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雑学の世界・補考   

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アジアの西の境

1 問題
アジアの西の境が話題になったのは一九九六年の春だった。三月一〜二日にバンコクでアジアとヨーロッパが世界史の中で初めて会議のテーブルについた。この時ヨーロッパの意味はあまり問題ではなかった。ずっと昔からヨーロッパの代表者は西ヨーロッパであり、一九六○年代からEEC、そして今はEUがその代表者の役をしている(1)。しかし、アジアには昔から同じような地域的な代表者はなかった。どんな国々が一九九六年のバンコク、そして一九九八年のロンドンのASEM会議に参加したかというと、日本、韓国、中国とASEAN七カ国(2)であった。そして、二○○○年十月二十〜二十一日のソウルの会議にも同じ国々が参加する予定である。つまり、ユーラシア大陸の東西両側にある国々が「ヨーロッパ」と「アジア」という地名を使い、お互いに話し合う。しかしその間にあるとても広い地域は何だろう。ヨーロッパの東の境とアジアの西の境はいったいどこにあるのか(図1)。
第1図ASEM過程におけるアジアとヨーロッパ
地理学的にはその境の場所は簡単。カラ海から始め、ウラル山脈とウラル川を通ってカスピ海に下がり、そしてカウカス山脈の南側を進み、黒海を渡り、ボスポラス海峡に終わる。アジアとアフリカの境はスエズにある。しかし、この地理学的な境は文化、政治、経済、人種、宗教等の分野では全く意味がない。歴史的に見てもこの境はロシア帝国の中の一つの境界線に過ぎない。意味のない境は本当の境ではないので、もっと具体的な境を探さなければいけない。
このことを考えると、特にアジアの場合にはおかしいことが分かる。地理学的なスペースは普通五つの方面に分かれる。つまり中心と東西南北の四つの方向である。ヨーロッパの東の境がはっきり見付からなくても中欧、北欧、南欧、東欧と西欧が確かに会話の中によく出て来る。アメリカ大陸の場合にも同じように北米、中米と南米があるし、東海岸と西海岸に分けている。アフリカも同じであり、同じ四つの方面がある。しかし、アジアは違う。アジアの場合には東アジア、東南アジアと南アジアに簡単に分けられる。一九九一年から中央アジアという地名も国際政治学の論文とマスコミの中によく出ている。
中央アジアという地域は普通旧ソ連圏のアゼルバイジャン、アルメニア、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、グルジア、タジキスタン、とトルクメニスタンのことを表している(3)。中央アジアの北側に北アジアがあるはずだが、そうではない。北アジアという言葉はほとんど使われていない。一九九四年からBritishBusinessMonitorInternationalという会社がChina&NorthAsiaMonitorという雑誌を出版しているが、その「NorthAsia」とは香港、台湾、北朝鮮と韓国のことである。また日本をこれに入れると、現在日本語の「北東アジア」という地域が出てくる。中央アジアからけっこう離れているし、方向もおかしい。中央アジアの西側に西アジアがあるはずだ。一○○年前によく本に出ていたが、現在は西アジアもほとんど使われていない地名である。中近東という地域は西アジアの部分を満たしている。「東」と「アジア」はある意味で似ている、どちらもヨーロッパから東の方にある。しかし、同じではない。北アジアと西アジアはあまり存在していない。現在の用語の中で東アジア、南アジアと中央アジアが全てのアジアを表している。どうしてだろう。
2 隠喩

隠喩というのは意味が何回か変わった単語のことである。名前はほとんど全て隠喩である。隠喩は容器のようなものとして考えられる。その容器の中に色々な地理学、哲学、文化、政治、経済、宗教、民族学、語学等の分野から取った意味が入れられる(4)。そして、また意味がなくなる可能性もある。長い歴史を考えると、一つの隠喩の内容は何回も大きく変わるのが普通である。しかし、この変化は遅い。短い時間、例えば人生の瞬間みたいな短期間の場合には隠喩は容器のようなものには見えない。固定した言葉だけに感じ、意味が大きく変わるというようなことは普通考えられない。
地理学的な隠喩は地域的なアイデンティティーと地域的な統合の研究にとって面白いものである。固定したものに感じるので、自然にどんな国とどんな民族が同じ運命圏に入り、どんな国と民族をその運命圏の外に残すかというような議論に強い影響力がある。ヨーロッパ人がEuropaをいう時にヨーロッパ人同士だけの運命を考え、日本人は「東洋」という時に普通日本、中国、韓国のことしか考えない。「アジア」という隠喩はこの意味でとても複雑な単語である。四五○○年ぐらいの長い歴史の間に意味が何回も大きく変わり、地中海、ヨーロッパ、中国、日本などでその容器に色々な意味を入れたり出したりしたのである。その歴史を見ればアジアの西の境の謎が分かる。  
3 地中海のアジア

アジアという隠喩は元々ヨーロッパ製ではない。地中海の文化圏で使い始めた言葉である。四五○○年前にアッカド語の「アースー」(a-su-)は日の出という意味であった。これが「アジア」の起源である。「エレーブ」(ere-bu)の意味は日の入りであった(5)。「Europa」、そして北西アフリカにある「マグレブ」(Maghreb)という二つの地名がエレーブから出来ている。この二つの言葉がアッカド帝国で地理的と政治的な意味があったかどうかは知られていない。しかし、太陽の動きは大体どこでも地理学的な意味を持つ。アジアの元々の意味は「日本」という国号の意味とほぼ同じだということは偶然ではない。太陽、東と西、そして地理的なアイデンティティーは昔から一緒になっている。「日本書紀」を書いた日本人は自分のいる場所は世界の中心から東にあるというふうに考えたようである。中国語の「東」の漢字も木の後ろから昇って見える太陽の絵だ。地中海でもオリエントという言葉がラテン語のoriens―つまり上がる、という意味から発生し、オクシデントがoccidens=沈む、から出来た言葉である。地中海の東部に対して使われるLevantの地名のルートはスペイン語のlever=上がる、である。英語のeast・ドイツ語のOst・スウェーデン語のoster等のインドゲルマン語族の東という意味で時にはアジアのシノニムとして使われる言葉の言語学的な起源はラテン語のaurora=朝焼け、と同じである(6)。フィンランド語の同意味のitaの起源はitaaという動詞の発芽という意味から出来、つまり太陽がゆっくり東のホライゾンから空に芽ぐむ。またアラビア語のシャーク(Shark)、地中海の東部にあるアラビア語圏、北東アフリカとアラビア半島に対して使われる地名の元の意味は日の出である。また地中海の西部、特に北西アフリカのモロッコ、アルジェリアとテュニジアに対して使われるマグレブ(Maghreb)は四五○○年前のアッカド語のエレーブから作られた地名である。つまり、語源学的にはヨーロッパとマグレブは同じ地域だが、そのことは一般に知られていないので、同じ運命圏に入っているという議論は少ない。
アッカド帝国は後の地中海の文化に大きい影響を与えたが、「アースー」の動き方ははっきり分からない。二○○○年の後、アースーはもう地名になっていた。紀元前五○○年ごろギリシア人のヘカタイオス(Hekataios)という地理学者の世界図の中にヨーロッパとアジアの地名が両方とも出ている。ヘカタイオスの世界図は丸く、中心はギリシア人が住んでいる地中海の東部、その周りに大きい島のような土地、そして周辺には世界海であった。しかし、ヘカタイオスには東西の区別が大事ではなく、南北の区別を使っていた。そのせいで地中海の北側はヨーロッパになり、南側はアジアであった(図2)。
一○○年後ヘロドトスの歴史書はアジアからリビアという大陸を分けた。リビアは地中海の南なので、アジアはまた東の方向に戻り、ヨーロッパは世界の北西部の地名になった。ディケールプス(Dicaerpus)の紀元前三世紀に書いた世界図にこのパターンが見える(図3)。三つの大陸の中でアジアは日の出の方向にあたる一番大きい大陸であった。この後は地名についての大きな変化はなかった。リビアの地名は少しずつアフリカに替わっただけである。
しかし、アジアという隠喩に新しい意味が入り始めた。ギリシア人は世界の中心部の人間なので、アジア人でもヨーロッパ人でもなかった。例えば、アリストテレスの「政治学」の中に色々な民族の描写がある(7)。アジアは勿論文明の大陸で、ヨーロッパは野蛮の大陸であった。従って、アジア人はインテリジェントな人間だが、自由でないので、大きい帝国に住んでいる。ヨーロッパ人は自由だが、残念ながら馬鹿なので、適当なポリスが作れない。ギリシア人だけは自由でインテリジェントで良い性質を持つ人間であり、アジアとヨーロッパの海岸に住み、ちゃんとした小さな国家で自由な文明生活をしていた(8)。
第2図ヘカタイオスの世界図の復元EdwardHerbertBunbury(1883)
第3図ディケールプスの世界図の復元J.B.HarveyandDavidWoodward(eds.)(1987)
ローマ帝国時代にアジアとヨーロッパは別の政治的な意味はなかった。地名として知られていたが、たいして使われていなかった。ローマはヨーロッパの帝国ではなく、地中海全体の帝国だったが、実際にはローマ人の自己意識では世界帝国だった。昔の中国の自己意識に似ているが、文明はローマだけではなく、アジアにもあった。ヨーロッパとアフリカは危険な野蛮人が住んでいる地方であった。従って、ローマ帝国を通ってアジアの文明がやがて西の方に流れ込んだ。エジプトの宗教、東地中海のヘレニスチックな哲学、そしてユダヤのキリスト教がヨーロッパに広がった。結局、文化の面で見れば、ローマ帝国はアジア的な文化圏に変わった。このアジアに対して深く敬意を表する態度がヨーロッパの文化に入った。後にヨーロッパが強くなってアジアを軽蔑する態度も表われたが、元の尊敬の流れは完全には消えなかった。現在でも、もしアジアに文化、美術、経済発展等の分野で優れたものが現れれば、それを誉めたたえる者がいつも出てくる。
ローマ帝国が終わった後中世のヨーロッパはキリスト教的な世界観を持っており、新しい種類のマッパエムンディ(mappaemundi(9))と名付けた世界図をつくり始めた。キリスト教伝道のための地図だが、キリスト教はアジアの宗教、ヨーロッパは野蛮人の周辺地域ということがこのタイプの地図でよく分かる。地球はギリシア人が想像したように丸く描いたし、人間が住んでいる世界の周りは海だった。三つの大陸の間にもはっきり海を描いた。バイブルに物語られていることは全てアジアで行われたので、アジアを一番尊敬された大陸として、上に置いた。オリエンテーションという現在の言葉はマッパエムンディから伝わった言葉である。つまり、オリエントを一番上に置いてから他の地域をその下に合わせるという意味であった。パラダイスはアジアの一番遠い所にあり、「ノアの方舟」がアジア大陸に流れ着き、人類は全てアジアから世界中に広まり、キリストがアジアで生まれた。だからアジアは敬意に値する大陸であった。
マッパエムンディには色々な形があったが、このTのパターンが一番多い(図4)。ヨーロッパを一番下に置いた九世紀に描かれたマッパエムンディもある(図5)。この頃「アジア」は特別のキリスト教的な意味を持っていたが、「ヨーロッパ」は普通使われる言葉ではなかった。
一○○○年のころ、ヨーロッパの隠喩にまた新しい政治的な意味が入って来た。スペインでイスラム軍と戦ったフランク人がそれを自分の軍隊に対して使い始めた。理由ははっきり分からないが、フランク兵の中に恐らくキリスト教徒も異教徒も入っていたので、両方とも含める掛け布団みたいな言葉として使われたのだろう。しかし、キリスト教とイスラム教の対立はまだそれほど激しくはなかった。どちらも異教徒と争っていたし、カトリックキリスト教の一番大きな敵はオルトドクスキリスト教(東方正教会)であった。従って、ヨーロッパとイスラム教の対立があってもヨーロッパとアジアの対立はなかった。そして、ヨーロッパから見れば、イスラム教もまた長い間文明の内に入っていた。ヨーロッパ人で特にスペインのイスラム大学に入り、ギリシャ哲学、インドの数学、アラビアの世界地理学などを勉強する者もいた。
一四五三年にトルコ軍がコンスタンチノープルを奪取した。オルトドクスキリスト教がそれで弱くなったので、二つのキリスト教の対立は意味がなくなった。ピウス二世がトルコイスラムに対抗して汎キリスト教同盟を結成しようとしていた。キリスト教内の紛争をかたづける為に宗教的な意味が全く入っていない「ヨーロッパ」の地名を使い始めた。この結果「ヨーロッパ」が一般的に使われる言葉になった(10)。同時に、地理学も発達し、新しい種類の地図が少しずつ描かれ始めた。しかし、世界地図は北が上になったのに、その精神的なモデルはまだマッパエムンディであった。だからアジアとヨーロッパの区別ははっきり描いてあった。二つとも大陸であるから、その間には水があるべきであった。ロシアはまだモンゴル占領下だったので、ロシアの領土の形も完全に分からなかった。それでアジアとヨーロッパの間に川を想像した。その線は色々な処を走っていたが、大体二つのパターンが普通であった。一つは黒海から直接北の方に描いた川であった。そのような川は普通日本製の南蛮図にも見られる。そして、もう一つは黒海からデニエペル川とラドガ湖を通って白海までの線であった。この線は政治的な意味もあった、つまりヨーロッパの東の境はスウェーデン、ポーランドとオーストリアの東の国境で、アジアの西の境はモンゴル占領下のロシアの国境であった。ウクライナという国号はロシア語のkraj=境、という言葉から出来た(11)。この頃にはアジアの西の境がはっきり分かった。本当の地理学上でそれを森の中で見付けるのは無理だったにもかかわらず、概念としてその境は地図に出ていた。中央アジアという地名は、やはりこの頃カスピ海の東部のモンゴル民族の出身地域を示すために出来た言葉である(図6)。これまではヨーロッパは比較的弱く、周辺の地域であった。西ヨーロッパのカトリックの中だけで使う地中海生まれの世界観は特別に問題にはならなかった。しかし、一五○○年代に航海・探険による海外進出が始まると、地中海の地方で意味がある地理概念が他の文化の地理概念とぶつかった時、問題なく通じたというわけではなかった。日本の場合には別に問題はなかった。南蛮図はある意味で天竺図に似ていて、地名はほとんどなかった。そして装飾(オーナメント)として使われたので、別に深い意味の地理概念はなかった。中国の場合は違った。Asiaは亜細亜に替わってしまった。
第4図ノアの三人の息子。ジャーン・マンセルというフランス人が15世紀に描いたマッパエムンディ。アジアにシェム、アフリカにハム、そしてヨーロッパにジャフェットが立っている。J.B.HarveyandDavidWoodward(eds.)(1987)
第5図ヨーロッパを下に描いたマッパエムンディ。ベデが9世紀に書いたDonaturarerumより。J.B.HarveyandDavidWoodward(eds.)(1987)
第6図ヨドコ・ホンディウスのアジア新図、1600年代の終わり頃 
4 中国のアジア

 

十六世紀に日本と中国に来たイエズス会の神父達の世界観の基本はマッパエムンディであった。そして、自らのヨーロッパも文明世界の内に入ったので、ギリシア哲学も強く教育の対象に入れられた。だから彼らのアジア観はアリストテレスとキリスト教のミックスであった。大変苦労させられてもアジアを尊敬し、中国と日本をほめるレポートをヨーロッパに送った。例えば、アルヴァーロ・セメード(AlvaroSemmedo)の「シナ帝国志」に次のように書いてある。
アリストテレスは、アジアは智においてヨーロッパに優り、ヨーロッパは力においてはアジアに優る…(12)
力においてもアジアの方が強かっただろうと思うが、それは今は問題ではない。問題は、なぜアジアという隠喩の意味が中国語に翻訳された時に突然大きく変わったか。亜細亜の漢字はとてもおかしい。価値のない、狭い地域というのは、あまりあの時代のイエズス会のアジア観に当たらない。漢字で書いた亜細亜の地名はマッテオ・リッチが一五八四年に描いた世界図の中に初めて出ている(図7)。リッチはその時中国に来たばかりで、まだあまり中国語は出来なかった。だから彼は自分で地名の翻訳をしなかったのだろう。中国人の友人が手伝ったし、中国人の官僚「司賓」が一番最後にリッチの地図を認めた(13)。だからリッチの地図の地名は中華的な考え方を示している。中国は中原で、亜細亜という地域に入れるというような考え方は無理だった。中国を中心に考えようとした(図8)。つまり、西から来た変な坊さんのかっこうをしていた仏郎機(フランキ)が下手な中国語で語った「Asia」という地域はやはり東夷南蛮西戎北荻、倭寇等の野蛮人が住んでいた、大明帝国の周りにあった価値の少ない、狭い地域であった。そのように考えると、亜細亜の漢字名は理解出来る。
また、亜細亜の西の境は全くなかった。中国の古い地理意識には外の境はなかったからである。実際、リッチの一五八四年の世界図にはまだ歐邏巴の地名はなかった。中国の官僚はヨーロッパ人が自らに対して使っていた地名と民族名を認めなかった。だからあの地図ではヨーロッパも亜細亜の内にあった。 
5 ロシアのアジア

 

十五世紀から十七世紀にかけてモスクワ公国が少しずつモンゴルの勢力から自由になり、自分の勢力圏を広げて、ロシアの小さな公国を統一した。オルトドクス(正教会)であっても、キリスト教国としてイスラム教のモンゴルと戦ったので、やがて西ヨーロッパでロシアのイメージが変わってきた。十七世紀の終わりにピョートル一世が「脱亜入欧」の政策を始めた。一六九七年にインコグニト(変名)でオランダを訪ね、後に大勢の留学生を西ヨーロッパに派遣し、新しい技術、知識をロシアに導入し、専門家等を招いた。ロシア国土全体も西の方に動かした。つまり、何回もスウェーデンと戦争をし、ロシア国土をバルト海の海岸まで広げ、新しい首都をネバ川の河口に建てた。概念としてもロシアをヨーロッパに動かした。ロシアの地理学者に「新しい地図を書け」という命令をした。従って、一七三○年代にワシリ・タチシチェフ(VasiliTatishchev)が新しい地理学議論を興した。アジアとヨーロッパの境は水で決めるのは意味がなく、ウラル山脈の方が自然的な境である(14)。
スウェーデン人のフィリップ・ユーハン・ストラーレンバリ(PhilipJohanStrahlenberg)という士官が一七○九年に捕虜になり、長い間シベリアで過ごし、新しいロシア地理学を学んだ。スウェーデンに帰国してかその新しいヨーロッパ概念をヨーロッパの地理学者たちに伝えたが、定説にはならなかった。十八世紀、十九世紀中頃これについての議論が盛んにあった。本来地理学的に見ればアジアとヨーロッパは別の大陸ではない。境をウラルに置くのは政治的な意味があっても、地理学的な意味はなかった。ヨーロッパは小さく、アジアは大きいので、大陸全体にアジアという名を付けたら良いという議論もあった。アジアは大陸であり、スカンジナヴィア、ヨーロッパ、アラビア、インド、中国とインドシナは全部半島という意見もけっこう強かったが、一八八五年にチェコ人のスエス(E.Suess)という地理学者がユーラシア大陸という地名を作ってから議論が少なくなった(15)(図9)。
このようにロシアが脱亜入歐を果たし、新しいヨーロッパの代表者としてヨーロッパ文明をアジアに広げた(16)。この過程の一つの結果としてアジアの西の境も北の境も不明になった。学校の地理学の教科書を別にして、地理学的なアジア解釈はもうこれから意味がなくなった。政治的、経済的、民族学的、言語学的な解釈しか意味はない。エドワード・サイードの「オリエンタリズム」のような論文にこの新しい十九世紀のアジア解釈が詳しく研究されているが、英語で出ている本は大体全部西欧と南欧のことしか語らない。中欧と北欧のことはそれほど知られていないだろう。
第7図マッテオ・リッチの1584年の輿地山海全図。岡本良知(昭和48年)
第8図中国地理学的な亜細亜観
第9図地球半球総図部分寛政6年=1794年船越昭生(1986年) 
6 芬人のアジアの旅

 

地理学上でアジアの西の境が東に動いたが、同時にその境は民族学上で西に移った。言語学の研究は特に十九世紀になってから発達した。それまでヨーロッパに色々な言葉があることを気にしなかった。神が人類の言葉を混合したというバイブルの一つの物語によってこれを当然のこととして考えた。しかし、一八〇〇年代にインド・アリアン語族の形が少しずつ見えて来た。ハンガリー人とエストニア人も同じであるが、特にフィンランド人がアジアに関係のありそうな変わった言葉を話している(例1)ということは大きいセンセーションになった。一八五三−五五年にフランス人のデゴビネー(A.deGobineau)がアリアン論を出版した。その中にleFinnoisがヨーロッパの中のモンゴル人としてよく出てきた。この説は第二次世界大戦の後消えたと思ったが、そうではなく、一九八四年出版の「大漢和辞典」にまだ出ている。
【芬人】種族の名。亜州人種の一派。欧州の芬蘭にをり、頭は大きく圓く、顔面は扁平、顴骨は隆起してゐる。Finnsの譯(17)。
例1日本語と芬語の比較どちらも膠着言語で前置詞を使わずに名詞の後に文法を表す助詞を付ける。例の場合には助詞の発音がにているし、意味がほぼ同じである。
これはほとんどデゴビネーの説だが、彼によればフィンランド人の頭は圓くはなく、四角形であったし、髪の毛が黒く、目がつり上がった形で、身長は一五〇センチぐらいであった。性格は愚かで野蛮。実際にはフィン人は統計学上のノルウェー人とスウェーデン人に続く世界三番目の金髪を持つ民族で、頭の形と身長の面でも他の北欧の人種とは違わないが、デゴビネーは一人も本当のフィン人を見ないで、どこかからもらった頭蓋骨だけで研究した。
一八七〇年の独仏戦争の後でアリアン論が一般的になった。戦争中に自分の研究室が被害を受けたフランス人のデクアトロファージュ(A.deQuatrefages)という民族学教授が、ドイツ人はアリアン人ではなく粗暴フィン人だと騒ぎ始めてから大きなFinnenfrage(芬人論)という議論になった。つまり、ドイツ人はどこまで野蛮なモンゴル人か、どこまで清潔なアリアン人か。やはりドイツ人もアリアン人になりたくて自分より東にある民族をモンゴル人と呼び始めた(18)。その議論からHomoEuropaeusの概念が一般の人の間に広がった。つまりヨーロッパ人が人類の一番優れた民族で、他の民族全てに戦いで勝ち生き残る。ヒットラーの第二次大戦中の民族政策はこの芬人論の一つの結果である。
ヨーロッパとアジアの人種的な対立の議論は一八〇〇年代の終わりごろに一番激しかった。日本と中国に対する「黄禍論」はある意味で芬人論の続きであった。ヘルマン・クナックフス(HermannKnackhu■)が一八九五年にウィルヘルム二世独国皇帝が日中戦争の時想像した黄禍(diegelbeGefahr)という絵を描き、そしてウィルヘルム二世がそれをいとこのニコライ二世露国皇帝に送った。仏像の形をした日本が脅威としてヨーロッパの東の地平線の上に上がるという、この絵はヨーロッパでとても人気になり、幾つかの新聞記事となり、また模倣された。
アリアン論の中にはアリアン人は美しく、亜細亜人は醜い。民族学論文でこのことを写真で証明した。つまり亜細亜人の場合には仕事の途中で撮ったなるべく汚い恰好をした肉体労働者の写真を本に入れた。日本の場合にはこのやり方は日露戦争で変わり、上流階級の若くて美しい女の子の写真を使い始めた。日本人は美しい民族としての印象に戻った。軽蔑されたアジア人種としてヨーロッパにいるのは難しかったので、フィン人もヨーロッパに帰りたかった。ヨーロッパに帰る為にボルドもビューティフルでなければならなかった。フィン人の場合には適当な戦争まで時期を待つのは日本よりもっと時間がかかった。一九一七年の独立戦争は影響なかった。ロシアにはもう実際の中央権力はなかったので、大体フィンランド国内の白軍と赤軍の戦いだけだった。一九二〇年代のフィンランドでどんなところがビューティー・コンテストに進み始めたかというと、外務省だった。その外務省が美しい芬女の写真をヨーロッパ中の新聞と雑誌に送った。結局一九三九−四〇年の冬戦争でフィンランドがソ連と共同で、十分な戦力を示したのでこの別嬪外交はもう必要なくなった(19)。
民族学的なアジア論の中でアジアの西の境は幾つもあった。つまり、「アジア的」ということに幾つかのグレイドがあった。北西ヨーロッパ、つまりノルウェーとスウェーデン人はほとんど純血なアリアン人として認められた。フィンランドととスウェーデンの間にあるボトニア湾が北欧でのアジアの西の境であった。イギリスも割とピュアーであった。今でもイギリス人は「TheWOGSbeginatCalais」という表現を知っている(20)。フランスとドイツ、ドイツ・オーストリアとポーランド・チェコ・ハンガリー等、それらの国々とロシアの間、そしてまたロシアの国内にある程度のアジアの西の境があった。 
7 東

 

「アジア」、「オリエント」と「東」は意味として似ている。一八〇〇年代の西ヨーロッパから見れば全部ある程度ヨーロッパの外、日の出の方にある地域を示している。しかし、意味が少し違った。民族学の「アジア的」は一番広い意味があったが、「アジア」の意味がそれより狭く地理学的な意味に限られていた。。「東」と「オリエント」の方が広かった。
「東」と「西」の元々の区別はキリスト教内の区別であった。現在でもヨーロッパの中にその宗教と文化的な境が残っている。その線の両側に幾つかの民族が分かれている。北から言えばフィンランド人はまずスウェーデンからカトリック教とその後ルター派プロテスタント教を受け、「西」にいる。千年前のカトレア人は同じフィン人であったが、ロシアからオルトドクス教を受け、今「東」にいる。エストニア人とセテュ人は同じように分かれている。ポーランドとベラロシア、クロアチアとセルビアも同じく「西」と「東」の反対側にいる(21)。この境は宗教だけによるものではない。千年の間に元々の方言ぐらいの語学的な区別がやがて二つの違う言葉になった。家族の構造が変わり、「東」に大きい家族があり、「西」に核家族があるのが普通であった。現在の核家族とは違うが、昔から異る世代が近くにいても違う家に住むのが普通であった。農業のパターン、特に小作人が自由に経済活動を行い、自由に引っ越しが出来たか、或いは同じ土に束縛されていたかはもう一つの区別である。換言すれば、現在の「東」と「西」の区別は五〇〇年前の「ヨーロッパ」と「アジア」の区別と同じようなものである。
「オリエント」という言葉にも宗教的な意味が強い。オルトドクスキリスト教も時には「オリエント」の中に入るが、特にイスラム教の場合には「オリエント」のイメージが強い。また、オリエントの起源はラテン語のoriensなので、ラテン系の言葉では、それを普通イスラム教に対して使うが、ゲルマニック系の国語でもイスラム教に対して「東」という言葉を使う。従って、英語のNearEast’フランス語のproche-Orientとスペイン語のOrienteProximo―つまり近東、は普通北アフリカのイスラム教圏を示していた。中央ヨーロッパのドイツ、オーストリアとイタリアから見れば近東の場所が違った。ドイツ語のNaheOstenとNahostそしてイタリア語のVicinoOrienteは普通トルコ帝国の占領下のバルカン地域を示した。MiddleEast・フランス語のMoyen-Orient・スペイン語のOrienteMedio・そしてイタリア語のMedioOriente―つまり中東、は場合によって地中海の東部からアラビア半島、ペルシア、アフガニスタンと時にはインドのことを示した。ドイツ語のNaheOstenの意味にはバルカンからインドまでの地域が入っていた。「極東」は勿論「東アジア」と同じであった。第一次世界大戦の後トルコ帝国が潰れ、バルカン諸国が独立し、バルカンは少しずつオリエントの意味から外れていった。第二次世界大戦の後、北アフリカの独立した国々に対しても「近東」という言葉はあまり使われていない。それで、「近東」と「中東」の区別も意味なくなったし、「近東」がないと「極東」も意味がない。
しかし、どんなヨーロッパの国語を見ても、一八〇〇年代の「中東」と同じ意味の言葉がある。地中海の東部からパキスタンにかけて使われているMiddleEast一番普通のこの地域に関する地名である。「アジア」という地名をほとんどの場合に全く使わない。ある意味でこの地域はロシアと同じように「脱亜」をしたのだが、「入欧」はしていない。ヨーロッパでもなくアジアでもない特別なイスラム教の地域になった。ヨーロッパが弱くなってから一般のマスコミ等の分野で気がつかないうちにヨーロッパの地理学的な地名はもう大分変わってしまった。 
8 日本のアジア

 

南蛮のキリスト教を別にすれば、日本人がヨーロッパの世界観に興味を持ち始めたのは一七〇〇年代の始めからである。東洋における亜細亜の概念の歴史はほとんど全て日本だけにある。歴史的に見れば中国と朝鮮・韓国人はアジアに特別な興味を示していない。新井白石の「西洋記聞」は普通洋学とか蘭学の出発点として認められている。その関心の原因は脅威感ではなかった。出島の紅毛人を特別に危ない者として認めなかった。何故西洋の地理学に興味を持ったかというと、西洋地理学は中国地理学と違っていた。日本の国号は幾ら美しくても日本人は中国から見れば東夷とか倭人であり、儒学を幾ら学んでも文明化した東夷に過ぎない。一七〇〇年代のヨーロッパ地理学の中にこのような概念はまだあまりなかった。そして、亜細亜という漢字が悪いということに気がついた。その漢字はヨーロッパ人が付けた字だと思い、亜細亜を軽蔑的な地名と思った。亜細亜人になる気はなかった(22)。
それにもかかわらず、西洋地理学に興味があった。鎖国時代に書かれた西洋式の世界図はけっこうある。普通はマッテオ・リッチの世界図を元にして描かれたものである。全部がそうではないが、幾つかの地図の特徴は亜細亜の西の境である。例えばこの一七八八年ごろに書かれた世界図にその日本的なアジア解釈が見える(図10)。もし日本がアジアの国であれば、アジアは他にどんな国々があるだろうか。アジアに日本、唐土、天竺、朝鮮等があると特別に書いてある。つまり、昔から日本と関係があった中国印度文化圏だけをアジアに入れている。ヨーロッパ製の地図にアジアとヨーロッパの境が北から南に走ったので、この地図にもシベリアが大きく入ったが、アラビア半島はヨーロッパの側に置いてある(図11)。自分に関係がないイスラム教の地域を自分の仲間に入れる意味がない。
第10図長久保赤水の地球万国山海輿地全図説、1788年頃
第11図稲垣子■、坤輿全図、1802年
日本は一八五四年に開国をして、一八六八年に明治維新を行い、一五〇年前のロシアと同じような脱亜入欧政策をしていた。アジアに関心が戻ったのは岡倉天心の時である。一九〇二年インドで書かれた「東洋の理想」の最初の文章は有名になった―アジアは一つである(23)。
しかし、天心のアジアに何が入っていたか。ある意味で天心のアジアは非ヨーロッパであった。ロシアのシベリアを除けば全部入っていた。日本人もアラブ人も、モンゴル人もシャム人も。しかし、同じ程度では入っていなかった。西洋人がヨーロッパにプライドがあったと同じように天心もアジアのことを誇りに思った。西洋人がアリアン論でヨーロッパを格付けしたと同じように天心もアジアにグレイドを付けた。ある所にアジアの性質は強かったが、ある所に弱かった。天心のアジア論の中で一番アジア的な国はやはりアジアの博物館としての日本であった。その次が中国とインドであった。イスラム教について天心は次のように述べた。
イスラム文化自体、いわば騎馬にまたがり、剣を手にした儒教だと見なすことも出来る。
この文章は美しいが、意味ははっきり分からない。イスラム教は剣を手に取ると、どうして儒教的になるか。実際にはこの文章は意味と関係がない。その例えだけが大事である。天心はその例えで儒教とイスラム教の間にレトリックなリンクを作り、イスラムもアジアの内に引っ張る。イスラム教はこの意味のはっきりしない文章の力で天心のアジアに入った。だからイスラム教はあまり強くアジア的ではなかった。一番弱いグレイドのアジアであった。
天心は「東洋」と「アジア」を同じ意味で使った。本のタイトルはアジアの理想ではなく、東洋の理想だったので、東洋という意味の方が強かったと判断しても間違いではないだろう。同じ一九〇二年に同じインドで書いた「東洋の覚醒」でもアジアの西の境は地中海にあった。この本の中で天心は汎アジア同盟という表現も使った(24)。その同盟の中にヨーロッパと戦う為のイスラムの国々があってもいい。しかし、今回の話もまたそれで終わった。イスラム教はヨーロッパ的に見たアジアに入っても、日本から見た東洋に入れる理由はなかった。
ボストンで一九〇四年の日露戦争の時に書いた「日本の覚醒」では天心の議論のしかたが変わった。アジアとヨーロッパの対立をなくして、文明と野蛮の対立を使い始めた(25)。この変化でイスラム教もモンゴル系人もアジアから落ちた。アジアと東洋の他に同じ地域に対して「仏教国」という言葉も使った(26)。仏教国は複数ではなく、単数の言葉である。元の英語の本ではBuddhalandという言葉を使った。仏教国は仏教の影響を受けた地域の意味を持ち、平和的な文化圏であった。イスラム教、モンゴル民族、そしてロシア帝国はこのアジアの文化圏の周りにある野蛮な性格を持った軍事的な脅威に過ぎなかった。アジアは一つといっても、天心のアジアはヨーロッパで想像していた非ヨーロッパとは完全に違った。日本人の立場から地域的な仲間の絵を描き、その絵の上にアジアという名を付けた。この解釈でアジアという隠喩にとても良い意味が入った。同時に、アジアの西の境がどんどん東の方に、つまり中国とインドの境のところに移った。或いは、鎖国時代の世界図を考えると、天心がインドに住んでいた間だけ西の方に広げ、インドを離れた時にまた仏教、儒教と道教の地域に戻った。 
9 汎アジア同盟

 

天心が英語で書いた本を日本語に訳したのは一九二二年だった。そして「東洋の覚醒」は皇紀二六〇〇年、つまり西暦一九三九年に日本語で出版された。だから一九〇〇年代の初め頃には天心の影響は日本であまりおおきくなかった。にもかかわらず、天心と同じようなアジアの評価を高め、アジア人の交流を促進させる意見と運動は特に日露戦争の後発生した。特に大事なのは亜州和親会であった。中国、朝鮮、ベトナム、フィリピン、インドなどのアジアの国から留学生が日本に流れて来た。日本の経済発展、ヨーロッパ帝国主義の扱い方、技術などを熱心に勉強した。亜州和親会の中でヨーロッパ帝国主義に抵抗するアジアのリーダーとして日本という概念が発生した(27)。この時始めて「アジア人」は自分の地域に対して「アジア」という地名を使い始めたが、実際には他の地名はなかった。フィリピンからインドまでという地域はここまで協力をしたことはなかったので、自らの地名もなかった。ヨーロッパ製の地名だけが存在していた。日本も欧米に対して何かの同盟を作りたかったので、「アジア」という言葉を使い、「脱欧入亜」の方向に動いた。
中国の孫文、そしてインドの独立運動リーダーのラシュ・ビハリ・ボゼ(RashBihariBose)が日本で過ごした。フィリピンの独立運動も同じように個人的に日本から支持された。亜州といっても、天心のアジア観と同じように、この頃の具体的な交流はあまりイスラム圏まで達しなかった。大東亜戦争の時日本軍が汎アジア同盟のスローガンをうまく利用した。ヨーロッパの国々の植民地軍のアジア人兵士は日本軍にあまり抵抗しなかった。少なくともヨーロッパ反対の意味で精神的な汎アジア同盟は存在したし、日本軍はその利益を受けた。しかし、大東亜共栄圏の暮らしは大変苦しかった。そして日本は結局戦争で負けた。それでこの日本がリードしたアジア同盟の過程が終わってしまった。特に日本占領下にあった国々にとって「アジア」という言葉の意味は悪かった。 
10 アジア協力

 

しかし、アジア同盟、或いはもっと小さな意味でいえばアジア協力の概念は消えなかった。日本は合衆国占領下にあり、中国は内戦の方向に向かっていたので、インドが新しいアジアのリーダーとしての役に上がった。第二次世界大戦後アジアとヨーロッパはある意味で二百年ぶりに同じ位置にあった。どちらも貧乏で飢えに苦しんでいた。国連が一九四六年に合衆国の食糧援助を分配する為にTheEconomicCommissionforEurope(ECE、欧州経済委員会)を設立した。インドはアジアにも同じような委員会を作る為にアジアにディプロマティックな力を注いだ。同じ一九四六年に国連がTheEconomicCommissionforAsia(ECA、亜州経済委員会)を設立する決定をした。アジアとヨーロッパは同じレベルの地域として認められた。しかし、幾つかの国が「アジア」の地名を嫌っていた。特にフィリピン、中国と韓国の代表者がアジアではなく、極東(FarEast)の方が自分の国に対して好ましい地域名だと発表した。それで結局一九四七年に上海で集まった委員会の名はTheEconomicCommissionforAsiaandtheFarEast(ECAFE、亜州極東経済委員会)になった(28)。アジアの意味は悪かったので、その地名だけを使って必要な経済援助の為の委員会は作れなかった。
一九四七年から激しくなってきた冷戦のせいで地名の使い方がまた変わった。資本主義側と社会主義側は別なキャンプになり、別な用語を使った。社会主義圏の国々、特に中国と北朝鮮はアジアというよりも社会主義圏の一員になった。ヨーロッパでは冷戦のせいでECEの活動の場がなくなった。それで一九四七年にパリでOrganizationforEuropeanEconomicCooperation(OEEC、欧州経済協力会議)が設立された。インドはアジアに同じような会議を作りたかった。一九五五年に結局アイゼンハワー合衆国大統領がアジアのマーシャル・プランの提案をした。それでインドが速くOrganizationforAsianEconomicCooperation(OAEC、亜州経済協力会議)を設立する為に共産主義でないアジアの国々の代表者をシムラという町に誘った。しかし、OAECは作れなかった。会議に参加した国々の意見がアジェンダの一つのことについても一致しなかった(29)。アジアは地域的なユニットではなかった。お互いにけんかをしていた国々に対する地名だけであった。
この時期のアジアの西の境を探すのは難しい。アジアの意味ははっきりしていなかったし、地域名に対する関心が低かったので、その境も不明だった。その地名を強く使った一つの国際会議が一九五五年に開かれた。インドだけではなく、他の国にもヨーロッパと競争する態度があった。そして、一九五〇年代に独立したアジアとアフリカの国々に欧米の新帝国主義反対の議論も増えて来た。シムラ会議が駄目になったので、インドネシアのバンドンという町で新しい非欧米・非軍事大国の会議が開かれた。この会議の準備の中心にインドとエジプトがあった。エジプトはアフリカの国なので、アフリカ全体の独立した国々を会議に誘った。それで、アジア・アフリカ会議が行われた。全部の国々が非大国・非帝国主義の態度を取っていたので、会議は割とうまく行った。お互いにアジア・アフリカ人同士で貿易圏を作り、経済、技術と文化の協力を行い、自分の力で経済発展に向かおうというような意見が強かった。しかし、工業技術を持たず、経済力もほとんどなかったので、この会議の具体的な成果はあまりなかった。そして、アラブ・イスラム教の人々は自分のことをアジア人でもアフリカ人でもないというふうに考えている。この後も幾つかの会議があった。最初はアジア・アフリカ・アラブ会議という名を利用しようとしていたのだが、結局地域名を使うのを全くやめた。最初の会議のことを今ほとんど誰もアジア・アフリカ会議として覚えていない。バンドン会議という名に変わった。会議の過程でどんどん新しい国も参加した。一九六〇年代になると、ヨーロッパのユーゴスラビアとアメリカのキューバが入ると、世界的な会議になり、非同盟運動として知られてきた。一九七〇年代にヨーロッパのフィンランドとスウェーデンもニュートラルなオブザーバーとして参加した。だから結局この会議はアジアに特別な関係がなかった。冷戦下のこの運動の中のアジアには境はなかった。境なしで全世界に溶け込んだ。
欧米日の一九五〇−六〇年代の学問的な論文とマスコミの印象を読むと、アジアの意味は何かというと、大体東南アジアと同じだった。フランスの地理・民俗学者コンラード・マルテ・ブルーン(ConradMalte-Brun)が一八三七年に南東アジア(AsieduSud-Est)という地名を作った。この地名には文化的意味があった。つまり、インドと中国は自立した文明圏として認められたが、中国の南とインドの東にある地域には特別な自分の文化はなかった(30)。一八〇〇年代にそれはあまり使われていなかったが、一九四三年に大英軍がセイロンに南東アジア司令部(South-EastAsiaCommand)を対日戦争の為に作った。これで東南アジアの西の境は不明になった。司令部はインド圏にあり、目的も主にインドの防衛であった。そして、アメリカのマスコミが第二次大戦の時に一般に知られている地名にした。戦後のイギリスの前植民地に対する経済協力を管理する会議もセイロンにあり、この会議はコロンボ・プランという名前であった。アジア自身の経済協力がうまく行かなかったので、結局一九五〇年代にコロンボ・プランが経済発展援助の中心部になった。合衆国もお金を出し、イギリスに関係がない東南アジアの国々も参加した。地理学的にはインド、パキスタンとスリ・ランカは南アジアだが、この頃南アジアと東南アジアの区別ははっきりされていなかった。国建ての問題と経済発展の問題は同じだったので、一つの地域として考えられた。一九五四年に合衆国の指導で設立されたSoutheastAsiaTreatyOrganization(SEATO、東南アジア条約機構)の参加国はタイ、ラオス、カンボジア、南ベトナムとフィリピンであったが、パキスタンも加盟国であった。南アジアと東南アジアはあまり区別はなかった(31)。
この頃の一番有名なアジアに対する表現はスウェーデンのグンナル・ミュルダール(GunnarMyrdal)という経済学者が一九五〇年代の終わりに作った「アジアのドラマ」であった(32)。ミュルダールのアジアはやはりインドと東南アジアを一緒にした地域であった。とての貧しくて、経済発展をしようとしても進歩はほとんどなく、暗い将来しか持てないので、アジアのイメージはとても可愛そうであった。日本の経済学者の意見はそれほどペシミスチックではなかったが、日本人にとってもアジアは貧しい後進国の地域であった。地名の使い方も欧米と同じで、日本の東南アジアはインドネシアからパキスタンとアフガニスタンまであり、韓国と台湾もよく東南アジアの内に入れた。日本自身はアジアの国よりも「西側の一員」であり、アジアの国々とあまり関係がなく、アジアから遠く離れた国であった(33)。
一九四〇−一九六〇年代の地域協力の面でアジアの境がはっきり見付からなくても、イメージの面で一つの解釈が出来る。アジアはイメージが悪い可愛そうな地域なので、先進的な国にはアジアでないという自己意識を使った。だからアジアは非ヨーロッパ、非社会主義、非中近東、非日本というユーラシア大陸の喧嘩っぽい部分であった。ユニットではなかった。 
11 太平洋のアジア

 

一九六〇年代に新しい種類の地域協力運動が少しずつ出てきた。一九六七年にAssociationofSoutheastNations(ASEAN、東南アジア諸国連合)が設立された。参加国はタイ、マレーシア、フィリピン、シンガポールとインドネシアであった。その頃はあまり大事な連合体として認められなかったが、少なくともこれで東南アジアは南アジアから概念的に離れた。アジアは駄目なイメージがあったので、アジア協力の話は全て消えた。代って、太平洋協力が新しい話題になった。韓国は一九六六年にAsianandPacificCouncil(ASPAC、アジア・太平洋協議会)というものを日本、台湾、タイ、フィリピン、南ベトナム、オーストラリアとニュージーランドで作ったが、冷戦に参加する協議会であったので、日本とオーストラリアはあまり興味を示さなかった。特に日本はアジアよりもはるかに太平洋n方に向かっていた。一九六七年の三木武夫外務大臣が発表したPacificFreeTradeArea(PAFTA、太平洋自由貿易地域)の提案は日本のオリエンテーションを示した。日本はどんな国と自由貿易をしたかったかというと、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアとニュージーランドであった。PAFTAは結局作れなくてもその概念は強く一九七〇年代にいわゆる環太平洋の国々の学者と官僚の間で議論されていた(34)。
日本はその頃高度経済成長であった。香港、台湾、韓国とシンガポールも経済成長を進めていたし、東南アジア地域でも一九七〇年代に成長率が少しずつ上の方に向かっていた。この経済過程の上に一九八〇年にPacificEconomicCooperationConference(PECC、太平洋経済協力会議)が設立された。参加国は日本、韓国、合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドとASEAN諸国であった。西太平洋の国々という言い方もあった。同時にとてもオプチミスチックな「太平洋時代」と「二十一世紀は太平洋の世紀」というようなスローガンが論文とマスコミの中で流れていた。ASEANの場合にも「東南アジア」というイメージが弱まった。「ASEAN」とカタカナの「アセアン」が地域名としても使われていた。一九四六年に設立されたECAFEも名前を変え、EconomicandSocialCommissionforAsiaandthePacific(ESCAP、アジア太平洋経済社会委員会)になった。日本はもう前から太平洋の国で、そして韓国とアセアンも十年間ぐらい「脱亜入太平洋」の傾向を示していた。時間として短かったが、イメージ的に南アジアとの関係は切れてしまった。経済的にはとてもダイナミックな明るい将来のイメージに変わった(35)。
しかし、成功と一緒に自信も出てきた。そして自信だけでなく、域外からの賞賛と批判も出てきた。雁行形態発展論的な「アジアの新工業化国」、「アジアン・ニックス」、「アジアン・ドラゴン」、「アジアン・タイガー」等のような表現は特に一九八〇年代の終わりころに欧米から飛び始めた。同時に合衆国との経済摩擦が激しくなり、色々な経済に関する衝突があり、労働者状態等についても批判が欧米から出た。また中国も一九八〇年代に強く地域的な経済協力の中に入り、高度経済成長の波にのり、地域のオプチミスチックな雰囲気に加わった。しかし、中国は西太平洋という地域名には乗らなかった。自己意識は「海国」ではなく「陸国」であった。そして、経済成長、先進国からの直接投資等を求めてもアメリカとかオーストラリアとは同じ運命圏の仲間であるという意識はあまりなかった。太平洋よりも中国の運命圏は東アジアの隣国であった。第二次世界大戦の前の日本と同じように欧米ソ連圏と違う仲間を作る為に中国、そして中華系の学者が「西太平洋」の代わりに「アジア」という言葉を使い始めた。欧米との経済摩擦中のアニックス、アセアン諸国と日本もアジアに新しい興味を示していた。それで一九八〇年代の中旬ころから西太平洋という呼び方は静かに消えてしまった。この地域の国々はアジアに戻った。
しかし、同時にアジアという隠喩の意味がまた大きく変わった。素晴らしい経済発展のダイナミックはイメージが隠喩に加わり、貧しく可愛そうなイメージがインド圏だけに残った。従って、アセアンも簡単に東南アジアだけに帰ったわけではない。日本も一九八〇年代に同じアジアの船に乗り始めた。一九八六年安部晋太郎外務大臣がアセアン訪問中の発表で「東南アジア」という地名を止め、「東アジア」を使い始めた(36)。換言すれば、安部がこの隠喩でアセアンを日本と同じ仲間に入れた。その後他の日本の政治家も同じ表現をアセアン訪問中に使った。
一九九〇年代は一九九七年まで特にアジアの時期であった。マハティール・マレーシア首相が一九九一年にEastAsianEconomicGroup(EAEG、東アジア経済グループ)の提案をし、アセアン、日本、中国と韓国だけの経済協力圏を作ろうとしていた。太平洋時代は一九九四年からアジアの時代とアジアの世紀に変わった(37)。この経済発展の勢いと、とても面白い議論の中で研究者もマスコミも南アジアの可愛そうな話を出来るだけ避け、東アジアだけに興味を示した。だから今日のアジアのイメージは主に東アジアにある。日本にとってこれはある意味で自然な話し方である。日本の外務省は一九九〇年の「我が外交の近況」にこのようなアジア図を使い始めた。これは鎖国時代のアジア図と岡倉天心のアジア観にとても似ている。パキスタン、インド、中国、フィリピン、マレーシアとインドネシアと共にイスラム教も少し入っているが、それほど強くは入っていない。モンゴル民族も少ししか入っていない。経済と外交の面で見てもアジアは日本の解釈で昔の中国とインドの文化圏と同じである。二〇〇年が経っても大して変わらない。オーストラリアもニュージーランドも西太平洋の国なので同じアジア図の中に入っている(図12)。一九九五年にガレー・エヴァンス(GarethEvans)オーストラリア外務大臣が「アジアの国としてのオーストラリア」という政策さえ出した。だから、この日本の解釈ではアジアの西の境は中国とパキスタンの西の国境である。
第12図アジアおよび大洋州外務省(1999) 
12 終わりに

 

この四五〇〇年間にアジアという隠喩は世界中に広がり、色々な意味を含んでいた。アッカド帝国の「日の出」からギリシア地理学の大陸名に移った。アリストテレスのペルシャに対する政治論から中世キリスト教の一番尊敬された神聖な方向に。イエズス会員の文明圏から中国地理学の夷が放浪する狭い地帯に、そしてアリアン論のモンゴル黄禍の発生地区に。天心の文明圏から大東亜共栄圏に。貧しく可愛そうな後進国地帯から今日の経済危機から再び立ち上がろうとするダイナミックな経済発展の協力圏に。
隠喩の内容によってアジアの西の境も激しく動いた。アナトリアから神話の川に、ポーランドの国境からウラル山脈に、民族学的にはイギリス海峡まで広げ、日本的な解釈で東洋と同じ文化圏になった。アジアは色々である。
これからの変化も激しいかもしれない。一方、アジアの意味が広がる傾向が見られる。つまり十五年前にほとんど使われていなかった中央アジアは今日普通の言葉になっている。ロシアの国内政治がうまく行くかどうかということによって北アジアと西アジアが見えて来る可能性もある。ロシアが小さな部分に分かれれば、ロシアという国号が使えなくなるので、アジアの名を使う可能性が高い。
他方、アジアの意味が狭くなる傾向も考えられる。ヨーロッパ地理学では昔の地中海に意味があったが、今のユーラシア大陸に対してその地理学の地名はあまり意味がない。二〇〇年前、一〇〇年前ヨーロッパが強かったころヨーロッパ人が自分の地理学を力強く世界中に広げたが、その後はヨーロッパは比較的弱まりの道を歩いていた。人口のことだけを見れば、国連の数字によると、ユーラシアで今五人の中の一人がヨーロッパ人であるが、二一五〇年には十人の中の一人だけがヨーロッパ人ということが予想される。中近東のアラブ・イスラム地域はもうあまりアジアの概念に入っていない。ロシアが大国として生き残ればアジアの意味を広げる必要はない。東アジアではアジアの概念はそんなに深くはない。中国人は今でも「亜細亜」にあまり興味がない。
柳、杉、楢、山桜、檜、榛の木等が沢山あれば「林」とか「森」という言葉が必要である。そのような上のレベルのよりアブストラクトな言葉がないと、樹木名を会話にならない程沢山箇々に言わなければいけない。同じように、東アジアに地域的な国際協力の過程があれば何かの地域名が必要である。アジアは今そのアブストラクトなカテゴリーとして使われている(38)。この意味でアジアは掛け布団である。この地域の国々の上に置いてある薄いカバーだけである。しかし、「東土」、「東洋」、「仏教国」、「西太平洋」、「文明圏」、「中原」等のような色々な地域名が歴史の中で見られる。欲しければ新しい地名も簡単に作れる。換言すれば、掛け布団を替えることが出来る。どんな隠喩を選んでもその中に入る仲間がいつも違うし、それによって政治的な問題も起きる。にもかかわらず、今から一〇〇年後に「アジア」は普通の言葉かあるいは歴史学者だけが使う言葉かということは分からない。全く不明である。 

 

(1)フィンランド、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、イギリス、アイルランド、フランス、ポルトガル、スペイン、イタリア、オーストリア、ギリシャ。欧州十五ヵ国という言い方もある。
(2)タイ、ベトナム、マレーシア、フィリピン、シンガポール、ブルネイとインドネシア。日本、韓国、中国とASEAN七ヵ国のことをアジア十ヵ国ともいう。
(3)これは中央アジア研究所の解釈である、ロシア語のCpeдняяAэияも同じソ連から独立した国々のことを表す。しかし、Harvard Forum for Central Asian Studies はもっと広い解釈でロシアのトルコ系人が住んでいる地域とイスラム教が主な宗教である地域を中央アジアに含む。つまりチェチェン、ダゲスタン、イングシェチア等も入る。タタルスタンを含むと、中央アジアはほとんどモスクワまである。同内容かそれに近い地名はいくつもある。
(4)LakoffandJohnson1980.
(5)Klein1968.
(6)Wessen1968.
(7)アリストテレス、政治学VII・7
(8)Mikkeli1993.
(9)Mappaemundiは複数で、一枚の地図に対する単数はmappamundiである。
(10)Delanty1995,36-7.
(11)Laitila1995;Mikkeli1995.
(12)セメード1983,315.
(13)この説明はリッチの一六〇二年に出版された「坤輿萬國全圖」の前書きに出ている;利瑪竇1996を見よ。
(14)Neumann1996,11-12.
(15)Mikkelli1993.
(16)Hauner1990.
(17)日本人に芬の漢字を教えると、やはり芬人はフン族の内に入っているのでこの漢字を付けたと思うらしいが、これは誤りである。当て字に過ぎない。この字を始めて使ったのは中国人の徐繼畭という地理学者。一八四八年に出版された「瀛環志略」という本の中に出ているが、フィン人議論より前の論文であるし、中国人なので、徐にとっては「芬」と「匈奴」は関係なかった。ハンガリーに匈牙利という漢字の国号をつけたが、実際にハンガリー人も匈奴には関係がない。同じ東から来た強力な民族だから、中欧で新しいフンとして考えられただけである。
(18)Kemilainen1993.
(19)Kemilainen1993.
(20)WOGというのは「wily Oriental Gentleman」、つまり狡い東洋人を意味している。
(21)Kirkinen1995,92.
(22)松田1998、42-3
(23)岡倉1980、14
(24)岡倉1980、163
(25)岡倉1998、128
(26)岡倉1980、179
(27)松本1994、11-13、114-8
(28)Singh1966,18-25
(29)大来一九五六、22-27
(30)Brocheux1994;Brunet1995.
(31)Emmerson1984.
(32)G.ミュルダール1974
(33)渡辺1992、78-95
(34)Korhonen1994.
(35)Korhonen1998.
(36)安部1987
(37)石原とマハティール1994
(38)金貞禮助教授のアイデア
使用テキスト
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オセアニアの島々のイメージ形成をめぐって

 

1 はじめに
日文研フォーラムで京都の皆様にお話しする貴重な機会をいただきとても嬉しく思っております。今日発表させていただくのは「オセアニアの島々のイメージ形成をめぐって」というテーマですから、「オセアニア」の定義から始めたいと思います。
オセアニアとは、大洋(大きな海)の国という意味で、大洋州ともいいます。「オセアニア」の名称が使用されたのは一八世紀以降とされていますが、一般には、ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの太平洋諸島とオーストラリア大陸の四領域の総称です。特に政治的、経済的な意味でオセアニアはこの四つの領域に限られています。しかし、『日本大百科全書』によると、オセアニアが示す範囲は一定していません。
最も広い意味では、オセアニアは太平洋上の全陸地を指しますから、日本もその地域に入っているわけです。私は今日の発表では、この広い意味でオセアニアを捉え、そして日本を中心にこの地域について考えてみます。ただし、日本がオセアニアの一部であるとは納得していただけない場合には、べつに日本を中心にしなくてもよく、ただ太平洋のもう一つの島国としてオセアニアと対照的、比較的に考えていただいたらよいと思います。
西洋による植民地化政策を前にした一八世紀前半期に、指示語として付与された「オセアニア」という名称にはもう一つの問題が潜んでいます。それは単に大洋の国という意味だけであって、太平洋以外にも大きい海があるわけですから、どの大洋を示しているのか、その海の非帰属性や非限定性を表わしてしまっています。けれども「太平洋」が地球の表面積のおよそ三分の一を占めて、世界で一番大きな海洋であるのは確かなことです。北極圏、すなわちベーリング海峡から南極圏に達し、東方では、南北アメリカの川々を呑み、西方はアジア、オーストラリア大陸の岸を洗う広大な海面です。
これまで私がよく聞かれるのは、どうして太平洋と関係のないリトアニアの人が、オセアニアに興味をもっているのかということです。実は、初めてポリネシアの神話を読んだとき、その「進化型」の開闢譚には日本の神話と多くの類似点が見出されると分りました。そして、日本にもある、島が独立した世界として創られ、生まれたという国生み、国造り、国釣りなどの創世譚は、太平洋の諸民族の神話に共通しているのです。
日本の文化は、四世紀ごろから中国・朝鮮を経由して、西域から来た大陸風の要素をたくさん取り入れ始めました。一般に、島々の住民は、海の環境に囲まれているため、大陸に住む人々には味わえない観念を数多く持っています。島国の日本でも、生活、習慣、考え方などの点で、太平洋のほかの島々の精神文化とも繋がりが深かったでしょう。つまり、神話にある共通性は、日本とポリネシアとが何らかの直接的交流があったことを意味するよりも、島民の考え方に親近性があったことを証明しているのかも知れません。
そういえば、私が一番関心を持っているのは、いわゆる島国の思想です。私が日本語を勉強し始めたのはちょうど二十年前のことですが、その最初の日に、日本は細長い島国だということを聞きました。日本人の生活と、その生活に密着した世界観が、ほかの文化とは違う、特殊な性格であることを強調される場合に、それは島国であるから、あるいは島国の特徴であるという説明で終ることが多いのです。本当にそうなのか、その説明は簡単すぎないか、いつも疑問に思っていました。
なぜなら、島国は、島国といっても、海洋の国、つまり、海国でもあります。ところが、どうして日本は海国より島国として捉えられがちなのでしょうか。日本人自身も、鎖国の後遺症もあるのかもしれないが、日本が島国であるために、海国の意識や海洋自体への認識にあまり進化が見られない、これからの日本はもっと海の教育、海の学問を大切にしながら、海国として発展しなければならないと訴えています。日本では七月の第三月曜日は「海の日」です。それは日本の国民の祝日の一つとなっています。祝日法という国民の祝日に関する法律では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことをこの祝日の趣旨としています。なんとなく海国は前向き、プラスと考えられており、島国はマイナス思考になっています。「島国根性」コンプレックスと言ってもいいかもしれませんが、このことも日本を太平洋のほかの島国と対照させて考えたいと思います。 
2 交流史から見た太平洋上の海のネットワーク

 

世界的にはオーストラリアより大きい陸地を大陸と呼び、グリーンランドより小さい陸地を島と呼んでいます。また同様に日本国内では四国より大きい陸地を本土、択捉島より小さい陸地を一般に島と呼んでいます。日本は、六八五二の島嶼から成り立っていますが、その大部分は太平洋圏にあります。太平洋は人類の共有財産になっていることでもあり、二一世紀は、「太平洋の時代」と呼ばれることがあります。これを機に、日本の「笹川太平洋島嶼国基金」は一九九七年から二〇〇四年まで八重山諸島において「やしの実大学」の事業を実施したのです。その大学は太平洋の島々の自然・文化・人々のことをみんなで学ぶためのクラスで、その目的は日本国内の島嶼理解を促進することにありました。つまり、「島で島を語る」ということです。
島に対して、「地の果て」「世界の果て」という島国孤立論があります。島には確かにまわりから孤立する一面もあるけれども、島だからこそ、周囲と非常に深い交流ができるという見方もあって、その見方はまた観点によって様々です。たとえば、遠流により島へ流された都人にとっては、恐らくその島は遥か海の向こうの蛮族の地、鬼が棲む国に見えたと考えられます。しかし、陸と陸を隔てている海は、自然の境界であると同時に交通路でもあって、特に国境の島々は、それを媒介にした文化の交差点として、他民族との関係の上で、特殊な観念的・国際交流上の位置を占めていたのです。
私にとっていわゆる「海のネットワーク」の象徴になっているのは、ハイビスカスの一種で、HibiscusglaberMatsumuraという、東京都の小笠原諸島の花です。この学名には日本人の名前が入っていることから、日本人の松村氏に因んで命名されたと推測できます。ご存じのように、「東洋のガラパゴス」と言われる小笠原諸島にしかない固有種の植物が数多くありますが、この花も海岸にある「オオハマボウ」から分かれて固有種になったのです。オオハマボウは正にハイビスカスです。しかし、地元の人はこの花を「モンテンボク」と呼んでいます。それは英語の「mountain」(山)とハワイ語の「hau」(ハイビスカス)が一つになって、カタカナ日本語にされた言葉です。その命名の由来は小笠原諸島の歴史にも直接関係があるのです。
小笠原諸島は一五九三年(文禄二)、信州深志城主の孫、小笠原貞頼によって発見されたと伝えられています。当時は無人島でしたから、「発見された」という言い方はこの場合ふさわしいでしょう。明治政府によって小笠原諸島の領有が宣言されたのは一八七五年(明治八)で、翌年、国際的に日本の領土として認められました。ところが、日本人が定住する以前から来ていた先住民は、欧米系とハワイ系の移住者で、その出身地言語は英語、そしてハワイ語を主とするポリネシア語だけでなく、ミクロネシア諸語、チャモロ語、ポルトガル語など二二ヵ国語にも達していたと言い、小笠原諸島は様々な文化の混在した日本一国際的な島々でした。「モンテンボク」という名前にもそのことが反映しているのです。
日本に開拓された小笠原島から遠く離れていても、インドネシア東部地域も含む南太平洋上の島民の生活文化と日本文化との共通性として、火山列島、高床式の住宅、褌、腰蓑、入れ墨、半農半漁の生活などがあげられています。日本民族の成立論の中には南方系の民族の混血説などもあります。そして日本の「常世の国」の思想や琉球の「ニライカナイ」の水平思考が重なっていて、太平洋のほかの島国同様、日本でも稀人は海の彼方からやって来るということで、世界観としての水平軸もしくは東西軸が、島々では意識されたとよく言います。
太平洋の島々の文化を日本人として最初に研究したのは、軍人から学者になった松岡静雄です。松岡は柳田国男の弟ですが、彼が書いた『ミクロネシア民族誌』(岡書院、一九二七年)は広く読まれていて、当時の「南洋」に赴く土方久功もそれを熱心に読み込んでいたと言います。彫刻家であった土方自身はパラオ人に彫り方を教えましたが、口頭伝承の一場面を木彫にしたパラオのイタボリは、現在ではストーリーボードという名称で、おみやげとして売られています。
一方、松岡静雄の実兄、柳田国男は「島の話」で初めて島の問題を論じ、その中で沖縄諸島を踏み石とした民族の移動、漂流、文化の交流を想定しました。また、日本列島が太平洋の文化の一部となっていることにも注目して、『海上の道』(一九六一)を書きました。そこで論じられたのは、黒潮の流れに沿って、つまり「海上の道」に乗って列島へ漂着した原始日本人です。その物語の発端は、柳田が青年のときに渥美半島の伊良湖崎で椰子の実が黒潮に乗って流れ着いているのを見たことから始まっていたのだと言われています。そういえば、柳田は椰子の実を拾ったエピソードを親友の島崎藤村に語ったところ、藤村はその話を「椰子の実」という詩に作り、これが後に国民歌謡ともなりました。
古代からの沿岸航海がその範囲を拡大するにつれ、潮流のみならず「海流」が注目されるようになりました。文明の伝播はその海流と大きな関係をもっています。たとえば、八丈島は古くから、エキゾチックな異文化が交流する場所でした。その理由は、いわゆる「黒潮文化」にあって、八丈島がちょうど黒潮の流れの途中に位置し、南方からの文化が流れ着く場所です。八丈島との往来が盛んになった江戸時代には、すでに強大海流である黒潮へのはっきりした認識が現れるようになりました。そして、沖縄諸島と伊豆諸島との間に指摘されている文化の類似も、「黒潮文化」説をもとに説かれています。
沖縄の人々の記憶には、南の太平洋へのあこがれも刻み込まれているのです。奄美以南に共通している海の彼方の異界「ニライカナイ」の伝説は実は、南に豊穣の神がいるという話です。そこは人間の祖霊の赴くところであって、稲や火、さらには鼠のようなものまでがその他界から人間界に持ち込まれたのです。
琉球の久高島はニライカナイにつながる聖地であり、穀物はニライカナイからこの久高島へもたらされたと伝えられています。『琉球国由来記』(一七一三年)によると、島の東海岸にある伊敷浜に流れ着いた壷の中に、五穀の種子が入っていたと記載されており、久高島は五穀発祥の地とされています。それも「黒潮文化」と関わっていますが、その伝承を事実として扱って、例の五穀が黒潮に乗って台湾かどこからか到着したと考えている学者もいます。
沖縄だけではなく、大和にも似たような伝承がありました。たとえば、『日本後紀』によれば、七九九年(延暦一八)に、小舟に乗った崑崙人が、綿の種を持って三河に漂着しました。平安京に遷都して六年目のことで、桓武天皇の時代です。翌年に朝廷が、渡来した綿の種子を、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、九州の大宰府に送り、試植させてみたと言います。けれども、インドから直接渡来のこの種子は、どうも日本の風土には合わなかったらしく、じきに種子が絶えてしまったようです。とにかく、崑崙人漂着の話が残っていて、三河の地はいまの三河木綿の発祥元だともいうのです。
文化の交流史上、漂流、漂着、そして小舟が果した役割は大きかったと感じざるを得ません。大戦後、小船の数が減って、大型船の時代になった結果、島から島への往来がかえって島民の自由にはならなくなりました。もちろん、島から島への往来は飛行機、ヘリコプター、橋があれば車、電車など、船以外の手段で移動できる島はあります。例えば、八重山諸島の西表島と由布島の間はずっと浅瀬で、歩いて渡って行けますから、時には自動車さえも海の中を走っていますが、観光用には水牛車があります。その水牛は、戦前、台湾が日本支配下の時代に、農耕用として効率がいいので、台湾からの入植者が遥々持ち込んだのだそうです。
琉球弧と呼ぶ南西諸島に深い関わりをもった横浜市出身の文人、島尾敏雄(一九一七〜一九八六)は、文化的優位性としての大陸に固定されてきた視点を、海(太平洋)へ転換しようと考え、「ヤポネシア」という概念を考案して、戦後早くから日本および日本文化の多様性・相対性を取り上げていました。
しかし、島尾敏雄の「ヤポネシア」も柳田国男の『海上の道』も日本本土からの視点です。それに対して、八重山諸島出身の三木健は、奄美群島以南から台湾にかけて連なる島嶼圏を「オキネシア」と呼んでいます。沖縄でチャンプルーの料理がはやっていて、それは「混ざり合う」の意味ですが、三木氏によれば、「太平洋フロンティア外交」の基盤を整備している沖縄は、移民も多く受け入れ、その文化は多元的価値観を内在して、まさにチャンプルーの文化であり、海洋文化として同じ太平洋の文化圏の一つを形成しているのです。一方で、日本の文化はそれとは性質が違っているものとして捉えられており、その大きな違いは沖縄的な海洋性と、日本的な島国性にもあると考えられています。
しかし、日本にも海洋意識の証は少なからずあります。日本を海の真中にある島国、島の集合と認識した最初は、言うまでもなく、『古事記』『日本書紀』の国生み神話です。国生み神話では、「浮かべる脂の如くして水母なす漂える」状態に世界があったとき、伊邪那岐・伊邪那美の二神が、天の沼矛で海水をかき回し、矛の先からしたたる潮が積もってできた淤能碁呂島で結婚して、日本列島の島々と神々の創造を行ったことになっています。オノゴロ島は神話上の島で、その所在については古来より諸説がありますが、古代の人々は、それを淡路島ないしはその付近の小島だと考えていました。その候補地の一つは、オノコロ神社がある沼島で、その沼島の南海上に浮かんでいる上立神岩は天地創造の営みを直接に表現していると言われているのです。
『古事記』に表現された世界の最初の状態は、「水母」のように漂っていたものですから、伊邪那岐・伊邪那美はその国を「修(をさ)め理(つく)り固め成」したわけです。日本には、渥美勝という維新思想家が明治期の終り頃に現れて、彼はその『古事記』の言葉を借りて「修理固成」を生命観にして、揺れている国を修理固成しなければならないと説きました。そして、桃太郎を日本民族の象徴にして「桃太郎」と大書した旗を立て、道を歩く人々に日本民族の世界的大使命を発揚したそうです。室町時代に成立した桃太郎の童話は、鬼ガ島が宝の島で、勇気のある者が海を遠く渡って行ってそれを征服すると、もっと花やかな国が作れるという海上征服のモデルが書き込まれていると言えるでしょう。海が日本の古代から交通路、征服路として開発されてきたことは、古くは神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐の神話などにも、反映されています。
日本人は昔、かなり海洋空間を動いて交流をしていたようです。古代には遣隋使・遣唐使が大陸と往来し、戦国時代にも、堺・博多・坊津などを港として特に海外貿易が盛んでした。江戸時代にはいると、自由貿易から御朱印貿易、つまり統制貿易に切り替えられますが、御朱印船の主たる渡航地は、台湾、ルソン、ベトナム、シャムなどで、日本の船の寄港地には日本町が相次いで開かれ、繁昌しました。 
3 命名の問題

 

ヨーロッパでは一五世紀末から一七世紀前半にかけて沿岸航海が主体でしたが、そのいわゆる大航海時代に大西洋、太平洋への航行が開始されたため、地中海からインド洋を経て東シナ海にいたる中世の海洋貿易圏が一挙に拡大し、全世界的なコミュニケーション・システムが、海を媒介として成立しました。
もともと、コロンブス以来の海洋での一連の出来事を、「地理上の発見」と呼ぶのが慣わしとなっていましたが、その後、世界史の読みかえが進むにつれて、このような捉え方はヨーロッパ中心史観に他ならないとの批判から、「大航海時代」へと改称されるにいたったことは周知の通りです。しかし、この「大航海時代」という呼び名も、「地理上の発見」よりはましかもしれませんが、やはりニュートラルすぎる側面があります。なぜなら、西洋人の到来はオセアニアの孤立性そのものを本格的に破る事件でした。西洋側にも、十八世紀後半という西欧近代にとっての劇的変化の時代を迎えて、航海に対しては、今日の月や火星の探索衛星が無事地球に帰還した時のような、科学的な関心が向けられていました。ブーガンヴィル、クック、ラ・ペルーズの航海期になると、単なる航海ではなく、天文学者、博物学者などの科学者が同行し、画家も連れていって調査や記録の事業を進め、「発見」した島々の地形を確かめ、植物、動物の種類を調べ、住民の生活水準や習慣を調査することなどが、なにもかも一緒にして行われていたのです。
太平洋を目にした最初のヨーロッパ人は、一五一三年にパナマ地峡を東から西に旅行したスペイン人のバスコ・バルボアですが、その前はヨーロッパ人など、太平洋の存在すら知りませんでした。日本や中国の場合も、太平洋は古来「南海」もしくは「東海」「東洋」と呼ばれるだけで、そのさきに世界の果てがある、ただの海でしかなかったのです。その海が初めて形になったのは江戸時代に世界地図が輸入された頃です。江戸時代初めに地図として日本に入ってきたのは、一六〇二年にマテオ・リッチにより北京で刊行された「坤輿万国全図」です。一六三〇年代以降、マテオ・リッチのその坤輿万国全図は日本に輸入され、日本の朱子学系の地図製作者は、その後一〇〇年以上にわたって、それをもとに、いくつかの地図を作成しました。一六五二年に「万国総図」、一七〇八年に「万国総界図」などができました。その地図の方向をみると、西向き、西北向き、北向きに分けることができますが、西向きの地図では、太平洋はかなり小さな海に見えます。
ヨーロッパ人として太平洋を初めて見たバルボアは、その未知の海を「南の海」(マール・デル・スール)と呼んだだけです。これが「南海」(サウス・シー)の語源です。この言葉は今日でも生きており、ことに北回帰線から南側、南回帰線あたりまでの太平洋をさすのです。この「南海」は、いつしか「南太平洋」とも呼ばれるようになりました。日本の場合にも、「南洋」という言い方があります。その「南洋」が特に具体的なものとして姿を現わし始めたのは日本の近代の頃ですが、公式に、地図上では、「東洋」「太平海」「太平洋」という名称もすでにありました。
この海全体を、最初に「太平洋」と名づけたのもヨーロッパ人です。一五一九年にポルトガルの航海者マゼランの一行は、インドをめざして、大西洋を渡って、南アメリカの南端を回り、太平洋の横断を果たしたのち、ミクロネシアのグアム島に到着しました。さすがに太平洋の横断には九八日も過ごしました。その間、さんざん飢えに悩まされましたが、嵐に見舞われることは、一度もなかったのです。そこで「平和な海」「静の海」(マール・パチフィコ)、つまり「太平洋」と命名したのです。実際、南太平洋は、大陸がないことが関係しているのか、波も風も、そして諸々の気象条件も、大分穏やかです。しかし、両回帰線の外側は穏やかどころか、どんな海域よりも荒れているのです。ですから、その太平洋はほとんど同じ大きさの二つの海、つまり、南太平洋と北太平洋によく分けて論議されています。
太平洋の探検初期には、どんな島がどこにあるのかを探すのが優先目的だったので、ヨーロッパ人が島に長期滞在して島民たちと深い関わりを持つことは希でした。航海者は島々をめぐり、それらにつぎつぎと名前を与えて行きました。地名は現在、無形の文化財とされていますが、その土地にあらかじめ現地人によってつけられた名前があったかどうかは、ヨーロッパの探検者の関心事ではありませんでした。発見するとは、獲得することです。島に名前を与えることによって、航海者は、植民地づくりの競争の条件のなかで「発見」された領土に対する自国の領有権を確たるものにし、自らのヨーロッパ的教養にしたがって島々に名前を与えたりしました。それによって、未知は既知へと転じ、世界の空白は少しずつ埋められていきました。そのように我がままに与えた名前には、航海者のスポンサーや後援者に対する敬意を表したり、また、その島を発見した曜日であったり、島の形が或るものの形に似ていると思えばそのものに因んだ呼び名もありました。発見者自身の名前をとって名づけられた島々もあります。タスマニアとか、クック諸島、ソロモン諸島のブーゲンビル島などがそうです。
例えば、ニュージーランドの場合、ヨーロッパ人として初めてこれらの島を発見したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、彼は、最初、それがチリの南の土地だと思いました。しかし、一六四三年に、オランダ人によって改めて調査された後、そうでないと分かり、オランダの知識人はオランダの地名ゼーラント州に因み、ニュージーランド(新しい海の土地)とラテン語で名付けました。また、マオリ語の名称では「アオテアロア」ですが、「白く長い雲のたなびく地」という意味で、もともとは、北島のみを指す語でした。現在、国家の正式名称はニュージーランドでも、アオテアロアの名も使われています。また、北島のマオリ語の名前はもう一つあるようです。マオリの人びとの伝承によると、ポリネシア神話の偉大な漁師マウイは非常に大きな二つの島と多くの小さな島々を釣り上げました。このマウイの行為を称えて、その二つの大きな島に彼の名前が残されたのです。つまりニュージーランドの北島は「テ・イカオ・マアウイ」(マウイの魚)、南島は「テ・ワカ・マアウイ」(マウイのカヌー)がマオリ語の呼び方だそうです。 
4 西洋航海者の文章におけるオセアニア

 

太平洋の島々には豊かな口承文芸がありますが、島人自らが記録したものは少ないのです。ですから、当時の島々の様子が分るのはほとんどが外国人の記述からです。オセアニアの一部が「南海」と称されたのはすでに一六世紀ですが、その「南海」の詳細が西洋に紹介されていくことになったのは、一六世紀のスペイン船や一七世紀のオランダ船の航海によるものではなく、一八世紀にブーガンヴィルやクックなどが指揮したフランスとイギリスの航海以降です。「南海」は、この地域、海域の「南」、「海」、それから大きな「空」や小さな「島」の圧倒的イメージをもって西洋の想像力をかき立てつづけたので、オセアニアは他の地域と比べて独特の「らしさ」をもって表象されてきたように思えます。
例えば、キャプテン・クックと一緒に世界一周を達成したドイツ人ゲオルク・フォルスター(一七五四〜一七九四)の『世界周航記』と、フランス人ブーガンヴィルの『世界周航記』には次のような言葉があります。
この人里離れた場所に私たち三人で、二人のインディアンだけ連れて休んでいると、思わず、魅惑的な島についてあらんかぎりの想像力を駆り立て、できるかぎりの美しい言葉で語る詩人たちの作品が思い浮かんだ。この場所は実際にもそうしたロマンティックな描写と似ているところが多々あった。もしもここに、きらきらと水晶のように光る泉や、さらさらと流れる小川でもあったなら、ホラティウスでもここ以上に気に入る隠棲の地は容易に見つけることはできなかったであろう。(ゲオルク・フォルスター『世界周航記』第十一章、上巻三六頁)
私は、何度か、二、三人連れだって、島の奥へ足を延ばした。私は、知らぬ間にエデンの園に連れて来られているのかと思った。私は、美しい果樹が影を落とし、小さな川がところどころで横切り、湿気から来る不都合はいささかもなしに心地よい涼しさを保たせている、芝草の草原を歩き回った。多人数からなる民族が、そこでは、自然が両の手一杯に注ぎかける宝物の恵みを受けている。(ブーガンヴィル『世界周航記』第二部第二章、二〇一頁)
これは科学的な情報でなく、ポリネシアの島々のロマンチックな描写です。その文章は、一七世紀のバロックから一八世紀のロココ期にかけていたるところで絵画になったユートピアモチーフの続きとなっていますが、このような文章では、古代ローマの詩人ホラティウスなどもよく引用されています。
一方、フランス人として最初の世界周航をなしとげ、熱帯の花木ブーゲンビレアにその名をとどめたブーガンヴィルが、その旅行記で報告するタヒチ滞在の描写は、当時のヨーロッパでたいへんな評判を呼び、ブーガンヴィル自身や彼の同行者による航海の回顧談が宮廷やサロンに伝わっていました。ヨーロッパ人にとって、タヒチは、失われた黄金時代を生きる「高貴な野蛮人」の代表的な島となりました。タヒチ人の原始生活に、堕落したヨーロッパの習俗が対置され、大革命前夜の一八世紀フランスにおける積極的文明批評の一つにまで展開しました。
一七六九年に、ブーガンヴィルに同行した植物学者のフィリベール・コメルソンが書いた「タヒチ島あるいはヌーヴェル=シテール島の様子」という論文がさらに人々の興味をかき立てたこともありました。コメルソンの論文は、タヒチ人の社会に対する熱狂的な賛美に満ちたものであり、文明に毒されない理想郷としてタヒチ島を描き出していました。これに比べてブーガンヴィルによる島人との交流の記録は、より抑制された調子で書かれていて、より客観的にポリネシアの状態を描写しています。フランス人と島民との接触が深まるにつれて、この島の暗黒面も次第に明るみに出されてきたのです。たとえば、ブーガンヴィルには次のような言葉が見出されます。
私は、先に、タヒチ島の住民が、我々には、うらやむに価する幸福の内に生きているように見えると言った。我々は、彼らが、彼らの間でほとんど平等であり、あるいは少なくとも全員の幸福のために作られた掟にしか従わない自由を享受しているものと信じた。私は間違っていた。タヒチでは、身分の区別はたいへん顕著で、不平等はたいへん厳しいものである。(ブーガンヴィル『世界周航記』第二部第三章、二三〇頁) 
5 江戸時代の漂流記とオセアニア表象

 

太平洋地域の当時の記述は、日本人によるものも残っています。それは漂流記です。海上交通が未発達で、船による目的のある長い航行も不可能であった時代には、民族の移動や文化の伝播には、漂流の果たした役割が大きかったのです。漂流者が最初の探検者で開拓者でもあった場合は少なくありません。日本人の写真で最も古いものは、幕末の漂流者の写真です。一八五一年にアメリカ船によって太平洋で救助された漂流者が、その船上で撮影されてできたものです。
日本の江戸時代に漂流が特に多いのは、鎖国とともに造船術も航海術も西欧の進歩から遅れたことで、弁才船(千石船)という江戸時代の和船には構造上の欠陥があり、その弁才船は嵐に遭遇すると、ほとんどが舵をやられ、帆柱も失ったからです。舵と帆柱を失った船は、海流と風に任せて漂流するほかありません。海流にのって漂い流れた漂着先は、太平洋周辺に限られたものの、非常に広範囲にわたっています。記録に残っているかぎり、朝鮮、琉球、台湾、中国、ロシアはもちろんですが、南の方はミクロネシア、東南アジアのルソン、ミンダナオ島、ベトナムなどがあって、日本をとりまく全地域に及んでいます。また、漂着した場所に限定せず漂流民が行動した地域も含めると、アメリカ、メキシコなどから、ポリネシア、ヨーロッパの内部、カナリア諸島にまで至っています。
救助された日本人の漂流民のうち、多くは清国に送られた後、長崎に帰着しました。鎖国下では、不可抗力の漂流であっても生還者は一応国禁を犯した犯罪者とされ、長崎の奉行所で取り調べられ、その都度、訊問調書がとられたのです。調書とは別に、第三者の聞き手が漂流民の体験談に加えて、異国の風俗などのスケッチをまとめて「漂流記」と総称されるものに作り上げることもありました。江戸時代の漂流記は、基本的に記録そのものですから、事実に基づいており、装飾を加えられることはほとんどありません。ですから、そうした漂流記にあるオセアニアの表象は、ヨーロッパで形成されたイメージとはかなり違います。
ポリネシアを見た最初の日本人のことを調べてみると、それは津太夫をはじめとする四人の漂流民であると分りました。彼らは日本人として初めて世界一周を果たした人物でもあります。もともと仙台藩の出身で、一七九三年に嵐のためロシア領に漂着しました。それからシベリアを経てロシア各地をめぐった末に、サンクト・ペテルブルグに到着しました。そこでロシアの皇帝に謁見して、帰国を許されました。
津太夫ら四人はロシア初の世界周航を企てた船ナデジダ号に便乗してデンマーク、イギリス、カナリア島、ブラジル、マルケサス島、ハワイ、カムチャツカを経て、一八〇四年に長崎に帰着しました。津太夫らの体験談を記録したのは蘭学者大槻玄沢ですが、その漂流記は『環海異聞』と言います。ところが、質問する側にいかに大学者を揃えても、答える側は学問のない船乗りでしたから、玄沢はかれらの言葉の不足は絵で補おうというわけで、絵画の上手なものを伴い、津太夫らに問い質しながら大略を描かせるという方法も講じました。
この『環海異聞』に、ポリネシアに関する非常に興味深い挿絵があります。たとえば、津太夫らの陳述では、マルケサスのカヌーは大蛇の形に作られていました。挿絵は確かにそのように描かれていますが、はなはだ誇張して蛇の形に似せているとも言えます。そして、津太夫たちは、マルケサス人の印象を「鬼人の如し」と言い、それはロシア人乗組員たちの語っていることでもあると述べていますが、挿絵を見ると、やはり津太夫たち自身の印象でもあったことにまちがいありません。
一方、提督クルーゼンシュテルンなどのロシア人は、帰国して書いた旅行記にマルケサス諸島の女性の美しさを賞讃し、マルケサスの島民を、南海のどの島民よりも色も形も美しいと思うようになった、と述べていますが、津太夫らには「其顔色逞しく」という以外に、何の感想もないのです。ヨーロッパ人と日本人の美意識の違いもあったかもしれませんが、『環海異聞』はまず事実の記載だけで、評価や感想のたぐいがきわめて乏しいのです。
『環海異聞』の挿絵における人物は、基本的に男女一人ずつの対で表わされています。そのモデルになったのは漂流民の言による描写よりも、長崎で一六四五年(正保二)に出版された「万国人物図」や「世界人物図巻」の男女図だと考えられます。この「万国人物図」のオランダ人とか「世界人物図巻」のギニア人を見ると、漂流民が見たハワイ人と基本的に変わらない描き方です。その演出家はもちろん、「学問のない」漂流民ではなく、編者の大槻玄沢です。蘭学者ですら、まさにヨーロッパの航海者と同じように、実際の見識を深めさせようというより、自国ですでに形成されたイメージをその民族の描写に書き込んでいたのです。 
6 オセアニアのイメージにおける自己と他者

 

ヨーロッパには、航海者だけでなく、民間人の中にも、事実を無視した南海のイメージを形づくる傾向がいつもありました。例えば、バリ島に関しては、「芸術の島」や「神々の島」といった表象は、一九二〇〜一九三〇年代のバリ島に滞在していた芸術家や人類学者たちによって演出されたものだと主張されています。しかし、芸術家と太平洋の島々との関係を一番よく代表している人物はもちろん、フランスの後期印象派の名匠、ポール・ゴーギャン(一八四八〜一九〇三)です。タヒチ、マルケサス諸島の自然と人々を主題とする彼の作品群は、タヒチそのものを象徴するようになりました。ところが、タヒチにあるゴーギャン記念館には、「日本人ゴーギャン」と名付けられたコレクションがあります。そのコレクションは、日本の浮世絵とゴーギャンが描いた絵の複製を二枚一組にして展示しているのです。印象派の画家たちが日本の浮世絵から強い影響を受けたことは周知の通りです。ゴーギャンも例外ではありません。彼は日本の浮世絵を題材にその情景、構図を模倣したので、そのタヒチの絵画の背景に日本の風景や日本人の姿が刻み込まれているとも言えるでしょう。
このような実例があって、ヨーロッパでは、「西洋的なまなざしによって他者を文化的に植民地化する」とか「他者との距離から自己を塗り固める」とか「それによって自己認識の鏡像をつくる」といった議論がよくされますが、それは、複雑な事態を簡略化しすぎる議論です。ゴーギャン自身は他者、他者性と非常に緊張した関係をもっていたらしく、また、古代ローマの詩人ホラティウスもしくはヴェルギリウスを引用しながら自分の航海記に虚構を書き込んだフォルスターやブーガンヴィルも、「いい匂いの花」とか「水晶の鏡のように輝いているたくさんの小川」などについて書いたりしていますが、それだけを書いているわけではありません。彼らの文章には科学的な観察もあるし、ポリネシア社会の分析などもあります。しかし、読者の記憶に一番深くとどまったのは、やはり彼らの本とか絵に描写されていた太平洋の島々の理想郷的なイメージでしょう。それらのイメージは、結局は独り歩きを始めて、今なお「太平洋の魅惑的な島イコール楽園」というイメージを形成しつづけています。
イメージ形成は、時代により変化する場合があります。日本におけるミクロネシアのイメージにもそれぞれの時代背景の特色があります。一八七〇年代からの士族授産金制度の時代が終った後、「南進論」が次第に具体化してきました。その一環として日本政府は海軍練習艦に民間人を便乗させ、ミクロネシアを紹介しようという計画を企てました。明治十一年から二十年前半にかけて、多くの民間人がオーストラリア、ハワイ、フィジー、サモア、ミクロネシア、フィリピンを訪問しました。第一次世界大戦中から、日本による南洋群島支配が始まりましたが、一九二二年以降の表象は南洋庁を中心として生み出されたものです。一九三三年に日本が国際連盟を脱退すると、時局はまた変化しました。当時活躍した中島敦は自らの南洋文学を通して、日本人の複雑かつ矛盾に満ちた帝国のまなざしを明らかにしています。「真昼」という作品では、彼が扮する日本人の語り手は、自身の南洋イメージの起源を追求し、自らの視点の「脱植民地化」を試みています。
第二次世界大戦後、ミクロネシアは「激戦の跡」や「日本軍のゼロ戦や軍艦が沈む海」などが存在する場所として、つまり戦争の記憶を媒介に表象されるようになりました。ガダルカナル島の戦いなどに参加したアメリカの元兵士たちにとっても、ソロモン諸島は同じような意味をもっており、現地のガイドはそうした意識を利用して、戦跡ツアーなども行なっています。
しかし、最近になって、ミクロネシアなどの太平洋地域は世界的に「無国籍」な姿として描き出されるようになり、それを表現しているイメージは安定化して、その内容が時代にほとんど左右されなくなったと言えるでしょう。太平洋の島々は観光地オセアニアになりました。 
7 観光地オセアニアの開発

 

観光とはビジュアルなこと、視覚に関する事業で、商品化できるイメージと密接に繋がっています。観光地オセアニアの宣伝物は、熱帯地方の絵葉書のように、土地・人間・風俗に感動し、楽しもうという感覚で作成されています。それでは、太平洋の島国の政府観光局の公式ウェブサイトを参考にして、それぞれの政府がどのように自国のイメージを形づくっているのか、見てみましょう。
ミクロネシア連邦政府観光局公式サイトは、自国を次のように紹介しています。
ミクロネシア連邦は、太平洋西部に位置し、赤道のすぐ上を東西約二五〇〇キロにわたって広がるヤップ・チューク・ポンペイおよびコスラエの四州と六〇七の小さな島々(居住しているのは六五島のみ)からなる連邦国家です。私たちはここを「四つの楽園」と呼んでいます。それは、ヤップをはじめとする四つの州は、アクアマリンのラグーンとエメラルド色の水道、生物の宝庫のマングローブ林、緑豊かな熱帯のジャングル、霧に包まれた山々、壮大な滝、謎に満ちた古代遺跡など、それぞれ表情の違う魅力に満ちあふれているからです。
ここに出ている修飾語は、ミクロネシアの壮大さ、豪華さ、神秘さ、美しさを強調し、色合いとしては青と緑が多く見られます。また、サイトの次のページに行くと、「魅惑の群島」という熟語が出てきて、ミクロネシア、そしてミクロネシアへの旅行は「薬」と匹敵させられ、ミクロネシア連邦のそれぞれの州のユニークさが、適当な限定詞によって強調されています。「石貨と伝説の島、ヤップ」、「ダイバー憧れのチューク」、「ガーデンアイランド、ポンペイ」、「ミクロネシアの宝石、コスラエ」です。「島」「アイランド」という単語を頻繁に利用して観光宣伝を行っています。「島」だけではなく、「宝」のイメージも反復して登場します。「宝石」「宝庫」などです。
メラネシアの場合、フィジー政府観光局のホームページでは、フィジーは「笑顔の楽園」そして「青い魅惑の島々」として紹介され、またスキップできるイントロに、「自分たちだけの楽園を探しに、南太平洋フィジーへ」「どこまでも青く澄み渡る空と海」「ホスピタリティあふれる陽気な島の人々との出会い」などの文が、次々に現れてきます。青色、楽園、魅惑、島、明るさなどの言葉がセットになっているのです。
ポリネシアのサモアも、「南海の楽園」として紹介され、その中のナムア島は「西欧化を避けてポリネシア文化を頑固に守るサモア」であり、「最後の楽園」です。一方、サモア観光局のスローガンは数年前に、「ポリネシアの心」から「南太平洋の宝島」に変わりました。以前はサモアがポリネシアの起源で、ポリネシア文化のオリジナルはすべてサモアであるということでしたが、最近になって、そのスケールはポリネシアを越えて南太平洋全地域にまで拡大され、サモアはすべての「南海」の楽園の中心として、ポリネシアだけの文化遺産ではないファイヤーダンス、カヴァ儀式などもサモアが独占しようとしているかのようです。一方、「心」よりも「宝」「宝島」のイメージが優先するようになりました。
サモアの場合、「宝島」はまた別の意味を持っていると思われます。それは、サモアの人々から「ツシタラ」、つまり「語り部」と呼ばれたロバート・ルイス・スティーブンソン(一八五〇〜一八九四)の長編小説『宝島』に由来することは明らかです。南太平洋を渡り歩き、サモアにその墓があるスティーブンソンは、南太平洋でシンボリックな存在になり、作家としてだけでなく、南太平洋を舞台にした文学作品の主人公にもなっているのです。例えば、中島敦の『光と風と夢』という小説は、スティーヴンソンの南洋生活記の体裁をとっていますが、原題も『ツシタラの死』でした。
「宝島」としてのサモアの起源には、スティーブンソンの小説『宝島』があるわけです。しかし、太平洋にはもうひとつの宝島があります。その島は「ニッポン」です。これは日本の国土交通省観光企画課の公式サイトに載っているPRで、その説明を読むと、日本は、もともと魅力的な観光資源の宝庫だと言っています。けれども、いままでその「宝」の紹介が不十分であったことから、国土交通省は、「観光宝探し」をスローガンに掲げ、全国から身の回りの魅力的な観光資源の大募集をキャンペーンしたと書いています。ただし、日本の場合はその土地に暮らす人々の参加を促して、身近な「宝」を見つけ出して楽しもうというのに対して、サモアなどの場合には、「国が宝物」に抽象化され、売り物にされているところに大きな違いを見出すことができます。 
8 島国に現れる国土観

 

楽園は場所的な概念だけでなく、時間的な概念でもあります。オセアニアの唯一の大陸であるオーストラリアの政府観光局は、オーストラリアを「時を超えている国」として紹介し、そこで私たちを待っているのは「果てしなく続くビーチ」「活気溢れる都市」、「古代の文化を語り継ぐ物語」「大自然の不思議」などとPRしています。しかし、そのオーストラリアは、大航海時代にポルトガル人やオランダ人にすでにその存在が知られていたにもかかわらず、西北部の砂漠を見て、当時はだれもそこを植民地にしたいとは思わなかったほど厳しい環境に見えました。キャプテン・クックが、気候もよく水も十分な東南部の海岸に上陸した後、初めてオーストラリアが移住できそうな土地だということが分かったのです。他方、四万年以上も前からオーストラリアに土着した原住民は従来、住みにくい地帯で遊牧民の生活を送る部族がほとんどだ、というのが通説だったようですが、実はそうではなく、その多くは昔、環境にもっと恵まれている海岸沿岸部に集中していました。しかし、ヨーロッパ人の上陸以来、沿岸部の原住民は壊滅的な打撃を受けましたから、現在、内陸地帯の居住者となって、その不毛の乾燥地あるいは砂漠で固有文化を維持し続けているのです。
日本列島も同じように、人類学的、文明史的に当然海の影響を受けていますが、その領域の八六パーセントは山岳地であって、むしろ直接には海と接しなかった人々の方が、多数を占めていたはずですから、元来は陸地の島国として認識されていて、山国のイメージが強いようです。しかも、日本には、「本土」「内地」があるのに対して、周辺の島嶼があり、それらは異質なものとして捉えられています。日本人は、伝統的に本州・四国・九州を、海に浮かんでいる「シマ」とも考えてこなかったらしく、青函トンネルで結ばれる以前から、北海道をも島嶼とは考えていなかったのです。明治期に地方制度の上で、島嶼は日本本土と比べて「人情風俗」が違うという根拠で、例外地としての枠づけを行う措置がとられたのです。社会構造的にも、日本の国家はほぼ一貫して「海人」、海・漁業の民を「外れ者」の形にしていました。日本の和歌には、農耕民はほとんど歌われず、海人がよくうたわれるのも、海人が異人だったからです。
「神風の伊勢の国は常世の波の寄する国」ともよく詠まれていましたが、これは海のかなたに常世があり、そこの霊威が波によって寄せられて来るという意味です。上代人は、海神の宮ないしは竜宮、また、根の国、底つ国という、死者の霊の赴く一種の理想郷を、水平線の彼方、または海底に想像していたのです。海は水平線まで続き、波は常に沖から寄せて来るので、浜に漂着した物も神からの授かり物として拾われていました。そのような浜や磯で釣りをしたり、藻を拾ったり、塩を焼いたりしていたのは、正に特殊な者としての海人です。
一方、日本語の「シマ」はかつて常人の暮らしの依り所で、「取りつく島がない」との言い方などには、頼りや助けとなる主体としての「シマ」の古い意味が残っています。日本語の「シマ」の普通の意味は、「周囲を水で囲まれた大小の陸地」ですが、古くは、水域に孤立した地形でなくとも、「シマ」とよばれました。半島はもちろんですが、海や水に縁のない内陸部においても、そこがひとまとまりの景観を示す場合は、「シマ」でした。しかし、時代が下がるにつれて、島崎藤村の詩「椰子の実」の「名も知らぬ遠き島より」というように、「シマ」に離島・孤島・海の彼方の含意が強められてきて、「島流し・島送り」の観念が生じました。異郷の語感も「島」につきまとってきました。日本には五島の三井楽のような、愛する人が死んで、その霊魂の飛び去るところがあったりします。中国の伝説の中の蓬莱の観念も、日本にそのまま採り入れられたのは、海と天とを一つに考えようとして、遠くにある島は、死んだ人が行く現世と未来、夢と現の境界の地、そして見えない世界、つまり、死の国として想像されたからでしょう。 
9 太平洋の島々の島嶼性

 

島の地域的特性は、「島嶼性insularity」と呼ばれていますが、これが最初に論議されたのは、生物学の分野においてです。人間社会における島嶼性については、人文地理学者や民俗学者たちが研究していますが、ほとんどの学者が島のすべてに共通するような社会的特性の存在を強く否定しています。島自体もすべて同じ地域性を持っているものではなく、その種類は、小さな島と大きな島、沿岸の島と離れ島、内海の島と外海の島、孤島と群島など様々です。島嶼群の中でも、日本がその一例であるように、中心部と周辺部があり、多くの島嶼国家においては、主島または本島への人口集中化がすすみ、属島では過疎化が進行しています。それに対して離島では、国防の要衝、世界交通の焦点、新文化の栄えた所が歴史的に多かったのです。しかし、本島、属島、離島にかかわらず、島嶼はいずれも洋上にまとまりをもっているもので、その共通した特色として、小規模性、弱者性、狭小性などを挙げる学者がいます。
そのような文脈においては、「島国」という言葉は、負の感情を内包しています。広辞苑によれば、「島国」は「四方を海に囲まれた国」、そして「海国」です。つまり、島国と海国とは同じ意味であると言えます。しかし、「海国」という言葉にはネガティブなイメージはなにも含まれていないのに、「島国的」という言い方には明らかにマイナス面があって、島国に特有な様として、細事にこだわり、他国との交渉が少ないため視野が狭い様と説明されたりします。また、「海国根性」という言葉はないのに、「島国根性」という日本語があります。「根性」はもともと「性質」、「気質」、「精神」「意志の力」「闘志」「頑張り」という意味ですが、必ずしも悪い意味ではありません。けれども、使い方として「根性の腐った」、「根性の曲がった」、「根性の悪い」「あの男には根性がない」とよくない意味に使うことが多いのです。「島国根性」もよくない意味で、文化論的には、島国に住む住民にありがちな、視野が狭く閉鎖的で、こせこせした性質を意味しています。
島国のイギリスの人々が偏狭さを「島国」の主たる特徴とする点では日本人と似ていますが、その島国的な「偏狭」な物事の捉え方、考え方、姿勢こそが彼らの国民性であるとまで考えてきました。たとえば、一八八〇年に『ブラックウッド・マガジン』は「不寛容な島国根性や他者蔑視が、イギリス人の顕著な国民性のひとつである」と書いています。
海洋の国として誇りをもっている沖縄でも、島国の劣等感に苦しまないわけではありません。沖縄本島は細長いから、高台に登ればどこからでも海が見えるわけです。しかし、那覇には識名園という琉球独自の庭園があります。この識名園は中国皇帝の使者である冊封使を歓迎した場所にも利用されていましたが、識名園の展望台は海が一切見えない沖縄の唯一の場所です。南部方向にはどこまでも大地が続き、琉球が大きな国であると思わせるような大陸的風景となっています。もちろん、琉球人に戦略的な知恵もありましたが、やはり海に囲まれた小さな「島国」感から脱出したいという意識も潜んでいたのではないかと私には思われます。
ヘーゲルによれば、土地が人間を縛り有限の世界にとどめ置く限界は、海によって突破されるといいます。海の与える無制限、また無限の観念に刺激された人間は、有限の世界を乗り越えようと、未知の太平洋にも航海に出ていきました。地図を見ると、太平洋は、間違いなく海洋の世界です。しかし、太平洋の特徴とは、陸と陸を隔てる海の大きさだけでなく、逆に何より世界の他地域との歴史的・地理的な隔絶性を極めた陸地の小ささにもあります。
ミクロネシアのサタワル島の人びとは、天上世界、地上世界、海底下世界という三つの世界の存在を信じ、その地上世界は「海」と「島」で成り立っていると信じていました。その二つに分けられた領土ですが、ミクロネシアでは、島は女性の働き場が多い領土で、海は男性の働く領土になっているのです。その海の領土を支配していた男性たちは、太陽、月、星座などの天体現象や、雲、風、潮の流れなどの気象、海洋現象、さらには魚やクジラ、海鳥などの生物現象、あるいは漂流物などの情報を巧みに利用して優れた航海術を編み出してきました。ところが、海によって微細な陸地に隔てられた島の人々は、沿岸漁業など陸地を中心にした活動をして生きる傾向が、男性の中にも強くあります。大消費市場から遠く隔てられ、港も整備されず、技術の改良、資本の蓄積に不利で、交通も不便な島では、漁業の発達は困難で、遅れがちであったので、島社会は交通、交易の非広域性だけでなく、孤立的な自給性も極端な形で内在するのです。
日本の離島でも、昔から、産業の中心は、水産業でなく、牧畜や畑作などの農業でした。西日本を中心に一部存在した家船や海女、海士を除けば、生粋の海上生活者の数は多いとは言えず、沿岸や島嶼部に住む人々でも実際には海に背を向けてわずかな土地を耕し、サツマイモと麦で暮らしを支えるという生活が従来、比較的に多かったのです。
日本では海に対する信仰も山の信仰に比べると具体性に乏しいようです。漁民の信仰生活などを見ても、えびすなどの漁業神や船霊などの船の守護神については、ほぼ全国的に具体性をもって語られていましたが、海そのものに対する信仰や儀礼は、そうとも言えないのです。「板子一枚、下は地獄」という船乗りや漁師の言葉がありますが、それは、海上での生活がどれほど多くの制約や危険を伴うのかをよく表しています。柳田国男の言葉を借りれば、昔、大航海を決心した太平洋の人々は、新たな島を発見し、その自然を馴らし、安住することになると、天はますます遠く高くなり、導く神は留まって護る神となったのです。
ポリネシアのいわゆる「三角形」の頂点の一つをなすイースター島には、ホツマツア王の伝説があります。ヒバという国に住んでいたホツマツア王が、その故郷が天災に会い、新しい永住の地を探していた際に、ハウマカという占い師がマナの力で眠っている間に魂だけでイースター島までやってきてこの島を発見しました。目がさめてからヒバの王にそれを伝えましたが、王様は早速七人の使者を島へ送り出しました。イースター島に最初に入植したその七人の航海者を記念して立てられたのは「アフ・アキビ」というモアイ像です。そのモアイ像は、彼らがやってきた春分と秋分の日の沈む方向にある故郷を見ているのだと言います。しかし、モアイ像が内陸に立って海を向いている場所は、このアフ・アキビしかありません。イースター島の海岸沿いにモアイ像がたくさん立っていますが、そのほとんどは海を背に、島内の方向、つまり内陸の村のほうを見守っているのです。 
10 終わりに

 

海は陸地に比べて危険性が高く、そこから得る海の幸もまた、自然の諸条件によって大きく左右されるのです。一方、島では、農耕は台風や水不足などによって不安定なもので、資金、資源の不足などが顕著にあらわれる特徴があり、環海性、空間的な隔絶性、閉鎖性、小規模性、依存性などを特色にすることが多いのです。
それにもかかわらず、西洋人と出会った日本も、「南海」の島々も、「西洋」という「他者」によって本質的な魅力、魔力、引力を持っている自然体としてなかば強制的に立ち上がらされたのです。マルコ・ポーロの『東方見聞録』により「黄金の国ジパング」が西洋に紹介されて以来、日本は途方もない金の富める国として世界中の熱い視線を浴びて来ました。それに対して太平洋の島々の多くは、ヨーロッパ人によって一六〜一七世紀に「発見」され、その位置が地図に書き込まれたにもかかわらず、経済的な興味を引くものは少なく、住民との実質的な接触が始まったのは、一九世紀半ばに捕鯨が盛んに行われた頃からです。西洋人が太平洋の島々に対して「発見」から植民地化、そして植民地化から支配体制の整備へと至る過程を経て、太平洋の隔離されたミクロ・コスモスとしてのオセアニアの島々のイメージや知識を作り上げていきました。
その「南海」におけるユートピア思想を生んできたのは近代西欧の産業社会やオリエンタリズムです。ポリネシアなどは、古代ギリシャの比喩をもって、近代西洋の汚れや欺瞞を暴露しながら神の祝福、人間の真実の開示をもたらす地として描かれたことで、西洋の文化や思想に大きなインパクトを及ぼしました。さらにはハリウッドの商業映画、メディア産業などがエロティックな一面を持つ島々の表象、「美しき楽園」の幻想を膨らませていきました。
太平洋の島嶼は、大陸から切り離され、交通、通信が不便なために、新文化の流入が遅れ、古風な民俗が豊かに残されていました。しかし、ヨーロッパ人が到来して以来、太平洋の島々は伝統的な自給自足経済から交換経済に移行するのにともなって、島民の衣・食・住が変化しました。とりわけ孤立・隔絶した島嶼にあってはその変化は短期間に急激であったはずです。その結果、多くの島からは伝統文化が相当消滅しています。ところが、旅行ガイドブックなどを読むと、伝統的に根をおろしたイメージが今でも働きかけているのだと分かります。一方、日常生活で言えば、その太平洋の島々において、海が後ろに引いて、陸地に道を譲っているものの、観光地オセアニアには、海に力点を置いたエコツーリズムが未だに強く推進されていて、観光宣伝のために利用されているイメージにも海が大きな役割を果たしています。
要するに、西洋に押し付けられた幻想は現在でも著しい働きを演じていて、太平洋の地域自体を変えていくのです。しかも、西洋とオセアニアの相互関係の中に生まれてパターン化したそれらの幻想は、四方八方に行き渡ってイメージのネットワークとしても展開しつつあります。そのイメージを受容したオセアニアの政府観光局はそれらを観光客のニーズに合わせて調節しているのです。現代のその観光宣伝を西洋の大航海時代の旅行記と比べると、太平洋のユートピアの表象は保存されているけれども、そこに教訓的な側面が欠けていることが明らかになります。旅行は「楽しむ」ものですから、西洋の「汚れ」対オセアニアの「純潔」という「二項対立」が放棄されてしまって、残っているのは、島々を売り物にしようという機能を十分に満たしているヤシの木陰で踊る島人、澄みわたる大空、白い砂浜や紺碧の海です。 
参考文献
相賀徹夫編集著作『日本大百科全書・4』小学館、一九八五年。赤祖父哲二、川合康三ほか全7名編『日・中・英言語文化事典』マクミランランゲージハウス、二〇〇〇年、八〇九〜八一一頁。
ブーガンヴィル『世界周航記』(中川久定ほか編『17・18世紀大旅行記叢書』第2巻)山本淳一訳、岩波書店、一九九〇年。
ゲオルク・フォルスター『世界周航記上・下』(中川久定、二宮敬、増田義郎編『17・18世紀大旅行記叢書』第U期第7、8巻)三島憲一、山本尤訳、岩波書店、二〇〇三年。
後藤明『ハワイ・南太平洋の神話─海と太陽、そして虹のメッセージ』中公新書、一九九七年。
石川榮吉『日本人のオセアニア発見』平凡社、一九九二年。
印東道子編著『エリア・スタディーズ―ミクロネシアを知るための58章』明石書店、二〇〇五年。
春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社、一九九九年。
片山一道『ポリネシア海と空のはざまで』東京大学出版会、一九九七年。
小松和彦「南洋に渡った壮士・森小弁――『南洋諸島』以前の日本・ミクロネシア交流史の一断面」篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』柏書房、二〇〇一年。クック『太平洋探検上・下』(中川久定、二宮敬、増田義郎編『17・18世紀大旅行記叢書』第三、四巻)増田義郎訳、岩波書店、一九九二年。松村武雄編『オーストラリア・ポリネシアの神話伝説』(『世界神話伝説体系21』)名著普及会、一九八九年。
長嶋俊介、仲田成徳、斎藤潤、河田真智子『島・日本編』講談社、二〇〇四年。
新村出編『広辞苑第5版CD-ROM版』岩波書店、一九九八年。Kazuo Z. Ninomiya. ”A View of the Outside World during Tokugawa Japan: An Analysis of Reports of Travel by Castaways, 1636 to 1856 “. Ph.D.dissertation, University of Washington, 1972.
西敦子「明治政府の島嶼政策」『日本史研究』五二七号、二〇〇六年。
大林太良(著者代表)『海から見た日本文化』(『海と列島文化』第十巻)小学館、一九九二年。
千住一「ミクロネシアおよび南洋群島表象の歴史的変遷」日本島嶼学会『島嶼研究』三号、二〇〇二年。Robert Tierney. ”The Colonial Eyeglasses of Nakajima Atsushi“. Japan Review 17(2005),pp.149-196.
山下恒夫再編『江戸漂流記総集:石井研堂これくしょん』日本評論社、一九九二年。
柳田国男「島々の話」『柳田国男全集』第十九巻、筑摩書房、一九九九年。
由比濱省吾訳『マオリの神話と伝説』由比濱省吾発行、一九九六年。  
 
