もったいない1

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娼婦諸話

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
帝都異伝

黒き龍の神子、籠の鳥になる 
その日の浅草もまた、興行街を中心として人々の喧騒で賑わっていた。
多くの縁日が軒を連ね、芝居小屋や見世物小屋などもひしめき合っている。
そして、その中でも最も目玉と言えるのが、浅草名物十二階だ。
この巨大な塔に昇り、帝都を一望するのが明治にこの建物が建造されてよりの流行であり、それは年号を大正と改めた現在でも地方からやってきた観光客の一番人気の場所である。
しかし、今日に限ってはそんな人気を脅かしそうな出し物が幕を開けたのだった。
題して『羅生門の鬼』。
十二階にたむろするよからぬ商売の者も、半日の休みを奉公先からもらった女中や丁稚も、大棚の番頭さんですら、その覗きカラクリ小屋を一目見ようと集まった。
見よ!その集団に気をよくした口上屋が、早速木戸番の前にしゃしゃり出て、その甲高い声を張り上げる。背後にある小屋の奥からはその声に合わせるようにして、チャカポコチャカポコという景気のよい鉦の伴奏
「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。大正の御世はカラクリ眼鏡も大仕掛けだよ。
さあさあ、いらっしゃい。ここもとお目にかかります出し物は、あの恐ろしい羅生門の鬼だよ、お立ち合い!鬼だ、鬼だ、鬼が来たよ。
ご覧なさい、カラクリ眼鏡のその奥に切られた鬼の片腕だ!しかもその腕が空を掴まんばかりに爪立てて、動き悶えるのだから驚きだよ!
さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。鬼だ、鬼だ、鬼が来る。
帝都東京に鬼が来るよ、鬼が来る。さあ。
今が見どころだよ。鬼だ、鬼だ、鬼が来る。
鬼だよ。
鬼だよ。
鬼とござーい!」
煩いほどの口上を耳にしながら、一人の男がズボンのポケットから取り出した懐中時計で現在の時間を確認していた。
「う〜ん、そろそろ刻限なんだけどなぁ」
そう呟きながら目的の人物を探し、キョロキョロとせわしなく頭を動かし続けるその様子を隣で黙って見ていた和装の少女が呆れたように言う。
「もぅ本当にこんな場所で待ち合わせをされたのですか、兄上?」
「え、あ、ああホントだようう、そんなに俺が信用できない?」
「ええ、とっても」
その言葉に、男はガックリと頭を垂れた。
「相変わらずキツいなぁ〜、朔は」
この男の名は梶原景時といい、常はこの帝都で新聞記者として勤務をしている。
そして、そんな彼に歯に衣着せぬ言葉を遠慮なく投げつけてくるのは彼の妹で、名を朔といった。
数年前より、一人上京して生活する兄の身を気遣い、時折郷里である鎌倉よりやってくるのだ。そしてここしばらくのところまた兄の世話をする為に、この帝都に滞在している。
「それにしても一体どういう方なのですか、兄上。その平少尉という方は」
朔は、ふと思い出したように兄がここで待ち合わせをしているという件の人物について尋ねてみた。
「どういうってう〜ん、そうだなぁ〜それについては何処から話をしたらいいのかなぁ、朔。お前、『帝都改造計画』って聞いた事あるかい?」
「いやだわ、兄上。私、普段は鎌倉の田舎におりますのよ。この帝都で今行われていることなど、随分後になってしか伝わってこないのはご存知でしょう?」
なんの脈絡もなく、突然語られたそのいかめしい名称に妹がそう答えると、兄は今思い出したといったように頭を掻く。
「あー、そうだった。ゴメン、すっかり忘れてたよ。んー、つまり、今この帝都ではこんな話が政府と民間の共同事業って線で進められてるんだ。まぁ、簡単に言ってしまうとあらゆる面で諸外国と方を並べられるほどの完璧な都市を作り上げようっていう計画さ」
「まぁ外国と、ですか?でも、どんな風に?」
「そうだねぇ、例えばこんな案が出てるんだ。帝のおわす宮城を中心として放射線状に道路を走らせ、そこから同心円を描くように官庁、商業施設、住宅と配置してゆくこんな具合にね」
景時はそう言うと、脚で地面に線と円を描いてみせた。
「なんだか、夢のような話ですわね」
「まぁねぇ〜これだけならいいんだけど、とにかくあらゆる面で優れた都市にしようってお偉い方々が考えたものだから、話がややこしくてね。とにかく、考えられるだけの各界の専門家を招き入れてその道に方面からの意見を求め、その考えをすり合わせしてゆこうっていうんだから、もう収拾がなかなかつかない」
「こうして聞いているだけでも大変そうな事業ですのね。だけど兄上。そのお話と少尉がどう係わり合いがあるのか、私にはよくわからないのですけど?」
「ああ、それもそうか。平少尉は陸軍からの参加なんだけどね。とは言っても、元々は軍事的側面からの見解を求めるべく召集した上の人の単なるお供だったそうだ。ところが、帝都改造の内容が霊的防衛という話になった時、思わぬ知識を披露してその場の一同をあっと言わせたのが彼だったわけだ」
目の前には相変わらず大勢の人混みでごった返している。だが、その中に軍装を纏った者の姿はいまだ見えずにいた。
「なんとまぁ、俺も本人から聞いてビックリしたんだけどね、少尉は陰陽道を修めていたんだよ」
「陰陽道?確か昔、兄上もやったらしたわね」
「あー、ダメダメ。俺がやってたのなんて、少尉のに比べたらほんのちょっと齧った程度だよ。なんせ、宮中お抱えの土御門家から参加していた陰陽師よりも、的確で鋭い意見をバンバン述べて論破しちゃったっていうんだからねぇ〜。それに計画のおエライさんがすっかり舌を巻いちゃって、その道の専門家として次の会合から正式参加してるってわけだ」
「まぁでも、確かまだお若いんじゃなかったの?」
「あ〜、うん。俺よりも確か一つか二つ下だったかなぁ〜」
「そんな方と兄上にどんな接点がありますの?私には分かりませんわ」
兄上がそんな大きな計画の参加者なんてことはありえませんもの、と妹は相変わらず痛烈である。
「あははそりゃあね〜。参加するような才能なんて、この俺にあるわけないじゃない。これでも俺、記者よ?そんな大計画を取材しないわけないでしょ?何度か取材に行っているうちに顔見知りになったってわけさ」
「ようやく分かりましたわ。でも、そのような方が私に会いたいと仰るのはどうしてでしょう?」
目的の人物を探し、相変わらずもキョロキョロと見渡す景時に朔は尋ねる。
「ああ、それねぇ〜。なーんとなく彼と昵懇になって一緒に飲んだりするようになってた時に、たまたまうちの神社の話をしたら少尉がえらく興味を持ってね今も軍務の合間を縫って陰陽道の研究をしているらしいんだよ〜、スゴイよねぇ。それでさ、うちの社のことをいろいろ聞いてみたいって言うんだよ。じゃあ、丁度神子をやってる妹がこっちに来てるからって」
それを聞いた朔の眉がピクリと動く。
「兄上うちの社が、特殊な所だということをまさかお忘れなのではないでしょうね?」
「い、いやっ、分かってる、分かってるって!!で、でもさ、朔だったら言っていいことと悪いことの境界を一番よく分かってるし、俺なんかよりもずっとそこらの匙加減ができるかな〜って?」
不機嫌を態度で示した妹に、兄はひたすら平身低頭した。
「この埋め合わせは必ずするからさぁ〜、だから、ねっ!ねっ!」
「全く、もう」
仕方ないんだからと、そう朔が言いかけた時であった。
不意に目の前の雑踏から音が消えた。
突然の音の消失に、驚いた朔が弾かれたように伏せていた顔を上げる。
さっきからひっきりなく流れていたはずの雑踏の動きが、まるでそこだけ凍り付いてしまったかのようにその時を止め、それがまるで昔兄が語ってくれた異国の聖者の物語に出てきた海でもあるように真ん中から二つに分かたれていた。
その分かたれた先に立つ、長身の影。
真夏であるというのに軍装の上からマントを羽織り、深く被った軍帽の下からは銀色の髪が覗いている。
帽子の下から、深い地の底の眠る水晶を思わせるような色をした鋭い双眸がこちらをじっと見ていた。
その目を見た朔は戦慄する。
そこにあったのは深遠なる闇と果てのない虚無。そして嘲笑
「くさく?おい、朔?!」
突然肩を揺さぶられ、そこで朔はハッと我に返った。
「えあ、兄上??」
「ま〜ったく、兄上じゃないよ。どうしたんだい?ぼ〜っとしちゃってさ。ああ、まぁいいや。ほら朔、ご挨拶して。この人が陸軍の平知盛少尉だよ」
兄の声に顔を上げた朔の表情が引き攣った。
今さっき見たばかりの白昼夢。
あの白と黒だけの世界にただ一人色を持っていたあの異質な存在あれは今まさに目の前にいるこの男ではなかったか?
呆然とその顔を見ている彼女よりも先に口を開いたのは、平知盛と紹介された男の方であった。
「初めてお目にかかります、朔殿。自分は陸軍に籍を置く者で、平知盛と申す者。以後、お見知りおきを」
「あ、こちらこそ。朔と申します。いつも兄はお世話になっているそうで」
朔も慌てて頭を下げる。
「おいおい、どうしたんだい、朔?ははぁ、さては少尉があんまりいい男なもんで見とれてたな?」
「なっ、何を仰るんです、兄上っ!」
景時の揶揄に思わず朔はカッとなって反論した。その彼女に誰あろうたった今紹介された当の本人が助け舟を出す。
「景時殿。それでは妹御があまりにお可哀想だ。はるばる鎌倉からいらしたとか?では、自分のような軍人に出会う機会もそうないのでは?」
「そ、そうですわ、兄上」
「ふーむ、仕方ないなぁ。まぁ、ここは少尉殿のお顔を立てて、そういうことにしておきますか」
「兄上っ!」
「ククッ、景時殿も実にお人が悪い」
場の空気が一気に和んだ。
朔もやがて一緒になって笑いながら、先ほど自分が見たと思ったのはただの思い過ごしであったのだろうと改めて思い直した。
彼女は相変わらず兄と何事か話しながら時折小さく笑う知盛の横顔を横目にチラリと透き見する。
ほら、やっぱり。
この平少尉という人に虚無の影など、何処にも見当たらないではないか。
こんな慣れない都会の生活を続けてるから、知らず知らずに疲れていたのだわ。ええ、きっとそう。
朔は心中でそう呟くと、その目線を外し、流れ行く雑踏へと目を転じた。
そんな彼女を抜け目なく、だが誰にも気づかれることなく観察する一対の目。
知盛はたわいもない話を景時と続けつつ、一人会話から外れ、雑踏を見ている朔をただ観察していた。
その眼は恋する男のそれとは程遠い。
何の感情も映さない虚無そのものといっていい眼であったのだ。
結局、その日は三人で軽くお茶を飲み、少しだけ話をしただけで終わったのだった。
実際、兄の話の通りこの知盛という人物は陰陽道に対する造詣が本当に深く、また話も巧みだった。
女性の朔でも興を引きそうな体験談を選んで話をし、また朔の実家である神社について知りたがっていると聞いていたのだが、それについては当たり障りのない程度の事しか聞かれることもなかったので、初めはどこか警戒していた朔も別れる頃には不思議と打ち解けるようになっていたのである。
数日後。
今度は知盛の方からの招待で朔は景時と共に歌舞伎見物へとやってきていた。
実際に見るのは今日が初めてという彼女は、その夢のような舞台をとても楽しんだのである。
やがて、空が黄昏に染まり始めようとした頃、三人の姿はとある神社の境内にあった。
景時はすっかり歩き疲れてしまったらしく、鳥居の根元に腰を下ろし、汗を拭いている。
「知盛殿。私、参拝してまいりますので、あちらでお水をいただいてきますね」
朔はそう言うと、先に立ち水場へと歩いていった。そして、竹柄杓を水盤に浸すと、まず手を洗い、次いで口を漱ぐ。
後からゆっくりと歩いてきた知盛がそれに追いつき、同じように柄杓を手に取った。だが、水を汲もうとはせず、その柄でクルクルと水を掻き回すと、頃合を見計らって柄を放した。手から離れた竹柄杓が水流に載ってゆっくりと回転してゆく。朔はその様子を不思議そうに見つめた。
「朔殿、ひとつ戯れ事をしませんか?」
と、知盛がおもむろに囁いた。
「戯れ事?どんな遊びでしょう?」
「つかぬ事を伺いますが、今、手鏡はお持ちですか?」
「ええ、小さなものなら」
「それは上々だ。いえ、これは支那に古くから伝わる占いでしてね。鏡聴というのですよ」
「きょうちょうですか?」
初めて聞く占いの名に、朔は小首を傾げる。境内はすっかり静まり返っていた。
「ちょっと面白いのですよ。本来ならば除夜に際し行うのですが、まぁ今日は遊び故構わないでしょう。今、自分がしたようにこの柄杓で水を掻き回し、何度かこうやった後で手を放す。いいですか?まずはそこまでおやりになるといい」
「ええ、では」
朔は言われるままやってみることにした。だが、なかなか上手い具合に手を放す機会が見つからず、彼女にしては珍しく不器用に柄を放り出す格好となってしまった。柄は二三度ゆっくりと回るとすぐに止まってしまう。
「これでよろしいのでしょうか?」
「ええ、結構。でしたら次は朔殿、あなたはその鏡を抱いたまま柄杓の指した方向へと歩いてゆくのです。そして、密かに他人の話し言葉を聞くのです」
「話し言葉ですか?」
「ええ。最初に耳にする言葉が朔殿にとっての吉凶を教えてくれるでしょう」
知盛はそう説明した。その顔は確かに口元は笑みの形は取っていたものの、彼女を見る両の目が何処となく寒々としていて、朔は思わず息を呑む。
だが、たそがれで表情が見えにくくなってきた所為であろうと思い直し、口を開く。
「初めて知りましたわ。これでも占いについてはある程度知っているつもりでしたけど。人の話し声を聞いて占うなんて本当に珍しい」
「いや、そうでもありませんよ。天に口なし、人をしてこれを言わしむ、という言葉があるでしょう?」
支那の信仰では、世に異変あるときは予言の星が町の辻に降って童子に化身し、童謡を歌うといいますよと、彼は淡々と言う。
「童謡が予言の代わりに?」
「ええ。中でも童謡の予言はよく当たると聞きますね」
「本当に博学でいらっしゃるのですね。では、私の運命はどうなるのでしょう?」
「よろしい。ではしっかりとその鏡を抱いて、柄杓の指す方向へと歩いてゆかれよ。さて、どんな声が聞けるか楽しみだ」
「ええ、それでは」
朔は自分の鏡をしっかりと胸に抱くと、知盛の言う通り柄杓の指す方角へと歩き出した。方角は境内の石畳を外れた木立の向こうへと続いている。
彼女は少しだけ息を呑むと静かに石を踏み出した。
少し進んだところで一組の男女と行き違った。
だが、この二人は無言であったので、彼女は振り返ることなく木立の方へと向かう。木立の下に小さな人影が幾つか見える。子供達だ。手を繋いで輪を作り、くるくると回っていた。どうやら遊んでいるようだ。
朔は子供達の輪に近づき、聞き耳を立てるとやがて緊張を解くように微笑んだ。
彼女が微笑んだのも無理はなかった。それは誰もが聞き慣れたものであったからだ。
かごめかごめ
かごの中のとりは
いついつ出やる
夜あけのばんに
つるとかめがつぅぺった
うしろの正面だあれ
「ふふっ」
朔は安堵したように笑うと、後からやってきた知盛を見上げて言った。
「知盛殿、これが私の吉凶をうたう歌ですの?」
黄昏は既にその色を夜の帳へと変えつつあった。
ふと目をやると何時の間にか子供達の姿がなくなっている。家路についてしまったのだろうか。
木立の下近くであったということ、そして迫りつつある夜の暗さに阻まれ、こんなに近くにいるにも関わらず男の表情はよく見えない。
「知盛殿?」
男は微動だにもしなかった。夜の闇はますますその深さを増し、朔は不安を覚え始める。
「そう、これがあなたの運命だ間違いなく」
声が漏れた。だが、嘲笑を噛み殺したようなその声に、朔は全身に冷水を浴びせられたような寒気を覚える。
一陣の風が木立を揺らす。その隙間からほんの僅か残った黄昏の光が一瞬、知盛の顔を見せた。
彼は笑っていた歓喜と嘲りに打ち震えて。
朔はその表情(かお)を知っていた。
たった一度きり見たそれは、この男と初めて会った日のあの白昼夢が見せたものと全く同じものだった。
この男は危険だ!!
本能的に逃げようと朔は身を引く。だが、それよりも早く、その腕を強い力で掴まれた。
「ひっ!」
「帝都を守護せし応龍の陰破壊を司りし黒龍の神子たるおまえの運命だ」
「なっ?!」
どうしてそれをそう言いかけた朔の目を突然何か白いものが覆い隠した。それが知盛が普段よりずっと両手に嵌めている白手袋であり、その片方の手が己の視界を塞いだのだと気付いた時、彼女の意識は既に遠のきかけていた。
「ああにうえ」
朔は鳥居の下で待っているはずの兄の方へと手を伸ばす。が、そこまでだった。
「その力存分に使わせていただこう、か」
くず折れた朔の身体を空いている方の腕でいともたやすく受け止めると、知盛は残酷な笑みを浮かべた。
かごめかごめ
かごの中のとりはァ
家路に向かいつつある子供達の歌声が、風に乗って幽かに流れていた。
そして、この日より黒龍の神子梶原朔はその姿を帝都より忽然と消したのである。  
軍医、蟲毒と相見える

季節は、間もなく夏へと差し掛かろうとしていた。
その日、陸軍軍医である武蔵坊弁慶は先の大陸出兵の際に従軍した部隊の慰労会に出席する為、とある料亭を訪れていた。
あの出兵から本土に既に帰還して半年以上は経過しており、何を今更な感がないわけでもなかったのだが、会の音頭を取ったのが軍部でもかなり力のある将官であったこと、そして帰国後部隊がすぐに解散された為に散り散りとなってしまったかつての仲間たちの顔を久しぶりに見てみたいという気もあって、弁慶はこの集まりに顔を出したのである。
彼は既知の者達との半年振りの再会を果たすと、お互いに近況などを語り合ったがやがて外の風に当たりたくなり、一人そっと部屋を抜け出した。
「ふふっ。僕としたことがすっかり過ぎてしまったようだ」
上等な酒と料理ですっかり満腹になった弁慶は腹ごなしに、料亭の周囲をぐるりと巡る回廊をゆっくりと歩いてゆく。何処へ行くともなく散歩と洒落込んでいた彼は、やがて池に面した庭園に差し掛かった辺りで奇妙な光景を目撃した。
軍服をまとった一人の男が、池の傍で一身に何かをやっているのだ。
その横顔に、弁慶は見覚えがあった。
平知盛少尉先の出兵で同じ部隊に所属していた男だ(その時の功を最近ようやく評価されたらしく、中尉に昇進したのだという話を先程仲間の誰かが言っていた)。一見無愛想で、何を考えてるかまるで分からないところの多い男であったが、何かの折に初めて話してみると、その見識の深さとものの考え方に随分と驚かされたことをよく覚えている。中でも陰陽道についての知識は秀逸で、彼の話す陰陽道の話と自分の専門である医学との共通性や事象の解釈の違いなどを、互いに時間を見つけては随分と白熱した議論をしたりしたものだ。おかげで帰国後、弁慶は折を見ては陰陽道に関する文献を漁るようになり、自分なりの研究をするようになっていた。それもこれも元を正せば彼の存在によるところが大きい。
その知盛が木の葉を片手に、何かを一心に呟いていた。
弁慶はそういえば今日まだ彼に会っていなかったことを思い出し声をかけようとしたのだが、その様子がどこと鳴く声をかけるのに憚られるような気がしてしまい、あと些かの興味も覚えたのでそのまましばらくその様子を見ていることにした。
知盛は木の葉を口元に当てるようにして何事かを小さく呟き続けていたが、呟き終えるとそれをサッと地面に投げつけた。
木の葉は池の傍にいた一匹の蟇に当たる。すると蟇はいとも簡単にひっくり返ってしまった。彼は白い手袋をした手でそれを掴むと、料亭のものらしい小さな布袋の中へとそれを納める。そうしてまた別の葉を口に当てると、何事か呟き、今度はそれを池の脇にある木へと投げつけた。木の葉は滑空して木の幹に見事命中する。すると、上の方から面白いように毛虫がポトポトと落ちてきた。彼はそれもまた機敏な動きでそれらを捕まえ、次々と袋の中へと入れてゆく。
それを廊下からじっと観察していた弁慶は、先日入手した文献にあった『蟲(こ)』というものを思い出した。毒をもつという蟲や爬虫類などを一つの器の中に閉じ込め、互いに殺し合わせることで生き残った最後の一匹を最高の毒虫に変化させるという術。その誕生した毒虫を材料に作られた薬は通常の毒では持ち得ない力を持つのだという。
彼はその『蟲』を実践しようとしているのだろうかそう思いかけ、弁慶は自らに湧き上がったその考えを払拭する。
そんな馬鹿な事が陰陽道の技とはいえ、あれは外法として忌み嫌われる類のものだ。第一、彼はそうまでする理由などあるのだろうか?
結局、弁慶は旧友に声をかけることなく、その場を後にしたのだった。
そんなことより更に時間は経過し、暦の上では、七月も終わろうとしていた。
朝から降り続いていた雨は午後も四時近くになろうかという頃になってようやく上がり、空には既に傾きかけた太陽がその遅れを取り返そうとでもするかのように明るい顔を覗かせていた。
この春に軍学校を卒業して正式に任官されたばかりの源九郎義経は、その日は久しぶりの非番であったのだが昨夜半から降りだした生憎の雨が、彼からどこかへ出かけようという気力をすっかりそいでしまっていた。元々、剣術のほかにこれといって趣味らしい趣味を持たないので、官舎に与えられた自室の中で暇を持て余しているしかなかったのである。
だが、その雨がようやく上がったことと、まだ十分に外も明るいことから、彼は隅田川に一人釣りに行くことを思い立ったのだった。
それならば、歩いていっても近い上に、幸い道具も持っていたのである。彼は釣り道具一式を用意すると、いそいそと川へ出かけていった。
「思ったより増水してるようだな」
いざ川へ着き、周囲を見回してみると九郎は誰聞くともなく言った。いくらずっと降っていたとはいえ、大雨というほどのものでもなかったので、それほどではあるまいと高をくくってきたのだが、この水嵩の上がり具合は想像以上であった。とはいうものの、全く釣りの出来ないという状況でもなく、かえってこの時間帯と川の適度な濁り具合は釣果を期待できそうだと九郎は思った。彼は手にした道具を地面に置くと早速準備を始める。そして、糸を垂らす場所を求め、踝の辺りまで水に使った葦原の中をずんずんと奥へと向かっていった。
そして、足の途絶えたところまで出て、いざ釣りを始めようとした九郎は目の前の流れの中にぼんやりと白いものがあることに気付く。
「土座衛門か?」
目を凝らして更によく見てみると、それは白い着物をまとった若い女であることが分かった。女は腰までを水の中に浸からせた状態で川の中に立っているのだ。開いてはいるがその眼は虚ろで、顔面からは完全に血の気が引いているのがわかった。肩近くで切りそろえられた黒髪はぐっしょりと濡れており、ポタポタと水が滴り落ちている。
「お、おいっ」
生きているのか死んでいるのかまるで判断できず、苦労はとりあえず目の前の女に声をかけてみるが、応答はない。やはり死人かとそう考えかけ、ふと目線を水に使っている辺りに向けた時彼はギョッとした。
女の腰に何かが巻きついていた。初め、それは太い綱だと思ったのだがよくよく見るとそれは綱ではなく、真っ黒な蛇だったのである。
そのあまりに異様な光景に九郎はたじろいだ。が、いち早く我に返ると彼は手にした釣竿を伸ばし、彼女に巻きつく蛇を打ちすえる。すると蛇は恨めしそうに女の身体を離し、暗い水の中をいずこかへと逃げ去っていった。
その蛇の姿が消えたのと同時に女の身体が前に傾げ、大きな水音と共に仰向けに浮かび上がった。九郎は慌てて竿を放り出すと、川の中へと駆け込み、女の身体を捕まえる。すると、女にはまだ息があり生きていることが分かったので、九郎は彼女を岸まで引っ張り上げると呼びかけた。
「おい、大丈夫か娘さん!おい、しっかりしろ!!」
彼は娘の頬を二三度叩き、呼びかけ続けた。すると、女の身体が突然大きくしなる。そして、ビクビクと痙攣を繰り返し全身を震わせると、まるで身体の奥からせり出してくるかのように口の中から何かを吐き出した。
ベチャ。
嫌な音を立てて地上に落ちたそれを見た九郎は、今自分が見ているものが信じられなかった。
ベチャ。
ヌラヌラとした黄色の粘液にまみれ、ブヨブヨとした肉体を持つそれは巨大な蛆虫を想起させるような形状をしており、成人男子である九郎ですらそのおぞましさに思わず吐き気を催しそうな代物であった。そしてそれはその姿に似つかわしくないほどの素早さで地を蠢きながら女の身体を離れると、葦原の中へと逃げていった。
九郎はその様子を呆然と見送っていたが、すぐに気を取り直すと目の前の娘の身体を抱き起こす。
「おい、娘さん!大丈夫か!?」
娘は僅かながら呼吸を始めていた。だが、全身は相変わらず死人のように冷たい。
「しっかりしろ!今すぐ医者に連れて行ってやるぞ!!」
彼はそう叫ぶといまだにグッタリしたままの彼女を担ぎ上げ、年上の幼馴染でもある医者の元へと向かった。
「どうなんだ?」
処置を終え、臨時の病室として使用した客間の中から出てきた弁慶に九郎が尋ねた。
「まぁ、一応は落ち着いたようです。それにしても」
弁慶が何かを思い出したかのようにその眉を顰める。
「衰弱が恐ろしく激しいんですよ。まるで極度の緊張状態に長期間さらされ続けてでもいたかのようにね。それにこれはちゃんとした設備を使って診てみない事には断言できませんがこの娘さん、心身共にボロボロのようだ」
「ボロボロってそこまで酷い状態なのか?」
「例えるならば、そうですね身体の内側から何かに食い荒らされているといったところでしょうか。外見上、素人目にはほとんど分かりませんが」
弁慶はそこで言葉を切り、何かを考えていたがやがて口を開いた。
「ねぇ、九郎。君、先程あの娘さんを助けた時、彼女が変なものを吐いたと言ってましたよね?」
「あ、ああ。川から引き上げた後、気付けに頬を叩いていたら急に」
九郎はその時の事を再び思い出し、表情を強張らせる。
「他ならぬお前だから正直に言うが、俺はいまだにあれが何だったのか分からんのだ。あの娘さんの身体が突然痙攣したかと思うと、胃の辺りが急に膨らんで、その膨らみが胸に上がり、喉を通って」
「虫のようなものを吐いたというわけですね」
「ああ。俺は生まれてこの方、あれほど気味の悪いものを見たことがない」
乳白色のブヨブヨとしたあの肉の塊のようなものは確かに生物だったのだ。
黄色い粘液にまみれたそれは、あっという間にどこかへ逃げ去ってしまった。
「あの何かの幼虫のようなやつが、この娘さんの身体をを中から食い荒らしたとでもいうのか?」
弁慶は九郎の質問には答えず、黙って何かを考え続けていたがやがてゆっくりと言葉を選ぶかのように口を開いた。
「九郎の言うことが事実なら」
「事実だ!」
「ああ、すみません。僕は別に疑ってなどはいません。そういう点で、僕は君を信頼していますよ、九郎。話を戻しましょう。寄生虫の類の可能性を考えていたんです。ですが、それにしてはあまりにも大きすぎる。となると、その虫の正体は」
「何なんだ?」
「これはあくまで推測の域を出ません。しかしおそらくは何か呪術的なものだと考えるべきではと」
「呪術だって?!医者のお前がそんな時代錯誤な呪いとかを信じてるのか?!」
「呪術というものは遡っていけば、医療行為だったんですよ。ですから、一見何の接点もなさそうですがその歴史を紐解いてゆけば、現在でもかなり接近している部分もあるんです。僕はそういったことに興味がありましてね。暇を見つけてはそうしたことを研究していたりするんです」
まぁ、ほとんど趣味ですけどねと弁慶はそういって小さく笑い、自身の背後で閉じられている障子越しに今もぐったりと泥のような眠りについている若い女を見やった。
「君の話してくれたその虫それはひょっとしたら、陰陽術にあるという『腹中虫』ではないかと思うんです」
「『腹中虫』?なんだ、それは?」
「文字通り人間の腹の中に発生し、そこを住処にする虫の事なんですが、自然界に実在する生物ではなく、陰陽道のある技で作られる薬を服用することで体内に発生するらしいのですが」
「術で生物を作る?よく分からんが、そんなことが出来るのか?」
「理屈を説明するのは僕にもちょっと難しいのでとにかく、今はそういうことがあるとだけ思って下さい。僕の知る限り、腹中虫を体内に入れられた人間はその薬を作った術者の意のままになるのだそうです」
「じゃあ、あの娘さんはその虫が湧く薬を飲まされたと?」
「ということになりますね」
「くそ!酷いことをする奴がいるもんだ!!」
九郎はそう言うと、閉じた障子を見た。
「あの娘さん家族もさぞ心配してるだろうに」
「とりあえず、警察には僕の方から連絡しておきましたから。もし、捜索願が出ていれば、じき連絡もつくことでしょうし。ですから、九郎も今日はもうお帰りなさい」
「いや、しかし」
「明日は軍務でしょう?大丈夫ですよ。もし彼女の家族が見つかったら君にもちゃんと連絡しますから」
「そ、そうか?」
弁慶に操作とされ、九郎はようやく気が緩んだのか、そこで始めて自分もこの騒ぎでかなり疲れていることに気付いた。そこで、後の事を信頼できるこの幼馴染に任せると、一人官舎へと戻っていったのだった。
そんな九郎を玄関先で見送ると、弁慶は再び女の眠る客間へと取って返した。そして、少しだけ障子を開け、中の様子を確認する。
女は変わりなく、相変わらずぐったりとした状態で眠ったままであった。だが、その表情は苦悶に満ち、決して穏やかなものではない。先程落ち着きかけていた呼吸も時折酷く乱れ、微かな呻き声が漏れるようになっている。
彼は黙って障子を閉めてから、こう呟いた。
「九郎にはああ言いましたが」
弁慶は書斎へと向かった。そこには古今東西の医学書を中心に、足の踏み場もないほどの蔵書が平積みにされている。彼はその山の中から数冊の和綴じの本を探し出すと、書机の上に置いた。
「確かこの辺りに」
指で表紙に書かれた表題を確認すると、彼はその中の一冊を手に取る。そして、その中身を指で摘まむようにしてゆっくりとめくり上げながら、問題となる箇所を探す。やがて彼は一つの項目へと辿り着いた。
「あった、これだ」
弁慶は一度読んだことのあるその内容を再び読み進めてゆくうちに、表情がだんだんと険しいものになってゆく。
「やはり蟲毒か。とすれば、その術者は」
彼の記憶の隅に、あの初夏の夜の光景がまざまざと蘇る。
このようなもの、誰にでも出来うるという術ではない。陰陽道に関する高い知識と、それに見合った力を兼ね備えた者にしか成し得る事は不可能に違いない。
脳裏に、あの日見た知己の男の姿が浮かぶ。
あの時、不思議な技で毒虫を集めていた男の表情は笑みを浮かべていなかったであろうか?
「知盛殿あなたはこれから一体何かを始めようしているんです?」
誰聞くともない弁慶の呟きは、夜の闇へと消えていった。 
風水師、竜脈を追走す

大正十二年。
海の向こう、中国大陸にその街大連はあった。
耳をつん裂くような破裂音と同時にどっと上がる火柱。
橙色に染まった雲の下、一気に上がった熱が周囲の冷えた大気をたちまち混濁させてゆく。
「何者だ、止まれ!!」
怒声が夜の闇を切り裂き、そのあとから大地を蹴り駆け抜けてゆく馬の蹄の音が湧き上がった。日本軍兵士がその後から一発、二発と発砲する。だが、弾丸は命中することなく、馬は遠くへと駆け去っていった。
「またか、畜生!」
銃を振りかざした軍人が鉄道線路傍へと駆け寄ってくる。
「線路に爆弾を仕掛けられました!それも土中の相当に深いところに埋め込んだらしく、線路の被害よりも土台の土砂がすっかり吹き飛ばされて」
「なんて奴等だ!!」
軍人は銃を腰に納めながら周囲を見回す。
「日本に反感を抱く馬賊の仕業かくそ、今度こそは!!」
彼は手袋を外すと、地面に思い切り叩きつけた。
馬はやがて速度を緩めると、林の中にその身を隠した。
「タイラ、追手はないようだ。ここらで馬を休ませよう」
先頭を行く男が振り向くと言う。
「―あぁ」
黒づくめの男がそれに答えた。僅かな月明かりに頭を覆っている黒い布からこぼれた銀色の髪が鈍く光る。
「今夜の爆破は格別の効果となる癸(みずの)亥(とい)の年、乙(きの)亥(とい)の日干支の亥が二重となり、効果もまた二乗だ」
「タイラ。おまえのやり方はまだ合点いかない。我々、日本軍を撃退できれば満点。だが、おまえはいつも余分の爆弾を地中に埋めて爆破する。何故、そんなことを?」
馬賊の男の問いに知盛は頭を覆う布を取り去りながら言った。
「わからぬだろうな。これは日本の首府である東京つまりは帝都を破壊する為の呪術だ。効果はそのうち分かる時が来る」
彼は呟くようにそう言い、闇の中でニヤリと笑う。
微かな光の下で、嘲るように口角を上げるその口元だけがまるで浮き上がるように鮮明だった。
「さっき、妹に会ってきました」
梶原景時はそう言うと、勧められた椅子へと腰掛けた。
巣鴨。
この土地にある病院の一室に今彼はいた。
あの雨上がりの日に救出された梶原朔は現在この病院の個室に入院している。それは軍を辞し、この病院への勤務をかねてから決めていた武蔵坊弁慶の口添えによるところが大きかった。
「妹さんに声をかけてみましたか?」
「ええ。いつも通りに。返事はしてくれませんでしたけどね」
「そうですか辛いとは思いますが、こうした治療には彼女を取り巻く人たちの根気も必要なのです。これからも声は必ずかけてあげてください」
「はい」
手当ての甲斐あって、朔の身体の方はどうにか回復するまでに至っていた。だが、発見された日以降、彼女の精神はすっかり病んでしまっていたのである。一日の大半をまるで魂の抜け殻のようにして過ごしていたかと思えば、意味不明の言語を口走り、時には判読不能な文字をひたすら書き殴り続けたりしていた。
弁慶はこの病院への入院を、警察からの知らせで彼女を迎えに駆けつけてきた景時に勧めた。
この時代、こういった精神の病はとかく迷信と結び付けられやすく、専門の医者もほとんどいなかった。が、幸いにもここはその数少ない精神病研究の医者がいたのである。
「弁慶先生には本当にお世話になり通しでどれほど感謝すればいいのか」
「いいえ、礼など。僕はほとんど何もしていませんし、出来ませんでしたしね」
弁慶はそう言うと表情を曇らせた。
「ああ、そうでした。先日、実家に戻ってきました。五年ぶりだったんですがね」
景時はふと思い出したように言った。
「そうですかそれで、如何でした?」
「ええやはり、先生の仰る通りでした」
弁慶は景時から朔がいなくなった折の前後の事情を聞いた後で彼に一つの頼みごとをしていたのであった。それは、できれば一度彼ら兄妹の実家である梶原社へと戻り、朔が上京してから後に何か異変が起きなかったを確認して欲しいというものであった。
「ということは、やはり何かあったんですね?」
「はい。実は社の最奥に安置してあるはずの御神体が何者かに盗まれていたのです」
「御神体ですか?それは一体どのような?」
弁慶の問いに、少しの間景時はどうするべきか逡巡したものの、意を決したのか口を開く。
「わかりました。他ならぬ先生ですし、俺の知る限りでお話します」
「ありがとうございます」
景時は弁慶に御神体である黒龍の逆鱗についてできるだけ分かりやすく説明した。そして黙ってその話を一通り聞いたところで弁慶が口を開いた。
「そして、その神子となっていたのが妹御というわけですね」
景時は頷く。
「神子は梶原の血を引くものならば誰にでもなれるというようなものではないんです。占夢といって神子になるものはその守護する神がその夢に降り立つのです。妹朔はそういう意味では百年ぶりに選ばれた神子だったんです」
「黒龍の神子というわけですね。神子というのはやはり何か特別な力とかがあるんですか?」
「だと聞いてますが、詳しいことは俺もちょっとですが、御神体である逆鱗の力を行使できるものは神子だけだとか」
「逆鱗破壊の力を司る黒龍の核ですか。そして、それが盗まれたと」
「普通の者には何の価値もないようなものです。あれを使えるのは神子だけなんですから」
「けれど、その神子たる朔殿が一時とはいえ行方知れずになっていた。しかも、戻ってきた彼女の精神はすっかり壊されてしまっていた。しかも同じ頃に起きた黒龍の逆鱗の盗難」
弁慶は指でコツコツと机を叩きながら、じっと何かを考え続けていた。景時はその姿に口を挟むこともできず、ただじっと沈黙を守り続ける。
「景時殿。これはあくまで僕の仮説です。仮説にしか過ぎませんがあまりに荒唐無稽すぎて、現実感というものが乏しすぎる。僕のような職業の人間がこんな説を唱えれば事情を知らない他人は、おそらくこの僕がそれこそ精神に異常をきたしたか、生と死を扱いすぎた挙句におかしな宗教にでも傾倒してしまったのではないかと、そう思うかもしれないようなことなのですが」
「俺は先生を信じますよ」
その一言に弁慶は伏せていた目を上げ、真っ直ぐに目の前の男を見た。
「ありがとうございます。ならば、言わせていただきますが何者かが黒龍の逆鱗を使い、大規模な破壊を目論んでいるのではないかと
僕はそう思うのです」
「まさか!さっきも言いましたが、逆鱗を神子以外の者に使いこなせるわけが!!」
「だから、朔殿を攫ったとすれば、どうでしょう?」
逆鱗の力を神子によって解放させ、自らが使えるようにする。
「そんな仮に半歩譲ってそんなことが可能であったとしても、並の人間にあの力が使いこなせるとはとても」
「ええ、そうなんでしょう。しかし、それが例えば天才的な陰陽師ならば如何ですか?」
「陰陽師ですか?」
景時はその言葉に色を失った。
「蟲毒を用い、朔殿を意のままに従わせた上で、盗み出した逆鱗の力を解放させた」
「しかし、それならば直接朔に使わせた方が容易いんじゃあ」
「そうですね。本来そうするつもりだったんではないのでしょうか。ですが、そうならなかった。結局このような形で彼女を解放せざるを得なかったのはおそらく、蟲毒をもってしても彼女を守護する龍の力を完全には抑え込めなかったというわけなのでしょう。それが彼女にとって幸運だったか不運だったかは分かりませんが」
景時は額を嫌な汗が一筋流れてゆくのを感じていた。
「だとしてもだとしてもですよ、先生。だったらなおの事、そんなことができる者など限られてくるじゃないですか。俺が昔学んだ土御門で現在おられる術者は皆立派な方ばかりで、蟲毒のような外法を用いるような人間は誰一人だって」
「景時殿。失礼ですが、今、誰の事を考えました?」
「え、いやまさか、そんなことは」
妹が行方不明になる前、最後に一緒にいたあの男が脳裏を過ぎる。
一向に帰ってこない妹を探し、心当たりがないかと思って連絡を取ったとき、彼はこう言っていたではないか。
「妹御とはあの神社の境内で別れたが」
もっとも、その後朔殿がどうなされたかまでは与り知らぬよ。
その言葉に一応納得はしたものの、心のどこかで奇妙な違和感を覚えていた。
だが、確証がない。
ただ、怪しいというだけでは何もできない。ましてや相手は陸軍中尉なのである。景時がそんな焦燥感に駆られる日々を重ねるうち彼平知盛中尉は移動で大陸へと渡ってしまい、現在どうしているのかさえ分からない状況となってしまった。 そんな彼の戸惑いを後押しするように弁慶が言った。
「ひょっとしてそれは平中尉の事ではないですか?」
「先生、何故それを」
「やはり、そうでしたかいえ、僕はあなた方兄妹と彼がどのような間柄であったかまでは知るところではありません。ただ、僕はまだ陸軍に在籍していた頃、彼と同じ部隊にいたことがありましてね。そして、彼平知盛が陰陽術について深い知識と能力を有していたことも知っているのです。今回の一連の出来事を振り返れば振り返るほど、僕はあの日の事を思い出すのです。あの春の日、奇妙な符を使い彼は毒虫を集めていたあの異様な行動も今にして思えば、ちゃんとした意味があった」
「虫蟲術を行っていたというのですか?」
「それ以外、考えられないのでは?ただあの時点で僕がそれに思い至れなかったのは不覚でした」
「いいえ。陰陽道なんて普通知らないのが当たり前なんですからでは、先生はやはり平中尉が朔をと?」
「仮にも元同僚ですからね。否定できるものならばしたいところですが限りなく黒に近い灰色だと思います。ただ確たる証拠がない。
現在の法律でこうした呪術を犯罪として裁くのは不可能ですし、何よりも彼は軍部の人間だ」
弁慶はそう言うと表情を固くした。かつて自分のその身を置いていたとはいえ、あそこはある意味国の法規などまるで及ばぬ場所だ。一般人がどれほど訴えたとしても確たる証拠を突きつけない限り、黙殺されるのは分かりきっていた。
「彼は知いや、平中尉は随分前に大陸に渡ったと、そう聞きましたが」
景時は何もできない自分の不甲斐なさに諦めと腹立たしい気分で、吐き捨てるように言う。
「そうですが、近いうちに帰ってくるようですよ」
「え?」
弁慶の言葉に目線を逸らしていた景時は再び彼を見る。
「僕の幼馴染の男が、陸軍に在籍していましてね。その伝で調べてもらいました。どうやら辞令が下りたようですね。彼は帰国しますよ」
「じゃあ」
「ええ。戻ってくるまでにできるだけの事を調べてみましょう。それと、景時殿。これは医師として、僕からの提案なのですが」
弁慶はそう言うと、机の引き出しにしまってあった一通の封筒を取り出した。
「箱根の方にドイツ人の先生が去年こういった精神の病を専門にした療養施設を作られましてね。どうでしょう?朔殿にはこの際、思い切った転地療養が必要ではないかと僕は思うのですが」
「転地ですか」
「これはその先生へ宛てた僕からの紹介状です。ドイツ留学時代にお世話になったことのある方なので、僕としても安心してお任せできますしね。自然の中でゆっくりとした生活を送ることで心の平衡が保てるようになれば、おのずと回復も見込めるのではないかと僕は、そう考えるのです」
景時はその言葉に大きく頷いた。郷里である鎌倉に戻すことも一時考えたのだが、あそこには専門の治療を受けさせることができない。かといって、今のこの帝都に妹を置き続けることはどこか毒の中に浸し続けている感が拭えない
「願ってもありません。朔を妹をよろしくお願いします」
今は少しでも早く妹の正気を取り戻すこと。それが何よりも彼の優先すべきことなのだ。
「分かりました。では」
弁慶がそう言って話を続けようとした時であった。
突然足元が細かく震えだしたかと思うと、目に見える形でそれはガタガタと大きく震動を始める。
二人は反射的に上を向くと、頭上にある電球が大きく弧を描いていた。
今すぐ立ち上がり対応すべきかと逡巡したが、揺れがこの先どう変化するか判断できず、彼らは着席した状態で待機する。
すると、そのうち揺れは収束されてゆき、五分もするとまるで何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
「近頃、多くなってきましたね」
ようやく緊張感を解いたかのように弁慶が言った。
「そうですね。確かに」
「これだけ頻繁に続くというのは大きな地震の起きる前触れだと、以前何かの本で読んだ覚えがありますが」
この時代、地震の研究というのはほとんど進んでいなかった。
過去の記録や伝承などでその事実を知るくらいの事しかできずにいたのだ。
「仮に今大きな地震が起きたとしても、周囲に民家も少なく、石造りのこの建物はある程度までならば耐えもするのでしょうが浅草や上野のように民家の密集する地域は危険ですね。木造家屋は強度がありませんし、これがもし昼間であれば火事にもなりやすい。昼時で火を使う家が多いですからね。景時殿も気をつけられた方がいい」
「そうですね。肝に銘じておきますよ」
景時はそういうと立ち上がって一礼し、部屋を後にしていった。
弁慶は何気なく窓の外を見る。
夕暮れが近づこうとしている空は赤く染まっている。
が、それは異様なほどに赤く、まるで人の血を擦り付けたかのようであった。
そして、僅か数日後。
帝都を未曾有の大地震が襲った。
後の世で『関東大震災』とそれは呼ばれることとなる
天変地異とはよく言ったものだ。
大正という時代の終幕の鐘を鳴らすが如く、襲い掛かった震災は文字通り帝都全域をほぼ壊滅状態に追い込んだ。
特に民家の密集した下町地域は筆舌に尽くせぬほどの地獄絵図と化し、多くの犠牲者を出した。
だが、生き残った人々は焼け野原となった帝都を復興すべく、骨身を惜しんで働いた。
大正期、この帝都を全てにおいて完璧な都市とするための構想が各階の専門家を集めて練られたことがあったが、その多くが既存の建物や施設の持ち主あるいは官庁の反対に会い、実行されずに凍結されてしまったことがあったのであるが、地震により全てが灰燼に帰したことで再び脚光を浴びることになったのは思えば皮肉な話である。
防災を意識した道路や建物が作られ、地下にも地上の交通混雑解消の目的と防災を目的とした地価鉄道の敷設工事が開始されていた。
年号も昭和と改められ、人々は新しい帝都に再び希望を抱いていたのである。
その日、陸軍少尉である源九郎義経がその男と出会ったのは、全くの偶然であった。
陸軍本部でのその日一日の勤務を終え、家路を急いでいた彼は常夜灯が輝く表通りから一本脇の道へと入り込んだ。近道をする時には必ずこの道であったし、表通りより人通りが少ないので歩きやすいのだ。帝国軍人である彼にはたとえ暴漢や強盗の類に遭遇したとしても、一人で撃退する自信があったというのもある。
彼は軍人特有の足取りで一人道を歩いていった。
表通りに比べては少ないとはいえ、電灯も点在しているので常より人通りは少ない道である。だが、完全に絶えてしまうにはいささか早い時間帯であるはずであった。だが、この道に入ってから彼は全く誰にも出会っていないのを不思議に思った。ただ、彼はその事を特に気にはしていなかったのであるが。「こんな日もあるさ」程度にしか思っていなかったのである。
だから、四辻でその男を見た時、九郎は逆に違和感を思えてしまったのかもしれない。
その男は辻に立ち、巻尺のようなもので道の幅を計ったり、何か金属の板のようなものをいじったりしながら手持ちの帳面に何かを熱心に書きとめている。そして道の表をある方向に向かってじぃっと視線を移動させたかと思うと、何か腑に落ちないという顔で首を捻った。
「おい、そこで何をしてるんだ?」
九郎は思わず男に声をかけてしまった。ただ、興味が湧いたので声をかけてみただけであるのに、何年も軍務についているとすっかり軍隊口調が身についてしまっていることに気付き、自分でも内心少しいただけないものを感じたのであるが。
「何?あんた、軍人さん?」
男はその声に顔を上げると、九郎を頭からつま先まで一瞥する。
「ああ、そうだ。それでおまえはこんなところで何をしてるんだ?」
「何って、ここら辺の竜脈を見てるのさ」
「竜脈?」
「そう、竜脈。この大地にはさ、竜脈っていう地下の気の流れってやつがあって、風水ではその流れの良し悪しでその土地が栄えるかどうか知ることが出来るのさ」
「風水?」
「そ、風水。大陸から渡来してきた地相学の一種さ。これでも俺は風水師でね。この帝都にどんな竜脈が流れているのか見て歩いてるって訳さ」
「その巻尺と、板みたいな奴でか?」
「ああ、そうさ。この板みたいなのは羅盤っていってね。風水師の必需品なんだよ」
男の手に握られているその金属板を覗き込んでみると、細かい文字で数字や方向などがびっしりと書き込まれた円盤がその上に嵌め込まれており、それを回転させることにより使用するようであった。
「なるほど、わかった。だが、こんな時間にあまりへんなことはしない方がいいぞ。俺は納得したが、警官などがこれを見たら難癖つけて引っ張って行きかねんからな」
「あはは。ご忠告ありがたくいただいておくよ」
風水師はそういって笑った。そして、手早く道具を片付けると、今思い出したかのように声をかけてきたこの物好きな軍人に向かってこう言う。
「ああ、そうだ。忠告してくれたお礼といっちゃなんだけど、俺からも軍人さんに一つ忠告しとくよ」
「何だ?」
「これから先の時間、当分の間、あんたのような人はこんな場所を歩かない方がいいね。少々遠回りをしても表通りを通って帰るんだね」
「わからんな。女子供じゃあるまいし、わざわざ帝国軍人を襲う様な物取りもそうはおるまいに」
その物言いに、九郎がやってきた方向へと去りかけていた男は背中をこちらへ向けたまま、その片手をヒラヒラさせながら言う。
「まぁ、鬼に会いたければ俺は止めやしないけどね」
彼はそれだけ告げると、九郎を残し一人夜の闇の中へと消えていった。
「ふ〜ん、やはり気の所為なんかじゃないな」
表通りへ出て、そのまま雑踏にまぎれるようにそぞろ歩いた末、風水師であるヒノエは滞在する宿へと一人戻ってきた。
そして、書付をめくりながら、その内容を吟味していくうちだんだんとその眉を顰め始める。
彼は手荷物の中から帝都一円の地図を取り出すと、畳の上にそれを広げ、その上に印を付けてゆく。
「こことここ。それから、ここか」
そして、全て写し終えたあとで腕を組みながらじっとそれを見つめた。
「竜脈の流れが不自然すぎるまるで誰かが意図的に流れを狂わせているような」
竜脈の流れを狂わせるということは、そのままその土地の繁栄の妨げにも繋がるのだ。
「誰かがこの帝都の繁栄を良しとしていないって、そういうことか」
ヒノエはそう呟くと、面白そうにニヤリと笑う。
「ひとつ、追ってみる価値はありそうだな」 
式神使い、地中に鬼を放つ

 

昭和。
新しく名付けられたこの年号に人々がようやく馴染み始めた頃。
梶原景時は数日前よりいつも通勤に利用している路面電車の駅で、不思議な人物を見かけるようになっていた。
まだ十代であろう赤い髪をしたその若い男は、どうやらいつも決まって同じ時間、同じ場所にいるようで、電車に乗るというわけでもなく、ただ乗降してゆく客だけをじっと見つめては時折何か思い出したように手持ちの帳面に何かを書いているようであった。
新聞記者という職業柄、彼は自然にその若者に興味を覚えるようになった。取材でこれまで様々な世界の人間と接してきたが、あの若者はおそらくこれまでに出会ったどの人物とも違うのではないかと景時にはそんな予感がしたのである。
そこである朝、いつも乗るはずの電車を一本やり過ごし、景時は思い切って青年に声をかけてみることにしたのだ。
「ねぇ、君ちょっといいかな?」
「あ?何か??」
いかにも胡散臭いといった目で自分を見る彼に苦笑しながらも景時は言った。
「ゴメンね〜。俺、別に怪しいもんじゃないから。知ってるかな?『帝都日報』って新聞。俺、そこの記者でさ」
「で?その記者さんが俺に何の用?」
「あはは〜。い、いやね。君、ここの所ずっと毎朝この場所で電車にも乗らないで乗客を見ては時々何か書いてるじゃない?何をしてるのかなぁ〜ってこれは仕事柄っていうより、純粋な興味なんだけどさ」
そのあけすけな物言いに面食らったのか、若者はぷっと吹き出す。
「駄目だなぁ〜、記者さん。あんた、そんなことじゃ出世できないぜ?」
「うーんそれ、よく言われるよ」
「だろうね。だけど、悪くない。いいさ、教えてやるよ。この帝都の人の流れを観察してるんだ」
「何の為に?」
「都市の成長と人口の増加は比例するからね。それにはこんな普段から住人の足になってる交通を使ってる人間の数やその内訳を調査するのが正確で手っ取り早い。ま、その為の確認だね」
「うーんでも、君別に役所関係の人間でもなさそうだし、学生って訳でもなさそうだよねじゃあ、それって何の為の確認なんだい?」
その問いに、若者は少し考え、そして「記者さんにゃ分からないと思うけどね」と前置きした後でこう言った。
「白虎の力だよ。なにせ、この帝都ときたら実に理想的な風水に恵まれた類稀なる土地だからね」
その答えに、景時はしばし己の目を瞬かせた後で口を開く。
「ねぇ君、一体何者だい?」
すると、若者はニヤリと人を食ったような笑顔を見せた。
「オレ?俺はヒノエ風水師だよ」
大正末期に起きたあの大震災の記憶も新しいこの復興目覚しい帝都に、一人の風変わりな若者が遙か紀州の地よりやってきたのは二ヶ月ほど前の事であった。
その通り名はヒノエ。本名を藤原湛増という。
家は熊野で代々神職を奉じる家柄であり、当然の如く嫡子である彼にもその系譜を継ぐ事が期待されていたのであるが、彼は己の見聞を広める為に遊学した大陸でそれ以上に魅了されるものと出会ってしまい、以降それに傾倒し、遊学の殆どの時間をそれを収めることに費やしてしまったのである。
勿論、だからといって家の事をすっかりないがしろにしてしまったというわけではなく、彼は身につけたその知識と先祖代々受け継がれてきた神道を上手く組み合わせることができないかと日々模索しているのだ。
その彼の出会ったものそれが風水だったのである。
「やっぱり帝都は何もかも桁違いだね」
停車した路面電車の中から続々と吐き出されてゆく人々を眺めつつ、道の向こう側の縁石に腰掛けたままヒノエは呟いた。
この日も彼は朝からここへ陣取り、こうして乗降する人々の様子を観察しては時々何かを書きとめている。
「あの震災で一面焼け野原だったのが、たった数年やそこらでそんなことがあったなんて気付かないくらいいや、それ以上の都市になっちまったすごいねぇ、この帝都って場所はさ」
ヒノエは立ち上がり、パンパンと衣服についた土を払うと歩き出した。
観察していた場所を変え、一定時間同じような観察をするのが現在の彼の日課である。
「人の数も桁違いだな。こうしている間にも地方からどんどん人が流入してきているのがこんな風に見ているだけでも手に取るようによく分かるよ」
彼は道行く人を眺めながら、誰聞くともなく呟いた。
道には引きもきらず大勢の人が行き交っている。その服装、髪型、歩き方などを見ているだけでもヒノエにはその事で様々な情報を知ることが出来た彼らが帝都生まれかそうでないか。あるいは帝都の住人なのか、単なる観光客か等々。
ここのところ、特に地方から出稼ぎできた者の数が著しいように思える。
「まぁ、この路面電車もまだまだ延伸するらしいし、地面の下では確か地下鉄とやらを作ってるんだっけね?働き手はいくらあっても足りないか」
大規模な土木工事が絶え間なく続く帝都。
その働き手として帝都の外より多くの人間が流入し続け、それら増えた人口に対応して住宅が、商店が、どんどん郊外へ向かって広がり続ける。
「道は白虎の象徴まさにその通りになってるってわけだ」
北に玄武。
南に朱雀。
東に青龍。
西に白虎。
東西南北に強力且つ均等な力を持つ四神を配する理想的な土地。
その力はかつての都である京をもおそらく凌ぐほどであろう。
何故ならば、この大地の下には大陸を源とする巨大な龍竜脈が横たわっているのだ。それは、大陸から起き上がった龍が水を飲もうとして低くその頭を下げた形となっており、丁度その頭の位置にきているのがこの帝都の真上なのである。
「まさになるべくしてなった理想都市ってわけだ」
そうでなければあの未曾有の大震災でほぼ全てが灰燼と帰したあの状態より僅か十年足らずで震災前以上の年へと生まれ変わることなどできるわけがない。
今や帝都は大東亜一と言い切っても申し分ないほどの大都市となり、更にその規模は日々広がっている。
それは普通の人間には見えない土地の力あってこそ成しうるものだ。
祝福された土地であるからこその奇跡の具現化。
風水師ヒノエの目にはそう見えていたのであった。
「理想的なんだけどさ」
何かが引っかかっていた。
人に見えていないものを感じ取る神職としての感覚と、大地の力を知覚し時としてそれに手を加えることで調整し土地をより良く変えてゆくことを生業とする風水師としての二つの感覚があるからこそ、彼はその違和感を感じ取れたのであろう。
竜脈が妙だ。
大陸より流れ込む竜脈の持つ力はこの帝都の中に入り、まるで生物の血管のように大小様々に網の目のような広がりと共に分散していった後、平野を抜ける頃には再び合流し太平洋の彼方へと去ってゆく。
土地全体にこの力が均一に働くことにより、この地は堅固な守護を結果的に受けることとなり、大地に繁栄を導くのである。
だが、そんな竜脈の一部に奇妙な異変が生じていることにヒノエは気づいた。
衰えているわけではないというのに、その流れが突然断ち切られる現象が起こっているのだ。しかも一箇所だけではなく、それは帝都のいたるところで生じている。
竜脈とは大地の気の流れであるから、現在のように絶えず土木工事が行われているこの状況下では偶発的にそのような事態が発生してしまうことは十分に起こりうる。
しかし、近頃発生している竜脈の断絶はそうしたものとは関係のないところで発生していた。
それは全体から見ればただの支流のひとつにしか過ぎなく、直接致命的な一撃を与えるわけではない。
だが、このように頻繁に竜脈が断たれ続けていけばその気人間でいうところの血液のようなものだの巡りが悪くなった竜はやがて衰え、その上にある土地への守護力もまた低下させてゆく。そして、それは
断たれた場所の住人達には何の関係性もなかった。そして、その全てに竜脈を断つほどの大規模な工事などもなかった。
誰かが、竜脈を断ち、土地を衰えさせるような真似をしているとでもいうのだろうか?
ヒノエはやってきた路面電車へと乗り込むと、その空いている席に腰掛けた。
地図と羅盤から彼が当たりを付けたその場所は、帝都の鬼門に当たる場所であった。
この風水的理想都市を観るにあたり、できれば羅盤などという無粋なものは使いたくはなかったのであるが、彼の気付いたその異変はごく微細なものの為、より正確に読み取るにはどうしてもこれに頼らざるを得なかった。
都市の急激な肥大化に伴いこの辺りにも急速に開発の波が押し寄せているとはいえ、まだまだ人家も少なく、電灯もいたってまばらである。
「これが人為的な仕業っていうなら、この付近にその手がかりがある筈なんだけどね」
夕暮れに包まれ始めていた周囲の気配は次第に夜のそれへと変化しつつあった。
おおよその方向までは見当もついたが、ここから先どうすればいいのかヒノエは正直なところ有効な手立てを持っていなかったのである。理想的な風水を持つこの祝福された土地で次々と消えてゆくその命ともいうべき竜脈その原因を突き止めるために、正せるものならば正したいという考えからではあったが、殆ど考えなしの勢いで来てしまったことに彼は苦笑する。
そうして人影がすっかりなくなってしまった駅前の外灯の下に立ち、周辺を見回していた彼の目にそれが留まったのは天の配剤か、それとも悪魔の悪戯だったのであろうか?
足にゲートルを巻き、大きな風呂敷包みを背負った男が坂道の方へと急ぎ足で歩いてゆくのが見えた。
―薬売りか。
初めヒノエはそう思ったが、薬売りにしては妙に身が軽いことが気になった。
足音らしい足音も立てず、膝をぴんと伸ばし、力強い足運びで歩いてゆく。
商人というよりむしろ将校のような歩き方ではないか。
ヒノエはその男に好奇心を持った。
飛ぶように坂を上るその男の足取りは恐ろしく速い。
よし、ひとつあの男を追ってみるかそう考え、彼は駅前を照らす光の輪の中を出た。その途端、妙な薄気味悪さに襲われ、足が瞬間動かなくなってしまう。
―何者だ、あれは?
ヒノエは逡巡したものの、勇気を奮い起こしその後を追う。
竜脈の消失に果たして関わりがあるかどうかはわからない。が、今目の前を行く男は社会主義者とも、どこかの国のスパイともはっきり異なる気配を持っていた。
それは単なる殺気などではなく、妖気としかいいようがなかったのである。
そして、どのくらいその男を追ったのであろうか。
濠の上にかかる橋を渡りきった時、ヒノエはなんともいいようのない不快な感覚を味あわされた。
それは魔物の肌触りとでも呼べばいいものなのであろうか。
生と死が交錯する熊野の神職の家に生まれ、そうしたものを幼い頃から近くにして育ったヒノエにとり、鬼・魔物というものは日常の一部といっても過言ではなった。こうした魔の住人が人里で共に暮らしている存在であるということもごく当たり前であった。
故に彼には『魔物を嗅ぎ出す』知覚が備わっている。
その知覚がこの橋を渡りきった時、激しく反応したのだ。
彼は慌てて濠の堤を覆っていた木陰へと身を隠し、橋の下を見た。
すると、その煉瓦で造られた橋梁の下から、橙色に光るぬらぬらとした物体が這い上がってくるではないか!
まるでトカゲかサンショウウオのように煉瓦の壁を這い登るそれは、なんと小さな鬼であった!
鬼達は素早い動きで壁を登りきると次々と歩道に這い出す。
そして、まるで踊りでもおどるかのような身振りを見せながら濠の脇にある小さな森へと向かい始めた。
一つ目の鬼がいる。
醜く腹の膨らんだ餓鬼もいる。
気違いのように手足を突っ張り、独楽のようにくるくると回転しながら進む鬼もいる。
どの鬼達も橙色の輝きを持ちながら、夜の歩道を行列しながら更新してゆく。
なのに、この堂々たる鬼の行軍に道行くものは誰一人気付かなかったヒノエの他は。帝都の市民はただせかせかとその場を歩きすぎてゆくのみである。
都市の人間は魔物を感じ取る感覚というものが鈍いのかとヒノエは思った。
その一方で鬼達の行動を見ているうちに直感が彼を襲う。
―こいつら、あの薬売りを追っている?
ヒノエは行列の先頭へと目を向けた。
森の奥に人影がある。それは彼がずっと尾けてきた男に間違いない。
彼は気付かれぬことを幸いに、行列の最後尾へそっとついた。
行列が森の中へと入ったところで、ヒノエは初めて男の顔を見た。
銀の髪と紫暗の瞳。
鋭く冷たいその視線は恐ろしく酷薄であるのに、その一対の瞳は鬼火のように燃えている。
しかも彼を驚かせたのは、薬売りが何時の間にやら白い軍人用の手袋をその両手にはめていたことだった。その甲には黒い文様が染め抜いてあり、ヒノエにはそれが西洋でソロモンの封印と呼ばれる五芒星と見抜いた。
男の動きは直線的だった。その身のこなしは男が明らかにかつて軍人であったか、もしくは今も軍人であるかを裏書きしている。
「―式神よ」
薬売りが初めて口を開く。ヒノエは木陰に身を潜めたまま耳を澄ました。
「式神よ、集い来たれ帝都を覆す時は来た。汝らは地を掘り、川底をうがち、竜の這い出す隋道を開けるのだ」
闇の中、男の声が凛と響き渡る。
「だが、帝都に第二の禍をもたらす竜は地中にいるものだけに限らぬ。この地に永遠なる破滅をもたらす為、俺は第二の竜をも呼び寄せよう!」
彼は冷たい笑みを浮かべ、空の一角を指差した。
釣られてヒノエも目を空に向け、その途端本能的な恐怖で彼は思わずアッと声を漏らしてしまう。
空には月が出ていた。
だが、見よ!それは尋常なるものではない。巨大な、あまりにも巨大な月!
その空を見上げた時に受けた衝撃が、一瞬ヒノエから従来の注意深さを奪い去ってしまった。声を出した拍子に鬼達が一斉に彼の潜む方を振り返る。
「―誰だ!」
薬売りの鋭い声が夜気を切り裂き、木陰に身を隠すヒノエに向かって急にざわめきだした鬼どもが彼を取り囲むべく立ち上がった。
しまった!
ヒノエは自分が窮地に落ちたことを感じ取ると、懐に持っていた護身用の小刀を引き抜き、濠の斜面の方へと後ずさる。
鬼どもが迫ってくる。それらからは明らかな殺気が滲み出ていた。
彼は振り返って、一気に斜面を駆け下りようとした。が、何歩も走らぬうちに一匹の鬼が彼の片脚にしがみつき鋭い爪が滑る。
痛っ!
ヒノエは苦痛を堪え、空いた方の足でその鬼を蹴りつけてどうにか振りほどくと更に濠の斜面を目指す。
その彼の背に第二の鬼がかぶりついた。牙が突き立てられ激痛が体中に走る。
手にした刀を横に払い一太刀みまうと、血がボタボタと滴った。それは鬼のものなのか自分のものなのか判別のしようもない。
ヒノエはそのまま地面に倒れるようにして、斜面を転がるとそのまま堀の中へと躍りこんだ。
バシャン!飛沫が上がり、冷たい水が全身を包む。
痛みの余り気を失いかけていた彼はその冷たさと水を飲み込んだショックから正気づき、慌てて水面へと浮かぶ。
鬼はもう体に取り付いていなかった。濠の水際に集まりしきりとこちらを恨めしげに見てはいるものの、決して水の中に飛び込んでこようとはしない。
―鬼は流れを跳び越せないのか!
昔から地元で信じられていた迷信が不意に彼の脳裡に甦る。
確かに鬼達は水の中に踏み込んでこようとはしなかった。奴らは流れを渡れないのだ。
ヒノエは必死に泳ぐとそのまま対岸へと辿り着き堤へと這い上がった。
そして、季節外れの水泳者を見つけて集まってきた通行人には目もくれず、黙したまま街路を渡り、暖を求めて近くの料理屋へと飛び込んだ。
突然ずぶ濡れの客に飛び込まれた店内では当然の如く騒動となったが、事情が分かるとその混乱もすぐに収まる。
ヒノエは温かい味噌汁をすすり、ようやく人心地がつくと、改めてガラス越しに月を見上げた。
今度見た月はいつもと変わらぬものであった。
だが、なんという夜なのだろう不気味な薬売り、鬼、そして巨大な月。
都市の闇がこれほど恐ろしい場所であったとは!
彼はまだ濡れている着物のまま、震えながら席を立った。
帰らなければとにかく一刻も早く帰って魔物落としをしなければ!
地の底深く穿たれた横穴に敷かれたレールの上を一台のトロッコが走る。
その車上には工夫と工事技師、そして面妖なことには銃を携えた軍人が数名乗り込んでいるではないか!
坑道沿いに取り付けられた電球の弱い明かりの中でトロッコの全面に取り付けられたライトだけが、まるでそこだけが現実であるかのように強い存在感をもって前方を照らし続ける。
ゴトゴトと重く低く響く振動音の中、時間が経過するにつれ次第にこのトロッコに乗車している全ての者の表情に緊迫感が漂い始めてゆく。
線路はやがて緩やかなカーブを終え、いくらか直進したところで不意にその終わりを迎えた。その先にはまだ線路が敷かれておらず、ここから先へは徒歩で進むしかない。まだ百数十メートルはあろうかという坑道の先には途中までは電球が設置されているが、少しも行かないうちにそれは途切れその向こうには漆黒の闇が横たわっている。そこから先へ進むには各々が携帯しているカンテラなりに頼るしかないのだ。
「よし、では周囲にくれぐれも注意を怠らず前進せよ」
軍人達の中にいた指揮官らしき男が声を落としてそう言うと他の者達は黙したまま敬礼をし、狙撃兵二名を残すとと現場の中から特に選ばれた屈強な工夫を先導役にして、短銃を手にした二名の兵隊がゆっくりと奥を目指して進み始めた。
周囲の明かりが完全に途切れ、体がすっかり闇に呑まれてしまうとまるで世界から隔絶されてしまったような錯覚が彼らを襲った。地面を踏みしめる己の足音すらも闇に溶け、土壁に染み出した地下水による湿気が次第に身体にまとわりついてゆく。
先頭の男が掲げる光源すらも拒む深い闇がそこにはあった。
その不快な感覚に誰もがその場にいたたまれなくなり始めた頃、少し慣れ始めた目が前方に蠢く影を捉えた。
「出たぞ!」
工夫が叫んだ。その声に兵隊達は手にした銃を素早く構える。
「もういいぞ、下がれ!」
工夫は言われるままカンテラを手にその場から後ずさる。
その後をついていた兵隊二人が代わって彼の前へと出た。
「撃てっ!」
彼らは蠢く数対の影目掛けて発砲した。耳を劈くような轟音が校内に響き渡る。
「よし、このまま敵を誘導しつつ後退!」
過去数回先へ突入した者達は闇と白煙の中、この奥に巣食った小鬼のような化物にことごとく襲われ、手酷い怪我を負わされたが為に闇雲に突入することを回避し、逆におびき出して倒そうとしているのだ。
だが、闇の中を抜け出しきらないうちに、彼らの一人が突然何者かに足元を掬われ地面に倒れこんだ。途端に地中から橙色に光る化物が顔を突き出すと、その極端に長い腕についた鋭い爪が倒れた兵隊に襲い掛かる。
兵隊は銃を奪われまいと咄嗟にそれを握りなおし、覆い被さろうとする化物の下腹部を力いっぱい蹴った。が、それよりも早くその爪が彼の服を引き裂き、血が飛び散る。
それを合図にしたかのように鬼が次々に現れた。兵隊達は狂ったように銃を乱射するが、現れる鬼の数はあまりにも多すぎた。
「敵が多すぎる。退却だっ!」
傷ついた仲間を引きずるようにして男たちはトロッコの車止めまで後退する。
追いすがってくる鬼をこれ以上近寄せまいと、待機していた狙撃兵が逃げる彼らを援護するものの如何せん鬼達の勢いがそれに勝ろうとしていた。
トロッコは全員乗り込んですぐに走り出したが、それに三尺ほどの鬼が一匹しがみつき中へ踊りこもうとする。兵の一人が銃尻を振り上げ、鬼の頭部に強烈な一撃を見舞う。
鈍く肉が潰れるような音と共に、粘液が男たちの顔に降りかかった。
それでもなおしがみつこうとする鬼を何度も何度も打ち据え、どうにか引き剥がすとトロッコは一気にその速度が上がった。
彼らは皆一様に安堵した。
と同時に、一向に埒の明かないこの異常事態にこの先どうしたものかと途方に暮れてしまう。
数週間前から、この地下鉄工事現場に現れた正体不明の鬼により工事は完全に中断してしまっているのだ。
だが報告を受けた鉄道会社幹部はそれに対し緘口令をしき、そして極秘のうちにこの鬼を平定する方針をとったのだ。
しかし、鬼どもは数を減らすどころか今でも十数匹のそれが地中にあって、工事妨害を繰り返し続けていたのである。 
護法童子、天の竜を駆る

 

武士の世が終わりを告げ、この国が新たな時代の幕開けと共に急速な近代化の道を走り始めて、はや半世紀を越えて久しい。
まるで古き鎧のような蛹を脱ぎ捨て、美しく羽化した蝶の如く変貌を遂げていったこの国はその急激な変化の代償もまた大きかった。
人々は新たなものと引き換えに、古来より連綿と受け継がれてきたものの多くをここで否定し、捨て去ったのである。
その際たるものが信仰人々は己の神を、仏を自らの手で打ち壊し、あるいは外国に商品として売り渡し、それらに対する敬愛の念をすべて塵芥と化した。
数多くの神社仏閣が廃され、信心の対象として忘れ去られていったのである。
故に。
そんな廃寺のひとつに鬼が巣食うことなど、造作もないことであったのだ。
季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。
緑は瑞々しい新芽の柔らかな萌黄色からよりその深みを増し、清流も麓よりもずっと遅く到来した春の訪れによってようやく溶けだした山頂付近の雪による冷たく澄んだ水によってその水量を幾分増しているようであった。
その沢の河原で数名の者が思い思いにこの少し早い川遊びを楽しんでいる。
だが、よく見るとその風景はどこか異質な趣を持っていた。
先程より、子供の遊びに興じている者といい、このような所に来ても何の反応も示さずにただ呆けたままじっと立ち尽くしているだけの者といい、皆一様に、何処から見ても立派な成人の男女であったからだ。
そして遊びに耽るそれぞれの者の近くには付かず離れずの距離を保ちつつも、それらとは明らかに違う雰囲気の白い前掛けをした女性ないし男性が何名か付いているようであった。
そんな変わった風景の中にあって彼女梶原朔は一人、河原に座り込み、ずっと何かをしていた。

その表情は相変わらずどことなく茫洋とおぼつかないものではあったが、この箱根の療養所へやってきてからの彼女はかなり回復の兆候を見せつつあった。
まだ、ぼんやりとしている時間は多いものの、以前のような奇矯な行動はほとんどと言っていいほどにそのなりを潜め、時には病とは思えぬほどに理性的な会話もするようになり、何よりも自分を訪ねてやってきた者が誰であるか認識できるようにまでになっていたのである。
その日は療養所の患者達の気分転換も兼ねて、幾人かがこの河原に連れて来られていたのだが、その中に朔もいたのである。
彼女はいつぞや見舞いに貰った菓子の空き箱を手に、河原を歩いては時々立ち止まって何かを拾い上げては丁寧に箱の中へと納めていた。そして、またひとつ探しものを見つけて拾おうとしゃがみこんだ時、不意に彼女の上に黒い影が差した。
「朔。何をしているのだ?」
その声に頭上を振り仰いだ朔は、逆光になっていた相手の顔を目を細めて確認すると、ほんの少し幼げな笑顔でこう答える。
「七福神よ、先生。七福神を拾っているの。ほら」
彼女はそう言って箱の中身を自分が先生と呼んだ者へと差し出した。
「あぁ、もうすっかり夏だなぁ〜」
梶原景時は汗を拭きながら、箱根山中の舗装もされていない山道を療養所で教わった通りに歩いている。
妹の朔を巣鴨病院の弁慶の紹介でこの療養所に転院させて以後も、暇を見つけては電話や手紙などで彼女の様子を聞いてはいるものの、巣鴨にいた頃に比べると直接顔を見に行くのは用意にいかなくなってしまった。流石にここまで距離が離れてしまうと日帰りは難しく、彼のその記者という職業柄もありまとまった休暇が取り辛いのである。
それでも、一日以上休みの取れる際にはできるだけここを訪れるようにしていた。
この日も、少し早めの夏季休暇が取れたので妹の様子を見にやってきたのである。
そして、療養所で妹達が河原へ向かったとの話を聞き、とりあえず手荷物だけ預かってもらうと景時は一人この場所へとやってきた。
「朔!」
それほど声を張り上げたわけでもなかったが、河原にしゃがみこんでいた朔はその声のする方を見た。
「あ、兄上」
「『あ』ってなんだい、その『あ』って?」
「うふふ。いらっしゃい、兄上」
朔は上機嫌そうに笑いを零すと立ち上がる。景時はこちらへやってくる妹の横に佇んでいた人物を見ると、深々と頭を下げた。
「リズヴァーン先生、妹がいつもお世話になっております」
「いや。遠路はるばるよく来られた。何もないところだが、今宵は妹御とゆっくり話などされるといい」
リズヴァーンはそう言うと、その場に二人を残して他の患者の様子を見に去っていった。
その後姿を見送りながら、景時は彼のうような医師を紹介してくれた弁慶に改めて感謝する。
遠く、独逸で精神医学を学んできた彼リズヴァーンがこの東の果ての島国に古来より伝わる伝説や伝承と符合した特有の症状に関心を持ち、研究をするようになったのはその国からやってきた医学留学生に負うところが大きかった。
その彼武蔵坊弁慶はこの欧州においても、オカルトや神秘学の一部として切り離されがちであるような事柄を医学的な側面から考えることで、新たな治療の可能性へのアプローチが出来るのではないかと常々考え、折に触れてリズヴァーンにもよく質問をぶつけていた。
初めのうちは馬鹿げた考えだと一笑に付していたが、彼の話を聞くうちに科学的な解明には自分達の子供の頃から持ち続ける固定観念を一度全て捨て去る必要があるのではと思うようになり、弁慶が帰国した後も独自で新たな道を開いていった。
その数年後に様々な偶然が積み重なり、その弁慶の国である日本で精神病専門の医療施設を作らないかという話が舞い込んできた。
そしてこの療養所が無事に設立し、迷信による誤解で満足な治療も受けられすにいた患者を受け入れ始めた頃、その後も手紙の遣り取りだけは続いていた弁慶から奇妙な症例を持つというその患者梶原朔を託されたのが今から半年ほど前の話であった。
「先程、妹御は河原でこのようなものを拾っていた」
夕食後、リズヴァーンから朔のその後の経過の説明を聞いていた際、ふと思い出したかのように彼が景時に言った。
「彼女はこれを確か七福神だと言っていたのだがどういったものか知っているならば、教えて欲しい」
「七福神ですか?」
首を捻る景時にリズヴァーンがハンカチに包むようにしてとってあったそれを広げて見せる。
「それは彼女が私にくれたものだ。『福禄寿です。先生にもあげますね』といって、楽しげに笑っていた」
それは奇妙なものであった。
昆虫の繭のようなものに細かな小石がいくつかくっついてできているそれは、どこか人形のような形をして見えないこともない。景時は腕組みしながらそれをじっと見つめ、うーんと唸りながらしばらく考え続けていたが、やがてポンと手を叩くと言った。
「あぁ、思い出しましたよ!俺、確か岩国の錦帯橋にこれと同じお土産を売ってたのを見たことがあります。これは人形石っていって、この白いのはトビゲラっていう河原に住んでいる虫の繭なんですけどね、中にはこんな風に時々河原の小石をいくつかくっついて出来てるやつがあるらしいんですよ。ほら、よく見るとなんだか人みたいに見えるでしょう?だから、人形石っていうんですけどね」
「人形石」
「先生の持っているそれは福禄寿だと朔は言っていたんですね?なら、縁起物ですよ。福禄寿というのは幸運と金運、そして長寿を恵んでくれるという神なんです。よかったら、持っていてやってください」
その言葉に、リズヴァーンは微かな笑みを浮かべる。
「そうかありがとう。大事にするとしよう」
「七福神か」
景時はリズヴァーンの部屋を辞すると、朔のいる病室へと向かいながら呟いた。
七体全て揃えれば、幸福になるといわれる人形石。
朔は河原でその七福神を一心に探し、拾っていたのだという。しかも彼女はリズヴァーンにこう言ったのだ。「先生にもあげますね」、と。
これは果たして何かの兆しなのであろうか?それともいまだ魂を抜かれたままの夢中の行為にしか過ぎないのであろうか?
彼は、妹の病室の扉をゆっくりとノックした。
そこでは夏草がぼうぼうと生い茂り、その侵攻を誰に阻まれることがないどころか省みられることすらない。
繁栄華やかな帝都中心よりそうも遠くはないというのに、このようにまだまだ立ち遅れている場所などまだいくらでもあった。
元々小さな村落が一つあるだけのこの辺りは、中央への出稼ぎによる人口減と明治の頃の廃仏毀釈運動の煽りをまともに受けてしまった地域のひとつであった。村に唯一存在していた寺は檀家が減ってしまったのと、住職のあとを継ぐ者がいなかった為に結局廃寺になってしまった。以来、寺は荒れるにまかせる状態となり、あの震災の折には半壊したがそのままで放置された。
街道筋から離れている分、滅多にこの辺りを通る者もいない。
だから、その荒れ寺についてやがて噂が流れるようになると、土地の者は皆あそこならばさもあらんと一様に思ったのに違いなかったのである。
寺の近くて青白い鬼火を見たという話からそれは始まり、外壁の傍を歩いていたら、誰もいないはずの中から大勢のペチャクチャと喋る声が聞こえたとか、崩れかけた本堂の屋根の上で一本足の妖しが踊っていたとか。
そんな噂話が出てくると、決まって興味本位に覗きに行きたがるものがいる。
そうした者が何人も夜半に廃寺に出かけていった。が、戻ってきた彼らはある者は何もなかったと言い、ある者はそれから先その話をすることをピッタリと止めてしまった。そして、何時の頃からかこの付近の住人は皆、この廃寺についての話を一切しなくなっていった。
そんな廃寺にまつわる数多くの噂話の中のひとつにこのような話があったのであるが、噂話の数は枚挙に暇がなかった為に結局のところ数ある噂話のひとつと誰も気にも留めなかったものがある。
漆黒のマントをまとった将校の幽霊が寺に入って行くのを見た。その将校は月光を弾くような銀色の髪をした男であった、と。
夜の帳の中、荒れ寺の姿は闇よりも更に濃い影となり、そこにまるで真夏の悪夢のように存在していた。
少し離れた野原ではあれだけ鳴いている虫の声がこの周囲だけ聞こえない。それがこの場所が普通の場所でないことを暗黙のうちに裏付けしているのだ。
だから、本能的に危険を感じ取ることのできる動物や昆虫などは決してこの場所に巣をかけないし、近づこうともしない。それどころか、息を潜めてその身を隠しているかのようにさえ思える。
― 一体、何から?
その闇は本質的にこの世とは異なるものであった。
それを例えようとするならば。
地獄の翳り。
死の翳り。
終末の翳り。
その闇の只中に、赤い光が踊る。
まるで地獄の番犬の口中で閃く舌のように揺らめいているのは炎。
その前に一人の男が坐し、加持を修していた。
男は孔雀明王呪を唱えつつ、全身を痙攣させていた。
男の前には護摩壇が置かれていた。炎はその中にあって、まるで彼の呪に呼応するかの如く狂ったように燃え盛り続ける。その光が男の顔に不気味な陰影を与えていた。
男の顔は眼前の火を浴びて、鬼の如く赤く染まっている。だが、一度闇に染まるとそれは一転し、死人のような蒼白へと変わる。
平知盛!
わななくように震える彼の唇からは途切れることなく、孔雀明王経の文言が漏れ続ける。
もはや自らが怨霊と化してしまったかのように、知盛の口からは現世の全てを呪詛する為の経文が続く。
今の彼には帝都破壊に必要な手駒が欠けていた。
己の忠実な手足として常に身辺に置いていた式神は新たな目的の為、全て地下へと放ってしまっている。しかも、彼には薄々予知することがあった地下へ放った式神達は激闘の末、おそらくは二度と地中から出られぬ運命を辿るであろう。
となれば、知盛には新たな鬼神を得る必要があった。式神たちが地の竜を駆るのとほぼ同時に、それよりも更に強大なもう一頭の竜を捕らえることのできる鬼神を!
彼の鬼火のような目の中に地下で工事人達と死闘を繰り広げる式神の姿が映ったが、今は地中に目を向ける時ではなかった。
彼の意識は再び孔雀明王経へと向かう。
そうして一体何時間念じ続けたのだろう。彼の頭上にある破れた天井の向こうに見える天が奇妙に歪曲したではないか!そして、その一点に青白い炎が点ると、それはぐんぐんと大きさを増し急速に地上へ近づいてくる。
まるで天から落下した星のように光を放ち続けるそれは、やがて形を変え始めた。それは月のように青白い顔をした丸顔の童子だった。支那服のような奇妙ないでたちをし、青い雲に乗ったそれが更に地上へと近づくにつれ、その突き出した片手に小さな車輪が握られているのが見えた。それは運命を運ぶという『時の車輪』。そして、もう片方の手には黄金色の索の束世に仇なす魔物を縛り上げるという『金剛綱』が握られていた。
知盛は全身を更に震わせながら祈り続け、出し抜けに喝!との一声を轟かせる。
その途端、地上へ向かっていた童子の瞳のない青い目がカッと見開かれる。
その目に宿ったものは狂気!復讐!そして、破壊!
それを見た知盛は満足そうに笑う。
「クッ来たな護法」
彼はその術で天空の彼方より護法童子を呼び寄せたのだ!なんと仏法の修行者が使役する使い魔であるそれを、知盛は帝都破壊の第二軍としたのである。
護法童子は護摩壇の穂脳の上に立ち、両脚を開く。そして己が手にした金剛綱を天に向けて投げつけた。投げられた一本の索はさながら蜘蛛の糸の如く、途中から四方八方へと広がってゆく。そして、あたかも生きているかのように天へと這い登っていった!
索の先端は天空高く伸び、既に見えなくなっていた。が、知盛は念視することにより、その行く先を見る。索は見事に北斗七星へと巻きついていた。童子は続いて、その幼子のような風貌には全く似つかわしくない力を持ってその索を手繰り寄せると、片手に持った車輪にそれを絡めて力いっぱい車輪を回しだす。
ギリギリ。
と車輪が唸ると、ヒイヒイ。
と索が悲鳴を上げる。そしてその索に絡めとられた北斗七星が、まるで生け捕られた鯨のように身を捩り、吼える!
“クックク”
なおも孔雀明王呪を唱えつつ、知盛は心の中で笑い声を上げる。
もう一頭の竜を捕らえた!
護法の索に、帝都破壊の為の巨竜がかかったのだ!
護法が更に車輪を回し、虚空を泳ぐ北斗七星がまたもその身を捩る。
「クッ」
知盛はついに堪えきれずに笑いを漏らした。
もはや黒龍の力など必要ではない。彼は己の行く手を阻む敵を全滅させる切り札を手に入れたのだ。
護法童子が更に車輪を回し、天空では天の竜が苦しみもがく。
知盛は笑った。
天の竜よ、苦しむがいい。
俺はお前を駆り、地の竜が果たせなかった破壊をお前によって成就しよう。
知盛は狂ったように笑った。護摩壇の炎はなおも踊り続ける。
その地獄の炎の中で、表情というものを持たぬ護法童子だけがまるで機械人形のようにただひたすらに車輪を回し続けていたのであった。 
白き龍の神子、花会を執り行ふ

 

ジリリン!ジリリン!!
あれほど厳しかった夏もようやく過ぎ去り、日が傾く頃には涼しげな風が流れるようになり始めたこの日。
ある下宿屋の玄関脇に設置された電話が廊下の静けさを突如打ち破り、高らかに鳴り出した。
大震災後に建造された二階建てのこの下宿屋は、下宿屋と一口に言っても西洋風のアパートメントに近い構造をしたモダンな造りをしていて、壁も比較的厚く、隣同士の物音が響きにくい。そんなこともあり、部屋代は少々値が張るというものの、音楽学校の学生や彫刻などをする美大生といった学生を初め、現代で言うところのプライバシィを求める独身の勤め人などにも人気がある。
ジリリン!ジリリン!!
生憎、電話室脇に居を構える管理人は外出していて留守のようである。何時までも鳴り響くその音にようやく気付いたのか、階下に住む男子大学生が部屋から出てくると電話室の扉を開き、受話器をとった。
「はい、もしもし」
この時代の電話はまだまだ一般的ではなく、呼び出しが当たり前である。
鳴った時には基本的には管理人が取ることになってはいるのだが、不在の時には気付いたものがとる決まりとなっており、そうなると必然的に階下の者が取ることが多くなってくる。
「あぁ、はい。今呼びますので」
その男子学生は受話器を交換機の上に静かに乗せると。電話室を出て二階へと続く階段へと向かった。
「おーいっ、有川!有川将臣!電話だぞーっ!!」
すると、少しの間を置いて上の階のどこかの扉が開く音が聞こえ、次いで「おぉ、悪ぃ!今、行く!!」という大声がした。そして、二階の廊下をバタバタと走ってくる音が聞こえ、すぐに階段を駆け下りてくる。
「有川、電話だぞ。鎌倉の弟さんから」
「おうっ、サンキューな!」
将臣は電話を取ってくれた下の階の学生に礼を言うと、早速電話室へと向かう。
「譲から電話って珍しいな。家で何かあったか?」
そう呟きながら、彼は上げてあった受話器をとると開口一番、「もしもし、俺だ!」と言った。
すると、電話の向こうから聞こえてきたのは生真面目を絵に描いたような自分の弟の声ではなく、クスクスと笑う女の声。そして、声は言った。
『将臣くん?久しぶり!元気だった?』
その声に将臣は面食らう。
「お、おい。おま望美か?」
『そうだよ。他に誰がいるっていうの?』
郷里である鎌倉から帝大に進学が決まり、将臣が上京して既に三年近く会うことはなかったが、物心付いた時からいつも一緒にいた幼馴染。その声をそう簡単に忘れるわけがない。
望美と呼ばれた電話の向こうの声の主は、将臣の反応にひとしきり笑った後でこう言った。
『いきなり驚かせちゃってごめんね。実は譲くんに頼んで私がここに電話をかけてもらったの』
この時代、家族や婚約者のような特別の関係でもない限り、若い女性が男のところへ電話をすることなど気軽に出来るものではなかった。大抵の場合はそれは女性側の恥とされ、時として醜聞の種となる。
それは例え、幼い頃から共に育った幼馴染であっても殆ど同様であった。それ故に望美は彼の弟である譲に電話をかけてもらい、将臣を呼び出してもらったのであろう。
「それは分かったがで?お前が譲に頼んでもわざわざ俺に電話をしてきたってことは、何かあったってことなんだよな?」
将臣は言った。
急ぎの用でないのなら、わざわざこんなまわりくどい方法をとってまで望美が彼に連絡をつけようとするわけがない。
上京してから三年近くも郷里に帰っていない将臣ではあったが、来月は彼の祖母の七回目の命日である。流石にこの時は帰ることにしていたのだ。
彼の実家が氏子である春日社からは神子である望美もそれに出席することになっており、彼女がそれを知らない訳はない。否が応でもその時には顔を合わせることは互いに分かっているのだ。
「望美?」
そのまま黙ったままの幼馴染に呼びかけると、彼女はしばらくしてから意を決したかのように口を開く。
『うん、流石は将臣くんだよねあのね、実は私』
「え?なんだ??」
そしてその後に続いた言葉を聞いた将臣は思わず目を剥いた。
「ちょ、ちょっと待てっ!そりゃ、どーゆーことだっっ!?」
『どういうこともなにも』
望美はそういうと言葉を切り、そしてまた言った。
『とにかく、帝都へ行くことになったから、着いたらよろしくね』
「おいおい」
将臣は頭を抱える。
有川家が代々氏子を勤める『春日社』は応龍の陽の化身である白龍を祭る由緒ある神社である。
そして、春日望美はその神社の一人娘であると同時におよそ百年ぶりに現れた『神子』でもあった。
将臣と譲の兄弟は幼い頃から彼女の遊び相手として、そして神子の護り人としての任を担ってきた。
神子という存在はそれほど稀なもの神子がこの世に現れるということは必ず何がしかの意味がそこにある。
故に、彼女は子供の頃から殆ど外の世界とは切り離されたような環境で生きていかざるをえなかったそう、少なくとも将臣が帝大に合格し、鎌倉を離れるまでは。
彼が大学進学の為に上京することになった時、氏子筆頭である両親の大反対にあったのは言うまでもない。
神子の護り人の役割を捨てて帝都へ行くとは何事かと、すわ勘当という騒ぎにまでなったのである。
ところが、その騒動を仲裁し治めたのは他ならぬ神子の望美であった。当時まだ十五歳であった彼女は、大の大人である将臣の両親にこう言ったのだ。
「白龍の真の姿である応龍は帝都を守護する龍。その帝都へ私の護り人である将臣くんが行くことは決して道に外れてはいないわ。だから、行かせてあげて」
そんな望美の言葉で、結局彼の両親も渋々ながらそれに納得し、将臣は帝都へと出てくることができたそれが今から三年程前の話。
「わ、分かった!分かったよ!!で、何時こっちに来るんだ?」
だが、箱入りといっても望美はただの箱入り娘ではない。その行動力と無謀ぶりに子供の頃から散々手を焼かされてきた、爆弾つきなのである。
「なんだって、明日だぁ〜〜〜っっ!!??」
将臣の驚愕の叫びが静まり返った下宿屋の廊下に響き渡った。
あぁ、今私は夢を見ているんだと春日望美はそう思った。
今彼女が着用しているものは日頃着ている袴であるけれど、数刻ほど前に夜着に替えて床についたのをはっきりと記憶している。
この日はどこかおかしかった。
眠る前も眠ったあとも違和感のようなものを感じている。
気分が妙に高揚しているのだ。
何かが来るような。
何かが変わるような。
そんな奇妙な高揚感の出所が望美には皆目見当がつかなかった。
これは吉兆なのか?
それとも凶兆なのか?
夢の中で目覚め、ゆっくりとその身体を起こした望美は数日前から漠然と感じていたこの高揚感がより一層形を成し、心を支配していることに気付く。
これは良い事であり、同時に悪い事でもある。
彼女はそう思った。
そして、それが確信へと変わった瞬間、急に目の前に巨大な姿をしたものが彼女の視界を覆った。
“これは白龍?”
望美は己の前にいるものの正体をすぐに悟る。
彼女の生家である春日社の祭神にして、帝都の守護神たる応龍の陽の化身。
創造の力を司るといわれる白き龍神。
そして望美を神子に選んだ神。
『白龍私に何を言おうとしているの?』
彼女は龍へと呼びかけた。すると、龍は無言でその首を彼女の足元へと向ける。
それに釣られるようにして足元を見た望美は、今の今まで地面だと思っていた足元が実は空の上であるという事実を知った。
『此処は何処?』
足元には夜の街とおぼしきものが広がっていた。
夜であるというのに、そこは彼女の知る場所よりもはるかに明るい。
広い道路。そしてそこを行き交う自動車。
明るく路上を照らすのは、たぶん前に話を聞いたことのあるガス燈であろう。
そうしたものに取り囲まれるようにして黒々とした木々の影に覆われ、さらにその周りを堀でめぐらせた広大な敷地。そしてその中心にある建築物が見える。
『ひょっとしてこれは宮城?天子様が住んでいらっしゃるというねぇ、そうなんでしょう、白龍?じゃあ、此処は帝都なの?』
帝都。
生まれてこの方鎌倉から外へ出たことがないといっても過言ではない望美にとって、そこはどこか現実感を伴わない場所であった。
だが、彼女を守護する白龍の真の姿である応龍は、そもそもこの国の中心である帝都を守護する龍である。つまりは望美と帝都という場所は決して無関係な場所ではない。その縁は彼女が白龍の神子として選ばれた時点から常に存在していたのだ。
『これが帝都』
天の川を地上に降ろしたら、さしずめこのようになるのではないかと思ってしまうほどの輝きを持った都。
数年前、未曾有の大地震に見舞われ、一面の瓦礫の山を化したと聞くがそのような悲劇の面影は微塵もない。都市全体を包む繁栄と活気がこのような高いところから見ても伝わってくるのが分かり、望美は無意識に感嘆の声を漏らした。
が。
その夜の帝都の一角から突如、真紅の亀裂のような光が走った。
そして、それはみるみるうちに帝都全域へと広がり、その隙間から血煙のような光が噴き上がるのを望美は目撃する。
『火事!?ううん、違う。あれは』
一瞬火災が起きたのかと思った望美であったが、それが炎とはまるで性質の異なる、もっと禍々しいものであることに気付く。
『あの亀裂は竜脈?竜脈が壊されている?』
いや、あれはただ壊されるといったようなものではない。
あの血のような赤い光あれは竜脈の穢れだ。
穢れにより、大地に住む地の龍が断末魔の咆哮を上げ、苦しみのたうつ姿なのだ。
『白龍』望美は傍らにいる自分の龍を見る。
白龍は何も語ろうとはせず、だが哀しげな目で帝都の災禍を見つめるのみであった。
『白龍、近いうちに帝都がああなるって言うんだね?』
瀕死の地の龍がその苦しみに耐え切れず暴れれば、間違いなく前の震災以上の災厄が帝都を襲うだろう。
いまだに苦しむ大地の龍をその場に縫い止める巨大な五芒星が望美の目には見える。
『誰かがこの帝都を呪っているそして、その呪いに使われているのは』
数年前に黒龍を祭る梶原の社から盗まれた逆鱗。
『私がううん、私も此処へ行く。ついにその時が来たってことなんだよね?』
帝都。
応龍の加護を受けた繁栄の地であるこの場所を、何物かが長い時をかけて呪詛を施した。
自分と対の神子である梶原朔はそのような罠がまだ芽を吹かないうちにかの地を訪れ、結果正気をなくしてしまった。
それもまた、今にして思えば呪詛を完成させるための大きな輪の一端であったのだろうか?
黒龍の力が弱まったが為に応龍としての力の均衡は崩れ、かの地の霊的防衛力は一層弱まった。そこへ畳み掛けるように仕掛けられる地の竜への呪詛。
このまま、こうして安穏と手をこまねていているわけにはいかないのだ。
応龍の力が弱まっているということは、その半身である白龍の力も次第に弱まっているということだ。加護を得られる今のうちに地の龍を穢れから救い、放置しておけば帝都を遠からず襲うであろう消滅の危機を回避しなくてはならない。
望美は理解した。
百年ぶりに自分が神子として龍神に選ばれたのは全てこの日の為であったのだと。
『分かったよ、白龍』
望美は凛とした眼差しを足元に広がる帝都へと向けながら言った。
『私は帝都へ行かなきゃいけない』
「どういうことなんですか、先輩!?」
春日社の奥殿。
そこで告げられた言葉に、彼女の幼馴染であり神子の護り人でもある有川譲は言った。
「うん、今言った通りだよ。私は帝都へ行く。ううん、行かなきゃいけない」
「ですが!先輩が視たその占夢通りとすれば、今の帝都には呪詛がかけられてるってわけなんでしょう!?そんなことをやってのけるその相手と、場合によっては戦うことになるって事なんじゃないですか?!」
「うんたぶん、そうなると思う。話し合って穏便に済ませることのできる相手なら、こんな真似初めからしないもの」
「危険です!俺には到底納得できません!!」
「大丈夫だよ。私には白龍の加護だってあるし、何よりも譲くんや将臣くんっていう頼りになる護り人がいるものそうじゃない?」
そう言っていつもと変わらぬ様子でニッコリと笑う望美を見て、譲にはそれ以上もう何も言えなくなってしまった。
白龍の神子とその護り人それがどんな役割を持ち、何をせねばならぬのかは幼い頃から散々聞かされてはいた。だが、それはあまりにも現実感が希薄で、譲には半ば夢物語のように思えていたのである。
このまま年月を経て、やがてその役割は次代へと引き継がれ、そして終わるのだと。何時の日かそう思うようにさえなっていたのだ。
だが、それはついに現実のものとなった。
彼女の対となる黒龍の神子、梶原朔が気を病み欠けた今、帝都にかかった呪詛を払う最後の切り札はおそらくこの望美だけだ。
「私は未熟な神子だと思う。でもね、いざとなったら譲くんたちが助けてくれるって、私信じてるから」
「先輩分かりました。俺にはもうこれ以上何も言えません」
「ありがとう。でもね、私だってそれほど馬鹿じゃないよ。今の帝都へ行く以上、できるだけの事を此処でしてから行くつもり」
「どうするつもりですか?」
問われた望美は、その表情を引き締めた。
「私はまず、帝都に呪詛をかけている相手がどういった者なのか、それを知ろうと思う」
「じゃあ、景時さんに連絡を?」
「うん、でもそれは後。景時さんには向こうでお世話になるし、連絡はしないといけないしその話も聞かなきゃいけない。でも、今の私は他人の目を介さずに自分のこの目で張本人を見る必要があるの。こんなことをする相手の意図と、その力量を知らなきゃいけないの」
彼女は静かに立ち上がると幼馴染に背を向け、奥殿の扉に向かい歩いてゆく。そして、扉の前で足を止め、振り返らずに言った。
「私はこれから花会(かかい)を執り行うわ。そして、その後で上京する。譲くんも悪いけど」
「そんな水臭い事を言わないでください、先輩。俺は貴方の護り人です。何処までもお供しますよ」
その言葉に泣き笑いのような表情で望美は振り返る。
「ごめんね、迷惑かけちゃって。その上、向こうへ行けば将臣くんまで巻き込む形になってしまう」
「いいんですよ、あの人は。かえって黙ってたら「俺だけが除け者かよ」とか言って怒り出すに決まってるんですから」
「ふふっ、そうかもしれないね。じゃあ花会の間、悪いけど」
「はい、弦打ちは任せてください」
「それで、その後に将臣くんに連絡したいんだけど」
「ええ、電話でしょう?うちの家からかければいいですよ。あぁ、その前に景時さんに連絡を取った方がいいですね」
「いろいろありがとうね、譲くん。じゃあ、私行くね」
望美は再び前を向くと、その姿は夜の闇に溶け込むように消えていった。
帝都・中央駅。
太陽はすっかり西へと傾き、黄昏の光は次々と駅のホームへ吸い込まれるように入ってくる列車のそれぞれの車体を黄金色へと染め上げる。
ホームへと停車した車両からは大勢の乗客が吐き出され、急き立てられるかのように足早にその場を去ってゆく。まるで、今この時この場に留まる事が恐ろしくて堪らないかのように。
有川将臣は遠く九州を発ち、山陽道、東海道を経てようやく此処まで辿り着いたその列車が酷くゆっくりとしたスピードで自分のいる
ホームへと滑り込んでくるのをどこか非現実的な気分で眺めていた。
やがて客車の扉が開き、乗客が次々と降りてくる中に彼は自分の見知った顔を捜そうと忙しげにその視線を動かし続ける。
そうして、人の波が引き去りかけたその時、彼は一両の客車から一人の若い女が降りてくるのを見た。
女性というにはまだどこか幼く、少女というにはその域を抜け出しつつ見えるその女は、ここ帝都ではよく見かける女学生のような袴姿でタラップを一段降りたところで立ち止まり、後方を振り返った。
「譲くん、早く!置いていっちゃうよー」
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ、先輩。心配しなくとも兄さんがこのホームまで迎えに来てくれているはずですから」
「うん、それはそうなんだけど」
「望美!譲!!」
その会話に確信した将臣が大きな声で二人に呼びかけると、彼らはそこで初めて雑踏の向こうで手を振る正臣に気づく。
「将臣くん!」
「兄さん!」
将臣が足早に二人のところまで近づくと、譲が二人分の荷物を客車から運び出しホームの上に降ろすところであった。
ほぼ三年ぶりの再会であった。
「うわー将臣くん、なんだかすっかり帝都の人になっちゃったねぇ〜。洋装が様になってるよ」
望美が久々に会った幼馴染の姿を上から下まで観察して述べた感想に、将臣は頭を掻く。
「あのなぁ〜、おまえそれホメてんのか?洋装なんてこの帝都じゃ別に珍しくもなんともねぇんだよ」
そう言うと、彼は望美の分の荷物の入った鞄を持ち上げた。
「さ、とりあえず移動しようぜ。何時までもこんなところにいたってしょうがねぇからな。俺もお前達にはいろいろと聞きたいことがあるし」
将臣は二人の先に立つと、ホームから改札へと向かう階段へと歩き出す。
「そうですね。行きましょうか、先輩」
「うん」
望美は促されるままに歩き出しかけ、ふと駅全体を包む夕陽の色にほんの少しだけ眉を顰めた。
なんという不吉な色。
本来ならば、この列車が到着するのは昼間の筈であった。
それは一刻でも早くという思いも勿論あったのだが、同時に事が事であるだけに帝都へ足を踏み入れる時刻もまた重要であったからだ。
呪詛された地脈。そして、古から多くの怨念を封じ、祟り神から土地の守護神へと転じさせてきたこの地にあっていまだまつろわぬ怨念、そしてそれに引かれて集う鬼の類が力を持たない昼日中に望美は帝都入りを果たしたかった。
だが、故意か偶然か彼女たちの乗る列車は遅れ、到着したのは逢魔ヶ刻という皮肉な時刻。
『白龍、どうか私に力を貸して』
鮮血のごとき真紅の夕陽を全身に浴びながら、望美は心の中でそう呟くのであった。 
要石と守護聖女

 

このところ、帝都のあちらこちらで奇妙な出来事が起きているのだそうだ。
「出た?出たって何がどうでたんだい?」
その噂話を職場の同僚がしているのをたまたま小耳に挟み、梶原景時は聞いた。
「あぁいや、なんでもね、ここのところ帝都中で噂になっている例のアレが給仕の子の近所でもあったらしいんだよ」
「?アレ?アレって何?」
「え?なんだ梶原、お前知らなかったのか?!最近帝都中で評判じゃないか??」
お前、それでも新聞記者かよ、と藪蛇よろしく突っ込まれ、いやぁー面目ないと景時は頭を掻く。
そして、ひとしきり笑いの種にされた後で景時はその奇妙な出来事を聞かされたのである。
「石?石ってあの石だよね?」
「おいおい、梶原〜、石が石じゃなかったら他の何だって言うんだよ。石だよ。ただし、最低でも一抱えは裕にあるようなこれくらいの大きな石」
「は?俺が聴いたのは石は石でも石像だって聞いたけどな。なんでも石仏だとか」
「ちょっと待て。俺は二宮尊徳像だって聞いたぜ。小学校の校庭に置かれてたんだと」
どうやら、「石」という点では全て共通しているのだが、その形状は人により話の内容に喰い違いがあるようだ。
ともあれ、何処の誰とも知れないものが帝都中に石を置いて回っているということだけは確かなようであった。
「ふーん変わった人もいたもんだよね。一体何処の誰なんだろう?その物好きさんは」
景時は面白そうにそう呟いた。
まるで夜の深い闇が世界を覆い尽くしているようであった。
常ならば、虫の声の一つくらいは聞こえるはずであるのに、その夜は何故か周囲を取り囲む森の中は息を殺したかのように静まり返っていた。
しばしの時が流れ、月を覆い隠していた雲が途切れた。そして一条の銀光が降り注ぎ、一人歩みを進める少女の姿を捉える。
白装束に白鉢巻姿の少女は黙したまま、ただひたすらこの社の裏山の上にある森の奥つ方を目指していた。
そのうちに小さな建物の影が見え始めた。彼女の行先はどうやらそこであった。
それは納屋と呼んでも差し支えないほどに粗末な造りをしていた。
彼女はそんなことには目もくれず、滅多に誰も触れてはいないのであろうその引き戸に手をかける。
か弱い乙女の力ではとても開きそうに見えなかったそれは、まるでそこに初めから何もなかったかのようにするりと開き、彼女は滑るようにしてその身を中へと入れるとまた元のようにぴたりと戸を閉めた。
真の闇が少女を包む。
やがてカチカチという軽快な音と共に、ポゥと小さな炎が点った。
最初、藁束に付けられたそれは小枝へと移され、次に薪へと移され次第にその姿を大きくしてゆくと共に炎が生み出す光は小屋の内部を明るく照らし始める。
一人、このような時刻に現れたその少女の名は春日望美という。
彼女こそ、応龍の陽の化身たる白龍の神子であった
「望美ちゃん?」
その声にしばし意識をどこかへやってしまっていた望美ははっと我に返ると、伏せていたその顔を上げた。そこにはこの家の主である景時が心配そうに自分を覗き込む姿があった。
「あ、ごめんなさい景時さん」
「いや、それはいいんだけどね。でも、ホントにゴメンね。折角低とまで出てきたんだし、いろいろと案内してあげたいんだけどさぁ」
「ううん、気にしないで下さい。私の方こそ無理を言ってごめんなさい。本当なら、ちゃんと宿を取った方がいいんだけど、何時までいるか分からないから」
「そんな、水臭い事言わないでよ。望美ちゃんは俺にとっては家族同然なんだから、うちをどんどん使っちゃっていいんだよ。幸い、部屋はあるんだし」
「ありがとうございます。本当、こんな風にに居候させてもらうだけでも十分助かってますよ。景時さんはお仕事忙しいんだから、それ以上私に気を使わないで下さいね」
「うーん、そんな風に言ってもらえるとありがたいんだけど、俺としてはやっぱり心苦しいなぁ〜」
「いいの。それに私だって此処でやることがあるんだし」
「そっか」
景時はそう答えると、少し哀しげな表情で言った。
「ねぇ、望美ちゃん。俺って役立たずだよね」
「え?」
「知ってるだろ?朔の時だって、守ってやるどころか逆にあんな目に遭わせてしまってあの男に引き合わせたのはそもそも俺なんだよ?俺がもっと注意さえしていれば、朔はあんな目に遭わずに済んだんだ」
「景時さん」
「落ち着いたとはいっても朔はいまだに夢と現実の狭間を彷徨ってる。治してやりたくても俺の力じゃどうにも出来ない。情けないよね。今度の事だってそうだ。白龍の託宣で君がこんなところまで出てきたっていうのに、俺は君に何の手助けも出来ずにこうしてただ見ていることしかできずにいる」
「そんなことないです!」
突然の大声に景時は驚いて目をぱちくりさせた。すると、目の前の望美が肩をいからせ、一点の迷いのない目で彼を見据えてこう言った。
「その人のやるべきこととやるべき場所、やるべき時というのは誰も彼も同じじゃないんです。皆それぞれ違う役目がある。私には私の、景時さんには景時さんの」
「俺の役目?」
「はい。だから、そんな風に言わないで下さい。そんな景時さんを見たら朔だって悲しみます。第一、自分では役に立ってないって思っていても、景時さんの言動や行動が景時さんの知らないところで誰かの指針になってないなんて言い切れますか?だって、景時さんは新聞記者でしょう?」
そう言われ、景時は今更ながらにああ、そうだったと思った。
「そうだそうだよね。ゴメン、望美ちゃん。俺は自分が記者だって事を忘れてたよ。鬼や魑魅魍魎をなまじ知ってるから、今まで自分の力のなさが歯痒くて仕方なかったんだ。でも、記者である俺にしか出来ないことだってきっとある」
「はい」
「俺は俺のやり方でいろいろ探ってみるよ。由、そうとなったら早速取材に行かなきゃ」
「え?今帰ってきたばかりじゃ??」
望美は面食らった。
「うん、『善は急げ』っていうでしょ?今日ちょっと社の方で面白い噂話を聞いてね。それが平中尉の件と結びつくかどうかは分からないんだけど」
「噂話ですか。どんな?」
「あぁ、望美ちゃんにも話しておいた方がいいかな?」
景時が言うと、望美もこっくりと頷いた。
「あのさ、最近この帝都のあちこちで変なことをする奴がいてね」
深い闇に飲み込まれたかのような社の森の奥に隠されるようにして存在する小屋。
望美は火をつけた炉の上に小屋の隅に置いてあった大鍋を掛けると、そこに下から持参してきた水桶の中身を注ぎ込んだ。
パチパチと爆ぜる火は鍋肌を炙り、やがて水は湯と変わり、グラグラと煮えたぎり始める。
既に時刻は深夜二時を回っていた。
このような夜更けに、しかもこのような寂しい場所にただ一人、まだうら若い娘が一体何をしようというのだろうか?
彼女は天井を見上げた。
大きな鍋の真上に当たると所には大きな孔が開けられており、そこから一本の太い糸が垂れ、黒い筒が吊り下がっていた。
湧き上がる蒸気により、筒が前後左右に揺れる。
筒には朱文字で<彩筒>と銘が打たれていた。
望美はそんな筒のゆれをじっと見つめながら、やがて深い瞑想へと入ってゆく。
鍋の下の火勢が一段と強くなり、燃え盛る炎が真っ赤な舌のようにその腹を這い始めると、なべの内側の縁に沿ってなにやら文字が見え始めてゆく。
その三十六の文字群からなるものそれこそが花会と呼ばれる中国で古くから伝わる神託受法に使われる三十六門の将の名なのである。
一般には賭博としてこの国にも伝わった一種の遊びだが、本来の姿は神聖な占術なのだ。
花会に参じた人物の未来を予言し、その行先を示し、そこで出会うであろう人物の名、性質、官位を明らかにする。
望美はこの先彼女が対決すべき相手を探し出すための手段として、この花会を選んだのであった。
夜の帝都はまるで昼間と錯覚しまえそうだ。
誰もがそう信じて疑わなくなって最早久しいが、実際のところはそんなわけでもない。
都会の大通りであっても一二本裏道に入ってしまえば、まだまだ暗い道などいくらでもある。
いや、夜にあって光が強くなってしまったことでそれらの作り出す闇は一段とその濃さを増し、その住処は狭くなってしまったとはいえ、そこに棲むものはより一層濃密となったその中で更に力をつけていたとしても決して不思議ではないのだ。
そんな帝都の裏通りの一つに奇妙なものが運び込まれたのは、その日の夜九時を過ぎた頃であった。
荷車の上には布が被せられ、その下にあるものを伺い知ることは出来ない。だが、それを一人で引くものの様子からかなりの重量を伴うものであることは間違いなかった。
荷車は不思議なほどに物音を立てずに進み、やがてある門扉の内側へと消えてゆく。
そこはとある小学校であった。
車はその校庭を横切り、校舎のすぐ近くに止まった。
それまで、荷車の侵入を手引きするかのように雲で覆われていた月がようやく顔を覗かせ、銀の光を地上へ投げかける。
光は覆いを取り除く作業に没頭している者の上にも落ちた。
月明かりの下でその赤い髪が揺れる。
風水師のヒノエであった。
彼はその下から現れたものを慎重に取り扱う。
「ふぅ。さすがにこれだけの大きさだと、一人じゃ少し酷だね」
だが、手助けなどは今更頼めない。ヒノエは荷台の上に横たわるそれを注意深く起こすと、苦労の末に地面の上に置いた。
「よし、これならいいだろう」
それは青銅製の少年の像であった。
手に書物を持ち、背には薪の束を背負ったそれは二宮尊徳の少年時代の逸話としても有名なもので、小学校でも教科書などで取り上げられている。
ヒノエは像の周辺を見回し、そして夜空を目にやると、もう一度像へと目をやった。
「まぁどれだけもつかは保証の限りではないけれどさ、やらないよりはやっておいた方がいくらかでもマシだからね」
そう、近頃帝都のいたるところに様々な石や像などを置いて回っているのはこの若者であったのだ。
「この要石があれば、地の龍が暴れだすのを多少なりとも押さえ込めるはず」
ヒノエは以前、人と人外の力によって断たれた竜脈を追って魔人とそれに従う鬼に遭遇し、九死に一生を得たことがある。
自分はあれらに直接手を出すことはとても叶わないと、彼はその時思った。
だが、見ているだけでは帝都の状況はより一層深刻な事態となり、人々がそれに気付いた頃にはもう取り返しの付かないこととなるのは目に見えていた。
自分でも何かできることはないか試行錯誤を繰り返し、その果てに考えたのがいまだこの台地の上に残された竜脈を鎮める為の要石なのであった。
竜脈がこれ以上断たれれば、遅かれ早かれ地の龍はもがき苦しみ、やがて暴れだす。
それは途轍もない災厄となってこの年に生きる人全てを襲う。
そして、国の中枢である帝都の崩壊はすなわちこの国自体の崩壊へと繋がるのだ。
風水師の端くれとしてはその全力を持って地の龍を正常に戻す手段を編み出すことは急務であるのだが、その前に優先すべきは災厄を起こさないことである。
そこで考えたのが要石の設置だ。
龍が痛みに耐えかねて暴れださないようにする為、その傷口を強く抑えることで治癒されるまでの間、痛みをやり過ごそうというのだ。
魔人と鬼どもの問題は残されてはいたが、今は一つでも多くこの要石を置き、時間を稼ぐことがヒノエの目的であった。
彼がこの土地に拠点を置いてある程度の時間を過ごすうちに分かってきたことがひとつある。
この帝都という都市はただ風水的に恵まれているというだけではない。
それは、ある種の自浄作用とでもいうべきなのか。
何か目には見えない何者かに守護されているような気配がするのだ。
そもそも伝説によれば、この土地は応龍が遙か昔より守護しているのだという。
この作用が応龍によるものかまでは分からないものの、現在の帝都にそれを侵す病巣が存在する以上、伝説の通りだとすればそれらはいずれその膿を出そうと働くに違いない。
ただ、その作用が働くまでにどのくらいの時が必要なのかがまったく分からない。
故にこの時間稼ぎが有益であるかすら分からなかった。
それでも、何かせずにはいられない知っている以上は。
「明日はそうだな、この付近か」
ヒノエは地図の上に今日要石を置いた場所へ印をつけると、指で次の場所を辿る。
「とりあえず、石を置くことができるのはあと数ヶ所ってところだし、もう少し頑張ってみますか」
彼は自分に言い聞かせるように呟くと、人目に立たぬうちに持ってきた空の荷車を片付けてしまおうと考えた。
遁甲の術の応用で己の姿を死角へと隠し、誰の目にも付かぬように幾つもの通りを抜けると、彼は荷車をいつもの置き場所へと留め、一人宿への道を戻るその道程を半分も行かない時であった。
突然、パチパチッと、まるで誤って電気にでも触れたかのような小さな衝撃が彼の足元から伝わったのだ。
「これは」
そこは毛細血管のように帝都中を網羅する地脈の小さな一筋であった。そこを流れる気の様子が明らかに変化しているのだ。それはここのところ感じていたような疲弊しきった衰えた気ではなく、にわかに活力を取り戻したようなそんな生気を帯びていた。
「地脈がどうなってるんだい、これは」
その迸る気がある方面へ向かって走り出すのをヒノエは見逃さなかった。彼は地脈に起きた異変の原因を確認すべく、その後を追って全力疾走する。そのうち、彼は自分が追う気の他にも細かく枝分かれしたその支流から次々に気が集まっていているのに気付く。そしてそれはどれも大地の力に溢れていた。
「竜脈が喜んでいる?」
そうとしか言い様のない現象であった。ヒノエは集束することではっきりと見て取れるようになった青白い帯状の光を更に追う。
やがて、その気は住宅街の一角まで来ると四辻の角を右に曲がってその姿を見えなくした。ヒノエは一気にそこへと駆け込む。
「―?!」
地脈を流れる気はそこで忽然と姿を消していた。
彼はゆっくりと周囲の様子を伺った。
すると。
その先に人影が一つ、黙したまま佇んでいた。
それを見たヒノエの目が驚きに見開かれる。
何故なら、消えたと思っていた大地の気がその人影にまとわりつくようにして絡み、さながら蛍火のようにボゥっとその姿を光らせ、浮かび上がらせていたからだ。
見れば、そこにいたのはまだ十代も半ばは当に過ぎているだろう少女であった。
女学生のような袴姿に、蘇芳色をしたその長い髪を揺らし、凛とした翠色の瞳が一対、この場に突如飛び込んできたヒノエをまるで闖入者でも見るような目で見ている。
が、しばらくして何かに納得したのだろう。少女はヒノエにそのまま小さく会釈すると彼がやってきたのと反対の側へゆっくりと歩き去っていった。
「なんだったんだ、今のは」
あとに取り残されたヒノエはやがて我に返るとそう言った。
竜脈の気をその身にまとい佇んでいた少女。
処女からは邪悪な気など微塵も感じられなかった。
むしろ、それとは真逆の
「神気?」
応龍が守護するといわれる帝都に現れた神気をその身に纏った少女。
「まさかあれが?」
ヒノエの発したその問いは、誰にも答えられることなく夜の闇に溶けて消えたのであった。 
観音力と鬼神力

