアである。「軍部の検閲で自由な言論が抑圧された」などというのは嘘で、勇ましいことを書かないと新聞が売れないから戦争をあおったのだ。今回も世論に迎合し、脱原発ができるかどうか考えないで勇ましい旗を振るその姿は、日本のジャーナリズムが70年たっても何も進歩していないことを物語っている。」
これは、「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないという日本的思考の弱点を、朝日新聞は未だに克服していないことを、みごとに証明した文章だと思います。もっとも、この記者は、「多くの場合、議論はまず(2)原発をやめることができるかどうか、に答えることから始まる」と言っていますから、他の多くの人は、この思考法を克服していることになりますが。
ということは、この記者は、他の多くの人が克服しているこの日本的思考を、あえて逆戻りさせようとしているわけで、その罪は一層重いという事になります。といっても、この記者は”自分だけ分かっている”と言いたいだけで、実際は、最近の原発に関する一般的論調としては、この「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができなない論のほうがはるかに多いのです。
この問題は、日本人にとっては実に深刻な問題で、山本七平氏は、「日本は、なぜあんな勝てない戦争に突入したんだろう」という疑問を解くそのカギは、実に、この「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考にあったということを、自らの体験に基づいて次のように指摘しています。
「・・・比島、いわゆる「太平洋戦争の旅順」で生き残った者―長い間、多くの国民に、餓死直前同様の耐えうる限度ギリギリの負担をかけて、陸海それぞれ七割・七百万という軍備をととのえ、それを用いて、人間の能力を極限まで使いつくすような死闘をして、そして「無条件降伏」という判決を得た現実、しかもあまりに惨憺たる現実を否応なしに見せつけられた者には、二つの感慨があった。
これだけやってダメなことは、おそらくもうだれがやっても、どのようにやっても、ダメであって、あらゆる面での全力はほぼ出し切っているから、「もし、あそこでああしていたら・・・」とか「ここで、こうしていたら・・・」とかいう仮定論が入りこむ余地がないということ。
そしてあの農民のことを思い出せば、あの人たちは本当に誠心誠意であり、一心同体的に当然のことのように犠牲に耐えていたこと。そしてもう一つは、どこでどう方向を誤ってここへ来たのであろうか、ということ。
そしてその誤りは、絶対に一時的な戦術的な誤り、いわば「もしもあの時ああしなければ……」とか「あそこで、ああすれば……」とかいったような問題ではなく、もっと根本的な問題であろうということであった。
確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。
しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。もちろん収容所時代には、マック制樹立の基とするための「太平洋戦争史」などは全然耳に入って来ず、私の目の前にあるのは、過ぎて来た時日と、それを思い返す約一年半の時間だけであった。
そしてこの期間は、ジュネーブ条約とやらのおかげで、われわれは労働を強制されず、またいわゆる生活問題もなく、といって娯楽は皆無に近く、ただ「時間」だけは全く持て余すほどあったという、生涯二度とありそうもない奇妙な期間であった。これは非常に珍しい戦後体験かもしれない。
そして、私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、「日本人の思考の型」にあるのではないかと考えたのである。
面白いもので、人間、日常生活の煩雑さから解放され、同時に、あらゆる組織がなくなって、組織の一員という重圧感はもちろんのこと、集団内の自己という感覚まで喪失し、さらにあるいは処刑されるかもしれないとなると、本当に一個人になってしまい、そうなると、すべては、「思考」が基本だというごく当然のことを、改めてはっきりと思いなおさざるを得なくなるのである。
そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった。金大中事件や中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている。
また再軍備という問題なら、「是か・非か」の前に「可能か・不可能か」が現実の問題としてまず検討されねばならず、不可能ならば、不可能なことの是非など論ずるのは、時間の空費だという考え方が全くない、ということである。
そしてそんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされ、いつしか「是か・非か」論にざれてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。」
池田氏は、同様に質問を河野太郎氏にも投げかけ、この朝日の記者と同様の返答を受けた、と言っています。河野氏の主張は、この原発問題以外は大変チャレンジングで魅力的なのですが、この点に関してはいまいちはっきりしません。要は、エネルギー源としての核技術を放棄できるかどうかなのですが・・・。願わくば、この問題を「可能・不可能」論の観点からしっかり見極めていただきたいと思います。 
 
信じ難いほど縮みゆく国 日本

 

日本で初めて、移民に関するしっかりとした議論が始まっている。
安倍晋三氏が2012年に首相の座に返り咲いて以来、掲げられてきたスローガンは、日本を長期にわたるデフレスパイラルから脱却させる、ということだった。だが、人口がどの国より速く高齢化し、減少している時は、それは口で言うほどたやすいことではない。
今年5月、あるシンクタンクは向こう30年余りの間におよそ1000の地方の市町村で出産適齢期の女性がほとんどいなくなると予想した。政府は、今後50年間で現在1億2700万人の日本の人口が3分の2に減少すると予想している 。
実際、政府は2110年には、日本人の数がわずか4300万人になると予測している。
最後の予想は、非科学的な外挿だ。100年後の日本がどうなっているかなど誰にも分からないからだ。それでも、この予側は政府が懸念を募らせていることを示す尺度であり、また、強い日本を取り戻すという首相の思いと両立させるのはなかなか難しい。要するに、人口動態がいま再び、熱い政治的課題として浮上しているのだ。 
使い古されてきた案も出ているが・・・
最大の問題は、急速に収縮する労働人口が、増え続ける高齢者人口を支えられなくなることだ。部分的には、政府は使い古された案を持ち出してきている。例えば、日本は出生率を引き上げなければならない(だが、それは容易なことではない)。また、労働力不足を補うために、工場や高齢者向け介護施設で運用できるロボットを開発しなければならない、といった具合だ。
この問題を専門に扱う「選択する未来」委員会会長の三村明夫氏は、人口が1億を切るのを食い止めるのであれば、政府は今すぐ対策を講じなければならないと述べた。同委員会の報告書は、そのためには平均的な日本人女性が生涯で生む子供の数を、現在の1.41人から2.07人に増やさなければならないと指摘している*1。
白髪頭のメンバーが多数名を連ねる同委員会は寝室に立ち入ってまで、女性をその気にさせようとしているようだ。
しかし、人口問題の専門家は、日本の社会構造の全面的な再設計が必要だと話している。安倍氏は女性が職場に復帰しやすくなるよう、公立保育所を増設する計画を打ち出した。だが、働く母親にとって大きな障害は、長時間労働や同僚と付き合う深夜の飲みといった日本の企業文化だ。文化を変えるには、長い時間がかかることがある。婚外子に対する偏見もそうだ。
一方、出生率を上げるために講じられた最近の対策――若い女性に出産のタイムリミットについて思い出させる婦人科医を割り当てる策など――は、絶望感さえ帯びている。
しかし、安倍政権が、これまで日本が避けてきたもう1つの明確な解決策を検討していることを示唆する兆候が見られる。大規模な移民の受け入れである。
現在、日本の人口に占める外国系住民の割合は2%にも満たず、ほかの先進国を大幅に下回っている。この低い数字さえ、日本の植民地だった朝鮮半島にルーツを持つ大勢の永住者や、何世代にもわたって日本で暮らしている中国系住民が含まれたものだ。
近年の入国者の中には、中国人留学生も大勢いる。彼らが長期滞在することは滅多にないが、彼らの労働力がなければ、日本の都市部にある無数のコンビニエンスストアはすぐに立ち行かなくなるだろう。また、1990年代には、何千人ものブラジル人が自動車工場やその関連工場――主に静岡県浜松市や愛知県の名古屋近辺――の働き手として採用された。
浜松学院大学の津村公博教授によると、安い労働力がどうしても必要だった時に、日本は恐る恐るそうした労働者に門戸を開いたが、2008年以降、景気が減速すると、今度は勢いよくそのドアを閉ざし、カネを払ってまで多くの人を帰国させたという。
およそ2万人いた浜松のブラジル人は、9000人前後まで減少した。日本に残留した者は、地元に溶け込むのに苦労した。移住者の子供たちの教育その他のニーズに対する政府の支援がゼロに等しかったことも、何の助けにもならなかった。 
永住移民への門戸開放の始まりか
それでも政府は2月に、2015年以降、新たに年間20万人の永住移民を受け入れるよう奨励する報告書を発表した。
予想通りと言えるかもしれないが、政府関係者は、これだけの規模の移民受け入れが政府方針であることを否定する声明を発表した。安倍氏自身、建設業界などで働く外国人に期間の長い一時ビザを発給するための最近の対策は「移民政策ではない」と主張し、そうした労働者は仕事が終われば帰国しなければならないと述べている。
だが、安倍氏のアドバイザー曰く、実際には、たとえ安倍氏がそう公言できないにせよ、この報告書はもっと大勢の永住移民への門戸開放に向けた動きの始まりを告げるものだという。
元東京入国管理局長で現在は移民政策研究所(JIPI)の所長を務める坂中英徳氏は、いつもは外国人嫌いの右派メディアが、移民受け入れに同調するようになっていると指摘。近々、この問題に関する主流派メディアの報道が世論を移民受け入れ容認の方向に動かすだろうと予測している。
しかし、浜松市の状況は課題も浮き彫りにする。ブラジル人はビザ取得資格として少しでも日本人の血をひいていなければならなかったが(1900年代初頭に多くの日本人が南米に渡った)、日本語の読み書きに苦労した。 
地元社会に溶け込む難しさ
さらに、1999年から2007年にかけて浜松市長を務め、来日した外国人を溶け込ませる市の取り組みを監督した北脇保之氏は、地元の住民は多文化主義の波を受け入れる準備ができていなかったと言う。日本のガストアルバイター(短期滞在する外国人出稼ぎ労働者)の大多数は法律を順守しているが、日本人は彼らを犯罪や反社会的行動と結びつけてしまうのだ。
浜松のあるマンション群の自治会長を務めるハシモト・ヒロユキさんは、ブラジル人は当初、ベランダでバーベキューをしたり室内でサンバを踊りたがり、静かにさせなければならなかったと話す。
良い方向に向かう1つの兆候は、今では日本人とブラジル人の子供たちが外で一緒に騒々しくスケートボードに興じていることだという。それでも、移民はまだ楽な選択肢では決してないのだ。 
 
民主主義と貧困

 

民主主義の擁護
近頃はもっぱら政治について書いている。そんな積もりがなくとも、政治について書くと、どうしても小難しい文章になってしまう。ただ内容が難しいわけではなく、政治はいつも人を生き生きとさせる力があるし、私に面白く書く芸がないだけなのだ。
理科系でなく文化系の私は、よくあるように小説を書きたかったが、残念ながら、絵を描くのと同様、その方面の才能がまったくなかった。このことは、試みてみるまでもなくすぐに分かった。自分が言いたいこと、描きたいこと、自分がこうありたいことを揺るがせずに、なおかつ他人様の心を掴む技は私にはまったく縁がない。
という前口上をもって、私が書き出そうとしているのは民主主義と貧困なのだ。やっぱり面白くなりそうもないか。
最近、宇野重規、田村哲樹、山崎望という三人の政治哲学者が共同で著した『デモクラシーの擁護』(二〇一一年)という本を読んだ。この本の目玉は、三人での「デモクラシーの擁護に向けた共同綱領」の発表である。それはとんでもなく素晴らしい企てだし、不肖私もかねがねその必要を痛感している一人なので、図書館で見つけて早速借り出したのであった。
この綱領を全面的に支持する。
著者たちはいずれも政治学の専門家で、それぞれ持ち場も違い、論点の置きどころも異なるのだろうが、その辺りのことは私には窺い知れない。ただ民主主義を唯一の望ましい政治制度として、これからも断固守っていこうとする決意において一致する。それで十分だ。及ばずながら、私もいつでも彼らの応援団の一人として馳せ参じよう。
ただ問題がなくはない。というよりは、私のずさんな考えでは受け止められないほどに、彼らの構想が立派で整然としすぎていることにある。そうでなければ私などが全面的に賛成するはずもないわけだけれど、でも私の問題意識からすると、もう少し切羽詰まった挙句の提案かと思った。まぁ、共同綱領なのだから当然なのだけれどね。
手始めに、綱領がその前提にしているデモクラシーにいちばん適している社会のありようとして選んだアンソニー・ギデンスの構造化理論あるいは構造の二重性の理論を見てみよう。それは簡単にいうと、社会を成り立たせている人びとが、それぞれに自分の都合で行動すると、寄り集まった結果が社会全体の仕組み(構造)となり、今度は同じ人びとがその仕組みに縛られて行動するようになる。そんな社会の構造とその中の人たちとが切り離せないあり方が構造の二重性で、人びとの仕事も遊びも、自由で気紛れな生活の営み、振る舞いのぜんぶが、とりもなおさず私たちの社会の構造を作っているという考え方である。
この考え方でいちばん重要だと思われるのは、私たちの社会が、神様とか外からやってきた征服者とか、はたまた仲間の中から飛び出して成り上がった独裁者によって支配・統治され、人びとはただ彼らの意のままに服従するだけの社会とは違うということである。デモクラシーの社会とは、人びとの営みに伴って新しく獲得した情報を使い、みんなが切磋琢磨しながら、つねに内容を吟味し、改善し、その結果、その営みの性質(仕組み、伝統、自分たちの考え方)が、良いか悪いかは別にして、少しずつ変わっていくような社会である。それは、いってみれば、十九世紀以降に出現した近代社会に特有な形であろう。いくら偉そうなことをいってみても、人のやること、経験することなどたかが知れている。近代においては、レーニンの共産主義革命だってヒトラーの国家社会主義革命だって、一応は民意に応えながら、民主主義まがいの合意を取り付けることから始めたのだった。肝心なのは、どう転んでも、みんなで反省しながら少しずつ直していかなければならないという戒めを忘れないことだが、これは言うのは簡単でもいちばん難しい。いつの世も、民衆はカリスマに弱い。カリスマをもった指導者に出会うと、私たちはたちまち戒めなど忘れて、彼らについていってしまう。旨いコトバで号令をかけられると簡単に従ってしまう傾向があるから、天才レーニンやヒトラーはやり易かったわけだ。昔は政治の上で民の合意を得るという取り決めというか必要がかったから、どんなカラクリがあるにせよ、みんなで一緒になって社会を変えていくという作業そのものは優れて近代のものである。
そうはいっても、民主主義の政治の営みにだってどうやっても改善できない困った仕組みがいくらも含まれており、反省の材料に困るということはないのだった。
では彼らの綱領の中身を紹介しよう。簡単にいえば、近代化を改めてやり直そうという提案なのだが、近代化とくれば、私としては張り切らざるをえない。ずっと近代化ということをテーマにして拙いエッセイを書いてきたのだからね。綱領を読めばお分かりのように、ここでは「再帰的近代化」というコトバが宛てられているのだが、この言い方は私には今一つピンと来ないので使わないことにする。それは民主主義のこれまで来た道を顧みて、自ら反省するというか見直す覚悟をいうらしい。もちろんそれはたいへん結構なことで、綱領はこれから突き進むべき私たちの新規まき直しの民主主義を「熟議民主主義」と呼ぶのであった。
いろいろとあって、二十一世紀には、日本も含め、世界中で民主主義がおかしなことになっている。躓いた理由は二つあって、一つはナショナリズムとの絡みである。もう一つはリベラリズムとの絡みである。
最初の相手は、一見、剣呑な殺し屋みたいに見えるけれども、良し悪しが分かり易い分、誰もが条件付きでなければ取り合わないのがはっきりしている。問題は、二番目の相手だ。
近代デモクラシーにとって、リベラリズムというのはちょっと扱いにくい婚約者のお嬢さんみたいなものである。そんな関係がいちばんよく分かるのがアメリカの社会だ。福祉とか雇用とか、弱者救済のために積極的な役割を政府が果たすべきだと考えているのが新しいリベラリズムで、政府は必要最小限のことをやっていればいいので、個人のことには一切干渉するなというのが古いリベラリズムである。どうも古いリベラリズムというお金持ちの家に育ったお嬢さんの本音がどこにあるのかよく分からないまま、相手を喜ばすためにできるだけのことをしなくちゃならない立場の求婚者がアメリカのデモクラシー青年なのだ。少なくとも彼女は、貧乏くさい福祉とか雇用とか賃金の値上げとかにはあんまり関心がないくせに、お金持ちで教養ある淑女に相応しい慈善についてならいつも気に掛けている程度には賢いのだ。実は、リベラリズムのお嬢さんの中身が今ではさっぱり分からなくなっている。ひょっとしたら、もう気位の高いお嬢さんなどではなく、とっくに金に困った高級淫売と変わらなくなっているのかも知れぬ。目出度く結婚して、理想的なリベラル・デモクラシイ―の家庭を築いたとして、さて、それがそんなに簡単なことなのかどうか、もちろん彼らの綱領だって楽観しているわけではないのだ。
生粋の民主主義の申し子であるアメリカは、だからというべきか、民主主義に対して思い入れが少ない。どちらかといえば、民主主義よりは自由主義を優先するお国柄である。だがここまで企業の独占化が進んでしまうと、そうともいっていられなくなった。個人主義は個人主義として、良いか悪いかを決める前に、正義と公正だけは保っていかなくてはと心ある人びとは焦っていが、でももう遅いかもしれない。
まず綱領の提案を聞いてみてください。
私たちが目指すデモクラシーは、対話と交渉を通じ、個人や集団の相互接触を通じて、個別の世界観・価値観自体が変化していく形。再帰的近代化という時代における新たなリベラリズムとデモクラシーの統合、デモクラシーによるリベラルな価値の擁護を提案するとある。
それがそんなに簡単でないのは、つい最近の我が国会のありさまを見れば分かる。だれでも抜け目なく立ちまわって、お金儲けをしたいと思っている。あるいは尊敬されたいと。どっちも結果としては同じことになるとしても、達成する過程では誰も傷つけない方がいいに決まっている。あるいは友好的に、お互い一緒に儲かる方がいい。みんなでとことん話し合って、まずいところは取り除き、よいところはもっと知恵を出し合ってやれればそれがいちばんいい。引くところは引き、譲り合うところは譲り、そういう話合いの場をつねに確保しておくこと。それがいいと誰でもいうけれど、お金儲けがうまい人は、内心ではそんなことで目覚ましい金儲けなどできっこないことを知っている。さらに抜け駆けは、騙しのスリルを楽しむことではなくて、勇気と知恵と独創的な行動そのものであることも。自由がなければ行動もないし、行動がなければ物事は何も起こりはしない。だから綱領がいっているのは、自由はエンジンであり、民主主義はそのエンジンになくてはならないブレーキであるということなのだ。あるいは、リベラリズムは女への見境のないパッションだけど、デモクラシーは収入とか家事の分担とか、自分に相応しい女との生活を営む知恵であるということ。そんなことなら誰でも知っている。問題は、知っていてもできないことにある。
民主主義の政治は私たちの文化の一部である。それは自由を恋い慕うことといっしょにそれにブレーキをかける知恵も含んでいる。だから、知恵もないくせに、言いたいことだけはいう昨今の国会は、粘り強く譲歩しつつ熟議を進め、譲歩しつつ、新しい現実に向かって政治のあり方を変えていくという綱領が描く方向に比べると、恥ずかしいくらに正反対な行動に終始しているとしか思えない。でも諦めるのはまだ早いだろう。いろんなところで胎動が始まっているのだから。大地震もその一つだったというのは悪い冗談だけれども、少なくとも国を挙げての騒動が思いもかけなかった変革を産むというのはよくある話である。極端の果てに行き着いたところから、新しい道が始まる。一九四五年八月の日本の敗戦がそうであったし、第一次世界大戦を境に消えていった大英帝国もそうであった。  
民主主義が生れたところ
難しいことをいうつもりはない。ただ、近代の民主主義は十八世紀から十九世紀にかけてイギリスで生まれたということにする。アメリカに渡ったのはその流れである。
この時期のイギリスといえば、何よりもヴィクトリア女王の時代に代表される。何しろ彼女は一八三七年に即位して女王になって以来、一九〇一年に亡くなるまでの六十三年の間イギリス帝国の女王であった。その時期、イギリスはいちばんたくさんの植民地を持つ世界最大最強の帝国であり、産業国家であって、世界一のお金持の国であった。一九七七年、彼女は、ずいぶんふざけた称号だけれども「インド女帝」を名乗る。現代の民主主義政治がそんな国で生まれ育ったのは、それはイギリス人が自分たちだけは絶対に征服されないという意地と独立自尊の精神の賜であると同時に、彼らが類まれな知恵と強さを備えた民族だったからである。産業革命は彼らが仕遂げた快挙だったのだし、他の民族にだってできたかもしれないけれども、まさにこの時期に、それをやってのけたのは彼らだけだったという事実は決して消えない。自由であることが、イギリス人たちに世界を征服させ、劣った民族を虐げ、奪い取り、同時に新しい機械をどんどん発明し、それを使って途方もなく巨大な工場と、賃金労働者の大軍を産み、それに見合う市場を地球上にあまねく作り出したのだった。いってみれば、それはどんな呼ばれ方をされようと、自由主義以外の何ものでもなかったのだ。本国のイギリスでは、彼らは女王の忠実なパートナーではあっても、召使いでもドレイでもなかった。それはまさに奇跡の王国といっていいものだった。一八〇一年以来、この国は正式には「大ブリテンとアイルランド連合王国」(現在、つまり一九二七年以降は「大ブリテンと北アイルランド連合王国」)と呼ばれているのである。皇帝が独裁的な権力を振るうお国柄ではないのだった。でもそれは女王が統べる帝国の風格を備えた、ということは、ルイ十六世のフランスを凌ぐ繁栄と豪華さを誇りながら、なお近代的であり、民主主義の気風も備えた、風通しのいい王朝文化の国だったということである。寵愛するディズレリーが率いる保守党を女王があれほど露骨に贔屓にしたのに、大嫌いなブラッドストーンの自由党に思いつく限りの意地悪をしても、彼が何度も首相になるのを阻止できなかった事情がそれを物語っているだろう。女王自身独裁者であるには、知識も権力欲も趣味も凡庸で、何でも夫に頼るおばさんという風情。だから私たちはヴィクトリア朝を批判したり、皮肉ったりすることはできても、悪しざまにいうことはできない。
でもその次のエドワード朝は別である。エドワード七世(一八四一〜一九一〇)はヴィクトリア女王の出来の悪い息子だった。お母さんが長生きしたおかげで、やっと一九〇一年に王位を継いだときはもう六十歳だった。皇太子の時期が英国王朝でもいちばんという長さだったが、その割には何にも仕事らしい仕事をしなかった。それというのが、若い頃からぐうたらな遊び好きで、母王がまったく息子を信用しておらず、「あれはバカ息子よ」と周囲に漏らしていたくらいである。我儘で、政略結婚した相手ともうまくやっていくことができず、始めから終わりまで憎み合っている。それにしては何人も子供がいるのが可笑しいが、高貴な方々のなさることは分からない。その代わりに盛大に浮気をした。とくに女優さんが大好きで、とっかえ引き換え浮名を流したが、中でも大女優サラ・ベルナールが有名である。若い頃は美男の父親に似てそうでもなかったが、不節制のせいか、齢を取るに従ってぶくぶくと醜く太った。そんな奴でも、王様には大女優も弱かったらしい。他にもずっと深い仲の女優さんがいて、ホントかウソか分からないが、お妃の目の前で、平気で彼女を寝室に引っ張り込んだという。
王様だったのはたったの十年だが、何しろ派手好きで、周囲を沸かせるのが大好きときている。外交では、華々しく振る舞って国民を喜ばせた。エドワード朝時代は、正しくは二十世紀に入ってからの十年であるが、私たちが思い描くそれは、十九世紀最後のいわゆるデカダンの時代も含んでいるわけで、世界を股にかけた大植民地とそれに相応しく国庫も豊かであった大英帝国の国民が、意気揚々とはしゃぎまくる、愚かではあったが、束の間の佳き古き時代の代名詞だったのも頷けるのである。
だから私たちは、ヴィクトリア時代とエドワード時代をひっくるめて、イギリスの最も輝いた時代、真に帝国という名が相応しかっただけでなく、そこに近代的な自由主義と民主主義を育んだところとして見ていくのも、あながち見当違いというわけではないのだ。
国力隆盛の指標はまず人口だ。ヴィクトリア女王が即位して十年あまりたった一八五一年のイギリスの人口は二千七百万人ほどであった。それが、エドワード七世が世を去った後の一九一一年には四千五百万人になっている。ただし増加の勢いは一九〇一年に女王が亡くなってから衰え、帝国の老化現象は蔽い難いものになった。一八四一年には二十歳以上の若者が人口の半分を占めていたのに、一九一一年には三分の一以下になったという統計もある。国としての成熟が年寄ばかりをのさばらせ、かえって国の活力を奪うという逆説がここでも当たっているわけである。それはまた、イギリスという国の産業化が進み、都市化というか、生活が便利になったことと等価でもある。
私はすでに何度もお世話になったスティーブンソンの『英国社会の一九一四年〜四五年』という本でこれらのことを教えられたのだが、そのイギリスが一九一四年を境に大きく変容するという著者の見方にも従う。それは一口にいえば、帝国の中で保ってきた自由主義と資本主義のバランスが崩れ、政府の役割つまり国民生活への干渉が増えたことにあるだろう。ようやく一人勝ちだった産業の発達にも翳りが見え、ドイツやアメリカといった競争相手が次から次へと現れ、それとともに、金持はどんどん金持になるが貧乏人はどんどん貧乏になるというどうにもならない現象が人びとにますます強く意識されてきたのだった。それを帝国の老齢化という。いろいろあるけれど、老齢化の現象として二つ挙げる。
一つは、お金持ちが金に飽かして爵位を手に入れること。一八八六年から一九一四年の間に二百人が新しく貴族に列せられたが、その三分の一以上が下賤から身を興して事業で財を成した者たちだった。彼らはもちろん貴族の証として広大な領地を所有したけれども、それはみな有り余る金で購ったものであった。サー・アームスロングは一万六千エーカーという土地の他に、由緒あるクレイグサイド荘とバンボロー城を持っていたが、彼がその模様替えに使った額だけでも百万五千ポンドに上ったという。つまりそれらの領地も城もすでに功成り名を遂げた彼らの身を飾る装飾または玩具であり、地位の高さのシンボルではなくなっている。いってみれば、それはビジネスで、従ってその管理や手入れは、投資であり、売買とともに結構な儲け仕事でもあったのである。当然のことながら、古い代々の貴族たちのうち少しでも目端が利く者は争って不動産会社を起こした。由緒あるセシル家やカベンディッシュ家、チャーチル家などは不動産業でロスチャイルドに肩を並べるほどの稼ぎ頭であったという。十九世紀のイギリスは、長い王朝の歴史と大帝国の名前だけで、世界中の金持ちが争ってお金を出す値打ちがあったのだった。金持との婚姻を企む者も多かった。アメリカの富豪ヴァンダービルトの娘は九代目マールボロ公爵と結婚したが、その時の持参金は二百万ポンドだったといわれる。アメリカの鉄道王と謳われたジンマーマンの娘はマンチェスター公爵夫人となった。一八九九年に蓄財に励んだ先代が亡くなって跡を継いだ二代目ウエリントン公爵が受け取った遺産は千四百万ポンドといわれた。つまりヴィクトリア朝とは、土地に成り変わって現金が貴族の象徴になった時期であり、それが私たちの近代史が「カネの世の中」を扱う歴史であることを何よりもはっきりと示している。
もう一つの現象はこの時期のイギリスに出現した中産階級で、彼らはすでに現代の私たちにはお馴染みの、中産階級とはいっても、千差万別、安定した職業に裕福な暮らしを満喫する上層から、日々の暮らしにも困るそれこそ日雇いの貧困層とは紙一重の人びとまでも含むのである。共通しているのは、自分たちが曲りなりにも家庭と身分と手堅い職業を持ち、中産階級だという体面を辛うじて保っていることを自覚していることにある。家庭と身分と職業の三つが、彼らを貧困層から分けている。でも、それらの実態がいかにあやふやで独りよがりなものであるかないかで、上下が分かれる。上の層の者は、すでにすぐ目の先の上流階級に自らを擬していて、中産階級と呼ばれるのを好まない。反対にいちばん下の層は、いつも失業の恐怖に怯え、食うや食わずの貧困を目の前に見ている。そうしてその中間に、さまざまの段階の人びとが犇めいている。社会の中に、このようなさまざまな階層が中産階級として出てきたことこそが、世界に先駆けたイギリスの近代化を象徴しているのだった。
もとより、ミドル・クラスの華が上層中産階級であることはいうまでもない。つまりそれは没落する貴族に代わって、資本主義を活用して世界一の富を築き上げたイギリスのバックボーンであり、プロの職業人の階層だからである。彼らが会社を興し、次から次へと大工場を建てて産業を興隆させ、事業を管理し、世界中に製品を売りまくり、それらをぜんぶイギリスの名の下にグループ化して、世界を自分たちが管理するお金のネットで繋いだのだった。ミドル・クラスというのは一つの呼び名にすぎぬ。それはまさに十九世紀イギリス産業文化の代名詞であった。
一九一一年、ミドル・クラスの華たちの数は七十九万六千人だったとスティーブンソンがいっている。彼らの年棒はおよそ三万ポンドから五千ポンドの間だった。といっても、大部分は五千ポンドに近い口だったに違いない。当時は千ポンドもあれば裕福な暮らしができた。ミドル・クラスとはいっても、その大部分は四百から五百ポンドの収入で暮らしているロウワー・ミドル(中産下流)と呼ばれる層で、数の上ではこっちの方がずっと多いが、それでもその名称に相応しく、無理をして紳士の体面を保って生きている人たちである。とても華とはいえない。マスターマンという人の説では、ミドル・クラスとは、筋肉労働はせず、安全なオフィスに自分のデスクを持ち、そこそこに人から羨ましがられる仕事をしている人たちのことである。彼らは時間給ではなしに決まったサラリーを貰って安定した生活をしている。中産階級であることのキーワードは稼ぎの高ではなくて、いつもコートを着用する「紳士らしく見える生活」にある。朝食には暖かい卵とベーコンを食べ、ランチは近くのホテルで取り、午後のお茶を飲む。ディナーは八時で、献立には肉料理を欠かさない。コックは無理でも、メイドを雇う。当時は年に十八から二十ポンド出せば一人雇えた。贅沢さえいいわなければ、六部屋ある家がロンドンでも年に二十五〜五十ポンドの家賃で借りることができた。それらをひっくるめ、二〇〇〜二三〇ポンドあれば何とか体面ある暮らしを営むことができたのである。彼らの職業は、会社の事務員、商店の番頭・店長、小商店主、広告なんかも手掛ける職人芸術家などである。昔からいた工場の熟練工とか名の通った職人たちほどは稼いでいなかったかもしれないが、それでも社会的な地位は上と見做されている。
ただし、いくら細かくお金のことを調べてみても、その頃、つまり二十世紀初頭エドワード時代のロンドンの人びとの生活を私たちが実感できるとは思わない。彼らの収入が四百ポンドから五百ポンドといっても、それは例えば二十一世紀初頭の東京のサラリーマンの平均年収四百二十万円くらいと同じとしてよいかどうかはにわかには決められまい。百年前の東京なら、絶頂を極めた大英帝国と東洋でようやく力をつけ始めた日本帝国との差を考慮に入れて考えれば、その生活の実態をある程度は推量できるだろう。当時のイギリスで住み込みのメイドさんが年にたったの二十ポンドのお給金で雇えたとすれば、それは今の私たちのお金で二十万円くらいだろうか。年に二十万とくれば、月二万円にも満たない額だ。いくら食住つきでも、よほどのことがない限り、今どきそんな女中の仕事に就く女の子などいるはずがない。当時のロンドンには、そんな仕事でも働かなくてはならない貧困家庭の子女がいくらもいた。それどころか、お上が金を出して貧困家庭の女の子をメイドに仕立てる養成所があったくらいなのだ。大正から昭和の初めにかけてなら、私たちの国のサラリーマンの家庭にだって女中さんは珍しくなかった。現に私の父は中級どころの工場の工場長で、それは今から七十年くらい前のことだけれども、我が家にだって女中さんがいた。父の月給は二百円くらいだったと思う。それが当時のロンドンの工場長の月給四十ポンドに見合うくらいのものだったかどうかは分からないけれども、そうだとすれば我が家の女中さんのお手当ては十円くらいだったのだろうか。いずれにせよ、それでいくらでも住み込みの女中さんが雇えたのだから、佳き古き時代のお話ではある。
では次に、どんな佳き時代にもいる貧困者の話題に移ることにしよう。中産階級がそうであるように、その下の階級にあたる労働者の中身もまた千差万別である。労働者といっても、どんな職場にもいる年季の入った熟練工とか、独立してやっている職人というか技能者たちは結構な賃金を得ていて、紳士の生活などしていなくとも、下級中産階級の連中よりはずっとよい暮らしをしている。だが大多数を占める未熟練労働者とくに女は酷く安い賃金しか貰えなかったし、業種によってもずいぶん差別があった。そこに失業の憂き目と生活環境の悪さが加われば、気の休まる時もなく、いつも疲れ切っている。だから、ただ賃金の高だけでは実態は計れないけれども、一九〇六年ころの未熟練労働者の収入は残業代も入れて年七十ポンドくらいだったという計算がある。いったいに農業と繊維産業の労働者の賃金は安く、炭鉱や機械製造や印刷工は高かった。非熟練工は熟練工の半分くらいであった。そのうちの六割が食料に消え、十六%が家賃として支払われる。その他の生活必需品、燃料、電気、衣類、タバコや新聞、ささやかなレジャーなどがその残りで賄われたのだった。繁栄を誇ったイギリス、エドワード時代の貯蓄額が恥ずかしいくらいに少なかったのも無理はない。
でもいくら貧しくとも、イギリスの会社員であるからには体面を忘れるわけにいかなかった。収入はともかく、同じ労働者仲間でも、郵便局や信用銀行なんかに務めていれば、失業はないし、仕事は綺麗だし、教会通いも出来るし、肉体労働者よりは尊敬できる職業といえたのだ。それはやっと文明国入りを果たした私たち日本人の大正時代後の生活習慣を考えればよく分かる。
でも貧困という視点で見れば、体面がどうあろうと、ここに登場しているイギリス人たちは、例え背広を着用していようと、すべて悲惨なまでに安い賃金で、ろくに休みも取れず、働きずめに働いている貧乏人であるのに間違いはないのだ。ある報告によると、銀行員でも週に三十シリング貰っているのは二人に一人、きつい炭鉱労働者とほとんど変わらない。週給一ポンド(二十シリング)というのが普通の相場なのだった。独り者のうちはそれでもまだいいが、結婚でもしようものなら、とてもやっていけない。そんな環境の中で順調に出世していった四十五歳のある銀行の会計係は年に百五十ポンドの給料を取っている高給取りであったが、二人の子供と体面に相応しい家と生活を維持するのに精一杯で、召使いまではとても手が回らないと語ったという。
エドワード時代一九一一年の国勢調査によると、人口の二十八・八%が熟練労働者の家庭で、三十四・三%が半熟練労働者、九・六%が未熟練労働者で一・八%が自営の職人技術士だったという。合わせて七十四・五%になるけれども、研究者たちの結論を纏めてみると、当時のイギリス国民の三割ほどが貧困層であり、そのうちの一割がまともな生活(スタンダード・オブ・リヴィング)のはるか下に喘ぐ極貧の人たちだったということになる。十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて、イギリスの国民所得は実に四倍に増えている。人口も急増したけれども、それよりも一人当りの年収が一八七三年の二十八ポンドから一九一四年には五十ポンドになっているのだ。たしかに一八六〇年代から一九〇〇年代にかけて賃金が六割上がっているという統計もあるのだが、一方では、二十世紀に入って世界大戦に至るまでの間、逆に六%も落ちているという報告もある。珍しくもないことだが、繁栄の恩恵は公平には行き渡っていない。少なくとも、植民地帝国のイギリスが貧困の問題を解決したとはとてもいえない。
前にもいったように、一九〇六年の労働者の平均賃金は、週に二十七シリング、年にして七十ポンドほどだった。もとよりこれは平均で、人によって大きな違いがある。大企業の未熟練工の給料は熟練工の六割程度だったし、中小企業や農業では、ずっと悪くなる。要するに、週一ポンド(二十シリング)でどうやって生きるかというのが、労働者階級の当面の問題なのだった。
だが本当に深刻な問題は、その一ポンドに依りかかっているというか依りかからざるをえない人びとにあった。家族の人員は減る傾向にあったが、三人家族だって、一週間一ポンドではとうてい暮せない。『一週間一ポンドの暮らし』という本を一九〇三年に出したモード・リーヴスは、現実に二百万人の男たちが八百万人の家族を抱えて、週二十五シリングで暮らしていると報告している。もちろん彼らは餓え、満足な家もなく、ろくに着るものもないありさまだと。そんな彼らが、明日にでも、失業か病気の憂き目を見る確率はとても高いといわざるをえないだろう。人口の三割に当たる人たちが、実際にそんな生活をしているのだった。そうして、そのしわ寄せが彼らの子供たちに向かっていた。貧困が子供に及ぼす影響は成人の比ではない。とくに大家族においてそれは壊滅的である。大戦争の後一九二三年の調査では、イギリスでは、十四歳以下の子供の十六人に一人が「通常の生活ができていない」栄養失調であると報告されている。一九三六年のヨークで調査を行ったローントリーは、十四歳以下の子供の半数が今でも最悪の貧困状態にあるといった。「労働者階級の三十一・一%が貧困に喘いでいるという発見に驚いている暇などない。一歳以下の赤ん坊の五十二・五%、一歳から五歳の幼児の四十九・七%、五歳から十五歳までの子供の三十八・三%が満足な食を与えられていない。つまりこういうことだ。だれでも一歳の時があったのだから、一九三六年生まれの労働者の半分は、その後、どんな生活をしたかにはお構いなく、いつも腹を空かしながら、発育不全の状態で育ったのだ」と彼はいう。  
進化する民主主義
エドワード時代が王の死とともに終わったのは一九一〇年だったが、それといっしょに、多くの国民が大英帝国の時代も終わったことに気が付いていた。二つの世界戦争を挿んだ後の一九四五年には、イギリスはいろんな意味で大きく変貌を遂げていたのだった。
ちょうどその中間にあたる第一次世界大戦、彼らがいう「グレイト・ウォー」(大戦争)が過去のものになった一九三六年、ローントリーが相変わらず貧困はちっともなくなっていないと歎いたのと時を同じくして、リベラルなイギリスは死んでしまったという刺激的な本が出ていた。光栄あるイギリスの伝統的な社会と国策の根幹であるレッセ・フェール(自由放任主義)が、労働組合運動や婦人参政権運動を推し進める勢力によって、すっかり蝕まれているという告発である。つまり、やっと戦争に勝ったのに、世の中がちっとも良くなっていなことへの鬱憤をぶちまけたのだった。初めて、自由主義と民主主義とがイギリスで仲間割れを起こしたのだ。誰に遠慮することもなかったイギリス紳士の自由な振る舞いが、実は植民地の民衆のみならず、国内の多数の同胞たちをも犠牲にしないことには成り立たないことがはっきりしてきたのである。
一九一四年の夏、イギリスの民衆は、その違和感、その不満を一気に爆発させて戦争に臨んだのだった。戦争自体は災難みたいなものであるし、彼らが実際に何を望んでいたかは明らかでないが、挙国一致の戦争が終わった後の人びとの意識ははっきりと変わっていた。政府も貴族も資本家も労働組合も民衆も、自由のために一緒になって戦さに勝ったのだから、みんなが公平に益を受ける資格があるということが共通の認識になっていた。そうして、それがまっとうな民主主義というものだと。
イギリスのリベラリズムはそこで変質した。第二次大戦はその仕上げにすぎない。経済理論のことは知らない。だが社会そのもののあり方は、自由放任主義から社会民主主義の方に比重を移したのである。先にもいったように、貧困労働者が一九〇六年には収入の六割を食糧に使っていたのに、一九三七年にはそれが三割余りに減り、部屋代も一割弱で済んでいるのだ。貧困についての容赦ないルポルタージュで知られたジョージ・オゥエルが、今や二百万の労働者が、たいしたことは出来なくとも、時にはそこそこの贅沢ができると報告している。生活の底上げ感というものは、たしかに国全体の底力とか経済の発展に大いに関係があるが、帝国主義を謳歌した全盛期よりも、国としての序列が下がった一九三〇年代以降のイギリスに典型的にそれが見えるというのは、やっぱり彼らの民主主義とリベラリズムが時を経て良い方向に進化した結果でもあると私は思う。現代資本主義の必然的な発展のせいだとありきたりな解説をする前に、私たちはオゥエルの観察を素直に受け取っていいのではないか。イギリスの勤労者家庭のささやかな貯蓄が全体で七倍にも増えていることとともに。
「貧困の文化」という言葉があって、開発途上国の大都市などに集中するスラムでの悲惨な生活を表す。それは、一九五〇年代にアメリカの文化人類学者オスカー・ルイスがメキシコの貧困家庭を五つ選び、その生活の実態を、いっさいの解説なしに、小説を書くみたいに、淡々と描いた本の題名なのである。それはまた、メキシコだけの特徴ではなく、そこの住民の生きざま・価値観などがまさにあらゆる地域あらゆる民族の貧困家庭に共通する「文化」を示していると主張しているのだった。そうして一九三〇年代のイギリスの貧困層が「貧困の文化」から首尾よく抜け出したかどうかというそのことこそが、二十一世紀の日本の現状同様に、重要なことなのだった。
結論めいたことをいえば、今だってイギリスの貧困層は「貧困の文化」から抜け出してなどいない。二十世紀の後半というか、二つの大戦争の傷から癒えて、ついでにコールド・ウォーもやり過ごし、とうとう社会主義が破綻した八十年代以後の世界全体が、残念ながらまだ貧困を克服できていないどころか、どんどんその酷いありさまが露出してきて、手の打ちようもなく立ち竦んでいるのだ。
近代民主主義が私の今回のエッセイのテーマであることについては、そこのところと関わりがある。スターリンとヒトラーという悪人ばらをやっと過去のこととして、うまく国家社会主義を追っ払ったと思ったのに、そうではなかった。その前提に貧困があったことが、今度は、剥き出しになって見えてきたのだ。それに較べりゃ、共産主義体制なんて悪い夢みたいなものだったとまでは言わない。ただ、そいつが有効な処方箋の一つとして使えなくなったのは、返すがえすも残念なことだ。今では、それに立ち向かう武器として、いかにも頼りないけれども、民主主義より他にないことだけははっきりしている。  
貧困の文化
私事で恐縮だけれども、私のホームページに載っているエッセイ『働き方を変える知恵』(二〇〇六年)から、現代日本人の貧乏生活について少し引用させて貰う。どうせ私が調べたことだから、本当かどうかは保証の限りでないし、現状(二〇一二年)から見ればずれているが、日本の人口一億二千万人のうち、雇用者が全部で五千二百万人いて、その中で非正社員は千八百万人だという。この数はちょっと少ないような気もするが、その辺の印象は業種によってその割合が大いに違うせいもあるだろう。政府統計でも、卸・小売業とサーヴィス業が別々に扱われているのだが、これらの分野では、半分以上が非正規社員なのである。もう少し詳しく見ると、飲食店・宿泊業という項目では七割以上が臨時雇いである。きちんとした雇用が実現しているとされるわが国が誇る製造業でも、非正規社員はけっこういるのであって、千人以上を雇っている大工場こそ八割以上を正社員で固めているが、三百人以下の規模の工場では正社員の数は六割程度に落ちてしまう。
で、問題は賃金である。二〇〇三年(平成一五年)の統計によると、正社員の給料は、平均して、十万円から二十万円貰っているのが二割、二十万から三十万が三割、三十万から四十万の人が二割五分と、年齢に応じて程良く配分されているが、非正社員の場合、十万円以下の賃金で我慢しているのが全体の四割近く、十万から二十万が四割で、それ以上取る人は二割ほどになってしまう。彼らはもう特殊な立場の人たちといっていい。その中でも派遣社員の場合は多少良くて、全体の八割以上の人が十万から三十万の間の賃金を貰っているのに対し、同じ非正規社員でも、パート雇用の場合は十万円以下の人が全体の半分以上を占めていて、十万から二十万の人をいれるとほとんど全体の九割以上の人がこの範囲に収まってしまう。実は、喧伝されている割には、派遣労働者は少ない。それは大都会に集中しているという事情にもよるけれども、人材派遣という業態の特殊な性質にもあるだろう。昔はアルバイトといっていたパートを今では短時間雇用者というらしいのだが、人材派遣のあっせん契約では何故かその辺の法律用語があいまいに活用され、勘ぐれば、正社員と非正社員との間に厳然と存在する標準賃金の格差を隠す必要上そうなっているといえなくもない。いま派遣社員は八十万くらいいるといわれているが、要するに私たちが言いたいのは、パートも人材派遣も、実態は恒常労働とは違う「周辺労働力」と見做せるということなのだ。そうして、周辺労働のあり方を規制緩和と雇用促進に繋がると言い立てる政官財と互いに利用し合っているのではないかということである。周辺労働者とは、就業していた職場の労働条件が余りに劣悪なので、いったん職場を去ったあとは、もう就職する意欲を失くしてしまう可能性がある人たちのことをいう。そうして、労働人口から漏れてしまう彼女および彼らがなお求職意欲喪失者でいられる余裕が家庭あるいは社会に残っているかどうかが、日本の大失業時代到来のカギを握っている。恐ろしい勢いで「短時間雇用者」が増えているという事実があるからには、それがもう限界にきていると思うしかない。
不確かだけれど、人口一億二千万の日本の約五千二百万の雇用者のうち五百万人の人たちが、年収百五十万円から二百五十万円の間で生活しているという。果たして、それでまともな生活ができるのかどうか、この国の実力に照らして、リビング・スタンダードを満たしているかといえば、それはとても無理だろう。実際に若いお嬢さんたちが、月に十五万かそこいらの給料を貰って、東京のアパ−トに独りで住んでいる例はたくさんある。かわいらしい洋服なんか着て、こぎれいに暮らしている。でも彼らに養うべき家族がいればそうはいくまい。夫婦に子供一人の三人暮らしとなれば二百万ではとても食べていけない。それはもう立派な貧困家庭になってしまう。つまりそんな程度の働き手が五百万人いるとして、彼らが養う家族を含めて、最低でも一千万ほどつまり人口の一割の人びとが貧窮の中に沈んでいるのだ。そしてこの状況は、この二十年から三十年の間ずっと変わっていない。
ここで先ほど述べた、二十世紀初頭、エドワード時代のイギリス国民の一割が貧困層で、ちょうど現在の日本に比べていえば、七十ポンドから五十ポンドの年収で暮らしていたことを振り返ってみる。人口の一割という点にご注目いただきたい。これはもう、それぞれの条件の違いを勘定に入れたうえで、近代の、ということは十九世紀以降の国々が、一流も二流も含めて、最低でも一割以上の貧困層つまりまともに食べていけない人びとをずっと抱え続けているということである。それはもう近代国家の法則といっていいくらいなものだ。この状況が是正されるべきものであるとしても、それはリベラリズムの役目ではない。民主主義だけがやれる仕事であろう。
ルイスの『貧困の文化』が貧困の実例を示すつもりで紹介したメキシコの五つの家族のうちの最後の一つは貧困の対極にある富豪の家族なのだが、それはこの富豪がメキシコ市でもいちばん最低のスラムに育ち、母親は売春婦だったという文字通りの貧困家庭に育ったので、ここに入れる資格があると認められたのだろう。この主は目端の利く才気に溢れた男で、逆境の中から大工になり、そこから身を興してセメント事業で大成功を収めた人物であるが、事業感覚は別にして、ふだんの生活や行動はスラムの貧困家庭のそれとちっとも変らないといいたいところだが、金の力が加わっただけ、どうにも気色の悪い身勝手と下品さと粗暴とを振りまいている。中流の家に育ったらしい美しい妻も、虚飾の塊みたいな女で、若い頃から身持が悪く、金持と結婚するのが目当てで主に身を任せ、やがていっしょに住むようになったのだが、実はまだ内縁のままである。完全な独裁者として振る舞う夫の方は、性来の女好きで、三十をかなり過ぎても相変わらず綺麗で夜会の花形である妻にはもう見向きもせず、毎晩若い女と遊び歩いて夜明けにならなければ帰ってこない。しかも女房にはケチで、いちいち頼まなければ生活費も出してくれないのである。そんな夫婦の間にはどいつもこいつも我儘で乱暴で手に負えない四人の子供がいる。著者もこの家族にだけは少しも同情を感じていないらしく、読者もまた、まったく末はどうなることかと思って読んでいる。つまりここにも、リビング・スタンダードだけでは捉えきれない貧困の文化が生きているのである。
ルイスが選んだあとの四家族は、私たちの分類でいえば、中流の下かそれ以下の層である。そもそもメキシコは貧困の見本市みたいなところだから、彼らのうちで月に三百ペソ以上を稼いでいる人は全体の一割くらいしかいない。九割の人たちが百ペソ以下で暮らしているのだった。百ペソというのが、その当時の物価とか生活水準の下で、イギリスや日本に比べてどの程度の生活なのかははっきりとは分からない。ルイスは百ペソを八ドルにあたるといっているから、当時の日本の金で三千円に満たないくらいなのだが、一九五〇年代のメキシコでそれで食べていけたというのは、それだけ物価が安かったからなのだろうか。それとも貧困の文化がそこに連帯を作り出していたからだろうか。
いろいろと手元にある本を参考に下流の人たちの実態を見たわけだが、国も環境も時代も違うそれぞれの貧乏生活を、同類の文化して、ひとまとめに述べるのはそう簡単ではない。
あくまでもいい加減な計算なのだが、二〇一二年の今のこととして纏めてみると、私たちの日本では、独り暮らしでも年収二百万円が限界だ。それ以下だと食うや食わずというありさまで、収入があったとしても、失業中の敗残者とさして変わらないというか、いつ彼らの仲間入りをしてもおかしくない状況である。そのために、ナショナル・ミニマムとか生活保護とか、お上が国民を助けてやることの是非が論じられているわけだが、先進国を自任する我が日本にしたところが、助けたいと思っても、とても全部の人までは手が回らない。援けを必要としている貧困者の数は減るどころか、もう何十年も同じままなのである。
私たち日本人が実感として分かる二百万〜百万円クラスの貧乏は、例えば、アメリカでは二万ドルから一万五千ドル、イギリスでは二万ポンドから一万五千ポンドくらいになるだろうかというのは、あくまでも私の想像である。それから類推すると、メキシコでは八万ペソから四万ペソくらいではないか。ドルに換算するとだいたい六千ドルから三千ドルになる。前にもいったように、ルイスは一九五〇年代のメキシコでは、一年に千から二千ペソしか稼げない人がいくらもいたといっていて、それだと同時のドルで八十から百六十ドルにしかならない。ドルがどんなに強かったとはいえ、ルイスの筆によると、それで貧困者たちは何とか食べていたのだった。アメリカの力が相対的に衰えた今、八万ペソといっても、日本円に換算すれば五十万円にもならない。ちなみにアメリカ人の現在の普通の家庭の年収は四万ドルから六万ドルといったところらしい。日本人の普通の家庭の年収が四百万から四百五十万円というのと見合うだろう。  
民主主義にできること
貧困を退治するのは社会主義がいちばんである。社会主義者なら容赦なく個人企業を国有化するか、強力な干渉を加えるかして、その上に金持から取り上げたお金を国民に平準に分けることができる。貧困をあっという間に退治するにはそのやり方しかない。そんなやり方で私たちの近代国家がうまくいくかというと、そうでないことがつい最近もはっきりしたばかりなのだけれど、それはともかく、民主主義の次に出てきた社会主義あるいは共産主義が、副作用の大き過ぎた特効薬だったことは紛れもない事実であった。
もとより民主主義と社会主義は別のカテゴリー(類)の思想である。資本主義も社会主義もそれぞれが民主主義を名乗っていることからしてもそれは分かる。民主主義は純粋に政治に関わる思想で、資本主義も社会主義も経済活動という手立てを絡めた社会の営み全体を狙う思想だからだ。
ただ社会主義は個人の自由を人質に取った点に特徴があり、それゆえに、政治そのものと見做され易いのであろう。でも貧困が政治の結果ではなくて「文化」だとすれば、それを扱うには民主主義がいちばん似つかわしい。ある意味で、貧困が政治の結果だとしても、それならそれはむしろ政治の負の部分が顕れた結果であり、それを手直しするには、それとはまた別の負の部分の出現を呼びこんでしまうに違いない。私たちは、もう嫌というほど、資本主義にも社会主義にもそんな負の営みの結果を見てきた。
再び十九世紀末のイギリスで、貧困ぎりぎりの生活を余儀なくされていた人びとを見てみよう。どんな文化も繁栄も彼らを救うことなんかできなかった。それは十九世紀だからで、二十世紀なら違うだろうといいたいところだが、残念ながらそんなことはない。当時のイギリスの大都会のスラムに存在した「貧困の文化」は、ずいぶん和らげられた姿に変貌しているといっても、二十世紀の後半にもやっぱり同じようにある。それはもしかしたら人の世が続くかぎり、一つの社会の文化のタイプとして、世界中の何処にでもまたいつまでも存続していくに違いないのであった。もちろん二十一世紀にも。食うや食わずの中で、少しでもよりよい住まいと食べるものと着るものを求める闘いが止むことはない。曲りなりにも福祉国家というコトバが普及した一九五〇年代には、文明国で貧困は確かに減ってきていた。ある調査では、ニューヨークの労働人口の中で貧困とされる人びとは、一九三六年の三十%から一九五〇年にはたったの三%にまで減っていたし、全人口に占める貧困者の割合も十八%から一・五%に縮小していたという。でもそれは、ペテンとまではいわないが、やっぱり操作された科学的言説が語るウソというものである。
一九四三年に公共福祉に携わるある団体が述べた実情を紹介する。
貧困はすでに狭苦しい住まい、水の供給、食物の蓄え、食べ物の調理、人びとの衛生状態などどうしても必要な生活の環境を絶えず悪化させている。街路はいつも騒々しくて、狭いベッドに三人も詰込まれているし、虱や蚤のせいでいつも皮膚病が絶えないので、スラムでは毎晩熟睡することもできない。いつもいらいらして、寝不足で、新鮮な空気もなければ、適度の運動も適わず、娯楽もなく、心も体も荒むばかりだ。子供はみんな汚れたままで、まったく言うことを聞かないし、不健康で病気に罹り易い。そんな彼らの状態がそっくり子孫にも受け継がれる。そればかりか、親たちが神径を擦り減らしてしいる。そんな日々の闘いが人間をダメにしてしまうのは当り前である。年々再々貧困から生じる病気が無防備な人びとを痛めつけ、年々再々幼い者たちが人並みに生きるすべを身につけるその前に闘いに敗れ、肉体を滅ぼし、心はぼろぼろにねじけてしまうのだ。
このような状態で暮らしている人が、どんなに繁栄している国でも、一割はいるということを私たちは信じられるだろうか。まぁ、先ほどの操作された統計が述べる一・五%でも、なおそれを信じるのは難しいのではないか。百人に一人がそんな浮浪者同然の生活をしているなんてことを私たちは実感として捉えられない。二百所帯以上がいっしょに住んでいる私たちの古いマンションはおろか、周辺を含めても、そんな困窮者を私は一人も見ない。千人に一人の割でさえ見ることはない。貧困者は上手に隠されているのか、それともふだん私たちが行かない所に固まっているのだろうか。あるいは、今では彼らは少なくとも見かけだけは私たち中産階級と区別がつかない体面を保っているのだろうか。
でもこの一割という数字は信じた方がいいようだ。現に年に二百万円以下の収入しかない家族がこの日本にそれだけいる以上は。手厚い社会保障とか統計のウソなどには惑わされず、私たちは日常の生活体験から得る確実な知識でそのことを知っている。
そのことをはっきりと教えてくれた本があった。実は、このエッセイを書こうと思い立った動機の一つがたまたま読んだこの『ワーキング・プア』という本だったのだ。ディヴィッド・シブラーというアメリカのジャーナリストが、二〇〇四年に発表したリポートである。日本では、森岡幸二・川人博・肥田美佐子というこの分野における三人の専門家の手で翻訳され二〇〇七年に刊行されている。原著の副題は「目には見えないアメリカ」といい、この一言で、著者はアメリカに確かに実在する貧困を告発しているのだ。
その告発の前提にあるのが、最もお金持ちが多い国アメリカで、働いているのに食うにこと欠く貧困層が世界中で断トツに多いことである。この国では、貧困者が総人口の十三%にあたる三千七百万人もいると著者はいう。実は日本も負けていない。貧困率では、確実に世界の五番目以内にいるのだから。その数一千万人以上ということである。断わるまでもなく、貧困率というのは文明国というか、資本主義が有り余る富を生んだ先進国だけに通用するコトバである。ほとんどの住民がほっ立て小屋で似たような貧しい暮らしをしている地域では、そもそも貧困率という観念そのものが成立しない。一方、発展の先端を走る私たちの国では、先にもいったように、他の九人の市民が目にすることはなくとも、私たちの十人に一人は貧困者であるはずなのだ。国が提示する統計の全体が、その数字が間違いのないものであることを暴露している。
経済発展国の貧困をワーキング・プアと表現するのはとても適切なことであろう。だれかの保護下にあったり、ホームレスだったり、まったく働く気のない人ではなく、働いているのにそこで貰う賃金では食べていけない人びとを指すこのコトバは、実は貧困というものが一筋縄ではいかない複合的な現象であることを表わしている。それをシブラーはこう言い表す。「働いているのに貧困であることは、互いに増幅し合う一群の困難の所業である。そこには、限られた能力、不十分な貯蓄と貧しさだけでなく、健全な家庭の不在がある。悪いのは、搾取する雇用者だけでなく、能力を欠いている従業員であり、挫折し非行に走る人びとであり、自分自身を誤魔化す貧しい人たちである。子供が虐待されていたり、親に教育がなかったり、借金があったりすれば、その家庭の状態が改善することはないだろう。仕事を見つけることがただ一つの解決法ではないのだ」と。
ワーキング・プアが一口では言えないものならば、あとは彼らの一人ひとりに当たってみるしかない。シブラーがやろうとしたことがそれだった。彼の本を読みながら、私は社会学者ベラーが纏めた『心の習慣』を思い出していた。あちらがアメリカの白人のミドル・クラスの科学的分析なら、こちらは黒人のワーキング・プアの人たちへのインタービューで構成されるアメリカ社会の一部分のリポートである。ただしあっちが面接者に多数の助手を動員した専門の社会学者の研究論文であるのに対し、こっちは一人のジャーナリストがこつこつとこなしたインタービューで知った驚くべき実態に基づく告発である。彼が接触した相手はたくさんの数に上るが、それが一回きりではなく、長いのになると四年から五年もかけて付き合い、彼らの生活のありさまを追求したその根性にはまったく驚いてしまう。言いたいことははっきりしていて、世界で最も豊かな国のアメリカで、ドロップアウトしてしまった人びとでなく、働く意欲を持ち、現に時給七ドルかそこいらの低賃金で、公的な国民皆保険制度もなく、福利厚生もほとんどないまま長時間働いている労働者とその家族が人口の十三%もいるということ。肝心なのは、著者が四百頁を費やして明かした貧困の実態と、そこに登場してくる悪戦苦闘しながら何とか崖っぷちから這い上がって生活を立て直した人びと、まだ這い上がれずに貧困に沈みこんだままの人びとの生の声である。そんな本書の読みどころは、著者が知り合ったそれぞれの人が実際に嵌まり込んだ困難にどう対処したかにあり、そこに明かされるワーキング・プアの意味である。親にも構ってもらえない貧困家庭に育ち、どんな技能(スキル)もなく、仕事の探し方どころか働く意欲がないままに、麻薬とセックスに身を滅ぼす若者たち。父親が分からない子供を何人も抱えたシングル・マザーたち。でも彼らも生きるためには、いつかはどこかに縋って立ち直らなければならない。生活保護を受けるのもその過程で手に入れる知恵であろう。ちなみに世界でいちばん社会保障制度が整っていないことで知られるアメリカ合衆国には「貧しい家庭のための一時給付」(TANF)という制度があるが、就職しているのが条件で給付も一時的である上に、申請が複雑ときている。大部分の人が生活保護の申請を法外な手数料を払って専門業者任せにするしかない。仕事もないシングル・マザーやその他の貧困家庭にはフード・スタンプ(食料切手)が配られる。それを使ってスーパーなどで食料が手に入り、飢えずにすむのである。運がよく辛抱が続けば、どこかでスキルを授けてくれる政府のプログラムに出会えるかもしれない。そんな幸運に恵まれて安定したミドル・クラスの生活を手に入れた人もいるのだ。だが著者が繰り返し崖っぷ ちの人びとというコトバを使うのは、彼らが明日にでも失業し、麻薬に溺 れ、犯罪に走ってもおかしくない人たちでもあるからである。
ここに挙げた政府も認めたアメリカの貧困者三千七百万人の平均像は、四人家族が年収一万九九七一ドル(約二百三十万円)以下で生活しているということらしい。アメリカ政府が決めている最低の時給は五ドル十五セントだが、それさえ守られていない。日本の方がまだ少しはましである。メキシコから越境してきて中西部の農業地帯に働く不法滞在者を含め、これらの貧困の淵から転げ落ちまいと必死に働く人びとはすべてアメリカの繁栄になくてはならない人びとであるのに、彼らの幸福は社会全体のなかで欠くことのできない部分として扱われていない。恥を知るべきときであるという言葉で、著者はこのリポートを締めくくる。
何度もいったように、こと貧困に関しては、日本は世界の例外でないどころかいちばん平均的でありふれた国であることを心得ておくと、あんまり見当違いなことを考えずにすむ。国民の一割以上の人が年収二百万円以下で酷い暮らしをしていて、それがずっと続いているのは、私たちの政府の生活保護政策の働きでかろうじてこの水準に保たれているのか、それともちっとも実効を上げていないせいなのかよく分からないけれども、いずれにせよ、国の社会保障制度とか生活保護の事業がなくてはならないものであることを知らない者はいない。
日本には世界に誇れる生活保護制度がある。それは先ほどご紹介したアメリカのTANFと比べてみればはっきりする。それは日本国憲法第十四条と第二十五条で保証された国民の権利に基づき、生活保護法に規定してある保護制度である。それによると、国が決めている最低生活費と収入を比較して、その収入が最低生活費に満たない場合に、その差額が保護費として支給されると決めている。その生活費には、食費・被服費・光熱費等を基本として、アパート家賃、医療サーヴィス、介護サーヴィス、出産費用、生業援助(職業訓練に要する費用)、葬祭費用が含まれる。
法令の文章はそれでいいとして、問題はその運用にある。すべての困窮する国民を救済するといったって、当人からの申請がなければその手続きが始まらない以上、問題の解決は不完全で、ややこしくなるばかりだ。現に、支給を受けていない人、貰える支給額よりも低賃金で働き、支給のことなど知りもしない人びとがたくさんいる。貧困家庭がつねにどの国にも全世帯の一割はいるということを何度もご紹介したけれど、政府の調べでも、貧困世帯は六百万ほどもあるのに、実際に貰っている世帯はその十五%にあたる七十八万くらいにすぎないというのだから。いずれにせよ、肝心なのは実際にいくら貰えるかであろう。年齢四十一歳で、自分が重い障害者である三人の家族を抱えている男が住居費や教育費も含めて三十四万五千七百十円を貰っているという例もあるが、標準三人世帯(夫婦に子供一人)なら物価の高い東京では約十七万円が支給されるという。それが万事に安上がりの地方になると十四万円に少し欠ける。高齢者夫婦なら東京で十二万円ほど、地方で九万円ちょっと。単身の高齢者なら東京で八万円ほど、地方で六万円ほどになる。シングル・マザーで二人の子持ちの場合は、東京で十九万円、地方で十五万六千円にはなるという。若い単身者だと東京で八万五千円、地方で六万六千円だという。これが公定の最低生活費の具体例である。それが十分なのかどうかは私には何ともいえない。でも最低とはいえ生きていけると認定された年収二百万円を考えると妥当なところといいたいが、単身者に限っていうと、百万以下でも暮らせるとしているのがなかなか巧妙な裁定であろう。身軽な単身者ならどんな仕事でも見付けられるし、年寄なら誰かが助けるという判断なのだろうか。それとも不正申請をやりかねない相手と見たのだろうか。
はっきりいえるのは、これらがなによりも失業状態ということを目途に考えていることである。老齢者と障害者、求職意欲喪失者とハグレ者は除外される。同じ貧困者でも彼らは別の分類に入る。いわば社会のお荷物で、慈善か懲罰の対象になる連中だということが現代では暗黙のうちに合意されてきているのだ。彼らを保護する費用はもちろん必要だけれども、それはゴミの処理費用と同じ性質のものである。そういってしまえば身も蓋もないというか、何よりも非人道的だといわれてしまうけれど、でも私たちの社会の貧困が基本的に失業状態から生じていると判断するのが、この資本主義・民主主義の世の中では当たり前のことである。私たちの社会が正面から取り組むのが失業問題から生じる貧困だということは、二十一世紀になってますますはっきりとしてきた。
とはいっても、そういう貧困の捉え方がとりわけ当世風だというわけではないのだ。いつでもどこでも人びとの暮らす社会があって、そこに国の政治が関わってくれば、いくらかの違いはあっても、私たちが抱える問題はいつだって互いに似てしまう。
イギリスの近代社会のありようが、さまざまな変貌を遂げながらも、やっぱりヴィクトリア朝時代の社会の姿をいろいろな部分で受け継いでいるように、私たちの日本の社会にも習俗というか生活習慣の端々に明治時代をさらに遡る江戸文化の名残が見られる。とりわけ貧乏人の苦労は切ないくらいに同じである。ただし、そんなに遡るのではなく、十九世紀を通り越してもせいぜい十八世紀あたりまでなら、思い当ることはいくらも見つかる。  
十八世紀の日本を見れば
明和四年(一七六七年)に田沼意次は御側御用人に抜擢されて、遠州相良に二万石を与えられた。一七七二年には老中となって禄高も五万三千石になり、その子の意知も若年寄となって、父子並んで天下の政治を自由に操った。一七八六年に失脚、相良城も取り上げられ、石高も一万石になってしまう。この二十年がご存じ田沼時代であるが、誰でも知っているように、田沼意次という人は、今も昔も、日本でいちばん評判の良くない政治家であった。権力を自分の私利私欲のためだけに使い、賄賂を取りまくり、贅沢極まる生活を見せつけて、江戸の町を奢侈の風に染め尽くし、その挙句、日本の政治をめちゃくちゃにし、国中に貧困を蔓延させたと。
それはたしかに当たっていることだけれども、でもその当時の世相がただ田沼という一人の政治家のせいばかりでないことは、少しでも歴史を齧った者には分かる。そのことをはっきりといっているのが辻善之助の『田沼時代』という本である。いわば世の常識に敢然と挑戦したこの本は、今から百年近くも前の一九一五年(大正四年)に発表され、一九八〇年(昭和五五年)に岩波文庫となって再販されているから読んだ人も多いだろう。その文庫本に解説者が「時勢の移り変わりというものが、そんなに、明らかに掌を返すように、一、二政治家の施政方策でかわるものであるかどうか」といっているのがよく本書の性格を言い得ているだろう。
百年も前の著述だから、今読んでみると、その方法も文体もずいぶん古風なものである。でもそれが内容とあいまって何とも懐かしいというか、すっかり嵌まっていて、すこぶる愉快である。その「結論」にいう。「以上述べたる所に拠って見れば、田沼時代は一面において混沌濁乱の時代であるが、また他の一面においては新気運の勃興せんとする時代で、新文明の光の閃きを認める時代である。もっとも新気運というのは幕府それ自身に取っては下り坂に赴くことを意味するのであって、徳川氏のためは不肖なる次第であるけれども、日本全体の文化から見ればまさに一転変をきたそうとする時代であるので、慶すべき現象と言わんければならぬと思う。いわばこの時代は新日本の幕開きである」
ここで歴史学者としての辻が言おうとしているのは、徳川吉宗の時代と田沼時代との対比とともに、その歴史的な連続性なのだ。史上まれに見る名君とされる八代将軍吉宗の在任期間は、一七一六年から一七四五年まで足かけ三十年に及ぶ。彼の手になる「享保の改革」は、個人としては申し分のない立派な紳士であったといささか揶揄するような調子を込めて辻がいう吉宗の、少なくとも前半は、一世一代の幕府立て直しの大改革の試みであったことは間違いない。自ら先頭に立って倹約に務め、学問を大いに奨励し、江戸の街を整備し、防火設備を作り、親しく人民に接してよく下情に通じた心意気を政治に活かした。紳士として後世の模範となるようなその行いは、今日に至るまでなおその余徳を残した。といいながら辻の言い分はそれでお終いにはならない。実は、吉宗のやり方は人民に対し非常に厳格かつ窮屈で、彼らはその恩を感じながらも、いつも心の中ではヒヤヒヤしておった。立て続けに法令を出して色々世話を焼くが、余り重箱の隅をほじくるようにやるので、殆どこれは功を奏しない。奨励した学問もただ実用一点張りで余裕を持たないので、本当の学問の発達などとても無理であったなどなど。
かたや田沼は次の家重から家治の時代に移った一七六七年に側用人となり、一七八六年に失脚するまでの二十年間、吉宗に匹敵するくらい積極果敢な政治をやった。両者は人となりは正反対だが、いわば十八世紀のいちばん大切な時期に幕府経済の立て直しを図り、その目指すところは一つだった。ただ時代の流れには勝てず、ともに成し遂げられなかったという点も同じ。その意味では彼らは、及ばずといえども、時代の流れを読み、他の人たちに比べれば誰よりも敏腕の政治家だったといっていいのであり、欠点をあげつらうあまり、彼らの失敗そのものを個人のせいにすることなどできない。
辻の本の面白さは、それらの事どもを理論的に解析していくのでなく、落書やらざれ歌やらを挙げながら、エピソードを積み重ね、あくまで世相の動きとして述べていくことにある。大正四年という時代からしても、私たちがこのエッセイで問題にしているような「貧困の文化」、あるいは主として失業から来る貧困という面を辻がまだ本題と考えていないことは当然である。その代わりに、彼は田沼時代の一八七〇年代から八〇年代に頻発した天変地妖と百姓町人の騒動を列挙して、事細かにその雰囲気を伝えようとする。それらはまさに、やむをえないこととはいえ、幕政の失政とそのツケを回された民衆の貧困の実態とはっきり見合うのであった。辻はこの騒動の項を一七八七年の天明の打ち壊しと呼ぶ大騒動で締めくくる。大阪から始まり、京、奈良、伏見、堺、駿河、甲府などと続いた打ち壊しがついに江戸に及ぶ。原因は米相場の高騰にある。だいたい五十匁から六十匁の値だった米一石が、天明七年にはおよそ五倍の三百三十匁になったのだ。当然米屋は買占めに走る。ついに暴民が蜂起。江戸中の米屋が叩き潰される騒動になった。やっと収まった後、幕府は米・雑穀を廉価で売り出し、さらに金二万両、米六万俵をだして窮民を慰撫した。この騒動は実に「江戸開発以来未曽有の変事地妖」であったといわれた。
これらはもちろん田沼時代の華やかさが実は空景気にすぎなかったこと、その裏で貧困に喘ぐ人びとが空恐ろしいほどたくさんいたことを推測させる。私たちは十八世紀日本の貧困率あるいは貧困のデータが知りたいのだが、残念ながらこの本では分からない。でも少なくともそれが全国民の一割どころでなかったことだけは確かだろう。本当の原因は天変地妖ではなく、行き詰り無為無策な幕藩体制の人災こそ貧困の元凶であることだけは間違いなかった。社会が少しずつ変貌していき、今の貧困の元凶を私たちが失業と捉えるまでには、制度も法も、人びとの生活の仕方も意識も何もかも、いろいろな変化の過程を経る必要があった。そのせいか、私たちは吉宗の時代よりも田沼時代の方をずっと身近に感じる。
田沼と吉宗の違いといえは、田沼が平気で不正なことをやったことにあるだろう。その第一がしこたま賄賂を取って、その見返りに便宜を図ったことで、豪奢を極めた田沼の屋敷の三十畳敷の大広間はご機嫌伺いに駆け付けた者たちでつねに足の踏み場をないくらいであったという。彼に引き上げられた子分たちもまた大っぴらに賄賂を取ったのはいうまでもない。ただし賄賂を取るだけなら、殿様の吉宗と家来の田沼とを一緒にするのはやっぱり不公平である。田沼が賄賂を取ったのは職権を乱用するためで、吉宗が職権を乱用するのはただ自分を偉く見せるためなのだから。吉宗亡き後、士風の退廃は目を覆うばかりで、武士にあるまじき振舞いを以て罰せられた旗本が次から次へと現れる。それはもう田沼のせいとはいえない。せいぜい田沼もその一端を担いだということはあるにせよ。世上一般の風俗はもっと酷い。上の威令が利かなくなったとたん、けじめが無くなり、贅沢を極めた淫靡でだらしないのが流行ったと辻は歎いている。まぁそれは、近代の特権である自由な風といえないこともないのだが。不正もまた、貧困の文化が流行るご時世の方が居心地はいいに違いない。
私たちが注目すべきは、だから経済政策の方である。田沼のやった主だった経済政策は、すべては吉宗時代に手がつけられ放っておかれたものばかりだったと辻は述べる。この時代の政治家としてやったこと、あるいはやれたことは、どちらも大差がなかったということだった。でも成果を挙げるには、田沼の場合は、吉宗の時よりもさらに時期が悪かった。幕府経済はもう、誰がやってもどうにもならない段階だったのだ。
そのせいもあるのかもしれないが、目端が利く田沼がやった経済政策とは大部分が事業を特権化することで、一般人を占め出して特権商人に任せることで当局が裏ですべてを仕切り、莫大な運上金を課して、濡れ手で粟の利益をちゃっかり手に入れるものであった。それは自由な競争を建前とする資本主義的な行き方のまさに正反対であった。田沼時代に各地で開発と地場産業を立ち上げる動きが盛んになり、民衆の貧乏を追放する努力が讃えられ、そこに名君と呼ばれた殿様がたくさん現れたというけれど、そのやり方はみな同じで、特権商人と結託した後ろ向きの統制経済だったのである。田沼の後に現れた松平定信は、田沼が悪評だった分吉宗に劣らぬくらいに評判が良いけれど、何をどうやっても、彼ら以上に経済を挽回できるチャンスなどあるはずもないのだ。つまり政治が貧困を退治することなど、明治の世になるまでは何一つ期待できなかった。
辻が田沼時代を新気運の幕開けといった真意は、大正期のリベラリストとして、それがやがて来る明治維新と資本主義的な近代国家の行き先が彼の中に仄見えたということに違いない。新気運とは民意の伸張、言葉を換えれば、民権の発達というべきものである。百姓町人の騒動も町人の自由気ままな風俗も、みんな庶民が主役となる時世への変転の現れといえないこともない。辻があえて言ってみた次の時代への期待も分からないわけではない。しかもこの時代は、新しい学問と芸術の分野で傑出した才能が輩出したときでもあった。彼らはいち早く自由な時代の風を掴み、古い格式から離れて、我が身をそれに載せて飛翔した人たちだったと辻はいう。蘭学が盛んになったことはいうまでもないが、国学の賀茂真淵、本居宣長、俳諧の蕪村、千代女、狂歌の蜀山人、小説家の上田秋成、浮世絵の歌麿、春信らを彼は挙げる。長唄、常磐津もこの時代に起こった。辻はいう。「要するに、この時代は江戸文化の極盛時代というべき文化・文政時代の前駆である。化政時代が江戸文化の満開であるならば、田沼時代はそのまさに綻びんとする蕾である」と。現在の私たちの生活文化の中に、化政文化が生み出したものが色濃く残っているのがただの偶然とは思えない。
でもそれは幕府から見れば、武家の衰亡であり、徳川政権が下り坂にさしかかったということであった。もとより田沼時代にそのような新気運が萌したといっても田沼自身の政治感覚がそうであったということではない。リベラリズムとか民主主義とか資本主義とかの流儀が仄見えたなどということではさらさらない。彼のやったことは、理念として見れば、それらとは正反対のものであった。彼の積極財政が国中に広がっていたに違いない貧困の退治を意図していたはずはないし、実際には退治どころかさらに拡大させていた。ただ彼の手腕そのものが、なにがしか剛腕な企業家の顔を偲ばせるということかもしれないし、ある程度の貧困などは、国が発展するには一握りの金持だけが富を独占するのも仕方のないことで、そのための必要悪と割り切る前期資本主義のつわものたちの信念を彷彿させるのであるのかもしれない。  
結びに代えて
くどいのは承知で、今まで言ってきたことを纏めてみよう。
私たちの国が資本主義と民主主義を知るのは十九世紀もだいぶ過ぎてからであり、西洋に学んで、そのシステムが実際に動き出すのはもっとずっと後である。それも、後からやって来た者のつねとして、上からのご指導なしには何も進まない。永年幕藩体制の下でじっと耐え忍んできた身には、新時代になってもなお、お上頼みがすっかり身についていたということである。それは表面だけ西洋から真似たということにすぎず、国として一挙に社会主義的な統制経済を採用したということではさらさらなく、新しい貧困退治が議論されたということでもない。
福祉あるいは社会政策というものが、失業が主因となって生じる貧困問題解決の処方箋として議論され、実際にその対応策が取られたのは、二十世紀初頭のイギリスをもって初めとする。それは資本主義と民主主義が互いに手を取り合って不具合・貧困の是正に取り組む姿勢がやっと指導者たちに中に芽生えてきた十九世紀末のイギリス社会で、どこよりも早く論議は始まった結果なのだった。その特徴は失業と貧困との因果関係が強く意識されたことで、生活水準が労働賃金という物差しで測られ、最低の生活水準は最低賃金の高で決まることになったのだった。とはいっても、そこの見極めが難しい。資本主義社会の最低賃金は支給される側の生活事情とはまったく関係のないところで決まるものだし、それで一家が食っていけるかどうかには雇い主は無関心である。だからこそ、行政がその国の最低生活賃金を決めなくてはならず、その賃金でやっていける生活がその国のスタンダード・オブ・リヴィング(最低生活水準)になるはずなのだった。ただ残念ながら、それがリクツ通りにはいかない。最低賃金が、独身者がやっと食っていける程度であるのなら、家族を抱えた人がそれで足りるはずはないだろう。そしてそれが貧困との境目であるのなら、政府の最低賃金はまったくその機能を果たしていないというべきではないか。しかも、実態はもっと悪い。二十一世紀の今日になっても、どこの国でも公的に決められた最低賃金は、たった独りの普通の「健康で文化的な生活」さえ維持するに足りないありさまなのだ。
少し話を急ぎ過ぎた。文化的な生活というのはただのお題目ではない。それは現代の私たちの社会が見出した新しい生活の様式でもある。二十世紀初頭のイギリスで、今から百年も前に、失業というものに関してもう一つの議論が交わされていた。それは、失業がもたらす貧困が実はお金だけの問題ではないということであった。お金だけの問題なら、不十分とはいえ、すでにさまざまな援助が差しのべられている。生活扶助・ドールと呼ばれた失業手当の他に貧民法だってまだ前代の遺物として生きていた。仕事がなくとも、多くの人びとが貧困に落ち込む一歩手前の最低水準は少しずつでも高くなっている。でも、そのことがちっとも貧困問題の解決にはならないことにイギリス国民は気がついていた。仕事を失った人びとは、貧乏に身を持ち崩すこともそうだけれど、それよりも堪えがたい恥ずかしさに身を引き裂かれている。スキルを持った人びと、長年誇りをもって働いてきた職人・労働者ほど自尊心を傷つけられ、自分を見失ってしまうのだ。希望のない空っぽの未来に直面した齢老いた労働者たちは、僅かな年金や扶助金を貰っても何の助けにもなっていない忘れられた者たちだと、ある善意の基金の調査が報告している。彼らを蝕んだのは社会の格差なのだった。体は病み心を衰弱させて、貧困に沈み込んでいく人たちの劣化現象こそが、近代の貧困の様相を表しているのだ。
すでに述べたように、貧困はあらゆる国あらゆる地域で、テコでも動かない頑固な一部になっている。民主主義が本当に貧困を退治すると決意するなら、思いきって発想を変える必要があると思う。すでに二十世紀前半のイギリスでちらほら論じられていたはずだが、それはタダでお金をばら撒く福祉や慈善といった社会全体としてみれば安上がりな方法で最低生活の水準を引き上げることで、格差を縮めるのではなく、社会の仕組みに手を加えて、最高の水準にある生活の方を容赦なく引き下げることで社会の格差を縮めることである。つまり高額所得者に制限を設け、もちろん時世に乗じた億万長者の出現など絶対に許さないような行政措置を講じる。いうのは簡単でも、そんなことが二十世紀のイギリスを含めて民主主義の政治家たちには荷が重過ぎることは分かっている。だから二十一世紀になってもまだ、私もそんなやり方を推奨できない。まぁ、ぼちぼちやるしかないか?
いずれにせよ、栄光と挫折とさまざまな社会問題を抱え、二度の総動員戦争の体験を経て、一人ひとりが時間を掛けて議論を進め、やっと合意に漕ぎつけたイギリス国民が一九四〇年代に生み出したのが社会保障制度なのだった。それが貧困問題への彼らなりの対処の仕方だったが、そして事実、それは広く世界のお手本になったが、やはり完璧とはいえなかった。もう一度、根本的にやり直さなくてはならぬ。
それに引き換え、社会的な合意ということを軽視する私たち日本国民は、貧困問題の取り組みにおいても、今でもなお名君に縋る。そうして、たまたまそいつが名君でなかったら、今度はクソミソにやっつける。猿真似の社会保障制度だってないよりはましである。ただその保障制度が、ハナから分かっていたことではあるけれども、お金が足りなくなってにっちもさっちも行かなくなると、また新しい名君が見つかるまで、もうどうしていいか分からない。でもまぁ、それが私たちの流儀というのなら、貧困退治はまだまだ先の話だとしても、それまでは時間を掛けて民主主義に慣れていくしかないのだろう。  
 