花郎(ファラン) / 新羅花郎の研究

 

花郎は、新羅の真興王(在位540 -576)の時代に確立した青年貴族たちの教育制度とされています。一般的に、花郎は新羅の美男子エリート戦士集団だったと広く信じられ、上級貴族の15〜16歳の美少年の中から団長として選ばれた性行の正しい男子のもとに多くの青年が郎徒として集まって「貴族の美少年結社」を作り、集団で生活したといわれています。また、化粧し、着飾って(あるいは女装して)、歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立って戦ったとされ、この花郎の花郎に選ばれた者は、新羅滅亡まで200余人を数え、各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられています。高句麗、百済、新羅の三国を統一に向けて推進した武烈王(金春秋、在位654-661)やその将軍金庚信(キム・ユシン)は、いずれも花郎出身でした。韓国では、護国の花であり、最高の青年文化だと賞賛を受けています。
しかし、建国大のシン・ボンニョン教授によれば、新羅時代の花郎がそのような肯定的な評価を受けはじめたのは、ほんの50年ほど前のことです。
朝鮮戦争のとき、李承晩大統領が青年の愛国心が必要であると考え、当時の陸軍本部の政訓監で、のちに精神文化研究院長となった歴史学者イ・ソングンに、韓国史から青年文化の遺産を発掘するように指示し、これに従って彼が「花郎徒研究」(1954)を出版し、それから花郎は一夜にして韓国史で最も偉大な青年文化の遺産として注目されるようになったというのです。
花郎を取り上げ評価したのは、1930年代の日本の歴史学者、池内宏、三品彰英、鮎貝房之進の三氏でした。
池内宏は、花郎は武士道であったことを前提にして解釈を行いました。池内宏は、美貌の男子を選んで化粧させたり着飾るような非常識なことが行われるはずがないとして、記事を創作と見なして否定しました。三品彰英は、花郎の源流を原始時代韓族の男子集会に求め、花郎の特徴は原始宗教と解釈しました。また、鮎貝房之進は、同性愛など性的なものと解釈していました。しかし、まだ当時は、そんなに注目された存在ではありませんでした。
花郎に関する記録は、「三国史記」と「三国遺事」に記載されているものがほとんどすべてです。
「三国史記」は高麗の儒臣金富軾(キム・ブシク)が1145年に編纂した史書で、朝鮮における現存最古の歴史書です。当時、高麗は宗主国の宗に服従しており、中国崇拝主義者の金富軾は、「三国史記」を漢文式で書き、さらに、書き終わったあと、参考にした韓国の古い記録を全部処分させたといいます。当然のことながら、自分の書いた「三国史記」が最古の歴史書となる訳です。
自国の文化を、中国から侮られないように、美化していることは十分に考えられますし、どこまで信頼できる史書であるかは、自ずと疑われるべきものです。
それに、李氏朝鮮王朝時代(1392年〜)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っているのです。
また、「三国遺事」は、高麗の僧一然が1280年代に著したもので、935年に新羅が滅亡してから、三百年以上後の書物です。
「三国史記」、新羅本紀真興王三十七年の花郎の記事には、
「三十七年春始奉源花。初君臣病無以知人、欲使類聚群遊、以觀其行義、然後擧而用之。遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞。聚徒三百餘人、二女爭娟相妬。俊貞引南毛於私第、_勸酒至醉、曳而投河水以殺之。俊貞伏誅、徒人失和罷散。
其後、_取美貌男子、粧飾之、名花_以奉之。徒衆雲集、或相磨以道義、或相_以歌樂、遊_山水、無遠不至。因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。」
とあります。
37年[576]春はじめて源花を奉じました。はじめ、君臣たちは人材を見わけることができないのを憂い、おおぜいの人たちを集めて遊ばせて、その行儀を観察してからこれを登用しようとしました。ついに美女ふたりを選別しました。ひとりは南毛といい、他は俊貞といいました。仲間が三百余名集まると、このふたりの女はその美貌を争って相いに嫉妬しました。俊貞は南毛を自分の家に誘ってむりに酒を勧めて酔わせ、彼女をひきずって行って河水の中に投じて殺してしまいました。そのため俊貞は死刑にされ、彼女の仲間たちは和を失って散り散りになりました。
その後ふたたび美貌の男子を選び、化粧させ着飾らせて花郎と名づけて優遇すると、おおぜいの若者たちが雲のように集まってきました。あるいはたがいに道義を練磨し、あるいはたがいに歌楽をもって楽しみました。景色のよい山や川を訪ねて遊び楽しんで遠くとも行かない所はありませんでした。これによってそのひととなりの正邪を知って、そのうちからよい者を選んで朝廷に推挙しました。
花郎は最初、源花(ウォンファ)と呼ばれ、当初女性でした。
初めての源花として、南毛と俊貞という二人の女性の名が出てきますが、普通、女性の名を親族以外に明かすことはなく、まして、女性の名が書物に書かれることはきわめて異例なことです。この二人が、極めて高い地位を持っていたことが窺われます。
新羅には、母系社会の風習が色濃く残っていました。政治と宗教が明確に区分されなかった母系中心の新羅では、源花は、集団長であると同時に祭主(巫堂(ムーダン;巫女))であり医女であったのです。
「三国遺事」の原本には、花郎が「花郎」ではなく「花娘」と書かれています。
花郎は、もともと「花のような女性」という言葉だったのです。たぶん、源花が花郎に変わっても、最初の頃、花郎は女性だったのでしょう。
新羅後期になると花郎は、「国仙」と呼ばれ、最初の人物はソル・ウォルランでした。このころには、花郎は、女性から男性に変わっていたようです。
金大門の「花郎世紀」には「賢い補佐の臣と忠臣がここから育ち、良将と勇卒がここから生まれた」と記されています。「三国史記」には、高句麗、百済、新羅の三国時代に終止符を打った新羅の金庚信(キム・ユシン)将軍など幾人かの有名な花郎の伝記が伝えられています。
たぶんこのことから、花郎徒を戦士団として考えたのだと思われますが、史書に多数登場する花郎の中で、軍事的伝記を持つのはたった5人だけです。つまり、花郎自体は軍事的なものではなく、花郎の中から選ばれたり、生まれたと記されているだけなのです。しかも、高麗朝では国仙は兵役を免除されていたのです。もともと花郎に武人的な意味合いはなかったのではないでしょうか。
「三国史記」真興王37年条では、花郎の選抜基準は、「顔が美しい男性」とされています。
唐の令狐澄の「新羅国記」にも「貴人の子弟で美しい者を選びだして白粉をつけ飾りたてて名づけて花郎といい、この国の人たちはみな尊敬している」と記されています。女性の場合は、化粧することも着飾ることも当然のことですから敢えてこのような記述があるのは、選ばれたのが男性だからです。
化粧し着飾るのは、世界各地に見られる女装神官や女装の覡(かんなぎ)と同様に、女性の花郎のもっていた神秘的な力や女性の生命を生み出す力を取り込むことを象徴しているものでしょう。
野や山に遊ぶというのも、先祖崇拝や風水の思想的背景を連想させます。国家の重要事項である戦争の前に、吉凶を占うというのも古代の戦争では常識です。このための国家的役職があっても不思議はありません。男性の花郎が化粧したり着飾たりしながらも、人々の尊敬を集めているのも巫堂としてなら納得がいきます。「三国史記」には、花郎が女装したとまでは記されていませんが、宗主国である中国の男尊女卑の文化に追従しながら、中国に受け入れられるように、女装神官である花郎の存在を美化した表現にも受け取れます。
花郎は、新羅での母系社会の崩壊と聖職者の女性から男性への地位の転換を象徴しているものではないでしょうか。 
 
沖縄の御嶽〜祭神のいる処〜

 

数年前の夏、テント泊で八重山諸島をまわった。そして波照間島では、軽い気持ちで神杜の裏手に泊まった。しかし、翌日「ここは神聖なお宮なのになんてことをするんだ」と地元の人のお叱りを受けた。沖縄では土俗の信仰が根強く残っているから、うっかりそういう場所にはいるとまずいということや、神杜が御嶽とよばれていることは全て帰ってきてから知った。他の国の文化と接するまでもなく、異文化は常に我々の身近に転がっている。それは方言の違いや習俗の違いなどで、しばしばいざこざの原因になる。この体験を機に、本土の神杜と違う形で残っている沖縄の御嶽というものについて調べ、感じたことを記していきたいと思う。
御嶽(みたけ)について
沖縄における共同体の祭りは、御嶽を中心に営まれる。御嶽は、村落の守護神のまします聖域であると考えられている。村ごとに必ず一つ以上の御嶽があり、御嶽を中心として神と係わる祭りや村落共同体のいっさいの社会活動が営まれてきた。御嶽にはその核となる、もっとも聖なる場所としてイビ(威部)がある。イビには大きな岩や大木があるだけだが、ときには香炉が置かれていることもある。香炉はイビヌメー(威部の前)に置かれることが普通である。
ここで御嶽の構造を、八重山の御嶽(オン)を例にとって説明すると、まず、オンは神のまします聖域であり、人の住む生活空間と区別されなければならない。オンには木々が生い茂り、森を成しているのが普通である。オンは低い石垣で囲われおり、その正面には入口が開いていて、八重山のオンではそこに鳥居が立てられている。そこに入ると、庭に出る。ここは奉納芸能が演じられる神庭である。神庭の奥手に家屋があるが、これはふつう御嶽家(オンヤー)、または拝殿と呼ばれる。オンヤーの奥処にも庭があり、イビのある聖域への門口へいたる。この門口の前をイビの前(イビヌマイ)と称する。オンヤーのないオンでは、神庭→イビの前→イビという構造になる。オンは原則として男子禁制であるが、山人数と呼ばれる祭祀集団だけはその限りではない。しかし、山人数とてイビヘ入ることは許されず、オンヤー、あるいはイビの前で祈願を行う。イビの前とイビのある空間とは石垣等で仕切られている。イビは、聖域中の聖域であり、オンの神が来訪し、座するところである。イビに入れるのはわずかに司と呼ばれる神女とその補佐役だけである。
御嶽の構造について宮城真治は、その著『古代沖縄の姿』にて、沖縄古来の神道と日本本土の神道とが根源を同じくする物として、比較図を載せてその類似点を紹介している。
祭祀芸能の場として
沖縄の芸能は、農耕杜会を背景とするところに特徴がある。農作物の豊穣に感謝し、新たなる年の豊穣を予祝するため、遠来の神をことほぎ、歓待する場に芸能の芽が育まれたわけである。
村を訪れた神は御嶽に座することになるので、神に奉納する芸能の舞台も御嶽の内に造られる。それが一般的にいわれる神庭であり、あるいは、八重山でバンクと呼ばれているような、神庭の一角にしつらえられた桟敷である。そこで、村人によって演じられた神歓待の芸能が、沖縄の民俗芸能の源流になっている。
まず最初に、神々の呪縛のなかにあった古代祭祀のなかに、生産を意味する模傲儀礼などをふくんだ芸能のきざしがあらわれ、そこから、すこやかな村人たちによる神歓待の民俗芸能が生まれ、それを基盤にして高度に洗練された宮廷芸能が生まれる、と言う発展段階があったように思われる。しかも、その祭祀芸能、民俗芸能、宮廷芸能の三様が同時代に共存し、現代まで生き続けているということもまた、沖縄における伝統芸能の特徴である。伝統芸能の例として、次のようなものがある。
村芝居と長者の大主(うふしゅ) 
収穫を終えた村村では、今年の豊穣に対する感謝と来年の豊穣を祈願する祭りが行われる。いわゆる豊年祭である。沖縄各地では旧暦八月十日前後に催されるが、その主要な構成要素は村芝居と八月遊びである。「遊び」は、御嶽に来訪したかみを歓待する神遊びことで、遊興の遊びのことではない。この「遊び」は、仕込み、正日、別れの三日にわたるのが一般的で、正日が「遊び」の本番に当たる。村芝居の演目は、「長者の大主」からはじまり、「稲摺狂言」「若衆踊」「二才踊」「女踊」「狂言」「組踊」と続くのが普通である。
巻踊
巻踊は八重山の諸祭祀(豊年祭、節祭、結願祭、種子取り祭など)に、村の御嶽の神庭で踊られる。臨時の雨乞い、祝宴などにも踊られる。名称は、舞踊集団が渦を巻くように円陣で巻き、踊ることから来たと考えられる。石垣市四箇村の豊年祭のムラプーリィでは、真乙姥御嶽(まいっば一お一ん)の神庭で各村の婦人たちによる真乙姥神への奉納芸能として踊られる。円陣は左回りに旋回する。この円陣が解かれるのは、踊りが終末部に至って最後のハヤシ・掛け声と同時に一同が渦の中心に蝿集し乱舞となったときである。この乱舞はガーリと称している。
長田御嶽について
波照間において我々が泊まってひんしゅくを買った御嶽は長田御嶽と言う名前で、長田大主(ナータフヌシ)の生誕の地だった。彼は500年ほど前・琉球王朝に半期を翻したオヤケアカハチ(同じく波照島の出身)のライバルだった人物である。
波照間の歴史において、部落の成立と御嶽の創設との間には深い関連がある。御嶽には、島を挙げての全体的な規模の祭祀の折に機能する部落の御嶽の他に、一族の祭祀の折に機能する一族の拝所(御嶽)がある。後者には二つのタイプがあり、@祖先の墓がそのまま後世において拝所となったものA墓ではないが、祖先が居住していた屋敷跡とか、何かいわれがある場所が拝所となったものである。長田御嶽は、後者のAが、時代とともに前者に移行していったものと思われる。
慶田城と長田大主
西表島祖納の慶来慶田城用緒は、石垣島の北端平久保村の豪族平久保按司を討つと、その足で石垣村の権力者だった長田大主を訪れる。そこで結んだ同盟が、その後の八重山暦史を開いていく契機となる。
15世紀から16世紀に至る間の宮古、八重山の関係は、進んだ宮古、遅れた八重山という構図の下、宮古豪族の八重山進出が起こっていた。宮古勢カとの連合は、当然八重山内の覇権と関係してくる。長田大主が「宮古島忠導氏の後胤」とされるのも、その間のことと無縁ではない。宮古との親交、交易権を手中にすることは、八重山の政治支配のために不可欠のことであった。慶田城の平久保討伐、長田との同盟も、この文脈で考えれば、まずは交易権、交易路の確立のためであったとすることができる。そしてこの同盟軍との対立を直接の原因として、1500年にオヤケアカハチの反乱が起こるのである。
まとめ
創世の神話として、波照間島には次の様な説話が伝わっている。
昔、波照間は自然の恵みを受けた平和な島だった。しかしあるとき、油雨が降りだして人々は皆死に絶え、島には生類は存在しなくなってしまった。ところが二人の兄妹だけが、島の美底の洞窟に籠っていて油雨の難を避けることができた。やがて二人は結婚して子供が産生まれた。最初の子はボーズという毒魚に似た子で、次の子はムカデのような子であった。夫婦は子供が生まれるつど住所を変えて、富嘉部落の保多盛家のある場所へと移動してきた。そして今度はほんとうに人間らしい子が生まれたので、ここに居処を定め生活することになった。こうして波照間島は再び、ここから新しく興ったのである。
この説話はいわゆる兄妹始祖型の洪水神話で、島の創世を兄妹の相姦から説いており、日本のイザナギ・イザナミ神話と同型だといわれている。そして、この同様の創世の説話は奄美から八重山に至る南島文化圏の島々に広く分布しているのである。このことを考えたとき、これらの島の一つ一つが、小さな国であり、小さな神を持っているというイメージが浮かび上がって来るだろう。沖縄には一つ一つの島に根づく、我々とは違う文化が存在する。コミュニケーションに齟齬を生じさせないようにするためには、例え同じ日本を旅するときであっても、そのことを心にとめておく必要があると思う。 
 
手話という視覚言語

 

マーガッレトはその手の動きを呆然と眺めて機械的に訳していった。彼が普段使う荒っぽい手話と、今使っている滑らかで説得力のある言語の流れの違いをどのようにすれば表現できるかと迷っていた。その手話は型通りで完全であり、牧師の手にも見たことのないほどの優美さと繊細さを備えていた。そこには一種のリズムがあり、詩か歌を朗唱するような手指の動きがあった。これは誰のためであろうか。彼女一人のための雄弁ではなかったのか。 (ハナ・グリーン著『手のことば』より)
アメリカの作家、ハナ・グリーンの『手のことば』という小説は、ろう者の両親とその間に生まれた健常者の「聞こえる」娘の3人の家族の、50年に渡る生活の交流を綴った物語である。健常者である娘のマーガレットは、手話も発話も出来るものとして、何も聞くことのできない両親と、聞こえる世界との、橋渡しとしての役割を背負うことになる。それは二つの異文化間のコミュニケーションの物語でもある。冒頭に引用した文章は、マーガレットの夫の家族が、初めて彼らの家を訪れた場面からの引用である。両親は「聞こえる」人々の訪問の戸惑い、手話を使うことを恥ずかしがって長く沈黙を守っていたが、ついに娘のために勇気を振り絞って、自分たちの「ことば」で話し始める。
ここには手話が熟練者の手にかかると、最も美しい、表現力に溢れた言葉となる例が示されている。強く激しい感情を伝えるのに、手話ほど適した言語はないとも言える。通常我々は手話を、しゃべることのできないろう者が、音声による「発話」の代わりに使う代価物としてのみ捉えている。しかし、手話について少し調べてみれば、それがただ言語を手の動きによって表現しただけのものではなく、発話とは使用媒体(モード)を異にする、全く別の視覚言語だということがわかるだろう。
手話は発話と比べて遜色なく、同じくらい厳密な伝達や詩的な伝達〜たとえば哲学的な分析や愛の語らいなど〜ができる。しかもそれが、時には発話よりも容易にできるのである。発話では何百もの異なる言語構造を一瞬のうちに調整しなければならないが、手話では比較的単純で緩慢な筋肉の動きだけで表現できるからである。実際ろうあの赤ん坊の場合、生後4ヶ月で「ミルク」の手話を使えるようになるのに、同時期の健常者の赤ん坊は、泣きながら周囲を探し回るしかできないそうである。
手話はそれが表す対象の忠実なイメージであり、絶えず観察や分析を行う癖をつけてくれるので、何かの概念を正確に伝えたり、理解をいっそう深めたりするのにとても適している。
また、手話はとても生き生きとした表現力を持っており、創造力をはぐくんでくれる。たとえば「歩く」という手話は、日本では二本の指を二本の足に見立てて交互に動かすことによって表現する。普通に動かせば歩くという一般的な意味になるが、動かし方によってゆっくり歩いている状態や、千鳥足で歩いている様子も表わせて、その変化の程度も文脈や使用者の意図によって自由に変えられる。
他の言語には、このようにある一つの単語の形を変えることで、基本的な意味に新たな意味を付け加えていくということはできない。手話の場合は心的態度の表現も、手の動きの大小・遅速・強弱などで容易に表現できる。同じ「遅い」という手話を使うときにも、怒っているときは速く強く手を動かすだろうし、呆れてうんざりしているようなときには、ゆっくりとした動きになる。そのときどきの使い手の微妙な感情が、手の動きに反映されるのである。
ノーラ・エレン・グロ−スは、理想的な手話の(ろう者の)コミュニティとして、その著書『みんなが手話で話した島』で、その少数集団の住民のうちのかなりの数が遺伝性の聴覚障害であったヴィンヤード島のことを紹介している。
19世紀半ば頃には、この島のいくつかの村では四人に一人の割合で聴覚障害が発生していた。この島では島民のすべてが手話を覚えることで、この状況に適応した。そのためろう者は健聴者と自由に交流でき、障害者としてみなされることもなかった。むしろろう者であればろうあ院で教育を受けることができたため、教育程度が高く尊敬されていた。興味深いことには、1952年に最後のろう者が島を去った後でも、健聴者である島民たちは特別な場合〜猥談や、教会でひそひそ話をするとき、離れた船と船との間で話したいときなど〜はもちろん、ありふれた日常の場面でも、ときには話の途中から知らず知らずのうちに手話を使ってしまうことがあったという。
これは手話がそれを学んだ全ての人間にとって自然なものであり、発話をしのぐことさえある本物の美点と長所を備えていることの証明であろう。また第一言語として手話を学んだ場合、聴覚や発話に何も障害がなくても、脳と精神がその後もずっと手話を保持し、使用し続けるという。
1950年代後半、ウィリアム・ストーキーは手話が語彙目録・統話法・命題を無限に生成する機能の点で本物の言語に必要な基準すべてを満たしていることを証明した。手話が見た目では音声言語とまるで違って見えたり、かつて言語とみなされて来なかったのは、手話単位の要約や修飾がすべて空間でおこなわれるからである。発話は線条的・連続的・経時的に現れる多くのものが、手話では同時的・共在的・重層に現れる。はじめ手話の表層はただの身振りやマイムのように映るかもしれない。しかしやがてそれが幻想であり、一見単純に見えるものが、三次元の広がりの中で相互的に織り込まれた無数の空間パターンで構成されたとてつもなく複雑なものであることがわかる。
ストーキーは手話が構造において散文のように叙述的であるだけでなく、本質的に映像的であると考えた。現在では手話は、音韻体系と時間層と耐えざる連続性を持つという意味で、発話に匹敵するものとしても考えられている。
人間は成長の過程で知覚世界から概念世界へと移行していく。世界を事実の断片ではなく、関連や理解や観念と意味を持ったものとして捉えるようになる。この移行は自己との語らいという思考として、内在化されていく対話によってなされる。この対話が言語を、精神を生み出すと、我々は内的言語を育むことになる。
手話で考える場合手の動きがはっきり外に現れているなら外的言語であるし、頭の中で手話を使っているなら内的言語である。ろう者は夢想にふけるとき、両手をせわしなく複雑に動かし、編物でもしているような仕草をする。それは編物をしているのではなく、手話で考え事をしているのである。寝ているときも両手をベッドの上に手を出して、途切れ途切れに手話をすることがあるという。sレは手話で夢を見ているのである。
人間の発達・思考の形成には内的言語は欠かせない。外的言語では思考が言葉で具現化されているのに対して、内的言語では言葉は思考をもたらすと同時に消滅する。内的言語は純粋な意味での思考であり、人間の真の言語・真のアイデンティティーは、内的言語の中の、個々の精神を構成する意味の耐えざる連続と生成の中にあると言える。ろう者の内的言語は極めて特異であり、根本的に違った方法で自己の世界を構築し、ほとんど視覚的な思考パターンだけを用い、物理的な対象について違った考え方をしている。手話使用者は、新しい驚くほど洗練された方式を発達させて空間を表現できる。この空間は、手話を知らない者の空間では見られないような、新しい種類の形式的な空間である。これは今までまったく知られていなかった神経学的な発達、高度な視覚認知の存在の証明である。このためろう者の中には、健聴者にもめったに見られないほどの優れた演出家・建築家としての才を表わすことがある。
冒頭に引用した『手のことば』において私が最も感銘を受けたのは、献辞として記された以下のような言葉だった。
夫 アルバ−トに
左の手のひらで心臓部をおおい
右の手のひらをその上に重ねる (手話“愛をこめて”)
この単純な動きは、どんな愛の言葉よりも豊かに感情を表現しているように思う。手話は聴覚障害者と語るだけの言葉ではなく、その静けさの中に無限の雄弁さを持っているのである。
最後に、このレポートが手話という言語の特性に焦点を絞ったもであるために、あえて排除した問題点いついて記しておきたい。まずこのレポートはアメリカの文献を参考に記したので、おそらく日本での状況はまったく異なったものであると思われる。事実、自分は日本での手話の状況については知識はほとんどない。
さて、手話文化と口語文化について。手話は大きな力をもった言語ではあるが、ろう者を隔離し孤立した集団にしてしまうので、むしろ発話と読話(唇の動きを読んで意味を読み取る)を教えて一般社会に溶け込めるようにするべきだという論争も、昔から根強くある。しかしろう児の口語教育が週に何時間も要する重労働で、一般教育に回すべき時間を奪ってしまうという意味では、それはマイナスにしかならない。1850年代のアメリカで、口語主義の優勢によりろう学校で健聴者の教師が授業を教えるようになった結果、ろう児の教育水準とろう者一般の識字能力が一気に低下したという事実が、それを証明している。
なお、手話は世界の様々な音声言語と同じく国や地域でずいぶんと違っていて、唯一普遍的な手話は存在しないが、共通する普遍性は存在するらしい。手話言語の使用者は音声言語の使用者よりもはるかに自分の知らない言語を理解することが容易で、独特の方法で他の手指言語を身につけることができる。ジェスチャーやマイムを交えて大抵のことは数分以内に理解してしまうし、その日のうちに文法のないピジンを作り出し、三週間もあれば相手の手話について申し分のない知識を手に入れられるそうである。
 
トンデモと科学

 

はじめに
このページは、と学会の活動に倣って「トンデモ本」を発見したりそれを系統づけて紹介したり批判したりということを目的にしたものではない。ここでの興味の対象は「トンデモ本」とされた本そのものではない。何がそうした本をこんなにも流布させているのか――その社会的・思想的背景に興味があって考察をめぐらしたのがこのページの文章である。
あえて言えば「トンデモ本」そのものではなく、と学会の描く「トンデモ本」というもののあり方に興味があるのだ。だから「トンデモ本」とされた本はこれを書くにあたって一冊も読んでいない。
「トンデモ本」の内容についてはと学会が発表したものに全面的に依拠している。と学会に「トンデモ本」と決めつけられた著書の作者や信奉者の方がたからは「本そのものを読まずにヒハンしている」とヒハンされるかもしれない。だが、繰り返すが、私が興味を感じているのは「と学会が記述した「トンデモ本」という現象」についてなのである。と学会が書いていることに対して批判があるのであれば、このページの作者ではなく、ぜひと学会に対して抗議していただきたい。
このページの文章は、いわゆる正統科学の発想に依拠して書かれたものであり(というより、そうしたいものだと意識して書いたものであり)、「トンデモ」とされた著者の方がたとはちがった発想の基盤に立って書かれたものである。しかし、「トンデモ」の発想を「理解不能」のものとして、「世の中にはおかしな人たちがいる」というだけで切り捨てるという態度はとっていないはずである(と学会だってそんな立場はとっていないはずだが)。
これまでの人生に「トンデモ」に属する本はたくさん読んだ。「トンデモ本」の古典である五島勉の『ノストラダムスの大予言』など私に大きな影響を与えた一冊であるといまでも思っている。
私はどうして「トンデモ」とされる発想が正当に出てくるのかということを明らかにしたいというアプローチで臨んだつもりである。ご理解をお願いしたい次第である。
なお、「トンデモ」にもいろいろあるが、ここにとりあげるのはいわゆる「擬似科学」系の「トンデモ」が中心である。 
力学人生ボケラッタ
物理学はなぜむずかしいか?
物理学というのはほんとにむずかしい。
数式がたくさん出てきてそれをいちいち覚えるのはひじょうにわずらわしい。ひとつの公式とその意味を覚えて、でちょっと経つとまた教科書には公式が登場する。またそれを覚えなければならない。めんどうだ。でも「物理学のむずかしさ」とはそれだけの話ではないように思う。
もちろん数式もむずかしい。そこで使っている数式のレベルは、たとえば力学の初歩あたりでは中学レベルであろう。が、加速度の単位なんか「メートル/秒の2乗」である(cgs単位系だと「センチメートル/秒の2乗」だね)。でも「秒」って時間だろ?で、「2乗」は平方ってやつで、面積を測るときに使うやつだろ?平方メートルとか立方メートルとかいうのがメートルの2乗とか3乗とかいうのはわかる。一辺がそれだけの面積とか体積とかいうのは簡単にイメージできるし、また立体の容器に水を入れてそれの量を「立方メートル」を基本にした単位――「リットル」とか「cc」とかで表現することも日常的にやっている。でも、平坦に流れていく時間の「2乗」――いわば「平方時間」ということになるわけだけど、時間の「平方」っていったいなんだよ?つまりそれは直角に交わる二方向の「時間」によって構成される平面の面積みたいなものだ。でもそれはいったいどんなものだ?「長さ」が単位になっている面積や体積が容易にイメージできるのに対して、「時間×時間」で表現される「時間の面積」とか言われたってぜんぜんイメージできない。ましてそれがなぜ「加速度」の単位として登場するのか?
正解はつぎのとおり――ということになろう。速度の単位は「メートル/秒」である。加速度を計算するときにはそれをさらに「秒」の単位で割る。「メートル/秒」をさらに「秒」の単位で割るのだ。「(メートル÷秒)÷秒」を「メートル÷(秒×秒)」と表現しなおして「メートル/秒の2乗」と表現しているのであって、計算上「平方秒」というのが出現したにすぎない。
でも、計算上出てくるものだったら、普通にはイメージできない「時間の平方」のようなものをそこに書いていいのか、ってな疑問は残る。
「太郎さんはリンゴを四個買いました。花子さんはリンゴを3個買いました。太郎さんと花子さんのリンゴをあわせるといくつでしょう?」――これを数式で「4+3=7」と表現する。数式というのはリンゴの数とかそういう具体的なものを表現する手段なのではないのか。数式それ自体をいじくっていたらこんなものが出ちゃいました、まぁなんか具体的にはイメージできないけどそれをとりあえず表現してみました――ってなことが許されるのかどうか。数学みたいに数字の世界そのものを扱う分野だったらまだしも、物理学って具体的なモノの運動とか熱とか、そういうのを扱う分野だろ?
その疑問には、「物理学ではそれが許されることになっている」と答えるしかない。物理学では、数式上、必要とあらば、だれも見たことのない――見ることのできるわけのない「時間の面積」のようなものも、あると想定して話を進める。それが物理学ってもののの考えかたなのだ。
物理学の数式がむずかしく感じられるのは、あちこちに2乗がついた数式を暗記したり、mが「質量」(これも「重量」とはちがうんだね)でgが重力加速度だとかそういうことを覚えるのがたいへんだという以上のものがあるように思う。数式そのもののややこしさもさることながら、どうしてその数式が速度・加速度・仕事・エネルギー……を記述したものだと言えるのかという理論をたどるのがひと苦労なのである。 
「力」を考える
しかも、その理論を構成する物理学の考えかたというのがけっしてわかりやすいものではない。
こんなことを書くと全国の理科や物理の先生たちから怒られてしまうかも知れないので言い直すと、すくなくとも私たちが日常的な感覚で把握しやすいものではない(これでも怒る?)。でも、といって、私たちの日常からまったくかけはなれた架空世界についての考えかたというのともちがうのだ。想像上の世界で、火の魔物は冷気に弱く、冷気の魔物は火に弱いとか、そういうのとはちがって、物理学は私たちがげんに生きている世界を対象にした学問である。つまり、私たちが、日々接していることを、日々使っていることばで説明する学問だ。ところがその基本となる考えかたは私たちが日々感じているのとはずいぶんちがったものである。そこが物理学のわけのわからなさをさらに増幅させているところだと思う。
その点を、物理学にとって基本中の基本である「力」とか「運動」とかいう概念を例にとって考えてみよう。
私たちは、ふつう、どういうときに力を感じるだろうか?
まず、殴れらたり蹴られたりしたとき――って日常的に殴られたり蹴られたりすることで「力」を感じているとしたら問題だと思うが、自分の体に触れてそれが痛いとかくすぐったいとかそういう感覚を引き起こしたとき、私たちは「力」を感じる、と言っていいだろう。あるいは、自分で歩いたり、ものを持ち上げたりして、筋肉が痛かったり、息が激しくなったりしたときにも、自分は「力」を使っているという自覚が湧いてくる。「力」とは、私たちにとって、まず、自分が感じる身体感覚的なものとしてある。
また、ラグビーのスクラムとかタックルとか、陸上競技の選手の疾走とか、そういうのを見ていて「力強さ」を感じることもある。そこで感じる「力」というのは、やっぱり、自分がそれと同じようなことをされたら骨の髄からしびれてしまうほど痛いだろうとか、陸上選手が走っているのの半分ぐらいの運動をしただけで自分は息が上がって立つこともできなくなってしまうにちがいないとか、そういう感じかた――いわば身体的な共感を通して理解しているのではないか。しかも、その「力強さ」感には、そのスポーツ選手の人格やこれまでやってきたにちがいない努力に対する敬意のようなものも伴っている。
これは人間や動物のばあいにかぎらない。たとえば蒸気機関車が長い貨物列車を引いている姿というのには独特の「力強さ」感がある――もういまの日本人にはあんまり実感できない風景になってしまったかも知れないが。客車を引いているSLというのは秩父鉄道とか真岡とか阿蘇とかにあるが、貨車は引かないもんね。で、たとえ電気機関車のほうが牽引力が強くても蒸気機関車が長大貨物列車を引いているののほうがずっと「力」を強く印象づけてくれる。これは蒸気機関車がドラフトとかシリンダの排気とか煙突からドラフトに合わせて吐き出される煙とかいう、見ている者にその「力強さ」を感じさせる要素が強いからである。「あんな重い貨車を引っぱってがんばってるんだな」という感じがよく伝わってくるのである。これも一種の身体的な共感と言っていいように思う。
人間とか動物とか、人間の作った道具とかではない自然現象だったらどうだろう?台風の猛威というようなときも、横殴りの雨のなか、風がきつくて傘もさせないで雨粒が頬に痛みを残すほど激しく当たるのを自分で経験しなくても、木をなぎ倒したり、家をぶっ壊したり、屋根瓦を飛ばしたりした跡をニュースで見て、私たちはそのすさまじさを感じることができる。人間が何人がかりでやればあれだけの被害を出すことができるだろう?まさに人間技じゃない――台風とはおそろしい力を持っているものだ、と私たちは感じる。
こうやって、私たちが、日常、「力」を感じる局面を考えてみると、それは、第一に、私たち自身の肉体の感覚に強く結びついているということが言えると思う。自分が「力」を受けるにしても、自分が「力」を出すにしても、それは、痛いとかくすぐったいとか、筋肉が痛いとか息が弾むとか、そういう肉体そのもので感じる感覚と深く結びついている。そうした上で、その「力」でどれぐらいのことができるかを見積もり、100メートルを何秒で走るとか、何百トンの貨物列車を引っぱるとか、一夜のうちに街路樹を何本も倒したとかいうのを見る。その自分の「力」ではとてもできないことをやったという「実績」を見て、ああ、この人とか機関車とか台風とかにはものすごい「力」があるんだな、と感じるわけである。
が、その感じかたの基礎となっているのは、やはり自分自身の肉体の感覚のように思える。そういうことが、「力」ということばに独特の生々しさを生んでいるわけだ。 
物理学での「力」とは?
では、物理学でいう「力」とはどういうものだろうか?
たとえば、バッターが打ち上げたボールというのを考えてみる。このボールには、空気抵抗も加わるし、球場に風が吹いていれば風の影響も受ける。だが、そうしたもの以外に、どういう「力」が働いているだろうか?言いかえれば、空気抵抗や風の影響を考えに入れないとして、ボールにはどんな「力」が働いているのだろうか?ボールが上昇しているときと下に落ちているときとで考えてみよう。さて正解はつぎのどれでしょう?
ボールが上に上がっているときには上向きの、下に落ちているときには下向きの力が働いている。
ボールが上に上がっているときも下に落ちているときもつねに上向きと下向きの両方の力が働いているが、上に上がっているときには上向きの力のほうが強く、下に落ちているときには下向きの力のほうが強くなっている。
つねに下向きの力しか働いていない。
正解は「3」です。ボールには下向きの地球の重力しか働いていません。
実際には、ボールが上昇しているときには下向きに、ボールが落ちているときには上向きに、空気抵抗という「力」が働く――が、それはここでは考えに入れない。
この答えに対して、つぎのような疑問を持たれた方はいらっしゃらないだろうか?
え?上向きに上がっているボールに上向きの力が働いていない?
じゃあなんでボールは上に上がっているんだよ?
――はい、それは、バッターがボールを打ち上げたときの余力――あるいは惰性が残っているからにすぎない。この「惰性」のことを物理学では「慣性」という。だから、過去には――つまりバッターが打ったときには、ボールに上向きの力が働いたことがあるんだね。しかし、いまはその力はもう働いていない。ボールはひたすら地球の重力に引かれて落ちているだけだ、ということになる。
これでなっとくしました?
いや、でも、下向きにしか力が働いていないのになんでボールはそれに逆らって上に上がれるんだ?――という疑問に固執しようという方はいらっしゃいません?
もし「ボールは下向きにしか力を受けていない」という説明に納得なさるのであれば、この疑問にどういう回答を出されます?
この問題に答えるには、物理学にとっての「力」というものの概念を正確に理解している必要がある。
物理学で「力」を考えるばあい、じつは、ボールが上を向いて上がっているか、それとも下に落ちているかということはまったく重要ではないのだ。重要なのは、上を向いて上がっているときにはその速度が減りつづけ、下に落ちているときにはその速度が増しつづけているということなのである。上を向く運動の速度を減らすもの、下を向く運動の速度を増すもの――つまり下向きに「加速度」を生じさせているものこそが「力」なのであって、その物体が上向きに動いていても下向きに動いていても関係ないのである。
物理学にとっての「力」とは、「物体の運動の状態を変化させる作用」のことなのだ。
うん、わかった。
――で、「運動の状態を変化させる」ってどういうことだ?
ある物体が同じ速さで走りつづけているとする。人間が同じ速さで歩きつづける。でなければ走りつづける。そうすると疲れるし筋肉も痛くなるし息も脈拍も速くなる。あるいは自動車を同じ速さで走らせつづける。たしかにエンジンは回っているしガソリンは減る。それって「力」使ってるよね?
ということは、同じ速度での運動を持続させつづける――ある速度での運動を続けさせることは、やはり「運動の状態を変化させる」ことなるんだよね?「力」とは「運動の状態を変化させる作用」にほかならないのなら、「力」が使われているということはそこで起こっていることが「運動の状態の変化」であるはずだ。
――これがちがうのである。
同じ速度で一様に運動しているときには「運動の状態」は変化していないと物理学では考えるのだ。
といって、物理学的に見て、人間が歩いたり自動車が走ったりするときに「力」が使われていないということではない。物理学的に見てもそれは「力」を使っている。じつは、人間や自動車が同じ速度で走り続けるという状態を維持するのに(物理学的な意味で)「力」が必要なのは、地面との摩擦や空気抵抗や人体・機械の内部でその動きを止めようとする摩擦力・弾性の力などをつねに打ち消すためであって、「力」が同じ速度を維持するために直接に使われているわけではないのだ。というより、人間や自動車が走るにしても、鳥や飛行機が飛ぶにしても、それは地球の表面や空気に接触しながら、しかも生体や機械の内部の機関を駆動させながら動いているのであって、それらのものとたえず「力」のやりとりをしている、非常に複雑な物理現象なのだ――と物理学では考える(運動と速度について)。
ともかく、物理学では、同じ速度で運動を続けている物体の「運動の状態」は変化していないと考えるのである。ピタッと止まっている物体も――つまり静止している物体も、ある一定の速度で動いている物体も、「運動の状態」が変化していないという点では同じである。その「速度」を変化させる――つまり加速度を生じさせるときにだけ、「運動の状態」は変化したと考えるのだ。
しかも、「速度」というのがまた註釈の必要な概念だ。自動車で走っていてスピードメーターの針が一定の値を指していたら「速度」が変わっていないことになるかというとそうではない。運動の方向が変化すると「速度」は変わったことになる。同じ方向に、同じ速さで移動しているということが、「速度」が変わらないことの条件なのだ。
物理学の「力」とか「運動」とかいう概念は、じつは私たちが日常的に感じる「力」とか「運動」とかとはずいぶんとちがっているのである。 
物理学は「視覚」の学問である
物理学では、「運動」しているものを外から「観察」していて、その「運動の状態の変化」というものを「観察」によって発見し、そしてそれによってそこに働いている作用を見出す。そしてそれの運動の状態を変化させた作用を「力」と呼ぶのである。
それは、徹頭徹尾、「運動」しているものの外から「観察」して――つまり「視覚」によって見ることによって構成される概念なのだ。自分自身が(視覚以外の)身体の感覚によって感じるものではないのである。むしろ自分の身体の感覚といったものを持ちこんではいけないのだ。物理学で「力」を見つけようとするものは、その「運動」の外にあって、それを冷静に観察していなければならない。それが最低条件である。もし自分が運動の主体になるのであれば、だれかに外にいて観察していてもらわなければならない。そうでなければそこで起こった運動や力を正確に記述できないことになる。
自分で「力」を受けたり、「力」を出したりするのではないし、自分で「運動」するのでもない。物理学で「力」や「運動」を記述できるのは絶対の他人事としてそれを見ているばあいだけなのだ。身体で感じるものではなく、外から見て、視覚を通じてのみ感じ、考察されるもの――それが物理学の「力」や「運動」なのである。
ひとつ註釈を入れておくと、この立場は古典物理学でのみ正当であり得る。相対性理論(特殊相対論も一般相対論も)と量子力学が現代物理学にとって衝撃であったのは、それが観察者自身を物理現象にとっての一要素にしてしまったからでもある(量子力学の「シュレジンガーの猫」とか有名だね)。
「力」や「運動」という、私たちにとって身近なことばを使っていながら、それを考える発想の基本がぜんぜんちがう体系――それが物理学なのだ。哲学について、「日本の哲学用語は日常的なことばからかけはなれているから哲学は難解だと思われるのだ」という物言いがよくきかれる。しかしこれはあまり正当ではない。物理学は日常的なことばを使っているが、やはり難解である。むしろ物理学では日常的なことばが使われているぶんよけいに難解なのである。他人事として「力」や「運動」を感じるというのは、自分のこととしてハイデッガーの「頽落」やヘーゲルの「アン・ウント・フュア・ジッヒ」を感じるのと同じぐらいむずかしい。ちなみに、柄谷行人がどこかで書いていたことによると、ヨーロッパでは、日本と逆に「哲学が日常的なことばを哲学用語として採用しているから哲学はわかりにくいのだ」という批判があるそうである。
物理学にとっては、じつは。私たちの日常世界こそ、非常に変わった、特殊な条件の積み重なった世界なのだ。
まず、そこで起こるどんな物理現象も、すぐ近くにある地球というでっかいものの重力によって作用を受けてしまう。空気がある。地面がある。空気も地面も物体の運動を妨げる働きをする。重力に空気抵抗に地磁気に空気中の湿気に蛍光灯の放電にエアコンのコンプレッサーの発する電磁波に教室の机の上の凹凸まで、地球上で単純な物理現象を観察しようとしても、それを複雑にする要素ばっかりである。近くに星もブラックホールもなく、ガスも宇宙線粒子も飛んでこない、そんな場所が、物理学にとってはノーマルな場所として想定されるのだ。そういう空間で「運動」を「観察」し、そこから「力」の作用を見出すことが、物理学にとっては理想なのである。もちろんそんなことはできないから、地上でなるだけそれに近い環境を作ってやって運動を観察し、それに働く重力やら空気抵抗やらの影響(=力)を計算して取り除いてやって、誤差が出ても一定範囲だったら許容してやって、それをもとに「力」の作用を考察したり、「力」の作用から逆にその物体の性質を探ったりする。それが物理学の実験というものだし、その実験をもとにし、あるいは「そういう実験をしてみたら」ということを想定しつつ、物理学の体系は組み立てられている。 
「地球を回すエンジン」の問題
じゃ、ちょっと練習問題ね。
「トンデモ本」シリーズに、地球を太陽のまわりの軌道上で動かしているエンジンは何か、とか、電子が原子核の周囲を止まらずに回りつづけているのは物理学が否定している「永久運動」ではないのか、などということを書いた本のことが紹介されている。もちろんそれは「トンデモ」な発想として捉えられているのだ。では、それはなぜ「トンデモ」なのか?地球が太陽のまわりの軌道上をまわりつづけるのにはエンジンは必要でないとか、電子の動きはべつに現代物理学の基本法則に反したものではないとかいうことを断言する根拠は何か?
答えは本を見れば書いてあるから最初にばらしてしまうと、それは「慣性」である。つまり最初から回っているんだから、それを止めようとする力(「運動の状態を変える作用」だよ!)が働かないかぎり、回りつづける。それこそが物理学の立場に合致しているのであって、なんにもしないのに地球が止まったり電子が止まったりしたらそれこそ物理学の基本法則が破れていることになってしまうのだ(さらに詳しく)。
とは言っても、だよ――。
コマだってルーレットだってゆで卵だって回せばとまるじゃないか。いったん回したものをそのままほうっておいたら止まるというのが私たちの日常生活の常識である。そこから考えると、太陽のまわりを回ったまま止まらない地球の運動とか、原子核のまわりを回りつづける電子の運動はたしかに異常に感じられる。
それはじつは地球の上の環境が物理学の考えている環境からすると特殊だからなのだ。地面でコマを回せば、地面とのあいだで摩擦が発生する。テーブルの上でゆで卵を回してもテーブルとのあいだに摩擦が発生する。ルーレットだって軸とのあいだで摩擦が発生している。それが回転を止めてしまうのだ。そばに星もなく宇宙線も飛んでこない宇宙空間でコマを回せばそれは回りつづけていつまで経っても止まらないはずである――止めようとする力を加えないかぎり。で、地球上では回りつづけるものを止めようとする力が否応なしに働いてしまうのだ。
地球が太陽のまわりを回っているのは、45億年前、太陽系が形成されたときの原始太陽系星雲が回転していたその運動をいまだに受け継いでいるからだ。じつは、地球は、それ以来、その運動を徐々に止められつつある。宇宙空間に存在する塵や、地球のそばを通過したり地球に落ちたりする隕石や彗星は、地球が太陽のまわりを回る運動に影響を与えている。他の惑星の重力もすこしずつ影響を与えているはずだ。しかし、地球の公転運動がいくら止まりつつあっても、太陽がなくなるまえにそれが止まってしまうことはないであろう。
電子が原子核の周囲を回りつづけているというほうはもうすこしやっかいだ。電子は自分から電磁波を出してその回転を止める「力」とすることができる。そうやって回転の緩くなった電子は原子核に引っぱられて原子核に向かって落ちていく。じっさい、何かからエネルギーを受けて原子核から遠くに飛ばされた電子は、そうやって電磁波を放出することで回転をすこしゆるめ、原子核の近くの軌道に移ったりする。じゃあどうしてすべての電子がそうやって電磁波を放出して回転を止めて原子核に落ちてしまったりしないのか?
原子核の外のほうの電子は、外から「力」を受けたり、外に「力」を与えたりして、比較的自由に軌道を変えている。それがさまざまな化学反応の正体だ。ところが内側の電子は、「力」を出して回転を止め、原子核に落ちていこうとしない。たまに原子核に落ちて原子核につかまってしまう電子というのもある(K捕獲)がそれはじつに稀な現象だ。なぜなのか?
この疑問が量子論の出発点のひとつになっている。矢追さんの目のつけどころはべつにそんなにハズレたものではなかったのである。結論はハズレてるけど。
じゃあ矢追さんの結論のどこがハズレているかというと、「永久運動」と「永久機関」をごっちゃにしているところである。物理学は「永久運動」は否定していない。というより、運動の状態を変化させなければ――ということは力を加えなければと言うのと同じことであるが――いつまでもそのときの運動を持続するというのが物理学の大原則なのである。
物理学が否定しているのは「永久機関」だ。永久に運動しつづけているものから「力」を取り出してエネルギー源として使うことができるというのが「永久機関」である。が、運動しているものから「力」を取り出すということは、運動しているものにこちらに「力」を加えさせるということである。「力」というのは相互的な作用である(したがって物理学では端的に「相互作用」と表現される)。こちらに「力」――つまり「運動の状態を変える作用」を与えるならば、与えた側の運動も変わってしまう。
永久機関が可能なように見えるのは、物理学があくまで「見る」ことによって記述されることを忘れがちなところに生ずる錯覚である。私たちは「永久運動」をしている物体を見続けることはできる。しかし、そこに自分からかかわってエネルギーを自分のほうに取り出すと、その「永久運動」自体を変えてしまうことになるのだ。「運動」のいまのままの姿を変えたくなかったらけっして手を出してはならない。そっと見ているしかないのである。もしちょっとでも手を出せば「永久運動」の楽園はすぐに崩れてしまうのだ。
「永久運動」をしているのをただ見てその状態を記述することはできても、そこに手をだしてその運動をつづけさせながらエネルギーを取り出すことはできない。ところがその点が峻別しにくい。そこから「永久機関」が可能だという幻想が生まれるのである(なお、熱力学の第二法則の裏をかいて「永久機関」が可能になる――第二種永久機関といったかな?――のではないかという「マックスウェルの悪魔」の問題もあるが、これについては省略する。興味のある人は熱力学に関する本を読んでください)。 
物理学の発想はなぜ正当なのか?
「力」とは自分で感じるものではない。「運動」は自分がやるものではない。自分は「運動」している物体を外から見ていて、その「運動」の変化を観察することではじめて「力」という作用が働いていることを知る。自分の身体で感じるのではなく、「視覚」を通じてのみ「力」が働いていることを知る。それが物理学という体系にとって正しい感じかたなのである。
また、コマでもルーレットでもゆで卵でも、回したものは見ているあいだに止まってしまう。それが私たちの地球上の日常世界での常識である。しかし物理学の常識はちがう。太陽のまわりを回りはじめた惑星は40億年以上もそこを回りつづけるのだ。物理学にとっては、私たちが日常を送っているこの地球上は、重力は強いし、運動のじゃまをする空気は存在するし、地磁気はあるしと、よほど特殊で非常識な場所なのである。おかげでそこでは物体はいろいろな力の影響を受けて複雑な運動をする。私たち人類が人工的な生命維持装置なしに生きていける世界はいまのところこの地球上しか見つかっていないのだが、その地球上は物理学にとっては非常に例外的な環境だということになるのだ。
このような物理学の発想がなぜ正当なのか?
私たちの「常識」とはちがった突飛な発想を基礎におき、しかも私たちが生きている環境での運動を非常に例外的な運動として捉えるような物理学の発想が、なぜ正当なのであろうか?
「トンデモ」を考えるためには、そのことをぜひとも考える必要があるように思う。 
近代科学と近代民主主義 

 

理論はなぜ正しいか?
ちょっと大げさに書きすぎたかも知れない。
物理学の発想がなぜ正当とされるのかというと、それはその理論によって現実が説明できるからだ。ある理論があって、こういうことをすれば、あるいはこういう現象が起こればこんな結果が出るはずだと予測する。それを実験で確かめてみる。あるいは天体観測などで確認してみる。そして、その理論が予測したとおりの結果が出れば、いちおうその理論は正しかったことになる。
しかし、その理論の予測どおりの結果が得られたのが一度だけだとしたら、それはまだ十分に理論を検証したとはいえない。偶然にそうなったのかも知れないからである。その理論が予測したとおりの結果がいつでも再現しなければその理論は正しいとはいえない。
もちろん、実験設備に問題があったり、実験の結果に影響を与えるべつの力が働いていたりしたりすると実験結果は理論の予測どおりにならない。そこで、理論の予測とちがった結果が出たばあい、それが理論の欠陥によるのか、それとも実験に問題があるのかを慎重に検討しなければならない。それも、たとえば実験に問題があったとしても、その問題がどこにあるのかが一度で判明することは稀だろう。いろいろな条件を変えて実験を重ねてその問題点を追究する必要がある。天体観測でも同様である。天体現象は実験とちがって人間が条件をいじるわけにいかないだけになおのことむずかしい。いろいろな要素を考えあわせて、理論と観測結果のズレを解釈してみる必要がある。もちろん理論どおりの結果が出た場合も同じような検討は必要だ。ほんらいは理論はまちがっているのに、たまたま理論どおりの結果が出るような条件がほかにあって、その理論どおりの結果が出たのかも知れないからである。
だいたいの理論はそれで検証できる。しかし、何度も検証したはずの理論がまちがっていたり、何度も実験してみて否定された理論が正しかったりということがまれに起こる。
地動説にしたってそうなのだ。地動説が唱えられた初期には有力な反論が存在した。地球が太陽のまわりを回っているのであれば、星空に対する地球の相対位置が季節によって変わるはずだ。したがって星空の見えかたが変わるはずじゃないか。この、地球が太陽のまわりを回っていることによって起こる星の見える位置のずれのことを「年周視差」という。で、この年周視差がないことが、地動説がまちがっている証拠として唱えられたわけだ。
ところが、それは当時の観測技術が未熟だったから年周視差が発見できなかっただけの話だったのである。恒星がそのころに考えられていたよりずっと遠いところにあったというのがポイントであった。恒星が太陽系から遠くにありすぎたので年周視差が小さく、初期の観測技術では発見できなかったのだ。現在では、太陽系の近くの天体については年周視差が実際に観測され、それが逆に地動説の正しさを立証するための論拠として使われている(ちなみに『トンデモ本の逆襲』249頁のコンノ氏のいう現象は「光行差現象」じゃなくて「年周視差」のことじゃないですか?)。
実験の条件や観測に問題があっても、その問題に気づくのに長い時間がかかるということもあり得るのだ。
だからどのような理論も絶対に正しいとは言えないのである。言えるのは、その理論を否定するような信頼できる実験結果や観測結果が出ていないということだけだ。そして、そういう理論をいちおう私たちは「正しい」理論と呼んでいるわけである。
そのかわり、理論の途中に常識ではあまり考えられないような想定を組みこんでいるとしても、その理論の予測したとおりの結果がつねに出るならば、その理論は正しいものと考えなければならない。
いや、もうすこし言えば、「正しい」理論にはもうひとつ条件がある。それはなるだけ単純に現象を説明できているということだ。一つの数式でいえることを、必要以上に場合分けして二つや三つの数式で表現した理論は「正しい」理論ではない(だから物理学者は「統一理論」に固執するのである!)。世界は単純な理論で説明できるように平明にできているものである――というのが物理学の世界観なのだ。信頼できる実験結果や観測結果を矛盾なく説明できて、しかもなるだけ普遍的にあてはまる、なるだけ単純な理論ということが「正しい」理論の要件なのである。
「トンデモ」に共通する特徴として、世界はだれにでもわかるように単純にできているものだという思いこみがあると指摘されている。しかし、それはじつは物理学の基本思想でもあるのだ。ただ、物理学が、物理学の考える「単純さ」によってこの世界を単純に平明に叙述しようとすれば、「トンデモ」の人たちには理解できないぐらいに複雑になってしまうというだけの話なのである。逆に、物理学の採る「単純さ」の基準からすれば、「ユダヤの陰謀」などというものは複雑すぎて採用できない基準になってしまう。
「トンデモ」の人たちのなかは、正統物理学の世界では相対性理論がまるで疑われることなく信奉されていると考えている人が多いようだ。しかしそれはとんでもないまちがいである。一般相対性理論ですらいまだにそれを検証するための実験が繰り返されているし、あえていえば一般相対性理論はまだ現代物理学において「正しい」理論の地位を十分に確保したとすら言えない面がある。相対性理論より理論構成の複雑な量子力学にいたってはその基本的な理論についてすら繰り返し繰り返し再検討が加えられている。
特殊相対性理論はもとより、一般相対性理論は現在のところさまざまな物理現象を矛盾なく説明することに成功している。有名なのは水星の近日点移動と日食の際の「光は曲がる」という観測結果であろう。それまでの古典力学ではどう説明してもうまくいかなかった現象を一般相対性理論が説明したことにより、一般相対性理論が正しいという蓋然性が高くなり、「正しい」理論とされるにいたったわけだ(相対性理論について)。
それにもかかわらず一般相対性理論の正しさがいまだに疑われるのは、その理論の基礎に実証されていない仮定を持ちこんでいることによる。マイケルソン−モーレーの実験の解釈で有名な光速度不変の原理と並んで相対性理論の基本とされる等価原理がその「実証されていない仮定」である。慣性力――つまり人間がボールを投げたりロケットを打ち上げたりして加速度を生じさせる力と万有引力は同じものだという推定が「等価原理」なのだが、それぞれ加速度を生じさせる仕組みがちがっているわけで、それを同じと見ていいのかどうか。その点についてはいまだに検証のための実験が繰り返されているのである。 
「科学」と「トンデモ」はどこがちがうか?
だからして、正統科学の研究者はアインシュタインを崇拝しているとか、アインシュタインの無謬性を信じているとかいうのはまったくの誤りである。まともな物理学者であれば、アインシュタインはもちろん、ニュートン以来の古典力学の大原則とされている法則だっていつでも疑う用意を持っているはずである。アインシュタインを疑うのは一部の「トンデモ」学者だけの特権ではないのだ――残念ながら。アインシュタインの誤りの可能性について真剣に考え、その検証を繰り返し行っているのは正統物理学者だって決して「トンデモ」の後塵を拝してはいない。
では、正統科学と「トンデモ」のどこがちがうのか?
いま書いたように、正統科学の正しさを保証しているのは検証可能性である。つまり、理想的に言えば、すべての実験結果・観測結果がその理論に合致していることが理論の正しさを保証する、という考えかただ。もちろん実験や観測の条件しだいでは理論に合致しない結果が出ることがあるが――地球上は物理学にとってはとっても特殊な場所なのだ!――、その結果を歪めた条件をきちんと説明できるならば、そのばあいでも実験結果・観測結果が理論と合致したとみなされる。
重要なのは、だれがどこでやっても同じ結果が出るということである。「どこでやっても」といっても、海でしか実験できないものは沙漠で実験するわけにもいかないし、たとえば日食などの天体観測はある限られたところでしか観測できないのが普通である。また、ニュートリノの観測なんかは、地上ではいろんなところからニュートリノが飛びこんでくるのでどれがどこから来たニュートリノか判別できないので観測にならない。地下深くにもぐらないことにはニュートリノの観測はできない。
だから、たとえば、ニュートリノ観測施設が日本の神岡にしかないのだったら、神岡の観測結果には一定の疑問がつきまとうであろう。神岡の研究者がうそをついていないとしても、私たちの知らないニュートリノの発生源が神岡の近くにあるかも知れないからだ(もちろん、神岡鉱山のニュートリノ観測装置をはじめ、世界中のニュートリノ観測装置は、近くに考えられるかぎりのニュートリノ発生源がなく、しかも観測に支障を来すよけいな放射線が入ってくることもない場所が選ばれているはずである)。しかし、世界には神岡のほかにいくつもニュートリノ観測装置があって、それらで同じ結果が出れば、神岡の結果はまず信用できるものとして扱われる。もしどこかほかにニュートリノ観測装置があったとしても、そこで神岡ほか地球上すべての観測装置とちがう結果が出ることはまず考えられないからである。
ともかく、世界のどこでだれが実験・観測しても同じ結果が得られるというほぼ確実な見通しがないかぎり――「絶対確実」ということはあり得ないしそれは科学者もちゃんとわきまえている――、正統科学ではある理論を正しいものとして扱うことはしないのである。
対して「トンデモ」はどうか。
「トンデモ」にもいろいろあるだろうが、検証可能性という点での厳密性は、「トンデモ」は残念ながら正統科学に及ばないように思える。宇宙人から正しいことを教えてもらったと称する人がいたとする。しかし、その宇宙人からのテレパシーがほかの人間に届かないかぎり、それは検証することは不可能である。さらに宇宙人が正しいと思っていることがほんとうに正しいのか(宇宙人だってまちがうかも知れない)、とか、それが悪い霊が人間を混乱させるために正しい宇宙人を偽装して送ったテレパシーではないのかというところも検証しなければとても科学としての検証に耐え得たとは言えない。ハムレットだって父王の亡霊のことばをそのまま信用したりはしなかった。ちゃんと実験してその正しさについて自分で確証を得てから、はじめてその父王のことばを信じたのである。それぐらいの懐疑心はあっていいはずだし、正統科学の理論家はまともな理論家であればみんなそれぐらいの懐疑心を持っている。
植物と会話ができるとまじめに誠実に主張する先生がいるなら、それはその先生にとって真実なのであろう。しかし、ほかのだれかが、同じ装置を使って植物と会話し、それによって同じ結果を得られなければ、それは科学の理論として検証に耐え得たとはいえない。あるいは、第四次元を時間として、それを超える第五だか第六だかの次元として「心」の次元があるなどと主張するのもかまわない。でもそれを検証できなければやはりそれは科学の理論として意味はない。一般相対性理論が疑わしい科学理論であるとしても、そういう「トンデモ」科学理論は、残念ながら、一般相対性理論の一万倍や一億倍は優に疑わしいのである。 
社会が決める「真実性の基準」
こういう表現をすると、「あの先生はとても清廉潔白でうそをつくような方ではない、その先生がこうだとおっしゃっていることがうそであるわけがない」という反論をなさる方がいらっしゃるかも知れない。しかし、人間はうそをつく気はなくてもまちがうことはあり得るのである。
そう言うと、あの先生だけにまちがう可能性があるのか、という反論が「トンデモ」(とされた本の)信奉者からは寄せられるかも知れない。そのとおり!まちがい得るのはその先生一人だけではない。世界は相対的なのだ!全世界の人がまちがう可能性だってある。もしかするとその先生と信奉者という少数の人たちだけが正しくて、ほかのすべての人がまちがっている可能性だって私は否定しない。そしてそれが重要な点なのである。
だが、あれも真実かも知れない、でもこっちの人が言ってるこれも真実かも知れない、というのでは、この世界について考えつくかぎりの可能性を検討しなければならなくなってしまう。それでは何の研究も進まない。そこで、私たちの社会には、「こういうものをこの社会の真実にしよう」という基準ができている。言いかたを変えれば、社会がその真実についての基準に適合していると認めたものだけがこの社会では真実として認められるのだ。
その基準はじつは時代によって地域によってまた文化によってさまざまだ。過去のある社会ではどこかの神殿で得てきた神託だったかも知れない(それでもソクラテスはいちおうその神託の検証というのをやっているぞ)。教皇のおっしゃることだから――教皇は誤謬をおかすことなどあり得ないのだから、それが真実だとされていた社会もある。だが、私たちの社会はそういう基準を採用してはいない。では、私たちの社会が真実性の基準としているのは何か?
私たちの社会の真実性の基準――それこそが検証可能性なのである。だから、どんなに人格高潔清廉潔白な先生が真実だと信じ、その先生がそれを広めることが自分の義務だと思って私財をなげうって尽力している理論であったとしても、それが、だれがどこで実験・観測しても同じ結論にたどり着くという確証がないものであれば、それは社会にとっての真実だということにはならないのである。
それは、ある意味で、社会が宇宙の真実を知るチャンスを失うことにつながるかも知れない。くりかえすが、「ある人だけが特権的に真実を知っている」という考えかたをしりぞけ、だれがどこで調べても真実であると検証できることのみを真実と認めるというのは、それは社会の制度なのである。この社会の制度が人間に絶対の真実を知ることを保証しているかというとそれはけっしてそんなことはない。かつての神殿の神託や教皇のことばと同様にそれはまちがっているかも知れないのだ。
にもかかわらず、それを私たちの社会が真実と認めているのは、そのことで宇宙の真実を知らずに過ごしてしまうことのリスクを冒しても、そういう真実性の基準をとることによって社会が手にする利益のほうがはるかに多いと考えているからなのである。
ここで唐突だが近代社会について考えてみる
さて、近代物理学が確立されてくる過程というのは、近代社会そのものが確立されてくる過程と軌を一にしている。
ヨーロッパ中世においては、ギリシアのエンペドクレス(月のクレーターに名まえを残している)が提唱した四元素説が一般に信じられていた。この世界は、火・土・風・水の四元素で構成されているという、「ファイナルファンタジー」シリーズとかで有名なあれである。WWFの奥田氏はファイナルファンタジーVで「ものまねしゴゴ」を倒したというのが自慢だそうだ。ちなみに、天上はべつの第五元素によって構成されているという説があり、その第五元素につけられた名まえが「トンデモ」界で有名な「エーテル」であった。
中世ヨーロッパでは「原子」説などというのはほとんど忘れられた異端の説であった。近代哲学のうち「大陸合理論」の祖とされるデカルトも原子説を否定している。中世西欧に「トンデモ本」シリーズがあったならば、まちがいなく原子説の信奉者は今日のコンノケンイチ氏や矢追氏の地位をその本のなかで占めていたであろう。ちなみに、『共産党宣言』とかで有名なマルクスの学位論文は、その忘れられた古典古代の原子論についての研究であった。
そこから、コペルニクス・ガリレオ・ケプラーによって近代的な天体運動の理論が生み出され、ニュートンの業績によって古典力学が確立し、ドルトンによって近代原子論の基礎が固められ、ほかにもボイル−シャールの法則とかアボガドロの法則とかホイヘンスの原理とかそういうのが実験によって確認されていくなかで、17−19世紀のヨーロッパで近代物理学は成熟していく。
それは、まさに同じ社会において「近代」が成熟していく過程でもあった。
「近代」とは何かというようなことを論じはじめたらきりがないし、それを論じる用意もない。ただ、唐突なようであるが、その近代社会のひとつの到達点に、政治的な近代民主主義と、それを支える近代民主主義的な文化があるということをここではとりあげたいのである。
もちろん「近代イコール民主主義の時代」ではない。民主主義は近代の長い時期において例外的な思想であり、危険思想ですらあった。ヨーロッパの大国としては早い時期に「共和制」を実現したフランスですら民主主義はやはり秩序を破壊するものとして忌み嫌われていた。そのフランスからまだ建国百年にすらなっていなかったアメリカ合衆国に渡った貴族アレクシス・ド・トクヴィルが、今後の政治世界を支配する原理が民主主義になっていくことをいやいやながら認めたのは19世紀に入ってからだいぶ経ってのことである。ましてそれが現実のものとなるのは西ヨーロッパでも19世紀も末期に入ってからであった。日本にはまだまだ「日本は民主主義の歴史が浅い」というコンプレックスを持っている人も多いようだ。しかし、政治体制として、そしてそれを支える思想としての近代民主主義の歴史が浅いのは日本だけではない。世界のどこをとっても大同小異である。
だが、近代政治と社会の到達点のひとつが近代民主主義であるということは、現時点においてはなおたしかであるように思われる。現在の社会において、共和制の国家はもちろん、君主制の国家においても、民主主義の要素を政治の基本原理にとりいれていない国家はごく少数であろう。現実には独裁政治が行われている国家であっても、その独裁政権が近代民主制的な原理で構成されているという体裁を整えていないものは少ない(「近代民主主義」について)。 
産業化、自由主義、近代民主主義
なぜ近代民主主義が近代の政治的な面での到達点になったかという問題も単純に解答を出せるものではない。ただ、それが、産業化とそれに伴う都市化と密接に関係するものであったのはたしかであろう。
もともと、西ヨーロッパでの商業社会の成熟と、西ヨーロッパに地球の全域から物資が集中したことが、伝統貴族の身分の外に政治的有力者が増加する契機となった。それに絶対王政とそれを支えていた貴族制が対応できなかったところにフランス革命が起こり、また、伝統貴族の身分制から自由な植民地において、植民者たちが一種の契約国家としてアメリカ合衆国を設立した。同時に、蒸気機関が広く実用化され、世界の産業化が一挙に進展した。産業化は近代的な都市化を必然的に進行させることとなった。都市化は都市だけの問題ではない。それは都市に人口を奪われることとなった村落での伝統的秩序の漸次的な崩壊と変質も引き起こした(近代化と共同体の崩壊)。その社会の変化に応じるかたちで新しい社会の組織原理としてまず西ヨーロッパとアメリカ合衆国で採用されたのが、経済的自由主義に対応する政治的自由主義であり、立憲制であった。
そして代議制を柱とする立憲制の「代表」(つまり国会議員)選出の基盤を全国民(ただしこの時点では特定年齢以上の男子国民)に広げたのが政治的民主主義である。自由主義は、結果の不平等は認めるが、機会については、身分や血筋による格差を設けずに均等に与えられるべきだと考えるものである。その「機会の平等」を求めて行き着いたのが普通選挙(男子普通選挙だよ)による近代民主主義の政治体制であった。いわゆるマルクス主義は、代議制を構成原理とする近代民主主義体制は必然的に矛盾に逢着して崩壊するものと考えたが、その実践においては、近代民主主義の原理から離れることはついにできなかった。かえってみずから「執行権力の専制」の迷路に迷いこんでしまったのである。
絶対主義を支えた社会を政治的民主主義へと移行させた重要な条件となったのは産業化であった。そして、その産業化は、近代科学を確立させる大きな動力ともなったのである。
もっとも物理学・化学を含む近代科学が最初から産業化と密接な関係があったわけではない。たとえば雷が電気であることを発見したベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国建国のイデオロギーに大きな影響を与えた思想家であり、やがて産業化を推進させることになる経済的・政治的自由主義の思想を持った人物であった。けれども当時の科学者がみんなそうだったわけではない。この時代の科学者のなかには、イギリスの貴族もいたし、フランスで反革命の容疑で殺された役人もいた。
しかし、近代科学がその草創期から採用していた真理の基準――すなわち検証可能性は、産業化された社会においては非常に重要な意味を持ちはじめたのである。それはたんに科学とか物理学とか哲学とかの「サイエンス」の枠をこえはじめた。あるいは、検証可能性を真理の基準とする科学が社会と新しいかたちの関係を持ちはじめたのだ。 
検証可能性と自由主義
ギルドによって生産がきびしく統制され、人びとにとって信仰が何よりもたいせつだった時代には、真理の基準が教皇のことばであったとしても不思議ではない。だが、生産に成功するかどうかということが自分の経済的な成功不成功に――ひいては社会的な成功不成功に直接に響いてくる産業化された近代においては、真理の基準が検証可能性におかれるようになったのはむしろ自然であった。いかに教皇のことばやその人の人格に裏づけられた理論であっても、それを産業に応用して役に立たなければ、産業化された社会では意味がないのである。ここに、近代科学の真理についての基準が産業化された社会の要請と一致したのであった。
もちろん、真理の基準が検証可能性でなければ困るのは、産業化社会で成功者であろうとする人たちである。つまり企業家自身であり、それは自由主義の担い手となった階級――ごくおおまかに総称してブルジョワジーと重なることが多かったであろう。当時の社会においてはまだまだブルジョワジーは全社会のごく一部を占める特権階級にすぎなかった。それ以下の、小ブルジョワジーと総称される都市の職人とか小商店主とか農民とかにとって、まして労働者にとって、真理の基準なんか検証可能性であろうが何であろうが知ったことではない。だが、ごく一部であっても、その社会を主導することになった階級の文化が、全社会のものの考えかたを規定してしまうのはごく自然なことである。
と、「ごく自然なことである」と書いたわけだが、もちろんその見かたではこぼれ落ちてしまう要素がある。その社会を主導する一部集団の文化を社会の文化としてしまっていいのか、社会を主導する立場などにはけっして立つことのない「民衆」の文化こそがその社会の文化として重要ではないのか。このような立場から構想される一群の学問もある。日本の民俗学はそうした学問のひとつである。一つ目小僧とかだいだら坊とかいういうことは社会を主導する階級が社会に影響を与える局面で見せる文化とはあまり縁がない(もちろん社会を主導する階級の人が、その本業以外の局面で「民衆」の文化に目をとめることは少なくなかった。日本の民俗学草創期に農相石黒忠篤や渋沢栄一の孫の渋沢敬三が大きな役割を果たしていることを考えるとそのことは了解できよう)。
しかしそういうものこそ重要だというアプローチをとる学問が民俗学なのである。いわゆる考現学――「路上観察」とかも含めてであるが、それもそうしたアプローチを採る。ヨーロッパでは非キリスト教圏を研究する方法として文化人類学が早い時期からあったが、ヨーロッパ社会自身の「民衆」社会を対象とする方法として社会史の方法論が生み出された。また、そうした民俗学的な「民衆」世界と、全社会規模の政治や経済の接点にあたる部分を考察する、民衆史のようなアプローチもある(色川大吉氏の研究とかが有名だね)。
が、ここでは、こうしたアプローチが存在することを示唆するにとどめたい。そうでないと話が広がりすぎるからだ。ともかく、ここでの話の要点は、経済的・政治的自由主義の担い手となった産業資本家階級――すなわちいわゆるブルジョワジーにとって、近代科学の「検証可能性」という真理の基準はたいへん相性のよい考えかただったということである。
そして、検証可能性という真理の基準は、そのまま近代民主主義を支える発想として受け継がれることとなった。 
近代民主主義の原理は検証可能性の応用である
検証可能性を真理の基準にする社会とはどんなものだろうか?まず、そこでは、だれもが、それが真理であるかどうかを検証し、判断する資格を持つ。のみならず、だれもが、自分が「これこそは真理である」と考えることを世間に呈示して、それが真理かどうかを社会のすべての人に判断してもらう資格をも持つ。すべての人が「真理」についての仮説を提唱する権利を持ち、しかもすべての人がそれを検証する権利を持つ。もしだれかが提唱した真理についての仮説を自分で検証してみて、その仮説どおりの結果が出なかったとしたら、それは真理ではない、まちがった理論であると主張する権利をすべての人が持つ。ただしその検証のための実験が厳正に行われたものであることが条件である。
これが自由主義にもまして民主主義に適合する真理の基準であると考えることはそれほど不自然ではあるまい。そりゃそうだ、ものすごく不自然だと思ったら最初から書いちゃいない。
近代民主主義とはどういう制度かというと、その社会(国家とか自治体とか)に属する人の一人ひとりが、その社会の政治がよいものであるかどうかを判断する権利を持つという仕組みである。のみならず、そこでは、「こうやればこの社会はよくなる」と考えたメンバーがいれば、だれでも、その社会の政治を自分に任せてくれと主張する権利を持っている。そして、「こうやればこの社会はよくなる」と言って政権の座についた者が、まぁその「公約」を実行しないなんてのは論外として(ってその「論外」がよくあるんだこれが)、その考えどおりにやってみてだめだったとわかると、その社会に属する者ならだれでもその過ちを指摘してそいつを政権の座から引きずり下ろす権利を有する。ただし、それはやはり正当な批判の過程を経たものであることが必要で、ただ「あいつは気にいらん」とか「あんなやつにまともな政治ができるわけがない」とかいうだけではダメである。その批判の正当性を確保するために近代民主主義に考えられた制度が選挙であり、ばあいによってはリコールとかイニシアチブとかレファレンダム(国民投票)とかであるわけだ。
つまりこの近代民主主義の制度は「検証可能性」という真理の制度を政治に応用したものなのである。科学における「真理についての仮説」が、政治では「こうすれば社会はよくなる」という政見としてあらわれる。その仮説の提唱がすなわち立候補ということになるわけだ。そして、政権を執って実際に政治を行うのは、その真理を検証する実験の過程と考えてよい。もちろん社会なんて日常生活の場を舞台にいいかげんな実験をされては困るという感情はあるだろうが、しかし、代議制民主主義というのは本質的にそういう制度なのである。だからこそ、むちゃで未熟な理論の持ち主が社会を舞台に無責任な実験をやったりしないように監視する義務が国民や自治体の住民には課せられているわけである(だから選挙で棄権してはいけないとされるのだ)。そして、その政権担当の成果、つまり実験の結果によって、その政見が適切なものであったかどうかということを、正当な手続によって、その社会のメンバーによって判断してもらう。これがつまり実験結果による仮説の検証である。近代民主主義社会では、いろいろ制約はあるが、その社会のメンバーであれば、原則としてだれもが選挙権を持つし、だれが立候補してもいいことになっている。年齢などの一定の資格を例外として(ある時期までは性別が重要な資格になっていたのだが)、血筋とか信仰とか身分とか職業とか、そういうもので政治的権利にちがいが生ずることはない、いや、そういうことがあってはならないとするのが近代民主主義である。それは近代科学と同様だ。近代科学でも、だれにだって仮説を唱える権利はあるし、仮説を疑う権利もある。 
近代民主主義の社会的基盤
しかも、近代民主主義は、たんにそういう政治制度があります、というだけのものではない。その近代民主主義的なものの考えかた――ときには「近代」を取っ払った「民主主義」的な考えかた――は私たちの日常にまで染みとおっている。
――なんてかくと、おや、筆者はさっき言ったことと逆のことを言っているぞ、というようなことを感じた人もいらっしゃるかも知れない。いや、そう感じていただければ筆者としちゃあたいへんうれしいんだけど。
私は、さっき、自由主義について書いたときに、べつだん社会全体が自由主義の考えかたを受け入れたわけではないが、なお自由主義はその当時の社会を主導する思想であり得たということを書いた。ということは、近代民主主義についても同じことが言えるのではないか?政治制度として民主主義がある。だからといって、それを採用している社会が民主主義の文化に染まっているとは言えないのではないか?
そのとおりである。
そして、実際、政治制度として近代民主主義の制度を持っていながら、社会的にその考えが浸透していない社会というのはこの地球上にはいくらも存在する。まあ具体的な名まえを挙げると差し障りがあるかもしれないから、自分で任意の国家や地域について考えてみてください。
だが、いわゆる西側の先進国――いまとなっては「旧西側」というべきだろうか――の社会についていえば、いろいろ問題はあるにせよ(そしてその「いろいろ問題」の一部をこれからとりあげて行くわけだけれど)、いちおう民主主義的な文化が社会に浸透していると考えていい(「先進国」という表現が気に入らない人いません?)。
自由主義では「自由主義の考えかたが社会に浸透していたとはかぎらない」と言っておきながら、近代民主主義については、近代民主主義の考えかた自体がすでに社会に浸透していると私が言うのはなぜか?
それは、近代民主主義が伴った社会の大衆化というもののおかげである。
社会の大衆化はそれこそ産業化の直接の成果であると言っていい。その基盤は初期の産業化が引き起こした都市への人口集中――すなわち都市化であったと考えてよいだろう。
その社会に初等教育が普及した。初等教育の普及にはもちろん中央集権的な強力な国家権力が不可欠である。そうでなければ、子どもを勉強させるよりは小さいうちから働かせたほうが実践的な教育にもなるし収入にもなるしそっちのほうがよっぽどいい、ガッコウの勉強なんか金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんに任せておけばいい――と考える親が多数だっただろうし、実際、少なからぬ「発展途上国」ではいまだにそうである(もちろん社会の親たちが子どもを学校に通わせる経済的余裕が社会全体にないという問題も大きい)。そうした親を学校教育に向かわせたのは、国家権力と、その学校教育の階梯を昇りつめた場合に約束される社会的・経済的成功の夢であった(「末は博士か大臣か」――っていまさらこんなことば使わないよねぇ)。しかし、それを可能としたのは、全国民の子女を通わせる学校を作り、そこで使われる教材を印刷し、電気を供給し……ということを可能にした社会の産業化であった。また、すくなくともいまの「先進国」に初等教育が普及した時期には、子どもを非生産的な学校教育の場に投げこんでも親が経済的に困窮することのない程度まで社会の生産効率が上がり、親の収入が確保されていたということである。それは産業化の成果であった。それによって、一国内で一様なことばをしゃべり、共通の知識の基礎を身につけ、しかも同じぐらいの程度まで字(単語)を読んだり書いたりすることができ、同じくらいまでの計算技術を持った、それまでの社会では考えられなかった均質な人間が社会に出ていくことになったのである。
社会の大衆化を促したのはそればかりではない。印刷術の普及、交通・通信技術の発達は、全国の――ひいては全世界の人びとに均質な(かならずしも「同じ」ではない)情報を提供することとなった。電波メディアの普及は、その社会の教養を均質化しただけではなく、たとえば娯楽の形態の均質化にまで影響を与えた。前近代社会の遠く離れた某所と某所でまったく同じ民謡が歌われていることはあまりなかった(もっとも前近代社会の情報交換能力を甘く見てはいけないが)が、いまでは北海道の人と東京の人のあいだで『赤ずきんチャチャ』を共通の話題として話すことができる。
そして、その大衆化された社会は、政治的民主主義を制度として持っていることが多かった(大衆化と政治的民主主義)。それは、たとえば選挙というような、そこに住む者すべてを巻きこむことになっているものが、社会の隅々にまで行われることで浸透していった。もちろん、出版・放送などのメディアや、学校教育の果たした役割も小さくない。日本の戦後民主主義のばあい、やはり学校教育の比重が大きいのではあるまいか。 
大衆社会のなかの近代民主主義
もちろん大衆社会が原理的な近代民主主義をそのまま受け入れたのではない。それは、大衆社会に受け入れられる過程で、極端に単純化されたり、既存の社会制度や慣習と融合したりしながら、大衆社会に浸透していった。しかし、大衆社会が民主主義をトータルに拒絶することはまずなかったのではないだろうか。
それは、時代を超越したある発想と民主主義とが非常に近い関係にあったからである。その「時代を超越した発想」とは、つまりは世界は普通の人びとのものである、民衆はいつも正しいという発想である。
これはべつに近代民主主義に特有の論理ではない。というよりそれは近代民主主義の論理にとっては不当な単純化である。近代民主主義は人民はまちがった選択をすることもあるということを前提とした制度だ。選挙民も、選挙民に選ばれた政権担当者も、まちがうことはある。そのまちがいに気づいたときにはそれを修正する機会を最初から制度的に作っておく。その制度が選挙だ――というのが近代民主主義の仕組みなのだ。
この「民衆は常に正しい」という信念は、「神」とか「天」とかいう「超越」的なものを信じているか信じていないかということによって必ずしも規定されるわけではない。神の意志は民衆のなかにこそ体現されるものであって、為政者が民衆に圧制的にふるまったりすれば、その為政者は神の意志を蔑ろにしているのである――というかたちで、その発想は現れうるし、また、実際に、世界各地の数々の宗教戦争や民衆反乱、「千年王国運動」と呼ばれるようなもの、あるいは日本の「一揆」などといったもののなかに出現してきた。『水戸黄門』の世界だって「民主主義」的であり得る。民衆を虐げる悪代官は黄門さまご一行の葵のご紋の権威によって(まあそれだけじゃないが)打ち払われる。無力でおとなしい民衆はいつも正しいのだ(また蛇足だ)。
かくして、いつの時代でも、「民衆が主人公の政治」という殺し文句はどんなに政治不信が募っても――いやそれが募るほど乱発され、しかも一定の成果を挙げるものなのだ。せいぜい、「民衆」というところに「人民」ということばが入ったり、「人民」が古くなったらそれが「国民」になったり「市民」になったりという、それだけのことである。「民」がついているそれらしいことばならばなんでもいいのだ。
しつこいようだが、「民衆が政治の主人公」という表現は、古代民主主義についてならともかく、近代民主主義にとっては不当な単純化である――まあべつに選挙のためのキャッチフレーズなんだから単純化しようが何しようがかまわないようなものであるが。『トンデモ本の逆襲』の表現を借りれば、新幹線のひかりが光速で走っていなくても、タイガーバームの成分に虎が入っていなくても、べつにそれは不当表示ではないのだ。
だが、重要なことは、かつて古代民主主義を支え、「神」や「天」や「皇帝」や「教皇」の時代にも民衆社会の信念として形を変えて保たれつづけた「民衆はつねに正しい」という思いこみにとって、近代民主主義は、一見、非常に受け入れやすい発想だったというのも事実なのである。要は、近代民主主義が「民衆が政治の主人公」であるという思想であるということだけを受け入れるにとどめて(そんなことは啓蒙専制君主だって口にしたことばなのだが)、それが民衆の意思というものを政治社会でどのように反映させる仕組みを持っているのかということまで考えなければ、あるいは選挙権によって民衆は万能であるのだと信じこむならば、それでいいのだ。
ならば、前世紀まで近代民主主義が受け入れられず、かえって危険思想視されたのはなぜかというと、ひとつには近代民主主義そのものが未成熟だったからである。それはたかだか西欧の一地域の都市民のある階級の生活様式に根ざした政治思想にすぎなかった。それが、やはりヨーロッパ各地の身分制議会の伝統やら教会の投票の伝統やら進化論やら社会主義者からの批判やら政治社会のアウトサイダーとされた人たちからの挑戦やらと接触するうちに、いま見るような近代民主主義ができあがってきたのである。また、そのころには、村落には村落共同体の秩序があり、非農業民にも独特の秩序意識があって、近代民主主義のような思想が体系的に入っていく余地が少なかったからである。その社会の「民衆」は、一揆とかシャリヴァリ(制度化された民衆的いやがらせ)とかいう反抗手段で民衆の「正しさ」を示していればよかったので、べつに近代民主主義は必要なかったのである。やはり産業化に伴う都市化でそういう規範が弛み、しかも村落共同体の側でも新しい組織原理を求めていたところに、自由主義とそれにつづく近代民主主義が流入したのだ。
ともかく、社会が産業化によって大衆化してきたところに、その社会にはるか昔から受け継がれてきた「民衆はつねに正しい」という考えに一見すると適合的に見える近代民主主義というものが入ってきた。そういう条件のもとで、近代の先進国は、民主主義的な文化を持つことになったのである。 
民主主義社会にとって「トンデモ」は病理現象か?
私たちの社会は、民主主義的文化に支えられた、近代民主主義を政治原理とする社会である。そして、その近代民主主義の原理は、近代科学の真理の基準を政治に適用したものという性格を持っていた。
その近代科学の真理の基準に挑戦するもの――それこそが「トンデモ」である。
では、「トンデモ」の大量発生は何を意味するのか?
「トンデモ」が一部の狭い範囲での現象ではなく、社会に広く受け入れられ、物理学のトンデモ本が書店で平積みになって正統科学の概説書を圧迫している事態を私たちはどう考えればいいのか?
それは民主主義文化に支えられた社会にとって、その原理を根本から否定するような病理現象なのだろうか?
それとも、それは、近代科学の発想を、ひいては近代民主主義の発想を否定する者にも「言論の自由」を認めるという民主主義文化の誇るべき成果なのだろうか?。
私たちは現象としての「トンデモ本」をどう考えたらいいのか?
問題はようやくそこに帰ってきた。 
「トンデモ」と現代民主主義

 