 

神田明神界隈はその日も大勢の人間で賑わいを見せていた。
参道に沿って数多くの縁日が軒を連ね、参拝客は思い思いの店を覗き込んだり、子供が親にせがむ様子が見慣れた風景として目に映る。
そんな縁日の一角に一風変わった出店があった。
あるのは小さな椅子と机が一組だけ。
その一脚きりの椅子にはこれを出している若い男が一人ポツンと座っていた。
そのどこか幼さの残る顔立ちは、おそらくまだ成人を迎えていないことが窺い知れる。もしかしたら学生なのかもしれない。彼は道行く人の波をぼんやりと眺めたり、時折思い出したように机の上に奇妙な絵札を広げては並べてみたりを繰り返している。
ということは、この青年は占い師なのであろうか。
それにしては他の占い師のように看板を掲げているわけでもないし、縁日の中をはいえ人の流れから少し外れたような、ちょっと奥まったところに場を構えていて、およそ商売っ気があるとは思えなかった。
それともこれは商売などではなく、他に目的があっての事なのであろうか。
「敦盛」
その声に、敦盛と呼ばれたその若者は伏せがちで合った顔を上げると、驚いたようにその目を見張った。
「あこれは経正兄上。どうなさったのですか?」
何時の間にやら彼の前には洋装の紳士が立っていた。それは彼の兄である経正その人であった。経正はにこやかに微笑むとこう言う。
「今日は休日だからね。久しぶりにお前と食事でもと思って寮の方へ出向いたのだよ。そうしたら、此処だと聞かされてね」
「それはわざわざこのようなところまで足を運ばせてしまい、申し訳ありませんでした」
敦盛は心底申し訳なさげに頭を下げた。
彼の名は平敦盛という。
都内にある某高等師範学校に在籍する一介の学生であり、二年ほど前から家を出て学校の寮で生活をしている。
家は華族の名門の家柄であり、本来ならば経済的にもなんら不自由はしないところなのであるが、独立心を養う為と外の世界を自分の目で見て学ぶ為という彼の祖父の代からの方針で、敦盛もまた師範学校入学と同時に寮での生活を始めたのである。
何不自由のない華族の子弟としての生活から、なんでも自分でこなす必要のある寮生活に放り込まれ、当初は戸惑いもあったが気付くと意外な順応性を発揮し、一年も過ぎるとすっかり馴染んでしまった。
そして、その同じ時期に彼はある才能を開花させることとなる。
「そういえばね、この間お前の新しい作品を読ませてもらったよ」
「え?」
経正の思いがけない一言にまごつく敦盛。
「本当に家を出てからのお前には驚かされる。私など、物語のひとつですら考え付きもしないのだからね」
「兄上言って下されば、差し上げましたのに」
「いや、それはいけないよ。仮にも職業作家なのだから、やはり一冊でも本は売れねば駄目だろう?」
「それはそうですが」
「まぁ、家族としてはこのくらいの応援しかできないのだからね。それと打ち明けてしまえばお前の本を買ってきたのは私ではなく、母上でね。なにしろ母上はお前の一番の贔屓は自分なのだと、公言して憚らない方だから」
敦盛は驚いたのと同時に、気恥ずかしさから沈黙して俯いてしまう。
そう、この敦盛という若者、実は学生であると同時に物書きを生業ともしていたのである。
そのような遣り取りがあってからまた数日が経ち、敦盛は今度は湯島天神に同じような場所を構えていた。
学生であり作家でもある彼が、何故にこのような場所で占い師の真似事などをしているのであろうか。
その一番の理由は此処でこうしていると様々なものを見ることができるからであった。
「人」というものを第三者的視点でつぶさに観察できるのもあるし、神仏の加護するこういった場所にいると時に様々な不思議な出来事に出会うこともある。
亡くなった祖母の影響もあり、この昭和の時代の若者としては敦盛は珍しく迷信深い性質の人間であった。故にそれを畏怖し、同時にそれを羨望する目を持っていた。
そういった様々な出来事をじっくりと観察しようと思うと、参拝客にまぎれて歩くよりはこういったところに一点に視点を据えた方が都合がいいのだ。
そもそも占い師は人を見るものであるし、そこから行き交う人をじっと見ていても誰も不審には思わない。
稀に酔狂な人間がこんな外れまでやってきて、占ってくれといってくることがあるのだが、そんな時は以前友人に教わって独学で学んだ西洋式のこの占いを用いて適当にお茶を濁すことにしている。すると、相手も自分の知らない占いであるということと、少し謎をかけるような敦盛の言い回しに、自分で勝手に納得してしまうのだ。
万事、そのような具合であった。
敦盛は暇つぶしに台の上に占い用の絵札を山にし、それを軽く手で混ぜていた。
そうしながらも視線は行き交う人々の間を当てもなく彷徨っていたのだが、その目がある一点でまるで凍りついたかのように留まってしまう。
彼の視線は少しずつこちらへと近づいてくるその姿に釘付けとなっていて、その表情はどこか呆気にとられたかのようだ。
だが、やがてハッと我に返った彼はその姿がそのまま自分の傍を通り過ぎていこうとする前に思わず声をかけてしまっていた。
「そこの娘さん、ちょっとお待ちなさい」
その日、望美は一人で出かけていた。
この湯島天神へとやっていたのはいまだに療養生活中である朔の病の平癒を祈願する為であった。
同じ龍神の神子でありながら全く正反対の性質を持つ龍の神子。
だが、何よりも自分に近い存在である年上の朔を望美は姉とも親友とも思い慕っていたのである。
そんな彼女を襲った数年前の災禍。
それ以来、彼女は夢と現実の狭間を漂い、いまだ正気に戻らぬままだ。
その当初から何度会わせてくれと頼んでも景時はなかなか首を縦に振らず、やっとそれが叶ったのが望美が此処に来てからだった。
朔には望美が分からなかった。
そして、なによりも虚ろに自分を見る朔の瞳から穏やかで自愛に満ちたあの輝きが消えていたのに、望美は涙が堪えきれず誰もいない病室の外で一人泣いた。
けれども、今の自分には彼女に何もすることができない。
せめて、一日でも早く彼女の心の傷が癒えるよう、こうして神仏に祈りを捧げることくらいしかできないのだ。
とはいえ、上京してからまだ日の浅い望美がこんなところまで一人で出かけるのはあまりにも無防備なのではないだろうか。
鎌倉から一緒に上京してきた有川譲は兄である将臣の下宿に居候中であるので、彼女とすればわざわざ声をかけるのも忍びなかったというのもある。それに彼には他にやってもらわねばならないことがあったので、この外出にあえて供を頼まなかったのだ。
現在、身を寄せている景時の家からも出かけやすい場所ではあったし、また彼女はこの機会に帝都の有様を自分の目でつぶさに見ておきたかったというのもある。
帝都応龍に守護された土地に築かれた都。
その堅牢であるはずの護りが、破壊されようとしているたった一人の、鬼とも呼ぶべき男の手によって。
賑わう縁日の様子を珍しげに見ながら、思い思いに祭を楽しむ人々の姿を見ていると本当にこの帝都に近い将来未曾有の災いが降りかかろうとしているのかと疑わしくなってしまう一瞬がある。
けれどもと望美は思う。
土地の生命とも呼ぶべき竜脈の状態は相当に悪かった。
呪詛により、或いは急速に進む開発によりそれは次々に断たれ、本来巡るべき気の流れが途絶えてしまった為に、土地は急激に枯渇しつつある。それは土地自体の吉相そのものを大きく歪めてしまうのだ。
先日、初めて呪詛の種ともいうべきものを見つけ、それを払ったもののそれはまだほんの始まりであると十分に予感させるものであった。
今の望美にできることといえばひとつでも多くの呪詛の種を払い、大地の疲弊を抑えること。
そしていまひとつが
「そこの娘さん、ちょっとお待ちなさい」
物思いに耽る彼女の背後からその声がかかったのはちょうどそんな時であった。
夏草が生い茂る廃寺の中では終わることすらないようにさえ思える不気味な宴がいまだ続いていた。
虚ろな目をした護法童子は黙々と索を引き続け、天高く伸びたそれは人の目すら及ばぬ遙か彼方に存在する天の龍を絡めとり、この大地へ叩き落さんとばかりに少しずつその距離を縮めてゆく。
その脇では軍装に身を固めた一人の男が板張りの床に座し、目を伏せたまま一心に呪を唱え続けていた。
うだるような暑さと、尋常ではない集中力を絶えず要求され続けている為か、彼の額からは幾筋もの汗が流れ、その銀色の髪を濡らし頬に貼り付けている。
平知盛であった。
彼が描いた筋書きは既に山場を迎えつつある。
天の龍は護法童子が。
地の龍は十二神将が。
知盛は己の術でこれらを同時に操り続けているのだ。
“俺のこの術が完成する時、今度こそ帝都はこの世界から消滅するだろう”
何がこれほどまでにこの男を帝都破壊へと駆り立てるのであろうか?それはあえて言葉にするのならば、『本能』であろうと知盛は思う。
彼は自分自身の力を知覚したと同時に気付いたこの暗い念は、心の奥底に最初から存在していたのだ。
もし彼が唯人であったのなら、それは誇大妄想の類で片付けられてしまったであろうこの衝動ともいうべき感情だが、知盛の場合は違った。
彼にはそれを成し得る可能性を『力』として有していたのである。
そして。
知盛はこの『力』と『衝動』を玩具とすることに決めた。
彼にとってこの世の中はただ退屈なものであったのか、それとも『破壊』という行為そのものに『喜び』を見出したのか。
それは彼以外の誰にも分からない。
呟くような呪の詠唱は途切れぬまま、その中で知盛の意識はふと別の方向を向く。
白龍の神子。
応龍の陽の化身であり『創造』と司る白き龍の代行者たる神子がついに動いたのは知っていた。
何故ならばその当の神子は己の敵を知る為にある占術を行使し、時間と空間を捻じ曲げてその意識を直接知盛の所に飛ばしてきたからだ。
神子はまだ若い娘であった。おそらく、以前会った事のある黒龍の娘よりも更に若いだろう。
そんな娘がいくら急ぎ敵を突き止める為とはいえ、神子という聖女の面をかなぐり捨て、支那の外法ともいうべき占術を用いてまで自分を見つけ出してきたこのことが帝都破壊の他は常に退屈しか覚えなかった知盛の興味を引いたのである。
“クッ己の目的の為には手段を選ばぬ聖女とはな”
面白い実に面白い女だと知盛は思った。
そしてあの女が自分にとって最大の障害といえるのか、ひとつ俺が試しをしてやろうじゃないかと次に彼は考えた。
詠唱の声が止む。
知盛は懐から一枚の紙を取り出すと口元に当て、素早く何事か唱えるとそれをその場から地面に向けて投げつけると、今度は先程とは違う呪を唱え始めた。投げられた紙は鋭く斜めに滑空すると、地に叩きつけられる。するとそれは地表に触れた途端、まるで煮えくり返った水のようにその表面がボコボコと泡立つように凹凸ができたかと思うと、シュウシュウと嫌な音を立て溶けるようにして地面の中へと掻き消えてしまった。
これでいい知盛は口の端だけを少し上げる。
その彼の様子を知ってか知らずか、相変わらず虚ろに目の前の索を引き続ける護法童子がほんの一瞬、その身をブルリと震わせた。
「あの今、私を呼んだのはあなたですか?」
そういって敦盛の目の前に立ったのは、蘇芳色をした長い髪を持つ一人の女性であった。
年の頃は敦盛と同じか少し下くらいであろうか。少女といっても差支えがないようにも見える。
着物と袴に洋靴という、当節この帝都の女学生の定番といってもいい服装に小さな風呂敷包みを抱えながら、彼女は真っ直ぐに敦盛を見た。
それは戸惑いや恥じらい、或いは不審や疑念といった眼差しではなく、どこか凛とした佇まいを持っている。
敦盛は言った。
「あぁ、すまない。呼んだのは私だ。いきなりで驚かれたかと思う」
「いいえ、それほどでも。それで、私に何か御用ですか?」
少女の言葉に、敦盛は果たして何から話したものかと逡巡したが、やはり自分の事を説明してからの方がいいと考える。
「私は此処や、他の寺社などで時々こうやって人を見ているんだ。行き交う人々の様子を見ているだけでも学ぶことは多いからというのが一番の理由なんだが」
彼は此処で一旦言葉を切った。
「繁華街などではなく、あえて寺社を選ぶのはもうひとつ理由がある。それはこのような神仏の加護の篤い場所では、時に思いも寄らぬものを見ることがあるからだ」
「思いも寄らぬもの?」
彼女が首を傾げた。
「生霊や小鬼、あやかしといった類などは時に平気な顔をして、人にまぎれて歩いていたりするから。誰も気付かないのだけで」
「じゃあ、ひょっとして私が生霊や鬼に見えるとか?」
その言葉にこれは説明が上手くなかったと敦盛は赤面し、「いや、そうじゃないんだ」と前置きしてから言う。
「貴方はむしろその逆だ。娘さん、貴方は観音力(かんのんりき)の持主だと私は思う」
「『観音力』ですか?」
「ああ、これは私が勝手にそう信じて名付けているだけなんだ。世の中にある二つの超自然的な力」
敦盛は台の上に引き当てた二枚の絵札を置いて、少女に示した。
そこには一枚は背に光輪をまとい、慈愛に満ちた笑みを浮かべる観音像が、もうひとつには鬼火をまとい血走った目を爛々と光らせた鬼の姿がある。
「そのひとつは観音力(かんのんりき)。そしていまひとつは鬼神力(きしんりき)。どちらも生身の人間などでは歯の立たない力だ」
「へえ」
いきなり不思議な話を始めた敦盛に、少女はどうやら興味を持ったらしい。そのまま、行き過ぎようとしていた足を彼の方へと返すと、ゆっくりと近寄った。
「鬼神力が具体化するとそれは妖しに変ずる」
突然見知らぬ青年に呼び止められた望美は、彼の話す奇妙な話に興味が湧き耳を傾けた。
「たとえば、それは大入道であったり一本足の傘の化け物であったり、と。それは人を害する力だ。大してその荒ぶりから人を護る力が観音力なんだ」
「観音力」
物売りや興行師のような嘘っぱちを言うには程遠い話し方であった。
その口調に望美は彼の話が決して戯れによるものではないと確信する。
「私は鬼神力には畏れを、その一方で観音力の絶大な加護力も信じているんだ」
彼は言葉を切り、望美の目を真っ直ぐに見てこう言った。
「娘さん。呼び止めたのは他でもない。観音力を持つ貴方にこんなことを言うのはどうかとも思ったんだが貴方のあとから鬼神力が尾けてきている」
瞬間、望美は唇を引き締めて周囲を見回す。
―鬼?
青年は彼女の反応を見ながらなおも続けた。
「私のような歳でこのような迷信家はこの昭和の時代には珍しいんだろうと思う。実際、新しいことはあまり得意ではないんだが、鬼神力ならば大抵の事は分かる。貴方が何処のどういった人かは知らないが、貴方が今鬼に尾けられていることだけは確かだ。ともかく気をつけたほうがいい」
「鬼ですって、占い師さん?」
それでも望美は穏やかだった。
すると目の前の青年は小さく頷き、手で口元を隠すようにして言う。
「ああ、それも追っ手は式神だ。その後ろでは陰陽師が糸を引いているだろう」
「はい」
望美もまたそれに合わせるように小声で返事をした。そして一礼すると、その場から離れようとする。
「待ってくれ」
背後から彼が止めた。そして振り返った望美にこう言う。
「先程も言ったが、貴方には観音力がある。その力で誰を加護しているかは分からないが、貴方に護られている者は果報者だな。
貴方のような女性にはきっと鬼神すら一目置くだろう」
望美は微笑む。
「ありがとう」
彼女は手荷物を持ち直すとまた境内の外へと足を向けようとする。そしてふと思い出したかのように「あの失礼ですけど、お名前は?」と尋ねた。
「あぁ、これはすまない。私の名は平敦盛という」
「敦盛さんですか。いろいろありがとうございます」
「いや、私は大したことはしていない。とにかく気はつけた方がいい」
望美はもう一度深く礼をすると、足早にその場から立ち去っていった。
鬼が、追ってくる。
夕暮れの坂道を足早に降り、望美は小走りに駆ける。
電車道を横切り、歩道を過ぎ、遊歩道までどうにか辿り着いた。
時は逢魔が刻。
あと五分も歩けば橋が見えてくるといった距離ではあったが、望美の五官は緊張し、周囲を油断なく監視していた。
さっき出会った青年は自分に何を知らせようとしていたのか。
不吉な気配が少しずつ濃くなってゆくのを先程からずっと感じ取っていた。
皮膚がまるで電気にでも触れたかのようにピリピリと痙攣するような感覚、そしてそれは気付いた時には彼女の周囲を取り巻いていた。
と、同時に足が急に重くなり、動くことが苦痛に思えるようなだるさが身体を襲う。
―鬼だ!
望美は自分が鬼神力の罠に落ちたことを悟った。
彼女は足を止め、素早くその片手を着物の袂に入れ、護身用の小刀を握る。
既に望美の周囲は闇に閉ざされていた。
その中である一角だけが微かに橙色に輝いている。
木立がザワザワと不吉に揺れた。
間違いなかった。
望美を尾けてくるものがいたのである。 
狂女、永遠の月を算ずる

 

その日、有川将臣は大学の物理学教室を訪れていた。
目当てのその人物は積み上がった本の向こう側の指定席に腰を下ろし、外からの柔らかな日差しを明かりに先日英国から届いたばかりの本を熱心に読んでいる最中であった。
余程集中しているのか、将臣が入ってきたというのにも全く気付く様子がない。
あー、相変わらずだなこのおっさんはと思いながら、将臣は軽く頭を掻くと開け放たれたままのドアをわざとらしくノックしてみせた。
コンコン!
すると、そこでようやく気付いたのか部屋の主であるその初老の人物はかけていた眼鏡のずれを直すとこちらを見て言った。
「なんだ。誰かと思えば有川君か」
その一言に将臣は呆れ、深い溜息をついて言う。
「いや。さっきからずっといたんですけどね、白河教授」
「おお、そうか。それはすまなかったな。まぁ、こちらへ来たまえ」
白河はそう言って彼を手招きした。
「ここのところ、わしの授業をサボっとるだろう?」
開口一番に痛いところを突かれ、将臣は苦笑する。
「あーすみません。実は今、田舎から弟と幼馴染が出てきてましてそのいろいろと」
老教授はその言葉にじろっと彼を一瞥するが、すぐにニヤリと笑う。
「まぁ、君の場合は優秀だから特に心配はしとらんのだがな」
とはいえ、休んでいたからといってそれなりの結果は出してもらわんと困るがなといって豪快に笑う教授に苦笑しつつ、将臣は早速本題を切り出す。
「で、すみません。実は今日、教授に是非見ていただきたいものがあるんです。これなんですが」
将臣はそう言うと、懐から丁寧に折り畳んだ紙を取り出すとそれを広げ、机の上に置いた。
「ほぅ、何かね」
白河教授はそれを手に取ると、片手で眼鏡をもう一度直す。どうやらこれがこの教授のクセであるらしい。将臣は言う。
「前にどこかで見たような気もするんですが、一体何だったか思い出せなくて先生なら、きっとお分かりになるだろうと思ったので」
そこには多くの数式が記入されていた。
様々な数値をそこに代入し、何度も計算したらしい数字の羅列が紙の上にビッシリと書き込まれている。
「ほほぅこれはまた」
教授はそこに書かれたものをじぃっと見やる。
「ふむ。これはおそらく」
「分かりましたか?」
「まぁ、そう急くな。まだ推論の段階だから、きちんとした資料をそろえた上で検証をせんと学者として断言はできん。だが、たぶんこれはあれで間違いはないだろう」
「あれとは?」
「ラグランジュの方程式だな」
「ラグランジュの方程式、ですか?」
「そう。惑星間の相対運動にかかわる方程式というやつだな。あぁ、そういえば君は最新号の『ネイチャー』はもう読んだかね?」
「『ネイチャー』ですか?いや、先生。学生の身分じゃ流石に」
「大学の図書館にも入ってるはずだから、読んでおきたまえよ。この先、こっちの道を志すならば、最新の情報には常に目を通しておかんとな」
「えっと、先生?何かそれに面白い記事でも載ってるんですか?」
それがこれまでの話とどんな関係があるのかが分からず、将臣が問うと白河は人を食ったような笑みを見せて言った。
「宇宙の彼方のちょっとした変化だな」
「宇宙の変化?」
「宇宙単位では実に微小な変化だ。だがね、宇宙規模では些細なことでも時にそれは恐ろしい結果をこの星にもたらすことがある。怖いねぇ」
教授はこう言うと将臣が持ってきた紙片を元のように畳み直した。
「では有川君、これは二三日借りるよ。その頃にはちゃんとした結果が出てるだろうから、また来るといい」
「ありがとうございます、教授」
将臣は一礼すると、その場を後にしたのだった。
漆黒の空高く、白濁した靄のような流れがその空を横切ってゆく姿を見上げ、リズヴァーンはほぅと静かに息を吐く。
療養所でのその日一日の仕事を終えた後でその一角にある自室へと戻り、晴れた日にはバルコニーから降りてこうやって星空を眺めるのが彼にとっての日々の締めくくりでもあった。
心病んだ人を診るというのは他の医療活動に比べ、精神の疲弊度は高い。
点すレナ患者の心の闇に捉えられ、自らそちら側の人間になってしまう危険性さえ伴うそれゆえに一日の終わりには心の緊張を解きほぐし、精神を自由にする必要がある。
それは人によりそれぞれで会ったが、彼の場合はそれが「星を見ること」であった。
元々夜遅くなりがちな仕事であるので、夜にしかできないこれは好都合でもある。
彼は天空を眺める。
天の川とはよく言ったものだ西洋の言い伝えではミルクの入った壷を誤って倒してしまい流れ広がったものだといわれている。その星野皮の中に彼は良く見知った星を一つずつ見つけ出してはそれを確認してゆく。
その作業は彼の心に不思議と平安をもたらしていった。
だが、いつも平安をもたらすはずのその作業がここしばらくその意味合いを変えつつあった。
リズヴァーンは一つずつ星の数と配列を確認しては安堵の溜息をつくこれは大丈夫。あれも大丈夫。あれも変わっていない。
その目線は次第に天の川を外れ、少しずつ移動してゆく。やがてその目は天の極、すなわち北極星を捉えた。そして
「やはりここだけが」
見慣れたはずの夜空に違和感を覚え始めたのはいつ頃からであったか。
子供の頃から星を見るのが好きで、星座表を絵本代わりにしていた彼はその配置をしっかりと頭の中に描ける。いくら此処が異国の地であるとはいえ、この大地にいる以上その配置が目に見えて違うなどということはありえないはず。
だが、その空の一角は明らかにおかしかった。
当初は慣れない異国での療養所での仕事に気付かぬうちに疲労が溜まり、記憶に混乱が生じたのかと思った。が、やはり疑念が拭えず、つい最近になって彼はこの国で出された最新の星座表を伝を頼って手に入れ、それで確認した上で確信したのだ。
北の空に輝く一つの星座の配置が明らかに変化している。
東洋において、北斗七星と呼ばれる柄杓型をしたそれは大熊座を構成する七つの星からなっていた。その配列に歪みが生じていたのだしかも、この数ヶ月の間に!
柄杓の絵である部分が曲がり、くの字になってきている。
これは余りにも異常だとリズヴァーンは思う。
星の配置というのは確かに今こうしている合間にも動き続けており、これらの星座の並びも何時までもこのままではなく、いずれは崩れてしまう。だが、それには何千年、何万年という気の遠くなるような年月が必要だ。決して数ヶ月単位で起きることではない。
更におかしなことがあった。
これだけの天文学的異常事態だというのに、これについて世界の何処からも何の報道もなされていないのだ。
これは一体、どういうことなのか。
リズヴァーンは再び刻一刻と歪みつつある北斗七星を見上げる。
その姿はまるで東洋の神話に登場する天を這う龍のようであった。
そして。
不吉の兆しはもうひとつあった。
地上を冷ややかに照らす月光。
それを投げかけるその月は明らかにその直径を広げつつあったのだ。
「この天空で何かが起きているのか?」
ふと彼の脳裏に今日の夕暮れ時、偶然に見てしまった奇妙な光景が甦る。
それはリズヴァーンが入院患者の様子を見に、一つ一つの病室を見て回っていた時だ。
彼の足は二階にある一番奥の個室までやってきた。
ここにいるのは彼の教え子の紹介で入院した梶原朔という女性だ。
当初はかなり奇怪な言動や行動が伴うこともあったが、ここでの穏やかな生活を続けてゆくうちに心が次第に落ち着きを取り戻してきたのか、そういったことが影を潜めるようになって久しかった。
ところがである。
そんな彼女に再び奇妙な兆候が見られるようになってきたという報告があったのだ。
そして、廊下の突き当たりにあるその部屋までやってきたところで彼はその扉の向こうから奇妙な話し声を聞いた。
ペチャペチャと、話し声と言うよりもまるで何か別の動物の鳴き声か舌なめずりのようなそれ。
部屋の扉は完全に閉じられてはいなかった。底で彼は中にほかに誰かいるのかと、その隙間から室内を覗き見る。
それほど広くはない室内には寝台がひとつきりあるだけで、その上には紙を短く切り揃えた黒髪の女の姿が見える。
梶原朔だ。
彼女は寝巻きに上掛けを羽織った姿でこちらに背を向け、窓の外へと顔を向けていた。
ペチャペチャ。
ペチャペチャ。
ニャアニャア、ペチャペチャ。
その奇妙な声は間違いなく朔の口から発せられていた。
それを見たリズヴァーンはまるで全身に冷水を浴びせられたような悪寒に襲われた。
これまで、様々な患者の奇行や言動を見てきた彼である。その彼を持ってすら、今目の前で繰り広げられている光景は余りにも異常であった。
朔は見られていることを果たして気づいているのかいないのか、ペチャペチャと奇声を発しながら備え付けの紙に何かを書き綴る。
ペチャペチャ。
そして、また思い出したかのように時折顔を上げ、窓の外の方を小首を傾げるようにして見てはまたその奇妙な声を発しながら紙に何かを書くという行動を延々と繰り返し続けるのだ。
その窓の外に映っていたのは今目の前にあるものと同じ、異常なまでに巨大な満月の姿であったのである。
望美は袂の中の小刀を握り締め、周囲にその鋭い視線を走らせた。
先程、彼女を呼び止めた敦盛と言う青年は彼女のこう言っていた鬼や化物は鬼神力の化現だと。ならば用心しなければならない。
草むらが落ち着かなげにザワザワと揺れた。
と、一瞬何か閃光のようなものが地面から閃いたと思うと、それと同時に橙色をした半透明の物体が跳ね上がり、望美の体にぶつかってきたではないか!
彼女は咄嗟に身を翻す。片袖が宙を舞い、同時に衣の裂ける音が周囲に響く。
飛びついてきた何かはそのまま反対側の茂みに落下した。
辺りを静寂が支配する。
望美は持っていた堤を片手に掴むと、振り上げたもう一方の手を下へとおろす。そこには何時引き抜かれたのか抜き身の小刀の姿。
刀を持つ方の袖は無残に引きちぎれてしまっていた。そしてそれはまるで焼け焦げた跡であるかのような汚れが黒くベットリと貼り付いている。
自身の息遣いがだけがやけに忙しく耳を打つ。理由のない怒りのようなものが徐々に彼女の中から湧き上がってきた。
「誰!?」
しかし、静寂は揺らがない。
望美はゆっくりと堤防の方へにじり寄るように移動してゆく。そして、その動きに合わせるかのように茂みがまた揺れる。
ネンピカンノンリキ
ネンピカンノンリキ ネンピカンノンリキ
望美は観音経を口にした。その声は彼女の耳を内側から塞ぐ。常であれば今日を念ずると耳が空鳴りするようで不快を覚えるが故に決して経を口にすることはない望美であったが、この正体不明の霊力により危機的状況にある今、そのような気分の問題は度外視せざるを得ない。いや、むしろ逆にわざと経を唱えることにより、望美は自らの聴覚を鈍麻させたのだ。こうしておけば、少なくとも敵から幻聴を仕掛けられる懼れはなくなる。
だが、前方の林の中からは明白な殺気が溢れつつあった。そして、下生えのあちらこちらに先程と同じ橙色の輝きが見え隠れする。
彼女は意を決して、一気に堤防を駆け下りた。が、その瞬間次の攻撃が開始される。足を交叉させた瞬間、砲丸のような塊が恐ろしいほどの回転を伴って撃ち出され、望美の足を一気になぎ払う。あっという間に彼女ははね飛ばされ、そのまま土手へ落ち転がった。
望美は必死で体勢を立て直そうとしたが、敵の攻撃はその瞬間から雪崩のように勢いを増す。
茂みから伸びた赤い手が彼女の手の甲をその鋭い爪で引き裂く。耐え難いほどの激痛が甲を痺れさせた。
続いて橙色の貌が現れた。その貌は
「鬼!」
その望美の叫びが消えぬ間に化物は地を蹴り、彼女の手にかぶりつく。酸のような唾液が尖った歯に裂かれた傷口を更にさいなむ。
「ッ!!」
だが、望美は歯を食いしばり、小刀を化物の後頭部へと振り下ろした。
しかし、その頭は鋼のように固く、逆に彼女の手が痺れる。
すると今度は茂みを飛び越え、三尺ほどの鬼が彼女に襲い掛かった。あるものは背中を裂き、あるものは肩に食らいつき、あるものは足に噛み付いた。
激痛が望美の全身を貫く。
望美は夢中で小刀を鬼に突き立てた。その刃は肉を裂き、攻撃が弱くなる。
すると彼女は咄嗟に斜面に身を投げ、身体を急回転させた。化物を下敷きにし、引き剥がそうというのだ。だが、攻撃は途絶えない。
更に別の鬼が彼女の腿に噛り付く。
激痛がまたもや望美を襲った。
ふくらはぎに爪を立てられ、体の安定を失った望美の体が一気に川へと落ちる。
飛沫と共にどす黒く不快な水が全身を包み込んだ。
しかし、水中でもその激痛は止まなかった。足に食らいついた鬼どもが離れないのだ。
息を継ぐ暇もなく、九字を切って身を護る間も今の望美にはない。冷たい水の中、彼女の身体はますます水底へと沈んでゆく。
そうして、苦悶に顔を歪ませたその口から肺に残っていた最後の空気が泡となって消えた。
酸欠と激痛に意識がだんだんと遠くなる。
“クッどうした?もう、終わりか?”
その時、望美はあの男の声を聞いた。
“あまり俺の期待を裏切らないでくれよなぁ?白龍の神子殿”
その、酷薄に歪められた口元が瞬間垣間見えたような気がした。
“平知盛!”
力が抜けかかっていた望美は最後の力を振り絞り、腕を無我夢中で振り回した。すると突然沈もうとしている彼女の身体を下から何かが支える。そして、その支えは彼女をそのまま上へと押し上げていった。
広く柔らかい完食のその支えは望美を水面へと連れ戻す。ザァと言う音と共に水が引いて空が見えた。望美は激しく咳き込み、肺の中に入り込んだ川の水を吐き出す。
しかし、体の上昇する感じはまだ終わらない。土手の斜面がどんどん下方へと遠ざかってゆく。
望美は身体の平衡を失い、思わず下方にあるその支えに必死になってしがみついた。すると、その手に短く密生した動物の毛が触れる。
剛毛だ。
危機にあった彼女を水面へと押し上げたのは黒毛の巨大な動物の背中だったのだ。
それは紛れもなく馬であった。水中に潜む巨大な馬が望美を救う為、その姿を現したのだ。
白龍の使い馬だ!
その水馬は元来水をつかさどる龍神でもある白龍の眷属であり、この関東の奔流を象徴する荒馬であった。
その巨大な黒馬はいななき一つせずに水中から上がると、その背に望美を乗せたまま岸辺で待ち構えていた鬼どもを蹴散らす。首に噛り付こうとした鬼の頭を逆にかぶりつき、高く上げた前足の蹄が鈍い音を発し、別の鬼の頭を踏み潰す。
馬が跳ね、鬼の悲鳴が周囲に響き渡った。
望美は振り落とされまいと必死になってその背にしがみつく。
そして全てが静かになった頃、力の抜けた望美は馬の背からずり落ちていった。
彼女は仰向けに草むらの上に倒れ、最早指一本動かせないほどにその身体は鉛のように重い。
周囲に他の鬼の姿はない。
何もかもが静止してしまったかのように音を失ってしまった世界の中、忙しく繰り返す自分の呼吸音だけが耳の中でやけに騒がしいと望美はぼんやりと考えるのであった。 
天地、苦悶す

 

その日、次に出版される新作の打ち合わせの為に出版社を訪れた平敦盛は、そこで受け取った読者より届いた手紙の中に彼の目を引く一通の手紙を見つけた。
差出人として書かれてあった女性の名前に覚えはなかったものの、そこには丁寧な筆遣いで次のような内容がしたためてあったのである。
平敦盛様
先日は危ういところを助けていただき、本当にありがとうございました。
鬼の襲撃からは辛くも逃れることはできたものの、傷付く動けずいた私の手当てをしてくださり、その上寄宿先まで送ってくださって感謝に耐えません。まだ、帝都の地理に不案内な私一人ではとても難儀していたでしょうから。
帰りの車の中で、敦盛さんの本業が実は占い師ではなく物書きだと聞かされ、とても驚きました。しかも学生をしながら、なんて。
後日、敦盛さんの書かれた話を読ませていただきました。
寄宿させていただいてる方(新聞記者をなさっているのです)にあなたのお名前を出して訊ねてみるとすぐに分かりました。
その際に今とても人気のある作家さんなのだと聞き、重ねて驚いてしまいました。とてもそのようには見えなかったものですからあぁ、ごめんなさい。決して悪い意味で言っているわけではないのです。
でも、書かれたお話を拝見して納得しました。
敦盛さんの書かれる物語の世界は夢のように綺麗で、桃源郷にでも迷い込んでしまったような心地がしてしまうのですね。
登場する女性の美しさなど、艶やかなのにどこか神々しくもあり、敦盛さんの読者に女性が多いというのがなんだかわかるような気がします。きっと、その女性たちに自分の理想の姿を重ねるのでしょう。私もまたその一人です。
ところで、勘のいい敦盛さんにはもう薄々お気づきなのだと思いますが、そのお人柄を見込んで思い切って貴方にだけは今回の事の仔細をこの場を借りてお話しておこうと思い筆を取りました。どうぞお聞き下さい。
私の名は春日望美と申します。
先にも申し上げた通り私はこの帝都の住民ではありません。ここより離れた鎌倉の地に千年前より続く春日社という神社の宮司の娘です。
社では陽の化身である白龍を代々祀り、その白龍は対の存在である黒龍と合一することにより応龍としてこの帝都を長きに渡り守護して参りました。
その帝都を守る力がつきかけた灯火のように、今消えようとしているのです。
応龍は二つに分かたれ、黒龍は今は無きも同然。白龍もまた力尽きようとしています。
私はその白龍に選ばれた神子なのです。
事の起こりは今から数年前へと遡ります。
私の対の神子である黒龍の神子、梶原朔が帝都に住む兄を訪問した際に神隠しにあったことから始まります。そして、ほぼ同じ時期に黒龍を祀る梶原社より御神体である逆鱗が何者かに盗み出されました。
朔はやがて見つかりましたが、戻ってきた彼女はすっかりその精神を病み、今日に至るまでその心は戻っておりません。
帝都の異変が始まったのはこの頃からでした。
何者かが黒龍とその神子の力を奪い、帝都を破壊しようと企んだのです。
敦盛さんは大正の大震災の事を覚えていらっしゃるでしょうか?あれはただの地震などではないのです。
あれこそまさに応龍の半身である陰の化身。破壊を司る黒龍の力を行使したものの所業なのです。
けれど、あの破壊の中においても帝都は元通り、いいえそれ以上に復興しました。
あの時、目的が完全に達成されなかったのははっきりとは言い切れないものの、おそらくはやはり術によって黒龍の力を引き出せた
とはいっても、それは神子を介してのものではなかったということ。そして、黒龍の片割れでもある白龍の守護の力がまだそれに抗うだけの力を保てていたことではなかったのかと思うのです。そして、何よりもこの帝都に住む人々の帝都復興に賭ける思いがあったからこそ、ここまでの繁栄を築き上げたのです。
ですが、事態は更に深刻なものとなりつつあります。
現在、帝都ではその大地の力の源でもある地脈が次々と断たれ、大地より得る力を少しずつ削ぎ落とされつつある白龍の守護の力は急速に衰えつつあります。それによって、これまでその守護力の為に帝都に侵入することすらできずにいた悪鬼の類が入り込みつつあるのです。
この一連の人智を超えた出来事が実は全て一人の男のなした所業だと申し上げたら、果たしてあなたは信じてくださいますでしょうか?
ですが、これはまごうことなき真実です。この事件の全てがたった一人の人間陰陽道を操る平知盛という陸軍将校の成せる業なのです。
あの男はまさに鬼神と呼ぶに相応しい術者です。数多くの鬼を使役し、夜の闇に紛れ、今まさにこの瞬間にも何処かで帝都を呪詛し続けているに違いないのです。
彼が何故それほどに帝都を呪うのかそれは今もって分かりかねます。
しかし、白龍は彼の謀略によりその力を確実に削ぎ落とされ、この帝都を守護するためお十分な力を振るうことが叶わなくなりつつある。それ故に白龍は神子たる私を選んだのです帝都を守護し、白龍の力を取り戻す為に。
とはいえ、先日は鬼に奇襲を仕掛けられ、不覚を取ってしまいました。
あの時、もし白龍と敦盛さんの助けがなかったら考えただけで身の震えが止まりません。
ともあれ、現在の帝都にはいたるところに鬼が潜んでおります。
勘のいい敦盛さんはそのようなところに自ら近づかれないとは思いますが、どうぞくれぐれもお気をつけ下さい。
銀座通りから外れた一角にあるそれの前に立ち、ヒノエはその表情を硬くした。
関係者以外立ち入れないように張られた綱に囲まれたその場所は工事用の資材がそこかしこに積み上げられ、その脇に櫓のようなものが組まれてそこから地面を斜めに穿つ穴がポッカリと口を開けている。
これが数年前より始まっている地下鉄堂の工事であると最初に聞かされた時、地家に鉄道を走らせるというその発想にヒノエも随分驚かされたものであった。
だが、あの時からかなりの歳月を経ているにもかかわらず、工事が進んでいるような気配がどうにも感じられない。
そうこうするうちにヒノエはこの現場についておかしな噂が立っていることを耳にした。
『地下鉄道の現場には鬼が出るらしい』
『工夫が何人も鬼に襲われて怪我をし、怖がって次々に仕事を辞めてしまい、新しいなり手がいないらしい』
『軍隊が出動したが、鬼に叶わず逃げ出したらしい』
「どんどん悪い方向に進んでいっちまってる」
ヒノエはそう呟くと、その場で地団駄を踏みたくなる気分をグッと堪えた。
鉄道工事の現場は人気がなく、ひっそりと静まり返ってしまっている。それは噂の信憑性を裏付けるものであった。
その空いた穴の入口にまるで古事記に登場する黄泉比良坂のようだとヒノエは思う。
それはただ、闇の中へと続く下り坂ということだけではない。
その坂道から這い登ってくる瘴気を彼は感じ取っていたのである。
「このままじゃあくそっ」
この事態を前にして己の非力さがあまりにも歯痒く、こんな時だというのに自分にできることかもう殆ど残っていないことを呪いたい気分になる。
「要石で竜脈の暴走を抑え込むのももうなっちまったらもうただの焼け石に水だ他に何かないのか、俺がこの帝都でやれることはもう!」
ヒノエは苛々と自分の親指の爪を噛む。その時、彼の脳裏に数年前のある出来事が過ぎった。
それは彼がまだこの帝都にやってきて間もない頃の話。
帝都という風水学上稀有な理想都市とそれを裏付ける繁栄ぶりに魅了され、その生きた学問の成果を自分の目で確かめる為に毎日その東西南北を一人巡り、実地で調査していた時に一人だけ彼に声をかけてきた男がいたのだ。
彼はヒノエにここで何をしているのかを問い、自分は新聞記者なのだと告げた。
果たして風水などといってどこまで理解してもらえるか疑問であったものの、この帝都へ来て初めて声をかけられたこともありヒノエは自分が今やっていることを素直にその記者に話したのだ。するとその記者は面白そうにその話を聞き、分からないところはいろいろと質問をぶつけてきた。そして、別れ際にもし何かあればいつでも訪ねてきてねと言い残してヒノエに名刺を一枚渡したのだ。
後にあの震災が起きてしまい、その記者が今も生きて同じ会社で記者をしているかは分からなかったが、とにかく今はもう八方塞がりの状態の藪の中だ。たとえ一筋の蜘蛛の糸だとしても、今はこの光明に賭けてみるしかない。
「あの時の名刺まだあったよなよし、行ってみるか」
仮にいたとしても、あの記者はもう自分を覚えていないかもしれない。
しかし、そんなことは今瑣末な問題でしかなかった。
廃寺の本堂の一角では、昼夜休むことなく護法童子がその満身の力を籠めて引く索のきしる音だけが絶え間なく続いている。
ギィギィギィギィ
夏虫一匹鳴かぬ恐ろしいまでの異様な静けさが周囲を支配していた。
ピンと張った索は天高く伸び、天の極近くに存在した北斗七星へと巻きついているとは誰も想像できないであろう。
索に囚われた北斗七星天の龍はその引く力に抗い、必至にもがき続けるが徐々にその身体はこの地上へと手繰り寄せられつつあった。
天の理(ことわり)が人の手により力づくで捻じ曲げられようとしているのだ。
しかし、大半の人間はいまだにその事実に気付かないでいる。そして、天や地に深刻な影響が生じたところでことの重大さを初めて知ることになるのだ。そして、策を講じるには最早手遅れとなっていることを。
その索を引く音と同じように続いていた詠唱の声が今この時だけは止んでいた。
平知盛は胡坐を書いたままの姿勢で両眼を閉じ、休眠を兼ねた瞑想状態へと入っている。
彼は己の意識を夢と現実の境界を彷徨うように漂わせつつ、思考する。
“―白龍の神子。”
この帝都を守護する応龍の半身であり、陽の化身でもある白龍が自らに危機が及ぶ時に選ぶといういわば地上代行者というべき存在。
“もう少し歯ごたえがあると思ったが少し期待をかけすぎていた、か。しかし”
最初にあの娘の存在を知ったのは娘自身の行った『花会』と呼ばれる支那の占術の力によるものであった。
託宣により帝都へと赴くにあたり、神子はまず己の敵をその目で知ろうとしたのだ。
そして術の行使により、彼女はまだ帝都へ一歩も足を踏み入れることもなく直接知盛へと辿り着く。だが、それは同時に敵にも己の存在を感知させることであった。
“己の存在を気取られることも覚悟の上で、俺の施した全ての結界をすり抜けただ一度の卜占で一気にここまで辿り着いたあの力これまで俺の邪魔をしようとしてきた人間達の中で、最もこの俺を満足させてくれそうなことには変わりない”
たとえ、邪法といわれる術を使ってでも敵の喉元に一気に迫り、そこへ刃を突きたてようとする闘争心は清浄なる神子とはおよそ程遠い。一見、凛としたその目も、見ようによってはまるで獲物を狙う獣のようなギラギラとした殺気をはらみ、それもまた神の代行者にはあるまじきものだ。
挨拶代わりに鬼に襲撃させて見た時、最後は川の中より現れた水馬のおかげで神子は辛くも危機を脱した形となった。
が、神子の目は意識を失くすまで戦う意志が消えてはいなかった。抜き身の小刀一本で十数匹の小鬼を相手に全身ボロボロに傷を負いながらも戦い続ける姿を、その鬼の目を通じ知盛はずっと観察していたのだ。
緒戦は経験不足によるところが大きかったのであろうと思う。もう一瞬早く反応できていれば互角、あるいはそれ以上に戦えていたに違いない。
知盛としては小手調べの意味は含んでいたものの、決してわざと生かしておこうと考えていたわけではない。
ここで死ぬのならそれまで期待外れであった、ただそれだけのことなのだ。
しかし、あの神子は幸運にも生き延びた。
“あの神子は見せ付けられた力の差に恐れ戦いて、帝都から逃げ出すだろうか?”
否と、知盛は思う。
あの娘は、己の使命を果たすためにはおそらく手段は選ばないであろう。
己の力が及ばぬからといってその差に怯むことなく、その戦い方を改めてくるに違いない。
“この次はせいぜい俺を楽しませてくれよ、神子殿”
知盛は口元だけを引き攣らせるように上げ、ニィっと嗤った。
「この間預かった数式を大学で世話になってる教授にみてもらってたんだが、やっとその結果が出たんで持ってきた」
ここは巣鴨病院の一角にある勤務医に与えられた部屋の一つ。
診療時間も終わり、既に部屋付きの看護婦も帰ってしまった後の部屋にはこの間と同じ面子が集まっていた。帝大生の有川将臣、新聞記者の梶原景時、そしてこの部屋の主である医師の武蔵坊弁慶の三人である。
「それを待ってたよ〜、将臣くん」
景時が言う。弁慶も同じように頷いた。
「ええ、本当に。正直、門外漢の僕たちではお手上げでしたからね。早速ですが、聞かせていただけますか?」
「分かったよ、先生」
将臣は答える。
「とはいえ、ちょっとばかり専門的な話になっちまうんだよなぁま、できるだけ噛み砕いて説明するつもりだが、わからねぇところがあったら遠慮なく聞いてくれ。俺もできるだけ努力する」
彼はそう前置きすると、先日影時から託されて大学へと持ち込んだあの数枚の紙片訳の分からぬ数字の羅列が一面に書かれたそれらを机の上に並べた。
「まず、結論から先に言うとこれらの数式は『ラグランジュの五次方程式とその解』と呼ばれるものに間違いないそうだ」
「らぐらんじゅ?」
「あぁ、ラグランジュっていうのは十九世紀の代表的数学者であり天文学者でな、特に惑星運動を計算で割り出そうとしてたんだよ。例えば微小惑星とか月のような衛星が永遠に静止してしまうには位置や点とかな。その結果弾き出した正三角形解と直線解の計五地点を弾き出したんだが、その点を合わせて『ラグランジュの特殊解』っていうんだよ」
将臣は能弁に話し続ける。
「で、それを方程式化したのが『ラグランジュの五次方程式』っていうんだよ」
「ま、待って下さい。惑星とか衛星って、あの宇宙にあるあれの事ですか?」
弁慶があまりにも想像の範囲を飛び出した内容に驚いて言う。将臣は言った。
「他に何があるっていうんだよ」
「ですが、しかし」
「そうだよ、将臣くん。第一、そんな難解なものを妹が知ってるわけないだろうし、ましてや計算なんてできるわけが」
戸惑う弁慶と景時。だが、弁慶の方がいち早く頭を切り替える。
「まぁ、この際その話は置いておきましょう。将臣くん、続けてくれますか?」
「OK。じゃあ、話を戻すとしてそれで、此処に書かれている数値で導き出されいる解なんだがこれはラグランジュが自分が考えた方程式を利用して解いた例題のうちの一つで<永遠の満月>と呼ばれるものなんだ」
「<永遠の満月>ですか?」
「その例題ってのはこうだ。今太陽と地球という巨大な天体があるとする。この場合、原点は太陽なんだがで、地球がこの太陽に対して円錐軌道上の相対運動を行うとする。そうなるとこの両者に関係する第三の天体つまり、月だな。こいつは例の五つの特殊解に相当する一点に停まりながら、地球の軌道と似た動きを永遠に示すことになる。そこで、だ。月が永遠に動かないで見える地点とはどこか。これがラクランジュの直線解によるとA≒1/100ってことになる。Aってのは、地球と太陽間の距離、つまり地球の公転軌道の平均半径を1とした場合の、地球と月の距離ってことだ。要は月の位置が地球の公転軌道の1/100のところにあれば、月は永遠に停まってしまう。しかも、これは直線解だから、太陽、地球、月が一直線に並ぶんだ。だから、もし仮に月が最初から地球から太陽の反対側に、約1/100天文単位のところにあったのなら、月は永遠の満月としてその場所に停まっていただろう、ってわけだ」
「なんだか、詩人ですね。そのラグランジュという人は」
「まぁね」
「にわかには信じられないけどねぇ」
「現実のところ、計算上では月が現在の距離からあと四倍地球から遠ざかれば、月は静止する」
「でも、いくらなんでも不可能でしょ?あの月を動かすなんて」
景時は苦笑いする。が、将臣は窓の外へと目をやった。窓の外では既に沈んでしまった太陽に代わり、空には一部欠けた月が昇っているのが見える。彼はまだ明かりが点されていない部屋の中でその月を背に立つ。その逆光の所為か表情はほとんど見えない。彼はこう続けた。
「一つ、気になることが今この空に起きてる」
「気になることですか?」
弁慶が問う。
「あぁ。うちの大学の天文台でも騒ぎになってるんだ月が、地球に接近してきているってな」
「月がですか?」
「そういえば、確かに最近妙に大きく見えてると思ったけどあ、でもちょっと待ってよ、将臣くん。キミが今言ってた<永遠の月>はええと、なんだっけ?月は地球から確かあと」
「四倍、ですね」
「そ、そう四倍!四倍にしないといけないのに、逆に近づいてるっていうのは」
「そこだ」
将臣は言った。
「『月が遠くへ弾き飛ばされる前兆かもしれない』これが教授の意見だ。俺もそうとしか思えない。ちょうど、石弓が反動を利用して石を遠くへ投げるのと同じ理屈だ」
想像の領域を遙かに超える事態に、弁慶も景時も完全に言葉を失くしてしまっている。
「ちょ、ちょっと待って。それって、つまり」
どうにか自分の頭の中で理解できるよう景時は組み立てに務めるのだが、如何せん上手くいかない。先に想像が追いついた弁慶がそれに代わって言った。
「つまり平知盛の企みとは、この地球との間に生じる強力な摩擦の力を利用し、あの月を弾き飛ばそうというのですね?」
「おそらくは。そして、月を動かすのに必要な力の程度を計算させ、報告させているとすれば」
その言葉に景時の顔色が変わった。
「じゃあ、将臣くん。朔はあの子はいまだにあいつの術中から逃れていないと?まだ、あいつの手駒にされていると?」
将臣は頷く。景時はやりきれない怒りに任せ脇の壁を拳でドン!と殴りつけた。
「しかしその先が分かりませんね。平中尉は月を<永遠の月>として、それからどうするのか」
弁慶も苛立ちを覚え始めていた。
「この現象と同時期に北斗七星も形が変わり始めてるんだ。おそらくはこれも何か因果関係があるかもだが、こっちの方はまだ分からないことが多すぎるんだ」
将臣も同様に唇を噛んだ。
その時だった。
「永遠にその場に静止する月は天の宝石となる。そして、その宝石を求め、天の龍は動き出すわ」
そう言って部屋に入ってきたのは望美であった。手や腕にはまだ包帯が巻かれ、その痛々しい姿はまだ傷が完全に癒えていないを現している。
「望美、お前」
「望美ちゃん、出歩いても大丈夫なのかい?」
「譲、お前がついていながらなんで止められなかったんだ?!」
「ゴメン、兄さん。でも先輩がどうしても急を要するからって」
将臣は彼女が怪我を負って以来、ほぼ毎日彼女の傍に護衛としてついていた弟をその後ろに見つけると叱責する。が、望美はそんな彼らに首を振ると言った。
「もう、それほど悠長なことも言っていられないの」
そして、真っ直ぐに顔を上げると、その場にいた一同を見る。
「月の件でも分かるように、敵の力量は私の想像を遙かに超えていました。悔しいけれど、相手の方が一枚も二枚も上だわ。その上に今、こうしている間にも向こうの計画は着々と進行していっているもう私たちが反撃できる時間は僅かしかないんです」
彼女はそこまで言うと、突然深々と頭を下げた。
「どうぞ、皆さんのお力を私にいえ、帝都の為にお貸し下さい。私一人ではあの男に到底力の及ぶところではなくとも、皆さんと力を合わせれば五分、あるいは」
その場に集まった男たちは互いの顔を見合わせる。
「どうか」
望美はそう言うと、再びその頭を下げたのであった。 
有川兄弟、地脈を断つ

 

帝都、東京。
日本の首都にして、名実ともに国の中心たるこの都市は幾許かの危難を経ても、灰の中から甦るという伝説の不死鳥の如く立ち上がり、その度に一段と高い繁栄をその地に築き上げてきた。
多くの人、そして多くの物資が集まり、みるみるうちにそれは周囲へと拡大してゆく。
今や世界に誇る巨大都市と呼ぶに相応しいその反映振りはこの地がただの都市ではなく、『霊的に祝福された選ばれし都市』であることにも起因していた。
四方に聖獣を配した地形を持ち、中央には竜脈が流れる。その竜脈がもたらす大地のエネルギーは細かな支流に分かれ、低との隅々にまでその恩恵を行き渡らせていた。人々は知らず知らずその恩恵を受け、暮らしてきたのだ。
だが、今それが常人には思いも寄らぬ霊的攻撃によって破壊されようとしている。
それが成せば、今度こそ帝都は都市としての『死』を迎え、繁栄の絶頂に至ろうとするこの都市はそのままそっくり巨大なる墳墓と成り果てるだろう。
そして、その日はもうそれほど遠くない日に現実のものになろうとしていた。
帝都において最初に計画されている地下鉄道は銀座から浅草にかけてのものである。
急速に肥大した帝都はそのあまりにも早すぎる反映の代償に問題を抱え始めていた。
一度に人と物が集中しすぎたが為に、都市は慢性的な交通渋滞と事故の多発を招いていたのである。
それは無理からぬことで、同じ道の上を人が、自動車が、電車が同時に行き交うのはここまで多くなりすぎると困難を極めてしまうのだ。このままではいずれ都市機能そのものの重大な障害となり、破綻をきたす。
そこでにわかに脚光を浴びたのがこの 地下鉄道構想であったのだ。
地下に電車を通すことで、道路から人と電車を減らすことができれば混雑も劇的に解消できるそう期待され、工事は着工された。
だが、度重なる原因不明の事故によし工事は暗礁に乗り上げてしまっていたのである。
「想像以上に工事は進んでたんだな」
有川将臣はそう言うと、完成すれば銀座駅となるであろう広く掘られた横穴を見回す。
「本当にこんな孔の中を列車が走るなんで、俺にはいまだに信じられないよ」
弟の譲は言う。
「まぁ、完成すればの話だがな」
将臣はそう言いながらも作業が止まったままの現場を突っ切り、更に奥へと続く線路の先の暗闇へを目をやった。
「出来上がったら凄いんだろうけどなんか、嫌な感じだな」
譲はまだ着慣れない洋装に少し居心地の悪さを覚えつつ言う。兄の後をついてずっとここまで歩いてきたが、喉元に当たる詰襟の息苦しさよりも感じるこの不快感に、ただならぬ緊張感が走る。
「お前は俺と違って昔から勘が良かったからな」
「勘が良いといったって、俺なんて所詮先輩の足元にも及ばないけどね。とは言っても、流石にこれはちょっときついな」
「あぁ。こっちに来てからはますますそんなものとは疎遠だった俺ですら、これはあからさまに感じるね。この奥でじっと息を潜めてるやつらの気配ってやつが」
線路の上に立つ二人の額に冷汗が浮かぶ。
「以前から、工事が進まなくて変な噂が立ってたことは俺も知ってたんだが、まさかこいつも一連の帝都破壊工作の一環だったとはね」
将臣はそう言って、いつだったか資料を届けるために大学の工学部の研究室へ行った折、偶然地下鉄公団の人間と会ったことを思い出す。やけに青い顔をして中から出てきたその人間と入れ違いに中へ入ると、丁度教授がこんな言葉を漏らしていたのだ。そう、『この科学文明の時代に鬼が出たなど』と。
その時は彼は言葉の意味を深く考えていなかったのだ。
だが。
「兄さん、その鬼が出るって場所はここから近いのかい?」
弟の声に将臣は我に返る。
「ちょっと待て」
彼は概略図を胸ポケットから取り出し、横穴の壁面に吊るされた電球の光の下に広げる。
「よく、こんなのもらってこれたよな」
「蛇の道は蛇つか、あの弁慶先生の顔の広さは尋常じゃねぇよな」
そう言って将臣はこの図面を渡されたことを思い出す。
弁慶に呼び出され、「僕にできることはせいぜいこのくらいですからね」と言ってこの図面を渡された時、流石の将臣も舌を巻いたのだ。どうやら、今回の事が決まった時点で弁慶は自分の人脈を使って公団からこの図面を手に入れてきたらしい。
「俺たちが今いる場所が此処。そして、例の現場はあぁ、これだな」
将臣は指で図面を辿ってゆくと、やがて途中でそれが切れている地点で手が止まった。
「結構あるねここからは歩きかな?」
「いや。そこにトロッコがあるだろ。ここからはそいつを使う。とはいってもそれで行けるのはこの辺りまでだがな。その先はまだ線路が敷設されてないから歩きだな」
何故、線路が敷設されていないのか、その理由はいうまでもなかった。
将臣は元通りに地図を懐に収めると、線路の端に停められていた一大のトロッコへと近づく。そして、大の大人でも一度二十人以上は余裕で乗れるであろうそれのストッパーを外すと進行方向へ向けて押し始めた。その様子に譲も後を追うと、同じように押し始める。重いトロッコの車輪は始めのうちは緩慢にしか動かなかったが、やがて目が覚めたかのように線路上を滑らかに滑り始める。
「よし、いいぞ。乗れ、譲!!」
線路に僅かにある傾斜に少しずつ速度を上げ始めたトロッコに、譲は飛びつくようにして乗り込む。
「兄さん!!」
そして、身を乗り出すと更に勢いをつけ始めたそれに将臣が全力疾走で追いかけ、ギリギリでしがみついたのを助けてトロッコの中へと引っ張り上げた。
ドサリ!!
二人は倒れこむように車内へと転がり込む。そして、床面からどうにか身体を起こしたのとトロッコが轟音を上げ、真っ暗な下り道を走り出したのはほぼ同時であった。
ゴォォォォォ
時折、備え付けられた電球の灯りを通り過ぎ、トロッコは走る。
しかし、この地の底にあってそれはまるで蛍火程度にしか感じられないほどそこは漆黒の暗闇であった。
将臣と譲は肩で息をしながら、それぞれがこの役目の為に持ち込んだ己の得物をその僅かな光源を頼りに確認する。
「兄さん」
「なんだ?」
「兄さんは怖いと思わないのかい?」
将臣はその問いにそうだな、と前置きするとこんなことを語り始めた。
「怖くないってったら、はっきり言って全くの嘘だ。この科学は万能だっていう考えがごく当たり前の時代にだ、しかもその最先端であるはずのこの帝都で、その科学を学んでいるこの俺がだぜ、『鬼』なんて誰が聞いたって非科学的な、そんな説明のつかないような代物を退治しなきゃなんねぇ。それもこんな時代錯誤な道具で、だからな」
将臣の手には鎌倉の望美の実家である春日社から送ってもらった大太刀が握られている。元来、白龍の神子の護り手を担う者たちが有事の際、その手助けをするときにのみ使うことが許されると伝えれるもので、魔や怨霊を斬る力を蓄える為に通常は誰の目にも触れることなく、社の奥つ方に存在する龍穴に安置された破魔刀である。
「ははっ、兄さんらしいや」
そう言って苦笑いする譲の手には破魔弓が握られている。これもまた社より送られたものだ。彼は肩から矢筒を下げ革紐がちゃんと結ばれているかどうか再度確認する。
「けどな、科学で割り切れようが割り切れまいが力は力だ。使えるものはありがたく使わせてもらう。俺はこの帝都とそこに住んでる人間が気に入ってるんだ。それをなくされちゃ叶わないからな。それに、だ」
「それに?」
「いくら、お役目だからって望美一人に全ての始末を押し付けようなんて思うほど、人でなしじゃねぇよ。確かに『白龍の神子の護り手』の役目を放り出す形でこっちへ来ちまったが、だからって無関係だとは言わないし、放棄したとも思ってないからな。俺はここにいて、望美もここにいる。そして手助けが必要だ。だから、俺は俺のできる役割を担う。ただ、それだけだ」
その言葉に譲はフッと笑う。
「安心したよ」
「あ?何が??」
「何処に行こうが兄さんは兄さんだったってことさ」
「どういう意味だよ、それ」
「いいや、こっちの事さ」
その間にもトロッコは暗い穴蔵の中を何処までも突き進んでゆく。
やがて、体が後方へ引っ張られる感じが減り始め、それと共にトロッコのスピードも次第に遅くなり始めるのが伝わり始めた。
「どうやら、そろそろみたいだな」
「兄さん」
「あぁ、分かってる。実に嫌な感じだ」
澱んだ空気の中、何かが腐ったような臭いが微かに漂い始める。
「聞いた話だが」
将臣は太刀をかけた紐の結びを今一度確認しながら言う。
「なんでも、以前陸軍がここに出張ってきたことがあるらしい」
「軍隊?」
「あぁ。だが、手も足も出ずに逃げ戻ったって話だ。で、緘口令が敷かれたって訳」
「そりゃあ、仕方ないよ」
「だな。軍隊ってのはそもそも人間を相手にするもんだしな」
「物の怪や鬼なんてものを相手にどうにかできると思う方がどうかしてるさ」
「まぁ、俺には少し分からんこともないがな。この科学文明の時代にそんな時代を逆行するような存在を表立って認めることなんてできないってことはな」
ゴトン!
何か硬いものにぶつかるような音と共にトロッコはそれ以上先へ進むことをやめた。
「さてと、終点だ」
当然の如く人っ子一人いない穴倉の中は静まり返っている。だが、一種異様な気配は確かに漂っていた。将臣は周囲を窺い、安全を確かめると自分が先に地面の上に一人飛び降りる。そして、トロッコにストッパーを下ろすと弟に降りてきても良いと合図した。
「どうやら、この付近の照明はまだ生きてたらしいな助かったぜ」
「そうだね。完全に真っ暗だとまずいところだったけど」
譲はそう言いながら、携えてきた破魔弓に張った弦の張り具合を今一度確認する。将臣が言った。
「さっき打ち合わせした通り、此処から一番奥まで距離にして約二百メートル強。そして、公団技師の言ってたことが間違いなけりゃ、突き当たりの岩盤にはそいつをぶち抜く為にセットされたダイナマイトがそのままになってるって訳だ」
照明が生きているとはいえ、それらの一つ一つの距離は離れており、しかもその照度は大したことがないので完全に奥まではっきりと見通すことは困難であった。将臣は用意してきた松明に火をつける。
「俺は最終的にはこいつでそれに火をつける」
「だいなまいとって、爆弾だろ?そんなのが爆発したら、兄さんは大丈夫なのか?」
「まぁ、巻き込まれたら無事じゃすまないな」
「兄さん!」
「まあ、最後まで聞けよ。聞いた話だとそいつには元々数十メートルの導火線があったらしい。ところが、今では食いちぎられちまってて、かなり短くなってるようだ。だから、まずはこいつを繫ぎ直す」
将臣はそう言って細い線が巻かれた糸巻きのようなものを取り出した。
「俺はこの端を持って奥まで行って繋いでくるから、お前はこれを持っていてくれ。で、合図したら反対の端にお前が火をつけろ」
「俺が?!」
驚く譲。
「当たり前だろ。俺が生き残ろうと思えばできるだけ長い導火線を引いてそこから火を点ける必要がある。とはいえ、俺が戻ってからだと、下手をしたらまた食いちぎられる恐れがあるから、引き終えたらすぐに点けなきゃ間に合わないからな」
「けど」
なおも躊躇う譲に将臣は力強く言う。
「なぁに、岩盤をぶち抜く程度の威力だから、別に生き埋めになったりする心配はないさ。要は呼吸だよ、阿吽の呼吸ってヤツな」
快活に話す兄に弟も渋々同意した。
「ともかく、こいつさえ成功すれば地脈が断たれる。そうすれば、そこから力を無理矢理奪って悪さをしてる連中も息絶えるんだ。
そうすれば、帝都の危機の要素は少なくともひとつはなくなるってことだからな」
「その話だけどさ。ヒノエとかいうあの風水師、本当に信用できるのか?」
譲るはずっと持ち続けていた疑問を口にする。
「さぁな。景時さんは『たぶん信用できる』って言ってたが」
「『たぶん』って、兄さん」
「まぁ、ヒノエのいうことが信用できないにしても、望美も言ってたろ。この地脈を断っても大丈夫だってさ。かえって悪い部分を切ることで正常な地脈を取り戻せるだろうってな」
「そうそうだな。先輩もああ言ってたし」
ようやく、譲も納得したらしい。
「さぁ、時間はそんなに残っちゃないんだ。望美たちを助ける為にも、ここはひとつ鬼退治いや、スサノオよろしく竜退治と行こうぜ!」
将臣はそう言うと背中の破魔刀を引き抜き、先に立って歩き出す。その抜き身の大太刀の放つ青白い光が薄暗い空間の中、揺らめく炎のように怪しく輝いた。
「どうぞ、皆様の力をお貸し下さい」
白龍の神子春日望美はそう言って深々と頭を下げる。
その小柄な体から滲み出る清浄な空気はその場にいた全ての者を圧倒させるのに十分なものであった。
決して威圧や恐怖といった力ずくで相手を捻じ伏せるようなものではない。
むしろ真逆の質をそれは持っていた。
もし、菩薩という存在がこの世に現出したとすればひょっとしてこのようなものではないだろうかと思わせる慈悲と懐の深さを同時に兼ね備えた空気。
今目の前に立つまだ十代の少女がそれを放っているのだとは俄かに信じがたかったが、それが現実であることを疑う者は誰一人この場にはいない。
呆然と彼女を見つめる男たちの中、最初に口を開いたのは望美と共に鎌倉からやってきた有川譲であった。
「勿論です元々、俺はそのつもりでここまで先輩についてきたんですから。兄さんだって、きっと」
「分かってるさ。『それがお役目』だって言うんだろ?まぁ、そのことを抜きにしても俺も乗るさ」
将臣が言う。
「俺はまだこの帝都でやりたいことが山ほどあるんだからな」
弁慶と景時も同じように言う。
「そうですね。僕がどんな手助けができるか分かりませんが、この危機を知っているのにそれを女性の君一人に責任を押し付けるというのは帝都の住人としても、男としても恥ずかしいですからね」
「俺だってそうさ。奴をどうにかしないと朔だって何時までもあのままかもしれないそんなこと、考えただけでもゾッとする。この帝都だけじゃない、朔の為にもやるよ」
「ありがとうございます、皆さん」
望美の目にうっすらと涙が滲む。
彼女は更に言葉を紡ごうと口を開きかけた。
その時だった。
「なかなか面白そうなことを考えてるね。どうだい、ひとつ俺をそのお仲間に加える気はないかい?」
既に皆帰った後で誰もいないはずの背後から声が聞こえ、一同は驚いて振り向く。
彼らの目に映ったのは、開いたままだった診療室の入口に立つ赤い髪の青年の不敵な笑顔であった。
青年はぐるりと一同を見回すと、景時のところでその視線を留めて言う。
「よ、記者さん。俺の事、覚えてるかい?」
「あ、君。確か風水師の」
「光栄だね、覚えていてくれて。ヒノエ、だよ。新聞社の方に行ったら、こっちにいるって教えてもらったからさ」
ヒノエはそう言うとゆっくりと歩を進め、その場に集まった一同の顔を見回す。
「ふぅんおや、お嬢さん。アンタ、確か」
その目が望美のところで止まった。
「以前、一度会ったことがあるね。覚えてるかい?俺はあの時竜脈を辿ってたんだが、その先にお嬢さん、アンタがいたそうか、アンタやっぱり唯の人じゃなかったんだな」
興味深げに望美を一瞥した後、彼女の方へと近寄りかけたヒノエの前に譲が割って入る。
「なんだい、アンタは?」
「どこの誰とも知らない人間が、あまりこの人に近寄らないでくれないか」
「そこの記者さんも言ってたろ?俺の名はヒノエ。風水師ってのがご不満なら、紀州熊野の祭司という肩書きもあるぜ?ただの人かそうでないくらいの目なら、しっかりと持ってるぜ」
「そんなこと、関係な」
「熊野?熊野大社ですか?」
譲の言葉を制して、望美が割って入る。
「先輩?」
「いいのよ、譲くん」
ヒノエが言う。
「ああ、そうさ。で、アンタ何者だい?」
「連れが失礼なことを言ってごめんなさい。私は鎌倉にある春日社の宮司の娘で望美といいます。以後、よろしくお見知りおき下さいね」
その名にハッとするヒノエ。
「鎌倉の春日?じゃ、あんたひょっとして」
「はい。その『ひょっとして』です」
望美は小さく頷いて微笑む。
「ははは、そりゃあ道理で竜脈も騒ぐわけだ」
ヒノエは自分の赤い髪を掻き上げながら呟く。
「そうかあんたが」」白龍の神子。
言い伝えとしては聞いていた、応龍の陽の化身たる白龍が必要とした時に選ばれるというその地上代行者。
思えば、この帝都の危機的状況下において白龍が神子を選ばないわけがないではないか。
これは吉兆だろうかとヒノエは思う。
自分一人の力ではたとえ他の者の協力を得られたとしても、ひょっとすれば燃え盛る炎の中に水一滴投げ込むにも等しいかもしれない。
しかし、今ここに白龍の神子がいる。
応龍の陽の気を具現化した白龍の愛し子。
そして、その神子の元に集まっている他の者も皆何かしらの力人の常識の枠の中でもあれば外でもあるを持っている。
おそらく、あらゆる偶然をより合わせ、必然と変化した果てにここに集まったのであろう。そこに自分が行きあうことができたのもひょっとすれば応龍の導きなのかもしれぬ。ヒノエはそう思い、単刀直入に言葉を切り出した。
「あぁ、感動している場合じゃなかった。空の彼方でも異変が起きているように、今この大地の下も深刻だ。地の竜に巣食った病巣に苦しみ続ける地の龍はもうその痛みに耐えかねて、のた打ち回る寸前だ」
その言葉に望美も頷く。
「ええ、その通りです。大地の力は日一日と衰えつつあります」
「もし、その龍がのた打ち回ったらどうなるんですか?」
弁慶が聞いた。ヒノエは言う。
「そうなれば帝都にまた大地震が来る。しかも、ただの地震じゃない。大正のあの震災など比べ物にならないほどの規模になるね、これは」
「分かっているのです。けれど」
その言葉に望美は唇を噛んだ。その様子を見ていた弁慶は何を思ったのかヒノエに言う。
「ヒノエといいましたっけ。ひょっとすると君はそれについて何かしらの方策を持っているのではないですか?」
「鋭いね、先生。ま、天の竜は流石に俺じゃあ手も届かないがね、地の竜の方なら風水的観点から方法がないこともないとは言っても少々、いやかなりの荒療治にはなるけどね」
ヒノエはそう言うと驚く一同を見回すとニヤリと笑う。
「本当の事を言えば、俺一人で決行するのは無茶が過ぎて実現するのは不可能だと思ってたんだ。けど、ここに揃った人間の力を借りればあるいは五分五分ってところまではなんとかなりそうだ。どうだい、乗ってみる気はあるかい?」
辛うじて生きている照明が一つ二つ、孔の奥にぼんやりと光っているのが見える。
しかし、どうやら送電線の接続が悪くなっているらしい。弱々しいその光が時折すぅっと消えたかと思うと、また浮かび上がるその様はここがまるで帝都の地下ではなく、神話に登場する黄泉の国へと続くという黄泉比良坂ではないかとそこを歩く者たちに錯覚させた。
剥き出しの土を踏む音がやけに煩く響く。
澱んだ空気は奥へ向かうにつれてますます生臭さを増し、とても長居などしたくないものとなっていった。
松明を持ち、前を立って歩いていた将臣が立ち止まる。
「よし、この辺でいいだろう。譲、お前はここで待機な」
まるで、近所に散歩にでも行くような気安さで手をヒラヒラ振りながら歩き出した兄の背に向けて譲は言う。
「兄さん」
「ん?なんだ?」
将臣は振り返ることなく歩き続ける。弟は言った。
「流石に竜退治っていうのは拙いだろ。仮にも俺たちは白龍の神子の護り人なんだしさ」
「ははっ、違いねぇ。だがな」
既に将臣の視界には行く手の地面にまるで染みが広がっていくかのように橙色に輝き、その光の中から何かが這い出てくるのを捉えていた。
彼は言う。
「西洋じゃな、竜(ドラゴン)退治ってのはお伽噺の王道なんだぜ?」
そして、手にした剣を上段に構えたのと同時に、その蠢く何かが一斉に将臣をめがけて突進を始めたのであった。 
月の鳥、白龍の神子を誘(いざな)ふ

 

殆ど全ての帝都市民が間近に迫りつつある最期の時の到来に気づくこともなく、いつもと変わらぬ夜を過ごしていた頃、有川将臣、譲の兄弟が深い地の底でそこに巣食う鬼どもとの戦いを始めたのとほぼ同時刻。
白龍の神子、春日望美の姿は帝都を守護する応龍を祭神とする神社にあった。
その分霊たる白龍、黒龍はこの帝都ではなく遠く離れた鎌倉の地に決して表立つことなく密かに祀られてはいたが、その合一した姿である応龍そのものはいまだ信仰の対象として、広く帝都市民にも親しまれている。
その灯りも落ちた深夜の境内に望美は佇んでいた。
白の小袖に白袴といういでたちで敷き詰められた白砂の上に一歩足を踏み入れると、ゆっくりと本殿へと向かって歩き出した。
そして、心静かに祈りを捧げる。
その横顔はこれから始まるであろう死力を尽くした戦いの前にあって、まるで凪いだ湖の面のように静かであった。
瞼を閉じ、心を澄ませ、まるで元からそこにある一体の彫像のように身動き一つすることもなく望美はそこに立ち続ける。
そして、どのくらい経ったのであろうか。
やがて、彼女はゆっくりとその目を開くと、懐から白い細帯のようなものを取り出す。
それを無駄のない動作で額に巻き、頭の後ろでそれをキッチリと結び終えると今度はそれよりも長い紐を取り出した。それを背中に回し、襷をかけると左脇辺りで固く結ぶ。
そして、仕度がすべて整ったことを確認すると、先程祈りを捧げる前に邪魔にならぬよう脇に置いていた一本の剣を手に取った。
両刃の少し形状の変わったその剣は彼女の実家でもある春日社の御神刀である白龍の剣。代々、神子として選ばれたものだけが持つことを許されたその剣は、白龍の力が篭っていると言い伝えられている。
彼女はそれを左の腰辺りにくるよう帯刀した。
「準備は全部終わったかい?神子姫様」
背後からかけられた声に望美が振り返ると、その先には脚絆姿のヒノエが彼女を待っていた。
「はい。お心遣いありがとうございます、ヒノエ様」
望美が待っていてくれたことに礼を言うと、ヒノエは片眉を上げ苦笑する。
「なぁ。その『様』ってのをできればやめにして欲しいんだけど?」
「はい?」
「ま、確かについこの間知り合ったばかりだけどさ、これから下手をすりゃ命を落としかねない危険な場所に二人だけで出向くって間柄なんだし、それに何より見たところ神子姫様は俺とそんなに歳が離れてるって感じでもなさそうだし「様」付けで呼ばれるのってどうも据わりが悪いというかさ」
その言葉に望美は首を傾げる。
「では、なんとお呼びすれば?」
「ただのヒノエでいいよ」
望美はしばらく考えてから、こう答えた。
「あの流石に呼び捨てというのは抵抗があるので「ヒノエくん」ではいけませんか?」
すると、ヒノエはニヤリと笑った。
「「ヒノエ様」よりはよっぽどいいね」
ヒノエと望美以外人どころか他の生物の気配もない神社の境内がざわめいたのはその時である。
「なんだ?!」
それは暗い夜空のほぼ中心に浮かぶ、月から飛来したようにしか見えなかった。
周囲に鎮守の森を持たない神社の上空はやけに広い。その日は満月ということもあり、冴え冴えとした銀盆のようなその姿が雲一つにも遮られることなく天空の中心にはっきりと見える。
先日、巣鴨で今日の為の打ち合わせを行った時よりも更にその姿が巨大に見えるのは決して錯覚などではないことを望美もヒノエも知っている。
そう、今こうしているこの時にも何らかの呪われた力が別名紫微星とも呼ばれる北極星付近にいた天の龍を捉え、刻一刻とこの大地へと引き寄せつつある、これはそのことに影響を受けている明らかな証なのだ。
そんな魔に魅入られた月を背に大きく翼を広げた黒い影が一つ、また一つとここを目指して飛来してくるのだ。
鳥と呼ぶにはあまりにも巨大すぎるその姿は、ヒノエに有史以前に存在したといわれる生き物を連想させる。それらはやがて、すぐ傍にある神社の鳥居の上に音もなく降り立つと、青白く燃える炎のような二つの目でじっとこちらを見下ろしてきた。
その怪異な姿に思わず身構えるヒノエ。そんな彼に望美は動ずることなく言った。
「ご心配なく。あれは月の鳥です」
「月の鳥?」
「ええ、彼らは龍神の呼びかけで月の宮よりやってきた道案内。いずれ私たちを倒すべき敵、平知盛の元へ導いてくれるはず」
その言葉にヒノエはホッとしたのか肩の力を抜いて言う。
「はぁ。あまり心臓に悪いことはナシだぜ、姫君」
「ふふっ、ゴメンなさい」
望美は小さく笑ったのを見て、ヒノエも笑い返す。そして、思い出したかのように携えてきたものを彼女の目の前に出した。
「さて、それはそうと俺の方もさ、実はこんなものを用意してきたんだ」
それは黒い布で覆われた長い棒状のものであった。
彼は巻いてあった布をスルスルっと取り去る。
「旗?」
それは先端部分に槍を思わせる鋭利な三角形の金属片のついた棹で、その下に長く白い布が紐で括りつけられている。
「本来なら、朱雀の方が俺とは相性がいいんだけどね。これから向かう場所は間違いなく戦場となるだろうし、そして俺たちは道を通ってそこまで辿り着く。だから、白虎の加護を強く得られるようにした。白虎は五行でいうところの「金」。金を象徴する形状は鋭利な三角で、それを旗頭にした。そして、旗の色も白虎を象徴する白だ」
ヒノエはそう言って旗を一振りした。よく見るとそれは四角形ではなく、布の端が狭い台形をしている。
「まぁ、完璧とは言い難いかもしれないけどさ。これである程度は大地の力を借りることができると俺としては期待してるんだけどね。どうかな、姫君?」
「そうですね。この帝都の地はきっとヒノエ様じゃなかった、ヒノエくんの為に助力をしてくれるかと思います」
その返事にヒノエは満足そうに微笑んだ。
「フフッ、他ならぬ白龍の神子姫様のお墨付きだ。大船に乗ったつもりでいるよ」
「ヒノエくんたら」
二人は互いの顔を見合わせると、小さな声でクスクスと笑いあった。
時間の経過と共に月は中天高く上り、その白銀の光を大地に惜しみなく投げかけて続けている。
静けさだけが支配する神社の境内に惜しむことなく敷き詰められた玉砂利はその光に晒され、淡く輝くように青く浮かび上がっていた。
ヒノエは思い出したかのように懐の中から懐中時計を取り出すと、その文字盤が指し示す時間を確認しながら呟く。
「先に地下へ下りた連中はそろそろ問題の場所へ辿り着いた頃合だなあっちが首尾よく事を成してくれるか否かで、この先の事態はかなり違って来るんだが」
「将臣くん、譲くん」
望美は表情を曇らせ、二人の名を口にすると、彼らがいるであろう銀座方面を見やった。
こうしている間にもあの兄弟は帝都の地下深くにて鬼を相手にしつつ、竜脈の一つを絶つという過酷な戦いに身を投じているに違いないのだ。
“二人ともどうか無事でいて”
望美は目を閉じ、ただ祈るのみであった。
チリチリと小さな音と共に、時折孔の側壁に沿って引かれた裸電球の弱い光が時折フッと消え、その都度そこは真の闇に支配される。
その間隙を突くかのように地の底から次々と湧き上がるかの如く現れる異形の群れは、横穴の一番奥を目指して駆ける有川将臣の行く手を阻み、幾度となく襲い掛かった。
「っっ!!」
突如、側面から飛び出してきた一匹にも素早く反応した将臣は手にした破魔の大太刀で真っ二つに斬り捨てる。
ジュッという、まるでたたらの炎で焼かれ、打ち上がったばかりの剣で斬られでもしたように、鬼は焼け焦げるような音と共に刃に触れると嫌な臭いと煙を周囲に撒き散らし、地面に溶けるようにして消える。
だが息つく暇もなく、すぐに新しい鬼が現れるそんな繰り返しであった。
別の一匹が振り下ろした鋭い爪が、かわしきれずに将臣のズボンの腿を切り裂いた。
鋭い痛みが走り、瞬間バランスを失いかける。その隙を逃さず、鬼が飛び掛った。
ヒュンッ!
そこへ背後から風を切り、うなりを上げて飛んできたものが鬼の額の中央を見事に射抜く。
それを合図にするかのように破魔の弓から次々と矢が放たれ、将臣の障害となる鬼に命中してゆく。
「譲、サンキューな!」
将臣はそう言いながら、自分の身体に食らいついていた鬼の一体を切り伏せ、もう一体を太刀の柄を力いっぱい振り下ろしてその脳天へと直撃させて剥ぎ取った。
将臣の背後から現れる鬼をできるだけ近付けまいと、弟の譲は己の持てる限りの技で鬼を倒し足止めをかけ続けてくれていた。将臣は後方を弟に託し、自分は前方だけに専念することにする。
「ちっ、それにしても暗すぎだ」
照明は辛うじて生きているとはいうものの、電線の接触はかなり怪しい状態のようで頻繁に明滅を繰り返している。一瞬作られる暗闇はこちらにとっての不利が否めない。
これ以上長引いていてはやられるのが時間の問題だ早くダイナマイトの導火線を探さなくては。
将臣はようやく見えかけた孔の突き当たりに向かい、更に近づこうとした。だが、行く手の地面からは次々と橙色の光がまるで地面に広がった染みのように浮かび上がると、それは熱せられた溶岩が湧き上がるかのように盛り上がり、新手の鬼を生み出してゆく。
「キリがねぇなだが、それだけこの奥には行かせたくねぇってこったよな」
彼はそういうと手にした大太刀を大上段に構え直した。
「行くなと言われりゃ、行きたくなるのが人情なんだよ来な、化け物ども!!」
それに呼応するかのように鬼達が一斉に吠えた。そして、将臣目掛けて全速力で殺到する。それはあまりにも多勢であった。最前列は最初の一薙ぎで真っ二つに斬り捨てたものの、剣を振り下ろしたタイミングで数体の鬼が飛びつくようにして将臣の上体にのしかかりその動きを止めようとするそこに背後から打ち込まれた矢が次々と鬼に命中し、剥がれ落ちてゆく。将臣は振り返りざまに叫んだ。
「馬鹿野郎っ!近付きすぎだ!!」
言葉の通り、譲は将臣が打ち合わせの時に指示していた場所よりもずっと前方まで距離を詰めた位置から弓を構えている。
「でも、兄さん!」
「足元見ろ!いいから戻れ!!」
その言葉にハッと自分の足元を見た譲は、その視界に新たに出現し始めた鬼の姿を捉える。こと距離をおいての戦闘には効果的である弓であるが、流石に至近距離においては逆に不利になる譲は慌てて距離をとるべく元来た方へと走った。
将臣は弟が引き返してゆくのを振り駆ることなく気配だけで感じながら、更に奥を目指して一層その速度を上げて走る。
どうやら鬼達は最奥から一定の距離までの間にしか出現できないようである。譲に関してはその外まで出てしまえば後はもう心配することもない。
「残るはこっちの問題だけってか?」
上げた視線の先、将臣の目についに最奥が映る。
黒々とした岩肌のほぼ真ん中に頭だけを覗かせた紙筒おそらくあれが聞かされていたダイナマイトであろう。その先から細い線のように伸びているものが見える導火線だ。
「ちっ、やっぱり切れてやがる」
ダイナマイトから伸びる導火線は案の定、数十センチばかりを残して切られてしまっていた。だらしなく垂れ下がった導火線の先を確認した将臣は素早くそれを掴むと、教わった通り持ってきた予備の導火線を繋ぎ始める。
「よし」
どうにか繋ぎ終えると、彼はまずあらかじめ望美から渡されていた数枚の護符を岩壁へと貼りつつ、元来た道を引き返しつつも素早い動きで導火線を伸ばし始める。
『一時しのぎにしかならないとは思うけど』
出かける間際、将臣を引き止めた望美はそう言うと彼にその札を渡した。
『折角導火線を伸ばしててもまた切られたりしないように。倒せるほど強力じゃないけど、一時的に大地の力を抑えて鬼が沸くのを遅くすることはできると思う』
『サンキュ。遠慮なく使わせてもらうな』
将臣はそう答えて上着の内ポケットへと収める。望美はしばらく沈黙した後に、申し訳なさそうに言った。
『ごめんね』
『あ?何がだ??』
『巻き込んじゃったから。将臣くんや譲くんを』
その言葉に将臣は一瞬驚いたように目を見張ったが、苦笑すると言った。
『バーカ。別にお前の所為じゃないだろ』
『でも』
『第一な、もし恨み言を言う先があるとしたら白龍のやつだろ?』
『将臣くん』
『お前が気にすることじゃない。どうせ誰かがやらなきゃいけないんだ。だったら、他人任せにして祈ってるより自分で行動した方が俺には合ってる』
彼はそこまで言うと幼馴染の少女の肩をポンポンと軽く叩く。
『じゃ、行ってくるな。襷はキッチリ渡してやるから待ってろ』
望美の瞳に涙の粒が溜まる。だが、彼女はそれを見せないように努めながらいつものような口調で言った。
『うん。二人を信じてるからね』
十数メートルまで貼ったところで、ついに札が尽きた。
ここから先は時間との勝負だ。
彼は持ってきたマッチで導火線に火をつけた。引火したそれは火花を散らしながら将臣とは反対の方向を目指して走り出すのを確認し、彼は次々と地面から湧き上がりその行く手を塞ぐ鬼を猛然と斬り払いつつ将臣は安全な距離まで退避すべく一気に駆け出した。
計算では導火線がダイナマイトへ引火するまで約十秒。
彼の足ならそれだけの時間があれば五十メートル以上は稼げるはずだ。だが、その計算には鬼という因子が含まれてはいなかった。
その鬼達を斬り倒しながらでは思うような全力疾走は出来ず、また数匹の鬼が彼の脹脛や腿に取り付き、足止めしようとする。肉に食い込んだ歯が、爪が激痛をもたらした。
「痛っ!」
思わず将臣はバランスを崩しかける。
「兄さん、走れ!!」
そこに正面から飛んできた破魔の矢が組み付いていた鬼を貫いた。流石の異形も耐え切れず地面に落ちてゆく。
「すまん、譲!」
「いいから早くこっちへ!」
譲は背後から追いすがろうとする鬼に向けて矢を放ち続けながら叫んだ。
そして。
「伏せろ、譲!」
将臣は正面に向かって飛ぶ。譲は咄嗟にその場で身を伏せる。
瞬間、強烈な爆発音と岩盤の崩れる音が彼らを襲った。
恐ろしいほどの巨大な満月を天にいただく空の下。
都市部と比べ、まだまだ電灯の普及が少ない郊外はいまだ古の闇がその強い勢力を維持している。
その闇の奥。
充満する瘴気に引かれて集まった魑魅魍魎がチョロチョロと崩れかけた土塀の上を走り、庭の松の木は手入れする者もなく放置され、好き放題に伸びた挙句、先年の落雷を受けて二つに裂けてしまっていた。そして半分炭と化してしまったその木の枝には幾つもの鬼火が揺らめいている。
その先にある今はもう誰も使うことのない廃寺の本堂。
そこで昼夜を問わず続けられていた邪悪な儀式はいよいよ佳境を迎えつつあった。
ギリ。ギリリ。
虚ろな瞳の護法童子が天へ向かって伸びる索を休むことなくひたすらに引き続け、その軋む音はまるで悲鳴のように周囲へ響き渡り続けている。
ノウモボタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソウキャ・タニタヤ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤ
ビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメラ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラ
ベイラ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボダナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモラカタン・
ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマンテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ
そのすぐ近くに座したまま、平知盛は目を閉じて一心不乱に呪を唱え続けていた。
ノウモボタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソウキャ・タニタヤ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤ
ビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメラ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラ
ベイラ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボダナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモラカタン・
ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマンテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ
天空の彼方でもがき苦しむ天の龍が力ずくで次第にこちらへと引き寄せられてきているのが、今の知盛にははっきりとした形を成して見えている。
自由を奪われた龍の怒りは頂点を迎えようとしていた。
その怒りを余すことなく向けることができれば、その余波はこんな都市などひとたまりもないだろう。
今度こそ、帝都は地上から跡形もなく消え去るのだ。
何故、これほどにこんな島国の一都市の完膚なきまでの破壊を望むのかと、知盛は時折ふと疑問に思うことがある。
何時の頃からなのか。
気づいた時には既に己のうちに深く根を下ろし、覆い尽くしていたこの内なる衝動はいったどこから来るというのか。
それはこの身の内に流れるというまつろわぬ民達の血によるものなのか。
それとも全く別の理(ことわり)によるものなのだろうか。
いいや。
そんなことは、どうだっていいさ。
知盛はその内なる疑問を自ら嗤う。
そう、どうだっていいのだ、そのような瑣末なことは。
それをあえて理由付けするのならあまりにもこの世が退屈で面白味に欠けるから、ということであろうか。
まるで身体の内側から膿み腐り、崩れてゆくような緩慢とした日常。
破壊の衝動のままに生きる今こそ実感できる“生”、始めた当初はそれもまた楽しめたのだ。
だが、時間が経つにつれ段々とそれにも飽き、退屈でつまらないものになりつつあった。
確かに自分の成そうとしている事に気付き、立ち向かおうとしてくる者はいた。だが、その力はあまりにも卑小でしかなく正直、障害にすらなりえるものではなかった。
知盛の中で身の内の血が少しずつ凍りだしていた。
あぁ、退屈だ。
ならばもういっそ一気に壊してしまおうかと、彼が考えるようになっていたそんな頃であった。
あの娘白龍の神子が知盛の前に姿を現したのは。
その強い意志を宿す真っ直ぐな瞳が彼を射抜くように見た時、知盛の中で眠りかけていた何かを再び覚醒させた。
力の上ではまだ彼に及ぶべくもない非力な存在ではあるしかし。
“この俺を退屈させるなよ、お嬢さん”
口からは絶え間なく呪言を紡ぎつつ、その目はうっすらと愉悦の色を帯びる。
“さぁ、来いよ。あの時の賭けの決着をつけようじゃあないか”
望美は誰かにふと呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。
「?」
だが、背後には誰の姿もなく、ただ巨大な月の面がじぃっと彼女を見つめている。
「姫君、どうかしたのかい?」
ヒノエが怪訝そうに問う。望美は首を振った。
「誰かに呼ばれたような気がしたんですけどどうやら、気の所為だったみたいで」
「そりゃきっと出陣前で神経が昂っているからだろうね。実のところ、俺もさっきから少しばかり武者振るいってやつがしてる」
「ヒノエくんも?」
「あぁ。意外かい?」
「えぇ、ちょっとだけ」
望美がそう答えると、ヒノエは大仰に首を竦めてみせる。
「そいつはちょっとばかり心外かな。こう見えても結構繊細に出来てるんだけどな」
「ふふっ」
その言い様がおかしくて、望美は笑った。ヒノエは言う。
「そうそう。今からあんまり気を張り過ぎて、肝心な時に駄目になったりしたら意味ないからね。今はそのくらいでいた方がいいさ」
その言葉に望美は初めて自分が肩に力を入れすぎていたことに気付く。
「そうそうよね。ありがとう、ヒノエくん」
「麗しい姫君のお役に立てたのなら重畳だね。まぁ、ただ待ってるだけというのは辛いが、今はまだそうするしかない、俺たちにはね」
望美は黙って頷いた。
あと、どのくらいで時は満ちるのであろう。
二人はこの場でただ待ち続けるのであった。 
望美、友へと誓ふ

 

夜はいよいよ更け、大地はまるで墨を流したかのような漆黒の影をそこに刻んでいる。
天空高く輝く月の光は絶えず白銀の刃を天から降らせ、その闇の中に巣食う悪しきものもそこから這い出して害をなす前にその冷たい光に貫かれることを恐れるかのようにじっと息を潜めて動こうとはしない。
異様な緊張感が今ここでこうしている間にもピリピリと肌を刺激していた。
ヒノエは時刻を再び確認する。
時計の針は大多数の市民がすでに眠りについて久しい時刻を指していた。
人々は今まさにこの帝都においてその地下深く、そしてその遙か上空で起きている出来事など知る由もなく、平和な夢を見ていることであろう。
だが、それはそれでいいのだと彼は思う。
世の中には知らないでいた方が幸せなことが多々あって、たとえ知ったところで大半の人間にはなす術さえもないまま、それによりただ無用な不安と絶望を与えられ、苛まれ続けるだけなのだから。
それならば、最初から無知であることの方がどれほどに幸せか。
そんな時であった。
バサッ、バサッ。
突然頭上で羽音がし、ヒノエは咄嗟に身構えて仰ぎみた。
先刻飛来して以来、大鳥居の上に留まりまるで西洋の城にあるというガーゴイルの石像のように微動だにしなかった巨鳥たちがまるで何かに反応したかのように激しく羽ばたいたのだ。彼らは興奮したかのように数回その翼を大きく広げて羽ばたきを繰り返した後、やおらその動きを止めて顔をこちらの方へと向けた。青い炎が揺らめくような光を宿した両眼がじぃっとこちらを見、思わず彼は身を竦める。
「どうやら、上手くいったみたいですね、将臣くん達」
望美が言った。
「あれだけの竜脈を断ってしまうのだから、この子達にもたぶん何らかの影響が出るとは思ってたんだけどゴメンね、ちょっと辛かったよね」
彼女は続ける。
「でもね。これからがあなたたちの仕事なの。もうあなたたちにも分かるでしょう?あの男の居所が」
その言葉に月鳥たちは身じろぎをする。それは頷いているようにもヒノエには見えた。
「俺たちは勝てると思うかい?姫君」
ヒノエは問う。
「少なくとも先程までよりは」
望美が答えた。
「たとえ、それが一分でも一厘であったとしても後はこれからの私たちの働きに天が味方してくれることを願うだけです」
そう淡々と話す彼女の表情は強すぎる月光が逆光となり、ヒノエの方からははっきりと見て取ることは出来ない。
それでも、何故かヒノエにはその時の望美が哀しげに微笑したように見えた気がしたのであった。
今から三日前。
望美は一人誰にも告げずに帝都を離れ、ある場所を訪ねていた。
これまで数回訪れたことのあるここへ数ヶ月前、景時に連れられてはじめてやってきた時のことがこうして歩いていると今でもまざまざと思い出されてならない。
「朔」
それは数年ぶりに再会した友の姿であった。
友と呼ぶには姉妹と呼んだ方がいいほどに二人の年齢は離れている。
だが、彼女たちはこの世で一番近しい間柄白と黒。陰と陽。背中合わせの存在である二つの龍によって選ばれたたった二人きりの『神子』という立場がその隔たりを埋めていた。
彼女たちは他の者には決して分かりえない共通のものを抱えた言わば生まれながらの同志のようなものであったのだから。
一人娘であり他に兄弟姉妹を持たない望美にとって、梶原朔という女性はまさに親友以上であり、姉以上の存在であったのかもしれない。
そして、鎌倉を離れ帝都へとやってきた望美が真っ先に希望したのはいまだ療養中である朔との面会であった。
数年前、上京した折に何者かに誘拐され戻っては来たものの、以来病の床に臥せってしまったが為にいまだに帝都から帰ってこないでいた朔の身を望美はずっと案じ続けてきたのだ。
それ故にまず一番に彼女の安否をこの目で確認したかったのだ。
だが、そう申し出た望美に兄である景時は「しばらく待ってくれないか」とだけ言い、今の朔がどうしているのかといった話を一切してはくれなかった。
そして、そのまま一月余りの時間が流れたある日、ようやく面会することが叶えられたのだ。
そこは帝都市内であるどころか都内ですらなく、富士山の臨めようかというほどの山奥であった。
出迎えてくれたリズヴァーンという名の長身の外国人医師が彼らを病室へと案内する。
「最近はかなり落ち着いているのだがくれぐれも患者を刺激しないよう」
個室の扉の外でそう説明を受けた後、静かにそれを開くとその人はその向こうにいた。
窓際近くにしつらえられた寝台の上で半身を起こし、窓の外へと目をやっている為に望美たちからはその表情が見えない。
「朔、元気だったかい?」
景時がその背に向かい声をかける。だが、聞こえているのかいないのか彼女の顔がこちらを見ることはない。景時はそのことを気に留めることもなく、妹の傍まで寄るとそっと肩に手を置く。
「今日は懐かしいお客さんを連れてきたんだよ。朔もきっと会いたかったろうと思ってね」
彼の言葉に戸口の脇でずっと凍りついたように動けずにいた望美は、やっと呪縛が解けたかのように恐る恐る病室の中へと足を踏み入れてゆく。
「ほら、望美ちゃんだよ。すっかり娘さんになっちゃってて、俺もビックリしたんだけどさ。それもそのはずだよねー、もう十七歳になるんだってさ。俺もおじさんになるはずだよ。最初誰か分からなくて、ホント困っちゃったよ」
そう言うと景時は入ってきた望美を朔の視界に入るところまで来るよう目で促し、望美はその通りにする。
そして「朔?」
勇気を振り絞り、望美はその名を呼んだ。その後、伏せるようにしていた視線を上げ、数年ぶりに己の対である神子の顔を覗き込む。
望美の目に映る朔の瞳には何も映されてはいなかった。
「あ」
ただ、漆黒の闇だけに覆われた虚ろな目。
そこには望美の知る理知的で、思慮深く、慈愛に満ちた彼女の姿は何処にもなかった。
「〜〜〜~」
「望美ちゃん?」
望美は戸惑い、そしてついに何かが彼女の中で切れてしまったかのように目を背けると、足早に病室を出て行ってしまった。景時は困惑し、閉じられた扉と妹の顔を交互に見る。
そして、一方の望美はこの場から今すぐにでも駆け出したいのを懸命に堪え、出来るだけの早足で廊下を突っ切るが角を曲がったところでついに耐え切れず、壁に凭れ掛かるようにしてその場にしゃがみこんでしまった。
「望美ちゃん?」
遅れてその後を追った景時は人影のない廊下を進んでゆく。そして、その長い廊下の突き当たりの角に見覚えのある着物の裾がはみ出しているのを彼は見つけた。小さく安堵の溜息をつくと、彼はゆっくりと近づいてそっと声をかけた。
「よかったここにいたんだね、望美ちゃん」
ポツポツ
音を立て、粒上の染みが板張りの廊下の上に転々と生まれてゆくのを景時は見た。
「朔あんなひどい」
嗚咽と共に望美は泣きじゃくり始めた。
数年前、「来週、帝都にいる兄上の様子を見に行くの。どうせ、また部屋を汚くしてるのよ、きっと」と笑って話していたのが望美が元気だった朔を見た最後であった。
それから行方不明との報があり、その時点で上京したものの周囲の反対に遭い、遠い鎌倉で無事を祈りながら気を揉むしかなかった日々。そして、数ヵ月後に見つかったとの知らせを受けて、どれほど嬉しかったか。
だが、それっきりであった。
その後、病になったとだけしか聞かされないまま数年の間、朔がどこでどうしているのか望美は一度も知らされることがなかったのだ。
「景時さん、ひどいなんでもっと早く教えてくれなかったの?」
「望美ちゃん」
白龍の託宣により、生まれてこの方一度も出たことのない鎌倉を出、帝都へと上ってきた望美に十数年ぶりで再会した景時は彼女が白龍の神子としての自覚と戦う意志の強さを持った娘へとすっかり成長していたことを知った。
上京する前の彼が知っていた泣き虫の小さな女の子はそこにはいなかった。
神子として選ばれたが為に、普通の少女であれば当たり前に経験できたであろうことを制限され、神社の外、鎌倉の外の世界をほとんど知らずに育った少女。
そんな望美にとって、歳は少し離れてはいたが同じ龍神の神子として選ばれた朔の存在はどれほどに大きかったか。
唯一の同性の友であり、姉であり、己の半身とも呼んでもいいほど近しい存在。
朔の身に降りかかった災禍に誰よりも心を痛め、無事を案じていたのだ。
今、景時の目の前で泣きじゃくる望美は彼が知る昔のままの望美であった。
「ゴメン、望美ちゃん。朔は朔はずっとあんなままだから、このままの朔を君に会わせてしまってもいいのかって俺も考えちゃってさ。その」
すると、望美は首を振った。
「ううん、景時さんの所為じゃないよ。分かってる。景時さんは私のことを考えてくれたんだよね?もし、わたしが朔のことで動揺して、帝都が守れなくなったりしたら本当に応龍は死んでしまって、帝都も消える。分かってるんだよ」
「望美ちゃん」
「私、許さない。朔をあんな風にしてしまった奴を平知盛を絶対に許さないから」
望美はゆっくりと立ち上がると袖で涙を拭う。
「病室へ戻ろ?朔、一人きりなんてきっと寂しがってるよ」
「あぁそうだね」
それが、望美が人前で涙を見せた最後であった。
その後、望美は何度か一人で朔を見舞いに行った。
何を話すこともなく、ただ彼女の傍らに座っているだけのこともあれば、一生懸命昔の思い出話を聞かせていたこともあった。
だが、それに対しても朔は無反応なままであった。望美の行動とは無関係に感情の揺らぎを見せることはあったものの、そのどこか歯車の狂ったような行動と言動はかえって望美を悲しくさせるだけであった。
そんな望美が最後に療養所を訪れたのが丁度三日前であった。
すっかり顔なじみになった療養所のものに案内され病室に入ると、朔はいつものように寝台に半身を起こす形でぼんやりと窓の外を見つめていた。
望美は椅子を寝台の方に引き寄せて腰掛けると、そのまま何を語るでもなく黙ったまましばらく朔の横顔を見つめ続けていた。
そして、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
窓から差し込む陽の光がその角度を深くし、落ちる影の長さを伸ばし始める頃、望美はようやく口を開いた。
「朔あのね」
朔は相変わらず望美の言葉に何の反応も示さない。望美は続ける。
「あのね、私私たぶん、ここへ来るのは今日が最後になると思うんだ。だから」
「最後にもう一度だけ、朔の顔を見ておきたかったんだ。ホントはね、笑った顔が見たかったんだけど」
望美はそういって静かに立ち上がった。そして、その視線がふと寝台脇の小さな机の上で止まる。
薬とそれを飲む為の水差しや湯飲みが載った盆のすぐ隣に、奇妙な形をした小さな石ころが数個整然と並べられていた。望美は黙ったまましばらくそれを眺めていたが、やがてその中の一つを摘み上げる。
「これ一つ貰っていくね」
彼女はそう言うと持ってきていた手提げの中からハンカチを取り出し、その石を大事そうに包むとそれを懐にしまった。
「じゃあ私もう行くね」
望美はそう告げて一人静かに病室を去ってゆく。
扉が閉まり、また病室は朔一人きりが残された。
また更に陽は傾き、橙色に染まった光が病室を満たし染め上げても、朔の茫洋とした瞳に光が戻ることはなかった。
神社の本殿の前に一人進み出た望美は、己を選んだ神に祈りを捧げるとゆっくりとした動作で拍手を叩く。
静まり返った境内にあって、それはやけに鮮明に耳を打った。
その後姿を離れたところで見ていたヒノエは最後の拍手が打たれた瞬間、白い光の粒が無数に彼女の体から迸ったような錯覚を覚え、思わず目を瞬かせる。
すると
ぎぃぃぃぃぃぃ
それまで頑なに閉じられていた正面の扉が重い音と共に外側へ向かって開き出す。
酷くゆっくりとした動きで開いてゆくそれを驚きと共に固唾を呑んで見つめていたヒノエは、やがてその奥に青白い二つの炎が揺らめくのを見る。そして、それは床板を軋ませながらもこちらへ向かって近づいてきた。
そして降り注ぐ月光の下、姿を現したのは月と同じ輝きをその身にまとった一頭の白馬であった。
それは望美の前まで真っ直ぐ歩み寄ると、頭を垂れる。まるで、自分に乗れと言わんばかりに。
「心配しないで大丈夫です。私の呼びかけに白龍が応えてくれただけだから」
驚きのあまりいまだ絶句したままのヒノエの方を向き、望美が言う。
「はははったく、俺の想像を超えた姫君だな」
同じ神職であるヒノエですら、このような経験は生まれてこの方ただの一度もない。
龍神の神子とは現世(うつしよ)においての神の執行代理人のようなものだと、知識として聞いて知ってはいた。
他の多くの神に使える神職などとはその本質からして違うのだと。
多くの神職はその家系であったり、または志すことで誰でもなることができる。だが、龍神の神子は違う。
確かに選ばれる家系はそれぞれの社を守る家から輩出はされるものの、それが成されるのは神子がその力を行使すべき必然性を感じ取った時だけ、神が己の神子を選ぶのだ。だが、それもまだその時点ではいわばただの候補者のようなもので、現実に行使せねばならない危難の到来により、初めて神子は本物の神子になるのだという。
だからなのか、本当の意味での龍神の神子に関する記録はほぼ無きに等しい。
それはそれだけこの国が長年に渡り、真の危難に見舞われてはいなかったということなのかもしれない。
実際、歴代の神子と呼ばれた存在がどれほどの力を持ち、それを行使したかということについては口伝すら残されてはいないのだから。
それを今、ヒノエは目の当たりにしている。
彼の心は生来持ち合わせた未知なる物に対する好奇心で高揚していた。
「いいね。最高だよ」
これから自分たちが行こうとしているのはおよそ絶望的であろう戦場だというのに、まるで全身が泡立つように力が漲ってくるような気分のまま彼は言った。
望美は現れた白馬にまたがる。
バサッ!バサッ!
頭上からした大きな羽音に振り仰げば、ずっと大鳥居の上に留まっていた月の鳥がその巨大な翼を大きく広げ、さぁ行くぞと言わんばかりに一二度それをはためかせるとそのまま夜空へと舞い上がるのが見える。
ヒヒーン!
そして、それに呼応するかのように冷たい空気を振動させるかのように白龍の使い馬が甲高く嘶き、その背に神子を乗せた状態でさながら鬨(とき)の声を上げるかのように前足を高く上げると、その勢いのまま一気に駆け出した。
その前方には彼らを先導するかのように数羽の巨鳥が飛ぶ。
それに遅れまいと、ヒノエもまた手にした風水旗と共にその後を追って走り出したのであった。
天と魔と人と