平成の新語流行語

 

新語流行語大賞 / この賞は、1年の間に発生したさまざまな「ことば」のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その「ことば」に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの。1984年に創始。毎年12月上旬に発表。『現代用語の基礎知識』読者審査員のアンケートを参考に、審査委員会によってノミネート語が選出され、トップテン、年間大賞語が選ばれる。審査委員会は、姜尚中(東大教授)、俵万智(歌人)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、室井滋(女優・エッセイスト)、やくみつる(漫画家)、箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)、清水均(『現代用語の基礎知識』編集長)で構成される。 
 
1984(昭和59)年   
オシンドローム
超人気番組だったNHKの連続テレビ小説『おしん』に因んだ新語。凄まじい苦労の連続を必死に耐え、それでも明るさを失わず他人に優しい主人公「おしん」の姿は、戦後を働き抜き、豊かさを手に入れた日本人の心情に“良質の日本人”像として共感の嵐を巻き起こした。その状況を、全国民の感情が同一にシンドローム化しているとして、『タイム』誌上で「おしんドローム」と表現。
鈴虫発言
1983(昭和58)年、ロッキード事件の田中角栄元首相に実刑判決が下され、同年暮れの総選挙は、政治倫理問題が最大の争点となっていく。この状況を揶揄したのが中曽根首相。「倫理、リンリ」とまるで鈴虫が鳴いているようだと切り返した。
スキゾ・パラノ
ニューアカデミズムの旗手といわれた浅田が、人間の特質を、スキゾ人間とパラノ人間とに分類した。スキゾ人間とはいろいろなことに興味をもち、ひとつのことにこだわらない人。パラノ人間はひとつのことに熱中して、ほかのことは全く考えない人。
特殊浴場
今でいう「ソープランド」には長いこと「トルコ風呂」という俗称があった。トルコからの留学生がこれに異議を唱え、トルコの名前を消すことに努力。「特殊浴場」などの名前が提案された。
まるきん まるび
渡辺和博は著書『金魂巻』で、現代の代表的職業31種に属する人々のライフスタイル、服装、行動などを、金持ちと貧乏人の両極端に分けて解説した。それを、○金(まるきん)、○貧(まるび)とネーミングしたところが秀逸。著書はベストセラーになり、この言葉もマスメディアだけでなく、日常会話の中にも頻繁に出てくる大流行語となった。
くれない族
1984年に放送されたTBSテレビの金曜ドラマ「くれない族の反乱」から生まれた言葉。以前から「誰かが何かをしてくれない」と甘える子供は多くいたが、ドラマは、この「くれない」現象が主婦層まで広がっている実態を描き、その人たちを「くれない族」と呼んだ。社会現象までを含み込んだ風俗語として評価された。
疑惑
「ロサンゼルスを舞台にM氏が妻を保険金殺人」という大胆な仮説を展開した『週刊文春』のキャンペーン企画『疑惑の銃弾』。この後、メディアは、事件を洪水のように報道し続けた。「疑惑」の文字は氾濫し、一大流行語となった。
千円パック
この年、怪人21面相が菓子に青酸ソーダを混入し、グリコ・森永など菓子メーカーを脅迫する事件が起きた。この脅迫に対抗するために森永製菓が考え出した、安全のための菓子パック。1200円程度の内容の菓子を完全に包装し、1000円で売った。
「す・ご・い・で・す・ネッ」
人気番組のフジテレビ「笑っていいとも」で、所が流行らしたギャグ。大したことでもないことで大袈裟に人を誉めるときに用いるが、若者が“場”を盛り上げるために好んで使うようになり流行した。“す”の語にアクセントを置いて話すことがポイントだとか。
「教官!」
TBSテレビ「スチュワーデス物語」で、主人公・松本千秋(堀)が連発するセリフ。ドジでノロマなスチュワーデス訓練生が教官との師弟愛により奮闘する根性ドラマだが、パロディ風な味つけが人気を得た理由という。若者の間で、人に呼びかける時などに「教官!」とやると大受けした。 
 
1985(昭和60)年

 

分衆
経済的絶頂期目前の日本社会の自信を表した新語。日本人の価値感は多様化・個性化・分散化してきたとし、従来の均質的な“大衆”ではなく“分衆”が生まれたとした。
パフォーマンス
若者の間では、舞踏、演劇、音楽など、芸術の表現活動全般を指す「パフォーマンス」という表現を知らない者はいない。しかし、この年、“お堅い”日本社会党が新宣言草案の中に「愛と知の力のパフォーマンス」という表現を用い、一挙に国民の間にこの言葉が広がった。
NTT
1984(昭和59)年12月20日に電電改革三法が成立し、日本電信電話公社は民営化され、NTT(日本電信電話株式会社)として再スタートした。NTTという名は新社名発表からわずか数カ月、驚異的な早さで認知された。
キャバクラ
「キャバレー」と「クラブ」の合成語。風俗産業の生き残り策として考え出された新しい業種。「若い」「素人」を売り物にした女性がマンツーマンで接客、“上品で明朗会計”がうたい文句。
言語戦略
『武器としてのことば−茶の間の国際情報学』(新潮選書)で提唱された。国際紛争を解決する手段として、軍備に替わって「言葉」を武器にすべきだという発想で、そのための戦略が絶対に必要であるとした。
ネバカ
「オールナイターズ」「おニャン子クラブ」など女子大生・女子高校生ブームが真っ盛りの世相を痛烈に批判した新語。大人におだてられ、舞い上がっている女子高生たちを“根っからのバカ”と指摘。
「イッキ!イッキ!」
今でもよくやる、若者たちが酒を飲むときに周囲の者がはやしたてるかけ声。以前から学生サークルのコンパなどで行われていたが、その年代の若者たちが実社会に出てきて、背広姿で“いっき飲み”をする様子は“若者の幼児化”の象徴との見方もある。受賞は慶応義塾大学体育会が最初に始めたという説をもとにした。
トラキチ
21年ぶりの優勝を遂げた阪神をサポートした熱狂的な応援団のこと。ハッピ、メガホン、帽子の三種の神器で身を包み、“阪神命”と大フィーバーする老若男女は社会現象ともなった。“にわかトラキチ”も多数出現した。
角抜き
この年、目白の闇将軍と言われ、キングメーカーとして政界支配を続けた田中角栄が倒れた。部下である竹下登の造反、そして脳梗塞の発症という事態に陥り、急速に政治的影響力は失われた。この状況を的確に伝える言葉として、社会的に広く認知された。
「私はコレで会社をやめました」
禁煙「パイポ」のCMから生まれた流行語。パイポを持ちながら「私はこれでタバコを止めました」と言うモデルが何人か続いた後、小指を立てた男性が「私はこれで会社を辞めました」とオチをつけた。サラリーマン層にバカ受けした流行語。
「投げたらアカン」
青少年の非行防止キャンペーンとして、公共広告機構が流したテレビCMから生まれた流行語で、子供に人気があった。300勝投手・鈴木の、独特の関西弁アクセントが奇妙なリアリティーを持っていた。
100ドルショッピング
凄まじい経済発展、大幅な輸出超過、世界経済一人勝ちの日本は、多くの国との間に深刻な経済摩擦が生じるようになった。アメリカやECからの輸入圧力に悩まされた中曽根首相は、国民に舶来品を1人100ドル買って欲しいと訴えかけた。その姿に国民は半ばあきれ、皮肉を込めて流行語とした。
「愛しているからチラいのよ」
人妻であり韓国人であるソープランド嬢との愛を描いた『片翼だけの天使』はベストセラーになった。出会いから結婚まで、その経過を丹念に、心のひだまで分け入るような描写は、愛の純情と悲しさが痛切に染み入る。この言葉は、韓国人女性が放ったもので、その真情に多くの人が泣いた。
テレビ番組「ひょうきん族」から発する各種流行語
「ひょうきん族」に代表されるフジテレビのバラエティー番組は、テレビの在り方を変えたと言われる。新・珍・奇な表現と強烈な生命力こそがテレビだという確信で、そこからは、多くの流行語が生み出された。流行語プロデューサー賞とも言える。 
 
1986(昭和61)年 

 

究極
新語でもない「究極」が選ばれた理由は、本来の意味とは別のニュアンスで使用したことによる。あらゆる料理に究極を求める、いわゆる“グルメブーム”の火付け役となった言葉である。ほかにも「究極の温泉」のようにつかわれ、マニアックな日本人を表現する語としては、ピッタリであった。
激辛
グルメ時代の幕開けを特徴づける新語。韓国、中南米、東南アジアなどのエスニック料理はもちろん、カレー業界、ラーメン業界をも巻き込んだ「激辛」時代が始まった。辛口せんべいという意表をついた商品を発売した鈴木は、一躍激辛のスターとなった。
ファミコン
テレビゲーム業界に誕生した革命的な新商品「ファミリー・コンピュータ」、通称「ファミコン」は、空前の大ブームを巻き起こした。画面、サウンド、ゲーム内容など、ソフトの面でも画期的で、ニューメディア産業の夜明けを暗示した。
川の手
明治以降、地盤沈下が進んだ“下町”が、再興の願いを込めて“山の手”に対して「川の手」とネーミング。隅田川沿いの南北の細長い地帯を、政府が主導する都市再開発の流れに乗って、ウォーターフロントとして再生させようとした。
家庭内離婚
愛情は冷めてしまったのに、子供、老親、経済的自立の問題などで、離婚することができない夫婦の形態を的確に、かつ鋭く表現した。伝統的な結婚観が音を立てて崩壊しているという現実を、明確に表す合成語で、世の中にショックを与えた。
アークヒルズ
官民あげての東京改造計画、そのサンプルとなったのが赤坂・六本木地区の開発事業。この中心となったのが、最先端のインテリジェントビルであるアークヒルズで、土地の高層利用、24時間都市といったあらゆる面でのモデルケースとして、東京新名所となった。
新人類
古い世代とは違う、まったく新しい価値観のもとに行動する若者群を新人類と名付けたのは、『朝日ジャーナル』編集長の筑紫哲也。旧人類からすると、新人類は自分勝手、無感覚、シニカルというような、マイナスイメージが強かった。ところが、物おじしない、クヨクヨしない、明るい部分だけを見るというような新人類らしいパーソナリティで大活躍したのが、ライオンズの3選手。これにより、新人類のイメージは一新された。
知的水準
中曽根首相が自民党内の会合で、外国に対し「知的水準が低い」との発言をしたが、国内の野党、マスコミなどは平気で見逃した。ところがロイター電でこの発言が発信されると、世界各国からは非難の大合唱。金満日本の奢りと、国内政界、メディアの国際性の“知的水準の低さ”を世界中に露呈し、大恥をかいた。
「亭主元気で留守がいい」
テレビCMから生まれたフレーズ。“亭主の沽券”を徹底的に笑いのめし、夫が留守で元気はつらつな妻がこのフレーズを叫ぶ。対照的に、存在感の薄い夫の姿は“夫婦関係”の現実を突き付けられたようで、おかしく悲しい。この年、1番人気のCM。
おニャン子
フジテレビで放映された「おニャン子クラブ」は、一種のバラエティー番組で、出演者のほとんどが素人の女子高生という点が斬新だった。テレビに出たがり屋、目立ちたがり屋の女子高生を「おニャン子」と呼び、この番組開始以来、「おニャン子」は信じられないほど増大した。
「プッツン」
コメディアン・片岡鶴太郎が飛ばしたギャグ。人に責められたり、都合の悪いことがあると、「プッツン」と言って、その場をごまかしてしまう。このギャグが若者に大受けして、街のあちこちで「プッツン」の大合唱が聞こえるほどはやった。
「やるしかない」
この年の7月に行われた衆参同時選挙で歴史的敗北を喫した社会党は、新委員長に土井を選んだ。切札というよりは、仕方なく選んだという実状で、党内の空気は土井には冷たかった。それを知りながら、あえて委員長に就任した土井は、悲壮な覚悟を込めて「やるしかない」との第1声を放った。この名セリフは大いに受け、流行語になった。
150円台
政府の円高容認政策により、米ドルに対する円レートは一挙に200円の大台を割った。数多くのシンクタンク、経済研究所のうち、東海銀行調査部は急激な円高を的確に予測して評価を高めた。近い将来、150円までなるとの見通しは日本社会にショックを与え、流行語ともなった。
「バクハツだ!」「なんだかわからない」
天才画家・岡本太郎だからこそ生み出すことができた流行語。独特なカリスマと存在感を持つ岡本が「芸術はバクハツだ」と叫ぶと、奇妙なリアリティがある。同様に「なんだかわからない」との発言も、まるで深遠な真理でも秘められているかのごとく感じられる。いうならば人語一体賞とも言えるこれらの言葉は、大いにはやった。
地揚げ・底地買い
狂乱の土地投機ブームが本格化し、日本全国で悪質な土地買い、住民追い出しが目立つようになった。そのため、普通の市民生活を営むことさえ困難になる例も数多く出た。その一人、女優・馬渕晴子は、強引な追い出しを図る不動産業者を告発し、庶民の側からの「地揚げ・底地買い」反撃のシンボルとなった。 
 
1987(昭和62)年 

 

マルサ
国税査察官は、査察の査を○で囲った“マルサ”と通称される。映画「マルサの女」は女性査察官を主人公にして大ヒットした。土地投機、株高、財テクと、大企業から個人まで、マネーゲームに参加することが当たり前のような社会風潮の中、それができない庶民は、悪賢く儲ける人物を摘発するマルサに拍手喝采した。
JR
この年4月1日、国鉄は115年の歴史に幕を降ろした。7つのJRに分割、民営鉄道会社として再スタートを切った。JRとは、国鉄時代のJNRからNationalのNを外しただけの呼称であるが、この単純さが受け、アッという間に世の中に認知された。
第二電電
電電公社が民営のNTTとして再生され、開放された電気通信事業には続々と新会社が参入した。その中で、ひときわ異色のネーミングで目をひいたのは「第二電電」。電電という古くさい言葉と、第二という表現は、まさに常識の裏をかいた新社名であった。安易なカタカナ社名が横行するなか、古さゆえに新しい新機軸が高く評価された。
サラダ記念日
短歌界の超大型新人・俵万智のデビュー歌集『サラダ記念日』は、短歌集としては異例の260万部という大ベストセラーとなった。口語体を自在に駆使した歌風は、短歌の世界を変えたばかりでなく、多くの短歌ファンを生み出した。また独特な語感は、短歌以外の言葉の世界にも大きな影響を与えた。「○○記念日」が各地で続々と誕生したのも、人気を物語るエピソードである。
朝シャン(モーニング・シャンプー)
「朝シャン」とは、資生堂のCM“朝のシャンプー”というフレーズが高校生の間で簡略化されたもの。朝にシャンプーをしましょうという宣伝が、またたくまに女子高校生を中心に広まった。日本人の生活習慣にはなかった「朝シャン」は、一時のブームという見方も多かったが、この年から男性も含めた“清潔指向”現象として社会問題化する。
ノリサメ
ノッているかと思うとサメている、まったく新しいタイプの人物群を「ノリサメ族」と言う。前夜の宴会では盛り上がるが、翌朝はサメきって知らん顔。上司にしてみれば、本音の見えない、扱いにくい新人と言える。受賞者は、そういうノリサメを演技として巧妙に演じられるタレントとして評価された。
懲りない○○
安部譲二の『塀の中の懲りない面々』は、刑務所という特異なモチーフと登場するユニークな人物群によりベストセラーとなった。この題名に触発されたわけではないのだろうが、この年も多くの“懲りない”事件が続発。汚職、詐欺から盗難事件まで、新聞を飾る事件の数々を目にすると、人々は“懲りない○○”と言うようになった。
「なんぎやなぁ」
この年、阪神タイガースは開幕から負け続け、呆れるばかりの負けっぷりをみせつけた。地元大阪のテレビ関係者である受賞者が、この阪神の姿を見て言ったセリフが「なんぎやなあ」。口汚く罵るでもなく、大袈裟に批判するでもなく、愛情と悔しさとやり切れなさを含んだこのセリフは、視聴者の共感を呼び、大阪だけでなく、全国区の流行語となった。
ゴクミ
後藤久美子を縮めてゴクミ。元祖“国民的美少女”と言われたゴクミ人気が大フィーバー。人気ドラマ「伊達政宗」に出演したとはいえ、演技は今一のゴクミがなぜ人気沸騰したかは謎。キャピキャピの“おニャン子娘”や、ブリッ子タレントに食傷した庶民の目に、古典的な美少女がマッチしたのか。その後に続く美少女ブーム、名前を縮める通称、確かに一つの時代の先駆けではあった。
マンガ日本経済入門
言葉ではなく、表現方法が流行になったという意味での受賞である。難解な理論を分かり易いマンガで表現。学習、歴史、経済、情報という多岐なジャンルでマンガ本が出版され、文章に重きを置く従来のジャーナリズムに対する一矢となった。受賞の『マンガ・日本経済入門』は、日本経済の内外状況をビビッドな迫力で描き、大ベストセラーとなった。
ワンフィンガー ツーフィンガー
村松を使った、サントリーウィスキーのテレビCMから生まれた。シングル、ダブルと言わずに、「ワンフィンガー、ツーフィンガー」とキザに表現したのが受けた。リッチになった若者のナイトライフは、この頃から大きく変わり、ゴージャスで派手派手しいものを好むようになった。そのような時代の気分に、キザなこの表現はピッタリした。
サンキューセット
マクドナルドは520円のハンバーガーセットを390円で売り出し、39(サンキュー)セットとネーミング。数字の39と感謝のサンキューをもじった商品名で、街の話題となった。本格的なハンバーガー商戦の幕開きで、これによりマクドナルド商法は圧倒的に勝利した。
“国際”国家
5年に及ぶ長期政権を終えた中曽根首相が、多くの機会に発言、表現したのが「“国際”国家」という言葉であった。日本が国際社会の中で生きていく、というこの言葉には、だれも反論があるはずはなかった。甘く、優しいこの言葉は、さまざまなメディア、報告書、会合の枕言葉に使われて、表面的には大流行語となった。ただし“国際”の中身については千差万別で、その分、言葉は根付かなかった。
鉄人
プロ野球の連続出場試合新記録を達成した衣笠選手に送られた称号。18年、2191試合を1日も休まずに出場し続けた偉業の陰には、凄まじい努力があった。この事実をメディアはこぞって報道し、「鉄人」衣笠はスーパースターになっていった。同時に「鉄人」という言葉は、“料理の鉄人”というようなさまざまな使われ方をされ流行語となる。 
 
