蓮如

蓮如1蓮如2蓮如3越前国吉崎御坊白骨御文章蓮如文集北陸布教光徳寺
蓮如上人御一代記聞書・・・
蓮如の時代 / 蓮如の生涯三河布教応仁の乱松平一族大樹寺山科本願寺松平信忠
諸説 / 蓮如上人の生涯蓮如上人の化風口伝の蓮如節談説教に見る蓮如
 

雑学の世界・補考   

蓮如1

(れんにょ) 室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた。  
年齢は、数え年。日付は、「御文」(「御文章」)などの文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。
応永22年2月25日(1415年4月13日)、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。幼名は「布袋丸」。
応永27年(1420年)、蓮如6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
永享3年(1431年)、17歳。青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を「中納言兼壽」と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院の門跡経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ「浄土文類聚鈔」が、蓮如の書写になる現存最古のもの。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲る(巧如は4年後の永享12年10月14日(1440年11月17日)に示寂)。
嘉吉2年(1442年)、第1子(長男)順如誕生。文安4年(1447年)、父と共に関東を訪ねる。宝徳元年(1449年)、父と北国へ布教。享徳4年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼示寂。長禄元年(1457年)6月17日、父も示寂、本願寺第8代を継職。留主職継職にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
長禄2年(1458年)8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年)1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌1月9日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。
応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼示寂。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼示寂。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派を継ぐ筈だった経豪が蓮如に帰順。蓮如から蓮教という名を与えられ、改名する。文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺の落成。長男順如示寂。
文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼示寂。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。
明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日)、山科本願寺において85歳で示寂。
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。  
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた「御文」(「御文章」)を中心に行なわれた。後に蓮如の孫、円如がこれを収集して五帖80通(「五帖御文」)にまとめた。これに含まれない消息は「帖外御文」と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。
文明5年(1473年)3月、吉崎で親鸞の「正信念仏偈」(「正信偈」)「三帖和讃」を開版し、門徒たちの朝夕の勤行に用いるよう制定した。
また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた。
その他の著作に「正信偈大意」「正信偈証註釈」、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」とも)などがある。
また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として「蓮如上人御一代記聞書」(「蓮如上人御一代聞書」)全316箇条が残されている。
 
蓮如2

 

蓮如本願寺教団「中興の祖」で稀代の宗教オルガナイザー
日本における今日の浄土真宗隆盛の礎をつくり、浄土真宗の本願寺教団の「中興の祖」といわれる蓮如は、稀代の宗教オルガナイザーだった。蓮如の目的はただ一つ、いかに仏の道を深く踏み分けるかではなく、いかに信徒を増やすか−にあった。彼には資金も伝手(つて)もなかった。あるのは繁盛する同門の寺々の存在だった。宗祖・親鸞は教義を何よりも重視し、教団運営はもとより、教団をつくることにすら否定的な人物だった。ただ、弟子、孫弟子、またその宿り木弟子たちが大勢いて、彼らが皆“親鸞ブランド”をかざして繁盛寺を構えていた。繁盛の原因は、難解な教義を説く態度はきれいに棄て、「いかに簡単に目的の幸福を手に入れるか」に変えてしまったところにあった。 こうした現状を見据え、蓮如はいかに本願寺教団の信徒を増やすかに焦点を絞り、その布教戦略を立案、実践していった。それは・“親鸞ブランド”を最大限に活用する・民衆の拝“権威”意識を巧みに利用する・教義より民衆の現世利益意識に応える・「御文」で宗祖・親鸞の教義を説き、布教を積極化する・世の“金取り寺”とは差別化、独自化路線を打ち出す・宗祖・親鸞が厳禁とした「講」をも奨励する−などだった。 民衆は誰しも死後、極楽浄土へ行きたいと願っている。さしずめ民衆はトラベル会社に極楽行きの切符購入を頼むお客なのだ。とすれば、客にしてみれば相手の会社が、経営基盤がしっかりしているという証がほしい。そこで、切符代を高くして客を圧倒し権威付けることによって安心させるのだ。困ったことに、民衆は高いものの方が、質が高いとすぐ錯覚する。となると、肩書きのあるブランド品=親鸞ブランドが最大限に威力を発揮するというわけだ。 寺はあの手この手で人を集める。集まる人々は、しかしすぐ死ぬわけではない。取られる献金に対して、何かの手ごたえが要る。最初は死の恐怖克服のためだった宗教が、現世利益的に変わっていってしまった。そこで蓮如は、一念して仏に帰依すれば、すなわちこのとき己が仏に成る−と説く。最後には、あなた自身が仏や親鸞聖人と同格ですよ−と目一杯、精神面をくすぐるのだ。 また、蓮如は「御文」で親鸞の教えを分かりやすく説くことも積極的に実践した。献金競争をして後生を僧に任せるのではなく、あの清廉な親鸞の精神に戻り、自分自身が積極的に学ぼう−と説いたのだ。親鸞の思想の正統を、誰でも容易に身につけられる方法を考え出した。それが、この「御文」だった。 蓮如は数々の御文の中で、すべての念仏者は死んで極楽浄土で永遠に生きられることを教えている。そして蓮如は、極楽往生までのこの世の生活を、どのように過ごしたらよいか、政治的・社会的・宗教的などあらゆる角度から説いている。また極楽往生と現世利益の願いは矛盾するものではなく、念仏一つで同時に叶えられることも力説しているのだ。本願寺教団は、御文の精神を守ることによって、蓮如の存命中はもちろん、没後今日まで大過なく繁栄の道を歩むことができたのだ。 こうして蓮如は参詣の人一人もなく、寂れていた本願寺を「極楽浄土のようだ」といわれるほどに発展させた。親鸞が残してくれた思想によって救われた御礼すなわち御恩報謝(ごおんほうしゃ)を、弥陀と親鸞に対して果たすために、全生涯を捧げ尽したのだ。 蓮如は本願寺第七代目法主(ほっす)、存如の第一子として京都・東山大谷で生まれた。幼名は布袋丸、法名は蓮如。院号は信證院、諱は兼壽、諡号は慧燈大師。蓮如上人と尊称された。蓮如の生没年は1415(応永22)〜1499年(明応8年)。 蓮如は本来、父の跡を継いで本願寺の法主の座に就くことは望めない境遇だった。実母が本願寺に仕える下女だったためだ。そして、この実母は蓮如が6歳のとき身を引き、姿を消してしまう。したがって、蓮如の幼・少年時代は、父・存如の正妻である継母との心理的相克があり、そして第八代目法主になるまで、貧苦のどん底生活など筆舌に尽くし難い、43年間にわたる“忍従”体験がある。そんな体験によって培われた精神的なタフさが、蓮如のその後の長期にわたる粘り強い布教活動を可能にしたのだ。 蓮如は長い部屋住み生活を経験しているだけに、腰が低い。他人の心の動きが読める。勧誘するには相手のどこを衝かなければならないか?を肌で感じるというわけだ。彼は布教の天才だった。 蓮如は85年の生涯で如了、蓮祐、如勝、宗如(いずれも死別)、蓮能の5人の妻を娶り、合わせて27人(13男・14女)の子供に恵まれた。それだけに、子供の養育には苦労したが、その子供たちが成人して教団の統制に大いに役立った。 
 
蓮如3
蓮如上人は、応永22年(1415)に本願寺第七世存如上人のご長男として京都にお生まれになりました。母上は蓮如上人が6歳の時に事情があって本願寺を去られました。その時の形見として持っていかれたのが有名な「鹿子(かのこ)の御影」です。
永享3年(1431)、蓮如上人は天台宗門跡寺院の青蓮院において得度をされました。当時の本願寺は経済的に苦しい不遇の時代でしたが、蓮如上人は父・存如上人について、宗学の研鑽を積まれ、また、近江・北陸での教化を助けられました。東国の親鸞聖人の御旧跡へも歴訪されました。
長禄元年(1457)本願寺第八世を御継職されると、近江の教化につとめます。蓮如上人は、「御文」による文書伝道や名号の精力的な下付など、独自の布教活動を展開され、それによって本願寺の教線は大きく伸展しました。しかし、比叡山延暦寺衆徒の本願寺破却に遭い、親鸞聖人の御真影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とされます。文明3年(1471)、ようやく越前吉崎に坊舎(吉崎御坊)を建立されるに至りました。吉崎御坊にはまたたく間に多くの参詣者がつめかけるようになり、その周囲には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒をつらねて、吉崎は一大佛教都市になりました。
しかしながら、吉崎御坊に人々が集まれば集まるほど、周囲の権力者や他宗との間に軋轢が生まれます。そういった状況をおさえるため、蓮如上人は、文明7年(1475)吉崎を後にされました。
その後、蓮如上人は、摂津・河内・和泉に布教されます。河内国出口では御坊を建立しますが、すぐに参詣者であふれるようになり、門徒の間には皆で聞法できる御堂の建立を望む声が広がります。そして文明13年(1481)、京都・山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、蓮如上人はついに本願寺の再興を果たしたのでした。「寺中は広大無辺、荘厳ただ佛国のごとし」と言われた山科本願寺の建立以後、真宗他派が相次いで多くの門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な教団へと発展しました。蓮如上人は延徳元年(1489)隠居されますが、明応5年(1496)には大坂石山に坊舎を建て、山科との間を往復して、晩年も教化の手を休められませんでした。明応8年(1499)、山科本願寺で多くの弟子や門徒たちに見守られる中、蓮如上人は85年のご生涯を終えられました。今日の本願寺教団の基盤を築かれた蓮如上人は、まさに「浄土真宗開立(かいりゅう)の祖」と言えるでしょう。
 
越前国吉崎・吉崎御坊

 

応仁の乱によって始まった戦国時代は、まさに火宅無常の末法の世でした。荒廃した世相の中、人々の心に平安をもたらし、日本人の精神を昂めた一人の偉大な宗教家が誕生しました。その名は、本願寺第八代法主・蓮如上人。本願寺をわが国最大の教団へと押し上げた浄土真宗開立の祖であるとともに、中世から近世への扉を開いて、わが国の精神文化の礎も築いたのです。
その出発点となったのがここ、越前国吉崎の地に蓮如上人が建立した吉崎御坊でした。上人が高揚した教えと精神は、燎原の火の如く、瞬時にして北陸の大地に広まり、全国へ波及します。しかし、それ以前の本願寺は京都東山にあって、ご開山親鸞聖人の血脈を受け継ぐものの、「人跡絶え、さびさびとおわします」という微々たる存在に過ぎませんでした。上人の代となり、興隆の兆しが見え出したとき、比叡山の攻撃を受け、堂宇を破却されてしまいます。滋賀県大津の三井寺に頼って一時の安住を得た上人ですが、比叡山の弾圧は執拗に続きました。意を決した上人は、遂に都から遠く離れた越前吉崎を布教の新天地に選びます。時に文明三年(一四七一)、宗教家としての生死を懸けた齢五十七の決断でした。
吉崎は越前と加賀の国境にあり、三方を日本海と北潟湖に囲まれた丘陵地でした。上人は「虎狼の住処」と述懐されましたが、水運の要であり、要害としても優れた条件を備えていました。通称「御山」と呼ばれる台地に築いた坊舎を拠点に、上人は積極的な教化を再開します。それは、宗教界の風雲児たるにふさわしい先見性を持った内容でした。
まず、文書伝道として門徒たちに宛てた手紙「御文」の大量作成、信心の集いである講の結成、名号の下付、さらには、ルターの翻訳聖書開版に先立つこと半世紀となるご開山親鸞聖人の「正信偈」「和讃」の木版印刷など、実にエネルギッシュな布教活動です。この獅子奮迅の活躍により、吉崎は「道俗男女幾千万という数を知らず群集せしむる」繁盛をします。吉崎に上人が到着して僅か三ヶ月後のことでした。ここに、日本の歴史上一大奇跡とも言える「蓮如ブーム」がほんの三ヶ月の間に沸き起こったのです。お念佛の大合唱が、北陸の津々浦々に地鳴りの如く、響き渡ったことでしょう。どの村でも上人の話題で持ちきりだったに違いありません。吉崎へ参詣する若嫁を、姑が鬼の面を付けて脅かしたという話で、人形浄瑠璃にもなった「嫁脅し肉付きの面」、地元で今も語り継がれる民話「吉崎七不思議」などもこうした「蓮如ブーム」が背景にあったのです。雲霞の如くの群参に御山は、かつてない繁栄を誇ります。御坊の周辺は参詣者の宿泊施設となった「多屋」と呼ばれる宿坊が建ち並び、その中央に馬場大路というメーンストリート、南大門から七曲がりを降りたところには、船による参詣の船着き場ができました。こうして、無人だった山が一気に大都市、寺院を中核とした寺内町に変貌したのでした。
当時の民衆を魅了し、その心を捉えて離さなかった上人。その教えはどのようなものだったのでしょうか。
もちろん、ご開山親鸞聖人のお念佛の教えを受け継ぎ、阿弥陀佛のお力を信じ、安心してみ佛のお助けにお任せする「他力の信心」だったことは言うまでもありません。親鸞聖人、蓮如上人の血脈と法統を受け継ぐ大谷暢順本願寺御法主台下は、上人のその画期的な教学の解釈、思想を「蓮如イスム」と呼び、日本人の精神に新たな局面を開いたと説きます。
上人の「御文」の中に「和光同塵」と言う言葉があります。諸佛が日本の神々となって私たちの前にあらわれる、すなわち、神佛習合を説いたわが国独特の佛教思想「本地垂迹」に則り、阿弥陀佛を拝む信心を第一義、最も大切としながら、その行為によって神も敬うことになり、その祝福を受けると説いたのです。現代世相の諸問題にも通じる他の宗教、文化を否定、排除しないこの多様性、寛容性が、戦乱に明け暮れる人々の心を潤したのです。
また、上人は信心を持ちつつ、世間の法律も守る、まず、佛法に生きながらも、その佛法に裏打ちされた世の中の道理、規範も考えていこうとも説きました。それと同時に、人間は罪深いが阿弥陀佛はその罪を全て消してくれる、しかし、罪が消えたかどうかの問題ではなく、常に罪を犯す私に他人は様々な恩を施してくれる、そして、その奥にみ佛がおられる、み佛はもちろん、他の人間の恩にも気付きなさいとも指摘したのです。ここに、純粋化され過ぎた鎌倉佛教を、上人が独自の思想をもって、より民衆の生活に近づけたところに偉大さがあり、その思想によって、中世から近世への扉を開く新たな精神文化が育まれたのです。
民衆がお念佛の教えに出遇うことだけを一心に望んだ上人でしたが、吉崎の急速な発展は現地の勢力関係に不安定を生じます。上人はそのため、御坊の門を閉じ、参詣を禁じる英断を下すなど、再三にわたって不穏な動きを制止するものの、応仁の乱によって、天下が二分された東軍西軍の対決、加賀の守護・富樫一族の内紛に巻き込まれて、一向一揆の蜂起へと世は変貌してゆくのでした。
上人はついに文明七年(一四七五)、断腸の思いで吉崎を退去し、都へ戻ります。上人滞在僅か四年の間に北陸はもとより、わが国有数の大都市が「虎狼の住処」だった辺地に出現したのでしたが、上人の帰都によって、また、忽然と姿を消してしまいます。それはまるで蜃気楼のような歴史現象だったと言えます。しかし、上人が残したお念佛の教えは枯れることなく、大輪の花を咲かせ続けました。そして、上人は「佛国土」と驚嘆された大坂の石山本願寺、京都の山科本願寺などを次々と建立し、八十五歳の生涯を終えるまで人々の心にお念佛の火をともし続けたのです。  
 
白骨の御文章

 

親鸞聖人のみ教え(浄土真宗)を、正確に、全国津々浦々にまで弘められた蓮如上人(1415-1499)は、「浄土真宗中興の祖」と仰がれています。数多く書き残されたお手紙から、八十通が編纂された「御文章」の中でも有名な「白骨の章」(五帖目十六通)は、上人七十五歳の時に書かれました。
当時、山科本願寺(やましなほんがんじ)の近くに青木民部(みんぶ)という下級武士がいました。十七歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃えたのです。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまいます。火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、五十一歳で急逝。度重なる無常に、民部の妻も翌日、三十七歳で愁い死にしてしまいました。
その二日後、山科本願寺の聖地を財施した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の十七歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聞き入れられ、「白骨の御文章」を著されたのです。 
白骨ノ御文章      蓮如兼壽
夫(ソレ)人間(ニンケン)ノ浮生(フシヤウ)ナル相(サウ)ヲツラツラ觀(クワン)スルニオホヨソハカナキモノハコノ世(ヨ)ノ始中終(シチウシユ)マホロシノコトクナル一期(井チコ)ナリサレハイマタ万歳(マンサイ)ノ人身(ニンシン)ヲウケタリトイフ事(コト)ヲキカス一生(井チシヤウ)スキヤスシイマニイタリテタレカ百年(ヒヤク子ン)ノ形躰(キヤウタイ)ヲタモツヘキヤ我(ワレ)ヤサキ人(ヒト)ヤサキケフトモシラスアストモシラスヲクレサキタツ人(ヒト)ハモトノシツクスヱノ露(ツユ)ヨリモシケシトイヘリサレハ朝(アシタ)ニハ紅顔(コウカン)アリテ夕(ユフヘ)ニハ白骨(ハクコチ)トナレル身(ミ)ナリステニ无常(ムシヤウ)ノ風(カセ)キタリヌレハスナハチフタツノマナコタチマチニトチヒトツノイキナカクタエヌレハ紅顔(コウカン)ムナシク變(ヘン)シテ桃李(タウリ)ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ六親眷屬(ロクシンケンソク)アツマリテナケキカナシメトモ更(サラ)ニソノ甲斐(カヒ)アルヘカラスサテシモアルヘキ事(コト)ナラ子ハトテ野外(ヤクワイ)ニヲクリテ夜半(ヨハ)ノケフリトナシハテヌレハタヽ白骨(ハクコチ)ノミソノコレリアハレトイフモ中(ナカ)々ヲロカナリサレハ人間(ニンケン)ノハカナキ事(コト)ハ老少不定(ラウセウフチヤウ)ノサカヒナレハタレノ人(ヒト)モハヤク後生(コシヤウ)ノ一大事(井チタイシ)ヲ心(コヽロ)ニカケテ阿彌陀佛(ワアミタフチ)ヲフカクタノミマイラセテ念佛(子ムフチ)マウスヘキモノナリアナカシコアナカシコ 
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  
蓮如上人の「白骨の御文章」は、名文として知られています。浄土真宗の葬式・法事では必ず拝読されますから、聞いたことのある人も多いでしょう。
このお手紙には、「後生の一大事」が教えられています。仏教は後生の一大事を知り、その解決をすること一つを教えたものです。それはそのまま、人生の目的は、後生の一大事を知り、解決することだ、ということでもあります。
蓮如上人は冒頭で、人間の生きざまを「浮生なる相」とおっしゃっています。 
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり
私たちは、何かを信じなければ生きてはゆけません。一番信じているのは、命でしょう。明日も生きていると、信じています。それどころか、一ヵ月後も、一年後もあると思い、十年後の計画まで立てているのではないでしょうか。
夫は妻を信じ、妻は夫を信じる。親は子供を命にして、この子さえいれば老人ホームに入れられることはないだろう、面倒見てくれるだろう、と信じています。
また、世の中金だ、金があれば何でもできると、お金を力にする。「地獄の沙汰も金次第」という言葉もあるくらいです。「不幸のほとんどは金で解決できる」と、菊池寛(近代の作家)は言いました。だからお金のためなら何でもします。どんなに恥ずかしいことでも、どんなに恐ろしいことでもするのです。
これだけ土地があるから、めったなことはなかろう。不動産があるから大丈夫だ。そんな人は、財産を頼りにしています。「私は社長だ」「ノーベル賞をもらった」と、地位や名誉を信じている人もいるでしょう。
問題は、信じていたものに裏切られた時、私たちは地獄に堕ちる、苦しまねばならない、ということです。あてにし、力にしていたものに捨てられた時、人間は不幸のどん底に落とされます。病気の人は、健康に裏切られたのです。それまで病気一つしなかった人が、突然病で苦しむこともあります。夫を亡くして悲嘆している人は、信じていた夫に裏切られたために、苦しんでいるのです。かつての大統領が、日本に亡命して、自分の国に戻れなくなった人もいます。
私たちは何かを信じなければ生きてゆけませんが、信じていたものに裏切られた時、不幸になるのです。
仏教では、人間は海に浮いているようなものだとたとえられています。近くに漂う丸太や板切れは、健康や妻、子供、お金、地位や名誉です。丸太にすがった時は、やれやれと思う。しかしそれらは浮いたものですから、やがてクリーッと回って、私たちを裏切ります。潮水のんで苦しまねばなりません。
「どうしても欲しい」と望んでいたものを手に入れても、その喜びは一時的です。受験生は大学に合格した時は、「やったぁ」と思うでしょう。胴上げされている時は夢見心地ですが、その感動が一ヵ月と続いたでしょうか。こんなもののために、一生懸命ねじり鉢巻きで勉強していたのか。バカバカしい。そんな心さえ出てきます。
そこで今度はまた別の丸太を求めて、苦しむのです。どこまでいっても苦しみ続けて、死んでゆく。そんな姿を、蓮如上人は「浮生なる相」とおっしゃっています。
禅僧・一休は「世の中の娘が嫁と花咲いて嬶としぼんで婆と散りゆく」
と言いました。娘が嫁と花咲いて、お母さんからお婆さんになってゆく。いつまでも娘でいたいと思っても、止まることはできません。男性は呼び方が変わるだけで、すべての人は、抵抗できない力でこのコースを進みます。
一休はまた、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
とも詠っています。「冥土」とは、死んだ後の世界、後生のこと。「冥土の旅」といわれているように、人生は旅であり、私たちは冥土に向かっている旅人≠ナす。
年が明けたならば、一年分、冥土に近づいたのです。死後がハッキリしている人、明るい世界に行ける人にとっては、めでたいことでしょう。しかし死後が暗い世界の人、苦しまねばならない人は、めでたくありません。元旦がめでたいか、めでたくないかは、死んだ後が明るいか暗いかで、分かれるのです。
旅人にとって最も大事なのは、行く先でしょう。どんなものを食べるか、どんな服を着るかより、もっと大事なのは目的地です。行く先がハッキリしていなかったら、歩く意味がありません。
歩けば歩くほど苦しいように、生きれば生きるほど、苦しみも多くやってきます。目的なしに生きていたら、苦しむために生きていることになってしまうでしょう。意味も目的もなく、最後死ぬために生きるのが人生ならば、なぜ人命は地球よりも重いと言われるのでしょうか。
目的のない人生は儚かったと、豊臣秀吉は言い残しています。農家に生まれ野原に寝転がっていた日吉丸が、太閤まで上りつめ、大阪城から天下を睥睨するようになりました。しかし辞世の歌は、次のようなものです。
「おごらざる者もまた久しからず露とおち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」
夢の中で夢を見ているような、儚い人生だった。あれだけのことをやった秀吉でしたが、人生の目的がわからずに生きる人生は儚かったと、臨終に知らされたのです。
蓮如上人は、目的のない人生は儚くないですか、目的なしに生きる人間の儚さを知りなさいよ≠ニまず教えられています。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや
これからの五十年といえば長いような気がしますが、過ぎ去った五十年はアッという間でしょう。五十年生きた、百年生きた、と言っても、大宇宙の歴史から見れば、アッという間です。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず
生まれたからには、いつか死なねばならないと、頭では分かっています。しかし「明日、自分が死ぬ」と思えるでしょうか。まさか今日や明日には死なないだろう、と安心しています。
しかし「明日死なないと思う心」は、「永久に死なないと思う心」です。明日も生きていられると思う心は、翌日になれば、また明日も生きていると思います。次の日には、また明日も死なないだろう、と思うのですから、腹底では、永久に死なないと思っているのです。それが本心です。
「鳥辺山昨日の煙今日もたつ眺めて通る人も何時まで」
鳥辺山とは、今日でいう火葬場です。その前を通る人が、いやあ昨日も煙が立っていたが、また煙が立っている。今日も人が死んだのか、と眺めています。しかし、いつまで眺めていられるのか。自分が焼かれて、他の人がその煙を眺める時が、必ず来るのです。
死ぬのは「人や先、人や先」と思っていないでしょうか。よく考えている人でも、「人や先、我や先」まででしょう。まず他人が死んで、それから自分が死ぬと思っているのです。しかし「我や先」ですよ、と蓮如上人は教えられています。自分が先に死んで、その次に他人が死ぬのです。
ごまかしを破って、徹底的に真実を明らかにしなければ、後生の一大事は分かりません。
おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり
お釈迦さまに、ある時お弟子が尋ねました。
「お釈迦さまは仏のさとりを開かれていますから、悩みはないのでございましょう」
するとお釈迦さまは、「私にはたった一つだけ、悩みがある」とおっしゃいました。どんな悩みか重ねて尋ねると、
「私の心には、雨が降るように、バタバタバタバタと人間が地獄に堕ちる様が映れるのだ。それを思うと悲しい。これだけが、私の唯一の悩みだ」と答えられました。
世界の年間死亡数は、八千万とも九千万ともいわれます。今日一日だけで、何万の死者が出ているかわかりません。時計の針がカッチンという間にバタバタと数人が死に、カッチンという間にまた数人死に、そこにいつか自分も入るのです。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり
主人が家を出る時は「行って来るぞ」と言います。「行って、帰って来るぞ」と言っているのです。「だからご飯を用意しておけよ、風呂もわかしておけよ」という意味も、含まれているのかもしれません。しかし、行ったきりで、帰って来れない。そんなことが、新聞やテレビで毎日報道されています。
東京で女子短大生が、日中に路上で男に刺し殺されました。電車も安心して乗れません。「少し奧へ詰めてくれないかな」と言っただけで、二十六歳の男性が殴殺されています。大阪では小学校に包丁を持った男が乱入し、八人の児童が犠牲になりました。
朝、家を出るときは、元気な紅い顔をしていたのに、夕方には変わり果てた姿になってしまうのです。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず
お釈迦さまは「出息入息不待命終」と、お経に説かれました。ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、まったく別のもののように考えています。
しかし、ふーっと吐いた息が吸えなかったら、吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、その時から後生です。一息一息に、生と死とが触れあっています。これほど近いものはありません。
「無常の風」とは、死の風です。手術で助かったと言っても、死が少し遅れただけで、やがて死ぬ時がきます。日本中の医者を集めても、看護婦をどれだけ集めても、どんな薬を使っても、無常の風を止めることはできないのです。
テレビなどで、遺体に身内の人がとりすがる光景が映されます。
「目を開けて」「もう一度笑って」「もう一度何か言って」
どれだけ泣き叫んでも、嘆き悲しんでも、どうしようもありません。永遠の別れがやってくるのです。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり
どんなに大事な人でも、いつまでもそのままにしてはおけませんから、葬儀の相談が始まります。野辺送りをすれば、最後に残るのは白骨だけ。これが人間の本当の姿です。
生きている時は、これこそ本当だ、間違いない真実だと思って、一生懸命になっています。しかし、それがどうなったでしょう。
「無駄だった。バカだった、バカだった……」
頭をたたいて死んでゆく末路を、釈尊は「寒林(かんりん)で屍を打つ」と教えられています。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて
「老少不定」といわれるように、年をとった人から死んで、若い人は後で死ぬ、ということは決まっていません。若くても交通事故で死ぬ人はたくさんいます。無常の前では、同い年です。だから「誰の人も」といわれ、どんな人も後生の一大事解決を急ぎなさい、とおっしゃっています。
すべての人の行き先は後生です。後生の一大事と無関係な人はいません。浮き世の丸太に心を奪われている私たちに、後生の一大事を心にかけよ、後生の一大事を忘れるな、と教えておられるのです。
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり
阿弥陀仏の本願に救い摂られて、御恩報謝の念仏を称える身になりなさい、ということです。
阿弥陀仏とは、大宇宙にガンジス河の砂の数ほどまします仏さま方(十方諸仏)の本師本仏と仰がれる仏であります。最高無上の仏でありますから、無上仏ともいわれます。
その阿弥陀仏が、次のような尊い本願を建てておられるのです。
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に助ける」
絶対の幸福とは、死が眼前にやってきても、絶対に崩れることのない幸福をいいます。
阿弥陀如来は、苦悩の根元である無明の闇を、アッと言う間もない一念で破り、大安心大満足、生きてよし、死んでよし、往生一定、いつ死んでも極楽往生間違いない身に救う、と誓っておられるのです。「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」とおっしゃっているところが、その往生一定になった一念です。
ここで注意せねばならぬことは、「たのみ」とは、今日のようにお願いするという意味の「頼む」ではないということです。現代語で解釈すれば、阿弥陀仏に助けてくださいとお願いせよといわれているかのように思えますが、蓮如上人は、「信じる」「あて力にする」ことを「たのみ」とおっしゃいました。
素晴らしい阿弥陀仏の本願に救い摂られ、絶対の幸福になったことを、信心決定、あるいは信心獲得といいます。
そんな幸福に生かされた人は、阿弥陀仏にお礼の念仏を称えずにおれなくなりますから、最後に「念仏申すべきものなり」と締めくくっておられるのです。
念仏は、「助けてください」という祈りの言葉ではなく、「こんな素晴らしい幸福に助けていただいて、ありがとうございました」という御恩報謝の言葉なのです。
世の無常を切々と訴え、阿弥陀仏の本願を信じて、早くこの後生の一大事を解決してくれよ、というのが、「白骨の御文章」に込められた蓮如上人の御心であります。 
 
「蓮如文集」

 

蓮如(れんにょ)は室町時代の高僧。浄土真宗(南無阿弥陀仏!)の布教で活躍し、本願寺教団の勢力拡大に大きな貢献をした。
最初に高僧と書いたが、蓮如はむしろ事業家といったおもむきが強いのかもしれない。ご存知のように、鎌倉時代に(法然の弟子)親鸞が浄土真宗を開いた。
親鸞が偉大な宗教家であったのは疑いえないが、概して聖人は俗なるものに関心を持たない。勢力拡大などもってのほかである。したがって親鸞存命時、信徒たちはマイナーな集団に過ぎなかった。蓮如は親鸞直系の第八代目。のちに大きな勢力となる本願寺教団の礎(いしずえ)を作ったとされる。
わかりやすく説明しよう。
親鸞は巨大な宗教家で、なおかつ優秀な指導者であった。ところが、哀しいかな、田舎の私塾の先生に過ぎなかったわけである。蓮如は親鸞の教えをより簡明にして全国展開をはかった。田舎の私塾をマンモス予備校に仕立て上げ、各地に分校を作ったようなものだ。5回結婚して計27人もの実子を世に送り出した蓮如とはいかなる男だったのか。
「蓮如文集」は、この宗教家の手紙を集めたもの。蓮如はもっぱら御文(おふみ)と呼ばれる手紙を通して布教を行なった。一読して思うのは、とにかくわかりやすいということだ。シナ仏典からの引用はほとんどなく、そのうえ内容の重複もことさら多い。親鸞のような深みがないという批判もあるだろう。
では、なにゆえ蓮如には深みがないのか。迷いがないからだと思われる。蓮如はおのれの信仰に揺るぎのない確信を抱いているふしがうかがえる。法然の明るい秀才も、親鸞の暗い情熱も、実務家の蓮如は持ち合わせぬ。
蓮如を商売人として見てみよう。職業仏教従事者としての蓮如の思想はいかなるものだったか。蓮如84歳のときの御文(手紙)を全文引用する。信者からの志納金への感謝を伝えている。
「抑(そもそも)、毎年やくそく代物(しろもの)之事、たしかに請取候(うけとりそうろう)。この趣、惣中(=門徒全体)へ披露有るべく候。かへすがへすありがたく覚え候。就其(それにつけても)、一念にもろもろの雑行の心をふりすてて、弥陀如来後生たすけたまへとまうさん人は、かならずかならず往生は一定(いちじょう)にてあるべし。その分よくよく惣中へ披露そろはば、可然(しかるべく)候。なにごとも往生にすぎたる一大事はあるまじく候。今生はただ一端のことにて候。よくよくこころえられて候て往生せられ候はば、しかるべきことにて候。あなかしこかしこ」
この御文に蓮如思想が象徴されているように思う。蓮如は仏教の真諦を信心にのみ見るような夢想家ではなかった。形にあらわれた数字の重要性もよく理解していた。数値化された信仰、すなわち門徒の合計数、志納金の多寡(たか)にも気配りを怠らなかったのである。
上記引用の御文は、礼状などという軽々しいものではない。蓮如が販売しているところの無形の商品そのものである。では、蓮如が金銭の代わりに門徒へ与えていたものはなんだったか。結論から先に述べると心の安らぎである。どうして信徒は蓮如の手紙から深い精神的安心感を得るのか。その秘密は御文のなかのこの一文にある。繰り返し引用したい。
「なにごとも往生にすぎたる一大事はあるまじく候」
往生より大切なことはなにもない。蓮如上人が自信をもって販売していたのは往生なのである。極楽往生と言い換えてもよい。死と言ってしまっても構わない。御文には「老少不定(ふじょう)」という言葉が頻出する。
「老少不定:人間の寿命が、老人も年少の人も、いつ死ぬか定まっていないこと」
人間の寿命を決定するものはなにか。蓮如は死について饒舌に語る。
「あはれ死なばやとおもはば、やがて死なれん世にてもあらば、などかいままでこの世にすみはんべりなん」
(ああ死のうと思えば、すぐに死ねる世であるならば、どうして今までこの世に生きながらえていようか)
蓮如は自殺をなかば否定している。人間は死のうと思っても死ねるものではない。同時に、死のうと思わなくても死んでしまうのが我われである。
「当時このごろ、ことのほか疫癘(えきれい=疫病)とて、ひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず、生れはじめしよりして定まれる定業(じょうごう=前世からの定め)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり」
人は疫病流行によって死ぬのではない。たしかに我われの目には疫病が原因で人がばたばた死んでゆくように見えるかもしれない。けれども、人を死に至らせるのは疫病ではない、と蓮如は主張しているのだ。人は生れたときから決まっている定業に従い死んでゆくものである。まこと人間は無力で、はかない存在ではないか。
「それおもんみれば、人間はただ電光朝露のゆめまぼろしのあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄花栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至(ないし)百年のうちのことなり。もしただいまも無常のかぜきたりてさそひなば、いかなる病苦ににあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば、死出の山路のすゑ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ」
蓮如は当たり前のことを言っているのである。我われのだれもが知りながらも、見ないようにしている当然至極のことを。いくら成功して思うがままに振る舞えようが、どのみち50年100年のこと。
成功者にも無常の風が吹く。いついかなる病に倒れるか知れたものではない。いざ死ぬとなったら妻も子も、高級ブランド品も不動産も持っていけない。だれもが死後はひとりで三途(さんず)の河へ向かわなければならぬ。ひっくり返せば、いくら不幸で失敗つづきだろうが、たかだか50年100年ではないか。死んでしまえば失敗者も成功者もおなじ無一物の身。このとき真に重要なものがわかろうはずである。南無阿弥陀仏である。他力の信心である。以上が蓮如のセールストークといってよい。
商品説明に入ろう。南無阿弥陀仏とはなにか。他力の信心とはなにか。蓮如の説明はとてもわかりやすい。
「それ、他力の信心といふは、なにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふは、いかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ心の一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取(しょうじゅ)の光明をはなちて、その身の娑婆(しゃば)にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。これすなはち、われらが往生のさだまりたるすがたなり。されば、南無阿弥陀仏とまうす体(たい)は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。(中略)あら殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり」
南無阿弥陀仏のからくりはこうである。念仏にはふたつの意味がある。「たすけたまへ」と「ありがとう」である。ヘルプミーとサンキューである。人間はときにひとりでは背負いきれぬ重荷を人生で押しつけられる。そのときに「助けてください」=「南無阿弥陀仏」と口にできる安堵はどうだろうか。ひとりではないという気にはならないか。「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏さまにお任せします」との意味。おのれの苦悩、煩悶、絶望を弥陀如来に預けてしまうのである。耐え切れぬ重荷をともに背負ってもらう。こうしたらどんなに楽になることか。どんな苦しみも、生きているあいだのことに過ぎぬ。念仏のおかげて死後は往生が決定している。そう思うと憂き世のかなりを耐え忍ぶことができるのではないだろうか。弥陀如来の光明につつまれるとは、そういうことである。孤独や絶望の闇のただなかにいても、南無阿弥陀仏ととなえたら、どこかに光明が見いだせないだろうか。その光明はやがて広がり苦悩者を明るく照らしてくれるはずである。世界は自力や努力だけでは、どうしようもないことであふれている。人間は貧富や美醜を選んで生れてくるわけでもなく、いつなんどき死ぬかもわからぬ。自力や努力ではどうしようもないときのための南無阿弥陀仏なのである。南無阿弥陀仏と口にすると、自力でも努力でもない力が彼方から差し向けられる。これが他力なのであろう。実のところ、念仏自体も自力や努力ではない。最初期の苦悩が「助けてください」の南無阿弥陀仏を言わせる。弥陀如来のおかげで人間の苦しみがどれほどやわらいでいることか。今度は「ありがとうございます」の南無阿弥陀仏をとなえたらよろしい。
わかりやすく整理すると以下のようになる。
「助けてください=南無阿弥陀仏」
「人間←光明←阿弥陀仏」
「ありがとうございます=南無阿弥陀仏」
蓮如は御文のなかでひとつ親鸞の和讃を引いている。「弥陀大悲の誓願を、深く信ぜんひとはみな、ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなふべし」がそれである。蓮如の推奨する信仰生活が理解できよう。
最後に実務家の蓮如による、宗教団体運営マニュアルを軽く見ておこう。これは法然にも親鸞にも見られなかった姿勢で興味深い。
・おカネは大切。みなさん、お礼はちゃんと払ってね。
「このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり」
・為政者、支配者に逆らってはなりません。税金は支払いましょう(=現実主義)。
「それ、国にあらば守護方、ところにあらば地頭方において、われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の義、ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもはらにすべきものなり」
・みなみなこの信心に勧誘できるわけではありません。宿善のないものは、どうしたってこの教えがわからないのです(=強引な勧誘の禁止)。
「人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずばいたづらごとなるべし。このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて、人をば勧化すべし」
・繰り返しますが、政治運動をしてはいけませんよ。
「一、四講会合のとき、仏法の信不信の讃嘆のほか、世間の沙汰しかるべからず候」 
 
蓮如の浄土真宗の北陸での布教

 

浄土真宗の成立
「蓮如の北陸における浄土真宗の布教」をテーマとして述べるのだが、蓮如だけ述べたのでは真宗の影響を説明する際、真宗そのものを理解しないことには影響力もわからないと感じたことと、歴史的事件の理解にはその前史の理解が不可欠と考えたので、まずは浄土真宗の成立から述べたいと思います(ただし浄土宗と浄土真宗の違い等、詳しい宗教的教義からの説明は、私は真宗門徒ですが、熱心な門徒でも専門家でもないので、正確に述べられません。これから述べる事は、歴史的理解に必要な事象のみにとどめますこと、ご了承願います)。
浄土真宗を開基したのは勿論親鸞であります。浄土三部経を所依とし、自力経を排して、他力念仏によって極楽往生することを目的とする浄土宗(法然開祖)の本来は一派でありました。
親鸞は、法然坊源空のもとで建仁元年(1201)自力聖道教を脱却して他力浄土教に帰依しました。以来、親鸞は、源空によって明らかにされた専修念仏を開信し、みずから一宗派をひらく意図はなかったのです。浄土真宗とは、源空の樹立した宗旨に親鸞が名付けた呼称でありました。源空から受け継いだ教えではありますが、親鸞は、自身の宗教的立場を著書「教行信証」「歎異抄」で開陳しました。たとえば、有名な「歎異抄」の言葉、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」など悪人正機の趣旨を説くことによって、親鸞の諸説と人格を中心に集まった念仏者は次第に増加して教団形成の胎動は始まりました。それでも親鸞は、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、自分にとっては、共に念仏を唱えるものは同行同朋であると称し、子弟上下関係による教団構成には否定的でありました。ところが親鸞の晩年に、その後継者と目された息男善鸞が教えにそむき東国教団を大混乱に陥れる事件が発生しました。親鸞はこれを契機に念仏者は正法を守る為に連帯を強化するよう提唱しました。以来正統信仰の保持と他教団の批判への対応などから次第に教団体制を整えるにいたります。
親鸞は越後流罪赦免(専修念仏の弾圧が厳しくなったことから、承元元年(1207)に、源空が土佐国(実は讃岐)に流された際、親鸞も越後国分(現上越市)に流され、建暦元年(1211)許された)の後は関東へ移動し、常陸国を中心に20年の間伝道に従いました。そのため親鸞の教えを受けた念仏者は東国地方に多くいました。直接教えを受けた門弟の数は百人近くになり、その人たちはまたそれぞれ数十人の門徒を持ち、それらを合わせるとかなりの多人数になりました。親鸞が東国伝道を終えて京都に帰った後は、東国の念仏者達は有力門弟を中心に結集し、やがてその所在地に名を付けた門徒名によって呼ばれました。例えば、下野国高田の真仏・顕智を中心とする集団は高田門徒と称しました。親鸞没後、親鸞の末娘覚信尼が、東国門弟などと共に、京都東山に親鸞の遺骨を納める御堂(墓所大谷廟堂)を建てました。廟堂の第三代留守職覚如は、廟堂を本願寺と称して寺院化し、ここを中心に教団の統括を図りました。しかし各地門徒は覚如の企図に反対し、それぞれ親鸞以後の独自の法脈系譜をたて、自立教団的色彩が濃くなってゆきました。そうした地方教団のうち高田門徒(専修寺派)は最も有力で、のちに武蔵国荒木門徒や三河国和田門徒を分岐させています。和田門徒は信寂・寂静を中心に結集していましたが、ここから如道が出て越前国へ念仏を伝えました(山本派・三門徒派・誠照寺派)。また荒木門徒の系譜をひく了源は京都山科に一寺を造立して仏光寺派の基を開き、この教団は近畿から中国・四国に発展した。同じ頃、近江国木辺の慈空の錦織寺(木辺派)も、近江から大和国にかけて展開しました。 
時宗・遊行聖の足跡
時代は前後しますが、北陸に浄土真宗が深く浸透し飛躍的に発展するその土壌を築き上げる一因として、鎌倉時代の一遍上人が開基した時宗の遊行聖の影響が挙げられます。浄土真宗を組織化し大きくした蓮如は、その教団組織の拡大にあたり同じ阿弥陀信仰であった時衆をどんどん浄土真宗に取り込んで行くことになりますが、北陸の地に布教の根拠地を置いたのも最初からそのような狙いがあったものと思われます。
鎌倉時代も末期の頃、一遍上人の高弟・他阿は、3年間にわたり、越前国を中心に、加賀国や越後国を遊行し、北陸地域における布教に努めました。時宗も浄土真宗と同様に「心を一にして(一向)阿弥陀仏を念ずれば浄土に往生(この世を去って後極楽浄土で生まれ変わることが)できる」とする浄土系の念仏宗で、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)至上主義を説くものであった。一生不住を原則とし、諸国を行脚して、踊念仏や遊行賦算によって念仏の教えを広めており、「捨家棄欲(しゃかきよく)」の徹底と「知識帰命(ちしききみょう)」(入信後は師の教えを守り、戒律を破らないこと)を勧めるものでありました。賦算とは、道行く人や結縁する人々に「南無阿弥陀仏<決定(けつじょう)往生六十万人」と書いた算札(さんさつ)を配るもので、これを得れば、極楽往生間違いなしといわれました。その後、南北朝時代に、加賀の地からは遊行上人三祖の量阿をはじめ、九祖・界阿、十祖・唯阿を生み、室町時代にも梅田光摂寺(うめだこうせつじ)・潮津西光寺(うしおづさいこうじ)など多くの道場や信徒(時衆)の存在が知られました。加賀では、他阿の布教以来、北国街道沿いの宿場や市場・湊町などを中心に、時宗の濃密な信仰地域が形成されるようになりました。
能登の時宗については、主要道場として鹿島郡矢田(現七尾市)の金台寺(こんだいじ)があり、時衆として鳳至郡大屋湊(現在の輪島市中心部)を基盤とする河井一族や、能登の有力国人長一族にその存在が知られます。また鹿島郡中島町町屋地内にある永和3年(1377)造立の「南無阿弥陀仏」「日課六万遍念仏」と刻んだ名号板碑も、時宗信仰の遺跡であります。 
蓮如の登場
15世紀後半の時代は、全国的に異常気象に見舞われまし。人々の生活を根底から脅かす天災や飢饉が頻繁に起こり、大きな社会不安を引き起こしていました。加えて、応仁・文明の乱で、室町幕府の将軍の権威は失墜し、下克上の動きも顕在化しつつありました。
そうした中で、文明3年(1471)6月、本願寺八世の蓮如兼寿が、加賀・越前国の境の吉崎(現・福井県金津町)に下向して坊舎を構え、北陸布教を開始します。これがその後の浄土真宗の全国的拡大と北陸における浄土真宗の浸透化の大きなキーポイントとなるのですが、その前に蓮如のそれまでの経歴についても少し詳しく述べておきます。
蓮如は、父は本願寺七世・存知で、応永22年生まれる。母は不詳で西国、豊後の人とも備後靹(とも)の人ともいわれ、6歳で生別しました。17歳で中納言広橋兼郷の猶子として青蓮院で出家。父に就学し貧困中に青年期を過ごします。嘉吉2年(1442)28歳前に如了尼と結婚したが、やがて死別、以後、蓮祐尼(如了の妹)・宗如尼(前参議藤原昌家女)・蓮能尼(治部大輔源政栄女)と各々死別し、順次結婚した。長禄元年(1457)6月18日存知没し、叔父越中瑞泉寺如乗の周旋で、43歳で継職、本願寺八世となります。以後、近江・摂津・三河などに活発な布教活動を展開しました。ために寛正6年(1465)正月10日延暦寺衆徒に東山大谷の堂舎を襲われ、門弟近江堅田の法住、三河佐々木の如光らの奔走で西塔院末寺として毎年礼銭三千疋を納め落着したが、3月20日再来襲し全て破棄されました。以後蓮如は南近江を遍歴し、応仁2年(1468)3月山徒の堅田襲撃(堅田大責)を避けて大津近松に移り、翌年坊舎を建て祖像を移しました。
そして文明3年(1471)4月越前吉崎へ移り坊舎(吉崎御坊)や多屋を建てると、北陸の門徒や蓮如の教えを慕う新たな信者が数多く参集し、2年ほどの間に御坊の周りに200軒もの家が建ち並ぶありさまでした。以来、同7年8月に、蓮如が吉崎を去るまでの4ヶ年の間に、蓮如による浄土真宗本願寺派の教えが、北陸地域の武士や民衆の間に急速に広まっていきました。真宗教団での念仏者集団における同朋精神(弥陀の前では念仏者は全て平等であるという考え)の強調を通して、「阿弥陀仏」の救いを説く蓮如の厳正な宗教家としての態度と、「御文(おふみ)」と呼ばれる、蓮如の教えを分かり易く書き記した消息(手紙)の発行による布教方法が、遠くにいる人々にも教えを広めるのに大きな効果がありました。特に今まで恵まれなかった農民や手工業者、行商人など、いわゆる下層階級の人々には、この教えは分かりやすく有り難い教えと受け取られました。時宗の信者(下層階級が多かった)なども、もうその頃は時宗の力も弱まっていたことや、その宗旨の性格から定住して指導していくような強力な指導者を輩出できないことから深く教線が浸透していたとは言え、蓮如が創出したような組織力はなかったため、次第に同じ阿弥陀如来を信ずる浄土系の浄土真宗に吸収されていきました。僧侶などの宗教の専門家から見れば宗旨の細かな違いが宗派を作り相互に排斥しがちになるところですが、、一般大衆から見れば同じ阿弥陀信仰をする、それも以前よりわかりやすく宗旨を説き、自分らを強く指導してくれる者がやってきたという程度であまり宗派を変えたという意識は薄かったのではないでしょうか。たとえ宗派を変えたと自覚していても、当時一般民衆を真宗ほど組織的にまとめていた宗派などあまりなかったので(少なくとも時宗はそういった力は弱かった)どんどん真宗に吸収されていったと思われます(私の考え)。同様にして、浄土真宗は、これ以降、全国へと大きく発展していきました。そしてその教線(きょうせん)の全国波及とともに、浄土真宗諸派はまた本願寺派へと統合される事ともなりました。
本願寺派は、蓮如以前において、すでに教線を北陸に伸ばしていました。加賀でも、室町期に、宗祖親鸞の絵伝や聖教(しょうぎょう)・影像(えいぞう)の授与を通して、門徒の確保に努めている。七世存如の弟・如乗(蓮如の叔父)の開いた河北郡二俣の本泉寺をはじめ、石川郡吉藤(よしふじ)の専光寺、河北郡木越の光徳寺、江沼郡河崎の専称寺など、門末寺院も少なからず存在しました。
しかし、北陸における真宗諸派の中では高田専修寺・渋谷(しぶたに)仏光寺・越前三門徒などの各派に比べ、劣勢でありました。また鎌倉末期以来、同じ阿弥陀信仰を説く踊念仏の時宗の教線も深く及んでいました。蓮如の吉崎布教は、こうした北陸の念仏教団の勢力均衡を逆転させたのでした。
それから、これは私の考えですが、浄土真宗本願寺派がこれほどまでに成長したのは、蓮如のそれまでの過酷な人生も大きく影響したと思われます。権威だけで権力を振るっていた守護大名が苛酷な闘争の中で実力を貯えた者に下克上によって、追い払われていったのと同様に、蓮如の不幸な生立ちや、比叡山など他教団からの迫害、戦乱の中(応仁の乱・文明の乱など)での対応などが彼を鍛え、組織化による教団の結束強化の方途を他教団以上に合理的に行わせしめたと思わずにいられないのである。
浄土真宗の普及とその影響
加賀一向一揆
文明の一揆(文明6年(1474):加賀守護富樫一族の内紛に関与し、兄・守護富樫政親(まさちか)を支援して、真宗高田専修寺門徒と結ぶ弟・幸千代を打倒)にはじまる一向一揆で、門徒(一向衆)はその力を示し、自信を深めました。このことはかえって政親に本願寺門徒に対する警戒心を抱かせる結果となり、翌年には政親による弾圧を招く結果となる。京にいる蓮如は争いを避けるよう戒めるが、石川郡の本泉寺にいた蓮如の子蓮悟は攻撃的でありました。加賀では一向一揆の勢いは弱まらず、長享2年(1488)6月には、加賀守護富樫政親が、本願寺派の坊主・門徒を含む反政親派の国人・土豪約20万人に攻められ、石川郡の高尾城(現・金沢市高尾町)で自害して果てるという事件が起こりました。この結果、加賀では富樫政親の大叔父(祖父教家(のりいえ)の弟)にあたる泰高が、守護の地位に返り咲いたが、守護の権威の失墜は、もはや覆うべくもありませんでした。この一揆(長享の一揆)は、やがて加賀に一向一揆の国を樹立する契機となったことは改めて言うまでもありません。この「百姓の持ちたる国」の成立は加賀の中世最大の事件であるのみならず、山城の国一揆とともに日本史上希にみる一時的に成功した庶民革命であり、これ以降明治期まで日本史においては、自治が行われたのは、堺の町人による自治組織という局地的なものしかなかったのです。また、その後の加賀国に与えた影響を考えた場合、浄土真宗(または一向一揆)の影響は、前田家支配の影響と双璧をなすと思われうのです。
能登畠山氏の戦国大名への脱皮
加賀一向一揆が始まった頃は、能登では畠山義統の時代にあたり、義統は幕府の命令で長享2年加賀に出兵したりしている。能登でも一向宗の広がりが見られ、蓮悟の叱咤のもと、「能登でも百姓の持ちたる国」にしようとの動きが見られましたが、義統は弾圧し、一向一揆は起こりませんでした。義統の子、義元の時、能登畠山で内訌が起き、一時義元が国外へ出奔し義統の次男・慶致が守護に就いたりしましたが、永正3年(1506)、先に前将軍足利義材を越中に追放した管領細川政元が、義材支持派の多い北陸の守護勢力を脅かす目的から、本願寺実如と結んで一向一揆の一斉蜂起を図ると、能登畠山氏の政治的基盤も動揺し、内訌をやっている場合ではないと、義元・慶致両派が講和工作を行い、義元に再度家督を渡し(即ち守護に据え)、将来、慶致の子・次郎義総を後継者に立てるという条件で和解しました。これにより、能登畠山家は、戦国移行期の難局を切り抜けることに成功し、次の畠山義総の時代に安定期(能登畠山家にあっては全盛時代)を迎えることになります。しかし、能登は「百姓の持ちたる国」になりませんでしたが、その後の影響を考えると住民の(寺院の)7、8割が真宗となり、畠山義総の頃には、融和政策をとらざるをえなくなります。勿論、現在でも真宗の割合は変わらず、俗に真宗王国といわれている。
越中への影響
応仁の乱後も、畠山家の内紛は近畿を中心に続くが、将軍足利義材を伴って河内に出陣した畠山政長(越中守護でもある)は、明応2年(1493)の細川政元のクーデターにより敗死しました。この時期、畠山政長の家臣・神保長誠は中風にかかって越中で療養していましたが、細川方に捕らえられた足利義材を京都から脱出させ、自分のいる越中・放生津に迎えた。永正3年(1506)春、足利義材・畠山尚順(政長の子)方が体制を立て直し細川政元への攻撃を強化すると、細川方は本願寺・加賀一向一揆を引き入れて対抗しました。3月、加賀一揆は越中を急襲し、神保氏ら越中衆を追放した。越中衆は越後守護代長尾能景に援軍を要請し、反撃した。9月能景は礪波郡で討死にしたが、神保・椎名氏は旧領を回復し、一揆方と和睦したようである。ただし、遊佐氏は以降、復帰できなかったと思われ、礪波郡は一揆方が実質的に支配した。このため、長尾能景の子長尾為景は、一向一揆を敵として再征の機をうかがうとともに、神保慶宗らに反感を覚えたようである。その後、ことに永正13年に長尾為景が出兵した際、越中衆が為景軍を排したことにいかった長尾為景は、神保慶宗の指図によるものとみて、永正16年親の仇を討つ為と称して、神保氏討伐の為、越中に攻め込んだ。為景は畠山尚順、能登の畠山義総と同盟し、さらには細川高国も味方として神保方を攻めました。翌年も攻め、ついに永正17年12月21日の新庄城(富山市)の合戦の結果、神保慶宗は敗北自害し、越中守護代の神保氏は一度滅ぶのであります。天文年間、神保長職により復興しましたが、一向一揆との、再度の抗争の過程で重臣の小嶋職鎮に主導権を奪われ、神保家臣団はその後上杉氏に吸収されることとなります。
余談・越中の不幸
テーマとは関係ないが、神保氏や佐々氏などの歴史をたどるといつも思うのは、越中の歴史的不幸ということである。それは何かというと、守護(または守護代)にしても、戦国の実力者にしても、はたまた江戸封建時代の統治者にしろ、越中では在国の者が、国の統治の主導権をなかなか取れなかったことである。越中の歴史を見ていると、私はヨーロッパのポーランドを想起してしまう。では、このような越中の不幸のはじまりは、いつからか、と考えてみると、私が思うにそれは、康暦2年(1380)畠山基国(もとくに)が管領斯波義将の提案により、越前と越中を交換し、越中守となったときからではないか。同じ畠山家の所領である能登はその後、能登畠山氏が庶流として支配し、3代義統の時代からは守護代の統治ではなく、守護が在国して統治したのに対して、越中は畠山宗家の所領のままとどまった。畠山宗家の他の所領が近畿に集中していたのに対して、越中は畠山家の支配下にありながら、宗家の力を示すことや宗家からのコントロールがうまくできず、絶えず周りの国から干渉をうけることとなる。例えば永正年間より前にも、すでに能登畠山氏3代の畠山義統の干渉をうけたりしている。この戦国期に、守護代しかいない国は、下克上などにより守護代が実力者となったりして実質上の領主と変貌した所が多いのだが、越中では、実力者として戦国大名に変貌する前に、周りの国々(越中、加賀、能登)の干渉を受けたため、在国の守護代や国人が十分に実力を付けられず、上記の永正年間の神保氏滅亡が決定的なダメージとなり、その後、佐々成政などの一時的な支配もあるが、また隣国前田家の支配を受けることとなる。明治期になっても、当初石川県(又は金沢県)に組み入れられたり、西部が七尾県に組み入れられたりと越中単独の自治権をなかなかもてずにいたが、明治16年2月にやっと旧越中国域とほぼ同じ範囲で富山県が成立し、現在にいたるのである。
越前への影響
越前への影響はまだ詳しく調べていないが、一応述べておく。長禄3年(1459)の守護斯波氏との守護代甲斐氏の内紛で活躍した朝倉孝景が守護代以上の実力を持つと、斯波義敏が退けられた後、支族の斯波義廉を守護に据えて権勢を誇りました。また応仁の乱では西軍として活躍していましたが、文明3年(1471)越前守護掌握を条件に東軍の細川方に寝返り、以後越前平定に乗り出し、朝倉貞景の時、正式に越前守護と認められました。守護大名でありながら、半分下克上でのしあがったと言える、そうのような朝倉氏でありましたが、朝倉孝景の頃から何度も隣国加賀から越前への一向一揆の侵攻があり、やはり朝倉氏の一番悩みの種であったようです。特に朝倉貞景(1428〜1481:後の有名な朝倉孝景は3代後の当主である)の頃、明応3年(1494)10月、永正元年(1504)7月と8月の侵攻は大規模であった。永正元年7月の侵攻時には、なんと30万もの大軍が攻め入ったが、朝倉軍は何とかこれを退けた。このようにして、越前でも、一向一揆との抗争を通して実力を付け、有名な朝倉孝景(1493〜1546)の頃には逆に、加賀の内紛にまで働きかけるようになり、その後、織田氏に滅ぼされるまで栄華を誇るのであります。 
まとめ
鎌倉期に親鸞により浄土真宗が開基され、室町期の蓮如の時、迫害を乗り越えて北陸に来国し、越前・加賀の国境の吉崎に坊舎が建てられ普及活動が行われると、その教えは北陸地方に急速に普及し、また教団も強力に組織化され全国に波及します。そしてその明解で実行し易い教えは、他の浄土真宗諸派や浄土系諸派の吸収し、他宗信者の改宗し、組織としても講を基本にした他宗に見られない強力な教団を作り上げていきます。蓮如が京都へ帰ったあと、加賀では最初の一向一揆である文明の一揆が起こります。これで実力を示した一向宗は守護の富樫氏から弾圧を受けるが屈しないで、逆に長享2年に守護富樫政親を攻め自害に追い込み、その後富樫氏を追放し、一向宗による国を樹立します。この一向一揆の影響は周りの国々にも大きな影響を及ぼしました。能登では能登畠山氏が、一向一揆との抗争の中で、内訌などの内部的弱点も和解などにより克服し戦国大名として脱皮する。越中では、加賀からの一向一揆の侵攻をきっかけに国が大きく混乱し、強力な在国領主を育てる時期を逸し、その後明治期に至るまで越中として独立した統治を行えませんでした。また、越前では、朝倉氏が実力を付けはじめた時期に起きたのが、この一向一揆であり、何度もその侵攻に悩まされながも、その抗争を通して、さらに実力をつけ北陸の有力な戦国大名として歴史に登場することとなります。
以上のように、私は北陸の歴史を振り返った場合、浄土真宗の影響は非常に甚大なものだと思うのであり、こういった上記の政治的な影響以外にも、私は文化・民俗的にも、非常に大きな影響を与えていると考えており、それはここで同時に述べるにはとても長くなりすぎ、まとまりがつかなくなるので、別の機会に述べることとしたい。 
 
光徳寺と冨樫家と一向一揆

 

光徳寺の建立と隆起
光徳寺といえば、今では七尾市街地の小丸山公園下にある浄土真宗本願寺(西)派の大寺として地元では知られています。また毎年11月3日の文化の日には、大市(お斉市)が門前の一本杉通りにでき、多くの屋台が並び人々でにぎわっています。しかし、何となく由緒ある寺であることはしっているが、この寺が昔、金沢の木越町にあり、一向一揆の嵐が、加賀一帯を吹き荒れた時、その中心をなす寺の1つとして一大勢力をなし、加賀一向一揆の歴史では、光徳寺の事を書かずしては語れないほど重要な役割を果たした寺であることは、地元七尾でも、ほとんど知られていません。
加賀国鞍月庄木越村(現在の金沢市木越町)に真言宗の光徳寺が建立されたのは、「越登賀三州志」や「亀尾記」によると明徳3年(1392)に冨樫泰家によるとされています。また七尾市の馬出町にある光徳寺の寺伝によると「文永11(1274)年富樫入道仏誓の孫光徳寺宗性と号し、河北郡木越に坊社を建立」とあります。明徳3年では、冨樫泰家が250歳までも生きたことになりこれでは仙人であり、ありえない話です。おそらく寺伝の方が正しいか、そうでなくとも冨樫家ゆかりの者が建立したということでしょう。富樫家ゆかりの寺といえば、14代冨樫介家尚が、弘長元年に建立した大乗寺(当初真言宗)もあります(一時は大乗寺は永平寺に次ぐ曹洞宗の第2の寺として仰がれていました)。今七尾にあるこの光徳寺は、今でも住職の苗字は富樫(ただし冨樫でなく、現在では、ウ冠の冨樫)さんです。
冨樫家ゆかりの寺であることを考えると長享2年(1488)の高尾城の戦いで、冨樫政親と光徳寺が戦うことになったのは、何とも因縁深い話であります。「越登賀三州志」や「亀尾記」が冨樫泰家を持ってきたのは、彼が謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」で一番一族の中で名前が知られていたことや、建立年などあまりこだわらなかった江戸時代の庶民に由緒を述べるには都合が良かったからでありましょう。
真言宗であった光徳寺が、浄土真宗に改宗したのは、宝徳元年(文安6年(1449))の本願寺8世蓮如が北陸地方を教化のため巡錫した時であります。その時、蓮如は、ついていた杖を光徳寺に庭に挿し、「この地に、わが宗派が栄えるならば、この杖が芽をふくことであろう」と告げ、予言どおり芽が出て、薄紅の梅の花を咲かせたという伝説があります。木越にあった時には、実際に地元の名物となっていた梅の木があったようであります。また蓮如はこの年、父存如の祐筆として書写した「三帖和讃」を、在京中の光徳寺・性乗に与えています。また宝徳3年(1451)8月16日、性乗は存如から「六要鈔」(同寺所蔵)を与えられています。
実は、蓮如が北陸に来るまでは、真宗諸派の中では蓮如の本願寺派は、高田専修寺・渋谷仏光寺・越前3門徒などの各宗派に比較すると劣勢でありました。しかし、彼が、文明3年(1471)越前の加賀との境界に近い吉崎に坊舎を構え布教をはじめると、北陸地域の武士や民衆の間に急速に普及しました。そして真宗諸派との間で勢力の逆転を起こし、さらに踊念仏で有名な時宗などの宗徒も吸収していきました。光徳寺・乗誓は、この蓮如が吉崎に入る少し前、蓮如から「親鸞聖人絵伝」(4幅)を下付されてもいます(西光寺蔵絵伝裏書による)。こうして、勢いを得た本願寺派ですが、それに浄土真宗に改宗した光徳寺もその波に乗ったかのように急速に門徒を獲得していきました。そして同派の中でも宗徒の多い有力寺院として、若松の本泉寺、鳥越の弘願寺、磯部の勝願寺などとともに、大坊主と呼ばれ、河北郡内でも常に上席を占め羽振りを振るう程になっていました。 
繰り返される冨樫家の盛衰・内部抗争
室町時代、冨樫氏は、能登の畠山氏とは違い、足利との繋がりは血縁ではなく、平安後期から鎌倉期にかけて、着々と在地領主的地盤を固めてきた武士であったため、幕閣内部の勢力争いの影響も大きく受けていました。建武2年(1335)9月、冨樫高家は、足利高氏からその勲功を大いに賞され、「加賀国守護職」に補任されたのであり、その後、観応の擾乱の時も、直義でなく高氏側に終始ついたので、守護家であり続けたのでした。しかし、南北朝末期の至徳4年(1387)4月の冨樫昌家の死後、斯波義将が、細川頼之との確執に勝利し、幕府の管領に就任すると、冨樫家は加賀守護職を罷免され、かわって、斯波義将の実弟・義種が、守護に補任されました。
それから27年経った応永21年(1414)守護職・斯波満家が罷免され、南加賀のを冨樫嫡家の冨樫満春と、北加賀を、庶家で4代将軍足利義持の近習となっていた冨樫満成が、それぞれ加賀の半国守護に補任されました。これまた、斯波義将の死による斯波氏の退潮と細川・畠山両氏の勢力拡大が影響し、細川満元の支持を得て復帰が図られたのでした。そして、応永25年(1418)12月、冨樫満成が姦通の廉で義持の怒りに触れ、紀伊の高野山に逐電すると、南加賀も、冨樫満春に与えられ、ここに32年ぶりに加賀一国の守護が冨樫嫡家によって掌握されることになったのです。満春の子、冨樫持春も守護となると、外様ながら「御相伴衆(みしょうばんしゅう)」という最高権力機関の一員に列するなど一時は権勢を誇りました。
持春には子供がいなかったので、彼の死後、弟の冨樫教家(満春の次男)が、家督を継いで守護となりますが、嘉吉元年(1441)6月18日、突然、教家が6代将軍足利義教の怒りに触れ、失踪してしまいました。教家の弟で醍醐寺三宝院に入寺して稚児となっていた慶千代丸(満春)の三男が、還俗して富樫泰高と改め、加賀守護の地位に就きました。しかし、その6日後、嘉吉の変で、将軍義教が、赤松満祐に暗殺されると、管領細川持之が、義教が剥奪した公家・武家の役職などを還付する幕府の方針を打ち出しました。それを機に、失踪していた義教が、畠山持国を後ろ盾として、守護職の返還を要求しました。
翌年嘉吉2年(1442)になると、畠山持国は、ライバル細川持之が死去すると、冨樫教家の子・亀幢丸(かめどうまる)(冨樫成春)を加賀守護に就かせる事を企て、翌年正月には教家の代官本折某を加賀に送り、多数派工作を行わせました。しかし、成功せずに、泰高と教家の両冨樫家による抗争が深刻化しました。文安2年(1445)細川勝元が管領になると、泰高側も勢力を盛り返し、ここに和議が持ち上がり、8月、冨樫泰高が南加賀(江沼郡・能美郡)、富樫成春が北加賀(石川郡・河北郡)のそれぞれ半国守護になることで、いったん合意しました。
ところが、長享2年(1458)北加賀の半国の守護職が赤松政則に移り、成春が失意のうちに亡くなりました。寛正5年(1464)赤松氏への対抗上、泰高と冨樫政親(成春の嫡子)の提携が成立し、泰高の隠居と政親の家督相続(北加賀半国守護就任)による一門も一本化が細川勝元の画策によって成功し、23年続いた富樫一族内部の抗争はいったん終止符を打ちました。
北加賀守護赤松氏に一門が一致して対抗していくことでは合意を得ましたが、冨樫成春には庶子・幸千代(こうちよ)がおり、冨政親が中央に出かけて工作などしている間に勢力をつけ、彼を守護にと推す物が出てきました。応仁の乱(1467)が起こると、冨樫政親は朝倉敏景との同盟などから西軍の山名方について戦い、赤松氏がつく東軍の細川側と戦います。このとき、赤松勢力はもともと播磨を地盤とする勢力であり嘉吉の変で失墜し、失った播磨の守護職を奪還しようと続々と加賀を抜け出て播磨に向かってしまいます。また冨樫泰高は、嫡子泰成に先立たれ意気消沈し、勢力が弱まっていました。 
文明の一揆と一向一揆の隆盛
ここにおいて、加賀の守護職争いは、冨樫政親と弟の幸千代(こうちよ)の兄弟の争いとなり、加賀統一を目指して戦うことになりました。幸千代が、冨樫家の積年の法敵であった高田専修寺門徒と結んだのに対して、政親は越前の朝倉敏景らと手を結び、光徳寺をはじめとした本願寺派の援助を受けました。文明6年(1467)の戦い(文明の一揆)で大勝し、冨樫政親は、北加賀の守護となりました。これにより一向一揆は、加賀での宗勢を強め、今度は、守護や寺社への年貢を納めず、ついには政親と対立、争うことになりました。しかし一向一揆方は破れ、本願寺門徒の指導者達は、いったん越中の方へ逃れました。
文明6年の7月、蓮如が木越山・光徳寺に、同寺門徒の乱妨停止とその成敗を命じ、光徳寺門徒と吉藤専光寺門徒らに対しては、その行動を悪行と決めつけ、厳しく譴責を加えています。この時蓮如が書き送った書状は、世に「お叱り御文」と呼ばれ、文明7年に本願寺門徒が、守護方と戦った時のものとされており、河北・石川両郡(北加賀)の門徒土豪が、その主力を構成していたようです。殊に河北郡の坊主・門徒は、早くから本願寺と強く結びついており、河北郡を代表する大坊主に成長していた光徳寺は、加賀教団の形成過程において、主導的役割を果たしていました。
当時、本願寺の門徒たちは「一向宗」と自称・他称されていました。しかし蓮如は、一般に民間信仰の呪術を指すこの呼称を、門徒が名乗るのを戒め、「浄土真宗」と唱え、門徒の他宗攻撃及び、守護・地頭への反抗や年貢・公事の懈怠(けたい)を、厳しく譴責しています。しかし、加賀の門徒たちの現実の行動は、蓮如が危惧した姿のようであったらしい。文明6、7年頃、故国加賀に滞在していた臨済宗の僧・伯升禅師は、ここで争乱に遭遇し、一向宗徒が、諸宗を排撃して徒党を組み、領主を殺戮して諸物を略奪する情景は、中国の元末に、平民等が起こした「蓮社」(紅布の乱を起こした白蓮教徒の結社)の行動と同類であると語っています。
加賀の本願寺門徒の勢力はその後も伸張し、文明13年(1481)頃には、守護冨樫氏の支配は次第に形骸化し、すでに加賀は「無主の国土」の状態だとも言われていました。文明14年(1482)に、幕府は、北加賀守護冨樫政親が祇園社領軽賀野村(現宇ノ気町)を押妨したとき、光徳寺と河北一向一揆中に対して、守護方の阻止行為退け、社家雑掌に所務を行わせるように命じています。このことから光徳寺は在地秩序維持の調停者として期待されていたことがわかります。
文明16年(1484)に越中国二上荘(富山県高岡市)の年貢が、「国質(くにじち)」(債権者の私的差し押さえ行為)と号して加賀の門徒に途中で押領される事件があり、翌17年10月には、門徒土豪の頭目である洲崎右衛門入道慶覚が、北加賀の要・宮腰(みやのこし)に、強引に入部する動きも見られました。この他、同19年になると、石川郡一揆の河合藤左衛門・山本円正(えんしょう)らが、質物の債券をめぐって、河北郡の井上荘に押し寄せ、濫坊狼藉を働き、荘内の堂舎を取り壊し放火に及んだため、百姓らが逃参したこともありました。
こうした加賀国の状況のもとで室町幕府は、本来守護の権限に属する荘園押領の停止沙汰の遵行や年貢の収納請負を、本願寺派であった本覚寺や、加賀に在住する蓮如の次男の能美郡波佐谷(小松市)の松岡寺蓮綱(しょうこうじれんこう)と七男の二俣本泉寺蓮悟(ほんせんじれんご)に命じています。また荘園領主の側でも、本願寺蓮如に依頼し、未進年貢の収納を在地の門徒に働きかけており、加賀の在地支配の上で、本願寺教団は今や守護権力を脅かす存在となっていたのです。 
高尾城の戦い(長享の一揆)と冨樫家の滅亡
文明18年(1486)に、冨樫政親は将軍・足利義尚(よしひさ)に味方し、近江守護六角氏を攻めました。その時、農民から食料や人夫を出させたので、一揆は反抗しました。長享元年(1487)政親は急いで帰国し、一向宗退治に乗り出し、その年の暮れからその拠点として、冨樫館のある野々市の郊外の高尾城の戦備をはじめました。これに対して光徳寺など本願寺派の坊主・門徒に率いられた加賀の一向宗徒たちは、政親の大叔父にあたる泰高一派と結び、また越中・能登・越前の一向宗徒ら支援を受け、「仏敵征伐」や「南無阿弥陀仏」と書いたの旗印を掲げて、百姓・武士たちを集めて、政親の立て篭る高尾城(石川郡)を包囲し、国守との決戦の態勢を固めました。
政親は、越中や能登からの援軍を期待してしばらく篭城で頑張りましたが、高尾城を包囲する一向軍はついに8万4千人にのぼりました。特に木越の光徳寺、光願寺、磯辺の勝願寺の河北郡の3つ大坊主と、石川郡の吉藤の専光寺はを加え、総勢4万余と全軍の約半数で、伏見、山科、浅野、大衆免の線に陣を敷いていた。一方、これを迎え撃つ冨樫方は、1万余騎に過ぎず、わずかに将軍足利義尚が命じてくれた越前守護朝倉敏景や越中の代官松原信次らが救援軍に駆けつけてくれるのが頼みでありました。
こうして、ついに合戦の火蓋が切られたのは、5月10日のことであります。戦いは一進一退を繰り返し6月に入りました。能登の畠山氏も援軍に駆けつけることになりましたが、越中、越前、能登全ての援軍が、一向宗徒に途中で阻まれている間に、城兵は日毎に減り、敗北の色が高尾城に濃く垂れ込みはじめました。
6月6日、一向宗徒に乗っ取られた野々市の大乗寺で、宗徒側の軍評定が開かれました。最初、讃山の洲崎泉入道慶覚が高尾城が難攻不落の寺であることから、力攻めをやめ、糧道を断って兵糧攻めを行うことを主張しました。能美郡河合村の河合藤左衛門宣久も同意を示し、決まりかけそうになったその時、光徳寺が、異議を挟みました。光徳寺は、兵糧攻めが徒(いたずら)に日々を費やし、越前・越中などの援軍が到着した場合、挟み撃ちに会うとして、総力戦で攻め落とすことを主張しました。光徳寺が冨樫家と俗縁に繋がっていることは周知の事実だけに、その声は感動を持って一同を揺さぶったといいます。この日の評定は一転して光徳寺の唱える即戦論に一決しました。
翌6月7日の卯の刻(午前6時)から総攻撃が始まり、日暮れまで戦い、両軍がやっと引きました後に、2000を超える死体が残されていました。8日は一時休戦で両軍ともに、死体の収容に過ごし、最後の一戦は9日に持ち越されました。その夜遅く高尾城から光徳寺の伏見の陣所に、密使が送られました。光徳寺と勝願寺に宛てた手紙で政親の妻・巴(尾張熱田神宮宮司友平氏の娘)と姫を越中に逃がすことを頼みました。両寺は受け入れ、高尾城の搦め手から、政親の妻と姫を乗せた輿を守る女房の一群が、光徳寺方の僧兵に警護されて、落ちました。伏見の光徳寺陣所に入った後、輿を受け取り、若松本泉寺に移した後、一時休憩し、このあと光徳寺のお供で倶梨伽羅御坊まで見送り、その後越中の方へ落ちていったといいます。
高尾城には、この落城間近になっても、光徳寺と血縁の者がまだ1人居ました。光徳寺の妻の弟で、槻橋近江守重能で、彼は月橋村(現石川郡鶴来町)一帯を所領して冨樫家に従っていた槻橋氏の一族で、少年時代から文武両道に優れ、8歳の時、政親の近習となっていました。政親の信任厚く、月橋に近い荒屋村に地所を与えられ、冨樫の館へもフリーパスで入れた人物でありました。主君について高尾城に入ったのは20歳になったばかりの時でした。光徳寺は、政親の返書の際、重能へも一書を認(したため)め、光徳寺の陣に落ちてくるよう、使者に託しましたが、使者へは光徳寺への返書を託したのみで自分は落ちることはしませんでした。そして手紙には、ただ一首、歌が書かれていました。
「思いきる道ばかりなり、武士(もののふ)の命よりなお名こそ惜しけれ」
長享2年6月9日、朝卯の刻から、高尾城最後の攻防戦が繰り広げられました。城方は、門を開け放ち、将を先頭に打って出ました。包囲方の一揆方も、四方から鬨の声をあげて押し寄せました。半時ほどあまり壮絶な死闘を戦った後、政親は傷ついた姿で城へ引き上げて、城門を堅く閉ざしました。そして生き残った部下30名ほどの者で、政親を中心に円陣を作り、今生の別れの酒を酌み交わした後、次々と自刃していきました。政親は、享年34歳でした。その中に、槻橋近江守重能もいたといいます。
以後、加賀の国は、南加賀の守護だった富樫泰高が形だけの加賀一国の守護になりましたが、実際の政治は、坊主・土豪・長衆(大百姓)などが共同して行ったので、「百姓の持ちたる国」と言われるようになり、約100年も続きました。また河北郡は堅固な本願寺の門徒組織を形成し、加賀一向一揆の中で、重要な役割を担い続けました。 
その後の光徳寺
その後、光徳寺は永正年間に同じ一向宗徒ながら本願寺派と勢力を争う高田専修時派の門徒の迫害を受け、いったん七尾へ移りました(光徳寺の寺伝ではこの時、能登黒島(門前町)に一宇を建て移ったとあります。)そして天正の初めになって再び木越へ戻りました。天文6年(1537)の若松騒動の後、本願寺の加賀教団への統制が強められていく中で、八田(現金沢市)の賢正、岸川(現金沢市)の了願など、光徳寺門下(木越衆)から本願寺の直参門徒に召し上げられた者も少なくなかったことが記録からわかります(天文日記)。
同じ頃、河北郡内の本願寺門徒組織である五番組や金津庄(現か北郡)など郷村の成敗沙汰を仕切る一方で、本願寺との交渉も深めており、天文7年(1538)1月2日、木越光徳寺・乗順が本願寺に出仕して謡初めに列席した他、同13年(1544)7月26日には、光徳寺・乗賢が三十日番衆を勤仕するなど、しばしば本願寺証如の「天文日記」に登場しています。
光徳寺は、このようにして光琳寺、観行坊、光専寺、般若院、大楽坊などの坊主や河北郡の郷士小竹三郎、石黒覚左衛門、車丹後などを集めて威勢をほしいままにしていました。また寺の周囲には、河北潟からの湖水を導きいれ、堡を築いて軍備を固め、百姓の持ちたる国の一城を担って河北郡に君臨していました。
しかしまもなく天正8年(1580)、天下府武をとなえ全国統一をめざす織田信長が、加賀の一向一揆退治の軍を進めました。「信長公記」によると、閏3月9日、加賀に入った信長軍は、手取川を越え、宮の越(現金沢市金石(かないわ)町付近)に陣を敷き、そこから野々市に立てこもる一向一揆軍を攻めて数多の一向衆を切り捨て、さらに数百艘の船に兵糧を積んで、川沿いに奥地に進みながら焼き討ちを行い、越中に進んで白山麓から能登境に至るまで放火しまわり、さらに山越し、能登を通り、現在の金沢市木越町付近にあった光徳寺を攻め、一揆勢を多数切り捨てたことが記されています。この光徳寺攻略時の信長の将は、命を受けた柴田勝家の先手佐久間玄藩允盛正と、おなじく信長の命に奉じる長九郎左衛門連龍でした。ここに長九郎左衛門連龍の名があるように、「長家家譜」にも、この時のことが載っていますので、原文を参考に抜粋し紹介します。
「同年(天正8年:1580)閏三月十四日軍事を柴田勝家・佐久間盛政に相議すべきため尾山へ出で候ところ、盛政木越の一揆一向宗光徳寺退治のため発向。則ち盛政と一緒に木越へ赴き、大浦口より搦め手に押し詰める。不意の事ゆえ御手の士卒大半素肌にて俄攻めにせむ。故に後面最前に攻め敗り、光徳寺戦死しついに落居す。家人各武功を顕わす。既にして福水へ帰陣。
この時玄蕃武具を長持ちに入れ常体にて出立、何方へと尋ね有りけれども包みて言わず。強いて御尋ねのところ、木越の一揆光徳寺を討つべくため罷し向かうのよしにつき、幸いに候間加勢申すべき旨仰せ入れければ、玄蕃に達して止められるといえども、是非とこれ有り搦め手大浦口より押し寄せ、前面の寄せ手色めくところを後より責め入るところ、観光坊進みて加藤将監と槍を合わせ、小原十郎左衛門(この時勝家の方へ使いに遣わし越前にこれ有り、玄蕃方より勝家方へ木越の一揆討つべき由案内これあるを聞き、金沢へ来たり申すところ、柳橋にて連龍玄蕃と仰せ合わせ加勢につきそのまま素肌にて御供申す。)小竹十郎と槍を合わせ討ち死に。上野甚七郎銃丸に中たり死す。浦野孫右衛門よく戦い傷を被る。守兵防戦はなはだしといえども、連龍しきりに兵士を励まし、各奮戦武力を尽くし後面を責め破り城内に乱入す。これにより大手共に破れ、光徳寺与党の兵士ことごとく死亡す。盛政大いに連龍の軍労を謝す。」
佐久間盛政と長連龍の2人は、このように力を合わせ、攻め、ここに明徳以来200年の一向宗の大寺の堂舎は焼け落ちたのでありました。
ただしこの信長勢による光徳寺攻略の際は、光徳寺は、どうも代坊主が籠城(「信長公記による)」して守っていたらしく、坊主本人は逃げ延びたらしい(寺伝の時期ではなく、この時期に能州黒島に一宇を建てて移ったのがどうも本当のところであるらしい)。前田利家が能登に入封すると、本七尾へ移して寺所を授けられ珠洲郡を除く能登3郡の真宗西院の触頭の寺院になることを命じられたといいます。その後移転して府中村(現在通称違堀りといわれているあたり)で3石4斗を与えられ、重ねて前田利常から五斗3升余の地所を与えられています。しかし同地は海岸に近く風波も甚だしいため、天保12年に(1841)所口町の4石5升余の現在地へ移転したとあります。
また金沢にも光徳寺というのが玉川町と八田町にあるが、玉川町の光徳寺は40余年前、六枚町にあったものが現住所に移ったもので、明徳元年に観行坊が木越に建立し、6代玄順の時に同郡二日市村へ、7代慶順の時、六枚町へ移ったことになっている。両光徳寺はともに井上姓を名乗っているが、玉川町の光徳寺の住職の話では、七尾の光徳寺とは同祖で、三兄弟から出たものとのこと。 
 
蓮如上人御一代記聞書

 

(1)
勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさい。念仏といっても自力と他力とがある。自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて、仏に差しあげ、その称えた功徳によって、仏が救ってくださるように思って称えるのである。他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。このようなわけで、他力というのは他の力、如来の本願のはたらきという意味である。この信心は臨終まで続き、浄土に往生するのである」と仰せになりました。
(2)
朝の勤行で、「高僧和讃」の「いつつの不思議をとくなかに」から「尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ」までの六首をおつとめになり、その夜、蓮如上人はこれらのご和讃のこころについてご法話をされたとき、「観無量寿経」の「光明はひろくすべての世界を照らす」という文と、法然上人の、月かげのいたらぬさとはなけれども、ながむるひとのこころにぞすむ、月の光の届かないところは一つとしてないが、月はながめる人の心にこそやどる。という歌とを引きあわせてお話しになりました。そのありがたさはとても言葉に表すことができません。蓮如上人が退出された後で、実如上人は、前夜のご法話と今夜のご法話とを重ねあわせてお味わいになり、「まったくいいようのないありがたいご法話であった」と仰せになり、上人の目からはとめどなく涙があふれ出たのでした。
(3)
勤行のとき蓮如上人が、ご和讃をあげる番になったのを忘れておられたことがありました。南殿へお戻りになって、「親鸞聖人のご和讃のみ教えがあまりにもありがたいので、自分があげる番になったのをつい忘れていた」と仰せになり、「これほどありがたい聖人のみ教えであるが、それを信じて往生する人は少ない」とお嘆きになりました。
(4)
「<念声是一>.<ねんしょうぜいち>という言葉がありますが、もともと念は心に思うことであり、声は口に称えることですから、これが同じであるというのは、いったいどのような意味なのかわかりません」という質問があったとき、蓮如上人は、「心の中の思いは、おのずと表にあらわれると世間でもいわれている。信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたであるので、口に称えるのも南無阿弥陀仏、心の中も南無阿弥陀仏、口も心もただ一つである」と仰せになりました。
(5)
蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。
(6)
「南無というのは帰命のことであり、帰命というのは弥陀を信じておまかせする心である。また、南無には発願回向の意味もある。発願回向というのは、弥陀を信じておまかせするものに、ただちに弥陀の方からこの上なくすばらしい善根功徳をお与えくださることである。それがすなわち南無阿弥陀仏である」と、蓮如上人は仰せになりました。
(7)
加賀の願生と覚善又四郎とに対して、蓮如上人は、「信心というのは、仰せのままにお救いくださいと弥陀におまかせしたそのときに、ただちにお救いくださるすがたであり、それを南無阿弥陀仏というのである。どれほどわたしたちの罪があろうとも、弥陀におまかせした信心の力によって消してくださるのである」と仰せになり、「浄土真要鈔」の「はかり知れない昔から、迷いの世界をめぐってつくり続けてきた罪は、弥陀を信じて南無阿弥陀仏とおまかせしたそのときに、さとりの智慧をそなえたすぐれた本願の力によって滅ぼされ、この上ないさとりを得るまことの因がはじめて定まるのである」という文を引かれてお話しになりました。そして、このこころを書き記し掛軸にして、願生にお与えになりました。
(8)
三河の教賢と伊勢の空賢とに対して、蓮如上人は、「南無というのは帰命のことであり、仰せのままにお救いくださいと、弥陀を信じておまかせする心である。この帰命の心そのままが、弥陀の発願回向のはたらきを感得する心である」と仰せになりました。
(9)
「「安心決定鈔」に、<他力の救いを長い間わが身に受けながら、役に立たない自力に執着して、むなしく迷いの世界をめぐり続けてきたのである>とあるのがどうもわかりません」と申しあげたところ、蓮如上人は、「これは、他力の救いを頭で理解しただけで、信じることのできないものをいうのである」と仰せになりました。
(10)
「「安心決定鈔」に、<弥陀の大悲が、迷いの世界につねに沈んでいる衆生の胸のうちに満ちあふれている>とある言葉がどうも納得できません」と、福田寺のj俊が申しあげたところ、蓮如上人は、「仏の清らかな心を蓮の花とすれば、その花は衆生の腹の中でというより胸で咲くといった方がぴったりするだろう。同じ、「安心決定鈔」には、<弥陀の身と心の功徳が、あらゆる世界の衆生の身のうち、心の底までいっぱいに入ってくださる>とも述べられている。だから、大悲の本願を疑いなく信じて受け取った衆生の心を指して、胸といわれたのである」と仰せになりました。このお言葉を聞いてj俊はじめ一同は、ありがたいことだと喜んだのでありました。
(11)
十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。
(12)
「お聖教を十分に学び覚えたとしても、他力の安心を決定しなければ無意味なことである。弥陀におまかせしたそのときに往生は間違いなく定まると信じ、そのまま疑いの心なく臨終まで続く、この安心を得たなら、浄土に往生することができるのである」と仰せになりました。
(13)
明応三年十一月、報恩講期間中の二十四日の夜明け前、午前二時ごろのことでした。わたくし空善は、夜を通してご開山聖人の御影像の前でお参りしていたのですが、ついうとうとと眠ってしまい、夢とも現実ともわからないうちに次のようなことを拝見しました。聖人の御影像がおさまっているお厨子の後ろより、綿を広げたようにかすみがかった中から、蓮如上人がお出ましになったと思って、目を凝らしてよくよく拝見すると、そのお顔は蓮如上人ではなくご開山聖人だったのです。何と不思議なことかと思って、すぐにお厨子の中をうかがうと、聖人の御影像がありません。さてはご開山聖人が蓮如上人となって現れ、浄土真宗をご再興なさったのであるといおうとしたところ、慶聞坊が、聖人のみ教えについて、「たとえば木も石も擦るという縁によって火が出るようなものであり、瓦も石ころもやすりで磨くことによって美しい石となるようなものである」という「報恩講私記」の文を引き、説法する声が聞こえて夢から覚めました。それからというもの、蓮如上人はご開山聖人の生まれ変わりであると、信じるようになりました。
(14)
「人を教え導こうとするものは、まず自分自身の信心を決定した上で、お聖教を読んで、そのこころを語り聞かせなさい。そうすれば聞く人も信心を得るのである」と仰せになりました。
(15)
「弥陀におまかせして救われることがたしかに定まり、そのお救いいただくことをありがたいことだと喜ぶ心があるから、うれしさのあまりに念仏するばかりである。すなわち仏恩報謝である」と、蓮如上人は仰せになりました。
(16)
ご子息の蓮淳さまに対して、蓮如上人は、「自分自身の信心を決定した上で、他の人々にも信心を得るよう勧めなさい」と仰せになりました。
(17)
十二月六日に、蓮如上人が山科の本願寺より摂津富田の教行寺へ出向かれるというので、その前日の五日の夜、たくさんの人が上人のもとへやって来ました。上人が「今夜はなぜこれほど多くの人が来ているのか」とお尋ねになったところ、順誓が、「一つには、先日の報恩講のときに、ありがたいご法話を聴聞させていただいたことへのお礼のため、もう一つは、明日から富田へ出向かれますが、今日のうちならお目にかかることができます。それで、年末のお礼を申しあげるために参ったのでしょう」とお答えしました。そのとき蓮如上人は、「何とも無意味な年末の礼だな。年末の礼をするのなら、信心を得て礼にしなさい」と仰せになりました。
(18)
「ときとして、おこたりなまけることがある。これでは往生できないのではなかろうかと疑い嘆くものもあるであろう。けれども、すでに弥陀をひとたび信じておまかせし、往生が定まった後であれば、なまけることの多いのは恥ずかしいことであるが、このようになまけることの多いものであっても、お救いいただくことは間違いない。そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと喜ぶ心を、弥陀の本願のはたらきにうながされておこる心というのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(19)
「すでにお救いいただいた、ありがたいことだと念仏するのがよいのでしょうか、それとも、間違いなくお救いいただく、ありがたいことだとお念仏するのがよいのでしょうか」とお尋ねしたところ、蓮如上人は、「どちらもよい。ただし、仏になるべき身に定まったという正定聚の利益においては、すでにお救いいただいたと喜ぶ心であり、浄土に往生して必ず仏のさとりを開くという滅度の利益においては、お救いいただくことに間違いはない、ありがたいことだと喜ぶ心である。どちらも仏になることを喜ぶ心であって、ともによいのである」と仰せになりました。
(20)
明応五年一月二十三日に、蓮如上人は、攝津富田の教行寺より京都山科の本願寺に戻られて、「今年から、信心のないものには会わないつもりである」と、きびしく仰せになりました。そして、安心とはこういうものであると、いっそう懇切にお話しになり、また、誓願寺の僧に能を演じさせ、人々に念仏をお勧めになりました。二月十七日には、はやくもまた富田の教行寺へ出向かれ、三月二十七日には、境の信証院より山科へ戻られました。翌二十八日に蓮如上人は、「<自信教人信>のこころを人々に説き聞かせるために、こうして行き来しているのである。行ったり来たりするのも骨の折れることではあるが、出かけて行ったところでは、信心を得て、喜んでくれるので、それがうれしくて、こうしてまたやって来た」と仰せになりました。 
 