 

天空高く、巨大な月が君臨する。
そこから投げられる輝きは、その光の強さゆえに、他の星々の光を奪い取り、唯一絶対の存在であるかを知らしめるかのようだ。
そんな月を背にしているだけで、見えない力に圧迫されているような息苦しさを覚えてしまうのは、それだけ天を縛する呪詛の存在を肌で感じ取っているからであろうかと、ヒノエは思う。
しかし、その感覚は天からのものだけではなかった。
大地を縛していた呪詛の一角が切り崩せたとはいえ、今なおその存在は消え去ってはいない。何故なら、その大元である術者がいまだに存在しており、大掛かりな呪詛を行っているからだ。もはや術者を倒さぬ限り、この帝都に今度こそ壊滅的な事態が生じるであろう。
そして、そのことに気づいているほんの一握りの者たちは、それを回避すべく奔走している。ヒノエもまた同じであった。
風水旗を手に走る彼の少し前を、青白い炎をまとった白馬が駆けてゆく。
その馬上には白装束をまとった乙女の姿この帝都を守護する応龍の陽を司る白き龍が選んだ神子だ。
凛とした瞳で行く手だけを見据え、ただひたすらに馬を駆る少女。
その姿がヒノエの目には誰よりも美しく映り、同時に誰よりも哀しく見えた。
もし、この時代でなかったなら。
もし、この時代にさえ生まれてこなければ、おそらく普通の少女として生きてゆけたであろう娘。
神に選ばれたといえば、聞こえはいい。だが、その実は人身御供のようなものだ、とヒノエは思う。
その昔、荒れ狂う川から村を救う為、純潔の乙女を人柱として神に捧げたように。
この娘もまた、帝都といういまや肥大した巨大都市の礎(いしずえ)となるべく、今まさに捧げられようとしている人柱なのかと。
一方、馬上の望美もまた、次第に近づきつつある敵の総本山に対し、かつてないほどの緊張感を覚えていた。
ともすれば、その重圧に耐えかね、気を失いかねないほど、そのピリピリとした空気は彼女の皮膚の表面を焼き、全身を縛り上げてゆく。
“朔、護って!”
望美は心の中で、対の神子の名を呼ぶ。
そんな彼女の口の中には、先日朔の病室を訪ねた折に貰い受けてきた人形石のひとつがあった。懐に忍ばせておいたそれを騎乗の際、同行者であるヒノエにも分からぬよう、密かに口の中に含んでおいたのだ。
これは、万が一の際の最後の護りであり、誰にも知られぬ必要があった。
何故、神子はその様な行動をとるのか?
それには、彼女が誰にも語らぬ、ある事実に起因していたのである。
時は、白龍の神子である望美が、帝都へ赴くことが占夢により告げられた、その直後まで遡る。
「倒すべき相手護るべき相手私は、彼の地へ上るよりも前に、これらを知らなくてはならないわ」
望美はそう考えた。
いくら帝都を守護する応龍の分霊たる白龍の神子といえど、彼女は生まれてこの方、一度も帝都へ足を踏み入れたことはなく、地の利というものがない。その上、今は守護神である白龍もまた、何者かの仕業により力を削がれてしまっているという状態である。そんな中で、災禍の中心である帝都へ単身飛び込むにあたって、この地で出来ることはしておくに越したことはない。
旅立つ前に、一番彼女が知っておきたいことは
「敵」
そうだ、敵だ。
帝都に仇なし、それを守護する応龍を穢し、破滅を導こうとしている存在だ。
その存在を望美自身が自ら知り、この目で見、焼き付けておく必要がある。
そこで彼女が行うことにしたのが花会であった。
中国大陸で行われていた古い賭博のひとつを起源とした占術である。
本殿の奥に広がる森の中にしつらえられた小さな庵のような小屋で、外には占う間邪気が近寄れぬよう、弦を打ち続ける譲。そして、中ではたった一人望美が儀式を執り行う。
燃え盛る囲炉裏の上には大鍋が置かれ、中には既に熱湯が煮えたぎっていた。
それを前にし、徐々に入神状態となり、その状態を維持したままの望美が引き当てた紙が筒に納まり、鍋の上の方へと引き上げられてゆく。そこには三十六門の将のいずれかの名が記されている。いずれも皆、中国大陸では知られた英雄悪漢の名だ。
その名の意味するところをどう解釈するかが、占者の能力である。手がかりとなる、字引のような分厚い本を広げ、その逸話や功績などから読み解いてゆくのだ。
やがて、いっぱいに引き上げられた筒は煮えたぎる鍋の真上で滑車に引っかかると、その弾みで筒が傾き、中身に納められていた一枚の紙片がはらりと滑り落ちる。そして、それはもうもうと上がり続ける蒸気の中を踊り狂うように舞い、次第に湿気を含んで重くなると、ついに耐え切れず熱湯の中へと墜落した。
ぐつぐつと煮えたぎる熱湯の中で、丸められていた紙は踊り狂い、やがてそれは開き切り、水面近くまで浮上する。
“今だ!”
望美はそれを見逃さなかった。すばやく彼女が浮いてきた紙の上に書かれた名を読み取ると、湧き上がった無数の泡が再び紙の札を鍋底へと沈め、代わって水面に浮かんだ泡が一気に蒸気を噴いて、辺りに充満した。
そして、その湯気はまるで霧のように望美を包み込むと、彼女を見知らぬ光景へと誘っていった。
“ここはどこだろう”
それは望美の全く知らない風景であった。
真っ暗な森の中ということは分かる。
ただ、そこには生命の息吹というものがまるで感じられない静寂だけが横たわっている。
それはまるで、死だけが支配しているという冥府のようだ。
そんな森の奥、佇む人影が見えた。
長身の男の影軍服をその身にまとい、将校のものらしい軍帽を目深に被っている為、次第に目は慣れてきたものの、その顔までははっきりとは見えない。
だが、望美にはその口元だけが見えたこの男、嗤っている!
嘲るような笑みで、こちらを見ているこちらに気づいているのだろうか。
やがて、ゆっくりとその伏せられていた顔が上がる。
そして、その視線が望美のそれと重なった。
“―!?”
その途端、まるで電気にでも打たれたような衝撃が望美の身体を襲い、真っ赤な光が彼女を飲み込んだ。
気がつくと望美は元通り、大鍋の前にいた。
両手を床に着き、肩で激しく呼吸を繰り返し続けている。
やがて、彼女はヨロヨロとその身体を起こすと、既に火が消え、透明に戻った鍋の中に残る紙を引き上げて広げた。
「これが敵」
そこには三十六門の将の名ではなく、別の名前が記されていた。
「平知盛」
望美がそれを読み上げた途端、突如文字が歪み、燃え上がる。彼女は慌てて手を離すと、あっという間にそれは消し炭となり、粉々に砕けて消えた。
そして
“誰だ”
「?!」
“お前は誰だ!?”
突然、現れた手が望美の手首を強い力で掴んだ!
その途端、望美の姿は再び先程までいたあの深い森の中へと引き戻されており、その目の前には平知盛が手袋を嵌めたその手で望美の手首を掴んでいた。
重い音と激しい振動が帝都の地の底を震わせてから、一体どのくらいの時間が経過したのだろうか。
当初、地上で待機していた弁慶たちは、元通りに静まり返った後も、しばらくその場で有川兄弟の帰りを待っていたのであったが、一向に戻る気配がないのを心配し、景時と二人、地下のほぼ完成した駅のホームへと降りてきていた。
ここから作業用トロッコに乗り込み、鬼の巣食う最奥の現場へと出向いたはずの将臣と譲の姿は、どこにもない。
線路を飲み込んだ孔の先は引き込んである電線が途中で切れてしまったのであろう。漆黒の闇しか見えない。
「先生。将臣くんたちは」
景時が表情を強張らせ、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「分かりません。ただ、先程あった震動はおそらく彼らが起こしたものだと、僕は思います」
そう言って弁慶は、地震と見紛うばかりの振動が大地を振るわせた先程の出来事を思い出す。
地響きと共に、地の底からビリビリと突き上げるような振動が湧き上がったかと思うと、急速にそれは萎み、やがて何事もなかったかのようにシンと静まり返った。
「今の揺れは、そうか?」
「ええ。おそらくは」
そこには弁慶たちの他、現在は帝都守備部隊の中隊長としての任に当たっている九郎の姿もあった。
「ここまで大きなものになるとまでは聞いてなかったぞ、弁慶」
「そうですね。僕にも予想外でした」
九郎は手にしていた軍帽を再びキッチリと被り直すと、言う。
「これは、周辺で被害が出ている可能性もあるな。そうなると騒ぎになるかもしれん」
「その時は、収拾をお願いしますよ、九郎」
「ったく、こともなげに言ってくれる」
「申し訳ありませんね」
弁慶は眉を顰める九郎にそう言うと、意味ありげに微笑んだ。
「ですが、本来であれば、この地下深くの作業も含めて、こういうのは元々軍なり公団の役割でしょう?一番割の悪い仕事は民間人に押し付けたのですから、せめて」
「ああ、皆まで言うな!分かってるさ!この借りはちゃんと返す」
九郎はそう言うと、身体ごと反転し、後方に控えていた部下たちに向けて言った。
「これより隊を三つに分け、現場周辺の被害を確認!何かあれば迅速に処理せよ!」
「はっ!!」
号令一発で、彼の率いてきた中隊は三つの小隊へと別れ、三方へと駆け足で去ってゆく。
「じゃあ、俺も隊に合流して、後の処理に回る」
「ええ、お任せしましたよ」
「ああ、任せておけ」
九郎はそう言うと、隊のひとつを追うように夜の帝都の闇の中へと消えていった。
「龍穴を爆破した時の影響で、線路が歪んで使えなくなっている可能性もありますね」
弁慶はそう言って線路に降りると、敷かれたレールに耳を当ててみる。
「先生?」
弁慶に続き、ホームから降りてきた景時は訝しげに問う。
「シッ、静かに」
彼は自分の唇に指を立て、それを制する。
「何か聞こえますこっちへ近づいてくる」
それはレールを通じて伝わってきた。
何かが、レールの上をゆっくりとしたスピードでこちらへと向かって近づいてきているのだ。弁慶はレールから耳を離して、頭を上げると、闇以外に何も見えぬ孔の奥へと目を凝らし、耳を澄ます。すると、闇の向こうからゴトン、ゴトンと何かを引きずるような重い音が微かに聞こえ始めた。
「ホントだ。なにか来る」
景時も音に気づき、思わず身構えるとそっちを凝視する。
そして
ゴトン ゴトン  ゴトン   ゴトン
次第に近づく音は、まるでそれに比例するかのように、音の間隔が開いてゆく。それは線路の上を滑る為の車輪の回転速度が落ちているということの証拠でもあった。
ゴトン ゴトン   ゴトン
今にも止まってしまいそうな重い音を響かせ、やがて闇の中から姿を現したのは一台の資材運搬用トロッコであった。
見れば、その車軸は歪み、車輪も奇跡的にくっついているといった有様で、その上に乗っている車体自体も酷く傷ついている。まるで、一度落盤にでも遭ったものを、無理矢理土の中から掘り出してレールに載せたとしか思えない状態で、ここまで走ってこれたのも奇跡としか言いようがない。
トロッコは僅かに残った惰性だけで、ノロノロと終点である駅のホーム前に滑り込んでくると、あと少しというところで完全に停止してしまった。
「将臣くん、譲くん!」
弁慶たちは停車したトロッコへと駆け寄る。
「二人とも、無事ですか?!」
そう言って車内を覗き込むと、そこには全身土で真っ黒に汚れた二人の青年が折り重なるようにしてうつ伏せで倒れこみ、気を失っていた。
「将臣くん!譲くん!分かりますか?!生きてますか?!しっかりしてください!!」
弁慶が身を乗り出すようにして、耳元へ向かって大きな声で呼びかけると、上になっていた将臣が、ゆっくりと片手を上げる。
「任務完了だ。ははざまぁみろ」
それだけ言うと、どうにか保っていた緊張の糸が切れたのか、手が力を失ってパタリと落ちる。
「将臣くん?!」
「大丈夫です、気を失っただけですから。景時さん、二人を下ろすのを手伝って下さい」
「は、はい!」
弁慶は二人の脈を素早く取ると、力強い口調で言う。景時は言われるまま、トロッコの中へ乗り込むと、倒れ臥したままの兄弟を一人ずつ助け起こして肩に担ぎ、下ろしてゆく。
「ホームの上へ。ひとまずそこで応急処置をして、それから車で病院まで運びましょう」
弁慶は持参してきた診療カバンの中から水筒を取り出すと、素早く彼らの患部を洗い、消毒をし始めるのであった。
キィキィ、チィチィと囀るように異形は鳴き、朽ちた本堂の床の上を這い回り、あるいは跳ね飛び、蠢き続けている。
そんな悪夢のような光景の只中で、異彩を放つ存在が二つ。
一つは自己の意思を持たぬ傀儡と成り果てた、天の護法童子。いまだ囚われた虚ろな瞳のまま、昼夜を問わず天空へと伸びる索を満身の力で、ただひたすらに引き続けている。
そして、いまひとつはこの異形に満ちた空間を濃密に満たす孔雀明王呪を発する声の主。
淡々とした調子で紡ぎ出されるその声は、聴く者から時間の概念を徐々に奪い去り、狂わせてゆくかのようであり、永遠に続くかのような感覚に陥らせる。
坐して印を組み、頑強なまでの意志を思って途切れることなく呪を唱え続ける軍服の男平知盛。
この帝都をたった一人で地上より消滅させんと企てる者であった。
最終の仕上げに入るべく、知盛がここで読経を開始して既に数日が経過していた。
傍らにいる護法童子の引く索の震えが徐々に大きくなり、それが絡め取られた索に抵抗しようとする天の龍が最後の足掻きをする姿だというのが目に見えて伝わってくる。
もう間もなく、天の龍はこの地上へと叩き落される。そしてそのことが天変地異を引き起こし、落とされた怒りのままに龍が暴れだせば、この帝都を割るだけに留まらず、この地に築かれた文明など粉々に砕けて消えるであろう。
“あまりグズグズしていると、間に合わなくなるぜ。なぁ、白龍の神子”
知盛は楽しげに笑む。
“この俺を止めるんだろう?さぁ早くここまで来いよ”
ブツブツと己の口から紡ぎ出される明王呪の中に埋没しつつ、彼は心の中でそう呟いた。
いくら深夜とはいえ、目的地へと夜道を駆ける中、不思議なことにこれまで他の人間の姿を全く見なかったことに、ふとヒノエは気づいた。
偶然なのか?それとも、そこには何がしかの意志が働いているのか?
応龍の、鬼の、あるいはまた見ぬこの帝都を呪詛しているという、平知盛という術者のなせる業なのであろうか。
どちらにせよ、ひとつだけ言えることは、そこに何かの力が働いた結果であるならば、無関係な者が偶然この場に巻き込まれる心配をせずに済む、ということであった。
その時であった。
「来た!」
前を疾駆する馬上の望美が、一声叫んで前方上空を睨みつける。
彼らを先導して上空を飛んでいた月の鳥が、不意に垂直に、まるで弾かれたように飛び上がったのだ。見れば、目指す方向の上空に漆黒の影が初めは点のように、やがてそれは次第に大きさと共に形を現し始める。蝙蝠を思わせる膜のような羽を持つ異形のそれは、恐ろしいほどの速度で飛来すると、たちまち月の鳥に襲い掛かり、空中で凄まじい戦闘が始まった。
一方、何時の間にか両脇に低い土塀が続く道へと進入していた二人の方にも、変化が起きていた。
フーシュゥゥゥシュルルルルルゥゥ
塀の向こうから、次々と橙色の燐光をまとった何かが這い上がってくる。そして、ブルブルと打ち震えながら蠢き続け、やがて捻れた長い手足を持つ異形の姿へと変貌すると、歓迎せざる客の来訪に皆威嚇するような唸り声を上げ始める。
ヒヒィィィン!!
望美が先走りを抑えるかのように手綱を強く引くと、白馬は周囲を牽制するかのように大地を蹴り上げ、一際高い嘶きと共にその前足を高く上げる。
ヒノエは振り返り、望美を背中合わせになるように立つと、手にした風水旗を槍のようにして構えた。
シュルルルシャアァァァァッッ!!
すると、それを合図にするかのように、鋭い牙と爪を剥き出しにした鬼たちが塀の上から一斉に二人を目掛け飛び掛ってきた。
ついに、帝都を巡る最後の戦いが、ここに始まったのである。
 
小夜子物語

 

作者紹介 / 中流の農家に生まれる。作者は、10才ほど離れていた長兄が盲腸炎をこじらせて16才で亡くなってしまったため、家督を継ぐことになる。18才で村役場に勤め、早くから頭角を顕わす。25才で村の助役に抜擢され、以後村議・町議・市議として、昭和47年まで多くの問題に関わってきた・浜北森林公園及びその周辺の開発には強い執念が感じられるが、村議時代に県の林業試験場の誘致に関わったことが森林公園構想を培わせたものと推測される。1月11日をもって、満93才になったが、心身とも健在。2年程前には、植樹祭に招待されたり、県政功労者として県知事から表彰されるなど『最近、俺も骨董品価値が出てきたようだ』とますます意気盛んである。2008年白寿のお祝いをしましました。
序にかえて
なぜ当寺務局が採り上げたのか、読んで頂けばお分かりの様に、文中当山・竜宮山岩水寺・の事が時折散見されているからである。特に、それが九十年も前からの事であり、我々未知の世界であり、正に日本の揺籃時代と言っても過言でないかも知れない。為政者は性急に国の開発を志すが、幾多の障壁に遭遇して思うに任せず、かてて加えて外国との衝突事故続出あり。政治経済文化教育宗教と何れの面に於いても、定着されたものはひとつもなく、今日の低開発国そのままの様相を思い起こされる。読んでいる内に歳月は進み、徐々に夜が明けて行く姿が見える様であり、将に歴史的時代小説と言ってもよい様な気がするのである。これが当山寺務局が採り上げた所以である。判りにくい処もあるが、忍の一字を以て最後までご判読頂ければ幸甚の至りである。 
小夜子

 

私の生まれた所は、北海道の網走と云う町であった。
雪や氷の多い寒い土地である。
この町には大きな刑務所があった。
赤い煉瓦塀が長く続いていたことを夢の様に覚えている。
私は母の背中で悪いことをすると、この中へ入れられるから、大きくなってからも決して悪いことをしてはいけませんと云われた。
刑務所の入り口に大きな川が流れていた。
そして、その川の上には木の橋が架けてあった。
懲役を済ました人は、必ずこの橋を通らねば俗人社会に出られない訳である。
この橋を渡る時に、どの罪人もやれやれと必ずと云ってよい程口ずさむとの事、この橋を名付けて付近の人々は、やれやれ橋と云ったそうである。
私の名前は小夜子。
姓は一色と云う。
明治二十九年日清戦争の直後、春四月、私の数え年六才の時、両親と弟の四人で、本州秋田県仙北郡横手という町に移住した。
網走より雪も少なく、暖かいよい所であると云うことで、勇んで秋田に来たのである。
汽車や船に乗ったことも少しは覚えているが、途中、居眠りでもしたのか、詳しい記憶は更々なかった。
横手の町に着いてから、父はどこかの炭坑に勤めたが、詳しいことは判らなかった。
翌々年の明治三十一年、私は数え年八才の春を迎え、横手の小学校へ入学した。
日清戦争勝利に酔い、殖産興業の国策で街は活気に溢れた。
しかし、それは一部特権階級に限られ、一般細民には何らの影響も恩典もなかった様である。
横手の町も予想に反し、寒かった。
冬は雪ばかり積もって不自由であった。
お父さん一人が朝早く鉱山に行ったが、私ども三人は毎日家の中にいた。
四百メートル位離れた所に久恵という私の同級生の家があった。
近所の人々はみんな一様に、ひー様と言った。
ひー様の住家は屋敷と共に大きかった。
入り口には瓦葺きの門もあり、白い土蔵も四つ程立ち並んでいた。
家の中には三人ほどの女中さんもいたし、若い下男と称する人々も数人いた様な気がする。
私はひー様の招きで、毎日のように同家に遊びに行き、食事も時折ご馳走になった。
ひー様の家の食事は、家の食事よりも余程おいしかった。
寒いお正月の始めから三月の末頃までは、ひー様のお屋敷に行き二人で勉強をした。
ひー様のお母様は大変にお綺麗なお人であり、私の勉強も一緒に見てくれた。
男衆の部屋では夕方になると必ずお酒、ドブロクを飲んで江差追分や秋田オバコの歌声の聞こえぬ日はなかった。
私はひー様と共にその民謡を知らぬ間に覚えてしまい、盛んに唄った。
大人の人々から褒められるので、勉強よりも熱が入り実に楽しかった。 
遠州浜松市に転入す

 

明治三十四年の5月、私は尋常科三学年に進級して二ヶ月目、遠州浜松という町に行くことになった。
浜松の町は秋田より遙かに暖かく非常によい土地である。
お父さんもお母さんもあとから行くから、小夜子は先に行きなさいと云われた。
小学校の校舎も秋田の様な障子紙や粗壁ばかりではない。
ガラス戸が沢山はめてあるよい学校であると云われた。
背の高い太ったお相撲さんの様なおじさんが、盛んにしゃべり立てていた。
私は両親の云うがままに馬車に乗り、おじさんと共に家を出た。
途中、汽車の中で六人ほど私より、四つ五つ年上のお姉さんの様な人と一緒になった。
おじさんはこの人々もみんな浜松に行くんだよと云われたので、ほんとうに嬉しく思った。
初めて見る東京の街、驚くばかりであった。
暫く歩いてから、茲が東京のステーションだよとおじさんが教えてくれた。
赤い煉瓦造りで実に大きかった。
みんな黙っておじさんの後について行った。
汽車の中で何日か泊まり続けたのでさっぱり判らなかったが、夜明け前に浜松の駅に着いた。
駅には人影が少なく淋しかった。
暫くして、駅の北口に出た処、数人の男の人々が私たちの所に寄ってきて、おじさんと二言三言口を交わすと、私たちは一度にバラバラになってしまった。
私は山形から乗車したキミヱという十二才のお姉さんと二人で浜松の平田と言う所の織屋さんの家に入った。 
年期奉公の始まり(実は奴隷であった)

 

私は木の門のある黒い塀囲いの家に入った。
キミヱさんはその本宅の西の方の大きな工場の中に入って行ったが、それっきりキミヱさんの顔を見ることはなかった。
私は炊事場のある南側の納戸の部屋に入った。
そして清水とめという四十才を越したおばさんと始めて顔を合わせた。
とめおばさんは一人者の様であった。
部屋には世帯道具一切と位牌まで整っている。
主人に先立たれた未亡人と思った。
炊事場の料理一切を賄う炊事主任の様であった。
他に三人程通いの女中さんもいたが、私はこの人々の命令により働くことを仰せつかった。
学校の事が気がかりであった。
翌くる朝、学校のことを申し上げてみたが、主人はまだ入寄留の手続きが済まないから駄目だという事であった。
私は入籍の手続きを早く済まして頂き、小学校三学年に通学したいと思った。
私の仕事は生後七ヶ月の赤ちゃんを背中におんぶする子守役であった。
頭の髪の毛が赤ちゃんの顔にあたると云って、髪の毛を短くハサミで斬られてしまったし、その上、手拭いでほおかむりする事も強制された。
男の子で日毎に成長して可愛く思った。
一ヶ月を過ぎても小学校の話は何もなかった。
秋田の父親の所に手紙を出したくても出す方法さえ分からない。
引率して来たおじさんは、その後二度と顔を見せることはなかった。
私は子守をしながら、学校のことで頭がイライラしていたが、どうする術もなかった。
それから更に一ヶ月が過ぎて、七月のお盆が近づいたころ、警察官が人別改めの為にやって来た。
そして、この子供はどの様な子供か、名前は何というかと訊ねた。
主人は小さな声で何か説明していたが、私には何も分からなかった。
ある日のこと、私はふと意外な事を耳にした。
とめおばさんが少々老いたおじさんと何かこそこそ世間話をしていた。
後で判ったのだが、このおじさんはとめおばさんの内々の情夫であった。
そして五年間十二円という様な事が小声で漏れてきた。
おじさんはおとめさんより五、六才位年上の様に思われた。
どういう仕事をする人かも分からないが、時折のとめおばさんの外出はこのおじさんと出会うことであることが何となく感じ取れた。
他の働く通い女中の人々は、このことを定期便と云うような言葉で言い表していた。
私の小学校入学の話は、一歩も前に出ない。
その内、年も暮れて正月を迎えた。
今度こそはと待ちあぐんでいたが、お正月の年賀に来たお客さんの口から、意外な言葉が小耳に入った。
十二円で五カ年間学校にやらなくてもよい、万一警察がやかましい様なら、役場の人に頼んで尋常科の卒業証書を作って貰ってくればよい。
駐在所には盆暮れの付け届けをちゃんとやっておけば問題はないよ、とこの言葉を聞いて私は愕然とした。
ある日、私はおとめおばさんとおじさんの話を思い起こし、思い切ってとめおばさんに聞いてみたが、予想通り私は五ヶ年間十二円の前借りで、学校には行かぬという約束で、この織屋さんに売られて来たものである事が判明した。
ああ、私は奴隷なのか、なんとなさけない。
浜松に来てから二年も過ぎたが、両親からは何の便りもなかった。 
子守役から工場へ転進

 

明治三十六年4月、十一才の時私は子守役をやめさせられて、工場の方へ回されたが、寝泊まりは前と変わらず、とめおばさんの隣の部屋であった。
工場内の仕事は糸上げ管巻きであり、さほどむずかしい仕事ではなかった。
朝から晩まで同じ仕事ばかり、単調で何の興味もなかった。
みんな大きな声を張り上げて、自分の国の民謡や流行歌を盛んに唄っていた。
私も小学校のことが気がかりであったが、今となっては最早是までと観念して仕事に精を出した。
そして、一定の基準以上の成績を上げると、月末に十銭、二十銭の特別賞与が出る仕組みになっていた。
私は小学校三年の一学期を半分という処で退学したので、片かなと平かなは知っていたが、漢字は殆ど知らなかった。
何とかして、漢字を覚える方法はないものかと、何時も考えていたが、どうにもならないことであった。
ある日のこと、とめおばさんの部屋に数冊の本のあるのを見た。
聞いてみると、それは御詠歌(和讃)と石童丸の本等数種の小説の本であった。
私がその本を珍しげに見ていると、とめおばさんは「貸してやるから、好きならば持って行って読みなさい」と云ってくれた。
猿飛び佐助の忍術をやる処等、実に面白かった。
為に、二日に一冊を読み終えるという早さであった。
雷電為衛門も続いて読んだ。
とめおばさんは「石童丸の本を先に読みな」と云って差し出された。
私は宮本武蔵の本を希望したが、とめおばさんの強い勧めで石童丸をそのまま仕方なく、部屋に持ち帰り読み始めた。
三時間か四時間か時計がないので分からないが、一生懸命脇目も向かずに読み終わった。
が、その間私は涙の出るのをどうしても押さえる事が出来ず、涙一杯出して石童丸を読んでいた。
とめおばさんに返本に行くと、石童丸について長々とこまかい説明があった。
本山高野山に行くと、萱刈谷堂と云うものもあるし、山の登り口には千里姫が泊まっていて、遂に病気で亡くなったという。
かむろの宿というものが、今でもあるのだと云われた。
とめおばさんは既に二回も登山して、現場を見てきたと盛んに自信を持って教えてくれたが、私自身の事も併せ考えて、涙の出るのを止めることは出来得なかった。
そのうちに、とめおばさんは御詠歌の本を持ち出して来て、調子の良い節回しで涙を出しながら読んで聞かせてくれた。
とめおばさんは月に二回は必ず鴨江の観音様にお参りして、その度毎に御詠歌の練習をするとのことであった。 
日露戦争の始まり

 

明治三十七年、それは私が十二才の時である。
お正月早々年頭に見えるお客様は皆、ロシアと戦争になるかも知れぬと言う。
とめおばさんの情夫鳥山さんはロシアとの戦争は間違いないと自信ありげに、新聞を広げて私ととめおばさんに見せた。
その新聞は東京の報知新聞という新聞であった。
初めて見る新聞というものに,鳥山さんの説明を聞きながら私は大きな魅力を感じた。
静岡市で昨年より電灯というものをつけ始めたが、非常に便利で評判がよく、希望者は押すな押すなの盛況であると云う様な記事も書かれていた。
私たちの部屋はランプであった。
私が報知新聞に魅力を感じたのは、漢字にふりがなが付けてあることであった。
私は漢字を全く知らないので、この新聞は実によいと思った。
鳥山さんは他の新聞にはふりがながない、あるのはこの報知新聞だけであると説明されたので、来る度毎に月遅れの報知新聞や小説本・マンガ本を持って来て頂いた。
そして毎夜の様にランプの下で(十時以降はローソク)唯一人新聞や小説本を読みつつ、漢字を覚えようと努力した。
その年正月も終わった二月十日、日本の天皇は帝政ロシアに対して宣戦を布告した。
号外号外と鈴を鳴らして新聞配達は街中を駆けめぐった。
赤紙召集令状が至る所に舞い込み、戦争一色で緊張の連続であった。
内閣総理大臣は桂太郎と云う陸軍大将であることも、この時報知新聞で始めて知った。
新聞を見れば漢字が自然に覚えられることが何よりの楽しみであったが、ロシアとの戦争のことが次から次へと報道されるので、それを見るのも楽しみであると共に、心配の種でもあった。
東京と大阪ではこの年、市内電車と云うものが出来たと写真入りで新聞に大きく登載されていた。
又、静岡の街では電話という実に都合のよいものが完成したと書いてもあるし、浜松でも早く電話設備をしなければと新聞に書いてあった。
昨明治三十六年締結された日英攻守同盟は、この日露戦争の勃発で、どの様なことになるであろうか。
英国は本当に日本側に立ってロシアと戦ってくれるであろうか。
毎日、新聞記事は賑やかなものであった。
そして東海道線の下り列車には時折、日の丸を掲げ出征軍人を乗せた軍用列車の姿が見えた。
その都度、日本赤十字社の記章を付けたおばさん達の姿が新聞に写真入りでのっていた。
私は必要に応じて、切り取って別な雑記帳に貼りつけ、漢字を覚えると共に戦争の状況も判るので非常に興味があった。
朝鮮満州と日本軍は快進撃を続けたが、旅順の二〇三高地ではどうしても前進が出来ず、乃木中将への非難はごうごうたるものであった。
漸く辛うじて、陥落したものの、それは明治三十七年の暮れ十二月五日であったので、十ヶ月もかかった訳であり犠牲者も甚大であった。
明けて明治三十八年となり私は十三才となった。
相変わらず工場に在って、管巻きや糸上げの作業であった。
早く戦争が終わればよいがと一心不乱に神仏に祈った。
新聞にはロシアの舗拜・艦隊が悠々アフリカを大回りして日本海に乗り込み、ウラジオストックに一旦入港の上一挙に日本海軍を全滅させるという計画であり、之を迎え撃つ日本連合艦隊の司令長官には東郷平八郎と云う海軍中将を以て充てると云う記事が、写真入りで正月早々の新聞に登載されていた。
是も切り抜いて私は雑記帳に貼った。
正月も過ぎて二月に入った。
ロンドン発の電報によれば、ロシアの舗拜・艦隊は二月十二日大挙してマダカスカルを出発、喜望峰を迂回してインド洋を横断、日本海にむかって急進撃を開始したと新聞一面トップに登載され、日本朝野を挙げて国民一同驚きと緊張の度は増すばかりであった。 
岩水寺地安坊社への日参

 

市内の人々は五社神社を始め、市内各地大小の神社仏閣に武運長久を祈願する人々が日毎に増えて行った。
その内、戦勝の神様は岩水寺の地安坊様だと云う噂が何処からともなく伝わって来た。
たまたま鳥山さんが見えたので、その由緒を訊きたる処、全くその通りであることが分かった。
鳥山さんは日清戦争に従軍、兵卒ながらも勲八等功七級の勇士であることもこの時に知った。
鳥山さんのご両親は鳥山さんの出征中、地安坊様の御札を岩水寺より受けて、朝晩水を献けて祈り続けた。
お陰様で鳥山さんはカスリ傷一つなく無事に凱旋。
その上、勲章をもらい、年金も年々百五十円宛という全く幸運に恵まれたお人であった。
為に、鳥山さんは自らその発起人となり、二十有余人の賛成を得て、日清戦争の鳥敢図を東京の画家に作製して頂き、地安坊社正面玄関の右側に額に入れて掲げたとのことであった。
鳥山さんの話は次から次へと伝わって行き、私たちの工場でも知らぬ人はない程であった。
舗拜・艦隊は何時到着するのであろうか。
東京の参謀本部も天皇のいる大本営も東京では遠方すぎると云うことで、全て文武百官は広島市に移され、国民の緊張はいやが上にも増すばかりであった。
旅順を逃れたロシアの残留軍は北満各地で、その陣容を立て直し、モスクワからの援軍と合流して奉天に於いて一大決戦をする、という見出しで毎日の様に新聞は報じていた。
私は夜仕事を終わってから、この新聞記事を細かに仮名づたいに読むのが楽しみであり、同時に恐ろしい気がした。
日本勝て、日本勝て、ロシア負けよと布団の中で何度も叫び祈った。
そして、一度岩水寺の地安坊様にお詣りしたいと思ったが、実現は出来なかった。
それから、奉天の大会戦が始まり、日本国中騒然たる有様であり、三度のご飯の時を始め、三人寄ると奉天大会戦の話で持ちきりであった。
流言は流言を生み、何が何だか分からなかったが、三月十日漸くにして奉天合戦は日本の勝利の内に終わった。
しかし、舗拜・艦隊の襲来はどうなるのであろうか。
子供である私共も気が気でなかった。
夕方、仕事が終るとみんな日本海で日本が負ければ、どうなるであろうかとお互いに心配し合ったが、どうなるものでもなかった。
道は六百八十里長門の浦を船出して、“ここはお国の何百里離れて遠き満州野”等々軍歌は工場内でも唄い続けた。
私も先輩の真似をして唄ったが、小夜ちゃんは天才だから唄と踊りでは敵わないと褒めたり担がれたりもした。
大国ロシアは強敵であり、恐ろしい国であると職場の人々は一様に考えていた。
鳥山さんも神国日本が絶対に負けないと強がりを言っていたが、内心はどうなるのか私は不安でならなかった。
決戦の時は時々刻々と迫ってきた。
新聞には毎日舗拜・艦隊の事ばかり書かれていた。
日本の運命は果たして、どうなるであろうか。
私達は唯一途に一生懸命働くのみであった。
そして、軍歌を工場内では口を揃えて唄った。
やがて5月に入り、遂に敵艦見ゆとの無線連絡あり、予期していたとはいえ、国民皆騒然として立ち上がり、道行く人も皆足早であり、無駄口を叩く人はなかった。
一億一心とはこの様な状態を言うのであろうか。 
少年藤田浩太郎との出会い

 

浩太郎は明治二十年生まれである。
従って、小夜子より四才年上である。
生まれは浜名郡白脇村三島という農村であった。
浩太郎の家は代々農家であり、一町五反歩を耕作する中堅農家であった。
両親は健在であったが、浩太郎の兄弟は八人もありその上祖父母もいたので、大家族であった。
上の三人は全部女の子であり、他家に嫁いでいた。
長兄は一人であってその次が浩太郎である。
浩太郎より下に妹が一人と弟が二人あった。
明治二十七年四月、数え年八才の時私は村の小学校へ入学した。
当時の義務教育は尋常科は四年であった。
この年に日清戦争が始まった。
私(浩太郎)は明治三十一年三月、尋常科を卒業し高等科に進学した。
私の村の高等科は二年であった。
私の高等科二学年を卒業したのは明治三十三年三月であった。
続いて四月隣村にある組合立の高等科三学年に進学した。
明治三十四年四月、高等科四学年に進学せんとしたが、義兄(姉の夫)の強い勧めで浜松市内にある山屋と云う大店(おおだな)に丁稚見習いとして住み込みで行くこととなった。
私の内心の希望は高等四年を卒業し、小学校准教員の資格を得て、それからお金を貯えて師範学校に行き、教育界で身を立てる事であった。
義兄はそのことに反対ではないが、山屋は遠州随一の大家である。
言うなれば、天下の山屋である。
丁度欠員があるので進めるのであり、こんなチャンスはまたとないと強く勧めるので、義兄の言うとおりにしたが、後で判った事であるが、義兄ではなく、本当は父の方が家族が大勢なので、一人でも口減らし(食糧の節約)をしたかったのである。
また、師範学校は静岡に在って大変なお金が要る。
次の弟妹の養育に支障を来す、これが主な原因であることも分かった。
私の家には農耕地は充分あったが、生活は楽ではなかったらしい。
耕地を購入したときの借財があるからであった。
為に、収穫の秋にお米を四十俵位物置納屋に積み込むのだが、師走の十二月末には三十俵位一度に浜松の商人に売り払うのが、毎年の例であった。
残り十俵を十人家族で食べて行くのだから大変であったに違いない。
毎日の食膳は黒いお麦のご飯ばかりであった。
お米は麦一升に一合の割であるから、白いところは殆どなかった。
その上、病人がでればお米はお粥にするので、尚更お米は減るばかりで殆ど麦ばかりであった。
当時、私の家では一日四回の食事であった。
朝六時頃が朝飯、十時頃がお昼ご飯、二時半頃がお茶漬けご飯、夕食は七時半頃である。
今日の様にテレビやラジオもない。
もちろん、新聞もとっていない。
新聞等読むものはロクでなしになると祖父が強く反対していた。
祖父は文盲で体ばかり大きく、頑強でよく働いた。
父は時々家を抜け出して、他家の新聞を借りて読んでいた。
夕食も済まし、一休みすると祖父も父も藁細工、よなべ仕事を必ず始めた。
夕方暗くなるまで野良(田畑)で働いて家に帰る。
母や祖母が夕食の準備をする。
その間に父や祖父は藁を整理して、大きなツチン棒(太い丸太を短かにして柄を付けたもの)で叩き、藁を柔らかにする作業をする。
これが約三十分位かかる。
この藁で縄をなったり、草履や草靴を作るのである。
藁細工をする傍らには、大きな囲炉裏があって、たき火をしつつお湯を沸かす。
私が三つか四つの頃は菜種油の燈心であったが、途中から石油のカンテラに替わった。
お日待ち宿の当番をする夜だけはランプを二つ付けるのが例であった。
草靴は野良仕事の時父や祖父が履いた。
藁草履は母や祖母が毎日履いた。
私どもが遊ぶにも学校へ行くにも全部藁草履であった。
楽な家庭の子供の履く藁草履には鼻緒や横緒に赤や白の布切れが巻いてあった。
私がそのことを祖父に話したところ、障子紙を細かく切って藁草履の鼻緒に巻いてくれたが、これが最高のものであり、学校に行く時かお祭りの時しか履いてはいけないと言われた。
村の学校には尋常科高等科合わせて二百人位いたが、男も女も藁草履のみであった。
竹の皮や麻裏草履の生徒は全校生徒の中で十人位しかいなかった。
校舎木造平屋建てで東西に長く瓦葺きであった。
北側からは余り日光が入らないので、白い壁で塗り上げ欄干は障子紙であった。
南側だけは光を入れる為にガラス戸にしてあった。
ガラス工場の少なかったこと、村役場で税金が少なくお金が不足していたので、この程度の建築が精一杯であったそうである。
私の家の畑には沢山の綿畑があった。
九月に入ると、綿花を摘むのが毎日の仕事であった。
それが終わると小さなロクロにかけて花と実(種)とに分離する作業をする。
これらは祖母や母の仕事であった。
綿花は大きな篭に入れ、それから紡いでだんだん伸ばして糸にする。
糸車を毎晩のように手で回して、ビーンビーンとヨリをかけているのを傍らでよく私は見ていた。
それから糸を束にして、糊つけ屋と紺屋(染色)に持っていき頼むのである。
いくら頼んでもなかなか仕上げてくれない。
催促に行くと、どの人もあさって(明後日の意味)は何とかすると挨拶するので、紺屋のあさってという不文律な方言が遠州一円に広まり、固定化したと云うことである。
紺屋から糸を受け取ると再び母は竹の管にビーンビーンと巻き付ける。
三十本四十本の管を巻き終わると長梯子を横にして木管を立て、それぞれの木管から糸を取り出して西に行き東に行き、地下に掘り差してある棒杭にぐるぐる巻き付けて、又、再び東へ西へと行きつ戻りするのである。
へたりまいたりと云う方言はここから始まった言葉だそうである。
現在で云う整経と云うのであろうか。
それからオサ通しをして手織機に取り付ける。
ここで始めて両手両足を使い、チャン、チャン、チャン、カラリンと織り始める。
三メートル四メートルの布地を作るにも大変な労力と資材を要したかは、到底筆にも口にも云い表すことは出来なかった。
薪炭は煙草や綿花の茎を充てたり、又屋敷の北裏にある竹藪の枯れ竹等も利用した。
お風呂沸かしには稲藁をも使った。たき火用の割木は人寄せの時以外は使用しなかった。
入浴は三日ないし四日に一度程度であり、近所の人々が大勢風呂借りに来るので最後の人は汚れて悪臭かった。
後藤新平という若い医師が内務省の医務局に登用され、盛んに衛生思想の普及に務めた。
トラホームの検診も警察、役場の吏員立ち会いで強行した。
種痘(ホーソー)も必ず断行せよと後藤新平は強い姿勢であった。
種痘施行の日には俄病人になって、布団の中にもぐり込む人もあった。
又、旅に出て行方をくらます人もあった。
小学校では三学年に進学すると同時に種痘を実施したが、種痘が恐ろしくて一週間も前から減食して体を故意に弱め、種痘を回避した児童の家庭もあった。
内務省後藤新平は生後一年で第一回、数え年十才で第二回と国民全部もれなく施行する法律を作った。
そして、実施した者には種痘済み証を交付して就職にも嫁入りにも必ず点検すると云う厳重な方法を講じた。
現在の東南アジア低開発国の現状とやや似ているのではないか。 
浩太郎 山屋商店の小僧となる

 

山屋は遠州浜松地方随一の豪商であり、豪族的存在であった。
味噌醤油の醸造販売が本業ではあるが、その背後には莫大なる金融資本を有し、その上貸家あり宅地有り、天竜奥地には広大なる美林を領有する等、遠州きっての財閥的存在であった。
浜松市創設時代より市会議長としての要職に連続勤務するなど、その名声は群を抜いていた。
貴族院開設以来、多額納税者の選挙権は先代より続いていたが、当主幸作氏自ら立候補して栄冠を獲得、貴族院議員として永く国会の上院に議席を置き、議員閣下としての覇名を持ち続けた。
又、遠州各地の金融機関を始め、交通運輸の開発にも意欲を注ぎ、その重役として重きをなしていた名門中の名門であった。
浩太郎はこの名家の云わば小僧であり使い走り役であった。
明治三十四年十四才の春であるから、走り使いには尤もよい年令であった。
この時代自転車も自動車もなかった。
人力車と馬車であった。
浩太郎、浩太郎と先輩の皆様から可愛がられた。
人力車の溜まり場にも馬車の組合に頼みに行く役は何時も浩太郎であった。
自転車など乗り物はないので、急いで歩いた。
私の店では翌年電話が入ったが、静岡や東京とは連絡は出来ても市内電話は相手に電話の設備がないので、私の駆け足は続いた。
私の店には何百人いたのか私には判らなかった。醸造工場にも相当いたと思う。
卸売場、小売り売場、運搬係、帳場、倉庫部と実に広大であった。
大旦那、若旦那、大奥様、若奥様等の顔など見る機会もなかった。
大番頭(実は専務)を始め常務、支配人等立派な人が顔を揃えていた。
元村長だったという年輩の人も臨時社員として事務所におり、暇を見ては私に昔話をこと細かに物語の様に説明してくれたが、気さくなお人であり親しみ深くお話を聞くのが何より楽しみであった。
どの店員(社員)の方からも浩太郎、浩太郎と呼び捨てにされたが、私の部所は判然としていなかった。
何処の場所にも必要に応じて飛んで行く雑益係であった。
やむを得ない事と思ったが、二年三年と続いたので、私は内心不満であった。
私は高等小学校三年を卒業したが、成績は学年で何時も上位であった。
むづかしい事は判らないが、普通の読み書き、算盤の基本だけは知っていた。
しかし、掃除をしたり、走り使いが多いので、筆を持つとか計算をすることは殆どなかった。
銀行と郵便局、馬車組合の事務所、駅への送り迎え、店に在っては冬は火鉢の炭火の加減、来客への湯茶の接待と、次から次へとなかなか忙しい毎日であった。 
小夜子と浩太郎の出会い

 

”捨てる神あれば拾う神あり”明治三十八年三月十日奉天の大会戦も日本軍勝利の内に終わり、同年五月二十七日、日本海の海戦は日本海軍の圧倒的勝利で終わった。
新聞の報道は次から次へと戦争の決算報告であった。
浩太郎は暇を見ては新聞に目を通した。
奉天の会戦ではロシア軍三十二万人、日本軍二十五万人と書いてあった。
又、日本とロシアの講和条約はアメリカのポーツマスで行われたが、日本の小村全権大使(外務大臣)があまりにも弱腰であり、勝ったのか負けたのか判らない。
これでは戦死者の霊に申し訳がないと日比谷の焼き討ち事件が突発した。
首謀者は河野広中、島田三郎、小泉又次郎等であり、百十八カ所に放火したと書いてあった。
又、内務大臣の官邸も焼き討ちされたことが新聞に報道され、国内は戦争が終わっても相変わらず騒然たる有様であった。
冬も漸く過ぎて鶯が鳴き始めた。
ある日醤油樽三本と味噌桶二本を大八車に積んで、成子の丸京織布工場に赴き炊事係に渡した。
その係りは清水とめと云う四十才位のおばさんであった。
この度、小売りの係りになりました、浩太郎と申します。
これから度々参上致しますので、宜しくお願い申しあげますと、深く頭を下げた。
その時、おばさんの居る部屋の片隅に十三、四才の娘がいた。
背の高い顔形の整った娘の様に直感した。
思わず私はお嬢さんですか、遂、愛嬌の意味もあったと思うが、軽口を叩いてしまった。
おばさんは、ああ私の娘だよと返事をした。
そばにいた娘さんはすぐに違うわよと大きく笑った。
おばさんの冗談はすぐにばれてしまった。
おばさんはこの子はね秋田のと言いかけて、口をつぐんだ。
私はそれ以上何も言わずに炊事場を出た。
そして、大八車を曳きながら、妙に彼女の事が気に掛かる自分の姿を思い出して一人苦笑した。
一体彼女は何者であろうか。
私は再び考えた。
身なりこそ悪いが鼻筋の通った、色白な背の高いすらっとしたあの容姿はただ者でない様な気がしてならなかった。
又、一抹の寂しさも隠されている様にも思えた。
それにしても、あのそうめん箱を逆さまにしてお粗末な紙綴じに鉛筆を舐めながらの筆記、それも新聞を一つ一つ見ての動作は何であろうか。
何を勉強しているのであろうかと疑問は疑問を呼んで、頭を傾げつつ帰った。
その夜浩太郎は、布団の中で娘の顔が目に浮かんで憶測をどうしても止めることが出来ずに眠りについた。
今一度あの炊事場に行き、あの娘に会いたいと毎日思うのであった。
あと一ヶ月経たなければ行くことは出来なかった。この一ヶ月浩太郎にとっては実に永かった。
たまりかねて、他の店に醤油を運ぶ途中回り道して、平田の少女の居る炊事場の前を二回ほど通ったが、おばさんの姿も少女の影も見ることは出来なかった。
何とかして、あの工場の炊事場に入りたい、入る方法はないだろうかと朝晩考えたが、妙案は浮かんでこなかった。
あの工場へは、毎月十日と決まっていた。
そして、日曜ならばその翌日という事に前任者からの堅い申し渡しであった。
しかし、浩太郎の心は少女に惹かれてどうしようもなかった。
思い切って浩太郎はおばさんの炊事室にとびこんだ。
そして、咄嗟に思いついた新味噌のことを申し上げて話を上手にごまかした。
少女のことで胸が一杯であったが、口にすることは出来ず、その上少女の姿は見えなかった。
ふと部屋の片隅に目を向けると例のそうめん箱があった。
そして中には、紙の綴じたものや、汚れた雑記帳があった。
浩太郎はいち早くこれを取り上げて、とめおばさんに訊ねてみた。
とめおばさんは、実はなここだけの話だがあの娘は小夜ちゃんといって北海道の網走に生まれたが、まもなく秋田県の横手の町に移り、それから浜松へ、小学校三年生の一学期目で退学、ここに来てそのまま子守と管巻き、警察の目を逃れて不就学、片かなとひらがなは読めるが、漢字は読めない。
算術の寄せ算、引き算は出来るが、かけ算やわり算は全然駄目よ。
従って、少しでも漢字を覚えたいと報知新聞には漢字に全部片仮名がふってあるので、それを頼りに雑記帳に抜き書きしているのであることの一切を語った。
なあ、浩ちゃん感心な子供ではないかととめおばさんは、浩太郎に付け加えた。
私は驚きと共に、とめおばさんに云われるまでもなく、感心な娘であると思った。
それにしても、気の毒な子供がいるものだ。
一体両親はどの様に考えているのかなあと、ひとりため息をついた。
そして、十二月、あの娘は五年間売られて来た様なものだ、あの子ばかりではない。
浩ちゃん、沢山東北地方から売られてきているのだよ。
女性ばかりではない。男の子供だって大勢来ているんだそうだよ、とおとめおばさんは云った。
一瞬私は頭がガーンとした。
そのことを思えば、自分は尋常科四年を卒業し高等科を三年、計七年間学校へ通わせて頂いたのだから、不平を言っては罰が当たると余分な言葉を吐いて
おとめおばさんの炊事小屋を出た。
大八車を曳きながら、店に帰った浩太郎は、その夜小夜ちゃんの雑記帳の事で暫く眠れなかった。
浩太郎はふと思いついた。そうだ、あれを小夜ちゃんに貸して上げよう。
自分が見て使った四年生の全科詳解というふり仮名つきで、解釈付きの小さな本があった。
幸い妹は高一である。あれをこの次の日曜日に実家に帰り持って来てやろうと心に決めた。 
家庭教師の真似ごと

 

浩太郎は次の日曜日にとめおばさんの部屋を訪ねた。
幸い小夜ちゃんもいた。
浩太郎は全科詳解という一冊の本の内容と見方、勉強の仕方を小夜ちゃんに手を取って教えた。
小夜子は飛び上がって喜んだ。
こんなよい本があるのですか、と夢の様だと云って何度も頭を下げた。
おとめおばさんも、平仮名は読めるが漢字は全く駄目であった。
御詠歌の本の中に時折漢字があったが何れも鳥山さんにふり仮名を付けて貰ったのである。
小夜子はよい指針書を得たので、毎夜一生懸命に書き写して漢字を覚える努力をした。
この時、小夜子は十三才、浩太郎は十八才であった。
夜のランプは時間がくると消さねばならなかった。
とめさんは小夜子に努めて好意的であったが、ある一定の範囲を越すことは出来なかった。
浩太郎はローソクを買ってきて、そっと小夜子に与えた。
小夜子は深夜のローソクの燈火で風呂敷を掛けて、例のそうめん箱を机の台にして勉強を続けた。
割り算、掛け算も浩太郎に教えて頂いた。
元々浩太郎は教員志望であったので、他人に教える事については格別の興味があったが、それよりも小夜子の記憶力のよいこと、進歩の著しさには目を見張るものがあった。
勉強欲が旺盛なのか、それとも生まれながらの天性なのか、一度教えると二度と訊くことはなかった。
浩太郎は恐ろしい様な気がした。
自分も尋常高等とも学年では何時も三番以下になったことはなかったが、小夜子は一体なんだろうか。
貯水池の水が水道管に吸い込まれて行く様だ。
小夜子の頭脳はさながらあの水道管だ。
ぐいぐいと学問知識を自分の処に吸ってしまう様だと浩太郎はその日の日記に書いた。
明けて明治三十九年となった。
正月早々桂内閣は日比谷の焼き討ち事件等の為か、遂に総辞職に追い込まれてしまった。
新内閣の首班は西園寺公望という公卿出身の方であった。
内閣制発足以来第十二代目であるという様な記事が新聞に大きく載っていた。
小夜子は浩太郎の持参した報知新聞によって教わりつつ、こつこつ読んだ。
夏目漱石の我が輩は猫であるという小説が発表されたのもこの年であり、大衆の人気は夏目漱石に集中したと書いてあった。
その他、日露戦争の功績で乃木中将が陸軍大将に昇任した記事もあった。
小夜子には何の事やら全くよく分からなかったが、浩太郎が詳しく説明してくれる。
今や兄の如く慕って段々浩太郎に傾斜して行くのみであった。
明けて明治四十年となり、正月を迎えた。
当時一世を風靡した作家夏目漱石が朝日新聞に入社したというので、東京の人々が大騒ぎしたと云う様な記事があった。
又、韓国との合併の記事も毎日の様に連載されて賑やかであった。
浩太郎は老舗山屋商店にいるので、何かと早耳であり、新聞の記事についても理解が早かった。
小夜子の指導者はおとめおばさんから、浩太郎へと知らぬ間に移ってしまった。
おとめおばさんも若い浩太郎の話しを神妙に受け止めていた。
然し、鳥山さんとの関係は別である。
四十才を過ぎても男女の関係はどうにもならないらしい。
毎月二回は必ず鴨江観音様へ参拝と称し、御詠歌の本を携えて部屋を出た。
小夜子は向学心に燃えていた。
尋常科四年の全科詳解を全部書き写しこなしてしまった。
浩太郎は考えた。
それならば高等科のものを、と再び実家から持参して彼女に与えた。
報知新聞で習った故か、小夜子は数学より国語科の方が好きであり、得意の様であった。
教えれば直ちに吸収してしまう小夜子に浩太郎はただ、ただ感心するだけであった。
昼間は一日中足踏み式の機を織り、夜の一時ローソクの燈火で本を読む程度で、どうしてあの様に勉強が進むのであろうか不思議でならなかった。
又、この年4月より義務教育が四年から六年に延長すると文部大臣の発表が正月早々あった。
小夜子は思った。
この様なよい制度が制定されても、私の様に貧乏に泣く家庭の子女はその恩恵に浴することは出来ない。
何とかして救う方法はないものであろうかと、浩太郎にも話してみたが、どうにも方法はないとのことであった。
新聞紙上では、幸徳秋水とか堺利彦という様な人々が、盛んに貧苦に泣く人々を救えと強調する記事が掲載された。
又、平塚らい鳥女史が女性にも参政権を与えよ、と叫んで気狂い扱いされた記事もあった。
この時代政治に参与する有権者は市内にも町村にも数える程しかいなかった。
男性であること、二十五才以上であること、一定の住所に二カ年以上住まねばならないこと、禁治産者、破産宣告者でないこと、国税を年間十円以上納付すること(田畑一ヘクタール以上)最初は十五円であった。
この様な制限があったので制限選挙といって、一般大衆(90パーセント)は不満を募らせていた。
国会だ県会だ、市町村会だとわいわい騒いでも、ほんの一握りの上層階級しか政治に対する発言は出来得なかった。
全国で衆議院の有権者は百万人程度と発表されている、と小夜子は浩太郎から教えられた。
小夜ちゃん、私の家ではね、選挙権欲しさにこの度お爺さん名義の土地を全部父の名義にする為に、悠々隠居の手続きをし、父が家督相続して父の土地と合わせて漸く国税が十円に達したので、この次の選挙から家でも投票が出来ると鼻を高くして喜んでいたと報告があった。
この時代に選挙権があるかないかは個人個人の家にとっては重大なる事であった。
それはその家の格式に直ちに影響するからである。
嫁をとるにも有権者の家ではまず選挙権のある家庭が前提条件であった。
官公吏になるにもその身元引受人になるにも一定額の国税を条件としたのである。
どんなに学校の成績がよくても、財力のない家庭の者は登用する事はなかった。
だから、寄らば大樹の陰。
長いものにはまかれよと云う様なつまらぬ言葉が全国津々浦々までまかり通ったのである。
小さな町村役場の吏員にも一定以上の財産がなければ採用してくれなかった。
小学校教員も又そうであった。
小夜子は不思議に思えた。
何故差別が必要なのか。
”天は人の上に人をつくらず”と叫んだ大学者もいた。
小夜子は益々判らなかった。
然し、新聞は丁寧に隅から隅まで目を通し、必要な処は切り取ってノートに貼付け、又書き取りも盛んに行った。
明けて明治四十一年となった。
小夜子も又年が一つ増えて数え年十六才となった。
西園寺内閣は崩壊して、桂内閣が再び誕生した。
桂さんは陸軍大将で日露戦争時代の首相であったから、第二次桂内閣と言った。
若い青年医師、後藤新平が逓信大臣として初入閣し、鉄道員総裁をも兼ねたので、政府に新風を吹き込むであろうと新聞一面トップを賑わした。
この年満州鉄道株式会社も創設され、秘かなる日本の大陸政策も始まった訳である。
ブラジル移民の話もこの年が草分けである。
また、浜松では浜松軌道株式会社の発足に伴って、二俣町西鹿島まで開通した(4月)。
又、北海道サッポロ戦争で負けた榎本武揚が七十三才の高齢で東京病院で病死されたことも大きく新聞にあった。
榎本武揚は戦犯者として刑に服し刑務所にいたが、その博識と才腕を認められ出獄して、直ちに農商務大臣に就任するなど、明治政府の要職に永年在って活躍したと、追って書きにも記してあった。 
小夜子故郷の村役場に手紙を送る

 

小夜子の必死の勉強は、遂に漢字混じりの手紙を書けるところまで上達した。
もちろん、浩太郎の指導に因るもの大である。
手紙の宛先は秋田県仙北郡横手町の町長さんであった。
自分の生い立ち、経歴、両親の名前を書いてまず戸籍謄本の請求をした。
そして、何故学令児童でありながら、放任しておくのかと云う詰問も忘れなかった。
小夜子の時の町長さんは既に退職して、新しい町長さんに代わっていた。
新町長はよく知らなかったが、戸籍謄本だけは確実に小夜子の所に届いた。
小夜子は二回も三回も義務教育の法令の根拠等について、浩太郎と共に研究した上で、横手の新町長に書面を送った。
その結果の回答は次の通りであった。
本籍地から転籍又は転寄留したる時は、その所在地市町村長は義務教育の学令児童ある場合は、直ちにその旨保護者に通知し就学せしめねばならない、と云うことになっている。
就学できない場合は、その理由を書面で市町村長に申し立てねばならないことになっている。
なお、義務教育を終えない児童は、どこの工場でも使用してはいけない、という規則がある。(工場法第十四条)
之に違反すると使用者は、科料に処せられる、と追って書きがあった。
すると小夜子はごまかされていたのだと云うことが分かった。
自分は最早済んだことで、やむを得ないとしても、これからも後に続く少年少女がいるに違いない。
この子供達を救済せねばならない。
地獄に落としてはならないと切々たる嘆願書の一文をまとめて、三度横手の町長宛に差し出したる処、幸いにも町長代理の三橋という人の目にとまった。
三橋さんはかつて警察官であり、巡査部長であった。
定年退職の上恩給取りの楽な身であったが、二度目のご奉公で村役場に勤めた人である。
三橋助役は、小夜子の嘆願書に感激して、これら事件の徹底追及を決意した。
そして、色々調査したるところ、あまりにも未就学児童が多く、そして遠州地方一帯の市町村に散在していることが判った。
三橋さんはかつての警察官としての知識をフルに使った。
市町村役場でなく、駐在巡査に警察電話を用いてその調査を依頼したる処、判明したる結果は何れも黒のみであった。
然し、遠州各地の使用者は警察官の直接立ち入り調査で大変に驚愕し、就学の手続きをした者が沢山あったそうである。
明けて明治四十二年の春となった。
小夜子は十七才、浩太郎二十一才となる。
正月早々三日の朝、浩太郎はおとめおばさんと小夜子の部屋を訪ねた。
新年の挨拶と共に日の丸の手旗を一本ずつお年玉の替わりに持参した。
見れば山屋商店初荷と書いてあった。
浩ちゃん、これは何ですかと小夜子は訪ねた。
とめおばさんは黙っていた。
これはね、小夜ちゃん初荷の商売始めの景気づけにどこの商店でもやる習慣なの、うちの店ではこの様な日の丸の手旗を昨日の商売始めに、おとそと共にみんなに渡したんだ。
馬力の人、手車を引く人等全部に一台に四本から五本の日の丸を初荷に差し込むので、それはそれは豪勢だった。
全部で五百本位造って渡してしまった。
その残りというより二本だけおばさんと小夜ちゃんの分をとって置いたわけなんだ。
浩太郎は神妙にその腹の中をうち明けた。
二人は大変に喜んだ。
そうこうしている内におとめおばさんは年賀に行くと称して部屋を出て行った。
浩太郎もそれでは私もと立ち上がって部屋を出たが、すぐ引き返して小夜子に小声で呼びかけた。
小夜ちゃん、十日に浜松座に活動写真と云うものが来るそうだが、私が年末賞与をもらったからおごるよ、と言った。
小夜子にとって二銭は大金であった。
一銭出すと太いローソクが五本も買える。
ローソク五本あると二ヶ月位勉強が出来る。
勿体ない、然し動く写真というものはどういうものか、それも見たかった。
ローソクは前にも浩ちゃんから何本か頂いたので、相済まんと何時も心に残っている小夜子であった。
では、お供しましょうと返事はしたが、一緒に肩を揃えて行くことには微かに戸惑いを感じた。
夜ならばよいが昼間は駄目であった。
他人様に笑われる、後ろ指をさされる、警官に見つかると叱られる。
俺が先に行くから、小夜ちゃんは少し遅れて後からついて来ればいい、などとと打ち合わせをした。
十日当日打ち合わせた時間に、浩太郎は鳥打ち帽にマントと云う姿で小夜子の部屋の前を通った。
少々遅れて小夜子は後を追った。
浩太郎は木戸口で切符を二枚買って、小夜子の到着を待っていた。
ここまで来ればもう大丈夫と二人は思った。
活動写真小屋の中は昼間でも暗闇である。
誰にも顔を見らるることはない。
胸をときめかして二人は中に入った。
中央には細い手すりをかけた道があった。向かって右側が男子席左側が女子席と大書した掛け札があった。
そして、正面舞台の左側に弁士席があり、又数メートル下がった高い処に臨監席が設けられ、口ひげを生やした警官が厳然と監視していた。
浩太郎と小夜子は同席出来るとばかり思ったのに残念ながら、西と東に別れなければならなかった。
ふと見ると男女同伴の方々は東西の高い所、いわゆる上げ座と云う所に幾組か見えた。
何れも夫婦者ばかりで丸まげに結った奥様や年令の古い男女のみであった。
大きな板に同伴者席とこれ又同様に掲げてあった。
浩太郎は思った。
夫婦にならねばそばに寄る訳にはいかぬのだと。
小夜子も又思った。
浩ちゃんと別れて知らぬ女の人ばかりの中で唯一人である。
他の娘達は大勢の友達と何か口に入れながら、雑談を続けている。
小夜子は退屈であった。
浩ちゃんも一人である。
どんな気持ちでいるのであろうか、そっと男子席へ目を流して見たが、浩ちゃんの姿に何ら変わった様子もなく、真っ正面に向かって唯一人黙然としている。
何故こちらを向いてくれないんだろうか。
小夜子は一抹の不安を覚え、ちと淋しかった。
早く幕を開けてくれるとよい、そして早く終わって家にかえりたい、そして勉強をしたい、と思った。
ベルが鳴って急に暗くなった。
本当に写真が動くだろうか、胸が高鳴った。
弁士が立ち上がる。
そして、画面の説明を始めた。
乃木大将や東郷大将の凱旋の姿、東京駅頭、二重橋、次から次へと映し出された。
写真が動く、本当に不思議に思った。
東京駅に見覚えがあるので小夜子にとっては特に興味があった。
二重橋や宮城は初めてであった。
後一幕と云う処で小夜子は立ち上がってトイレに行った。
すると浩太郎も又立ち上がってトイレに来た。
顔と顔があった。
浩太郎は小声で小夜ちゃん、もう真っ暗闇だよ。お腹も空いた、もう帰ろうよと云うと、小夜子は待ちかねた様に直ちに浩太郎の呼びかけに応じた。
木戸口には赤い大きな提灯がぶら下がっていた。
二人は間隔をおいて別々に出た。
少し歩くと全くの闇夜であった。
浩太郎は小夜子の追いつくのを待った。
小夜子は急に寒さを訴えた。
浩太郎はマントと襟巻きがあるのでさほどでもなかった。
浩太郎は急いで襟巻きをはずして小夜子の首に掛けて上げた。
そしてしばらく歩いた。
二人は無言であった。
小夜子は襟巻きの暖かさと異性の体臭を直接肌に感じていた。
なおも、無言の二人は西に向かって歩き続けた。
暫くすると、小さな食堂の前に出た。
浩太郎は小夜子を誘った。
七、八人の先客がいた。
お正月の為か、お酒を飲んでいる人もいた。
二人は向かい合って腰掛けた。
お客様の目は一様に若い二人に注いだ。
壁に貼ってある定価表を二人で見る。
大盛りご飯二銭五厘、並盛り一銭五厘、小盛一銭、小肴二銭五厘、雑魚二銭と書いてあった。
浩太郎は並盛りと雑魚を二人分注文した。
酒を飲んだ赤い顔をした人もいたので小夜子は早く食堂を出たいと心の中で思った。
炭火があり、人も大勢いるので室内は暖かである。
夕食を済まして金七銭を支払って二人は揃って食堂を出た。
とたんに食堂の中から 「ヒヤヒヤご両人新婚、チンチンカモカモ」 という声が大きく二人を追いかける様に聞こえてきた。
年頃の男女が揃って並ぶとこの様なことが、当時何処でも行われた時代である。
外は意外に寒かった。
少し、時雨気味である。
ああ寒いと小夜子は思わず叫んだ。
月も星もなく、あたり一面は真暗だった。
時々提灯をぶら下げた人影もあったが、殆ど人通りはない。
浩太郎は急に足を止めて自分のマントのボタンをはずした。
そして、小夜子の体に寄り添ってマントの半分を小夜子の肩にかけた。
ああ温いと小夜子は思わず小声で口ずさんだ。
浩太郎の背は高いので、小夜子は頭からマントの中に包まれたしまった。
そして、浩太郎の右腕は小夜子の右肩に軽く掛かっていた。
マントは毛織物ラシャ生地である。
断然暖かであった。
その上始めて知る異性の体臭の肌暖かさ。
小夜子は一瞬何か異様な衝撃を受けた思いであった。
二人は無言のままなおも西に向かって歩き続ける。
小夜子は幸福感に満たされた。
そして、この瞬間を夢ではないだろうか、夢ならば覚めないで欲しいと心の中で祈った。
浩太郎はただ黙々として小夜子を抱きかかえて歩くのみであった。
小夜子は頭からマントをかぶっているので、少し息苦しいと小声でつぶやいた。
浩太郎はすぐに止まって小夜子の頭を半分マントから出してあげた。
時雨は少々激しくなってきたが、無言のまま二人は尚も歩き続ける。
稍あって小夜子は浩太郎に小声で告げた。
浩ちゃんこんなことして、もしも誰かに見つかると私困るわ、浩ちゃんだって困るでしょう、と言った。
闇夜で全然顔など判らない。
大丈夫だよと言った。
時雨は小雨と変わった。
ふと浩太郎は立ち止まった。
右側に小さなお宮のお堂があった。
浩太郎は小夜子の肩に手を掛けたまま、少し雨を除けようとお堂の裏側に入った。
小夜ちゃん少し休んで行こうよと寒いのでマントを着たまま二人は低い板廊下に腰を掛けた。
あたりは暗闇で人通りはなかった。
小夜子は小雨の止みそうにもないねと、呟きながら早く帰りましょうよと言った。
浩太郎の反応はなかった。
小夜子は小声で再び呟いた。
誰かにこんな処見られると私困るわ。
この時既に浩太郎は小夜子の体を引き寄せ、身を震わせていた。
そして、小声で言った。
小夜ちゃん、実は俺、お前を以前から好きだったと。
小夜子は私も浩ちゃんをと言わぬ内に浩太郎は小夜子の唇を求めて、激しく慟哭した。
小夜子も無条件に浩太郎の要求に応じてしまった。
初めての体験であるが本能の然らしむる処どうすることも出来なかった。
兄とも思い、先生とも思う尊敬と思慕の情、禁じがたいものを永く心の中で鬱積していた男性であるだけに、小夜子も勿論異議はなく、二人の呼吸は完全に統合した。
その内浩太郎は口の中で微かに小夜子、小夜子と初めて呼び捨てにして一層強く抱きしめた。
小夜子も又無我夢中、我を忘れていた。
時が経った。
その内浩太郎は急に越えてはならない一線にまで迫ってきた。
小夜子は身を悶えて強く抵抗した。
許して、許して、それだけはそれだけはと頑強に拒んだ。
然し、浩太郎は手を緩めなかった。
男と女、腕力では到底敵わない。
拒み続けた小夜子のとうとう浩太郎に屈して、遂に体を合わせてしまった。
時間は短かった。
浩太郎は抱き起こして乱れた頭髪や着物を整える。
「小夜ちゃんごめんね」と耳元でささやいた。
本当に俺が悪かった。
申し訳ないと小声で謝る様であった。
小夜子は頭を横にふった。
浩太郎は再び許してと詫びた。
「う、う、いいの謝らなくてもいいの」と二言三言....小夜子は小声で言った。
全ては終わった。
あたりは真っ暗であり静寂そのものであった。
再びマントを分け合って帰宅の途についた。
おとめおばさんは既に床についていた。
小夜子は活動写真のことを話して、直ぐにローソクを消して床につき布団をかぶった。
小夜ちゃんは毎夜本を読むのが習慣であったが、今晩は様子が少しおかしい。
変だととめさんは思った。
おとめさんは御詠歌を済まして鳥山さんとの出会いを済まして夕方早く帰宅していた。
まさか小夜ちゃんが浩ちゃんと....、いやいやあのしっかり者の二人である。
間違いはあるまいと自分自身に言い聞かせて見せたが、どうにも心に引っかかるものを覚えて眠れなかった。
小夜子は直ちに眠りについたが、やはり途中目が覚めてどうにも眠れなかった。
あの様なことどうしてだろう。
迂闊であった。
これから気を付けねばならないとしみじみ思った。 
差別は人間社会に何故あるのか

 

小夜子は活動写真小屋における警察官の態度、男席、女席の区別、同伴席の上座等を思い出した。
汽車にも一等二等三等の区別がある。
汽船もそうである。
家庭も又そうである。
富めるもの、貧しきもの、千差万別である。
工場にあってもそうであった。
主人夫妻は高い所、そして白いご飯である。
召使いや女工は黒い麦ご飯ばかり、その上お菜は醤油粕と大根漬けや茄子漬けばかり、味噌汁は朝一杯あるが、中味はゼロ。
主人家族の分は別仕立てである。
とめおばさんはそれを当然なことと考えている様である。
時たま主人のお膳を下げた折り、魚の頭や骨などがそのまま残っていることがある。
小夜子はその時、魚の頭を割って中の肉身を食べるのが唯一の楽しみであった。
肴を入れた椀の中に汁が少々残っていたことも時折あった。
こうした場合、小夜子は残らず自分の黒いご飯に掛けて頂いた。
そのおいしかったことは忘れられない。
次から次へと疑問が湧いてくる。
選挙のことも新聞でやかましく書いているが、実際に投票となるとほんの一握りの大旦那様しか投票所へ行けない仕組みになっている。
女のおばさん等選挙の話もする人もない。
平塚らい鳥等と云うご婦人が女子にも参政権を与えよと叫んでいるのが、写真入りで新聞記事になっていたが、一般のご婦人は我関せず知らぬ顔をする人ばかりであった。
その後小夜子は浩ちゃんの現れないのが気がかりであった。
早く会いたい、そして話がしたい。
教わりたいことが沢山たまっている。
どうして来てくれないだろうか。
あの暗闇の晩のことが原因であろうかと人知れず気をもむ小夜子であった。
この年石川啄木が朝日新聞社に入社したことも記事にあったが、一番のニュースは日韓併合を推進した初代総理大臣伊藤博文公がハルピン駅頭で暗殺されたことであった。 
徴兵検査をうける

 

明治四十二年一月十五日この日は藪入りである。
奉公人はみんな休むのである。
翌十六日小正月二日連休である。
浩太郎は実家の両親に呼ばれて家に帰った。
家族一同囲炉裏を囲み小さなたき火でお餅を焼きながら浩太郎を迎えた。
浩太郎、本年は徴兵検査の当たり年である。
役場から正式な通知が来ているよ。
検査日は二月上旬だが、その前に下調べがあるから、一月二十日に役場に出頭せよと云うことであった。
就いては、徴兵のがれの祈願の為、氏神様を始め、根方詣りに万障繰り合わせて行っておいでと云うことであった。(根方詣りとは不動山、岩水寺、光明山、秋葉山、法多山のことである)
浩太郎は小夜子と一緒になりたかったので、些か迷惑な顔付きであった。
もし合格すると、二年はただ遊びだ。
兵種によっては三年だ。
どうしても逃れねばならない。
それにはお詣りするより外に方法はない。
それにと云って急に父はつぐんだ後、押し黙ってしまった。
ややあってから、母は浩太郎をそっと別室に引き入れて二人だけとなった。
実はな浩太郎!これは極秘だがお前を婿養子に是非欲しいと云う所があるんだよ。
徴兵検査が済まねば名前まで云うことは出来ないが、家にとってもお前にとっても勿体ない様な大家でな。
よいご縁だとお父さんも内々思っているのだと母は浩太郎に告げた。
今の浩太郎にはそんな話は馬の耳に念仏であった。
小夜子の顔がまぶたに浮かぶのみであった。
早く店に帰りたい、そして何とかして小夜子に会いたい。
そのことで頭は一杯であった。
その夜両親は泊めたかったのだが、浩太郎は店が正月は特別忙しいのだと偽って帰ってしまった。
店に帰る途中、浩太郎はおとめおばさんの住む納戸の部屋を訪ねた。
丁度定期便の為、おばさんは不在であった。
小夜子は留守居旁々部屋の隅の方で、例のそうめん箱を前にして書き物をしていた。
浩太郎は内心喜んだ。
小夜子も又待ちかねていた。
笑顔で迎えた。
藪入りの為、実家に行った話をそのまましたが、縁談のあることと徴兵検査のことは遂に話さなかった。
小夜子は横手役場の三橋さんよりの便りの件を早速話した。
「貴方のお陰で大勢の児童が救われるの」と遂に小夜子は心ならずも「あなた」と言ってしまったことを秘かに恥じた。
浩太郎は小夜子に対して済まぬ、と思いつつもどうにもならなかった。
自分は小夜子に対し、どうしてあの様な野蛮な行為に出たのであろうか。
深く反省し、恥ずべき行為であったと充分考えていた。
正式に結婚を申し込みたいのだが、徴兵検査前では駄目なことは分かり切っている。
その上あの母の言われたことが事実とすれば尚更のことである。
全ては徴兵検査の結果待ちである。
浩太郎の身長は一メートル七十、体重七十キロと申し分ない健康体であった。
その上頭脳は明晰で、学校時代はスポーツの選手、明朗で快活、どう見ても不合格と云うことはあり得ない。
母の云う検査当日前、十日間位絶食乃至減食の話等、浩太郎はまっぴらご免であった。
お宮参りだけは各地を旅するつもりで、この折りに行って来ますと両親に答えたが、徴兵のがれの為ではなかった。
それよりも小夜子と早く結婚が出来るように祈ることの方が強かった。
明日十六日も休みである。
とめおばさんの姿は見えなかった。
小夜ちゃん先日はごめんね、と浩太郎は再び頭を下げた。
そんなこともういいの!それより、浩ちゃんはもう私を嫌いになったでしょう。
馬鹿を云え、嫌いであんな真似を誰がするか。
徴兵検査次第で、俺はあんたに結婚を申し込むつもりだ。
両親にもあなたのことを言わねばならないと思っている。
来月の上旬が徴兵検査だよと、初めて浩太郎は徴兵検査のことを口にした。
それからの二人は度々密会することが多くなり、恋愛は理性を失うとか。
恋は盲目なりとか。
止むに止まれぬ処まで行ってしまった。
三月に入ったある日、小夜子は軽いめまいがして急にせき込み、気分が悪いと言って床に臥した。
二日ほど工場を休んだが直ちに快方に向かった。
おとめおばさんは医者に診て貰うことを勧めた。
小夜子はもう大丈夫とお医者さんには行かなかった。
そうこうしている間にも、又二人は秘かに会った。
恥ずかしいことはしてはいけないと心に言い聞かせる二人だが、側に寄ると、どちらからともなく体を合わせる二人であった。
徴兵検査の結果、浩太郎は甲種合格、そして入隊先は朝鮮と満州の境にある鴨緑江沿の清津と云う町で、歩兵第七十八連隊であった。
日韓合併の話が内々進んでいたので、日本は朝鮮に二ヶ師団増設する計画があった。
浩太郎は翌三月二十日遂に朝鮮警備の第一線である鴨緑江沿の歩兵連隊に入隊するのであった。
浜松駅には実家の人々、親戚の人々、店の人、知人、友人が、又小学校の児童も手に手に日の丸を持って見送っていた。
小夜子は正式に見送りが出来ぬため、おとめおばさんと共に平田の踏切で思い切ってハンカチを振って浩太郎の門出を見送った。
小夜子のおとめおばさんも予期していたものの、急に大きな穴が空いた様にぽかんとしてしまった。 
渡る世間に鬼はなし

 

浩太郎と別れてから一生懸命小夜子は仕事(織布)に精を出していた。
然し、4月に入ると小夜子は頭が重く、吐き気がしてならなかった。
おとめおばさんは内々分かっていたが口には出さずただ医者に診てもらうことを勧めた。
小夜子もやむなく休日をとって、少し離れた常盤町まで足を伸ばし、お医者様に診て頂いた。
間違いなく妊娠しているということであった。
小夜子はびっくり仰天した。
どうすることも出来ない。
このことを早く浩太郎にうち明けるべきかどうかであった。
おとめおばさんに早速相談したが、妙案はなかった。
仕方がない、生むより他に方法がない。
おとめおばさんも同様苦い経験の持ち主であった。
二十年前に好きな男が出来て一男をもうけたが、中途主人に死別されて苦労の連続である。
今は大阪にいて、市電の車掌になっているとのことであった。
時は日露戦争の直後である。
在郷軍人会は全国市町村津々浦々まで創設され、軍国日本が着々と建設されようとしていた。
中絶堕胎など口に出すことさえ出来ない時代である。
おとめおばさんはこのことを鳥山さんに秘かに相談してみたが、何の方策もなかった。
大金を持って上京し広い東京の中で、知らぬ顔で十日も入院すれば何とかなるかも知れないが、それも果たして引き受ける医院があるかどうか分からない。
危険が伴う、莫大な経費が掛かるのでどうにもならない。
仕方がない。
観念するんだなと諦めながらも、苦境に立つ小夜子に万一のことがあってはと大いに励ます為に、明るい昔話を引き出して鳥山さんは、暗い顔の二人の心を努めて明るい方向に向けた。
そして、鳥山氏は四ヶ月目は胎児の形も決まり、心も固まる大切な月だ。
悪いことを考えてはいけない。
良いことを考えねばならない。
あまりくよくよするな、世の中のことはなるようにしかならないのだから、小夜ちゃん余り深刻に考えるなよ。
人生万事塞翁が馬じゃないか。
将来どの様な幸運が舞い込んで来るかも知れない。
逆に、明日急死するかも分からない。
明日を思い患うことなかれと云うではないか。
今日一日が良い日であり、充実した一日に出来ればそれでよいのではないか、と鳥山さんは小夜子の気持ちを引き立てようとすることが、目に見える様であった。
小夜子は浩太郎が朝鮮に発つ前に言っておけばよかったと、今更ながらおとめおばさんの勧めを悔いるのみであった。
急に鳥山さんは叫んだ。
そうだ、あんた達二人で岩水寺にお詣りに行ってはどうか。
丁度、四月十五日から十四日間、二十四年間に一度しか行わないと云うお開帳のお祭りがあるのだよ。
軽便鉄道も昨年開通したばかりである。
終着駅西鹿島の一つ手前に岩水寺という停留所があるから分かりはよい。
軽便の乗車賃は俺が出してやると強引であった。
実はな、このお開帳の浜松の大世話人はこの私だ。
各町内にそれぞれ責任者を一人づつ立ててあるので、都合二十一人の小世話人がいる。
その元締めが俺という訳だ。
だから、俺は期間中一日おき位に岩水寺に行かねばならない。
本堂付近の桜もきれいだし、山から湧き出る水の透き通った冷たくておいしいこと。
それから信州諏訪湖に通ずるという伝説の大きな奥深い洞穴もある。
この際、是非行きなさいと半ば命令的であった。
あんた達と一緒に行くことは世間の手前まずいから、俺は一足先に行って待っている。
受付でご祈祷をお願いし、私の名前を呼んで総代の人に頼みなさい。
昼食くらいはすぐ出すからと、鳥山さんは岩水寺における自分の権威のあるところを、愛人のとめさんや小夜ちゃんに見せたかったのであろう。
ついでにといって、五十銭銀貨二個を二人に渡して悠々と立ち去って行った。
この時お開帳の宣伝印刷を鳥山さんは納戸の部屋の片隅に忘れて行ったので、心ならずも小夜子は手にとって見てしまった。
お開帳の後援会の中には商工会議所会頭宮本甚七、笠井屋呉服店社長小野江佑輔(判事)、木俣物産社長木俣千代八、浜松軌道株式会社重役竹内竜雄という蒼々たる名前が連ねていた。
鳥山さんはその傘下にあって、実質上の実務者であることが分かった。
それには地安坊社に掲げた日清戦争鳥瞰図のとり持つ縁であることは申すまでもなかった。 
岩水寺お開帳参拝

 

明治四十二年四月十八日おとめおばさんと共に小夜子は浜松の田町から岩水寺駅までの軽便に乗った。
料金は一人七銭であった。
ときわ、島の郷、上島、共同、市場、松木、西が崎と北進して、およそ二時間くらいで岩水寺停留所に着いた。
小さな二階建ての茶店のおばさんに切符を渡して岩水寺の在りかを訊ねた。
この道を西に行くと北に進む秋葉街道(二俣行き)があるから、その道を一直線に北へ行くと左側に小学校がある。
そのあたりで聞けばすぐ分かると教えてくれた。
とめおばさんは麻裏草履でかなりハイカラであった。
私は歯勘下駄である。
行けども行けどもお寺らしきものは見えない。
途中小さな茶店が三軒程あった。
何れもお休み所と云う看板が店先にぶら下がっていた。
お開帳の故か甘酒、大福もち、寿司などが一応取り揃えてあった。
小学校が見えたので北の方から、草靴ばきで来る人に聞くと、すぐそこを西に廻ると門前が見える。
その入り口に大きな幟が二本見えるから、そこを北へ進めば突き当たりだと教えてくれた。
少々疲れたが元気を出して二人で急いだ。
三叉路に茶店があった。
おでん、すし、甘酒、菓子、コップ酒も売っていた。
おでんの匂いがぷんぷんする。
やっと近づいたなと思った。
後ろの方から大きな音を立てて、乗り合い馬車が笛を吹いて二台ほど走って来た。
何れも岩水寺へ行く馬車である。
薄緑色の腰巻きを掛けた年増の芸者上がりの様なご婦人が、お帰りにはどうぞと茶店の前で愛嬌を振りまいていた。
もうすぐだ。
元気を出して幟目当てに進み、漸く門前にたどり着いた。
が北を向いて、又びっくりした。
門前の広いこと、道路の長いこと。
お寺の姿は全く見えない。
入り口の両側には黒松の大木が林立している。
それから北に進むに従って樹齢何百年という杉、檜、椎の木、樫の木など鬱蒼としていてさながら大樹のトンネルであった。
溜め息をついた二人は一度に疲れが出た。
特におとめおばさんは新しい麻裏草履の為なおさら足が痛む。
一休みすることにした。
幟は風に揺れてバタバタと音を立てていた。
ふと左側に四角四面のお〆縄を張った空き地がある。
天竜河原のきれいな小石が一杯敷き詰めてあった。
数人の参拝客が腰を下ろし雑談を交わしていた。
この川原石のある処はお旅所といって大昔から地安坊様のお祭神が年に一度ここまでお出ましになるのだそうだと話していた。
二人は時計がないので正確な時間は分からないが、少々空腹を覚えてきた。
参拝客を乗せた馬車が笛を鳴らしながら、北に南へと走っていく。
人力車に乗った立派なご婦人の姿も目に付いた。
早くご祈祷にあって鳥山さんに昼食を心配して頂かねばと再び元気を出して北上した。
漸く本堂が見え始めた。
急に騒々しくなってきた。
太鼓の音が聞こえてきた。
大きな鈴の鳴る音も耳に響く。
赤、黄、青の幟が無数に立ち並んでいる。
本堂の前の小高い丘には五色の吹き流しが翩翻と風に靡いていた。
門前の両側には露天の屋台店が一杯並び、植木屋もおもちゃ屋さんも景気よく大声でお客を呼んでいた。
甘酒、大福餅、コップ酒、すし屋さんも賑やかである。
おでんの匂いが一層腹にこたえた。
サーカスも大きな舞台装置で楽団入りでお客を引きつけている。
きれいな化粧をした少女が馬に乗って入り口に並んでいた。
人を押し分けつつ、辛うじて本堂に到着、お賽銭を投げるにも死にもの狂いである。
早速受け付けにかかる。
鳥山さんを呼びだして手続き一切をお委せした。
鳥山さんは本堂内でも羽振りがよい様であった。
和尚さんにも総代さんにも平然と同僚の様な口のきき方には驚いた。
安産、そして健康更に立派な人間になるようにと、知恵授の三つのことを鳥山さんはお願いしてお札に書き入れ順番を待った。
暫くして、ふすまの唐紙が鐘の音と共にすうーと開いた。
緋の衣を着たご住職が従者一人を従えて仏前に座った。
二人は共に瞑目して手を合わせた。
和尚さんは小夜子の名前と年令を読み上げて三つの願いを祈願した。
小夜子もおとめおばさんも熱心に頭を下げて臥し拝み、ひたすらお地蔵様にすがった。
終わってお札とお供物を頂き、別室でお昼食を頂いた。
久しぶりで見る白いご飯にお揚げのついた精進料理の高膳である。
鳥山さんはその上お酒を二本持ってきたが、一本だけおとめおばさんが飲んで一本はお返しした。
それから三人で外に出て、鳥山さんご自慢の地安坊様に行くべく東の道を北に廻った。
時折、ゴーンゴーンという鐘の音が大きく聞こえてくる。
急いで行ってみると正装して奥様方が稚児を連れての搗き鐘であった。
稚児は金銀の王冠をかぶり法服を着て、実に見事な絵巻物であった。
鳥山さんは子供の将来の幸福と発展を願って世のお母さん方がこの様な行事に参加するのだと教えた。
小夜子は口にこそ出さないが、私には縁のないことであると心の中で思った。
人間には実に差別階級があるものであると思った。
浜松から暗い内に起きて草鞋履きで、弁当持ちで往復徒歩の人が大部分である。
軽便汽車に乗れる人は最上の部である。
小夜子は鳥山さんのお陰で軽便に乗せて頂いたが、これが始めで終わりでもあると思った。
また乗り合い馬車も、浜松からも笠井方面からも何台も往復していた。
中には人力車で赤毛布を腰まで掛けて、黒紋付き羽織で丸まげ姿と云う立派な貴婦人が本堂のすぐ前まで乗り込むと云う光景もあった。
一体あのご婦人はどの様な奥方様であろうかと小夜子は首を傾げた。
急に鳥山さんは呼び止めた。
小夜子は思わずはっとして我に返った。
地安坊様はこの上だよ、石段は沢山あるが、我慢してくれ、おいらの寄贈した日清戦争の写真画があるから。
小夜子は色々心配してくれる鳥山さんの手前いやとは言えなかった。
おとめおばさんも足の痛みを訴えつつも、急な石段を上った。
両側には竹の櫛に貼りつけた千本の幟と云うのが、地面一杯に立ててあった。
よく見ると武運長久を祈る身体健全、中の町村申年の男と云う様に筆で書いてあった。
恐らく数万本は立ててあるだろう。
漸く石段を登り詰めて社殿に入り参拝した。
白い装束で袴をつけたお爺さんがただ一人で守っていた。
大きな囲炉裏があった。
鳥山さんは顔見知りのようであった。
そして、早速鳥瞰図の説明をした。
鳥山さんを筆頭に十五人の寄進者のお名前が画面の下の隅に書いてあった。
写真画のモデルは威海衛の戦で日本軍が上陸するときの模様であると説明された。
ひげのお爺さんは宝印様であると鳥山さんが紹介した。
続いて私のことを概略説明した。
それは良いお心掛けじゃ、正しくきれいな心を持つ人の最後は必ず幸せが来るものだ。
負けずに最後まで頑張りなさいと申されたが、何故かこの老人の言葉が小夜子の腹の奧を抉った。
それから石段を下りて有名な洞穴に案内された。
間口が東西に長く、半二階建ての瓦屋根の立派な旅館があった。
入り口には養気館と墨痕鮮やかに書いてあった。
鳥山さんは玄関の中に入って主人のお爺さんと二言三言話を交わした。
お嫁さんがお茶とお菓子を持ってきた。
そして、ローソクも三本持ってきた。
湯治客は五人ほどいた。
前の庭には築山の池もある。
赤い鯉がいた。
小さなチャボ鶏が雌鶏三羽を引き連れてお客の捨てる食べ物をあさっていた。
雄鳥はクククと云って餌を雌鶏三羽に順次与えていく。
そして時折片羽根を広げて雌に近づき体をあてては愛情表現をする。
小夜子は浩太郎のマントのことを思い出し苦笑した。
そして、鴨緑江沿にいる浩太郎の姿が急に目に浮かぶのであった。
鳥山さんはローソクを一本づつ渡して三人で東の穴に向かった。
途中小川が流れている。
木橋は観光に来る人の為か、洪水予防の為なのか非常に高造りであった。
橋の上から下を眺めると、水のきれいなこと、小魚が沢山いて動作の速いこと、赤い小さな蟹の多いこと、三人は何事も打ち忘れてみとれるばかりであった。
橋を渡った所に風呂場があった。
洞穴の中から太い竹を通して滔々と冷水が風呂場に流れていた。
ここは特別に男女混浴なのか、或いは夫婦者か、頭にタオルをのせた二人の男女の姿が見えた。
洞穴の入り口が見えてきた。
胸がどきどきした。
大勢の参拝客が出入りしているので気強かった。
鍾乳石、石筍等の奇岩が無数に露出しているのにまず驚く。
一番井戸、二番井戸、三番井戸と三つの井戸があった。
湯治場に送る冷水は主に一番井戸とのことであり、水源は無限であり、ぬるぬるした水質で硫黄分を含有していて、神経痛、リュウマチに大変よいとのことであった。
およそ五十メートル位入った所で怖くなり引き返した。
この中に昔、赤蛇が住んでいたとみんな口々に言っていた。
外に出た。
漸く我に返った。
弓を抱えた宿のお爺さんが盛んに説明してくれる。
後で聞いたが、この老人は弓道の師範であり、精錬章を持った六段と云う大先生とのことであった。
そして、お嫁さんではなく、年の離れた若い内縁の女房であることも分かった。
小夜子は早く帰りたかった。
祈願はしたものの、何とかしてお腹の中の固まりが融けてくれればよいがと、極めて自分勝手なことを考えていた。 
故郷浜松からの便り−第一便−

 

それから三ヶ月後山屋商店勤務の後輩店員から一通の封書が届いた。
故郷の出来事なら何でもよい、良いこと、悪いこと、お目出度いこと、災厄人間の生き死に等々、細大漏らさず知らせて欲しいと出発の時に頼んでおいたからであろう。
あらゆることが箇条書きに記載してあった。
その中の一節に噂であるが、丸京工場の若主人が従業員の小夜子という美人に手を付け、子供が出来たらしいと云うことが書いてあったので、一瞬浩太郎は脳天をしたたか打ち叩かれた思いであった。
まさかそんな馬鹿なこと、信じられない。
デマであろう。
うそであろうと自分で自分に聞かせるのであったが、従業員と主人との関係とは世間にはよくあることだ、特に小夜子は美人である。
ひょっとすると分からない。
疑心は疑心を呼んだ。
しかし、遠い異国の丘、何とも方法はなかった。
二日ほど前炊事室内清水留吉宛手紙を出したばかり。
あと十日も経てば小夜子の所に着くであろう。
それを待ちたい。
浩太郎の頭は複雑で狂わんばかりであった。 
小夜子の妊娠

 

岩水寺のお開帳より帰った小夜子はただ一途に働くのみであった。
別にお腹が大きくなったわけではないが、小夜ちゃんは妊娠しているのではないかと云う噂が誰言うともなく工場内に広まった。
しかし、浩太郎との関係は全く知らぬ様子であった。
ある日、若主人は秘かに小夜子を連れ出し市内の料理茶屋に招き入れた。
そして、詳細に噂の出所を調べたのであるが、小夜子は黙して語らず事実無根を訴え続けた。
若主人は俺はお前を内々好きであったと突然告白した。
そして、小夜子は拒んでそのまま工場に帰ってしまった。
お盆を過ぎた頃、小夜子のお腹は少々目に付くようになった。
若主人の奥様はこの様なこと、放置しておいては他の女工の手前示しがつかないと、即時退去を主張した。
おとめおばさんは小夜子に代わって、ひたすら嘆願した。
若主人は八年もいる小夜子は家の子供と同様である。
今すぐ出て行けと言っても行く宛もない。
身二つになって何とか方針が立つまで、待ってやれと若夫人をなだめたので、事なきを得たものの小夜子は早晩この納戸の部屋から退去せねばならないものと心の中で覚悟した。
暑い夏も過ぎて秋風の立つ頃、小夜子の枕元に一通の封書があった。
差出人は白紙で不明であった。
秘かに開封してみると、若主人の書いたものと分かった。
いやな予感がした。
直ちに握りつぶしたが、中身は読んだ。
お前も困るだろう、ゆっくり相談にのるから、この前の所に来なさいと云うことであった。
小夜子は気が進まなかったものの実際は困るのでおとめおばさんにも内緒で若主人とあった。
面倒は一切俺が見るから委せておけと云うことであった。
小夜子は相変わらず押し黙っていた。
若主人は例によって、小夜子の手を握り体を引き寄せにかかった。
身重のこの体、どうにもなりません。
あと暫くで身二つになります。
それから改めてゆっくり二人で相談しましょうと、少々のゆとりを含めて体裁良く断った。
しかし、若主人は聞かなかった。
強引に体を求めてきたが、小夜子は後でしっかり決めましょうと宣言して帰ってしまった。
このことを見取っていた一人の女性があった。
それは料亭の女中であったが、二人はこのことに気がつかなかった。
この年初代首相の伊藤博文がハルピン駅頭で暗殺されたこと。
日韓併合の功労者であったこと、新聞に大きく登載されていた。
小夜子は妊娠というショックを受けつつも新聞を読むこと、そして書き写しをすること、切り取ることは手まめに習慣的に行っていた。
故に郷里の石川啄木がこの年朝日新聞に入社して、記者として活躍し始めたことも知っていたし、郷里の先輩人物として格別の親近感を持つのであった。
名古屋市では特別雄大な鶴舞公園が完成されて、その写真が掲載されていた。
また、岩水寺お開帳の記念として、吉野桜の苗木を浜松軌道株式会社が大量に寄付し、将来の大公園遊園地計画の青写真が遠州版に大きく報道されたので、小夜子は幅広い門前と地安坊様のあの眺望、更に奥深い神秘の洞穴を思い起こして、一層興味を覚えた。
又三十才になったばかりの吉田茂が憲法問題で活躍した牧野伸顕(伯爵)の長女と結婚式を挙げ、英国大使館の一等書記官として赴任したのもこの年であった。
又各地の市町村で学校の校舎を建設せねばならないと、日露戦争勝利の余波もあって各地で競って建築したが、お金がなくて何処の市町村も困り果てた。
戦争に勝っても賠償金はとれず、樺太の一部を割受したことと満州の権益を獲得したに止まり、その維持管理に多額の投資に迫られ、内閣政府は財政のやりくりに頭を悩ました。
これが影響して国内の道路、鉄道を始め諸処の開発建設事業が遅れたので、国民の不平不満がつのるばかりであった。
朝鮮における二ヶ師団増設問題も多大の論議を呼んだ。 
歩兵連隊における浩太郎の活躍

 

浩太郎は小夜子のことが気がかりであったが、一応克服して一期二期とも検閲は無事に終わった。
そして、その成績は極めて優秀であった。
明治四十二年もそろそろ終わりに近づいてきた。
四方の山々の雑木も揃って紅葉し始めた。
ある日、小夜子より一通の封書が届いた。
開封してみると、十二月上旬子供を産むと云う内容であった。
万一男児なればあなたの浩の字を頂いて浩(ヒロシ)と名付けたいと云うことであった。
浩太郎は憤慨した。
俺の子供でもないのに、何たる図々しい売女だ。
若主人の援護を得て昼間旅館で逢い引きをしていながら、何を今更と頭はカンカンであった。
封書は直ちに焼き捨ててしまった。
今に見ておれ、三期の最後の検閲もあと十日で終了する。
必ず三纉剳驕B
そして、あと一ヶ年経てば除隊する。
浜松に帰って必ず一旗上げてみせる。
若主人と対決する。
浜商出の織屋位に負けてたまるかと益々闘志を燃やす浩太郎であった。
そうだそれ程好きなら二号でも三号にでもなればよいと可愛さ余って、憎さ百倍という態度であった。
十月の中旬三期の検閲も終わって、成績発表も近づいてきた。
浩太郎の班には五十人の同年兵がいた。
誰と誰が三ツ星に推薦されるであろうかと、みんな寄り集まれば予想を立てていたが、浩太郎だけは番外であった。
浩太郎以外に誰が浮かび上がるかが関心事であった。
階上にいる古兵(二年兵)の口からも浩太郎は間違いなしとみんな異口同音であった。
宣なる哉、浩太郎は中隊中の最右翼で上等兵に進級されることになり、十一月三十日二年兵除隊と共に即日任命されることになった。
十一月二十五日の夜上等兵候補者を中隊事務室に八人程班長は集めた。
そして、中隊長より正式に発令があり、除隊する先輩古兵並びに下士官助教教官中隊付将校に順次申告挨拶せよと命ぜられた。
一同狂喜して退出した。
浩太郎は更に中隊長より居残りを命ぜられた。
君は中隊に於いて序列が一番であるが、実は大隊に於いても、ほぼ一番と決まった。
就いては下士官に一名の欠員があるので、十二月一日上等兵進級と同時に伍長としての勤務をして貰うことに将校団下士官全員で決定した。
明日営庭で全員整列の場でその旨発表する。
なお二年兵除隊を見送る時、新兵としての代表、指揮、号令も君が行うことになったから、先任の下士官によく聞いておく様にと言われた。
また、一ヶ月後のことであるが、元旦(明治四十三年)には連隊全部の整列と閲兵並びに軍旗に対する敬礼等、新年の行事が営庭大広場で行われる。
その時連隊長に対する敬礼と人員報告等の指揮号令は兵卒の代表が行うことになっているので、その代表指揮指揮者に君が指名されることに決まっているので、これも先任の助教下士官によく聞いて教示を受けておく様にと言われた。
浩太郎は夢ではないかと思った。
班に帰って同僚からおめでとうと言われたが、伍長勤務のことは心の中に納めておいた。
そして、毛布をかぶったがなかなか寝付かれなかった。
明朝は伍勤の発令がある。
元旦には連隊全体の代表として総指揮をとる。
果たして旨くやり遂げうるであろうか。
嬉しさと心配とが交互に現れて暫し眠れなかった。
それにしても、早く無事に終わって浜松の皆様に新年の第一報を送りたかった。
小夜子のことは早く完全に忘れたい。
中隊長より連隊代表と云う言葉を頂いたが、果たしてほんとうだろうか、浩太郎は夢うつつであった。
除隊兵を見送る送別の式典も、明治四十三年正月元旦の連隊閲兵式も滞りなく無事に終わった。
予定通り浩太郎は任務を遂行し得たことを中隊長以下幹部にお礼の申告に廻った。
そして、新しい初年兵を迎えたので、先輩古兵として教育係を命ぜられた。
中隊長の下に初年兵担当の教官(中尉)がいる。
その次に高級助教として所と云う先任軍曹が一人。
その下に助教二人内一人が藪北という伍長である。
今一人の助教が上等兵(伍勤)浩太郎である。
その次に四人の班長(上等兵)があった。
一斑の兵員は五十人であった。
従って浩太郎は百人を受け持つ責任教官となったのである。
浩太郎は得意の絶頂であった。
教科の日程表も初年兵の名簿の自ら筆を執って、それこそ名実共に初年兵教育に全身全霊を打ち込んだ。
かつて、小夜子に教えたように、教員志望でかじりかけた教育心理学の応用も加えたので、藤田(浩太郎)伍勤の初年度教育は中隊内の評判となり、静かなブームをよんだ。
先任の藪北伍長は数ヶ月後軍曹に進級した。
彼は岐阜県出身で浩太郎より二年先輩で下士官志願をした職業軍人の者であったが、到底浩太郎の比ではなかった。
春風駘蕩、英気溌剌爽やかな日々であった。
浩太郎は時々天を仰いだ。
澄み切った大空は美しかった。
その中にそびえ立つあの白頭山の偉容!そして万年淀けることを知らぬと云う白雪。
足下をながるる滔々たる鴨緑江の長蛇。
むげんの清流何と素晴らしいことか。
朝鮮で一番高いのは白頭山、峯の白雪熔ける共とけやしやせぬ我が思い。
明け暮れ又主さんのことばかり(小夜子)知らぬ間に口ずさむ浩太郎であったが、小夜子のことは断じて忘れねばならない。
掛塚港の開発、天竜川の運行(帆掛け船)浜名湖。
浜松軌道による岩水寺(石灰)、西鹿島方面への物資の輸送等々夢は益々膨らむばかりであった。
明治四十三年白脇村の村長の手元に朝鮮七十八連隊第二中隊長より一通の親展の文書が届いた。
それは浩太郎の在隊期間の成績報告書であった。
序列は連隊全部を通じて第一番伍長勤務上等兵。
規則上伍長に任官することは出来ないが、直ちに下士官を飛び越えて准士官(特務曹長)にしてもよい位な成績である。
因って、是非下士志願をさせて欲しいという中隊長直々の私信も添えてあった。
中山村長は直ちに浩太郎の父を村役場に呼んでその旨を伝えた。
父は早速その足で浜松市の山屋商店に赴き店主にそのままのことを報告したところ、店中大騒ぎして、狂わんばかりの喜び様であった。
中でも若奥様は里方の実家の姪女の入り婿にと嘗て話したことがあったので、尚更深い関心を持ったのである。
早速実家に帰って兄夫婦にこのことを話し、自分のにらんだ眼に狂いのなかったことを鼻高々に話したのであった。
実家というのは同じ浜松市内で新町の鉄鋼、石油等を大手に商売する大問屋であった。
山屋程でないにしても三十人程の男店員を使用し、近代的会社組織に衣替えするなど、将来に大きな期待を寄せられている中堅の老舗であった。
古い土蔵も八棟位並んでいる。
お嬢さんは一人娘である。
市立高女を卒業して目白の日本女子大一年に在学中である。
家作も二十一戸あって他人に貸していた。
本宅は広沢町の高台にあって祖父母二人が隠居生活を楽しむという羨ましい家庭であった。 
小夜子男児分娩す

 

小夜子はとうとう子供を産んでしまった。
男児であった。
おとめおばさんには大変なお世話を掛けてしまった。
実のはは、実の祖母そのままであった。
小夜子はどの様にして、将来おとめおばさんにご恩返しをすればよいのであろうかと、本当に心の奥底から毎日考えていた。
又、良い悪いは別として、若主人の口添えで、納戸の部屋でそのまま居座ることが出来たことも、不幸中の幸いであると思った。
浩太郎から何の便りもなかった。
一体何故であろうか、何か誤解でもあるのであろうか。
それならあの出発の砌、おとめおばさんの言うとおり、言っておけばよかったが、今更悔やんでも仕方がない。
除隊すれば必ず来てくれる事に決まっている。
その時ゆっくり説明すれば、すぐ分かってくれるであろうと、小夜子は堅く信じていた。
そして、岩水寺から頂いたお守りとお札を肌身離さず、何時も身につけて自らお地蔵様のご真言を朝晩称えることを忘れない信念の強い小夜子であった。
出生届けは鳥山さんが心配して市役所に出向き、二通作成して本籍の秋田県仙北郡横手町と浜松市の双方に提出した。
後で浩太郎に認知願う事にして一応小夜子の私生児とした。 
歳月は人を待たず、浩太郎除隊す

 

光陰矢の如し。
後少々で浩太郎は除隊することとなった。
しかも、その浩太郎は連隊長。
中隊長から下士志望を半強制的に行われた。
君ほどの人物を連隊として離すことは誠に残念だ。
是非残ってくれないかと声涙降る頼み方であったが、浩太郎は頑として聞かなかった。
あと五ヶ年奉公すれば准士官間違いなし。
加算がつくので、恩給も必ずつくと説明されたが、浩太郎はどうしてもとお断りして浜松に除隊してしまった。
時に命じ四十三年十二月三日二十二才であった。
浩太郎にはどうしてもやりたいことがあった。
それは商売であり、同時に地方郷土の開発であった。
冬の鴨緑江も見た。
夏の船も見た。
ぶつぶつ交換の市場の実地も見た。
早く帰って色々実行したかった。
勿論自分自身がよくならねばならないが、一般の人々が共に安心して真面目に働きうる社会を造らねばならない。
裏のある偽りの社会を造ってはいけない、みんな平等でなければならない。
天は人の上に人を造ってはならないとある大学者は言った。
そのことを実践しなければならない。
選挙権は特権階級の専有物であってはいけない。
男女を問わず、みんな持たねばならない。
義務教育は完全に実行せねばならない。
この様なことに向かって自分は努力したい。
自己の栄達の途のみを考え、恩給を目標にして自己の身のみを守って棺に入る人間にはなりたくない。
人生は短い一瞬である。
自分に始まって自分に終わると夏目漱石は言った。
中隊長のご厚志は全く骨身にしみる程有り難かったが、ただ他人を殺傷することの練習だけではどうしても男の一生の仕事としては物足りないと浩太郎は心から思った。
それにしても小夜子という女性は一体どういう女性であろうか。
顔を見るのも汚らわしいと浩太郎は一途に思っていた。
実家では家族は勿論のこと、親戚知人集まって盛大な歓迎慰安の宴を開いてくれた。
そして下士適任証書を互いに手にとって喜んでくれた。
山屋商店にも翌日赴き、主人を始め皆様に除隊帰郷のご挨拶を申し上げた。
二ヶ年間の修行鍛錬は一層人間としての進歩と向上の姿を顕わにした。
特に中山村長宛の連隊一番のお墨付きは一段と人間浩太郎を高い所に押し上げる起爆剤にしたことは言うまでもなかった。
山屋商店では大旦那を始め店員一同皆出席の上で改めて一席を設け、歓迎の宴を持ったがこれは異例中の異例であった。 
小夜子の悩み

 

明治四十四年の正月を迎えた。
浩は数え年二才となったが、生後十三ヶ月の乳呑児であった。
産後の経過もよく小夜子は完全に健康を回復した。
そして従来通り工場の仕事に熱中した。
乳呑児があるので特別精を出した。
為に成績は落ちるどころか逆に向上したので主人も別にご機嫌は悪くはなかった。
ただ若奥様だけは何かしら変な目で小夜子を見つめる様であった。
この年独逸製の飛行機が東京代々木の練兵場で空高く舞い上がると云うので、日本国中大騒ぎであった。
果たして本当に飛び上がる事が出来るであろうか。
小夜子は唯世の中の進歩の激しさに目を見張るばかりであった。
北海道有珠山が大爆発して明治新山と名付けた事も掲載されていた。
又県知事は石原健三という人であったが、病気の為年末に退職された。
この様なこと、小夜子は乳呑児を抱えつつも必ず毎夜の日課として目を通し、必要なことは雑記帳に記入する事を忘れなかった。
しかし、思い起こすのは浩太郎のことである。
一体どうなっているのであろうか。
女性ゆえ手紙は軍隊では掛けなかったとしても、最早除隊して半年にもなる。
赤児のあることは既に承知の筈である。
何だろうか、小夜子の頭はいらだつのみであった。
お盆も過ぎた八月十日、恒例の味噌醤油を車に積んで山屋より若い丁稚小僧さんが見えた。
おとめおばさんは、浩太郎のことをそれとなく打診をしたところ、浩太郎さんは人間も飛びきり立派だが、実に運の強いお人だと言った。
現在店におって、支配人付で支配人の見習いをしているが、それも暫くのことで、この秋の十月には若奥様の実家の一人娘と結婚して、あの有名な新町の大店である安藤家の入り婿となり、相続人になるとのこと。
店では専ら大評判で知らぬ人はありませんとのことであった。
お嬢さんは一人娘などと、細かな事まで語りかけて帰った。
この話を聞いて二人はびっくり仰天、一時は心臓の鼓動も止まる程であった。(この時小夜子は十七才)
小夜子は目の前が真っ暗になった。
いっそ浩を連れて汽車に飛び込むことを真剣に考えた。
小夜子の顔は真っ青であった。
待ちに待った浩太郎は顔も見せない。
他の女性と結婚するという。
自分は住む家もない。
一度浩ちゃんに会って一言憾を言ってから、浩と共に死ぬ決意を幾度かしたが、その都度浩の笑顔に遮られて死ぬ機会を失ってしまった。
工場の人々は小夜子のただならぬ動作を異様に感じとめていた。
この時鳥山さんはおとめおばさんを通じて、夕方より二時間程内職をしてみる気はないか、一時間五銭位は稼ぐことは出来る。
浩は立ち上がって二三歩足が出る程になった。
丸々太って日に日に可愛らしくなってきた。
鳥山さんは経済のことよりも小夜子のうずうずした気持ちを発散させ、引き立たせる雰囲気を作ってあげたかったのである。
場所は伝馬町の鈴蘭と言う流行し始めたカフェーであった。
乳呑児を抱えているので、夕方七時より九時までの約束であった。
主人に対しては何の迷惑もかけなかったが、二ヶ月程経ったある日従業員の告げ口で夜の副業はまかりならぬ。
どちらか一方にせよと厳しく叱られて駄目になってしまった。
数日後若主人は小夜子を呼びだして再び関係を迫ったが、小夜子はこれに応じなかった。
この年十一月上旬浩太郎は安藤商店の養子として正式に決まり結納も終えて、披露宴は翌四十四年四月市内一流の料亭八百吉で来賓親戚百余名を招いて盛大に挙行された。
媒酌人は市会議長山屋主人夫妻であった。 
女は弱いが母は強し

 