1988(昭和63)年 

 

ペレストロイカ
ソビエト共産党のゴルバチョフ書記長が打ち上げたソ連の改革政策(ペレストロイカ)は、世界中から好感をもって迎えられ、その成否は注目を集めた。日本においても、一日として新聞に「ペレストロイカ」の文字が無い日はなかったほど。国内改革にも「行政のペレストロイカ」というように使われ、外来語としては異例の定着ぶりであった。
ハナモク
週休2日制が定着し、金曜日の夜を「花金」と呼び始めたのは数年前のことだったのに、早くも木曜日が遊ぶには最適な日と大騒ぎ。金曜日の夜からは海外旅行やスキーなど小旅行に出かけようというわけで、レジャー大国の実現と浮かれた。日本経済が絶好調の中、初任給の急上昇など、リッチな若者が増えたことが背景にあった。松屋はこんな時代の空気を感じとり、木曜日休日を変更した。
トマト銀行
アメリカやECから批判され、ようやく銀行業務の規制が緩和された。法律改正に伴い、相互銀行などが“銀行”として統一され、いっせいに社名変更をすることになった。新社名として世間の度肝を抜いたのが「トマト銀行」。堅いイメージの銀行に、トマトを冠する発想の柔軟さが話題となった。
遠赤(効果)
健康ブームに乗ったマスコミの報道をきっかけに、この年にわかに「遠赤」がもてはやされた。遠赤とは遠赤外線のことで、生鮮品の鮮度維持や健康管理に著しい効果があるとされる。商品化も容易なため、さまざまな新製品が開発、研究された。市場規模10兆円という数字が一人歩きをし、メーカーからメディアまで、さまざまな場面でもてはやされた。
カイワレ族
プラスチックケースの中のウレタンの苗床に植えられ、土ではなく水で生きるカイワレ。完全な管理のもとに育てられるカイワレ野菜は、中学生、高校生の姿そのものだ、という指摘は社会に大きな反響を巻き起こした。親の立場からの村崎の発信に、メディアはこぞって管理社会の中でしか生きることが許されない中・高校生を「カイワレ族」と呼んだ。
「今宵はここまでに(いたしとうござりまする)」
この年、大ウケした流行語。会社の会議、学生のサークル、宴会、はては教室でも、時間の終了を婉曲に告げる時に好んで使われた。発信元はNHK大河ドラマ「武田信玄」。番組の最後に、若尾文子が語るモノローグの締めのセリフであった。
ドライ戦争
この年の夏、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などあらゆる媒体に「ドライ」の文字が踊った。ビールメーカーによる「ドライビール」の宣伝だが、マスコミはこれを「ドライ戦争」と書き立てた。この“戦争”の勝者はアサヒビールで、驚異的な売り上げ増を記録した。ビールを変えるビールとの予想どおり、日本人の嗜好を変えた大戦争であった。
シーマ(現象)
日産が新発売した高級車「シーマ」は、爆発的な人気を博した。注文から半年待ちは当たり前、走っていれば街行く若者が振り返るというような情景であった。日本経済の好況、円高から外車ブームが続く中、日本人の高級品志向に応えたのがシーマであった。高級品志向の商品が数多く発売されたこの年、日本人の意識の変化を物語る言葉として「シーマ(現象)」の語が多く使われた。
アグネス論争
子供を連れて仕事場に行くアグネス・チャンに対し、作家・林真理子が批判。これにアグネスが反論し、双方の応援団を混じえての大論争に発展した。正確に言えば「アグネス子連れ論争」と言うべきもので、大きな国民的関心を得た。女性の自立という問題を含みながらも、イベント的要素がふんだんにある、“時代”を感じさせる論争であった。
5時から(男)
栄養剤「グロンサン」のコマシャルから生まれた。疲れ切ってダラダラとしていた男(高田)が、5時の終業時間が来ると、グロンサンを飲んで大元気、疲れを知らず遊び回るというストーリーで、サラリーマンには人気となった。管理社会への抵抗という解説もあったが、身近に必ずいる“仕事よりも遊び男(女)”が彷彿され、彼らを「5時から男」と揶揄した。
しょうゆ顔・ソース顔
若い女性の間で、男性の顔を分類する遊びが大流行した。「マヨネーズ顔」「ケチャップ顔」「みそ顔」などなど。そんな中で、もっともポピュラーで市民権を得たのが「しょうゆ顔」「ソース顔」の分類。切れ長の一重まぶたの和風の顔立ちが「しょうゆ顔」、彫りが深いモデル顔が「ソース顔」で、それぞれの代表として“少年隊”の東山と錦織が選ばれた。
一村一品/ヒューマン・ブランド
大分県が独自の地域活性化事業「一村一品」運動を始めて10年。当初は“企画倒れ”“単なる思い付き”など揶揄されたが、この年には全国自治体の70%までが同様の事業を起こすまでになった。さらに、生産者の顔が見える「ヒューマンブランド」作戦を展開するなど、ユニークな活動は高い評価を得た。
「ユンケルンバ ガンバルンバ」
栄養剤「ユンケル黄帝液」のテレビCMで森田(タモリ)が発するセリフ。言葉自体を取り上げると、さほどおもしろくはないのだが、タモリの個性と表現能力が加わると独特の味がある。言葉と人間が合わさって一つの世界を築いている。
「ふつうは“汚職”と申します」
この年、戦後最大の疑獄事件と言われるリクルート事件が起きた。未公開株で資金提供を受けた政・官界のお偉方は、口裏を合わせたように「自分は知らない」「秘書が」「妻が」「息子が」「弟が」と責任を転嫁した。そんなとき、ズバッと問題の核心をえぐったのが産経新聞のこの見出し。薄汚いいいわけが吹っ飛ぶほどの切れ味で、庶民から絶賛された。 
バブル景気とその崩壊
「バブル」という言葉は、1980年代半ばまでは、「泡」を意味するに過ぎませんでした。しかし、86年からの日本経済の状態を指して命名されました。すなわち、「実態以上に経済がふくらみ、みせかけの繁栄を作り出した状態」をいいます。企業や個人は、土地や株式への異常な投機的な投資で一時的に資産を著増させ、消費も伸ばしました。都市部の地価は5年程度で3.5〜5倍になりました。株価も他の先進諸国に比して、急騰しました。
「見せかけ」の経済は、91年には崩壊し、土地、株、ゴルフ場会員権など、軒並み暴落しました。その後10年間は空前の不況となり、おびただしい企業と個人が大きな打撃を受けました(「失われた10年」)。「バブルになってしまった」というふうに、原因をあいまいにして、どこにも誰にも責任がないかのような言われ方がバブル期には流布していました。
1985年、「軍事国家」アメリカは、軍への莫大な支出と新自由主義による富裕層への減税などで財政の赤字がふくらみ、また、企業の国内生産力の低下と多国籍化などで貿易赤字を膨らませました(双子の赤字)。85年、G5各国はアメリカのドル高是正の要請に応じて為替市場に協調介入します(「プラザ合意」)。その結果、円は急騰しました。
政府はその後、行き過ぎた円高による打撃を受けることの予想された輸出業界を救済するため、また、アメリカからの要請もあって、超低金利政策に転じました。87年〜88年には2.5%という世界最低水準の低金利政策を実施しました(87年末のアメリカの公定歩合は6%)。アメリカの目的は、日本の金利をアメリカの金利より低くしておき、日本の資金をアメリカに流入させ、赤字の穴埋めをさせようというものでした。
加えてアメリカは日本にたいして内需拡大(輸出の抑制)による経済成長を求めました。日本はすでに多額の財政赤字減らしに取り組んで来ましたが、バブルのさなかに年50兆円の公共事業計画を対外公約として約束し、財政を拡大しました。
それまでの素地として、80年代からの外貨取引の自由化による投機的資金の流入の影響も無視できません。84年にアメリカの要求で「日米円・ドル委員会」が設置され、日本の金融市場の開放や金利の自由化、いわゆる「金融・資本の自由化」が始まりました(内橋克人「悪魔のサイクル―ネオリベラリズム循環―」)。ネオリベラリズムがアルゼンチンなどラテンアメリカ諸国の経済を破綻させたことは知られていますが、日本でもこれに近い現象が起きていました。
しかも、70年代前半までで日本経済の高度成長は終わり、企業の多額の内部留保金も行き場を失っていました。
このような超金余り現象の下で、主に二つの経路でバブルが発生しました。一つは、銀行が中堅・中小企業(不動産関連)あるいは住宅専門金融会社(住専)などのノンバンクに貸し出し、その資金が土地に流れ込むルートです。担保の審査もずさんを極めました。末端では、「地上げ屋」が暴力団を使って土地を手放さない住家にダンプカーを突っ込ませて立ち退かせるようなことも珍しくありませんでした。
二つ目は、一般企業が主として資本市場から調達した資金で、財テクといわれた多様な資金運用の一環として株式などを購入したルートです。株価は額面総額よりはるかに高くなっていたので、銀行から資金を借り入れるよりもずっと有利でした。もっとも、銀行からの融資もありました。こちらの方はマイナス金利で融資していたことなど一般には知られていない事実もあります。
株価は90年1月に暴落し、地価も同年末には低下し始めました。跡には巨額の不良債権と不良資産が残りました。「現実の経済では、貨幣量はバブルの期間を通じて着実に上昇しつつあったから、いずれは深刻なインフレが生じると考えるのが常識である。だが、それにもかかわらず、当局は輸出に悪影響があるという論理で金利を変更しようとはしなかった。政府は相変わらず経済成長に大きい関心を持ち続けており、経済の金融面に関する政府の理解は、計画経済だった戦時中と同じく貧弱なままであった」 。
経済学の常識を無視して、「土地や株は値上がりし続ける」という思い込みによる貸付額の「ノルマ制の強行」で、「日本経済の司令塔の役割を果たしていた銀行員のモラルの荒廃は致命的だった。保険会社も証券会社も、…製造工業ですらそうだった。職業倫理は荒廃してしまった」(森嶋通夫 同上)。「資産格差が大きくなるという問題点も生じた。とくに低資産層を重視して分析した結果をみると、不平等度が大きくなるところに社会的な問題の深刻さがあった(「経済白書」1989年版)。「金融の超緩和と公共投資による内需拡大策がバブルを生んだ。既得権益が残り、官も民もそれを失うことを恐れて、円高を生かそうという構造改革にならなかった。道路公団の役割が終わったことも当時から指摘されていた。米国債を買い、米国の赤字を支える構造も変わっていない。」。  
 
1989(昭和64/平成元)年 

 

セクシャル・ハラスメント
欧米ではすでに社会問題化していた「セクシャルハラスメント」だが、日本では“西船橋駅転落事件”の判決が出たこの年、一気にスポットライトを浴びた。この事件は、酒に酔った男性がしつこく女性にからみ、避けようとした女性がはずみで酔漢を転落死させてしまったものだが、その酔漢には、そして多くの男性の中にも、抜き難い“女性軽視”の発想があることが判決で指摘された。日本で初のセクシャルハラスメント裁判と言われ、河本は弁護人として活躍した。
Hanako
女性雑誌『Hanako』のコンセプトや、愛読者のこと。結婚にも、仕事にも、もちろんレジャーにも徹底して“楽しむ”新しいタイプの女性群のことをいう。背景には、日本経済の圧倒的な力があり、男女の地位均等のうねりがあった。ただ、「やっていることは海外へのブランドショピングや、グルメ旅行だけではないか」との“ひがんだ男性”の声も「Hanako」族に向けられた。
DODA/デューダ(する)
転職情報誌『DODA(デューダ)』が発信元。絶好調の日本経済は、就職戦線においても極度の売り手市場となった。それにつれサラリーマンの意識も大きく変わり、「生涯一企業」主義が揺らぎをみせるようになる。特に若年層はその傾向が強く、より良い職場を求めて転職することに何の抵抗もなく、一種のブームにさえなった。転職のことを「デューダする」という言い方も“おしゃれ”とした。
まじめ×ゆかい
この年の就職戦線は、空前の“売り手市場”で、どんな企業でも誰でも入れる、といわれるほどであった。同時に、理工系学生が大量に金融企業に流出し、技術立国日本の危機が叫ばれてもいた。そんな状況に危機感をもったのが、折り紙付きの硬派産業・川崎製鐡。スローガン「まじめ×ゆかい 川鉄」をひっさげて大学生募集に奔走し、社会的にも大きな反響を呼んだ。
濡れ落葉
仕事、仕事で疲れきった亭主。反対に体力、気力、バイタリティに満ちあふれた女房族。この夫婦関係をズバリえぐりとったのがこの言葉。趣味も無く定年を迎えた亭主は、ほうきにまとわりつく濡れ落葉のように、女房にまとわりつき、カルチャーセンターの小旅行までついてくる。数年前に、定年後の亭主族を“粗大ゴミ”と呼んだが、さらに“逆転”した夫婦関係がこの言葉にはある。
オバタリアン/オバタリアン(旋風)
ホラー映画の『バタリアン』とオバサンを合成したマンガ「オバタリアン」(堀田作)とは“ずうずうしく、羞恥心がなく、自分勝手”なキャラクターなのだが、そう名指しされた「オバタリアン」に受けるという不思議な現象を見せた。この年の参議院選挙では、社会党がずらりと並べた「マドンナ」候補と、それを応援する女性有権者が発揮した「オバタリアン」パワーが圧勝し、その底力をみせオバタリアンの名を世に認知させた。
ケジメ
リクルート事件の解明が進み、江副浩正・リ社前会長は逮捕されたが“巨悪”は逃げ延びた。政・官界に対する庶民の不信感は頂点に達し、政治家の“倫理”は“死語”と化した。倫理に代わって登場したのが「ケジメ」。「巨人が優勝したら丸坊主になる」との約束を守った久米の「ケジメ」に反し、「政治家のケジメ」はどうなっているのかとやけくそ気味の批判が続出した。
「24時間タタカエマスカ」
栄養剤「リゲイン」のテレビCMから生まれた言葉。猛烈サラリーマン(時任)がリゲインを飲んで、世界を舞台に働き闘うストーリーで、時代の空気を見事に反映している。同時に、CMソング「24時間タタカエマスカ」もヒットし、小学生から夜の宴会でまで、ついには夏の甲子園の応援ブラスバンドにまで登場した。
イカ天
「イカ天」とは「平成名物TV イカすバンド天国」の略語で、三宅は司会者。このテレビ番組は、素人バンドが勝ち抜き戦で争い、これを足がかりにプロ活動を始めるバンドも出たりした。大ヒットの背景に、空前のバンドブームがあり、供給源になったのが、ホコ天(歩行者天国)で演奏するアマチュアバンドであった。努力よりチャンス、目立つことがベスト、こんな若者感覚の延長線上に「イカ天」人気はあった。
「こんなん出ましたけど〜」
テレビなどで活躍した占い師の泉が、占いの結果を発表する時に言うセリフ。どことなく、インチキくさく、そしてユーモラスな物言いが受け、流行語になった。若いサラリーマン、OL、学生の間で広まり、ついにはサラリーマンの中間管理者が、上役からの指示を伝達する際に使われるケースも…。言葉のおもしろさとして上級と評価された。
『壁』開放
“ベルリンの壁”が打ち壊された。今世紀で特筆される歴史的出来事である。ソ連のゴルバチョフ書記長が唱えたペレストロイカ路線により、東欧諸国は自主路線を歩くことが可能となり、東西冷戦構造は音をたてて崩壊した。その象徴となったのが、日本時間11月9日に行われた、東ドイツ政府によるベルリンの「壁」撤去作業。宇宙中継で伝えられたTV映像は、全世界に新しい歴史が切り開かれた瞬間を告げた。
平成
この年の1月8日、年号は「昭和」から「平成」に替わった。それにともない「平成」の文字はメディアを含め、あらゆるところで使われることとなり、特別賞を受賞した。受賞者は、平成になって初めて誕生した赤ちゃんである。
NOと言える日本
石原慎太郎と盛田昭夫の共著『「NO」と言える日本』が出版され、ベストセラーとなった。「これからの国際関係は協調だけではなくNOと言うことも必要」というのが本の主旨だが、国際派として知られる両者の発言だけに反響は大きかった。もじって「NOと言える○○」が使われ、流行語となった。 
冷戦の終了
1989年は、第2次大戦後世界を二分していた、アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営とソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(冷戦)の終了を決定づけた年となりました。11月9日には東ドイツが冷戦の象徴ともいえるベルリンの壁の開放を宣言、この年から91年にかけてソ連・東欧諸国の体制が崩壊しました。その後10年間で、これらの国々は、相次いで資本主義国家となりました。この変革には国によって固有の要因もありますが、政治的無権利状態に置かれ、指令型の経済が破綻して不自由な生活を強いられた民衆の不満の存在が共通の要因として挙げられます。「ソ連型社会主義」は失敗しました。
冷戦の終了は、欧米諸国では第一義的には人権を求める民主主義革命として理解される傾向がありました。これに対して日本では、社会主義体制の経済的不効率の問題として捉えられる傾向がありました。対比的に言えば、日本の戦後は経済開発を重視し、人権や民主主義の問題は第2次的な問題として捉えてきたことがここにも現われています。日本国内では、労働組合運動等における社会主義思想の後退や混乱、90年代における日本社会党の消滅による「55年体制」の崩壊に影響しました。その後、「新しい社会主義」の模索も行われています。
冷戦の終焉は、世界の民衆からは概ね歓迎されました。“これで平和で民主的な時代が来る”と。確かに米ソの代理戦争はなくなりました。しかし、軍事的にはアメリカの覇権主義を抑える国がなくなりました。冷戦「秩序の解体」により民族紛争や民主化運動が世界の各地で勃発すると、ロシアや中国を含めて各国が軍事力で抑え込むことが容易になったという重大な側面があります。経済的には、アメリカ型市場主義がグローバリゼーションによって世界全体に拡大しました。軍事面と経済面は密接な関係にあります。
冷戦の終焉は、もっと長いスパンで見ると、過去数世紀に渡って展開してきた資本主義的な世界システムから別のシステムへの移行期の始まりという位置づけもあります。近代化をパラダイムとする時代の終わりという見方と重なります(ウォーラーステイン「入門・世界システム分析」、水野和夫「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」)。また、普遍的な価値の保持者であることを正当化理由として覇権を目指してきたスペイン以来500年近い歴史の終わりではないか、という捉え方もあります(豊下楢彦「冷戦体制とポスト冷戦」 「戦後50年をどうみるか 上」所収)。近年のラテンアメリカにおける社会主義への道の動きも注目されます。
消費税の実施
竹下登内閣によって88年末に成立した3%課税の消費税法が89年4月から施行されました。大型間接税反対の請願署名は、国会史上空前の7188万人に達しましたが、十分な審議もなく自民党単独で強行採決されました。
当時、税制全体の見直しによって実質的には減税になるという説明は、現実とはマッチしませんでした。直間比率の見直しで税負担が公平になるという説明もなされましたが逆進性は否定できず、応能負担を内容とする納税者の権利(憲法13、14、25条、前文の「恐怖と欠乏からの自由」)の観点から強い疑問が提示されました。ヨーロッパ諸国は間接税を大幅に導入しているという説明もありました。しかし、それならば、ヨーロッパの高・中福祉国家諸国の社会保障制度や労働法制、教育法制等国家・社会の全体像を比較して日本の福祉国家のあり方をどうデザインするかという大きな議論の中で合意すべきであるという反対意見は、ほとんど考慮されませんでした。
日米構造協議始まる
85年のプラザ合意以降の円高ドル安の中にあってもアメリカの対日赤字は膨らむ一方で、日米貿易摩擦が昂じていました。アメリカは、対日赤字が膨らむ要因は、日本の市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の改造と市場の開放を要求し協議の場を求めて来ました。これが89年7月の日米首脳会談で「日米構造問題協議」として結実しました。商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで及ぶ広範な要求は200項目を超え、「ワシントン発の経済改革」とも称されました。
90年6月のこの協議の最終報告で、アメリカは日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求しました。海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定しました。その後村山内閣は、アメリカからの要求で630兆円に積み増ししました。これは日本の財政赤字(さらに世界から嘲笑される日本の一層の土建国家化)の大きな要因となり、憲法が予定している福祉国家の建設は重大な危機に追い込まれて行きます。
昭和天皇の死去
89年1月7日、昭和天皇が癌のため死去しました。
前年9月、発熱が続き病状の悪化が報道されると、その月の19日以降、国民の間に広範な自粛ムードが広がりました。テレビのバラエティや歌謡番組の中止、企業の創立記念パーティー、年末の「日本歌謡大賞」中止などが自主的に行われました。テレビCMの「元気」「笑う」「おめでとう」などのキャッチフレーズは削除されるか変更されました。各地のお祭りやパレードも中止されたりして、社会全体がフリーズした観のある数ヶ月は、戦後半世紀近く経っても象徴天皇制の議論がはなはだ欠如していたことを思い知らせました。
1月9日の平成天皇の「即位後朝見の儀」や2月の昭和天皇の「大喪の礼」が天皇の国事行為として行われたことは、政教分離の原則(20条3項)違反ではないか、大きな論議を呼びました。昭和の時代の終わりに当たって、昭和時代とはなんだったのかの本格的な議論はなされませんでした。「死者にむち打つ」戦争責任論はこれまで以上にタブー扱いされました。  
 
1990(平成2)年 

 

ファジィ
「ファジィ」とは“あいまい”という意味の言葉で、カリフォルニア大学のザデー教授が開発した「ファジィ工学」で一躍有名になった。「経験」や「勘」といった、コンピュータでは処理できないといわれていた“あいまい”なものをプログラミングする理論で、日本でこの理論を家電製品に応用・実用化したのは、松下電器の洗濯機が第1号。ブームのきっかけをつくった。以来、各メーカー入り乱れて盛大なファジィマーケットができあがった。
“ブッシュ”ホン
1989(平成1)年8月に首相に就任した海部俊樹は、90年8月に勃発した湾岸危機では対処不能に陥った。その海部を支えたのが、ブッシュ米大統領からの電話。日本側の対応をアメリカ寄りにするためにハッパをかけたものだが、ブッシュからの電話があるとにわかに元気づくことから「『ブッシュ』ホン」といわれた。日経のコラムに登場、日米首脳の象徴的な位置関係を、わずかカタカナ5文字で軽妙に活写してみせた。以来、各メディアがこの言葉を使いだし、皮肉な流行語となった。
オヤジギャル
漫画「スイート・スポット」の登場人物“オヤジギャル”は、駅の立喰いソバを食べ、電車の中ではスポーツ紙を広げ、株を売り買いし、疲れたらユンケル黄帝液を飲む。現実の社会でも、漫画のように女性の「オヤジ」化現象は珍しいものでなくなってきた。年若いけれど、やることは“オヤジ”そのもの、そんな女性を「オヤジギャル」と呼び、当の女性たちに大受けした。
アッシーくん
深夜、帰宅しようとする女性が電話を一本。すると男が現れ、車で女性を送っていく、これが「アッシーくん」。電話一本ですぐに飛んで来て、“足代わり”を務めることからこの名がついた。見返りを求めず、ひたすら運転手に徹する。流行語になるほど、あちこちに「アッシーくん」が出没していることは事実であった。
ちびまる子ちゃん(現象)
漫画「ちびまる子ちゃん」が米紙ワシントン・ポストに“日本人の心とマーケットをかっさらった漫画”として紹介された。30年前の地方中小都市を舞台に平和で平凡な日常生活を描いたこの漫画が、なぜ日本で大ブームになっているかをレポートしたものだが、そこにはテーマソングのように“ピーヒャラ、ピーヒャラ”と浮かれる日本人の実像が浮かび上がっている。
バブル経済
この数年、土地や株は天井知らずに上がり続け、実体経済をはるかに超える異常な数値を示していた。このような投機的な経済状況は、いつしか「バブル(泡)経済」と呼ばれるようになった。土地や株の相場が揺れ動くようになった1990年、うたかたのように“泡”は消えるのではないかと多くの庶民が感じ始め、「バブル経済」の文字は頻度を増した。
一番搾り
アサヒ“スーパードライ“の大ヒットに対抗するため、ビール業界の王者キリンが発売した新ビールの名称。「一番搾り」というレトロなネーミングと、一番搾りしか使わず、徹底的に味にこだわった贅沢なコンセプトが受け、大ヒットとなった。
パスポートサイズ
ソニーが新発売したビデオ用ハンディカメラの名称。サイズが“パスポート”と同じところから命名されたのだが、聞いただけで小ささが実感でき、インパクトは強烈であった。テレビCMの浅野の軽妙な演技も加わって爆発的な人気となった。ネーミングの重要さを再確認させたという意味での受賞である。
愛される理由
歌手・郷ひろみと結婚した二谷が書いた初のエッセイ本のタイトル。出版と同時にベストセラーとなり、ミリオンセラーを記録する。内容は、言ってみれば“タレント本”の枠を超えていないのだが、女性の溢れるばかりの“自信”が全面に出ていて、若い女性には受けた。挑発的な「愛される理由」という語は、たとえば「このレストランが愛される理由」という使い方で、若い人の間で流行語となった。
昭和生まれの明治男
肩・肘の故障に泣き、あらゆる治療、手術、苛酷なまでのリハビリの末、奇跡のカムバックを遂げた村田投手。復帰後も、豪速球にこだわり凄まじいまでの努力を続けた。この野球に賭けた鬼気迫る執念と頑固さを、陰で支えた淑子婦人は「昭和生まれの明治男」と表現した。
「気象観測史上(はじめての…)」
この年は春、夏、秋、冬と、異常気象の連続であった。そのため気象予報では「気象観測史上初めての」とか「測候所開設以来の」という枕言葉が多用された。温暖化、オゾン層破壊、酸性雨など、地球の機能全体に狂いがきているのでは、と人々にエコロジーを考えるきっかけを与えた。
スペシャルゲスト
この年8月、イラク軍はクウェートに進攻。これに伴い、イラク国内の外国人は拘束されたのだが、フセイン大統領はこれを「スペシャルゲスト」と強弁した。言語文化、風土、歴史観の違いでは理解できないフセイン大統領の“個性”に西側世界は憤激した。国内でも、むりやり人に何かを要求することを「スペシャルゲスト」と言う冗談がはやった。 
湾岸危機
1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻・占領し、8日その併合を宣言しました。いわゆる湾岸危機の始まりです。主権国家を侵害する侵略行為であることは明白でした。
しかし、背景は複雑です。第一次世界大戦後の1921年、オスマン帝国に勝ったイギリスは委任統治領としてイラクを成立させる一方、同年から23年にかけてクウェートの地帯をイラクから分離し、61年に独立させました。80年〜88年のイランとの戦争で疲弊したイラクは、平和裡に経済再建する環境を構想していました。しかし、クウェートはイラクに経済制裁・経済戦争をもって臨み、国境をイラク側に移動させ、アメリカから供与された技術でイラク領土内の油田を盗掘するなど、挑戦的でした。これは、クウェートは本来自国領だったという従来からあったイラクの感情に火をつけ、侵攻の理由として主張されました。
安保理は直ちに即時無条件の撤退を要求し、経済制裁を決定しました。平和的な解決を求める国際世論も多く、湾岸諸国の多くは対イラク武力制裁に反対でしたが、安保理はアメリカなどの多国籍軍に武力制裁の権限を委任する決議を採択しました。翌91年1月17日、多国籍軍はイラク軍に対して攻撃を開始、湾岸戦争が始まりました。多国籍軍は大規模な空爆と地上攻撃でイラクを圧倒し、イラクのフセイン大統領は2月27日に敗北を認め、3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結しました。
アメリカは世界最大の原油埋蔵量を誇るペルシャ湾岸で支配権を確立するため、早い段階からこの地域における武力行使も辞さないとして軍備を増強していました。今日まで至る一貫した軍事介入策です。きっかけは、73年〜74年の「オイルショック」でした。75年にはキッシンジャー国務長官が戦争の準備があると述べ、80年にはカーター大統領が「武力行使を含むあらゆる手段による敵対勢力の排除」声明を出し(カーター・ドクトリン)、ペルシャ湾に緊急展開部隊を常時展開しました。89年後半には、アメリカはイラクとの全面戦争に備える作戦立案を開始しました。翌90年8月2日のクウェート侵攻の2日後には、ブッシュ大統領は作戦計画1002−90の遂行準備開始を命じました。(マイケル・T・クレア「世界資源戦争」)。
「米国政府は、まずクウェートの王族を利用してイラクに侵攻を行わせるように仕向け、次にこの侵攻によりイラクに対し大規模な攻撃を行う大義名分を得ようと考えていた。」(ジョンソン民主党政権の司法長官ラムゼー・クラーク「ラムゼー・クラークの湾岸戦争 いま戦争はこうして作られる」)。
湾岸戦争は、平和的な解決を原則とする国連憲章の観点からも大きな問題がありました。安保理は多国籍軍に広範な武力行使の権限を付与し、しかも安保理の監督を放棄しました。戦争直前にフランスが提案しイラクが承諾した、イラクのクウェートからの撤退を含む和解案は無視され、経済制裁の効果も見ずに戦争に突入しました。さらに、米軍はイラクを撤退させるにとどまらず、イラク国土を深く攻撃しました。冷戦終結後の国連の変化―アメリカの力の増大―の始まりを示すものでした。
湾岸戦争の特徴は情報作戦の発展でした。情報操作だけなら以前からありました。ベトナム戦争後のアメリカは、報道の主役となったTVを使い、情報の「パッケージ」「洪水による操作」の手法を研究開発し、湾岸戦争の開戦から数日間、TVはイラクの重要施設がアメリカのハイテク兵器によって華麗にピンポイント攻撃される映像を流し続けました。映像は軍からの提供でした。「プール取材」(代表取材)といわれる厳しい報道統制も敷かれ、爆撃の93%を占めたB52などによる人口が密集する都市に対する無差別爆撃やハイウェイの旅客バス攻撃などによる市民の多数の犠牲は隠蔽されました。放射性物質である劣化ウラン弾を使用した事実も報道されませんでした。逆に、「油まみれの海鵜」など、イラクによる環境破壊を非難する等の捏造した映像作戦で、動物愛護を含む世界の良心を味方に付けました(武田徹「戦争報道」、ラムゼー・クラーク上掲書等)。
アメリカからの要請により、海部俊樹内閣は自衛隊の初の海外派兵となる「国際連合平和協力法案」を準備しましたが、激しい議論の末、廃案になりました。代わって、政府はアメリカの要請で総額135億ドルというおカネによる支援をしました。これも一種の参戦であり、憲法の理念に違反しているとの批判がありました。政府はさらに、ペルシャ湾に自衛隊の掃海艇を派遣しました。自衛隊法99条が根拠とされましたが、個別的自衛権を根拠とする同法に違反した初の海外出動となりました。
自衛隊をめぐる従来の問題はその違憲性でした。しかし、この時から、国民の関心の焦点は海外派兵の問題に移りました。派兵の目的として「国際貢献」が謳われました。しかし、その実質は、資源の確保という大国の利益(「国益」)でした。
直接に多国籍軍に守られたサウジアラビアとクウェートを除けば、日本が支払った金額は第1位でしたが、「国際社会」から「日本は血を流さない」という批判を受けたとされ、その後の日本のトラウマとなりました。「国際社会」の象徴として報道されたのが、クウェートが91年、2回に渡ってワシントン・ポストなどに掲載した約30か国に対する感謝広告の中に「日本」の名前がなかったことです。その理由の一つとして、日本が支払った金額の圧倒的な部分がアメリカに渡り、クウェートにはほとんど渡っておらず、さらに、各国から徴収した費用は実際には余っていて巨額のおカネが所在不明になっていたことが考えられます。海外では問題になりましたが、日本では報道されませんでした。全体として、マス・メディアは、「国際社会」の実態を検証しないまま報道しました。
湾岸戦争は、「民主主義」の時代の戦争には、戦争を計画・実行する人間がいる空間とお茶の間という二つの「戦場」があることをこれまでになく痛感させる戦争になりました。
 
1991(平成3)年 

 

「…じゃあ〜りませんか」
とぼけた表現と演技力、抜群の間合いで、この年最大の流行語となった。30年の“芸歴”から生まれた、計算し尽くされた“ギャグ”との高い評価もあるが、驀進を続ける吉本興業の芸人だから、との皮肉な見方もあった。
火砕流
この年、雲仙岳が200年の沈黙を破り大噴火を起こした。自然の持つ底知れぬ怖さを、火山列島・日本でも62年ぶりという大火砕流が見せつけた。以後「火砕流」という言葉はあらゆるメディアに登場し、もっとも頻度の多い語として定着した。
「ひとめぼれ」
ブランド米「ササニシキ」の後継米として登場したのが「ひとめぼれ」。国際的圧力によるコメ自由化が日程に上がる中、政府の手厚い保護農業ばかりが話題になっているが、日本農民の“実力”とやる気を示したのが「ひとめぼれ」の開発で、命名者の伊藤が受賞した。ユニークなネーミングといい、消費者を意識した農業を展開し、高い評価を得た。
八月革命
この年の8月、モスクワ放送からクーデターの第一報が世界中に発信された。これを知ったメディアの一部は、「二月革命」をもじって、これを「八月革命」と命名した。結果はわずか3日で騒動は終わり「八月革命」の言葉も同時に消える。メディアの“無責任さ”と、未来予測が困難な時代を象徴する語として受賞。
川崎劇場
決して強くはなかったが、予測不能のおもしろい野球をみせたロッテ・オリオンズが消滅した。熱狂的な応援団と名物監督・金田正一のパフォーマンスは、本拠地・川崎球場の名から「川崎劇場」と称されていた。本拠地も千葉に移り「川崎劇場」は永遠に閉館された。
地球にやさしい
エコロジー問題が将来の最重要課題になるとの認識が社会的に深まるなか、講談社は本格的にこの問題に取り組む姿勢を打ち出した。テーマ「地球にやさしい」は、抜群のネーミングでたちまち流行語となった。シリーズの出版活動のほか、シンポジウムなどで地球環境問題に取り組み、企業の在り方までも視野に入れている点が高く評価された。
紺ブレ
バブル期の最後に流行ったのがこれ、「紺のブレザー」=「紺ブレ」である。ひと昔前から「アイビールック」としてあったものだが、「コンサバ」系ファッションの代表としてまた復活。「コンサバ(conservative)」はいうまでもなく「保守的」の意。経済が成熟し豊かになれば、人間が保守的になるのは仕方ないとしても、この後、バブル崩壊の後にすら、若者はどんどん保守化をすすめているのではないか?
若貴
この年、一番の明るい話題が「若貴」兄弟の大活躍。相撲ファンのみならず、日ごろは相撲に興味がないヤング層まで大フィーバー。兄・若花田、弟・貴花田。兄弟の努力、仲の良さ、そして母・憲子の“愛のムチ”と講談調に“美化”された。今日のメッキがはげた状況を見ると、マスコミがつくった虚像だったのか。
重大な決意
リクルート事件、共和事件など大型疑獄事件の続発を受け「政治改革法」が上程されたが廃案となった。これに抗議する自民党改革派若手4人衆に対して、10月1日夜半、海部首相の口からこのセリフが飛び出し、政界を激震させた。突如として起こる“海部降ろし”の大波に、あっさり首相の座を追われ、政治センスの無さを天下に知らせただけの結果となった。
損失補填
株価下落により損失を被った大口の顧客(大企業など)に対し、多くの証券会社はこっそり「損失補填」を行っていた。「証券110番」を実施していた武井のもとには、“ゴミ”と呼ばれていた一般投資家の怒りの声が殺到。補填の事実が広まるにつれ、株取引とは無関係のあちこちで「俺の損失を補填しろ」という言い回しが流行した。
「僕は死にましぇ〜ん」
ファッショナブルな美男美女が、絵空事の生活実感の中で“恋愛遊戯”を繰り返す“トレンディドラマ”が当時人気であった。「101回目のプロポーズ」もその一つだったが、“さえない中年男”の武田が美女のハートを射止めるという“味つけ”をしてある点が異色。劇中で武田が言うセリフで、少女たちには「カッワイイ」と大流行した。
「ダダーン ボヨヨン ボヨヨン」
ピップフジモトのテレビCMから生まれた。アマゾネス風の大女が「ダダーン ボヨヨン ボヨヨン」と画面一杯に叫び踊る、何ともたわいないCMなのだが、これが実におかしい。奇声が流行語大賞に選ばれた初めての例だが、それほどインパクトがあった。ちなみに「ダダーン」とは商品名で、宣伝効果抜群であった。
ダンス甲子園
日本テレビの「天才たけしの元気が出るテレビ!!」の番組内企画名。ディスコサウンドに合わせ、自ら振付をしたショー・ダンスが高校生を中心にした若者の間で流行った。ブームに火をつけたのが、このテレビ番組で、全国からダンス愛好者を募集し“競技会”を開催。ダンスという軟派っぽい語感に、純粋、涙、熱血イメージの甲子園を掛け合わせた“ミスマッチ”が大成功した。
チャネリング
霊界との交信ができるという「チャネリング宗教」が若者の間で流行した。大量の書籍爆弾と、効果的な宣伝で一躍有名になったのが「幸福の科学」の大川隆法。釈迦、マホメッド、キリストから日蓮、坂本竜馬とまでチャネリング、つまり交信できると言い、チャネリング宗教の第一人者を自称。うさん臭さを指摘する声も多いが、宣伝の効果もあってか、巷に「チャネリング」の声が満ちた1年であった。
雅美さん、雅子さん、たぬき顔
この年、芸能ジャーナリズムを賑わしたのが、上原謙の未亡人・雅美と、義理の息子に当たる加山雄三一家との“確執”であった。当初は、加山一家からいじめられた心優しき女性であったのが、いつしか男を手玉にとる希代の悪女になっていった。それにつれ雅美から、雅子へ名前も変わり、事実は何が何だか分からない、という有り様。梨元は取材の中心におり、雅美を“嘘つき”の「たぬき顔」と揶揄して告訴された。 
戦争責任を問う第3の波
1991年12月、金学順(キム・ハクスン)さんたち35人が、日本政府に対して謝罪と補償を求めて「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」を東京地裁に起こしました。金さんは、元「従軍慰安婦」として初めて実名を明かし、それまで韓国の女性団体などが問題にしてきた「挺身隊」について、日本軍の関与を認めなかった日本政府を告発しました。90年代は、戦争責任論の第3の波の10年となり、この間、日本国籍以外の人たちが61件もの戦後補償裁判を起こしました。
日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意」(前文)すると謳い、戦争の実体験に基づいて平和主義を採用しています。戦争の反省と責任の追及は平和主義の出発点となるものです。戦争責任論の第1の波は1946年前後に発生し、主として天皇の責任をはじめとする国家体制の正統性をめぐるものでした。第2の波は1956年前後に盛り上がり、「55年体制」で成立した保守政治家や「革新勢力」等の正統性が問い直されました。
第3の波は、アジア諸地域に対する加害責任が中心となりました。これには、冷戦の終結が影響しています。冷戦期には、日本と国交を回復し、賠償という形で援助を引き出した各地の政権にとっては、民間からの対日補償請求は政権の正統性を脅かすものとして抑制されました(65年の「日韓基本条約」、72年の「日中共同声明」参照)。さらに、90年代までにアジア諸地域の民主化運動が進展して、要求しても弾圧されなくなったことも一因となりました。サハリン残留朝鮮人、各地のBC級戦犯被害者、強制連行・強制労働などの被害者から日本政府や企業に対して続々と補償要求が持ち出されました。
しかしながら、未解決の直接の原因は、日本政府の姿勢にあります。敗戦に際して、政府は責任を問われる可能性のある公文書を組織的に破棄・隠滅し、その後責任追及がなされても、証拠がないとして事実を否定してきました。
金さんら、元「従軍慰安婦」(旧日本軍性奴隷)の問題についてはマスコミも大きく採り上げて社会的な関心が広がり、大きな政治問題になりました。提訴の翌月である92年1月、隠滅を免れた軍慰安所設置を指示した6点の公文書が公表された翌日、政府は態度を変更して加藤紘一内閣官房長官が日本軍の関与を認め、次いで訪韓した宮澤喜一首相は韓国の国会で「従軍慰安婦問題」で公式謝罪しました。翌93年、政府の調査結果が公表されると、政府見解が河野洋平官房長官談話として示され、「慰安婦」制度が「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」であることが公式に確認されました。
この変化に反発して、90年代後半から、保守政治家や新保守主義の学者を巻き込んで、「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される「歴史修正主義」が台頭してきます。
一方、補償を求める裁判では、最高裁で請求が認容されたものはありません。1国家間の条約で個人の請求権も放棄されたとの解釈、2国家賠償法施行前においては、国は違法な公権力の行使によって他人に損害を与えたとしても、損害賠償責任の根拠となる法律が存在していなかったから、損害賠償責任を負わないとする「国家無答責の法理」、3既に長年経過してしまったという除斥期間の法理などが理由とされています。但し、下級審ではこれらの法理の壁を崩すものも出現するに至っています。
司法では救済されないため、性奴隷の問題については、「戦時性奴隷強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」が2000年に民主党によって提出されて以来(民主党ネクスト・キャビネット大臣千葉景子氏=民主党新政権法相)、3野党共同で昨年までに8回参議院に提案されています。今後の国会の対応が注目されます。 
 
1992(平成4)年 

 

きんさん・ぎんさん
1992年の[年間大賞]は、百歳になる双子の姉妹「きんさん、ぎんさん」が受賞した。『通販生活』やダスキンのCMに起用されたのをきっかけに、あれよあれよというまに“国民的アイドル”になってしまった「きんさん、ぎんさん」。絶妙な、漫才のような二人の会話、“金”と“銀”というおめでたい名前など、人気の理由はいくつも考えられるが、なによりそのチャーミングな笑顔と愛すべきキャラクターを、日本中が好感をもって迎えた。
語録賞/「うれしいような、かなしいような」「はだかのおつきあい」
きんさん・ぎんさんは、この年[語録賞]も同時に受賞した。受賞語は百歳の誕生日の感想を聞かれた時の答え。また、「はだかのおつきあい」は、貴花田と宮沢りえ婚約の感想。これを聞いた取材陣は、驚き、笑い、呆然とするばかりであったという。
ほめ殺し
サンデー毎日の「佐川スキャンダル」記事で、初めてこの言葉が登場した。事実の本質をえぐり、ユーモアがありながら恐ろしい新語と高い評価を得た。竹下元首相に対する右翼の攻撃、「お金儲けの上手な竹下さん」「恩人を裏切る華麗な“芸”を持つ竹下さん」など、“誉めて”いるようで非難する手口を「ほめ殺し」と表現した。この記事以後、すべてのメディアにこの新語が溢れた。
カード破産
バブル経済崩壊が実感となってきた1992年らしい新語。グルメだ、旅行だ、ファッションだと、浮かれ踊ったバブル時代の重いつけがカード地獄である。“気軽にクレジット”のうたい文句に乗せられて、気が付いたら家計は火の車、後は自己破産しかないという人が急増した。被害者援助に奔走する宇都宮弁護士の造語。
もつ鍋
もつ(牛、豚、鶏の内臓)に、ニラとキャベツを入れて煮込むだけの素朴で荒々しい料理「もつ鍋」が全国的にブームとなった。井上は銀座にもつ鍋店をオープンし、ブームのきっかけをつくった。OLのオヤジギャル化により、「ゲテモノ料理」に抵抗がなくなったとの指摘もあるが、グルメだと大騒ぎしていたバブル時代の反動で、安くて栄養があっておいしいという料理の原点に戻っただけともいう。
複合不況
バブル崩壊後の日本経済がおかれている状態を解析した経済書『複合不況』は、内容の鋭さで日本国中に衝撃を与えた。タイトル「複合不況」の文字はすべてのメディアが競って使用した。「複合不況」とは、今日の不況を、従来の不況とは根本的に違い、在庫や設備調整などの循環的要素にバブル後遺症が重層的に複合・連動した結果だとしたものである。
9K
“きつい”“きたない”“きけん”の職場を3Kと言うが、看護婦の仕事は9Kだと訴えたのが「ナース・ウェーブ行動」(江尻代表)。「休暇がとれない」「規則がきびしい」「化粧がのらない」「薬に頼って生きている」「婚期が遅い」「給料が安い」の6Kが加わるという。看護婦のおかれている実態や、厚生事業の貧困さを「9K」という一語で見事に表現した。
謝長悔長
バブル経済崩壊が明確になった1992年は、放漫経営のつけが一斉に噴き出し、あちこちで経営トップが頭を下げる光景が日常化した。この情景をパロディー化したのが「謝長悔長」。住友生命が募集した「創作四字熟語」に応募した主婦・浦上由子の作品で、謝る社長、後悔しきりの会長、という今年の風潮をうまく捉えている。
冬彦さん
TBSテレビ『ずっとあなたが好きだった』は子離れしない母(野際)と、子(佐野)の無気味な関係を描いて大評判となった。「冬彦」とは佐野史郎演ずる息子の役名。女性たちは身近なマザコン青年を見付けては「あの人は『冬彦さん』よ」と噂話に花を咲かせた。テレビで見る「冬彦さん」と同じような“無気味な男性”が世の中にはいかに多いか、という怖ろしい現実が明らかになった。
「ねェ、チューして」
話題になった、コーセー化粧品のテレビCMから生まれた流行語。寄り添う若い男女。女性(水野美紀)が男性(唐沢)に「ねェ、チューして」と迫る。視聴者を思わずドキッとさせるCMだが、日常の若い男女間では普通に行われている光景。なるほどこれが平成の風俗かと妙に納得させられるところがあった。
上申書
“東京佐川急便事件”で不法献金を追及されていた金丸信(自民党副総裁を辞任)が、検察からの出頭要請に対し「上申書」で対抗して拒否した。金丸が許されるならばオレもやると、三重県の建設会社社長の小林は、建築基準法違反出頭命令に対抗し「上申書」を提出した。法の前では平等、を身をもって実践したこの“快挙”に庶民は喝采を送った。
宇宙授業
日本人初の本格的宇宙飛行士の毛利が、最初に地球に送ったメッセージは北海道の黒川小学校へであった。平易に宇宙を語る毛利と、夢見心地で素朴な質問をする小学生たち。この光景は視聴者に大きな感動を与え、マスコミはこれを「宇宙授業」と呼んだ。
歌手の小金沢クン
ノドぐすりのCMから生まれた流行語。ノドの調子の悪い歌手志望の若者がノド薬を飲むと美声で歌えるようになる、というたわいのないCMだが、若者を「小金沢クン」と実名を出したところが異色。普通の若者を“歌手の”と冠することで、あたかも実像のように思わせる手口は秀逸。ちなみに「小金沢クン」はこのCMきっかけにして“本物の”歌手デビューを果たした。
ツインピークス
アメリカの人気ドラマ「ツインピークス」は、日本でも大ブームになった。ツインピークスという架空の田舎町で起きた“美人高校生殺人事件”を縦糸に、複雑に入り組んだ人間関係を横糸とした“おどろおどろしい”ドラマである。一回60分、30回で完結という長い連続ドラマだが、見始めたら止められないと、ツインピークス中毒者が続出し、ビデオはいつでも借り切り状態。なかには、アメリカまで見物ツアーに行くといった熱狂的なファンまで現れた。
「Time for change」
クリントン次期米国大統領の発言。1992年の米大統領選は、圧倒的不利を伝えられていたビル・クリントンが勝利した。「変革」という“錦旗”を高々と掲げたクリントンを米国民が熱狂的に支持したのである。アメリカという国と、国民に、理屈ぬきに感心し、「特別賞」とした。 
PKO協力法等の成立
1992年は、徹底した平和主義を規定する9条の歴史にとって第2の大きな転換点となりました。第1の転換点は、警察予備隊から始まって自衛隊という事実上の「軍隊」を持つに至った1950年代前半でした。しかし、旧軍や軍事体制の復活に対する世論は、自衛隊の目的を専守防衛に限定し、海外派兵には禁止の縛りをかけていました(1954年の参議院本会議決議等)。仮に自衛隊を認めるとしても、憲法は言葉の真の意味での自衛戦争のみを認めているという軍事小国主義です。第2の転換は、自衛隊の海外派兵への道を開いたことでした。すなわち、92年、PKO法(正式名称は「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」)等が強行採決で成立しました。
90年、湾岸危機が発生すると、日本も「人を出して血を流せ」というアメリカ等から強い圧力が加わりましたが、国内では海外派兵に強い反発があり、結局資金の拠出に止まり、政財界にとっては強いトラウマになっていました。
当時、世界有数の経済大国となった日本は、国連の常任理事国入りを図るなど政治の面でも大国となる道を目指していました。経済と政治の大国化を支え保証するのは、軍隊を海外に派兵し、「国益」を守るために軍事大国になるという(戦争の違法化を歴史の進歩と見る立場からは)「いつか来た道」でした。海外派兵に対する国民の強い反対を抑え、発想を転換させるために使われた概念が「国際貢献」であり、国連の「平和維持活動」でした。
「国連による紛争解決」の歴史は、大きく3つの時期に分かれます。1冷戦の時代は、常任理事国が拒否権を発動するなどして安保理はほとんど機能しませんでした。そこで採られたのが、1950年、国連総会の決議で国連が紛争解決に乗り出してよいというルールです(最上敏樹「いま平和とは」)。これは停戦・休戦した後国連が指揮する軍事要員で脆弱な「平和」状態を維持する活動でした。これが「平和維持活動」(Peace−Keeping Operations)です。国連憲章には規定がなく、利害関係国・大国でない国々から要員が派遣されて停戦監視などにあたる中立の活動として当事国の同意を得て行われました。
2 ところが、冷戦が終結すると、「西側」のリードにより安保理が機能するようになります。大国が国連の名で戦争や紛争に介入することが可能な時代になりました。湾岸危機はこの時に発生します。しかし、湾岸戦争は、かつての「平和維持活動」とは異なり、アメリカ主導の「多国籍軍」、実質は集団的自衛権の行使で結ばれた同盟軍による戦争でした。これを安保理が正当化し、国連憲章からは遠ざかりました。湾岸戦争の終結後に派遣された「国連イラク・クウェート監視団」は、PKOと言われましたが、かつてのように「同意」はなく「中立」でもありませんでした。そのため、「第2世代のPKO」と呼ぶことがあります。
3 第3の時期は、01年の9・11事件以後、アメリカなどの大国が再び国連を無視して、国益を追求するための戦争を遂行するに至った時代です。
日本のPKO法は2の時代の「国連中心主義」の思想をバックに、1の時代に評価の高かったモデルを基に作られました。その3条では、平和協力業務として、停戦監視、選挙監視、被災民の救出、平和維持軍(本体と後方支援)等を規定しています。平和維持軍(Peace-Keeping Forces)(略称PKF)のことを政府は「平和維持隊」と称し、1 停戦合意、2 紛争当事者の合意、3 中立性、4 これらの前提が崩れた場合の部隊の撤収、5 「武器使用」は自衛隊の要員の生命・身体の防衛のために必要最小限のものに限り、9条の「武力の行使」は認めない、という5原則を定めています。4 5は、9条違反の批判を避けるためですが、現地の実情に合わず、「武器使用」と「武力の行使」の区別は不可能であり、憲法に違反するとの批判があります。但し、PKF本体業務は01年に至るまで凍結され、また、武器使用要件はこの間徐々に緩和されて行きました。PKO法による海外出動は、92年のカンボジアを皮切りに世界各地に向けて行われました。
一方92年には、テレビ東京系で「サンダーバード」というイギリスのテレビ人形劇が始まりました。66年にNHKで初放映されて以来世界98か国で放映されブームを巻き起こした番組です。サンダーバードとは、人命救助のため、最新のメカを駆使して世界各地に派遣される民間の国際救助隊です。9条によって世界に無軍備平和・安全保障の道を提示した日本は、率先して軍縮し、サンダーバードのように非軍事の「ニッポン国際救助隊」を設立するなど(水島朝穂「きみはサンダーバードを知っているか」)、積極的平和主義の理想の下、平和的な方法で世界の構造的暴力をなくする様々な提案がなされています。 
 