 

(21)
四月九日に、蓮如上人は、「安心を得た上で、ご法義を語るのならよい。安心に関わりのないことを語るべきではない。弥陀を信じておまかせする心を十分に人にも語り聞かせなさい」と、わたくし空善に対して仰せになりました。
(22)
四月十二日に、蓮如上人は境の信証院へ出向かれました。
(23)
七月二十日に、蓮如上人は京都山科の本願寺に戻られ、その日のうちに「高僧和讃」の、五濁悪世のわれらこそ金剛の信心ばかりにてながく生死をすてはてて自然の浄土にいたるなれさまざまな濁りに満ちた悪世に生きるわたくしたちこそ、決して壊れることのない他力の信心ただ一つで、永久に迷いの世界を捨てて、阿弥陀仏の浄土に往生するのである。を引いてご法話をされ、さらに次の金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護してながく生死をへだてける決して壊れることのない他力の信心が定まるそのときに、弥陀の光明はわたしたちを摂め取り、永久に迷いの世界を離れさせてくださる。の和讃についてもご法話をされました。そして、「この二首の和讃のこころを語り聞かせたいと思って、京都に戻ってきた」と仰せになり、「<自然の浄土にいたるなり><ながく生死をへだてける>とお示しくださっている。何とまあ、うれしく喜ばしいことではないか」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。
(24)
「<南無>の<無>の字を書くときには、親鸞聖人の書き方を守って、<无>の字を用いている」と、蓮如上人は仰せになりました。そして、「南无阿弥陀仏」を金泥で写させて、それをお座敷にお掛けになり、「不可思議光仏という名も、無碍光仏という名も、ともにこの南無阿弥陀仏の徳をほめたたえた名である。だから、南無阿弥陀仏の名号を根本としなさい」と仰せになりました。
(25)
「「正像末和讃」の、十方無量の諸仏の証誠護念のみことにて自力の大菩提心のかなはぬほどはしりぬべしすべての世界の数限りない仏がたは真実の言葉で本願他力の救いをお示しになり、お護りくださる。そのお言葉によって、自力でさとりを求めてもさとりを開くことはできないと知らされるのである。という一首の心を聴聞させていただきたいのです」と、順誓が申しあげたとき、蓮如上人は、「仏がたはみな弥陀に帰して、本願他力の救いをお示しになるのを役目とされているのである」と仰せになりました。また、上人は仰せになりました。「世のなかにあまのこころをすてよかし妻うしのつのはさもあらばあれこの濁った世において、出家して尼になりたいなどという心は捨てるがよい。牝牛の角は曲がっているけれども、それはそれでよいのである。という歌がある。これはご開山聖人のお詠みになった歌である。このように外見の姿かたちはどうでもよいことであり、ただ弥陀におまかせする信心が大切であると心得なさい。世間にも<頭は剃っていても心を剃っていない>という言葉がある」と。
(26)
鳥部野をおもひやるこそあはれなれゆかりの人のあととおもへば鳥部野に思いを馳せるのはとりわけ悲しい。縁のあった人たちを葬送したところだと思うから。という歌がある。これも親鸞聖人のお詠みになった歌である。
(27)
明応五年九月二十日、蓮如上人は、ご開山聖人の御影像をわたくし空善に下され、ご安置することをお許しになりました。そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。
(28)
同じ年の十一月、報恩講期間中の二十五日に、ご開山聖人の御影像の前で蓮如上人が「御伝鈔」を拝読されて、いろいろとご法話をされました。そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。
(29)
明応六年四月十六日、蓮如上人は京都山科の本願寺に戻られました。その日、厚めの紙一枚に丁寧に包まれているご開山聖人の御影像の原本を取り出されて、上人ご自身の手でお広げになり、「この御影像の上下にある賛文は、ご開山聖人のご真筆である」とおおせになって、一同のものに拝ませてくださいました。そして、「この原本は、よほど深いご縁がなくては拝見できるものではない」と仰せになりました。
(30)
「「高僧和讃」に、諸仏三業荘厳して畢竟平等なることは衆生虚誑の身口意を治せんがためとのべたまふ仏がたのすべての行いがまことで清らかであり、まったく平等であるのは、衆生の嘘やいつわりの行いを破ってお救いになるためであると、曇鸞大師は述べておられる。というのは、仏がたはみな弥陀一仏に帰して、衆生をお救いになるということである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(31)
「信心を得て、その後信心が続くというのは、決して別のことではない。最初におこった信心がそのまま続いて尊く思われ、この信心が生涯貫くのを、<憶念の心つねに>とも<仏恩報謝>ともいうのである。だから、弥陀におまかせする信心をいただくことが何よりも大切なのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(32)
「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。
(33)
「南無阿弥陀仏の六字は、この上なくすばらしい善根功徳をそなえたものであるから、他宗では、この名号を称えて、その功徳をさまざまな仏や菩薩や神々に差しあげ、名号の功徳を自分のもののようにするのである。けれでも、浄土真宗ではそうではない。この六字の名号が自分のものであるなら、これを称えてその功徳を仏や菩薩に差しあげることもできるだろうが、名号はわたしたちが阿弥陀仏からいただいたものである。だから、わたしたちは、ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせすれば、ただちにお救いいただくのであり、そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、念仏するばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(34)
三河の国より浅井氏の先代の夫人が、蓮如上人にこの世でのお別れのご挨拶をしようと、山科の本願寺にやって来ました。ちょうど富田の教行寺へ出向かれる日の朝のことでしたので、上人は大変忙しくしておられましたが、それでも夫人にお会いになって、「念仏するのは、名号をただ口に称えてその功徳を仏に差しあげようとするものでは決してない。仰せのままにお救いくださいとたしかに弥陀を信じておまかせすれば、ただちに仏にお救いいただくのであり、それを南無阿弥陀仏というのである。だから、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと心に喜ぶのをそのまま口に出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すのである。これを仏恩を報じるというのである」と仰せになりました。
(35)
順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。そんなことはないだろう。こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。
(36)
「「正像末和讃」に、真実信心の称名は弥陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるる真実信心の称名は、阿弥陀如来から衆生に回向された行であるから、法然上人はそれを衆生の側からいえば不回向であると名づけられて、自分の念仏を退けられた。とある。弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで念仏する心も、すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、わたしたちが、ああしようかこうしようかとはからって念仏すのは自力であり、だから退けられるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(37)
無生の生とは、極楽浄土に生まれることをいうのである。浄土に生まれるのは、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けるというような意味ではなく、生死を超えたさとりの世界に生まれることである。だから、極楽浄土に生まれることを無生の生というのである。
(38)
「回向というのは、弥陀如来が衆生をお救いくださるはたらきをいうのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(39)
「信心がおこるということは、往生がたしかに定まるということである。罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことである。弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあてとしてお救いくださるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(40)
「身分や地位の違いを問わず、このようにみなさんと同座するのは、親鸞聖人も、すべての世界の信心の人はみな兄弟であると仰せになっているので、わたしもそのお言葉の通りにするのである。また、このように膝を交えて座っているからには、遠慮なく疑問に思うことを尋ねてほしい、しっかりと信心を得てほしいと願うばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。 

 

(41)
「信文類」の「愛欲の広い海に沈み名利の深い山に迷って、必ず仏になる身と定まったことを喜びもせず、真実のさとりに近づきつつあることを楽しいとも思わない」というお言葉について、お弟子たちが、これをどう理解すればよいのか思い悩み、「愛欲に沈み名利に迷う身で、往生できるのであろうか」、「往生できないのではないか」などと、お互いに論じあっていました。これを蓮如上人はものを隔てたところからお聞きになって、「愛欲も名利もみなわが身にそなわった煩悩である。わが身の上をあれこれ心配するのは、自力の心が離れていないということである」とお諭しになり、「ただ弥陀を信じておまかせする他に何もいらない」と仰せになりました。
(42)
ある日の夕暮れどき、多くの人が取り次ぎも頼まずにやって来ました。慶聞坊がそれをとがめて、「何ごとか、すぐに退出しなさい」と荒々しく叱りつけたところ、蓮如上人がそれをお聞きになって、「そのように叱るかわりに信心について語り聞かせて返してやってほしいものだ」と仰せになりました。そして上人が、「信心のことは東西に走りまわってでも話して聞かせたいことである」と仰せになると、慶聞坊は涙を流し、「間違っておりました」とお詫びして、信心についてご法話をされました。その場にいた人々はみな感動して、とめどなく涙があふれ出たのでした。
(43)
明応六年十一月、この年蓮如上人は山科本願寺の報恩講においでにならないことになったので、実如上人が法敬坊を使いにやり、「今年は大坂におられるとのことですが、報恩講はどのようにいたしましょうか」とお尋ねになりました。すると蓮如上人は、今年からは、夕方六時より翌朝六時までの参詣をやめてみな立ち去るようにという御文章をおつくりになって、「このようになさるがよい」と仰せになりました。また、「御堂に泊まってお護りするものも、その日の当番の人だけにしなさい」とも仰せになりました。一方で、蓮如上人は七日間の報恩講のうち三日を富田の教行寺でおつとめになり、二十四日には大坂の御坊に出向かれて、おつとめになりました。
(44)
明応七年の夏より、蓮如上人はまたご病気になられたので、五月七日、「この世でのお別れのご挨拶をするために親鸞聖人の御影前にお参りしたい」と仰せになって、京都山科の本願寺にお戻りになりました。そしてすぐに、「信心を得ていないものにはもう会わない。信心を得たものには呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう」と仰せになりました。
(45)
新しい時代の人は、昔のことを学ばなければならない。また、古い時代の人は、昔のことをよく伝えなければならない。口で語ることはその場限りで消えてしまうが、書き記したものはなくならないのである。
(46)
赤尾の道宗がいわれました。「一日のたしなみとしては、朝の勤行をおこたらないようにと心がけるべきである。一月のたしなみとしては、必ず一度は、親鸞聖人の御影像が安置されている近くの寺へ参詣しようと心がけるべきである。一年のたしなみとしては、必ず一度は、ご本山へ参詣しようと心がけるべきである」と。この言葉を円如さまがお聞き及びになって、「よくぞいった」と仰せになりました。
(47)
「自分の心のおもむくままにしておくのではなく、心を引き締めなければならない。そうすると仏法は気づまりなものかとも思うが、そうではなく、阿弥陀如来からいただいた信心によって、心のなごむものである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(48)
法敬坊は九十の年までご存命でありました。その法敬坊が、「この年になるまで仏法を聴聞させていただいたが、もう十分聞いた、これまでだと思ったことはない。仏法を聴聞するのに飽きた、足りたということはないのである」といわれました。
(49)
山科の本願寺で蓮如上人のご法話があったとき、あまりにもありがたいお話であったので、これを忘れるようなことがあってはならないと思い、六人のものがお座敷を立って御堂へ集まり、ご法話の内容について話しあいをしたところ、それぞれの受け取り方が異なっていました。そのうちの四人は、ご法話の趣旨とはまったく違っていました。聞き方が大切だというのはこのことです。聞き誤りということがあるのです。
(50)
蓮如上人がおいでになったころ、上人のもとに、熱心に法を聞こうとする人々も大勢集まっていた中で、「この中に、信心を得たものが何人いるであろうか。一人か二人か、いるであろうか」などと仰せになり集まっていた人々はだれもかれも驚いて、「肝をつぶしました」といったということです。
(51)
法敬坊が、「ご法話を聞くときには、何にもかも同じように聞くのではなく、聴聞はかどを聞け」といわれました。これは、肝心かなめのところでしっかりと聞けということです。
(52)
「報恩講私記」に「憶念称名いさみありて」とあるのは、称名は喜びいさんでする念仏だということである。信心をいただいた上は、うれしさのあまりいさんで称える念仏なのである。
(53)
御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。
(54)
「浄土真宗のみ教えを、この年になるまで聴聞し続け、蓮如上人のお言葉を承っているが、ただ、わたしの愚かな心が、そのお言葉の通りにならない」と、法敬坊はいわれました。
(55)
実如上人がたびたび仰せになりました。「<仏法のことは、自分の心にまかせておくのではなく、心がけて努めなければならない>と蓮如上人はお示しになった。愚かな自分の心にまかせていては駄目である。自分の心にまかせず、心がけて努めるのは阿弥陀仏のはたらきによるのである」と。
(56)
浄土真宗のみ教えを聞き知っている人はいるけれども、自分自身の救いとして聞くことができる人はほとんどいないという言葉がある。これは、信心を得るものがきわめて少ないという意味である。
(57)
蓮如上人は、「仏法のことを話しても、それを世間のことに引き寄せて受け取る人ばかりである。しかし、それにうんざりしないで、もう一度仏法のことに引き寄せて話をしなさい」と仰せになリました。
(58)
どのような人であっても、自分は悪いとは思っていない。そう思っているものは一人としていない。しかしこれはまったく親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである。だから、一人ずつでもよいから、自分こそが正しいという思いをひるがえさなければならない。そうでないと、長い間、地獄に深く沈むことになるのである。このようなこともどうしてかといえば、本当に仏法の奥底を知らないからである。
(59)
蓮淳さまが堺の御坊へ出向かれたとき、皆ひとのまことの信はさらになしものしりがほの風情にてこそまことの信心を得た人はきわめて少ない。それなのに、だれもかれもがよくわかっているような顔をしている。という蓮如上人の歌を、紙に書いて長押にはりつけておかれました。そして、「わたしがここを発った後で、この歌の意味をよく考えてみなさい」と仰せになりました。蓮淳さまご自身がよくわからないということにして、人々に問いかけられたのです。この歌の「ものしりがほ」とは、まことの信心をいただいていないのに、自分はご法義をよく心得ていると思いこんでいるという意味です。
(60)
法敬坊は、善導大師の六字釈をいつも必ず引用し、安心のことだけを語り聞かせる人でありました。それでさえ蓮如上人は、「もっと短くまとめて話しなさい」と仰せになるのでした。これは、言葉を少なくして安心のかなめを語り聞かせなさいとの仰せです。 
 

 

(61)
善宗が、「懇志を蓮如上人に差しあげるとき、自分のものを差しあげるような顔をして持ってくるのは恥ずかしいことだ」といわれました。それを聞いた人が、「どういうことでしょうか」と尋ねたところ、善宗は、「これはみな、阿弥陀如来のおはたらきによって恵まれたものであるのに、それを自分のもののように思って持ってくる。もとより蓮如上人へ恵まれたものをわたしがお取り次ぎするだけなのに、それをまるで自分のものを差しあげるように思っているのが恥ずかしいのである」といわれました。
(62)
摂津の国、郡家村に主計という人がいました。いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。「世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか」と、何とも気がかりな様子でした。
(63)
仏法に深く帰依した人がいいました。「仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。だから、若いうちに心がけて聞きなさい」と。
(64)
阿弥陀如来は、衆生を調えてくださる。調えるというのは、衆生のあさましい心をそのままにしておいて、そこへ真実の心をお与えになり、立派になさることである。人々のあさましい心を取り除き、如来の智慧だけにして、まったく別のものにしてしまうということではないのである。
(65)
わが妻わが子ほど愛しいものはない。この愛しい妻子を教え導かないのは、まことに情けないことである。ただそれも過去からのよい縁がなければ、力の及ぶところではない。しかし、わが身一つを教え導きかないでいてよいものであろうか。
(66)
慶聞坊がいわれました。「信心を得てもいないのに、信心を得たような顔をしてごまかしていると、日に日に地獄が近くなる。うまくごまかしていたとしても、その結果はあらわれるのであり、それで地獄が近くなるのである。ちょっと見ただけでは信心を得ているのかいないのかわからないが、いつまでも命があると思わずに、今日を限りと思い、み教えを聞いて信心を得なさいと、仏法に深く帰依した昔の人はいわれたものである」と。
(67)
一度の心得違いが一生の心得違いとなり、一度の心がけが一生の心がけとなる。なぜなら、一度心得違いをして、そのまま命が尽きてしまえば、ついに一生の誤りとなって、取り返しがつかなくなるからである。
(68)
今日ばかりおもふこころを忘るなよさなきはいとどのぞみおほきに今日を限りの命だと思う心を忘れてはならないぞ。そうでないと、この世のことにますます欲が多くなるから。覚如上人の詠まれた歌です。
(69)
他流では、名号よりも絵像、絵像よりも木像という。だが浄土真宗では、木像よりも絵像、絵像よりも名号というのである。
(70)
山科本願寺の北殿で、蓮如上人は法敬坊に、「わたしはどのようなことでも相手のことを考え、十のものを一つにして、たやすくすぐに道理がうけとれるように話をしている。ところが人々は、このことを少しも考えていない」と仰せになりました。御文章なども、最近は、言葉少なくお書きになっています。「今はわたしも年老いて、ものを聞いているうちにも嫌気がさし、うっかり聞きもらすようになったので、読むものにも肝心かなめのところをすぐに理解できるように、言葉少なく書いているのである」と仰せになりました。
(71)
蓮悟さまが幼少のころ、加賀二俣の本泉寺におられたときのことです。多くの人々が小型の名号をいただきたいと申し出たので、それを蓮悟さまがお取り次になったところ、蓮如上人はその人々に対して、「それぞれみな、信心はあるか」と仰せになりました。「信心は名号をいただいたすがたである。あのときの蓮如上人のお言葉が、今にして思いあたる」と、後に蓮悟さまはお話しになリました。
(72)
蓮如上人は、「堺の日向屋は三十万貫もの財産を持っていたが、仏法を信じることなく一生を終えたので、仏にはなっていないであろう。大和の了妙は粗末な衣一つ着ることができないでいるが、このたび仏となるに違いない」と仰せになったということです。
(73)
久宝村の法性が蓮如上人に、「ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせするだけで、往生はたしかに定まると思っておりますが、これでよろしいでしょうか」と、お尋ね申しあげたところ、ある人が側から、「それはいつもお聞きしていることだ。もっと別のこと、わからないことなどをお尋ねしないでどうするのか」と口をはさみました。そのとき蓮如上人は、「そのことだ、わたしがいつもよくないといっているのは。だれもかれも目新しいことを聞きたい、知りたいとばかり思っている。信心をいただいた上は、何度でも心の中の思いをこの法性のように口に出すのがよいのである」と仰せになりました。
(74)
蓮如上人は、「なかなか信心を得ることができないと口に出して正直にいう人はよい。言葉では信心を語って、口先は信心を得た人と同じようであり、そのようにごまかしたまま死んでしまうような人を、わたしは悲しく思うのである」と仰せになりました。
(75)
浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来が説かれたものである。だから、御文章には「阿弥陀如来の仰せには」とお書きになっている。
(76)
蓮如上人が法敬坊に、「今いった弥陀を信じてまかせよということを教えてくださった人を知っているか」とお尋ねになりました。法敬坊が、「存じません」とお答えしたところ、上人は、「では今から、これを教えてくださった人をいおう。だが、鍛冶や建築などの技術を教わる際にも、お礼の品を差し出すものである。ましてこれはきわめて大切なことである。何かお礼の品を差し上げなさい。そうすればいってあげよう」と仰せになりました。そこで法敬坊が「もちろん、どのようなものでも差しあげます」と申しあげると、上人は「このことを教えてくださったお方は阿弥陀如来である。阿弥陀如来が、われを信じてまかせよと教えてくださったのである」と仰せになりました。
(77)
法敬坊が蓮如上人に、「上人のお書きになった六字のお名号が、火事にあって焼けたとき、六体の仏となりました。まことに不思議なことでございます」と申しあげました。すると上人は「それは不思議なことでもない。六字の名号はもともと仏なのだから、その仏が仏になられたからといって不思議なことではない。それよりも、罪深い凡夫が、弥陀におまかせする信心ただ一つで仏になるということこそ、本当に不思議なことではないか」と仰せになりました。
(78)
「日々の食事は、阿弥陀如来、鸞聖人のおはたらきによって恵まれたものである。だから目には見えなくてもつねにはたらきかけてくださっていることをよくよく心得ておかねばならない」と、蓮如上人は折にふれて仰せになったということです。
(79)
蓮如上人は、「<噛むとはしるとも、呑むとしらすな>という言葉がある。噛みしめ味わうことを教えても、鵜呑みにすることを教えてはならないという意味である。妻子を持ち、魚や鳥の肉を食べ、罪深い身であるからといって、ただそれを鵜呑みにして、思いのままの振舞いをするようなことがあってはならない」と仰せになりました。
(80)
「仏法では、無我が説かれている。われこそはという思いが少しでもあってはならないのである。ところが、自分が悪いと思っている人はいない。これは親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである」と、蓮如上人は仰せになりました。仏のお力によって信心を得させていただくのです。われこそはという思いが決してあってはならないのです。この無我ということについては、実如上人もたびたび仰せになリました。 
 

 

(81)
「「浄土見聞集」に、<日ごろからよく心得ていることでも、よき師にあって尋ねると、また得るところがある>と示されている。この<よく心得ていることを尋ねると、得るところがある>というのが、まことに尊いお言葉なのである」と、蓮如上人は仰せになりました。そして、「自分の知らないことを尋ねて物知りになったからといって、どれほどすぐれたことがあろうか」とも仰せになりました。
(82)
「仏法を聴聞しても、多くのものは、自分自身のためのみ教えとは思っていない。どうかすると、教えの一つでも覚えておいて、人に説いて聞かせ、その見返りを得ようとすることがある」と、蓮如上人は仰せになりました。
(83)
「疑いなく信じておまかせするもののことは、阿弥陀如来がよくご存知である。阿弥陀如来がすべてご存知であると心得て、身をつつしまなければならない。目には見えなくてもつね如来がはたらきかけてくださっていることを恐れ多いことだと心得なければならない」と、蓮如上人は仰せになリました。
(84)
実如上人は、「わたしが蓮如上人より承ったことに、特別な教えがあるわけではない。ただ阿弥陀如来におまかせする信心、これ一つであって、他に特別な教えはないのである。この他に知っていることは何もない。このことについては、どのような誓いをたててもよい」と仰せになりました。
(85)
実如上人は、「凡夫の往生は、ただ阿弥陀如来におまかせする信心一つでたしかに定まる。もし信心一つで仏になれないというのなら、わたしはどのような誓いをたててもよい。このことの証拠は、南無阿弥陀仏の六字の名号である。すべての世界の仏がたがその証人である」と仰せになりました。
(86)
蓮如上人は、「仏法について語りあう場では、すすんでものをいいなさい。黙りこんで一言もいわないものは何を考えているかわからず恐ろしい。信心を得たものも得ていないものも、ともかくものをいいなさい。そうすれば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。だから、すすんでものをいいなさい」と仰せになりました。
(87)
蓮如上人は、「おつとめの節も十分に知らないで、自分では正しいおつとめをしていると思っているものがいる」と、おつとめの節回しが悪いことを指摘して、慶聞坊をいつもお叱りになっていたそうです。これにこと寄せて、蓮如上人は、「仏法をまったく知らないものについては、ご法義を誤って受け取っているということすらいえない。ただ悪いだけである。だから、悪いと叱ることもない。けれども、仏法に心を寄せ、多少とも心得のあるものがご法義を誤って受け取るのは、まことに大きなあやまちなのである」と仰せになったとのことです。
(88)
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。
(89)
お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも、書物は百遍、繰り返し読めば、その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。
(90)
蓮如上人は、「お聖教を拝読するときには、その一言一言が他力の信心の勧めであると受け取っていけば、読み誤ることはない」と仰せになりました。
(91)
自分だけがと思いあがって、自分一人のさとりで満足するような心でいるのは情けないことである。信心を得て阿弥陀仏のお慈悲をいただいたからには、自分だけがと思いあがる心などあるはずがない。阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるのだから、信心を得たものは、おのずとおだやかな心になるはずである。縁覚は自分一人のさとりに満足し、他の人を顧みないから仏になれないのである。
(92)
仏法について少しでも語るものは、みな自分こそが正しいと思って話をしている。けれども、信心をいただいたからには、自分は罪深いものであると思い、仏恩報謝であると思って、ありがたさのあまりに人に話をするものなのである。
(93)
実如上人が順誓に、「<自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない>と、蓮如上人はお示しになった」と仰せになりました。そして、「「往生礼讃」に<自信教人信>とあるのだから、まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。これが仏恩報謝になるのである。自分自身の信心を決定してから人に教えて信心を勧めるのは、すなわち仏の大悲を人々にひろく伝える、<大悲伝普化>ということなのである」と続けて仰せになりました。
(94)
蓮如上人は、「聖教読みの聖教読まずがあり、聖教読まずの聖教読みがある。たとえ文字一つ知らなくても、人に頼んで聖教を読んでもらい、それを他の人々にも聴聞させて信心を得させるのは、聖教読まずの聖教読みである。どれほど聖教を読み聞かせることができても、聖教の真意を読み取ることもなく、ご法義を心得ることもないのは、聖教読みの聖教読まずである」と仰せになりました。「これは、<自信教人信>ということである」と仰せになりました。
(95)
「人前で聖教を読み聞かせるものが、仏法の真意を説きひろめたというためしはない。文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、蓮如上人は仰せになったということです。聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのです。聖教を読み聞かせることができても、名声を求めることばかりが先に立って、心がご法義をいただいていないから、人から信用されないのです。
(96)
蓮如上人は、「浄土真宗のみ教えを信じるものは、どんなことでも、世俗的な心持で行うのはよくない。仏法にもとづいて、何ごとも行わなければならないのである」と仰せになりました。
(97)
蓮如上人は、「世間では、何でもうまくこなしてそつがない人を立派な人だというが、その人に信心がないならば、気をつけなければならない。そのような人は頼りにならないのである。たとえ、片方の目が見えず歩くのがままならないような人であっても、信心を得ている人こそ、頼りに思うべきである」と仰せになりました。
(98)
「君を思うはわれを思うなり」という言葉がある。主君を大切に思ってしたがうものは、おのずと出世するので、自分自身を大切にしたことになるという意味である。これと同じように、よき師の仰せにしたがって信心を得れば、自分自身が極楽へ往生させていただくことになるのである。
(99)
阿弥陀仏は、はかり知れない昔からすでに仏である。本来、仏であるにもかかわらず、人々を救うための手だてとして法蔵菩薩となって現れ、四十八の誓願をたてられたのである。
(100)
蓮如上人は、「弥陀を信じておまかせする人は、南無阿弥陀仏にその身を包まれているのである」と仰せになりました。目に見えない仏のおはたらきをますますありがたく思わなければならないということです。 
 

 

(101)
丹後法眼蓮応が正装して、蓮如上人のもとへおうかがいしたとき、上人は蓮応の衣の襟をたたいて、「南無阿弥陀仏だぞ」と仰せになリました。また実如上人は、座っておられる畳をたたいて、「南無阿弥陀仏に支えられているのである」と仰せになりました。この二つの仰せは、前条の「南無阿弥陀仏にその身を包まれている」と示されたお言葉と一致しています。
(102)
蓮如上人は、「仏法を聞く身となった上は、凡夫のわたしがすることは一つ一つが恐ろしいことなのだと心得なければならない。すべてのことについて油断することのないよう心がけなさい」と、折にふれて仰せになりました。また、「仏法においては、明日ということがあってはならない。仏法のことは、急げ急げ」とも仰せになりました。
(103)
蓮如上人は、「今日という日はないものと思いなさい」と仰せになりました。上人は、どのようなことでも急いでおかたづけになり、長々と時間をかけることをおきらいになりました。そして、仏法を聞く身となった上は、明日のことも今日するように、急ぐことをおほめになったのです。
(104)
蓮如上人は、「親鸞聖人の御影像をいただきたいと申し出るのはただごとではない。昔は、道場にご本尊以外のものを安置することはなかったのである。だから、もし信心もなく御影像を安置するのであれば、必ず聖人のお叱りを受けることになるであろう」と仰せになりました。
(105)
「時節到来という言葉がある。あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。何一つ用心もしないで事がおこった場合、時節到来とはいわないのである。信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである。とにもかくにも、信心は聞くということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(106)
蓮如上人が法敬坊に、「まきたてということを知っているか」とお尋ねになりました。法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました。
(107)
蓮如上人は、「どのようにしてでも、自分の心得違いを他の人から直してもらうように心がけなければならない。そのためには、心に思っていることを同じみ教えを信じる仲間に話しておくべきである。自分より目下のものがいうことを聞き入れようとしないで、決まって腹を立てるのは、実に情けないことである。だれからでも心得違いを直してもらうよう心がけることが大切なのである」と仰せになりました。
(108)
ある人が蓮如上人に、「信心はたしかに定まりましたが、どうかすると、よき師のお言葉をおろそかに思ってしまいます」と申しあげました。それに対して上人は、「信心をいただいたからには、当然よき師を崇め敬う心があるはずである。だが、凡夫のどうしようもない性分によって、師をおろそかにする思いがおこったときは、恐れ多いことだと反省し、その思いを捨てなければならない」と仰せになりました。
(109)
蓮如上人は蓮悟さまに、「たとえ木の皮を身にまとうような貧しいくらしであっても、それを悲しく思ってはならない。ただ弥陀におまかせする信心を得た身であることを、ありがたく喜ぶべきである」と仰せになりました。
(110)
蓮如上人は、「身分や年齢の違いにかかわらず、どんな人も、うかうかと油断した心でいると、大切なこのたびの浄土往生ができなくなってしまうのである」と仰せになりました。
(111)
蓮如上人が歯の痛みで苦しんでおられたとき、ときおり目を閉じ、「ああ」と声をお出しになりました。みなが心配していると、「人々に信心のないことを思うと、この身が切り裂かれるように悲しい」と仰せになったということです。
(112)
蓮如上人は、「わたしは相手のことをよく考え、その人に応じて仏法を聞かせるようにしている」と仰せになりました。どんなことであれ、相手が好むようなことを話題にし、相手がうれしいと思ったところで、また仏法についてお話になりました。いろいろと巧みな手だてを用いて、人々にみ教えをお聞かせになったのです。
(113)
蓮如上人は、「人々は仏法を信じることで、このわたしを喜ばせようと思っているようだが、それはよくない。信心を得れば、その人自身がすぐれた功徳を得るのである。けれども、人々が信心を得てくれるのなら、喜ぶばかりか恩にも着よう。聞きたくない話であっても、本当に信心を得てくれるのなら、喜んで聞こう」と仰せになりました。
(114)
蓮如上人は、「たとえただ一人でも、本当に信心を得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでもみ教えを勧めなさい。それは決して無駄にはならないのである」と仰せになりました。
(115)
あるとき蓮如上人は、ご門徒がみ教えの心得違いをあらためたということをお聞きになって、大変お喜びになり、「老いた顔の皺がのびた」と仰せになりました。
(116)
蓮如上人があるご門徒に、「あなたの師がみ教えの心得違いをあらためたが、そのことをうれしく思うか」とお尋ねになったところ、その人は、「心得違いをすっかりあらためられ、ご法義を大切にされるようになりました。何よりもありがたくうれしく思います」とお答えしました。上人はそれをお聞きになって、「わたしは、あなたよりももっとうれしく思うぞ」と仰せになりました。
(117)
蓮如上人は、能狂言のしぐさなどを演じさせて、ご法話を聞くことに退屈しているものの心をくつろがせ、疲れた気分をさっぱりとさせて、また新たにみ教えをお説きになるのでした。実に巧みな手だてであり、本当にありがたいことです。
(118)
四天王寺の土塔会の祭礼を蓮如上人がご覧になり、「あれほどの多くの人々が、みな地獄へ堕ちていく。それがあわれに思われる」と仰せになり、また、「だが、信心を得たご門徒は仏になるのである」と仰せになりました。これもまた、ありがたいお言葉です。
(119)
ご法話をされた後で蓮如上人は、四、五人のご子息たちに、「法話を聞いた後で、四、五人ずつが集まって、話しあいをしなさい。五人いれば五人とも、決って自分に都合のよいように聞くものであるから、聞き誤りのないよう十分に話しあわなければならない」と仰せになりました。
(120)
たとえ事実でないことであっても、人が注意してくれたときは、とりあえず受け入れるのがよい。その場で反論すると、その人は二度と注意してくれなくなる。人が注意してくれることは、どんなことでも心に深くとどめるようにしなければならない。このことについて、こんな話しがある。二人のものが、お互いに悪い点を注意しあおうと約束した。そこで、一人が相手の悪い行いを注意したところ、相手のものは、「わたしはそうは思わないが、人が悪いというのだからそうなのでしょう」といいわけをした。こうした返答の仕方が悪いというのである。事実でなくても、とりあえず「たしかにそうだ」と返事をしておくのがよいのである。 
 

 

(121)
一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。だから、「報恩講私記」に、「念仏のみ教えの繁昌は、親鸞聖人のみ教えを受けた人々の信心の力によって成就する」とお示しくださっているのである。
(122)
蓮如上人は、「仏法を聴聞することに熱心であろうとする人はいる。しかし信心を得ようと思う人はいない。極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいと願う人はいる。しかしその人は仏になれないのである。ただ弥陀を信じておまかせする人が、往生して仏になるのである」と仰せになりました。
(123)
すすんで聖教を求め、持っている人の子孫には、仏法に深く帰依する人が出てくるものである。一度でも仏法に縁があった人は、たとえふだんは大まかであっても、何かの折にはっと気がつきやすく、また仏法に心を寄せるようになるものである。
(124)
蓮如上人の御文章は、阿弥陀如来の直接のご説法だと思うべきである。その昔、人々が法然上人について、「姿を見れば法然、言葉を聞けば弥陀の直接の説法」といったのと同じである。
(125)
ご病床にあった蓮如上人が、慶聞坊に「何か読んで聞かせてくれ」と仰せになったとき、慶聞坊は「御文章をお読みいたしましょうか」と申しあげました。上人は、「では読んでくれ」と仰せになり、三通を二度ずつ、あわせて六度読ませられて、「自分で書いたものではあるが、本当にありがたい」と仰せになりました。
(126)
順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものである。だが、わたしはそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれました。
(127)
蓮如上人は、「仏法のためと思えば、どんな苦労も苦労とは思わない」と仰せになりました。上人はどんなことでも心をこめてなさったのです。
(128)
「仏法については、大まかな受けとめ方をするのはよくない。世間では、あまり細かすぎるのはよくないというが、仏法については、細部に至まで心を配り、細やかに心をはたらかせなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。
(129)
遠いものがかえって近く、近いものがかえって遠いという道理がある。「灯台もと暗し」というように、いつでも仏法を聴聞することができる人は、尊いご縁をいただきながら、それをいつものことと思い、ご法義をおろそかにしてしまう。反対に、遠く離れていてなかなか仏法を聴聞することができない人は、仏法を聞きたいと思って、真剣に求める心があるものである。仏法は、真剣に求める心で聞くものである。
(130)
信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。
(131)
道宗は、「同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて耳にするかのようにありがたく思われる」といわれました。
(132)
「念仏するにも、よい評判を求めているかのように人が思うかもしれないので、人前では念仏しないように気をつけているが、これは実に骨の折れることである」と、ある人がいいました。普通の人と違った尊い心がけです。
(133)
ともに念仏する仲間の目を気にして、目には見えない仏の心を恐れないのは、愚かなことである。何よりも、仏がすべてをお見通しになっていることを恐れ多く思わなければならない。
(134)
「たとえ正しいみ教えであっても、わずらわしく理屈を並べることはやめなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。まして、世間のことばかりを話し続けてやめないというのはよくありません。ますます盛んに勧めなければならないのは、信心のことなのです。
(135)
蓮如上人は、「仏法では、功徳を仏に差しあげようとする心はよくない。それは自分の力で功徳を積み、仏のお心にかなおうとする自力の心である。仏法では、どんなことも、仏恩報謝のいとなみと思わなければならないのである」と仰せになりました。
(136)
人間には、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官があって、これらがちょうど六人の盗賊のように、人間の善い心を奪い取ってしまうのである。だがそれは、自分の力でさまざまな行を修める場合のことである。他力の念仏の場合はそうではない。仏の智慧である信心を得るのであるから、仏の力によってただちに貪り・怒り・愚かさの煩悩もさわりのないものとしてくださる。だから「散善義」には、「貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこる」とあり、「正信偈」には、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて、闇がないのと同じである」と述べられているのである。
(137)
わずか一言のみ教えであっても、人はとかく自分に都合のよいように聴聞するものである。だから、ひたすらよく聞いて、心に受けとめたままを念仏の仲間とともに話しあわなければならない。
(138)
蓮如上人は、「神に対しても仏に対しても、馴れてくると手ですべきことを足でするようになる。阿弥陀如来・親鸞聖人・よき師に対しても、慣れ親しむにつれて気安く思うようになるのである。だが、慣れ親しめば親しむほど、敬いの心を深くしなければならないのは当然のことである」と仰せになりました。
(139)
口に念仏し身に礼拝するのはまねをすることができても、心の奥底はなかなかよくなるものではない。だから、力の及ぶ限り、心をよくするよう努めなければならないのである。
(140)
衣服などでも、自分のものだと思って踏みつけ粗末にするのは、情けないことです。何もかもすべて親鸞聖人のおはたらきによって恵まれたものなのですから、蓮如上人は、着物などが足に触れたときには、うやうやしくおしいただかれたとお聞きしています。 
 

 

(141)
蓮如上人は、「表には王法を守り、心の奥深くには仏法をたもちなさい」と仰せになりました。また、「世間の倫理も正しく守りなさい」と仰せになりました。
(142)
蓮如上人は、お若いころ大変苦労されました。ただひとえに、ご自身の生涯のうちに浄土真宗のみ教えをひろめようと願われた志一つで、このように浄土真宗が栄えるようになったのです。すべては上人のご苦労によるものです。
(143)
ご病床にあった蓮如上人が、「わが生涯のうちに浄土真宗をぜひとも再興しようと願った志一つで、浄土真宗が栄えるようになって、みんながこのように安らかに暮らせるようになった。これもわたしに、目に見えない仏のおはたらきがあったからなのである」と、ご自身をほめて仰せになりました。
(144)
蓮如上人は、お若いころ粗末な綿入れの白衣を着ておられました。白無地の小袖なども気軽に着られることはなかったそうです。このようにいろいろと貧しい暮らしをされたことを折にふれてお話しになり、そのたびに「今の人々はこういう話を聞いて、目に見えない仏のおはたらきをありがたく思わなければならない」と繰り返し仰せになりました。
(145)
蓮如上人は、お若いころ何ごとにも苦労ばかりで、灯火の油を買うだけのお金もなく、かろうじて安い薪を少しずつ取り寄せて、その火の明かりでお聖教をお読みになったそうです。また、ときには月の光りでお聖教を書き写されることもありました。足もたいていは冷たい水で洗われました。また、二、三日もお食事を召しあがらなかったこともあったとお聞きしています。
(146)
「若いころは思い通りに人を雇うこともできなかったので、赤ん坊のおむつも、わたしの手で洗ったものだ」と、蓮如上人は仰せになりました。
(147)
蓮如上人は、父上の存如上人の使用人をときおり雇って使われたそうです。その当時、存如上人は人を五人使っておられました。ですから、蓮如上人はご隠居なさった後も五人だけお使いになりました。このごろでは、用が多いからといって、思いのままに人を使っていますが、恐れ多く、大変もったいないことだと思わなければなりません。
(148)
蓮如上人は、「昔、仏前に参る人は、襟や袖口だけを布でおおった紙の衣を着ていたものであるが、今では白無地の小袖を着て、おまけに着替えまでも持ってくるようになった。世の中が乱れていたころは、宮中でも困窮して、いろいろな品を質にお出しになり、ご用立てされたほどである」と例をあげて、贅沢に走ることを注意されました。
(149)
蓮如上人は、「昔は貧しかったので、京の町から古い綿を取り寄せて、自分一人で広げ用いたこともあった。また、着物も肩の破れたのを着ていた。白の小袖は美濃絹の粗末なものを求めて、どうにか一着だけ着ることができた」と仰せになりました。このごろは、上人のこうしたご苦労も知らないで、だれもが豊かな暮らしを当り前のように思っていますが、このようなことでは仏のご加護もなくなってしまうでしょう。大変なことです。
(150)
「念仏の仲間やよき師には、十分に親しみ近づかなければならない。<念仏者に親しみ近づかないのは、自力の人の過失の一つである>と、「往生礼讃」に示されている。悪い人に親しみ近づいていると、自分はそのようにはならないと思っていても、、にふれて悪いことをするようになる。だから、ただひたすら、深く仏法に帰依した人に親しみ近づかなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。一般の書物にも、「人の善悪は、その人が近づき習うものによって決る」、「その人を知ろうと思うなら、その友を見よ」という言葉があります。また、「たとえ善人の敵となることがあっても、悪人を友とするな」という言葉もあります。
(151)
「<きればいよいよかたく、仰げばいよいよたかし>という言葉がある。実際に切りこんでみて、はじめてそれが堅いとわかるのである。これと同じように、阿弥陀仏の本願を信じて、そのすばらしさもわかるのである。信心をいただいたなら、仏の本願がますます尊く、ありがたく感じられ、喜ぶ心もいっそう増すのである」と仰せになりました。
(152)
「凡夫の身でこのたび浄土に往生することは、ただたやすいことだとばかり思っている。これは大きな誤りである。「無量寿経」に「難の中の難」とあるように、凡夫にはおこすことのできない信心であるが、阿弥陀仏の智慧のはからいにより、得やすいように成就して与えてくださったのである。「執持鈔」には、<往生というもっとも大切なことは、凡夫がはからうことではない>と示されている」と、蓮如上人は仰せになりました。実如上人もまた、「このたびの浄土往生をもっとも大切なことと思って、仏のはからいにまかせる人と、わたしはいつも同じ心である」と仰せになりました。
(153)
「念仏の教えを信じる人もいれば謗る人もいると、釈尊はお説きになっている。もし信じる人だけがいて、謗る人がいなかったなら、釈尊のお説きになったことは本当なのかと疑問に思うであろう。しかし、やはり謗る人がいるのだから、仏説の通り、本願を信じる人は、浄土に往生することがたしかに定まるのである」と、蓮如上人はお説きになりました。
(154)
念仏の仲間がいる前でだけ、ご法義を喜んでいる人がいるが、これは世間の評判を気にしてのものである。信心をいただいたなら、ただ一人いるときも、喜びの心が湧きおこってくるものである。
(155)
「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは「浄土和讃」にも たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとはながく不退にかなふなり たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。と示されています。
(156)
法敬坊が次のようにいわれました。「何人かの人が集まって、世間話をしている最中に、中の一人が突然、席を立った。長老格の人が、<どうしたのか>お尋ねになると、<大切な急ぎの用件がありますので>といって、立ち去ったのである。後に<先日はどうして急に席を立ったのですか>と尋ねたところ、その人は、「仏法について話しあう約束があったので、おるにおられず席を立ったのです>と答えた。ご法義のことは、このように心がけなければならないのである」と。
(157)
「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。
(158)
蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。
(159)
蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。
(160)
「概して人には、他人に負けたくないと思う心がある。世間では、この心によって懸命に学び、物事に熟達するのである。だが、仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく、人に負けて、信心を得るものである。正しい道理を心得て、我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきである」と、蓮如上人は仰せになりました。  
 

 

(161)
一心というのは、凡夫が弥陀を信じておまかせするとき、仏の不思議なお力によって、凡夫の心を仏の心と一つにしてくださるから一心というのである。
(162)
ある人が、「井戸の水を飲むことも仏法のおはたらきによって恵まれたものだから、一口の水でさえ、阿弥陀如来・親鸞聖人のおかげなのだと思っている」といいました。
(163)
ご病床にあった蓮如上人が、「わたしのことで思い立ったことは、ただちに成しとげることができなくても、ついに成就しなかったということはない。だが、人々が信心を得るということ、このことばかりは、わたしの思い通りにならず、多くの人がまだ信心を得ていない。そのことだけがつらく悲しく思われるのである」と仰せになりました。
(164)
蓮如上人は、「わたしはどんなことも思った通りにしてきた。浄土真宗を再興し、京都山科に本堂・御影堂を建て、本願寺住職の地位も譲り、大坂に御堂を建てて、隠居の身となった。「老子」に<仕事を成しとげ、名をあげた後、引退するのは天の道にかなっている>とあるが、わたしはその通りにすることができた」と仰せになりました。
(165)
「夜、敵陣にともされている火を見て、あれは火でないと思うものはいない。それと同じように、どんな人が申したとしても、蓮如上人のお言葉をその通りに話し、上人の書かれたものをそのまま読んで聞かせるのであれば、それは上人のお言葉であると仰ぎ、承るべきである」といわれました。
(166)
蓮如上人は、「ご法義のことは、詳しく人に尋ねなさい。わからないことは何でも人によく尋ねなさい」と、折にふれて仰せになりました。「どういう人にお尋ねしたらよろしいのでしょうか」とおうかがいしたところ、「ご法義を心得ているものでありさえすれば、だれかれの別なく尋ねなさい。ご法義は、知っていそうにもないものがかえってよく知っているのである」と仰せになリました。
(167)
蓮如上人は無地のものを着ることをおきらいになりました。「紋のない無地のものを着るといかにも僧侶らしくありがたそうに見えてしまう」という仰せでありました。また、墨染めの黒い衣を着て訪ねて来る人がいると、「身なりのただしいありがたいお坊さまがおいでになった」とからかって、「いやいや、わたしのようなものは、全然ありがたくない。ただ弥陀の本願だけがありがたいのである」と仰せになりました。
(168)
蓮如上人は、小紋染めの小袖をつくらせて、大坂御坊の居間の衣掛けに掛けておかれたそうです。
(169)
蓮如上人は、お食事を召しあがるときは、まず合掌されて、「阿弥陀如来と親鸞聖人のおはたらきにより、着物を着させていただき、食事をさせていただきます」と仰せになりました。
(170)
「人は上がることばかりに気を取られて、落ちるところのあることを知らない。ひたすら行いをつつしんで、たえず、恐れ多いことだと、何ごとにつけても気をつけるようにしなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。
(171)
「往生は一人一人の身に成就することがらである。一人一人が仏法を信じてこのたび浄土に往生させていただくのである。このことを人ごとのように思うのは、同時に一方で自分自身を知らないということである」と、円如さまは仰せになりました。
(172)
大坂御坊で、ある人が蓮如上人に、「今朝、まだ暗いうちから、一人の老人が参詣しておられました。まことに立派な心がけです」と申しあげたところ、上人はすぐさま、「信心さえあれば、どんなこともつらいとは思わないものである。信心をいただいた上は、すべてを仏恩報謝と心得るのであるから、苦労とは思わないのである」と仰せになりました。その老人というのは、田上の了宗であったということです。
(173)
山科本願寺の南殿に人々が集まり、ご法義をどのように心にうけとめるかあれこれと論じあっているところに、蓮如上人がおいでになって、「何をいっているのか。あれこれ思いはからうことを捨てて、疑いなく弥陀を信じおまかせするだけで、往生は仏よりお定めくださるのである。その証拠は南無阿弥陀仏の名号である。この上、いったい何を思いはからうというのか」と仰せになりました。このように蓮如上人は、人々が疑問に思うことなどをお尋ねしたときも、複雑なことをただ一言で、さらりと解決してしまわれたのです。
(174)
蓮如上人は、おどろかすかひこそなけれ村雀耳なれぬればなるこにぞのる群がる雀を驚かして追いはらう鳴子の音も、今では効き目がなくなった。耳なれした雀たちは、平気で鳴子に乗っている。という歌をお引きになって、「人はみな耳なれ雀になっている」と折りにふれて仰せになりました。
(175)
「仏法を聞いて、心の持ちようをあらためようと思う人はいるけれども、信心を得ようと思う人はいない」と、蓮如上人は仰せになりました。
(176)
蓮如上人は、「方便を悪いということはあってはならない。方便によって真実が顕され、真実が明らかになれば方便は廃されるのである。方便は真実に導く手だてであることを十分に心得なければならない。阿弥陀如来・釈尊・よき師の巧みな手だてによって、わたしたちは真実の信心を得させていただくのである」と仰せになりました。
(177)
蓮如上人の御文章は、凡夫が浄土に往生する道を明らかに映しだす鏡である。この御文章の他に浄土真宗のみ教えがあるように思う人がいるが、それは大きな誤りである。
(178)
「信心をいただいた上は、仏恩報謝の称名をおこたることがあってはならない。だが、これについて、心の底から尊くありがたく思って念仏するのを仏恩報謝であると考え、何という思いもなくふと念仏するのを仏恩報謝ではないと考えるのは、大きな誤りである。自然に念仏が口に出ることは、仏の智慧のうながしであり、仏恩報謝の称名である」と、蓮如上人は仰せになりました。
(179)
蓮如上人は、「信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。他宗では、亡き親の追善供養のために、あるいはまた、あれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っている。けれども、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。
(180)
「蓮如上人がご存命のころ、山科本願寺の南殿であったでしょうか、ある人が蜂を殺してしまって、思わず念仏を称えました。そのとき、上人が、<あなたは今どんな思いで念仏を称えたのか>と、お尋ねになったところ、その人は、<かわいそうなことだと、ただそれだけを思って称えました>と答えました。すると上人は、<信心をいただいた上は、どのようであっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味であると思いなさい。信心を頂いた上での念仏は、すべて仏恩報謝になるのである>と仰せになりました」と、このようなことを伝えた人がいました。  
 

 

(181)
山科本願寺の南殿で、蓮如上人は、暖簾をあげて出てこられる際に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、「法敬よ、今わたしがどのような思いで念仏を称えていたかわかるか」とお尋ねになりました。法敬坊が「まったくわかりません」とお答えすると、上人は、「今、念仏を称えたのは、阿弥陀仏がこのわたしをお救いくださることをうれしいことだ、尊いことだと喜ぶ心なのだよ」と仰せになりました。
(182)
蓮如上人に対して、西国から来たという人が、安心について受けとめているところを申しあげたとき、上人は「心の中が今いわれた通りであるのなら、それがもっとも大切なことである」と仰せになりました。
(183)
蓮如上人は、「ただいま、どなたも口では、安心について受けとめているところを同じように申された。そのように言葉の上だけで同じようにしているから、信心が定まった人とまぎれてしまい、往生することができない。わたしはそのことを悲しく思うのである」と仰せになりました。
(184)
「信心をいただいたからには、それほど悪いことはしないはずである。あるいは、人にいわれたからといって、悪いことをするようなことはないはずである。このたび迷いの世界の絆を断ち切って、浄土に往生しようと願う人が、どうして悪いと思うわれるようなことをするであろうか」と、蓮如上人は仰せになりました。
(185)
蓮如上人は、「仏法は、簡潔にわかりやすく説きなさい」と仰せになりました。また、法敬坊に対して、「信心・安心といっても、聞く人の多くは文字も知らないし、また、信心・安心などというと別のもののようにも思ってしまう。だから、わたしたちのような凡夫が弥陀のお力で仏になるということだけを教えなさい。仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせすることを勧めなさい。そうすれば、どんな人でもそれを聞いて信心を得るであろう。浄土真宗には、これ以外の教えはないのである」と仰せになりました。「安心決定鈔」には、「浄土のみ教えは、第十八願をしっかりと心得る以外にはない」とあります。ですから、上人は、御文章に、「仰せのままにお救いくださいと疑いなく仏におまかせするものを、たとえ罪はどれほど深くても、弥陀如来は必ずお救いくださるのである。これが第十八願の念仏往生の誓願の心である」とお示しくださっているのです。
(186)
「信心を得ていないから悪いのである。ともかくまず信心を得なさい」と、蓮如上人は仰せになりました。上人が悪いことだといわれたのは、信心がないことを悪いといわれたのです。このことについて、次のような話しがあります。上人がある人に向かって「お前ほど悪いものはない。言語道断だ」と仰せになたところ、その人は「何ごとも上人のお心にかなうようにと思っておりますが、悪いところがあるのでしょうか」とお答えしました。すると上人は、「まったく悪い。信心がないのは悪くはないのか」と仰せになったということです。
(187)
蓮如上人が、「どんなことを聞いても、わたしの心は少しも満足しない。一人でもよいから、人が信心を得たということを聞きたいものだ」と独り言をおっしゃいました。「わたしは生涯を通して、ただ人々に信心を得させたいと願ってきたのである」と仰せになりました。
(188)
「親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀におまかせする信心がもっとも大切なのである。だから、弥陀におまかせするということを代々の上人がたがお示しになってこられたのであるが、人々はどのようにおまかせするのかを詳しく知らなかった。そこで、蓮如上人は本願寺の住職になられると、御文章をお書きになり、<念仏以外のさまざまな行を捨てて、仰せのままに浄土に往生させてくださいと疑いなく弥陀におまかせしなさい>と明らかにお示しくださったのである。だから、蓮如上人は浄土真宗ご再興の上人といわれるのである」と仰せになりました。
(189)
「善いことをしてもそれが悪い場合があり、悪いことをしてもそれが善い場合がある。善いことをしても、自分はご法義のために善いことをしたのだと思い、自分こそがという我執の心があるなら、それは悪いのである。悪いことをしても、その心をあらためて、弥陀の本願を信じれば、悪いことをしたのが、善いことになるのである」というお示しがあります。そういうわけで、蓮如上人は、「善いことをしてその功徳を仏に差しあげようとする自力の心が悪い」と仰せになったのです。
(190)
蓮如上人は、「思いもよらない人が過分の贈物を持ってきたときは、何かわけがあるに違いないと思いなさい。人からものを贈られると、うれしく思うのが人の心だから、何かを頼もうとするときは、人はそのようなことをするものである」と仰せになりました。
(191)
蓮如上人は、「行く先だけを見て、自分の足元を見ないでいると、つまずくに違いない。他人のことだけを見て、自分自身のことについて心がけないでいると、大変なことになる」と仰せになりました。
(192)
よき師の仰せではあるが、これはとうてい成就しそうにないなどと思うのは、大変嘆かわしいことです。成就しそうにないことであっても、よき師の仰せならば、成就すると思いなさい。この凡夫の身が仏になるのだから、そのようなことはあるはずがないと思うほどのことが他に何かあるでしょうか。そういうわけで、赤尾の道宗は、「もし蓮如上人が、<道宗よ、琵琶湖を一人で埋めなさい>と仰せになったとしても、<かしこまりました>とお引き受けするだろう。よき師の仰せなら、成就しないことがあろうか」といわれたのです。
(193)
「<きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成就しないことがあろうか>という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(194)
蓮如上人は、「信心がたしかに定まった人を見て、自分もあのようにならなくてはと思う人は、信心を得るのである。あのようになろうとしても、なれるはずがないとあきらめるのは嘆かわしいことである。仏法においては、命をかけて求める心があってこそ、信心を得ることができる」と仰せになりました。
(195)
「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、心をあらためなければならない。人が注意をしてくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(196)
「世間のことを話しあっている場で、かえって仏法の話しが出ることがある。そのようなときは、われ先にものをいわないで人並みに振舞っておきなさい。どのような考えの人がいるかわからないのだから、注意をおこたってはならない。けれども、念仏の仲間が集まって、お聖教の講釈を聞いて学ぶときや、仏法について語りあったりするときに、少しもものをいわないのは、大きな誤りである。仏法について語りあう場では、心の中をすべて打ち明け、互いに、信心を得ているかいないかについて語らなければならない」と仰せになりました。
(197)
ある人が金森の善従に、「このごろは、あなたもさぞかし退屈でつまらないことでしょう」といったところ、善従は、「わたしは八十を超えるこの年まで、退屈と感じたことはありません。というのも、弥陀のご恩のありがたさを思い、ご和讃やお聖教などを拝読していますので、心は晴ればれと楽しく、尊さでいっぱいです。だから、少しも退屈ということがないのです」といったということです。
(198)
実如上人が善従の逸話を紹介して、「ある人が善従の住いを訪ねたとき、まだ履物も脱がないうちから、善従が仏法について話し始めた。側にいた人が、<履物さえまだ脱いでおられないのに、どうしてそのように急いで話しをはじめるのですか>というと、善従は<息を吐いて吸う間もないうちに命が尽きてしまう無常の世です。もし履物を脱がないうちに、命が尽きたらどうするのですか>と答えたのであった。何をおいても、仏法のことはこのように急がなければならないのである」と仰せになりました。
(199)
蓮如上人が善従のことについて、「まだ山科の野村に本願寺を建立するという話もなかったころ、神無森というところを通って、金森へ帰る途中で、善従は輿から降り、野村の方向を指して、<この道すじで仏法が栄えるであろう>といった。つきそっていた人々は、<年老いてしまったからこんなことをいうのだ>などささやいていたのだが、ついにその地に本願寺が建ち、仏法が栄えることとなった。不思議なことである」と仰せになりました。また上人は、「善従は法然上人の生れ変わりであると、世間の人々はいっている」とも仰せになりました。善従が往生したのは、八月の二十五日でした。
(200)
「東山の大谷本願寺が比叡山の法師たちによって打ち壊されたとき、蓮如上人は避難されれ、どこにおいでになるのかだれも知らなかったのだが、善従があちらこちら訪ね捜して、あるところで上人にお会いすることができた。そのとき、上人はたいそうお困りの様子であったので、<このありさまを見ると、善従もきっと悲しむことであろう>とお思いになったのだが、善従は上人にお目にかかるや、<ああ、ありがたい。すぐにも仏法は栄えることでしょう>といった。そしてついにこの言葉通りになったのである。<善従は不思議な人だ>と蓮如上人も仰せになっていた」と、実如上人は仰せになりました。 
 

 

(201)
去る大永三年、蓮如上人の二十五回忌にあたる年の三月はじめごろ、実如上人は夢をご覧になりました。御堂の上壇、南の方に、蓮如上人がおいでになって、紫色の小袖をお召しになっています。そして、実如上人に対して、「仏法はみ教えを聞いて喜び語りあうということにる尽きるのである。だから、十分に語りあわなければならない」と仰せになったのです。目が覚めてから、実如上人は、「これはまことに夢のお告げともいうべきことである」と仰せになりました。そういうわけで特にその年は、「み教えを聞いて喜び語りあうことが大切である」とお示しになったのです。このことについてさらに、「ただ一人いるときも、喜びの心がおこってくるのが仏法である。一人でいるときでさえ尊く思われるのだから、二人が会って話しあえば、どれほどありがたく感じられることであろうか。ともかく仏法のことについて寄り集って話しあいなさい」と仰せになりました。
(202)
今までの心をあらためようという人が、「どんなことをまずあらためたらよいろしいでしょうか」とお尋ねしたところ、「悪いことはすべてあらためなさい。それも、心の中をはっきりと表に出して、あらためるということでなければならない。どんなことであれ、人が直すことができたということを聞いて、自分もそのように直るはずだと思い、自身の悪いところを打ち明けなかったなら、直るものではない」と、蓮如上人は仰せになりました。
(203)
「仏法について話しあうとき、ものをいわないのは、信心がないからである。そういう人は、心の中でうまく考えていわなければならないように思っているのであろうが、それはまるでどこかよそにあるものを探し出そうとしているかのようである。心の中にうれしいという思いがあれば、それはそのままあらわれるものである。寒ければ寒い、暑ければ暑いと、心に感じた通りがそのまま口に出るものである。仏法について話しあう場で、ものをいわないのは、うちに信心がないからである。また、油断ということも、信心をいただいた上で言うことである。しばしば念仏の仲間とともに集まり、み教えを聞いて喜び語りあうなら、油断するということはあるはずがないのである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(204)
蓮如上人は、「信心がたしかに定まったのだから、弥陀のお救いをすでに得たというのは、現在のこの身でさとりを開いたように聞こえるのでよくない。弥陀を信じておまかせするとき、お救いくださることは明らかであるけれども、必ずお救いにあずかるというのがよいのである」と仰せになりました。また、「信心をいただいたとき、往生成仏すべき身となる。これは必ず成仏するという利益であり、表にはあらわれない利益であって、仏のさとりに至ることに定まったということなのである」とも仰せになりました。
(205)
徳大寺の唯蓮坊が、「摂取不捨」とはどういうことなのか知りたいと思って、雲居寺の阿弥陀仏に祈願しました。すると、夢の中に阿弥陀仏が現れて、唯蓮坊の衣の袖をしっかりととらえ、逃げようとしても決してお放しにならなかったのだそうです。この夢によって、摂取というのは、逃げるものをとらえて放さないようなことであると気づいたといいます。蓮如上人はこのことをよく例に引いてお話しになりました。
(206)
蓮如上人がご病床にあったとき、ご子息の蓮淳さま、蓮悟さまが上人のもとへおうかがいし、「目に見えない仏のおはたらきにかなうというのは、どのよなことでしょうか」とお尋ねすると、上人は「それは、弥陀を信じておまかせするということである」と仰せになりました。
(207)
「人に仏法の話しをして、相手の人が喜んだときは、自分はその相手の人よりも、もっと喜んで尊いことだと思うべきである。仏の智慧をお伝えするからこそ、、このように人が喜ぶのだと受けとめて、仏の智慧のおはたらきをありがたく思いなさい」と、蓮如上人はお示しくださいました。
(208)
「人前で御文章を読んで聴聞させるのも、仏恩報謝であると思いなさい。一句一言でも、信心をいただいた上で読み聞かせるのなら、人も信じて受け取るし、また仏恩報謝にもなるのである」と仰せになりました。
(209)
蓮如上人は、「弥陀の光明のはたらきは、たとえていえば、濡れたものを干すと、表から乾いて、裏まで乾くようなものである。濡れたものが乾くのは日光の力である。罪深い凡夫にたしかな信心がおこるのは、弥陀のお働きによるものである。凡夫の罪はすべて弥陀の光明が消してくださるのである」と仰せになりました。
(210)
「信心がたしかに定まった人はどんな人であれ、一目その人を見ただけで尊く思えるものである。だが、これはその人自身が尊いのではない。弥陀の智慧をいただいているから尊いのである。だから弥陀の智慧のはたらきのありがたさを思い知らなければならない」と仰せになりました。
(211)
ご病床にあった蓮如上人が、「わたしは、もはや何も思い残すことはない。ただ、子供たちの中にも、その他の人々の中にも、信心のないものがいることを悲しく思う。世間では、思い残すことがあると死出の旅路のさまたげになるなどというが、わたしには今すぐ往生してもさまたげとなるような思いはない。ただ信心のないものがいることだけを嘆かわしく思うのである」と仰せになりました。
(212)
蓮如上人は、あるときには訪ねてきた人に酒を飲ませたり、ものを与えたりして、このようなもてなしをありがたいことだと喜ばせ、近づきやすくさせて、仏法の話をお聞かせになりました。「このようにものを与えることも、信心を得させるためであるから、仏恩報謝であると思っている」と仰せになりました。
(213)
蓮如上人は、「ご法義を善く心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。ですから、「口伝鈔」には、「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」と示されているのです。
(214)
加賀の国の菅生の願生が、蓮智のお聖教の読み方を聞いて、「お聖教はありがたいのですが、お読みになる方に信心がございませんので、尊くも何ともありません」といいました。蓮如上人はこのことをお聞きになって、蓮智をお呼び寄せになり、ご自身の前で毎日お聖教を読ませ、ご法義についてもお聞かせになりました。そして、「蓮智にお聖教を読み習わせ、仏法についても話して聞かせた」ということを願生にお伝えになり、蓮智を郷里に帰されました。その後は、蓮智がお聖教を読むと願生も、「今こそ本当にありがたい」といって、心から喜ぶようになったということです。
(215)
蓮如上人は、年少のものに対しては、「ともかくまずお聖教を読みなさい」と仰せになりました。また、その後は、「どれほどたくさんのお聖教を読んだとしても、繰り返し読まなければ、その甲斐がない」と仰せになりました。そして、成長して少し物事がわかるようになると、「どれほどお聖教を読み、漢字の音などをよく学んだとしても、書かれている意味がわからなければ、本当に読んだことにはならない」と仰せになりました。さらに、その後は、「お聖教の文やその解釈をどれほど覚えたとしても、信心がなければ何の意味もない」と仰せになりました。
(216)
ある人が心に思っていることをそのまま法敬坊に打ち明けて、「蓮如上人のお言葉の通りには心得ておりますが、とかく気がゆるみ、なまけ心が出て、ただただ情けないことです」といいました。すると法敬坊は「それは上人のお言葉の通りではありません。何ともふとどきないい方です。お言葉には、<気をゆるめてはいけない。なまけてはいけない>と、示されているではありませんか」といわれました。
(217)
ある人が法敬坊に、「これほど深くあなたは仏法を信じているのに、あなたの母上に信心がないのは、どういうことでしょうか」と、疑問に思っていることを尋ねたところ、法敬坊は、「その疑問はもっともなことですが、朝夕、どれほど御文章を読み聞かせても、少しも心を動かさないのですから、このわたしが教えたくらいのことで、どうして聞いてくれるでしょうか」といわれました。
(218)
順誓が申されるには、「人々にご法義の話をするのに、蓮如上人がおられないところで話すときは、何か間違ったことをいいはしないだろうかと気になって、脇の下から冷汗の出る思いがする。反対に、上人がお聞きになっているところで話すときは、間違ったことをいっても、直ぐに直していただけると思うので、安心して話すことができる」ということでした。
(219)
蓮如上人は、「疑問に思うということと、少しも知らないということとは、別のことである。まったく知らないことを疑問に思うというのは、間違っている。物事をだいたい心得ていて、その上で、あれは何であろうか、これはどうであろうかというのが、疑問に思うということである。ところが、人々はわけを少しも知らないで尋ねることを、疑問に思うといってごまかしている」と仰せになりました。
(220)
蓮如上人は、「山科の本願寺や大坂などの御坊のことは、親鸞聖人がご在世の時と同じように考えている。つまりこのわたしは、しばらくの間、聖人の留守をお預かりしているだけなのである。そういうことではあるが、聖人のご恩をかたときも忘れたことはない」と、お斎の折のご法話で仰せになりました。そして、「お斎をいただいている間も、少しもご恩を忘れることはない」と仰せになりました。 
 

 

(221)
善如上人と綽如上人の時代のことについて、実如上人が次のように仰せになりました。「このお二人の時代は、外見をおごそかにすることを大事にされていた。そのことは、黄袈裟、黄衣をお召しになったお姿で描かれているお二人の御影像に今もあらわれている。そこで、蓮如上人の時代、浄土真宗にそぐわない本尊など多くのものを、仏具・仏像を洗う湯を沸かすたび、上人は焼くようにお命じになった。このお二人の御影像も焼かせようとして取り出されたところ、どのように思われたのであろうか、包んでいる紙に<善い・悪い>とお書きになって、御影像を残しておかれたのであった。このことを今考えてみると、<歴代の宗主の中でさえ、このように間違うことがある。まして、わたしたちのよなものは間違うことがありがちだから、仏法のことは大切であると心得て、十分気をつけなさい>というお諭しであったのである。このときの上人のお心を、わたしは今そのように受けとめている。また、<善い・悪い>とお書きになったのは、<悪い>とだけ書けば、本願寺の先代のことであるから、恐れ多いと思われて、どちらにも取れるようにされたのである」と。そしてまた、実如上人は、「蓮如上人の時代、親しくお仕えしていた人々の多くがみ教えを間違って受けとめることがあった。わたしたちは、大切な仏法をますます深く心にとどめ、人に何度も何度も尋ねて、み教えを正しく心得なければならないのである」と仰せになりました。
(222)
「仏法に深く帰依した人に、わずかばかりの間違いがあるのを見つけたときは、あの方でさえこのように間違いを犯すことがあると思って、わが身を深くつつしまなければならない。ところがそれを、あの方でさえ間違いがあるのだ、まして、わたしたちのようなものが間違えないはずがないと思うのは、大変嘆かわしいことである」とのことです。
(223)
「仏恩をたしなむという仰せがあるが、これは世間で普通にいう、ものをたしなむなどというようなことではない。信心をいただいた上は、仏恩を尊く、ありがたく思って喜ぶのであるが、その喜びがふと途切れて、念仏がなおざりになることがある。そういうときに、このような広大なご恩を忘れるのは嘆かわしいことだと恥じ入って、仏の智慧のはたらきを思いおこし、ありがたいことだ、尊いことだと思うと、仏のうながしによってまた念仏するのである。<仏恩をたしなむ>というのはこういうことなのである」と仰せになりました。
(224)
「仏法について聞き足りたということがなければ、それが仏法の不思議を信じることである」というお言葉があります。このことについて、実如上人は、「たとえば、世間でも、自分の好きなことは知っても知っても、もっとよく知りたいと思うから、人に問い尋ねる。好きなことは何度聞いても、もっとよく聞いたいと思うものである。これと同じように、仏法のことも、何度聞いても聴き足りることはない。知っても知っても、もっとうよく知りたいと思うものである。だから、ご法義のことは、何度も何度も人に問い尋ねなければならないのである」と仰せになりました。
(225)
仏のおかげで与えられたものを世間のことに使うのは、尊いお恵みを無駄にすることであると恐れ多く思わなければならない。けれども、仏法のためであれば、どれほど使っても、これで十分だということはないのである。そしてまた、仏法のために使うのは、仏恩報謝にもなるのである。
(226)
「人が何の苦労もしないで徳を得る、その最上のことは、弥陀を信じておまかせするだけで仏になるということである。これ以上のことはない」と仰せになりました。
(227)
「人はだれでもよいことをいったり、行ったりすると、仏法のことであれ世間のことであれ、自分自身がすでに善人になったと思いこみ、その思いから、仏のご恩を忘れ、自分の心を中心にしてしまう。そのために、仏のご加護から見放されてしまい、世間のことにも仏法のことにも、悪い心が必ず出てくるようになるのである。これは本当に大変なことである」と仰せになりました。
(228)
堺の御坊で、ご子息の蓮悟さまが、蓮如上人に御文章を書いていただきたいとお願いしました。そのとき上人は、「こんなに年をとったのに、難儀なことを願い出る。困ったことをいうものだ」と、ひとたびは仰せになりましたが、その後で「仏法を信じてくれさえすれば、どれだけ書いてもよい」と仰せになりました。
(229)
同じく堺の御坊で、蓮如上人は、深夜、蝋燭をともさせて、お名号をお書きになりました。そのとき、「年老いたので、手も震え、目もかすんできたが、お名号を求めているご門徒が、明日、越中に帰るというので、こうして書いているのである。つらいけれども書くのである」と仰せになりました。このように上人はご門徒のために、わが身を顧みず大変ご苦労されたのです。「人々に苦労をさせずに、ただ信心を得させたいと思っている」と、上人は仰せになりました。
(230)
「珍しい食べ物を用意し、料理してもてなしても、客がそれを食べなければ無意味である。念仏の仲間が集まって、み教えについて語りあっても、信心を得る人がいなければ、せっかくのごちそうを食べないのと同じことである」と仰せになりました。
(231)
「物事に飽き足りるということはあるけれども、わたしたち凡夫が仏になるということと、弥陀のご恩を喜ぶことには、もはや聞き足りた、もう十分に喜んだということはない。焼いてもなくならない貴重な宝は、南無阿弥陀仏の名号である。だから、この宝をわたしたちにお与えくださる弥陀の広大なお慈悲はとりわけすぐれているのであり、宝である名号をいただいた信心の人を見ただけでも尊く思われるのである。
本当にきわまりのないお慈悲である」と仰せになりました。
(232)
「たしかに信心が定まった人は、仏法のことについては、わが身を軽くして報謝に努めなければならない。そして、仏法のご恩を、重く大切に敬まわなければならないのである」と仰せになりました。
(233)
蓮如上人は、「宿善がすばらしいというのはよくない。宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである」と仰せになりました。
(234)
他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。信心を得ることが何より大切なのである。阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。
(235)
「み教えについて語るときには、浄土真宗のかなめである信心、ただこのこと一つを説き聞かせることが大切である」と仰せになりました。
(236)
蓮如上人は、「仏法者には、仏法の力によってなるのである。仏法のすぐれた力によらなければ、仏法者になることはできない。そうであるから、仏法を学者や物知りが人々に述べ伝えて盛んにすることはないのである。たとえ文字一つ知らなくても、信心を得た人には仏の智慧が加わっているから、仏の力によって、その人の話しを聞く人々が信心を得るのである。だから、人前で聖教を読み聞かせるものであっても、われこそはと思いあがった人が、仏法を伝えたためしはないないのである。何一つ知らなくても、たしかに信心を得た人は、仏のお力で話すのだから、人々が信心を得るのである」と仰せになりました。
(237)
「弥陀を信じておまかせすれば、南無阿弥陀仏の主になるのである。南無阿弥陀仏の主になるというのは、信心を得るということである。また、浄土真宗において、真実の宝というのは南無阿弥陀仏であり、これが信心である」と仰せになりました。
(238)
「浄土真宗の中に身を置きながら、み教えを謗り、悪くいう人がいる。考えてみると、他宗からの避難であれば仕方がないが、同じ浄土真宗の中に、このような人がいるのである。それであるのに、わたしたちは尊いご縁があって、このみ教えを信じる身となったのだから、本当にありがたいことだと喜ばなければならない」と仰せになりました。
(239)
蓮如上人は、どのようなる罪を犯したものであっても、あわれみ不憫にお思いになりました。重罪人だからといって、その人を死刑にしたりすることがあると、とりわけ悲しんで、「命さえあれば、心をあらためることもあるだろうに」と仰せになるのでした。ご自身で破門にされたものであっても、心さえあらためれば、すぐにお許しになったのです。
(240)
安芸の蓮崇は、加賀の国を転覆させ、いろいろと間違ったことをしたので、破門となりました。その後、蓮如上人がご病気になられたとき、蓮崇は上人にお詫びを申しあげようと山科の本願寺へ参上したのですが、上人に取り次いでくれる人はいませんでした。ちょうどそのころ、蓮如上人がふと、「蓮崇を許してやろうと思うよ」と仰せになりました。上人のご子息がたをはじめ人々は「一度、仏法に害を与えた人物でありますから、お許しになるのはどうかと思います」と申しあげたところ、上人は、「それがいけない。何と嘆かわしいことをいうのだ。心さえあらためるなら、どんなものでももらさず救うというのが仏の本願ではないか」と仰せになって、蓮崇をお許しになりました。蓮崇が上人のもとへ参り、お目にかかったとき、感動の涙で畳を濡らしたということです。その後、蓮如上人がお亡くなり、そのご中陰の間に、蓮崇も山科の本願寺で亡くなりました。 
 

 

(241)
奥州に、浄土真宗のみ教えを乱すようなことを説いている人がいるということをお聞きになって、蓮如上人はその人、浄祐を奥州から呼び寄せ、お会いになりました。上人はひどくお腹立ちで、「さてもさても、ご開山聖人のみ教えを乱すとは。何と嘆かわしいことか。何と腹立たしいことか」とお叱りになり、歯がみをしながら、「切りきざんでも足りないくらいだ」と仰せになりました。ご法義を乱すもののことを「とりわけ嘆かわしい」と仰せになったのです。
(242)
「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、どんな人でも必ず仏になるのである。心に受け取るといっても他でもない。「われにまかせよ、必ず救う」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。
(243)
蓮如上人は、「わたしが生涯の間行ってきたことは、すべて仏法のことであり、いろいろな方法を用い、手だてを尽くして、人々に信心を得させるためにしてきたことである」と仰せになりました。
(244)
同じくご病床にあった蓮如上人が、「今、わたしがいうことは、仏のまことの言葉である。しっかりと聞いてよく心得なさい」と仰せになりました。また、ご自身がお詠みになった和歌についても、「三十一文字の歌をつくったからといって、風雅の思いを詠んだのではない。すべてみ教えにほかならないのである」と仰せになりました。
(245)
「<三人集まると、よい知恵が浮ぶ>という言葉があるように、どんなことも集まって話しあえば、はっとするようなよい考えが出てくるものだ」と、蓮如上人が実如上人に仰せになりました。これもまた仏法の上では、きわめて大切なお諭しです。
(246)
蓮如上人が法敬坊順誓に、「法敬とわたしとは兄弟である」と仰せになりました。法敬坊が、「これはもったいない、恐れ多いことでございます」と申しあげると、上人は、「信心を得たなら、先に浄土に生まれるものは兄、後に生れるものは弟である。だから、法敬とは兄弟である」と仰せになりました。これは、「往生論註」の「仏恩を等しくいただくのであるから、同じ信心を得る。その上は世界中のだれもがみな兄弟である」というお示しのおこころです。
(247)
蓮如上人は、山科本願寺南殿の山水の庭園に面した縁側にお座りになって、「あらかじめ思っていたことと、実際とは違うものであるが、その中でも大きく違うのは、極楽へ往生したときのことであろう。この世で極楽のありさまを想い浮べて、ありがたいことだ、尊いことだと思うのは、大したことではない。実際に極楽へ往生してからの喜びは、とても言葉ではいい表すことができないであろう」と仰せになりました。
(248)
「人は、嘘をつかないようにしようと努めることを大変よいことだと思っているが、心に嘘いつわりのないようにしょうと努める人はそれほど多くはない。また、よいことは、なかなかできるものではないとしても、世間でいう善、仏法で説く善、ともに心がけて行いたいものである」と仰せになりました。
(249)
蓮如上人は、「「安心決定鈔」を四十年余りの間拝読してきたが、読み飽きるということのないお聖教である」と仰せになりました。また、「黄金を掘り出すようなお聖教である」とも仰せになりました。
(250)
大坂の御坊で、蓮如上人は集まっていた人々に対し、「先日、わたしが話したことは「安心決定鈔」のほんの一部である。浄土真宗のみ教えでは、この「安心決定鈔」に説かれていることが、きわめて大切なのである」と仰せになりました。
(251)
法敬坊が、「ご法義を尊んでいる人よりも、ご法義を尊いと喜ぶ人の方が尊く思われます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「おもしろいことをいうものだ。ご法義を尊んでいるすがたをあらわにし、ありがたそうに振舞う人は尊くもない。ただありがたいと尊んで素直に喜ぶ人こそ、本当に尊いのである。おもしろいことをいうものだ。法敬は道理にかなっていることをいった」と仰せになりました。
(252)
これは蓮悟さまの夢の記録です。文亀三年一月十五日の夜の夢である。蓮如上人がわたしにいろいろと質問をなさった後で、「毎日、むなしく暮らしていることを情けなく思う。勉学の意味も兼ねて、せめて一巻の経であっても、一日に一度はみなが集まり、読むようにしなさい」と仰せになった。わたしたちが毎日をあまりにむなしく過ごしていることを悲しく思われて、上人はこのように仰せになったのである。
(253)
これも蓮悟さまの夢の記録です。文亀三年十二月二十八日の夜の夢である。蓮如上人が法衣に袈裟というお姿で襖をあけてお出ましになったので、ご法話をされるのだ、聴聞しようと思っていたところ、衝立に書かれている御文章のお言葉をわたしが読んでいるのをご覧になって、「それは何か」とお尋ねになった。そこで、「御文章でございます」と申しあげると、「それこそが大切である。心してよく聞きなさい」と仰せになったのである。
(254)
これも蓮悟さまの夢の記録です。永正元年十二月二十九日の夜の夢である。蓮如上人が、「家を立派に建てた上は、信心をたしかにいただいて念仏申しなさい」と、きびしく仰せになったのである。
(255)
これも蓮悟さまの夢の記録です。大永三年一月一日の夜の夢である。山科本願寺の南殿で、蓮如上人がご法義についていろいろとお話しになった後で、「地方にはまだ自力の心のものがいるが、その心を捨てるようきびしく教え導きなさい」と仰せになったのである。
(256)
これも蓮悟さまの夢の記録です。大永六年一月五日の夜の夢である。蓮如上人が、「このたびの浄土往生のことはもっとも大切である。み教えにあうことのできる今こそがよい機会である。このときを逃すと、大変である」と仰せになった。そこで、「承知しました」とお答えしたところ、上人は、「ただ承知しましたといっているだけでは成しとげられない。このたびの浄土往生は本当に大切なのである」と仰せになったのである。次の夜の夢である。兄、蓮誓が、「わたしは吉崎で蓮如上人より浄土真宗のかなめを習い受けた。浄土真宗で用いない書物などをひろく読んで、み教えを間違って受けとめることがあるが、幸いに、ここにみ教えのかなめを抜き出したお聖教がある。これが浄土真宗の大切な書であると、吉崎で上人から習い受けたのである」と仰せになったのである。夢の数々を書き記したことについてのわたしの思いはこうである。蓮如上人がこの世を去られたので、今はその一言の仰せも大切であると思われる。このように夢の中に現れて仰せいになるお言葉も、ご存命のときと同じ尊い仰せであり、真実の仰せであると受けとめているので、これを書き記したのである。ここに記したことは本当に夢のお告げともいうべきものである。夢というのは概して妄想であるが、仏や菩薩の化身であるお方は、夢に姿をあらわして教え導くということがある。だからなおさらのこと、このよな夢の中での尊いお言葉を聞き記しておくのである。
(257)
蓮如上人は、「仏恩が尊いなどというのは、聞いた感じが悪く、粗略な言い方である。仏恩をありがたく思うといえば、聞いた感じがとてもよいのである」と仰せになりました。同じように、「御文章が」といのも粗略ないい方です。御文章を聴聞して、「御文章をありがたく承りました」というのがよいのです。「仏法に関することは、どれほど尊び敬ってもよいのである」と仰せになりました。
(258)
蓮如上人は、「仏法について語りあうとき、念仏の仲間を<方々>というのは無作法である。<御方々>というのがよい」と仰せになりました。
(259)
蓮如上人は、「家をつくるにしても、頭さえ雨に濡れなければ、後はどのようにつくってもよい」と仰せになりました。何ごとにつけても、度をこえたことをおきらいになり、「衣服などに至るまでも、よいものを着たいと思うのはあさましいことである。目に見えない仏のおはたらきをありがたく思い、仏法のことだけを心がけるようにしなさい」と仰せになりました。
(260)
蓮如上人は、「どんな人であっても、浄土真宗のご法義を喜ぶ家で働くことになったら、昨日までは他宗の信徒であっても、今日からは仏法のお仕事をさせていただくのだと心得なければならない。商売などの仕事もすべて、仏法のお仕事と心得なければならないのである」と仰せになりました。
 

 

(261)
蓮如上人は、「雨の降る日や暑さのきびしいときは、おつとめを長々としないで、はやく終えるようにし、参詣の人々を帰らせるのがよい」と仰せになりました。これも上人のお慈悲であり、人々をいたわってくださったのです。そのお心は、仏の大慈大悲の御あわれみそのものでした。上人はいつも、「わたしはその人その人に応じて、み教えを勧めているのである」と仰せになっていました。ご門徒が上人のお心の通りにならないことは、大変嘆かわしいといったくらいでは、まだ言葉が足りないほどのことなのです。
(262)
将軍足利義尚より、加賀の国で一揆をおこした人々を門徒から追放せよという命令があったので、蓮如上人は、加賀に居住していたご子息たちを山科本願寺に呼び寄せました。そのとき上人は、「加賀の人々を門徒から追放せよと命令されたことは、わが身をきられるようりも悲しく思う。一揆に関わりのない尼や入道たちのことまで思うと、本当に困りはててしまう」と仰せになりました。ご門徒を破門なさるということは、本願寺の宗主である上人にとって、とりわけ悲しいことであったのです。
(263)
蓮如上人は、「ご門徒たちが納めてくれた初物を、すぐに他宗へ上げてしまうのはよくない。一度でも二度でもこちらでいただいて、それから他へもあげるのがよい」と仰せになりました。このようなお考えは、他の人の思いもよらないことです。ご門徒たちが納めてくださったものは、すべて仏法のおかげであり、仏のご恩であるから、おろそかにに思うことがあってはなりません。本当にはっとさせられる仰せです。
(264)
法敬坊が大坂の御坊へおうかがいしたとき、蓮如上人は法敬坊に対して、「わたしが往生しても、あなたはその後十年は生きるであろう」と仰せになりました。法敬坊は不審に思って、いろいろと申しあげたのですが、上人は重ねて、「十年は生きるであろう」と仰せになりました。上人がご往生されて一年経った時、なお健在であった法敬坊に、ある人が、「蓮如上人がおおせになっていた通りになりましたね。というのも、上人がご往生の後、あなたが一年もご存命であったのは、上人より命を与えていただいたからなのです」といいました。すると法敬坊は、「本当にそのようでございます」といって、手をあわせ、「ありがたいことだ」と感謝しました。このようなわけで、法敬坊は蓮如上人が仰せになった通り、十年命をながらえました。本当に仏のご加護を賜った不思議な人です。
(265)
蓮如上人は、「どんなことであれ、不必要なことをするのは、仏のご加護を軽視する振舞いである」と、何かにつけていつも仰せになったということです。
(266)
蓮如上人は、「食事をいただくときにも、阿弥陀如来・親鸞聖人のご恩によって恵まれたものであることを忘れたことはない」と仰せになりました。また、「ただ一口食べても、そのことが思いおこされてくるのである」とも仰せになりました。
(267)
蓮如上人はお食事のお膳をご覧になっても、「普通はいただくことのできない、仏より賜ったご飯を口にするのだとありがたく思う」と仰せになしました。それで、食べ物をすぐに口にされることもなく、「ただ仏のご恩の尊いことばかりを思う」とも仰せになりました。
(268)
これは蓮悟さまの夢の記録です。享禄二年十二月十八日の夜の夢である。蓮如上人がわたしに御文章を書いてくださった。その御文章のお言葉に梅干しのたとえがあり、「梅干しのことをいえば、聞いている人はみな口の中がすっぱくなる。人によって異なることのない一味の安心はこれと同じである」と記されていた。これは、「往生論註」の「だれもが同じく念仏して往生するのであり、別の道はない」という文のこころをお示しになったように思われる。
(269)
「人々は仏法を好まないから、仏法に親しむように心がけないのです」と、空善が申しあげたところ、蓮如上人は、「好まないというのは、それはきらっていることではないのか」と仰せになりました。
(270)
蓮如上人は、「仏法を信じない人は、仏法を病気のようにきらうものである。ご法話を聞いていて、ああ気づまりだ、はやく終わればよいのにと思うのは、仏法を病気のようにきらっているのではないか」と仰せになりました。
(271)
大永五年一月二十四日、ご病床にあった実如上人が、「蓮如上人がはやくわたしのところに来いと左手で手招きをしておられる。ああ、ありがたい」と、繰り返し仰せになって、お念仏を申されるので、側にいた人々は病のためにお心が乱れて、このようなことをも仰せになるのであろうと心配しました。ところが、そうではなくて、「うとうとと眠ったときの夢で見たのだ」と、後で仰せになったので、人々はみな安心しました。これもまた尊い不思議なことです。
(272)
大永五年一月二十五日実如上人が弟の蓮淳さま、蓮悟さまに対して、蓮如上人が本願寺の住職の地位を譲られてからのことをいろいろお話しになりました。そして、ご自身の安心のことをお述べになり、「弥陀を信じておまかせし、往生はたしかに定まったと心得ている。それは、蓮如上人のご教化のおかげであり、今日まで自分こそがと思う心をもたなかったことがうれしい」と仰せになりました。この仰せいは本当にありがたく、また、深く驚かされるものです。わたしも人々も、このように心得てこそ、他力の信心がたしかに定まったということでありましょう。これは間違いなく本当に大切なことなのです。
(273)
「「嘆徳文」に<親鸞聖人>とあるのをそのまま朗読すると、実名を口にすることになって恐れ多いから、<祖師聖人>と読むのである。また、<開山聖人>と読むこともあるが、これも同じく実名でお呼びするのが恐れ多いからである」と仰せになりました。
(274)
親鸞聖人のことをただ「聖人」とじかにお呼びすると、粗略な感じがする。「この聖人」と指し示していうのも、やはり粗略であろう。「開山」というのは略するときだけに用いてもよいであろう。「開山聖人」とお呼びするのがよいのである。
(275)
「嘆徳文」に「以て弘誓に託す」とあるのを、その「以て」を抜いては読まないのである。
(276)
蓮如上人が堺の御坊におられたとき、ご子息の蓮淳さまが訪ねて来られました。上人はそのとき御堂で、机の上に御文書を置いて、一人二人、五人十人と、参詣してきた人々に対して、御文章を読み聞かせておられました。その夜、いろいろとお話しになったときに、上人は、「近ごろ、おもしろいことを思いついた。一人でもお参りの人がいるならば、いつも御文章を読んで聞かせることにしよう。そうすれば、仏法に縁のある人は信心を得るであろう。近ごろ、こんなおもしろいことを考え出したのだ」と、繰り返し仰せになりました。蓮淳さまはこのお言葉を聞いて、「御文章が大切であることがますますわかった」と仰せになりました。
(277)
ある人が、「この世のことに関心を持つのと同じくらい、仏法のことに心を寄せたいものです」といったところ、蓮如上人は、「仏法を世間のことと対等に並べていうのは、粗雑である。ただ仏法のことだけを深く喜びなさい」と仰せになりました。また、ある人が、「仏法は、一日一日今日を限りと思って心がけるものです。一生の間と思うから、わずらわしく思うのです」というと、別の人が、「わずらわしいと思うのは、仏法を十分心得ていないからです。人の命がどれほど長くても、仏法は飽きることなく喜ぶべきものです」といいました。
(278)
「僧侶は他の人々までも教え導くことができるのに、自分自身を教え導くことができないでいるのは、情けないことである」とお仰せになりました。
(279)
赤尾の道宗が、蓮如上人にご文章を書いていただきたいとお願いしたところ、上人は、「御文章は落としてしまうこともあるから、何よりまず信心を得なさい。信心をいただきさえすれば、それは落とすことがないのである」と仰せになりました。その上で、上人は次の年に御文書をお書きになって、道宗にお与えになったのでした。
(280)
法敬坊が、「仏法の話をするとき、み教えを心から求めている人を前にして語ると、力が入って話しやすい」といわれました。 
 

 