小夜子は機会を見て、浜松を去る腹を決めていた。
浩太郎の婿入り、薄情者、マントの中のささやき、あれはみんな嘘だったのか、男なんて信用してはいけない。
頼りになるものでないとつくづく思った。
若主人もそうだ。
うまいこと言っても口だけに違いない。
信用してはいけない。
もうこんな所に居たくない。
どこか遠い北海道でも沖縄にでも行きたい。
北海道は寒い、沖縄の方が年中暖かで生活しやすい。
しかし、仕事が果たしてあるだろうか。
小夜子は悶々とした日々を送っていた。
浩太郎を完全に失い目標がなくなってしまった。
浩はおとめおばさんの肝いりで丸々と成長していった。
おばさんは相変わらず御詠歌を勤めているが、小夜子と同じ心であり実の孫の如く浩の面倒をみてくれた。
信心深いおとめおばさんは浩を抱きながらも、南無大師遍照尊南無子安地蔵大菩薩と称えつつ、小夜子親子の庇護と成長を念ずる毎日であった。
小夜子は決意した。
強くならねばならない。
もうこうなったら、自分一人で浩を育てる。
意地でもやってみせると女の執念を燃やす小夜子であった。
明治四十四年八月桂第二次内閣は崩壊して再び西園寺公望公に大命が降下、第二次西園寺内閣となった。
静岡県知事も松井茂と云う法学博士の学位を持つ人が赴任した。
日本と朝鮮の合併も順調に進んで日本より朝鮮総督府が京城におかれた。
朝鮮へ朝鮮へと言う風潮が非常に強くなり、遠州浜松地方からも大勢の男女が一旗揚げようと夢ふくらませて、我先にと玄界灘を渡った。
小夜子も内心大いに心が動いたが、よちよち歩きの浩を見てどうにも動きがとれなかった。
明けて明治四十五年の正月を迎えた。
浩は二才と二ヶ月、可愛い盛りである。
とめおばさんは一心になって面倒を見てくれたが、浩は一人で歩き出し、しばしば越境してとめおばさんを困らせた。
ある日若奥様からおとめさんは注意を受けた。
若奥様の所にも浩と同じ位な幼時があり男の子であった。
玩具も沢山持たせてあった。
浩はそれに目を付け朝晩乗り越えてその玩具をねらった。
浩は身長も大きく活発で元気があった。
坊ちゃんを倒して平気で持って帰る事が度々あった。
その都度おとめさんはお咎めを受けた。
小夜子にはこのことを黙っていたが、遂度重なる内に分かってしまった。
小夜子の悩みは又一つ増えた。
こういう状態ではこの納戸部屋に何時までも居るわけにはいかぬと内々思った。
おとめおばさんも困ったものだと内心考えて、鳥山さんにもどこか小夜ちゃんのよい勤め口はあるまいかと相談を持ちかけた。
同時に自分の一人息子は小夜ちゃんより四才年上であり、市電の車掌として大阪で暮らしている。
いっそ小夜ちゃんと一緒になってくれるとよいと秘かに思ったが、口には出せなかった。
子持ちとは言え小夜ちゃんは体が大きく、すらっとした美人であり、小学校こそ三年であるが、勝ち気で頭も良くもらい手はいくらでもある。
大阪市電の息子では人間的に物足りないと思うであろう。
一体どうすればよいのでろうか。
浩は極めて元気のよい子供であった。
昨日も母家の坊ちゃんをいじめて革靴を奪ってしまった。
幸い若奥様に見つからずに済んだので事なきを得て、一人ホッとしているところであった。
小夜子もとめおばさんも早晩ここを出なければなるまいと、心の中で考えていた。
そうこうしている内にも若主人は小夜子に対する野心は捨ててはいなかった。
小夜子が一人で居るときは必ずと云ってよい程好意的態度をあらわに見せて、言い寄るのであった。
小夜子はこんな若主人は嫌いだった。
ある時あまりにも執拗に言い寄るので、若主人の求めに応じて秘かに会った。
若主人はどうしても一緒に協力してやろうと小夜子の体を求めた。
この時小夜子は決意した態度を見せてきっぱりと言った。
若様条件を申し上げます。
若奥様と離婚して下さい。
そして私と結婚して下さい。どうぞお願いします。
私は若様のよい返事をお待ちしております。
月末までに、そして子供もそのままという条件でと言いおいて小夜子は一人料亭を退出してしまった。
それから二ヶ月ほど経ったある日鳥山さんは、とめおばさんを通じて浜松より北方にあたる笠井という小さな町に行ってみないかと言ってきた。
笠井は町は小さいが、あの付近の中心地である。
色々な物資の集散も盛んである。
学校も高等科四年まである。
警察も分署とは云え独立している。
綿糸関係の店もかなり増えて活況の様である。
造り酒屋もあるが、医院も数軒ある。
旅館も料亭もあって小じんまりと充実している。
この様に説明して小夜子の表情を救わんと笠井への引っ越しを勧めた。
小夜子は腹を決めた。
とめおばさんはそのまま浜松にいたが、適当な時期に笠井に行くことにして、二人は暫く別れて住むこととなった。 
小夜子笠井に移住す

 

明治四十五年十月小夜子は一子浩を連れて笠井の町に移った。
この時明治天皇は病気に罹り病床に臥していた。
詩人石川啄木は二十七才の若さで病死した。
傑出した詩人として写真入りで、その死を悼む記事が新聞に大きく載っていた。
小夜子は自分の身の上に引き比べて啄木の遺族に同情した。
十二月に入り明治天皇の病状は悪化して、遂に崩御された。
国民は斉しく哀悼の意を表して喪に服した。
そして、明治四十五年を大正元年と改めた。
西園寺内閣は瓦解して三次桂内閣となった。
僅か数日にして大正元年は終わり、大正二年の正月を迎えた。
浩の成長ぶりは日に日に目に見える程であった。(三才二ヶ月)
芸妓置屋翁屋の女主人鶴千代は女侠客と言ってよい程の世話好きな女傑であった。
鳥山さんの依頼をまともに受けて小夜子親子の面倒を何くれとなくみてくれた。
渡る世間に鬼はないと小夜子はしみじみと思った。
翁屋の一室を借りて「山形屋旅館」「割烹あげ出し」等々の下働きに使って頂くことで二人の糊口は十分であった。
どこか定まった勤め口をと心掛けたが、なかなかすぐには見つからなかった。
小学校で小使いを一人探していたので、鶴千代は直ちに町役場に行き町長に頼んだが、小夜子の美貌が災いして採用してくれなかった。
大正二年小夜子は二十才であった。
今に何とかなる、焦っても仕方がない。
当分は日雇い賃金で行かねばと鶴千代さんを頼りに一生懸命働いた。
この年二月、桂内閣は短命にして崩壊した。
後継首相は山本権兵衛海軍大将であった。
静岡県知事も替わって笠井新一という人が赴任してきた。
小夜子の新聞切り抜きとノートへの貼りつけは最早習慣となっていた。
そして、その度に簡単な自分の行動を書くこと、買い物の数量、代金等も忘れずに記帳した。
このことがやがて小夜子の生活に大きな影響を与えていった。
貧乏はしていても新聞には必ず目を通し、中でも小説は必ず読みこれが何よりも楽しみであり、同時に世の中の移り変わりを知る何よりの指針となったのであった。
その年の十月笠井の町に織布工場の従業員を対象としての給食共同組合が出来たので、その炊事婦として雇われ、日曜日を除き毎日勤めることとなり、細々ながらも生活の目途がつき一応安定した形となった。
かくして、大正三年の正月を迎えた。
欧州の風雲急なる事が盛んに新聞記事にあった。
小夜子は相変わらず、振り仮名付きの報知新聞を読んだ。
小夜子は二十一才、浩は四才である。
九州桜島が大爆発して噴煙は日本列島全土になびいたと言う様な見出しで、大きなニュースとして報道された。
神奈川県の横浜で人力車の車夫が何回洗っても白くなるので調べた結果、桜島の噴塵ということが判明したことも書いてあった。
四月に入るとシーメンス事件が告発され、山本権兵衛内閣は引責辞任した。
後継内閣は大隈重信伯に大命が降下した。
大隈伯爵は二回目であり、第十七代目であると書いてあった。
シーメンス事件の内容は小夜子にはよく分からなかったが、フランスから海軍の軍艦を購入する時の賄賂であることは大体分かった。
七月に入りお盆を迎える時、新聞の号外はチリンチリンとけたたましく街の中を飛んだ。
欧州戦争始まるのニュースであった。
セルビアの十九才の青年がオーストリア皇太子に向かってピストルを乱射、その為にオーストリアは七月二十九日セルビアに対し、遂に宣戦を布告した。
これが全欧州いや世界戦争に発展するであろうと大きく報道された。
案の定、日英同盟に基づき日本も参戦し独逸に対して宣戦を布告し、直ちに中国にある独逸の租借地青島に対し軍を進めた。
世に言う日独戦争である。
日本軍の進撃は素晴らしかった。
各国の連合軍を遙かに凌ぎ、日本恐るべしとの印象をこの時各国に与えてしまった。
又、年末には突貫工事の甲斐あってパナマ運河が開通し、戦争遂行に際し、連合軍側に如何に役立つであろうかと。
その効果と賞賛の記事が大きく載っていた。
又暮れの押し迫った頃、静岡の練兵場で飛行機と云うものが来て、実際に空高く舞い上がるということで静岡版の記事は賑やかであった。
果たして、本当に舞い上がることが出来るであろうか。
街の噂は飛行機のことばかりであった。
大正四年となった。
小夜子は二十二才、浩は五才となった。
笠井の街も日独戦争凱旋祝で賑わった。
街の至る所に大きなアーチが杉の葉で造られ、連合国のいわゆる万国旗を四方八方に張り巡らした。
小学校の子供は全員日の丸片手に軍歌を合唱して街中を練り廻った。
夜は在郷軍人会を先頭に提灯行列をした。
勢いに乗った大隈内閣は対支二十一箇条の要求を中国につき付けて、国民の喝采を浴びたが同時に中国の大きな反発を買った。
又、全国中等学校の野球大会が始めて、大阪豊中球場で行われたことの意義の大だる事も書いてあったので、切り抜いて貼っておいた。
この年小学校でピアノというものを欲しいと言ったが、一台三百円もする高価なものはどうしても買えないと町役場から、断られたという噂も耳に入ったので切り抜き帳の片隅に小夜子は書いておいた。
大正五年となった、小夜子は二十三才、浩は七才となった。
凱旋祝の事もあり、又欧州戦乱の影響もあって、少々景気は上向きであった。
発動機による織布工場が次第に増えてきた。
綿糸綿布の取引も活気づいてきた。
料理旅館の山形屋も連日大入りであった。 
アルバイトの始まり

 

翁屋の女将さんに頼まれて、忙しい時だけ時間給で山形屋に揚げ出しの勝手場の下働きを手伝う約束になっていた。
浩が小さいので永い勤めは出来なかった。
ある日の夕方、勤めを終えて家に帰った途端すぐに山形屋に来ておくれと女将さんから連絡があった。
小夜子は身支度も改めてすぐに飛んで行った。
山形屋の二階は大騒ぎであった。
何であろうかと女中さんに尋ねると、今日はお昼ちょっと過ぎから連続ですよ。
追々人が増えてね、街のお偉いさん方が十人程真っ赤な顔をして不意に乗り込んで来てね、商売だから文句は言えないしね芸妓さんも一人だけ仕方がないので、翁屋の女将さんまで出かけている始末よと知らされた。
小夜子は一生懸命板前の指図で働いた。
そして何べんもお酒や肴を二階に運んだ。
客扱いの上手な女将さんは盛んに三味を引きながら、お客さんに軍歌など唄わせていた。
役場の助役さん、在郷軍人会長、商工会長、消防組頭、町会議員の面々であった。
芸妓さんも又増えて三人になった。
賑やかな宴会となり三味の音も急に高くなった。
小夜子は又命じられてお銚子を持って二階に上がった。
その時お客の一人からお前も一杯飲めと言われた。
小夜子は下働きの雇われ女中のため、遠慮したが、執拗に言うのと女将さんが頂きなさいと目で合図するので、小夜子も遂に二杯三杯と盃を重ねてしまった。
又、お銚子をというので、階下に持ちに行って来た。
十本程の銚子を卓上において、階下に降りんとしたが、お客の一人が又小夜子の手を捕らえて離さなかった。
この娘は良い娘だ、内(家)の嫁にもらいたいと大声を出した。
そして俺と一緒に歌を唄えと少々絡んでくる様な気配が見えた。
機を見るに敏な女将さんは何でも良いから小夜ちゃん唄いな。
わしが三味でごまかすから、泥酔していて何が何だか分かりはしないのだからと、頻りに勧めるのでその場を取り繕う為に、七八才の頃横手のヒー様の部屋蔵でよく唄った江差追分と秋田オバコを二曲だけ唄った。
十年ぶりであるが、浜松の工場で糸揚げしながら大きな声で唄った経験があるので、思ったより上手に唄えたと小夜子自身が思う程であった。
一同シーンとして小夜子の追分けに聴き惚れた。そしてうまい、上手だとみんな手を叩いた。
側にいる芸者さんも顔負けである。
女将さんの頭は稲妻の様にひらめいた。これは素晴らしい、追分けもよいがあの態度、何と素晴らしいことかと舌を巻いた。
これはただ者でない、ちょっと磨けばすごい上玉となる。
人間性も想像できる。
鳥山の親父さんより大体の事は聞いてはいるが詳しくは聞いていない。
良家の失敗娘か、さもなければ高貴な方のお落胤かも知れない。
勝手な憶測をする女将であった。
小夜子は階下に降りて夜風にあたった。暫くして静かに浩の所に帰った。
ふと天を仰いだ夜空の星は満天に散り輝いていた。 
桜の花見と浩の小学校入学

 

四月は待望の入学式である。
町役場より正式な入学通知書が小夜子の所に届いた。
浩は夜も眠れないほど喜んだ。
小夜子は独り悩みつつも元気に成長していく我が子を眺めて一種の宝物の様な気がしてならなかった。
そして、子安地蔵様のお姿がその背後にどうしても見えて仕方がなかった。
その都度小夜子はおとめおばさんから教えられたお真言を称えるのであった。
綿布問屋の若主人は浜松に店があった。
従業員三十人程であったが、なお別会社として機械工場が笠井の町内にあった。
男子二十人、女工八十人とかなり大きな工場である。
若主人は三十才になったばかり、見るからに色白の偉丈夫である。
慶応出のエリートで町の消防組織と商工会長を兼ね、将来を嘱望される町の実力者であった。
経済力は笠井随一。
浜松市内にもその名は響いていた。
本命は綿糸織布であるが、その他色々な方面で活躍し静岡県下で特に産業経済界でその名を知られていた老舗名望家であった。
従業員の慰安会は春秋二回が恒例であり、弁天島の貝拾い、浜松のたこ揚げ、可睡の牡丹と年々替わっていた。
本年は岩水寺の花見にしようと若社長は独りで決めてしまった。
それには明治四十二年春に浜松軌道会社がお開帳記念に寄付した吉野桜が七年目となり、大分大きくなって見頃になったこともさることながら、小夜子が山形屋の宴会で岩水寺の事を口走り、今一度お詣りをしたいと言ったからであった。
若社長は接待役として翁屋の女将を頼み、更に芸者以外に小夜子をも連れて行く事を絶対条件にとした。
期日は四月一日の日曜日、会場は薬師堂前の大広場、筵は現地の親戚で心配してもらう。
一行は百五十人、黄色い手拭いを首に巻くこと、ご馳走は山形屋で一切用意すること。
西ケ崎より軽便に乗り、芝本岩水寺駅にて下車、あとは徒歩にて一路岩水寺へと云う計画であった。
門前の桜も七、八年も経っているのでかなり成長し、花も見頃であった。
みんな急いで薬師堂の広場に行った。
小夜子はお地蔵様のお参拝を第一義とした。
そして、七年前の御礼を心から申し上げ、明日はいよいよ待望の小学校に五体満足の上で入学出来る喜びと、今後のお加護を真剣に臥し拝むのであった。
若社長も一緒に参拝したのだが、小夜子の永い真摯な祈りの態度を見て不思議に思ったのであろう。
小夜ちゃん何の願い事するんだねと冗談の様に言った。
小夜子は右に回ってお札所の前で絵馬を一枚二銭で買い求め、浩と小夜子親子二人の名前と年令と住所を書いて将来への大願成就を祈った。
若社長はこの時初めて小夜子に子供のあることを知ったが、誰の子であるか父親の事は聞かぬ事にして、薬師堂前の花見の野外宴会場に向かった。
「大正五年四月二日」岩水寺花見の翌日は月曜日で、浩の待望の入学の日であった。
小夜子親子はいつもより早く起きて勇んで笠井の小学校に向かった。
浩よ!先生がお前の名前を呼ぶから大きな声でハイと答えるんですよと何回も教えた。
入学児童は男女合わせて九十人位であった。
従って男子組女子組と別々に編成された。
付添人は父親が六十パーセント、母親が四十パーセントであり、小夜子の顔見知りの方も数人はいた。
小夜子は特別美人であること、そしてあまりにも若いので学校の先生方を始め父兄一般の方々の注目を引いた。
お姉さんと思ったのに浩が大きな声でお母さんと呼ぶので、みんな怪訝な顔をしていた。
山形屋で顔を覚えた助役さんの顔も見えた。
又学校医の中山先生の姿もあった。
入学式が始まり型どおり進められた。最後に門名町長さんの祝辞で終わった。
浩は教科書と石棒、石板、鞄、学帽を買ってもらって元気に家に帰った。
浩が小学校に通うようになったので、翁屋の一室では教育上よくないとかねがね思っていたので、少し離れた所へ移住することにした。
勤めは相変わらず共同炊事組合であるが、日曜日は休日なので、全面的に翁屋の手伝いに出かけ少しでも沢山の賃金を得るように努めた。
浩も学校に通うようになったので、経済の方は楽にならないが、何かと落ち着きと目標が出来たので浩の将来の事と同時に、自分の進み方も合わせ考えるようになった。
新聞の小説の中で色々な人物が出てきたことと、料亭におけるお客様方の話とが錯綜して空想が次から次へと浮かんで来る。
お金が少なくて勉強の出来る方法も教えてくれた。
街の郵便局長さんは高三を卒えて私の局へ来なさい。
一カ年勤めて逓信講習所に入れてあげる。
月謝は不要、給料は丸々預ける。
よいではないか、その上成績が良ければ次は高等逓信所に又入る方法もある。
消防組頭さんは名古屋の鉄道学校に高三を卒えたら受験せよ、月謝は無料で給料がつく。
町役場の収入役さんは体格がよいから陸軍幼年学校はどうか、ここも月謝は無しのお手当がつく。
助役さんはそれは駄目だ、系図を言うからよしなさいと言った。
それより徴兵検査が済み次第警察官になれ、教習所で勉強中も給料が出る。
それから高等教習所もある。
勤務中に独学で巡査部長警部考試試験と言う方法もある。
金のないもので出世するには警察官が一番よい。
こんな話が小夜子の頭には自然に入っていた。
小学校の校長さんは高三を卒業して師範学校へ受験せよ、月謝は勿論ない。
その上月々助成金がある、給料は安いが就職は安全で家から通勤が出来るので、親子水入らずで良いではないかと教えてくれた。
小夜子はこれが一番よいと思ったが、給食組合の賃金だけでは覚束ない。
何か良い方法はないものかと何時も考えていた。
林芙美子はカフェーの女給をしつつ一流の作家になったことも新聞にあった。
私にはそんな才能はない。
小説の中にあった助産婦はどうだろうかと秘かに考えていたが、口には出さなかった。
偶々ある時の宴会でお医者さんのお顔を見たのでお伺いしたところ、簡単なものだよと言って数日後二冊の受験要項という本を貸してくれた。
そして本当にやる気があるなら私の所へ来なさいと手紙が書いてあった。
小夜子は以後助産婦をめざして勉強を秘かに始めたのであった。
欧州の第一次戦争は真っ盛りであった。
米国はこの年参戦して連合軍は有利に展開しつつあると新聞は報じていた。
大隈内閣は崩壊して寺内内閣となった。
新人後藤新平が内務大臣兼鉄道院総裁として入閣したので、内閣の魅力は後藤新平に集中した。
世に言う大風呂敷の後藤時代が到来したのであった。
よって、熱海の丹那トンネルの工事も急速に陽の目を浴びるに至った。
欧州戦乱では飛行機が実用化し始め空高く舞い上がり敵情偵察を行った。
これは戦争史上画期的な大異変であると新聞一面のトップに登載されていた。
岩水寺の花見は毎日の様に続き、年々増えるばかりであった。
小夜子は翁屋に依頼されて日曜日毎に各団体、工場、組合の接待役としてお伴をした。
薬師堂の大広場で飛行機(模型)を見せていた。
周囲を筵で囲んであるので見ることは出来なかったが、時折エンジンをかけるので音だけは聞こえた。
入場料は大人五銭、子供二銭であった。
明けて大正六年となった。浩は尋常科二学年となる。
身長は学級で一番大きかった。
成績は低学年の為判然としないが、上位五人の中には含まれていた。
体が健康であったので、何も言うことはなかった。
ただ温順であり、悪戯気がなく男の子らしい腕白と逞しさのない点が小夜子には不満足であり物足りなかった。
この年第一次世界大戦は終わりかけたが、ロシアは革命騒ぎで大揺れに揺れた。
帝政ロシアは完全に潰れて赤い国ソ連となった。
岩水寺の花見は年々賑やかになるばかりであった。
大正六年四月二日、三日連休の為、大変な人出であった。
昨年同様綿布問屋の若社長一行百五十人に又お伴して薬師堂前広場に行く。
桜は満開、各所で歌や踊りの競演であった。
浜松の町からは三味線と太鼓を持ったホーカイと称する人々が三組もいた。
芸妓組合も六件程出張っていて、賑やかなものであった。
午後二時頃である、突然火の見櫓の半鐘がけたたましく鳴り響いた。
連続のすり盤という近火の知らせであった。
遠い浜松方面の人々のみであり、その上お酒が入っているので火事位何だと言って唄っていた。
そのうちに、野次馬が飛び込んできて、火元は泉と言う部落で村一番の大家だという。
岩水寺の総代さんで石灰屋さんと言われたので、今度は若社長が驚いた。
それは社長の叔母様の家だからである。
社長はすぐに立って火事の現場に走った。
社員数人も社長の後を追った。
三時半頃やむなく一同は引き揚げて門前を降った。
どす黒い火の粉は折りからの西風にあおられて門前に向かって飛び散っていた。
青竹のぱちぱちと破裂する音も耳をつんざくばかり、凄惨を極めた。
後で社長から聞いたが十棟以上も焼けたとのことであった。
岩水寺の停留所より一同は帰ったが、小夜子は数人の幹事役と共に若社長の帰りを待った。
ふと北側の家を見ると谷口石灰運送部の看板が目に付いた。
一同中に入って、お見舞いを申し上げたが老婆が一人であった。
今日この付近は初めて電灯が入ったので、そのお祝いの行事が予定されていたが、岩水寺の大火事の為遠慮することになったと言っていた。
大正七年となった。
三月早々米騒動が始まり神戸の鈴木商店が焼き討ちされた。
七月にはシベリア出兵があり、又戦争かと心配したが大事に至らずほっとした。
陸軍大臣は田中義一大将であった。
又九月には寺内内閣が崩壊して原敬内閣となった。
初めての政党内閣であり平民宰相と言うことで国民から大きな信頼と期待を寄せられた。
内務大臣の後藤新平は残留して外務大臣となった。
この時静岡県知事も又替わって赤池濃という人が就任した。
欧州戦乱はこの年十一月漸く終わった。
大正八年の春を迎えた。
浩は尋常科四年生となった。
相変わらず身長は学級一番、スポーツもトップ、勉強も着々と自力をつけ修了式には初めて一番となり学校の中で目立つ生徒となった。
パリでは講話会議が行われ日本の全権大使として西園寺公望と牧野伸顕が派遣された。
静岡県知事は又交代して関屋貞三郎と言う宮内省出身の役人が赴任した。
この年のヒットは吉屋信子と言う若い女流作家が朝日新聞の懸賞小説に一等入選して賞金二千円を獲得したことであった。
この時代小学校の校長の月給は三十五円から四十円位である。
演題は「地の果てまで」と言う様に書いてあり、どの新聞にも吉屋信子の天才ぶりを褒め称え一躍名声を博した。
小夜子は一生懸命これを読み、必要な処は切り抜いて雑記帳に貼った。 
鹿島川原の飛行機見物

 

この年六月上旬磐田郡掛塚町住民で福永という青年兄弟が木造の飛行機を作製し、実際に自分たちが乗って大空に舞い上がるという発表が新聞にあった。場所は二俣町西鹿島の川原であった。
どうしても見たいと浩は駄々をこねた。
仕方なしに小夜子は十人の友達と共に軽便に乗せて鹿島にやった。
浩らは終点の西鹿島駅より川原に向かったが、黒山の人だかりでどうにもならなかった。
仕方なく、駅まで引き返し、駅の北側の小高い丘に登って見ることにした。
頂上には墓標があった。
そして十人ほどの大人の先客がいたので、一緒になって腰を下ろして待った。
飛行機は川原にあって時折音を立てるのだが、さっぱり空に上る気配はなかった。
入場料十銭を支払った人々のみが中に入って説明を受け、そして時々エンジンをかけては又次の入場者と入れ替わる仕組みだから、なかなか舞い上がる訳はなかった。
遥か川向こうの鳥羽山も殆ど人ばかり、北鹿島の堤防も上島の堤防も人間で一杯であった。
西方椎脇神社入り口より南に渉る高台には各小学校、青年団、在郷軍人会等の団体の人々ですし詰め状態であった。
上島の堤防間際にはグミの雑木が一面に生い茂っていた。
暑いので大人の人々が大勢その中にもぐり込んで飛行機の舞い上がるのを待ちかねていた。
午後二時半頃漸くけたたましくエンジンの響きが聞こえてきた。
プロペラが唸った。
砂煙がパツと空高く舞い上がった。
途端に飛行機は北方天竜目がけて突っ走った。
そして、水辺百メートル位南より空高く舞い上がった。
群衆は一斉に立ち上がって拍手喝采した。
どうなる事かと固唾を飲んだ。
飛行機は直ちに西に向きを変え、つり橋の上を通って現在の納涼亭の手前で更に向きを南に変えて南進した。
爆音は強く聞こえたが浩等の目には留まらなかった。
しばらくして、現在の西鹿島駅付近で少々姿が見えた瞬間、飛行機のエンジンが止まってそのまま東に向かってグミの雑木の中に不時着(墜落)してしまった。
福永青年はこれで人生終わりと思ったが、暫くして飛行機の中から唯一人のこのこ出てきた。
将に九死に一生を得たのである。
浩等は軽便で家に帰って母にその旨報告した。
飛行機には乗りたいが怖いからいやだ、と言った。
小夜子は飛行機を見たことはないが、兎に角、浩にだけでも見せたことで満足であった。
ところで浩!今日お前の留守によい知らせがあったよ。
浩は何ですかと聞いた。
お前が勉強を一生懸命やって成績が上がったので、浜松の倉元郡長さんから表彰するので六月十日に北浜小学校まで、お母さんと一緒に出席するようにと通知があったと、小夜子は言って浩と一緒に喜んだ。
小夜子は早速雑記帳にこのことを書き留めた。
又この日の新聞に衆議院の選挙権の資格条件の国税十円が一挙に三円引き下げるとの発表があった。
この為有権者が数倍増える由、小夜子には何の関係もないことであったが、画期的なことである故、切り抜いてノートに貼り付けた。
明けて大正九年となった。
浩は尋常科五年生となった。
優良児童の表彰を受けてメタルも頂いたので、一層勉強に努めた。
成績はぐんぐん上がった。
一学期から三学期まで首席で通してしまった。
受け持ちの先生も校長先生も浩の成績の良いのに目を見張って驚いた。
五年生ではあるが六年生を追い抜いている。
この児童は五年生で中学校に受験ができる。
そして合格間違いなしと関係職員は一様に口を揃えた。
数年前町の油幸さんの三男で幸八(終戦後の代議士)と言う少年が非常な秀才で浜松中学校に合格し、現在国立の第一高等学校に在籍中だが、それ以来十年ぶりの神童の様な気がするとまで極言した先生もあった。
しかしこのことは浩も小夜子も知らなかった。
浩の成績の上昇と共に小夜子も又助産婦目差して受験準備のために勉強に一層努力した。
秋十月となった。
日本で初めて国勢調査というものを実施した。
町の人々は税金を取る材料ではないかと疑心暗鬼であった。
結果は単なる人口調査であった。
この時日本の人口は五千八百万人と発表された。
又年末十二月に後藤新平は東京市長に当選し、外務大臣を退陣したと新聞に発表された。
大正十年となった。
静岡県知事に道岡秀彦という人が赴任された。
又皇太子殿下(先の昭和天皇)が初めて外遊(渡欧)されることとなり新聞記事は賑わった。
現在の様に飛行機ではない。
汽船による往復である。
船の中に二ヶ月もいるのだから当時の外国旅行は大変であった。
全国民揃って無事を祈った。
この年九月にはいると突然安田善次郎翁が暗殺された。
この人は安田財閥の創始者で東大の安田講堂を造った人とのことであった。
それから一ヶ月後又総理大臣の原敬が東京駅頭で暗殺された。
原敬は政友会の関西大会に出席せんと、東京駅に着いた途端の出来事で一時は大混乱に陥ったと書いたあった。
総裁代行には高橋是清が就任し、十一月に正式に大命降下となり第二十代高橋内閣が成立した。 
浩 名門県立浜松中学校に入学す

 

浩は尋常科六年生になった。
同級生の中に中学校一人、商業二人、工業一人の進学希望者があって、去る四月から毎日放課後夕方まで特別指導教育が行われていた。
浩は高等小学への進学であったので平常通りみんなと一緒に放課後は直ちに帰宅していた。
明けて大正十一年の正月を迎えた。
三月は尋常科の卒業式である。
正月も終わらんとする二十日突然翁屋から小夜子に呼び出しが来た。
女将さんが急に倒れた知らせであった。
極めて軽い脳内出血で口も何ら不自由な処はなく、静かに寝かせておけばよいとの事であった。
気の強い女将さんではあったが何かしら弱々しい処が見える様だと小夜子は思った。
急に女将さんは小夜子を枕元に引き寄せ一緒に茲で生活して欲しいというのであった。
小夜子はよいとも悪いとも言わなかった。
翌日給食組合から家に帰ると浩の受け持ちの内藤先生が見えていた。
浩の進学のことであった。
小夜子は高一に進学させ三年より頑張りたいと申し述べた。
先生のお話は県立浜松中学へどうかと言うことであった。
とんでもないと小夜子は一笑に附した。
それから数日後、翁屋の病床にある女将さんの耳に入った。
全く勿体ないと先生方全員で言っておられるとのこと、女将さんは早速小夜子を病床に招いて、お金はどの様にしても私が工面するから、兎に角浜松中学を受験させよと強く勧めた。
小夜子はあくまでも拒否続けた。
そして、お断りの理由として、かねがね考えていた二つ三つの例を挙げて女将さんに了解を求めた。
日時が切迫していることもあったが、女将さんは気性が激しく決断の速い人であった。
よろし、分かった。
先生にするならば中学五年卒業後師範の二部に行けばよい。
先生手続きを頼む。
お金は全部私が出すと、言い切ってしまった。
小夜ちゃんその代わり条件と言う程ではないが、この翁屋に少々来て頂いて私の跡目として手伝ってくれまいか、若い芸妓さんを三人ほど抱えているが、このまま今更放任したり他家に頼むことも出来ない。小夜ちゃんなら必ず出来る。
私には親も子供も今はない。
あるものはこの家屋敷と翁屋の暖簾だけだ。
金も五百円ばかりある。
何もかも全部あなたの自由にして異議はない。
中学五年間の学資は充分だと内藤先生が保証している。
あと一ヶ月で受験である。
願書の締め切りも間近である。
押しまくられてどうしてよいか小夜子は分からなかった。
その夜秘かに浜松に走り内々とめおばさんに相談したが、結論は出なかった。
受験だけしてみるか、準備がないのだから合格するかどうか分からないと二人は思った。
あまり皆さんが勧めるので少々考えが変わった。
翌日小夜子は翁屋に赴き相談している処へ内藤先生が現れた。
日限が迫っていたからであった。
女将さんは再び決意を表明したが、それには戸籍謄本が必要であった。
笠井町では駄目である。
本籍の秋田県横手町に申請せねばならない。
急いで小夜子は手紙を書いた。
料金は郵便切手を以てして更に返送料も入れて速達で出した。
数日後謄本は手元に届いたが、さて小夜子は当惑した。
浩には父親の名前が無い、空欄である。
私生児となっている。
認知者がない。
これでは浩に気の毒である。
この様な事が皆さんに分かると浩が馬鹿にされる。
肩身が狭いに違いない。
いっそ止めようかと思った。
女将さんに相談してみたが、そんなこと構うものかと笑って見せたが、内心の動揺は隠せなかった。
小夜子は夜中秘かに内藤先生を自室に訪ねた。
夜道は暗かった。
浩の自尊心を傷付けはしないか、浩に申し訳ない。
浩太郎が憎い、否自分が悪いのだ。
情けない、ふがいないと思った。
空には無数の星が輝いていた。
あの星は私達親子をどの様に見ているのであろうか。浩よ強くなれ。
頑張れ、何時でも母と二人だよ、心の中で叫ぶ小夜子であった。
南無大師遍照尊、南無子安地蔵大菩薩とお守り札を固く握りしめた。
幸い内藤先生は在宅であった。
私生児のことを浩にも他の子供にも知らせずに欲しいと嘆願して戸籍謄本を渡した。
浜松のおとめおばさんは浩の浜松中学受験の話を聞いて心は躍った。
万一合格すればどんなに嬉しいだろう。
三十銭でも五十銭でもよい。
力のある限り応援しようと決意した。
そして次の日曜日、十年ぶりに岩水寺にお詣りに出かけた。
評判通り桜の木が大きくなっていた。
浩が小夜ちゃんのお腹に身ごもった時、この吉野桜は植えられたのだと思うと、何か言葉に言い表せない。
他人ではない様な気がしてならなかった。
早速本堂のお地蔵様に参拝して新しいお守り札を頂き更に地安坊様にも参詣した。
是非浩ちゃんを勝たせて頂きたいと衷心より祈った。
それから日清戦争の鳥瞰図を眺め寄進者の鳥山さんの名前を心の中で読んで帰途についた。
二月の末であったが、比較的暖かであった。
後一ヶ月過ぎるとこの桜もほころび始めるであろう。
岩水寺も桜のお陰で随分よい所になったものだ。
お開帳の時のお寺のご馳走がおいしかった。
そんなことを思い浮かべている内に門前の一番のはずれの所まで来てしまった。
松の大木は両側に空高く林立している。
吹く風の音と共に松の小枝は揺れていた。
又西側のお旅所が目に付いた。(岩淵商店の所)
おとめさんはひとり旅である。
星祭りのあった関係か〆縄が張ってあった。
何気なく小石の上に腰を下ろした。
敷き詰めた石は天竜川原のものであった。
ふとその小石の中に浩の頭に似た小石のあることを発見した。
おとめさんは直ちに白紙を取り出して大切に包んで浜松に持ち帰った。
そして、子安地蔵大菩薩の木札の前にその小さな小石を置いて伏し拝み浩の幸福と生々発展を祈り続けるおとめおばさんであった。
大正十一年三月十五日運命の日が到来した。
県立浜松中学校校庭に合格者の発表があった。
浩の名前は上位十六番目に墨黒々と書いてあった。
内藤先生は喜んだ。
今一人の生徒も百七十一番目にあった。
先生は翁屋の女将さんの所に飛び込んで来た。
幸い小夜子も居合わせたので、一同打ち揃って喜んだ。
受け持ちの内藤先生は尚も話を続けた。
教務室に入り昔の友人(教官)ら極秘に内容を聞いてきたが、十六番とはいえ総得点では一番の生徒と二点差をいうことなので成績は上々です。
校長先生も大喜びでした。
三月二十五日の卒業式には答辞を読んでもらいます故女将さんも是非ご一緒にお出かけ下さいと言われたので、二人は涙ながらに手を取り合って喜んだ。
そして、おとめおばさんに直ちに知らせる小夜子であった。
大正十一年四月、浩は浜松中学校第一学年として新しい制服制帽に身を整え、嬉々として母小夜子と共に校門をくぐった。
靴も靴下も全部新品ばかりであった。
これらに要した経費の一切は言うまでもなく翁屋の女将さんから出たのであった。
吉報を聞いたおとめおばさんも次の日曜日にわざわざ笠井まで訪ねて浩に入学祝い金を包んでくれた。
おとめおばさんのものが五円、鳥山さんの分が十円あったので、小夜子は翁屋の女将さんを始め皆様のご厚意に全く感謝せずにはおられなかったとその日の日記に書いてあった。
結局小夜子は助産婦の受験を断念して給食組合に勤務しつつも心は何時も翁屋に走っていた。
そして暇さえあれば翁屋に赴き女将さんの身辺を手伝った。
検番にも組合にも割烹旅館などのご用伺いも小夜子が代理で毎日の様に顔を出した。
女将さんの病気は別に悪化の傾向は見られなかったもののよい方向に向かっているとも思えなかった。
給食組合に対し、小夜子はとかく欠勤がちであったので、浜松からおとめおばさんを招いて一緒に生活することとした。
おばさんも年令から言って責任者としての仕事は無理であったので、時々勤めるアルバイトが適当であると自ら喜んでくれた。
暇さえあれば御詠歌の練習と小夜子や浩の洗濯を手伝ってくれるので何より重宝であった。
その為小夜子は翁屋の代行として事細やかに三人の若い芸妓と女将さんとの関係など連絡調整をしつつ、置屋稼業の見習いに専念したのであった。
浩は小学校時代とは一変して勉強に打ち込んだ。
参考書も全部谷嶋屋より購入して計画的に進めた。
十五円と言うお金は大金であった。
ある日、女将さんは床にありながらも何を考えたのか自転車を一台買ってくれた。
そして日曜日に自転車の練習をする様求めた。
浩は大喜びであった。
来年からは自転車で通学させるねらいが女将さんにはあったのである。
浩の成績は良い方であった。
あまり勉強が過ぎて健康を損ねてはいけないと小夜子は心配であった。
この年5月に山形県にいん石が落下したという新聞発表があり、郷里に近いところのことであったので、興味を持ったが何のことかよく判らなかった。
ただ世界各国の学者の代表者が集まって色々な発表をしている様子を見て天文の事のように想像した。
又六月には高橋是清内閣が崩壊して加藤友三郎内閣に代わった。
この人は海軍大将であり、二十一代目の総理であった。
又この年静岡高等学校と浜松高等工業学校が同時に開校された。
静岡高校が先に開校する予定であったが、浜松の人々が怒って国立浜松高工を創設させ開校も同時でなければまかりならぬと頑張ったからであると新聞に書いてあった。
その昔静岡県は静岡浜松両県の合併県であるので、何かと地域的な問題があるとすぐに地域のエゴが持ち上がる悪い癖だと新聞の論調にも書いてあった。最近の浜松医科大学もその例にもれない一事である。
大正十二年となった。
浩は中学二年となるわけである。
翁屋の女将さんの容態は段々衰えて行く様であり何事も小夜子委せであった。
小夜子は実の母親と思い親切丁寧に奉仕した。
女将さんの体力は極度に衰弱したがアタマの方は冴えるばかりであった。
時折小夜子を枕元に呼んで事細かに色々な事を教え、かつ指示した。
自分のなき後の財産の処理についても間違いのない方策を講じさせた。
三人の芸妓さんもすっかり小夜子に頼ってお姉様、お姉様と心酔して行った。
この年有名な金原明善翁が病死した。
九十二才という高齢であり色々な業績が沢山新聞に報道された。
春五月には浜松軌道株式会社が遠州電気株式会社となり軽便に代わって電車が走るようになった。
初代社長は竹内竜雄といって宮口(現浜北市宮口)の町の生まれの人であった。
開通式には県知事道岡秀彦他多勢出席し盛大であった。
小夜子も三人の芸妓を引き連れ祝賀に奉仕したが、道岡知事の禿頭が何時までも印象に残った。
九月一日午前十一時五十八分突如家が揺れ始め驚き仰天した。
東京の大震災であった。
死者は十万人とも言った。
行方不明者も四万人を越えたと新聞に書いてあった。
東京は直ちに戒厳令が布かれた。
この混乱の最中に、甘粕憲兵大尉は共産主義の大杉栄伊藤某等を始め朝鮮人蜂起の流言に惑わされ大量の虐殺をした事件があったことを後日新聞に発表された。
加藤内閣は責任をとって総辞職し、又シーメンス事件の山本権兵衛海軍大将に大命降下され二十二代目の内閣を組織した。
世の人々は地震内閣と言った。
暮れの十二月初旬、永いことお世話した女将さんも薬石効なく遂に永眠して鬼籍に入ってしまった。
享年六十四才であった。
小夜子は翁屋の跡を継ぎ鶴千代を襲名した。
一つの事の終わりは又一つのことの始まりである。
小夜子は心を新たにして天を仰いで大きく新しい空気を吸った。
明けて大正十三年となる。
浩は中学三年となる。
女将さんは亡くなったがおとめおばさんが何かと面倒を見てくれた。
真実の孫の様に可愛がった。
小夜子は職掌柄若造りなので親子と見る人は少なかった。
姉ではないかとみんな思っていた。
浩の成績は段々本物であることが判明し始めて、職員間でも生徒間でもその天才ぶりが秘かにささやかれるようになった。 
浩太郎の社会的進出

 

安藤家に婿入りした浩太郎は、十五年間必死に働き安藤商店の内容を一段と充実強固なものに成し遂げた。
子供は男子一人のみであって後は無かった。
“月にむら雲花に風” の譬えの如く何不自由のない安藤家であったが、お新造様の病弱が残念ながら泣き所であった。
その上この年義父(養父)が中風が高じて亡くなってしまった。
長男正博は浜松中学に合格、四月に入学したばかりであった。
そして、五月末父兄会の総会が行われ、浩太郎はその会長に推されて就任した。
会長席に立った浩太郎に対し、小夜子は顔を背けていたが、浩太郎は小夜子の存在が分からなかった。
秋九月に行われる市議選に立候補の為、その準備で浩太郎は大わらわであった。
元の主人山屋御大のお声がかりである事は言うまでもない。
当時山屋に所属する市議は議長派と称して一大派閥を形成していた。
出る杭は討たるるの譬え、威勢のよい浩太郎に対してはあらゆる妨害や中傷造言は付き物であった。
十五年の小夜子との関係等も針小棒大に是を伝え、秘かに足を引っ張る一派もあった。
ある時浩太郎は山屋のかつての弟分の支配人を呼んで、朝鮮歩兵連隊当時の手紙の事について色々掘り起こしたところ、あれは完全に間違いであることが判明した。
生き証人として当時の女中さんが現存している事など詳しく申し述べて、現在一般の人々はあなたの子供に間違いなしと言うのが専らの風評である。
御大も既に数年前から承知済みであって、そんなこと何らお咎めは無いと言うのが実情であると報告された。
浩太郎は肩を落とし沈黙してしまった。
是はとんでもない罪を犯してしまった。
今からでも遅くはない。
小夜子に謝罪せねばならない。
さて、どうすればよいのであろうか。
思案に暮れる毎日であった。
まず、おとめおばさんに会う計画を立てた。
山屋の弟分は既に三十六才、天下の支配人として蒼々たる地位にあった。
浩太郎の選挙事務長を引き受ける地位にまでのし上がっていた。
支配人は笠井を訪れ、おとめさんを訪ねた。
そして、一切をうち明けて罪の償いをしたいと浩太郎の胸中を申し伝えた。
おとめさんは早速小夜子に話したものの、小夜子の怒りは心頭に達して何の返答もなかった。
浩太郎は山屋の支配人を通じて認知する事と十五年間の養育費一切を現金で償うことを申し入れたが、小夜子はガンとして受け付けなかった。
翁屋の二代目となった小夜子(鶴千代)は人気の的となって引っ張りだこであった。
芸人よりもその美貌と才能、人間性にあった。
為に、喜んだのは三人の若い芸妓さん達であった。
景気も上向いてきた。
企業も多様化してきた。
戦争成金の影響を受けて織屋さんの中にも、多くの成金屋さんが続出した。
小夜子はお座敷に追い回されて席の温まる暇がなかった。
小夜子目当てに言い寄る社長連を始め、有力者は数え切れないほどであった。
小夜子がうんと言ってこの道の結婚に踏み切り、旦那を持てば大金が自由に調達出来る地位になっていたのであるが、勝ち気な小夜子は断固としてこの誘惑を避け通した。
それには軽蔑の言葉を荒々しく口に出しつつも、心の奥底には何か忘れ得ぬ浩太郎に対する何かが潜んでいたのではないかとも思われたのである。
春三月より五月末日までは岩水寺の桜見物のお客様に招かれる事が圧倒的であった。
その為、笠井よりの往復では時間的に無駄が多く、特に夜間勤めが多かったので、小夜子は岩水寺の庫裡の一部を借用して働いた。
そのうちに、他の業者(置屋)も続々小夜子の真似をする様になったので置屋が五軒、ホーカイ屋さんが二組と揃って門前の民家の座敷を借り切って、営業したのであるがそれでもなお芸妓さんが足りない程繁昌したのである。
地元の料飲組合の要望もあり、遠鉄よりの援助も受けたので境内外の桜の木に五色の電灯を点火して、夜桜見物の客の誘致を計画した。
この計画は大当たりであった。
処が、茲におとし穴があった。
代表者は浜松本署に出頭せよとの通知がきた。
早速小夜子は出頭したが、税務署にも顔を出せと言う事であった。
結局、岩水寺で寝泊まりして営業するならば籍を移して、営業をせよと言うことであった。
どうすればよいのかと糺すと地元の役場と駐在所に行き、そこを経由して書類を出せと言うことであった。
早速赤佐村の駐在署に出頭したが、あの書類この書類と面倒な事ばかり、理由を詳細に書けと言う。
旦那、お礼をするから、一筆お願いしますと言うと、ドジョウ髭を生やした平巡査が本官のなす処に非ず、自分で書くのが原則だと剣もほろほろでとりつく島もなかった。
西側の県道二俣街道は花見客の往来で賑わっている。
小夜子は気が気でなかった。
営業妨害ではないかと心の中では思うほどであった。
仕方がない岩水寺に行って和尚さんに書いてもらうかと諦めている処へ、ふいに鳥打ち帽をかぶった十五六の若衆が飛び込んで来た。
スッポーの着物の恰好で肩にはまだ縫い上げがしてあった。
小夜子の思案顔を見て、奥様どうかされましたと気さくに言ってくれたので、事の次第を話したところ、言うより早く、よし僕が書いて上げようと一件書類を自ら取り上げて小夜子の口上をすらすらと文章にまとめてしまった。
奥様印鑑をと自ら押してくれた。
警官も是で宜しいと大きな印鑑を押してくれた。
それから村役場に行き、その書類と共に税金を三ヶ月分納付して再び直ちに浜松に飛んだ。
岩水寺境内では業者一同首を長くして待っていた。
それにしてもあの背の低い小僧さんは一体何者であろう。
色の黒い余りよい男前ではないが字の上手なこと。
文章を作るに速いこと、手に持っていた書類を警官に渡すと同時に奥様さよならと風の如く消えてしまった。
机の上の書類には古物商組合大林稔の文字のみが目に留まった。
ああ有り難い、あの横柄な駐在巡査、どうしようかと思ったが、救いの神様はいるものだとつくづく思った。
地獄で仏とはこのことだ、南無大師遍照尊と心の中で自然と合掌する小夜子であった。
この年一月には山本内閣は不敬事件の責任を負って総辞職した。
後継内閣は貴族院の清浦圭吾という伯爵であった。
憲政会の加藤高明、政友会の高橋是清革新倶楽部の犬養毅の三総裁は護憲三派を結成して清浦特権内閣に反対して対決した。
処が、同じ政友会の中の前内務大臣床次竹次郎一派は、清浦内閣を支持して高橋是清総裁と袂を分かち離党してしまった。
床次一派に追随する者続出せし為、高橋総裁の率いる政友会代議士は先細りとなり、逆に床次竹次郎の率いる代議士は大きく膨れて護憲三派に追いつく程になった。
その為、床次は名称を政友本党と名付け、自ら総裁に就任した。
初代幹事長には小笠郡出身の松浦五兵衛と言う代議士であった。
松浦代議士は県連の会長でもあり実力者であったので、静岡県の政友会は殆ど政友本党に鞍替えしてしまった。
残るは小泉策太郎と岩崎勲のみとなる。
前浜名郡長の倉元要一も本党公認で初当選した。
浜名郡農会長前県会議員山本勝司は憲政会で初当選、浜松の中村四郎兵衛は本党で当選、永田善三郎は憲政会公認で磐田周智より初当選した。
全国的に護憲三派に凱歌が上がったので多数党の憲政会加藤総裁に大命降下。
三派連立内閣として発足したが、主要大臣は殆ど憲政会の人々で占められた。
党員ではないが、掛川の岡田良平氏は二度目の文部大臣に就任した。
内閣の大番頭書記官長は富士郡選出の鈴木富士弥であった。
連合内閣は選挙で公約した制限選挙の撤廃(国税三円を免除)二十五才以上の男子全部選挙権を与える法案を可決してしまった。
是によって、次の選挙に初めて無産階級を代表する安倍磯雄、大山邦夫、堺利彦、鈴木文治、西尾末広、水谷団治、荒畑寒村と言う様な人々の進出が始まったのである。
小夜子は無産階級の代表者を推したかったが、残念ながら選挙権は無くどうなるものではなかった。
ただ、静岡市選出の松本君平と言う若い代議士が一人婦人参政権を叫んでいたのがせめてもの慰めであると小夜子は思った。
又、内閣が変わったので県知事も伊東喜八郎氏に変わった。
この年には“枯れすすき”“籠の鳥”と言う歌が流行して岩水寺の遊園地でも盛んに歌われていた。
岩水寺の桜があまりにも有名になってきたので、遠電もホテルの建設計画を発表し、模型図を作製して浜松駅頭高く掲示して道行く人々の注目を引いた。
大正十四年となった。
浩は中学四年となる。
段々頭角を現しトップに立った。
笠井小学校の時と同様、職員の中から浩は四年にして高校を受けさせるべきだと言う声が大多数の先生方から出始め、それがまとまったので正式に校長に進言した。
校長はこうしたことは強制すべきでない。
本人や父兄からあれば別だがと遠回しに拒否した。
しかし、こうした生徒の出現を校長は内心嬉しく思っていた。
市会議員に当選した浩太郎は商工会議所議員と肩書きも一つ増えたので、意気揚々と校長室に入り、父兄会長としての打ち合わせに臨んだ。
その時校長は誇らしげに浩の天才的秀才ぶりを具体的に説明した。
即ち学年の首席であるが、次席と大差のあることまで告げてしまった。
それは僕の子供だとは言えず、ただ感心して聞くばかりであった。
校長は尚も付け加えた。
会長さん、それがね大きな声では言えないが、実は私生児なんだ。
そこが困ったものだ。
東大に入学できても高文をとっても就職の点で行き詰まりはしないかと僕は思うのだと、二人だけであったので遂本当の事を言ってしまった。
浩太郎の心臓は一瞬止まる程であった。
心の動揺を無理に抑えて急いで家に帰ってしまった。
女房の病気は退院したものの、依然判然とせず弁天島の別荘に昨日連れて行ったばかりであった。
浩太郎の心は複雑であった。
早速山屋に電話して選挙事務長である支配人を呼んだ。
この年大正天皇のご病気は追々悪化しているのではないか、と言うデマが何処からともなく流れていた。
元々病身であったので、皇太子を摂政として天皇陛下の代理を勤めているのだから、予期はしているものの心配であった。
静岡県も色々な企業が進出して大分活況を呈して来た。
秋十月一日国勢調査の結果県の人口は百七十万人に膨れ上がったと新聞は報じた。 
日清紡浜松工場北浜村貴布祢に進出す

 

この年の春、貴布祢、現在の敷地で地鎮祭が行われた。
松林の中は狸や狐の巣があった。
一部の松の木を伐採して舞台小屋を造り、紅白の幕を張って俄作りの会場であった。
野外宴遊会と言った姿である。
花火も打ち上げられた。
農村の工業化と言うことで付近住民の期待は大きかった。
本社宮島清治郎社長以下重役陣全部が顔を揃えた。
田舎の祭り芝居の小屋より少し大きかった。
入り口には杉の葉で造った大きなアーチがあり、万国旗は日の丸の旗を中心に四方八方に張り尽くした。
立ち食いの屋台店が無数に設置され、来賓にはサービス券を渡し飲み食い自由自在であった。
県知事松本学以下国会議員、県会議員、近隣市町村長、議員、各種団体長、旧地主、地元町内会、それ以外に遠州一円の大小の織屋さん全部を招待したので、実に世紀の祭典と言う賑やかさであった。
接待客の芸妓さんは浜松中央検番から地元笠井、小松、西ケ崎の置屋まで総動員であった。
小夜子は地元の代表接待役となった。
式は舞台で行われた。
宮島社長はこの時四十六才の働き盛りである。
大きなドジョウ髭を置き一流会社の貫禄充分であるので、松本知事の影が薄くなってしまった。
知事は三十有余才で非常に若く秀才の誉れ高く、翌年内務省警保局長に栄転したエリートであった。
式終了後酒樽を数本割り、来賓に祝酒を振る舞った。
アトラクションとして舞台では芸妓連の手踊りがあった。
三味線、笛太鼓、鐘鼓、それに唄手と一流どころがきら星の如く、将に一幅の絵巻そのものであった。
舞台は福原鶴治郎社中一家が主に勤めた。
他の芸妓さんは殆ど来賓の中に混じっての接待専門であった。
小夜子は顔なじみの地元町村長、議員、織屋さんを相手に要領よく立ち振る舞った。
門名笠井町長は語った。
あの松本知事は若いが実に偉いものだと褒め称えた。
俺の処の幸チャンも一昨年高文に合格して現在農商務省に勤めているが、今に知事くらいにはなるかも知れないと披露したのが小夜子には何時までも頭に残っていた。
同時に私の子供も一高、東大にでも入れるようになればよいがと柄にもない夢を抱く小夜子であった。
(幸チャンとは後年の中村幸八氏の事である。同氏はこの時一属官であったが、その後係長、課長、部長と栄進し、最後は最高の鉱山局長特許長官と官僚の最高の王座に栄進し、終戦後は衆議院議員となり外務政務次官、商工委員長等を歴任した浜中出身のエリートである)
又、この年の春4月NHK放送局が東京に完成され、ラジオ放送が始まった。
新聞で大きく宣伝されたが、小夜子には高嶺の花であり、どうにも手の届くものでなかった。
又、朝日新聞社が国産の飛行機を飛ばしてローマを訪問したのもこの年である。
日本も随分進歩したものである。
国産の飛行機で西欧に行くのだから、正に世紀の壮挙と言うべきである。
これまで往復三ヶ月を要したのだから今昔の感一入なるものがある。
大正十四年七月護憲三派連合、加藤高明内閣は予算編成の基本方針で浜口雄幸(蔵相)と小川平吉(鉄相)の対立から内閣は崩壊した。
しかし、再び加藤高明に大命が降下第二次単独加藤内閣を組織したが主要大臣の変更は無かった。
浩太郎は小夜子に会いたい。
浩と親子の名乗り対面をしたい。
この事が毎日頭を離れる事はなかった。
支配人は時折秘かにおとめおばさんに会っていた。
そして、若干の包み金を必ず渡していたが小夜子には黙っていた。
おばさんは寄る年波である。
給食組合には殆どご無沙汰限りであったが、年々欠かすことなく高野山詣りは続けていた。
この年は三泊四日の長期講習会に出席し、漸く待望の金剛流の御詠歌教師の免許状を獲得したのであった。
よってそれからは、鴨江寺を始めとして遠州各地の信者同行者の依頼を受けて講師となり各地を巡回するのがおとめおばさんの仕事の様になってしまった。
こうした生活の中にも浩の事が何時も頭を離れなかった。
大正十五年を迎えた。
浩は浜中の五年生となった。
来春三月はいよいよ卒業である。
小夜子は師範の二部に進学させたいと考えていた。
担当教官の安倍先生は保護者である小夜子を学校に呼びだし、是非一高を受験してほしい、そして東大法科を目差せと勧めた。
小夜子は即座に断った。
そんなこと出来ません。
金もないが学力もない。
師範が精一杯であると回答したが、安倍先生は承知しなかった。
母校の名誉に掛けても受験して欲しいと要請した。
小夜子は頑強にお断りした。
先生は尚も話を続けた。
実はお宅の浩君は学年全体の一番になると思うと付け加えた。
小夜子は一瞬仰天した。
本当ですかと申し上げ、それでは考えてみますと云うことで夢中で帰宅した。
それから数日後、浩太郎は後援会長として校長室に現れ、諸般の打ち合わせを校長と行った。
その時校長は会長である浩太郎に語りかけた。
学年一番の浩君に担任教師が一生懸命一高受験を勧めるのだが、母親が全く問題にしてくれない。
本校の名誉の為にも何とかして受験させたい。
合格が間違いないと担任も他の先生方も口を揃えているのだが、困ったものだと語り続けた。
浩太郎は困ったねと校長に同調したのみで直ちに校長室を出た。
帰途、山屋に立ち寄り支配人に一切の内容を報告して頭を下げ拝むのみであった。
支配人は浩太郎に同情した。
こうなったら最早方法はない。
御大に一切打ち明けてお願いするより仕方が無いと云った。
それもあまりにも恐れ多いことである。
何か良い方法はないものかと、俯いてしまった。
支配人は二人で小夜子さんに会おう。
そして、土下座してでもお詫びしよう。
僕にも一半の責任がある。
今日までの養育費の全額を償わせて頂く。
おとめおばさんに仲に入って頂き、徹頭徹尾お願いしてみよう。
それでも駄目ならこれまでと思い、諦めようと云うことになった。 
小夜子の悩み

 

本当に一番であろうか。
小夜子は自分の耳を疑った。
その様なこと今まで一度も聞いたことがなかった。
安倍先生はお金は育英会から借りる方法もあると言った。
しかし、それはほんの一部分であろう。
東京進学となると大変なお金が要るに決まっている。
この道(花柳界)の結婚等今更考えたくない。
浩の為にも一人の母として頑張らねばならない。
他人様に頼ってはいけないと自分に強く言い聞かせる小夜子であった。
そして、ふと小夜子は思いついた。
何はともあれ、浩にこの事を話してみようと。
翌日浩の帰宅を待って仔細に経過を話したる処、浩は実に淡々たるものであった。
浩は自分の成績が首位であるらしいと言うことすら知らずにいる様子であった。
しかし、お金の問題があるので、浩は極めて控えめであった。
それよりお母さん!僕は私生児となっているが亡くなったお父さんの名前を教えて欲しいと言い出した。
小夜子は脳天をしたたか打ちのめされた想いで、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。
何れ真実を打ち明け謝らなければならないと覚悟はしていたものの、この様に先に浩に口に出されて戸惑うばかりの小夜子であった。
浩は更に付け加えた。
私生児ではお母さん、よい所には就職できないと言う人もいるよ。
お母さんの言う小学校の教師にもなれないと言う様な人もあるそうだと付け加えた。
小夜子は益々憂鬱であったが、どうすることも出来ず唯一人悶々としていた。
おとめおばさんは隣室の床の中にいたが目をつむっても眠ることは出来なかった。
ひたすら、お地蔵様にお縋りして道の開ける事を唯祈るのみであった。
そして、心の奥底では浩太郎の詫びを素直に小夜子が受け入れてほしい、親子の名乗りをさせて欲しい、それのみを念じるおとめおばさんであった。
この年台湾銀行は取り付けを喰らい、神戸の鈴木商店は破産するなど、日本国中の大問題となった。
又、加藤総理は病気で亡くなり、内務大臣若槻礼次郎に大命降下して第一次若槻内閣が成立した。
大臣はあまり替わらず大蔵大臣浜口が内務大臣に、大蔵大臣に憲政会総務の早速整爾が就任した程度であった。
又、この年の夏、静岡中学が甲子園に県代表として出場し初優勝した。
各家庭にあまりラジオはなかったので新聞店とかラジオの販売店の前は人の山であった。
この時の投手は上野と言う五年生で後々までも話題に上り、静岡県の野球の歴史に確実に遺されるであろうと小夜子は浩の私生児の悩みと共にその日の日記に書き留めた。
また、人美絹枝嬢が世界オリンピックで優勝して世界中にその名声を博したのもこの年である。
大正十五年十二月二十五日。
今上陛下は永い間ご病気であったが、薬石効無く崩御あそばされた。
大正から年号は昭和と改められたが、わずか六日間で昭和元年は終わりを告げた。
昭和二年となった。
この年三月、浩はいよいよ浜松中学校五年を卒業するのである。
そして、更に一生を支配する進路を決めなければならない運命の決断の時を迎えねばならない。
二月には金融恐慌が起きて若槻内閣は崩御した。
主要大臣は浜口雄幸、安達謙蔵、幣原喜重郎、宇垣一成、岡田良平等であった。
又、この年東京に初めて地下鉄道が完成し開通したので一度は見たい、乗ってみたいとみんな思っていた。
七月には芥川龍之介が自殺してしまった。
何故であろうかと新聞には賑やかに書いてあった。
年令は三十六才である。
この年日本内地の人口は六千七十四万一千人と内閣統計局より国勢調査の結果として公表された。
お米は一升五十六銭となり随分値上がりしたものだと新聞に書いてあった。
又、後藤新平がソ連に出かけて初めてヨッフ工(漁業相)と会談、今日の漁業交渉の基礎固めを条約の中に盛り込んだのである。
内閣は政友会の田中大将に大命降下第二十六代目として発足した。
主要大臣は高橋是清の蔵相であり、直ちにモラトリアム(銀行から預金引きだし禁止)を実行して恐慌の急場を切り抜けた。
信念の人としてダルマ蔵相の異名と共に後生にその名を遺した。
将に、偉人と言うべき人物であった。
この時の大番頭内閣書記官長は若干三十余才の鳩山一郎であった。
正月早々浩太郎は山屋支配人と共に小夜子を訪ねた。
そして、おとめおばさんを仲にして四人で話し合った。
市会議員、商工会議所議員、浜中後援会長と隆々たる肩書きを持つ浩太郎の大きな体も小さくなってしまっていた。
支配人も責任の一半は私に在ると弁明に一生懸命であった。
小夜子は言いたいことは山ほど在ったが、色々頭の中が錯綜して何も発言が出来なかった。
恐らく浩の私生児云々がそうさせたことと思われる。
少々沈黙が続いたが、仰せの通りに致しましょう。
しかし、条件がある。
養育費は頂きません。
今後の経費も一銭も頂きません。
私が自力で致します。
浩との親子の名乗りと認知は認めましょう、と漸く決まったのであった。
浩太郎と支配人は涙を流して喜んだ。
合格不合格は時の運と諦め、師範学校を中止して先生の仰せの通り東京第一高等学校を受験する事とした。
静岡県知事も変わって長谷川久一という太い背の高い人が赴任した。
又、秋には県会議員の選挙も行われ笠井では金原暁一、鈴木六郎(政友)、坂下仙一郎、石垣清一郎(憲政)の四人が縞を削った結果当選した。
又、この年神戸の港は横浜港を抜いて日本一の王座についたことも新聞に発表された。(昭和二年)
浩は三月上京して一高を受験した。
おとめおばさんと小夜子は岩水寺に参詣、入試合格のご祈祷をお願いした。
力の弱い親子である、運が開けますようにとひたすら祈った。
そして大きな木のお札とお供物菓子を頂いて家の床の間に献上して朝晩伏し拝んだ。
今日は浩も初めて祈った。
小夜子は一緒に上京すると言ったが浩に断られた。
浩太郎は偶然かどうか分からないが、当日商用で上京したので汽車の中では一緒であった事が後で判明した。
結果は合格であった。
みんな心から喜んだ。
お隣の幸八さんはこの時既に高文にパスしていた。
さあこの次は我が家の番だと心は躍った。
しかし、肝心のお金が少々足りない。
小夜子は張り切った。
岩水寺の花見時は忘れずに籍を門前に移して活躍した。 
昭和三年となった

 

浩は4月高校二年に進学した。
小夜子は例によって、岩水寺に籍を移し、昼夜通して働いた。
遊園地の色電気は例年の事ながら実に見事であった。
日清紡浜松工場も全て完成し、その記念行事として社員従業員三千人の仮装行列を断行しした。
工場長は桜田武という三十有余才の重役であった。(後年社長に栄進し、経団連の会長となる)
仮装行列を見物せんとその人出の多いことに驚いた。
遠鉄小林駅、芝本駅、岩水寺駅と三カ所よりの大行進であった。
四十七士、寺子屋の松王丸、武蔵、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、淀君、大久保彦左衛門等々その姿は種種雑多であった。
小夜子等芸妓一行も二十人程いたが、野外宴会場を渡り歩く事が困難な状況であった。
岩水寺の赤池の中に飛び込んだお客様が何人もあった。
音楽隊を先頭に練り歩いたのだから、全く豪勢であった。
薬師堂広場では東京音頭等盛んに繰り広げられ、三味線や太鼓の音ばかりであった。
公園広場も黒山の様に人が集まった。
露天は軒を連ねて営業した。

岩水寺の本殿お地蔵様に何かお礼をしようという意見が出て、金箔の大天蓋を寄進することが決まった。
小夜子も発起人となってその名を連ねた。
高橋住職さんは浩の事を耳にしたのか将来が楽しみだねと祝ってくれた。
のし袋の中に五円の札があった。
小夜子は人の情に感激した。
この年、アムステルダムにおける世界オリンピック大会で日本の織田幹雄選手が三段跳びで優勝し、金メダルを獲得した。
又この年、吉田茂(終戦後の総理)が外務事務次官に登用された。
六月下旬、満州において張作霖が爆死して、満州某大事件として国会で問題になった。
責任者は河本大作という陸軍大佐であった。
又古賀政男作曲の影を慕いてを佐藤千夜子が唄って大ヒットし飛ぶように売れた。
有名な野口英世がアフリカで死亡したニュースが七月に入電した。
小夜子は同郷の偉人であったので、特別切り抜いてノートに貼った。
十一月には京都で天皇陛下の御践作の儀式が行われ、陛下は高皇倉の玉座につかれた。
国民等しく奉祝の意を表し、各戸軒端に奉祝提灯を吊して祝った。
何処の市町村でも街角にはアーチを造り、万国旗を飾り、又屋台、山車等も終日引き回し、いわゆる御大典祭りが全国津々浦々までくまなく行われ、国を挙げて奉祝のルツボと化した。 
昭和四年となった

 

浩は一高三年となり、来春三月で卒業である。
好むと好まざるとを問わず、どこかの大学に行かねばならない。
合格不合格は時の運だ。
運は天に委せねばならない。
一生懸命勉強したが、優秀な者の多い中でなかなか頭角を現す事は出来なかった。
一高三年となっては、きかん気の強い小夜子でもどうなるものでもなかった。
唯一筋に金を造って送金するのが市場命令であり、楽しみでもあった。
おとめおばさんのお金は全部浩太郎からのものであった。
が小夜子には内密にして毎月必ず浩の所に送金した。
一高であるからには、どうしても東京の帝大でなければと浩も頑張った。
秋風の立つ頃、浩は勉強が過ぎたのであろうか。
遂に病の床についてしまった。
小夜子は直ちに上京して、三日ほど看病したが狭い部屋で空気は悪い。
その上、自炊では無理と考えた。
医師に尋ねたところ、少し長引くとのことであったので、田舎に連れて帰った。
大学は一年位遅れてもよい、健康が第一であると考えた。
昭和四年の春は御大典の影響もあったのか、置屋商店も多忙を極めた。
岩水寺の花見は、世界恐慌で不景気というのに逆に賑わうのみであった。
三月より五月一杯は、昨年同様岩水寺に移籍して、小夜子は稼いだ。
満州県重大事件が尾を引いて、田中内閣は引責辞職。
代わって、浜口雄幸内閣となった。
政友会の中の本党系床次一派は脱党して、憲政会と合流し、新党民政党となり、浜口雄幸が初代総裁となった。
大蔵大臣井上準之助、内務大臣安達謙蔵が主軸であった。
特に蔵相井上が注目の的であった。
静岡県知事も白根竹介という貴公子然とした人に代わり、一度は総理にと期待されていた後藤新平は病気の為、この年夏に亡くなった。
同郷の関係もあってか、小夜子はがっかりしたとその日の日記に書いてあった。 
途方に暮れて、変化と出会い

 

浩は六ヶ月程田舎で遊んだが大分回復したので、再び上京して元の下宿に戻った。
この半年間の休養は浩にとっては痛かった。
しかし、病気では止むを得ない。
人生は永い、ゆっくり落ち着いて進めと自らを励まし慰めた。
勉強に遅れをとったこと、又不得手な自炊の始まりで心の張りが一本抜けてしまい、今一歩何かが不足していた。
同じ様な病気で休学し、留年していた一年先輩の金田という男がいた。
彼は大阪出身の学生であることは聞いてはいたが、あまり口をきいたことはなかった。
同病相憐れむの譬えに漏れず、彼は頻りに浩に接近し、色々病気についての注意をするのであった。
二人の馬は奇妙に合い、共に東大法科を志す仲であった。
明けて昭和五年となった。
正月早々、金田は浩を下宿に訪ねた。
そして、俄に俺の所に来ないか、共同生活をしょうではないかと勧めるのであった。
実は今まで親爺さんと一緒に下落合に同居していたが、客の出入りが激しく勉学に差し障りがあるので、かねがね親父に頼んでおいたところ、東大に近い本郷で一戸見つけてくれたので、明日引っ越すわけである。
俺一人では淋しいので、君に一緒に来てもらいたい、ということだと率直に説明した。
浩は金田に引かれて本郷に行った。
鉄の門扉のあるお庭付きの堂々たる官邸と言うか社長宅であった。
浩は驚いた、二階建てで応接間も電話機もラジオも取り付けてある。
これは家賃が高いだろう、困ったものだと内心戸惑った。
金田!これは一体どういうことだと聞いた。
どうもこうもない、俺一人では広すぎて淋しいから君を頼んだのだ。
家賃はどうだ、家賃など要るもんか、今に炊事と洗濯等してくれる婆あやが来るから、それに頼めばいい。お米だけは君買って来て台所におけ、あとは全部不要、一人でも二人でも同じだ。
請求書は婆あやが親父に差し出すから、それでよいのだ。
お風呂もトイレもタイル張りの大広間であった。
浩は金田に詰問した。
こんな立派な部屋に俺を入れて部屋代はどうするつもりだ?と再び同じ事を繰り返した。
浩はこのベットを使え。
大きな鏡もついていて、一流の旅館以上である。
浩は思いがけない所に入居して、一人ほくそ笑みながらも恐縮するのであった。
この屋敷は土地付きで、全部親父が買い取って俺の勉強部屋にしたのだ。
ちょっと大きすぎるが、東大に成る可く近いところということで我慢せよと言われたので無理に君を頼むのである。
お礼を言うのは俺の方だよと言われた。
地獄で仏とはこういうことだろうと浩は思った。
一体金田の親父さんはどんな人物だろうか?どんな商売をされる方であろうか、少し気に掛かるのですぐにも訊いて見たいと思ったが、他人様の事にあまり立ち入ってはいけない。
自分だって金田に訊かれると芸者置屋であること、父と母は別居中等と釈明しなければならないこととなる。
あまり立ち入ってはならない、と黙ってご厚意を受け入れることとしたのである。
この年世界軍縮会議がロンドンで開かれ、日本からは前総理大臣の若槻礼次郎が全権として出席した。 
明けて昭和六年となった

 

来春は大学に進学せねばと二人とも充実した勉強をした。
この年三月上旬、浜口首相は東京駅頭で佐郷屋留雄という青年に狙撃されて重傷を負い、入院して加療に務めたが回復出来ずに、遂に総辞職し再び若槻内閣となった。
県知事も代わって鵜沢憲という人になった。
九月には満州で柳条溝事件が勃発して、いわゆる満州事変が起き、各地に赤紙召集令状が舞い込んで戦々恐々であった。
十二月に入り、内務大臣安達謙蔵一派が憲政一新を標榜して、国民同盟を組織し分派的行動を起こしたので、内閣不統一を理由に若槻は桂冠して野に降った。
安達内相と行動を共にしたのは中野正剛を筆頭に風見章等二十有余名であった。
これに代わって政友会総裁犬養毅に大命は降下して犬養内閣が成立した。
剛直な浜口をライオン内閣と言い、それに対して、体は小さいが芯が強い恐い顔をしているので、犬養狼内閣とマスコミは風刺した。
前首相の高橋是清に対し三顧の礼を持って大蔵大臣として迎え、難しい経済政策を委嘱したが多くの国民から共感が得られ内閣の支柱となった。
又、九月には県会議員の選挙が行われ、浜名郡では鈴木六郎、飯塚栄隆(政友)、鈴木米太郎、源馬喜徳郎(民政)の四氏が当選し、浜松では加藤七郎、岩崎豊の両氏が当選した。 
昭和七年となった

 

浩は今年こそ大学の法科に入らねばならないと決意した。
そして、一生懸命に勉強した。
狭くて空気の悪い前の下宿とは雲泥の差があった。
植木の沢山あるお庭付きのお座敷で、老人とはいえ女中付きで、全く快適で申し訳無いと思った。
従って、健康も急速に回復して勉強にも専心打ち込める様になった。
ある日、浩は学校から帰って玄関に入るなり驚いてしまった。
何と新品のピアノが在るではないか、それも大型でどう見ても三千円は下らない代物であった。
一体誰が持ってきたのだろうか、と不思議に思った。
暫くして、金田が帰って来た。
浩は直ちに訊ねた。
金田は、妹がこの度日本女子大の英文科に入るので三月中旬上京する。
そしてこの家に住みたいと言うので一緒においてやろうかと思う。
部屋が沢山あるのでよいと思うがどうかと逆に問うのであった。
浩は異議のあろうはずがなかった。
妹は鈴代と言うのだが、僕同様親父の所は客が多くて嫌うのだよ。
それでピアノを茲へ届けたとのことであった。
金田の家はどういう家庭だろうか、何かの機会に聞いてみたいが自分の事を訊ねられると返事をせねばならないので、やはり浩は黙っていた。
それよりも進学受験一点張りであった。
おとめおばさんよりは岩水寺の開運入試必合格の木札と小さなお守り袋を送って頂いたので、そのまま机の上の高い所に掲げて置いた。
ある時金田はこの木札を見て、一色の処も俺の処も年寄りは皆同じだな。
俺の木札は是だよと見せて矢張り机の上に掲げた。
神教か仏教か判らないが、浩の見たところでは金光教と言う様な文字が写ったが、浜松地方ではあまり聞いたことの無い宗教であった。
三月の中旬、合格発表があって、二人とも揃って東京帝大法学部に合格した。
直ちに笠井の母親に電報を打った。
母の小夜子は花見の準備の為、岩水寺に出向いて不在であった。
おとめおばさんは電話帳を調べて頂いたが、岩水寺では電話があるのは石灰会社と朝日銀行だけで、全く連絡の取りようがなく、夜小夜子の帰りを待つしかなかった。
笠井に帰った小夜子は早速電報を受け取り、直ちに山屋の支配人に電話連絡のし、浩太郎にも伝える様依頼した。
東大法科の合格で今までのわだかまりは一切解消してしまった。
おとめさんは木札にお灯明を点けて、南無子安地蔵大菩薩と何遍も拝むのであった。
世界経済恐慌の影響を受けて益々不況のどん底に落ち込んで行く様な気がしてならなかった。
米価も繭の値段も大暴落して農村はいよいよ疲弊していった。
失業者も増えた。
大工の日当が六十五銭、畳一帖新床付きで一円という想像も出来ない相場が現れた。
大学は出たけれどという映画の封切りもこの年であった。
五月十五日血気に走った将校が突如総理官邸を襲い、犬養首相を射殺してしまった。
この時である。
“話せば判る、こちらに来い” と悠揚迫らず応対した犬養毅の名セリフは、何時までも何時までも我が国憲政史上に遺ることであろう。
体こそ小さいが寸鉄人を射る胆力の座った国士。
将に後世にその名を遺す名宰相であったが、惜しいことをしたと小夜子は特に二重丸をつけてその日の日記に書いた。
大命は斉藤実海軍大将に降った。
第三十代目の内閣であった。
外相は内田康哉、内相後藤文男と余り変わりはなかったが、問題は大蔵大臣高橋是清の留任であった。
彼以外にこの難局を乗り切る人はいなかったからである。
異色の人事は陸軍大臣荒木貞夫の登場であった。
又、内閣の要の大番頭書記官長には、磐田市見付け出身の柴田善三郎が就任した。
内閣成立後まもなく、上海事変が勃発して、追々戦争機運が醸成されていく様であり心配であった。
有名な爆弾三勇士の話もこの時の出来事であった。 
明けて昭和八年の春を迎えた

 

浩は東大法科二年となった。
金田の妹鈴代は女子大二年となった。
小夜子は金造りの為と芸妓を一日も早く一本立ちに育てる為に、あるゆる手段を講じて努力した。
そして、少しでもお金が出来るとすぐに浩の所に送金した。
健康を害してはいけないと、その事ばかりが気がかりであった。
翌日小夜子はとおとめおばさんの二人は、岩水寺に参拝し、お礼と共に健康であります様に、益々知恵の深い人間になります様に。
未来の宝を磨き給えと欲の深いお祈祷をお願いした。
祈祷を終わった住職はおめでとう御座います、と心からお祝いを申し上げ、今までとは打って変わった態度を率直に現す住職であった。
小夜子はおとめさんに新調の大天蓋を見せ、更に寄進者の芳名額が本堂前天井高く掲げられ、その中に翁屋の屋号が金文字になっていることを見せて、共に喜び二十二年前のお開帳の事を思い起こして感無量を覚える二人であった。
住職は茶室に招き入れ、二十有余年前の御開帳のこと、鳥山氏に色々ご援助を頂いた当時の苦心談も出た。
また、桜の苗木を育てるに大変だった話も、小夜子の一子浩の教育に焦点を充ててのお話であったので、小夜子は又新しい感動に打たるるのであった。
ふと、おとめさんは手提げ袋の中から、一冊の小さな本を取り出した。
それは本山高野山発行の御詠歌の台本であった。
そして、最後に金剛流派の教師の免許状が貼ってあり、それを高橋住職にお見せせんとする時、本の間から小さな綺麗な小石が滑り落ちた。
住職は何ですか、これは?と訊ねた。
これは十年前、浩の浜中受験の時お守りを頂いての帰り、門前先の御旅所で余りにも浩の頭によく似ているので、浩ちゃんと思いこうして何時も肌身離さず持っているのです。
何かことある度に私は必ずこの小石を腹の中で固く握りしめ、南無子安地蔵大菩薩、南無地安坊大権現、酉年の男と祈るのです。
と話を聞いた住職は信仰の恐ろしさ、人の心の無限さをしみじみと感ずるのであった。
この時の会話が持つ縁で、おとめさんは以後月一回必ず岩水寺を訪れ、男性一人を含む十人の方々に正調金剛流派の指導を行ったのであった。
基本である音符を覚えて頂くのに大変であったと後年おとめさんは時折語って懐かしむのであった。 
昭和も早九年となった

 

浩は4月には三年に進学する。
去年三月には順調に行けば卒業する最後の年であった。
この年独逸に初めて若いヒットラー政権が誕生して世界をあっと驚かした。
続いて我が日本も又国際連盟を脱退する等、国際間の緊張度がひしひしと見に迫る思いがした。
その後不意をつくが如く帝人事件が告発され、遂に斉藤内閣は一年二ヶ月で総辞職に追い込まれた。
そして、後任首相には同じ海軍出身の岡田啓介大将に決定したが、内閣の支柱である大蔵大臣には高橋是清が留任し、広田弘毅、後藤文男等主要閣僚も閣内に止まった。
また、床次竹二郎も入閣して脚光を浴びた。
内閣の更迭により地方長官の異動も行われ、静岡県知事には田中広太郎という内務省きってのベテランが赴任した。
田中知事は高等官一等神奈川、愛知県両県知事と同格の人物であり、静岡県の躍進ぶりを県民は喜んだ。
又、熱海の丹那トンネルも漸くこの年完成して盛大な祝が行事が行われた。
旧来の東海道線は御殿場線と改称して存続する発表もあったので、御殿場の人々はみんな喜んだ。
時の通信大臣床次竹二郎の長男徳二氏が若干二十七才で静岡県地方課長として筆頭の席についたのもこの年である。
こういう偉い人々の子供は何故簡単に重要な地位に就くのであろうか。
小夜子は不思議でならなかった。
大政奉還国民皆兵藩閥打破、普選施行と色々言われ改善された様に見えるが、まだ昔ながらの世襲制がどこか目の見えぬ処で行われているのではないか、口にこそ出さぬが心の奥底では強く思う小夜子であった。
早く浩を世に出して明るい平等な社会を造らねばならない。
努力する者が恵まれる世の中にせねば、神も仏も無いに等しいとつくづく思うのであった。
この年九月には室戸台風の襲来で大災害を起こし、死者は二千人を越したと新聞発表され、暴風の怖ろしさをまざまざ知った。
十一月浩はゼミで京都大学湯川秀樹博士の中間子理論発見の話を聞いて痛く感激し感動した。
そして、自己の心の動揺を押さえる事は出来得なかった。
努力して困難を克服しなければ栄冠を勝ち得る事は出来ない。
失敗を恐れては何事も出来る物ではない。
蛙が柳に飛びつく話も幾度か聞かされた。
そうだ俺も虎穴に入ってみようか、そして虎児を追ってやろうと決意した。
一年早いが一年病気で休んでいる。
落ちて元々だ。
ゼミの先生にも秘かに相談の上であった。
俗に言う清水の櫓から飛び降りる思いで高文に挑戦の決意をした。
階下から急に鈴代の奏でる微かなピアノの音が聞こえてきた。
秋の空は高く星は無数に輝いていた。 
在学中に高文(司法)に挑戦す

 

一発勝負は見事にあたった。
占いは吉であった。
浩は何と在学中に官吏の登竜門それも一番の難関を見事突破したのであった。
金田は一歩越されて地団太を踏んだが浩との友情は益々深まるばかりであった。
浩は直ちに母小夜子に対し事の次第を速達で知らせた。
手紙を受け取った小夜子はおとめおばさんに読んで聞かせ、高文と言うのはお隣の油幸の幸八さんと将来は同じ様になれるのだよと大きな声で説明したので、遠くなった耳をぴくぴく動かして喜ぶおとめおばさんであった。
直ちに電話で浩太郎に知らせた。
浩太郎は又浜中校長へ知らせたので、瞬時にして浜松地方一円に広まっていった。
笠井の街の人々が知ったのはそれから一ヶ月の後であった。
この年十月国勢調査の結果、静岡県の人口は百九十万人に達したと発表された。
又、続いて県会議員の選挙が行われたが、浜名郡の北部でも新顔の若い農業技術員の坪井亀蔵氏が当選した。
家の若い芸妓達も揃って応援したので、選挙権は無かったがみんな喜んだ。
また、岩水寺ではお寺の石灰石を経営している社長の大角という方が当選されたので住職は大変喜んでおられた。 
昭和十年となった

 

年末年始浩は一度帰省する様にと手紙を受け取ったのだが、とうとう浩は帰らなかった。
父親の浩太郎は東京には商用で時折出張するので、自由に会えるのだが小夜子の手前遠慮していた。
しかし、高文合格を耳にした浩太郎は一日も早く上京して浩に会いたかったので、正月の松のとれるのが待ち遠しかった。
一月の末、浩太郎は商用を名目に上京して浩を訪ねた。
下宿とは大違い、堂々たる一流会社の社長邸宅同様の構えであったのに、まず驚きの目を見張った。
その上婆やもおり、綺麗なお嬢さんが出てきて応接間でお茶の接待までもしてくれた。
異様な感にうたれた浩太郎は急遽帰浜した。
そして、自宅に行かずにそのまま山屋に御大(社長)を訪ねて、事細やかに報告した。
大阪選出の代議士に同姓同名の者があるが、まさかそれでもあるまい。
その代議士は衆議院だが政友会で派閥は俺と一緒だが、そんなこと一度も言ったことも耳にしたこともない。
どこかの成り上がりではないか、余り気にするなと取り上げてくれなかった。
家に帰った浩太郎は玄関に立って不吉な予感がした。
家の中の店員一同が静まり返っていた。
何事かと訊ねると弁天島の奥様が,昨夜急変し危篤状態に入っているとのことであった。
浩太郎は車で走った。
直ちに病床に入って息も絶え絶えの女房を抱き上げたが、微かに聞こえたことは小夜ちゃんを小夜ちゃんをお願いと蚊の鳴くような二言三言で臨終であった。
今日まで浩太郎は小夜子のこと、浩のこと極秘にしておったのに、何事であろうかと一人動揺した。
後で判ったことであるが情報の源泉は皆浜中在学の長男晃一郎であった。
そして晃一郎は亡き母の遺言として一日も早く浩と兄弟の名乗りをする様求めたのであった。 

奇遇?熱海伊豆山と伊香保温泉

 

年末三十一日除夜の鐘と初日の出を、金田は婆や一人を本郷に置いて妹鈴代と共に、伊豆山の温泉ホテルに行く事になった。
その時、嫌がる浩を二人は強引に連れて行った。
ホテルには一足先に金田のご両親が待っていた。
羽織袴の姿で礼儀正しく威厳のある立派な紳士の様に思えた。
二泊の上三人は車を呼んで、本郷まで帰った。
延期中の徴兵検査を二人共受けたが、金田は甲種合格で卒業後の4月、麻布の歩兵三連隊に入隊することになった。
浩は一乙で海軍であったので、当分兵役は免れたものの時局柄、何時赤紙は行くかも知れない覚悟しておれと徴兵官に脅かされた。
浩は司法省に採用が決まり、4月より司法修習生としての第一歩を踏み出す予定になっている。
その為、勉強以外に余念はなかった。
金田は軍事教練の特訓を受ける為、一週間の連続校内宿泊をする事となった。
金田の留守中若い女性と二人では困ると考え、残り少ない期間ではあったが、一時他の友人の処に身を寄せんとしたが、金田も妹鈴代も大反対であった。
屋敷は大きく部屋になお余裕があるほどであり、その上婆やさんもいるのだからと、そのまま七日間を過ごすこととした。
ある夜鈴代は電話連絡の為、浩の部屋に来て一月の末、兄と伊香保の温泉に行き、スキーの練習をするから一緒にどうかと強く誘った。
浩は今まではお断りしたが、本年は高文も済み就職も決まっているので気楽であった。
お供する事を約束した。
鈴代は喜んだ。
そして、なおピアノを叩いて見ませんかと勧めるのであった。
鈴代も兄同様背は高く美人であり、勝ち気で少々気ままな処があった。
浩は嫌いではないが、次元の高い環境の違いすぎる家庭のお嬢さんに関心を持つ訳には行かなかった。
一月の末三人は伊香保に行った。
浩は初めてであった。
スキーの道具はホテルのものを使い、鈴代は快適に滑った。
そして、浩の所に来て細かに教えるのであった。
二日目の夜スキー場で偶然か計画的か、金田は同郷の女性に会いに行って来ると称して宿を出て行った。
浩は鈴代と二人だけとなり、おかしくなってしまった。
宿の女中さんも何事も気を利かす様な振る舞いである。
浩は困った、部屋の場所を変更する様頼んだのだが、満員のお客様で駄目であった。
それどころかお兄さんはいないし、おふたりで仲良くと片目でウインクする女中の仕草に二人は苦笑した。
襖を境にして前夜通りの床にして休んだ。
夜は静かであった。
外は小雪が降っていた。
布団の中には炬燵があるので暖かである。
金田はどうしたのかなあと独り言を言った。
兄の女性は許嫁よと隣の部屋から鈴代の声があった。
金田は浩より二つ年上である。
鈴代は又話を続けた。
浩さんの許嫁ってどんな方?
そんな人いないよ、是から就職して貯金をしてそれからゆっくり探すのだ。
三十才くらいになるのだろうなと他人事の様な言い方をした。
鈴代の体はこの時既に燃えていた。
浩は極めて冷静を保つ様努めたが眠れなかった。
鈴代は何事もなく平凡で良かったのだが、今ひとつ物足りなくて眠れなかった。
一夜は明けた。
既に雀は鳴いていた。
金田は朝早く宿に帰り、朝食は三人一緒であった。
別に異常はなかったらしいな。
金田は直感でそう思った。
4月になり、浩は本郷の金田の屋敷を出ることにした。
金田は俺の留守中にせめて、もう一年だけでも居て欲しいと懇願したのだが、浩は最早出なければとご好意を謝して、父浩太郎の得意先の配慮で小さな下宿に移った。
一年間の修習生を卒えて、浩は検事畑を選んだ。
そして加賀百万石金沢に赴任することとなった。
金田は陸軍少尉となって除隊した。
鈴代は大学を卒えて美術研究の為、フランスに渡っていた。
金田は以前から、妹鈴代を浩にと何時も考えていた。
金沢転出を聞いて、じっとしておれない金田は単刀直入に浩を口説きにかかった。
環境の違いを強調して浩は固辞した。
美人であり、頭は切れる、両親は何れも立派である。
代議士当選九回。
大蔵政務次官を歴任、現在政友会総務、到底問題にならない。
それに引換え、私の方は貧弱で将にお月様とスッポンだ。
金田それでもよいのか?そんなこと問題では無いよと即座に答えた。
実は妹は君を好きなんだから頼むよ、と言った。
浩は金田の情に少々傾きかけた。
鈴代の我が儘な処が少々気にかかるが−−−。
さあこれからが、兄金田の責任は重大である。
何とかまとめねば、浩を傷つけることになる。
鈴代の方も、あの様に言ったがまだ確証はない。
二人を早くまとめたかった為に、熱海に誘って両親に引き合わせ、更に伊香保に飛んでホテルで、わざわざ二人だけにしたのも、兄の秘かなる小策であり誘い水であった。
そして、もしや?と念願したのだが、不発に終わってしまった。
金田は両親と話す前に二人を切っても切れない状態にしておきたかったからである。
金田の兄弟は三人であるが、鈴代とは実の兄妹である。
今一人の弟は、後添いの産んだ子供であるから母が違うわけである。
兄の金田が鈴代を何かと気に掛ける原因はここにあった。
継母は父より十一才も若い関西実業家の家の出身である。
故郷浜松の小夜子の処には縁談は降る星の如くであった。
最早小夜ちゃんとか女将さんと言う人はなかった。
みんな奥さんとか奥様とか丁寧な敬称を使う人ばかりである。
小夜子は独り苦笑した。
十二年前、岩水寺の駐在署で鳥打ち帽の小僧さんに奥さんと言われて以来の最高の敬称であった。
小夜子は独りつぶやいた。
何事も我慢しなければならない。
最初から和尚にはなれない、辛い小坊主(小僧)時代を忍耐強く勤めなければ大成するものではないと。
それにしても、あの時私の書類を瞬く間に書いてくれたあの小僧さん、二十七、八才に達していると思うが、あれ以来一回もお目にかかっていない、一体何処のお人であろうか。
十二年間忘れるることない幻の青年であった。
権力をカサに言い寄る男、金の力で女心を揺さぶる男ども、全く軽蔑の最たるものであったが、何故かあの青年にだけは心引かるる小夜子であった。 
昭和十一年の春を迎えた

 

正月は無事に済んだ。
二月二十六日陸軍の青年将校は、突如首相官邸を襲撃した。
世に言う2.26事件である。
岡田首相は幸い難を逃れたが、大蔵大臣高橋是清、内大臣斉藤実、陸軍教育総監渡辺大将は射殺された。
その為、内閣は総辞職して外務大臣広田弘毅が後継総理に決まった。
広田内閣は日独防共協定を締結し、これがやがて日独伊三国同盟へと進む足がかりとなっていくことになる。
終戦後広田首相はA級戦犯に指定され、文官唯一人絞首台の露と消えたのも是に起因するのではあるまいか。
又、この時の陸軍大臣は寺内寿一大将で、国会の政友会の浜田国松代議士の軍部攻撃演説で二人は激しく渡り合い、所謂腹切り問答として全国民を沸き立たせた。
挙国一致大政翼賛等と軍部に引きずられて迎合する政治家の多い時期に敢然と所信を貫き、遂に口先演説を以て内閣を打倒総辞職まで追い込んだ浜田代議士決死の気骨ぶりは、民政党代議士斉藤隆夫氏の爆弾演説と共に、後世に残る名演説であった。
金田の父康文はこの時総務を辞任して商工政務次官に就任した。

兵に告ぐ“今からでも遅くない、原隊に帰れ”
二月二十七日雪の朝兵に告ぐと言う戒厳司令官香椎中将の言葉がラジオを通じて何回も何回も放送されたが、実に明快で親が子供に諭すが如く真実溢れる名文であった。
この事件で十九人の青年将校は銃殺の刑に処せられた。(昭和11.7.12処刑)
又、首謀者の内二人は捕らえられる前に自決してしまった。
小夜子はこの時の新聞を切り抜きノートに貼りつつも、浩の事が心配であった。
林内閣は二月に成立したものの同年五月わずか四ヶ月で総辞職に追い込まれてしまった。
政友会民政党共に反対したからである。
(この広田内閣と林内閣と年月がダブっているので、只今調査中!)  
近衛文麿 公卿内閣の成立

 

六月、最後の切り札として公爵近衛公出陣となった。
閣僚は宇垣、広田、木戸、有馬、馬場、永井、池田と一流メンバーを揃えた。
前内務大臣安達謙蔵の領袖風見章が書記官となって勢威を揮った。
この時二俣町鹿島出身の太田正孝博士が大蔵政務次官に就任した。
近衛第一次内閣は六月二日発足したが、七月早々西田税と北一輝の両人は死刑の判決を受けた。
起こした青年将校との関係が発覚されたからであった。
満州事変以来中国との関係は悪化の一途を辿り、何ら改善は見られず、益々錯乱状態に落ち込んで行くばかりであった。
5.15事件も2.26事件も皆一連の関係を持つ中国との関連事件であった。
即ち軍部予算を増額せよ、是に反対する者は国賊と決めつけた。
頑として自説を曲げなかった人々はみんな次から次へと殺されたのである。
こういう政治でよいのであろうか。
参政権の無い弱い小夜子は歯を食いしばって残念がった。
そして、女性として又母の立場から政治的発言を続けてきた。
平塚らい、鳥山、川島栄、市川房枝女史等を懐かしく心の奥底から声援するのであった。
この時代、児玉機関と称し、恰も軍部の外郭団体の如き顔を以て任じ、大陸までも乗り込んで軍部政商の異名を持つ児玉誉士夫は稀代の策士であり世の人、是を怪物と言った。
同年七月お盆の十五日、赤紙召集令状が全国的に発せられ、所謂日支事変が始まった。
陸軍の横暴に識者は一様に眉をひそめたが、射殺を怖れたのか段々軍部に引きづられファシズム化して行った。
そんなことから、外務大臣は四人、大陸関係を担当する拓務大臣も四人と一年半の間に四度も替わったのである。
軍部の意見に逆らって、次々と辞任したからである。
この時、日独伊三国防共協定の成立を見たが、この様な経過の下に締結されたのだから残念至極であった。
軍部に迎合する閣僚は居残り反対して意見を陳ぶれば国賊として是を葬るに躊躇しない。
将に、武家政治の復古であった。
この様な論陣を持つ朝日新聞は悉く軍部に睨まれ、やがて青年将校の襲撃を受け、米英追随型として世の非難攻撃を受けたのである。国の予算の四十パーセントも軍部で占め、学校教育に軍事思想を注入せしねばならないと陸軍大臣荒木貞夫を文部大臣に推してきたのもこの時である。 
浩と鈴代の縁談成立す

 

金田は一年志願とは申せ、れっきとした陸軍少尉であった。
段々米英から追いつめられて行く日本の姿を父を通して、ある程度推定出来た。
そして、自分にも召集が来る事を覚悟していた。
だから、一日も早く妹鈴代をと、そればかりが気がかりであった。
浩を説き伏せそして妹鈴代の確答も得て、最後に難しい面子を言う両親の承諾を得なければならない。
浩は金田の申し入れが真実本物と考え一日帰省して、一部始終を母の小夜子に伝えた。
小夜子は釣り合わぬは不幸の元と強く反対した。
しかし、身分や財力ではない、人間性である、と直ぐに言い直した。
二人の間に本当の愛情があるかどうか、今少し時間を掛けて見極める必要があると慎重なる態度を要求した。
義理や人情、権門に屈してはならないと自分の体験よりの発言であったので、その言葉には自信と迫力があった。
表面のみの観察では不安である。
顔形だけではない、心である。
人間性であると再度口に出す小夜子であった。
その裏には浩太郎との関係が小夜子の心の奥底に潜んでいたに違いない。
金田は下落合に父を訪ねた。
そして、熱心に浩と鈴代との縁組を勧めた。
人物が全くよい、鈴代も未だ確かめた訳ではないが、必ず喜ぶと思うと言ってしまった。
父は一見良い青年と思う、一高東大とストレート、しかも在学中高文パス、恩賜の金時計受領、そして長男と特別親密な間柄、鈴代も二年間も寝食を共にしている。
その上背が高く男前であり、何ら文句のつけようがなかった。
しかし、戸籍謄本に目を通して少々ためらった。
浜松の父親安藤浩太郎は同志の貴族院議員鈴木幸作氏の親族故、電話でもすぐ調査が出来るが、何故私生児であったのか、中途浩太郎氏はどうして認知したのか。
一色小夜子の本籍は秋田県仙北郡横手町とあり、出生地は更に北海道網走と書いてある。
そして、芸者置屋を経営している。
どういう理由だろうか、貧困家庭には間違いないが、見た処鼻筋の通った美人で傑出した気品さと優雅さを備えている。
そこが分からない。
知りたい。
父金田代議士は秘書に命じて東京興信所長を自宅に呼び寄せて、秋田と北海道まで詳細に調査する様依頼した。
二ヶ月ほどの日時を要したが、調査の結果報告書を開封して驚いた。
一色小夜子の父は戸籍上では一色酉太郎となっているが、実の父親は全くの別人であって、酉太郎は赤の他人であった。
本当の父親は十五年前、即ち大正十年高橋内閣の司法大臣大井延吉伯爵であることが判明した。
伯爵が未だ襲名せず、大学を出て司法省の事務官となった直後、同省の営繕課技師と共に北海道網走に赴き、刑務所官舎建築の砌り、長期滞在中若気の至りで遂過ちを犯したる落胤であることが証拠品と共にすっかり判明した。
血筋と言うものは隠せるものではない、と金田の父親は思った。
小夜子はこの事を知る由もなかったが、数ヶ月後一色酉太郎は極秘便で小夜子に知らせてきたが、小夜子は絶対に口には出さなかった。
金田の両親は長男に異議なし、全て委せるとのサインを送った。
金田は早速パリから鈴代を呼び寄せ目出度し、目出度しと二人は結ばれて行くのであった。
結婚式は帝国ホテルで行われ来賓、親戚、友人、縁者等キラ星の如く盛会そのものであった。
時の司法大臣塩野委彦を始め貴衆両院議員、大学教授等多数参列した。
小夜子は再び浩太郎と肩を並べ、金田代議士夫妻と共に末席に在ったが、浩太郎小夜子共その姿、貫禄において全く引けをとらず堂々たるものであった。
浩と鈴代は新婚旅行に出発する前に、浩太郎小夜子の両親をホテル大谷に案内して改めて挨拶をすると共に、何時までもお元気で仲睦まじくと言い残して手を取り合い旅立つのであった。
やっと二人となり、浩太郎小夜子は張りつめた緊張感が一度に解けて、何かぽかんとしてしまった。
小夜子は三十年前四十年前を思い起こして走馬燈の様に頭の中が巡り廻った。
浩太郎はやれやれと言って寝室に入った。
小夜子も黙って後に続いた。 
 
寺山修司論・逃げ馬の思想

 

「キーストンは走りながら死んだ馬である。それは見事な生一致の瞬間であった。(中略)全力疾走することによってのみ人々に愛され、話し掛けられ、走らなかったときには罵声にさらされた一頭のサラブレッドにとっては、「走ること」は「生きること」だったのであり、その燃焼の最中についに追いつかれて、二万人の見ている前でばったりと倒れたことは、この馬らしい「幸福論」の終焉だったと言うことができるだろう」
これは寺山修司の『幸福論・裏町人生版』からの引用である。ここに描かれた稀代の逃げ馬キーストンの姿は、俳句、短歌、演劇、映画、競馬エッセイと多彩な創作活動に打ち込みつづけ、47年間の人生を駆け抜けた寺山修司の姿と重なる。彼自身、自らをよく逃げ馬に例えていた。寺山は二十歳でネフロ−ゼを患って生死をさまよい、その病床で処女作品集『空には本』を出版した。寺山とって、創作活動は唯一の社会に認められる術だったのだ。寺山は作品を「創ることによってのみ」人々から愛される存在であり、「創ること」が「生きること」だったのだとも言える。だがそれでも、その生き方はあまりに生き急ぎすぎたように思えてならない。彼は一体何から逃げ続け、何に向かって走り続けたのだろうか。
寺山の創作活動のすべては、常に変革を伴う前衛的なものだったが、その根本にあったものはなんだろうか。寺山編著による名言集『ポケットに名言を』の中に、こんな言葉がある。
「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものはひとつの世界を破壊せねばならぬ」(ヘッセ『デミアン』)
この言葉は寺山修司の創作の姿勢を象徴しているように思う。彼は常に、母から故郷から既成概念からの脱却、現実原則の破壊と革命を目指しつつ、ついに完結しえなかった。「永遠の前衛」「永遠のアドレッセンス」などと呼ばれるゆえんである。ここにおいて彼の作品は、母と子、家と家出、青森と東京、新宿と恐山、内向と外向、現実と虚構など、二律背反したものを含み、二つに引き裂かれた世界を生み出すことになる。
映画『田園に死す』(1974年)は寺山修司の監督した長編映画の第二作である。青森で過ごした少年時代を題材にした自伝的内容の作品であり、恐らく映画史上最大といっていいほどの、個のイメージの喚起力に富む作品である。ここでは個の記憶は解体され、自由に再構築される。そして、「家出」、「母殺し」、「犬憑き」、「蛍火」、「恐山」、「汽車」、「かくれんぼ」など、彼の作品に繰り返し登場するテーマが集約されて描かれている。この映画を主軸としながら、「対立項」をキーワードに、彼の作品に描かれてきたものを検証して行きたいと思う。 
第一章 『田園に死す』を読み解く

 