1993(平成5)年 

 

Jリーグ
あっという間に、日本国中をサッカーファンだらけにしたJリーグ旋風。その育ての親が川淵である。大胆な地方分散のフランチャイズ制導入、アントラーズ、ヴェルディ、ガンバ、エスパルスなど耳慣れぬネーミング、競技場に轟くオーレ!オレ!オレ!の大合唱など、わが国に“新しい文化”を根付かせる壮大な実験が始まった。
サポーター
1993年秋、日本サッカーは“ドーハの悲劇”によって夢破れ、ワールドカップ初出場は果たせなかった。しかし、ドーハまで出かけ、選手たちとともに「12人目のプレイヤー」として頑張ったのが「サポーター」たちだ。Jリーグが導入した「サポーター」は、いままでスポーツを「見る」「する」と大別していたものを、「見る」だけの観客ではなく、チームを「支える」観客へと変質させた画期的なものである。受賞者は、サポーター代表として、ドーハにも同行した三浦選手夫人である。
新・○○
1993年は“新党”ブームとなり、「“新”生党」「“新”党さきがけ」「日本“新”党」などが続々と誕生。時代の行き詰まりを徐々に実感させられるなか、新しいもの、生命力があるものが求められ、あらゆる分野で“新”を冠することがブームになった。受賞者の坂本は、“加瀬大周”の芸名を巡って騒ぎを起こしたが、結局、新しい芸名で再スタート。93年の「新・○○」時代を象徴するタレントとなった。
FA(フリーエージェント)
一球団に一定期間以上在籍すれば、他球団への移籍の自由が認められるのがプロ野球の新制度「フリーエージェント」。この権利を行使して、巨人に移籍したのが落合で、一説によれば7億円もの金を手に入れたという。庶民には夢のような話だが、ため息混じりにFAの話題に興じるサラリーマンは多かった。
規制緩和
世界の批判を浴び続ける日本の官庁の“行政指導”。政・官・業一体になった、護送船団方式による馴れ合いの業界保護は、「規制」に安住し、経済の発展を阻害するとの指摘が多い。運輸省の行政指導に一人で立ち向かい、12年間の苦闘の末「タクシー値下げ」を果たした京都・MKタクシー(青木会長)は「規制緩和」の“実体”を広く世に知らせた功績があった。
清貧
政治家、官僚、財界人だけでなく、市井の庶民まで、拝金、物欲の塊と化している風潮に対して、敢然と一矢を報いたのが中野の著書『清貧の思想』。売れ行き不振の出版界にあって、思いもかけぬベストセラーになった。金満日本へのアンチテーゼとしてだけでなく、清貧という心地よさげな言葉の持つ力が大きい。
天の声
政・官・業の腐敗構造はますます深刻化している。1993年は“談合”によるゼネコン汚職が問題化した。自治体の公共事業を、業者間の談合で入札企業を決めていたというもので、この際、地方首長の意向を「天の声」と呼称していたという。本来の用法と異なり、隠語として「天の声」が多発されていたとなると、もはや立派な新語と解釈するしかないとした。
親分
現代では失われてしまった「親分」という言葉を、見事に復活させたのが大沢である。生来のおおらかで明るく豪放な性格、あけっぴろげなべらんめえ口調は、選手を完全に掌握し、豪快なチーム作りと戦いぶりでは観客をも魅了した。いつ、誰が言うともなく「親分」と呼ばれるようになる。現代人の求める“理想像”として注目を集めた。
「聞いてないよォ」
テレビ番組で、台本には無いことをやらされそうになったダチョウ倶楽部、「聞いてないよォ」の悲鳴はギャクとなって大当たり。“二流の芸人の悲哀”をギャグ化したことが受けたのだが、不条理な社会に生きる庶民もまた「聞いてないよォ」のギャグは使用機会が多かった。もっとも、ダチョウ倶楽部はこのギャグ一発で売れっ子の座を占めることになった。
お立ち台
ディスコブームは燎原の炎のように全国に拡散した。スタイル、ファッション、ダンスに自信のあるギャルは、フロアの一段と高くなった「お立ち台」に上がり、自分をアピールする。彼女たちを「お立ち台ギャル」といい、ディスコの華と持てはやす向きもある。本家“東京ジュリアナ”で「お立ち台」が禁止されても、地方では未だ大人気。受賞者は、「お立ち台」ギャルNo.1を決めるスーパーセクシーナイトで優勝した栃木県代表の古宇田と、埼玉県代表の小川。
2500円スーツ
バブル崩壊後の商品市場では、“価格破壊”が最大のセールスポイントになった。その象徴的な出来事が、「洋服の青山」が行った「2500円スーツ」の売り出しで、デパート業界は真っ青になった。「今までの高いスーツの値段はなんなのさ」とは、庶民の実感。
ウゴウゴ・ルーガ
フジテレビ系で放映の幼児向け教育番組のタイトル。CGを多様した映像はデジタル世代向けなのだが、おやじギャグ、レトロな話題、ウゴ・ウゴとルーガとCGキャラクターとの掛け合いなど、子供から中高生、大学生、OLそして中年にまでファン層が広がった。受賞者はウゴ・ウゴの田島、ルーガの小出の両小学生である。
たま・ひよ(族)
福武書店が発行する育児誌『たまごクラブ』『ひよこクラブ』は、奇抜なタイトルと内容が若いママの間で大ウケし、「たま・ひよ」なる造語まで生み出した。オジサンには理解できない若い母親(ヤンママ)たちの“文化”が生まれたことを印象付けた「たま・ひよ族」の出現である。
「悪妻は夫をのばす」
不世出の天才バッター落合選手の夫人である信子が書いたエッセー本のタイトル。猛女である信子と、甘えん坊で何でも信子の言いなりになる落合選手。このカップルの絶妙さには、驚くやら、納得するやら。落合選手の実績の前には、ただ言葉もなく、「悪妻は夫をのばす」の語は妙に説得力をもってしまった。 
政治腐敗への怒りと細川政権の誕生
今夏の衆院選で自民党が少数野党になりました。1993年7月の衆院選で過半数割れして以来のことです。変質を続けながらも38年間継続した「55年体制」は、この年ピリオドを打ちました。
自民党が転落した原因は、バブルの崩壊やリクルート事件を契機にした相次ぐ政治腐敗に対する批判に基づく国民の「政治改革」への欲求にあります。88年、就職情報のリクルート社は、値上がりが確実な店頭公開直前の未公開株を、森喜朗、中曽根康弘、宮澤喜一、竹下登、藤波孝生氏等々首相級を含む多数の自民党実力者や塚本民社党委員長などに譲渡し、あるいは巨額の献金、パーティー券購入などを行い、政官財を揺るがす大事件となりました。92年には、東京地検特捜部が摘発した史上最大の特別背任罪とされる東京佐川急便事件が勃発して自民党最大派閥だった竹下派と暴力団との結びつきが明らかになり、翌93年には同派会長だった金丸信氏が18億5000万円の所得を隠した巨額脱税事件で逮捕されました。その捜査から、ゼネコンによるヤミ献金事件も次々に明らかになり、政治腐敗に対する国民の怒りは頂点に達しました。
これに対して自民党内では、政治腐敗の背景には衆議院中選挙区制があるとして、小選挙区制への改正を中核とする「政治改革」をもって批判をかわそうとする勢力と、「改革」を先送りしようとする勢力(政府側)とに分裂しました。93年6月、自民党内の「改革推進派」と野党は宮沢内閣の不信任決議案を提出、可決されました。
不信任案に賛成した自民党の議員は同党から離脱、「さきがけ」や「新生党」を結成しました。7月に行われた総選挙では「新党さきがけ」、「新生党」、「日本新党」の3保守新党は大躍進を遂げ、自民党は過半数を割る223議席に止まりました。もっとも、自民党も解散時の議席を1議席上回り第1党であることに変わりはなく、社会党がほぼ半減して一人負けしました。政治腐敗の根絶の声を「新しい保守」が吸収した結果となりました。
総選挙後、3保守新党に社会・公明・民社・社民連・参院の民主改革連合によって「非自民・非共産」の連立政権が誕生しました。首相の座には、新生党の小沢一郎党首の強い押しで日本新党の細川護煕党首が就任しました。「保守政治の拡大」とも評されます。
細川内閣は、発足直後の支持率としては空前の75%〜83%の支持率を背景に、シンボルである「政治改革」として、衆議院の小選挙区比例代表並立制を実現させました(94年の話題に掲載予定)。細川内閣の成果は、これとコメに関する国内市場の部分開放でした。いずれも自民党政権が単独で実現しようとしてもできなかった大きな政治的な課題を非自民政権が実現した皮肉な結果となりました。
細川首相は、人気は衰えていない94年4月、在任8か月で突如辞任しました。東京佐川急便からの1億円の借金の使途についての釈明に行き詰まったうえ、別の借金疑惑が出てきたという理由でした。
その後新生党の羽田孜氏が首相となりましたが、最大与党の社会党が離脱、6月には自民党を中心とする新政権が発足しました。「非自民」政権が短命に終わった理由として、準備不足、主義が異なる8党もの寄せ集めによる内部対立、自民党による社会党の切り崩し工作などが挙げられています。
年次改革要望書
日本国民の生活、経済、そして政治をめぐる環境は90年代後半以降激変しました。「自己責任」のかけ声の下、格差は拡大し、富裕層と貧困層に二極分化する傾向が続きました。しかし、これを生み出した大きな外圧である年次改革要望書について、主要なマスコミはきちんと触れてきませんでした。当然国民の大多数は盲目の状態に置かれました。
1993年7月、宮澤首相とクリントン大統領の会談で、日本政府とアメリカ政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書を毎年交換することが決まりました。いわゆる「年次改革要望書」です。最初に作成されたのは2001年ですが、これに先行して「日本とアメリカ合衆国との間の規制緩和に関する対話に基づく双方の要望書」の枠組みが存在しました。アメリカ側からの要望として実現した例として、建築基準法の規制緩和、労働者派遣法の規制緩和、株主の短期的な利益を重視する会社法の改正、郵政民営化などが挙げられます。新自由主義や市場原理主義に基づく政策の具体化です。両国の国益は鋭く対立し、「内政干渉」であるとの批判もありました。日本の多国籍企業にとっては、アメリカの「国益」と合致するものが多数存在しました。グローバリゼーションの進展は国境の壁を低くしました。「国益」とは誰のどんな利益か、各国それぞれについて具体的に明らかにされなければなりません。 
 
1994(平成6)年 

 

「すったもんだがありました」
タカラ「カンチューハイ」のテレビCMで宮沢が言うセリフ。本格的な景気後退が続く世相から、さまざまな「すったもんだ」があった一年であったが、視聴者は宮沢の私生活を連想した。大関(当時)貴ノ花との婚約とスピード解消、ともすれば暗く深刻になる事実を逆手に取り、さりげなくサラリとクリアした。ここは巧みで、したたかなCM制作サイドの作戦勝ち。
イチロー(効果)
1994年、プロ野球に新星が華々しく登場した。イチローこと鈴木一朗。右足を大きく振る“振り子打法”をひっさげ、前人未踏の年間200本安打を達成。この年、スポーツメディアはイチローの安打数を報道し続けたといっても過言ではない。イチローの活躍により波及効果が生まれ、これを「イチロー効果」と言った。
「同情するならカネをくれ」
日本テレビ「家なき子」で、主役の少女(安達)が言うセリフ。建前で生きる世間に対し、少女が放ったこの一言は強烈なインパクトがあり、話題騒然の流行語となった。“パクリ”だとかの批判も多かった野島伸司の脚本だが、1994年の話題を独占したことは間違いない。
価格破壊
円高が続きながら、なぜか物価は下がらない。庶民の不満に応え、「価格破壊」に乗り出したのがダイエーグループ(中内会長)。中内は破壊ではなく「正常化」と言うが、物価下落の最大の功労者との評価もある。複雑な商品流通システムにメスが入り、オープン価格制度が導入されるなど「価格破壊」は日常語になった。
ヤンママ
茶髪に派手なファッションの若い母親が急増。ヤングでヤンキーなところから、「ヤンママ」と呼ばれた。従来の“母親像”とはかけ離れた、この若いママ集団に注目し、「ヤンママクラブ」と名付けたのが雑誌編集者の田村。ネットワーク誌を出すなど、ヤンママたちのサークル作りを助けた。
新・新党
前年からの「新党」ブームの“真打ち”として、「新・新党」の発足が打ち上げられた。準備委員長としては“壊し屋”として定評の高い新生党の小沢が選ばれた。結局、正式な党名は新進党と決まったが、“しんしんとう”と音が同じだから良いだろうとの安易な発想に先行きを危ぶむ声が多かった。
大往生
“死”という取っ付きにくいテーマを、明るく、伸びやかに表現して大ベストセラーとなったのが『大往生』(永六輔著)。無名の人が語る死や老いの問題を、永の持つ独特のユーモアと優しさで包み込み、類いまれな「死生観」が表出されている。
人にやさしい政治
村山富市が首相就任時に言ったセリフ。急場の組閣で内容が詰められなかったという同情すべき点はあるにしても、「人にやさしい政治」が政治テーマとはあまりにお粗末、と庶民はズッコケた。肝心の「人にやさしい」部分も不明であり、言行一致が明確になるまでは表彰を保留。
契約スチュワーデス
経営悪化が進む航空各社は、正規のスチュワーデスの代わりに「契約スチュワーデス」を採用することを決定。これに対し、亀井運輸大臣は「乙女心に付け込んで」と契約制度に異議を唱え、時ならぬ「乙女」論争に発展した。女子学生受難と言われる、1994年の就職戦線を象徴する出来事であった。なお、受賞者は各航空会社の辞退により無しとなった。
関空(かんくう)
日本初の24時間利用可能の海上国際空港「関西国際空港」がオープンした。略称「関空(かんくう)」は、いかにも関西らしいネーミングと好評で、瞬く間に呼び名が定着した。
ゴーマニズム
“独断と偏見に満ちた傲慢主義”が売り物の漫画「ゴーマニズム宣言」(小林よしのり作)は、過激に現代世相を斬り、若者に人気となった。本音を剥き出して“傲慢”になることが、管理社会に圧し潰されている若者には小気味よく映り、ヒットした。小林の造語である「ゴーマニズム」は、若者の一部では“新思想”のような扱いを受けた。
就職氷河期
雑誌『就職ジャーナル』から生み出された造語。就職環境の悪化は産業構造の問題であり、当然に一過性のものではなく長期的、本格的なものとの視点から「就職氷河期」と名付けられた。1994年の大卒就職難は社会問題ともなり、「就職氷河期」を否応なく実感させられることとなった。 
衆院、小選挙区・比例代表並立制導入
1980年代末から90年代にかけて「政治改革」の論議が沸騰しました。原動力は、88年のリクルート事件を発端する数々の政治腐敗の根絶を求める国民の声でした。その結果、94年1月、非自民の細川連立政権のもとで、衆議院の選挙区制度を小選挙区・比例代表並立制に「改革」する法案が成立しました。民主主義の実現のため比例代表制に向かっている世界の流れに逆行した「改革」でした。
民主制を採る国民代表機関としての国会(43条1項)には、1民意の反映と2民意の集約が求められます。問題は、12のどちらにウエイトを置くか、どうバランスを取るかです。
従来は、1を重視して、1つの選挙区から3〜4人の議員を選ぶ中選挙区制を採用し、国民の少数派も一定の議席を確保していました。これに対して、より1を徹底する見地から、比例代表制への改正を求める声も根強くありました。対極にあるのが2を重視する小選挙区制です。比較多数の政党が得票率よりもはるかに多い議席を獲得でき、少数政党への投票は死票が多くなります。300人の定数を振る小選挙区制に180人の定数を付加する比例代表制を並立させる現在の制度は、前者の議席の方が多数なこと、比例区も全国を11に区分けしていることから、2に相当の比重を置いています。今年8月の選挙の小選挙区での得票率は民主党と自民党の差は8.8%でした。しかし議席数の差は3対1を越えました。4年前の「郵政選挙」ではこれと逆の現象が起きました。
選挙制度はどの党が有利・不利になるかでなく、支持政党の違いを超える民主主義がきちんと作動する制度にしなければならない、という「公共的」な観点こそ重要です。
この点、小選挙区・比例代表並立制へと「改革」しなければならない理由として正面から掲げられたのは、中選挙区制では同一政党・会派同士の争いとなりカネがかかり過ぎることが政治腐敗を招いたのでこれを是正する、というものでした。この制度への改革はこれまで2度試みられましたがいずれも失敗していました。大新聞がこぞって反対したことが大きな原因でした。その教訓を踏まえて、今回は全国紙やテレビ会社の社長、論説委員長らを多数参加させた選挙制度審議会にこの案を提案させました。その結果、マスメディアの報道はとにかく制度を変えることが大事だという雰囲気や論議で、「改革、改革」の大合唱の下、反対意見を述べる人はバッシングに合いました(石川真澄「戦後政治史」、内橋克人「悪夢のサイクル」)。しかし、政治とカネの問題は、選挙区制とは関係ないことはその後の政治家の行動からも実証されています。上記の理由は、国民の怒りをかわすためのものに過ぎず、政財官の癒着構造の維持が図られました。
「改革」の理由として、政策本位の選挙にして政権交代可能な二大政党制を実現しグローバル化した時代に適合的で強力な政治を行うということも挙げられました。当時の政党地図を見ると、保守二大政党制が志向されたと言えるでしょう。2の民意の集約の重視です。
現行の制度に対しては、自民党の有力者を含めて「幅広い有権者の支持を集めるため、中途半端な公約を掲げる傾向になり政策論争は進まない。日本は多様性を大事にする社会が必要だ」(加藤紘一氏)、「民主政治は万機公論だ。中選挙区の方が多元性のある議論が行われ、党内議論が活発になる」(中曽根康弘氏)など、多数の批判が見られます。民主政治という点では日本はまだ発展途上国です。民主主義先進国と言われる北西欧諸国でさえ民意の多様性を生かすために比例代表制色を強めようとしています。小選挙区制の本家と言われるイギリスでも比例代表制の導入を求める世論が急速に高まっています。
さらに、目指そうとした「二大政党制」のあり方も問題になります。危惧は本年8月の選挙の公約にも現われました。「自・民とも国の姿を示していない。政党は“その先の日本”を描くより、目前の課題をどう処理できるかに追われている。」(09.8.1付け朝日朝刊)。「今後は、二大政党の思想も、保守主義か社民主義かという形で問われるだろう。それがないと、二大政党は限りなく似てゆく。個別の政策の微妙な差異を争うだけでは、郵政のようなポピュリズム選挙に陥りがちになる。マニフェストも、個別課題の羅列ではなく、英国のように、どんな国家をつくりたいのか、ビジョンを記したものになるべきだと思う。個人的には、10年くらいかけて選挙制度を中選挙区制に戻すべきだと考える。」。
なお、現在の二大政党は、衆院比例区定数の削減ないし廃止で一致しました(05.12.28付け朝日朝刊)。民主党は今回のマニフェストで比例区定数80の削減を掲げました。理由は「国会もリストラ」です。憲法「改正」、消費税増税、自衛隊海外派兵恒久法の制定という中長期的な政治課題の実現との関係で注目されます。 
 
1995(平成7)年 

 

無党派
東京・大阪の知事選挙で、組織力、財力、権力の圧倒的基盤を持つ政党推薦候補を、無所属の青島、横山ノックが破り、メディアはこれを「無党派」パワーと呼んだ。数合わせだけの政党連合を拒む、新しい有権者層の出現に、既存の政党は大慌て。
NOMO
日本野球を飛び出し、米大リーグ・LAドジャースに入団、チームを地区優勝に導き、自身は新人王を取る大活躍をした野茂英雄を、米世論は温かく見守った。野茂の演じる奪三振ショーに熱狂し、「NOMO」の大声援を贈った。NOMOは、観客増員、キャラクターグッズ売上増など、メジャーリーグ人気の回復に多大な貢献をした。また日本でも、メジャーの野球を日本の茶の間に一挙に持ち込んだ。
「がんばろうKOBE」
1995年1月、神戸・淡路大震災が発生した。復興に起ち上がる市民を力付けたのが、このスローガン。地元球団オリックスは、スローガンをユニホームに縫い付け、リーグ優勝を勝ち取った。神戸市民への励まし効果は絶大と、評価は高かった。
ライフライン
阪神・淡路大震災によって、電気、ガス、水道、電話、食糧流通など、生命を支えるシステム「ライフライン(生命線)」がすべてマヒした。復興の過程で、災害時にこの「ライフライン」をどう維持するのかが大問題となった。受賞者のセブン−イレブンは、震災直後、ヘリコプターで弁当を空輸するという離れ技を演じ、被災者に安堵と希望をもたらして、ライフライン維持を果たした功績が評価された。
安全神話
阪神・淡路大震災、オウム事件などが続発した1995年、行政でも民間でも“セキュリティ・システム”が何一つ機能していないことが明らかになった。日本は「安全」との「神話」に寄りかかっていたことが原因で、抜本的な対策を早急に立てることが求められている。受賞者は、災害時の行政対応を「官災」と断罪した、元内閣安全保障室長の佐々淳行。
「だ・よ・ね(DA・YO・NE)ま、いっか(MAICCA)」
1995年の音楽シーンで爆発的ブームを巻き起こしたのがJラップ。ラップとは、元々はニューヨークの黒人音楽で、リズムに乗せて話すように歌うため、日本語の歌詞を乗せるのは至難の技とされていた。これを“相づち言葉”のリフレインで、見事にクリアし、J(日本)ラップという分野を確立してしまったのがEASTEND×YURI。受賞語は歌のタイトルである。
「変わらなきゃ」
イチローを全面に押し出した、日産自動車の安全・販売キャンペーンのコピー文句。エアバッグ装備などの安全性重視路線の評価もあるが、イチローのイメージと「変わらなきゃ」のコピーが圧倒的な支持を受け、自動車宣伝キャンペーンとして空前の大成功を収めた。“変革”という時代の空気を凝縮したコピーとして、近年にないヒット作となった。
官官接待
この年、メディアに初めて大々的に登場した語が「官官接待」。地方の役人が、補助金の決定権を持っている中央の役人を供応するということなのだが、その“いじましさ”に庶民は絶句した。裏金、“食料費”という名目での“横領”など、役人の腐敗は止まるところがない。受賞者は、改めて市民サイドの行政監察の重要性を示してくれた全国市民オンブズマン連絡会議代表の井上善雄。
「見た目で選んで何が悪いの!」
コダックのテレビCMから生まれた流行語。久し振りにみる“挑発的なCM”で、視聴者に強いインパクトを与えた。強い口調、挑戦的な眼差しで「見た目で選んで何が悪いの」と瀬戸が迫ると、「そのとおりです」と思わず納得してしまう。ギャルに受けて街中で“多用”気味であった。
インターネット
加入利用者数4000万人、約150カ国、つまり地球上ほとんどの地域の人とコミュニケーションができる、お化けのような情報交換システム「インターネット」。コンピュータのグローバルネットであり、文字どおり「国際化」は現実のものとなった。その一方、「インターネットを使うには英語が必要なんだよなあ」との嘆きの声も聞かれるが。受賞者は、日本でのパイオニアと言われる村井純。 
阪神淡路大震災
95年1月17日早朝、兵庫県南部を震度7の地震が襲いました。死者・行方不明者6,437人、負傷者4万人以上、被災人数30万人以上、全半壊住宅約25万戸、被害総額10兆円以上。1923年の関東大震災以来最大の地震被害となりました。
被害を大きくした原因は、「山、海へ行く」と称されたように、六甲山麓の土を削り取って埋め立てた湾岸の人工島に巨大な港湾施設と市街地を造成したことにあります。人工島の地盤沈下などから、「自然のしっぺ返し」は早くから指摘されていました。実際、70年以降に建設された高速道路や人工島など、最新技術を駆使したはずの都市インフラが、それ以前からの名神高速道路や在来線以上に壊滅的な被害を受けました。高度成長期以来の市民生活の安全を軽視し収益性を重視した都市開発政策の帰結でした。
被災者に対する「公的支援」の要求は、「個人補償はできない」という政府・自治体の論理ではねつけられました。倒壊した建物の解体撤去などが「今回に限っての特例」としてなされましたが、多くの被災者は遠く離れた地での長期の「仮住まい」生活を余儀なくされ、孤独死も続出しました。しかし、災害救助法によればより充実した支援は可能だったのに、行政運用で実行しないだけでした(浦部法穂「被災者に対する『公的支援』と憲法」 「自由と正義」97年8月号所収)。
上記論文は、財産的損失に対する「補償」の問題(憲法29条3項)としてではなく、被災者の生活基盤の回復の問題として理解すべきだと指摘しています。そして、自立の基盤を失った人への公的支援は、「個人の尊重」原理(憲法13条)から当然要請されるとしています。自己決定・自己責任は、自立の基盤があってはじめて可能となるからです。すべての人が人間らしく生活できるようにすることこそ「公共性」(同条の「公共の福祉」)の内容であり、自立できる生活基盤の回復に「公」の資金を使用するのは、まさに憲法が要求していることになります。
この震災には、全国各地から延べ170万人のボランティアが駆けつけました(97年8月末現在)。若者も多く、「最近の若者はなかなかやるじゃないか」と、見直されました。
地下鉄サリン事件
この年3月、通勤客など12人が死亡し重軽傷者5,500人を出す未曾有の無差別テロ事件・地下鉄サリン事件が発生し、日本中を震撼させました。犯行は、麻原彰晃(本名・松本智津夫)を代表とする宗教法人・オウム真理教団によるものと判明しました。逮捕者の証言により、89年の坂本堤弁護士一家殺害事件、94年の松本サリン事件等も同教団によるものであることが明らかになりました。
麻原は小さなヨガ道場を開いていましたが、座禅を組んだまま膝を使って空中浮揚することができる超能力者として売り込みました。その後チベット密教などあらゆる宗教を思想的源流とすると自称し、地下鉄サリン事件当時には公称15,000人を超える信者がいました。
当時、テレビや映画、雑誌で「霊魂」や「超能力」を扱うものが増えていました。70年代後半から80年代にかけて青年たちの間で呪縛性と神秘性が強いオカルト文化が流行し、「ノストラダムスの大予言」など終末論がブームになっていました。オウム真理教は、罪悪にまみれている現世を拒否し「千年王国」を築くと主張しました。新約聖書に出てくる世界の終末戦争を意味する「ハルマゲドン」を自作自演したともされています。ハルマゲドン後の世界を受け継ぐのはオウム中心の人々で、他の不要な人間は殺す(「ポアする」)ことも認められました。
高学歴層を含めて多くの生真面目な青年たちが取り込まれた原因として、出口の見えない強い不安の意識があります。70年代から、近代知が生んだ理性や合理性を疑うポスト・モダン思想が勃興しましたが、その流れの中にオウム真理教も位置付けられることが多いようです。しかし、ポスト・モダン思想の多くは新しい構想や希望を誕生させるものではありませんでした。虚構の世界に埋没した典型がオウム真理教でしょう。その背景には、物質中心の消費社会、人間をも商品化された競争社会の中で生まれ育った青年たちの実在感の喪失があります。「自分に自信が持てないから絶対的な他者である尊師・麻原が必要だった」と多くの信徒が述懐しています。
憲法は、自立した強い市民の存在と育成を前提としています(13条)。しかし、「オウム真理教の事件が風化した2000年に入って、スピリチュアルという形で非合理的なものへの関心が高まった」(弓山達也「中央公論」06年12月号)。「現代の『スピリチュアル』は、…人びとを思考停止に陥らせ、すべてを人智が及ばない超越次元で決定してしまうことに伴う悪影響が少なからずあると思う」。
日経連「新時代の『日本的経営』」
今大きな問題になっている非正規労働の顕著な増大の起源となったのが、この年に日経連が発表した「新時代の『日本的経営』―挑戦すべき方向とその具体策」です。日経連は、労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で結成された組織で、02年に経団連と統合して現在の日本経団連になっています。「新時代の『日本的経営』」は、労働者を1長期蓄積能力活用型グループ、2高度専門能力活用型グループ、3雇用柔軟型グループに分類しました。1は一部の正規のエリート社員からなります。2は契約社員などの専門職です。3はパートタイマーや派遣労働者などです。従来正社員だった23のグループを非正規雇用に転換することを目的としていました。
80年代は、終身雇用、年功序列賃金、比較的小さい賃金格差を特徴とする日本的経営は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞賛されました。しかし、新自由主義政策を徹底しリストラを進めたアメリカ経済が優位に立ち、90年代からは日本でも新自由主義経済の下、経済の世界的大競争に勝つためということで、「高コスト体質」の是正として「総人件費の削減」が打ち出されました。その結果が労働法分野における大幅な規制緩和策としての「新時代の『日本的経営』」です。非正規労働者化が猛烈に進められ、格差社会、ワーキングプアの激増時代を迎えるに至ります。
村山談話
戦後50周年のこの年8月15日、自民・社会・新党さきがけの3党連立政権の村山富市首相(社会党)は、首相として初めて「植民地支配と侵略」が「国策の誤り」で進められたと認め「反省」を表明しました。
村山談話は、閣議決定に基づき発表した「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する声明として発表されたものです。この談話では、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを「疑うべくもないこの歴史の事実」とし、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」しています。
この談話の趣旨を、歴代内閣は公式見解としては引き継いでいます。民主党・鳩山首相も、先日の10月9日、訪問先の韓国で「村山談話の思いを政府と国民一人ひとりが重要な考え方と理解することが大事だ」と語りました。
一方、これに対しては今日に至るも、歴史を歪める自虐史観であるとの批判が続いています。 
 
1996(平成8)年 

 

「自分で自分をほめたい」
アトランタ・オリンピック女子マラソンで三位に入賞し、バルセロナに続いて連続メダル獲得という快挙を成し遂げた有森のレース後の言葉。バルセロナ以後のスランプ、故障を乗り越えた有森の努力はスポーツマスコミによって広く知られていた。そのため「自分を誉めてあげたい」のセリフは素直に国民の間に受け入れられ、この年一番の流行語となった。
友愛・排除の論理
新しい政治と政党のスタイルを言葉の上からも斬り込んでいった鳩山は、数々の新語を生み出した。なかでも「友愛」は中曽根元首相に「ソフトクリームのようだ」とからかわれても「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通した。一方、安易な寄り集まりを排除した「排除の論理」は、感情的な批判に屈することなく貫き通す冷厳さを見せ、株を上げた。
メークドラマ
“英語の達人”長嶋監督の造語。数々の長嶋語録の中でも、もっともポピュラーで“感動的”なセリフとなった。7月6日、首位カープとのゲーム差は11.5と開き、優勝は絶望かと思われた。ところが翌日からは、あれよあれよの快進撃。7月16日には「メークドラマ」宣言を発し、ついには奇跡の大逆転優勝を飾った。まさに、“ドラマ”を“作った”長嶋巨人の戦いぶりであった。
援助交際
ブランドの洋服や小遣い銭欲しさに、普通の家庭の女の子が売春をしている。そんなコギャルの実態をルポした黒沼の記事は、大人たちに大きなショックを与えた。しかも、売春を「援助交際」と称し、彼女たちに何の罪の意識も無いことは二重のショックであった。“売春”という実態を、言葉のマジックで「援助交際」と言い繕う忌まわしい流行語である。
ルーズソックス
俗に言う“だらしなファッション”、ソックスのゴムを抜いただけで、アッという間に女子高生の足元ファッションに大ブームを巻き起こした「ルーズソックス」。猫も杓子も、女子高校生の多くが、この「ヅルヅルだぶだぶ靴下」を履く圧倒的な流行となった。女子高校生の太い足を隠したいという深層心理、これを見事に突いたメーカーの勝利とも言われる。
チョベリバ チョベリグ
世を席巻している女子高校生言葉の最新バージョン。社会の出来事や人物の評価、好き嫌いの表現語として「サイコー」「サイテー」に替えて使われる。英語のベリィ・バッドやベリィ・グッドの上に「超」を冠したもの。
閉塞感(打開)
冷戦構造崩壊後の“世界の変化”のカヤの外に置かれているのが沖縄である。戦後50年以上経った1996年になっても、戦後日本の矛盾が沖縄に集約されている。この沖縄の「閉塞感」を、郷土への思いと基地の悩みを、沖縄県民大会で訴えた高校生の中村、比嘉の両君。訴えは、日本国中で「沖縄の閉塞感」理解の熱い渦を巻き起こした。
アムラー
スーパーアイドル安室奈美恵のファッションが大流行し、これをまねたギャルを「アムラー」と呼んだ。超ミニスカート、底の厚いブーツ、肩まで垂らす長い髪の三点セットが取りあえずの「アムラー」条件だそうで、街には“安室奈美恵もどき”が溢れた。
「ガンと闘うな」(がんもどき理論)
医学界のみならず一般社会にも大きな衝撃を与えた、近藤の“新理論”「がんもどき理論」。癌には転移しない“もどき”癌もあり、何が何でも手術や苛酷な治療をする必要はないとの論である。つまりは「ガンと闘うな」との主張で、医学界の常識を根底から否定するものであった。残念なことに医学界からの本格的な反論は無く、論争とはならなかった。
不作為責任
薬害エイズ問題で、組織ぐるみの責任逃れに終始した厚生省。悪意(作為)は無かったと主張する厚生官僚、御用学者、製薬会社を、徹底的に追い詰めたHIV訴訟団。ついに、行政の「不作為」は犯罪行為であることを認めさせた。さらに、薬害エイズ初期での重大な「不作為」と、それを立証する「ファイル」の発見を遅らせた卑劣な官僚主義的「不作為」を明らかにした。 
歴史教科書に対する攻撃の開始
1996年は、歴史教育に関して、二つの動きがありました。国連人権委員会、同小委員会で採択されたラディカ・クマラスワミ報告は、日本軍性奴隷問題について、日本政府に対して「歴史的現実を反映するように教育内容を改めることによって、これらの問題の意識を高めること」を勧告しました。もう一つは、新しいナショナリズム運動からの強い働きかけです。教育は、民主主義国家にとっては、マスメディア、選挙制度、司法のあり方などとともに、その内実を決める中核です。教育の中でも史実のどれをどう教えるかは、ホットな政治問題でした。
歴史教科書は、80年代半ばから改善されていました。要因の一つは、長年にわたる家永教科書裁判を中心とした国民運動です。もう一つは、82年7月の、中国や韓国などアジア諸国からの抗議です。この年の6月の検定で、アジア太平洋戦争における日本の「侵略」を「侵攻」と書き改めさせるなどの指導がなされたため、戦争で被害を受けた諸国との間で外交問題となりました。このため、政府は「批判に耳を傾け、政府の責任で是正する」という「政府見解」を発表、文部省は、「侵略」の用語や南京大虐殺などの加害記述に検定意見を付けて修正しない、という「近隣諸国条項」を検定基準に付け加えました。
その結果、84年から85年にかけて、中高の歴史教科書の全点に南京大虐殺が記述されました。「従軍慰安婦」は、高校の日本史教科書で94年度用(中学校は97年度用)から一斉に登場しました。日本による植民地支配の記述も相当充実してきました。それでも国際的に見ると不十分だとして、冒頭のクマラスワミ報告などが出されました。
このような改善に対して、96年から、教科書「偏向」攻撃が表面化しました。これを準備したのは、93年に設置された自民党の「歴史・検討委員会」です。若手議員として安倍晋三、中川昭一氏の名前もあります。この委員会は、大東亜戦争(アジア太平洋戦争のこと)は侵略戦争ではなく自存・自衛の戦争でありアジア解放の戦争だった、などと総括しました。これを受けて、96年の夏ごろから現行教科書を「自虐史観」だとする攻撃が先鋭化し、小林よしのり氏らは97年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」を結成、「自由主義史観」に基づく教科書の執筆を始めます。海外で再び戦争を遂行することを可能にするための憲法9条の改正運動と連動したものです。
99年には政府が動きました。「首相官邸筋」から教科書会社に対して加虐の事実の記載を「是正」するよう要請がありました。この結果、「自主規制」という形で大幅な逆戻りがなされました。「つくる会」を入れて教科書会社8社中、「従軍慰安婦」の記述は3社に激減しました。「南京大虐殺」は、「南京事件」に、「虐殺」は「殺した」などに、犠牲者数も単に「多数」などに改められました。「侵略」の用語を残したのは1社だけになりました。731部隊の記述も削除されました。日本軍が中国で行った「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」という「三光作戦」は5社が記述していましたが、4社が削除しました。
06年8月25日の朝日新聞の経済欄に小さな記事が載りました。日本企業が中国で「三光」という商標申請をしたところ、中国当局に却下されたというものです。日本企業は「知らなかった。ぬれぎぬだ」と主張しました。日中の「歴史認識の相違」の一例です。この記事の中でも三光作戦についての説明はありません。 
 
1997(平成9)年 

 

失楽園(する)
日本経済新聞に連載された『失楽園』は連載中から評判となっていたが、映画化されたことにより、日本中の話題をさらった。50代の妻子ある男と40代にさしかかる人妻との悲しくも激しいラブロマンスなのだが、一般的な受け止め方は「私も、不倫をしてみたい」だった。「不倫」を「失楽園する」と言うようになり、まるで不倫がブームのようになった。
たまごっち
1997年最大の話題となったヒット商品「たまごっち」(バンダイ発売)。たまごをニワトリに育てるというゲーム機器だが、操作次第で泣いたり、拗ねたり、死んでしまったりと、とにかく手がかかる。製造が追いつかず品不足となり、プレミアはつくは、偽物は出るはの大狂騒曲を世界中に繰り広げた。
時のアセス
諌早湾の干拓事業の強行を見るまでもなく、役所による“時代錯誤”の公共事業は、世論の強い批判を浴びながらも相変わらず行われている。そんななか、長期間に及ぶ公共事業を時代の変化に照らして見直そうと、独自の“評価システム”を作り、「時のアセス」と命名。センスに富んだネーミング、“常識”を行う勇気は全国から圧倒的支持を受けた。
ガーデニング
この年、突如としてブームを巻き起こしたのが「ガーデニング」。言ってみれば、昔からある“庭いじり”なのだが、狭いベランダや、猫の額ほどの庭でも“庭園”気分を味わえるのがみそ。英国風の構図、計算されたインテリア、英語式ネーミングなどで「ガーデニング」ブームを仕掛けた八木が受賞。
日本版ビッグ・バン
金融自由化が現実のものとなり、日本の金融・証券業界はグローバル・スタンダード(国際標準)の下で国際レースに参加しなければならなくなった。そのためには、従来の“護送船団”方式を抜本的に改革する「日本版ビッグバン」が絶対に必要とされたが、金融業界の改革は遅々として進まなかった。そんな中、株の売買手数料を一挙に50%引き下げ、「日本版ビッグバン」の実質第1号と国内外から高く評価されたのが松井証券である。
透明な存在
神戸で起きた小学生連続殺傷「酒鬼薔薇」事件で、犯行声明文の中に書かれていた言葉。逮捕された容疑者が少年であったことから、言葉は一人歩きをし、その解釈を巡ってさまざまな論議が巻き起こった。そんな中、少年の顔写真を掲載したのが写真週間誌『フォーカス』。「少年法」「人権」といったさまざまな問題を提起するきっかけを作った。
もののけ(姫)
宮崎原作・脚本・監督によるアニメーション映画「もののけ姫」は、邦画史上最高の配給収入を記録した。「もののけ」とは“妖怪”のことだが、映画では“近代合理主義”に相対する存在として描かれている。宮崎の言う“自然への慈しみや敬いと畏れ”は共感を呼び、大ヒット作となった。
パパラッチ
ダイアナ英国皇太子妃の自動車事故死により、その存在がクローズアップされた。そもそも「パパラッチ」とは“蠅みたいに近くを飛び回ってうるさい連中”という意味だそうだが、今ではスキャンダルを追い求める写真ジャーナリストのことを言う。被写対象に“異常接近”しヴェールを剥ぐ「パパラッチ」の仕事に関する論議や、ジャーナリズムの在り方が問われたことは意義があった。
マイブーム
1997年に突如として“ブーム”になったのが「マイブーム」。漫画家のみうらが仕掛人である。要するに、世の中の流行とは無関係に、自分だけの「ブーム(流行)」を持とうという生き方。その瞬間に興味を持ったものすらその時点で「ブーム」になるのだから、“流行”という概念自体をぶち壊しにする世紀末的言葉である。
郵政3事業
行政改革が遅々として進まぬ中、一石を投じたのが小泉。かねてからの持論である「郵政3事業の民営化」を具体化するように迫った。3事業とは、郵便・貯金・保険のことで、圧倒的な資金力を持つ郵政省が、同じ業種の民間企業の経営を圧迫しているという主張である。公共性と採算性の兼合いもあり、熱い論議を呼んだ。 
新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)
今、沖縄の普天間基地を県北部の名護市辺野古沿岸部に「移設」するか、民主党のマニフェストどおり「見直す」かどうかが、焦眉の政治問題になっています。普天間基地は、1996年に、5〜7年以内に全面返還することで合意しました(10月29日アップの憲法時評「普天間移設問題」をご参照ください)。返還の理由として「県民の負担軽減」が強調されました。しかし、13年経った今も難航している背景には、陳腐化した普天間基地を手放し米軍の最新鋭基地を県内に新設するという沖縄の基地機能強化策が「移設」の本当の理由だったことにあります。これは、前年95年にアメリカが打ち出した東アジアにおける軍事的プレゼンスを高める方針の具体化でした。すなわち、「東アジア・太平洋地域に対するアメリカの安全保障戦略」(EASR)です。冷戦が崩壊して世界の多くの人々は軍事的な緊張が解け、軍縮に向かうことを期待しました。しかし、唯一の大国となったアメリカは、経済大国化を軍事大国化で支える道を選びました。
95年のEASRは、96年4月の日米安保共同宣言として集大成されました。これにより、在日米軍の行動範囲を「2国間」から広く「アジア・太平洋」のみならず「地球的規模(グローバル)」にまで広げることが明言され、「極東」という文字は消えました。この「宣言」を具体化したのが、1997年9月の「日米防衛協力のための指針」、いわゆる「新ガイドライン」です。橋本首相とクリントン大統領との間で合意されました。日米安全保障条約のための運用マニュアルで、78年の旧ガイドラインに代わる新たな指針です。英訳では「WARマニュアル」と呼ばれます。
冷戦崩壊後の日本では、軍縮を志向する路線の他に、日米同盟を軽視して国連中心の多国間安全保障方式や日本の自立的軍事大国化を目指そうという意見もありました。日米安保共同宣言と新ガイドラインは、これを警戒したアメリカと、アメリカの軍事路線に乗ることが多国籍企業の利益を守り軍事戦略上も得策だと考え2国間軍事同盟を重視した日本の財界と政治家等の思惑が一致した結果でした。
新ガイドラインの眼目は、日米安保共同宣言を受けて、「極東」以外の「周辺事態」にまで含めた日本の軍事的分担でした。これにより日本は軍事大国化に向けて大きな一歩を踏み出しました。
この新ガイドラインを実行するため、99年6月、周辺事態安全確保法等3法が強行採決されました。戦後はじめての本格的な海外派兵法です。専守防衛の軍隊だった自衛隊が、自衛と関係のない「周辺事態」に「後方支援」することになりました。「周辺」とは地理的な概念ではないとされ、論理的な限定はされませんでした。武力の行使はしないと書かれましたが、武器の使用は認められました。 
 
1998(平成10)年 

 