(281)
「信心もない人が大切なお聖教を所有しているのは、幼い子供が剣を持っているようなものだと思う。どういうことかというと、剣は役に立つものであるけれども、幼い子供が持てば、手を切ってけがをする。十分、心得のある人が持てば、本当に役立つものとなるのである」と仰せになりました。
(282)
蓮如上人は、「今このときでも、わたしが死ねと命じたならば死ぬものはいるだろう。だが、信心を得よといっても、信心を得るものはいないだろう」と仰せになりました。
(283)
大坂の御坊で、蓮如上人は参詣の人々に対し、「信心一つで、凡夫の往生が定まるというのは、何よりも深遠な、秘事秘伝のみ教えではないか」と仰せになりました。
(284)
蓮如上人が御堂を建立されたとき、法敬坊が、「何もかも不思議なほど立派で、ながめなども見事でございます」と申しあげたところ、上人は、「わたしはもっと不思議なことを知っている。凡夫が仏になるという、何より不思議なことを知っているのである」と仰せになりました。
(285)
蓮如上人が、善従に掛軸にするためのご法語を書いてお与えになりました。その後、上人が善従に、「以前、書き与えたものをどのようにしているか」とお尋ねになったので、善従は「表装をいたしまして、箱に入れ大切にしまってあります」とお答えしました。すると上人は、「それはわけのわからないことをしたものだ。いつも掛けておいて、その言葉通りの心持になれよ、ということであったのに」と仰せになりました。
(286)
蓮如上人は、「わたしの側近くにいて仕え、いつも仏法を聴聞しているものは、お役目という思いを忘れて法話を聞いたなら、浄土に往生して仏になるだろう」と仰せになりました。これは本当にありがたい仰せです。
(287)
蓮如上人が僧侶たちに対して、「僧侶というものは大罪人である」と仰せになりました。一同が戸惑っておりますと、上人は続けて「罪が重いからこそ、阿弥陀仏はお救いくださるのである」と仰せになりました。
(288)
毎日御文章の尊いお言葉を聴聞させてくださることは、そのつど宝をお与えになっているということなのです。
(289)
親鸞聖人がご在世のころ、高田の顕智が京都におられる聖人のもとを訪ね、「このたびはもうお目にかかれないだろうと思っておりましたが、不思議にもこうしてお目にかかることができました」と申しあげました。聖人が「どういうわけで、そういうのか」とお尋ねになると、顕智は、「船の旅で暴風にあい、難儀しました」とお答えしました。すると聖人は、「それならば、船には乗らなければよいのに」と仰せになりました。その後、顕智はこれも聖人の仰せになったことの一つであると受けとめて、生涯の間船には乗らなかったのです。また、きのこの毒にあたって、お目にかかるのが遅れたときも、聖人が同じように仰せになったので、顕智は生涯、きのこを食べることがなかったといいます。蓮如上人はこの逸話について、「顕智がこのように親鸞聖人の仰せを信じ、決して背かないようにしようと思ったことは、本当にありがたい、すぐれた心がけである」と仰せになりました。
(290)
「体が暖かくなると眠たくなる。何とも情けないことである。だから、そのことをよく心得て、体をすずしくたもち、眠気をさますようにしなければならない。体を思うがままにしていると、仏法のことも世間のことも、ともに怠惰になり、ぞんざいで注意を欠くようになる。これは心得ておくべき非常に大切なことである」と仰せになりました。
(291)
「信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるからである。逆に、信心がなければ、自分中心の考え方になって、言葉も荒くなり、争いも必ずおこってくるものである。実にあさましいことである。よく心得ておかねばならない」と仰せになりました。
(292)
蓮如上人が北国のあるご門徒のことについて、「どうして長い間京都にやって来ないのか」とお尋ねになりました。お側のものが、「あるお方のきびしいお叱りがあったからです」とお答え申しあげたところ、上人はたいそうご機嫌が悪くなり、「ご開山聖人のご門徒をそのように叱るものがあってはならない。わたしはだれ一人としておろそかには思わないのに。<どのようなものが何をいおうとも、はやく京都に来るように>と伝えなさい」と仰せになりました。
(293)
蓮如上人は、「ご門徒の方々を悪くいうことは、決してあってはならない。ご開山聖人は、御同行・御同朋とお呼びになって心から大切にされたのに、その方々をおろそかに思うのは間違ったことである」と仰せになりました。
(294)
蓮如上人は、「ご開山聖人のもっとも大切なお客人というのは、ご門徒の方々のことである」と仰せになりました。
(295)
ご門徒の方々が京都にやって来ると、蓮如上人は、寒いときには、酒などをよく温めさせて、「道中の寒さを忘れられるように」と仰せになり、また暑いときには、「酒などを冷やせ」と仰せになりました。このように上人自ら言葉を添えて指示されたのです。また、「ご門徒が京都までやって来られたのに、取り次ぎがおそいのはけしからんことだ」と仰せになり、「ご門徒をいつまでも待たせて、会うのがおそくなるのはよくない」とも仰せになりました。
(296)
「何ごとにおいても、善いことを思いつくのは仏のおかげであり、悪いことでも、それを捨てることができたのは仏のおかげである。悪いことを捨てるのも、善いことを取るのも、すべてみな仏のおかげである」と仰せになりました。
(297)
蓮如上人は、ご門徒からの贈物を衣の下で手をあわせて拝まれるのでした。また、すべてを仏のお恵みと受けとめておられたので、ご自身の着物までも、足に触れるようなことがあると、うやうやしくおしいただかれるのでした。「ご門徒からの贈物は、とりもなおあさず親鸞聖人から恵まれたものであると思っている」と仰せになりました。
(298)
「仏法においては、愛するものと別れる悲しみにも、求めても得られない苦しみにも、すべてどのようなことにつけても、このたび必ず浄土に往生させていただくことを思うと、喜びが多くなるものである。それは仏のご恩である」と仰せになりました。
(299)
「仏法に深く帰依した人に親しみ近づいて、損になることは一つもない。その人がどれほどおかしいことをし、ばかげたことをいっても、心には必ず仏法があると思うので、その人に親しんでいる自分に多くの徳が得られるのである」と仰せになりました。
(300)
蓮如上人が仏の化身であるということの証拠は数多くあります。そのことは前にも記しておきました。上人の詠まれた歌に、かたみには六字の御名をのこしおく なからんあとのかたみともなれ わたしの亡き後にわたしを思い出す形見として、南無阿弥陀仏の六字の名号を残しておく。というのがあります。この歌からも、上人が弥陀の化身であるということが明らかに知られるのです。 
 

 

(301)
蓮如上人はお子さまたちにしばしばご自分の足をお見せになりました。その足には、草鞋の緒のくいこんだ痕がはっきりと残っているのでした。そして、「このように、京都と地方の間を草鞋の緒がくいこむほど自分の足で行き来して仏法を説きひろめたのである」と仰せになりました。
(302) 蓮如上人は、「悪い人のまねをするより、信心がたしかに定まった人のまねをしなさい」と仰せになリました。 (303)
蓮如上人は病をおして、大坂の御坊より京都山科の本願寺へ出向かれました。その途中、明応八年二月十八日、三番の浄賢の道場で出迎えに来られていた実如上人に対して、蓮如上人は、「浄土真宗のかなめを御文章に詳しく書きとどめておいたので、今ではみ教えを乱すものもいないであろう。このことを十分心得て、ご門徒たちへも御文章の通りに説き聞かせなさい」とご遺言なさったということです。こういうわけですから、実如上人のご信心も御文章の通りであり、同じように諸国のご門徒も御文章の通りに信心を得てほしいというお心の証として、実如上人はご門徒にお与えになる御文章の末尾に花押を添えられたのでした。
(304)
「存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。ところが、その上人がお書きになった「六要鈔」には、三心の字訓やその他の箇所に、<知識の及ばないところがある>とあり、また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作について、このようにお書きになっているのである。聖人のお心は本当にはかりがたいということを示されたものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐという聖人の本意にもかなっているのである。このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである」と仰せになりました。
(305)
「存覚上人が「六要鈔」をお書きになったのは、ご自身の学識を示すためではない。親鸞聖人のお言葉をほめたたえるため、崇め尊ぶためである」と仰せになりました。
(306)
存覚上人は次のような辞世の歌をお詠みになりました。いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど この迷いの世界を仮の宿として、数えきれないくらい生と死を繰り返してきた。だが、いまではそれもただ一夜の夢となってしまった。この歌について、蓮如上人は、「存覚上人はやはり釈尊の化身なのである。この世界に何度も何度も生れ変わって、人々をお救いになったというお心と同じである」と仰せになり、また、「わたし自身に引き寄せてうかがうと、この迷いの世界に数えきれないくらい生と死を繰り返してきた身が、臨終のときを迎えた今、浄土に往生して仏のさとりを開くことになるであろう、というお心である」と仰せになりました。
(307)
蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。
(308)
蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか」と仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただかれたのでした。「蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、仏より恵まれたものと考えておられたので、何一つとして粗末にされることはなかった」と、実如上人は仰せになりました。
(309)
ご往生のときが近くなってきたころ、蓮如上人は、「わたしがこの病の床でいうことは、すべて仏のまことの言葉である。気をつけてしっかりと聞きなさい」と仰せになりました。
(310)
ご病床にあった蓮如上人は、慶聞坊を呼び寄せて、「わたしには不思議に思われることがある。病のためにぼんやりしているが、気を取り直して、あなたに話そう」と仰せになりました。
(311)
蓮如上人は、「世間のことについても、仏法のことについても、わが身を軽くして努めるのがよい」と仰せになりました。黙りこんでいるものをおきらいになり、「仏法について語りあう場で、ものをいわないのはよくない」と仰せになり、また小声でものをいうのも「よくない」と仰せになりました。
(312)
蓮如上人は「仏法は心がけが肝心。世間も心がけが肝心」と、対句にして仰せになりました。また、「み教えは言うほどに値うちが出る。庭の松は結うほどに値うちが出る」と、これも対句にして仰せになりました。
(313)
蓮如上人がご存命のころ、蓮悟さまが堺で模様入りの麻布を買い求めたところ、上人は、「そのようなものはわたしのところにもあるのに、無駄な買物をしたものだ」と仰せになりました。蓮悟さまが、「これはわたしのお金で買い求めたものです」とお答え申しあげると、上人は「そのお金は自分のものか。何もかも仏のものである。阿弥陀如来・親鸞聖人のお恵みでないものは、何一つとしてないのである」と仰せになりました。
(314)
蓮如上人が蓮悟さまに贈物をしたところ、蓮悟さまは、「わたしにはもったいないことです」といって、お受け取りになりませんでした。すると上人は、「与えられたものは素直に受け取りなさい。そして、信心もしっかりといただくようにしなさい。信心がないから仏のお心にかなわないといって、贈物を受け取らないようだけれども、それはつまらないことである。わたしが与えると思うのか。そうではない。すべてみな仏のお恵みである。仏のお恵みでないものがあるだろうか」と仰せになりました。
 
蓮如の時代

 

蓮如 / 生涯と彼が建てた寺院の立地
考察の前提条件
本稿において、蓮如といわゆる「一向一揆」を起こした門徒衆を取り上げます。ここでは特に特定の宗教を批判したり否定する意図はないことを先に明記しておきます。それを前提として、浄土真宗本願寺教団を率いた蓮如と門徒衆との思惑の違いについては一切考察しません。そして、浄土真宗の教義についても触れないこととします。本稿においては蓮如と一揆を起こした人々を含む門徒衆を一体と見なし、彼らが起こした事件を見てゆくことにします。その関連の中で、浮かび上がってくる門徒衆の性格を本稿で論じることを試みたいと思います。
とはいえ、本願寺教団の中興の祖である蓮如の生涯を追う所から始めてみたいと思います。
応永22年(1415)京都東山の本願寺で生まれる。
長禄元年(1457)本願寺の留守職を相続。
寛正6年(1465)延暦寺、大谷本願寺を破却。隠居を強いられる。
応仁3年(1469)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
文明3年(1471)吉崎御坊を建立。
文明6年(1474)加賀国富樫氏の内紛に介入。
文明7年(1475)吉崎を退去。
文明15年(1483)山科本願寺の落成。
文明18年(1486)紀伊に下向。のちの鷺森別院の基礎ができる。
長享2年(1488)加賀の一向一揆。
延徳元年(1489)寺務を子の実如にゆずり、山科南殿に隠居。
明応5年(1496)大坂石山の地に石山御坊を建立。後の石山本願寺。
明応8年(1499)山科にて入滅。
彼は浄土真宗本願寺教団を率いる立場ではありましたが、その生涯において自らの寺を焼かれたり、新たな寺を建てたりしつつ、住処を転々と致しました。その転々とした過程で本願寺教団は復活をはたしました。諸所で弾圧を受けてなお、それらを跳ね返して隆盛をきわめたのです。 
前史
そもそも、浄土真宗というのは鎌倉時代に活躍した親鸞を開祖とする浄土宗の分派です。浄土宗を起こしたのは法然という比叡山の学僧で、それまで戒律厳守を建前としていた比叡山延暦寺の表看板である天台密教のアンチテーゼというか、仏教教義の経年変化を極端に進めた教義を日本で広めた人でした。ちなみに、浄土宗の教義の元となった物は浄土教という中国仏教の分派の一つです。
浄土宗の教えは簡単かつ乱暴に言うとひたすら念仏を唱えると浄土=極楽・天国に行けるというもので、その念じ方によって大量の分派をだしています。そして、信仰の対象が仏陀、ゴーダマシッダールタではなく、阿弥陀如来であることも特徴的です。阿弥陀信仰を語りだすとかなり長くなりますので、この際端折りますが、当時の仏教の主流であった天台密教のそれと比べると、戒律は極めて緩く、遥かに自由度の高い教えでした。そのため、教えは学問をする余裕のある貴族や武士の知識階級にとどまらず、町人、農民、漁師などを中心に広まりました。
そして、自由度が高いが故にこの浄土宗という宗教は同じ阿弥陀信仰をする時宗と同様、数多くの分派を生み出したのです。
その中の一つが浄土真宗です。親鸞は法然の教義をさらに押し進め、新たな宗派を作りました。これもまた、浄土宗や法華宗などの鎌倉新仏教の代表的な宗旨として同様幅広く受け入れられてゆきました。
この親鸞が画期的だったのは、日本の高僧で始めて妻帯したことです。それ以前の僧侶はみなすべて未婚もしくはヤモメ、つまり独身でなければなれませんでしたが、親鸞は不犯戒(異性と交わらない教え)まで自ら撤廃して見せたのでした。過激といえば過激かもしれません。
でも、その過激な行動なくしては蓮如の存在はありませんでした。なぜなら、蓮如は親鸞の子孫なのですから。そして、それこそが蓮如の属する本願寺教団の最大のアピールポイントでした。
つまり、それ以前の仏教各宗派は互いに勢力争いをしていましたが、その拠り所になるものは教義の正しさのはずです。しかしながら、本願寺教団においては、親鸞に連なる血統がそれに加味されたわけです。
ただし、浄土真宗は親鸞の後いくつかの分派に分かれ互いに凌ぎを削っておりました。それ故、本願寺派は親鸞の血統を謳っているものの、他宗派のみならず、同じ浄土真宗教団分派と比べても教勢は劣っていたと思われます。むろん、教義の正しさが教勢に比例するわけではありませんが。
そして、そのような情勢下で応永22年(1415)京都東山の大谷本願寺で生まれました。時に室町幕府第四代将軍足利義持の時代です。先代の足利義満が南北朝の内乱時代を治め、自ら日本国王としてわが世の春を謳歌した、そんな時代から間もない頃でした。 
大谷本願寺
東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時。夜空に響く鐘の音が陰にこもって物凄く...。
と講談の台詞に出てくる東山。京都府東山区あたりの山、というか丘陵と読んでもよいところに、本稿で取り上げる大谷本願寺がありました。ありました、というのはちょっと語弊があるようなないようなですが、現在の知恩院の敷地の西側にある崇泰院のあるところらしいです。
大体の地理を文章で書くなら、京都盆地というお椀があって、そのそこに碁盤の目の将棋台が置いているとおもってください。その将棋盤を京都の町とするなら、お椀のふちの真ん中から真西からちょっと南側にあたるあたりが、東山です。そこには清水寺だの、知恩院だの有名な寺社がひしめいていますが、大谷本願寺もその中の一つです。もともとは、親鸞の墓所がそこに作られ、墓を守る形で遺族が管理していましたが、親鸞の曾孫の覚如が自ら本願寺三世を名乗り、その墓所に本願寺を建てました。これが、浄土真宗本願寺派の始まりです。
以後、法主は覚如の子孫がついで行くことになりますが、浄土真宗という宗派の伸張にあって、その流れについてゆききれていたとはいえなかったそうです。寂れているとはっきり書いているところもありますが、貴族の帰依も得ていたりしていますから実情はよく判りません。
本願寺派教団の代表のことを法主と書いていますが、正確には留守職というそうです。成仏して彼岸の向こうに行った親鸞の留守を守って、親鸞の教えを代行して広める役目という意味なのでしょうか。蓮如が留守職を継いだのは三十七歳になった時だそうです。
時に長禄元年(1457)、乱世の開幕を告げる応仁の乱の勃発はこの十年後です。
相続が遅いのは留守職が終身の身分だからかもしれません。腹違いの弟と継母とのあいだで相続でもめ、わずかながらあった財産は弟が留守職相続を諦めることとと引き換えに継母が持ち去ってしまった。
相続間もない留守職がまずやらなければならなかったのは傾いている本願寺教団の再興でした。浄土真宗の寺として紹介していましたが、この頃は寂れていたため、真宗の看板を外して天台宗の門跡の一つ青蓮院の末寺として扱われる始末です。
もともと、浄土宗の法然からして天台宗の学僧であり、親鸞はその教えを受けた立場です。そして、蓮如自身も今書いた青蓮院で得度しています。真宗と比叡山との関係は非常に密接なものだったといえるでしょう。青蓮院の本寺は比叡山延暦寺。東山の峰々を北にのぼった場所にあって、都の鬼門を守護する日本最高権威をもつこの仏教寺院にとって、浄土真宗の隆盛は忌々しげなものだったでしょう。親鸞の子孫の寺である本願寺に対して宗旨替えをさせていたのです。寺院の歴史を紐解くにこの手の宗旨替えは結構あったようですね。蓮如はみずからが留守職を継ぐにあたり、これに抗いました。教風から天台衆的なものを一掃し、上納金の支払いを拒絶したのです。実際払えなかったのかもしれませんが、その後の積極的な活動を考えると払えないほど貧乏だったようには見えません。
この頃の宗派間の争いは室町幕府が傾いていることもあって、些細なことからヒートアップします。細かな事情は私も知りえないのですが、延暦寺はついにキレて、大谷本願寺の破却を決めます。蓮如は親鸞の像を抱えて流亡の時代にはいりました。
本願寺のネットワークは畿内をじめ、北国・東国まで及んでおり、蓮如自身も東国、北国に布教に赴いた経験がありました。その際の支援者を頼っての流亡生活です。 
金森合戦・堅田大責
比叡山延暦寺によって、大谷本願寺を破却された蓮如が当座たよったのは、隣国近江の国の金森、堅田、大津の門徒衆でした。浄土真宗の信者のことは信者と呼ばずに門徒と呼ぶのがならわしなので、それに従います。金森・堅田・大津はいずれも琵琶湖南部にあった集落で本願寺教団はここにいる湖岸の民に対して着々と教化を施していました。そういう事情もあって蓮如はまず金森にあって、近在の門徒衆に結束をうったえます。
とはいえ、比叡山延暦寺もその滋賀県側の琵琶湖岸に坂本という一大寺内町を築いていました。平和な頃ならともかく、応仁の乱は目の前です。宗派の違いは信徒たちの利害関係に複雑に絡んで、湖岸の利権の絡む諍いが、容易に宗教抗争に発展します。それを沈めるべき守護大名や将軍家がお家騒動でごたついていたため、彼らを止められるものは誰もいません。
比叡山延暦寺は蓮如に追っ手を差し向けました。蓮如は金森御坊に門徒を集めてこれに対抗。本願寺教団は金森に城を築き合戦に及びました。これを金森合戦といい最初の一向一揆による合戦です。
金森城は、境川(さかいがわ)右岸の自然堤防上にあり、南北を河川に挟まれた要衝の地でした。本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成ています。江戸時代に書かれた地図には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られるそうです。金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった典型的な寺内町でした。ここでは、境川という水利を防備に応用した城砦であることも記憶して置いてください。後々の考察で取り上げることとなると思いますから。
延暦寺側は大将が討ち取られるなどして、この局地戦においては門徒側が勝ったようです。
しかしながら安心は出来ません。蓮如が琵琶湖湖南の地に逃れ、その追跡が失敗におわったことによって、延暦寺の怒りは蓮如を支援する村々にも向くことになります。
堅田は琵琶湖南部の湖西側に位置する集落で、惣村組織である堅田衆による自治が行われていました。堅田衆は大別すると地侍層からなる殿原衆と商工業者、周辺農民からなる全人衆に分かれていました。このうちの殿原衆は船舶をもち、堅田の水上交通に従事していました。メインクライアントは延暦寺でしたが、時に海賊行為も行ったそうです。それでは延暦寺の面目丸つぶれなので、堅田衆に対して堅田以外の船から海賊行為を行わない代償として、上乗(うわのり)という通行税を取る権利を与えました。堅田衆はこれをちょっぴり拡大解釈して私腹をさらに肥やしたりしたのですが、それを延暦寺は苦々しく思ったものの黙認はしていました。
一方で蓮如の教えは金森の対岸である堅田に及び、主に全人衆の指示を得ていました。
応仁2年(1468)、室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために調達した木材を運搬する船団が上乗を払わない事を理由に堅田衆が積荷を差し押さえてしまいました。応仁の乱が起こって将軍の権威は凋落し始めたとはいえ、激怒した将軍足利義政は延暦寺に堅田の処分を命じます。湖南には蓮如が潜伏しています。ここに至って延暦寺は堅田に対する方針を変えます。
延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行いました。堅田の集落はほぼ全域が焼かれ、住民は琵琶湖の中ほどに浮かぶ小さな孤島、沖島にのがれました。堅田大責(かたたおおぜめ)です。
一向一揆というと宗教戦争のようにとらえられがちなのですが、その背景としてこの堅田に見られる惣村組織や寺社間の利害関係も複雑にからんでいるのですよね。
すでに、京都の町では応仁の乱が始まっており、都の中は山名と細川の軍勢が犇いていました。足利義満が築いた花の御所を中心とした秩序は明らかにほころび始めていました。そのカオスのなかに、蓮如と本願寺教団は立たされていました。 
吉崎御坊
とかく、戦争というものは金がかかるものです。蓮如がいかに門徒に頼って比叡山に抵抗しても、本拠を持たぬ流亡の生活です。いつまでも対立は続けられません。本来でしたらこういった抗争には、朝廷や幕府が仲裁に立つことがあるのですが、応仁の乱まっただなかです。都大路には軍勢が犇き、道は寸断されます。また、プライベートに通行税を徴収する関も設けられ、都に依存して生活している南近江の門徒衆も困窮したと思われます。
要するに、いつまでも比叡山と争っているわけには行かない。金森合戦のあと、蓮如は叡山と和解します。とはいっても全面敗北です。蓮如は隠居。実子実如は廃嫡を言い渡されます。寺宝である親鸞の像は取り上げられて天台宗三井寺の末寺に安置されます。
替わりに蓮如が得たのは自由でした。京都は荒廃し、琵琶湖の交通も堅田が崩壊してままならない状況です。貴族達は田舎の領地に疎開を初めるなど、京にいても余りよいことはないように思われました。そこで蓮如は新天地を求めます。以前にも蓮如は東国や北国を訪れ、その先、途中で熱心な門徒たちとの交流を深めていました。その時勝ち得た自信が都からの脱出を決断させたのでしょう。
選んだのは加賀国と越前国の国境にある吉崎。大聖寺川の日本海に注ぐ河口に隣接する北潟湖畔を臨む立地ですが、ここは間違いなく城砦都市といっていい構えをしています。三方を北潟湖という大きな堀で囲み、あいた一方には大きな寺内町が本堂を守るように囲んでいるそういう構造の寺でした。ここはうるさい延暦寺もいませんし、政治的な圧力をかけられる心配もなく、仮に襲われたとしても守りは万全です。大谷や堅田のような目にあうことはないでしょう。
また、地方に拠点を据えて教化に専念する手法は爆発的にあたりました。本願寺教団はこのころ急速に拡大します。遠くは奥州から蓮如に会うためにやってくる門徒もいたそうです。
でも、一見蓮如にとって理想的な宗教都市であっても、結束する門徒達からなる宗教集団は別な見方をされます。信者達は河川運送従事者や商人や農民達だけではありません。国人・土豪・地侍など後の武士階層もいたのです。いえ、正確ではありませんね。当時は階級分化が未成熟でした。ゆえに、田畑を耕す武士もいれば、水上交通をなりわって、時に海賊行為をする武士もいたりするのです。そして、その集団は戦力と見なしたものがいました。それが、加賀国守護の富樫政親でした。
彼は応仁の乱において、細川勝元方の東軍についたため、山成宗全率いる西軍についた弟の幸千代と争うことになりました。
富樫政親は幸千代を滅ぼすために、吉崎に助力を求めました。蓮如にとっては関係のない話でありましたが、運の悪いことにこの地には同じ浄土真宗の高田専修寺派の勢力が根ざしていて、彼らが幸千代派に与してしまったのです。本願寺派は延暦寺と大喧嘩をしてしまいましたが、同宗である高田専修寺派とも仲が悪かった。もし、吉崎が立場を決めずにうかうかして、政親が幸千代に敗れれば、幸千代は専修寺派を引き立て、吉崎に弾圧を加えるでしょう。
本件にあって、蓮如がとった立場については諸説ありますが、ここでは起きた事だけ書きます。吉崎御坊の門徒達は富樫政親に与し、富樫幸千代を攻め滅ぼしました。そのこと自体は成功したのですが、吉崎御坊の門徒達が見せた力は富樫政親を警戒させることになりました。それに気づいた蓮如はいち早く吉崎を退去。蓮如の側近である下間崇蓮を門徒達を扇動した罪で破門に処しました。
一応のけじめをつけた形にはなっていますが、富樫幸千代を攻め滅ぼした門徒衆と要塞同然の吉崎御坊はそのまま残りました。大きな火種は残されたままです。後に、この門徒衆は加賀一向一揆を起こして富樫政親をも攻め滅ぼしました。それ以後加賀国には大名はいなくなり、百姓(この場合は源平藤橘以外の素性を持つ人々のこと)の持ちたる国となったそうです。 
山科本願寺
蓮如が吉崎を退去した頃、応仁の乱は一応の収束に向かっていました。逆に言うと京都の主な建物は灰燼に帰するか廃墟と化してしまったため、戦略上のメリットは大きく喪われていたということです。騒動の大本である山名宗全と細川政元はともに死に、将軍家は足利義尚を後継とすることでまとまり、残りの連中は自らの領国で雌雄を決することになりました。加賀国における富樫氏の内紛もその一つでしょう。もしかしたら蓮如は門徒達からもたらされる情報を分析して次は地方がきな臭くなると判断したのかもしれません。
蓮如は京に戻ってきました。そして、新たな拠点を求めます。選んだ地は山科。私自身はこの選択自体に蓮如自信の戦闘的な性格を感じます。山科は琵琶湖の南端大津と京都の中間点にあって、その距離は極めて短い。やはり山科川のほとりに立地させ、北西には洛中への入口の一つである粟田口、山科川を下ると宇治川に合流し、同じく洛中の入口である宇治川口に至ります。こういう場所に堀をめぐらせ土塁を積み上げた、吉崎御坊や金森城のような城砦寺院を作ったわけです。後背である琵琶湖には本願寺教団の熱心党である堅田・金森・大津の門徒達が控えています。
言うならば、洛外にあって、洛中を落とすための付け城のようなものですね。蓮如がというよりも、本願寺教団がなんでこんな城をこんな場所に作ったのか。蓮如の立場からすれば、父祖の地である東山大谷への回帰があったのかもしれません。しかしながら、その場所はすでに比叡山延暦寺によって差し抑えられています。次善の策としての山科だったのだろうと思います。だからこの寺に本願寺の名を冠したのでしょう。それも、次に比叡山の襲撃にあっても耐えられるような強固なつくりの城のような寺院が望まれたのではないかと推察します。
さらに、もっと切実だったのが蓮如の支持基盤である湖上運送業者の都合だったのではないでしょうか。応仁の乱の前後に室町幕府はその徴税機能に大きな齟齬をきたし、私的な関所が作られ流通が妨害されていました。ちなみに、蓮如が山科に寺院造成を始めた文明10年(1478)に将軍足利義政の妻である日野富子が通行税を取るために設けた京都七口関に対して不満をもった町衆・国人・土豪達が土一揆を起こします。関に対する不満はここにあるように顕れているわけで、琵琶湖湖南の湖上交通業に従事している人々がこの動きと連動して蓮如に山科本願寺造営を勧めたというのは考え方としてありではないかな、と思います。粟田口と宇治川口は船で物資を運ぶ人々にとっては確保すべき入口です。そこで無体な徴税があったとしても、城のような本願寺がすぐそばにあれば、すぐに逃げ帰り、応援を呼ぶことができます。蓮如が山科本願寺に何を望んだのか、想像するしかありませんが、そのような役割を期待されたのが実情だったのではないか。そんな気がします。 
石山御坊
いよいよ、蓮如がらみの寺院紹介の最後になります。後に織田信長との抗争の舞台になる石山本願寺ですここの紹介の前に、書き漏らした関連寺院を紹介します。
鷺宮別院は紀伊国の紀ノ川河口にある寺院で後の一向一揆の雑賀党の根拠地ですね。ここを拠点に雑賀孫一が活躍したとおもうと、なんとなくちょっと感慨深いですね。
あと、京都と大阪の間に富田という所があるのですが、蓮如はここにもしっかり道場を作っています。ここで親鸞の教行信証を書写したことから教行寺と呼ばれている寺ですが、この町も蓮如によって開かれた寺内町です。この辺は自分の地元であったのでよく知ってる場所ですが、そんなに大きな川はありません。しかしながら、市史を見るに酒造が盛んな地であったことを考えるとそれなりの水郷であったことは想像できます。
さて、石山本願寺ですがこれは蓮如が隠居後に作った寺院なのです。作った当時は石山御坊であり、本願寺ではありませんが。吉崎御坊、鷺宮別院と同じく河口に作った水上城砦寺院です。そうであることは石山合戦が如実にしめしています。そして、後にこの場所に豊臣秀吉が大坂城をつくったことでもその戦略的価値は明らかでしょう。蓮如は石山御坊を作った後、山科に戻りそこで入滅します。すでに時代は戦国になっているものの、大名や他宗の物に妨害できない拠点を作り上げたという充実感はあったかもしれません。
石山御坊は本願寺教団の本拠地である山科本願寺よりも繁盛し、それがために蓮如の後継者によって弾圧されることもありましたが、順調な発展をみせました。天文元年(1532)山科本願寺が近江守護の六角氏と法華宗徒の襲撃により焼き討ちされると、法主は石山御坊にうつり、そこを本願寺としました。 
境目の街
石山御坊についての付記です。その後、調べて面白いことがわかったので追記させていただきます。
蓮如とその周囲、特に川、即ち水運を生業とする人々にスポットライトを当てております。その実体は何なのかと、問われても私自身勉強中で答えることが出来ないところです。漠然としたイメージに過ぎませんが、歴史家の網野善彦氏が言った士農工商から外れた公界の民。農本位制の枠組みに囚われない所にいる人々とその周囲にいる人々を想定しています。その中には土着して土地をもった人々も含まれます。そういった川の民の特徴として、武士や朝廷が定めた公的な枠組みとは異なるネットワークが存在する。そんな仮説を立てながら本稿を書いています。それは、ブログのタイトルである「創作のネタ」元でしかないのですが、その視点で見ると今まで見えていなかったものが見えるのではないか、見えたらいいなぁなどと考えています。
さて、川の民が公的な枠組みとは異なるネットワークを持っていると書きましたが、それは川が地域と地域を隔てる境界をなしているからです。今は川なんかあれば、橋を架ければ済む話ですが、戦国時代において橋は殆どありませんでした。その多くが船を使うか、人力で渡りました。僅かにかかっていた橋も、一度戦争ともなれば、敵が渡れぬように破壊するのが常でした。そこに川の民が存在する余地があると考えています。川の民は陸(おか)の領主達の干渉を受けぬだけの力を得ることができたのではないかな、と思います。
例えば、川を挟んでA国とB国が国境を接していたとします。川の民はA国に帰属していますが、A国が川の民に受け入れられない要求をした場合にB国につくようなこともできたのではないでしょうか。A国が弱体化した折には川に船橋をかけてB国の軍勢を入れるなんてこともできたかもしれません。また、逆もしかりです。それ故、川の民は陸の領主にあまり忠誠心や帰属意識が薄い。
それを陸の領主が攻めるなんて話は本稿でも触れた堅田大責めにもありました。ここでは湖の民ですが、彼らは沖ノ島に避難し、全滅を免れています。
こういう境界線上の人々を境目の民とも呼ぶことができるでしょう。そして、境には色々な漢字を当てることが出来ます。それが、堺であり、坂井であり、酒井だったりする。
このあたりは、「信長公記」を読んだ時に、家康の代の徳川家の家老、酒井忠次のことを坂井忠次と表記しているところから思いついています。そこには信長は家康の使者として接見した酒井忠次に対し、家康を通さず直接に贈り物を贈ったりした(引き抜き工作をした?)とか書いてありますから、もし本能寺の変がなくて信長が天下を取ったなら酒井家ではなく、坂井家として歴史に残ったかもしれません。
酒井家は松平郷あたりの土豪で家康の先祖を入り婿として迎えた一族です。同様に尾張国にも織田守護代家の家臣として坂井一族が勢力をもっていました。信長の父信秀が活躍していた時代には守護代の代理、又代として尾張下四群の差配を任されていた一族です。三河の酒井家と尾張の坂井家が同族なのか、はたまた彼らが川の民だったのかどうかは勉強不足でよく判りません。ただ、歴史文書を読むに当たって、表記だけではなく、音もまた大事なのだな、と思わされた事例です。
さて、もう一つの堺ですが、戦国時代においては商人の町として会合衆が治める自治がなされた町として知られていますね。和泉・河内・摂津三国の国境にある港町でやはり戦国時代には領主の支配から脱して自治を手にしたという点で注目しています。
さらにプラスアルファの「サカイ」が、本稿のメイン・イベントです。現存する文書において、大阪の地を最初にオオサカと呼んだのは石山御坊を開いた蓮如ということになっています。彼が明応5年(1496)に書いた御文に「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」という記述があるそうです。まぁ、宛名書きの住所みたいな記述なので、蓮如が名づけたという訳ではなくそれ以前に大坂という地名はあったということだと思います。頃合も丁度この地に石山御坊を拓いた時にあたります。では、蓮如は何に着目してこの地を大坂と呼び、道場をひらいたのでしょうか。
大阪に行った人なら誰でも思うことは、「ここのどこに大きな坂があるねん?」ってことかと推察しますw。大阪は大阪平野のど真ん中にあって坂らしい坂はありません。
代わりにあるのは川です。石山御坊は、現在天満川・大川と呼ばれている旧淀川の海に注ぐ河口に建てられておりました。その水塞寺院としての堅牢さは石山合戦において織田信長との戦いの中で遺憾なく発揮されました。石山本願寺は織田信長が10年以上の歳月をかけてようやく攻め落としたほどです。
以下、私見です。川は土地と土地を隔てるものですが、そこに人が入り、生業を得た。土地に立脚したものではありませんから、農業とか収穫ではありません。そういう人々が土地を治める領主達の境目にあって自立を志向したのではないでしょうか。即ち、大和川の河口に堺の町が拓けたように、淀川の河口にももう一つのサカイがあった。古来の大阪の発音は大きい坂を意味する「おほさか」ではないそうです。別表記で「小坂」と書かれている文書もあったそうで、小田、小原、小山の等の地名にあるような「小さい方」という意味での「おさか」という読みであるらしいです。その近隣に流れる大和川の河口にあった堺の街は、戦国の混乱の中、足利一族の義維が公方を自称した時の根拠地となりました。それを支えるだけの財力・基盤があったということでしょう。そしてその後自治を獲得するに至ります。蓮如が石山御坊を建てる以前の大阪はそんな堺と区別する意味で「小さな堺=小坂」と呼ばれていた可能性はなきにしもあらずですよね。蓮如はこれから自分が坊を建てる地を「小さい堺」と呼びたくなかったのかもしれません。今後の発展を見越した上であえて「大きい境・堺=大坂」と呼んだのではないでしょうか。
蓮如の生き様を見るにつけ思うことがあります。比叡山の天台宗や真宗高田専修寺派等の勢いが盛んな中で本願寺派の教勢を拡張するためには、既存の教団が勢力を伸ばしていない境目に目をつけるしかなかった。その視線で見てまず目に入ったのが琵琶湖の湖上の民、すなわち境目の民だったのでしょう。大聖寺川河口の吉崎は国ごと百姓の持ちたる国となり、その結果を受けて(と思います)紀ノ川河口の鷺森御坊と淀川河口の石山御坊を蓮如は拓きました。その慧眼は雑賀鉄砲衆と石山本願寺、そして現在にまで残る大阪の地名の中に生きているのだと思います。 
考察
こうして、蓮如の生涯を振り返りつつ考察するに、彼が創建した寺院の多くが、川沿いに堀を巡らせたつくりになっていることに気づくでしょう。それは寛正の法難などであったような他宗派の弾圧から門徒を守るためにそのようなものになったのかもしれません。
もっとも、城のような作りをもった寺院というのはさほど珍しくはありません。大谷本願寺を破却した比叡山延暦寺は比叡山という高地に立てられた一つの要塞に見立てられます。実際、南北朝動乱期においてはここに後醍醐天皇が立てこもって足利尊氏相手に篭城戦などを行いました。そういうものと比較して、蓮如の建てた諸寺院は一線を画していると思うのです。延暦寺を山城に例えるならば、蓮如の建てた寺院は水塞と呼ぶことはできないでしょうか。特に、吉崎御坊や石山御坊にその色彩が強いように思われます。
ここでちょっと蓮如から視点を移してみたいのですが、どうして蓮如はそれを作ることができたのでしょうか。蓮如自身に城の縄張りを行う技術があったとは思えません。また、蓮如は生涯に大量の御文を門徒に下していますが、彼らの教化に専心していたので、寺社の設計をしている暇などなかったでしょう。しかるに、何ゆえかくも精力的に寺社造営に邁進できたのか。
それは当然、蓮如の側近団の手になるものでしょう。それがどういう人々か。大谷本願寺留守職を継いだ蓮如を支えた人々は琵琶湖南岸の堅田・金森・大津の門徒でした。彼らが金森城造営で蓄えたノウハウを元に、それを吉崎、山科、鷺宮、石山へと展開したと考えられないでしょうか。蓮如が吉崎にいた期間は四年そこそこですが、造営の手間を考えるとその短期間で奥州から門徒が尋ねてくるほどの隆盛をもたらすには、そこに大きなネットワークがあったと考えた方がいい。そして、蓮如の教えそのものがそういう人々にアピールするものだったということでしょう。
私はそのベースとなったものが、水上交通を生業とし、時に海賊ともなる堅田衆をその末端とする水運ネットワークであったのではないかと思われます。ただ、ネットワークはあったが城作りや戦い方を知らなかった人々にそれを教えて一向一揆を含む組織戦のパッケージを広めたのが、琵琶湖南岸において宗教戦争を経て戦いのノウハウを蓄えた、湖賊達であったのではないかと推測しています。 
 
三河布教 / 蓮如の三河国における布教活動

 

真宗分派概略
前稿に引き続き、浄土真宗本願寺教団の動向を記して参ります。前稿においては、蓮如の生涯という軸を通して、本願寺教団が畿内・北陸に築いた拠点について説明しましたが、本稿においては蓮如が畿内・北陸以外にもう一つ活動の中心に据えた三河の地を中心に見ます。
その前に、本稿において押さえておくべき浄土真宗の分派の概略を説明します。例によって、教義に踏み込んだ説明は最小限にします。私には荷が重いものですので。
仏教はご存知の通り、ゴータマシッダールタ(仏陀)が開いた宗教です。本来の仏教は厳しい戒律を守ることを通して自らを救う教えであり、インドからタイ方面に伝わってゆきました。これを上座部仏教もしくは、小乗仏教といいます。後になってもう一つの流れが現れました。これは仏に帰依し、仏の慈悲によって解脱を果たすやり方です。これを大乗仏教といい、中国経由で日本に入ってきたものです。
仏教の教義は仏典に記されているのですが、その仏典は仏陀が自分で書いたものは無く、ほとんどが仏陀の言葉を記したり、仏陀の考え方を仮託して書かれたものです。故にその教えは多岐にわたり、時に合い矛盾するものもあったりしました。その仏典の中にどういうわけか、自らの教義を破壊しかねないものがあり、それがどういうわけだが世の中に流行してしまったのです。これが末法思想です。末法思想というのは、仏陀の教えに耐用年数があるという、何を根拠にしたのか良くわからない考え方です。曰く、仏陀入滅後千年は正法の時代。仏陀に祈れば誰でも仏陀の力で解脱が果たせます。千年から二千年の間は像法の時代。これはしっかり修行をした人が救われる時代です。逆に言えば、救われる努力を怠った者は救われない時代です。そして二千年以降が末法の時代。これはどんなに修行をしても、仏陀に祈ってももはや仏陀の力はその末世の人々を救うまでには届かないという考え方です。この末法の始まりが大体平安時代の末期とされていました。
神による救済のない宗教なんて、宗教としての価値は見出せませんし、おそらくはこいつはデマなんじゃないかと思うのですが、それを本気で信じた人たちがいました。そして、何とかしようと考えた人たちがいました。それは中国で起こりました。仏陀が救えないなら、仏陀の弟子で仏陀の後に仏になる如来に帰依するべし。という考え方です。その為に用意された如来が阿弥陀如来です。この阿弥陀如来への信仰が中国では浄土教になりました。それを日本で展開したのが法然の浄土宗であり、法然の弟子親鸞が開いた浄土真宗へと受継がれてゆくわけです。(もう一つ時宗の流れというものがあり、徳川家康の先祖が時宗の遊行僧だったりして、実に興味深い題材なんですが本稿では不勉強のこともあり割愛します)
浄土宗及び浄土真宗とそれまでの旧仏教との大きな違いは戒律を撤廃し、ただひたすら阿弥陀に帰依することによって浄土に行けると主張したことです。簡単に言えば、往生するために出家する必要がなくなったということですね。貴族のような財力に余裕のある人たちだけではなく、武士や農民、商工業者にも解脱の道が拓かれたということです。この教義の大転換をマルチン・ルターやカルバンのキリスト教の宗教改革になぞらえる論者もいます。
親鸞は京都で活躍しましたが、過激な思想であるために佐渡に流されました。その後、許されて後関東で活動したのち、京都の東山で死にました。
親鸞が生前京都山科において興正寺という寺を開いたとされています。厳密にはその弟子である真仏あるいは、その後に関東から来た門徒達によるというのが正しいのですが、これがのちに京都東山汁谷という所に移って寺号を仏光寺と改め、真宗教団の一派を形成しました。これを仏光寺派といいます。
親鸞の関東における拠点は下野国高田でここに根本道場を作りました。これが高田専修寺です。ここで活動する真宗教団を高田専修寺派といいます。この専修寺派は蓮如と同時代を生きた真慧が伊勢国津に建てた無量寿院を新たな根拠地とし、本願寺派のライバルとなってゆきます。
そして、本願寺教団。すでに説明しましたとおり、親鸞の曾孫の覚如が親鸞の廟堂を寺として始めたのがこれです。一時期寂れていたのを蓮如が立て直し、山科本願寺から石山本願寺に拠点を移しながら、仏光寺派、高田専修寺派以上の教勢を天下に示しました。後に、織田信長の台頭とともに信長と戦うことになり、石山合戦を繰り広げることになります。本願寺教団はこれに敗北。信長の後継者である豊臣秀吉の時代を経て徳川家康は政治的策謀によって、本願寺教団を東本願寺と西本願寺に割ります。
鎌倉から戦国まで、仏教教団は派閥抗争を繰り広げてきたのですが、この本願寺教団を本願寺派と大谷派に分割させたことを含む家康の宗教統制によって宗派間の対立は完全におさまりました。
要点は、浄土真宗には三つの有力な派閥があるということ。一つは仏光寺派、一つは高田専修寺派、最後の一つが本願寺教団。以後の論考に進む前にまず、ここを抑えておいていただければ幸いです。
三河国
さて、前篇においては、蓮如の生涯を追いながら、その時々で作られた金森道場、吉崎道場、山科本願寺、石山道場、鷺宮道場などを見てきました。ちょっと、時代を後に転じて織田信長との石山合戦を見てみましょう。伊勢長島の一向一揆責めは、織田方の有力武将も討ち取られ、かつ一揆勢も皆殺しにあったというその戦いの凄惨さが特徴です。
なぜそんな凄惨な戦いになったかというと、一揆衆が立てこもった長島願証寺が長良川に浮かぶ強固な水塞だったからです。そして、石山合戦そのものも、淀川に船を浮かべた織田水軍とこれに兵糧入れしようとする毛利水軍の戦いでした。運河の未整備な当時の大坂の石山本願寺ほ日本最大の水塞であったといえるかもしれません。ここに豊臣秀吉は大坂城を建て、本願寺を外敵から守った川を惣濠として難攻不落の要塞に仕立て上げましたが、この堀を大坂の陣で埋めたのが徳川家康です。
ちょっと話が横にそれてしまいましたね。このように本願寺派が建てた寺は水塞としての機能を持ったものが多かったのです。私としてはここに着目いたします。水塞といってもそれを作るためには高度な治水の技術が必要ですし、洪水への備えも必要です。そういったものを整備するためには技術者集団がいたと観るのが正しいでしょう。その技術者集団は水上のネットワークを保有していたと考えています。
逆に言うなら、水上交通に適した所であれば、彼らはそこに手を伸ばしたということです。
そこは親鸞が拠点とした関東と京都の間にありました。三河の国です。三河の国は愛知県の東半分ですが、もともとの三河国の愛知県西半分のさらに半分。西三河と呼ばれる矢作川流域を指します。矢作川の流域は支流の乙川とアルファベットの「Y」の字をなします。おそらく、矢作川流域は乙川と乙川と合流する上流部分、下流部分の三つの領域に別れるゆえに三河なのでしょう。
とは言え本稿では、渥美半島と知多半島に挟まれた三河湾を流れる三つの主要河川である、境川、矢作川、吉田川の三つをもって三河国と呼んでみたいです。中心となる舞台は矢作川流域。織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取ってから数年後、三河の国で一向門徒が蜂起しました。
本稿ではその端緒となった三河国への本願寺教団の浸透状況を二人の人物の存在を通して見て行きたいと思います。その名は佐々木如光と石川政康と言います。佐々木如光は三河国佐々木にある上宮寺の住持で、石川政康は同じく三河国小川に勢力を張った土豪です。ご当地ではわかりませんが、全国的には全く無名と言っていい人物だと思います。こういう無名の人物を掘り起こすのも歴史マニアの醍醐味というものですね。 
蓮如とのかかわり
親鸞は京都を拠点に活躍しましたが、佐渡島に流されました。許された後は常陸国(今の茨城県)稲田郷に草庵を開いて以来、二十年間関東の地で布教に努めました。親鸞の死後、浄土真宗は本願寺派、高田専修寺派、仏光寺派などがしのぎを削ることになります。本願寺は京都にありとはいえ、そうした親鸞の事跡の残る関東の地には関心が高かったようです。蓮如本人も何度か関東に下り布教活動を行っています。
そんな蓮如が本願寺の留守職をつぐ十年ほど前に東下りをしています。その往復の間、関東の下野国(今の栃木県)から土豪を呼び寄せ、その往復路の途中にある三河国(愛知県東半分)小川に住まわせました。
下野国と三河国は結構深いつながりがあります。下野国に足利という地があります。そこは、鎌倉時代において、北条氏に継ぐ有力御家人であり、室町時代に幕府を開いた足利氏の本貫地です。足利氏は鎌倉〜室町時代を通してこの地の守護を輩したり、一族の者を土着させたりしておりましたので、人的交流はとても深いものがあったようです。三河の土豪は同郷の徳川家康が江戸幕府を開いた関係で、多くの大名を配しておりますが、その系図を調べるとその多くが下野国にルーツを持っております。徳川家康にしろ、先祖は下野国の豪族、新田氏ということになっていますからその例にもれることはありません。
石川政康が三河に移った頃から三河国の動向に大きな変化が現れます。
まず、第一に三河国にあった三つの寺が浄土真宗高田専修寺派から本願寺派に宗旨を変えます。野寺本證寺、佐々木上宮司、針崎勝鬘寺。これらの寺は三河三ヶ寺と呼ばれ、三河国の本願寺派門徒の活動の重要拠点となりました。三河三ヶ寺が宗旨替えしたのは上宮寺の如光が蓮如に感化された所が大きいのですが、彼の出自や、本願寺教団に対する貢献についてはとても興味深い点があります。詳しくは後述します。
第二に、松平家の三代目松平信光の勢力が伸張してきました。松平家はもともとは松平郷という小村を開拓した有徳人、自らの財産を地域に投資して開発を行う一族だったのですが、室町幕府政所執事、伊勢貞親に伝を頼って仕えた縁で武力を通じで近隣の村々に進出してきました。石川政康と彼の子孫は自らの家人達を松平家に伺候させました。これはちょっと奇異に映ります。政康本人が松平家に仕えた形跡はないのですが、それでも三河国に土着し、一族郎党を形成した上で郎党を松平家に差し出したわけです。
ここで着目したいのは、三河国における本願寺派及び松平家の勢力伸張が期を一にしているということです。勢力を拡充するに当たり、松平家も三河の真宗寺も人手を入用としました。その要請にこたえたのが石川政康です。
そして、政康の子孫は松平家の家老として三河国に大きな影響力を持つに至ります。
1416年(応永23)如光、西端に生まれる。
1446年(文安3)石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。小川城を築く。
1447年(文安4)蓮如、関東下向
1455年(康正元)石川政康、河内国に赴く。数年も経ずして再び三河へ戻る。
1457年(長禄元)蓮如、本願寺の留守職を相続。
1460年(寛正元)岩瀬善四郎(下野国小山・石川政康家臣).蓮如三河布教時に瓦焼く。
1460年(寛正元)蓮如、三河国佐々木上宮寺如光に十字名号を下付す
1461年(寛正2)上宮寺、蓮如の教化によって本願寺派に転じる。
1465年(寛正6)蓮如、比叡山と和解。如光、蓮如に代わって和解金を支払う。
1468年(応仁2)蓮如、三河国西端に一宇建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明3)岩津松平信光、安祥城を奪取。三男親忠を置く。
1486年(文明18)石川政康死去。 
上宮寺如光
如光は蓮如と同時代を生きた佐々木上宮寺の住持です。上宮寺というのは現在の愛知県安城市にある古刹で、三河の国における浄土真宗本願寺派三ヶ寺の一つです。とは言っても如光が生まれた当時、上宮寺は本願寺派ではなく、高田専修寺派の寺でした。
如光の生誕について、一つの説話が遺されています。三河湾に注ぐ矢作川河口に西端という土地があります。そこに浮き藻に乗った少年が流されてきました。この少年を杉浦某という侍が拾い、上宮寺に預けました。上宮寺の住持は少年に如光という名を与え、少年は上宮寺の僧として成長します。後に如光はその才を認められ、上宮寺の住持の娘を娶って住持を継ぎました。
要するに、如光は出自の不明な男です。どこかの系図に載っているわけでもなく、忽然と歴史の上に現れたわけですね。わざわざ浮き藻に乗って登場するあたりは、川の民との因縁を感じさせます。
1447年(文安四)に蓮如が関東に下向した折には、彼は数えで三十二歳です。この頃までには住持を継いでいたことでしょう。如光が出自不明にもかかわらず、上宮寺の住持を継げたのは彼の出自が実は西端の水上交易を仕切るボス的存在の人物の私生児と考える人もいますが、正確なところは判りません。
この頃には蓮如に出会い、感化されて本願寺派としての活動をしていたようです。但し、上宮寺はこの時点で高田専修寺派を宗旨としていました。これは蓮如が留守職を継いだ時点で大谷本願寺は天台宗の看板を掲げていたねじれと同じ形と思えばよいのではと思います。
大谷本願寺の蓮如もしくはその父存如は蓮如の関東下向にあたり、三河国への教線拡大を策していました。その蓮如の意向受け、蓮如の文安四年の関東下向に先立って三河に移住したのが石川政康です。このあたりの事情を江戸時代の系図資料の寛政重修諸家譜は次のように述べています。
文安年中、本願寺蓮如は法を広めんがために下野国に来る時、政康に語りて曰く。
「三河は我が郷党なり。武士の大将をして一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし」これにより、蓮如とともにかの国に赴き、小川城に住す。
子孫が作った系図史料なんで、ご先祖様に対する美化や粉飾が少々入ってることを加味する必要はあると思います。
例えば、政康が三河に移住したのは、蓮如の関東下向の前年です。故に、下野国で蓮如が石川政康に「三河の国に来い」などというのはおかしいですよね。もう引越し済なのですから。さらに蓮如が三河は我が故郷のようなことを言ってますが、蓮如はバリバリの京都人です。母親も西国出身で、三河国との縁はあまりないはずです。この台詞は蓮如よりもむしろ、佐々木如光の物と考えた方がいいと思います。政康は蓮如の関東下向の前年に三河国の小川に居を構え、その近隣に蓮泉寺という真宗道場を建てていました。小川の地は三河国の真宗道場で最大の勢力を持った野寺本証寺の近隣にあります。その近くに一族郎党引き連れて城と寺と川の港、即ち津を開いたわけですね。これがもし、如光の差し金であるならば、蓮泉寺という本願寺派真宗道場は高田専修寺派の野寺本証寺を落とすための付け城のようなものといえるかもしれません。 
寛正元年(1460)蓮如が留守職を継いで大谷本願寺から天台色を一掃している合間を縫って、蓮如は三河国に訪れたようです。ようです、と曖昧な言い方をしているのは、十分な確認を取れていないからですが、その時に道案内を努めたのが如光らしい。蓮如は何と言っても浄土真宗の開祖である親鸞の子孫です。本願寺教団の触れ込みではそれ故に正統な教えの伝承者ということになります。浄土真宗門徒の中ではスター扱いされるべきポジションでしょう。現に蓮如はそれを自覚し、そのように振舞いました。当時、三河国は真宗が繁盛していたと言ってもそれは高田専修寺派の教勢でしたが、蓮如はそこに殴りこみをかけたのです。彼は今回の三河訪問をプロモートした如光に「十文字名号」を与え、彼の話を聞きに来た信者には「御文」を与えました。いずれも直筆の書であり、持っているだけで格式の上がるような宝物です。ただし、それは本願寺派門徒にとってであって、高田専修寺派には彼らなりの序列がありました。蓮如の書をもらった人々は考えます。折角の名号や御文を活かすならば、高田専修寺派の看板を掲げるのは不都合になってきくる、と。そこを如光が上手くうながし、三河の高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えすることになりました。無論、本願寺留守職が通ったくらいで寺院が宗旨を易々と変えるとは思えません。その伏線として政康ら石川党の水運にかかる活躍があったと思われるのです。
蓮如による三河国の本願寺教団への教化活動は大成功を収めました。その結果、三河の拠点を奪われた高田専修寺派の怒りを買うことになりました。寛正五年(1466)に蓮如が比叡山の弾圧を受けたときに、時の高田専修寺派法主をして、本願寺教団の切り捨てに走らしめます。時の高田専修寺派の真慧は蓮如のことを「無碍光の愚類」と罵ります。無碍光というのは阿弥陀如来のこと。愚類というのは「愚か者の類」と「狂い」を引っ掛けているのですね。流石にライバル教団の法主は言うことが辛辣です。孤立無援に陥った蓮如はやむを得ず、比叡山延暦寺に対して和解を申し出ます。この時に和解金を立て替えたのが如光です。この時点で和解金を立て替えられるほど如光と本願寺教団は潤っていたということだと思います。
そして、その後応仁二年に蓮如が三河に訪れました。京都が応仁の乱によって戦場と化した頃です。蓮如は如光の生まれ故郷である西端に滞在し、堂を設けました。応仁の乱を避けての避難ととれなくもありませんが、これは和解金を立て替えてくれた如光への礼という意味もあるのでしょう。でなければ、滞在の地にわざわざ西端の地を選ぶ理由があるとも思えません。
如光が死んだのはそれから間もなくです。一説では、上宮寺にいた如光に生まれ故郷である西端の寺に入って欲しいとの地元の人々に要請を受けたのですが、「私はこれから自分の生まれ故郷に帰る」との書置きを遺して寺を出たのですが、西端にも来ておらず、失踪したという話があります。彼の生まれ故郷とは、浮き藻が茂る海の向こうということなのでしょう。説話のパターンとして、貴種流離というものがあります。辺地に流された貴人が地元に土着してその地の領主になるものですが、如光の場合はその地元に大きな貢献をした後に去ってゆくというちょっと珍しいパターンです。西端の寺は後に建立時の年号が当てられ、応仁寺とよばれるようになったとのことです。出自不明にして、蓮如の為に身を粉にして働き、最後は失踪するという結末。彼は別の地で別の名前で蓮如の側近として働いた可能性もありますし、何らかの事故や事件に巻き込まれてしまったという可能性もまたありますね。 
石川政康
石川一族の先祖をたどると、大阪府の生駒山系に流れる小さな川に行き当たります。ここに大化の改新で滅ぼされた蘇我一族の生き残りが土着します。その名を蘇我倉山田石川麻呂と言いました。彼は天智天皇に仕えた重臣ではありましたが、大化の改新後の動乱の中で会えなく命を落とします。その倉山田石川麻呂のゆかりの地として石川の名前がついたようです。
そして、この地に源氏の子孫が流れ着き、石川の氏を名乗るようになりました。これが石川政康の先祖です。後に石川政康の子孫が江戸時代に大名になった時、幕府に差し出した家譜に書かれていることです。
この石川氏の一族は後に関東の下野国、今の栃木県に移住して小山氏を名乗ります。その頃の下野国には、石川=小山氏とは別に藤原秀郷流の名族小山氏がいました。源頼朝の挙兵に応じ、南北朝期には幾度か下野守護の大役を担った一族です。おそらく、石川政康もこの秀郷流小山氏の一人だと思われます。彼の子孫の大名は徳川親藩でした。徳川将軍は源氏長者。清和源氏で一番偉い一族です。だから、その親藩も源氏とし、源平藤橘の序列が作られました。その序列で考えると、秀郷流の小山氏では都合が悪かったのだろうと愚考します。
ともかく、石川政康は矢作川中流の小川に居を構え、蓮泉寺という真宗本願寺派の道場をたてます。近隣には野寺本証寺がありましたが、これが本願寺派に転向するのはもう少し先の話。
彼はここに根を下ろし、おそらくは十数年くらいの短期間で成功を治めたようです。彼が何をやって成功したのかについては、後に石川一族が三河国の一向門徒衆筆頭となったことと、その一向門徒衆達が何をやっていたのかで判断するしかないのですが、おそらくは石川氏は武士の大将ではなく、金融業と水運業そして、人貸しであったのではないかと推測しています。
寛正元年(1460)に蓮如は「十文字名号」を如光に下しました。このことが三河における如光の立場を強化した事は確かでしょう。名号受領の翌年如光は上宮寺を高田専修寺派から本願寺派へと鞍替えさせることに成功しました。蓮如はこの時、石川政康の下へも身を寄せていたという話があり、この時に石川政康の家臣である岩瀬善四郎という者が蓮如一行から教えられた瓦の製法で三州瓦の製造を始めたという伝承が残っているそうです。話のスジとしはちょっと弱いのですが、この話がもし事実なら、蓮如一行は純粋な宗教団体ではなく、職能集団の側面も持っている所作となるのかもしれません。
さて、三河矢作川流域は本願寺派になびくことになったのですが、その5年後の寛正六年、その当の蓮如が苦境に陥ります。自らの宗門から天台宗色を一掃し、上納金の支払いを拒否した結果、怒った比叡山延暦寺の僧兵達によって大谷本願寺が破却されてしまうのです。このときに蓮如本人も危機一髪でなんとか金森城に逃げ込むことで難をのがれました。そこで調停にたったのが、如光です。このときの如光は完全に表の立場に立つことができましたので、蓮如に自らが比叡山延暦寺に和解金を支払う旨の提案をします。彼が蓮如に語った言葉は「足の踏み場もないほどの礼銭を積み上げてご覧に入れましょう」。自分の財布から出るのであればこんな台詞は多分でないでしょう。スポンサーは石川政康なんだと思います。
その礼の意味合いもあるのかもしれません。その三年後の応仁二年に蓮如は再び三河に訪れます。そして、土呂という矢作川に注ぐ乙川沿いにある在所に本宗寺、如光の出身地である西端に応仁寺、矢作河口の鷲塚に真宗寺を建てます。蓮如はこの三年後に越前の吉崎に御坊を建てているのですから、すごい建築ラッシュと言えるでしょう。同じ応仁二年に如光は死にます。一説によると失踪したという話も残っていて、それはそれでミステリアスなんですが、ここでは置きます。如光が遺した諸寺は大きな繁栄を迎えることになります。
その様子を表したものとして「信長公記」を引用します。
「家康公、いまだ壮年にも及ばざる以前に、三河国端に土呂・佐々木・大浜・鷲塚とて、海手へついて然るべき要害。富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入り置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半門家になるなり」
如光亡き後、石川政康と彼の一族はは三河門徒衆の在家信者筆頭の立場を保ち続けることになりました。その為にその基盤となる港湾整備を行ったと思われます。石川政康は本願寺を支え、その影に徹することによって一族の勢いを急激に伸ばしました。それは、守護や守護代を務めた吉良氏や一色氏の衰微と、戦国の混乱期に現れた戦闘的な新興武士団である松平一族の勃興の狭間にあって、新天地の移住後、平和裏に一族の影響力を高めてゆきました。ただ、勢力が大きくなって無視できなくなった時、武力を有し、陸を支配する勢力との衝突は避けがたい。それが起ったのは如光が死んで、三年後のことです。文明三年(1471)、上宮寺に程近い安祥にあった城が松平信光によって攻略されます。 
松平家というのは、徳川家康の先祖であって清康の代には三河統一を果たす戦国大名にまで成長するのですが、応仁の乱期の時点では、矢作川上流の松平郷からその近隣の岩津あたりを勢力下に治める土豪に過ぎませんでした。
それが、信光の代になって足利幕府の政所執事、伊勢貞親の被官になるや、武力を持って近隣に勢力の拡張を始めました。これは応仁の乱で各地の守護や国人達が東軍・西軍に分かれて争い始めてしまったことに大いに関係あるのですが、信光は伊勢貞親が与する東軍方として、西軍方の領地を奪い始めました。伊勢貞親はその後、失脚したのですがその頃には自立するだけの武力を蓄え三河国に独立勢力が出来てしまったということです。
対するに石川政康は強いて言うなら蓮如党であり、東軍・西軍どちらに与するものではありませんでした。小川に城を構えてはいるものの、言うならば独立勢力のポジションです。それの勢力が、上宮寺近隣にある安祥まで迫ってきたわけです。
信光は占領した安祥城に息子の親忠を入れました。この時点での松平親忠と石川政康との関係を寛政重修書家譜は以下のように述べています。
後、親忠君は政康の男子一人を召されて家老となされる旨、仰ありしより、三男源三郎某を参らす。
つまり、三男坊を新安祥城主の家老にするべく招かれたということです。松平家が石川家に家老を求めたのか、そうでないのかは要注意ですね。政康には三人の男子がおり、長男を康長、三男を親康といいます。次男は早世したのか消息はよくわかりません。政康は自らの後継として康長を指名し、勢力を伸張してきた松平氏に対しては三男を仕えさせることによってリスクヘッジをしたわけですね。
この時代の石川氏と松平氏の力関係というのはとても興味深いものがあります。政康の孫、親康の子に忠輔という人物がいるのですが、彼の家譜にはこんな記述があります。
父が命を受け、しばしば小川に赴き、伯父康長と相計り、野寺その他の地侍を御麾下となし、親忠君を安城の城に入れ奉る。
要するに、政康と嫡子康長は松平家に仕えなかったし、惣領権は松平家に仕えた三男親康ではなく、長男康長が持っていた。これは、非松平の独立勢力として存在していた証です。あまつさえ、自分の兵力を松平親忠に仕えた親康に分け与えております。後に、石川親康とその子孫を含む松平党はその勢力を三河国全域に伸ばし、それにつれて石川一族の惣領権も親康系へと移行してゆくことになります。
石川政康は蓮如の意向を受けて三河に移住し、金融・水運に従事する川の一族をまとめ上げ財を蓄えることに成功しました。そして、佐々木如光と相計って矢作川筋の諸寺を本願寺派に転向させ、同時に新たに道場を建てました。間もなく如光は死に、後に残った人と物と金の流れを握ったのが石川一族です。
そして、勢力を伸張してきた松平信光と接触し、自らの三男を信光三男の親忠の家老としました。これにより三河国の勢力図は大きく塗り変わることになるのです。
以後、松平信光〜広忠の累代に仕えて要職を務めることになります。興味深いことに、寛政重修諸家譜で松平家に仕えた石川一族に合戦の記録が入ってくるのは徳川家康の代の石川数正や家成になってからなんですね。松平家累代は勢力拡張のための合戦は厭いませんでしたし、本多忠勝の系図なんて合戦に先頭して死すなんて記録が累代に渡って続きます。これは系図を提供した者の考えかもしれません。そういう意味で、武辺というよりは組織維持につとめた一族だったのではなのかなぁと考えます。
ただ、ここで如光と石川政康が作り上げた門徒組織は家康の代になって大きな騒擾を引き起こします。 
 
応仁の乱 / 松平信光の生涯と彼の代におこった応仁の乱

 