第一節 歌集から映画へ
映画『田園に死す』は、1965年発行の同名の歌集を原作としている。歌集は、我が一家族の歴史「恐山和讃」と、恐山、犬神、子守唄、山姥、家出節、新・病草草紙、新・餓鬼草紙の七章からなる。それぞれの章はさらに小さなテーマで分けられており、短歌の他にも戯れ歌、草紙の類も含まれている。各章の題名からして、寺山が繰り返し描いてきたテーマを読み取ることができる。物語のモチーフは歌集全体から取られているが、実際に作中で朗読されている歌は十三首。「恐山和讃」も劇中歌として使われている。ちなみに歌集と映画とでは、いくらか内容が異なっている歌がある。
Dの歌は、「もはやわれと」が「われとわが」に、Hの歌は、「なけよとやまの」が「なけよ下北」に、Iは、「鬼とかれざるまま老いて」が「鬼のままにて老いたれば」に、Jの歌は、「亡き母」が「亡き父」に変えられている。Cの歌に至っては、ほぼ映画のオリジナルである。寺山は同じモチーフをシチュエーションによって微妙な変更を加えて使うことをよくやっているが、この場合も、映画の内容にあわせて改作したのだろう。登場順序は次のとおりで、下に付したのが、歌集での小題である。短歌の内容とそれが朗読される場面の映像のイメージは一致しないので、無作為に全篇に散りばめられていると考えていいだろう。また、必ずしも全ての短歌が、言葉の通りに映像化されているわけではない。 
@大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ(恐山・少年時代)
A新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥(同上)
Bほどかれて少女の髪に結ばれし葬儀の花の花言葉かな(恐山・悪霊とその他の観察)
C亡き母の真っ赤な櫛を埋めに行く恐山には風吹くばかり(?)
D針箱に針老ゆるなりわれとわが母との仲を縫い閉じもせず(山姥・発狂詩集)
Eたった一つの嫁入り道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり(恐山・悪霊とその他の観察)
F濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華あかきを何の生贄とせむ(犬神・寺山セツの伝記)
G見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし(犬神・法医学)
Hとんびの子なけよ下北かねたたき姥捨て以前の母眠らしむ(山姥・むがしこ)
Iかくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭り(子守唄・捨子海峡)
J亡き父の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ(犬神・寺山セツの伝記)
K吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず(子守唄・暴に与ふる書)
L売りにゆく柱時計がふいになる横抱きにして枯野ゆくとき(恐山・少年時代)
@の歌には青森のものとおぼしき地名が羅列されている。『日本分県地図地名総覧』(人文社)によると、これらの地名は実在するが、一ヶ所ではなくあちこちに点在している。弘前市には元寺町、元大工町、八戸市には大工町、黒石市には後大工町、五所川原市には寺町、百石町には大工町、大間町には寺町、仏町、風間浦村には寺町、鯵ヶ沢町には米町、仏町という町がある。青森には職業名が地名になっているところが多く、そのほかにも桶屋町、鍛冶町、紙漉町、鉄砲町、漁師町といったものがある。これらの町と寺山が住んでいた所は一致しないので、具体的にどこかの地名を指している訳ではないようだ。「コメマチ、テラマチ、ホトケマチ」という言葉の響きやイメージの羅列といったものの方が計算されている。大工、寺、米、仏を扱う町はあるのに、老母を商品にしている町はない、いらない母を引き取ってくれる町はない、ということだろう。母を捨てたい少年の心情が表現されている。「つばめよ」という結びはそこまでの世界と結びついてこない。少年の解けない疑問を、人ならざるものに問いかけているのだろうか。具体的な映像化はなされていない。
寺山の短歌には非常に視覚的なイメージをもったものが多く、映画に影響されたと思われるものもある。Gの歌などは、ルイス・ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』(1928年)の冒頭の、月下のバルコニーで女の眼球を剃刀で切り裂くシーンから想起したものだろう。『田園に死す』にはこのようなシーンは出てこないが、反語的に、切り裂かれる前の状態の(本来瞼がある部分がふさがっている)目がない男が、郵便配達夫として出てくる。寺山は「瞼は最も小さいスクリーンである」というようなことも言っているので、ラストシーンの舞台崩しなど、映画の世界観の破壊といういわば「スクリーンを切り裂く行為」で、作品そのものに体現されているのかもしれない。
短歌と映像との対応が最もはっきりとわかるのが、Iの歌であろう。映画の冒頭、真っ暗な画面に@とAの和歌がスーパーインポーズされ、音読される。ゆっくりと溶明していくと、墓場でおかっぱの女の子が正面を向いて、「もういいかい」の目隠しをしている。今までの暗闇は、「かくれんぼ」の鬼になった少女の、目隠しの手の中の暗闇でもあったことがわかる。そして子供たちが墓石の影に隠れ、「もういいよ」の声とともに再び出てきたときには、みな大人になっているのである。かくれんぼでは、探す方は目隠しで世界を覆うし、探される方もどこかの陰に隠れて、世界から遮断される。その世界から隔離されているわずかな間に世界が変貌してしまうかもしれない、という少年(少女)の恐怖が表わされている。場所が墓場に変えられているのは、「永遠に隠れてしまった」という死のイメージからだろうか。短歌の「誰をさがしにくる村祭り」というくだりとは、かなりイメージが異なる。
Iの歌は他の作品でも何度か使われたことがある。そのひとつに、「納屋の藁の中に隠れて、うとうとと眠ってしまい、ふと目を覚ますと外は冬(あるいはお祭り)である。外に出ると友人たちはみんな大人になっていて「まだ隠れていたのかい」と哄いだす」、という鬼と探される側の立場が逆になっている挿話がある。どちらのイメージとも、片方は子供のままなので、短歌の内容とは矛盾してしまう。短歌の内容を言葉通りの形で描いているものには、童話集『赤糸で縫い閉じられた物語』所収の「かくれんぼの塔」という老人の話がある。かくれんぼの鬼になれば、自分が相手を見つけるまでは、相手は隠れたままずっと鬼である自分のことだけを考え、自分だけを待ってくれるので、ひとりぼっちにならないために、この老人はわざと相手を探しに行かない。そしてそのまま歳をとって老人になり、もう七十年もかくれんぼの鬼をやっているのである。みんなは隠れたときの子供のままでいるのに、鬼だけが年をとって老人になる。「いつでも、年を取るのは鬼ばかり」とこの話は結ばれている。探される側は、どんどん新たな時を生きていくのに、探す側だけが、過去に縛られたまま空しく時を重ねて年老いていく。
小川太郎著『寺山修司〜その知られざる青春』によると、少年時代の寺山は、自伝に描かれているガキ大将ではなく、どちらかというといじめられっこだったらしい。かくれんぼでも、いつも鬼にされることが多かったそうで、Iの歌には寺山の少年時代の思い出が表されているといってもいいだろう。置いてきぼりにされて、友達たちはみんな帰ってしまった。それでも鬼の自分はいつまでも探しつづけている、そんな光景も浮かんでくる。かくれんぼは、いなくなってしまった誰かを探す遊びである。そこには、自分を置いていなくなってしまった不在の両親―戦死した父と、出稼ぎに行った母―を捜し求める気持ちも反映されているのかもしれない。
寺山は「手相直し」というエッセイにおいて、「生命線ひそかに変えむためにわが抽出しにある一本の釘」という歌とLの二首について触れている。それによると寺山は、幼いころから自分の生命線の短いのを気にしていてた。何とか引き伸ばそうと、血まみれになりながら釘を突き立ててみたが、すぐに治って元通りになってしまった。ある日、隣村にいるという「手相直し」のおじさんに会いに行こうと思い立ちった。謝礼に五百円取られると聞いて、家の柱時計を質屋に持っていってその金を作ろうとしたのだという。
こんな体験が実際にあったとは思えない。むしろこれらの短歌をイメージする中で「過去を作り変えた」のだろう。映画『田園に死す』の中には、少年の母が柱時計を抱いて恐山を降りてくると、恐山の稜線に、十数人の少年の幻達が、同じように柱時計を抱いて現われる、というシーンがある。このシーンの間、柱時計の音が幻聴のように鳴り響いている。Lの歌を「売りにゆく」という部分を除いた形で映像化したのだろう。
劇中には、一度破いた後、糸で縫い合わされた母親の写真がたびたび出てくる。直接的な対応ではないが、これはDの歌のイメージと重なる。捨てようとしても捨てきれない、憎もうとしても憎みきれない、屈折した母親への感情が感じられる。この「縫い閉じる」というフレーズを寺山は好んで使った。歌集『田園に死す』に「地平線縫い閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針」という歌があるほか、「瞼を赤糸で縫い閉じる」というイメージも多く使われる。これはロートレアモンの『マルドロールの歌』の第二の歌の「あるいはまた、一本の針でお前の瞼を縫い合わせ、世界の風景を奪い去り、自分の途を見出すこともできなくしちまうかも知れぬ」というフレーズからきているようだ。これはGの歌の見るために切り裂くのと相反するイメージでもある。「もっとよく見るためには瞼を切り裂かねばならない」と言う一方で、「見えないものを見るためには、もっと暗闇を!」とも寺山は言っている。
劇中の母親が、ことあるごとに念入りに仏壇を磨きあげ、まるで死んだ父親の身代わりであるかのように扱っているのは、Eの歌から浮かんでくるイメージだろう。ただし、母は義眼ではないし、仏壇が嫁入り道具なのかも語られない。歌集『田園に死す』には、この他にも「義肢県灰郡入れ歯村」、「義肢村の義肢となる木に」、「弟の義肢つくらむと」といったフレーズが出てくるが、映画ではこれらの機械身体のイメージは出てこない。仏壇はこの他にも、湖の浜辺や道の真中などに配置されていたり、仏壇売りに背負われて来たりと、さまざまな現われ方をする。
映画の中で少年時代の私が、眠っている母のそばを通って家出していくシーンはHの歌の後半のイメージである。前半部分のようにとんびが出てくる様子はないが、たびたびカラスが飛び、鳴き声を上げるシーンが出てくる。これがイメージ的に重なっており、恐山の地獄のような雰囲気に合わせてカラスに変えて映像化したのではないだろうか。実際に訪れたときも、恐山には、お供え物を狙って多くのカラスが飛んでいた。「なけよとやまの」が「なけよ下北」と変えられたのも、恐山という場所を意識させるためだろう。
Cの歌と同じものは歌集にはなく、よく似た歌として「亡き母の真っ赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり」と、「売られ行く夜の冬田に一人来て埋め行く母の真っ赤な櫛を」というのがある。劇中で隣の人妻の化鳥が少年に語る、「私は、真夜中にそっと起き出して、売られてしまった夜の冬田に死んだ母さんの真っ赤な櫛を埋めた」という話は、この後者の方の映像化といえる。挿入された歌では、この二つを融合し、恐山のイメージを加えたのだろう。母の櫛を埋めるのは田を手放すことへのせめてもの抵抗だが、映画の中ではこのイメージは無限に増殖されていく。真っ赤な櫛は夜になると歌を歌い、村中の田という田から真っ赤な櫛が百も二百も出てくるようになるのである。
Jは亡き母を歌った「寺山セツの伝記」と題された10首の中の一つだが、「寺山セツ」というのは寺山の母ハツと一字違いで、映画の中の母役の名も「セツ」となっている。現実の寺山の母も、映画の主人公の母も死んではいない。そのためか、映画では父の歌に読み替えられて使われている。具体的な形では映像化されておらず、母の仏壇磨きや、イタコに降りてきた亡き父に家出の相談をするような、少年の亡き父への心情に反映されているのだろう。
Fは劇中の赤ん坊を間引きするシーンと、Kは追われている共産党の男が煙草を吸う姿とイメージ的に結びつけることもできるが、具体的に対応するシーンはない。A、Bも同様である。
これらの『田園に死す』の短歌が引用されるのは、何もこの映画だけではない。時にはいくらかの変更を加えたり、異なったエピソードを使ったりしながら、エッセイ・演劇・ラジオドラマなどあちこちで引用される。 
第二節 虚構化される故郷
『田園に死す』が製作された1974年は、実験映画『ローラ』、『蝶服記』、『青少年のための映画入門』などが製作されたが、その他の分野では目立った活動はない。演劇活動の方では71〜72年に『邪宗門』が上演されて、『青森県のせむし男』、『犬神』、『花札伝奇』などの初期の土俗的なテーマの一応の集大成となり、より実験的なものへと移行してきた時期だった。この年の公演は『盲人書簡』のみであり、翌年の社会的事件となった三十時間市街劇『ノック』へとつながっていく。
1999年の夏、私はこの映画の舞台の青森の恐山を訪れて、一泊した。この映画の少年が山道を登っていくシーンなどを見ていると、恐山が人の居住地のすぐ近くにあり、地獄のような景色が延々と広がっているような場所に思われるが、現実の恐山はそうではない。人里からバスで40分も掛かるところに、陸の孤島のようにしてあり、気軽に歩いていけるような場所ではない。実際に、この少年と同じ気持ちを味わおうと徒歩で行ってみたら、最後に民家があった場所から3時間半もかかった。そこに至る道もうっそうとした森が広がっており、岩がごろごろしている荒野は恐山の周辺のわずかな部分だけだった。また、硫黄が沸いて現実離れした景色が広がっているのは事実だが、夏だったこともあってか、美しい緑の森と湖に面した恐山は、地獄よりも極楽のようなイメージだった。映画の中で描かれるのは、おどろおどろしさを強調された、寺山自身の心の中にしかない幻想の恐山である。ただ風車があちこちに立てられているのは事実で、恐山や道中にあった地蔵のまわりなどにあるのを目撃した。これは私の勝手な推測だが、東北という寒い地では、花の咲く期間は短く、お供えしてもすぐ枯れてしまうので、代わりに美しい色の風車を供えるのではないだろうか。花を散らしてしまう強い風も、風車にとっては、回すことでより美しく見せる方に働く。この風車も映画の中では、村の中や田んぼの中などに場所を拡大され、無数に配置されることで、その幻想性をはるかに強調されている。 
恐山での夜の食事の席で、「ほろほろと鳴く山鳥の声きけば、父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」という言葉をお坊さんが紹介していた。お坊さんによると、「今夜は、賽の河原にご先祖様が降りてきます。この歌を心に留めておいてください。供養を願っていれば、夢の中に死んだ人が会いにきてくれます」ということだった。
寺山の作品でもたびたび使われるこのフレーズが青森に根付いたものであるのは、本当のことだったらしい。寺山の体験では、これは田舎芝居の「石童丸」の一節で、ストーリーは「父をたずねて高野山にのぼった石童丸が、意を果たせぬままに帰ってきてみると、たった一人の母が死んでしまっている」というものだった。この芝居は三度観て、やがてさわりの部分を口ずさめるようになったという。母と離れ離れに暮らしていた寺山は、いつもクライマックスの部分で泣いてしまったそうだ。遠く離れたところにいて会えない寂しさは、生者に対しても死者に対しても同じだろう。
恐山では、確かに生者と死者が共に存在しているような雰囲気があった。宿を取っているのも、死者に出会えること、死者の冥福を心から願っている感じの巡礼の人々ばかりで、観光目的は私だけのようだった。寺山修司は、故郷にいた頃は意識しなかったこの場所に来て、自分の原点となるイメージを発見したに違いない。
実際に寺山が恐山の近く(むつ市)に暮らしていたことはない。青森に暮らしていたころの寺山修司は、自伝『誰か故郷を思わざる』にあるように、米軍基地のある三沢に住んでいたほか、大部分の年月は青森市の親戚のやっている映画館に下宿しており、そこにあるのは映画で描かれているような農村的・土俗的なイメージとは程遠い。自分の故郷に対する関心が高まっていったのは、東京に出てからのことである。これはいわば当然のことだろう。「ふるさとは遠きにありて思うもの」と言う言葉を寺山は好んで使ったが、一生を生地で終えるものは、故郷という存在の意味を知ることはないだろう。外部に出ない限り、自分が内部にいたと気づくことはない。東京に出てさまざまな価値観に触れる中で、故郷がどういった場所だったのか、自分とは何者なのかを改めて強く意識したのだろう。そして「自分を形作ったルーツとなるものは何なのか」を問い直す中で、新たな故郷の姿を作り上げていったのだ。
青森を舞台とした土俗的なテーマが出来上がっていった直接的な契機は、1962年に帰郷して恐山に登ったことだと思われる。その後に一気に書き上げた作品がラジオドラマ『恐山』である。『田園に死す』という言葉が最初に出てきたのは、この年に連載していたエッセイ『家出のすすめ』の章題としてが最初である。また同年寺山が脚本を書いたテレビドラマのタイトルとしても使われた。このテレビドラマは青森を舞台にしていて、「青年と人妻が汽車に乗って東京に駆け落ちしようとする」、「田には母の真っ赤な櫛が埋めてある」、「嫁入り道具の仏壇」といった映画につながるイメージが出て来るものの、映画との共通性は少ない。土俗的なイメージを持った作品群への途上の作品と言った感じを受ける。「私的自叙伝」によると、翌63年から自分の生い立ちについて書き始め、二年がかりで叙事詩『地獄篇』を書き、短歌の部分だけが65年に歌集『田園に死す』として出版された。 
第三節 『田園に死す』の中の故郷像
この映画では、寺山の故郷へのイメージ、いわば脚色された記憶が、自由に実体化して現われる。黒い角巻の老婆の群は、正面から対峙することなく、裏から陰口をたたく地域社会の陰湿さを象徴するものだろう。サーカスの天幕小屋の中で蛇使いの女と黒メガネの男が全裸で絡み合っているのを見て、「地獄だ」と叫んで逃げ出すシーンは、「父が出征の夜、母ともつれ合って、布団からはみ出させた四本の足、赤い襦袢、20ワットの裸電球のお月様の下でありありと目撃した生のイメージ」が「私の少年時代の地獄」の一つだったという体験を移し変えたもののようだ。恐山には、花を食わえた巫女が踊り狂い、血のような真っ赤な色に染まった湖で男がコントラバスを弾いている、悪夢のような光景が広がっている。演出ノートにおいて、「「家」の中に、外部の光景、津軽海峡や恐山を持ち込み、荒涼とした土地、田園に仏壇や鏡台のような家具を持ち出す、という内外の倒錯を考え出した」とあるように、ここでは故郷の家、家具、故郷の景色、空想の中でした体験と実体験など、過去の記憶に存在する全てのものが渾然一体となっている。だから「少年倶楽部」の中に出てきた「鞍馬天狗」などの架空のキャラクターも、現実の人間と同じように現われるのだ。ストーリーと関係なく出てくる個性的な人物の多くも、記憶に存在するさまざまな「物」あるいは「風景」のひとつに過ぎず、俳優も美術や小道具と同格の存在になってしまっている。
この映画の中では時間の流れもゆがんでいる。少年時代の私と現代の私は二十年の時間を自由に行き来するし、この二人が将棋を指しているわずかの間に、草衣は村から出奔して東京へいき、モダンになって帰ってくる。修学旅行の少年たちの一団は、三途の川の橋を渡り、戻ってくる頃には老人になっているし、理髪店で散髪をされる少年は終わる頃には大人になっている。二十年間の時の流れもまた、渾然一体に溶けあっている。
寺山は演出ノートにおいて、「これは一人の青年の自叙伝の形式を借りた虚構である。われわれは歴史の呪縛から解放されるためには、何よりもまず、個の記憶から自由にならなければならない。この映画では、一人の青年の「記憶の修正の試み」を通して、彼自身のアイデンティティの所在を追及しようとするものである」と言っている。これは「書き換えの効かない過去なんてないんだ」と言って、自分の実人生を虚構化しつづけた寺山自身の姿を、さらにもう一つの虚構の枠組みを使って描こうとしたものと言えるだろう。映画的リアリズムの現実原則に乗っ取っておらず、目指されているのはあくまで天井桟敷の劇的な世界である。
シナリオを読むと一人一人に個性的な名前がつけられていて驚くのだが、劇中でしっかりと名前が呼ばれるのは「私」の少年時代の「新ちゃん」という呼び名のみである。それは、母親が子供に対して執拗なまでに語りかけるのに比べ、他の人物の間でコミュニケーションが希薄だからかもしれない。少年は化鳥に対して憧れ以上の気持ちを持たないし、草衣が出産し間引きするのにもたいした関心を持たない。村人たちは土俗的な共同体の一員として、そのありようを示す以上の個人的なことはしないし、サーカスの人々は存在自体が虚構化されているので、そもそも名前が意味を持たない。この映画で最も長く一対一のコミュニケーションが行われるのは、「私」と少年時代の「私」の間なのである。
「演劇では、誰かに名を呼ばれるまでは登場人物は何者でもない」という誰かの言葉がある。寺山も戯曲「青ひげ公の城」や映画「上海異人娼館」の中で、「あなたは誰ですか」と問われた俳優志望の少女に「誰でもありません、まだ。これから、なるんです」と答えさせている。『田園に死す』にも「役場の戸籍係が戸籍原本を持って行方不明になったので、自分が誰だかわからなくなってしまった人が出ている」というエピソードが出てくるが、名前はあくまでも便宜的に決められた記号に過ぎず、登場人物は事象として捉えられている。噂話をする角巻の婆達、父無し子を間引きした女、美しい隣の花嫁という風に、である。
映画「書を捨てよ町へ出よう」は逆のパターンで、劇中では名前が呼ばれるのに、シナリオでは「私」「彼」などとなっていて、ラストシーンでは、スタッフロールがなく、代わりにスタッフ・役者全員の顔が映し出されていく。顔こそがその人なのだということだろう。
映画『さらば箱舟』に出てきた記憶喪失の男は、身の回りのもの全てに、その名前を書いた手紙を貼っていく。そのうちに、名前だけでなくそれが何のためのものなのかも忘れてしまい、一つの問いかけがなされる。「いくら書いても、そのうちに文字を忘れるときが来るぞ……何一つ読めなくなる日がやってくる」と。名前も用途も忘れ去られたときにこそ、そのものの本質が一体何であるのかが改めて問われるのである。
この映画に全編にわたって蔓延し、その世界観を縛っているのものに、あまりにも強烈な母親のイメージがある。母親が畳をめくるとその下に荒涼とした恐山が広がっている光景からして、全てが母がいる家の中での悪夢であるかのような雰囲気がある。寺山はエッセイ集『さかさま世界史・英雄伝』の中で古代ローマの暴君ネロについて「ネロにとってのローマ帝国は、アグリッピナの胎内の中にしか存在しなかった」と書いているが、この映画はまさしくそのイメージを持った、母の掌の上での物語、胎内めぐりの物語と言えるだろう。一貫して表れる「赤(血)」のイメージも、犯されたセーラー服の女学生の足から流れ出す血、忌中と書かれた紙や母の櫛から滲み出て来る血、冬田に埋められる真っ赤な櫛、間引きの場面で流れてくる雛壇など、女の業を意識させるものが多い。特に真っ赤に染まった宇曽利山湖から私が感じ取ったのは、母の生理の地で真っ赤に染まった便器を見てしまったときのような、言いようのない嫌悪感だった。
胎内巡りというイメージと重なるが、この映画は多重に入れ子構造をもった映画であることが、ストーリーの進展にしたがって明らかになる。過去の虚構化を行いつつ、常にその虚構を暴く視点を挿入する。主人公の少年は、母親を捨て、隣の人妻と汽車に乗って駆け落ちしようとする。これが第一のレベル。しかしそのとき、実はそれまで語られていた物語が実は真の主人公である「私」の少年時代を描いた映画だったことが判明する。そして「私」が「田園の風景は、あんなにこぎれいなものではなかった(中略)私の少年時代は私の嘘だった」と叫ぶにいたり、それまでの物語は虚構として暴かれる。これが第二のレベル。しかし、「私」が自分の過去を作り変えるために、少年時代の世界に入り込んでいくにいたって、虚構のレベルは曖昧になっていく。「私」は結局母を殺すことができず、少年時代の自分の家で一緒に飯を食うことになる。すると突然家のセットが崩れ落ち、現実の新宿の街が現われる。ここで再び虚構性が暴かれ、第三のレベルとして現実の風景が映し出されるわけだが、登場人物たちが新宿の雑踏に(寺山の市街劇さながらに)紛れ込んでいくことで、現実と虚構、過去と現在が互いに溶け合っていく。そしてすべてが真っ白に消えていく中で映画は終わる。
たとえるなら夢野久作の『ドグラ・マグラ』における「胎児の夢」のような世界だ。虚構の外にはまた虚構の世界、生まれ出たつもりでもすべては胎内の中の幻想に過ぎない。そんな虚構地獄、母地獄の世界。それは最後のシーンで本物の現実の街さえ侵蝕していくのだ。 
第四節 置換不能なイメージ
寺山修司の映画には、他のものでは置き換えの効かない、頭の中のイメージをそのまま映像化したような場面が、たびたび現われてくる。『田園に死す』で最も印象的なのは、子供を間引きすると、川の上流から雛壇が流れてくるシーンであろう。ト書きでは以下のようになっている。
〈草衣、赤ん坊を抱いて川のほとりに立っている。しばらく迷っているが、思い切って赤ん坊を包みに来るんで川に流し捨てる。泣きながら流れていく赤ん坊。大声で叫び、目を覆う草衣。やがて、赤ん坊を追って転ぶように川の中に入っていく。川の上流から、赤いモウセンに乗ったお雛様のセットが華やかに流れてくる。〉
殺された子供は父無し子の女の子で、痣があったため犬神憑きだということで村人に殺すように強要される。流れてくる雛壇は、生きるはずだった人生へのはなむけだろう。だが、単なる哀しい間引きの場面に終わらない不気味さを持っているのは、赤ん坊が本物の赤ん坊や可愛い人形を使って描かれていないことだ。赤ん坊ははっきりと正面から写されることはないが、焼け焦げた人形が使われている。その様子は不気味なケロイド状の肉隗という感じで、村人たちの言い分が当たっている事を暗示する。それでも草衣はこの肉隗のような赤ん坊を可愛がり、必死で間引きから守ろうとする。寺山はフリークスを日常を祝祭的空間に変えてくれる存在として愛し、それを排除しようとするような閉鎖的な社会を憎んだ。その思いがこの場面に表れているのかもしれない。村の因習では痣があっただけで、犬神憑きとして排除されるが、劇中に登場するサーカス団のような別の価値観を持った世界では、それ以上の畸形児たちが人気者になっているのだ。このシーンの間、醜いせむし娘(これもフリークス)の姿に扮した蘭妖子が「惜春鳥」を歌い、哀感を高める。
〈姉が血を吐く 妹が火吐く 謎の暗闇 壜を吐く 壜の中身の 三日月青く 指で触れば 身も細る 一人地獄を さまようあなた 戸籍謄本ぬすまれて 血よりも赤き 花ふりながら 人の恨みを めじるしに 影をなくした 天文学は まっくらくらの 家なき子 銀の羊と うぐいす連れて あたしゃ死ぬまで あとつける〉
この歌の歌詞は意味として繋がるところは少なく、映像のイメージともそれほど一致しない。「一人地獄をさまよう」「戸籍謄本ぬすまれて」「家なき子」といった部分は父無し子を生むことで、村から疎外されてさまよっている草衣の姿と重なり、全体としては、女の不幸や阻害されたものの孤独を唄っているように思えないでもない。だが実は、この歌は西条八十の詩「トミノの地獄」を元にして作ったものらしい。寺山は『人生処方詩集』においてこの詩を紹介し、「魔術、手品、熊娘、ろくろ首、サーカス、花札、刺青、海賊船、中将湯、命の母、吃り、対人赤面恐怖症、法医学、地獄、人買い、人形、絵本。ああ、幼年時代!」という解説をつけている。自分の作品として作り変えたこの詩にしても、意味の繋がりを考えるより、幼年時代の記憶のイメージのコラージュとして読み取った方がよいようだ。 
第五節 関係づけられる作品群
この作品の虚構の多重構造によって造られている。これはたとえば、筒井康隆のSF小説『朝のガスパール』に類似している。この作品では、「まぼろしの遊撃隊」というコンピューターゲームの物語が第一のレベル、そのゲームで遊ぶ登場人物たちの物語が第二のレベル、これらを書き綴っている作者が喋る第三のレベルという風に、虚構が多重性を持って描かれている。この三つのレベルは、『田園に死す』の、嘘の少年時代、二十年後の私、新宿の実景の三つのレベルと重なり合う。小説のクライマックス、第一のレベルのゲームのキャラクターが、画面から飛び出して第二のレベルの世界で戦いをはじめる。そして三つのレベルの登場人物が一堂に会してパーティーを行う中で作品の幕が閉じられる。これらの虚構のレベルの突破も類似している。(もっとも複製芸術である以上、スクリーンに映し出された―あるいは文字として印刷された―瞬間に、すべては虚構の一部となってしまうのは避けられない。やはり寺山にとっての現実との壁を破るのは、市街劇であろう。)虚構の多重性、それはすなわち我々が現実だと思っているものの多重性ということになるが、これは最近のSFではある意味ありふれたテーマである。最近の作品ではアメリカ映画「マトリックス」(1999年)が、コンピュータによって与えられた現実そっくりの虚構の世界で生かされる人々を描いた。人間たちは虚構の世界から目覚め、現実世界でコンピュータとの戦いを始める。また、日本映画「アヴァロン」(2000年)では、仮想現実(バーチャルリアリティ)世界での戦争ゲームに熱中する近未来の人間が描かれた。主人公がその仮想現実の深淵へと進むと、そこのあったのは(我々映画館で映画を見ている人間がいる次元という意味での)「現実」の世界だったというあたりは、『田園に死す』に通じるところがある。その他にも、寺山の作品には、さまざまな機械が登場して人間とモノが同等に扱われたり、義眼・義手・義肢などが生身の肉体と入れ替えられたり(サイボーグ)、記憶が自由に書き換えられたり(サイバースペース)と、サイバーパンクSFの要素が多分に含まれているある。にもかかわらず、そういう印象があまり感じられないのは、おどろおどろしい世界に覆い隠されているからだろう。、近未来よりも前近代的な舞台を使い、有用性よりも存在そのものや呪術性に機械の主眼が置かれて、中世科学や錬金術と言った世界にとどまっている。
作品全体がフェリーニの『アマルコルド』と通底することがよく指摘されているが、個人的にはそれほど感じなかった。巨女願望という部分では、『田園に死す』の少年が空気女に頼まれて空気を入れてやるが、「全然駄目ね」といわれるシーンと、『アマルコルド』の主人公が大女のタバコ屋の女主人に胸をはだけて迫られるが、満足させられずに追い出されるシーンとは重なってくるし、そのほか、狂女、サーカス(見世物小屋)への愛着、空想癖といった部分も共通しているとはいえるが、これらはそれまでの寺山作品でも繰り返し描かれてきたモチーフであるし、年上の女性へのあこがれ、田園風景などと言った部分は、少年時代を描こうとすれば必ず出てくるものである。むしろその他のフェリーニ作品、『魂のジュリエッタ』における妄想のキャラクターが実体化して出てくるシーンや、人力飛行機での逃走、『そして船は行く』のラストの映画のセットを写して虚構性を暴いてしまうシーンなどの方に、寺山の映画の実験的な試みとの共通点を挙げることができるように思う。 
第二章 母と子の相克

 

第一節 母捨ての思想
寺山作品に少し触れたものなら、そこに強く母の影響があることに気づくに違いない。寺山は「家出のすすめ」を書き、封建的な血縁関係から逃れて、個人として自立することを説いた。しかし「時には母のない子のように」の歌詞が「だけど心はすぐ変わる⁄母のない子になったなら⁄誰にも愛を話せない」と結ばれているように、結局は終生母を捨てることができなかった。そこには非常に屈折した愛憎の感情が感じられる。
寺山が「母捨て」ということを考え始めたのは、25歳で「家出のすすめ」を書いた頃からのようである。幼いころに父が戦病死し、母が出稼ぎに行ってしまったため、親戚の元で暮らしていた寺山は、一般的な家庭というのを味わったことがなかった。少年時代の寺山にとっては、母は遠きにありてその温もりを恋焦がれる存在だった。もし表面上母を憎んでいたとしても、それは手に入らないものを、「俺はそんな物なんか欲しくなんかないさ」と強がる、「すっぱい葡萄」のきつねのような気分だったのだろう。この頃の遠くにいる幻の母を想像する心持ちが、映画『草迷宮』などの作品で描かれるような、どこかにいる幻の美しい母を捜し求める心情へとつながっていく。
二人が普通の母子のように一緒の生活を持てるようになったのは、寺山が大学を病気で休学して四年間の入院生活し、それが回復してからのことである。しかし、二人の空想と現実は異なっていた。母はつにとって、寺山は昔別れたままの子供で、ようやく母子一緒に水入らずで生きていけると考えていたのだが、寺山はもう母に焦がれる少年ではなく、すっかり大人になってしまっていたのだ。寺山は九条今日子と交際していた頃、母について「ずっと離れて暮らしていたから、あの人といるとどうしたらいいかわからなくなるんだ」ともらした。寺山にとって、目の前にいる母は、もはやどう扱っていいかわからない単なる年上の女性に過ぎなくなってしまっていたのだった。遠きにありて想いを寄せていた母は、常にそばにあって自分を縛り付けるものへと変化した。これ以降同じ部屋に暮らすようなことはなかったものの、寺山ははつと常に近い場所にいて、捨てたりするようなことはなかった。むしろ現実に殺せないからこそ、虚構の中で執拗に殺し続けたのだとも言える。
渋谷の天井桟敷館時代は、階下ではつが喫茶店をやり、晩年は松風荘で寺山が二階に、はつが一階に住んでいた。高尾霊園にあるお墓でも、二人の骨壷が二層に納められていて、上に寺山が、下にハツが入れられていて、松風荘での関係が繰り返されている。寺山の後期の演劇『レミング』では、これに良く似た関係が描かれる。『レミング』の主人公の母親は、息子のアパートの床下に住んでいる。そして息子が間違ったことをしでかさないかと、動向を常に監視している。そして、床下の地面を耕して、そこに故郷のあったような畑と家を作って、息子を引きずり込もうとするのである。
寺山の母ハツはかなり強烈な個性の持ち主だったことは、多くの人が証明している。九条今日子は「ムッシュウ・寺山修司」で、「私たちが、どう逆立ちしたって、太刀打ちできないお母さんであった。寺山自身さえもお母さんには勝てなかった」「とにかく何時間か、お母さんと接したあとは、体の芯がぐったりと疲れてしまい、その後、茫然自失状態になってしまうのだ」と書いている。かなりエキセントリックな所があって、寺山が黙って海外公演に行ってしまったとき、逆上して天井桟敷館に「火をつけてやる」と言って騒いだことがあるそうである。森崎偏陸も、「ふつうなら「修ちゃんが私のそばから消えました」で言葉がとぎれていいはずなのに「修ちゃんが修ちゃんが修ちゃんが修ちゃんが修ちゃんが修ちゃんが…」(笑)でしょ。ああ、もうお疲れ様だよ(笑)」と、そのエネルギーの凄さを語っている。
こうした子供に執着するエネルギーは、ハツが私生児だったことも影響しているようである。「当時、活動写真の興行をしていた坂本家の長男の亀太郎が、女中に手を出し、その女中はすぐに追い出されたが、その後妊娠した。女中は坂本家を出されてから一年後に産まれた赤ん坊を返しにきて、坂本家の麦畑に捨てて行った。やがて赤ん坊は世間体を気にして漁師の家に養子に出された。これがハツだった」というのが、だいたいの生い立ちである。寺山はこの実際のエピソードを、長編詩『李庚順』、『誰か故郷を思わざる』、小説『ああ荒野』などで形を変えてたびたび使用している。私生児として阻害された経験が、狂おしいまでの「家庭」への執着を生んだのだろう。演劇『青森県のせむし男』に出てくる女主人大正マツが、かつて自分が奉公先の主人に犯されたことの復讐に、若い男を家に泊めては手篭めにしてしまうというエピソードは、ほとんど寺山一家の血への復讐であるかのようである。
このような強烈な母の抑圧があったからこそ、対抗する形で寺山のエネルギーも高まったのではないだろうか。自伝抄『消しゴム』に次のようなエピソードがある。
〈私は、「家出のすすめ」を書いてるんだよ。と母に言った。母は、「ああ、あたしも賛成だよ」と言った。「家出するなら、母さんも一緒に行ってあげるからね」〉
寺山の家出の思想も、母にとってはあくまで自分の腕の中でのこととして、考えられている。母にとっては子供こそが生きることそのものなのであり、それのない人生は考えられないのである。『田園に死す』においても、主人公は母から逃げたいと思うが、「家出するときに一緒について来てしまった」「逃げたってどこまでだって追って来るさ」と言って、その執着から逃れることを半ばあきらめている。子供にしてみれば、迷惑この上ない話で、本来なら人は自分一人の生を生きるだけで精一杯のはずなのだが、母と自分の二人分の生を生きなければならないのである。
『田園に死す』の母親は、白塗りの非常におぞましい形で描かれていた。とくに「二十年後のアパートの一室でだらしなく笑う」シーンなどは、あまりに極端に醜く描かれているため、笑いを誘うほどだ。寺山作品において、母はたいてい子供に執着する醜さを強調して描かれていて、『レミング』や『邪宗門』のようにむくつけき男優に演じられる。そういう意味では、おかまが主人公の『毛皮のマリー』なども同じ種類に入るかもしれない。これらの物語の主人公は母親を何度も捨てようとするが、結局は捨てられない。「田園に死す」の主人公は「たかが映画の中でさえ母を殺すことができなかった」し、「青ひげ」の主人公は、嫁をもらうために母を山に捨てるが、嫁が手におえずにもう一度母を捜しにいき、結局は山で生きているであろう母のことを思いながら、童貞のまま死んで行く。
東京を舞台にしたものでも同様で、映画「書を捨てよ町へ出よう」では主人公の母親は死んでいるが、ここでは母と子の対立という関係は主人公の父親と祖母の関係に置き換えられている。捨てられようとされる祖母の空想として、縄で縛られた母親たちの乗ったリヤカーを引く男が、ちり紙交換のように「いらなくなった母を引き取ります」と言いながら町を歩くシーンが出てくる。しかしこの父親は、祖母を養老院に引き取らせた後も全く人間的な変化を見せない。姥捨てを他人の手にゆだねたからか、それとも捨てるのが遅すぎたのだろうか。
「西部劇はボーイがマンになる話だ」といっていた人がいたが、そういう意味では寺山の作品は、「ボーイがマンになれない物語」ということになるのかもしれない。
多様な母のイメージに対して、父親というのはほとんど寺山作品には登場しない。すでに死んでいるか、「書を捨てよ町へ出よう」や「ああ荒野」に出てくるような情けない親父である。「飲んだくれで、赤面症でどもりで、女湯覗きの常習犯で、手淫がやめられない」親父ということになるのだが、それは息子も同じイメージで固められていることが多い。「親父のことも書きたいんだけど、顔を覚えてないからね」と自身で語っているように、父を幼いころになくした寺山にとって、主人公の(自分自身の)コピーとしての父親像しか描くことができなかったのかもしれない。実際の寺山の父親は特高の刑事で、戦争中に思想犯を痛めつけような人物なので、母と違い、実際の父の姿は作品にはほとんど反映されていない。むしろ越えるべき対象は、兄貴分の形で現われる。
「書を捨てよ町へ出よう」において情けない父を演じた斎藤正治は、「田園に死す」でも、布団の中に隠し持っている草刈鎌におびえて美しい妻を抱くことができず、押し花を作ることに熱中している、情けない夫を演じていた。この夫の姿は「青ひげ」などの主人公と重なる。「書を捨てよ町へ出よう」や「ああ荒野」の主人公は父親を憎む。しかしそれは、将来の自分の姿を暗示されているような感覚から来るもので、同族嫌悪というものだろう。「私には殺すべき父親がいなかった。だから、エディプスの「父親を殺して、母を寝取る」という神話が、はじめから成立しようがなかった」(「父親なきエディプス」)と寺山自身が記している。寺山流に言えば、「寺山の劇世界は、一人の父親の不在によって充たされているのである」といったところか。「書を捨てよ町へ出よう」の主人公は、一方で、父親に屋台をプレゼントして、商売に打ち込ませようとする。それは失われた強い父親像を取り戻して欲しい、と言う願望であろう。 
第二節 二つの母親像
映画「サード」と「草迷宮」の主人公は、パンツ一枚(全裸)で母親の前に出てくる。母親は困って苦笑いするのだが、ここに含まれる意味はかなり違う。「サード」の主人公は、母を異性と認識していないからこそパンツ一枚で出てくるのだが、母は「お母さんだって女なんだからね」と言ってたしなめる。寺山作品の母たちは、自らの醜さを自覚することなく、「女」としての性を振りかざしながら、子供を縛り付け、子供が憧れる女に嫉妬し追い払おうとする。彼女たちにとって、息子は自分の唯一の生きがいである一方で、亡き夫の身代わりとしての意味も持って来る。恐らく、母となる人物が登場する寺山作品では必ず使われるフレーズ、「あたしたち二人っきりの家族なんだからね」という言葉は、この浮世を二人っきりで助け合っていこうというよりも、母子の二人だけを永遠の関係として、家族に新たな人物が加わることを許さない、と言う感情が読み取れる。だから「アダムとイブ、私の犯罪学」の母は、夫が死んだ後で、「ねえ、あたしの汗を拭いておくれよ、父ちゃんがしてくれたように。おまえ、あたしのことどう思う。ただ母親だってふうにしか感じないかい」と息子に迫る。この姿が滑稽な、あるいは無気味なのは、息子にとって母は、自分の自由を縛る、醜い中年の女でしかないということを、母が全く自覚していないということだ。この互いの抱く感情のギャップはどちらかにとって悲劇的な結果を生む。「アダムとイブ、私の犯罪学」では、長男は母を精神病院に送り込んでしまうし、「レミング」では逆に、母は息子の王を、自分の住処の床下に突き落として「もうどこにも行かせ」ないようにしてしまう。
一方、「草迷宮」の主人公の明が母の前に全裸で出てくるのは、明らかに自分が「男」で母が「女」であることを意識した上であり、自分の一物を見せびらかすかのようにする。寺山作品では、「草迷宮」、「身毒丸」のように現実の母親に対して、どこかにいる幻想の母親が非常に美しい形で現われる場合もある。それは別々に暮らした少年時代の空想が作り出したものだろう。どこかにまだ見ぬ自分の本当の母親がいるに違いないという思いが表れている。「草迷宮」では、少年の明が美しい母と暮らしている物語と、青年の明が死んだ母の手毬歌を探してさまよう物語が、重なり合いながら進む二重構造を持っているし、「身毒丸」では、主人公のしんとくは死んだ母を捜してさまようが、ようやく見つけた母は継母と同じ顔をしている。これらの作品では、血が繋がっているようでもいないようでもあり、母であるようで女でもあるような、近親相姦的な危ういイメージを帯びてくる。演出的な面で言えば、普段なら主人公が憧れる女役などを演じる新高恵子が、これらの作品では母親を演じている。少年にとって、母親に憧れる感情と女に憧れる感情は似たものであり、「田園に死す」における隣の人妻への思いなども、恋であるよりは、「こんな美しい人に、自分の母になって欲しい」という思いかもしれない。
上記の三作品に共通して出てくるのが、「お母さん、僕をもう一度妊娠してください」という意味の言葉である。これは永井善三郎の「母だけへの遺書」という詩から来たものらしい。それはもう一度生きるためには、一度妊娠されねばならないという、死と再生の枠組みを示している。「田園に死す」においては、焼け跡で淫売として過ごしたやり直しの聞かない過去をリセットしたいという化鳥の言葉として使われて、寺山の標榜しつづけた「過去の書き換え」の考えの現われにもなっている。 
「草迷宮」と「身毒丸」では「母恋い」の心情が加えられ、胎内回帰願望を示していると同時に、セックスの行き着く先として、そのまま女のお腹の中にもぐりこんでしまいたい、という意味も付加されている。「身毒丸」においては、「おとなになるのが、おそすぎた。子供でいるには、はやすぎた」と語り手が言うように、しんとくは継母の子供にもなりきれず、恋人にもなれないジレンマの中で、上のセリフを口にする。もう一度、本当の子供か、あるいは恋人として生み直してほしいということだろう。そしてその思いに答えるように、「暗闇の中から、それぞれ思い思いの意匠を凝らして現われてくる母、母、母、全ての登場人物、母に化身して、唇赤く、絶叫する裸の少年しんとくを包み込み、抱き寄せ、舌なめずりして、ばらばらにして、食ってしまう(中略)すべては胎内の迷宮に限りなく落ちてゆく」のである。この凄まじいイメージで表現されているように、愛情は究極的には、「相手を喰ってしまいたい」というところに行き着くのかもしれない。「草迷宮」でも同様で、母が「ほら、お前をもう一度妊娠してやったんだ」と言った後、少年の明は死んで母は花嫁装束になり、青年の明はいつの間にか父と同じ姿になっているのである。さらに西瓜、手毬、満月、子産石などの球体のイメージが無数に現われ、妊婦のお腹や乳房を想起させる。空気女や大山デブコに見られる巨女願望も、同様のものであろう。
男になるということは、母を求めるのをやめ、自分の女を手にすることでもある。「書を捨てよ町へ出よう」で主人公が売春宿の緑に性の手ほどきを受けるシーンと、「田園に死す」で少年時代の「私」が草衣に寺の本堂に連れ込まれて襲われるシーンは演出やシーザーの呪術的な音楽が流れる点で類似しているが、途中で逃げ出した「書を捨てよ町へ出よう」の主人公が最後まで兄貴分を越えられないのに対し、最後までしてしまった「田園に死す」の少年は、現在の私を裏切り、家を捨ててどこかへ旅立ってしまう。 
第三節 家のメタファーとしての小道具
寺山作品では、家のイメージを強化するものとして、仏壇や遺影や柱時計などの小道具が登場する。「田園に死す」や「青ひげ」の母親は柱時計にこだわり、腕時計を持ちたがる子を戒める。「時間はね、こうやって、大きい時計に入れて家の柱にかけとくのが一番いいんだよ。それを腕時計なんかに入れて外へ持ち出そうなんて、とんでもない考えだよ」と。柱時計に支配された時間の中では、人は永遠に家の中で生きていかなくてはいけない。そこで少年は永遠に少年のままだ。それは居心地のいい牢獄のようなもので、「毛皮のマリー」の少年のように外の世界の現実の醜さに絶えられず、自らそこに閉じこもってしまうことにもなる。一つの時間によって支配された世界は羊水の中の世界とも言える。それから逃れるためには、腕時計を買って「自分自身の時間」を持たねばならない。
「さらば箱舟」に登場する村は、本家の大作によって全ての時計を壊される。村全体は一つの時計によって支配され、時間が止まったように何も変わらない日々が続く。その世界は隣村からやってきた腕時計をした男によって、別の時間を持ち込まれることで破壊される。それは一つの価値観しかなかった土俗的な村が、他の町から多様な価値観が流入することで近代化していく過程でもある。「田園に死す」においては、少年の姿と二重写しになるように、縄で縛り付けられた柱時計が出てくる。少年が家出していった後、少年の母が胸に柱時計が抱いてさまよう、こんなシーンがある。
〈柱時計を抱いて、恐山を降りてくる少年の母。風に髪を吹かれて鬼子母神のように見える。音楽「桜暗黒方丈記」。
天に鈴ふる巡礼や 地に母なる淫売や 赤き血しほの ひなげしは 
家の地獄に咲きつぐや 柱時計の恐山 われは不幸の子なりけり 
死んでくださいお母さん 死んでくださいお母さん 
地獄極楽呼子鳥 桜暗黒方丈記
歌が「死んで下さいお母さん」のところまで来たところで、母振り向く。髪乱れた悲痛な顔。その振り向いた恐山の稜線に、一人、二人、三人…と十人を超える少年時代の私が、同じように柱時計を抱いて、ゆっくりと夢魔のように現れて立つ。
母親 新ちゃーんっ
立ち込めてくる恐山の湯煙に、少年は消え、母もかき消える 〉
「柱時計の恐山」という言葉からも、時計が「家」のメタファーであることがわかる。母は家の時間にすがってさまよい、自分の時間を手に入れた少年たちは、母を捨てて旅立っていく。無数の柱時計を持った少年たちは、無数の価値観と世界の可能性の象徴だろう。「死んでくださいお母さん」は母を捨てようとする少年の正直な心情であり、「母なる淫売」は母を捨てるための侮蔑である。寺山は「戦うためには憎まなくてはならない」と「ああ荒野」で言っているが、母を捨てるためには母を、侮蔑し、憎み、そして殺すことが必要なのだろう。実際に母ハツは、アメリカ兵の相手をすることで(寺山が言うように水商売だったのか、ハツ本人が言うようにただのメイドだったのかは判然としないが)お金を稼いでいたので、実際にも心のどこかで「淫売だ」と思っていたのかもしれない。
前述した少年時代の私が草衣に襲われる場面で、ことが終わった後、力なく横たわっている少年の腕には、二十年後の私からもらった腕時計がはめられているのである。そして現在の私の方は、母を殺すことができず、柱時計が鳴り響く家の中で二十年前と同じように一緒に晩飯を食べつづけるのだった。
第一章でも触れたように、「田園に死す」における仏壇には、不在の父の代価物としての印象があり、母はひたすらそれを磨きつづける。また先祖の遺影には、姿は見えなくても生きているものを縛り付ける「血」、「家族代々のしきたり」を具現化した存在として、現実の人間同様の意味が付与されている。「田園に死す」の隣家では、親をいたわるがごとく毎日遺影を拭くことを強要されるし、「さらば箱舟」の捨吉とスエは床下に埋められた祖母の遺影によって生活を監視されているのである。 
第三章 東京と青森、二つの舞台

 

第一節 虚構化される町
寺山の作品は、土俗的・呪術的な因襲に被われた恐山の青森と、アウトロ−の集まる裏町・アングラ文化の中心としての東京・新宿の二ヶ所が、舞台になっていることが多い。青森を舞台とした作品は、映画では「田園に死す」、「草迷宮」、演劇では「青森県のせむし男」、「犬神」、「青ひげ」、「身毒丸」などが挙げられる。青森を舞台とした作品では、犬神憑き、間引き、イタコなどの土俗的なものがキーワードとなっていく。
東京を舞台にした物語としては、小説「ああ荒野」、映画では「書を捨てよ町へ出よう」、「初恋地獄篇」、「ボクサー」、演劇では「アダムとイブ、私の犯罪学」、「毛皮のマリー」、「千夜一夜物語 新宿版」などがある。もっとも、外国や架空の国を舞台にしたものと青森を舞台にしたものを除けば、残りはすべて東京が舞台といってもよい。また、劇の解体をテーマとした作品では、東京の町は虚構の延長線上のものとして、舞台装置の一部となっている。青森ものでは家出して東京に出ることを夢見る人物が出てくるし、東京を舞台とした作品では地方出身の東北訛りの青年が出てくるように、二つの世界はつながっている。
東京を舞台にした作品では、ボクサー、トルコ嬢、競馬無宿などの裏町の人物が描かれる。「千夜一夜物語 新宿版」は言うまでもなく、新宿の場末のトルコ風呂を舞台にした「アダムとイブ、私の犯罪学」や東京のゲイバーのママが総出演した「毛皮のマリー」などの作品は、新宿文化と切っても切り離せない関係にある。
寺山が、山谷初男に歌詞を提供したレコード「山谷初男の放浪詩集 新宿」はタイトルの示すとおり、新宿を舞台にしたものである。この中の歌「終電車の中で書いた詩」の「花園町歌舞伎町三光町番衆町柏木町人妻町」という虚実の入り混じった地名の羅列は、「田園に死す」の「大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ」という歌に通じるものがある。これらの場合、実際にこの地名があるかどうかよりも、青森や新宿というイメージを想起させる言葉が羅列されることのほうが重要なのだ。同じレコードに出てくる「青森県上北郡六戸村の桃ちゃん」といった歌詞や、「書を捨てよ町へ出よう」の主人公の「本籍、青森県上北郡六戸村大字犬落瀬 氏名、北村英明 昭和二十四年十月十一日六戸村古間木にて出生……そして我が家は新宿区戸塚一丁目三十三の九の家畜小屋だ」「青森県東津軽郡平内町大字小湊字小湊六四の一佐々木英明。その俺がカチンコの音がすると喋り出す」といった独白や、詩「なつかしの我が家」の「青森県浦町字橋本の小さな日当たりのいい庭で」がそうであろう。寺山作品には、具体性を持った住所や地名がたびたび出てくる。「東京都の電話帳のほうがロートレアモンの詩よりも詩的ではないか」と言ったように、寺山によって使われるとき、住所は、現実感を持った存在として読み手の想像力を書きたてると同時に、実際に町に出て自らの足で検証されることを待っている事件性を持った言葉となる。
ちなみに、寺山の青森での住所を簡単に上げていくと、寺山の出生地は弘前市紺屋町、本籍は上北郡六戸村(現三沢市)大字犬落瀬字古間木、その後引越しを繰り返し、青森市在住のときに橋本小学校に入学。青森大空襲で焼け出されてから、三沢の古間木近くの寺山食堂に間借りし、古間木小学校に転校。古間木中学に入学したのち、青森市松原町の大叔父夫婦に引き取られ、野分中学校に転校、といった感じである。作品中で使われる住所は、自分の履歴を元にしながら、その時々にあわせて合成していったことが読み取れる。 
第二節 裏町人生の東京
寺山は「東京東京東京東京・・・・ 書けば書くほど悲しくなる」という東京への憧れをあまりにも率直に歌った詩を書き、ここを第二の故郷とした。寺山の作品、特にエッセイにおいては、トルコの桃ちゃんや寿司屋の政などの魅力的な人物や、ボクシング、競馬などに関連して、たびたび新宿の町のイメージが登場する。そこはエッセイ「スポーツ版・裏町人生」や映画「ボクサー」の泪橋食堂のシーンで描かれるような、裏町に住む差別された人々の集う場所である。彼らをサラリーマン的な日常の狭い倫理で捉えることはできない。寺山は「人形の家」のノラは家出した後娼婦になるぐらいしかなかっただろうが、私はそれでいいと思うのだ」といっているように、家に縛られて生きるよりは、一般的な倫理に背くこうとも個人として自由に生きるのがよいと考えている。
しかしこうやって描かれているのも、青森のイメージ同様、寺山修司によって脚色された虚構の新宿だろう。寺山が、自作の内容のどこまでが虚構でどこまでが真実なのかを語ることはほとんどないが、1977年に出演した「徹子の部屋」において、自分がしていた競馬予想欄について、「競馬の予想をもう十年も新聞でやってるけど、必ず寿司屋のマサとトルコの桃ちゃんというのが出てきて、予想するような形になっちゃってるんですね。(「ご自分の創作ですか」と聞かれ、)まあそんなふうなものですね。もう十何年だから、本人たちが本当にいたらそれだけ年をとってなきゃいけないんだけど、いつも同じだから」といって、出身地の住所やプロフィールまで記したこの二人が創作上の人物であることを明かしている。これに対して、青森を舞台にした登場人物には、印象的な者がいない。もちろん多彩な人物が登場はするのだが、強烈な母と家のイメージの前にかすんでしまっている。
東京を舞台とした作品でも、青森の場合と同様、たいてい東北訛りの抜けない気弱な青年が主人公である。東京では、青森でのような母との相克よりも、彼と兄貴分の相克、あるいは社会との相克という部分の比重が強くなっている。東京において主人公をしばりつけるのは、自らの―政治的・金銭的・性的―非力さである。ほとんどの場合結果が敗北に終わる点では、どちらも同じである。「ああ荒野」の新宿新次や「書を捨てよ町へ出よう」の近江が兄貴分の代表的なものだろう。主人公ははじめ彼らに弟のようにかわいがられながら、一種同性愛的な感情を持っていて、やがて超えるべき対象として認識するのだが、結局は勝てない。「ああ荒野」の主人公バリカンは新宿新次とのボクシングの試合の中で死んでいくし、「書を捨てよ」の主人公は近江に妹を奪われた上、騙されて盗品の屋台を買わされて警察につかまる。「田園に死す」に出てくる、あこがれの人妻をさらっていく共産党員の男や、「青ひげ」で自分に体を許さない嫁を寝取る男なども同様なものだろう。これらの主人公たちは一様に、薄笑いを浮かべている。「薄笑い」というのは、目の前の現実を「まあ、しょうがないなあ」と妥協し、やすやすと受け入れることである。彼等に必要なのは、現実に対し「怒り」、行動を起こすことである。笑いながら戦うことはできない。兄貴分を乗り越えるためにも、相手を敵として「憎む」ことが必要なのだ。
これらの対立を見るとき、どうしても青森訛りの方に寺山の自己が投影されているよな気がするが、必ずしもそうではない。近江が語る「サッカーが好きなのは、玉大きくてその分男性的だからだ」とか「ヨーロッパでは五人組という新しい家族制度が生まれている」と言った言説は、寺山がエッセイで語っている持論そのままだからだ。自分の陽の部分と陰の部分をそれぞれ具現化したのだろう。最後まで母のそばで暮らしたのも、「家出のすすめ」を説いたのも、同じ寺山なのである。
また、脚本を担当した映画「乾いた湖」の主人公は、画一的なデモを軽蔑し、爆弾テロを計画するが、実行の直前になって以前のつまらない暴力沙汰のために逮捕される。寺山作品の主人公たちは、母や地縁的な呪縛のないところであっても、また何か別のものとの対決を迫られ、敗北していくのである。
東京では、都会人としての心の孤独も問題になってくる。私自身上京して故郷を振り返る中で実感として感じることだが、田舎においては血縁的・地縁的な呪縛や、古い因襲やしきたりなどによる呪縛が強い。しかし、それは一方で常に何らかの共同体に属しているという安心感も与えてくれる。隣組的な要素は、互いに親密に付き合い困ったときは助け合うという面と、集団の秩序を破るものは村八分にし、異物を徹底的に排除する面をもっている。寺山作品ではそれは徹底して描かれ、「田園に死す」では、父なし子を生んだ草衣は村中の人間に「犬憑きの子は殺さないと村に悪いことが起こる」と責められ、子供を間引きせざるを得なくなる。草衣は故郷を捨てて東京に出ることで、赤襦袢の着たきりすずめの女から、美しい都会的な女性に変わって戻ってくる。
だからといって東京に出て自由になれば幸せになれるのかといえば、必ずしもそうではない。何の呪縛もない、すなわち他人との接触を失う中で、人は限りない孤独を感じることになる。それは「誰か私に話し掛けてください」という札を下げて街中に立ったり、「宝くじがあたった」と嘘をついて他人の気を引いたりする老人や、「人に好かれる法」という本を読んだり、「どもり対人赤面恐怖は直る」というセミナーに必死で通う青年を生み出す。寺山作品の登場人物は、必死で他人との社会との関わりを求める。そこには、「自分は昔女優だった」、「昔力士だった」などと言って、やりきれない人生を「虚構化」して話す人々も現れてくる。「私自身の私的自叙伝」で語っているように、寺山にとって、ボクシングも殴り合いのかたちで行われる「肉体対話」としての意味を持っている。「ああ荒野」のバリカンが、新宿新次と戦うことを望むのも、「超えたい」というよりは、この孤独を埋めるための「話したい」という欲求である。バリカンは「拒絶されてもなお話し掛ける」ようにして新宿新次と戦う。しかし、この欲求は卑小で、一方的なものである。勝つために新次を憎むこともできず、女を抱くこともできなかったバリカンは、一方的に殴られて、対等の立場で「話す」ことができずに死ぬ。
長編小説「ああ荒野」(1966年)は、章ごとに冒頭に自作の短歌が引用されており、また、「自殺機械」の製作に没頭する大学生や、「どもり対人赤面症」の治療、「キャッチボールは二人の人間のボールを使ったコミュニケーションである」と言う思想など、寺山が繰り返し書いてきたモチーフが描かれており、「田園に死す」に対して新宿を舞台にしたものの集大成と言えるかもしれない。寺山は、この小説の中で、ネオンに照らされる町を、男と女が絡み合うシーツの上を、荒野に例える。そしてバリカンが死の瞬間にボクシングのリングの上で見るのも、「一望の荒野」なのである。
「田園に死す」の現代の私と少年時代の私が将棋を指す場面で、背後に広がっていたような、故郷の寂莫とした荒野を、寺山は新宿の雑踏の中に見出す。「田園に死す」の最後が「東京都新宿区新宿字恐山」というセリフで結ばれているが、恐山の荒涼とした風景は、常に都会人の心の中に常に潜んでいる。ラジオドラマ「恐山」の主人公は、「十年の間、私は人夫からボーイ、皿洗いまで、さまざまの仕事をしました。しかし、どこに行っても恐山はあった。どこの仕事場の背後にも血なまぐさい禿山の恐山は私の心を去らなかったのです」と、故郷の呪縛から逃れられない心情を語っている。 
第三節 恐山の青森
「田園に死す」に描かれる故郷は、恐山を通じて地獄と地続きであるかのようなイメージを出している。死者との会話もはイタコの口寄せによって自由にできる。このように、寺山世界では死の世界と生の世界が同じ次元に存在する。そのイメージを代表しているのが、J.A.シーザーの曲に乗って歌われるいくつかの合唱曲だろう。まず冒頭、タイトル文字が現われると同時に始まる「子供菩薩」がある(曲名も歌詞も、シナリオでは全てひらがなだが、ここでは便宜上漢字にして紹介する)。
〈賽の河原に集まりし 水子 間引き子 目くらの子 手足は岩にすりただれ 泣き泣き石を運ぶなり 指よりいずる血のしずく 身内をあけに 染めなして 父上恋し 母恋し             呼んで苦しく叫ぶなり ああ そは地獄 子供地獄の あ――〉
内容的には「恐山和讃」と重なるが、こちらは子供の合唱なので、不気味さよりも哀しげな感じの方が強い。「恐山和讃」の方が客観的、こちらの方が子供の主観が入っているような気がする。東北の自然環境はかなり厳しく、盛んに間引きが行われていたらしい。寺山のエッセイでも、幾種類もの間引き方が紹介されている。生きる前に殺された子供たちが、それでも親を恋う、悲痛なまでの思いが伝わってくる。劇中でも、草衣は、自分の生んだ赤ん坊に痣があったのを、村人に犬神憑きだと罵られ、災いが起こらぬように間引きさせられる。自分の意志で捨てるのではない点が、いっそう悲劇性を高めている。この合唱が恐山の荒涼とした映像を背景に冒頭に出てくることで、恐山イコール地獄と言うイメージが(それは幻想であるのだが)、観客に叩き込まれるのである。
有名な「恐山和讃」も少年が草衣に襲われるシーンで合唱されている。寺山はこの歌が自分の子守唄だったというが、それは虚構だろう。歌詞は「子供菩薩」同様のもので、少年時代の寺山の、不在の父母を恋う心情も反映されているようだ。回向の塔を積む子供の姿は、父母のいない家で「家族あわせ」に興じていた少年時代の寺山と重なってくる。
〈これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語 あああ 手足は血潮に染みながら 川原の石を取り集め これにて回向の塔をつむ 一つつんでは父のため 二つつんでは母のため 三つつんでは国のため 四つつんでは誰のため 兄弟わが身と回向して 昼はひとりで遊べども 日も入りあひのその頃に 地獄の鬼があらはれて つみたる塔をおしくずす あああ〉
この歌は、「青森県のせむし男」や「邪宗門」でも使われていて、J.A.シーザーとのコラボレーションの中では、最高傑作といっていい。少年と草衣のセックスのシーンでこの呪術的な音楽が流れること、そしてセックスが行われるのが、お寺の本堂の仏壇の前というのが、不思議な感じを与える。大人ぶろうとしても、まだまだ純粋な少年にとって、「性」はいまだ地獄のイメージなのだろう。俗な言い方をすれば、初体験をすることで「少年時代」が「死んで」しまった、その追悼の歌ということかもしれない。
恐山のエピソードとして使われるものの一つに、生まれ変わりの話がある。「家出のすすめ」に載っている「棺桶が歌っている」を要約すると、こんな内容だ。
ある日、ある百姓の次男が「姉さんはどっからこの家に来たの」と聞くので、姉は不審に思って弟に聞きかえしてみると、「自分は本当は隣村の平蔵の子だ」という。「自分は、六歳になったばかりで死んでしまった。棺桶につめられて運ばれて行き、やがて土を掘る音が聞こえて、埋められてしまった。しかし気が付くと、棺桶の中だと思っていたところは、実は畑の中で、一面に黄色い花が咲いていた。その花をもぎ取ろうとするとカラスが飛んできて邪魔をする。そこで家への一本道をとぼとぼ歩いていくと、白髪頭のじいさんがきて、「おまえの家はあれだ」と見知らぬ家を指して言う。その家が今の家だった」というのである。
この話はラジオドラマ「恐山」、「まんだら」や、長編叙事詩「地獄篇」、「花札伝奇」などでも形を変えて使われている。ここでは、死は再生への通過点であり、恐山はそのための場所として考えられている。第一章で映画「田園に死す」の恐山が胎内のイメージに包まれていることには触れたが、山は昔話でもよく胎内の比喩として使われる。「恐山」に出てくる老人は「生まれ変わるためには、死なねばならねえんだ」と言っている。これは「お母さん、もう一度僕を妊娠してください」という言葉とほとんど同じ意味である。恐山という死と生が同居する場所(胎内)に帰っていくことで、一度死に(妊娠され)、もう一度生まれることで成長を遂げるのだ。
「田園に死す」で、現在の「私」が語るエピソードに、「子供の頃、蛍を一匹つかまえてきた。母ちゃんに見せようと思って裏口からまわり込んでみたら、何だか変な声がした。戸のすきまからのぞくと母ちゃんが見たことのない男に抱かれていた。赤い蹴出しと毛脛が見えた。俺は吐き気がした。折角つかまえた蛍を見せるのをやめて、机の引出しにかくしておいた。その晩、遅くなってから、わが家に火事があり、近所の家まで焼けてしまった。警察では漏電だと言ったが嘘だった。ほんとは俺が机の引き出しにかくしておいた一匹の蛍の火が原因だったのだ」というのがある。これは寺山の少年時代のエピソードとしてたびたび使われるものの一つで、エッセイでは「蛍火抄」と名付けられている。ここでの蛍とはなんの比喩だろうか。その光は淡く儚く、何かの有用性を持って光るのではないので、それゆえに純粋な存在である。少年の純粋な心の象徴だといえる。その蛍の光を母にも見せてやりたいというのも、母を慕う少年の素直な気持ちだ。しかし、母親は男と寝ている。少年は醜い大人の世界への嫌悪感から「吐き気」を催す。実際、母を独占したい盛りの少年時代の寺山にとって、母親が水商売のようなことをしてお金を稼いでいるのは、かなり複雑な心境だったろう。少年は自分の純粋な心を押さえつけ、閉じ込める。たった一匹だというのも、少年の孤独な心を表している。だが、蛍の純粋な炎は、「こんな汚い家は燃やしてしまいたい」という少年の思いを具現化し、火事を起こしてしまうのだ。
今年青森の恐山を訪れた際、三沢の寺山修司記念館にも立ち寄り、開館二周年のイベントに参加した。周囲に広がる田園風景は、映画「田園に死す」で私と少年が将棋を指すシーンの背後に広がっている、遠く海鳴りの聞こえる田畑の風景と重なる。パネルディスカッションの場でも、九条今日子が「寺山が短歌や俳句や詩の中に書く、太平洋とか荒野とか地平線とかいうのは、みんな三沢の風景だ」と語っていたが、それは事実だろう。また、駅から記念館までは徒歩で行ったのだが、途中米軍基地の巨大な「鉄の檻」があり、その周囲には英語の看板やアメリカ人の住宅が建ち並んでいた。イベントの間も、上空のすぐ近くをたえず飛行機が飛び交っていた。「時代はサーカスの象に乗って」は寺山流のアメリカ論になっているが、ここに出てくるイメージは、東京に出てから培ったというより、米軍基地があった三沢での生活の影響が大きい。母親も米兵の相手をして生計立てていたし、目の前でアメリカの力というもののまざまざと見せ付けられて育ったのだろう。まして、父親は病死だったとはいえ、アメリカとの戦争の中で死んでいるのである。「アメリカよ」という詩にも、その憧れと憎しみが表れている。逆説的だが、アメリカ的なものを体験したのが、三沢にいた少年期の頃で、恐山のような呪術的な世界を得ていったのが上京して以後のことなのだ。 
第四節 鎖げるものとしての汽車
「田園に死す」の中で少年は、汽車の口真似をして憧れの人妻の気を引こうとする。これは「懐かしの我が家」の「僕は子供のころ汽車の口真似がうまかった」というセリフを思い起こさせる。寺山作品では、青森(地方)から東京へという単純なこと以上に、「ここから離れていきたい」という意志の現われとしてたびたび汽車のイメージが現われる。だから、目指される東京が夢見ていたような場所でなかったとき、少年は再び、今度はもっと遠い場所を目指す。「書を捨てよ町へ出よう」では、主人公の旅立ちのための道具は人力飛行機になっている。「一人の男がはじめて汽車に乗るためには、その男の母親の死体が必要なのだ」という言葉にもあるように、これらの乗り物に乗ることは、自分を縛り付けているものを捨てること、あるいは戦うことでもある。だから、母を殺せなかった主人公は、家の中に閉じ込められることになるし、兄貴分に裏切られ、夢が壊されたとき、人力飛行機は燃やされる。 
第四章 虚構と現実の融合

 

第一節 寺山演劇の再生より
J.A.シーザーが寺山演劇の膨大なテキストを元にして構成・演出した迷路劇「百年迷宮ラビュリントス」が、1999年5月パルテノン多摩のホールと周辺の野外を使って上演された。これはリアルタイムで天井桟敷の舞台に触れられなかった者に、寺山演劇の片鱗を覗かせてくれる芝居だった。
夕闇の迫る多摩センター駅前、会社や学校帰りの一般の通行人が過ぎる広場には、開演を待ちつづける観客の列ができていた。その前を、突然、かばんをひったくった女性が走り抜けていく。列整理をしていた劇団員たちが慌てて集団で飛びかかって女性を取り押さえたかと思うと、そのまま引きずっていって、近くの柱に縛りつける。「なんだ、なんだ」と驚いている観客たちの前で劇団員たちが取り上げたかばんを開けると、なかから黒いロープの束や大量の銀色の缶などの非日常的な道具が出てくる。そこでようやく、この女性も俳優の一人らしいとわかるという仕組みである。こういった俳優たちはあくまで普通の格好をしているので、自分の横に並んでいる客や行きすぎる通行人などの一見一般人に見える人の中にも、実は劇団員が潜んでいるのではないかという疑いが頭をもたげてくる。自分の周囲の世界が虚構によって覆われていく。開演前から、すでに我々は寺山修司の罠にはまっていることになる。
開演と同時に観客はいくつかのグループに分けられる。劇はパルテノン多摩ホール周辺の野外で、同時多発的に行われており、俳優の誘導のもと、各グループはその中に進んでいく。演劇が同時にあちこちに点在し、「面」の形で行われているとしたら、グループは自分の通った道筋を「線」の形で見ることしかできない。グループごとに全く違う劇に遭遇することになり、決して劇全体を把握することはできない。
またこのとき、グループを見分けるために観客に付け髭や付け黒子が配られる。これをつけた瞬間、観客も日常性から離れた怪しい集団として虚構に組み込まれることになる。周囲を歩く何も知らない一般人にとっては、十数人のチョビヒゲをつけた怪しい集団は、日常にとっての異物に他ならない。観客は先導役の劇団員に導かれて、「ここで体操をしてください」とか「スキップをしながらついて来て下さい」などさまざまな要求をされながら劇を求めてさまようことになる。やがてホールの建物内に侵入し、地獄のような風景が広がる場所を通過しながら小ホールにたどり着く。席に座って待つと、一人二人と俳優が集まってきて、舞台で「星の王子様」が演じられた。一応シンプルな劇も見せて、客に元を取らせようということだろうか。クライマックスの舞台崩しは省略され、代わりに俳優が「これが今日のディナ−の招待状です」と言って舞台に暗号の書かれた地図を置いて去っていく。次の場所は自分で探せというわけだ。最もグループの十数人が同じ地図をみているので、暗号を解くのも次の場所を見つけるのもなんとなく集団の流れの中で終わってしまい、能動的に探すというふうにはならなかった。
そして最終的に全てのグループが大ホールにたどり着き、ここから先は舞台上で上演される劇を観つづけるだけである。迷路劇と銘打っている割に、この動かずに劇を見続ける時間が最も長いというのが、不満だった。ここでの芝居も、幕が上がると舞台の上に、入場の際に分けられたグループの一つがいたり、客席のあちこちに設けられた舞台で同時多発的に劇が行われたり(「百年の孤独」を踏襲した形と思われる)と、寺山の実験的な手法は多く使われていた。が、内容的には名場面集的なもの(「ガリガリ博士の犯罪」の食事の場面、「レミング」の映画の撮影の場面、「阿呆船」の人形に火をつける場面、「盲人書簡」のマサコが犯される場面、「阿片戦争」・「邪宗門」の劇的修辞など)で、もともとコラージュ的な要素の強い寺山の演劇がさらにコラージュされているので散漫な印象になっていたし、観客も「観る」だけの立場になってしまっていたのが残念だった。やがて「さあこれがわれわれからの最後の謎です」の声とともに、観客が日常生活に持って帰るべきメッセージがかかれた紙が天井から撒かれ、一応の終幕となる。(ちなみに私が拾った紙には、「次の扉への暗号「まっすぐの迷路、今日から明日へとつづく闇」」と書かれていた。)しかし、場内の明かりがついた後も、どこかのスピーカーからJ.A.シーザー(と思われる)がインタビューに答えて、この公演のねらいを語っている声が流れつづけていて、観客を帰ったらいいのかどうかに悩まさせる。多くの観客が互いに顔をうかがいながら、なかなか帰ろうとしなかった。 
第二節 現実への侵犯
映画『田園に死す』において、物語の虚構性は二回覆される。一度目は、恐山での物語が、スクリーンに映し出された主人公の少年時代を描いた映画だったとわかるシーンである。そして主人公が過去を作り変えるために自らの少年時代へと入っていく。そして二度目はは、ラストの「新宿区新宿字恐山」の声とともに農家のセットが崩れ落ち、白昼の新宿駅東口の風景が現われるシーンである。シナリオでは以下のようになっている。
〈板の間で二人が食事をしていた後ろの押入れ棚(セット)が突然、向こうに倒れ、白昼の都会の風景が現われる。母親と私と柱時計、それと御飯を食べている膳を残して、あたりはビルが林立し、車がいっぱい走っている新宿の雑踏。私のかたわらには鎌が置かれたままでいる。だが、二人はまるで二十年前のある日と同じように晩御飯を食べている。後ろの雑踏の中には、二十年前の故郷の人々。その当時の衣装メイクのままで、あちこちから、ゆっくりと顔を出し、ある者は、ふり返って手を振り、ある者はうつむきながら、そしてある者は唄いながら、新宿の風景の中に一人ずつ消えていく。スタッフタイトルが続き、エンドマークが出る。エンドマークとともに、新宿の街も白く、薄くなって消えていく。〉
このシーンから私はあるアニメ作品のラストシーンを想起した。「新世紀エヴァンゲリオン」(TV放映95〜96年)である。この作品のラストは、劇場めいた建物の中で苦悩する主人公の少年の心が解放されるとともに、建物が崩れ落ちて、青空の下で登場人物に拍手で祝福されるというものだった。このアニメ作品についてはブームの際に多くの人によって論じられていたが、寺山作品との類型を指摘する人はいなかったような気がする。個人の内面の解放というテーマは最近の舞台では頻繁に描かれているもので、主人公がパイプ椅子に座って独白するシーンなどから第三舞台との関連を指摘する声が多かった。私が共通点を感じたのは、内面の解放に対応するように建物が崩壊し青空が現れるというの演出の部分だった。もっとも、寺山の舞台崩しはもっと先鋭的な意味を含み、内面の解放にとどまらない。 
このシーンにはJ.A.シーザーの哀しげな音楽にのせた「あ〜あ〜あああああ〜あああ〜あ〜」という合唱が、画面が真っ白になった後も最後まで流れつづけていた。サントラ盤が廃盤になっている今では何という曲なのかはわからないが、CD『国境巡礼歌』収録の「人力飛行機のための演説草案」のバックで同じものが使われていた。これは東京やヨーロッパで上演された市街劇「人力飛行機ソロモン」で使われたもので「一メートル四方一時間国家」の拡大を謳っている。「大鳥は綱領のない革命だ」「理性の現実態としての管理と支配を見捨ててただはてしなく拡大しつづけるだろう」「そこには日々の命令も」「記述されるべき歴史も王もいないだろう」といった言葉からは、まさに虚構によって現実の社会そのものを革命し、一切の桎梏から解放しようという気概が感じられて爽快だ。
このシーンのカタルシスはまさにこの詩と同様の「世界の拡がる快感」だといえるだろう。それまでの世界は多重の虚構性に覆われている。過去と現在が入り混じり、畳の下に、あるいはサーカスの天幕の中に恐山が広がっていたりし、湖や空さえ赤く染まっている。どこまで外へ向かっても虚構から逃れることができず、どこまで内に向かっても芯となるものにたどり着けない。この虚構地獄とも呼べる世界に対し、ここで初めて現実の世界が現われる。舞台崩しによって虚構の世界が破壊され、現実の世界につながっていく解放、さまざまな衣装メイクの祝祭的な人物たちの現実原則の世界への解放、過去の記憶の呪縛から現在への解放、そして全てが消えていくことによる、この「田園に死す」という映画からの解放である。この後は真っ白なスクリーンに、観客が自分自身の物語を描いていけばいいのである。
寺山作品では、物語はいわゆる大団円やストーリーの謎解きを迎えることなく、突然中断される事が多い。突然に現実を突きつけることで、観客の感情は宙吊りにされ、虚構世界に浸って単純なカタルシスを得ることを許さない。そして80年代以降の演劇の方向と異なり、観客を笑わせて日常の鬱憤をすっきりさせるよりは、怒らせて日常への問題意識をもたせようとする。「書を捨てよ町へ出よう」の冒頭、主人公は「高倉健が大暴れした映画の後で、まるで自分が二、三人斬ったような顔で、肩をいからせて映画館を出て行ったおまえ、そうおまえよ。(指して)あの時おまえに何が起こったんだ?え、何が?」と観客を挑発する。現実への不満足感を虚構世界を楽しむ代償行為で紛らわせることはさせず、現実に対して「もっと怒れ、もっと怒れ!」と呼びかける。
虚構性の破壊というテーマは寺山の演劇作品ではたびたび描かれる。「狂人教育」という人形劇では、人形が人形遣いに話し掛けてくるし、「星の王子様」や、「青ひげ公の城」では、劇のクライマックス、俳優は自分の名前と言葉で喋り始める(あるいは「自分」という役を演じ始める)。「盲人書簡」や「邪宗門」では、さらに過激な形で、俳優がシュプレヒコールを上げ、観客に対してアジテーションを始める。これらの挑発の中でも最も刺激的でかつ叙情的なものは「邪宗門」のラストシーンの新高恵子によるセリフだろう。「書き割りの絵の後ろには、渋谷公会堂のコンクリートの壁、その後ろには一月三十日の寒い空が見える。これもまた、別の書き割り」「嘘の後ろにあるのは、ほんとではなくて、別の嘘。という言い方も、また別の嘘の積み重ね。それが劇。人生」。ここでは、現実の青空さえも虚構の一つだ宣言し、虚構と現実がきっちりと分けられるものでないことが示される。世界は巨大な劇場であり、誰でも自分と言う人間を演じているのである。
映画「田園に死す」の三上寛による観客への語りかけも同様のものだろう。劇の終盤、ストーリーと全く関係なく、突然現れた三上寛が観客を指差しながら怒鳴る。「たかが人生、だましても、ぶったくっても、けとばしてもあしたになれば花一輪。おまえらいろんな格好して並んで批評していたって、明日になれば、みんな死ぬんだよ。」と。
タイムリーな話題になってしまうが、1999年、缶コーヒーのボスのCMが話題になった。サラリーマンが、「日本人ははっきり物事を言わないからなめられるんだよ。俺ならガツンと言っちゃうよ、ガツンと」と偉そうな口を聞いていると、目の前に突然クリントン大統領が現れて「ようし、ガツンと言ってくれ」と迫られてたじたじとなる、というもので、その後も同様のシリーズが作られた。寺山が劇作品でやっていたのも、まさに同様のことだろう。寺山は「作品の半分は観客が作る」という考えをもっていた。これは「この世につまらない本なんてものはなく、もしつまらないと感じたとしたら、その人にその本の足りない部分を補うだけの想像力がなかっただけのことだ」といったように、初期は比喩的な意味で使われていたが、やがて実際に観客が参加することを呼びかけるようになる。「つまらないと思ったら、出てきておまえが面白くさせてみろ」というわけだ。観客席という安全地帯から、観客を引きずり出す。
天井桟敷の舞台には、幕開きもカーテンコールもない。観客が劇場に入場すると、舞台では(ストーリーに関わってくるものではないことが多いが)芝居がもう始まっている。ラストシーンの後もカーテンコールはなく、観客は明るくなった舞台を見てなんとなく帰る機を探るしかない。拍手をして作られた虚構を称え、その世界を終わらせて観客という共犯者の立場から抜け出すことを許さず、劇の中の現実を日常の現実の中に引きずったまま帰らねばならない。
また、「盲人書簡」という芝居では、舞台は完全な暗闇で、俳優が、観客が、自分でマッチを擦ったときしか、劇を見ることができない。任意に選んで見るということで観客が能動的に参加できる、あるいは劇の一部しか見れない状況で暗闇の中に想像の舞台を浮き上がらせるのである。この大暗黒の中でマッチをするという手法は、月蝕歌劇団や万有引力の舞台に引き継がれている。非常灯の明かりも消された真の暗闇の中で、マッチの明かりにつかの間浮かび上がる俳優たちの動きは非常に美しいが、あくまでも演出の一部にとどまり、観客参加といった実験は行われていないようだ。実際、寺山の戯曲は現在も多くの劇団によって上演されているが、後期の作品や実験的な作品は演出力や時代性からいってほとんど再現不可能なものが多い。98年に青森で上演された「人力飛行機ソロモン・青森篇」も一日だけの天井桟敷の復活と言う触れ込みだったが、劇評家の扇田昭彦氏によれば、「県と市、警察が協力する平穏で祝祭的な、楽しめる「市街劇」」で、「かつての不穏な「市街劇」に興奮した者としては、ちょっと拍子抜けがした」そうである。「邪宗門」や「狂人教育」で使われる「この劇を操っているのは誰だ、作者の寺山さんか?」といった問いかけも、舞台裏に本当に寺山さんがいた頃は実体性があったが、死後十七年も経ってしまった今では形骸化している。99年3月、グローブ座で演劇集団池の下によって寺山の「青ひげ公の城」が上演された。この劇は「劇を操っているのは何者か」、「現実と虚構の境界線はどこにあるのか」といった先鋭性的な問いかけを持った劇だったはずが、(寺山が最も嫌ったはずの)単なるシナリオの再現にしか見えなかった。
「狂人教育」、「青ひげ公の城」、「星の王子様」、「邪宗門」などのように、劇場という装置を使った上でこれが虚構に過ぎないということを提示し、観客を挑発し、観客の視点を異化する手法に対して、中期以降の天井桟敷では、現実に日常生活を侵犯する市街劇の手法が取られるようになっていく。市街劇に関しての寺山の理論はかなり強引なところが多く、扇田昭彦氏の「結論的に言えば、私にとってはるかに劇的だったのは、なぞめいた地図を手に、巨大な暗号としての都市に、今までとは違う目で立ち向かったときの、あの忘れがたい新鮮な思いであり、そのときに都市が示したあの新鮮な変容の仕方である」という劇評が最も本質を言い当てているように見える。ここにおいては、観客と俳優とそれ以外の人間、舞台と客席、虚構と現実という区別は完全に消失してしまい、すべての世界が「劇」として目の前に広がるのだ。
市街劇の面白さは突然の出会いにあると寺山は言っているが、これは日常生活を営むものにとっては恐怖でもある。小説「ああ荒野」にこんなエピソードがある。ある通行人が誘拐されて、物置に監禁される。そしてリサイタルの日、通行人は目隠しをされて縄で縛られたまま引き出される。やがて、目隠しが取られると、通行人は自分が観衆に見つめられ、裸でステージに宙吊りになっていることを知る。通行人は「助けてくれ、俺は違うんだ。俺はみんなとは違うんだ」と絶叫しては縄を切って逃げようとするが、暴れれば暴れるほど、観衆は哄笑し、その迫真のユーモアにうなる。滑稽であると同時に、自分が当事者になることを想像すれば、限りなく恐ろしいエピソードでもある。実際、三十時間市街劇「ノック」において、路上パフォーマンスを見張るために追いかけてきた警官を、観客が俳優と勘違いして「本物そっくりだ」とほめると、警官が「俺は本物だ」憤慨したが、観客はますます俳優が巧みに演じていると思い込んだ、ということがあったそうである。市街劇の中では、虚構を現実の中に持ち込むことで、現実も虚構の中に組み込まれていく。自分の周りの世界全てに疑いを抱くことは、世界の見方・価値観が大きく変える。  
寺山の作品には、日常を異化する負の祝祭性を持った存在として、多くのフリークスが登場する。代表的なキャラクターは、空気女(大山デブコ)とせむし娘(男)、そして一寸法師だろう。フリークスの中にはせむし娘のような先天的な畸形もいれば、空気女のように後天的に「成る」あるいは「演じられる」畸形もいるが、本物なのかインチキなのかは、寺山にとってあまり意味を持たない。「どんな事実も、木戸銭を取って見世物化したときから虚構としての現実に転化される」(「畸形のシンボリズム」より)からである。その意味では、空気女のお腹の中には、観る者の想像力がいっぱいに詰まっているのだ、と言ってもいいだろう。
「田園に死す」にも、犬神サーカス団という一座が登場するが、この場面だけが違う色調で撮られている。これはサーカスが、日常の現実と異なる世界にのみ存在する、虚構の祝祭的空間だと捉えられているからであろう。だから、劇中で主人公が天幕をめくって現実世界の中でその正体を見ようとするとき、道化師やフリークスたちはみんな一瞬にして消えてしまうのである。 
第三節 過去の書き換え
「誰か故郷を思わざる」を始めとして、寺山修司の過去のエピソードには創作されたものや、元があっても大幅に脚色されたものが出てくる。言葉の世界で生きている作家が、自らの人生も言葉の中で虚構化してしまうことは珍しいことではない。映画「全身小説家」(1994年)などはそのことをうまく描ききった作品だと思うが、寺山の独特なところはそれを非常に意識的・能動的に行い、「書き換えの効かない過去なんてないんだ」と自ら明言していた点だろう。世の中に事実は一つしかないが、真実は人の数だけある。寺山の実像に迫るとき、九条今日子「ムッシュウ寺山修司」、寺山はつ「母の蛍」の二冊は、元夫人と実母の視点ということで非常に参考になるだろうが、ここでも嫁と姑という関係からは互いに全く正反対の過去を語っている。寺山は九条今日子にプロポーズするときも、「君は女優としていろんな役をやってきたが、結婚して「寺山修司の妻」という役を演じることもできるんじゃないか」と言ったそうで、自分という役を演じているという気持ち、それもできるだけうまく演じやろうという気持ちがあったようだ。
「田園に死す」では、現在の世界がモノクロで、過去の世界がカラーになっていて、しかもそこに出てくる登場人物は顔が白塗りになっていたりする。これは、よく映画で使われるような、現在の味気ない生活がモノクロで描かれ、過去の美しい思い出が鮮やかなカラーで描かれるといった単純なものではなく、過去は虚構に過ぎず、描かれるものは心象風景でしかないということだろう。主人公の「私」は、「もしタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか」という質問を受ける。このテーマは「マホメット殺人」というエッセイでも扱われていて、そこでは「時間は主観的なもの」であり、「私がもし私のおばあさんを殺したとしたら、私の過去は変わるだろう。しかし、同じおばあさんを、私の母が殺さなかったとしたら、母の過去は三代前のおばあさんによって作り出されたままだということになる。(中略)結局、私がマホメットを殺しても、それは私の過去からマホメットとその影響が喪失すると言うことにしかならない。全ての人間の過去が共有されるような歴史は、いままでのところ、想像されることさえ一度もなかったのである」という結論になっている。しかし「田園に死す」においてはこの答えは出されない。主人公の私は結局母を殺すことができないからだ。ただ草衣と寝ることで、二十年前の私が「おれではない、ほかの男になる」ことは実行される。 
第四節 集団名詞としての寺山修司
俳優の森本レオさんは、寺山の「さよならの城」を、愛読書にしていた。寺山に会ったときそのことを熱心に話したのだが、軽く受け流された。そのとき、一緒にいた田中未知さんがにっこりと笑ったのを見て、もしかしたらあれは寺山名義で田中未知さんが書いたものだったのではないか、という仮説を立てている。他の活動に隠れがちではあるが、寺山はフォアレディースシリーズや、マザーグースの翻訳など、童話や少女詩も多数書き残している。演劇などにおける過激で陰惨なイメージと違うからといって、そう簡単に結論付けることはできないだろうが、実際多くの人物との共同作業の中で作品が作られていたことは間違いないだろう。高取英は「実は、寺山修司というのは一人ではなかったのである。さまざまなスタッフがいて、その総体が寺山修司だったのだ」と言っている。田中未知、九条今日子、岸田理生、J.A.シーザー、森崎篇陸などの多くのスタッフの存在があってこそ、あれだけ多様な作品が生まれたのだ。
そして、寺山は無数の肩書きを持っている。詩人、歌人、俳人、劇作家、映画監督、シナリオライター、競馬評論家など。どれも真実であり、どれも真実ではない。すべてにおいて見せる顔も違うし、場によって経歴も変えていたりする。
また、寺山は多くの作家から作品を引用し、コラージュすることで自分の作品を作った。あのシェークスピアの作品も、多くが全くのオリジナルではなく、もととなる民話が存在しているように、決して創作において珍しいことではないが、寺山の場合、その手法は群を抜いている。初期には短歌の模倣問題でかなりのパッシングを受けたが、説教節を元にした「身毒丸」、バルトークのオペラを元にした「中国の不思議な役人」、「青ひげ公の城」、ガルシア・マルケスの小説を元にした「百年の孤独」などは、元がはっきりしていて、なお高い評価を受けている。しかし、全くのオリジナルだと思われる作品の場合でも、何らかの元があって、有名な作品では「時には母のない子のように」は黒人霊歌「Sometimes I feel likeamotherless child」の改作であり、「毛皮のマリー」も「ああ、お父さん、かわいそうなお父さん、お母さんがお父さんを衣装だんすの中に吊りさげたので僕はとても悲しい」というアーサー・コーピットのドラマが元になっている。しかし逆に、「青い種子は太陽の中にある ジュリアン・ソレル」のように、引用だと思っていると寺山が付け加えた言葉だったりする場合もあり、その虚構性は何重にも覆われ、現実と癒着し合って容易に区別できない。
多くの才能、作品を統合する形で、寺山は存在した。寺山はエドガ―・アラン・ポーの「使い切った男」の話をたびたび引用する。元軍人のジョン.A.B.C.スミスの体は、義足、鬘、義歯、義眼、付け顎など全て作り物で成り立っている。彼はどこにも「実在しなかった」が、確かに「居た」。寺山もまた、歌人、俳人、詩人、作家、演出家といった多面性、そして執拗なまでの人生の虚構化、他人の言葉のコラージュの中で、ようとしてその本質はわからない。三浦雅士は非常に肯定的な意味をこめて、寺山には「内面がない」と言っている。中心の不在が、逆に周囲に優れた世界を作り上げ、その存在を浮かび上がらせるという逆説的な人間だったと言えよう。 
第5章 夢と現実の間で

 

寺山の童話集『赤糸で縫い閉じられた物語』の中の一篇に、『踊りたいのに踊れない』という話がある。主人公の少女は、「体が自分の気持ちと正反対に動き出しまう」ようになり、行きたくない場所に足が勝手に行ってしまったり、好きな男の子に唇が勝手に「嫌い」と言ってしまったりして、困惑する。そんな彼女に対して一人の老人が、「もしかしたら、手や足のほうが正直で、あたまだけが、おまえのすることにさからっているのではないのかね」という逆説的な問いかけをする。
寺山は常に既存の体制や、日常といったものに疑問符を挟みつづけた。それはすべての価値観を切り崩し、相対化する作業だった。いかなる日常的な世界観の外側に寺山はいたように思う。外部を知らなければ、内部というものには気づかない。異郷にで出なければ、故郷を知ることはない。母を捨てなければ、その影響力に気付くことはないし、現実に疑問符を差し挟まねば、虚構の意味もわからないだろう。
映画『書を捨てよ町へ出よう』に特別出演の三輪明弘が、『毛皮のマリー』とほとんど同じ設定の、落ちぶれた男娼役で出てくるシーンがある。ここで彼はこんなセリフを口にする。
「ここがみんなが出口に使っている場所を入り口に使っているところだと知ったら驚くでしょうね」
下世話な言葉に思わず笑ってしまったが、この倒錯性も、ある意味寺山の作品のテーマを示している。価値を反転させ、観客席と舞台を入れ替え、劇場と市外を入れ替え、現実と虚構を入れ替え、出口を入り口を入れ替える。そして我々は新たな世界を見せられて、いつも十分過ぎるほど驚かされる。彼がおかまというものに興味を持ったのも、「あらかじめ与えられている性に、疑問符を差し挟んでみる存在」だったからに他ならない。
「肖像画に間違ってひげを書いてしまったので、本当にひげを生やすことにした。間違って門番を雇ってしまったので本当に門を作ることにした。人生はいつもあべこべで、私の墓ができたら少しぐらい早くても死ぬつもりだ」
「生が終わって死が始まるのではない。生が終われば死もまた終わる。死は生の中に含まれているのだから」
「空想から科学へではなく、科学から空想へ」
その逆説的なセリフを数え上げればきりがない。「私は大きくなったら質問になりたいのです」と言った少年は、まさにその通りのことを実践し続け、人生を駆け抜けた。
1983年5月4日、寺山修司は肝硬変で死んだ。同5月9日に天井桟敷の団員の手で告別式が執り行われ、そこでは『レミング』の主題歌が流れていたそうだ。その『レミング』の初演版のラストにこんなセリフがある。再演では、消えてしまったセリフだ。
〈王 「世界の果てとは、てめえ自身の夢のことだ」と気づいたら、思い出してくれ。俺は出口。俺はあんたの事実。そして俺は、あんたの最後の後ろ姿、だってことを。(中略)だまされるな。俺はあんた自身だ。百万人のあんた全部だった。出口は無数にあったが、入り口がもうなくなってしまったんだ。〉
寺山自身の人生を語ったともいえるセリフである。寺山は百万人の夢を代弁するかのように、脱領域的に、かつ前衛的な挑戦をしつづけた。逃げ馬と称した彼が逃げ続けてきたものは、病魔、常に付きまとってきた自らの死だったに違いない。寺山は病床にあっても多くの仕事をやり続け、そのスケジュールは死の二年先までいっぱいだったという。だが、その無限の想像力は、肉体という枷によって裏切られてきた。あらゆるものに対する興味、作品を生み出す想像力としての「出口」は無限に存在しつづけたが、それらの入れ物である「入り口」としての寺山の肉体そのものは、消え去ろうとしていたのだ。
そして遺稿「懐かしの我が家」ではこう語る。
「僕は/世界の果てが/自分自身の夢の中にしかないことを/知っていたのだ」
映画『サード』では主人公を通してこう語る。
「俺はホームベースのないランナーだ。ホームベースのないランナーは、ただ走り抜けていくだけだ」
映画『さらば箱舟』ではヒロインを通してこう語る。
「両目閉じればみな消える。隣町なんてどこにもない」
たとえ汽車に乗ってどこまでも行ったとしても、世界の涯てなんて場所はどこにもない。人はどこかに行けるわけではないし、自分以外の何かになれるわけでもない。「世界の涯て」は「夢の中」にしかないのだ。だが、それゆえにこそ寺山は常に挑戦しつづけた。常に変わろうとし続け、なしえずに死んだ。夢と現実の間は、引き裂かれたままだった。
「田園に死す」の演出ノートで寺山は言っている。「私の書く詩には、いつも汽車が出てくる。だが私はまだ一度も、その汽車に乗ったことがない」と。寺山が示したことは、革命を起こすことよりも、革命を起こそうという意志をもつこと、夢を実現させることよりも、夢を追いつづけることだったと言えよう。
最後にエッセイ集『競馬への望郷』所収の詩、「さらばハイセイコー」の一節を引用して幕を閉じたい。私にはこの詩の中のハイセイコーが寺山に、観衆が寺山の姿を追いつづける私たち自身に重なって見えてしょうがないのである。

ふりむくな
ふりむくな
うしろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
すべてのレースが終わるわけじゃない
人生と言う名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる

思い切ることにしよう
ハイセイコーは
ただ数枚の馬券にすぎなかった
ハイセイコーは
ただ一レースの思い出にすぎなかった
ハイセイコーは
ただ三年間の連続ドラマにすぎなかった
ハイセイコーはむなしかったある日々の
代償に過ぎなかったのだと

だが忘れようとしても
目を閉じると
あの日のレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ 
 
風景デザイン

 

風景をテーマにした理由 
かつて私はアメリカに住んでいたことがあった。時折日本に帰国した時の印象は今でも鮮明に覚えている。成田の飛行場から東京の都心へ通ずるフリーウェー、道路から見える風景は温帯モンスーン特有の霧が立ち渡り、濃い雑木林に囲まれるように水田の草緑が生え神秘的な印象であった。カリフォルニアの乾いた風景から、しっとりした大地の風景へ美意識の変化を肌で感じながら、まぎれもなくこれは一級品の風景にちがいないと思った。
ところが1、2年おきに日本に帰国するにつれ全く奇妙な風景に出くわすことになった。防音壁である。最初それは一部の民家の集中している場所に低くあるだけであった。しかし、瞬く内にそれは広がり、連続し、高さはどんどん高くなり上の方で湾曲している。もう風景どころではない、外国人に誇りたい日本の風景はどうしてこんなことになってしまっているのかと思うと無性に腹が立った。
今では地面を走る一般道にまでこの無骨な壁が広がっている状況が見受けられる。街なかにおいても効率や利益が優先され、醜い風景に対する極端な寛大さばかりが目につく。日本の都市風景は「見えない」といわれるが「見せない」ようにしているかのようである。異常に発達した地下ショッピング街、地震大国日本にとって危険きわまりない、風景のない世界である。都市は働く場所であり、日常の生活環境において風景を意識することは贅沢なことなのか。風景は個人の好みの問題か。風景には基準となる規範はないのか。こういったスタンスが風景を語ることを難しくしていたにちがいない。
しかしここに来て時代の兆候が変化してきていると感じるのは、1995年以降に出版された本で「風景」という言葉を含むタイトルのついた本が500冊近くもあることや、風景や景観の問題は従来の行政による特別地域の歴史、自然景観破壊の規制措置といったレベルから、市民を巻き込んだ日常的な風景の整備あるいは創出などといった町づくりの手法になりつつあることでもわかる。国は1998年全国総合開発計画である「21世紀の国土のグランドデザイン」で「美しい国土・ガーデンアイランド・日本」を指針とし、美しい風景づくりを国づくりの目標に掲げた。その意味では現代は明治以後過去に3回あったと言われる風景ブームなのかもしれない。そしてそのいずれもが大きな時代変化の潮流の中で風景が取り上げられ、風景を意識した。
五十嵐敬喜氏はその著作「美しい都市をつくる権利」のなかで日本の町が全国どこでも同じような町になってしまったのは、都市法が地域の実情を考慮しないで、建築を抽象的な線(線引き)色(用途地域)、数値(容積率、建ぺい率など)に合うかどうかのみに合わせてきたからで、その結果合法ではあるが、不当な現実を作り出してきたと指摘する。その意味では日本では地区計画を含めて、都市計画はほとんど町づくりに役に立っていないと述べている。さらに憲法に「美しい都市をつくる権利」の条項を加えることによって、従来の法律を変えていくことができるのではないかと提唱している。 
都市における「かたちと関係の風景デザイン」とはなにか 

 

風景デザインが対象とする場所の多様さ、評価軸の多様さなど多元的、多様さを特徴としている以上、多様の統一とでもいえる一定の秩序が全体と部分の関係で成立していることが重要と考えられる。そういった意味で、かたちの風景デザインとは都市風景を素材や形態あるいはスタイルの問題として捉えようとする態度であり、関係の風景デザインとはルールや作法と呼ばれるコミュニティーやエコロジーといった自然と人間のシステムの反映としての都市風景を読み解こうとする態度と言えるのではないだろうか。
7月のプレ・フォーラムに於いて井口勝文氏はストックの思想から西欧と現代の日本の風景を比較して見せ、今ある都市風景の中に、決して少なくない宝を探し出し、そこに都市デザインの可能性を見るしかないし、可能性もあることを示唆された。20世紀の都市デザインはモダニズムの思想のもとで知性によってコントロールされた都市モデルができあがった。ル・コルビジェの描く都市イメージは、道路は交通のための機械であり近代都市のイメージは超高層、高速道路、人工地盤の装置であった。都市はインターナショナルなものと捉えられ、固有の歴史よりも理論が優先した。
こういった場所性や地域性の欠如がポスト・モダニズムを生みだしたが、多くのキッチュな風景を作り出したことも否めない。モダニストのテーゼは現代でも有効であり、進化し続けているとみる見方もある。一方現実の日本の雑然とした都市風景の大部分は予定調和に収斂しているわけではないが、この混沌のなかに生き生きとした市民の生活風景があることも事実である。都市デザインに生活者の視点が欠如しているといった時代要請もある。さらに環境共生の時代、社会的要求と同時に生態学的要求に応えるデザインも求められる。たとえば都市における際(きわ)といえる地形的な境目は生態学的な移行帯であり、かつて風景を感じることができる特別な遊園の場所でもあった。このように人間との関係で風景を捉えると人間の脳によってつくり出される風景の心的イメージが子供の時に体験した風景のイメージから強い影響を受けており、それが風景の嗜好に反映されていることが知られている。このことは都市で生まれ育った人々は日本人一般の原風景と考えられている農村風景よりも、都市の風景が原風景になって眼前の風景を捉えていることを意味している。 
風景という価値観で断片化した都市環境を総合化するとは 

 

これからの時代は場所の意味性を再構築するために象徴的なものと、生態的なものを結び付ける風景デザインが求められるのではないだろうか。都市環境をデザインするにしても今までのように個別化した部分の発想から風景デザインによって部分をつなぐ連続性の発想へ総合化できないか。現代は価値観喪失の不安な時代と言われる。風景をキーワードに価値観の再構築をしていくことは人々に安心感と明確な目標を与えることができ、だれもが欲していることであろう。オギュスタン・ベルクは現代の日本の状況は急激な近代化の後遺症であり、過渡的なものにすぎないと述べている。そして風景の実質的な改良という形が現れ、環境が美しくなればなるほど、ますます風景の改良に向かう好循環を進めることが期待できるとも述べている。もはや風景デザインの視点から美しさや快適さを追求しなければ、都市は廃れていく。従来の経済効率至上主義にかわって風景主義が都市性を語る言語になることで、都市再生の新たな展開を期待したい。 
ケツの穴に口紅

 

「ケツの穴に口紅を塗るような真似は止めろ」
早稲田でも教鞭をとり、切れ味鋭い建築で知られる建築家の鈴木了二さんが、かつて勤めていた建設会社で設計をした建物の現場に設計監理に行って、現場監督からどやされた言葉として伝えられているのが上の文句です。すごいですね。現場監督もすごいなら、この言葉で切れて会社を辞めてしまった鈴木了二さんもすごい。
どうも事情はこういうことのようです。なんでもビルの裏側であまり見えないところだったのですが、そこは鈴木了二さん、まだ若かったせいもあって一生懸命図面を描き、窓の周りに石で枠をデザインした。それが現場では、なんでこんな無駄なことするんだ、と反発を買ってしまった。それ以上の詳しい話はぼくも知りませんし、石は高いですから、現場の論理もわからないではない。ですからあるいは本当に無駄なこと、だったのかもしれません。
しかし建築でもなんでも、なにが本当に重要で、なにが無駄なのかはさまざまな観点から評価が分かれる。それに優先順位をつけるのが設計という仕事だと、ぼくは思っています。いわば価値観の集大成。
日本の街並みでまずヨーロッパと一番違うのは、道路に対して「ケツ」を向けていることです。見苦しい部分を平気で向けて恥じるところがない。この見苦しいと感じるかどうかも人それぞれで、一概に言えないところが辛いところなのですが、まず大きく違うのがこのあたりの節度、美意識でしょう。ヨーロッパの街の建築は、道路には必ず「顔」を向けている。この「顔」をファサードといいます。ファサードというのは一番重要なエレベーション、つまり立面、いわば建物の正面のことです。普通道路に面した面を言います。
例えばボローニャのカテドラルは、行ってみるとわかりますが、煉瓦が積まれたまま露出した姿でおいてある。これは、ファサードが未完成なのです。顔に化粧が施されていない状態です。ルネサンスを代表する建築家アルベルティは、そのファサード形成術によって歴史に名を刻んだのですが、多くの彼の作品はファサードに全精力が注がれています。クラシシズムをシンプルな形にして、装飾的要素を排し、原理的かつ大胆な構成を確立して、後世のクラシシズムの規範を打ちたてたアンドレア・パッラディオも、ファサードに腐心しました。ファサードには幾多の建築家の精魂が込められています。あえて言うなら、西洋の建築はファサードの歴史だという見方も可能でしょう。ヨーロッパの様式の変遷、つまりロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、ネオクラシシズム、などはファサードを見ればわかります。ファサードの革新が新しい様式を開いてきた。
街路は基本的に都市のパブリックなインテリア空間ですから、ここに顔を向けて対話するのが都市の建築の流儀でした。だから集合住宅も街路に対してどのような顔を見せるかがその住宅の価値を決定した。だからこそ「装飾は罪だ」と宣言したウィーンの建築家アドルフ・ロースが、まるで排水溝のふたのようなただグリッドを起こしただけのシンプルなファサードを作ったとき、ウィーンの町に喧喧諤諤の議論をもたらしたのでした。いまは近代建築を開いた代表的な建物のひとつに数えられていますが、それほど建築の「顔つき」には皆うるさかった。
ところが日本には建築に顔を作るという伝統がありません。日本の建築は顔を持たない。特に街路に面しているのは塀ですし、あるいは生垣の向こうに垣間見えるか見えないかというのが日本建築のありようですから、街路に面して顔を作るなどという伝統も発想もがなかった。街道筋の宿場町や京都の町家など、商業的な建物に少し意識がうかがわれる程度です。だからなんだと思いますが、日本は都市化が進んで街路に直接建物が面するようになっても、平気でケツを向けてきた。
ケツとは何か。例えば屋外廊下であり屋外階段であり、洗濯物や布団を干すベランダ、バルコニーです。とりわけ集合住宅においてそれは顕著です。南向きに対する圧倒的な好みがあるとされているので、北側が道路だとなおさら殺風景な屋外廊下、屋外階段が並びます。
これをケツと自覚しない日本人も多くいます。自動販売機がロビーに並んでいたって不細工じゃないと思うくらいですから。電信柱が並んで電線がぶら下がっていようと気にもならない。パンツをはかないで人前に出たって、サルは恥ずかしくありません。井上章一さんの近著、『パンツが見える』では中国でパンツが見えて恥ずかしいと感じる女性は最近まで少なかった。日本でもつい50年程前までは同様だったそうです。つまり「たかがパンツごときでときめく男はいなかった」。パンツをはくのもパンツが見えて恥ずかしく思うのも、自然の感情でなく、文化のなせる技だそうです。なにしろ「明治末期には東京でも往来で立小便をしている女性はいくらもいた」(同書より)くらいですから。だから自動販売機も電線も屋外階段も屋外廊下も、文化に毒された感性の問題です。自然のままで何にも恥ずかしくなんかないはずなんですから。あるものはある。隠すほうが不自然だ。うーん、なるほど。
「これは日本の伝統とつながっています」。
研究室のフランスから来た留学生が、この屋外廊下、屋外階段を取り上げて発表したときのことばです。
「どうして、どこが伝統なの?」。
ぼくは尋ねました。
「路地に面した長屋は外から直接入ります。つまり道から直接入る。パリでは道から直接入る家はありません。必ずいったん共同のゲートをくぐり、たとえば中庭のようなコモン・スペースを経由して、屋内の階段と廊下で家までたどり着きます。日本にはコモン・スペースを嫌う伝統があるんじゃないでしょうか。外から直接入るのを好み、一緒に暮らすという感覚を持ちたくないという」。
なるほど。一理あるかもしれない。もともと日本には集合住宅の伝統はなく、あってもせいぜい長屋で、彼女の言うとおり道路から直接入る。コモン・スペースを嫌う伝統があるのではなくて、コモン・スペースということがぴんとこないだけなんだ、とも思いましたが、彼女の言うとおりのような気もする。あの殺風景な屋外廊下と屋外階段が日本の住空間の伝統だとしたら、と思っただけで背筋に寒気が走りました。
それが日本人の愛する自然です、と彼女に言われたような気も、しました。
外気に面する、風通しをよくする。これは日本の伝統的な考え方といっていいでしょう。『徒然草』にも、家は夏を旨とすべし、と書いてある。しかしそれがそのまま屋外階段、屋外廊下につながるとは思わなかった。長屋を積んだらそのまま日本の集合住宅になるではありませんか。彼女の顔が笑っています。
屋外階段や廊下が自然かどうか、日本の伝統につながっているかどうか。この観点には議論の余地があるでしょう。でもフランス人の彼女にとって、とっても違和感があって面白かったのも確かなのです。恥じらいのあり方は文化によって違うにせよ、日本人てすごい、平気でプライヴァシーでもパンツでも見せちゃって平気なんだ。
実は屋外階段や屋外廊下の出自は、もう少し別のところにあります。日本では都市の建築の規制の基本的なやり方は、面積を決めることです。つまりこれ以上は作ることができませんよ、と最大許容床面積を決める。これを容積率といいます。屋外階段や屋外廊下の面積はこの容積率に算入されないのです。限られた全体面積の中から最大限売れる面積を、あるいは貸せる面積を捻出するのがディヴェロッパーの方針です。だからすべてが屋外になってしまいます。街路にケツを見せても仕方があるまい、となってしまうわけです。ちなみに機械室もみんな屋上へ持っていくのは、それがやはり容積率で決まる許容面積に算入されないからです。そこで日本の街並みは、下着姿のような屋外階段屋外廊下と、露出した受水槽、キュービクル、空調の屋外機で溢れかえることになる、というわけです。
法律が街並みを決める、というのはこういうことです。これにせめて化粧をしよう、口紅を塗ろうとすると、無駄なことはするな、それこそケツの穴に口紅を塗るようなまねはよせ、とこうなる。比喩が下品ですみません。でもぼくもケツの穴に塗ることはないと思いますが、そして行きがかり上ケツのたとえで来てしまいましたが、実はケツではないですね。パンツや下着のたとえもどうでしょうか。恥ずかしいかどうかも文化の問題のようですし。ともかく見せようとしているのではないのですが、見えてしまう部分のことです。
ところが日本の場合、屋外廊下を整ったファサードにしようとすると、壁面の開放率という規定が邪魔をします。消防法では三分の一の開放率で屋外廊下と認めてもらえます。ところが二分の一を開放しなければ床面積に算入されてしまいます。容積率に算入されてしまいます。手すり部分をいくら開放的にしてもそれは開放率に入れませんよ、手すりの上だけで全体の二分の一とってください、などという役所もありますから、パンツのはかせようもない。結局ほとんどケツはケツのまんまにとどめおかれる。パンツをはいちゃあいけない。
これが廊下のほうじゃなくて各住戸の面する表のほうならまだいいかというと、当然こちらもバルコニーが回って、生活をゆかしく見せる窓など出てくる余地はない。布団なんかがバンバン干される。いいじゃないの生活感があって。ぼくも大学の頃、布団を干させないための工夫を語る先生の話に、首をひねったほうでした。まだジャングル少年だったんですね、ナイフとフォークの使い方も知らない。知ってどうなるって話もありますが。箸でいいだろ日本人は。なるほど日本の伝統と結びついているのかもしれない。その先生はどうしても布団干しが止まないので、ついに、大きな柄の鮮やかな色の布団をきちんと歪みのないように干してください、とお願いしたとか。うーん、今にして思えば、いっぱい食わされたかな。なにしろユーモアの達人、上田篤先生でしたから。
そもそもだいたいが街路、つまり都市のインテリアという概念すら日本にはあまりなくて、ただの通過動線たる道路に過ぎないのですから、道を歩いていても何にも面白くない。だからどこを歩いても人の排泄物やら反吐の前を見て見ぬふりをして通り過ぎる心休まらぬ道行きとなる。かつてのように小さなスケールの小道を辿る分にはちりちりと風鈴の音の一つもしてアレ下着が干してあるワイ、と風流風情の風景だったかもしれません。しかし近代都市計画の大規模集合住宅団地で、風流も風情も失せてしまった挙句の生活感露出大会じゃあ、日照りの夏はおろおろ歩いてお天道さんにも顔向けできないってもんです。なにしろスケールが大きすぎる。こまやかな牛若丸でなくって弁慶方式。ご存知ですか?幅4メートルに満たないと法的には道路と見なされないのですよ。風情のある小道もどんどん消されていきます。
つまりは殺風景か暑苦しいか恥ずかしいか。広い道路に慣れていない日本人には、街路景観などという頭がない。井戸端会議や「ここだけの話」の根回し腹芸でしか言葉を鍛えてこなかったから、公衆の面前で堂々かつ闊達に語りかける言葉を、日本語はもたないのです。街並みも同様。道に面するところにはせめて顔を作ること。ケツは隠すこと。より気持ちのいい空間にしていくこと。容積率算定方法も見直すこと。防災に配慮するのは当然ながら、小さなスケールの道の良さも認めていくこと。こういったことをやはり行政や公共的なディヴェロッパーが率先しておこなっていかなければ、日本の街並みは悲惨な状況の加速されるままに、誰も愛着を持たない町が出来上がっていくばかりでしょう。 
生きた「風土」からうまれる「風景」へ

 

「風景」つまり「ランドスケープ」という言葉は、建築や都市計画の分野で、この10年のあいだにずいぶんと話題になり、新しい分野の可能性や方向性を示す言葉として浸透したかにみえる。もともと一般名詞でしかない「風景」や「ランドスケープ」という言葉が、急に取り沙汰されだした背景には、現代という時代のもつ問題性が、あぶりだしにされていると考えられよう。しかし、「ランドスケープ」という言葉自体の認知度は増したものの、依然として「どうもなんのことだかよくわからない」と思われているのが現状のようだ。それは、「風景」つまり「ランドスケープ」という言葉から想起される印象と、実際にそこに含まれている問題に、微妙にズレが生じているからではないだろうか。ランドスケープを操作する職能とされる「ランドスケープアーキテクト」の存在についても、同様だ。これらの言葉のミスリーディングを解いたうえで、「風景」の問題を論じてみたい。
まず、「ランドスケープ」と規定される職能の対象が、果たして「ランドスケープ」という言葉で表せられるものなのかという疑問がある。「ランドスケープ」は、「ランド」=土地、「スケープ」=視野、つまり「土地のみため」ととらえられるため、絵葉書のように空間を視覚化し、3次元を2次元でとらえた結果としての静止した画像イメージをあらわす印象が強い(もともと「スケープ」には「見渡す」という行為を表す語意が含まれていたのだが、長い時間のあいだにその結果としての画像を表すイメージが定着したように思える)。「ランドスケープ」の和訳として明治時代に創出されたとする「風景」や、近代以後汎用された「景観」も同様に、視覚的印象を表す語感が強い。そのため、「ランドスケープアーキテクト」といった場合、その職能は、表層的な視覚的印象の操作のみを取り扱うかような印象を与える(そのような意図がなかったにしろ、「ランドスケープ」という言葉のひろがりとともに施工された幾つかのプロジェクトが、更にその印象を強めたのは否めないが)。
しかし、実際に我々が扱うのは、その土地の生態系の有り様や文化的な背景までも含めた「土地の様相」ともいえるもので、「風景」や「景観」と呼ばれるものよりは、むしろ「風土」に近い。また、我々が働きかけた結果、存在し、あぶり出されるものは、視覚的な恒常的「形態」であるというよりは、時間の流れのなかで変幻するある種の「現象」またはその「状態」といえるものだろう。そして、そのような土地との対話のなかで進めていく仕事のあり方は、アーキテクトのように絶対的な「形態」を創出していくというよりは、掛け合い漫才師のように相方や客との相対的な「関係」を模索していくことにより、場を創っていくという作業に、より近い。
先述したように、我々が関わる対象がその土地の「風土」だとすると、「風景」はその結果が認識されたとき、はじめてたちあらわれるものといえよう。風景は、それが人工のものであれ、手付かずの自然であれ、フレームを伴ったある種の2次元イメージとして、あるいは地に浮かびあがる図として意識されたとき、はじめて「風景」となる。例えば、棚田は、それだけでは風景とはなりえない。実際、それが「風景」として認識されだしたのは、全国にそれがあたりまえにみられた時代ではなく、棚田が少なくなり希少な牧歌的風景として「発見」されてからである。工場の集積地やよう壁などの土木的な構造物も、以前は「風景」になりえるとは考えられていなかったが、最近では「テクノスケープ」という風景として認識されだしている。元来、棚田や工場は、労働の場であり、眺める対象ではなかったのだが、ひとの意識の変革とともに「風景」へと昇華されたのだ。同様に、ありのままの自然も、ひとの意識にのぼったときに「風景」としてたちあらわれる。例えば、各地の「名所」や「名勝」と呼ばれるものがそれである。また、同じものでも、ひとの意識の操作によって、「風景」であったりなかったりするということが生じる。その端的な例として、「季節の名所」とされている場所がある。「吉野の里」に代表されるような「桜の名所」などは、桜の季節以外の有り様が問われることは、ほとんどない。
このように、ひとがあるものを「風景」として認知するということの背景には、対象の有り様以前に、その意識の形成のされかたが問題としてある。そして、その対象の有り様を決定付け、ひとの意識のあり方を育むのは「風土」である。「風土」は、その土地の気候や地形などの自然条件に加えて、文化や教育、伝統、慣習といった民族の社会的背景に大きく関わって形成される。自然がひとに影響を与えた結果として、あるいはひとが自然に働きかけた結果として、「風土」は刻々と変化する。このようなひとと自然の終わらない循環の有り様そのものが「風土」ではないだろうか。そして、「風景」は「風土」をある瞬間に切り取り、抽出したイメージだといえよう。あるいは「風景」とは、「風土」のある状態を意識がとらえ、翻訳し編集した姿なのだ。そこには、微妙なずれや時差があり、写真が必ずしも現実の姿を映さないのに似て、「風景」は「風土」そのままの絵姿とは必ずしもならないのだが、ここでは、まず「風土」があり、「風景」がたちあらわれるということを確認したい。
では、その「風景」のもととなる「風土」を、実際のプロジェクトのなかで、どのように扱えばいいのだろうか。「風土」が、自然とひとの終わらない連鎖によって形成されるものだとすると、我々に可能なのは、その連鎖の一過程に、一石を投じることだけだ。それによって、どのようにその連鎖が変化するかを、方向付けることはできたとしても、完全にコントロールすることはできない。また、そのように自然とひとの関係が連歌のように連なり、「風土」の循環が機能している状態を、「風土」が「生きている」状態ととらえると、「風土」の連鎖が断ち切られ、その循環が停止しているような状態は、「風土」が「死んだ」状態であるといえる。敷地の全てを一律に造成し、地域性を鑑みず、紙面の経済効率からプログラムがたてられたようなバブル期の開発のあり方は、連鎖を断ち切るという意味において、後者に属するものだったといえよう。一方、誤解を恐れずにいえば、やみくもに保全を唱えるのも、状態を硬直させ循環を停止させるという意味においては、同様の事態をひきおこしかねない危険性をはらむ(極論をいえば、環境保全の問題は、我々を含めた生命体の生息地をまもるという最終的な意図があるにもかかわらず、究極の解決は我々が死滅することだという矛盾につきあたる)。このような両極の「死んだ」状態に陥った「風土」から生まれる「風景」には、それを支えるリアリティがない。そのため、このような開発地(あるいは保全地)を含む周辺の地域は、長い時間の果てには機能不全に陥るという事態に、往々にして至るようだ。
このような事態をなるべく回避し、「風土」の循環を保ち「生きた」状態を継続するための潤滑油や刺激剤として、我々の仕事があるように思う。過去の記述から学びながらも、安易にノスタルジックなイメージ(それは編集された記憶であり、もはや現在の問題を解決はしない)や他所の成功事例(それは特定のコンテキストにおいて成立していたものであり、汎用性があるとは限らない)にとらわれることなく、どのように現在進行形の「風土」を未来へ送りだしていけるか、それこそが「風景」を操作する「ランドスケープ」デザインの課題であると思う。そして、その結果としてどのような「風景」の姿があぶりだされるのかは、おのずと答えがでてくるものであろう。 
共同体のルールと風景

 

風景とは、その都市や地域での暮らし(生活のいとなみ)の現れ(物的表現)であり、その場所の特質(アイデンティティ)をシンボライズするものである。
シンボライズという意味は、歴史的環境のように特徴的な風景が地域のアイデンティティをシンボライズするのは言うまでもないが、どこにでもあるような郊外の住宅地においても、「何も特徴がない」ということを、シンボライズしているのが風景であるように思う。風景の不在はなにもない風景をシンボライズしている。
ハンナ・アーレントは公的領域の喪失によって、「人びとの介在者であるべき世界が、人々を結集させる力を失い、人びとを関係させると同時に分離するその力を失っている」大衆社会を描き出している。ここでいう人びとを関係させると同時に分離する構造とは何か。アーレントはテーブルの比喩をつかって、その周りに座っている人々の真中に位置して、人びとを関係させると同時に分離している状況を説明している。それは田村隆一のいう「農夫がするトランプ遊びも、詩人が食卓で書く詩も、共同体をはなれては不可能のゲームである。そして、ゲームであればルールがあるだろう。ルールやロゴスの自由を保証するものが共同体であり、そういう共同体こそ、農夫や詩人にとって、真の意味での都市なのである」と、同様のものである。
アーレントのいう「テーブル」も、田村のいう「食卓」も共同体のルールと風景を表している。
「場」とは地域のまちづくりエネルギーを発生、共有、増幅させる社会的環境で、人と人の関係で成立するものである。「像」とは地域のまちづくりエネルギーを凝集できる対象で、物的環境のあるべき姿を示したものである。まちづくりで語られる「場」と「像」も地域での共有されるルールづくりの方法とシンボライズされる風景を表している。
山本理顕は住居論のなかで、「都市という、流動し新しくなっていこうとするすべてのものの中で、“住む”という概念だけが、それと矛盾するようなかたちである。……住むための場所は、十分にそしてきわめて注意深く、都市の流動性、革新性から防御されている」べきものと述べているが、我が国のなかにも「住むための場所」に内在する共同体のルールは、今も存在すると思う。
それでは全く無秩序な風景が生まれたり、風景が極端に変わり、生活環境が脅かされるのは、なぜであろうか。それは「住む」とは異なる論理や価値基準が、何の脈絡もなく、「住むための場所」に突然進入してくるからである。あるいは「住む」ということが否定されたり、制限されたりするからである。例えばそれは、「住む」とは関係のない開発と販売の条件から設定された地区の容積率、販売戦略から決まる規模、商品としての眺望やデザイン、「住む」ことに適さない場所や環境、地区のファブリック(都市構造)の破壊、「住む」ことに直接関係しない車、「住む」ことの延長としての生業の否定、「住む」ことの作法としての近隣への挨拶や配慮の不在、などであるが……。これらにきめの細かいルールを設け、適切に排除や制限を加えることこそ、都市計画で詳細に決定しなければならないことである。
都市からこれら「住む」ことを脅かす要因を丁寧に排除し、地区の生活環境を保てるだけの経済社会条件をキープしたうえで、一世代ほど時間を熟成させることができれば、魅力的な街並み風景を日本中いたるところにつくりあげることができるように思う。
そこでは函館元町界隈のような色彩にこめた、家族の思い出「娘がいるのでピンクのかわいらしい色を選んできた」とか、近所にあわせて「塗り替えは向かいや隣と一緒にし、色も同じものにした」とか、有名な建物の「公会堂や遺愛女子校などの有名な建物にあこがれて」とかの街への思いと自己表現−他ではそれは緑や花かもしれないし、屋根や窓の表情かもしれないし、通りの佇まいかもしれないが−そういう様々な風景の中に、街並みへの素敵な自己表現をみることができるようになると思うのである。 
風景の力