ハマの大魔神
マシンガン打線を引っさげて、横浜ベイスターズは38年ぶりのセ・リーグ優勝、余勢を駆って日本一になった。最大の殊勲者がストッパー佐々木で、ついたあだ名が「ハマの大魔神」。マウンドに仁王立ちし、打者をバッタバッタと打ち取る姿は日本国中を熱狂させた。最優秀選手、最優秀投手、最優秀救援投手、ベストナイン、ファイアマン、プレーヤー・オブ・イヤー、正力松太郎賞などの栄誉を独占したばかりでなく、神社まで“建立”されてしまった。
「凡人・軍人・変人」
この年一番の切れ味鋭い“論評”で、メディアはいっせいにこの言葉に飛び付いた。自民党総裁選に立候補した三氏に対し、「どうせ在庫一掃、ガレージセール」と切り捨て、返す刀で「小渕は凡人、梶山は軍人、小泉は変人」。あまりにも三氏の本質を言い当てた名文句に、当の三氏も苦笑するばかり。
「だっちゅーの」
老人から子供まで、日本国中を席巻した久々の流行語「だっちゅーの」。かわいい女性のお笑いコンビが、ひとしきり凡庸なギャグを飛ばしておいて観客のしらけを誘った末、決めのポーズ(両腕で胸をはさみ、谷間を強調するの類)で“落とす”際に発するセリフが「だっちゅーの」である。
環境ホルモン
21世紀の世界で、もっとも重要なテーマは“環境問題”である。この年、地球の生態系を狂わす恐るべき化学物質「内分泌撹乱化学物質」を、井口は「環境ホルモン」と名付けた。これにより環境問題は一挙に身近なものとなり、水道水、土壌などの問題を論ずる時にも「環境ホルモン」の語が出ないことはなくなった。
貸し渋り
不良債権問題により“金融不安”が続く金融機関に、追い討ちとなったのが自己資本比率「早期是正措置」。内部留保金を増やしたい金融機関は、手っ取り早く「貸し渋り」を始めた。行政の無策、金融機関の手前勝手が招いた「貸し渋り」は、あっという間に日本国に蔓延し、大きな社会問題となった。
老人力
新しい発想で、世の中の老人たちに大いなる勇気を与えた言葉「老人力」。生みの親の赤瀬川によれば、年をとって物忘れをすることは、新しい知識を取り入れるために必要という。だから、忘れっぽくなることは「老人力」がついた証拠だとし、年を取れば取るほどスゴイ「力」がつくんだと主張する。この発想の転換に、世間はタジタジとなるばかり。
ショムニ
「ショムニ」とは庶務第二課のことで、“役にたたない”社員の島流しのような部署である。シュンとする男性陣に対し、女性陣はとにかく元気。ある意味では、極めて今日的なテーマをマンガチックに描いている。元気な女性が大活躍というストーリーがヒットの理由という。
モラル・ハザード
「モラル・ハザード」とは、本来は保険用語で“道徳的危険”という意味。だが1998年、経営破綻した金融機関の処理や、住宅金融専門会社の財政資金投入をめぐり、経営者の経営倫理欠如が指摘され、「モラル・ハザード」論議が大きな話題となった。住専処理を行う住宅金融債権管理機構社長に、無報酬で就任した弁護士・中坊は、住専に貸付けていた金融機関の「モラル・ハザード」を厳しく追及し世論の喝采を浴びた。
「冷めたピザ」
首相に就任した小渕を分析した受賞者の言葉で、『ニューヨーク・タイムズ』紙で紹介され、全世界を駆け巡った。“何をしても食べられない”というのが「冷めたピザ」の意味で、本来ならば一国の首相に対して失礼な論評なのだが、どういうわけか日本人には大受けしてしまった。当の小渕首相も、ピザを持つ姿で米週刊誌に登場するなど、“のんきな父さん”そのものだった。
日本列島総不況
小渕内閣の経済企画庁長官に就任した堺屋は、日本経済の現状を“停滞”ではなく「低迷」と断言した。さらに全体状況を「日本列島総不況」と、極めて明快な言葉で表現した。小渕内閣の“アクセサリー”と揶揄された堺屋だが、“流行作家”らしい表現力で一矢を報いた。“エコノミスト”としての本領発揮がなるか、世の中の注目を一身に集めた。
スマイリング・コミュニスト
国内外での逆風の中、1998年参議院選で比例区で約1000万票という大躍進を遂げた日本共産党。その秘密は「スマイリング・コミュニスト」にあると報じられた。不破委員長の柔和な笑顔が、有権者の中にある“共産党嫌い”を和らげたとの解説である。同時に、路線的な「スマイル」が評価されたのであろうが、この“柔軟さ”が“本物”かどうかは今後を待ちたい。
ボキャ貧
小渕首相が、記者団の応対の中で自らを卑下して言った言葉。自分には語彙が少ない、ボキャブラリーが貧困、つまり「ボキャ貧」だと言ったのだが、これが反対に小渕首相の造語能力の“優秀さ”を立証することになった。語感といい、語意といい、ヤングの“縮め言葉”と対抗しても勝るとも劣らない。「小渕さんて、もしかしたら“切れ者”かも」などという評価も出始めた。 
地域の崩壊進む
高度経済成長時代、農村から若年層が大量に都市に流出しました。「過密」と「過疎」を生み出し、農村人口は社会減となりました。しかし、90年代以降になると、それと質的に異なる集落そのものの崩壊が問題になってきます。かつて農村に踏みとどまっていた人たちが高齢に達し、後継者がいなく、死亡数が出生数を上回る自然減が主因となりました。大きな背景として、日本的福祉国家政策の見直しで、農山村向けの財政支出が継続的に削減されたことが挙げられます。93年にはコメ市場が部分的に自由化され、日本のコメ生産量の3分の1を占めていた中山間地域は、最も深刻な影響を受けました。
65歳以上の高齢者が集落人口の50%を超すと、冠婚葬祭をはじめ農業用水や道路の維持管理などの社会的共同生活の維持が困難になります。このような人口構成で共同体の機能維持が困難となっている集落は中山間地や離島に多く、「限界集落」と呼ばれています。限界集落では老人夫婦だけと一人暮らしの老人世帯が大半を占めています。2006年に国土交通省が行った調査では、限界集落は全集落の12.6%の7873に達し、消滅の恐れのある集落が2641あります。
90年代末以降、限界集落に似た現象が、さらに広い地域にも及びました。大企業や下請け企業が、より安い労働力を求めて生産拠点を海外に移したからです。残った企業も人員整理や単価切下げ、下請けへの発注停止を行い、地場の零細・中小企業が倒産・閉鎖に追い込まれました。これによって、農家は一人っ子や長男さえ地元に止めておけなくなりました。地方都市もシャッター街が普通の光景になりました。
これらは、経済のグローバル化、産業構造の高度化等に伴うやむを得ない状況だという説明があります。しかし、地方の雇用・生活基盤を充実させ、そのために必要な財源と権限を地方に持たせるという、憲法が予定している地方自治の本旨(92条以下)の軽視政策の結果でもあります。戦後日本の政治の特徴の一つは、高度に中央集権的な政治決定システムが続いたことです。日本と並ぶ中央集権国家だったフランスでは、80年代のミッテラン社会党政権の下で地方分権化が進みました。イギリスでも90年代末に、地方分権化が進みました。
「地方分権」という看板は、選挙民に受ける効果もあって、歴代政権は程度の違いはあれ、掲げてきました。90年代後半の橋本龍太郎政権の「橋本六大改革」にも組み入れられ、99年には地方分権一括法が成立。国の地方に対する機関委任事務は廃止されました。これは国と地方の関係を対等な政府間関係に変える改革の成果として評価されます。しかし、改革は制度的なものに止まり、実体的には大きな課題を残しました。
小泉政権時代の「三位一体の改革」は、「地方分権」の名の下で、逆に地方の財源を減らしました。即ち、地方に対する3兆円の税源移譲を上回って、補助金と地方交付税の削減が進みました。中央政府は、財源が減らされた地方に対して、財政的自立(自己責任)と民営化で乗り切ることを強制しました。自立が不可能ないし困難になった地方自治体は合併を強いられました。地方自治は、小規模な単位でこそ住民が十分に意思を反映させることができます。この住民自治の思想に逆行する政策です。二宮厚美教授は、小泉改革を「新自由主義的分権化」と呼んでいます。
今、地方と都市の共生を求める声が地方と都市の双方から上がっています。地方の山や川は都市住民にきれいな水源と空気、健康な食文化、癒やしの場を供給しています。上流と下流に住む人を分離した施策を行う発想を転換し、「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」という理念を基に全国に先駆けて制定した京都・綾部市の「水源の里」条例などが注目されています。限界集落に限らず、地方の自治を支える新しい産業の育成、様々な共生の場の創造、それらを支えるための財源の大幅移譲、自治の法的な保障等が課題になっています。 
 
1999(平成11)年

 

雑草魂
1999年のパ・リーグが松坂なら、セ・リーグはもちろんこの人、上原。連日投手記録を更新した大型新人。とは言っても華々しくデビューした松坂に対し、東海大仰星高校時代は控え投手で、チームも甲子園とは無縁だった。マスコミは地道にはいあがってきた新しいヒーローの心意気を「雑草魂」と表現した。
ブッチホン
突然、「もしもし、ケイゾーです、オブチです。」と、官邸から電話がある。いたずらだろうと、みな疑ってかかる。が、電話の主は小渕恵三首相その人。それも閣僚や議員、大企業の社長など公人相手ならわかるが、雑誌の書き手やら、首相あてに電子メールを送った一般の人にまで直接電話がゆく。山藤章二は週刊誌の似顔絵特集で首相から感謝の言葉をいただいたという。「冷めたピザ」「真空総理」「人柄の小渕」…この人ほど短期間にあだ名が増えた例も珍しいが、ブッチホンはみずからが命名。
リベンジ
鳴り物入りで西武ライオンズに入団したスーパールーキー松坂。150キロ台の速球と切れのいいスライダーで、16勝5敗、防御率2.60の高卒新人最多勝記録を打ち立てた「平成の怪物」。強気で負けず嫌いの彼が敗戦したゲームのあとに残したのがこの言葉。「復讐、仕返し」の意味で、巷でもさかんに使われた。「リベンジ」は格闘技K−1で以前より使われていた言葉。
学校(級)崩壊
ショッキングなタイトルで学校教育の危機に一大警鐘をならしたベストセラーがそのまま流行語に。「教師の個人的な努力ではどうにもならない学級の危機的事態は、子どもの自由や人権を主張する人たちによって拍車をかけられた。彼らは教師が必死に何とかしようとしているとき彼らをたたき、教師は身動きがとれなくなった。これが学校の教育力を低下させ、学校そのものを崩していくことになった…」という。
カリスマ
いまや素人がマスコミにのり、アイドルになる時代だ。情報が氾濫する現代だからこそ、身近なところに手本を求める。その象徴がカリスマ店員とよばれる超人気の売り子=マヌカンたちだ。女子高生の憧れる職業第一位はファッションショップの店員である。彼女らは売上げも高いが、ファッションリーダーの役目を果たし、そのコーディネートやメイクがそのまま若い女性のトレンドになった。「カリスマ」は今年のキーワードで、「カリスマ美容師」「カリスマホスト」などがあらわれた。
ミッチー・サッチー
サッチーこと野村沙知代をめぐる騒動は連日、ワイドショーをにぎわせた。火付け役はその後ミッチーの愛称で親しまれることになる浅香。ラジオ番組のレギュラー出演最終回でサッチーの身勝手、無作法を批判した。これを機にサッチーの被害者が次々に登場し、悪行・疑惑がぞろぞろ発覚。すさまじいサッチー・バッシングとなった。最大の論点は、参院選出馬時における「コロンビア大学卒?」の学歴詐称、および野村監督との結婚日程詐称が公職選挙法違反ではないかとの疑惑。時効を前にミッチーが東京地検に訴えでるも、証拠確認できず不起訴。
西暦2000年問題
英語圏ではY2K(year two kilo)。その昔コンピュータの容量が小さかった時代、プログラマーが、メモリをけちって年度表示を2桁にしたことから2000年になったことを判別できず、誤動作による事故のおそれがあるという問題。いち早く<非常用品>パックを売り出すアイデア商法でコンピュータを用いない「2000年対策」の仕掛け人となったのが受賞者・東急ハンズ。
だんご3兄弟
1999年1月、「おかあさんといっしょ」で歌われたコミックソング(作詞・佐藤雅彦)。突然ブームに火がつき、CDの予約販売に客が殺到し、発売当初は手にいれるのが困難なほどだった。シンプルな歌詞とメロディ、タンゴのきれのよいリズムにのって、幼児から老人まで唱和することのできる国民歌謡。人気にあやかろうと巷ではたくさんの「○○3兄弟」商品が生まれた。
癒し
バブル華やかなりし10年前、「24時間戦エマスカ」のコピーで大ヒットしたリゲインのCMが、坂本龍一のピアノソロとともに「この曲をすべての疲れている人へ」というのメッセージを送るようになるなど、「癒し」はもはや国民的テーマ。受賞者は「癒し」をテーマに、南紀熊野を会場としてユニークな地方博覧会を企画、実現した。
iモード
1999年は小文字の「i」を冠した商品が続々登場した。「i」は「internet(インターネット)」の「i」だが「information(情報)」「interrated(統合)」の「i」ともいう。1998年に発売されたアップル社のiMacが発祥だが、翌年日本ではカメラや本などインターネットとは直接関係ないような商品も巻き込んだ一大「i」ブームとなった。その火付け役となったのが、NTTドコモが始めた、インターネットに接続できる携帯電話新サービス「iモード」のヒット。 
国旗国歌法
1999年は、国民の間で長年に渡って論争が繰り広げられてきた重要な案件が、一挙に法制化された年として記憶されています。
この年が終わる頃、加藤周一氏は、「世界」(緊急増刊)「私たちの希望はどこにあるか〜戦後最大の転換点のなかで〜」の中で、さしたる論議もなく通過した一連の法律、(新ガイドラインを実行するための周辺事態安全確保法等3法、「国旗国歌法」「通信傍受法」「住民基本台帳法」など)が、将来、時限爆弾のように破裂して民主主義が徹底的に制限されるときが来るかもしれないと警告しました。格差社会を生んだ「労働者派遣法」も決定的な一歩を踏み出し、国会法の改正で衆参両院に憲法調査会を設置することも決まりました。これらの一挙の法制化の背景には、法案の欠陥が明らかになっても多数決で次々に処理する手法を可能にした自公連立政権による国会審議の変質があります。
国旗や国歌は、日本の象徴として機能します。だとしたら、憲法にふさわしい国旗や国歌は何か。主権者である私たちが世界に向かって胸を張れるような、1人ひとりの人間の尊厳や平和の理想を高らかに掲げるものであって欲しい、そんな声が戦後ほうはいとして湧き起こりました。「天皇の国」「軍国主義」のシンボルだった「日の丸」「君が代」に社会は違和感を抱きました。そのため、毎日、読売、朝日その他新聞各社は、新国歌を募集、主張しました。NHKも後援しました。このような世相のなかで、調査した範囲内でも10万通近い応募があり、「緑の山河」「われら愛す」のように、広く愛唱された歌も生まれました。
一方、GHQは、東西冷戦の激化の影響を受けて、「日の丸」に「日本国民の一人一人をふるいたたせる輝く導きの光」として新しい意味づけを認めます。政府・与党も、50年の天野貞祐文部大臣の発言を端緒に、「日の丸」「君が代」の再定着を図るため、教育現場に照準を合わせ、学習指導要綱に書き込みました。明治国家ではこれらは学校を中心に儀式を通じて教え込まれ、国民統合に大きな効果を上げました。その経験が再認識され、子供たちへの刷り込みが次第に強化されて行きました。民の自立を抑制する政官による強制の構図です。
89年、学習指導要領は、あいまいだという批判を受けて、「入学式や卒業式においては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するように指導するものとする」と改定され、現在に至っています。しかし、これらは法的には慣習法としての弱みがありました。そこで、99年、大論争の中、「国旗及び国歌に関する法律」として法制化されました。法制化が可能になった一つの背景として、田中伸尚氏は、昭和天皇の存命中には決してできなかったことを挙げています。
法制化に伴う一連の政府見解をまとめると、「君が代」は「象徴天皇の国が末長く続くことを希う国歌」です。21世紀に生きる私たちを奮い立たせる「希望の歌」になるでしょうか。
法律は、国民に義務を課していません。政府も国民には何らの強制をするものではないと答弁しています。しかし、教育の現場は違います。通達で職務命令により強制され、従わない教員の解雇など1123人の処分が出されています(朝日新聞09年8月18日付朝刊)。これに対して、教員や子供の思想良心の自由を侵害すること、強制は教育の本質に背くことなどを理由に、多数の違憲訴訟が争われています。弁護団長を務めた尾山宏氏は、“最も根本的な問題は、一般国民の人権感覚だ。残念ながら我が国社会には他人の思想・良心の自由を尊重する精神的風土や、お互いの差異に対する寛容が今なお余りにも乏しい”と述べておられます。
男女共同参画社会基本法
この年に成立、施行されました。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です(第2条)。法の目的は、「男女の人権の尊重」と「豊かで活力のある社会の実現」です(1条)。男性優位社会の現状に鑑みると、前者は実質的には女性の差別的取扱いの是正です。後者の背景には「少子高齢化の進展」の時代(前文)において国際的な大競争に勝つという国家的な戦略があります。「男女共同参画社会の実現は21世紀の我が国社会を決定する最重要課題」と謳っています(前文)。
このため政府は、05年には「20年までに重要な地位の3割を女性に」との目標を掲げました。しかし、政治や経済活動における重要な地位への女性の参画状況を示す08年の「ジェンダー・エンパワーメント指数」は108カ国中58位で、先進国の中では際立って低い状況にあります。今夏の選挙で女性国会議員の進出が話題になりましたが、世界的に見れば女性議員の比率は11.3%と、134位から120位前後に上がっただけです。国連の女性差別撤廃委員会から賃金格差の是正が再三求められていますが、女性は男性の6割台で、格差の大きさは先進国では最高レベルです。
法の目的の実現がほど遠い背景には、「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という男女の役割分担についての伝統的な意識があります。働く女性の6割が出産を機に仕事をやめる結果M字型になっている労働力率のグラフは他の先進国には見られません。育児休業の利用率は、女性の90%に対して男性は2%です。
03年の経産省の研究会の報告書「女性の活躍と企業業績」は、女性が活躍できる風土を持った企業ほど、業績が上がるとしています。報告書は、社会保険や賃金なども、女性に不利にならない中立的な制度に変えることが最重要だと指摘しています。 
 
2000(平成12)年

 

「おっはー」
朝の挨拶「おはよう」の短縮形。もともとテレビ東京系列の子ども番組『おはスタ(おはようスタジオ)』(月〜金午前6時45分〜)で使った「おーはー」を、SMAPの香取慎吾扮するキャラクター「慎吾ママ」が、フジテレビ系列の人気番組『サタ★スマ』(土曜午後7時〜)で使用したことで人気がでた。「おっはー」を使った調子のいい歌『慎吾ママのおはロック』も大ヒット。男女世代の枠を超えた国民的な流行語となった。
IT革命
情報技術(Information Technology)分野での革命が、経済の新たな成長を担うとともに、国家・社会・企業等の組織を変えていく現象。コンピュータの高性能化、低価格化と通信の大容量化、高速化を二つの柱とするIT革命はインターネット利用を急速に普及させ、電子商取引の比重を大きく高め、企業間および企業−消費者間の直接取引を増やしている。一方、IT革命の波に乗る者とこれに乗り遅れる者の情報格差(デジタル・デバイド)が問題となっている。IT革命のもたらす光と影については九州・沖縄サミットでも注目された。
「最高で金 最低でも金」
世界柔道選手権、福岡国際女子柔道などで連覇を重ねる田村亮子選手だが、92年のバルセロナ、96年のアトランタと過去2回のオリンピックでは銀メダル。2000年のシドニー五輪をまえに、田村選手はその目標を「最高で金 最低でも金」と表現した。そして「期待されつづけた十年」というプレッシャーを自らの実力でキチンと解き放ち、ついに「YAWARA」は宿願の金メダルを獲得した。
Qちゃん
シドニー五輪で、日本陸上界の悲願だった女子マラソン金メダルを獲得した高橋尚子選手のニック・ネーム。新入部員歓迎会で「オバケのQ太郎」の芸を披露したことからの愛称。Qちゃんがシドニーで「すごく楽しい42キロ」を走破したあと、テレビのまえで待ち構える日本人の耳に入った「第一声」は「カントクが…」と監督の小出義雄を探し求める声だった。小出監督は高橋選手との出会いで「天性のカケッコ好き」だとその資質を直感し、「君ならやれる」と励ましつづけたという。
ジコチュー(ジコ虫)
自己中心のこと。(社)公共広告機構では、公共マナーのキャンペーンとして、ジコチューを「ジコ虫」に置き換え、いろいろな自己中心的な人(虫)たちを登場させるというTVスポットを流した。登場するのは、電車内で携帯電話で話しつづける「シロクジ虫」、所構わず車を止める「ろ虫」、夜中にこっそりゴミを置き去る「おきざり虫」、歩きながらタバコを吸う「イップク虫」など。
一七歳
豊川の主婦殺害事件、福岡から広島にまたがった高速バス乗っ取り事件、岡山のバットによる母親殴殺事件。2000年に起ったこれらの凶悪な事件は、揃って犯人の年齢が十七歳で、また犯行動機が不可解であったことから、「一七歳」がキーワードとなり、少年法の改正論議とともに、その心の問題が多くのメディアで取り沙汰された。人間関係の拒絶、社会参加の拒否などの特徴をもつ「引きこもり」の現象も注目された。
パラパラ
1970年代のディスコではやった集団ダンスが復活。今回の殿堂は神楽坂のディスコ『ツインスター』。渋谷の公園では毎週「先生」を囲むパラパラ教室が催され、練習用ビデオまで配られた。流行であれば何でも取り入れるレースクイーンたちもイベントでガングロギャルとパラパラ。
「めっちゃ悔し〜い」
「めっちゃ、悔し〜い」とは、シドニー五輪女子水泳400メートル個人メドレー銀メダル・田島寧子選手が、プールから上がった直後に発した第一声。おそらくテレビのまえの多くの日本人が「よ〜し銀メダル!」と拍手喝采していたときである。しかし相手に勝つために戦った、この銀メダリストの心は「めっちゃ悔し」かったのだ。田島選手には次回オリンピックでもう一度のトライを期待したい。そして今度こそは「めっちゃ嬉しい!」とぜひ大声で叫んで欲しい。
「ワタシ(私)的には…」
街角で「このコトバの使い手として一番ふさわしい有名人は?」の質問で圧倒的に答えの多かったのが受賞者。文化庁の「国語に関する世論調査」によると、いまどきの若者は「ワタシ的には」「お荷物のほう」「〜とか」「〜みたいな」などに代表される、「ぼかし言葉」を多用するという。断定をさけるあいまい言葉は、自分の立場を守りながら相手の反応をうかがったり、相手とほどよい距離を保とうとするもの。
「官」対「民」
長野県では、2000年10月の知事選で市民活動への積極的な参加でも知られる田中康夫知事が前副知事らを破っての当選。その選挙の構図は新聞、テレビ等のメディアで「『官』対『民』」という言葉でクローズアップされた。そして、11月には栃木県知事選で無党派の福田昭夫知事が6党相乗りの現職知事を破っての当選。ともに「草の根運動」の選挙活動を行い、民衆が組織に勝った選挙として注目された。 
衆参両院で憲法調査会発足
99年に改正された国会法に基づき、00年1月、衆参両院にそれぞれ憲法調査会が設置され始動しました。目的は、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」ことです。そうだとすれば、1憲法はどのように実現されてきたか、2いまだ実現されていないのは何か、3それはなぜかを明らかにし、4実現のための諸課題を調査し議論する、というのが調査会の役割でした。国会議員は憲法尊重擁護義務(99条)を負うからです。
両院の調査会は、その後5年間にわたって、多数の参考人の意見を聴取し、各地で公聴会を開いて国民の意見を集め、議員間の議論を重ね、05年に最終報告書を作成しました。膨大な議論の中には、専門家の知見に基づく憲法実態の解明など、上記調査の目的に沿う極めて傾聴すべき意見が多数存在します。衆議院憲法調査会、参議院憲法調査会の議事録はホームページで公表されていますので、是非ご覧になってください。
しかし、これらの貴重な意見はほとんど生かされず、国民も忘れているのが現状でしょう。マスコミも当初は調査会開催のたびに参考人の意見などを詳細に報道しましたが、尻すぼみになりました。最近の世論調査によれば、改正したい事柄として、首相公選制の採用をトップに、新しい人権の明記などが挙がっています(毎日新聞09年11月1日付)。しかし、前者は調査会で欠陥が明らかになって否定論が優勢になった議論であり、後者はむしろ人権制限の口実として利用されている政治的な議論であるという冷静な分析があった問題です。
そして、「調査」という観点から見ると、1「調査すべき重要な事項」が調査されないか、2調査されても表面的なものに止まっている事柄の枚挙に暇がありません。現状では「立憲主義」の目的である人権保障に名ばかりなものが多いこと、政財官の癒着で民主主義の機能不全が顕著で政治が私物化されていることなどの調査がなかったのは1の例でしょう。「構造改革」の名のもと、優勝劣敗の競争主義がはびこり格差(差別)が他国と比べて拡大しつつあったのに、きちんと議論しなかったのは2の例でしょう。
膨大な時間と国費を費やしながらまともな「調査」がされず、あるいは生かされなかったのは、憲法「改正」権を持つ主権者である国民の要望によって発足した調査会ではなかったからです。調査会は、90年代以降の財界、アメリカ、自民党、一部マスコミの強い改憲の要請に国会が呼応してできました。野党の反対意見に妥協して改憲案を発議(96条)しない「調査会」として発足しましたが、9条を中心とする改憲ムード作りのための儀式の色彩が濃厚です。調査会を10回ほど傍聴しましたが、開会の時だけ定足数を満たすために出席して退席する者、居眠りする者が多く、およそ最高規範のあり方を議論する場ではありませんでした。聞きたくない人が話す時は椅子をぐるっと反転して無視する者、自分の発言の時だけ顔を出し他人の意見は聞かない者なども目につきました。参考人の貴重な意見は聞き流され、それを踏まえて議論する姿勢も甚だ乏しかったといえます。最終報告書は、改憲を明確に打ち出せませんでしたが、それぞれの論点ごとに多数の意見が改憲に賛成であるという方向性を示しました。
政治家やマスコミは触れていませんが、根本的な問題の指摘があります。現在なされている議論は、「現憲法の廃棄と新憲法の制定」ではないか、という問題です。通説によれば、「改正」とは同一性・継続性を前提とするものです。憲法の性格や基本原理を変更することはできません。しかし、諸々の提案、調査会での議論、05年の自民党の「新憲法草案」、同年の民主党の「憲法提言」を通じて出てきた議論は、もはや「改正」とはいえないのではないか、という問題です。自民党案の名称はそれを端的に示しています。以下に見るように、憲法の基本原理を転換させる議論が行われています。
まず、憲法の生命は国民が憲法規範によって権力を拘束し人権を保障させるという立憲主義にあるところ、これを否定ないしあいまい化していることです。調査会の最終報告書では、「国民に上記の99条の義務を課すことの是非」を議論の分かれる論点として記載しています。自民党は、「公権力が国民を縛るルール」という側面を付け加えるよう主張しています。立憲主義の考え方を180度転換させるものです。自民党案では、表現はぼかしていますが、国民に愛国心を持つ義務を課しています。
国家が人権保障のためにあることから、国の政治のあり方を最終的に決定するのは国民であるという、国民主権の原理を憲法は採用しています。自民党案は、国家(公=おおやけ)と国民(私人)との対抗関係をあいまいにして、国民主権を軽んじています。自民党総裁の谷垣禎一氏は、先日の総裁戦で使った「みんなでやろうぜ」を、意味は違いますが憲法論議でも主張しています。「国家が君のために何をするかを問うな。君が国家のために何をするかを問え。」。「君」すなわち「個人」以前に国家があるという発想につながります。
民主党の提言は、「『国家と個人の対立』や『社会と個人の対立』を前提に個人の権利を位置づける考えに立つのではなく、国家と社会と個人の協力の総和が『人間の尊厳』を保障することを改めて確認する。」と記載し、「国と国民の共同の『責務』」を謳っています。憲法を国民の行為規範ともするもので、谷垣氏らの考え方と接点があり、今後注目されます。
平和主義と人権保障も憲法の基本原理です。前者については、自民、民主両党とも、自衛隊の海外における「武力の行使」を肯定しています。多国籍軍への本格的な参加も可能になります。人権の分野では、自民党案によれば、人権は「公益及び公の秩序」により制限されます。旧憲法と同じように、法律が認めた範囲内で権利を保障するというのと同じになってしまいます。これらも、憲法の基本原理を大きく変えるものとなっています。
「改正」ではなく「現憲法の廃棄と新憲法の制定」だとすると、96条ではなく新憲法制定のための特別な手続が必要なはずです。96条によるのは、「憲法制定」権者は国民であるという国民主権を無視するものであり、「クーデター」と称されても過言ではないでしょう。 
 
2001(平成13)年

 

米百俵・聖域なき改革・恐れず怯まず捉われず・骨太の方針・ワイドショー内閣・改革の「痛み」
所信表明演説で使われた「米百俵」「恐れず怯まず捉われず」、首相のスローガンである「聖域なき改革」、それにともなう「改革の『痛み』」、首相を議長とする経済財政諮問会議の「骨太の方針」、小泉政権に名付けられた「ワイドショー内閣」。2001年4月、第87代(56人目)の総理大臣となった小泉純一郎首相は、空前の国民支持を背景に、説得力あるキャッチフレーズを駆使することで01年最多の「流行語生みの親」でもあった。
「明日があるさ」
青島幸男作詞、中村八大作曲の30年も前の歌が缶コーヒーのCMで復活。ただし歌手は故坂本九ではなくダウンタウンの浜ちゃんはじめ吉本興行の面々。元歌の詞は若い男女の恋愛感情を歌ったものであったが、このカバー曲ではリストラ時代のサラリーマンが主人公。世相に合った歌詞に一新し、不況感に打ちひしがれる日本人に「明日」への希望を思い出させて大ブレークとなった。
e‐ポリティックス
インターネットを利用した政治。2001年6月創刊の小泉内閣メールマガジンには、創刊時に計100万件以上の申し込みが殺到した。電子投票、電子政府などの構想もあるように、政治の世界でもインターネットは大変重要なツールとなりつつある。選挙候補者のインターネットによる選挙運動は現在認められていないが、01年の千葉県知事選では、応援する候補者への支持、擁立のよびかけなどでインターネットを活用した市民グループが注目を集め、堂本暁子新知事誕生のきっかけとなった。
狂牛病
1986年にイギリスで発生が確認された狂牛病(牛海綿状脳症 BSE)が、ついに日本に上陸した。BSEは体内たんぱく質プリオンが異常型に変わり、脳がスポンジ状になって、起立不能に陥り、2週間〜半年で死に至る病気。潜伏期間は2〜8年。国民の牛肉離れが進むなか、ペッパーフードサービスでは店頭に「お願い 助けて下さい」の張り紙をしてお客に訴え話題となった。
塩爺(しおじい)
小泉内閣発足とともに入閣した塩川正十郎財務大臣のニックネーム。組閣の記者会見の席上で「もう、よろしいやろ、ふぉ、ふぉ、ふぉ」と笑って席を立つ姿が妙にユーモラスで、ぴりぴりした閣僚ばかりのなかホッとさせられた。1921(大正10)年生まれで、経済に強いという見栄は決して張らず、しかし裏で日本武道館会長を勤める実力者。インターネット上の「FORZA(がんばれ)!塩爺」サイトがブレイクの発端。
ショー・ザ・フラッグ
アメリカ同時多発テロの後、タリバンへの報復攻撃を加えようとするアメリカのアーミテージ国務副長官が、柳井駐米大使へ要求したと伝えられた言葉。日本の一部メディアでは「旗(日の丸)をみせろ」という意味で報道されたが、「旗幟(きし)を鮮明にせよ」という英語の言い回しであったことが判明。その解釈をめぐっては国会でも取り沙汰され注目された。
生物兵器(BC兵器)
人員等に感染・増殖する病原性微生物・毒素等の生物剤、またはこれを充填した各種砲弾・ミサイル等の総称。生物兵器をつくる費用は、核兵器をつくる費用のほんのわずかであり、しかも高度の科学技術を必要としないため、化学兵器とともに「貧者の核兵器」ともよばれる。2001年、世界貿易センタービルなどへの旅客機突入に端を発する一連のテロのなかで、白い粉「炭疽菌」によるテロが発生し、人々を恐怖に陥れた。
抵抗勢力
小泉内閣が推進する「聖域なき改革」に抵抗する勢力のこと。道路族や郵政族、医療族といった「族議員」は、自己の関係する省庁の影響力が低下する恐れのある改革には、強く抵抗する傾向があるので、種々の改革や規制緩和の障害となる場合が多い。これまでの族議員型、利益誘導型の政治は限界にきているといわれるが、従来の自民党内閣とは正反対の方向を向いた「小泉改革」に抵抗する勢力、「既得権益派」はまだまだ多い。
ドメスティック・バイオレンス(DV)
夫から妻への、もしくは恋人など親密な関係の男性から女性への暴力をさす。「夫の暴力(battered wife)」問題は、欧米では、1970年代のフェミニズム運動を契機に社会問題となり、制度・法的対応、相談やシェルター(一時避難所)活動も行われている。2001年4月、いわゆる「DV防止法」が成立、同年10月から施行された。被害を受けた女性の保護、保護命令違反の加害者処罰、3年後の見直し規定などを定めている。
ブロードバンド
広帯域通信網のことで、高速で大容量の情報を送受信できる回線。1秒当たり1メガビット見当が伝送できる伝送路をのことを指すが、この値に定義があるわけではない。この仲間に入りうるのは、「光ファイバー」、既存の銅線を使って交換機を経由せずにインターネット網に接続できる「ADSL」、ケーブルテレビ(CATV)回線を利用した通信などがあげられる。従来の電話によるダイヤルアップ接続やISDNは含まれない。
「ヤだねったら、ヤだね」
2000年にリリースされた、演歌歌手・氷川きよしが歌う『箱根八里の半次郎』の歌詞から流行語化。演歌凋落傾向のなかで『孫』以来のクリーンヒットとなったのは完全失業率、機密費、児童虐待、炭疽菌、デフレ・スパイラル、不良債権、伏魔殿、定年破壊、迷惑メール、自爆テロ、3月危機、9月危機などといった「不愉快語」つまり「や」な流行語が氾濫した01年の世相にもマッチしていたためか。
「人間て、なかなか死なないもんだ」
「沖に出ていてエンジンを止めたら、かからなくなった」との連絡を最後に、長崎県沖で行方がわからなくなったのは漁船「繁栄丸」の船長、武智三繁さん。約1カ月後に千葉県銚子市犬吠埼の東約800キロの太平洋上で発見、救助され、陸に上がって述懐した感想がこの「人間て、なかなか死なないもんだ」。漂流1カ月後の生還に日本中が驚き、またこの哲学的含蓄に富んだ一言が話題となった。
「ファンの皆さま本当に日本一、おめでとうございます」
2001年、プロ野球セ・リーグのペナントレースを制したヤクルト・スワローズ。リーグ優勝直後のインタビューで、若松勉監督は「ファンのみなさま、おめでとうございます」と答え、意表をついた喜びの第一声はスタンドのファンを喜ばせた。続く日本シリーズでも「いてまえ打線」の大阪近鉄バッファローズを下して4年ぶり5度目の日本一に輝き、そのインタビューでもリーグ優勝時に倣ってこう答え、話題となった。 
司法制度改革審議会意見書
2001年6月、司法制度の広範な改革を求める司法制度改革審議会意見書が内閣に提出されました。司法制度の改革は、当時、大きく3方向から求められていました。1「司法は、多数決政治(国会、内閣)の独走をチェックし、基本的人権を保障するために存在する。しかし、政治部門の意向に忠実な最高裁裁判官が中心に任命されること、及びその最高裁による官僚司法によって、司法権の独立が侵害され人権保障・民主主義・平和という憲法の理念が実現されていない仕組みを抜本的に改める必要がある。」。長年に亘る市民の意見です。2「80年代からの世界的な新自由主義、経済のグローバル化の時代の競争に勝つためには、規制緩和と民間主導の市場経済を確立しなければならない。すると、事後のチェックや救済機関としての司法の役割を増大させる必要がある。」。経済界を中心とした意見です。3「80年代に、死刑が確定した被告が再審で次々に無罪になった。警察による自白の強要による調書の矛盾を裁判官は見抜けなかった。裁判官は検察や警察を信用し過ぎているのではないか。陪審か参審の制度を作り市民が裁判に参加してその常識を裁判に反映する必要がある。」。平野龍一教授など刑事法学者の意見です。日弁連も90年の総会で、陪審・参審制度の導入を提言しました。3は1の一部ともいえるでしょう。
審議会の意見書は司法制度改革を、それまで取り組んできた政治改革、行政改革、規制緩和等の経済構造改革等の一連の改革と有機的に関連する、「諸改革の最後のかなめ」と位置づけています。「これらの諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を促そうとするもの」であり、司法の運営も同様に国民の主体的な参加が求められるとしています。「諸改革が統治主体への転換を促そうとするもの」であるとの理解には大きな違和感を持つ方が多いでしょう。
「改革」案は3本の柱を示しました。
(1)まず、「国民の期待に応えるため、司法制度をより利用しやすくする」等の改革です。主として上記の2の要請によるものの他、1の視点も入っています。これに基づき、民事司法では、 専門的な事件についての専門委員制度、裁判所へのアクセスの拡充としての司法支援センター(法テラス)の設置、裁判外紛争解決手段(ADR)の拡充(労働審判等)等が実施され、概ね好評のようです。刑事司法制度では、被疑者への国選弁護、公判前整理手続等が導入されました。後者は、裁判の公開や審理の充実との関係が課題とされています。
(2)「司法制度を支える法曹の在り方」として、法曹の質的向上と人員の大幅な増大が盛り込まれ、法科大学院制度が発足しました。現在、質的に向上したのか、弁護士をどの程度増員すべきか等が論争されています。大学入学後最短でも7年〜8年経たないと法曹になれないというのは、経済力による「教育格差」一般の問題に加えて更なる格差を生み、国民からみても弱者への眼差しを欠く法曹が増えるのではないか、という問題もあります。
(3)「国民的基盤の確立(国民の司法参加)として、裁判員制度が採用されました。上記3の意見を踏まえた制度です。国民が裁判に参加することについては、国家機関に取り込まれ裁判の正当化に利用されるとして制度そのものに反対する声や、公判前整理手続の上記問題や取調べの全面可視化等の問題が解決してから発足させるべきだとして当面停止すべきだという声も少なくありませんでした。制度が動き出して4か月になろうとする現在、運用状況を検証し改善点を提起する動きが出てきています。当研究所は、裁判員制度を含む司法制度改革について、「市民の司法」のサイトで議論しています。
今回の「改革」では、冒頭の1で触れた問題は実質的には先送りされ、「改革」全体の性格の大きな限界と新たな問題点が提起されています。国民が主権者たる自らの人権保障を実現するために、個々の「改革」に対するものを含めて積極的に発言し行動すること、そして自らをどれだけ変革できるか、が今求められています。
テロ対策特別措置法
この年9月11日にアメリカで発生した「同時多発テロ」に対し、アメリカは「テロリズムとの闘い」を表明、自衛権の行使と称してアフガニスタン攻撃を開始しました。小泉内閣はこれを強く支持、11月にテロ対策特別措置法を成立させました。法律は周辺事態法の考え方を準用していますが、さらに自衛隊の活動地域が地理的に拡大しています。すなわち、公海、その上空、外国の領域における後方支援を可能にしました。武器使用についても、PKO協力法などより広げ、「自己の管理下に入った者」を防護対象に含めています。この法律により、海上自衛隊の補給艦がインド洋で米軍などに給油活動をしています。戦時下における海外での初の軍事行動です。後方支援であっても戦争の行方を決する不可欠な要素であり、給油活動は武力の行使と一体として、政府見解でも禁止されているとされる集団的自衛権の行使であると批判されています。
03年には、アメリカの将官の証言をきっかけに、イラク作戦に参加している事実が明らかになりました。
この法律は一時失効しましたが、直後に継続法が成立しました。鳩山内閣は来年1月で期限切れを迎える継続法を延長せず、アフガニスタンに50億ドル規模の民生支援を行うことを表明しています。 
 
2002(平成14)年

 

タマちゃん
北極圏に生息するアゴヒゲアザラシが、北海道近海に流氷とともにやってくることはしばしばあるが、本州、しかも東京あたりにやって来ることはきわめて珍しい。そんなわけで、8月7日に東京都と神奈川県を分ける多摩川丸子橋付近で“突然”発見された「タマちゃん」には、大勢の見物客が詰めかけ、夏いちばんの話題となった。川が汚い、温度が高いなど人間の勝手な心配をあざ笑うかのようにいったん消えたのち南下して横浜・鶴見川、帷子川、大岡川に再出没。国土交通省は世論を気にして保護会議を開くが、扇千景大臣の「自然のものは自然に」発言で手出しせず。一方、9月19日には、宮城県歌津町の伊里前川にワモンアザラシの子ども「ウタちゃん」が現れた。受賞者の佐々木裕司さんは、多摩川で泳ぐアザラシを発見してビデオ映像をテレビ局に持ち込んだ。同じく黒住祐子さんはビデオ映像を持ち込まれたスーパーニュース(フジテレビ)のレポーターで「タマちゃん」の命名者。
W杯
正式名称「2002 FIFAワールドカップ(2002 FIFA World Cup Korea/Japan)」。参加32チーム。2002(平成14)年5月31日のソウルでの開幕戦に始まり、6月30日横浜での決勝で大成功裡に終了。観客動員は日本143万8637人、韓国126万6560人の計270万5197人であった。大会前に心配されたテロ、フーリガンの騒動もなく、FIFAをはじめ関係者のすべてから「完璧な組織・運営」と賞賛され、ブラッター会長からは「微笑の大会」と命名された。日本で予選を行う16ヵ国(日本チームを含む)が、日本各地でキャンプを張ったが、たくさんの自治体が、“経済効果”をねらってその誘致を行った。なかでもっとも成功したと思われるのがカメルーン・チーム誘致に成功した大分県中津江村。選手の待遇問題で到着が4日も遅れたことでの騒動、またその辺鄙な村の健闘を面白がって長期取材を断行したテレビ局、遅れはしたものの地元との友好に努めたカメルーンチームの気さくな人柄等々がプラスにはたらいた。
貸し剥がし
景気も低迷したままで、銀行は不良債権回収もすすまない。そんななかでもBIS規制による自己資本比率を一定水準以上に保つためには、よりリスクの大きい中小零細企業への新しい資金貸し出しを渋り、既に貸しているところからは“引き剥がすように強引”に資金を回収しなければならない。返済の滞ったことのない相手からも性急に元本を回収しようとする、担保の上積みを要求する…など、そのような“貸し剥がし”がますます日本経済の活性を損なっている。ちょっとやそっとでは解決できなくなっている不良債権回収問題の根本の原因が、好況期の「過剰融資」にあったことの責任など忘れているかのようにだ。いっこうに進まない金融機関の不良債権をまえに、ついに貸出し資金の回収に走り出した元凶。その当事者を特定不能のため「受賞者保留」とする。
声に出して読みたい日本語
『日本語練習帳』(大野晋著・岩波新書)あたりにはじまり、2001(平成13)年からブレイク日本語・日本語本ブームのなかでも出色なのは同書。日本の国語教育で失われつつある名文・音読・暗誦をすすめる。日本語本は、他にも柴田武『常識として知っておきたい日本語』(幻冬舎)、村松暎『日本語力をつける四字熟語の本』(文香社)、大島清『思いきって使ってみたい楽しい日本語』(新講社)など続々…。
真珠夫人
フジテレビ系・東海テレビ制作の、昼のメロドラマのヒット作(2002.4.1〜6.28)。戦後の混乱期を舞台に、旧華族令嬢の波乱に満ちた悲恋を描いて、主婦層を中心に真珠夫人ブームを起こした。ヒロイン・瑠璃子(横山めぐみ)は、造船会社の御曹司・真也(葛山信吾)への純愛を胸に、ほかに嫁しても貞操を守り、娼婦の館の女王となっても純潔を全うする。彼らと関係する男女は、その異常とも思えるプラトニックラブに打ちのめされ、次々に死へと追いやられる。そういったけれん味たっぷりの展開とどろどろの愛憎表現が受け、昼の時間帯で、最高9.8%、平均6.1%の高視聴率を記録した(ビデオリサーチ関東地区)。ブームは「真珠夫人・完結版」(9.27)のゴールデンタイムでの放送、菊池寛の原作本の復刊、コミック化、ビデオレンタルの開始、DVDの発売へと広がった。脚本=中島丈博、演出=西本淳一ほか。
ダブル受賞
お二人は日本人では3年連続の11人目、12人目となるノーベル賞受賞者だが、2人の日本人が同じ年に授賞されたのは初めてのこと。田中さんは「生体高分子の新しい構造解析法の開発」により、小柴さんは「ニュートリノ天文学」によって受賞したが、その国民的人気は学問的業績より(じっさい受賞理由のほうは難しくてみんなにわかるわけではない)、会見等々からにじみ出るその人柄、「変人らしい」「こつこつ型だ」「現場の人間からの受賞だ」…ということであった。
内部告発
食品の安全・表示事件、リコール事件、医療過誤事件、牛肉偽装事件、原子力発電所トラブル隠し事件など、一連の企業の不祥事を明らかにするきっかけとなった「内部告発」が注目されている。アメリカでは、内部の腐敗などを告発するホイッスル・ブロワー(whistleblower)を保護する法律を先進的に制定しており、イギリスでも、1998年に、公益情報公開法(Public Interest Disclosure Act 1998)が成立した。日本でも、国民生活審議会消費者政策部会「消費者に信頼される事業者となるために ―― 自主行動基準の指針」(平成14年4月)が「公益通報者保護制度」について言及している。受賞者の串岡弘昭さんは、27年前に勤務していた運輸会社で違法運賃の実態を内部告発したことから、その後さまざまな嫌がらせと闘いつづけている。告発以来、昇給・昇格は無いといわれている。これを不当として2002年には勤務する会社に対して損害賠償を求め訴訟を起こした。
ベッカム様
2002 FIFA W杯において、日本人の間(ことさら女性の間)で最も人気の高かったイングランドの選手。司令塔といわれる7番のポジションで正確なクロスに定評があるが、前フランス大会で短気を起こして退場になってチームが負け、国賊扱い。どん底から立ち直った。が、そんなことにはまったく関係なく日本女性はその美貌に目がハート。ベッキンガム宮殿なるゴージャスな邸宅や元スパイスガールの夫人を大事にする様が写真集の売れ行きに拍車をかけた。金髪を頭頂部で盛り上げたベッカムヘア(ベッカミ=ソフトモヒカン)もおこぼれに預かりたい若者に大流行。イングランドがキャンプを張った津名町町長は、誘致のため竹下内閣ふるさと創生1億円で買った金の延べ棒を潰す覚悟をしたが、決勝進出できず無事だった。受賞者の藤本信一郎さんは、W杯期間中、イングランド・チームのキャンプ地となった淡路島で「ベッカム様」がお泊まりになったウェスティンホテル淡路の総支配人。
ムネオハウス
あっせん収賄、受託収賄、議院証言法違反、政治資金規正法などの容疑で逮捕、起訴、追起訴されている鈴木宗男・元北海道沖縄開発庁長官は、「疑惑のデパート」とよばれた。北方四島支援事業に絡む「友好の家」(ムネオハウス)建設の不正入札問題はじめ、ディーゼル発電所不正入札問題、国有林の無断伐採の製材会社「やまりん」から収賄…。鈴木議員が、報道や部外者のみならず支援や利益を受けている側からも「鈴木」ではなくカタカナの「ムネオ」であるのは、強引な利権誘導・金権政治というスタイルがもはや少々古いということ、所作・行動が少しこっけいな印象を与えるからであろう。受賞者の佐々木憲昭議員は衆院予算委において北方領土・国後島の「友好の家」(ムネオハウス)の不正入札問題等を鋭く追及した。
拉致
「拉致」は、辞書的には「無理に連れて行くこと」の意であるが、2002年の意味としてはもっぱら「北朝鮮工作員による日本人拉致問題」となる。2002(平成14)年9月17日に平壌で行われた小泉・金会談の直前に北朝鮮側は、日本が求めていた拉致被害者の安否にかかわるリストを提示した。それまで否定していた「拉致」を認めたわけである。日本側が捜索を依頼した8件11人について、生存者が蓮池薫さん(拉致当時20歳)、奥土祐木子さん(22)、地村保志さん(23)、浜本富貴恵さん(23)、曽我ひとみさん(19)の5人。死亡者が横田めぐみさん(13)、田口八重子(朝鮮名 李恩恵)さん(22)、市川修一さん(23)、増元るみ子さん(24)、原敕晁さん(43)、O有本恵子Pさん(23)、松木薫さん(26)、石岡亨さん(22)の8人と北朝鮮側は述べた。横田めぐみさんについては娘が平壌市内で生活していることが明らかにされた。生存者の5人は、02年10月15日に日本への一時帰国を果たした。なお警察庁によれば、数十人が同様に拉致された疑惑がある。この言葉は今年の日本を震撼させた一語として記録するものであり、これに関する人物の選定などは行わない。
Godzilla
2002年シーズンまで読売巨人軍で4番打者をつとめた松井秀喜選手は、シーズン後、FA資格を獲得し、次シーズンから米メジャーリーグでプレーする意向を表明した。愛称・ゴジラは、高校時代からのもの。その「ゴジラ=Godzilla」は、1954年東宝製作の特撮怪獣映画であり、米国にも輸出されヒット、米国人にもひろく知られる。この度49年ぶりに“輸出される”「ゴジラ」も、日本と共通の「Godzilla」のニックネームでよばれ、活躍するだろう。 
日朝平壌宣言
2002年9月17日、小泉首相は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問、金正日氏と会談しました。その結果、双方が国交正常化の早期実現を目指して努力するという「日朝平壌宣言」が発表されました。東北アジアの歴史の清算と平和構築にとって、歴史的な意義を持つ画期的な会談であり、宣言でした。
両国のトップ会談に至る道のりは大変長いものでした。そもそも、日本は戦後、アメリカの指揮の下で朝鮮の分断に加担していました。朝鮮を植民地として支配していた阿部信行総督は、アメリカの指示を受けて38度線以南の治安維持に当り、民族独立を求める人びとを弾圧しました。朝鮮の独立を約束したカイロ宣言(1943年)が実行されていれば、南北分断はなかったとも言われます。
しかし、日本にとって、日朝国交正常化問題は、日ソ平和条約締結問題と並ぶ、残された大きな外交課題でした。日朝国交樹立のチャンスは、それまで3回ほどありましたが、冷戦終了後も日米は北朝鮮をソ連に代わる敵として位置付けたこと、「拉致問題」の浮上、98年の北朝鮮によるテポドン発射に伴う関係悪化等のため、交渉はなかなか進展しませんでした。
北朝鮮にとって最大の目標は、「北朝鮮を敗北させる」(クリントン政権)、「北朝鮮は“悪の枢軸”の一つであり、“核兵器を含む先制攻撃の対象”“究極的には打倒の対象”」(ブッシュ政権)と唱えるアメリカとの関係を改善し、自国の生存と体制を維持することでした。
アメリカに追随する姿勢が目立っていた小泉首相にとって、平壌での会談は例外的な独自外交でした。宣言の前文では、「両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し」とうたい、第1項では、早期の国交正常化に向けて 10月中に交渉を再開することとしています。第2項では、「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫び(朝鮮語では「謝罪」)の気持ちを表明し」、日本側が正常化後経済協力を実施する等規定しました。続いて第3項では、「双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認し」、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題(拉致問題や工作船問題を指す)については、北朝鮮は再発防止策を採ることを確認しました。金委員長が拉致問題を認め、繰り返さないことを約束したことの意味は大きいものがあります。最後に、第4項では、「双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。」と宣言しました。
北朝鮮が拉致問題を認め、首脳会談へと動いた背景には、1対米配慮、すなわちアメリカとの橋渡しを日本に依頼しようとしたこと、2当時進めていた外部資本の導入等による経済改革のために日本の経済協力を得ようとしたこと、3中露韓が日朝関係の改善を勧め、北朝鮮も東北アジアの地域安全保障体制づくりに加わろうとしたことが挙げられます。
当時から、日本国内では拉致問題について激しい怒りがありました。しかし、この問題を解決するためにも理性的な外交を進め、国交を正常化する必要があるという判断は現実的な道でした。直後の世論調査も、首脳会談自体は支持しました。しかし、マスメディアの報道は、テレビを中心に、植民地支配に対する歴史認識と清算方式はほとんど取り上げず、拉致問題一色になりました。総務相は、NHKに対して、「北朝鮮の日本人拉致問題に留意すること」という放送命令を出しています。政府部内では安部晋三官房副長官が日朝交渉の主導権を奪取、小泉首相の姿勢も後退し、北朝鮮を激しく非難し対立するだけの異常な外交になりました。
このような日本の変化もあって、北朝鮮はもう一度、アメリカを相手にした瀬戸際外交を再開しました。アメリカとの不可侵条約の締結と外交関係の樹立などを求めつつも、核実験・中長距離ミサイルの開発という両天秤の外交政策を取り、6か国協議にも参加と不参加を繰り返しています。
これに対して米韓両国は、今年も北朝鮮との戦闘を想定した大規模な軍事演習を実施し、北朝鮮の長距離砲基地を開戦直後に撃破できることを誇示しました。日本も国連安保理の要請を無視して、朝鮮半島有事に備えた自衛隊と米軍による「共同作戦計画」の抜本的な見直し作業に着手しました。
「北朝鮮が攻めてくる」という言説は憲法9条改定の根拠として用いられ、さらには自衛隊による先制攻撃も議論されています。しかし、戦争になるとすれば、米朝武力衝突から始まると分析する専門家が多数です。「米朝武力衝突→周辺事態→対日武力攻撃事態と発展する日本が戦争に突入する事態の発生が懸念される」。
浅井氏は、25年間の外務省における実務体験に基づき、「他者感覚」の重要性を強調しています。他者感覚に立つと、1 北朝鮮は韓国と日本及びその周辺の米軍の核兵器に包囲されています。また、2 安保理は5大国及びイスラエル・インド・パキスタンの核武装は許容し、北朝鮮等のそれは認めないというダブルスタンダードを採っていることが指摘できます。
「大事なのは『北朝鮮が攻めてくる』という前に、『有事を防ぐ政策』である。国交を回復し、拉致問題もその中で解決していくことが必要だ」。これが「北脅威論に抜けている視点だ。」。
映画『Dear Pyongyang ディア・ピョンヤン』も、できるだけ早く国交を正常化し、個々の国民同士が交流し対話を増やす機会を創る戦略を具体化することが、北朝鮮に住んでいる人たちも問題を含めてあらゆる問題の解決にとって必要なことを教えています。 
 