本稿では信光の生涯を同時代を生きた蓮如・如光・石川政康の行動とからめて独立稿としてやる予定だったのですが、少し構想を広げて彼らの生涯の中で最も大きな事件であった応仁の乱に絡め、彼らにとっての応仁の乱とはどのようなものだったのかを記してゆきたいと思います。尚、本編ではかなり大胆な仮説を取り上げていますが、仮説の重要な部分で依拠している史料は少し弱いものであり、矛盾する史料、反証に足る史料も少なからず存在しています。その全てを徳川史観の隠蔽のせいにするつもりはありません。今後の精査・勉強で少しずつ補強してゆくつもりです。現段階ではある種の思考実験として見ていただければ幸いです。
取り扱う事件は下記の通り少し幅が広いものですが、応仁の乱に繋がるように書いてゆきたいと思います。
1404年(応永十一)松平信光生誕。
1440年(永享十二)三河国守護、一色義貫が足利義教に謀殺される。
細川持常、三河国守護になる。
松平信光、萬松寺(臨済宗)創建。
1449年(宝徳元)三河国守護、細川持常没、養子の成之継承。
1451年(宝徳三)松平信光、信光明寺(浄土宗)創建。
1460年(寛正元)伊勢貞親、室町幕府政所執事になる。
1461年(寛正二)松平信光、妙心寺(浄土宗)創建。
1465年(寛正六)額田郡一揆。5月26日付で伊勢貞親から信光へ出陣要請が届く。
1466年(文正元)文正の政変。伊勢貞親、失脚して近江に追放される。
1467年(応仁元)1月、応仁の乱。
西条吉良義真(東軍)、東条吉良義藤(西軍)三河下向。一色義直も?
3月延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれる。
応仁の井田野合戦?。
1468年(応仁二)蓮如、三河国土呂に本宗寺建立。上宮寺住持、如光没。
1471年(文明三)松平信光、安祥を奪取。その後、岡崎に入り、西郷氏を大草へ追いやる。
1476年(文明八)東軍方守護代東条吉良国氏、一色義直により自害に追い込まれる。
西軍、一色某を守護に任ずる。東西で守護分立。
1478年(文明十)一色義直、三河を放棄。東条吉良義藤、出奔?
1479年(文明十一)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三)妙心寺、勅願所となる。松平信光、願文を妙心寺に奉納する。
1484年(文明十六)如光の十七回忌。蓮如、如光弟子帳を作成する。
1486年(文明十八)3月石川政康死去。
7月松平信光、願文を信光明寺に奉納する。
1488年(長享ニ)信光没。 
応仁の乱への道程 / 京の視点
室町時代の最高権力者は室町将軍。室町殿と呼ばれる足利家の惣領でした。その配下で日本六十余州に守護と呼ばれる統治者を置きました。守護を最初に置いたのは鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝でした。かれは謀反を起こした弟、源義経を追い詰めるために、朝廷と掛け合って日本中に警察署長兼軍事司令官を置いたのです。鎌倉時代にあっては守護の財政基盤も弱かったのですね。それは日本の農地の大半が朝廷もしくは貴族の持つ荘園だったからです。鎌倉幕府の御家人の所領はもともとは荘園の管理者や武装開拓民が自立し、本来朝廷や貴族に治めるべき収穫を横領して、武家の棟梁の庇護を求めたところに始めます。武家の棟梁は源氏や平家の貴種の子孫が担当します。棟梁は横領した土地を守ってやること(これを本領安堵といいます)と引き替えに兵役を課しました。御家人の所領は基本的に在所単位だったので、できることも限られておりました。
これが足利尊氏が半済の法という方針を出すに当たって様相が変わります。これはぶっちゃけて言うと、室町幕府が御家人に荘園収奪を公認したようなものでした。つまり荘園や国衙領から上がる税の半分を武家の取り分と決めたのです。当時の状況は天皇家が二つに割れた内乱時代でした。足利尊氏は南朝勢力と対立していましたから、南朝の皇族・貴族の荘園は切り取り放題。北朝の天皇も武家の支援無しには立ち行かない状況だったので黙認せざるを得ない状況でした。内乱は続き兵員は不足します。そこで、バラバラだった中小の御家人をそれぞれの国の守護の家臣とし、大規模動員を可能にしました。
それだけなら支配権の強化でいいのですが、天皇家の分裂だけではなく、足利家も二つに割れて混乱を拍車がかかったから、守護の権力拡張に歯止めがかからなくなってしまったのです。
観応の擾乱という事件なのですが、足利尊氏には直義というキレ者の弟がいました。自ら進んで汚れ役を買って出て、優柔不断な気がある兄の尻を叩いて将軍職につけ、初期の政務を取り仕切っていたのが彼でした。しかし、惜しむらくは彼は政治家としての資質はあったのですが、武人としてのそれにはあまり恵まれておりませんでした。その穴を埋めたのが足利尊氏の執事、高師直です。このあたりの歴史は実に面白く、語るときりがないのでばっさりはしょりますが、足利尊氏、直義、高師直の三者が壮絶な潰しあいをして、足利尊氏が最終的な勝利者になり、息子の義詮に将軍の座を譲りって死にました。この間も南朝との戦いは続いており、バトルロワイヤルの様相を呈した内乱時代でした。この内乱を収めたのが京都室町に自らの御所を拓いた三代将軍足利義満です。その間、山名氏清のような有力御家人は対立する勢力の間をたくみに泳ぎ抜き、結果として山名一族が十一カ国の守護を兼務することになっております。当時の日本国が六十六州からなっていることから、山名氏は六分の一殿という別称を得たそうです。ただし、それも足利宗家が強力な敵に対面している間のことした。「狡兎死して走狗煮らる」という諺にもあるとおり、南朝を降した返す刀で、足利義満は山名氏清を滅ぼしました。
南朝を降伏させ、山名氏清や鎌倉公方などの実力者を排した足利義満が最終的に目指したのは天皇位の簒奪だったと、今谷明氏以下歴史学者は説を立てられております。結果としては失敗に帰し、後を継いだ足利義持は有力御家人との協調路線をとりました。口の悪い研究者は「傀儡」と呼ぶこともありますが、実相はどちらも正しいということだと思います。有力御家人は評定衆を組織し、ここの決定には室町殿(足利家惣領を指し、将軍とほぼ同義。以下この用語を使います)といえども逆らえない状況でした。将軍と室町殿の違いを少し説明します。足利義持は嫡男義量を将軍位につけたものの早世したため、自ら将軍位に復位していました。義量が将軍であった間も、惣領である室町殿は義持です。義持が将軍であった時代も、義満が生きている間は義満が室町殿であり、決定権は将軍よりも室町殿にありました。これが、室町殿と将軍との違いです。権力の源泉がどこにあるかという視点でみるなら、将軍としてみるよりは室町殿に着目した方が妥当との歴史学者からの提唱で、現在では「室町殿」を中心に室町時代の歴史を見ることになっています。
彼は死の床にあって自らの後継を定めませんでした。義持に子供はいませんが、何人かの弟がいました。いずれも、宗家を脅かさないように仏門に入れておりましたが、彼らのうちの誰かに義持の後を継いでもらわないと室町幕府が瓦解してしまいます。義持は生前に定めても評定衆の同意が無くては意味が無いという理由で後継を定めませんでした。定めて拒否されれば、もしくは後になって掌を返されれれば室町殿の権威は地に落ちます。そこまで室町殿の力は有力御家人に蚕食されていたということですね。消極的ではありますが、義持の判断は英慮と言えるでしょう。それに応えて室町殿の権威回復に立ち上がったのが、後を継いだ義教です。彼は有力御家人を次々と粛清し、自分の言うことを聞く当主に首をすげ替えてゆきました。これが完遂していれば、立派な中央集権国家が完成していたかもしれません。しかし、義教は志半ばにして赤松満祐の手によって横死してしまったのです。
一応、足利義教を暗殺した赤松満祐は誅伐されたものの、体制は義持の時代の形に戻りました。、い室町殿と御家人の協調(傀儡)体制です。さりながら、義教が定めた相続のルールについては問題があまりにも微妙なため、大きく歪に歪んだままだったのです。
この改革とその後始末の不徹底さは後にあまりにも大きな禍根を残しました。
義教は有力御家人を潰した後に、その弟や分家を一族の惣領にすえました。そのままゆけば、前当主の嫡男は分家扱いという形でおさまるべきところにおさまるのですが、義教の横死でその決着がつかず仕舞いに成ってしまったのです。現代に例えるならば、小泉チルドレンと福田自民党執行部との対立に似ているかもしれません。
後ろ盾を失った現当主と前当主の嫡男・旧本家筋との対立は修復不能に陥り、応仁・文明の乱にいたるわけです。
尚、この一連の動きの全ては京で起こっていることであり、彼らが治めるべき領地の行方は京の動きで定められることでした。多くの有力御家人は複数の国の守護を兼ね、京都に在住していました。地元は自らの被官(多くは地元出身の国人)に治めさせていたのです。この状況が結局のところ、御家人達の首を絞めてゆくわけですね。
京都を中心とした応仁の乱へといたる背景はこんなところです。 
応仁の乱への道程 / 三河の視点
本稿では、三河国の個別事情を追います。三河の国は多少事情を異にしています。ここは鎌倉時代から足利一族の根拠地だったということです。足利一族の本願地は下野国足利ですが、鎌倉幕府の北条政権は足利一族を源氏に連なる有力御家人の一つとして遇し、三河国を与えました。故に、三河の土豪・国人は下野国に本願地を持つ一族が多いのです。
足利尊氏が京に幕府を開いて以降、一色氏が三河国守護に任じられます。一色氏は三管四職の一角、足利幕府の柱石をなす家格と位置づけられました。ちなみに、三管とは細川、斯波、畠山の管領を出した家柄で、四職は赤松、一色、山名、京極の四氏で、管領家に次ぐ家格とされました。
この一色家も他聞に漏れず、三ヶ国の守護を兼ね、三河国はその一つに過ぎませんでした。そして、国の経営は守護代を務めた吉良氏や西郷氏に委ね、京で国家運営に注力していたわけです。
足利義教が室町殿の権力確立のためにとった手段は、有力守護の弾圧であり、時の一色家当主の一色義貫は、室町殿の命令により、大和への出陣中、突如誅殺の憂き目にあったのです。室町殿と対立していた鎌倉公方足利持氏に与したという疑いからでした。そして、三河国守護を一色家から奪い、讃岐細川家の持常に与えました。ここで足利義教は三河国にある直轄地に何か工作をしたようです。(それが何七日については後述します)それは恐らく、日本という国を室町殿が完全に掌握するために義教が取った数多くの政策の一つでしかなかったでしょう。しかし、それが後の三河国の動向に大きく影響した節があるのです。いずれにせよ、足利義教はそれから間もなく横死し、その政策の多くは完遂を見ずに終わりました。
その後、一色氏による復権運動が始まります。義教を継いだ義勝(継承後間もなく事故死)、義政は幼少でしたので有力御家人の後援なくしては政治ができませんでした。その有力御家人が義教の恐怖政治に積極的に関与していたわけではありません。むしろ、彼らの利権に介入してくる義教のやり口には内心反発していたことは想像に難くありません。それゆえ、一色家を継いだ一色義直の訴えに有力御家人達は耳を傾け、復権は果たされました。但し、三河国については管領家の分家筋の細川持常が守護になっていたこともあり、満額回答とはいきませんでした。復権運動によって一色義直が得ることができたのは三河国渥美郡のみでした。三河渥美分国守護という半端な肩書きです。一色義直にとっては納得のゆかない決着でした。
そして、細川持常は元々讃岐国と阿波国守護であり、三河国を掌握していたわけではありません。彼と彼の後を継いだ細川成之は讃岐国と阿波国とを治めながら三河国守護職の任を在京して果たしていたわけです。
当然、実質的な統治は旧主である一色家に服していた守護代、国人、土豪たちに委ねざるを得ません。細川氏の三河国における基盤は脆弱なものでした。
そしてもう一つ、三河国には室町殿の直轄地がありました。ここは守護でもおいそれと手出しのできない場所です。そしてここを治めたのが室町殿の側近衆でした。彼らは三管四職を頂点とする有力御家人の家格の序列とは関係なく抜擢された人々です。豊臣政権における五大老(自力で勢力を築いた戦国大名)と五奉行(秀吉に抜擢された側近衆)に近いものだと思います。義政の代に政所執事を務めた伊勢貞親は源氏の一族ではなく、三管四職に連なるものではありません。平維衡を祖とする桓武平氏の末裔でした。
彼は一色義貫が粛清された後の三河国の侵攻の土豪を被官化し、必要とあれば国外から呼び寄せました。前者は松平信光であり、後者は戸田宗光です。どうも彼には三河国に室町殿直属の軍団を作りたかったのではないかと思う節があるのですね。そして、その流れに本願寺教団が乗っていた可能性が高いと私は考えています。これが前稿で述べた仮説であるのですが、伊勢貞親は日野勝光と同じく、蓮如とのつながりを有していました。それについては別稿でのべます。
応仁の乱を控えて三河国には三つの勢力が存在していました。一つは守護である細川成之の勢力。一つは復権を完遂すべく運動している一色義直。そして、室町殿の力を背景に新興の土豪勢力を纏め上げようとした伊勢貞親を代表する室町殿の側近団。三者のそれぞれの思惑が錯綜し、応仁乱で暴発した結果、新たな秩序が構築されました。本編ではその経緯について語りたいと思います。 
流路の考察
少し余談をしてみたいと思います。歴史を語る上で血縁と同時に重要な要素は地縁です。だから、本館から地図にアクセスできるようにしてあるのですが、ここで見落としがちなことを指摘しておきましょう。
ぶっちゃけて言うと、川は流路をしばしば変えるということです。現代は矢作川クラスの一級河川には両岸に堤防が築かれ、洪水も起きにくくなっています。でも、一度台風が襲えば堤防が決壊し、あたり一面床上浸水になるということも稀ではありますが、起き得ます。
現代にしてそうなのです。500年も昔であれば、洪水はしょっちゅう起こっていたでしょうし、川の流路も頻繁に変わっていたに違いありません。また、時の為政者は治水のために運河を掘り、人為的に流路を変えるということもしておりました。湿地を埋め立て田畑にするとかとの取り組みは様々です。本稿で紹介してきた川の民もまた、ある程度の治水技術を持っていたに違いありません。でなければ、しばしば洪水を起こす川に生活基盤を置こうとする訳はないと思います。
矢作古川(矢作川の流路)
まず、矢作川の流路についてです。矢作川の現在の河口は碧南市と西尾市の南端ですが、戦国時代においては吉良町と一色町の境にありました。中流の志貴野町までは同じでしたが、そこから南に下っていたのです。吉良町と一色町及びその流域の人々は洪水に悩まされていました。そこで江戸時代になって、志貴野町から米津までの水路を掘割り、碧南市の方へ流路を分散することになったのです。それ以後、碧南市の河口に注ぐ方を矢作川と称するようになり、吉良・一色両町の方へ流れる流路は矢作古川と呼ばれるようになりました。
油ヶ淵の地形
その碧南市の地形ですが、海岸線はもっと手前でした。碧南市北側にある油ヶ淵の東岸が海と繋がった入江となっていたそうです。大体「つ」の字を左右反対にしたような形と想ってください。油ヶ淵というと、上宮寺如光の出身地で蓮如もここに滞在して、いくつか寺を建てた場所ですね。戦国時代は沼沿いの寺ではなく、海に面した寺だったということです。
それが江戸時代に矢作川の流路を変えた影響によって、矢作川の膨大な水量が米津から碧南に落ちました。その結果、土砂も流れてきました。
油ヶ淵には矢作川の他に北岸の川に繋がっているのですが、東岸が流量豊富な矢作川と接続したことによって、この川の水が海に落ちずに逆流するようになったわけです。そこで、入江の口を堤を築いて塞ぎ、油ヶ淵は入江ではなく沼になりました。但し、入江の口を塞いだからといって逆流が止まっただけで、沼の水が海に落ちるようになったわけではありません。そこで、西岸に運河を掘って西側に流れる緒川河口に落とすようになり、現在の地形となったそうです。
妙覚池
戦国時代、佐々木上宮寺のあるあたりには妙覚池と呼ばれる池があったそうです。位置的には矢作川の蛇行によって生まれた三日月湖のようですね。支流から矢作川に注ぐ水の調整池としても機能したそうですが、江戸時代の初めにはなくなったそうです。このことは上宮寺もまた、川の交通の一つの中継地として機能していたことの傍証となるように思えます。
菱池・新堰
矢作古川の流れよりも東側。現在の幸田町あたりに大きな池がありました。この池を貫通して広田川が三河湾沿いの蒲郡と矢作古川に注ぎ込み、支流は岡崎あたりからこの広田川に流れてきています。この菱池の南側から蒲郡にかけて、深溝、竹谷、形原という在所があるのですが、ここに信光の代になってから松平一族が進出することになります。ここも、明治になって干拓されて、池そのものはなくなりました。現在は地名にその痕跡を残すのみです。
以上、現在の地図をみながら戦国時代を考察するに当たり、補正する必要のある情報を列挙しました。その地形の変動に今更ながらに驚かされます。 
額田郡一揆
1465年(寛正6)、岡崎から少し北あたりの井口という在所に額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちが蜂起する事件が起きました。今川家の歴史を記した「今川記」に沿って経緯を説明します。彼らは砦を築き、東海道の物資輸送を寸断し、鎌倉公方足利成氏の命令と称して、年貢米を強奪しました。
これに対して三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略し、伊勢貞親の被官の戸田宗光と松平信光に一揆首謀者を討たせました。また、一揆勢の中には駿河まで逃げたところを今川義忠よって討たれた者もいたそうです。一連の事件は京都に報告され、叛徒たちの首は晒されたそうです。今川記に書かれているのは大体においてこんなところです。
この事件は蜷川新右衛門尉親元という人物の日記にも記されています。親元は八代将軍足利義政の時代に政所執事を勤めた伊勢貞親に仕えておりました。執事代として、主人を補佐する立場にあり、日記を記しています。その文書を「親元日記」と言います。応仁の乱を前後して、当時の幕政のありさまを研究史料として歴史研究家に重宝されているそうです。このような幕閣中枢にいた人物の日録にあることから、この事件の存在は確かにあったものと思われます。ちなみに、ずっと昔のテレビアニメ一休さんで足利義満側近の「新右衛門さん」という若侍はこの人物の父親がモデルで、一休宗純との親交があったそうです。(もっともその親交はずっと後年のことであり、アニメは相当脚色された設定らしいのですけどね)
親元日記には松平信光と戸田宗光が一揆鎮圧に参加した経緯についての記述があります。
三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略したものの、今度は砦に拠らず、なお略奪と狼藉を繰り返しておりました。地元の土豪である松平信光の親族が匿っているらしく、埒が明かない状況になっていたようです。その近辺は将軍の直轄地であり、守護といえどもおいそれと手出しはできません。戸田と松平の背後には政所執事伊勢貞親がいました。戸田氏当主戸田宗光、松平氏当主松平信光は伊勢貞親の被官、平たく言うと主従関係の立場です。そこで守護の細川成之は伊勢貞親に相談し、松平信光と戸田宗光に命じて一揆首謀者を討たせる書状を書きました。
その背景について考察してみます。
今川記には、「地侍・牢人たちが鎌倉公方足利成氏の命令で蜂起した」と書かれているそうですが、親元日記にはそこまで踏み込んだ記述はありません。確かに京都の将軍と鎌倉公方は非常に仲が悪く、しばしば軍事衝突を起こしていました。ここで名前が出されている足利成氏は、永享の乱で足利将軍家に討たれた足利持氏の遺児です。成氏は一度潰された鎌倉公方の再興に生涯を捧げますが、関東管領や幕府が送り込んだ新たな鎌倉公方(堀越公方)との戦いにあけくれ、結局は決着がつかずじまいでした。
この反乱が成氏の鎌倉公方再興活動の余波である可能性は捨てきれるものではありません。でも、三河国と足利成氏が拠点とした下総国古河はあまりにも離れ過ぎています。確かに蜂起した地侍・牢人たちは北関東の出自が多く、足利氏との関係もありますが、だからと言って主従関係があるとまでは認められません。関係性は希薄といっていいでしょう。事件の直ぐ後に応仁の乱が発生し、日本中が戦乱のカオスに叩き込まれますが、この事件そのものは幕府や守護が上手く処理して封じ込めたといっていいでしょう。逆に言うと、連動した動きはなく、この事件は単発な物にしか見えないということです。
一揆側の行動にもあまり計画性が見られません。この一揆に参加した者達の名前として、丸山・大庭・高力・梁田・黒柳・片山・芦谷・尾尻などの名前が上がっています。彼らは額田郡南部、地図でいうところの額田郡幸田町周辺あたりを地盤とする地侍たちです。そのあたりには当時菱池(岩堰)と呼ばれる湖沼があり、彼らが川の民である可能性を探りました。でも、中には古くから土着している一族もいて地縁以外に彼らを結びつけるものを提示はできない状況です。
反乱の発生から鎮圧まで、その経緯はあまりにも計画性がないと言わざるをえません。
一揆のあった1465年(寛正6)には蓮如の大谷本願寺が比叡山延暦寺の僧たちによって破却され、近江国金森に落ち延びた蓮如を匿った一揆衆が延暦寺の僧兵と戦ったりしています。また、その4年前には江北の菅浦での擾乱によって、松平益親がその調停に手兵を送り込んだりしています。要するにこのあたりの時代はかなり乱れているのですね。事件が立て続けに起こってます。
その背景としてあるものとして、長禄・寛正の飢饉を上げたいと思います。長禄・寛正の頃には異常気象が続き、食料を求めた難民が京の加茂川にあふれ出ます。時の将軍足利義政はこの頃には政治に倦んで、趣味に走った生活を営んでいましたが、そんな義政を天皇がいさめる場面もあったりしてかなり深刻な飢饉であったことが窺えます。
ただ単に蜂起したいのなら、自分たちの地元で起こせばいいのに、わざわざ北方の井口に砦を築いたあたりも、食料を確保するためと考えればうなずけます。井口は乙川と矢作川に囲まれた土地で、東海道沿いにあります。荷物を渡すには難所で、河渡しのために、荷が集積されていたことでしょう。そこを襲った。確保した米は自分たちの住む村に直ぐに送ります。それは井口から彼らの在所までは矢作川支流の広田川や乙川ぞいですので船を使えば難しいことではなかったと思われます。
井口の砦を落としたのは三河東三河の土豪の牧野出羽守と、岡崎近くに勢力を張る西郷六郎兵衛。ところが、砦を放棄した一揆衆は潜伏しながらも強盗狼藉を続けました。これは地元の土豪の中でこの行為を容認していたからです。
時の三河守護、細川成之は潜伏した一揆勢の処置を政所執事の伊勢貞親に相談します。細川成之は名指しで伊勢貞親の被官である松平信光が一揆勢を黙認放置していることを批判し、討伐させるべく、書状を送ることを要求します。伊勢貞親はそれを容れて命令書を松平信光に下しました。
守護の権力は三河全域に及ぶものではなく、一部は幕府の直轄で伊勢貞親にその管理が任されていたことが判ります。あと、渥美半島のある渥美郡も細川家ではなく、一色義直が分国守護として任されています。細川家が三河守護になる前は三河国守護は代々一色家が担っておりました。しかし義貫の代になって、六代将軍足利義教に粛清されています。一色氏は義教の死後に復権したものの、勢力を完全回復したわけではありませんでした。細川成之自信も、在京で元々は彼の家は阿波・讃岐の守護だったところを一色義貫の没落によって、三河守護を増やされたという事情がありました。在国の国人・土豪は所謂譜代ではなかったのです。こういう事情もあって、こと三河国においては、あまり守護の力は強くなかったようです。
松平信光と戸田宗光は伊勢貞親の命令を受けて、一揆討伐の行動にでます。松平信光は一揆勢の大将格の一人、大庭次郎左衛門を深溝に追い詰め、息子の大炊助正則に討たせました。大炊助正則はそのまま深溝に土着し、深溝松平家の祖となります。戸田宗光も敵大将を討ち、残りの者達も駿河まで逃げた所を今川義忠に捕捉され首が京都に送られたとの事です。
深溝は「ふこうぞ」と読み、当時そのあたりには菱池・岩堰と呼ばれる大きな湖沼があって、矢作川支流の広田川とつながり、蒲郡から三河湾に水を落としていました。松平一族はその沿岸である深溝、竹谷、形原、五井に進出します。その勢力拡張に、額田郡一揆における松平信光の活躍があったことはまず間違いのないところでしょう。 
伊勢貞親
額田郡一揆は守護である細川成之が解決できなかった問題を、伊勢貞親が解決したという形で幕を下ろしました。そこで松平信光に一揆討伐を命じた伊勢貞親について考察してみます。
室町将軍には二つの政治姿勢がありました。足利尊氏が幕府を作って以来、ずっと悩まされ続けていた問題でした。それは鎌倉の源氏三代や北条家滅亡の原因であり、徳川家康が中国から朱子学思想を輸入するという最終的な解決を図るまでずっとついて回った問題です。それは即ち、武士団の主従というのは一種の同盟関係であって、中国の皇帝のような絶対権力をふるえる環境では必ずしもないということです。武士団が小さなうちはそれで十分でしたが、これが全国規模になると必ずし上手くゆきません。命令が末端に行き届かなくなるのです。将軍は分割した職分を掌握する有力者の同意を取り付けないと何も出来なくなるわけです。
それを解決するために、歴代将軍は二つの方針をとりました。一つは三代将軍足利義満や六代義教が指向した強い将軍権力を目指すというやり方です。有力な守護大名は挑発して反乱を起こさしめて、粛清する。これによって相対的な将軍権力の拡大を図るやり方です。義教はより過激な策にでます。将軍権力をもって、慣行となっていた嫡子相続を敢えて無視したのです。有力守護の一族の者を引き立て、自分に忠実な者を守護にすえたのです。もちろん元の当主は反発しますが、それを口実に討伐したり、時に暗殺を謀ったりしました。三河守護だった一色義貫もこの犠牲になったわけです。この策は非常に有効でした。守護大名家は家内で二派に分かれて対立し、競って将軍のご機嫌を取るようになりました。ただ、このやり方は将軍に非常の器量を要求されます。現に義教は最終的に失敗し、播磨の国守護の赤松満祐に暗殺されてしまったのです。
もう一つのやり方は傀儡に甘んじて有力守護に全てを委ねるやり方です。四代足利義持など、多くの将軍がこのやり方を取りました。というより、当時の政局でそうならざるを得なかったというのが実相でしょう。内部牽制がきちんと働く間はなんとか上手く治められるようです。ただこのやり方を放置すると六分の一殿と呼ばれた山名氏清などの将軍を凌ぎかねない力を持った有力守護が現れたりして、室町幕府そのものの存続を揺るがすことにすらなりますので、運営は常に綱渡りでした。
八代将軍義政も例に洩れず、後者のパターンです。伊勢貞親は将軍の養育係となり、そのまま側近として義政の政策スタッフとして、政所執事の職につきます。山名宗全や細川勝元などと渡り合い、綱渡り的な政治運営をこなしました。
山名宗全や細川勝元は三管四職の名門家であり、分権指向でした。桓武平氏の出である伊勢貞親が彼らに伍して権力を振るうには将軍の後ろ盾を必要とします。その結果、彼の立場で指向したのは足利義満・義教的な将軍権力を強化する方向性でした。
寛正の額田郡一揆の翌年、伊勢貞親は斯波氏の相続争いに介入します。斯波氏は尾張・越前・遠江の三ヶ国の守護で、時の当主は斯波義廉でした。そこに罪を得て周防に流されていた前当主の義敏を復権させようと伊勢貞親は工作しました。しかし、斯波義廉は山名宗全を頼って巻き返しを図り、管領の細川勝元の支持も得て伊勢貞親の排斥を訴えます。その結果、伊勢貞親は追放されるに至りました。これを文正の政変といいます。そして、今度は将軍家後継をめぐって山名宗全と細川勝元が対立して応仁の乱へと至るわけです。応仁の乱が始まると足利義政は伊勢貞親を京に呼び戻し、貞親は細川勝元の東軍派として行動をとっています。
この流れをもって額田郡一揆を考察するなら、結構面白い結論が出るような気がします。この一揆を鎮圧したのは、戸田宗光と松平信光の二人でともに伊勢貞親の被官です。三河守護細川成之は一揆の討伐を試みましたが、単独では制圧に失敗したと言わざるを得ません。そして相談の結果、伊勢貞親の命令で戸田と松平が動き、実効的な解決が図られた。その功名は伊勢貞親にもたらされたといえるでしょう。その結果、松平信光は岩津の他に、深溝はじめ矢作川・広田川沿いの各所に進出し、戸田宗光は知多半島の河和・富貴を領するに至ります。つまり、伊勢貞親の命令でしか動かない被官が三河国において、大きく勢力を伸ばしたということですね。これは想像ですが、一揆勢が鎌倉公方足利成氏の命令を奉じたというのはこの二氏に褒賞を与えるための口実であったのかもしれません。三河を挟む二ヶ国、尾張と遠江の守護であった斯波氏に対する牽制として、ここに自らの勢力の扶植を図った。一揆をマッチポンプとは言いませんが、偶発的に起こった事件を自分の勢力拡大に利用したというのはありそうだと思います。
最後に、牽強付会な説をぶち上げて本稿の締めといたします。
色々な意味で伊勢貞親は面白いポジションにいる政治家でした。彼の一族に後に日本最初の戦国大名となる伊勢宗瑞(北条早雲)がいます。そして、蓮如とも関係を持っています。蓮如は生涯に五人の妻を持ちましたが、そのうちの第一夫人と第二夫人であった如了と蓮祐は伊勢氏の出身でした。松平益親を被官とした日野裏松家(おそらくは勝光)と同様、松平信光を被官とした伊勢貞親。彼らが蓮如と縁故のある人物であるということは、松平家と蓮如との間に何らかの関係があるということを示唆しているのかもしれません。そして、額田郡一揆から三年経った応仁二年に、蓮如が三河に下向するのです。 
土呂本宗寺
応仁二年の蓮如の三河下向が上宮寺の佐々木如光のプロモートであったことは既に書きました。同じ事を何度も書くのも何なので、この稿では額田郡一揆に絡めたことを書いてゆこうと思います。
松平信光は一揆討伐によって深溝周辺に進出するきっかけを得ました。その証左となるものが、松平信光の子供達が家祖となる、深溝松平氏、形原松平氏、竹谷松平氏、五井松平氏の諸家の誕生です。信光以前にはこれらの地に松平家の痕跡はありません。信光の代になってからの分家です。故に、額田郡一揆討伐において、信光の息子松平大炊介正則が大庭次郎左衛門を深溝に討ちとったことの意義は大きかったと評価できます。深溝は大庭一族の本拠地でした。
大庭次郎左衛門とともに一揆方の将として戦った、丸山中務入道は岡崎から乙川を少し上ったところの大平郷というところで戸田宗光に討たれています。この大平郷からさらに少し川を上ると丸山という地があります。
丸山中務入道の本拠も丸山にありました。これらは何を意味するかを考えて見ます。岩津の松平氏と上野(現在の豊田市上郷町)の戸田氏が一揆鎮圧側に回ったことを知った一揆勢は自らの本拠に戻ったということでしょう。そして、そこで首謀者は狩り出されるように討たれました。その後に松平の一族が大庭氏の深溝に入ったということはある程度の武力を背景とした掃討があったと推察されます。
蜷川親元の日記の記述の中に、一揆衆に加わった者として黒柳という名があります。黒柳の一族は土呂を根拠地としていたそうです。応仁二年に三河に下向した蓮如は如光、石川政康らとはかり、土呂に本宗寺という寺をたて、ここを三河国における根本道場に指定するに至ります。ここに第九代留守職の実如が入り、その後に実如の子の実円が初代住持になります。もっとも、この時点の実如の留守職就任はこの前年の比叡山延暦寺との抗争の手打ちにおいて、蓮如の隠居と兄順如の廃嫡が強要されたためで、この頃の実如はわずか九歳の子供でした。実権は引き続き蓮如が握っていたわけです。本宗寺建立以前の黒柳一族の信仰が浄土真宗だったのかどうかは確認は取れておりませんが、その後黒柳一族は門徒衆として記録に名を残しています。蜷川親元の日記に叛徒として名が残っている以上、黒柳氏の根拠地である土呂の地もまた掃討が行われたことは想像に難くありません。そして、実如は蓮如の第二夫人、蓮祐の子であり伊勢氏の出身でした。土呂の地に本願寺派が有力寺院を建てた背景として額田郡一揆があったことはかなり濃厚なセンだと考えます。
本願寺派の土呂進出の具体的な経緯はわかりません。松平・戸田氏によって掃討された跡地を蓮如−蓮祐−伊勢貞房(蓮祐の実家)−伊勢貞親のルートでもらいうけたのかもしれません。土呂進出の前年である1467年(応仁元)に本願寺が延暦寺に屈服して和議が結ばれた折、上宮寺如光は多額の賠償金を蓮如に代わって払いました。それに対する報酬として蓮如は伊勢貞親を動かし土呂の地を得た、というのはありそうです。
伊勢貞親は松平信光らに一揆討伐を命じた書を送っておりますが、同様に如光や石川政康らにも同様の命令がされていた可能性は否定できないと思えます。少なくとも如光が住持を務めた上宮寺のある佐々木や石川政康のいた小川も一揆の周辺地であり、騒乱が波及しないように何らかの手が打たれていたのは間違いのないところでしょう。寛政重修諸家譜に蓮如(ではなくおそらくは如光)が石川政康に語った言葉として以下のものがあります。
三河は我が郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべきものなし。願わくば三河国に来たりて我が門徒を進退すべしとなり。
本願寺教団が石川一族に期待したのは武辺働きであることはこの記述で伺えます。もし、石川政康がこの言葉の通り、門徒を率いて武力行使をしたとすれば、この時をおいてはないでしょう。黒柳氏がいる土呂の地に進駐し、この地における本願寺教団の影響力行使を既成事実として認めさせたと考えるのもそう無理はないように思います。本宗寺の建立においては、土地は石川氏よりの寄進によるものとされておりますから。少なくとも応仁二年までにはこの地に石川氏の勢力が入り込んでいたことは間違いのないところでしょう。
後年、家康の代になって起こった三河国一向一揆中、上和田合戦において、石川一族の石川新九郎親綱率いる土呂本宗寺の一揆勢が松平家康と水野信元の連合軍に討ち取られました。この記述は三河物語で語られる三河一揆の顛末のフィナーレとなっています。そして、本宗寺に立てこもった者達は一揆勢の主力であり、その中に黒柳一族の名前も入っているのですね。傍証としてはやや心もとないものの、現状可能性としては大いにありとしたい所です。 
松平信光、安祥奪取
前稿で、応仁二年に土呂の地に本願寺教団の三河国における根本道場として、本宗寺が立てられたことをかきました。では、なぜ土呂の地なのかを考えてみたいと思います。蓮如が元々いた大谷本願寺を除いて、彼が寺地として選ぶ場所には二つのパターンがあるように思われます。一つは石山本願寺や吉崎道場のような川の河口。もう一つは京と琵琶湖を結ぶ位置に建てられた山科本願寺のような交通の要衝。では、土呂はいずれに該当するのでしょう。少なくとも、河口の立地ではありません。交通の要衝としての意味づけはどうか考えて見ます。河口の街としては、如光の生まれ故郷である西端があり、蓮如はそこを拠点として三河布教を行いました。にもかかわらず、西端あるいはその近辺の鷲塚、大浜を外して土呂を選ぶには理由があったと思われます。それを推察してゆきたいと思います。
土呂は岡崎市といっても南部にあり、なおかつ矢作川の流れからは外れた所にあります。そばを砂川、占部川が南北に並行して走っております。現在の地図では確認できないのですが、その当時は岡崎あたりの矢作川もしくは、乙川とつながっていたと推測しています。北側には三河三ヶ寺の一つ、針崎勝曼寺がありました。南は今は干拓されてなくなっている菱池(岩堰)があり、さらにその南には松平家が新たに手に入れた深溝の地があります。岩津の松平信光が、深溝を経営するためには、好むと好まざるに関わらず何らかの形で本願寺教団がかかわってくる状況であったと考えます。
後に蓮如が三河の上宮寺のために作った「如光弟子帳」には菱池近辺にも本願寺教団の拠点があったと書かれているそうです。そればかりか、能見・丸根など松平一族が進出した岩津近辺の拠点や、戸田宗光が依った上野(現在の豊田市あたり)近辺にも本願寺教団の道場があることがうかがえます。(参考文献を確認していないのでこの程度の表現でご容赦)以上を総合して、松平党と本願寺教団は少なくともある種の協力関係を取り結んでいたということが出来そうです。屋上屋を重ねた推察であることは承知しておりますが、今後の課題として調べてゆきたいテーマです。
如光が死んだのは、土呂に寺を建てることが決まって間もなくの頃です。縄張りを作り、土地を突き固める情景がそこかしこで見られた頃だったのでしょう。
蓮如が三河を立ち去り、それを見送った如光が上宮寺に戻りました。そこに如光の生まれ故郷である西端の村人が如光に面会に来たのです。彼らは如光に佐々木上宮寺を離れて西端に戻ることを勧めます。蓮如が三河に滞在した時、その根拠地としたのは如光の生まれ故郷である西端でした。その余燼を受けて俄かに西端も活況を帯びたのでしょう。蓮如が去って、活気を喪うことを惜しんだ西端の村人達が如光に地元に戻ることを懇請した模様です。上宮寺のある佐々木から、油が淵の西端までの道の途中で如光は失踪します。上宮寺に我、生誕の地に戻るとの書置きを遺しながら。
本願寺教団は本宗寺を本気で大刹にするつもりだったようで、蓮如の孫を住持に据えたりしております。ひょっとしたらここで如光が失踪しなければ、蓮如の活動拠点は吉崎ではなく、この本宗寺だったかもしれません。如光がいなくなった上宮寺には如光の妻が住持を継ぎ、その妻に蓮如と如光が並びたつ画像を送り、上宮寺の権威を上げ、上宮寺にはのちに蓮如の甥を送り込むなど教団の結束強化をはかっております。本願寺教団が如光を失ったダメージは決して小さくなかったでしょう。
如光を失った佐々木上宮寺にほど近い安祥城に松平信光が入ったのは、1471年(文明三)のことでした。本願寺教団にとっての松平党がこの時点でどうだったのかははっきりとしたことは図りません。しかし、後に石川政康が三男を松平信光の子の親忠に仕えさせている事実。及び、本願寺教団の背後に蓮如の妻の縁で伊勢貞親がいるという仮定にたてば、両者は協調関係にあったと思ってよいでしょう。
大久保彦左衛門忠教が書いた三河物語に松平信光が安祥城を奪取した時の記述があります。それによると安祥城城下に踊りの集団が現れ、お囃子を入れながら踊りを披露し始めます。それを見物に城兵達が城を出た所を、一軍を率いた松平信光が乗っ取ったと面白おかしく書かれています。踊りの集団は松平信光と結託していたわけですね。この踊りをどのように解釈するか。私は踊念仏を想起します。これは近隣の上宮寺にいた本願寺派門達が踊念仏を披露していたのではないかと思います。蓮如が「自らを一向宗と呼ぶ者は破門する」と門徒達に警告を放つのはもう少し時代が下った頃なので、浄土真宗本願寺派の教義、浄土宗一向派の教義、一遍の時宗で行う踊念仏の区分けが曖昧だったと思われます。
安祥は後に今川と織田と松平氏が争奪戦をする重要拠点でした。そこを乗っ取れたということは少なくとも主筋にあたる伊勢貞親の承認があったと思われます。その伊勢貞親は細川勝元の東軍方についていましたから、勝元と同属の三河国守護細川成之と図って、三河国内の西軍派の拠点を潰しにかかっていたのだと思われます。三河国における西軍派は渥美分国守護の一色義直です。応仁の乱に乗じて三河制圧を画策したようです。守護代の吉良氏は東西に分かれて戦ったとされています。
恐らくは安祥も西軍の拠点の一つだったのでしょう。また、額田郡一揆では牧野・西郷氏が守護の命令にもかかわらず、一揆鎮圧に失敗しているところを見ると親西軍だったようです。西郷氏は松平信光が安祥を責めた文明三年から文明十八年までの間に、拠点とする岡崎を失い、菱池近くの大草という在所に逃れます。そして松平氏と和議を結び岡崎には信光の息子の光重が西郷氏の養子として入り同じく乗っ取りを果たしました。吉良氏と並んで三河国守護代を勤めた西郷一族は松平一族の軍門に下ったということですね。この岡崎松平氏は後に松平清康に岡崎の地を追われ、西郷氏と同じ大草に移ります。この大草松平氏は後、三河一向一揆の時に一揆側として参戦します。この当たりを考えるに、安祥の時と同様岡崎奪取にも本願寺派が関わり、松平光重を祖とする岡崎(後の大草)松平家もどこかの時点で本願寺派になっていたと思います。
松平一族の宗旨というと浄土宗鎮西派というのが通り相場ですが、信光が信光明寺を建てるまではこの宗派の名前が出てきておりません。親氏は時宗僧でしたし、泰親は若一山王という社を祀りました。信光自身も信光明寺、妙心寺という浄土寺の前には臨済宗の萬松寺という寺を建てたりしております。深溝松平氏の菩提寺も臨済宗でした。この当時の松平一族の宗旨は一貫しておらず、あまり頓着されていない感があります。であるならば、松平光重が本願寺教団に帰依していたとしても特段の不思議はないだろうと思われます。 
松平信光の願文
寺伝は寺の成り立ちを書いたもので、大抵の名刹と呼ばれる寺にあるものですが、史料としての精度は決して高いものではなく、そのまま信じると他の史料との間に色々矛盾を抱えることになることもしばしばです。とは言うものの、色々と興味深く、示唆に富んだ史料もあったりして扱いにはいつも悩まされるところです。
松平信光が松平一族の活動として、先代の泰親に引き続いて行ったのは寺社の創建でした。親氏は時宗僧だったし、泰親も用金という僧号を持つ入道でした(但し、宗旨はよくわかりません)。
信光が建てたのは三つの寺院です。1440年(永享十二)に建てた萬松寺(臨済宗)、1451年(宝徳三)の信光明寺(浄土宗)、1461年(寛正二)妙心寺(浄土宗)創建。
萬松寺が禅宗という所が気になりますが、おそらくはこの頃に松平信光は被官化したのではないかと推測しています。永享十二年は一色義貫が足利義教に謀殺された年です。謀殺に絡む室町殿の青写真として、三河を自分の息のかかった勢力で固めたいという意向があったとしたら、頷けなくはありません。松平信光としても家格が上がったことを示す手段として禅寺を建てたと考えることができると思います。そもそも禅寺というのは武家の、それも身分のある大身が建てるものが相場です。但し、松平信光が浄土宗に宗旨替えしているところ、そして信光明寺と妙心寺には勅願寺にしたことに対して、萬松寺に対しては奏しているところを見るに、ある時期を境に禅宗との縁が離れたということなのかもしれません。
信光明寺は信光が浄土宗の釈誉存冏に帰依して建てた寺で、三河における浄土宗鎮西派白旗流弘経寺系進出の端緒となったと言われています。
妙心寺も同じ浄土宗の寺ではありますが、系統の異なる西山深草派の円覚寺で学んだ教然良頓(信光の息子)を開山とした寺です。浄土宗の諸派については別項で詳しく述べますが、松平信光は仏心はあるものの宗旨や教義の差異にあまりこだわらない人物であったように思われます。
松平信光は自ら創建した浄土宗寺の信光明寺と妙心寺にそれぞれ願文を出しています。内容は平和祈願と子孫繁栄という常識的なものでした。その文言の中に源氏の繁栄を願ったものがあり、事実なら徳川家源氏発祥説の根拠になるはずのものでした。その点は論争の種になったりしてます。どうも、この史料そのものの信憑性に疑いありということにはなっております。
そういう史料ではありますが、記述に気になる点があります。
一つは1481年(文明十三)に妙心寺に奉納された願文です。安置された仏像の胎内に保管されていたものですが、この願文の文面に「子孫代々浄土の真宗に帰依させます。」という文言があるのです。妙心寺は浄土宗の寺で、信光はここを勅願寺にまでしているのですが、胎蔵させた願文に異なる宗派の名前を書くだろうかと思うと少し不思議な感じがします。
むろん、この「浄土の真宗」を法然の浄土宗と解釈することは可能です。法然の法統を継ぐ者にとっては、親鸞の分派が真宗を名乗ること自体が不快であり、わが宗門(浄土宗)こそ真宗なりという思いもあったでしょう。しかし、1486年(文明十八)信光明寺への願文には自らの宗旨のことを「浄土の真宗」ではなく、「浄土の宗門」と呼んでいるのは、統一感を欠くように思えます。またこの願文の中で、一族の者は浄土宗に帰依するように申し渡したと十三年の願文に書いたことと同じ事を念押ししているのですね。そして、その浄土宗も西山深草派と鎮西派の二系統をまたぐことになっているのに「浄土の宗門」というどちらにも取れる曖昧な書き方になっているのですね。
ここで仮定を持ち出すことをお許しください。妙心寺本尊胎蔵の願文は後世の創作ではなく正しいものであり、松平信光が浄土真宗、つまり本願寺教団にも心をよせていたという可能性です。
蓮如の長男順如は代々のしきたりによって日野裏松家の勝光の猶子となりました。その日野裏松家は松平益親を被官にしています。蓮如の第一夫人と第二夫人は伊勢貞房の娘です。貞房の属する伊勢氏の長は伊勢貞親という政所執事であり、松平信光と戸田宗光を被官としていました。松平信光は戸田宗光の舅に当たります。そして、応仁乱期における松平家、戸田家の躍進は矢作川及びその周辺の川筋に沿ったものです。特に戸田宗光の渥美郡進出には船の存在なくしてはありえないと思います。その船をふんだんに持っていたのは琵琶湖の湖族を背景とした本願寺教団です。戸田・松平が独自に船を集めたとしてその調達先はどこなのかを考えれば、本願寺教団が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
本尊胎蔵の願文は通常公開する文書ではありません。門徒衆の有力者を妙心寺に招き、胎蔵願文を読ませれば、門徒衆は信光に心を寄せるようになる。そんな使われ方をしたのかもしれません。(このあたりは妄想の域にあるのは承知しております。)
信光の信心の向かう先は、禅宗、浄土宗鎮西派、浄土宗西山深草派、それからひょっとしたら本願寺教団とさまざまブレがあるように見受けられます。このあたりを整理すると面白いミステリーが成り立つような気が致します。 
西三河新秩序
1486年(文明十八)信光明寺への願文にはもう一つ重要なことが書かれています。「安祥と岡崎が平和裡に手に入ったのは仏の加護の賜物」であると。安祥については大久保忠教の三河物語に書かれたあらましを書かせていただいております。踊りの一団が本当に本願寺教団の手になる者であるなら、この仏の加護もかなり生々しい描写になりますね。岡崎を守っていたのは西郷頼嗣という人物ですが、岩津や安祥から土呂、深溝に向かうならば、岡崎は押さえておかなければならない重要拠点に違いありません。
そこを平和裡にとることができたとするのはどういうことでしょうか。思い浮かぶのは、戸田宗光の田原城奪取です。一色政照は応仁の乱中には京にも出陣していて渥美郡は留守にしていました。そこを同じ西軍の武将の戸田宗光が固めてしまって、帰ってきた一色政照には居場所がなくなっていたのですね。そして帰ってきた一色政照を渥美郡大草に隠居させて自らはその養子分となりました。
松平信光は西郷頼嗣に対して同じことをしたとすれば、「平和裡」という言葉の意味が見えてくるのではないかと思います。西郷頼嗣もまた京に在陣しており、その留守をついて松平一族が乗っ取ったと思います。西郷頼嗣の岡崎が東軍方、西軍方だったのか、安祥の城主が誰でどちら方についていたのかは不明ですが、そのいずれであっても上手く留守をついて占領したということなのでしょう。
無論、平時に会ってそういうことをすれば、討伐を受けることは間違いがありません。しかし、この時三河国には守護は不在でした。文明十年に一色義直が三河放棄を宣言した頃、細川成之もまた三河守護を辞しております。後任の守護は不明です。おそらくはこれ以後、三河は守護不在の国となったと思われます。
戸田宗光は応仁乱時には西軍についたと言われていますが、乱後には主筋の一色家から渥美郡を奪い、二連木に城を建て、東三河の牧野氏と拮抗対立したといいます。勉強が足りず、応仁乱中の三河国の動向は一色家と吉良家の動き以外はあまり詳しくわかっておりません。
松平信光は1488年(長享ニ)に没します。その時までに領した拠点に自らの子息を置き、分家としました。信光の妻が多産だったのか、数多くの子供たちがいます。
岩津=修理亮・和泉守親長、大給=源次郎乗元、安祥=次郎三郎親忠、長沢=親則、岡崎=紀伊守光重、深溝=大炊介正則(弥三郎元芳?)、丸根=美作守家勝、竹谷=左京亮守家、形原=与副、能見=光親、牧内=親正、宮石=光央、安穏寺=昌竜他
子息のほかに、一族ではないものに松平を名乗らせた者もいたそうで、松平一族は信光の一代で幅広い拠点を持つに至ります。興味深いのは本願寺教団の拠点である大浜、鷲塚、小川、野寺、佐々木、針崎、土呂が入っていないことですね。これらの地は南北に伸びた松平の拠点を東西に分断するように伸びております。松平一族と本願寺教団との間に約束が取り交わされたということでしょう。後になって、野寺、佐々木、針崎、土呂については、不輸不入の権が設けられ、領主の権利の及ばない場所とされました。後年、日蓮宗徒である大久保氏の一族も織田方に追われてここに匿われて無事を得たというエピソードもあります。
そして、松平信光の婿である戸田宗光は知多・渥美両半島を押さえました。三河国は西尾城から現矢作古川沿いに勢力を持つ吉良氏を戸田、松平、本願寺の三派勢力が囲む形になります。吉良一族が弱体化してゆくのも、止むを得ざるところでしょう。東には牧野氏が台頭し、さらに東には今川氏が控えています。三河の国の様相は応仁の乱開始以前とはおよそ異なる物になってしまいました。それはある意味、足利義教が一色義貫を誅殺した時に、構想した有力御家人の息のかからない国人衆の台頭です。しかしながら、応仁・文明の乱、そしてこの後に起こる明応の政変によって室町殿の権威は失墜します。室町殿がその後のアクションとして企図したと思われる新勢力の掌握を果たすことができず、各勢力は自立の道を進むことになります。
戦国の濁流の中、三河の各勢力は離合集散を続け、徳川家康の代になってやっと最終的な統一の時代を迎えます。但し、それまでの過程はめまぐるしく、家康にしても容易に三河の諸勢力を御することが出来たわけではありませんでした。
 
源姓松平 / 徳川家康の先祖である松平一族について三代信光までの伝承

 

戦国時代の三河の歴史を語る上で、どうしても外せないのが松平一族の歴史です。しかも、それを追いかけるのは結構厄介なんですよね。というのは、史料そのものは凄く豊富にあるんですが、その子孫が徳川将軍家であるために物の見方を固定するような史料が多いのです。これはこれで勉強になるのですが、自分みたいな歴史を別の視点で見たい不届きな輩にはそれを除去するプロセスが必要になってこれが結構うざったい。
それは、例えば松平一族は無条件に三河の主!みたいな。彼らに敵対するものは悪のような。偉くてあたりまえみたいな。そんな見方です。だから、石川政康や佐々木如光を語る上で松平一族については出来るだけ言及を避けてきました。
それももう限界です。ここからの話は松平一族を描写すると同時に、前編で紹介した上宮寺如光と石川政康が作り上げたものをあぶりだしてゆこうというのが、本稿の趣旨です。
松平一族の出自を考えるということは、徳川将軍家のルーツを探ることと同義です。江戸時代においては、徳川家は清和源氏の一族で、清和源氏こそが将軍になれるという考え方があります。これを源氏将軍観といいます。源氏の将軍というと鎌倉の源氏三代と足利将軍家がそうですね。源氏出身でない実力者というと、平清盛、北条時政から高時までの北条一族、織田信長、豊臣秀吉などがいましたが彼らはいずれも征夷大将軍にはなりませんでした。そこを逆手にとって、清和源氏こそが征夷大将軍になる資格があり他の血統にはその資格がないのだ、という考え方がでてきました。
このことを指して源氏将軍観と歴史研究者は呼びます。研究者達はこの考え方に迎合しているわけではありません。よく考えてみると、この考え方ってアラがありますので。源氏以外の征夷大将軍というと例えば坂上田村麻呂なんかがいますよね。鎌倉幕府滅亡後の建武期に護良親王が就任したこともあります。坂上氏は帰化人の系統ですし、護良親王は後醍醐天皇の皇子です。いずれも清和天皇の子孫である清和源氏の血統とは縁がありません。本来、征夷大将軍という官職にはべつに源氏である必要はなく、律令や朝廷の有職故実にもそれを規定したものはありません。どうやら将軍家が足利から徳川へと移ったところから、江戸時代に派生した俗説らしいのです。
この時代を扱った史料。とりわけ徳川一族に言及したものを扱う場合、この辺を十分に注意して取り扱う必要があります。平たく言うと、徳川家康が天下を取った時に、自らの家系を「作った」形跡があるのですよね。一番大きなミッシングリンクは、新田義重から松平家初代の松平親氏までの流れで、ここの事跡が今ひとつあきらかではないことです。系図資料はあるものの、彼らの事跡は今一つあきらかではありません。
新田義重の子孫が松平郷に土着した時の松平親氏には色々興味深いエピソードがあります。その松平親氏の生きた時代は子孫の活躍から推測できる妥当な線で、十四世紀末から十五世紀前半です。それを定点として、源姓松平一族の伝説と実相を考察してみたいと思います。 
一向宗そして時宗
松平家初代の松平親氏が三河国に流れてきた頃、彼は徳阿弥と号する時宗僧だったといいます。時宗も大きな括りでいえば、蓮如が奉じた浄土真宗と同じ阿弥陀信仰の一派です。
とは言うものの、言葉の使い方は非常に難しいのです。時宗もしくは、浄土真宗の本願寺教団を指すときに「一向宗」という言葉が使われることがあるのですが。本来の一向宗というのは、時宗でも、浄土真宗本願寺教団でもない、「一向宗」という一派があるそうなのです。時宗僧である徳阿弥の行いを語る前に、この一向宗という言葉の定義をきちんとして置きたいと思います。
この用語の使い方については、色々物議がかもされました。それも蓮如が活躍していた時代から、江戸時代、そして明治から戦後にかけて連綿とした歴史です。その経緯は非常にややこしいのですけど、ここでは戦国時代における用法のエッセンスだけ、触れて置きます。
鎌倉末期に一向という浄土宗の僧がいました。彼は新たな宗派、一向宗を開きました。一向宗は基本的には浄土宗の分派ということになりますが、踊念仏を取り入れた為、一遍の時宗と混同されますが、別物だそうです。教えの流れからいえば、一遍の時宗も一向の一向宗も浄土宗の流れを汲んで独立したものではあるのですが、念仏に重きをおいた時宗と必ずしもそうではなかった一向宗という傾向の違いはあったようです。
一向宗の教義色は浄土宗や、一遍の時宗よりは弱かった。結果として、一遍の時宗や親鸞の浄土真宗の教義を取り入れながら、教勢を東北・北関東・尾張・近江に伸ばしていたそうです。頃は鎌倉・室町。新仏教が布教範囲を貴族・武士から一般庶民へとターゲットを広げ、鎬を削っている時代です。
うかうかしていると、他の宗派に教団ごとひっさらわれかねません。その最右翼が蓮如率いる浄土真宗本願寺教団でした。蓮如は近江の一向宗宗徒をターゲットに布教活動を繰り広げました。一向宗も半端に親鸞の教えを取り入れたところが災いしたのかもしれません。なぜなら、蓮如は親鸞の血脈の正統後継者とされていたのですから。本願寺教団は高田専修寺派だけではなく、一向宗の諸寺も転向させ、傘下にいれたわけです。
蓮如は良くも悪くもパワフルに教勢を拡大してきました。そのリアクションも大きかったのです。それが、金森合戦であり、加賀の一揆でした。その都度門徒衆は団結し、弾圧者と戦ったわけですが、この戦いに参加した門徒達の多くが元一向宗の宗徒だったりしたわけです。教団外の人々は過去の経緯から、この団結した人々の事を一向衆と呼ぶようになりました。本願寺教団が参加した兵乱を一向一揆とよばれるのはこのためです。
また、そう呼ばれる門徒達にも問題がありました。一向宗と浄土真宗本願寺教団の教義の違いを理解していなかったのです。これは、本来の一向宗の教義がこの頃にはまだ体系化していなかったせいもあるのかもしれません。けど、最も大きいのは一向宗が取り入れた親鸞の教えをきっかけとして自分の宗派に信者を導いた蓮如の自業自得というものもあったように思います。
蓮如は本願寺教団の教主として門徒の教化に勤めました。御文と呼ばれる平易な文章で自らの教義を噛み砕いて教え説き、道場でそれを繰り返し読み上げさせることによって徹底をはかりましたが、なお不十分だったみたいです。門徒達は時に蓮如の思惑を超えて事態を悪い方向にもってゆくこともままありました。
蓮如は御文の中で絶叫します。「一向宗はもともと一遍・一向の教えであり、本願寺の教義とは無関係である。それ故以後、自分たちの教団を一向宗と呼ぶ奴は破門する!」と。蓮如自身、時宗と一向宗の違いを理解してないくらい、このころは教義が混乱していたということでしょう。
しかしながら、この蓮如の努力は身を結びませんでした。自らの教団のことを「浄土真宗」と呼ばせること自体、法然の教えを継ぐ浄土宗徒には我慢のならないことだったからです。そりゃそうですよね。真なる宗派と認めてしまっては、自分の宗派は偽物ということになってしまうのですから。
蓮如でさえ間違えてしまうくらいなのですから、旧仏教や法華宗にとっては言わずもがなです。時宗にせよ、浄土真宗にせよ、一向宗にせよ仏陀ではない、阿弥陀如来を拝む信仰ですから一緒くたに一向宗と呼んでしまうのはやむを得ざる所なのでしょう。
高田専修寺派の真慧も、蓮如と同類扱いされることが我慢できなくて、あんな「無碍光愚類(狂い)」と一緒にしないでくれと延暦寺に文句をつけたくらいですから、この誤解は根深いものであり、教義の違いをはっきりさせることは当時の彼らには困難極まる課題だったことは想像に難くありません。
さて、教主クラスですらそうだったのですから、末端に至っては違いを把握するのは不可能にちかかったのかもしれません。本稿ではこういう観点で話を進めてみても、よいのではないかなと思ってます。松平一族の初代、親氏は徳阿弥と号する時宗僧でした。その徳阿弥に時宗の定義を尋ねてみるのも面白いかもしれません。 
松平親氏
親氏が三河国に流れてきた時、徳阿弥と号する時宗僧だったと先に書きました。それをいつだったのか、比定する同時代史料は皆無です。その全ては後世に書かれた史料に頼らざるを得ず、史料によって記述に薔薇次を生じています。親氏の没年にいたっては百年に渡る誤差があります。一応確定的といえる史料が顕れるのは、彼の後を継ぐとされる泰親の代になってからです。それを基準に常識的なセンを割り出すと、十四世紀後半から十五世紀前半あたりを活動時期と見なせるのではないかと思います。その根拠については後述したいとおもいます。
徳阿弥・親氏が三河国松平郷に流れてきた時に彼の人柄を見込んだ人物がいました。松平太郎左衛門信重という地元の富豪でした。信重には後継ぎがおらず、娘を徳阿弥に娶らせ養子としました。還俗して親氏と名を改め、松平信重の婿におさまった訳です。本来であれば、信重の系統も松平家の代として数えられるべきなのですが、それでは源氏の系譜に繋がりません。信重は藤原流加茂氏の一族なのですから。
ここで問題がおきてます。彼が松平家に婿入りする前に隠し子がいたことが発覚したのです。基本的に親鸞の浄土真宗以外は妻帯は論外ですので、徳阿弥のこの行いは破戒と言っていいのかもしれません。親氏はこの子を認知し、松平家の家人としました。これが後に大名化して松平家の家老筋となる酒井家の起こりと言われております。
義父である信重が農業を営んでいたのか、それとも何かを商っていたのか、そのあたりはわかりません。ただ、養父の財産を使って親氏が始めたのは松平郷の開拓でした。開拓民を組織して交通の邪魔になる岩をどけたり、木を切り倒したりして道を作ったり。そういう地元貢献をして人々の信頼を掴んだという話が三河物語に書かれています。あと、中山十七名と呼ばれる近隣の村々に攻め込んでこれを支配したりという話も書かれているのですが、この頃って室町幕府の最盛期です。戦国時代じゃありません。だから、こんな目立つことはできたはずはない。とか、何らかの流通や開拓に関わった村ではないかといわれています。
要するに親氏は加茂氏の一族に入り込んだ身元不明のまろうどです。そういう意味では前に述べた如光と似ている所があります。
さて、ここで親氏に関する興味深い史料があります。三河国大浜に称名寺という時宗寺があります。ここに遺されていた文書に親氏に関わる伝承があるのですね。ここには、徳阿弥がなぜ三河国に来たのか、が書かれているのですね。
内容は大浜に称名寺に親氏とその父有親が、石川孫三郎を従えて来訪した。それは石川孫三郎は称名寺住持の兄に当たるからその縁をたよったものだと思われる。親氏は松平郷に移住して松平家を継ぎ、父の有親は称名寺に留まってそこで死んだと書かれているそうです。
ここで私が着目したいのは石川孫三郎なる人物です。文安年中に三河に移住した石川政康に縁ある人物である可能性は低くないと思います。おそらくは石川政康は松平親氏より後の時代に活躍すると考えられます。とするならば、石川一族は石川政康以前に三河国と縁があり、一族に時宗寺の住持を出す、時宗宗徒の一族であったのかもしれません。また、石川政康が三河国小川に移住した時、小川に建てた氏寺の名を蓮華寺といいます。これと同じ名の寺が近江国番場にありこれが一向宗を開いた一行俊聖の終焉の地として、一向宗伝播の拠点となっています。時宗と一向宗はともに踊念仏を取り入れており、宗旨はしばしば混同されております。そして、浄土真宗本願寺派は時宗や一向宗徒をターゲットに教勢を広げてゆきました。石川政康や彼の属する石川一族もまた、蓮如や如光に教化されるまでは元一向宗もしくは時宗の宗徒だったのかもしれません。
付記
称名寺の寺伝は有親・親氏の来訪を1441年(嘉吉元)としています。これを事実と仮定するなら、後で記載する泰親や信光の事跡と年代が合いません。よって取り扱いは要注意です。寺伝そのものに誤謬があるか、あるいは発想そのものの転換を行うかのどちらかが必要になると考えます。 
松平泰親
松平親氏は松平家初代として各書に言及されているものの、同時代史料と目せるものが残っていません。そのため、生没年を含め、活動時期を確定できない部分があります。松平泰親は親氏の息子とも弟ともされています。親子として扱っている文書もあれば兄弟として扱っている書物もあり、今ひとつ決め手がありません。どちらを取るかによって、親氏の活動年代が左右されるのですが、決定的な根拠はありません。
ただ、泰親については、同時代史料に存在証明があるのですね。三河国額田郡岩津に若一神社というのがあるのですが、そこの社殿と神体の建立趣意書が残っています。そこには応永33年(1426)に松平太郎左衛門入道用金が施主となっていることが記されているそうです。太郎左衛門と用金の名は三河物語を始め、松平家の歴史を綴った諸書に残っているためこれを松平第二代泰親に比定することができます。
三河物語などには岩津や岡崎の城を攻め取ったなどと華々しい記述がされているものの、そこは中山郷に攻め込んだ親氏にちなんだ記述と同じく脚色の可能性があるようです。
松平家の家伝では、松平郷に土着した親氏は彼とは別に漂泊していた泰親をよびよせ、息子が幼少なゆえ三年半名代とさせたことになってます。そして、その泰親は岩津に進出します。岩津は矢作川流域の在所で、松平郷を開拓し、産物を川沿いに流通に乗せようとすれば行き当たる場所ですね。地理的には松平郷よりよほど拓けている場所だと考えられます。(グーグル・マップでそれをみれば一目瞭然でしょう)
親氏が「攻め取った」と言われる中山十七名は矢作川の支流にある在所であり、泰親が「攻め取った」といわれる岩津、岡崎は矢作川沿いの在所です。すなわち、彼らに関わる土地は全て川で繋がっているということです。これは、松平家もまた、川のネットワークに関わる一族である所作のような気がします。 
松平益親1
松平益親の名前は「寛永諸家系図伝」・「寛政重修諸家譜」の系図資料で泰親の子とされています。三河松平家の惣領ではありません。彼の活動拠点は京都と琵琶湖の湖北でありますが、紛争解決のために武力行使をし、その為の手勢を三河から呼び寄せたという記述もあるそうですから、松平親氏の一族であることはまず間違いのないところだと考えられます。
その三河松平一族ゆかりの彼がどういう経緯でそうなったのかは不明ですが、彼の身分は日野裏松家の被官。つまり家人です。主家より琵琶湖の湖北にある菅浦・大浦の荘園の代官となって年貢を主家に運ぶことを担当としていたのですが、この二つの荘園が度々争いを起こしています。その訴訟記録にこの松平益親の名前が載っているそうです。彼は基本的に京都に屋敷をもってそこで主家に仕えていましたが、必要に応じて湖西にある坂本、そして湖北の大浦・菅浦を往復していました。彼は日野家をバックとしてた徴税請負人であり、日野家の意向を受けて騒乱の鎮圧をまかされる立場にありました。
寛正二年、二つの荘園のうち、菅浦荘が騒乱をおこしました。地下人の殺害がきっかけとされていますが、その裏にこの前後に起こった飢饉との関わりがありそうです。その鎮圧のために益親が兵を率いて菅浦荘を囲んだそうです。
ここで考えたいのは、松平益親がこういう場所の代官に選ばれたのかということです。この頃の松平家は三河の土豪でしかありません。一応のルートとして、この時までに松平家が政所執事伊勢貞親の被官となり、その伝で日野家に紹介されたと唱える研究者もいらっしゃいます。
けど、私としては、武士化以前の本来の「徳河」の一族としてのあり方ではなかったのかという気がします。それは諸国を浪々し、必要に応じて貴族の要請を受けて権力を代執行するための、ノウハウの持ち主としての便利屋としての側面です。そして、彼が持っていたもの。それは石川一族と同じ、そして松平郷と岩津を拠点とした河川ネットワークを築き上げた川の一族としてのノウハウです。
また、益親は三河から手勢を集めて菅浦荘を囲みました。数は知れているとは思われますが、三河から京都経由で菅浦、もしくは三河から直接菅浦に向かわせるにせよ、その全ての手配をするのはなかなか難しいことのではないかと思われます。特に、琵琶湖周辺には延暦寺や堅田衆などの土地の利権集団が犇いているのです。日野家のバックがあるとはいえ、ただの三河の土豪にそれらの調整をやりきれたかどうかはちょっと疑問です。
また、松平益親が代官請した菅浦・大浦の年貢米一度比叡山の寺内町である坂本に運ばれ、そこから京都へ運搬されたそうです。坂本までの輸送は、延暦寺の委託を受けて湖上輸送を一手に握っていた堅田衆が引き受けていたことでしょう。そして、堅田衆には門徒が多かった。
さらにもう一つ補助線を引いてみます。蓮如です。蓮如の先祖である親鸞は実は日野家の出身で、本願寺の留守職は代々日野一族の猶子になっています。五世留守職の綽如は日野時光、六世巧如は日野資康、七世存如は広橋兼宣、八世の蓮如は広橋兼郷の猶子という具合にです。広橋家も日野の一族です。そして、蓮如には1442年(嘉吉2)に生まれた順如という長男がいました。彼もまた日野一族の有力者の猶子となりました。日野裏松家の日野勝光です。彼は八大将軍足利義政の妻となった日野富子の兄であり、押大臣(おしのおとど)の異名で幕府に大きな影響力をもった公卿です。
平時においては年貢米を運び、非常事態においては、武装した郎党を菅浦に運んだ。そういうことができる人物を日野家は必要とし、そのニーズを聞き届け、こたえられる能力をもっていたことが松平益親が雇われた理由なのではないか。あくまで可能性に過ぎませんが、そう考えます。 
偏諱のルール
武士の名前には複雑なルールがあります。とりあえず、代表的な例を引き合いにして語って見ます。
多少知ったかぶりな記述もあるので、話半分に聞いてくれると気が楽になります。
織田信長の名前を「織田三郎平信長」と書くことがあります。これを分解すると@織田、A三郎、B平、C信長に分かれます。
@の織田は所謂「氏」です。現代の我々が名乗っている名字と同じものですね。ファミリーネームであり、父系の親戚を指し示すものです。
Aの三郎は通名と呼びます。日常生活において、名を呼ぶときはこの通名を使うことになっています。これが大名や朝廷に仕えたりした場合、「弾正忠」とか、「上総介」などの官職名がつきます。これを官途名といいますが、使われ方は通名と同じです。もともとは呪詛を恐れた中国人が呪詛を逃れるために、普段は別の名前をつかった(これを字(あざな)といいます)ことに端を発するものです。
Bの平は「姓」です。厳密に言うと氏と姓は異なるものであり、氏がファミリーネームであるなら、姓は同族集団を指し示す、より大きな概念です。氏が異なっていても、姓が同じならご先祖様は同じことになります。例えば、足利氏、吉良氏、一色氏はそれぞれ氏は異なっていますが、先祖をたどれば皆清和天皇に行き着きます。清和天皇の第六王子である貞純親王の子孫に与えられた姓が源であり、清和天皇系の源姓を持つ各種氏族の総称を清和源氏と呼ぶわけです。織田信長の姓は平です。これは桓武平氏を指す姓であり、桓武天皇の子孫であることを意味します。有力な武士は概ね源、平、藤原、橘の四つの姓のどれかを持ちます。無論、例外はありますが、有力な武士団を形成した四つの姓を総称して源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼びます。
Cの信長は諱です。「いみな」と読み、その人物の本当の名前をさしますが、その読みどおり、忌まれた名前でした。すなわち、公の場でこの名で呼ばれることは憚られたのです。それは呪詛を恐れた名残といいます。すなわち、呪殺を行うためには呪術者はその人物の名前を術に組み込んだそうです。例えば人形にその人の名前を書いて門前に埋める、怨念を送ると呪いがかかる。これが呪殺のプロセスです。逆に言うと、呪詛を避けるために、普段は別の名前を名乗っていたわけです。それが通名や官途名であったりしました。逆に相手に自らの諱を教えることは、相手に対して絶対の信頼与えて、自らの命を委ねることと同義でした。だから、昔の中国人は手紙に自らの諱を記して、相手に託しました。故に中国人は手紙のことを「信」と呼びます。同時に、手紙を通わせることを「通信」と呼び、その言葉は現代日本語にもなっていますね。
諱はその人物の真の名であるので、扱にはある一定のルールがあります。諱は通常二文字で表されますが、そのうちの一文字をやり取りすることによって親子や兄弟、主従の関係を定義するのです。諱の一文字のことを指して特に偏諱と呼びます。
第一ルール / 直系の偏諱相続
織田信秀/織田信長
偏諱をもらえるような主君を持たないもしくは、偏諱を家臣に与えるだけで自分は貰う必要のないくらいに偉い人物の場合、諱の一文字目は氏と同じファミリー・コードの意味合いを持つことになります。例の場合は「信」の字ですね。足利将軍家の場合は「義」であり、徳川将軍家は「家」だったりします。
第二ルール / 偏諱による嫡子、非嫡子の別
徳川家光/徳川家綱/徳川綱吉/徳川綱重
武家社会は長子相続が原則ですから、嫡子と非嫡子の別は厳格で、名前によってそれが成されていました。諱の二文字目は嫡子のアイデンティティ・コードと呼ぶべきものです。それは弟達に与えられて、彼らの諱の一文字目にかかげられました。上記例では家光から嫡子家綱へは「家」の字が譲られ、家綱の弟たちには、家綱の代を示す「綱」の字が諱の一文字目に掲げられます。
第三ルール / 主筋による惣領への賜諱、非嫡子への賜諱
足利義政/足利義材(義植)
大内政弘/大内義興/大内義隆
毛利弘元/毛利興元/毛利元就/毛利隆元/小早川隆景/吉川元春/穂田元清
非嫡子に自らの諱の二文字目を与えるのと同じ事を家臣に施します。これを賜諱といいます。毛利家とその主筋に当たる大内家に特徴が良く出ていますので例に引きます。大内政弘は「弘」の字を毛利弘元に、その子の大内義興は「興」の字を毛利興元に、さらに孫の大内義隆は「隆」の字を毛利隆元に賜諱しています。与えられた方は毛利家のファミリーコードである「元」の字を諱の二文字目に下げます。そして、そのファミリーコードは弟達の諱の一文字目に据えられる事になります。毛利元就、吉川元春、穂田元清がそうですね。小早川隆景は大内義隆から一字拝領できるだけの有力氏族へ養子に行ったのですね。もっとも小早川家は、一族の内紛に乗じて毛利家がお家乗っ取りをしたのですが、小早川一族の残党を抑えるために、大内家の威光を利用したというのが実相かと思われます。
大内氏は代々足利将軍から偏諱を受け取っています。大内政弘の「政」の字は八代将軍足利義政の偏諱です。後に十代将軍足利義材が大内家の領地である周防に流れてきました。管領の細川政元との政争に破れた結果です。大内家は義材を保護し、大内政弘の子、義興は義材をかついで上洛します。織田信長の先行事例ですね。京都には十一代将軍足利義澄がいたのですが、義材派ということで偏諱をもらえなかった。変わりに足利将軍家のファミリーコードである「義」の字を頭につけています。これは将軍家の許しがなくてはできないことですが、許可したのは足利義材だと推測します。それゆえ、義興は義材を担いで上洛したのでしょう。
ちょっと話が脇にそれました。偏諱のルールの話に戻します。ここまで書いたことは大体の傾向であって、あてはまらないケースもたくさんあります。ただ、こういうルールがあると考えて、系図をながめてみれば一見関係のないところに何らかの関係性を見出すことができるかもしれません。 
松平郷松平家
松平家の惣領は親氏、泰親、信光と三代続いたとされています。但し、この三者の関係については色々異説があって決定的な確証のある説はありません。三人を祖父、父、息子と直系の三代につなぐ説もあれば、親氏と泰親は兄弟という説もあります。ただし、その場合に信光は親氏の息子ということになります。泰親の子供という説はありません。なぜなら泰親が松平の一代目ということになってしまうからです。このことは何を意味するでしょう。それは、徳阿弥という時宗僧が加茂氏松平の婿養子になって源氏の松平氏を拓いたという話が、三河松平家にとって、後の徳川将軍家極めて重要なエピソードであるという証拠なのだと思います。
三者の関係を考察する時、さらに話をややこしくしているのが、松平郷松平家の存在です。二代目の泰親は松平郷を出て、矢作川沿いの岩津という土地に移住します。この時に、松平信広に松平郷を継がせているのですね。彼は親氏もしくは、泰親の息子とされています。三代目の信光にとっては兄もしくは叔父にあたるのですが、一応嫡子ではなく、庶子の扱いになってます。
ただ、松平郷は松平一族の本貫地です。そして、親氏、泰親が名乗った太郎左衛門を継ぎました。そこに庶子が入るのは少し不自然ですし、もう一人の庶子説のある酒井広親が松平姓にならない理由もぼやけてゆくような気がします。
松平太郎左衛門信重(松平郷)/松平信光(岩津)/徳河有親/松平太郎左衛門親氏(松平郷)/松平太郎左衛門信広(松平郷)/松平太郎左衛門泰親(岩津)の図は、信広が親氏の息子であり、泰親が親氏の弟という説に基づいて作ったものです。これだと、どう考えても信広と松平信重は赤の他人ですね。加茂松平氏の信重が名乗っていた太郎左衛門は信重⇒親氏⇒泰親⇒信広と継いだことになってますが、信広に名乗らせる理由が極めて希薄です。親氏は松平郷で死んだことになってますから、信広が松平郷を継ぎ、太郎左衛門を名乗るためには、その時までに信重と信光の母親は死んでいないと彼らは納得しないでしょう。そこに顕れるのは親氏による加茂流松平家横領というあまり愉快じゃない想像です。
松平太郎左衛門信重(松平郷)/太郎左衛門泰親(岩津)/信光(岩津)/徳河有親/太郎左衛門親氏(松平郷)/太郎左衛門信広(松平郷)の図は、信広が親氏の息子であり、同時に親氏⇒泰親⇒信光が直系の血縁である場合の図です。信広は庶流という伝に従い、泰親の異母兄弟というケースです。
この図だと、信重の娘が息子に従って岩津に移り住んだと想定したら、納得はできそうですね。でも、泰親が名乗った太郎左衛門を信広が名乗るロジックを説明するのは苦しいです。そもそも、泰親が親氏と兄弟説がでるのは、三代目の信光の名前に「親」の字がなく、なおかつ松平信重の「信」の字が入っているせいですね。親から息子へ名前の一字を譲るのを偏忌といいます。親だけじゃなく、目上の主君とかそういうケースもありうるのですが、今はその可能性を除外して考えます。その場合、松平信重と直接の関係のない娘と親氏との子供に信重の偏忌である「信」の文字を用いる理由と、そして、松平一族の惣領を継いだはずの泰親の名に「信」の字がない理由。さらに、信光の名前に「信」の字が使われている理由が皆目わからなくなってしまいます。彼らがそんなものには拘らない性格だったというのならわかるのですが、信光の子の親忠以降の代はわりと忠実に子のルールに従っているところを見るとそれを知らなかったとも考えにくいのです。実は。
松平信重/信広(松平郷)/泰親(岩津)/徳河有親/親氏(松平郷)/信光(岩津)
この考え方もわりと納得はゆくのですが、やはり泰親に「信」の字がない理由と、彼の子の代になって「信」の字が使われる理由がよくわからないのがしっくりこないです。
松平太郎左衛門信重(松平郷)/松平太郎左衛門信広(松平郷)/松平信光(岩津)/徳河有親/松平太郎左衛門親氏(松平郷)/松平太郎左衛門泰親(岩津)
以上の論点を総合して、信広は信光と同腹の兄であるということ。つまり、信光は傍流という結論に至ります。このケースにおいて、偏諱というルールを適用してみることが正しいのかどうかはわかりません。さりながら、偏諱のルールにあう状況があればそこから事情を推察することができます。松平信広と信光この二人が異母兄弟で信広の方が庶子ならば、両方の名前に信重の偏諱が与えられる理由がわからなくなるのですが、信広が信光の同腹の兄であれば、親氏と泰親は跡継ぎのない加茂流松平家のショートリリーフであったという性格づけがはっきりします。信広が松平郷を継いだことによって、信光は叔父に従って岩津に出てゆきます。そこで大きな飛躍を遂げることになるのですが、それは別稿で語りたいと思います。 
松平益親2
おまけ的に、北近江に進出した松平益親のその後について書きます。菅浦・大浦荘の代官の松平益親は後に益親の主家である日野家が両荘を延暦寺に寄進したことによって、免職されます。この頃は益親は隠居していて、子の勝親が後を継いでいたそうです。
菅浦・大浦荘は戦国期の惣村活動を詳細に記した文書が残っていたために、こうした活動が後世にのこされていたわけで、歴史家の研究対象になっていたようです。お陰でこういう活動の一端も我々の眼にふれることになるのですね。
ただ、菅浦・大浦はしょっちゅう紛争をおこしていて、訴訟や暴力沙汰も絶えなかったようです。益親自身も命を狙われたことがあったそうです。日野家が菅浦荘を延暦寺に寄進したのも、惣村化した村の支配が難しくなったことも一つですが、あといくつか考えられます。
日野家の寄進は1471年(文明3)。1467年から11年続いた応仁・文明の乱の真っ只中で京都の街も兵乱の中で灰燼に帰しています。その混乱の中で湖北の小村を維持するのが難しくなったということがあるのでしょう。
そしてもう一つは延暦寺の勢力伸張です。益親の活動と当時の延暦寺の動静を本願寺とのかかわりを中心に重ね合わせて見ます。
1461年(寛正2)菅浦荘騒乱。松平益親、菅浦征伐
1465年(寛正6)2月8日延暦寺、大谷本願寺を破却。
1466年(文正元)金森合戦
1467年(応仁元)3月延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれる。
1468年(応仁2)3月24日堅田大責。
蓮如、三河再訪。
1469年(応仁3)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
1470年(文明2)堅田衆、比叡山に賠償金を払い復興を許される。
1471年(文明3)日野氏、菅浦荘を比叡山に寄進。松平勝親(益親の息子)代官職を罷免される。
菅浦荘騒乱の四年後に延暦寺は大谷本願寺を破却し、金森合戦と続いて、応仁元年に蓮如の隠居表明によって一応の手打ちになります。しかし、その翌年湖上水運を引き受けていた堅田衆が将軍の御用船の積荷を横領すると、比叡山はそれを名分に堅田を焼きます。その翌々年に堅田から賠償金を分捕って和議を結びました。そして、その翌年の菅浦荘の叡山への寄進です。
この期間、延暦寺は強硬路線でつっぱしり、それで一定の成果を得ました。彼らの立場で見れば、ここで延暦寺が得たものは元々延暦寺のものであり、その回復運動に過ぎないということなのかもしれません。堅田衆を屈服させた延暦寺はさらに湖上の支配権の強化を目し、その一環として日野家から菅浦荘を得たとも考えられますね。
松平益親・勝親の活動については、京都における貸金業が当時の裁判記録に残っているくらいです。その後、彼らがどうなったのかは不明です。
 
将軍寺 / 安祥松平家の菩提寺である大樹寺の成立事情

 

本編では、松平信光の子、親忠の事跡を今までと同様な視点で扱う予定です。その中心として彼が建てたと言われている寺院、大樹寺を中心に据えて見ていこうという趣旨です。「大樹」はそのままの解釈すれば大きな木という意味です。ただ、別の意味合いもあります。この頃の貴人は自らの官職をそのままで呼ばずに、中国の朝廷での官職になぞらえて呼ぶことが流行っていました。例えば、「右京太夫」を「京兆」、「中納言」を「黄門」、「内大臣」を「内府」等、等。これを唐名といいます。その伝で言えば、唐名「大樹」に相当する日本の官職は「将軍」にあたります。室町時代の公家の日記などを読みますと、室町殿=足利将軍のことを大樹とモロに記載しております。松平親忠はいわば「将軍」寺という名前の寺社を建てた訳です。その子孫の徳川家康が征夷大将軍となり、十五代の将軍を輩出する名家となったわけですが、これは凄い偶然・奇縁だなと思っております。
松平親忠の「親」の字は伊勢貞親の偏諱とされており、主持ちでした。その彼が「大樹」が「将軍」の唐名であることを知らないとは思えません。さらに三河物語にも語られているように、親忠には兄が二人おり、後にそれぞれ岩津と大給を与えられております。つまり親忠は分家筋です。親忠が立てる以前にもともと大寿寺という草庵があったという説もあります。でも、これをわざわざ「将軍」寺という寺号にしてしまうことに、憚りがないとは思えないのが正直な所です。そういう疑問点を含めて、大樹寺がらみのエピソードを書き連ねてゆきたいと思います。
1438年(永享十)松平親忠生誕
1465年(寛正六)額田郡一揆。
1467年(応仁元)8月、応仁の井田野合戦。
1468年(応仁二)知恩院、戦火で被災。第二十二世周誉珠琳、近江国伊香立に避難。
1471年(文明三)松平信光、安祥を奪取。
1475年(文明七)井田野に怪異発生。松平親忠、念仏堂を建てる。後、勢誉と大樹寺を創建。
1479年(文明十一)信光明寺、勅願所となる。
1481年(文明十三)妙心寺、勅願所となる。超誉、信光明寺で得度する。
1488年(長享ニ)松平信光没。
1493年(明応二)10月、明応の井田野合戦。
1501年(文亀元)松平親忠没
1503年(永正元)勢誉、知恩院第二十三世住持になる。
1506年(永正三)伊勢宗瑞、三河侵攻(〜1510年永正三河乱)
1511年(永正八)信光明寺の肇誉、知恩院に転昇。超誉、信光明寺の住持になる。
1521年(永正十八)信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永三)浄土宗総本山論争。知恩院と知恩寺で決着はつかず。
1526年(大永六)超誉、後柏原天皇崩御の折に臨終の善知識を勤める。
1527年(大永七)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
1545年(天文十四)超誉、高月院に隠棲。
1549年(天文十四)超誉、逝去。 
法然の法統
法然が浄土教を浄土宗としてまとめ上げる以前ににも踊念仏の創始者の空也や往生要集を書いた源信などの浄土教に基づく先行事績がありました。源氏物語が語る「もののあはれ」や平家物語で謳われる「諸行無常」も末法思想を背景とした無常観をベースにしたものです。
それに対して明確な回答を打ち出した第一人者として、法然がいるのだと思います。親鸞は自らが浄土真宗を起こしたという自覚はなく、生涯を通して法然の弟子として行動したといわれています。一遍が空也に倣って遊行を始める以前には、浄土宗の教えを受けていたそうです。
日本における阿弥陀信仰は数多くの分派を形成しました。それは他力本願の具体的な方法――どうやったら効果的に阿弥陀仏に帰依出来て救済が保証されるのかという方法論――に絶対正しいものがないからに尽きると思います。阿弥陀信仰には浄土宗、浄土真宗、時宗、一向宗その他数多くの宗派があります。浄土真宗の中でも数多くの分派があるように、浄土宗もまた幾つかの分派に分かれています。親鸞を始め、有能な弟子に恵まれたということもあるのですが、法然の教えの何を拠り所にするかによって、弟子たちが分立するのは避けられない所でした。法然の晩年は弾圧にあい、教団そのものを機能的に統制することも難しかったということもあったかもしれません。弟子達は全国に散らばって布教をし(東国に下った親鸞もその一人)、その地で教団を形成してゆきました。
浄土真宗の開祖となった親鸞の他に、高名な弟子を列記します。
流罪となった法然の留守中に京で法然の教団を守っていたのが信空という弟子でした。彼は京の黒谷の法然の草庵(金戒光明寺)を師から受け継ぎ教団を維持しました。
次に九州に布教活動を行った弁長、鎌倉で布教を行った弁長の弟子の良忠。彼らの法統は鎮西派と呼ばれています。証空は法然が流罪中、連座を免れ在京して独自活動をしていたそうです。証空の法統は西山派と呼ばれています。その他、隆寛の多念義派、幸西の一念義派などあってそれぞれが独立した活動をしていたそうです。
法然が死んだのは1212年(建暦二)。京都東山の大谷禅坊でした。親鸞の墓が近くにあるのは親鸞は法然の弟子として死に、親鸞の弟子達も師の墓の傍に葬られるべきだと考えたからでしょう。ただ、比叡山延暦寺は墓所を荒らすことも厭わなかったそうです。1227年(安貞元)には法然の墓所並びにその周辺施設が延暦寺の攻撃をうけています。その翌年、信空は法然の遺骨を抱きながら死んだという逸話が残っています。
法然の墓所は、当初は信空系の法統が、その後証空系(西山派)の法統が管理をしておりました。その墓所を支配していたのが知恩院です。知恩院はもともとは宇治の平等院を勧請したものであり、寺域は近隣にある長楽寺が管理していたらしい。そこの住持は法然の弟子隆寛(多念義)系でしたが、1227年(安貞元)に隆寛本人も弾圧を喰らったております。隆寛は同時に天台僧であり、こうした両義的な存在によって、曲がりなりにも法然の墓所は守られていたらしい。
鎮西派の弁長は九州で布教活動を行い、その弟子の良忠は関東に拠点を作りました。京で諸宗派が勢力争いで消耗戦を戦っている間に、鎮西派は地方の地盤をしっかり固めております。その後で京に進出。その結果、十四世紀の前半に知恩院の住持の座を鎮西派が占めることになりました。その背景として、法然の弟子の一人、源智系の流れが京都に残っており、それが鎮西派と協力関係を無すん田ということがあるそうです。それ故、浄土宗鎮西派の第二祖は弁長と並んで源智の名が連ねられております。
知恩院の住持には当初は鎮西派木幡流が、後に鎮西派白旗流に引き継がれたとます。東山にある知恩院もまた応仁の乱による戦火にさらされ幾度も焼亡しましたが、その都度再建したと伝えられています。
信空系の金戒光明寺も知恩院と相前後して鎮西派となり、江戸時代までには鎮西派七大本山の一つになっております。
1523年(大永三)に浄土宗総本山をどこの寺にするかで、幕府と朝廷が論争したといいます。朝廷は鎮西派白旗流の知恩院、そして幕府は同じく鎮西派藤田流の知恩寺を推しました。幕府の姿勢に憤慨した青蓮院の尊鎮親王が高野山に出奔するという騒ぎにまで発展しております。少なくともこの時点までは知恩院は浄土宗の総本山ではなかったと言えそうですね。このあたりは他の鎌倉仏教系諸宗派と異なり、どこを中心寺院にするかを朝廷や幕府に委ねているところが浄土宗の特徴的なところだと思います。ちなみにこの時の知恩院の住持は二十五世超誉存牛といい、大樹寺を建てた松平親忠の息子にあたります。これもまた、奇縁と言えると思います。 
応仁の井田野合戦
1467年(応仁元)に尾張国品野と三河伊保から多数の軍勢が矢作川沿いに岩津方面に南下してきました。それを松平親忠が井田野に兵500を率い、「一夜と半日」の戦いを経て撃退し、追い返したという話です。多くの戦死者が出たため、松平親忠はその地に供養のために千人塚を作りました。ところが、その九年後になって、塚から亡霊の声が聞こえたり、悪疫が流行るなどの怪異現象が起こったので、宇祢部の福林寺の勢誉という僧を呼んで念仏供養をしてお堂を建てました。後になってその近隣の地に親忠と念仏供養で縁のできた勢誉によって大樹寺が建てられたというのが、大樹寺が伝える創建の経緯です。
この話は話が大きいわりに、大樹寺の寺伝以外に主要な史料に記載がないということで、1493年(明応二)にあった合戦と時期を間違えたのではないかといわれています。
その当時の状況はどうだったかを考えて見ます。1467年(応仁元)は寛正の額田郡一揆の二年後にあたります。そして、8月の時点では、既に応仁の乱が始まっており、京とが主戦場でした。守護の細川成之や伊勢貞親(一度追放されて戻った)は三河どころではなかったでしょう。松平親忠はこの時三十一歳です。信光の三男として信光の旗下にいたとしてもおかしくはありませんね。額田郡一揆では、彼の弟に当たる大炊助正則が深溝で大庭次郎座衛門を討ち取っておりますから、親忠が軍勢を率いたとしても不自然ではありません。でも、五百の軍勢をすぐに集めるということは中々大変なことではないかと思います。特に、合戦の経緯をみると気になる部分があるのですが、その点については後述します。
不思議なのは攻め手の行動です。尾張国品野は現在の瀬戸市にあり、東海道にそった三河と尾張の国境にあります。そして、伊保は岡崎から矢作川を遡り、伊保川に入った所にある在所です。位置関係からして、品野勢はまず伊保に立ち寄り、そこから伊保川、矢作川を南下するルートを通ったはずです。しかし、途中には中条氏、戸田氏などの国人・土豪がいるのですね。そして、井田野は岩津より南にあります。つまり、品野・伊保勢が井田野にたどり着くためには中条、戸田そして松平信光の勢力圏を突破しなければならないということです。
応仁の乱の情勢にからめて、尾張国守護の座を斯波義敏と争った西軍方の斯波義廉の軍勢が、東軍の三河国守護細川成之の勢力を叩くために侵攻したとも考えられますが、もしそうだとしたら、大樹寺の寺伝が伝える通り、大規模な動員とだったことが想像されます。しかしながら、大樹寺系以外の史料にこの事件が現れていないのが不自然です。
応仁の井田野合戦で不明な点はいくつかあります。三つの疑問点を提示し、仮説を立ててみました。
@何故、品野・伊保勢の侵入経路にいた国人・土豪達に動きが無かったのか。
A何故、他ならぬ松平親忠が応戦することになったのか。
B品野・伊保勢の目的は何だったのか。
@の経路にいた国人・土豪達の動きについてです。大樹寺の寺伝は言っています。松平親忠が五百余騎を率いて、一夜と半日で敵勢を撃破したと。つまり、この戦は夜襲で始まったということです。合戦があった日は八月二十三日。当時は太陰暦ですから、日付で月の様子はわかります。一日は朔日といって、新月。三日の月が三日月で十五日に満月になるように暦は作られています。従って、二十三日は半月だったといって良いでしょう。
尾張国品野から井田野までは伊保ルートが最も近いと見て良いでしょう。そして、伊保から井田野までは川で繋がっています。伊保の裏手には猿投山という山があります。そこの樹木を切って筏を作り、兵を乗せて一気に下れば、手勢を目的地に送ることが可能だと思います。本能寺の変などが典型的ですが、夜襲というのは本来、新月の夜を選ぶものでしょう。半月の夜ということは、軍を進めるにあたり照明を必要としたことだと思います。
そして、夜襲という手段を選ぶ以上、品野・伊保勢は大兵ではなく、小勢であったという事でしょう。大樹寺の記録には親忠方を五百と記していますが、品野・伊保勢の人数は多数とだけ記してあって、人数は明記されていません。つまり、品野・伊保勢の目標は井田野であり、少数の人数を川下りルートで夜襲するという手段を駆使したため、中途の在所で見咎められることがなかったと考えます。
Aに関しては単純に松平親忠がそこを拠点にしていたためでいいと思います。親忠は後に信光が安祥を取った後にそこを任せられます。が、それ以前は井田野近辺にいたことは間違いがありません。親忠がこの地に大樹寺を創建できたのは、この地に影響力を有していた所作なのですから。寛正の額田郡一揆によって、松平一族は矢作川、広田川沿いに大きく勢力を広げることができました。その一環として、三男の親忠がこの地を入手したとみるのが妥当なところでしょう。
Bそして品野・伊保勢の目的です。そもそも、なぜ井田野なのかという所を考えてみるべきだと思います。井田野すぐ近くに井口という在所があります。ここは額田郡一揆で一揆勢が砦を作って立てこもったところです。ここを三河国守護細川成之の命令で牧野氏と西郷氏が攻め落としましたが、最終的に松平親忠がここにいるということは、井口砦の戦後処理は松平党に任されていたと考えていいでしょう。そしてここに一揆勢が砦を作ったということは、ここが交通上の重要拠点であることに違いありません。応仁の井田野合戦は額田郡一揆の二年後です。品野・伊保の人々は松平党による戦後処理に不満を持っていた可能性があります。矢作川中流域、松平郷から岩津にかけてまでしか勢力圏がなかった松平党が、井ノ口と深溝を手に入れたわけです。その影響は現地の人々にとっては極めて大きかったと推測します。現に、この後松平信光は安祥と岡崎を手に入れ、小川の石川党と提携して大浜までのラインを確保し、形原・竹谷にも拠点を設けて深溝・蒲郡までに勢力を伸ばしてゆきます。海まで繋がる二本のラインを確保したわけですね。
応仁元年は一揆の終戦処理まもなくのことですので、引継ぎが上手くいかなくて物流が滞るなどのことが起きていたと考えるのは穿ちすぎでしょうか。あるいは応仁の動乱を見て、故意に西軍方の尾張に流れる物資の輸送を止めたのかもしれません。
伊保は井田野の上流域にありますから、利害関係は密接と思われます。品野は伊保から見て山を越えた西側の在所ですから、品野の産品を東方面に流す場合は、伊保経由だったのかもしれません。応仁の乱中で幕府は地域間の諍いに介入できない間隙をついて、実力行使に及んだというのが私の仮説です。
夜襲であるが故に、戦術目標を達成すれば、長居は無用です。むしろ早期に撤退して損害を減らすのが常道です。故に襲撃側が一日半も戦う必要はなく、夜が明けたので撤退を始めたというのが真相に近いような気がします。親忠もあらかじめ敵軍が来ることが判ってなければ五百人の兵をそろえることはできないものでしょう。親忠側の勢五百というのも、品野・伊保勢退却後に編成された追跡軍の規模だったのではないかと思います。この追撃は矢作川沿いの細川・大沢まで及んだとのことですが、そこが松平党の影響力の北限で、伊保までには到達できなかったのだと見ることもできます。
「応仁の井田野合戦」と呼ばれているものはあったかもしれませんが、おそらくは親忠率いる五百騎の軍勢によって千人の死者を出すような規模のものではなく、川の利権をめぐる焼き討ち事件だったのではないかと思います。
それがなぜ大樹寺の寺伝のみ合戦譚として記録されているのかについて、松平親忠の立場に絡めて次稿にて書いてゆきたいと思います。 
松平親忠
松平親忠は松平信光の三男で、安祥松平氏の祖と言われています。惣領家の根拠地により松平郷、岩津、安祥、岡崎と区分されて語られます。松平郷は親氏と泰親、岩津は信光、安祥は親忠、長親、信忠、岡崎は清康、広忠と続きます。徳川家康は広忠の子であり、岡崎松平家を継ぎますが根拠地は浜松に行ったり、江戸に行ったりしてますので別格でしょう。
但し、今あげた松平家歴代の中には「惣領」と呼ぶには微妙な人々も含まれています。松平郷の泰親しかり、そして本稿で触れる安祥家の親忠しかりです。三河物語にも書かれている通り、松平親忠には兄が二人いて長男は岩津を、次男は大給を相続しました。信光が松平家惣領で岩津を領しています。その長男が岩津を領したということは常識的に考えて惣領家はこの長男が相続したと考えるべきでしょう。この長男は松平親長と言われています。
系図によってはこの親長を松平親忠の長男ということにされてしまってるのですが、これに従うと幾つか矛盾を生じます。まず、三河物語の記述に沿っていないこと。そして、親長を松平親忠の長男ということにしている系図も安祥を相続した長親を惣領扱いしているのですから、「惣領」である安祥家の親忠が「分家」扱いになってしまった岩津家に長男を指し出すというのは不自然に写ります。
よって、親長を信光の長子とし、松平家惣領と見てよいと思います。惣領家が別にあるのになぜ親忠が惣領として扱われてきたかは、彼の子孫が将軍家だからという補正が一つ。もう一つは、親長が在京していてあまり三河国の面倒をみられなかったことがあるのでしょう。
寛正の額田郡一揆の時点で松平信光は還暦を過ぎております。もう、惣領は終身ですが、実務は後継に任せる時期でした。長男の親長は伊勢貞親のいる京都に出仕をしております。信光自身は隠居しつつ岩津に睨みをきかせるということろ。次男は大給をおさめました。そして、一揆勢が砦を築いた井ノ口に三男、親忠をおいたのです。その弟の正則は大庭氏のいた深溝に入りました。井ノ口は東海道を扼する拠点のひとつです。
ここは牧野氏と西郷氏が抑えていた筈ですが、大樹寺の寺伝に従うならば、この時点でどういう事情か松平親忠がいたことになります。牧野氏は東三河の国人で、根拠地が離れているという事情もあり、守護の命令による出陣なので、一揆鎮圧後にいなくても不思議ではありません。本来ならば、今の岡崎市明大寺あたりに根拠地を持っていた西郷氏の管理下に入るのが妥当なような気もします。しかしながら、西郷氏の当主であった頼嗣は応仁・文明乱中は在京していたらしく、乱後に信光に所領を横領されています。
最終的に一揆鎮圧の実働部隊を動かしたのは松平信光であり、その過程で西郷氏は井ノ口から手を引いたのかと思われます。応仁の乱の京の騒乱で政所執事も守護も三河国所ではなく、西郷家の当主も京に狩り出されていたのだろうと思われます。その後に井ノ口に入ってきたのが松平親忠ではなかったかと思っております。
その状況に品野・伊保の人々が異議を唱えたのが大樹寺の寺伝の謂う「応仁の井田野合戦」であり、松平親忠は一日半の激戦によって、品野・伊保勢の襲撃を避け、多くの戦死者を出したといいますが、大樹寺以外の史料の記述がない所をみると実際は小規模な小競り合いであったかのではないかと私は考えています。
松平親忠は井田野の戦場跡に塚を立てました。その塚は首塚もしくは千人塚とよばれ、敵味方関わりなく平等に葬ったといいます。そして、9年後の1475年(文明七)、その場所に怪異が起こったそうです。戦死者の亡霊が騒ぎ出し、塚が鳴動し、悪疫が流行ったと謂います。
品野・伊保の人々が井田野を襲った理由は大樹寺の寺伝にも書かれておらず、ここまで書いている所も全くの推測に過ぎないのですが、襲われて殺されたのならまだしも、襲って返り討ちにあった戦死者が祟りをなすというのは少し動機としては薄い気もしなくもありません。無論、人の命は何より重く、尊重されるべきとは思っております。
何故大樹寺がその事件についてその後の怪異譚を交えた記録をし、親忠は念仏堂を建てたのかについて、私見を述べます。
大樹寺創建のストーリーにとっては、千人塚に怪異があって、供養をすることで宇祢部福林寺の勢誉愚底と松平親忠と縁が出来た。そこが重要であり、千人塚がどのような経緯で出来たかは二の次なのではなかったのかと思われます。
念仏堂の場所には現在鴨田西光寺という寺が建てられておりますが、この近辺に額田郡一揆で当初、一揆勢が立てこもった井口砦がありました。三河国守護細川成之はそこに牧野出羽守と西郷六郎兵衛を遣わせて砦を攻略します。その戦場が井田野合戦のあった場所の近辺なのですね。そして、当初、松平信光の親類は一揆勢を匿っていましたが、信光の主筋である伊勢貞親の命によって一揆勢は松平党によって成敗されるに至ります。松平信光は伊勢貞親と細川成之から信光の一族親類に一揆勢を匿っている者がいると非難されているのですね。一揆勢を匿っていた松平信光の親類とは誰なのでしょうか。深溝で大庭次郎左衛門を討ったのは親忠の弟の大炊介正則でした。親忠自身にも軍事的能力があることは、後述する明応の井田野合戦を見てもあきらかです。にもかかわらず、親忠には一揆鎮圧に参加したのかどうか、そして何か戦功をあげたのかどうかは不明です。
もし、念仏堂が井田野合戦の戦死者ではなく額田郡一揆の戦死者を祀ったものであるなら、念仏堂を創建した松平親忠は一揆勢に対してある種のシンパシーを持っていたと考えられます。ひょっとしたら、松平親忠は細川成之から一揆勢を匿ったとされる松平信光の親類本人もしくはそれに極めて近い人物であるかもしれません。
一揆勢は幕府に対する謀反人として処罰されましたから、公けに慰霊することは出来なかった筈です。応仁の井田野合戦は実際は利害対立を原因とする小競り合いに過ぎなかったものを、額田郡一揆勢を慰霊するための隠れ蓑として寺伝にエピソードを残したのではないか。そんな気がします。 
大樹寺創建
さて、前回の応仁の井田野合戦から長い前振りでしたが、このエピソードが井田野合戦を祀った親忠と念仏堂で慰霊を行った勢誉愚底の二人が、念仏堂の近くに大樹寺を建てたという記述につながっているのです。
文脈から言えば怪異を起こす亡霊を慰めるほどの功徳をもった高僧が、松平親忠のために寺を建てたという図式になのでしょう。勢誉愚底は浄土宗鎮西派白旗流の弘経寺で修行し、岩津から矢作川を遡った宇祢部という地にある福林寺の住持でした。
大樹寺の創建がいつなのかについてははっきりしていません。1513年(永正十)にかかれた大樹寺格式という文書に従えば、書かれた時点で開山して三十年以上経ているとの事です。単純に考えて1483年(文明十五)以前ということになると思われます。文書上の初出はその二年後の1485年、(文明十七)年に大炊介正則による大樹寺への寄進状にあるのですが、確実なセンをもってくるなら大樹寺の寺伝の言う1485年(文明七)からこの年までの十年間のどこかということになるでしょう。
松平親忠はその時までには、安祥の城を父信光から任されております。小川の石川政康の息子の親康が彼を助けることになりました。安祥は上宮寺のある佐々木に程近いところにあり、安祥の地を治めるためには本願寺教団の協力が必要だったのでしょう。何しろ踊りを踊りながら横取りのような形でとった城ですから。
とは言え、1488年(長享二)までの松平親忠のことで確実にこうだと語れる史料はほとんどありません。まぁ、信光以前もそうだったのですが、ここから先は具体的な物証が沢山でておりますから、考察はぐっとし易くなるのですね。
本稿では松平親忠のことを「親忠」と書いておりますが、同時代史料には「親忠」と名乗ったものはありません。彼の業績を回顧した大樹寺格式が初出らしいです。同時代における名乗りは西忠という法号のみでした。その初出は1488年(長享二)、松平信光の没年です。
そして、父より岩津を継ぐ松平親長はしばしば在京し、三河を留守にしております。信光亡き西三河にいて、留守居として松平一族の土地を一所懸命に守るのが親忠、出家して西忠の仕事だったわけですね。それは言うまでもなく、岩津惣領家の名代です。その仕事を果たすための適地はどこでしょうか。松平家の勢力範囲は北は矢作川沿いの細川から南は形原、竹谷に至る広域なものです。その版図において、安祥の地はやや西に偏っていると言えるでしょう。また、惣領が在国すれば、惣領の補佐に回る必要も出てくるでしょう。出家した親忠にとって、松平一族の惣領代行としての仕事をこなすための適地は、大樹寺もしくは鴨田近辺にあった彼の元の所領ということが出来ると思います。
1489年(長享三)と1494年(明応三)10月28日に松平親忠は鴨田近辺の土地を大樹寺に寄進しています。寄進できるということはそこに親忠が差配する土地があった証拠ですし、晩年の親忠は大樹寺寺域内の坊舎、大梅軒にいたことがわかっております。
後世、歴史家は松平親忠のことを安祥松平氏の初代と言いますが、同時に鴨田松平一代であるということができるのかもしれません。 
厭離穢土欣求浄土
今回の語りだしは徳川実記にも書かれている記事から。井田野合戦の時に勢誉が親忠のために「厭離穢土欣求浄土」と白布に墨書した旗を親忠に持たせて戦わせ、戦に勝利したという話があります。話自体は、大坂の陣を扱った難波戦記のエピソードが元になっています。難波戦記というのは江戸初期にできた講談のネタ本で、軍記語りが出陣する武将達の武装を朗々と解説するくだりなんですね。当然脚色も多いのです。曰く、徳川家康が大坂夏の陣に箱におさめた旗を用意したと。そこには白布に「厭離穢土欣求浄土」と書かれた四半の旗が入っており、その由緒は桶狭間合戦で負けた家康(当時は松平元康)が大樹寺に逃げ込んだ時、追撃をくらいそうになりました。追い詰められて自刃を考えた家康を諌めた時の大樹寺の住持、登誉がこの旗を示して家康の喪失した戦意を取り戻さしめたという逸話が入ってます。この娑婆(しゃば)世界を穢(けが)れた国土(穢国)として、厭い離れ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味になります。
ネガティブに読めば、ニヒリズム漂う、厭世的な標語ですが、ポジティブに解釈すれば、現世を浄土とすべく努力せよという解釈もかのうなのですね。無論、登誉が進めたのはポジティブな意味です。そのような佳例、つまりラッキー・シンボルを縁起かつぎのために戦場に持ち込むというのはありそうな話です。三河物語にもこの旗なのかどうかはわからないのですが、「(箱に?)納めの御宝憧の御旗」という表現で出てきますから、あながち根も葉もない話とは言い切れない部分のある話です。これが江戸中期になるとどんどん脚色されていって、幕末近くに編纂された徳川実記には、この起源が井田野合戦で親忠と勢誉にありとぶち上げることになりました。徳川実記というのは江戸幕府の一応公式記録ということになっています。徳川将軍家創業の記録として公に認められたエピソードなんですが、信憑性は限りなく怪しいというところでしょう。
この脚色で言う井田野合戦とは、前に語った応仁の井田野合戦ではなく、明応年間に起こったものだと思われます。1493年(明応二)10月に、岩津からみて矢作川上流の土豪・国人達が井田野に上陸し、松平勢と合戦になりました。松平勢は親忠が率いて勝利したというのが明応の井田野合戦のあらましです。
敵勢は加茂郡伊保の三宅氏、挙母の中条氏、、寺部の鈴木氏、八草の那須氏、碧海上野の阿部氏などの加茂碧海国人連合軍です。上野は信光の婿である戸田宗光の根拠地でしたが、彼はこの地の代官職を弟に譲って、自らは知多、渥美郡の方に根拠地を移しました。その後の上野の戸田氏の消息は追えてませんが、三河湾沿岸に根拠地を移したと思われます。代わりに名前が出ている阿部氏とは、阿部満五郎といい、大将格の人物です。松平清康、広忠の代に家老となった阿部大蔵定吉と縁のある人物なのかもしれません。その根拠地となった碧海郡上野(現在の豊田市上郷)は矢作川を挟んで岩津の対岸にあるのですが、そこではなくわざわざ下流にある井田野に集結したわけですね。
ただ、よく判らないのは何で井田野に向かったかです。松平氏を相手にするとすれば、ますは岩津に向かうべきだと思います。また、この時点で松平信光は死んでおり、惣領の親長は在京しているとみえて、記録に名前が残っておりません。であるならば、親忠のいる安祥か、親貞(光重の子)のいる岡崎(現明大寺町)を狙うべきと思われるのですが、彼らは井田野に向かいました。
唯一合戦の経緯が書かれている三州八代記古伝集によれば、その結果岡崎(経由か?)から北上してきた親忠勢と南下した岩津勢の挟み撃ちにあって総崩れになったといいます。
仮にこの合戦で、加茂郡碧海郡の国人連合したとして、この後北上するのは迂遠であるように思われます。大樹寺のある井田、鴨田近辺に攻略すべき目標があったと考えるのが自然かと思います。そこは安祥に移った松平親忠の所領のある場所であり、実質的な家政はここで見られていた考えるのは穿ちすぎでしょうか。後年、永正年間に今川氏親が伊勢宗瑞(北条早雲)に西三河を攻めさせたときに真っ先に攻略したのが大樹寺でした。
この時までに松平親忠は惣領代行としての立場を固めていたと思われます。それ故、国人連合のターゲットとされたのでしょう。そして、惣領を差し押さえてこの地を統括する為に、家臣団を組織しました。その手助けをしたのが、本願寺教団です。この時点では石川親康の代になっておりますが、兄康長とはかって野寺本証寺の門徒を組織して安祥に入れました。これは佐々木上宮寺の勢力をバックアップする目的もあったかと思われます。親忠は本願寺門徒集団の力を背景に一族の中に発言権を得、それと大樹寺防衛を名目に一族の結束をとりまとめました。親忠の死の直後に出された一族の連判状に大樹寺を結束して守ることが誓われています。親忠は庶流の立場で一族をとりまとめ、同時に他宗派の力を借りながら全体を大きく見せるという離れ業を演じました。極めて政治的な力量に優れた人物だと言えるでしょう。冒頭の「厭離穢土欣求浄土」のエピソードはこの井田野合戦において、大樹寺近辺が守られるべき重要拠点であったこと、その出典が源信の往生要集にあり、法然・親鸞に共通する教えであることも踏まえた後世の史家達が付会したものだったのだと想像します。 
魂魄野
現在、松平親忠の墓は大樹寺域内にあるのですが、本来の葬地は井田野合戦の戦没者を祀った魂魄野にあったそうです。今の墓所は江戸時代に入り、大樹寺が改修され、松平歴代の墓が整備された時のものらしい。当然、徳川将軍家の意向に沿うものでしょう。井田野合戦の戦没者を祀った千人塚のあった場所で、念仏堂が建てられた場所であることは重要な点かと思います。
大樹寺には松平親忠の遺言状が残されているのですけど、この文書は親忠の性格を示すものなのか、大変細かい記載でに満ちております。自分が死んだら一族を大樹寺に集めることから始まって中陰の法事を何日間にするのか、初七日、四十九日の法要、百か日の法要と事細かに記されています。寺側が用意したテンプレートに沿ったものかもしれませんが、それぞれの儀式には一族の誰を呼んで、いつ返すべきなのかとか、この遺言は一族の誰に披瀝しておくべきかを端裏に書いてあって、単純なテンプレの適用ではなく、親忠本人による実に用意周到な心配りがなされていることがうかがえます。この細かさは徳川初代将軍家康の遺言に匹敵するかと思われます。
但し親忠の遺言には家康のそれと比較して大きな違いがあります。それは埋葬地をどこにするのかについて何も書かれていないことです。家康の場合、遺体は久能山。葬儀は芝・増上寺。位牌は大樹寺。一周忌が過ぎたら日光山に小さい堂を建てて祀ること。自分は関八州の鎮守になる。という風に自分の埋葬のされ方まで事細かに述べています。
親忠の場合は普通に読めば大樹寺の寺内としか解釈できないのですが、実際には魂魄野に葬られています。井田野合戦ゆかりの場所に葬るのだとすれば、そこには親忠の明確な意思があったはずと思料します。実に細やかな、執行する側にとっては煩わしくすらある遺言に埋葬地についての記載がありません。そこはおそらくもと千人塚のあった念仏堂が建てられた西光寺だったと思われます。当時の寺域は今よりも大きいかもしれませんので、西光寺もまた大樹寺の域内だったとも考えられます。しかしながら、そこは井田野合戦(真意は額田郡一揆だったと私は考えています)の戦死者の亡霊が祀られた場所なのですね。親忠という個人を祀るには余り適切だとも思えません。
親忠が魂魄野に葬られた意味は二つ考えられると思います。一つは、親忠自身の戦死者に対するシンパシーです。前にも書いたとおり、親忠には額田郡一揆をかばった可能性があります。にもかかわらず、父信光は一揆勢を裏切って掃討にかかりました。その負い目が親忠をして、そこに葬らせたという可能性です。
もう一つは、自らが祭られることにより、その地に災いをなす怨霊・悪神の類を鎮める鎮守の神となるという発想です。日光東照宮には、主神である東照大権現、すなわち徳川家康の傍らに源頼朝と豊臣秀吉が祀られています。家康は生前、豊臣家の社稷であり、豊臣秀吉を祀った豊国大明神を破却しました。そのような行為は悪縁を招きかねないのですが、日光東照宮にともに祀ることによって、慰霊をなしたのですね。
もし、額田郡一揆勢への弔意によるものだとすれば、それは文書に残せないものだったでしょう。彼らは反逆者として処刑されたのですから。また、井田野合戦のようにいつ周囲の諸族が侵入するのかわからない状況です。その為に遺族に一族一揆を組ませ、大樹寺に一丁事あれば防衛する取り決めを結んだのでしょう。
ただ後者もありだとは思います。それは親忠の生前の意志よりも、遺族達の繁栄のための方にウェイトがかかった動機です。井田野はそれまで何度も侵攻を受けていました。その禍の地を親忠を祀ることによって災厄を避けようという発想です。井田野は親忠の代だけではなく、その後も幾度か戦場となっております。親忠の子の長親の代にも井田野の戦いは起こりました。この時、大樹寺も戦場となり占領され、破壊されております。その戦後再建を果たした時に書き遺された文書が「大樹寺格式」です。所謂大樹寺開山の事情はこの文書に拠っております。三河物語は今まで語ってきた額田郡一揆、応仁の井田野合戦、明応の井田野合戦については言及しておりません。長親の代の井田野合戦になって初めて触れているのですね。この合戦につきましては次項で少し触れます。
いずれにせよ、魂魄野に葬られたということは故人の意思があったはずです。にもかかわらず、遺言状にはそのことが一言も触れられていないのですね。これが他の人物なら気にしないのですが、葬儀・供養の仕方を極めて微細に書き残した人物が自らの葬地に何の言及もしていないというのは信じがたい。それもまた大樹寺をめぐる不思議の一つだと思います。 
永正三河乱
永正年間ともなると、もう戦国時代真っ只中です。応仁の乱以後、京がどうなったかざっと触れます。細川勝元と山名宗全が死に、将軍家後継候補であった足利義視が都から退転することによって、応仁・文明の乱は終了します。地方に戦火は飛び火したものの、細川勝元を継いだ政元が足利義尚を奉じた体制を作り、実質的に京は東軍が制した形になりました。戦後復興、秩序回復のために足利義尚は征討の軍を催したのですが、近江国鈎(まがり)にて急死します。この突然死によって政局はまた混乱しました。事態の収拾を図った細川政元と日野富子は窮余の一策として、流亡中の足利義視の子、義材を将軍に擁立することにしました。極めて政治的な判断ですが応仁文明の乱以後の大混乱を鑑みるに、無定見の謗りは免れないでしょう。義視も京都にもどって義材を後見しました。しかし、細川政元・日野富子との関係修復は結局失敗に帰し、まもなく細川政元がクーデターを起こして、義視・義材の二人を追放しました。これを明応の政変といい、歴史研究者の中には応仁の乱ではなく、この政変をもって戦国時代の開幕をいう人もいます。時に、1493年(明応二)。明応の井田野合戦はこの年に起こっており、明応の政変との関連に言及する研究者の方もいらっしゃいますが、関係性については別稿でふれます。
戦国時代とそうではない時代の違いは何か。在野の有力者が勝手に軍を催し、近隣領主の領土を蚕食しても咎め立てる権威はすでに存在しないということです。寛正の額田郡一揆では管領畠山氏が狼藉を咎め、細川成之が討伐軍を送って一揆勢の籠る砦を陥としています。しかし、もはやそうした制限はありません。故に、各国の有力者は力を蓄え自立し、他国に侵攻して自らの勢力を大きくしてゆきます。この有力者たちのことを戦国大名と呼びます。
戦国大名として初めて三河国に侵攻した外勢は駿河の今川氏親でした。彼は応仁文明の乱中に起こった家督相続争いに勝ち残り、斯波義敏が守護だった遠江国を奪取します。氏親の相続争いから外征を主導したのは伊勢宗瑞。後の北条早雲です。松平信光、戸田宗光の主君である伊勢貞親の一族で、貞親・貞宗の意をうけて、細川政元派強化のために今川氏の家督争いに介入し、そのまま氏親の軍師として采配を振るっておりました。この氏親・宗瑞に接近したのが戸田憲光(戸田宗光の子)。彼は東三河吉田(豊橋市)を根拠とした牧野古白と対立しており、今川氏の支援を受けてここを攻め落としました。時に1508年(永正三)。
東三河の有力者である牧野氏を攻略したそしてその次のターゲットが松平一族でした。牧野氏を攻略した今川氏親は伊勢宗瑞を先鋒に、東三河国人勢、遠江勢、そして三浦、朝比奈、瀬名、岡部、山田ら今川旗下の部将が西進しました。北方からは奥平氏が呼応して南進したといいます。かれらは乙川の対岸に岡崎への押さえをのこして大樹寺を占拠。そこを根城に岩津を攻めました。その救援に向かったのが安祥の松平長親です。彼は手勢五百を率いて矢作川を渡り、井田野に充満する今川勢と戦いました。戦闘は丸一日続き、夜半に入ったので、長親勢は矢作川対岸に引き上げました。この戦いを永正の井田野合戦といいます。
この後の展開が極めて判りにくいのですが、この戦いの後、伊勢宗瑞は軍を引きます。戸田氏が背反の動きをみせたとか、言われていますが結果として松平一族は生き残りました。ただ、少なからずダメージは残っていたものと思われます。今川勢は岩津を攻めたと言っておりますが、ここで岩津を守った惣領の名前は記録に現れていません。その前の牧野古白を討ち取った今川氏も牧野一族を全滅させたわけではなく、松平攻めに生き残った牧野一族の者を帯同させております。ここで岩津の惣領が討ち取られた可能性があると仰る研究者の方もおられます。三河物語はこの合戦は松平方の勝利で、この後三河国の者で長親に逆らうものはいなくなったと言っておりますので、惣領である岩津家は回復不能なダメージを負ったと考えていいのかもしれません。
大樹寺は今川勢に占拠され大破したといいます。その復興を行ったのは開山の勢誉と大樹寺三世の住持となった雲誉でした。勢誉は今川勢が三河国に侵攻していた頃、知恩院二十三世住持となり、在京していたのです。勢誉が知恩院住持として在京していた事情については、次項にまわすとして、大樹寺開山のエピソードが日付が付いた文書で出てきたのが、1513年(永正十)7月10日付けの「大樹寺格式」です。これが初めてなのです。
ここには応仁の井田野合戦の亡霊の話は出て来ず、あくまでも松平親忠の菩提を弔うための寺であること、松平親忠の子孫はこの寺に帰依することが勢誉、雲誉、長親、信忠の署名付きで書かれています。しかしながらこれをもって、応仁、もしくは明応の井田野合戦と大樹寺は関係ないと判断するのは早計ではないかと思うのです。
大樹寺は永正の井田野合戦で破壊された寺を復興させたものです。その戦いが三河物語が言うような「勝利」でないとすれば、復興のありようは勝者である今川氏に配慮したものになるのではないでしょうか。
この後、今川家でお家騒動があり、三河国における今川氏の影響力は著しく下がります。大樹寺の寺伝に残る井田野合戦とその戦死者を祀った話はその文脈で語られたものなのではないかと思われます。そでも遠慮があったのか、祀った対象は永正の井田野合戦ではなく、応仁の井田野合戦の戦死者の話に振りかえられています。しかし、このエピソードがアピールする所は井田野を守れる者は惣領である岩津松平家ではなく、安祥松平家であることであり、安祥松平氏を中心に一族の結束すべきと呼びかけたものになるでしょう。その真なる対象は言うまでもなく、駿河の今川氏です。今川氏にとってあまり面白くない話ですし、律儀な三河人に伝わる伝承であるなら、そういうところに配慮された、というのは十二分に考えられると思います。 
考察
以下、個人的な妄想です。所々に根拠が全くないセンテンスがあって、考察とは呼べないものですが、大樹寺開山の経緯を自分なりに考えて見ました。
自分は親忠は額田郡一揆の衆に深いつながりをもっていて、親忠は井ノ口砦陥落後に彼らを匿ったのではないかと思ってます。井ノ口で行われている事業、それは多分流通なのだと思うのですが、そこに親忠自身も携わっていた。それ故、一揆勢の言い分も理解できたし、一揆鎮圧後井ノ口あたりの支配を任されたのではないかと思います。松平一族は結局守護・政所執事側について一揆鎮圧をしましたが、それは親忠の負い目になったのではないでしょうか。だから、親忠は塚や堂をたて、勢誉に供養をさせました。
勢誉は、親忠の依頼を受けて念仏堂(後の西光寺)を建てますが、関東で修行をしていた彼が三河国にいる目的は西三河に浄土宗鎮西義白旗流の布教拠点を作れと、出身寺院である弘経寺から要請されていたのだと思います。念仏堂のような慰霊の為の施設ではなく、蓮如が土呂に建てた本宗寺のような本格的布教拠点です。
すでに岩津松平家には勢誉愚底の同門の釈誉存冏が入り込んで信光明寺を作っておりました。しかし、別に浄土宗西山深草派の妙心寺の大旦那も兼ねているなどしていて、どっちつかずの感じがあります。後に両方の寺に願文を奉じ、一族・子孫に「浄土の真宗(妙心寺願文)」もしくは「浄土宗門(信光明寺願文)」に帰依させると書いております。両方とも浄土宗の寺ですが、どちらの宗旨の事を言っているのかわからないですよね。鎮西派?西山派?はたまた浄土真宗である可能性すらあります。
そこで、勢誉は親忠に働きかけたのでしょう。但し、惣領の岩津松平家は嫡男親長が在京とはいえ、入道信光が岩津にいてあまり目立ったことはできません。そこで親忠の鴨田の屋敷内に草庵を作ってもらったのが大樹寺の始まりなのではないかと思います。親忠は間もなく安祥の城を譲られましたが、鴨田の屋敷はそのまま使っていたのでしょう。
信光が死んだ後も、親長が三河に戻ってきた形跡はありません。親忠は兄の名代として家の経営を行うことになりました。このときまでに親忠は出家をして西忠と名乗っています。おそらくは信光が老齢のため、実質的に家の経営ができなくなった頃にすでに出家をしていたのでしょう。あくまで自ら与えられた家政を任せられた者としての権限の中で。親忠の遺言状に見られる律儀さを考えると、それくらいの慎重さはあるように思われます。もちろん、剃髪は大樹寺で行いその為の寺として認めさせた。それゆえ、大樹寺文書は実質的に文明十七年以降の文書しか残っていないのです。(1460年(長禄四)付の文書はあるものの、その文書は直接的に大樹寺には絡んでいないもので、大樹寺の寺号は記されておりません)
彼の発心の動機は額田郡一揆の戦没者の慰霊。額田郡一揆の首謀者達は室町殿に対する反逆者として処罰された人々です。それ故彼らのことを公に取り上げれば、親忠はそこで何をやっていたのかが問われかねない。(このあたりのくだりは妄想が激しくなっておりますのでご注意ください)
額田郡一揆の武力鎮圧は事態の根本的な解決には至りませんでした。それ故、応仁と明応(もしかしたらどちらか一回だけかもしれません)に周辺の土豪・国人が井田野を襲いました。彼らが岩津や安祥を襲わず、井田野に入ったのはそこに攻略目標があったからでしょう。それは、実質的に松平家の家政を司った松平入道西忠の屋敷としか自分には思いつきません。但し、それはそれほど大規模なものではなかったと思います。三河物語はじめ多くの史書が額田郡一揆や応仁・明応の井田野合戦をスルーしておりますから。(そんな中で徳川家康の厭離穢土欣求浄土旗を巡る話が親忠の井田野合戦を取り上げているのは本筋とは離れた部分で興味深いのですが)
自らの埋葬地を(私の妄想の中では)額田郡一揆の戦没者の眠る魂魄野に指定したのは、親忠の意思だったと思います。しかし、それを遺言状に書かなかったのは、やはり額田郡一揆縁の場であることを遠慮したためだと思います。大樹寺に置かれたのは位牌でした。その事は1501年(文亀元)の松平一族連署禁制に明記されています。大樹寺は親忠死後の大樹寺の保全を求め、それに応えたのがこの文書です。親忠の後を継いだ息子の長親は相続後間もなく出家して家督を信忠に譲っております。これもまた、想像ですが、親忠が鴨田にいる間は、長親が安祥を守っていたのではないかと思います。それ故、親忠の死後自らが出家し、鴨田の屋敷に入りました。松平一族連署禁制と物々しい文書名がつけられていますが、ここに書かれているのは、大樹寺は親忠の「位牌所」だから狼藉するなということと、狼藉者は松平一族で処罰することを簡単に約した文書です。この文書の署名者は岩津家をはじめとする三河在国の松平諸家(但し惣領は不在)の人々であり、長親・信忠ら安祥家の者の名前はありません。これは安祥松平氏の鴨田の拠点が大樹寺とほぼ重なっていることを意味しているのではないかと思います。
親忠死後は長親が大樹寺に入り、信忠が安祥を担当する形になっていたのではないかと思います。親忠も自らの死後、隙を作るといけないので初七日が終わったら信忠は安祥に帰れと言い残していますので、そういった役割分担だったのでしょう。
ただし、この細やかな対応も圧倒的な今川勢の侵攻によって覆されます。圧倒的な兵力で攻め込まれ、大樹寺は占領されてしまいます。長親も安祥勢を率いて抵抗しますが、結局岩津惣領家に壊滅的な打撃を受けてしまいました。ただ、運の良いことに、今川勢は叩くだけ叩いて引き上げたということです。もちろん、何らかの条件を残していったと思います。
勝者による幾つかの制限の中で、大樹寺を復興させました。しかし、昔日の松平一族ではありません。惣領家による統制が失われたという現実に安祥松平の長親・信忠は対応せねばなりません。そこで、長親は大樹寺を復興させました。既に岩津惣領家は力を失っております。故にこの寺は安祥松平親忠の菩提寺であることを堂々と宣言できるようになりました。
それだけではありません、長親と信忠の署名のあるこの大樹寺格式という文書では、親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。信光の願文における「浄土の真宗」、「浄土宗門」といった曖昧な書き方ではないことに注目して欲しいのです。長親は一族統制の中心地として大樹寺を利用しようとしたわけです。そのために必要としたのは井田野を防衛しきった英雄の物語です。それに成功した親忠を寺伝の中で顕彰することで、安祥松平家の権威を高めようとしたのではないか。そんな風に考えております。
ここまで大樹寺を取り上げてきましたが、結局の所「将軍」寺となってしまうような寺号の事情がつかめなかったのは残念です。今後の研究課題にしてゆきたいと思います。但し、大樹を菩提樹からとったという説は少し信じがたい。というのは、菩提樹の木の下で悟りを開いたのはゴータマシッダールタ、釈迦如来だからです。大樹寺の宗旨は浄土宗であり、開山の勢誉は知恩院二十三世住持まで勤めた浄土宗の僧であり、宗旨替えの形跡も見られません。そして、浄土宗の本尊は阿弥陀如来です。浄土宗で釈迦如来を排斥しているわけではないでしょうが、寺号は教義にちなんだものか、大旦那の意向が反映されるのが通常のパターンです。いかなる事情があるのかについてはおりに触れて調べてゆきたいと思います。 
超誉存牛
本編の最後に、浄土宗の開祖法然から、大樹寺開山の勢誉、そして松平親忠の子である超誉存牛に繋がる法脈を紹介します。間違っている所も多々あるかもしれませんが、その辺はご容赦の程。
法然/弁長(鎮西派)/良忠/良暁寂慧(白旗流)/仏蓮社良誉定慧/蓮勝永慶(常陸国太田法然寺)/酉蓮社了誉聖冏/嘆誉良肇(飯沼弘経寺)/周誉珠琳(知恩院二十二世、新知恩院)/慶善了暁/勢誉愚底(大樹寺、知恩院二十三世)/大蓮社酉誉聖聡(増上寺)/釈誉存冏(増上寺、信光明寺)/肇誉訓公(信光明寺、知恩院二十四世)/超誉存牛(信光明寺、知恩院二十五世)
法然は親鸞はじめ、多数の弟子を育てました。そのうち、最終的に浄土宗の主流となったのは弁長系の鎮西派でした。弁長は他の弟子たちが京都で活躍したのに対し、九州に布教の拠点を求めました。西に布教に行ったから鎮西派なんですね、多分。同じやり方で親鸞系の浄土真宗も強力な教団に成長しましたからこの戦略は結果として正しかったのでしょう。
弁長の弟子良忠は関東に布教活動を行いました。総じて関東は熱心な信徒が多いみたいですね。真宗の仏光寺派ももともとは関東の門徒達が都で活動したことを端に発していますし、日蓮の布教も関東中心でした。
良忠は関東の有力御家人の千葉氏の庇護を受けて布教に励み、多くの弟子を育てました。鎮西派の中から幾つかの分派をだしています。弟子の良暁寂慧は白旗流という分派をうみだしました。他には木幡流、三条流、一条流、藤田流、名越流などがあります。白旗流はこの後蓮勝永慶、酉蓮社了誉聖冏と続きます。了誉聖冏は鎮西派の教義を整備したと言われております。彼の弟子、嘆誉良肇が飯沼弘経寺を、大蓮社酉誉聖聡が増上寺を建てました。飯沼弘経寺は常陸国にあり、多くの優れた僧侶を育てた寺院で、開山の嘆誉良肇の弟子、周誉珠琳がついに浄土宗鎮西派白旗流の京都進出を果たし、知恩院二十二世住持になりました。但し、この頃の知恩院は法然の廟所をもととした寺院として尊重されてはおりましたが、現在のような浄土宗総本山という位置づけではありません。さらに悪いことに、それからしばらくして勃発した応仁の乱によって、東山大谷に会った知恩院は焼失してしまいます。周誉珠琳は寺宝を琵琶湖をみおろす近江国伊香立に避難させました。その地に現在は、新知恩院という名の寺院が立っております。その伊香立という土地のすぐそばに堅田という港町があります。周誉珠琳が伊香立に移った前後に、比叡山延暦寺が堅田の土地を焼き払うのですね。堅田は本願寺教団と縁が深く、大谷を追い出された蓮如を匿ったりしていて比叡山延暦寺には目の上のたんこぶのような存在でした。その堅田の者が室町殿の荷を横領したとかという事件がおきて、幕命により比叡山延暦寺が堅田を攻めたのです。堅田衆は琵琶湖の湖上流通を一手に引き受けておりましたから、おそらくこれによって湖上水運は大混乱に陥ったと思います。
避難先で騒動にあって周誉珠琳はさぞや困ったことだろうと思いますが、他に確実に困っていただろう者もこれまでの話の中で出しております。在京の松平氏。北近江の菅浦・大浦の代官を勤める松平益親と勝親親子です。このあたりは完全に想像ですが、ここで周誉珠琳と松平益親らが接触することによって、三河国における浄土宗鎮西派白旗流の勢力が大きく増したのではないかと思います。というのは、周誉珠琳は京を焼け出されましたが、復帰するためにスポンサーを欲していました。それに選ばれたのが松平一族だったのではないでしょうか。
後に知恩院二十三世住持となった勢誉愚底にとって周誉珠琳は師の兄弟弟子に当たります。松平親忠から知恩院の復興資金が勢誉愚底経由で周誉珠琳に渡っていたとすれば、京から遠く離れた三河にいる勢誉愚底に知恩院住持後継の話がふって湧いてもおかしくありません。
釈誉存冏も飯沼弘経寺で修行をしていた時期があったようです。彼は早い段階で松平信光を大旦那にして信光明寺を建ててました。但し、信光の宗旨に対するスタンスはいささか怪しいものです。そこで、浄土宗鎮西派白旗流に心のある親忠の息子、超誉存牛を信光明寺に入れました。彼は後に知恩院二十五世住持になりますが、彼に英才教育を施し、知恩院の住持にすることによって松平惣領家からの支援も強化しようという意図があったと思うのはかんぐりすぎでしょうか。
知恩院の住持となった超誉存牛は時の帝の厚い帰依を受けたと言われております。そして、本編の最初に触れたとおり、浄土宗総本山をどこにするのかという論争がおきました。この時、知恩院を推したのは朝廷の方でしたから、超誉存牛がいかに厚い信頼を得ていたかということを窺えると思います。 
 