 

アルベール・カミュの「幸福な死」の一節。
「その家を、『世界をのぞむ家』と呼んでいた。どこもかしこも風景に向かって開かれたその家は、世界の色とりどりの乱舞の上できらめく、大空に吊るされたゴンドラのようであった。ずっと下の方の完全な曲線を描いた湾からは、一種の爆発が、草木と太陽をかき混ぜ、松の木と糸杉を、埃まみれのオリ―ヴの木とユーカリを、家のすぐ下まで運んでくるのだった。こうした贈り物のまっただなかには、白いエグランチーヌやミモザが、あるいはすいかずらが、季節に応じて咲き誇っていたが、たとえばすいかずらは、夏の夕暮れの中に、その香りを家の方々の壁から存分に立ちのぼらせていた」。(「幸福な死」高畠正明訳、新潮文庫)。
私はこの文を読むと元気が出る。その描かれた情景を思い浮かべるだけで、幸せになり、勇気が湧き出るような気がしてくる。もし人の欲望が条理であるとするならば、世界は不条理そのものであり、それ故に人は世界から疎外されたと思い込む。カミュは言う。「人は自分が世界から除外されたと信じている。だがこうした身内の抵抗感が解けてなくなるには、黄金色の埃にまみれたオリーヴの木がすっくと立ち、朝の陽の光を浴びて目もくらむような海岸があるだけでじゅうぶんなのだ」。(「太陽の讃歌」高畠正明訳、新潮文庫)
「風景」の持つ力をこれほどまで力強く語った言葉を私は知らない。風景は主体と世界の幸福な時を思い起こさせ、世界と和解させる力を持つ。「主体と世界の幸福な時」とはまさに「原風景」の“時”である。この時を奥野健男は「世界と自分が同一化する、完全に主客身分化の世界」(「“間”の構造」集英社)と呼んだ。しかし、カミュのイメージは奥野が語る「生誕の家」のイメージ(「文学のトポロジー」河出書房新社)の持つ、現実世界の一切に背を向けて浸りこむ、退嬰性とはなんと対照的であることか。現実世界の不条理にまっすぐ立ち向かい、一切を肯定しようとする「世界との和解」があり、その契機としての「風景の力」が説かれているのだ。風景は人に勇気を与え、生きる力を与える。そしてしばしばその風景は、このような言葉に描かれた風景であったり、アニメやファンタジー映画の中の風景であったりもする。しかし何よりも現実の風景が、より大きな力を持ち得るはずなのだ。
とするならば、風景に関わる生業を持つ者にとって、たとえたった一人にせよ、自らの関わった風景が、誰かに生きる希望と勇気を与えることができ、その風景を振り返って「EtinArcadiaego」と呟いてもらえるとしたら、これほどの幸せはないであろう。 
風景を取り戻すために

 

いつから風景が、数字にかわったのだろうか。歳を重ねた樹木も、町並みの奥にある陽当たりも風通しも、大地も建物も、経済価値や環境指標に置き換えようとする。数字がないと安心できない、商売できない人が多くいるのだ。町並みは、建物の建ち並びである。しかし、個別の敷地単位で、その環境性能や経済価値を数字に、どれだけおきかえてみたところで、町並みの性能や価値は、その足し算では表現できない。あらゆる数字を裏切り、個々の空間が競合しながらも共存するときに、風景は元気で美しい。
いつから建物は、平面図の積層に還元される床の量と自己満足の立面の組合せにかわったのだろう。2次元情報を組み合わせて、何とかヴァーチャルに3次元情報を見せて、説得しようとする。しかし、人が身体性を維持するかぎり、人は空間のなかに存在するのであり、時間と空間の移ろいを身体的に経験することでしか、風景を感じるセンス、読みとるセンスは育たない。
いつから風景は、生きられる空間から分離され、視覚情報になったのだろう。生活や風土から切り離された色やかたち、配列やパターンなど、視覚情報として表現され、分析されても、それだけでは、風景にならない。視覚情報を合理的に操作したところで、生き生きした町並みは生まれない。
いつから都市は商品になったのだろう。建物は消費されるモノとなり、その集合体である都市までもマーケットにゆだねられる。町の営みや生活とは関係のない主体によって建物が供給されるようになり、そのよりどころが、数字であり、情報であり、その結果が、建物や空間の商品化である。モノとなった建築は、あたかも私的所有物かのようにつくられる。モノのデザインは、とてもプライベートであっても良いのかもしれないが、空間のデザインはとてもパブリックなのだ。デザインは公共性を放棄したのだろうか。
人間の欲望に基づく都市生活の変化をとめることはできない。しかし、都市に関わるデザインは、私的で個別の欲望を満足させるためにあるのではないはずだ。都市を構成するひとつひとつの空間は、私的であっても、公的であっても、都市の一部であるという認識と身の回りを意識する感性がなければ、その欲望はただのわがままであり、新しい文化の表現にはならない。そこで生活し、何らかの営みを続けるときには、その場所やその場所に生きる人々との関わりを大事にするが、土地で商売して売り逃げる建物をつくるときには、わがままな欲望であっても何の痛みも生じない。しかも、そうした商品が売れるような文化レベルなのだ。
少しの我慢と、競合しながらも共生するための関係性をつむぎなおす作業、そして、その関係性を社会的に説得すること、関係性の表現が文化であることを空間のかたちで示すことが、今、都市に関わるデザインに求められる。
風景への手がかりが豊かななところでも、状況は変わらない。高密居住の歴史的な空間のかたちを維持している京都であっても、関係性のつむぎなおしが求められている。それは、町家の奥座敷で庭の移ろいを眺める楽しみとマンションの窓から山並みを眺める楽しみを共存させる空間の組立て方、それらが表現される町並みの持続のあり方を見つけだしていくことである。
そこで、都市を緑で覆おうなど、高密な建物の建ち並びの美しさである都市的町並みを否定するような安直なことは考えないほうが良い。緑は風土として、都市の空間構造を担う。屋上緑化も修景緑化も空地の緑化も、風土条件の創造とみることで都市環境の構成条件となるのであって、空間構成のデザインではない。
近代に見失った都市の風景を取り戻すには、立ち止まることから始まる。これから長い時間をかけて建物や空間相互の関係性を修復していく必要がある。今、立ち止まるために必要な都市計画の変更はすればよい。そこで発生するような短期的な既存不適格など気にする必要はない。それを気にするのは数字で町をつくる人、空間を売ろうとする人たちだけである。ただ、都市の元気を維持しながら、風景をとりもどしていくためには、都市で生き続けるための仕事や楽しみを生みだしていく必要があるのだが・・・。 
「混乱の美」を超えて

 

「都会の風致が並木に依っていつでもよく成る様に思って居るのは浅薄な考へである。電車の走る処には電車に伴なふ風致があり、ドブの様な悪水の縦横に流るる大阪には其悪水に付随した大阪特殊な風致がある。夫を殺風景だと云ってドブを埋め広告をはがし、電柱を引き抜いて市街の至る処に並木を植えたって都市の風致はよくなるものではない」(西川一草亭『風流生活』1932)。
「小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、…この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない」。「武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、なんであろうか」(坂口安吾『日本文化私観』1943)。
「日本社会の経済成長が軌道に乗った60年代は、建築家のいわゆる都市デザインと呼ぶ提案が活発になり、若い世代の関心を集めた。〈進歩的〉建築家たちの〈醜悪な都市〉という常套的批判が東京に向かって投げられた。私はそれと正反対の、単純化すれば、この風景は現代都市の本質が見事に表出した〈混乱の美〉と定義した」。「現代の集落が表現するものは、調和した美ではなく、混乱した美であってよい」。「世界のすべての街の通りに、醜悪といわれるような風景はない。貧しいスラム街でも人が住む空間には〈美〉が漂う。それが人間と住まいの根源的な結びつきなのだ」(篠原一男『超大数集合都市へ』2001)。
これらの文章は、そのニュアンスに多少の相違があるとしても、一般には〈醜い〉とされるものを〈美しい〉と言い放っている点で共通している。華道、文学、建築という異なるジャンルにおけるおそらくもっとも上質な部類に属する人々による、戦前、戦中、戦後という3つの異なる時期からの発言であるだけに、これらを単に個人の特異な嗜好の表明として片付けるわけにはいかないように思われる。
柄谷行人は坂口安吾の〈美〉を、フロイトの〈死の欲動〉、そしてカントの〈崇高(サブライム)〉との関連から論じて、「安吾が好む風景は、美ではなくサブライム、つまり、不快を通して得られる快なのである」といっている。後期フロイトの中心概念〈死の欲動〉に通じる「不快を通して得られる快」とは、母親の不在という不快な経験を繰り返し再現する孫娘の遊びの中にフロイトが見出したものである。少年期以来、単調で反復的な無機質の風景にどうしようもなく惹かれていたという安吾についても同じ事がいえると柄谷はいうのだ。「おそらく安吾にとって、海と空と砂を見てすごすことは、母の不在を克服する〈遊び〉であったといってよい。そうした風景は彼に快を与える。しかし、それは母の不在という不快さを再喚起することにおいてなされているのである」。
美と区別されたカントの崇高とは、柄谷によれば「どう見ても不快でしかなく構想力の限界を越えた対象に対して、それを乗り越える主観の能動性がもたらす快である。いいかえると、美は〈快感原則〉に属するが、崇高は〈快感原則の彼岸〉にある。カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある」。
人々の共通感覚としての〈調和の美〉が〈快感原則〉にかなう〈美〉であるとすれば、篠原一男における〈混乱の美〉は〈快感原則の彼岸〉にある〈崇高〉であろう。したがって、カントのいい方を借りれば、〈混乱の美〉の根拠は都市の側にではなく、われわれの心に求めなければならない。われわれの心が都市の表象の中に〈混乱の美〉という崇高性を持ち込むののである。
カントは崇高を〈数学的に崇高なもの〉と〈力学的に崇高なもの〉とに分けて論じている。平静な心の状態のもとで観想される〈美〉と異なり、〈崇高〉の感情はもともと心の動揺を伴うが、この動揺には認識能力に関連する動揺と欲求能力に関連する動揺(たとえば恐怖)とがある。前者を伴う場合を〈数学的に崇高なもの〉、後者を伴う場合を〈力学的に崇高なもの〉とカントは呼んだのである。
われわれの通常の認識能力の限界を超えて混乱した都市の風景を前にした時、その判定にあたって、人は認識能力に関連するある種の心的動揺を経験するであろう。この動揺が合目的性をもつためには、すなわち意にかなうものとして〈快〉に転ずるためには、それが「数学的な調和的気分」として都市の風景に帰せられ、そうすることによって都市風景が〈崇高〉なものとして表象されなければならない。これがカントのいう〈数学的に崇高なもの〉に他ならない。〈混乱の美〉を主張する篠原が、日本の巨大都市、たとえば東京を〈数学的都市〉あるいは〈超大数集合都市〉として表象しようとしている理由は恐らくここにあるのであろう。
篠原ほどの明快さは欠くとしても、〈混乱の美〉に近い考え方はわが国の多くの前衛的とされる建築家達に共有されているように思われる。前述のように柄谷は安吾の特異な〈美〉を少年期の自己形成空間から説明しているが、崇高性の導入には他にも様々な経路があるのであろう。建築家には建築家ならではの独特の事情があるように思われる。建築家はその気になれば、都市空間における秩序の不在という不快を、自らの作品を通して能動的に再現することによって、この不快を快に変える機会を特権的に与えられた職能である。建築ジャーナリズムというフィルターを通して立ち現れることによって、一部の建築家達のこの〈遊び〉は建築界に属する他の人々の心の中にも効果的に崇高性を持ち込む。若い世代が靡く所以である。しかし狭い建築界の外にあって崇高性などと無縁な多くの一般の市民にとっては、むろん不快なものはただ不快なままであり続けるだけだろう。 
風景は都市環境デザインの核心なのに

 

鳴海邦碩氏は「人間の感覚的な評価に答えられるまちづくり、そしてそれを達成するための総合的なまちづくり、それが〈都市環境デザイン〉である」と述べている(鳴海邦碩編、都市環境デザイン会議関西ブロック著「13人が語る都市環境デザイン」学芸出版社、1995)。景観は目に見えるという意味で誰にも捉えやすく、また議論しやすい。だから総合的なまちづくりの突破口になるのではないかとの思いがそこにはあったと思う。
そこでの「景観」は、物理的な側面に限定されたものであったはずがない。たとえ景観という言葉を使っていても、風景がそうであるように、一人一人の心に捉えられるものだと考えられていたに相違ない。だから、風景デザインは、今さら取り上げるのが不思議なほどに都市環境デザインにとって基本的なテーマであった筈だ。
にも関わらず、その議論は低調ではなかったか。今の都市の風景をどう見るのかをめぐってのフォーラム委員会での議論では、「日本の都市風景はよくならない」「こんながんばっているのにダメだ」といった諦めさえ漂っていた。しかも、それが深刻な事態だとは思われていないように見えた。
第1回プレセミナーでは、「いまなぜ風景モデルか・・時代が見たい風景とは」をテーマに報告・議論がなされたが、時代が見たい風景を先取りしようとの真摯な議論は共有されなかったし、風景モデルというやや歴史的な概念に懐疑を示しつつも、それにかわるものは提示されなかった。
第2回プレセミナーでは、この35年に蓄積された都市風景に美を見いだせないかが問われたが、現代がつくりあげた風景のなかで、たまたま出来てきた風景の断片から個人的に美しいと思うスライドを示し、「私は美しいと思う。あなたはどうか」と独白したに過ぎない。これでは「いや、思いません」と答えた途端に議論が途絶えてしまう。
「人間の感覚的な評価に答えられるまちづくり」を業として目指す以上、もう少し確たる姿勢は出てこないものだろうか。
確かに井口氏が第2回で指摘したようにアート的な建築、ビックプロジェクト、町並み保全などに一定の成果があった。だが、この小冊子に投稿されてきた写真をみても、とりわけビックプロジェクトはなかったかのごとく扱われている。誇らしげに成果を示し、込められた風景への思いが語られてものはほとんどない。都市環境デザインの本質が深く風景と関わる筈という先ほどのロジックは、まったくの嘘なのだろうか。
一方、フォーラム委員会でも何度も指摘されたように、そういったプロの側の低迷に反して、世間では広い意味での風景への関心は高いし目は肥えてきている。たとえば昔の法善寺の良さを再生してほしいという圧倒的な市民の声に、それは端的に表れている。エイジングのきいた美しい風景が、今ほど夢見られた時代はない。また建設と好況に沸いた20世紀後半がいよいよ過去のものとなりつつある今、丸茂氏が以前より主張している「誰もが利用でき、そこに居るだけで幸せになれる空間」、お金には変えられないかもしれないが、身体を心地好くしてくれる空間を守り、育て、創ることが今ほど求められている時はない。
何かで読んだが、これからの日本はごく一部の世界企業戦士(高給取り)と、後はまあローカルにボチボチやる人に分かれていくのだと言う。ボチボチやっていても、それなりに幸せな気分になれる時間や空間への希求。それらは政治や経済の狭間でまだまだ日陰ものでしかないかもしれないが、明らかに根を張り、力を付けつつあるように思える。
言うまでもなく風景に普遍的な価値基準はない。また原風景も心の深層に人類共通の何かがあるのかもしれないが、証明はされていない。だが、現在を生きる我われの多くが「おお、良いじゃないか」と思える風景があり、「居るだけで幸せになれる」空間もある。答えは一つではないが、選ぶに値する選択肢は示すのがプロではないか。都市環境デザインなんかじゃ食っていけないと言われる今だからこそ、プロには自信をもって、人間の感覚的な評価に答えられる風景像をつくって見せて欲しい。それが出来なければ、都市環境デザインと社会は、金の切れ目が縁の切れ目になってしまうかもしれない。 
 
属国日本論 / 幕末・明治期編

 

幕末・明治期編
日本は、イギリスの開国戦略に従って、倒幕から開国に到ったのである。
日本に開国を迫ったのは、幕末の1853年と1854年に来航したペリー提督率いるアメリカ合衆国インド洋艦隊である。
浦賀まで来たどころか、実際には江戸湾深く入り込んで、たびたび威嚇砲撃(ペリーとしては礼砲のつもり)を行なっている。「開国と通商交渉に応じないならば、実際に江戸城を砲撃し、陸戦隊を上陸させる。上海からあと10隻軍艦が来るぞ」と幕府の交渉役人を脅したのである。ペリー艦隊の軍事力で、江戸城は本当に崩れると誰にも分かった。当時は江戸城の裏まで海だった。
ペリーが、日本側を交渉の場に引きずり出して、上手に「友好条約」と「通商条約」を結ぶ過程は、『ペリー提督日本遠征日記』(木原悦子訳/1996年/小学館)の中にあますところなく描かれている。 
変わることのない“日本に対する基本認識”
ペリーの航海日誌のきわめつけは、やはり次の記述であろう。これが全てを如実に語っている。
しかしそれでも、日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならないことは確かである。それに、なんらかの成果をあげるには、まず諜報員に日本語を学ばせなければならない。(『ペリー提督日本遠征日記』)
この「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」という一文が、米日関係の現在をも、明確に規定している。現在の日本研究学者たちの存在理由もここにある。ペリーは何度も「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」と書いている。これはおそらく現在にも通じる我々の特徴であろう。
そして、この狡猾であるという日本観は、当時の外国人たちの共通認識であり、現在のアメリカの政治家や官僚たちの基本認識である。
日本はアメリカからこの30年間、貿易摩擦でヤイのヤイのと言われ続けである。日本はアメリカの要求に従って、世界基準にまでさっさと規制緩和と輸入自由化を達成しなければ済まないのである。
あれこれ非関税障壁を作ったままで外国製品の輸入を増やさず、その一方で自動車や先端工業製品の輸出ばかりやっていると、いつかひどい目にあうのである。つい6年前のバブル経済破裂こそは、「日本がどうしても世界のゆうことをきかないのなら」ということで、ニューヨークの金融界が仕掛けて日本の余剰資金(おそらく総額1千兆円)を奪ってしまった事態だったのである。 
アメリカ主導からイギリス主導への移行
日本に遠征艦隊を派遣して日本をねじ伏せて開国を約束されたのはアメリカだが、この直後、アメリカは南北戦争という大きな内乱内戦を抱えてしまって、1870年まで外交問題に手が回らなくなる。そこで、アメリカ主導からイギリス主導に移った。
イギリス全権公使のラザフォード・オールコック卿及びその後任のハリー・パークス卿と、その側近の外交官アーネスト・サトウの3人が、日本をどのような方向に持って行くかの青写真を1862年に作ったのである。
その30年前に、ヨーロッパは日本を学問的に真っ裸にするために、ドイツ人のシーボルトをオランダ商館勤務医として派遣した。シーボルトは医学を教えるのと引き換えに、弟子になった者たちを使って日本の事情の一切を調べ上げた。
1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。 
グラバーの役割とジャーディン・マセソン商会
全ての謎は1862年(文久2年)に集中して起こっている。この年に幕末維新史すべてにとって最大の秘密がある。
この年、品川御殿山に建造中であったイギリス公使館を、長州藩の過激派武士たちが襲撃して燃やしている。当時、日本から金銀が流出して激しいインフレが起こっていた。正当な商取引に見せかけて、結局は文明人の方が数段悪賢いわけだから、外国商人たちが日本商人をだまして巨利を得ていたのだろう。さらには日本を政治的にも乗っ取ろうとした。
この外国人どもを殺害(天誅を下す)しようとしていたのが長州藩の武士たちである。襲撃に加わっていたのは、その後「維新の元勲」と呼ばれた者たちである。高杉晋作、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、久坂玄瑞、品川弥二郎らである。
ところが、それから半年後には、この伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)の2人は、なんとイギリスに密航して、ロンドンに留学しているのである。実は彼らはすでに開国派だったのだ、という説になるのだろうか。
伊藤博文らは、18年後の1881年に再びイギリスに渡り、今度は「日本帝国憲法」をつくるための作業を行なっている。そして伊藤博文は、他の維新の元勲たちが次々と暗殺され、あるいは病死していった後の年功序列で、初代の総理大臣になった人物だ。この日本国家を代表した人物の経歴に分からないところがあるというのはおかしな話だ。
おそらく、伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館襲撃の直後に、急激に思想大転向して、開国論に転じ、イギリス人(おそらくアーネスト・サトウ)に説得されて、イギリスの軍艦に乗せられてロンドンまで渡ったのだろう。藩を脱藩することでさえ死刑であった時代に、どうしてイギリスにまで渡ったのか。その旅費1万両は、長崎の商人グラバーが立て替えたらしい。
高杉晋作はその前年に、すでに上海まで行っているという記録が残っている。大村益次郎も上海に行っている。最もよく上海に行っているのは、五代友厚(薩摩藩士)である。
上海にあったのは、ジャーディン・マセソンという大商社である。この会社は現在でもイギリスで4番目ぐらいの大企業であり、中国の権益を握りしめてきた商社である。このジャーディン・マセソンの日本支店とでも言うべき商社がグラバー商会である。おそらく、彼らはすべてフリーメーソンの会員たちであろう。私は陰謀理論を煽りたてる人間ではないが、この事実は日本史学者たちでも認めている。この上海のジャーディン・マセソンが日本を開国に向かわせ、自分たちの意思に従って動かした組織だと、私は判定したい。 
長崎代理店・グラバー商会
グラバー商会が、上海のジャーディン・マセソン商会の日本の窓口であったことは明白である。グラバーは輸出用の再製茶業から長崎での事業を出発させたが、やがて武器と軍艦の取引が大部分を占めるようになる。(中略)
1970年8月、明治維新政府の誕生と同時に、グラバー商会はわずか10万ドルの負債を理由に倒産している。おそらく、ジャーディン・マセソン側が、統幕運動で果たした武器商人としてのグラバーの暗躍を重く見て、他のヨーロッパ諸国からの疑いの目をそらすために、グラバー商会を倒産させてイギリスの日本管理戦略をさとられないように、あとかたもなく消してしまったということだったのだろう。
その後、蒸気船のための石炭を採掘していた高島炭鉱をはじめ。グラバー商会の資産と経営は、最終的に岩崎弥太郎の三菱財閥に引き継がれている。明治維新と呼ばれた大変革期も、その実質的な原動力はこのあたりにあった。即ち、イギリス政府とジャーディン・マセソン商会の連携による日本改造計画の遂行であった。 
五代友厚・ジョン万次郎・坂本龍馬の動き
グラバーは1859年9月に上海から長崎にやって来た。65年には、五代友厚と森有礼をもロンドンに送り出している。
1862年8月には、薩摩藩が生麦事件を起こしており、翌年イギリス艦隊が薩摩まで懲罰攻撃に出かけている。このときに五代友厚は自ら進んでイギリス艦隊に藩船3隻とともに投降している。すでに話は、裏でついていたのである。だから薩摩藩は、このときからイギリス戦略に乗せられる。同年に四国艦隊下関砲撃が行なわれ、占領された。このとき実質的に下関は自由港と化して、幕府の統制と支配を脱して、商人や藩自身が外国商人とものすごい額の取引を行なっている。商船を相手に藩自らが金貸し業を行なって巨利を得て、これが統幕運動の資金となった。
あとひとつ注目すべき動きは、ジョン万次郎と勝海舟、坂本龍馬、後藤象二郎をつなぐ線である。ジョン万次郎は漂流漁民であるところをアメリカの捕鯨船に救けられ、アメリカ東部で英語の教育を受けたのち、10年後の1851年に帰国している。土佐藩に出仕したあと幕府の翻訳方として召しだされ、ペリーのあとのハリス公使との交渉の通訳として使われている。ジョン万次郎はおそらくハリスに、日本側の幕府の老中たちの密談の内容を知らせただろう。
60年に幕府使節が、条約の批准書を交換するために咸臨丸でサンフランシスコに渡ったときに、万次郎も幕府海岸操練所教授として加えられている。ここで勝海舟や福沢諭吉と同船している。
土佐で坂本龍馬はジョン万次郎に教えを乞うている。その紹介で、62年に江戸に上り、勝海舟の門を叩いたのである。63年には神戸に海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり人材を育成している。翌年、その行動が幕府に睨まれて操練所が閉鎖されたあと、坂本龍馬は子分らを伴って長崎で亀山社中(海援隊)を作っている。
脱藩浪人に過ぎない坂本龍馬らがなぜ長崎で海運業を行なえたか。ここもグラバーとジョン万次郎の線で支えられていたからだろう。坂本龍馬は、65年から資金的に困って薩摩藩に頼っていたので、対長州藩説得のためのエージェント(代理人)になっていたと解釈すべきだろう。
坂本龍馬は、薩長同盟(66年1月21日、京都の薩摩藩邸で、西郷隆盛と木戸孝允が合意した攻守同盟6カ条)を仲介した幕末史上の重要人物とされる。しかし、一介の脱藩浪士が何の後ろ楯もなしに、このような政治力を持てるだろうか。背後にはやはり、ジャーディン・マセソンとその日本対策班であったグラバー、それにイギリス外交官たちが控えていたと考えるべきである。 
アーネスト・サトウという日本研究戦略学者
66年6月には第二次長州征伐の最中に、フランス公使レオン・ロッシュと、イギリス公使のハリー・パークスが薩摩で会談して、日本をどっちが取るかで最後の火花を散らしている。薩長同盟が成立するためには、武器と戦艦を、薩摩藩名義で長崎で買って長州の下関に届けなければならない。前年の65年7月末に「胡蝶丸」で7千挺のライフル銃が長州に届けられた。65年12月には、坂本龍馬配下の上杉宗二郎が、武器を満載した薩摩藩名義の桜島丸(ユニオン号)を長州に運んでいる。
井上馨がこの件で木戸孝允(桂小五郎)に「ごほうびに上杉がイギリス行きする資金を藩から出してほしい」と働きかけている。66年1月に上杉は、長崎からグラバーの船に乗せてもらって出航しようとして海援隊の仲間たちに発見されて切腹している。どこか不思議な事件である。ちょうどこのとき、坂本龍馬は京都で西郷・桂と薩長密約を成立させている。
このようにグラバーの影がちらつく中で、軍需物資の長州への支援計画が着々と進んでいる。坂本龍馬が船艦を何隻も動かして、薩長両藩に対して軍事援助を何度も確約しているのは、背後にそれだけの戦略を練った人々がいたからだ。
サトウは、土佐藩の重役の後藤象二郎および藩主の山内容堂と協議したあと、船で長崎の方へ回っている。おそらく倒幕のための諸藩連合の、同盟関係の共同軍事行動の最後の確認に行ったのだろう。 
ジョン万次郎という男
実は、坂本龍馬や後藤象二郎が、土佐でジョン万次郎に会って話を聞き、「世界がどのようになっているか」を知ったその前年に、薩摩の名君で42歳になったばかりだった島津斉彬もジョン万次郎から話を聞いている。帰国の際、沖縄に上陸した万次郎は、鹿児島に46日間もとどめ置かれ、そのあと長崎奉行所で取り調べを受けている。
これは、ペリーが来航する2年前である。ジョン万次郎の帰国は、まるで、あらかじめ申し合わせたようなタイミングの良さである。このように、幕末期の重要人物たちは、ジョン万次郎という人物を中心につながってゆく。そして、彼が幕府に召しだされて通訳として江戸に行くにつれて、この人脈のつながりも移動してゆく、このとき、万次郎は「アメリカ・イギリスによる日本の開国戦略」を、これぞと思う人間には次々に打ち明けていっただろう。ここで、ジョン万次郎の系統の人間たちが、インナー・サークル(内部の秘密を知る人々)として形成された。
ジョン万次郎の動きが一番活発なのは、1865年(慶応元年)である。前年から薩摩に招かれて航海術を指導していたのだが、65年の2月には長崎にいて、土佐藩、薩摩藩、長州藩のための軍艦の購入の仲介をしている。その後、上海に2回、高杉晋作らを連れて行っている。
坂本龍馬は、1862年に勝海舟邸を訪ねている。おそらくジョン万次郎からの紹介状をもらって会いに行ったのだと、私は推測する。「自分は開国派のインナー・サークル(内部の秘密を知る人間たち)の一員である」と勝海舟に信じさせることができたことによって、この時から勝海舟に弟子入りできたのだ。そうでなければ、すでにこの時幕府の高官になっていた勝海舟が、坂本龍馬のような脱藩浪人というお尋ね者の危険な人物に気楽に会うはずがない。殺し屋である攘夷論者の過激派たちがウロウロしている時代に、わざわざ自分から簡単に姿を現すはずがない。よっぽどの人物からの紹介がなければ、自分の家に招き入れるはずがないのだ。
勝海舟は、その2年前に幕府使節の随員として咸臨丸でサンフランシスコに行ったが、その船にジョン万次郎と同乗している。勝海舟はこのとき、万次郎から世界の真実をたくさん教えられたことだろう。 
坂本龍馬の動きの背景
明治新政府の合議政体の青写真となったのは、坂本龍馬が書いた「船中八策」とされるが、このアイデアはアーネスト・サトウのものを下敷きにしたものである。
1864年7月の禁門の変で、クーデターを仕掛けた長州藩が京都から敗退した。その煽りで神戸の海軍操練所が閉鎖され、所長の勝海舟は疑いを持たれて江戸に戻された。そこで坂本龍馬は塾生を引き連れて船で薩摩藩へ行っている。これもグラバーやサトウの意向を薩摩側に伝え、最新兵器や船艦をイギリスがどんどん供給(軍事援助)するという内容の確認のためであったろう。そして、長州に対しても同様の援助をすることが話し合われただろう。
このあと太宰府にいた三条実美卿に会い、尊王攘夷派の公家の勢力を結集するよう説得している。このとき桂小五郎が既に藩内クーデターを起こして長州藩の実権を握っている。桂小五郎は西郷隆盛が薩摩から下関に出てきて、グラバーからの武器援助と秘密同盟の話に入ることを首を長くして待っていた。
坂本龍馬は桂小五郎とは江戸の斉藤弥九郎同情で14年前から知り合っている。このとき2人とも20歳ぐらいであった。桂小五郎は藩の責任者としてとにかく武器弾薬がほしかった。4カ月後には第二次長州征伐が始まるのだから、その準備で大わらわである。伊藤博文と井上馨が7千挺のライフル銃をグラバーからもらって薩摩藩名義の船で帰ってきたのはこの7月である。高杉晋作もこのあと帰ってきた。だから、この65年の5月の時点で、イギリス主導の薩長合作は実質的にできていたと考えるべきだ。
西郷隆盛はなかなか来なかった。いらついた木戸孝允(桂小五郎)は坂本龍馬と中岡慎太郎を怒鳴りつけた。このとき坂本龍馬は木戸孝允に「武器弾薬を積んだ蒸気船(武装商船)を一隻、長州藩に与える」という保証を与えている。いったい、坂本龍馬がなぜこのような発言ができたのか。 
育てられた親イギリス派の日本人
イギリスは坂本龍馬だけを工作者として使ったのではなく、五代友厚や伊藤博文をも別個に動かしている。前年8月の四国艦隊下関砲撃事件にしても、17隻の連合艦隊が一撃で長州藩の砲台を破壊して、陸戦隊を上陸させて占領したのである。フランス、オランダ、アメリカの軍艦と日を置いて交戦し、次々に砲台を占拠されている。それぞれたった半日の戦闘である。それぐらい日本の軍事力は弱かった。
この事件の講和交渉を進めるために、あわてて伊藤博文と井上馨がロンドンからイギリス軍艦で帰国している。この2人は交渉用の人材として育てられたのだから、そのために帰国させられたと言うべきだ。
薩摩藩の場合も、その前年の「薩英戦争」の処理のために五代友厚が育てられていたのだろう。イギリスはこの頃から日本人の若者たちを自国に招き寄せては、親イギリス派の人材として育成することを行なっていたのだ。
イギリスはアヘン戦争で中国を屈服させて開国通商させるときにも、親イギリス派の中国人の人材を育てておいてから武力を行使した。そしてその後の中国にイギリスが植民地(租界)を開いてゆく様子を、日本人の高杉晋作のような人物を上海に連れて行って見せたのだろう。 
兵器こそが薩長連合を成立させた
この下関砲撃の翌年の7月に幕府による第一次長州征伐があったのだが、この戦争も実態は小競り合いに過ぎない。長州藩の方が近代火力や軍艦の点で幕府側よりも強かったから負けなかっただけのことである。
このようにして、1865年には長州は坂本龍馬や伊藤博文を介してグラバーから船鑑弾薬を大量に受け取っている。この事実があってはじめて、翌年の薩長連合が成立したのだ。
このあとの第二次長州征伐の際に、高杉晋作が組織した奇兵隊が強かったのは、やはりイギリスの日本戦略に従ってグラバーが大量に上海から輸入した鉄砲大砲の類があったからだ。進んだ軍事技術の前には、旧式の鉄砲大砲は太刀打ちできないのである。
日本人は自分たちの力で国内改革をやってきたと思いたいだろうが、真実は、この幕末維新期でさえ、当時の世界帝国イギリスの描いたシナリオの通りに歩かされたのだとする方が正しいだろう。
この時期から日本はイギリス及びアメリカの支配下に入ったのである。そのことを明瞭に自覚していたのは、五代友厚(後に大阪堂島の商工会議所を開き、株式市場などの資本主義国としての経済制度を作っていった人物)と大村益次郎と坂本龍馬と伊藤博文と井上馨である。だから、彼らはインナー・サークル(本当の秘密を知る人間たち)であった。その周辺に公家の岩倉具視やら木戸孝允やら西郷隆盛やら、それに大久保利通と後藤象二郎がいた。 
最終段階で切り捨てられた坂本龍馬
坂本龍馬が襲撃され暗殺されたのは、翌67年旧暦11月15日である。寄宿していた京都河原町の近江屋という醤油屋で、中岡慎太郎と一緒に殺されている。
この前月の10月13日には、将軍徳川慶喜は「もう幕府はもたない」と自覚して先手を打って大政奉還を宣言し、翌14日に朝廷に奉請している。京都にいた40藩の代表を二条城に集めて、「自分がこのまま諸大名の頂点に立ち、諸侯会議という合議体制に移行させよう」としたのである。これに対して薩長の倒幕派は、公家たちを動かして同じ14日に、朝廷から「倒幕の密勅(秘密の勅許状)」をもらっている。これで薩長は一気に軍事クーデターを起こすことを決め、薩長出兵協定を結んで戦艦隊も関西に到着している。
この動きの中で坂本龍馬は殺されたわけだ。どうも坂本龍馬は、この武力倒幕路線に最終局面で反対しており、「幕府が諸侯会議を開くというのだから、それでいいではないか」という考えだったようだ。それでこの緊迫した時期にインナー・サークルからはずされたのではないか、とも考えられる。
既に坂本龍馬はイギリスにとっては切り捨てるべき段階に来ていた。67年4月には、高杉晋作も結核で死んでいる。 
大村益次郎と後藤象二郎
インナー・サークルのもうひとりの重要人物は大村益次郎(村田蔵六)である。大村益次郎は長州藩士だが、宇和島藩主・伊達宗城に招かれ、蘭学や兵学の教授となり、軍艦を建造したりしている。61年には上海に行き、長州藩のために武器弾薬を購入している。66年には長崎でグラバーから兵器を購入している。
大村益次郎は、かつて長崎留学生のときシーボルトの娘オイネとつき合っており、早い時期から「秘密の仲間」に入っている。軍監という司令官の役職について、68年1月、倒幕軍を率いて江戸攻めに向かう直前に、大村は長崎のグラバー商会に陸揚げされていたアームストロング砲21門を入手している。これは、この当時、世界最新鋭の強力な兵器で、これが鳥羽伏見の戦いの勝敗を決めたのだ。幕府軍は士気が上がらなかったので負けた、とふつうの歴史書には書いてあるが、そんなことはない。戦闘はより強力な武器を持つ方が勝つのだ。倒幕軍の総大将は西郷隆盛だが、軍事力を直接動かしたのは大村益次郎であって、江戸に入ったあとも、上野の彰義隊の抵抗をこのアームストロング砲で一気に片づけている。西郷隆盛も大村益次郎の戦闘指揮の前に頭が上がらなかったという。
政治の流れを大きく背後で動かしているのは、軍事力とそのための資金である。
一体グラバーの背後に、日本を属国にして管理していくためのどれだけの策略がめぐらしてあったのか。まるで日本人だけで、それも情熱に燃えた下級武士たちの力で明治維新ができたと考えるのは、底の浅い歴史認識である。
後藤象二郎は、五代友厚の仲介でグラバーから船を買ったり、オランダのハットマン商会からライフル銃を買ったりした。結局、これらの努力は翌年の68年の戊辰戦争に間に合って、薩長土肥の連合軍の中で重きをなした。この土佐商会の中にいたのが、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎で、晩年のグラバーの面倒を見たのもこの岩崎である。現在の三菱グループが、世界企業戦略を持って大きくなったのも、このとき以来の人脈からだろう。 
伊藤らのイギリス再訪
以上のように、1962年という年を境に、討幕運動の内部に大きな連携のネットワークができたようである。
明治維新で本当の戦乱があったのは、68年の戊申戦争の半年間ぐらのもので、あとは散発的な殺し合いがあっただけだ。伊藤博文らは、1881年に憲法を作るために再びイギリスに渡り、ロスチャイルド家の世話を受けている。ロスチャイルド家は当時の世界中の最新情報を握っていただろう。大きな意味ではそこが世界の最高司令部だったのである。ロスチャイルドにしてみれば、極東の新興国の日本の場合は、誰を押さえておけば上手に管理できると“上からの目”で全て見透かしていたはずである。
ロスチャイルドは、「日本にはイギリスのような最先進国の政治制度は似合わない」として、プロイセン(プロシア)ぐらいがちょうど良いだろうと勧めて、プロイセンの憲法学者グナイストやシュタインを紹介する。このグナイストに家庭教師をしてもらって作ったのが明治憲法である。 
解説
こうして、鎖国を続けていたわが国に、イギリスの手によってついに「くさびが打ち込まれた」のです。もっと単刀直入に言えば「スパイが植えつけられた」ということです。私たちが幕末から明治維新にかけて文明開化の橋渡しをしてくれたと信じてきた人物たちの多くが、実はイギリスの奥の院に住む世界支配層(ロスチャイルド)の手先(グラバーなど)によって手なづけられ、操られたエージェント(代理人)だったということです。
徳川幕府に大政奉還を迫り、鎖国政策を解かせた力は、坂本龍馬や伊藤博文らを巧妙に操ったグラバーなどのイギリス商人たちだったことがよくわかります。そして、その手口は今日でもまったく変わりません。
「内部で争わせて、支配せよ」というのが彼らのやり方です。幕府側にはフランスが、薩長の側にはイギリスが武器や戦術の提供を行ない、あわよくば両者が激突して、ともにボロボロになることを期待していたのです。それは「大江戸炎上」という形で実現する一歩手前まで行きましたが、薩長側(官軍)の総大将・西郷隆盛と幕府側代表の勝海舟の会談によってどうにか避けられたのです。
しかしながら、その後に生まれた明治政府の中心となったのは、この2人ではありませんでした。それは密航してイギリスに行き、洗脳されて帰ってきた伊藤博文や井上馨らだったのです。坂本龍馬に至っては、倒幕の戦争を回避する策を口にしたために、何者かによって殺害されてしまいます。詳しい内容は、ぜひ『属国・日本論』を購入して深みにはまっていただきたいと思います。
このあと、日本は西洋の先進諸国を見習って急速に近代化を進める過程で、やがて日清戦争、日露戦争という2つの戦争を経験し、ついに第二次世界大戦へと導かれていきます。そこにも、政府や軍部に埋め込まれたエージェント(代理人)つまり、“世界支配層”の手先たちの、実に巧妙な活躍があるのです。首相を務め、中国への泥沼戦争のきっかけをつくった米内光政や、海軍の総大将として日本海軍を意図的に壊滅へと導いた山本五十六らの見事なスパイぶりには目を見張ります。
そして敗戦後の日本が、“世界支配層”によって完全に属国として扱われているのは言うまでもありません。現在の日本の政財界やマスコミなどに巧妙にばらまかれているエージェント(代理人)が誰なのかについてはある程度推測できますが、今日の日本の政治がそれらのスパイたちによって操られているのは間違いないと見てよいでしょう。 
 
壊される日本 / 「心」の文明の危機

 

ペリー艦隊来航の工作者
ペリーは1852年に4隻の軍艦を率いて江戸湾頭に現れ、開国と通商を強要した。ペリー艦隊はきわめて大規模な艦隊であり、有力な海兵を搭載していた。
当時の幕府はすでに幕末症状を呈しており、この武力威嚇に対して手の打ちようがなかった。ついに日米和親条約を締結したが、これは幕府の無知につけ込んだ不平等条約であった。そして日本は鎖国以来250年にして開国したわけである。
当時の東アジアの状況を見ると、すでにインドは植民地化が着々と進められており、清国はアヘン戦争に敗れ、広東、上海等を貿易港として解放し、そこにはイギリス人を中心とする酷(むご)い貿易商人が入り込んで、中国搾取の体系を築き上げつつあった。ところで、ここでわれわれが深く考えなければならないことは、イギリスさらにはオランダ、フランスの勢力が、それまでの2世紀の間に東洋の植民地化を進めてきた事実である。
今日の歴史書には、単に英・蘭・仏の政府が国策として東洋の植民地化を進めたように書いてあるが、実は、彼らの植民地化の実態は、国家が動いたというよりは、むしろ各国の一部グループ(各東インド会社)による商業的冒険主義者の連合勢力による動きだった。
日本人は、日清戦争以後の大陸進出が政府主導というよりは、むしろ軍部主導でなされた経緯があるから、イギリスやオランダ、フランスの東洋への植民地獲得活動を、日本と同じように政府や軍人たちによる計画的な動きだと考えやすい。しかし実際はそうではなくて、むしろ商工業者(その中核の冒険商人)による経済的侵略行為が、のちにそれぞれの政府によって認知されて、植民地として政治的体裁を整えるようになったのである。 
東インド会社の正体
ここに国家的に海外進出を行なった日本と、それに3世紀先行するヨーロッパ各国との大きな違いがある。そして、こういう動きの中心には必ず何らかの思想的、宗教的な背景があるものだ。
イギリス、オランダ、フランスの場合は、その中心を成したのはユダヤ系の商人であったと思われる。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、その身元を探るとやはりユダヤ人であったと見られている。つまり、海外に出て行って商売をし、そこで軍事力・政治力を打ち立てて植民地化し、独占的商業圏を築き上げ、その住民を搾取するという観念は、ヨーロッパ土着の考えというよりは、むしろ古い中東の歴史から出た考えであると見るべきであろう。
イギリスの東インド会社が設立されたのは1600年で、これは秀吉が亡くなって2年後のことである。そして、オランダの東インド会社ができたのは、それから2年遅れた1602年、フランスの東インド会社は1604年である。
その後のイギリス、オランダ、フランスの植民地経営を見ると、現地の住民を教育するといった考えはなく、単に労働力として酷使したのである。また現地人の中で頭の良い者は、本国の大学に入れて植民地政府の従順な官吏として使った。
さて、英・蘭・仏の東インド会社なるものは、主としてユダヤ系の勢力によって作られたものであり、その中には太古の中東から脈々と流れる精神が深く隠されていたのである。彼らの植民地支配の内容を見ると、流血と詐取と搾取の跡が歴々としている。こういうことは本来の敬虔なキリスト教徒である本国ヨーロッパ人は避けていたことであろう。
たとえば中国に侵入したイギリスの行なったアヘン戦争と、アヘンの中国への無制限の持ち込みといったことは、尋常の精神で考えられるものではない。以後の中国は、上海を中心とするサッスーン財閥その他の、もともとアヘン貿易によって資産を成した者によって牛耳られていったのである。 
フリーメーソンの暗躍
フリーメーソンの起原あるいは性格については、今日でもごく最内部にいる少数者を除いて十分に知っている者はいないと考えられるが、この東インド会社なるものの行動規範にフリーメーソンがまとわりついていることは疑う余地がない。
ところで、すでにアヘン戦争を起こして中国に入り込んでいたイギリスが、なぜ日本に真っ先に来ないで、代わって米国の東洋艦隊司令官マシュー・ペリー代将が江戸湾頭に現れたのか。これは各国フリーメーソンの共同謀議の結果と見るべきであろう。
彼らがアジア諸国を植民地化するに際して用いたのは、現地の王侯、大商人等をフリーメーソン組織に入れ、あるいは彼らを操って内部抗争を起こさせ、その混乱に乗じて全体を手に入れるという手口であった。インドなどはその典型である。
たとえば戦前の中国は、まさしくフリーメーソンによって四分五裂の状態に陥っていた。孫文も、蒋介石を取り巻く人物の多くもフリーメーソンであった。蒋介石の婦人は宗美齢だが、この宗一家はことごとくフリーメーソンであった。そして周恩来もまたフリーメーソンであったと言われている。周恩来は若いころフランスに留学している。 
日本開国の遠謀
それでは彼らは日本に対して、いったいどういう手を用いたか。
幕末をフリーメーソンの光に照らしてみると、当時の事情が鮮明に浮かび上がってくる。ペリーの来航前、フリーメーソンは彼らの占領していた上海で日本征服の会議を開いたと伝えられている。その時期や場所、内容は現在のところわかっていない。おそらくその当時長崎の出島に橋頭堡を持っていたオランダのフリーメーソンが主導権をとって、日本征服の計画を練ったものと思われる。
当時の清国に対してとった武力侵攻政策を日本に適用することは否決されたと言われている。それは、日本を武力で侵攻することに成功の保証がなかったからである。
日本は侍(さむらい)の国であって、ペリーの来航66年も前の1786年に、林小平が『海国兵談』などで外国の攻撃の危険を説いていた。その後、多くの人が外国からの攻撃の危険を論じ、幕府はじめ各藩は海防を厳にしていた事情がある。
アヘン戦争が1840年であるから、いかに林小平が先覚の士であったかがわかる。日本侵入に関するフリーメーソン上海会議は、アヘン戦争以後数年以内に行なわれたものであろう。日本侵入の第一着手として、アメリカの東洋艦隊による日本強制開国が決定されたものと思われる。
では、なぜイギリスではなくてアメリカだったのかという問題であるが、イギリスに対しては、アヘン戦争における清国での行状から、日本人は極端な悪感情を抱いており、またオランダは長年にわたって長崎・出島に住みつき、幕府に対しては極めて恭順の体裁をとっていたので、いずれも日本に開国を迫る当事者としては不適当であった。
そこで、フリーメーソン国家アメリカが呼び出され、その任を授けられたのがペリーであったのだろう。
極めて興味深いのは、ペリーに対するアメリカ大統領の訓令の中に、「決して武力を行使してはならない」ことが記されていたことである。つまり、日本の武士たちの対面を大砲によって破ることは、その後に計り知れない悪影響を及ぼすことを、彼らは悟っていたのである。
アメリカ海軍のペリー提督は、日本開国について十分知識を集めて研究をして来たものであり、衰弱した幕府官僚は一方的に条件を呑まされるしかなかったのである。 
内乱を起こして植民地にせよ
このとき、フリーメーソンはどういうプロセスを経て日本を手に入れようとしたのか。それは当時の事情から分析することができる。つまり、彼らの常套手段――対抗勢力を操って内乱を起こさせる――を使ったのである。
幕府に入ったのがフランス・フリーメーソンで、フランスから相当規模の使節団を入れて借款を申し入れている。つまり薩長土肥の倒幕派に対して幕府が十分戦闘できるだけの軍資金と兵器・弾薬の提供を申し出たのである。
一方、薩長側にはイギリス・フリーメーソンがついており、長崎に駐在していた武器商人のトーマス・グラバーを通じて相当の便宜供与を行なった。
こうして日本を内乱状態に陥れ、そのどさくさに紛れて日本の植民地化を図ったのである。
この時、日本に2人の英雄が現れた。一人は官軍の参謀総長である西郷吉之助(隆盛)、もう一人は幕府軍の参謀総長・勝海舟であった。西郷と勝が小人物で、英仏フリーメーソンの影響を受け、金で買われていたならば、とんでもない大戦争になり、江戸は焼け野原になって、今日までも大きな禍根を残しただろう。
このような事情から、フリーメーソンはその後も日本への侵入と日本国家のコントロールをきわめて長期の計画で辛抱強く進めてきた。その後の日本の政財界の西洋一辺倒の風潮に乗って、彼らがその本心を隠して日本の著名な人士、勢力を持つ人物にそれとなく浸透していったことは間違いない。
当時の元老・西園寺公望などは、10年間もパリに滞在したのち帰国しているが、彼は公家出身者で公爵でありながら、完全に、しかし隠微にメーソン的思想のもとに行動した人物である。フリーメーソンは現在の日本の政財界にも深く浸透していると考えて間違いはないだろう。 
獅子身中の虫
日本を日米戦争に導く構想が始動したのは1921年のワシントン軍縮会議である。
それ以来、日英同盟の廃棄、中国における排日思想の誘発、満州における張学良を使っての日本との紛争の惹起、満州事変への誘導などの手が打たれ、さらに中国共産党と連携して支那事変を起こさせ、蒋介石を指導援助して対日抗戦を継続させた。そして最終的には、石油禁輸によって日本を絶体絶命の窮地に陥れ、ハル・ノートで戦争に追い込んだのである。この間の情勢を冷静に検討してみると、日本の政治家、軍人の非常な愚かさがあるし、また彼らの計画の水も漏らさぬ周密さが際だっている。
1921年から41年までの20年間の日米関係、日英関係を振り返ってみると、深い謀略が周到に張り巡らされていたことが明らかである。
しかも極めて残念なことに、日本国民の中にこれらの謀略の手先を務め、決定的に日本を対米戦争に追い込んだ者たちが見受けられる。もっとも忠実な日本人であるべき陸軍軍人の中枢にさえも、きわめて少数ではあるがその筋の影響を受けて日本を戦争に追い込むのに加担したものがいたのだ。 
占領政策の内実
こうして日本はイギリス、アメリカ、そしてそれらの意のままに動かされた中国によって自在に操られ、ついに支那事変から日米戦争へと追い込まれる。これは米英を動かしてきた中心勢力の隠微なる働きによることは明白であるが、一方、長年にわたり国内に培われていたマルキシズム、共産思想、社会主義分子によっても大きく動かされてきたのである。
戦後の日本は6年間の占領によって根本的に変えられてしまった。米国外交政策を指導するフリーメーソンにしてみれば、天皇制を廃し、自由民主主義の美名のもとに少数の資本家を中核とし、大多数の国民を従順なる羊の群れとして搾取するという構想を考えていたことであろう。
皇室はその力を削がれ、大部分の皇族は一般人となり、華族制度は解消され、財産税の無差別な適用によって上は皇室から財閥、市井の金持ちにいたるまで、すべて一様に巨大な収奪を被ったのである。
これは、要するに伝統的支配階級を滅ぼす政策であり、日本の歴史的伝統、精神的中核を骨抜きにする作業であった。これによって今日、まったく骨のない、歴史を忘れたわけのわからぬ日本人が無数に出てきたのである。
日本の敗戦後の状況は、フリーメーソン、イルミナティが表面に現れないようにして日本を改変し、彼らの思う方向に誘導してきた結果である。これは半ば成功し、半ば失敗したと言うことができるであろう。
彼らは結局天皇制を廃止することができなかったし、天皇に対する崇敬を根絶することもできなかった。しかも、彼らが手を加えて大いにその衰滅を図った日本神道は、今日でも各地の神社が盛大である。少なくとも彼らが完全な成功を収めたとは言いがたいようだ。彼らからしてみれば、日本は頑強に彼らの誘導する方向に抵抗したということができよう。 
日本経済のフリーメーソン化
明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、それぞれ大きな時代の変わり目であった。現在は平成5年であるが、この5年間に日本のフリーメーソン化は急激に進んでいる。
日本の企業は大挙アメリカに出て行った。そして日本の金融機関はたいへん巨額の金を海外とくにアメリカに持ち出した。そしていわゆるバブル経済がピークに達し、その破裂が起こったのもこの時期である。
1929年のニューヨーク株式大暴落は決して自然的経済現象ではなく、周到に根回しされ、引き起こされた人為的経済現象であるというのが、私の考えである。これと同じく、一昨年初めからの株式大暴落は、1つの劇つまり人為的なものであって、まさしく半世紀前にニューヨークの市場を操ったのと同一の手によるものであると思っている。
当時ニューヨーク市場を動かしたのは、もとより米国人であったが、それよりはさらに大きいヨーロッパの勢力、おそらくはロスチャイルドやワーバーグの関係者がいたのである。つまり、当時のアメリカ金融界はなおヨーロッパのコントロール下にあった。それと同じように、敗戦以来の日本の経済、政治、あるいは社会は、ほとんど完全にアメリカの手によって操られているといって差し支えない。 
恐るべき時代の開幕
さて、現在の日本の企業・金融関係者に世界支配中枢の手が伸びていることは確実である。しかもその魔の手はすでに官僚や学者や宗教関係者にまで伸びて、深く入り込んでいる。もとよりマスコミ関係、評論家には戦前から深く食い込んでいると言ってよい。
私がもっとも危惧しているのは、次代の日本を背負うべき児童や青少年を規制する教育関係者に、すでにこの影が入り込んでいるのではないかということだ。一般に考えられているよりもはるかに広範に、彼らの力が入っていることを恐れざるを得ない。
もちろん、彼らの力はすでに政界に深く入っている。共産党、社会党(現社民党)はまさしくイルミナティの代弁者である。そして自民党もまた、中曽根首相以来、その中枢部はこの一派によって独占されてきたように思われる。つまり、彼らと同調する以外に主要な政治家としてのキャリアを持つことができなくなっているのではないか。
今や日本が陥りつつある状況は、決して誇張ではなく恐るべきものである。本当に恐怖すべき状況にわれわれは突入しつつあるのだ。 
「見えざる植民地」日本
われわれは第二次大戦によって植民地はすべて解放されたと思い込んでいる。アメリカ大統領ルーズベルトは、世界植民地の解放を第二次大戦を戦う有力なスローガンとしていた。しかしながら、これは他のルーズベルトの言明と同じくまったくのまやかしであった。西洋はその国家社会の本質として植民地主義を血肉としてきているのであって、それを一時の戦争によって捨て去ることなどとうていあり得ないのである。
ところが、このことを日本人はまったく理解していない。外面の行動・宣伝に惑わされて、事の本質を理解していないものが多いのである。
なるほど法制的に見れば、世界の植民地はすべて解放されてしまった。本国が直接に統治する植民地は消滅した。しかしながら、植民地主義の妖怪は決して消えていない。植民そのものの様態が変わってしまっているのである。
第二次大戦に際して、なぜ西洋の首魁ルーズベルトが植民地解放を呼号したかをよく考えてみなければならない。ルーズベルトの政治は、人から吹き込まれた科白(せりふ)を、巧みな演技でもっともらしく並べ立てていただけなのだが、その科白の作者たちは、はるかに遠く世の中の動きを見、将来を慮っていたのである。
どういうことかというと、直接統治という方式はすでに時代遅れとなって、非常に高コストなものになるという事態が進行していたからである。この世界史の方向をいち早く見抜き、それに対する方策をルーズベルトに授け、そして当時の世界最大の力を持つアメリカ国家を使って世界をその方向に誘導した彼らの先見と力量は、敵ながら天晴れなものであると言わなければならない。つまり直接統治によって覚醒した民衆の反乱が起こり、それを鎮圧しなければならないといった事態の発生によって、とうてい従来の直接植民地統治は不可能になると早々と察したわけであろう。
さてそうすると、世界植民地主義の本源とも言うべきこの世界支配中枢が、いったい何を考えて従来の軍事的、政治的植民地経営を放棄したのだろうか。それは、世界はもう軍事力だけでは動かない歴史相に入ったことを理解し、特に核兵器ができた以上、実際にこれを使用する戦争が起こることはないという認識のもとに、その植民地体制の中心を軍事・政治から商業・金融に移したものと考えられるのである。すなわち、彼らが収奪をもくろむ国家・国民を商業・金融の世界的ネットワークの中に包含し、そこからまったく目に見えない間接的な方法をもって産業的・金融的に寄生し、自ら労せずして金銭・物質等を調達しようという考えである。
日本は世界植民地体制の覆滅を目指して第二次大戦を戦った。これはそれなりに立派なものであったが、残念ながらアメリカの武力に敗れ、よくよく見ると、今日では完全なアメリカの植民地に堕してしまった。しかもそのことに気づく日本人が誰一人としていないのである。 
再び狙われるアジアの国々
周知のように、東洋は久しくイギリス、オランダ、フランスの植民地であった。第二次世界大戦の日本の奮戦によって、それぞれ独立国家となり今日に至っている。かつて日本の支配下にあった台湾および韓国、北朝鮮も独立している。そして、半植民地と言われた中国は今日堂々たる中華人民共和国として大国の位置についている。しかし、これらの国々の将来が新しい植民地主義から安泰であるかと言えば、これには大いに疑問符をつけるべき理由がある。
日本自体がすでにその実態はアメリカの植民地である。このような状況がいずれこれらの戦後独立した諸国に及ぶであろうことは明らかである。
一国ないし多国を植民地化しようとする場合、彼らの使う常套手段は、その内部に2つないし3つの勢力を分立させ、それぞれにエージェント(諜報員)を送り込み、これらを互いに抗争させて、その国家ないし社会を弱体化させ、その間隙に乗じて侵入するというものであった。この方法は、植民地方式が大変化した今日でも、まったく同じ構図のもとに応用されているものと考えてよい。複数の勢力を抗争させて相手を倒させ、自らの目的を達するという方法は、常に彼らがとってきた方法である。
東アジアを彼らの自由にするために行なったのが日中間の離隔、そして最終的には日中戦争を起こすことであった。蒋介石政権と日本政府は幾度も和平を交渉したにもかかわらず、どこからか邪魔が入って成功しなかった。当時のすべての事態を洗ってみると、ここに隠微な陰の手が回っていたことがわかる。この日中間の抗争の中でもっとも陰謀の働いたのは西安事件と、近衛首相の「蒋介石相手にせず」の声明の2つであった。それには、かたや周恩来、かたや尾崎秀実の両共産主義者による力が大きかった。共産主義なるものが世界支配構造の1つの駒であることからすれば、すべてが割れてこようというものである。
これは1930年代の事件であったが、1990年代には何が行なわれるであろうか。一般に報道はされていないが、デイビッド・ロックフェラーが幾度も中国を訪問しているし、すでに上海には戦前のアヘン戦争以来奥深く食い込んだサッスーン財閥も復活したと伝えられている。かたや日本にもデイビッド・ロックフェラーはしばしば来日しているが、最近の報道によるとフランス・ロスチャイルド家からも人が来ていると言われている。
日本人は、戦後の洗脳(もちろん世界支配勢力による)によって、戦前のことをすべて忘却させられ、それを一方的に日本の悪逆によるものと教え込まれて、逆に世界中枢に通ずる筋、その最大の傀儡アメリカ政府に対するまったく無邪気な信頼が抜きがたく育ってしまっている。戦後の愚昧狡猾なる政治家たちはアメリカに追随し、彼らの言うとおりに事をなし、さらには言われない前から彼らの意向を察して事をなすといった、哀れむべき状態に陥ってしまっている。 
「金融」による新たな植民地化
西洋文明は根元的に他民族、他地域に寄生する習癖を持つものであり、大戦による日本の努力によって全世界的に解放された旧植民地体制に代わって、新植民地体制が現れてくるのは理の当然なのである。では、いったいこの新植民地体制とはどんな様態のものなのか。
それは金銭的、情報的支配である。
第三世界の資源は、今日完全に西洋新植民勢力によって押さえられている。そして世界的な西洋化、アメリカ化を見ると、文化的植民地化の歴々たるものがある。すでに日本の伝統的文化は「国際化」によって危機に瀕している。スクリーン、スポーツ、セックスのいわゆる3S政策は、今日全世界を覆ったが、これは西洋植民地化の一面に過ぎない。
今ここで私が明らかにしておきたいのは、誰も気づいていない「金融寄生」植民地化である。実は日本がその最大の被害者なのである。日本の貿易黒字は、国民の精良な日本精神から由来したものである。その貴重な日本人の生来の美質と勤勉によって得た金銭は、完全に西洋勢力によってだまし取られている。
つまり日本は、誰も気づかないうちに西洋植民地化に成り下がっていたのだ。 
終わりに
ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。
今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。
今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。――それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。
人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。
読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブル(経済)の顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。
金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。
これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。
殷鑑(いんかん=失敗の先例)はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。
今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々(りょうりょう=非常に少ないこと)たるものだろう。
もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。 
 
山本五十六は生きていた

 

1 負けるべくして始まった太平洋戦争   
はじめに
あなたの歴史観が180度変わります
日本の未来に危機が迫っている。日本は滅亡への道をひた走っているのだ。
日本の政治家はこの日本に何をしようとしているのであろうか。驚くなかれ、それは日本の破壊である。多く日本人は、政治とは日本国民の幸福の追求のためにあると信じている。だがそれは全くの誤りであり、幻想に他ならない。政治家は選挙によって国民から選ばれているのだから、国民のための政治をするのが当たり前だと思っているかも知れない。しかし、それでは政治というものの本質がまるでわかっていないことになる。
日本人は国際情勢に対する認識の甘さや、政治家として軍部の横暴に歯止めをかけることができず、何度も国家の運営に失敗をしてきた。明治初期に国家大方針の選択を誤り、やがて太平洋戦争で高貴なる国家を滅亡させた。
戦後の日本は平和である。平和すぎるから国民がみんなボケている。もはや集団催眠状態と言っていい。日本を取り巻く現在の世界情勢は、戦前にも増して危険の度合いを強めているにもかかわらず、そのことを十分に認識していない。日本人は今の平和がずっと続くと思っている。この日本人の認識の甘さにつけこんで、今の政治は再び日本を滅亡に導こうとしているのだ。
日本には国家としての危機予知能力や管理システムは著しく不足している。いや、全くないと言ってもいい。ないからこそ、国際的な諸問題への対応も適切さを欠き、混迷する政治や長期化する不況にも有効な手が打てないでいる。日本が最も不得意とするものは「大局観」と「戦略」の構築である。
この2つの重大な要素を欠くために、日本は国際社会において何度も失敗を繰り返す。日本にとって一層悲劇なのは、日本人自体の中に、日本を破壊し滅亡させようという徒党がいることである。彼らは明治以来一貫して日本の弱体化を画策してきた。こういう手合いは政界や軍部、財界、民間人、そして何と明治の元老の中にさえ多く見られた。彼らは一致協力して日本の進路を曲げ、破滅へと導いていった。
再び日本は重大なる岐路に立っている。日本の政治は放置すれば必ず滅亡への舵取りを行なう。なぜならば、多く政治家たちは「世界支配層」に魂を売り、金で雇われているからである。
小沢一郎が主導する連立政権は、日本に死刑を宣告するために生まれた政権である。そして平成の政治状況は、日本が太平洋戦争へと突入していった昭和の初期と酷似している。日本の政治とは日本の破壊のためにあった、と言っても怒るなかれ。歴史がそれを証明している。 
白人種は元来戦闘的、侵略的
人間はこの地球という惑星に知的生命活動を始めて以来、その生存のため、実に多くの生態を展開してきた。地球の環境というものは地球自体が球形であり、1億5000万kmのかなたから太陽光を受け、1年という周期で公転し、1日という単位で自転するとともに、その地軸が黄道面に対しておよそ23.5度傾いているがゆえに、その場所、地域によって大きく異なるのである。しかも地球はその表面積の71%を海でおおわれ、それによって隔離されたいくつかの大陸や亜大陸そして大小の島嶼によって成り立ち、気候や地形もはなはだしく相違を見せる。このような地球に古代より多くの人種・民族が住みつき、それぞれの場所で異なる環境に適応しながら生存を続けてきた。
古代には現在のような通信手段やジェット機、高速鉄道などの交通手段はなかった。だからそれぞれの人種・民族は互いに隔離され、長い時を過ごしてきた。そして独自の言語、宗教、文化、風俗などを発展させてきたのである。
人間の性質は環境によって大きく影響されるものであるから、比較的大きな人間の集団である国家や民族単位も自然環境の好悪に応じてその性質は形成される。すなわち国民性や民族性である。
厳しい自然環境で生きぬいてきた民族は、その性質も俊厳であり、戦闘的である。筋力や瞬発力も優れ、戦士としての体格にも恵まれている。また何よりもタクティクス(戦術)に長けている。そして勝ち残るためのストラテジー(戦略)も発達させた。一方、温帯や亜熱帯の豊かな土地で生活してきた民族の性質は温和であり、協調的である。ところがそのために戦闘力は弱く、体格も比較的小さい。
一般に白人と言われる人種、なかでもアングロ・サクソンやゲルマンなどは戦闘的でかつ戦略的な民族である。これに比べアジア人種、特に東南アジアや極東アジアの民族はおとなしく、ひ弱である。
人間はひとりで生きられるものではないから集団を形成して生存をはかっている。その単位となるものは家族、部族、民族、国家である。このような単位が自然発生的なものであれば、血縁や同一の言語、宗教、文化、風習を共有することが結合のための条件となる。集団は家族単位から部族へ、さらに民族国家へと拡大していくが、歴史の進展過程では集団を統率する長は家長から族長へ、そして国王へと展開していく。部族や民族国家では古代ですら人口は数万人から数百万人ともなろう。このような大集団が機能するためには秩序ある規律が不可欠であり、そのための政治が必要となってくる。
国家には国王を頂点とした権力機構が形成され、平和で理想的な国家であれば、国王は臣民を愛し、いつくしみ、その生活向上のためによき政治を行なう。また臣民は限りなく国王に対する敬愛の念を寄せる。なぜなら家長の延長が族長であり、そのまた延長が国王であるからで、部族、民族発生の起源以来、国王家族は臣民を代表し、かつまた愛し、統率・指導するからである。
国家はこうして国王を中心とした一大家族となり、運命をともにし、国王・臣民は互いに助け合い、愛し合うのである。このようなところから自然発生的に家族愛同様、民族心や愛国心というものは生まれてくるのである。国王は世襲制となり、臣民はこれを守り、歴代の国王がもたらす良き政治は国を発展させ、臣民の生活を豊かにする。 
平和に生きたい民族と略奪が日常の民族
ところが人間社会というものはこううまくはいかないものだ。まず第1に外敵の侵入・攻撃がある。敵が圧倒的な軍事力を有していれば王国は滅亡する。
第2に国王自身の悪政がある。長い王国の歴史上には必ず国王の資質上の問題で国家運営に破綻をきたすのである。そして3番目は臣民の中から野心家、陰謀家が現われ、国家体制の転覆を企てる。いわゆるクーデターである。この場合の首謀者は得てして外敵と通じあっている場合が多い。
いずれにせよ、1つの民族や国家が平和で安全に生存するためには、何と言っても確固たる中央権力とその政策を遂行するための行政機構、それに外敵から身を守るための軍組織が必要である。これは自明のことだ。
国家は同一民族で成り立つべきものだが、そうであればなおさら他の民族国家とは利害関係をめぐり闘争しがちである。特に国境を接する国どうしでは絶え間なく戦争が起こる。戦争に勝ち残った大国家、帝国は領内に他民族を包含することになるが、ここに単一民族国家体制は崩れ、帝国の拡大とともに民族問題は潜在化していく。国家内で抑圧された民族や階層は反権力闘争を強めるのである。近世までほとんどの民族国家は絶対君主をいただく封建制であったが、このような体制を不満とする勢力は互いに連携して国家体制の転覆を企て実行した。
17世紀におけるイギリスの清教徒革命、18世紀のアメリカ合衆国建国、フランス革命、19世紀の日本における明治維新、そして20世紀の辛亥革命、ロシア革命、さらにドイツ、オーストリア、トルコ、大日本帝国の崩壊である。
世界中の王国、帝国を倒壊していく過程で新たな権力の座についた「世界支配層」ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、打ち続く戦乱で鍛えられた白人層を世界征服のための先兵として駆使してきた。
マクロ的に見ればヨーロッパやアメリカの白人層は相対的に国力を増大し、白人間の熾烈な闘争によって鍛えられた戦闘力でアフリカ、中近東、中南米そしてアジア太平洋地域へと侵入、その旺盛な物質的欲望と覇道主義によって世界の分割に乗り出したのである。
16世紀から20世紀初頭に至る白人帝国主義国家による世界各地での残虐非道な植民地支配は、弱者である被支配地域に深い傷跡を残したが、その真実のすべては決して明らかにされることはない。その暴虐のすさまじさは、殺された人民の数もさることながら、地球規模で略奪された文化遺産や美術品の量を見ても明らかであろう。大英博物館やルーヴル博物館などはそれを証明している。
残虐行為を働くものはその戦慄的行動の当事者であると同時に、情報の管理者でもある。大地が血の海となっても「血は一滴も流れなかった」と発表する。だが真実の一端はごくわずかの生存者によってもたらされ、語りつがれるのである。
アジア・太平洋地域では19世紀から20世紀中頃にかけて多くの悲劇がもたらされた。白人種によるアジア人種への圧迫と領土的、民族的支配によってである。19世紀中頃、アジアおよび太平洋の広大な領域はほとんど植民地としての徹底的な支配を受けた。
白人帝国の世界分割支配を陰で操ったのは国際ユダヤ勢力(イルミナティ)であり、その実行組織であるフリーメーソンである。 
団結力の強い日本民族を粉砕したいのだ
ところが東洋を完全支配しようとした「世界支配層」に大いなる誤算が生じた。それは日本の存在である。以前より日本にはすでに何人もの工作員を送りこみ、計画通りクーデターによって徳川幕府を倒壊することに成功した。その理由は幕末、維新を遂行した日本人の多くが洗脳され、忠実なるエージェントとなったことである。そして、ことはすべてうまく行くはずであった。だが東洋のいち島国にすぎなかった日本が、明治維新後の激しい欧化にもかかわらず、いつの間にか強烈なナショナリズムに目ざめ、いち早く封建制を脱却し、近代天皇制国家のもとで強力なる軍事力を保有、西欧列国に肩を並べ始めたのである。
明治維新はまぎれもなく日本の封建的幕藩体制を倒すためのフリーメーソン革命であったが、国際ユダヤ勢力のひとつの誤算は、日本人が持っている天皇への絶対的とも言える忠誠心である。この権威の前にはユダヤ・フリーメーソンが仕掛けたいかなる内的・外的工作も効果を発揮し得なかった。
アジア分割支配のためには日本を屈服させ、無力化しなければならない。そのために周到なる準備が必要であった。ペリー艦隊が日本に送りこまれたのも、日本に開国を迫り国家体制を変革させることが目的であった。
幕末・維新当時すでに何人かの日本人がフリーメーソンとなっていた。坂本龍馬はその代表的人物である。明治の国家大改造はフリーメーソン及び欧化主義者たちによってダイナミックに行なわれたが、その後の日本がたどった太平洋戦争に至る道すじのことごとくが「世界支配層」の描くシナリオ通りに事が運ばれたのである。けれども、ほとんどの日本人はこのことを知らなかった。日本人と大日本帝国は破壊すべくして破壊させられたのである。
日本がかつて夢みた「アジアの盟主」たることや「王道楽土」の建設、そして「八紘一宇」の思想はことごとく挫折した。日本人がいく百万人もの兵士の血で遂行した大陸政策や戦争の数々も「世界支配層」の大計画の前には無力であった。と言うより、日本は見えざる手によって否応なしに敗北へと導かれていったのである。
米欧や中国との協調路線を主張した政治家も強硬路線を突っ走った軍部も、結局は「世界支配層」に操られていた。 
軍部の中枢が売国者(フリーメーソン)では勝てる訳がない
「大本営陸海軍発表。帝国陸海軍は本日未明、西大平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」――昭和16年(1941年)12月8日、早朝ラジオの臨時ニュースは日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入したことを報じた。
日本はこの日より国家滅亡への道をひた走りに進んでいくのである。日本が米英を相手に戦いを始めたことは大局的かつ戦略的な失敗であった。だが、はたして当時の日本に他の選択肢があったかと言えば、それはなかったとしか言いようがない。
明治以来、日本はアジア諸国を決して友邦として扱ってこなかったのみならず、アジア人を一段低いものとして蔑視すらしてきた。中国や朝鮮と連帯するどころか、植民地支配を続け、抗日、侮日のナショナリズムを高揚させたのである。日本はアジアの中で孤立し、ABCD(米・英・中・蘭)包囲網によって経済的に追いつめられていった。
日本が描いた「大東亜共栄圈」の夢もアジア諸国の理解を得られたものではなく、日本が西欧植民地にとって代わるというスローガンでしかなかった。満州事変を正当化した「王道楽土」の建設も、結局中国人には通用しなかったのである。太平洋戦争はまさに「清水の舞台から飛び降りた」(東条英機)ものであった。
だが、太平洋戦争が勃発せざるを得なかったのは、日本を戦争にひきずり込む、数々の歴史の罠と歯車が存在したからである。
太平洋戦争は海軍が主体の戦争であった。アメリカを相手に戦って日本が勝つ見込みはほとんどなかったが、日本側にもし本来の高度な戦略とそれを実行する優秀かつ愛国心に燃えた将官がいれば、戦局は大いに違ったものとなっていただろう。
日本帝国海軍の中枢は欧米派で色どられ、その内の主要な人物はユダヤ・フリーメーソンですらあった。このため日本の海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは敵に手ごころを加え、まるで負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。
また陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。
陸軍参謀本部といえば陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートである。その彼らが、まるで痴呆のように拙劣な作戦を立案してはそれを強行し、日本軍に取り返しのつかない打撃を与え続けたのである。
参謀本部のエリートたちもやはり日本を敗北に導くために「世界支配層」によって操られた者たちであったのだ。彼らの一部はユダヤ・フリーメーソンであり、またその一部はソ連と通謀した共産分子であった。
国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。
太平洋戦争は大きく分けると4つの局面で展開していく。それは「開戦・進攻」、「戦局反転」、「特攻・玉砕」、「斜陽・終戦」である。そしてそれぞれの局面で日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局は暗転していくが、その失策を犯す人間はある特定の人物であり、その人物の指導により日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けるのである。
太平洋戦争は勝てるはずの戦いであった。いや、勝てないまでもこのように悲惨な負け方をするはずのない戦争だった。日本軍の兵の士気、優秀さ、空母、戦艦、航空機など兵器や物量の点においても日本の戦力は充分にアメリカを凌駕できるものであった。
にもかかわらずこのような負け方をせざるを得なかったのは、戦略や作戦に携った司令官や参謀たちの多くが無能であったという以上に、敵と密通し日本が敗北することを望んだ奸たちがいたからに他ならない。日本は戦う前にすでに敗れていたのである。 
この戦争指導者たちがユダヤの手先である
太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘のひとつひとつを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。(中略)
それぞれの戦局で日本軍を敗北に導く役割を果たした主な人物たちは次の通りである。
米内光政………海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン
山本五十六……連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。
南雲忠一………真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、ミッドウェー海戦
時の第一機動部隊指揮官。
源田実…………第一航空艦隊参謀、海軍大佐。
井上成美………海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。
原忠一…………真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。
服部卓四郎……大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。
辻正信…………大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。
瀬島龍三………大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。
牟田口廉也……支那駐屯歩兵第一連隊長、ビルマ方面軍第一五軍司令官、陸軍中将。
栗田健男………第二艦隊司令長官、海軍中将。
もちろん、彼らだけがすべてではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という多くの協力者が暗躍したのである。
重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者が大勢いたということである。 
東京裁判でも裁かれず戦後は英雄扱い
戦後、太平洋戦争を振り返って多くの本が出版されている。戦記ものから人物伝、敗北の原因探究を行なうもの、戦争の反省など無数とも言える書物が存在する。だが、日本の敗北が日本人自身の手によって現実化されたことを指摘する本は少ない。
それどころか、真の戦争犯罪者は極東軍事法廷(東京裁判)でも裁かれず、戦後数々のフリーメーソン作家によって「英雄」または「偉人」として最大限に賞賛されている。米内光政や山本五十六、井上成美などがそうである。
日本人は戦後においてもまだ歴史の真相を知らされず、騙され続けているのだ。太平洋戦争敗北の原因は、多くの研究家によって一般的に次のように分析されている。
アメリカを敵としたこと。
真珠湾攻撃によるアメリカ兵の士気高揚。
大本営による机上のプラン(前線の実状無視)。
戦線の拡大、兵姑(へいたん)の無視。
兵器(含レーダー)の発達無視。
戦略なき戦術論。
銃剣突撃、決戦主義(精神主義)。
暗号の漏洩(日本はスパイ天国であった)。
アメリカ本土での諜報線を断たれた(日系人の強制収容)。
潜水艦の使用法錯誤(米潜水艦は徹底して日本の補給線を断った)。
航空機の戦略的位置づけ錯誤(米航空機により制空権を奪われた)。
大艦巨砲主義から脱却できなかった。
これらの分析は一応みな正しい。だが、知らずしてか意図してかはわからないが、戦後の歴史家、研究家が掲げていないもうひとつの原因がある。それは日本人のなかにいた「敗戦主義者」の存在である。彼らこそが歴史の深層に隠された最大にして最悪の原因だったのである。
大本営参謀本部、軍令部の高級参謀たち、そして陸海軍の将官、司令官たちがいかなる行動をとり、日本を敗北に導いたかその軌跡をたどることにしよう。 
2 米国のために重大な役割を果たした山本五十六 

 

骨の髄まで親米派のフリーメーソン
山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。(中略)
大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。 
空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否
山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても、空軍の独立には一貫して反対であった。
イギリスではすでに大正7年(1918年)に空軍を独立、ドイツでもナチス政権が昭和10年(1940年)には空軍を創設していた。
あれほど航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性がわからなかったはずはない。山本五十六は意図的に日本空軍の創設を拒んだのである。
その狙いは2つあった。1つは、日本が独立した空軍を持つことで(米英軍に対して)戦略的な優位に立つことを恐れたからであり、もう1つは、来たるべき対米戦で真珠湾攻撃を行なう際に、すべての航空戦力を自分の指揮下に置いておくためであった。
日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置づけることによって、日本は確実にアメリカよりは劣勢でいることができる。フリーメーソンの山本五十六はそのように考えたに違いない。
海軍大学校教官・加来止男中佐(のちに空母「飛龍」艦長。ミッドウエー海戦で艦と運命をともにした)と陸軍大学校教官・青木少佐は連名で、陸・海大学校長あてに空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部はこれに対して、正式に空軍独立反対を表明するのである。 
真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力
連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。
欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。
フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。
山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。
アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号(パープル)」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。
真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。
被害を受けた戦艦はいずれも1910〜1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。 
最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世
真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。ひとつは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもうひとつは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言うほかはない。
日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をフシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。
対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。
その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。
14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。
7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。
7日の朝、大使館の電信課宿直員で若い熱心なクリスチャン藤山猶一は14通目の電報ともう1通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であったため、教会の礼拝に出かけ、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官および松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。
14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。
だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。
この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。
まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか――などである。
大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである。おそらく真相は後者であろう。
戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のひとりフリーメーソンであった。当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。
日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。 
不徹底な攻撃で米国を助ける
ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。
ひとつは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もうひとつはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。
真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである。
また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。
もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。
ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。
さらにもうひとつつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのはひとつの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。
山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。 
3 日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦 

 

日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的
昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。この作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して強固な前進基地を構築し、アメリカとオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させることだった。
この頃、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省および参謀本部・軍全部で戦争指導計画の再検討が行なわれ、「今後採ルペキ戦闘指導ノ大綱」が妥協によって3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、できるだけ早く占領あるいは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。
(1)ソロモン諸島のツラギ、およびニューギニア南岸のポートモレスビーの基地を占領し、珊瑚海とオーストラリア北部の支配権を確立する。
(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面作戦により襲撃する。
(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、アメリカ合衆国とオーストラリアとの直接連絡路を断つ。
このうち(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」、計画(2)は「MI」とされ、この2作戦が失敗した場合、計画(3)は中止するというものだった。こうして先ず「MO」作戦が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、その真の意図は、この作戦によりアメリカ太平洋艦隊をこの海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させることだった。
驚くなかれ、山本長官の狙いはアメリカの太平洋艦隊を撃破することではなく、その逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、海路からこの地を攻略するため井上成美中将の指揮する第四艦隊は、珊瑚海において5月7日、8日の両日、アメリカ太平洋艦隊(司令長官チェスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。
この海戦で日米はほぼ互角のたたき合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥胤」1隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各1隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空母「レキシソトン」が沈没、「ヨーククウン」は大破した。
ところがこの時、井上中将はなぜか「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。
この珊瑚海海戦で井上成美第四艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。それは「手ぬるい攻撃」によって引き起こされた戦術的勝利・戦略的大敗北に他ならない。
しかも真珠湾攻撃同様、暗号はことごとく米軍によって解読されていた。ニミッツによる空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦をすべて事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しいものとなり、日本軍の限界を示すものとなった。 
なぜ暗号が米軍に筒抜けになるか
こうしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦とともに陸海軍の合同兵力で推進されることになった。ミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。日本にとってもこの地点を攻略することにより東京空襲の阻止はもちろんハワイの再爆撃も可能であった。当然この作戦は秘密裡に、しかも迅速に遂行されねばならなかった。
ところが日本海軍が用いていた暗号はことごとくアメリカの暗号解読班によって傍受され、その全容はアメリカ海軍首脳部に筒抜けであった。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。
本来、変更は4月1日の予定であった。これが5月1日に延期され、さらに戦闘開始直前の5月28日まで再延期された。このおかけで米暗号解読班は「JN25」を完全に解読するチャンスを得たのである。
この暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前からアメリカ軍にはわかっていたので、ニミッツは全力をミッドウェーに投入するために迅速な手を打った。6月4目の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動部隊(空母「ヨークタウン」など)は日本軍に悟られることなく絶好の位置に待ち伏せすることができた。
山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、アメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。
米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急遽呼び戻し、さらに珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動部隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を投入した。
ミッドウェー海戦に投入された空母3隻のうち「エンタープライズ」は、真珠湾攻撃のときに取り逃がした空母のうちの1隻だった。 
山本長官は常に後方で高見の見物
この時点において日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母2隻は珊瑚海で沈没、「エンタープライズ」「ホーネット」もはるか南方海域にいるはずと固く信じていた。
日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成。山本長官の指揮下には空母8隻、「大和」、「武蔵」など戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻など合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、さらに飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵という堂々たる陣容を形成した。
これだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。この海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。アメリカ側の損害は空母「ヨークタウン」1隻にとどまった。このような大敗北は全く予期せざるものであった。
日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」すなわち戦略的失敗をもたらしたのは山本五十六であり、それは意図されたものだった。いくつかの予期せざる偶然、悪運が重なったとはいうものの、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動部隊司令長官だった。南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断することができず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、アメリカの艦隊撃破にも失敗した。
南雲の指揮した空母では帰投して上空で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第2次攻撃のための爆弾および敵空母攻撃のための魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。
かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦が撃沈した。
ミッドウェーで山本長官がなぜ空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊本務はそもそも制空権の獲得であり、敵機動部隊の撃破もその一環であるが、逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。日本海軍の誇る戦艦「大和」「武蔵」「長門」など高い防御能力を持った戦艦群ははるか後方にあって、連合艦隊司令部の護衛などという戦略的に無意味な任務に就いていた。
機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦など数隻であり、その陣容にも大いに問題があった。米機動部隊の陣形が空母中心におよそ1.5qの距離を保ち、1隻ごとに巡洋艦、駆逐艦を多数配置して輪陣を組み空母上空に濃密なる弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は2隻並んでいる上にわずかの駆逐艦を横に配置しているだけであった。これでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとっていかにも攻撃しやすい陣形になっていた。
珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破するという苦渋を味わったのもこの艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1カ月前の苦い教訓を生かすことができなかったのだ。
日本側が機動部隊に充分な対空防御能力をつけておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えるという混乱は起こり得なかったであろう。
だが山本長官個人を守るために温存された強力な戦力はついに一度も投入されることなく、大事な空母を米機の攻撃にさらし、海の藻屑と消えさせたのであった。 
真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行
真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。山本長官の主張とは「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」というものであった。
だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。
また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋のまんなかで有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。
それよりもニューカレドニア、フィジー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断をはかるほうが戦略的価値は高く、アメリカ艦隊も本国基地から遠く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊をおびき出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線をおびやかされるためアメリカに救援をたのむのは確実である、と強く反駁したのである。
ところが山本長官は、「敵の空母勢力を撃破すれば自ずから米豪間は分断されるので、まずミッドウェーで敵の空母をおびき出し、これを必ず撃破してみせる」と豪語したのである。山本長官の主張はかたくなにミッドウェー攻撃一点ばりであった。
ミッドウェーがアメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。
そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと、航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス(実は陰謀)ではなかろうか。以後アメリカはあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。
ミッドウェー作戦自体も、真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊をおびき出した上で、これと決戦をするという2つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅できた場合は、続いて10月頃ハワイを攻略するというものであったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破壊に導くことであった。
アメリカは充分に航空戦の練習を積み、山本長官のさし出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領(フリーメーソン33位階)やチャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。
ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。ではそこに到るまでのプロセスを見ることにしよう。 
4 山本五十六は戦死していなかった 

 

悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部
ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。
「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。(中略)
ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。
山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。
ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。
戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。(中略)
ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。
昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。(中略)
山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。 
疑問だらけの死体検案書
こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP−38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP−38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。
山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。
大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として署名捺印がある。
ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。
「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。 
戦死が狂言であったこれだけの証拠
山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。
1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。
2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。
3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。
4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。
5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。
6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。
事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。 
戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言
ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)
三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。
あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。
山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。
戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。 
ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから
ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。
真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。
日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。
アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。
日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。
山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。
ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。
昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。 
日本を敗戦に導いた山本の謀略とは
山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。
この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。
そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。
海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
ただしその攻撃は不徹底なものとする。
忠実なる配下の指揮官南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
忠実なる配下の指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)
原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)
ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
忠実なる配下の指揮官南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)
ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
忠実なる配下の指揮言三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)
「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。
いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。
さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。
長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。
この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。
山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。
戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。
このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。 
5 あの戦争は世界支配層のシナリオだった 

 

今も作られている日本非難の大合唱
太平洋戦争は謎に包まれた戦争である。
3年8カ月にわたって死闘を繰り広げたあの戦争で、日本の兵員死亡者数は117万4000人余、民間死亡者数67万人余、アメリカの兵員死亡者数9万2000人、他連合国の死亡者数17万人余、太平洋を舞台に、合わせて210万8000人が死亡した。このような大規模で非人間的な戦争がなぜ行なわれたのか、戦後50年が経過する今日、この疑問は深まるばかりである。
太平洋戦争は人類の歴史始まって以来、世界最大の海戦であったばかりでなく、陸上の戦争としても他に類を見ない激しいものであった。それにしても、日本側のおびただしい兵員の死亡者数は一体何を物語るものであろうか。戦場に累々と横たわった日本兵の屍は次のことを教えている。
太平洋戦争は日本が敗北するために始めた戦争であった。
戦争を遂行した政府大本営、陸・海軍の戦争指導者たちは、あらゆる戦闘で敵に
手ごころを加え、日本が敗北するように仕向けた。
日本が敗北することは明治以来の予定のコースであった。
1994年8月15日、第49回目の「全国戦没者追悼式」が東京・九段の日本武道館で行なわれた。この日、ワシントンポストの東京特派員は次のように外電を発した。
「世界のほとんどの国の歴史教科書は、日本が第2次世界大戦における侵略者であることを疑問視していない。日本は30年代に中国を侵略、さらに真珠湾などを攻撃し、戦争を太平洋全体に拡大した。日本のこのような行動はこの何十年、当地ではおおむね黙殺されてきた」
また、オランダ人ジャーナリストのイアン・ブルーマは、近著『罪の報い』で、日本が戦争責任の反省を十分に行なっていないとして次のように語っている。
「日本は自分だけが悪いのではないと泣いて地団駄を踏む子供みたいだ」
今、日本に対する国際世論は実に厳しく辛辣である。米欧諸国はもちろんのこと、戦場となったアジア諸国からも日本の戦争責任を追求する声は一段と高まりを見せている。なぜ日本だけが悪いとされ、これほどまでたたかれるのか、その真の理由を日本人は知らない。
戦争による多大な人的、物質的犠牲により、多くの日本人は戦争を忌み嫌い、平和を希求した。中でも広島、長崎に投下された2発の原爆により多くの貴い命を失った日本は、その強烈な核アレルギーとともに、戦争を指導した軍部、ファシズムといった戦前なるもののすべてが悪であると固く信じるようになったのである。
けれども、その信念の強さとは裏腹に、日本人の多くが戦前の歴史、太平洋戦争の全容を知らず、真相に対して目を背けていることも事実である。
戦後、日本人は荒廃から立ち直り、ひたすら経済復興に邁進し、いつの間にか世界第2位の経済大国となった。日本の潜在成長力とその民族的エネルギーはすさまじいものがある。その日本の台頭を好まない世界のある勢力が、日本の成長をいかに抑え、いかにしてそのみなぎる国力を抑圧するかに心血を注いできた。
その一つの手段が日中戦争の泥沼化と日米開戦であった。日本は“計画通り”敗北したが、日本人の民族的エネルギーを止めることは誰にもできなかった。戦後の日本は再び巨大な経済力を身につけ、科学先進国、産業技術大国となったのである。 
日本をいつまでも侵略国にしておきたい理由
日本の台頭を戦前も戦後も決して許さない「世界支配層」、その中でも最も忠実な強権国家アメリカは、日本を非難し、排斥する。経済面での円高攻勢に加えて、アジア諸国をけしかけて日本の戦争責任を追求させる。
日本を侵略国と断定し、戦争犯罪国としてとがめるためである。昨今の従軍慰安婦問題や軍票預金の償還など激しい抗議はその一環である。
だが、歴史の真相を知る者は、アメリカこそが欧州大陸において無理矢理に第2次世界大戦を起こさせ、日本を太平洋戦争に引きずり込んだ元凶であることを知っている。
アメリカの第32代大統領フランクリン・ルーズヴェルトはその張本人であった。そしてそのルーズヴェルトを陰で操ったのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン勢力である。ルーズヴェルトはユダヤ・フリーメーソン33位階でもあった。
アメリカ合衆国において下院議員、ニューヨーク州知事、上院議員、さらにコロンビア大学の理事長などを歴任したハミルトン・フィッシュは、94年間のその生涯において一貫してアメリカの良心を代表し、ルーズヴェルトの犯罪をあばき、告発し続けた。
その偉大なる著書『トラジック・ディセプション』は岡崎冬彦氏の監訳で『日米開戦の悲劇』としてPHP文庫より出版されている。この書は、誰が第2次大戦を招き、いかにして日本とアメリカを戦わせるべく仕組んだかについて、ルーズヴェルトの謀略性を明確に証言している。(残念ながらこの本は既に廃刊になっています――なわ註)
第2次世界大戦と太平洋戦争は、この大統領の陰謀によって引き起こされたと明言していい。
ルーズヴェルト大統領およびハル国務長官は、真珠湾攻撃の直前の11月26日に、最後通牒であるハル・ノートを日本に突きつけてきた。これは日本が絶対に受け入れることのできない内容であった。
その前日、ワシントンでは、日本外務省の暗号をすべて解読した上で、ルーズヴェルト大統領、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長による戦争賛成派内閣の会合が開かれた。議題は「いかにして日本をだまして戦争に陥れるか」であった。彼らは、日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた。
真珠湾攻撃の前日、日本外務省より駐米日本大使館へ送られた解読済みの暗号電報を見て、ルーズヴェルトは「これは戦争を意味する」と述べた。けれども、パール・ハーバーの太平洋艦隊司令長官キンメル提督やハワイ方面陸軍司令官ショート将軍に対して、ついに日本軍による真珠湾攻撃が事前に知らされることはなかった。彼らは大統領の陰謀を知ることなく、開戦直後に責任を追求され、解任されるのである。
アメリカは対日戦に勝利することを確信していた。その理由は、山本五十六がフリーメーソンであり、その他にも日本には政界、陸・海軍に協力者は多数いたからである。
日本を戦争に巻き込むことに成功したアメリカは、欧州での戦争に参戦する正当な理由を手にした。 
欧州戦争もルーズヴェルトが引き起こした
欧州における第2次世界大戦もルーズヴェルト大統領の陰謀によって起こされたものであった。ヒットラーのナチス・ドイツでは、ポーランドのダンチヒをドイツに帰属させるべくポーランドのジョセフ・ベック外相と交渉していたが、ルーズヴェルトは、ジョセフ・ケネディ駐英大使を通じてチェンバレン英首相に圧力をかけ、イギリスがドイツに対してもっと強硬な態度をとらなければ対英援助を中止すると迫った。
イギリスはポーランドを防衛する力はほとんどなかったが、チェンバレンはルーズヴェルトの圧力に屈し、ポーランドに対して支援を保証した。これに勇気づけられたポーランドは、ダンチヒの帰属問題についてドイツと平和裡に解決することを拒否するのである。
さらにルーズヴェルトは、「ドイツの陸・空軍力はヒットラーが言うほどの実力はなく、恐れるには足りぬ」としてフランスの対独参戦を促した。
ルーズヴェルトはイギリスとフランスがドイツと戦争を始めれば、アメリカはナチス・ドイツを倒すために必ず参戦することを約束していた。
1939年9月1日、ヒットラーの軍部はポーランドに侵入、ここに第二次世界大戦が勃発するのである。ルーズヴェルトの約束は、日本軍による真珠湾攻撃によって実現される。歴史上最も血に飢えた悪魔の大統領フランクリン・ルーズヴェルトはユダヤ人であったが、欧州でのユダヤ人虐殺を防ぐ人道主義のためには、指一本挙げることなく無関心を装い続けた。
「世界支配層」に仕え、欧州大戦と太平洋戦争の両大戦を自らの手で演出したルーズヴェルト大統領は、大量のユダヤ人と日本人の血を犠牲にして、戦後「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンが支配する20世紀を築き上げたのである。 
おわりに / 平成二・二六を起こすべき今の日本
アジアは古代より豊かな精神文明を育て、自然とともに生きてきた。アジア人の性格は温和で、人々は慈愛に満ちている。これにくらべ西欧人は物質的で欲深き人種である。物欲にあふれた西欧人が植民地を求めてアジア、アフリカ、中南米に殺到したのは16世紀以降であったが、中でもアジア人に対する抑圧と搾取は過酷を極め、容赦ないものだった。
このような野蛮な西欧人をけしかけ、世界中の富や地下資源を略奪したのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンであった。アジア民族はまぎれもなくその多大なる犠牲となったのである。
1995年は日本が太平洋戦争で敗北して50周年にあたる。日本ではこれから、先の戦争がいったい何であったのか、その歴史的意味をめぐって議論が続くだろう。日本人の思考はいま混乱のさなかにあり、太平洋戦争とそれに先立つ日中戦争の意味を理解できないでいる。
日中戦争はアジアの完全支配を狙う「世界支配層」が、日中の協力者とともに推進した謀略の戦争である。アメリカやイギリス、そして数々のユダヤ・フリーメーソンたちが暗躍したこの不幸な時代は、不可避的に日中を闘争に導いた。
平和を願う多くの人々の願いもむなしく、戦争製造者たちは世界支配の野望のもとに、いたるところで人々を戦火の中に追いやったのである。
日中は決して戦ってはならぬ永遠の同胞である。けれども不幸なことに日本の内部にも、戦争を願う「世界支配層」の協力者と推進者がいた。そして、それは中国にも存在したのである。日中戦争は太平洋戦争への導火線となった。
太平洋戦争はアジアの完全支配を企てる「世界支配層」の前に立ちはだかる日中を打倒し、屈服させるための明らかな罠であったが、勇猛果敢で無知な日本人はその裏に秘められた底意をしることもなく、無謀な戦いを挑み、そして予定通り敗れた。
日本をおだて、操り、屈服させることはもともと「世界支配層」の遠大なる計画である。日本はそれを知らず、明治維新以来西欧(ユダヤ)の表面的な華美性に魅了され、あろうことか西欧的な帝国主義に走り、アジアに植民地を求めた。
一方、多くのアジア諸国の中に「世界支配層」の走狗となり、イギリスやアメリカ、ロシアと通謀して日本を排斥する勢力が跋扈した。
当時のアジアは西欧(ユダヤ)によって中枢が汚染されていたのである。日本が何もしなければ、朝鮮半島はロシア領に、中国および東南アジアは「世界支配層」のもと英米仏蘭により徹底的に分割支配され、現在のようなアジア諸国は存在し得なかったことであろう。
「世界支配層」は最終的に日本を倒し、滅亡に至らしめてアジアの全域を略取する計画であった。日本が太平洋戦争を決意できずに屈服しておれば、米欧(ユダヤ)は労せずしてすべてのアジアを征服し、日本は弱小国に転落していたことであろう。
だが日本は戦争によって事態を打開しようとした。戦争没発の背景には、「世界支配層」と米英の謀略があったことは明らかであるが、日本側にも戦争推進に協力した一群が存在したことは事実である。彼らは勝利のためではなく敗北のために戦争を遂行し、そして戦後最大の功労者として「世界支配層」やGHQより数々の報酬を受けることになった。 
 
「写楽 閉じた国の幻」

 

佐藤貞三の家庭生活の破綻・挫折感と回転ドア事故
世界的に著名な浮世絵師の葛飾北斎(1760-1849)の研究をしていた東大卒の佐藤貞三(さとうていぞう)は、川崎市の準ミスでお嬢様の千恵子と28歳でお見合い結婚をして、総合商社M物産の役員の義父(小坂)の支援を受けながら大学教授のポストを目指していた。叩き上げで権力と財力を掴み取ってきた義父は尊大で威圧的であり、自分の娘の結婚相手として私大講師の佐藤を十分な相手とは見ていない。東大卒の学歴と将来性だけに期待しており、私大の講師をしている佐藤を支援して大学教授にさせることで、漸く自分の家と釣り合いが取れるという下世話な算盤勘定をしている。
本来であれば実業家の御曹司や官僚・医師の一族の子息などと見合いをさせたかったが、娘の千恵子が20代後半まで相手を選り好みしたことでそういった結婚話と縁遠くなり、父親としては最低合格ラインのキャリアを持つ人物として佐藤を選んだだけだった。
父親の愛情と庇護を受けてわがまま一杯で育てられてきた小坂千恵子は、父の言う事は絶対であり父親が勧めるから佐藤と結婚しただけで、佐藤本人を愛しているとか一緒に協力して家庭を作るとかいう考えはまるで持っておらず、父親の経済支援・コネを受けて生活していることで、常に上から目線で夫に接している。大学内の政争やポスト争いに敗れて、長野県塩尻市の日本浮世絵美術館の学芸員になってからは、義父と妻が自分を見る目は更に冷たくなる。
幾らでもカネは援助するから早く大学に戻れという義父の経済的支援を受けながら北斎の取材旅行に飛び回り、義父のコネを生かした口利きももあって浮世絵・北斎の専門書北斎卍研究を一冊出版することもできたが、同僚たちに美術館勤務が大学に戻るための腰掛けに過ぎないと思われ始めた事で、美術館でも次第に働きにくくなっていく。
美術館の人事・仕事内容で嫌がらせを受けて実質的に追放された佐藤は、寝たきりの両親が所有していたマンションの一階のテナントで学習塾を開業することを決めるが、義父も妻も大学教授へのキャリアから完全に脱落していく佐藤を軽蔑の眼差しで見るようになり、期待していた華やかで見栄が張れる結婚生活を得られないと思った妻は佐藤を不甲斐ない男だと罵倒して蔑むようになり、更にうつ病を発症して妻の精神状態も悪化していった。
結婚当初は準ミスでそれなりの美貌を持つ妻・口うるさい俗物だが資産家で人脈のある義父・妻が持つ御茶ノ水駅前の分譲マンションというすべての条件が自分には過ぎたものであり理想的であるとさえ感じたのだが、私大講師の職を失ってからは妻も義父も自分を疎んじ始め、美術館の職を失うに至っては帰るべき家庭がないような悲惨な状態に陥っていた。そんな時に、長く続けていた妻の不妊治療の効果が出始めて妊娠し、男子を出産した。佐藤は自分や家族の低迷している運をこの子が再び切り開いてくれるようにとの願いを込めて開人(かいと)と名づけるのだが、実際開人が産まれてからは良好とまでは言えないまでも夫婦関係は改善し妻のうつ病も軽快してきた。
貞三自身も浮世絵関連の新たな発見をして二冊目の自著でも出版し、仕事上のキャリアを挽回しようという気力が回復してきた。ちょうどその時期に、大阪市立図書館の地下に所蔵されていた浮世絵(錦絵)の下絵と見られる不思議な肉筆画を入手したことで、新たな著作・論文の史料(ネタ)になるかもしれないという期待が急速に高まっている。その墨一色の肉筆画は、長い顔に小さな豆粒のような目が吊り上がり、おちょぼ口という醜女のデフォルメされた絵であり、美しい女性を描いた美人画や歌舞伎俳優のブロマイドとして作成された浮世絵としては相応しくない図案である。
絵の左側には英語ではない解読困難な欧文“Fortuin in, Duivel buiten”が毛書されており、欧文の最後に画の縦棒が短くなって田になっている一文字の署名がされている。江戸美術の浮世絵でこの画の変形文字の署名を用いるのは、喜多川歌麿(きたがわうたまろ 、宝暦3年(1753年)頃?〜文化3年9月20日(1806年10月31日))か葛飾北斎(かつしかほくさい、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)〜嘉永2年4月18日(1849年5月10日))だけであるが、このデフォルメされた大首絵のような下絵の画風は東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく 、寛政6年(1794年)から約10ヶ月だけ作品を制作し生没年は不詳)に似ているのである。
この大阪市立図書館の地下にあった肉筆画は誰の作品なのかの謎を巡って物語は展開するが、その謎は日本美術史有数の謎とされる東洲斎写楽とは誰なのか?に結実していき、論文のように史料の読み解きや美学的な考察が加えられていく。佐藤貞三の長男・開人の事故死と結婚生活の失敗・破綻という近代家族の物語を語りつつ、本作の本編とでもいうべき内容は浮世絵の歴史と画風の解釈・東洲斎写楽の謎解きという美術史的な論文めいたものになっているので、この島田荘司の作品は犯罪の解明をする種類のミステリーとは全く肌合いが違っている。写楽 閉じた国の幻の冒頭では壊れかけた家庭生活と長男誕生による家庭再生の兆しが描かれるのだが、そこから地獄のどん底に再び佐藤貞三が突き落とされることになる。
開人を連れて六本木ガーデン(茂木タワー)に自動車で遊びに出かけた貞三は、道路沿いのコインパーキングに駐車して子どもが行きたい店よりも先に洋書店で浮世絵の本を渉猟していたが、パーキングメーターの時間が切れそうになり、コインを追加で入れようとするが時間延長できない仕組みになっておりもたついてしまう。
車をいったん出してもう一度バックで入れようとするが、後続車がスッと入り込んできて、連続でコインパーキングを使うのはマナー違反だと叱責され、もたもたしている内に子どもの開人は我慢できなくなり一人で茂木タワーに向かって走っていってしまう。結局、コインパーキングを利用できなかった貞三は地下駐車場に車を駐め直してから遅れて開人を追いかけていったのだが、タワーの入り口には人だかりが出来ていて人の行列が動いていない、人を押し分けて入り口の回転ドアに近づくとそこにはスチール製の回転ドアに頭部を挟まれて動かなくなっている開人の姿があった。 
浮世絵・錦絵の歴史と東洲斎写楽の謎
開人を襲った悲惨な事故は、実際に2004年に六本木ヒルズ森タワーで起こった回転ドア死亡事故に題材を取っていることは明らかであるが、作中では追加でコイン投入できないパーキングメーターの不親切な設計と合わせて、センサー作動で急停止しても事故回避ができない回転ドアの構造上の問題を、回転ドア事故被害者の会での会話で論じていたりする。
回転ドアの技術そのものがオランダから輸入されたものであり、本来は回転部分はアルミで作るなどして絶対に軽くなければならない原則があったのが、ビル全体のピカピカとして重厚感のある見栄えのために鉄製・スチール製の回転ドアに造りかえられ、その鉄製ドアの重量が回転ドア事故の致死性を高めたという経緯が、東大工学部の女性教授・片桐(かたぎり)や元SKドア設計の村木から語られる。
自分が連れ出した時に開人が死ぬ回転ドア事故が起こったため、貞三は妻の千恵子と義父から人殺しのように散々に罵倒・侮辱されて、激昂した妻から家を追い出されるが、物語の中心である醜女のような肉筆画は誰が描いたのか?東洲斎写楽とは誰なのか?という謎の解明は貞三と片桐教授の手によってゆっくりとしたスピードで行われていく。
最愛の息子を失い家庭生活が決定的に崩壊して、希死念慮の高まっている佐藤貞三は自殺を企てるが、洗練された白人のような彫刻的な美しさと気品を讃えた片桐教授に命を救われる。何も持っておらずうらぶれた自分と比較すると、片桐教授は卓越した美貌・知性や東大教授としての地位、温和な人柄など全てを併せ持った特別な人間のように思えたが、片桐教授の精神的な支えや学術的な助言などによって、貞三は次第に木村蒹葭堂(きむらけんかどう)から伝えられたと見られる肉筆画の作者・東洲斎写楽の正体についての独自の革新的な仮説の着想を固めていく。
大切な肉筆画(浮世絵の下絵)を無くしたと思い込み、横断歩道から飛び降りようとしていた貞三を助けてくれた片桐教授は、その絵を忘れ物として届けてくれただけでなく、意味が分からなかった“Fortuin in, Duivel buiten”の文について、それがオランダ語であり英語で言えば“Fortune in, Devils out”に該当することをさらりと教えてくれた。この肉筆画は当時の江戸で流行していた美人画ではなく、どちらかといえば容貌の冴えない醜女をデフォルメして描いた風刺画のようでもあり、その点からすると画の署名があるとはいえ、一貫して徹底した美意識の下に美人画を描き続けた喜多川歌麿の作品ではないように思えた。
多色刷りの色使いが派手で鮮やかな事を特徴として売りにしていた錦絵(浮世絵)は、基本的にはその時代の人気者である歌舞伎俳優・役者や遊女、茶屋の看板娘をモデルにして描かれるものであり、ブロマイド的な浮世絵以外は男女の色事・性的事象を活写したエロティックで大衆的な春画(しゅんが)となる。
浮世絵を買い求める庶民の目的のかなりの部分が春画と重なっていたこともあり、日本国内では浮世絵・錦絵が芸術として認められるまでには相当の時間がかかり、浮世絵が盛んに版画で印刷されていた江戸の文化・文政期には庶民の文化風俗を乱す華美・淫靡な娯楽品として規制・取締りの対象になったりもした。日本国内における浮世絵・錦絵の文化芸術は、明治維新以後に海外に多く散逸していった作品が逆輸入される形で勃興して、葛飾北斎の富嶽三十六景や喜多川歌麿の多数の美人画、歌川広重の東海道五十三次などが世界的な芸術としての評価・名声を博する事になったと言われる。
浮世絵で当世風の美男美女でない人物を書いても売り物としては売れないはずであり、なぜこのような絵を描くことになったのかの経緯は判然としない。しかし、美男美女、時代の人気者を題材とするブロマイド的な浮世絵の例外に属する大物浮世絵師として東洲斎写楽が浮かび上がってくる。顔の皺などの細部まで描き込む辛辣で諧謔的な大ぶりのリアリズム、大きな顔に小さな手が特徴の大首絵のデフォルマシオン(戯画)が東洲斎写楽の画風であり、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがベラスケスやレンブラントと並べて三大肖像画家として激賞したこともある。
東洲斎写楽には人物としての履歴や歴史がすべて欠落しており、当時の有力な出版人である蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)の下で浮世絵を描いた時期も、寛政6年(1794年)からの約10ヶ月だけでその期間に大量作成した作品数も約150点に限られている。寛政6年から7年にかけて、それだけの作品数を世に輩出してから後の東洲斎写楽の消息は忽然と消えており、実際に写楽と接したことがあると見られる蔦屋重三郎や葛飾北斎らも写楽が誰なのか・その後どうしたのかについて一切何も語っていない。これだけの個性的・創造的な浮世絵を創作していながら、写楽の行方は杳として知れず、写楽の正体については膨大な仮説・推測・憶測が百出しているが未だに決定的な史料に基づく解決は得られていない。
ドイツの美術史家であるユリウス・クルトは東洲斎写楽の正体について、阿波藩の能役者である斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)であるとしており、斎藤十郎兵衛は寛政7年(1795年)に名前と職業を変えて絵師の歌舞妓堂艶鏡(かぶきどうえんきょう)になったという。このクルトの仮説は艶鏡説と言われているが、艶鏡の正体はその後の研究で狂言作者の二代目・中村重助(なかむらじゅうすけ)であることが判明しており、斎藤十郎兵衛と艶鏡が同一人物であるか否かは確証されていないという。それ以外にも、写楽については写楽は写楽という固有の個人(その一時期だけ特別に活躍した人)ではなく、誰か他の有名な浮世絵師や技能者が一時的にその名前を名乗っただけであるという別人説もあり、別人説には非常に多くのバリエーションがある。 
“平賀源内=写楽説”の頓挫と鎖国体制の盲点を突く推論
本作写楽 閉じた国の幻では、幾つかの有力な別人説を塾講師の佐藤貞三が片桐教授の援助を受けながら検証していくところがメインになっているが、今まで取りざたされた別人説は正に何十人にものぼるという多種多様な状況であり、決定的な物証・証拠が無いために、どの仮説が正しいのかを確実に言うことはできないようだ。今まで江戸美術史で取り上げられたことのある別人説には、主だったものだけでも以下のようなものがあるという。
絵師・円山応挙(まるやまおうきょ)説。絵師・谷文晁(たにぶんちょう)説。浮世絵師・葛飾北斎説。浮世絵師・喜多川歌麿説。浮世絵師・鳥居清政説。浮世絵師・歌川豊国説。絵師・酒井抱一(さかいほういち)説。絵師・司馬江漢(しばこうかん)説。絵師・片山写楽説。俳人・谷素外(たにそがい)説。戯作者・山東京伝説。戯作者・十返舎一九説。歌舞伎役者・中村此蔵(なかむらこのぞう)説。狂言作家・篠田金治説。蒔絵師・飯塚桃葉説。欄間彫師・庄六説など。
この別人説に出てくる人物の来歴と作品を調べてゆくだけでも、随分と化政文化といわれる江戸後期の美術史の勉強になるし、インターネットで画像検索すれば代表作の実際の絵や画風、雰囲気を楽しむこともできる。
東洲斎写楽が、当時の大物である別の絵師のペンネームだったとする仮説は、浮世絵を商売として販売していたはずの出版元蔦屋が、この写楽の絵の即時出版を決めてコストのかかる黒雲母摺り(くろきらずり)で刷るという破格の待遇を与えていることからも傍証されていたりするようだ。どこの誰かも分からない初心者の絵師だったら、売れるかどうかも分からない風変わりな構図の絵・美男美女を描いているわけでもない絵に対して、商機・損得に敏感な蔦屋重三郎が黒雲母摺りの待遇を与えることは無かったのではないかというところからの推察である。
その意味では写楽 閉じた国の幻は、ミステリー小説風の体裁を取って独自の東洲斎写楽にまつわる仮説を提示しているのだが、江戸美術史のうちの浮世絵・錦絵・写楽・蔦屋にまつわる部分の輪郭を大まかに知ることもできて面白い。“写楽(写楽斎)”という名前そのものについても、現代からすると個性的でクールな名前にも聞こえるのだが、当時の江戸弁のしゃらくせぇ(しゃらくさい)から連想されたダジャレ的な名前である可能性があり、匿名としては比較的良く用いられるものではないかという推測も語られている。写楽という漢字の意味は写す楽しみであり、浮世絵の版画を刷ってカラフルな絵として写していく楽しみの事を語っているようでもあり、誰かが描いた絵を真似て写す楽しみといった意味にも取れたりする。
東洲斎写楽の作品数は140点余りで、その販売時期の区切りによって一期〜四期まで分類することができ、それぞれの特徴は本書によると以下のようなものであるという。同一人物が描いたものにしては、販売時期によって浮世絵の構図やモデル、画風、筆致にかなりの変化があることも不思議な点になっているように感じられる。写楽はこの140点余りの作品を、寛政6年5月〜寛政7年正月の約10ヶ月間で全て描き上げており、これが単純計算で約2日に1枚という相当のハイペースになっていることも、本当に一人でそれほどのペースで描けるものなのかという疑問を呼んでいる。
第一期……刊行は寛政6年(1794年)5月。江戸三座、都座、桐座、河原崎座の夏の上演に取材した28点の大首絵である。
第二期……刊行は寛政6年7〜8月。江戸三座の秋の上演に取材した37点と、都座の楽屋頭取、篠塚浦右衛門の口上図。
第三期……刊行は寛政6年11月と閏11月の江戸三座の顔見世狂言の芝居に取材した役者絵58点と、追善絵が2点、相撲絵が4点。
第四期……刊行は寛政7年正月の桐座、都座の新春芝居に取材した10点と相撲絵2点、武者絵2点。
葛飾北斎の研究者である佐藤貞三は、浮世絵類考(うきよえるいこう)の文政年間(1818〜1830)の写本に写楽、東洲斎と号す。俗名金次。是また歌舞伎役者の似顔絵を写せしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆゑ、長く世に行はれずして一両年にて止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住すとあることから、写楽の正体を絵本隅田川両岸一覧を描いた葛飾北斎ではないかという仮説が出たことを語っている。写楽=葛飾北斎説は、その後に出た写本に写楽、天明寛政年中の人、俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也。号東洲斎とあったために否定された。
佐藤貞三は大阪市立図書館の地下に眠っていた浮世絵の肉筆画に描かれていた欧文(オランダ語)が、“Fortune in, Devils out(福は内、鬼は外)”であることを片桐教授から教えてもらい、福内鬼外(ふくうちきがい)という筆名を用いていた江戸期の天才・奇人の存在に行き当たる。浄瑠璃台本を福内鬼外という筆名で書いていたのは平賀源内(ひらがげんない 、1728-1780)であり、平賀源内はイタリア・ルネッサンスの何でも出来る天才的な万能人であったレオナルド・ダ・ヴィンチのように、何ものであるか何をしていた人かを一言で語ることができない“万能人・一流の何でも屋”であった。
平賀源内は教科書的にはエレキテル(静電気発生装置)の修理や竹とんぼの開発、気球の原理など発明家としての側面が書かれている事が多いが、平賀源内は当時一流の知識人・博学者であり、本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家など、さまざまな能力・知識・技術を兼ね備えた万能人的な進取の気概に満ちた人物であった。博学多才の天才、奇妙奇天烈な異能な人とも見られる平賀源内は、発明家としては和製エレキテルの開発をしたり燃えない布の火浣布を作ったり、温度計・気球の設計をしたりしたとされるが、作家としても風流志道軒伝という幻想小説を書いたり浄瑠璃台本を書いたりしていて、絵画についても日本で初めて西洋風の油絵を描いた人物とされている。
薬草(物事)の分類と記述をする博学な本草学者としても優れており、詳細な事物の知識を書き止めた博物図鑑物類品隲(ぶつるいひんしつ)を作成したりもしている。浮世絵・錦絵についても浮世絵の技術完成に多大な貢献をした鈴木春信と交友があり、絵暦交換会のために多色摺りの技術を鈴木春信と共に完成させたのが平賀源内であり、浮世絵との縁は非常に深いものがある。そのため、平賀源内=東洲斎写楽説には適性上・能力上の説得力はある程度あり、小説内の創作である肉筆画のエピソードも含めれば更に真実味が増してくるように思われた。
平賀源内の最期もはっきりとしない奇妙なものであり、何らかの理由(自分が請け負っていた大名屋敷の修理計画書を盗まれたとの疑いの説など)で激昂・乱心した泥酔の平賀源内が2名の一般人を殺傷したことで安永8年(1779年)11月21日に投獄され、12月18日にそのまま獄死したというのが通説である。蘭学を通した親友でもあった杉田玄白が平賀源内の葬儀を執り行ったのだが、幕府の葬儀執行の許可を得ることができず、遺体も墓碑もない葬儀になったようである。平賀源内の遺体の確認についての記述がないことから、牢獄から逃げ延びてどこかで匿われ天寿をまっとうしたという異説も出ていたりする。
しかし、この平賀源内=東洲斎写楽説は極めて初歩的な情報を見落としていたことで頓挫してしまうことになり、貞三と片桐教授は新たな東洲斎写楽像の仮説づくりに取り組まざるを得なくなる。本書では鈴木春信以降の浮世絵・錦絵の歴史の概観を、登場人物の会話や解説の中で興味深く得ることができ、多種多様な史料・作品をネタにしながら江戸美術の魅力・面白さを感じ取ることができるが、貞三が直面した虚しい家庭生活の破綻・息子の不慮の死を江戸美術の研究への没頭や片桐教授とのコミュニケーションによって乗り越えようとしつつも乗り切りきれない葛藤が時折示されたりもする。かなり分厚い長編小説であるが、小説の構成としては現代篇の途中に、時々蔦屋重三郎と山東京伝などその工房の面々が登場する江戸篇が挿入されており、時代小説的な読み応えも考えられてはいる。
オランダ・唐(中国の明と清)以外の外国に対して鎖国をしていた江戸時代に、まるで夢幻のように出現してわずか10ヶ月の作品制作を終えて忽然と姿を消した東洲斎写楽、その独自の個性的な浮世絵の構図(大首絵)と辛辣な諧謔・皮肉のセンスはどこから生まれ、写楽とはどこの誰だったのか。
その謎について、作者の島田荘司が貞三と片桐教授に辿り付かせる結論はかなり意表を突くものでありながらも、創作的な内容と史実としての年表・年次を照らし合わせてみると爽快な説得力を秘めている。江戸美術の経緯や出版文化、浮世絵・錦絵の作家の歴史に全く興味が湧かなければ最後まで読み通すのがしんどいかもしれないが、日本人であっても知識や興味関心の空白点になりやすい江戸期の文化・芸術・浮世絵師の歴史の基礎をなぞりながら、ミステリー的な要素を取り入れているので個人的にはなかなか面白かった。
前半に提示していた佐藤貞三の家庭生活の問題と人生の挫折感の物語がやや中途半端な形となり、メインである東洲斎写楽の正体に迫る論考ばかりが前面に立ってしまったのは作品の構成上仕方が無いのかもしれないが、もう少し後半で貞三自身のドラマや片桐教授との人間関係についても詳述する余力があると小説としての面白さは増していたとは思うが。ハードカバーでこれ以上のページ数を費やすと京極夏彦の小説以上の厚み・重量になるという問題もあるが、島田荘司が書きたかった題材がやはり東洲斎写楽の正体の個人的あるいは物語的な解明であり、結論と合わせて考えると現代日本の自閉化(排外主義の兆し)に対する抵抗感のようなものもそれとなく示唆されてはいる。
タイトルにもある閉じた国の幻の芸術=写楽の浮世絵を、史料・逸話を交えながら開かれた長崎の好奇心と交錯させてゆくアイデアは思考実験として秀逸であり、現代からは生き生きと想像することが難しい江戸幕府の鎖国体制下(質素倹約の改革下)の文芸活動・人心の渇望・創造の衝動について色々な事をイメージさせてくれる。 
 