2003(平成15)年

 

毒まんじゅう
2003(平成15)年9月の自民党総裁選で、政界引退を決意した野中広務元幹事長が、小泉首相支持に回った一部の政治家を非難する際に使った言葉。具体的には小泉再選後に密約されたポストをさし、自己の功利にはしる政治家の実態にこの一言で警鐘をならした。
なんでだろう〜
ジャージ姿に身を包み、開いた手を顔の周りで振り回しながら歌うテツandトモの当たりギャグ。あらゆることが解説されるTVのなかで、日常生活の細かさに潜む矛盾をついたコントはオーソドックスともいえるが、ハイスピードな踊りがもたらす開放感は独自のもの。テレビアニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のエンディングテーマ「なんでだろう〜こち亀バージョン〜」で子どもたちにも大ウケ、幅広い世代に浸透した。
マニフェスト
通常は「政権公約」と訳される。期限、財源、数値目標、プロセスなどが明らかにされた具体的な公約のこと。“はっきり示す”というラテン語にその語源がある。イギリスの総選挙で行われており、書店などでマニフェストが売られている。日本でも、2003(平成15)年の春の統一地方選で多くの候補者が有権者にマニフェストを提示し、同年秋の衆院選でも各党が冊子を作成して「マニフェスト選挙」などともいわれた。長年マニフェストの必要性を提唱してきた受賞者の北川教授は、授賞式で「流行で終わっては困る」と話した。
勝ちたいんや!
阪神タイガース星野仙一監督。背番号77。監督就任まで4シーズン連続最下位だった阪神を2003(平成15)年リーグ優勝へ導いた。大阪ミナミの道頓堀川では、予想に違わずファンが次々と「道頓堀ダイブ」。その数なんと5000人を超えた。
コメ泥棒
ナシ、メロン、アスパラガス、ブドウなど、農作物盗難が相次ぐなか、冷夏による不作で値上がりしたコメを狙う泥棒が多発。「オレオレ詐欺」とならんで、2003(平成15)年珍妙犯罪の代表格となった。
SARS
重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome)。38度を超す高熱、咳や呼吸困難などを主症状とし、肺炎による死亡例も少なくない感染症。原因は、SARSウイルスとよばれ、感冒などを起こすコロナ・ウイルスの変種によるものである可能性が高いとされる。潜伏期関は2〜7日で、死亡率は10%前後と高い。
年収300万円
いま転職すれば即刻年収300万円、転職しなくてもじわじわと賃金が下がっていき300万円に落ち着く時代。2003(平成15)年3月、日本経済新聞が経営者に行ったアンケートでも「今後とも定期昇給を残す」と回答した者18%。
バカの壁
2003(平成15)年、書店には「バカ」本がずらりと並んだ。呉智英『バカにつける薬』、小谷野敦『バカのための読書術』、立花隆『東大生はバカになったか』、勢古浩爾『まれにみるバカ』そして勝谷誠彦『バカとの闘い』など。「バカ」本といっても、もちろん内容はまじめで、多岐にわたっている。
ビフォーアフター
もともと美容薬・器具の広告に使われてきた言葉だが、ABC放送(テレ朝系)『大改造!!劇的ビフォーアフター』でリフォーム用語に。既存マイホームを改良して住む生活トレンドのなか、同番組で建築家のことをいう「匠」という言葉や、ナレーターの「なんということでしょう!」という控えめな驚きの表現などが日常会話で使われるようになった。
へぇ〜
フジテレビの人気番組「トリビアの泉」から流行した言葉。「トリビアの泉」は、視聴者から寄せられた意外なネタをプレゼンターの高橋克実と八嶋智人が紹介、タモリを会長とする5人の品評会員が、その感銘度を「へぇ〜」を単位に評価する(20へぇ〜×5=100へぇ〜が満点)という、無駄な知識(トリビア)にうんちくを傾ける雑学バラエティー。深夜の時間帯で人気を得てゴールデンタイムに進出、2003(平成15)年を代表するヒットバラエティーとなった。番組で使用する「へぇボタン」は商品化され、街の喫茶店などでも、会話のなかで「へぇ〜」と言いながらボタンを叩く仕草をする人が続出するなど、社会現象となった。 
イラク戦争と日本
2003年7月、日本は「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」を成立させ、陸上自衛隊と航空自衛隊を派遣しました。アメリカは同年3月の開戦前から日本に対して、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上に部隊を)と協力を強く求めていました。小泉首相はいち早くアメリカ支持を打ち出し、この法律を成立させました。自衛隊が戦争中の外国に上陸して行った初の戦争(支援)活動として歴史を画しました。
イラク戦争は、イラクに対する「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」などを求める停戦協定(安保理決議687)違反、同国に対する無条件の査察を求める安保理決議1441などに基づき、米英など「有志連合」軍によって起こされました。仏独露中などは、決議1441では開戦できないと強力に反対しました。しかし、米英等は、イラクは大量破壊兵器を所有しているのに無条件査察に応じないということを理由に、この年の3月、先制的自衛権の行使として(フライシャー報道官の言明)開戦しました。戦争の理由は、フセイン政権とアルカイダの結びつきや、イラクの民主化なども追加されました。しかし、大量破壊兵器は発見できず、アルカイダとの結び付きも証明できませんでした。アメリカが攻撃されることも証明できませんでしたから、「先制的自衛権の行使」というよりも、せいぜい「予防」のための侵略戦争であるという見方が支配的になりました。
後に、戦争を正当化するためのブッシュ政権の情報操作も次々と明らかになりました。「ブッシュ政権発足当初からイラク戦争の計画はあった」(元財務長官のポール・オニール)。戦争の真の目的はいろいろ指摘されています。例えば、1アメリカは70年代半ばから世界最大の原油埋蔵量を誇るペルシャ湾岸で支配権を確立するため軍事介入策をとって来たこと(「湾岸戦争」参照)、2資本主義と違い「正当な労働の対価以外は受取ってはならない」という価値観を持ち投機を否定するイスラム諸国をグローバル資本主義経済圏に組み込むこと(内橋克人「悪魔のサイクル」)、3「イスラエルを守るため」(山崎拓・07年3月9日付け朝日新聞)、4「フセインはドルでの石油代金を拒否しユーロでしか受取らないと宣言した。石油通貨が移行することはアメリカのドル支配の終焉を意味する。これがイラク戦争を仕掛けた真実だ」等々。
日本は3つの点で米軍等を支援しました。まず、安保理でイラク戦争合法化のための多数派工作を積極的に行いました(愛敬浩二「改憲論を診る」)。次いで、日本の基地から米軍が出撃しました。第3が、冒頭の特措法です。明文上は自衛隊の派兵は「非戦闘地域」に限られ、限定的な「武器使用」に止められました。また、活動目的として「人道復興支援」が強調されました。マスメディアもほとんど完全に政府情報に乗りました。しかし、自衛隊の活動の主要な柱である「安全確保支援活動」の実態は隠蔽されました。空自がサマワに医療機器を輸送したことから「復興支援」だとして大宣伝された翌々週の04年3月19日には武装米兵等の空輸が始まりました。空自が活動の中心になった06年7月から活動が終わった08年12月までの124週分だけで、空輸した2万6384人のうち米軍が1万7650人と67%を占めました。バクダッドや北部のアルビルなど戦闘地域にまで空輸しました。
08年4月17日の名古屋高裁判決は「現在イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は,戦闘地域で戦闘行為に必要不可欠な後方支援を行っており、他国による武力行使と一体化した行動であり、政府と同じ憲法解釈に立ち,イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止した同法に違反し,かつ,憲法9粂1項に違反する活動を含んでいることが認められる。」との違憲判決で断罪しています(伊藤真・川口創「おおいに語ろう、自衛隊イラク派兵違憲判決・前編・後編)」参照)。日本が国連決議にも違反し、集団的自衛権の行使とも言えない侵略戦争で「武力を行使」して「戦争」した事実の検証を国会、政府、マスメディアはきちんと行うのか、注視されています。
有事関連法成立
90年代からの改憲論の活発化のうねりの中で、有事立法を求める議論が現れました。有事とは、一般に、戦争、内乱、大規模災害など、国や国民の平和と安全に対する非常事態をいいます。日米新ガイドライン(1997年)や北朝鮮脅威論、イラク戦争などをてこに、03年6月、いわゆる有事3法(武力攻撃事態法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法)が成立。翌年の6月には有事関連7法と3条約が成立しました。基本法である武力攻撃事態法は、国外での戦争も想定しており、憲法9条のみならず政府の解釈との矛盾が出てきています。すなわち、同法が定めている「武力行使が予測される事態」には、日本への直接の攻撃がなくても、たとえば北東アジアのどこかで米軍が紛争に介入したような場合、日本の「周辺事態」ということで日本が米軍が始めた戦争に巻きこまれ、あるいは攻撃的に加担する場合が予定されています。専守防衛で「日本有事」のはずの有事法制の変質です。この場合にも自衛隊は、自治体や指定公共機関を巻き込んで、補給活動など米軍と「共同行動」を行うことになります。04年に武力攻撃事態法を補完するものとして成立した「国民保護法」の非現実性も議論になっています。これは、日本が攻撃された場合の住民の避難のマニュアルです。しかし、たとえば有事の一つにされている「航空攻撃」にしても、空襲とか巡航ミサイルがどんどん飛んでくるという事態が起こったならば、特に大都市では避難など不可能になります。また、「有事」にはテロのような「緊急対処事態」が組み込まれています。テロは突発的に起きるものです。したがって、避難どころではなく、国民保護法制は、住民を保護するものではないと指摘されています。 
 
2004(平成16)年

 

チョー気持ちいい
2004年8月15日のアテネ五輪2日目。男子100メートル平泳ぎで金メダルを獲得した北島康介選手がプールから上がって述べた感想。優勝を確実視されたプレッシャーからの解放感を素直に吐き出したものだが、ゴール直後には1位かどうかわからず「応援席の盛り上がりを見てとりあえずガッツポーズ」と裏話を披露。
気合だー!
ボディビルポーズで前傾姿勢になり、顔をクシャクシャ(一生懸命な感じ)にして「気合だ〜!」と心の底から叫ぶ。娘の浜口京子選手をアテネ五輪へ送り出すとき、成田空港で10回連続で叫んだ。数年前より、すでに浜口氏のトレードマークであったもの。
サプライズ
英語 surprise は「びっくりさせる」の意味だが、小泉首相に関しては単なる「サービス」の意味で使われる。第1次内閣から田中眞紀子外相など組閣にあたって意外な女性を採用。このコトバは拡大解釈され2004(平成16)年7月の参院選前に突然訪朝してジェンキンスさんを返せと金正日総書記に迫った行動なども、小泉流サプライズ。同年9月の第2次組閣ではついに「ノーサプライズ」とがっかりされる始末。
自己責任
本来はリスクをとって行動した者が自ら「結果責任」をとることをいうが、最近では責任を転嫁する際にしばしば用いられている。特に自己責任という言葉が頻繁に用いられたのは、2004(平成16)年4月、戦闘が続くイラクで発生した武装グループによる日本人人質事件のときだった。3人の日本人人質に対して自己責任という言葉が向けられたのだ。政府の勧告を無視してイラクに向かったのだから、自業自得だという議論だった。彼らが果たそうとしたイラクの子供たちへの支援や真実の報道という尊い目的は無視され、政府に迷惑をかけたことだけがクローズアップされた。全体主義の下で、自ら考え、独自の行動をした人を切り捨てるための言葉が自己責任となってしまった。
新規参入
近鉄・オリックスの合併で5球団となったパ・リーグに、新たにライブドアと楽天が参入を表明。業種は両者ともIT関連の情報産業。おまけにライブドアが仙台・宮城球場を本拠地と定めたのに続き楽天も同球場を指名したためにNPB側は受け入れる1社をどちらかに決めなくてはならず、公開ヒアリングを開き選定を急いだ。結果は2004年11月2日のオーナー会議で楽天に決定となった。
セカチュー
2001(平成13)年4月に発売された片山恭一の小説『世界の中心で愛をさけぶ』が、村上春樹の『ノルウェイの森』の238万部を抜いて小説過去最多部数に。04年6月時点で306万部。柴咲コウ、大沢たかお主演で映画化され、興行収入歴代ベスト10入り。TBSが7月の連ドラに。初恋の人が白血病という純愛ストーリーブームのはしりとされる。なおタイトルはハーラン・エリスン著のSF『世界の中心で愛を叫んだけもの』にオマージュを捧げたアニメ『エヴァンゲリオン』の最終回(同名)にオマージュを捧げたもの。
中二階
次期リーダーのポジションにいながら、いまひとつ影がうすい自民党の有力者、具体的には平沼赳夫前経済産業相、古賀誠元幹事長、高村正彦元外相、麻生太郎総務相のビミョーさを表現したことば。小泉首相が使って脚光をあびたが、考案者は自民党若手で世代交代の切り込み隊長、山本一太参院議員。実に言い得て妙。
って言うじゃない… ○○斬り! …残念!! 
って言うじゃない ギター侍こと波田陽区(本名:波田晃)が、ギャグの転調時にはさむ言葉。着流し姿でギター一本を持ち現われる波田は、物憂い目つきで流行を取り上げ、ヨン様「って言うじゃない」と歌い、続けて「残念!!」と切り返す。「ヨン様と結婚したら、名字がペだから、残念!」、と斬る。日テレ『エンタの神様』出身。残念!! 着流しにギター姿という風貌の芸人・波田陽区(ギター侍)が、漫談の切れ目あるいはオチに用いる常套句として人気が出た語。「残念!!」が向けられるのは辛めのトークで“斬られた”人物。
負け犬
「30代、非婚、子なし」を女の“負け犬”と定義したコラムニスト酒井順子のベストセラー『負け犬の遠吠え』からきている。映画『結婚しない女』(アメリカ・1977年)で輸入されたシングルズ・ウーマンという生き方と、「エンゲージリングは給料の3カ月分」と煽った玉姫殿が作り上げた3高結婚との、20数年に及ぶ対立への回答。松原惇子の『クロワッサン症候群』はメディアを恨み、谷村志穂の『結婚しないかもしれない症候群』はとまどい、林真理子の『花より結婚きびだんご』は決定的な本音とされたが、酒井は好んで「負け」ポジションをとることによって安穏と結婚生活を送り、子なしを批判する主婦をおとしめた。見事な戦略に、負けたらどうしよう、と本気で悩む女性たちも。
冬ソナ
2002年1月から3月に韓国KBSテレビで放送された人気ドラマ「冬のソナタ」は、日本でも03(平成15)年4月からNHK‐BS2で放映され、好評を博した。そのため、04年4月からはNHK総合テレビでも放映され、最高15%の視聴率を記録した。純愛物語や映像の美しさが中年女性層の強い支持を受け、同年6月には日本経済新聞社が「ヒット商品番付」西の大関に主演の「ヨン様」(ペ・ヨンジュン)を選定した。ドラマ挿入歌は日本語に翻訳され、ドラマの舞台が韓国観光の目的地になった。「ヨン様」が来日した際には、羽田空港に7000人ものファンが押し寄せる騒ぎになるなど一種の社会現象となった。ペに加えて、イ・ビョンホン、チャン・ドンゴン、ウォンビンは「四天王」と称され、「韓流」の象徴的存在となった。韓流 中国語。「はんりゅう」と発音。1990年代末、中国語圏で韓国製のドラマや映画、音楽が流行し、こうよばれた。日本では映画『シュリ』(99)に続く『冬のソナタ』(冬ソナ)、BoAなど韓国歌手のヒットなど合わせてブームに。『冬ソナ』は韓国で70年代に大流行した『キャンディキャンディ』がお手本だそうな。 
派遣業務の拡大
2004年、労働者派遣法が改正され、物の製造業務の派遣が解禁されました。
戦前の日本では親方が人夫を配下において工場や鉱山に送り込んで奴隷のように働かせてピンハネ(中間搾取)をする労働者供給事業(口入れ稼業)がはびこっていました。
1947年、職業安定法はそうした悪習を断つために労働者供給事業を営むことを禁止。違反者には懲役か罰金が課せられました。労働基準法も、中間搾取の禁止を明記しました。これは、1944年のILO総会で採択されたフィラデルフィア宣言(正称は「国際労働機関の目的に関する宣言」)も受けています。ここでは、「労働は商品ではない」など四つの根本原則を定めています。
企業は労働者を直接雇用すれば、労働基準法、労働安全衛生法、労災保険法、労働組合法など、さまざまな法的責任を負います。正当な理由がないと解雇もできません。しかし、間接雇用ならこれらの雇用責任を負わないので、労働者の権利を守るため、間接雇用は禁止されました。
しかし、新自由主義による規制緩和の中で、97年、ILOは181号条約で派遣労働を自由化しました。尤も、欧米では派遣労働は「一時的労働」を表す「テンポラリー・ワーク」と言います。日本ではこれを「派遣」とあえて誤訳し、恒常的な仕事にも広げました(脇田滋08年12月19日付け朝日新聞)。すなわち、86年に専門業務に限定して例外的に認められていた労働者派遣法を、99年には製造業等を除き原則自由化しました。しかも、ILO条約で謳っていた、派遣労働を認めることとセットの労働者保護策は素通りしました。ヨーロッパでは、派遣労働者と正社員との均等待遇の法制化(賃金や失業給付など)を広げ、派遣労働の拡大に歯止めをかけました。日本では安全網を作らず、しかも04年には製造業にも拡大したため、派遣労働は急速に広がりました。
憲法27条2項でいう労働条件を定める「法律」は、25条の生存権保障により制限され、人間らしい労働条件を保障しない派遣労働は憲法違反の問題を生じるでしょう。
今、秋葉原の連続殺人事件や1年まえの「年越し派遣村」など象徴的な事例をきっかけに、一つは、労働者派遣法の改正が提起されています。究極の不安定雇用である登録型派遣の原則禁止、製造業への派遣の禁止、違法行為があった場合には派遣先企業に直接雇用義務を課す「みなし雇用」の導入などです。二つ目は、例外として残る派遣労働を正社員と均等待遇にすることです。
直近では、派遣法の改正を見越して、派遣より一層労働者の権利を保護しない請負などに切り替える動きが出ています。
初の「少子化社会白書」
04年、政府は初の「少子化社会白書」(04年度版)をまとめました。この年の人口動態統計によると合計特殊出生率は1.29。出生数は1899年に統計を始めて以来最低の出生数111万人。
少子化は75年以降進展しました。90年頃までは晩婚化の影響によるものでしたが、その後は結婚した夫婦の子供数も減少しています。政府は少子化の原因を女性の社会進出や晩婚化によるを価値観の多様化と説明していました。しかし、アンケートによれば、結婚前の若い人の9割が結婚したいといい、2人以上の子どもが欲しいと答えています。
「子供を生み育てることによる生活の困難」が、結婚したい、子供を生みたいという希望を奪っています。
その後、出生率は1.3台にまで回復しましたが、子育て環境は基本的には改善されていません。一方における非正規雇用の増大等による賃金の低下、他方における正社員を含めた長時間労働、男性の仕事中心主義などが壁になっています。フランス、イギリス、オランダ、スウェーデンなど欧州で出生率の回復に成功している国々では、年間労働時間が短いこと、男女の賃金格差が小さいこと、パートなど均等待遇のルール、高率の賃金を保障する育児休暇、家族・子どもむけ公的支出の拡大などへの取り組みが背景にあります。
結婚できない、子供を持てないという問題は、人生における最も重要な基本的人権の一つの侵害という視点から捉えるべきでしょう。
「九条の会」等の発足
憲法改定の動きに呼応して、この年の6月「九条の会」が、8月には「憲法行脚の会」が発足しました。「九条の会」のアピールでは、「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴え」ています。「九条の会」は、政治的には保守の方々を含む全国津々浦々の広範な人々が参加し、それぞれ創意工夫した独自の取り組みを継続的に追求する歴史的な市民運動として、現在も増え続けています。
綿矢りさ・金原ひとみさん芥川賞受賞
この年の芥川賞はとりわけ注目を浴びました。19歳の綿矢さんと20歳の金原さんという、現在に至るも最年少記録の1、2位に並ぶ当時無名の才能豊かな女性作家が、「今時」の若者の鋭敏で新鮮な感性をまとっていきなり登場したからです(「文藝春秋」04年3月号)。綿矢さんの「蹴りたい背中」は、「高校における異物排除のメカニズムを正確に書き」「その先で、警戒しながらも他者とのつながりを求める心の動き」が語られています(選者・池澤夏樹氏の評)。金原さんの「蛇にピアス」は、刺青にふける密室生活に殺人がからまり、大人からみると「特異な世界」とも映りますが、本人たちにはピュアな愛の物語でしょう。「この現代における青春とは、なんと閉塞的なものなのだろうか。誰しもが周りに背を向け孤独や無関心、あるいは無為の内に自分を置いてどうにか生きている観を否めない」という選評(石原慎太郎氏)は、一面の真実を語っていますが、外の世界へのつながりを探りたい若者の叫びも聞こえるように思えます。 
 
2005(平成17)年

 

小泉劇場
2005年9月の衆院選は、小泉首相の意図するせざるに関わらず「造反」「刺客」「くのいち候補」の登場、郵政民営化問題に絞られた単純な争点などにより、さながら「小泉劇場」の態をなした。その結果「小泉一人勝ち」。
想定内(外)
ライブドア堀江貴文社長が、その負けず嫌いな性格からフジVSライブドア騒動の中で連発した。簡単な言葉に翻訳すれば「そんなことわかってますよ」。
クールビズ
2005年夏、政府が主導した軽装運動。ネクタイを外し、上着を脱ぐことで、冷房の温度設定を上げようというもの。ネクタイ業者に配慮したためか、秋口からはウォーム・ビズが提唱されている。
刺客
2005年9月の衆院選、小泉首相は、郵政造反組の自民党候補者に対し、造反を理由に公認を与えず、対立候補を立てた。綿貫民輔、亀井静香、堀内光雄、小林興起などに当てられた強力候補は「刺客」とよばれた。
ちょいモテオヤジ
岸田一郎編集長率いる月刊ファッション雑誌『LEON』(主婦と生活社)が繰り出すコピー群とその周辺文化。02年に特集された「モテるオヤジの作り方」を皮切りに30〜50代男性に向け「チョイ不良(ワル)オヤジ」などのフレーズを生み続けている。
フォーー!
お笑いコンビ・レイザーラモン(住谷正樹と出淵誠)の住谷がハードゲイに扮し、レイザーラモンHGとしてテレビに登場したところ大ブレイク。独特の腰の動きを真似して親に頭をたたかれる子どもが続出。もちろん子どもの答えは「OKわかりましたフォーー!」。「フォー」(正確には「フー」)はその持ちネタ。
富裕層
「金持ち」という名称に阿漕さが臭うため「高額所得者」と言い換えられ、さらに色を薄めた「富裕層」になった。〔現代用語2006・社会風俗用語〕
ブログ
ウェブログ(Web-log)の略称。従前よりは格段に容易に、また低コスト(ときに無料)で、個人がウェブ上に日記や写真等を公開・更新できるため大人気。他のブログと連携するトラックバックなど機能も十分。
ボビーマジック
2005年プロ野球日本一に輝いた千葉ロッテ・マリーンズのボビー・バレンタイン監督の采配、選手起用等への賛辞。ロッテナイン(とりわけ前任時に育成された選手や今回抜擢された若手)を指してボビーチルドレンとも。
萌え〜
「ある事物に対して、深い思いを抱く」ことをさす「萌え」は、2005年にはおたく世界を越え、かなり一般化。萌え業界、萌え銘柄、もえたん、萌え株本、萌え属性などさまざまな使われ方をしている。 
日米安保条約の「終焉」
現在、国民のほとんどは、日米安保条約が生きていると思っています。しかし、05年10月に日本の外務大臣、防衛庁長官とアメリカの国務長官、国防長官が署名した「日米同盟:未来のための転換と再編」(以下「新文書」と称する)という文書によって、実質的には終わりました。「転換=transformation」とは、昆虫の変態のように、根本的な変化を表します。安保条約は形のうえでは残っていますが、「新文書」によって同一性を失い変質しました。
第1に、対象の範囲が変りました。安保条約第6条では、あくまで「極東」の安全保障の確保に限定しています。しかし、「新文書」は、日米同盟は「世界における課題に効果的に対処するうえで重要な役割を果している」としました。対象が世界に拡大されました。96年の「日米安保共同宣言」と97年の「新ガイドライン」も、「極東」を超えて「アジア太平洋地域」や「日本周辺」に拡大していますが、「極東」以外の協力は「平和維持活動や人道的な国際救援活動」に止まります。従って、安保条約の枠内にあるとも言えました。
第2に、条約の理念が変りました。安保条約では国連の役割を重視しています。国連憲章は、「永久平和のために」を書いたカントの理念を具体化して、平和的な手段による紛争の解決の発展を追求しています。これに対して、「新文書」ではこの傾向は見られません。「国連」に代わって登場したのが「日米共通の戦略」です。この新しい戦略は、冷戦終了後の1991年から一貫して流れる、アメリカが核兵器を含む先制攻撃さらには予防戦争も辞さない、軍事力の行使による「国際的な安全保障環境を改善する」政策です。冷戦終了後のアメリカの戦略はより攻撃的なものに変化しました。「日米共通」と称しても、実態はアメリカに主導された戦略となることを否定する論者を見つけるのは困難です。
「新文書」に基づき、地球規模で臨機即応態勢を取るべく、座間、横田、横須賀など、日米両軍の司令部の一体化が急ピッチで進められています。
「条約改定に匹敵する」(05年10月31日朝日新聞社説)「新文書」が国会の承認の手続を採らなかったこと、憲法9条の形骸化をはらんでいることは、民主主義の観点から問題となっています。さらには、大多数のマスメディアがこの「終焉」を明確に報道しないため、国民の知る権利が侵害されていることも問題とされています。
郵政民営化
05年4月、小泉政権は郵政民営化関連法案を国会に提出しました。しかし、野党はもちろん自民党内からも造反議員が多数出て廃案となりました。そのため、小泉首相は、「郵政民営化」を唯一の争点として掲げて衆議院を解散しました。結果は、民営化を「善」とする「小泉劇場」とも称される雰囲気の中で自民党は圧勝。選挙後の特別国会で法案は可決されました。
民営化が必要な理由は、「郵貯、簡保で吸収された巨額な資金は公務員によって配分され、国債、財政投融資、公的事業などに配分されてきた。これを民間に取り戻し、市場原理に基づいて効率的に配分すれば、非生産分野への資金供給が抑制され、日本経済に活性化が実現しやすくなる」「民営化は金融機関の優勝劣敗を促し、金融自由化の総仕上げになる」(小泉首相)など、様々な角度から唱えられました。
これに対しては、民営化の狙いは300兆円という巨額な資金を自由に使用できるようにして米国債の購入などでアメリカの財政危機を救済し金融資本を強化することにあり、日本国民の利益にはならないことを中心とする反対意見が主張されていました。
総選挙で国民が民営化の是非をきちんと理解して投票したとは到底言えませんでした。民営化が唯一の争点とされながら、マスメディアが反対論者の意見を生のまま伝えることをほとんど止め、「劇場」演出の一役を担ったことも背景にあります。
今年の総選挙の結果、連立政権は、臨時国会に株式売却の凍結法案(日本郵政株式会社、郵便貯金銀行及び郵便保険会社の株式の処分の停止等に関する法律案)を提出。法案は会期末の12月4日、可決成立しました。
京都議定書発効
地球温暖化防止のため、気候変動枠組条約締約国会議(Conference of the Parties、COP)が毎年開催されています。97年12月に開催された第3回締約国会議(COP3、京都会議)では、温室効果ガスの削減義務について法的拘束力のある数値目標を定める京都議定書が採択され、ロシアの批准により05年、発効しました。現在、先進国で批准していないのはアメリカだけとなりました。
重要な問題の一つは、途上国の参加をどのように確保するかです。途上国は、温暖化の主要な責任がある先進国の責任において解決すべきだと主張しています。先進国と途上国の、これまでの温暖化の責任と環境保護能力の格差を踏まえて調整したのが「共通だが差違ある責任」の概念です。京都議定書は、この考え方に基づき、先進国と市場経済移行国に対してのみ全体として、対象ガスの人為的な総排出量を、目標期間内に90年よりも少なくとも5%削減することを義務づけました。最大排出国であるアメリカの参加拒否にどう対応するか、中印等途上国の削減義務をどう検討するか、2013年以降の国際的な枠組み(「ポスト京都議定書」問題)が、重大な問題となっています。今月開催されたCOP15(デンマーク)でもこれらの課題の解決は先送りとなりました。 
 
2006(平成18)年

 

イナバウアー
トリノオリンピックのフィギュアスケート金メダリスト、荒川静香の得意技。上体を反らした独特のポージングが話題に。本来は両足の爪先を外側に大きく開いて横に滑る技。体を反らせることをさすわけではない。
品格
藤原正彦著『国家の品格』の爆発的な売行きとともに広まった。氏は「論理よりも情緒を」と、日本人が備えていたはずの品格について説き、「儲かれば何でもよい」というマネーゲーム全盛の世の中に一石を投じた。
エロカッコイイ(エロカワイイ)
ボンデージにバニーガール、下着など、際どい衣装で一気に人気者になった倖田來未。彼女のセクシーな衣装やスタイルは、「カッコイイ・カワイイ」ファッションとして認知され、肌を露出する女性が増加した。
格差社会
これまでの「一億総中流」が崩れ、所得や教育、職業などさまざまな分野において格差が広がり二極化が進んだといわれる。市場原理を重視し、改革・規制緩和を進めた小泉政治の負の側面との指摘もある。
シンジラレナ〜イ
2006年のパ・リーグを制した際に、日本ハムファイターズのヒルマン監督がお立ち台でこう絶叫。その後、日本一にも輝き、やはりインタビューの際に「シンジラレナ〜イ」を披露。スタンドのファンは大いに沸いた。
たらこ・たらこ・たらこ
キューピーのCMに登場する「たらこキューピー」が、少し気持ち悪いキャラながらも人気を集めた。小学生ユニット・キグルミが歌うCMソングはCD化され、オリコン初登場で2位に入るヒットに。
脳トレ
簡単な計算や音読などで脳の活性化をはかるトレーニング法の通称。「脳を鍛える」という言葉とともに普及し、脳トレの結果、自分の脳年齢がいくつになったかを知るというゲーム感覚が受けている。
ハンカチ王子
2006年夏の甲子園を沸かせた早稲田実業の斎藤佑樹投手の通称。持っていた青いハンカチ(ハンドタオル)で汗を拭うその姿と爽やかさが世の女性を虜に。その後、ハンカチで汗を拭うパフォーマンスが流行した。
ミクシィ
日本で最大の会員を獲得(2006年9月時点で570万人)したSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)。なお同社の笠原健治社長をはじめ、はてなの近藤淳也社長らはIT界の新世代の意で「ナナロク世代」とよばれている。
メタボリックシンドローム(メタボ)
代謝症候群、内臓脂肪症候群とも。肥満に高血圧、高血糖、高脂血症などが重複して発症してる状態で、心筋梗塞や脳梗塞になりやすい。へそ周りが男性は85cm、女性は90cm以上ある場合は内臓肥満が疑われる。 
教育基本法の改定
「教育」は私たち個人にとっても国家にとって最も重要で核心的な関心事の一つです。誰によってどのような教育がなされるかによって、個人も国家もその根源的なあり様が規定されます。それ故、教育問題は常に優れて政治問題でもありました。憲法26条の「教育を受ける権利」は、長い間経済的な社会権として理解されてきましたが、政治問題としての教育問題は、教育の内容を国家が決めるのか、親や住民など国民が決めるのか、という教育権論争として議論されてきました。教育基本法の改定は、この問題にも関係しています。
戦後、新しい憲法の制定と並行して教育基本法が制定されました。同法は、前文の冒頭で、「われらは、さきに日本国憲憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和を人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育に力にまつべきものである」と謳いました。続いて、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育」の普及を規定しました。ここにおいて、教育基本法は「個人の尊厳」を究極の価値とする憲法の理想と一体となって教育を実践する「準憲法」として評価されました。 
国も、憲法とともに教育基本法の普及を率先して実践しました。教育内容について国家と国民の対立がなかった時代です。「教育を受ける権利」の内容は、教育学による子供の学習権の理念の提唱によって反省が迫られました。その結果は、旭川学力テスト事件の最高裁判決に現われました。「(26条の)背後には、国民各自が、人間として、また市民として成長、発展し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有する」。基本法の理念が、憲法上の権利によって裏打ちされ、より強固になりました。
一方、早くも1950年頃から「逆コース」の流れの中で、文部省の政策転換が始まり、教育活動への統制が進められました。さらには、教育基本法自体を改正すべしという議論が改憲の提起と連動して唱えられました。55年からの時代と80年代、それに90年代後半から今回の「改定」に至る3回です。教育問題の核心性・政治性を反映しています。
改憲の要件は厳格(96条)なことも影響して、現在に至るも実現していません。それに対して、法律である教育基本法は、06年に「改正」されました。名称は同じですが、全面改正であり、新法です。そして、改憲論の実質が今の憲法と同一性のない「新憲法の制定」であるのと同様、新教育基本法の内容も従来のものと異質になりました。激しい反対運動を克服しての成立です。
新法の特徴は、教育内容についても国家の介入を容易にしたことです。教育行政は、旧法の「不当な支配に服することなく」に加えて、「法律の定めるところにより」が規定されました。法律や行政の裁量により、教育の自由や自立性が後退することが危惧されています。
そして教育内容も、個人と国家の関係において後者を重視する姿勢を示しています。人権保障よりも「公益及び公共の秩序」を重視する改憲案の先取りです。すなわち、新法の前文では「国家の発展」が第一とされ、「公共の精神を尊」ぶことが謳われました。また、「真理と平和を希求する」が「真理と正義を希求し」に変わりました。正義のための戦争も辞さない人間を作ろうということでしょうか(「伊藤真の憲法手習い塾」)。さらに、第2条の「教育の目標」では、「公共の精神」とともに、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うこと」が掲げられました。この文脈から読み取れる、法が予定する「日本国民」は、「自然の存在」、「エスニシティの単位ないし『民族』」に親和性を持ち、市民革命を経て「人為の産物」として形成された個人(樋口陽一「憲法と国家」)とは異なるようです。そうだとしたら、自立的な個人の自由な人格の発展を目指す近代立憲主義憲法=日本国憲法が目指す教育とは異なることになります。
「骨太の方針」
「骨太の方針」は、01年6月に答申された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」に際して、小泉内閣が、聖域なき構造改革とともにキャッチフレーズ的に使用しました。06年の「歳出・歳入一体改革」の路線である「骨太の方針は、社会保障制度の縮小を加速し方向付けました。これは、財政再建至上主義に立って、国と地方の基礎的財政収支を2011年に黒字化するために、自然増する歳出を11兆〜14兆円削減すると同時に、経済成長や消費税アップによって2〜5兆円の税収増をはかる、という方針でした。そのため、「社会保障全般にわたり不断の見直しを行う」こと、毎年2,200億円の社会保障費削減を行うことが閣議決定されました。これに沿って、生活保護給付の削減(母子加算や老齢加算の廃止)や医療、介護などの給付が抑制されました。
「骨太の方針」を決めた経済財政諮問会議は内閣府に設置され、それまでの官僚主導による政策運営を官邸主導、政治主導による政策運営に転換する働きをしてきました。官僚主導を抑制しようという方向性は、程度の違いはあれ、民主党政権と同じです。しかし、自公政権時代の経済財政諮問会議は、多国籍企業を代表する民間人を重用し、財界主導による政策運営という点で異なります。その結果が社会保障費の削減でした。 
 
2007(平成19)年

 

(宮崎を)どげんかせんといかん
東国原英夫・宮崎県知事が県議会での所信表明で、「停滞のもととなった古いしがらみからの解放が必要」と方言を交えながら説いた。また、「テゲテゲ(いい加減)では地域間競争に勝ち残れない」とも述べた。
ハニカミ王子
男子プロゴルフツアーに15歳8カ月の最年少記録で優勝した杉並学院高校1年の石川遼選手の愛称。名付け親は優勝したマンシングウェアオープンKSBカップでアナウンサーを務めた多賀公人(瀬戸内海放送)。
(消えた)年金
5000万件ともいわれる基礎年金番号に統合されていない記録のこと。元経済誌記者の調査能力を活かし、年金問題を徹底して追及していた“ミスター年金”長妻昭議員が国会で質問し、大きくクローズアップされた。
そんなの関係ねぇ
サンミュージック企画に所属するお笑いタレント、小島よしおのギャグ。海パンだけを身にまとい、軽快なリズムに乗せて自分を奮い立たせるように「でも、そんなの関係ねぇ!」と連呼する。
どんだけぇ〜
「どれほど〜なのか、それほどでもないだろう」の意味。反語的に使われ嫌味、非難などが含まれることが多い。これに返す言葉として「いかほど〜」が浸透しつつある?
鈍感力
渡辺淳一の同名の著書によって流行語化。小さなことにあくせくしないで、ゆったりと生きているほうが最後に勝ち残ることができるの意味で、とかく社会から排除される「鈍感」に積極的な意義づけをした。
食品偽装
食品加工卸会社ミートホープによる偽装ミンチの出荷問題をはじめ、「比内鶏」「名古屋コーチン」「白い恋人」「赤福」など、一般によく知られた食材・関連企業にも次々に不祥事が発覚した。
ネットカフェ難民
働いてはいるものの、事情によりネットカフェに寝泊まりする人たちがネットカフェ難民として報道された。日本複合カフェ協会では「難民」という言葉の使用を控えることを求める緊急アピールを発表した。
大食い
カップ麺、プリン、アイスクリーム、ハンバーガーなど高カロリーな「メガ」サイズの食品の発売が相次いだ。「メタボ対策など健康ブームへの反動」「たまにはお腹いっぱい食べたい」「景気回復の証拠」の声も。
猛暑日
1日の最高気温が35度以上の日を指す。最近10年間に35℃以上の日が大幅に増え、熱中症等、暑さにともなう健康被害も目立ってきているため、気象庁が新用語として導入した。07年は多治見と熊谷で40.9度を記録。 
国民投票法の成立
07年5月14日、「日本国憲法の改正手続に関する法律」(いわゆる「国民投票法」)が成立しました(5月18日公布)。施行はそれから3年後である今年5月18日です。もうすぐ、改憲の国民投票が可能になります。
本法制定の必要性として、改憲の手続法を制定しないのは立法義務に違反する「立法不作為」であることが強調されました。しかし、改憲が日程に上ってからの急な主張であることは否めませんでした。当初、自公民3党による修正案の共同提出が目されていましたが、最終的には与党単独で提出され、強行採決されました。議員立法でありながら異例の18項目にも及ぶ付帯決議がなされたことは、多くの問題点が残されたままの見切り発車だったことを端的に物語っています。安倍晋三内閣が改憲を実行するため制定を急いだことが背景にあります。
憲法改正は、国政のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が直接行使するものであり、憲法制定と並んで国民主権の核心に当たります。それゆえ、国民投票の手続を決めるにあたっては、時間をかけて十分に議論し、国民各層が納得できるような中立的で公平な手続を合意することが必要不可欠です。この見地からみると、国民投票法には次のような問題があることが指摘されています。1最低投票率を定めていません。しかも憲法96条が国民投票で「過半数の賛成を必要とする」としている「過半数」の母数を有効投票総数という最も低いものとしています。これらは改憲を安易に可能とするものであり、憲法の最高法規性を軽視することになりかねません。2国民投票は「憲法改正案」ごとに行うとしています。一括投票を認める余地もあり不明確です。3500万人に上る公務員や教員が地位を利用して運動することを禁止していますが、漠然不明確な規定であり、憲法21条に違反する疑いがあります。4改憲に関する有料広告が投票日の2週間前までは自由です。資金力のある者に極めて有利です。5改憲の発議があってから投票日までの期間が60日〜180日では周知し討議する期間として短すぎます。
「『国民投票法』成立前に、‥‥あれほどかしましく『憲法改正』が叫ばれていたのに、法律成立後はまったくといっていいほど話題にのぼらなかったのは、その『改憲』論が将来をきちんと見据えたものではなく、『ムード的』な議論でしかなかったことの証左である。『憲法改正』こそ、きちんとした長期的展望にたって議論されるべき問題であるが、『国民投票法』の施行ということで、またしても『ムード的』な『改憲』論がわき起こるのではないかと危惧される。」。
格差と貧困の拡大
高度経済成長期から80年代末頃までの日本は、まじめに努力すればそれなりの生活ができる平等な社会を目指していました(但し、大企業と中小零細企業の「二重構造」や男女間の格差等の問題は根強く存在しました)。しかし、当初所得の格差は80年代後半から、税や社会保険による再配分後の所得の格差は90年代末から、拡大を続けました。人々は格差を次第に実感し、不平等社会化に警鐘を鳴らす書籍も続々と出版されるようになりました。それでも04年段階では「封印される不平等」(橘木俊詔編)の名前のとおりの状態で、格差が政治の舞台に登場したのはようやく06年の国会の論戦からでした。07年8月、厚労省の「05年所得再配分調査報告書」が公表され社会に衝撃が走りました。所得の最も低い方の20%である第1階層の当初所得は国民全体の所得総額の0.1%にも届かず、上位40%が所得総額の79.6%を得るようになりました。
「格差拡大」に続いて「貧困の増大」自体が問題になってきました。
貧困の基準となるのが「貧困ライン」と「相対的貧困率」です。前者は国家が基準を定めて実態調査を行い対策を立てます。しかし、日本の政府は貧困ラインを定めていないので、生活保護基準が事実上の貧困ラインの役割を果しています。現代の貧困を代表するのがワーキングプア(働く貧困層)で、働いても貧困ライン以下の収入しか得られない人々を指します。これを可視化したのが、06年7月に放映されたNHKスペシャル「ワーキングプア―働いても働いても豊かになれない」でした。後藤道夫氏は、656万世帯(勤労世帯中の18.7%)がワーキングプア世帯と推計しました。
後者の「相対的貧困率」(その国の所得の中央値の50%以下の所得しかない人たちの割合)についても、日本政府はこれまで算出を拒んできました。民主党政権になってはじめて、昨年10月に算出の結果が公表されました。これによると、経済協力開発機構(OECD)加盟30か国の中で下から4位の15.7%で、貧困率の高さが際だちました。
貧困を象徴するのが餓死者で、07年の厚労省発表によれば、11年間で867人に上りました。氷山の一角の数字です。戦争直後でさえ、餓死は社会問題にはなりませんでした。
格差と貧困の拡大の原因は、労働者の給与総額の減少・雇用のセーフティネットの不備と、富裕層に手厚く中間層以下に厳しい方向での税制・社会保障制度の改定による所得の再配分政策の後退です。
前者の主因は労働法制の規制緩和の結果非正規労働者が増大して労働者の3分の1を越えるに至ったことですが、正社員の給与も下がりました。企業活動の成果が、従業員から企業の内部留保、顕著に増えた外国人を含む株主、役員等に移動しました。「財務省の法人企業統計を使って、企業の利益が株主、役員、従業員の間でどのように分配されてきたかを調べてみた。1988年度から2007年度までの20年間で、経常利益が2倍になる一方、一人あたり役員給与は1.5倍、株主配当に至っては4倍以上に伸びていた。一方で、唯一マイナスになった指標がある。一人あたり従業員給与だ。」。
格差のもう一つの柱となるのが、大都市と地方の間の地域間格差の拡大です。大きな原因は旧政権が推進した「構造改革」によるものとされています。 
 