ただ、それだけのこと
私は特殊相対性理論は正しいと信じている。そして、その理由として、特殊相対性理論を検証した実験で、それを否定するような結果が出なかったからだと書いた。
じゃあ私はそれを検証する実験をやったのか、というと、やっていない。
マイケルソン−モーレーの実験装置というのはそんなに大がかりなものではないが、やっぱり自宅で作るとなるとそうとうに覚悟がいる。原理的には光源とハーフミラーと鏡があればできるものだが、そこに干渉縞が発生していないことを確認するためにはそれなりの精度が必要だ。精度の悪い機械を使ったらかえってへんな原因で干渉縞が発生してしまったりしかねない(特殊相対性理論の検証)。
まして、現代物理学理論の多くを検証してきた加速器なんてものは、とても一家に一台とか町内に一台とかいうような程度で設置することはできないものである。CERNがスイスとフランスの国境に持っている加速器で粒子が走る一周の距離は山手線一周に相当するときいたことがある。もちろんそれは現在の加速器のなかではなみはずれて大きいものだが、しかし現代物理学の検証に役立つぐらいの加速器はおいそれとは作れるものではない。放射線医療に使われる機器のなかには加速器と同じ原理を使っているものもあるようだが、それだって高価なものだし、一般人がおいそれと扱うことのできるようなものではない(放射線医療の機械を扱うには資格も必要だ)。
特殊相対性理論だって一般相対性理論だって量子力学だって、それを証明する実験というのを私は一つもやったことはないのである。
じゃあなぜそれが正しいと信じているかというと、私が読んだ複数の(「トンデモ」ではない)物理学の本に、それが正しいと書いてあるからだ。
こういうことを書くと、「それ見ろおまえだって特殊相対性理論の正しさを自分でたしかめたわけではないじゃないか、そういうのをアインシュタインを信奉しているというのだ」と「トンデモ」の人たちはいうであろう。
まさにそのとおりである。
だから、私は、「トンデモ」が正当に現代社会のなかに出てくる過程を知りたいのである、と、「正当な」とわざわざ書き加えたのだ。
もちろん、それを「アインシュタインを信奉している」と言っていいのかどうかはわからない。
私が「トンデモ」ではなく正統物理学者の言を信じるのは、その物理学者の書いている内容がまず矛盾しないし、私にとって受け入れやすい内容だからである。私は異星人の乗り物を見たことがない。もちろん私には正体をはっきり知ることのできなかった飛行物体らしいものは見たことがある。「UFO」とはほんらいそういうもののことである――と『トンデモ本の逆襲』に書いてあるし、「それが何か確定されていない飛行物体」の略語なんだからやっぱりそうなんだと思う(「UFO」およびユダヤの陰謀)。しかし、それは、飛行機や、夕日が反射した雲の断片であった可能性のほうがはるかに強いと私は思っている。もちろん実験木さんと語り合ったこともない。木に感情があるかどうかは知らない。木が環境に応じて元気になったり木にストレスがたまったりすることはあるだろうと思うけど、それが太陽が熱いか冷たいかとかそういうことを知っているとはあんまり思わない。それよりは、物理学者が書いているマイケルソン−モーレーの実験の結果とかビッグバン仮説とかのほうが真実である蓋然性が高いと感じる。いちおうその本で書かれている現象が、私が「こういうこともありそうだ」という蓋然性が高いと思う範囲内にあり、しかもその本で提示されている理論がそれをきちんと説明していると感じるからである。それだけのことだ。
もひとつ言うと、私にとってはやっぱりトンデモ物理学より正統科学のほうがスリリングで楽しいのである。だっていわゆる「UFO」とか古文書とかだれかの予言とかユダヤの陰謀とかで宇宙の真理が知れてしまってはなんにもたのしいことはないではないか。それだったら、火・土・風・水のクリスタルの力を使って暗黒の復活と戦うほうがずっとスリリングで楽しい(WWFの奥田氏はFFVでものまねしゴゴ……あ、この話はさっき書いたな)。それに、わざわざ正統科学の外に正統科学の定説を否定するような物言いのものを探さなくても、正統科学の本を読めば、私たちが常識だと思っていたことに思わぬ疑問をつきつけるようなことがいくらでも書いてある。私には「トンデモ」よりそっちのほうが楽しいのである。いわゆる経路積分とかファインマンダイヤグラムとかの基本的な考えかたを、ただ理論物理学に興味があるというだけの人を相手に講義したファインマンの『光と物質の不思議な理論』なんてとっても楽しく読めた。でも、べつに正統科学の本より「UFO」とか古文書とかについて書いた本のほうが楽しいという人がいたってかまわないと思うし、またそういう人がいるから「トンデモ」がこれだけ隆盛する。それだけのことだ。
「それみろ、それだけのことじゃないか」――と「トンデモ」の人たちは言うであろう。そのとおりである。
私は私が「アインシュタインを信奉」しているとは思っていない。それは、さっき書いたとおり、ちゃんと批判意識を持って読んでいるという自負があるからだ。ホーキングの書いたものも、ファインマンの書いたものも(ところでファインマン物理学を正面切ってとりあげた「トンデモ」ってあんまりきかないな)、湯川秀樹や朝永振一郎のものでも、私は、どこかに矛盾するように思えることを書いていないかどうかを意識しながら読んでいる。でも、楽しみのために読んでいるんだからそんなに厳密に批判しようとして読んでいるわけじゃないし、書いているほうが私よりずっと専門的知識は豊富なんだから、ごまかそうと思えばいくらでもごまかしはきく。もちろん誠実な著者であれば、自分にはよくわからないところはちゃんとよくわからないと書くものだし、そういう著者の誠実さを信頼し、専門知識もあり誠実でもある人が書いているんだからそれは信頼してもよいだろうと思う。
こう書くと、だったらそれは「木とお話のできる先生の人格が高潔で誠実だからその説がまちがっているはずがない」という「トンデモ」の思いこみとどこがちがうんだということを言われるかも知れない。
だからそのとおりなんだって!
もちろん、「木とお話ができる先生」のばあいと、正統科学での説明とではやはりちがいがある。正統科学の誠実さとは、自分では検証できない点について、あるいは自分で自信がない点について、「こういう点の説明がつかない」とみずから公表して、できればそれをどういう方法によれば検証できるかということについても示唆することによって示される。極端にいえば、その人の性格がいかに奇矯なものであっても、正統科学の採用する真理の基準――つまり検証可能性の点で誠実であれば、その科学に対する態度は誠実であると判断しない理由はない。逆に、それ以外の点でいかに人格高潔であっても、検証可能性の面でイイカゲンであけば、残念ながらその著作に科学的な正しさを認めることはできない。
だから、私が正統科学と「トンデモ」を比較して、正統科学を支持するのには理由があるのである。たしかに検証可能性という基準において「トンデモ」より正統科学がすぐれていると私は考えている。
でも、ようするに、ただそれだけのことなのだ。 
ようやく話は本題に……
私はたしかにいわゆる「UFO」を見たことはない。だが、マイケルソン−モーレーの実験だって体験したことはない。私の日常生活にとって、光速度が不変だろうがエーテルが光を伝達していようが、どっちだってそんなに不都合があるとは思えない。
いや、相対性理論や量子力学がなければ、私がいまこれを書くのに使っている――あるいは貴方がこれを読んでいるパソコンはなかったであろうし、あるいはこの論文を記録してくれているプロバイダのコンピューターも存在しなかったであろう。ついでにいうと、加速器を使って放射線や素粒子について研究しているCERNという機関がなければ、インターネットだってこんなふうに使えていたかどうか怪しいものなのである。べつにパソコンだけではない。私たちが精密な電子機器を活用して生活していられるのは、現代物理学が「検証可能性」の厳格な基準に合格して産業に応用できるものになっているからなのだ。それがただ「現代物理学の誤った論理の誤りがたまたま発覚しなかった」という偶然のいくつもの組み合わせによって可能になっているというという蓋然性はあんまりなそうである。
が、ようするにそういうことは「ブラックボックス」に入れて知らなければいいのである。「トンデモ」の著者が、自分が原稿を書いているパソコンやワープロや、自分が食っている飯を炊いているマイコン釜なんかが現代物理学の理論と関係があるかどうかを「わからない」ことにしてしまうのは――調べればいいのである。最初に書いたように、現代物理学の理論でも、「ここのところはどういうふうになっているかわからないけどこういうふうになっているんだからこういうことにしておこう」と、「よくわからないけど正しそうなこと」をステップに含めて議論を進めることは許されている。それを「ブラックボックス」というのであるが、しかし、なんでもかんでも「ブラックボックス」にしてしまっていいわけではない。いくら調べても現代の科学でははっきりしたことがいえないものにかぎって「ブラックボックス」にしていいというだけの話である。
なんでもいいけど、なかなか本題に到達せんなあ、この文章……。
まぁそこは妥協するとしよう。現実においても、コンピューターの専門家がすべて現在使われている半導体というものの基礎理論を細かく理解しているわけではないだろうし(半導体の定義ぐらいは知っているだろうけど)、地球科学の専門家とはいっても地震学者がホーキングの時間論についてそれほど通じているともかぎらない。だから「トンデモ」の人が、エーテルが存在しないことを前提に作られたハイテク機器を使って生活していたってかまわないことにするとする。だいたいそれは近代科学の原則を「トンデモ」の人にあてはめるからそういうことが起こるのであって、「トンデモ」は近代科学の原則の外にあるのだから、そんな近代科学の科学者世界のルールなんかにはかかわりなく生きていると考えてもちっともかまわぬのである――し、じっさいそうやって生きている「トンデモ」の人が多いであろう。
何の話をしていたかというと、つまり、自分の生活を便利にしているハイテク機器がすべてエーテルなんか存在しないという基礎に立って考えられた理論のおかげで存在しているということにまったく頓着しない人にとって、「UFOを見たことがない」ということと「マイケルソン−モーレーの実験なんかやったことがない」ということは何のちがいもないということをいいたかったのである。そして、科学者ではない平均的な人にとって、それはべつに異常なあり方ではないのだ。
ふう、ようやくちょっと本題に近づいた。
マイケルソン−モーレーの実験というのは、「平均的な人」にとってはなかなか意味のつかみにくいものである。それは台を回したら反射板に光の縞ができるはずだったのが何度実験してもできなかったというそれだけのことだ。それは光を伝達するエーテルというものの存在を確かめるための実験だった。しかし、そんなこと、べつにエーテル食って生きているわけじゃないのだからやっぱりあんまり関係ない。だが、それが、「だれから見ても光の速度は一定だ」ということになると、ちょっと常識からはずれるような感じがする。さらに、光速の90パーセントで飛んでいる宇宙船どうしがすれちがっても、そのすれ違った速度が光速の1.8倍にはけっしてならないとなると、非常に常識から外れている感じがする。時速90キロの上り列車と下り列車(最近はあんまり「上り・下り」と言わなくなったそうだが)がすれちがっても時速100キロを超えないなら、どうダイヤを組んでいいかまるでわからなくなってしまうだろう――まあほんとはローレンツ変換の公式を使えばいいのだけど。
もちろん、特殊相対性理論を順を追って理解しようとし、その各段階での矛盾があるかないかを検証していけば、その考え方は高校生の山本少年にもわかる程度のものである。だが、重要なのは、多くの人が高校生の山本少年程度に熱意を持って相対性理論を理解しようとはしないことである。しかも、多くの平均的な人々は、高校生の山本少年ほどでないにしても、宇宙について知りたいという願望はちゃんと持っているのである。
そうしたとき、自分になじみのない実験を通して得られた理論が、日常生活で感じる常識とはあきらかにちがった結論を導きだしたのを信じるか、「UFO」に教えてもらった真実と称するもののほうを信じるか。論理を順序立てて追えば特殊相対性理論がマイケルソン−モーレーの実験の結果をきちんと説明できていることはわかるはずである。けれども論理を追わないとしたら、あるいは「マイケルソン−モーレーの実験を、何度、どんな精度で繰り返しても干渉縞が見えない」ということの意味をきっちりと捉えようとしないならば、日常生活で感じる常識により合致した結論――つまり光速を超えることは可能だという結論のほうがより正しく感じられるというものではないだろうか。 
「専門化」の果てに
最初に書いたように、物理学というのは、私たちの日常のことばを使い、日常に起こる現象を説明しているにもかかわらず、あまり日常的ではない概念の使いかたをする学問である。それが正当であるのは、検証可能性という基準によって、それがだれがどこで実験してもその理論どおりの結果が再現するということによっている。
たしかに、中学・高校程度の物理であれば、中学・高校の実験室で実験して確認することはできる。できる、とはいうが、それでも誤差範囲になかなか数値がおさまらなくて苦労した記憶が私にはある。初歩の物理学の問題を解くときには、バットで打ち上げたボールは放物線を描いて落ちてくるということにして解くわけだけど、実際には空気があるのでそんなことは起こらない。だいたいボールがバットで打ったのとおんなじ運動量で野手のところに落ちてきては左手が痛くてたまらないだろう(バットで手のひらを思いきりぶったたかれたのと同じ衝撃があるはずなのだ)。スタンドで子どもに当たったりしたら「ファウルボールにご注意ください」じゃすまないはずである。「空気がなければそうなるんだ」っていうけど、空気のないところで野球をやったやつなんかいないんだから要するに「実感」することなんかできはしない。
中学・高校程度の物理学でもそんな調子だから、もうマイケルソン−モーレーの実験とか粒子加速器での実験結果とかになると、「だれでも、どこでも」実験して確かめるというようなことはできなくなる。それはたとえばアメリカ合衆国の加速器で実験した結果をヨーロッパの加速器で実験し直すことはできるだろう。しかしその実験結果を直接に知ることができるのは――そしてその結果の意味を手順を追って解釈することができるのは、一部の専門の物理学者だけになってくる。
私たちは、それらの学者が発表したことを正しいとして受け入れることしかできない。たしかにだれにだって仮説を立てる権利はある。けれども、加速器を使って実験した結果から当を得た仮説を立てることができるのは、事実上、かなりの専門的知識を持った者に限られてくる。もし、万一、市井の一市民が当を得た仮説を立てたとしても、それを検証する手段はまずない。もしその手段を得ようとすれば、どこかの加速器を持っている機関に「私が仮説を立てました、検証するために加速器を使わせてください」と申し出ても、そこの管理をしている人を説得するだけの専門的な議論に習熟していなければまず加速器を使わせてくれることはない。べつに意地悪でやっているわけではない。加速器なんてものは一回使うだけでものすごい手間が――そしてカネがかかるものなのだ。その手間とカネを費やしても割に合うような仮説かどうかを事前に検証することは、施設をなるべく有効に運用するためにぜひとも必要なのである。
もちろん科学の分野によっては「しろうと」の参入に対する垣根がそんなに高くないところもある。コンピューターソフトの開発もそういう面があるし、天文学のうち、彗星や流星の観測もそうだ。というより、惑星表面や彗星・流星の観測は、多くのアマチュア天文家の存在を抜きにしては成り立たない分野である。多くの、まあまあの収入があれば買える望遠鏡や双眼鏡が空を観察しているからこそ、大型望遠鏡は安心して大型望遠鏡でしか観測できない対象の研究に専念できる。
だが、「トンデモ」が好んで対象にしたがる宇宙論とか理論物理学とかはそうではない。アインシュタインが「思考実験」という手段を使っていたことはよく知られているけれど、今日では(というか量子力学が創始されたころからなんだけど)、「思考実験」ですら複雑な統計処理を必要とするものになり、単純に回答を出すことができないものになってしまった。
「だれでも、どこでも検証できること」が真理性の基準であった。だが、理論物理学の先端理論は、「だれでも、どこでも検証できる」とはいかないものになってしまった。それを知るためには、ある専門知識を身につけ、ある特殊な装置を使わなければならなくなってしまっている。もちろん、その専門知識を身につける機会は各個人に平等に分配されていることになっているし、加速器なり大型望遠鏡なりの使用申請を行うのにべつに資格はいらない。運転免許証の申請よりはずっと間口は広い。ただし、専門知識を持たない者の申請が認められる可能性は運転免許なんか問題にならないほど小さい。
圧倒的に「平均的な人びと」で構成される「一般市民」は、「だれでも、どこでも検証できる」はずの「正しい」理論について、自分ではないほかの「だれかが、どこかで検証した」結果を間接的に聞くことしかできない。また、それ以上、理論的説明を聞こうなんて思わないのである。そんなしんどいことをしてまで理論物理学の正しさを知って何になる?トップクオークが実在しようがしまいが日常生活には何の関係もないではないか(ところでトップの対はダウンじゃなくてボトムですぜ>前野さん)。それは「一般市民」が無気力なのではない。「私たちの住んでいる世界をなるだけ単純で普遍的に説明したい」という物理学の体系が複雑化したのだ。それも物理学者がイジワルで複雑化させたのではない。「なるだけ単純で普遍的に説明」しようとすると大学院レベルの数学を知らないとその説明が理解できないほどこの世界は複雑であることがわかっただけの話である。それを知ろうとすることは、一般市民が日常生活を送りながらやるには、かなりの情熱なしにはむずかしいことになってしまったのである。 
やっとめぐってきたブリュメール一八日
さて、いま私は物理学の話をした。では、近代物理学とは産業化から生まれた双子の関係にある近代民主主義はどうだろうか?
たしかに私たちは普通選挙制度のもとで選挙権を持っている。また、ある年齢以上であれば被選挙権もある。選挙があれば立候補することもできる。だが当選するのはあまり楽ではない。現在の日本の選挙では、市井の一市民が選挙に立候補して当選するのは不可能に近い。もちろん市井の一市民がある組織や運動や政党の支持を得ることができれば別である。選挙運動にはカネもかかる。カネの問題は選挙制度改革でなんとかなるにしても(というよりぜひなんとかすべきだと思うけど)、選挙に当選するにはまたいろいろなテクニックがある。当選する確率はかぎりなく小さい。聞くところによれば、衆議院の総選挙では「政党本位」になったのでいっそう当選の確率は小さくなったようである。
また、選挙に当選したからといって何であろう?当選すれば、自分が掲げた政見どおりの政治ができるだろうか。なかなかそれはむずかしい。むずかしいのは、まあ大部分は実現不可能な政見を公約に掲げて当選したりするからであるが、けっしてそれだけではない。選挙で人民の代表で〜すなどと言って政治の場に乗りこんでみたところで、そこには専門化された知識と技術を持つ官僚がいて、その官僚が独特の仕事のしかたを組み上げ、その仕事については基礎知識も何もない議員なんかに口を出せる余地があるわけもない。
もちろん専門知識を持った議員というのもいないわけではない。とくに官僚出身の議員はそうである。けれども、そうした議員(「族議員」とよばれる)は、その知識を専門とする省庁の官僚との人脈で政治を動かすことはできても、とても専門知識でもって専門官僚を押さえつけることはできない。そうした議員は、国民の代表として省庁を管理するよりも、その省庁の代理人としてほかの議員と闘う局面のほうが圧倒的に多いであろう。
また、選挙はたしかにその社会のメンバーに与えられた、政治に対する検証の機会である。だが、私たちが政治の何を判断できるだろう?原子力政策と、薬害エイズと、O-157と、消費税と官僚機構改革と、パレスチナ和平と、朝鮮半島情勢と、日米安保体制と、地震対策と……のすべてについて専門的な知識でもって政治を判断しうる有権者が日本に一人でもいるだろうか?そのすべてが判断にあたって概略をつかむだけでもかなりの専門性を要求される問題点なのである。
私たちが政治をどういうふうに判断して投票してきたかということについてはいろいろ研究があるはずだから参照してほしい。ともかく、気づいてみると、政治を動かしているのは、私たちの投票結果ではないという事態がそこにあった。政治を動かしているのは執行権力(つまり行政当局)であり、専門的な知識と技術を身につけた官僚であり、その官僚によって構成される官僚制だったのである。これは日本でその傾向が著しく、たとえばアメリカ合衆国なんかでは専門官僚の地位というのはあんまり高くないなど、国によって「傾向」のちがいはある。しかし、現代民主主義は本質的にこの官僚制支配の問題を抱えているというのはたしかなことだ。マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』で、代議制民主主義は執行権力の専制に屈服せざるを得ないことを論証した。そして、その執行権力の専制の問題を唯一解決できるのがプロレタリアート革命だとしたのだ。マルクスの理論は、プロレタリアート革命においてではなく、執行権力の専制において実現を見てしまった。
官僚制支配の是非についてはここでは論じない。専門技術者による支配を人民による支配(つまり民主主義)よりすぐれたものとしてとりあげた思想家にヴェブレンという人がいるそうである。そのへんのことはファイナルファンタジーVのものまねしゴゴを倒した奥田氏に譲るとしよう。
近代民主主義の原理は、その社会のメンバーがだれでもその社会をよくする方法を考えついてそれを実行するチャンスを与えられるというところに立脚していた。たしかに今日の社会もその原理を否定してはいない。だれだって専門的知識と技術を持った官僚になることはできるはずだからである――原理的には。しかし、近代民主主義にとってもっとも重要であるはずの選挙という制度は、とっくの昔に、「こうすれば社会はよくなる」という考えを提唱してそれを実行するチャンスを与えてもらえるかどうかを選挙で判断してもらうための制度ではなくなってしまった。そこでは、「政治の主人公は国民」だとか「市民を主人公とする政治」とかいう、啓蒙専制君主だって口にしたようなスローガンばかりが横行する。べつにそういうスローガンしか出せない政党を非難しているわけではない――わけではないけれど、しかしそうなってむりからぬ状況があることを見過ごしてはいない。民主主義政治はとっくの昔に私たちにとってみずから参加するものではなくなってしまった。それはテレビで解説してもらうものであり、尽きせぬスキャンダルの提供源であり、ようするに「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかの大部分にとってそれは「見る」ものにすぎなくなってしまった。
政治の「専門化」は、近代民主主義の基本をなす発想をまったく形骸化させてしまった。それは、政治を行う役割を少数の専門官僚に集中させ、その他の多くの「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかをその政治を見て楽しむだけの立場に落ちつかせてしまったのである。
ちょうど、物理学の「専門化」が、物理学にとっての真理の基準を形骸化させ、理論を立てて実験を行う少数の専門物理学者と、それについての情報を受け取って楽しむだけの立場に落ちつかせてしまったのと同様に。 
お疲れさまでした
だが、問題はそういうことではないのだ。
政治の主役を少数の専門官僚に譲ってしまった「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかは、しかし、その政治を見ているだけの自分がなお政治の主役だと思っている――もしくは思いこみたがっている。
ことわっておくが私はそのことを非難しているのではない。もし「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかが自分こそが政治の主人公だという思いこみを失ってしまったら、政治は選挙結果という不確定要素によってかき乱される機会を失い、沈澱して淀みきってしまうしまうだろう。ただでさえ淀んで腐敗が進行している部分があるというのに。
もちろん、「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかいう人たちが「自分こそが政治の主人公だ」と思って、政治の見物人に過ぎない自分に多大な権力があるように思いこんでしまうこともよいことだとは思わない。なぜなら、見物人に権力がないからではなくて、見物人には権力がありすぎるからである。しかも、近代民主主義では、選挙民が選挙の際に揮う権力であっても、立法府の権力であっても執行権力(行政)であっても政治権力はその権力に対して責任を持つものとされる。だが「見物人」の権力は何に対しても責任を負わない。実行に対してまったく責任を負わず、ただ強大なだけの権力というものほど危険なものはない。
そして、それと同じように、専門の物理学者がやった結果に対する見物人にすぎない平均的な人々も、自分で手応えを感じながら宇宙を――宇宙を支配する法則に到達したいという願望を持ち、しかも自分にはその資格があると信じているのである。
もちろん、それは近代民主主義において形式的には主権者がなお人民であるように、たしかに形式的にはその資格はあるのである。ただし、それは「物理学の発想をきちんと理解し、それを裏打ちする数学をきちんと理解して、学説を批判する」権利として具体的に現れるのであって、そういう過程をとばして宇宙を支配する法則に到達する権利なんて近代科学はだれにも認めてはいない。
こう書くと、物理学に数式を使うのは数式バカとかいう批判をする「トンデモ」があるらしいからいちおう書いておく。物理学にとって数式が不可欠なのは、それが、世界のものごとからいっさいの個別的・具体的なものを取り去って、普遍的に単純に表現する手段だからである。太郎さんがリンゴ4個を買い、花子さんがリンゴ3個を買って来たなら、リンゴは合わせて7個だ――まえに買ったリンゴが残っていたり、帰る途中で食ってしまったりしなければ、であるが。で、紗南ちゃんが写真を4枚撮り、秋人君が写真を3枚撮れば、写真は合わせて7枚である――まえに撮った写真を秋人くんが隠していたり、紗南ちゃんがどこかで写真を落っことしたりしないかぎり。ここから、リンゴだとか写真だとか太郎さんとか花子さんとか紗南ちゃんとか秋人くんとかいう個別性・具体性を取り去ったところに残るのが4+3=7という数式である。それが世界を普遍的に単純に説明するにはいちばん適しているのだ。なぜ適しているといえるかというと、それはそういう説明によって矛盾が出る蓋然性をいちばん低く抑えられると社会では考えられているから――つまり検証可能性という真理の基準に適合しているからなのである。
とはいうものの、である。「物理学の発想をきちんと理解し、それを裏打ちする数学をきちんと理解して、学説を批判する」ことができるような人は、普通は物理学のたんなる見物人になったりはしない。もちろんそういう人もいるであろう。しかし、物理学のたんなる見物人のなかでそういう人はかなりの少数派である。
多くの人は、物理学のたんなる見物人であり、しかも物理学というものがどういう考えかたをするかもほとんど知らないで、しかも物理学的に宇宙の真理を知ろうとする。だが、正統科学はもともとそんな横着を認めてはいない。
しかし、物理学を自称しながら、「これが宇宙の真理だ」ということを提示することはできる。もちろん受け手の側は物理学の発想などというものにはいっさい拘束されない。知らないか、むしろ物理学の発想というものに反感を持っているかも知れない。かくいうこんな文章を書いている私だって中学高校のころにはずいぶん物理って科目に苦しめられた――私を教えてくださった先生方には失礼だけど、中学生・高校生のころに物理がおもしろいと思ったことなんかほとんどない。だから、もし、ファインマンの『光と物質の不思議な理論』とかそのほかのいろんな本に出会うことがなかったとすれば、私は物理学を理解せずに反感を持ち続けていただけかも知れない。そんなわけで、私は「物理学で数式をありがたがるのは数式バカだ」と決めつける文章を読んだらじつに爽快に感じる、その気分を理解できないわけじゃない。よく理解できるのだ(ちなみにファインマンの『光と物質の不思議な理論』ではほとんど数式らしい数式は使っていないはずである)。
物理学的に見れば「ユダヤの陰謀」なんて単純な説明でもなんでもない。どうしてユダヤがそういう陰謀を企てるのか、どうして裏切り者からその裏事情がそのまま露見するということがないのか、またどうして陰謀だとしてそれが相対性理論のような物理学理論として現れなければならないのか――そうしたことのすべてを、単純に、普遍的に説明できないことには、それは実証された仮説とはいわないのである。そしてそれはほぼ不可能である。
だが、物理学の発想を知らない者、あるいは物理学の発想そのものを理由をつけて拒否する者には、そちらのほうがずっと単純に映る。相対性理論を理解するには、それが高校生の山本少年に可能なことであっても、まずニュートンの古典力学で、速度の概念をおぼえ、加速度の概念を覚え……というステップを積み重ねなければならない。しかし、「これが宇宙の真実だ→われわれが複雑な理論を聞かされているのはユダヤの陰謀だ」とか、「これが宇宙の真実だ、なぜなら宇宙人がそれが正しいと語ったから」とかいうものであれば、証明のステップは二つですむ。もちろんそれは科学的には証明にも何にもならないが、その科学的発想を拒否する者にはそんな物言いはそもそも通じない。
近代民主主義を支える民主主義的文化が近代民主主義の原則を忠実に受け入れたものであれば、近代民主主義の原則とは近代科学の原理にほかならないわけだから、そうしたものは例外現象にとどまったであろう。だが、さきに指摘しておいたように、それは近代民主主義の理性的理解として受け入れられたのではなかった。近代民主主義は、19−20世紀までの社会を構成していたいろいろな共同体と共同体原理が、社会の産業化によって崩壊や変質を経験したときに、民衆の「民衆はいつも正しい」という感情に適合したことで民衆世界に受け入れられたのである。だから、それは、近代民主主義を民衆世界の論理に沿う局面においてのみ受け入れられた。民衆はいつも正しい、政治家と官僚は「国民」(とか「市民」とか……以下略)に「国民」の望むとおりの生活を実現する義務があるだけでなく(それはたしかにある、ただし「可能なかぎりにおいて」である)、それはつねに完全に可能である。政府は、税金を安くし、小さな政府を実現し、しかも高度福祉国家を実現しなければならない。なぜなら、安い税金、小さな政府、高度福祉国家は、すべて「国民」の望むものだからだ!
民衆を一方的に責めているのではない。それは、執行権力の専制という実態にはまことにお似合いの政治意識である。執行権力は国民の意思をそれほど重視することなく執行権力自身がいちばんよいと判断したことを執行し(たとえそれが非加熱製剤の非回収などという国民の生命にかかわることであっても)、国民は執行権力に何が可能かを考えることもなく何もかも自分の望むものを執行権力に求め、それが実現できなかったらその執行権力や執行権力の走狗に成り下がった政党や政党内閣に悪口を浴びせる。これは二つでワンセットになった現象なのだ。それは現代民主主義の病理なのではない。すくなくともこの国の現代民主主義にとって正当なあり方なのである。
そして、その同じ民主主義文化の産物として、正当に生み出されたのが「トンデモ」なのである。 
デモクラシーとサイエンス――ではなく!
古い「礼教」支配に抗して政治・社会・文化の近代化を求めて起こった中国の五四運動期の思想は「デモクラシーとサイエンス」であった。意図したのかどうかは知らない。それがジョン・デューイ(知り合いにナースエンジェルはいないと思うぞ)の思想の影響下にあったのはたしかである。ともかく、古い「礼教」にかわる新しい社会の支柱を、変革期の中国の進歩的な人士は、産業化の生んだ双子――近代科学と近代民主主義に求めたのだった。
隣国の「人民」や「民」(人民共和国と民国――それぞれの国号にはそういうことばが入っている)がはたして近代科学と近代民主主義を手にするにいたったのかどうかはよく知らない。ともかく、私たちは、その隣国の「人民」や「民」よりはるかに有利な条件で近代科学と近代民主主義を手にしたはずだった。
だが、気づいてみると、それはそうではなかった。
手のなかにあったのは、近代民主主義ではなく、大衆民主主義と執行権力の専制のセットであり、そして「トンデモ」だったのだ。
私はさきほど民主主義文化においては社会を主導する階級の文化とそうではない民衆の文化とを分かつ所以はなくなった、それが産業化の結果である都市化・大衆化の帰結だと書いた。
だが、じつはそれは不正確だったのである。
たしかに、従来の民俗学が対象とした民衆文化というのは、民主主義文化の浸透や、産業化・都市化の直接の影響下に消えて行きつつある。だが、その民主主義文化自体が、近代民主主義と近代科学の想定ではすくいきれない部分を大量に残していた。それが、従来の民俗学が対象とした民衆文化が消滅したあとの領域を埋めることになった。
民主主義文化は近代民主主義の浸透とともに形成されたものだ。だが、それは、近代科学の精神と共通する発想において理解されたのではなかった。その民主主義は「民衆はいつも正しい」という信念において受け入れられた。そして、産業化と民主主義がもたらす成果としての言論や政治行動のスタイルがその民衆のもとに届けられるようになると、が「民衆はいつも正しい」という信念に直結して理解されるようになった。その理解に必要なはずの近代民主主義の過程についての理解を形式にとどめたままである。
そこではだれもが自分の議論に十分な責任を持たずに発言することができるようになった。たしかに今日でも人とちがうことを言うのにはそれなりの勇気はいる。が、匿名の発言ならばいくらでもできる。さらにパソコン通信は匿名で発言できる場を飛躍的に広げることになった。
そうして、民主主義文化のなか、近代民主主義で拾いきれない部分に残ったもののなかに、たとえば擬似学問としての「オタク」現象があり、そして「トンデモ」がある。
「トンデモ」は古くからあった。そして、それに対する対応は、「あれは科学を知らない者が書いたばかばかしい本だ、あんな本をよんではいけない」とか「あんな本を読んで信じているのはオオバカモノだ」と罵倒するというものであった。
だが、それでは「トンデモ」には十分に対応できていなかったのである。
『トンデモ本』シリーズは、そうしたものを系統的に収拾し、分類し、そしてその特徴を列挙するという方法で対応した。つまり民俗学の方法である。
意図したことかどうかは知らないが、と学会の『トンデモ本』シリーズの成果は、その方法にこそあったのだ(この点についてはファイナルファンタジーVでものまねしゴゴを倒した奥田氏の示唆に負うところが大きい。シールドドラゴンの倒しかたを教えていただいたことと並べて深く感謝したいところである。ところで例の相手にグラビデ効かないぞ)。 
最後に
では、最後の疑問――って、なぜ映画は終わらなければならないか、という疑問と同様に、なぜ論文には結びがなければならないのか書いている私にもよくわからない。理由があるとすれば書いている私がいいかげん疲れてきたということだけである。
で、「最後の疑問」である。
と学会は、「トンデモ」を敵視したり撃滅しようとしたりしてはならない、ただ笑って楽しむのである、という姿勢で「トンデモ」に臨んでいる。この姿勢は正しいか?
ひとつ言えることは、「トンデモ」は敵視したり撃滅しようとしたりしても、執行権力の専制と対になった大衆民主主義の民主主義文化があるかぎり、いくらでも湧いてくるものだということである。
とくにそれを正統科学の方法論によって否定しようとするほど無意味なことはない。なぜなら、それは、「トンデモ」を信じるものに正統科学の権威主義のイヤらしさばかりを印象づけることになるからである。もし正統科学が「トンデモ」と対話するのであれば、その基本をなす発想から討論を積み重ねなければならないだろう。そのことによって「トンデモ」の信奉者を立派な正統科学の考えを身につけた科学者に転向させることは可能であろう。「トンデモ」も科学であることを装うかぎり、たとえば真理の基準としての検証可能性というような論理を論理としては否定することはしていないからである――もちろんその論理の内容を正確に理解しているかというとそんなことはないのだけれど。だが、一人の「トンデモ」信奉者を変えるあいだに、おそらく十人以上の新しい「トンデモ」信奉者が生まれていることであろう。そのなかには科学者からの「トンデモ」への転向者も二人や三人はまじっていることであろう。
これはあくまで私の印象論であり、しかも、たとえば一部トンデモに敵視されているらしい佐藤文隆氏など多くの例外があることをきちんと断ってから申し上げたいのであるが、日本の正統科学には「トンデモ」に優越感を持って臨むほどの余裕があるようには思われないのである。日本の正統科学自体が、たとえば、冒頭に指摘したような、物理学の発想が私たちの日常の発想に似ているようでじつはぜんぜんちがう体系を持ったものであるというようなことについて――つまり正統科学自身の発想の特徴についての自覚を十分に持てているかというと、どうしてもそうは感じられぬのだ。正統科学に従事する科学者自身が、あんがい正統科学自体の発想についての内省を持っておらないのではないか。だから正統科学界から「トンデモ」に転向する人たちが続出するのではないかと私は疑うのである。
この点、異論がある方はどんどん反論していただきたい。私はその反論を待っているのだ。なぜなら、私は正統科学界から「トンデモ」への転向に構造的な原因があるなんていう私の仮説がまちがいであることを希望しているからである。ぜひともそれを検証可能性という判断基準に耐えうる事実でもって覆していただきたいのだ。
笑っていればいいのかというと、それは笑えるやつは笑えばいいと思う。ただ、『トンデモ本』シリーズをほんとうに笑って楽しむことができるのは、相当に知的訓練を経た人たちだろうというのが私が私の周囲の反応から感じる感想である(これもどんどん論駁していただきたい)。私の周囲には、WWF各位のようにこれを読んで笑えたという人は少数派で、自分が信じていた何かの理論がここで笑われているのを知ってショックを受けたり、不快だという感想を述べたりするか、それともたんなる優越感の道具としてこの本を持っているかという人が非常に多かった。
本をどう受け取るかということはそれぞれの読者しだいである。それは一般論としても言えることではあるが、この本については、そうならざるを得ない一面がある。
それは、この本が一種の民俗誌だからだ。
繰り返すが、この本の画期性は、「トンデモ」の一つひとつの論理に拘泥して論破するというスタイルではなく(再反論が『逆襲』にひとつ入っているが)、どういう「トンデモ」があるかを量的に拾い上げ、それを分類して作者自身が楽しんでしまったという点にある。なぜと学会の人たちがこの本を読んで笑えたのかということの説明は、「わかるやつにはわかる」という程度にしかなされていない。「相対性理論はまちがいだという説はまちがいだ」とは書いてあるが、それがどうまちがいなのかはほとんど解説されていないのである(ただ実験結果と相対性理論が矛盾しないということが出ているだけ)。
なぜそれが笑えるのかは読んだ一人ひとりが考えろ!――というのがこの本のスタンスなのだ。また、それだからこそ、この本には意味があるのである。
大衆民主主義の社会のなかで「科学」というものがどんな現れかたをするのかを読み解くのは、まだまだ読者である私たち自身の仕事として残されているはずだ。 
 
フランソワ・ラブレ−のこと

 

大げさな題をつけたが、実は困っている。というのは、原稿用紙二枚分スペースがあまり、どうしても何かで埋めねばならぬ。釣り合いから考えて詩ではどうもということから、手もとにあった本を神の思し召しとばかりに取り上げたのである。神の思し召しならフランス語が全然出来ない素人が屁理屈並べ立ててもかまうまいと腹をくくり、糞理屈の陳列を始めるものとする。フランソワ・ラブレ−の『第一之書ガルガンチュア物語』渡辺一夫訳は三年前に読んだことがある。「バンダグリュエル」以下はまだ読んでいないが今度岩波文庫で全巻出ることになったので、読み返しはじめた訳だ。考えてみると、フランソワ・ラブレ−、あるいは彼のガルガンチュアとその子パンタグリュエルの物語は僕に、それ以上現代の社会に大きな問題を投げかけているのではないだろうか。僕が自分なりに食いついていきたいのは、例の「テレ−ムの僧院」の生活原理「欲するところを行え」という標語であり、また諷刺の精神である。この原理もラブレ−が生きたフランス十六世紀前半が、ソルボンヌ大学神学部に象徴される反動勢力によって、言論が息詰まるような状態にあったところから考えると、あながち、現代社会とはまるっきり無縁とは思えないのである。と言うと、「おまえ何言うてんねん。今みたいに言論の自由が保障されてる時代ないんやぞ」とおっしゃる御仁が出て来るだろうが、それはいつかふれることにする。その生活原理はおそらくあの痛烈な諷刺精神を支えたものであろうし、諷刺を行おうとするエネルギーは、人間がのぞみどおりの生活をしようとすることをも圧迫する社会への怒りにあったのだろう。また、あのラブレ−の楽天性、おおらかさはテレ−ム僧院の原理から来ているのだろう。日本は諷刺精神が育ちにくく、社会への怒りも、暗い感情が基調をなしているのが多い。狂言などの伝統もありはするが、その諷刺の刃は世相の表面を切るだけで、ラブレ−のように時代の本質まで切りこんだものはほとんどないと言ってよい。それでしばらくはこれを機会に、ラブレ−について諷刺の精神、立場、方法を吸収し、自分の刃を鍛えようと思っている。さてさてどういう次第になるかはこれからのお楽しみというところ。いざ前口上まで。 
フランソワ・ラブレ−のことについて書き始めたのは、この同人誌の余白をうずめることがきっかけであったが、その時およそ次のようなことを書いた。「日本は諷刺が育ちにくく、社会への怒りも、暗い感情が基調をなしているのが多い。狂言などの伝統もありはするが、その諷刺の刃は世相の表面を切るだけで、ラブレ−のように時代の本質まで切りこんだものはほとんどないと言ってよい。それでしばらくはこれを機会に、ラブレ−について諷刺の刃を鍛えようと思っている」
創刊号を読んだ方はご記憶のことと思うが、僕は同時に諷刺詩「障子の中身」を発表した。すると久島光敏君から次のように諷刺の刃ならぬ批評の刃でバッサリやられた。
「諷刺詩としては迫力に欠けます。それは日本を大和村、韓国を韓村、アメリカ帝国主義の国際支配体制を米利加藩と本質をよく吟味せず、多分に図式的な置換を行ったからだと思います。韓村の庄屋が女ばかり、などというアイデアは、日本への従属関係をあらわすためとは言え、些か唐突で、必然性が感じられません。或はこのアイデアが先行したのかも知れないが、些か無理な設定です。また、社会主義諸国に対するアメリカ帝国主義の侵略的敵対という側面が全く脱落している為、韓国政府と社会主義朝鮮との関係も描くことができない。従って、何故に『ミザル、イワザル、キカザル』なのか説明できず、『人間はそもそも猿から進化したのだから』などという語呂合わせで逃げざるを得ない。これでは『時代の本質まで切りこんだ諷刺』はできないと思います。『世相の表面を切るだけ』に終わり、君の言う諷刺の日本的限界のようなものを脱しているとは思えません。全体として、自らのアイデアに溺れている傾きがあり、金大中事件について諷刺で臨む企図は壮とすべきだが、今日の国際政治情勢を安易に戯画化するのは危険であるということを、この作品は示しているように感じました。幾ら適格な現状分析が行えても、それが内在化しなければ駄目なのです。頭だけで行っている認識だと、このように形象認識に持って来た場合、たちまち馬脚をあらわしてしまいます」
国際情勢を安易に戯画化することによって具体的にどんな危険が生じるのか、ということが些か僕にはわかりかねるし、金大中事件を梃子として世相を描くなり、切りこむなり、諷刺で臨むといった気持ちは主観的には僕にはない。制作者の弁護は見苦しいものだとは思うが、あえて言うと、僕の企図は臨むとか切ると言った、いわば対象として存在する世界を形象的に認識を行い、説明を行うといった評論的意図が主要なのではなくて、金大中事件を解釈するために、韓国で進行しているファシズムに打撃を与える為に、日本の支配層の新植民地主義的態度に打撃を与え、韓国人民との連帯闘争に立ち上がれとの警鐘、実践的な呼び掛けのつもりであった。彼の取り方は、机の前に座ってつくねんとアリストテレスのように観想(テオリア)しているようにしか思えない。しかし、作者の方で実践的な呼び掛けのつもりで書いても、読み手にそれが伝わらず、むしろアイデアに作者が酔っているように読み取られたのは、ひとえに作者の表現力の貧しさであって、文句を言えた筋ではないのだろう。
しかし、その他の点では、久島君の批判はそのとおりとして認めざるを得ない。僕や他の同人諸氏にとって彼の批判はかなり本質を突いたものをもっているし、彼の主張を背後におくことが、フランソワ・ラブレ−を読みこみ、彼から刃のみならず、重機関銃を盗み出すことになると思うので、さらに久島君の批判を紹介したい。「訳詩四編(「ぽ」創刊号掲載・引用者注)、共通して言えることは、いずれの詩人も実に豊かな、単なる個人を越えて普遍性に達した感情を持っているということです。これに比べると、我が同人の作品は矮小です。宗教的に高まって全世界を覆い尽くさんとする理念もなければ、あらゆる抑圧、差別、虐待をぶち破って噴出する爆発的な激情もない。理性と感覚の古典的な調和もなければ、大地に根ざしたたくましさ、朗らかさもありません。小さくかじかんだり、観念ばかりが徒長したり、アイデア倒れになったり、とにかくスケール、小さいのです。生活の中で詩を書くという宣言、詩とは日常の生活にきらめくしぶきや、くぬめった結晶であろうということの中味は、何も我々の日常の矮小さに見合うということではないはずです。我々の生活は平凡であるかもしれないが、我々の精神まで無理に平凡であってよいものかどうか。いや、平凡とは、決してスケールの矮小さや没個性を意味してはならないのです。人類を虐げて来た者共の現代に於ける継承者は、常に我々を矮小な存在にしようと狙っています。我々が自らを大きくする努力をやめれば、それは彼等を喜ばすことになります。我々は掌に立つほど縮められ、硝子のびんに詰められて海に捨てられるか。いやいや、ロボトミ−手術によって彼等にとって必要な機能だけを持たされた、未来小説の「その他多勢」になり下がることでしょう。平凡であることはいい。問題はその中味だ我々は常に、平凡であることの水準を引き上げてゆかねばなりません。我々の子孫にとっての「平凡さ」が、ニクソンやロックフェラ−の後継者共のアンドロイドである、ということになってはたまりません。」
僕が書いた「ぽ」創刊号序文は、はたして、我々の生活は自身が思うほどに平凡なのだろうか、ということが眼目のつもりだったので、僕の諷刺詩「障子の中味」で言ったことをくりかえさざるを得ないが、他の彼の主張にはおおいに賛同したい。
ラブレ−の「ガルガンチュア」やゲーテの「ファウスト」など、世界の古典として残っている作品は、いずれも彼の言うように、単なる個人の感情、理性の域を越え、普遍に達しているものである。だから、ラブレ−なりハイネなりから諷刺の精神を学び取ろうということは、単にラブレ−なりハイネなりの諷刺の技術、小手先を齧り取ることではなく、まず第一に作者が、どのような精神でその時代の諸相に対していったか、ということであり、第二に、作者は世界に対する中で、人間に、あるいは社会に歴史に何を見たかということであり、第三にそれらから、どのような理念なり感情を抱き、第四に、それをどのような設定をすることによって表現しようとしたかである。
考えてみるまでもなく、僕らは卑小な存在である。僕らは毎日仕事に追われているし、遅刻しないようにしようとすれば、どうしても一定の睡眠時間をとらなければならないしと考えていくだけで、人間とはよほど踏ん張らないかぎり、日常的な瑣末なことに流されていくし、意識もそれに相応して閉ざされてしまう。単に流されることに満足できず、何らかの形で自主的な動き方をしようとする人は、たとえば、僕らのように同人誌をつくったりする。単なる個人の域を出て生活圏なりの思想の範囲なりが広がりはするが、Aという人の詩は、Aの人柄を知っている人達の間では「詩」として成立しはするが、Aの所属する圏内から出てしまうと、もはや文学ではなくなる。この同人誌をはじめていろいろな同人誌に接する機会が出てきたが、この「ぽ」を含めて、多くは「仲間うちの通信」の域を出ていない。だからこそ、僕らは久島君の主張するように単なる個人、あるいは単なるサークルの域を出て、自分の作品が一個の文学として成立する地点にまで高めていかねばならないのだし、そのためには自分の意識を閉ざしている枠を一つ一つ食い破っていかねばならないのである。
で、具体的に僕らがどうすればいいのかということが難問なのだが、一応僕は自分自身では次のように考えている。第一に一個人の人間として、自分が生きている社会、時代、歴史に誠実に関わること、第二に主体的に関わる中で人間なり、社会なり、歴史なり、自然なりとは本質的にどのようなものかを見ること、第三に主体的に関わり対象に接することによって惹起される感情、理論的表明である理念をつかまえ、第四にそれを文学的対象として作品化する。そのためにも表現の技術を修得すること。具体的には、市民として、職業人として、インテリゲンチアとして、男なり、女として積極的に行動し、自己を含めて人間を観察し、人間の社会を成り立たせているものについて知識を深め、現代の人間が、過去の人間が、どのような感情なりを完全に表現するように書いていくことである。
だから時間の流れのなかでなおかつ残ってきた古典的作品は、僕らが文学活動をしてこうと思うなら、無視しえないような位置を占めてくる。しかし、古典を学ぶのも、まさに自分が当面している時代、社会の根本的な問題を解決していくには、という実践的な問題意識をすえたうえでの話である。 
ラブレ−その時代 
前回、ラブレ−やハイネなりから諷刺の精神を学び取る為に、1.作家が、どのような精神でその時代に対していったか、2.作家は、その世界に対する中で人間に或るいは社会、歴史に何を見たか、3.それらから、どのような理念を引き出し、4.それを、どのような設提をすることによって作品を形象化していったか、という点を押さえていかねばならないと述べた。
僕らは、ラブレ−が生きた時代を、客観的に概括し得るだけ、遠く離れた時代に生きているから、それを認識することは、或る意味では彼よりも容易である。何しろ彼が生きていた時は、勢力を得つつある新教勢力がどのようになるのか、彼を圧迫し続けた旧教勢力がどのようになるか等の、歴史的消長を見極めることが難しい時だったから。
人間というものは、他人のことはわかっても、自分のことはあまりわかっていないものだし、過去のことは結果や連関して起こった諸事件を材料にして、一通り理解できても、現在の状態を理解していこうとしても、ごく朧げな視座しか手に出来ないものである。その視座がどれ程の有効性を持っているのかは、一般的には、実践によって検証される。作家の場合、それは、具体的な文学作品である。
作家が作品世界の形象化してゆかねばならないのは、現実であり、現実を作り上げては破壊していく人間であリ、その人間を突き動かす諸々の社会的諸関係であり、血腥い殺戮と怨嗟の横たわる海を、それでも前進してゆく得体の知れない時代である。
作家がぼんやりとでも、その時代の輪廓を補捉し得るのは、彼が様々な形で接する人間を心の中でバラバラにし、融合し、具体性を持った普遍的な性格へと作り上げてゆき、諸々の性格を衝突させ、和解させていくことでしかない。作家にとって出来合いの理論などはないのである。 
ラブレ−の略歴
(生没年)諸説あってはっきりわかっていないが、一四九四年に生まれ、一五五三年に死んだとの説が有力である。
(家庭)生家は、ブルタ−ニュ半島南西部に注ぐロア−ル川を、ずっとさかのぼったツ−レ−ヌ地方シノンで、ラブレ−の父は法学士で、国王直轄のシノン裁判所弁護士で、その奉行職、副奉行職の代理も行なったらしく、相当の有産家であったらしい。
(教育)当時の知識層の初等教育は、修道院で行われるのが常で、まずベネディクト会修道院で読み書きを習い、一五一○年ごろにはアンジェ、或るいはラ・ボ−メットのフランチェスコ会修道院に、修練士としていたらしい。二○年か二一年頃、フォントネ−・ル・コントのフランチェスコ会ピュイ・サン・マルタン修道院にいて、当時研究上必要でも、キリスト教からは異教思想にふれるとして嫌われていたギリシア語を習得したようだ。この町には若干のユマニスト達がいて、ラブレ−とは既に接触があった。ラブレ−の文学作品の最初は、このフォントネ・ル・コント在住のユマニスト、アンドレ=チラコ−の『婚姻の掟』(改訂版、一五二四年)の巻頭によせたギリシア語の六行詩である。だが、ラブレ−がゆっくり勉強できる環境ではなくなっていった。一七年ルタ−の宗教改革以来、新教思想、またその源泉となったユマニストその基本的研究手段たるギリシア語研究を、旧教の牙城パリ大学ソルボンヌ神学部が禁止し、フランチェスコ修道院も同様の措置に出た。ラブレ−のギリシア語文献も没収され、結局は返してもらったが、時期を見てサン・ピエ−ル・ド・マイユゼ−のベネディクト修道院へ移っている。この後、ラブレ−の理解者達が様々な庇護を与え、リギュシュ、ボワトウなどに住み、ボワチェの大学に聴講したりしたらしいが、二八年にはパリに出て修道士をやめて在俗司祭になった。三○年にはモンペリエの医科大学に入り、その六週間後医師の免許を得、ヒポクラテスとガレノスの医学書のギリシア語文献に就ての講義という教育実習を行い、好評だったと伝えられている。六週間で卒業したというのも今日と違って、医学の勉強といっても、ヒポクラテス等の古代医学書の翻読だけだったので、ラブレ−は入る前から相当ギリシア語原典に就て勉強していたのだろう。

読者は、この修業過程を見ても、ユマニストとの親交、圧迫するソルボンヌへの反感、医学を軸とした科学への真摯な態度が育ってきているだろうと想像されるだろう。医学書古典の翻訳といっても、ヒポクラテスの医学書は、ギリシア人の科学精神を体現したとも言えるもので、唯物論的な態度に貫かれたもので、些かなりともその影響をうけていったであろう。
(仕事)最初当時の学都リヨンで出版関係の職を求めたが得られず、ギリシア語やラテン語の医学文献の翻刻をし、それによってリヨンの学界に認められ、三一年にはノートルダム・ド・ピチエ・ポン・デュ・ロ−ス病院付の医師に任命されたが、この早い昇進は異例のことだったそうだ。このリヨンでフランス文学史に名を残す人々とめぐり合ったが、医師と翻刻の収入ではどうにも食べていけなかった。それで文学に手を出すことになるのだが、この年、非常に売れた本に『巨人ガルガンチュア大年代記』があり、それをまねて出したのが今後見ていこうとする『第二之書パンタグリュエル物語』である。
それを同年中に出し、その一年後、ラブレ−は有力な庇護者、王の重臣ジャン=デュ=ペレを得た。ラブレ−は彼の侍医として、時には特命全権大使ともなる彼の秘書として何度もイタリアへ随行した。三七年にはモンペリエの医科大学で博士号を得、リヨンで絞首刑になった人の死体を使って解剖の講義をしたりした。ラブレ−は人体解剖を行った初期医学者の一人である。以上の様にラブレ−は、医師としては相当の地位を得た人としての動きをしているが、最初生活費を得ようとして当時のベストセラ−『巨人ガルガンチュア大年代記』のブームにつけこんで、その息子パンタグリュエルの物語を書いたところ、その戯曲が当たり、軽い気分で書いた作品が、むしろ彼の世界の中心をなすものに転化して、以後の文学活動が行われることとなったのだろう。彼の文学活動は次のとおりである。
一五三二年『魁偉なる巨人ガルガンチュアの息子にして乾喉国王(ティプソ−ド)、その名宇内に高きパンタグリュエルの畏怖すべき言行武勲の物語』(アルコフリバス=ナジエ作として出版)
同年『一五三三年の暦』(医学博士・占星学教授の肩書付きで)
一五三三年『一五三三年のパンタグリュエル占筮』(戯曲的小品、同じくアルコフリバス名で)
一五三四年『パンタグリュエルの父、大ガルガンチュアの無双の生涯の物語』(後に『第一之書ガルガンチュア物語』)(依然本名明さず)
一五四六年『気高きパンタグリュエルの雄武言行録第三之書』
一五四八年『気高きパンタグリュエルの雄武言行録第四之書』
一五五三年言い伝えによれば、この年四月九日死亡。
一五六四年『善良なるパンタグリュエルの雄武言行録第五即ち最終之書』(偽作との説あり、不明) 
ラブレ−の時代を動かした要因
ラブレ−を読んでいく場合、中世世界が崩壊して、その混乱から近代がその姿を現して来る歴史的過程からみていく必要があると思う。だから、・中世封建社会の精神的世俗的統一体を形成していたロ−マ=カトリック教会の衰退とその打開への行程、・教会の権威動揺から宗教改革、新教勢力の伸長、・教会の世俗的地位を打破し、封建諸候の勢力を切り崩す中で図られた王権の伸長、の三点を押さえ、ラブレ−等ユマニストの、本質的にはこれら諸勢力に組しない姿を考察しなければならない。
a旧教の動向
教皇の提唱で、諸候や国王などが十字軍に加わった頃とは異なり、中世末期には、はっきりと俗権が優位に立って来る。フランス王フィリップ四世は教皇ボニファキウス八世との対立を繰り返したあげく、強権によって自国人クレメンス五世を教皇とし、教皇庁を南仏アヴィニョンに置く。この史上有名な「アヴィニョンの幽囚」は一三○九年から一三七七年まで続くが、教皇がフランス王の支配下に入ったのだから、諸王が教皇の言うことを真面目に聞く筈もない。そこへ一三三九年には英仏百年戦争が始まる。当時王というものは、貴族の中で一番有力な貴族をいうだけであったが、この戦争の中で有力な貴族が討死し、家系が断絶していく中で、王のみが絶対的な覇権を築いていく基盤が出来てきた。王権の伸長、絶対主義への歩みが始まるのだが、宗教改革の先駆者ウィクリフが出たのもこの時代で、フランスとの対抗上イギリス王は彼を保護したのだ。「アヴィニョンの幽囚」を解決しようとの企ては、かえってローマとアヴィニョンに二人の教皇が立つという分裂を招き、その分裂を解決させようとしてもう一人、計三人の教皇が鼎立するまでになり、一四一四年のコンスタンツの宗教会議でようやく終止符が打たれたが、このことはとりもなおさず教皇権が地に落ち、各国君主の傀儡化を示すものである。こうなるとキリスト教会の権威はどこにあるかが問われてくる。宗教会議にありとする会議派と、教皇にありとする教皇派とが激しく争うが、その教会を支えたスコラ哲学も解体して来る。
教父哲学にしても、問題はやはりキリスト信仰とギリシア思想との関係をどうするのか、という点にあった。四世紀のアウグスチヌスは、キリスト教と神秘的な要素を持つプラトン哲学とを結びつけることによって教父哲学を大成した。その後アラビアを通じてアリストテレスの思想が流入し、自然主義的なその考え方と、キリスト教との関係が問題となり、十三世紀にトマス=アクィナスによって体系づけられた。トマスによれば、「恩寵は自然を破壊することなく、かえって完成する」として信仰と理性の調和を図ろうとした。
ところがもっぱら自然を感覚的経験によって見ようとする限り、トマスの総合には懐疑的にならざるを得ない。オッカムのウィリアムはその方向を押し進め、スコラ哲学を破壊する役割を担った。もともと総合が無理な信仰と理性を結び付ける試みは、スコラ哲学の異名が煩瑣哲学と呼ぶ様に、キリスト教の教義を肯定し、それに矛盾する自然の諸現象を、教義を変更せずに論証しようとすれば、その論理はこみいった煩瑣な体系へと化して行くのである。ウィリアムの時代にはスコラ哲学者には、唯名論的立場に立とうとする者と、実念論の立場に立とうとする者とに分裂して行った。彼やその弟子達唯名論者は、「存在は必要もなく増加してはならない」という観点から実念論者が個物に先んじて普遍を考え、空虚な言葉や概念を定立して、それに対応する存在を不必要に考え出す態度を批判した。ウイリアム等は、理性は無理にも信仰を調和せねばならないものと考えず、別の次元にあるものと考えた。
信仰から切り離されることによって、思想には様々なものが出てくるようになった。信仰をより主体的に信仰していこうとする態度は、ルターの、「只信仰によってのみ救われる」という態度に継がっていく。更にアリストテレスをキリスト教から分離し、本来のアリストテレスに帰れとの主張からは多くの非宗教的自然主義者が出て来る。分離された信仰と理性を新たに神との直接的な合一の経験により総合しようとする神秘主義的な動きが出て来る。彼等は神の息吹きを至る所で感得する所から、汎神論的傾向を伴った。人文学者等は神に対するギリシア的に考えられた人間を対置することで、本来的な人間に帰ろうとした。
この人文学者、ユマニストに、ギリシア的自然の研究とそれに伴うギリシア語研究の進展、更に一四五三年の東ローマ帝国滅亡による多数のギリシア人学者のイタリア移住による直接的な刺激で聖書のラテン語訳に目が向けられ、ローマ教会を権威付けている文献の中には、後世の偽文書もあることを文献学的に論証する者(ロレンツォ=ヴァラ)なども出てきた。
b新教勢力の誕生と興隆
中世でも教会を腐敗を攻撃する動きはあったが、それはおおむね体制側に包摂され、浄化作用としての役割を果たすにとどまっていた。多くの修道院は堕落した現状に大使、後に教皇から修道院の開設の許可がおりるという形式で作られていったものである。だが刷新運動の論理が、教会の存在自体に触れてくるとき、異端の烙印を押され、弾圧されて行った。異端とは論理的根拠を持つと同時に、腐敗した教会によって何らかの不利益を被る層の意志が、その主唱者の弾圧によっても屈しない程強い時は、例えばアルビジョア十字軍の様に凄惨な相貌を呈する。
異端を掃滅出来なくなり、確固とした新教勢力として定着するということは、それを支持する社会階層の成長を物語る。ウィクリフはイギリス王が擁護し、ボヘミアのフスは農民や土着貴族が支持したが、支持が一時的であたり、その支持勢力の分裂によって永続できなかったりした。ルヤ−やカルヴァンの時代には諸候や新興貴族、市民層が支持し、根絶し得ぬものとなっていった。
宗教改革者は、聖書を研究し、その研究成果から教会を攻撃し、見限っていった。その研究過程は人文学者と同一だが、人文学者は徹底していく論理には付いていかず、論理に捕らわれることをも警戒し、旧教にも新教にもつかない寛容の立場を保持しようとした。
ルターが一五一七年、ヴィッテンベルク城の城門に九五ケ条の質問を貼り出した時、彼が師と仰いだ人文学者エラスムスと訣別していった。エラスムスは寛容の道を行き、ルターは教義の徹底化の道を歩んだ。ルターがエラスムスに感じた軟弱、不徹底との印象は、後にはカルヴァンがラブレ−に感じるのと同一のものである。ルターが宗教改革を始めた時、ドイツ皇帝と旧教の連携に不利益を受ける諸候が支持し新教が教団として形成され、発展していく基盤が与えられた。旧教は勿論弾圧を加え、認めようとしなかったが、ドイツにおいて一応信教の自由が得られるのは、フランスの援助を受けたザクセン公の率いる新教諸候とブレーメンなどの都市が、皇帝とシュマルカルデン戦争を行い、ようやく一五五五年にアウグスブルクの宗教和議を結んでである。
だからラブレ−の時代は、宗教改革が進行していくその真っ只中にある。
c王権の助長
そしてその時代は同時に近代国家の形成期である。近代を形作るあらゆるものが現れどのように自己を形成していくのかもわからない混沌とした時代である。百年戦争を終えて、フランスでは貴族の数はかなり減った。ヴァロア朝の諸王達は対外戦争を続行する中で領土を広げ、王権伸長に利用できるものは何でも利用し、対抗勢力の力を殺げるなら、どんなものをも利用した。
ラブレ−が生きる十六世紀前半に至る迄極盛を誇ったのはスペインである。スペイン王カルロス一世が神聖ローマ帝国の帝位に着いた時、このハプスブルグ家の嫡子が統治する国は海外植民地の他、スペイン、オ−ストリア、ネ−デルランド、イタリアの大半であった。一五一九年のことであった。
この多くの領土と、多民族を包含する巨大なハプスブルグ帝国に包囲されている形でフランス王国があった。百年戦争を終え、イギリスとの間の懸念の問題を解決し、対外膨張に乗り出そうとするフランスは、この帝国を打破していかねばならない。ヴァロアの諸王はハプスブルグ家打倒の為あらゆる権謀術数を駆使する。一四九四年シャルル九世はイタリアに進攻し、イタリア戦争が始まる。ヴァロア、ハプスブルグの二大王朝は何度もイタリアで戦争することになる。そしてラブレ−の当時の王、フランソワ一世は、そのためには異教の国トルコとさえ盟約を結ぶにいたる。キリスト教共同体というヨーロッパ中世理念からの完全な離反である。
対外戦争を指揮し、王権を助長させていこうとしてもまだまだ国王の地位は絶対的なものとはなっていなかった。旧来の貴族勢力と新興の市民階級から成り上がる法服貴族、ローマ教会に列なる聖職者の危うい均衡を縫って王権を固めて行かねばならない。ハプスブルグ家はスペイン、そして神聖ローマ帝国、即ちドイツ皇帝である。ドイツには皇帝と対立する新教勢力がいる。フランス王は和戦両様のかまえでハプスブルグ家に臨む。時には新教勢力と手を結び、スペインと結ぶローマ教会、その戦闘部隊ジェスイット、それの占拠するソルボンヌ神学部を索制し、時にはその要求に従う。
王はドイツ皇帝、教皇、それに対立する新教諸候の勢力変動を見抜き、自己の有利を利り、常備軍を育て、王のみに忠実な官僚群を育成していく。 
ルネサンス
フランス・ルネサンスはまさにこの様に複雑に錯綜した時代に生まれ、盛え、消滅して行く。フランス・ルネサンスは次の様に三つの時代に分けられる。
第一期は一五○○年から一五三○年頃迄。シャルル八世とルイ十二世が統治した時代に印刷術の普及により、原本の流布は広範囲に及び、ルネサンスの地イタリアへの憧れが国民を支配し、地理上の発見が人々に新しい時代の始まりを告げ、エラスムス等戦闘的ユマニストが活躍し、宗教改革が衝撃を与えた時代。
第二期は一五三○年から一五六○年頃迄。《文芸の父》と言われたフランソワ一世とアンリ二世の統治下、フランス・ルネサンスは絶頂を迎える。らぶれ−の笑いが響き渡り、マロ、カルヴァンの傑作が現れる。ハプスブルグ家との対立は激化し、イタリア戦争に続いて神聖ローマ帝国との戦争が行われる。この時代、ユマニスムは宮廷において勢力を得る。ラブレ−が従ったジャン=デュ=ベレ−は重要な外交官であったし、ラブレ−は間接的に王の庇護下にあった。フランソワ一世はギリシア語文献の仏訳を奨励し、王室図書寮をユマニストの仕事として開放し、貴族にも文学者のパトロンとなる人が多く出た。ユマニストはだが、ソルボンヌの強烈な異端糺問を受け、時には犠牲者を出した。宗教改革はカルヴァンの激越な精神を生み、フランスを旧教側と新教側に大きく分けていく。
第三期は、一五六○年から一六一○年迄。シャルル九世、アンリ三世、アンリ四世が統治する。このアンリ四世からブルボン朝が始まるが、この時代は相次ぐ陰惨な暗殺、陰謀が渦巻く。王でさえその禍を免れることは出来ない。一切が暗澹たる形相を呈し、血みどろの沼から這い上がることさえ絶望としか思えぬ時、ユマニスムの伝統を受け、モンテスキュ−が現れる。「私は人間について何を知るか」
ラブレ−の第二之書、第一之書はルネサンス絶頂期にあって人間讚歌の歌声は高く、その諷刺も余裕を持っている。暗雲を孕みつつある時代に書かれた第三、第四、第五之書は辛辣な嘲笑がますます冴え渡り、暗黒を見通す巨人の目が僕等の眼前に姿を現してくる。
次回は発表順に、第二之書を取り上げる。
ガルガンチュアとパンタグリュエル第二之書 
前回、僕はラブレ−がどのような歴史の中で生まれ、育ってきたかを述べてきた。第二之書が出版されたのは一五三二年で、ラブレ−が生まれたのを一四九四年とすれば三四才の時である。その年の八月頃、リヨンの書籍市で作者不詳の『なみはずれて魁偉なる巨人ガルガンチュアの無双の大年代記』が売りに出された。この『大年代記』は巨人ガルガンチュアが誕生し、イギリスの伝説アーサー王物語の魔法使いマ−リン(フランスではメルラン)の力で自由自在に何処へでも行ける力を与えられ、いろいろな冒険をする話であるが、これが抱腹絶倒させる程面白いというので、非常によく売れた。
フランス語の言い回しに、「ラブレ−の十五分」“Lequartd'heuredeRabelais"というのがある。何かを買って、いざお金を払おうとしたら足りなくて困った時のことを言うのだが、ラブレ−がいつもピ−ピ−していたと言う伝説から、そういう語法ができるくらいであった。それ迄に、ギリシア古典の翻訳や医師としての俸給を得ていたが、収入としては足らない。そこへ『大年代記』が当ったものだから、そのブームの御裾分を貰おうと、自分はガルガンチュアの息子を作り上げ、その冒険談を書いて、同年十一月三日から十七日迄開かれたリヨンの書籍市に売り出したのである。書籍市というのは、当時、常設の書店などなく、復活祭などの時に都市などで頒布会の様なものが開かれたのである。年二回から四回、十五日間ぐらいずつ開かれた様である。フランスのリヨンと、ドイツのフランクフルト・アム・マインのとが盛況であったと言う。彼は同じ書籍市に、『ルキウス:クスピディウスの遺言及び古代ローマ売買契約書』の翻訳版と、それに添えてアモリ−:ブゥシャ−ル宛の献詞文(ラテン語)を書いて売りに出している。これは本名で、『パンタグリュエル』はアルコフリバス:ナジエ(AlcofribasNasier)という変名で。この変名は、ラブレ−の換字変名(アナグラム)である。アルコフリバス:ナジエをアルファベットに分解すると、a…3、l…1、c…1、f…1、r…2、i…2、b…1、s…2、n…1、e……1、o…1の種類と数があるが、フランソワ:ラブレ−(FransoisRabelais)のアルファベットと、c→sとなっている他は、全く同一であることがわかるであろう。同じ市に学術書と、戯作とを売りに出しているが、こういった戯作は従来学者や僧が筆すさびによく出したものである。
ラブレ−は『パンタグリュエル』をごく軽い気分で書いている。『大年代記』を下敷にしながら、何度も読んだ『ピエ−ル:パトラン先生の笑劇』や、エラスムスの『痴愚神礼賛』を思い浮かべ、それを捩って好き放題に、空想の世界で遊んでいる。しかし、ふざけると言っても、何も子供がふざけるのとは訳が違う。膨大な古典的教養と、医学を中心とした自然科学とを身に付けたラブレ−がふざけるのである。だからそこには彼の機知がふんだんに盛り込まれるし、常々反感を感じている人物や集団への鬱憤が果たされ、馬鹿馬鹿しい話の中に、彼が歩もうとする道が漠然とした形ではあるが書かれ、それが故ソルボンヌは禁書処分にし、ラブレ−は最後迄責任を持って育てねばならないものを生んだことに気付く。本気になるのは二冊目、第一之書からである。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の中で第二之書が一番先に出版されたのだから生前、最も版を重ねたのはこの書である。一五三二年に初版が出て、彼の死ぬ一五五三年には十九番目の版が出ている。十九番目、というのは、この中にはラブレ−の了解を得ないで出版されたのもかなりあるからである。
ラブレ−は書き進むうちに、パンタグリュエルの思想を明確にしていく。それに伴い、それ以上に宗教改革の進展、攻防の激化に従って、又、身を守る為にも種々の挿入削減を加えていく。彼自身が手を加えた版は四種であるが、その度に第二之書は膨張し、最初二四章だったものが、最後には三四章になっている。
ラブレ−が第二之書を書くにあたって『大年代記』の構想を発展させ、深化させた点は次の点にある。
一つは、ガルガンチュアにパンタグリュエルという息子を与えたが、それは、フランス中世の伝説の中で、人間の喉を乾かせたりして困らせる小悪魔が、元々の素姓である。それを巨人にし、ガルガンチュアの息子にした。だから巨人になっても、元のパンタグリュエルのイメージはラブレ−につきまとったようで、本書にも喉を乾かせる小悪魔の性質は折にふれ、想起されていく。
二つ目は、『大年代記』では単に馬鹿デカい勇猛な巨人にしか過ぎないものに、高い人格と見識を与えている点である。ラブレ−は度々パンタグリェリズム、パンタグリュエル主義、という言葉を使うようになっていく。さて、こういう点を踏まえておいて、一応全体を見渡そう。目次だけでわかると思う。 
第2之書の梗概
JESUS・MARIA / ΑΓΑΘΤΥΧΗ(さちあれかし)
万有第五元素抽出者故アルコフリバス師の作にかかり
神学博士ジャン・リュネル師によって、新たに増補訂正された
その本来の面目に還されたる
乾喉国王(ディブソ−ド)パンタグリュエル物語
及びその驚倒すべき言行武勲録
作者の序詞
第一章偉大なパンタグリュエルの家柄とその由緒あること
第二章世にも恐るべきパンタグリュエルの誕生について
第三章ガルガンチュアがその妃バドベックの死を嘆き悲しんだこと
第四章パンタグリュエルの少年時代のこと
第五章気高いパンタグリュエルの若い頃の行跡について
第六章パンタグリュエルが変体フランス語を使うリムウザン男に会ったこと
第七章パンタグリュエルがパリに来たこと、ならびにサン・ヴィクト−ル図書館の見事な典籍について
第八章パリ滞在中のパンタグリュエルがその父君ガルガンチュアの信書を受け取ったこと、ならびに右信書の写し
第九章パンタグリュエルがパニュルジュに廻り会い、これを一生涯愛したこと
第十章パンタグリュエルが驚くべき晦瞑難解な論争を公平に裁き、しかも極めて正しかったので、その裁き方が甚だ賞讃すべきものと言われたこと
第十一章パンタグリュエルの面前で尻尾嘗磨之守(ベ−ズキユ)と透屁嗅正之守(ユ−ム・ヴェ−ヌ)とが弁護士なしで黒白を争ったこと
第十二章透屁嗅正之守(ユ−ム・ヴェ−ヌ)がパンタグリュエルの面前で弁疏に及んだこと
第十三章パンタグリュエルが二人の貴族の悶着に判決を下したこと
第十四章いかにしてパニュルジュがトルコ人の手から逃れ出たかを物語ること
第十五章パニュルジュがパリ市城壁を建造するための斬新極まる方法を伝授すること
第十六章パニュルジュの習癖と為人とについて
第十七章パニュルジュが贖宥符を買ったこと、また老婆を嫁入らせたこと、また、パリでかかり合った訴訟について
第十八章イギリスの大学者がパンタグリュエルを相手に論争をしようとし、パニュルジュに負かされたこと
第十九章身振り手振りで議論するイギリス人をパニュルジュがぺちゃんこにしてしまったこと
第二○章豪井物成(ト−マスト)がパニュルジュの美徳と智識とを物語ること
第二一章パニュルジュがパリの或る貴婦人に恋慕したこと
第二二章パニュルジュが少しも靡いてくれないパリの貴婦人に悪戯をしたこと
第二三章乾喉人(ディプソ−ド)が不被見人(アモロ−ド)の国を侵したという報知を聞き、パンタグリュエルがパリを出発したこと、ならびにフランス国では何が故に里程基準が大変短いかについて
第二四章使者がパンタグリュエルに届けたパリの一貴婦人からの書面、ならびに黄金の指環に記された文字の説明
第二五章パンタグリュエルの従臣パニュルジュ、カルパラン、ユステ−ヌ、及びエピステモンが極めて巧妙に六百六十騎の敵兵を退治したこと
第二六章パンタグリュエルとその一行の者どもが塩漬肉を食うのにあきあきしたこと、ならびにカルパランが狩猟に出かけて獣の肉を手にいれたこと
第二七章パンタグリュエルが一同の武勲を記念するために戦捷飾り(トロパイヨン)を作り、パニュルジョは小兎の思い出のために別な戦捷飾り(トロパイヨン)を作ったこ
と、またパンタグリュエルの転笑気(おなら)から小男が、透かし屁から小女が生まれ出たこと。またパニュルジョが二つの杯に懸け渡した太い棒を断ち切ったこと
第二八章パンタグリュエルが極めてふしぎな遺方で乾喉人(ディプソ−ド)と巨人族とに打ち勝ったこと
第二九章パンタグリュエルが切石で身を固めた三百人の巨人とその隊長人狼(ルウ・ガルウ)とを退治したこと
第三○章切られ首のエピステモンがパニュルジュによって巧みに治癒されたこと、ならびに悪魔や地獄堕ちの人々の話
第三一章パンタグリュエルが不被見人の町に入ったこと、ならびにパニュルジュが混乱磨王(アナルク)に嫁を世話し、緑醤油の呼び売り人にしたこと
第三二章パンタグリュエルがその舌で一軍団の兵士達を全部包んでしまったこと、ならびに著者がパンタグリュエルの口の中で何を見たかについて
第三三章パンタグリュエルが病気になったこと、ならびにどうして全快したかについて
第三四章本署の結びの言葉と著者の言いわけ
これで一応の輪郭は分かってもらえると思う。この第二之書で、ラブレ−が何を笑い、からかったか、どのようにしてそれをしたか、又、折にふれ出て来る思想を一つ一つ見て行きたい。次第に変貌する哄笑を追って。
渡辺一夫氏とラブレ−
ごく最近、僕はガルガンチュアとかラブレ−とかいう名に、二冊程の本で出会った。一つはアメリカ作家のト−マス・ウルフの『天使よ故郷を見よ』の中で、主人公ユ−ジン・ガントの一族が、全て大食漢であり、そのことをガルガンチュア的と形容してあった。もう一つはSFだが、アメリカで出版され、創元推理文庫に「マイ・ベストSF」という総題の下に、エドモンド・ハミルトンが『世界の外のはたごや』という作品を書いている。その中で、世界史的に偉大な人物の一人としてラブレ−は登場するが、その描き方はあくまで陽気に酒を飲んだり、むさぼり食って騒ごうとけしかける人物としての描き方でしかなかった。日本でラブレ−を知っている人の場合、右のような少し的外れとして言いようのない捕らえ方にはなっていない筈である。
欧米ではラブレ−の「ガルガンチュアとパンタグリュエル」は相当早くから紹介されていて、子供の頃に、その巨人達の恐るべき健啖ぶりが頭に灼き付けられ、知られ過ぎてしまうが故に、時代に立ち向かう人間の理想の典型の一つである巨人の本性についての理解が、かえって遠くなっているのだろう。僕等は、幼い頃、「ガリバー旅行記」を一つの童話として読みはするが、それが、スウィフトが、言わば己の全人生をかけて、イギリスの帝国主義的膨張、下卑た町人根性を、さらには人間存在そのものへの辛辣な諷刺を行ったものだということを知る人が少ないのと同様の現象を言うべきである。
日本におけるラブレ−理解が多少まともなのは、一つは、十六世紀のフランス語が現代語と著しく違うこと、ラブレ−の作品を読みとおすだけでも、十六世紀の政治・宗教情勢など、多方面の知識を持たなくては出来ないことなどあって、渡辺一夫氏の登場を待たなくては紹介されなかったので、庶民の世界にまだ童話の様な形でガルガンチュアが降りていっていないことがその理由だろう。文化は作り出されて一般庶民に届くまで膨大な月日を要求するが、庶民に届いたときにはメルヒュン的なものに改造されてしまい、その牙を抜かれてしまうだろうか。
ラブレ−は、日本ではごく一部の知識人の中だけで生きているのだと言える。渡辺一夫氏と、その訳業の意味を説き続ける大江健三郎、加藤周一各氏等の努力によって、ラブレ−は他の国においてよりは、まともに扱われていると見てよいだろう。
ラブレ−を読んでいると、僕には渡辺一夫氏の姿が重なって見えて来るような思いがする。このエッセーも、ラブレ−のことを調べているつもりが、渡辺一夫氏のことを考えていくことになるのかも知れない。
ラブレ−は宗教改革とカトリック側の巻き返し、その間隙を縫ってフランス王権確立への策謀と、二重三重の屈折して激動する社会の中で、狂喜へと高まる波に「それがキリストと何の関わりがあるか?」との問を発して、フランス・ユマニスムを形成していった訳だが、彼は自分が作品を書き続け、作品を守る為に、膝を折り曲げることも、作品に韜晦の網を張り巡らすこともやったのである。
故渡辺一夫氏の訳業は支那事変から大東亜戦争へと雪崩れ込んで行く中で行われておりプロレタリア文学運動が壊滅し、リベラリストにも弾圧の手が伸びる中にも続けられていくのである。その中で、ファシズムに反感を持ち、それを呪咀しながら、ラブレ−がいつの日にか日本に伝えられることを念願しておったそうだ。
僕がここで考えるのは、十六世紀フランスにおいて、カトリックを果敢に批判し、福音主義思想の故に異端として火刑台上に消えていった人々を見ながら作品を書き続け、ある場合には、その諷刺がどこを向けてのものかわからないように表現を変更させて作品を守っていったラブレ−と、プロレタリア作家小林多喜二等のはなばなしい抵抗と惨殺、あるいは挫折、おぞましい国家権力の素顔を見ながらラブレ−の訳稿を重ねていった渡辺一夫氏の像である。 
政治と文学
人間の問題を、あるいはもっとせばめて文学の問題を考える場合、先に述べた二つのあり方をどう考えるかと言うことである。果敢に戦って行った前者からすれば、後者は逃避的であるとか卑怯であるとも言えよう。だからそのような観点から見てしまえば、反動勢力と戦い、帝国主義戦争に反対することを文学の第一義的任務とし、文学と政治とをほぼ重ね合わせて考えていくならば、弾圧を避ける為に作品の表現をぼかしてしまったラブレ−や東京帝国大学という象牙の塔から、下を見下ろしながら、好きな作家の翻訳三昧にふけっていた渡辺一夫氏などは卑怯者としか言い得ないかもしれない。
戦前の日本のプロレタリア文学運動の当事者達が、渡辺一夫氏等、いわばブルジョワ・アカデミーを構成する人々をどのように見ていたかを直接書いたものは読んでいないのでわからないが、前述した観点よりは理論的にはもう少し広いと言うことは言えるだろう。蔵原惟人氏は一九三一年に書いた「プロレタリア主義者は過去において人類が蓄積した文化の中の価値あるものを摂取し、発展させることによってのみわれわれの文化を建設しうると主張する」と書いている。しかし、これは、理論的には、であって、当時の共産党の実際の意識水準は、この蔵原氏の明示した理想までに到達していなかったのではないかと思う。
十六世紀フランスで前戦に出て倒れて行ったエチエンヌ・ドレ等と後ろに退いて作品を書き継いで行ったラブレ−、戦前の日本の文学分野で、戦闘的な作品を書いて虐殺されたりした小林多喜二等プロレタリア作家と後ろに退いてロブレ−の翻訳をすすめていった渡辺一夫氏等と言った図式を、政治と学問研究というものにも成立するとするならば、河上肇をどう理解することになるだろうか。蔵原氏の理論を延長させて考えれば、河上肇の研究活動が何らかの形ででも継続していくことが最大の眼目となるべきであったろうが京都帝大を追われてからの河上肇の行動は、むしろ、他の共産党員と同じようなものであったと聞いている。河上肇は一九二八年に大学を追われ、三二年に入党、地下運動に入って三三年に検挙とあるから、党員として活動出来たのは一年だけということになるかも知れないが、地下に潜るなどせず、リカ−ド−やリストなどの研究をして、じっと日を待つのが、蔵原理論の本旨ではなかったろうかと思う。ともあれ、理論と現実の行動とには、絶大なギャップがあるのが普通だ。
現に今、僕等の置かれている現状を見ても職場や居住地の諸問題を解決することと、自己の創作活動とがあれば、この二者をどう考えるかが、絶えず問題となろう。聞いた話であるが、ある社会派の詩人が倒産か何かで職を追われ、ある民主団体の事務の仕事に就職した。その時、その雇主である理事は、「君は、詩人なのか。労働者なのではないか。」と尋ねたそうだ。その詩人が、「詩人です。」と答えると、理事は、「それで飯が食えるのか」と問い返し、その、過去において詩人であった労働者は引き下がったそうである。
この一つのエピソードの中に、この詩人の詩人としての自己意識のなさ(こんな簡単な攻撃にへしゃるということは、僕もこの人が詩人ではないということの証明であると思っている)と同時に、文学三昧にふけるよりも組合活動なり、政治活動をするのが、革命家の革命家たるべき本旨なのだという主張があると思う。作家なり、研究者なりで、多少の社会意識を持ち、ヒュ−マニスティックな立場に、自己の立脚点を築こうとするものはこういう卑俗な理屈が、背後から自分を斬るものとして感ぜられ、以外にへなへなになるものだ。どれだけの価値を持つか分からないものに勢力を注ぎ込むより、その同じだけの勢力を組合なり、政治活動に注ぎ込めば、はるかに周囲が、現実が変わっていくのではないかと。民主主義的志向を持つ知識人は、このような不安を持つが故に、卑俗な理屈によって自己を否定されると、簡単にそれに同調して自己否定してみたり(六八年の大学紛争時の右往左往ぶり)、民衆に絶望を感じたりするのである。
この場合、文学なり芸術、あるいは学問のような知的感性的活動と政治との間で、何がどのように重なっており、どこから重なっていないかが明確でないから、そんなことが起こるのだと思う。
では、何がどのように重なっており、どこが重なっていないのか。原理的に考えていくならば、政治とは一つの集団が自己を保存していく為に行わねばならない組織機構であり機能である。自己保存するとは労働し、生殖することである。だから政治は、労働の組織的過程と言えるものであり、経営のようなものだ。このような原理的な段階、無階級社会の段階では、一部族の経営であっても、政治とは言い難いだろう。政治が、その真の意味で発生するのは、一つの集団が他の集団を制圧し、その支配に組み込むことによって、即ち奴隷階級に被制圧集団が転化したのちに発生するのである。だから政治とは労働の組織・統制(強権的な)的過程と言い得る。
政治と文学という時の政治とは、この抑圧の機能・機構を破砕しようとすることをさす。
文化は物質的富の余剰を得て成立する。文化とは収穫の祭りであった。豊穰の美酒があってこそ、歌が響き、踊りが生まれ、笑いが森を揺るがした。文化とは、人間が生きることを前提にしてしか成立しない。その上で個々の学問なり、芸術が生まれるのである。学問は人間が存在する世界についての認識行為であり、芸術は、人間の感性に関わるもので人間の属する世界の形象的具体的表現である。
だから、政治と学問、芸術の共通点というのは、人間の社会を存続させ、よりその社会が悪化しないことについてのみあるのだと言えるこの社会の基底を確保してのみ、学問芸術は栄えるが、支配階級は、自階級保存のため、この基底を破壊しようとする傾向があるので、研究者、芸術家は、反動に対する政治活動に一定の支持を与えていかねばならないのではなかろうか。 
知識人の二つの類型
渡辺一夫と小林多喜二とを並べてみて、もう一つ考えることがある。それはこのような二つのタイプは、知識人において一般的に成立するのではないかということである。知識人とは、その時代における知識を集約し、矛盾を洞察、解決して時代の知性を一歩前進せしめる人である。体制側に従属する知識を有する人は、もっぱらその知識を、時代を停滞させる為に使うので、知識人の範疇にはなじまない。
多喜二を実践的インテリゲンチュア、渡辺一夫を完成型インテリゲンチュア、というふうに整理する。そして知識人の集団を一つのアミ−バ−のように想像すると、その外界に接し、外界の栄養物を摂取、異物を取り込んで放出する部分は、細胞質もゲル化し、固くなり、逆に内部の栄養を摂取する部分はゾル化、柔らかくなり、この外部に接する部分と内部環境を保持する部分との協調なくしては、原生動物としての存在すらありえない。
比喩が、もう一つ適切ではないかもしれないが、実践的インテリゲンチアはその知性も荒っぽく、論理も粗雑であっても、勃興する階級の直感的な洞察力を持っており、これまで問題にもされなかった部分を、解決すべき問題として呈示して来る役割を持つ。一方の完成型インテリゲンチアは、従来からの知識層からの再生産型として出て来るが、彼等は、その該博な教養と優れた理解力によって、実践的インテリゲンチアが呈示し、いくつかの解決の処方箋を書いたのを整理し、吟味し、根本的な理解と解決の方法を書き上げるのである。
実践的インテリゲンチアの仕事は、だからそういう意味で、現実の中で何かをつかみ取り、ある程度現象的な部分を棄てていく中で果たされる。完成的インテリゲンチアの仕事は、精錬の為の密室が必要なのである。 
ラブレ−の福音主義思想
ラブレ−は後に、事故の思想を「パンタグリュエリスム」と呼ぶようになるが、第一作目の著作「第二之書パンタグリュエル物語」を書いた段階では、それはさほど明確になっておらず、他のユマニストと同じ、福音主義思想に立っていたとみなしても良い。福音主義というのは、ロ−マ・カトリック教会のキリスト教理解が、アウグスチヌス、トマス・アクイナスらによってスコラ化され、様々な註解をかい潜ってしか、その内奥に踏み込めず、世俗的にも堕落し、キリスト教の精神も失っているように見える状態を打開するために、民衆の希望とキリスト教の理想が一致していた幸福な時代、四福音書が書かれた時代の原点に立ち帰れと主張したものである。四福音書はもともとギリシア語で書かれラテン語に翻訳されてローマ教会で使われていた。だから、福音主義者達はまず古代ギリシア語とラテン語に徹底的に精通することが必要とされた。聖書のラテン語訳を洗い順次、キリスト教の複雑に組み合わさった教会建築を解体していった。
「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」という言葉は、この解体作業を徹底的に行ったのがルター、新教で、エラスムスやユマニストは途中でこわくなって宗教改革の仕事から逃げ出した卑怯者だという考えが底にある。しかし、福音主義者とプロテスタントとの本質的な相違はそういう量的な問題にあるのではなく、「自由意志論と奴隷意志論」論争に見られる自由論の問題であった。
人間には、意志の自由はあるのだろうかという問題である。この論争はエラスムスとルターとの間でなされた。エラスムスが自由意志論でルターが奴隷意志論である。
神は人間を作った。最初の人間が罪を犯し、楽園から追放された。人間は生き、苦しみ、そして死ぬ。キリストが現われ、天国を約し、人類の罪を一身に受けて十字架についた。人間は悔い改め、キリスト教に入信し、洗礼を受けることにより原罪は拭われる。その後も罪を犯すと、信者は教会にその罪を告白して、善行を積む。そのようにして行けば必ず天国へ入れると。それが、ロ−マ・カトリックの考えであった。が、この善行を積むということが、教会へ寄付をするということになり、教会に莫大な富が集積し、教会が堕落していく物質的基盤ともなったのである。
ルタ−は、神は全知全能であるから、我々人間が将来罪を犯すかどうか、天国へ行くか地獄へ行くかまで知っているとする。ということは我々が何を考え、何かを行うこと全てが神の御意志なのであり、我々が救われるかどうかまで、神の意志によってあらかじめ決定されているということだ。我々には、自らの意志で善行を積み、そのことで神の意志を帳消しにすることは出来ない。自由に意志決定することもない意志とは奴隷の意志でしかないという議論である。この神を必然性と置き換えるだけで、現代でも成立し得る議論である。マックス・ヴェ−バ−が、「プロテスタンチズムと資本主義の精神」を書いたのは、そのルターの奴隷意志論によれば、聖書でイエズスが「野の百合を見よ、空を飛ぶ鳥を見よ、明日を何のことあって思いわずらうことがあろうか」と叫んで、富の蓄積を嫌悪したのを事実上否定していくことになったのである。商売で富を蓄積しようが、清くつつましく生きようが、どちらだって自分の死後の運命が予定されているのだとしたら、と。ルターは奴隷意志論によって資本蓄積に道を開いたのである。
エラスムスの自由意志論はそれに対して、一定の人間の自由選択性を認めるものである。エラスムスは言う。神が全知全能であると言っても、神は個々の人間が、神の心にそって行動しようとするか、裏切っていこうとするかについての余地を残してる。だから人間の死後、その行動に対して神は審判を下すのであり、イエズスは人々に富を築くよりも天国に富を積めと勧めたのである。奴隷意志論では、人は生まれる前に死後の運命が決定されているのだから、生まれてから何もすることもいらない、してもどうにもならないということになる。また、聖書におけるイエズスその人の説教とルターの論議としてどうしても矛盾して来ると。
ラブレ−自身、この論争について直接言及したことはないようであるが、この第二之書一五四二年版の作者の序詞のところで、特にカルヴァンのことを想定して、「邪説予定論者」と批判していることからも、また、エラスムスへの熱烈な尊敬からも、エラスムスの議論に身を入れていたことに疑問の余地はない。
ユマニスムは人間に信頼を置き、理性に希望を託すのである。ラブレ−は人間に信を置いた。ラブレ−のテレ−ムの僧院の夢想、「汝の欲するところを行え」との理想は、エラスムスの思想に共鳴してこと生まれるのである。 
ラブレーの世界観 
第二之書に、最も端的にラブレ−の思想が説かれているところがある。若きパンタグリュエルがパリに学問修行の旅に出た後、その父ガルガンチュアがパンタグリュエルに宛てて出した手紙がそれである。以下、その全文を引用しよう。
パリ滞在中のパンタグリュエルがその父ガルガンチュアの信書を受け取ったこと、ならびに右信書の写し(第八章より)
親愛なるわが子よ、
全知全能の神、万象の創造主が、その当初人類に恵み給い、これに装わしめ給いし天資、恩寵、特権は数々有之候も、拙者より見て他に類(たぐ)えるものなく極めて卓(すぐ)れたるものと思わるるは、人間が必滅の身なるにも拘らず、いわば不滅の身の上となり、はかなき空蝉(うつせみ)の世に生きながらも、己が姓名及び胤をば永劫に伝え得ることにござ候。而して、こは正当なる婚姻により我らより生まれ出ずべき代々の子孫を通じてなし果たさるべきものに候。そればこそ、我らが始祖アダムとエウァとの罪業によって、我々人間より剥奪されたるものが、些(いささ)か我らに恢復せしめられたとも申すべく候。始祖たちが創造主たる神の命に従わざりし廉を以って、生命に限りあらむとの御言葉を賜りたるがため、人間が創造せられし時に与えられたる世にも優れたる姿相(すがた)も、死によりて虚無に帰すべきことと相成り申し候。されど、この婚姻によりて、胤を受け継ぎ、これを伝うる道有之がため、両親(ふたおや)より失われたるものもその子女に留まり、この子女より滅び去りたるものもその孫子に現わるるここと相成り候。かくして、世々継々に進み行き、最後の審判の時にいたるべきものにして、その時こそ、イエズス・キリストは、あらゆる罪業の危殆及び汚濁より脱せし平安なるその王国を、御父なる神に御返納遊ばさるる秋(とき)にござ候。いかんとなれば、かかる時いたらば、一切の生成及び解体は止み、諸々の元素もその不断の変転を解脱いたすべきこととなるがためにござ候。蓋(けだ)し、かくまで熱望されし大平和の実は結ばれて完璧となり、森羅万象悉く、その終焉その周期完了の時にいたるが故にござ候。
かかるが故に、青春のそなたの裡(うち)に、霜を載ける老齢の拙者との面影が再び花咲くを見能(あた)うようになし給いし我が守護の御神、天なる神に感謝し奉るは正に理由(いわれ)もあり、事の当然にござ候。いかんとなれば、一切を統べ整え給う大御神の思召しによって、我が霊魂がこの人の世の棲居(すまい)を離れ去る時の来るとも、拙者がすべて死滅し去りて跡形もなき身と相成るとは思わず、むしろ棲まうべき所を変えたりと存ずべければなり。蓋(けだ)し、そなたが裡(うち)においてまたそなたに拠(よ)りて、拙者は生々としたる姿を纏いてこの世に留まり、今までのごとく性(さがら)貴き人々及び親しき友だちとともに生き長らえ、これと相会し、これと睦み合うことと相成るべしと心得申し候えばなり。拙者の交友生活は、罪業皆無なりしとは称し能わざることをここに告解いたし候も、(我らはすべて罪を犯すものに候えば、不断に神を念じて罪科を消し去り給えと請い奉る身の上にござ候)神の御助けと御恵みとにより、世の指弾を受けたることは無之候。
されば、拙者が形骸の面影がそなたの裡(うち)に留まるがどとくに、霊魂の資質も再び輝き出でざる祈りには、そなたは、我が不朽なる家名を護り、これを享け継ぐ者と見なすを得ざることとなるべく、肉体と申す拙者のとるに足らぬ部分は留まるにせよ、霊魂と申す最も卓(すぐ)れたるもの、即ち我が家名をして永く人々の祝福を受けしむるものが、そなたにおいては品下り貶めらるるを見るにいたらば、そなたを頼みとして味わうべかりし歓びも僅少となるべく候。こは、そなたの志操の固きことは既に今まで熟知せることには候えども、その上とも身を修めらるるようにと、更に心をこめて激励いたさむとの心より申せるしだいにござ候。また、今そなたにかく申し送る所以(ゆえん)のものは、目下かくのごとき志操固き道に生きよと希う心あるとともに、そなたがかくのごとき道に生き、自らかくのごとき道を踏み来れるう欣ばしと観ずるにいたり、その志を新たにして、将来にも臨まれたしと希う心あるがためにござ候。
この祈願を成就し達成せむとして、拙者は些(いささ)かなりとも物惜しみをせざりしことは十分に御記憶あるべく候。されと、かくそなたの修業に援助を与えしは、拙者の在世中に、いずれそなたが、徳操にも心の正しさにも賢さにおいても、また自由民の心得べき一切の正しき学芸においても、比肩する者なきほどの卓抜せる人物と相成らるるを見、更にまた我が亡き後にあっては、かくあれかしと希い居つ通りの完璧なる人物にならずとも、拙者が願わしと思わるるに近き人物となり、父なる拙者の面影宿す鏡として我が後を継ぐことと相成れば、これに勝(まさ)る宝物はこの世になかるべしと観じたるがために候。
されど偲び奉る我が先考グラングウジエ殿がその熱誠を悉く傾けて、拙者にあらゆる研鑽を積ましめ、治国平天下の道をば修めしめて得るところあらしめ給い、拙者も螢雪の苦しみに耐えて刻苦いたしたる結果、先考の願い給いしところに克く報い奉りたるのみならず、更にこれを凌駕いたし候えども、そなたも十分に御承知の通り、拙者若年なりし頃の世は、現時のごとく学芸を修むるに適せず、そなたのごとく卓(すぐ)れし師匠のあまたに教を乞うことも絶えてなかりし有様にござ候。
時期(とき)今だ暗澹として、一切の良き学芸を破滅に陥れたる蛮族ゴ−どもの所行たる逆運災禍の気配有之候いき。しかるに、ありがたき神慮によって、拙者が代にいたりては、光輝と品格とが学芸に恢復せしめられ、改善の跡も著しく、拙者のごときは、当世にあっては、初年級の幼き学童どもの間にも編入いたされ難き有様と相成り候も、しかも拙者は、(嘘佯(うそいつわ)りなく)壮年期においては、当代随一の物識りよと呼ばれしものに候。こは、徒らなる自画自賛のために候わず。・・・・もっとも、そなたにかくのごときことを書き送り候とて、別に後ろめたきこと無之候ことは、マルクス・トゥリウスがその著『老年』において明示せるがごとく、また『いかにして妬まれずに自賛し得るや』と題する著書にブルタルコスの記せし言葉に照らしても明らかに候も、・・・・拙者としては、更に高きに赴かむとする熱意をそなたに与えむとて、かくは申述べたるしだいにござ候。
今や一切の学問は復旧せしめられ、諸々の言語研究も最高せしめられ候。即ち、ギリシア語。これを知らずして自ら学者と名乗るは恥辱にござ候。またヘブライ語、カルデヤ語、ラテン語に候。世にも優雅にして端正なる印刷術も、拙者の治世下において天与の霊感によりて発明いたされたるものに候が、これに対して、一切の兵火の器具は悪魔の教唆によりて創(はじ)められたるものに候。学識豊かなる人々、世にも博学なる師匠、宏荘なる書院、満天下に充ち溢れ居り、プラトン、キケロ、パピニアヌスの時代と雖(いえど)も、現時見らるるがごとき勉学の便はなかりしならむと愚考仕り候。今後、智慧の神ミネルウァの学寮にて十分練磨いたされざる者は、世に立つことも人前に出ずることも相適わざることと相成り申すべく候。拙者の観ずるところによれば、今の世の強盗、獄吏、野武士、別当と雖(いえど)も、拙者が時代の博士、伝道師よりも博学と覚え候。更に何をか申すべき、婦女子も、めでたき学芸を謳歌し、その天来の糧を得むと翹望(ぎょうぼう)いたし居り候。かくのごとき有様に候えば、拙者もこの齢に達して、ギリシヤの芸文を学ばざるを得ざる羽目と相成り申し候も、こは拙者がカト−のごとくギリシヤ学を軽蔑いたしたるためには候はず、若年の頃にこれを修むる暇なかりしがためにござ候。されば拙者は、好んでプルタルコスの『道徳論(モロ−)』、プラトンの見事なる『対話篇』、パウサニヤスの『ギリシヤ地誌(モニュマン)』、アテネウスの『古代ソフィスト(アンチキテ)饗宴』を読み耽り居り、天に在す創造主たる神がその御心のままに拙者を召し給い、この世を出でよと命じ給う時来るを待ち居るしだいに候。
さればこそ、わが子よ、そなたが学業徳育において、十分に身を修むるために青春を送られたしと勧め参らすしだいにござ候。パリにありては、師傳としてエピステモン殿が控え居られ候。そなたは、一ぽう、師傳よりは直接口伝による教育を授けられ、他ほうよりは、讃うべき亀鑑の数々によって薫陶を受け得る身の上にござ候。拙者としては、そなたが諸々の言語を完璧に学ばるるように切に希望いたし居り候。第一にはクインティリヤヌスの諭せるがごとく、ギリシヤ語に候。第二にはラテン語。更にまた聖書読解のためにヘブライ語、カルデヤ語もアラビヤ語おも、同じく心得られたく、また文章を磨くためみは、ギリシヤ語にあってはプラトンを、ラテン語においてはキケロを学ばれたく存じ候。史記の類はすべて諳(そら)んじて常に念頭に止むべきものなるが、そがためには、、その人々の書き残せる『宇宙誌(コスモグラフィ)』が援助を与うべしと存じ候。
幾何学、算術、音楽のごとき自由学芸は、そなたが五歳より六歳にいたる頃の未だいろけなき折に、その心得を若干授け置き候えば、続けてこれを修められたく、天文学に関しては、その法則のすべてを学ばれたく存じ候も、卜筮占星及びルゥリウスの幻術は、謬説虚妄として棄却いたされたく候。民法に関しては、優れたる原典を暗誦して、哲理に照らして勘考いたされたく希望いたし候。
また、大自然の事物を識るためには、これに熱心に傾倒されたく、いかなる海原、河川、泉水といえども、これに棲まう魚族のことは心得置かれたく、空翔(か)ける鳥類の一切、森林の樹木、潅木、草藪の一切、大地に生い立つ草根の一切、何一つとして、そなたの識らざるものなきようにと希い居り候。
更に、ギリシヤ、アラビヤ及びラテンの医家の書をば入念に繰り返して翻読する傍、ユダ経典(タルムダイスト)及びユダヤ秘教(カパリスト)杏林をも蔑にすることなく、人体解剖を度々行いて人間と申す別個の一宇宙の完全なる智識を修められたく候。また、一日の数時間を先ず聖書の考究に当てられたく、第一に、ギリシヤ語にて『新約聖書』ならびに諸々の使徒の手になる『文(ふみ)』を、これに次いで、ヘブライ語にて『旧約聖書』を繙(ひもと)かれたく候。
要之、智識の深淵となられむことこそ拙者が願いにござ候。いかにとならば、将来そなたが成人して齢を重ぬるにつれ、静謐(せいひつ)安穏に勉学生活より出でて、騎士の道及び武芸を学び、邪なる輩(ともがら)の攻撃より我が家門を護り、万事において我らが友朋の人々を救援すべきものと心得申すが故に候。
さてはまた、そなたが身に附けしことのいかほどなるかを速やかに試されたく存じ候も、そのためには、一切の学芸に関し公開の席において、あらゆる人々を相手取って討論いたすこと、ならびにパリにもその他の土地にも見受けらるる学識ある人士と語らい合うことに優るもの無之候。
さは申せども、・・・・賢者ソロモンの言えるがごとく、叡智は邪なる霊魂の裡(うち)に断じて宿るものにあらず、良心なき智識は霊魂の荒廃に外ならざれば、そなたとしては、神に仕え、これを敬愛し、これを畏れ、何ごとにつけても神を念じ奉り、一切の希望のすべてをこれより離(さか)ること断じてあるべからず。世の謬説を疑うべし。虚しきものに心を寄すべからず。その故は、この世の営みは束の間にことにして、これにひきかえ神の御言葉は永劫不滅なればなり。同胞(はらから)のすべてに温情を以って接し、己が身を愛するがごとくにこれを愛されたく候。そなたの師匠たちを畏敬いたされたく候。かくして、御地にて一切の学芸を心得たりと覚えたる暁には、拙者がもとに帰来ありたく、拙者が冥界(あのよ)に赴くに先立ち、そなたに会いて祝福を与えたく存じ候。
我が子よ、我らが主の安らけさと御恵みとが、そなたとともにあらむことを祈り奉る。
しかあれかし(アメン)。
無可有郷国三月十七日
そなたが父
ガルガンチュア
この長大なる父から息子に宛てられた手紙を御読みになり、読者は何を考えられたのであろうか。この巨人の理想を。
前は六号に発表しているので、この連載は一年半休載していたことになる。その間、日本の詩人達の詩集や文学史等を漁りながらも、やはり僕の心を捕らえ続けていたのはラブレーであった。
この前は、巨人の王ガルガンチュアがパリ遊学中のこれまた巨人である息子パンタグリュエルに与えた手紙を紹介したが、今回はこの書簡に現れたラブレーの思想について考えていきたい。
a.ラブレーの不死説
書簡の前半部の中で、巨人王ガルガンチュアは息子パンタグリュエルに対して、神が人類に与えた恩寵の中で特に優れたるものと思えるものは、「人間が必滅の身なるにもかかわらず、いわば不滅の身の上となり、はかなき空蝉の世に生きながらも、己が姓名及び胤をば永劫に伝え得ることにござ候」として独特の不死説を唱え、不死を構成していく要素として子孫が永続することと家名(人格的にも教養の上でも優れたものとしての)が保持され続けていくことをあげ、それを父から子へ受け継いでもらうためにもということで後半の教育論へと説き及んでいっている。このラブレーの不死説の論点は、次のように構成されている。
1.人間は必滅の身である。
2.だが人間は不滅の身の上となることができる。
3.a己が姓名 b及び胤を永劫に伝えることによって。
この三つの論点の中で主に不滅の条件となる3を書簡の前半で展開しているが、読者はラブレーの不死説をどう捕らえられたであろうか。
普通、キリスト教で考えられている霊魂不滅説は、
1人間の中に霊魂と肉体とがあるとし、
2.死ぬと肉体から霊魂が抜け、
3.霊魂は生前の徳や罪によって天国、煉獄、地獄へと振り分けられる。但し煉獄は刑務所のようなものであって、罪の軽重によりさまざまな刑期を終えた後、天国に行くことになっている。
4.世の終わりが来ると天国にいる者も地獄にいる者も再び己が肉体を与えられ、永久の至福を得る者は神の右に並び、滅びの火を永遠に受ける者は左に並び、然る後、永遠に人類は天国と地獄とに分けられてしまうというのである。
このキリスト教の霊魂不滅説と比べると、ラブレーのそれがずいぶんと異なっていることがお分かりになれるであろう。第一にラブレーは1の論点で人間は必滅の身であるとしていて、後のように死んでも霊魂が残るのだというような発想を行っていない、ということである。人間は必ず滅ぶのだ。第二に2の論点、「不滅の身の上になることができる」とは出来ないことも想定されてしまっているということでもある。これは不滅になる必要条件である3を検討すれば一層明らかになる。3a姓名が後世まで伝えられず、3b胤が断絶すれば、その人間は不滅の身の上になることに失敗した、ということになるのである。
少しも不死説ではないのである。現実的に考えてみると、この3の二つの要件を充たすのはほとんどいないのではなかろうか。 
胤の継続による不死
ラブレーの不死説に該当するところを、もう少し引用して考えてみよう。後で考えていくための便宜として各文の冒頭に番号をつける。
1.親愛なるわが子よ、全知全能の神、万象の創造主が、その当初人類に恵み給い、これに装わしめ給いし天資、恩寵、特権は数々有之候も、拙者より見て他に類えるものもなく極めて卓れたるものと思わるるは、人間が必滅の身なるにも拘らず、いわば不滅の身の上となり、はかなき空蝉の世に生きながらも、己が姓名及び胤をば永劫に伝え得ることにござ候。
2.而して、こは正当なる婚姻により我らより生まれいずべき代々の子孫を通じてなし果さるべきものに候。3.さればこそ我らが始祖アダムとエヴァとの罪業によって、我々人間より剥奪されたるものが、些か我らに恢復せしめられたとも申すべく候。
4.始祖たちが想像主たる神の命に従わざりし廉を以て、生命に限りあらむとの御言葉を賜りたるがため、人間が創造せられしときに与えられたる世にも優れたる姿相(すがた)も、死によりて虚無に帰すべきことと相成り申し候。
5.されど、この婚姻によりて、胤を受け継ぎ、これを伝うる道有之がため、両親(ふたおや)より失われたるものもその子女に留まり、この子女より滅び去りたるものもその孫子に現るることと相成候。
6.かくして世々継々に進み行き、最後の審判の時にまでいたるべきものにして、その時こそ、イエズス・キリストは、あらゆる罪業の危殆及び汚濁より脱せし平安なるその王国を、御父なる神に御返納遊ばさるる秋(とき)にござ候。
6.の文を読むと、人間のその姿も死によって虚無に帰すことが書かれている。姓名なり胤によってしか不死になり得ないということは、肉体と分離して存在すべき霊魂自体想定されていないことを意味している。想定されていれば姓名や胤による不死など考える必要もなかっただろう。霊魂が天国や地獄に行くとはここでは述べられておらず(注1)、物質的な姿も5.の文を見ると、「両親(ふたおや)より失われたるものもその子女に留ま」るとあることは、何ら不滅ということにはならず、肉体は滅びはする。滅びはするがその種によって肉体の形質が子孫に再現するだけのことだ。これは子供を見て親がその子の表情などに幼い頃の面影を見、ようやく成人するわが子に、夫や妻の驚くほどの似姿を認め、胸を突かれるような、甘いとも、苦いともいえる感慨のことが下敷きになっている。
ラブレーが生きていた時代は、ヴァロア朝のフランス国王フランソワ一世とハプスブルグ家の当主であって神聖ローマ帝国皇帝であるカール五世との間にイタリア戦争が断続的に行われていた頃であって、ガルガンチュアの手紙に託しているがごとく、親の面影が順々に子孫に伝わっていく等というのんびりした状態ではなく、名家といわれた大貴族の中にも血筋が絶えてしまうことすらさほど珍しくもなかったはずである。
ラブレーは霊魂自体のことをあまり考えているとは言えない(注2)。言えないといっても、そのことが直ちに霊魂の存在を否定していたとか、人間は何の彼のと言ってみても必滅なのだと考えていたということにはならない。今まで述べ来たったように、ラブレーの考えにはその意味、その論理を押し進めていくと霊魂の存在を想定していないことになり、不死といってもようやく手に入れることのできる不死は、すぐ家系が絶えたりして不死でなくなってしまうような代物なのであり、そういうところからローマ・カトリックの牙城たるソルボンヌ神学部がラブレーの一連の著作を禁書にし、後にカルヴァンが罵った(注3)のも故なしとはしないのである。このラブレーの不死説の中に唯物論的人間論のかけらをみいだすのも容易であるが、だからといってラブレーが意識していない論理の帰結を引き出してそれをラブレーが意識していた結論であるといってはならないのである。この事はまだ姓名の連続による不死説の検討が残っているので、そのあとで述べたい。  
家名の連続による不死
家名の連続による不死説に関係した部分は次の部分である。
されば、拙者が形骸の面影がそなたの裡(うち)に留まるがごとくに、霊魂の資質も再び輝き出でざる折には、そなたは我が不朽なる家名を護り、これを受け継ぐものと見なすを得ざることとなるべく、肉体と申す拙者のとるに足らぬ部分は留まるにせよ、霊魂と申す最も卓れたるもの、即ち我が家名をして永く人々の祝福を受けしむるものが、そなたを頼みとして味わうべかりし歓びも僅少となるべく候。
この「霊魂の資質」とは知性と徳と読み替えてもいいものである(注4)。王ガルガンチュアは息子に勉強せよと言う。息子が父の要請に応じ、まさにあの王の息子だと周囲からいわれるがごとく人格も修養を積み、学問に励み、そのことによってガルガンチュアの家名が「永く人々の祝福を受け」るものとして継続していくと、ガルガンチュアの霊魂の資質にあたるものはその息子、その又息子に人格教養の面で次々と再現されていくことによって不死になるというのである。つまり、霊魂が不死であるためにはその子孫が代々学問に励み、人格の上でも卓越した人間となるよう、修養に努めねばならないのだ。何とこの霊魂不滅説は現世的であることだろうか。「さすがあのヒトの息子だ」と言われることにその着想が発しているのだから。
そしてこの不死説も実に頼りない不死説である。何かの関係で子供が勉強しない、自堕落になってしまう。すると令名高い家名は地に落ち、人々にもはや忘れられてしまう。ガルガンチュアの霊魂の不死はこの段階でストップをかけられ、滅んでしまう。だから家名の継続による不滅説も霊魂必滅論の性格を持っているのである。 
ラブレーの不死説のルネサンス性
以上述べてきたように、ラブレーの不死説はその論点を整理し、現実的にはどういうことになるのかを考えていったら、ルネサンス以前の、例えば十二世紀の「人間小宇宙論」の持っていたところの、キリスト教的世界観とまだ調和していた人間論(注5)と比べてみても、ラブレーの不死説は現世の人間の有り様がその発想の中心に座っており、その不死説もそこから組み立てられたものであることは明白である。現世の人間の有り様が中心に座っているところは、実にユマニストの面目躍如たるものがある。
ルネサンスの、ルネサンスたる所以は、人間が中心の位置を獲得し、人間の似姿としか言い得ないような神々を伴っていたギリシアやローマの古代部かを、現世の人間を肯定するために、キリスト教的社会、取り分けて窒息しそうなスコラ哲学の巨大な体系に対置させていった点にある。十二世紀の「人間小宇宙論」にしても、それはスコラ哲学の枠内に収斂されるところに位置しており、非常に精緻な理論(注6)で組み立てられているが、ラブレーは現世の人間に再現される肉体的かつ精神的再現をその不死説の根底に置くことによって、キリスト教的世界観の枠をはるかにはみ出してしまっている(注7)。
ラブレーの不死説がその論理を押し進めれば、実質的に霊魂必滅論になっていくことは、これまで見てきた通りである。論理を押し進めればそうなるのであって、ラブレーは押し進めていないのであるから、ラブレーが霊魂不滅説を否定したと言ってはならないのである。ラブレーの人間不死説、ラブレー流の霊魂不滅説は現実の子供に見いだす親の肉体的かつ精神的面影の再現によって着想され、人間の不死は胤の連続と優れた家名の継承により、肉体的にも霊魂の上でも不死になれると説いた。そこまでのことである。
ラブレーは当代一流の医学者(注8)であったが、彼自身においては霊魂不滅説の枠内で現世的人間を発想の中心に置こうとはしても、自分の方から否定してかかろうという気はなく、結果的に否定するような論理を、ラブレーの不死説の中に採用してしまっているというのが、正確な理解なのではないだろうか。ラブレーの不死説がその論理を突き進めると霊魂必滅論になるといっても、そのように論理を徹底させるのは今でこそ出来るのであって、論理を徹底させるまでには実際には何百年もの歳月が必要なのであり、幾多の科学上の発見や神学上や哲学上の論争を、待たなければならなかったのである。 
不死説から見たラブレーの空想する人間像
ラブレーの不死説は胤の連続と家名の継続とであった。胤の連続とは、肉体上の親の形姿が子、孫へと受け継がれ、面影が代々再現されていくことであった。親の面影が再現されるには、面影の再現を妨げるようなものや損なうようなものには反発していくはずである。面影の再現を妨げるものとは胤を絶えさせてしまうようなものであり、具体的には戦争が考えられる。ガルガンチュアの書簡の中でラブレーはルネサンスを讃え、印刷術を「天与の霊感により発明」されたものとして称賛した後、「これに対して、一切の兵火の器具は悪魔の教唆によりて創(はじ)められた」としている。これまた、基本的なところで戦争に反対ということであって、現実の戦争となるとまた話が違うのは当然のことである。再現されている面影を損なうようなものとしては、修道僧が自分の肉体を鞭打ったりする苦行等が考えられる。それよりも面影の再現されている肉体をさらに鍛練することをこの書簡では強調している。即ち、「騎士の道及び武芸を学び、邪なる輩(ともがら)の攻撃より我が家門を護り、万事において我らが友朋の人々を救援すべき」と述べている。
二つは霊魂の資質の不死に当る家名の連続と云う点からである。家名は優れたものとして人々から称讃されねばならない。優れたというのは人格においても教養においてもである。この二点をラブレーは子供において再現されることを要求している。だから巨人王ガルガンチュアは息子パンタグリュエルに教養を積み修養に励めと言っているのである。その教養の程度も知識人として呼ばれるに足るものを要求している。
家名の継続による不死、人格や教善が子において再現されると云う形での不死という考え方の場合、ラブレーは人格や教糞においてどのようなものてあるかを規定した上で考えているのてある。ラブレーの面白さはこのような人格の高潔、優れた教養を付けよと言ったり言われたりしているのが普通の人間の何倍もの大きな身体を持つ巨人であることにもあるのだが、このことはいつか書く機会があるであろう。
教養等の具体的内容については日本てもラブレーの教育論として明治時代に既に紹介されているほどのものであるが、ここでは簡単にその内容を要約しておく。
巨人である王ガルガンチュアがこれまた巨人てある息子パンタグリュエルに対して学ぶように勧めているものは次の通りである。
・言語ギリシヤ語、ラテン語、ヘブライ語、力ルヤ語。文章を磨くためにギリシヤ語ではプラト一ンを、ラテン語てはキケロを。
・自由学芸幾何学、算術、音楽、天文学、法学。占星等は謬説。
・大自然の事物を知ること。魚、鳥、植物、金属等。
・医学ギリシヤ、アラビヤ、ラテンの医家の書。人体解剖を度々行なう。
.聖書ギリシャ語で新約聖書を、ヘブライ語で旧約聖書を。
・そなたが身に付けしことのいかほどなるかを速かに試されたく存じ候も、そのためには、一切の学芸に関し公開の席において、あらゆる人々を相手取って討論いたすこと」、「学識ある人士と語らい合うこと」。
・「智識の深淵となられむことこそ拙者が願いにござ候」。
・「良心なき智識は塞魂の荒廃に外なら」ず。
・「何ごとにつけても神を念じ奉り」、「至高至善の愛を基とする信仰によって主に縋り奉」る。
・「世の謬説を疑うべし」。
・「同胞(はらから)のすべてに温情を以って接し、己が身を愛するがごとくにこれを愛されたく候」。
以上が霊魂が不死てあり続けるため、即ち家名を人に称讃されるべきものとして連続させていくために、子が学ばねばならぬ人格、教育上の事柄てある。これに若干の解説を付けよう。
ギリシャ語はラブレーの青年時代、その学習を禁ぜられたことがある。ギリシヤ語で新約聖書を読み、ヘブライ語で旧約聖書を読むことは旧教にさからうことでもあった。
自然の事物を研究することは、中世の大学教育の中で行われなかったことである。
ラブレーは人体解剖を行った初期の医学者の一人である。
公開討論は中世大学において重要な教育、研究の方法であり、ラブレーはフランス医学の最高学府であったモンペリエ大学に学び、そこで学位を得、教授したことがある。
ラブレーは教育論においても一つの新しさを持っていたのである。
注1この第二之書第三〇章において、バンタグリュエルの部下てあるエピステモンが乾喉人(ディプソード)とそれに味方した巨人族との戦いの中に首を切られ、バ二ュルジュ(やはりバンタグリュエルの部下で第三之書以降主人公的な位置を占めるようになる人物)が首と胴体をくつっけて生き返らせるまでの間に地獄を見て来る話があるが、ラブレーはガルガンチュアの書簡等のように理想を説く時は生真面目に進み、この三〇章のように諧謔を弄する時は徹底的にふざける所があり、その理想、ラブレーの意識的な思想が述べられている所て肉体と自由に離れても存在し得る霊魂について考えていたとは言えないと思う。
注2ラブレーは「ガルガンチュアとパンタグリュエルル」全五冊のうちで、肉体と分離した魂の事を書いているのは右の注1のところだけといってよく、それも興にまかせて書いており、ラブレーの精神は自ら目にするフランスの激動と、其に対蹠的に願われてくる巨人王ガルガンチュアや.パンタグリュエルの理想像、あるいはテレームの僧院の夢想に集中されており、霊魂の存在などの問題の方にあまり関心が向かなかったのではないかと思われる。
注3「パンタグリュエルの如き汚穢極まる菩物を作り神の神聖を涜すような言辞を弄する狂犬どもは許されてよいのか」カルヴァン。渡辺一夫「フランスルネサンコス文芸思潮序説」二三頁よりの孫引。
注4ラブレーはこのガルガンチュァの書簡の後半で「良心なき教養」を否定している。
注5人間を小宇宙、即ち(ミクロコスモスと見る見方は、人間が一つの小宇宙であって自然の調和が人間にもあるとするのだが、この考え方は、人間は神に似せられて作られたとする創世紀神話と抵触しない。
注6ベルナルドウス・シルヴェストリスやリールのアラヌス等が十二世紀に活躍し、大宇宙たる自然と小宇宙たる人間に分け.類比的に説明しようとしている。
注7トマス・アクィナスがスコラ哲学を完成したと言えるが、「恩寵は自然を排除せず、それを完成する」としてアリストテレスの学説との調和を無理にはかったため、トマス・アクィナスさえ、神を目的因とする事によって世界の永遠性を主張し神の創造を否定しているとして、死後攻撃されていた。
注8ラブレーが学び学位を得、教授もしたモンペリ工大学は当時のフランス医学の最高学府であった。ラブレーは人体解剖を行った初期の医学者の一人であり、フランス国王フラコソワ一世の側近デュ・ベレーのかかけつけの医者として行動を共にしていた。この医学者としてのフランソワ・ラブレーの知識はほぼ同時代の日本にも伝えられていて、天文十二年(一五五二年)に日本に渡来したポルトガル人外科医ルイス・デ・アルメイダ(一五二五ー一五八三)は約三○年間日本に滞在し、布教・医療活動を続けたが、彼の解剖学的知識はラブレーの知識と同系列と考えられている。(中西啓「長崎のオランダ医」二四頁より) 
ラブレーの文学観 
創作の契機
人それぞれ、文学への入り方というものがある。一般に、文学に入る前には相当数の文学作品との出会いを体験しており、自分自身の生活体験とそれに対してどのように対処して来たかによって形成されて来る内面史とが、文学作品の受け入れに大きく左右するようである。
僕等はそうした作品に出会い、読者になっていき、現実の生活や文学によって育まれた想像力や感性は、僕等自身の内面のうちにも表現すべき諸々の心象や怨念や悲嘆やが渦巻いていることをささやき続け、そのささやきに抗し切れなくなった時、僕等は忽然と文学の領野に入るのである。原因はそのようなものであれ、実際に創作に入るには、現実の契機が必要である。
フランソワ・ラプレーの場合、現実の契機とは、一五三二年八月に南フランスの文化都市リヨンの書籍市に売りに出された作者不詳の『なみはずれて魁偉なる巨人ガルガンチュアの無双の大年代記』を読んで刺激されたことである。ラブレーがどれ程刺激されたかは後て本文を引いて述べるが、ラブレーの心の中に対抗意識が生じ、自分ならもっと……と思ったことが発火点になっていよう。当時のべストセラーとなった巨人のガルガンチュアに息子パンタグリュエルがあったとして、ベストセラーのおこぼれを頂戴しようと思った事も現実の動機にはなっている。
ラブレーは『ガルガンチュア大年代記』の続編的なものとして『パンタグリュエル第二之書』を書いていき、諧謔譚として書き継いでいったのだが、ところが作中人物に完全な統一性を与えようとすると作中人物が動き出し、作者の意図を踏み込えていってしまい、およそ『ガルガンチュア大年代記』の巨人遠とは随分違う巨人の物語を作り上げてしまった。ラブレーが作り上げてしまった巨人バンタグリュエルは単に体が並みはずれて巨大で武勇に優れているだけではなく、人格の上でも教養の上ても巨大てある人物となってしまった。だからそのパンタグリュエルの父てある巨人ガルガンチュアもそうした子供に相応しい父てあるべきで、となると『ガルガンチュア大年代記』のガルガンチュアを父とする訳にはいかなくなり、べストセラーのおこぼれ頂載のつもりだったものがそういうことではならなくなっていく。それで息子パンタグリュエルに相応しい父ガルガンチュアについての物語『ガルガンチュア物語第一之書』を書かねばならなくなっていくのてある。
ラブレーば『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の最初の書である『パンタグリュエル物語第二之書』を書いた時、それなりの文学観を待ったようで、それは第二之書に掲げられた作者序詞を読めばある程度類推することができる。
作者の序詞のところでラブレーはまず最初についこの前売りに出された『ガルガンチュア大年代記』を賞揚し、『大年代記』のような「永劫に語り伝えられるだけのこと」がある書物には霊妙不可思議な力が具わっており、「なみなみならぬ利得効用」があると言った後、「皆様の賎しき奴僕たるこの私めは、各々方のお楽しみをいやましに増してさしあげようと志し、ただ今、更に別な一巻の書を呈上いたすことにするわけだが、地金の質は大同小異でも、例の物語と較べると、ちょっとぽかりはできもよいし、信用するに足るものである」と自信の程を見せている。 
創作を規定していく精神
そのような事がラブレーが文学をはじめていく契機となっていったのだが、一方の原因に当たる部分、内面に沈澱するものは如何なるものなのだろうか。
ラブレーは青少年期の修道院における勉学の中でギリシア文化に憧れ、教会の巨大な圧力がなく、人間の様々な欲望を禁圧しない文化のありかたに共感を覚えたようである。ラブレーは一五二〇年か二一年頃、おそらく二六、七才ころ、フォントネー・ル・コントのフランシスコ会修道院にいてギリシヤ語を研究していたが、その町在住のユマニスト達と親交を結び、精神的にもユマニスト等の影響を受けていた。ところが一五一七年のルターの宗教改革の余波がフランスにも及んでくると、旧教の牙城たるソルボンヌ神学部は新教の母胎となったユマニスト達にも圧迫を加え、ユマニストの聖書研究の基本的研究手段たるギリシア語の研究すら禁圧しようとする態度に出、ラブレーがいたフランシスコ修道会も同様の処置を行なった。ために後に返してもらったとは言え、ラブレーは修道会によって所持するギリシア語文献を没収されるに至ったのてある。
ラブレーの文学の根底に坐り続ける原体験とはこのことではないのだろうかと僕は考えている。青年ラブレーにとってギリシア文化やローマ文化は自らの理想に合致するものと見え、ユマニスト達は徳高く真摯な態度で腐敗堕落したキリスト教会を原始キリスト教時代の汚れない状態にかえそうとしていると思えた。ラブレーはユマニストに近づき、親交を結び、懸命にギリシア語を学んでいった。そこへギリシア語文献の没収という事態が出現したのである。ラブレーにはそうした弾圧を加えて来る旧教会が自らの進路を強力に阻もうとする悪として考えられたに違いない。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の全著作を貫いているのは、そのような人間を抑圧しようとする時代や勢力に対する諷刺精神であり、それに対蹠的に展開されるテレームの僧院やガルガンチュア、パンタグリュエル等の理想を託された巨人達の夢想である。 
ラブレーの文学観の内容
ラブレーは読者を限定して考えている。
僕等が作品を書く場合、自分の内部にあるイメージになりきっていない感情を掬い上げ、それを一箇の客観的に実在する作品として形象化していかねばならないが、創造したその作品が果たして読者の亨受に耐え得るか否かが次の問題である。考えてみると僕等は客観的にみて自分の作品が何からも独立した作品として鑑賞に耐え得るかと考えるが、それ以上に突っ込んで自作の作品の読者とはいかなる階層であって、いかなる階層の人々には自分の文学は受け入れられないかまで考えることは少ないのではないだろうか。
ラブレーは『パンタグリュエル弟二之書』を書いた時既に次のような人々に呼び掛けている。
「世にも高名なる雄武無双の戦士(もののふ)よ、心様優れたる殿原よ、また、この世のありとあらゆる楽しいこと良いことに進んて尽される方々よ」と。こう呼び掛けた後『大年代記』を彼等が読み、それと真の信者のように信じて、「高貴な御婦人方や上臈方」にお話をされただろうという文が続いている。この、ラブレーが読者として念頭に置き、呼び掛けているのは、男で、心様優れている、即ち人格も高く、楽しいこと良いことを進んでされるような人間である。最初の「世にも高名なる雄武無双の戦士(もののふ)」は後で読者に対して述べている所で、「各々方が、己が仕事を打ち棄て、己が商売に煩わされず」と言っているので貴族なりに読者を限定していると考えるべきてなく、男の読者が婦人にその物語のことを物誇ることを要請しているので、読者として特に男に限定した訳てなく、当時の識字階級の層の関係からそう言ったまでである。ラブーは、ガルカンチュアのパンタグリュエル宛書簡の中でルネサンスを讃美し、ガルガンチュアに「今の世の強盗獄吏、野武士、別当と雖も、拙者が時代の博士、伝導師よりも博学と覚え候。更に何をか申すべき、婦女子もめでたき学芸を謳歌し、その天来の糧を得むと翹望(ぎょうぼう)いたし居り侯」としていることから次のように整理出来る。
1ラブレーが読者として想定しょうとしているのは、人格的に高い、楽しいこと良いことを進んでしようとする人てある。
2ラブレー自身の意図としては一般の庶民まて含めて考えているようてある。
3ところが結果的に知識層に読者を限定せざるを得ない作品となってしまっている。
更にラブレーの考えていることはこれにとどまらぬ。読者になり得ぬ者を考えているからである。「作者の序詞」の中で、「山といる瘡(かさ)被りの大法螺吹きどもが、ひょっとして考えているかもしれぬ以上に、この物語には多くの利得が具わっているからだが、この連中ときたら、『ユスティニアヌス法令集』に対するラクレ先生にも劣らす、このささやかな楽しい物語のことになると皆目判ら在いのだ」とある。この物語のさっばり分らぬ御仁としては、少しでもローマ・カトリック教会に対して批判的な言辞を弄する者には弾圧につぐ弾圧を行っていたソルボンヌ神学部などが考えられるが、ラブレーはそのような人達が自分の文学を理解してくれようとは考えていない。だから更に
4自らの作品の諷刺の行く所には、自分の読者がいる
とは考えていない。作品が残るということはどういうことか?
「作者の序詞」の冒頭に作者は、「件(くだん)の物語を語り伝える事に(各々方=読者が)精を出し、これを暗(そら)で言えるようになっていただきたいものだが、それと申すのも、もしもふとしたことから印刷術が跡を断ってしまうとか、或いは、あらゆる書物が滅び去ってしまうとかした場合に、銘々が将来子々孫々に、この物語を過(あやま)つことなく教えられるようになっていてほしいからだし、また、あたかもユダヤ密教理(カバール)でも伝えるように手から手へと、後継(あとつぎ)の方々や後に生き残る人々に、これを譲り伝えられるようにしていただきたいからである」と述べている。
この「作者の序詞」は全体を譜諺的な調子で貫いており、子々孫々語り伝えてもらいたいと述べているのも『ガルガンチュア大年代記』の方てあるが、自身の作品はこの『大年代記』よりもいささか自信があるのだから、当然自分の作品の万はもっと語り伝えられるべきものなのである。引用した文も諧謔味を有しているが、作者は決して駄弁を弄していただけではなく、優れた作品の残り方について考えていたから出て来た発言と言えるのである。
ラブレーは巨人ガルガンチュアやバンタグリュエルの幼少年時代を描いているが、そこで大きな位置を占めているのは教育であり、そしてまた、読書が重要な役割を受け持っている。この第二之書中にバンタグリュエルがバリに学びに来て、そこのサン・ヴィクトール図書館で見出した書籍の目録を百二、三十冊も諧謔味を与えながらも出したりしている程てある。
5だからラブレーは単に受け身でしかない読者を考えていたのではなく、能動的に選択し、普及し、作者の文学活動を支持し、又は批判する読者を考えていたと言えよう。
右の言葉は、ラブレー自身のではなく、この第二之書が一五三二年に刊行されて後、一五三四年に版を改める際に付けられたユーグ・サレル先生(一五〇四ー一五五三、「イリヤス」の仏訳看て詩人)の十行詩の中にある言葉である。これは直接的にはラブレー自身の言葉でないけれども、同じようなことは「作者の序詞」の中にも述べられている。『ガルガンチュア大年代記』に優れた効能があるとして、「野の獣を狩り立てようとか、鷹で鴨を捕らえようとなさった折に、目印の折れ枝をたよりに進んでも一向に獲物に出会わぬとか(中略)いうようなことがあると(中略)非常に落胆なさった方々もいられたが、この殿様方が、何で憂さばらしをなさり、鬱気に当てられぬようになさるかと申すに、それは件(くだん)のガルガンチュアの無双の物語を思い出されることだ」としている。
ラブレーが「作者の序詞」で文学の効用としてあげているのはほぼ右のようなことで、読者が作品を読み、楽しい思いをすることで苦痛や精神的苦痛やを忘れ去ることが出来るということであって、作品の中に述べられた思想が、その思想の正しさの故に得るところがある、となっていないのである。ラブレーにとっては楽しさと得るところとが不可分の関係になっており、憂さばらしを終えた後に残るものについては考えられていない。
ラブレーはユーグ・サレルがまとめたように「楽しきうちにも得るところあり」の考えではあるが、かと言ってそれに徹底し切れていたとは言えぬと僕は思う。ガルガンチュアの書簡等に見せる、時に生硬と思える思想の表明をどう考えたのであろう。
ともあれ、ラブレーの文学観として注出し得たものは読者を能動的存在と考え、楽しいこと良いことを進んてしようとする人々を自分を支持する読者とし、自分の文学に敵対する者の存在をも考えたこと。文学作品が残ると云う事を、単にその作品が残るだけの優れたものてあるだけでなく、その作品を支持し、後世の人々に語り伝えるだけの読者の支持、読者自ら次代の読者を生産するかのようなものがなくてはならないと考えた事。作品は楽しい中で、現実のいろいろなことを忘れさせてくれる効用を持つと考えている事である。
この最後の「楽しいうちにも益がある」という問題は単にそれだけでは何の解決にもならず、ラブレーの作品自体、そのような考えだけては解決しきれぬ問題を数多く孕んでおり、それは今後順を追って究めていきたい。
だが、問題なのはあくまて古典を読んで僕等は、古典が呈出した問題を自分がどのように整理し、どのような解決を与えるか、という事である。 
創作への入って行き方
ラブレーはリヨンの書籍市で売り出された『ガルガンチュア大年代記』が面白いと思い、自分ならもっと、と思って巨人ガルガンチュアに巨人の子供パンタグリュエルをでっち上げ、あわよくばと柳の下に二匹目の泥鰌を狙った。この事を考えていて、随分考えさせられる事だと思う様になったのは、ラブレーが二匹目の泥鰌を狙ったという事であり、同じく狙ってそれ以上の利を追うにしても、もっと内容のあるものをと第一に考えずに、より面白いものをと第一に考えて創作に入って行っていることである。今までの話の関係上、後者の方から私見を述べてみたい。
前回「ラブレーの文学観」と云う所で、等触れーは読者が作品を読み、楽しい思いをする事で苦痛や精神的な悩みやを忘れ去る事が出来ると言っている事を紹介して置いた。第二之書の「作者の序詞」に於ては読んで面白いと云う事が非常に強調されており、面白い、だから読みなされ、読んでいる内に気も晴れますぞ、と云う事が手を代え品を代え書いてあって、どこにも思想的に深い事を書いたのだ、それを読み取って吉井、などとは書いていないのである。
「楽しきところにも得るところあり」と第二之書を賃三したのはラブレーではなくて、この第二之書に「序詞」に当たるものを贈った同時代のユマニスト、ユーグ・サレルである。同時代の他のユマニスト達ハ『パンタグリュエル』を面白い上に得る所があると考えていて、作者ラブレーの法はひたすら面白い本を書いたんだから読まぬ奴は阿呆だと言っている。最初の頃、僕はこの違いに気付かなかった。気付いてみると、この違いは読者と作家との違いという事だろうかと考えた。又、文学と云うものを考えさせるものではないか、とも考えた。
西鶴の事を調べている内に、西鶴の浮世草子作者としてのデビューの際に似た様な話がある事が分かった。天和二(一六八二)年、西鶴は最初の作『好色一代男』を板行した。その作に水田西吟という西鶴と同じ談林の俳諧師が跋文を書いている。『好色一代男』の筋自体は他愛のないものであって、その他愛のなさに引っ張られて仕舞えば面白い面白いで済んでしまうのだが、跋文の仲で水田西吟は『一代男』の事を笑いの中に人の心を見事に汲み上げていると評している。ここでも作者はひたすら笑わせ続け、評者はこの作は意義があるのだと言っているのである。
「ためになる」とはこのラブレーとか西鶴の場合、結果として出来てきたものを見ての評価である。「ためになる」事、即ち内容がある事と面白い事、この二つの文学に対する関係を押さえると、なぜ僕がラブレーの「作者の序詞」とユーグ・サレルの評価の違いに着目したかを了解される事だろう。「ためになる」とは読者が作品を読んで何らかのものを発見し、学べると思う事だ。何らかのものとは人間の存在についての、社会の実態についての二つが考えられる。これらは哲学的な、或いは政治的なものを内に含んでいると考えてよい。こうした内容に関するものは文学にとって絶対になくてはならぬものなのであろうか。そうではないと思う。文学には殊更内容と呼ぶべきものが伴わなくても充分読者に喜ばれ、享受され続けている作品は実に多く存在しているのである。詩歌の類は特にそうであって、例えば古代ギリシャのサッフォーやピンダロスの抒情詩などは、人間にとって永遠に変わらないらしい感情の種々の側面が作品化されており、それらに「ためになる」ものを態々みつけようとするのは強弁以外の何物でもない。
文学は芸術の一ジャンルとして成立してきているのであって、作品成立の基礎を規定しているのは感覚と感情であり、その芸術の素材自体の持つ物理的性質である。文学の素材は音声の組合せによって成り立っている言語と、言語を資格的に記号化した文字とである。言語は概念化作用と伝達機能、音としての、又視覚化された記号としての性質を持ち続けるものだから、そこに社会的なり思想性なりの混入する余地が他の芸術ジャンルよりも大きいのである。感情にしてもその人の置かれた環境、それに対するその人の態度、歴史的状況によってある程度違ってくる部分があるから、文学以外でも音楽とか絵画とかに大雑把な意味で思想と呼んでもいいものを見出すのも可能なのである。
言い換えれば文学とは喜怒哀楽、或いはそこまでも言えない感覚的なものの言葉によって表現されたものである。読者は作者がその様に表現した言語集合体たる作品を読み、それを心の中に再構成して喜怒哀楽、或いはそこ迄も言えない感覚的なものを感じるのである。読者が作品を面白いと感じるのは自分のもう一つはっきりしない気持ちとか衝動が、作家や詩人の表現した作品に拠って何らかの解決を与えられはするが、それ委譲に深刻な問題が読者に提起され、異なった認識の次元へと導かれると云うこともあろう。
ここで注意して置かねばならないのは、作家や読者の中にある解決されざる感情が作品を読んだり聞いたり、若しくは作品を創造することによって解決がなされるということであって、解決されざる思想的ないしは社会的な問題が作品によって解決されるのではないということである。そういう問題ならばその問題に対応した解決の仕方、政治なり学問なりという面での解決があるのであって、文学でそういう問題を扱ってそれなりの解決された印象を読者に与えたとしても、それは夢幻のことなのだ。
もやもやした感情は、感情それ自体でポツンとあるものではない。その感情の由来する所は個人的な面の、家族とか、男と女の関係とか、少年期、青年期特有のものとか、社会的、政治的な面とか、いろいろなレヴェルの矛盾が耽読で、或いは幾つも綯い混ざって出てくるのである。思想的、社会的な問題は絡んでいたりもいなかったりもする。
詩人や作家は、言葉によって一定の感情を読者に呼び起こす様に言葉を仕組み、ある場面やプロットを構成したりする。言葉を仕組む中で、一定の状況の中に於る純化された感情とか感覚とかの呼び起こし機構を作成し得れば成功したのであり、感情とか感覚とか、或いは人生の生活の言語による呼び起こし機構を読者が使用することにより、自分の内部にあるもやもやした感情が一定のパターンを与えられて心から吐き出されると感じた時、読者は喜びを覚えるのであり、吐き出されたものを概念化しようとする地手営為が付加される琴で一定の思想なりが抽出されていくのである。だからラブレーや西鶴が言語による呼び起こし機構の作成に心を込め、ひたすら面白さを追求し続け、それを読んだユーグ・サレルなり水田西吟なりがその呼び起こし機構によって脳裡にパンタグリュエルの、或いは世之介を衷心とする生活情景と種々の場面での感情を味わい、その後で知識人らしく自分がその作品によって解決された感情の性質を吟味して、思想と呼べるものを抽出していっているのである。ひたすら面白味を狙い続けたラブレーとか西鶴と、その作品の中に意義を見い出したユーグ・サレルとか西吟との関係は創作者と評者との関係であり、作者と読者との関係でもある。ユーグ・サレルとか西吟は今日で言えば文芸評論家とも言うべき役割も果たした訳だが、評論家とは読者であって読者の中でも傑出したものでなければならず、作品の中に価値を見い出し、積極的に作品を世に広め、作者に励ましを与えるものである。
ラブレーは「作者の序詞」の中で自分の作品をそらんじて、読者が永代持続させていって欲しいと要請している。何度も言った様に、優れた作品はそれ自体で永続するものでなく、その作品を優れたものと認め、永続化させようとする読者が、言わば読者を自己再生産することによって受け継がれていくのであり、評論家の任務はそれ故文学的営為に於てそういう面の重要な任務を帯びていると言えよう。
ラブレーがひたすら面白味を追って作を進めて行ったことは、そう考えて行くと創作者としての成長の線に沿ったものであったと言い得るし、僕には実に意義深いものと思えて来るのである。 
バロディについて
ラブレーは柳の下に二匹目の泥鰌を狙った。一五三二年の六月頃、ラブレーは『フェラーラのジォバンニ・マナルディ医学書簡第二巻』の翻刻版を南フランスの文化的中心地リヨンで出版したが、その二ヵ月後、作者不詳の『なみはずれて魁偉なる巨人ガルガンチュアの夢想の大年代記』というのが同地で発売された。これが当たりに当たった。この大ヒットのおこぼれを戴こうと、その巨人に実は子供があったのだとして巨人の子供を衷心とした物語を書いたのであるが、このラブレーの著作も馬鹿当たりして『大年代記』にはガルガンチュアに息子があったなどと全然書いていなかったのに、『パンタグリュエル』ができた結果『大年代記』の二版にはガルガンチュアの息子としてパンタグリュエルがいるという風に明記される始末にとうとうなってしまったのである。
思わず話が横道に逸れてしまったが、要するに『パンタグリュエル』には種本があったのである。それは『大年代記』である。或る作品がある。それは浅井了意の『浮世物語』である。或る作品がある。所がその本には種本がある。作者は種本を換骨奪胎する。捩る、茶化す、或いは捻る。パロディである。
どんな分野でもそうだろうが、完全なる独創というものは文学の場合ほとんどない。あるのは捻ったり茶化したり置き換えたり状況設定を代えてみたりの部分的な変更であって、この部分的な改変が出来上がった作品では完全に質的に異なってしまった作品にしてしまうこともあるのである。この捻るというのは、これまでの文学的営為の中で作り上げられてきた技術、現実の人間生活に対する考え方、人間存在に対する観念、感情のパターンなどを作り出す道具立てに対して異なった視座を設定し、そこから道具立てを照らし出して変更点を見い出し、構造を変えてしまうということである。この視座の設定の仕方にも一定のパターンがあるのだが、異なったパターンを組み合わすとか、普通道具立てをひっくり返す時よりも遙かに多くひっくり返すなどして異なった世界を作りだすことがあるのである。
『パンタグリュエル』にしても『好色一代男』にしても筋は簡単である。前者は中世武勇譚や第三之書以後は海洋冒険物語や女性論争などの骨格をほとんどそのまま継承しており、第二之書に則して言うと、巨人であると云うことを除いてしまえば、王ガルガンチュアに王子たるパンタグリュエリが生まれ、その子が成長して勉強をし、パリに遊学する。そこへ邪悪な他国の王が祖国に戦争を仕掛けてきたのでパンタグリュエルは急遽帰国して部下達と共に戦争を行なって勝った。と云うだけのものである。中世武勇譚は優れた騎士が竜やや怪物を退治したりしながら諸国を行脚するという筋立てで大流行した。『大年代記』はこの武士を巨人にし、更に魔法使いメルランを付け加えて読者の意表を突き、爆発的にヒットさせたのだが、ラブレーはこの巨人を巨人でありながら同時に知識人にし、『ピエール・パトラン先生の笑劇』をなぞった部分を挿入することによって『パンタグリュエル』を丸で違ったものに作り上げて行ったのである。
西鶴の『好色一代男』の場合、種本と考えられているのは前にも述べた様に仮名草子作者、浅井了意が寛文五(一六六五)年に板行した『浮世物語』である。これは主人公浮世房が諸国を遍歴しながら笑いを引き起こし、その中に知的啓蒙と教訓、現実批判を織り込んでいっている作品である。この啓蒙、教訓、現実批判のあるところが仮名草子の仮名草子たる所以であるのだが、西鶴は浮世房を世之介にし、諸国を遍歴させはするが、『浮世物語』が現実を全体的に、包括的に描いていこうとするのに対して、『一代男』は好色の面のみに限定し、仮名草子的要素である啓蒙、教訓、現実批判というものを脱落させることによって、遂に徳川五代将軍綱吉の苛酷な天和の治でおしひしがれた現実と、世之介の行動により覗き見されていく種々の階層の人間の性という特殊な部分に放出される人間としての本性的な部分との対比が、人間の心に就いての異なった認識の次元へと僕等を連れていくのである。
西鶴は種本を更に単純化し、現実批判の要素を脱落させて、現実とは違った世界を作り上げていった。ラブレーは巨人に知性を与え、現実批判を織り込み、物語を壮大に展開していった。こう並べてみると、両者は頗る対照的である。更に西鶴の方は現実の政治に関わらぬ一市井人とみてよい男が主人公だが、ラブレーの方は王、王子を主人公とし、政治を積極的に行っていく方から作をものしていっていると言ってよい。これはそれぞれ俳人、浮世草子作者と、大学教授で医者でユマニストという社会的立場の違いという面もあろうが、これは近世以後の日本文学とヨーロッパ文学との違いを象徴しているとも見えるものである。
以上は概括的に見たことである。ラブレーは『大年代記』に対抗意識を燃やし、あわよくばもっと面白いものをと思っている。八月頃売り出された『大年代記』を受けて、三ヶ月後の一五三二年十一月の三日より十七日までの間に開かれたリヨンの書籍市には、もうラブレーの『パンタグリュエル』が登場するのである。 
 