山科本願寺 / 蓮如死後の本願寺教団と一向一揆の概略

 

蓮如を継ぐ者
本編では蓮如死後の本願寺教団の動きを見てゆきたいと思います。応仁の乱以後、天下は麻の如く乱れまくります。教科書なんかでは応仁の乱から織田信長の登場まで一気にすっとばすのですが、ここではきちんと追ゆく、というのが本編の趣旨です。但し、この時代の流れは実に複雑かつ脆いものです。誰かが実権を握ったと思えばあっという間に別の誰かに奪われる。はっきり言って一つの流れにまとめて記述するのは私にはムリです。
そこで本稿では実如と蓮淳という二人の僧を中心に見てまいります。実如は蓮如の後を継いで第九代留守職になった人物です。そして、蓮淳は実如の弟で、実如と実如の後継である証如の補佐役を務めた人物です。
ある意味蓮如の布教は上手く行過ぎていました。それだけに、周囲の風当たりも強く、様々な軋轢が各地にばら撒かれております。そんな中で二人の指導者の前に引き継がれたのは、山科本願寺を中心とするあまりにも巨大な教団でした。蓮如の後を継ぐ者として彼らが選んだ道は、下克上のプレイヤーとして戦国大名そのものになるきること。教団を徹底的に組織化して一揆衆の暴走を防ぐことでした。それと引き替えに何を得て何を失ったのかを描き出せればいいな、と思っております。
1474年(文明六)越前国吉崎の一向一揆勢、富樫政親に加勢。富樫幸千代を倒す。
1483年(文明十五)山科本願寺の落成。
1488年(長享二)富樫政親、加賀の一向一揆勢に討たれる。
1499年(明応八)蓮如、山科にて入滅。
1505年(永正二)畠山・朝倉氏、反細川政元で挙兵。実如、細川政元に味方する。
石山御坊にいる蓮如の妻の蓮能、実賢を立てて実如排斥運動をする。
1506年(永正三)大阪一乱。実如、蓮能・実賢らを追放。
吉崎御坊、朝倉氏により破却。廃坊となる。
1507年(永正四)細川政元暗殺される。実如、近江国堅田本福寺に避難。
1518年(永正十五)実如、本覚寺蓮恵、本福寺明宗を破門。
1521年(永正十八)本願寺法嗣円如(実如の子)死去。円如の子、証如が法嗣になる。
1523年(大永三)教行寺蓮芸、称徳寺実賢(蓮能の子)死去。
1525年(大永五)実如死去。顕証寺の蓮淳が証如の後見をする。
1527年(大永七)蓮淳、本福寺明宗に対して二度目の破門。信者の引き抜き争いによる。
細川晴元、細川高国に対して蜂起。本願寺、晴元に加勢する。
超勝寺実顕と下間頼秀、北陸の細川高国派荘園を占拠。
1531年(享禄四)5月高国派荘園の利害に絡み、北陸三ヶ寺、超勝寺実顕の討伐令を出す。
6月本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令を出す。(大小一揆)
9月手取川合戦。北陸三ヶ寺+朝倉宗滴連合軍、本願寺勢を破る。
11月津幡の戦い。北陸三ヶ寺陥落。
1532年(天文元)蓮淳、本福寺明宗に対して三度目の破門。
6月本願寺、畠山義堯と三好元長を討ち、堺公方足利義維を四国に追放。
一向一揆、奈良侵入。興福寺等を破却。
(後に奈良永代禁制を受入る破目になる)
8月法華一揆+六角連合軍、京都諸寺院並びに山科本願寺を破却。
証如、石山本願寺に篭城。富田教行寺陥落。石山本願寺包囲される。
1535年(天文四)石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
1540年(天文九)本福寺明宗、72歳で餓死。本福寺、称徳寺(慈敬寺)の末寺になる。
1546年(天文十五)加賀国尾山御坊建立
1550年(天文十九)蓮淳死去。
1554年(天文二十三)証如死去
鳥瞰 / 戦国バトルロワイヤルズ
前編にて応仁・文明から永正までの三河国の歴史を一気に飛ばしましたので、ここらで京都の動性を権力の所在を中心として簡単に触れてゆきたいと思います。書いていていやになるくらいに泥縄的展開になっております。
応仁・文明の乱(1467〜1478)
山名宗全と細川勝元の戦いでした。将軍家は足利義視と足利義尚の争い。組んづ解れつした挙句、山名・細川は両当事者は退場。残ったのは将軍足利義尚、日野富子、細川政元、そして東軍で戦った人々でした。
鉤の陣(1487年〜1489)長享元年〜三年
将軍に就任した足利義尚は荒廃した京を建て直し、有力御家人達の統制を取る必要が生じていました。守護大名達の権威は地に落ち、上も下も所領横領がはびこっていました。権威回復のため、最初の標的にしたのが南近江の六角高頼。彼は将軍家の領地を横領していました。ところが、その在陣中に足利義尚本人が病死。結果として将軍権力の低下を招きました。
足利義材の第一次将軍就任(1490年〜1493)延徳2年〜明応2年
足利義尚急死によって空位となった将軍職を管領細川政元と日野富子が相談して、応仁の乱によって将軍になれなかった足利義視の子、義材を将軍職に就ける。義視は大御所として君臨しますが、一年位で死去。細川政元はストレスの多い生活を強いられる。
明応の政変(1493)明応2年
とうとうキレた細川政元は将軍足利義材が河内遠征中にクーデターを起こします。そして、足利政知の子、義澄を将軍に据えて実権を握ります。足利義材は一度細川派に捕まりますが、後に脱出。諸国浪々の日々を強いられることになります。
細川政元の暗殺(1507)永正四年
細川政元は政治的にはやり手ですが、変人でもありました。修験道、仙道に深い関心を持ち、自らに不犯戒を課します。不犯戒というのは異性と性交渉を持たない戒めのことで、仏教や修験道の修行の一つです。親鸞の浄土真宗とは間逆の発想ですね。そのせいで、彼には実子がおりません。故に三人の養子をもちました。関白九条政基の末子・細川澄之、阿波守護家出身の細川澄元、備中守護家出身の細川高国の三人です。このうちの阿波守護家というのは、三河守護をやったことのある細川成之のことです。
で、この三人が家督相続争いを始めるのですが、その中の澄之が先走った行動にでます。家臣に養父政元を暗殺させてクーデターを決行しました。しかし、これは残り二人を結束させる結果となり、逆に殺されてしまいます。細川家の家督は阿波守護家出身の細川澄元が継ぐ事になりますが、事態はそれだけでは収まりませんでした。
足利義植(義材)の第二次将軍就任(1508年〜1521)永正五年〜大永元年
細川政元の死を好期とした足利義材は周防の大内義興を後ろ盾に上洛戦争を仕掛ける。この急場に細川澄元と同盟を結んだはずの細川高国が足利義材側について、足利義澄と細川澄元は阿波に落ち延びます。
細川高国の執政(1521年〜1527)大永元年〜大永七年
復帰後の足利義材(義植)は大内義興と細川高国の両輪に支えられておりました。しかし、大内義興の地盤である中国地方が新興の尼子氏によって蚕食されはじめ、1518年(永正15)に大内義興は周防に戻ります。細川高国はそのまま足利義材(改名して義植)とうまくやればよかったのですが、ここで細川高国は二度目の裏切りを行います。自分達が追放した足利義澄の息子の義晴を奉じ、足利義材(義植)を追い出しました。
どうも細川高国は裏切りを重ねているせいか、不人気です。1527年(大永七)丹波の波多野氏が阿波に落ち延びた細川澄元の子、細川晴元と連携し京都から足利義晴と細川高国を追い出しました。足利義晴は近江坂本に逃れましたが、細川晴元は上洛せず、義晴の弟、義維を公方として堺に御所を置きました。天下に二人の公方があり、京に将軍不在の異常事態です。細川高国は細川晴元と抗争し、1531年(享禄四)に細川晴元の家臣三好元長の手により討ち取られました。
細川晴元の執政(1531年〜1549)享禄四年〜天文十八年
細川晴元は使える者はなんでも使い、使い捨てるのも早いという印象です。1531年(享禄四)三好元長に細川高国を討ち取らせると、今度は彼は本願寺教団と結び、功臣三好元長を殺害します。さらに近江国坂本に逃れた足利義晴と結んで、堺公方足利義維を切り捨てました。
本願寺教団の一向一揆は暴走したため、細川政元は法華宗・六角定頼と組んでこれに弾圧を加え、山科本願寺を破却します。本願寺側はこれを天文の錯乱(1532年・天文元)と呼びます。その後足利義晴を京に呼び戻し幕府の体裁を整えましたが、この時点で足利義晴はお飾りに過ぎません。そして比叡山と組んで法華宗の諸寺院を焼き払いました。これを日蓮宗(法華宗)側は天文法難(1536年・天文五)と呼びます。
1543年(天文十二)に細川高国の養子、氏綱が打倒細川晴元を打ち出して挙兵すると、周辺大名やあろう事か足利義晴の支持まで受けます。細川晴元はこの主人を追い出したり呼び戻したりして政権の維持に努めますが、結局1549年(天文十八)に家臣の三好長慶の離反を招き、足利義晴らとともに近江国坂本に逃れます。
三好長慶政権(1549年〜1564)天文18年〜永禄7年
三好長慶によって細川氏綱は煮られた走狗になりました。氏綱は一応管領の地位は得たのですが、政治に口出しは許されませんでした。三好長慶本人は実に有能な人物で、堺など、畿内各所に有能な弟たちを配置し、畿内という限定的な領域でしたが纏め上げることに成功しました。但し、これは三好長慶と彼を支える一門衆の個人的な力量に支えられたものでした。1561年(永禄四)に十河一存、1562年(永禄五)に三好義賢、1563年(永禄6)に三好義興と次々と親類が死に、その翌年弟の安宅冬康を讒言で誅殺したあと、長慶も病死します。
松永・三好三人衆政権(1564年〜1568)永禄7年〜永禄十一年
三好長慶の家督は三好義継が継ぎましたが、十三歳の少年に過ぎず、家宰の松永久秀と一門の三好三人衆が支えることになりました。言ってみれば傀儡です。将軍足利義輝は長慶の時代に和睦して京に戻っておりましたが、これを好期に将軍権力の回復を策します。しかし、先手を打たれて殺害されました。1565年(永禄八)のことです。やむを得ず、堺公方足利義維の子息義栄を擁立することにします。その時に義輝の兄であり、出家させられていた義尋が京を脱出して織田信長に保護を求め、義昭と改名して上洛戦争を始めました。足利義栄は摂津富田まで来るには来たものの、京では肝心要の松永久秀と三好三人衆が抗争を始める始末です。
そうこうするうちに足利義昭は先に上洛を果たし、松永は織田信長に服して三好三人衆は四国に落ち延びました。足利義栄も間もなく病死し、織田信長の政権が始まることになります。 
本願寺八世の五人の妻
蓮如の系図を以下に示します。女系は重要なものを除いて省略です。蓮如はその生涯において、五人の妻との間に十三男十四女をもうけました。蓮如は長命でしたし、子福者だったということでしょう。
蓮如(本願寺八世)/順如(顕証寺)/蓮乗(本泉寺)/如了(伊勢貞房娘)/蓮綱(松岡寺)/蓮誓(光教寺)/実如(九世)/円如/証如(十世)/蓮祐(伊勢貞房娘)/蓮淳(顕証寺)/如勝/蓮悟(本泉寺)/実円(本宗寺)/蓮芸(教行寺)/宗如/実賢/実悟(本泉寺蓮悟養子)/蓮能(畠山政栄娘)/実順/実孝/実従
妻子のプロファイルを紹介します。
第一夫人の如了は政所執事を務めた伊勢貞親の一族の伊勢貞房の娘で、順如、連乗、蓮綱、蓮誓を生みました。順如は嫡男でしたが、父蓮如が比叡山延暦寺との抗争に負けたことにより廃嫡、近江国大津の顕証寺の住持に親鸞の祖像管理者としておさまります。この廃嫡は後の混乱の中でなかったことになるのですが、蓮如よりも先に亡くなったため、本願寺教団法主の継職はせずじまいでした。残る連乗、蓮綱、蓮誓は蓮如が応仁・文明の乱中の活動拠点とした越前国吉崎の隣国、加賀国の拠点となる三つの寺の住持になりました。連乗は本泉寺、蓮綱は松岡寺、蓮誓は光教寺です。この三つの寺院を総称して加賀三ヶ寺と言います。このうちの松岡寺、本泉寺は光教寺よりも格上らしく、この二寺のみを両御山と呼ぶこともあるそうです。
第二夫人の蓮祐も伊勢貞房の娘です。彼女は実如、蓮淳、蓮悟を生みました。実如は順如の早世により、本願寺九世法主になります。彼は三河国で一時本宗寺の住持を務め、それを息子の実円に譲っております。その弟の蓮淳は順如亡き後の顕証寺、それから後に織田信長との合戦の地として有名になる願証寺の住持になりました。実如と並んで本編で詳しく描く人物です。その弟、蓮悟は蓮乗の後に本泉寺の住持になります。のちに、この加賀三ヶ寺は蓮淳と彼が擁する証如と対立することになります。
第三夫人の如勝には男子はおらず、第四夫人宗如は摂津国富田教行寺の住持になる蓮芸を生みました。
第五夫人の蓮能は能登国の畠山政栄の娘です。畠山政栄は河内守護の畠山義就、政長の一族であり摂津国石山御坊に子供たちと住んでおりました。子供はそれぞれ実賢、実悟、実順、実孝、実従の五名で、実悟は蓮悟の養子として本泉寺に入っております。蓮能はその血縁関係により、畠山氏が支配する河内国に深く良好な関係を持っておりました。
蓮如の子供たちが拠点としたのは、本山である山城国山科本願寺、近江国顕証寺、加賀国本泉寺、松岡寺、光教寺、三河国本宗寺、摂津国石山御坊、教行寺の各寺院です。それぞれの寺院にはそれぞれのしがらみがあり、そういうものを超えて教団運営をしなければならないのですから実に大変なことだったでしょう。これらの寺院のほかに近江国本福寺や、越前国超勝寺、本覚寺、三河国上宮寺など蓮如を時には援け、庇って教団の反映を築いてきた関係寺院があるのです。蓮如の死後、山科本願寺を譲られた本願寺九世実如がしなければならなかったことはそれら寺院の統制でした。 
大坂一乱
後世という安全圏からの無責任な評価ですが、細川政元という政治家はつくづくセンスを欠いております。父勝元が応仁の乱で築いた優勢勝ちを結局無に帰してしまったのですから。彼は日野富子を味方につけ、将軍足利義尚のもとで事実上の独裁者の地位を手に入れたにもかかわらず、自らの権力の源泉である将軍を鉤の陣で死なせてしまったのですから。死因は公には病死とされています。酒毒にやられたともいわれてますが、暗殺のセンも捨てがたい。どっちにせよ、そういう死の運命から主人を守りきれなかった責任の一端は明らかに彼にありました。
そして、義尚の後継者の選択眼もいかにも場当たり的です。主人義尚が十一年も後継者争いをしていた義視の息子義材なのですから。もちろん義視もコミで。己を殺して隠忍自重に徹すれば、その決断も英断と評価されうるでしょうが、結局我慢できずにクーデターを起こしました。そこで奉じたのが堀越公方足利政知の息子、義澄でした。関東の堀越公方は鎌倉公方が分裂してできたものです。元々鎌倉公方は足利尊氏の息子の基氏の血筋がなっていましたが、持氏の代で足利義教に滅ぼされます。その遺児が古河に再起をはかって鎌倉公方を名乗った対抗馬としてあてがわれたのでした。足利政知も、義視と同じく出家したのに還俗させられて公方に就任したという経歴の持ち主です。つまり、京都の傀儡でしかありません。その権力基盤は極めて脆弱でした。事実上、堀越公方は足利政知一代で消滅しています。
よって、義澄は細川政元の完全なる傀儡でしかない事は誰の目にも明らかでした。クーデターで将軍にを配した義材を京に幽閉しましたが、間もなく脱出。流れ公方となって地方大名の支援を求めて全国行脚します。これでは野に虎を放ったも同然です。
かなりヤバイ状況に陥った細川政元が味方として頼んだのが本願寺教団でした。それを戦力として認識したのは義尚が鉤の陣にあったころ、加賀国守護の富樫政親が一向一揆衆によって殺害された時でした。時に蓮如は山科本願寺――京と鉤のある近江国に挟まれた盆地――にいました。当然、政元は蓮如に彼らの処断を要求しました。ここで蓮如が対応を誤れば、山科本願寺は幕府に破却される憂き目にあいかねません。悩んだ末に蓮如がとった対応は、側近の下間蓮崇を一揆をあおった責任者として破門。そして、一揆に参加した者たちに対しては急度叱りの御文で警告を送ることでした。これで満足するか否かの判断を幕府に委ねたのです。管領細川政元は本願寺教団を許しました。そして、加賀国に本願寺教団主導の体制を作ることまで黙認したのです。これは非常に大きな借りとなって、蓮如の後継者である実如にのしかかることになります。
流れ公方となった足利義材が頼った地方大名は加賀国の隣国、越前国守護朝倉貞景、周防守護大内義興、河内国守護畠山尚順らで、それぞれの拠点で蜂起しました。政元はこれらの勢力の討伐に本願寺の参戦を要請しました。時に1505年(永正二)のことです。
畠山氏は河内だけではなく、能登・越中国も領しておりました。もしこの要請に応えれば、加賀国の一向一揆衆は西に越前、東に越中、北に能登と三方の敵に囲まれることになります。
それでも実如は断を下します。畿内・北陸の門徒達に動員をかけ、河内へ、越中、能登、越前へ向かい、戦うことを命じました。この決断には蓮如が示した方針「王法を先とし、仏法をばおもてより隠すべし」もあったのだろうと思われます。しかしながら、最大の要因は山科本願寺が京都のしがらみに囚われてしまったことにありました。山科本願寺には日野富子、細川政元らが参拝し、蓮如・実如らとの関係を深めていたのですね。本願寺教団としても二度と比叡山延暦寺から破却の憂き目にあわない為にも、権力中枢との関わりは是が非でも保ちたい所だったでしょう。前科があると思っていればなおされです。
ただ、この決断は大きな代償を伴いました。蓮如の第五夫人であった蓮能は能登畠山氏の出身で、摂津国石山御坊に住していました。石山からは河内国はすぐ近くです。蓮能にとっては親戚筋の人々が治める国でした。河内国にも本願寺教団の布教は進んでおり、畠山氏と本願寺教団との関係は必ずしも悪いものではありませんでした。にもかかわらず、実如は畠山氏を敵として戦うことを門徒達に命じたわけです。
蓮能は蓮如の妻であり、実賢という子を設けています。本願寺法主が親鸞の血を受け継ぐ者であるというのならば、実賢もまた同じ立場にありました。そして、身内同然の門徒達に自分の実家・親戚筋を攻撃させよという命令は受け入れられるものではありません。蓮能は石山御坊で参戦に反対します。やむなく実如は河内国へは北陸の門徒を差し向けて細川政元への義理を果たす事にします。しかし、このことは蓮能をさらに刺激することになります。蓮能を中心とした摂津・河内の門徒衆は山科の本願寺に法主の交代を、蓮能の子の実賢をつけることを要求するに至ります。石山御坊の支持者は実賢を中心にまとまっており、これ以上対立が先鋭化するなら本願寺教団が分裂することもありえました。浄土真宗だけではなく、浄土宗等の阿弥陀信仰系仏教には数多くの分派がありますから、この懸念は決して杞憂ではありません。
そこで先手を取ったのは実如でした。1506年(永正三)1月、側近の下間頼慶を石山に派遣して、石山御坊を接収。蓮能、実賢とその弟達を逮捕し、破門・追放しました。
教団の危機は当面回避されましたが、それはまだプロローグに過ぎません。実如の門徒動員はこの後数多くの軋みを生み出し、その結果本願寺教団組織そのものが変貌する結果となります。それについては次稿以降に触れてゆきたいと思います。 
吉崎炎上
大坂の不満分子を一掃した実如ですが、それで本願寺門徒衆が一丸となって戦えるようになったかというと必ずしもそうではありませんでした。
百姓の持ちたる国となった加賀国は本願寺教団の重要拠点となった三つの寺が治めました。連乗の本泉寺、蓮綱の松岡寺、蓮誓の光教寺です。連乗は1504年(永正元)に没し、その跡を蓮悟が継いでおります。いずれも蓮如の実子です。本願寺九世法主である実如の命を受け、1506年(永正三)、本泉寺の蓮悟は加賀国に動員令を発します。標的は能登畠山氏、越中長尾氏、そして越前の朝倉氏です。
6月に加賀の一向一揆勢は国境を越えて越前に侵攻しました。その数なんと三十万。関ヶ原でも東西合わせて十六万といいますから、誇張の入った数字でしょう。それを迎え撃ったのが朝倉宗滴率いる一万五千。越前国中之郷において、九頭竜川を挟んで両軍は対峙します。その両軍は8月5日に九頭竜川において激突しました。
誇張を除いても数で圧倒的に勝ったと思われる一揆勢でしたが、果敢に九頭竜川渡河を断行した朝倉宗滴軍に総崩れとなりました。勝ちに乗じた朝倉勢は吉崎御坊を焼くに至ります。
この合戦をきっかけに守護の朝倉貞景は越前国に禁教令を発し、本願寺教団系寺院は一掃されます。越前国には和田本覚寺、藤島超勝寺など蓮如ゆかりの有力寺院もありましたが、悉く破却され、住持や信者達は一団となって加賀国に逃れたといいます。藤島超勝寺ら亡命大寺は加賀国塔尾、和田山に拠点を設け、越前復帰を目指すことになります。
能登への侵攻は能登国守護の畠山慶致が兄義元とともに一揆勢を防ぎ、越中では般若野の戦いで畠山氏を救援に来た越中国守護代、長尾能景が逆に討たれます。
国単位で言えば、一勝二敗。しかも越前の禁教令によって、本願寺は山科から琵琶湖経由で若狭街道を下って越前・加賀へと至るルートに朝倉氏という一大障害物に阻まれることになりました。
全体としてはかばかしい戦果は上げられなかったといえるでしょう。そして、京都においても大きな転機が訪れます。九頭竜川合戦の翌年、1507年(永正四)本願寺に朝倉、畠山氏と戦えと命じた細川政元が死んだのです。
細川政元には三人の養子――関白九条政基の末子・澄之、阿波守護家出身の澄元、備中守護家出身の高国――がいたことは既に書きましたが、このうちの澄之に暗殺されました。澄之は貴族出身で政元の養子にはなったものの、戦国の世の惣領としての器量不足により廃嫡された立場でした。澄元は阿波守護家の出身で三好元長という有能な武人を家宰として抱えていました。戦力不足の政元はこれを優遇しますが、元から仕えている被官衆がこれを快く思いません。そこで、澄之をかついで暗殺に及んだというのが事の経緯です。
実如はこの報を受け、山科本願寺を出て堅田本福寺に隠れます。時の本福寺は明顕、明宗親子が住持を勤めており、彼を保護しました。
外には足利義材(この時点では改名して義尹。後に義植となりますが本稿では義材で通します)が大内義興らとともに京に向かってきています。内紛などしている場合ではありません。澄元は高国と連合して澄之を排します。
澄元は政元の死をきっかけに足利義材と講和を結ぶ腹積もりでした。その為の交渉を行うため、高国を派遣したのですが、彼は足利義材・大内義興と内通し、寝返ります。京にいる足利義澄、細川澄元は近江に逃れ、足利義材は将軍に復帰しました。
義材派というと、一向一揆と戦った畠山、朝倉氏もその一員です。幕府の政権中枢と太いパイプを築くことによって教団の存続強化を図った実如の狙いはものの見事に裏目に出たわけです。
政権は政元の敵によって握られましたが、とりあえず本願寺に実害はないと判断した実如が山科本願寺に戻ったのは、1509年(永正六)のことでした。 
実如のジレンマ
結果から見れば実如の判断は大失敗でした。「王法を先に」するよりも「紅旗征戎吾が事にあらず」に徹していた方が良かったはずです。しかし、そうするには教団は余りにも大きくなりすぎておりました。誰かが統制しなければ一揆集団はどこかで暴走してしまいます。しかしながら統制しようとするにも、末寺は各地で様々なしがらみに囚われています。地元勢力と密着して教勢を伸ばしている者は大坂一乱の蓮能だけではありません。本寺である山科本願寺からしてそうなのです。
だからと言って過ちを認め、しがらみを断ち切り、実害のない仙人集団のようなものを目指せようはずはありません。そこは乱世であり、巨大な教団は俗に塗れながら目の前にあるのですから。すでに畠山や朝倉から恨みは買っています。今更武装解除をすれば餌食になるのがオチなのですね。それらは実如が抱えたジレンマでした。
たどり着いた結論は、末寺であろうと依るべきしがらみはただ一つに絞るべきであるということだったようです。つまり、統制を強化し、権力を強化し、外敵に対しては一丸となってこれと当たるべし、ということです。そうすれば仮に室町殿や管領を敵に回したとしても教団の存続は可能でしょう。そのためには本山末寺の序列を整備し、少なくとも教団内部においては合い争うことのないようにする。その判断基準として採用したのは、本願寺教団の存続意義。親鸞の血筋でした。
その線で実如は体制の再整備を進めます。息子の円如と弟の蓮淳を起用して教団改革を進めたのです。蓮淳は近江国大津の顕証寺の住持でした。顕証寺は蓮如の長男、順如が親鸞の祖像とともに入った経緯のある名刹です。彼は頃に伊勢国長島に水上要塞さながらの願証寺を建てました。後に織田信長との抗争において、その部将を何人も屠り、信長の攻撃を何年も凌ぎきった堅固な要塞です。足利義材や畠山氏が報復を企んだ時の避難所を想定していたのかもしれません。
円如・蓮淳はまず、蓮如の御文の八十通を五帖にまとめ、宗門信条として定めました。次に1518年(永正十五)に三法令を発布。内容は@武装・合戦の禁止、A派閥・徒党の禁止、B年貢不払いの禁止の三つです。これはお上から睨まれないようにするため、「王法を先に」するための方針と思われます。
そして、もう一つ1519年(永正十六)に制定した一門一家制度です。これは親鸞の子孫である本願寺法主の一族の序列を明確にするために設けられました。これは一門を三つのカテゴリに分けるものでした。内訳は、@連枝:法主の子供、兄弟。A一門:連枝の嫡男、B一家:連枝の次男以下、並びに蓮如以前に分かれた一族衆です。
この改革は様々な軋轢を生みました。三法令の@武装・合戦の禁止は加賀国に亡命し、越前復帰を目指す和田本覚寺にとっては障害以外の何者でもありません。本覚寺の蓮恵は加賀三ヶ寺の一つ、二俣本泉寺の蓮悟に苦情を入れました。蓮悟は加賀一揆衆に檄をとばして越前攻めをさせた張本人です。それまで平和に暮らしていた越前国の本覚寺にとっては寝耳に水の話でしょう。故に越前国和田本覚寺の連恵にとっては、一揆を煽った加賀国二俣本泉寺の蓮悟こそ敗戦責任を負うべき人物です。しかし、本寺である山科本願寺が降した裁定は本覚寺蓮恵の破門処分でした。一つは三法令違反、そして、一門一家に対してみだりに相論を起こしたことが咎められたのでしょう。本覚寺の先代は蓮如のために吉崎の地を提供した功労者でもあるのですが、その住持が蓮如の一門によって罰せられたということです。
また、近江国堅田本福寺の明宗に不正ありとされて彼も破門を食らいます。訴えを起こしたのは蓮淳でした。堅田本福寺は蓮如の代に本願寺教団に宗旨を変えて以来、日に陰に本願寺を支えた寺院です。細川政元が暗殺された時には法主実如を匿うこともしています。さりながら、近江には顕証寺という一門の蓮淳の寺があったのですが、近江における教勢は本福寺の方が大きかったというところが蓮淳の恨みを買っていたと思われます。
前者は蓮恵が侘びを入れ許され、後者は蓮淳が示した証拠が嘘であったことが発覚し、許されました。さりながら、本覚寺や本福寺のような蓮如の代に功績のあった寺院であっても、一門衆によって破門されるのだという実例を門徒達に示したことによって、統制の実は大いに上がったと言えるでしょう。
但し、その一門一家といえども、法主の統制下にあることは、本泉寺の連悟の養子に入った実悟
の実例を見れば判ると思います。実悟は大坂一乱で追放された蓮能の実子で、本泉寺連悟の養子になっていました。よって、大坂一乱当時実悟は北陸にいたため、罰を受けずにすんだのですが、本泉寺の連悟には疎まれました。彼は蓮如の実子であり、実如の定めた制度によれば連枝の資格があるにもかかわらず、連悟の申立「実悟は敵である畠山氏の血縁である」という理由をもって一家に格下げされています。
これらの実例は非一門の大刹よりも、一門寺院が優先し、その一門の序列も上位者の恣意により左右される集権的な体制であるといえるでしょう。実如が円如・蓮淳に行わせた改革により、統制の取れた教団を目指すことになりましたが、そこに大きな軋み、軋轢を生んだことは事実です。
受難を受けた石山の蓮能とその子実悟、本覚寺蓮恵、本福寺明宗達の姿に、比叡山延暦寺の圧力に苦吟する蓮如の姿を重ねるのは不遜でありましょうか。 
蓮淳のコンプレックス
本稿はかなりの部分を妄想に費やしています。
蓮淳は蓮如の第二夫人蓮祐の子であり、本願寺九世実如の同母弟です。彼に与えられたのは近江国近松顕証寺。かつて蓮如が比叡山延暦寺に屈服して隠居を強いられた時に、廃嫡された順如のために建てられた寺でした。本願寺のある山科と大津はJRの駅にして隣ですし、大津と山科は山科川で繋がっていて交通の便はいい。
さりながら、その当時の顕証寺は決して大刹と言えるものではありませんでした。顕証寺のある近江国南部には堅田本福寺があり、その教区は顕証寺のそれと多くが重なっておりました。門徒の引き抜きあいなどの事件もおこっていたようです。しかし、寺院の規模は本福寺の方が大きく、歴史の浅い顕証寺の立場が弱いのが現実でした。顕証寺は山科本願寺と堅田本福寺という二つの大刹に囲まれた地に建てられた寺なのですね。
本福寺はもともとは浄土真宗仏光寺派の寺院でしたが、時の住持法住が蓮如と意気投合して本願寺教団に鞍替えしたのです。以後、本福寺は延暦寺の弾圧を受けた蓮如を匿ったり、延暦寺と時には戦ったり、延暦寺との和議をとりなすなどして蓮如を支えました。その本福寺を支えていたのは琵琶湖の湖族達です。彼らは堅田に本拠をもつ熱心な蓮如党でした。実如が細川政元の意を受けて派兵・撤兵を決めたときも、本福寺以下堅田門徒衆は兵力の輸送に船団を組んだのですね。
蓮淳はそういう光景を見て育ちました。彼の体の中には蓮如の血が流れています。しかし、同じ血を引く兄実如は本願寺法主として城砦のような山科本願寺に鎮座し全国の門徒達を率いています。それに引き換え、蓮淳の顕証寺は本福寺と門徒の奪い合いをしなければ、蓮如の血族としての体裁すら整えられないのが実情でした。しかも寺院の規模は本福寺の方が大きい。
本願寺九世法主の実如は同母弟の蓮淳が近くにいることもあって、しばしば本願寺に呼んで談笑していたと思われます。しかし、そういう付き合いを重ねれば重ねるほど、彼のコンプレックスは増大してゆくのでしょう。自らに流れる蓮如の血と同じ血を引く兄との比較において。それはいつか顕在化するものでした。
そのきっかけは細川政元が暗殺され、実如が堅田本福寺に避難した時ではなかったでしょうか。普段近しくしていた兄が、非常事態において近松顕証寺ではなく、堅田本福寺を頼りました。同じ両親の血を引く弟ではなく、赤の他人を選んだのでした。もちろん、堅田を選んだことにはちゃんとした理由があります。山科と大津は近すぎるので、本願寺が襲われれば顕証寺にもすぐに累が及ぶのは間違いありません。それに堅田は湖族の地です。彼らが団結すれば敵の襲撃にもある程度耐え凌げますし、いざとなれば船で脱出することも可能でしょう。頭では理解していても、心の中は裏切られたという気持ちで満たされていたのではないかと思います。
兄実如は教団運営の失敗を認めて教団の再生を息子の円如と弟の蓮淳に委ねました。蓮淳が最初に着手したのは伊勢国長島に一大水砦寺院を築くことでした。願証寺と名づけて自らがそこの住持となります。その堅牢さは後に織田信長との戦いで証明されております。信長はここを攻め落とすために有能な部下を何人も失い、陥落後はその報復として狂気じみた虐殺をしております。
なぜ、そんな堅牢な寺院を作ったのか。それはここまで語った内容をたどれば容易に推察できると思います。兄実如が将来において山科本願寺を喪うことがあれば、安心して避難する場所を確保するためだったでしょう。そして、そこが大谷、山科に続く第三の本願寺になることをも想定していたと私は考えます。その想定は実如の死後に実現します。1532年(天文元)に山科本願寺が破却された時、蓮淳本人が避難した先。それが長島願証寺でした。
おそらく蓮淳が兄が抱えていた者の重さを本当の意味で自覚したのはその後だったのではないかと思います。実如が陥ったジレンマに対して、蓮淳、そして円如が示した解。そこに至るまで苦悩がなかったとは思いません。しかし、その結論に至ったこと自体に何か屈折したものを感じます。
それは強い本願寺を作ること。法主が判断を間違えようともそれによって揺らがない強い団結力をもった組織を作ることだったのではないかと思います。
そのために、宗教的信条を固めるために御文を整備して五帖にまとめました。教団として王法に逆らわないことを宣言した三箇条を定めました。そして、その屈折がもっとも良く出ているのが一門一家制度とその運用でしょう。
まず三箇条の制定に異をとなえ、越前攻め敗北の責任を加賀国若松本泉寺の蓮悟に負わせようとした本覚寺蓮恵を破門にしました。法主の定めた法に従わず、法主の一族ではない者が法主の連枝たる蓮悟を弾劾したことを罪としたのですね。これはおそらくは見せしめだったのだと思います。蓮如を援けて教団を大きくした功績のあった寺院であっても、一門一家の序列より格下であることを明確にしたのです。
これは当然、本福寺にも当てはめられるべきものでした。蓮淳は門徒の引き抜きのあったことで本福寺の明宗を告発し、破門させます。しかし、これは実如が止めたようです。明宗は実如にとっては恩人であり、それを足蹴にすることは寝覚めが悪いことだったのかもしれません。証拠もあやふやな部分があったため破門は取り消されました。蓮恵も侘びを入れることで許します。
しかし蓮淳にとってはこれでとりあえずは十分でした。これによって教団の序列は明確になりました。法主とその一族が教団の功労者より優先します。それによって教団が強くなることを目指したわけですね。
円如は父実如より早く亡くなります。それは、教団が抱える矛盾に正面から向き合った結果なのではないかと思います。蓮淳は屈折していた分、そういったプレッシャーに耐え抜くことが出来、さらに自らの正義を信じることができたのではないでしょうか。
この間、大坂一乱で追放された実賢は許されて堅田称徳寺に入ります。これは実は明宗を陥れる布石だったりするのですね。実賢は蓮淳にとっても異母弟です。彼は本来連枝の扱いになるはずですが、同母弟の実悟が「畠山の血」故に一家扱いになってるので、復帰しても一家扱いだったのだろうと思います。その実賢は1523年(大永三)に死にます。堅田称徳寺は蓮淳が後見することになりました。罠は着々と整ってゆきます。関係ありませんが摂津国富田教行寺の蓮芸も同じ年に亡くなっています。
その翌年の1524年(大永四)、本願寺九世法主実如が死にます。法主を継ぐのは実如の孫の証如です。証如の母は蓮淳の娘でした。つまり、証如にとって蓮淳は外祖父に当たるわけです。このとき、証如は僅かに八歳の幼児に過ぎませんでした。この幼い法主の後見として実如が指名したのは蓮淳でした。大津の小寺の住持は実質的に本願寺教団の最高指導者に登りつめたのです。
かつての糾弾を止めた実如はすでにいません。実如没の三年後、1527年(大永七)称徳寺は本福寺の信者の引き抜きを試みました。それを止めるのは普通の感覚でしょう。しかし、称徳寺の後見をする蓮淳はこれをもって堅田本福寺住持明宗を破門にします。一門一家の行うことに逆らった罪です。かなり無茶な論理立てです。一門一家の制度を作ったのは蓮淳で、信者の引き抜きを仕掛けたのも蓮淳で、明宗を裁いたのも蓮淳なのですから。しかしながら、これによって明宗は財産・門徒の全てを失いました。
蓮淳はこの後、もう一度明宗を破門して最終的に餓死に至らしめています。本当の所、蓮淳と明宗との関係がどのようなものだったのかは判りません。明宗にも蓮淳の屈折した心情を理解する資質が足りていなかったのかもしれませんが、それにしても執拗な攻撃だと思います。
ここまでやれるということは己の正義を信じているということなのだろうと想像します。実如が耐えられなかったプレッシャーに対し、蓮淳が出した解が教団を強くすることでした。世の中は下克上が横行しています。一向一揆の振る舞いそのものが下克上の象徴と捉えられています。教団の存続のためにはその連鎖を断ち切る必要がありました。蓮淳はその為に法主の教えが、命令が下々に行き渡る体制作りに情熱を注いだのでしょう。蓮淳にとって本覚寺や本福寺などの一門一家以外の大刹はその流れを乱す悪に見えました。それゆえ弾圧を加えたのではないでしょうか。
そして、その体制の変革を変え、真に強い教団にするためにはもう一つ整理をすべき組織がありました。兄と甥達が指導している百姓の持ちたる国、加賀国です。 
大小一揆
足利義材が将軍職に復帰し、細川高国が管領として支えている間、本願寺は逼塞し内部改革に専念しておりました。しかし、風向きは徐々に変わってゆきます。まず、出雲・石見国で尼子氏が勃興し、領国がきな臭くなってきた為に、大内義興が周防に帰還します。そして、その支えを失った足利義材は細川高国と対立。これを見限って阿波に出奔。阿波には京を追われた細川澄元の子、細川晴元がいました。細川高国は足利義澄の子の足利義晴を擁立します。またしても節操がなさそうですが、義材もまた自分に実子がいないため、義澄の子の義維を養子にして阿波に帯同しているので似たようなものでした。しかし、阿波の細川晴元にとっては玉を手に入れたようなものです。これによって再び蠢動を始めました。
折も折、高国の家臣間に内訌があり、高国は一門の細川尹賢の讒訴に応じて重臣の香西元盛を謀殺しました。その結果、香西元盛の兄波多野稙通や柳本賢治らを敵に回し、細川高国と足利義晴は近江国坂本に落ち延びます。
京に将軍と管領がいなくなっても細川晴元は慎重でした。軽々しく上洛せず、堺に拠点を置き、そこに足利義維の幕府を置いたのです。足利義維は将軍家相続の宣旨は受けておらず、足利将軍家歴代には入りませんが、堺で政務をとりました。当時の人々は足利義維を堺公方と呼んだそうです。
敗れた細川高国は尼子氏・浦上氏といった中国の新興諸家の所領を転々とし、足利義晴は朽木氏、六角氏などの近江の大名を頼って潜伏するに至ります。
この期に乗じて1528年(享禄元)5月、越前国藤島から加賀国塔尾に亡命してきた超勝寺実顕、和田山の本覚寺の門徒たちが越中国にある細川家の太田保(現在の富山市太田)に攻め込みます。この時に細川領だけでなく、越中守護代の神保・椎名領も侵食しました。
これを問題視したのが、若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺の加賀三ヶ寺です。加賀の百姓(農民のことではなく、全ての人々というニュアンス)の代表としてこの地を治める彼らにとって、超勝寺や本覚寺の旧越前門徒衆が起こしたこの事態は迷惑なものでしかありません。彼らの行動は現在小康を保っている越前の朝倉、越中・能登の畠山を刺激するものであり、国境を脅かしかねないものです。実如が下した三箇条のうちの武装・合戦の禁止の命令を破るものであり、過去この法令に意義を唱えた本覚寺実慧を破門した経緯を考えれば、超勝寺実顕への処罰は順当な判断だったといえるでしょう。1531年(享禄四)正月に細川高国は京都を回復します。その年の5月、加賀三ヶ寺はこの超勝寺ら一揆衆の征伐を始めました。
しかし、今回は事情が多少異なりました。超勝寺実顕は蓮淳の娘婿であり、その後ろ盾を得られる立場だったのです。
蓮聖(山田光教寺)/実玄(勝興寺)/妙勝/蓮淳(近松顕証寺)/杉向/実顕(藤島超勝寺)/鎮永(慶寿院)/証如(山科本願寺)/実如(山科本願寺)/円如
さらに加賀三ヶ寺にとって悪いことは重なります。1531年(享禄四)6月、朝倉・畠山が支持していた細川高国が摂津国天王寺で細川晴元の部将三好元長に討たれて死にます。これを期に細川晴元と接触したのが本願寺教団の実質的な指導者、蓮淳でした。室町殿は京にはいませんが、いずれ細川晴元は堺の足利義維をつれて上洛し、将軍家を相続させて自らは管領になることは規定路線です。蓮淳にしてみれば、いまここで細川晴元に恩を売ることで政元と実如と同じく、管領家とのパイプを築く必要がありました。山科本願寺は京の七口のうち粟田口と宇治川口を扼する地に存在します。その地に本願寺を建てることを認めたのは時の管領細川政元であり、日野富子ですが、彼らはもはやおりません。京都で政権を持つ者にとってこれは脅威以外の何者でもないでしょう。おそらく、高国が足利義材とともに上洛した時に実如が近江国堅田に逃げたのもそれを警戒したからです。山科本願寺は山科川沿いに堀を巡らせた城郭のような作りだったそうです。それを維持するためには管領家との連携は不可欠と考えたのでしょう。蓮淳は側近の下間頼秀・頼盛兄弟を加賀に派遣し、加賀三ヶ寺征伐を行います。これによって一向一揆の勢力が分裂しあい争うことになったわけです。蓮淳は畿内だけではなく、三河国にも動員をかけました。地域横断的な軍団構成だったため、蓮淳派の一揆勢を小一揆。これに対抗する加賀三ヶ寺派の一揆勢を大一揆と呼び、この二勢力の争いを大小一揆と言います。
京都から加賀へ軍勢を送るルートとしてまず考えられる琵琶湖から若狭街道ルートは越前の朝倉氏によってふさがれていますから、美濃国から飛騨国白川郷経由で加賀国に侵入しました。
小一揆衆の加賀侵入に逼塞を余儀なくされていた超勝寺側の門徒達は復活、合流し、逆に三ヶ寺は追い詰められます。本願寺の意思は小一揆にあり、仏敵になることを怖れた門徒達は次々と三ヶ寺から離反し、本泉寺と松岡寺は陥落します。
窮地においやられた三ヶ寺に救いの手を伸ばしたのが、能登畠山氏と朝倉氏でした。大一揆には実悟がいました。彼は能登畠山氏の一族で大坂一乱で処罰された蓮能の子であり、そのせいで本来連枝の資格を有しているにもかかわらず一家扱いとされ、蓮悟の後継と目されていたのが清沢願得寺という末寺があてがわれた立場にいました。能登国守護畠山義総は蓮能の実兄畠山家俊を派遣し、このお陰で実悟とその養父本泉寺蓮悟らは能登へ亡命することができました。松岡寺蓮綱とその子供たちは小一揆勢の捕虜となります。残った山田光教寺救援のために越前国朝倉勢が加賀国に越境。大一揆勢を糾合して9月に手取川で戦い、小一揆勢を破りますが、11月に入って加賀・能登国境近くの津幡の戦いで畠山家俊が敗死し山田光教寺も陥落します。大一揆方の敗北が確定すると朝倉勢も越前に撤兵しました。
本泉寺の蓮悟は能登亡命後間もなく死去、毒殺説があります。松岡寺の蓮綱は拘束中に死亡、蓮慶らその他の捕虜は処刑され、光教寺の蓮聖は越前国に亡命しました。これにより加賀三ヶ寺による加賀国統治は終焉し、本願寺が派遣する代坊主によって直接支配する体制になりました。 
錯乱の宗門
蓮淳は北陸にて加賀三ヶ寺が下した裁定をひっくり返すことによって、本願寺教団は分裂し、連枝一党を粛清しました。その結果、本願寺教団は法主を中心とした武装門徒集団。厳格統制のとれた戦国大名に近い、畿内から北陸三河に影響を及ぼす一大勢力が完成した......、と言いたい所ですが必ずしもそこまでに至る道は平坦ではありませんですし、道を見失いすらしております。本稿ではその辺を述べてゆきます。
加賀に侵入した朝倉氏、畠山氏から加賀国を守りぬいたことによって、堺にいる細川晴元の信用は一応勝ち得た蓮淳ですが、逆に晴元は蓮淳を頼って軍勢を催促するようになりました。細川晴元の部将三好元長はライバルであった細川高国を討ち取った、まさに晴元の片腕と呼べる人物でした。しかし、その功績を晴元は疎ましいものと思っていたようです。そんな折、木沢長政が三好元長の讒言をし、元長の密かに処断を決めてしまいます。この木沢長政はかつては河内国守護畠山義宣の家臣でしたが、本願寺の伝をたよって寝返った人物です。自らの居場所を作るためでしょうか、新しい主人の腹心を腐したのですね。ところが、旧主である畠山氏は木沢長政の裏切りを許さずその居城飯盛城を包囲しました。この救出を蓮淳に依頼したのです。
この要請を受けて本願寺九世法主、証如が自ら石山御坊に出陣します。畿内の門徒達を動員して畠山義宣を一気に討ち取ります。そして、救出した木沢長政とともに三好元長のいる堺の顕本寺を攻めました。顕本寺は法華宗(日蓮宗のことです)を宗旨とし、元長は法華宗の熱心な宗徒でした。もともと浄土真宗と法華宗は仲が悪く、二つの宗派で争いがあると、元長は法華宗の立場で浄土真宗に圧力を加えたという経緯もあったようです。そうした中、蓮淳によって権威を最高に高められた本願寺九世法主が石山に下って門徒に動員をかけたのです。門徒達は本願寺教団の総力戦と受け止め本気の戦いを挑みます。河内畠山氏はもともと仏敵であり、そこに細川晴元の命令で法華宗徒の三好元長を討てるということになったのですから、門徒たちの気合の入り具合は違っていたでしょう。
三好元長にしてもまさかこんなに早く畠山義宣が討ち取られるとは思ってなかったでしょうし、主筋である細川晴元の部下が自分の所に攻めて来ると思わなかったでしょう。三好元長は自害に追い込まれます。
これによって晴元の依頼は一応果たしたことになるのですが、ここから証如の統制化にあるはずの門徒衆が暴走を始めます。
そしてもう一つ事件が起こりました。堺には足利義材(義植)の養子、義維が「幕府」を開いておりました。彼は将軍宣下を受けているわけではないのですが、機構組織は構築され機能しており、公家の日記にも堺大樹(将軍)という呼称が見られるそうです。その彼が、三好元長を討った一揆衆の威勢を恐れて阿波国に逃れます。
ここに力の真空状態が生まれました。河内守護畠山義宣、法華宗の守護者を勤めた三好元長、そして堺公方足利義維がいなくなり、石山御坊に本願寺証如が率いる畿内門徒がいるのみです。ちなみに証如はこの時、十六歳の青少年です。八歳から法主の座にあるとはいえ、武士なら、元服して間もない頃であり実権は補佐役の蓮淳がなお握っていたと見ていいでしょう。ましてや法主は武将ではなく、宗教指導者です。武将の真似事をして門徒達の統率をすることには無理があったようです。本来ならばこうした武辺働きは家宰の下間頼秀らが行うのですが、彼は弟の頼盛と一緒に北陸の大一揆討伐に出ています。
集結した畿内門徒達は今度は大和国に殺到しました。目的は興福寺を筆頭とする旧仏教寺院の破壊です。証如や蓮淳はこれを制止しましたが、門徒達は聞き入れません。奈良の諸寺院に散々暴虐を尽くした挙句、同国を支配する筒井順興・越智利基に追い散らされました。この侵攻には戦略目標がなく、諸寺院を荒らすだけ荒らしただけなので敗北は必至だったでしょう。これによって、蓮淳、証如は大いなる不面目を天下に曝すことになりました。
この不面目によって大きなツケを払わされることになります。肝心要の管領細川晴元を敵に回してしまったのです。彼は洛中の法華宗徒に対し、本願寺教団の諸寺院の破壊を依頼します。洛中の法華宗徒にとってみれば、法華宗を保護していた三好元長が本願寺に討たれ、奈良興福寺も襲われたなら、今度は洛中と思ったでしょう。実際蓮淳は細川晴元の変心を察知し、晴元討伐を企画していたようです。しかし、先手を取ったのは細川晴元でした。彼は南近江の六角定頼を動かし、まず若松顕証寺を落とします。これに蓮淳は対抗出来ず、山科本願寺に立てこもります。山科本願寺は大津と京都七口のうち粟田口と宇治川口を扼する要地であり、戦国大名の城郭並みの廓を備えておりました。これを囲うのは細川晴元、六角定頼に法華一揆衆でした。証如はこれを救おうと門徒たちを差し向けますが、法華一揆に阻まれ近づくことができません。
結果として、山科本願寺は炎上しました。ここにこもった蓮淳は脱出。安置されている親鸞の祖像は実従(蓮能の子)が持ち出し脱出しました。
これを言ってしまうと結果論でしかないのですが、蓮如の打ち出した「王法を先とする」の王法を細川家の管領と解釈してしまったことに無理があったのではないか。そんな気がします。
ともあれ、本願寺教団は山科本願寺を喪いました。証如は石山御坊にいるまま。そうした状況で蓮淳が向かった先は長島願証寺です。本来、証如を補佐する立場のものが、大坂に向かわずに、伊勢国に避難したのです。恐らくは証如の依る石山も長くは持たないと考えたのではないかと思います。そしてそれは杞憂ではありませんでした。法華宗徒達は大坂を目指し、中途にある富田教行寺を焼き、石山御坊に迫ります。証如は石山御坊を新たな本願寺と定め、北陸から下間兄弟を呼び返し、門徒達の統率に当たらせます。そして細川高国の弟晴国と手を結んで法華宗徒や晴元勢と一時和睦しますが、今度は晴元が六角定頼の仲介で足利義晴と和睦して京都に迎え入れます。そしてしかる後に足利義晴に本願寺征伐命令を出させました。
石山本願寺は包囲され、進退窮まった証如は長島願証寺から蓮淳を呼び出します。蓮淳はこのこじれきった関係を降伏することで乗り切りました。青蓮院尊鎮法親王を仲介に立てて幕府と交渉。代償は下間兄弟の首でした。そしてこの和睦によって曲がりなりにも本願寺教団は戦国時代の一大危機を乗り切ることができたのです。
蓮淳が本願寺教団を守ろうとする固い意志を持っていたことは疑うべくもありません。しかし、その為に取られた方策の妥当性については色々議論を呼ぶところだろうと思います。 
考察
浄土真宗の宗門の一つである本願寺教団のありよう。蓮如の時代と実如・蓮淳の時代では大きく様相を異にしているように見受けられます。蓮如は人を惹きつける才能を持った一個のスターでした。故に彼が比叡山延暦寺に弾圧を受けたとしても、彼を助ける人々が勝手連のように集合し、三河や北陸、河内方面に布教を進めることができたのでしょう。勝手連は勝手連であるが故に、それぞれがそれぞれの動機から蓮如に加担しております。それ故、蓮如本人はそれぞれの戦いに介入することが出来ませんでした。
加賀一向一揆が富樫政親を滅ぼした時、時の管領細川政元は本願寺教団に処罰を求めましたが、この時蓮如が下した裁定は「叱りの御文」でした。仮にこれが実如や蓮淳をはじめとする蓮如の後継者ならば彼らを破門するか、北陸に畿内の門徒を送り込んで成敗していたかもしれません。もっとも、だからと言って蓮淳や証如が間違っていると言うつもりはありません。彼らには彼らの事情があったのです。
蓮如の遺産は途轍もなく大きく、にもかかわらず蓮如の後継者達には蓮如が持っていた人を惹きつける才覚は無かった。無いというのは語弊がありますね。蓮如ほどの才覚は有していなかったと言った方が正しいでしょう。しかし、教団は一人の力では維持できないくらいに肥大化しています。実如や蓮淳には助けが必要でした。それが細川政元だったと思います。
彼らにとって細川政元は中央とのパイプであり、仏法と王法をつなく架け橋でした。その選択は細川政元が平時の政治家である限りにおいて間違いではないと思います。さりながら、時は乱世であり、混迷の状況を打開するビジョンを細川政元自身も持っておりませんでした。少なくとも、実効ある結果を残せませんでした。そして政元もまた、山科本願寺に助力を求めたのです。そして、それは王法が仏法に求めるもの――魂の救済――ではなく、門徒による武力行使という極めて俗なものだったわけです。
山科本願寺に寺を建て、門徒が富樫政親を自刃に追いやったにもかかわらず、叱りの御文一枚で大目に見てもらった時点で、もはや後に引けなくなっていたのだと思います。実如や蓮淳は舵を切り替えました。法主を中心とした統制のとれた教団に変えることです。
その為に、教義を明らかにし、王法に従うことを宣言し、家門の序列を定めました。その為に連能とその子たち、加賀三ヶ寺の兄や伯父達を敵に回して粛清しました。その中にあっては湖族の信を集めて蓮如を支援した法住とその後を継いだ明宗の堅田本福寺や、蓮如のために吉崎の地をあてがった越前本覚寺が口出しをする余地はありえなかったようです。
勿論、色々な所で不満は生じます。それを宥めるためにとった手段が二つ。一つは、門徒達の俗な要望にも応えてやること。越前国から加賀に亡命した本覚寺の蓮恵は、本願寺の不戦方針を不服として連枝の連悟と争い破門を受けましたが、それでも越前の亡命門徒衆は故地回復の望みをもっていました。その望みに応えて畠山氏や朝倉氏と戦う彼らを最終的には承認し、彼らを罰しようとした加賀三ヶ寺を武力討伐するに至ります。そして同時に法主の権威を高めるだけ高めました。蓮如を支援した外部の寺の者達よりも、連枝が偉く、連枝も法主の方針に逆らえば処罰される。このルールを教団全体に浸透させたわけです。
しかし、絶対的な権威というものは実は危ういのですね。畠山氏追討の為に山科を出て石山に入った法主証如に河内の門徒衆は沸き立ちました。そしてそれは証如自身にコントロール出来る物ではなかったのです。本願寺が教団として軍事行動を取る時には家宰の下間氏が担当しますが、この時下間頼秀・頼盛兄弟は小一揆勢を率いて北陸に出張中でした。証如は細川晴元からの要請によって、畠山義宣と三好元長を門徒たちに討たせました。
そして、勝利に酔った門徒達は大和に乱入し、興福寺に狼藉を働きます。証如にはこれを押しとどめることは出来ませんでした。本来ならば、本福寺や本覚寺に相当する河内や大和在国の有力寺院が暴発を止めるべきなのですが、彼らの権威は蓮淳によって徹底的に貶められていたわけです。地元の有力寺院にしても、下手に止めて加賀の大一揆のように討伐されるのではないかと思ってしまえば止めるに止められませんよね。追認の上意を当てにした末端勢力の暴走は昭和に至っても二・二六のクーデター未遂事件を引き起こしております。
その結果本願寺は討伐の対象となり、証如は山科本願寺を失いました。蓮淳は伊勢長島に亡命していません。下間頼秀・頼盛兄弟を呼び戻したものの戦況は絶対的に不利なものでした。結局の所、蓮淳が細川晴元に降伏を申し入れ、下間頼秀・頼盛らの破門を条件に受け入れられました。ギリギリのところで証如は許され、石山御坊は石山本願寺として存続できることになったわけです。
ただ、細川晴元にしても内外に多数の敵を有し、味方と言えど決して信頼の置ける者たちばかりではありませんでした。結局の所、身内に刺される形で細川晴元も失脚するに至ります。その後も続く目まぐるしい権力争いの時代を、本願寺はそのプレイヤーとなることで生き抜くことが出来たわけです。それはこの時代に、蓮淳が本願寺と言う宗教団体あるいは、蓮如を中心とした勝手連を本願寺法主を中心とした戦国大名に作り変えたお陰ということも出来るかもしれません。 
オヤシロさま伝説と白川郷
オマケ的に白川郷について触れておきます。本稿で大小一揆に触れた折、小一揆の京都から加賀への侵入経路として琵琶湖から若狭街道ルートは越前の朝倉氏によってふさがれている為、美濃国から飛騨国白川郷経由で加賀国に侵入したと書きました。白川郷はゲーム・アニメで有名になった「ひぐらしのなく頃に」の舞台となった雛見沢のモデルになった場所です。合掌造り民家が世界遺産に指定された土地でもありますね。
未見の方には一部ネタバレで申し訳ないのですが、白川郷の歴史をネットで調べるにつけ戦国時代の白川郷は色々ミステリアスなエピソードでてんこ盛りになっています。ちなみにネットで調べただけで裏取りはしてませんので、そこのところは良しなにお願いします。「ひぐらしのなく頃に」にはムー系歴オタの美人看護婦という設定の鷹野三四というキャラクターが語る雛見沢の古史、昭和の雛見沢村の歴史、そして本編で起こる事件には戦国時代の白川郷の歴史を上手く織り込んであると感心するとともに、調べれば調べるほど深まる謎に鷹野三四が雛見沢の歴史に抱いた興味の質が垣間見えてなかなか面白いです。
雛見沢は岐阜県の隣県という設定になってますが、白川郷は岐阜県に属しています。いずれも冬は雪に覆われて陸の孤島になる地勢ということになっています。特に雛見沢は排他的な気風のある村で、鷹野三四が語るところの雛見沢の歴史は次のような感じのものです。
雛見沢村には年に一回、六月頃に綿流しの祭りを行います。盆や秋祭りとは時期のずれた初夏に行われるその祭りは、豪雪地帯のその長い冬の終わりに寒さを凌いでくれた布団の綿を裂き、感謝とともに川に流すお祭りです。しかし、その祭りにはおぞましい由来があったのです。
雛見沢はかつて鬼ヶ淵と呼ばれていました。その名の由来は沼の底から鬼が現れ麓の村の人々を襲い、さらって食べていたからというのです。村人は大いに困っていたところをオヤシロさまと呼ばれる神様が現れ鬼を懲らしめました。懲らしめられた鬼は改心し、村人と共存することを誓います。オヤシロさまは鬼と村人に掟を課し、その土地の神様として祀られることになりました。しかし、鬼は時々その本性を顕し、人を食べたくてたまらなくなります。オヤシロさまは掟を破った人間を選び、鬼の生贄とすることを許しました。鬼はそれを感謝するとともに、生贄以外の人は食べないことを誓います。年に一度鬼達は咎人を攫って食べました。土地では攫われた人は神隠しならぬ鬼隠しにあったといわれ、その臓物は鬼のオヤシロさまに対する感謝とともに沢に流されたといいます。これが雛見沢の古手神社で年に一度行われる綿(腸)流しの祭りの始まりです。
予め断っておきますが、鬼隠しも腸流しもお話を面白くするためのつけたしで、綿を流すのは桃の節句にどこでも行われていた流し雛の風習の変形です。少なくとも私はそう受け取ってますし、本稿で人喰い鬼を扱うつもりはありません。
ここで取り上げるのは、鬼と人とオヤシロさまという存在の関係です。リアル雛見沢である白川郷にもそれに類するエピソードがあるのですね。
寛正年間といいますから、蓮如の大谷本願寺が比叡山延暦寺に焼き討ちにあったころなんですが、この白川郷に内ヶ島一族がやって来ます。もともとは武蔵七党という関東の地侍の一揆衆の一族だったらしいのですが、足利義政の命令でこの地を治めます。内ヶ島一族は金の採掘の技術を持っていたそうで白川郷を流れる庄川の川筋にある帰雲山(かえりくもやま)という所に城を構えました。
この地には正蓮寺という浄土真宗本願寺系の寺があったのですが、ここの門徒達が一揆を起こして内ヶ島一族と対立したために内ヶ島一族は正蓮寺を焼いて住持の一族を殺します。そこで仲裁に動いたのが本願寺八世留守職の蓮如でした。寛正年間以降で蓮如がこの地に介入できるチャンスとしては、吉崎御坊で布教活動をしていた頃、応仁・文明の乱の最中でしょう。彼は正蓮寺の住持の子供を内ヶ島の惣領の子と娶わせ、正蓮寺を照蓮寺と改名して再建させたそうです。以後、内ヶ島一族は照蓮寺と連携し共存することになります。大小一揆において内ヶ島一族が本願寺の小一揆の軍勢通過に協力したのはこういう背景があったためですね。
内ヶ島というのは珍しい苗字です。その音は鬼ヶ淵に通じます。彼らが襲った村人は正蓮寺の一揆衆で、仲介したオヤシロさまは蓮如に見立てたのではないかと私は考えております。
ただし、「ひぐらしのなく頃に」に出てくるオヤシロ様は女性の神様であって、蓮如は人間の男性です。この違いはおそらくは白山信仰の本尊である白山比媛=菊理比媛のイメージなのでしょう。白川郷の信仰はもともと白山比媛の系統でしたが、蓮如らによる布教により浄土真宗が浸透していったわけです。作中で雛見沢の村人の連帯が強いのも、浄土真宗の講に育まれた惣中一揆の体質なのだと受け取ることができます。
この後、内ヶ島氏は照蓮寺と連携をとりながら戦国時代を生き抜きます。内ヶ島氏は本願寺の支援勢力でした。帰雲山の近辺で採れる砂金を本願寺に送っていた形跡があるそうです。最終的に本願寺が破れ、越中国を領した織田信長の家臣、佐々成政に与して羽柴秀吉と戦うものの、領地のある飛騨国は羽柴方の金森長近に占領され、佐々成政も降伏しました。時の当主内ヶ島氏理も羽柴秀吉に帰順し、許されて本領を安堵されたものの、それから間もなく中部地方を襲った天正大地震によって内ヶ島一族が拠る帰雲城は崩壊、一夜にして一族は全滅しました。合戦に破れて全滅する大名は多いものの、天災で一族滅び去ることになったのは、この一族くらいなものではないかと思います。この事件も形を変えて、「ひぐらしのなく頃に」のストーリーの重要なモチーフとして活かされてます。(ネタバレになるので明かしません)
さて、「ひぐらしのなく頃に」のストーリーにダム戦争のエピソードが出てきます。雛見沢にダム建設計画が持ち上がって、村人達が結束して反対運動を繰り広げ国の計画を撤回させるという内容です。白川郷を流れる庄川の上流に御母衣ダムがあるのですが、ここの建設に対して実際に地元民の反対運動があったそうです。結局ダムは建設され、上流地域の荘川・中野村はダム湖の湖底に沈むみました。この中野村にあったのが照蓮寺です。
「ひぐらしのなく頃に」雛見沢村には村人の信仰を集める古手神社があり、そこにはオヤシロさまが祀ってあります。雛見沢村は水没を免れましたが、水没した中野村には蓮如ゆかりの照蓮寺があったのですね。雛見沢村の古手神社は白川郷の白川八幡宮がそのロケーション上のモデルですが、エピソード上のモデルはこの照蓮寺だったのかもしれないと思うととても興味深いものがあります。
最後に土地神であるオヤシロさまと蓮如を繋ぐもう一つの鍵を提示しておきます。オヤシロさまを漢字で表せば御八代様と書く事ができます。ヤシロは八代の言いかえであることはストーリーの中で明かされております。オヤシロさまを祀る神主の一家である古手家に女系当主が八代続けば、オヤシロ様の生まれ変わりであるという言い伝えがそれです。そして、蓮如は本願寺八世の留守職なのですね。この八世というのは浄土真宗の開祖親鸞から八代目を意味します。つまり御八代様、オヤシロさまなのです。
以上は私の勝手な当て推量であり、本当の所「ひぐらしのなく頃に」の作者である竜騎士07氏にそのような考えがあったのかどうかはわかりません。
私自身は白川郷へ行ったことはありませんが、こういうエピソードを詰め込んでから巡礼するとさぞかし鷹野三四の「にぱぁ〜」な気分が味わえるのではないかと思います。 
 
松平信忠の事績と押籠

 