2008(平成20)年

 

アラフォー
天海祐希主演の金ドラ『Around40』から広まったことばで、40歳前後のこと。特に女性を指す。CD業界など、アラフォー世代に的を絞ったさまざまな商品がヒットしているのもまさに今の時代を反映している。
グ〜!
女優、コンピューターインストラクター、マナー講師など異色の経歴をもつ新人お笑い芸人エド・はるみによるギャグ。フォーマルな出で立ちで両手の親指を突き立て、突然「○○グ〜!」と声を上げる。
上野の413球
北京オリンピックの女子ソフトボールで、エース上野由岐子投手が準決勝のアメリカ戦・3位決定戦・決勝戦と2日間に1人で投げ抜いた投球数。日本ソフトボール界にとって念願の金メダルを獲得する原動力となった。
居酒屋タクシー
深夜に帰宅する霞が関の官僚が、利用するタクシーの運転手からビールやおつまみに加え現金や金券も受け取っていたという新種の公務員不祥事。民主党・長妻昭議員の調査で、17省庁の約1400人が受け取ったことが判明。
名ばかり管理職
日本マクドナルドの現役店長が未払い残業代と慰謝料を求めて訴訟を起こしたことから、権限も報酬もないまま社員を管理職の地位に就け、残業代や休日出勤手当を払わない会社やチェーン店の実体が明らかになった。
埋蔵金
「埋蔵金」論争のきっかけは、「自民党財政改革研究会」が2007年にまとめた報告書にある。特別会計の積立金を埋蔵金にたとえて、特別会計を見直せば数十兆円単位で金が捻出できるという議論である。
蟹工船
小林多喜二によるプロレタリア文学の代表作(昭和4年 発表)のタイトル。オホーツク海上の蟹工船で酷使される貧しい労働者達の群像劇が、格差・ワーキングプア等の現代日本の社会問題と重なり、発表から約80年後の今年ブームとなった。
ゲリラ豪雨
いきなり局所的に発生する集中豪雨。予測が難しいことからこう呼ばれる。正式な気象用語ではなく、1970年代にはすでに新聞等で使われていたが、近年の豪雨の多発によりマスコミではすっかり定着した。
後期高齢者
新医療制度施行にともない、国が75歳以上の高齢者のことを指して名づけた名称。年金からの保険料天引きなどさまざまな面での負担増、名称に対する反発が強く、「長寿」と呼び変えたが新しいネーミングはなかなか普及せず。
あなたとは違うんです
前年の安倍晋三首相に続き、突然の辞任劇となった福田康夫首相は、「国民からは他人事のように見えるが」との質問に対し「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と気色ばんで答え、話題を呼んだ。 
世界経済の危機
2008年9月15日、アメリカの5大投資銀行の一つであるリーマンブラザーズが突如経営破綻したのをきっかけに、先進国の金融システムは信用の喪失によって全面的に麻痺。資金の流れが途絶するという金融危機が勃発しました。アメリカの消費の収縮により世界の輸出と生産は縮小して世界経済が戦後初めてマイナス成長に陥り、世界同時不況が到来しました。「100年に1度か50年に1度の危機」と言われました。1929年〜33に経験したような世界恐慌はもはや起きないという資本主義の神話の崩壊です。
リーマンのような投資銀行は日本でいえば証券会社です。それゆえ企業の株や債券の発行を引き受けたり市場での売買を仲介したりして手数料を収益としていました。いわば社会の脇役です。それが1970年代の末から突如主役への道を歩み出しました。住宅ローンという貯蓄機関による融資を新たな自己勘定の証券化された金融商品として開発して売り出したことから始まります。住宅ローンは金利や支払い能力その他まちまちですが、信用度の低いサブプライムローンも規格化されて大量に証券化されました。さらに、住宅ローンだけでなく、自動車ローンや航空機リースなど多様な種類の「原料」が混合された債券(CDO)や、貸し倒れのリスクだけを取り出して他人に肩代わりさせる金融商品(CDS)も開発され世界中に売り出されました。大きなレバレッジ(梃子)を利かしたこれらの証券は住宅バブルの時代には驚異的に売れました。第一線の優秀な数学者や物理学者などを大量動員してITの新技術で処理する「金融工学」で、リスクが見えない極めて複雑な証券を作り出すことに成功したからです。
それらが、住宅バブルの崩壊で値崩れして巨額の損失を出しました。そのため、リーマンやゴールドマンサックスなど投資銀行の株価は暴落、経営危機に陥りました。またたく間に、5大投資銀行は姿を消しました。商業銀行も大打撃を受けました。1929年の恐慌の教訓で、商業銀行と投資銀行(証券会社)は厳しく分割されましたが、99年の金融の規制緩和で分割が撤回され、商業銀行も同様の債券を扱っていたからです。
金融危機が実体経済を直撃して経済危機に突入したのは、「マネー資本主義」になっていたからです。すなわち、リーマンの破綻直前には金融資本は実体経済の4倍近い規模に膨張していました。株式会社の目的として株主の利益を上げることが徹底的に追求され、行き着いた先が短期で効率良く最大の利潤を上げる産業は金融業だったからです。製造業でさえ、金融活動による収益で業績を伸ばしていました。取引の手段に過ぎないマネー自体が取引され、マネーがマネーを生み経済の主役になるという倒錯した経済になっていました。
「マネー資本主義」を可能にした土壌は、アメリカに世界中から大量の資金が流入し、アメリカを「世界の金融センター」にしたことにあります。金・ドルの交換停止と変動相場制への移行後も、アメリカは慢性的な経常赤字を続け、ドルをたれ流してきました。にもかかわらずドルが基軸通貨の特権的地位を維持できたのは、経常赤字を上回る資金が流入したからです。アメリカ主導のグローバリゼーションで、資本取引・外国為替取引の自由化(規制緩和)が世界中に強要されました。人々の欲望は暴走し、生き馬の目を抜く投機が日常的になりました(投機資本主義)。
日本の土地バブルの崩壊の例に学ぶまでもなく住宅バブルの崩壊は予想されましたし、債権化された証券にリスクが潜んでいることは、作った当事者は分っていました。危機を作り、それを防止できなかった最大の原因は、金融機関と政治が献金や人的交流で一体化していたからです(企業による政治家、ホワイトハウスへのロビー活動の激化については、ロバート・B・ライシュ「暴走する資本主義」参照)。金融危機・世界同時不況で、投資していた年金基金などは大打撃を受け、また、失業者の増大で、市民・労働者が最も犠牲になりました。一方、金融商品の開発者・トレーダーや情報を知りうる地位にあった特権的な投資家、政治家は巨利を獲得し、格差は極端に拡大しました。金融業は長期的に見るとゼロサムゲームです。リスキーな金融商品は“金融版・大量破壊兵器”とも称されます。合法的な詐欺とも言えるでしょう。
現在、世界経済は最悪の危機から脱し、ゆるやかではあれ回復に向かっているという観測が流れています。当面1929年の世界恐慌のような事態に陥るのが回避された最大の要因は、各国政府による巨額の金融安定化策と財政出動による景気刺激策です。
しかし、金融危機が再び暴発するのを防ぐためには、市場原理主義によるマネー資本主義から脱却して「規制された資本主義」「管理された資本主義」になることが必要だとされています。そのため、08年の金融危機後の世界は、G8に代わって新興国などを加えたG20で金融サミットを開催し対応策を検討してきました。一定の規制策は打ち出されましたが実行に移すことは先延ばしされています。実効性があると言われる金融取引への課税(通貨取引税の導入)は、イギリスが提案し独仏などが賛成しましたが、アメリカが難色を示しています。正体不明で「影の銀行」と言われるヘッジフファンドの規制も進んでいません。不安定なドルに代わる新たな基軸通貨制度を作れという提案も無視されています。75年前にケインズが言っていたことです。大多数の発展途上国の発言権を排除しているG20でなく、国連が金融規制で中心的な役割を果すべきだという主張(ジョセフ・スティグリッツ等)が生かされる見通しも全く立っていません。
私的な主体であることを理由に財産権に対する規制を拒否した金融機関が、危機に瀕すると公共的な主体であることを理由に税金で救済されるという矛盾についての議論もはなはだ不十分です。
金融危機の再発を防ぎ、世界の人々の生存権を保障するためには、経済面、政治面における民主主義の前進が不可欠です。人類は、私的所有を「各人の生命を維持するのに必要な限度で自分自身の身体を自然に働きかけて得たものに対する所有」と捉え、自らの労働に基礎を置くものと根拠づけたジョン・ロックが唱えた初心に立ち戻って考える時期に来ているのかもしれません。 
 
2009(平成21)年

 

政権交代
8月30日の第45回衆院総選挙。自民党は300から119へと議席を激減させ惨敗。一方、民主党は115から308へと議席を大きく伸ばして圧勝した。投票率は69.3%。総選挙の結果を踏まえて、9月16日、鳩山由紀夫を首班とする民主党内閣が発足した。選挙による政権交代が実現したのは初めてのこと。
こども店長
2009年4月から始まったトヨタ自動車のCMシリーズで、子役の加藤清史郎(2001年8月4日神奈川県生まれ)が自動車販売店の店長を演じる。赤いジャケットがトレードマークで、エコカー減税を子供らしい可愛い比喩でPRする。
事業仕分け
国や地方自治体が行う個別の事業について、公開の場で必要性や効率的な実施方法を議論する手法。各事業を「不要」「民間に委託」「国ではなく都道府県が行うべき」などと仕分けする。「仕分け人」と呼ばれるのは公務員OBなど、民間人。民主党新政権の下、行政刷新会議はこの手法を用いて、概算要求に盛り込まれた事業の必要性などを判定していく。
新型インフルエンザ
2009年4月、メキシコから新型インフルエンザ(H1N1)が発生。世界的に感染が広まりWHOは6月にパンデミック(爆発的流行)を宣言。政府は検疫体制の強化、発熱外来の設置、ワクチンの確保などの対応に追われた。
草食男子
コラムニストの深澤真紀が2006年に命名。協調性が高く、家庭的で優しいが、恋愛やセックスには積極的でない、主に40歳前後までの若い世代の男性を指す。自動車の購入など顕示的消費にも興味を示さず、バブル崩壊後の経済停滞が、その精神構造に影響を与えたという指摘もある。
脱官僚
元行革担当相で、みんなの党代表の渡辺喜美などが提唱した、「天下り廃止、政治・国民主導」の理念。民主党政権も当初「脱・官僚」を打ち出したが、郵政人事を初めとする相次ぐ元官僚の起用に、その雲行きは怪しくなっている。
派遣切り
リーマンショック以降の急激な雇用調整において、非正規労働者は真っ先に雇用調整の対象となった。まず削減の対象となったのは派遣労働者で、特に生産の落込みが激しかった自動車や電機など製造業の派遣労働者は真っ先に削減されることに。仕事だけでなくと住居も失った派遣労働者に炊出しなどを行う「派遣村」も注目された。同じように、就職の内定を取り消されるのが「内定切り」。
ファストファッション
百貨店の苦境が続く中、売り上げを伸ばしている「安くて手軽なファッション」のこと。日本ブランドであるユニクロやしまむら、g.u.が健闘していたが、海外からH&M、ZARA、フォーエバー21などが参画してきたことで、大きな社会現象になった。
ぼやき
東北楽天・野村克也監督は試合後インタビューでの「ぼやき」で有名。昨年は「ぶつぶつ言う」を意味する英語のmumbleから、自ら「マンブーマンはもうやめたい」と発言、2009年版現代用語の基礎知識には「マンブーマン」が掲載された。その語録集CDや似顔絵Tシャツなど、野村監督関連グッズは今年も好調な売れ行きだった。
歴女(レキジョ)
時代小説を読み、史跡も訪ねるなど、本格的に「歴史通」になる若い女性が増えている。きっかけとなったのは戦国時代などをテーマにした映画やゲーム、またイケメン俳優が出演した大河ドラマ「天地人」など。 
政権交代
「政権交代」が「2009年ユーキャン新語・流行語大賞」に選ばれました。政治関連では、「事業仕分け」「脱官僚」も大賞候補のトップテンに入りました。
昨年8月30日に行われた衆議院議員総選挙で、民主党は308議席を獲得、64.2%の議席を占め「圧勝」しました。自民党は、1993年に下野して細川連立政権ができたときにも衆院第1党でしたから、「歴史的敗北」でした。今回は、選挙前に「争点は政権交代だ」と盛んに宣伝されたこともあり、「自民党はダメ」「一度政権を代えなければ」という意思の表明としての性格が強かった選挙でした。
選挙は、少数派の意見が議席に反映されにくく「改正」された小選挙区制中心の小選挙区・比例代表並立制の下で行われました。仮に各党の比例票で480議席を配分した場合、民主党は得票率42.4%で204議席、自民党は26.7%で128議席、その他の少数政党は28.8%で139議席(実際より94議席増)になります。比例代表区の得票率から見ると「圧勝」ではありません。資本主義が行き詰まり、多様な将来像が摸索され、価値観の見直しも提起されて少数意見の意義が益々重要になってきている現在、今回の選挙による民主主義の「前進」の意義を過度に強調することは慎重でなければなりません。
新政権は、自公政権との違いを浮き彫りにしたいということで、新しいメッセージを次々に発信しました。篠原一氏は、「『第二民主制』建設の試みといってもよいだろう」と評しています。
第1に、政策決定システムの転換です。「官僚主導から政治家主導へ」の理念で、事務次官会議の廃止、政務3役会議による政策決定など、変化が進行しています。「官僚主導」の実態は、官僚が財界をはじめとする利益集団と政治家の利益を反映しつつ国民全体の利害を調整した利益誘導政治にあります。政財官の癒着の構造の一環です。これに(一定の)メスが入った意義は大きいでしょう。国民に一番近い位置にいる政治家による「事業仕分け」が公開されたことは、情報公開、説明責任という民主主義の促進の面で新鮮に映りました。
第2に、「国民の生活が第一」のスローガンの下、予算の組み替えをして、「コンクリートから人へ」、つまり「土建国家」から「福祉経済」への転換に踏み出しました。10年度の予算案では、公共事業費は前年より18.2%減少しました。代わりに、社会保障費は子ども手当の創設などで9.8%と大幅に増額されました。
第3に、日米同盟の再検討を打ち出しました。「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」とし、「東アジア共同体の構築をめざ」すとしたことは、「第一民主制」ではおよそ考えられなかったことです。
しかしながら、これらの新機軸は未知数の面が多く、また、多くの問題点が含まれています。
上記第1の点については、「政治家主導」という名の下における民主党の「国会改革」案が憲法の予定する民主主義の理念に逆行するのではないかという問題があります。憲法は国民主権の大きな具体化として国会を「国権の最高機関」としています。しかし、改革案は、内閣と政権党指導部などの中枢部だけで政治を効率的に動かす仕組みづくりであり、小沢一郎氏が90年代から追求してきた「政治改革」の総仕上げであるという指摘が多数見られます。
第2の点については、財源不足に制約された限界が目立ちます。税制や社会保障制度全体を見直し、体系的な所得再配分政策を提示することが求められています。
第3の点については、民主党の外交ブレーンと称されている寺島実郎氏からも、「国際社会の常識に還って「『独立国に外国の軍隊が長期間に渡って駐留し続けることは不自然なことだという認識を取り戻』」し「知的怠惰」を排することが提起されています。普天間基地の問題もこの枠組みの中で解決されるべきだと。
今夏に迫った参院選では民主党は単独過半数を目指しています。両院で単独過半数を獲得して実現を目指す事項として、1衆院比例区定数80の削減(衆院戦のマニフェストに掲載あり)、2消費税増税法案の制定、39条を含む憲法改正が議論されています。それぞれ上記第1〜3に対応する問題です。
これらの課題が実行に移される段階になると、政界の再編成が予測されます。その意味では、参院選前の現在は最も重要な過渡期だという見方もできます。国民の一人ひとりが憲法の真の理念に立ち返って地に足の付いた自分の意見を持つこと―民主党が強調する「国民主権」の意味を自分の問題に引き付けて具体化すること―が早急に求められています。 
 
2010(平成22)年

 

ゲゲゲの
いまやマンガ界の大御所たる水木しげるの妻、武良布枝(むら・ぬのえ)による自伝『ゲゲゲの女房』。この本が今年春からNHK朝の連続ドラマになって評判を呼んだ。初回視聴率は歴代最低の14.8%だったが、回を追うごとに人気はうなぎ登り。最終週の平均は23.6%とV字型回復をみせた。二人をめぐる超極貧物語は、週刊連載のマンガ『墓場の鬼太郎』を『ゲゲゲの〜』と改題したころから、サクセスストーリーへと転じて行く。
いい質問ですねぇ
今年春からレギュラー化された「そうだったのか! 池上彰の学べるニュース」(テレビ朝日系)は、ニュース解説番組として異例の成功を収めたが、番組内でゲストの発言に対して使われるのがこの言葉。「いい質問ですねぇ」。そのほかの局でも池上彰が登場するニュース解説などの特番は軒並み高視聴率を上げた。
イクメン
近年この国でも子育てを楽しむオトコたちが増大してきた。誰が呼んだか、これを「イケメン」に引っかけた。その表現こそが流行りのポイント。パパたちを意識した育児用品、いわばイクメン応援グッズも店頭を賑わせている。政府は2017年までに「育休の男性取得率10%」を目標に掲げているが、まだまだ多難な現実が道をふさいでいる。
AKB48
グループ名の由来はAkihabara(秋葉原)。コンセプトは「会いに行けるアイドル」。かつて「おニャン子クラブ」を仕掛けた作詞家の秋元康が総合プロデュースを務め、いまどき最も成功しているビジネスモデルの一つである。とりわけ、選抜メンバーはファンによる投票「総選挙」によって決めるという企画はアキバ系に無関係な一般ファン層にも注目された。また姉妹ユニットとして、名古屋市栄を活動拠点とするSKE48、大阪・難波を活動拠点とするNMB48などがある。
女子会
女子だけの飲ミニケーション=「女子飲み」が人気を呼び、あちこちで女性同士だからこそ共感が出来る話しに花が咲いている模様。そんな空気をいち早く察知した居酒屋チェーン「笑笑」では「わらわら女子会」なる女性専用のプランメニューを提供、女性限定の食べ飲み放題や女子会特別カクテルなどを用意しているという。
脱小沢
9月の民主党代表選を受けて成立した菅改造内閣・党役員人事に向けて、メディアは「脱小沢」人事と報じたが、そんなレッテルはもうやめようと応戦していたのは仙谷由人官房長官。国民そっちのけながら騒ぎの止まなかった今年の政局だが、やはりその中心にあったのが「小沢」の2文字。この存在感は依然として、強い。
食べるラー油
新調味料というよりラー油仕立ての食品。石垣島の辺銀(ぺんぎん)さんが作った「石ラー」こと「石垣島ラー油」の人気に始まり、ホテルオークラ内・桃季の「食べる辣油」がヒット。つづいて桃屋は「桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油」(通称「桃ラー」)を販売開始。ブーム加熱とともにこれが品薄となり、ますますの騒ぎとなった。ラー油入りのおにぎりやラー油入りのスナック等々、食品業界は大賑わいを見せている。
ととのいました
今年のお笑い界でひときわ印象的だったのが謎かけ漫才を得意とするコンビ「Wコロン」。話の途中でコンビの一人、ねづっちが「ととのいました!」と来たら「謎かけ」の始まり。「○○とかけて、○○と解きます」とつづく、昭和の寄席をほうふつとさせる芸風である。「現代用語の基礎知識とかけて、埼玉県熊谷市と解きます」「その心は?」「どちらもアツいのが売りです」といったふうに。即興・速攻・即決といった実力が整って初めて成せるワザかもしれない。
〜なう
「河原町なう」と言えば、「いま河原町にいます」。「宿題なう」と言えば、「いま宿題やってる」。・・・と自分の現在を告げる便利なワード。簡単な外来語だが、「NOW」でもなく、また「ナウ」でもなく、ひらがなの「なう」だからこそ、ツイッターの上を浮遊するいまの時代の気分が表現しやすいのかもしれない。
無縁社会
今年多くの日本人を驚かせたのが「所在不明高齢者」の問題だったが、「家庭崩壊」が叫ばれるようになってすでに30年、孤独死は30代など若い世代にまで広がり、親と子のあいだで「児童虐待」はさらに深刻化している。この社会は「血縁」や「地縁」といった絆を失ってしまったのか。NHKによるそのキャンペーン報道は、悲しいことにタイムリーすぎる内容だったと言わざるを得ない。 
 
2011(平成23)年

 

なでしこジャパン
サッカー日本女子代表の愛称。7月17日、女子W杯ドイツ大会で、日本は2―2からのPK戦で優勝候補のアメリカを3―1で振り切り、初優勝した。国際サッカー連盟(FIFA)主催大会での日本の優勝は男女通じて史上初。大会MVPと得点王には澤穂希が輝いた。8月、なでしこジャパンには日本政府から国民栄誉賞が授与され、震災に沈む日本を元気づけた。

未曾有の大災害である東日本大震災は、人々に「絆」の大切さを再認識させた。復興に際しての日本全体の支援・協力の意識の高まりだけでなく、地域社会でのつながりを大切にしようとする動きや、結婚に至るカップルの増加などの現象がみられた。
スマホ
スマートフォン。パソコンと同等の拡張性をもち、インターネットにそのまま接続可能な携帯電話。アップル社のiPhoneシリーズが大人気となり、その後、グーグル社が提供する「アンドロイド」を搭載する機種など、各社が類似端末を発売して製品ラインナップを広げた。2011年はスマホ普及の年といわれ、夏には携帯電話端末の販売台数の半分以上をスマートフォンが占めた。
どじょう内閣
8月29日の民主党代表選で、野田佳彦候補が相田みつをの詩「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」を引用、地味だが実直な政治を目指すことをアピールして当選した。メディアはこの演説を「どじょう演説」と呼び、野田内閣のことも「どじょう内閣」と呼ぶようになった。
どや顔
「どや」とは関西の方言で「どうだ?」の意味。「すごいだろう?」のニュアンスも含み、どや顔とは自慢げな顔、得意満面、したり顔のこと。ダウンタウンなどのお笑い芸人がテレビのバラエティ番組の中で多用し、全国的に広まったとされる。
帰宅難民
勤務先などで災害に遭遇し、交通機関の混乱から帰宅が困難になった人のこと。「帰宅困難者」ともいう。東日本大震災では、東京は震度5強の揺れを観測したが、鉄道の運休などにより約500万人が帰宅難民になったと推定される。
こだまでしょうか
東日本大震災後、頻繁に流れたACジャパンのテレビCM中のフレーズ。「遊ぼうっていうと遊ぼうっていう」で始まり「こだまでしょうか?…いいえ誰でも」とシメる。明治時代の詩人、金子みすゞの詩。この「こだまでしょうか」が収録された詩集に問い合わせが殺到し、ベストセラーとなった。
3.11
2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロの呼称「9.11」にならった呼び名。津波が襲い、福島第一原発の事故が起きたあの日、アメリカにとっての同時多発テロに匹敵するような歴史的な衝撃が、この国にもたらされたのである。
風評被害
ありもしない噂やデマを世間に流されたり、取り沙汰されたりして被る被害のこと。福島第一原子力発電所事故後、被曝を恐れる心理から、福島からの避難民が差別的な扱いを受けるなどした。また農畜産物や魚、工業製品が過剰に避けられたりするなどのケースも発生した。
ラブ注入
整体師でもあるお笑い芸人・楽しんごのギャグ。独特の振り付けをしながら「ドドスコスコスコ」を3回繰り返し、「ラブ注入」で胸の前で手でハートマークを作る。オネエブームの後押しのもと、いじられやすいキャラで人気を得た。 
 
2012(平成24)年

 

ワイルドだろぉ
デニムのノースリーブと短パン。今年のお笑い界のスターはピン芸人のスギちゃん。その勢いにまかせた取り返しのつかない行動を「ワイルドだろぉ」と称して自虐的に語るネタがじわりじわりとウケた。「ワイルドですね、とか、ワイルドだね、じゃダメだったんだろうなぁ」とは、ご本人の弁。
iPS細胞
6年前、山中伸弥教授ら京都大学の研究グループによって作製されたこのiPS細胞(人工多能性幹細胞)は、すでに分化して専門の機能しか果たさなくなったマウスの皮膚細胞に、ウイルスを使って4個の遺伝子を導入して、どんな細胞にもなれる能力を獲得させたもの。iPSは、Induced pluripotent stem の頭文字で、『現代用語の基礎知識』には2006年版から登場している。
維新
地域政党「大阪維新の会」が「日本維新の会」を結成、国政政党として国政選挙へ乗り出し、坂本龍馬の「船中八策」に倣って、「維新八策」を発表した。ちなみに「維新」という言葉を掲げた団体の例は珍しいものではなく、1992年発足の「平成維新の会」(代表大前研一)が記憶に新しい。
LCC
格安航空会社を意味するLow-Cost Carrier(ローコストキャリア)の略称。航空業界の規制緩和を機に、ANA、JALといった大手航空会社が相次いでLCCに本格参入したことから、今年はLCC元年と呼ばれた。「LCC」という用語、『現代用語の基礎知識』には2009年版から登場。
終活
人生の最期を自分の望むように自分で準備すること。10月2日、41歳で急逝した流通ジャーナリスト金子哲雄さんは、生前から自分の通夜や葬儀・告別式、墓の準備を万全に進めていた。「終活」という言葉は、週刊朝日で2009年連載された「現代終活事情」で知られるようになり、『現代用語の基礎知識』には2010年版から登場。
第3極
二大政党制の下で、二大政党の次の勢力になりうる政党のことを指す「第3極」。たとえば社民党は2004年ごろから「第3極としての社民党」を声高に叫んでいたが、ここへきて、政権党が低迷し、自民党にも昔ほどのパワーが感じられず、新党が乱立。二大政党制という大前提の崩壊さえみえてきた。
近いうちに・・・
社会保障と税の一体改革関連法案の成立後の8月、野田首相は「近いうちに国民に信を問う」と明言。つまり衆院解散を確約したため、それはいつのことやらと3ヵ月にわたってヤキモキさせ、「近いうちに解散」という言葉ばかりが流通した。
手ぶらで帰らせるわけにはいかない
7月31日、ロンドンオリンピック競泳の最終日。男子400mメドレーリレーで史上初の銀メダルを獲得したのは、兄貴分・北島康介の「メダルなし」はないだろうと「レース前に3人(入江陵介、藤井拓郎、松田丈志)で話し合った」、その思いの結果だという。
東京ソラマチ
東京・墨田区、東京スカイツリーとともに5月22日開業した、その展望台とその周辺、商業施設一帯を指すネーミング。コンセプトは「新・下町流」。地上150mからツリーを間近に眺めながら食事ができるスペシャルダイニングゾーンなどで構成され、飲食やファッションなどが312店舗。
爆弾低気圧
爆発的に発達する温帯低気圧のこと。寒候期に限られるが台風並みに発達するものも多く、広い範囲に強風、大雨、大雪、高波をもたらす。今年4月上旬、日本海で低気圧が急発達し、暴風雨による被害が全国に広がった。『現代用語の基礎知識』には2008年版から登場している用語。 
 
2013(平成25)年

 

今でしょ!
林修が自身が所属する予備校・東進ハイスクールのテレビCMに出演。ふてぶてしさを感じさせる表情の林が「いつやるか?今でしょ!」と言い放つ授業シーンがお茶の間に流れた。コント番組がパロディを制作、またトヨタ自動車はコント番組さながらのパロディCMを放映したことで大きな流行の波になった。
お・も・て・な・し
そもそもは「とりなす、処置する」「取り扱う、待遇する」という意味の日本語。2013年9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会。最終プレゼンテーションでは、フリーアナウンサーの滝川クリステルが登壇してフランス語でスピーチ。日本社会に根付く歓待の精神を「お・も・て・な・し」とPRしたシーンは五輪招致決定のニュースとともに強烈なインパクトを残した。
じぇじぇじぇ
岩手県三陸地方の方言で、驚いたり戸惑ったりするときに発する言葉。NHKの朝ドラ『あまちゃん』の中で多用され、ビッグな流行語になった。ドラマのストーリーは東京出身の女子高生アキが三陸で海女を、やがて東京でアイドルを目指す人情喜劇で、熱狂的なファンを生んだ。ロケ地となった岩手県久慈市には観光客が殺到。朝ドラでは初めて東日本大震災を描いたことでも注目された。
倍返し
バブル末期に大手銀行に入行した半沢直樹(演じるのは堺雅人)が組織内外の圧力と戦う勧善懲悪のドラマ『半沢直樹』が高視聴率を記録。。「上司の失敗は部下の責任」など企業社会にありがちな悪習を取り上げ、半沢が反撃するときのセリフ「やられたらやりかえす。倍返しだ!」が大流行した。
アベノミクス
デフレと景気低迷からの脱却を目的とする安倍内閣の経済政策を標語化したもの。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長政略を三つの柱とし、安倍首相はこれらを「3本の矢」と呼んだ。
ご当地キャラ
2007年に彦根城築城400年の記念キャラ・ひこにゃんが登場して以来の流行。最も人気が高いといわれるのは熊本県のPRマスコットくまモンだ。また非公認系キャラという新潮流も定着。千葉県船橋市の非公認キャラふなっしーや、兵庫県尼崎市非公式キャラちっちゃいおっさんが注目された。
特定秘密保護法
「国の安全」「外交」「公共の安全及び秩序の維持」の情報で「公になっていないもののうち特に秘匿を要するもの」が「特定秘密」に指定される。アメリカなどと機密情報を共有するための国内法を整備するもので、政府は日本版NSC設置法案とセットでその成立を図っているが、「特定秘密」の定義があいまいで、個人の知る権利や報道の自由が侵害される恐れがある。
PM2.5
PMは微粒子のことで、PM2.5は粒子径が2.5ミクロン以下である微粒子の総称。ボイラーから発生する粉塵から、黄砂のような自然起源によるものまで存在する。粒子径が非常に小さいため循環器系に沈着しやすく、健康への影響が大きいといわれる。近年、中国におけるPM2.5の濃度が非常に高くなっており、2013年にはこれを含めた越境汚染対策について日中韓で共同声明が採択された。
ブラック企業
異常な長時間労働やパワーハラスメントなど劣悪な労働条件で従業員を酷使するため、離職率も高く、過労にともなう問題等も起きやすい企業のこと。新卒・若者を大量に採用し、そして使い潰して利益を上げ、急成長する新興産業の大企業を指す。もともとはネットで誕生した俗語だが、2012年にはブラック企業大賞も創設されている。
ヘイトスピーチ
国籍や宗教、性的指向や障害などをおとしめ、憎悪、暴力を掻き立てる「憎悪表現」を指す。2013年の日本、反韓デモを繰り広げる団体、それに対する反ヘイトスピーチ団体など、社会問題化している。アメリカではヘイトスピーチを禁じる目的をもったスピーチコードといわれる規則が大学や放送事業者の間で広まっている。が、規制については「表現の自由」との関連で慎重意見が少なくない。
被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう (特別賞)
東日本大震災の際、「見せましょう。東北の力を。見せましょう。野球の底力を」と選手会長、嶋基宏選手がファンに誓った言葉は3年目で実現された。東北のみならず、日本中を明るく元気づけてくれたのは、星野監督および選手皆さんの活躍だった。震災直後のことが思い返されるような逆境で迎えた最終戦で、ゴールデンイーグルスは底力を発揮、日本一を勝ち取った。 
 
2014(平成26)年

 

ダメよ〜ダメダメ
不思議な世界観のコントを披露する女性お笑いコンビ日本エレキテル連合橋本小雪さんと中野聡子さん
戦後も70年を迎えようとしているのに日本人はやっぱり相変わらずの日本人で、NOときっぱり言えないというか、はっきり言わないで済ましましょうという人間関係。いきなり「ダメよ!」とでも言おうものなら、相手は驚いて「号泣」し出さないとも限らない。そんな昨今だからと、そこまで気を使う細やかさが日本人のたしなみなのかどうかは知らないが、ユルい空気ゆえにリベンジポルノがネットに流れたり、公の議会でセクハラやじが横行するのかもしれない。あげくの果てが「壊憲」と言われる7月の閣議決定。「ダメよ〜ダメダメ」と高まる声を前にして、「いいじゃ〜ないの〜」とするすると受け流して、気がついたら憲法が解釈だけで変更されてしまったのだが、この国では、争点をしっかり掲げて投票でハッキリさせようなんて決定方法がありえないんじゃないかと思えて、こりゃあ「号泣」もしたくなる。そんな日本の不条理な現実を、最高にシュールなコントで「大爆笑」に変えてくれたのが「細貝さんと朱美ちゃん」こと、今年一番の人気コンビ、日本エレキテル連合であった。
集団的自衛権
不法な侵害を受けた国家と密接な関係にある国家が、共同して防衛に当たる権利。この言葉は「しっかりと、丁寧に説明」という表現とセットになって使われた。しかしいくらアベさんに説明されてももう一つはっきりしないままの状況が続いた。集団的自衛権という用語は30数年前の『現代用語の基礎知識』からすでに収録されており、ずっとそれは現憲法下では「違憲」だと紹介されてきた。それが今年、安倍政権の下でいきなり解釈を変更されて、限定容認だが、その行使が可能となったのだから、これは大事件だ。文化庁の「国語に関する世論調査」で「***的には」は“ぼかし言葉として若者層に広がっている”と指摘されたことがあるが、「集団」と「自衛権」をつなぐ「的」がどこか煙にまくような機能を果たしているのと無関係ではなかろう。
「・・・・・」号泣会見
安倍総理も大喜び、隠れた大賞です。
連日の国を揺るがす「集団的自衛権」報道、一瞬で目先を狂わせてしまいました。
ありのままで
ディズニー・アニメーション・スタジオによる3Dコンピュータアニメーションのミュージカル映画『アナと雪の女王』が大ヒット。ディズニー映画のお約束、王子様とめでたしめでたしの大団円を裏切る、まさかの女性同士の絆のストーリー。これまでのおとぎ話の世界の殻を破る新しいリアルディズニーに日本の女性たちも完全に心をつかまれた。映画のヒットを助けたのが雪の女王エルサが歌う「Let It Go」、日本語版で「ありのままで」と翻訳された歌を思い切りのよい発声で熱唱する松たか子の歌声だ。そしてエンドロールではMay.Jによる歌だけを聞ける贅沢も。数年前「肉食女子」の新語が生まれた頃から、すでに女性はありのままだったのでは?という声をよそに、多くの女子たちが、競うようにしてカラオケで「ありの〜ままで〜」を自分応援歌として朗々と歌い上げたのである。
カープ女子
球場まで行って広島東洋カープを応援する女性ファンたち。広島東洋カープはファンクラブに「レディースカープ会員」枠がある。外野自由席が年間20試合無料で観戦できる特典が付き、女子高校生が学校帰りに友だちと応援に来たりできるのだ。カープが女性に向けて行うサービスはこれだけではない。今年5月には関東在住のカープファンの女性を対象に「関東カープ女子野球観戦ツアー」を開催、新幹線代を球団が負担して148名の参加を募った。女子にやさしいサービスを女子はしっかり享受しとことん楽しむ。「広島カープといえども他府県人も拒んでいませんよ」というメッセージをPRできた。アイドルも地元色を前面に出した地元系アイドルが受ける時代。広島カープで育ち若手として試合で活躍し、FAで他球団に移籍したとしても再び迎え入れるような真の地元密着の、そしてプロ野球界で唯一独立採算経営で気を吐く球団の経営努力を形で見せた言葉でもある。
壁ドン
壁を背にした一人に対し、向かい合って立つ一人が壁にドンと手をつき顔を接近させるポーズ。壁側に立つ人が女性、もう一人がイケメン男性という組み合わせで、女性憧れのシチュエーションとしてブームとなっている。最初に言い出したといわれるのは声優の新谷良子で、その後、少女漫画『L♡DK』が火をつけた。アイドルグループのイベントでは、アイドルが壁ドンして「君は僕が守るよ」と優しくささやく、といったファンサービスも行われているという。この壁ドン、男性側の強引な感じがよいのだという。従順な若い男性社員が増殖していることを背景に、現実にはなかなかお目にかかりにくい、強引に引っ張っていってくれる男性像が女子たちの妄想をかきたてたのだ。
危険ドラッグ
これまで脱法ドラッグ、合法ドラッグ、脱法ハーブなどと称されていた薬物については、簡単に購入出来ることからこれまで問題視されていた。危険ドラッグに絡み全国の警察が摘発した件数は、2014年上半期で128件。昨年の上半期の倍を上回り、5年前の8件から激増している。今年6月には東京・池袋で脱法ハーブを摂取した男が運転する乗用車が歩道を暴走し1人を死亡、7人に重軽傷を負わせる重大事故を起こし、また大物ミュージシャンが薬物使用で逮捕されるというスキャンダルも衝撃をあたえた。「合法」や「ハーブ」などの柔らかい名称をまず変更して臨む、警察・厚労省の本気(マジ)度が世間に響き、この言葉は瞬時に浸透した。
ごきげんよう
NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」でナレーションの美輪明宏が毎回終わりに言う言葉。「梅ちゃん先生」で高視聴率を記録してからNHK朝ドラ人気は続き、「ごちそうさん」の後の「花子とアン」も平均視聴率22.6%を記録した。お嬢様学校の伝統的なご挨拶としか認識されていなかった「ごきげんよう」だが、安藤はなのモデル村岡花子が東洋英和女学院で学び、溢れるバイタリティーでまっすぐに生きる姿を描いたこのドラマを見た後では、時代を切り開く明治女性の情熱的な言葉に聞こえてくる。花子がNHKの前身の東京放送で「ラジオのおばさん」と親しまれ、子ども向けニュースを読んでいた際、おきまりのフレーズとして用いていた挨拶が「ごきげんよう」。当時そのものまねが全国で大流行したという。
マタハラ
今年10月、妊娠後に降格されたのは男女雇用機会均等法に反するとして損害賠償を求めた訴訟で最高裁が降格は違法で無効との判断を示し、注目を集めた。セクハラ、パワハラ、アカハラ、家事ハラ、職場はハラスメントだらけである。人間二人以上集まればそこにハラスメントあり、といった様相だ。妊娠、出産という事情でなくても家事・育児、自身の病気や介護などに時間を充てることもあるだろう。規則に人を合わせるのでなく、現実の人間に合わせたしくみを指向して実践していかないと、働く現場は疲弊し、ハラスメントがますます充満していくばかりだ。「輝く女性」のためにと提出された女性活躍推進法案はあっけなく廃案となり、残念がる向きもあるが、そもそも国に輝かせてもらおうと思っている女性はいるのだろうか。まずは職場が疲弊したりブラックに染まっていては女性は輝けないだろう。
妖怪ウォッチ
ニンテンドー3DSのゲームソフト。クロスメディアで漫画、テレビアニメにも展開され大人気となった妖怪ウォッチ。「たまごっち」「ピカチュー」に続く久しぶりの「ち」もの大旋風がきた。子ども、パパもママもじーちゃんも、ばーちゃんも「ゲーラゲラポーゲーラゲラポー」で盛り上がった1年だった。関連玩具も品薄状態が続き、町の小さなおもちゃ屋さんに大人が訪ねまわるという現象もファミコン以来で、インターネット時代の今も変わらぬ発想がおもしろい。悪いことは全て妖怪のせいにする子どもが増えているという話しも物議をかもしたが、子どもたちの主張もまんざら言い訳だけでもないのだろう。
レジェンド
日本人41歳会社員の男が冬季オリンピック・ソチ大会で表彰台に上がった。この男は4年に1度のオリンピックに7回連続出場しているのだという。常に結果が求められ続けるトップアスリートの世界で、ましてや20代で引退することが多いスキージャンプ競技において、けがや環境の変化に揺らぐことなくトップに君臨し続けている葛西紀明を、世界は「レジェンド」と呼ぶ。
そして、日本に「レジェンド」は、まだまだいる。プロになって50年、日本人としてただ一人、米国、日本、欧州、豪州の世界4大ツアーを制覇。2007年には「日本シニアオープン」において、最終日にエージシュートを達成し、逆転優勝を勝ち取り、日本男子初の世界ゴルフ殿堂入りを果たし、今なお72歳にして活躍する青木功さん。さらに、1984年、日大藤沢高から、ドラフト5位で入団。30年間、中日球団一筋で40歳を過ぎてからも、円熟のピッチングで先発投手陣の一角をにない、本年9月49歳で最年長登板、最年長勝利記録を更新する山本昌広さん。まさに、熟年パワー炸裂といったところである。 
 
2015(平成27)年

 

爆買い
オタク文化の発信地、東京秋葉原に外国人観光客が目立ち始めるようになってから、あっという間に京都・浅草などの定番観光地はもちろん、三重県伊賀でのニンジャ体験など日本人が気付かない日本を楽しむ外国人が見られ、2015年は「日本再発見」がブームとなった年でもあった。増加を続ける外国人観光客のなかでも中国からの訪日客は他を引き離し、ドラッグストアで、家電量販店で、スーパーマーケットで、百貨店で、化粧品、医薬品、お菓子など一人当たり17万円以上を「爆買い」し、「大人買い」が精一杯の日本人を圧倒し、世間を驚かせたのだった。世界に目を向ければ、中国企業が6400人でフランスに4泊6日で爆社員旅行、習近平国家主席はアメリカで旅客機300機を爆買い。中国人の消費パワーを見せつけられた年でもあった。物が売れない昨今、日本の商品は信用できる、「日本通」だと自慢できる、と嬉々として買いまくってくれるのはうれしいが、日本は信用できるよい国だと、まるごと爆買いされる将来がきたりして…
トリプルスリー
今年、野球界はセリーグではヤクルトが14年ぶりの優勝、パリーグはソフトバンクが2年連続優勝。その優勝チームの中で、プロ野球ファンのハートをわしづかみにしたのが、二人の選手だった。鍛え上げられた強靭な体が描くパワー溢れるバッティングフォームで3割6分強の高打率を残し首位打者となった福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手。そして気負いしない表情で飄々として見えるのに、バランスの良い体で打てばホームラン王、走っては盗塁王を獲得した、東京ヤクルトスワローズの山田哲人選手であった。1シーズンで打率3割、ホームラン30本、30盗塁以上の成績を記録するトリプルスリーを13年ぶりに達成、チームをリーグ優勝へと牽引したのだ。パワー、スピード、テクニック三拍子そろった選手は来年も野球をもっともっと面白くしてくれるであろう。さてこの9月、永田町では新三本の矢が用意された。アベノミクスも第2ステージ、トリプルスリーにあやかって、希望を生み出す強い経済・夢をつむぐ子育て支援・安心につながる社会保障で日本も勢いづいていきたいものだ。
アベ政治を許さない
デモといえばスローガンである。「米ヨコセ」など一目でわかりやすい要求をビラや看板で示して叫ぶ手法である。2015年夏、国会前で行われた安全保障関連法案成立反対デモに集まった人々が手にしていたビラは「アベ政治を許さない」。作家の澤地久枝さんらが発案したメッセージを俳人の金子兜太さんが揮毫したこのフレーズは、要求ではない、追求でもない、つぶやきだ。強要しないつぶやきが、これまでのイデオロギー対立では現れてこない層に共有されたのだった。「私たちの世代は、左でもない右でもない、中道でもない、前だ」と話したアラフォーのラジオパーソナリティーがいたが、対立軸とプレーヤーがはっきりしていた時代のヘルメットにタテカン、アジ演説という昭和のアイテムとは違う、多様な意見を包み込む、囲わないゆるさで効果を見せてくれた。
安心して下さい、穿いてますよ。
今、企業が一番神経を使っているのが、コンプライアンスとSNS。そんな中、ゴールデンタイムにテレビで、全裸を披露しているこの男。「まさか」と一瞬周りを凍りつかせた後、穿いているピンク色のブーメランパンツを示し、全裸はポーズであったとしっかりと安心させてくれるのだ。昨今、他人が何かを「やらか」すと、インターネット上は正義≠フ主張と罵倒の嵐≠ナ溢れかえり、メディアも一般人も巻き込んで右往左往大騒ぎする事の繰り返しである。やれ食品に異物は混入されていないか、情報は漏洩していないか、メールが来たらクレームではないか、最近では画像検索確認はしているかも加わり、管理者は戦々恐々疲弊している毎日である。そんな時、テレビから「安心して下さい」と、とにかく明るい笑顔でいってもらえることで、今年どれだけの人が一瞬でもほっとしたかしれないのである。「流行語大賞を受賞すると、一発屋で終わる」というジンクスがあります。安村さん、来年も「安心して下さい、やってますよ」再登場をお待ちしています。
一億総活躍社会
終戦直後の日本の人口は約7000万人。そこから20年。人口増と高度成長を続け、1967年に日本の人口は一億人を突破した。国民の生活も年々豊かになり、70年代には「一億総中流」という言葉が流行した。「一億人」は日本の豊かさの象徴的数字であると安倍総理は語る。我が国の構造的な問題である少子高齢化に真正面から取り組んでくれるという。ここで一つ、世代間、男女間の枠をとっぱらい、一億人がガラガラポンで、それぞれできることで活躍する社会というのは希望があるやもしれない。いきなり大活躍で社会を大転換というのは叶うまいが、まずは小さな活躍からならやれそうだ。家庭で、職場で、地域でそれぞれの能力を発揮しよう。小活躍を積み重ねて、自らが「日本はいい国」と思える気持ちをもっていくしかないのかもしれない。
エンブレム
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会はみどころがたくさんありそうだ。アスリートの活躍はもちろん、追加種目ではどんなプレーがみられるのだろう、競技場の骨組みはどんなふうになっているのだろう、そしてエンブレムのデザインは!?2015年はあれこれ話題にことかかなかった年だったが、おかげでスポーツのファンばかりでない多くの国民が心のどこかで参加している、真のオールジャパン体制ができつつある。新エンブレムは一般公募で選ばれる。スポーツの力∞日本らしさ・東京らしさ∞世界の平和∞自己ベスト・一生懸命∞一体感・インクルージョン∞革新性と未来志向∞復興・立ち上がる力≠キーワードに今月7日が応募の締切日である。新エンブレムは、ネットでの炎上を本物のお祭りにくるりと変えてくれる、そんなシンボルになるといい。2020年はエンブレムを身につけて、胸を張って笑顔で外国からのお客様をおもてなししようではありませんか。
五郎丸(ポーズ)
日本人選手と外国人選手、外国人監督で構成されたラグビー日本代表は、世界ランキング3位の南アフリカを敗り奇跡的勝利を収めた。グローバル人材の育成がさけばれる昨今、ルーツが日本であっても他の国であっても、チーム日本のためにタフに戦うことに意味があるのだと、このチームは教えてくれた。同じ思いをもつそれぞれが自らの強みに目を向けて、世界一の練習量で磨きをかけ勇敢に前進する日本のやり方、ジャパンウェーに日本中が熱狂したのであった。そのジャパンウェーの象徴として人気を集めたのが、五郎丸選手が行うルーティンのポーズ。兵庫県立大学准教授の荒木香織メンタルコーチのアドバイスによって取り入れたという一連の動作は、「荒ぶる」戦いの中に作られるこの瞬間が見どころの一つとなり、ルールを知らない、にわかファンをも強く引き付けた。子どもが女性がおじさんが、一度は真似てみるこのポーズは、あの時の感動を甦らせ、日本ラグビーへの応援の気持ちを高め、ファンの心を一つにさせる輝く旗印となっているのだ。
SEALDs
シールズ。最初にこの字面を見た時、新しいアイドルグループかなと思った無礼をお許し願いたい。S・E・A・L・D・s(シールズ)とは「自由と民主主義のための学生緊急行動」の意味だそうだ。彼らの反対デモはイケてるルックスにファッションとそしてコールという。いつもの言葉でラップにのせて盛り上がる、つまり普通のイマドキの学生さんなのだ。その学生さんたちが、「日本国憲法」とってもいいじゃない、自分たちも努力していかないと≠ニ国会前でデモを行うという形で行動したのである。平成生まれのいわゆる「ゆとり世代」とくくられる世代。この年代の若者はものおじしないとか自分らしさを優先するなどと評され、オトナ社会ではちょっと劣勢気味だった。自分で見聞きし学ぶ軽やかな行動力はバブル世代にはない真摯さがある。SNSで共感したらリアルで繋がるなんて当たり前、ウェブサイトは言葉もデザインもかっこよくなくっちゃ、というデジタルネイティブのセンスは、すでに既存政党を凌駕する発信力をもっている。世界も平等に世代を重ねている。純粋な「あたりまえ」が次の時代を切り拓くことがあるかもしれないという気にもなる。
ドローン
アメリカのインターネット通販会社が小型無人機で宅配サービスを行うというニュースに触れた時は「未来にはそんなこともあるかもね」くらいの見方だった。しかし無人小型飛行機ドローンは、首相官邸への落下や姫路城への衝突など事故やトラブルで、いちやくスポットをあびた。鳥の目で地上をなめるような映像を見せてくれるドローンは、災害での情報収集、建築現場でのデータ収集などで既に実用化が進み、ドローンの運航ルールを定めた改正航空法も施行される。「空の産業革命」といわれるドローンは、一層身近な技術となってくるだろう。2015年は1月に新「宇宙基本計画」が決定され日本の宇宙システムの利用が民事から軍事へと大転換し、11月には初の国産ジェット旅客機三菱リージョナルジェット・MRJが初飛行を成功させた。空のニュースが話題となった年でもあった。
まいにち、修造!
日常は空疎なお決まりフレーズであふれている。「二度とこのようなことのないよう再発防止に努めます」というお詫び。「今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」というお祈りメール。テンプレート流用でいっちょあがりののっぺらぼうの文面からは無念さも寄り添う気持ちも伝わってはこない。気持ちを伝えるにはなにより熱≠フこもった言葉が必要なのだ。熱い言葉といえばこの人、プロテニスプレーヤーの松岡修造さんである。ウィンブルドンで62年ぶりにベスト8入りしたのは20年前、この時代に世界の舞台で一人戦ったプレーヤー人生に裏打ちされた松岡さんから発せられる言葉は、種目を超えてアスリートたちから本音を引き出す力をもち、錦織圭選手が世界に飛び出す背中を押した。今年100万部以上を売り上げた『〔ひめくり〕まいにち、修造!』にはユニークなワードが詰まっている。「メンタル」が一般語化し、軽々しく「がんばれ」ともいえない今、「できるできる、君ならできる」と、まっすぐに元気づけてくれるのはもう松岡さんしかいないのだ。 
 