情報収集分析術指南 / 論語方式による

 

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することができない。というのは、まず、知っていることを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないことを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから。」プラトン『メノン』 
1 情報収集 
1-1 情報とは
「ここで『情報』とは何か、を定義しておこう。『情報』とはノイズの別名である。ノイズをはさんでその両極には、一方に自分にとって自明なあまり情報にさえならない領域、他方に自分にとって疎遠なあまり『認知的不協和』(フェスティンガー)のせいで情報としてひっかからない領域とがある。『情報』とはまったき自明性とまったき異質性の中間領域、そのファジーゾーンにはじめて発生する『意味あるもの』の集合である。」「人は訓練によって『情報』の量を増やすことができる。ひとつは自明性の領域を懐疑と自己批判によって削減することによって。もうひとつは異質性の領域に対して自己の受容性を拡大することによって。」「べつな言い方をしてもよい。『情報』の価値とは自分にとって自明なものと自明でないものとのあいだの落差のことである、と。したがって自明性の世界に生きることで『複雑性の縮減』(ルーマン)をはかっている人々には、当然のことながら『情報』は発生しない。」
「瑣末な、つまらないデータは一切、抹殺してしまう方がよいという考え方も当然ありますけれど、そういうデータをいちいち詮索してみてもよいのではないかと思いますね。別に何か発表しようなどという気がなくても、調べるときには徹底的にやるべきです。それで何か副産物がないとも限りませんしね。本を読むにしても、ただ流し読みをするのではなくて、些細なことでも関心をもって読むことですね。」「だから、そういう芯になるものをひとつ見つけさえすれば、関心の方はいくら広く持っていてもいいと思いますね。当面、それでどうこうするというのではなくて、そういう目で見ていれば、ありとあらゆるもの、世界じゅうの現象が、そこに集まってくるのではないでしょうか。最近は情報過剰の社会になったせいか、『いらないことを覚えるのは時間の無駄だから切り捨てろ』という人が多いようですね。しかし、それには僕は反対なんです。いらないというのは、どうやって判定するのか、決して簡単ではないでしょう。それよりも『いらないことでもみんな覚えてしまえ』、この方がよいのじゃありませんかね。」 
1-2 統計の探し方
アジア関連国際統計一覧[末廣2000:315]。
「アジア諸国には『データがない』『あっても使えない』というのは、実のところ研究者の怠慢か言い訳にすぎない。実際は現地語を含め多数のデータが存在するにもかかわらず、データにアクセスする方法を知らないか、アクセスするための努力を惜しんでいるか、そのどちらかであるからだ。さらに収集しえたデータも注意深く検討しないと、思わぬ間違いを犯してしまう。本当に利用可能なデータがない場合には、結局自分で実地調査し、自分で統計を作るしかない。その作業は苦労が多いが、逆にその作業をなしえた時の充実感は何者にも替えがたいだろう。」
総務庁統計局統計センター
各種統計をExcel ファイルで提供。国際機関統計部や各国政府統計局へのリンクもあり。
『日本統計年鑑』
『日本統計月報』
『世界の統計』
「労働力調査」(就業状態、就業時間、産業・職業等の就業状況、失業状況など)
「就業構造基本調査」(就業構造の実態、就業異動の実態、就業に関する希望など)
「事業所・企業統計調査」(全事業所・企業対象。産業、従業者規模、開設時期など)
「科学技術研究調査」(研究費、研究関係従事者など)
「家計調査」(家計の毎月収支、年間収入など)
「住宅・土地統計調査」(建物の用途、居住室の数・広さ、住宅・土地の保有など)
「社会生活基本調査」(時間のすごし方、余暇活動の状況など)
「社会・人口統計体系」(地域別統計データを体系的に収集)
首相官邸の統計リンク
国民生活基礎調査・人口動態統計(厚生省)、賃金構造基本統計調査(労働省)、学校基
本調査(文部省)、犯罪統計(警察庁)、宗教統計調査(文化庁)などにリンク。
統計情報インデックス
中央省庁や民間機関の統計に関する刊行物(約1100 冊)を検索できる。
最近おもしろそうだと思った統計二つ。
生活保護に関する統計データ集(国立社会保障・人口問題研究所)
2010 年までの産業別・職業別就業者数予測(日本労働研究機構)
1-3 そのほかの資料検索法
国会会議録
総務庁行政情報検索
政府刊行物検索
東京大学総合図書館国際資料室
国連、EU、OECD などの資料を所蔵。
アジア経済研究所の文献検索
アジア諸国の資料を所蔵。
社会学文献データベース
Journals Navigation
各種英文学術雑誌をダウンロード可能(文学部サーバから入る)。
インターネット利用の小技。yahoo!で関心のある論文名を打ち込んで検索すると、著者や同じ関心をもった研究者のホームページにアクセスできる。執筆中の著作を公開しているStephens の例もある。同じ分野の研究者のメールアドレスを知ることもできる。しかし、インターネットも既存社会の延長である。剽窃や匿名の中傷は許されない。 
1-4 ひとつの実例
卒論[上村1995]執筆時に、AFDC(Aid to Families with Dependent Children、アメリカの生活保護制度、1996 年8 月にTANF〔Temporary Assistance for Needy Families〕と改められる)について調べた経験。世帯人数別給付額のデータが知りたい(8つの家族類型を設定し、日本・フランスと各類型の給付額を比較するため)。これを6 年ぶりにもう一度やってみる。
《1994 年》
@社会保障研究所編『アメリカの社会保障』には古くて不完全なデータしか載ってない
A社会保障研究所(当時)の図書室で原資料を探すが見つからない(1994 年11 月16 日)
BAFDC の章を執筆した野呂芳明先生(東京学芸大学)に電話(11 月16 日と17 日)
C藤田貴恵子先生(元参議院社会労働委員会調査室調査員)に手紙を書く(11 月17 日)
D藤田先生のお宅に押しかけ、著書『アメリカの社会福祉政策』をもらうがデータは古い。国会図書館で資料を探すことを勧められる(11 月22 日)
E国会図書館の調査立法考査局・法令議会資料室でマイクロフィッシュを閲覧し、1989 年のデータを複写(11 月25 日と12 月5 日)
F米国厚生省に手紙を書いて最新データを請求(11 月16 日)
G最新の1994 年データが郵送されてきたのは卒論提出後の1995 年2 月27 日、すでに興味は失せていた。
《2000 年》
A yahoo!アメリカで「committee+ways+means」を検索
A米国下院歳入委員会のHP
Bサーチで「Background Material and Data on Programs」を検索
Cさらに「TANF」で絞り込み
D同書第7章「TEMPORARY ASSISTANCE FOR NEEDY FAMILIES(TANF)」のPDFファイルをダウンロード、385 ページに最新データ(2000 年)があることを確認。この間、ものの10 分!・ しかし、人との出会いも捨てがたい。1994 年には、野呂先生と知り合うことができたし、藤田先生の国際政治経済講義や第三次世界大戦の予言も聞くことができた。 
1-5 古本屋めぐりと「つんどく」
神保町でおすすめなのは、篠村書店、明文堂、崇文堂(古洋書)。100 円や200 円で、過去の社会科学の遺産を自分のものにできる。最近の収穫例(ワグナー『財政学』1904、クラーク『経済的進歩の諸条件』1945、尾高邦雄『職業と近代社会』1948、福武直『日本農村の社会的性格』1949、コタン『カトリック社会政策』1950 など)。インターネットの古本屋もある(海外にも)。古本ではないが、洋書を買うときはAmazon やBlackwell's で目次や評判を確かめてから買う。ときどき政府刊行物センター(霞ヶ関、大手町)をのぞくのも一興。「つんどく」は悪くない。家に帰れば本棚の奥に丸山眞男がいるということ。
「指導教官の本は買うものですよ」(1993 年頃、『地域社会計画と住民生活』が図書館に入っていないことに不平を述べた筆者に対して、助手(当時)の丹邊さんの言葉。)
「買うべきです」(つい先日、「本の読み方」よりも、とても読めないほど大量の本を買うべきかどうかを教えてほしいものだと嘆息した筆者に対して、稲上先生の言葉。) 
2 間奏─マニュアル方式か論語方式か 
マニュアル方式(名前も聞いたことがないような著者が書いた無味乾燥な教科書を通して学ぶ)か、論語方式(尊敬する/しない先生や先輩の言葉や後姿を通して学ぶ)か。標準化と非個性化。マニュアル化できる→マニュアルに過ぎない→マニュアルも知らない。マニュアル方式はマスプロ教育には向くが、ありがたみが薄れる。それよりも「人を通して技を学ぶ」ほうがよいのではないか。大学院はほんとうに重点化されたのか。「基礎演習」の意図せざる結果(予言の自己破壊を期待する)。
「第一に、方法は実践のなかにある。それは試行錯誤のなかから発見される。」「第二に、方法は主体的なものであり、個性的なものである。」「第三に、方法は切れ切れのままでも、断片的なままでも役に立つ。」
「なおここでいう『方法論』とは、中立的な技術のくみあわせではなく、重要な問題・資料源・社会や歴史に関する広大な仮説・学問の目的といったものの相互関係を意味する」[スコチポル1984=1995:4]《卵三個を用意してください》から《西部へ進め、若者よ》まで[同:292]。 
3 データ分析 
3-1 ぶあつい記述
高野岩三郎の月島調査[佐藤1996b]。
「住居に二つ以上の煙突をもっている世帯がアイルランドに約16000 しかなく、その他の世帯が180000 をこえている、ということがもし真実ならば、この後者の部類〔…の〕世帯でおこなわれている商売がどのようなものであるかは容易に理解されるであろう。…かれらがブロウグと称するくつは、イングランド製のくつ一足のわずか1/4 の値いしかなく、…(ものの値段の列挙)。…それゆえ、総計6 人で構成されているこのような一世帯の年々の全支出は、各々一人平均約52 シリングにすぎないと思われるのである。それゆえ、これらの建物にいる950000 人の住民は、一年当り2375000 ポンドをついやすであろう。…」[ペ
ティ『アイルランドの政治的解剖』1676→猪口1985:105]
「北新庄地区の歴史は古く、代々この地域に住み続けている人が多い。そのことは、Q2で「生まれてからずっと住み続けている」と答えた人が72%を占めるという事実にもあらわれているが、明治9年に書かれた「差入申公證之事(小作人連署差入書)」(武生市史編纂委員会編『武生市史資料篇諸家文書(二)』1972 年刊、190 頁)に記載の16 姓のうち15姓までが今回の調査対象者に含まれていること、また、調査対象でこの文書に記載されていない姓は13 姓(129 名中22 名)であることからも推察される。しかし、住民のほとんどが農業を主な生業にしていた時代と、農外所得が農業所得を上回る世帯が88%を占める現在とでは、当然ながら地域社会の性格もことなる。旧来の農村共同体は、どのような地域社会に変容したのか。今後、地域社会のどのような性格を、どのような人々が担っていくのか。北新庄地区の将来像について考えてみたい。…」 
3-2 概念とその操作化
「物理学が感覚可能なデータから出発してつくられるのではないのと同じく、社会科学は出来事のレベルにもとづいてつくられるのではないことを、マルクスはルソーについで、決定的と思える形で私に教えてくれた。つまり社会科学の目的は、モデルを組み立て、モデルが示す特性とそのモデルが研究室で示すさまざまな作動の仕方を研究し、ついで、こうした観察の結果を、経験的に起こっている事柄の解釈に適用することである。」[レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』1956→ブルデュー1973=1994:113 に引用]
「おもしろい研究をしたいなら、自分で装置をつくる。買ってきた装置でできるものは、研究じゃない」(電子線ホログラフィーの発明者・外村彰博士の言葉、1994.12.11.朝日夕刊)
「マキシム・シャスタンが『心理学者の詭弁』に対して行なった批判は、質問された当の人物たちの置かれた社会状況と社会的位置によって、質問と回答のもつ意味が実際に異なっているという問題を無視する社会学者にもあてはまる。すなわち『自分の視点と研究対象たる子供たちの視点とを混同している学生は、子供たちの視点を採集しているのだと思い込んでいる研究のなかで、自分の視点をせっせと集めるものである[…]。〈働くことと遊ぶことは同じことですか〉、〈仕事と遊びとの間にはどんな違いがありますか〉と彼が尋ねたとき、彼の問いのなかで提案される実名詞によって、彼自身が問題にしているらしい大人の区別を子供に押しつけているのである…』。」「言語活動の前科学的構成作用─研究者による構成作用であれ、調査対象となる人々による構成作用であれ─から解放されるためには、この二つの構成作用のシステムを方法論的に対決させて適切な科学的構成を導くような弁証法を確立しなければならない。」[ブルデュー1973=1994:93、94]
「定量的な情報処理といえども、その核心は定性的な変数のカテゴリー化にある。その過程でたしかにカオスから『情報』は生産されている。だが、自明性の領域でいったんカテゴリー化された変数は、『情報』になりうるかもしれない貴重なノイズを、すべてあらかじめ定義された変数にコード化することを通して『予言の自己成就』を行うに終わる。この方法は情報を『生産』するよりも『縮減』しているのである。定量調査の多くが、かけたコストの大きさに比して『情報』の生産量が少ないのはそのためである。」[上野1997:58]→それは下手な分析の話(だと思う)。 
3-3 かつて存在した二分法、今は…
「統計資料に代表される量的データは『たしかだが、おもしろくない』分析に終わる。それに対して、手記や自伝や日記、流行歌や文学作品などの質的データは『おもしろいが、たしかさがない』立論になりがちだ。」[見田宗介『現代日本の精神構造』1965→高坂・与謝野1998:208]
「今日では、数学とコンピュータ(処理法)の著しい発達により、データと方法との間にはじつに多様な結びつきが展開している。日記や会話をコンピュータの力を借りて量的に処理することも可能であるし、数学の力を借りて質的に処理することも可能である。」「量的方法か質的方法かを単純なかたちで問うことは、かえって無用の混乱と誤解を生みかねないだけでなく、分類そのものが今日ではほとんど風化してしまっているように思われる。」[高坂・与謝野1998:208、209]
「わたしは定量的な情報を否定しているわけではない。定量的な手法で、わかることとわからないこととがある。定量的な情報を扱う研究者は、自分が『定量化できる情報』だけを扱っていること、その外側にその方法では扱えない広大な『経験』の領域があることについて、自覚的であるべきだろう。」[上野1997:58]→逆も真なり(だと思う)。
インタヴュー調査については、その道の達人に聞くべし[小池2000、佐藤1992]。 
3-4 分析の例
「…カトリック信徒の両親が通常その子供にあたえる高等教育の種類はプロテスタントの両親の場合とはっきり異なっている。〔…もっとも、親の収入という要因も考慮すべきである…〕。しかし、カトリック信徒の大学志望資格者の内部でも、近代的な技術の学習とか商工業を職業とするための準備とか、総じて市民的営利生活向きの学校、たとえば実業高等学校、実業学校、高等小学校等の課程を終了するものの比率はプロテスタントのばあいに比べてはるかに小さいし、また他面、彼らが、教養課程中心の高等学校でほどこされる教育をとくに好むという事実もある。─これは、さきに述べたようなやり方〔親の収入仮説〕では説明できない。むしろ、カトリック信徒の資本主義的営利にたずさわることが少ないという事実は、逆にこうしたことから説明されねばならないだろう。」「註(1)1895 年にはバーデンの総人口のうち、プロテスタントが37.0%、カトリック信徒が61.3%、ユダヤ人が1.5%だった。ところが、1885-91 年に小学校より上の、義務教育に属しない学校の生徒たちの信仰種別は右のとおりだった。」[ヴェーバー1920=1991:21、22]→論理的には多変量解析したのと同じ。この経験的一般化命題を理解社会学的に説明したのが『プロ倫』ということ(だと思う)。
ドーア・アルバイトから──@部長の年齢(「賃金構造基本統計調査」)A役員の出身学部(「有価証券報告書」)。
失業率と福祉国家支持率[上村2000]。 
3-5 二次分析について
SSJデータ・アーカイブ International Social Survey Program(ISSP) 日本版General Social Surveys(JGSS)
二次分析の意義──@コスト削減とデータの有効活用、A反証可能性の確保、B多くの研究者が同じデータを分析することで分析精度が上がる、C新たな調査を企画する前に参照することで課題を明確にできる。
だが、注意しなければならない。「一見したところどんなに中立的に見えようと、別の問題設定との関連で集められた資料をひとたび二次的な分析にかけてみるなら、どんなに豊かなデータでも、当初は一つの問いに答えるために、その問いによって作られた以上、その問い以外の問いに対して完全かつ適切に答えることなど決してできないということを、じゅうぶん思い知らされることになろう。二次資料を使うのが原則的に妥当か否かを問題にしているのではない。重要なのは、解釈のやり直し作業に、どんな認識論的条件が必要かを思い起こさせることにある。…こうした再解釈の仕事は、デュルケームが『自殺論』ですでに手本を示したものであり、認識論的警戒のまたとないトレーニングになるだろう。」
「以上の認識論的前提を無視するなら、同じものを別々に取り扱ったり、異なったものを同一に扱ったり、比較できないものを比較したり、比較できるものを比較し損なったり、そういう目に遭うことになる。なぜなら、社会学においては最も客観的な『データ』さえ、解読格子(年齢別とか収入別とか)の適用によって得られるのであり、この解読格子は理論的前提を持込み、それによって、もっと異なった仕方で事実を構成したなら把握できたかもしれない情報を逃がしたままにしているからである。」[ブルデュー1973=1994:81、82] 
3-6 社会学と統計学
「…社会学でも「『ハウ・ツー』ユーザーをなくそう」という運動はある。その意義は十分認める…が、それは同時に「統計オタク」的研究スタイルをも生みだした。あえて戯画的にいえば…統計手法はくわしく勉強しているし、新しい手法を導入するのにも熱心だし、他人の使い方に対する批判も的確なのだが、当人のやっている計量分析はまったく面白くない、その中身はそれこそ統計パッケージの出力結果を正確に言語化しただけ、というタイプである。」「「統計の意味がわかる」といった場合の『意味』には、二つの意味があるのである。a)統計学の論理内在的な「意味」(いわば統計学的論理の一貫性)、b)応用される各学問領域というフィールド上での「意味」(いわば有用性)。」「統計学の実践的な意味がわかるためには、a)とb)という二つの意味だけでなく、その二つの意味=コンテキストのあたえ方の関係まで考えていかなければならない。」[佐藤1999:183、184]
「社会調査の計量分析では、解析結果をつみ重ねていくにつれて変数の意味がかわっていく。単純化すれば、 統計解析にかけたら意外な結果がでてくる →当初想定したのとはちがった解釈をせまられる →変数の意味を変更することで解析結果がより納得的に説明できる →検証のためにさらに統計解析をする →統計解析にかけたら意外な結果がでてくる →…… というプロセスが一般的に起きる。」「見えてくるものはあらかじめわかっているわけではない。だから、このプロセスを収束させるためには、変数の意味の事後確定性に対して開かれているという柔軟さが重要になる。最初に意味を確定して閉じてしまわない、複数の意味がありうるという不確実性にたえつづける──そういう心性を必要とする。」[佐藤1999:210]
「要約すれば、たとえ何かを定義し、測定することができるとしても、……われわれはいくつかの障害につきあたってしまう。まして、安全とか不安、愛着とか疎外、幸福とか絶望の意味を理解しようとしたり、それらをある特定の政策の中で跡づけようとする場合には、一層の困難が予想される。従って、福祉国家の主要な影響を評価するには多彩な才能が要求されるのである。」[ウィレンスキー1975=1984:189] 
文献
安藏伸治、2000、「公開データによる社会分析の手引き」佐藤ほか編『社会調査の公開データ』
石村貞夫、1998、『SPSS による多変量データ解析の手順』東京図書
猪口孝、1985、『社会科学入門─知的武装のすすめ』中公新書
ウィレンスキー(下平好博訳)、1975=1984、『福祉国家と平等─公共支出の構造的・イデオロギー的起源』木鐸社
上野千鶴子、1997、「〈わたし〉のメタ社会学」上野ほか編『現代社会の社会学』岩波書店
ヴェーバー(大塚久雄訳)、1920=1991、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
大村平、1985、『多変量解析のはなし─複雑さから本質を探る』日科技連
上村泰裕、1995、「家族の変容と社会政策」(卒業論文)
上村泰裕、1997、「住民の社会的位置と地域社会の将来イメージ」東京大学文学部社会学研究室編『平場農村の農業と地域生活─武生市北町の実態調査(1995 年度調査実習報告書)』
上村泰裕、2000、「福祉国家は今なお支持されているか─ISSP1996 年調査による分析」佐藤ほか編『社
会調査の公開データ』
小池和男、2000、『聞きとりの作法』東洋経済新報社
高坂健次・与謝野有紀、1998、「社会学における方法」高坂健次・厚東洋輔編『講座社会学1理論と方法』東京大学出版会
小浜裕久・木村福成、1996、『経済論文の作法─勉強の仕方・レポートの書き方』日本評論社(とくに第4章「実証分析とデータ・情報の集め方」。他の章も愉快)
古谷野亘、1988、『数学が苦手な人のための多変量解析ガイド─調査データのまとめかた』川島書店
佐藤郁哉、1992、『フィールドワーク─書を持って街へ出よう』新曜社
佐藤健二、1996a、「都市社会解読の方法とは何か」佐藤編『都市の解読力』勁草書房
佐藤健二、1996b、「方法を読む─社会調査の水脈をたどりながら」佐藤編『都市の解読力』勁草書房
佐藤俊樹、1999、「統計の実践的意味を考える─計量分析のエスノメソッド」佐伯胖・松原望編『実践としての統計学』東京大学出版会
佐藤博樹・石田浩・池田謙一編、2000、『社会調査の公開データ─2次分析への招待』東京大学出版会(12 月15 日刊行予定)
社会保障研究所編、1989、『アメリカの社会保障』東京大学出版会
末廣昭、2000、『キャッチアップ型工業化論─アジア経済の軌跡と展望』名古屋大学出版会(付録「統計の探し方・読み方・作り方」)
スコチポル編著(小田中直樹訳)、1984=1995、『歴史社会学の構想と戦略』木鐸社
谷岡一郎、2000、『「社会調査」のウソ─リサーチ・リテラシーのすすめ』文春新書
徳永康元、1989、「ハンガリー研究五十年(インタヴュー)」『ブダペスト回想』恒文社
藤田貴恵子、1988、『アメリカの社会福祉政策』横浜市企画財政局都市科学研究室
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文明と芸術 / アヴァンギャルド芸術の場合

 

20 世紀初頭に誕生し、20 世紀に隆盛をきわめたアヴァンギャルド芸術といわれるものは、いずれも文明を素材にし、文明を通して問題を見い出す芸術運動であったように思われる。それが、イタリアとロシアの未来派にせよ、ダダ、シュルレアリスムであるにせよ、ヨーロッパ文明圏内のことではあったが、それらの「国際的」性格を説明するものであろう。「世界の輝きは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言する。」と唱ったマリネッティの未来派創立宣言は、都市文明と機械文明を礼賛した。彼らの礼賛の動機にあったのは、それまでのヨーロッパ文化を批判することであったが、それでも彼らは、文化より文明の角度から、世界を見ようとした。文化と文明は、同根のイデオロギーから発祥した、きわめて近代的な概念であるが、文明は、内容より形式を問題にし、歴史より、今、生きている生活を問題にする。
そのことは、イタリア未来派より後に現われたダダも同じ性格を持っていた。未来派とダダはまるで異なる顔をもつものであるが、類似した姿勢を示した。ダダの主張も、内容より形式にあった。彼らが主張した思想の内容は、「すべては無意味である」ということだけであって、むしろ大きな主張は、その思想をあらわす形式にあった。ヒュルゼンベックの「音響詩」であるにせよ、シュビッタースの「メルツ」に代表されるコラージュにせよ、アルプの版画にせよ、それは、新しい形の芸術を主張するものであった。
このような文明の芸術は、常に「今」生きている生活を問題にし、「今」を覆っているものを暴き、明らかにしようとする。
まずそのことを、ニューヨーク・ダダの最初の宣言にマルセル・デュシャンと共に加わった、マン・レイの作品を切っ掛けに見ていこう。 
1917 年の彼の作品に、名高い『ニューヨーク17』がある。名高いというのは、現在出版されているいずれのアヴァンギャルド関係書にも、かならず紹介される作品という意味である。
これは、アサンブラージュ形式のオブジェ作品である。縦長の板切れを二枚ずつ張合せ、長さの異なる五組を長いものから順番に重ねて、三十度ばかり傾斜させ、不安定に宙に浮かせたものを、大工道具の万力で下部を締め、台上に固定したものである。(図版1)1917 年という時間軸とニューヨークという空間軸のなかにこの作品を置くとき、この木端のかたまりは、−事実、展覧会場にはじめて運びこまれた時、危うくゴミとして処理されかけたということだが、−このゴミの集積(アサンブラージュ)は、芸術として確かな位置を占めている。
20 世紀初頭のニューヨーカーは、このオブジェから喚起されるイメージを、まず高層ビルに重ね合わせたことであろう。そして、もしそうであるなら、その高層ビルが、われわれの生活環境となっている今、この作品は、なおイメージの言葉を語り続けていることになる。
鋼鉄とガラスとセメントは、19 世紀半ばごろから西欧の建築を飛躍させた。それはルネッサンス以来示されていたひとつの文明の方向、殊に住居に現われる生活環境において、進展が行われたということである。
この文明の方向は、19 世紀の万国博覧会に示された展示をみれば、その性格がはっきりとする。1851 年の第1回博覧会は、ガラスと鉄の水晶宮で注目をあつめた。1853 年のニューヨーク博では、「バベルの塔を除けば、たぶん世界最初の高層建築と呼べるかもしれない」と喧伝された、高さ約105 メートルのラッテイング展望台が建築された。そして1889 年には、296 メートルの鉄骨製エッフェル塔が、115 × 420 × 45 メートルの丸天井を持つ機械館と並んで出現した。人間の活動・居住空間としての高層ビルに必要なものは、その高さと規模だけではない。
それらも「万博の展示品」のなかに跡づけることができる。すなわち、先の1853 年のニューヨーク博でデモストレーションがおこなわれた安全装置付エレベータであり、1867 年のパリ博で示され、開催ごとに精度を高めた電信・電話器であり、電灯照明であった。照明については、1889 年のパリ博では100 万燭光の電気照明であったのが、4年後の93 年には、1、140 万燭光をシカゴ博は提供することができた。
高層ビルの居住空間を創造するには、さらにエアー・コンディショニング装置とプレハブ方式による事実上の無窓建築が発明されねばならなかった。それらの展示は1933 年のシカゴ博で実現した。
その間、19 世紀後半では、展示のための仮の屋舎としてではなく、活動・居住空間としてのビル建築も発展した。1885 年、シカゴのミシガン湖畔に11 階建てのホーム・インシュアランス・ビルが建設された。これが、摩天楼(sky-scraper)と呼ばれるものの最初の建築である。以後、年毎に、1887 年の16 階建てのタコマビルを始めとして、シカゴ、セントルイス、ニューヨークといったアメリカ合衆国の諸都市に長大なビルが建ちつづけることになる。それら摩天楼は、19 世紀末から20 世紀にかけて、イギリス・ヨーロッパ人とさらには世界の人々にとって合衆国の象徴となった。そしてこの建築は合衆国にとどまるものではない。パリにおけるボン・マルシェやサマルテエヌの建築物、さらには、マドリッド、リオでも、数において合衆国に劣るとはいえ、建築がつづけられた。日本でも、1916 年にライトによって帝国ホテルが建設されている。
昼夜のサイクルから照明により逃れ、エアーコンディショニングにより寒暑から守られ、異質の世界を排除し、安全に隔離された都市ブロックとしてのビルは、理想的活動空間であり居住空間であるように見えた。大方の人々は、摩天楼に人間世界の楽園を重ね合せたのである。
マン・レイは、こうした摩天楼の建設が、1930、31 年のクライスラービル、エンパイアーステートビルの建築に向かう途上にあって、『ニューヨーク17』を制作した。彼の投じたオブジェは、傾斜して宙に浮かび、同じく傾いた万力がかろうじてこれを受けとめている。このオブジェを見る者は、そこに危うさを見るであろう。屹立し天にとどく、凛々しいビルを心象に映じさせるのではない。そのことは、1925 年頃制作の類似したオブジェであるジョン・ストーズの「ニューヨーク」(53.4 × 10 × 3.8cm)と比較してみれば明らかである。ストーズでは、磨きあげたブロンズと鋼鉄でつくられた針のように細い53.4 センチの3本の柱の前面に、これより6分の1短い4本の柱を並べたものである。高い柱は短い柱で守護され、ひたすらに天空にむかって伸びている。
当時から20 世紀の半ばにいたるまで、多くの芸術家が摩天楼について語ってきた。夕陽をあび、ピンクや白に発光するビルの群れを19 世紀末の美意識によってとらえるものであったり、あるいはサルトルのように、屈曲した土地に築かれた都市のもつ丘や岩山と同じような、単なる無機物のかたまりであると摩天楼を見なし、殊更に見るべきものはないと、言ってみたりした1)。
マン・レイはそこに危うさを見た。その危うさは、そこに住む者の危うさであろうか。それとも見る者の危うさであろうか。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンなら、行為が全うできぬ性的不能の兆しをおもうかもしれない。都市生活に充満している木端、ガラクタの寄せ集め(アサンブラージュ)ならばこそ、浮かび上がらせることの出来るイメージであろう。油彩画で類似したイメージを生み出すことを想像してみよう。宝石、金、ミンクの輝きを定着するために考案された顔料を用いカンバスに描く技法によって、傾くビルを描いたとする。ルネッサンスの理想が生み出した技法では、倒壊するビルを惜しむ感情であるにせよ、それに喝采するおもいであるにせよ、あまりに直截で厳定された心象のみを見る人に生じさせるであろう。
たとえば、見る者に、共感か反感かの両極端の結論をすぐにその場で出すように迫ってくる。
マン・レイのオブジェが結ぶイメージは、直截的でもなく厳定を求めるものでもない。鮮烈であるとともに自由な感情を見る人に生じさせる。つまり、ひとたびこのオブジェから発した心象を持った者は、このイメージを強制によるのではなく持ちつづけることになろう。そしてそのイメージは、都市生活の日々、現代生活の日々ということでもあるが、高層ビルを目にするとき、あるいは、高層ビルのなかにあるとき、ふと自分の位置を感じさせるようなものであろう。
このことをもう少しはっきりさせるために、これに連動する別の作品を掲げておこう。アヴァンギャルドの芸術作品は、言わばアンテルテクストとして置いてみる時、さらに言えば、連動し、連動する一群の作品のなかにあるとき、存在を強めるものである。彼らの作品は、比較において他を排除し、孤高の位置を占有するものではない。互いに他の作品を組み込み、作品の幅をひろげ、境界をなくし、作品の外に出る。誇張していえば、現代生活全体に向かって拡散し、拡大しようとするものである。コラージュ(張合せ)とか、レディー・メイドやフロタージュの技法はそのために考案されたものと言うことも出来る。
ただ、ここに並べる作品はそのような展望を示すために出すのではない。マン・レイのオブジェと連動させ、共振させることによって、マン・レイの作品の存在する理由を示すためである。
それは、1964 〜 66 年のヤヴァシェフ・クリストの「ローワー・マンハッタンの梱包されたビル、ブロードウェイ2番地のビルおよびエクスチェンジ・プレイス20 番地のためのプロジェクト」で、フォトモンタージュとドローイングによる作品である。(図版2)
苦い笑いをみちびく、不動産屋の広告にも使えそうなこのオブジェは、パッケージされた2棟の高層ビルをふくむものである。そして、これは、『ニューヨーク17』と連動するとき、現代都市としての都市ブロックの硬直化を震憾させるものとなる。確かなものとして存在しているビルが、隠せるもの、運べるものとなり、確かでないものとなる。そして、そのビルを信頼し、その中に安住を希求していた自分の分身も、ひよっとしたらパッケージされ、閉じ込められているのではないかという不安が頭をもたげる。それまで楽園として求めていた地が、実は隔離されていた危うい物であるにすぎないのではないかというひとつの現実を、このオブジェは見る者につき付ける。60 年代の不況下にあったニューヨーカーたちはこのオブジェを目撃したとき、否応なくデペイズマンされ、心の隙間が押し広げられたかもしれない。それが、苦い笑いである。
高層ビルに結実していく、現代生活空間のもつ、人間行動を縛るものとしての閉塞と硬直の不安は、現代文明への不安として、ルネッサンス以来の現代文明といわれるものが、その頂点に向かう19 世紀半ば頃から、多くの文学者が衝撃的に指摘してきた。衝撃的とは、どのように受け入れられたかということとは別に、評判となり、今なお読者を持ちつづけているということである。 
現代文明のもつ閉鎖空間の関心と創造、そこに楽園を築くものとしては、19 世紀のJ.K.ユイスマンスの『さかしま』(1884 年)が直接的関心を示すものとして先ず掲げられるであろう。
主人公デ・ゼッサントは、歴代つたえられた財を蕩尽して、「理想の生活空間」をつくりだした。分厚いカーテンで外光を遮断した住居では、夜昼のかかわりない別次元の時間が経過する。
食糧は必要最小限だが、美味であり、最先端の栄養学を駆使したもので賄う。
その昼夜のサイクルから逃れた、照明を下げた、オレンジと青の壁紙が張りめぐらされた、「船室(キャビン)」に似せた居室の一方の壁面は、硬質ガラスをはめた水槽が埋めこまれ、そこには精巧な機械仕掛けの魚が泳ぎ、模造の海草がゆらめく。水族館は、当時の最先端の技術成果であった。1867 年、78 年のパリ万国博覧会では、地中のグロッタ様式のうす暗い展示室に設置された水族館が、人気を集めた文明の精華であった。
ガラスと鋼鉄は、人間の理想を実現する強力な手段であるかのように見えた。その理想の実現のひとつの形は、『さかしま』に先だって出版されたJ.ヴェルヌの『海底2万里』(1870 年)に現われている。ネモ船長の鉄と硬質ガラスでつくられた潜水艦は、海中という地上世界を遮断した閉鎖空間に、考えられる限りの快適な自分だけの居住地・活動空間を設営しようとする想像力の産物である。
しかし、デ・ゼッサントとネモ船長の創造した快適な人工空間は、彼らを結果的に閉塞させ、身体的あるいは社会的健康を損わせるものとなり、彼らを破滅させた。
壁面ガラスや窓ガラスの実用化と生活への浸透は、1851 年の水晶宮のあたりから、つまり19 世紀の中頃から以降であった。
ガラスのもつ希望の輝きとその欺瞞的側面を、彼らより早い時期に、いち早く嗅ぎとったのは、C.ボードレールであった。彼の散文詩『不埒はガラス屋』(Le mauvais Vitrier) は1862年に発表された。これについては、その後、いろいろな人が論じてきたし、ブルトンは、『黒いユムール選集』のなかに、ボードレールではこの一篇を採用している。
この散文詩は次のようなものである。
ビルのおそらくは最上階に近い、7階に住む「私」は、ある朝、うっとうしく、気がふさぎ、無為に倦んで、窓から真下を見下ろす。通りをやってくるのを見つけたのは、板ガラスを背負ったガラス屋である。「私」は彼を部屋まで呼びあげる。彼は狭い階段を板ガラスをぶつけながら登ってくる。そうさせておいて、そのガラスを子細に点検した「私」は言う。
−なんともまあ。色のガラスを持っていないのですか。ピンク、赤、青のガラス、魔法の窓ガラス、楽園の窓ガラスを持っていないとは。なんという臆面もない、ずうずうしい人か。
貧しい街をこうやって歩きながら、生活を美しく見せるガラスさえ持っていないとは2)。
彼をこうして追い返した「私」は、7階の窓から、通りにでた彼の背中に向けて植木鉢を落下させる。命中した爆弾は、ガラス屋を転倒させ、背中のガラス板は「落雷が粉砕した水晶宮のような轟音」をたてて砕け散った。
この『パリの憂鬱』におさめられた散文詩は、アルセーヌ・ウーセの散文詩『ガラス屋の歌謡(シャンソン)』のもつロマン派的人道主義への批判であるとか、「悪しきもの危険なものであるが故に為さずにはいられぬ所以をなす人間の心情の原初的な衝動」を示すものであるとかの、いろいろな解説が加えられている3)。
だがこの散文詩を19 世紀中葉の文明のコンテクストのなかにはめ込んで見ると次のようにも読めよう。色ガラスは文明である。その文明を汗水ながして築きあげているのがブルジョワであって、文明とブルジョワは同体となる。その文明は、楽園と楽園を生み出す魔法を約束しながら、それを見せる窓ガラスさえつくり出していない。それなのに「臆面もなく、ずうずうしく」文明を喧伝し、自分でも気づくことなく苦労して文明を売り歩くのは、どうしたことかということである。
だがこの散文詩の基調は、それにとどまるものではない。「私」の苦い笑いが全体を染め上げ、その苦笑が、読む者の心に共鳴をひきおこす。
「私」の行為をいま一度たどってみよう。
ある朝、起きたばかりの「私」は、不機嫌で、悲しく、なにもしないことに疲れ、なにか偉大なこと、華々しい行動に駆り立てられるおもいがした; et j’ouvris la fenêtre、 hélas! 4)というわけで、行動すべく窓をあける。セミコロンとさらにつづくet に注目したい。そしてhélas!に注目したい。華々しい行動は先ず居住区域の外にあるものである。ところが、「私」の住んでいるのは、先に述べたように、ビルの最上階に近い7階である。「私」は行動すべく窓を開く。視線はまず上方または水平方向に向く。そこは虚空で、当然そこから出ていくことは出来ないし、なにも出来ない。だから、hélas!となる。
hélas!は、苦悩と悔恨を示す不満の間投詞である。 
「私」の行動の自由は縛られている。ヨーロッパでは古来、囚人は、地下牢か、塔の天辺に幽閉されるものであった。「私」の部屋には、束縛された自由を補完するまやかしの戸口としてガラス窓がある。透明なガラスは、外界への路を保証しているかのように見える。見ることで、すべてを体験し、分かったような気になる、ルネッサンス的遠近法の世界観の下で生きる近代人にとって、ガラスは格好の文明の素材であった。外界を遮断しながら、外界と通じている錯覚をもたらすものである。
「私」は窓を開いたとき、視覚的にのみ立脚している現実ではなく、おそらく聴覚的、触角的、嗅覚的に現実を知覚したであろう。それがhélas!である。
そして、自分の位置を見失った者の混乱が生じる。倫理的なものが加わったランボー的「錯乱」である。錯乱は、道徳、均衡、節度の規範を投げ捨てることである。
テクストでは、この窓を開き、視野を下に向けて通りをやってくるガラス屋に目をとめるまでの間に、パランテーズによる数行が挿入されている。
どうか知っていただきたい。瞞着する精神(l’esprit de mystification)は、ある者にとって、苦慮の末に持つものでなく、偶然の霊感にうたれて持つものであって、それは、欲望の強さからだけにすぎないにせよ、医者の言うところのヒステリー的、医者より少しばかりものを考える者に言わせれば、悪魔的な気質に似ているものであって、多くの危険で不都合な行為へなす術もなく、われわれを追いやっていくものである5)。
ここでは誰を瞞着するのかという問題がある。一般的には、呼びこんだガラス屋ということになろうが、文学的見方をとれば、第一の瞞着の対象は錯乱した「私」であろう6)。
mystification は「錯乱」のように常に多義的である。ガラス屋を欺き笑うことは、自己を欺き笑うことである。というのは、ここでは他の物売りではなく、ガラス屋でなければならないということを考えれば、少しはっきりするかもしれない。自分の部屋が外界に向かって開かれる魔法の窓ガラス、楽園の窓ガラスが、存在しないと承知しながら、それを求めたのは、一方では、生活においてガラスを必要としている「私」である。
そして、「私」が願っている「華々しい行動」、無為を悔やみ、常に渇望している行動は、自分がやったのではなく雷がおこなった水晶宮の破壊の惨めな代償行為、板ガラスを数枚壊すことでしかない。塔の上に幽閉されている者にとって、外界と通じ合う行動とは、せいぜい唾を吐くことか、植木鉢を落下させることでしかない。自由のない自由のなかにいる者は、自分の位置を確認して錯乱する。
だから、散乱したガラス片のなかに座り込むガラス屋に向かって、「自分の狂気に酔い、逆上して」…「すばらしい生活を!すばらしい生活を!(La vie en beau! la vie en beau!)」と喚きちらすのみである。
ボードレールの直接的意図がどうであったにせよ、彼の時代ではその萌芽期にあった、高層ビル文明そのものの中にあるわれわれにとって、『不埒なガラス屋』は、高層ビル文明の予兆とも批判とも読みとれるものである。
そして、ものさえ投げ落とせない摩天楼に住む現代人はどうすればよいのか。さらには、頑なに外界を拒絶する摩天楼から排除される者はどうすればよいのか。今われわれがいる高層ビル文明の最先端では次のような実験がおこなわれている。
1990 年代のアメリカのアリゾナ州に、Biosphere 2(生態圏2)(注.生態圏1の地球にたいして、2と名付けられた。)と名付けられた1万3000gの広さのガラスとスチール製のドームが出現した。この現代の水晶宮は、7名のバイオスフェリアンが2年間にわたり生活することを目標に建設された密閉居住空間である。人工山あり、湖あり畑ありの「理想の楽園」のモデル実験であった。だがここには、『不埒なガラス屋』の場合とは逆に、外部から投石を受け、それを防ぐために、ドームのさらに外側を高い塀で防衛しなければならなかった。その実験は、バイオスフェリアンの数名が神経障害をおこし、その時は挫折したのであったが。
文明を批判するのは、生活を批判するのと同様の困難な問題をつきつけられることになる。
われわれは、われわれの生活を丸ごと批判し、投げ捨てることは出来ない。それでいて、個別なものを批判しても、それらは他と連携し合っているものであるから、個別なものを否定しても、さほど生活がよくなるとも思えない。
さらに、生活を批判し難いのは、生活が偶然のもので構成され、正体をとらえ難いからである。いろいろな思想家が批判の対象を定めてきたが、それらは、一方では正鵠を得たように思われながらも、必ずしも決定的解決法とならなかったのも、その困難を克服しえなかったからであろう。
それをとらえがたいのは、文明とか生活は有機的なもので、変形し自己修正するからである。
このようなもの、つまり、生活のように、偶発的で変化するものの組み合わせと累積で成り立っているものを批判すること、この場合は制御すると言ったほうが適切かもしれないが、生活の不都合を制御することは、19 世紀あたりから、多くの芸術家の関心事であり、また彼らの仕事の多くはその上に組み立てられていた。それは別の言い方をすれば、諧謔(humour) といわれるもののジャンルである。1896 年に書かれたアルフレッド・ジャリの『ユビュ親父』は、近代(当時の)ヨーロッパ人のなかにあり、30 年後に現実化するヒットラー的心情、ファシスト的な自我に焦点をあわせた諧謔の戯曲であった。
先のマン・レイの『ニューヨーク17』やクリストのフォトモンタージュもこの範疇と重なりあうものであろう。そしてブルトンが指摘しているように、『不埒なガラス屋』もまたそうである。 
ブルトンは他の著作で次のように書いている。
…他方には、混乱の時代には特に鮮明に現れるものであるが、偶然なものが客観的に被いかぶさってくるとき、その偶然なものを統御(dominer)しようとするやみがたい要求が、芸術家にあることを示すにほかならぬ、諧謔というものがある。すなわち、1870 年の戦争に対応する、ロートレアモンやランボーと共にある初期の象徴主義、1914 年の戦争に対応して、(ルーセルやデュシャン、クラヴァンの)プレ・ダダイスムと(ヴァシェ、ツアラの)ダダイスムがある7)。
脅かされる自己の制御装置としての諧謔である。文明あるいは生活に、諧謔を対抗させることでもある。変化と修正を旨とし、時間軸の上にある文明に対して、諧謔には時間がない。つまり、原因と結果によって組み立てられる論理がない。
『不埒なガラス屋』を書いた「私」ではなく、ボードレールの諧謔と、この一篇を読む読者の快楽は、そのような生活のなかにある自己の制御装置であったとも、見なすことができよう。
このような諧謔は、それがアンテルテクストのなかで組み合わされる時、各々のテクストが表わしているものをこえて、互いに連動し、それらが互いに関係して発生させる「場」のようなものを形成するであろう。マン・レイの『ニューヨーク17』、クリストのフォトモンタージュ、ボードレールの一篇に加えて、もう一例だけあげておこう。
1869 年に出版されたロートレアモンの『マルドロールの歌』のなかに、「手術台のうえのミシンと雨傘の偶然の出会いのように、すばらしい。」という有名な一句がある8)。
この一句を文明のコンテクストのなかで見ると次のようになる。
これが書かれた、19 世紀後半には、ミシンは、現代のコンピュータのように、最新の技術成果で、家庭生活の一部になりはじめていた。1845年にエリアス・ホウが手回しミシンを発明し、1846 年に特許をとり、1862 年のロンドンの万国博覧会に出品され、同じロンドン博では、シンガーミシンの原型となる足踏みミシンが公開されている。
そして1860 年代のアメリカでは、3千人のセールスマンがミシン販売に合衆国全土を駆け巡り、また同時に、ヨーロッパに大量輸出されていた9)。フランス語にmachine à coudre という語が定着するのは、その1860年頃である10)。
手術台にかかわることで言えば、市民生活への外科手術の導入は、麻酔法と消毒法の発明を待たねばならなかった。W.T.Gモートンにより全身麻酔が実施されたのが1846 年であり、J. リスターの消毒法は1867 年に考案されているが、最初の大手術であった早期胃癌の胃切除手術が行われたのは、20 数年後の1881 年であった。
これらを考えると、ミシンにせよ、手術台にせよ、都市生活者にとって、それらは文明のシンボルそのものであった。当時のめざましく変化、修正される生活と文明への関心は、同時代のフロベールの、彼の父は医者であったのだが、医学と解剖への執着、さらには、『ボヴァリー夫人』(1857 年)の有名な農業共進会の場面にも、その諧謔ぶりと合わせて、読みとれるものである。
それなら、手術台のうえでミシンと出会うもう一つのオブジェ、雨傘はどのような光暈に包まれたものであろうか。
19 世紀では、雨傘はブルジョワのシンボルであった。非活動的で用心深く、平凡でお人好しで、安泰な生活を願うブルジョワを描くには、その小脇に、きちんと巻かれた、丈夫で立派な雨傘を持たせれば、十分描き切れた11)。小心翼々と、雨傘の保証のもとで安楽に暮らすブルジョワである。
しかし、同時にまたこの雨傘は、ブルジョワ立憲君主制のシンボルでもあった。当時、雨傘をかかえて外出するルイ=フィリップは、風刺画の格好の揶揄の対象であった。が、一方、それは管理するもの、制御するもの、支配するもののシンボルでもあった。T.ゴーチェは1835年に次のように書いている。
−君たちを管理する(gouverner)するのが、サーベル(軍隊)であろうと灌水器(教会)であろうと雨傘であろうと、なんでもかまわない。−それは、いずれも権力の棍棒となるのだ。
そして驚くべきことに、進歩的な人たち(des hommes de progrès)が、自分たちの肩先をくすぐってくれる、棍棒の選択について議論するまでになっているのだ…12)
歴史の推移と照らし合わせると、そして「進歩的な人々」が選択したのは、雨傘を小脇にかかえた「ブルジョワ」であった。性癖として庇護されるのを好む、用心深いブルジョワが支配者となったのである。
『マルドロールの歌』のこの1節は、ゴーチェがこれを書いてから、約35 年経っている。
しかし、事情はおそらくさほど変わることなく、雨傘は生活に深く浸透していたことであろう。 
こうした最新の文明の産物であるミシンと雨傘と手術台、各々が独立して存在していたら、それなりに生活のなかで輝いて見える、無邪気な希望のオブジェが、一つの場に集められたらどうなるのか。さほど重要ともおもえない、各々別個の機能を期待される3種の物体が合体すると、それらは突如として「神経組織と粘膜をそなえた肉体器官」となり、また、「生理的機能をつかさどる霊的存在」となる13)。
この一句を前後の文脈のなかにもどして見直して見よう。『マルドロールの歌』第6の歌、第3節に現われるこの句は、夜8時の夕闇のなかのパリの街角で遭遇した、イギリス人の青年メルヴァンを形容する一節のなかにある。
(・・・)ぼくは、額の骨相学的皺に年齢を読み取ることができる。彼は16 才と4ヵ月だ。彼は、猛禽類の爪の、包みこみ締め付ける伸縮自在のように、あるいはまた、柔らかな後頸部の傷口に見える、筋肉の不確かなうごめきのように、さらにはむしろ、藁の下に隠されて機能する、永久運動をするネズミ捕獲器、ケモノを捕らえては仕掛け直され、ただ一個で、際限もなく齧歯類を捕獲する、ネズミ取りのように、そして何よりも、手術台のうえのミシンと雨傘の偶然の出会いのように、すばらしい。(・・・)14)
生活のなかにある単なる物は、有機的なものとなり、生命をもつものとなり、「美青年」の肉体と精神を成り立たせるものとなる。そしてマルドロールはそこに危うさを見るのだ。そのイギリス人の美青年が「…未来を確信しているようなふりをするのは、はなはだしい傲慢さというものだ。…むしろ、これまでの不安もなく、いうなれば幸福だと感じられたその可能性こそ、異常なことだと、どうして思わないのだ。」と、マルドロールは問いかける15)。
これはメルヴァンその人を指し、その人について語っているのは明らかだ。
しかし、マルドロールでなく、ロートレアモンこと、イジドールデュカス自身が、潜在意識によるものであるにせよ、そのようなメルヴァンを形容するために、雨傘とミシンと手術台を選んだことは、ヨーロッパの文明のなかに在ったからである。
緩やかに掴むものであるが、伸縮自在の強靭さを発揮して獲物を捕える猛禽類の爪であるブルジョワと、人間を切り開き、蠕動する内臓を露呈させる手術台と、そして、疲れも知らずひたすら縫合を繰り返すミシンの有機的アマルガムであると、メルヴァンを見たとも言える。この場合のメルヴァンとは、文明の一部であり、自分をも含めた、その時その場所で生きている人々でもあり、また、その人々の生活そのものでもある。現代生活の傲慢さと危うさ、それが安泰で、すばらしいものと見えるのも、滑稽なブルジョワがあり、管理者としてのブルジョワがあり、飽きることなく活動するミシンがあり、実は人を切り開く医学があるにすぎないからではないのか、ということになる。
しかしここでは、それらが偶然出会ったように、「すばらしい(beau)」のである。
ボードレールは「すばらしい生活を!」と叫んだ。それは諧謔であった。ロートレアモンは、ミシンと雨傘と手術台が瞬時に融合した心象に、当時の生活を見た。あるいは、生活を一瞬のうちに分解したら、ミシンと雨傘と手術台になっていたと言えるかもしれない。そして、それが「すばらしい」のである。それも諧謔である。
さらにまた、注8で引用したブルトンの視点から眺めてみるなら、つまり、この有機的アマルガムに、ロートレアモンの時代をも含む現代生活における性的象徴の鍵を参照したいと望むなら、次のような見方も指摘できるだろう。
この『マルドロールの歌』より半世紀ばかり後、1915 年に制作を開始されたマルセル・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」と題されたオブジェ、所謂『大ガラス』がある。これは、1923 年まで制作をつづけられたが、ついに未完成におわり、それでもなお現代芸術の代表的作品として確かな位置を占め、その原寸大レプリカは日本にもある。
これは、2組の板ガラスのパネルの間に、油彩、ワニス、鉛の板、鉛線、埃を密封し、スチールと木製の枠で固定した272.5 × 175.8cmの規模のものである。上段のパネルにある3つの通気口の開いた鉛板の「花嫁」と、下段パネルのチョコレート磨砕器と複数のローラが代表する「独身者たち」の間は、サスペンション・リングや操作桿で連結されている。概略的に言うなら、そこには「花嫁」と「独身者たち」の律動的関係が、機械仕掛けとなって示されている。
「人は彼自身のイメージによって機械をつくりあげる。」と言ったポール・ハビランドに倣って言うなら、今や「人は機械のイメージによって彼自身をつくりあげる。」のである。ピストン型の機械の油彩画を『愛のパレード』(1917 年)と名付けたのはフランシス・ピカビアであった。
これらはいずれも、ことさらに付けられたラベルの示すように、性を象徴するものである。象徴とは、知覚できるものが、その形体または性質によって、目に見えないものとの関連性を注目させることである。これらの場合、機械スタイルのイメージが性的イメージを喚起する。
そして、喚起された性的イメージがふたたび機械スタイルに返ってくる。その往復する照応によって、性がついに目に見えるものとなる。目に見えた現代の性が『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』であり、『愛のパレード』である。
それが、ガラスに密封された現代の性であることを示すには、そこで喚起されたイメージが、19 世紀初頭のロマン主義的な沸き立つような輝かしい愛と結び付くものでは決してないことを、指摘しておけば十分であろう。 
ピカビアは、常にすがすがしい人であるように見えたマリー・ローランサンの肖像を描くにあたって、換気装置を描写した。それを『マリー・ローランサンの肖像』と題した。
日常生活のなかにある一つ一つのオブジェは、それぞれが、また、ひとつが同時に、さまざまな照応の火花をはしらせる。したがってそこには、その時、その場の、社会観と人間関係観がこめられるものである。
ミシンと雨傘と手術台の合体した詩的イメージは、こうした種類の社会観念と人間観に結びつくものであろう。そこには、分析と批判と、それでもなおそこにある者の、苦い笑いがある。
ここにおける苦い笑いは、自己の制御機構としてのみ働く笑いではない。今まで見えなかったものを見てしまったということでもある。デュシャンの『大ガラス』は、壁面に立てかけて見るものではなく、仕切りのように室内に斜めに置くものである。すると、その『大ガラス』を透かして、見えてくるものがある。性をふくめて、それまで見えなかった生活の不確かさが見えてくる。
それまで現代人に見えなかったものを、衝撃的に見えるようにすること、それはアヴァンギャルド芸術の系譜にあるすべての芸術家の野心であった。アポリネールはそれを驚きの美学と名付けた。時代的に近い例を掲げるなら、先にあげたクリストは、カルフォルニア州のソマリア郡とマリン郡の間の全長24.5 マイルに高さ18 フィートの白色ランニング・フェンスを2週間設置し、また、1991 年には、太平洋をはさんだカルフォルニアの砂漠と日本の茨城県の田圃に、総計3、100 本の大傘を立て、それを同期間、同時に開くプロジェクトを実施した。カルフォルニア側は黄色の1、760本、茨城県側は青色の1、340本である。
荒地を区切る白いフェンスは、肉眼では見えない郡境、あるいは州境を見えるものにすることである。フェンスが人工でつくれるものなら、郡境、州境も人工のものである。とするなら、国境もまた人工でつくったものであることを、このプロジェクトは暴き出す。
さらに、アンブレラ・プロジェクトの場合は、同時に二つの群れを目撃できなくとも、観念の中で同時に開く、黄色と青の大傘は、同じように、われわれが太平洋をはさんだ観念の共同体にあることを目に見えるものにする。しかもそれは、ロートレアモンの雨傘のように、開閉する傘である。「核の傘」もその観念の共同体のなかにあることを、見えるものとして、心象に浮かびあがらせるかもしれない。この傘の群れのプロジェクトは、3週間の開設予定が組まれていたのだが、カルフォルニアで、突風のため何本かの傘が吹き飛ばされて、死者と負傷者を出した。この報告を日本で受けたクリストは、「故人への追悼の意を表わすため」、19 日間で中止を決定した16)。そして、その偶発的中止も、クリストによれば、このプロジェクトの一部を形成するものであった。シュルレアリストならそれを、客観的偶然のひとつの現われであると言うかもしれない。クリストは、1979 年から、アラブ首長連邦に、39 万500 個のドラム缶を高さ150メートルに積み上げる『アブダビのマスタバ』のプロジェクトを進行させている。
われわれは、偶然の累積されたもののなかで生きている。そしてその偶然の累積を、どのようにとらえ、どのように受け入れるかが、現在と将来の生活を定めるであろう。それは文明をどのようにとらえるかということでもある。
20 世紀のアヴァンギャルドの芸術家たちはすべて、生活と文明は間違っているという確信のもとに活動した。彼らの活動が、20 世紀では、両大戦間、およびその後という時期に集中したのも、そのことを示すものであろう。
ブルトンは、第2次世界戦争直前の1938 年に、メキシコでトロツキーとの共同による『独立革命芸術のために』の宣言を執筆した。彼らは記している。
人間の文明は、今日ほど危機的状況によって脅かされたことはなかったと、誇張ではなく断言することができる。(…)一切の現代的な技術によって武装した反動勢力の脅威のもとで揺らいでいるのは、その歴史的命運の単位としての、世界文明である。われわれには単に戦争が近づきつつあるだけではない。今すでに、平和のときにも、科学と芸術の状況は、このうえなく耐え難いものとなった17)。
文明のなかで、彼らは科学と芸術を同じ効力をもつものとした。そして、その「耐え難いものとなっている」科学と芸術の状況は、その後も変貌しつづけ、存在している。
さらに、アヴァンギャルドの芸術家たちは、彼らの主観的活動としての芸術が、客観的事象ともいえる文明の形成と修正に固く結びついていると信じた。
『独立革命芸術のために』は、先の引用の後段で記している。
哲学的、社会学的、科学的、さらには芸術的発見は、その形成過程において、個人的なものを保持しているということにおいて、また、客観的な豊穰をもたらすある事実を引き出すために、主観的性質を活動させるということにおいて、貴重な「偶然」の果実、すなわち、「必然」のかなり自然発生的な表明のようにみえる。
彼らの言に従うなら、『ニューヨーク17』もクリストの「フォトモンタージュ」も、また、遡っては、『不埒なガラス屋』もロートレアモンの一句も、すべて、文明的に「貴重な『偶然』の果実、すなわち、『必然』のかなり自然発生的な表明」であるように、これもまた思えるのである。 

1)『シチュアシォン3』
2)OEuvres complètes [Pléiade] p.240
3)阿部良雄 解題。『ボードレール全集』第4巻[筑摩書房]p.457
6)阿部は、それを書くことで読者を瞞着して楽しむとしている。上掲書、解題
7)『詩の貧困』OEuvres complètes 2 [Pléiade] p.19
8)une table de dissection は、一般に「解剖台」と訳されるが、その台の上で処置されるのは、かならずしも死体に限らず、生体検査もまた行われる。(Littré Dict.) ブルトンは、この一句を説明するに際して、「…この一句が、読者の心のなかでもちうる法外な迫力のことを考えるなら、そして、また諸々のこの上なく単純な性的象徴の鍵を参照したいと望まれるなら、次のことに同意していただくのに長くはかからないだろう。つまり、この場合まさしく雨傘は男性を、ミシンは女性をあらわしており、(…)手術台(la table de dissection)は生と死の共通の場である寝台をまさにあらわしている、というところにこの一句の迫力が由来するのだ。直接的な性行為と、ロートレアモンの手になる極度に拡散的な羅列との間の対照だけが、この場合激しい感動を惹き起こしている。」(『通底器』足立和浩訳[現代思潮社]pp.64-65)と記している。解剖にせよ手術にせよ、生きている者のためになすものであるから、敢えて「手術台」と訳す。
9)吉田光邦『改訂版万国博覧会』[NHKブックス]p. 80
10)Le Grand Robert、 Dict.
11)P. Larousse、 Dict.
12)『マドモワゼル・ド・モーパン』序文Théophile Gautier OEuvres [Robert Laffont、 S. A.] p.195
13)『マルドロールの歌』第6の歌、第1節。OEuvres complètes [Pléiade] p.217
14)OEuvres complètes [Pléiade] pp.224-225
16)柳正彦「クリスト:アンブレラ 日本−アメリカ合衆国1984-91 ドキュメント91 年9月-10 月」[「みづえ」1991 年冬、no. 961]
17)『Pour un art révolutionnaire indépendant』(La clé des champs) [Jean-Jacques Pauvert] p.42(Shinya Tabuchi、 宝塚造形芸術大学教授) 
 
ヌーヴェルヴァーグ

 

(フランス語: Nouvelle Vague) 1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」を意味する。
広義においては、撮影所(映画制作会社)における助監督等の下積み経験無しにデビューした若い監督達による、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性のある一連の作家・作品を指す(単純に1950年代末から1960年代中盤にかけて制作された若い作家の作品を指す、さらに広い範囲の定義もあり)。しかし、狭義には映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品のことを指す。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェ。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュ等の主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々をことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。
実際には「バザンの薫陶」なるものはいささか怪しい。バザンとロメールはたった2歳しか年齢が変わらず、それぞれ「オブジェクティフ49」、「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」というシネクラブを主宰していたのであり、1951年『カイエ』創刊に向けて、ロメールは『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を廃刊して合流したのだ。ゴダールやリヴェットは本来『ガゼット』の執筆者であり、だれもがトリュフォーのようにバザンに私淑していたわけではない。『カメラ=万年筆』でバザンを魅了したアストリュックや、「呪われた映画祭」をバザンやジャン・コクトーらとともに実現したジャック・ドニオル=ヴァルクローズとバザンの関係も、「バザンの薫陶」などというものではない。むしろ、ヌーヴェルヴァーグとは、バザンを含めたシネクラブ運動や「呪われた映画祭」の開催、ジャン・コクトーやロベール・ブレッソンとの交流、ジャン=ジョルジュ・オリオールの死による『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』の第二期廃刊から『カイエ』創刊への動きなどが、ダイナミックに生み出していったものである。
また、ヌーヴェルヴァーグの作家として、ジャック・ロジエ、クロード・ベリ、ジャン=ダニエル・ポレ、フランソワ・レシャンバック、そしてロジェ・ヴァディム、ルイ・マルは忘れてはいけない。ジャン=ピエール・メルヴィルやクロード・ルルーシュ、ジャン=ピエール・モッキー、セルジュ・ブールギニョンを含めることもあるが、これは場合による。 
発生から終焉経緯
呼称
ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957年10月3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワーズ・ジローが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされる[1]。以降同誌は「ヌーヴェルヴァーグの雑誌」をキャッチフレーズとしたのだが、この雑誌で言う新しい波とは、当時話題になっていた戦後世代とそれまでの世代とのギャップを問題にしたものだった。この言葉を映画に対する呼称として用いたのは、映画ミニコミ『シネマ58』誌の編集長であったピエール・ビヤールで、同誌1957年2月号において、フランス映画の新しい傾向の分析のために流用した。
しかし、この言葉が用いられる以前から後にヌーヴェルヴァーグ的動向は既に始まっていた。トリュフォーは1954年1月号の『カイエ』誌に掲載した映画評論「フランス映画のある種の傾向」において、サルトルが実存主義の考え方に基づいてフランソワ・モーリアックの心理小説を例に取り小説家の神のような全能性を根本的に批判したのにならい、当時のフランス映画界における主流であった詩的リアリズムの諸作品に対し同様の観点から痛烈な批判を行なった。その論法の激しさからトリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と恐れられたが、これはヌーヴェルヴァーグの事実上の宣言文となった。
発生
ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)と言われている。本作はジャック・リヴェットが監督を務めたが、クロード・シャブロルが共同脚本として参画したのを始め、ジャン=マリ・ストローブが助監督、トリュフォーやゴダール、ロメールも俳優として出演したというように、まさに右岸派の面々がこぞって参加し共同し創り上げた作品だった。この作品を皮切りに、右岸派の面々は次々と短編作品を製作した。トリュフォー『あこがれ』(1957年)、『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』(1957年)、ゴダール&トリュフォー『水の話』(1958年)など。
カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも大成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)と言った今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなどヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのはゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性により激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名をより一層高らしめることに結びついた。1959年には『勝手にしやがれ』を始めとするヌーヴェルヴァーグを代表する公開されたため、この年は「ヌーヴェルヴァーグ元年」と言われている。
一方、左岸派の活動はカイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりととすることが多い。
実際のところは、動きはもっと早くから起きている。まだ「ヌーヴェルヴァーグ」などということばの生まれるずっと前、1951年『カイエ』創刊の年、ロメールがゴダールを主演に『シャルロットと彼女のステーキ』を撮影し、翌年アストリュックが本格的中編作品『恋ざんげ』を撮る。このとき、トリュフォーは兵役によって不在(1950-1953年)であり、『カイエ』創刊にも立ち会っていない。そのトリュフォーが1953年にパリに帰還、『カイエ』に執筆を開始する。トリュフォーは、リヴェットがルーアン時代に撮っていた短編を観て、創作意欲をかき立てられ、リヴェットの撮影監督としてのサポートのもと『ある訪問』を1954年に撮影している。この20分のラッシュを観た(「カイエ派」ではないはずの)アラン・レネが編集をし、7分40秒の短編映画が出来上がるのだ。この年に、スイスでゴダールは『コンクリート作業』という短編を撮り、トリュフォーが『勝手にしやがれ』の最初の原案シナリオを書く。1956年、ロジェ・ヴァディムが妻のブリジット・バルドーを主演に撮ったデビュー作『素直な悪女』は賛否両論を浴びたが、もちろんトリュフォーは絶賛する。このアメリカナイズされた新しいフランス映画の興行的成功の延長線上におかれたことで、経済的な意味でヌーヴェルヴァーグの作品群は存在することが可能になった。また、1958年に撮影が始まったリヴェット『パリはわれらのもの』は、トリュフォーのレ・フィルム・デュ・キャロッス社とシャブロルのAJYMフィルム社の合作であり、前述の「カイエ派」ではないはずのジャック・ドゥミも出演している。現実のヌーヴェルヴァーグにあっては、カイエ派も左岸派も乖離した存在ではないのだ。
終焉と継承
一方その終焉に関しては諸説があり、その始まり以上に論者による見解が一致していない。最短なものでは60年代前半の上記の嵐のような動向が一段落するまでの時点であり、最長のものとなると現時点におけるまで「ヌーヴェルヴァーグの精神」は生き続けているとしている。しかし、一般的にはトリュフォーやルイ・マルなどが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当であると言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け動向としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーとの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなったと言われる。
しかし、即興演出、同時録音、ロケ中心を手法的な特徴とし、瑞々しさや生々しさを作品の特色とする「ヌーヴェルヴァーグの精神」はその後も生き続け、ジャン・ユスターシュやフィリップ・ガレル、ジャン=クロード・ブリソー、ジャック・ドワイヨン、クロード・ミレールらは「カンヌ以降(もしくはほぼ同時期)」に登場し評価を得た作家だが、いずれも「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ」との評価を得た。 
ヌーヴェルヴァーグへの影響
ヌーヴェルヴァーグには、「精神的な父」と呼ばれる人物が複数存在する。端的に言って、以下の人物である。アンドレ・バザン、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・ルノワール、ロジェ・レーナルト、ジャン=ピエール・メルヴィル。
ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。
しかし実際には、ヌーヴォー・ロマンという運動自体があったわけではなく、その呼称すら1957年5月22日『ルモンド』での論評に初めて現れたものであり、『レクスプレス』誌の引用で『シネマ58』1957年2月号に現れた「ヌーヴェルヴァーグ」という呼称の方が早い。『勝手にしやがれ』に代表されるアンチクライマックス的説話論自体は、文学の影響というよりも、むしろバザンが熱烈に擁護した『無防備都市』(1945年)や『ドイツ零年』(1948年)のロッセリーニや、『カイエ』の若者たちを魅了した『拳銃魔』(1950年)のジョセフ・H・リュイス、『夜の人々』(1949) のニコラス・レイ、『暗黒街の弾痕』のフリッツ・ラングらのアメリカの低予算Bムービーのほうにダイレクトな影響関係がある。文学ではトリュフォーは『大人は判ってくれない』にあるようにむしろバルザック、アストリュックは『女の一生』つまりはモーパッサンが原作、と非常に古風である。哲学や文学領域の新傾向とヌーヴェルヴァーグとは、一方的な影響関係にあるというよりも、異分野で同時多発的に起きたものであり、だからこそ、デュラスらは彼ら映画人と対等に共同戦線を張ったのである。
『カイエ』の思想といえば、ヒッチコック=ホークス主義に代表される「作家主義」である。この源泉は、1948年、アストリュックの論文『カメラ=万年筆、新しき前衛の誕生(Naissance d'une nouvelle avant-garde : la caméra-stylo)』(『レクラン・フランセ』(L'Écran Français)誌)であり、これにバザンも魅了され、アストリュックともに『レクラン・フランセ』を飛び出し、ジャン=ジョルジュ・オリオールやジャック・ドニオル=ヴァルクローズの『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に加担していくわけである。ヌーヴェルヴァーグへの思想的影響というならば、実存主義よりも明快に作家主義なのだ。ちなみに、その「作家主義(La Politique des Auteurs)」ということば自体の初出は、ヌーヴェルヴァーグ前夜の1955年2月、映画作家デビュー(短編)直後の批評家トリュフォーが、「カイエ」誌上に発表した『アリババと「作家主義」』(Ali Baba et la "Politique des Auteurs")であった。
また、とりわけトリュフォーには、中平康『狂った果実』のパリ上映の多大なる影響があったことが知られている。1956年7月12日に日本で公開された本作がその年、パリで上映され、それを目撃した批評家トリュフォーは、『Si jeunes et des japonais』を書いて絶賛した。当時のトリュフォーは『カイエ』のなかでも、率先してアジテーションする役割を果たしていたので、ゴダールもリヴェットも本作を観た。そして、トリュフォーはシネマテーク・フランセーズにこの作品の所蔵を熱烈に勧めたのだった。ヌーヴェルヴァーグよりも前にヌーヴェルヴァーグだったのは、日活調布撮影所だったのであり、同世代の日本の若者の表現は、ヌーヴェルヴァーグをよりヌーヴェルヴァーグらしいものへと導いた[2]。また、まったくの同世代であるブラジルの映画作家ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが撮ったセミドキュメンタリー『リオ40度』も1956年パリで上映され、この年に、ヌーヴェルヴァーグ的なるものがパリになだれ込んだことがヌーヴェルヴァーグに火を点けた。 
日本ヌーヴェルヴァーグ
日本ヌーヴェルヴァーグ(にっぽん-、日本ヌーベルバーグとも、英語The Japanese New Wave)は、1950年代末から1970年代初頭に出現した日本の映画監督のグループを指す用語である。この語は、日本映画の内部におけるゆるやかなムーヴメントのなかで、類似した時期から起こるこの監督たちの作品にも言及するものである。
フランスのヌーヴェルヴァーグとは違い、日本のムーヴメントは当初、撮影所の内部で始まった。若く、それまではほとんど知られていない映画作家たちによるものである。「日本ヌーヴェルヴァーグ」の語は、ヌーヴェルヴァーグの日本版として撮影所の内部で(そしてメディアで)最初につくりだされた[1]。それにもかかわらず、「日本ヌーヴェルヴァーグ」の映画作家たちは、フランスの同僚たちをインスパイアしたのと同じ国際的影響を受けており、その語が定着するにつれ、人工的に見えたなムーヴメントが批評的になり、ますますインディペンデントな映画運動に急速に発展し始めた。
フランスのムーヴメントのすぐれたところは、そのルーツが『カイエ・デュ・シネマ』誌とともにあることである。多くの未来の映画作家たちが、自らのキャリアを批評家としてそして映画を脱構築する者として始め、新種の映画理論(film theory、もっとも顕著なものは作家理論である)が彼らとともに出現したということが明らかになるのである。
一方、日本のムーヴメントは、ラフにいえばフランスと同時に発展した(いくつかの重要な先駆的作品は1950年代に生まれている)が、社会的な慣例に疑問を抱き、分析し、批評し、ときには慣例を揺るがすことに捧げられたムーヴメントとして起こっている。
フランスの同僚たちに近いバックグラウンドから起こった日本の映画作家が大島渚であった。彼は撮影所に採用される以前は左翼活動家であったし、分析的映画批評家であった。大島の最初期の作品(1959-1960年)は、初期に出版した分析で声に出した意見の直接の結果としてみることができる[2]。大島の記念碑的第二作(1959-1960年の二年間に4本監督している)である『青春残酷物語 Cruel Story of Youth』は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』のめざめのなかでかなりすみやかに国際的にリリースされたようにみえた。
映画作家とテーマ
「日本ヌーヴェルヴァーグ」の当初の映画監督は、羽仁進、勅使河原宏、増村保造、篠田正浩、大島渚、蔵原惟繕、そして今村昌平である。すでにキャリアを開始していた一定のほかの映画作家、鈴木清順、中平康、新藤兼人も、ときおりこのムーヴメントに関わってきた[3]。
個々に活動していたが、彼らは、より伝統的な日本映画には従来さほどみられることのなかったいくつかの理想を探究した。それは、社会から追放された人間(犯罪者あるいは非行少年を含む)を主人公として描くこと、奔放な性[4]、社会における女性の役割の変化、日本における人種差別と人種的マイノリティの位置[5]、社会構造と社会通念への批評あるいは脱構築[6]である。今村監督の『にっぽん昆虫記 The Insect Woman』(1963年)の「トメ」のような主人公たち、あるいは大島監督の『青春残酷物語』(1960年)の非行少年たちが表象するものは、「反乱 rebellion」であるが、映画的な注意を逸らしてしまうかもしれないような人生への一瞥を、国内外の観客にちらりと省みさせもするものである[7]。
「日本ヌーヴェルヴァーグ」は、1970年の初期には(フランスと同様に)離れ離れになりはじめた。撮影所システムの崩壊に直面し、おもな監督たちはドキュメンタリー作品に撤退し(羽仁、しばらくは今村も)、ほかの芸術を追求し(勅使河原は彫刻を実践し、華道の流派の家元になった)[8]、あるいは、国際的な合作映画(大島)へと突入して行ったのだった。
このような困難に直面し、「日本ヌーヴェルヴァーグ」のキー・パーソンのうちには、特筆すべき映画を生み出すことのできた者もいた。大島監督の1976年作品『愛のコリーダ In the Realm of the Senses』は歴史劇とポルノグラフィ的側面のブレンド(歴史的事実から描かれている)で国際的に悪名高くなり、映画製作に帰還した勅使河原監督は実験的ドキュメンタリー『アントニー・ガウディー Antonio Gaudi』(1984年)、長篇劇映画『利休 Rikyu』(1989年)や『豪姫 Princess Goh』(1992年)やで賞賛を勝ち取った。今村監督は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを複数回獲得したたった4人の映画作家のひとりとなった。その作品は『楢山節考 The Ballad of Narayama』( 1983年)と『うなぎ The Eel』(1991年)である。

1956年 絵を描く子供たち 監督羽仁進(ドキュメンタリー) / 処刑の部屋 監督市川崑 / 狂った果実 監督中平康 / 洲崎パラダイス赤信号 監督川島雄三
1957年 くちづけ 監督増村保造 / 暖流 監督増村保造 / 幕末太陽傳 監督川島雄三
1958年 巨人と玩具 監督増村保造 /
1959年 密会 監督中平康 / 愛と希望の街 監督大島渚
1960年 青春残酷物語 監督大島渚 / 太陽の墓場 監督大島渚 / 日本の夜と霧 監督大島渚 / 裸の島 監督新藤兼人 / 狂熱の季節 監督 蔵原惟繕
1961年 不良少年 監督羽仁進 / 豚と軍艦 監督今村昌平 / 飼育 監督大島渚
1962年 天草四郎時貞 監督大島渚 / おとし穴 監督勅使河原宏 / 憎いあンちくしょう 監督 蔵原惟繕
1963年 手をつなぐ子ら 監督羽仁進 / にっぽん昆虫記 監督今村昌平
1964年 赤い殺意 監督今村昌平 / 暗殺 監督篠田正浩 / 乾いた花 監督篠田正浩 / 肉体の門 監督鈴木清順 / 刺青一代 監督鈴木清順 / 砂の女 監督勅使河原宏 / 黒い太陽 監督 蔵原惟繕
1965年 ブワナ・トシの歌 監督羽仁進 / 青年の海 四人の通信教育生たち 監督小川紳介(ドキュメンタリー) / 美しさと哀しみと 監督篠田正浩 / 水で書かれた物語 監督吉田喜重
1966年 アンデスの花嫁 監督羽仁進 / エロ事師たちより 人類学入門 監督今村昌平 / 白昼の通り魔 監督大島渚 / けんかえれじい 監督鈴木清順 / 東京流れ者 監督鈴木清順 / 他人の顔 監督勅使河原宏
1967年 人間蒸発 監督今村昌平 / 圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録 監督小川紳介(ドキュメンタリー) / 忍者武芸帳 監督大島渚 / 日本春歌考 監督大島渚 / 殺しの烙印 監督鈴木清順
1968年 初恋・地獄篇 監督羽仁進 / 神々の深き欲望 監督今村昌平 / 日本開放戦線 三里塚の夏 監督小川紳介(ドキュメンタリー) / 絞死刑 監督大島渚 / 帰って来たヨッパライ 監督大島渚 / 燃えつきた地図 監督勅使河原宏
1969年 愛奴 監督羽仁進 / (略称)連続射殺魔 監督足立正生 / 薔薇の葬列 監督松本俊夫 / 少年 Boy 監督大島渚 / 新宿泥棒日記 監督大島渚 / 心中天網島 監督篠田正浩 / ゆけゆけ二度目の処女 監督若松孝二
1970年 にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活 監督今村昌平(ドキュメンタリー) / 東京戦争戦後秘話 監督大島渚 / 無頼漢 監督篠田正浩、脚本寺山修司 / エロス+虐殺 監督吉田喜重
1971年 赤軍-PFLP・世界戦争宣言 監督足立正生 / 儀式 監督大島渚 / トマトケチャップ皇帝 監督寺山修司 / 書を捨てよ町へ出よう 監督寺山修司 / サマー・ソルジャー 監督勅使河原宏
1972年 夏の妹 監督大島渚
1973年 からゆきさん 監督今村昌平(ドキュメンタリー) / 戒厳令 監督吉田喜重
1974年 無法松故郷に帰る 監督今村昌平(ドキュメンタリー) / 田園に死す 監督寺山修司
1976年 ゴッド・スピード・ユー! 監督柳町光男(ドキュメンタリー) / 愛のコリーダ 監督大島渚 
日本的受容
松竹
1960年代前半の松竹出身の映画監督達を指して言った言葉。大島渚の『青春残酷物語』の興行的ヒットがきっかけ。奔放さや反権威の姿勢が、フランスで勃興しつつあったヌーヴェルヴァーグと似ていたことから、それらの新しい映画に対して、マスコミによって名づけられた。命名したのは、当時「週刊読売」の記者であった長部日出雄である。具体的には大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三人の映画監督と彼らと関係があった映画制作のメンバー等を指す[9]。上記三人に高橋治、森川英太郎、石堂淑朗、田村孟を含めて七人で代表する場合もある。
大島渚は『日本の夜と霧』を松竹が自主的に上映中止したことに抗議し、またそれまでの会社の監督に対する処遇への不満もあって、松竹を退社した。数年後、吉田喜重や篠田正浩も独立した。(「創造社」または「ATG」)松竹ヌーヴェルヴァーグは数年しか続かなかった。しかし、この三人(を中心とする人物達)には作風における共通点が少ないばかりか、本家ヌーヴェルヴァーグや、後述の立教ヌーヴェルヴァーグにあったような党派性や協調性に乏しく、閉塞性を打破し、新しいなにかを見出そうとした彼らの姿勢に対し「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれたに過ぎない、とまとめる見解が大勢である。
立教
1980年前後に活動した、立教大学の自主映画制作サークルのパロディアス・ユニティーのメンバーおよびその一連の動向のこと。黒沢清、万田邦敏、塩田明彦、青山真治、周防正行、森達也(卓也)、浅野秀二等がいる。元々個々人は大学入学前から映画に親しんでいたが、当時立教大学の講師で映画表現論の講義を受け持っていた蓮實重彦の絶大な影響を受け、単なるサークル活動を超えた一定の党派性を持った活動を行っていた。
もっとも作風自体は「ゴダール風」(黒沢清)、「エリック・ロメール張り」(塩田明彦)、「小津安二郎への敬愛」(万田邦敏、周防正行)など千差万別であり、作風ではなく相互に映画制作を助け合うなどの行動面において本家ヌーヴェルヴァーグとの共通性がある。
大芸
1990-2000年代に台頭してきた大阪芸術大学出身の映画監督や俳優などをさす。熊切和嘉、山本浩司 (俳優)、宇治田隆史、本田隆一、元木隆史、山下敦弘、寺内康太郎、呉美保、柴田剛、石井裕也など。「大芸ヌーヴェルヴァーグ」という名称については、俳優の津田寛治が00年代の中頃に雑誌「TVブロス」の連載でパブリックに発言し、衆目の知るところとなった。 
 
ヌーベルバーグを読む 

 