1523年(大永三)に松平信忠が嫡子清康に家督譲渡して大浜に隠遁するという事件が起きております。この時、信忠三十三歳。当時の平均寿命を五十年と考えても、三十三歳は最も活躍を期待される年齢でしょう。その後、信忠は大浜の地で九年の余生を過ごし、1531年(享禄四)に没しました。その前後、松平清康は安祥松平家の家督として縦横無尽の活躍をしております。多くの歴史書が信忠の事を「非器」、「不器量」―平たく言えば暗愚―とし、一門・郎党に見放されたため、隠居したと書いております。
本編ではこの事件を中世・近世に発生した「主君押籠」事件としてとらえ、主にその時代背景を見てゆこうというのが趣旨です。
主君押籠と言うのは、無能な主君を一門・家臣が合議して隠居に追い込んで、よりマシな後継者を据えて御家存続をはかる、下克上の一形態です。武田晴信(信玄)が父信虎を追放したような目だった形ではなく、表面上は円満な家督相続の形を取ります。なので中々表に出づらい事件です。しかし、信忠の場合は三河物語などにはっきり家臣達が引退を迫ったシーンがありますので、表ざたになった主君押籠の事例と見ることができるでしょう。
この当時の松平家は家臣団よりも一門衆の方が力が強かったと言われています。これについては、良質の史料にあまり家臣達の名前が出てこず、一門衆の名前が出てくることが多いからです。但し、残存する史料は菩提寺の過去帳や系図史料が中心となっています。この手の史料は当然、血縁関係が中心の記述になってますので、縁戚にでもならない限り他家の人間の記事は書かれないという事情があります。
もっとも、現実にはこの親忠から信忠の代にかけて、安祥松平家は家臣団を形成しております。この安祥松平家を主とする家臣団を安祥譜代といいます。その中でも中心的な役割をになった家を安祥七家といいます。酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村各家です。この多くが門徒武士であり、門徒武士の安祥松平家臣化に石川忠輔が貢献したと言います。
但し、明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三)に、松平親忠が石川一族の本拠地に近い、姫を制圧したといいます。明応の井田野合戦の大将格の一人が阿部満五郎といいます。彼は上野(豊田市上郷)を拠点にしており、小川と同時に上野も制圧されております。ここでターゲットになったのは内藤重清という土豪で、彼もまた門徒武士でした。明応井田野合戦で井田野攻めに参加したといいます。親忠は息子の親房を姫、小川に程近い桜井に入れ、桜井松平家という分家を作りました。
松平一族は浄土宗を奉じ、一族の結束に大樹寺を活用しましたが、家康の代に至るまでは、家臣に対して浄土宗への転向を勧めることはありませんでした。例外がないわけではないことは大樹寺が残した文書を見ればわかりますが、大樹寺関係資料では、前面に出てくるのは松平一門衆であり、家臣が絡むことはあまりありません。それに対して本願寺教団は来るものは拒まずの姿勢を通していたようです。蓮如が三河布教で西端に立ち寄った時、蛇が若い娘に化生して蓮如の説法を聞きに来たという逸話があるそうです。逸話の上では蓮如は阿弥陀如来の功徳は生きとし生けるもの全てに及ぶといい、例え蛇であっても例外ではないと言い切りました。浄土宗鎮西派は松平氏を檀家に持つ以前、千葉氏の庇護を受けていたといいますから、それぞれの教団の特色が良く出ているといえるでしょう。
その一方で松平親忠の子、長親は青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油ヶ淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。戦国武将達が専業軍人化するのは織田信長の登場を待たねばなりません。それ以前の武士団は基本的に半農であり、土着した人々でした。彼らを組織化し、動員をかけようとするならば、在地に拠点を持つことは正しい選択でしょう。
但し、その戦略は門徒武士達にある種のプレッシャーを与えるものだったと思われます。土呂には本宗寺があり、彼らは二つの主人をもつことになっていたのですから。親忠は安祥の勢力を背景に松平家内に発言権を有しておりましたが、年を経るに従い本願寺は統制色を強めてゆきます。この影響が三河国に及ばなかったとは考えにくいです。
併せて、親忠は岩津の惣領家から惣領権を奪い取っております。考えてみれば、源姓松平氏初代の親氏は養子であり、二代泰親は親氏の弟である可能性が高い。三代信光には信広という兄(これは同母兄と考えた方がしっくりくる)がいて、四代親忠は僧形となって、兄の親長系の岩津家の指揮を代行する形で惣領権を手に入れました。
長親は一応親忠の長男(系図によっては大給の乗元が兄とするものもありますが、これは信光の兄と考えた方がよいそうです)ですが、長男が家督をついだのはこれが最初のケースとなります。そして、長親の嫡男、信忠がセカンドケースなわけだったのです。ここにおいて、分家を増やして行く戦略がつまずくことになります。
本編では、松平信忠が押籠に至った理由を彼が家督を継いだ永正年間の政治動向から追ってゆきたいと思います。単純に三河国の松平家の動向のみを追うのではなく、同時期に起こった京都の政治的事件及び、本願寺教団の動向とからめて描写を試みようと思います。
1455年(康正元)松平長親誕生
1488年(長享二)長親発行文書の初出
1490年(延徳二)松平信忠誕生
1501年(文亀元)長親、この時までに出家。家督を信忠に譲る?
大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗れる。
1503年(文亀三)信忠、称名寺の為に禁制発行。惣領の証拠?
1505年(永正二)畠山・朝倉氏、反細川政元で挙兵。実如、細川政元に味方する。
1506年(永正三)伊勢宗瑞、三河侵攻(〜1510年永正三河乱)。大樹寺破壊される。
1507年(永正四)細川政元暗殺される。実如、近江国堅田本福寺に避難。
1509年(永正六)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1511年(永正八)斯波義達、遠江出陣。清康、生誕。
1512年(永正九)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
大河内貞綱、引馬占領。
1513年(永正十)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
大河内貞綱、斯波義達、今川勢に敗れる。
1515年(永正十二)実円、播磨国英賀に本徳寺を創建。
1517年(永正十四)大河内貞綱、斯波義寛と伴に引馬で今川勢と戦い、敗死。
1518年(永正十五)実如、三箇条の掟を定める。
信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1521年(大永元)足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
斯波義達、死去
長親、連歌師宗長を呼んで桑子妙眼寺にて連歌会を催す。
信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永三)信忠、清康に家督譲渡。大浜に隠遁。
信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永六)今川氏親、死去。
1528年(大永八)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)
1531年(享禄四)大小一揆。三河兵、北陸へ。松平信忠、没
1532年(天文元)天文の錯乱。山科本願寺炎上。
1537年(天文六)長親、妙心寺にて連歌会を催す。親忠(信光?)の追善目的
1544年(天文十三)松平長親、没 
細川政元の闘争
1505年(永正二)、山科本願寺で法主実如が畿内・北陸の門徒達に対して畠山氏、朝倉氏への攻撃を命じた翌年、伊勢宗瑞が今川氏親の命を受けて三河に侵攻しております。畠山氏、朝倉氏の背後には足利義材がおり、本願寺教団は彼らを敵に回したわけですね。足利義材は1493年(明応二)細川政元によって京都を追われ、流れ公方として各地を転々としており、地方の諸侯の助力を得て上洛を策しておりました。
本願寺は実如と細川政元とのつながりに加え、実如の母が伊勢氏の出身で当主伊勢貞宗は細川派として行動しております。また、実如は日野富子の兄である日野勝光の猶子でもありました。
安城市の歴史を調べますと本願寺は1461年(寛正二)に上宮寺如光に十文字名号を与えたことを皮切りに安城市内の寺や門徒に名号やら阿弥陀如来絵像を下しているのですが、蓮如の代では1676年(文明八)に一度途切れます。実如の代になってそれが再開されるのですが、その初出が1493年(明応二)本證寺門徒の某に下されたものです。1493年(明応二)は足利義材が京を追われた年です。この時点で蓮如はまだ存命ですが、寺務の一切は実如に任されておりました。この件を含め、1493年(明応二)から、実如が畿内・北陸の門徒に動員をかけた1505年(永正二)までの十二年間に七件の阿弥陀如来絵像が現在の安城市一帯の門徒達に下されております。タイミング的に実如の細川政元支援に呼応したものと見ることができるかもしれません。
本願寺による阿弥陀如来絵像の門徒への下付は1505年(永正二)以降、一端途切れ1513年(永正十)から1515年(永正十二)の間に三度あって再び途切れます。これは三河国が今川氏親の侵攻を受けたこともあるでしょう。さりながら、主因は1507年(永正四)に細川政元が暗殺され、後難を怖れた実如が山科から近江国堅田に移った為だと思います。実如は1509年(永正六)には山科本願寺に戻っております。仲介したのが晩年の伊勢貞宗とのことですから、実如の母の実家の一族である伊勢貞宗が細川高国と折り合いをつけることができたということなのでしょう。細川高国は畠山氏、朝倉氏のバックアップを得て帰京した足利義材(義植)を奉じておりますから、実如も山科復帰後しばらくの間は身動きがとれなかったはずです。
細川政元と対立する足利義材派にとっては西三河の地は細川氏支持派が支配する土地と映ったに違いありません。1506年(永正三)から三河国に侵攻を開始した今川氏親と伊勢宗瑞の立場を考察してみます。伊勢宗瑞は幕府の政所執事を勤めた伊勢氏の一族です。伊勢宗瑞の姉(妹という説もあり)は北側殿といい、今川義忠の妻でした。今川義忠は応仁の乱中、遠江国で討ち死にし、家督をめぐって混乱が起きました。そこを上手く収拾したのが京から駿河に下向した伊勢宗瑞であり、調停の結果今川氏の新当主になったのが氏親でした。その縁で伊勢宗瑞は今川氏親に仕える事になったわけです。経緯が経緯だけに、家臣とは言え対等以上の関係だったと想像できます。
1491年(延徳3)今川氏の領国の隣国である伊豆国を支配する堀越公方家で内紛が起こります。当主足利政知が死に、その嫡子であった足利潤童子を弟の茶々丸が殺害して堀越公方家をのっとりました。堀越公方足利政知は永享の乱で滅ぼされた鎌倉にあった関東公方に変わるものとして細川政元が送り込んだ新関東公方家です。ところが元祖関東公方の子孫が下総国古河を拠点として関東公方を名乗ったため、足利政知は伊豆一国を支配する存在に過ぎなくなったわけです。小家となったといえども、足利政知は将軍の連枝なわけですが、その相続が暴力によって横領されたことは、政知を関東に送り込んだ幕府にとって看過できないことでした。
1493年(明応二)細川政元が足利義材を追い落とし、実権をにぎると間もなく、伊勢宗瑞が伊豆に攻め込み、足利茶々丸を滅ぼします。足利義材が京を脱出したことにより、彼を奉じる勢力が現れるのは自明でした。足利茶々丸は現政権が望まぬ形でお家乗っ取りをしたのです。細川政元にとって潜在的な脅威になりえる存在でした。伊勢宗瑞は政所執事(このときは貞陸)の一族です。細川政元は彼を通じて伊勢宗瑞に足利茶々丸を討たせたということが近年の研究でわかってきております。
この見方に従うなら、今川氏親、伊勢宗瑞は細川政元派ということが出来るでしょう。以後、伊勢宗瑞は伊豆を支配するとともに、今川氏親の家臣として遠江国の斯波氏と戦います。
永正年間の今川氏親の三河侵攻はその文脈の延長線上で考えてみるなら、興味深い方向性をみることができるかもしれません。
1506年(永正三)今川氏親はまず、三河国今橋城による牧野古白を滅ぼします。ここを攻める渥美郡の戸田氏の後詰としての参戦です。時の当主は戸田憲光で、伊勢貞親の被官であった宗光(全久)の息子です。もともと碧海郡上野(今の豊田市上郷町)を根拠地にしていましたが、知多から渥美半島に根拠地を広げ、上野の領地はどうも放棄されたのではないかと思われます。血縁関係のある松平氏が周辺を囲むように勢力伸張している以上、上野から所領を増やすあてはなく、戦国領主としての旨味はあまりないと判断したと私は考えています。
牧野氏は出自がはっきりしておりません。古白の父の代に一色時家に服属した新興の土豪だったようです。応仁の乱を経て東三河の今橋(現在の愛知県豊川市)に城を築きました。一色氏は没落した後もこの地に根付いた戦国領主です。足利義材を野に放ってしまった以上、出自不明の、なおかつ伊勢氏被官の戸田氏に対立する勢力である牧野氏は潜在的な敵対勢力です。足利義材は日本中から支援勢力を求めています。牧野古白が足利義材を支援すると名乗り出れば、それに応じた地位を与えることは想像に難くありません。牧野氏を討伐することは、政所執事伊勢氏の一族である伊勢宗瑞にとっても、その主人の今川氏親にとっても、それだけではなく、細川政元にとってもメリットのあることだったでしょう。 
松平の敵
今川氏親による次のターゲットは松平氏でした。三河物語によると今川軍は吉田を進発し、東海道沿いに真っ直ぐ大樹寺へ向かったとあります。牧野氏の領地と松平氏の勢力圏は随分と離れており、その間に鵜殿氏、菅沼氏、奥平氏と様々な勢力が割拠していますが、それらを全て従えて進軍できたということは、予め入念な下工作が施されていたとおもっていいでしょう。
とは言うものの、松平氏は伊勢氏の被官であり、立場的には戸田憲光と同じはずです。松平信光が伊勢貞親の被官であったことは蜷川親元の日記に明記されておりますし、信光の子の親長も伊勢氏に仕え、京で金融業を営んでいたことが記録に残っております。
但し、永正三河乱勃発の時点で惣領の松平親長は存命であったかどうかは不明です。彼が確実に生きていたとわかるのは1503年(永正元)に分一徳政令による債権放棄免除の申し立てをした記録です。そして、1520年(永正十七)には彼が別の債権において徳政令に対する債権放棄免除の手続きをしなかったために、債権消失の判決が下ったことです。この時点で死んでいた為、債務保全が出来なかったともとらえられるため、はっきりとしたことは判らないそうです。親長の年齢は不詳ですが、弟の親忠の年齢を考えると今川勢侵入時点で六十代で、息子に代を譲っている頃だと思われるのですが、その息子の消息がつかめておりません。三河国は親忠、長親親子が采配している状況でした。この状況が細川政元、今川氏親、伊勢宗瑞にとって足利茶々丸が堀越公方家を乗っ取ったのと同じように映ったのかもしれません。
今までの稿で石川政康は息子を安祥松平家に仕えさせたと繰り返し書いておりますが、その関係については慎重な考察が必要であると思っております。特に、永正年間における松平家と石川家及びその背後にある本願寺教団との関わりは多くの微妙な要素を含んでいるように思います。
例えば、松平親忠は明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三)に、石川一族の本拠地である小川を制圧しております。そして、親忠と長親の代で桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように松平の分家を設けています。
これらの動向は細川政元と協調関係にある実如や三河国本宗寺の実円(実如の四男)にとっては脅威だったのではないかと思われます。すでに実如は細川政元の意を受けて、北陸と河内国で戦端を開いています。あくまでも仮説ですが、実如と実円は細川政元とともに、松平氏の排除を画策したのではないかと思います。
根拠としては、二つあります。一つは吉田から大樹寺まで抵抗らしい抵抗を受けていないこと。南方の土呂、深溝、五井、竹谷、形原方面には目もくれず、真っ直ぐ大樹寺に向かっています。
もう一つは、迎撃に出た松平長親勢の中に石川氏の記載がないことです。石川氏は安祥城の家老として門徒武士を組織化して安祥城に入れたはずです。永正の井田野合戦の記録自体にこのときの松平勢の構成を書いたものは少ないのですが、柳営秘鑑という史料にはこの時の先陣として酒井浄賢、岡崎松平親重、本多、大久保、柳原が当たったと書かれているそうです。酒井氏は松平親氏の代から準一門の扱いを受けている一族ですし、岡崎松平氏は一門衆です。本多、大久保氏は安祥譜代家として江戸時代を通して重用されてきた一族です。柳原氏はわかりません。後詰として待機できるような余裕が松平長親にあったとは到底思えません。本願寺の意を受けて石川一族はこの合戦に参加していなかったのではないかと疑っております。もちろん、後世の都合による付会というものもあるかもしれませんが、そうなると岡崎松平氏の名前が入っているのが不自然なのですね。岡崎松平氏はこの後安祥松平氏によって大草に押し込められて、家康の代において三河から放逐されるのですから。
1501年(文亀元)8月10日に松平親忠が没し、同月16日に丸根家勝等連署禁制という文書が作られます。この文書は松平一門の者が結束して大樹寺を守ることを約したものですが、ここに戸田氏の一族の者の名(田原孫次郎家光)が記されております。戸田宗光が松平信光の娘婿であった関係でしょう。ここには安祥譜代七家の署名はありません。戸田氏も松平一門との血縁関係を前提にした署名でしょう。その戸田氏が今川勢として大樹寺を占拠し、岩津を攻め、松平長親と戦ったのですから、この文書は反故にされております。
そして、三河物語に語られている今川勢として松平氏を攻めた諸家を列記します。牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々。三河国人のオールスターキャストです。
柳営秘鑑では長親の先陣を務めた本多氏が今川方に加わっております。本多氏は支族が多く、所謂安祥譜代七家の本多氏は、本多氏の一部だったのかもしれません。ここに書かれている諸家は清康、家康の代においては松平氏に服属し、与力した一族ですがこれら諸家が一堂に会したという意味で永正の井田野合戦は大きな意味をもっていたといえるでしょう。
三河物語においては、長親が岩津救援のために駆けつけた家臣を前にして涙する美談がつづられているのですが、このエピソードには家臣たちが何者であるのかは記されておりません。また、その安祥松平家の家臣達にとって、岩津家の人々は松平党の「重臣」であって松平一族の惣領とは書かれていない等、他の記述と比べてこの部分は非常に後世の付会くさいです。三河物語は徳川家の譜代家臣(特に大久保家)が徳川家に対していかに貢献したかを記した書物ですが、柳営秘鑑に書かれている大久保の家名が、大久保家の子孫の手になる三河物語に書かれていないのですね。それどころか、誰が長親に味方して伊勢宗瑞と戦ったのかについては、ただ五百騎とのみ記載して詳細を明らかにしておりません。他の合戦談においては敵も味方もその陣容が微細に書かれているにもかかわらずにです。このあたりに当時の松平長親と岩津宗家を含めた松平一門の苦境が垣間見えるような気がします。 
足利義材の掌(たなごころ)
尚、本稿ではこの永正の井田野合戦を1508年(永正五)のこととしていますが、柳営秘鑑は1501年(文亀元)、徳川実記では1505年(永正三)説をとっています。永正三年に今川氏親が牧野古白と戦ったことは同時代史料で明らかになっております。そして永正の井田野合戦においては、今川勢と戦っているはずの牧野氏が今川軍として松平勢と対峙しています。それらの前後関係を見るに、永正三年に牧野氏を降した今川勢が、牧野氏の残兵を率いて松平氏を攻めたとみるのが妥当のように見えます。よって、永正五年説を本稿でも採用しております。
この永正五年説をとった場合、京都の動きと照らし合わせれば、永正三河乱の様相がおそらくは違って見えてくるのですね。既に触れたとおり、牧野氏の今橋城を落とした翌年1507年(永正四)6月23日に細川政元は暗殺されます。山科本願寺の実如が累が及ぶのを避けて堅田に非難したのはこの時です。この事件は政元の暗殺を教唆したかどで、九月一日には政元の三人の養子の一人、澄之が粛清され、阿波国守護家出身の細川澄元が京兆家を継ぐことで一応の決着が図られました。しかし、その年末に大内義興の支援を受けた足利義材(この時は義尹と改名中)が上洛の途に出ます。細川澄之は備中国守護家出身の細川高国に足利義材との交渉を命じましたが、逆に義材に加担します。京は恐慌に陥りました。そして、1508年(永正五)四月には細川澄元と足利義澄、近江に脱出、高国が入京。六月には足利義材が上洛を果たします。伊勢家惣領の伊勢貞宗は五月の段階でちゃっかり足利義材派に乗り換えています。八月に今川氏親と伊勢宗瑞が吉田を進発した頃はすでにこんな状況でした。
今川氏親は細川政元派として足利義材派の遠江国守護の斯波義寛から遠江国を奪ったはずなのですが、1508年(永正五)七月までには足利義材(義植)から遠江国守護の職を貰っています。
この「遠江国守護」の扱いが少々厄介です。一説には明応年間に斯波義寛が足利義澄派に鞍替えしたことに乗じて今川氏親も足利義材派に転じたという見方もあるそうですが、今川氏親も足利義材もお互いをどこまで信頼していたのかが未知数です。というより、今川氏親は足利義材・細川高国と足利義澄・細川澄元を両天秤にかけ、足利義材も今川氏親と斯波義達を互いに戦わせて牽制したのではないかという気がしています。理由は後で述べます。
牧野氏を倒した時の今川氏は足利義澄=細川政元ラインで攻勢をかけましたが、松平攻めにおいてはその立場を変えているのですね。奇しくも同じ年の六月に戸田宗光が亡くなっています。寿命とも考えられますが、京都の動きと考え合わせると謀略のセンも考えられないわけでもないです。氏親が伊勢宗瑞を吉田から東海道沿いに一直線に大樹寺まで向かわせたのは尾張への進軍ルートを確保するためであり、最終目標は斯波義達が支配するもう一つの国、尾張攻めを敢行するためだったのではないかと思われます。
西三河は本願寺教団と岩津松平家の惣領は細川政元が押さえておりました。しかし、現地では分家筋の安祥家が井田野の要衝を押さえ、実質的に松平一門を支配している状況です。ここを叩けば尾張国は目の前でした。ところが政局がここに着て大きく変わります。伊勢貞宗が早々に足利義材についたのも、尾張攻撃を視野に入れた伊勢宗瑞を支援するのが目的だったのかもしれません。とすると今川氏親の遠江国守護職は、今川氏親→伊勢宗瑞→伊勢貞宗→足利義材のルートで奏上されのかもしれません。
本願寺教団は法主の実如が近江国堅田に逼塞し、三河の門徒衆は身動きの取れない状況でした。
井田野合戦において、伊勢宗瑞と松平長親は直接対決しました。岩津城の攻防の結果は諸説あるものの、井田野合戦の結果はどうやら痛み分けでした。兵力差を考えると長親の頑張りが評価されるでしょう。
三河物語においては、合戦後伊勢宗瑞は「最後に戦場を占領している今川軍の勝ちだ」と勝利宣言します。それを受けて、今川軍に与力した戸田憲光が宗瑞に対して「駿河と手を切り、三河に味方しろ」と言います。これに対して、「一度戻って詰めの城の戦闘準備を整えたらまた戻ってくる」と答えたまま、自分だけ撤退し、結局戻ってこなかった。というオチがついています。
ここの解釈は戸田氏の離反を怖れての撤退というのが主流な説です。しかし、そうではなく、この合戦が既に細川政元の敗北、足利義材の勝利が確定した状況で敢行されたことを前提に考えてみれば戸田憲光と伊勢宗瑞の会話の意味は別な様相を呈してくるように私には見えます。
戸田の提案はこのまま伊勢宗瑞を首領として、勢力を維持することではなかったでしょうか。そしてこの時の戸田には京都の状況、今川氏親の両天秤は見えていなかったと思います。
その場には戸田、今川に服属した牧野、鵜殿、菅沼、奥平と三河国の主だった国人達が集結しています。細川政元は死にましたが、足利義澄と細川澄之は存命です。二人を助ける形での闘争の継続は可能なはずでした。戸田憲光にとっては伊勢宗瑞は主筋の一族の者ですから主人として立てるにはうってつけの人物です。
しかし、この時点で吉田にいる今川氏親からは撤退命令が出ていたと思われます。おそらくは今川氏親が怖れていた事態が起こった、足利義材がこの戦いに介入したのではないかと思います。京を押さえたとは言え、足利義材はまだ畿内を平定したとは言えず、足利義澄や細川澄元も生きています。もし、今川氏親の思惑通り尾張攻めが成功したとすれば、今川家は伊豆国(伊勢宗瑞が支配)、駿河国、遠江国、三河国、尾張国の東海五カ国を支配する一大勢力になります。大内義興がバックについているとはいえ、これを御せるほど足利義材の力は強くありません。また、斯波氏は足利義材が流亡中に支援してくれた勢力です。であるならば、両者に足利義材の必要性を感じさせながらつぶれない程度に競わせることが、義材にとっては都合のいい状況だったのです。
伊勢宗瑞は三河国人達を宥めすかして撤退しました。案の定、制圧したはずの遠江国において守護家の斯波義達が息を吹き返し、今川氏親に再戦を挑みます。この再起の背後に足利義材(義植)と細川高国がいたと私は見ております。
松平長親は結果において救われたといえるでしょう。 
戦後処理
永正三河乱は今川勢の撤退で集結しました。それは、足利義材(義植)、細川高国の勝利であり、細川政元、澄元らの敗北の余波だったと思われます。細川政元とパイプを持っていた駿河国の今川氏親と伊勢宗瑞は遠江国を平らげ、三河国に攻め込みましたが、征服したはずの遠江国に同国守護の斯波義達が勢力を盛り返したことにより、三河に派遣した軍を呼び戻し、これに当たらねばならなくなりました。その斯波義達を三河国から支援した勢力があります。現在矢作古川のあたりに勢力をもつ吉良氏です。今川氏親が攻め込むまで遠江の中心地である浜名湖畔の引馬(現在の浜松)を領していたのは大河内氏でした。大河内氏は吉良氏の被官だそうです。それ故、東三河の戸田氏とともに牧野氏を制したあと、西三河に攻め込むならば松平氏と合わせて吉良氏にも軍勢を差し向けてもおかしくなかったと筈なのですが、にもかかわらず東海道をひたすら西進したのは、本来の目的が松平氏ではなく、斯波氏の根拠地である尾張国まで視野に入れた行軍だったのではないかと私は考えています。
戸田憲光は伊勢宗瑞を中心とした国人連合による三河国を構想しました。中央にはかつて父である戸田信光が仕えた伊勢貞親の子と孫である伊勢貞宗・貞陸親子が新たな京の支配者となった足利義材(義植)、細川高国に取り入っています。伊勢宗瑞もまた、伊勢氏の一族です。井田野の勝利を既成事実に伊勢貞宗に働きかければ、新たな三河国の体制を作れると考えたのではないでしょうか。
しかしながら、伊勢宗瑞は異なった判断をしました。永正五年十一月の公家の日記に今川氏親が三河で敗北したという記述があるそうです。今川勢は井田野の戦場で勝利したはずなのに、奇異に思える記録です。思うに、これは三河国については旧に復せという処分が下ったということではないかと思います。なんといっても伊勢貞宗・貞陸親子は細川政元に仕えておりました。その伊勢氏の言が容れられなくても不思議ではないでしょう。
三河国より今川勢が撤退した結果として、今川勢として集結した三河国人連合は霧散し、安祥松平氏は勝利を得ることになりました。松平氏が失った物は大樹寺と岩津松平惣領家です。
そう言い切るための材料として1511年(永正八)に信光明寺住持の肇誉が知恩院に転昇したことに伴い、安祥松平の親忠の息子である超誉存牛が信光明寺の住持になったことをあげます。信光明寺は岩津松平氏の、そして松平一門のための寺のはずです。惣領家の菩提を弔うはずの信光明寺に分家筋である超誉がはいった訳ですから、この時点で岩津家が惣領家の一門支配力は無くなったと考えていいと思います。もちろん岩津家には浄土宗西山義の妙心寺もあるのですが、超誉が十年後に京の知恩院の住持になったことを考え合わせるとバランスが取れていません。文明年間においては、信光明寺と妙心寺の両方が勅願寺指定されていることを考えると、その配慮が無いことが見て取れます。超誉の知恩院住持就任は裏で安祥松平の長親・信忠が強力なスポンサーとして立ち回らないと実現しないでしょう。岩津松平家には安祥長親・信忠親子がそうした行動をとることを制し得なかった。
もう一つ根拠をあげますと、永正井田野合戦のあと、長親・信忠親子は勢誉愚底に大樹寺を再建させます。1513年(永正十)にそれは実現しました。それは大樹寺格式という文書に残っているのですが、そこに親忠の子孫は男女の区別なく、大樹寺に帰依するようにと命じています。超誉存牛もまた、親忠の息子であり、信光明寺を大樹寺の末寺扱いした文章にも取れます。つまり、この段階で長親・信忠親子の眼中に岩津惣領家は存在していないのですね。そういう意味で、岩津松平家は崩壊したと言い切ってよいと考えます。
牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々に襲われた松平長親は婚姻政策で勢力を担保します。すなわち、現在の矢作古川を勢力圏に持つ吉良氏被官と姻戚関係を持つことにしたのです。本当だったら吉良氏と結ぶべきなのでしょうが、この時点の松平氏にとって吉良氏ははるかに上の家格なのでそこは妥協です。
長親は大河内満成(信貞?)の娘を息子の信忠に娶わせます。大河内満成は斯波義寛・義達らとともに遠江国に攻め入った大河内貞綱の親族だそうです。そして、信忠の妹を吉良氏の老臣である富永氏に嫁がせました。これにより、松平――富永・大河内――吉良――斯波のラインが成立したわけです。松平氏が永正井田野合戦で敵に回した今川氏を中心とした三河国人連合に対抗する軸が完成したわけです。
1509年(永正六)3月22日に近江国堅田に避難していた実如は伊勢貞宗の仲介により山科本願寺に戻りますが、実質的に門徒達を使って何かできるような状況にはありませんでした。実如はこれ以後教団の内部改革に専心することになります。三河門徒もその間は自重していたと思われます。その間隙をついて、長親は桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように分家を設けてゆきます。そういった行動に出ることができた背景に、吉良氏の支援があったと思われます。
1512年(永正九)、三河国本宗寺の住持として三河門徒を従える立場をもつ、本願寺第九世法主の実如の息子である実円が播磨国英賀(あが・現在の兵庫県姫路市)に一宇の建設を始めます。完成は1515年(永正十二)で本徳寺と名づけられ、実円自らが本宗寺と兼務をする形で住持となります。
この時期は伊勢国長島に蓮淳が願証寺という水塞寺院を作っていた時に重なっております。英賀は夢前川の扇状地に堀をめぐらせた環濠集落で、播磨門徒の勢力拠点として機能しました。このことは、仮に本宗寺が奪わた場合に実円が身を寄せる拠点ができた。そして、本宗寺がなくなった場合に、三河近在に住する門徒達を束ねるもう一つの拠点が出来上がったことを意味します。
すなわち、永正三河乱で松平長親が勝利したことは、三河の本願寺教団にとって大きな脅威ではなかったかと想像するわけです。
松平長親は今川勢から西三河を守った英雄になろうとしました。彼が大樹寺を再建したのは、安祥松平氏第一代の親忠を顕彰するためです。大樹寺の寺伝に親忠が外勢から大樹寺をまもった伝承を残しているのは、かつて井田野を守った親忠を顕彰することがすなわち、現在井田野を守っている長親の立場を強化することに繋がるからです。
三河物語で大久保忠教は語っています。この合戦以後、三河で長親に従わないものはいなくなったと。長親は戦闘に参加して一族を守護した実績と大樹寺を通して一門を統制しようともくろんだのではないかと私は考えています。
石川氏を中心とする三河の門徒武士達は京に実如が不在の中、松平氏につくか今川一門につくか旗幟を鮮明にできなかった。もしくは、今川方についていたと私は考えています。もし、門徒武士が松平長親の「勝利」に何らかの形で貢献できたとすれば、彼らの独立は保たれていたでしょう。加賀の一揆衆のありようや、後に三河国においても不輸不入権を手に入れようとする門徒武士達の行動を考えれば、法然・弁長流の浄土宗を奉じる長親の子息達を自らの勢力圏に受け入れるとは考えにくいのですね。少なくとも親忠の代まではそうではなかったのですから。 
松平信忠と「尾三連合」
親忠の死を契機に長親は信忠に家督を譲り、自らは出家します。とは言え家督と惣領は異なり、惣領は終身です。将軍職を譲った後の大御所徳川家康と二代将軍秀忠の関係を思い浮かべていただければ、ご理解いただけるのではないでしょうか。二重権力のようにも見えますがこのような役割分担の類例は他家にも結構みることができます。
ところが、この信忠は「不肖」の後継者だったといわれております。三河物語では松平歴代の中で、この人物だけは徹底的にこき下ろしているのですね。曰く、武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無い人物であると。その為に信忠に対して主君押し込めを敢行し、弟の桜井松平信定を推す勢力が現れ、これを抑えきれずに跡目を子の清康に譲って隠遁したとあります。三河物語はこの後の清康をベタ褒めしていますので、あえて信忠を腐しているフシもなくはありませんが、その実情はどうなのかについて以下に考証してみようと思います。
長親の構想では、長親が死ねば信忠が惣領のまま出家して大樹寺に入り、安祥家の家督は孫の清康が継ぐ事になっていたのではないかと思われます。しかし、結果として長親の目論見は成立しませんでした。親忠が死去した時、信忠は僅か十一歳でした。伊勢宗瑞が井田野に攻め込んだ時は十六歳。一軍の将として、一族の命運を握って采配を振るうには若すぎまます。それ故隠居した長親が前線に立った訳です。
長親は次男信定に桜井を、三男義春に青野を、四男親盛に福釜を、五男利長に東端をと、次々に分家を作りました。長親の長男である信忠の年齢及び、信忠の嫡男清康の生誕時期(永正八年・1511)を考えると、それらが行われたのは永正三河乱の後のことであり、大河内氏とその主人である吉良氏のバックアップを得ての事だと考えられます。1508年(永正五)に足利義材(義植)が将軍に復帰した時、時の西条吉良家当主の吉良義信は京の館に足利義材を招いて歓待しておりますし、その後も足利義材とは良好な関係を保っております。1511年(永正八)には、吉良氏被官の大河内貞綱が斯波義達の支援を得て遠江に出陣しているのですから、この時点の松平長親・信忠の立場も足利義材よりと考えて差し支えないだろうと思います。
この体制は一見磐石に見えます。三河国内の敵対勢力に対しては吉良氏が支え、今川氏の国外勢力に対しては斯波氏がにらみを聞かせる。本願寺教団に対しては、大樹寺を一門の宗派と定め、松平親忠の子孫はこれに帰依することを要求しました。岩津家は事実上解体した中、安祥家が結束すれば、他の一門も従わざるを得ないでしょう。本願寺教団も朝倉・畠山氏が指示する室町殿足利義材・管領細川高国の監視下にあって身動きの取れない状況です。強権的に見えるかもしれませんが、信忠は称名寺に永正三河乱の戦死者供養のための踊念仏を企画するなどして、民心の安定を図ったりしました。
しかし、この状況は長続きしません。まず、1517年(永正十四)に大河内貞綱が、引馬で今川勢と戦い、敗死します。遠江国は完全に今川氏親の手に落ちました。今川氏親は斯波義達を捕らえ、因果を含めて尾張国に送り返します。その際に末子の氏豊を那古屋(現在の名古屋)に送り込みました。斯波氏にはそれを排除する余力もありません。
三河の本願寺勢にとっては勢力挽回のチャンスですが、ここで大きな牽制球が投げられました。1518年(永正十五)に実如が本願寺門徒に対して、三箇条の掟を定め、遵守を要求したのです。曰く、戦争するな、徒党を組むな、年貢を滞らせるな。一言で言うと王法に従えです。これは細川高国が牛耳る幕府の圧力をかわすため、教団強化の時間を稼ぐための命令でした。
しかし、「尾三連合」にとってこの後自体はさらに悪化します。1521年(大永元)足利義材が阿波に出奔しました。管領細川高国と対立したせいです。時の西条吉良家当主は義堯でしたが、以後、京都において吉良氏が活動することがなくなりました。つまり、将軍家とのパイプが途切れてしまったわけです。そして、その年、斯波家当主の斯波義達も亡くなっております。三河において松平家と吉良家を守ってくれる勢力が悉くなくなったわけですね。当然、安祥松平家に対する求心力も低下してゆきます。
そこに降って湧いたのが信忠押し込めの動きでした。その後に清康が取った行動を考えれば、その擁立者の思惑も浮かび上がってくるように思います。即ち、それは外征。庇護者のなくなった三河国はこのままだと外部勢力の草刈場になることは必定でした。そこで一か八か三河国を一つにまとめ上げるというプランが練られたのだと思われます。その為の安祥家家督の移譲です。
現存する史料から鑑みるに、信忠は三河物語でいわれているような武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無いという欠点を全て持っているようには思えないのですね。踊念仏を企画したり、宗派を問わず諸寺に寄進を行ったりと民心を安んじるための努力を不断に続けているような人物です。ただ、その活動は武士団の棟梁というよりは、有徳人としての活動に近いように見受けられました。この人物には戦闘に参加したと言う記録がないのです。そこから戦の才に恵まれていなかったという評価はありうるのかもしれません。そして、清康が家督を継ぐや否や一族間で係争が勃発した所を見るに、信忠にはその係争の当事者となれない事情があったと言えるのかもしれません。 
松平家の内訌
松平信忠は三河物語その他の文書において、散々こき下ろされております。いわば松平歴代の中でも「不肖」の人物です。その評価は一端脇に置いた上で、現存する同時代文書から彼の人物像を本稿で考察したいと思います。
彼は後世に十通前後の署名文書を残しております。その全てが寺社関係であるのは、彼が仏心の篤い人物であることをさすのか、それとも毀誉褒貶の中で寺社以外に発給した文書が廃棄された結果であるのかは定かではありません。
以下にその一覧を示します。
1503年(文亀三)信忠、称名寺の為に禁制発行。(信忠)
1509年(永正六)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1512年(永正九)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
1513年(永正十)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
1518年(永正十五)信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
1520年(永正十七)信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1523年(大永三)信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永六)信忠、某社の奉加帳に一門・家臣とともに記名。(信忠)
1528年(大永八)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)
内訳は称名寺(時宗)に三通、大樹寺(浄土宗白旗派)に三通、西方寺(浄土宗西山深草派)に一通、妙心寺(浄土宗西山深草派)に一通、萬松寺(曹洞宗)に一通、明眼寺(浄土真宗高田専修寺派)に一通、不明が一通です。称名寺と大樹寺にやや多く文書が残っている所から、それら社寺とのつながりが窺えます。
妙心寺、萬松寺、西方寺は信忠の曽祖父にあたる信光ゆかりの寺社であり、明眼寺は長親以後に松平氏とのつきあいのある寺です。
興味深いのは大樹寺に残された三通の文書、それぞれ署名が異なっています。それぞれ、道忠、太雲、祐泉。大樹寺文書の署名は後世に残っている名前と異なった名前で署名されているケースが見受けられます。親忠は西忠、長親は道閲という具合に。これは法号と解釈できるのですが、三つの名前をもっている信忠は特殊なケースといえるでしょう。しかも、大樹寺以外の文書には信忠と署名しているのですね。この使い分けに信忠と大樹寺、そして長親との隔絶を感じます。関係が良好であるならば、同じ名前を使い続ける筈です。そもそも、寄進状や安堵状、禁制文書の署名とは発給者の意思を明らかにするものであり、それがころころ変わるのは信用を落とす行為なのですから。道忠、太雲、祐泉の号が信忠という署名と併行して使われているとすれば尚更です。長親と信忠は永正乱で破壊された大樹寺を再建し、親忠の子孫は大樹寺に帰依せよ書かれた文書に署名しています。その文書の存在を前提に考えるならば、大樹寺を中心とした一門統制を図ろうとした主体は長親であり、信忠はそれに従わされた立場にあったといえるかもしれません。
信忠と称名寺は関係が深く、永正井田野合戦から四年後の1512年(永正九)に信忠、称名寺の永正の三河乱戦没者供養の為の念仏踊りの為の田地寄進を行っております。但し、称名寺関連で現存する信忠文書はこれが最後。この翌年「親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし」という文書に道忠の号で署名をしています。以後の、家督譲渡を強いられるまでの動向を追いますと、まず西方寺に寺領を寄進しています。この西方寺は妙心寺と同じく、松平泰親の子教然良頓開山の寺です。大樹寺に対しては別時念仏を絶やさないようにと家臣に命じている文書があります。残りは、妙心寺への寺領安堵状と萬松寺への禁制発行で、両寺を信忠が守護することを宣言した文書です。
これらの文書はいずれも、安祥家以外の松平家関連寺院なのですね。これを信忠の仏心からととらえることもできるでしょうが、その信忠の家督譲渡を強いたのは松平一門衆でした。
松平由来書という史料にはその経緯が以下のように書かれているそうです。
松平郷松平家の勝茂が、信忠は「がうぎ(強情・神仏の祭礼をしない者)」であるので、隠居を求めるべく、一門の評定にかけました。一門衆はこれを諾とし、連判状を作って信忠に渡した後、それぞれの所領に引き篭もったそうです。信忠はやむなく、自ら隠居を決め称名寺に隠遁したそうです。この結果から判断するに、信忠の活動は「親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし」という文言への対応であり、分裂しかかった一門に対する融和政策だったと思われます。信光明寺に親忠の子の超誉存牛が入ったのもその一環だったでしょうが、彼は大永元年に京に上って知恩院の住持になります。ひょっとしたら、岩津と安祥の関係の悪化により安祥家出身の超誉が岩津に居辛くなったのかもしれません。結局、信忠の工作は失敗に帰してしまいました。
ただ、松平由来書の見解に従った場合、三河物語に書かれているような桜井松平信定が対抗馬として押し立てられたという記事は考えにくくなります。というのは、桜井松平信定もまた、安祥家の人間なのです。一門への融和策はすでに信忠によってとられておりますし、信定を押し立てて一門衆にどんな得があるのか、今ひとつ判らないです。
安祥松平家勢力の減退は後ろ盾となった大河内氏、その背後にある吉良氏、斯波氏による遠江出征の失敗、そして吉良氏と繋がりがあった足利義材の二度目の都落ちとリンクしていると考えられます。であるならば、信忠の地位低下はとりもなおさず信定の地位低下につながります。信忠の後に家督を継いだ清康が一番初めに行ったのは、岡崎攻撃。すなわち一門衆への戦争でした。
三河物語には、信定を擁して家督譲渡を迫る首謀者を信忠が斬った。にもかかわらず、家督譲渡の圧力が弱まらなかったため、清康に家督を譲渡したと書かれています。
以下は推量です。本来の対抗馬は岩津松平家の者であり、それを実際に松平信忠は斬った。しかし、
それによって逆に事態は悪化し、一門と安祥家との対立は修復不能に陥ったように思われます。その時点で安祥松平家の後継と目されたのが、桜井信定だったのではないでしょうか。何しろ、信忠の嫡男清康はわずか十三歳なのですから。
清康相続を誰が決めたかについては、そしてその直後に始まる戦争を軸に考えてみるべきだと思います。攻勢に出たのは安祥家です。清康にその意思はともかく、実力があったとは思えません。戦争指導者としての才覚があったことは諸書に記されていますが、十三歳の少年にそれが備わっていると、戦争が始まる前から見抜ける者がいたとは考えられないのですね。
長親がもしも一門に対する戦争を考えていたなら、家督は清康ではなく、信定にしていたでしょう。平時であれば長子相続が望ましいことは言うまでもありませんが、これから戦争をしようとするものが十三歳の当主を立てて戦うというのは、現実的ではありません。一方の信定に一軍を率いる器量が備わっていたことは、後の戦歴が物語っています。
信忠は清康相続を支持したとは思いますが、戦争を望んだとは思えません。もしそうなら自らが戦い、家督を譲渡はしなかったでしょう。三河物語においては、家督譲渡を迫った首謀者を斬ったことになっているのです。それが一門との戦いに参戦していないとすれば、やはり身体的な理由で戦場に立てなかったとしか考えられません。
では、誰が清康相続を推したのか。それは安祥家の家臣団の中にいたと考えます。その中でも戦争にたけた人物が安祥家の名前で戦争をするために、あえて幼少の清康を押し立てたのではないか。そう考えるのが私には一番しっくりきます。
その人物は軍事力を持っているにもかかわらず、表立って戦争が出来ない立場にあった人物です。 
「尾三連合」の行く末
永正年間に三河国に侵入した今川氏親。その侵攻に対抗するために一つの連合体のようなものが存在していました。「尾三連合」と思いつきで名づけましたが、どの歴史書にも載ってませんから悪しからず。それは、尾張国守護斯波義達と西条吉良義信とその孫義堯を中心とした勢力です。そして、吉良義信は足利義材とも近しい関係にありました。
遠江国を今川氏に奪われた斯波義達は三河の吉良義信の支援を受けて、自ら軍を率いて攻め込みました。現在の浜松にあたる引馬を領していたのは吉良氏被官の大河内貞綱です。その奪回は吉良氏にとっても斯波氏にとっても重要な課題でした。吉良氏は三河国における立場を固めるために、被官衆に婚姻政策をすすめます。安祥松平家にもその誘いの手がきました。松平家は今川氏に岩津家を攻撃され、大樹寺は破壊されて大きな被害を受けておりました。その再建と復興のために吉良氏の助力は欲しかった所でしょう。松平信忠は大河内貞綱の一族の娘を娶りました。そして、信忠の妹を吉良家の家臣富永氏に嫁がせております。おそらく、その見返りとして後方支援を担ったのかもしれません。もしくは、最前線で戦ったかもしれませんが、その活躍は記録に残っておりません。ただ、信忠の声望の低下は、この「尾三連合」が今川氏親に敗れた後におこっておりますから、その可能性がないわけではありません。
そうした苦労を尾張国の斯波氏は汲んだようです。松平信忠の弟、桜井松平信定に那古屋に程近い守山に領地を与えました。その事は連歌師である宗長が記した「宗長日記」の大永六年三月二十七日条に尾張国守山にある松平与一信定の館で千句の興行があったことが記されているのでわかります。
そして、桜井信定には織田信定の娘を娶らせました。尾張の織田家には幾つか系統があるのですが、この織田信定は弾正忠家、織田信長の祖父に当たる人物です。これを視野に入れるなら、桜井松平信定を安祥家の後継に推した人々のスタンスがわかると思います。即ち、「尾三同盟」のてこ入れを行い、安祥松平家を尾張国の利益の代弁者としたい勢力です。但し、この時の斯波家は当主義達が今川氏親の捕虜となり、侘びを入れて尾張に還されておりました。目付けとして那古屋に今川氏豊が送り込まれております。斯波家は衰亡の道を走っておりましたが、尾張国を織田家が乗っ取るのはもう少し先の話になります。よって、桜井信定を推す勢力がその意図を貫徹できなかったとしてもそれはやむを得ないことだったかもしれません。
戸田憲光が唱えた伊勢宗瑞を中心とした「三河国人連合」は今川家の撤退によって霧散しました。目的を見失った連合体は消え去ってしまうのが宿命です。それに対するアンチ・テーゼとして、打倒今川を旗印に「尾三連合」は結成されました。しかし、その当初の目的が果たせないことが誰の目にも明らかになった時、新たな枠組みが必要になってきます。
松平信忠の退場をその文脈でみるならば、松平清康の登場と限界はおのずと明らかになってくるのではないかと思います。 
押籠の実行犯
最近、宮城谷昌光氏の「風は山河より」という小説を読み始めました。本稿でも触れる予定の松平清康康による東三河征服から家康の代の長篠合戦までの期間を東三河の国人領主菅沼氏の視点から描いた小説です。
そこに、松平信忠の押籠めシーンがあったのですが、ここの実に興味深いエピソードが紹介されておりました。主君押籠めの実行犯が誰なのかが書いてあるのですね。一門の意を受けた信忠の腹心。石川忠輔だというのです。石川忠輔は松平親忠に仕えた親康の子であり、寛政重修諸家譜には、小川の伯父康長と計って、野寺本証寺その他の地侍を安祥家の御麾下となしたとあります。安祥松平氏の功臣といってよい人物です。その彼が主君信忠に城外に美人がいると、告げてその言葉に誘われて外に出た所を捕まって大浜称名寺に監禁されたというストーリー仕立てです。
出典は徳川実紀だと書いてあったので、調べてみましたが、見当たりませんでした。徳川実紀という本は、林述斎の指揮の元、成島司直をはじめとする幕府の史家達が1809年(文化六)に起稿、1849年(嘉永二)に十二代代徳川家慶に献じられた歴史書です。初代家康(東照宮)から十代家治(浚明院殿)までの治世を、家康の代なら東照宮御実紀、二代秀忠なら台徳院御実紀という具合に編年体で記述てあり、幕府の公式記録と言うべきものです。基本的に各将軍の治世を記録したものですから、徳川家康以前の記録は本来の採録すべき範囲外なのですが、血統を糺す意味合いもあって、清和天皇から家康に至る経歴が東照宮御実紀の冒頭に書かれております。
ここでの記述は三河物語にあるのと同じく、誰が信忠を隠居に追いやったのかは明確に書かれていないものです。徳川実紀は大分の書物であり、人物索引の副読本で引いてみたのですが、やはりなさそうです。徳川実紀の編纂に加わった成島司直には「改正三河後風土記」というその時代を扱った著作もあるのですが、やはりその記録はありません。ここまで探して見つからなかったので、同じ宮城谷昌光氏が書いた「古城の風景」というエッセイを読んでみたところ、信忠押し込めの同じ話が載っておりました。そこには「三河後風土記正説大全」にあると書いてあり、確認いたしました。
似たような書名が色々出てきましたので、若干整理します。
徳川家康に平岩親吉という家臣がおりました。彼は主君の一代記と主家の由来を記した書物を書いたという伝が残っております。その書名を「三河後風土記」といいます。
ところがこれは偽書であるらしい。少なくとも、幕末の頃に幕臣として史書編纂に携わった成島司直はそう主張しております。彼が考証を行った結果、「三河後風土記」の編者は江戸初期に偽系図を広めていた沢田源内という人物ではないか、と指摘ました。そればかりか、この「三河後風土記」に対して「三河物語」や「武徳編年集成」などの記述を元に、校訂を加えて「改正三河後風土記」なんて本を作ってしまいました。成島司直が「徳川実紀」の編纂に取り掛かる以前の話です。やっぱりというかなんというか、「改正三河後風土記」に書いてないことが「徳川実紀」に書いてあるとは思えなかったのです。
「三河後風土記正説大全」は伝平岩親吉=沢田源内?系統の本を改撰した書物です。成立は享保年間で、神田白龍子という兵学者・軍談家が加筆したものらしい。
まぁ、徳川実紀にせよ、三河後風土記にせよ、三河後風土記正説大全にせよ、改正三河後風土記にせよ、史料価値としてはそんなに高いものではありません。それらの書物がネタ元にしている史料が重要になってきます。本稿で三河物語を重視しているのはそれらの書物のネタ元もしくは、ネタ元に一致する記述のある、江戸初期の史料であるからです。
とはいえ、「石川忠輔による押籠」のエピソードはこの時代の一門と家臣の関係を示唆するものの一つであるような気がします。
清康相続後の別のエピソードですが、三河物語にも家臣と一門の関係を示すエピソードが記されております。安祥松平家とその家臣たちで能の興行をしたときの事です。松平一門で、松平清康野叔父の桜井信定のために用意された席に家臣の一人が居座り、どけ・どかぬの押し問答がありました。家臣は最初は席を譲るつもりだったのですが、公衆の場で面罵されたことに憤りそのまま居座ったのですね。これを聞きつけた清康はその家臣を呼びつけたのですが、清康は一門にくってかかったこの家臣を罰しませんでした。それどころか、家臣の家の過去の功績を褒め称え、あまつさえ領地の加増すらしたのです。例によって具体性のないあいまいな書き方をしている部分で当の家臣が一体誰であるのか、三河物語は明らかにしておりません。しかしながら、三河物語の書き方は明らかに家臣の方に非があるような書き方をしつつなおも、清康が家臣を庇った度量の広さを褒めております。
これを能の席取りの話ではなく、土地争いの仮託であるととらえれば興味深いものがあります。桜井の土地は明応の井田野合戦で、矢作川西岸の国人・土豪達との争いに勝利した松平親忠が子の親房を入れたことが始まりです。桜井の土地は本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ本証寺に程近く、石川・内藤等の門徒達の勢力圏です。明応の井田野合戦で敵対した姫の領主、内藤重清を討った関係でしょう。門徒達にとっては進駐した形になります。桜井の新領主、親房には子がいなかったようで、その土地は長親の子の信定が継ぐことになりましたが、進駐した形には変りありません。そんな中、起こった土地争いというのはありそうな話です。語り手の大久保忠教にとって、信定は主筋に当たる人物であり、清康の治世を理想化しているきらいがありますから、これを能の興行に置き換えるということはありそうな話だと思います。
これが土地の争いだとするならば、清康がこの家臣を責めず、譜代の奉公を褒め称えるという行動には、もともとの家臣達の物であった土地を奪った松平家の負い目を認めたと取れます。加増はその補償のために代替地を用意してやったのかもしれません。いずれにせよ、このエピソードは清康の時代にあっては、一門といえども家臣を無視できない程の勢力となったことを示しています。
そのターニング・ポイントが「石川忠輔による押籠」にあったのかも知れません。信忠の隠居に主導的に動いたのは松平一門衆でした。しかし、一門衆は一枚岩ではありません。安祥家とそれ以外に分裂しつつありました。石川忠輔がその一門の意向で押籠に動いたとするならば、その首謀者が誰であるのかを考えなければならないかと思います。次項でそれを整理してみます。 
考察
本編は派閥の離合集散が激しい時代に当たりますので、ややこしかったかと思います。私の頭の中の整理を含め、以下にその概略をおさらいします。
永正五年、今川氏親は東三河国人達を従えて井田野に殺到しました。その時の攻勢はこんな感じです。
今川氏親、伊勢宗瑞、駿遠国人、東三河国人(本多氏含む)、戸田憲光
対する松平勢は岩津松平氏、安祥松平長親、岡崎松平、酒井、本多、大久保他
中立勢力は本願寺教団
この時、京では細川政元暗殺の余波で三人の養子達が後継者争いをする間隙を突いて、足利義材が上洛を果たしております。義材の支援をしている勢力の中には本願寺と戦っている畠山氏、朝倉氏がいます。山科本願寺法主の実如は堅田に遷り、本願寺教団は身動きの取れない状況でした。
今川の進軍は井田野で一応止まります。ここで、戸田憲光は伊勢宗瑞に今川と縁を切れと申し出ます。彼が考えていた三河の統治形態はだいたいこんな所でしょうか。
足利義材>伊勢貞宗>伊勢宗瑞、戸田憲光、松平長親、東三河国人衆、本願寺教団
伊勢貞宗は足利義材の上洛と同時にこれを迎え入れ、幕閣の一角に居残りました。本願寺法主実如の母は伊勢家の出でありましたので、一応勢力に入れております。伊勢氏を中心とした三河国というのも思考実験としては面白いと思います。
しかし、伊勢宗瑞はそれに従いませんでした。彼はその後駿河以西の戦いからは身を引き、関東の戦に専念します。戸田構想(と私が勝手に名づけたもの)は伊勢宗瑞がいて初めてなりたつものでしたので、三河の親今川勢力はその中心を喪った形になりました。今川氏親は足利義材から遠江守護の肩書をもらったため、義材派とカテゴライズされている研究者も多いと思われます。
しかし、私自身はそんな単純なものではなかったと考えています。上洛した足利義材の政策スタッフに伊勢宗家の貞宗も入っており、今川家は伊勢氏ルートというパイプも築けていたにもかかわらず、この直後伊勢宗瑞は三河経営から身を引いているのですね。その路線は潰えていると考えております。伊勢貞宗は足利義材を宥めて、堅田に籠っている本願寺九世法主の実如の山科本願寺復帰の介添えをしましたが、その後管領細川高国が失脚するまで、山科本願寺は身動きの取れない状況でした。足利義材=伊勢氏=今川氏親のラインは上手く機能していないと私は見ております。
今川侵攻の反作用として結成されたのが尾三連合です。ここにも背後に足利義材が噛んでいると思われます。斯波義達は遠江国守護の座を義材に取り上げられた形ですが、回復の機会も与えました。少なくとも、斯波義達が遠江奪還の戦いを今川氏親に仕掛けることを止めませんでした。畿内には足利義澄と細川澄元が健在で、義材は京の掌握を急がなくてはなりませんでした。だから、東海道では駿遠三を支配する巨大な領主が誕生するよりは、旧主と新主で消耗戦をしてもらっていたほうが都合がよかったのです。それを京で支えたのが、西条吉良義堯でした。
足利義材>斯波義達>吉良義堯>大河内貞綱・満成、富永氏、松平長親・信忠、水野忠政
この連合を背景に、松平長親・信忠親子は矢作川流域の支配を進めます。そして、岩津松平家からの独立を図る文書を大樹寺に遺します。すなわち――松平親忠の子孫(つまり安祥家一門)は男女の別なく大樹寺に帰依すること――です。
しかし、この布陣も串の刃が欠けるように脱落してゆき、連合は有名無実に陥ります。
まず、遠江で斯波軍が今川氏親に敗北します。大河内貞綱は敗死し、斯波義達も捕虜となって尾張に送り返されます。次に足利義材が管領細川高国と争って京を出奔します。吉良義堯の影響力は足利義材の後ろ盾あってのものでしたので、やむなく三河に戻ります。連合の中心を欠いてしまった結果、松平長親・信忠は一門の不満を抑えきれなくなります。信忠は一門衆が帰依する諸寺院に対して、寄進や禁制・安堵状の発行により保護を行いますが、一門衆の納得は得られなかったようです。
1522年(大永二)、信忠押籠の前年に三河国を連歌師の宗長が東三河から西上の途上、通りがかりますが、三河国で俄かに矛盾することがあったため、矢作・八橋を通過する予定を海路を使って刈谷まで向かいました。この時点ですでに戦いは始まっていたようです。それは安祥信忠対岡崎信貞だったと思われます。
反安祥の勢力は岩津、岡崎、大給、松平郷といったところでしょう。彼らとの抗争の中で、信忠の隠居は規定路線になります。その後継をめぐって安祥家は二派に分かれます。桜井松平信定を押す勢力と、信忠の子、清康を押す勢力です。信定は後背勢力として斯波氏の庇護を受けており、織田信秀、水野忠政らがその背後にいます。それを受け入れられるかどうかの判断を三河松平氏は突きつけられた格好になっております。
水野忠政の妻は岡崎松平信貞の娘であり、桜井松平信定は安祥以外の一門衆との閨閥を有しております。桜井信定擁立ということであれば、岡崎松平家と水野家の支持をえることができそうです。安祥松平家が御家安泰を図るなら、ここは松平信定を惣領家家督とした方が誰も傷つかない状況だったということが出来るでしょう。これは安祥松平家惣領の長親にも理解できることです。
対して、清康擁立の立場は微妙です。安祥家正嫡とはいえ、この危急の刻に十三歳の幼君に一門の浮沈の舵取りをさせるというのはギャンブル以外の何者でもありません。非器――ウツワにアラず――無能として押し籠められた信忠の代替としての、実力未知数の幼君というのは一門が納得する解としてはありえないと思います。これは別に擁立した勢力があったと見るべきでしょう。
故に松平信忠を押し籠めた実行犯が石川忠輔であったというエピソードが残っていると言う事実は大きな意味を持ちます。幼君推戴をしたのは一門ではなく、家臣団だったということです。
現に清康は家督相続早々、岡崎松平家と戦っております。これはそれぞれが別の事件であるということではなく、信忠押籠の後始末であったと考えております。 
 
蓮如上人の生涯

 