2016(平成28)年

 

神ってる
25年ぶりのリーグ優勝を果たした広島カープ。シーズン中の6月のオリックス戦で2試合連続の決勝弾を放った鈴木誠也外野手。試合後、それをたたえる談話の中で、「神懸かってる」と言うところを緒方孝市監督は、いまどきの言葉を使って「神ってる」と口にした。これはもともとネットの住人たちが汎用していたワードで、中高校生にとっては当たり前の表現だが、プロ野球というオヤジの世界で使われたことで異彩を放った。言葉は共感を呼んで広がる。子どもから大人へ、閉鎖がちのネット界から生々しい現実社会へ。若者言葉の流行語が、野球を通じて広がった。近年めずらしいこの広がりを高く評価して、2016年を代表する一語に選定した。
聖地巡礼
ここ数年、映画やテレビ作品、ゲームなど、物語の舞台となった場所を訪れることが「聖地巡礼」と呼ばれている。映画界の興業記録を更新中の大ヒットアニメ映画『君の名は。』は、大震災を経験した日本人の気持ちを癒してくれた。舞台になった飛騨古川を訪問し、組み紐を体験することはまさに「巡礼」。2016年、行く先を求めて「心の旅」を模索するこの国の人々。「聖地巡礼」は、その想いを象徴するものとして授賞に値する一語とした。
トランプ現象
「メキシコ移民は犯罪者」「中国と日本はアメリカの雇用を盗んでる」「全イスラム教徒の入国を拒否する」。歯に衣を着せない率直かつ攻撃的な発言で話題を集めたドナルド・トランプ氏が、まさかの次期アメリカ大統領に当選してしまった。メディアによる大方の予想を裏切る結果が、金融マーケットに引き起こしたトランプ・ショック。当選が決まって真っ先に飛んで行ったこの国の首相を筆頭に、これほど日本の国民がアメリカの大統領選挙の結果に動揺したことがあっただろうか。もしかしたら世界政治の行く末を左右する「トランプ現象」という2016年の大騒動を受賞語とすることで、新語・流行語大賞の歴史に残す。
ゲス不倫
人はそれを「ゲス不倫」と呼んだ。しかし続々と暴かれた醜聞・騒動の主役たち、当人たちに「ゲス」の自覚があったかどうか。自分のバンドに「ゲスの極み乙女。」と名前を付けた彼にしても、その胸の内は推しはかりきれるものではないだろう。2016年、永らく国語辞典の一角を占めていた「下衆」という日本語は、今日的ニュアンスを帯びた「ゲス」という新語として定着した、と選考委員会は判定する。 ちなみに、不倫疑惑だけでなく、甘利明衆院議員の口利き疑惑、巨人選手の野球賭博、ショーンKの学歴詐称などスクープを連発した週刊文春の報道ぶりは、数年前からネットの世界で「文春砲」と呼ばれ、怖れられていたという。
マイナス金利
市中銀行が中央銀行に預ける預金に対する金利をマイナスにする金融政策。市中銀行は中央銀行に預けた預金に手数料がかかる形となり、元本が減少する。この利息を付けないという、おなじみの「ゼロ金利」からさらに一歩進めたこの政策を日銀が導入したのは2016年2月。最近の経済状況において、すっかり影を潜めてしまった例の「アベノミクス」に代わって連呼されたのが、利子なのにマイナスという、考えてみれば不思議な「マイナス金利」という名称。気になるのはその成果だが、企業の投資などへの資金需要は小さく、貸出しはあまり伸びていないらしい。やはり「マイナス金利」という名称のもつマイナスイメージを計算できなかったのが失敗の一因とも囁かれる。そんな現状の金融政策の停滞を象徴するネーミングとして、2016年のトップテンに選定しておきたい。
盛り土
2016年11月に開場予定だった東京の豊洲新市場だが、8月31日就任まもない小池百合子新都知事は築地市場からの移転を延期すると発表した。その理由は、環境影響評価(アセスメント)の見直しなど安全性を確認するため。東京ガスの施設の跡地を市場として使うにあたって土壌汚染を防ぐためになされるはずだった「盛り土」が建物の地下でなされていないことが明らかになったのだ。さすがは元・環境大臣である。もしも環境問題に敏感な小池さんでなく他の誰かが都知事になっていたら、いまごろは新市場を経由した寿司ネタが回転ずし屋のチェーンコンベアの上をキラキラと進んでいたかもしれないのだ。もしかしたら東京近辺以外の方はそこまでピンと来ないかもしれないが、この問題の深刻さに「気づき」を与えてくれたのが、「盛り土」という新語だった。これが授賞理由である。
保育園落ちた日本死ね
2016年2月15日、匿名で日記を書き込めるネットサービスに「保育園落ちた日本死ね!!!」と題された文章が書き込まれた。政府が掲げる「待機児童ゼロ」政策が一向に進展しない事態に対して、育児中の母親とみられる人物が訴える、怒りとも悲鳴ともとれるブログ。この言葉が広まり、ツイッターでも「#保育園落ちたの私だ」というハッシュタグの投稿が相つぐ。衆院予算委員会で山尾志桜里議員がこれをとり上げ、保育制度の充実を訴えた署名サイトにも2万8000人もの署名が短期間で集まった。「死ね」というのは美しい表現ではないが、一つの言葉がここまで待機児童問題を世の中に周知させたという事実を評価し、受賞語として選出した。
ポケモンGO
アニメやゲームの人気キャラクターであるポケモンを、プレイヤーがスマホを手に現実のあちらこちらを歩き回り、リアルな空間のなかに現れるポケモンを収集できるというゲーム。2016年7月から、このGPSとAR技術を応用したスマホ向けアプリが各国で順次配信開始となり、世界的な流行になった。選考委員会の議論の過程では、「バーチャルな生物を捕まえて何を面白がっているのか。実際の自然界にはもっともっと未知の生物が存在するのだ」という、ポケモンGOへの違和感も提示された。しかしそんな負の面だけでなく、「ポケモンGOのためにひきこもりだった息子が毎日外出するようになった」「家事に協力的でなかった亭主がスマホ片手に進んでゴミ出しに行く」など、ポケモンGOがこの社会に与えたプラスの効用は評価すべきではなかろうか。ということで、トップテン授賞となった。
(僕の)アモーレ
サッカー日本代表の長友佑都と女優の平愛梨の熱愛が2016年6月3日発売の「フライデー」で報道される前日、「僕から真実を伝えたい」として取材に応じた長友は「(彼女は)僕のアモーレ。イタリア語で愛する人という意味です」と堂々の交際宣言を放ったのだった。この甘く懐かしい「アモーレ」というワードは、「ゲス不倫」報道に明け暮れるワイドショープログラムに、一服の清涼剤、しばしの「ほっこり」を与えてくれた。選考委員満場一致のトップテン授賞となった。
PPAP
「謎のシンガーソングライター」ピコ太郎による楽曲にして動画作品「ペンパイナッポーアッポーペン」(PPAP)が2016年10月29日付、米「ビルボードHOT100」に日本人として26年振りとなるチャートインを果たし、77位を獲得した。これは古坂大魔王が扮する「ピコ太郎」が8月25日YouTube上に発表した作品で、9月にジャスティン・ビーバーが自身のTwitterで「お気に入り」とツイートしたことで火が付いた。ヒットするものにはそれなりの「理由」があるだろうし、そこから「時代」を読み解くこともできるはずだ。それでは「PPAP」のヒットの理由は何か。どんな時代背景が読み取れるのか。それは今年最大の研究課題かもしれない。そんな今年の収穫として「PPAP」をトップテン受賞語に選定する。
復興城主
2016年4月の熊本地震では、熊本城の石垣約50カ所が崩落。13の重要文化財建造物や20の復元建造物が被災した。熊本市は11月1日から、復興を支援する「復興城主」を募っている。1万円以上の寄付をした個人や団体が「城主」となり、観光施設の入場料が無料になるなどの特典を受けられるという制度である。ユーキャン新語・流行語大賞選考委員会では「復興城主」というネーミングセンスを評価し、選考委員会特別賞として「復興城主」を選定する。  
 
 
 
 
ノミネート語
アスリートファースト / 新しい判断 / 歩きスマホ / EU離脱 / AI / おそ松さん / 神ってる / 君の名は / くまモン頑張れ絵 / ゲス不倫 / 斎藤さんだぞ / ジカ熱 / シン・ゴジラ / SMAP解散 / 聖地巡礼 / センテンススプリング / タカマツペア / 都民ファースト / トランプ現象 / パナマ文書 / びっくりぽん / 文春砲 / PPAP / 保育園落ちた日本死ね / (僕の)アモーレ / ポケモンGO / マイナス金利 / 民泊 / 盛り土 / レガシー  
 
2017(平成29)年 

 

2017年の「ユーキャン新語・流行語大賞」が12月1日に発表された。写真共有SNS「インスタグラム」の定着で広まった「インスタ映え」、政治の世界からあっという間に社会に広まった「忖度(そんたく)」の2つが年間大賞に選ばれた。
トップテンには、地球上の男性の数でお茶の間を沸かせた芸人ブルゾンちえみの「35億」、睡眠不足が借金のように日々蓄積する「睡眠負債」、アメリカ・ファーストや都民ファーストで脚光を浴びた「〇〇ファースト」などが入った。
今回さらに、2つの特別賞が選ばれた。日本学生対校選手権男子100メートル決勝で10秒の壁を破り、新記録を出した東洋大学・桐生祥秀選手の「9.98」と、史上最年少の中学生プロ棋士・藤井聡太四段(15)の「29連勝」だ。
年間大賞とトップテン、特別賞は、文化人らによる選考委員会が候補30語の中から選出した。11月9日に候補語を発表した大賞事務局は「言葉そのものに勢いがなく低調な年」と評し、「そのなかでも『9.98』で10秒の壁を破った桐生祥秀選手や『29連勝』の藤井フィーバーは、希望を与えてくれた」とコメントした。本日、選考委員を務める『現代用語の基礎知識』編集部長の清水均さんは選評の中で「今年の『世相』がここにあらわれています」と述べ、もはや『世相』は死語になったのかとあきらめかけていたところに、満場一致の大賞語が時代の特徴を規定した」と続けた。
一方、姜尚中・東京大学名誉教授は、「何事につけ真偽のほどが定かでなくなった時代を象徴するような言葉が目立った」と語った。
女優でエッセイストの室井滋さんは、今年も「世間を騒がせた政治的騒動に付随する言葉が頭に浮かんだ」とコメントしている。「新語・流行語は年月が過ぎて、『ああそうだったね』と今年の世情が鮮やかによみがえってくる言葉でなければいけないし、懐かしくなる言葉であってほしい」とも語った。
歌人の俵万智さんは、「ネットの強さを感じた一方、それが流行語の寿命が短い要因の一つだろう」と感想を述べ、「ネットは言葉を素早く広め、また消費しつくす。ネットの有無で言葉の届く時間に差も生まれる」と分析した。 
インスタ映え
インスタグラムの人気とともに、スマートフォンユーザーが意識するようになった「インスタ映え」。今年は、その意識が一般に浸透した年だった。かわいい誰かに変身したいという願いはいつの時代も女の子のみならず、人を夢中にさせる。スマホの向こうのおとぎの国のステージが大賞に輝いた。表彰式には、CanCam(キャンキャン) it girlが登場。インスタ映えする写真を自撮りするためのアイテムをいかに使って「盛る」かについてコメントし、「今日の出来は100%」と笑顔で答えた。
「テキストよりも大事なのは画像。SNSでの『いいね!』を獲得するために、誰もがビジュアルを競い合う。インスタグラムの投稿者だけでなく、ケータイで写メを撮る行為に『インスタ映え』という意識が浸透した」How to Approve and Return Posts
忖度(そんたく)
相手の気持ちをおしはかって配慮すること。ネット辞書の検索ランキング(goo辞書)では、3月中旬から約4カ月間、この言葉が1位を維持した。英国の新聞でも「忖度」が日本のスキャンダルの裏側に存在する言葉として取り上げられた。日本中、マスコミのみならず、日常会話に至るまで、あらゆる場面で使われることが増えた。
「今年は、マスコミから日常会話に至るまでのあらゆる場面でこの言葉の登場機会が増えた。きっかけは3月、『直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う』という籠池泰典氏の発言。ネット辞書の検索ランキング(goo辞書)では4カ月間、この言葉が1位を独走したという」
35億
「地球上に男は何人いると思っているの?35億!」との決めゼリフで茶の間を沸かせた、女性芸人「ブルゾンちえみ」。Austin Mahone (オースティン・マホーン)の曲「Dirty Work(ダーティー・ワーク)」に乗せ、振り返って「キメ」るスタイルが大うけした。
「世界の人口の半分、その半分35億が男ってことでしょ!そんな決めゼリフで茶の間を沸かせたのが、女性芸人の『ブルゾンちえみ』。『35億』という、この異様なほどポジティブな思考が2017年の日本人を大きく勇気づけたことは想像に難くない」
Jアラート
8月に北朝鮮の弾道ミサイルが事前通告なしに日本上空を通過した。東日本中心に一斉に鳴り響いたJアラートは、「全国瞬時警報システム」の通称。
「今年6月、北朝鮮の弾道ミサイル発射からの避難方法を紹介する政府広報CMが始まった。『ミサイルが日本に落下する恐れがある場合、Jアラート(全国瞬時警報システム)を通じて屋外スピーカー等から国民保護サイレンと緊急情報が流れます』。Jアラートが鳴ったら日本シリーズも中断だー、とこの新語は瞬く間に普及した」
睡眠負債
日々の睡眠不足が借金のように積み重なり、命にかかわる病気のリスクを高め、日々の生活の質を下げていくこと。米国スタンフォード大学の西野精治教授によれば、睡眠不足の蓄積は、認知症などの発症リスクにもなるという。
「日本人の約4割が睡眠時間が6時間未満で、これは睡眠不足どころか『睡眠負債』に陥っている。この指摘には多くの国民が目を覚まされた。わずかな睡眠不足でも、常態化すれば不足分が負債のように膨れ上がり、うつ病やがん、認知症などの深刻な病気につながる恐れがあるという」
ひふみん
1954年に当時史上最年少として14歳7カ月でプロ入りし天才と呼ばれた加藤一二三(ひふみ)九段は、6月20日に77歳で引退表明。その愛らしいキャラクターが受けて人気者になり、引退グッズまでつくられた。昨年12月24日に行われた史上最年少中学プロ棋士・藤井聡太四段のデビュー戦対局相手。
「プロ入り当時は史上最年少の14歳7カ月、『神武以来の天才』とも呼ばれた加藤一二三九段が6月20日に引退。その愛らしいキャラクターが受けて、バラエティ番組で人気者に。藤井聡太四段のデビュー戦の対局相手でもあり、それは新旧天才による歴史的対決でもあった」
フェイクニュース
2016年米国大統領選挙で、いかにも報道サイトっぽいウェブサイトで拡散されたうそやでっち上げのニュース。日本でもニュースを装って、間違った情報が流布され拡散される。
「ネット上でいかにもニュース然として流布される嘘やでっち上げ。2016年のアメリカ大統領選挙では「ローマ法王がトランプ候補の支持を表明」「クリントン候補がテロ組織に資金を渡した」など、いかにも報道サイトっぽい雰囲気のウェブサイトに掲載され、それがあたかも事実のように拡散した」
プレミアムフライデー
政府と経済界が主導した個人消費喚起キャンペーンだったが、月末の金曜日に早めの退社を促すものだったため、ハードルが高くビジネス界に浸透しなかった。キャンペーン効果はほとんどなかった。
「政府と経済界が提唱した個人消費喚起キャンペーンで、月末の金曜日に早めの退社を促すもの。略称は『プレ金』。キャンペーンの効果はほとんど得られず、連呼されたこの言葉だけが空しく広まった」
魔の二回生
中川俊直前衆院議員、豊田真由子前衆院議員、務台俊介衆院議員と、不祥事が続いた自民党の当選二回生議員を表す言葉。
「務台俊介内閣府政務官、中川俊直議員、豊田真由子議員、武藤貴也議員、宮崎謙介議員・・・暴言、不倫、重婚・・・、当選2回の『安倍チルドレン』たちの不祥事が続発した。それは政権の支持率急落という「魔」の事態を招いたのであった」
〇〇ファースト
米国のドナルド・トランプ大統領が好んで使う「アメリカ・ファースト」。日本でも、小池百合子都知事による「都民ファースト」の会など、形を変えて使われた。
「まずは、アメリカのトランプ大統領が、選挙の段階からしきりに繰り返していた『アメリカ・ファースト』というフレーズ。日本では、小池百合子都知事による『都民ファースト』が続き、最近では『自分ファースト』な人たちがやり玉にあげられている」
選考委員特別賞
○9.98(10秒の壁)
東洋大学の桐生祥秀選手が9月9日、日本学生対校選手権男子100メートル決勝で日本人史上初の9秒台となる9.98を記録し、10秒の壁を破った。
○29連勝(藤井フィーバー)
史上最年少の中学生プロ棋士・藤井聡太四段(15)が前人未到の29連勝記録を達成した。「フジイノミクス」なる新語も生まれるほどのフィーバーぶりだった。 
ノミネート語
○アウフヘーベン
「アウフヘーベン」とは、小池百合子東京都知事が新党立ち上げの際の会見で多用し「意味がよくわからない」と話題になりました。
“それにしても「アウフヘーベン」の意味がよくわからないとネットでもささやかれております。ちなみにアウフヘーベンとは以下のような説明となっております。 あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。止揚ということです”
○インスタ映え
“最近情報番組などでよく耳にする言葉に、「インスタ映え」というものがあります。一応これは「Instagram」に投稿する写真として、見栄えがいいものが撮影できるという意味ですが、最近ではインスタ以外のSNSに投稿する写真にもよく使われるようです。”
○うつヌケ
漫画家・ 田中圭一さんによるうつ病脱出体験を描いたレポート漫画「うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち」のこと。及び、「うつ病からの脱出」も指すようです。著者本人だけでなく大槻ケンヂ、内田樹、代々木忠といった芸能人や文化人などのうつヌケ経験をインタビューし、うつ病脱出のための経験談や知識、あるいは悩みを共有できると評判になりました。
“うつ病を脱出した人たちのエピソードをまとめた田中圭一さんによるマンガ『うつヌケ〜うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA)が発売1ヶ月半で10万部(電子版含む)を突破し、話題になっています。『うつヌケ』は、自らも10年間うつに苦しんだ田中さんの体験談と、「うつヌケ」した17人のエピソードをまとめたマンガ。“うつヌケ”経験者としてミュージシャンの大槻ケンヂさんや思想家の内田樹さんら著名人も続々と登場します。”
○うんこ漢字ドリル
“3018例文すべてに「うんこ」を使った、まったく新しい漢字ドリル事前調査で「めちゃくちゃおもしろい、すごく楽しい」「これは絶対子どもが食いつく」と大絶賛!男の子も女の子も、親御さんからも笑い声の上がった、 おもしろいうえにしっかり漢字が身につく最強ドリルです。”
○炎上○○
この言葉は、主にネットの投稿やテレビでの発言が、批判を集めることについて「○○が炎上した」という表現が使われました。また、よく炎上する人・現象を指して「炎上芸人」「炎上ユーチューバー」などの表現も使われました。中には注目を集めたり、ネットのアクセスを稼ぐためにわざと炎上するような言動をする人も現れました。
“自分で制作した動画をYouTubeなどのサイトに投稿し、広告収入で稼ぐYouTuber。9月8日に交番の前で白い粉を落とすドッキリ動画を撮影したYouTuberとその妻が、偽計業務妨害の疑いで逮捕され、話題となっている。”
○AIスピーカー
AI(人工知能)を搭載したスピーカーのこと。スマートスピーカーとも。アメリカで大ヒットしたアマゾンの「Amazon Echo」を皮切りに、グーグルの「Google Home」、Lineの「Clova WAVE」、アップルの「HomePod」など、様々なAIスピーカーが登場し、日本でも発売が開始、あるいは予定されています。
○9.98(10秒の壁)
この言葉の「10秒」とは、100m走で10秒を切ること。1968年、ジム・ハインズが人類として初めて9秒9を記録し、その後人類の身体能力やトレーニング技術、サポート器具の向上で100m走で10秒を切ることはそれほど困難でもなくなりましたが、それでも日本人にとっては、1998年に伊東浩司がマークした10秒00が更新されず、長い間大きな「壁」でした。そして今年、桐生祥秀(21)が陸上男子100メートルで日本人初となる9.98秒を出したことにより、「日本人がついに10秒の壁を破った」と言われました。
“「8月の世界選手権の個人種目への出場権を逸し、友人に『悔しい。だけど、俺が日本人で初めて9秒台出すから』と話していたそうです」 予言通り、9日に行われた日本学生対校選手権の男子100メートル決勝で9秒98を叩き出した桐生祥秀(よしひで/21・東洋大)。その瞬間、会場は地鳴りのような歓声に包まれたが、陸連関係者はこう語る。”
○共謀罪
「共謀罪」とは「組織的犯罪処罰法」に含まれる概念のことです。テロ防止のための法案ですが、その解釈をめぐり懸念の声もあがっていたため、その成立は紛糾しました。
“15日、改正組織的犯罪処罰法(共謀罪法)が成立した。政府は、2020年の東京五輪・パラリンピックを控えテロを未然に防ぐため、また「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」を批准するため、この法律が必要だと訴えてきた。しかし、共謀罪の成立要件が非常にあいまいなことや、強行採決により可決されたことなどを海外メディアは問題視しており、今後の運用に懸念を表明している。”
○GINZA SIX
松屋銀座の跡地を開発し、2017年4月20日にオープンした銀座エリア最大の商業施設です。オープン時には開業を待ちわびるあまりの行列の長さにスタートを10分前倒しするほどの人気で、GWまでに来場者数152万人(1日平均約8万5000人)を記録しました。
“200以上の多彩なショップを誇る商業施設であると同時に、前衛芸術家・草間彌生さんの新作インスタレーション「南瓜」が彩る吹き抜け空間をはじめとした東京の新たな文化情報発信拠点でもある「GINZA SIX」。インスタグラムなどSNS上では、GINZA SIXに関する投稿が約5万件を超えており、依然注目が続いている。”
○空前絶後の
お笑い芸人・サンシャイン池崎が自己紹介の時にハイテンションで使うワード「空前絶後の超絶孤高のピン芸人!」から。昨年の大みそかに放映された日本テレビの番組「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」で、俳優の斎藤工がこのフレーズをコピーしたことで池崎本人も大ブレークしました。
“サンシャイン池崎の持ちネタは、「空前絶後の超絶孤高のピン芸人! 笑いを愛し、笑いに愛された男!」と、とにかくハイテンションに自己紹介するというもの。昨年の『絶対に笑ってはいけない科学博士24時』では、池崎がこの芸を披露した直後、気づかれないように入れ替わった斎藤が、池崎とまったく同じ衣装で登場。「イエェェェ〜イ!」という絶叫から、「空前絶後の超絶怒涛のセクシー俳優! セクシーを愛し、セクシーに愛された男! 浮気、不倫、ダブル不倫、すべてのセクシーの生みの親!」という自己紹介まで、完璧なコピー芸を披露してメンバー全員を“アウト”にさせた。”
○けものフレンズ
2017年1月からテレビ東京他で放送されたアニメ。放映当初はあまり話題になっていませんでしたが、SNSを中心に人気が爆発、ネットでは「すごーい!」「たのしー!」といった劇中のワード「フレンズ語」で埋め尽くされ、監督を始めとする関係者すら困惑する事態となりました。
“放送開始直後は、それほど注目をされていなかったにも関わらず、今クールが終わってみれば、押しも押されぬ今期の"覇権アニメ"に・・・・・・どころか、日々ネット上で「すごーい!」「〜のフレンズだね!」といった関連ワードが飛び交う、ある種の社会現象にまでなった本作だが、この流行はいったいなんなのだろうか?と、頭をひねるファン、そして関係各所の業界人も多いことだろう。”
○35億
オースティン・マホーンの音楽に乗って、デキるキャリアウーマンを演じるお笑い芸人のブルゾンちえみのネタから。ファンだけでなく女性芸能人も次々と真似をするなど、内外で大人気となりました。また彼女は「24時間テレビ」のマラソンランナーにも選ばれ、今年最もブレークしたお笑いタレントの一人となりました。
“「8月3日に27歳になったブルゾンですが、1年前はもう芸人を辞めて故郷に帰ろうかと考えていたぐらいだそう。最後の最後に、自分の好きな曲と好きなネタで勝負する! と決めて、それが若手発掘番組に拾われて大ブレイク。後ろに従えている『with B』まで人気になり、日本中を『世界中に男は何人いると思ってるの!?』『35億!』というフレーズが飛び交いました。BGMの『Dirty Work』を歌ったオースティン・マホーン(21)もブルゾンと仲良くなり自宅に招待されるなど飛躍しました」”
○Jアラート
有事の際の全国瞬時警報システムのことを言います。今年は北朝鮮が再三にわたりミサイルを発射したため何度もこのJアラートが鳴り響きました。その一方で、「ミサイルが飛んできたときにどうすればいいのか」「Jアラートに意味があるのか」などの議論も。
“日本政府は、北朝鮮から発射された弾道ミサイルが日本に飛来する可能性がある場合における全国瞬時警報システム(Jアラート)を29日6時14分に発表した。内容は「ミサイル通過。ミサイル通過。先程、この地域の上空をミサイルが通過した模様です。不審な物を発見した場合には、決して近寄らず、直ちに警察や消防などに連絡して下さい」というもの。”
○人生100年時代
リンダ・グラットン氏のベストセラー「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」から。人間の寿命が100歳を超える時代になると、これまでの生き方や人生設計が通用しなくなるので、新たな人生設計を考えるべき…としています。また、それを受けて自民党の小泉進次郎氏らが「「人生100年を生きる時代」の変化に対応し、労働法制や社会保障も変わらなければならない。」とする、「人生100年時代の社会保障」を提唱しました。
“まず、あなたが覚悟しなければいけないのは「人生は100年を考える」ということです。今現在の日本人の半数はすでに87歳(男性84歳、女性90歳)まで生きる時代になっています。寿命の伸びは今後も続くと見込まれ、2007年生まれの日本人の半数は107歳まで生きられると予測されています。半分が100歳まで長生きする時代ということは、その半分の人は110歳もありうるということです。すでに30〜40代は、自分の人生は90歳以上があるのだと考えておくべきですし、今の20代は、100歳も確実にありうる、と考えて人生を考えておくべきだと思います。”
○睡眠負債
“今年6月、『NHKスペシャル』でも「睡眠負債が危ない」という特集が放送され、そこでも、長年の睡眠不足が「負債」のように溜まっていき、これがうつ病、がん発症リスク、認知症などをもたらすことなどが明かされている。”
○線状降水帯
今年の九州北部豪雨、平成27年9月関東・東北豪雨など、最近「数十年に一度の大豪雨」で大きな被害が出ています。この豪雨の原因のひとつがこの「線状降水帯」です。これは大雨の原因となる積乱雲が同じ場所で次々と発生してライン状になり、停滞する現象のこと。その結果、大量の雨雲による激しい雨が長時間続くことになります。
“ですが、その原因が「線状降水帯」という点では共通しています。細い帯状に積乱雲が連なって次々に移動する現象です。結果的に、限定された地域で長時間に渡って連続して大量の降水量を記録することになります。大変に恐ろしい現象です。恐ろしいというのは、実際に線状降水帯に襲われて豪雨の被害が発生する恐ろしさということもありますが、同時に、少し離れた場所では降水量は限定的だったりするため、深刻な被害を受ける地域がなかなか特定できないという問題があるからです。”
○忖度(そんたく)
「Infoseekマルチ辞書」によると「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」。森友学園問題で国会に証人喚問された籠池泰典理事長が「口利きはなかっただろうが、忖度したのではないか」と言ったのをはじめとして会見でも「忖度」を連発。いかにも日本的なワードであり、流行語となりました。ちなみに外国人記者クラブの会見では、通訳がこの「忖度」をどう訳すか困ったというエピソードもありました。
“この日の籠池理事長は参院予算委員会での証人喚問に出席。長時間の尋問のあとにもかかわらず、疲れた様子を見せなかった。籠池理事長は記者会見で、問題になっている学校用地の売却について、安倍晋三首相の直接的な口利きはなかっただろうとしつつ、財務省の官僚が、安倍首相や昭恵夫人の「心を忖度した」のではないかと述べた。”
○ちーがーうーだーろー!
自民党の衆議院議員(当時)の豊田真由子氏が50代の男性元秘書に対し発したとされる暴言のひとつ。週刊誌により音声が暴露された数々の暴言は世間に凄まじいインパクトで、暴言だけでなく暴行も行っていたことが明らかになり、猛批判を浴びた豊田議員は自民党を離党。その後の衆議院総選挙では落選となりました。
“「このハゲーーーーっ!」「ちーがーうーだーろーーっ!」「お前は頭がおかしいよ!」「これ以上、私の評判を下げるな!」「お前、死ねば?」 聞くに堪えない絶叫が響く。秘書が運転する車の中で、豊田氏と思われる女性が発した言葉だ。「すいません、叩くのは…」と秘書が懇願するも、続いてボコッボコッと殴るような音。記事によると、秘書が支持者に送ったバースデーカードの宛先と名前に誤記があったようで、豊田氏はそれに怒っているということのようだ。”
○刀剣乱舞
「艦これ」に端を発する擬人化ブームの中でも特に人気となったのが「日本刀」を美男子に擬人化した「刀剣乱舞」(とうらぶ)。PC向けブラウザゲームとして「艦これ」のDMMが開発・運営、ゲームメーカーの「ニトロプラス」が世界観・シナリオ・キャラクターデザインを担当しています。その人気によりアニメ化、ミュージカル化など展開されただけでなく、美術館などで開催された本物の日本刀のイベントにもファンがおしかける「日本刀ブーム」も巻き起こしました。
“刀剣乱舞とは?DMM GAMESとニトロプラスが共同で開発したPCブラウザ・スマホアプリゲーム。世界で誇れる日本刀の歴史には、「名剣」と噂される歴史に名だたる刀剣が登場するが、この刀剣が擬人化され、実際に刀を持つ戦士となり隊を結成して闘っていくゲーム。2015年1月に開始されたサービスだが、たった一週間程度で、初期サーバーが収容できる上限に達してしまった程の大反響のようだ。”
○働き方改革
“ 安倍首相が、安倍政権の最重要課題の一つとしているのが「働き方改革」です。最重要課題の一つとしている理由として、これから少子高齢化が進み、増えていく社会保障の対策のためにも生産性を上げることが急務とされることを挙げています。”
“日本政府は働き方改革が、かねてから推奨しているダイバーシティー・マネジメントの推進につながることも期待しているようです。改革により多様な働き方が可能になれば、これまで家事や育児で労働に参加できなかった女性の社会進出も活発になると予想されます。「2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という政府目標も発表されているように、男性はもちろん、女性自身へも女性の働き方や仕事に対する意識の変革が求められています。”
○ハンドスピナー
“正式な名称はなく、「フィンガースピナー」「フィジェットスピナー」とも呼ばれる。羽の枚数や形状にはさまざまなパターンがあるものの、基本的な遊び方は極めてシンプル。中央部を指で挟み、回すというものだ。中央部の周辺にはベアリング(軸受け)が搭載されており、1度回すとなかなか止まらない。”
○ひふみん
プロ将棋棋士加藤一二三九段の愛称。数々のタイトルを獲得した名棋士であると同時に、そのキャラクターが愛され人気者に。今年現役を引退し、バラエティ番組やCMなどに引っ張りだことなりました。
“加藤氏は昭和29年、当時史上最年少の14歳7カ月でプロ入り。昭和33年、これまた史上最年少の18歳でA級八段に昇進し、「神武以来の天才」と呼ばれました。タイトル戦獲得は名人、十段、王位、棋王、王将の計8期。平成29年6月、77歳で引退するまで62年10カ月にわたる棋士生活を送り、通算勝ち数1324勝(歴代3位)、通算負け数1180敗(歴代1位)を記録。平成28年12月には、14歳2カ月の史上最年少でプロ入りした藤井四段のデビュー戦で対戦し、62歳差という年齢差の公式戦としても注目を集めた。”
○フェイクニュース
いわゆる本当でない、「嘘のニュース」のこと。SNSを利用して嘘ニュースを流すことで世間を混乱させたりお金を儲ける人が続出、トランプ大統領も言及するなど、世界的な問題となりました。
○藤井フィーバー
“6月26日、デビュー以来負けなしの将棋の最年少プロ棋士・藤井聡太四段が29連勝を成し遂げた。14歳にして前人未到の快挙に世間は大いに沸き、対局中に食べる食事のメニューまでもが大きく報じられるなどマスコミ報道も加熱する一方といった状態に。”
○プレミアムフライデー
“経産省、経団連などが仕掛ける「プレミアムフライデー」が2月24日から実施される。月末の金曜日15時に早く仕事を終えて買い物や旅行など、日常よりちょっと豊かな時間を過ごそうという取り組みだが、まだどのくらいの人が休みを取得でき、どんな盛り上がりを見せるのか見えない部分も多い。”
○ポスト真実
もとは海外の言葉で「post-truth」といい、英国のメディアが2016年の流行語大賞に選んだ言葉です。上記の「フェイクニュース」や、「Alternative Facts」(代わりの真実)と言った言葉とともにセットとして使われることもありました。嘘のニュース(フェイクニュース)が飛び交い、政治家が苦し紛れに「あれは嘘ではない、別の視点から見た真実(オルト・ファクト)だ」と言う時代になり、人々は「何が真実なのか」を見極めることなく、「自分にとって真実と感じたもの」を信じるようになります。それが「ポスト真実」(次の真実、後の真実、とでも訳すべき?)です。ちょっと乱暴な言い方ですが、世間で流れていることが本当に真実かどうか検証することなく「みんなが言ってるし、俺もそっちのほうがいいし、ほんとなんでしょ」となってしまう空気のこと。
“Post-Truthという新語は、英語辞書の老舗オクスフォード大学出版局が選ぶ「今年の流行語」2016年大賞を射止めた。実は訳が難しい。「ポスト真実」と直訳してもピンとこないが、英国の国民投票による「EU(欧州連合)離脱」や、トランプが逆転勝利した米大統領選で、ネット空間を無数のデマ、偽ニュースが乱舞したあげく、誰もが仰天する予想外の結果が飛び出したことからおよそのイメージがつかめる。難しいのは接頭辞のpostの意味が拡張され、「〜の後」だけでなく「パラダイムが変わり従来の意味が損なわれた」というニュアンスを含んでいるからだ。ユビキタス(遍在)化したスマートフォンの液晶画面で虚実の境が失われ、すべてが情報のエントロピーに覆われていく世界では、デモクラシーもこの流砂現象から免れられない。そんな「衆愚」政治のミリュー(環境)を示すのが、Post-Truthという新語なのだ。”
“昨年、海の向こうのトランプ大統領が使った「ポストファクト主義」という言葉が注目を集めた。「ポスト真実」とも言うらしい。無数のあらゆる情報が飛び交う現代においては、「真実かどうか」よりも「それに対する感情や、個人的な意見」のほうが影響力を持っている、という意味の言葉だ。”
ひとつの例として、解散したSMAPのメンバーの中で、キムタク以外は全員事務所を出ると言われていたのに中居くんが残ったことに対してのファンの憶測、それが「ポスト真実」ではないか、するものです。
“これを受け、ネット上ではSMAPファンによるさまざまな声が飛び交っている。その内容は「中居がジャニーズ事務所の人質に取られた」あるいは「中居は本当のSMAPを取り戻すためにあえて残留した」といったものだ。これらは、ファンの一方的な願望でしかなく、“ポスト真実”というべきものだろう。”
○魔の2回生
「魔の2回生」とは阿部政権下で当選した2期目の議員を言います。流行語大賞にもエントリーされたパワハラ暴言の豊田真由子議員、女性問題の中川俊直議員、金銭トラブルの武藤貴也議員、ゲス不倫の宮崎謙介議員などなど、当選2期目の議員が次々とスキャンダルを起こしたことから、こう呼ばれるようになりました。
“民主党の失政に対する批判の嵐が吹きまくった2012年総選挙で大量に当選した自民党の2回生議員たちは、当選後に研鑽を積む機会をほとんど与えられず、いつの間にか議員特権と権力を当然と考えるようになってこの国の政治を狂わせている。”
“「不倫はあくまでプライベートな問題だが、2回生にこれだけ問題が出てくるのは、多くの遊ぶ時間があるからでしょう。議員数が多いから国会質問もなかなか回ってこない。自民党は毎朝8時から部会を開いて政策を討議しているが、出欠は自由で、秘書を代理出席させることもできる。お金はあるし、勉強より遊ぶ方が楽しい。そうして『魔の2回生』が生まれたのでしょう」”
○●●ファースト
小池百合子氏が立ち上げた「都民ファーストの会」が都議選で圧勝を収めましたが、実はこの時、小池氏とは全く関係ないところで「○○ファーストの会」が複数あったのをご存知ですか?
“ ※「諸派」として扱われている政治団体(50音順) / NHKから国民を守る党 / 環境党 / 希望ファーストの会 / 行革110番 / 区民ファーストの会 / 幸福実現党 / 国民ファーストの会 / 地方議員ゼロの会 / 都政を革新する会 / 日本第一党”
都内だけでなく、こういった「○○ファーストの会」が全国に乱立したそうです。また、「○○ファースト」の「ファースト」には「第一主義」という意味もあります。これはトランプ大統領が「アメリカ・ファースト(アメリカ第一主義)」を唱えたことによるものでしょう。というより、都民ファーストの会よりも、こっちが先かも…。例えば仕事よりも自分の時間や生きがいを優先する「自分ファースト」といった使い方ですね。
“トランプ新大統領は就任演説で「今日、アメリカ合衆国は皆様アメリカ国民の国になる日です。私たちは未来だけを見据えて行きましょう、アメリカ第一主義(アメリカ・ファースト)です。イスラム過激派のテロリズムを根絶させます。これからは行動のときです、私たちの国は再び繁栄するはずです。皆さんは、このあと決して無視されることはありません。私たちはアメリカを再び偉大にするのです」と述べた。”
○ユーチューバー
今や子どものなりたい職業(?)第一位の「ユーチューバー」。今やテレビタレント並、あるいはそれ以上の知名度や収入を手にするスターが出現する一方で、話題になりたいがために倫理や法律を破る人も出てきて、社会問題となりました。また、元SMAPの草なぎ剛が宣言した「ユーチューバー草なぎ」もそのものすごい語感のインパクトでネットで話題となりました。
“【田原】鎌田さんはユーチューバーの会社をやってらっしゃいますね。そもそも、ユーチューバーってどういう人ですか。 【鎌田】ざっくりいうとユーチューブで活動をしている人。狭くいうと、その活動で食べている人ですね。動画が再生されることで広告収益が立ち、企業さんからうちの商品を紹介してくれという依頼もあります。それで生活している人がユーチューバーです。”
○ワンオペ育児
“最近、共働き夫婦のワーキングマザーが、長時間労働や単身赴任等で夫が不在になることで、家事も育児も一人でこなさなくてはならない状況を「ワンオペ育児」と呼び、社会問題になっています。 
 
2018(平成30)年 

 

そだねー
ロコ・ソラーレ / オリンピックの競技観戦で、癒されるということがこれまであっただろうか。氷上のチェスといわれるカーリング。研ぎ澄まされた頭脳と技術で削り合う攻防戦のなか、選手の間でいったいどれほど緊迫した議論が交わされているのだろうと耳を傾けると、聞こえてくるのは「そだねー」の声。休憩時間にはピクニックともみまごう円になっておやつを食べる「もぐもぐタイム」。このことばが日本にあたたかな風を吹き込んた。不寛容な時代といわれSNSでの反応を過剰に気にして疲弊する昨今、オリンピック平昌大会で銅メダルを獲得したトップアスリートから発せられるのんびりとしたやりとりはほっとするひと時をもたらしてくれた。マイペースで仲間を尊重し合いながらスペシャルな結果を出す、平成世代の実力を見せつけてくれた。
eスポーツ
一般社団法人日本eスポーツ連合 / エレクトロニック・スポーツの略で対戦型ゲームをスポーツ競技としてとらえる名称。簡単に解釈すると、小学生が友だちの家で集まってサッカーゲームをしたり格闘ゲームをしたりするスポーツジャンルのコンピューターゲーム。プレーヤーもリアルな場所に一堂に会し、観客も会場へ足を運びモニターを見ながら応援する。数億円稼ぐプロ選手もおり、夏に開催されたアジア競技大会の公開競技で金メダルを獲得した日本人選手も現れた。国際オリンピック委員会がオリンピックでの採用を検討しているという。
(大迫)半端ないって
受賞者辞退 / 2018年FIFAワールドカップロシア大会初戦、コロンビアとの対戦で前半1対1で迎えた後半28分、大迫勇也選手がヘディングシュート、見事な決勝ゴールを決めた。この瞬間、スタジアムそしてテレビの前のファンの間で轟いたのが「大迫半端ないって」。大迫選手が鹿児島城西高校の選手だった2009年、全国高校サッカー選手権準々決勝で対戦した滝川第二高校の主将が、負けたときにロッカールームで大迫について話したときの表現。悔しさで涙しながらも、大迫選手の秀でた技術力とパフォーマンスを的確に表現し敬意あふれたこのことばには、サッカーファンでなくても納得させられた。
おっさんずラブ
テレビ朝日ドラマ制作部「おっさんずラブ」チーム / 平成最後の2018年、なんとおっさんが主役でしかも、お相手もおっさんという設定の純愛ドラマが地上波で放送され人気を集めた。女性に押されっぱなしの男性が切り開いた新しい世界、それがちょっとダメで優柔不断なかわいい男子とのオフィスラブ。いわゆる視聴率ではなくSNS上での盛り上がりを表す「視聴熱ランキング」ではドラマ部門でベスト2にランクインしたほどのブームとなった。現実の少し先をいくのがドラマだ。男女いりまじっての真剣恋愛に、国会議員による「LGBTは生産性がない」の妄言は完全に霞んでくる。
ご飯論法
上西 充子さん(法政大学キャリアデザイン学部教授)/紙屋 高雪さん(ブロガー・漫画評論家) / 裁量労働制に関する国会審議の中で加藤厚生労働大臣が行った、論点をすり替えたのらりくらりとした答弁をさして広まったのがご飯論法。加計学園問題で5月に参考人招致された柳瀬唯夫元秘書官、同じく加計学園問題について答弁する安倍晋三首相、森友学園問題で証人喚問に立った佐川宣寿前国税庁長官、その他巨大看板問題で追及を受ける片山さつき議員など、この「ご飯」は赤坂自民亭のメニューにあるのだろうか。さらに今年は「記憶にございません」の次世代フレーズ「刑事訴追の恐れがありますので差し控えます」も多用され、国民をあきれかえらせた。
災害級の暑さ
気象庁 / 7月23日、埼玉県熊谷市で41・1℃とこれまでの最高、高知県四万十市の41・0℃を超える観測史上最高を記録したほか、東京都青梅市、山梨県甲府市、岐阜県多治見市でも40℃以上となった。この事態に気象庁が行った記者会見で発せられたのが「災害という認識」のことば。このことばが国民の暑さに対する心構えを変えた。熱中症対策を我が事としてとらえ「不要不急の外出」かどうかを考えるようになり、政府は公立小中学校のエアコン設置に動いた。一方、極めて激しい豪雨に見舞われた年でもあった。西日本から東海地方を中心に広い範囲で数日間大雨が続き広島県を中心に大きな被害が発生。気象庁が「命に危険を及ぼす暑さ」「ただちに命を守る行動をとってください」と、予報だけでなく行動を促す役割も担うようになった年だった。
スーパーボランティア
受賞者辞退 / 赤い作業着に赤い鉢巻がトレードマーク、困難に見舞われている人がいると自前の救助車で駆けつけ支援活動を行う尾畠春夫さん当時78歳、人は彼をスーパーボランティアとよぶ。注目をあびたのは8月、山口県で行方不明になっていた2歳の男の子を捜索し68時間ぶりに無事保護したという報道から。県警が連日100人規模で捜索してもみつからず焦りの色が出始めていたところでのビッグニュースに日本中が喝采した。尾畠さんは一人で登山道を補修したり全国の被災地支援を行ったり、長期にわたりボランティア活動を行い、若者ボランティアからは「師匠」と尊敬を集めているということだ。
奈良判定
受賞者なし / 格闘技のルールには判定での勝ち負けがある。今年はルールにはない判定「奈良判定」が話題になった。2016年の岩手国体において日本ボクシング連盟の山根明前会長の影響力で審判が奈良県の選手を優遇していた疑惑が明るみに出たのだ。2018年のスポーツ界は揺れに揺れた。レスリング女子の監督パワハラ問題に始まり、日本大学アメリカンフットボール部による悪質タックル問題、日本体操協会のパワハラ騒動、相撲界では昨年からの暴行問題も収まらないままに一代年寄の貴乃花親方が退職、相撲部屋が一つ消滅した。昨年は政治の世界から忖度という流行語が生まれたが、今年スポーツの世界から生まれた「奈良判定」。このことばは暴力的な体質と忖度を合わせたスポーツ界の時代錯誤的な部分を象徴することばとして「いや〜な」印象を残した。
ボーっと生きてんじゃねーよ!
NHK番組「チコちゃんに叱られる!」チコちゃん / 番組に登場するやけに頭の大きな不思議な動きをする女の子、チコちゃんは5歳だという。5歳というと「なぜ?」「どうして?」といちいち質問してくるお年頃。そんな子どもにきちんと正しく説明できたことがこれまであっただろうか。このごまかし続けてきた大人の怠慢を正すべく、チコちゃんは5歳児代表として素朴な疑問をぶっつけ、浅い回答でお茶をにごそうとする大人に喝を入れるのだ。スピード重視の昨今、ネットニュースだ、やれSNSだであふれかえり、どんな疑問も「OK Google」と問えば数秒で答えを教えてくれる便利さにどっぷりと浸かって毎日を送っている人、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と一喝してもらわねばなるまい。
#MeToo
私も#MeTooと声を上げた全ての人 / アメリカの有力新聞ニューヨーク・タイムズと雑誌ニューヨーカーがハリウッド映画界の大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏らのセクハラ疑惑を報道するやいなや、ハリウッドにとどまらず性被害を告発する女性が続々と現れた。これが「#MeToo」運動となって一気に世界に広がった。その頃日本では、財務次官による女性記者へのセクハラ問題で政府や関係閣僚の誠意なきズレた対応が世間にさらされた。麻生副総理の「セクハラ罪という罪はない」という発言が物議をかもした。これを受け、政府は閣議では「セクシュアル・ハラスメントとして処罰する旨を規定した刑罰法令は存在しない」と答弁書を決定した。男性と女性のセクハラに対する意識の違いを浮き彫りにしたこの問題、声を上げた一人に社会全体で、この声を受け取れる努力も必要なのかもしれない。
ノミネート語
○あおり運転
○悪質タックル
○eスポーツ
○(大迫)半端ないって
○おっさんずラブ
○GAFA(ガーファ)
○仮想通貨/ダークウェブ
○金足農旋風
○カメ止め
○君たちはどう生きるか
○筋肉は裏切らない
○グレイヘア
○計画運休
○高プロ(高度プロフェッショナル制度)
○ご飯論法
○災害級の暑さ
○時短ハラスメント(ジタハラ)
○首相案件
○翔タイム
○スーパーボランティア
○そだねー
○ダサかっこいい/U.S.A.
○TikTok
○なおみ節
○奈良判定
○ひょっこりはん
○ブラックアウト
○ボーっと生きてんじゃねーよ!
○#MeToo
○もぐもぐタイム  
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。