Masculine Singular: French New Wave Cinema / Genevieve Sellier / Duke University Press, 2008
「男性単数」という題名のヌーベルバーグに関する本。作者はジュヌビエーブ・セリエ Genevieve Sellier という女性で、英語の訳者もクリスティン・ロス Kristin Ross という女性です。女性の立場から、カイエ・デュ・シネマ派の男性たちの独断的な作家主義とか女性の描き方とかを批判しているのかと思ったら、思ったほどカイエ・デュ・シネマ派には焦点を当てていませんでした。トリュフォー、ゴダール、シャブロルの初期作品について書かれてはいるけど、あまり印象に残りませんでした。
女性の解放 (emancipation) というのがキーワードのようで、中心となる女優はジャンヌ・モローとブリジット・バルドー。1956年から1962年までの重要な作品における女性の描き方を論じているので、トリュフォーとゴダールがそれぞれの女優を使った「突然炎のごとく」(1962)と「軽蔑」(1963)はかなりあとになってからということになります。むしろ、ロジェ・バディムやルイ・マルによる彼女たち主演作のほうに興味が向きます。バディム監督、バルドー主演の「素直な悪女」はまだ見たことないし、マル監督、モロー主演の「恋人たち」も若いころ見たきりなので、あらためて見てみたい。アラン・レネやアニュエル・バルダといった、いわゆる左岸派のこの頃の映画も論じており、当時の映画雑誌の批評がどんなだったかを紹介しているのも、本国の人が書いた本ならでは。
モロー、バルドー以外では、エマニュエル・リバを論じている個所が印象的で、もちろん「24時間の情事」が中心なんだけど、メルビルの「神父(司祭)レオン・モラン」やジョルジュ・フランジュの「テレーズ・デケイルー」にも言及しています。前者は米版VHSで持っているけど、後者は見ることができるのでしょうか。
訳者のクリスティン・ロスには "Fast Cars, Clean Bodies: Decolonization and the Reordering of French Culture" という面白そうな本があるのですが、参考図書の中から私が米アマゾンで安い古本を注文したのは Lynn A. Higgins の "New Novel, New Wave, New Politics: Fiction and the Representation of History in Postwar France" というのと、Jefferson T. Kline の "Screening the Text: Intertextuality in New Wave French Cinema" という本でした。後者は男性のようですが、女性の視点から男性中心の映画や社会を論じているのを読むのも面白いんじゃないかと思うようになりました。 ボーボワールの「第二の性」というのも読みたくなりました。
1956年から1962年までのヌーベルバーグ作品でチケット販売数が10万枚を超えたもののリストが巻末にあったので、それを掲載しておきます。
素直な悪女 (1956年12月) 173,000枚
死刑台のエレベーター (1957年2月) 120,200枚
恋人たち (1958年11月) 451,470枚
いとこ同志 (1959年3月) 258,550枚
今晩おひま? (1959年5月) 150,400枚
大人は判ってくれない (1959年6月) 261,000枚
24時間の情事 (1959年6月) 160,360枚
危険な関係 (1959年9月) 640,000枚
二重の鍵 (1959年12月) 239,200枚
勝手にしやがれ (1960年3月) 259,000枚
雨のしのび逢い (1960年5月) 140,930枚
地下鉄のザジ (1960年10月) 126,540枚
昨年マリエンバードで (1961年9月) 141,970枚
突然炎のごとく (1962年1月) 210,065枚
私生活 (1962年1月) 241,720枚
5時から7時までのクレオ (1962年4月) 111,148枚
女と男のいる舗道 (1962年9月) 148,010枚
「今晩おひま?」は、ジャン・ピエール・モッキー監督、ジャック・シェリエ、シャルル・アズナブール、アヌーク・エイメ出演。
A History of the French New Wave Cinema / Richard Neupert / The University of Wisconsin Press, 2002
ヌーベルバーグに関する本。50年代のフランス映画の社会的、経済的、美学的考察と、50年代後期から60年代初期の重要作品の詳細な研究。
The New Wave / Peter Graham / Doubleday, 1968
古本を入手しました。ヌーベルバーグに関する英語の本には必ず参考図書として挙げられている本。ピーター・グレアムという人がヌーベルバーグに関する主要なエッセイを集めたものです。
トリュフォーへのインタビュー(カイエ・デュ・シネマ、1962)
アストリュック/新しい前衛の誕生:カメラ万年筆(エクラン・フランセ、1948)
バザン/映画言語の発展(「映画とは何か1」、1958)
ジェラール・ゴズラン/アンドレ・バザンをたたえる(ポジティフ、1962)
シャブロル/小さなテーマ(カイエ・デュ・シネマ、1959)
ゴダール/アストリュックの「女の一生」(カイエ・デュ・シネマ、1958)
トリュフォーへのインタビュー(カイエ・デュ・シネマ、1962)
ジェラール・ゴズラン/アンドレ・バザンをたたえる(ポジティフ、1962)
バザン/作家主義(カイエ・デュ・シネマ、1957)
ロベール・ベナユン/裸の王様(ポジティフ、1962)
Godard / Richard Roud / Thames and Hudson, 1970
シネマワン・シリーズの1冊。1969年の「東風」までを論じています。作品ごとではなく、テーマごとです。
Andre Bazin / Dudley Andrew, 1978
アンドレ・バザンの伝記です。バザンはフランスの映画批評家で、「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者です。トリュフォーやゴダールに大きな影響を与えました。彼がいなければヌーベルバーグはなかったかもしれません。もともと病弱だったのですが、1958年に40歳の若さで亡くなりました。これからヌーベルバーグが世界を席巻しようというときでした。
バザン自身の批評は「映画とは何か」というタイトルで4巻に分かれて出ています。まだ、あるのかな。アメリカでは “What Is the Cinema?” というタイトルで2巻出ています。日本語訳は分かりにくいので、英語訳を買ってみようかな。でも、原文そのものが分かりにくいければ、英文も分かりにくいのだろうか。
Cahiers du Cinema, the 1950s:Neo-realism, Hollywood, New Wave / Edited by Jim Hiller / Harvard University Press, 1985
1950年代にカイエ・デュ・シネマ誌に掲載された評論を集めたものです。1960年代のも持っています。70年代以降のもあるようですが、今のところ興味ありません。
大きく次のように分かれています。フランス映画 / アメリカ映画 / イタリア映画 / 論争
第1部の「フランス映画」には、ジャック・ベッケルの「現生に手を出すな」をトリュフォーが批評したもの、ロジェ・バディムの「大運河」をゴダールが批評したもの、バザン、リベット、ロメールら6人がフランス映画について論じた座談会、ゴダール、リベット、ロメールら6人が「24時間の情事」について論じた座談会などが収められています。
第2部の「アメリカ映画」は、さらに4つに分かれています。アメリカ映画全体、ニコラス・レイ論、映画作家、ジャンルの4つです。「アメリカ映画全体」には、ロメール、リベット、バザンの文章が収められています。「ニコラス・レイ論」では、トリュフォー、ロメール、ゴダールらが異なる作品を批評しています。「映画作家」には、ハワード・ホークス、オットー・プレミンジャー、ヒッチコック、フリッツ・ラング、サミュエル・フラーの作品の批評が収められています。「ジャンル」には、シャブロルの「スリラーの進化」と、2本の西部劇をバザンが批評したものが収められています。
第3部の「イタリア映画」には、デ・シーカの「ウンベルトD」をバザンが論じたものや、ロッセリーニの「イタリアの旅」をロメールが批評したもののほかに、ロッセリーニへのインタビュー記事も収められています。
第4部の「論争」は、2つに分かれています。批評論とシネマスコープ論です。批評論は作家主義が中心で、黒澤明と溝口健二に関する3人の批評家の文章も収められています(「カイエ・デュ・シネマ」誌は、黒澤明が大嫌いで、溝口健二が大好きでした。バザンは黒澤明も評価していたようです)。シネマスコープ論は、トリュフォー、リベット、ロメールの意見が掲載されています。みんなシネマスコープ賛成派です。
オマケとして、1951年と、1955年から1959年までの同誌のベスト20が載っていて、興味深いです。1959年には「24時間の情事」や「大人は判ってくれない」といったヌーベルバーグ作品を押しのけて、溝口健二の「雨月物語」が1位に輝いています。日本人はもっと溝口健二を誇りにしよう!!
さらに、1958年に選出した映画史上ベスト作品というのも掲載されています。まず監督を選んで、それから代表作を選んだようです。だから、実際には監督の順位です。
サンライズ(ムルナウ、アメリカ、1927)
ゲームの規則(ルノワール、フランス、1939)
イタリアの旅(ロッセリーニ、イタリア、1953)
イワン雷帝(エイゼンシュテイン、ソ連、1945/1958)
国民の創生(グリフィス、アメリカ、1915)
アーカディン氏(オーソン・ウェルズ、スペイン/フランス、1956)
奇跡(カール・ドライエル、デンマーク、1955)
雨月物語(溝口健二、日本、1953)
アタラント号(ジャン・ビゴ、フランス、1934)
結婚行進曲(シュトロハイム、アメリカ、1927)
山羊座の下で(ヒッチコック、イギリス、1949)
殺人狂時代(チャップリン、アメリカ、1947)
Cahiers du Cinema, the 1960s / 1960-1968: New Wave, New Cinema, Reevaluating Hollywood Edited by Jim Hiller / Harvard University Press, 1986
終わりのほうに1960年から1968年までの各年のベスト20が載っています。まず、驚くのが、ヌーベルバーグ真っ只中の1960年に、アントニオーニの「情事」、ゴダールの「勝手にしやがれ」、トリュフォーの「ピアニストを撃て」を抑えて、溝口健二の「山椒大夫」が1位になっていることです。前年の「雨月物語」に続いての1位です。あと、ジェリー・ルイスの映画が毎年ベストテンの常連になっています。
大きく4つに分かれています。 / ニューウェーブ/フランス映画 / アメリカ映画:賞賛 / アメリカ映画:再評価 / ニューシネマ/ニュークリティシズムに向かって
1968年の5月革命に向けて、どんどん政治的になっていくし、難解になっていくしで、後半はちょっと勘弁してほしい。
1965年に発表された戦後20年間のフランス映画ベスト10を挙げておきます。
1. すり(ブレッソン、1959)
2. 歴史は女で作られる(オフュルス、1955)
3. 黄金の馬車(ルノワール、1953)
4. オルフェの遺言(コクトー、1960)
5. コルドリエ博士の遺言(ルノワール、1961)
6. カラビニエ(ゴダール、1963)
7. 24時間の情事(レネ、1959)
8. 快楽(オフュルス、1952)
9. ミュリエル(レネ、1963)
10. アデュー・フィリピーヌ(ロジェ、1963)
トリュフォーは商業主義に堕したとみなされて評価が下がったらしく、27位にやっと「突然炎のごとく」が出てきます。
The New Wave: Truffaut, Godard, Chabrol, Rohmer, Rivette / James Monaco, 1976
ヌーベルバーグの代表的な監督5人についての本です。いずれもカイエ・デュ・シネマ誌の批評家出身です。トリュフォーに4章、ゴダールに5章、シャブロル、ロメール、リベットに1章ずつ割り当てられています。それぞれ、ほぼ年代順に作品を論じています。序論の副題、「カメラが書く」となっているように、作家主義に基づいています。昔は、こういう個々の映画作家を美学的に論じるものが好きでしたが、最近は、映画を総体的に論じたもののほうが好きです。ヌーベルバーグも、昔は夢中でしたが、最近はそれほどでもないです。
Six Moral Tales / Eric Rohmer / Lorrimer Publishing, 1980
エリック・ロメールによる教訓談シリーズの6本の映画を小説化したものです。フランスで1975年に出版された本の英訳です。その6本とは、「モンソーのパン屋の少女」「シュザンヌの生き方」「モード家の一夜」「コレクションおんな」「クレールの膝」「愛の昼下り」です。
Eric Rohmer: Realist and Moralist / C.G. Crisp / Indiana University Press, 1988
The Taste for Beauty / Eric Rohmer / Cambridge University Press, 1989
エリック・ロメールの評論集です。日本でも1988年に「美の味わい」という訳本が出ました。当時、図書館で借りて読んだのですが、あまりよくわかりませんでした。もっとわかりやすいかなと思って英訳本を購入したかったのですが、5千円近くするので手が出せなかったところ、ヤフーオークションに1500円で出品されていました。来月、アメリカ版DVD「六つの教訓物語」が出るので、グッドタイミング!(2006年7月、ヤフーオークションで購入)
French New Wave / Jean Douchet / D.A.P./Distributed Art Publishers, 1998
The French New Wave: An Artistic School / Nichel Marie (Translated by Richard Neupert) / Blackwell, 2003
フランスで1997年に出版された "La Nouvelle Vague: Une ecole artistique" の英訳本です。全部で200ページ足らずの小さな本ですが、面白いです。フランス人が書いたからか、より直接的にヌーベルバーグを体験しているような気持ちになります。この本をヌーベルバーグ研究の出発点にしてみようかな。 
 
ジャン=リュック・ゴダール 

 

(Jean-Luc Godard, 1930- ) フランス・スイスの映画監督、編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督、俳優である。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。
1930年12月3日、フランス・パリに生まれる。フランス人の銀行家を父に、スイス人を母に持つ二重国籍者である。子供時代をスイス・ヴォー州ニヨンで過ごす。
1948年、両親の離婚によりパリへ戻り、リセ・ロメール校に編入、その後ソルボンヌ大学に進学(のちに中退)。またこの年、モーリス・シェレール(エリック・ロメール)の主催する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」に参加、ジャック・リヴェット、フランソワ・トリュフォー、ジャン・ドマルキらと出会う。
1949年、ジャン・コクトー、アンドレ・バザン主催「呪われた映画祭」に参加。
1950年5月、モーリス・シェレール編集『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』創刊(同年11月廃刊)、執筆参加(ハンス・リュカス名義)。またこの年、ジャック・リヴェットの習作短編第2作『ル・カドリーユ』に主演する。
1951年4月、アンドレ・バザン編集『カイエ・デュ・シネマ』創刊、のちに執筆に参加。また同年エリック・ロメールの習作短編第2作『紹介、またはシャルロットとステーキ』に主演する。
1954年、習作短編第1作『コンクリート作業』を脚本・監督。1958年までにトリュフォーとの共同監督作品『水の話』を含めた数本の短編を撮る。
1959年、ジョルジュ・ド・ボールガール製作『勝手にしやがれ』で長編映画デビュー。翌1960年公開され、ジャン・ヴィゴ賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。
1961年、長編第2作『小さな兵隊』に主演女優として出演したアンナ・カリーナと結婚。『女は女である』でベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。
1964年、アンナ・カリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」( - 1972年)設立。設立第1作は『はなればなれに』。
1965年、『気狂いピエロ』発表。『アルファヴィル』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。同年、アンナ・カリーナと離婚。
1967年7月22日、『中国女』に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚( - 1979年離婚)。
1967年8月、商業映画との決別宣言文を発表。
1968年5月、五月革命のさなかの第21回カンヌ国際映画祭に、映画監督フランソワ・トリュフォー、クロード・ルルーシュ、ルイ・マルらとともに乗りこみ各賞選出を中止に追い込む。同年、ジャン=ピエール・ゴランらと「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成( - 1972年解散)、匿名性のもとに映画の集団製作を行う。
1971年、バイク事故に遭う。
1972年、左翼俳優イヴ・モンタンとジェーン・フォンダを主役に、ジャン=ピエール・ラッサム製作、仏伊合作『万事快調』をジガ・ヴェルトフ集団として撮る。本作にスチルカメラマンとして参加したアンヌ=マリー・ミエヴィルと出逢い、製作会社「ソニマージュ」を設立( - 1982年)、『ジェーンへの手紙』を同社で製作、完成をもってジガ・ヴェルトフ集団を解散。
1973年、ミエヴィルとともに拠点をパリからグルノーブルに移す。
1974年、ミエヴィルとの脚本共同執筆第1作『パート2』を監督。以降、ミエヴィルとの共同作業でビデオ映画を数本手がける。
1979年、ミエヴィルとともに拠点をグルノーブルからスイス・ヴォー州ロールに移し、アラン・サルド製作による『勝手に逃げろ/人生』で商業映画への復帰を果たす。製作会社「JLGフィルム」を設立( - 1998年)。
1982年、『パッション』を脚本・監督。「ソニマージュ」社は「JLGフィルム」社らと本作を共同製作したのちに活動停止。
1983年、『カルメンという名の女』により第40回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得。
1987年、『右側に気をつけろ』によりルイ・デリュック賞を受賞。
1989年、『ゴダールの映画史』の第1章と第2章とを発表。
1990年、「JLGフィルム」社が『映画史』以外の活動を停止するにともない、ミエヴィルとの新会社「ペリフェリア」を設立。
1998年、『映画史』の最終章である第4章を発表。
2002年、日本の高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
2006年、パリのポンピドゥー・センターで初の個展が開かれる。同会場での上映のための映画『偽造旅券』(Vrai-faux passeport)を製作・脚本・監督。 
人と作品
ゴダールの映画に対する姿勢や根本的な作風は、パートナーや、大まかな作風の傾向により、便宜的に前期・中期・後期の3期に分類することができる。
前期:ヌーヴェルヴァーグの時代
1954-1967年 『コンクリート作業』-『ウイークエンド』
シネフィルとして数多くの映画に接していた若かりし日のゴダールは、シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』に批評文を投稿するようになっていた。すなわちゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだった。
数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロル(『美しきセルジュ』『いとこ同志』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産も、大手配給会社社長の岳父もいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできた。公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性とが非常に評価されたのだった。
ジーン・セバーグが演じた主演女優には、ゴダールは当初は片思い状態で思慕していたアンナ・カリーナを想定していたが、本人の拒絶によりこのことは実現しなかった。しかし『勝手にしやがれ』の成功を背景としてカリーナとの関係は親密なものとなり、1961年に結婚。以降アンナ・カリーナは前期におけるゴダール作品の多くの主演女優を務めることになる。
長編第2作である『小さな兵隊』以降、1967年の『ウイークエンド』を1つの頂点として商業映画との決別を宣言する中期に至るまで、1年に平均2作程度という比較的多作なペースで作品を制作し続けるが、多分にスキャンダラスな物語設定や扇情的な数々の発言により、大ヒットとは言えないまでもコンスタントなヒットを続け、ゴダールは名実ともにヌーヴェルヴァーグの旗手としての立場を固めていった。
前期のゴダール作品は、ヌーヴェルヴァーグの基本3要素(即興演出、同時録音、ロケ撮影中心)とはっきりとしない物語の運び以外には、一見すると共通項の少ない多彩な作品群となっている。題材もアルジェリア戦争(『小さな兵隊』)、団地売春の実態(『彼女について私が知っている二、三の事柄』、1966年)、SF仕立てのハードボイルド(『アルファヴィル』、1965年)と広範囲に及んでおり、ほぼ一貫して男女の恋愛劇を描き続けたトリュフォーと比べるとその多彩さは明らかである。
またカメラワークやフレーミングといった映画の技術的/話法的な要素についても、1作ごとに場合によっては同じ作品の中でも異なったトーンが用いられており、この多彩さこそが前期ゴダールの特長であると言えよう。しかし、別な観点から見るならこれらの作品は、「分断と再構築」という2つの機軸によって構成されているという点においてはある種の統一感で貫かれており、事実、表面的な作風が異なる中期や後期に至るまで「分断と再構築」こそがゴダール作品の基底を成している。また、前期においては「映画内映画」の要素を積極的に取り入れていたことも大きな特徴となっている。『軽蔑』(1963年)のように映画の制作自体を作品としたものから、『気狂いピエロ』(1965年)における主演のジャン=ポール・ベルモンドがスクリーンを見ている観客自身に語りかけるような話法に至るまで、様々な「映画内映画」の要素が盛り込まれ、こうしたメタ映画的な構成の目新しさもゴダール人気を煽る一因となっており、一時ゴダール風と言えば映画の「内」と「外」とを意識的に混在させる手法と受け取られたことすらあったほどである。しかし、一般的にはファッションとして受け取られることが多かったメタ映画の構造も「分断と再構築」と並んでゴダール(作品)の根本的に重要な要素であり、後期においてそれが更に深化されることになる。
ジャン=ポール・ベルモンドの爆死をクライマックスとする『気狂いピエロ』の大ヒット以降、パリ五月革命に向かって騒然とし始めた世相を背景に、ゴダールの作品は政治的な色合いを強めていく。『小さな兵隊』がアルジェリア戦争を揶揄してのものであったことからもわかる通り、ゴダールは初期のころから政治に対する志向が強く、政治的なテーマや題材をあまり取り上げることがなかった他のヌーヴェルヴァーグの作家たちとはこの点においては一線を画していた。 
中期:商業映画との絶縁・政治の時代
1967-1978年 『たのしい知識』-『うまくいってる?』
1967年8月に、ゴダールはアメリカ映画が世界を席巻し君臨することを強く批判すると同時に、自らの商業映画との決別宣言文を発表した。
「われわれもまた、ささやかな陣営において、ハリウッド、チネチタ、モスフィルム、パインウッド等の巨大な帝国の真ん中に、第二・第三のヴェトナムを作り出さねばならない。 そして、経済的にも美学的にも、すなわち二つの戦線に拠って戦いつつ、国民的な、自由な、兄弟であり、同志であり、友であるような映画を創造しなくてはならない。」
パリ五月革命の予言もしくは先取りであるなどと言われる、マオイズムをテーマとして取り上げた『中国女』(1967年)において既に政治的な表現の傾向が顕著になっていたが、ゴダールを本当の「政治の時代」へと踏み入らせる直接のきっかけとなったのは1968年の第21回カンヌ国際映画祭における「カンヌ国際映画祭粉砕事件」だった。コンテストの必要性の有無を巡る論争を契機として発生したこの事件においては、トリュフォーとルイ・マルとが最も戦闘的な論陣を張り、ゴダールの関与は必ずしも積極的なものではなかった。しかし、この事件をきっかけとしてゴダールの周囲や各々の政治的な立場・主張に亀裂が入り、作家同士が蜜月関係にあったヌーヴェルヴァーグ時代も事実上の終わりを告げるに至った。プライベートにおいても女優アンナ・カリーナと1965年に破局が決定的になり、『中国女』への出演を機に1967年にアンヌ・ヴィアゼムスキーがゴダールの新たなるパートナーとなった。この後『ウイークエンド』(1967年)を最後に商業映画との決別を宣言し『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画に復帰するまで、政治的メッセージ発信の媒体としての作品制作を行うようになる。
また商業映画への決別と同じタイミングで、自身が商業的な価値を持たせてしまった「ジャン=リュック・ゴダール」の署名を捨てて、「ジガ・ヴェルトフ集団」を名乗って活動を行う(1968-1972年)。ソビエトの映画作家ジガ・ヴェルトフの名を戴いたこのグループは、ゴダールとマオイストの政治活動家であったジャン=ピエール・ゴランを中心とした映画製作集団であり、この時期のパートナーであるアンヌ・ヴィアゼムスキーもメンバーとして活動に加わった。反商業映画イコール政治映画という図式で語られがちであるが、この時期のゴダールの政治的な映画といってもそれは旧来の政治的プロパガンダの映画とはまるで違い、映画的思考というものの変革を信じ、目指した彼にとって極めて純粋な映画運動であった。1972年、『ジェーンへの手紙』完成をもって同グループは解散、ゴダールはアンヌ=マリー・ミエヴィルとのパートナーシップ体制に入る。
かつて、映画の父エイゼンシュタインは、映画は概念を表現することが出来るものであり「資本論」の映画化さえも可能であるといった。この時期のゴダールはそれを実践するために邁進したともいえる。
1作品ごとに、現代の社会と人間の真実の姿に迫ろうと試み続けてきたゴダールは、ヌーヴェルヴァーグ時代の後期あたりの映画作品からは1作ごとに彼の作品から、いわゆる娯楽性を薄皮一枚ずつ剥ぎ取り、また一般的な芸術性をも剥ぎ取ることでギリギリまで思考を明確にする映画を目指していった。その結果、映画は極めて政治的な思想的闘争宣言の表現の場へと異化していく。もはや、同志的な観客のための映画でしかなく、不特定な多数の観客の存在を考慮しない告発の映画であった。事実、彼は一般商業映画館での作品を上映する事ですら、『体制に順応している』として強固に否定するような立場まですすんでいった。
前期のゴダールが一言で言えば躍動感と瑞々しさとを特徴とするのに対し、中期のゴダール作品は映画を政治的なメッセージ発信の手段にした為、映像表現は禍々しいものへと変化していった。前期においても文字や書物からの引用は行われていたが中期においてはそれが更に顕著なものになり、膨大な映像の断片と文字、引用(スローガン、台詞、ナレーション)とが目まぐるしく洪水のようにあふれ、詰込まれた作風が特徴とされる。しかし、中期においてもゴダールは映画を単なるメッセージ発信のための手段として利用するのではなく、映画で何が可能なのか、そして何が不可能なのかを自省しつつ作品を作り続けていた。例えば中期の皮切り作品と言えるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967年)において、クロード・ルルーシュを始めとする他の監督たちがデモのドキュメンタリーや反戦活動家のメッセージといった直接的な反戦運動を取り上げていたのに対し、ゴダールはパリにおいてカメラを操作する自分自身をカメラに捉え、ベトナムに関する映画を制作することに関する自問自答を延々と撮し続けている。
ローリング・ストーンズが出演し、アルバム『ベガーズ・バンケット』のレコーディング風景が収録されたことで多くの話題を呼んだ『ワン・プラス・ワン』(1968年)においても、様々な場面や場所で多様な人が政治的なメッセージを読み上げるシーンと、試行錯誤しているストーンズのリハーサルシーンとを交互に重ね合わせることにより、当時の政治的な状況を、メッセージとしてではなく映画作品として具体的に体現(再現)する実験を試みている。なお、この映画は本来ならレコーディングは完了せずに終る予定であり、未完であることにこそ本質的な意味があるとゴダールは考えていたのであるが、制作者側の商業的な意図により作品の最後で完成した「悪魔を憐れむ歌」が挿入されてしまった。ゴダールが激怒したのは言うまでもない。この作品はゴダールが活動資金稼ぎを目的として制作されたもので、中期に位置するものの商業映画(イギリス資本)としてゴダールの署名で制作されている。 
後期1:『映画史』以前
1979-1987年 『勝手に逃げろ/人生』-『ゴダールのリア王』
『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画への復帰を果たしてから以降今日に至るまでが後期に相当するが、後期においてもおおよそ1980年代に相当する「『映画史』以前」と1980年代末から1998年『映画史』の完成に至るまでの「『映画史』の時代」、さらにこれ以降今日に至るまでの「『映画史』以降」に区分けすることができる。
「『映画史』以前」の作品群は、ゴダールの作品の中でも最も馴染みやすいものであると言える。他の時期に比べ物語の筋立てがある程度わかりやすいものになっているし、ゴダールの造形的な才能がいかんなく発揮された美しい映像が惜しむことなく展開されているからだ。トリュフォーをして「彼こそが本物の天才だ」と言わしめたゴダールの映画的なセンスは衆目が認めるものではあったが、前期や中期においてはその期待を敢えて裏切るように画面の審美性から遠離った画作りをすることが少なくなかった。もちろんわざと汚い画面、あるいは粗雑なカメラワークやフレーミングを行った訳ではないだろうが、審美性だけで鑑賞される作品は、ゴダールの映画に対する基本的な姿勢とは相反するものであり、審美性、つまり構図やら画面における構成要素の配置の美しさやらに留まらない、映画としての美しさと価値とを様々な観点から追求し続けていたと言えよう。
しかし、後期においてはこうしたカメラワークとフレーミングにおける実験的な要素は影を潜め、メタ映画レベルの挑戦が主軸に位置されるようになる。その集大成が「映画そのものについて映画で思考し映画で表現する作品」である『映画史』であろうが、実際に『映画史』の制作に着手する前の1980年代は、そこに至るまでの試行錯誤の中間地点であると言えるだろう。
試行錯誤とは言ってもそれはゴダールの内的な経緯における話であって、実際にできあがった作品は一般的な意味において完成度の高い、多くの人に対して広く門戸が開かれた作品であると言える。ただし、これはゴダールの作品の中では比較的という注釈付きの表現であり、「分断と再構築」を基本とする作風に根本的な変化はない。むしろ「分断」に関しては「政治の時代」をくぐり抜けたことにより一層の磨きがかかっており、全体の構成や物語の把握のしやすさに関しては前期よりもむしろ困難になっている。しかしこれは今日のハリウッド映画に接するのと同じような姿勢で作品に臨むことを前提とした場合、すなわちまるでベルトコンベアに運ばれるように丁寧で親切なヒントやら手がかり、さらには解答まで準備されたものを受動的に受け取ることを前提とした場合に言えることであり、自分自身で能動的に作品を構築する姿勢で作品に臨むなら、ゴダール作品の「分断と再構築」を基本とする作品構造は、他に比類のない程の確かな手応えを与えてくれるだろう。
一方「『映画史』以前」の段階では、「『映画史』の時代」で大々的に用いられることになるテキストや音楽、音声の「分断と再構築」は、余り積極的には用いられてはいない。クラシック音楽が基調となっているという点では後期全般に同一の傾向が認められはするものの、「以前」の段階ではまだBGMは画面を彩るものとして活用されており、音声やテキストの多重化は限定的なものだ。従ってこの時点において観客が行うべき再構築の大半は映像的な要素となっている。
しかし、実はその発端は『映画史』の制作着手よりも10年近く前に制作された『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)にある。これはローザンヌ市の市制500年を記念して市からの依頼に基づいて制作された作品で、映画を制作すること自体を、記念映画を制作することに関するゴダールの内省をフィルム化した内省録風の作品で、何かについて語った映画ではなく、語ることそのものあるいは「について」と言うこと自体を対象としたメタ構造を持つ作品だった。確かに上述の通り前期においても既にメタ映画的な要素は活用されてはいるが、その時点においては部分ないしは要素あるいは作品に対する味付けとして用いられていたに過ぎない。これに対し『フレディ・ビュアシュへの手紙』は、メタ要素そのものが対象となっているという点で新しく、その後に続く作品の道筋が提示されていたと言えよう。また『フレディ・ビュアシュへの手紙』においては語る私(=ゴダール)の直接的な登場や文字(テキスト)の活用など『映画史』以降を構成する基本要素がいくつも提示されていた。 
後期2:『映画史』の時代
1988-1998年 『ゴダールの映画史』(『言葉の力』-『オールド・プレイス』)
1989年に第1章と第2章が発表され、1998年に第4章の完成をもって完結する『映画史』的なものが中心となるのが、「『映画史』の時代」だ。ここにおいて「分断と再構築」の構造は更に深化を遂げ、映像、声(台詞)、テキスト、そして音楽がそれぞれのレベルで分断され、1つのシーン(作品)として再構築される。「政治の時代」におけるテキストやメッセージの活用、「『映画史』以前」における映像の「分断と再構築」の深化が一つになって結実したのが「『映画史』の時代」の作品群であると言えるだろう。
ビデオ作品として制作された『映画史』は、一般的な意味における映画史に関するカタログ的な解説ではない。何の修飾詞も付けず「映画史」と題されてはいる[1]が、ここで参照され言及される作品は極めて限定されたものに過ぎない。その構成要素は、1950年代までのハリウッド、ヌーヴェルヴァーグを中心としたフランス、イタリアのネオ・レアリスモ、ドイツ表現主義およびロシア・アヴァンギャルド等、その他ヨーロッパ諸国の作品が圧倒的多数を占めており、非欧米では日本から4人の作家(溝口健二、小津安二郎、大島渚、勅使河原宏)とインドのサタジット・レイ、イランのアッバス・キアロスタミ、ブラジルのグラウベル・ローシャ、台湾の侯孝賢が参照されるのが目立つ程度であり、大方の非欧米圏はあっさりと無視されている。時代的にも著しい偏りが見られ、1970年代以降で取り上げられているのは殆どが自分の作品だけであり、大半が1950年代までの「古き良き映画」だ。
また、映画に限らず音楽や絵画等の美術作品、写真(肖像写真を含む)も膨大に引用されており、その取り扱い方に映画との特別な差異はない(これらについても西欧のもののみが対象となっている)。つまり『映画史』とは一般名詞としてのあるいは教養としての「映画史」ではなく、ゴダール自身の映画を中心とした芸術遍歴と論考とを表現したものであり、(様々な)映画について語る(表現する)ことではなく、映画について表現すること自体を映画によって構成したメタ映画がその本質なのだ。
この基本構造は『フレディ・ビュアシュへの手紙』によって実現されたものと本質的な違いはないが、題材や対象範囲の広さ、「分断と再構築」の深度は比較にならないほどの進化を遂げている。ビデオ作品である利点を最大限に生かし、多重引用やリピートなどが盛んに行われており、ただ漫然と眺めているだけでは多くの参照元の推定すら難しいほどの加工が施されている。そしてこうした再構築もビデオクリップ作品のようにおもしろおかしさを基本に構成されているのではなく、その真偽の程はともかくとしても全4部、各部ごとにAとBとに分けられた合計8章ごとに一定のテーマが設けられ、それに従って引用やらコラージュが成されているので、見る側には極度の緊張と集中とが求められることになる。
ゴダールの1990年代は『映画史』の制作に力を注ぎ続けていたと言えるだろうが、『新ドイツ零年』(1991年)や『JLG/自画像』(1995年)もほぼ同傾向の作品と見なすことが可能であり、まさに「『映画史』の時代」であった。しかし、同時に『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)、『フォーエヴァー・モーツアルト』(1996年)のように1980年代と似たような構成、すなわち「分断と再構築」とを基調としながらも物語やある種のテーマ性を持った作品も作り続けている。 
後期3:『映画史』以降
1999年/2000-『二十一世紀の起源』最新作
『映画史』完了後の2001年に製作された『愛の世紀』もこの系列に位置している。2004年にフランス本国で公開された最新作『アワーミュージック』以降、ゴダールがどのような方向に向かうかは現時点(2004年1月)においては明言することはできないが、「分断と再構築」を手法の基本とし「映画には何が可能か」と言うメタ映画の追求を最終的なテーマとした作品を作り続けていくだろう。つまりゴダールの狙いと目的とするところは実は『勝手にしやがれ』以来根本的な変化はなく、その意味において、彼は終始首尾一貫性を保ち続けている作家だといえる[誰によって?]。
1990年代以降顕著になった無数の短篇群、オムニバスへの参加により、ゴダールが監督として、あるいは俳優として参加した映画作品は、140を超える[2]。2010年には新作『ゴダール・ソシアリスム』を公開する[3]。 
ゴダール作品一覧
1950年代
『コンクリート作業』Opération 'Béton'  短篇 1954年
『コケティッシュな女』Une femme coquette 短篇 1955年 ※「ハンス・リュカス」名義
『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』Charlotte et Véronique, ou Tous les garçons s'appellent Patrick 短篇 1957年
『シャルロットとジュール』Charlotte et son Jules 短篇 1958年
『水の話』Une histoire d'eau 短篇 1958-共同監督フランソワ・トリュフォー
『勝手にしやがれ』 À bout de souffle 1959年 ※長篇デビュー作
1960年代
『小さな兵隊』Le Petit soldat 1960年
『女は女である』Une femme est une femme 1961年
『怠惰の罪』La Paresse 1961年
オムニバス『新七つの大罪』Les Sept péchés capitauxの一篇 『女と男のいる舗道』Vivre sa vie: Film en douze tableaux 1962年
『新世界』Il Nuovo mondo 1963年
オムニバス『ロゴパグ』Ro.Go.Pa.G.の一篇 『カラビニエ』Les Carabiniers 1963年
『軽蔑』Le Mépris 1963年
『オルリーについてのルポルタージュ』Reportage sur Orly 短篇 1964年
『はなればなれに』Bande à part 1964年
『立派な詐欺師』Le Grand escroc 1964年
オムニバス『世界詐欺物語』Plus belles escroqueries du mondeの一篇 『恋人のいる時間』Une femme mariée: Suite de fragments d'un film tourné en 1964 1964年
『アルファヴィル』Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution 1965年
『モンパルナスとルヴァロア』Montparnasse-Levallois 1965年
オムニバス『パリところどころ』Paris vu par...の一篇 『気狂いピエロ』Pierrot le fou 1965年
『男性・女性』Masculin féminin: 15 faits précis 1966年
『メイド・イン・USA』Made in U.S.A. 1966年
『彼女について私が知っている二、三の事柄』2 ou 3 choses que je sais d'elle 1966年
『未来展望』Anticipation, ou l'amour en l'an 2000 1967年
オムニバス『愛すべき女・女たち』Le Plus vieux métier du mondeの一篇 『カメラ・アイ』Camera eye 1967年
オムニバス『ベトナムから遠く離れて』Loin du Vietnamの一篇 『中国女』La Chinoise 1967年
『ウイークエンド』Week End 1967年
『たのしい知識』 Le Gai savoir 1968-1969年
『ワン・アメリカン・ムービー』One A.M. 1968-1972-共同監督D・A・ペネベイカー
『ワン・プラス・ワン』Sympathy for the Devil 1968年
『放蕩息子たちの出発と帰還』 L'Amore 1968年
オムニバス『愛と怒り』Amore e rabbiaの一篇 『シネトラクト』 Cinétracts 1968年 ※劇場公開されない5分程度の超短篇集
『あたりまえの映画』 Un film comme les autres 1968年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『ブリティッシュ・サウンズ』British Sounds 1969年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『プラウダ (真実)』Pravda 1969年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『東風』Le Vent d'est 1969年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
1970年代
『イタリアにおける闘争』Lotte in Italia 1970年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『勝利まで』 Jusqu'à la victoire 1970年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『ウラジミールとローザ』 Vladimir et Rosa 1971年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『万事快調』Tout va bien 1972年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『ジェーンへの手紙』 Letter to Jane 1972年 ※「ジガ・ヴェルトフ集団」名義
『パート2』Numéro deux 1975年
『うまくいってる?』Comment ça va? 1975-1978-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『6x2』Six fois deux / Sur et sous la communication テレビシリーズ 1976-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『ヒア & ゼア こことよそ』Ici et ailleurs 1976-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『二人の子どもフランス漫遊記』 France/tour/detour/deux/enfants テレビシリーズ 1977-1978年 共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『「勝手に逃げろ/人生」のシナリオ』 Scénario de 'Sauve qui peut la vie'  ビデオ映画 1979年
『勝手に逃げろ/人生』Sauve qui peut (la vie) 1979年
1980年代
『フレディ・ビュアシュへの手紙』Lettre à Freddy Buache 短編 1981年
『パッション』Passion 1982年
『「パッション」のためのシナリオ』Scénario du film 'Passion'  ビデオ映画 1982年
『映像を変えること』Changer d'image 1982年
オムニバス『様々な理由による変化』Changement à plus d'un titreの一篇 『カルメンという名の女』Prénom Carmen 1983年
『映画「こんにちは、マリア」のためのささやかな覚書』 Petites notes à propos du film 'Je vous salue, Marie' 1983年
『こんにちは、マリア』Je vous salue, Marie 1984年
『ゴダールのマリア』Je vous salue, Marieの本篇 『ゴダールの探偵』Détective 1985年
『ソフト&ハード』 Soft and Hard 1986-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『ウディ・アレン会見』 Meetin' WA 1986年
『映画というささやかな商売の栄華と衰退』 Série noire: Grandeur et décadence d'un petit commerce de cinéma (#1.21) テレビ映画 1986年
『アルミード』 Armide 1987年
オムニバス『アリア』Ariaの一篇 『右側に気をつけろ』Soigne ta droite 1987年
『ゴダールのリア王』King Lear 1987年
『言葉の力』 Puissance de la parole 1988年
『最後の言葉』Le dernier mot 1988年
テレビ映画『パリ・ストーリー』Les Français vus par...の一篇 『全員が練り歩いた』On s'est tous défilé 1988年
『ダルティ報告』Le Rapport Darty 1988-1989年
『ゴダールの映画史』 Histoire(s) du cinéma 『ゴダールの映画史 すべての歴史』 Histoire(s) du cinéma: Toutes les histoires ビデオ映画 1988-1998年
『ゴダールの映画史 ただ一つの歴史』 Histoire(s) du cinéma: Une histoire seule ビデオ映画 1989-1998年
1990年代
『ヌーヴェルヴァーグ』Nouvelle vague 1990年
『芸術の幼年期』L'enfance de l'art 1990-1991年
オムニバス『子どもたちはどうしてゆくか』Comment vont les enfantsの一篇 『インドネシア、トーマス・ワインガイのために』Pour Thomas Wainggai, Indonésie 1991-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
オムニバス『忘却に抗って』Contre l'oubli の一篇 『新ドイツ零年』Allemagne 90 neuf zéro 1991年
『パリジェンヌ・ピープル』 Parisienne People 1992-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『ゴダールの決別』Hélas pour moi 1992-1993年
『子どもたちはロシア風に遊ぶ』 Les Enfants jouent à la Russie 1993年
『たたえられよ、サラエヴォ』 Je vous salue, Sarajevo 短篇ビデオ映画 1993年
『JLG/自画像』JLG/JLG - autoportrait de décembre 1995年
『フランス映画の2×50年』 Deux fois cinquante ans de cinéma français 1995年
『フォーエヴァー・モーツァルト』For Ever Mozart 1996年
『TNSへのお別れ』Adieu au TNS 1996年
『プリュ・オー!』Plus oh! 1996年 ※フランス・ギャルのミュージック・ビデオ
『ゴダールの映画史』 Histoire(s) du cinéma 『映画史 映画だけが』 Histoire(s) du cinéma: Seul le cinéma ビデオ映画 1994-1998年
『映画史 命がけの美』 Histoire(s) du cinéma: Fatale beauté ビデオ映画 1994-1998年
『映画史 絶対の貨幣』 Histoire(s) du cinéma: La monnaie de l'absolu ビデオ映画 1995-1998年
『映画史 新たな波』 Histoire(s) du cinéma: Une vague nouvelle ビデオ映画 1995-1998年
『映画史 宇宙のコントロール』 Histoire(s) du cinéma: Le contrôle de l'univers ビデオ映画 1997-1998年
『映画史 徴(しるし)は至る所に』 Histoire(s) du cinéma: Les signes parmi nous ビデオ映画 1988-1998年
『オールド・プレイス』The Old Place 1998年
2000年代
『二十一世紀の起源』L'Origine du XXIème siècle 2000年
『愛の世紀』Éloge de l'amour 2001年
『時間の闇の中で』Dans le noir du temps 2002年
オムニバス『10ミニッツ・オールダー』の一篇 『自由と祖国』 Liberté et patrie ビデオ映画2002-共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル
『映画史特別編 選ばれた瞬間』 Moments choisis des histoire(s) du cinéma 2002年
『シャン・コントル・シャン』 Champ contre Champ 2002-2003年
オムニバス『パリ、ジュテーム』の一篇として製作 『アワーミュージック』Notre musique 2004年
『レフューズニクたちへの祈り』 Prières pour refuzniks 2004-2006年 『レフューズニクたちへの祈り (1)』 Prière pour refuzniks (1)
『レフューズニクたちへの祈り (2)』 Prière pour refuzniks (2)Reportage amateur (maquette expo) 2006年
『偽造旅券』Vrai-faux passeport 2006年 ※ポンピドゥー・センターでのゴダール展のための作品
『この人を見よ』 Ecce homo 2006年
Une bonne à tout faire (nouvelle version) 2006年
『演出家たちの日記 - ゴダール篇』TSR - Journal des réalisateurs : Jean-Luc Godard 2008年
『あるカタストロフ』 Une catastrophe 2008年 ※ウィーン国際映画祭のためのトレーラー
2010年代
『ゴダール・ソシアリスム』 Socialisme 2010年
The Lost: A Search for Six of Six Million 2010-小説The Lost: A Search for Six of Six Millionの映画化 
 
フランソワ・トリュフォー 

 

(François Roland Truffaut、1932-1984年) フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951-1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、2作目の短編映画(『あこがれ』)を演出し、翌1958年公開。1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った映画会社マルソー=コシノール当時のマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年のカンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であったジャン=リュック・ゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、ジュリアン・デュヴィヴィエやクロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。
フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。その一方でトリュフォー自身は事実上父親を持たず、結婚と離婚を繰り返して安寧な家庭を持てなかった。
1984年10月21日にガンで死去。フランスに留まらぬ世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力し合って映画を創り上げたゴダールだけは、葬儀にも訪れず、追悼文を著すこともなかった。しかし、のちにゴダールは、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、あらたに書き下ろした序文をこうしめくくっている。「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」。 
主な監督作品
ある訪問(短編、自主制作) -Une visite(1954年)
あこがれ(短編) -Les Mistons(1958年)
水の話(短編)-Une histoire d'eau (共同監督ジャン=リュック・ゴダール、1958年)
大人は判ってくれない -Les Quatre cents coups(1959年)
ピアニストを撃て -Tirez sur le pianiste(1960年)
突然炎のごとく -Jules et Jim(1961年)
アントワーヌとコレット/二十歳の恋 -L'Amour à vingt ans / Antoine et colette(1962年)『二十歳の恋』の一篇
柔らかい肌 -La Peau douce(1964年)
華氏451 -Fahrenheit 451(1966年)原作 レイ・ブラッドベリ「華氏451度」
黒衣の花嫁 -La Mariée était en noir(1968年)
夜霧の恋人たち -Baisers volés(1968年)
暗くなるまでこの恋を -La Sirène du Mississipi(1969年)
野性の少年 -L'Enfant sauvage(1970年)
家庭 -Domicile conjugal(1970年)
恋のエチュード -Les Deux anglaises et le continent(1971年)
私のように美しい娘 -Une belle fille comme moi(1972年)
アメリカの夜 -La Nuit américaine(1973年)
アデルの恋の物語 - L'Histoire d'Adèle H.(1975年)
トリュフォーの思春期 -L'Argent de poche(1976年)
恋愛日記 -L'Homme qui aimait les femmes(1977年)
緑色の部屋 -La Chambre verte(1978年)
逃げ去る恋 -L'Amour en fuite(1979年)
終電車 -Le Dernier métro(1980年)
隣の女 -La Femme d'à côté(1981年)
日曜日が待ち遠しい! -Vivement dimanche!(1983年) 
 
ルイ・マル 

 

(Louis Malle、1932-1995年) フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグの映画作家として知られる。
富豪の家に生まれる。第二次世界大戦中は疎開。ソルボンヌ大学で政治科学を専攻するが中退、パリのフランス国立高等映画学院(IDHEC、現Fémis)に入学。自己資金で製作した1957年の『死刑台のエレベーター』で25歳にして監督デビューした。この作品はマイルス・デイヴィスの即興的なサウンドトラックとともにヌーヴェルヴァーグの初期の作品として有名になる。他に『地下鉄のザジ』(1960年)、『鬼火』(1963年)、『ダメージ』(1992年)などの作品がある。1976年から1987年の間米国に移住。3度の結婚歴有り。1980年に女優のキャンディス・バーゲンと結婚した。
マルは、「カイエ・デュ・シネマ」誌とは一切関わりを持っておらず、ヌーヴェルヴァーグ運動に参加してはいない独立の作家である、という見方もある[1]。ジャンヌ・モローやジャン=クロード・ブリアリなどヌーヴェルヴァーグ的な相貌を持つ俳優を起用し、ジャン=ピエール・メルヴィル、クロード・シャブロルのスタッフである撮影監督アンリ・ドカエによるパリでのロケーション撮影等、人脈は共通している。『地下鉄のザジ』を観てインスパイアされたフランソワ・トリュフォーは、マルに長い手紙を書いている(トリュフォー作品中『大人は判ってくれない』のみ、ドカエがカメラを回している)。 
主な監督作品
沈黙の世界 -Le Monde du silence (1956)*ジャック=イヴ・クストーと共同監督。カンヌ国際映画祭パルムドール。
死刑台のエレベーター -Ascenseur pour l'échafaud (1957)
恋人たち - Les Amants (1958)*ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
地下鉄のザジ -Zazie dans le métro (1960)
私生活 -Vie privée (1962) 
鬼火 -Le Feu follet (1963)*ヴェネツィア国際映画祭審査員賞、イタリア批評家賞
ビバ!マリア -Viva Maria! (1965)
パリの大泥棒 -Le Voleur (1966)
世にも怪奇な物語 -Histoires extraordinaires (1967)*第2話のみ。
好奇心 -Le Souffle au coeur (1971)
ルシアンの青春 -Lacombe Lucien (1973)*英国アカデミー賞作品賞
ブラック・ムーン -Black Moon (1975)
プリティ・ベビー -Pretty Baby (1978)*カンヌ国際映画祭高等技術賞
アトランティック・シティ -Atlantic City (1980)*ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、他。米国フィルム登記簿作品。
アラモベイ -Alamo Bay (1985)
さよなら子供たち -Au revoir, les enfants (1987)*ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、セザール賞作品賞、他。
五月のミル -Milou en mai (1989)
ダメージ -Damage (1992)
42丁目のワーニャ -Vanya on 42nd Street (1994) 
 
アラン・レネ 

 

(Alain Resnais, 1922年- ) フランス、ヴァンヌ出身の映画監督。ヌーヴェルヴァーグの映画作家として知られる。
子供のころから映画を撮るのが好きで、フランスの高等映画学院(IDHEC)で学んだ。卒業後に短編映画を撮り始め、1948年に『Van Gogh』でアカデミー賞短編映画賞を受賞した。
第二次世界大戦時のドイツがポーランドに建設したアウシュヴィッツ収容所を描いた『夜と霧』(1955年)で注目された。
以後『二十四時間の情事』(1959年)、『去年マリエンバートで』(1961年)を発表。『去年マリエンバートで』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。
1958年(昭和33年)7月26日に来日している。 
主な監督作品
ヴァン・ゴッホ - Van Gogh (1948)短編
ゲルニカ - Guerunica (1949)短編
ゴーガン - Gauguin (1950)短編
彫像もまた死す - Les Statues meurent aussi (1954)クリス・マルケルと共同監督
夜と霧 - Nuit et brouillard (1955)短編
世界のすべての記憶 - Toute la Memoire du Monde (1956)短編
アトリエ15の記憶 - Le Mystere de l'Atelier 15 (1958)短編
スティレンの唄 - Le Chant du Styrene (1958)短編
二十四時間の情事- Hiroshima mon amour (1959):カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、NY批評家協会賞外国映画賞
去年マリエンバートで - L'Année dernière à Marienbad (1961):ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞
ミュリエル - Muriel ou Le temps d'un retour (1963)
戦争は終った - La Guerre est finie (1965):カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞
ベトナムから遠く離れて - Loin du Vietnam (1967)共同監督
ジュ・テーム、ジュ・テーム - Je t'aime,Je t'aime (1968)
薔薇のスタビスキー - Stavisky...(1974)
プロビデンス - Providence (1977):セザール賞作品賞、他
アメリカの伯父さん - Mon oncle d'Amérique (1980):カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ、NY批評家協会賞外国映画賞
人生は小説 - La Vie est un Roman (Life is a Bed of Roses) (1983)
メロ - Melo (1986)
恋するシャンソン - On connaît la chanson (1997):ベルリン国際映画祭銀熊賞
巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト) - Pas sur la bouche (2003)
Ces Chansons Qui Ont Change Ma Vie (Private Fears in Public Places) (2006)
風にそよぐ草 - Les Herbes folles (The Wild Grass) (2009) 
 
日本イスラーム史 / 小村不仁男

 

序文 藤枝晃先生 (カリフォルニア大学教授/京都大学名誉教授) 
本書の著者ムハンマッド・ムスタファ小村不二男君は、日本では極めて珍しいイスラム聖職者である。それも父君から引続いてのモスレムであるという。その様な例は、現在の日本では絶無なのではあるまいか。
同君は、戦時中に蒙古の厚和(現在の内蒙古自治区呼和特市)に在ってイスラム関係の仕事に携さわっていた由である。私も一九四四年春に張家口に設立せられた西北研究所の所員となり、同年夏に蒙疆地区のイスラム事情調査のため厚和を訪れたが、その時は同君は軍隊に刀口集せられて会うことはできなかった。
私は、戦後に引揚げて京都の東方文化研究所に復職し、この研究所は三十年後に京都大学人文科学研究所に改組せられた。その数年後と思うが、小村君と故サリーム築山刀君(興亜義塾三期生)と共に私を訪ねて来られた。
これが小村君との初対面であったが、同君は職務の関係で蒙古善隣協会といろいろ因縁があり、西北研究所も興亜義塾も、蒙古善隣協会の経常に係り、三人の間には共通する話題がたくさんあった。
のち小村君は東京に移ったが、この数年来、私が上京するごとに旅宿に米誌せられ、また同君が京都へ来ることもあり、会談と文通の機会が多くなった。その間に同君が「日本イスラーム史」の執筆に精根を傾けていたことは聞いたが、昨年春にその原稿が完成したについて出版の相談をうけた。だが、このような商業出版に向かない本については、私は何の力にもなり得なかった。
ところが数一月前に出版の運びになったと知らされ、且つ驚き、且つ喜んだ。喜んだというのは、日本でのイスラームの歴史の大半は著者自身の足跡であり、般の眼には触れない日本の歴史の一つの側面が、伝聞や借りものでなく、著者自身の体験として語られた貴重な記録だからである。
一史学者として私は、本書の発刊を心から祝福したい。同時に、本書をここまで仕上げた小村君の労を多とする次第である。一九八八年二月一日 
第一章 奈良・平安時代  

 

初めてアラビア人と接した遺唐使
極東の海上に偏した島国に住む日本人がイスラームという宗教を信奉している回教徒に最初に面接したのは一体いつ頃のことで、それは誰であったのであろうか。現在、はっきり史料として遺されている最古の文献として「続日本紀」の中に「大食国」の文字が見えるが、それが最初であろうとするのが斯界の専門史家の一致した定説となっている。
「大食」とは「大石」「大氏」などの文字とともに、当時の中国で「タージ(TAZI)」ないし「タヂーク(TAZIK)」を広く呼称したときの音訳を適当な漢字にあてはめたのが、そもそもこの名称の起源とされている。(注=現にソ連邦治下の中央アジアにタジック共和国と称するイラン系民族で構成されているイスラーム国家が存在する)
さて、この記事は大唐天宝十二載とあり、唐の第六代皇帝玄宗のときのことであるが、日本でいえば聖武天皇の天平勝宝五年(西暦七五三)に相当し、またイスラーム暦(ヒジュラ暦)では一三五年から一三六年の間に当る。今から逆算しておよそ千二百三十余年も昔のことであるが、ここに出てくる人物は遺唐副使・大作古麻呂で、彼が大食国人すなわち回教徒に会った最初の日本人であると推断される。
もう少し文容を詳記すると、この年の唐朝の正月の拝賀式における玄宗皇帝との謁見式の場面で席順争いが惹起された。すなわち諸外国の使節が列席する席次は首位が大食(アラビア)、次席が吐蕃(チベット)、つづいて新羅(韓国)そして第四番目が日本という序列になっていた。これを見た大作古麻呂は色をなして憤激し、新羅はずっと昔から大日本国へ朝貢している国である。どうして新羅の下位に立つ筋があろうかと抗議した。そこで日本の使節は改めて新羅の上席にランクされだというのである。この史実から推考すると、当時日本からの遣唐使節は前後十九回も実施されているので、それらの使節はその都度、この「大食国」すなわちアラビアの使臣に唐の部長安(現西安)の宮廷で互いに顔を合わせていたものと見られる。
以上は七五三年頃のことであるからこのアラビア人の使節はれっきとした回教徒(ムスリム)である。なんとなればそれは六二二年のイスラームの発祥から百三十年も後のことである。ところが、千四五百年前から来日していたイラン人は未だムスリムにはなっていないが、その後まもなくイスラーム化した国である中央アジアのトカラ(吐火羅)という国から日本へやって来た人たちがいる。それは前記の事項よりも以前のことであるが「日本書紀」の中の「有明記」に以下の内容が記載されてある。
トカラ(吐火羅)国の勇二人文四人が奄美大島あたりで難破したすえに筑紫の海岸に漂着した。有明天皇の白雉四年(六五三)七月三日のことである。このトカラ国とはトカレスタンすなわち今のイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境線に沿うあたりである。
では、この頃のイランの状態はどうであったか。新興勢力アラブ・サラセン軍の破竹の勢の遠征軍に圧倒されたイランのササーン王朝最後の皇帝ヤズダギルド三世は、その力戦も空しく六四一年ニハーワンドの一戦で完敗し遂にササーン王朝はここに滅亡した。
こうしてイスラーム・サラセン軍の西方よりの侵略によりトカレスタン地方を含むイランの人たちは東へ東へと移動して唐の部長安まで亡命して来た。その中の数人が来日したものであろう。
ともあれ、彼らは未だ一個のムスリムとしてイスラームにはこの時点では帰依していなかったかも知れないが、大作古麻呂の一件より百年も前に程なくイスラーム国に改宗するイランの東北部トハリスタンからはるばる日本の上を最初に踏んだ人たちであった。
またこうした実例は「続日本紀」や「日本書紀」のような、はっきりとした史料文献上には見られないが最近の専門学者の研究の結果によれば、この時期の前後に建立された大和の飛鳥寺やその当時に掘られた大和の池の形が円形でなく方形式の多いことから類推して、イラン人の造形技術によるものと論考されているこうしたことからも当時イランから中国を経由して来日し、日本の造形文化になにがしかの寄与をした人がかなりあったのではないかと推断される。  
鑑真和上に随行した回教徒
次は奈良に唐招提寺を建立した唐の高僧、鑑真が来日に際し帯同した随員三名の中にムスリムらしい人物が一名いることに注目したい。「唐大和上東征伝」という史料中の天宝十三蔵(七五四)の記事にある胡人の安和宝である。
もともと中央アジアのブハーラー出身者が中国では漢字で「安」の字をよく名乗るケースが多い。このブハーラー地方は史家の研究によれば六七四年以来しばしばイスラーム・サラセン軍に侵攻され七一〇年にはアラビアの有名な猛将クタイバ・ビン・ムスリムによって同地方は占領されモスク(回教寺院)も各所に創建されていたという。
したがってこの安和宝も、この頃にはムスリムになっていた可能性が強い。ではこの随員一二名の中の他の二名はどうであったろうか。
同伝によると、崑崙国人の軍法刀と謄波国人の善聴の二名となっている。前者は学者の研究によれば今のマレーシア地方で、後者は今のベトナム(インドシナ)にだいたい比定されている。だがマレーシア方面へのイスラームの教勢が浸透し始めたのは、ずっとこれより後世のことで、ヒンズウ教や仏教の勢力を駆逐して回教が定着したのは十五世紀頃であるし、後者は当時はむろんのこと今でもムスリムは割合い少ない土地である。
したがってこの鑑真和上の随員三名のうちにムスリムらしいと思われるのは安和宝ひとりだけということになる。
さらにこの「続日本書紀」の天平八年(七三六)十月の頃に「波新人李密医等授位有差」とあるが、この人もペルシャ人のムスリムではないかと想定されるのである。
もうこの時点ではペルシャの国はこれよりおよそ百年近くも以前にイスラムに改宗せしめられているから史家によってはその研究の結果、かれは多くの回教徒中わずかに残されたマニ教徒ないしゾロアスター教(拝火教)徒か、ないし仏教徒ではなかろうかと、種々の関係史料を物色採用研究してそれらを考証されている。したがってこの李密医をただちにムスリムであると即断はできないがその可能性は大いにありうるのである。 
仏教寺院にも回教圏の物産が
奈良時代における物資による西域イスラーム圏との関係はどうであったであろうか。
先にも述べた「唐大和上東征伝」によると鑑真和上が天宝九載すなわち七五〇年に日本へ渡航するに先立ち、当時世界でも最も殷賑で繁栄していた中国の貿易港である広州や揚州を訪れ、いろいろな種類の珍奇な多くの産物を購入している記事が兄える。それらは日本へ米朝する際の「おみやげ」として奈良の都まで将来されたのではなかろうか。
その中の一例を挙げると香料だけでも十数種類がありたとえば龍脳香、安息(ペルシャ)香、零陵香、青木香(木香)、薫陸香(乳香)等々でその多くはイランあるいはアラビアなどイスラーム圏における物産が多い。
しかもこれらイスラーム圏の所産が奈良の古寺に今日も見られる密教的儀礼や儀式・密教授戒の際の法具等に転用され活用されているのも皮肉というか奇妙というべきか、ここにも遠く千年むかしの歴史の断面が窺えるのではなかろうか。
ちなみにイスラーム圏からはじめて来た玻璃器を、仏教寺院のみに限らず奈良朝から平安朝時代における宮廷貴族たちがすこぶる珍重し、鍾愛するところとなったのは、今日正倉院御物として大切に温存されている西域すなわちイスラーム諸国製の幾多の宝物類を見ても判然とするところである。 
棉種を伝えた天竺(パキスタン)人
桓武天皇が京都を平安京として定めた五年目の延暦十八年(七九九)七月、突如として三河国(静岡県)の海岸に一小船が漂着した。今の陽暦でいえば八月下旬か九月初旬に当るからちょうど台風シーズンに遭遇したのであろう。
この船中にたまたま崑崙人が乗り組んでいた(一説には天竺人とあり)が、この人たちが日本に初めて綿種を伝えた−と、「日本復紀」に誌されてある。この崑崙人が前に述べたマレーシア系であるか、また天竺人かインド(今のパキスタンを含む)人であるか確証はできないが、綿種とあるから綿の多産地である今のパキスタン方面からの漂着民であったかも知れない。
もしそうだとすればアラブのイスラーム遠征軍はインダス河流域をこの時点より約八十年も前に占領しているので彼らはムスリムであった可能性が強い。 
宮廷雅楽と西域の楽器
中国で盛唐時代に盛んに行われた音楽や舞踏の中で「唐国楽」はサマルカンド、「安国楽」はブハーラー、「亀弦楽」はクチアそして「高昌楽」はトルファン、「疏勒楽」はカシュガルの、それぞれの国の昔楽であるがそれらはいずれもペルシャの音曲であった。
これからみても、いわゆるペルシャ系の胡国舞楽がいかに多く中国本土へ伝来されているかが判明されるのである。
余談ではあるが筆者は今から十数年前に全く偶然の機会に郷里京都の八坂神社境内の歌染殿で御神前に奉納される「蘭陵王」とか「鉢頭」とか「払林」とか称する雅楽をまのあたり鑑賞したことがある。たそがれちょうど十一月二十三日の旧新嘗祭の黄昏時で、その哀調切々たる一種エキゾチックなリズムは憂愁感に溢れた西域ならではの雅楽であったことでとくに印象に残っている。
ともあれこのときふと筆者が連想したのがほぼ四十五・六年前に内モンゴルの一角で遠くトルキスタンから亡命中のウィグル族の志士たちがつれづれに奏でるエキゾチックな音曲に術碗としていたことである。
ちなみに「払林」とは、当時東ローマ帝国に所属していた現在のシリア地方のことで今でいうシルク・ロードの最西端のターミナルにあたるが、前述のうち幾曲かは干余年後の今日でも日本の宮廷雅楽の一部として採りいれられ脈々と伝承されているのである。
楽器類を正倉院御物中に見てみても琵琶・阮咸等イラン。イスラーム系のそれらを多く発見することができる。ことに五弦琵琶の腹板に大きくくっきりとデーツ(ナツメ椰子)の樹が描かれているのは注目に価する。この樹木はイラク始めアラブ圏特有の植物である。
奈良の平城京を中心とする天平時代はあたかも西方ではかの世界文明史上に有名なサラセン文化興隆の最盛期にあたりイスラームの教練がこのアラブを軸心にして東西両陣にもっとも伸張し拡延した時代でもあったのである。
したがってなんらかの形でこうした楽器のモチーフとなって文物を通じてイスラーム諸国との影響が充分に感受されるのである。現にこれら平安朝時代に日本に伝来したといわれるタージー唐の「五弦琴譜」の中に「大食」(アラビア)調の楽譜が掲載されているのも、前述した胡楽とともにそれらの明白な証のひとつであろう。 
西域地方の胡国の特産
この奈良平安朝時代にもっとも関係のあった胡人および胡国と、日本との触れ合いはどのようであったであろうか。
さきに「唐大和上東征伝」中に唐の高僧鑑真に随行した弟子の一人に「胡国人安和室」のいたことはすでに誌した。ではいったい「胡」とはどこの地方を指すのであろうか。これは現在でいえば中央アジアの東西両トルキスタン地方を基軸に東は旧満州の一部西はイランの一部を含む広範な地帯を漠然と「胡」と称していたらしい。
したがって一般に「西域」と呼称していた領域とほぼ同一地帯であって、この胡国の特産物とされていたゴマ(胡麻)キュウリ(胡瓜)クルミ(胡桃)などの農産物の名称に「胡」の字を冠してその起源地を表明しているのを兄でもこれが容易にうなずけるであろう。
またこうした日本へ渡米した野菜や果実類の名称のみに限らず腰かけたり、あぐらをかくことを胡床とか胡坐という漢字をもって表現しているのを見てもこれらはもともと胡国すなわち西域の習俗から由来していることが判るというものである。
このような諸点から観ればイスラームという宗教信仰は別として千年以上も昔から日本はいろいろな点で西域イスラームの国々と交渉や接触があったことを知ることができるであろう。 
ソグド(粟特)語の知識と七曜表
イスラーム調の音楽についでわれわれが注目しなければならないのは、この平安朝時代の文献である「御堂関白記」「兵範記」「水左記」等に日曜日から土曜日よまでに至る七曜表が記入され、それぞれの曜日の訓み方を漢字をもってソグド(粟特)誌の音訳が付せられていることである。
もともとこのソグド(粟特)語なる言語は、この方面の言語学者の研究によるとイラン語系の一分派語であるとされている。
(日曜日)密−MIR
(月曜日)莫−MAQU
(火曜日)雲漢−WUQAN(以下略)の如くである。そしてこのソグド語は現在のソ連領中央アジアのサマルカンドからボーハラを含む一帯の中央アジア地方で話され、時代的には中国の五胡十六国時代にその起源をもつ古い言葉であるとされている。当時における商業民族としてのソグド人は有名で、その発祥地サマルカンドあたりから、すでに現ウイグル自治区のロブ・ノール(羅布湖)を経て甘粛省の涼州付近までその商業路を開拓していたといわれ、その頃の彼らは從前から信仰していたマニ教からイスラームにすでに改宗していた種族だとされている。
こうした関係でこのソグド語は当時一種の「国際語」のような役割を演じ、インド発祥の仏典が本来ボン語で誌されていたので、仏典の中には一旦このソグド語に翻訳してから改めて漢語に重訳されたものも少くないと、最近になって判明されたくらいである。
したがって、平安朝時代に入唐求法した仏教僧侶の中には唐の五台山や有名な古寺名刹を巡礼したり、唐の高僧たちについて修行している間にそのかたわら西域の言葉であるこのソグド語も勉強して帰国したのではなかろうか。ちなみにソグドの原意はイラン語で「光明清浄」という意味だそうである。
そもそもこの七曜そのものがイラン系の所産、であれば日本の入唐僧もイスラームそのものに対する経典や教義の直接的な認識や理解をするまでには至らなかったが、このソグド語を通じて前記七曜表のごとく多少の利点や余恵があったことも事実であろう。 
双六(チェス)や打球(ポロ)もインドやイランから
宇多天皇の寛平六年(八九四)遺唐大使に任命された菅原道真の進言によって奈良朝時代以来の慣例となっていた遣唐使制度が廃止され、以後わが国は一時的に村中国との文物の流通が壮絶ないし沈滞してきた。しかし中国人自身の南海貿易によってインドやアラブ方面所産の珍奇な物資が広州や楊州を仲継港として日本にもたらされた。
この頃には中国はすでに唐の代から宋の代に移り平清盛らはこの宋とみずから日宋貿易の道を開き、宋を通じて間接的ではあるがイスラーム圏よりの若干の文物も日本へ招来された。
卑近な一例を挙げると、室内遊戯の双六や戸外ゲームの打球の類はインドのチェスやイランのポロがもともとその発現の地であって平安時代後期の優雅な宮廷貴族たちはこうした一種の異国趣味の遊びに打ち興じたのである。
その他いま現存してい・る物の中では平清盛がみずから開拓した対米貿易によって日本へもたらしたサラセン式偃月刀スタイルの宝刀が巖島神社の宝物殿に秘蔵されてある。この剣は日本吉来の固有の刀剣類とはまた趣を異にする一種のアラビア・サラセン的な情緒と形態をもつユニークな秘剣のように感受される。こうして時代が進展するにつれて西域方面からは陸路「シルク・ロード」を通じて東灘しまたアラブ圏からは海路「南海香料の道」をたどってイスラーム関係の文物も緩慢ながら徐々に日本へ伝来されるようになった。
そして奈良朝時代においてはそれらを受容しあるいはみずから将来した品であるにも拘らず、ただ当時としては単に珍奇てがって今まで見たこともないという逸品としてそれらを珍重するに過ぎなかった。
だが平安朝もだんだん後半期になるとイスラームという宗教信仰に対する知識や概念は依然としてあい変らず無知蒙昧であったにせよ彼らの海外への視野がわずかに開けはじめ、奈良時代におけるそれらの人たちよりも西方の輪郭もそれらの品々を通じておぼろげながらも浮き彫りされるように進んで来たのである。 
第二章 鎌倉幕府時代 

 

元の皇帝フビライの使節団中にいた回教徒
鎌倉時代になると、いわゆる武家政治の確立を見るに至り、地方在住の豪族や領主が抬頭しはじめ、かっての宮廷政治からこんどは武力を基盤とする武士たちの地方封建制度に移行するようになった。
しかし彼ら封建諸候たち自身も宮廷貴族たちに劣らず結構異国趣味が旺盛であったので、各大名は自力で対米貿易の開拓に乗りだしためである。つまり從前の公的貿易からこんどは私的貿易により荘園領主や富裕な豪商たちは積極的に通商政策を実施する様相の時代に変容しつつあった。
またこれに伴い中国の航海業者や船乗りたちも南海貿易による多年の体験を活かし毎年のモンスーンの交替期を利用して航行日数と運行の労力をセイブし海上の危険も予防してその安全性と効率性を発揮するようになった。
こうして日本からは砂金を輸出し、宋の国からは銀貨や銅銭を輸入する方式が多かったのでマルコ・ポーロらによって日本の国があたかも黄金郷(ヂバング)のごとく誤解されて西方やモンゴル族の元朝に喧伝されるようになり、これが元帝フビライの日本襲来の直接的な動因ともなったのである。
元寇の役による文永・弘安二度の元軍の敗退により元朝側では報復の意味もあって日本商船の自国沿岸への入港に妨害を加へこれを阻止しようと試みるようになった。
そこで日本の私的貿易者らはその対策として数十隻の船団を組み全員武装して接岸し強行上陸をも敢えて辞せぬようになった。これが世にいう「和寇」のことで、相手国へ恐怖と脅威を与え、沿岸地区の防護を一層厳重なならしめたために、かえって防護の方の効果は余りなかった。
というのはこの和寇の中には源平対立時代以来、その配下となって活動した瀬戸内海すじの河野・村上の一族や筑紫の松浦党らの勇猛なる水軍が参加していたからである。
ちょうどこの頃、東シナ海に面した海港は南海貿易で栄え、殊にその最大の広州などにはアラビア人(一説にはペルシャ人)の蒲寿庚やその兄の蒲寿?らのいる外人居留民区があって「南轡渡来」の珍品奇貨が人目を惹き和寇にとってはかっこうの好餌となったことであろう。
こうして時代が漸次進展するにつれ日本人の関心は、中国本土からさらに南下してフィリピンのルソンからインドネシア・マラッカ、インド・イラン方面にまで深まってきた。
回教圏の東端の一部にわずかながら近接し、その接触が始まったのである。
その後、足利直義が夢窓陳石らと相談して興国四年(二三四一)に天龍寺船を建造し、元の国に派遣したが、こうした動きは南蛮貿易をきっかけとして日本人の関心が回教圏にまで広がってきたためといえよう。 
元忠の役と四回炮使節団中にいた回教徒
文永十一年(一二七四)十月二十日、日本に侵攻した元軍は博多湾であえなく全滅した。元の軍船が「神風」が吹き荒れて海中に沈没したためである。このとき元軍十余万人は、ことごとくその軍船とともに運命を共にした。しかし、元の皇帝フビライはこれにこりず建治元年(一二七五)二月、再び使節を派遣して日本に朝貢を強要した。
使者は全部で五名で同年四月十五日長門国宝津へ上陸した。正使の礼部侍郎杜世忠は元入すなわちモンゴル民族で三十四才。副使の丘八部侍郎何文著は米人すなわち漢民族である。次に三名の随員筆頭は承仕郎(討議官)という職掌にあった撤魯都丁で三十二才のペルシャ人であろう。そして書状官の果は三十二才のウイグル人で、この両者は明らかにムスリム(回教徒)である。そして最後の通訳官である徐賛は高麗人で三十三才であった。
彼ら五名は執権北条時宗の命で鎌倉へ護送され数ヵ月同地に滞留されて後、九月七日五人とも龍の口で斬首されてしまった。現在の藤沢市江ノ島付近である。この断乎たる処刑が第二次元寇すなわち弘安の役の発端となったことは史上に有名である。現在もこの斬首された使節五名の五人塚が藤沢市内の常立寺境内に建立されて遺っており、その碑面には自分たちの故郷や妻子を憶う切々たる哀愁の情をうったえている文容がきざまれている。
こうした使節一行の出身地から推察しても日本へ侵攻した元軍二十余万と呼号する大軍のその中には基幹部隊の元入(モンゴル族)のほか、金入(満州ツングース族)、南宋人(漢民族)、高麗人(韓国)等の占領地区の外人部隊が多数召集されたことは光然であろうが、同様に西域トルキスタン人やウィグル・ハザック族出身のムスリム混成部隊も動員をかけられてこの二十余万人の大軍の隷下に参加したであろうことも考察されるところである。この元朝時代は中国の歴代王朝といっても回教が中国へ伝来してから後のことであるから、唐・栄・元・明・清の各時代の中でも最も回教徒を優遇し彼らを色目人と呼んで適材適所に広く登用した時代であった。
その中でも有名なのは、世祖フビライが、西域(西トルキスタン)の木哈里(ボハーラ)の回教徒出身である阿老風下(アラツディン)と亦司馬昔(イスマイル)という砲術技師を自国のモンゴルへ招請すべく使節を派遣したことである。そして厚遇をもって召しかかえ火砲の製造を命じたといわれる。そのほかにも西域の旭烈(ホラズム=今のイラン東北部でアフガニスタンとの国境地帯)の易司馬因(イスマイル)に命じて重さ一五〇斤の巨砲を造らせて攻城戦に大いに役立たしめたと「元史、工芸伝」の中に記載されてあるが、これらはいわゆる通称「回国炮」(ホイホイパオ)のことであろう。
射程の長短や命中率の可否はともかく、これら西域の回教徒が開発した光時の近代火器は一発発射するごとにその轟然たる砲声と音響は文字通り震天動地の物凄さで、この鎌倉時代の博多湾防備にあたる武士たちのど肝を抜く点においては相当効果があったようである。
したがって元軍の船団が筑紫の海岸近く接岸して船上より放つ「回回炮」の強烈な威力は水際に構築された防壁の石垣ぐらいは容易に破壊できて弓矢の合戦しか知らないその頃の日本の武士たち河野道有・竹崎季長・松浦至情ら猛将の意表をついたわけで、それこそ「神風」でも吹かなければ鎌倉武士団もまさに危いところであった。
ちなみにイスラム・サラセン帝国の首都の一つであるバグダッド(現イラクの首都)が世界随一の人口と繁栄を誇りながらモンゴル遠征軍によってあえなく陥落したのもこの「四回炮」の威力による城壁破壊が大きな原因であった。 
江戸時代使用の「貞享暦」は実はイスラーム暦に由来
世祖フビライは、この回回炮という当時としては最新式の火砲の製法をその頃「色目人」と呼ばれた西域の回教徒から移入したが、その一方では西域のイラン人(当時のペルシャ人)を研究してそれを採用した。
この十三世紀時代はイランではイスラームの文学がいちじるしく進歩していたので、その道の専門家ジャマル・ウッディンに命じて「万年暦」を、ついでクワマル・ウッディンに命じて「回回暦日」を制定せしめた。前者は二一六七年であり後者は二一七九年のことであった。この暦が、中国を通じて伝来し徳川五代将軍綱吉の貞享元年(一六八四)十月にそれまで使用していた「大統暦」を廃止して新採用した「貞享暦」と呼ばれるもので、これは実はイラン人のムスリムが開発したイスラーム暦であったのである。
この「貞享暦」は明治五年(一八七二)十二月三日をもって明治六年一月一日と改正された現行の「太陽暦」が政府によって正式に制定されるまで、広く利用されていたのである。しかし当時の人々はむろんのこと現代人でも「貞享暦」がその淵源をたどれば実はイスラームの暦法に準拠して日月が算定されてできたものであり、明治以前の日本人は皆そのイスラームの恩沢を蒙っていた事実を知る人はほとんどいないであろう。 
第三章 室町時代  

 

アラビア人と国際結婚した京の女性
応永十五年(一四〇八)六月二十二日、若挾(福井県)の中長浜に一夜暴風雨にあった二隻の南蛮船が漂着した。
この難破船の中に亜烈進(アラジン卿)というサルタン(首長)一行が日本の国王に献上するための生家一頭、アラビア馬数頭、孔雀二対その他オウムなど、当時としては、たいへん珍しい南海の特産物を積載していた。この南蛮船の亜烈進卿はアラビア人ではなく実は今のマレーシア系の首長でこの船自体もスマトラ島の船であったであろうと推考されている。
ともあれ同船は修理されて翌年十月一日、一年半振りに小浜を出帆して帰国の途についた。日本人としては初めて見た巨象はさっそく京都へ運ばれ、ときの将軍足利義持をして一驚を吃せしめた。恐らくこの象は当時南蛮貿易に従事していたジャワの商人がインドから輸入したものであろう。そしてこの象は応永十八年
(一四一一)二月に義持から朝鮮国王の太宗に献送された。義持が以前この朝鮮から大蔵経をもらった返礼の意味でのプレゼソトであったのかも知れない。朝鮮でも実際に活きている巨象を見たのはこれが最初であった。太宗はこれを大切に飼育していたが日々豆を四・五斗も喰い、その士見物に来ていた人を踏み殺したので、やむを得ず某島に隔離して飼育することにしたという。以上は「李朝太宗実録」に記載されている史実である。
そのほか、この年には漂着船ではなくジャワの船が博多港に入港したという史実もあり、室町時代になって南海水域からの異国船が航海術の発展とともに日本沿岸へも出没し始めるようになる。
ただ南方の船舶や物産珍貨は日本へ渡来して南方イスラーム圏との物質、経済面での交渉は開始されてくるのであるが、宗教信仰を対象としてのイスラームとなるとまだこの時点では日本とは遺憾ながら結ばれるに至らず無縁の状態であった。 
アラビア商船ど琉球列島
琉球列島は、アラビア人との交渉については日本本土よりも早かったが、これは地理的位置からみて当然であった。
宋・明時代の中国沿岸の東シナ海に面した要津にはすでにアラビア商人が商業的基盤を保有していたので、そこから一次帯水の海域にある琉球列島に近接を試みんとしたのもごく当然のことである。
「歴代宝案」という史料には、明の宣藻ェ年(一四三三)すなわち永享五年十月にアラビア人阿蒲察都(アブーサット)を使節とする商船隊がジャワ・スマトラ・スンダ等の南方各地で採集した藤木や胡椒などの香料を携行して琉球の中山王を訪問したという記事が掲載されてある。
それらの品々はこの琉球を媒介として日本や朝鮮を相手に転売されたが、当時、琉球列島がそれらの国々への仲継貿易の基地的役割すら演じていたのである。 
京に伝わる七百六十余年昔のイラン文の古書
京都の旧家、山田長左衛門邸に伝来されてある古文書「南番文字」は七百六十余年も昔のイラン(ペ〃シャ)文として国の重要文化財指定となっているが、この古文書の来歴ならびにその文意については以下のような経緯がある。
もともとこの古文書は栂尾の名刹、高山寺支院である方便智院伝来の寺宝となっていたのであるが、幕末動乱のどさくさに紛れてこの寺から外部のどこかへ流失してしまったものらしい。
だがそれ以前の縁由については割合はっきりしていて松尾洛西の法華山寺にいた慶政上人が自分とかねて親交のあった高山寺の住職分和尚こと明急上人に対して宋に留学して帰国したときの記念品として贈呈したものと考証されている。
すなわち慶政上人が入宋して各地を巡歴修行中の嘉定十年(一二一七)頃のこと、広州か泉州の港に定泊中の船中で南番人(イラン人)から寄贈を受けたものと判明したが、おそらくこのイラン人も貿易か何かで本国から来航して同地で暫く滞留していた一ムスリムであったのであろう。
このことは、第二次大戦中に、京都帝国大学の総長であった西域史研究の世界的権威、羽田亨博士が明治四十二年(一九〇九)に、まだ二十八才のときに発表された研究の成果として斯界に有名である。博士はこの古文書の所有者である山田最左衛門の祖父永年翁と特別眼懇の仲であったので特に翁に乞われて、今まで長い間にわたり不明であった当時南轡文字とよばれたこの難解なペルシャ文を鋭意苦心のすえ解読されさらに次のように註釈を付記せられたのである。 1. 喜びの世は誰とも永く留ることなし 2. 神はこの日与えて次の日去り給う 3. 現世(このよ)は懐かし、されど我らは立ち別れぬべき外はあらず 4. 人の道を除きては人のものとして後に遺るはなし 5. 最期(いまは)の際に待て暫しのきくものならば 6. おん身見守りて眼を娯(たの)しませてありぬべきを 7. ああされど、この碧空か我れに背きて去りぬべき日は 8. さらば我れはおん身に、さらばおん身は我れに。 
真言宗の大本山にイスラムの秘宝が
明の時代に、遺明専使としてかの地へ渡った東洋允澎の著作「東洋允澎入唐記」中に次の記事が誌されてある。すなわち享徳元年(一四五二)三月末にこの東洋允澎らは肥前(長崎県)五島を出航した。彼らが乗船したのは、いわゆる「天龍寺船」であって洛西の天竜寺、大和の長谷寺それに多武峰の妙薬寺の王寺院が合議のすえ幕府(将軍足利義政)に要請してその許可を受け、明へ臓産物(主として金など)や武器(刀槍の類)を輸出する交易船であった。専使東洋一行は同年十月二十日北京に安着して代宗に謁見した。この日たまたま「四回人」も来朝しており彼らは馬二十匹を献納した−伝々、という記事である。
さらにその翌日東洋らは「回回人館」を見学し、梵字に似ているようで、梵字(ぼんじ)でもなさそうな一種異様な字体に接して一同不思議な思いをする。これはアラビア文字であることは疑いないが、この「回回人館」はこの時点よりおよそ半世紀も以前に明朝が開設した「四夷館」のうちの一つで、これはアラビア語やイラン語・ペルシャ語・ウィグル語などを教習する語学施設で、言わば官立の通訳要員を養成する教育機関の一種であったのであろう。
また別項にはそれから日を改めて日本から持参した財宝や物産を献上するときの場面や、賜餐のときの光景が述べられ、日本はじめラマ(チベット)、高麗(韓国)、縫旦四回(トルコ・クタール)女真一旧満州一雲南四川琉球等からの使節が列席していたと誌している。
恐らく日本人の手記による文献上でこの「回回」という文字を使用して現地の模様を伝えたこれが最初の一コマてあろう。
筆者は先年、大和の名刹であり牡丹でも有名な長谷寺の寺宝として、なんとイスラーム・スタイルの玻璃の花瓶が秘蔵されているのを、たまたまその宝物館を見学していて発見し、一驚を吃した想出があった。この長谷寺は申すまでもなく新義真言宗の大本山として世に知られているが、この仏教寺院にある玻璃の花瓶は、他にはトルコのイスタンブールの博物館に所蔵されている物以外には皆無であると承った。それが、如何なる縁由と経路でここまで搬送されたのか一見不審であったが、前述の史料から類推してこの東洋允澎らに随従していた長谷寺の僧侶がこのとき明との交換物の見返りとして自坊に将来したのではなかろうかと推考するに至ったのである。 
六百年昔に京で日本人女性と国際結婚したアラブ人第一号
今から約六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラピア人が住んでいた。場所は三条坊門烏丸で、現在の中京区御地烏丸付近にあたり、ちょうど京都市役所から南へ万百メートルあるかないかの近距離のところである。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の一つである相国寺の僧絶海中津らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。永和二年(二二七六)のごとく南北両朝の対立抗争のさ中であった。
彼は日本に入国後に摂津の楠葉つまり今の大阪府下枚方市樽葉在の一日本婦人と結婚して二兎をもうけた。長男はムスルと呼ばれいわゆる日ア混血児である。このムスルとはムスリムかあるいはアル・マウシルの転化ではなかろうか。
さて、ムスルはその後母方の姓を採って楠葉入道西忍と名乗り、次男は民部卿入道と呼んだ。次男には子供ができなかったが、長男のムスルには三人の男児が出生した。
ムスルは義満の次の四代将軍義持に重用された。彼が海外事情とりわけ明の国情に詳しくその上に航海術に精通していたからである。三十六本のをき以来再三にわたり父ヒシリゆかりの明の国に渡航して足利幕府の海外通商貿易の今くいう顧問のような役職に就任していた。
彼は義持将軍の没後隠退してからは大和(奈良県)の古市に転居し文明十八年(一四八六)に、九十三才の天寿を全うして長逝したと伝えられている。以上は「大乗除寺社雑事記」という史料に所載されたものの中からの摘記である。 
第四章 安土・桃山時代  

 

祇園祭の鉾に懸けたペルシャ製カーペット
彼我の接触はあったが未だに開花結実せず安土・桃山時代になると、海外方面では十六世紀後半から始まった「和寇」による武力を背景とする私的貿易がどうやら終息をつけ、国内では足利将軍の権勢が衰微し、新しい社会情勢の進化にともない近世封建制度の新形態がだんだん整備され始めた。群雄割拠の国内では、織田信長そして豊臣秀吉へと天下の大勢は移っていったが、海外との交流に於いては、中国や天竺に限られた領域を対象とする時代から一躍ヨーロッパとの接触の端緒が間かれる時代に進んだ。一つは天文十二年(一五四三)八月十二日にポルトガル人の種子島漂着による火縄銃の伝来である。さらにそれから六年後の天文十八年(一五四九)七月三日のフランシス・ザビエルの鹿児島上陸とキリスト教の伝道開始である。この二つの出来事は日本人に強い衝撃を与え、同時に海外への視野もひろがり、ようやく新しい世界観への開眼をうながすようになった。
この時点から徳川幕府による鎖国政簾が実施されるまでの約百年間は、海外にある異国への限りなき憧憬と一種の好奇心から、またそれから受ける実利実益という観点から「御朱印船」が、フィリピンからタイ・安南(ベトナム)、インドネシア・マレーシア地方の諸島に達する新航路を開拓して活発に来往していた。
こうした日本商船隊の南方方面への進出は必然的にジャワ・スマトラ等の現地へ寄港し、そのたびに多くの回教徒をも接触をし、交渉もあったことと想像される。しかし彼らの旅行記や見聞録の中にはそれらしい記事が少しも発見されていないのは、キリスト教のそれが先入生となっておよそイスラームごときに間しては頭から顧慮されなかったためではなかろうか。
とにかく、折角こうした相互の接点をもつ機会に恵まれながらも宗教信仰としてのイスラームにアプローチするチャンスを見逃し亡失してしまったのである。他方、日本へ来航したヨーロッパ船団の水先案内や下級乗組員の中には少からずこれら南方出身の回教徒(ムスリム)も混っていたことぐあろうが、如何せん彼らは高級船貝や乗客である貿易業者より身分が低いため、あるいは彼ら自身が知能程度の低いいわゆる知識階級でない下級労働者であるため、遠路日本までやってきてもイスラームの教えを異国人である日本人に説いたり導いたりする知的能力も精神的意欲も持ち含せなかったのであろう。
仮りに多少その意識がありそれに気がついていたとしてもキリスト教徒であるポルトガル人、イスパニヤ人、オランダ人たち上級船員グループにことさら遠慮気がねしていたのかも知れない。
また天正十年(一五八二)北九州のキリシタン大名である大友、大村、有馬らの諸侯や、それより遅れるが仙台の伊達正宗がローマへ派遣した支倉常長らの親善使節らの一行も、何処かの洋上通過地点でモスクやミナレット(光塔)ぐらいは瞥見しているはずである。
あるいは少しく勘ぐればこの頃中東イスラーム圏にイスラームの強力なる教勢を誇って四隣を威圧していたオスマン・トルコ帝国領の海上線を努めて敬遠して迂回しそれとの接触を故意に回避しつつ一路ヨーロッパへ直航したのかも知れない。 
祇園祭の鉾にみられるペルシャ絨緞
イスラームという宗教信仰そのものの交錯は見受けられなかったが、イスラミックな所産として舶来したものに絨緞がある。この絨緞はペルシャ、トルコ、コーカサス製のものだが、これらが六百年もの昔から伝統的に京都の祇園祭で都大路を巡業する「鉾」や「山」の胴懸に使用されている。この豪華絢爛、眼を奪うばかりの絨緞が、安土・桃山の時代から中世イスラーム圏諸国所産のものが使用されていることを知る人は少ない。
だが祇園神社の日本古式に則る伝統的神事祭典にも拘らずこの祇園祭当日における十数基の「鉾」「山」の一大オン・パレットはなんとなくオリエンタルなムードとエキゾチックな情緒の漂うのを見る者をしてそこはかとなく覚えしめるであろう。
この大行進の先頭第一を飾るのが「長刀銘」と古米から定められその美麗な胴懸はペルシャ製とトルコ製の作品である。次の「月鉾」は同じくペルシャ製とコーカサス製で「北魏音山」はトルコ製である。また、京の東山高台守秘蔵の豊臣秀吉鐘愛の陣羽織はペルシャ製で浅緑地の上にライオンや鹿や南方の珍鳥類がデザイン化されているが、戦国時代に多くの武将が着用した「雲龍」とか「旭日昇天」のような日本調のデザインとは、ひと味もふた味もちがった異国趣味と珍し物がりやの秀吉にふさわしい陣羽織である。
こうしたイスラーム諸国独特の特産品は信長・秀吉に限らず、諸大名の中でも特に富裕な周防の大内氏や薩摩の島津氏らを初めとする西南の雄藩豪族たちが少からず愛蔵し、珍重していたのである。
こうした物産品だけの舶来に限られていたかというとそうでもないようだ。近畿以西には、イスラーム民族が多少は住みついていたものとみられる。現に織田信長に召しかかえられて乗馬の轡取りをしていた黒人馬丁は東アフリカのソマリランドあたりから来た人と思われる。恐らく中国人の人買いを通じて堺へ売られてきたものだが、彼がムスリムであったか否かは本能寺の変の際に行方不明になってしまったままなので確証はできていない。
こうした人身売買は当時は盛んであったので南蛮貿易の発展とともに商品ばかりではなく、武家の下僕として南方あるいは西南系の下級ムスリムたちも「輸入」されてきたのであろう。それが有名人でないため記録の上では姓名はむろんのこと、その存在すらも痕跡を留めえなかっただけの話である。 
第五章 江戸時代(前半期)  

 

西川砂見と新井白石の功績
徳川幕府による鎖国政策は二百六十年にわたる幕藩体制を強化する上に多大の効果があったが、他面かっての「天龍寺船」「ご朱印船」や「八幡船」等による公私にわたる海外貿易の道を封鎖せしめる結果になった。
かくて海外事情もようやく疎遠となり、海外知識を吸収する機会も実地に祝祭見聞する手段も暫時、隔絶されるようになった。往年の日本人にとって唯一の海外雄飛の夢も野望も消え去り、わずかに許されたオランダ船の来航という一本のパイプによってのみ海外への窓口が残されていた。その許された日本で唯一の窓口はかつての堺に替わった長崎港であった。このたった一つの開放された開港を通じてヨーロッパ諸国の動静を窺い知り得たのである。この意味において二百数十年にわたる鎖国時代の長崎港のもつ海外情報センターとしての演じた役割は決して少なくなかった。
鎖国会発布後、約二十年で日本では最初の世界地図ともいうべき「万国絵図」がこの長崎で出版された。これは利馬宝(マテリオリッチ)の地図を参考にして製図されたものであると伝えられる。この地図には一応、海外における回教諸国の一部名称も記載されてあって、国外といえば高麗とか唐とか天竺以外は、すべて南蛮ぐらいしか知らなかった当時の日本人にとっては大きな驚きであった。
以前から来往していた旧教系のポルトガルが幕府のキリスト教弾圧政策によって入国禁止の羽目になってから、これにかわって新教系のオランダが海外貿易の一手専売国となって、その舞台に登場した。だがオランダは、自国の版図の一部にインドネシア諸島を領有したが、この属国となったインドネシア領のイスラームやムスリムのことについての知識はなんら日本に伝えなかった。また彼らにとって、それを日本人に伝える必要性も義務感もなかった。ただ交易による利潤追求に専念するのみであって海外への唯一の耳目であり、窓口であった当時のオランダ人からも、日本人は世界三大宗教に一つであるイスラームについての概念や予備知識の片鱗すらも把握することができなかった。このように日本人自身にとってもまた、イスラーム自体にとっても不幸な情勢のときに、日本最初の西洋の地理学者である西川知見が現れたのである。
如見は元禄八年(一六九五年)に出版したことのある「華美通商号」を一三年後に補筆して、増訂版「増補筆夷通商号」を宝永五年(一七〇八年)に再版した。その中に海外回教諸国の国名とそれらの位置、さらに日本からのおおよその距離なども列記したが、それは当時としては出色のものであった。
その中で如見は、この頃にインドを制圧していたムスリム国であるムガール帝国を「モウル」と誌して回教国であると論断している。
さらにその「モウル」の国は、日本から、海上二千八百余里の距離にあってシャム(現タイ)の西北に位し、南天第一の大国なりと記載している。今からおよそ三百年近い以前のことである。
またイランは「ハルシャ」の名称で日本より海上五千里、南天の両辺地即ち西天の内地であり、黄金の大塔ありと述べられてあるが、この黄金の大塔こそはイスラームの象徴ともいうべき先塔(ミナレット)のことであろう。
次にトルコのことを「トルケイン」の名称で日本から海上一万一千二百五十里と書き「ハルシャ」同様、金色織物を産す、と説明されてあるが、これは恐らく有名なこの国の特産物トルコ・カーペットのことを指しているのである。
またアラビアについては「南天竺の西、シャムより三十余里の砂地あり、大風趣きると砂を吹き波のごとし、行旅の人たまたまこれに遇うと砂浪のために埋れる」とある。
最後に、エジプトは「エジット」の名称でこの国に大河あり、ニナ河別名ニロ河とも称すとあるが、これはナイル河のことである。
この当時の日本における世界的地理学者西川知見に次いで出現したのが、新井白石である。白石は知見の回教関係諸般の不足事項を補足修正した。そして彼は正徳五年(一七一五年)「西洋紀聞」を述作した。奇しくも徳川幕府中興の祖と、称せられた将軍吉宗により彼が能免される前年のことである。
白石は従前の漢字訳された地名を片仮名で実地に比較しつつ、「マアゴメタン」はモゴールの教えにしてアフリカ地方、トルカ(現トルコ)もその教えを信奉している。漢字で書く四回の教えが、実はこの「マアゴメタン」のことである。
また「ハ〃シャ」は漢語で波爾斉亜と書いているが、これはむろんペルシャ(現イラン)のことでインディアノ西、アフリカの東にあり天下の良馬を産すとしている。
次にトルコについては、トルコはまたはツルコという。アフリカ、エウパロ、アジアの地方につらなり、国都はコウスタンチンィ・またはコウスタンチノプール(現イスタンブール)のことである。
この頃あたかも旭日昇天のごとき国勢にあったオスマン。トルコ帝国の盛大な状況については大略以下のごとく述べている。
その風俗はタルクーリャすなわち韃靼国にひとしく勇敢敵すべからず、丘ハ馬の多きこと二十万エウパエロの地方はその侵略に堪えずして各国相援けてこれに備う。アフリカ地方ことごとくトルカに属し、東北はゼルコニア(ゲルマンすなわちドイツ)に至り東南はスマアタラ(現スマトラ)に至るという。以上のように当時の極盛期にあったオスマン帝国の領有していた広大なる版図を述べている。
新井白石はこうした地理上における回教諸国の概貌を解説しているのみならず、ここに注目すべきことは宗教的なイスラームそのものについても日本人として初めてその一端に触れている点について達識振りに敬意を表わすものである。
白石が回回教なる宗教が世界の三大宗教の一つであると喝破した最初の邦人としての業績は大きい。彼は「西洋紀聞」中にマアゴメタンは漢でいう回回の教えのことでキリスチャン(クリスチャン)と共に世界宗教の一つとして文中に列記しているのである。
ただし、さすがの博学多識な彼もこのマアゴメタンや回回を漢字で「伊斯蘭」とも片仮名で「イスラム」とも表現していないのは、まだそこまで研究しつくされていなかったのであろう。
さらに回教発祥の聖地アラビア地方が逸脱しているのも不可解である。しかしこの「西洋紀文」より二年後に発表した「采覧異言」の方にはアラビアを「夫方」と称しムハンマッドを国王「謨罕黙徳」と漢字で表現している。この「采覧異言」の方がどちらかというと、その二年後にできた「西洋紀文」より回教の件のついては詳細に描写されている。
一例を挙げれば聖地メッカの神殿やカーバ黒石のことも次のように原文では説明している。「自古置有礼拝寺等分為四方方九十間共三百六十間、皆白玉為柱、中有墨石一片方丈余、寺層次高上如城毎見月初生、皆拝天写呼称揚以為礼。
以上漢文体ではあるが、なかなかリアリズムに冨んでいる一文である。
さて、八代将軍徳川吉宗は自身のことであるが彼はかねて聞く群馬に比して日本在来産の馬が馬格においてすこぶる劣る観があるので、その改良を思い立ち長崎出島にあるオランダ商館の館長から優秀なペルシャ産の駿馬十数頭を享保十一年(一七二五)頃から約十年余りの間に購入した事実があるが、これなどもオランダの商人を通じて曲りなりにも中東イランの事情や産物の一端が吉宗やその側近に判かっていた結果からであろう。  
第六章 江戸時代(後半期)  

 

林子平が見たイスラム式葬式
徳川吉宗が将軍職について間もなく殖産興業を施政の指針と定め、実用主義的立場からこれまでの洋書の禁を緩和した結果、ここに八十年振りに洋学研究熱が急激に目印まった。
すなわち甘藷の移植で有名な青木星陽、西洋医学の先駆者である前野良沢、杉田玄白、大槻広沢以下の優れた蘭学者が続々と輩出するようになった。
この現象が「蘭学事始」として新日本開化への幕明けとなったことはすでに間知の通りである。すなわち江戸時代の日本が近代科学への道に進むきっかけの第一歩ともなったのである。
以後、家重、家治の二代を経て家斉が将軍職につき松平定信が老中職に任用され寛政時代に移ると司馬江漢の「地球団」が完成されこれまでの類似書より幾多の修正と補筆が加えられ、アラビアにおけるイスラームの二大聖地「メッカ」も「モリッツ」また「メディナ」を「メテネ」という字をあてて記入されここにイスラームの二大聖地の名が始めて登場した。寛政四年のことである。
もう、この頃のなるとロシアの使節が北辺に来航したり、英国船が日本沿岸の測量を始めたりして物情騒然となり鎖国政策による徳川承平二百年に近い長い冬眠の夢が醒めかけてきた時代となった。
こうした内外の緊迫した情勢下に識者間では海外への関心がにわかに高まり、文化七年(一八一〇)高橋景保の「新訂万国全図」がつぎつぎに発表されるようになった。後者の方は文政二年(一八一九)のことで日本における近代的測量学者の祖伊能忠敬の没した実に翌年にあたる。
これはいずれも世にいう文化文政年代のことで一九世紀の初頭であり、かの西川知見の頃よりその調査も研究もさらに相当進歩を見るにいたった。
たとえば、その筆は遠く北アメリカ沿岸地方にまでかなり詳しく及び今の「チュニス」のことを「テュニス」と地図上に誌し「アルジェリア」のことを「アルギィル」「モロッコ」のことを「マロック」と高橋景保は図面上に記載している。
他方、山路諧考の方は今の「トリポリ」のことを「チリポリ」として「ヒンドスタン」は「印度斯当」、「テヘラン」を「低廉」というふうにそれぞれ適当な漢字を巧みに充当しているのである。
あい前後するが享保元年(一八〇一)刊行の山村昌永作の「訂正増訳采覧異言」には新井白石の「采覧異言」よりもはるかに繊細かつ綿密に回教圏のことを解説している。彼は「明史」や「大明一統志」とか「武備志」等の中国で出版された各種の文献を比較参照しながら採録しつつ、それまでの通称である「天竺」と「天方」はアラビア地方のことであるというこの両者をはっきり区別している。
さらに一歩進めてメッカやメディナのことをもっと詳しく転載していることは注目に値する。
天方とは馬哈麻教(注・マホメット教)の地であり、黙伽はすなわち馬哈出生の地にして亜?皮亜の西海浜の一国なり。
黙徳那はまたの名をメデナタルナビト(注・予言者の町の意)という。これ黙伽の属州にしてその地に馬姶黙の墓あり。玉石包形なる寺観はその教中第一の寺にして、その寺僧は教中僧官の至貴者なり、と(中略)第六百年代キリスト・ユダヤの諸教を混合して馬黙教を造立す。初めこれを弘む、第六百二十二年推古市三十年馬哈黙その国黙伽より逐れ、黙弟那に遁る。都児格(トルコのこと)の暦年はこの遁れたる年を初年とす。
この教の趣はいわく天主唯一あり、馬哈黙はその通事とす。これを言と心をもって悟了する者を模修爾満(ムスルマン)と名すけ正信者の義なり。(中略)格蘭と名ずく諸馬哈黙の経典にして亜刺比亜語をもって記す。その教を載す、都児格人は豚肉を食せず、葡萄酒を禁ず。その大寺を模斯結(マスジッド)と名すけ小寺を黙設鐸(モスク)と名ずく。
法教の総主を繆弗質と(?)称す。国帝もこれを尊敬し、国中の法教を司り命令を出し大事に当りてはこれを議す。然れどもその人通あり若しくは帝意に背けば国帝これを退け替ゆ。(注・当時メッカやメヂナの両地を含むアラビア地方は強勢なオスマン・トルコ帝国が攻略してこの地を占領して自国の版図にいれ政教一致の体制で支配していたので前述のようにトルコ人を都児俗人と表現していたのであろう。)
いずれにせよ、この山村昌永の解説するところの回教ならびに回数圏に関する知識と見解は若干の例外を除けばはなはだ正鵠に近いといえる。彼はこれを完成するまでに西洋書三二種にわたる多くの文献を参考書として採用しているのである。だが今からおよそ二百年青のこの時点においてよく調べ上げたものと驚嘆する。
以上はアラビア方面のことであるが、次にマレーシア地方の関係記事については右よりやや以前の天明七年(一七八七)の頃に森島中良が書いた「紅毛雑話」の中にマレー・ムスリムの食生活と彼らが使用する文字について次のように述べている。
すなわち、常に飯と肴を喰う。豚をば決して食せず鶏肉なども自ら殺して引導をわたしたる物にあらざれば食はず。四足の内にて牛ばかりは食う。これは夫方地方の常食なるが故なり。文字はマレイス文字を以って通用す。形、字に似たり。これは蛮人にも日本人にもむざとは伝えず、ねんごろに求むれば種々の戒行ありて生涯豚をはじめ何々の品を食せじと誓言を立たせ、その上にて伝えるとなり。(以下略)
これを今日一読してみても当時の南方系ムスリムらしき生態風景の一端が窺えるようではないか。
また、これから六年後に逝去した「開国共談」の著者であり、寛政の三奇人と呼ばれた私子平が長崎に遊学して西洋館に出入する頃の天竺の葬送を見る一場の記事がある。この天竺とは錫蘭(セイロン、現スリランカ)あたりの黒坊の葬式を瞥見した際の一コマらしいが以下のようにこれを描写している。
すなわち、棺は杉板にてこしらえたる臥棺なり、これも出島より稲立山へ舟にて送る。同国の黒坊悟真寺まで見送り総て寺僧の手をまたず、葬穴の前にて死骸を引出し赤裸にして口の内へ土をなるだけ押し込み、横ざまに伏させ置き、その身はサロンという天衣のごとく仕立てたる木綿の単なる礼服を着し、これは常にも着てかの邦の服なり。打敷を敷て礼拝をなし横文字にて書きたる経文を出して天竺にて今世は梵字を用いずマレイスの国字を用い読経す。その声ははなはだ殊勝なり、それより経を終って後事を合せアミンと唱えながら左右を拝すること百遍にして屍を理める。(以下略)
大体以上のごとくであるが、私子平はこの南方系ムスリムの葬式に格別に興味を抱いたものであろうか。当時、私子平は長崎に西洋医学研究のため遊学していた朋友の大槻広沢に黒坊の葬式について尋ねたが、それと若干差異があったので、その方を次のように記述している。
それは屍を水にてよく沐浴せしめその上を木綿にて巻き棺に改めて葬るなり。それより塚に草花を供し手を開きて左右の指の頭を重ねる。これは森島中良が按ずるに仏家にいわゆる未敷蓮華の印象なり。額に押当てること再三、経文の意は迷うことなく浮び給えということになる由。トワンは崇教の辞、アララは鬼神のことなるべし(中略)アララは神仏のたぐいを称する語りなること必せりと。(注・アララはむろん神のことである)
現在の東南アジアさらに中東アラブ諸国から遠く北アフリカの地中海沿岸にまで達する極めて広い範囲におよぶ回教圏の輪郭は江戸時代の前半まではほとんど知られることなく終ったが、後半期の文化・文政の前後になってからこく一部の限られた先進的西洋地理学者の研究の結果その手さぐりの窓口がやっと開かれるようになった。そしておぼろげながらも彼ら進歩的学者の手によって徐々に緩慢な速度ではあるが、主要イスラーム諸国の国名や首都の一部が現代の呼称にほぼ近い表音で誌されるまでに至ったのである。 
第七章 明治時代  

 