一 上人の時代
蓮如上人は応永二十二年(一四一五)京都東山大谷の本願寺において誕生した。あたかも南北両朝の争乱が一往大団円を告げてより後二十三年、称光天皇の御代に当り、室町幕府の将軍は第四代義持の時代である。しかして京都山科の本願寺において上人が遷化したのは明応八年(一四九九)三月二十五日で、後土御門天皇の御代、将軍は第十一代義澄の時代で、今年(昭和二十三年)は正しく四百五十回の忌辰に相当する。すなわち上人の時代は室町時代の初期より中期に至るが、当時の社会は応仁文明の擾乱を中心として、すこぶる混迷に陥り、やがていわゆる戦国時代へと推移してゆくので、上人の八十五年の生涯はまた波瀾と曲折とに充ちたものであった。今上人の生涯と業績とを叙するに当り、まずこの時代粧を概観しておきたいと思う。
南北両朝五十余年の戦乱の後を承けた室町時代は、三代将軍義満が室町御所の主として君臨し、一時小康を保ったが、やがて社会は再び擾乱の渦中に陥った。けだしそれは、元来室町幕府は南北両朝の対立を背景として成立したが故に、常に部下将士を懐柔しておく必要があり、ために彼等を充分統御し得なかったところに、政治的には重要な原因があるが、また南北朝の混乱によって一般に醸成された下剋上の風潮は、右の如き幕府の脆弱性によってさらに発展せしめられるものがあったからである。その故に応仁元年正月に端を発した京都の戦火は爾後およそ十年継続したにしても、ともかく文明十年八月足利義政と義視との和議によって、一応の終結を告げたのであったが、地方に波及した戦禍は到底拾収すべくもなかった。かくて社会の制度も秩序もすべては解体していったが、しかしこうした社会的混乱はまた新しい機運を醸成しつつあったので、室町時代は戦乱の故を以て直ちに暗黒時代と考え解体の時代とのみ断定することは出来ない。すなわち久しきに亙る戦乱によって上下に漲った下剋上の風潮と旧秩序の崩壊とは上流社会の伝統と権威とを瓦壊せしめたが、それはまた下層庶民の地位をして社会的に擡頭せしめたのであって、一部に偏在した文化は階級的にも地理的にも広く波及してゆく傾向を生じそこに新たなる時代文化が成立し来るものがあったのである。
わが国における宗教改革は、鎌倉時代における新仏教の興起に指を屈するは何人にも異論はない。しかして従来主として貴族を対象とした仏教が庶民階級にも侵潤し、仏教が広く国民の手に渡されたと説かれることがしばしばである。これはたしかに新興仏教に対する一視点にはちがいないが、しかしこれをさらに立ち入って考うるならば、鎌倉時代は新興仏教にとって未だ草創時代に属し、その弘通の程度は社会的にも地理的にもなお部分的な観あるを免れないであろう。いい換えれば、新仏教の普遍性は鎌倉時代においてすでにいわば理論的に構成されるものがあったにしても、それには未だ充分な実践が伴っていない。けだし新興仏教が社会的にも地理的にも広く弘通して、国民全体の手に渡り、如実にその生活の内に深く取り入れられるためには、なおいくらかの時間的経過を必要としたのである。
平安時代未期から鎌倉時代初頭にかけての打ちつづく公武の戦争と頻発する天災地変とは、人間の醜悪な一面をあらわに露呈し、また人間世界の無常を痛感せしむるものであった。しかしてここに輩出した幾多の高僧は、こうした時代の宗教的契機を力強く指導したところに新仏教の興起があり、いわゆる宗教改革が成立した。しかるに南北朝の後を承けた室町時代は、応永以来五穀稔らざることしばしばであったが、寛正年間に至って飢饉は極点に達し、皇城の京師にも死屍累々として横たわるという惨鼻な光景を呈したばかりでなく、やがて次に来た応仁の乱は骨肉相喰む醜い闘争をつづけて、戦火は遂に京都を一塵の焦土と化せしめた。こうした世粧は如上の平安未期より鎌倉初頭にかけての情勢とすこぶる相似たものがあり、時代人には新たなる宗教的救済を強く要望するものがあったのも必然の結果である。
さればこうした時代の機運は当代に幾多の高僧を輩出せしめた。蓮如上人もその一人として正しくかくの如き時代的社会的背景においてその生涯が展開するのであるが、上人とほとんど時を同じくして活動した高僧は、その数一、二に止らない。すなわちまず上人に最も関係近き高田派にはこの頃真慧上人あり、専修寺を下野高田より伊勢一身田に移して同派中興の業を完成し、鎮西派には上人より少しく先輩に聖冏・聖聡の両師がって宗風を東国に振起し、西山派には明秀上人出でて同じく同派を中興している。また天台より出でて戒称二門の宣説と清僧の風格とを以て一派をなした真盛上人も蓮如上人の在世中に活動した人である。さらに日蓮宗には、先に酸鼻な刑罰にも屈することなく弘法のために挺身した日親上人あり、次いで時人より日蓮上人の再来と仰信された日朝上人が出世している。なお大悟徹底から飄逸の奇行に富んだ一休禅師もまた蓮如上人同時の先輩である。
かく室町時代は初期より中期にかけて新興諸宗には高僧の輩出すこぶる多く、彼等は法を説き道を教えんがために戦乱と混迷の社会にあって、限りなき情熱を傾け種々の苦難を排して挺身した。しかも時代は鎌倉時代と異って庶民大衆の擡頭は著しく、彼等の活動はすでに社会の表面に現出している。さればここに仏教は深く民衆の手に摂取され、彼等の生命の中に生きることとなった。室町時代の高僧の教説には、何等かの形において神仏の関係について指示され、戒の問題が取り扱われることしばしばである。今その一々について言及することを避けるが、こうした問題が取り扱われることは仏教が民衆の生活に深く侵潤して、彼等の自覚を促しつつあることを示唆するものである。けだし神祇はわが国古来の信仰であるが故に、仏教が民衆の生活に深く入り来る時、自ら神仏の関係が問題となるからであり、また戒は仏教の通規であるから、仏教が在家生活において実践された時、戒に対して何等かの解決を要求するのが当然であるからである。この故に右の二個の問題は結局時代人が仏教を自覚的に受容したことを暗示するものに外ならぬ。かくの如き意味において、室町時代の仏教の展開はわが歴史上における第二の宗教改革であり、またそれは鎌倉時代の新興仏教を完成せるものといい得るであろう。
蓮如上人の生涯と業績とは、いわゆる本願寺の中興として、ないし真宗の興隆として、重要な意義を持つものであるはいうまでもない。しかし上人の歴史的地位は単にそれにとどまるものではない。それは上来叙述した如き社会制度の解体から来る動乱の世の中にあって、あらゆる苦悩にあえぐ民衆に、真実の救済を説いて彼等を宗教的信念に安住せしめ、宗教を文字通り民衆の手に渡したところに、さらにいい換えれば、わが国におけるいわば第二の宗教改革を果遂した高僧の一人として、価値高く意義づけられねばならぬと思う。ちなみに、蓮如上人と時代を同じくして活動せる高僧の生存関係を略示すれば次の通りであるが、ここに挙げた人々の事蹟については、別項の「蓮如上人略年譜」を参照されたい。
蓮如・・・応永二十二年(一四一五)・・・明応八年(一四九九) 八十五歳
聖冏・・・              応永二十七年(一四二〇)八十歳
聖聡・・・               永享十二年(一四四〇)七十五歳
一休・・・               文明十三年(一四八一)八十八歳
明秀・・・               長享元年(一四八八) 八十五歳
日親・・・               長享二年(一四八九) 八十一歳
日朝・・・応永二十九年(一四一七)・・・明応九年(一五〇〇) 七十九歳
真慧・・・永享六年(一四三四)・・・・・永正九年(一五一二) 七十九歳
真盛・・・嘉吉二年(一四四二)・・・・・明応四年(一四九五) 五十三歳 
二 幼時と環境
蓮如上人は本願寺第七世存如上人の長男として、応永二十二年春誕生した。その月日は二月二十五日ともいう。時に父上人は二十歳、祖父巧如上人は四十歳である。童名は布袋とも、幸亭とも称した。
上人の生母は、その出自も生国も伝えられていない。実悟の『拾塵記』には、母公の生国は明らかでないが、存如上人の先妣に常随給仕した人であるといい、応永二十七年三月二十八日即ち上人六歳の時、絵師を招いて上人の幼像を描かしめ、表鋪までととのえてそれを携え、その年の幕十二月二十八日、われはこれ西国のものなりここにあるべき身にあらず、といって飄然として大谷を去った、といっている。また『蓮如上人遺徳記』によれば、大谷退出の際、「願はくは児の御一代に聖人(親鸞)の御一流を再興し給え」と懇ろにさとしたという。上人の生母が何故に大谷を去ったか、勿論明証はないが、あるいは存如上人の内室の入嫁と関係があったかも知れない。というのは、上人の六歳は応永二十七年であるが、存如上人の内室(如円尼)は同二十九年に長女(如祐)を生んでいるから、その入嫁はこの前年か前々年であろう、と思われるからである。しかして本願寺の家庭がそうした事情に立ち至ったので、生母は留って上人の生長を見守るよりも、むしろ上人の天稟の才能に真宗の興隆を嘱し、自ら身を退くに如かず、と決意したのではあるまいか。もししかれば、その出自はともかく、この生母は恐らく非凡の賢婦人であったと思われる。されば母公は石山の観音の化身であるとか、または六角堂の観音の化身であるとかいうことが、『拾塵記』や『遺徳記』等に記されてあって、上人の子女や門弟の間には早くから信仰されていたのである。上人も母公をなつかしみ、九州豊後の人とか、または備後鞆にいるとか、いうほのかの語り草をたよりに、自ら下向せんとしたこともあったが、果さなかったので、人を遺してその消息を探し求めようとした程である。また大谷を退出した二十八日を母公の命日として、上人は報謝の懇念を運んだ。さらに晩年先の絵師を探し出したところ、右の幼少の画像をなお所持していたので、これに「本名布袋、名乗号幸亭、為六歳離母、当明応八年、終八十五」という銘を加え、往時を偲んだが、上人遷化の後、山科の南殿では、三月二十五日の上人の命日には、上人の色裳の御影の脇にこの幼像をかけたという。この六歳の肖像はいわゆる鹿子の御影として、今でも北陸の寺院に写伝して襲蔵されているものがあるが、上人も生母と別れた時は鹿子絞りの小袖を着していたことを記憶していた、ということである。
生母と別れた上人は、爾来父存如上人の内室如円尼の手に育てられた。如円尼は海老名氏の出身で、前述の如く上人八歳の時一女を挙げた後、五人の子女を儲けている。こうした異母の手に育てられた上人には、早くから人知れぬ辛労が多かったであろうと思われる。しかるに上人は十五歳にして一宗興隆の志念を発したと伝えられている。これは『蓮如上人遺徳記』や『同一期記』等のいうところで古い所伝であるが、このことを記したところには、法然上人も十五歳にして無常を感じ出家したことと対照して記され、上人を権化の人として扱っているばかりでなく、また十五歳にして志を立つということは古来普通にいわれることであるから、上人にも十五歳立志の説が現れたものと考えられる。恐らく生母の遺訓を深く印象づけられた上人としては、一宗興行の志念はすでに早き時代に発したにちがいない。けだし当時の本願寺は全く不振沈滞の状態にあったからである。応永二十年の頃、近江堅田の法住が、母の勧誘によって大谷に参諸したところ、本願寺には参詣のものなく、人跡絶えてさびさびとしていたが、渋谷の仏光寺には多数の参詣者が群集していたという。これは『本福寺由来記』に伝えられた有名な挿話であるが、応永二十年といえば上人誕生前あたかも二年である。以て上人幼少の時の本願寺の情勢を推察すべきであろう。
元来本願寺の基礎は覚如上人によって築かれた。上人が大谷に入って影堂の留守職に就任したのは宗祖親鸞聖人の滅後およそ五十年で、当時の真宗教界には何等の統一もなく、地方の門徒は各地に分立して互に割拠し、その間自ら異解邪説の輩出することも少なくない、という状態であった。この故に、上人は宗祖の廟所である大谷影堂こそ、宗祖なき後における真宗教団の中心でなければならぬ、という信念の下に、大谷本願寺による教団の統一を図ったのであり、以て当時すでに宗勢を整備していた浄土宗鎮西派や西山派等の浄土異流の間に、親鸞聖人の一流を顕影せんとしたのであった。これ覚如上人畢生の志念であったが、諸国の門徒、ことに高田門徒を初め東国門徒の中にはこれが充分理解されず、却って門徒は大谷から離叛する傾向を強くした。しかも東国門徒は存覚上人を留守職に擁立せんとしたことから、遂に覚如・存覚父子の義絶となり、大谷に容れられない存覚上人は仏光寺に寄寓することが多かった。仏光寺は空性房了源によって創められた教団であるが、了源は存覚を背景とし、また名帳・絵系図や光明本尊等の巧妙な教化施設によって、その教線を迅速に伸展せしめ、近畿中国をその勢力範囲に収めた。かくて東国門徒から孤立した本願寺は、京畿の地方においてまた仏光寺の勢力に圧迫され結局不振に陥らざるを得なかった。勿論爾後の本願寺歴代は覚如上人の志念を体し、ことに北陸地方の開教によって頽勢の挽回を図ったことは後に言及する通りであるが、時機未だ至らず、京都の本願寺は衰微沈滞をつづけたのである。
蓮如上人幼少時代の本願寺はあたかもこうした状態にあった。されば当時の上人の生活は内外万事につけてすこぶる不如意で、召使う人は勿論、時として衣食にもこと欠くという場合があり、研学の灯油も思いに任せないという有様で、上人は文字通り螢雪によって書を読み、黒木の灯火に親しむこともあったのである。このことは上人の側近者によって伝えられて、人のよく知るところである。しかし上人は一宗興隆の志念に燃えてこの苦難によく堪え、荊棘の道を開いて行った。
永享三年夏十七歳で、上人は粟田口青蓮院において剃髪し、在来の例に倣って中納言広橋兼卿(日野家の支流)の猶子となり、名を兼寿と称し、法名を蓮如、仮号を中納言と号した。戒師は尊応または尊深(義快)と伝えられているが、何れも年代が合わない点があるので、なお研究を要する。かく上人は青蓮院において得度したが、しかし爾後天台関係の寺院で学問したというわけではない。叡山で学問したというのは俗説で、何等の徴証も存しない。元来上人は幼少の頃から近親ことに存如上人から家学を授けられたが、また存覚上人の後である常楽台は叔父空覚(存如の弟)が住持していたから、そこに襲蔵された宗典について研鑽したこともあったであろう。このことは上人書写の典籍からも推知し得られるところである。かくて上人は、もともと「利性聡明にて何れの道をも深く習はずして理をさとる」素質であったし、またその家庭も環境も前述の如くであったから、定った師匠につくということもなく、多くは独学であったと思われる。幼少より上人の側近に侍した慶聞房龍玄は、上人の研学のために京の町に出て油を調達したが、資財乏しくしてそれを買う術もない時は、あるいは黒木を焼き、あるいは月夜にはそれを使りとして、『教行信証』や『六要鈔』を披覧し、また『安心決定鈔』は三部まで読み破られた、と後年物語ったということが『蓮淳記』に見えている。
なお、上人は奈良興福寺大乗院の経覚について研学し、師資の関係にあった、という伝説がある。これは『拾塵記』や『遺徳記』やないし実悟の『系図』等に記しているところで、早くより存した所伝であろうが、直ちに依用出来ない理由がある。経覚は関白九条経教の息男であるが、その生母正林足は本願寺から出た人で、上人二十八歳の嘉吉二年正月二十六日大谷で侵したという。本願寺の系図には正林足に当る人は見出されないが、年代から見て恐らく存如上人の近親であろう。従って経覚は存如上人とも交遊が深く、その日記『経覚私要鈔』には文安五年十一月より上人との交遊が見えている。ことに上人の示寂を記した条(康正三年六月二十三日の条)には、「五十余年知音、無双恩人也、周章々々」といい、その年十二月三日自ら大谷に参り、『三部経』その他を霊前に供えて焼香している。蓮如上人はその答礼として翌日経覚を訪ねているが、『私要鈔』には康正二年二月(蓮如三十九歳)上人が経覚に扇五本を贈ったのを初見として文明四年九月(蓮如五十八歳)に至る間にしばしば両人の交誼を記している。しかも寛正四年二月十一日の如きは、上人が兄弟子息若党等十人程を召しつれて南都に下向し、薪能を見物する等して数日を過したこともある。また翌五年八月三日には大谷を訪れた経覚は、上人ならびにその舎弟や子息と共に常在光院等を散策している。かく両者の関係は親密であるが、その間師弟関係を偲ぶべき点は見出されず、交渉のあったのは多く上人が奈良に赴いた時とか、経覚が上洛中の場合等である。もっとも、上人がしばしば奈良に行ったのは右の経覚と姻戚関係にあったためばかりでなく、奈良近郊藤原(大和添上郡東市村藤原)に本願寺の道場があり、常楽台空覚の女が住していたにもよるのである。ともかく、上人が南都で研学したという所徴は存在しないが、経覚との関係が右の如くにして密接であったことはたしかで、後述の如くそれは上人のこの後の生涯にも関係するところが少なくないのである。
かくて上人は早く生母に離れて異母の手に養育され、困窮の生活に堪えつつ道を求めて独り勉学した。実にそれは忍苦の生活というべきである。しかしこうした体験はまた上人の人格を錬磨し完成して行ったのである。その生涯を通じて看取される如何なる苦難にも挫折しない強靭な性格、一切のものを抱擁する無私的襟度、無我と冥加とに徹した感恩の生活、さては人間心理の機微を洞察する鋭敏な感覚等々は、勿論上人の天性にもよるであろうが、幼時の環境によって育成錬磨された点の多いことを否定することは出来ないであろう。 
三 継職の前後
聖教を書写して門未に下附することは、真宗では宗祖親鸞聖人に先蹤があり、爾来本願寺の歴代にその例がある。しかし存如上人の頃からこのことが盛んとなったようで、現在上人書写の聖教が十点余り伝っている。得度以後の蓮如上人が色々の方面において父上人の行化を助けたであろうが、そうした事蹟中文献に見える最初は、こうした宗典の書写と門徒への下附とである。上人が永享六年五月書写した『文類聚鈔』が越後国府光源寺に残っているが、これは上人の宗典書写としては日下のところ初見で、時に二十歳である。次いで同八年には『三帖和讃』、同十年には『浄土真要鈔』『口伝鈔』、更に十一年には『後世物語』というように、年と共に多く聖教を書写している。現在上人の真蹟の残っているもの、あるいは文献によって上人書写の事実を知り得るもの等管見に入ったものを数え挙げると、その数は五十余部に達し、重要宗典はほとんど網羅されている。本願寺歴代のすべてを通して、これ程多数の宗典を書写した例は上人以外には存しない。
上人のこうした宗典の書写は、年代からいうと大体その前半生、すなわち継職(四十三歳)の前後が最も多いようで、文明年間以後には著しく少なくなっている。宗典の下附は門徒の希望によるもので、門徒はそれについて懇志を上納したのであるから、これには経済的意義も含まれているが、こうした下附の数多いことは宗典を通じての教化の盛行を物語るものに外ならぬ。就中継職以前は存如上人の指導によったのであるから、上人のこうした教化はもともと父上人に負うものと見るべきである。しかして文明年間以後この種のことの少なくなっているについては、この頃から『御文』の述作が数多くなっていることと考え合すべきであろう。すなわちこれ以後は上人の教化が文書的には『御文』によっていわば統一されつつあることを示唆するものというべきである。しかし一方ではこれより後において聖教の伝授が行われたばかりでなく、宗典は依然として必要であったことは勿論で、それらは本寺から門未に下附されたのであるが、教団機構の整備と共にこの方面の書写は御堂衆の手によって担当されることとなり、上人自身筆を執るということは少なくなったものと思われる。こうしたわけで、上人の聖教書写は数多いが、それは継職前後以前であり、継職以前は父上人に代って執筆したので、年記の明らかなものが二十余点あるが、それらには多く「右筆蓮如」と署名して、その地位を示している。
上人が内室を迎えた年齢や事情は明らかでない。しかし長男順如は嘉吉二年上人二十八歳の誕生であるから、およそ結婚は想像される。この夫人は伊勢氏の出、下総守平貞房の女で、上人との間に四男一三女を生んだが、康正元年十一月(蓮如四十一歳)に没している。法名を如了尼という。当時大谷は窮乏して召使もいなかったから時として上人自身が襁褓まで洗濯したということであり、子女も多かったから、禅寺や尼寺に喝食その他として托し訓育を受けしめたのであった。
先に言及した如く大和には藤原道場があり、近江は後述の如く早くから存如上人の教化を受けていたから、蓮如上人が大和・近江方面に教化の歩を運んだのは若い時代からであろうが、東国遊化の如きも継職以前のことである。元来本願寺の歴代は一生に必ず一度は東国に下向して宗祖聖人の旧蹟を巡拝するのが慣例であったというが、上人はその生涯に三度東国遊化を企てたと伝えられている。しかしてその初度は宝徳元年三十五歳のことである。もっとも、これより先文安四年五月三十三歳の時、初めて東国に下ったという所伝もあるが、史実は余り明瞭ではない。それはともかく、この宝徳元年の際は恐らく父上人に伴われてまず北国に向い、加賀辺で別れ、さらに関東・奥州を巡遊し、東海道を経て帰京したのであろう。この巡化の委曲は知るを得ないが、東国の宗祖の遺跡を巡拝し、門徒を訪ねて此処彼処を経廻したことはたしかで、『蓮如上人1期記』に、この頃はなお門未も少なく上人の巡化も一杖一笠の徒歩の旅であったから、この時に出来た草鞋の跡が後年まで足に残っていた、と記している。また越後鳥屋野で、
師の跡を遠く尋ねて来てみれば、涙にそむる紫の竹
と詠ぜられたというが、宗祖聖人巡化の跡を二百年後に親しく踏破して、多感の上人は恐らく深く感銘するところがあったであろうし、また門徒教導の方面においても獲るところが多かったであろう。ちなみに、第二回の東遊は応仁二年五十四歳の時で、やはり北陸から関東奥州に下向し、東海道を経て帰京した。この度はことに諸所の門徒を訪ねて逗留教化したようで、奥州で貧しい門徒を訪ねて稗の粥を食しつつ法談したという有名な挿話の如きもこの時の下向の際である。第三回は文明七年七月(六十一歳)で、この度は越中井波の瑞泉寺まで下ったが、事情あって子定の日的を果さず帰京した。
長禄元年六月十八日父存如上人は六十二歳で遷化した。この時如円尼は実子応玄を擁立して継職せしめんとした。応玄は早くより青蓮院において修学した人で、蓮如上人よりも十九歳の年少、この時二十五歳である。大谷では一門も門未も如円尼の議に賛同し、常楽台を継いでいる叔父空覚(光崇・存如の弟)もこれに迫従していたしかし越中井波瑞泉寺に入寺している叔父宣祐(如乗・空覚の弟)はその不条理を説いて譲らず、遂に蓮如上人の継職が実現したのであった。時に上人四十三歳。元来本願寺では必ずしも長子相続とは限らず、宗主は生前譲状を認めて後継者を指定しておくのが通例で、代々の譲状が伝っているが、存如上人の分は存しない。その理由はともかく、譲状がなかったが故にこうした経緯が惹起したのであるが、これより先上人が青蓮院で得度して広橋兼卿の猶子となったのは、恐らく存如上人が後継者たらしめんためであったであろうし、またすでに述べた如く、上人は若くして父上人に代って聖教を書写して門徒に下附しているのであるから、上人の継職は多く問題が存しなかったかと思われる。もししかれば、ただ如円尼の私心によってこうした事件が出来したに外ならぬと思われるが、ともかく宣祐の適宜の処置によって解決されたのである。宣祐は上人の叔父に当るが、わずか三歳の年長に過ぎないから、越中下向以前は大谷において共に生育したものなるべく、従って上人の立場をよく理解していたによるものと思われる。ちなみに宣祐の没したのは、この後三年寛正元年正月二十六日で、寿四十九である。上人は継職における右の宣祐の処置を永く忘却せず、宣祐が創立した加賀二俣本泉寺には特別に配慮し、実如上人またその遺旨を受けて同様であったというが、上人の息蓮乗・蓮悟・実悟等三人までも本泉寺に入っていることによっても、その一面が推察される。
かくて継職に当って多少の波瀾はあったが、その後如円尼も前非を後悔して懴悔したし、上人も多く意に介せず、この後寛正元年十月四日如円尼の没するや、上人は養育の恩を憶うて、葬送にはその輿に肩を入れて御堂の庭まで供奉している。応玄はこの後遁世して蓮照と号し、加賀大杉谷に隠棲した。蓮如上人が文明四年三月越前吉崎において如円尼の第十三回忌を修したことが『御文』(帖外一七)に見えるが、この翌五年八月応玄が吉崎を訪うや、上人はそれを嘉んで共に亡母のことを迫想して昔を偲び、三首の和歌をも詠じている。恐らくこの『御文』はこの時草して応玄に与えたものであろう。また応玄は文明九年二月十五日宗祖聖人の御影を蓮如上人から申し請けている。実悟の『系図』に、応玄は能書家であったと記しているが、その書写になる『正信偈註』一巻(延徳三年八月書写)ならびに『御文』(二ノ一)一通(明応九年八月書写)が金沢近郊四十万善性寺にっており、美しい筆跡である。彼は明応八年三月上洛して蓮如上人の臨終に侍したというが、その後五年文亀三年三月二十六日七十一歳を以て没した。
蓮如上人は継職の翌年すなわち長禄二年二月教俊に『三帖和讃』を、同七月性乗に『六要鈔』を各々書写して下附している。教俊は京都金宝寺の住侶、性乗は加賀木越光徳寺の住持で、共に早くより本願寺に出入し、継職前上人から色々の聖教を申し請けた人々である。しかし継職後の上人の教化として特記すべきはまず近江である近江堅田の法住が母の勧めによって初めて大谷に参詣したのは、上人誕生より前応永二十年のことであるは先に言及したが、上人は長禄四年二月法住に金泥の十字名号を本尊として下附し、またその後寛正年間には宗祖と上人との運坐像や四幅絵伝等をも授与している。法住はこの地方の有力者で、近在諸所に門徒がいたが、彼を中心とする堅田門徒は上人の初期の活動を助成することが多かった。湖水を距てて堅田に対する赤野井や金森方面は東近江衆と称されたもので、また初期の上人にとって重要な教線であった。赤野井は古く存覚上人教化の地と伝えられ、この地の門徒には堅田の法住と姻戚関係があったことが本福寺の記録に見えているが、寛正五年五月赤野井惣門徒中に授けられた宗祖絵伝が今に残っている。赤野井の北に荒見があり、西に山賀があるが、荒見には赤野井性賢の門徒性妙が居り、山賀には道乗がいて、長禄四年正月二十二日上人から十字名号の本尊を附与されまた近在三宅の了西も同年三月本尊を申し請けている。金森の道西は後に従善と称した人で、存如上人の時代から大谷に出仕したが、またしばしば上人をその道場に迎え、この地方の弘教に力を致した。篤学の御堂衆として蓮如上人に愛された慶聞房龍玄は道西の甥で、幼少の頃上人に見出されて常随したというから、上人も早くより金森との間を往来したことと思われる。なお、赤野井の北東洲本の妙実は寛正三年二月宗祖と上人との二尊像を授かり、金森より北西に当る手原や安養寺にも浄性等の門徒がいて、すでに上人の継職以前から聖教を下附されているが、同じく手原の戒円門徒道悟は寛正五年十一月本尊を申し請けている。さらに遥か北東に当る長沢福田寺の宗俊は早く永享の頃から『口伝鈔』や『御伝鈔』等を授与されている。
かく近江方面には早くより門徒が少なくなく、従って上人もしばしばこれらの地方に下向したであろうが、この外三河や摂津方面にも、当時すでに上人の門弟が存在した。すなわち三河では佐々木上宮寺に如光が居り、その門徒はこの後この地方に大いなる発展をなしたが、如光が本尊を申し請けたのは寛正三年九月のことである。また同四年九月上人は摂津柴島の法実が相伝するところの達坐像に「日本血脈相承真影」という裏書を記しているが、この運坐像は仏光寺系のものであるから、法実は元来その方面の人で、この頃上人に帰依したものであろう。以上の如くにして上人の教化は長禄初年継職して後、寛正年間にかけて一段と発展するようになった。
上人が早くから宗典を書写し、その流布を図ったことは先に言及したが、特に一般大衆に理解し易からしむるために特別の注意を払ったのは『正信偈』である。『正信偈』はいうまでもなく『教行信証』から抄出したものであるが、現在一般にこの『偈』を別行独立せしめたのは上人であると考えられている。けだし『正信偈』は百二十句の偈が、真宗の要義を端的に説示したものであるからで、上人はこれを単行せしむると共に、また註釈を作り、その流布を図った。現行流布の『正信偈大意』は長禄四年六月上人四十六歳の時近江金森道西の所望に応じて書き与えたところである。しかるに伊勢法雲寺や同国深行寺等に伝持される『大意』は室町時代未期の写本であるが、本文において右の長禄四年本と異るものがあり、その内容や行文より見て、恐らくその成立は長禄本よりも古きにあると思われる。すなわち長禄本述作のための草稿たる一種の異本で、長禄本はこれにさらに添削を加えて整備したものである。しかるにまた本派本願寺には『正信偈註釈』と『正信偈註』との二部二巻の上人の筆蹟があり、共に『六要鈔』の『正信偈』の釈を抄出し、これに関係ある和讃を註記したものである。しかし『註』は『註釈』よりも内容において整備されているから、『註釈』は『註』の稿本であろうと思われる。しかして『註』が底本となって異本の『大意』(草稿本)が成り、さらに長禄四年にはこれに添削が加えられて流布本が作られたものと思われる。上人は長禄四年本の奥書に、道西の所望黙し難きままこれを書き与えたと記しているが、もし右の推定にして大過なしとすれば、上人は少なくとも長禄四年道西に『大意』を書き与える以前において、『正信偈』に関して『註釈』と『註』と草稿の異本『大意』とを述作していたのであって、流布本が完成するについては幾多の努力の払われていたことが推察される。これは上人の『正信偈』に対する深い関心を物語ると共に、また上人が早くから宗典の民衆化に意を用いたことを示唆するものに外ならない。
(附記)本稿刊行後、本願寺の宝庫において存如上人書写「正信偈」を見出した。したがって本偈を別行した初めは存如上人であり、蓮如上人はその流布をはかったと見るべきである。このことは拙稿『存如上人芳躅』(昭和三十一年四月本願寺刊)に記しておいた。 
四 寛正の法難
本願寺は上人の継職と弘教とによって、次第に活気を呈し、近畿の門徒もまたようやくその数を増して来た。しかるに継職後八年寛正六年正月、比叡山の僧徒は突如来襲して大谷の堂舎を破却し、ここに大谷の本願寺は遂に退転するに至った。すなわちこの年正月八日、比叡山の僧徒は本願寺破却を決議したが、堅田本福寺の記録によれば、彼等は翌日祇園感神院の犬神人を指揮し、およそ百五十余人の悪僧が来襲して大谷の諸堂を破砕し去ったのである。ちなみに、この日附は、『経覚私要鈔』には十日のこととしており、また大津の馬借も参加していたといわれる。かくて文永九年大谷影堂創建以来一百九十四年にして、本願寺は旧縁の地を去ることとなった。 西塔院執行慶純の草した本願寺破却の決議文によると、比叡山がその理由としていうところはおよそ次の通りである。すなわち本願寺が一向専修の念仏を張行し、三宝を誹謗するは不都合であるから、古来の例によって、停止せしむべきは勿論であるが、特にこの頃無礙光と号する一宗を建立し、盛んに諸所の村落において愚昧の男女貴賎老若を勧誘し、徒党を結んで横暴し、仏像経巻を焼き、神明を軽んじ、放逸の悪行をなすは実に仏敵であり神敵であるから、正法のため国法のため、正にこれを絶滅せねばならぬ、それについて昨年青蓮院門跡の口添で弁明書を出したから、しばらく猶子したのであったが、その後本願寺では一向態度を改めた様子もない、よってこの度は断然たる処置をとる、というのである。比叡山が本願寺を圧迫したことは南北朝時代からあったことで、本願寺ではこの面倒な事件を解決するために、覚如上人以来恩願を受けている青蓮院門跡の斡旋を煩したり神供として若干の財物を醵出して、ようやくことなきを得て来たのである。この神供として納める財物は未寺銭と呼ばれたが、それは専修念仏を弘めつつある本願寺は当然弾圧すべきであるが、叡山の未寺分として寛大な処置をとるという名義で徴収するからである。蓮如上人継職の後寛正年間に至って本願寺は徐々に興隆し来ると共に、その未寺銭も恐らく増額されたであろうが、なお不充分であるとか、または山徒の要求を一々応諾し兼ねる点があるとか、いうこともあったであろう。その結果こうした破却となったものであろうが、それは表面にとりあげる理由とはなし難い。それで本願寺が無礙光宗という一流を立てて邪義を行う、という如きことを決議文に認めたものと思われる。 ここに本願寺門徒を無礙光宗と称しているのは、前述の如く蓮如上人が門未に下附した本尊が帰命尽十方無礙光如来の十字名号であったによるであろう。けだし仏の名号を以て本尊とすることは、仏教においては宗祖親鸞聖人を以て最初とする。しかして現在遺存している宗祖真蹟の名号本尊はすべて五幅で、六字・八字・十字の三種あるが、就中十字名号が三幅で最も多く、十字名号が本尊としては普通であったと思われる。これは宗祖の教義から申してもいわば当然のことで、覚如上人の『改邪鈔』には「凡そ真宗の本尊は帰命尽十方無碍光如来なり」と明言している。されば本派本願寺に蔵するところの蓮如上人が文明十七年四月修覆を加えた十字の名号本尊には、これは覚如上人以来本尊として来た本願寺の重宝であることを裏書している。宗祖の十字名号は中央に十字の名号を書き、蓮台を以てこれを受け、上下に経釈の文を讃として記した紙本墨書であるが、右の蓮如上人裏書の覚如上人以来の名号本尊は、紺地に金泥を以て十字名号を書き、それに光明を添え、上下には同じく墨坐で経釈の文を記してある。この変化は恐らく宗祖滅後に流行した光明本尊の影響によるものと思われるが、ともかく十字名号を以て本尊とすることは、真宗としては古来の伝統であり、今蓮如上人が門未に下附した名号本尊は右の覚如上人時代の本尊と同趣である。さればこれは決して蓮如上人の恣意によるものではない。しかるに今やこの故にことさらに無礙光宗と呼ばれ、邪義と称されたのである。ここにおいてか上人は今後この種の十字の名号を本尊として門徒に下附しなかったようで、大谷破却以後の年記あるものは見出されない。しかしてこれに代る名号本尊として、上人の依用したのは六字であったので、ここに上人独特の風格ある行書の六字名号が流布されることとなった。
さて本願寺でも山徒来襲の風聞を探知していたので、地方の門徒にこれを通報し、当時十余人の番衆が上山して警備に当っていた。しかし予想に反してあまりに早く山法師や犬神人が百五十人ばかりも押し寄せたので、何とも致し方がなかった。彼等は堂舎を破壊すると共に、散乱した財物を掠奪し去ったのであり、また御堂衆の正珍を上人と早合点して捕えたこともあった。かくて上人の身辺も危険であったが、上人は祖像と歴代の重宝とを携えて避難し、やがて法住も如光等も上山し、近隣の天台宗の定法寺を介して礼銭を山門に送り、ここに一往の協調が出来た。経覚の伝え聞いたところでは、この時の礼銭は三干疋であったというが、これ以後本願寺がいわゆる未寺銭として叡山釈迦堂に納めた金額も毎年三干疋であった。上人は一時定法寺に身を寄せていたが、また金宝寺や壬生・室町等にも居を移したということで、しばし所在も明らかではなかった。大谷破却を知った経覚は上人の安否を気づかい、しきりに消息を送って所在を探しているが、三月二十一日に至り、摂津にいるとの情報を入手したことを『私要鈔』に記している。しかしこの月十八日上人が河内久宝寺において『一年二季彼岸事』を書写したという文献があるから、右の摂津とは河内の誤伝であるかも知れない。それはともかく、この年十二月には、二回に亙り、上人は経覚を南都に訪ねている。なお大谷は上述の如くにして正月山徒の破却に遭うたが、右の『私要鈔』その他によると、三月二十一日犬神人等は再度発向して大谷を襲い、ここに大谷は破却し尽されたようで、経覚は「亡母之里也、歎而有余者哉」と慨歎している。
大谷退出後の上人は、右の如く転々居を移していたが、本福寺の記録によると、やがて近江金森に居を占めたようで、道西が奔走して上人を迎えたのであった。これによって金森の門徒と守山の天台宗の日浄坊との間に争乱が開けたこともあり、さらに赤野井方面にもこれが波及し、八月にはこの地方において相当な擾乱があった。しかし叡山に最も近い堅田の法住は、上山して適宜の処置をとり八十貫文の礼銭を納めて交渉を纏めた。しかして『金森日記抜』によると、大谷退転後の上人は野須・粟太の坊主と門徒とをたのみに金森に三箇年居住したので、文正元年の報恩講は金森で厳修したが、この年秋の未頃より、粟太郡の高野の善宗正善の道場、安養寺村幸子房の道場、手原の信覚房の道場、ないし野須郡の荒見性妙の道場、中村妙実の道場、矢島南の道場、赤野井慶乗の道場、三宅了西の道場等を転々居住したということで、右の諸道場の後身は大体今日これを明らかにすることが出来る。 
応仁元年(文正二年)には正月以来京都は戦塵の巷と化し、しかも戦雲は何時収まるとも予想出来ない。それで京都の諸寺の中には地方に疎開するものも少なくなかった。本願寺は叡山との間に協調の出来ていることは前述の通りであるが、戦乱のため祖像は帰京することは出来ない。金森より粟本安養寺に遷座した祖像は七十余日ここに滞留していたというが、二月上句堅田に遷り、この年の報恩講はこの地で修された。
上人は先に文正の頃長男光助(順如)を法嗣と定めたが、光助は自らこれを辞退したので、応仁二年三月光養丸を後継者に指定して譲状を与えた。時に上人五十四歳。先に述べた如く上人の内室(如了)は康正元年第七子(蓮誓尼)を儲けて後、間もなく没した。それで継室としてその妹を迎え、長禄二年に誕生したのが、右の光養丸で、応仁二年は年十一歳である。上人の第八子(第五男)に当り、諱は光兼と称する。すなわち本願寺第九世実如上人である。なお、この応仁二年には、先に言及した如く、上人は第二回の関東下向を企てている。その出発の月日は明らかでないが、堅田に帰ったのは九月のことである。次いで十月中句大津を出発して高野山に登り十津用・吉野等の幽谷を踏破している。上人の『道の記』の一である『高野紀行』(帖外五)はこの時の紀行である。
応仁三年(文明元年)正月、また叡山から堅田へ来襲するという風聞があった。しかるに幸い大津浜の道覚は堅田法住の門徒であったから、二月十二日その道場に小坊を営み、三月十二日祖像をここに遷した。果してこの後三月二十九日山徒の堅田襲撃があったが、右の如くにして祖像も上人も難を避けることが出来た。しかして三井寺満徳院の斡旋により、三井寺との間に諒解が出来たので、祖像を南別所の近松に安置した。すなわち近松御坊で、後に顕証寺と称したところ、今の大津市南町の近松別院がその遺蹟である。この地は三井寺の境内であるから、叡山大衆が本願寺に対して如何に不快のことがあったとしても、何等手を出すことは出来ない。けだし叡山と三井寺との確執は平安時代以来久しいことで、互に対立していたから、三井寺の境内は叡山に対して一種の治外法権の地であったからである。されば叡山の迫書を蒙りつつあるものにとって、三井寺のこの地は全く安全地帯である。かくて寛正六年以来四年間、諸地を転々流寓した上人は近松御坊の設立によって初めて安住の地を得、ここに家族と共にしばし平安の日を送り迎えた。また宗祖の廟所の地を失って寂寞を感じつつあった門徒もここに一陽来復の春に遭うことを喜び合ったことであった。 
五 吉崎の遊化
近松に安住の地を得た上人は、ここを中心として近江・美濃・尾張あるいは河内・摂津等の諸方面を巡化し、また諸国門徒の近松参詣もようやく数を増して、すべては順調に進みつつあった。しかるに、実如上人初め蓮淳(兼誉)蓮悟(兼縁)以下七女を挙げた上人の継室蓮祐尼は、文明二年十二月に没した。これによって上人も少なからず力を落したようで、その頃から北陸の遊化を思い立ったと伝えられている。北陸は本願寺歴代とことに因縁の深い地であるから、門徒の懇請もあったであろうし、上人の気持も動いたであろう。かくて翌三年五月中句その旅に上ったので、特に上人五十七歳である。
元来本願寺が初めて北陸と因縁を結んだのは覚如上人の時代で、応長元年(一三一一)上人自ら越前大町如導の許に下ったに始まる。けだし当時高田門徒の勢力は三河に伸びて京都から東海道への通路を扼し、近畿や中国は仏光寺の教線によってほとんど占有されている。されば教団の統一を志念して本願寺の興隆を図った上人が、新たに教田を開拓せんとすれば残された地は北陸以外に存しなかったからである。かくて本願寺と北陸との関係は開かれ、上人の時代には越前方面においてその門下に列するものもあったが、本願寺と北陸との関係をさらに進展せしめたのは第五世綽如上人である。すなわち上人が明徳元年(一三九〇)越中井波に建立した瑞泉寺は、上人の勧進によって加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨等の門徒を糾合して完成したもので、上人は当寺によって北陸門徒を統摂し、以て不振の本願寺を興隆せんとしたのである。しかるに上人は間もなく示寂したので、遺志を継いだ第六世巧如上人は自ら瑞泉寺に下ったこともあり、また北陸の開教に力を注いだ。しかして上人の弟頓円鸞芸・周覚玄真の両人は加越門徒の支持によって越前に下り、藤島超勝寺・荒用興行寺等が建立された。さらに第七世存如上人の生涯も多く北陸の教化に始終したものといってよい。上人が越前を初め加賀・能登の門徒に下附した聖教や宗祖絵伝等が数点今に伝っているばかりでなく、越前石田に西光寺を創め、またその女を諸地に配している。しかも越中瑞泉寺に入寺した上人の弟宣祐如乗は加賀に進出して二俣に本泉寺を創しているので、存如上人の晩年には本願寺教線は北陸一帯にわたることとなった。
こうした本願寺歴代と北陸との因縁、ならびにこの地が上人にとって曾遊の地であることを考える時、たとい大津近松においてしばし安住の生活をつづけていたにしても、やがて再び北陸巡化の旅途に上ったことは決して偶然ではない。かくて越前から加賀への途次、吉崎が景勝の地で、門徒の参集に使利であるから、ここに坊舎を構えることとなった。吉崎は越前坂井郡の西北部加賀との境に近い小高い丘陵の地で、河口荘十郷の一なる細呂宜郷下方に存する。上人をこの地に導いたのは、越前守護朝倉孝景であるとか、または上人の門弟安芸蓮崇であるとか、古来色々の伝説がある。しかし元来吉崎は南都興福寺の所領で、当時上人と親しい関係にあった前述大乗院経覚が隠居料所として支配していたところであるから、上人がここに坊舎を営構したのも経覚との因縁によるところと考えられ、吉崎下向後の上人は経覚と密接な交渉があった。
上人が吉崎に居を占めたのは文明三年六月下旬からで、坊舎は七月下旬に建立された。この年には加賀方面に赴いたこともあるらしいが、爾来吉崎にあって熱烈な教化に当った。当地の教化としてまず注意すべきは『御文』の述作である。『御文』の撰述は上人の生涯を通じてその教化を代表する重要な事蹟であるが、就中年記のある最初のものはいわゆる「筆始の御文」(帖外一)で、寛正二年三月の作である。すなわち『御文』は、前述『正信偈大意』が完成した翌年から始っているが、爾後吉崎下向に至る十余年間の述作はわずか数通に過ぎない。しかるに吉崎下向後およそ一年を経た文明四年五月以来、ことにその述作は頻繁となり、遂に示寂の前年までつづいている。『御文』は鎌倉時代以来勃興した仮名法語の形においてなされたものであるが、上人としては、宗祖が帰洛後関東門弟に与えた御消息に示唆されたものと思われる。しかして上人は簡明な文章を以て端的に真宗の要義を説示し、門徒参集の場合これを読み聞かせて、宗義の民衆化と安心の統制とに意義深い効果を収めた。こうして読み聞かせる場合、新たに『御文』を述作することもあるが、旧作を再用することもある。述作年時の欠けているものは、しばしば用いられたので、年月日を添えておく必要がなく、省略したものもあろう。また旧作の場合は、これに訂正を加えることもあったから、同一通に色々の修正本が現存するのである。稲葉呂丸氏の編輯になる『蓮如上人遺文』には「諸文集」として二百二十一通(外に真偽未定十四通)を収め、如上の修正本が一々集成されているが、もしそれをも一通宛に数えると、その総数はこれより遥かに多くなるわけである。それはともかく、『御文』はかように門徒に読み聞かせることがしばしばであったが、また上人はこれを書き与えたことも勿論である。上人自筆の『御文』は五十余通現存し、普通は美濃紙型の料紙を横に継ぎ合せて認めている。しかしまた特に横一尺余・縦三尺余の料紙に麗しい平仮名で縦書きしたものが数点存するのは、もともと掛軸として執筆したものである。『御文』の蒐集はこの後色々の形で行われているが、最も早いのは文明五年蓮崇によってなされたもので、それについては次下に言及するであろう。
吉崎における上人の教化として次に特筆すべきは『正信偈和讃』の依用である。親鸞聖人の和讃は早くから諷誦されたことは『破邪頭正鈔』(巻中)にも見えるが、実悟の『本願寺作法之次第』に、「当流の朝幕の動行、念仏に和讃六首加えて御申候事は近代の事にて候、昔も加様には御申ありつる事有げに候へども、朝幕になく候つるときこへ候、存如上人御代まで六時礼讃にて候つるとの事に候、(中略)文明の初比まで朝幕の動行には六時礼讃を申して侍りし也」とある。すなわち和讃は時に諷誦されることがあったにしても、朝夕の動行としてはむしろ『礼讃』が用いられたのである。しかるに蓮如上人に至って和讃に改められたので、実悟は右の文につづいて、「然に蓮如上人越前之吉崎へ御下向候ては、念仏に六種(首)御沙汰候しを承候てより以来、六時礼讃をばやめ、当時の六種(首)和讃を稽古致し、瑞泉寺の御堂衆も申侍し事也」といっている。しかも上人は『三帖和讃』に『正信偈』を加えて四帖とし、その普及のために文明五年三月これを開板した。これ真宗における聖教開版の最初で、次の刊記がある。
右斯三帖和讃並正信偈四帖一部者、未代為興際板木開之者也而已
文明五年癸巳三月 日     (蓮如花押)
上人の『正信偈』に対する関心についてはすでに述べたが、『三帖和讃』は、上人が、永享八年八月金宝寺教俊に、宝徳元年五月加賀木越光徳寺性乗に、さらに享徳二年十一月近江手原道場に、各々書写して授与しているもっとも、これらは存如上人の在世であり、存如上人自身も永享九年九月同じく『三帖和讃』を加賀吉藤専光寺に写与している。しかもこれ以前に『三帖和讃』が多く書写された形跡がないから、本願寺において和讃に注意するに至ったのは存如上人の時代蓮如上人の若年の頃かと考えられる。なお右の手原道場へ下附したものには未だ『正信偈』は加えられていないから、『正信偈』と『三帖和讃』とを一具としたのはこれ以後、文明五年に至る二十年程の間のことで、蓮如上人の創意によるといわれている。元来和讃は今様と共に発達し、鎌倉時代以後民間に広く行われたものであるが、当時の仏教各派中ことにこれを多く用いたのは、一遍上人の時衆である。しかも越前には時宗は盛んで、すでに早くこの地の真宗の大町門徒の如きその影響を受け、和讃を諷誦すると共に踊躍念仏を行じたことが『愚暗記』ならびに『同返札』に見える。されば大町如導の系統は後に三門徒といわれるが、この「三」は和讃の「讃」の転訛でないか、とも考えられている。かくの如き時代の傾向や越前という地理を思い合す時、蓮如上人がすでに宗祖に先蹤ある和讃の諷誦を朝夕の動行として採用した理由も自ら首肯されるであろう吉崎は元来孤狼野干の棲む淋しい丘陵であったが、上人来住の後は各地門徒の参集の中心となり、山上には多屋が御坊を中心として多数設置され、山下には商家が出来て、一種の宗教的都市が形成された。多屋の多は他の意で、本坊に対する他屋を意味し、地方門徒が参詣の場合宿泊聞法する宿坊をいう。吉崎では法敬坊とか本光坊とかの如く坊号を使用していたが、越前や加賀方面の有力寺院は吉崎に多屋を設け、家族の一部をここに留めて宿泊者の世話をさせた。多屋の坊主とか内方というのは、こうした多屋に居住する僧侶やその妻女のことである。吉崎の多屋はその数百戸以上に及んだというから、その般盛を思うべきである。これは上人の人格によるは勿論であるが、また前述の如き覚如上人以来の本願寺の北陸開教とも深い関係のあるところで、今や蓮如上人の来化によって、それが結実し点晴されたものというべきであろう。
文明二年十二月継室蓮祐尼没し、翌年二月長女如慶尼逝いて後は、次女の見玉尼が上人の側近に侍して万事世話していたと思われる。しかるに見玉尼も四年五月から病臥して容易に癒えず、八月一日には七歳の童女(了忍)が没したが、遂に見玉尼は十四日二十五歳の生涯を閉じた。上人が見玉尼を悼む『御文』(帖外一六)には切々の哀情をとどめている。しかもこうした家庭苦の中にあっても、上人の教化はますます熱を加え、吉崎に参集する地方門徒は次第に増加し、一日々々繁栄してゆく。しかし多数門徒の群集は、越中立山や加賀白山等諸寺の嫉視を招き、守護地頭初め地方武士との間に問題を惹起する恐れがある。さらに何分戦乱の絶えぬ土民蜂起の時代であるから、吉崎の如き一所に多数の門徒が来集することは一部の野心家に利用される憂なしとしない。されば上人はこうした点に留意して、たとえば文明五年十一月作るところの十一箇条の制条(帖外二四)の如く、いわゆる「掟の御文」(二ノ六)の如く、門徒に訓誡を加え、また吉崎参集を制限したのである。しかし門徒の来集は依然として増加するばかりであり、また当地の気候が上人の健康に適しなかったので、上人には早くから帰京の心が動き、文明五年九月には越前藤島にまで移った。しかし多屋の面々が帰住を懇請して已まないので、上人も所志を果さず、やがて再び吉崎に帰住した。この翌六年三月吉崎の山上では南大門の多屋から出火して本寺や多屋の一部を焼失したが、間もなく復興した。かくて七年七月上人は加賀二俣に赴き、次いで越中に出て瑞泉寺に至り、さらに東国遊化の意志があったが、上人の下向に伴う地方門徒の参集は、諸国武士や諸宗諸寺の偏執を誘い誤解を招く恐れがあったから、これを中止して越中から吉崎に帰った。しかるにその後、間もなく重大事件が突発し、遂に上人は吉崎を退去せざるを得ないこととなった。 下間安芸法眼蓮崇は越前麻生津の人で、吉崎来化の上人に親近し、日常その座右に侍して上人の信任篤く、門徒その他の取次をなしていた。彼の書写になる『御文』一帖が能登正院の西光寺に伝えられているが、もと瓶子屋という家に伝来したので『瓶子屋御書』とも呼ばれる。表紙に「諸文集【自文明第五 至文明第三間也】」の外題ならびに「蓮崇」の袖書がある。内容は文明三年の分五通、同四年の分一通(外に聖教抜書一通)、同五年分八通(外に端書一通)で、巻頭に上人が端書(帖外一九)を加えている。この端書は文明五年九月二十七日越前藤島超勝寺において上人が認めたものであるが、巻未の二通も(帖外二〇・同二三)また上人の真蹟で、最後の一通は同五年霜月二十一日起草のものであるから、右の端書を記して後にさらに上人が加筆したものである。以て上人と蓮崇との密接な関係を推察すべきであろう。
しかるに当時加賀においては牢人の擾乱絶えず、本願寺門徒の一部もその渦中に陥るようなこともあった。また牢人の一部は吉崎をも敵視することがあり、文明七年五月の頃には吉崎も相当険悪な雰囲気にあった。されば万一の場合を慮り、吉崎においてもその場合には多屋衆が一同協力して防備すべきことを予定していた。勿論上人は宗徒が牢人に対して積極的行動をとることは厳禁していたので、それはこの時記した『御文』(帖外四四)によっても知られる。しかるに風雲に乗ぜんとする野心を抱いた蓮崇は、上人と門徒との間に介在し、偽って上人の命と称して門徒を煽動し、遂に上人を窮地に陥れる結果となった。しかも上人は蓮崇の異図を知らず、この年八月八日には宗祖絵伝四幅を蓮崇に下附している程である。しかるに蓮崇の秘計を察知した上人の息男蓮誓・蓮綱等は兄順如と共に上人に注進したので、初めてこれを知った上人は八月二十一日夜順如の船に乗じて吉崎を退去し、海路によって若狭小浜に上陸したのであった。 
六 山科本願寺
文明七年八月、若狭小浜に上陸した上人は、やがて丹波路を経て摂津に入り、次いで河内出口に移り、この地を中心としてしばし近畿の教化に当った。出口は北河内郡蹉陀村に属し、伏見と大坂との中間、淀川の南岸に沿うたところで、河流も陸路も共に至使の地である。この出口御坊はこの近在九間在家に住した光善が取り立てたところであるが、山科建立の後、これを順如に相続せしめたのは、この坊を重視したものに外ならぬ。次いで摂津三島郡富田にも坊舎が建てられた。この坊に安置さるべきであった運坐像(鷺森別院蔵)には文明八年十月二十九日の日附があるから、当坊建立の年時も略々推定される。さらに和泉堺にも坊舎が出来ている。上人の教化が堺地方に及んだのはすでに早い時代で、文明二年六月この地の南庄紺屋道場の円浄に寿像を、同年十月には北庄樫木道場の道見に宗祖絵伝四幅を授与しているから、この両坊は当地の真宗の開拓者ともいうべきであろう。上人が堺御坊を営み、信証院と称したのは文明八・九年の頃で、文明九年九月の『御文』(四ノ三)には「信証院」の署名がある。荊日国の人が上人の教を受けたというのは上人伝の有名な挿話であるが、これは堺においてのことである。堺は応永の初めすでに民家一万と称され、内外交通の要津に当っていたから、こうしたこともあったかと思われる。荊旦とは契丹のことであるが、当時は契丹も女真も亡んですでに相当の年代を経ているからこれは北支か、満洲あたりから来朝した外人をいうのであろう。
かくて近畿の弘教につくしつつあった上人は、文明十年正月下旬、山城山科に居を移した。けだし山科に本願寺を再建するためで、この地を選んだのは近江金森の善徒の慫慂によるという。当時山科を領有していたのは三井園城寺であるとか、醍醐三宝院であるとか、史家の間に両説あるが、三宝院領であったと見るべき根拠が有力である。しかして当時の三宝院門主義覚は将軍義政の子であるが、上人の第四女(法名妙宗)は、将軍家の上藹として春日局と号した摂津氏の女(元親の妹)に養われた因縁から、義政に仕えて左京大夫と号し、すでに文明九年の頃には幕府の申次をしていたことが明らかにされている。しかも義政の室富子は日野家の出で、文明十二年山科本願寺を訪ねているから、上人と義政との関係は坊舎建立以前から相当密接であったであろう。もっとも山科に寺地を相した文明十年は、義覚はなお十一歳であったから、彼は直接この問題に関与したとは考えられないが、本願寺として再興の地をここに相するについては、山科が如上の関係にある三宝院領であることに、ある心安さを覚えたことはたしかであろう。山科の所領関係はおよそ右の如くであるが、坊舎の造営された山科野村西中路の地は、現在の山科西宗寺の祖浄乗が寄進したと伝えられる。この所伝は色々の点から信拠してよいと考えられるが、浄乗は俗名を海老名五郎左術門と称したと伝え、文明十三年十月十八日蓮如上人から本尊を授与されている。恐らく彼はこの地の士族で、上人に帰依して寺地を寄進したので、その後が今の西宗寺となったものと思われる。
本願寺の造営工事は『御文』(帖外六〇・六五・六七)にその過程が述べられてある。すなわち上人の山科移住後間もなく堺から信証院の建物を移したに始り、次いで馬屋等を構えて越年したが、翌十一年夏から寝殿の造営にとりかかった。また同時に御影堂の建築準備に努め、河内の門下をして吉野の木材を運ばせ、十月には柱五十余本その他の用材が集り、十二年正月には御影堂の模型として小形の堂を造った。宗祖聖人の影像を安置する御影堂は、本願寺として最も重要な建築であるからで、上人もその工事に深く配慮したことが、これによって想察出来る。しかして二月より本建築にとりかかり、三月二十八日上棟、八月四日から桧皮葺を始め、二十八日には堂内に仮仏檀を構え、絵像の御影を安置した。当夜上人は堂内に篭って一夜を明したが、『御文』(帖外六五)に当時の心境を述べて、「されば年来愚老京田舎をめぐりし内にも、心中に思様は、あはれ存生の間において、此御影堂を建立成就して、心やすく往生せばやと念願せし事の、今月今夜に満足せりと、うれしくもたふとくも思ひ奉る間、其夜の暁方までは、つゐに日もあはざりき」とあるが、以て上人の感懐を推察すべきであろう。しかしてこの翌二十九日禁裏より本願寺建立について奉加として香筥を賜った。すなわち『御湯殿上日記』この日の条に「ほんくわん寺とりたてらるゝにより、御ほうかに御かうはこいたさるゝ、みん部卿御つかゐ」とある。また日野富子が本願寺を訪ね、御影堂を一覧したのは十月十四日で、上人も「前代未聞の事」と歎じたことが『拾塵記』に見える。宗祖の真影は前年来大津に安置してあったが、これを山科に迎えたのは、この年十一月十八日のことで、二十一日から十七日の御正忌が厳修され、遠近の門葉が参集した。御影堂成就して後、祖像の遷坐に至るまで三箇月を要したのは、三井寺が容易にこれを返還しなかったによるものなるべく、祖像安置によって門徒の参集も多く、ために三井の地下寺中がことに繁呂していたからであろう。
翌文明十三年正月寝殿の大門立柱、二月四日より阿弥陀堂の工事を起し、四月二十八日上棟、六月八日には仮仏檀を構え、本尊を安置した。しかしてこの新堂において前住存如上人の第二十五周忌が同十八日から修せられた。次いで十四年正月二十八日御影堂大門を立柱し、またその附近の地ならしと共に四方に堀を造り、堀に沿うて松を植え、門前には橋を架けた。さらに境内の小棟の改築をも行い、寝殿の天井も張ったが、阿弥陀堂の仮仏檀も改造して六月五日には本尊を安置した。また関七月には仏檀を漆塗とし、絵師に採色させ、杉戸や仏殿後の張付等には蓮を描いた。阿弥陀堂の瓦は十五年五月中旬から焼き初め、八月二十二日には瓦葺も終った。以上のような諸堂舎の配置や荘厳等は東山大谷の本願寺の結構を参照したことであろうが、門未も増加したことであるから、万事規模が大きくなったことは勿論であろう。かくて山科本願寺の諸建築は大体文明十五年には一往完成したので、その後も色々の修理や増築も行われ、上人の晩年には大いに整備したことと思われる。
山科本願寺が大体整備した文明十五年八月上人は有馬に湯治している。『有馬紀行』(帖外七三)はこの時の紀行で、軽妙快適の情趣が全篇に溢れ、行楽の気分に充ちているのは、湯治の記であるにもよろうが、当時の上人の心境を示唆するものとも見られよう。また同十八年三月堺より紀州に下り、冷水に至っている。この時の紀行が『紀伊国紀行』(帖外一八四)で、前述『高野紀行』と同様多数の和歌が載せてある。『高野』『有馬』『紀伊』の三紀行は総じて『蓮如上人道之記』として古来広く知られたところで、上人の豊かな文藻と趣味とがよく現れている。
先に御影堂建立の際禁裏から香筥を下賜されたことを一言したが、また文明十六年二月七日には本願寺から梅の枝を、同十八年二月十三日には榧の木を上っている外、『御湯殿上日記』には禁裏との交渉について二三所見がある。また『資益王記』『実隆公記』『後法興院記』その外公卿の日記には、文明より明応にかけて本願寺一門の人々の動静が多少現れて来る。さらに、上人の第九子(妙宗尼)が将軍義政に接近したり、日野富子が本願寺を訪ねたこと等、すでに言及した通りであるが、本願寺の重宝『慕帰絵』が将軍家の手許に貸し出されてあったので、文明十四年十二月飛鳥井宋世を介して返還された如きも、本願寺と将軍家との親近を示唆するものである。武家の中では、近畿に覇を唱えた細川政元とはことに親密で、『実悟記』によればしばしば本願寺を訪ねた如くで、遂に内輪の者同様魚物を出して接待したという。こうした公武との交渉が頻繁に現れて来るのは、本願寺の完備、実力の充実を物語るものに外ならぬであろう。
かくの如き本願寺の内外整備と共に、上人の教化は一層四方に振起したのであったが、ここに特に注意すべきは他派から本願寺に帰入するものが少なくなかったことで、これによって本願寺の教線は更に一段と伸展した。しかしてその第一は仏光寺の経豪である。仏光寺は南北朝時代以後近畿より山陽山陰にかけて教線を張り、その勢すこぶる盛んであった。寛正六年叡山が本願寺を破却した時、仏光寺は妙法院門跡の口入によってことなきを得たが、応仁の戦乱に際しては難を避けて寺基を摂津平野に移していた。しかるに『反故裏書』『仏光寺文書』その他仏光寺の所伝等を綜合するに、経豪は文明元年五月父性善が平野において没するや、百日を出でざる間に順如を介して志を本願寺に通じたというが、その後間もなく蓮如上人の北陸行化となったためか、彼の帰入は急に実現せず、なお十年ばかり仏光寺の寺務にあったようである。ところが文明十年以来山科本願寺の建立が進むと共に、彼は段々本願寺に接近したもののようで、当時本願寺と仏光寺との関係を注視しつつあった比叡山大衆は、文明十三年十月、その決諸として、経豪が相伝の法流を閣いて無礙光の義を行ず、との風聞をとりあげ、しかる上は、適宜器用の人を以て仏光寺の住持たらしむべし、と警告し、さらに翌十四年四月には経豪の本願寺帰入が露顕した上は、兄弟中正法発起のものを後住とし、また未寺中経豪に従うものは適宜処分すべきことを通告している。されば経豪の本願寺帰入は文明十三、四年の交にあったのであろう。仏光寺では経豪の弟経誉をして後継せしめたが、門徒の大部分は経豪に従って本願寺に帰入したので、寺僧四十八坊の中四十二坊は地方門未を率いて本願寺に入ったという。蓮如上人は経豪に蓮教の名を与え、常楽台蓮覚の長女をこれに配して優遇し、山科に一寺を設け、興正寺と称せしめた。この寺号は覚如上人の故事に倣ったもので、仏光寺は創立当初覚如上人の命名によって興正寺と号したのを、後に仏光寺と改めたものであるからである。蓮教は明応元年五月四十二歳を以て没しているから、文明十三年帰入とすれば、時に三十一歳であったわけである。蓮教の帰入に随伴した門徒は近畿および中国に数多く、それらは今後においても永く興正寺と特別な関係を有したが、仏光寺はこれによって大打撃を蒙り、爾後昔日の面影を失って不振に陥った。
次に越前横越証誠寺の善鎮が蓮如上人に帰依し、本願寺に帰入した。文明十四年のことで、時に善鎮は十八歳であった。証誠寺は越前三門徒の一で、『反故裏書』によると当時善鎮は法義に心をかけず、世芸を専らとし、外道の秘術を学んだので、家司渋谷某が善鎮を山科に誘うて蓮如上人に帰せしめた、という。上人は善鎮に正園坊の号を与えたのであるが、善鎮はこの後越前武生に陽願寺を創立した。かくて彼は上人の感化によって正統の安心に帰し、上人からも愛されたようで、現在陽願寺に伝うる実如上人の書状によれば、善鎮は一流の法義を信受せるものとして、蓮如上人の遺言により、その遺骨を分与されている。
第三に勝林坊勝慧である。これは上人隠退後のことであるが、ちなみにここに記しておこう。近江木部の錦織寺は慈空の開基で、存覚上人とも関係深く、上人の子慈観が相続しているが、慈観の後は慈達・慈賢と相継いだその間本願寺と交渉を保って来たが、寛正四年六月慈賢没して慈範が寺務を継いだ前後から、本願寺との関係は疎遠となった。勝慧は慈範の弟叡尚の子で、慈範の後は叡尚・勝慧と相承けたのであろうが、明応二年勝慧は遂に本願寺に帰入したので、時に十九歳である。この時近江・伊賀・伊勢・大和等の錦織寺の門未は共に随って本願寺に帰し、錦織寺はこの後振わなくなった。蓮如上人は勝慧を山城紀伊郡三栖に住せしめたので、彼はここに勝林坊を営み、上人の第十一女(妙勝尼)と同棲した。その後明応九年七月妙勝尼は二十四歳で没し、勝慧もやがて大和下市願行寺に入り、さらに上人の第十三女(妙祐尼)を娶っている。
応仁元年以来京都の市区は兵乱のために灰燼と化したが、山科本願寺の建立はあたかもその頃で、時人の注日を引いたことであろう。しかも宗祖の影像が近松御坊から遷座すると、地方門徒の参詣も多くなり、したがってその境内を中心として寺院や商家が建ちならび、一つの門前町を形成するに至った。有名な山科の寺内六町はその商業区城を示すもので、時を報ずる太鼓が二箇所に設けられていたというから、その地城も相当広かったと思われる。もっとも、これは実如上人の時代のことであるが、蓮如上人の晩年には境内の周囲に土居と堀とが造られ、六町の六、七分は出来上っていたと考えられるので、この土居や堀の一部は江戸時代まで原形のまま残っていて、ほぼその輪廓が推察することが出来る。かくて実如上人を経て証如上人の時代に至れば、本願寺は、無景の荘厳仏国の如し、といわれ、寺内の民家また洛中に異ならず、と称される般盛を来すのである。しかしてこの寺内町は大坂石山の例から推して、本寺が信仰上のみならず、政治上経済上の主権をも持っていたと思われるので、その点は従来存した一般社寺の門前町と異るものがあり、むしろ諸国大名の城下町に類する性格を存したことが注意される。 
七 退職と遷化
延徳元年蓮如上人は七十五歳を迎えたので、法嗣実如上人に職を譲った。時に上人三十二歳、上人が法嗣と定まったのは既述の如く十一歳の時で、継職のことは結局時間の問題であった。しかしさていよいよそれが実現されようとすると、実如上人としても感慨深く、文盲の故に如何にして天下の門徒を勧化しようか、と辞退したのであったが、父上人は文盲こそ却って望ましく調法至極と申されて、強いて継職せしめたということが『栄玄記』に見えている。けだし実如上人はその筆蹟を見ても想像される如く、すこぶる穏和な性格で、むしろ重厚な人柄であったと思われる。しかし蓮如上人の生涯は本願寺として創業にも比すべき偉業であったから、その後を承けて守成の任を全うするには、むしろ遺訓を忠実に守ってゆく人が望ましいので、父上人は実如上人のそうした立場と性格とを洞察して職を譲ったものであろう。されば父上人なき後にも、実如上人は数多い兄弟達の信望をよく集め、多難の本願寺を守成したのであった。
職を譲った蓮如上人は南殿に隠退した。南殿とは山科本願寺の境内近在に造られた隠居所のことで、現在山科音羽の光照寺と西野の西宗寺とが共にその旧趾といっているが、果していずれに当るか、なお研究を要するところである。上人の南殿移住はこの年八月二十七日のことで、『空善記』によると、その夜上人は、「功なり名とげて退くは天の道とあり、さればはや代をのがれて心やすきなり、いよいよ仏法三昧までなり」と述懐したというが、成すべきことをことごとく成就し了えた上人の感懐を偲ぶべきであろう。かくて退職して仏法三昧の生活に入った上人は、翌二年十月二十八日重ねて実如上人に譲状を認めて周到な用意を示し、なお寺務についても若き宗主を輔導して後見したばかりでなく、しばしば出でて摂河泉の間を往来し門徒の教導に当った。上人の晩年の行実を筆録した『空善記』には、上人が山科を中心として、一年に何回となく河内出口・摂津富田・和泉堺ないし近江堅田等を往来し、余生を地方教化に捧げつくした動静を伝うるものがある。
しかるに明応五年上人八十二歳の九月に至り、摂津東成郡生玉庄大坂に寺地を相して坊舎建立の工事を起したすなわち大坂御坊で、今の大阪城本丸の地であるという。この地は、当時は全く孤狼の棲む「家一つなき畠ばかり」のところであったが、生玉明神の宮寺たる法安寺に境を接し、後に至るまで鹿苑院に地子銭を納めているから、相国寺の所領で、法安寺が代官を動めていたものと思われるが、また森の祐光寺の祖正顕が坊舎建立について斡旋したようである。九月二十九日鍬始めを行ったが、日柄が悪かったので、上人も俗説に従って一日延期したともいい、あるいは「如来法中無有選択吉日良辰」とてそれを拒否したともあって、『拾塵記』と『反故裏書』とでは所伝が異るが、ともかく工事は十月八日に一往終了したというから、最初は簡単な建物であったのであろう。しかし『本願寺作法之次第』には、奥に持仏堂が造られ、上人筆の敬信閣の額が掲げられていたことが見えている。また『拾塵記』には、これまで上人が建立した坊舎は惣門徒の懇志によったが、大坂御坊は上人自身の希望によったものであるから、その費用は上人が門未に下附した名号の礼銭によったものであることを記している。これはこの坊舎の性質を考える上に注意すべきものであろう。
大坂御坊の建立中、上人は堺御坊から往来して工事を督したというが、上人が山科から堺に赴く場合、淀川を船で下り、渡辺の津で上陸し、爾後乗馬で南下するのが例であったから、その途次この地に着日し、法安寺にも立ち寄り、遂に坊舎の建立となったものであろう。上人遷化の後三十余年天文元年八月山科本願寺が兵火のために退転するや、証如上人は大坂御坊に移ってこれを本寺となしたが、次の頭如上人の時代、織田信長との間に戦端の開かれたのは、この大坂本願寺を中心としてであった。しかも容易に信長の手に陥らなかったのは、一面においてこの地の要害によるところである。すなわち北は淀川、東は大和用に囲まれた丘陵地で、景勝の地であると共に軍事上要害の地であり、また瀬戸内海への水上交通の要術である。されば吉崎といい大坂といい、蓮如上人が坊舎を経営したところは多く要害の地であることから、一部の論者は上人は好戦的で、いわゆる一向一揆の張本人であったかの如く説くことがある。しかし上人はしばしば宗徒の武力行使を厳禁し、守護地頭に服従を説いたことはその言行に明らかである。また文明・長享の間加越の地では一部の本願寺門徒が武士の擾乱に加っていないではないが、これは全く上人の関知せざるところである。しかし何分戦乱の時代であるから、他から波及する戦禍を避けるためには要害の地を選ぶことは心あるものの当然の処置である。さればこの故を以て上人を好戦的とするのは全くの誤解で、それは上人を強いて誣うるものといわねばならぬ。
大坂は富田と出口と堺との中間に位し、山科との交通も淀川の水運によって使利であり、出口の如き水害の憂もない。ここにおいてか上人は、大坂御坊成立の後は多くこの坊舎に居住したので、他の三坊は全く大坂の支坊の如き観があった。上人は隠退後も報恩講は山科でつとめ、色々指図をしたが、明応六年は富田と大坂とにおいてこれを営み、爾来多く大坂に住したのであった。
しかるに明応七年四月の頃より上人の旧病は再発し、色々治療を施したが容易に恢復しない。そこでこの年十一月大坂の報恩講に草した『御文』(四ノ一五)には、参集の門徒にすでに命終近きことを告げ、皆々信心決定して共に往生極楽の素懐を遂ぐべきことを説いている。しかしてこれ以後遷化に至るまでの消息は空善が詳しく記しているが、今それによると、翌八年二月には、この大坂の地において入寂することを覚悟し、葬所の準備にとりかかっている。これは上人がこの地を愛したによるであろうが、何か事情があってか、にわかにこの予定を変更して山科に帰ることとなり、十八日大坂を出発し、途次三番の浄賢の道場に一泊し、二十日には山科の南殿に到着した。
かくて翌二十一日御影堂に詣し、計らずも生存中再び拝礼を遂げ得たことを喜んだが、二十五日には境内周囲の土居や堀を一覧し、二十七日には御堂に参詣して帰りの際、来集の門徒とも名残を借しんだ。三月朔日には北殿に参り、実如上人初め兄弟衆を召し、機嫌よくしばし雑談に時を過し、翌二日には桜花を見たしとの所望があったので、空善が奔走して差し上げた。三日吉野より上った桜花を見て詠じたという和歌に、
さきつゞくはなみるたびになほもまた、たゞねがはしき西の彼岸
をひらくのいつまでかくや病みぬらん、むかへたまへや弥陀の浄土へ
けふまでは八十地に五つあまる身の、ひさしくいきしとしれやみな人
という三首がある。人事を了え天寿を全うした上人の静寂の心境はまことに人の胸を打つものがある。しかして七日には行水し衣裳を改め、阿弥陀堂から御影堂に最後の礼拝を遂げ、九日には日頃昵近せる法敬坊・空善・了珍等を召して法話したが、空善の差し上げた鴬が法を聞けと鳴くとさとし、また慶聞坊をして『御文』三通を読ましめて自ら聞き入った。さらに寝所の畳をあげさせて日頃乗用した尉粟毛の馬を近くに召し寄せてこれとも別れを告げた。顕誓の『今古独語』に、この九日上人は実如以下蓮綱・蓮誓・蓮淳・蓮悟等の五子に対して、宗祖聖人の法流を興隆せしめた自らの生涯を物語り、今後未代に至るまで兄弟中真俗共に伸よく談合してゆけば、必ず一流の儀は繁昌するであろう、と誡めたことを記している。『蓮如上人御遺言』に載せた右五人の連署した「兄弟中申定条々」はこの後四月五日に出来たものであるが、それは右の上人の遺誡に基づくものであろう。
右の如く、上人は親しき人々を初め桜花より禽獣に至るまで静かに借別したのであったが、十日には、
我しなばいかなる人もみなともに、雑行をすてゝ弥陀をたのめよ
八十地五つ定業きはまる我身かな、明応八年往生こそすれ
の二首の和歌を詠じた。上人の詠歌とその縁起とを集めた実悟は、右の二首を記した後に、「此後は御歌もなかりき」といっている如く、これが上人の最後の詠歌となった。次いで十八日には、諸子に対して、「かまえて我なきあとは御兄弟たち仲よかれ、ただし一念の信心だに一味ならば、仲もよくて聖人の御流儀もたつべし」とくれぐれも遺訓している。しかるに翌日からは最早食も薬も欲せず、とてこれをとらず、ただ称名ばかりで、二十二・三日には一時脈の杜絶えることがあってもまた恢復したが、二十五日正中頭北面西して遂に眠むるが如く往生した。享年八十五、ここに一世の偉人蓮如上人は波瀾曲節に充ちた生涯を閉じた。
遷化の後、遺言によって、遺骸は御影堂の宗祖の影前に安置して門徒に見せしめたが、二十五日の晩景には数万の人々が礼拝を遂げた。また荼毘は四月二日と披露したが、翌二十六日俄かにこれを行った。けだし諸人の群集を慮っての処置である。ちなみに明治天皇が慧灯大師の諡号を賜ったのは明治十五年三月二十二日のことである。 
八 上人の化風
本願寺の基礎は覚如上人によって定められたが、爾後本願寺は久しく不振の状態にあった。勿論その間歴代宗主によって宗門興隆の潜勢力は養われつつあったにしても、蓮如上人出世の頃はまことに沈滞の極にあった。しかるに、そうした本願寺を著しく発展せしめ、後世の盛観を基礎づけたのは実に蓮如上人八十五年の生涯においてであった。されば古来上人の芳蹟を頌して本願寺あるいは真宗の中興というのはまことに故あることである。上人の宏業は、一言にしていえば、その人格と徳望とに由来するは勿論であるが、その教化の精神と態度とを辿る時、自らそこに上人の指導理念ともいうべきものが見出されるであろう。
実悟の記した『本願寺作法之次第』に、蓮如上人は、従来の東山本願寺内には上壇下壇の区別があったのを山科本願寺では撤廃して、互に平座にて親しく民衆に接して教化した、ということを記し、それは、「仏法を御ひろめ御勧化につきては、上藹ふるまひにては成べからず、下主ちかく万民を御誘引あるべきうへは、いかにもいかにも、下主ちかく諸人をちかく召て御すゝめ有べき」という信念によってなされたもので、まことに「ありがたき御事と諸人申たるとて候」と述べている。これは上人の庶民的教化態度を窺うべき適切な一例である。存如上人は形儀も声明も厳重に教え、田舎の衆へも常住の衆へも、平座に対坐して、一首の和讃のこころをも説かれたこともなく、また互に雑談などもしたことはなかった、と蓮如上人が述懐したことが『空善記』に見えているが、こうした教化態度における「上藹ふるまひ」を改めるために、上人は寺院内の構造を改良したものであろう。大谷に上下壇の区別を設けたのは何時頃からか確証はないが『祖師代々事』には、巧如上人の時代には、法談の時に下壇に眠むるものを日さますために、仏檀の脇に一尺ばかりの竹を積みおいた話を載せているから、当時すでに厳格な教化態度であったことが推察される。けだし善如・綽如上人の時代から、大谷の寺院生活には威儀を尊重する傾向の現れたことは『実悟旧記』等に見えた著名な事実であるから、そうした雰囲気の中において、一般への教化態度も「上藹ふるまひ」となり、いわば貴族的なものとなって来たのであろうと思われる。
右の如き傾向の由来するところは何であったか、それは一つの問題であるが、ともかく右の如き教化態度は本願寺としては必ずしも適切なものではなかった。けだしもともと真宗教団は、宗祖の庶民的教化によって庶民階級を基調として成立したものであるから、高きところから教化する「上藹ふるまひ」をすてて「下主ちかく」平座にまで下る必要があったのである。蓮如上人の上下壇撤廃の意義はここにあるが、その故に上人にはこれに類する言行が『空善記』や『実悟旧記』『本願寺作法之次第』等に少なからず伝えられている。すなわち「寒夜にも蚊の多き夏も、平座にてたれぐのひとにも対して雑談をも」しつつ「不審をとへかし信をとれかし」と念願したというが、こうした態度は従来の本願寺のそれに対比すれば実に著しい相遠で、上人自身も「我は身をすてたり」と述懐している。しかしてそれは、上人自身においては、「身をすてゝ平座にもみなと同座するは、聖人の仰に、四海の信心のひとはみな兄弟と仰られたれば、われもその御ことばの如くなり」といった如く、宗祖の精神に還り、同朋意識によって庶民的に教化せんとしたに外ならない。されば「仰に、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり、聖人の仰には弟子一人もゝたず、と、たゞともの同行なりと仰候きとなり」とか、「門徒衆をあしく申ことゆめゆめあるまじく候、開山は御同朋御同行と御かしづき候に聊爾に存ずるはくせごとの由仰られ候」とか、「開山聖人の一大事の御客人と申は、御門徒衆のことなりと仰られし云々」とか、いう如き言葉が少なからず伝えられている。しかも上洛して来た門徒には、寒天には酒に燗をさせ、炎天には酒を冷させて出したということや、門徒に出す食事にはことに注意したという如き行実が伝っているので、上人の門徒に対する態度は、如何にも謙譲で温切であったといわねばならぬ。 かくて上人の教化における一つの指導理念は、正しく宗祖精神に基づく同朋意識、従って庶民的教化態度に存する。けだし社会の混乱から絶えざる不安を感じ、特権階級から限りなき搾取に苦しめられている当時の庶民に対しては、互に手をとり合ってする教化でない限り受容さるべくもない。されば如上の上人の教化態度は、宗祖への復古であると共に、また当時の社会の機微を穿ったものということが出来る。事実、上人の生活がほとんど地方教化に終始しているのも、『御文』における平易簡明な宗義安心の説示と現実生活に対する適切な教誨、ないしは『正信偈和讃』の諷誦における多人数の同称同和も、すべて宗祖の精神と先蹤とを辿りつつ、時代の生活に即して展開された施設である。なお上人真筆の名号本尊は数多く現存するが、元来名号を本尊とすることは、先にも言及した如く、仏教においては親鸞聖人を以て最初とするので、これまた宗祖に倣えるものということが出来る。
また上人はしばしば門徒に寄合談合を奨励しているが、それは『御文』にも明らかな如く、信仰鼓吹のためである。しかしてこうした会合に集った人々によって一種の団体が結成された。すなわち講で、それは地名によって河原講という如く呼ばれたものもあり、また会合の日によって六日講とか四日講とか称されたもの等色々あるが、要するに講によって同信者が統制されると共に、門徒と本寺との連絡を密接ならしめたのである。この意味において講は教団構成の基調をなすものであり、ことに教団の財政には重要な意義を持った。すなわち講は毎年一定の財物を醵出して本寺に送り届けた。たとえば六日講中宛上人消息に、「毎年約束代物慥に請取候」とある如きは、這般の事情を物語るものであるが、この外講は年未・年始や報恩講その他色々の機会に醵金して本寺に上納したのである。元来真宗における講の初見は、宗祖滅後における報恩講にあり、宗祖在世当時には未だ講の名は見えない。しかし当時の地方門徒の構成、たとえば道場の経営維持の如きは講と同様の性質をもつもので、門徒が互に醵金してこれを共同維持し、またことに当っては門徒全体が合讃して処理したのである。さればそれは平安時代未期以来庶民階級に流行した地蔵講・観音講の如きに類するもので、真宗教団成立の社会的背景はそれらの庶民間の講にあったと考えられる。この故に如上の上人の講を基調とする教団の構成は、真宗としては古き伝統に立脚するもので、上人はこれを積極的に推進組織化せしめたのである。これは教団の統制上いわば必然的な処置でもあるが、絶えざる戦乱による混迷の当代社会にあっては、一層それを必要としたことでもあろう。かくの如き講の構成に対する上人の努力は、集団運動の激烈な当時にあって、一般庶民の精神ないし生活に如何に関連したかは一個の問題であるが、それはともかく、上人が教団財政の基調を講の結成による門徒の懇志に依存したとすれば、それは時代的意義においてさらに注意すべきものがある。けだし当代一般寺院の経済は荘園にあったが、元来この時代は荘園制度が崩壊しつつある時代であったが故に、土地に立脚する寺院経済はすこぶる脆弱なものというべく、また事実その故に既成寺院は中世未期に至って経済的に凋落せざるを得なかったのである。されば教団経済の基調を門徒の懇志に待つは、真宗としては当初以来のことであるにしても、当代においては一層それを促進しなければならなかったであろう。いわんや土地を契機とする寺院と民衆との関係よりは、門徒に直接する関係が、教化的効果において遥かに意義深いものであるにおいてをや、である。
かくて講は門徒の統制と教団経済の基調として結成されたが、さらにこうした講を統摂し、またそれらの講を支持する諸寺を統制するために、上人は重要な地方に、また主要な地方寺院に本寺と血縁関係の深い人々を配置した。いわゆる一門一家衆がそれで、彼らは地方の大坊主衆や坊主衆を統摂して団結を因くすると共に、本寺の命に従って行動したのである。上人以前においても本願寺の血縁者が地方に下ったこともあり、また一家衆の制度の如きも上人以前に発端しているが、上人においては、その数多い子女は後嗣の実如上人以外はほとんど地方に下り、門未の統制と本寺の藩屏とに任じたのである。その委細は別記の子女を一覧すれば明らかであるが、概していわば上人若き頃の息男は多く北陸に、また中年以後の息男は近畿の枢要地点に配置された。かくて上人は教団統制の上に甚深の注意を払ったが、また上人の言葉として伝えられるものに、『実悟旧記』の「御本寺御坊をば聖人御在世の時のようにおぼしめされ候」というものや『栄玄記』の「代々の善知識は御開山の御名代にて候」という如きものがある。これらは上人自身の本寺に対する敬虔な信念を表白せるものであるが、また本寺の尊厳を門下に示したものと見ることが出来る。こうした点からいえば、上人は一面において、本願寺による中央集権的教団を施設せんとしたことが考えられる。
かくの如き教団統制の理念の来るところは、上人にとっては何処であるか、これを本願寺の伝統よりいえば、勿論宗祖に由来するものではなく、実に覚如上人によって指示されたところである。けだし先にも言及した如く、覚如上人は、宗祖滅後における真宗教団の中心は宗祖の廟所大谷本願寺でなければならぬという信念の下に、教団を本願寺によって統一せんとしたのであるが、爾来それは本願寺歴代の志念として伝承され来った。従って蓮如上人の如上の教団統制には、この伝統が存する。しかしそれと共に、またこれにも時代的意義のあることは勿論である。すなわち上人の時代は相つづく戦乱によって荘園社会が崩壊し、やがて諸国に大名が成立せんとしつつある時代であるからである。さればこの間に処して、次第に発展してゆく教団を統制するためには、時代と社会との傾向に相応ずる体制がとられねばならなかったのである。
以上これを要約するに、上人の生涯を指導する理念には、宗祖親鸞聖人と覚如上人とに源流する二個の伝統があるが、その施設に当っては深く時代粧が洞察されている。さらにいえば上人は宗祖の同朋精神と庶民的教化態度とを蔵しつつ室町時代という時代に相応した教化を展開し、そこに上人が負うところの本願寺歴代の素志が実現されたのである。すなわち真宗の特殊性を持しつつ教団を時代化したところに、上人の根本的立場が見られると共に、また上人の生涯と業績とが、広く教団と時代社会との関連について重要な示唆を与えるところである。最初に言及した如く、室町時代は鎌倉時代の宗教改革を更に実践せしめて、仏教を民衆の手に渡した時代である。しかしかくの如き庶民性と共に、当代に活動した浄土宗・日蓮宗その他の高僧には、一面において依然として時代的封建的性格を持つことは否定出来ない。今その委曲について述べることを省略するが、彼等は庶民の教化に努めたことは事実であるにしても、また貴族社会に徐々に接近しつつあることを認めねばならぬ。ここに宗教改革が中世的性格を脱皮し得ず、やがて徳川時代の仏教へと進向する契機があるであろう。上来蓮如上人の生涯を叙し、その指導理念を考えて、さらにこの点に思い至る時、上人の業績は実に偉大であったけれども、なお且つそこには如上の二面性が存在し、時代人としての上人の性格を思わしむるものがあるであろう。すなわちいわば同朋精神に基づく庶民教化と本願寺による統一教団の建設、または身を庶民の中に棄てながらも、しかも本願寺が公家武家に徐々に接近しつつあることである。しかしこうした二面性は、元来相一致するものではなくてともすれば相背反する傾向に陥り易いものである。しかも上人においては矛盾することなく教団が円満に発展し得たのは、一に上人の人格に基づくところと考えられる。しかしてこうしたいわば相背反する二面性が一個の人格において保存されているならば、その多様性によって、それに指導される教団はむしろ発展し得るであろう。しかし上人の遷化によって、その人格的統一が失われたとすれば、教団の進路に破綻を来さないとはいい得ないしかも時代は、やがて徳川氏によって一層強化され組織化される中央集権的封建社会へと徐々に進行しつつあるこうしたことを考える時、本願寺教団が、上人の滅後において潮次寺家化してゆくことも、一面においてまた已むを得ない動向であったといわねばならぬ。 
附記 
一 蓮如上人の子女と内室(主として実悟「日野一流系図」による)
一、光助法名順如、河内山口光善寺開山、願成就院と号す、文明十五年五月二十九日寂、四十二、
二、女子法名如慶、常楽寺光信の室、文明三年二月六日卒、二十八、
三、兼鎮法名蓮乗、本泉寺宣祐の猶子、越中井波瑞泉寺・加賀二俣本泉寺兼住、永正元年二月二十一日  寂、五十九、
四、女子法名見玉、摂受庵見秀尼の弟子、文明四年八月十四日寂、二十五、
五、兼祐法名蓮綱、加賀波佐谷松岡寺ならびに山内鮎滝坊開山、享禄四年十月十八日寂、八十二、
六、女子法名寿尊、摂受庵見秀尼の弟子、摂津富田教行寺住、永正十三年十月五日寂、六十三、
七、康兼法名蓮誓、光闡坊又は光教寺と号す、加賀滝野坊・九谷坊開山、加賀山田光教寺ならびに越中  中田坊開基、大永元年八月七日寂、六十七、
 以上七人母は同じ、下総守平貞房の女、法名如了、康正元年十一月下旬没、
八、光兼法名実如、教恩院と号す、本願寺を継ぐ、大永五年二月二日寂、六十八、
九、女子法名妙宗、足利義政の妾、天文六年七月一日卒、七十九、
十、女子法名妙意、文明三年二月一日卒、十二、
十一、女子法名如空、本泉寺兼鎮の猶子、越前興行寺兼孝妻、明応元年十一月十六日卒、三十一、
十二、女子法名祐心、神祇伯資氏王室、延徳二年閏八月十二日卒、二十八、
十三、兼誉法名蓮淳、伊勢長島願証寺開山、初め近江近松住、後に河内久宝寺住、光応寺と号す、天文   十九年八月十八日寂、八十七、
十四、女子法名了忍、文明四年八月一日卒、七、
十五、女子法名了如、本泉寺兼鎮の猶子、越中瑞泉寺蓮欽妾、天文十年六月十八日卒、七十五、
十六、兼縁法名蓮悟、加賀二俣本泉寺住、加賀崎田坊・中頭坊・清沢坊等開山、加賀若松本泉寺開基、   天文十二年七月十八日寂、七十七、
十七、女子法名祐心、前中納言中山宣親の室、天文九年七月二十二日寂、七十二、
 以上十人母は同じ、如了尼の妹、法名蓮祐、文明二年十二月五日没、
十八、女子法名妙勝、山城三柄勝林坊勝息の妾、明応九年七月六日卒、二十四、
十九、女子法名蓮周、越前超勝寺蓮超の妾、文亀三年正月二十六日卒、二十二、
二十、兼法名蓮芸、摂津富田教行寺住、大永三年閏三月二十八日卒、四十
 以上二人母は同じ、前参議姉小路昌家の女、法名宗如、
二十一、女子法名妙祐、山城勝林坊勝恵の妻、永正九年四月十三日卒、二十六、
二十二、兼照法名実賢、近江堅田称徳寺住、大永三年八月三日卒、三十四、
二十三、兼俊法名実悟、初め本泉寺兼縁の子となる、後、河内古河橋願得寺住、天正十一年十一月二十五日卒九十二、
二十四、兼性法名実順、河内西証寺住、永正十五年三月五日卒、二十五、
二十五、兼継法名実孝、大和飯貝本善寺開基、天文二十二年正月二十六日卒、五十九、
二十六、女子法名妙宗、常楽寺光恵の室、永正十五年正月二十二日卒、二十二、
二十七、兼智法名実従、摂津枚方順興寺開基、永禄七年六月一日卒、六十七、
 以上七人母は同じ、治部大輔畠山政栄の女、法名蓮能、永正十五年九月三日寂、五十四、 
 
蓮如上人の化風とその背景

 


蓮如上人は、その生涯において、衰微沈滞の極点にあった本願寺を、最も輝かしい盛大さにまで発展せしめ、やがて現代真宗教団の社会的基礎を築かれた。この意味において、後世上人の業績を頌して本願寺中興の祖と仰ぐことは、まことに相応しいことである。けれどもさらに広い立場からいえば、すなわち上人によって基礎づけられた本願寺教団が、その後の社会に投げかけた影響から見れば、上人の生涯はわが仏教史または社会史の上において重要なる位置を占むべきものであらねばならぬ。
かくの如き意味において、上人のこの偉業が如何にして成就されたかという問題は、色々の立場から考究さるべきである。しかして従来も学界の先輩によってそうした方面に少なからざる関心が払われて来たことは事実であるが、さらに仔細にこの点を省察すれば、なお残された視点がある如くである。けだし上人の生涯は波瀾に富み、その業績が大きかっただけに、この問題の解決への方法がいくつか想定され得るからであるが、私は今ここに従来論ぜられた如き観点を離れて、上人の教化とその歴史的ならびに時代的背景を順慮することによって、この問題解答への一契機を提示し、先輩師友の御批判を仰ぎたいと思う。 

実悟の筆録した『本願寺作法之次第』に次のような一節がある。
昔は東山に御座候時より御亭は上段御入候、と各物語候。蓮如上人御時上段をさげられ、下段と同物に平座にさせられ候。其故は、仏法を御ひろめ御勧化につきては、上臈ふるまひにては成べからず、下主ちかく万民を御誘引あるべきゆへは、いかにもく下主ちかく諸人をちかく召て御すゝめ有べき、とての御事にて候  と被仰候て平座に御沙汰候。ありがたき御事と諸人申たるとて候。
(下略)
すなわち蓮如上人は従来本願寺内に上壇下壇の区別のあったのを撤廃して、親しく民衆に接して教化されたというのであって、上人の庶民的教化態度を窺うべき適切な所伝である。存如上人は形儀も声明も厳重に教えられたが、田舎の衆へも常住の衆へも、平座に対坐して、一首の和讃のこころをも説かれたこともなく、また御雑談などもせられたことはなかったと蓮如上人が述懐されているが、こうした教化態度におけるいわば「上藹ふるまひ」を改めるために、蓮如上人は寺院内の構造を改良されたのであろう。大谷に上下壇の区別を設けたのは何時頃からのことか確証はないが、巧如上人の時代には、法談の時に下壇に眠むる者を日ざますために、仏前の脇に一尺ばかりの竹を積みおいたという話もあるから、当時すでに上下壇の別があり、また厳格な教化態度であったことが推察される。けだし善如・綽如上人の時代から大谷の寺院生活には威儀を尊重する傾向が現れたという所伝があるから、そうした雰囲気の中において、一般への教化態度も「上藹ふるまひ」となり、いわば高踏的なものとなって来たのであろうと思われる。かくの如き傾向の由来するところは何であったかということは一応顧慮さるべき問題ではあるが、その事情の解明は他の機会に譲り、ともかく右の如き教化態度は、当時の本願寺としては必ずしも適切なものではなかった。けだしもともと真宗教団は、宗祖の庶民的教化によって、庶民階級を基調として成立したものであるから、高きところから教化する「上臈ふるまひ」を棄てて、「下主ちかく」平座にまで下る必要があったからである。蓮如上人の上下壇撤廃の意味はここにあるのであるが、これに類する上人の言行はなお少なからず伝えられている。すなわち「寒夜にも蚊の多き夏も、平座にてたれくのひとにも対して雑談をも」しつつ「不審をとへかし信をとれかし」と念願されたというが、こうした上人の態度は従来の本願寺のそれに対比すれば、実に著しい相遠があって、上人自身も「我は身をすてたり」と述懐されたということである。また上人は「凡夫にて在家にての宗旨」なればとて、殊勝気に見える「無紋の衣」や「墨の黒い衣」を嫌ひ衣はねずみ色で袖は長くもなかったということも、また右の態度に通ずるものとして注意さるべきであろう。
かくの如き上人の態度は、上人自身においては、「身をすてゝ平座にもみなと同座するは、聖人の仰に、四海の信心のひとはみな兄弟と仰られたれば、われもその御ことばの如くなり」といわれた如く、従来の「上臈ふるまひ」を棄てて宗祖の精神に還り、同朋意識によって庶民的に教化せんとされたものに外ならない。されば「仰に、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり、聖人の仰には弟子一人ももたず、と、たゞともの同行なりと仰候きとなり」、とか、「門徒衆をあしく申ことゆめゆめあるまじく候、開山は御同朋御同行と御かしづき候に、聊爾に存ずるはくせごとの由仰られ候」とか、「開山聖人の一大事の御客人と申は、御門徒衆のことなりと仰られしと云々」とかいう如き言葉が少なからず伝えられている。しかも上洛して来た門徒に対しては、寒天には酒に燗をさせ、炎天には酒を冷させて出したということや、門徒に出す食事にはことに注意したという如き行実さへも伝えられているのであって、上人の門徒に対する態度は、如何にも謙譲で温切であったといわねばならぬが、けだしこうした態度は宗祖精神に還った同朋意識の発現に外ならぬ。
右の如く庶民の間に謙退して、彼等と共に語り、また彼等を温切に取り扱う態度は、社会の混乱から絶えざる不安を感じ、特権階級から限りなき搾取に常に苦しめられていた当時の庶民階級に対して、如何に影響したであろうか。事実当代の如き擾乱の社会においては、互に手を取り合って語る教化でない限り、高きところからする単なる教化は受容さるべくもないことはいうまでもない。従って上述の如き上人の庶民間に「身をすてた」温切にして謙譲な態度は、もともと宗祖精神に復古せんとの意識に基づくものであるとはいえ、それがやがて時代人を誘引するに充分であったであろう。この意味において上人の如上の復古主義は、当時の社会の機微を穿ったものであったともいうことが出来るであろうと思う。
(1)第一七二条。稲葉昌丸氏編『蓮如上人行実』所収本による。以下所引の「聞書」類はすべてこの所収本による。
(2)『空善記』第二八条。
(3)『祖師代々事』参照。この書の著書について、恵空はその写伝本に「是実悟記歟」といっているが、恐らくは適当な推定であろう。
(4)『実悟旧記』第一五九条、『祖師代々事』。
(5)(6)『空善記』第二八条
(7)『空善記』第一〇五条、『本願寺作法之次第』第一二七条
(8)(9)『空善記』第九三条・第九四条。
(10)(11)(12)『実悟旧記』第二三一条・第二三二条・第二三三条。
(13)『本願寺作法之次第』第一六九条 

上来まず蓮如上人の教化態度を一瞥したが、しからばかくして説かれた教化の内容は如何なるものであったかけだし宗義を簡明に平易に叙述して、一般人に理解し易からしむることは、学少なく教養低き庶民階級を教化の対象とする宗教において、ことに注意さるべきことである。しかもこの当時の如く混乱せる社会において、一層その必要の切実なるものあるは贅言するまでもない。されば鎮西派の聖冏は、浄土宗義の要は「心存助給、称南無阿弥陀仏」にあると簡易な表現をなし、叡山を下って念仏を説いた真盛は、「唯様も候はず、南無阿弥陀仏と唱えるが即ち往生にて候なり」といっているのである。教界の大勢すでにかくの如くであり、また上壇を撤して庶民の間に身を捨てたのが蓮如上人である。その所説難渋にして一般に理解し難い方法を採られよう筈はない。この点において上人の御文の述作はことに注意さるべきものである。現存の御文の中最初の述作である帖外第一帖は寛正二年で、その後年を逐うて次第にその数を増しているのであるが、御文はいうまでもなく、鎌倉時代の初期以降すでに起りつつあった仮名法語の形において、真宗の要義を簡明に説示されたもので、宗義の民衆化と安心の統一に意義深い効果を収めたものである。この御文の述作に至る過程またはその背景等については叙述すべきことが少なくない。けれどもこの方面の研究はすでにかなり発表されているから、私はここに敢て蛇足を加えることを避けたいと思う。
御文の内容において第一に注意すべきは、先に一言した如く、真宗安心の根本を叙述して何人にも理解し易からしめ、以て安心の統一を図った点であるが、また看過し得ないのはいわゆる俗諦に関する多くの説示のなされていることである。すなわち御文の随処に現された王法為本・仁義為先の教示であって、これは宗祖の御消息に源流を求むることが出来、覚如・存覚両上人またこれを継承されたところであるが、未だ蓮如上人程鮮明に一般にこれを説かれたことはなかった。けだし真宗はいわゆる出世間的行儀を特定せず、人間本然の制約を破らず、在家の姿において仏教の究竟的精神を実現せんとするものであるから、世問通途の王法が生活規範として説示されることは当然である。ここに蓮如上人が宗祖以来の伝統を承けて、この教示をなされた所以があるわけであるが、上人の当時は、社会の規綱ことごとく乱れて道徳秩序の甚だしく混乱した時代であったから、仏法を完全に伝持してゆくためには、王法の人の道を指示することの必要はことに切なるものがあったであろうし、また急激に発展した教団を擁して社会に進展するには、他家他宗の偏執を避けるためにも、そうした必要が痛感されたからでもあろう。 なおこの王法為本の説示が、当時の一般思想界と如何なる交渉を持つかをさらに詳しく考え、またこれに関連する問題をも併せ考えたいのであるが、これにはかなり多くの叙述を要するから、今は省略し、筆端を改めて私見を述べたいと思う。
(1)『教相十八通』巻上
(2)『奏進法語』(牧野信之助氏編『真盛上人御伝記集』所収)
(3)禿氏先生編『蓮如上人御文全集』附録・佐々木芳雄氏著『蓮如上人伝の研究』第八章「御文の撰述」等参照
(4)『改邪鈔』七丁以下・『破邪顕正鈔』中三九丁等参照 

上人の教化態度を瞥見し、そこに試みられた御文の撰述に言及した私は、さらに上人の化風において注意すべき名号本尊と和讃諷誦とについて考えねばならぬ。
まず本尊について見るに、現代宗祖真蹟の名号は、本派本願寺・高田専修寺・三河妙源寺等に伝持されているが、「愚禿親鸞敬信尊号」とある点から見れば、宗祖の本尊が名号であったと考えるべきである。また『改邪鈔』に「オホヨソ真宗ノ本尊ハ帰命尽十方無碍光如来ナリ」と明言されているばかりでなく、本派本願寺には「覚如上人之時代本願寺常住也」と蓮如上人の裏書せる十字名号が襲蔵されているから、覚如上人また宗祖の遺風を継がれたことは否まれない。しかるにこの頃から漸次光明本尊が盛んとなりつゝあり、その傾向は時代の推移と共に高められて行ったようである。試に存覚上人の『袖日記』を見るに、九字十字の名号本尊もあるけれども、光明本尊およびそれに准ずべき列祖像を以て本尊となせるもの多く、名号に善導大師や法然上人や宗祖等の像を添えて一幅に纏められたものも少なくない。思うにこれらは名号本尊が次第に衰微しつゝあり、これに光明本尊が代行しつゝあったことを暗示するものではあるまいか。しかも現代における光明本尊の遺品の地理的分布がかなり広いのは、一面においてこれが諸国に弘伝されていたことを示すものであり、この本尊を盛に依用した仏光寺は本願寺が不振に陥ったと反対に、ますます隆盛に赴いたのであるから、存覚上人以後の真宗に広く用いられたのは恐らく光明本尊であったであろうと考えられる。
光明本尊についての研究は未だ充分でなく、宗祖在世当時からこれが存したものか否か、未だ学界に定説はないが、これは宗祖の素純な名号本尊からかなり間隔のあるものであることは勿論である。従って真宗としてはこうした本尊の依用から宗祖の名号本尊に還えるべきである。蓮如上人が「あまた御流にそむき候本尊以下御風呂のたびごとにやかれ」たということは周知の通りであるが、この「御流にそむき候本尊」とは、あるいは前述の如き光明本尊を意味するものではないかと思う。
かくて上人が採用された本尊は、宗祖以来の名号本尊であることはいう迄もない。もっとも上人の採用された本尊には尊像も少なくないが、ことに多く門下に下附された本尊は名号であって、上人が「おれほど名号かきたる人は日本にあるまじきぞ」といわれたという話は有名である。けだしこの名号本尊は、上人が「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像と云ふなり、当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号と云ふなり」といわれた周知の言葉の如く、一面において真宗の本尊としてその所信の教義を表現するには、尊像よりは尊号の方が遥かに適切であるという宗義上に立脚されたことは勿論である。しかし名号本尊はその制作には尊形程複雑な手数を要しないすこぶる簡素なものであって、尊形よりも一層庶民的であることも注意されねばならぬし、またそれと共にこれを歴史的に見れば、これはささやかな草庵に名号を安置して念仏された宗祖への復古の強き精神の顕現であり、これを門下に数多く下附して本尊の統一を図られたのも、宗祖在世時代の教団のすがたに還らんとされたものと言い得よう。
仏教における名号本尊の依用は宗祖親鸞聖人に初まる。しかしその後にはこの名号を用いる傾向は他宗にも現れたのであって、たとえば宗俊の『一遍上人縁起』の他阿を伝する条に、大紙に名号を書いている図や、六字名号を本尊として奉安している図があるから、時宗にもこれが早く用いられたことは明らかであり、また「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」のいわゆる賦算は名号思想を普及せしむる点において与って力あったであろう。時宗の名号本尊は真宗の影響であるか否かは速断出来ないが、ともかくこの頃から名号本尊の思想が社会に一般化して来たことは明らかであろう。しかして室町時代の初期には六字名号が扁額に書かれて掲げられたり、梵字の弥陀名号が書かれたり、天神名号が和歌の会の如き機会に安置されたり、ないしは春日明神筆の弥陀名号が現れたりしたこと等が当時の記録に見えているのである。これ等は真宗の名号本尊と直に等しいものではないけれども、また相通ずる思想も認めることが出来よう。
されば名号を以て本尊に充てる思想は、前に一言した如く真宗においてはあるいは杜絶え勝ちであったかも知れないが、社会の一面にはこの思想は持続されたことは明らかであり、真盛がその生涯に十万幅の六字名号を書いたということも強ち蓮如上人の影響とのみいうことが出来ないであろう。従って名号本尊は上人当時の社会に必ずしも特異なものでなかったのであり、時代人一般にすでに理解されていたと見ることが出来る。しかもそれはすでに宗祖の創始されたところであり、また尊形よりも遥かに庶民的なものである。かく名号本尊について考え来れば、この時代に処した蓮如上人が、盛にこれを依用された意志も自ら明らかに理解されるであろう。
(1)『実悟旧記』第一五九条。
(2)『空善記』第三五条。
(3)『実悟旧記』第二条。
(4)禿氏先生論文「本尊としての仏名と経題」(『日本仏教学協会年報』第三号所載)。
(5)『日本絵巻物全集』本三三・三五ノ六・三六ノ一図等。
(6)東大寺大湯屋懸額。その裏面に「応永十五年二月十四日浴室修理畢、同十六年六月五日書此宝号焉沙門惣深」の墨書銘がある。(『寧楽』第十四号「東大寺現存遺物銘記及文様」所載)
(7)『看聞御記』永享七年五月二十五日の条。
(8)『看聞御記』応永二十六年十月八日・『満済准后日記』応永三十四年正月二十六日等の条、こうした例はなお少なくない。
(9)『実隆公記』文明八年正月二十六日の条。
(10)『真盛上人往生伝記集』巻下。 

宗祖にはかなり数多い和讃の述作があるが、これが一般に諷誦されたものであることは、『破邪顕正鈔』(巻中)の一節に、
ツキニ和讃ノ事、カミノコトキノ一文不知ノヤカラ経教ノ深理ヲモシラス、釈義ノ奥旨ヲモワキマへカタ  キカユヘニ、イサヽカカノ経釈ノコヽロヲヤハラケテ、無智ノトモカラニコヽロエシメンカタメニ、トキトキ念仏ニクハヘテコレヲ誦シモチヰルヘキヨシ、サツケアタヘラルヽモノナリ。
とあることによって明らかであるが、正和年中孤山隠士なる者が越前大町如導の宗風を論難せる『愚暗記』に「当世一向念仏シテ在家之男女聚メツヽ、愚禿善信ト云流人之作タル和讃ヲウタヒ詠シテ、同シ音ニ念仏ヲ唱ル事有リ」といい、如導一派の和讃諷誦ならびに踊躍念仏をしきりに難しているし、また仏光寺了源の『算頭録』には「聖人ハソノ称ヘヤスカラシメムタメニ、和讃ヲツヽリテ諷誦ヲナサシメタマヘリ、六時ノツトメヲハツキテ三時トナシ、光明寺和尚ノ礼讃ニカヘテ正信念仏偈等ヲ諷誦セシメタマヘリ、マタ念仏モノウカラントキハ、和讃ヲ引声シテ、五首マタ七首ヲモ諷誦セシメタマヘリト先師明光ヨリウケタマハリキ」といっていること等を参照すれば、三門徒や仏光寺では和讃は常に諷誦されたことと考えられる。
翻って本願寺の方面を見るに、『本願寺作法之次第』(第四六条)に「当流の朝暮の動行、念仏に和讃六首加へて御申候事は近代の事にて候、昔も加様には御申ありつる事有げに候へども、朝暮になく候つるときこへ候、存如上人御代まで六時礼讃にて候つるとの事ニ候、(中略)文明の初比まで朝暮の動行には六時礼讃を申て侍りし也」とあって、和讃よりもむしろ礼讃が多く用いられた如くである。しかも蓮如上人に至って、これは改められて、朝暮の勤行には和讃が制定されたのであって、『本願寺作法之次第』には右の文につづいて、
然に蓮如上人越前之吉崎へ御下向候ては、念仏に六種御沙汰候しを承候てより以来、六時礼讃をばやめ、当時の六種和讃を致稽古、瑞泉寺の御堂衆も申侍し事也。
といっているもの、すなわちそれである。しかも上人はこの和讃を盛んに依用された如くで、文明五年五月には吉崎において正信偈和讃四帖を開板されてある。
ここにおいて上人が如何にして和讃を採用されたかについて考えるべきであるが、前に一言した如く、越前三門徒がしきりに和讃を用いていたのであるから、あるいは吉崎において上人がこれに暗示を得られたのであろうということは、容易に想像し得るところである。しかし上人の和讃に対する関心を顧みると、それは遥かにこれ以前にあるのであって、すでに上人二十二歳の永享八年八月中旬『三帖和讃』を書写し、次いで宝徳元年五月加賀木越性乗にこれを書与し、さらに享徳二年には近江手原道場にもまたこれを書写して下附された。従って上人の和讃に対する注意はかなり早い時代からであったといわねばならぬ。しかしてここに多少私の憶測が許されるならば、私は上人に対して右の如き暗示を与えたものは、北陸における本願寺の教線内にあったのではないと思う。すなわち応永十四年四月、六角堂照護寺之門弟薊田良観が『親鸞奉讃』二巻五十二首の和讃を作り、なおまた『法然上人奉讃』二巻四十六首、『上宮太子奉讃』二巻四十一首の和讃を述作したというが、この良観は越前照護寺から出た人であるといわれている点から考えて、越前では三門徒のみならず広く和讃が用いられていたために、この地に生れた良観はこうした和讃を述作したのではないかと思われるし、また先に一言した如く、上人は早く加賀木越光徳寺性乗に『三帖和讃』を附与されているのであるが、これけだし当地の門徒間にこれが諷誦されていた結果ではあるまいか。なお資料が充分ではないが、右の如き点から想像すれば、たとえ本願寺の内部に和讃がよく諷誦されなかったにしても、少なくとも北陸の本願寺教線内にはこれがしばしば行われていたと考えて大過あるまい。もしこの推定が許されるならば、上人の和讃への関心は、次に言及する如き当時の風潮と共に北陸に暗示を得られたのであり、この和讃の盛行せる越前に入ったのを機会に、これを一設の勤行に制定されたものと見ることが出来よう。
元来和讃は今様と共に庶民の間に発達したもので、もともと庶民に親しみ深いものであるから、これによって教義を民衆化し、信仰を鼓吹することは意義深いことである。従って平安朝以来庶民の教化に志す人々の中には和讃を述作することが少なくなく、当時の高僧名匠の作と伝えられる和讃は数多い。もっともそれらの中には厳密な意味では偽作仮托のものの少なくないことはいうまでもないが、一面からいえばそうした偽作仮托の数多く残されていることは、和讃が当時の社会に非常に流行したことを暗示するものともいえるのである。京都市大報恩寺所蔵の大目★連尊者像の胎内から発見された建保六年十一月の僧尊念の願文には、法華経各品を詠じた和讃が附加されている。これは願主の作か、または他人の作か、不明であるが、ともかくこうした作者不明の和讃がこの頃には数多く作られ、後に至ってあるいは高僧に仮托されることが少なくなかったであろう。かくて作られた和讃は民間に単独に行われることもあったであろうし、当時流行した踊躍念仏と共に諷誦されたであろう。『元亨釈書』(巻二十九)の著書が念仏を叙する条に、法然上人の開宗以後念仏が流行し、曲調抑揚を附して人心を感ぜしめたことを記し、またこれが瞽史侶伎の間に流行して、燕宴の席に交り盃觴の余瀝を受くといっているが、こうした念仏は必ずしも単なる念仏のみではなく、今様が饗宴の席に歌われたように、念仏と共に和讃が諷誦されたことを意味するものであろう。また蓮如上人時代の例を取れば、『看聞御記』に涅槃講には常に釈迦念仏和讃が行われたことが見えている。
以上略述する如く、和讃は当時一設民衆に親しみ深いものであるばかりでなく、教義の民衆化信仰の鼓吹に意義深いものであり、しかも宗祖すでにその例を開かれているのである。一設庶民の間に身を捨てて教化を布き、宗祖の精神に復古されんとした蓮如上人が、教化の一手段として、和讃を朝幕の勤行に制定された所以も、ここに至って自ら明らかであろう。
(1)(2)本派本願寺所蔵本奥書。
(3)近江手原孝子坊蔵本奥書。
(4)大谷大学蔵本奥書
(5)龍谷大学蔵『照護寺由緒』(享保二十年書上)。
(6)試に高野辰之氏編『日本歌謡集成』(巻四)を参照しても、その一面が推察されようと思う。
(7)『造像銘記』第六十二条所載。
(8)応永二十三年二月十五日・同二十六年二月十五日・同三十年二月十五日等の条々。 

蓮如上人は信仰を鼓吹するために、寄合談合を奨励されたことは有名であるが、こうした会合に集った人々によって一種の講が結ばれた。それらの中寺院を中心として結ばれたものは、超勝寺門徒とか、専光寺門徒とかの如く呼ばれ、また地名によって河原講といわれた如きもあり、さらに会合の日によって六日講とか、四日講とか称されたものもあるが、要するにこの門徒の結合である講は、教団構成の一基調を成すものである。講の意義は上人が御文の中にしばしば示された如く信仰を鼓吹するための手段であるが、これはやがて教団財政の基礎を成すもので、これらの講は毎年一定の財物を醵出して本願寺に送り届けた。上人の御消息、たとえば『帖外』一二〇に「毎年約東代物事慥に請取候」とある如きはその間の消息を物語るものであるが、その他色々の機会にしばしば醵金して本寺に上納したのである。真宗教団の成立が庶民階級における講を社会的背景とし、またその形において組織されたものとすれば、右の上人時代の講を基調とする教団のすがたは、また宗祖在世当時の教団のすがたに相通ずるもので、ここにも上人の宗祖への一つの復古主義が見られるわけであるが、混乱した当時の社会において、庶民教化の実を挙げる手段としても、こうした講なる団体の結成は必要であったであろう。講についてはなお叙述すべきことが少なくないが、すでに詳細な研究もあることであるから、以上の如き略述にとどめたいと思う。
教団構成の基調は右の如き講にあったのであるが、こうした講を統摂し、またこれらの講を支持する諸寺を統制するために、上人は地方の主なる諸寺に本寺と血縁関係ある人々を配置された。いわゆる一門一家衆がそれで彼らは地方の大坊主衆や坊主衆を統摂して団結を固くすると共に、本寺の命に従って行動したのである。上人以前においても本願寺の血縁者が地方に下ったこともあり、また一家衆の制度の如きも上人以前に発端していることは後に言及する通りであるが、蓮如上人はその子弟を初め血縁者を多く諸国に配置して地方門徒の統制を図らしめた。『反故裏書』に「一門一家数輩国々ニ充満アレハ、他家ノ偏執御門弟ノ煩ナリ、末代ニヲイテ相続ナケレハ其詮アルヘヵラス」とあることによってもその状を察すべきであろう。また上人はこうした一門一家衆や坊主衆その他についても色々制度を作られた如くであるが、要するに上人は本願寺によって統一されたいわば中央集権的教団を築かれたものと見ることが出来る。
けだし上人の時代は幕府の威令行われず、戦乱相つづいて社会混乱し、諸国大名は互に割拠して、いわゆる分権的封建制度の成立せんとする時代であったから、その間に処して、次第に発展して行く教団を統制するためには、右の如き教団統制の処置を執る必要のあったことは勿論である。
しかし翻って思うに、こうした上人の教団統制の指導理念は、本願寺としては早く覚如上人によって指示されたところである。覚如上人生涯の思念は、一言にしていえば、上人の留守職たる大谷影堂を真宗教団の中心とし、これによって諸国門徒を統摂せんとするにあった。けだし宗祖示寂の後諸国門徒は大谷を離れて各地に分立すること甚だしく、またその間異解邪執の輩出することも少なくなかったので、覚如上人は宗祖の影堂である大谷は祖滅以後の真宗教団の中心であらねばならぬという大谷の本質に立脚して、全真宗教団を統摂し、以て浄土異流の間に宗祖の一流を宣揚せんとされたのである。この上人の志念は不幸にして上人の生涯には実現されなかったが、この上人によって指示された志念は上人一代にして消滅したのではなく、その後の本願寺歴代の抱負となったのであって、この理想実現の基調とも見るべき大谷影堂の寺院化、すなわち大谷に宗祖の真影と共に本尊を奉安して寺院化し、以て影堂に社会的意義を附加せんとする如きは、その後善如上人も努力された如くであるが、綽如上人に至って遂に実現されたと考えられる。また本願寺は諸国門徒の本寺であるという覚如上人以来の信念は、その後の本願寺の強い信念となったのであって、巧如上人が信濃長沼浄興寺(今の越後高田浄興寺)に下附した諸種の聖教を見ても、当時の本顕寺は不振であったとはいえ、本願寺は本寺を以て任じ、浄興寺は末寺として事えていた消息が窺われるし、北陸の門徒が巧如上人の第二子第三子を申し下して、地方の中心となさんとした如きも、またこうした傾向の一つの顕現と見られる。しかして存如上人に至ると、本願寺の教線はようやく発展の曙光を認め、次第に活気を呈して来たが、上人はしばしば近江より北陸道を遊化され、また地方門徒に聖教や伝絵や寿像等を下附されて、本末関係はかなり明らかにされて来た。堅田本福寺と本弘寺大進とが、その手次について争ったという如き挿話も、その一つの顕現と見られるが、当時すでに一家衆とか下間衆とかいう如き階級的制度も成立していた如くである。
かくの如く覚如上人以後の本願寺のいわば伝統的背景を考える時、蓮如上人が上述の如く、その教化の諸点において宗祖に復古されんとしつつ、本願寺中心の教団を築かれた一面の理由が首肯されると思う。「御本寺御坊をば聖人御在世の時のやうにおぼしめされ候」とか、「代々の善知識は御開山の御名代にて御座候」とかいう如き上人の言行は、上人自身の本寺に対する敬虔な信念を表白されたものではあるが、また本寺の尊厳を門下に示されたものと見ることが出来る。かく考える時上人のこの信念は『改邪鈔』に説かれた覚如上人のそれと相通ずるものがあるように思われる。されば蓮如上人の本願寺中心の教団統制は、当時の社会的環境にも起因するものではあるが、またそれと共に覚如上人以来の本願寺の伝統を実現されたものと見るべきではあるまいか。勿論かく統制されたにしても、それがいわゆる封建制度の如き固定した冷きものではなく、上来叙述した如き宗祖精神に通ずる温情に充たされたものであることはいうまでもない。
(1)拙稿「真宗教団の成立と庶民階級の講」(『龍大論叢』第三〇四号所載)。
(2)佐々木芳雄氏論文「蓮如上人と講」(『龍大論叢』第二九五号所載)。
(3)佐々木芳雄氏著『蓮如上人伝の研究』第九章「教団の膨張と其統制」。
(4)拙稿「大谷影堂寺院化の一考察」(『龍大論叢』第二九四号所載)。
(5)『反故裏書』。
(6)『本福寺由来記』。
(7)『実悟旧記』第一五八条。
(8)『栄玄記』第一六条。 

蓮如上人の化風において特筆すべきものは右の外なお少なくあるまい。けれどもそれらは今は省略に従って、ここに如上の二、三の事例を通じて、上人教化の指導理念ともいうべきものを要約すれば、上人は一面において宗祖精神に復古せんとすると共に、また他の一面においてよくその時代社会の粧相を見究めて、庶民階級に親しみ深い教化を垂れられたのである。ここに当然本願寺教団の発展に著しいもののあったであろうことは容易に想像されるところであるが、なおその教団の発展を甚だしく促進せしめ、社会的勢力を把握せしめたものとして、真宗教団の構成者たる庶民階級の社会的発展を看過することは出来ない。
真宗教団は庶民階級を基調として成立した。それは一面において宗祖の庶民的教化によるものであるが、教団成立の社会的背景は庶民階級の台頭にあり、真宗教団成立の史的意義はいわば庶民仏教の独立にあることはかつて論究した通りである。されば真宗教団の発展を社会的に見れば、それは庶民階級の発展とその軌を一にすべきであるが、王朝末期以来次第に社会的に台頭しつつあった庶民階級は、鎌倉時代に入って武士階級の社会的地位の向上に刺戦されて、一層その社会的地位を自覚し向上せんとする傾向があったが、またそれと共にこの頃から経済的にもこうした傾向を助成せしむるものがあった。たとえば荘園内の農民にしても、王朝末期以来荘園制度の混乱によって一荘園に対する有権者が幾人も現れ、農民は彼等の苛酷な田租の徴発に苦しむことが多かったが鎌倉時代に入って各地に守護地頭が設置されると共に、さらにその度が深化された。しかしこの時代は、総じていえば、その社会は幕府によって一設によく統制されていたがために、荘民がともすれば暴動化し一揆化することはなかった。しかし南北朝の擬乱以来、社会的規綱はすべて崩壊し、いわゆる下剋上の風上下に充ちて戦乱打ちつづき、一設庶民は絶えざる不安を味うと共に、彼等の社会的階級的自覚はとみに向上して来た。先に一言した荘園の農民に例をとれば、彼らは最早従来の如く荘園の有権者からの苛酷な徴求に盲従せず、あるいは互に団結して上司にその苦衷を訴え、あるいはこれを隣接荘園との抗争に托して解決せんとしたが、もしその要求の充たされない時は、あるいは一村を挙げて荘園より逃散し、あるいはさらに過激化していわゆる一揆の暴動を敢てするに至った。こうした彼らの運動は主として経済的原因によるものであるが、いうまでもなくこれは階級闘争であり、彼らの社会的階級的自覚の向上した結果に外ならぬ。従ってここに鎌倉時代と室町時代との庶民の間には、名は等しく庶民であったにしても、社会的には著しい懸隔がある。試に徳政を一例として考えても、鎌倉幕府の徳政にはその適用はいわゆる御家人に限られ、庶民階級に及ばなかったけれども、室町時代のそれは庶民階級をも包含したばかりでなく、さらに庶民の方から積極的に徳政を幕府に強要したことも少なくない。勿論鎌倉幕府の徳政と室町幕府のそれとの間には、かなりその性質に相違があるのであるが、また一面からいえばそこに庶民階級の向上が暗示されていると見ることが出来る。
かくて一往教化の対象である庶民階級に、真宗教団成立当時の鎌倉時代と蓮如上人の室町時代との間に、社会的に著しい相違のあることが考えられるのであり、ここに蓮如上人の教化が驚くべき効果を挙げ得た一背景が注意されるのであるが、さらに具体的な一例として、上人が最初教線を張られた近江について一瞥して見よう。由来近江の地はいわゆる土一揆暴動最初の地として、中世社会史上に特記されるところで、この地は経済関係がことに複雑化していたことや、また京都に近かったためでもあろうが、馬借一揆・徳政一揆等の暴動が頻繁に伝えられている。それらは手近かな『滋賀県史』(第二巻)を参照しても容易に理解されるところであるが、それはともかく、堅田・金森・赤野井等蓮如上人の重要な教線であった地方もまたそうした雰囲気の中にあったのであるから、これらの地方庶民の傾向もまた早く尖鋭化していたことはまず注意さるべきである。
さて堅田は農業を行うと共に一面において琵琶湖の湖上権を握って早くより有力であった。しかるに伊香郡永原村菅浦の住民は、従来その他が田畠に乏しいために湖上の漁猟を以て渡世とし、竹生島の神領としてその保護を仰いでいたが、堅田浦の漁人はしばしばその湖上権を侵略してやまないので建武二年八月菅浦の住民はこれを朝廷に訴え、また山門の権威を籍らんとした。けれども堅田の漁人は依然侵略をつづけ、違乱をとどめなかったが、遂に応永四年十一月に至り、海津の地頭の和解により、今堅田西浦の惣領等八人達署して、新たに菅浦との間に契約を結び、互にその領海を定めている。かくてこの問題は解決したのであるが、これによっても堅田の住民が湖上の漁猟権や運輸権を握って盛んに活動していたことは明らかであり、彼等の眼中にはすでに特権階級もないのであり、そこに時代人としての新鮮な活気を認めることが出来る。金森・赤野井等は堅田の如く住民の事情を詳らかにし得ないが、この蒲生郡・野洲郡等は座・市が多く、いわゆる近江商人の中心地である。ことに金森は後年織田信長が楽市・楽座を認可しているから、この地が商業を以て早くより活動していたであろうことは想像に難くない。また赤野井は臨川寺三会院領であるが、寛正年間には山門の勢力が侵入したので、しばしばこれと抗争している。これを要するに、如上三地方の住民もようやく社会の表面に出現せんとしつつあったものと考えられる。
堅田は南北朝頃から加茂社領と山門領とに分轄されているが、前に言及した応永四年の今堅田の達署八名はすべて僧名であり、またこの地に山門七箇所の関の一があったことから考えると、その湖上権もまた山門の勢力下にあったことと思われる。蓮如上人の門弟として有力な法住の家は、柑屋の座としてその独占権を山門から得ていたのであるが、これがために法住一家がかなり多くの座銭を山門に納めている。従って右の湖上権も山門の勢力下にあったとすれば、堅田の漁民もまた多額の金銭を何らかの形において山門に上納していたにちがいない。また金森・赤野井等もその径路を詳らかにし得ないにしても、臨川寺三会院その他に対してこれとほぼ同じ関係にあったであろう。従って当代人の常として、何らかの機会にこうした特権階級からの搾取を免れんとしつつあったのであるから、ここに蓮如上人が教線を布いたとすれば、その地の住民は本願寺によって山門その他の特権を駆逐せんとしたと考えることが出来る。かくて上人の近江布教の成功を単に社会的経済的に説明せんとする史家もある。寛政六年の山門の大谷破却は、近江の山門の勢力圏を本願寺が犯したという経済的原因に基づくことは認め得られるところであるから、右の説は一面の真実を把えているにはちがいない。けれども当時の本願寺がなお沈滞期を説せず、ようやく黎明の曙光を見出した頃で、その勢力は徹々たるものであるから、これが山門の伝統的勢力と対抗し得るや否やを考えても、この説が余りに偏した見解であることを認めざるを得ないのであり上人の近江布教の成功には、上人以前の本願寺の開教がその背景として存するし、また上人自身の教化態度によるものであることは否定出来ない。されば私は右の説をすべて承認するわけではないが、上人の教化された庶民階級には上述の如き尖鋭化した傾向があり、それが一面において上人の教化を著しい成功に導いた一背景として留意しておきたいと思う。
以上上人の初期の教線である近江について一瞥したが、余他の地方には多少その事情を異にするにしても、こうした傾向は等しく認められるところであって、一設庶民はようやく社会の上層に現れ出でんとしつつあった。従って上人教化の対象は、従来と同じく庶民階級であったことには変りはないが、彼らはすでに上層階級にいたずらに圧迫されて沈滞していた庶民ではなくて、むしろ積極的に上層階級に働きかけんとする新鮮な活気を持ったものであった。この意味において、上人の教化が時代の傾向に合し、より多くの効果を挙げ得たであろうことは推察するに難くなく、上人教化の成功の一面がこうした社会的傾向にあることを注意せねばならぬ。しかしそれと共にかくの如き積極的に向上せんとする庶民を包含した上人の教団には、少なからざる危険をすでにはらんでいたことも認めなければならぬ。すなわち常に積極的であり、抗争的である当時の庶民は、上人の教化によって教団に統一されたにしても、ともすれば、その団体が常軌を脱して一揆化せんとすることはやむを得ないことで、上人がしばしばこうした点に鋭く訓誡を加えられているにも拘らず、ややもすれば教団に破綻を生じ、一揆化せんとしたのは、この時代の庶民として如何ともし得ない反面であったといわねばならぬ。
(1)前掲「真宗教団の成立と庶民階級の講」。
(2)州が浦共有文書(『滋賀県史』巻五所載)。
(3)臨川寺文書(同上)。
(4)堅田本福寺文書、『教訓並俗姓』(本福寺記録之二)。
(5)西田繁氏論文「一向一揆発生の基底」(上)(『史論』第五号所載)。 