明治初期(元年5〜十五年) / 中東、中亜の回教諸国を最初に歴訪した人たち
明治日本の幕開けは、同時に日本イスラーム界にとってもその黎明期の幕開けてあった。
慶応から明治に移る過渡期に日本イスラーム開創期における最初のムスリムとなった大先覚者が二人あい次いで誕生したのである。
慶応二年(一八六六)八月二十三日に生れたアブドル・ハリル新月こと山田寅次郎と、同じく慶応四年(一八六八)三月五日に生れたアフマッド・阿馬土こと有賀文八郎の両名である。この東西に長くのびる日本列島の中でも、山田は群馬県沼田、有賀は福島県白河と奇しくも直線距離にしてわずか七・八十キロ内外のところで二人は誕生したのであった。
この日本イスラーム史上に特筆すべき最初のムスリムである山田・有賀の双壁が実際にイスラームという新しい宗教に帰依するのは、まだこの両者の生誕の時点から四半世紀後のことになるのである。
それでまず順序として宗教以前にイスラームの国を訪れたことのある人物から紹介を試みよう。
明治維新に最初にイスラーム諸国の中の一国と接触をもち、イスラーム国の土を最初に踏んだのは桜痴こと福地源一郎であった。
彼は長崎の出身で、明治元年に日本で初めてともいうべき「江湖新聞」という新聞を創刊した言わばわが国における新聞記者の「はしり」である。
福地は明治四年(一八七一)秋に特命金権大使岩倉倶視、副使木戸孝允、大久保利通以下総勢四十八名からなる一行の中の一員としてこの遣欧使節団に随行したが、その途次オスマン・トルコ帝国視察の特命を受けてコンスタンチノプール(現イスタンブール)を訪問したのである。
もっとも、これより数年前の慶応三年二八六七一に徳川昭武(水戸藩主、徳川斉昭の実子にして十五代将軍慶喜の実弟)がパリで開かれた万国博覧会に参会のため渡欧、その途次一行二十数名の随員の中にエジプトやアラビアに触れた道中の見聞録が若干あるがその記事は極めて簡述されているに過ぎない。
明治九年(一八七六)江戸出身の林薫が「馬哈黙伝」を明数社より出版した。この原本は英書であるが、明治五年(一八七二)渡欧した浄土真宗西本願寺派の光時における開明僧である赤松運城と嶋地熱雷がその旅行の途次入手した「ライフ・オブ・マホメット」からの和訳本である。「この原本はもともとキリスト教系の一聖職者の執筆によるものであるから、勢いイスラームに対する偏見と曲解があるのは免れない云々」とその訳者である林薫自身が手直に述懐しているところである。
ちなみに、林はこれより十年前の慶応二年(一八六六)幕命によって中村敬宇とともに英国に留学しているし、また明治四年には岩倉大使らの遺欧使節の随員のひとりとしても参加するなど、当時としては最先進の外交官で、明治三十九年(一九〇六)には外務大臣や逓信大臣の要職を歴任したような大物であるからこそ、この訳業を完遂できたのであろう。これが実に日本における「マホメット伝」刊行の嚆矢(ころし)第一号である。
さらに明治十年(一八七七)には桜川山人こと中井弘が駐英公使館三年勤務後に離任の帰途、歴訪した道中記「魯西亜・土耳其漫遊記程」三巻を著述した。
この著作は、渡辺洪基がロシア本国から黒海を渡りトルコに入りエジプトを訪問した際に中井が随行したときの見聞記であるが、その内容はオデッサからエジプト、コンスタンチノプー〃、スエズ、アデン、ボンベイ及びシンガポールまでの広範な各地にわたっている。
渡辺洪基は福井県出身であるが明治十二年(一八七九)には学習院々長となり、その後は東京帝国大学総長にまでなった人物である。このように今から百年以上も昔の明治初期にイスラームの国々を訪れたりその旅行誌を後世に遺したりした人々はさすがに傑物ばかりであった。
明治十一年十一月(一八七八)には、練習艦隊軍艦「清輝」がオスマン・トルコ帝国コンスタンチノプールを表敬訪間した。軍艦といってもわずか八九七トンであるが明治の初期では最新鋭艦であった。この「清輝」は明治六年(一八七三)にフランス人の造船技術家の指導のもとに横須賀で建造された日本海軍最初の軍艦である。
翌明治十二年(一八七九)にはトルコ領のサモス島の士侯コンスタンティーン・ゼイ・フラテーアデスが明治帝へ乾葡萄五箱を献納したという珍しい外交書が遺っている。
明治十三年(一八八○)には日本人最初に聖地メッカ大巡礼を軟行した山岡光太郎が広島県に生れた(三月七日)。この年は明治初期においては、かって例のない陸海両方面より中東イスラーム。国を訪問しているグループがあったことを注視しなければならない。
まず同年四月六日、外務省の御用掛吉田正春、陸軍工兵大尉古川宜誉、帝国ホテル支配人横山孫一郎以下民間人も混えての十数名の団体である。彼らは、折柄の猛暑を冒してペルシャ国の内陸並びにペルシャ湾岸(現ガルフ湾岸)諸国を歴訪して宮廷をつぶさに見学している。このとき坐乗した軍艦は初代比叡で、艦長海軍大佐伊東祐亨は、のち日清戦役当時の軍令部長海軍大将(のち元帥)である。
なお、この年、中国ではイスラーム関係で二つの顕著なケースがある。その一つは近代中国随一の回教神学・哲学考究の最高権威者となった王静斉アホンの誕生である。王は後にエジプトのアズハル大学に留学しアラビア語原典を漢訳したがこの漢文の大経コーランは今日なお珍重されている。
もう一つは、東西両トルキスタンに跨りイスラーム独立国建設を企図して反乱を勃発した泉雄ヤクブ・ベク、自称「清算王」を征討した官軍の勇将、左京棠が清朝から北京へ召喚されたことである。
明治十五年(一八八二)二月二日に、メッカ大聖地巡礼を敢行して邦人ムスリムとして第一号のハジ・オマル山岡光太郎に次いで、第二号と第三号の栄誉ある称号をひとりで取得した天鐘ハジ・ヌール田中逸平が小金井(現東京都下小金井市)で生れている。
そして中国ではこの年十二月に始めて新疆(現ウィグル自治区)が一省として独立し陜甘総督の統治下に設置される二とになった。 
明治中期(十六年〜三十年) / 日本人ムスリム初めて誕生
明治初期の頁で述べたように、当時イスラームの独立国家であったペルシャ帝国やオスマン。トルコ帝国を歴訪したり、あるいは内陸アジアの秘奥辺境のトルキスタン地帯を踏破し、それぞれ貴重な旅行記を誌した先人は幾人か現れたが、未だ真価のムスリムとしてイスラームという宗教信仰に改宗帰依した日本人は見当らなかった。
しかし、明治も中期になってから日本イスラーム史上最初の邦人ムスリムが期せずして二名出現することになるのだが、それは明治二十五年のことである。
まず順序として明治十六年は内外ともに特記すべきことがなく翌十七年(一八八四)には福田規矩男が長崎県平戸に生れている。彼は後述するように日本イスラーム界における無名の大先覚者である。
明治十八年(一八八五)には有名な東海散士こと柴田朗が「佳人之奇遇」を出版した。柴田朗はかって「会津士魂」で名を馳せた幕末最後の会津武士条家の四男で、次弟五郎は陸軍大将にまで栄進した。そして日本敗戦の年の十二月上二日、九十才の老台で割腹自決して会津士魂の掉尾を飾った。
さて、この「佳人之奇遇」は執筆者である柴田が農商務大臣谷平城(西南の役の猛将、のち陸軍中将)がヨーロッパへ赴く途中、谷に随行してセイロン島(現スリランカ)に当時流刊に処せられていたアラビ・バシャ大佐に会見して聴取した話を素材にして構成したものである。英国の圧政に対して反乱をおこし敗れたエジプトの悲運の歴史を背景に独立解放運動の志士あり、一世の美女あり、これを援ける闘士あり、その登場舞台はエジプトを中心にスーダン、スペイン、トルコ、ポーランドからマダガスカル島その他アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にわたる構想とスケールの大きい波瀾万丈、名士多彩な大ロマン小説であった。
それは、まさに当時におけるベストセラーで、現に筆者の中学時代の恩師京都府立桃山中の田中常態校長(旧薩摩藩士族出身)も明治二十年代の若かりし頃、この本を愛読してやまなかったとは、その自叙伝「わが八十年」中に述べておられるが、当時いかに江湖の読者に人気があったかが右でも判るであろう。
また、これとは逆のケースがある。熊本出身で青年時代に仏・独に遊学し、伊藤博文の下で明治欽定憲法や皇室典範から教育勅語にわたる多くの法令や重要文案の起草に参加し、後に文部大臣にまでなった井上毅が、「マホメット論」を発表して、イスラームの教祖マホメットがいかに獰奸邪悪な人物であり、その宣布する宗教がこれまたいかに未開野蛮な低劣かつ淫靡な信仰であるかを極端なまでに誹謗し、こき降ろしているのである。先には慶応・明治の文明開化期における啓蒙思想の先駆者として幕末までに三度も欧米に渡航した開明学者、福沢諭吉などもそうだが、明治の卓抜人士の対イスラーム観、対マホメット観はこのように極端なまでに歪曲されているのである。
こうした一時代における最高のトップクラスのイスラームへの誹謗非難は、これから百年の歳月を経過した昭和の今日でもなお、歴然とした後遺症となっており、後進の人々に精神的思想的に与えた影響力はすこぶる深刻かつ甚大であるといわねばならない。
明治十九年(一八八六)には、大正から昭和期にかけてイスラームの史学・神学・哲学研究の各分野において華々しく活躍し、多くの著作をそれぞれ世に遺した三名の著名な人物が誕生している。
大川周明・内藤智秀・佐久間貞次郎の三者がこれである。しかも大川・内藤の両博士は同じ山形県の出身で、奇しくも中学時代は机を並べて勉強した仲であるばかりか、東大の同期でもある。佐久間は号を東山、数名イリヤスと称し、大川・内藤のような官学の学歴こそないが、中国イスラームつまり漢籍の回教図書文献に精通し、その専門分野の造詣の深さは現在でも比肩しうる学究は極めて少いてあろう。
この年、イスラーム関係の出版物が一件あった。それは、ちょうど六年前に露都ペテルスフルグから秘境中央アジアのサマルカンドやイリ地方を跋渉した西徳次郎が、帰国後に執筆した「中亜細亜紀事」上下二巻で、あわせて六四一ページにもおよぶ膨大な報告書であっていずれも陸軍文庫からのものである。この先人未踏の辺境各地を探訪した西の報告書は、当時北方の白熊として恐れられていた帝政ロシアを仮想敵視していた日本陸軍にとっては「兵要地誌。的にも貴重な資料となった。
明治二十年(一八八七)は同山こと佐藤甫が熊本県に生れている。彼の号「同山」とは後年「回教民族の新疆省」とまでいわれていた東トルキスタンに憧れ、この地を第二の故郷としてみずから冠したものであろう。
またこの年は皇族小松宮(東伏見宮)彰仁親王殿下が渡欧視察の途次トルコに立寄られ、皇帝アブドル・ハミッド二世と会見、両帝国親善の実を挙げられたが、このときの乗艦は比叡(先代比叡艦長・海軍大佐田中綱常)であった。この小松宮のトルコ皇室への親善旅行をきっかけとして種々の事件が発生し、それがやがて日本最初のムスリムをつくる一つの誘因となろうとは誰がこの時点で予測し得たであろうか。歴史の因果関係というか運命の変転ほどマカ不思議で面白いものはない。
明治二十二年(一八八九)は、長崎県平戸出身の浦敬一が揚子江中流の要鎮、漢口を出発して新疆トルキスタン探検の壮途についた年である。彼は日本人最初の西域探検第一号ともいうべき人物であるが、同時にシルク・ロード途上において消息を永遠に絶った悲運のヒーロー第一号でもあった。この年、英国のヤング・ハズバンド郷が西域トルキスタン方面の踏査を敢行しているが、彼は無事目的を達成して本国へ帰還した。
さて明治二十三年(一八九〇)は、先に述べた運命の一転換となった事件が勃発した年である。この三年前の小松宮のトルコ表敬旅行に対する答礼として、トルコの皇室から明治帝に対してオスマン・トルコ帝国最高の勲章を贈呈しようと、皇族海軍少将オスマン・パシャが派遣された。ところがその使命を達成しての帰途、乗艦ユルトグロー〃号が台風のため遭難したのである。現場は南紀沖で艦長アリー・べー大佐以下、乗員六百九名中正百四十名が水没するという近来にるい一大海難事故で、同年九月十六日夜半の大珍事であった(注、ユルトグルールとはオスマン・トルコ朝の創始者の名である)。この事件が二年後に日本で最初のムスリムを生みだす要員となったがそれについてはのちに述べることにする。
翌、明治二十四年(一八九一)四月に、明治上二年にペルシャ旅行をした陸軍工兵将校古川宣誉が、帰国後十年目にして参謀本部より「波新紀行」三二〇ページを刊行した。ちなみに古川は初期陸軍工兵科出身の偉材で、このあと三年後の日清戦役に際しては大佐に昇進して兵姑部兵站監として出征している。奇しくもオマル山岡光太郎の父山岡光行騎兵中佐もこのとき騎兵第二大隊長として従軍している。
またこの年は昭和時代の日本イスラーム界に須田正継、三田了一らとともに三羽ガラスとして活躍した松林亮が仙台に生れた年で、彼の遠祖は仙台伊達藩の剣客、松林左馬助永吉である。
明治二十五年(一八九二)になると、二年前の二十三年九月、紀伊半島沖で難破したトルコ軍艦エルトグロール号の生存者六十九名を軍艦比叡(艦長海軍大佐田中綱常)にのせトルコの都イスタンプールへ送還することになった。
これを知った熱血義侠の青年山田寅次郎は当時の「日本新聞社」の先輩記者福本日南らのバック・アップで集めた義損金と山田家伝来の家宝明珍の甲胃や陸太刀等をトルコ皇室に献納しようと決心して、海軍当局や外務大臣青木周蔵らに陳情し、その破格の配慮と許可によって同艦に便乗が認められて渡航することになった。一月三十日のことである。
それとあい前後したころ、有賀丈八郎はインド貿易開拓のためインド西海岸の大都市ボンベイへ向い、西本願寺より派遣された留学僧侶東温譲とこの地で奇遇した。有賀はこの地で滞留中にイスラームの偉大にして崇高な教えに薫染されて日本最初のムスリムとして帰依するのである。こうして期せずして日本イスラーム界開明期における最初のムスリムとしての双壁がトルコとインドの両現地において、あたかも申し合せたように出現することになるのである。
そしてこの年の十二月十九日、日本人ムスリムとして最初にアラビア語原典より日訳注解の「聖コーラン」を刊行した三田了一が山口に誕生する。三田は出生地、風貌、品格高潔清廉なところが乃木将軍とそっくりぐあったので「今月木」の異称があった。
他方、二月十一日に陸軍中佐福島安王(のち大将)がベルリンを出発し、欧亜両大陸の単騎横断の壮途についている。
明治二十六年(一八九三)にはロシア・イスラーム研究と実践家の第一人者で山岡光太郎の母校東京外語の後輩にあたる須田正継が山梨県に生れた。こうして明治二十四、五、六の三年間に昭和初期から四十年代までに日本イスラーム界において華々しく活躍した三長老があい次いて生れたことになる。
また中国では孝宗仁将軍とともに西南派随一の回教将領であり、「小孔明」とか「今孔明」とか一般に異称された白票穂将軍が広西省に生れている。
翌明治二十七年一一八九四一は、十三年当時外務理事官であった吉田正春が「波斯の旅」を博文館より出版したがこれは、かつて同行した古川大尉の出版より三年後であった。前記古川の三二〇ページに比べ、こちらば一九一ページの報告記で、明治十三年に旅行を実施して以来、実に十四年目の刊行であった。
この年は日清戦争が勃発した年であるが八月一日の宣戦布告以前にすでに豊島沖海戦は開始されていた。
日清戦争は開戦以来、日本軍の連戦連勝で進んだが、敗戦つづきの清軍の中にあって唯ひとり勇敢に日章に抗戦激闘した清の猛将がいた。平壌死守で勇名を馳せのちに忠壮公と称せられた回教徒出身の左宝貴将軍であった。
明治二十九年(一八九六)、ニュームスリムとしてトルコから帰朝した山田寅次郎が雑誌「太陽」に「士耳古通信」を発表したが、その前年にも「土耳其の演劇」を同誌に投稿している。また大正時代に中央アジアの大草原を単騎横断してトルコのイスタンプールまで旅行した副高次郎がこの年佐賀市に生れた(九月二十日)。他方、山田寅次郎は大蔵次官若槻礼次郎と横浜正金銀行(現、東京銀行)の高橋正清の斡旋で「阿片問題」解決のため台湾へ赴いた。(注=若槻、高橋は大正昭和期に首相となった)
翌明治三十年(一八九七)台湾から帰還した山田は休む暇もなく再びトルコへ渡航する。目的は当時流行し始めた巻煙草に使用する用紙の製造方法研究のためである。高桑駒吉が「回教教主の世系」という短篇ものを史学雑誌に発表したのもこの年である。ちなみに本文はサラセン帝国における歴代カリフ(教皇)の系譜を解説した内容が主である。 
明治後期(三十一年〜四十五年) / 聖地メッカ大巡礼者あらわる
明治後期に入ると、日本では初めてメッカ、メジナの聖地巡礼を敢行した邦人ムスリムが日本イスラーム界に登場するようになる。
またマホメットの伝記類やイスラームの唯一天啓経典コーランの教理に関する研究文献がようやく斯界に発表されるようになった。
明治三十年(一八九九)に、坂本健一が一四六ページからなる「麻謌未」つまりマホメット伝を博文館より刊行した。
また、家水豊吉は台湾総督府の命令で阿片調査の目的をもってインド、ぺルシャ、トルコ等の中東方面へ出張した。先の日清の役で戦勝した結果、日本は台湾を領有はしたものの、当局は原住民の阿片吸引間題解決に頭を悩まし苦労した。山田寅次郎が台湾、トルコへ赴いたのも家水豊吉の場合と同一で、阿片中毒患者救済対策研究がその視察目的であった。ちなみに家永は翌年「西亜細亜旅行記」(一九一ページ)を民友社から出版している。
明治三十三年(一九〇〇)四月、「義和田」が蜂起し、遂に北京へ入城して列国公館はいずれも危険に瀕し、北京在住外国人居留民たちは色を失った。列強の要請に応じて日本は距離的にもっとも近い関係で二万二千名の大兵を出動してこれを救援、しかも軍紀軍律厳正にして掠奪暴行など一切せず大いにその名を世界に宣揚した。世にいう「北情事変」である。この事変の中心人物、端部王と董福祥はともに中国有数の回教徒出身であった。
明治三十四年(一九〇一)、田中途平は拓殖大学の前身である台湾協会学校を第一期生として手業した。明治三十五年(一九〇二)に学業をおえた田中途平は北京へ遊学し、早大よりオーストリアへ留学していた井上雄二は中央アジア僻地を探訪旅行すべく首都ウィンを進発した。
この年、浄土真宗西本願寺派の門左大谷光瑞以下の西域探検隊(第一次大谷ミッション)も留学先のロンドンをスタートして秘境中央アジア探検の壮途につく。この両者は料らずも道中のボハラで偶然にも奇遇する。
明治三十六年(一九〇三)には、慶応義塾大学教授となり、アラビア・イスラーム史の権威となった前嶋信次が山梨県に生れ(七月二十日)、また聖地メッカ巡礼を志して陸路徒歩でその壮途についたがシルク・ロードの途上で非業の最期をとげた小泉洪太も東京に生まれる。井上雄二はこの年に民友社から四五二ページの「中央亜細亜旅行記」を出版した。また池元半之助が「マホメットの戦争主義」(二〇三ページ)を春山房より刊行したが、これは異色であった。
明治三十七年(一九〇四)には駐サウジ・アラビア大使をはじめエジプト、モロッコ、イラク、シリア等中東諸国に在勤した「アラビスト」外交官田村秀治が福井県に生れた。
明治三十八年(一九〇五)には、かねて風雲急を告げていた日露両国が遂に開戦、国交を断絶して交戦状態に突入した。この年、東洋大学々長である忽滑谷(めかりや)快天は「快傑マホメット」を井冽堂より刊行、また「マホメットに関する逸話」を慶応義塾学報より発表している。これは、およそ三十年前の明治九年に、かの林薫が直訳した英国人キリスト教宣教師のマホメット伝とは異り、著者白身の主観と直観によるマホメット像の把握による純正なる描写であるだけに、その論旨はおおむね隠健である。
海外では、「ナイル河の詩人」とまで謳われたエジプトの大詩人ハーフィズ・イブラヒームが「芙しき日本の乙女」というロマンチックなテーマで詩を発表したが、これは従軍看護帰として祖国のために献身奉仕する日本人女性の姿に托して日本が近代国家として発足する端緒を開いた過程を作詩したものである。当時はアジアやアフリカの多くの諸国が欧米列強の勢力下に植民地化されていた。彼の祖国エジプトもその圧制と収奪に泣いていた。しかしこの一篇の詩が、そうした圧迫された諸民族に対していかに深い感銘を与えたかは、その後八十年を経た今日でもレバノンや中東アラブ諸国が教科書の中に掲載していることから察しても充分うかがえるであろう。
これはその一つの事例を挙げたに過ぎないが、極東の一小国日本が世界随一の帝政ロシアに戦勝したというビッグ二一ユースは全世界の弱小国であり、常に劣等視されていた同じ有色人種のアジア・アフリカの諸民族をして一大民族的自覚と自決を促進せしめた。これが大正期に至るまで中国・エジプトはじめ多くの留学生や研修生が来日する直接の動因となったことは否定できないのである。
明治三十九年(一九〇六)には中国からムスリム留学生たちが富国強兵の日本を模範として来日した。彼らは陸軍士官学校や早大・法政夫等の私大に希望によってそれぞれ編入を許され勉強を始めた。
またこの年、陸軍歩兵少佐日野強(のち大佐)は特命を帯び、十月上二日に北京を出発して中国西北の辺境イリ地方探検の壮途についた。河北省の省都保定からは上原名市がこれに随行した。
一方、帝政ロシアはイスラーム地帯の外カスピ海鉄道を開通し、シベリア鉄道と連結して真備の輸送強化を企図した。
また明治・大正の文豪であり、明治中期のベストセラー「不如帰」(ほととぎす)の著者として有名な徳富蘆花が第一次アラブ旅行を試みた(第二次は大正八年で夫人を同伴した)。
十一月二十六日には「満鉄」こと南満州鉄道株式会社が設立され、一大国策会社として発足、のちに満州経営の大動脈として機能をフルに発揮した。ちなみに同年トルコの親日軍人スユナーイ少佐とファート大尉が「日露戦争」五巻の大著を公刊して宿敵ロシアに対して日本の勝利を称賛した。イスラーム建築工学の泰斗、伊東志太(工学博士、東大教授)が「シリア砂漠旅行記」を地学雑誌に、また「歴史地理」に「清算寺」を発表した。
明治四十年(一九〇七)、田中途平とかねて親交のあったイマム(導師)アフマッド・イナヤトゥルラーがハルピンを訪問し、今も現存するハルピン市内砲隊街にトルコ・タタール様式のモスクを建立することに貢献した。
翌明治四十一年(一九〇八)は、多事多彩な年であった。まず中国河南省の要衝周家口で長崎県平戸出身の鄭朝宗こと福田規矩男が独力で「東方学童」を開設して現地の回教徒青少年に日本語を教え、「日回親善」の実を挙げる第一歩を踏みだした。のちに三田下一が偶然にも揚子江源流探検の途次、この地を通過して「東方学童」を訪れ、それが三田をしてイスラームに初めて開眼する端緒となった。六月十六日には浄土真宗西本願寺派の橘瑞超、野村栄三郎が西域トルキスタン探検のため北京を出発した。いわゆる第二次「大谷ミッション」の開幕であった。
一方、出版物では松木赳が「マホメット言行録」を一八五ページにまとめ、「偉人研究シリーズ第三十九篇」として内外出版協会から刊行した。いわゆる「ハジス(聖伝)」であるが、これがこの方面の嚆矢であろう。ちなみに、この内外出版協会は東京巣鴨上駒込の山県邸内に本社があったという。
また同年、藤田季荘が「回々教の経典に就いて」を雑誌「東亜の光」に連続三回にわたり発表した。こうして明治初期中期とは異り、明治後期はイスラーム教義のかなり深奥にわたる研究が進むようになった。
海外では、トルコで青年トルコ党による革命が勃発し、アラビアでは、ヒジヤス巡礼鉄道がやっと竣工して南のジェッダから北のメジナまで貫通した。
なお、この前年頃よりインド人ムスリムのハラカツウラーが日本へ訪れ、パン・イスラミズム運動を提唱して朝野の人士にアピールした。同人も日露戦争の戦勝国日本に憧れてエジプトの各地からわざわざ来日した者で、東京外国語学校へ入学したが、後にアフガニスタンへ赴き最後はロシアヘ亡命したと伝えられるがその詳細は不明である。
明治四十二年(一九〇九)、この年九月山岡光太郎はいよいよ聖地メッカ大巡礼の壮途についた。時に回暦一三二七年のことである。一方、カイロからはエジプト人ムスリム留学生が来日した。彼らは早大講堂で大講演会を開催して英語で雄弁を振い、この日参集した聴衆は二千名に達したと伝えられている。論考では西域学の泰斗京大教授、文学博士桑原騰蔵が「英文」に創建清真寺碑を発表した。
次に韃靼(タタール)の老志ラシッド・イブラヒームが浦塩経由、釜山丸で来日した。イブラヒームはこのあと一旦帰国するが、後に再来して昭和十年代より敗戦の前年長逝するまで百才近い長寿を保って東京モスクの大導師をつとめ、椿藍期日本イスラーム界の多くの内外人ムスリムたちを領導した。
この年、昭和の初期、東予族の風雲児と称せられた馬仲英が西北中国の甘粛省河川(臨河)で生れた。河川は中国の小メッカとして中国回教徒から古来崇敬されている聖地である。
また、この年は中東イスラーム国で二つの歴史的重大事件が偶然にもあい次いで勃発した。その一つはイランのカジャール朝のムハマッド・アリ帝が国民軍のため廃帝とされ、その二つはトルコのオスマン朝アブドル・ハミット二世が秘密結社アル・カフタニアのため退位せしめられた。ここに期せずして、中東に余命を保持していた両イスラーム帝国はあい前後して倒滅するという因縁の年でもあったのである。
明治四十三年(一九一〇)、マホメット公文直太郎が撫順の研究所に理学博士西村真琴を訪問した。公文はのちにタクラマカン砂漠を徒歩横断してインドのカルカッタヘ出たが、その道中に大自然の壮嚴なる景観に接してイスラームに帰依し田中途平の門下生となる。
羽田亨(のちの京都帝国大学総長)が、高山寺所蔵の秘文を研究の成果として「日本に伝はれる波斯文に就いて」と題して史学研究会講演集に発表した。それは従来「南蛮文」と称して何人もよく判読解明できなかった秘文であったが、ペルシャ文学で、その意味はかくかくであると明快に論考した若かりし日の羽田博士の輝ける業績の一つとして学界では高く評価されている。「大谷ミッション」の橘瑞超がロンドンを進発した。これから大正三年まで五年間継続される世紀の調査大事業として数次にわたる大谷西域トルキスタン探検旅行のハイライトであろう。
明治四十四年(一九一一)、邦人ムスリムとして聖地メッカ・メジナ大巡礼を果たして帰国した山岡光太郎は、席あたたまる暇もなく中国の武昌革命に黎元洪支援のため、揚子江中流の武漢三鎮へ馳せつけた。
このように明治のムスリム先覚者たちは有賀・山田・山岡・田中ら、いずれも劣らず国士的熱血漢であった。これに続く第二期の松林亮、三田下一、須田正継らの日本ムスリム界の大先輩たちもまたその信仰心といい、旺盛なる実践的行動力といい、その例外ではなかった。
なお、この年の出版関係では曽遊の地トルコに宿縁浅からぬ山田寅次郎が「土耳古間観」を博文館より刊行し、また斉藤往々喜が「支那の回々教に就て」を東洋学報に発表した。
この年三月に日本側代表として千葉勇五郎、小松武治が基督教青年会世界大会列席のためトルコに赴いた。
明治四十五年(一九二一)、まず明治の回教史学界における双峰、文学博士桑原騰蔵が「創建清算碑」の研究論文を英文誌上に発表すれば、片や文学博士藤田豊八が「泉州におけるアラビア人蒲寿庚」の論考を東洋学報に掲載し、蒲寿庚とは実はアラビア人の漢名であると論断した。(注、戦後前嶋信次博士はこれをペルシャ人なりと反論されたことがあった)
他方、ハジー・オマル山岡光太郎は三年前に敢行したメッカ聖地大巡礼を刻苦精励みずから筆を執り「アラビア縦断記」と題して二五二ページにまとめ東亜堂より刊行し、明治天皇の天覧ならびに昭意皇太后の台覧というかって先例のない破格の光栄に浴するに至った。
また内藤智秀は東大文学部西洋吏学科を卒業したが手業論文は近東バルカン半島の一国「ブ〃ガリアの近世的勃興史」であった。
また、二年前にロンドンを出発して西域探検旅行に向った橘瑞兆が、その後はようとして消息を絶ったままであるので、これを憂慮して西本願寺から古川小一郎をその捜査に派遣した。両者は一方は、西から東へ他方は東から西へ一歩一歩と進み、橘はタクラマカン砂漠を横断し、古川は荒涼たるアロシャン・オチナの流沙を越えてシルク・ロードをたどり、ついにトルキスタンへの関門、敦煌でこのふたりは奇蹟的に再会することができ、万里の異郷で互いに無事を祝してあい擁して泣いたという。まさに中央アフリカの奥地で奇遇したリビングストンとスタンレーのケースにも似した劇的場面の再現であった。
ちなみにこの頃、実業会に活躍していたアフマッド有賀文八郎は東京と京都大阪方面を東奪西走して活動開始して彼の人生のもっとも脂ののり切った一時期であった。 
第八章 大正デモクラシー時代  

 

日本イスラムの幕開け
大正二年(一九二三)、国内では川崎の日本書昔器商会の争議や東京のモスリン工場で女工四千名が労働条件改善を叫んでストライキをおこした。一方、閏秀作家平塚らいちょうが「新しい女」を中央公論に発表してたびたび当局から発禁をくらう青踏社を開いた。中国では孫文が広東独立に失敗して台湾に亡命した。また西北回教軍閥のはしり馬安良、馬福神将軍らが宗社党の領袖升允を支援してこれに協力活動した。日本の工藤鉄忠らもその一人である。
欧州ではブルガリアがセルビア、ギリシャを攻撃し、ルーマニアはブルガリアに宣戦して第二次バルカン戦争が勃発、「ヨーロッパの活火山バルカン半島」一帯は物情騒然となっていた。大正三年(一九一四)、大正時代といえば読者は誰でも大正デモクラシーと第一次世界大戦の勃発した時代であるという先入感というか印象が強いであろう。その大戦が勃発したのがこの大正三年の七月で日本も日英同盟のよしみ対独宣戦を布告して連合国側の一国として参戦した。参戦したとはいっても陸軍は中国山東省にあるドイツ軍の基地を攻略したのと、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しただけであった。
何の被害も犠牲もなく逆に「濡れ手に粟(あわ)」式でヨーロッパ交戦諸国が欠乏して困っている船舶の供給と輸送によって莫大な巨利を獲得してにわか成金がそこここぐ続出するという好況時代を招来して、いわゆる漁夫の利を独占した様相を呈した点が昭和時代の第二次世界大戦と極端な対照的戦争であった。
このとき巨万の財をなした実業家の中には山下汽船の社長山下亀三郎のように昭和時代にはいってから東京モスク創建に多大の貢献をした財界人もいたが、大半はその反動で没落した。また第一次、第二次軍縮時代到来の先触れとなり帝国軍人がもっとも低姿勢となった時代のはじまりで、かの日清、日露の両戦役の頃や昭和の十五年戦争時代のような軍国主義時代武家政治時代では想像もできぬ軍人全般の低落低調時代を現出するそもそも第一年であった。
しかしまたその一面この大戦に日本から観戦武官としてヨーロッパ戦線を祝祭した軍人の中にはたとえば後に大日本回教機会長となった四三天延孝中将(当時中佐)のようにパレスチナ帰属問題をめぐるユダヤ・イスラム両民族研究の権威となった将軍もあらわれるに至った。
大正四年(一九一五)、同山こと佐藤甫が長嶺亀助中佐(のち少将)に随行して東西卜ルキスタンの境界すなわち中国とロシアの国境線にある新疆省のイリ(現伊寧)まで旅行した。佐藤はそれから三年間その他に滞留しつつ現地の踏査に専従した。
この年の十月二十四日中東アラブ方面ではフセイン・マクマホン協定が締結されてアラブ地域の独立が宣言せられた。国内では、内藤智秀が「カイゼルと回教徒」を論考のテーマにして「歴史地理」の第二十巻方六号に掲載した。
大正五年(一九二六)、田中途平は再度訪中して上海で孫文、王統一ら革命派志士と会見後揚子江中流地域を巡遊した。
また、バルカン半島方面視察からいったん帰国した山岡光太郎は再び外遊の途についた。今度は方向一転して太平洋を東へ渡りラテン・アメリカ(中南米)方面である。
明治三十九年中震国境のイリまで日野強少佐について赴いた上原名市はこの年九月に没したが享年まだ三十四才の昔であった。
隣邦では内蒙古にいたパプチヤップ将軍らか張作霖と衝突、満家独立運動の火の手を揚げ宗社党を支援したが、在満馬賊の大頭目立憲章(かって日清戦役のときの清軍のムスリム猛将左宝貴がこれに参画協力した。ちなみに、パプチヤップ将軍は張作霖軍の攻撃にあい壮烈な戦死をとげてこの内蒙独立運動はすべて水泡に帰した。
大正六年(一九一七)内藤智秀らが発起人の一人となってこの年七月「バビロン学会」を設立した。この会は今の「古代オソエント学会」の前身ともいうべき会である。また九月には同じく東京に「モリソン文庫」(のちの東洋文庫)が開設され、ようやくこの方面における研究分野の曙光がきざしはじめた。この「モリソン文庫」は、オーストラリアのジヤーナリストであるモリソンが収集したアジア関係の図書二万五千冊を中心に、三菱の岩崎久弥が家宝とする岩崎文庫の文献数千冊を併せて設立したものでのちの「東洋文庫」として有名である。
この年はサラセン文様とリズム文様が流行した。また文豪徳富慮花夫妻が第二次エジプト訪問を行った。
大正七年(一九一八)、中央アジア探査で名を揚げた井上雄二の後輩にあたりシンガポール方面で活躍していた瀬川亀が南洋協会より「回教」を出版した。またこの年は少壮学者時代の内藤智秀が最も多く著作を世に間うた一時期で、特にバルカン半島問題や新興トルコ共和国の民族間題をテーマに採りあげて執筆、発表した。
他方、揚子江源流探検の途次、河南省周家口を訪問し、はからずも回教に開眼した三田下一はいよいよ真剣にイスラームの神髄に肉迫するようになる。
また東京外語ロシア語専科を卒業した須田正継は「シベリア出兵」に陸軍ロシア語通訳官として従軍、ザバイカル方面に赴き、トルコ・タタール系ムスリムに多数接触してイスラームにアプローチ始める転機となった。かくてこの大正七年こそは中国回教の三田、ロシア・イスラームの須田という昭和十年代に大活躍する双峰の素地を、初めて形成した年として日本イスラーム史上特記せねばならぬ年であった。
大正八年(一九一九)、継屯(のち陸軍少将)が新疆省の政府主席揚増新に招かれて軍事顧間に就任し現地に向った。これは前年五月に日本と中国の間に「日中陸軍共同防敵軍事協定」が調印された結果、日本軍人が自由に中国の西北辺境である東トルキスタン地方まで旅行できるようになったからである。
海外ではドイツ皇帝カイゼルとオーストリアのカール帝が退位し、連合国との間に休戦条約を締結(十一月)した。ここに四年振りに平和を回復し、第一次世界大戦は終りを告げた。またアラビア半島の西南角にあるイエメン王国が独立を宣言した。
世界大戦は終結したが朝鮮では京城(ソウル)はじめ全鮮各地で日韓合併に反対する独立宣言やデモ行進があり(三二運動)、中国では日本側の要求した山東半島利権問題で「国辱」と叫んで北京その他各地で学生の反日排貨デモがあった、(五・四運動)。こうして日露戦争直後は親日留学生研修生が多く来日した日本に対して隣の朝鮮半島や中国本土では今度は逆に日本排斥の狼火があがるという皮肉な現象を呈しはじめた年であった。大正九年(一九二〇)、坂本健一が「コーラン経」上・下二巻を世界聖典金集の第十四巻と第一五巻として世界聖典刊行合より出版した、日本では聖コーランの日文完訳はこれが嚆矢である。田中途平は「支那回教徒問題の招来と皇国神道」の一文を起草、発表した。
山岡光太郎は中南米(ラテンアメリカ旅行)より三年振りに帰国した(二月十日)。一方三田下一も揚子江探検旅行より帰国して山岡を鎌倉の寓居に訪ね、周家口訪問時のてん未を語り、ここに師弟の葵を結んだ。ちなみに三田のイスラーム・ネーム「オマル」はこの時師の山岡から命名されたものである。(師と同名)。
他方、ソ連邦治下のバシキールより、この年の十一月クルバンガリーがリーダーとなってバシキール族青年十余名を帯同して来日した。これが彼らの第一次訪日であり、このとき一行は早大総長大隅重信侯に会見して大いにイスラームをアピールした。
外地では第一次世界大戦の後遺症としてシベリア方面で跳梁していた過激派の極東パルチザンによって邦人居留民百二十二名が惨殺された。いわゆる世にいう尼港事件である。
これとあい前後して中央アジア各地からソ連赤軍の圧迫と追及を脱れてトルコ・タタール系ムスリムはじめイデル河からウラル山脈にかけての多くの回教徒が日本へ亡命してきた。彼らは三三五五小グループを組んで東へ東へと逃避行をつづけ、その途次ハルピン、奉天(潘陽)、京城(ソウル)大連、(現旅大)、神戸、名古屋、東京および仙台の各主要都市に思い思いに寄留して生計を立てた。
当時の日本人の篤志家たち特に右翼の巨頭運は次窮鳥ふところに入れば。の一種の義気をもって彼らを温く迎えかつ庇護した。そして一部トルコへ帰国した者以外の多くは日本に踏み留り、神戸、東京両モスクをよく護持して健闘した。
大正十年(一九二一)、安易健が「回教及び回教国」を刊行した(注=河瀬蘇北著、近代回教史潮の序文より)。山岡光太郎も「回々教の神秘的威力」を三七七ページにまとめて新光社より出版した。また前年あたりより飯田忠純が斯界に登場して回教問題に関する研究論文を多く提起している。
前年に引きつづきクルハンガリーがバジキール族青年十余名を引率して来日した。これが第二次訪日である。彼らは今度は大隈侯以外にも政財界要人と面接してイスラームの偉大さと蒜運な自分たちの立場を強調アピールしている。
とくに日本吉来の風俗、習慣、伝統の中でバシキールのそれらと一脈近似した共通点を指摘して日本人識者の共感を誘った。また日本民族の敬神思想の崇高なることに敬服してイスラームの処女地日本の土壌こそ自分たちムスリムにとって将来の開拓地であり、また同時に永遠の安住の地でもあると彼らは痛感したのである。
他方エジプト国王の甥にあたる王族二名が三週間の日程で日本観光に来遊した。また中国回教界随一の碩学上静斎がカイロの名門アズハル大学に遊学した。
中東方面ではケマル・アタチェル指揮のトルコ国民軍がギリシャ軍を撃破したいわゆるザカリヤの戦勝である。アフガニスタンとペルシャが相互不可侵条約を締結した。またイラク王国とヨルダン王国のふたつの新国家が成立した。
大正十年十一月四日、政友会総裁であり内閣総理大臣である平民宰相こと原敬が東京駅頭で刺殺された事件があった。この事件そのものはイスラームになんら関係ないようであるが、この暗殺犯人中岡良一はその後ムスリムとなっている。
彼は当時国鉄山手線大塚駅の駅手であったが殺人犯として一旦死刑が宣告され服役、その後数次の恩赦と大数のお陰で刑期満了後出所、のちハルビンに渡り(昭和初期)同地でイスラームの尊厳にふれて一念発起イスラームに衷心帰依した。かくて彼は純良なる一個のムスリムとなり更生して社会慈善家となり昭和二十年日本敗戦まで大いに活躍したという後日談がある。
大正十一年(一九二二)、この年ほどイスラーム関係の図書や論文が多く世に公刊された年は大正時代診しい。
まず法学博士大川周明が「回教徒の政治的将来」を改造に発表した。ライバルの文学藩士内藤智秀は「汎イスラミズムの将来」を同じく改造に寄稿する。トルコ間題専攻の大久保幸次は「トルコの復興と回々教徒の復興」ほか数篇をやはり改造誌上に掲載して期せずして論壇上に競合の形となった。
単行本では山岡光太郎が「外遊秘話」を、新進の口村佶郎は「野聖マホメット」を四五三ページにしてライト社より出版した。仲公路彰が聖マホメットを主人公とする戯曲もの「砂漠の光」数幕を執筆出版した。また田中途平は劉介廉の名著「夫方至聖実録」を日課した。但しこれが製本され公刊されたのはこの十数年後で昭和十年代に大日本回教協会によってである。部曲のごとく偶然にも出版界に躍りでる賑やかな年でもあった。また中国西北辺境問題にも詳しく自分自身も現地甘粛省にいた大林一之は「支那の回教問題」を論述してこの年の出版界の最後を飾った。
次に人物釆柱間係では先にハルビンにてモスクを建立したイマム・アフマッド・イナヤトゥルラーはそのハルビンから来日、入京して初の公開礼拝を嚴修しその光景を田中途平とともに披露した。逆に三田下一は日本から大連へ渡り山岡光太郎の斡旋で満鉄に入社が決定した。
またこの前年におきた皇太子妃内定に関する「宮中某重大事件」を惹起した明治の元勲であり明治建軍の大御所でもある枢密院議長山県有明はその責を負って辞職した。政教社同人であり右翼系の熱血漢ムスリム松林亮はこの事件についてある種の重大決心をしたが未遂に終った。
この年は偶然にも大限重信と山県有明があいついでともに八十五才で長逝した。いずれも明治維新以来の元老であるが殊に大隈は歴代首相中もっともイスラームに理解が深く、昭和時代に大日本回教協会初代会長となった元総理休銑十郎陸軍大将とともにこの点にかけては双壁であった。
大正十二年(一九二三)コスモポリタン山岡光太郎は、朝鮮半島から陸路大連上海を経由してそこから乗船し、香港、シンガポールをまわり、カイロに向った。
山岡門下の三田下一は満鉄本社の依命で北満黒龍江省の穀倉地帯である克山方面へ農産物の集荷状態を調査に出張した。田中途平はインド独立運動の志士ヒバリボースと交友した。ちなみにこのボースは第二次大戦期に来日したチャンドラボースと混同を避けるため一般には新宿の「中村屋ボース」といわれている。
田中はこの年の十二月、かねて念願のメッカ聖地大巡礼の壮途につくことになった。実に明治四十二年のハジ第一号山岡光太郎のそれに次ぐ邦人ムスリムとしては第二番目の巡礼行であった。これより関東大震災の翌日の九月二日、内藤智秀は神戸港より日本郵船伏見丸に乗船インド・イラン・イラク視察旅行のため出帆した。
東京大阪両方面で実業家として活躍中の新月アブドル・ハリム山田買次郎は茶道宗偏流家元第八世宗有(不審庵外字)の龍名抜露式を東京日本橋倶楽部で盛大に開催して多数の名士トルコ関係者が列席した。
坂本健一は先に聖コーラン経上・下二巻を刊行したが今回は「ムハメット伝」上・下二巻を世界文庫刊行合より上梓した。また河瀬蘇北はこの年雑誌太陽に「回教の革命」を投稿した。大久保幸次も前年に引きつづき外交時報に「回々教の人種包容性」を始め、そのもっとも得意とするトルコ民族間題を採りあげて幾つかの論文を関係誌に掲載発表した。大阪毎日新聞社記者の渡辺己之次郎は自社より「回教民族の活動と亜細亜の将来」と題する二七九ページにわたる単行本を出版した。
ちなみにこの年アフガニスタンのアマヌラ王の顧問プラタップ(インド王族の出身)が日本と修好条約締結のため来日して特に従前よりアフガン民族間題に関係のある黒龍会・玄洋社系右翼の熱烈歓迎と接待を受けてアフガン間題の重要性をアピールした。
大正十三年(一九二四)、この年の初頭、田中途平はメッカへの途次山東省済南へ立寄り清莫大寺の曹鳳麟教長から正式にイスラームの受戒を授かり聖地へ向った。時に田中四十二才で、これが彼の第一次聖地巡礼行であった。
丁度この頃、副高次郎も宿願である中央アジア横断旅行を敢行すべく一月一日を期して北京を進発した。この半年後の六月重松裕房は内蒙古のパインタラ(通運)で大本教の聖師出口王仁三郎、合気道の始祖植芝盛不一行数名が現地屯懇兵のため逮捕され、銃殺刑を執行される直前に救援のため馳せつけてこの危難を救ったという一幕があった。
世界的地理学として有名な志賀重昂はペルシャ湾岸国オーマン首都マスカットを訪れタイムール王と謁見した。この年、山岡光太郎は曽遊の地トルコの首都イスタンプールに安着した。内藤智秀はイラン・イラク祝祭旅行を終えて日本へ帰還の途次上海に立寄り同年輩の旧友佐久間貞次郎と再開して中国回教について談義した。以上のように本年は田中・副島・志賀・内藤らが商船北馬の文字通り海外への渡航の頻繁な年であった。
この年の出版関係では河瀬蘇北が前年に引つづき「近代回教史潮」を三二〇ページまとめて中外日報社より出版した。ちなみに同社は京都にあり日本では唯一の純宗教新聞発行社である(社主涙骨)また中国の回教通で満鉄マンの太宰松三郎(のちの満州日日新聞社長)が「支那回教の研究」を満鉄本社より出版した。赤松智城(のちの京城帝大教授)が哲学研究第九巻の三号と四号に「回教思想の特色」というテーマで上と下を連載している。その他では大久保辛次がトルコ民族間題を雑誌「東洋」に登載している。このように大正時代のイスラーム界の刊行物の主流の大半がトルコのイスラームで、戦後のアラブを中心とするそれとは極めて対照的である。
この大正十三年は日本国内では大川周明・安岡正篇らが提唱する「行地金」と、安部磯雄らの支援する「総同盟」の右翼対左翼の両翼が拮抗対立した年でもあった。
他面同年十一月下旬に中国の孫文(孫逸仙)が広東より北京へ向う途中神戸へ立寄った。そして彼のかねての主張であり持論である「大アジア主義」というテーマで大講演会を開催したが、かの辛亥革命以来親交のあった頭巾満、犬養毅らがこれに声援を送った。
このとき日本回教界方面からは川周明、有賀文八郎、山岡光太郎、田中途平らの「一匹浪」的憂国慨世の面々が孫文の提唱に共鳴してこれを激励してやまなかったのである。
大正十四年(一九二五)一月に奉天(現潘陽)雪見町の文化清算寺の総数長、張徳純が大連のクルハンガリーとともに来日したが彼らといずれも面識のある田中途平が世話役を引受けて奔走した。
そのクルバンガリーは「東京回教団」を初めて結成してここに在日イスラーム運動の第一歩を開始することになる。
三月には初代駐土大使小幡西吉が任地トルコへ赴任するが内藤智秀は外務省一等通訳官として同大使に随行した。七月には新宿東京ホテルの大ホールで本年の犠牲祭(別名クリバンバイラム)を盛大に執行し、夕刻より後援者の岡元甚五邸にて聖餐式を開催した。ちなみに氏は昭和十九年大日本回教協会よりモロ族調査のためフィリピンのミンダナオ島へ早大の古川崎風一戦後早大図書館長兼教授)らと派遣された東大出身の傑物である。
出版物では前年聖地メッカ大巡礼から帰還した田中途平が「イスラム巡礼・白雲遊記」を済南の座下書院から出版した。三二〇ページにおよぶ現地報告記である。京大教授桑原騰蔵が「中世支那に移住せし西域人について」を史林に発表、また二年前に踏査旅行した現地事情を志賀重昂が「オーマン・イラク両国王の謁見」と題し雑誌「太陽」に掲載した。
その他、内藤智秀が「モロッコ間題」を史学に、また「西亜細亜の旅」を三田評論に寄稿したが、この年はモロッコ間題を研究の対象に採りあげて発表する学者が少くなかった。旅行では、この前年の一月一日、北京を出発して約六石数十日を要して九月に副高次郎が中央アジアの大草原を無事単騎横断して終着地イスタンプールへ到着。東亜同文会の田鍋安之助がアフガニスタンの首都カプールにカイバル峠の国境を越えて入境し、国王アマタラ汗に謁見するという壮挙を敢行した。
大正十五年(一九二六)は、労働農民党や社会民衆党などの組合活動が活発となり各地で大争議が続発して社会情勢も不穏になってきた。
前年、大旅行を無事完遂して帰還し「アジアを跨ぐ」を刊行したばかりの副高次郎は、長途旅行による過労のためか大連にて急逝した。三十一才の昔さであった。田中途平は井上哲次郎藩士創立の大東文化学院講師となり、また小石川水道端町でアジア間題やイスラームの礼拝方式について講習会を開いた。
出版分野では、赤松智城が「近東における回教民族の動乱について」を上申下の三部作として「宗教研究」の誌上第三巻第一号から王号までに分割掲載した。
笠間呆雄は、トルコ問題を外交時報その他に発表した。笠間は外交官出身でのちに駐イラン公使に主任する人物で、当時外務省随一のイスラーム通であった。また先年オーマン等ペルシャ湾岸諸国を視察旅行した世界的地理学者志賀重昂は「知られざる国々」を執筆、出版した。
アジアの秘境カプールに前年入境した田鍋安之助は東方公論誌上に「新興アフガニスタンの現状」を発表した。小型母四郎は母校慶応義塾の予科会誌に「アラビア人の記録に見えたる唐について」を研究発表した。
最後に異色ある人物の論考がある。それは現役軍人である本位間雅晴(当時中佐のち中将)の「黎明記の西部亜細亜」上申下の三部作を外交時報に登載した一事である。本間は陸軍切っての英国通であり、秩父宮の御代武官や駐英日本大使館の武官補佐官を勤めたが敗戦の翌年、フィリピンで戦犯として銃殺刑に処せられた「悲劇の将軍」であった。
南方派遣の第八方面軍司令官でありながら、終戦後インドネシア大統領スカルノやハックらの助命嘆願によってあやうく死刑を免れた陸士同期の今村均大将とはその運命は極めて対照的であった。
海外方面では米の極東通オウエンニフチモア博士が自動車を駆って内蒙からトルキスタン地帯を走破した。このコースは通称「羊膓の道」として知られ、この翌年ヘディン博士も通過した経路とほば同一ルートである。その旅行記は「トルキスタンへの砂漠の道」と題して和訳されて、昭和時代になってから日本で出版され、好評であった。
十一月インドのカルカッタでかねて不穏の形勢下にあった回印両教徒(イスラーム教徒対ヒンズー教徒)の正面衝突が惹起して双方多数の死傷者がでるという不祥事件があった。
十二月にはトルコ・イラン・アフガニスタンの間に「三国相互安全保障条約」の調印式が行われている。 
第九章 昭和時代  

 

大陸熱勃興の波にのる日本イスラーム運動
日本イスラーム界は、昭和時代に入って急速に伸張する。その直接的間接的要因はいくつかあるとしても、この時期における国策の一環としての大陸政策遂行という時代背景が人きく作用していることは否定できない。
人的方面では、慶応生小の山川寅次郎、有賀文八郎は別格に置くとしても、明治十年代生れの第二期宝グループ山岡光太郎、田中途平、大川周明、内藤智秀、佐久間貞次郎、大村謙太郎らの中先覚と、さらにこれを次ぐ明治二十年代生れの松林亮、三田了一、須田正継ら以下の第三期先輩グループが、この昭和期にはいると年齢的にも四十本前後に達し、まさに脂の乗り切った壮年期を迎え、活発なイスラミック実践活動を開始せんとした。この「三期生」グループたちは前の「二期生」グループたちが主として文筆活動において大いに威力を発揮してたのと対照的に、満・蒙・華大陸にみずから身を挺して諸般の実際活動を推進した点にその特色がある。
この傾向は明治期や大正期には見られない現象で、その後における後進たちに与える影響も少なくなかった。現に聖地メッカ巡礼についてみても、明治期に一名、大正期に一名がやっとという時代に比べ、昭和の第一期間に一挙に十余名の巡礼者が出ている。
また、この昭和期から在日外人ムスリムたちの日本イスラーム界への積極的働きかけが目立ってくる、これは明治大正期には前例がないことである。クルバンガリーがまずその方面の先鞭をつけ、つづくアヤス・イスハキとイマム・ラシッド・イブラヒームの三者である。ちなみに、戦後では昭和三十年代へかけてのパキスタンのアルシャドーをリーダーとするタブリーグ派ムスリム・グループ、さらに昭和五十年代前後頃の(第一次石油ショック以来の)サウジアラビアのドクター・サマライの協力支援という三大ケースにおけるこれがその一番手であることに注目したい。 
昭和二年(一九二七)昭和時代開幕
昭和時代は総体的には決して明るい幕開けではなかった。経済界では去る欧米大戦によって病的に肥大した各種産業が、その後遺症として副産があいついだ。また金融界においては銀行の取りつけ騒ぎから金融恐慌が始まり、銀行が休業宣言をして人心を動揺させた。産業界では野川醤油の長期ストライキを始めとする大小ストライキが続出するといった社会情勢全般は不安定な情勢にあった。こうした世相にあっても、この年甲子園球場では第十三回全開中等学校野球大会が行われ、その模様は日本で初めてNHKラジオで全国放送された。また某東上野・浅草間二・六キロの地下鉄が日本では初めて開通したというやや明るい一面も併せもった年でもあったのである。
この年、田中逸平とクルバンガリーの両者がコンビを組んで全国的税模で国内巡教講演行脚を実施した。そして東京へ一日もとった川中が神田の宝亭楼で「回教徒とその生活」というテーマで講演会を開催し、クルバンガリーが小規模ながら私塾程度の「東京回教学校」と称するムスリム養成所を開設してみずからその校長に就任した。
他方、出版部門でも内藤智秀が「回教主問題」を明治聖徳記念学会紀要第二十七号に掲載した。また北京にいた川村狂堂が北京回教研究会より「回教」第一巻第一号をこの年五月十五日発刊した。 
昭和三年(一九二八)クルバンガリーの拾頭とその野望
天皇裕仁の即位式すなわち御大典があった。前年よりやや明るいムードが漂ったが、同時にまた軍によるファッシズムの足音が何処からともなく聞え始めていた。内務省令で、「特高」こと特別高等警察機構が各府県庁に新設され、共産党員の全国一斉検挙があって逮捕者一六○○名に達する、世にいう「三・一五事件」勃発の年でもある。また京大の河上肇博士はじめ東大・九大の革新系著名教授が学園から追放されたのもこの昭和三年であった。
さて、日本イスラーム界における動きはどんな状態であったぐあろうか。まずクルバンガリーの積極的なイスラームの宣教活動が活発であった。
彼は大正期に二回訪日旅行をし、故国バシキールと日本との風土と風俗が以外に似ていること、並びに日本民族の敬神思想や民族的団結心の強固さに、共通点を発見してその親近感は一層深化し、この日本こそ世界中で唯一の安住の地であり、第二の故郷であるという信念をもっていた。
クルバンガリーはこの頃から田中途平やロシア通でかつロシア語はロシア人よりも巧みとまでいわれた須田正継、嶋野三郎らと近接するようになり、その誘導と協力によって行動範囲を拡大し、宣教活動を一層強力にかつ意欲的にしていった。
もっと端的にいえば、大正中期頃からソ連赤軍や過激派から圧迫されて日本へ逃避してきた反革命派のトルコ・タタール系ムスリムを糾合し、この際自分がそれらの頭首となってリーダー・シップを把握しようという一種の自信と野望に・・・ 
 
ゴッホ / 異常と正常との間

 

フィンセント・ファン・ゴッホは、本当に精神異常者だったのかどうか?
これは、多くの人が心の中で疑問に思っていることの一つだと思う。
「本当に精神異常者だったら、あんな明晰な手紙や素晴らしい絵が描けるはずがない」と言う人がいる一方で、「サン・レミィ以降の絵は明らかに精神異常者の絵の特徴を現している」と主張する人もいる。
どちらが本当なのか? 僕はかねがねこのテーマに関心を持っていた。
前者の立場を取っている一人が作家の司馬遼太郎さんである。司馬さんは「街道をゆく・オランダ紀行」で、ゴッホについて多くのページを割き、このことを論じている。司馬さんはゴッホ書簡集全6巻をつぶさに読み、ゴッホは全く精神異常者ではない、と結論づけている。
「死の2年前、南仏のアルルで自分の耳を切って娼婦に送るという事件を引き起こしたが、ゴッホの生涯で奇行(あるいは異常行為)があったのは、これだけである。ゴッホは精神分析医たちの好対象なのだが、私は好みとしてそういう分析には従わない。ゴッホが精神異常者でなかったことは、彼の全書簡を読めば十分に分る。精神は正常なだけでなく強靭で、妄想も幻覚もなかった」
さて、僕の手元には、サン・レミ・ドゥ・プロヴァンスにある、モーゾール修道院・・・ここはゴッホが当時入院していた精神病院で、ゴッホがいた病室が当時のように復元してあるのだが・・・で買った英語のパンフレット「Vincent van Gogh in Saint-Paul de-Mausole」がある。Doctor Jean-Marc Boulonという人がフランス語で書いたものを英語に訳したものである。
この最初のページを開くと、こう書いてある。
「光の芸術家、フィンセント・ファン・ゴッホ・・・彼は精神異常者だったか?」
そして、現代の精神医学者たちがさまざまな角度から、ゴッホの症状を分析し、結論的には、ゴッホは激しい譫妄状態と幻覚を伴う、躁鬱神経症だったと結論づけている。
はたしてどちらの解釈が正しいのだろうか? 結論的にはどちらも正しいと思うのだが、モーゾール修道院の、ゴッホの病室を思い浮かべながら、そのことをこれから考えて行きたい。
ゴッホの病室
まず、有名な「耳切り」事件についてふれたい。というのは、この「耳切り」事件こそが、ゴッホ精神異常者説の有力な根拠だからである。ゴッホの絵についてはあまり詳しく知らない人でも、「耳を切った絵描き」と言えば「ああ、そうか」と知っていることが多い。
この事件のいかにも猟奇的な点は、何故自分の耳を切ったのか、という点と、なぜ切った耳をなじみの娼婦に渡して「持っておいてくれ」と言ったのかという、二つの点である。
事件は1888年12月23日の夜に起きた。折しもクリスマスの日である。場所はアルルの駅前にあるラマルティーヌ(当時の名称はヴィクトル・ユゴー)広場。
事件の1週間後にパリに戻っていたゴーギャンに、ゴッホと共通の友人であるエミール・べルナールが直接聞いた話によると、ことの顛末はこうだった。
事件の晩、「黄色い家」から外に出たゴーギャンをフィンセントが追ってきた。
そのころフィンセントの度重なる奇妙な行動に接していたので、ゴーギャンは身構えた。するとフィンセントは言った。
「君は無口になっている、僕だってそうなってしまうよ」。
ゴーギャンは「黄色い家」には帰らずホテルに泊まり、翌日戻ったとき、「黄色い家」の前は人だかりがしていた。ことの次第はこうだ・・・
フィンセントは家に戻るとカミソリで耳を切り落とし、(実際は左の耳たぶ)、遊郭のなじみの女にそれを贈り物だと言って渡した。
この話は、15年後に同じ当事者のゴーギャンが「前後録」に書いた話とは、かなりニュアンスが違う。やや長いが、少し前の部分も含めて「前後録」から引用してみたい。
その晩、私たちはカフェに出かけ、彼は軽いアブサンを飲んだ。突然、彼は中身の入ったグラスを私の頭に投げつけた。私はそれを払いのけ、彼の身体を抱きかかえるようにしてカフェを出て、ヴィクトル・ユゴー広場へ向かった。数分後、フィンセントは自分のベッドにいた。そして数秒もたたぬうちに眠りに落ち、朝になるまで目覚めなかった。
目覚めたとき、彼はきわめて冷静に言った。「親愛なるゴーギャン、記憶がはっきりしないのだが、昨日の晩は君に失礼なことをしてしまったんじゃないか」
私は答えた。「私は喜んできみを許すよ、心からね。しかし昨日のようなことはまた起こるかもしれないし、殴られたりしたら、私も自制心を失って君の首を絞めるかもしれない。だから私はここを引き払う。そう君の弟に知らせる。いいね」まったくとんでもない一日だった。
夕方になって簡単に食事を済ませた後、私は月桂樹の花の香が漂う外気を吸いたくなり、一人で外に出た。私がヴィクトル・ユゴー通りをほとんど渡りきろうとしたとき、背後に馴染みのある、セカセカした不規則な足音がかすかに聞こえた。振り返った瞬間、フィンセントが手に持ったカミソリの刃をこちらに向け、襲い掛かってきた。しかし私が睨み付けると彼は動きを止め、うなだれて家の方に走り去って行った。
私があの時とった態度は無責任だったろうか。刃物を取り上げ、彼を落ち着かせるべきだったろうか。私は何度も自分の良心に問うてみたが、自分に非があったとはどうしても思えなかった。私に石を投げたいと思うものは投げたらよい。
さて、私はただちに市内の立派なホテルに行き、時間を尋ねてから部屋を取り、そこで寝た。興奮していたので3時ごろまで眠れず、目が覚めたのは7時半ごろだった。
広場に戻ると、大勢の群集が集まっている。私たちの家の近くには警官たちと山高帽をかぶった警視が立っていた。
事件の経過はこうである。ゴッホは家に帰ると、すぐさま自分の耳を根元から切り取ったのだ。出血が収まるまでしばらくかかったらしく、翌日見ると、1階の2部屋の床に血のついたタオルが沢山転がっていた。
血はこの2部屋の他、寝室に行く途中の小階段にもこびりついていた。
外に出られる状態になると、フィンセントはバスク風のベレーを目深にかぶって頭部を隠し、ある店に直行した。同郷の女は不在でも、誰か顔見知りの女がいるはずだ。彼は門番に、きれいに洗って封筒に入れた自分の耳を渡し、「これは私の形見だ」と言って姿を消した。
彼は家に戻って横になり、眠りに落ちた。それでも窓を閉め、窓のそばのテーブルにランプを灯すことは忘れなかった。10分後、売春街に人が出始めたころ、一帯は事件のうわさで騒然となった。
何度読んでも、ゴーギャンの語り口のうまさに感心してしまう。それはともかく、同じゴーギャンが語った1週間後の話と、15年後の話・・・どちらの話が真実か?
僕は、直後に語られた話のほうが、より真実に近いように思うのだが・・・。
もともとゴッホには対人恐怖症的な傾向があり、手紙以外の形では、他人に対してはっきり面と向かって自分の主張を言うことが出来なかった。
ゴッホ自身はこの話を直接には手紙に書いていない。なぜ耳を切ったのかについても全く触れていない。
僕はここで突然、雪舟が描いた「慧可断臂図」という絵を思い出した。これは、壁に向かって座り続けている達磨大師に対して、慧可という弟子が、何とか教えを請いたいといろいろ申し出るのだが、達磨は無視している、それで慧可は自分のなみなみならぬ意思を示すために左手首を切断して差し出した、という絵なのである。
こういうことは、日本でも実際にあった。鎌倉時代の名僧、明恵上人は23歳のとき、僧が俗心にまみれ、戒律をないがしろにする姿を見て幻滅激しく、故郷紀州に隠遁の庵を結び、自らの耳を切り落としたのである。
仏弟子が、美しく頭を丸め、衣の色も鮮やかにしようと腐心するのは仏法の堕落である。ならば「形をやつして人間を辞し」てしまおうと考えたのだ。なぜ耳か、というと、目をえぐれば経文が読めないし、鼻をそげば鼻汁で経文を汚すし、手を落とせば印を結べないからである。
決意を固めると、右耳を仏壇の脚にくくりつけ、念仏をとなえつつカミソリで一気に切り取った。ほとばしった鮮血は明恵上人の没後も庵の跡から消えなかった・・・と、こういう話である。
ゴッホ肖像 
ゴッホは日本の浮世絵に詳しいだけでなく、仏教にも知識があったらしい。
その証拠に、事件の3ヶ月前、1888年9月中旬に描かれた「ボンズ(仏教の坊主)としての自画像」がある。
この自画像についてゴッホは、「自分の個性を強調することが僕にも許されるなら、この肖像を永遠のブッダを崇敬する、ある簡素な坊主の像だと考えている」と表現している。あるいはゴッホは、この明恵上人の故事を知っていたのではないか・・・これは聖心女子大の奥田教授の説なのだが・・・という想像もありうるかもしれない。
つまり、自分の決意を示すために自分の身体の一部を切り取るという行為は、何も精神異常者だという証拠ではなくて、洋の東西、ゴッホ以外にもやった人はいて、その人たちはむしろ尊敬されているということである。ただし相当昔の話だが。
それにしても、なぜゴッホは突然そのような行為に走ったのか? それこそが病気の証拠ではないかという疑問が残る。
一つの想像としては、一瞬でもゴーギャンに殺意を抱き、自分自身が掲げた理想に程遠い行動をしてしまった自分をどうしても許せず、その償いとして自分自身を傷つけたのではなかろうか。そして自分の肉体の一部を捧げることによって、芸術に対する、自分の心からの献身の証にしたかったのではなかろうか。
そして切った耳を封筒に入れて、なぜ馴染みの売春婦に与えたのかということだが、そこは恋愛に関してはとりわけ自己中心的なゴッホのこと、ラシェルという売春婦は彼にとってはすべてを許容してくれるマリア様だったのではないかと思う。これが大騒ぎに発展するとは、全く考えもしなかったのではないかと思う。
しかしこの猟奇的な事件は、小さな田舎町・アルルに途方もない反響を呼んだ。
「カミソリを振りかざして迫ってくる、精神異常の画家」の恐ろしいイメージが人々の間に広まった。そんな男から妻や子供たちを守ろう、ということで市長を含む81人の有力者の署名がたちまち集まった。
そうなると、下宿は追い出されるし、道を歩いていても石が飛んでくるし、絵を描こうとしても妨害されて描けないしで、具体的に命の危険を感じるようになる。
しかも警察自体がゴッホを危険人物だとみなしているのである。そこでゴッホは、自発的にサン・レミィの精神病院に行く道を選んだのである。
ここまでの経過を見る限り、ゴッホの判断はそれなりに合理的で、精神異常者ではないと思う。では、その後の彼に精神異常の振る舞いがまるで無かったのかというと、サン・レミィの記録や彼自身や弟・友人の手紙を見る限り、相当に異常な状態があったのは事実である。
僕はここに問題の核心があると思う。つまり、ゴッホはみんなによってたかって精神異常者にされていったのではなかろうか。
19世紀当時の精神病院がどのようなところであったのか・・・特にこの英語の本が僕にとって興味深かったのは、その実態が書かれているからである。
ゴッホの時代には精神病の薬物治療方法は確立してなかったし、カウンセリングも無かったから、今から見るととんでもなく乱暴な治療がなされていたのである。
主な治療は、「ショックを与えること」だった。最も有効な方法は、冷たい水をぶっ掛けることだったようである。他には、吐薬、下剤、浣腸、ヒルにこめかみから血を吸わせる、熱い湯や氷を入れた「コテ」をうなじに押し当てる、刺激性の薬を与える、電気ショックを与える・・・髪の毛を引っ張ったり、ムチでたたいたりするのはしばしば有効だと書かれている。
びっくり風呂びっくり風呂
これは躁病の患者に有効だとされていた「びっくり風呂」である。
普通の風呂やシャワー(前ページの図)が効果的でないときにつかう、とある。
冷たい水を突然強く浴びせかけられることによって、患者はおとなしくなり、それまで囚われていた妄想から抜け出すことが出来ると書いてある。
右の写真は実際にゴッホの治療に使われたと思われる風呂である。
ほとんどの患者は、家族や地域から厄介払いされて人里離れた施設に送り込まれ、財産を身ぐるみはがされ、こんな治療を受けさせられたようなのである。
しかし当時の病院の中では、この「モーゾール修道院」はかなり良心的なところではあったようだ。宗教財団なので、患者数に比べて世話をする人が多く、部屋も余っていた。だからゴッホは自分の個室のほかに、アトリエを貰い、片道1時間の遠出をして絵を描くことも許可されていたのである。こんな患者は当時としては大変優遇されていた患者だと思う。とはいうものの、モーゾール修道院での治療に本当に効果があったのだろうか?
病室の鉄格子の隙間から見た風景
僕が不思議に思うのは、アルルでゴーギャンとのいさかいがあった、1888年12月が最初の発作で、その後モーゾール修道院に入院し、期間中の約1年間に数回の発作を繰り返し、その間隔がだんだん短くなっていったのだが、1990年に本人の強い希望でオーヴェールに転地療養に行ってからは・・・そこで自殺して37年の人生を終えるまでたった2カ月間ではあったけども・・・一回も発作が起こってないということである。
発作というのは躁状態が極端になったときに起こりやすい。猛烈な創作意欲が続いた後、突然怒鳴り散らし、暴れ、手がつけられなくなる。これが反対に振れると鬱になり、全く無気力、無感動になって、とても悲観的になり、行き過ぎると自殺する。
ゴッホの場合は躁も鬱もどちらも起こり、いずれにしても監視が必要なのである。
僕は、たまたま知人がそういう状態になるのを身近に見たことがある。その時の最大の原因は、明らかにストレスだった。自分に対する自分自身の期待と、現実との乖離があまりに大きくなると、ある時点で突然、アタマの中でバネがはじけたようになって、滅茶苦茶な状態になってしまうのである。
ゴッホの場合、何に対するストレスだったのだろうか?
それは、「アルルの人たちをこんなにも愛しているのに、アルルの人たちに全く受け入れられない」ということではなかったかと思う。ただ愛する町を絵に描いているだけなのに、危険な人間とみなされ、大勢が署名をして警察に拘禁請願書を出したと知ったとき、その衝撃がいかに大きかったかを、彼はテオあての手紙に書いている。
思ってもみてくれ。たった一人の、それも病気の人間に大勢で対抗するような卑怯な連中がここにはそんなにいっぱいいたと知ったとき、まさに胸の急所を棍棒でやられたその衝撃が、僕にとってどれほどのものだったかを。
彼にはその後、芸術しか残されてない。実はそのことはずっと以前からそうだったのだが、ここに至ってようやくはっきりとしたのである。
ここで司馬さんの見解に立ち戻ってみたい。たしかにゴッホの書簡と絵は、自殺の直前においてさえ圧倒的な知性と明晰さを持っていて、これが精神を病んだ人に到底出来るものではないことは、多少とも芸術や文学をやったものにとっては明らかである。実際に精神を病んだ人の文章や絵がどんなものかを見れば、そのことは誰でも納得出来ると思う。僕は見たことがある。
ゴッホが最後まで明晰さを保てたということは、ゴッホが本当には精神を病んでなかったということを意味していると思う。しかし、周囲の誤解に基づく悪意によって、強いストレスを与えられ、一時的に神経衰弱の状態に陥った。それは、当時の精神病院の劣悪な環境によって、しだいに悪化した、そういう風に考えることが出来ると思う。 
 
『眠り姫』

 

『眠り姫』話群のうち最も有名なのは、ディズニーのアニメ映画『眠りの森の美女』だろう。ヒロインにはオーロラ姫という名が与えられ、王子の名はフィリップとされた。二人は実は親が決めた婚約者同士だが、そうと知らずに出会い心惹かれ合う。魔女マレフィセントの呪いによって予言通りの眠りについたオーロラ姫を救うために、フィリップ王子は剣でイバラを切りはらい、魔女が身を変えた竜と大活劇を演じる。そして真実の恋人からの愛のキスこそが、オーロラ姫を呪いから解き放つ唯一の方法なのだ。
このアニメの原作は、タイトルからしてもぺローの「眠りの森の美女」だと思われるが(オーロラは、ぺロー版では眠り姫の産んだ娘の名である)、姫の眠る城の周囲が茨で囲まれること、キスによって目を覚ますといった要素は、グリムの「いばら姫」から採ったものだと思われる。実際、オーロラ姫は十五歳までは農家の娘として育てられるが、その間は《野いばら[ブライアー・ローズ]》と呼ばれたという設定になっている。
なお、眠り姫の名をオーロラとしたのは、チャイコフスキーが楽曲を担当したことで知られるバレエ版『眠れる森の美女』の方が七十年ほど先である。そちらでは、王子の名はデジレ(オーノワ夫人の「森の牝鹿」のヒロインから採ったものと思われる)、呪いをかけるのは邪悪な妖精カラボス(やはりオーノワ夫人の「爛漫の姫君」から採っているのだろう)となっている。 
「眠りの森の美女」は「いばら姫」よりも百年以上前に出版されたものだが、一時、一部の研究者たちの間で「いばら姫」の方が伝承のより古い形を正しく保った、言わば原型であるとの説が叫ばれていた。この説に最初に火を点けたのは、他ならぬグリム兄弟である。
グリム兄弟が生きた時代、ドイツは群小化して統一されておらず、ナポレオンによるフランスの支配を受けるなど、不安定な状態にあった。グリム兄弟が民話を蒐集したのも、故国の現状を憂え、ゲルマン民族の文化的遺産を守り伝えようという意識があったからだと言われている。つまりドイツ文化の素晴らしさを記録し知らしめることが目的だったため、版を重ねるごとに、他国に有名で先駆的な類話があるもの……例えば「青髭」や「長靴をはいた猫」……は童話集から削除されていったのだが、フランスの「眠りの森の美女」やイタリアの「太陽と月とターリア」といった有名類話のある「いばら姫」は、弟のヴィルヘルム・グリムが初版の前書きでそのことに言及し、兄のヤーコプ・グリムが草稿の末尾に「これはペローの眠れる森の美女から全く由来するように思われる」と書き足しているにも関わらず、何故か最後まで削除されることはなかった。
グリム兄弟にとって「いばら姫」は重要なメルヘンだったのだ。何故なら「娘が棘に刺されて死の眠りにつき、周囲を不思議な垣が囲むが、訪れた若者が目覚めさせて結婚する」というモチーフが、「ニーベルンゲンの歌」にまとめられたようなジークフリートとブリュンヒルトの神話……また、それに類似するアイスランドのシグルズとブリュンヒルデ(シグルドリーヴァ)の神話……と、判り易く共通していたからである。彼らは民話は神話が世俗化したものだとみなしていた。つまり『眠り姫』話群の原型は北欧〜ゲルマン神話にあり、ゲルマン民族が生み出したものなのだと結論付けたがっていたのである。他国の類話は、彼らのものより遥か以前にテキスト化されたものであっても、単なる類話……亜流に過ぎないと暗に述べていた。「太陽と月とターリア」や「眠りの森の美女」で眠り姫の産む双子の名が「太陽と月」や「真昼と曙」であることすら、北欧神話の天体観と結び付けて論じている。 
後にヴィルヘルム・グリムの息子、ヘルマン・グリムが公表した著者保存分『グリム童話集』初版本に書き込まれたメモによって、「いばら姫」がマリーなる女性から聞き取った民話であることは明らかになっていた。そしてヘルマンは、この《マリー》が彼の母の実家近くのヴィルト薬局の家政婦であった《マリー婆や》であると証言した。彼女、マリー・ミュラーは生粋のドイツ人であった。以上のことからその後の研究者たちの多くは、「いばら姫」がペローやバジーレの影響を全く受けていない、古くからドイツに口承されてきた民話であると信じて疑わず、それを前提にして自論を展開していった。
ぺローの「眠りの森の美女」とグリムの「いばら姫」を比較した場合、最も大きな相違は、ペロー版には結婚後の姑との葛藤譚が付されているが、グリム版にはそれがないという点である。ハンブルク大学で教鞭をとったドイツ文学研究者のペッチュは、論文『いばら姫とブリュンヒルト』(1917年)において、それこそを「いばら姫」が『眠り姫』話群の祖形たる根拠であるとみなしている。もしもぺローの形の方がこの民話の原型に近いとするなら、ブリュンヒルト神話にもそれに類するエピソードがあって然るべきだと言うのだ。彼は民話[メルヘン]の方が先立って存在していて、その要素が後に神話伝説に取りこまれたのだと考えていた。
しかしグリム兄弟にメルヘンを語ったマリーが、実はマリー・ハッセンフルークという当時二十歳そこそこの娘であったことを、ハインツ・レレケが1975年になって解き明かした。彼女は教養ある中産階級の娘で、フランス系ドイツ人であり、家ではフランス語で話していた。つまり、彼女が話した「いばら姫」がぺローの「眠りの森の美女」の影響を受けている可能性は低くない。更には、ゲルマン神話が民話になったのであれば、その変化過程の類話が相応に見つかるべきであるが、後の調査では殆どペロー版そのままのものが一例採取されたのみで、ドイツ国内に類話は見つからなかった。
こうして、グリムから始まった、『眠り姫』話群はゲルマン民族起源であるという論説は、ここで根底を失うことになったのである。 
なお、グリム説への反論はそれ以前から存在していた。シュピラー(R.Spiller)は論文『いばら姫メルヘンの歴史に寄せて』(1893年)において、『眠り姫』の類話がインドや『千夜一夜物語』にも見られることを指摘して、この話群のルーツはインドの「小さな太陽の娘」であり、そこからペルシア、スペイン、フランス、ドイツへと伝播してきたのだと唱えていた。「ヴォルスンガ・サガ」の作者が、その当時に北欧に伝わっていたこの系統の民話から、眠る姫のモチーフをシグルズの物語に取り入れ、これが[ニーベルンゲン伝説]としてドイツにも広まったのだと。
続いて1905年、ジーフェルト(G.Siefert)は[ニーベルンゲン伝説]は436年のフン族によるブルグント族滅亡の史実が5〜7世紀頃にラインフランケン地方の(創作物語である)ジグルト伝説と結び付いて出来たものであり、それがヴァイキングによって伝播されて北欧で神話として語られたのだと述べた。よって[ニーベルンゲン伝説]と「いばら姫」に共通要素があるのは、どちらかがどちらかの原型というわけではなく、それぞれが同じメルヘン類型からモチーフを借用したためであろうと。
また、フォークト(F.Vogt)は1896年の論考で、インドの「小さな太陽の娘」は太陽神話、北欧の[ニーベルンゲン伝説]は季節神話であり、その両方の要素を含む古代ギリシア〜シチリア島のターリア神話こそがこの話群の原型であると唱えた。(ターリア、即ちタレイアは《花咲く》という意味の名の小女神だが、芸術の女神、或いは愛の女神アプロディテの侍女(小分身)とされる一方で、太陽神アポロンに仕えて子を産んだともされ、詩的霊感を授けるともされるインドの太陽の娘スーリヤに近似の性格を持っている。) 
ところで、ペロー版やバジーレ版にはあるが「いばら姫」に欠けている、結婚した眠り姫が姑の悪意にさらされるエピソードだが、実は「悪人のしゅうとめ」(KHM215)という題で、断片だが独立した物語として『グリム童話集』の初版に収められていた。二版目以降は要約した形で別巻の注釈本の中に入っているのみとなっている。(岩波文庫版『完訳グリム童話集』では5巻に収録)
このことを、グリムの意図的な工作だと揶揄する声もある。口承を聞き取りした時点でほぼペロー版そのままの内容だったものを、ドイツ独自の民話だと見せかけたいばかりに前半と後半で切り離し、あげく後半だけ本巻から削除したのだと。
しかし実は、「いばら姫」をマリー・ハッセンフルークから聞き取ったのはブレンターノに草稿を送った以前の1808年頃と推測され、「悪人のしゅうとめ」の方は著者保存本に残されたメモを見る限り「ハッセンフルーク家の人々から」1811年4月18日に聞き取っていて、実に三年もの時間差がある。グリム兄弟が意図的な工作を行ったわけではないのである。 
様々な解釈 
グリム兄弟は「いばら姫」を神話学的見地から読み解いていた。このメルヘンの原型はゲルマン〜北欧の神話であり、その神話…死の眠りについていた娘が目覚めて結婚するというエピソード…が意味しているのは「太陽が沈み、また昇る」という自然現象の比喩であり、眠るブリュンヒルデを囲む炎の垣は太陽が昇る前に現れる《曙》の比喩である。よってこの神話を原型とするはずの「いばら姫」の茨の垣も《曙》を意味するに違いない。類話の「眠りの森の美女」や「太陽と月とターリア」で眠り姫が《太陽》や《月》や《曙》といった名の子を産むのも、神話の記憶の残滓である……といった具合だ。
この系統の解釈は様々に試みられた。例えば批評家のシュタウフは「王は太陽、王妃は月、王女(眠り姫)が大地、茨の垣が厳冬、王子は春を意味し、百年の眠りは冬の百日間の文学的表現に過ぎない」と、季節神話として論じている。
しかし異なる解釈を行う研究者もいる。ウラジーミル・プロップは著書『魔法昔話の起源』において、【白雪姫】話群とそれに準じる眠り姫伝承を、若者宿の習俗または加入礼と関連付けて論じている。民族学・歴史学的見地からの解釈である。かつて多くの民族で行われていた加入礼とは、成人式の一種だ。現代でも結婚を人生の節目、第二の人生の始まりと言うように、成人も人生の節目であり再出発である。(そもそも《成人する》ということは、イコール《結婚出来るようになった》ということであった。)そのため、加入礼では「一度死に、生き返る」状況を模した儀式を行うことが多く行われた。プロップはこれらの実例を挙げ、そうした儀式の記憶が「一度死の眠りについて、その後に目覚める」物語となって語り伝えられたのだとする。
この説は、ブルーノ・ベッテルハイムらが行った深層心理学・精神分析的見地からの解釈に、一脈通じる部分がある。つまり《死の眠り》は大人になるための準備期間を意味しているのだ、と。
この他、フェミニズム的見地からの解釈もしばしば為され、男尊女卑社会批判の材料とされる。『眠り姫』で言えば、眠って王子の来訪を待つ、時には眠っている間に妊娠させられる王女は非常に受け身であり、男性に都合のいい女性像に仕立てられているとする。こうした物語を幼いうちから語り聞かせることによって、女性はかくあるべきだと擦り込んできたのだ、といったようなものだ。 
精神分析的見地からの解釈は人気が高く、関連書籍も数多く出版されていて、一般層からの認知度も高い。この分析手法では多くの場合、メルヘンは思春期の人間の精神発達を暗示したものであり、特に性的欲望の発露と暴走、それによる罰と、その後の精神的成熟を意味していると解釈される。
とはいえ、「長いものや尖ったものを見れば男性器だと言い、赤いものを見れば経血か破瓜の血だと言う」としばしば揶揄されるように、精神分析的見地…特にフロイト派…の、なにかと性的方向に解釈したがる姿勢に疑問を投げかける声が大きいのも確かである。
たとえば「いばら姫」の冒頭に、沐浴中の王妃が水から這い出してきた蛙に出産の予言を受けるシーンがある。この蛙を、ベッテルハイムは男性器の象徴とみなした。水は人間の無意識であり、蛙と男性器は無意識の領域で密接に結びついているのだと。また、沐浴中だったからには王妃は裸だったと想像できるが、そのことから連想したのか、王妃は王以外の男性と性交して子を授かったのだ、それは身分低い男だったに違いない……などと、想像力たくましく唱える研究者さえいる。
どうして蛙が男性器の象徴になるのか疑問だが、ひんやりしてベタつく感触は幼児期に自分の性器を触った感触を思い出させる、大きく膨らむから男性器の勃起を思わせる、などと説明されている。ベッテルハイムの感覚では蛙と男性器はよく似ていたらしい。中には、『グリム童話』第一話「蛙の王様」に王女が水から出てきた蛙と結婚の約束をするシーンがあるが、似ているからそこからの借用だろうとし、だからこの蛙は(性交相手としての)男性だと述べる研究者もいる。
確かに雄の蛙が活躍する説話は『グリム童話』に限らず世界中にある。だが、「いばら姫」の蛙は王妃と結婚するために現れたのではない。あくまで受胎告知に現れたのであり、その視点から見れば、蛙が古代ローマのヴィーナスなど、女神に捧げられていたことを無視するのはいただけない。エジプトの多産の女神ヘケトは蛙の姿で表される。また、エジプト人は蛙を胎児(生まれてくる魂)の象徴ともした。バビロニアの神殿の円柱には九匹の蛙を模した飾りが付けられていたというが、これは女性の妊娠の九ヶ月間を示す九相の女神を表現したものだったという。雨をもたらし無数の卵を産み変態して冬は土の中で眠り春には復活する蛙に、農耕・豊穣・多産・循環のイメージを重ね、妊娠出産・魂の輪廻転生を司る太母神の化身とみなす。そんな観念も存在しているのだ。(キリスト教化した時代には豊穣女神は魔女・妖精とされ、蛙はその変身・使い魔として邪悪・淫蕩のイメージを付与された。)少なくとも蛙を男性器とみなす解釈よりは歴史があり、一般的であるように思われる。
また、蛙にこだわること自体が、実は意味を持たない。「いばら姫」の冒頭で蛙が王妃に受胎を告げる。これは三版以降からの修正で、二版目まではザリガニだったのだから。流石にザリガニは膨らみはしない。
グリムがどうしてザリガニを蛙に変更したのかは分からないが、類似のシーンが、ぺローと同時代のフランスの再話文学者、オーノワ夫人の「森の牝鹿」の冒頭にあるのだった。恐らくこれは偶然ではない。「いばら姫」を語ったマリー・ハッセンフルークがフランス系の知識人だったという背景と、実際に語られた内容を踏まえれば、ペローの童話集を彼女自身または彼女にその話を伝えた人物が読んでいた可能性は高い。そしてオーノワ夫人の童話集をも読んでいたのではないか。何故なら、「いばら姫」にて王子が姫の眠る城に近づくと茨が独りでに道を開けて花咲くという、その他の類話にはない有名なシーン。これも「森の牝鹿」の冒頭に類似シーンがあるからである。似た語り出しである「眠りの森の美女」と「森の牝鹿」が、語り手の記憶の中で入り混じっていたのではないだろうか。
グリム兄弟は、きっと後でこれに気付いたのだろう。あからさま過ぎるフランス文学からの影響を指摘されることを恐れて修正を行ったのではないか。第二版以降は《妖精》を《賢女》に修正したように、彼らが童話集の中の《ドイツ的ではないもの》を、版を重ねるごとに削除・修正していたことはよく知られている。
どうしてザリガニを蛙に変えたのかには、後世の人々が考えるほどには深い意味はないのではないか。水辺に出てくる小さな生き物…とくれば、思い浮かぶのは蛙、蛇、蟹、亀、魚と言ったところで、その中からチョイスしただけだろう。神話学的見地から言えば、動物の種類は入れ替え自在で、さほど重要ではない。最も注意すべきは、それと出会う場所が水辺……現界[この世]と異界[あの世]の境であるという点なのである。水は異界〜冥界に通じる。そこから何かが出てきて託宣をし、幸を授ける。これが重要なのだ。
「森の牝鹿」にて受胎告知する泉の妖精(老婆)がザリガニの姿で現れることを、占星術と関連付ける説もある。占星術における巨蟹宮は母性・保護・受胎を象徴し、第一の宮、つまり誕生の象徴とみなせる白羊宮に戻るまで、妊娠期間と同じ九か月を数えるので、それに由来すると言うのだ。しかし個人的には穿ち過ぎであるようにも思える。日本人が蛇を執念深いと考えるように、西欧では蟹を意地悪で偏屈・頑固だとする。泉の妖精は最初は善き母親のようなのに、決裂した途端、偏屈で意地悪な老魔女に変貌するが、蟹的性格そのままではないか。泉から出てくる神霊の化身の姿を何にするか選択したとき、偏屈な母親のイメージを持つ蟹…ザリガニを選んだ。そういう理由も考えられないだろうか。ちなみにギリシア神話では、蟹座の原型である大蟹は女王神ヘラが義理の息子ヘラクレスを傷つけようと送った刺客。冥界へ呑み込もうとする母神の暗い意思の具現である。 
解釈の方法は人により様々である。だが立ち入った解釈をする際に、類話の広がりや物語の変遷を考慮せず、そのうえで細部にこだわることは、時に考察を的外れな方向に導いてしまう。グリムやペローの再話だけを見て、その伝承話群全体を語ることが出来ないのは自明の理だが、それを意に介さない研究者は多い。かつて研究者たちが好んで深遠な意味を読み取ろうとした「赤ずきんちゃん」の赤い頭巾が、実はぺローが創作した小道具に過ぎず、元の民話には存在すらしなかったという事実は、よく知られた笑い話だ。殆どの研究者が口承類話の内容や分布を気にかけようとはしなかったのである。
「いばら姫」では、王女誕生の際に十二人の賢女が招待される。招待から漏れていた十三人目の賢女が現れるが、金の皿は十二枚しかなく、彼女を怒らせる。この《十二》という数に関しても、研究者たちは詰めた論考を行いたがる。曰く、十二は十二ヶ月、即ち一年を意味している。十二人の賢女が王女に贈り物をするのは、十二ヶ月が大地に恵みを与えることを意味している。或いは、十二は黄道十二宮を意味しているなど。また或いは、(この民話がゲルマン起源だという前提で)ゲルマン人の祖先たちが極北で太陰暦を用いていた頃、一年は十三ヶ月だった。十二人の賢女が招かれて十三人目が排除されるのは、ゲルマン人が民族移動して十二ヶ月の太陽暦を用いるようになった歴史を暗示している、などと論じる。果ては、十三人の賢女は陰暦の十三月に由来し、十三番目の賢女がかけた十五歳の死の呪いとは太陰暦の一ヶ月と同じ周期で訪れる月経を意味し、つまり王女の初潮を予言しているなどと唱える研究者もあり。……しかし一方で、一般家庭では皿は十二枚でワンセットなのが普通だったので、それにちなんでいるに過ぎないとシンプルな説を掲げる研究者もいる。諸説紛々である。
ペロー版を見れば、運命を授ける妖精は七人である。バジーレ版になると占い師たちの数は明記されていない。「ペルセフォレ」まで遡ると多くの【運命説話】でそうであるように三人。古代エジプトのパピルスの断片に残る、三度の死の運命を定められた王子の物語では運命の女神ハトホルの数は言及されていない。オーノワ夫人の「森の牝鹿」では七人、同じく「爛漫の姫君」では六人、やはり同じく「豚王子PrinceMarcassin」では三人である。
十二(または十三)という数字に、そこまでこだわる必要はあるのだろうか。キリスト教的には十三は不吉な数だ。その程度の意味はあるとしても、それ以上の神秘を求めるのはどうだろう。考察しようと思えば、《一》や《三》や《七》の数字にも、何か深遠な意味を見繕うことはできるだろう。だがそれは、『眠り姫』話群を考察する際に有用なことなのか。
研究者たちが陥り易い、狭い視野であまりに深く考察することの危険性について、マックス・リューティは『昔話の本質』(野村訳/ちくま学芸文庫)でこう述べている。 
類話をいろいろ比べてみると、立ち入った解釈をするときには、気をつけなくてはいけないことが分かる。
(中略)いばらとか蠅とか、出てくるものを何もかも解釈しようとするのは危ない。細かい点はたいてい単なるお飾りで、たまたま一番あとの語り手によって付け加えられたものであることが多い。七や十二は昔話が好む数字である。その背後にいつもいつも何か神秘的なことを想像するのはよくない。 
眠り姫は犯されたのか? 
ことにフロイト派の精神分析的解釈は、物事に性的な意味を付与しがちである。フロイト派の精神医学者であったブルーノ・ベッテルハイムがそうした観点から著した『昔話の魔力』は一世を風靡した。人はスキャンダラスなものが好きである。子供向けのものと考えられがちだった『グリム童話』に、実は性的な意味が隠されていると聞けば、興味を惹かれずにはいられない。主にこの系統の解釈によって綴られたパロディ小説集『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操/ベストセラーズ)がヒットしたこともあって、日本では一般にも浸透したきらいがある。だが、これはあくまで無数の解釈の中の一つに過ぎないということは知っておかねばならない。 
「いばら姫」に少女の性の目覚めを見出そうとする研究者は、彼女は性的体験をして眠りについたのだ、と語る。
王女生誕の祝宴に招かれなかった十三人目の賢女は、王女が十五歳になった時に糸車の紡錘[つむ]に刺されて死ぬという運命を定めた。王は国中の糸車を焼き捨てる。ところが王女の十五歳の誕生日、この重要な日に、どういうわけか王夫婦は城を留守にして、王女は一人で気ままに城を歩き回る。古い塔に辿り着いて登ると扉に鍵がさしてあり、回すとあっけなく開いた。小部屋の中では老婆が糸車を回していて、王女が回転する紡錘に触れた途端、針が手に刺さって昏倒し、運命は成就されたのだ。
この物語に少女の性の目覚めと成長の意味を求める研究者は、まず、塔の小部屋の鍵を男性器の象徴、鍵穴を女性器の象徴とみなす。王女は好奇心から性の扉を開け、軽率にも禁断の世界に踏み込んだのだと。部屋に入って糸車を見つけた王女は、弾み回転する紡錘を見て興味をそそられる。これにも性的な連想をする。長くて太くて尖った紡錘は男性器の象徴で、それがピョコピョコ回って動いている。王女はそれに興味津々になった。この意味は分かるだろう、と言うのだ。そして王女は紡錘に刺される。これを性交の暗示とみなす。ところが王女はまだ女性としては未熟であったため、もしくは結婚前であったため、傷つき罰されることになった。本当に大人になるにはまだ時間が必要だった。この贖罪と癒しの期間こそが「百年の眠り」で、心の周囲に垣を張り巡らせて自分の殻の中に籠もってしまったのだとする。あるいは、十五歳という当時の成人の歳を迎えた娘が性に目覚めかけているのを見て、結婚まで処女のままにしておきたいと思う両親の願望が茨の垣として王女を覆い閉じ込めたのだとする。よって、王女を目覚めさせ垣を取り払う王子は、彼女と正式に結婚するに相応しい選ばれた男性でなければならない。 
日本神話に、太陽女神アマテラスが部屋に籠もって聖なる布を織っていると、弟神のスサノオが皮を剥いだ馬を投げ込んだので、アマテラス自身もしくはその侍女が驚いて自分の女性器を機織り道具の杼[ひ]で突いてしまい、侍女は死んだ、もしくはアマテラスは自身を傷つけてしまった。そこでアマテラスは怒って天の岩戸に隠れ籠もってしまう……というエピソードがある。これを、スサノオがアマテラスに性的暴行を加え、結果としてアマテラスが死んだと解釈する向きがある。性的な暗示として、機織りの道具で自身を刺して死ぬ。しかし彼女は後に岩戸から引き出され、いわば生き返っている。眠り姫たちが糸紡ぎの道具で自身を刺して死の眠りにつき、やがて目覚めるように。
このように考えてみると、アマテラスの物語と眠り姫の物語は似ているようにも思えてくる。インドの『眠り姫』類話「小さな太陽の娘」では、太陽の娘を羅刹男が食い殺すために襲う。彼は太陽の娘の籠もる鉄の家の中に入ることができなかったが、扉に突き立てていった爪が、翌朝に扉を開けた太陽の娘の手に深く突き刺さり、彼女は死ぬ。その手から爪を抜いて目覚めさせた人界の王が、彼女の夫となった。太陽の死と復活を語っているという点で、この話もアマテラスの神話と通じる部分がある。
だが、注意せねばならない。アマテラスは杼で女性器を突いたとはっきり語られている。けれども「いばら姫」も「小さな太陽の娘」も、その他の『眠り姫』類話でもそうではない。彼女たちは尖ったものを《手》、特に《指先》に刺したのだ。
もしも紡錘や羅刹の爪が男性器の暗示だったのなら、彼女たちはそれを足や腰に刺すべきではないのだろうか。また、グリム版でもペロー版でもバジーレ版でも『千夜一夜物語』版でも、紡錘を少女に渡すのは母神的な老婆である。男性ではない。加えて、グリム版やペロー版以外の眠り姫たちはみんな、眠っている間はずっと棘を手に刺したままでいる。それが抜けると目を覚ます。流石に、こうした効果をもたらすものを男性器とみなすのは困難ではないだろうか。 
浜本隆志は『ねむり姫の謎糸つむぎ部屋の性愛史』において、中世から近世にかけて(ロシアでは二十世紀初頭まで)西欧の農村で広く行われていた《糸紡ぎ部屋》の習俗と『眠り姫』話群を関連付けて論じている。
要は、かつては村娘たちが夜に一つの部屋に集まって、共同で糸紡ぎ作業をする習俗があった。大抵は持ち回りで娘のいる家が場所を提供していたが、まれに常設の糸紡ぎ部屋もあったという。戸外での農作業の少なくなる冬期、だいたい九月末ごろから翌年の二〜三月ごろまで、土日を除く平日、毎日ではないが定期的に集まっていたという。
糸紡ぎは単調で根気の要る仕事であるから、集団作業は気を紛らわせてくれるものとして大いに歓迎された。娘たちは仕事をしながらお喋りに花を咲かせていた。そして若い娘たちの集まるところには、当然ながら若者たちも集まってくる。彼らは意中の娘の隣に座り、彼女のエプロンに落ちた糸くずを払ってやって大義名分的に触れたりした。食べ物や飲み物が持ち込まれたり、合唱や踊りや音楽演奏が行われることもあった。特に、踊りは公然と相手の体に触れることが出来て、足相撲でひっくり返ってスカートの中身をチラリと見せたり(当時の農村の女性は下穿きを穿かないのが普通だった)、転んだふりをして男女が重なり合って床に倒れたり、嬉し恥ずかしい興奮をかきたてるものだった。歌は愛をテーマにして、恋人同士の問答式のものなどもよく歌われた。
複数の男女が夜に集まれば、意中の相手に向けて何やら目論見を持っていたり、《何か》が起こることを期待していた者も少なからずいただろう。糸紡ぎ部屋は、そんな風な若い男女の期待と思惑に溢れた社交場だったようである。地域によっては度を外れた行為もあったようだし、時には妊娠する娘もいた。教会や当局は「不道徳な悪の温床」と決め付けて何度も禁止令を出したようだが、なかなか無くなることはなかった。親たちはそこで何が行われているのか承知していたけれども、口出しするような野暮はしようとしなかったし、むしろ奨励する風があった。何故なら、彼らの青春も糸紡ぎ部屋にあったからである。それだけ、地域社会にとって重要な場所だったのだ。
このように書くと、とにかく淫猥な乱交場だったかのように思う人もいるかもしれないが、それなりの秩序や礼節はあったようだ。糸紡ぎ部屋にやってきた若者が嫌がる女性に強引に乱暴しようとして、逆にその場にいた他の女性たちから糸巻き棒で殴りかかられ、重傷を負って裁判沙汰に発展したこともあったらしい。夜遅く家路につくとき、相愛のカップルが暗闇に消えていこうとすると、他の仲間たちがまとわりついて妨害することもあった。これは抜け駆けを禁止する制裁だったが、娘の母親が若者たちに頼むこともあった。 
なお、中国少数民族のトン族にも、糸紡ぎ部屋によく似た習俗がある。娘たちが仲のよい数人で一つの家に集まり、糸紡ぎや機織や針仕事をする。ここには若者たちも琵琶や琴を持って集まり、娘たちと問答式の歌を歌っては恋を語るという。この家を「娘たちの家――姑娘堂[クーニャンタン]」か「男女の集まる場所――堂翁[タンウェン]」と呼ぶ。
これらによく似ているが、一点、若者たちが通うのではなく寝泊りする点が異なっている習俗に、「若者宿」や「娘宿」がある。糸紡ぎ部屋と同じように、常設の小屋がある場合もあれば、寡婦や老人の家の部屋を間借りすることもある。ここではいわゆる夜這いや男女同宿など、男女の交友(歌や踊りと少しの仕事、行き着くところまでの恋の語らい)が自由に行われたが、勿論、年長者たちが゛それに干渉することはなかった。これは浮ついた遊びというだけではなく、ここで馴染みの相手を見つけて正式に結婚する、それを目的とすることが主だったようである。お見合い合宿だったのだ。この習俗は世界中で見られ、日本の各地にも明治の終わり頃まであった。
かつて長崎県南高来郡小浜町と千々石町では、若者宿や娘宿が一集落に五、六戸あった。若者は十四、五歳で若者入りし(今で言う青年団に入るようなものか)、その日から夜具を持って宿に泊まり始める。宿の土間で行燈[あんどん]の火を灯して縄をなったり俵や草履を編んだり、夜なべ仕事をして、それから娘宿に遊びに行く。娘宿には村の有力者の家がなる。娘たちは十五、六歳でそこに泊まり始め、糸紡ぎの夜なべをする。娘たちは若者たちが遊びに来るのを拒むことが出来ず、親もここでの男女交際を禁止できなかったという。
こう書くと、娘たちは拒みも出来ずにただ受け身でいなければならなかったのかと思われそうだが、そうでもない。長崎県五島列島の福江島で、明治頃、他所から入ってきた水夫たちが村の寝宿を侵してトラブルになることが増えたので、娘宿が廃止になったことがあった。すると、娘たちは《娘宿廃止のお別れ会》に臨席していた小学校長に「先生、これじゃ結婚されんのじゃないか、相手が見つけられん」と文句を言い、実際、一年後には娘宿が復活していたそうだ。娘たちにとっても寝宿は恋を語り結婚相手を見つけるための重要な場所だったのである。
若者宿と娘宿が併設されている→若者たちが娘宿に遊びに行き、意気投合できる相手を探す
若者宿と娘宿が合併されている→男女が集まって唄い踊り、意気投合すればそのまま同宿するのも許される
若者宿だけがある→若者と意気投合した娘が若者宿に泊まりに来る(とはいえ、女の若者宿への夜這いは少数派だったようだ。大抵は別の場所に二人で消えていったものと思われる)
集団で寝泊りする寝宿がない場合は、年頃になった娘の部屋が家族とは離れた場所に設置された。ここに彼女の意中の若者が通ってくる。夜這いである。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に、バルコニーに立つジュリエットに向けてロミオが愛を語らうシーンがある。ドイツ南部やオーストラリアには自宅の二階にいる女に向けて若者が窓辺で愛を語らうフェンシュタルンという習俗があったそうだが、中国少数民族のヤオ族やトン族では娘の部屋はバルコニーのある二階にあり、夜になると恋人が訪ねて来て歌を唄い、許されると梯子をかけたりよじ登ったりして部屋に入り、愛を語らったのだという。
なお、男ばかりが夜這いするとは限らない。例えば、京都府加佐郡東大浦村(現在の舞鶴市)河辺原では、長男が小学校を出る頃になると、親は家の脇や物置の上に「キヤ」という一人部屋を作ってくれたという。ナジミ(恋人)ができると、彼女がそこに通ってくる。今で言う《カレシの部屋》というわけだ。娘たちは夜にやって来て夜明けに帰っていく。現代は若者の性が乱れているというが、昔はずっと奔放で、しかも公認されていたのだ。(その分、制約に反した際の制裁は厳しかったようだが。)同様の慣習は京都の他に福井県にもあったようである。 
ともあれ、浜本は糸紡ぎやその道具をかつての若者の奔放な性愛と関連付けた。グリム兄弟はいばら姫が紡錘に刺されることを北欧伝承「ヴォルスンガ・サガ」でブリュンヒルデが刺された《眠りの茨》と関連付けたものだが、浜本はトリブールの公会議(895年)において教会が性交を「肉欲の棘に刺される」と表現したことを引いて、いばら姫が《紡錘に刺される》のは「(婚前に)純潔を失った」ことを意味し、王が国中の糸車を焼き捨ててしまうことも、行政による糸紡ぎ部屋の禁止令と密接に関わると結論付けている。
だが前述のように、《手の指先》に刺さる紡錘を男性器とみなすのはかなり疑問である。そもそもグリム版やペロー版より古い「太陽と月とターリア」や「ペルセフォレ」、そして(古いと思われる)『千夜一夜物語』版の類話では、紡錘ではなく小さな麻の繊維が爪の間に刺さることになっている。この形状は男性器を連想しづらい。
しかしながら、『眠り姫』話群と性的要素を全く切り離して考えることもできない。「太陽と月とターリア」や「ペルセフォレ」、そして[命の水]話群では、眠っている間に訪れた男が性行為に及び、娘を妊娠させてしまうのは確かなのだから。結婚は娘が出産し目覚めて後に行われるのであり、婚前交渉が、しかも娘の意思を無視して行われている。
だがこれは、思うに糸紡ぎ部屋の習俗とは直接関係がない。まして少女の内面的な葛藤を暗示していて、婚前交渉の罰として眠りにつくわけでもないだろう。婚前交渉の前に眠りに囚われているのであるし。
結局のところ、重視すべきはどうして娘が眠りについたかというところではない。まして婚前交渉の是非でもない。大切なのは、男が訪ねた時に娘が《眠っている》というシチュエーションを成立させることではないのか。
茨や炎や高い城壁、時に湖や川、高木によって世俗から隔絶された、豊かな財宝に満ちながら《死んだように》静まり返った城。または高い塔。その中心で《死んだように》眠り続けている娘との不思議な結婚。隠されたエロスなどではなく、ごく素直な冥界での神婚を語っているように思える。この根底にあるものは、それこそ《神話》の名残ではないのだろうか。
人はセンセーショナルな解釈を好む。子供のないことを悲しんでいた王妃が、水辺で蛙から受胎の告知を受ける。人によっては、ここにさえ性的な邪推をする。蛙は身分低い男性で、王妃は彼と交わって子を授かったと。
確かにそんな想像をすることは不可能ではない。だが、どうして素直に受け取ってはいけないのだろうか?
受胎告知をする――人の言葉を喋る蛙は、超自然的な、神に連なる存在だ。しかし聞き手(研究者)はもはや、それを信じていない。喋る蛙は何かの寓意で、本当は人間だと考える。神のお告げで子を授かるなんてあるはずがない。夫以外の男性と秘密裏に交わって子を授かったと考えた方が合理的で説得力がある、と。
蛙など獣の姿を借りて境界に立ち現れ幸を授ける神霊。そうしたものへの信仰心は失われてしまった。このようにして、過去の信仰を窺う手掛かりとなるはずの伝承さえ、なにか現実の出来事の比喩であり寓意だと考えたがる。
だがそうした解釈は、例えば「お婆さんは川で桃を拾って来たのではなく、川で会った桃売りの男と性交して桃太郎を妊娠したのである」と大真面目に論じるほどにナンセンスだ。桃からの誕生、蛙による受胎告知という不思議な出生は、そうして生まれた主人公が神の加護を受けた特別な子供であることを聞き手に印象付けるためのものではないのか。穿ち過ぎて、解釈があさっての方向にねじ曲がり、本質を見失ってしまってはいないだろうか。 
茨の垣、炎の壁 
グリム版では、姫が百年の眠りに囚われると城全体までもが停止し、全てを包括したまま周囲は茨で覆われ、世間から隔絶される。ペロー版では、城の人々が姫を寝かせ全てを整えて退避した後に、灌木や茨で城が覆われる。
これは有名なシーンで、茨の垣は『眠り姫』の象徴、不可欠要素のように認識されがちだ。ところが、より古いバジーレ版や『千夜一夜物語』版等になると、城が藪で覆われるというモチーフは存在していない。死んでしまった娘を両親が美しく飾って安置し、立ち去ったと語られるのみなのである。
尤も、その場合でも眠る娘は無防備に放り出されているわけではない。バジーレ版では姫の眠る館は深い森の奥にあり、周囲は高い塀で囲まれ門は閉ざされていた。「ペルスフォレ」も同様で、侵入するには大鳥に乗って塀や門を飛び越えるしかなかった。「小さな太陽の娘」では森の奥の高い木の上である。いずれの場合も悲しみながら彼女をそこに安置したのは両親で、つまるところこれは墓所、死の世界〜冥界の暗示である。『千夜一夜物語』版では両親が特別に美しい施設を造り、死んだ娘を安置したものだが、それは川の中に建てられていた。つまり、周囲を流水で囲まれ、外界から隔絶されていたのであった。 
いばら姫の周囲を囲む茨に関しても、研究者たちは古くから様々な解釈を行ってきた。
精神分析的解釈を行う研究者たちは、これを少女の心の壁、または娘を庇護する親の支配力の暗示とみなす。この解釈はイメージしやすく、かつ、二次創作に流用しやすいため、人口に膾炙しているようだ。
しかしこの民話をゲルマン神話と関連付けて見ていたグリム兄弟は、童話集の初版の段階から、茨の垣は北欧伝承のブリュンヒルデを囲む炎の壁と関わると注釈を書き入れていた。
北欧の伝承「ヴォルスンガ・サガ」では、恐れを知らぬ若者シグルズが花嫁を求めて雌鹿山[ヒンダルフィヨル]に登ると、天まで届く焔のような輝きを見る。そこへ行くと、盾の垣に囲まれた中に鎧を着込んだ乙女が眠っていた。切り裂いて鎧を取り去ると彼女は目覚め、ブリュンヒルデと名乗り、父神オーディンの罰で《眠りの茨》で刺されて眠っていたのだと話した。シグルズはこの乙女と結婚するが、山を立ち去って別の乙女に出会い、その盃を受けるとブリュンヒルデのことを全く忘却してしまう。ブリュンヒルデの館の周囲は炎の壁で覆われており、何者も侵入することは叶わない。シグルズの友人がブリュンヒルデに求婚したがっていたが、炎の壁を越えられなかった。そこでシグルズは魔法で友人と姿を入れ替え、炎の壁を越えて館に入った。かつて自分が愛の証として与えたことを忘れたまま彼女の腕輪を奪うと、強引に友人の妻にしてしまったのである。
グリム兄弟は、ブリュンヒルデが刺された《眠りの茨》と、いばら姫が刺された紡錘を関連付け、更に、《眠りの茨》と茨の垣を関連付けた。つまり、茨というモチーフの源は北欧の神話にあると主張したのだ。
これに対し、シュピラーは『眠り姫』話群のルーツはインドにあると反論し、インドの伝承「小さな太陽の娘」にて娘が死の眠りにつくのが高木の上であることから、棘のある高木・サンザシが「いばら姫」の茨の垣の原型であると唱えた。……ただし、「小さな太陽の娘」の高木に棘があったという描写はなく、サンザシだとも言われていない。
どうも、人は「茨の垣が王子の前に道を開けて花が咲いた」という美しい描写に惑わされがちであるように思える。この描写自体は、オーノワ夫人の「森の牝鹿」にて王妃が妖精の城に招待されたときの、 
それは妖精の道で、普段は茨や棘のある植物によって閉ざされていたが、王妃と彼女の案内人が現れると、茨は薔薇の花を咲かせ、ジャスミンとオレンジの木は葉と花のアーケードを作るために彼らの枝を分け、大地はスミレで覆われ、千羽の様々な種類の鳥が木々で魅惑的に歌った。 
というシーンの影響であるように思われるが、重要なのは「花が開いた」という点ではない。「妖精の道は普段、茨の藪によって閉ざされている」という点ではないのか。
異界〜冥界へ行くために棘の藪を越えねばならないと語る伝承は、実は全く珍しくない。
例えばグリムの「白雪姫」。森に置き去られ途方に暮れた白雪姫は、茨の藪を駆け抜けて小人の家に辿り着く。イギリスの「地の果ての井戸」では、地の果ての井戸へ行くために茨の原を通らねばならない。娘は神馬でそれを飛び越える。類話では井戸は茨の垣の向こうにあり、道中で饗応した老人が授けてくれた杖で茨を三度叩いて「垣根よ、垣根よ、私を通しておくれ」と唱えると道が開く。日本の『今昔物語』「四国の辺地[へち]を通りし僧、知らぬ所に行きて馬に打ち成されたる語[こと]」では、深い山に迷い込んだ僧たちが茨やカラタチなどの棘の藪を越えると平地があり、垣で囲われた屋敷が建っている。なお、日本の伝承では棘の藪が笹原や竹林に変わっていることも多い。「花世の姫」では、山に置き去られ途方に暮れた花世の姫は、冷たい笹原を越えて山姥の岩屋に辿り着く。「灰坊太郎」では、山に置き去られた少年が木の上で眠っていると、夜中にカサカサと笹を踏み分けて亡母の霊が現れる。彼女は神馬を授けてくれた。それは普段は竹林に放たれており、呼べばたちまち現れる。「舌切り雀」では、舌を切られ(殺され)て飛び去った雀を探し求め、老人は長い旅の果てに、無数の雀[たましい]が群れ憩う《雀のお宿》に辿り着く。それは竹林の奥にあった。
これを裏返せば、冥界は周囲を通り抜け難い藪や森に囲まれている、ということである。
グリムの「マリアの子」では、天国の宮殿から追放された娘は深い眠りに落ち、気付けば周囲を茨の垣に覆われた荒野にいる。泣き叫んで走り回っても、茨の垣はどうやっても抜けられない。秋田県の祖霊・ナマハゲは普段は神社の木のうろに宿って眠っていると言われるが、同じように、マリアの子は荒野の中心の巨木のうろに宿って眠る。狩りにきた一人の王が茨の垣を剣で切り裂いて侵入し、娘を救い出して連れ帰るまで。そして彼女は王妃になったのだった。
マリアの娘が置き去られた場所は、森の中心に開けた荒野で、周囲は茨の垣に囲まれ、荒野の中心には彼女の家となる巨木があった。同じように、例えばチェコの「フシェビェダ爺さんの金髪」を見れば、(人食いである)太陽神の館は深い森の中心の草地にある。ロシアの「うるわしのワシリーサ」では深い森の中心の草地には人食いの山姥、ババ・ヤガーの小屋がある。中国の「補江総白猿伝」では、竹藪の向こうの山の中に周囲を流水に囲まれた高山があり、それを登ると草地があって、人攫いの白猿神の岩屋がある。ギリシアの古典「オデュッセイア」では、太陽の娘たる魔女キルケーの館は島の中心にあり、周囲を木で囲まれている。
どうして冥界の城は茨の垣や深い森で囲まれているのだろうか。それは、そこがこの世とは別次元なのだという暗示である。私たち日本人は、この世とあの世の境には三途の川が流れているとイメージするものだが、それと同じことだ。
この世とあの世を隔てるもの。境界。
川、海、森、茨の垣、高い塀、閉ざされた門。様々な形で現れるそれは、観念的には同一のものである。もう少し違った形で表されることもあり、地下、洞穴といった下方に通じるもの、あるいは高木、高山、高い塔といった上方に通じるものとしても語られる。[呪的逃走]譚では、冥界(人食い鬼の家)から逃げ帰る際に呪具を後ろに投げて山や川や森を出しては追手の道を塞ぐものだが、それらはつまり、この世とあの世の間にある境界であり、隔てる障害なのだ。 
いばら姫は運命の日が来ると、何かに導かれるかのようにそれまで一度も行ったことのなかった塔を登り、自ら鍵を開けてその向こうに去った。死の眠りについたのだ。塔の上のお姫様と言えば、長い髪を垂らす「ラプンツェル」は有名だが、彼女が閉じ込められていた出入口のない高い塔は、深い森の中にあった。そこに歌声に導かれ王子が訪ねて来て求婚する。そして禁忌を侵したラプンツェルは、マリアの子がそうされたように荒野に追放される。王子は茨の藪に落ち、盲目となって森や荒野をさまよう。ギリシアの伝承で、アスポデロスの花野を死者の霊がさまようように。ロシアの「魔法の馬」では姫はやはり塔の天辺にいて、馬を高くジャンプさせて姫にキス出来た勇者が婿の資格を得る。西欧には【ガラス山の王女】という話群があるが、その場合は姫はツルツルして登れない高山の頂上の城にいる。ブリュンヒルデや白雪姫が山上に眠っていたように。ガラス山はゲルマンを中心に信仰されていた、冥界の一形態である。神馬や、鉄や骨の呪具を用いて登ることの出来た若者が、山上の女神に求婚できるのだ。 
茨の垣を越えること。高い塀を乗り越えること。神の鳥や馬に乗って閉ざされた城や出入口のない高い塔に入ること。これらは全て同じことを語っている。冥界への侵入だ。
「ヴォルスンガ・サガ」では、眠り姫であったプリュンヒルデは炎の壁の向こうにいる。シグルズは友人の身代わりとして神馬グラニで炎を越えて館に入る。同じ北欧の『古エッダ』「スキールニルの歌」で、太陽神フレイの名代として、従者にして親友のスキールニルが美しき地の女神(女巨人)ゲルズに求婚に向かうが、その館に到達するには闇と炎を通り抜けねばならず、そのためには神馬が必要だと語られている。一方、『スノッリのエッダ』第一部には、殺された植物神バルドルを黄泉帰らせようと、弟神のヘルモードが冥界ヘルへ向かうエピソードがあるが、その冥界を支配するのは女王神ヘルであり、彼女の館へ行くには巨人の乙女モーズグズが番をする川を渡らなければならない。ヘルの館は高い塀に囲まれていたが、ヘルモードは主神オーディンに借りた八脚の神馬[スレイプニル]でそれを飛び越えて中に入った。 
垣が茨であろうと炎であろうと表層的な差異に過ぎず、根源的には《境界》という意味で変わらない。とは言うものの、何故そうした表層が選ばれたのか、ということを考察する余地はある。
ブリュンヒルデが籠もっていた炎の壁を曙光と関連付ける研究者がいる。眠っていた彼女をシグルズが目覚めさせるエピソードは、季節や天体の変化のような自然現象を比喩した神話との解釈からだ。しかし、その輝きに《太陽の光》のイメージがあることには同意するが、それは単なる自然現象の比喩でしかないのだろうか?世界各地の伝承において太陽神と冥界神は表裏一体に語られ、太陽神の館と冥王の館は同じ描写をなされることを思い出さねばならない。輝く城、黄金の呪具、黄金の髪。伝承にしばしば現れるこれらは《太陽の力》に関わる存在であり、同時に、《異界〜冥界の力》に関わっている。輝くように麗しい乙女は冥界にいるのだ。また世界的に、冥界〜地獄には炎が燃えていると語られるものである。(ギリシアの伝承では、冥界には炎の河ピュリプレゲトーンがある。)
では、茨の垣の方はどうだろう。
植物の垣で囲われた区間を神域とみなす観念は、私たち日本人の日常にも見られるものだ。地鎮祭などの神事においては、四方に笹を立てて縄を張り、そこを神域として、その外側から祝詞を唱える。日本神話では、天孫に国を譲った出雲[いずも]のコトシロヌシは逆手を打って傾いた船を青柴垣に変えると、その中に隠れ籠もる。
しかしグルジアの「三人姉妹」やジプシーの「恋に溺れた継母」の例をみると、植物は《眠る者》の周囲ではなく、その上に生い茂っている。ここには、死体の上に植物が繁茂する……死者が植物に変成するという観念が現れているように思われる。《眠る者》は植物に変わり、小動物や生活道具などに次々変わり、輪廻の輪を巡った果てに人間として生き返る。……《眠り》から《目覚めた》のであった。 
死と眠りと忘却 
ギリシア神話によれば、死神タナトスの弟ヒュプノスは、眠りを司る神であった。彼は地下[タルタロス]または太陽の訪れぬ地の洞穴に住んでおり、夜ごとにタナトスと共に地上に立ち現れる。その姿には夜の鳥のイメージがある。青銅のように冷たく揺るぎない《死》に対し、《眠り》は優しく慈悲深い。枝(杖)でそっと額に触れるか、背や額に生えた漆黒の翼でそよそよと煽ぐか包み込むか、《眠りの角盃》から薬を注ぐかして人々を眠らせ、その手には罌粟[けし]の実を持っている。
どうして《眠り》は《死》の弟とされ、地下や洞穴……冥界に住むとされるのだろう。それは、死と眠りがとても似ている、ごく近しいものだと認識されていたからに他ならない。「永遠の眠り」という言い回しは「死」を表す。深く眠ることを「死んだように眠る」と表現する。
昔、月の女神アルテミス(または、セレネ)が月の戦車を御して、ある山上(一説によればラトモス山)に差し掛かると、山頂で絶世の美青年・エンデュミオンが眠っていた。彼女はその美しさに惹かれ、彼の夢の中に入り込んで愛を交わした。エンデュミオンはこの夢に魅惑され、いつまでも眠っていられるよう、永遠の眠りと永遠の若さを主神ゼウスに願った。よって彼はずっと、草地もしくは洞穴の中で美しいまま眠り続け、夜毎の女神の来訪を待っている。この神話は有名だが、別説によれば、エンデュミオンに永遠の眠りを与えたのは、彼に恋したヒュプノスであったという。
永遠に美しいまま眠り続ける。その姿は眠り姫たちとよく似ているが、これが実は《死》を意味していることは、ぼんやりと認識できるのではないだろうか。死者は生きていない故に変化せず、永遠に美しい。死と眠りは近しい。観念上では、それは同一のものとみなすことさえ出来る。
ヒュプノスが持つ罌粟の実は、《眠り》の象徴だ。ご存じのように、罌粟の実からは阿片(モルヒネ)が採取される。常習性のある危険な麻薬の一種だが、鎮痛剤・睡眠薬としても用いられてきた。ヒュプノスの住む洞穴の前には罌粟の花畑があり、彼はその花の実を傷つけて滲んだ液を採取する。(これを乾燥させたものが阿片。)それを角盃に集めて地上に撒き散らし、あらゆる生き物を眠らせるのである。
西欧には、土葬した死者が吸血鬼(屍鬼)となって起き上がるのを防ぐため、棺桶に罌粟の種を入れておく慣習があったと言う。一般に、細かい罌粟種の粒を死者は一つ一つ数えずにはいられなくなり、棺桶から出てこなくなるからだと説明されるが、もしかすると罌粟の麻薬効果によって死者を眠らせる、という意図があったのかもしれない。ドイツの眠りの精霊・ザントマンSandmann(砂男)は眠らない子供の目に魔法の砂をかけて眠らせる、または砂で目潰しして目を開けられなくすると言われるが、この《眠りの砂》と罌粟種の粒にも、どこかでイメージの交差があるだろうか。1817年のE.T.A.ホフマンの詩『砂男』によれば、ザントマンは眠らない子供の眼窩に砂を詰めていって飛び出した眼球を奪い、それを半月に運んで自分の子供たちに与える。ザントマンの子供たちは夜の鳥…フクロウのようなくちばしをしていて、その目玉をついばむと言う。なお、ヒュプノスにはモルペウス(造形者)という自在に姿を変える子供たちがいるとされている。(一説には、ヒュプノスの別名。)彼らは夢の神であり、大きな翼で音もなく飛翔する。その名がモルヒネの語源である。 
「ペルスフォレ」、「太陽と月とターリア」、「眠れる森の美女」、そして『千夜一夜物語』版の類話では、娘は糸紡ぎ用の亜麻の繊維が手の爪の間に挟まって眠りにつく。現在、眠り姫と言えば紡錘に刺されて眠るというイメージが色濃いが、類話全体を見れば少数派であるうえ時代的にも新しく、後世に作り変えられた設定らしく思われる。
では、どうして古い時代の眠り姫たちは亜麻の繊維ごときで死の眠りについたのだろうか。
一つには、糸紡ぎをしていて植物繊維のささくれが指先に刺さり痛い思いをすることは日常的に起こっていただろうから、その体験が根底にあるのだろう。特に爪の間に入り込んだ柔らかな棘は、なかなか取れなくて厄介なものだ。だが、それが死の眠りをもたらす鍵となるのは、どうも、麻薬との関連があるように思えてならない。
麻薬(マリファナ)が採れる大麻は、亜麻とは全く異なる種の植物である。が、有用な繊維が採れる植物という点でイメージの混同があるように思われる。というのも、『千夜一夜物語』版では「亜麻の匂いに喉を掴まれて死んでしまうような娘でも〜」という言い回しによって、それを吸引利用する仄めかしがあり、かつ、それを「痛みを鎮める/気を休めさせる匂い(岩波文庫の和訳版ではこのくだりは「何でもない亜麻の匂い」とされているが、メイザーズの英訳版ではanodynesmellofflaxとある)」ともしてあるからだ。通常、亜麻は吸引利用もしないし鎮痛効果も持たない。よって、本来は亜麻ではなく大麻を指していたのではないかと思われる。
つまり、娘が亜麻の繊維によって死の眠りにつく、というシチュエーションの背景には、大麻によって酩酊・昏睡状態に陥る、という含みがあるのではないか。そうならば、これも《魔法の眠り》と同じく、後に復活するからには本当の死ではなく仮死であった、という合理化設定のバリエーションであろう。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「シンベリーン」、ムーゼウスの「リヒルデ」には薬物を用いて姫を仮死状態にし、葬らせる(後に彼女は復活する)モチーフが見えるが、それらとも共通した方向性である。しかし、この含みが長く語り伝えられていくうちに忘れ去られ、麻の繊維を紡ぐという部分だけが残って膨らんだ結果、糸紡ぎの紡錘を刺して眠りにつく、という珍妙な形に結実したのではないだろうか。 
麻薬は体や心の痛みを忘れさせる。罌粟の花言葉は《忘却》だ。《眠り》と《忘却》の関連付けは古くから行われていた。ヒュプノスの洞穴の前の薬草園には罌粟だけでなく、ロートスという忘却の実が植えられていたと言う。この実は『オデュッセイア』にも出てくる。故郷へ帰る航海の途中でオデュッセウスが立ち寄ったロートバゴス人の国では、全てを忘れ酩酊してしまう果実(または花)・ロートスが食べられていた。その辺り一帯は咲き誇るロートスの花で覆われている。その花の香りを嗅いだり食べたりすれば深い眠りに落ち、蜜のように甘い夢を見る。その夢に囚われた人々は、目覚めれば再びロートスを口いっぱいに頬張って眠ってしまう。オデュッセウスもロートスを食べて囚われかけたが、目を覚ましたとき懸命に自我を保ち、瞼につっかえ棒をして(笑うところではないので注意)、眠りこける仲間たち一人一人を背負って船に運んで、辛くも脱出したのであった。
一方、《眠り》が《死》と関連付けられるように、《忘却》と《死》も結び付けられている。
ギリシアの伝承によれば、冥界[タルタロス]の入口、または出口には、レテという川が流れているという。レテとは《忘却》の意で、一説によればレテという名の小女神[ニンフ](妖精)にちなんでおり、彼女はタナトスとヒュプノスの姉妹であるとも言う。冥界はしばしば《レテの野原》、あるいは《レテの家》と呼ばれた。一説によれば、ヒュプノスの洞窟の辺りの岩の間からレテの水が流れ出しており、そのせせらぎの音は眠りを誘うものであったと言う。
ともあれ、冥界にやって来た死者の霊は、まずはこの水で渇きを癒す。あるいは冥界を出て輪廻転生する際にこの水を飲む。すると生前の全ての記憶(もしくは、生前の怒りや悩み)を忘れてしまう。生前のしがらみを失くして初めて、霊は次の段階へ進んでいくのだ。同じ観念はロシアにもあり、死者の霊は四十日間この世に留まった後、忘却の河rekaZabvenijaを渡って冥界へ立ち去るとする。死霊が忘却の水を飲むことはいわば《成仏》であり、四十日を乗り切ったならば、もはや《化けて出る》恐れはないとされた。
ギリシアの伝承に、ミノタウロスを退治したことで有名な英雄・テセウスが、友人ペイリトオスに冥界の女王神ベルセポネを花嫁として与えるため、二人で冥界へ下るという物語がある。一説によれば、冥王ハデスは贈り物を授けるから待てと騙して、館を訪れた二人を岩を彫り抜いて作った椅子に腰かけさせた。それは忘却[レテ]の椅子であり、自分自身を忘れた途端、彼らは石のように硬くなって、鎖に縛られたかのごとく永遠に囚われたと言う。元の伝承は彼らの失敗を語って終わってしまうが、後にヘラクレスの物語で補完され、ヘラクレスが冥界を訪れた際、テセウスのみを救い出したとした。
かぐや姫は昇天する際に羽衣を着せかけられると現世での愛をたちまち忘れてしまったものだが、《忘却》と《死》は観念の世界では非常に近い。そして、死者が冥界へ入るとき、もしくは出る時にレテ川の水を飲む……この世からあの世へ、またはあの世からこの世へ移動すると、前の世界での記憶が失われる……という観念は、様々な説話にも含まれている。
やや形が異なるが、チベットの『死者の書』では、死者の霊は気絶したまま冥界へ行き、夢の中で裁かれ切り刻まれて浄化された後に、気絶したまま新たな母胎に飛び込む、だから人間は死んでいた間のことは何も覚えていないと説いている。
アファナーシエフが採取したロシア民話「海の王と賢いワシリーサ」では、乙姫ワシリーサと結婚した王子が、囚われていた海の王の宮殿から人間の国[ロシア]に呪的逃走する。ところが国境を越えて、王子が城に先触れに行くと言うと、ワシリーサは言うのだ。 
「イワン王子、あなたは私を忘れてしまうわ!」「忘れるものか」「いいえ、イワン王子、あなたは忘れてしまうのよ!でも、二羽の鳩が窓にぶつかったら、私を思い出してね!」イワン王子は、一人で御殿へ行きました。両親は王子を見つけると、飛びつき抱きしめ、キスの雨を降らせて喜びました。イワン王子もあまりの嬉しさに、賢いワシリーサのことを綺麗に忘れてしまいました。『ロシアの昔話』 
王子が忘れてしまうであろうことを、既にワシリーサは確信している。それが決まり事であるかのように。
対して、例えばフランスの「蛇息子」では、異界に去った夫を探して苦しい旅をした妻が、ついに夫を見つけ出すが、彼は元の妻のことを(本当の意味で)忘れている。既に異界の女と再婚しているのだ。
成人のための通過儀礼として、少年が擬似的に死んでから青年として甦ったことにされる儀式が世界中で行われていた。この際、《死から甦った青年》が過去の一切の記憶を失ったように振舞う場合があったという。コンゴーのボマ地方では、成人式を受ける若者は一通りの試練を受けたあと仮死状態になり、模擬的に埋葬された。その後に大人として蘇生するが、その時には自分の名前をはじめ過去の一切の記憶を喪失したように振る舞い、大人としての新しい名前を授かったという。日本でも、かつて士族階級の男子は成人すると元服名を付けたが、これにも「新しい人間に生まれ変わった」という意味があったのだろう。
アファナーシエフのロシア民話「知らん坊」(AФ295)では、神馬と共に家を出た若者が、雄牛の皮をまとい膀胱の袋を頭にかぶった醜い怪物の姿に身をやつし、神馬の指示通り、誰に何を尋ねられても「知らない」としか言わないようになるという描写がある。これなど、通過儀礼の様子が物語にフィードバックしているように思われる。 
「ヴォルスンガ・サガ」において、シグルズは山上で結婚した妻・ブリュンヒルデを忘れ、人の世の姫たるグズルーンと再婚してしまう。物語上では、それは《忘却の薬》を飲まされたからだと説明される。この不自然にも思える重婚を、研究者によっては異なる二つの物語を結合したために生じた齟齬であると解釈するが、恐らくはそうではない。シグルズは冥界で結婚し、山から下りて〜世界を渡って、現界に戻った。転生したために前世の記憶を失ってしまった、という観念が根底に見えている。
記憶を失った故の重婚、というイメージの片鱗は、「海の王と賢いワシリーサ」での「(母親に)キスをされると、ワシリーサのことを忘れてしまった」というエピソードにも見える。フランスの「二文のヤニック」では、異界の妻を現世に再生させ本当に結婚する条件が「一年間、どんな女性ともキスをしないこと」であったが、横恋慕する娘の策略でキスされ、若者は妻が迎えにきたとき眠ってしまう。ここでは《忘却》が《眠り》と入れ替えられている。
「太陽と月とターリア」では、眠っているターリアと愛を交わして城に戻った後、王は彼女のことをすっかり忘れてしまう。物語上、王のいい加減な性質がそうさせたかのように語られているが、恐らくこの根底にも、シグルズがブリュンヒルデを忘れたことと同じ、前世(異界)の記憶の忘却、という観念がある。
『千夜一夜物語』版の眠り姫の類話では、この観念はもっとはっきりと語られている。王子は眠り姫シットゥカーンの墓所を離れると、あれほど恋い焦がれた彼女との愛の記憶を失ってしまう。この時、シットゥカーンが王子の姿を覗き見するという禁忌侵犯のモチーフが挿入される。日本神話でイザナギが黄泉の妻の姿を覗き見し、ギリシア神話でオルペウスが妻を返り見て、そのため永遠に別れることになったように、見られた王子は「二度と会えない」と悲しげに呟いて遠ざかる。そしてその後にシットゥカーンと再会しても、彼女と愛を交わしたことを思い出さない。物語上では、シットゥカーンが魔法によって姿を変えていたからだと合理的説明されているが、根底にあるのは《転生による忘却》の観念ではないだろうか。シットゥカーンは彼の記憶を取り戻させたが、そのためにはもう一度彼を殺し、そして蘇らせる必要があった。葬儀の模擬を行わせ、棺の中に横たわった彼の屍衣を解いたのだ。シグルズが横たわるブリュンヒルデを覆っていた鎧を切り裂いて目覚めさせたように。 
[命の水]話群で王子が訪ねる魔法の城は、地の果てや川の向こうにある。周囲は高い塀に囲われ、門は固く閉ざされている。神馬で塀を飛び越えるか、門が開いた僅かな時間にすり抜けるかするしかない。獅子や竜が番をしていたり、門そのものが番人であることもある。内部は生命の水や生命のリンゴなどの宝で豊かに満たされているが、不思議なことに、広大な城は死んだように静まり返っていて誰もいない。探し回ってみれば、住人たちは眠っているのだ。そして城の奥には、多くの侍女に囲まれた最も美しい女王にして誰もに死をもたらす屈強の女戦士が、やはり眠っている。
「いばら姫」には、紡錘に刺された姫が魔法の眠りに囚われた途端に眠りが広がって、城全体の時間もが停止し眠りについてしまうという描写がある。「眠りの森の美女」ではこれを、姫が目覚めた時に困らぬようにとの仙女の計らいであると説明しているが、本来はそういうことではあるまい。
豊かで広大な城(あるいは町)は死んだように静まり返っている。もしくは、ガランとした中に妙[たえ]なる音楽だけが響いているか、弔旗が掛かっている。住人は誰もいないか、あるいは眠っていたり石になっていたり、手や影だけになっていたり、鳥獣の姿であったり、さもなければ葬儀の装いで嘆いている。これは、その城そのものが冥界……死の世界であることを暗示した、伝承では定番の表現の一つなのだ。
言うまでもなく、番をする獣も、生命の果実や生命の泉も、冥界の伝承には付き物のモチーフである。伝承の中で生命の水は死の水と対になって現れることが多いが、ギリシアの伝承でも、冥王の館の側にはレテの泉とムネモシュネの泉の二つがある、と語られることがある。ムネモシュネとは《記憶》の意味である。かつてボイオティア地方レバデイアの山中の深い洞穴の奥に英雄トロポーニオスの神託所があり、そこに入って神託を得るためには、まずレテの泉の水を飲み、次にムネモシュネの泉の水を飲まねばならないとされていた。つまり洞穴〜冥界を潜って、一度死んでから生き返るという模擬である。《忘却》は《死》であり、《記憶》は《生命》と同一視できるものだったのだ。 
さて。『眠り姫』の物語が、死と再生を語っていることは確かである。そこから、人はこの話群を《死からの復活、救済》をテーマにしたものだと捉えがちだ。少女の心の再生なり、冬枯れの大地の迎える春なり。だが、惑わされてはならないだろう。本当に重要なのは、王子が《境界を越えて》訪ね当てた花嫁は眠っている、という状況そのものではないのか。
《眠り》は《死》の比喩とみなせる。この世から隔絶された場所に座す乙女は神霊であり、この世ならぬ者、即ち死者である。《死》を意味することを分かり易く示すために、彼女は横たわって目を閉じているのだ。死体はそのようになっているものだから。
訪れる王子は、冥界に渡って霊力を得ようとしているシャーマンであり、古代の王である。彼は神霊と縁を結ばねばならない。結縁の分かりやすい形の一つは結婚だ。よって王子は冥界の女神……観念上で死んで横たわっている女と結婚しようとする。だが、普通に考えれば死人と結婚するのは不可能だ。愛も囁けないし子供も得られない。しかも、霊は不滅だが死体は腐敗するという不吉なイメージが拭えない。この不都合を解消するため、語り手はここに《魔法の眠り》という設定を挿入したのだろう。死んだように眠る娘は実は死んでいないので、ずっと生き生きとしたまま美しい。王子が愛を交わすと《魔法が解かれて》目覚め、血の通った娘になって起き上がり、愛を囁いてくれる。
彼女が《死から目覚める》のはそうした物語の都合であり、格別に枯れた大地の芽吹きや昇日や心を閉ざした少女の成熟を意味していたのではないと考える。無論、語り継がれる中でそうした意味を込めていくのは、各語り手の裁量なのだが。 
余談
眠り姫が死者(冥界の女神)であり、そこを目指して王子が冥界を下っていく…という観点から物語を見ると、姫が眠る原因が《糸紡ぎ》になっていることにも幾つかの意味を見いだせるかもしれない。
一つには、女神は糸紡ぎや機織りと結び付けられていることが非常に多い。現実の女性の仕事を写しているのでもあろうが、女神の紡ぐ糸や織る機は、《生命》とみなされることが多い。女神の紡ぐ糸や織る機は定期的に女神自身や第三者の手によって断ち切られてしまう。そうすることで世界の生死のサイクルは保たれている。そしてまた、永遠に完成しない仕事というモチーフには、冥界の罪人たちの姿…死者(神霊)の不変性の暗示もある。
もう一つは、恐らく糸紡ぎと女神の関わりからなのだろうが、冥界へ下る際に転がる糸玉に導かれる、もしくは冥界から脱出する際に結び付けておいた糸玉の糸を辿る、というモチーフとの関連である。冥界へ下るのも抜け出るのも、生死を司る冥界女神の手助けが欠かせないという観念が見える。
グリムの「ホレおばさん」では、井戸端で糸紡ぎをしていた娘が紡ぎ過ぎで指から血を出し、紡錘に血が付く。洗おうとして井戸に落としてしまい、それを追う形で…糸玉に導かれて、井戸の底の不思議な世界へ行く。井戸の底の世界には果実がたわわに実り、かまどがごうごうと燃えている。それらを支配するのは世界の天候を左右するというホレおばさんである。そこが冥界を示す一バリエーションであることは明らかだ。
眠り姫たちは糸紡ぎをしていて指を傷つけた瞬間、死の眠りにつく。「ホレおばさん」の娘が紡錘に血をつけて井戸の底に飛び込むことと、表現は違うが、実は同じことを言っていないだろうか。
セルビアの「ペペルーガ」では、娘が大地の割れ目に紡錘を落とすと、その母親が雌牛に変わってしまう。雌牛は娘の神秘的守護者となる。他の類話と並べて推察するに、母親は死に、その魂が獣の姿で立ち現れ、娘を守護することになったと読める。大地の割れ目とは地母神の女性器の暗示であり、冥界の入り口を示している。転がり落ちた糸玉に導かれて冥界に呑まれたわけだ。そして死んだ母親と美しく変身する娘と冥界の女神は、観念的にはほぼ同一の存在である。 
死に針と眠りの棘 
グリムやペローの眠り姫は、紡錘[つむ]を触るうちに針に刺されて死の眠りについた。
しかし、これは奇妙である。紡錘には針など付いていないからだ。「眠れる美女と子供たち」では紡錘の尖った先が刺さったとしてあるが、実際には刺さるほど尖ったものではないだろう。より古い文献の眠り姫たちが亜麻の繊維を指先に刺している点を考慮するに、細かい部分が亡失されて「紡錘を手に取ったら何かがチクリと刺さった」とだけ語られてしまい、それが「紡錘の先が刺さった」、「紡錘を手に取ったら針が刺さった」と表現されるに至ったものだろうか。
糸紡ぎの様子/手作業での糸紡ぎ。脇に挟んで突き出されているのが糸巻き棒(竿)で、先に亜麻や羊毛などの繊維を縛り付けてある。これを引き出し、湿した指先で縒って糸にして、下にぶら下がっている紡錘(つむ)に巻き取っていく。紡錘の下には石の重りが付いていて、重みで調子よく回せる。糸巻き棒や紡錘の形は様々ある。
糸巻き機/やがて糸紡ぎも機械化された。この他にも足踏み式などがある。左端に突き立っているのは糸巻き棒。この機械では、紡錘はその下に横に寝ている。浜本隆志『眠り姫の謎』
けれども、それだけで片付けてはしまえない部分もある。視野を広げて類縁話群である【白雪姫】を見ていくと、糸紡ぎに関係なく、針で指を刺されて死の眠りにつくモチーフが存在しているからだ。
たとえばスコットランドの「金樹と銀樹」では、娘を迫害する母親が「せめて指だけでも見せてちょうだい」と頼むので鍵穴から小指だけ出したところ、毒針を刺されて死の眠りにつく。アルバニアの「金の履物」では継母が同じようにする。
しかし針を指に刺す事例はそう多くはない。最も多く見られるのは、針を頭に刺すパターンだ。これは【三つの愛のオレンジ】にも見られる。(こちらでは死の眠りにつくのではなく、鳥獣の姿〜霊魂に変わって飛び去るのだが。)多くの場合、悪い女が「髪を奇麗にしてあげよう」と偽って針を差し込む。針と言うと縫い針のようなものをイメージしてしまいがちだが、この場合は装飾品の意味合いらしく、簪[かんざし]とでも考えた方が分かりやすい。白雪姫が頭に差し込まれる櫛[くし]も、このバリエーションとみなすことができるだろう。
世界中の説話に共通した、生死を操る呪具[マジックアイテム]は幾つかある。有名なのが《死の水、生命の水》や《死の果実、生命の果実》。ややマイナーなものに《死に鞭、生き鞭》、抜いただけ(または触れただけ)で敵を殺す一撃必殺の剣、そして《死に針、生き針》などがある。果実と鞭は、どちらも生命樹信仰に由来する。果実は言わずもがなだが、鞭とは木の枝のことだ。魔法の杖と同じで、生命の木の生命力を触れることで対象に移す、という観念による。では、針は何に由来するのだろう。
残念ながら、私にはよく分からない。ただ、『日本書紀』巻二十四にある、鞍作得志[クラツクリのトクシ]の「死神の名付け親」を思わせるエピソードを見ていると、どことなく鍼灸治療の鍼を思い出しもするのだが、どうなのか。 
『日本書紀』巻二十四皇極天皇四年四月戊戌朔
高麗[こま]の学僧らは言った。
『同学の鞍作得志[クラツクリのトクシ]は、虎をもって友となし、その術[ばけ]を学び取った。あるときは枯山[からやま]を変えて青山となし、あるときは黄土を変えて白水とした。種々[くさぐさ]の奇しき術を究め尽くさないことはなかった。また、虎が針を授けて言うことには、決して人に知られてはならない。これを使えば病が癒えないということはない、と。果たして言ったとおり、癒えないということがなかった。得志は常に、その針を柱の中に隠し置いていた。後に、虎はその柱を割って、針を取って走り去った。高麗[こま]の国は、得志が帰国したがっていることを知って、毒を与えて殺した』と。 
日本の民話にも《死に針、生き針》の登場する【夢見小僧】という話群がある。本州から九州まで分布している。 
灰坊、または抜け作だと周囲に馬鹿にされている男、もしくは学問所の少年が、ある年の正月に素晴らしい初夢を見たらしいのだが、ニヤニヤするばかりで誰にも内容を教えない。目上の者(主人/親/師匠)は怒って彼をウツボ船に入れて流す。男は異界(鬼ヶ島)に流れ着き、冥界神(鬼/河童/天狗)と出会う。冥界神は男が恐れずにニヤニヤしているのを見て夢の内容を聞きたがり、「空を飛んで素早く移動できるアイテム(千里車/千里棒)」「刺すとたちまち死ぬ死に針」「刺すとたちまち生き返る生き針(撫でるとたちまち生き返る生き棒)」等の三つの呪具と引き換えに聞き出そうとする。しかし男は死に針を手に入れるなり、冥界神を刺して殺す。または飛ぶ呪具に乗って逃げ去る。長者の家で娘が死んで嘆いている。男は娘を生き針で刺して生き返らせ、婿に迎えられた。類話によっては、もう一軒別の長者の家でも娘を生き返らせ、どちらの家からも婿になってくれと切望されたので、年(または月)の半分ずつ、両方の家で暮らすことにになったという豪華な結末。夢の内容を誰にも明かさなかったので、初夢が正夢になった、という話。
※この死に針は、類話(秋田県東成瀬村)によっては同じ針の一方で刺すと死に、反対側で刺すと生き返ることになっており、アイルランドのダクダ神が持つという、一方で殴るとたちまち死に、もう一方で殴ると生き返る棍棒とよく似ている。 
ただ、これらの話群に出てくる死に針は、チクリと刺しただけで死ぬもので、刺さっている間だけ死んでいて抜けると目を覚ます、『眠り姫』や【白雪姫】を眠らせた、そして以下に紹介する、若者を一時的に眠らせたような針とは異なっている。 
処女王   [ロシア]
昔、ある商人がいた。妻と死に別れたので一人息子のイワンに守り役をつけ、しばらくしてから後妻をもらった。ところがイワンはもう成人していて大変な美青年だったので、継母は彼を好きになってしまった。
ある日、イワンと守り役が小さな筏で海に漁に出ると、三十隻の船団が近づいてくるのが見えた。船団は筏の傍に錨を下ろし、三十人の義妹を従えた処女王が現れて、かねてよりお慕いしておりました、あなたに逢うためにここまで来たのです、とイワンに打ち明けた。二人はすぐに婚約を交わした。やがて処女王は、明日も同じ時刻にここへ来るように言い残すと、別れを告げて舳先を返した。
イワンは家に帰って夕飯を食べてから眠った。継母は守り役を呼ぶと酒を勧めて酔わせ、今日は何か変わったことがなかったかと尋ねた。守り役は全てを話して聞かせた。それを聞くと、継母は守り役に留針[ピン]を渡して言った。
「明日その船が近づいてきたら、イワンの服にこの留針を刺しなさい」
守り役は承知し、あくる日、遠くに例の船が見えるとすぐにイワンの服に留針を刺した。するとイワンは言った。
「おや、なんて眠いんだろう。少し横になって眠るとしよう。ねえ、お願いだ。あの船が近づいて来たら起こしておくれ」
「ええ、必ず起こしてあげますよ」
やがて処女王の船が錨を下ろし、使者がやって来てイワン王子を呼んだが、揺すってもつついても彼は決して目を覚まさなかった。処女王は「明日もイワンをここへ連れてくるように」と言い残すと錨を上げ帆を張って行ってしまった。処女王の船が去ると、守り役は留針を引き抜いた。イワンはたちまち目を覚まして跳ね起き、処女王に引き返すよう呼びかけたが、船はもう遠くに去っていて届かなかった。イワンは悲嘆に暮れて家に帰った。
継母はその晩も守り役を呼んで酔わせ、同じように話を聞き出して、留針を刺す指示をした。おかげであくる日も同じことになった。処女王は、明日もう一度来るようにと言い残した。だがその晩も継母は守り役を呼び、針を刺す指示をしたのだ。
三日目、針を刺されて眠るイワンを処女王の使いはどうしても起こせなかった。処女王は、これが継母の策略であり、守り役が裏切っていることに気づいた。そこでイワン王子に手紙を残し、帆を上げて広い海に去って行った。
針を抜かれて目を覚ましたイワンは大声で処女王を呼んだが、もはや無駄だった。守り役が処女王の手紙を渡してきたので読むと、守り役が裏切っているので首を刎ねるように、そしてもしあなたが私を愛しているなら、山越え谷越えこの世の果てまで私を探しに来てほしいと書いてあった。読み終わるとすぐに、イワンは刀を抜いて守り役の首を刎ねた。そして家に帰って父親に別れを告げ、この世の果てを目指して旅立った。
長かったのか短かったのか。どれほど歩いたのかは知らないが、イワンは一軒の小屋に着いた。それは広々とした野原の中央にあり、鶏の足の上に建ってぐるぐる回っていた。中に入ると、骨の一本足のババ・ヤガー(山姥)がいた。
「くん、くん。ロシア人の匂いがする。今までロシア人の臭いをかいだこともなければ姿を見たこともなかったが、今日は向こうからおでましかい。自分で望んで来たのかね、嫌々ながら来たのかね」
「仕方なくさ。この世の果てがどこにあるか知っているかい」
「知らないね。だが私の妹なら知っているかもしれないから、そこへ行くがいい」
イワンは礼を言って旅を続けた。少しも休まずに先を急ぎ、どれほど歩いたのか知らないが、前と同じような場所にある同じような小屋に着いた。この中にもババ・ヤガーがいた。
「くん、くん。ロシア人の匂いがする。今までロシア人の臭いをかいだこともなければ姿を見たこともなかったが、今日は向こうからおでましかい。自分で望んで来たのかね、嫌々ながら来たのかね」
「仕方なくさ。この世の果てがどこにあるか知っているかい」
「知らないね。だが私の妹なら知っているかもしれないから、そこへ行くがいい。
もし妹が怒ってお前を食べようとしたなら、ラッパを三本吹かせてくれと頼むんだよ。一本目は低い音で、二本目は少し高く、三番目はうんと高い音で吹くがよい」
イワンは礼を言って更に旅を続けた。どれほど歩いたのか知らないが、とうとう、前と同じような場所にある同じような小屋に着いた。この中にもババ・ヤガーがいた。
「くん、くん。ロシア人の匂いがする。今までロシア人の臭いをかいだこともなければ姿を見たこともなかったが、今日は向こうからおでましかい」
ババ・ヤガーはそう言って、押しかけて来た客を食べるために歯を研ぎに駆け出した。その間、イワンは借りた三本のラッパを低く、少し高く、うんと高く吹き鳴らした。たちまち四方からあらゆる鳥が集まり、火の鳥が飛んできた。
「さあ、私の背中に乗りなさい。あなたの望む方向へ飛びましょう。さもないとババ・ヤガーに食べられてしまうでしょう」
駆け戻ってきたババ・ヤガーに尾羽根を引きちぎられたが、火の鳥はイワンを乗せて舞い上がった。長いこと飛んで、とうとう広い海に着いた。
「さあ、商人の子イワンよ、この世の果てはこの海の向こうです。ですが私はそこまで運んであげることが出来ません。自分で何とか工夫してください」
イワンは火の鳥から下り、礼を言って海岸を海に沿って歩きだした。すると小屋があり、入ると老婆が出迎えた。老婆はイワンにたらふく飲み食いさせてから、何をしに来たのかと尋ねた。イワンが一部始終を話すと老婆は言った。
「それはまあ。でもあの娘はもうお前を愛していないよ。お前に出会おうものなら引き裂いてしまうだろうさ。というのも、あの娘の愛の心は遠い場所に隠されているからね」
「どうしたらそれを取り戻せるだろう」
「少し待つがいい。あの処女王の所に私の娘が住みこんでいて、今日、私を訪ねてくるはずなのさ。何か聞き出せるかもしれない」
老婆はすぐにイワンを留針に変え、壁に刺した。
夕方になって老婆の娘が飛んで来た。老婆が処女王の愛の心の隠し場所を訊ねると「知らないわ」と言ったものの、処女王から聞き出してくることを約束した。あくる日、娘はまた飛んできて、母親にこう言った。
「大海原の向こう岸に一本の樫の木が立っていて、その中に箱があり、箱の中に兎がいて、兎の中に鴨がいて、鴨の中に卵があります。その卵の中に処女王の愛があるのです」
イワンはパンを持ってその場所へ行き、鴨の卵を手に入れると老婆の家に戻った。
やがて老婆の守護聖人の命日を記念した祝日が来て、老婆はパーティーを開いて処女王たちを招いた。正午かっきりに処女王と三十人の娘たちが飛んできてテーブルにつき、食事を始めた。最後にオーブンで焼いた卵が出されたが、処女王の前に置かれたものは例の鴨の卵だった。
その卵を食べ終えると、処女王は急にイワンが恋しくてたまらなくなった。すかさず、老婆は晴れ着を着せて隠しておいたイワンを連れて来た。二人は再会の喜びに浸り、陽気な宴はいつまでも続いた。
やがてイワンは処女王と共に彼女の国へ行き、結婚式を挙げていつまでも幸せに暮らした。
『ロシア民話集』アファナーシエフ著
※明言されていないが、《飛んでくる》という処女王たちは自在に飛翔する神霊であり、羽衣をまとう天女であり、鳥の姿でこの世とあの世を行き来する女神なのだろう。
小さな舟で沖に漁に出ると、異界から美女が現れて「以前から好きでした、あなたに逢うために来たので結婚して」と誘いかけるという導入部は、『丹後国風土記』版の「浦島子」と共通している。
人食い女が訪問した男を食い殺すために歯を研ぎに出かけ、その間に男は楽器を演奏して逃げ出す…というくだりは[妹は鬼]話群と共通している。
隠されていた処女王の愛の心は、彼女の魂であると同時に生前の記憶でもあろう。世界の果てとは即ち冥界だ。かぐや姫が昇天して不死の天女に戻ると、両親や帝への愛の心がすっかり失われてしまったように、冥界の住人になった処女王は生前の心を失っていたわけだ。 
この「処女王」やインドの「ラール大王と二人のあどけない姫」のように、冥界神〜人食い鬼の家を訪ねると、母神が訪問者を針に変えて壁に刺したり、虫に変えて針で壁に留めるというモチーフがある。刺されている間は身動きもできないが、抜くと元の姿に戻る。虫が霊魂の暗示であることは明らかで、つまり針で魂を刺して留めている。
漫画で見られる《忍術・影縛り》のように、影に針を刺されると身動きできなくなる、影に針を刺して相手を呪うという俗信がある。一般に、影は霊魂と同一視されるものだ。針には何か、魂そのものに刺さって動けなくする呪力があるということだろうか。蝋人形に針を刺したり藁人形に五寸釘を打つ呪詛も知られているが、同じ観念が根底にあるかもしれない。
それが装着されている間は死んでおり、外れると生き返る。【白雪姫】話群にはそうした効果を持つ呪具が、針以外にも幾つも出てくる。お馴染みの毒リンゴが属する《死の果実(菓子)》が最も有名だが、他にも《死の指輪》、《死の衣服》がある。
指輪は、指に装着するという点で、眠り姫たちの指先に刺さった棘や針ととてもよく似ている。それを引き抜くと彼女は死の眠りから覚めるのだ。基本的に母からの贈り物として現れることは、母権の継承を思わせもする。
なお、眠り姫から指輪(腕輪)を抜き取る、というモチーフ自体は『眠り姫』話群でも見られるが、【白雪姫】話群とは効果も意味合いも全く異なっている。こちらでは、所有の証として王子がそれを持ち去るのである。帯(ベルト)を持ち去る場合もある。これに関しては次項で述べる。 
次に、衣服について。「ヴォルスンガ・サガ」で、シグルズが眠るシグルドリーヴァ(ブリュンヒルデ)を発見したとき、彼女は全身に鎧をまとっており、肌に食い込んでいたそれを切り裂くことで目覚めた。(彼女は《眠りの茨》で刺されて眠っていたと説明されるが、棘を抜くような描写はない。)同じように、グリムの「腕ききの狩人」(KHM111)でも、湖の向こうの犬が番をしている高い塔に忍び込むと姫が眠っており、彼女は自分の肌着に縫いこまれたようになっている。狩人はそれを切り裂いてスカーフの一部を持ち去る。後に目覚めた姫はこれを手がかりに狩人と結婚する。また、死の眠りをもたらした衣服を脱がせると目覚めるというモチーフは、【白雪姫】話群では多く見られる。
シグルズが眠る娘の鎧を切り裂いた行為に、性的なニュアンスを読み取るのは容易だろう。実際、「太陽と月とターリア」や[命の水]話群の眠り姫たちは、眠っている間に妊娠までさせられている。尤も、「腕ききの狩人」では「肌着を切り裂いても姫の体には触れなかった」と強いて書き添えられていたり、【白雪姫】話群では服を脱がせるのは王子の身内の女性(母/姉妹/メイド)とされているのだが、これは道徳的配慮による変更・隠蔽だとみなすことも可能ではある。眠り姫は結婚(性的成熟)によって目覚めた、という解釈の人気が高いのは、こうした部分があるからに違いない。
しかし、別の観点からの解釈もできるのではないか。
『千夜一夜物語』版類話では、模擬的に葬られた王子を包む七重の屍衣を、かつて眠り姫だったシットゥカーンが一枚一枚開いていく。全て開き終わると彼は目覚め、忘れ去っていたシットゥカーンへの愛を思い出すのだ。七重の屍衣からは、メソポタミア近辺にあった《七層の世界》の観念……冥界(天国)へ向かうには七つの門を通らねばならないという信仰が感じられる。シュメールの女神イナンナは、冥界へ下る際に七つの門を通り、門ごとに身につけていた衣服や装飾品を取り上げられて、最後には裸になった。「太陽と月とターリア」で王妃に処刑されそうになったターリアが一枚ずつ身につけていたものを脱いでいくシーンにもこの信仰の片鱗が感じられる。つまり、一枚ずつ服を脱ぐ行為には《少しずつ死に近づく》、あるいは《死の世界から少しずつ戻ってくる》という意味が読み取れる。
ターリアの服を脱がせ死の世界に送ろうとする王妃には、冥界の母神のイメージも感じられる。【白雪姫】話群で服を脱がせて娘を死の眠りから呼び覚ますのが王子の母や姉妹…女性であることとも、どこかで繋げられるかもしれない。
そう考えれば、死の眠りについた者の衣服を脱がせたり装飾品を外すと、目覚め蘇ることにも、共通した意味を感じ取れはしないだろうか。
現代の子供向けアニメーションでも、魔法少女が変身する際には一瞬なりとも素裸かそれに近い姿に描かれがちであるものだ。赤ん坊が産まれる時には素裸であるように、あの世からこの世へ、あるいはこの世からあの世へ転生する際には、人は服や装身具といった虚飾を捨て去り、無垢な魂のみになるものだという観念が、人々の意識の底にあるのではないだろうか。 
奪われた腕輪 
「ヴォルスンガ・サガ」において、シグルズは持っていたアンドヴァリの黄金の中から腕輪を、ブリュンヒルデに二度も与えている。一度はシグルズとして愛を誓うために。もう一度はグンナルの代理人として、婚姻の証に。
物語上、腕輪がエンゲージリングを意味していることは確かであるが、これが幸福な結末を生むことは、まずない。疑念と誤解を呼ぶ火種になってしまう。
シグルズはグンナルとして腕輪を与えた際、以前自分が与えた方の腕輪を持ち去った。これが原因となって後にブリュンヒルデたちに殺されることになった。イギリスを発祥とする聖杯探索伝説話群では、天幕の中で眠る美しい乙女を発見した愚かな王子ペレドゥル(パーシヴァル)が無法にもキスをする。目を覚ました彼女に食料を提供させ、たらふく飲み食いしてから記念に彼女の腕輪(または指輪)を持ち去ったが、実はそれは彼女の夫からの贈り物だったため、彼女は夫にひどい虐待を受けることになった。シェイクスピアの劇「シンベリーン」では、妻の貞節を試すべく、夫が知人に妻を誘惑させる賭けをする。妻はまるでなびかなかったが、このままでは賭けに負けると思った知人は荷物に潜んで妻の寝室に侵入し、ぐっすり眠る彼女の寝姿を観察した上に夫からの贈り物の腕輪を抜き取って持ち去った。腕輪を見せられた夫は妻が裏切ったのだと思い込み、殺そうとする。
どうして、(黄金の)腕輪は不和を呼んでしまうのだろうか。 
ワーグナーの歌劇「ニーベルンゲンの指輪」では、黄金の指輪には「所持者は指輪に縛られ、全てを得るが全てを失う」という呪いが掛かっていることになっている。その呪い通り、全て……主人公たるジークフリートとブリュンヒルデの二人も、ギービヒの一族も、神々の世界そのものすらもが終焉を迎える。権力と破滅をもたらす畏るべき指輪の設定はトールキンの小説『指輪物語』に引かれたこともあって非常に有名だが、引きずられないよう注意しておかねばなるまい。伝承の原形に近いと思われる「ヴォルスンガ・サガ」でも、確かに本来の黄金の持ち主であった小人アンドヴァリが呪いの言葉を吐いてはいる。だがそれは「その黄金と腕輪を持つ者は、誰でもそのために命を落とすことになる」というものだ。それで全てを得られるとは言っていないし、「全てを失う」という広義の表現もしていない。ただ、所持者は死ぬとだけ言っている。
黄金の本来の所持者たる小人の王は、昏い世界(地下/洞穴/開く岩壁の向こう/霧の国)に住んでいる。現在この小人のキャラクター化は進んで、《地下から黄金や宝石を採掘し、優れた鍛冶師でもあって呪宝を作り上げる、背が低く髭を垂らした》亜人種なのだと認識されがちだ。一方、歴史的見地から伝承を《合理的に》解釈しようとする研究者は、彼らは征服者から逃げて洞窟に隠れ住んでいた小柄な原住民族だと唱えることもある。亜人とまではいかずとも、やはり一種の異人種と見ている。だが、そうなのか。確かに、異民族や漂泊者を見て魔物を想起した者もいたかもしれない。だがそう認識する意識の中には、既に《小柄で、暗い所にいて、黄金を授けてくれる》モノへの観念、信仰が存在していたのではないか。
日本には竹筒に入るほど小さな狐(管狐[くだぎつね])や、それに類似した影のような小人の伝承があるが、これは血筋に取り憑く霊物とされる。黄金の所有者たる地下の王が小人とされるのも同じことで、彼らも冥界神〜神霊であり、《小さい=見えづらい=神霊》という暗示があるのではないだろうか。現に「ニーベルンゲンの歌」の黄金の番人・小人アルプリヒも、「不死身のザイフリート」の小人オイゲルも、姿を消すことのできる呪宝・隠れマントを持っており、彼らは自在に姿を消せる〜見えづらいと認識されていたことが窺える。同じ呪宝は韓国ではトッケビの帽子、日本では天狗の隠れ蓑、隠れ頭巾(笠)などと言われ、いずれも魔物(神霊)が持っているものとされている。古代日本では鬼(魔物〜神霊)は蓑笠を身につけて姿や顔を隠しているものとされていた。(だから清少納言は『枕草子』で、蓑虫は鬼の捨て子だと書いている。)というのも、「鬼=霊=姿が見えない」という観念があったからである。自在に姿を消して《神出鬼没に》活動する、それは霊の特質だ。だからこそギリシアの伝承では、霊の王たる冥王ハデスが隠れ兜の所持者であることになっている。
オーノワ夫人の「爛漫の姫君」では、姫君は両親の持っていた《(一撃必死の)宝剣》、《自在に姿を消せる、紅玉が眩く輝く宝冠》を盗んでいく。これらの呪宝が冥界の力を暗示しているのは明らかだ。特に宝冠は、自在に姿を消せるという点で[ニーベルンゲン伝説]の隠れマント(兜)と同じものだし、頭や首で眩く輝く宝石は、「小さな太陽の娘」や「バタウン」を参照するに、冥界からの出現者(太陽の化身)が身につけている定番の装飾である。
ギリシアの伝承によれば、クレタ島のミノタウロスの迷宮に英雄テセウスが臨んだとき、一説によれば王女アリアドネが授けた、宝石をちりばめた黄金の冠の光で螺旋状の迷宮を照らして進んだとされる。迷宮は冥界を暗示している。それを照らす宝冠は日月の光を象徴すると同時に、冥界を支配する冥王の力を示している。アリアドネは太陽神ヘリオスの孫娘であり、ディオニュソス神の妻であったとされる。例の宝冠も、元々ディオニュソスがアリアドネに贈ったものだと。デュオニソス神は一般には天神ゼウスの息子とされるけれども、《冥界でのゼウス、犠牲死と復活の神》という側面も持っていた。つまりアリアドネは冥王の妻、冥界の女王神の一形態とみなせる。アリアドネの名の意味は「聖なる、清い」で、ディオニュソスの妻としての別名アリデラは「遠くから明るく見える女」という意味である。
なお、私見ではあるが、《日月光〜霊力》を象徴する頭または首の宝石は、西欧の《雄鶏の石》、東洋の《竜の如意宝珠》の伝承と、恐らく根を同じくしている。仏教の仏天やキリスト教の聖人などの背後や頭上に描かれる光背、いわゆる《天使の輪》も、もしかしたら繋がっているかもしれない。
黄金の所有者たる小人が神霊〜冥界神であると前提すれば、その財宝が黄金または輝く宝石であることに、また別の意味が見えてくる。説話には光り輝くものがしばしば現れてくる。金銀財宝、黄金(青銅/水晶)の館、黄金(水晶)の橋、黄金(青銅)の門、黄金の鳥、黄金の魚、黄金の果実、黄金の枝、黄金(青銅)のサンダル、黄金の髪の冥界帰りの英雄、黄金の髪の大地の乙女……。結論から言えば、説話における黄金(光輝)は太陽を象徴しており、それが神に関わるものだというサインになっている。そして太陽神と冥界神は表裏一体で、観念上、同一の存在として扱われる。神は幸(生命)を与えもするし奪いもする存在だからである。冥界は血と炎と暗黒に包まれた恐ろしい地獄だと語られる一方で、光輝と黄金の中にたゆたう極楽だとも語られる。両極端でもあるこの二つのイメージは、殆ど同じ世界について語っている。
つまり、小人が黄金や宝石を持っているのは、彼らが地下でそれを採掘しているからではない。神霊である彼らが太陽神でもあり、輝く霊力…豊穣の力を持っていることを表しているのだ。ギリシアの伝承で、女神が黄金のリンゴを持っていると語られることと根は同じである。だが古い信仰が廃れるにつれて意味が忘れ去られ、合理的に説明しようとして「小人は地下で鉱石を掘って細工をしている」などと言われるようになったのだろう。
「ヴォルスンガ・サガ」で小人の王アンドヴァリが黄金を要求されたとき、彼は腕輪だけは渡すまいとしていた。実は、この腕輪があれば幾らでも新たに黄金を生み出すことができたからだ。そう。この黄金の腕輪は、日本の伝承で言うところの《打出の小槌》と同じものだ。北欧の『トルストンのサガ』にも、小人が贈ってくれた、はめていれば金に不自由しない指輪が出てくる。
しかし冥界の呪宝がどんな形をしていてどんな幸を与えてくれるかは語り手の裁量であり、一律化はしていない。冥界から授けられる指輪には、はめると姿を消せるもの、逆に姿を消したモノが見えるようになるもの、剛力になるものなど、様々な機能のものがある。 
[ニーベルンゲン伝説]において、どうして小人(もしくはニーベルング族)の黄金は所持者に死をもたらすとされるのか。それは、それが冥界から…死の世界からもたらされたものだからに他ならない。神に祝福され同一化するということは、この世での死を意味するとも解釈できるからである。
アイルランドの「フェヴァルの息子ブランの航海」によれば、王子プランの前に美しい乙女が現れて銀のリンゴの花枝を渡し、エヴナの国へ来るように誘う。浦島太郎が常世に去ったように、エヴナの国で暮らしたブランは人間とは異なる時間を生きることになり、二度と人界には戻らなかったとされる。つまり、女神から愛の証として冥界の宝を渡され、神の国の一員となって、人間としては死んだのであった。
シグルズは愛の証としてブリュンヒルデに黄金の腕輪を贈った。ディオニュソス神がアリアドネに黄金の冠を贈ったように。しかし後に、ブリュンヒルデは腕輪を新たに現れた英雄グンナル(に化けて現れた、記憶のないシグルズ)に取られてしまい、それが後の不和と死を呼ぶことになる。シグルズは死に、ブリュンヒルデも火で焼かれて死んだ。一方アリアドネも、宝冠を英雄テセウスに与えてしまう。よく知られている話では、アリアドネはその後テセウスに置き去られ捨てられたとしか語られないが、別説によれば自ら縊死した、産褥死した、ディオニュソスが月女神アルテミスを唆してアリアドネを月神の矢で射らせ、火で焼かせたなどとする。
『エッダ』によれば、ブリュンヒルデは死後に戦乙女[ワルキューレ]となって冥界へシグルズを迎えに行ったという。アリアドネも、一説によればディオニュソスと共に車に乗って昇天したとされる。神として結婚し、その意味ではハッピーエンドを迎えている。
黄金…冥界の力を入手する、冥界と繋がるということを、結婚という形で表す。冥界と繋がり冥界神と一体化することは、この世での死を意味する。よって、冥界の黄金でエンゲージされた結婚は、《死》というこの世でのバッドエンドを迎えるのだろう。 
さて、『眠り姫』話群において腕輪(指輪)に近い機能を与えられている小道具に、帯(ベルト)がある。チェコの「命の水」では、王子は眠る女王と愛の床を共にした後、彼女の銀の帯を持ち去っている。グリムの「腕ききの狩人」ではスカーフだ。対して「ニーベルンゲンの歌」では、ジーフリトがグンテルの身代わりとしてプリュンヒルトの処女を奪った際、彼女から黄金の指輪と宝石を散りばめた絹の帯の二つを奪っている。
帯を解くことと服を脱ぐことはほぼ同義にイメージ出来るので、艶めいた印象を抱きやすい。だが、それだけで思考停止してしまうのは尚早だろう。帯には冥界の呪宝としての意味もあるらしく思われるからである。
十三世紀ドイツの『古英雄叙事詩集』に収められているベルン王ディートリッヒ(ティードレク)関連の詩の中に、小人王ラウリンの物語がある。 
チロルの山中洞穴に小人たちの王ラウリンが住み、その洞穴は宝石で輝き、絹糸で囲った彼のバラ園を荒らす者の手足を切ってしまう。魔術を操る彼は誰にも負けたことがない。そんな噂を部下のヒルデブラントから聞いたディートリッヒは、名を上げるべく部下と共に出かけ、バラ園をわざと踏み荒らす。現れたラウリンはノロ鹿ほどの馬に乗った小さな人物であったが、馬勒は宝石で輝き、黄金の鎧には竜の血が塗りこめられて刃が通らず、黄金の兜には赤い宝石が燃え、全身からは聖なる黄金の光輝が放たれていた。まさに太陽神の姿である。説話の世界では手足の欠損は《死…冥界下り》の比喩だが、ラウリンはディートリッヒたちの左足と右手を切り落とそうとする。
姿を隠す魔法のマントをまとったラウリンにディートリッヒは苦戦したが、ついにマントを奪って彼を無力化することに成功する。力を奪われた瞬間、ラウリンは長く叫ぶ。敗北したラウリンはディートリッヒたちを自分の洞窟に招いて忠誠を誓い、歓待したが、こっそりと、十二人分の力を授かる魔法の指輪と、やはり十二人分の力を授かる魔法の腰帯を装備し、力を取り戻した。そしてディートリッヒたちに睡眠薬を飲ませて地下の穴倉に投げ込んだのである。
しかしラウリンに囚われて妻にされていた乙女キューンヒルトが、こっそり魔法の指輪を授けて救った。アリアドネがテセウスに宝冠を与えて夫のディオニュソス(と、兄・ミノタウロス)を裏切ったように。この指輪をはめるとマントで姿を隠した小人を視ることが出来るようになるのだ。
ラウリンは大変な強敵であったが、ディートリッヒはヒルデブラントの助言によって、指輪をはめていたラウリンの人差し指を落とし、腰帯をもぎ取った。力を失ったラウリンは再び敗北し、キューンヒルトのとりなしで命ばかりは助けられたが、洞穴の財宝は全て奪われ、彼自身は捕虜にされて晒し者になった。それ以来、小人たちは洞穴の奥で鍛冶仕事をさせられているのだという。 
以上の物語では、帯を奪われるのは女性ではない。しかし帯や指輪が剛力の源で、奪われると力が失われてしまうという状況は、「ニーベルンゲンの歌」のプリュンヒルトが並の男では太刀打ちできない剛腕の持ち主で、初夜の床で夫のグンテルを拒絶して縛り上げるが、代理人のジーフリトが押し倒して初夜を済ませ指輪と帯を奪うと、それ以降は力を失ってただの女になってしまったと語られる点に似てはいないだろうか。
黄金の腕輪(指輪)や宝石できらめく帯が太陽神〜冥王の力の象徴ならば、それを奪われるということは、神が力を失う、ということでもあったに違いない。
ギリシア神話の英雄ヘラクレスの十二功業の一つに、女戦士[アマゾニス]の女王ヒッポリュテの帯を奪うというものがある。ヒッポリュテはヘラクレスを歓迎して(一説には彼に子種を貰うことを条件に、愛の証として)自ら帯を渡そうとしたが、(女王神ヘラの策謀により)女王をさらわれると思い込んだ部下たちが武装して港に押しかけ、それを見たヘラクレスは騙されたと思ってヒッポリュテを殺して帯を奪い取った。これだけでも悲しいすれ違いの物語だが、更に悲しいことには、ヘラクレスは帯を王女アドメテの依頼で求めに来たのであった。ジーフリトが勇猛な女戦士であったブリュンヒルデからベルトを奪って妻クリームヒルトに与えたように、別の女に与えるためだったのだ。
この帯はヒッポリュテの父である軍神アレスの授けたもので、女王が最も勇敢である印であり、《力》の象徴であった。物語上、女王を殺して帯を奪っているが、観念的には帯を奪われたために女王は死んだ…力を失った、ということなのだろう。 
墓の中の馬 
ギリシア神話中のアマゾニス(アマゾン)は、北アフリカ、アナトリア、黒海地域に住んでいた実在の母系部族をモデルにしていると考えられている。彼らは女神を崇拝し、また、馬を飼いならして強力な騎馬部隊を所持していた。ヘラクレスに帯を奪われ殺されたアマゾニスの女王・ヒッポリュテの名は、《奔放な雌馬》を意味している。
ところで、ノルウェーの「ティードレクス・サガ」においてジグルトに神馬グラーネを与えたのは、女王ブリュンヒルトであった。ジグルトは彼女の城の門を蹴破って中に入るが、ヒッポリュテがヘラクレスを歓迎したように、ブリュンヒルトはジグルトを歓待する。
一方、ロシア民話「若返りのリンゴと命の水」にも、こんな一節がある。 
イワン王子は自分に合った馬を選ぶことが出来ず、しょんぼりして歩き始めました。すると、向こうから《人目を忍んで暮らしている》お婆さんがやって来ました。
「こんにちは、イワン王子。何をそんなに悲しそうにしているんですか?」
「だって、お婆さん、悲しまないではいられないよ。いい馬を選べないんだ」
「最初から私に頼めばよかったのに。いい馬は穴倉に鉄の鎖で繋がれていますよ。それを連れ出せたなら、あなたのいい馬になるでしょう」
イワン王子は穴倉に行くと、鉄の扉を蹴り飛ばしました。中に飛び込むと、馬は前足を王子の両肩に乗せてきました。王子がそのまま怯みもせずにいると、馬は鉄の鎖を引き千切って穴倉から外に躍り出し、イワン王子を引っ張り上げました。 
馬がいる鉄門で閉ざされた穴倉が冥界の暗示であり、鉄門を蹴破ることが冥界への侵入を意味し、そこへ導く「人目を忍んで暮らしているお婆さん」が冥界神であることは、容易く読み解けるだろう。
説話においては、馬はしばしば死者〜神霊からもたらされる。例えばロシアの「魔法の馬」では、父の亡霊が墓から起き上がって神馬を呼び、息子に授ける。日本の「灰坊太郎」では母の亡霊が神馬を授けている。ハンガリーの「天まで届く木」やアラブの「もの言う馬」、日本の「麒麟にさらわれた子供」のように、冥界神の家で神馬を発見して味方にすることも多い。どういうわけか、馬は冥界〜死者と関連するらしい。
特に北欧の人々にとって、馬は勇者の葬儀には欠かせないものだった。死者は馬に乗ってあの世へいくと考えられていたからだ。馬の鐙[あぶみ]には長靴が反対方向に取り付けられた。というのも、この世のものとあの世のものは鏡像のように逆なので、死者のかかとは反対を向いていると考えられていたからである。中世日本の説経「小栗判官」の照手姫の鷹の夢には、冥土へ去る小栗が逆鐙[あぶみ]に逆鞍で馬に乗って葬列と共に北へ去っていく、という情景が出てくるが、同じ観念であろう。ギリシアの伝承でも、冥王の別名に《クリュトポロス(馬で名高い者)》というものがあり、古い墓に納められていた壺には、英雄のために荘厳な馬具のつけられた葬式馬車が描かれている。
古い時代では馬は死者とともに墓に葬られることがあった。ケルトの女神エポナは雌馬であり、死者を速やかに冥界に運ぶ馬であり、恐らくは冥界で転生させる女神として、スペインやローマにもその信仰は広まっていた。 
死者は馬と関わり、その馬は多くの場合雌馬であるか、女神から授けられる。死と関わる馬は、時に人を食らう怪物として語られる。
ギリシアの地母神デメテルは、切り刻まれ調理されて食卓に出された幼い王子ペロプスの肩の肉を食べてしまったと伝えられている。彼女は他の神々と共に、ペロプスの残りの肉を大鍋で煮込んで引き出し、蘇らせた。再生したペロプスは以前より美しく立派になり、特にデメテルが食べた肩は象牙で補填され、白く輝いていたという。この特徴は彼の子孫の誇りとなった。女神デメテルは雌馬に変身して冥界女王ベルセポネと神馬アリオンを産んだという神話をも持つ。
王子ペロプスは成長して後、王女ヒッポダメイア(馬を御する女、の意)に求婚した。だが、彼女を得るためには彼女の父オイノマオスと馬に牽かせた戦車で競争せねばならず、それまで多くの若者が挑戦していたが、みんな敗北して、その首はオイノマオス王の宮殿の入り口に釘づけにされて晒されていた。というのも、オイノマオス王はアレス神より授かった二頭の雌馬を持っており、その足が恐ろしく速かったからだ。……ペロプスはオイノマオス王を殺し、ヒッポダメイアと結婚した。しかし後に、ヒッポダメイアは息子(一説には継子とされる)を憎んで殺し、国を追われ、死後に骨または灰が神殿に祀られたという。
ロシアやジプシーの民話の中では、馬は煮え立つ大釜に入れられる若者の援助者としてしばしば現れる。釜の中で煮え立っているものを馬のミルクだと語ることもある。死と再生、冥界の女神、女神が食べること、そして馬(特に雌馬)は関連付けられている。
冥界神的な人物が飼っている人食い馬の伝承は、様々な英雄伝説に見られる。「小栗判官」で、照手姫の父が婿・小栗に与えた難題は、人食い馬の鬼鹿毛を乗り慣らすことであった。この馬は頑丈な横木と鉄柵の中に入れられ、四方八つの鎖で繋がれていた。また、伝説によればアレクサンドロス三世の乗馬・ブケパロスは人食い馬であり、乗りこなす者は世界を支配すると預言されていた。ギリシア神話では、トラキア王ディオメデスが四頭の人食いの雌馬を鉄の鎖で青銅(黄金)の飼葉桶に繋いで飼っていた。この飼葉桶には切り刻まれた人間の死体が入れられた。ヘラクレスがディオメデスを捕らえて食わせたところ、雌馬たちは大人しくなったという。
人間を貪り食う、または踏み潰す雌馬。これが《死》そのもの、そして冥界の女神自身を暗示していることは明らかである。死とは女神に呑まれて胎内に回帰することであり、女神は内部に空洞[うつろ]〜子宮を持つ全てになぞらえられた。大きな鍋とも、燃えるかまどとも、深い洞穴とも、人食い鬼とも、人食い竜とも、人食い狼とも、人食い獅子とも、人食い牛とも、人食い馬ともみなされていたのだ。冥界女神と獣を同一視するのは、神霊は獣の姿を取るという観念の影響もあっただろう。霊の女王/母である彼女自身も獣の姿を取ることができる。
ロシアの「魔法の馬」には、若者イワンが亡父に授かった馬の、耳の穴を潜って美々しく変身するシーンがある。耳の穴は、口とも膣とも言い換えて構わない。これは人食い馬に食べられることと同じであり、女神の胎の中に入ること、即ち冥界下りの暗示である。
ところで、イワンの魔法の馬は鼻から火を吹き耳から煙を吹いている。ギリシアの英雄イアソンも、金羊皮を得るために鼻から火を吹く凶暴な雄牛を従える難題をクリアしなければならなかったが、どうしてこれら冥界に属する牛馬の鼻からは火が吹き出るのだろうか。
思うにこれは、それら牛馬の腹の中が冥界と同一であり、地獄の炎が燃えていることを意味しているのではないか。そう考えてみれば、西欧の説話に登場する龍がしばしば口から炎を吐くことも、無関係ではないと思えてくる。 
女への恐怖 
冥界神が自身の力の象徴たる腕輪や帯などの呪宝を奪われたとき、力を失い、無力な存在になり下がる。事実、「ニーベルンゲンの歌」のプリュンヒルトは、元は並の男では敵わぬ剛力を発揮する女戦士だったものが、腕輪と帯を奪われて以来、ただの女になってしまったと語られている。
ただ、ここで彼女が奪われたのは呪具だけではない。彼女は純潔を奪われ、その証として腕輪と帯をも持ち去られたのだ。ここには、女は性的に男に支配される(性的に屈服させれば女は脅威ではなくなる?)という観念もが同時に含まされている。
ギリシア神話によれば、トロヤ戦争にアマゾニスが参戦し、英雄アキレスがアマゾニスの女王ペンテシレイアを殺した。ホメロスは、アキレスが死の間際の女王を見てその美しさに恋をしたと悲恋を語っている。絵画にも、アキレウスが横たわる女王を抱きかかえて兜を脱がせ、じっと見入っている様子などが好んで描かれた。だがバーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』には、アキレスは女王の死体を死姦したのだという解釈が書かれてある。しかもそれを行ったのは女王に恋をしたからではない。アマゾニスの亡霊の祟りを逃れるための呪[まじな]いであったというのだ。
女が恐るべき力を持っており、(意識的にか、無意識的にか)初夜の床で夫を殺そうとする。こうした観念を滲ませる民話群があるのは確かだ。
グンテルがプリュンヒルトを得るべくジーフリトの助力を得たように、若者が《旅の仲間(従者/友人)》の助力を得て強力な女王を妻にする。そして類話によっては、《旅の仲間》は初夜の床にすら入ってくる。ジーフリトがグンテルの代わりに寝室でプリュンヒルトを屈服させたように。 
死人の借金を払った男   [クロアチア]
一人の若者が父親にせがんで許可をもらい、百ドゥカーテン金貨を持って、商売を始めるために家を出た。すると途中で、二人の男が墓から男の死体を引きずり出して、罵りながら革鞭で打っているのに出くわした。なんでも、この男は二人から借りた百ドゥカーテンを返さないまま死んだのだと言う。若者は自分の百ドゥカーテンを与え、死人を墓に戻させてやった。
おかげで手ぶらで家に帰って父親に叱られることになったが、若者は再び商売の元手をせがんだ。父親はリンゴを一つ渡してこう言い聞かせた。
「それじゃ行ってこい。お前と一緒に商売をしてくれる人を探すんだ。一緒に商売しに行くと言う人がいたら、このリンゴをやって、お前たち二人で食べられるように四つ割りに切ってもらえ。そしたら私のところに戻ってきて、どうリンゴを分けたか教えなさい」
最初に出会った男は、四つ割りのリンゴの三切れを自分のものにして、若者には一切れしかよこさなかった。父親はそれを聞くと「お前のためにはなならん人間だ、別の相棒を探せ」と言い、またリンゴを一つくれて送り出した。二人目の男は半分くれたが、父親はその男も駄目だと言った。三番目の男は、若者に三切れくれて、自分は一切れしか取らなかった。父親は満足し、息子に百ドゥカーテン渡して送り出した。
若者と男は別の皇帝[ツァー]の国へ行って商売をした。皇帝の宮殿の前を通りかかると、窓にそれは美しい皇帝の娘の姿が見えた。すると男が「あの人と結婚したいかね?」と若者に訊いた。「皇帝のご息女と結婚したくない者がいるものか!」と若者は答えた。
夕方に宿に落ち着くと、男は皇帝の所に結婚の申し込みに行くようにと若者に言った。「俺みたいな者が、どうしてそんなこと出来るものか」と言えば、「行って申し込めば許してくれる。ただし、一度ここに戻って、何と言われたか俺に報告するんだ」と言う。
若者が皇帝の宮殿に行って求婚すると、なんと、すぐに聞き届けられた。ただし、今夜すぐにご息女と同じ寝室で過ごすように、と。若者は宿に戻って相棒に報告した。男は「よし、さあ行ってこい」と若者を送り出したが、その後で自分も宮殿に行って、皇帝の娘の寝室に入って二人の様子を見張っていた。
夜中に、皇帝の娘が身体を揺すった。すると体の中から竜が現れて若者を呑み込もうとした。男はすかさずその首を斬り落とした。胴体は娘の体の中に戻ってしまったが首は残り、男はそれを布に包んで宿に帰った。
朝になり、若者が娘と共に朝を迎えたことが知れると、城中が喜び、大砲は歓喜と共に撃ち鳴らされた。というのも、今まで多くの男が娘と共寝したが、一人も朝を迎えることがなかったからだ。
皇帝は娘婿に、自分の宮殿の隣にもう一つ宮殿を建ててやろうと約束した。しかし若者はすぐに応諾せず、相棒の所に行って相談した。すると彼は「ここには絶対住むんじゃない。ただ、あの娘と、ラバを三十頭、シャベルを三十丁貰うがいい。後は何も貰わん方がいい。娘の持参金など欲しがるな」と言うのだった。
皇帝はしきりに引きとめたが、若者の意思が固いと見てとると、要求どおりにしてくれた。若者は妻と相棒と共に、故郷への長い道を辿り始めた。
やがて小さな円くなった谷に入ったとき、男が「お前の幸運は地面の中にある」と言い出して、シャベルでここを掘るように促した。掘りに掘ると宝物庫が口を開いた。若者は財宝を幾つもの袋いっぱいに詰めてラバに積んだ。
ついに若者の生国に入った。すると相棒が「兄弟、それじゃ分け前をもらおうじゃないか。俺とお前はここで西と東に別れるんだからな」と言った。もうけた全てを半分に分けることになったが、なんと、皇帝の娘まで半分にすると言う。
「彼女は分けられないぞ。そんなことをしたらお前も俺も、誰も彼女を持てないじゃないか」
「いや、どうしても分けるんだ。もうけは山分けだと決めておいただろう。お前は娘のこっちの手を持て。俺はこっちを持つ。そうすりゃスッパリ分けられるからな」
そう言うと、男は半月刀を振り上げた。娘が悲鳴をあげかけたとき、彼女の中から首のない竜の胴体が跳び出した。
竜が抜けてしまうと、男は布に包んでいた竜の首を取り出して見せて、初夜の晩の出来事を打ち明けた。若者は男に感謝し、彼がもう娘を斬り分ける気がないことを喜んだ。
「ここでお前は東に、俺は西に別れよう。俺は宝は要らない。娘も要らない。俺は死人だからだ。お前が百ドゥカーテン出して葬ってくれた、あの死人なのだよ」
言い終わると男は土に還った。一方、若者は娘を連れて父親の家に帰り、親子夫婦で共に暮らした。
『世界の民話アルバニア・クロアチア』 
初夜の床に現れた蛇は、どこから現れたのだろうか。ロシアの類話では、相棒の男は実際に王女を真っ二つに切り裂いている。すると中から小蛇がごっそり出たので、これを全て退治して内臓を奇麗に洗い、水を注ぐと、王女は以前より美しくなって蘇った。つまり、蛇は娘の体内にいたのだ。更に、次に紹介するパプア・ニューギニアの伝承を参照すると、蛇が娘の体のどこから出て来ていたのかの見当もつく。 
にしき蛇   [パプア・ニューギニア東セピク地方]
昔、一人の男が子供を連れて森へ子守ネズミを捕りに行き、藪の中に倒れて朽ちたリンブムの木(シュロの一種)を見つけた。朽ちた穴の中に錦蛇の卵を見つけて持ち帰り、男の妻はそれをゆでたまごにして食べた。ところが、それ以来女の腹の中に蛇が宿ったのである。
妻の腹がどんどん膨れたので男は誰の子だと訝しんだが、妻は知らないと言う。ともあれ出産準備をせねばならないとて、女は煮炊きのための薪を作りに行った。そして枯れ木を細かく割っていると、中からウジ虫が這い出した。すると、女の女性器から錦蛇が滑り出してウジ虫を食べたのである。その間女の腹はしぼんでいたが、蛇が食べ終わって戻ると再び膨らんだ。これが何度も繰り返された。
女は夫に相談し、隠れて見張っていてくれと頼んだ。そこで男が木の根元に隠れて薪割りする妻の様子を見ていると、薪の中からウジ虫が這い出すなり、妻の足の間から錦蛇がするすると降りて来て、ウジ虫を食べ始めるではないか。男は小刀を手に忍び寄って、錦蛇の頭を切り落とした。すると頭は茂みの中に飛んで行って隠れ、胴体は再び妻の女性器から胎内に滑り込んで、そのまま出てこなくなった。
そんなわけで、女の女性器からは時々血が出るのである。そして子供は胎内の蛇から生じるのだと言う。
『世界の民話パプア・ニューギニア』 
日本の苧環型の蛇婿譚では、娘が蛇の化身の男と交わって子を身ごもる。薬湯を使って堕胎したが、死んだ小蛇がうじゃうじゃと大量に下ったと言う。ロシアの民話で、王女の中に小蛇がぎっしり詰まっていたこと、パプア・ニューギニアの伝承の錦蛇が、女が食べた卵から生じた…いわば宿った胎児であったことと、どことなく繋がりを感じる。
初夜の晩に現れた蛇は新郎を殺す。蛇はどうやら花嫁の女性器から現れるらしい。とくれば、どうやら性交時に男性器を噛まれて殺される、という、女の性への恐怖が根底にあるらしく思えてくる。
女性器は俗に《下の口》と呼ばれることがあるが、女性器に歯が生えていて、挿入された男性器を噛んで男を殺すという【有歯膣】の伝承は、台湾、日本、北米などに見られる。
美しい娘が結婚するが、夫は一夜にして死ぬ。彼女の女性器には四本の歯があるのだ。これを知った母は娘を朱塗りの箱に入れて海か川に流す。流れ着いた娘を男たちが発見し、酔わせて歯を挟み切る。挟み切られた歯はトンボ玉になった。(あるいは、歯を砥石で磨り減らした。) まずは竹の棒や犬などで試し、最後に人間の男が試す。何事もなく、娘は安全になったことが確認された。彼女は地元の頭目の妻になったという。(台湾蕃族)
北海道から海を隔てたところに女の集落[メノココタン]という島があり、男はおらず、戦を好む女戦士たちだけが住んでいる。彼女たちの膣には歯があり、鹿の角のように秋に抜けて春に生える。最上徳内が行って短刀の鞘で試したところ、歯型が付いたという。女たちは鎖鎌で向かってきたが、逃げのびた。沙流海岸に時々黄檗[シコロ]の皮が流れ着くのを、アイヌの人々は"メノココタンの浮[アンバ]"と呼ぶ。(アイヌ)
五人の男がアザラシ漁に出た。船長は食人族に食われてしまい、残る四人は女だけの島に辿り着いた。女たちはもてなして泊めるが、危険だから変な気は起こさないように、と忠告する。しかし二人の男はそれを無視して女たちの寝床にもぐりこみ、陰歯に男根を噛み切られて死んだ。三人目の男は赤い砥石(または海岸で拾った白い石)を挿入し、歯を折ったので無事だった。女たちは喜び、生き残った二人の男を二人の死体と共に送り返したという。(アイヌ)
同じような伝承は日本の津軽や能登にもあり、木や黒銅製の物品を挿入して歯を砕いたと語る。その他、日本本土では「嫁の歯」という民話としても伝わっていて、こちらは既に笑話化されている。
互いに《うぶ》な男女が結婚することになった。周囲の人は、女には「男の人のアレって、杵みたいに大きいのよ」と教え、男には「女のモノには歯が生えているんだぜ」と教えた。さて初夜の晩、二人は互いに教えてもらったことは本当なのかと疑い、男は膝で試そうと、女は指で確かめようとした。そして互いに「本当だった」と勘違いし、怖くなって、そのまま離婚してしまったという。(日本)
女に男性器を噛み切られる、というのは、男にとって潜在的な恐怖なのか。東南アジアや台湾などには、結婚直前の娘の前歯を抜いたり削ったりする風習があったそうだ。夫を傷つけないため、だそうである。
説話の中の王子は、素晴らしい花嫁を得るために《旅の仲間》の助力を仰ぐ。何故なら、初夜の床の花嫁は大変危険な存在だからだ。先に挙げた「死人の借金を払った男」のごとく蛇が襲ってくることもあるし、プリュンヒルトのように暴れることもある。ロシアの民話では、花嫁がずっしりと重い手を花婿の胸に乗せたり、首を締めあげたりして窒息死させようとすることも多い。《旅の仲間》は王子を護るために初夜の寝室に同席させてほしいと望む。あるいは「私をあなたの代わりにベッドで寝かせてくれ」とさえ懇願する。
こうして、花婿の身代わりとなった《旅の仲間》は襲ってきた怪物を倒し――同時に花嫁の《女》をも征服するのだ。彼は花嫁を壁に叩きつけたり、何本もの金属の捧でさんざんに殴りつけたりする。そうしてベッドの上に放り投げ、無抵抗にしてしまってから花婿に譲り渡す。この暴力は、女を無力にするという点で、陰歯を折る行為と同質のものかと思われる。 
初夜権と純潔の刀 
説話において、優れた援助者が身代わりに求婚の難題をこなすモチーフは珍しくはない。それでも、ジーフリトがグンテル王に代わって初夜までこなしてしまうくだりは、多くの読み手にとって奇異に感じられるものではないだろうか。初夜の契りを夫以外の男が行う。それも、夫公認で。一体これは何なのか?
実は、これに似た習俗が現実に存在していた。《初夜権》である。
初夜権とは、集団の上位の男――王/領主/長老/家長/仲人などが、花婿に代わって花嫁との初夜をこなす、というものである。どうやら古代から世界各地にこの慣習は存在し、19世紀ごろにも、少なくともロシアや日本では行われていた。
紀元前の『ギルガメシュ叙事詩』にはギルガメシュ王の暴政の一つとして「全ての民の初夜の権利を持つ、他人の妻を犯す」ことが挙げられており、古代ローマでも領主は特権として初夜権を持ち、逃れるためには結婚税を払わねばならなかった。九世紀のスコットランドのユーエン三世は「貴族の男性は全ての庶民の妻を自由に犯し、領主は領内に住む全ての女の処女を奪ってよい」という法を制定した。キリスト教会はこれを「貴族の当然の権利」として支持した。結婚式から三夜以内に花婿が花嫁と寝ることは「神の祝福を汚す肉欲的行為」であるが、領主の肉欲は「正しく相応しいこと」であるとし、領主より先に妻と寝た男は法で罰された。
何故こんなことを行ったかについては諸説ある。「男の好色による」「女性の所有権と土地所有権が等価とされていたため、領地に住む女たちは領主の所有物とみなされた(女性は家畜と同じに男の財産の一つとされ、人権が認められていなかった)」だとか。いずれにせよ、女性の人格を無視した権力ある男性の横暴と捉えられがちであり、実際、その一面もある。スコットランドの例や、かつてのアメリカの黒人奴隷の妻や娘たちになされた横暴などは、まさにそうだろう。
けれども、また別の見方もある。現在、処女は神聖視される傾向があるけれども、男の童貞は早く捨てることが望まれるのが一般的である。結婚する時に童貞のままの男性は、暗に馬鹿にされる傾向があるだろう。――ここに、初夜権の残る一面に関する答えは隠されている。つまり、(現在童貞に関して考えられているのと同じ感覚で)女が結婚に臨んで男を知らないままなのは恥ずかしいこと、性的に未熟で一人前ではないという考えがあったのである。
中山太郎の『日本婚姻史』に「南方熊楠氏が紀州の兵主で目撃されたのに、十四歳くらいの少女が風呂屋へ来て、十七、八歳の木挽の少年を付けまわし、種臼きってくだんせ、としきりに言うていた。この年頃になっても処女でいるのを大恥辱に思っているらしいとのことである」とある。「種臼きって」とは処女を奪って、という意味だ。
ユダヤ教やイスラム教、アフリカ、オセアニアなどには割礼の風習がある。概ね、男児の生殖器の包皮を手術で切り取って大人の造作にすることだが、これも「大人になるには肉体的にも成熟しているべき」という思想が一端にある風習だと思われる。トルコでは十歳前後の男子にこれを施し、豪華な帽子と晴れ着を着せて親戚に挨拶して回り近所を車で練り歩く。これは一種の成人式であると考えられるだろう。
同じように、処女膜を道具や手の指で切開する習俗もあった。日本の愛媛県北宇和郡の山村において、かつては娘が十四、五歳になると親は娘が早く女にならないものかと心配した。中には、酒を買って人に依頼しにいった親もあるという。このことを「アナバチワリ」といって、この依頼される人は村の中でなんとなく決まっていた。大抵は物静かで無口な男であり、常々畳や板に擦り付けて爪を磨いている。そうして三日ほど泊まらせて娘を《女にした》という。また、娘たちに対しては「陰毛[ヒゲ]が生えても処女のままだと、ひげの根で閉じ込められて《割れなくなる》んだぞ」と脅しつけて不安がらせ、アナバチを割る気にさせていたそうだ。これが済むと「さあ女になったから相手を世話してやろう」ということになり、嫁入りが決まる。よって、嫁入る時に処女だということは殆どなく、むしろ処女は悪いという風であった。他にも、アフリカでは人工的な陰核の除去や大陰唇・小陰唇の切開、そして破瓜(処女膜の切開)、いわゆる《女性器切除FemaleGenitalMutilation》が行われていた。文化人類学ではこれを「破素」と呼ぶ。
道具や手の指を使うのではなく、実際に性交することで破瓜をさせる風習もある。日本ではやはり「アナバチワリ」系の名で呼ばれることが多く、島根県簸川郡北浜村(現、平田市)では「十二、三歳の娘がまだ娘にならないうち(初経前)に五十以上の後家爺さんに大人[オセ]にしてもらうことがあり、これを「ハチワリ」といった。これには世話した人がお歳暮を持っていった」とか、福井県城崎村(越前町)でも「アナバチといって、特定の者が十二、三歳の女子を一人前にして、若者の仲間に告げる風があった」という。アナバチワリは九州から福井県までの黒潮沿いの太平洋海域と、山口県から福井県までの対馬海流沿いの日本海海域に分布しており、南方を起源とする習俗らしい。実際、十三世紀末の中国人の記録によると、かつてのカンボジア王国には、娘を持った親たちが娘の結婚の前に仏教や道教の僧侶に頼んで娘の処女を破ってもらう、《チン・タン》という儀式が存在していた。これは年に一回、土地の知事が指定した特定の日に行われ、僧侶は年に一人の娘しか破瓜することは許されなかった。この儀式によって僧侶は手厚い報酬を受けたが、金持ちの娘は七、八歳でこれを済ませることが出来るのに(当時のカンボジアは早婚だった)、貧乏人の娘は報酬を用意できないために儀式を受けられず、婚期が十一歳頃まで遅れるものだったという。こんな貧しい人たちのためにチン・タンの費用を用立ててやるのは尊い行為とみなされていた。
念のために補足しておくと、男子の場合も女子と同じように、否が応なく年配者のところに連れて行かれて筆おろしをさせられていた。成人して若者組に入ると先輩に娘宿に連れて行かれて年長の娘に教えてもらうとか、お堂に村の既婚女性が集まって、集団で雑魚寝して少年たちに性の手ほどきをしたとか。なかなか上手くいかない若者もいて、一人前にするのは大変だったそうである。男性の場合、後の時代には風俗の女性のところに行って済ませることも多くなったようだ。
以上のように、処女を捨てておかねば結婚できない風潮があったわけだが、やがてこの風習は結婚の儀礼とまとめられ、結婚の前夜や初夜に花嫁が花婿とではなく、花婿の友人や舅や仲人と床を共にする、という形をも生み出した。
淡路の出島では結婚の前夜に花婿の最も親しい友人が花嫁を《天神様》と俗称される鎮守の社に誘い、そこで相姦する。陸前国社鹿郡石巻町近くの福井村では、結婚の前夜、かねてから花嫁に目をつけていた部落内の青年に花嫁が身を任せる。青年は花嫁を誘い出してもいいし、花嫁の家に忍び込んでもよい。家族もこれを公認していた。ボスニアでは、婚礼に出席する男性客は一人ずつ(夫婦の抱擁を比喩して)花嫁を壁に押し付ける習慣があった。 
ここにはまた、村の娘はその村の若者たち全体の共有物である、という思想も現われている。結婚の前に娘は若者たちに分配され、ようやく夫個人の占有とするのが許されるのである。奥州のある村では、花嫁は結婚の前夜に親戚中の未婚の男子と交わらねばならなかったという。
豊後国日田郡夜明村大字夜明では、毎年八月十五日(明治以前は旧七日)に盆保々[ぼんぼぼ]という行事を行った。この日は一村の男女が総出で綱引きをし、夜になると当年十四歳に達した娘は村の男のいずれかに必ず体を許さねばならない決まりだった。拒めば《穴無し》とみなされて誹謗され、縁談を拒まれたり婚期を遅らされたりした。加賀国能美郡でも娘を村の若者たちの共有とするのを許さない父兄があれば、若者たちが大挙してその家を襲って屋根をめくり、嫁入りの妨げをして婚期が遅れるようにつとめ、その家が困窮しても同情しないのを常としたという。越後国には明治四十五年まで盆カカ(または盆くじ)という行事が広く行われ、毎年盂蘭盆になると、村の若者がくじをひいて、この盆の間だけの妻を村の娘たちの中から定めた。娘たちは無条件でこれに従わねばならないのだが、若者が引き当てた娘を気に入らない場合には清酒一升で取り替えてもらえた。親たちはこれを公認し、これが縁になって正式に結婚するカップルも多かったそうである。
村の娘たちは村の若者組の管理下に置かれ所有されており、それを拒めば時には軟禁、ひどいときには村からの放逐もありえた。他の村の男と恋仲になっても大変で、村の若者たちに迫害された。これを許してもらうためには酒などの物品を上納せねばならなかった。
司馬遼太郎の『余話として』(文春文庫)に「話のくずかご――村の心中」というエッセイがあり、江戸初期の大阪辺り石川村大ヶ塚の庄屋の書き残した心中事件について述べている。村の男女が心中したが、男が女を殺した後に死に切れずに逃げ、その男を捕まえて村内裁判になった話である。ツナという十六歳の娘には八郎兵衛という恋人がおり、夜毎の夜這いを許している。しかしツナは六キロほど離れた須賀村に一年間奉公に出ることになった。恋しさを抑えきれない八郎兵衛は須賀村に通っていくが、須賀の若衆どもがこれに気づき、たとえ他所から来た奉公人にせよ村の娘は村の若衆の占有だとて、道に待ち伏せて嫌がらせをした。(これを書き残した庄屋は「道なき世にもあるかな」と憤慨している。)仕方なく、八郎兵衛は酒を買って上納したが、貧乏な家の出でたちまち金が底を尽き、ついに思い余ってツナに心中を持ちかけたのだった。 
羽前国(現、山形県)の米沢市に近い萩村では、媒酌人がまず花嫁を《貰い受けて》自宅へ連れ帰り、三晩の間は自分の側で寝起きさせてから、百八個の丸餅を作り、それを背負って花嫁を連れて花婿の家に行って結婚式を挙げさせたというし、青森県庁に収蔵されていた明治七年三月の日付のある文書には「元南部領七戸通三沢村という村に限り、男女が結婚する時になると、媒[なかだち]の者が花嫁を夫家へ連れて行く。婚姻の夜は夫婦が床入りをせず、媒の男が花嫁を自分の妻同様にして寝て、その翌夜より本当の夫婦の床入りになる。これを口取という」とある。ロシアのチェルノゴーリエでも初夜の晩に花嫁と並んで眠るのは仲人だった。
このように、花婿以外の男性が先ず花嫁と床を共にするわけだが、中には男女一組の仲人や年配の女性一人が初夜の部屋で一緒に寝ることもある。下野国(現、栃木県)塩谷郡栗山郷では、婚礼の夜、花婿側も花嫁側もそれぞれ「お連れ様」なる者を同行させる。お連れ様には両親の揃った同性の者を選ぶ。初夜の晩、お連れ様は花婿花嫁と同じ部屋に寝るのが礼儀とされていた。津軽地方には「おくり婆様」なる役があって、花嫁が首尾よく《貫通された》のを見届けて親に報告するのが役目だったという。
以上、「性的にも成熟しなければ大人になったとはいえない――結婚資格は得られない」という視点で、結婚以前の破瓜、初夜権についての事例を挙げてみた。けれども、また別の解釈もある。
千葉県君津郡では、娘の結婚が決まると父親か母親が村の若者頭に酒を一升持っていって「うちの娘はまだ生娘なので、どうか娘にしてやって欲しい」と頼んだという。この地域では「生娘は怖い、生娘を嫁にもらうのは大変怖いことだから、娘にしてもらわねば困る」と言っていた。そして娘にする役の若者頭は「エビス神」だとか「道祖神」などと呼ばれることがあったという。
カンボジアで処女を破る役を与えられているのは僧侶であり、日本でも年寄りにその役が与えられるのがよく見られる。それは、彼らが処女の血の呪力に対抗できるシャーマン〜神に近い者であることを示すと同時に、彼ら自身が巫女の夫たる《神》の化身であることを示唆している。いや、千葉県君津郡の若者頭の例のように、それが村の若者であっても通りすがりの旅人であっても、処女を抱いているとき、彼らは《神》の化身であると考えられていたのだ。
以上のような信仰は、説話でしばしば未婚の娘が怪物(竜)に連れ去られたり生贄に捧げられたりして、塔や洞窟で怪物と一緒に暮らしている――その妻になっている点にも現われているかもしれない。彼女たちは一度神婚し、その後に初めて普通の花嫁になれるのだ。 
性交を神婚と見る思想は、神殿娼婦を生み出した。
ヘロドトスの『歴史』によると、バビロニアの女たちはどんな身分の者であろうと必ず、一生に一度はミュリッタ(愛の女神イシュタル〜ヴィーナス)の巫女として、神殿で見知らぬ男と交わる風習であった。彼女たちは座って待ち、男たちは通路を通ってきて好みの女を物色し、選んだ女の膝に銀貨を投げる。金額は決まっていない。女の方には拒否権も選択権もない。選ばれるまでは帰宅は許されず、美しい女はすぐに帰宅できたが、そうでない女は長い間そこにいなければならなかった。この交わりはあくまで一度のもので、もしも後で交わった男が再び誘いをかけてきても、女は決して応じることはなかったという。同様の風習はエジプトやギリシアを始めとする地中海の国々、インドにもあったとされる。
神殿娼婦という風習は、見知らぬ男――神の化身と神婚し、豊穣(子宝)の力を得ることが目的だと思われる。日本にも祭礼の日に村中の者が自由に乱交し拒否できない風習のある地域が多数あったが、そのうち茨城県北相馬郡文間村大字立木の蛟[虫罔]神社の祭礼では、多くの男と交わるほど体が丈夫になる、いい婿が得られるといって、既婚未婚の差なく、女たちがその祭礼中誰彼かまわず肌を許していたという。これらは「縁結び、子宝の神」の行事とされ、神に許されているアソビなのだから倫理的にも問題ない、とされていた。このように、神殿娼婦たちは快楽や生活の糧のために春をひさぐのではなく、女神の化身として豊穣を呼ぶ神婚――神事を行っていたのである。 
処女は神の妻であり、人間の夫の前に神と神婚せねばならない。三河国南設楽郡長篠町付近の村落では、結婚の当夜は「おえびす様にあげる」として夫婦は同衾しなかったし、能登国の鳳至・珠洲の村では結婚式に花婿は列座しない。ベトナムのチャム族・バチャムでは新婚夫婦は同じ部屋に起居するが三日間は性交を禁じられる。九世紀のスコットランドのように、夫は神に初夜権を譲り渡し、妻に触れることを遠慮するのである。
日本には「初子は親に似ない」という言葉がある。初夜の交わりによって生まれた子は、神…一族の祖霊から授かった子、という扱いだったのだろう。
「ヴォルスンガ・サガ」や[二人兄弟]に「純潔の刀」と呼ばれるモチーフが出てくる。男女が同じ床に寝るとき、二人の間に抜き身の剣を置いて、花嫁の真の夫に対して操を立てる、というものである。「フェアとブラウンとトレンブリング」では変形していて、夫が真の妻に操を立て、かつ、神意を伺うためのものになっている。
実はこれは、西欧において祖霊をかたどった木彫りの人形を、新婚の床で花婿と花嫁の間に置いた慣習から来ているのだと、プロップは『魔法昔話の起源』で述べている。木彫りの人形を新婚の床に入れるのは、花婿より先に祖霊(神)が花嫁と交わることを意味すると考えられる。なお、ベトナムのチャム族・バニでは、新婚夫婦は三日間妻の部屋で起居するが、その間、夫婦の寝床の中央には檳榔子とキンマを載せた盆が置かれ、何者も動かすことは許されない。三日が過ぎると仲人が来てこれを片付け、ようやく夫婦同衾の運びとなる。
十二世紀にアイスランドで成立したとされる「ラグナル・ロズブロークのサガ」には、花嫁が神々に許されるまではと言って、三日の間は性交を拒もうとするエピソードがあり、興味深い。 
 
母と沈黙と私

 

日本にとってアメリカとは何か 
戦争の影
1964年生まれの私が物心ついたときは、戦争など終わっていて影もかたちもなかった。まあ、普通にそうだ。と、言ってみたい。いや。影もかたちもなかった、というのは正しくない。影やヒントくらい、本当はあった。
たとえば、小さな頃に新宿のガード下や上野の山にぽつぽつといた、傷痍軍人たち。腕のない人、脚のない人、包帯をした人、何割か混じっていたと、母が言う偽物。彼らは白装束で物乞いをしていた。いや、カーキの軍服だったか。たまにハーモニカを吹いていたり。なぜかと思うに口だけで演奏できる楽器だからだろう。
彼らは身一つしか持たぬにもかかわらずその身さえ欠けた、究極の持たざる者だった。もちろん、他意なく異形のものでもあった。だから私の中でそれは托鉢僧と見せものがいっしょくたになったような記憶になっている。
あるいは親戚の集まりで、潰れるほどに呑んでは泣いて軍歌を歌い出すおじさん。酔うと説教混じりで屯田兵の話を決まってする人。叔父の海軍兵学校の集まり。生徒として終戦を迎えた叔父たちに戦闘経験はなく、同期の欠けもなく、彼らは人一倍明るい人たちだったが、後年とりわけ愉快だった人が命を絶った。
ただ、私の中でそういうものたちが歴史とつながらなかった。
私は東京の、戦前の郊外と言われた町で育った。育った家は、同級生たちの家からすると前時代的なつくりで、玄関を入ると脇がすぐ応接間だった。文化住宅によくあったつくりだ。
そこに、よくわからない話をする親戚や知り合いたちはよく来たのだが、彼らは私たち子供とは隔離されていた。古いつくりが逆に、古いことと新しい世代を切り離すのに役立っていた。親たちも社会も学校も、「子供はそういうことを考えず」勉強していればいいという態度を暗に明にとっていた。
私にとっては、もともと薄く断片的なことが忘れられても、最初からないような気しかしない。
けれど、一度存在したものは、自動的にただ消えたりしない。
彼らは一体どこへ消えたのだろう? どこへと、消されたのだろう? そして彼らが体現した不条理は?
消された何か。それが巨大な負の質量として戻ってくるのは、他ならぬ自分の身の上に「つながらなさ」を抱えてしまい、そこからまたずいぶん経ってからのことだ。
遠いアメリカ
16歳のとき、自分の歴史がつながらなくなった。あまりの異物を、たったひとりで、突然見たからだと思う。処理しきれなかった、おそらくは。
その異物の名を、アメリカと言う。幼少期からの世界は、切れた。その後の世界は、前と同じではなくなった。世界はおそらくは、主観的だけでなく客観的にも、変わってしまった。そして消化も排出もできないまま、アメリカは私の中で異物であり続けた。
かなり後になって、30近くにもなって、友達になったアメリカ人男性に、こう言われたことがある。
「へえ! 君の親もよくやったね。アメリカは、日本人の女の子を一人でやるには最も向かない国じゃないかな。度を越した(エクストラバガント)ところがあるもの。日本と違いすぎる。日本の女の子を一人でやるなら、イギリスがいいと思うねぇ」
私は、「そのこと」を、アメリカ人が知っていることに驚いた。当のアメリカ人が当然のように言うそのことを、周りの日本人は全く言わなかったことに、あらためてショックを受けた。
アメリカが心理的に我々と「最も近しい」外国で、そこがフレンドリーないい国と信じられているからこそ、中学を出た私の進学先に、アメリカという突飛なプランは突然、降って湧くことができたのだから。それはある時代以降の日本人の心の、ひとつの自然のようなものだった。
しかし、アメリカこそは、そのほんの三十数年前まで、我々の最大の敵であり、私たちの国土と民間人の上に戦略爆撃や原子爆弾を降らせた国でもあるのだ。自国の人々がアメリカを受け取る、そのギャップは、私を戸惑わせ続けた。
立ち止まる選択肢はなかった
私がなぜアメリカに行ったのか、理由はひとつではない。ひとつにはそれは、日本側の問題である。
ただでさえ暗い森にたとえられるような、自我と性のめざめにまどう思春期に、それをひたすら抑えることを求められ、最も過酷な受験があり、それだけならまだしも、日本では「みんな一斉」に行われる進学や就職のタイミングから一度ずれてしまうことは、おそろしいことだ。それはシステム的な落ちこぼれとなることを意味し、回復がむずかしい。
このことは、今でも変わらない。「就活」がうまくいかないと若者がひどく追い詰められた気分になるのは、そのためだ。一度引きこもった人が、出られなくなりやすくて長期化するのも、そのためだ。
日本は、一度のつまずきで再起しにくいシステムの社会なのである。あるいは、セーフティネットをつくりながら発展する余裕がなかったのかもしれない。当時世界第2位になりつつあった経済大国なんて、そんなもんだ。
それなりに平和で楽しかった中学2年生から中学3年生に上がったとき、周囲が一斉に一方向を向くのを私は感じた。と同時に周囲が殺気立ち始めた。
それを思い出すとき私は、経験してもいない軍国主義というものを、思い浮かべることができる。軍靴の音というのを、感じ取ることができる。平和のスローガンの下で、リアルな体感は軍国主義のほうだった。そう、ラインの入り方まで寸分たがわぬ上履きで、行進するのだ。
大多数がそれとなんとか折り合えても、たまに、そうできない者がいる。努力とは別の次元で、どうしても生理的にできないという者がいる。といって、表立って反抗するでもない子。私は、そんな子だった。
立ち止まる選択肢は、しかし誰にも、大人にだって、用意されていなかった。
異文化と思春期
アメリカは日本と違いすぎる。
同年代の少年はライフル銃を持って野生動物を撃ちに行き(原理的に考えれば教室で乱射だってできる)、ラウンジでは生徒同士のネッキングが日常的な光景で、ハイスクール主催の学年末のパーティ(プロム)には必ず男女のカップルにならなければ参加できない。誘われないのも誘った相手に拒絶されるのも、自分の性嗜好をそこで疑うのも、どれもおそろしい。アメリカのティーンを描いた作品にはよく、プロムがホラー体験として出てくる。ずばり『プロムナイト』なんてホラーもある。
どこか性じみていて、それでいて禁欲的な社会。皆がゆくゆくは、郊外のファミリーになるべきだという、性と倫理の誘導を感じる社会。
それは、自由と言えば自由な雰囲気なのだけれど、勉強することと性的存在であることの両方を、社会に求められるのはつらいものだ。それこそが社会から承認される道であることを肌身で知ることは。異国の人間には、特に。自分の身の安全が確認できないところで、性的であることは、危険でありうるからである。
ハイスクールという年代区分は、異文化の岩盤のような部分である。もはや性的に未文化ではなく、といって専門領域を持って個別にもなれない。文化の岩盤部分を生きるしかない存在。
私はアメリカ以外の外国に住んだことはないが、ティーンエイジャーというのは、異文化の岩盤に入れられるには、最も適さない時期ではないかと、自分の体験から思う。
私は結局アメリカでも、うまくやることができなかった。日本に帰ってきて、復帰がむずかしいとされる日本の進学体系の中に、なぜかまた入れたのだが、一年遅れた。若年で遅れるというのは、とてもいやなものである。
後から思えば計画自体に問題がある。異文化と思春期の困難を軽く考えすぎてもいる。ただ、そのときは純粋に自分が悪いと考えた。自己責任で、自分のせいで失敗したと。
16歳にして大きすぎる失敗をしたと感じた私は、この失敗をなかったことにしようと考えた。
そこから、切れた。
後になって思えば、それは、ひとつの体験であって、それ以上でも以下でもない。失敗であったら失敗と認め、そこから学んで先に活かせばよい。それをなかったことにしようとしたほうが、つらかった。
ただ、そう考えられる心的余裕も、時間的余裕も、私にはなく、問題の出発点から遠くなればなるほど、問題の表現はむずかしくなり、傍から見れば突飛な時期に、傍から見れば問題ない経歴で、私は壊れた。
小説でしか書けなかった
気がつくと30を過ぎていた私は、あるとき、全くの個人的体験だと思ってきたそのことが、どこか、日本の歴史そのものと重なるように思われた。私の中に表現の種は受胎したのだが、それを育てることはなかなかできなかった。2000年代までかけて、なんとか、私個人と集合の、相似形の屈折のようなものを表現しようとしたけれど、できなかった。
それがひとつできたのは、2012年に書いた『東京プリズン』という小説だった。私は、小説でこの主題を書くとは思っていなかった。が、書いてみれば、それは小説でしか書きようのないことだった。
評論や研究では、感情と論理をいっしょくたにすることはタブーである。しかし、日本人による日本の近現代史研究がどこか痒いところに手の届かないのは、それを語るとき多くの人が反射的に感情的になってしまうことこそが、評論や研究をむずかしくしているからだ。だとしたら、感情を、論理といっしょに動くものとして扱わなければ、この件の真実に近づくことはできなかった。そしてそうできるメディアは、小説だった。
日本の近現代の問題は、どこからどうアプローチしても、ほどなく、突き当たってしまうところがある。それが天皇。そして天皇が近代にどうつくられたかという問題。
だが、天皇こそは、日本人が最も感情的になる主題なのである。もっと言えば、人々は、天皇の性に関して、天皇が「男である」ということに関して、最も感情的になる。さらに「国体=国のなりたち」が、男性的であるか否かをめぐって。
日本の今の外交問題が危ういのは、その素朴さで意地の張り合いが行われているからである。人が根拠なく感情的になることこそは、強固なのである。
私には、戦後の天皇は素朴な疑問であり続けた。
なぜ、彼は罪を問われなかったのだろうと。
なぜそれを問うてもいけないような空気があるのかと。
最高責任者の罪を考えてもいけないというのは、どこかに心理的しわ寄せか空白をつくってしまう。
正直に言うと私は、素朴に、天皇には戦争責任があると考える方だった。たとえ雇われ社長でもそのときの問題の責任を問われる。だったら天皇の戦争責任が、考えられもせず、誰もが不問に付したというのは異常だった。ただしこれは、「王様は裸だ」と言うようなことだった。正攻法では立ち向かえず、なんらかの仕組みが要った。
そこで、私はいかにもアメリカ的な方法論を小説に導入してみた。ディベートという、言論競技である。ある論題に対し、肯定か否定の立場のどちらかに強制的に立って、自分の立場の正しさを「立証」する。小説内ロールプレイとも言える。
それをハイスクールの授業の一環ということにして、アメリカ北東部の、白人の多い保守的な小さな町で、ディベートのルールなど全く知らない、たった一人の日本人留学生16歳を中心に行わせた。彼女とその周囲のアメリカ人が、同盟か敵対の関係を組みながら、相手陣営に対する自陣営の正しさを「立証」する。
論題は、「昭和天皇は戦争犯罪人である」
断定しているのではなく、肯定形で出すのが論題なのだ。これに対して、肯定の立場と否定の立場で、論理ゲームをする。それは言論をもってするスポーツに近い、ゲームである。が、実際の法廷も、これと限りなく近い。弁護人が途中で考えを変えて検察に回ったりすることはできない。スポーツでゲーム中に所属チームを代わったりできないように。
否定派が心情に反する肯定に立たされたりしたとき、見えてくるものがあると思ったのである。こうすることで感情から自由になれまいかと思ったのである。これを、ふたたび行われる東京裁判に見立て、私は書いた。
果たして、そこで浮かび上がってきたのは、自分自身にさえ思いがけなかった、自分の感情だった。 
なぜ原爆投下は罪に問われないのか? 日本人の「2つの思考停止」 