最後に上来叙述するところを要約するに、蓮如上人の教化は一面において宗祖精神に復古するにあったと共に、また他の一面においては当時社会の情勢を洞察して、これを適宜な形に展開することにあった。すなわちまず従来の本願寺の教化態度を改めて宗祖精神に還り、真宗教団の特質に立脚して庶民的態度を以て教化された。しかしてそれと共に宗祖に源流してしかも当時の庶民に親しみ深く切実なる教化を施された。御文における宗義の簡易な宣説と俗諦門の宣揚や名号本尊の依用や和讃の諷誦等における上人の発揮は、宗祖の行化を仰ぐと共に、当時の社会粧に拠り時代の風潮を顧慮して施設されたもので、上人の化風における高邁な識見として特筆すべきものであろう。上人の化風は、これを従来の本願寺の化風に対照すれば明らかに改新であったといい得るが、上述の如き点において、上人の改新は宗祖への復古に外ならなかったともいい得るであろう。
如上の宗祖精神と時代傾向とを顧慮した上人の化風は、必然的に社会に受容され、成功すべきであったが、さらに真宗教団の基調である庶民階級は、上人の時代において正しく新興階級として活気を呈して来た時であったここに両者は当然結合されたのであり、上人の教化はさらに一段の光彩を添えるに至った。かくの如き意味において上人の偉大なる成功は、その時代環境にも依存するという一面をも認めねばならぬであろう。
かくて上人の時代において本願寺教団は未曾有の発展を遂げるに至ったが、その統制については、上人は本願寺による中央集権的制度を採用された。この処置は戦乱絶えず、混乱せる分権的封建社会において、膨大なる諸国門徒を擁せる本願寺が完全なる統制を以て教団の便命を遂行するには必然的な制度であったであろう。けれどもまたそれと共に、これは本願寺としては覚如上人以来の伝統的志念を実現されたものとも見ることが出来るであろうと思う。かくの如き意味において、覚如上人に発端する本顕寺教団は蓮如上人に至って完成されたのであり、またそこに後世本願寺教団の基礎が築かれたと見るべきであろう。      (昭和八月六月二十四日) 
 
祖父江省念師「口伝の蓮如」

 

第一話 ご誕生、生母との別れ
えー今回は蓮如上人の御一代の御苦労につきまして、お話を申し上げるわけですが、えー浄土真宗におきましては、法然上人を元祖と仰ぎ、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、蓮如上人を中興の祖と、こう申しまして、このお三方が浄土真宗にとっては最も大切なお方々でありますが、特に、蓮如上人の御出生がなかったとしたならば、今日我々がこの末代の世の中において、仏法を聴聞するということはおそらく不可能なことであったではないかと思いますが、蓮如上人御一代の大変な御苦労をあそばし、御開山も御一代大変な御苦労をなさったのでありますが、それにも勝るような波瀾万丈を極めた御一代の御苦労についてお話を申し上げるわけでありますが、丁度御開山様が、御歳九十という稀にも長命をあそばしまして、えー丁度、十一月の二十一日頃から御病気が重くなりまして二十八日に今生のお別れをあそばすのでありますが、このことは『御伝鈔』の下巻の六段目に明らかにお示しをあそばしてありまして、「(節)第六段聖人弘長二歳、壬戌中冬下旬の候より、いささか不例の気まします。
自爾以来口に世事をまじえずただ仏恩のふかきことをのぶ、声に余言あらわさずもっぱら称名たゆることなし。
同第八日午刻、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましあわり(end 節)ぬ」。
かようにお知らせになっておりますが、十一月の二十八日になりますと、朝から呼吸困難というような有様でありまして、丁度お昼頃になりますると、いよいよ、今生のお別れが切羽詰まってまいったわけでありますが、余りにもお苦しいような有様でありますので、蓮位坊というお弟子がお背中を撫ぜ、お腰を撫ぜ、やがて御御足を撫ぜて足の甲に触れるなり、その足の甲にしがみつきまして蓮位坊はオオオオーと大声を上げて泣くわけであります。
えー御開山様は長い間常随眤近傍離れずに、看護をしてくれた色々と世話をしてくれたこの蓮位が、いよいよこれが今生のお暇乞い、愛別離苦と申しまして、親しい者と別れる悲しみが胸一杯に感ぜられて、別れが辛いから泣くんだなぁと思し召して「蓮位や、誰でも生まれた以上は死なねばならず、逢うた以上は別れにゃならんと言うが、この世の定めである。
そんなに泣いてくれてもいよいよ今生のお別れじゃが、まこと信心決定ができているならば、長い別れではない、やがてお淨土で直様会えるじゃないか、そのように泣いてくれるな、お前がそのように別れを惜しんで泣いてくれるならば、儂も人間である以上、後ろ髪引かれるような気持ちになる、どうぞ、泣かずに、お念仏を唱えてくれや」と、こう仰せになりましても、泣いておりますので、「蓮位や何故そのように泣くのじゃ、お前は本当の仏法がわかっておるならば、そのように泣く必要はないじゃないか何故泣くのじゃ」と、だんだんと諌められますると、「御師匠さま、私が今泣いておりますのはお別れが辛いから、泣いておるのではございません。
長い間お伴をさして頂きながら迂闊にも、ちょっとも気がつきませなんだが、今、お背中をなぜお腰を撫ぜ、御御足を撫ぜて足の甲に触れましたら、あなたのこの御御足は皹やら皹皸やら草鞋食いというようなこの荒れ果てた御御足。
九十年間の御苦労が、この御御足に刻み込まれておるこれも偏に我々を、彌陀の淨土へ連れて帰ろうの御苦労であったかと思いますれば、あなたのこの松の木肌に触るようなザラザラの御御足が、御一代の御苦労がこの御御足に刻み込まれているなぁと思えば御恩のほどが偲ばれ、御一代の御苦労が思われて、泣かずにおれんのでございます」、申し上げれば、「あーそうかそうか、それで泣いてくれたか、考えてみれば、成る程九十年間ひるがえってみれば様々なことがあったのぉ。
あー叡山では二十年間の間血みどろになって苦労をし、煩悩妄念をどうぞして断じたいと思うて、死に物狂いであの修行この修行とやってみたけれども、悲しい哉や自性の哀れさ、煩悩妄念を断ずることはできず、(節)定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶(end 節)覆う、どのように修行をしてみても、煩悩妄念を断ずることはできず泣く泣くながら山から下り、法然上人のお弟子になり六年間の間、あー真の知識に遭わして頂いた、幸せ者は我が身じゃ無量永劫の命拾いができたと、よろこんでおれば三十五の歳に計らずも念仏停止の法難に出会い御師匠様は四国へご流罪、この儂は越後の雪の中へ流罪になる、七年間の間、あの雪の越後であの人この人と仏法を説いてようようお念仏が繁昌するようになって、やがて関東へ参って十八年余り、稲田を中心として関東八州に念仏の種を蒔い、ある時は弁圓に追いかけられ、ある時は日野左衛門の館の門前では雪の中で一夜を明かし様々なことがあったのぅ、しかしながらこの親鸞九十年間の苦労を、如来の五劫永劫の御苦労に比べてみれば物の数ではない。
まぁーこのように苦労をした御蔭でのぅ、日本国中津々浦々お念仏の声が盛んに聞こえるようになったということも、苦労をしたけれども無駄ではなかった、皆、あとを慕うて、お淨土で往生をしお目にかかることができるかと思えば、九十年間の苦労は無駄ではなかったしかし蓮位や、このように仏法繁昌は致しておれども、やがて念仏の火の消える時期が来るであろう、その時は、再び親鸞この裟婆に現われ、念仏を広めにゃならん時機が来るであろう」と仰せになると、「はて、こんなことをおっしゃるが、このように日本中にお念仏が盛んに、唱えられている、何故このお念仏の火が消える時期があるであろう。
これは熱に浮かされて、このような戯言をおっしゃるのではなかろうかしかし重要なお言葉、これは我が家の記録に書いて残いておこう」というので、我が家の記録に書き残しまして、御開山は遂に今生のお別れをあそばしました。
それから八代目が下間法橋という、こりゃぁ御本山の御家老でありまして、寝ておりますと、枕辺に墨の衣に墨のお袈裟をお掛けあそばした御真影さまが、「こりゃぁ法橋、こりゃぁ法橋」と、お呼びになるのでふと眺めてみると、「こりゃあ御真影さまではござりませんか、こんなむさ苦しい私の寝間へ御真影さま、どうして御出まし下さったのでございましょうか」と、お尋ねをいたしますとにっこりとお笑いあそばした御真影さまが「其方の先祖の蓮位に約束をいたせし親鸞、恥ずかしながらまた来たぞよ」とのお言葉、「うぁーっ、堪り兼ねてこの世にまた再び御出ましを下さったしてみれば、先祖の蓮位が書いて残いてくれたは嘘ではなかった、アアー御苦労様なことじゃ」と泣いておりますと、門の扉をトントントントンと叩く御方が、はっと夢から覚め、「アッ今見たのは夢か、あーしかし尊い夢を見せて頂いたなぁ」と飛び起きながら門の扉を開いてみると、只今御本山で男の子の御子様がお生まれになった直様来いよのお使い、取るものも取り敢えず本山へ馳せ参じますると、今夢の中で拝み奉った御真影さまのお顔立ちと、お生まれになったこの赤ちゃんとが同じお姿同じお顔立ちを考えまして、「あぁーあぁ、これは唯人ではない。
御開山様が堪り兼ねて、この裟婆に再び御出ましを下さったのじゃ」。
口には出いては申しませなんだが、一代の間、この下間法敬は心の中で蓮如上人を御開山様の御再誕である、御開山の生まれ変わりであると尊敬を致しまして仕えるという身になったわけでございます。
誠に不思議な出来事でありましたが、ただ、蓮如上人が御一代の御苦労もやはりこれは親鸞聖人の御再誕であればこそ、あらゆる難関を乗り越えあらゆる苦難の道を、乗り越えられて遂に浄土真宗を再興をして下さる大事業を成し遂げられたということでなかろうかと思うのでありますが、お生まれになりました時は誠に、春風駘蕩と申しまして、春の陽気に誘われたような誠に穏やかな御本山でありましたが、どうしたことかこのお母様のお生まれになったお家がどういうお家であったのか、ある学者は豪族からお出でになっていたという説を立てる人もある、または非常な貧困な家庭から、お出でになっていたというような説を立てる人もある、或いは石山の観世音菩薩の御化身であると、いうような説を立てる御方もありまして、なかなかこの蓮如上人のお母様のお生まれになったお在所がわからんのでありますが、しかし考えてみると誠に賢婦人と申しますか、誠に偉い御方であったと思うわけでありますが、丁度蓮如上人がすくすくとお育ちになりまして、六歳におなりあそばした時に、どういう出来事ができたのかどういう訳かわかりませんけれども、このお母様が御本山に、おるのが本当だろうか身を引くが本当だろうかと、幾夜にもやらずお考えになりましたが、我が身が本山から身を引くことが集団の為であり、この教団の為であるとお考えになったのか、いよいよ本山から身を引こうという覚悟をあそばした。
ところうが可愛い我が子を本山に残し自分が身を引くということは、親として耐えられんことであり生木の枝裂かれるような思いではあるが、我が身が身を引くことが宗門の為とお考えになりまして、今では写真というものがありますがその当時は写真というものはありませんので、絵描きを連れて来られまして、ご自分の膝に蓮如上人をお抱きになったその姿を絵に描かせられた。
後の程の思い出としてそれを懐中あそばして、いよいよ決行をしよう何時しようかと色々お考えになりましたが十二月の二十八日、月こそ違え御開山様の御命日、この二十八日にいよいよ本山を後にして、可愛い我が子とも別れて行こうと覚悟をあそばしました。
二十八日になりますと日はとっぷり暮れた真っ暗な、その時に我が子可愛いお子様六歳におなりあそばした蓮如上人を我が膝に抱き上げ、ああーどうしたことか、前生の約束とは言いながら蒔いた種の顕れとは言いながら、親子一緒に暮らすことはできず死別に勝る生別、悲しい哉や今日は別れて行かねばならんとお考えになってみると、止めどもなく両眼から頬を伝うて流れ出ずる涙をご覧になりまして「お母様、泣いて下さるな。
お母様がお泣きになれば麿も悲しくなります。
お母様を泣かせたようなおいたを私がしたのでありましょう。
明日からはいい子になります。
どうかお母様泣いて下さるな」と止めどもなく両眼から頬を伝うて流れ出ずるその涙を、紅葉のような手でお拭きなさって「堪忍して下され、おこう、お堪え下され」と言われれば堪ったものではない。
やという程抱きしめて、「なんであんたが悪かろう。
あんたはいい子じゃ。
お母様を泣かせるようなおいたはなさらん。
じゃけれども今この儂が泣いておる涙の説明をどのようにしたとて、幼いあんたにわかる道理はない軈て長じて、あの時お母様が何故お泣きになったのか、あの涙は何であったであろうか、わかる時代が来るであろう」。
口惜しいけれど今はどうすることもでけず説明もできず、ああー可哀相じゃがおそらくは後添いがお出でになってそのまま親様の為にどのような日を送るかと、思し召すと堪らんことになって、なかなか別れることがでけんのでありますが、人の気配に驚いてもしもやこんなことが見つかったら事為損ずると思し召したのか、抱いておいでになりました蓮如上人をその場に放り出し闇の中に姿を隠そうとあそばしたのであります。
これが別れかというようなことが虫の知らせか、お母様の足にしがみついて「お母様、麿も行きたい、麿も連れてって下され」と、泣き叫ばれるその手を邪険にも振り解し、耐えられん気持ちの中に着ておいでになりました鹿子の小袖という片っぽの袖を引き千切って、思わず知らず闇の中へ姿をお隠しになりました。
後ろから「お母様、お母様」と、泣き叫ばれる蓮如さまの声を背中に聞いて、闇の中に姿をお隠しになりましたが、後の程石山の観世音菩薩の御前に、この引き千切って来られた鹿子の小袖の片袖が、納めてありました、おそらくは、「この幼い麿が潰れかかっておる念仏の教えを御開山御在世当時のように、盛んにいたそうと努力をいたします。
どうぞ観世音菩薩、お力添えを下さるよう、どうぞお力を貸して下さるよう」と、お願いをあそばして何処ともなく姿をお隠しになったのだそうであります。
蓮如上人は「お母様に会いたい、お母様に会いたい、何処においでるだろう」、探し求められたのでありますが、なかなかお母様の在り処がわからなかったのでありますが、『御一代聞書』という御聖教をお書きになったその中に、「我が母は西国の人なり」ということが書いてあります。
おそらくは、お母様の在り処がわかったのでありましょう。
これは、尾道というところうへお出でになりまして、頭をお剃りになりまして尼になって、念仏三昧の日を送っておいでるお母様を蓮如上人は尋ね尋ねて、お出でになったのであろうと思います。
まぁーこの世においては再び会うことがでけんと思し召したが、お母様の在り処がわかりお母様と対面のできたその時には、おそらく双方がいやと言う程抱き合うて、お母様、あの時は悲しゅううございましたが、このように成人を致しまして、お母様どんなに切なかったでございましょうかと、親子が涙に暮れながら劇的な対面をあそばした、のであろうと思うのでありますが、こういうような御苦労をあそばしまして、幼い時分から死別に勝る生別、生木の枝を裂かれるような悲しい思いをされたわけでありますが、直様、後添えがお出でになりましたがこのお母様の為にまた、言語に絶するような大変な御苦労をなさるわけであります。
御歳四十三歳迄、蓮如上人は苦しみ悩まれたわけでございます。
誠に考えてみらぁ幼少の頃からこのような苦難の道をお歩きを下さったことも偏に我々の為だなぁと思えば私も胸一杯になるわけでございますが、こういうようなことがありまして、これから蓮如上人の苦難の道が続いていくわけでございますが、ちょっと休憩をいたしまして......。  
第二話 比叡山での御修行
えー前席でお話を申したように、いよいよ後添いのお母様がお出でになりましたが、この方がまた言語に絶するところうの、御方でありまして、この御方の為に、蓮如上人は大変な御苦労をなさるわけであります。
えー丁度冬の寒い寒い時に、そう寒ければ綿入れを作ってやる、さぁこれを着さっしゃれ。
お着になりますと何か身体中がおかしい様子でありますので下間法橋が、どうも御様子がおかしい、こらぁどうしたことじゃろう、どうもおかしな有様じゃが、何とかこれは調べてみなけりゃならんと思いまして、まぁ勉強学問をあそばす時刻になりまして、この御年齢でも勉強学問を仕込まにゃなりませんので、暫くの間私がお借りして参りますと我が家へ蓮如上人を連れて参りまして、あー一遍この着ていらっしゃるところうの着物を調べてみよと、女房に申します。
脱がせて調べてみるとあろうことかあるまいことか、この綿入れの中に絹針の折れが幾十本と仕込んである為に身体中がみみず脹れにおなりになっておいでる。
「ウァァ(受け念仏)、なんとしたことじゃ。
このような有様ではお命にも関係することじゃ(受け念仏)、もう暫くの間はお預かりをしておかねばならん」と勉強学問を教えましょうという口実でお預かりをしていたのでありますが、御本山の跡をお継ぎになる方は九歳におなりあそばしますと、必ず粟田口の青蓮院というお寺へお出でになりまして、出家得度という儀式を行うという例であります。
ところうが代々の善知識方は皆悉く九歳におなりになればお得度をお受けになるのに、蓮如上人は十歳になっても十二歳になってもお得度をという声すらも出ないわけであります。
丁度十七歳におなりになったその時に、叔父上様が堪り兼ねて上京をして来られまして、「えー頭が悪い人間ならいざ知らず、気が狂っておる者ならいざ知らず、このような人一倍聡明な、頭を持っておるこの蓮如を何が故ぞ得度を受けさせんのだ、得度を受けさせる迄は、儂はこの京都の地を去らんぞ」と、御本山に座り込まれたので、止むを得ず、十七歳の御歳、粟田口の青蓮院へお出でになりまして、御開山様の出家得度の儀式に倣うて出家をあそばした、お得度をお受けになりまして、法名を蓮如と頂かれたわけであります。
ところうが、いよいよまぁ御開山様に倣うて、出家得度をあそばせば叡山へ上って修行学問を致さねばならんということで、五年間のお約束で東塔無動寺というお寺へお出でになりまして勉強学問をなさることになったのであります。
ところうがどうしたことか一銭半銭のこづかいも持たせず、着ておいでになったお着物が夏冬通いて袷が唯一枚、着の身着の儘の有様で、おいでになりまして、まぁ紙買う銭もなく、筆買う銭もなし、お友達と机並べて勉強しておいでても、どうもご不自由な有様、このお友達どもが、「さぁ儂の寺へ行っての、着物を貰って来い」、「儂の在所へ行ってお金を貰って来い」。
蓮如上人が走り使いをあそばし、その貰う僅かな駄賃で墨を買い、筆を買い紙を買うて勉強学問をしておいでになったのであります(受け念仏)。
けれども、一年間の間着の身着の儘のお姿、誰言うことなしに「蓮如は臭い、蓮如は臭い」、いうような声が上がりましたので、とてもお友達と机並べて勉強学問をしておることがでけんと思し召して、御師匠様にお願いをあそばし、書物をお借りになりまして叡山の北谷という所ぅへお出でになりまして、自ら掘っ立て小屋をお建てになりまして、そこで毎日日日借りて来た書物を勉強し読み終わるとまた、新しい書物をお借りあそばして苦心惨憺していらっしゃたわけでありますが、食べ物といえば木の実を拾うたり、食べれる草を何もかも鍋の中へ入れて、何の味もない物を炊いてお上がりになるというような有様でありました(受け念仏)。
丁度三年経ちまして、金森に弥七というよろこびてがありました。
これが御本山へ参詣を致しましたついでに、下間法橋の館へ参りまして、「若様が叡山で御修行をしてらっしゃる学問をしてらっしゃると聞いたが、御達者であろうかなぁ、音信はあるか」と、お尋ねを致しますと下間法橋が、「ははははぁ初め一年間は音信もありました、お手紙も頂きましてお返事も差し交いていたのでございますが、二年目からは更に音信がございません。
御本山様へ参りまして御達者でございましょうか、音信がありませんがとお尋ねをすれば『達者ということじゃから音信がないのじゃ、音信がないということは達者じゃと思い、まぁいらんことを言うな、いらん世話を焼くな』と厳しい御言葉。
心ならずも今日迄便便と、おりましたが御達者であろうかなぁ、どのような有様で勉強学問していらっしゃるだろうかと心には思えどもどうする事もでけず今日迄過ごして参りました」(受け念仏)。
聞くなり弥七はオゥオゥと泣きながら、「何たる事じゃ、こらぁ立っても居てもい堪らん儂は明日は叡山へ上って若様の安否を見て来んことには承知はならん」と、我が家へ飛んで返りますると、この弥七というのは非常なよろこびてではありますが、誠に経済的には恵まれない貧乏な家庭でありまして、女房なけらにゃ子供もない、唯妹のみょうさんという目の見えない妹と二人暮しがこの弥七の毎日でありまして、我が家へ戻るなり、「妹よ、明日はのぉ、儂はどうでもこうでも叡山へ訪ねて行って若様の安否を見届けんことにはじっとはしておれんが、明日は叡山へ上るじゃが、何ぞお土産がないじゃろかな」、「何を言わっしゃる兄さん、食うに食わずのこの貧乏人、お上人さまに差し上げるような気の利いた御土産がどうして」、「あーそりゃやそうじゃわな、あー誠にそりゃ気の利いた御土産は…、じゃこないだな、あの儂が刈込んで来て置いてあるはずじゃがあの大麦はどうした」、「いやそのまま」、「そうかそれならばな、今宵俺とお前が力を合わしての、あの大麦をこなしての、はったいの粉というものを作ろうじゃないか、それを御土産に持って行こう」、いうので目の見えない妹とこの弥七が一晩中かかりましてようやく一袋のはったいの粉というものがでけました。
所によってはこれを香煎とも申します。
こういうはったいの粉を一袋用意を致しますと、妹みょうさん、「儂がこないだうちから、手探りでようよう拵えておいたがこの一袋の青茶じゃ。
この青茶も御土産に持って行ってく......」「あーそりゃお喜びになることじゃろ」、いうので、このはったいの粉一袋青茶一袋を準備を致しまして、それを背に背負いまして朝早々と我が家を出ようとしたところうが大変な雪なん、「麓ですらこのような雪じゃ、叡山はさぞかし雪は深かろうがしかし、雪が降ろうが槍が降ろうが、思い立ったが吉日じゃ、もう後へは引けん」。
段々段々と雪を踏みしめまして、叡山へ近づけば近づくほど段々段々雪が深くなって参ります。
根本中堂へようよう到着をした頃には、膝株迄雪がある中を、弥七が訪ねて参りまして、「このお寺に本願寺の若様が勉強学問をしておいでると承りまして、訪ねて参りましたがどうぞ若様に会わして下さい」、「おう、その若様はなぁ、一年はここで勉強学問をしておいでになったけどの、二年目からは、自分でえー北谷という谷間へ下りて行かっしゃっての、そこで自分で掘っ立て小屋を拵え、そこで儂から書物を借りて行って勉強なさる、読み終わるとまた新しいのを借りて行くという有様で、二年間の間はな、殆ど人間らしい生活はなさっておらん」(受け念仏)、聞くなり弥七はオゥオゥ泣きながら、「そうでございますか、そうじゃろうと思って、訪ねて参りましたが、この雪の中どうすることもでけんと、仰るけれども私どうしても会わにゃ帰れません」。
これから参りますると、段々段々雪が深くなって根本中堂迄お出でになった頃には弥七の股立迄雪が降っておる(受け念仏)。
段々谷を降りて行けば行くほどに、どうにもならん雪の中を泳ぐような有様でようやく近づいて参りま靴銅上げて「若さまー、若さまーっ、本願寺の若さまー」と、声を限りに呼びますと、掘っ立て小屋からお出ましになった蓮如上人のお姿一目弥七が、見るやいなやウァー(受け念仏)と泣き出しまし、余りにもお気の毒なこの有様、頭の毛はぼうぼうと伸び、髯は顔中むしゃくしゃに生えて、お着物はといえばそこも破れここも破れ、あー何としたことじゃと、京都の方向を睨みつけまして「親が違うからじゃ(受け念仏)、本当の親であるならば自分が食べる物迄食べんでも我が子に食べさしたいのが、本当の親じゃないか」、地団駄を踏んで力んでおるところへ、蓮如上人は雪を蹴立てて飛んでお出でに「弥七、何を言うぞ。
仮にもお母様じゃ。
深い深い因縁で親子になった、儂はどのような辛いことがあろうとも苦しいことがあろうとも、お母様の悪口言うたことは一度もない、皆自分の宿業じゃ蒔いた種の現われじゃ、人恨んでなるものかと常に母親尊敬しているお母様の悪口を言や儂は許さんぞ」(受け念仏)。
「若様、あなたのようなお若い方に、この年寄りがご意見を蒙るとはァァァ......。
いやいや余りのことにそう言わずにおれませなんだが、まぁ今後は如何なることがありましても悪口雑言は申しませんが、このような雪の中で、このような有様でよーうあなたは生きていらっしゃる」、「やややや、俺は若いんじゃ、まだまだ元気じゃ、ま、ま、ま、そんなところに立っておらずに儂のな、あの掘っ立て小屋へ入れ、焚き物だけはな、まぁ夏の内にあちらこちらと枯れ枝拾って来て山の如くに薪の準備がしてあるからの、寒かったであろう、さぁさぁ、当たってくれぃ。
温とまってくれ」と、どんどんどんどん火をお焚きになりまして、弥七を労わっしゃるわけで、あーぁ有難うござりますと、軈て背中から下ろしました二袋の御土産、「若さま、こんな物は召し上がれるでしょうか、誠にお粗末な物で何の塩の味もついてもおりません、砂糖の味もついておらないこのはったいの粉、こんな物でも召し上がれましょうか」、「むぁーぁようこそ持って来てくれた」、「これは妹みょうさんの志青茶でございます」、ようそのと茶碗もなけりゃにゃ箸もない、手のひらをお出しになりましてその上にはったいの粉をお開けになって、水を二三滴落といて指の先でそれをお掻きになって、一口召し上がるとボロボローッと(受け念仏)涙を零して「弥七(受け念仏)、おいしいなぁ(受け念仏)。
この二年間の間儂は五穀を一口も食べたことがない(受け念仏)。
このようなおいしい物は、食べたことがないのじゃ。
弥七や、今度お淨土へ参らして頂いたら百味の飲食とかを頂くじゃけだがのぅ、このような味がしようかなぁ」(受け念仏)、「若様、もったいのうございます。
いくら貧乏人のこの弥七でも、お粥なり雑炊なり三度が三度満腹しております。
それじゃのに、本願寺の八代目をお継ぎになる善知識が、このような物を召し上がって百味の飲食も斯くやあるらん(受け念仏)。
おもったいのうございます」。
色々と、お話をしておりますと、「なぁ弥七や、これからまだあと二年間ここで勉強学問しての、一旦京都へは戻るけれども直様奈良へ行っての、五年間の勉強学問をして、それから京都へ戻って御開山様のお示しになった数々の御聖教ををのぅ、よくよく調べたその上でお前方に話をするでのぉ、それ迄は生きておってくれよ」(受け念仏)、「は、どんな年を寄りました私も若様のお説教を聞く迄は死んでも死にきれません。
若様、待っておりますぞ」。
色々話をしている内に、このようなお姿では、この寒い雪の中を凌げますまい。
家へ帰れば、ついたちものではありましても山ほど持っております、この上っ張りをあなたに差し上げましょうと脱いで、上っ張りを蓮如さまに差し上げると「いやいや儂ゃ若いんじゃ、まだまだ、こんなこと位では何でもないことじゃ、お前は年寄りじゃ風邪でも引いて身体損ねたら、仏法が聞けんじゃないか。
身体は仏法の元手じゃぞ(受け念仏)。
さぁ、貰うたもんなら俺のもんじゃ俺が着せてやろう。
浄土真宗の御教はなぁ、一声一声の御恩報謝のお念仏を唱えさして頂いても、これは如来様からの賜り物ものじゃ、あなたから頂いた物じゃ、頂いてみれば自分のものじゃ、何に使おうと自由なことじゃ、頂いた南無阿弥陀仏を唱えさせて頂くことが御恩報謝の大行じゃ」(受け念仏)。
「ありがとうございます。
お上人さまから着せて貰いまして、あーあぁどうぞお身体お大事に、どうぞお帰りを待っております」と涙に暮れまして、「まぁー年寄りのことでございますので、日が暮れた道は歩けませんので日の暮れん内に麓迄下りて行きたいと思いますので、お名残惜しゅうはございますがまた伺うことと致しまして、今日はこれでご無礼を致します」、「おお気をつけて行かっしゃれや。
儂が仏法を説く迄はどういうこがあっても生きておってくれよぉ」、「ありがとうござります」と、涙に暮れながら弥七が一足出いては後ろ振り向き、お労しや、お気の毒やと、涙に暮れて立ち去る後ろ姿をご覧になりまして、姿の見えんようになる迄「弥七や、身体を大事にしろよ、お念仏忘れるじゃないぞよ」と、大声上げて仰せになる度毎に後ろ振り向く弥七がボローッと涙こぼして、「なんで忘れてなりましょうぞ、大悲の親さまは儂が寝ておろうが起きておろうが油断なく念じ続けておって下さるじゃもの、唱える念仏の一声一声が親さまのこころが通うて何時もかも念仏の声あるところうに親さまはおいでると、心得まして慶ばさして頂きます」と(受け念仏)、雪の中をとぼとぼと難儀をしながら弥七は山から下りて行くのでありますが、ようやくこのような御苦労が終わりまして、叡山から京都へ一旦お帰りになりましたが間もなく、奈良へお出でになりまして三論であるとか法相であるとか華厳であるとか、あらゆる宗派の教義を、教えを学ばれまして京都へお帰りなさった。
さぁーそれから御開山のご制作になりました数々の御聖教を、表紙が何遍破れて、替えさっしゃったというようなことでありますからどのようにご覧になったのか。
いよいよ、このようにまぁ、「ありがたい御慈悲に満足さして頂いたが、儂のこのよろこびが本当であろうか、間違いはないであろうか物持たずしては施されず、真の信心がなかったならば、人に教化をすることはできん、儂の真の信心か真の信心でないか何方からに調べて頂きたい、何方がよかろうぞ」と、色々お考えになりましてふと、頭に浮かんだのは石山の観世音菩薩。
お母様と深ーい因縁がある、この石山の観世音菩薩に我が安心をお調べ願おうということになるわけであります(受け念仏)。  
第三話 御文の制作
えー物持たずしては施されず真の信心が御正意でなかったならば人に教化をすることはでけんという思し召し何方かにこの安心をお調べが願いたい、かねがね何方がよかろうか何方がよかろうかとお考えになっておりましたがふと浮かんだのが石山の観世音菩薩、お母様と大変な深いご因縁があると思し召して、この観世音菩薩に我が安心が御正意であるか御正意でないかをお調べを願おうというので、この石山観世音菩薩の御前に三七二十一日の参籠をされるわけであります(受け念仏)。
えーまぁ二十日間の間、昼ともなく夜ともなく寝もやらずにお願いをしておいでになりましたので、二十一日満願の朝ともなれば眠たくて眠たくてどうにもならんことになりましてウツウツウツウツとしておいでになります。
それも無理からんことや昨夜よーう寝たお婆が早眠っとるものなぁ、なかなかその、眠たて眠たてどもこもならんということでウトウトウトウトしてらっしゃると、いきなり観世音菩薩から、「聖人一流の御勧化のおもむきは何と心得るか」(受け念仏)。
こういうお尋ねが突然出ましたので、「信心をもって本とせられ候」(受け念仏)。
お答えになると「そのゆえは」、「(節)もろもろの雑行をなげすてて一心に彌陀に帰命すれば不可思議の願力として、佛のかたより往生は治定せしめた(end 節)もう」、「その位は」、「一念発起入正定之聚とも釈し」、「そのうえの称名念仏は」、「如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏とこころぅーべきなーり」(受け念仏)。
このように問いつ答えつ答えつ問いつの問答で、出来上がりましたのが、「聖人一流の御文」。
最後に余り文章がうまくない、傅きて遠慮しながら「あなかしこあなかしこ」、お恥ずかしい文章でござりますという、そういう思し召しであなかしこあなかしこと、おつけになりましてこれを紙に書いて読めば読むほどありがたいこれが御正意だ、これが御開山様の腹底じゃと思し召して、それを読みながらあの高ーい石段を泣きながら、読んでは泣き読んでは泣き下りてお出でになりました(受け念仏)。
そこの石段の下に道西という、お弟子がおりまして「お上人さま、何を読んでそのように感激の涙をお零しになっておるのでございましょうか」と、お尋ねをいたしますと「道西、何にも言わずにこれ読んでみよ」。
お渡しになりました今できたばっかの「聖人一流の御文」、手に取って読んでみる内に、「ウァー、尊やぁ、ありがたやぁ。
(節)これ金言なり、これ聖教(end 節)なり」、「何を言うぞ、金言というのは、仏さまのお知らせになったお言葉を金言と言う。
光を放つような高僧のお書きになったものを聖教と言う。
蓮如ごとき者の書いたものを、金言だの、聖教だの申しては畏れ多い、今後いかなるものをこの蓮如が書こうとも唯『文』と言え」(受け念仏)。
ここに「御文さま」というお名前がつくわけであります。
ま、お西の方ではこれを『御文章』と申しますが何れに致しましても、『御文』ということでありますが、これが「手始めの御文」と申します(受け念仏)。
あーこれが御正意じゃこれが真の教えじゃと、およろこびになりましてそれからもう、御一代の間に二百二十五しゅという御文をお書きになったので、ま、その中で、三通だけはどうもこれは蓮如さまのお筆ではないと、いう疑問のある御文が三通あります。
まぁ、正しくは二百二十二通という、こういう、まぁ、御文をお書きになりまし。
えー、参れ参れと言うても、なかなか参らん人、何とか参らしょう、お出でになりまして、「まぁまぁ参ったらどうだ、仏法聞いたらどうだ」、仰ると、「まぁ儂ゃ忙しての、とてもそんな参っとるような暇はない。
今日もこの麦を刈ってしまわんことには、まぁー次の仕事が待っておる」、「そうかそうかそれじゃあな、儂が手伝って、この麦を刈るからのぉ、えー、捗が行ったならば、たとい五分間でも十分間でも仏法聞いてくれ」。
こりゃあうまいことじゃこの坊主ひとつ手伝わして、今日の仕事を早く片付けることがでけると、さくじという農民が喜んで鎌を持たせて、「さぁ刈らっしゃれ」。
蓮如上人聞いて貰いたいばっかりでありますから、己忘れて一生懸命、今迄一度もお刈りになったことのない麦を次から次へと刈っていかっしゃる。
このさくじも、汗かいて付いて行こうとしても蓮如上人には適わずとうどうこの麦が全部刈られたわけ。
思わず知らず懺悔の涙に暮れまして、「ハァァーッこのような俺が長い間百姓やっていても適わんということは、これは唯人じゃない、儂に仏法聞かしょう為に死に物狂いで刈っておくれたんじゃ」と、惡に強いは善にも強い、遂に頭を下げまして(受け念仏)。
田んぼの畦道に腰掛けまして「じゃあ聞かして下され。
彌陀の本願、南無阿弥陀仏のお謂れを。
聴聞さして下され」と、段々とお説きになる感慨無量、胸一杯の気持ちになったこのさくじが、蓮如上人の刈って下さった麦、自分の刈った麦、それをこなしまして、全部蓮如さまの手許へ持って参りました。
そのお礼にお書きになったのが、「南無阿弥陀仏と申す文字はその数わずかに六字なれば、さのみ功能あるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには、無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」。
こういうような御文をお書きになる(受け念仏)。
或いは参れ参れと言うても参らん。
そのうちに可愛い子供を死なかいて、女の方が通って行かっしゃる前に、落とし文と申しまして、御文をお書きになりまして落といて行かっしゃる。
何気なくその御文を手にしまして読んでみると、「人間というものは長生きをする人もあれば若死にをする者もおる。
まことに老少不定の世の中じゃ」と、いうことを諄諄とお書きになって最後に「我が子じゃと思うたら間違うておるぞ。
お前をどうぞして仏法を聞かしたい、どうかお念仏のお謂れ聴聞さしてやりたいの思し召しから、或いは観音様、或いは勢至様、或いは二十五菩薩、そういうお淨土様から、お前の腹に宿って可愛い子供に先立たれたということも、皆これは御方便ではなかろうか。
目を覚まいて仏法を聞け、子供に会いたければ我が身が信心決定をし、お淨土に往生しなければ逢う世界はないぞよ」と、色々とお書きになりまして、最後に、「(節)極楽のまことの親に子を渡し、なに故歎くらん仮の親子(end 節)が、我が子じゃと思うたら大きな間違いじゃ(受け念仏)。
お淨土様から衆生済度の為に御苦労下さった、それを無にしては申し訳はないぞよ」と、ま色々とお手紙をお書きになる、これを『御文』と申すのでありますが、或いは、自分のよろこびを本堂に貼り付けておいて「字の書ける者は書いて写いて我が家へ持ち帰り、自分の女房や子供にこれを聞かしてやれ」、いうようなことで御一代の間数々の御文をお書きになったわけでありますが、このような、御文をお書きになる、或いは、村々に十人なり十五人なりをお集めになりまして、アマ講であるとか、或いは二十八日講であるとかそういうような講組織をあそばして、我が信心や人の信心や如何があるらんという、信心沙汰を致せという、こういう講組織をあそばし、これもまた仏法を弘めるには大変な大きな力になったわけであります(受け念仏)。
蓮如上人お一人ではなかなかお念仏は全国には広まりません。
ただ御文をお書きになるその御文を読んでよろこぶ人が十人なり二十人なり、アーァありがたいというので、蓮如上人が何百人とできるわけであります。
蓮如上人のこのお骨折りで段々段々と念仏の教えが繁昌しまして、あちらでもナンマンダブこちらでもナンマンダブ、あー仏法を今迄聞かなんだということはお恥ずかしいことだ、人間としては申し訳のないことじゃと、至る所ぅでお念仏の火の手が上がって来るわけであります(受け念仏)。
段々段々と、こういうことで蓮如上人の、ま、お力で念仏の教えが広まります。
えー数々の御文をお書きになっておりますが、丁度、この、紀州冷水浦の喜六太夫という、よろこびてがありましたが、この人が「今日は参っておらんがありゃどうしたんじゃい」、お尋ねになりますと、「えーあれはもう大分前から重い重い病気で、今か今かの大病で、とても手足運んで参詣のでけんことを悲しんでおります」。
お聞きになるなりご親切な蓮如上人は「そうか。
じゃこのお話が済んでから、あの喜六太夫の、ひとつ病気を見舞うてやろうかのぉ」と、お弟子をお連れになりまして喜六太夫の枕辺へ、お出でになりまして諄諄とお話をあそばしますと、かねがね聴聞してよろこんでおる喜六太夫は、「ありがとうござりまする、もーう、命旦夕に迫りまして、命終わりましたならば、ふしんぴちょうそくしょうさいほうまげたひじりのばさんはやさんお淨土へ往生させて頂いてお上人さま、あなたにまたお目にかかるを楽しみに」と、よろこんでおる枕辺でお書きになったのが世にも有名な「信心獲得の御文」であります(受け念仏)。
大抵の御文さまには「それ」とか、「そもそも」とかと、いうような前置きの詞がありますけれども、この信心獲得の御文さまには「それ」もなけらにゃ「そもそも」もない、それは切羽詰まって今か今かの喜六太夫の枕辺でお書きになった御文さまじゃから「それ」とも言う余裕はない、「そもそも」とも言うとる暇がない、いきなり「「信心獲得すというは、第十八願のこころをうるなり。
この願のこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」(受け念仏)。
こういうようなお知らせをあそばすわけでありますが、まぁとにかくこの御文というものは、我々何度読んでも、あーありがたいな、尊いなぁ、蓮如上人は百のものを十にし、十のものを一つにし、難しい言葉を噛んで含めるように、やわらかな言葉にし仮名交じりの御文をお書きになったのが、念仏を弘めあそばすどぉーえらい力になったわけであります(受け念仏)。
段々段々とお念仏の教えが繁昌を致しますが、おもしろくないのは叡山のお坊さまども、或いは、この奈良のお坊さまどもが「よぉこの頃蓮如が、あちらでもこちらでもお話をしたり御文を書いたり、お念仏の教えが段々段々これ繁昌して、なーんとかせにゃいかんなんとかせにゃいかん」というような、考え方があちらでもこちらでも噂されるようになったわけでありますが、委細構わず蓮如上人は、「人間に生まれながら仏法聴聞せんはあさましい。
軈てまた流転していくならば無量永劫取り返しはつかんじゃないか、人間に生まれたればこそ、仏法聴聞のできる身でありながら、損じゃ得じゃに迷い暮れて、また流転をしていくならば、人間に生まれた幸せが何があろうぞ、どんな境界尋ねて歩いても、凡夫が仏になる道の開かれているのは、この人間の世界だけなのじゃ(受け念仏)。
このような尊い人間界へ生をうけながら、またもや流転していくならば何時の世に我が身が助かる道があるであろう、この身今生において度せずんば、さらに何れの生においてかこの身を度せん。
間違うて、また流転をするというようなことがあったならば、いくら生まれ変わり死に変わって人間に生まれるご縁ができても、その時にはもーぅお念仏は、消えて無くなっているであろう(受け念仏)。
今度こそ(受け念仏)、後生の一大事、為損じてはならんぞよ」と、死に物狂いであちらこちらとお話をして歩かっしゃるやらお手紙をお出しになるやら、そういうご功績が段々段々積もり積もりまして、あらゆる所ぅにお念仏の声が聞こえ、人間として仏法を聞かんはあさましいという、考え方が一般の人々に漲って来たのであります(受け念仏)。
ところうが、四十三歳におなりあそばしまして、お父上が亡くなりますので、いよいよ八代目の善知識におなりあそばすという手順になったのでありますが、お母様が、遺言状があるということを仰せになるわけです。
これは御本山では譲状というものがありまして、これは留守職と申しまして、本願寺の善知識におなりあそばす方を、次の人は誰、次の人は誰と、ちゃんと書いて、ご存命中にこの譲状というものに次の御門跡は誰であるか、次の御門跡は誰であるかということを、書いて譲らっしゃるのを譲状と申します。
さぁ譲状を出せ、譲状を出せと言われても、ま、そんなものはないけれども、遺言状がある。
わぁ遺言状があるならば、ここへ出さっしゃれ、誰を、次の善知識にえーなさるということが書いてあるかと、御親戚が寄り集まって難詰をされますけ、元よりそんな遺言状のあるはずがない。
さぁーその遺言状を出せというて調べても出るわけはない。
元より無いのであります。
あちらこちらと探し求められると譲状というが出て参りまして、お父上が次の八代目は蓮如に、執らせることを確約するという、譲状が出て参りました。
まぁどうにもこうにもならんことになりましたお母様は、一夜の内に御本山のめぼしい法物を、纏めて大杉谷という所ぅへ逃げて行かっしゃったわけ。
まぁ御本山のありとあらゆる法物、先祖代々伝わっております、そういう物を全部持って逃げてしまわれたのでありますが、ここで蓮如上人は八代目の善知識ということになったわけであり(受け念仏)、ところうがその四十三歳におなりあそばし、あーあいよいよ初めての報恩講、儂が導師で勤めるは今回が初めてと、こういうので初逮夜、十一月の二十一日、報恩講のお勤めをしておいでになりますと、あの大本堂へ参詣なさったお同行が僅か十二人(受け念仏)。
如何に末代といいながら、いくら戦乱状態の中といいながら、このように報恩講の初逮夜の参詣が僅かに十二人(受け念仏)。
涙とともにお勤めをあそばしてお勤めが終わります。
軈て高座の上へ自らお上がりあそばしてこの十二人の、お同行を相手に延々二時間お話をなさる。
聞いておりました十二人のお同行方が、余りにも感激を致しまして「あー生きとってよかったなぁ。
このような尊い仏法聴聞がでけるとは、やれ嬉しやありがたや」と我が家へよう戻らずに、「近づきのお同行親戚の人々、参れ参れ、本山へ参らんような者は人間の値打ちはないぞ、仏法聞かん者はあさましいぞ」と、夜迄あちらこちらと誘って歩きましたので、あくる日のお朝事から六百人の参詣(受け念仏)。
日を追うと共にどんどんどんどんと参詣が増えまして、最早二十六日頃になると、押すな押すなの参詣。
あちらでも南無阿弥陀仏こちらでも南無阿弥陀仏、念仏の火の手が上がるという状態でありましたが、門前を通りかかってこの有様眺めたが叡山の惡僧ども。
またぁ念仏が広まる。
これではいかんというので、叡山へ立ち戻るなり、あの根本中堂の鐘をゴーンゴーンと打ち鳴らす。
この鐘の合図で、あの叡山三千坊主全部集まりまして、「蓮如をどうするか」という大評議が始まるわけでございます(受け念仏)。
 
第九話 大坂建立
「さぁ親父さん首切らっしゃれ」、「いやいや儂は年寄り力もないし、とてもお前の首は切れん。じゃあどうかお前儂の首を切っての」、「いやいやそんな親の首がどうして切れる」、切れえ、切れん、切れえ、切れんの押し問答をしておりましたが、「まぁまぁ何時迄たっても埒明かん(受け念仏)。あーまぁ長い間の、お世話になったお内仏さまに、今生のお別れのお勤めをしようか」、「さあーそれがよかろう」と親子二人が(受け念仏)お内仏の前へ参りまして(受け念仏)、今生のお別れのご挨拶を致すわけでありますが、前に座りました父親源右衛門が、震える声のその中で「帰命無量寿如来…」。
朝な夕なあーお勤めをしていた、読み慣れたとこのお正信偈でありますけれども、これが今生のお暇乞いと考えてみれば、最早声も出ずしどろもどろ、ようやく、「(節)願似此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽(end 節)国」(受け念仏)。
涙ながらに取り出しましたが、世にも有名な「白骨の御文」(受け念仏)、「(節)それ、人間の浮生なる相を、つらつら観ずるに(受け念仏)、おおよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる(end 節)一期なり」、一言一言が五臓六腑に染み渡る、ごもっともさまでござります、その通りでござります(受け念仏)、「あなかしこあなかしこ」とようやくお勤めが終わりますと、家重代の名刀箪笥の引き出しから取り出しました源右衛門が、「倅成る程、親の首はお前が切れんと言うならば、この父親がお前の首を切ろう」(受け念仏)、鞘を払いまして大上段に振り上げて、今まさに首切ろうとするがなかなか切れるものじゃない(受け念仏)。
「あー切れんわい」(受け念仏)、「早切らっしゃれ早切らっしゃれ」と、催促されて、いよいよ心鬼に致しました源右衛門が、「じゃあいよいよ切るぞォ、倅ぇ覚悟は...」「ちょちょちょっと待ちなされ(受け念仏)、(節)浄土真宗は平生業成現生正定聚(受け念仏)、死に際に覚悟の用はない、一念南無と帰命し奉る時裟婆の終る臨終と思うべし、然らば臨終まつことなく来迎たのむことなしとかねがねご教化蒙っている身でありながら(end 節)、今際の際に『覚悟はいいか』(受け念仏)。
あほなことを言わっしゃれ。
そのようなこと言わっしゃら儂は親父さんのご安心を疑わざるを得ない」(受け念仏)、「いやいや倅、お前の言う通りかねがね聴聞さして頂いて、(節)死に際に覚悟の用はない、一声の念仏もよう唱えずに死んでも、閉じる眼は不浄の寝茣蓙開く眼は(end 節)安養淨土(受け念仏)。
何時もかも常来迎と迎いに来詰めのお慈悲の中で(受け念仏)、その日その日を送らせて頂く身であれば、なにも臨終に覚悟の用はないが、余りの可愛さにのぉ(受け念仏)、言わずにおれんのじゃ」、「ああそうかそうかそれならば安心じゃ。
さーあ切って下され」、今か今かと差し出す首を一思いにブァーッと切りました(受け念仏)。
その場にコロッと落ちたこの生首を(受け念仏)、思わず知らず抱きしめた源右衛門、「うぁーせがれぇぇ(受け念仏)、可愛やなぁぁ...」(受け念仏)、抱きしめて泣いておりましたが思わず知らず源兵衛の着ておりました着物の片袖引き千切りまして、その生首包みましてふろしきに、丸めまして小脇に抱えた源右衛門韋駄天の如くタタタタタタタタタァッと、三井寺指して駆けて参ります。
満徳院の大僧正の玄関先まで参りまして大音声を張り上げて、「満徳院の大僧正、本願寺の使いが生首を持参を致した、御真影をかやせーっ」(受け念仏)、大音声を張り上げて怒鳴っておりますと(受け念仏)、満徳院の大僧正悠々と玄関先へ出て参りまして(受け念仏)、「オゥ本願寺の使い。
生首を持参をしたと。
その生首をここへ出せ。
余が検分してやろう」と、ふろしき包みを解きまして、「オイ親父、生首は二つと申したじゃないか(受け念仏)。
こりゃ一つじゃないか。
もお一つはどうする覚悟じゃ」、言われて源右衛門「うむむ…大僧正殿慌てなさるな。
これは我が倅源兵衛二十三歳を一期に(受け念仏)、御真影の身代わりによろこび、よろこび、御恩報謝の大行を勤めた倅の生首じゃ(受け念仏)。
も一つの首はそりぁあんたの前に立っておる、生きて用事のないこの白髪首、御真影をここへお迎いして、一目拝んだその上であんたの手でこの老い耄れ親父の首切らっしゃれ(受け念仏)。
首を切られたその時が安養淨土の誕生日、十劫已来待ち給うた、如来の手許へ、よろこんで参らしてもらうじゃぁ(受け念仏)。
さーあ切らっしゃれ」(受け念仏)。
「よもや本願寺にこのようなお同行のあろうとは露さら知らず(受け念仏)、生首持参を致せというような無理難題を、出せば必ず御真影は三井寺のものになる、(節)このように思うたが申し訳ないお同行にすまんことじゃ、外面如菩薩内心如夜叉(受け念仏)、表姿は衣を着袈裟を掛けて立派な姿を現わいてはいる(end 節)けれども、心の中は夜叉の如く、うああーっお恥ずかしいはこの俺じゃ、謝る謝る堪忍してくれ。
御真影もお返し申そう(受け念仏)。
この首にも用はない、どおぞ手厚く葬ってやってくれ、この三井寺続く限り、今日を、命日としこの源兵衛の追善法要いついつ迄も勤めさせて貰おうぞ」(受け念仏)。
御真影さまを背中に背負いまして、ふろしき包みの倅源兵衛の生首を前に掛けて(受け念仏)ヨロヨロヨロヨロ(受け念仏)、歩いて参れば後ろ眺めや「御恩尊や(受け念仏)、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、前を眺むれば恩愛の情遣る方なく(受け念仏)、「(節)いくら御恩報謝の大行とはいいながら、僅か二十三歳を一期し今生のお別れをしてくれた(end 節)せがれぇぇ...(受け念仏)ああー俺は耐えられん、ご和讃さまを読んでみよう、(節) ご和讃さまのその中に『一切菩薩ののたまはく我ら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて萬善諸行を修せしかど、恩愛甚だ絶ち難く(受け念仏)、生死甚だ尽き難し(受け念仏)、念仏三昧行じて(end 節)ぞ、罪障を滅し度脱せし』(受け念仏)、あのような一切の菩薩様でも、(節)どんな難行よりもどんな苦行よりも恩愛の情を断ち切るは耐えられ(end 節)なんだと仰るのじゃ(受け念仏)。
(節)ましていわんや人間凡夫のこの源右衛門、倅のこの姿眺めて泣かずにおりゃりょうかぁ(受け念仏)、可愛てかわいて...どうにもならんわや」と、後ろ眺めて念仏し前を眺めて恩愛の情遣る方なくヨロヨロヨロヨロと、戻って参れば遥か向こうから蓮如上人大勢のお弟子をお連れになりお同行を伴おて、「おーい源右衛門や、おおーい源右衛門や、後ろに背負うたは御真影さまに相違はないが前に掛けたるそのふろしき(end 節)包み、そりゃぁなんじゃい」(受け念仏)。
言われて堪り兼ねたる源右衛門、その場にどっさり座り込んで身を震わせながら、オゥオゥオゥオゥ泣いておるところへ蓮如さまが駆け寄って、「こりゃなんじゃ、これは」(受け念仏)、「お上人さま聞いて下され(受け念仏)。
御恩知らずの倅源兵衛が、御真影の身代わりに、尊い命差し出してくれた源兵衛の生首でござる」(受け念仏)、「そぉか...ようようまぁ…(受け念仏)大行を勤めてくれた(受け念仏)。
(節)今頃はお淨土のど真ん中で諸仏菩薩に取り巻かれ大慈大悲の親さまが『よーう源兵衛、よ、参ってくれたのぉ(受け念仏)。
十劫已来今日は来るか今日は参るかと待ち兼ねたが、今日は淨土の真ん中でお前の姿見るにつけ、五劫の思案も忘れ永劫の修行も打ち忘れおらぁぁ嬉しいぞ』と(受け念仏)、お褒めを蒙っていることであろう、軈てこの蓮如、淨土に往生さして頂いたらぁ、七重の膝を八重に折ってでも、『源兵衛、よおお勤めてくれた』と(受け念仏)、御礼を申そう(end 節)ぞ」と、源兵衛の首を蓮如さまがお頂きになりましお抱えあそばすなり(受け念仏)、「さぁさぁ戻ろ戻ろ」と、山科へとお帰りあそばし「落慶法要報恩講、そりゃぁ後回しじゃ、まず、源兵衛のお葬式じゃ」と(受け念仏)、蓮如さまが導師になられまして、源兵衛のお葬式をお済ましになったのでありますが、言い伝えられ聞き伝えられ今日迄、伝わっておりますが世にも有名な「源兵衛の生首」(受け念仏)。
言うは易いが行えない(受け念仏)。
身を粉にしても骨を砕いてもと、歌には詠っておりまするけれども(受け念仏)、我々が果たしてそのような御恩報謝ができようか。
源兵衛が受けた御恩だとて儂が受けた御恩だて御恩にかわりはない、けれども、御真影の身代わりに我が命差し出し生首差し出すそんなことがでけようかと、思いますれば源兵衛源右衛門親子は如何に尊い方であったか(受け念仏)。
色々と考えるわけでございますが、蓮如さまは段々年を召されまして、山科に南殿と申しまして南の方に御殿をお建てになりまして、ご隠居をあそばした。
しばしご隠居しておいでになりましたが、念仏弘めたい欲がまだまだ旺盛でありまして、大坂へお出でになりまして今の大阪城のありますとこに、石山本願寺というをお建てになりました(受け念仏)。
これは報恩講の初逮夜に、拝読をする御文の中に、「摂州東成郡生玉の庄内、大坂という在所は、如何なる前生よりの約束のありけるにや(受け念仏)。
この大坂に一宇の坊舎を建立して、昨日今日と過ぎゆく程に、はや三歳の春秋を送りけり」(受け念仏)。
三年間経ったその年の報恩講に、初逮夜という、初め、ま、御本山で申せば十一月の二十一日初逮夜、そこで拝読をする御文が、「大坂建立」という御文でありますが、ところが蓮如上人この時八十四歳であります(受け念仏)。
稀な、その当時と致しましては長命。
しかしながら「この夏より違例せしめていまにおいてその本腹のすがたこれなし、しからば当年寒中には必ず往生の本懐をとぐべき条一定と思いはんべる」(受け念仏)。
もおいよいよ今年寒中には今生のお別れじゃと、お考えになっておりましたがこの報恩講をようやくお済ましになりましたが、まぁー十二月一月となりますと大変な衰弱をあそばし、なぁとても今生のお別れも近づいたと、いうような有様でありましたが、まぁ、蓮如さまはこういうような病気にもなったし、八十五にもなったことじゃで、ま、ま、この大坂城でこの石山本願寺で今生のお別れをしよう(受け念仏)、そういう覚悟であったのでありますが、二月の十二日の日に、お子様の実如上人と申します、こりゃぁ蓮如上人の御長男で、この方が、九代目の善知識におなりあそばすのでありますが、山科から、駕籠をご用意あそばして大坂までお出でになりました。
「お父上様(受け念仏)、あなたは命まとうに(受け念仏)、御一代の間、御真影さまを、お守りなさった。
その御真影さまのおいでる、山科へお帰りあそばして(受け念仏)、御真影さまのお膝下で(受け念仏)、今生のお別れをあそばしては如何がでございましょうか(受け念仏)。
今日は駕籠をもちまして(受け念仏)迎えに参りました」と、仰せになると、蓮如上人オゥオゥオゥオゥと泣きながら(受け念仏)、「持つべきものは倅よのぉ(受け念仏)。
儂の意中を察して、御真影さまのお膝下で今生のお別れがしたかろう(受け念仏)、迎えに行ってやろうと(受け念仏)、よぉく迎えに来てくれた(受け念仏)。
お前の言う通り、儂は御真影のお膝下で死にたいのじゃ」(受け念仏)。
いうので急遽ご用意をあそばして、大変なご病気でありますのでそろそろそろそろと、駕籠を進ませておいでになりましたが余りのご難儀のご様子でありますので、出口の光善寺というお寺で一泊されました(受け念仏)。
ようやく、山科へご到着になります。
駕籠からお同行やらお弟子方が手かごと申しまして、手をこう組み合わせて何人かが手を組み合わせて、この上へ蓮如さまをのせて運んで行くのです(受け念仏)。
まぁご病気だから病床、寝床の中へと、いうその中で蓮如さまが、「御真影さまのご挨拶をせずに病床へ入れるかぁ(受け念仏)。
御真影さまの前へ連れてってくれ」(受け念仏)。
前住職でありますからお内陣で、拝礼されると、お内陣へと思い…「いやいや儂は隠居の身じゃ、外陣外陣」。
丁度この、金障子の敷居に手をついて、涙ながらに「御真影さま(受け念仏)、この世においてはお目にかかれんと思いましたが、倅実如の計らいで(受け念仏)、再びお目にかかることができました(受け念仏)。
ありがとうございます私はあなたのお膝下で、今生のお別れをさして頂く、こんな幸せが何処にありましょうぞ」(受け念仏)。
「まぁーお疲れでございますから、どうか寝床へ入って下さるよう」、「いやいや、まだまだ。
なんにも仰らんけどな、御真影さまは儂の胸にはなぁ、『よう来たなぁ(受け念仏)、よお戻って来たのぉ(受け念仏)、身体に長刀傷まで負わされて、儂を命まとうに守ってくれた(受け念仏)、あーぁありがたかったぞ』と、儂の胸にはひしひしと、御真影さまが、呼びかけて下さるように儂は感じずる(受け念仏)。
昔から言うじゃろ、(節)なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼ(end 節)るる。
(受け念仏)泣かずにおれん」。
昔の時間で一時半と申しますから今の時間では三時間、御真影の前で(受け念仏)、まーあご病床へようようま、ご病床へ、連れて帰って参りました。
そういうようなご無理をなさったので、大変なお疲れが出まして(受け念仏)、まぁこの二十日頃ではけっかいと申しまして、脈が打ったり打たなんだり、もぉいよいよこりゃあかんかと、考えておられたのでありますが、二十一日頃から回復をされまして、あくり月の三月の二十五日に御往生であります(受け念仏)。
だから大変な生命力と申しますか、もあかん、もあかん、というような有様でも、三月の二十五日迄生き延びさっしゃったわけであります。
しかもですね、まぁそのご臨終が如何にもすばらしい(受け念仏)、如何にも尊い(受け念仏)、本当に考えてみれば唯人じゃないなと、私は思うわけでございますが、まぁその御往生の模様をもう一席、お話を申しましょう。
「受け念仏」の例
祖父江省念師の節談説教、「源兵衛の生首」についての一席においては、非常に多くの箇所で聴聞者の方々から「受け念仏」が沸き起こります。その中から四つの箇所だけを取り出して一つの音声資料にいたしました。実際の節談説教の場で聞く「受け念仏」とは異なり、この補足音声資料では「受け念仏」はとても小さな録音音声となってしまいましたが、もしも「受け念仏」とはどのようなものかという感触を少しでも掴んで頂けますならば、誠に幸いと存じます。
...... 朝な夕なあーお勤めをしていた、読み慣れたとこのお正信偈でありますけれども、これが今生のお暇乞いと考えてみれば、最早声も出ずしどろもどろ、ようやく、「(節)願似此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽(end 節)国」(受け念仏)。涙ながらに取り出しましたが、世にも有名な「白骨の御文」(受け念仏)、「(節)それ、人間の浮生なる相を、つらつら観ずるに(受け念仏)、おおよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる(end 節)一期なり」、一言一言が五臓六腑に染み渡る、ごもっともさまでござります、その通りでござります(受け念仏)、「あなかしこあなかしこ」とようやくお勤めが終わりますと、家重代の名刀箪笥の引き出しから取り出しました源右衛門が、「倅成る程、親の首はお前が切れんと言うならば、この父親がお前の首を切ろう」(受け念仏)、鞘を払いまして大上段に振り上げて、今まさに首切ろうとするがなかなか切れるものじゃない(受け念仏)。「あー切れんわい」(受け念仏)、「早切らっしゃれ早切らっしゃれ」と、催促されて、いよいよ心鬼に致しました源右衛門が、「じゃあいよいよ切るぞォ、倅ぇ覚悟は...」「ちょちょちょっと待ちなされ(受け念仏)、(節)浄土真宗は平生業成現生正定聚(受け念仏)、死に際に覚悟の用はない、一念南無と帰命し奉る時裟婆の終る臨終と思うべし、然らば臨終まつことなく来迎たのむことなしとかねがねご教化蒙っている身でありながら(end 節)、今際の際に『覚悟はいいか』(受け念仏)。あほなことを言わっしゃれ。そのようなこと言わっしゃら儂は親父さんのご安心を疑わざるを得ない」(受け念仏)、「いやいや倅、お前の言う通りかねがね聴聞さして頂いて、(節)死に際に覚悟の用はない、一声の念仏もよう唱えずに死んでも、閉じる眼は不浄の寝茣蓙開く眼は(end 節)安養淨土(受け念仏)。何時もかも常来迎と迎いに来詰めのお慈悲の中で(受け念仏)、その日その日を送らせて頂く身であれば、なにも臨終に覚悟の用はないが、余りの可愛さにのぉ(受け念仏)、言わずにおれんのじゃ」、「ああそうかそうかそれならば安心じゃ。さーあ切って下され」、今か今かと差し出す首を一思いにブァーッと切りました(受け念仏)。その場にコロッと落ちたこの生首を(受け念仏)、思わず知らず抱きしめた源右衛門、「うぁーせがれぇぇ(受け念仏)、可愛やなぁぁ...」(受け念仏)、抱きしめて泣いておりましたが思わず知らず源兵衛の着ておりました着物の片袖引き千切りまして ......。
(藝能学会研究大会発表資料 (1999年) 祖父江省念師「口伝の蓮如」から)
名号は、如来願心の開顕であり、阿彌陀佛を信ずる機、衆生を救う法である。また名号は、如来招喚の勅命であり、勅命の聞き開かれた信心のすがたである。「如来は我なり。されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救い給う」。坂東性純氏は、この法語を、名号による救済の究極を道破したものであるとする。しかしながら、節談説教の場に「名」を見るということは、純粋教義の教学の下に絶対化された「南無阿彌陀佛」から微妙にずれたところで、人々の決して一様ではない「なむあみだぶつ」の姿と心とを見ることとなるのである。 
祖父江省念師の節談説教
質問:人々を導く説教師になると、はっきり決心された時のお気持ちについて、お教えください。
お答え : それはね、あの、色々の教えを研究してみてね、あの本当に真実の教えは親鸞聖人の教えしかないと。それが、色々と皆が迷ってね、こないだのしたような、統一、なんか、えー、言うような、その集団結婚とか、あういうようなもんがどんどんどんどん増えてくる、だけど真実の教えというのは親鸞聖人の教えなんだ、これを広めにゃ、本当に申し訳ないという考えで、まぁ笑われても謗られても、全国を廻って歩くわけです。それが、説教をして歩くという私の目的なんです。別に名声を高めようとも思わんし、他の人から敬われようとも思いませんけども、親鸞聖人はわらじ履きで日本中をお廻りになって、それだから、こりゃどうしても皆に話を聞いてもらいたい、こういう願いです。
質問:説教師となられましてから、説教師として悩まれたことがございましたでしょうか、お教えください。
お答え : そりゃもう一杯毎日悩んでる。ということは、あのね、あの大体日本の話芸、つまり浪花節でも落語でも講談でも、原点を尋ねると説教から出とるんです。だから、節の面が浪花節、笑いの面が落語、たたみこんで話をするのが講談、そういうのが皆こうルーツは、皆、説教なんです。それが、そいう説教をやる人が無くなってきている。あのだいたいー昭和八九年頃に、学者方が、節をつけて説教をやるっちゅうことは、どうもその、エー尊い教えを芸人紛いのような話をする、けしからん、こういうことを言いでぇた。ところが、節がいかんというならね、お経様でも節つけずに読んだらどやろ、え、なむあみだぶなむあみだぶ。それがあの節つけて読むと有り難いでしょ。やっぱりね、「山があってね」という言い方、「高あーい山がぁありまぁして」という方が徹底するんじゃねえの。相撲でもね、「ひがし」、「あけぼの」、そんなこと言うたっておもしろないでしょ。水泳でも、「いちのぉコォース、誰々」、そういうのが、やっぱり節というもいかんけど、これはね抑揚、クライマックスになると自然にこう節が出てくる。だから昭和八、九年頃までは、服部三智麿さんでも宮部円成さんでも森智寿さんでも、全部節があった。そういう先輩方が苦心して、ずっと受け継いで下さったこの説教を、我々の世代でなくするっちゅことは先輩に申し訳ない。だから生きとる間、なんと言われても私はやめない。ま、声もだんだんあかんになるけども、声の出る内はやる。そうすっと命はないかもしれん。えへっ。それが、やっぱり私のまぁ、先輩方に対する謝恩の意味と、それを、まぁ、伝えていきたい。こういう思いから、まぁ、色々とありますよ、そりゃね、えー長い間やっとりますと、私は、あの八歳の時に初めて説教した。八歳の時たなぁ信心も安心もないって、ただ書き放題。便箋四枚に説教書いてもらって、それを寝ても覚めても丸覚えに覚えて、それでま、説教を初めてやった。それはえー、十二月の二十七日、それはその、昔は全部お通夜ってこと、そいで私は二十七日の晩、お通夜の晩に説教をやった。昔は皆こういう高座ですから、高座へ上って、その説教やろうと思ったら、こう御堂は縁側迄いっぺい。だからあんまり仰山その人が出る、ぼーうっとなっちゃって、全部忘れちゃった。ほしたら高座の前にあの、一年生の、えー二年生か、友達がおって、ほいで口々に「忘れたな、ありゃ」、「何もよう言えせんじゃね」、そ言うもんで「やかましいわ、おみゃーらは」、叱っとったら、ぽっと思いでぇた。だから怒ることもたまたまええもんじゃ、思って讃題をやって、ほいでその時、まだ私は覚えとるが、御開山が叡山からえーそのまま、その当時は、六角堂へ通わっしゃったことがあった。で、その時の話が、「〔節づけで〕寒風凜凜と吹き来たりはなようと進む時は、八寒地獄の苦しみは如何がであろうぞとそれを思し召しての御苦労じゃ」、こういう話を作ってあった、幾つかな。おじいさんからおばぁさん泣いちゃってさ、ほいで、高座から下りたら、「お前は偉い」、で、まぁ、飴玉くれるやらお賽銭くれるやら、説教ぐれぇええものはねぇなぁと思って、そいでやみつきになっちゃって、六十何年やっとる、まぁ七十年近くしとりますわな。そういう長い間、あけてもくれてもやっとるわけ。まぁ、ちょこっと上手にならないかんけど、根がアホじゃもんで。えへへへ。えー、そういうことなんで、色々と、そりゃ一代の間には、えー、様々な苦しみがあり、困ったこともありましたけども、やっぱり私の後ろには仏さまがついておいでる。(後略)
質問:美声、卓越した話術、そして、その絶妙な節まわしについて、お教えください。
お答え : これはね、あの、私が初めて随行について、二十一歳でしたけど、あの、古池秀賢という名賢に、まぁ、名人と言われる人があって、その人にまぁ随行しとりまして、鞄を持って附いて歩いて、寝泊まりして色々と教えてまうわけです。で、大垣の俵町ってとこに願宗寺っちゅうお寺があって、そこが、私の初めて説教やる、寺だった。で、先生が座敷で聞いとって、「一席やって来い」。言われて、あの説教やったら、「内容はいいけども、声が駄目だ」。ということは、今はねマイクがあるんです。だからどんな声でもマイクを通ずれば、大抵は皆に聞こえるような説教がやれますが、昔はマイクがないんです。だから、大本堂の別院とか、本山で、話をやったら、一席で声が潰れっちゃう。だから、「本当の、本格的の説教者になるというならば、声を潰さなあかん。俗に声を破れ」と、「どうするんですか」ったら、「或いは谷間であるとか、どうどうどうどう水が流れておるそういう谷間とか、或いは海岸とか、そういうところうで、もう、声のありだけの声を張り上げて説教すると、ま、三日か四日で声は潰れっちゃって、うんともすんとも出んようになる。その内に喉から血が出てくる。それでも、耐えて話を一生懸命やっとると、まぁ、五日位経つと、まぁ、徐々に声が出てくる。その声なら、一日半話していても声は潰れない。やれるか、やれんか。やれなんだらもう説教者みたぁになるな」。(中略)で、あんた、節なんてものはね、これは、いくらその先生が上手にやられる真似したって、真似は真似なんです。自分独特のやっぱり考えで、考案しなけりゃ駄目なんです。ほいでまぁ、えー、よう、私のまぁ、随行二十人位おるけども、こりゃ皆途中でぼおらけぇて、楽なお経読んでた方がお礼もよけ貰えるし。説教者は昔はよかったんですが、今は、あんまりそう恵まれてないんだけれども、そんなことはどうでもええ、私は、この、説教するということが、自分の与えられた天職、これは使命だと、こう思ってやってますので、この声とか、或いは聞いてもらうに就いて、やっぱりこの、話芸、話術ということがありまして、それは色々自分自分が研究して、話をせんことには、しょうがないわけです。(後略)
 
節談説教に見る蓮如 / 祖父江省念師「口伝の蓮如」をめぐって

 

はじめに
呼びかけてやまぬ如来の招喚の声の中で、「聞法」「聞即信」こそが、浄土真宗の全化導の根底に流れる態度であった。節談説教においては、語り手と聞き手との間に繰り返される宗教的コミュニケーションの呼応の中で、この両者の思考や言語の周囲に外在する、もっと大きな意味の枠組みから発するものをも含めながら、交感が立ち現われてゆくのである。これは、その「聞法」「聞即信」という全化導の根本的態度にまず起因するのであろうが、やはり、節談説教の歴史に大きく係わるものであると思われる。すなわち、民衆が自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで節談説教が磨かれてきたという歴史である。その伝統的とも言える呼応の仕組みは、実際の説教の場における、説教師と聴衆との共同作業、或いは、両者の合作となる、見事な節談説教へと繋がっていくのである。
ここに、蓮如を見るということは、説教者によって表出された創作のかたちを見るだけではない。人々が、蓮如をどのように仰ぎ慕い、その生涯を讃えようと願ったか、或いは、蓮如という個像を以て、どのように自分達の身に引き当てて、その尽きぬ思いを語り伝えようとしたかという、民衆の表現し得る自分達の心の現われとしての蓮如像を見ることである。  
一、蓮如生誕の位置づけ
「口伝の蓮如」(以下これを「口伝」と記す)は、『御伝鈔』下巻六段目を引きながら、宗祖親鸞の往生の場面から語り始める。親鸞は、その臨終に際して、常随眤近の蓮位に不可解な言葉を残したのである。すなわち、今は仏法が繁昌しているが、軈て念仏の火の消える時が来る、よって時機相応に自分は再びこの世に現われて念仏を弘めねばなるまいと。そして、親鸞なき後一世紀半を経て、本山の家老下間法橋が夢を見るのである。
「こりゃあ御真影さまではござりませんか、こんなむさ苦しい私の寝間へ御真影さま、どうして御出まし下さったのでございましょうか」と、お尋ねを致しますとにっこりとお笑いあそばした御真影さまが「其方の先祖の蓮位に約束を致せし親鸞、恥ずかしながらまた来たぞよ」とのお言葉、「うぁーっ、堪り兼ねてこの世にまた再び御出ましを下さったしてみれば、先祖の蓮位が書いて残いてくれたは嘘ではなかった、アアー御苦労様なことじゃ」と泣いておりますと、〔中略〕 只今御本山で男の子の御子様がお生まれになったすぐさま来いよのお使い、取るものも取り敢えず本山へ馳せ参じますると、今夢の中で拝み奉った御真影さまのお顔立ちと、お生まれになったこの赤ちゃんとが同じお姿同じお顔立ちを考えまして、「あぁーあぁ、これは唯人ではない。御開山様が堪り兼ねて、この裟婆に再び御出ましを下さったのじゃ」……。
蓮如は親鸞の教えを改も曲もなく受容した真の後継者であるという伝統的見解(1) は、蓮如が親鸞の生まれ変わりであればこそ、口伝において完全な像を結ぶ。しかし翻れば、前田惠學氏が「蓮師前」の提唱として、本願寺教団における蓮如の位置の不安定さを、一般寺院本堂にその定位置がないことを以て例証するように(2)、さらには、泉惠機氏が触れる「蓮如離れ」という近年の教団史、或いは、その時代時代の教団の指向性(3) があるところの蓮如像(たとえば「貴族的なもの」)との対比によって、人々の側の蓮如像が一層明らかになるであろう。教団における蓮如評価の変遷とは別のところで、人々の蓮如に対する頑固なまでの熱い思いをもみるべきである。
蓮如を祖師親鸞の再誕であるとする見解は、『御一代記聞書』の第十二条にもみえるが、ここでは、「たとえば、木石の、縁をまちて火を生じ、瓦礫の、□をすりて玉をなすがごとし」と『報恩講私記』の言葉が引かれ、蓮如の一流の再興とは如何なるものであるのかということが、慶聞坊によって押さえられている。つまり、枯れ木が火を生じ、瓦や石ころが輝き出すという言葉の如く、実に本願によって救わねばならぬ、本願が救おうとしている末代の在家止住が、蓮如の教化を通して光を放つような存在になった。その教化が本願の機を覚醒せしめる縁となったのである。それが、蓮如の再興ということの意味内容なのである(4)。  
二、蓮如の悲しみと生母
生母は六歳の蓮如を残して去った。この生母については様々な伝承が生まれたのであるが、それらの伝承の核心は、生母の出自の身分の低さであるとされている(5)。「口伝」においては、出自不明の西国の人であり、その身分も明確に語られてはいない。また、生母は石山観世音菩薩の化身とも伝えられるが、「口伝」では石山観世音菩薩はその象徴となる。
後の程石山の観世音菩薩の御前に、この引き千切って来られた鹿子の小袖の片袖が、納めてありました、おそらくは、「この幼い麿が潰れかかっておる念仏の教えを御開山御在世当時のように、盛んに致そうと努力を致します。どうぞ観世音菩薩、お力添えを下さるよう、どうぞお力を貸して下さるよう」と、お願いをあそばして……。
……えー物持たずしては施されず真の信心が御正意でなかったならば人に教化をすることはでけんという思し召し何方かにこの安心をお調べが願いたい、かねがね何方がよかろうか何方がよかろうかとお考えになっておりましたが、ふと浮かんだのが石山の観世音菩薩、お母様と大変な深いご因縁があると思し召して、この観世音菩薩に我が安心が御正意であるか御正意でないかをお調べを願おうと……。
「口伝」が強調するところは、まず第一に、生母との別れという愛別離苦の耐え難い悲しみであり、第二に、右にも明らかなように、生母の願いと導きによる浄土真宗再興への道標である。佐賀枝夏文氏は、生母が夕刻に裏の戸口から出ていく別れの場面を記す『御一期記』第三条を挙げ、そこにみられる情景を蓮如の心の原風景の一コマとして捉えながら、「蓮如が民衆に絶大なる信頼と、共感を得て受け入れられるのは、夕暮れのあやうさを持ち続けて生きたからではないだろうか」とし、「それはいつの時代にも共通する『民衆の悲しさ』にも通じ、共に生きている実感をともなうからである」と述べている(6)。「口伝」においてその悲しみは、「死別に勝る生別、生木の枝を裂かれるような悲しい思い」と第一話で表わされた後に、「ああー、□この蓮如、前生如何なる種を蒔きしや□ら、幼い時には死別にまさる生別産んでおくれたお母様とは生木の枝を裂かれるような別れ方」と、第八話で蓮如自身の口で繰り返される。
このように、「口伝」は「悲」の面に輝くものであるが、その一方で、蓮如が生母と尾道でおそらく再会を遂げたであろうという叙述がある。これは、『御一期記』第四条の生母の消息を訪ねる一文にみられるような、別れた母への思慕の念に応接して、是非とも二人を会わせてやりたいという、人々の希求が働いた為ではないであろうか。  
三、御文の制作
「口伝」では、「聖人一流の御文」を始めとして、「无上甚深の御文」、「信心獲得の御文」、一帖目第八通(吉崎御坊)の御文、「白骨の御文」、「大坂建立の御文」など、蓮如の次々と『御文』を制作したその状況や来意が語られていく。石山の観世音菩薩との問いつ答えつ答えつ問いつの問答で出来上がったのが、「聖人一流の御文」であるが、
これを紙に書いて読めば読むほどありがたいこれが御正意だ、これが御開山様の腹底じゃと思し召して、それを読みながらあの高ーい石段を泣きながら、読んでは泣き読んでは泣き下りてお出でになりました。そこの石段の下に道西という、お弟子がおりまして〔中略〕今できたばっかの「聖人一流の御文」、手に取って読んでみる内に、「うぁー、尊やぁ、ありがたやぁ。□これ金言なり、これ聖教□なり」「何を言うぞ、金言というのは、仏さまのお知らせになったお言葉を金言と言う。光を放つような高僧のお書きになったものを聖教と言う。蓮如ごとき者の書いたものを、金言だの、聖教だの申しては畏れ多い、今後如何なるものをこの蓮如が書こうとも唯『文』と言え」。ここに「御文さま」というお名前がつくわけであります……。
「无上甚深の御文」とは、蓮如がサクジという農民に仏法を聞かせんが為に自ら麦を刈ったところ、この男は懺悔して教化を受け、麦を全部蓮如の許へ納めたその礼に書かれたものであるという。「信心獲得の御文」は、紀州冷水浦の喜六太夫というよろこびての今か今かの臨終の枕辺で、切羽詰まって書かれたものであるが故に、「それ」とか「そもそも」という常套の語り出しがないものとなったというのである。また、「白骨の御文」とは、蓮如の三番目の内室であった如勝尼が難産で苦しんだあげくに死去し、加えて朝生まれた子供もその夕べには死ぬという、悲しみの中で書かれたもので、蓮如の肉声を以て「無常」が語られるのである。
このように『御文』は、教化伝道の新しい手段方法として、当代民衆の言葉で簡潔かつ具体的に語られ、親鸞の教えの現代化、現代訳化(7) をなした、「よみちがえもあるまじき」ものであると解されている。「たすけたまえとたのむ」「後生の一大事」などの、時代に即した蓮如自身の生きた言葉を以て、一貫して信心の肝要なることを説き、繰り返し信心を確かめ、信心の体である南無阿弥陀仏の「こころ」と「すがた」とを語り告げるものであった。それ故に、「ただ御文をお書きになるその御文を読んでよろこぶ人が十人なり二十人なり、アーァありがたいというので、蓮如上人が何百人とできるわけであります」と、「口伝」において述べられることとなるのである。
蓮如を「蓮如上人」ではなく「蓮如さん」と親しく呼ぶことも、この『御文』を抜きにしてはあり得なかった(8) 人々の心情であろう。多くの研究者によってその二面的行実が論ぜられてきた蓮如であるが、「口伝」に託されたものは、やはり民衆の「蓮如さん」である。王法と仏法ということよりも、人々にとって避けようのない「生活」の中で、日常の些事までをも引き受けるその蓮如像があればこそ、人々は安心して生きていけると感じるのである。「口伝」中の蓮如は、その生き方や教化においても、決して二面性をみせる存在ではないのである。  
四、蓮如の人格的一佛
関山和夫氏は、説教史上の蓮如の業績を高く評価し、「後世の真宗説教の基盤を作り上げたものは蓮如であった」とし、また、説教において「阿弥陀如来と衆生との関係を親と子の愛情関係にたとえる真宗の説教の方法」について言及している(9)。したがって「口伝」においても、如来を「付き添いづめ御護りづめ」の親として捉える表現は、随所にみられる。さらに、既に加藤智見氏が『御文』について指摘するところ(10) であり、繰り返しとなるが、蓮如自身如来を極めて人格的に把握している。つまり、「阿弥陀如来御自身が偏に我々の為に申し訳のないほどの御苦労をなさっている」というのである。「口伝」においては、別れた生母の願いと導きということも、親子の情愛として、共に重なり合いながら一つになるのである。
さて、蓮如は、その臨終を迎えるにあたって山科の本願寺へ戻り、親鸞の真影との対面を果たすこととなるが、
丁度この、金障子の敷居に手をついて、涙ながらに「御真影さま、〔中略〕ありがとうございます。私はあなたのお膝下で、今生のお別れをさして頂く、こんな幸せが何処にありましょうぞ」「まぁーお疲れでございますから、どうか寝床へ入って下さるよう」「いやいや、まだまだ。なんにも仰らんけどな、御真影さまは儂の胸にはなぁ、『よう来たなぁ、よお戻って来たのぉ、身体に長刀傷まで負わされて、儂を命まとうに守ってくれた、あーぁありがたかったぞ』と、儂の胸にはひしひしと、御真影さまが、呼びかけて下さるように儂は感ずる。昔から言うじゃろ、□なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼ□るる。泣かずにおれん」。昔の時間で一時半と申しますから今の時間では三時間、御真影の前で……。
ここにみられるのは、一切の仲介なしに直接に対話を続ける蓮如の「聞く」姿であり、また象徴的には、出発点であり帰着点であった「親鸞へかえる」ということ、そして、終始一貫して親鸞における「信」に依る、念仏者蓮如が立つところの明示である。したがって、この真影との対話は、そのままに、人格的一佛と「聞法」から生まれた妙好人蓮如との対話としても、捉えられるのである。
源了圓氏は、蓮如の「六字釈」の展開が、如来と衆生との関係を人格的関係へと変貌させ、両者の対話を引き起こし、その新しい六字釈と機法一体との結合が、両者の関係をさらにダイナミックなものにしたのだとする。つまり、「我」と「汝」の関係の成立により、一般化した信者と如来との対話の中で、如来は「如来様」「如来さん」になり、果ては「親様」になる。そして、「彼らにおいては、如来との尽きるところのない対話は、彼らを自分自身との対話に導き、彼らを教団の長としての蓮如があらわに示すことのなかった『自分自身』との対話の率直な表現者にする」(11) のである。それでは、「口伝」にみる蓮如の率直なる発話に導かれ、人々は如何なる表現者となっていくのであろうか。蓮如はその臨終の床で、
「何を読みましょう、〔中略〕『末代無智の御文』でございますが、これを読みしょ」「ああ、末代無智はありがたい。読んでくれ」、そのお弟子が、□末代無智の、在家止住の男女たらんともがらを、心を一つにして、阿弥陀仏と深くたのみまいらせて、さらに余のかたへ心をふらず一心一向に佛助けたまえと、申さん衆生をばたとえ罪業は深重なりとも、必ず阿弥陀如来は救いましますべし、これすなわち第十八の念仏往生の誓願の□心、一言一言、「やれ尊や」「やれありがたや」と、軈て蓮如さまが、儂が書いた御文じゃ、儂が作った御文じゃ言わずに、「御文は彌陀の直説じゃのぉ。□十劫已来呼んで下さる大慈大悲の親さまの呼び声□じゃ。あーありがたいの、もう一度、読んでくれ、もう一度読んでくれ」……
と、そのあり方を伝えていくこととなる。  
五、御同朋・御同行とも同行
蓮如が、「聖人の仰せには弟子一人ももたずと、たゞともの同行なり」(『空善記』)、「開山は御同朋御同行と御かしづき候に、聊爾に存ずるはくせごと」(『実悟旧記』)と、常に門徒大衆を御同朋・御同行として尊びいつくしみ、心遣いをもって、平座で対応したことは、よく知られているところである。門徒に対するこの蓮如の姿勢は、研究者諸氏によって同朋精神に立脚した蓮如の真宗再興のあり方として述べられているところである。「口伝」では、第十話「御往生」において、その精神が伝えられている。
その五人のお子様が枕辺にお座りになりますと、今か今かのご重態の中から、〔中略〕「かまえて、兄弟仲良くすべし。信心あらば兄弟自ずから仲良くするは当然なり。□これまた、宗祖親鸞聖人の御教繁昌するはもちろんな□り。兄弟仲良うしてくれよ。仲良うするのには信心がなくては仲良くでけん。信心のある人々ならば、どんな他人でも仲良うできる。御同朋じゃ御同行じゃ。だから信心あらば、自ずから兄弟仲良くするということは当然のことじゃ。そのことがそのまま親鸞聖人の御教、念仏の教えが、繁昌するはもちろんである」。お聞きになったお子様方はホロホロ涙に暮れながら、深く心に、このお言葉を、しかと抱き締めて、あぁーっと頷かっしゃった。それをお眺めなさった蓮如さま、こっくりと頭下げて……。
この精神の下で、あらゆるコミニケーションが全人格的な実存的交流に転化する。親鸞を仰ぎ、御同朋・御同行とも同行なるべきものとの自覚的な同朋精神において結ばれ、しかし何よりもまず自らが深く心底に頷いた「信」への確信を以て生きる世界に、蓮如は、一宗の繁昌ということを凝視したのである。  
おわりに
もし宗教が、これは佛についての学である、神についての学であると、その教えを「佛のこと」「神のこと」として、余りにも観念化し体系化するのであれば、そこでは、「人間のこと」(12) としての経験や問題が離れゆき希薄化するばかりである。しかし、そうした状況が起ころうとも、人間は、一切の儀礼的なものに対する感性を喪失しないかぎり、そこに呆然と立ちつくしてはいられない。自分の本当の名前を、或いは、自分が何者であるのかを求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである。それは、単に共通の価値観や世界観の中で安住の場を見い出すだけのものではない。その集合的探索と集約の果てに現われる、より個人的な究極性への飛躍のリチュアルなのである。
「口伝」において、蓮如が「聞く」究極性から発せられる語りかけは、個人における阿弥陀仏との一対一の世界であり、遡れば、親鸞において「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)という彌陀の本願である。「口伝」の世界では、具体的・直接的に人間の経験と問題が発現し、超越的基準を以てそれらをからめ摂る力の方向性が生起する。しかしながら、この「口伝の蓮如」は完成されたものではない。それは、常に生成され、創造されつつあるものなのである。人々は、この「口伝の蓮如」を自らの表現として解釈し、或いは、自己の表現として新しく作り出してゆくのである(13)。  
〔註〕
(1)スタンリ・ワインシュタイン「蓮如思想における連続性と変化」(『蓮如の世界 蓮如上人五百回忌記念論集』大谷大学真宗総合研究所編、文栄堂、平成十年)。
(2)「教団確立の基礎 ー蓮如上人の位置づけー」(『蓮如上人研究』蓮如上人研究会編、思文閣、平成十年)。
(3)「蓮如生母の出自の伝承について」(前掲『蓮如の世界』)。
(4)廣瀬惺『御文聞書』第一巻(真宗大谷派能登教区、平成十年)。
(5)泉惠機前掲論文。
(6)「蓮如上人のこころの軌跡 ー喪失体験をもとにー」(前掲『蓮如の世界』)七六一頁。
(7)出雲路修「御文の成立とその文章表現」(『蓮如上人の歩んだ道 蓮如上人に学ぶ1』、真宗大谷派宗務所、平成九年)。
(8)平野修「真宗教団の形成(二)シンポジウム」(前掲『蓮如上人の歩んだ道』)。
(9)『説教の歴史的研究』(法藏館、昭和四十八年)四〇一頁及び二五九頁。
(10)「蓮如における教化の特質」(前掲『蓮如の世界』)。
(11)「後期蓮如と妙好人赤尾の道宗」(前掲『蓮如の世界』)二九六頁。
(12)藤本浄彦「二 救済と解脱 宗教経験としての生成・摂化への試論」(『宗教の哲学』、北樹出版、一九八九年)。
(13)八木誠一「親鸞における『信の根拠』をめぐって」(『仏教 特集=親鸞』、法藏館、一九八八年)。
〔付記〕
ここに引用した「蓮如上人御一代記」は、祖父江省念師「口伝の蓮如」(節談説教「蓮如上人御一代記 口伝の蓮如」、カセットテープ全5巻、テイチク株式会社)によるものである。故祖父江省念師の孫祖父江佳乃氏には、祖父江師の伝える蓮如像について、御教示に与った。記してお礼申し上げる。 
 

 

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