 

謎解きの糸口
「ママはね、東京裁判の通訳をしたことがあるの」
2002年に99歳で死んだ祖母が、私の母親についてこんなことを言ったのは、たしか1997年だった。11月くらいの小春日和だったか、それとも本当に春の風の凪いだ日だったか。とにかく明るくて穏やかな日だった。
祖母にとって私の母とは、もちろん、娘だ。が、日本の家庭によくある、家族のいちばん小さき者の目線から見た呼称を、祖母もまた使った。人は老いると弱く小さくなる。だから娘をママと呼ぶのは、その頃にはなんとなく理にかなっているようにも思えることがあった。
ときどき「ママ」と呼ぶ祖母の声がすがるように響いたり、母が苛立って見えたりするとき、その関係は、母と祖母の間にあった「何か」を、逆転したり、かたちを変えて再現したりしているようにも、思えた。
そこには、どこにでもある親子の葛藤と、彼女たちにしかわからない個別の事情や断絶が、あったのだと思う。明治と昭和の間にある、生活や価値観の断絶は、私の想像など及ばないことだろう。当人同士にだって、話し合うのがむずかしかったかもしれない。
しかし。
祖母のその話が突拍子がなさすぎた。年齢的にも母ではその任は若すぎるはずだった。とっさに計算する。10代という答えしか出てこなかった。
「え?」
うろたえる私に対して、「味方を裁くことだから、つらかったみたいよ」と、なんともおっとり、祖母は言った。そして笑みを浮かべた。
早起きして練習するのはつらかったみたいよ、とでも言うように。
これは、謎の始まりではない。
私が長い間抱えてきた謎の感じの、ひとつの解だと、聞いたそのときどこかでわかっていた。そして、これによってわかることより、わからないということそのものを、より多く私は知るだろうと。
母の記憶
母は私の問いを最初は取り合わず、私が食い下がると、誇張があるのだと言った。
「おばあちゃまの記憶の中で誇張が起きているの」
母もまた、ごくふつうに、私の目から見た関係性で、自分の母を、おばあちゃまと言う。
そこから出てきた話とは、こんな感じだ。
「女子大の英文科にいたとき、何かの関係で、津田塾を出た人と知り合って、その人の家に行ったら、こういうのを訳してみない? と」と……と、母は語尾を濁した。
「つまりは翻訳だ?」「ええ」「裁判資料を?」「たぶん」「その人の家はどこ?」「巣鴨プリズンの近く」
巣鴨プリズンは、今の池袋サンシャインである。
「東中野から新宿に出て池袋?」「下落合からよ。すぐ高田馬場に出られるもの」
母が結婚するまで住んでいた家族の家は、新宿区下落合にあって、当時の家に近い順に北から、西武新宿線下落合駅、東西線落合駅、JR(国鉄)東中野駅と、南北に直列するように駅が三つある。東西線は、母の独身時には通っていなかった。
「どうしてその人の家へ行ったの?」「わからない。面白そうならばどこでも行ったのよ」
その気持ちはよくわかる。母も一人の健康な若い人間だったのだ。
「その巣鴨プリズンの近くの家はどんなだった?」「焼け残ったのか、バラックだったのか……」「そこで東京裁判の資料を見たの?」「そこでだったか、マッジ・ホールというところだったか……」「マッジ・ホール?」「千駄ケ谷の駅前にマッジ・ホールというGHQ関連の建物があって」「どんな?」「古い洋館……。そこに出入りしていた人の関係だったかもしれない」「でもなぜ、そんな機密書類に属するものが、一介の女子大生に降りてくるの?」「当時は英語を勉強していた人が少なかったからだろうし、そんなに大事なものだったかはわからない」「どんな内容だったか覚えてる?」「覚えていない。ぜんぜん」
GHQの側からのものであれば、検察資料だろうと推測できる。「味方を裁くこと」という祖母の認識と合致する。GHQ側のものであるなら、日本人戦犯の調書やそれに類するものであった蓋然性が高い。
母は、問われもしないのにこう言い捨てた。それは、これ以上語ることは何もない、というサインだった。
「下っ端よ、下っ端。BC戦犯」
ふたつの思考停止
「A級戦犯が大物であり、いちばん悪い」という誤解は、アメリカが自国のプレスにした説明が簡略化されすぎていたから、という説がある。A級戦犯は国家指導者であり、B級戦犯は現場の、というように。
ちなみにC級=人道に対する罪は、ナチス版東京裁判ともいうべきニュルンベルク裁判での(というか東京裁判が東京版ニュルンベルク裁判なのだが)「ホロコースト」に相当するもので、日本での該当者はほとんどいなかった。
B級は、通常の戦争犯罪、たとえば捕虜の虐待や民間人の殺戮で、当時の国際法で禁じられていた行為への違反である。従来、軍事法廷(東京裁判も軍事法廷である)で裁かれる戦争犯罪と言えば、これだけだった。
通常の戦争犯罪以外に「平和に対する罪=A級」や「人道に対する罪=C級」があるというのは、第二次世界大戦後の概念であり、戦争史上の一大発明ではないかと思う。
「ねえママ、民間人の虐殺ということなら、広島や長崎への原爆や、東京大空襲のほうが、全くの非道だとは、思わない?」
仮に8月6日以前にポツダム宣言を受諾しても、原爆は投下されたとする考えがある。米議会の承認を得ずに莫大な予算を投じた原子爆弾は、使わなければ終戦後に議会の追及を受けるから、というものだ。
その真偽はともかくとして原子爆弾の使用は民間人の無差別殺戮であり、通常の(従来からの)戦争犯罪を記した国際法に抵触する。B級戦犯、いやもしかしたらナチスのホロコーストにたとえられるC級戦争犯罪、「人道に対する罪」と言ってもいいかもしれない。東京大空襲もしかりである。市街地の、まず避難路をなくすように爆撃してから中心地を爆撃して「蒸し焼き」にする。
「うん……でも、『お前ら真珠湾やったじゃないか』と言われたら、仕方ないわ」と母は言う。
「なぜ仕方ないの? 宣戦布告しない戦争の例はたくさんあるし、それに対していちいち怒り狂った国ってのは少ないよ。真珠湾は軍事施設への正確なピンポイント爆撃なのだし、絶対悪とみなすいわれはどこにもない」
私は返す。
「なぜって……」母は口ごもる。ここでも、時間と思考が止まっている。
私は質問を変えてみる。
「じゃあ天皇に戦争責任はあると思う?」「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになったわ!」
どうして、ここだけ即答なのだろう? しかも論点がずれてる。
「なぜ?」私は問う。
「なぜってそうなのよ」
母がきっぱりするのは、このふたつの時だ。ひとつは真珠湾攻撃がとにかく問答無用で悪いと言う時、もうひとつは、天皇ないし天皇制は守るべきに決まっていたと言う時。
自分の母親はどちらかと言えばリベラルなのだと思っている私は、これを聞くと何かひどくびっくりしてしまう。
私たちは忘れすぎた
『東京プリズン』を書く途上でわかったのは、しかしこの論点のずらし方こそが、東京裁判で勝者によって意図的に行われたことだということだった。それは私にとって、びっくり以上のものがあった。
一体それはどういう法廷だったのか、そもそも「法廷」だったのか、という気持ちだ。
天皇が当時、国家と戦争の最高指導者であったことは誰にも疑えない。右翼であっても、いや右翼であればなお、疑えない。だとしたら、誰でも心情はともあれ論理面では、最高指導者に責任があるということはわかるはずだ。その責任が問われなかったら、他のすべても免責されることになる。
天皇を訴追しないことは実は、最初からGHQが決めていたことだった。そんなことは、言われるまでもなく知っていたよという読者も多いだろうが、私はこの日本で普通の教育を受けて大学まで行って、それを最近まで知らなかったから、日本人の中の下くらいのごく普通の知的レベルの人間として、そのことを隠さずにいたいし、とにかく、驚いたのだ。しかも日本側は当初そのことを知らない。
天皇を訴追しないことになったその理由は、私の母に言わせれば「マッカーサーが昭和天皇の人柄に心を打たれたから」なのであるが、そしてこれもかなり流布した言説なのだが、残念ながらちょっといい小咄の域を出ないだろうと思う。
そう、天皇制を温存したほうがアメリカにメリットがあったのである。
ちなみに、アメリカ人の正義の旗印とされた「真珠湾だまし討ちしたんだから日本が悪い、『リメンバー・パールハーバー』」だけれど、当のGHQが主宰した極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「だまし討ちではない」という判決が出ている。「だまし討ち」の論拠は、「宣戦布告から攻撃まで時間をおかなければならない」というハーグ条約の取り決めの中にある。だけれど、その条約に「どのくらい時間をおく」という記載がなく、「条約自体に構造欠陥がある」とみなされたため。
日本人は、覚えておかなければならないことも忘れすぎた。というより不問に付しすぎた。 
なぜ昭和天皇を裁けなかったのか 

 

北京オリンピックの夏
マスメディア、特にテレビが8月に季語兼良心の証のように言う「戦争」と「終戦」関連の話題がめっきり少なくなった分水嶺は、私見では北京オリンピックのあった2008年の夏だ。
それどころではなくなったというところなのだろう。
世界第2位の経済大国という戦後唯一とも言えるアイデンティティが、揺るがされ始めた、その象徴を、あの夏に日本人は見たのである。
だがしかし、不思議な話だ。中国に、今さら抜かれたわけじゃない。
古代からの大国、中国。中国文化こそを優れたものと昔の日本人は考えていた。
そして現在私たちが脅威に、あるいは恐怖視さえしている「理解不能の友人」中国共産党、それこそが、日本の戦後復興の「恩人」であった可能性が高い。なぜなら、中国が今の共産党でなく自由主義の中国国民党の政権であったなら、アメリカは戦後、中国と直接交渉をし、小島のような日本のことなど、さしたる興味も持たなかったはずである。
もともと、中国の利権をめぐっての交渉が決裂したのが日米開戦である。だとしたらメインの関心事は中国であって、それがなかったとしたら、アメリカは日本の一国占領にこだわらなかっただろうし(たぶん)、日本はアメリカとソ連の分割統治になったのが自然な成り行きではないだろうか。朝鮮半島のように。ドイツのように。そうしたら日本の今の姿はなかったはずだ。
ソ連があり中国共産党があったために、日本はアジアの要石となった。中国以外のアジアの国々で、冷戦の打撃を受けなかったのはほとんど日本だけで、それは、冷戦の一翼のほうに守られていたからだ。
北京オリンピックの2008年。世界的に見れば、それが戦争の疲弊とその後の冷戦構造に巻き込まれ翻弄され続けた国々が、ほんとうの意味で復興してくるタイミングだったかもしれない。世界的には、そのころやっと、「戦後は終わってきた」のかもしれない。
地球的規模のひとつの総力戦とその余波、半永久に続くかと思われる喪失や悲しみや憎しみやその連鎖、そういったものから人々が本当の意味で立ち上がって前を向けるためには、本来そのくらいの時間がかかるのかもしれない。
そしてそのころ日本は、「戦後」の終わりを終えつつあり、下降へ向かい始めた。それはアメリカも同じことだけれど、両者とも、本質的な手は打たなかった感じがする。アメリカは対テロ戦争に我を失っている間に、リーマン・ショックを浴びた。こう書いていると、北京オリンピックとリーマン・ショックが同じ年の一ヵ月ちがいであったことに、あらためて驚く。
昭和天皇という存在
2011年は、3月の時点ですでに、「戦後」の終わりがフラッシュバックしていて、「戦後」の終わりの終わりを感じさせていた。そう思えなくもない。むろん後から見ればの話だが。
東日本大震災の後の購買・花見などの「自粛の呼びかけ」は、私に、元号の変わり目、つまり昭和天皇の危篤から崩御とその後の「自粛」を思い出させた。
1989年は、ベルリンの壁崩壊(壁破壊と言った方が正しいんじゃないかと思うが)が成った年であり、いわば日本を庇護してきたあの冷戦の、ひとつの大きな象徴が消滅した年だった。同じ年に中国ではこの逆のような天安門事件が起き、日本のエンペラーが崩御した。エンペラーとは対外的な呼称だけれど、考えると変だ。彼は皇帝(エンペラー)ではないのだから。
ベルリンの壁崩壊とは、「こうもありえた日本の戦後」が終わろうとする姿だったかもしれない。分割統治は、本当にありえたのだから。が、日本人はそんなふうには考えなかった。ベルリンの壁など遠いことだった。日本はバブル景気のピークだった。
本当は、バブル景気の陰で、戦後はしめやかに終わり始めていたのかもしれない。「奇跡の復興劇」はもう、終わりかけていたのかもしれない。
奇跡の復興劇を支えたのは、そのいちばんの底の部分は、もしかしたらあの人の、生きて在ることだったのではないか。
ふとそんなことを口走りたくなるほど、昭和天皇というのは、よじれがそのまま一個の肉体となったような存在であった。
論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。そこに人々は、自分の罪が支えられて押しとどめられているのを、無言のうちに見ていたのではないか。
私の母は、軍国主義を信じていた子供の自分を嫌悪している、という意味のことをぽつりと言ったことがある。それと「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになった」と言う彼女は、同じ人であり、どこかが解離している。巨大な空白のようなものがある。
戦争を知る多くの人にその空白があったろう。傷とはまた別の、空白、断絶。
彼らの空白を、昭和天皇は引き受けていたのではないかと思うことがある。
あるいは、彼らが、天皇に仮託したのだ。
沈黙の理由
母は、東京裁判の文書を見たという話のとき、こう言い放った。
「BC級だから下っ端よ」
そのときは聞き流していた言葉に、別の側面があるかもしれないと思えたのは最近のことだ。
BC級の文書をもし仮に見たのであれば、それはむしろ、そちらのほうがつらいことだったかもしれない。なぜならBC級戦犯の文書とは、ごくふつうの日本人の行った非道な行為であり、そちらの方が残虐だった。
上の命令だったという人、「空気」に逆らえなかったという人、出世したかっただけの人、いじめられたくなかっただけの人、恐怖や不安に駆られた人……今の私たちともどこも変わらないようなふつうの人たち、どちらかと言えば小心で人を害するなど考えもつかなかったような人たちが、極限と閉塞のなかでどうなっていったかということがそこには克明に書かれている。その人たちに起こったのなら、今でもいつでも誰にでも、一定の条件で起こりうることとして。
これは、今母に確かめたところで、記憶も答えもないことだが。
そういう膨大な罪の記憶、恥の記憶、それと同時に被害の記憶、被害を被害と言えないつらさ、生き残った者の罪悪感、などなど、そういうよじれがあるとしたら、地を埋め尽くして足りないほどであるに違いない。
人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。
ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。
自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。
だから、黙った。
誰にも内面を覗かれないようにした。
そのとき、かの人の生身の肉体は、生き残った者たちの免罪符そのものとなり、同時に、無数とも言える生き恥を、代わってさらしてくれるものだったのではないだろうか?
私の両親は仲がよかったのに、お互いにそれぞれのことにかまけすぎた。接点のない日常に身を浸しすぎていた。それは、同じ秘密を持つ同士が、それを覗き込まずにいられるためのすべだったのではないかと思うことがある。
高度経済成長期にかけて確立された「専業システム」、つまり専業主婦に専業収入獲得者に専業子供、という日本の家族のあり方には、まずは戦争由来の秘密があったように思えてならない。誰もが、秘密を見られないようにするためには、人の秘密を見ていないし見る暇もないという行動様式を取る必要があったのではないか。
歴史なしに生きていけるのか
こう書いてみて、母娘の会話とその断線の中に、戦争と戦後のキーワードと、国内における通俗的パブリック・イメージのほとんどが知らず知らずに出てきていたのに驚いている。
「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり。
真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり。
その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。
それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。私は大学を出たけれど、それだけでは近現代史は何も知らない。それは教育の自殺行為でもあったのだけれど。
しかし、ひとつの国や民族が、これほどに歴史なしに生きていけるのだろうか?
私の国の戦後は、人間心理の無意識な実験のようである。
どれだけ歴史を忘れてやっていけるか。
その実験が、六十年以上経って、失敗とわかりはじめた。人間にはそんなことはできない。そうわかりはじめたけれども、その頃には「実験」の「仮定」に依存しすぎた仕組みをつくっていたし、忘れる努力をしたせいで、何が起きたか本当に知らない世代も大量に生まれ、わけがわからないままに神経症や鬱になった。
「実験」の中で成長した世代の痛みが、それを始めた世代にわかるだろうか?
副作用のほうが、主作用よりましなのだろうか?
彼らが痛みを語らなかったように、私たちの痛みと彼らをつなぐ言語も、これまでなかった。
母が私にした話の中に、ひとつ、面白い場所がある。千駄ケ谷のマッジ・ホールというところだ。これは、政権の座を明け渡した徳川家が明治に住んだ屋敷をGHQが接収したもので、あの大河ドラマで大人気になった天璋院篤姫が晩年を過ごした場所でもある。
つまりは、私たちは、何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホールがすでに、江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこに通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。
私たちの現在は、明治維新と第二次世界大戦後と、少なくとも二度、大きな断絶を経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしい。
私たちの立っている場所がそういうところであるということだけは、せめて、覚えて語り継ぐべきなのではないだろうか。
「語り継ぐ」とは、戦争体験の枕詞のように言われる言葉だ。
けれど、「語り継ぐ」べき最初の認識は、まずなんなのか?
「自分たちが、自分たち自身と切れている」ということではないのか。
心の防御メカニズム
「ねえママ、言っておきたいんだけど」と、2011年の8月15日、昼の日盛りに妙な衝動にかられて炎天下で母に電話する。
「『真珠湾はだまし討ちではない』という判決が、東京裁判で下りているのよ」「そうなの……?」
受話器の向こうで母は言う。その言葉に抑揚も個人的な感情表現もない。
しかし、私は卒然とさとる。
なぜ、気づいてやれなかったのだろう? あまりにつらいことだと、人はそれを他人事のように語る。自分のことと思ったら痛すぎるから。痛すぎて生きていけないから。
自分もいちばんつらいことは、そうしたじゃないか。
自分のことを他人事のように語ろうとすること、感じようとすること。それこそ、精神医学的に「解離」と呼ばれる心の防御メカニズムなのだ。
自分のなかに横たわる、自分との断絶、解離。
それは親たちのものでもあった。
親たちのそれを、気づいてやれなかった罪は私にもある。
夏の光は明るく残酷だ。
それにさらされて、電話で気取られないように、私は泣く。
「でも」
母は言う。「やっぱり真珠湾のことを言われたら、何も言えないわ」「だから……」
言い募っても無駄だと私はわかっている。
喉から漏れ出そうな声を殺す。ただ蝉たちだけが、耳を聾(ろう)するほどに。
8月15日。 
 
石川達三 1

 

(1905 - 1985) 日本の小説家。『蒼氓』により、芥川賞受賞者第1号となった。
秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に生まれる。父が秋田県立横手中学校の英語科教員だった。父の転職や転勤に伴って秋田市、東京府荏原郡大井町(現東京都品川区)、岡山県上房郡高梁町(現高梁市)・岡山市などで育つ。1914年、9歳で母を亡くす。1915年、父が再婚する。岡山県立高梁中学校3年から、転居に伴い私立関西中学校4年に編入し卒業、上京し第二早稲田高等学院在学中に『山陽新聞』に寄稿する。1927年早稲田大学文学部英文科に進み、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選する。大学を1年で中退した後、国民時論社に就職し、持ち込みを行うも上手くいかず退職する。
退職金を基に、1930年に移民の監督者として船でブラジルに渡り、数か月後に帰国する。国民時論社に復職して『新早稲田文学』の同人となり、小説を書く。その後、国民時論社を再度退職し、嘱託として働く。
ブラジルの農場での体験を元にした『蒼氓』で、1935年に第1回芥川龍之介賞を受賞する。1936年に結婚する。社会批判をテーマにした小説を書くが、1938年『生きてゐる兵隊』が新聞紙法に問われ発禁処分、禁固4か月執行猶予3年の判決を受ける。1942年には、海軍報道班員として東南アジアを取材する。
戦後の1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙に東京2区で、日本民党(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、立候補者133名のうち、定数12名の22位にあたる24,101票で落選。その後も社会派作家として活動し、『人間の壁』、『金環蝕』などを著した。
1969年、第17回菊池寛賞を受賞する。
要職として、日本ペンクラブ第7代会長(1975年 - 1977年)。日本芸術院会員。また、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、A・A作家会議東京大会会長を歴任した。
晩年は胃潰瘍から肺炎を併発し、1985年1月31日、東京共済病院で死去した。墓は九品仏浄真寺にある。
叔父の石川六郎はジャーナリストで、「国民新聞」編集部長、「東京朝日新聞」校閲部長をつとめた。長男に、NHK放送文化研究所を経て上智大学文学部教授となった石川旺がいる。
作風​
英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている。
石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉・宇野浩二・徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスとエミール・ゾラをあげている。松本清張と山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛・山本有三・島木健作のようないわゆる社会派作家に近い。
戦後になって評論家の岩上順一から問題作『生きている兵隊』について「反戦文学ではなく、侵略戦争の本質をおおい隠している」と批判され、石川は「日華事変の本質は理解できなかった」と認めた上で、戦場における戦争のみ小説に再現しようとしただけで、「どこの戦場にも侵略戦争の本質などはころがっていなかった」と居直っている。
逸話​
婦人参政権不要論を唱えたこともあり、長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタとして取り上げられた。主人公・いじわるばあさんが執筆活動を妨害するが、達三ではなく、間違えて松本清張の執筆を妨害するというオチであった。
日本ペンクラブ会長時代に、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議を醸し、五木寛之や野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれた。
趣味はゴルフ。丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。
昭和20年10月2日付の毎日新聞に、「闇黒時代は去れり」という文章を投稿し、「日本人に対し極度の不信と憎悪を感ず」「今の日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍よ一日も長く日本に君臨せられんことを請う」と書いた。当時これを読んだ山田風太郎は、その態度の豹変ぶりと議論の浅薄を憤慨し、日記に残している。
明治38年生まれが交流する「三八会」に参加していた。メンバーは石川の他に、伊藤整、中山正善、稲生平八(森永重役)、入江相政、玉川一郎、木村義雄、高木健夫、志村喬、福田久雄、福田蘭堂、藤原釜足、馬淵威雄、成瀬正勝、鹿島孝二ら。 
 
石川達三 2

 

石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。
氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。 この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。
氏は、兵隊たちへの取材を通して、南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。
「読売新聞」昭和21年5月9日
(見出し) 裁かれる残虐『南京事件』
(リード) 東京裁判の起訴状二項「殺人の罪」において国際検事団は南京事件をとりあげ日本軍の残虐行為を突いてゐる、 掠奪、暴行、殺、殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、 このころ南京攻略戦に従軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”ことを痛感しそのありのままを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きている兵隊』だ
しかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけた  いま国際裁判公判をまへに”南京事件”の持つ意味は大きく軍国主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に当時の思ひ出を語つてもらふ
(中見出し)河中へ死の行進 首を切つては突落とす
(本文)
兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、 胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―
"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、 大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した
戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、 三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか
ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ 『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた
何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ
(「読売新聞」昭和21年5月9日付 2面中上 リード4段、見出し3段)
部分は、2か所とも「殴殺」に見えるのですが、字が潰れていて自信が持てないため、とりあえずで表示しました。

さらに中公文庫版「生きている兵隊」巻末に半藤一利氏が寄せている文章から、石川氏自身がこの作品をどのように認識していたのか、ということを見ておきましょう。
半藤一利「『生きている兵隊』の時代 解説に代えて」より
「原稿は昭和十三年二月一日から書きはじめて、紀元節の未明に脱稿した。その十日間は文字通り夜の目も寝ずに、眼のさめている間は机に座りつづけて三百三十枚を書き終わった。・・・ 私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」(『生きている兵隊』初版自序より)
(中略)
石川は、(「ゆう」注 「新聞紙法違反」の)公判で堂々と自己の意見を開陳するのである。
「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、 戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。 殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」  (中公文庫版「生きている兵隊」P205〜P208)

2004.8.29 追記 / また、この記事に出てくる「片山某といふ従軍僧」の話が事実であることを示唆する資料として、次のものがあります。
島田克己「南京攻略戦と虐殺事件」より  (筆者は当時歩兵第三十三連隊機関銃中隊長)
南京攻略に従軍していた作家の石川達三氏は、帰ってから『生きている兵隊』を書いて、その中に、戦場における日本軍の残虐行為を扱った。
終戦後、彼は読売新聞の一頁を埋めて、殊更に南京残虐史として再びこれを強調した。戦争裁判が、中国関係戦犯の処刑をめぐって論議されている矢先であった。
小説にはちがいないが、こうなるとその及ぼすところは小さくない。作中明らかにそれとわかる登場人物の一人、当時の従軍僧はもちろん石川氏と逢ったことも、話したこともなかったのではあるが、 僧侶の身でありながら、彼の行った残虐行為は、まことに許さるべきものではなく、若しこの作品を楯に追及せられた場合には、どう弁明すべきかに苦慮した挙句、遂に因果を妻に含めて、 ひそかに覚悟を決めていたという話もある。
笑いごとではない。石川氏にしても、果して、そこまでの意図を持って書いたのかどうかは判らないが ― 。 (『特集人物往来』 1956年2月号 P111)

2007.11.18 追記 / 半藤氏が言及している「生きてゐる兵隊」初版序文、および昭和二十三年の「選集」に寄せた石川氏の一文を確認できましたので、紹介します。
石川達三「選集刊行に際して」より
私は南京の戦場に向ふとき、できるだけ将校や軍の首脳部には会ふまいといふ方針をもつて出発した。
そして予定通り下士官や兵のなかで寝とまりし、彼等の雑談や放言に耳を傾け、彼等の日常を細かく知つた。
将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ。 私は戦場の真実を見ようと考へて兵士の中にはいつた。

「将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ」の部分は、戦後における軍将校たちの「タテマエ証言」群を想起させ、興味深いものがあります。より詳しい引用は「石川達三『生きてゐる兵隊』 昭和二十三年版 序文」に掲載しました。
2011.10.1追記 / 石川氏は、『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号 「秘録 "あの大東亜戦争"」でも、インタビューの中で、「南京大虐殺」に言及しています。
『いままた戦争の足音が聞こえてくる? かつての従軍記者 石川達三氏は憂える』
石川特派員は、この南京で、異様な光景を目撃した。南京の街のまわりには、高い城壁がめぐらされていた。揚子江沿いに、ゆう江門という門があった。 その門に近い城壁に、兵隊のゲートルを二、三本つないだものが、幾条もたれ下がっていたのである。
いったい何のためだろう? 石川特派員は不審に思った。わけを聞き、始めて合点がいったが、同時に戦争というものにひそむ偶発性に、いもしれぬ恐怖を覚えた。 その幾条ものゲートルは、南京城内に閉じ込められた中国兵が、城外へ逃げるために伝って降りた命綱だったのである。
そのゲートルについて、石川特派員の取材した話というのは、こうだ。
日本軍が南京へ迫ったとき、中国軍のなかに、城外へ逃亡を企てる部隊が続出した。そこで中国軍は、一番逃げやすい揚子江沿いのゆう江門を、がっちり押えて締めきった。 ゲートルの命綱で逃げた兵隊もいたが、ほとんどの将兵は城内に閉じ込められた。日本軍が入城したのは、そんななかへだった。城内には、中国の敗残兵と非戦闘員が満ちあふれていた。(P26-P27)
「これも、日本軍としては、予想もしなかったことのようでした。中国軍の司令官は、いち早く姿をくらませている。軍の施設は徹底的に破壊され尽くしている。 むろん食糧も全くない。城内の何万人という中国人を、いったいどう扱えばいいのか。日本軍はホトホト困り果てた。 こういう予想もしなかった事態が、あの大虐殺という残忍な行為と、結びついていったのです。
アメリカが落とした原爆だって、向こうは開戦時から使うつもりではなかったろうし、いざ使う段になってからでも、広島にするか長崎にするか、あるいはもっと他の都市にするか、 結局、最後はその朝の日本の天候などで、落としやすい所へ落としている。
戦争というものは、そういう偶発事故の連続なのです。どこへころがっていくかわからない。これは恐ろしいことじゃありませんか」 (『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号)

ここでは、「大虐殺という残忍な行為」の存在が、話の当然の前提として語られています。石川氏が「大虐殺」の存在を疑問のない事実として受け入れていたことは、明らかでしょう。 この発言の前後を含むより長い引用は、こちらに掲載しました。
2015.1.4追記 / 石川達三は、1970年刊の著書『経験的小説論』でも、やはり「南京虐殺」に言及しています。
石川達三『経験的小説論』
敗戦後、東京裁判がひらかれたとき、米国側の検事団は「生きてゐる兵隊」を南京虐殺事件の証拠資料に使おうとした。
ジープが迎えに来て私を裁判所の検事調べ室へつれて行った。私は不愉快だった。彼等は「協力しなければ逮捕する」と言った。
南京虐殺事件の現場を見てはいない。しかし大体のことは知っていた。
事件そのものを否定することはできなかったが、私は当時の日本軍の立場を弁護した。つまり虐殺事件にも或る必然性があり、その半分の責任は支那軍にもあるという説明をした。
焦土抗戦主義もその一つ。敗残兵が庶民のなかにまぎれ込んだこともその一つ。捕虜を養うだけの物資が無かったこともその一つ。(P38)
・・・・・結局検事側は私から有力な証言は何ひとつ取ることができなかった。しかし裁判の結果、たしか中支派遣軍司令官は絞首刑になったようであった。私はやはり不愉快であった。敵側が裁くことに公正な裁判などは有り得ないと思っていた。(P39)

こちらで興味深いのは、石川が「虐殺」の事実は明確に認識しつつも、日本軍をある程度擁護する立場をとり、また「東京裁判」に対して批判的な考えを示していることです。
冒頭の読売新聞インタビューでは「裁判」の「意義」に言及していますが、むしろこちらの方が石川の「ホンネ」なのかもしれません。
※同書のうち「生きてゐる兵隊」関連部分を、こちらに掲載しました。執筆の動機、自分なりの作品の位置づけなどが詳細に語られており、関心のある方にはぜひ一読をお勧めします。なお、この読売新聞記事に対比する形でよく持ち出される、阿羅健一氏の石川氏に対するインタビューも紹介します。
「「南京事件」日本人48人の証言」より
昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。 インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」 (P312)

上の記述ではなぜか阿羅氏の「質問」が省略されていますが、「じゅん刊 世界と日本」の記事で、その応答を確認することができます。
「聞き書き 昭和十二年十二月南京 「南京大虐殺」説の周辺」より
お会いしたいと思って連絡をとったが、会えることは出来なかった。代わりに次のような返事をいただいた。簡単だが質問と返答の形で記す。
−いつ南京にいらっしゃったのですか?
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です」
−その時、どのような虐殺を御覧になりました?
「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」
−いわゆる南京大虐殺をどう思いますか?
「何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」 (「じゅん刊 世界と日本」No444 P14)

石川氏はなぜか、「読売新聞」記事に見られるような「兵隊」の「無軌道の行動」について一切語っていません。
1970年に「事件そのものを否定することはできなかった」と発言している人物が、その後「今も信じてはおりません」とまで認識を変えるのは、いかにも不自然です。
どのような状況で「質問と返答」が行われたかは明記がなく不明ですが(往復はがき?)、「否定」の側面を強調させようとする「誘導」が働いた可能性は否定できません。 質問と回答がやや噛み合っていないことも気になります。
また「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害した状態でのやりとりであり、石川氏がどこまで十分な認識の下に語ったのか、疑問が残ります。
いずれにしても、「生きてゐる兵隊」、読売新聞記事、その他関連発言を見ると、石川氏が、「二十万」なり「三十万」なりの規模はともかく、上海戦−南京戦において 「いくら何でも無茶」な規模の「兵隊」の「無軌道の行動」、そして「虐殺」の事実を認識していたことは、間違いのないところでしょう。  
 
社会派作家の栄光 「石川達三」 3

 

「蒼氓」は第一回芥川賞受賞作である。忘れがたい文壇史的モニュメントといえる。
以来、石川達三は時代の集約を描きつづけてきた。「生きている兵隊」 では日中戦争を、「日蔭の村」 では都市の浸食による農村の崩壊を、「風にそよぐ葦」 では戦時下の知識人の運命を、「望みなきにあらず」 では戦後の風俗を、「人間の壁」 では戦後教育を、というように石川達三は昭和史の全時代を次々と小説化していった。彼の作品の魅力といえるものだろう。
石川達三を語る場合、彼の作品のなかにある犬嫌いを述べてみるのがいいようである。「犬には性格的な表裏があり、陰日向がある。つまり狡猾な計算がある。猫や牛には決してない性格だ。ところが犬好きな飼主たちは、犬くらい可愛いのもはないという。飼い主に対する犬の媚態が好きなのだ。媚を売られて良い気持ちになっている飼主たちまでも、私は軽蔑したくなる」 (流れゆく日々)この犬の話は、どうも石川その人を端的に表現した例であり、一言でいえば、石川の合理主義というものだろう。自分に対して、他者に対しての節度ということも意味する。これは、この作家の基本的な態度といっていい。また、酒についてもおごられたらおごり返す、甘えもしないし、甘えさせもしないといった犬の話にも通じる石川の酒は「合理酒」といわれた。
犬嫌い、時間厳守、合理酒といった石川の姿勢は、昭和50年6月、日本ペンクラブ会長に就任したときの記者会見で語ったいわゆる「二つの自由論」にも出ている。これを「言論の自由は一つ」 という立場をとる野坂昭如、五木寛之らのクラブ内改革派が問題にして、一年余りにわたる論争になった。「言論の自由は二つあると思う。一歩も譲れない自由と、譲ってもいい自由だ。譲ってもいい自由とは、例えばポルノだ」 といった要旨で石川は語ったが、この論争中、石川は「生きるための自由」というエッセイを書き下ろした。論旨の是非はともかくとして、その執念と自信は迫力十分だった。この件は、「ペンとしては言論の自由はあくまでも守るが、個人の見解は自由」 という結論が出た。だが、52年4月のペンクラブ総会で、再びこの問題を改革派の一人が質問したとき、「譲ることのできる自由と譲ることのできない自由があるというのは、私の思想である」 と言い切った。
時代は流れつつある。この精悍な正義派の活力あふれる作品は一世を風靡してきたが、少なからず絶版になる作品が増えてきている。残されるものだけが必ずしもいい作品といえないのかもしれないが、彼の思想は忘却されつつある。
明治38年7月2日生まれ、昭和60年没、享年80歳 
 
石川達三『経験的小説論』

 

「日蔭の村」が「新潮」に発表されたのが十二年の八月上旬で、中旬には上海で戦争がはじまり、日本中に動員令が発せられた。このときから二十年八月までのまる八年間が、戦争の期間であった。
同時にその八年間は、日本に於ける文学の危機でもあった。戦争とともに左翼運動に対する圧迫は強化され、特高警察は勢いを得て活発となり、その上に憲兵隊までが思想警察の役割りを受持つようになった。
後には情報局、陸海軍報道部も事前検閲をやるようになり、印刷用紙の統制とともに言論出版の自由はほとんど圧殺された。
この間に在って、醜態を晒したのは新聞社の在り方であった。大資本企業の形態をもった日本の大新聞は、正確な報道の義務も正当な批判の責任も、また言論自由の原則をも、すべてかなぐり捨てて政府軍部の求めるがままに、醜い走狗となり果てた。(P31-P32)
人民に対して新聞の使命を守ることよりも、新聞社自体が何とかして生き残るために、娼婦のように無貞操な姿を見せたものであった。軍部のスポークスマンは新聞社を両手の中に握り、軍部の思うがままの宣伝記事を新聞に掲載せしめた。
その虚飾にみちた報道記事を拒否する記者があれば、たちまち彼は配置転換を要求せられ、最も甚だしきに至っては召集令を発して彼を外地部隊に配属させた。大新聞社の幹部たちはこうした軍部の横暴に心ならずも追随し、まことに軽薄な軍部の自己宣伝的な戦争情報を掲載しつづけたものであった。
私の憤りは先ずここから来たものだった。「皇軍は至るところで神の如く」 「占領地の住民は手製の日章旗を振って日本軍を迎え・・・云々」という記事が、どの新聞にも一様に掲載されていた。私はその虚偽の報道に耐えがたいいら立たしさを感じていた。
中央公論社の記者にむかって、私の方から、特派記者となって従軍したいという希望をもち出したのは、新聞記事とはまるで違った本当の戦争の姿を見、それを正確に日本の民衆に伝えたいという気持からであった。そして戦争に取材した小説を書くことを雑誌社と約束した。
作家の態度として、その事自体にも問題は有ったに違いない。作家というものは、たまたま自分が体験したことに感動して、これを小説に苦くというのが本筋であって、意識して感動を外にもとめ、その為にわざと体験するために出かけて行くというのは、あまりに職業的であり、不純である……という見方もあるに違いない。(P32-P33)
私はその不純を敢てした。非難はあるかも知れない。しかし作家の体験は坐して偶然の到来を待つようなものばかりであっていいとは思わない。みずから積極的に体験を求めて行動する、ということも行なわれていいと思う。
ただ私の場合には、新聞の虚偽の報道に腹を立てて、戦争のむき出しのなまの姿を日本の民衆に伝えたいという意慾をもっていた。これは作家的行動であるよりも報道記者的な行為であったと言い得るであろう。そこまでは私は記者的であった。それから先、つまり作品を書く段階に於ていかに私が小説家であり得るか。……そこに一つの賭けがあった。(P33)

従軍は全くの単独であった。陸軍報道部によって指定された十二月の某日、私は神戸から軍用貨物船に乗った。そこで三重県の部隊から来た五人の将校に会った。(短篇「五人の補充将校」は彼等との接触によって書いたものであった。)
彼等に会ったことが私にとっては幸いであった。披等の行先は占領直後の南京であった。彼等はそこで戦死した小隊長中隊長の後任者となるはずであった。
上海から蘇州、常熟、無錫と、彼等と行を共にして、結局は南京市政府に駐屯中の三重県出身の部隊に行き、そこに仮の宿りの場所を与えられた。正月の四日か五日頃であった。
途中、汽車の窓から、人馬の屍体が霜に掩われている姿を到るところに見、人気なき戦場の荒廃の姿に心打たれた。
首都南京は難民区をのぞいては、無人の都市であった。
私は二十日ばかりの滞在のあいだに、部隊長に挨拶したのは二度くらいで、あとはただ下士官と兵との間に寝泊りし、彼等と共に街をさまよい、酒を飲み、戦いのあとを見て歩き、上海以来の彼等の戦歴を聞くことに終始した。(P33-P34)
それは最初からの私の計画であった。将校が語る戦争のはなしには修飾があり、自己弁護があり、理屈があるに違いない。私が知りたいのは嘘もかくしも無い、不道徳と残虐と凶暴さと恐怖とに満ちた戦争の裸の姿である。それを探り出すためには下級の下士官兵と接触しなくてはならないと思っていた。
私はひとりの快活な下士官と満洲出身の通訳の胃年との部屋に同居し、朝から夜まで、文字通り寝食を共にした。
私の取材の方法がそういう具合であったから、従って私の作品には下士官兵という最も行動的な、当然もっとも凶暴な登場人物が出てくることになった。軍の上層部から見た戦争ではなくて、最下層の人間から見た戦争の姿になった。そして是こそはそれまで内地の新聞にはほとんど一行も書かれていない戦争の真実であると私は思った(P34)。

私が一番知りたかったのは戦略、戦術などということではなくて、戦場に於ける個人の姿だった。戦争という極限状態のなかで、人間というものがどうなっているか。平時に於ける人間の道徳や智慧や正義感、エゴイズムや愛や恐怖心が、戦場ではどんな姿になって生きているか。……それを知らなくては戦争も戦場も解るわけはない。
殺人という極限の非行が公然と行なわれ、それが奨励される世界とはどのようなものであるか。その中で個人はどんな姿をして、どんな心になってそれに耐えているか。これを書くことはやはり作家の仕事だった。作家以外の者にできる事ではない。
私の従軍という行動は新聞記者的であったかも知れないが、私の書くものは新聞記者とは別のものになるはずだった。私の書こうとするものは個々の人間であって、戦争は彼等の背景であり、舞台であるに過ぎなかった。(P34-P35)
人間・・・私が狙っているものは人間以外のものではなかった。そして言うまでもなく、小説とは人間の物語である。
カロッサの「ルーマニヤ日記」やトルストイの「セバストーポリ」があれほど美しいのは、彼等がただ戦場を遠景に置いて人間を書いているからであり、アナトオル・フランスの「神々が渇く」があれほど美しいのは、彼が革命を背景に置いて人間を書いているからに他ならない。
人間はその置かれた場所によって変貌する。どのように変貌するか。その変り方はその人の個性による。変貌する姿にその人の個性がもっともよく現われて来る。紳士が凶悪漢にかわり、卑怯者が勇者になる。
紙の上にあらわれてくるあぶり出しの文字を見るように、私は息を詰めて彼等の変貌を見つめる。それこそ作家にとって何物にも替えがたいほどの魅力をもったもの、人間のドラマである。(P35)

一月末に帰国。約束の雑誌のしめ切りは迫っていた。二月一日から執筆にとりかかって、二月十一日、紀元節の正午ごろまで、ちょうど十一日間に三百三十数枚の作品を書き上げた。一日平均三十枚。これは私にとっては人力の限りを尽したようなものだった。眼のさめているあいだは机を離れなかった。
題名は「生きてゐる兵隊」とした。この小説も前作「日蔭の村」とありじように、戦闘の経過、その期日、部隊の大きさ、地理的条件等々、作者が勝手に変更することのできない固定的な杭がいたるところにあった。したがって記銀的要素もかなりはいっていた。
しかし私は「日蔭の村」の執筆の途中で感じたような迷い、単なる記録を書いているに過ぎないのではないかという疑惑は、一度も感じなかった。(P35-P36)
その相違の原因は登場人物にあった。「日蔭の村」の場合には生起した事件が主役になっていた。登場人物についての研究が不足していた。村長とは二時間ほど対座しただけであり、その他の人物には会ったこともなかった。私は事件の重要さに曳きずられていて、人物の在り方についての考慮が足りなかった。その欠陥が執筆の途中になって出て来たのだった。
しかし「生きてゐる兵隊」の場合には、若い将校たちのモデルとは軍用船の中で一週間も朝夕に顔を合わせ、彼等の人となりも戦争観もみな知っていた。兵や下士官のモデルとは南京市政府滞在の二十日間、毎日の寝食を共にして充分に知り尽していた。
したがって戦争という巨大な背景がありながら、登場人物の動きを見失うようなことはなかった。つまり彼等の人物を作品の中に(創造)することができた。
フローベル流の言い方をすれば、「生きてゐる兵隊」の中に出て来る若い将校や兵士は、(私)だった。私の作った人物であり、月評家流の言葉で言えば、(臍の緒)がつながっていた。そしてこれらの人物を私のものにしてしまうことが、一番辛い、一番たのしい作業だった。
私は作品を書きすすめて行きながら、これらの人物に愛着を感じた。実在のモデルよりも登場人物の方により深い愛情をもっていたようであった。つまり彼等は私の中で生きていた。
この作品は発表と同時に発売禁止の処分をうけ、次いで刑事罰が科せられた。しかしそんな事は小さな派生的な事件にすぎなかった。要するにその後の七年間は出版が許されなかったというだけのことで、敗戦と同時に私の権利はすべて回復された。
国家権力は強大であるが、その権力が行使される期間にはおのずから限度がある。その時の国家権力よりも私の作品の方がずっと長い命をもっていた。(P36-P37)

私は小説を書く前に、何を目的に書くかということを考えずにいられない。何のために書くのか。何が言いたいのか。書くことの社会的な意義がはっきりしなくては、作品に着手できない。これは私の癖である。作家としては邪道であるかも知れない。目的がはっきりし、書くことの意義を強く感じたときに、私の意慾は燃えあがる。
その意義なるものは、勝手気ままで、終始一貫している訳ではない。戦争中には自由のために書こうとしたり、戦後になってからはあまりに野放図になった自由への反省を求めるために書こうとしたりした。
時代の流れが私を刺戟し、刺戟に反応して私は創作意慾をおこす。したがって私の書こうとする事はしばしば、時代の風潮にさからって行こうとするようなことになる。抵抗の文学と言えば立派にきこえるが、要するにいささか臍曲りである。
「生きてゐる兵隊」で筆禍を受けたのはむしろ私の宿命的なつまずきであった。しかし私は後悔はしなかった。処罰を受けても、やはり私にとっては書かなくてはならない作品であったし、書いたことに満足感があった。
エミール・ゾラにとってドレフュス事件は、書かなくてはならない宿命的な作品であっただろうし、その為に英国に亡命するようなことになっても、後悔はなかっただろうと思う。私はゾラという作家にいろいろと共鳴するものを感じていた。
「蒼氓」は、その作品を書くために南米まで行ったのではなかった。若気の至りとでもいうような、あやふやな気持で移民集団のなかに加わり、その結果として是非ともこの体験を書きたいと思った。(P37-P38)
「生きてゐる兵隊」ははじめから作品を書くのが目的であり、その為の取材としての従軍であった。順序は逆であるが、結果的には同じようなものになった。
神戸から軍用船に乗ったその時から私は第三者ではなくて、戦争と軍隊組織のなかに曳きずり込まれていた。それから後の体験は、取材であると同時に生活の一部でもあった。(書くために体験する)という行為は、純粋な意味では作家としての邪道であるかも知れないが、内地に居て資料だけを集めて戦争小説を書くようなやり方に比べれば、数等誠実な方法であるとも考えられる。
ともあれ、私自身が戦場をじかに自分の眼で見て来たということは、(従軍はその後二回もつづいたが……)戦後の作品、たとえば「風にそよぐ葦」などを書く場合の、知識や感覚の一つの基盤になっていただろうと思う。(P38)

敗戦後、東京裁判がひらかれたとき、米国側の検事団は「生きてゐる兵隊」を南京虐殺事件の証拠資料に使おうとした。ジープが迎えに来て私を裁判所の検事調べ室へつれて行った。私は不愉快だった。彼等は「協力しなければ逮捕する」と言った。
南京虐殺事件の現場を見てはいない。しかし大体のことは知っていた。事件そのものを否定することはできなかったが、私は当時の日本軍の立場を弁護した。つまり虐殺事件にも或る必然性があり、その半分の責任は支那軍にもあるという説明をした。焦土抗戦主義もその一つ。敗残兵が庶民のなかにまぎれ込んだこともその一つ。捕虜を養うだけの物資が無かったこともその一つ。(P38)
・・・・・結局検事側は私から有力な証言は何ひとつ取ることができなかった。しかし裁判の結果、たしか中支派遣軍司令官は絞首刑になったようであった。私はやはり不愉快であった。敵側が裁くことに公正な裁判などは有り得ないと思っていた。(P39)  
 
文学と歴史のあいだに ―石川達三『風にそよぐ葦』論― 川上勉

 

はじめに
石川達三は、第一回の芥川賞受賞作品である『蒼氓』以来社会的問題を取りあげ、いつのまにか社会派作家と呼ばれてきた1)。そのことは、たとえば山崎豊子との対談「社会小説を生み出す秘密」でも話題になっている。
山崎 わたくし『白い巨塔』以来、だれがおつけになったのか、“ おんな石川 ” ということで。(中略)社会小説を書くと先生の名がつくんですから、先生は社会小説の教祖じゃないんですか。
石川 まさか。明治時代からいろいろ社会小説はあるでしょうけどね2)。
石川達三は「社会小説の教祖」とまで祭り上げられているのだが、この対話では、「社会小説」という表現は、いわば既定の事実のように用いられていて、それがどのような小説であるのかについて説明するたぐいの発言はなにもない。それもその筈で、ほとんど初対面の挨拶ていどの対談に、小説の一つのジャンルに関わる説明を求めるのは無理な話であろう。
二人の対談は、「社会小説を生み出す秘密」に関しても、次のようにつづく。
山崎 『蒼氓』のときから、わりかた社会小説が多うございますね。それは意識して?
石川 意識してって、やっぱり自分で興味があるんですな。
山崎 わたくしも “空が青い ”という一つのことを三十枚に書くより、小説のなかに問題をみつけて、それに取組んで、書きたいと思うことを書きたい。そうでないと、あんまり情熱がわかないほうなんです。
石川 それ、人間のタチじゃないかな。そういうものに情熱を感じて意欲を燃やす人と、燃えない人とね。タチだろうと思うんですな。私小説がいい悪いというよりも、小説に熱情をもつ人と、もたない人とある。それもタチでしょうね。(強調点引用者。以下断りがない限り同じ)
石川達三は、社会小説を書くかどうかを決めるものは「人間のタチ」だと言う3)。作家の体質に関わる問題にしているわけだが、実際には、作家の文学観や世界観の問題もあるし、彼が生まれ育った文学的環境の問題も関係しているはずである。いずれにしても、わが国の文学で伝統的に主流をなすのは私小説の系統であって、社会的問題を題材にした小説は、どちらかといえば傍系に属するものとして扱われてきた。そうした事情から、この対話では、あえて社会小説の教祖などという話が持ち出されたのであろう。
だが、石川達三を単純に社会派作家とだけ呼ぶことはできないのも確かである。戦前・戦後を通じて、彼の数多くの作品は、ごく簡略化して言えば、『蒼氓』以来の社会的諸問題を扱った小説とは別に、昭和十三年に書かれた『結婚の生態』につらなる、夫婦の関係や親子の関係など人間関係をテーマにした小説群が存在する。石川達三に比較的女性の読者が多いのも、夫婦関係や女性の生き方を扱った系統の作品があるからにちがいない。
このような二つの側面については、これまでにもいくつかの指摘がある4)。たとえば、久保田正文は『若者たちの悲歌(エレジイ)』解説(新潮文庫)のなかで次のように書いている。少し長い引用になるが、石川文学をまとめて俯瞰していると思われるのでそのまま紹介しておく。
石川達三氏の小説を概観すると、おのずから二つのタイプの作品が、対照的にうかびあがってくる。そのひとつは、『蒼氓』『日陰の村』『生きている兵隊』など初期作品から、戦後の『風にそよぐ葦』『最後の共和国』『傷だらけの山河』『金環蝕』などに至る作品群である。この系統の作品において作者は社会的、政治的、経済的な問題をスケール大きくとらえて客観的に追究してゆく。社会派作家という呼びかたが冠せられるゆえんである。もうひとつのタイプは、『心猿』『結婚の生態』『転落の詩集』などにはじまって、『幸福の限界』『泥にまみれて』『悪の愉しさ』『自分の穴の中で』『四十八歳の抵抗』『悪女の手記』『骨肉の倫理』『頭の中の歪み』『僕たちの失敗』『洒落た関係』『充たされた世界』『その愛は損か得か』などに至るテーマの作品群である。これらの作品において作者は、個人のモラルの根源としての性の存在を追究しつつ、家族、夫婦、家、恋愛、結婚、青春、老年などの問題へ向って思考を展開している。このジャンルの作品を、風俗小説として位置づけるかんがえかたがあって、故なしとしないが、それはしかし単に人情・世態・風俗を客観的に写すという形での古典的なリアリズム小説の域にとどまるものではない。むしろそれは一種の観念小説あるいは思想小説というべきものである5)。
二つのタイプに属する作品がそれぞれかなり例示されているけれども、本稿の筆者は、石川達三の代表的な社会小説はなんといっても『人間の壁』であると考えているので、この小説が挙げられていないのは納得できない。それはともかく、二つのタイプに分類する方法は、久保田が辿り着いた注目すべき結論であるように思われる6)。
本稿で取りあげる『風にそよぐ葦』は、典型的な社会小説と言えるものである。主人公の葦沢悠平は出版社社長で、硬骨の自由主義者として描かれている。小説で扱われている時代は昭和十六年から二十二年までであるが、戦中は軍部や特高警察による厳しい弾圧を、戦後は組合の活動家からの激しい攻撃を受ける。時代の強風に煽られる葦は、葦沢悠平ひとりではないし、一つの出版社だけにとどまらない。言論界、出版界に関係する多くの人々が検挙され、投獄される。今日では全くのでっち上げ事件として知られている横浜事件に何人かの社員が巻き込まれ、葦沢悠平が死守してきた伝統ある雑誌もついに廃刊へと追い込まれる。容易に『中央公論』とその社長嶋中雄作を想定させるこの物語は7)、いつのまにかフィクションと歴史的事実のあいだへと読者を誘い、虚構のなかに緊迫した現実を再構築してみせる。
ところで、自己の体験をもとにした文学論とも言うべき『経験的小説論』のなかで石川達三は、『風にそよぐ葦』に触れながら、「この小説はある綜合雑誌の社長とその家族を中心に置いて、いわゆる国家の非常時が国民にあたえた惨害の姿をえがき、殊に良心的な知識人や自由人がどれほど理不尽な失意を経験しなくてはならなかったか……それを当時の事実と綴り合せながら書いたものであった」と述べている8)。「当時の事実と綴り合せながら」小説を書くという方法は、フィクションと歴史的事実とが矛盾することなく、フィクション自体があたかも実際に生起したかのように描くことによって、よりいっそう現実の真相に迫ることである。フィクションに、背景としての歴史的事実が綯い交ぜとなって、その時代の深層部がよりいっそう鮮やかに剔抉される、ここに社会小説の果たすべき役割があるだろう。『風にそよぐ葦』は、文学と歴史のあいだに成立している、石川達三の代表的な社会小説なのである。本稿は、『風にそよぐ葦』の社会小説としての特徴を明らかにすることを目的としている。
第一章 自由主義者の肖像
小説の冒頭はこのように始まる。
外務省の正門の、大きな鉄格子がとりはずされてあった。正午ちかい烈日の照りかえるなかで、七、八人の人夫が汗を流しながら、その扉とびらをトラックの上に押しあげようとして騒いでいた。ひろびろと殺風景になった門柱のあいだを通って清原節雄は街に出た。正午に東京會舘で葦沢と会う予定である。(中略)野村大使とハル国務長官との間でこの春から続けられてきた日米会談は、いま完全に停頓(ていとん)している。三国同盟と大陸からの撤兵問題とで暗礁に乗りあげ、二進(につち)も三進(さつち)も行かなくなってしまった。そのときになって日本の外務省が門扉(もんぴ)を取りはずしたのだ。何か不吉な予感がある9)。
太平洋戦争が勃発する三ヶ月前の昭和十六年九月初め、八月三十日に公布された「金属類回収令」にもとづいて、外務省の重厚な鉄製の扉が回収されている光景である。日米開戦をなんとか回避しようとする外交交渉が軍部の横やりによって完全に阻害され、外務省の政策が陸軍の強硬方針によって屈服させられようとしていることを、この光景は象徴的に表現している。こうして、「何か不吉な予感」は三ヶ月後に現実となり、作中人物の多くが塗炭の苦しみと悲しみを味わうことになる長い物語の幕が切って落とされる。外務省から出てきた外交評論家の清原節雄は 10)、この後も小説の重要な場面で物語の先導役を演じることになるが、彼がこれから会おうとしているのは、新評論社長の葦沢悠平で、彼らは三十年来の友人である。
作者が「貴族的な自由主義者」と呼んでいるこの物語の主人公葦沢悠平は、陸軍情報局からの呼び出しを受けて出頭するとき、「黒の上着に縞ズボンという古風なすっきりとした身なりで、蝶ネクタイを結び、飾りのない籐(とう)のステッキを持っていた。ゆるぎのない身だしなみのなかに揺ぎのない精神を包んでいると言った風である」と描写されている。これがいかに人目を惹く身なりだったかについては説明が必要かもしれない。ここでも作者はそれとなく「当時の事実と綴り合せ」て筆を進めているからである。政府は昭和十五年十一月二日に「大日本帝国国民服令」なる指令を公布しており、一般国民に国民服の着用を義務づけ、背広を禁じていたのである。それゆえ、背広の上着に縞のズボンをはき、おまけに蝶ネクタイを結んだ葦沢悠平のいでたちは明らかに統制違反なのであり、なによりも軍部や政府に対する反抗的態度を見せびらかすものにほかならない。これが新評論社長葦沢悠平のぎりぎりのレジスタンスであり、自由主義者たらんとする「揺ぎのない精神」を誇示する意志なのである。石川達三は、自分の創り出した作中人物について、みずから懇切な解説を加えることの好きな作家であるが、『作中人物』のなかで次のように書いている。
彼[葦沢悠平]は名誉欲や物欲では動かない。しかし自分自身のために仕事をする。みずからほこり高い心をもち、自分に恥ずかしいような事には耐え切れないという清潔な人格である。そしてあの戦中から戦後にかけて、悠平のような少数のすぐれた自由主義者が、どんなにひどい眼にあい、それをどんなに立派に耐えていたか。……私はこの小説でそれを書きたかった。同時に、そのような時代の責任と、そのような時代を造りみちびいた者の責任とを、追及したかったのだ 11)。
石川達三がどのような意図をもって葦沢悠平という人物を形象しようとしたかが、簡潔明瞭に表現されている。ところで、ここで言われている「時代の責任」や、「そのような時代を造りみちびいた者の責任」を追及しようとした意思こそ、まさしく社会小説と言われるものの内容をよく表している。葦沢悠平という人物を描くだけではなく、「同時に」、時代の責任を追及すること、ここに石川文学の最大の特徴があると言うことができる。
しかし、「揺ぎのない精神」も時間の経過とともにしだいに追いつめられていく。その経緯は、『新評論』という個別の雑誌の枠を超えてわが国の出版界全体への圧迫となり、葦沢悠平というひとりの自由主義者だけではなくて言論人全体を圧殺するものとなることを示している。それは、次章で見る「横浜事件」によって明らかとなる。
葦沢悠平が最初に陸軍情報局第二部から呼び出しを受けるのは昭和十六年十月二十日、対応したのは悪名高い佐々木少佐である 12)。少佐はいきなり「事務的な命令口調」で言明する。
「君の雑誌は今後、毎月十日までに全部の編集企画を持って来て見せること。よろしいな。提出されなかった編集企画は一切掲載をゆるさないことにするから、承知して置きたまえ。用件はそれだけだ」
有無を言わさぬ一方的な命令であり、雑誌の編集方針に対する軍部の直接的な介入である。これに対して葦沢悠平は、この段階ではまだ精神的なゆとりがあり、冷笑を込めた皮肉をもって対応したのだった 13)。そして、社に戻った葦沢社長は、社員一同を集めて決意を表明する。情報局では一兵卒のようにあしらわれた社長だが、ここでは日本の言論界を代表するかのような堂々たる演説を披露する。
「私の考えでは、今こそ国民の最も自由なる良心が必要な時だと思う。本当に深い愛国心、静かな、美しい、好戦的ではない愛国心が必要なんだ。自由な心から発した、自由な力と自由な信念。命令されたものではなく、自由に養われて来た愛国心でなくてはならないんだ。私は、自由主義こそ日本を救うものだと考えている。」
自由と真の愛国心とを強調したこの葦沢社長の精神は、まだ冷静さも抵抗姿勢も失ってはいない。
だが、日米開戦直後の十二月十三日には「新聞事業令」が、十九日には「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布されて、自由な言論はますます制限され、出版物の発行停止処分が、当局によっていとも簡単に行なわれることになる。
次に情報局から呼び出しを受けるのは、六つの綜合雑誌の社長と編集長の十二名である。このときも担当官は佐々木少佐であった。葦沢社長たちは、情報局から押しつけられる「編集方針」なるものをただ黙々と受け入れるしかなかった。配られた紙片には六つの項目が書かれており、そこにはたとえば、「自由主義その他の左翼思想は一切掲載しないこと」とか「政府軍部の発表するものには濫りに批判しないこと」といった命令が含まれていた。わずかに七分間で終わった、一方的な会見のあとの葦沢社長の様子を、「彼は顔の皺(しわ)ひとつ動かしはしなかった。この貴族的な自由主義者は、最も強い忍耐力をもっていた」と、作者は書いている。戦時下で、軍部や警察に睨まれながら雑誌を発行しつづけることは、ひたすら忍耐と妥協を必要としたのである。
昭和十八年になると、「横浜事件」によって新評論社からも逮捕者が出ることになる。この事件については次章で項をあらためて触れることにする。
追いつめられた葦沢悠平は、昭和十九年正月号に予定されている目次を眺めながら、自らの姿勢について深刻に思い悩んでいる。
―もしも自分が、当局の弾圧をおそれて一時しのぎの妥協をしたとすれば、自分は已むを得ざる妥協であると言いわけをしても、世間の眼から見れば時局便乗の雑誌をつくる無節操な男であると見られるに違いない。(中略)言論にたずさわる者が節操をすてて軍部や検閲官の前に頭を下げるくらいならば、筆を折って沈黙をまもるべし。然らざれば命を賭して言論を守るべし。二つに一つだ。そういう厳しい道をまもってこそ、言論に権威はあり言論家に栄誉があたえられるのではないか。
懊悩はなおも続く。
新評論が節操をまもることは新評論を潰すことである。雑誌はつぶしたくない。この唯一の牙城(がじよう)を失うことこそ、最後の敗北だ。たとい少々の妥協はしたにしても、新評論の存在は専横なる軍部と軍国的政府とにとって、厳然たる一敵国である。何どきでも、雑誌の命を賭して世論に訴え得る一つの機会だけは保留しているのだ。雑誌をやめてしまえば、それまでだ。それこそ最後の敗北である。
だが、いくら抵抗の姿勢を示そうとしても、軍部や政府の弾圧には太刀打ちできない。自由主義の葦は軍国主義の暴風に薙ぎ倒されるしかない。そしてついに、昭和十九年七月十日、新評論社長と改造社長とに情報局第二部長からの出頭命令があり、二つの雑誌に対して自発的廃業の指令が下る。明治以来の長い伝統をほこる『新評論』はついに廃刊に追い込まれたのだった。それは「最後の敗北」には違いないが、しかし作者が強調しようとしたのは、軍部や政府の意向に迎合せず、自らの立場を貫き通そうとした葦沢悠平の姿勢であり、最後まで自由主義を堅持しようとするその意志の強靱さなのであり、敗北してもなお守ろうとする矜恃である。作者はそれを自由主義者の「誇るべき運命」と呼ぶ。
自由主義者たちはいつの時代にも強権に抵抗し、いつの時代にも弾圧に打つ勝つことができなかった。それが彼等の悲しむべき運命であり、また誇るべき運命でもあった。おそらく国家というものがこの地上に存在するかぎり、彼等は永遠に抵抗しつづけるに違いない。
さまざまな圧力にもかかわらず、何とか死守してきた雑誌が廃刊のやむなきにいたった葦沢社長は、昭和二十年五月、空襲の激しくなった東京を避けて信州へ疎開し、その地で敗戦を迎える。そして、再び東京で営業を開始した自由主義者葦沢悠平は、こんどは戦後の新しい社会に活動の場を見出すことになる。ところが、彼を待ち受けていたものは、新評論社内に結成された労働組合との対決の場であった。「永遠に抵抗しつづける」自由主義者は、戦後急速に盛り上がった左翼運動と対立するという嘆くべき運命に陥ってしまう。戦後の葦沢社長とその雑誌については、章をあらためて論じることにしたい。
第二章 小説のなかの「横浜事件」14)
外交評論家清原節雄は、前章で見たように、激動の昭和時代を描く物語の導入部を飾ったのであるが、戦中の言論弾圧事件のなかでも極めて重大なものの一つである横浜事件についても、小説のなかに導入するきっかけをつくっている。すなわち、昭和十八年五月に、新評論の編集者たちとの懇親会の席で、清原は次のように切り出している。
「それはそうと、細川嘉六はまだつかまっているのかね」と清原が言った。(中略)前の年の夏、細川嘉六は雑誌『改造』に「世界史の動向と日本」と題する論文を寄稿した。それが筆禍を招いて、十七年の秋に彼は検挙されたのだった。もう五十をいくつか過ぎた老人だった。
同じように言論活動に携わる者として、清原は細川嘉六の検挙に無関心ではいられなかったのである。
作者はここで、横浜事件の発端となる河田充市夫妻の拘引や 15)世界経済調査会関係者の取り調べ、さらには富山県泊町の旅館で撮られた記念写真のことなどを書いて、横浜事件の一端を説明しているのだが、しかし、新評論の社員たちは、そうした神奈川県警特高の動向を知るよしもなく、この段階では自分たちとは全く無関係なものとして話題にしているだけである。実際には横浜事件は、「当時の事実と綴り合せ」て取りあげるどころか、日本現代史のなかの重大事件そのものであったのだ。
いわゆる横浜事件については、戦後になって昭和二十年十月九日付の『朝日新聞』に「泊事件」と「昭和塾事件」として報道され、はじめてその全容の一部が暴露されたのであって、終戦にいたるまで、これほど大がかりで理不尽な弾圧事件がくり広げられていたことを日本国民は全く知らなかったのである。それゆえ、昭和二十四年の時点で、石川達三が自分の小説のなかに重要なテーマとして書き込んだのは異例の早さであり、それだけ彼がこの事件に特別の強い関心を抱いていたことを示している 16)。
いったいなぜ横浜事件なのか。この小説や作者にとって、横浜事件はどのような意味を持っているのか。その理由と思われるものを最初にまとめておく。
第一に、戦時中の思想・言論弾圧事件として、これほど残虐かつ大がかりなでっち上げ事件は他にはない。なおかつ、その実態は戦後にいたるまで全く国民の知るところではなかった。作者は、この事件の真相をいち早く突きとめ、読者の前に明らかにしなければならないと考えたに違いない。
第二に、伝統的な自由主義的雑誌である『新評論』の編集者のなかから数名の逮捕者を出し、そのことが、雑誌そのものが廃刊へと追い込まれていく直接的な原因の一つとなっていることを示そうとしている。
第三に、この事件は、『新評論』という個別の雑誌の枠を超えて、わが国の出版界全体への弾圧となり、また、葦沢悠平というひとりの自由主義者だけではなく言論人全体を圧殺するものとなったことを訴えようとしている。
第四に、戦時中の思想・言論弾圧は、陸軍や内務官僚などの中央の諸組織だけではなく、地方の特高警察も協力した共同的暴挙であると同時に、それぞれの組織が「功名」を争って苛酷さを増幅させたことを物語っている。
こうして、小説のなかの横浜事件は、あくまでも自由主義者としての姿勢を崩さない葦沢悠平社長と、言論の自由を守りつづけようとしたその雑誌に対する厳しい弾圧の典型的な事件として描かれている。言うまでもなく、横浜事件の真相を歴史的に解明すること自体が小説の目的ではない。石川は「“ 風にそよぐ葦 ” と現実」と題する座談会のなかで、「横浜事件などでも、ぼくはもっともっと詳しいデータを一応調べている。しかしあれ以上に入って行くとバランスがくずれて行く」と述べているが 17)、たしかに現実の横浜事件は簡単に全容が語り尽くせるものではない。以下、小説のなかの横浜事件の記述を追ってみる。
新評論関係で最初に逮捕者が出たのは近藤という編集記者である。朝早く三人の刑事が自宅へやってきて、横浜警察へ連行されたのだった。編集長の岡部熊雄は横浜警察と聞いて、警戒する。「世界経済調査会の河田充市が検挙されたのは横浜だった。松田安彦も高浜義男も横浜だった。満鉄の平林太郎や西島民雄が連れて行かれたのも横浜だ。行った者は今日まで一人として帰ったという話を聞かない。二、三日まえに岩波書店の編集者が一人連れて行かれたという噂うわさも聞いている。」東京に会社がある新評論の社員がなぜ神奈川県警に検挙されるのか理解しがたい謎であるが、ここではまだ、だれもこれが大がかりな弾圧事件だとは思っていない 18)。
だが、昭和十九年になると、新評論はもっと直接的で致命的な打撃を受ける。編集長の岡部をはじめ数名の編集スタッフが神奈川県警に拘引されたのである。葦沢社長は急遽横浜に向かい、特高課長に面会を申し入れるが、冷淡に追い返される。葦沢悠平はいまや窮地に立たされたことを知る。
彼は手足をもぎ取られたような気がした。編集部の中心になって働いてくれる社員たちはみな捕まってしまった。「新評論」はいよいよ最後の窮地に追いこまれたようである。検閲とも戦った。思想上の弾圧とも戦った。用紙問題、雑誌の廃刊合併問題、そのときどきに最善の努力をつづけて、ともかくも一つの言論機関をまもり通して来たのだった。しかし編集記者数名を一度に拘引されるということは予想していなかった。事態は急迫して来たのだ。
これまでは、情報局第二課をはじめとする軍部の圧力と闘ってきた。それは雑誌の内容や執筆者や用紙制限などの問題であった。しかし、こんどは雑誌の製作スタッフそのものが神奈川県警にもって行かれたのである。地方の特高とは、予期しない新しい強敵であった。横浜事件の最大の特徴は逮捕者に対するすさまじいばかりの拷問と同時に、芋づる式になんの関係もない者までも勝手な理屈をつけて逮捕していった、その人数の多さである。まず世界経済調査会関係者、ついで細川嘉六をはじめとする「泊の宴会」関係者、さらに細川が関係した昭和塾のメンバー、そして、昭和塾の会員との関係で中央公論社、改造社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社員など総数四十九名が全員横浜に拘留されて、凄惨な拷問を受けたのだった。これによって、日本の主要な綜合雑誌はねらい撃ちされ、甚大な被害を受けた。「十九年一月末のこの大検挙によって、東京の綜合雑誌各社の編集部はほとんど壊滅的な打撃を受けた。日本に於ける言論の自由はわずかに神奈川県の一特高警察の力によって見事に蹂躙された」のである。
作者は、神奈川県警の拷問がいかに凄惨を極めたかを表現するために、五人の拘留者の「手記」を載せている。しかし、「手記」の前後に作者はなんの説明も加えていないので、読者はどう見ても唐突な印象を受けてしまう。逮捕されたときの模様や、想像を絶するような殺人的な拷問の様子などが綴られているこれらの手記は、実際に横浜の留置所で行なわれた事実を記述したものであり、歴史の真実にほかならない。だが、「手記」 の記述の仕方は、どう判断しても戦後になって書かれたものであって、その当時留置所のなかで記したものとは思われない 19)。そもそも、留置所で書かれた手記だとしたら、それが万一発見されたとなると、とても生きていられるかどうかわからないほどの拷問を受けることになるだろう。
言うまでもなく、フィクションとしての小説においては、戦後に書かれたものであってもそれ以前に存在したものとして扱うことは自由である。創作では、時間的なずれは自由なのである。つまり、文学は歴史の制約を突き破ろうとする。小説のなかで時制を逆転させるのは、あたかもそれが現実に生起しているかのように臨場感を増幅させるためである。だから作者は、この物語において、拷問のすさまじさを強調するために当事者の「手記」という方法を採り入れたと思われるが、歴史の真実は未来を過去に移動させることはできない。結局、文学の真実は歴史の真実に優先することはできないのである。
小説における横浜事件のクライマックスは、葦沢社長が証人として神奈川県警に呼び出され、訊問される場面である。入院していた葦沢悠平は、社員たちのために病躯を押して、東京と横浜を五日間自動車で往復する。彼が追及されたのは、さきに逮捕された社員たちに対する証言というよりは、もっぱら『新評論』が共産主義の宣伝の役割を果たしたとか、編集部員に共産主義者がいることを認めろといった言いがかりであった。彼は朝から晩まで責めつづけられ、ひとりの刑事からは、「貴様のような国賊は叩き殺したってかまわねえんだ。この危急存亡の戦時をなんと思ってやがる。貴様は共産党の第五列だろう」といった脅し文句を浴びせられて、顔に痰を吐きかけられる。こうした連日の長時間にわたる取り調べと屈辱に耐え、かろうじて逮捕監禁だけはまぬがれる。
ここにいたって葦沢社長は新評論社の解散を決意する。一方、政府と軍部は、「知識人の巣窟」としての雑誌を解散させる方針を固め、昭和十九年七月十日、葦沢社長は改造社長とともに情報局第二部長から呼び出しを受け、雑誌の廃刊勧告を突きつけられたのである。
横浜事件の惨劇はまだ続く。昭和十九年末、被疑者たちは横浜市内の各警察留置場から郊外の笹下(ささげ)にある未決の拘置所に集められた。それまでの拷問で痛めつけられて衰弱しきっていた和田嘉太郎は凍死し、淺石晴世も喀血による窒息死を迎えてしまう。作者は二人の死者に本名を使っているが、二人とも中央公論社の社員であった。現実の横浜事件では、検挙者四十九名のうち獄中死が四名、出獄直後の死者二名という犠牲者を出している。
石川達三は、このような前代未聞の弾圧事件の苛酷さについて、ひとりのユダヤ人兵士を無実の罪から救うために国論を二分するほどの議論が沸騰したフランスと、数名の死者まで出しながら国民の全く知らないうちに無実の事件がでっち上げられた日本を対比しながら、「まさにドレフュス事件に数倍する人権蹂躙(じゆうりん)の歴史が、しかも一切の報道を禁止せられていたために一億の国民の殆ど誰もが知らなかった。総理大臣も内務大臣も司法大臣も、そして帝国議会に議席を有する八百五十人の議員たちも、誰ひとりこの事実を糾弾しようとはしなかった」と、怒りを込めて表現している。
残虐を極めた横浜事件の結末は喜劇的ですらあった 20)。終戦から五日目、予審判事はあたふたと裁判形式を整えるために予審調書を作成し、一刻も早く公判を終えようとした。裁判長も機械的に「被告」全員に対して懲役二年、執行猶予三年の判決を言い渡して、「被告たち」を釈放したのである。ただひとり、法廷で争う姿勢を示した細川嘉六だけは、理由不明のまま、判決もなしに釈放されたのだった。
第三章 戦後社会のなかの自由主義者
戦争末期に東京を離れて疎開していた葦沢悠平は、終戦の日から四日後に、清原節雄からの長い手紙を受けとる。この手紙の文面が、言ってみればのんびりと終戦を迎えた葦沢を叱咤し、もう一度仕事への意欲を掻き立てたのである。清原は、終戦の東京の様子や、予想されるマッカーサーの占領のことなどを簡潔に書き記しながら、次のように悠平を激励している。ここでも清原の存在が、戦後を迎えた時点での物語の展開に極めて重要な役割を果たしていることがわかる。ついでに言えば、清原節雄は清沢洌をモデルにしているが、その清沢は周知のように昭和二十年五月に病死していて、八月には生存していない。しかし、戦後社会で再起しようとしている葦沢悠平にとって、清原節雄は欠くことのできない存在だったのであり、彼を八月以前に亡くすことは、この物語の成立そのものに関わる重要な問題なのである。
ともかく此の敗戦は、きっと日本の革新に役立つだろうし、また役立てなくてはならないと思う。革新すべき事は無数にある。君はそろそろ上京の準備をすべきだ。言論の使命の重大なること、今日にまさる時はない。新評論は一日も早く復活する必要がある。(中略)日本人は戦争の終った喜びと同時に、将来に対して巨大な絶望を感じていると思う。何の対策も持ってはいないのだ。この絶望せる者に新しい希望をあたえ、将来への対策を示すことは言論機関の重大な使命だ。
言論の重大な使命をくり返し強調しているこの書簡は、伝統ある出版社の社長葦沢悠平にとってわが意を得たりといった刺激的なものであったに違いない。敗戦という事態にどのように対処したらいいかまだ方針が定まっていない悠平にとって、清原のことばは強力な後押しだった。ただ欲を言えば、「絶望せる者に新しい希望をあたえ、将来への対策を示す」という呼びかけは、本来ならば雑誌社の社長自身が真っ先に日本の言論界に対してなすべきものだったように思われる。人から叱咤激励されて腰を挙げるような場合ではないはずなのだ。
だが、この前後の葦沢悠平の描き方には注目すべき一つの特徴が見られる。敗戦直後の日本の大混乱を目撃した悠平には、将来への抱負というよりも、目下の道徳の低下に批判の目が向けられていく。敗戦の社会に投げ出された軍人たちの退廃ぶりや窃盗行為、一般市民の火事場泥棒のような非道徳性について、彼の厳しい非難の目は、道徳低下の原因を執拗に追求することに集中している。
道義の低下。―戦争末期から問題にされていたことだ。低下の原因はどこにあるのか。勿論(もちろん)人民が衣食に窮したということも大きな原因ではあるが、自由主義の否定、全体主義の鼓吹、言論の断圧、強権の独裁、警察と憲兵とによる一種の恐怖政治、それらが寄ってたかって個人の道徳性をたたきこわしてしまったのではなかろうか。道義の低下は、独裁政府が人民のなかに培つちかったものであったに違いない。そのような強権の独裁に抵抗し、最後まで屈服しなかったもののみが、彼の道徳を正しく支えてくることが出来たのだ。
目を覆うばかりの道義の低下、そのよって来たる原因はどこにあるのか。敗戦を迎えてあらためてそのことを考えるとき、軍部の独裁と強権による国民支配に対してわずかに抵抗し得たものだけが道義の退廃に対しても抵抗することができるというのである。日本国民が戦中の軍部独裁政治によって蒙った精神的、道徳的被害の大きさを指摘しているこの文章は、葦沢悠平が戦中に受けた計り知れない抑圧と苦渋からすれば、その意味はよく理解できる。しかしながら、問題はそのさきにある。終戦後に、休刊していた雑誌を再刊するにあたって最も必要だと考えられるのは、新しい時代に相応しい、日本の新たな進路を展望するような視座を提供することができるかどうかではないだろうか。それこそ、「この絶望せる者に新しい希望をあたえ、将来への対策を示すこと」にほかならない。その点で、葦沢社長の口からはついに戦後社会での雑誌の再出発に相応しい方針が聞かれることはなかったのである。戦中の厳しい弾圧には耐えることはできても、戦後の時代にあって先頭を切って進むことができない自由主義者の限界であった 21)。
昭和十九年七月以来一年半にわたって休刊を余儀なくされていた『新評論』は、昭和二十一年一月に再刊の運びとなる。葦沢社長にとっては待望の、新しい時代の雑誌の幕開きだったはずである。しかしながら、彼の心には、新しい企画にもとづく雑誌を、装いも新たに世に送る悦びといったものは見られない。彼にとって昭和二十一年正月は、「寒さだけが、新しい年をむかえるしるしだった。」
雑誌再刊の悦びも束の間、戦後新たに組織された社員大会によって、葦沢社長は退陣要求を突きつけられる。戦時中に軍部と妥協し、「日本の帝国主義戦争を合理化したる言論を掲載刊行したる事の責任を糾弾」するという、予期せざる理由によるものだった。葦沢社長はこの要求に対抗して、出版社そのものを閉鎖しようと決意し、社員を集めて演説する 22)。
「戦争中、軍部の強圧によって、いくらかの妥協を余儀なくされた、あのことだけでも私は終生の恨事であると思う。いまふたたび、諸君の要求に屈して、歪められた雑誌を出すぐらいならば、いさぎよく事業をなげうって、文化指導の立場にある私の責任を、果さなければならんと思う。」
葦沢社長は、要するに、自分の意に沿わない雑誌は出すつもりはないと言っているのである。戦時中にあれほど雑誌を発行しつづけることに執念を燃やしてきた葦沢社長が、「いさぎよく事業をなげうつ」ことはいったい「文化指導の立場」の責任を果たすことになるのか。どうやら戦後の時代を扱う作者の筆はいささか綿密さを欠いているように思われる。
葦沢社長は、社員の要求に屈して雑誌を発行することは「歪められた雑誌を出す」ことになると思い込んでいる。彼はもはや自分の社員を信頼することができない。なぜなら、「右に傾いていた世のなかが急に左にかたむきはじめると、止まるところを知らず、世間の常識も良識も、あるいは英知も、感情も、みんなこの斜面から振り落されてしまって、ただ一つ、不思議に上滑りした革命主義だけが青年たちの心を煽(あおり)立てている」と考えるからだ。
たしかに、社員たちがまとめて提出した要求には過激で無分別なものがあるとも言えよう。しかし、そこには社内の民主化要求や、物価の異常な高騰による生活要求も含まれている。そうした諸要求に対して冷静に判断を下すのも社長の役割であるだろう。なによりも重要なのは、終戦直後の、政治的にも経済的にも思想的にも混沌とした日本社会にあって、有力な綜合雑誌が果たすべき役割は、明確な方針の下にこの社会の言論をリードするという姿勢を示すことである。だが、葦沢社長にはそれは不可能であった。なぜなら、次の一節に読み取れるように、彼は一種の強迫観念に捕われているようにさえ見えるからである。
戦争中は憲兵につけ覘われ、戦後は共産党につけ覘われ、一生つけ覘われて生きて行かねばならないのかと思うと、生きてゆくことが味気なかった。以前には、日本とアメリカとの戦争が、彼を迫害した。今度は、地球を両分した二つの世界の戦いが、彼を迫害する。迫害する嵐は、弱まるどころか、むしろ一層痛烈に、激烈になって来つつあるのではなかろうか。……そう考えて見れば、この地球上に、五尺のからだを安らかに置くべき場所は、もうなくなってしまったような気もするのであった。
昭和二十一年はじめの段階で、アメリカとソ連との冷戦が個人の思想や生き方を「迫害する」という指摘は、歴史的時期からいっても内容から見ても疑問を抱かせるが 23)、それにしても「共産党につけ覘われ」るとか、「二つの世界の戦いが、彼を迫害する」といった表現はよほど政治情勢に怯えている精神状態を示しているとしか言いようがない 24)。
結局、昭和二十一年五月号から十月号まで休刊となった『新評論』は、十一月号から復刊される。社員たちによる自主編集がうまくいかず、労働組合の結束も崩れて、再び葦沢社長の出番が巡ってきたのだった。半年間の休刊という設定はあくまで作者の創作であるが 25)、作者は休刊という、雑誌の死命を制するような非常手段を講じることによって、いったいなにを物語ろうとしたのか。だが、作者は淡々として、わずかにこう書くだけである。
結局、社長は解決策らしい事は何もせずに、争議に勝ったかたちであった。勝ったというよりは、それが自然のいきおいであったのだ。「新評論」は十一月号から再刊された。悠平が堅持してきた自由主義の精神は、ついに左翼攻勢をしりぞけることができた。
どうやら作者の狙いは、葦沢悠平の自由主義は、戦前の軍国主義の時代にも、戦後の左翼攻勢の時代にも、つねに変わらぬ姿勢を保持し、自ら信ずるところを守り通したことを強調することにあったと思われる。このような自由主義について、小熊英二はこう分析している。「彼らの「自由主義」は、体系的な思想というよりも、一種の生活感覚であった。思想は転向できるが、生活感覚は容易に変えられない。そして彼らは、自分たちの生活と、「自由」を、左右の政治勢力から防衛するという意味では、たしかに「自由主義者」だったといえる。」26)
物語は急転して、ようやく十一月号を再刊し得た直後に、葦沢社長は、公職追放令の追加適用によってその職から強権的に追われることになる。こうなると、自由主義もなにもない。彼は闘う意欲すら失ってしまうのである。「国家主義的な戦時政府の弾圧に対しては、悠平は最後まで闘うはげしい意識をもっていた。しかしいま、民主政治を 標榜(ひょうぼう)する政府によって追放を命令されるに至って、彼は闘志を失ったのだった。」このような葦沢悠平の姿は、戦後社会で、自由主義の意味そのものが曖昧になっていかざるを得ないことを象徴している。
石川達三は、『風にそよぐ葦』を書き終えたあと、「解決なき結末」という後記を『毎日新聞』に寄せている。そのなかで、「平和と言い、自由といい、ことごとく是れ過去の夢ではないか。私はむしろ、自分自身をも含めた、自由主義者というものをすら疑わざるを得ないような気がする」と述べて 27)、自由主義者の存在そのものへの懐疑を呈している。岩田恵子はこの点に関わって、「戦争中も言論統制に対して社会正義をもって頑なに発言していた悠平が、社会全体の解決も個人としての解決をも導くことができなかったことの根源には、問題から逃避している作者の姿が窺える」と、極めて厳しい指摘をしている 28)。岩田の言う「社会全体の解決」とは具体的にどのような解決を含意しているのか不明であるが、「解決なき結末」の責任が、作者の時代を捉える姿勢にあったことは間違いない。言いかえれば、「当時の事実と綴り合せながら」書くという方法は、戦後の時代においては、事実と齟齬をきたしているということになる。
社会小説は、現実社会を客観的、批判的に描きながら、一つの物語を構成することによって、より深い次元で現実社会の意味を捉えようとするものと言えようが、背景としての歴史的事実を綴り合わせる視点や姿勢に乱れが生じると、小説の成立そのものが崩れる危険性を包含している。
終章  新憲法発布の日に
誰もが指摘するように、この長編小説は、基本的に二人の主人公によって構成されている。葦沢悠平と葦沢(児玉)榕子である。榕子は、悠平にとっては長男泰介の妻であり、舅と嫁の関係であるが、泰介が死亡したあと榕子は実家の児玉家へ戻ってしまうので、二人はそれぞれ独自の生活を送ることになる。つまりこの小説は、葦沢悠平の物語と児玉榕子の物語の、相対的に独自な物語の展開によって成立している。悠平は中央公論社の嶋中雄作をモデルにしていると言われていて、小説のなかでも史実に近い部分が多いのに対し、榕子の生き方は全くの創作ということになる。新聞小説としては読者を楽しませるための創作的要素が必要であり、実際、連載中の読者の反応は榕子の生き方に関するものに注文が多かったことを前掲座談会「“ 風にそよぐ葦 ” と現実」は語っている。いずれにしても、この小説は、歴史的事実を踏まえたドキュメンタリーとしての部分と、戦争未亡人である若い女性の生き方を描くフィクションとしての部分とが二つの構成要素を成しているのである。そうしてみれば、小説の最後の場面で、悠平のもとで仕事を手伝うことになった榕子とのあいだに交わされる対話が、物語の締めくくりとして調和的完結の意味を帯びていることになる。
「あの頃が、一番、仕合せでしたわ」あの頃……古いことだった。その、消え去った古い生活を探そうとでもするように、悠平は仰向いて星空を眺めた。
「あの頃」とは、榕子が葦沢家に嫁いできてから、良人泰介が召集されるまでのわずかな時間を指しているのであろう 29)。昭和二十二年五月三日新憲法施行の日をもって閉じているこの小説では、前途に一縷の希望が見えるとはいえ、まだ戦後の混乱期を抜け出してはいない。人々は依然として食糧難と生活苦に喘いでいたのである。
拙論は石川達三の社会小説としての特徴を検討することを目的としたので、榕子の物語についてはほとんど踏み込んではいないが、最後に一言触れておけば、榕子もまた葦沢悠平と同じように時代の暴風にさらされた一本の葦として描かれていると言えよう 30)。最初の良人葦沢泰介は軍隊生活で上官から受けた暴力がもとで病死し、再婚した相手の宇留木武雄は仕事で満州に派遣され、終戦後シベリアに抑留されたままいつ帰還するかわからない。彼女は病気の母と幼い子供を抱えて、宇留木の留守宅を守って困苦の毎日を送っている。ここでも作者は、彼女が戦中は良人を軍隊に奪われ、戦後は二番目の良人をソビエトによって奪われていることを示そうとしている。自由主義者葦沢悠平が戦時中は軍部や警察の弾圧に痛めつけられ、戦後は左翼運動に苦しめられたのと同じように、榕子もまた戦時中は無謀な軍隊の暴力のせいで最初の良人を亡くし、戦後はソビエト社会主義国によるシベリア抑留という理不尽な措置によって不安な生活を強いられる。小説構造の二重奏音である。それにしても、新憲法が施行され、戦後日本の再出発が誓われた記念すべき日に、戦時中の昭和十六年を指して「あの頃が、一番、仕合せでした」と主人公に言わせているのは、度の過ぎた皮肉としか言いようがない。
1) 『蒼氓』以来、石川達三の文学はわが国伝統の「純文学」とは異質なものと見なされ、それが彼の特徴だと評価されてきた。すでに芥川賞の選評で、委員の一人久米正雄は「構成もがっちりしているし、単に体験の面白さとか、素材の珍しさで読ませるのではなく、作家としての腰が据わっている」と述べているし、佐藤春夫も「素材の面白さの上に作者の構成的な手腕のうまさも認めなければなるまい」と書き、山本有三も「構想も立派だし、しっかりもしている」と書いて、各委員とも構成の巧みさを評価しているが、それを「社会小説」とまでは指摘していない。同時代の作家高見順も「心理の靄のなかに迷い込んだ純文学に見られぬ、逞しく大胆に明快に闊歩する行動の健康美、常識の健康美を感じた」(『私の小説勉強』昭和十四年)と書いて、純文学とは異質な「常識の健康美」が見られると言っている。
2) 『山崎豊子全集』第六巻付録、新潮社、2006。また、巌谷大四は、石川達三を追悼する文章のなかでこんなエピソードを紹介している。「昭和四十四年、社会派小説への積年の努力ということで菊池寛賞を受けた時、<私はいつも、これを書いて何になるかと思うことからはじめる。それがはっきりしてないと興味がわかない。思想というようなものではなくて、そういう発想をするタチなのだ。血液みたいなものだ。>と受賞の感想を述べている」。(「石川達三氏を悼む」、『朝日新聞』1985 年 2 月 1 日)
3) 石川達三は、自分のことや、自己の文学のことをさまざまに語っているが、たとえば「自己の文学を語る」のなかで、「私は何も自分の作品を社会の実用に供しようとは思わないが、何の為に書き、何の為に読むのか、それを考えずには居られない。現実の、眼の前にある社会の、不正や危険や誤謬を、そのままに放ったらかして居て、文章だけをどんなに飾ってみたところで、そんな文学はひま潰しに読むだけでいいだろうという気がする」(『解釈と鑑賞』昭和 51 年8 月号)と書いているのも、「人間のタチ」のことであろう。
4) 小倉一彦は、最晩年の石川達三とのインタビューをまとめた著作のなかで、「二つの系統」と呼び、「調べて書く小説」と「頭で書く小説」という言い方をしている。(『石川達三ノート』、秋田書房、1985)
5) 久保田正文『若者たちの悲エレジイ歌』新潮文庫解説、新潮社、1987
6) なお、久保田正文は、1979 年に刊行された『新・石川達三論』で、『風にそよぐ葦』などの長編を『蒼氓』の系列につながるものとしたうえで、こう書いている。「戦後になってからきわだってくるもうひとつのジャンルが存在することは誰の目にも明らかである。青春とは、恋愛とは、男性ならびに女性とは、結婚とは、夫婦とはなにか。つまり、人間とは、人生とはなにかということである。いかに生きるべきかの問題である。そういう、目のくらむような、巨大に本質的なテーマに、もっともちからをこめてとりくんでいるのがこの作者の戦後の一貫した仕事のようにみえる。」(同書 ,234 頁)この段階ではまだ二つのタイプ分けは、その時期や内容の点で明確ではなかったことがわかる。
7) 古来、フィクションとしての小説における登場人物と現実のモデルの問題は、さまざまに扱われ、論じられてきた。『風にそよぐ葦』の場合も、実在のモデルのことがいろいろ語られている。筆者は、小説論においては、書かれていることだけがすべてであって、モデル問題は一切関係しないという立場をとっているので、本論においてもモデルについては極力言及を避けたいと思っている。それゆえ、たとえば「『風にそよぐ葦』のモデルについて」を書いた黒田秀俊が、「由来、モデルの詮索のごときは、おおむね作品の評価とはなんのかかわりもない無用な閑文字の遊戯にすぎないのがつねである」としながら、「現代史的意義をもつこの小説にあっては、モデルのしめる価値もまた、他の作品の場合とはちがった性質をもつ」と述べ、さらに「軍閥独裁のもとにひきおこされた無謀な戦争と、それにつづく敗戦の混乱のなかで、作品に浮彫りされたさまざまな個性が、実在としていかに生きたかの真実を書きとめたかった」(『血ぬられた言論』所収、学風書院、昭和 26 年)と述べているのは、本人の意図がどのようなものであれ、小説論としては趣味の域を出ないものと言わざるをえない。
8) 石川達三『経験的小説論』(『石川達三作品集』第 25 巻、新潮社、1974)
9) 『石川達三作品集』第 6 巻、新潮社、1973。以下『風にそよぐ葦』からの引用は同書による。
10) 清原節雄は清沢洌をモデルにしたと言われているが、彼の『暗黒日記』中に、石川が、『中央公論』の廃刊に関連して書いた「言論を活発に、明るい批判に民意の高揚」(『毎日新聞』昭和 19 年 7 月 14 日)を紹介して、「これは現在、いい得る最大限の表現である」と、高く評価している。(『暗黒日記』、ちくま文庫、2002)実際石川達三は、有力な雑誌を廃刊に追いこんだ官憲の無謀な弾圧に対して、「いふまでもなく言論の統制は必要である。しかし統制とは抑圧ではない。統制とはある方角を与へてその方面に向って活発化することでなくてはならない。今日、言論統制はその方法を誤り、もしくは厳に失して言論抑圧の傾向を生じてはいないか。思想対策または防諜対策が厳しきに過ぎて、正しき目的をもつ言論までもその言葉尻を捕へられ、そのいひ廻しを責められて正当な発表を抑圧されている傾向はないであらうか」(『暗黒日記』ちくま文庫による)と書いて、当時としてはおそらく可能な限りの強い抵抗を示している。
11) 石川達三『作中人物』、文化出版局、1970。この著作は、もともと雑誌『ミセス』に 1967 年から 2 年間連載されたものである。
12) 佐々木少佐は鈴木庫三をモデルにしたと言われている。鈴木庫三については、その日記を詳細に分析・紹介した佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004)参照。佐藤は、実在した鈴木庫三と佐々木少佐の違いについて種々指摘しているが、言うまでもなく佐々木少佐は石川達三が創作し、形象化したフィクションの作中人物であり、しかも、戦時中に軍部によって行なわれた言論弾圧を、いわば象徴する存在として描いたものである。それゆえ、佐藤が「驚くべきことに、これほど多くの批判が繰り返された人物に関する個別研究は今日に至るまで存在しないのである。しかも鈴木の単行本七冊、一五〇本以上の雑誌論文をまじめに読もうとした形跡すらない。そのため、鈴木少佐のイメージは小説の「佐々木少佐」や映画の「倉村少佐」をモデルとして好き勝手に造形されていった」と書いていることは、むしろ作者にとっては名誉なことであり、作家としての冥利に尽きると言うべきかもしれない。
13) 傲慢な佐々木少佐のことばや態度に対して、葦沢社長はこう描写されている。「彼[佐々木少佐]は、一兵卒に命令すると同じ態度をもって葦沢社長に編集上の命令をあたえながら、何の恥ずかしさも感じていないのであった。それを見ると悠平は、胸のなかに皮肉な言葉が湧わきあがってきて、思わず頬の肉がゆるんだ。」
14) 横浜事件については、体験者による著書、畑中繁雄『覚書昭和出版弾圧小史』(図書出版社、1965)、美作太郎・藤田親昌・渡辺潔『言論の敗北―横浜事件の真相―』(三一新書、1959)、木村亨『横浜事件木村亨全発言』(インパクス出版会、2002)、その他黒田秀俊『血ぬられた言論』(学風書院、1951)、松浦総三『戦時下の言論統制』(白河書院、1975)など参照。また、戦後に行なわれた四次にわたる再審請求については、横浜事件・再審裁判 = 記録 / 資料刊行会『全記録横浜事件・再審裁判』(高文研、2011)に詳しい。
15) 河田充市夫妻は、昭和十七年九月十一日に神奈川県警によって逮捕された川田寿、定子夫妻であることは容易に想像がつく。しかし、注 7)で述べたとおり、モデル問題については触れないことにする。
16) 石川達三は前掲『経験的小説論』のなかで、「これは[『風にそよぐ葦』のこと]戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐であった。私としては書くべき義務を感じた作品である。その義務は、あるいは単なる私の腹はらい癒せであったかも知れないが、是非とも書こうという激しい情熱だけは感じていた」と書いて、並々ならぬ執筆の意欲を語っている。
17) 「” 風にそよぐ葦 ” と現実」(『中央公論』文芸特集、1951 年 7 月号)。この座談会は大宅壮一が司会をつとめ、出席者は石川達三のほか、芦田均、三宅晴雄、宮本三郎であった。
18) 黒田秀俊は前掲『血ぬられた言論』のなかで、「このころは[昭和十八年の上半期]、軍閥も官僚も、まだ中央公論社をつぶそうと考えていたわけではなく、自由主義的伝統を精算して、全面的に軍閥に奉仕するような態勢に切替わるならば、むしろ大いに利用価値はあるとみとめていたのである。だから、木村、淺石、和田君などの検挙はあったが、そのこと自体は全然問題にはならなかった」と書いている。三人の同僚が検挙されても、「そのこと自体は全然問題にならなかった」というのは、今日から考えれば信じられない表現であるが、その当時としては、検挙は日常茶飯事であり、驚くにはあたらないことだったと理解する以外にはない。小説のなかでも、近藤の逮捕は特別の事態としては描かれてはいないのである。
19) 青山 鉞二「いわゆる『横浜事件』」(『人民評論』昭和 23 年 9 月号)は、終戦後横浜事件の関係者が神奈川県特高課員に対して人権蹂躙で告訴した公述手記の一部を紹介している。それを見ると、小説中の「手記」と似ていることがわかる。
20) 畑中繁雄は横浜事件の最終局面について、喜劇的ですらある特徴を書いている。「[横浜地方裁判所の検察官僚は]ひとたび、夢想さえしなかった敗戦に遭遇したとなると、にわかにあわてだし、終戦直後のどさくさのうちに、これまたはなはだしく不得要領なおそまつきわまる公判“ 芝居” まで強行して、みずから被告の名をおしつけた相手方に懲役二年の判決を「均等配分」したうえ、同じくひとしなみに三年間の執行猶予をばらまいて、むしろことの穏便をはかるという、これはまさにたいへんな事件であった。」 (『日本ファシズムの弾圧抄史』、高文研、1986)
21) 自由主義者たちの限界は、作者自身の「戦後社会のとらえ方の歪み」に由来しているとして、菊池章一は厳しく指摘している。「彼らは[自由主義者たちのこと]戦後の新しい社会の動きに適切にたちむくことをせず、ただ慣習の保守のうちにたてこもるにすぎない。このことは、作者の戦後社会のとらえ方の歪みをぬきにしては考えられず、作者の根本態度をぬきにして、小説の人物たちの「抵抗」を扱うことはもはや適切ではないであろう。」(「『風にそよぐ葦』の問題」『新日本文学』1951 年 9 月号)
22) 畑中繁雄は、戦後の労働争議を扱う作者の姿勢について、「この『葦』にしても、筋だてがようやく戦後のことに及んで、とくに新評論社の労働紛争の件りにいたると、作者の眼は、ぜんじ円満な常識人の眼を一向に出ないものとなってしまう」(「石川達三『風にそよぐ葦』」『文芸』1956 年 7 月号)と書いている。「円満な常識人の眼」という表現は相当作者に配慮した指摘であるが、畑中が『中央公論』の元編集長であったことを考えると、作者への強い不満の表れとも読める。
23) 冷戦の認識は通常 1946 年 3 月 5 日にウィンストン・チャーチルがフルトンで行なった「鉄のカーテン」演説から始まると言われているが、トルーマン大統領が有名な「封じ込め」政策を発表したのは翌 1947 年 3 月 12 日であった。「このトルーマン宣言によって、アメリカははじめて公式に反ソ反共政策を宣言し、米ソのいわゆる「冷たい戦争」がはじまった」ことになる。(『新版昭和史』、岩波新書、1959)
24) ここに見られるような反共主義については少なからぬ論者が指摘しているところだが、たとえば、この小説の前編だけを読んで書いたという大西巨人の論評がすでに喝破している。すなわち、「侵略戦争に対して批判的な態度を採り、ファシズムの重圧に身を押しひしがれようとしている人々にとっては、最も強力な味方であり、たとえ主義を異にしていようとも、少くとも多少の(人間的な)シムパシーを以てこそ語られるべき共産主義者が、戦争批判・傍観的自由主義者葦沢悠平によって、当面の敵軍閥に対するよりも、更にひややかな調であしらわれているのだ。」(「渡辺慧と石川達三」『新日本文学』1950 年 11 月号)
25) 昭和 21 年 1 月号から再刊された『中央公論』は、その後毎号百ページほどのもので決して分量は多いとは言えないが、休刊されることなく発行されつづけている。
26) 小熊英二『民主と愛国』、新曜社、2002
27) 『毎日新聞』昭和 26 年 3 月 14 日。なお、「解決なき」という点については、前掲座談会で石川は、「あの中で[『風にそよぐ葦』のこと]何物も解決していないということなんです。いろいろ問題にぶつかっただけで、どれ一つをもぼくの力では解決できていない。たくさんの憂鬱を発見したにすぎないのだ」と語っている。「憂鬱」とはなにを意味するのかわからないが、少なくとも作中人物たちが直面した現実の諸問題が「当時の事実と綴り合せる」程度ではすまなかったことを表しているように思われる。
28) 岩田恵子「風にそよぐ葦」(『解釈と鑑賞』平成 17 年 4 月号)
29) 「あの頃……それは何時の時代でもいいのだ。現在と未来に失望した人間に過去はいかなる時もその苦渋の面を消しつつ追憶の薔薇色をかぶせる。」菊池章一の、「あの頃」についての文学的な注釈である。(前掲論文「『風にそよぐ葦』の問題」)たしかに「あの頃」とは曖昧な言い方だが、ここでは漠然とした過去の時代ではなく、敗戦によって急速に遠くなっていく戦中の時代を感じさせる。
30) 主人公榕子についてまとまった研究論文は多くはないが、小関きよ子は「『風にそよぐ葦』研究」(『国語の研究』第七号、1972 年 10 月)で、もっぱら榕子について、その女性としての生き方を道徳とエゴイズムの視点から論じている。たとえば、「[榕子は]古い日本のおしつけられた道徳から、女性としてのエゴイズムからぬけでようとしたのだった」とか、「母となった榕子には、子供を迫害から守り通そうという不敵な意志と、是非善悪を越えて生きようとする絶対の意志を持って、捨て身になって生きて行こうとする強さが感じられる」として、榕子の道徳的な強さに注目している。  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

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