猿まね

 

能の秘伝「おもしろきこと」 / 世阿弥とアリストテレスのミメーシス論
「おもしろさ」の秘密は何か、それを一生考えつづけた人物が数百年前の日本にいた。能の世阿弥がそれである。
彼が書き残した能の秘伝ともいうべき「風姿花伝」は演劇論としても非常にすぐれたものである。彼が一生かかって考えた、どうしたらおもしろい舞台を作ることができるか、どうしたら観客をたのしませることができるか、観客がこれこれのところで拍手喝采したのはなぜなのか、などの理論や経験が語られている。
その頃の能はまだ職業として安定するにはほど遠いもので、競争相手も多く、おもしろいものを見せなければすぐつぶれてしまう、きびしい社会だった。人をおもしろがらせるのも命がけだった。おもしろさの秘密を競争相手の座に知られれば、自分の座がつぶれてしまうかもしれない。だから秘伝である。人に絶対に見せてはならぬと書いてある。
世阿弥はその「おもしろきこと」というものの中で「まね」をもっとも重要視している。古い日本の芸能の中で「まね」と言えばいわゆる「物まね」を意味したようだが、世阿弥のいう「まね」は、劇中で老人なら老人らしさを、女なら女らしさを出すなど、「らしさ」をまねる演技をも含め、さらには演技の連鎖から生まれるドラマまで含めているように思われる。英語で言えば劇の「アクション」にあたる。そしてアクションがそれほど観客にうけるということが、当時においては発見だったのである。
古来の芸能「さるがく」には歌舞音曲などいろいろの要素を含んでいたが、世阿弥はその中の演劇的要素を「まね」と言っているように思う。したがって、世阿弥は演劇のおもしろさを発見した人だと言ってもいいのではないかと思う。そこに彼の偉大さがある。
そして、あとでのべるように世阿弥のいう「まね」がアリストテレスのいう「模倣」(ミメーシス)と非常によく似ているところが重要だと思う。
「遊楽の道は一切物まねなりといへども、申楽(さるがく)とは神楽(かぐら)なれば、舞歌二曲をもって本風となすべし。」(申楽談儀)    
遊楽の一番おもしろい部分は「まね」だけれども、申楽(能楽の母体となったもの)はもともと神楽であるから、歌や舞という基本の芸を忘れるなという意味。
古代の芸能のもとは神前でする神楽のたぐいだったが、その中にいろいろの芸能的要素が取り入れられ、特に演劇的な要素が発達したものが現代に伝わる能楽だと言ってもいい。それはいろんな芸の中で人間の動きを模倣する芸のおもしろさの発見の過程であった。   
「まね」とは人がやったことを別の人が同じようにやってみせることである。これは別の言い方をすれば人の動作やしぐさなどを別の人が「再現」することである。
「まね」「再現」をもう一つ別の言い方をすると「うつす」ことである。ある人のやったことが、別の人の動作の中に、鏡にうつし出されるように見えるということである。
日本語の「うつす」という言葉は「移す」「映す」「写す」など、いろいろの漢字をあてがわれているが、もともとは同じ意味である。鏡にうつるというのも、こちらにある物の姿が向こうに「移る」という意であるし、写真の「写す」は物の形をフィルムの上に「移す」ことである。したがって「移す」「映す」「写す」はもともと同じことである。
だから「まね」は移すことであり、写すことであり、それはまた再現することでもある。それはまた詩や小説の描写にも通じる。
「まね」とはそのもとになった実体からイメージや観念だけを取り出して別のところに「転写」することを意味する。
西欧の文学で「模倣」という語をしばしば「描写」と同じ意味に使うことがあるのもそういう理由からである。
この言葉を文学や演劇の用語として最初に使ったのはプラトンだが、アリストテレスがそれを受け継ぎ、発展させてから、今日に至るまで、西洋ではこの「模倣」が文学や演劇を論ずる時の重要な観念として定着している。
アリストテレスは詩が生まれるのは模倣と再現という二つの原因からだという。また人間には模倣し、再現した結果をよろこぶという生まれつきの性質があると言っている。その上、それを「学ぶよろこび」と結びつけて考えている。その点も日本語の「学ぶ」が「まねぶ」「まねる」からきていることと符号している。
何かを模倣し、再現したものをみて楽しいと思うのは、それによってその物についての知識をえられるからである。知識をえたいというのは生まれつきのものであり、知を愛する哲学者には特に強い要求であるというのがアリストテレスの模倣論の骨子である。
私はそこに遊びと学びとが深く結びついた接点があると考える。
大人が犬の絵をみせて「これなーに?」と子供にきき、「わんわん」と答えると「ああ、よくできた、よくできた」と言って手をたたいてよろこぶ。あれは物の認知の学習である。大人になるにしたがって自然に形成される犬の観念と目の前の絵との同一性の確認の練習である。それが子供にとっては辛い勉強ではなく、かなり楽しい遊びになっている。そのように描かれたもの、模倣されたものを見てよろこぶ行為の中には遊びと学びとがほとんど同じ原理にしたがって行われていると言えるだろう。
しかし、「まね」という言葉には「猿まね」というような、いささか軽べつ的なイメージがつきまとう。事実プラトンは詩人や芸術家の価値を認めていない。
近代では、まねは創造ではないという理由から「模倣論」に反対する人もいる。ロマン派の人たちである。彼らは、まねして作ったものでは「独創性がない」「詩は想像力によるもの」、心の奥底から自然に流れ出るものという考え方からミメーシス論に強く反対した。しかし、私はこの「模倣説」とロマン派の想像力論とは矛盾せずに両立させることができると考えている。
人が美空ひばりのまねをして、それを聞いた人が「似ている」と思うのはどういうことか。聞いている人の心にも美空ひばりの歌のイメージがあるから「似ている」と感じるのである。つまり「まね」とは人の心の中に共有されているイメージを表現してみせることである。見たものを一旦頭の中にイメージや観念として取込み、それを自分の動作や声で映し出すのだから、まねとは「うつす」ことである。
目の前のものを見て写すという場合も同じである。一旦頭の中に取り込まなければ絵も描けなければ「物まね」もできない。
「まねる」「うつす」「描写する」というのは物そのものを物理的に移すのではなく、一旦人間の心に写し取ったものを、さらに目に見える形で他に転写するのである。人間の心を経由して可能になるのであって、そこに想像力が入り込み余地がある。
詩人が想像によって生み出したものでも、もとはと言えば現実の中から取り込んだものであり、それが久しく心の中に眠っている間に変化したり、取捨選択されたりするが、もともとは現実の経験から取り込んだものが基礎になっている。
したがって、眼前のものを「まね」したり「描写」したりする場合も、詩人が想像力で生み出す場合も、もとには現実の経験があり、それが一旦心の中に写し取られたものが表現されるのである。
一方では、現実から写し取ったものをすぐその場で再現するのに対して、もう一方では、心に写しとってから表現までに長い時間がある。その違いがあるだけで、両者は本質的には同じである。
写し取ってから長い時間たつ場合は、そのイメージも変化し、心の中で独立した観念として生き続ける。それが詩に表現される時はもう元の現実経験とまったく無縁なもののように見えてくる。それだけの違いである。
ここでは文学論をやっているのではないので、これ以上深入りはしないが、広い意味での「模倣」がいいろいろの芸能や演劇や文学の中で「おもしろさ」の要素として重要な役割を果たしていることは間違いない。
そして私がここで非常に興味を感じるのは数百年前の日本の一人の能役者と二千年あまり前のギリシャの哲学者の言っていることが実によく符号することである。
この両者の主張を結びつけて考えていけば、文学、芸術、演劇あるいはもろもろの芸能のおもしろさの秘密に迫ることができると思う。 
能の演技と「模倣」
「狸の腹鼓」という狂言を見てたいへん感心したことがある。夫を猟師に殺された雌の狸が尼に化け、里におりてきて、同じ猟師に見破られ殺されそうになる。すると狸は「私は今腹に子をみごもっているので、子もいっしょに殺すのはふびんだから、何とか命だけは助けて下さい」とたのむ。猟師は「助けてやるが、そのかわりに腹鼓を打ってみせてくれ」という。そこでたぬきが腹鼓を打ちながら踊ってみせると、猟師は「おもしろや、おもしろや」「それよ、それよ」「おもしろや、おもしろや」と言って大喜びする。
私が感心したのはその演出である。縫いぐるみに狸の面をつけた役者が腹をうつまねをするのだが、音は出さない。私の予想では、狸の手の動きに合わせてバックで鼓をポン、ポンと打ちならすと思っていた。「腹鼓」というくらいだから、本物の鼓を使えば感じが出るだろうと思っていた。
だが、鼓は使わない。鼓は背景の歌い手の膝元におかれたまま、ひっそりと、冷たく静まりかえっているのが見えた。鼓以外の鳴物も「ポンポン」という音をだすのには一切使われない。鼓の音は完全に観客の想像力にゆだねられている。観客は頭の中で狸の腹を打つ音はこうであろうと想像することで十分その芝居を楽しむことができる。
あの狂言の作者はなぜ鼓を使わなかったのだろう。鼓を使えばもっとリアルになるのではないか、いわゆる真に迫った演技ができるのではないかと思う人がいるかもしれないが、私はあれはあれでいいのだと思った。
狸の腹鼓というのは全く人間の想像力の生み出したものであり、だれも聞いたことがない。人はそれぞれ、その音がどんな音か思い浮かべる。そして、それぞれ少しずつ違った音を思い浮かべるだろう。もし本当の鼓をたたいたら、リアルにはなるが、人がそれぞれ想像していた音と少しずつ、あるいは大幅に違った音を聞かせることになるだろう。本当の鼓を打ち鳴らすことが観客自身が想像する楽しみをうばうことになるかもしれない。
絵にたとえれば、すべてを描きつくしてしまわないで、描き残しの部分があるということである。    
能の母体になった猿楽はもともと歌と舞を主体にしたショウであって、演劇的要素は少なかった。歌や舞の合間にやった「物まね」が観客にうけたので、それを発展させていくうちに演劇になったものと思われる。
ヨーロッパの演劇の歴史も同じようなコースをたどった。ギリシャ劇はもともは「コーラス」だった。歌の合間に一人の役者を登場させ、歌の内容を説明する一人芝居をやらせ、それがうけたので、次には役者を二人にし、三人にした。その最初の一人芝居はほとんど「物まね」的なものであったにちがいない。ギリシャ悲劇では一人が複数の役をこなすことはあっても、役者の数は三人に限られていた。その点も能と似ている。
能や狂言の演技をよく見れば、それが物まねから発展したものだということが分かる。一つ一つの動作が物まね感覚でなされている。しかし、その場合、どこまでまねるかが問題になる。本物そっくりにまねをし、徹底してリアルな描写をしてしまうのか、ある程度以上は観客の想像力にまかせるのかである。演劇は、作者、役者、観客の三者の協力による創造である。能の作者はそれを実によく心得ていた。
まねとは人間が狸の振りをしたり、別の人間のように見せかけたりすることであって、そこにおかしみやおもしろみが生ずるのである。それは物や人のイメージを映すことであって、そのものに「なりきる」ことではない。そのものになりきってしまったら、もう芝居ではなくなる。「うつす」ことと「なりきる」こととは違うのである。
人類が生んだ彫刻の最大の傑作の一つと言われるミケランジェロのダビデの像には一つの秘密があるという。あの彫刻の頭のてっぺんにはわざと彫り残したところがあるというのである。その理由は、ミケランジェロはその石がもとあった岩山とのつながりのあかし、つまりへその緒のような部分を残しておきたかったのだという。
芝居の演技にもそういうことがある。芝居はどんなに本物のように見せかけても、どこかにそれが虚構の演技であるというあかしを残すのが本当の巧みなのである。その点舞台に文字どおり命をかけ、一座の生き残りをかけてきた能役者、狂言役者はさすがだと感心した。と同時に、「まね」「模倣」がいかに人間の文化の中で重要な働きをしているかを改めて考させられた。 
まねする動物 人間  「まなぶ」とは「まねる」こと
チンパンジーの母親が人間のように子供を胸に抱いたり、背中にのせたりして育てるのを見ると、子育ては「本能」であるようにみえる。だれにも教わらなくても、動物は生まれつきどうやって子供を育てるかを知っているかのようにみえる。
ところが、親がいなくて人間に育てられたチンパンジーは、大人になって子供を生んでも子育ての仕方を知らないという。赤ん坊を抱くことも、乳をやることも知らないという。抱いたり乳をやったりして育てるのは母親の見よう見まね、つまり「学習」されたものだったのである。
鳥が成鳥になり、巣から飛び立って自分で餌をとることをおぼえるのも生まれつきの本能ではなくて、親といっしょに飛び回りながら、親のやり方を見て「学習」するのだという。
かなりの数の動物が、親のやることを見て「学習」しなければ、生んだ子供を育てる方法も知らないし、自分で餌をとることもおぼえない。その「学習」がなかったら、その種の動物は絶滅してしまうにちがいない。これは大変なことだと思う。
その「学習」とはほとんど「まね」と同義語である。「学ぶ」とは「まねる」である。「まね」する習性が種の保存にとっていかに重要なものであるかが分かる。
子馬が生まれて間もなくひとりで立ち上がったり、海亀の子がかえると、海の方に向かってはって行くのは、これは先天的なもの、彼らの体の中に生まれつきある習性か本能であるにちがいない。
生き物の行動のどこからどこまでが生まれつきで、どこからが学んだものなのかは容易に分からないが、われわれ素人が思っているよりははるかに「学習」される部分が大きいことはまちがいないようだ。
「まなぶ」ときいう語は「まねる」(まねぶ)からきている。中国語でも「学」という語はもともと「真似る」という意味で、現在でもその意味で使われることがある。たとえば「学鶏叫」というと「鶏の鳴き声を真似る」という意味である。つまり「学習」の基本は「まね」なのである。少なくとも古代の人はそう考えたのである。日本では江戸時代まで、学問というのはまず論語や孟子などの素読と丸暗記からはじめた。そのように先人の教えるところをまねすることが学問の基礎になっていた。
その学習法がかならずしもいいとは言えないが、学習の基礎の基礎には模倣が大きな役割を果たしている。その典型的なものは言語の習得であって、子供がその国の言葉をおぼえるにも、学校で外国語を覚えるにも、親や先生の口真似、物真似を軽視しては進歩はない。現代でも、過去の人類の蓄積した知識をそっくり受け継いだ上に新しい創造や発展が成り立つ。人類の文明全体を支える上で、模倣の要素がどんなに重要な役割を果たしているか、考えれば考えるほどその大きさにおどろかされる。
にもかかわらず、「まね」という言葉は多くの場合あまりよくないニュアンスを伴って使われる。たとえば「猿真似」というのは、自分自身の独自性がなく、創造性もなく、意味も分からずにただ人のまねばかりしている意味で用いられる。日本人は猿真似は上手だが、創造性がないとよく言われる。しかし、新しい文明をきづくには、まず先進国が成しとげたことをまねし、取り入れて、しかる後それを進歩発展させるのが順序である。明治以来約百年日本人は西洋の真似ばかりしていたと言われてもちっとも恥ずかしいことではない。
前に書いたように世阿弥の能の秘伝の中で「まね」が観客をよろこばせる芸のうちでもっとも重要な要素のひとつになっているが、世阿弥がこの「まね」に「学」という漢字をあてているのも、学ぶとはまねることであるからである。
アリストテレスは『詩学』の中でつぎのように言っている。
一般になぜ人は詩を作るようになったのかについて、二つの原因があるように思われ、そのどちらも自然の本能であると思われる。すなわち、その一つはまねすること、これは子供のときから人間にそなわる自然の傾向であって、人間がほかの動物よりすぐれている点でもある。つまり、人間はあらゆる動物の中で、まねする能力を最もよくもっていて、最初にものを学ぶのもこのまねによってである。もう一つは人はまねされた結果をよろこぶということであるが、これも人間にそなわる自然の本能である。
人間に模倣本能のようなものがあり、それが人の心をゆり動かす原因になっていることを世阿弥も見抜いていた。何百年前、動物物行動学も心理学も知らない一介の芸人が、経験と直観だけで、人間という動物の本性を見抜いていた。しかも、それが千何百年へだたり、距離的にも地球の反対側に近いところに住んでいた偉大な哲学者とほとんど同じ意見を持っていた。さすが人をおもしろがらせる天才と感服している。
あると思ったものがなかったり、ないと思ったものがあったりの遊びを解さない人はすぐれた文学者や芸術家は大作家にはなれない。
すべての物に姿形があり、姿形のない物はないが、姿形だけあって物がないということはある。それをギリシャのプラトンという人は「形相」と呼んだとか。 
模倣は文化のはじまり
模倣とは、人がやったことを別の人が動作や表情などで写すこと、再現することであるが、それを学者的にいうと「模倣とは人から人への観念の転写である」となる。その「まね」「模倣」が人間や多くの動物にとっていかに大きな役割をはたしているかは、どんなに大げさに言ってもいいすぎることはない。
前にものべたように、猿は子供の時母親の子育てを見て、自分が大人になった時それをまねることによって次の世代の子を育てることができる。まね、模倣が種の保存にとって欠くことのできないものになっている。
人間の文化にも、模倣はいろいろの役割を演じている。人はしばしば発明や発見やその他の創造をほめたたえ、模倣を軽べつするが、実際には人間の文化も文明も大部分は先祖からうけついだ模倣のかたまりであり、人類の存在さえ模倣によって維持されていると言っても決して言い過ぎではない。
ルネサンス時代の人々は、長い間眠っていたギリシャの文明を模倣して、新しい時代の夜明けをもたらしたことはよく知られている。ダビンチやミケランジェロやラファエロなど、新しい時代を切り開いた先駆者であるが、もともとは先輩の絵からヒントをえたり、ギリシャ美術を学んだりしながら自分たちの美の世界を築いていった。彼ら絵画や彫刻は独創的であると同時にギリシャのそれにいかによく似ているか、一目で分かる。
科学や技術の世界でも、模倣が役割を演じている。だれかの発明や発見を商品化するのは一種の模倣である。新しい機械を作るにも、いろんな特許が絡んでくる。特許は発明だが、それをお金で買って新しい機械に組み込むのは模倣である。
コンピューターのような機械はたくさんの発明や発見や工夫のかたまりであるが、そのすべてを一人の人がつくり出したなどと思っている人はいないだろう。たくさんの人の発明や発見を組み合わせて一つの商品にする。一人の人が考え出したものはその中のほんの小さな一部でしかない。大部分模倣のかたまりである。人間の文化はおたがいに模倣しあうことによって、沢山の人の創意工夫が協力しあうことによって成り立つものである。

ところでこの「模倣する習性」というのはどこからきたかという議論がある。それが生まれつき人間や動物にそなわったものであるのか、それとも生まれたあとで学習したのかという疑問である。
模倣すること自体、ほかの人からの模倣だという学者もいる。だが、そうだとすると、その模倣することを模倣された相手の人もまた、ほかのだれかから模倣することを模倣したことになるだろう。その相手の人もまただれかから模倣したことになり、そうやって辿っていったら最後の最後には、だれからも模倣しないで、自分自身で「模倣すること」をおぼえた天才がいることになるのではないだろうか。
これはあまりにむずかしい問題なので、専門家にまかせるとして、私は、人間やある種の生き物には、生まれつき模倣する習性がそなわっているような気がしている。生まれつきあるというのは、生物学者の言葉をかりると「遺伝子による情報伝達」である。たいした証拠はないが、そんな気がする。
遺伝であれ、後天的であれ、模倣する習性が人類や動物の生存や進歩に大きく貢献していることはまちがいない。だからこそ、遊びの中でも模倣は大きな要素になっているということができる。
一般に、私は、何らかの機能とか、何らかの習性が遊びの本になっているという考え方をしている。機能や習性はあまり「遊ばせて」おくと退化する。それを遊びとして使うことによって退化を防止することができる。遊びには退化防止の機能があるから。 
虚と実のイメージ遊び
猫に鏡を見せると、猫は鏡に映った自分の姿を自分以外の猫と思ってひっかいたり、牙をむいて「フーッ」とうなったり、鏡のうしろに手をまわしたりする。鏡のうしろをのぞきこんで、何もないので不思議そうな顔をする。鏡の中の像はイメージだけがあって実体がない。つまり「虚像」なのだが、猫にはそれが分からない。
人間は自分の姿が鏡に映っていても、自分はその鏡の中にはいないことを知っている。像があっても、実体がないことは人間にとっては不思議でも何でもない。しかし、猫にはそんな理屈は分からないから、実体がそこにあると思ってチョッカイを出す。分かっている人間は猫のやることを見て笑い、「おもしろい」という。
物まねのじょうずな人が小鳥の鳴き声や汽笛や飛行機の飛ぶ音などをまねてみせると、人は感心する。もしそれが「物まね」であることを知らなければ、本物だと思って聞くので特別感心もしない。
人はそれが本物でないことを知っていて、心の中にある本物のイメージと比べてみて、似ていることを確認する。似てはいるが本物ではなく「物まね」であることを意識した時はじめて「うまい」「そっくりだ」と言う。 その時その声や音を聞いた人の心の中には実際の鳥や機関車などのイメージだけが浮かんでいるが、しかし、そこにはそういうものはない。言わば、そのイメージは鏡の中の猫と同じ「虚像」なのである。
物にはすべて姿形があり、姿形を持たない物はないが、もとの物からはなれて姿形だけあるということはあり、それを写真や絵や鏡の中に写し取ることができる。この事実からすべてがはじまる。そして、そのように実体からはなれて一人歩きする姿形をイメージという。
アンデルセン童話の「裸の王様」は、見えない服が実際にあるものと思って着たつもりになる。家来たちも王様が立派な服を着ているものと思っているので、それが見えている振りをする。実際に見えているのは裸の王様なのだが、それが見えていない振りをする。自分が見ている裸の王様は幻で、本当は立派な服を着た王様がいるものと思い込もうとつめている。しかし、子供は単純だから、見えないものを見えると言ったり、見えているものを見えないと言ったりしないから「王様は裸だ」と言ってしまう。
大人たちが王様が着ていると思っている服、さぞかしきれいだろうと想像していた服は実はイメージだけであって実体はなかった。目に見えている王様の裸は幻にすぎないと思い、目の錯覚と思っていたが、実はそれが実像だった。
そこにあると思っていたものが実はなかった。幻と思っていたものは実は本物だった。そこでみんながどっと笑った。
この話のおもしろさは、イメージの「虚」と「実」の遊びである。
文学や絵画の「描写」も前にのべたミメーシス、「模倣」ということも、すべてこのように物から独立し、分離したイメージが存在しうるという事実、そして、イメージが時に実体を伴った実像であったり、時には実体のない虚像であったりするというところから生まれる遊びであるということができる。
あると思ったものがなかったり、ないと思ったものがあったりの遊びを解さない人はすぐれた文学者や芸術家は大作家にはなれない。
すべての物に姿形があり、姿形のない物はないが、姿形だけあって物がないということはある。それをギリシャのプラトンという人は「形相」と呼んだとか。
このように虚と実の遊びがなぜおもしろいか−この点を追及していくと、前に述べたイナイイナイバア遊びに通じるところがある。
虚実の遊びでは、あると見えるものが実はなかったり、ないものが在るように見えたりする。イナイイナイバア遊びは、あったものが消え、消えたと思うとまた現れるということの繰り返しである。それがなぜ興味を引くかということは、前に述べたように、人間がこの世に生まれてきて外界と相対するときにまず出会う体験、言い換えると最初の外界認知体験通じているからである。
サルやチンパンジーであっても、意識というものがある生物はすべて、生まれ落ちるとすぐからこの体験に出会う。なぜなら、昼間見えていた世界そのものが夜には闇の中に消えてしまい、朝になるとまた現れるということが繰り返される。それが生物にとって、また生まれたばかりの赤ん坊にとっての、ほとんど最初のと言っていい外界体験だからである。 
 
イナイイナイバア

 

イナイイナイバアの心理 「隠す」「隠れる」ということの意味
今から三十年ほど前のことだった。いわゆるキューバ危機のあと、米ソのデタントがはじまり、日本でもソ連との経済交流を盛んにしようというので、経済界の代表がつぎつぎとモスクワを訪問した頃のこと、新聞を読んでいて「オヤッ」と思ったことがあった。
河合良成という人が語ったことの中で、フルシチョフ首相の家を訪問した時フルシチョフが孫とイナイイナイバアをやっていた、というのである。良成氏はそれを見て、ふだんは気むずかしそうに見えるフルシチョフも、孫といっしょにいる時は人間味のある好々爺だということが分かったとあった。
私がオヤッと思ったのは、それまでイナイイナイバアのような遊びは日本にしかないものと漠然と思っていたら、ソ連にもあるということが分かったからであった。私はすぐに辞書を開いて、英語にも同じようなのがあるかどうか調べてみた。
英語にも「ピーカブー」(peekaboo)というのがあった。「ピーク」は「のぞく」の意で、「ブー」は日本語の「バア」にあたる。さらに調べてみると、イナイイナイバアという遊びは世界のほとんどすべての国、すべての民族にあるらしいことが分かった。
これは当時の私にとっては一大発見だった。そして、私の遊び研究の原点はこのイナイイナイバアの発見だった。
この遊びは子供が生まれて間もなく、ようやく母親の顔が見分けられるようになるとすぐの頃からはじまる。いわば人間が一番はじめに経験する遊びだということができるだろう。それがきわめて自然発生的に、人間のいるところならどこにでもあるらしい。だとすれば、それは人間の中にひそむ何か本質的なもの、人間すべてに共通する何かがあるにちがいない。そこに何か遊びの本質にかかわる秘密がかくされているにちがいないと思ったのである。
「イナイイナイ」と言いながら、両手で顔をかくし、「バア」と言いながらさっと手をのけると、かくれていた顔が現れ、子供がきゃっきゃっきゃっと笑う。もう少し大きくなった子は自分がそれをやって大人を笑わせようとしたり、手を使うのでなく、何かのかげに隠れたり、突然顔を出したりして同じような効果をねらう、高級な(?)イナイイナイバア遊びをやることもある。(実際にはそれほどうまく成功することは少ないのだが)それだけのことにどうして子供は笑うのか。そんなことがどうしておもしろいのか。
その問いに答えようとすれば、「存在」とか「無」とか「現象」などという、かなりむずかしい心理学や哲学の問題にまで深入りする可能性さえもっている。ここではそんな学問的なことは遠慮するとして、常識的に分かる程度にこの問題を考えてみよう。
母親の顔が隠れて見えなくなっても、母親は依然しとてそこにいると大人は考えるが、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、目に見えないものは存在しないのである。見えるものだけが「存在」するものであって、見えないものは単に「なくなった」「消失してしまった」のである。そして、一瞬の哀しみや失望や不安が赤ん坊の心に芽生えはじめる。そこにまた突然母親の顔が現れると、そのおどろきと喜びとで赤ん坊は笑う。
見えなくなった顔がまた見えた時、赤ん坊の心に起きたことは何であったのかという問題もある。消えたものが再現したのをよろこぶということは、前に見た顔の記憶が残っていて、再現した時に「あの顔だ」ということが分かったということを意味する。つまり赤ん坊は心の中に残っている前に見た顔と、再現された顔との同一性を認めたことになる。見たものと心の中にあるものとが同一であることを認めること、すなわち「認知」ということをやっている。
いなくなった母親がまた現れ、それが自分の求めている、そして心に残っているものだと認知するという経験の繰り返しているうちに、そのものは見えなくてもなくなってしまったのではなく、どこかに存在しているのだという「認識」が生じる。大人になるにしたがって、その認識が確固としたものになり、長い間母親の顔を見なくても母親の存在を疑うことなく、安心していられるようになる。
赤ん坊は、物体の存在についての認知と認識の初歩的な経験をしているのである。それは人間が生きていく上でもっとも基本的な精神機能のひとつである。
大人になると、目の前に見えていなくても存在していると思っているものが増えてくる。というより大人の世界観はほとんど目の前に見えていないものによって成り立っている。われわれは身の回りにあるものしか肉眼で直接見ることはできないが、隣の家があることも、地球の裏側にどんな国があるかということも知っている。新幹線に乗って行けば東京があることも、月の世界にある物質のことなどなどを知っている。そのような認識のはじまりは赤ん坊の時母親の顔が「見えたり見えなくなったり」という、イナイイナイバア体験にある。
人間は目の前に見えていないものの存在を信じているが、その根拠は繰り返された経験である。母親の顔にたとえてみれば、一度消えてもまた現れるという現象を繰り返し経験したということにすぎない。つまり、消失したものが繰り返し「再現」するという経験が「存在」認識の根拠なのである。したがって、存在とは「再現性」の別名にすぎないということもできる。そして、その認識が人間の世界認識の基礎になっている。人間が生まれて最初の遊びがイナイイナイバアであるというのはそのようなことに根拠がある。 
かくれんぼと生成と流転の美学
見えていた顔が見えなくなったり現れたりすることは子供にとってはとてもふしぎな現象である。それをもう少し発展させると、存在するものの出現と消失という現象は人間の興味を引き起こすもっとも基本的な要素である。しかも、それはすべての人類に共通であり、動物にさえ同じことが言えると思う。
いろいろの遊びや文学や演劇などもよく観察すれば、この出現・消失現象に対する興味、すなわち「イナイイナイバア」遊びがいたるところに手を変え品を変えて使われていることが分かる。
たとえば「かくれんぼ」で、隠れている子供を鬼になった子がさがすというのは、潜在意識的に「出現・消失」遊びをやっていると考えることができる。鬼にはかくれたものを見つけだす、言い換えると、無かったものがこつ然と目の前に見えてくるという興味がある。隠れる方には、身を隠す、鬼の目から自分の存在を消すというおもしろさがある。
両手のにぎりこぶしをさしだして「どっち」と言って、コインのはいっている方をあてさせ、「こっち」と言うとそのこぶしをひらいて見せる遊びもある。
ある時五つくらいの子供が柿の種せんべいを私にくれた。私が受け取って口に入れてカリカリ食べるのを見てその子がニコッとわらって、またくれた。受け取って口に入れると、私の口元をじっと見つめ、食べ終わるとまたくれた。子供は柿の種がなくなるまで、何回でも同じことを繰り返した。柿の種が私の口に入って消えるのがおもしろくて仕方がなかったのだ。私はそういう経験を何度もしている。
ちょっと宗教的な言い方をすると、私の考えでは「存在」とは単に今われわれの前に出現したものにすぎず、いずれ消滅するものである。一度消失してもまた再現し、また消失してまた再現するということをくりかえしている間は、それはまだ「存在」していることになる。消失したまま、二度と再現しないものは「なくなったもの」である。出現したものでもなく消滅することもないものがあるとすれば、それは「神」だけである。神以外には「絶対的な存在」といえるものは何もない。人間自身も今この世に現れて、いつかまた無に帰する存在なのだ。
それが人間と人間を取り巻く世界のすべての現象の本質である。宗教的な言葉に言い換えると、諸行無常ということである。さらに言い方を変えれば、それが世界の現象のもっとも基本的な側面なのである。だからこそ、遊びでも文学でも、その他の芸術のジャンルでも、手を変え形を変えて、この「出現」と「消失」遊びの要素が入ってくるし、それがないものはおもしろくない。
分かりやすい例をあげると、日本画で画面に雲形のような空白を残して、その間にさまざまの人間模様を描き出しているものがある。一つの画面の中に見えるところと見えないところを意識的に作っている。一種のかくれんぼである。
私はピカソの陶器が大変すきなのだが、ピカソの陶器の花びんや皿や水さしなどを見る時の自分の気持ちの中にいつも「オヤッ」というおどろきがまじっているように思う。それはただの陶器の道具でしかないはずのものの表面に人間の顔や女性の体などが不意に「現れる」という感じである。そこにあるはずのないものが出現することに対する「オヤッ」である。その「オヤッ」というおどろきがピカソの陶器をいきいきさせているように思う。そこで私は考えた。陶器に限らず、絵をかく人は、ただ物の形を画面に再現するだけでなく、そこに物が出現したかのように、あるいは出現しかかっているかのように描くのが本当の画家の心ではないかと。あまり、当てにならない考えだが、ふと、そんなことを思うことがあるのは確かである。
文学でいうと、人の世は現れては消える「うたかた(泡)」のようだという無常観をうたったもの。無常観とは存在するものがやがては消える運命にあるという点を強調する思想である。一見暗い、厭世的な思想のように見えるが、見方を変えれば、その中にも無意識のうちにイナイイナイバア遊びの要素が含まれている。この世は「うたかた(泡)のように、現れたり消えたりする」という方丈記の思想も同じように解釈できる。ギリシャ哲学などにもある、万物は生成流転するという思想も同様である。
私は運動や現象の変化なども、「出現」と「消失」という用語に還元して説明できると思っている。たとえば物の移動、位置の変化について考えると、移動とは、その物がもとあった場所になくなり、異なる場所に出現するという現象が持続的に行われることである。したがって、生成流転というのは、存在したものが消えたり、もとの場所になくなったりして、それが違った場所に現れたりする現象が持続的に起こることである。
わたしに言わせれば、人の世のことはすべてイナイイナイバア遊びなのである。なぜなら人間はすべて生まれて死ぬ存在だからである。「諸行無常」とうたう平家物語も、むずかしく考えれば深遠な仏教思想を説いているとも言えるが、遊びという観点から見ればイナイイナイバア遊びをやっている。だから人の心を引きつける力があり、また長く人々に愛読されつづけることができるのである。逆に言えば、イナイイナイバア遊び的な要素のない文学はおもしろくない。 
「隠す」ということの意味
社会人としての人間は、自分の名前と顔を人々に知ってもらい、自分のいいところを認めてもらおうとする。そこでは人は自分のいいところをできるだけあらわにして、目立たせたいと思っている。その反面、人は不必要に自分の心やプライバシーを知られることを好まない。そういうところはできるだけ隠そうとする。人間の生活は、現すことと隠すことから成り立っているといってもいい。
人間はつねに何かを隠している。それが習慣になってしまって、ほとんど無意識に隠している。また、隠さなければ重大な結果になることも少なくない。
人間の生活を考えてみれば、隠すということが人間にとってどれほど大きな、重要な問題であるかが分かるはずである。家の中には他人に知られたくないことがたくさんある。政治家は世間に知られたくないことをいっぱい持っている。男は女にしられたくない、女は男にしられたくないことがある。商売をやれば商売の秘密がある。などなど。プライバシーなどというのも結局は個人的なことを隠すことである。
家というものの機能の一つは家族のプライバシーを他人の目から隠すことである。その家族の間でさえ隠すことが必要なこともある。たとえばトイレの存在がそれを示している。自分の利益からばかり隠すとは限らないものがある。エチケットとして隠すとか、道徳的な配慮から隠す場合もある。
人間は服を着るのも、一つには「隠す」目的からである。服は寒さを防ぐなどの効用もあるが、一番大きな目的は裸を隠すということである。そればかりでなく、体の一部を隠さないことが犯罪になることもある。家の中では裸に近いかっこうでいる人も、外に出る時は服をきる。勤めに出るのできちんとしなければいけないとか、恋人に会うのできれいにしていかなければとか、いろいろなことを考えて服を着る。だが、その時服を着る人の心理の中に「隠す」という意識もはたらいているはずである。服装をきちんとすることによって、仕事上の競争相手には自分の弱みを隠そうとするだろうし、上司には二日酔いで頭が少しぼんやりしていることを隠そうとするだろう。きれいになろうとする女性は、自分の体型や肌色の欠点や傷痕やしみなどを隠そうとする意識が必ずはたらく。
サラリーマンの制服と言われる紺の背広は、個性を隠す効果がある。みんな一律に同じ色の、同じスタイルの服を着ることで、一人一人の個性が見えにくくなる。職場によっては個性が強く出すぎるのは仕事の邪魔になる。もう帰りたい、ビールが飲みたい、あの客は嫌いだから相手にしたくない、あの美人とねんごろになりたい、などという欲求や願望を隠すのにきちんとした背広は大いに役に立つ。
キリスト教の牧師さんや仏教の坊さんなどが黒い服を着るのは、人間的なものを隠す効果がある。その人たちも異性に対する欲望や時には金銭的な欲望もないはずはないが、そんなものはないかのように振る舞う必要がある。
人に隠したいところがない人はいない。家の中や遊びの場では見せられるものでも、仕事の間は隠しておきたいこともある。家族にだけはみせられるものや、夫婦の間でしか見せられないものものある。人前で見せると下品だと思われるような欲望は隠しておきたい。自分の弱みも隠したい。
ふだん無意識にやっているが、よーく自分の生活を振り返って観察してみると、自分がいかに多く、毎日何かを隠そうとしているかを発見しておどろかない人はいないだろう。それは他人同士の間だけにかぎらない。夫婦の間にも、親子の間にもある。またそれは善意から出ることも悪意から出ることもある。
相手の心をきずつけまいとして隠すのは善意であり、相手に隠すことによって相手をおとしめたり、そこから何かの利益をえようとするのは悪意である。
男と女がおたがいに自分のいいところを見せ、欠点をかくし、相手の気を引こうとする恋のかけひきのようなものは一種の遊びだということもできるだろう。
犯罪とその捜査も言わば隠しっこ、かくれんぼである。それがあるからミステリーや推理小説がおもしろくなる。人は推理小説は推理がおもしろいのだと思っているだろう。そのとおりであが、推理が成り立つためには犯人と刑事の隠しっこ、隠れんぼがなければならない。そこで多くの人は、隠しっこや隠れんぼは推理をおもしろくするための道具だと思っている。だが、私はその発想を逆転させてみたい。読者は隠しっこや隠れんぼそのもののおもしろさをたのしんでいる。少なくとも、その点を軽く見て、推理のおもしろさだけを追求したのでは本当のおもしろいミステリーは書けない、と私は思う。
日常生活ではほとんど無意識に「隠す」という行為をしているが、隠すことは人間の社会生活にとってなくてはならない習性である。そして、それはイナイイナイバアに見られるように、「認識」というものにかかわる現象である。
またその習性は人間だけのものではない。動物もよく隠れるし、また物を隠す動物も少なくない。ある種の動物が餌を地面の中に埋めて保存したり、魚が岩の下にかくれたりなど、その例はいくらでもある。とすれば、隠す、隠れるというのは生きるものの生得的な習性なのかもしれない。そして、それがいろいろの遊びに現れるのである。 
 
猫町 / 萩原朔太郎

 

蠅はえを叩たたきつぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。――ショウペンハウエル。
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旅への誘いざないが、次第に私の空想ロマンから消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍おどった。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処どこへ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎いなかのどこの小さな町でも、商人は店先で算盤そろばんを弾はじきながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草タバコを吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生を眺ながめている。旅への誘いは、私の疲労した心の影に、とある空地あきちに生はえた青桐あおぎりみたいな、無限の退屈した風景を映像させ、どこでも同一性の法則が反覆している、人間生活への味気ない嫌厭けんえんを感じさせるばかりになった。私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまった。
久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔ひしょうし得る唯一の瞬間、即すなわちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手間がかかり、かつ日本で入手の困難な阿片あへんの代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所ここに詳しく述べる余裕がない。だがたいていの場合、私は蛙かえるどもの群がってる沼沢地方や、極地に近く、ペンギン鳥のいる沿海地方などを彷徊ほうかいした。それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮あざやかな原色をして、海も、空も、硝子ガラスのように透明な真青まっさおだった。醒さめての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。
薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。私は日々に憔悴しょうすいし、血色が悪くなり、皮膚が老衰に澱よどんでしまった。私は自分の養生ようじょうに注意し始めた。そして運動のための散歩の途中で、或ある日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新しい方法を発見した。私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から四、五十町(三十分から一時間位)の附近を散歩していた。その日もやはり何時いつも通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解わからなくしてしまった。元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児まいごになってしまった。その上私には、道を歩きながら瞑想めいそうに耽ふける癖があった。途中で知人に挨拶あいさつされても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻まわりを、塀へいに添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐きつねに化かされたのだと言った。狐に化かされるという状態は、つまり心理学者のいう三半規管の疾病であるのだろう。なぜなら学者の説によれば、方角を知覚する特殊の機能は、耳の中にある三半規管の作用だと言うことだから。
余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量あてずいりょうで見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑にぎやかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所どこかの美しい町であった。街路は清潔に掃除そうじされて、鋪石ほせきがしっとりと露に濡ぬれていた。どの商店も小綺麗こぎれいにさっぱりして、磨みがいた硝子の飾窓かざりまどには、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲コーヒー店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏あんずのように明るくて可憐かれんであった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう?
私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。いつものように、四ツ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘が坐すわっている。そして店々の飾窓には、いつもの流行おくれの商品が、埃ほこりっぽく欠伸あくびをして並んでいるし、珈琲店の軒には、田舎らしく造花のアーチが飾られている。何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中うちに、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。
その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまった。同時に、すべての宇宙が変化し、現象する町の情趣が、全く別の物になってしまった。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。
この偶然の発見から、私は故意に方位を錯覚させて、しばしばこのミステリイの空間を旅行し廻った。特にまたこの旅行は、前に述べたような欠陥によって、私の目的に都合がよかった。だが普通の健全な方角知覚を持ってる人でも、時にはやはり私と同じく、こうした特殊の空間を、経験によって見たであろう。たとえば諸君は、夜おそく家に帰る汽車に乗ってる。始め停車場を出発した時、汽車はレールを真直に、東から西へ向って走っている。だがしばらくする中うちに、諸君はうたた寝の夢から醒さめる。そして汽車の進行する方角が、いつのまにか反対になり、西から東へと、逆に走ってることに気が付いてくる。諸君の理性は、決してそんなはずがないと思う。しかも知覚上の事実として、汽車はたしかに反対に、諸君の目的地から遠ざかって行く。そうした時、試みに窓から外を眺めて見給みたまえ。いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢から醒め、現実の正しい方位を認識する。そして一旦いったんそれが解れば、始めに見た異常の景色や事物やは、何でもない平常通りの、見慣れた詰らない物に変ってしまう。つまり一つの同じ景色を、始めに諸君は裏側から見、後には平常の習慣通り、再度正面から見たのである。このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を覗のぞいたりした。そしてこの子供の疑問は、大人になった今日でも、長く私の解きがたい謎なぞになってる。
次に語る一つの話も、こうした私の謎に対して、或る解答を暗示する鍵かぎになってる。読者にしてもし、私の不思議な物語からして、事物と現象の背後に隠れているところの、或る第四次元の世界――景色の裏側の実在性――を仮想し得るとせば、この物語の一切は真実レアールである。だが諸君にして、もしそれを仮想し得ないとするならば、私の現実に経験した次の事実も、所詮しょせんはモルヒネ中毒に中枢を冒された一詩人の、取りとめもないデカダンスの幻覚にしか過ぎないだろう。とにかく私は、勇気を奮って書いて見よう。ただ小説家でない私は、脚色や趣向によって、読者を興がらせる術すべを知らない。私の為なし得ることは、ただ自分の経験した事実だけを、報告の記事に書くだけである。 
2
その頃私は、北越地方のKという温泉に滞留していた。九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中では、もうすっかり秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後あとには少しばかりの湯治客とうじきゃくが、静かに病を養っているのであった。秋の日影は次第に深く、旅館の侘わびしい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。私はフランネルの着物を着て、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。
私のいる温泉地から、少しばかり離れた所に、三つの小さな町があった、いずれも町というよりは、村というほどの小さな部落であったけれども、その中の一つは相当に小ぢんまりした田舎町で、一通りの日常品も売っているし、都会風の飲食店なども少しはあった。温泉地からそれらの町へは、いずれも直通の道路があって、毎日定期の乗合馬車のりあいばしゃが往復していた。特にその繁華なU町へは、小さな軽便けいべん鉄道が布設されていた。私はしばしばその鉄道で、町へ出かけて行って買物をしたり、時にはまた、女のいる店で酒を飲んだりした。だが私の実の楽しみは、軽便鉄道に乗ることの途中にあった。その玩具おもちゃのような可愛い汽車は、落葉樹の林や、谷間の見える山峡やまかいやを、うねうねと曲りながら走って行った。
或る日私は、軽便鉄道を途中で下車し、徒歩でU町の方へ歩いて行った。それは見晴しの好よい峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであった。道は軌道レールに沿いながら、林の中の不規則な小径を通った。所々に秋草の花が咲き、赫土あかつちの肌はだが光り、伐きられた樹木が横たわっていた。私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説している、古い口碑こうひのことを考えていた。概して文化の程度が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目まじめに信じているのである、現に私の宿の女中や、近所の村から湯治に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪けんおの感情とで、私に様々のことを話してくれた。彼らの語るところによれば、或る部落の住民は犬神に憑つかれており、或る部落の住民は猫神に憑かれている。犬神に憑かれたものは肉ばかりを食い、猫神に憑かれたものは魚ばかり食って生活している。
そうした特異な部落を称して、この辺の人々は「憑き村」と呼び、一切の交際を避けて忌いみ嫌きらった。「憑き村」の人々は、年に一度、月のない闇夜やみよを選んで祭礼をする。その祭の様子は、彼ら以外の普通の人には全く見えない。稀まれに見て来た人があっても、なぜか口をつぐんで話をしない。彼らは特殊の魔力を有し、所因の解らぬ莫大ばくだいの財産を隠している。等々。
こうした話を聞かせた後で、人々はまた追加して言った。現にこの種の部落の一つは、つい最近まで、この温泉場の附近にあった。今ではさすがに解消して、住民は何所どこかへ散ってしまったけれども、おそらくやはり、何所かで秘密の集団生活を続けているにちがいない。その疑いない証拠として、現に彼らのオクラ(魔神の正体)を見たという人があると。こうした人々の談話の中には、農民一流の頑迷がんめいさが主張づけられていた。否いやでも応でも、彼らは自己の迷信的恐怖と実在性とを、私に強制しようとするのであった。だが私は、別のちがった興味でもって、人々の話を面白く傾聴していた。日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にした外国の移住民や帰化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であろう。あるいは多分、もっと確実な推測として、切支丹キリシタン宗徒の隠れた集合的部落であったのだろう。しかし宇宙の間には、人間の知らない数々の秘密がある。ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜かぶとを脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。
こうした思惟しいに耽ふけりながら、私はひとり秋の山道を歩いていた。その細い山道は、経路に沿うて林の奥へ消えて行った。目的地への道標として、私が唯一のたよりにしていた汽車の軌道レールは、もはや何所にも見えなくなった。私は道をなくしたのだ。
「迷い子!」
瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉であった。私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻もどろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘いばらの中に消えてしまった。空むなしい時間が経過して行き、一人の樵夫きこりにも逢あわなかった。私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅かぎ出そうとして歩き廻った。そして最後に、漸ようやく人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い山道を発見した。私はその足跡に注意しながら、次第に麓ふもとの方へ下って行った。どっちの麓に降りようとも、人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである。
幾時間かの後、私は麓へ到着した。そして全く、思いがけない意外の人間世界を発見した。そこには貧しい農家の代りに、繁華な美しい町があった。かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目荒寥こうりょうたる無人の曠野こうやを、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑にぎわしく繁華な都会に見えるということだった。私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類した驚きだった。麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙へんぴな山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。
私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。そしてとうとう、自分でその幻燈の中へ這入はいって行った。私は町の或る狭い横丁よこちょうから、胎内めぐりのような路みちを通って、繁華な大通おおどおりの中央へ出た。そこで目に映じた市街の印象は、非常に特殊な珍しいものであった。すべての軒並のきなみの商店や建築物は、美術的に変った風情ふぜいで意匠され、かつ町全体としての集合美を構成していた。しかもそれは意識的にしたのでなく、偶然の結果からして、年代の錆さびがついて出来てるのだった。それは古雅で奥床おくゆかしく、町の古い過去の歴史と、住民の長い記憶を物語っていた。町幅は概して狭く、大通でさえも、漸く二、三間げん位であった。その他の小路は、軒と軒との間にはさまれていて、狭く入混いりこんだ路地ろじになってた。それは迷路のように曲折しながら、石畳のある坂を下に降りたり、二階の張り出した出窓の影で、暗く隧道トンネルになった路をくぐったりした。南国の町のように、所々に茂った花樹が生はえ、その附近には井戸があった。至るところに日影が深く、町全体が青樹の蔭のようにしっとりしていた。娼家しょうからしい家が並んで、中庭のある奥の方から、閑雅な音楽の音が聴きこえて来た。
大通の街路の方には、硝子窓のある洋風の家が多かった。理髪店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあり、ペンキの看板に Barbershop と書いてあった。旅館もあるし、洗濯屋せんたくやもあった。町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家屋に、秋の日の青空が侘わびしげに映っていた。時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が坐って、黙って熱心に仕事をしていた。
街まちは人出で賑やかに雑鬧ざっとうしていた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳ひいてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。特に女性は美しく、淑しとやかな上にコケチッシュであった。店で買物をしている人たちも、往来で立話をしている人たちも、皆が行儀よく、諧調かいちょうのとれた低い静かな声で話をしていた。それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触てざわりに意味を探るというような趣きだった。とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫なでるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。
私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されていることだった。単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。空気のいささかな動揺にも、対比、均斉きんせい、調和、平衡等の美的法則を破らないよう、注意が隅々すみずみまで行き渡っていた。しかもその美的法則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、非常に緊張して戦おののいていた。例たとえばちょっとした調子はずれの高い言葉も、調和を破るために禁じられる。道を歩く時にも、手を一つ動かす時にも、物を飲食する時にも、考えごとをする時にも、着物の柄を選ぶ時にも、常に町の空気と調和し、周囲との対比や均斉を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。町全体が一つの薄い玻璃はりで構成されてる、危険な毀こわれやすい建物みたいであった、ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、硝子が粉々に砕けてしまう。それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、それの対比と均斉とで、辛かろうじて支ささえているのであった。しかも恐ろしいことには、それがこの町の構造されてる、真の現実的な事実であった。一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。町全体の神経は、そのことの危懼きぐと恐怖で張りきっていた。美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
始めてこのことに気が付いてから、私は急に不安になり、周囲の充電した空気の中で、神経の張りきっている苦痛を感じた。町の特殊な美しさも、静かな夢のような閑寂さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で、暗号を交かわしているように感じられた。何事かわからない、或る漠然ばくぜんとした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙がしく私の心の中を馳かけ廻った。すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂におい、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍ししのような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩たかまって行った。此所ここに現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない!
町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音もなく、典雅な人々が歩いていた。どこかで遠く、胡弓こきゅうをこするような低い音が、悲しく連続して聴えていた。それは大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変らない町の様子を、どこかで一人が、不思議に怪しみながら見ているような、おそろしい不安を内容した予感であった。今、ちょっとしたはずみで一人が倒れる。そして構成された調和が破れ、町全体が混乱の中に陥入おちいってしまう。
私は悪夢の中で夢を意識し、目ざめようとして努力しながら、必死にもがいている人のように、おそろしい予感の中で焦燥した。空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度は、いよいよ刻々に嵩まって来た。建物は不安に歪ゆがんで、病気のように瘠やせ細って来た。所々に塔のような物が見え出して来た。屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚あしみたいに、へんに骨ばって畸形きけいに見えた。
「今だ!」
と恐怖に胸を動悸どうきしながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠ねずみのような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。
瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人なんぴとにも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭ひげの生はえた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
戦慄せんりつから、私は殆ほとんど息が止まり、正に昏倒こんとうするところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見ているのだ。さもなければ狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。
私は自分が怖こわくなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私は意識を回復した。静かに心を落付おちつけながら、私は今一度目をひらいて、事実の真相を眺め返した。その時もはや、あの不可解な猫の姿は、私の視覚から消えてしまった。町には何の異常もなく、窓はがらんとして口を開あけていた。往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、疲れた埃っぽい人たちが、白昼の乾かわいた街を歩いていた。あの蠱惑的こわくてきな不思議な町はどこかまるで消えてしまって、骨牌カルタの裏を返したように、すっかり別の世界が現れていた。此所に現実している物は、普通の平凡な田舎町。しかも私のよく知っている、いつものU町の姿ではないか。そこにはいつもの理髪店が、客の来ない椅子いすを並べて、白昼の往来を眺めているし、さびれた町の左側には、売れない時計屋が欠伸あくびをして、いつものように戸を閉しめている。すべては私が知ってる通りの、いつもの通りに変化のない、田舎の単調な町である。
意識が此所まではっきりした時、私は一切のことを了解した。愚かにも私は、また例の知覚の疾病「三半規管の喪失」にかかったのである。山で道を迷った時から、私はもはや方位の観念を失喪していた。私は反対の方へ降りたつもりで、逆にまたU町へ戻って来たのだ。しかもいつも下車する停車場とは、全くちがった方角から、町の中心へ迷い込んだ。そこで私はすべての印象を反対に、磁石のあべこべの地位で眺め、上下四方前後左右の逆転した、第四次元の別の宇宙(景色の裏側)を見たのであった。つまり通俗の常識で解説すれば、私はいわゆる「狐に化かされた」のであった。 
3
私の物語は此所で終る。だが私の不思議な疑問は、此所から新しく始まって来る。支那の哲人荘子そうしは、かつて夢に胡蝶こちょうとなり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けない。錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのか。そもそも形而上けいじじょうの実在世界は、景色の裏側にあるのか表にあるのか。だれもまた、おそらくこの謎を解答できない。だがしかし、今もなお私の記憶に残っているものは、あの不可思議な人外の町。窓にも、軒にも、往来にも、猫の姿がありありと映像していた、あの奇怪な猫町の光景である。私の生きた知覚は、既に十数年を経た今日でさえも、なおその恐ろしい印象を再現して、まざまざとすぐ眼の前に、はっきり見ることができるのである。
人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想もうそうの幻影だと言う。だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟りくつや議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑ちょうしょうの前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑こうひしている特殊な部落。猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必らず実在しているにちがいないということを。 
 
青猫 / 萩原朔太郎

 

宇宙は意志の現れであり、意志の本質は惱みである / シヨウペンハウエル
「青猫」の初版が出たのは、一九二三年の春であり、今から約十年ほど昔になる。その後ずつと絶版になつて、市上に長く本を絶えて居た。元來、詩集といふものは、初版限りで絶本にするところに價値があるので、版を重ねて増册しては、詩集の人に貴重される稀本の價値が無くなつて來る。しかも今日、あへてこの再版を定本にして出す所以は、著者の私にとつて種種の理由があるのである。
第一の理由は、初版「青猫」の内容と編輯とが、私にとつて甚だ不滿足であり、意にみたないところが多かつた爲である。この詩集の校正が終り、本が市上に出始めた頃、私はさらにまた多くの詩を作つて居た。それらの詩篇は、すべて「青猫」に現れた同じ詩境の續篇であり、詩のテーマに於てもスタイルに於ても、當然「青猫」の中に編入すべき種類のものであつた。否むしろそれが無ければ、詩集としてのしめ括りがなく、大尾の完成が缺けるやうなものであつた。しかも詩集は既に製本されて出てしまつたので、止むを得ず私は、さらに此等の詩を集めて一册にし、青猫續篇詩集(第二青猫)として刊行しようと考へた。然るにその出版の好機がなく、且つ詩の數が少し豫定に足りないので、そのまま等閑に附してしまつた。但し此等の詩篇は、當時雜誌「日本詩人」その他に發表し、後に第一書房版の綜合詩集にも編入したので、私の讀者にとつては既に公表されてる者なのである。しかも「青猫」を完全な定本詩集とする爲には、是非とも此等の詩を補遺しなければならないので、初版出版後今日まで、長く私はその再版の機會を待つて居た。
同時にまた私は、その再版の機會をまつて、初版本の編輯上に於ける不統一を正さうとした。全集や綜合詩集は例外として、すべて單一な標題を掲げた詩集は、その標題が示す一つの詩境を、力強く一點に向つて集中させ、そこに詩集の統一された印象を構成させねばならないこと、あだかも一卷の小説に於ける構成と同じである。一册の標題された詩集の中に、そのテーマやスタイルを異にしてゐる種種雜多の詩が書かれてるのは、藝術品としての統一がなく、内容上の美的裝幀を失格してゐる。そして「青猫」の初版本が、この點でまた不備であつた。例へば「軍隊」「僕等の親分」などのやうに詩の主想とスタイルとを異にして居る別種の者が混入して居り、他との調和美を破つて居た。再版の機會に於て、これもまた改訂編輯せねばならなかつた。
次の第二の理由は、初版本の裝幀、特に繪のことに關係して居る。私の始めのプランとしては、本書に用ゐた物と同じやうな木版畫を、初版本にも繪とするつもりであつた。然るに出版書店の方で時日を迫り、版畫職工との煩瑣な交渉を嫌つた爲、止むを得ず有り合せの繪端書を銅版にして代用した。元來私の書物に於ては、繪が單なる裝飾でなく、内容の一部となつて居るのであるから、繪が著者の意に充たないのは、内容の詩集が意に充たないのと同じである。この點もまた機會を見て、再版に改訂せねばならなかつた。
最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁ペーソスが歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「青猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイジヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、この「青猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷ペーソスに出發して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もない。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子ソフハアの上に、絶望的の悲しい身體からだを投げ出して居る。
「青猫」ほどにも、私にとつて懷しく悲しい詩集はない。これらの詩篇に於けるイメーヂとヴイジヨンとは、涙の網膜に映じた幻燈の繪で、雨の日の硝子窓にかかる曇りのやうに、拭けども拭けども後から後から現れて來る悲しみの表象だつた。「青猫」はイマヂスムの詩集でなく、近刊の詩集「氷島」と共に、私にとつての純一な感傷を歌つた詩集であつた。ただ「氷島」の悲哀が、意志の反噬する牙を持つに反して、この「青猫」の悲哀には牙がなく、全く疲勞の椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀(意志を否定した虚無の悲哀)であることに、二つの詩集の特殊な相違があるだけである。日夏氏のみでなく、當時の詩壇の定評は、この點で著者のポエヂイを甚だしく誤解してゐた。そしてこの一つのことが、私を未だに寂しく悲しませてゐる。今この再版を世に出すのも、既に十餘年も經た今の詩壇で、正しい認識と理解をもつ別の讀者を、新しく求めたいと思ふからである。
本書の標題「青猫」の意味について、しばしば人から質問を受けるので、ついでに此所で解説しておかう。著者の表象した語意によれば、「青猫」の「青」は英語の Blue を意味してゐるのである。即ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」等の語意を含む言葉として使用した。この意を明らかにする爲に、この定本版の表紙には、特に英字で The Blue Cat と印刷しておいた。つまり「物憂げなる猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「青猫」にも現れてる如く、都會の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐるので、當時田舍にゐて詩を書いてた私が、都會への切ない郷愁を表象してゐる。尚この詩集を書いた當時、私はシヨーペンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の哲學に本質してゐる、厭世的な無爲のアンニユイ、小乘佛教的な寂滅爲樂の厭世感が、自おのづから詩の情想の底に漂つてゐる。
初版「青猫」は多くの世評に登つたけれども、著者としての私が滿足し、よく詩集のエスプリを言ひ當てたと思つた批評は、當時讀んだ限りに於て、藏原伸二郎君の文だけだつた。よつてこの定本では、同君に舊稿を乞うて卷尾に附した。讀者の鑑賞に便すれば幸甚である。
繪について 本書の繪は、すべて明治十七年に出版した世界名所圖繪から採録した。畫家が藝術意識で描いたものではなく、無智の職工が寫眞を見て、機械的に木口木版(西洋木版)に刻つたものだが、不思議に一種の新鮮な詩的情趣が縹渺してゐる。つまり當時の人人の、西洋文明に對する驚き――汽車や、ホテルや、蒸汽船や街路樹のある文明市街やに對する、子供のやうな悦びと不思議の驚き――が、エキゾチツクな詩情を刺激したことから、無意識で描いた職工版畫の中にさへも、その時代精神の浪漫感が表象されたものであらう。その點に於て此等の版畫は、あの子供の驚きと遠い背景とをもつたキリコの繪と、偶然にも精神を共通してゐる。しかしながらずつと古風で、色の褪せたロマンチツクの風景である。
見給へ。すべての版畫を通じて、空は青く透明に晴れわたり、閑雅な白い雲が浮んでゐる。それはパノラマ館の屋根に見る青空であり、オルゴールの音色のやうに、靜かに寂しく、無限の郷愁を誘つてゐる。さうして鋪道のある街街には、靜かに音もなく、夢のやうな建物が眠つてゐて、秋の巷の落葉のやうに、閑雅な雜集が徘徊してゐる。人も、馬車も、旗も、汽船も、すべてこの風景の中では「時」を持たない。それは指針の止つた大時計のやうに、無限に悠悠と靜止してゐる。そしてすべての風景は、カメラの磨硝子に寫つた景色のやうに、時空の第四次元で幻燈しながら、自奏機おるごをるの鳴らす侘しい歌を唄つてゐる。その侘しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの郷愁、即ちあの「都會の空に漂ふ郷愁」なのである。 西暦一九三四年秋 
青猫
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。 
さびしい青猫
ここには一疋の青猫が居る。
さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。 
艶めかしい墓場
風は柳を吹いてゐます
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり
みはらしの方から生なまあつたかい潮みづがにほつてくる。
どうして貴女あなたはここに來たの
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡靈よ
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚さかなのくさつた臭ひがする
その腸はらわたは日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない
さうしてただなんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命いのちや肉體からだはくさつてゆき
「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。 
緑色の笛
この黄昏の野原のなかを
耳のながい象たちがぞろりぞろりと歩いてゐる。
黄色い夕月が風にゆらいで
あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。
さびしいですか お孃さん!
ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ緑です。
やさしく歌口うたぐちをお吹きなさい
とうめいなる空にふるへて
あなたの蜃氣樓をよびよせなさい
思慕のはるかな海の方から
ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。
それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする
いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん! 
猫柳
つめたく青ざめた顏のうへに
け高くにほふ優美の月をうかべてゐます
月のはづかしい面影
やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。
ああ 露しげく
しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いてゐます。
ここをさまよひきたりて
うれしい情なさけのかずかずを歌ひつくす
そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。
ながれるごとき涙にぬれ
私はくちびるに血潮をぬる
ああ なにといふ戀しさなるぞ
この青ざめた死靈にすがりつきてもてあそぶ
夜風にふかれ
猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごゑです。 
憂鬱な風景
猫のやうに憂鬱な景色である
さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき
りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。
もうとつくにながい間あひだ
だれもこんな波止場を思つてみやしない。
さうして荷揚げ機械のばうぜんとしてゐる海角から
いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。
そのうへ帆船には綿が積まれて
それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。
なんと言ひやうもない
身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。
ああ神よ もうとりかへすすべもない
さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒のやうに泣いて居よう。 
怠惰の暦
いくつかの季節はすぎ
もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる
もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの戀よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻きすを投げよう
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。 
石竹と青猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黒髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの青ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蝋のからだを嗅ぎて弄ぶ。
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい青猫
君よ 夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。 
輪と樹木
輪の暦をかぞへてみれば
わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない
さうして草木の祭祀に捧げる 器物うつはや瓦の類でもない
金でもなく 蟲でもなく 隕石でもなく 鹿でもない
ああ ただひろびろとしてゐる無限の「時」の哀傷よ。
わたしのはてない生涯らいふを追うて
どこにこの因果の車をして行かう!
とりとめもない意志の惱みが あとからあとからとやつてくるではないか。
なんたるあいせつの笛の音ねだらう
鬼のやうなものがゐて木の間で吹いてる。
まるでしかたのない夕暮れになつてしまつた
燈火ともしびをともして窓からみれば
青草むらの中にべらべらと燃える提灯がある。
風もなく
星宿のめぐりもしづかに美しい夜よるではないか。
ひつそりと魂の祕密をみれば
わたしの轉生はみじめな乞食で
星でもなく 犀でもなく 毛衣けごろもをきた聖人の類でもありはしない。
宇宙はくるくるとまはつてゐて
永世輪のわびしい時刻がうかんでゐる。
さうしてべにがらいろにぬられた恐怖の谷では
獸けもののやうな榛はんの木が腕を突き出し
あるいはその根にいろいろな祭壇が乾ひからびてる。
どういふ人間どもの妄想だらう! 
暦の亡魂
薄暮のさびしい部屋の中で
わたしのあうむ時計はこはれてしまつた。
感情のねぢは錆びて ぜんまいもぐだらくに解けてしまつた。
こんな古ぼけた暦をみて
どうして宿命のめぐりあふ暦數をかぞへよう。
いつといふこともない
ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて
明朝あしたは港の方へでも出かけて行かう。
さうして海岸のけむつた柳のかげで
首くびなし船のちらほらと往き通かふ帆でもながめてゐよう
あるいは波止場の垣にもたれて
乞食共のする砂利場の賭博ばくちでもながめてゐよう。
どこへ行かうといふ國の船もなく
これといふ仕事や職業もありはしない。
まづしい黒毛の猫のやうに
よぼよぼとしてよろめきながら歩いてゐる。
さうして芥燒場ごみやきばの泥土でいどにぬりこめられた
このひとのやうなものは
忘れた暦の亡魂だらうよ。 
海豹
わたしは遠い田舍の方から
海豹あざらしのやうに來たものです。
わたしの國では麥が實り
田畑たはたがいちめんにつながつてゐる。
どこをほつつき歩いたところで
猫の子いつぴき居るのでない。
ひようひようといふ風にふかれて
野山で口笛を吹いてる私だ
なんたる哀せつの生活だらう。
ぶなや楡にれの木にも別れをつげ
それから毛布けつとに荷物をくるんで
わたしはぼんやりと出かけてきた。
うすく櫻の花の咲くころ
都會の白つぽい道路の上を
わたしの人力車が走つて行く。
さうしてパノラマ館の塔の上には
ぺんぺんとする小旗を掲げ
圓頂塔どうむや煙突の屋根をこえて
さうめいに晴れた青空をみた。
ああ 人生はどこを向いても
いちめんに麥のながれるやうで
遠く田舍のさびしさがつづいてゐる。
どこにもこれといふ仕事がなく
つかれた無職者むしよくもののひもじさから
きたない公園のベンチに坐つて
わたしは海豹あざらしのやうに嘆息した。 
猫の死骸
ula と呼べる女に
海綿のやうな景色のなかで
しつとりと水氣にふくらんでゐる。
どこにも人畜のすがたは見えず
へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。
さうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待びとのすがたが見えるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯體の衣裳をひきずり
しづかに心靈のやうにさまよつてゐる。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遲いのねえ。」
ぼくらは過去もない 未來もない
さうして現實のものから消えてしまつた…………
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。 
ああ 浦!
もうぼくたちの別れをつげよう
あひびきの日の木小屋のほとりで
おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるへてゐた。
あの灰色の空の下で
いつでも時計のやうに鳴つてゐる
浦!
ふしぎなさびしい心臟よ。
ula! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。 
時計
古いさびしい空家の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
煖爐に坐る黒猫の姿も見えない
白いがらんどうの家の中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた。
じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん!
古いさびしい空家の中で
昔の戀人の寫眞を見てゐた。
どこにも思ひ出す記憶がなく
洋燈らんぷの黄色い光の影で
かなしい情熱だけが漂つてゐた。
私は椅子の上にまどろみながら
遠い人氣ひとけのない廊下の向うを
幽靈のやうにほごれてくる
柱時計の錆びついた響を聽いた。
じぼ・あん・じやん! じぼ・あん・じやん! 

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
絲のやうなみかづきがかすんでゐる。
「おわあ、こんばんは」
「おわあ、こんばんは」
「おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ」
「おわああ、ここの家の主人は病氣です」 
 
マダム貞奴 / 長谷川時雨

 


人一代の伝を委(くわ)しく残そうとすれば誰人(だれ)を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は波瀾万丈(はらんばんじょう)、我国新女優の先駆者であり、泰西(たいせい)の劇団にもその名を輝かして来た、マダム貞奴(さだやっこ)を、細かに書いたらばどれほど大部(たいぶ)の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を聴(き)いて、それを忠実な自叙伝ふうな書き方にしてゆきたいと願った。
けれどもそれはまた一方には至難な事でもあった。芸術の徒とはいえ、彼女は人気を一番大切にと心がけている女優であり、またあまり過去の一切をあからさまにしたくない現在であるかも知れない。彼女の過去は亡夫 ・川上音二郎(かわかみおとじろう)と共に嘗(な)めた辛酸であった。決して恥ずかしいことでも、打明けるに躊躇(ちゅうちょ)するにもおよばぬものと思うが、女の身として、もうすでに帝都隠退興行までしてしまったあととて、何分世話になっている福沢氏への遠慮なども考慮したかも知れないが、その前にも二、三度逢(あ)ったおり言ってみたが、微笑と軽いうなずきだけで、さて何日(いつ)になっても日を定めて語ろうとした事のなかったのは、全くあの人にとっても遺憾なことであった。私は貞奴の女優隠退を表面だけ華やかなものにしないで、内容のあるものとして残しておく記念を求めたかった。そして自分勝手ではあるがわたしの一生の仕事の一つと思っている美人伝のためにも、またあの人のためにも集の一つを提供して、新女優の祖のために、特別に一冊を作りたいと思っていたが、その希望は実現されなかった。参考にしたいと思う種々の切抜き記事について、間違いはないかと聞直(ききなお)したのにも分明(はっきり)した返事は与えられなかったから、わたしは記憶を辿(たど)って書くよりほか仕方がなくなってしまった。それがため、女優第一人者を、誠意をもって誤謬(ごびゅう)なく書残しておこうとしたことが画餅(がべい)になってしまったのを、大変残りおしく思う。
わたしの知人の一人はこういう事をいってくれた。
「花柳界には止名(とめな)というものがあって、名妓(めいぎ)の名をやたらに後のものに許さない。それだけの見識をそなえたものならば知らず、あまりよい名は――つまり名妓をだしたのを誇りにして、取っておきにする例がある。たとえば新橋でぽんた、芳町(よしちょう)で奴(やっこ)というように……」
その芳町の名妓・奴(やっこ)が貞奴であることは知らぬものもあるまい。
奴の名は二代とも名妓がつづいた。そして二代とも芳町の「奴」で通る有名な女だった。先代の奴は、美人のほまれだけ高くて早く亡びてしまった。重い肺病であったが福地桜痴居士(ふくちおうちこじ)が死ぬまで愛して、その身も不治の病の根を受けたという事であった。後の奴が川上貞奴なのである。
貞奴に逢ったのは芝居の楽屋でだった。市村座(いちむらざ)で菊五郎、吉右衛門(きちえもん)の青年俳優の一座を向うへ廻して、松居松葉(まついしょうよう)氏訳の「軍神」の一幕を出した、もう引退まえの女優生活晩年の活動時機であった。小さな花束を贈ったわたしは楽屋へ招かれていった。入口の間(ま)には桑(くわ)の鏡台をおいて、束髪(そくはつ)の芳子(よしこ)(その当時の養女、もと新橋芸者の寿福(じゅふく)――後に蒲田(かまた)の映画女優となった川田芳子)が女番頭(おんなばんとう)に帯をしめてもらって、帰り仕度をしているところであった。八畳の部屋が狭いほど、花束や花輪や、贈りものが飾ってあって、腰の低い、四条派ふうの金屏風(きんびょうぶ)を廻(めぐ)らした中に、鏡台、化粧品置台(おきだい)、丸火鉢(まるひばち)などを、後や左右にして、くるりとこっちへ向直(むきなお)った貞奴は、あの一流のつんと前髪を突上げた束髪で、キチンと着物を着て、金の光る丸帯を幅広く結んだ姿であった。顔は頬(ほお)がこけて顎(あご)のやや角ばっているのが目に立ったが、眼は美しかった。
とはいえ当年の面影はなく、つい少時前(すこしまえ)舞台で見た艶麗優雅さは、衣装や鬘(かつら)とともに取片附けられてしまって、やや権高(けんだか)い令夫人ぶりであった。この女にはこういう一面があるのだなと、わたしはちょっと気持ちがハグらかされた。
わたしはそのほかに貞奴の外出姿を幾度も見かけた。多くは黒紋附きの羽織をきているが、彼女はやっぱり異国的(エキゾチック)のおつくりの方が遥(はる)かに美しかった。ある時 、国府津(こうず)行の一等車に乗ったおりは純白なショールを深々と豊かにかけていたのが顔を引立(ひきたて)て見せた。内幸町(うちさいわいちょう)で見かけた時は腕車(くるま)の膝(ひざ)かけの上まで、長い緑色のを垂(た)らしてかけていたが、それも大層落附いていた。
二度目に新富座(しんとみざ)へ招かれていった時に、俳優としてあけっぱなしの彼女に、はじめて逢ったのであった。そのおりは、新派の喜多村(きたむら)と一座をしていた。喜多村は泉鏡花氏作「滝(たき)の白糸(しらいと)」の、白糸という水芸(みずげい)の太夫(たゆう)になっていた。貞奴はその妹分の優しい、初々(ういうい)しい大丸髷(おおまるまげ)の若いお嫁さんの役で、可憐(かれん)な、本当に素(す)の貞奴の、廿代(はたちだい)を思わせる面差(おもざ)しをしていた。そのおりの中幕(なかまく)に、喜多村が新しい演出ぶりを試みた、たしか『白樺(しらかば)』掲載の、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)氏の一幕ものであったかと思う。殿様が恋慕(れんぼ)していた腰元(こしもと)が不義をして、対手(あいて)の若侍と並んで刑に処せられようとする三角恋愛に、悪びれずにお手打ちになろうとする女と、助かりたさと恐怖に、目の眩(くら)んでいる若侍と、一種独特な人世観を持った殿様とが登場する狂言で、殿様が喜多村緑郎(ろくろう)、若侍が花柳章太郎(はなやぎしょうたろう)、貞奴が腰元であった。腰元は振袖(ふりそで)の白無垢(しろむく)の裾(すそ)をひいて、水浅黄(みずあさぎ)ちりめんの扱帯(しごき)を前にたらして、縄にかかって、島田の鬘(かつら)を重そうに首を垂れていた。しかしその腰元の歩みぶりや、すべての挙止が、あまりにきかぬ気の貞奴まるだしであったのが物足りなかった。何故オフィリヤやデスデモナやトスカや、悄々(しおしお)と敵将の前へ身を投(なげ)出すヴァンナの、あの幽雅なものごしと可憐さを、自分の生れた国の女性に現せないのだろう、異国の女性に扮するときはあれほど自信のある演出するのにと思った。その幕がおわってから楽屋へ訪れたのであった。
卓にお膳立(ぜんだて)が出来ていて、空席になっているところがわたしのために設けられた場所であった。貞奴は鏡台をうしろにして中央にいた。すぐそのとなりに福沢さんがいた。御馳走(ごちそう)の充分なのに干魚(ひもの)がなければ食べられないといって次の間で焼かせたりした。わたしは(ああこれだな、時折舞台が御殿のような場で楽屋の方から干魚(ひもの)の匂(にお)いがして来て、現実暴露というほどでもないが興味をさまさせるのは――)などと思っていた。福沢さんがお茶づけが食べたいというと、女茶碗(おんなぢゃわん)のかわいいのへ盛って、象牙(ぞうげ)の箸(はし)をそえてもたせた。新富座の楽屋うらは河岸(かし)の方へかけて意気な住居(すまい)が多いので物売りの声がよくきこえた。すると貞奴は、
「早くあの豌豆(えんどう)を買って頂(ちょう)だい、塩煎(いり)よ。」
と注文した。福沢さんがあんなものをといったが、あたしは大好きなのだからと買わせて食べながら「これは柔らかいからおいしくない」といって笑った。
そうした様子がから駄々(だだ)っ子で、あの西洋にまで貞奴の名を轟(とどろ)かして来た人とは思われないまで他(た)あいがなかった。飯事(ままごと)のように暮している新夫婦か、まだ夢のような恋をたのしんでいる情人同士のようであった。貞奴の声は柔かくあまく響いていた。
「昨日(きのう)はね、痩(やせ)っぽちって怒鳴られたのですよ。この間はね、福桃(ふくもも)さん、あんなに痩せたよ――ですって……」
彼女は煙草(タバコ)をくゆらしながらおかしそうに笑った。そう言われないでも気がついていたが、彼女の体はほんとに痛々しいほど痩(や)つれていた。肩の骨もあらわならば、手足なぞはほんとに細かった。その割に顔は痩せが目にたたない、ふくみ綿をするとすっかり昔の面影になる。
(ああ、あの眼が千両なのだ)
あの眼が光彩をはなつうちは楚々(そそ)たる佳人になって永久に彼女は若いと眺められた。福沢粋士にせよこの人にもせよ、見えすいた、そんな遊戯気分を繰返すのは、醒(さ)めた心には随分さびしいであろうが、それを嬉(うれ)しそうにしている貞奴をわたしは貞淑なものだと思った。彼女は荒い柄のお召(めし)のドテラに浴衣(ゆかた)を重ね、博多(はかた)の男帯をくるくると巻きつけ、髪は楽屋銀杏(いちょう)にひっつめていた。そうしたおりの顔は夫人姿の時よりもずっと趣があって懐しみがあった。喜多村が旅行(たびゆ)きの役(やく)のことで、白糸の後の幕の扮装のままでくると、手軽に飲みこみよく話をはこんでいた。
「とても僕たちにはあれだけは分らない。意味の通じないことを二言三言いって、そのままで別れて幾日か立つと舞台で逢うのだ。それがちゃんと具合よくいってるのだから分らない。」
福沢さんが、他(ほか)の人とそんなことを話合っているのを聴き残して、わたしはまた以前(もと)の見物席の方へかえって来た。暫(しばら)くするとドカドカと二、三人の人が、入りのすくない土間(どま)の、私のすぐ後へ来た様子だったが、その折は貞奴の出場(でば)になっていた。
「ねえ、僕が川上の世話を焼きすぎるといって心配したり、かれこれいうものがあるけれど、男は女に惚(ほ)れているに限ると思うのです。」
そういう特種(とくしゅ)の社会哲学を、誰(たれ)が誰に語っているのかと思えば、聴手(ききて)には後(うしろ)に耳のないわたしへで、語りかけるのは福沢氏だった。わたしは微笑(わらい)を含(か)みながら真面目(まじめ)になって、そのくせ後へはむきもせずに耳をすましていた。
「これが男に惚れこんでごらんなさい。なかなか大変なことになる。印形(いんぎょう)も要(い)る。名誉もかけなければならない。万が一のときは、俺(おれ)は見そこなったのだなんていう事は逃口上(にげこうじょう)にしかならない。一たん惚れたら全部でなければならないから――其処(そこ)へゆくと女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらいなものだから。」
わたしはなるほどと思った。事業家の恋愛は妙な原則があるものだと感じた。しかし私はまるであべこべなことを感じたのであった。男同士が人物を見込んでの関係は――単に商才や手腕に惚れ込んだのは、どん底にぶつかったところが――自今(いま)の世相から見て、生命(いのち)をかけたいわゆる男の、武士道的な誓約のある事を、寡聞(かぶん)にして知らないから――物質と社会上の位置とを失えば、あるいは低めれば済(す)むのである。男女の愛情はそうはゆかない。譬(たと)い表面は何事もなかったおりは、あるいはダイヤモンド、おつきあい、着物、家ぐらいですむかも知れないが、それは悲しい真に貧乏(プーア)な恋愛で、そんな水準(レベル)におかれた恋愛で満足している男女がありとすれば、実にお気の毒なものといわなければならない。わたしは言う、感情、感覚、全精神を打込んだ男女恋愛のどん底は魂の交感であり、命の掴(つか)みあいである。死と生が其処(そこ)にあるばかりで何物をもまじえることの出来ない絶対のものであらねばならぬ。
(けれどこの人は、愛するものにとはいわなかった。惚れたという普通軽く言いはなされる言葉をつかった。そこに用意があるのかも知れない。)
と思うとまた貞奴の、先刻の褪(さ)めきっていて陶酔しているようなとりなしが目に浮んだ。
では白熱時代の貞奴は?
わたしは急がずに書いてゆこう。四、五年前に京都から来て内幸町の貞奴の家へ草鞋(わらじ)をぬいだ、祇園(ぎおん)のある老妓はこう言ったことがある。
「芝居から帰ると二階へあがって、寝る前に白葡萄酒(ぶどうしゅ)をあがるのえ、わたしもお相伴(しょうばん)するわ。それから寝るまで話をします。けれど、川上さんのお位牌(いはい)には私が毎日拝んでおいてあげます。お貞さん香華(こうげ)もあげやせん。あの人は強い人で、しまいには川上さんとも仲がようのうて、あっちの室(へや)とこっちの室とに別れて、財産も別だったような――」
この老妓の談話は賤(いや)しかった。香華を手向(たむ)けないゆえ不貞だというようにもきこえたが、あれほど立派に川上の意志をついでいれば、それをこそ川上は悦んでよいのである。仲がよくなくなったといわれた亡夫の意志を、何処(どこ)までも続(つ)いで名声を持してゆこうとするのには、どれ位人知れぬ苦労があったか知れはしない。あの勝気な松井須磨子が、人気のある盛りの身で、一人になれば、猶更(なおさら)自由でありそうなものに思われてさえ、先生抱月(ほうげつ)氏に別れては、楯(たて)なしでは突進も出来なかったではないか。それをもう衰運であり、他に彼女を引立てて、一座の明星(プリマドンナ)と輝かせ得るほどの対手(あいて)かたをもっていなかった彼女が、貞奴の名を忘れないものにさせるのにどんな気苦労をしたか――老妓は金銭問題のことを言ったが、多年、川上のためには、彼女は全身を投(なげ)出して来た人である。僅少(わずか)の貯蓄(たくわえ)で夫妻が冷たくなろうとは思われる理由がない。老妓の推測は自分だけの心にしかわからなかったのであろう。老妓の目に夫妻の金銭問題と見えたのは、事業と一家の経済との区別をたてたのを悪くとったのではあるまいか? 彼女も女である。ことに気は剛でも身体(からだ)は繊弱(かよわ)い。心の労(つか)れに撓(う)むこともあったであろう。そういうおり夫の果しもない事業慾に――それもありふれた事をきらう大懸(おおがか)りの仕事に、何もかも投じてしまう癖(くせ)のあるのを知って、せめて後顧(こうこ)の憂(うれ)いのないようにと考えたのではなかろうか。それはあの勝気な女性にも、長い間の辛労を、艱難(かんなん)困苦を思出すと、もう欠乏には堪えられそうもないと思うような、彼女の年が用意をさせたのでもあろうか――
川上が亡(なく)なるすこし前の事であった。貞奴夫婦を箱根で見かけた時は、貞奴は浴衣がけで宮の下から塔の沢まで来た。その折など決して彼女が、自分の財袋(たくわえ)だけ重くしている人とは見られなかった。彼女は夫のためにはいかにも真率(しんそつ)で、赤裸々でつくしていたと、わたしは思っている。我儘(わがまま)で自我のつよい芸術家同士は、ときに反感の眼をむいて睨(にら)みあったことがあったかも知れない、あるいは川上の晩年には互いの心に反(そ)りが出て、そういう日が多かったかも知れない。けれどもわたしは貞奴を貞婦だと思う。
気性もの、意地で突っ張ってゆく、何処までも弱い涙を見せまいとする女――そういう人に貞奴も生れついているようだ。そうした生れだちのものは損なのは知れている。女性は気弱く見える方が強靭(きょうじん)だ。しっかりと自分だけを保護して、そして比較的安全に他人の影にかくれて根強く棲息(せいそく)する。強気のものは我に頼んで、力の折れやすいのを量(はか)らずに一気に事を為(な)し遂げようとする。ことに義侠心と同情心の強いものがより多く一本気で向う見ずである。
わたしは自分の気質からおして、何でもかでもそうだと貞奴をこの鋳型(いがた)に嵌(は)めようとするのではないが、彼女も正直な負けずぎらいであったろうと思っている。そしてそういう気質のものが胸算用をしいしい川上を助けたとはどうしても思われない。彼女は強い、それこそ、身を炎にしてしまいそうな自分自身の信仰を傾け尽して、そこに幾分かの好奇心を交えて、夫川上の事業を助けたのであろう。そこにはまた、彼女の生れた血が、伝統的義侠と物好(ものずき)な江戸人の特色を多く含んでいた事や、気負い肌(はだ)の養母に育てられた事や、芝居と小説の架空人物に自らをよそえた、偽りの生活を享楽している中に住んで、不安もなく、むしろ面白おかしく日を送っていた若き日のことであるゆえ、彼女は自分というものの力が、夫にとって、そのまた新らしい事業にとって、どれほど有力なものであるかと知ったときに、全く献身的な、多少冷静に考えるものには、無鉄砲な遊戯と見えるほどな冒険も敢(あえ)てしたのであろう。そうした人が金銭のことから他人がましくなろうはずはない。もしなったとすれば、それは夫妻の内部から破綻(はたん)が、表面にまで及ぼしてきて、物質関係まで他人がましくなったのだと思わなければならない。その折はすでに愛情は冷却して、そのくせ女の方は、あまり高価な、かけがえのない犠牲を払って来た若き日の、あの尊(とう)とかりし我熱情の、徒(いたず)らに消耗された事を思い嘆くあまりの、焦燥から来た我執とみなければなるまい。
けれど、もし仮にそうであったとすれば貞奴の思違いであった。彼女は夫を助けたのであろう。夫のために犠牲として、夫の事業の傀儡(かいらい)となったのであろう。けれどそれは最初のことで、運命は転換した。演劇に新派を建立し、飜訳劇に彼地の風俗人情、思想をいちはやく紹介した川上の事業はとにかく成功した。かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して揶揄(やゆ)するものもあったが、演劇界に新たな一線を劃(かく)すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。艱難(かんなん)に堪え得た彼女の体が生みだした成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具眼者がなくて彼女の今日があったであろうか。
いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている。彼女は一も川上、二も川上と、夫を立てていた。負けぬ気の彼女も川上には心服していた。それはどのような英雄、豪傑にも裏はある。美点も弱点も、妻と夫ほど知り尽すものがあろうか。瓦(かわら)を珠(たま)とおもう愚者でないかぎり、他人には傑(えら)い夫も、妻は物足らぬ底(そこ)を知るものだ。貞奴と川上との間だけがそれらの外とはいえない。それですら貞奴は夫を傑いと思っていた。一面には罵(ののし)りながら、一面には敬していたに相違ない。
罵るとは? 心中に軽蔑(けいべつ)していたことである。彼女にはともすれば拭(ぬぐ)われがたい汚辱を感じることがあるであろう。夫が無暴(むぼう)な渡航を思立って、見も知らぬ外国へ渡り窮乏したおりのことである。また一座十九人に、食物も与えられなかったおりのことである。雪のモスクワで――さまよいあかした亜米利加(アメリカ)で――彼女が身を投捨て人々の急を救ったといわれている。それは彼女にも苦痛な思出であったであろう。それかあらぬか噂(うわさ)には、折々川上が貞奴に辱(はずか)しめられていたこともあるといわれた。
敬さなければならない第一は、いうまでもなく彼女が女優として舞台生活をする第一歩を与え導かれたことである。彼女の夫が彼女を舞台にたたせたのは、他(ほか)の必要から来た――あるいは人気取り策であったかも知れなかった。けれど、その当否はともかくとして、我国の、新女優の先駆者としては、此後(こんご)どれほどの名女優が出ようとも、川上貞奴に先覚者の栄冠はさずけなければなるまい。技芸はどうでも、顔のよしあしは如何(どう)でも、ただそれだけでも残り止(とど)まる名であるのに、何という運のよいことか、貞奴は美貌(びぼう)であり、舞台も忽(おろそ)かでない。彼女は第二の出雲(いずも)のお国であって、お国より世界的の女優となった。
人はあるいは時勢がそうさせたのだというかも知れない。なるほど彼女は幸運な時に出たのである。とはいえ世人の要求よりはずっと早く彼女は生れ、そして思いがけぬ地歩を占めている。松井須磨子の名は先輩の彼女より名高く人気があるように思われたが、とても貞奴の盛時の素晴しかったのには及ばない。悲しくも年を取るという事が何よりも争われない人気の消長であるのと、よい指導者を持ったと、持たないとの懸隔(かけへだて)が、あの粗野な、とても優雅な感情の持主にはなれない、女酋長(おんなしゅうちょう)のような須磨子を劇界の女王、明星(プリマドンナ)とした。貞奴に学問はなくとも、もすこし時代の潮流を見るの明(めい)があったならば、何処までも彼女は中央劇壇の主星(スター)であったであろう。創作力のない彼女は、川上歿後(ぼつご)も彼れによって纏(まと)めてもらった俳優の資格を保守するに過ぎなかったが、時流はグングンと急激に変っていった。彼女は端の方へ押流され片寄せられてしまって、早くも引退を名にした興行で地方を廻らなければならないようにされてしまった。時代の要求は女優を必要とし、多くの急造女優は消えたり出たりしている。帝劇が十年の月日のうちに候補者を絶えず補充しながらも、律子、嘉久子、浪子の第一期生のうちの幾人かを収穫したにすぎず、あとはまだ未知数になっている。その他の劇団では何もかもたった一人の須磨子を死なせてしまっては、もうあとは語るにも足りぬ有様となってしまった。
そんなであるに、もう貞奴は忘れられたものになっている。彼女はもうお婆さんであるから人気をひかないというような、当事者の思いあまりからばかり、彼女が圏外に跳退(はねの)けられたのではなく、若いおり聡明(そうめい)であった彼女の頭が、すこし頑迷(がんめい)になったためではあるまいか、若いうちは皮相な芸でも突きこんでゆこうとする勇気があった。後にはただ繰返しにすぎないものとなって、すこしの進境もなく、理解のともなわぬ、ただお芝居をするだけになった芸道の堕落のためだと思う。そうした真価の暴露されたのは、川上を失ったためであるといって好いであろう。
川上とて、いまも生きて舞台に立っていたならば、新派創造時代の雑駁(ざっぱく)な面影をとどめていて、むしろ恥多き晩年であったかもしれない。しかし彼れが動かずに、いつまでも自分に固定していようとは思われない。一層彼れは黒幕になって画策したことであろう。彼れはきっと女優全盛期に向っている機運をはずさず、貞奴をもっと高める工夫をこらしたに違いない。
それとても、彼女が願うように――いま福沢さんが後援しているように――表面だけ賑(にぎや)かしの興行政策をとったかも知れない、貞奴自身の望みとあれば……
貞奴に惜しむのは功なり名遂げてという念をおこさずに、何処までも芸術と討死(うちじに)の覚悟のなかった事である。努力が足りなかったと思う。わたしのいう努力とは、勢力運動のことではない。教養の事である。新時代に適するように頭を作る必要であった。そしたらいま彼女はどんな位置にいられたろう。芸術に年齢(とし)のあるはずはない。 

貞奴は導かれて行きさえすればきっと進んでゆく人である。あるいは、もうあれだけで充分ではないか、随分花も咲かせて来た、後(あと)のことは後のものにまかせて、ちっとは残しておいてやった方がよいと言うものがあるかも知れない。それは貞奴の生涯の、前半生の頁(ページ)だけを繰ってそれで足れりとする人のいう事である。何にも完全はのぞまれないとしても、わたしという慾張りは、おなじ時代に生れた女性の、一方の代表者を、よりよく、より輝かしい光彩をそえて、終りまでの頁を、立派なものにして残したいと望んだからであった。小さな断片でも永久に亡びない芸術品はあるが、貞奴のそれは大きく、広く、波動に包まれた響きの結晶である。それが末になって崩れていたならば、折角築きあげられたものの形を完全(なさ)ないではないか、わたしの理想からいえば、貞奴の身体が晩年にだけせめて楽をしようとするのに同情しながらも、それを許したくなく思った。芸術に生き、芸術に滅びてもらいたかった。雄々(おお)しく戦って、痩枯(やせが)れた躯(からだ)を舞台に横たえたとき、わたしたちはどんなに、どんなに彼女のために涙をおしまないだろう。讃美するだろう。美しい女優たちは、自分たちの前にたって荊棘(いばら)の道を死ぬまで切りひらいた女(ひと)の足許(もと)に平伏(ひれふ)して、感謝の涙に死体の裳裾(もすそ)をぬらし、額に接吻し、捧(ささ)ぐる花に彼女を埋(うず)めつくすであろう。詩人の群はいみじき挽歌(ばんか)を唄(うた)って柩(ひつぎ)の前を練りあるくであろう。楽人は悼(いた)みの曲を奏し、市人は感嘆の声をおしまず、文章家は彼女が生れたおりから死までが、かくなくてはならぬ人に生れたことを、端厳(たんごん)な筆に綴(つづ)りあわせたであろう。わたしはそうした終りを最初の女優のこの人に望んだ。そう望むのが不当であろうとは思っていない。
引退のおりの配りものである茶碗には自筆で、
兎(と)も角(かく)ものがれ住むべく野菊かな
の詠がある。自選であるか、自詠であるかどうかは知らないが、それにしても最初の句の「ともかくも」とは拠(よん)どころなくという意味も含んでいる。仕方がないからとの捨鉢(すてばち)もある。まあこんな事にしておいてという糊塗(こと)した気味もある。どこやらに押付けたものを籠(こ)めていて不平がある句といってもよい。「とりあえず」「どうやらこうやら」という意にも訳せないことはないが、それでは嘘になる。何故ならば、彼女の引退は突然の思立ちかも知れないが、そうした動機が読みこまれているようにはとれないほど準備した興行ぶりであった。住む家もこれからの生活も安定なものである事は誰れも知ったことで、無常を感じたり、禅機などから一転して急に世からのがれたくなったのではない事はあんまり知れすぎていた。それゆえに、草の中へでもかくれてしまおうというような「とりあえず」には思いおよぶことが出来ない。もしもまた、亡夫川上の墓石もたてたから、これをよい時機として役者を止(や)めようとしたのであったならば、貞奴の光彩のなくなったのも尤(もっと)もだと、頷(うなず)かなければならないのは、あれほどの人でも役者をただ商売としていたかと思うそれである。
思わずも憎まれ口になりかかった。わたしがそう言うのも、その実は、この女優の引退をおくるに世間があんまり物忘れが早くて、案外同情を寄せなかったことに憤慨したゆえでもあった。わたしはせめてこの優(ひと)に培養(つちかわ)れた帝劇の女優たちだけでも、もすこし微意を表して、所属劇場で許さなくとも、女優たちの運動があって、かの女の最終の舞台を飾り、淋しい心であろう先輩を悦ばせてもよかったであろうにと思った。
彼女は日本の代表的名女優として海外にまでその名を知られている。かえって日本においてより外国での方が名声は嘖々(さくさく)としている。進取邁進(まいしん)した彼女のあとにつづいたものは一人もない。もうその間(あいだ)は十幾年になるが、一人として彼女の塁(るい)を摩(ま)したものはないではないか。それは誰れでも自信はあるであろう。貞奴に負けるものかとの自負はあっても、他から見るとそうは許されぬ。それは彼女の技芸そのものよりは度胸が、容姿が、どんな大都会へ出ても、大劇場へ行っても悪びれさせないだけの資格をそなえている。貞奴のあの魅惑のある艶冶(えんや)な微笑(ほほえ)みとあの嫋々(じょうじょう)たる悩ましさと、あの楚々(そそ)たる可憐(かれん)な風姿とは、いまのところ他の女優の、誰れ一人が及びもつかない魅力(チャーム)と風趣とをもっている。彼の地の劇界で、この極東の、たった一人しかなかった最初の女優に、梨花(りか)の雨に悩んだような風情(ふぜい)を見出(いだ)して、どんなに驚異の眼を見張ったであろう。彼女のその手嫋(たおや)かな、いかにも手嫋女(たおやめ)といった風情が、すっかり彼地の人の心を囚(とら)えてしまった。あの強い意志の人の舞台が、こうまで可憐であろうとは、ほんとに見ぬ人には信じられないほどである。それはわたしの贔屓目(ひいきめ)がそう言わせるのではない。彼地の最高の劇評家にも認められた。アーサー・シモンズも著書の頁のいく部分を彼女のために割(さ)いた。
それは彼女の過去の辛苦が咲かせた花であろう。外国へ彼女が残して来た日本女の印象が、決してはずかしくないものであったことだけでも、後から出たものは感謝しなければならない。後(のち)のものは時代の要求によって生れて来たとはいえ、彼女の成功を見せた事が刺戟(しげき)になっている事はいうまでもない。彼女が海の外へ出ていてした仕事も、帰朝(かえ)って来て当時の人に目新しい扮装ぶりを見せたのも、現今の女優のまだ赤ん坊であったころのことである。策士川上が貞奴の名を揚げるために種々(いろいろ)と、世人の好奇心をひくような物語(ローマンス)を案出するのであろうとはいわれたが、彼女の技芸に、姿色(ししょく)に、魅惑されたものは多かった。それは全く、彼女によって示された、「祖国」のヒロインや「オセロ」のデスデモナなぞは、今日の日本劇壇にもちょっと発見することが困難であろうと思うほど立派なもので、ありふれた貧弱なものではなかった。最初の女優を迎えた物珍らしさと、憧憬(どうけい)する泰西の劇をその美貌の女優を通して見るという事が、どれほど若い者の心を動かしたか知れなかった。京都で大学生が血書をして切(せつ)ない思いのあまりを言い入れたとかいうような事は、貞奴の全盛期にはすこしも珍らしい出来ごとではない。そんな事に耳をかしていたならば、おそらくはも一人別(べつ)に彼女というものがあって、専念それらの手紙や会見の申込みに一々気の毒そうな顔をして断りをいったり書いたり、謝(あやま)ったり、悦んだりしていなければならないであろう。文壇の人では秋田雨雀(あきたうじゃく)氏が貞奴心酔党の一人で、その当時早稲田(わせだ)の学生であった紅顔の美少年秋田は、それはそれは、熱烈至純な、貞奴讃美党であった。いまでもその話が出れば秋田氏はごまかさずに頷(うなず)く、
「まったく病気のように心酔していたのですね、どんな事をしても見ないではいられなかったのだから」
はっきりとそう言って、古き思出もまた楽しからずやといったさまに、追憶の笑(えみ)をふくまれる。わたしの眼にも美しかった貞奴のまぼろしが浮みあがって、共に微笑しつつ、秋田さんの眼にもまだこの幻は消えぬのであろうと思うと、美の力の永遠なのと、芸術の力の支配とに驚かされる。
その話は今から十五、六年前、明治卅五、六年のことかと思う。第二回目の渡航をして西欧諸国を廻って素晴らしい人気を得た背景をもって、はじめて日本の劇壇へ貞奴が現われたころのことであった。独逸(ドイツ)では有名な学者ウィルヒョウ博士が、最高の敬意を表して貞奴の手に接吻(せっぷん)をしたとか「トスカ」や「パトリ」の作者であるサルドーが親しく訪れたという事や、露西亜(ロシア)の皇帝からは、ダイヤモンド入りの時計を下賜(かし)されたという事や、いたる土地(ところ)の大歓迎のはなしや、ホテルの階段に外套(がいとう)を敷き、貞奴の足が触れたといって、狂気して抱(かか)えて帰ったものがあったことや、貞奴の旅情をなぐさめるためにと、旅宿の近所で花火をあげさせてばかりいた男の事や、彼女の通る街筋(まちすじ)の群集が、「奴(ヤッコ)、奴(ヤッコ)」と熱狂して馬車を幾層にも取廻(とりま)いてしまったという事や、いたるところでの成功の噂が伝わって、人気を湧(わき)立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、美神(みゅうず)が急に天下(あまくだ)ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の場代(ばだい)のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、桟敷(さじき)や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に昂奮(こうふん)してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな空(むな)しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。
こんな清教徒(ピュリタン)の渇仰(かつごう)を、もろもろの讃詞(さんじ)と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それは余儀ない破目(はめ)から女優になったとはいえ、こうまでに成功してゆけば、どれからはいって歩んだとしても、道はひとつではないか、けれど、立脚地が違うゆえ、全生命を没頭しきれないで、ただ人気があったというだけにしてその後の研鑽琢磨(たくま)を投げすててしまい、川上の借財をかえしたのと、立派な葬式を出したのと、石碑を建てたからよい引きしおであるというだけが、引退の理由なのが惜しい。最初から女優として立つ心はちっともなかったが、海外へ出て困窮のあまりになったのが動機であり、その後、断然廃(や)めるつもりであったのを、夫や知己に説かれて日本の舞台へも立つようになったとはいえ、それではあまりこの女優の生涯が御他力(おたりき)で、独創の見地がなく、女優生活の長い間に自分の使命のどんなものかを、思いあたったおりがなかったのかと、全く惜まれる。ほんとにおしい事には、芸術最高説の幾分でも力説してきかせるような人が彼女の傍(そば)近くにいなかった事である。彼女には意地が何よりの命で、意気地(いきじ)を貫くという事がどれほど至難であり、どれほど快感であり、どれほど誇らしいものであるか知れないと思っているのであろう。功なり名(な)遂(と)げ、身(み)退(しりぞ)くという東洋風の先例にならい、女子としては有終の美をなしたと思ったであろう。貞奴という日本新劇壇の最初にもった女優には、何処までも劇に没頭してもらいたかった。あの人の塁(るい)を摩(ま)そうと目標にされるような、大女優にして残したかった。こういうのも貞奴の舞台の美を愛惜するからである。
貞奴は癇癪(かんしゃく)持ちだという。その癇癪が薬にもなり毒にもなったであろう。勝気で癇癪持ちに皮肉もののあるはずがない。それを亡(なき)川上の直系の門人たちが妙な感情にとらわれて、貞奴の引退興行の相談をうけても引受けなかったり、建碑のことでも楯(たて)を突きあっているのはあまり狭量ではあるまいか。かつて女優養生所に入所した、作家田村俊子さんは、貞奴を評して、子供っぽい可愛らしい、殊勝らしいところのある、初々(ういうい)しくも見えることのある地方の人の粘(ね)ばりづよい意地でなく、江戸っ子肌(はだ)の勝気な意地でもつ人で、だから弱々と見えるときと、傍(そば)へも寄りつけぬほど強い時とがあって、
「愚痴をいうのは嫌いだからだまっているけれども、何につけて人というものは深い察しのないものね」
などいってる時は、ただ普通の、美しい繊弱(かよわ)い女性とより見えないが、ペパアミントを飲んで、気焔(きえん)を吐いている時なぞは、女でいて活社会に奮闘している勇気のほども偲(しの)ばれると言った。それでも芝居の楽(らく)の日に、興行中に贈られた花の仕分けなどして、片づいて空(から)になった部屋に、帰ろうともせず茫然(ぼうぜん)と、何かに凭(もた)れている姿などを見ると、ただなんとなく涙含(なみだぐ)まれるときがある。マダム自身もそんなときは、一種の寂寞(せきばく)を感じているのであろうともいった。
寂寞――一種の寂寞――気に驕(おご)るもののみが味わう、一種の寂寞である。それは俊子さんも味わった。その人なればこそ、盛りの人貞奴の心裡(しんり)の、何と名もつけようのない憂鬱(ゆううつ)を見逃(みの)がさなかったのであろう。
貞奴は、故・市川九女八(いちかわくめはち)を評して、
「あの人も配偶者が豪(えら)かったら、もすこし立派に世の中に出ていられたろうに、おしい事だ」
といったそうである。これもまた貞奴なればこそ、そうしみじみ感じたのだ。自分の幸福なのと、九女八の不幸なのとをくらべて見て、つくづくそう思ったのであろう。それから推しても貞奴が、どれほど夫を信じ、豪いと思っていたかが分る。川上にしても貞奴に対してつねに一歩譲っていた。貞奴もまた負けていなかったが、自分が思いもかけぬような名をなしたのも川上があっての事だ、夫が豪かったからである、みんなそのおかげだと敬していたと思える。そうした敬虔(けいけん)な心持ちは、彼女の胸にいつまでも摺(す)りへらされずに保たれていたゆえ、彼女がつくらずして可憐であり初々しいのだ。彼女の胸には恒(つね)に、少女心(おとめごころ)を失わずにいたに違いない。
わたしはいつであったか歌舞伎座の廊下で、ふと耳にした囁(ささや)きをわすれない。それは粋(いき)な身なりをしている新橋と築地(つきじ)辺の女人らしかったが、話はその頃噂立(うわさだ)った、貞奴対福沢さんの問題らしかった。その一人の年増(としま)が答えるところが耳にはいった。
「それは違うわ、先(せん)の妾(ひと)はああした女(ひと)でしょう。貞奴さんはそうじゃない、あの人のことだから、お宝のことだって、忍耐(がまん)が出来るまでは口にする人じゃなし、それに、ああすればこうと、ポンといえば灰吹きどころじゃなく心持ちを読んで、痒(か)ゆいところへ手の届くように、相手に口をきらせやしないから、そりゃまるで段違いだわ、人間がさ」
それだけの言葉のうちに以前の寵妓(ちょうぎ)であって、かえり見られなくなった女と、貞奴との優劣がはっきりと分るような気がした。ほんの通り過ぎたにすぎないので、そのあとでも聴きたい話題があったかも知れない。
順序として貞奴の早いころの生活についてすこし書かなければならない。わたしがまだ稽古本(けいこぼん)のはいったつばくろぐちを抱えて、大門通(おおもんどおり)を住吉町(すみよしちょう)まで歩いて通(かよ)っていたころ、芳町には抱(かか)え車(ぐるま)のある芸妓があるといってみんなが驚いているのを聞いた。わたしの家でも抱え車は父の裁判所行きの定用(じょうよう)のほかは乗らなかったので、何でも偉い事は父親が定木(じょうぎ)であった心には、なるほど偉い芸妓だと思った。一人は丁字(ちょうじ)屋の小照といい、一人は浜田屋の奴(やっこ)だと聞いていた。小照は後に伊井蓉峰(いいようほう)の細君となったお貞(てい)さんで、奴は川上のお貞(さだ)さんであった。浜田屋には強いおっかさんがいるのだという事もきいたが、わたしが気をつけて見るようになってからは、これもよい縹緻(きりょう)だった小奴という人の御神灯がさがっていて奴の名はなかった。そのうちにおなじ住吉町の、人形町通りに近い方へ、写真屋のような入口へ、黒塗の看板(サインプレート)がかかって、それには金文字で川上音二郎としるされてあった。そして其処が奴のいるうちだと知った。またその後、大森の、汽車の線路から見えるところへ小さな洋館が立って、白堊(はくあ)造りが四辺(あたり)とは異(ちが)っているので目にたった。それも川上の新らしい住居(すまい)である事を知った。それは鳥越(とりこえ)の中村座で川上の旗上げから洋行までの間のことである。 

歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、育(はぐ)くまれ培(つちか)われつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の祖(はは)川上貞奴とならずに堅気(かたぎ)な家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散(うっさん)する身となっていたかも知れない。
明治維新のことを老人たちは「瓦解(がかい)」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程(みちのり)を言表(いいあら)わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋両替町(りょうがえちょう)(現今の日本銀行附近)にかなりの大店(おおだな)であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には洩(も)れなかった。家附(いえつき)の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿(いりむこ)の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝神明(しんめい)のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢(ぜいたく)を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止(くいと)めるだけの力がなかった。終(つい)に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
浜田屋の亀吉は強情と一国(いっこく)と、侠(きゃん)で通った女であった。豪奢(ごうしゃ)の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸(いっすん)のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、生(うみ)の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな善(よ)き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ、それは大家(たいけ)の箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な持前(もちまえ)も、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって仁侠(にんきょう)とたんかと、歯切れのよい娑婆(しゃば)っ気(け)を吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立(うしろだ)てで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
廿九歳で後家(ごけ)になってから猶更(なおさら)パリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い養娘(むすめ)であるゆえに、小奴に服膺(ふくよう)させねばならないと思っていた、その標語(モットー)――芸妓貞鑑(げいしゃていかん)は、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟った戒(いまし)めなのであった。彼女は言う。
「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人と極(き)めて守らなけりゃいけない。それが芸妓の節操(みさお)というものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども不粋(ぶすい)なことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな空気(なか)にいなければならない。地味な世界は他(ほか)に沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の估券(こけん)は下ってしまう。大事な客は一人と極(き)めてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金を撒(ま)かなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」
それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えを強(しか)と心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全く恐(こわ)いものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、現今(いま)よりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな我儘(わがまま)をする人だというので憎み罵(のの)しるものもあればあるほど、畏敬(いけい)されたり、愛敬(あいきょう)があるとて贔屓(ひいき)も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然(ぎぜん)とした大人物、至るところに艶材を撒(ま)きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者(きけもの)の亀吉という養母が睨(にら)んでいる。そして何よりも――眠れる獅子王(ししおう)の傍に咲く牡丹花(ぼたんか)のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の髭(ひげ)に戯むれ遊ぶ、翩翻(へんぽん)たる胡蝶(こちょう)のような風姿(すがた)、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然(こうぜん)と嬌坊第一にいた。
彼女も、そうした社会の女人(にょにん)ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際(まじわ)っていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花(ろうか)――四季の花合せの争いであった。金(かね)びらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火(てっか)とが、姿に似合ぬしたたかものと、姐(ねえ)さん株にまで舌を巻かした。
奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語(ことば)はなかったが、それに当てはめられる、生粋(きっすい)なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の捻(ねじ)りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の漸(ようや)く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練(すいれん)は、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館(とうりゅうかん)に……男見たような女ですね、お風呂(ふろ)で、四辺(あたり)にかまわないで、真白に石鹸(せっけん)をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その語(ことば)のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪(かみのけ)のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
彼女の傍若無人であったことには、好い心持ちではなかったらしいが、その容姿については感嘆していた。それはたしか彼女が十九位のことであった。
その後わたしが、漸(ようや)く芝居のことなどもすこしばかり分りかけて来た時分に、芳町の奴が川上音二郎のおかみさんになるのだってというのをきいて、みんなが驚ろいている通りに、大層な大事件のようにきいていたことがあった。それは明治廿五年、奴が廿二歳のおりだと後で知った。なんでわたしが大事件のように耳にとめていたかというのに、前にも言った通り、芳町は近い土地であり、往来(ゆきき)に浜田屋の門口(かどぐち)も通ったり、自然と奴の名も聞き知っていたからであった。それに、浅草(あさくさ)鳥越(とりこえ)の中村座に旗上げをした、川上音二郎の壮士芝居の人気は素晴らしかったので――彼れが俳優として非凡な腕があるからというのではなく――書生が(自由党の壮士が)演説と芝居とを交ぜてするという事が、世間の好奇心を誘って評判されていた。わたしはその頃ぽつぽつと新聞紙や、『歌舞伎新報』などをそっと読みふけっていたので、耳から聞く噂ばかりでなく、目からもそれらの知識がすこしはあった。それに父は自由党員に知己も多かったので、種々(いろいろ)話をしているときもあった。川上の他に、藤沢浅二郎(ふじさわあさじろう)は新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を月旦(げったん)していることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもっても直(すぐ)に忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が薩摩(さつま)ガスリの着物に棒縞(ぼうじま)の小倉袴(こくらばかま)で、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど分明(はっきり)と覚えていなかったかも知れない。
しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほど傑(えら)い人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方が遥(はる)かに――芸妓でも抱(かか)え車(ぐるま)のある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、漠然(ばくぜん)とそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が三崎町(みさきちょう)へ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。
けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごとに繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに蒔直(まきなお)そうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさに甞(な)めなければならない運命を彼れは担(にな)ってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段嶮(けわ)しくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。
川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は奔命(ほんめい)に労(つか)れきっていたのだ。彼女は(最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように)芸妓から足を洗って素人(しろうと)になるにしても、妾(めかけ)と呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、共稼(ともかせ)ぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。
在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを土産(みやげ)に、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区駒形(こまかた)の浅草座を根拠地にして、「又意外」で蓋(ふた)をあけた。その折の見物の絶叫は、凄(すさ)まじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々とした曙(あけぼの)の色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に驀進(ばくしん)した。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。
浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の印形(いんぎょう)は五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその金を根柢(こんてい)として築きあげられていった。
様々の毀誉褒貶(きよほうへん)のうちに、夫妻の苦心の愛子――川上座は出来あがっていった。もうやがて落成しようとした折に、不意に夫妻の仲に気まずい争いが出来た。しかもそれが世間にありがちな、ほっとした一時の安心のために物質的な関係からおこった問題ではなかった。奴は、一も夫のため、二も男のためと、そうした社会にあっては珍らしい貞節のかぎりを尽し、川上を世に稀(ま)れな男らしい男、真に快男子であると、全盛がもたらす彼女の誇りを捨て、わが生命(いのち)として尽していたのである。それが、ある女に子まで産ましているという事がわかった。その女はある顕官の外妾(がいしょう)で、川上はその女を、上野鶯渓(うぐいすだに)の塩原温泉に忍ばせてあるという事までが知れた。奴は養母(かめきち)の前へも自分の顔が出されないように思った。けれど怨(うら)み死(じに)に死んでしまうほど気が小さくもない彼女は、憤懣(ふんまん)の思いを誰れに洩(もら)すよりは、やっぱり養母に向って述べたかった。それがまた、川上との縁は自分の方から惚(ほ)れ込んだのでもあり、養母も川上の男らしいところを贔屓(ひいき)にしていただけに、言うのも愁(つら)かったが、聴く方の腹立ちは火の手が強かった。何分にも奴にむかって芸人の浮気沙汰(ざた)として許すが、不義の快楽(けらく)は厳しくいましめたほどの亀吉、そうした話を聴くと汚ないものに触れたように怒った。川上の産ませた子を誤魔化(ごまか)して、秘密に里子にやってしまったということをきくと、そんな夫とは縁を断ってしまえと言出した。
川上は浜田屋へ呼びよせられて来てみると、養母と奴とは冷(ひやや)かな凄(すご)い目の色で迎えた。三人が三つ鼎(がなえ)になると奴は不意に、髷(まげ)の根から黒髪をふっつと断って、
「おっかさんに面目なくって、合す顔がありませんから」
と、ぷいと立って去ってしまった。それにはさすがの策士川上も施す術(すべ)もなくて、気を呑(の)まれ、唖然(あぜん)としているばかりであったが、訳を聞くまでもない自分におぼえのあること、うなだれているより他(ほか)はなかった。養母(かめきち)にとりなしを頼もうにも、妻よりも手強(てごわ)い対手(あいて)なので、なまじな事は言出せなかったのであろう。も一度海外へ出て、苦学をしてのち詫(わ)びにくるから、奴は手許(てもと)へあずかっておいてくれと詫を入れた。けれど亀吉はいっかな聴(きき)入れはしない。
「もとの通りにして返したならば受取ろう。」
それが養母の答えであった。川上は是非なく、同郷の誼(よしみ)のある金子堅太郎男爵の許に泣付いていった。何故ならば、金子男が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上の快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田屋へも出入(でいり)するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛の仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。それ故、そうことがもつれてむずかしくなっては、金子氏にすがるよりほか、養母も奴も聴入れまいと、堅い決心をもって門をたたいたのであった。その代りには断然不始末のあとを残すまいという条件で持込んだ。そして、漸(ようや)くその件は落着した。
ひとつ過ぎればまたひとつ、内憂に外患はつづいて起った。夫妻が漸(よう)やっと笑顔(えがお)を見せるようになると、またしても胸に閊(つか)える悩みの種、川上座の落成に伴う新築披露、開場式の饗宴などに是非なくてならない一万円の費用の出どころであった。けれども奴の手許からは出せるだけ出し尽している上に、五万円の方もそのままになっている。開場式さえあげれば入金の道がつくので、それを目当にして高利貸の手から短かい期限で、涙の滾(こぼ)れるような利子の一万円を借入れ、新築披露の宴を張り、開場式を華々しく挙行した。
川上座――この夫婦が記念としてばかりでなく、劇壇新機運の第一着手の、記念建物としても残しておきたかった川上座は、三崎町の原に、洋風建築の小ぢんまりとした姿を見せた。いまは冷氷庫(こおりぐら)になってしまったあの膨大な東京座も、その頃新築され、後の方には旧女役者の常小屋(じょうごや)の、三崎座という小芝居があった。夏などは東京座や川上座へゆくには、道が暑くてたまらないほど小蔭ひとつない草いきれのしている土地であった。そのくせ、座へはいってしまうと――ことに東京座などはだだっ広いのと入りがなかったので、涼しい風が遠慮がなさすぎるほど吹入って、納涼気分に満ちた芝居小屋であった。川上座は帝劇と有楽座をまぜた造り方であったので、その時分の人たちにはひどく勝手違いのものであったが、開場式に呼ばれたものは川上の手腕に誰れも敬服しあっていた。一千にあまる来賓はすべての階級を網羅(もうら)し、その視線の悉(ことごと)くそそがれている舞台中央には、劇場主川上音二郎が立って、我国新派劇の沿革から、欧米諸国の劇史を論じ、満場の喝采(かっさい)をあびながら挨拶(あいさつ)を終った。その側(かたわら)に立つ奴の悦びはどれほどであったろう。共に労苦を分けた事業の一部は完成し、夫はこれほどの志望(こころざし)を担(にな)うに、毫(すこし)も不足のない器量人であると、日頃の苦悩も忘れ果て、夫の挨拶の辞(ことば)の終りに共に恭(うやうや)しく頭をさげると、あまりの嬉しさに夢中になっていたために、先日のいきさつから附髷(つけまげ)を用いている事なぞは忘れてしまい、音がして頭から落ちたもののあるのに気がつかなかった。湧上(わきあが)った笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は狼狽(あわて)て緞帳(どんちょう)をおろしてしまったが――
赤面と心痛――開場式に頭が飛ぶとは――彼女は人知れずそれを心に病んだ。それが箴(しん)をなしてというのではないが、もとより無理算段でやった仕事だけに、たった一万円のために川上座は高利貸の手に奪(と)られなければならなかった。川上は同志を集めて歌舞伎座で手興行をした。わが持座(もちざ)を奪われぬために、他座で開演した心事(こころ)に同情のあった結果は八千円の利益を見、それだけは償却したが、残る四千円のために彼らは苦しみぬいた。
そのころの住居が大森にある洋館の小屋(しょうおく)であった。金貸に苦しめられた川上が憤然として代議士の候補に立ったのは、高利貸(アイス)退治と新派劇の保護を標榜(ひょうぼう)したのであったが、東京市の有力な新聞紙――たしか『万朝報(よろずちょうほう)』であった――の大反対にあって非なる形勢となってしまった。
それらが動機となって川上夫婦の短艇(ボート)旅行は思立たれた。厭世観と復讐(ふくしゅう)の念、そうした夫の心裏を読みつくして、死なば共にとの意気を示し、死ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ郡司(ぐんじ)大尉が大川から乗出し、北千島の果(はて)までも漕附(こぎつ)けた短艇(ボート)探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生の嶮(けわ)しい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の短艇(ボート)を漕出した。
短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。
鎮守府に呼ばれて訊問(じんもん)にあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、咎(とが)められたのが好都合になって様々の好誼(こうぎ)をうけ、行手の海の難処なども懇篤に教え諭(さと)され、鄭重(ていちょう)なる見送りをうけて外洋(そとうみ)へと漕出した。 

それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の聯珠(れんじゅ)として、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州灘(なだ)の荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、掛川(かけがわ)近くになると疲労しつくした川上は舷(ふなばた)で脇腹(わきばら)をうって、海の中へ転(ころ)げおちてしまった。船は覆(くつがえ)ってしまった。奴は咄嗟(とっさ)にあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤(はとう)をきって根(こん)かぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は淡路(あわじ)洲本(すもと)の旗亭(きてい)に呻吟(しんぎん)する身となってしまった。その報をきいて駈(かけ)付けた門弟たちは、師の病体(からだ)を神戸にうつすと同時に「楠公(なんこう)父子桜井の訣別(けつべつ)」という、川上一門の手馴(てな)れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに叶(かな)い、神戸における楠公様の劇(しばい)である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は弥(いや)がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復(かいふく)も速(すみや)かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方(ゆくえ)定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西(フランス)の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。
それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の姪(めい)の鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川雪洲(せっしゅう)の妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。
亜米利加(アメリカ)のサンフランシスコに一行は上陸した。仲に這入(はい)った人の言葉ばかりを真(ま)に受けて、上陸後四日間ばかりをうやむやに過してしまうと、仲人(ちゅうにん)は逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた莫大(ばくだい)な借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば釘附(くぎづ)けになって閉(とざ)されている。開演しさえすればとの儚(はか)ないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口(ここう)にも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、病犬(やみいぬ)のように蹌々踉々(そうそうろうろう)として、僅(わず)かの買喰(かいぐ)いに餓(うえ)をしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、乞食(こじき)の群れも同様に零落(おちぶ)れた俳優(やくしゃ)たち、それがなんで人気を呼ぼう、当(あた)ろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも対手(あいて)にはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が女形(おやま)であるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。
一行は十月の異国の寒空に、幾日かの断食(だんじき)を修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸を嘗(な)めた。
シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死に瀕(ひん)した一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、算盤(そろばん)をとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。
座主の方で広告はしないとはいえ、開(あ)けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服甲冑(かっちゅう)に身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、街々(まちまち)を練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重い鎧(よろい)を着て、勇気凛然(りんぜん)たる顔附きをして、雪の大路を濶歩(かっぽ)するその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、児島高徳(こじまたかのり)に投げられた雑兵(ぞうひょう)が、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労困憊(こんぱい)の極に達していた。百弗(ドル)の報酬を得てホテルに駈込(かけこ)んだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、潸々(さめざめ)としないものはなかったという。
一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、勝(すぐ)れた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優(プリマドンナ)となったのである。しかし、暫くの間はほんの田舎(いなか)廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気に罹(かか)り、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。
「俺(おれ)が全快するまでは下手(へた)なことをするな。」
川上は病いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けも背(そむ)かなければならなかった。それに為(な)すこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者の髯(ひげ)は綺麗に剃(そ)られ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけて梳(くしけ)ずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、柩(ひつぎ)の中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも安易(やすやす)として清げなさまで、昨日までの陋苦(むさくる)しい有様とはあまり違って、立勝(たちまさ)って見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指の爪(つめ)まで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで繊細(デリケート)な気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。
病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を赫々(かくかく)と昂(あ)げさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは亜米利加(アメリカ)ワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは英吉利(イギリス)で上村大将に遇(あ)い、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は道成寺(どうじょうじ)の踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、仏蘭西(フランス)のパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品に篩(ふる)いをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を聳(そば)だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一弗(ドル)が三弗五弗というふうに競上(せりあ)げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が燦(さん)としていた。
貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く拡(ひろ)まった。名実(めいじつ)は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優(スター)は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(この優(ひと)は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜(ひょうぼう)した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の檜(ひのき)舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎(えんぎ)を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁(セクスピアー)の「オセロ」のデスデモナを、靹音(ともね)夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利(イタリア)の歌劇「アイーダ」を上場した。川上の旧門弟とは、貞奴がたてた川上の銅像や、郷里の墓所のことなどから、心持ちの解けあわない事があって出演しなかったが(彼らは川上の望んでいた芝高輪(たかなわ)泉岳寺の四十七士の墓所の下へ別に師の墓を建て、東京における新派劇団からの葬式を営んだ)幸いに伊井、河合、喜多村の新派の頭立(かしらだ)った人が応援して、諸方からの花輪、飾りもの、造りもの、積(つみ)ものなどによって賑(にぎ)わしく、貞奴の部屋や、芝居の廊下はお浚(さら)い気分、祭礼(おまつり)気分のように盛んな飾りつけであった。福沢氏の催した連中は興行中を通して五千人の申込みで、その多くは招待であった事なども素晴らしい事として語りあわされた。
本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあわせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖出雲(いずも)のお国と同位に置く。世にはその境遇を問わず、道徳保安者の、死んだもののような冷静、無智、隷属、卑屈、因循をもって法(のり)とし、その条件にすこしでも抵触すれば、婦徳を紛紜(うんぬん)する。しかし、人は生きている。女性にも激しい血は流れている。人の魂を汚すようなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道学者でない故に、人生に悩みながら繊(ほそ)い腕に悪戦苦闘して、切抜け切抜けしてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇気を讃(たた)え嘉(よみ)したく思う。
ああ! 貞奴。引退の後(のち)の晩年は寂寞(せきばく)であろう。功為(な)り名遂げて身退くとは、古(いにし)えの聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ――それも貴女(あなた)は味(あじわ)わねばなるまい。しかし貴女は幸福であったと思う。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、楽しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな真剣であった。それゆえ貴女ほど信実の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであろう。その点で貴女は、真に生甲斐(いきがい)ある生活をして来たといわれる。わたしは此処に謹(つつし)んで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、さようならマダム貞奴! 大正九年三月 
 
棺桶の花嫁 / 海野十三

 


春だった。
花は爛漫(らんまん)と、梢に咲き乱れていた。
時が歩みを忘れてしまったような、遅い午後――
講堂の硝子窓のなかに、少女のまるい下げ髪頭が、ときどきあっちへ動き、こっちへ動きするのが見えた。
教員室から、若い杜(もり)先生が姿をあらわした。
コンクリートの通路のうえを、コツコツと靴音をひびかせながらポイと講堂の扉(ドア)をあけて、なかに這入(はい)っていった。
ガランとしたその大きな講堂のなか。
和服に長袴(ながばかま)をつけた少女が八、九人、正面の高い壇を中心にして、或る者は右手を高くあげ、或る者は胸に腕をくんで、群像のように立っていた――が、一せいに、扉のあいた入口の方へふりかえった。
「どう? うまくなったかい」
「いいえ、先生。とても駄目ですわ。――棺桶の蔽(おお)いをとるところで、すっかり力がぬけちまいますのよ」
「それは困ったネ。――いっそ誰か棺桶の中に入っているといいんだがネ……」
少女たちは開きかけた唇をグッと結んで、クリクリした眼で、たがいの顔を見合った。あら、いやーだ。
「先生ッ――」
叫んだのは小山(こやま)ミチミだ。杜はかねてその生徒に|眩しい乙女(シャイニング・ミミー)という名を、ひそかにつけてあった。
「なんだい、小山」
「先生、あたしが棺の中に入りますわ」
「ナニ君が……。それは――」
よした方がいい――と云おうとして杜はそれが多勢の生徒の前であることに気づき、出かかった言葉をグッとのどの奥に嚥(の)みこんだ。
「――じゃ、小山に入ってもらうか」
英語劇「ジュリアス・シーザー」――それが近づく学芸会に、女学部三年が出すプログラムだった。杜先生は、この女学校に赴任して間もない若い理学士だったが、このクラスを受持として預けられたので、やむを得ずその演出にあたらねばならなかった。
はじめ女生徒たちは、こんな新米の、しかも理科の先生になんか監督されることをたいへん不平に思った。でも練習が始まってみると、さすがに猛(た)けき文学少女団も、ライオンの前の兎のように温和(おとな)しくなってしまった。そのわけは、杜先生こそ、理学部出とはいうものの、学生時代には校内の演劇研究会や脚本朗読会のメムバーとして活躍した人であったから、その素人ばなれのした実力がものをいって、たちまち小生意気な生徒たちの口を黙らせてしまったのである。
空虚(から)の棺桶は、ローマの国会議事堂前へなぞらえた壇の下に、据(す)えられていたが、これはふたたび女生徒に担がれて講堂入口の方へ搬(はこ)ばれた。
この劇では、黒布(くろぬの)で蔽われたシーザーの棺桶は、講堂の入口から、壇の下まで搬ばれる、そこにはアントニオ役の前田マサ子が立っていて、そこで棺の蔽布(おおい)が除かれ、中からシーザーの死骸があらわれる、それを前にして有名なるアントニオの熱弁が始まるという順序になっていた。
ところが、そのアントニオは、空虚(から)の棺桶を前にしては、一向力も感じも出てこないため、どうしても熱弁がふるえないという苦情を申立てた。――
講堂入口の、生徒用長椅子の並んだ蔭に、空虚の棺桶は下ろされ、黒い蔽布が取りさられた。
小山ミチミは、切れ長の眼を杜先生の方にチラリと動かした。いつものように先生はジッと彼女の方を見ていたので、彼女はあわてて、目を伏せた。そしてスリッパをぬぎ揃えると、白足袋をはいた片足をオズオズ棺のなかに入れた。
「どんな風にしますの。上向きに寝るんでしょ」
そういいながら、小山は長い二つの袂(たもと)を両手でかかえ、そして裾を気にしながら、棺のなかにながながと横になった。
「アラッ――」
ミチミの位置の取り方がわるかったので、彼女の頭は棺のふちにぶつかり、ゴトンと痛そうな音をたてた。
杜先生は前屈(まえかが)みになって素早くミチミの頭の下に手を入れた。
「……ああ起きあがらんでもいい。このまますこし身体を下の方に動かせばいいんだ。さ僕が身体を抱えてあげるから、君は身体に力を入れないで……ほら、いいかネ」
杜先生は両手を小山の首の下と袴の下にさし入れ、彼女の身体を抱きあげた。
「ほう、君は案外重いネ。――力を入れちゃいかんよ。僕の頸につかまるんだ。さあ一ィ二の三ッと――。ううん」
ミチミは、顔を真赤にして、先生のいうとおりになっていた。
「ああ、――」
少女の身体がフワリと浮きあがったかと思うと、やっと三寸ほどもしも手の方へ動いた。
杜先生は少女の頭の下から腕をぬくと、その頭を静かに棺の中に入れてやった。彼女は鐚(わるび)れた様子もなく、ジッと眼をつぶっていた。花びらが落ちたような小さなふっくらとした朱唇(しゅしん)が、ビクビクと痙攣(けいれん)した。杜はあたりに憚(はばか)るような深い溜息を洩らして、腰をあげることを忘れていた。しかし彼の眼が少女の緑茶色の袴の裾からはみだした白足袋をはいた透きとおるような柔かい形のいい脚に落ちたとき慌てて少女の袴の裾をソッと下に引張ってやった。そのとき彼は自分の手が明かにブルブルと慄(ふる)えているのに気がついた。
女生徒の或る者が主役の前田マサ子の横腹をドーンと肘(ひじ)でついた。前田はクルリとその友達の方に向き直ると、いたずら小僧のように片っ方の目をパチパチとした。それはすぐ杜の目にとまった。――彼は棺の上に急いで黒い布を掛けると一同の方に手をあげ、
「さあ、ほかの人はみな、議事堂の前に並んでみて下さい」
といって奥を指した。
女生徒たちは気味の悪い笑いをやめようともせず、杜先生のうしろから目白押しになって壇の方についていった。
杜先生は壇前に立ち、この劇においてローマ群衆はどういう仕草をしなければならぬかということにつき、いと熱心に説明をはじめた。それから練習が始まったが、女生徒たちは腕ののばし方や、顔のあげ方について、いくどもいくども直された。
七、八分も過ぎて、ローマの群衆はようやく及第した。ちょっとでも杜先生に褒(ほ)められると、少女たちはキキと小動物のように悦(よろこ)ぶのであった。
「では、さっきのアントニオの演説のところを繰返してみましょう。――みなさん、用意はいいですか、前田マサ子さんは壇上に立って下さい。それから四人の部下は、シーザーの棺をこっちへ搬んでくる。――」
練習劇がいよいよ始まった。杜先生はたいへん厳粛な顔つきで、棺桶係の生徒たちの方に手をあげた。
四人の女生徒は棺桶を担いで近づいた。しかし彼女たちは一向芝居に気ののらぬ様子で、なにか口早に囁(ささや)きあいながらシーザーの棺を壇の方へ担いできた。先生の眼が、けわしく光った。
やがて棺は下におろされた。
アントニオが壇上で大きなジェスチュアをする。
「おお、ローマの市民たちよ!」
と、前田マサ子がここを見せどころと少女歌劇ばりの作り声を出す。
そこで棺の黒布がしずかに取りのぞかれる。……
――と、シーザーならぬ小山ミチミが棺の中に横たわっているのが見える――
という順序であったが、棺の蔽いを取ってみると、意外にも棺の中は空っぽだった。
「おお、これはどうしたッ」
「アラ小山さんが……」
一同は肝を潰(つぶ)して、棺のまわりに駈けよった。
「……あのゥ先生、棺をもちあげたとき、あたし変だと思ったんですのよ。だって、小山さんの身体が入っているのにしては、とても軽かったんですもの」
「ええ、あたしもびっくりしたわ」
「でも、担いでしまったもんで、つい云いそびれていたんですわ」
講堂入口をみたが、扉(ドア)はチャンと閉まっている。さっき棺桶を置いてあった長椅子の蔭をみたが、さらに小山ミチミの姿はなかった。たださっき彼が脱ぎそろえたスリッパがチャンと元のとおりに並んでいる。
杜先生は、講堂の扉を開けてとびだした。外には風もないのに花びらがチラチラと散っているばかりで、誰一人見えない。
不思議だ。
彼は大声をはりあげて、見えなくなった少女の名を呼んでみた。――しかしそれに応えるものとては並び建つ校舎からはねかえる反響のほかになんにもなかった。それはまるで深山幽谷(しんざんゆうこく)のように静かな春の夕方だった。
杜はガッカリして、薄暗い講堂の中にかえってきた。女生徒は入口のところに固まって、申し合わせたように蒼い顔をしていた。
「どうも不思議だ。小山は、どこへ消えてしまったんだろう!」
杜は、壇の下に置きっぱなしになっている空っぽの棺桶に近づいて、もう一度なかを改めてみた。たしかに自分が腕を貸して、この中に入れたに違いなかったのに……。
「変だなァ。――」
彼は棺の中に、顔をさし入れて、なにか臭うものはないかとかいでみた。たしかに小山ミチミの入っていたらしい匂いがする。
「オヤ――」
そのとき彼は、棺の中になにか黒いような赤いような小さな丸いものが落ちているのに気がついた。
なんだろうと思って、それを拾いあげようとしたが、
「呀(あ)ッ、これは――」
と叫んだ。釦(ぼたん)か鋲(びょう)の頭かと思ったその小さな丸いものは、ヌルリと彼の指を濡らしたばかりだった。
彼はハッとして指頭(しとう)を改めた。
「おお、血だ、――血が落ちている」
その瞬間、彼の全身は、強い電気にかかったように、ピリピリと慄えた。 

「オイ房子」
「なによォー」
「どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ」
「そう。――じゃあたし、行ってみようかしら」
「うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう」
「アラ、ご飯どうするの」
「ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか」
「まあ、あんた。――大丈夫なの」
「うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ。今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっと愕(おどろ)くだろう」
「あたし、愕くのはいやあよ」
「いや、愕くというのは、たいへん悦(よろこ)ぶだろうということ、さあ早く仕度だ仕度だ、君の仕度ときたら、この頃は一時間もかかるからネ」
「あらァ、ひどいわ」といって房子は、間の襖(ふすま)をパチンとしめ、
「だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですもの。それにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ」
「……」
「ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの」
「莫迦(ばか)ッ。だ、だれが怒ってなぞいるものかい」
男は興奮の様子で、襖に手をかけた。
「ああ、駄目よォ、あんたア……」
房子は双膚(もろはだ)ぬいだまま立ち上って、内側から、襖をおさえた。
「いいじゃないか」
「だめ、だめ。駄目よォ」
髪が結(ゆ)えたのか、しばらくすると箪笥(たんす)の引出しがガタガタと鳴った。そして襖の向うからシュウシュウと、帯の摺(す)れる音が聞えてきた。もうよかろうと思っていると、こんどはまた鏡台の前で、コトコトと化粧壜らしいものが触れ合う音がした。
「どうもお待ちどおさま。――アラあたし、恥かしいわ」
さっきからジリジリしながら、長火鉢のまわりをグルグル歩きまわっていた男は飛んでいって、襖をサラリと開けた。
「アアアア――」
房子は薄ものの長い袖を衝立(ついたて)にして、髪を見せまいと隠していた。
「あッ、素敵。――さあ、お見せ」
「ホホホホ――」
「さあお見せ、といったら」
「髪がこわれるわよォ、折角|結(ゆ)ったのにィ――」
女は両袖をパッと左右に開いて、男の前によそ行きの顔をしてみせた。
「どう、あなたァ、――」
男は、女の束髪(そくはつ)すがたを、目をまるくしてみつめていた。
「あんたってば、無口なひとネ」
「いや、感きわまって、声が出ない」
男は両手を拡げた。
女はその手を払うようにして、男の肩を押した。
「さあ連れてってよ、早く早く」
若い二人は、身体を重ねあわせるようにして、狭い階段をトントンと下に下りていった。
そこには蚊取り線香を手にした下のお内儀(かみ)がたっていた。
「おばさん、ちょっと出掛けます」
「あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――。いいわねえ」
「おばさん、留守をお願いしてよ」
「あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわ。さあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな」
「まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくて。ホホホホ」
房子は顔を真赤にして、下のお内儀の前を駈けぬけるように玄関へとびだしていった。お内儀の目には、房子の夏帯の赤いいろが、いつまでも残っていた。そして誰にいうともなく、
「ほんとに女の子って、化け物だわネ」
といった。
松島準一と房子とは、京橋で下りた。そこには大きいビルディングがあって、そこの二階ではキャフェ・テリアといって自分で西洋料理をアルミニュームの盆の上に載せてはこぶというセルフ・サーヴィスの食堂があった。二人は離れ小島のような隅っこのテーブルを占領して、同じ献立の食べ物を見くらべてたのしそうに笑った。
「ミチミ、お美味(いし)いかい」
「ええ、とってもお美味いの。このお料理には、どこか故郷の臭(におい)がするのよ。なぜでしょう」
「ほう、なぜだろう。――セロリの香りじゃない」
「ああセロリ。ああそうネ。先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ」
「また云ったネ。――今夜かえってからお処刑(しおき)だよ」
「アラ、あたし、先生ていいました? ほんと? ごめんなさいネ。でもあなたがミチミなどと仰有(おっしゃ)るからよ」
「ミチミはいいけれど、先生はいけないよ」
「まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの大好きなのよ。いいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお杜(もり)先生。先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ」
「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお処刑(しおき)を覚悟しておいで」
ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキの片(きれ)を頬ばったまま、長い吐息(といき)をついた。
「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」
ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにして囁(ささや)いた。
「またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ」
「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!」
「これミチミ、およしよ」
「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。明礬(みょうばん)をとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリ滲(にじ)んできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ。僕はいま、シャーロック・ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠あり。さればその証拠だに見落さず、これを辿(たど)りて、正しき源(みなもと)を極(きわ)むるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――」
「もういいよ。そのくらいで……」
「僕は鬼神(きじん)のような冷徹さでもって、ミチミの身体を嚥(の)んだ空虚(から)の棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、灼(や)けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と雫(しずく)、溜っている凝血(ぎょうけつ)だった。――おかしいわネ。そのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ」
「棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」
ミチミはテーブルの上に肘(ひじ)をついて、その上に可愛い顎(あご)をチョンと載せた。
「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」
「そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」
「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」
「ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち」
男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。
女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわした。そしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ・テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、呆然(ぼうぜん)と二人の様子に見とれていた。 

明くれば九月一日だった。
「いよいよきょうから二学期だわ。――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」
ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいた。そして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白い脛(すね)に薄地の黒いストッキングをはいた。
杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた。玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。
ミチミは、すこし後(おく)れて家から出てきた。二人は停留場の方へブラブラと歩きだした。彼は、ミチミの方を振りかえった。彼女は目だたぬほどの薄化粧をして、薄く眉をひいていた。それはどこからみても十七歳の女学生にしか見えなかった。彼女は、杜(もり)に見られるのを恥かしがり、頬をわざと膨(ふく)らまし、そして横目でグッと彼の方を睨(にら)んだ。杜にはそれがこの上もなく美しく、そしてこの上もなくいとしく見えて、ミチミの方へ身体を摺(す)りよせていった。
「ああ、また――」
ミチミは、低声(ていせい)でそう叫ぶなり、彼とは反対の方角に身を移した。彼女はいつでも、そうした。ミチミが袴をはいて学校に通うとき、杜は一度として彼女と肩を並べて歩くのに成功したことがなかった。
「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよ。だからもっと傍へおよりよ」
彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、
「あら嘘よ。ピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」
といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。
二人は停留所で、勤め人や学生たちに交(まじ)って、電車を待った。杜はちょくちょくミチミに話しかけたけれど、ミチミはいつも生返事ばかりしていた。これがゆうべ、あのように興奮して、彼のふところに泣きあかしたミチミと同じミチミだろうか。
向うの角を曲って、電車が近づいてきた。
杜は強い肘(ひじ)を張ってミチミのために乗降口の前に道をあけてやった。ミチミは黙って、踏段をあがった。そのとき彼はミチミのストッキングに小さい丸い破れ穴がポツンと明いていてそこから、彼女の生白い皮膚がのぞいているのを発見した。
杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった。
やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた。
ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、
「兄さん、いってらっしゃい」
と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな声をかけた。しかし、愕(おどろ)いたことに、ミチミの声に反して彼女の眼には泪(なみだ)が一ぱい溜っていた。
「大丈夫。気をつけて行くんだよ」
彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をした。そして屈托(くったく)のなさそうな顔をして、乗客に肩を押されながら、電車を下りた。――
それが女学生姿のミチミの見納(みおさ)めだったのだ。そのときはそんなことはちっとも知らなかった。もしそれと知っていたら、どんな仕事があったとしてもどうして彼女の傍を離れることができたであろう。
そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった。彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだった。しかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、大学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである。
午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった。
杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった。
九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の大震災に遭った。
そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の大奇蹟だった。あの最初の大動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した。
大地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように土砂(どしゃ)が落ちてくるのが見えた。危い。その勢いでは、アーチをくぐった途端に、上からドッと煉瓦の魂が崩れおちてきそうだった。しかし彼は一瞬間もひるまず、函を両手でしっかり掴んだまま、アーチの下をくぐりぬけた。
すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった。同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい。膝頭に灼(や)きつくような疼痛(とうつう)が感ぜられた。
そのとき杜は、死にものぐるいで立ち上った。こんなところに、ぐずぐずしていては、いつどき煉瓦壁に押しつぶされるか分ったものではない。
彼はズキズキ痛む脚を引き摺って、それでも五、六歩は走ったであろう。すると運わるく石塊に躓(つまず)いた。そして呀(あ)ッという間もなく、身体は巴投(ともえな)げをくったように丁度一廻転してドタンと石畳の上に抛(ほう)りだされた。
大崩壊の起ったのは、実にその直後のことだった。大地を掘りかえすような物凄い音響と鳴動とに続き、嵐のような土煙のなかに、彼の身体は包まれてしまった。彼は生きた心地もなく、石油の空き缶を頭の上から被ったまま身体を丸く縮めて、落ちてくる石塊の当るにまかせていた。
暫くしてあたりが鎮まった様子なので、彼はこわごわ石油の空き函のなかから首をあげてみた。すると愕いたことには、今の今まで、そこにあった地上五十尺の高さを持った大倉庫は跡片もなく崩れ落ちて、そのかわりに思いがけなく野毛(のげ)の山が見えるのであった。ああ、倉庫の中にいた人たちは、どうしたであろうか。彼のために、外国から到着した機械の荷を探すために、奥の方へ入っていった税関吏は、いま何処に居るのであろうか。恐らく倉庫のなかにいた百人にちかい人間が、目の前に崩れ落ちた煉瓦魂の下に埋まっているはずであった。気がついてみると身近には彼と同じように、奇蹟的に一命を助かったらしい四、五人の税関吏や仲仕の姿が目にうつった。彼等はまるで魂を奪われた人間のように、崩れた倉庫跡に向きあって呆然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。――
気がいくぶん落ちついてくるとともに、杜は先(ま)ずいまの地震が、彼の記憶の中にない物凄い大地震だったことを認識した。次に、倉庫が潰(つぶ)れて、その下敷になった輸入機械は、すくなくとも三分の二は損傷をうけているだろう、この報告を早く本社にして、善後処置についての指令を仰ぐことが必要だと思った。
彼はすぐ電話をかけたいと思った。それで税関の構内を縫って、どこか電話機のありそうなところはないかと走りだした。
荷物検査所の中に電話機が見つかった。貸して貰うように頼んだところ、この電話機は壊れてしまって役にたたないという挨拶だった。
彼は検査所の電話機が故障である話を聞いても、まだ目下の重大なる事態をハッキリ認識する力がなかった。かならず東京へ電話が通ずるつもりの彼は、万国橋(ばんこくばし)を渡ったところに自働電話函が立っているのを見つけて、そのなかに飛びこんだ。だが受話器をとりあげて、交換手をいくら呼び出してみても、ウンともスンとも云わなかった。
「これは困った。電話が通じない。電話局は電源を切られたのにちがいない」
彼は仕方なく駅の方へ行ってみることにした。
万国橋通を本町(ほんちょう)の方へ、何気(なにげ)なくスタスタ歩きだした彼はものの十歩も歩かないうちに、ハッと顔色をかえた。ああなんという無残な光景が、前面に展開されていたことだろう。
まず、目についたのは、恐ろしいアスファルト路面の亀裂(きれつ)だ。落ちこめば、まず腰のあたりまで嵌(はま)ってしまうであろう。
その凄(すさま)じい亀裂の上に、電線が反吐(へど)をはいたように入り乱れて地面を匍(は)っていて、足の踏みこみようもない。ただ電柱が酔払いのように、あっちでもこっちでも寝ている。
もっと恐ろしいものが目にうつった。すぐ傍の二階家が、往来の方に向ってお辞儀をしていた。大きな屋根が地面に衝突して、ところどころ屋根瓦が禿(はげ)たように剥がれている。四五人の男女がその上にのぼって、メリメリと屋根をこわしている。――「このなかに、家族が三人生埋めになっています。どうか皆さんお手を貸して下さい。浜の家」
三人が生き埋めに?
杜は、これは手を貸してやらずばなるまいと思った。四、五人の力では、この潰れた大きな屋根が、どうなるものか。
と、突然向うの通りに、叫喚(きょうかん)が起った。人が暴れだしたのかと思ってよく見ると、これは警官だった。
「オイ火事だ。これは、大きくなる。オイ皆、手を貸してくれッ」
どこでも手を貸せであった。見ると火の手らしい黄色い煙が、横丁の方から、静かに流れてきた。
「オイ火事はこっちだッ」
「いや、向うだよ」
「いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった」
「おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ」
誰も彼もが、土色の顔をして、右往左往していた。悲鳴と叫喚とが、ひっきりなしに聞えてきた。大きな荷物を担いで走る者がある。頭部に白い繃帯をまいた男を、細君らしいのが背負って駈けだしてゆく。
杜ははじめて事態の極めて重大なることを察した。これは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう。彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。
「おおミチミはどうしたろう。この思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」
そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした。 

杜(もり)がお千(せん)に行き会ったのは、同じ九月一日の午後四時ころだった。場所は横浜市の北を占める高島町の或る露地、そこに提灯屋の一棟がもろに倒壊していて、その梁(はり)の下にお千はヒイヒイ泣き叫んでいた。
なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだ。しかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった。
彼は二時間あまりも改札口で待ち呆(ぼう)けをくわされたであろう。駄目と分って、彼は大憤慨(だいふんがい)の態(てい)でそこを出たが、なにぶんにも天災地変のことであり、人力(じんりょく)ではどうすることもできなかった。
このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡大の模様が、あきらかに看取された。ぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重大決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない。
杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた。仕方なく彼は火に追われて右往左往する魂宙(こんちゅう)の人々をつかまえては、東京の方角を教えてもらった。
それは方角を教えてもらうだけで十分であった。近道大通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無理だったから。倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が焔々(えんえん)と燃えているのに気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった。
その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く無人境(むじんきょう)にひとしかった。杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。
なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも嚥(の)みこめるときがきた。向いの廂(ひさし)の間から黄竜(こうりゅう)が吐きだすような厭(いや)な煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、火床(ひどこ)を開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼は俄(にわか)に高熱と呼吸(いき)ぐるしさとに締つけられるように感じた。彼はゴホンゴホンと立てつづけに咳(せき)をした。眼瞼(まぶた)をしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ。
彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を舐(な)めているその切れ目のところに、うつぶせになって喚(わめ)いていた。丸髷(まるまげ)の根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい明石縮(あかしちぢみ)の粋な単衣(ひとえ)を着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった。
「どうしたの、お内儀(かみ)さん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払って、杜の顔を下から見あげた。
「ああッ、た、助けてえ。お、拝(おが)みます」
女は躍(と)びかかるような姿勢で、杜の方に、身体をねじ向けた。青白い蝋の塊のような肉づきのいい胸元に、水色の半襟のついた膚襦袢(はだじゅばん)がからみついていた。
「手、手、手だ。手を抜いてください」
女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の膃肭臍(おっとせい)のように身悶えした。眉を青々と剃りおとした女の眼は、提灯のように大きかった。
杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこも障(さわ)りがないようではあるが、只一つ、左の手首が、倒れた棟木(むねぎ)の下に入っていて、これがどうしても抜けないのであった。
彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。
「いた、た、た、たたッ。――」
と女は錐(きり)でもむような悲鳴をあげた。
杜は愕いて、手を放した。
女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。
「待って、待って。……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」
杜は、またそこに跼(しゃが)んで、棟木の下に隠れている女の手首を改めた。なんだか下は硬そうであるが、とにかくその下を掘り始めた。
「だ、駄目よ。手の下には、かねのついた敷居があるのよ。掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」
なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきた。たしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った。女はまた前のように、魂切(たまぎ)れるような悲鳴をあげた。
「駄目だ。これは抜けない」
「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」
「え、本心とは」
「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから千切(ちぎ)れてもいいんです。あたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや」
女はオロオロと泣きだした。すべすべとした両頬に泪(なみだ)がとめどもなく流れ落ちる。
そのとき運命を決める最後のときがやって来た。いままでは、まだ大丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白い蕨(わらび)のような煙が、幾条(いくすじ)となくスーッスーッと立ちのぼり始めた。手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。
「あッ、火がついた。この家に火がついた。――ああ、手がぬけない。焼け死ぬッ」
女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自分で自分の腕を引張った。
「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」
女は大きな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れた。と、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。
「ねえ、あんた。思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた。刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥ。さもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」
明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうった。そうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと紅蓮(ぐれん)の舌が見えだした。杜は女の肩に手をかけた。
「そうだ、お内儀(かみ)さん。いまが生きるか死ぬかの境目だッ。生命を助かりたいんなら、どんな痛みでも怺(こら)えるんだよ」
女はもう口が利けなかった。その代り彼の方を向いて大きくうち肯(うなず)き、自由な片手を立てて、彼の方をいくども拝むのであった。
杜はその瞬間、天地の間に蟠(わだか)まるあらゆるものを忘れてしまった。ただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。
彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めた。そして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。
「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」
「なむあみだぶつ――」
と、女は両眼を閉じた。
やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!
首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れた。しかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった。
「おお、――」
女の手首の皮が手袋をぬいだように裏返しに指先から放れもやらずブラ下っているのであった。皮を剥ぎとられた部分は、鶏の肝臓のように赤むけだった。
杜は気絶をせんばかりに愕いたが、ここでひっくりかえってはと、歯をくいしばって耐(こら)えた。そして素早く、そのグニャリと垂れ下った女の手の皮を握ると、手袋を嵌(は)めるあの要領でスポリと逆にしごいた。それは意外にもうまく行って、手の皮は元どおりに手首に嵌(はま)った。しかし手首のすこし上に一寸ほどの皮の切れ目が出来て、いくら逆になであげても、そこがうまく合わなかった。――でも女の命は遂に助かったのだ。
気がつくと、女は気絶していた。
なにか手首に捲(ま)かなければならないが、繃帯などがあろう筈がない。ハンカチーフも駄目だ。そのときふと目についたのは、この女の膚につけている白地に青い水草を散らした模様の湯巻だった。杜は咄嗟(とっさ)にそれをピリピリとひき裂くと、赤爛(あかただ)れになっている女の手首の上に幾重にも捲いてやった。 

杜がトラックを下りると、お千も突然、あたしも下りると云いだした。
それは翌九月二日の午前六時のこと。場所は、東京の真中新橋の上にちがいないのであるが、満目ただ荒涼たる一面の焼け野原で、わずかに橋があって「しんばし」の文字が読めるから、これが銀座の入口であることが分るというまことに変り果てた帝都の姿だった。
「お内儀(かみ)さんは、上野までのせていってもらったら、いいのに……」
と、杜は女に云った。
「じゃあ早く乗っとくれ。ぐずぐずしていると其処へ置いてゆくぜ」
と、満載した材木の蔭から、砂埃(すなぼこり)でまっくろになった運転手の顔が覗(のぞ)いた。
「ええ、あたし、此処でいいのよ。運転手さん、どうもすまなかったわねえ」
運転手はあっさり手をあげると、ガソリンの臭気を後にのこして、車を走らせていった。
「じゃ僕も、ここで失敬しますよ」
杜はカンカン帽のつばに、指をかけた。
女は狼狽(ろうばい)の色を示した。
「待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい」
「困るなァ。僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ大急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ」
女は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、
「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた本所(ほんじょ)の緑町(みどりちょう)はすっかり焼けてしまったうえに、町内の人たちは、みな被服廠(ひふくしょう)へ避難したところが、ひどい旋風に遭って、十万人もが残らず死んでしまったといいますからネ。あたしそんな恐ろしいところへ、とても一人では行けやしませんわ」
杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろう。しかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。
「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよ。しかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」
「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」
とつけて、ポロポロと泪(なみだ)を落とした。
杜は先に立って歩きだした。女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた。
杜は焼け土の上を履(ふ)んで、丸の内有楽町にあった会社を探した。
すると不幸なことに、会社は、跡片もなく灰塵(かいじん)に帰していた。そしてその跡には、道々に見てきたような立退先の立て札一つ建っていなかった。
やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト被存候(ぞんぜられそうろう)」と報告を書きつけた。それをすぐ目に映るようにと、玄関跡と覚(おぼ)しきあたりに焼け煉瓦を置き、その上に名刺を赤い五寸|釘(くぎ)でさしとおし焼け煉瓦の割れ目へ突きたてようとしたが、割れ目が見つからない。
「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」
後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた。
「すいません」
といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。
杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした。――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで骸骨(がいこつ)のような恰好をしていた。消防自動車らしいのが、踏みつぶされた蟇(がま)のようにグシャリとなっていた。溝のなかには馬が丸々としたお臀(しり)だけを高々とあげて死んでいた。そうかと思うと、町角に焼けトタン板が重ねてあって、その裾から惨死者と見え、火ぶくれになった太い脚がニョッキリ出ていた。お千はそれを見ると悲鳴をあげて、彼の洋服をつかんだ。
杜は、胸のなかでフフフと笑った。この女とても、自分が通りかからねば、あのようなあさましい姿になっていた筈だのに、それを怖がるとはなんということだろう、と。
彼はふたたび焼野原の銀座通へ出て、それからドンドン日本橋の方へ歩いていった。おどろいたことに、正面に見たこともない青々とした森が見えたが、これがよく考えてみると、上野の森にちがいなかった。なにしろこの辺は目を遮(さえぎ)るものとてなんにもないのであった。――ああ今頃、ミチミはどうしているだろう。
「さあ、接待だ、遠慮なく持っていって下さい」
と、路傍の天幕(てんまく)から、勇ましい声がした。
杜がその方をみると、向う鉢巻に、クレップシャツという風体の店員らしいのが飛び出して来て、
「さあ、腹を拵(こしら)えとかにゃ損ですよ。――お握飯をあげましょう。手をお出しなさい。奥さんの分とともに、三つあげましょう。すこし半端だけれどネ」
そういって若い男は、杜の手の上に、大きな握飯を三つ載せた。
奥さん?
杜はハッとしたが、それが後からついてくる人妻お千のことだと思うと、擽(くすぐ)られるような気がした。
杜は、そこをすこし通りすぎたところで、お千の方をふりかえった。そして彼女の手に握飯を一つ載せ、それからまた考えて、もう一つをさしだした。
女はそれを固辞(こじ)した。杜は自分はいいからぜひ喰べろとすすめた。女はあたしこそいいから、あなたぜひにおあがりといって辞退した。杜はこの太った女が、腹を減らしていないわけはないと思って、無理やりに握飯を彼女の手の上に置いた。すると握飯はハッと思うまに、地上に落ちて、泥にまみれた。
女はそれを見ると、急に青くなって、腰をかがめて、落ちた握飯を拾いあげようとした。彼は愕いて、女を留めた。
女は杜の顔を見た。女の眼には、泪がいっぱい、溜っていた。
「――すみません。あたしが気が利かないで。――」
「なァに、そんなもの、なんでもありゃしない」
杜はまた先に立って、焼野原の間を歩きだした。
(どうも、困った女だ)
と、彼は心の中で溜息をついた。この分では、この年増女房は、どこまでも彼の後をくっついて来そうに思われた。なぜ彼女は、どこかへ行ってしまわないんだろう。
彼女が臆病なせいだろうか。一家が焼け死んだと思っているからだろうか。それとも彼が倒壊した棟木の下から手首を抜いてやって、彼女の一命を助けてやったためだろうか。
そんなことが、何だというのだ。
そのとき杜は、昨夜の出来ごとを思いだした。昨夜彼は、この女を護って、野毛山(のげやま)のバラックに泊った。女は、例の手をしきりに痛がっていたので、そこにあった救護所で手当を受けさせた。その後でも女は、なおも苦痛を訴え、そして熱さえ出てきた様子であった。彼は到底(とうてい)このままにはして置けぬと思ったので、救護所の人に、どこか寝られるところはないかと尋ねた。すると、それならこの裏山にあるバラックへ行けと教えられた。
彼は女につきそって、バラックに入れられた。そこには多勢の男女が居て、後から分ったところによると、家族づれの宿泊所だった。バラックとは名ばかり、下に柱をくんで、畳が四、五枚並べてあった。天井は、立てば必ず頭をうちつけるトタン板であった。
彼は思いがけなく、畳の上にゴロリと横になることができた。但し畳の上といっても、狭い三尺の方に身体を横たえるので、頭と脚とが外にはみ出すのであった。それでも女はたいへん喜んで、すぐ横になった。
ところが、避難民が、あとからあとへと入ってくるのであった。だから始めは離れていたお千との距離が、前後からだんだんと押しつめられてきた。そして遂に、お千の身体とピッタリくっついてしまった。
それでもまだ後から避難民が入ってきた。
「さあ、皆さん、お互(たがい)さまです。仰向きになって寝ないで、身体を横にして寝て下さい。一人でも余計に寝てもらいたいですから」
窮屈な号令が掛った。そして係員らしいのが、皆の寝像(ねぞう)を調べに入ってきた。やむを得ず、畳の上の人たちは、塩煎餅(しおせんべい)をかえすように、身体を横に立てた。
「もっとピッタリ寄って下さい。夜露にぬれる人のことを思って、隙をつくらないようにして下さいよ」
お千は遠慮して、向うを向いていたが、もうたまりかねて闇の中に寝がえりを打ち、杜の方に向き直った。そして彼女は、乳房をさがし求める幼児のように、彼の方に寄ってきたのであった。
杜は睡りもやらず、痛がるお千の腕をソッと持っていてやった。――
(お千は、あのことを思っているのじゃあるまいな)
杜の耳朶(みみたぶ)が、不意に赤くなった。
お千はいつの間にか、彼の左側にピタリと寄りそって歩いていた。
「手は痛みますか。――」
と、彼は今までにないやさしい声で尋ねてみた。
「すこしは薄らいだようでござんす」
お千はニッコリ笑った。
浅草橋から駒形(こまがた)へ出、そして吾妻橋(あづまばし)のかたわらを過ぎて、とうとう彼等の愛の巣のある山の宿に入った。所はかわれども、荒涼たる焼野原の景は一向かわらずであった。
ただ見覚えのある石造り交番が立っていたので、彼が今どの辺に立っているかの見当がついた。
交番の中はすっかり焼けつくしたものと見え、窓外の石壁には、焔のあとがくろぐろと上(うわ)ひろがりにクッキリとついていた。中には何があるのか、その前には四、五人の罹災者(りさいしゃ)が、熱心に覗きこんでいた。そのうちの一人が、列を離れて、杜の方に近づきざま、
「――ねえ、可愛そうに女学生ですよ。袴をはいたまま、死んでいますよ」
といって、うしろを指した。
「えッ、アー女学生が――」
瞬間、彼の目の前は急にくらくなった。
(ミチミよ、なぜ僕は一直線におまえのところへ帰ってこなかったんだろう!)
彼は心の中で、ミチミの霊にわび言をくりかえした。
杜はそこで勇猛心をふるい起すのに骨を折った。どうして見ないですむわけのものではなかった。彼はいくたびか躊躇をした末に、とうとう思いきって、交番の中をこわごわ覗きこんだ。
黒い飾りのある靴、焼け焦げになった袴、ニュッと伸ばした黄色い腕、生きているようにクワッと開いている眼――だが、なんという幸いだろう。その惨死している女学生はミチミではなかった。
「ああ、よかった。――」
彼は両手を空の方へウンとつきだして、その言葉をいくどもくりかえした。
だが、愛の巣のあったと思うところには、赤ちゃけた焼灰ばかりがあって、まだ冷めきらぬほとぼりが、無性(むしょう)に彼の心をかき乱した。
そのなかに、もしやミチミの骨が――と思って、焼けた鉄棒のさきで、そこらを掻きまわしてみたが、人骨らしいものは出てこなかった。ミチミは何処かへ、難をさけたのであろう。
立て札もなければ、あたりに見知り越しの近所の人も見えない。
彼はこの上、どうしてよいのか分らなかった。
――が、考えた末、焼け鉄棒を焼け灰のなかに立てると、それに彼の名刺をつきさした。名刺の上には、「無事。明三日正午、観音堂前ニテ待ツ。松島房子ドノ」と書いたが、また思いかえして、それに並べて、「小山ミチミ殿」と書き足した。
お千は、この一伍一什(いちぶしじゅう)を、黙々として、ただ気の毒そうに眺めていた。
「家族はまだ、焼け跡へはかえって来てないらしい。――じゃ、こんどはいよいよ、あんたの家の方へ行ってみよう」
杜はそういって、そこを立ち去りかねているお千をうながした。
それから二人は、焼け落ちた吾妻橋の上を手を繋(つな)いで、川向うへ渡った。橋桁(はしげた)の上にも、死骸がいくつも転がっていた。下を見ると、赤土ににごった大川の水面に、土左衛門がプカプカ浮んでいた。その数は三、四十――いやもっともっと夥(おびただ)しかった。
こうなると、人間というものは瀬戸物づくりの人形よりも脆(もろ)いものであった。
さて川岸づたいに、お千の住んでいた緑町の方へいってみた。惨状は聞いたよりも何十倍何百倍もひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていた。これに聞くと、緑町|界隈(かいわい)の人間はみな被服廠(ひふくしょう)で死に、生命をたすかったのは自分をはじめ、せいぜい十名たらずであろう――などといった。
被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない。――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった。
「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだ。おお、これからどうしたらいいだろう」
両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏を誦(じゅ)した。
こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった。二十五の若い男と、三十二の大年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。
二人は、いろいろなところに泊った。
興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた。
毎日毎日、宿泊所の朝が来ると、二人は連れだってそこを出た。それから杜は、ミチミと房子との二重の名のついた「尋ね人」の旆(はた)を担いで、避難民の固まっているバラックをそれからそれへと訪ねていった。お千は、まだ癒(なお)りきらぬ左の腕に繃帯を巻いたまま、どこまでも杜の後につき随(したが)って行った。
そうして九月一日から数えて、十二日というものを、無駄に過ごした。杜の心は、だんだん暗くなっていった。それと反対に、お千の気持はだんだん落ちつきを取りかえし、日増しに元気になって、古女房のように杜の身のまわりを世話した。
それは丁度九月十三日のことであった。
杜はいつものように、お千をともなって、朝早くバラックを出た。その日はカラリと晴れた上天気で、陽はカンカンと焼金(やきがね)くさい復興市街の上を照らしていた。杜は途中にして、ミチミの名を書いた旆を、宿に置き忘れてきたことに気がついた。しかしいまさら引返すほどのこともないと思った。でもそのときは、まさかそれが、泣いても泣ききれぬ深刻なる皮肉で彼を迎えようとは、神ならぬ身の気づくよしもなかった。
その日、図(はか)らずも彼は、もう死んだものとばかり思っていたミチミに、バッタリ行き逢ったのである。 

所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。
まるで轢死人(れきしにん)の両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど不様(ぶざま)な橋の有様だった。十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を危かしい人通りが、いくぶんか賑(にぎ)やかになっているだけの違いだった。
杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていた。なにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜は肥(ふと)り肉(じし)の凡(およ)そこうした活溌な運動には経験のないお千に、この危かしい橋渡りをやらせるのにかなり骨を折らねばならなかった。
「さあ、この手につかまって――」
と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ橋梁(きょうりょう)の間から下を見て、まだそこにプカプカしている土左衛門や、橋の礎石の空処に全身真赤に焼け爛(ただ)れて死んでいる惨死者の死体を見るのであった。すると両足がすくんでしまって、もう一歩も前進ができず、ただもうブルブルと慄(ふる)えながら、太い鉄管にかじりつく外(ほか)なかった。
それは震災の日の緊張が、この辺ですこし弛(ゆる)んだため、さきには気がつかずに通りすぎたものが、ここでは、急にヒシヒシと彼女の恐怖心をあおったものだろう。――杜は仕方なく、そういうとこで、この大の女を背負うか、或いは両手でその重い身体を抱くかし、壊れた橋桁の上を渡ってゆくしかなかった。それはたいへん他人が見て気になる光景だったけれど、この際どうにも仕方がなかった。さもないとお千は川の中へボチャンと落ちてしまうにきまっている。
ことに始末のわるいことは、この場になってお千が意識的に杜にしなだれ懸(かか)ることだった。彼女としては、恩人でもあり、またこの上ない情念の対象である彼に対して、せめてこういうときでも露骨(ろこつ)にしなだれかかるより外、彼女の気の慰められる機会はなかったからでもあった。それほど杜という男は、彼女にしてみればスパナーのように冷たく、そして焦(じ)れったい朴念仁(ぼくねんじん)であった。
「これ、そう顔を近づけちゃ、前方(まえ)が見えなくて、危いじゃないですか。一緒に河の中へおっこちてしまいますよ」
「ウフフフ……」とお千はヒステリックに笑った。そして、わざと唇を彼の耳朶(じだ)のところに押しつけて「あたしネ、本当はお前さんとこの橋から下におっこちたいのよ、ウフフフ」
といって、太い両足を子供かなにかのようにバタバタさせるのであった。
「危い危い。冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――」
「いやよいやよ。お前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう邪怪(じゃけん)なんでしょうネ。いいわ、あたしゃ、ここで死んじゃうわよ、もちろんお前さんを道づれにして――」
「こーれ、危いというのに。第一、みっともない――」
といったが、お千はもうすっかり興奮してしまって、そこが人通の多いところであることも、白昼であることにも、もう弁(わきま)えがないように見えた。杜の頸を巻いている彼女の腕がいきなりグッと締るかと思うと、最前から彼の耳朶に押しあてられていた熱い唇が横に移動して彼の頬の方から、はては彼の唇の方へ廻ってくる気勢(きせい)を示した。杜は近よってくるお千の生ぐさい唇の臭(におい)を嗅いだ。あわてて顔を横に向けようとしたが彼の頸動脈は、お千のためにあまりにも強く締めつけられていた。そのためになんだか頭がボーッとしてきた。
「あぶないッ――これ止せッ」
「これ、生命を粗末にするなッ」
突然大きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた。――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちを支(ささ)えていてくれることに気がついた。
「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。
「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネ。しかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気を大きく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」
「そうだそうだ」と別の声が云った。
「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけた。しかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだ。しかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけない。ねえ、貴郎(あなた)がた――さあお内儀(かみ)さんも元気を出して、下りて歩きなせえよ」
要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って本当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった。不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災の大きなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、莫迦莫迦(ばかばか)しいことではあったけれども――。
お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人の薦(すす)めるとおりに、下に下りた。しかし彼女はいきなりワーッと大きな声をあげると、杜の胸に顔を埋めて泣きつづけた。
「可哀想に――。無理もねえや。妙齢(としごろ)の女が桐の箪笥ごと晴着をみな焼いちまって、たったよれよれの浴衣一枚になってしまったんだからなァ」
と、同情の声が傍から聞えた。二人は全く夫婦心中者に見られてしまったらしい。
杜はお千の背中を抱いたまま、不思議に自然に、その場の気分になっていた。が、そのとき不図(ふと)頭を廻して横を向いたとき、彼は卒倒せんばかりに愕(おどろ)いた。――
「おお、ミチミ――」
ミチミが生きていた。ミチミは彼のすぐ傍にいた。僅か一本の太い鉄管を距(へだ)てて、その向うにいた。鉄管の上に両手をのせてジーッと二人を見詰めていた。すべてを彼女は見ていたのだろうか。
ミチミの顔は真青だった。
ミチミは手拭(てぬぐい)を、カルメンのように頭髪の上に被って、その端を長くたらしていた。そして見覚えのある単衣(ひとえ)を着ていた。それは九月一日、彼と一緒に家を出て、電車どおりにゆくまでにしげしげ見た見覚えのある模様の単衣だった。そしてその単衣の襟は茶褐色に汚れ、そのはだけた襟の間からは、砂埃りに色のついた――だがムッチリした可愛いい胸の膨(ふく)らみが、すこしばかり覗(のぞ)いていた。ミチミも随分苦労したらしい。
「ミチミ――」
と、杜はお千を引離して駆けよろうとしたが、この時お千はまた両腕を彼の頸にまわして、力まかせにぶら下ってきた。離すどころの騒ぎではなかった。
ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、
「莫迦――」
と只一言。叩きつけるように云った。
「これミチミ、何をいうんだ――」
ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった。
その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向って錐(きり)のように鋭い嫌悪(けんお)の眼眸(がんぼう)を強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分の逞(たくま)しい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。
「――さあ行こう、ミチミ」
男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け橋梁(はし)の上を浅草側に向って立ち去るのであった。
「ミチミ――」
杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったらしい。あの颯爽(さっそう)たる青年、見るからに文化教育をうけたらしいスッキリした東京ッ児――それが百年も前からミチミを恋人にしていたような態度で「ミチミ、ミチミ!」と呼んでいるのだった。ああ万事休す矣。また何という深刻な宿命なのだろう。お千と自分との無様(ぶざま)な色模様を見せたのも宿命なら、いまさらこんなところでミチミに会ったのも宿命だった。
ミチミは頬を膨らまし、背中を向けて向うへいってしまった。杜には、あれがいつものミチミなのだろうかと疑ったほど、彼女の身体はあかの他人のように見えた。お互に理解し合うことはありながら、こうなっては、たとえ何から何までうちあけても、その一部とて信用されないかもしれない。それほど致命的なこの場の破局だった。杜は痛心を圧(おさ)えることができないままに、それからズンズン一人で歩きだした。
橋桁を渡って、本所区へ――
そして彼は当途(あてど)もなく何処までもズンズン歩いていった。まるで天狗に憑(つ)かれた風(ふう)のように速く――。 

「よう、あんたァ、――」
と、お千が追いすがるようにして、後方(うしろ)から声をかけた。
「……」
杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった。
「よう、何処まで行くのさあ。――」
それでも彼は黙って歩みつづけた。
するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。
「こんな方へ来てどうするの。柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」
でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、
「チョッ」と舌打をし、彼の腕を邪険(じゃけん)にふり解(ほど)いた。
「なんだい、面白くもない。黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネ。あんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃない。お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった。嫌いも嫌いも大嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ。飛んだ思いちがいさ。大河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ。意気地なしの、大甘野郎の、女たらしの……」
お千はまた興奮して、地団太(じだんだ)を踏み、往来の砂埃(すなぼこり)をしきりと立てていた。
杜は後向きになって、じっと足を停めていた。
「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ。――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」
そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見た。お千は不意を喰らって狼狽(ろうばい)し、開(あ)きかけた口を持て余し気味にただ大きな息を呑んだ。
杜はツカツカとお千の方に寄っていった。彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった。
「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」
「ええッ。――」
「意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」
杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした。杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解する遑(いとま)もなく引張られていった。手首は骨がポキンと折れてしまいそうに痛んだ。その痛みが、彼女の身体に、奇妙な或る満足感に似たものを与えた。お千は引摺(ひきず)られるようにして、でも嬉しくもなさそうに眼を細くして、杜の云いなり放題にドンドン引張られていった。杜は柳島までも行かなかった。丁度(ちょうど)吾妻橋と被服廠跡との丁度中間ほどにある原庭町(はらにわちょう)の広い焼け野原のところ――といっても町名は明かではなく、どこからどこまでも区切のない茫漠(ぼうばく)たる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど――この原庭と思われる辺に来て、杜は不図(ふと)足を停めた。
「この辺がよかろう」
杜は誰に云うともなくそう云った。
側(かたわ)らには小さな溝が、流れもしないドロンとした水を湛(たた)えている。それから太い大樹の無惨な焼け残りが、まるで陸に上った海坊主のような恰好をして突立っている。なんだか気味のわるい不吉な形だった。すこしばかりこんもりと盛り上った土塊(どかい)や、水の一滴もない凹(くぼ)み、それから黒くくすんでいる飛石らしいのが向うへ続いて、賑(にぎや)かに崩れた煉瓦塀のところまで達している。どうやら此処は、誰かの邸宅の庭園だったところらしい。
杜は怪訝(けげん)な顔つきをしているお千の方に振りかえった。
「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」
杜は手をふって、お千に命令を下した。
お千は杜の権幕(けんまく)に愕(おどろ)いて、命令に服従した。そして邸跡にトタン板を探しはじめた。
「オイ、早くしろ。腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」
お千は目を瞠(みは)って、釣っていた左の手を下ろした。
トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められた。つづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた。
そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした。――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった。
二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた。
欲しいものは、なるべく大きな板切れと、なるべく広い布(きれ)であった。それにつづいて蓆(むしろ)か綿か、さもなければ濡れた畳であった。
二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ罹災者(りさいしゃ)あての配給品が集まってくるところの方に、物資が豊かであることに気がついた。それは多くは橋の袂(たもと)とか、町角(まちかど)とかに在った。
欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった。一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。
でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まった。そのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。
二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、筵(むしろ)を敷いた。その上に藁(わら)を載せた。どうやら寝床のようなものが出来た。
まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった。途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。
二人はだいたい睨(にら)み合って、無言の業をつづけていたが、疲労から睡魔の手へ、彼等はなにがなんだか分らないうちに横にたおれて前後不覚に睡ってしまった。
次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた。
杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがった。そして下駄をつっかけると、天井の低い土間に突立(つった)って、物珍らしそうに小屋のうちを眺めまわした。お千がなんとなく嬉しそうにニコリと微笑(ほほえ)んだのを、杜は薄眼の中から見のがさなかった。
お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えた。なんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品物を抱えていた。
「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ。林檎(りんご)もあるわ。缶詰に、ハミガキに、それから慰問袋もあんたの分とあたしの分と二つあるわよ。――さあ起きなさいよォ」
お千はすっかり機嫌を直していた。
配給品が時の氏神(うじがみ)であった。二人はそれを並べて幾度も手にとりあげては、顔を見合わせて笑った。
「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネ。あたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」
お千はいい潮時(しおどき)を外さず、愧(は)ずかしそうに素直に謝った。
「うん、なァに、なんでもないさ。――」
杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云った。その優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身の侘(わび)しい心を打った。彼はなんだか熱いものが眼の奥から湧いてくるのを、グッと嚥(の)みこんだ。 

昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた。
ちょっとした煮物の出来る竈(かまど)も出来たし、ミカン函を改造して机兼チャブ台も作った。裏手には、お千のために、往来からは見えないように眼かくしをした軽便厠(けいべんがわや)をこしらえた。入口には、杜の名をボール函の真に書いて表札のつもりで貼り出した。名前の横には、彼の勤め先である商会の名も入れて置くことを忘れなかった。
こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであった。しかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。
「あんた、お金持ってないの」
「うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って」
「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、蝋燭(ろうそく)を買わない。今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ」
「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」
「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」
「よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」
もう日暮れ時だった。
二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗(こぐら)い蝋燭を点(とも)して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜(すいか)を十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店――などと、食い物店が多かった。
蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな提灯(ちょうちん)一個八銭とを買った。
「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」
杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと浸(し)みわたった。なんとも譬(たと)えようのない爽快さだった。
彼は更にもう一杯をお代りした。
お千はコップを台の上に置いて、口をつけそうになかった。
「お呑みよ。いい味だ。それに元気がつく」
そういって杜はお千にビールを薦(すす)めた。お千は恐(おそ)る恐(おそ)るコップに口をつけたが、やはりうまかったものと見え、いつの間にかすっかり空けてしまった。しかしもう一杯呑もうとは云わなかった。
三ばいの生ビールが、杜をこの上なく楽しませた。思わない御馳走だった。震災以来の桁ちがいの味覚であった。彼はお千に、では帰ろうと云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお内儀(かみ)にコソコソ耳うちしてそのうしろの御不浄に出かけた。
やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋の態(さま)やら、にごった水の面などが見えなくて、かえってよかった。
橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱(ぼうこう)カタルになったと思うのよ。――」
とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッと慄(ふる)わせた。そして彼に急を訴えると、その場にハタとしゃがんで、堤を切ったような音をたてて用を達した。杜は提灯片手に、その激しい音を聞きながら、あたりに注意を払っていた。――お千は絶対無我の境地にあるような姿勢をしていた。
杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。後生(ごしょう)だから……」
とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びの笑(え)みを浮べ、そしてその後で決ったように大きな溜息をつくのであった。いつもきまってそのようであった。
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて夕炊(ゆうめし)の膳を囲みながらいった。
「ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひとネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
と問えば、
「いえ、なんでもないの」
と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
杜はどうしてお千に真実(ほんとう)を云わせたものだろうかと、首をひねって考えていた。
「ごめんなさいまし。――」
そのとき門口(かどぐち)に、男の声で、誰か訪(と)う者があった。
「あッ、――」
とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように真紅(まっか)であった。
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔|仕(つかまつ)りまして、なんとも相済みません、ねえ、こちらの御主人さんへ――」
五十男は、不貞不貞(ふてぶて)しい面つきで、ノッソリ中へ入ってきた。
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと仰有(おっしゃ)りますが、実はこのことについて貴公(きこう)に伺いたいのだ」
「なんだとォ――」
と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。貴方(あなた)は、死んだことと思っていたが――」
「ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急に慌(あわ)てだし、
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは性根(しょうね)を据(す)えて返答をしろ、いいかッ」
と云い捨てて、裏の便所の方から、大狼狽(だいろうばい)の態で出ていった。杜はホッと溜息をついた。
お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方に媚(こ)びるような視線を送って、
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町(こうじまち)の殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁(いんねん)をつけに来たのよ。あなた心配しないでネ」
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込(うしごめ)か芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――」
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。 

お千が、冷たい骸(むくろ)となったのは、その翌日のことだった――。
その日、杜は会社へ出たが、戦争のように忙しい仕事の中にいて、ともすれば仕事をまるで忘れてしまうことがあった。彼はなにかの隙があったら、お千と一緒に住む家を、焼け残った牛込か芝かに求めたいものだと焦(あ)せっていた。だが彼の希望は、あとからあとへと押しよせてくる会社の仕事によって、完全に押し潰(つぶ)されてしまった。しかもその日は、夕方になっても仕事の段落がつかず、遂に会社を出たのが夜更の十時だった。会社に泊ってゆけという上役や同僚たちの薦(すす)めであったけれど、彼はそれをふり切るようにして、懐中電灯片手に、お千の待っている家路に急いだのであった。
帰りついたのは、かれこれ十一時であったろうか――。
駈け足も同然に、バラックの幕を押しわけて家のうちに飛びこんだ杜は、その場にハッと立ち竦(すく)んだ。そこに海軍毛布を被って寝ていると思ったお千の姿が見えないのであった。寝床はそこに敷(しき)っ放(ぱな)しになっていたが、藻(も)ぬけの殻(から)だった。しかし毛布は、人間の身体が入っていたことを証明するかのように、トンネル形にふくれていた。枕は土間にとんでいた。
「お千、オイお千、――」
杜は女の名を呼びながら、厠(かわや)を明けてみた。だがそこにもお千の姿はなかった。
「――とうとう、お千のやつ、逃げてしまったんだな」
杜は悲しみと憤(いきどお)りとに、胸がはり裂けんばかりになってきた。考えてみれば無理のない話でもあった。昔世話になった五十男といえば、ひと通(とおり)やふた通でない深い情交であったに違いない。杜とはほんの僅かなことで結びついただけであった。ことに震災というものがどこまで深刻なものやら判らなかった時代に、彼はお千から大いに頼られたのであって、震災もここに二十四日、惨禍(さんか)は大きかったけれど、もうそれにもいつしか慣れてしまって、始めの大袈裟(おおげさ)な恐怖や不安がすこし恥かしくなる頃であった。そういう時にお千が杜のところを飛び出していったのは一向不自然ではないと思った――。
彼はゴロリと横になった。
ミチミの顔が不図(ふと)浮んできた。それはどこやらすねているような顔だった。
(ミチミはどうしているだろうか。いまごろは、やはりこうしたバラックの中で、あの長身の青年の腕に抱かれて睡っているだろうか?)
などと、しきりにミチミのことが思い出された。お千|失踪(しっそう)の夜に、お千のことよりもミチミのことが想いだされるのはどうしたことであろう。それは杜自身が極めて心の弱い人間であって、悲哀に対して正面から衝突してゆく勇気がないために、その悲哀を紛らすための妥協的代償を他に求めたがるのに外ならなかった。
杜は夢から夢を見た。ただ暗い床のうえに横(よこた)わっているだけのことでうつらうつらとしていた。何度目かに目が覚めたとき、トタン板の裂け目から暁の光りがほんのりと白く差しこんでいるのに気がついた。
彼は改めて寝床のまわりを見廻した。もしやお千の姿がそこに帰ってきていはしないかと思ったが、それは空しき夢であった。彼女の寝床は、昨夜のとおり藻ぬけの殻であった。
ただ彼は、枕許(まくらもと)に近い土間の上に、昨夜発見しなかったものを見出した。いや、それは発見はしたのであろうがつい気がつかなかったのであろう。それは見慣れない莨(たばこ)の吸(す)い殻(がら)だった。――その莨は「敷島!」
杜は「ゴールデンバット」ばかり吸っていた。敷島は絶対に吸わなかった。お千も吸わない。
「敷島」の吸殻は三つほどあった。取りあげてみるとそこへ捨てて間もないように見えるものだった。
もう一つの「敷島」の吸殻を発見した。それは土間の中に堅く埋まっていた。土間の上はなにかを引摺ったように縦の方向に何本もの条溝(すじ)がついていた。いま発見した吸殻はその下に埋まっていたのである。
土間の上の何本もの条溝は何のためについたのであろう。今朝がたは、こんなものを見なかったことは確かだ。
杜はこの条溝の伸びている方向に目をやった。その条溝は裏口の幕の下に続いて、まだそこから外に伸びているようであった。杜はそれをボンヤリ見つめていたが、そのうち起き上って土間に下り、裏口の幕を掻き分(わ)けて何気なく外を見た。
そのとき彼は、実に不思議な光景を見た。
裏口の正面に、焼けて坊主になり、幹だけ残った大樹があった。そこに人間が青い脚をブランとして垂れて下っているのであった。それが暁の光を浴びて、なんとなく神々(こうごう)しい姿に見えた。――お千が死んでいる。
杜は、わりあいに愕かなかった。ただしそれはほんの最初のうちだけであったけれど。
「お千が死んでいる。――お千はなぜ死んだのであろう?」
杜は裏口に立って、ボンヤリ死体を見上げていた。
よくよく見ていると、お千の首にまきついている縄は、焼けた大樹の地上から八、九尺もある木の股のところに懸っていた。縄はそこでお仕舞いになってはいず、股のところから大樹の向う側にずっと長く斜に引き張られているのではないか。縄の末端は、大樹の向う三間ほど先にある手水鉢(ちょうずばち)の台のような飛び出た巌(いわお)の胸中に固く縛りつけられてあった。
「ああ、これは自殺じゃないんだ!」
杜はハッと顔色をかえた。
自殺の縊死(いし)だと思っていたのが、縄の引っ張ってある具合から、これは他殺でないと出来ないことだと気がついた彼はにわかに恐怖を感じた。お千は殺されたのだ。疑いなく彼女は暴力によって此処に釣り下げられたのである。
誰だ? お千を殺したのは?
杜はだんだんと周章(あわ)てだした。
さあ大変である。すくなくとも、彼自身は容疑者の一人として、警察署に連行されるであろう。自分はなにかヘマをやっていないであろうか。待てよ――。
杜は、裏口の幕をはねのけるようにして、小屋のなかに飛びこんだ。
彼はそこに今の今まで自分が横わっていた寝床を見た。その隣にはお千の空虚(くうきょ)の寝床(ねどこ)があった。これはいけないと思って、彼は前後の見境もなく、今まで寝ていた自分の寝床を畳んで横の方に近づけた。
そのとき、寝床の下の蓙(むしろ)の上に、ポツンと赤黒い血の痕がついているのを発見して、彼は驚愕を二倍にした。毛布にも附着しているだろうと思って改めてみると、幸いなことにほんの僅かついているだけだった。彼はそこのところの毛を一生懸命で挘(むし)った。
蓙の上の血痕をそのまま放置しておくことは、彼の弱い心が許さなかった。彼はナイフを出して、その血痕の周囲を蓙のまま四角に切りとった。
毛布の血痕と、蓙に赤黒く固まりついている血痕とは捨てては危険である。彼は咄嗟(とっさ)に、その二つの証拠品を、マッチ函の中に収(しま)った。これで血の脅威からは脱れることができた。
もう何か残っていないかと、あたりを見廻した。
「おお、これァ何だッ」
妙なものがお千の寝床の向う側に落ちていた。拾いあげてみると、それは古風な縫い刺し細工の煙草入であった。彼は急いで中を明けてみた。中には口切煙草が沢山入っていた。その煙草は「敷島」だった。
「ああ『敷島』だ。――」
胸躍らせながら、彼は中に残っている煙草の数を数えた。丁度十六本ある。
十六本の「敷島」――そして土間に落ちている四本の「敷島」の吸殻!
これ等は、杜が事件に対して嫌疑薄(けんぎうす)であることを証明してくれるであろうと思ったので、そのまま放置して置くことにした。彼は煙草入れを、また元のように、お千の寝床の傍に抛(ほう)りだした。
だが、この煙草入れの持ち主は、誰であろうか?
夜がすっかり明け放れた。
戸外は大きな叫び声がしている。誰か通行人が、お千の死体を見つけたのだろう。杜は外に出たものか、小屋の中に待っていたものかと思案に暮れたが、どうしても小屋の中にジッとして居られずになった。それで裏口の幕を押し開いて、集まってきた朝起きの人たちと同じく、お千のブランコ死体の下に馳けつけた。
急報によって警官の出張があり、杜は真先に警官の手に逮捕せられた。
警官が後から後へと何人もやってきた。背広服の検事や予審判事の姿も現れた。現場の写真が撮影されると、お千の死体は始めて下に下ろされた。
「死後十時間ぐらい経っていますネ」と裁判医が首を傾げながら云った「ですからまず昨夜の八時前後となりますネ」
杜は、さんざんばら係官に引摺(ひきず)りまわされた上で、警察署に連行されることとなった。 
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「ただ、正直に凡(すべ)てを話して下さい。僕達がこうして君に詳しく聞くのも、結局君の無罪なる点をハッキリして置きたいためです」
と、係の検事は穏(おだや)かに云った。
杜はそれが手だと思わぬでもなかったけれど、適当に検事の温情に心服したような態度を示しながら、出来るだけ詳しい話をした。しかしマッチの函の中に収めた血痕のことだけは、とうとう云わなかった。なにしろそのマッチの函を某所に隠してしまったので、もしその隠し場所などを喋(しゃべ)ったとなると、杜のやり方に不審をいだかれるは必定であり、それから更に面白くない嫌疑を募(つの)らせてはたまらないと思ったので、血痕のことだけは云わないことにした。それは検察官のために、一つの貴重なる断罪資料を失うことになるけれども、ここに至っては、もうどうにも仕様がなかった。
「――前日に来たこの五十男は何という名前だって」
と検事は鉛筆をなめなめ杜に聞いた。
「たしか麹町の殿様半次とか云っていました」
「ええっ、殿様半次だと、――」
と警官連は半次の仕業と知ると、云いあわせたように仰天(ぎょうてん)した。
「――つまりこの女の情夫である麹町の殿様半次が一番怪しいということになる。半次ならやりかねないだろう」
重大なるお尋ね者である半次は、天には勝てず、旧(ふる)い友達のバラックに潜伏しているところを捕(とら)えられた。
それから取調べが始まった。
半次の前には、例の口付(くちつき)煙草入れと、土間から拾い上げた吸殻四個とが並べられた。
彼のアリバイは、彼の当初の声明を裏切って、遂に立証すべき何ものも見つからず、遂に彼は恐れ入ってしまった。
事件は次のように審理された。
すなわち半次は、当日お千をまた尋ねて、昔の如き情交を迫り、遂に目的を達したことは、お千の死体解剖によって明白である。
しかれどもお千は、今後の情交を拒絶し、もし強(しい)てそれを云うようであれば、半次の旧悪の数々とともに、彼の居所をその筋へ密告するからと脅迫したところから、半次は今はもうこれまでなりと思い、お千をくびり殺したものである――というのである。
これに反して、杜のアリバイは確実であった。なにしろその日はずっと会社に居り、そして会社の門を外に出たのが午後十時だというから、お千の死に無関係であることが証明された。
半次はお千殺しを頑強に否認しつづけたが、遂に観念したものか、とうとうそれを白状してしまった。係官はホッと息をついた。そしてやがて、半次を公判に懸ける準備に急いだのだった。
杜はずっと早く釈放せられて、思い出のバラックに、只一人起き伏しする身とはなった。
静夜(せいや)、床のなかにひとり目覚めると、彼は自分の心臓がよく激しい動悸をうっているのを発見することがあった。そういうときには、きっとお千の最期(さいご)について何か追っ懸けられるような恐ろしい夢を見ていた。
或る夢では、杜自身が犯人であって、お千を殺した顛末(てんまつ)を検事の口から痛烈に論告されているところを夢見た。また或るときには、何者とも知れない覆面の人物が犯人となっていて、その疑問の犯人から彼が責(せ)め訶(さいな)まれて苦しくてたまらないところを夢見たりした。前者の場合よりも、後者の一方の夢がずっと恐ろしかった。
恐ろしい夢から覚めた彼は、きまって寝床のなかにいて、今度は現実にお千殺しの顛末を考え直すのであった。――果して半次がお千を殺した真犯人であろうか!
敷島の吸殻といい、煙草入れといい、それからまたあの前日の会見の捨(す)て台辞(ぜりふ)といい、半次の日常生活といい、十六貫もあろうというお千の身体を大木に吊り下げたといい、半次を真犯人と断定する材料は決して少くなかった。それにも拘(かかわ)らず、杜はなんとなく半次が真犯人でないような気がしてならなかった。
(どうしてそんな風に思うんだろう?)
杜は自分の心の隅々を綿密に探してみるのであった。別にこれこれと思うものも見当らないのだ。だがそのうちに、もしかするとこれかも知れないと思うことがあった。それは、あの事件の後で、杜が現場に落ちていた血痕を拭(ぬぐ)って一つの証拠を湮滅(いんめつ)し、それからまた毛布についていた血痕の部分を鋏(はさみ)で切り取ってマッチ函のなかに収め、同じく証拠湮滅を図ったことである。その血痕が直接に犯人を指しているというのではないが、啻(ただ)そのような証拠を隠滅した行動それ自体が杜には後悔され、そして予審が終結したのにも拘らず、その結末が彼だけには信じられないのであった。それはたしかにこの世ながらの地獄の一つだと、杜は感じたことである。
あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。 
11
それは事件があってから、もう一ヶ月に垂(なんな)んとする頃の出来ごとだった。
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌を展(ひろ)げて読み耽(ふけ)っていた。そのとき表の方にあたって、
「今晩は――」
という若い女の声を耳にして、ハッと愕(おどろ)いた。事件以来、それは最初に彼に呼びかけた女の声であるかもしれない。
「だ、誰です。――」
彼は恐(おそ)る恐(おそ)る席を立って、表の戸を開いてみた。
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
杜にはそれが何人であるかは大凡(おおよそ)気がつかぬでもなかったが、ついそう聞きかえさずにはいられなかった。激しい興奮が、いまや彼の全身を駆けめぐり始めたからだ。
「あたしよォ。――ミチミ」
ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上で睨(にら)み合って別れ、それからずっとこの方(かた)彼女を見なかった。とうとうミチミは彼の前に現れた。昔に変らぬ純な、そして朗かなミチミであるように見えた。
「おおミチミ。――さあお上り」
その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い単衣(ひとえ)を着、そしてその上に青い帯を締めていた。
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に貴郎(あなた)のことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ」
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔がさしたんだネ。誰を怨(うら)むこともないよ」
杜は心の底から懺悔(ざんげ)の気持になった。
「そうネ。世の中には、自分の考えどおりにならないことが沢山あるのネ。今のあたしもそうなのよ」
ミチミはそれを鼻にかかった甘ったるい声でいって、眼を下に俯(ふ)せた。そこには単衣をとおして、香りの高いはち切れるような女の肉体が感ぜられる、丸々とした膝があった。杜はムラムラと起る嫉妬の念を、どう隠すことも出来なかった。
「もうわざとらしい云い訳なんかしないでいいよ。君は正面きってあの長髪の御主人の惚気(のろけ)を云っていいんだよ」
「まあ、――」
ミチミは張りのある大きな眼で杜を見据えた。
「貴郎(あなた)はあたしのことを誤解しているのネ。きっと御自分のことを考えて、あたしの場合も恐らくそうだろうと邪推しているんでしょ。そんな勝手な考え方はよしてよ。あたしムカムカしてきてよ」
「いやにむきになるじゃないか。むきにならざるを得ないわけがありますって、自分で語るようなものだよ。もうよせったら、そんなこと。僕は一向興味がないんだ」
「先生――」
たまりかねたかミチミは、いきなり中腰になって、杜の前に飛びついてきた。彼は全体が一度にカーッと熱くなるのを覚えた。
「先生、あたしはもともとそんなに節操のない軽薄な女なんでしょうか。いえいえそれは全く反対です。先生はそれをよく御存知だったじゃありませんか。先生がどんなことをされていても、あたしはそれに関係なく、いつも純潔なんです。魂を捧げた方に、身体をも将来をも捧げますと固く誓った筈です。それをどうしてムザムザあたしが破るとお考えなんです。あたし、ほんとに無念ですわ。無念も無念、死んでも死に切れませんわ。あたしが先生のために、どんな大きな艱難(かんなん)に耐えどんなに大きな犠牲を払ってきたか、先生はそれを御存知ないんです。しかし疑うことだけはよして下さい。少くともあたしの居る前では。――あたしはいつでも先生の前に潔白を証明いたします。今でももし御望みならば――」
「おっと待ちたまえ。君はまるで、夢の中で演説しているように見えるよ。長髪の青年氏と同棲していて、なんの純潔ぞやといいたくなる。もっとも僕は一向そんなことを非難しているわけではないがネ」
「まあ、そ、それは、いくら先生のお言葉でも、あんまりですわ、あんまりですわ。――」
ミチミは子供のように声をあげて、その場に泣き伏した。
杜は、曾(かつ)て知っていたミチミとは別の成熟した若い女が、彼の前で白い頸を見せ、肩を慄(ふる)わせて泣いているように思った。それはなんとはなく、彼の心に或る種の快感を与えるのであった。
ミチミは、泣き足りてか、やがて静かに身体を起した。両の袂を顔の前にあて、その上から腫(は)れぼったい瞼を開くような開かないようにして、杜の方を見た。
「――覚えてらっしゃい」
ミチミは、たった一言云って、膝を立てて立ち上ろうとした。しかし彼女はヨロヨロとして畳の上に膝をついた。
「ウム、――」
そのとき杜は、不思議なものを見た。ミチミの白い脛(すね)の上から赤い糸のようなものがスーっと垂れ下ってきて、脛を伝わって、やがてスーっと踝(くるぶし)のうしろに隠れてしまった。血、血だ!
見れば畳の上にも、ポツンと赤い血の滴りが滾(こぼ)れているではないか。杜はドキンとした。
「おい、ミチミ待て――」
ミチミはそれが聞えぬらしく、外へ出てゆきかけたが、何を思ったか、また引返してきて、杜の前に突立った。そしてまるで別人のような態度で、恰(あたか)も命令するかのように、
「さあ、これからあたしと一緒に行くのよ。あたしのうちに行って、そしてあたしの奪われているものを、貴郎(あなた)に手伝ってもらって取返すのよ。そしてあたしは、どうしても貴郎から離れないようになるのよ。さあ行ってよ、早く――」
杜はミチミの意外な力に引張られて、やがて家を後にした。
ミチミは道々、杜にくどくどと説いた。
ミチミがどうしても有坂――長髪の青年のこと――から離れられないわけは、彼のためにミチミの所有になる或る重大なる秘密物品が有坂の手によって保管されていることだ。それを取戻さない限り、有坂の許を離れるわけにはゆかない事情がある。有坂の手から、ぜひそれを取返さなければならないが、その品物は彼女のバラックの屋根の下にある一つの壊れた井戸の中に、大きな石に結びつけて綱によって垂らしてある。ミチミの手では、この重い石をどうしても引上げられないから、今夜杜に手伝って貰いたい。――というのである。
杜は承知の旨(むね)を応(こた)えた。 
12
ミチミの住居(すまい)は、隅田川の同じ東岸に属する向島にあった。そして同じく広々とした焼跡に立つバラックであって、どっちを見渡しても真暗なところであった。
ミチミはバラックの窓の灯を指して、彼を二十間ほど手前で待っているように云った。そして彼女は、スタスタとバラックに近づき、やがて戸を開いて内側に姿は見えなくなった。杜はポケットの底を探って一本の煙草を口に咥(くわ)えた。
ミチミはなかなか出て来なかった。
杜は、さっき道々で彼女の云ったことを考えていた。――有坂青年に奪われている彼女の秘密物品を取り返すのを手伝って呉れ、それはバラックの中にある古井戸の中に、大きな石に結びつけて沈めてあるから、手伝って綱を引張って呉れ――というのだ。一体どんな秘密物品を彼女は有坂に奪われているのだろう。ミチミが持っていそうな秘密物品とは、どんなものが有り得るだろうかと、昔の生活をいろいろと思い浮べてみた。しかしどうも心あたりがなかった。ラブレーターであろうか。日記帳であろうか。それとも或る種の誓詞(せいし)であろうか。写真の乾板(かんぱん)でもあろうか。でも以前にはおよそそんなものを、彼女が持っている様子はなかった。もしそんなものが有るとすれば、それは恐らく、震災後に出来たものに違いない。杜は急に、それを見たくなってきて仕様がなかった。
そのとき、ジャングルから黒豹が足音を忍んでソッと獲物の方に近づいてくるように、ミチミが静かに静かに戸口から現れた。彼女は一本の長い綱を持っている。それは戸口の中まで続いているのであった。
「――あの人が、今いい気持に眠っているのよ。目を覚まさないように気をつけてネ。そこであたしがお願いするのは、この綱よ。これをあたしが内側から合図をしたとき、綱が千切られるくらいウンと引張って向うへ駆けだしてネ。四、五間も走ると、きっと綱が何かに引懸ってそれ以上伸びなくなるから、そこんところで、ジッと持っててネ。あたしが帰ってくるまで、離しちゃ駄目よ。いいこと」
ミチミは杜の耳許(みみもと)で、声をひそめて説明した。彼の感能はそのとき発煙硝酸のようにムクムク動きはじめた。ミチミをどうしても自分のものにしないと、自分の心臓が痙攣を起してしまうかもしれないと思った。
ミチミが、またバラックの中にかえってゆくと、杜は綱を両手でソッと握った。綱を握っていると、なんとなく変な気持になってきた。この暗黒の焼野原の真ン中で、自分はいま何をしようとしているのだろう。なんだか非常に恐ろしいことを手伝っているような気持がして、彼は思わずブルブルと身慄(みぶる)いした。
途端に綱を握っている手に、ピーンと手応えがあった。ミチミがバラックの中で綱を引いて合図をしたのであった。
「ウン、今だナ――」
彼は綱をグッと握りしめると、後を向いてトットと駆けだした。大地に躓(つまず)いて倒れるかもしれないと思ったほど、渾身(こんしん)の力を籠(こ)めてウウンと引張った。
ドーンと鈍いそして力づよい手応えが両腕を痺(しび)れさせた。とうとう沢庵石が井戸から上ってきたのであろうか。彼は綱端を両手に掴み、身体を弓のように反(そ)らせて、バラックの中に潜む大きな力に対抗していた。でもなんという奇妙な手応えだろう。どうも沢庵石を引張りあげたにしては、いやに反動がありすぎた。なんだか沢庵石が生き物に化けて綱の端でピンピン跳ねまわっているようであった。
ミチミが杜の方に駆けだしてきたのは、それから十分ほど経った後のことだった。
「もう大丈夫よ。その綱の端を、貴郎(あなた)の前にある切株に結んで頂戴な」
ミチミは、しっかりした調子で、それを命じた。
杜はミチミに手伝わせて、そのようにした。
「さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたしの必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない」
「ウン、行ってもいいかしら」
「もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ」
杜はミチミの言葉を深く考えもせず、彼女について、恐る恐るバラックの入口をくぐった。バラックの中には、暗い電灯が一つ天井から下っていた。彼は極めて自然に、自分がピンと引張った綱の先を眼でもって追っていった。その綱は上向きになって、梁(はり)の方に伸びていた。その梁の向うに、彼は全然予期しなかったものを見た。それは紛れもなく、宙にぶら下った男の全身だった。杜はそれが何者であるか、そして何をしているのかを知った瞬間に、愕きのあまりヘタヘタと土間に膝をついた。
「ウム、これは有坂青年だ。これはどういうわけだッ。――」
ミチミは、ジャンヌ・ダルクのように颯爽(さっそう)として、杜の前に突立った。そして氷のように冷徹な声でいった。
「これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ」
「人を殺してどうするんだ」
「そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ」
杜は大きくブルブルと身慄いした。
「――ああ僕は、この手でとうとう人を殺してしまったのだ。ああ、もっともっと前に気がつかなけりゃならなかったんだ。先刻(さっき)か、いやいや。もっと前だ。お千が殺された時か。いやいやもっともっと前だ。そうだ震災になる前に考えて決行しなきゃならなかったんだ。ああもう遅い。とりかえしがつかない」
そういって、杜はわれとわが頭を握(にぎ)り拳(こぶし)でもってゴツンゴツンと殴(なぐ)った。その痛々しい響は、物云いたげな有坂の下垂(かすい)死体の前に、いつまでも続いていた。 
13
杜はミチミを連れて、久方ぶりで郷里に帰った。今はもう誰に憚(はばか)るところもなく、一軒の家を借り同棲することとなった。いや憚るところもなくといっても、彼等二人は晴れて同棲を始めたわけではなく、倶(とも)に追わるる身の、やがて必然的に放れ離れになる日を覚悟して、僅かに残る幾日かの生への執着(しゅうちゃく)を能うるかぎり貪(むさぼ)りつくしたいと考えたからだった。
その切迫した新生活の展開いくばくもならぬうちに、杜はミチミについていろいろの愕くべき事実を知った。その一つは彼女が、いつか羞(はじ)らいをもって彼に告げたごとく、彼女がこのたび杜と同棲する以前に於ては、ミチミの身体が全く純潔を保たれていたという意外なる事実であった。ミチミの信念と勝気は十二分に証明せられた。
もう一つは、彼女の犯行がいつも一定の条件のもとに突発したということだった。それは彼女の生理的な周期的変調が犯行を刺戟するのであった。杜はそれを彼女の口から聞いて、過去に於けるいろいろな事象を思い出して、なるほどと肯(うなず)いたのであった。お千殺しの現場に落ちていた血痕も、これを顕微鏡下に調べてみれば、そこに特徴ある粘膜の小片が発見されたに違いなかったのである。さもなければ分析試験を俟(ま)って多量のグリコーゲンを検出することができたであろう。いずれにしても、それは生理的な落としものであることが証明される筈であった。ともあれ、そういう条件下の出来事だとすると、これはうまくゆけば、やがてミチミが法廷に裁かれても、死一等を減ぜられることになろうと思った。それはこの際のせめてもの悦(よろこ)びであった。
しかし人間の世界を高き雲の上の国から見給う神の思召(おぼしめし)はどうあったのであろうか。神はミチミが法廷に送られる前に、天国へ召したもうた。
実はあれだけ立派な証拠を残して来た犯罪事件ではあったが、震災直後の手配不備のせいであったか、それから一月経っても、二月経っても、司直はミチミたちを安穏(あんおん)に放置しておいた。しかし初冬が訪れると間もなくミチミは仮初(かりそめ)の風邪から急性の肺炎に侵されるところとなり、それは一度快方に赴いて暫く杜を悦ばせた。けれども年が明けるとともにまた容態が悪化し、遂に陽春四月に入ると全く危篤の状態に陥った。ミチミが他界したのは四月十三日のことであった。
折から桜花は故郷の山に野に爛漫(らんまん)と咲き乱れていた。どこからか懶(ものう)い梵鐘(ぼんしょう)の音が流れてくる花の夕暮、ミチミは杜に手を取られて、静かに呼吸(いき)をひきとった。
杜はミチミの亡骸(なきがら)をただひとりで清めた、それから白いかたびらを着せてみたが、いかにも寒々として可哀想であったので箪笥の引出を開いて、生前ミチミが好んでいた燃えるような緋(ひ)ぢりめんの長襦袢に着かえさせた。そして静かにミチミの亡骸を、寝棺(ねかん)のなかに入れてやったのであった。
ミチミの蝋細工のような白い面(かお)を見ていると、杜は不図(ふと)思いついて、彼女の鏡台を棺の脇に搬(はこ)んできた。そして一世一代の腕をふるって、ミチミの死顔にお化粧をしてやった。
白蝋の面(かお)の上に、香りの高い白粉(おしろい)がのべられ、その上に淡紅色(ときいろ)の粉白粉を、彼女の両頬に円(つぶ)らな瞼(まぶた)の上に、しずかに摺(す)りこんだ。そして最後に、ミチミの愛用していたルージュをなめて、彼女のつつましやかな上下の唇に濃く塗りこんだ。
ミチミはいきいきと生きかえったように見えた。真赤な長襦袢と、死化粧うるわしい顔(かんばせ)とが互に照り映えて、それは寝棺のなかに横たわるとはいえ、まるで人形の花嫁のようであった。ミチミは寝棺のなかに入って、これから旅立つ華やかなお嫁入りを悦ぶものの如く、口辺に薄笑(うすえみ)さえ湛(たた)えているのであった。
杜は惚れ惚れと、棺桶の花嫁をいつまでも飽かず眺めていた。――
この静かな家の中の出来ごとを、村の人々がハッキリ知ったのは、次の日の昼下りのことであった。杜は自ら梁(はり)の下に縊(くび)れていた。
人々の騒ぎを他処(よそ)にして、床の間の大きな花瓶に活けてあった桜の花が、一ひら二ひら静かに下に散った。 
 
読解「もののけ姫」

 

前書き
宮崎駿監督は、一流のアクション・エンタテイメント監督である。宮崎監督に対する「飛行表現作家」「冒険娯楽作家」という評価は、最早定着してしまった感がある。しかし、宮崎監督は単なる娯楽映画監督ではなく、常に現代の政治的・社会的・思想的ムーブメントを作品に反映させている希有の良心的表現者でもあるのだ。
これまで、多くの誌面を飾った宮崎監督作品の評価は、娯楽性の裏に隠れた面倒な思想的意義を分析することを避けたものが圧倒的に多い。それらは主にシーン分析であり、「飛行表現の生理的快感」「人物描写の誠実さ」「エコロジカルで常識的な理性」などの観点から述べられたものであった。中には、生理的・感性的な「好き」「嫌い」を繰り返すだけの貧困な感想文すら少なくなかった。これらの評価は、監督の作家としての思想性に肉薄する観点が欠落している分、著しく皮相的であったと思える。
監督自身はインタビューや対談で多くの書物を紹介し、政治的・思想的発言も行っているが、これらの内容に関して、詳しく突っ込んだ考察や論考を行った例はほとんどない。つまり、宮崎監督自身の問題意識に関する正確な評価は未だ棚上げ状態なのである。
宮崎監督は、これまで前監督作『紅の豚』を「作ってはいけないモラトリアム映画だった」と自戒し、「次作で決着をつけねばならない」と度々語って来た。「監督引退」の噂についても、本意は「積年の課題に決着をつける」ことであったのだ。筆者の取材では、「これを作れば、当分楽しい趣味の作品を作って暮らせる」とまで語っていた。おそらく、今回は宮崎監督の生涯の中で、最も苦しい作品制作であった筈だ。
では、宮崎監督は、何故それほどまでに重い宿題を自身とスタジオジブリに課したのか。「決着」とは何を意味するのか。
本論では、映画『もののけ姫』に込められた膨大な情報を、多角的な観点から整理することで宮崎監督の思想的意図をあぶり出してみたい。前例のない実験的論考ではあるが、はるか彼方を走り続ける宮崎監督の問題意識の片鱗にでも迫ることが出来ていれば幸いである。 
1、照葉樹林文化
映画『もののけ姫』の原点の一つに「照葉樹林文化論」が挙げられる。
宮崎駿監督が、七〇年代から中尾佐助(一九一六〜九三)氏の提唱した「照葉樹林文化論」に傾倒していたことはよく知られている。八〇年のテレビ『(新)ルパン三世』の演出の際には、「照樹務(テレコム)」というペンネームを使っている。「明治神宮の照葉樹林の散策が大好き」と語り、雑誌『世界(八八年六月臨時増刊号)」には中尾氏の著書『栽培植物と農耕の起源(岩波新書)』の熱烈な書評を書いたこともよく知られている。
『もののけ姫』の舞台は原生林に設定されているが、これが堂々たる照葉樹林である。宮崎監督は何故照葉樹林にこだわり続けるのか。
西南日本の源流たる照葉樹林文化
かつて日本の南半分はうっそうとした暗い原生林が覆っていた。それは、年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類等であった。これらの常緑広葉樹林を総称して「照葉樹林」という。
太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓(現ブータン)を起点として中国南西部を経て日本に至るまで、ベルト状に分布していた。照葉樹林帯の各地周辺では、よく似た食文化、農業、風習、宗教、伝説が今に伝えられている。同根の文化圏が時空と場所を越えて発生していたのである。たとえば、ヤムイモやタロイモ、アワ・ヒエ・イネなどのモチ種、そしてナットウなど、数多くのネバネバした食品を好む性質、茶やシソの栽培、麹から作る酒、養蚕、漆器文化などである。これらは元来、照葉樹林帯独自の文化であり、これより北にも南にも存在しなかった。
海路も陸路もおぼつかない太古の昔、民族も国家も違い、交流も薄かった筈の地帯に見られる驚くべき共通点―、これを「照葉樹林文化」と名付けて体系化し、提唱したのが栽培植物学者の中尾佐助氏である。中尾氏は、地道なフィールド・ワーク(現地調査)を重ねて、人間の食文化・農耕と原生植物の分布を関連づけ、その世界的な体系化を試みたのである。その結果、人類文明の傾向は原生植物に起因しているという驚異的な結論を導き出したのである。氏は自説の体系を「種から胃袋まで」と記している。
照葉樹林は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強い。つまり、いくら樹を切っても自然の状態にもどせば砂漠化せず、やがて常緑の森林にもどってしまうのだ。昼なお暗い神秘の森のほとりに住んだ人々が、そこに神々の世界を見い出した所以もここにある。
中尾氏の学説について、宮崎監督は以下のように記している。
「読み進むうちに、ぼくは自分の目が遥かな高みにひきあげられるのを感じた。風が吹きぬけていく。国家の枠も、民族の壁も、歴史の重苦しさも足元に遠ざかり、照葉樹林の森の生命のいぶきが、モチや納豆のネバネバ好きの自分に流れ込んでくる。」(中略)
「ぼくに、ものの見方の出発点をこの本は与えてくれた。歴史についても、国土についても、国家についても、以前よりずっとわかるようになった。」(前述『世界/八八年六月臨時増刊号』掲載「呪縛からの解放―『栽培植物と農耕の起源』」)
宮崎監督は、この「照葉樹林文化論」に出会って、「人間と自然」という大テーマを語る際、「原生林と人間の関係」を描くことが最も根元的な問題と考えたのではないか。そして、自らの原点たる原生林を真正面から描いたという意味に於いても、『もののけ姫』は集大成的作品と言えるのではないか。
東北日本の源流たるナラ林文化
一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二〜十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。
中尾氏と共同研究を進めて来た佐々木高明氏は、このナラ林文化と照葉樹林文化の学説を民俗学・考古学と結びつけ、日本の根幹には東西別個の文化圏があったとしている。氏は、土器・方言・味覚などに広げて、東西の文化の違いについて興味深い分析を行っている。(NHKブックス『日本文化の基層を探る』)
『もののけ姫』は、ナラ林文化圏の蝦夷の少年と、照葉樹林文化圏の森林で育った少女が出会う物語である。少年と少女の出会いは、日本人の源流である二つの森林文化の出会いを描いたものでもあるのだ。
宮崎作品に見る照葉樹林文化の思想
「照葉樹林文化論」と宮崎監督作品の関連を以下、簡単に追ってみたい。
宮崎監督が、この「照葉樹林文化」論を最初に反映させた作品が『風の谷のナウシカ』である。この作品で宮崎監督は、最終戦争で荒廃した大地を必ず砂漠として描く西欧産SF(実際中東やヨーロッパでは森林が蘇生せずに禿山と化し、やがて砂漠化した)の逆説として、「腐海」という独特の生態系を持つ不気味な森林を作り出した。再生不能の砂漠でなく、森の自浄作用による再生を描く下りは、まさに森の民である日本人ゆえの発想の転換である。
『天空の城ラピュタ』に登場するラピュタを覆うもっこりとした大樹も、紅葉・落葉しない常緑樹であり、照葉樹のようでもある。ここでも、文明が消滅して無人化した地には原生林が茂るという発想が貫かれている。
『となりのトトロ』では、トトロの宿る塚森の大樹は照葉樹のクスノキであった。ついでに言えば、「樹と人は仲良しだったんだよ」と語る物わかりの良いお父さんは、何故か考古学者であった。この作品には、「日本人の心の故郷は、縄文の昔を彷彿とさせる照葉樹林なのだ」というメッセージがさり気なく込められていたのだ。
『もののけ姫』のメイン舞台となる「シシ神の森」はまさに照葉樹林であり、これは絵コンテでも強調されている。制作にさきがけて行われた屋久島へのロケハンも照葉樹林を肌で感じる意味あいが大きかったと言う。
また宮崎監督は、主人公アシタカの住む蝦夷の村の風俗・衣裳の参考にブータンや北タイの焼畑農民を参考にしたらしい。後述のように、蝦夷は縄文人の末裔と言われている。(『週刊朝日』九六年一月五・一二日合併号掲載・司馬遼太郎氏との対談)アシタカが粥をすする椀は、ブータンの携帯用小鉢に良く似ている。タタラ場の板を連ねて石を乗せた屋根にも、ブータンの古村にある家屋の影響が伺える。アシタカの衣裳は、同じ照葉樹林帯でも中国南西部のヤオ族の民族衣装に似ているようだ。
なお、ブータンは、照葉樹林文化の西端に当たる。最古の風習を現在に伝えている地であり、中尾氏のフィールド・ワークの出発点ともなった土地である。北タイ、中国南西部の風習も中尾氏の著作に詳しい。
自然の概念―里山か原生林か
映画『もののけ姫』は、一言でくくれば、人間が原生林を破壊して焦土と化した地に、奇跡的に緑が芽吹いて二次琳と里山が復活するという内容である。
これまでのスタジオジブリ作品で描かれた日本の「自然」は、主に里山である。それは水田と畑を含む風景であり、草木や川を人間が長年管理して作り上げた言わば人工の自然である。そこは二次林である雑木林に、痩せ地に強いマツやスギなどの針葉樹が植林され、クリやカキやモモなど果樹も豊富にある。適時農民によって管理され、下草が成長し過ぎることもなく、大樹は神として祀られている。明るい陽射しにあふれ、農耕の便に富み、散策や採集にも適した場所である。それは、自然と人間の共生の歴史が生み出した調和のとれた空間であり、「森の民」である日本人独特の文化である。だからこそ、懐かしく落ち着く場所なのだ。
高畑勲監督作品『おもひでぽろぽろ』では、この観点がはっきりと打ち出されている。人工の自然なればこそ、人はその風景を懐かしく思うのであると。『平成狸合戦ぽんぽこ』でタヌキたちの願いも虚しく消滅していく故郷も、やはり里山である。これらの作品では、日々数を減らして行く北と東の日本の里山が美しく表現されていた。原生林の乏しい現代日本にあっては、農村と里山が自然の代名詞なのだが、それすら滅ぼそうとする「エコノミックアニマル」のエゴは悲しいほど深い。
一方、宮崎監督の『となりのトトロ』では、周辺環境は見事な里山だが、トトロの棲む塚森は里山らしからぬ暗い「鎮守の森」である。位置的にはどう見ても里山であるが、宮崎監督の思いが原生林に近い森となったのではないか。里山には人やタヌキが棲んでいる。しかし、神の宿る恐ろしい森は照葉樹林でなければならないのだ。『トトロ』が、里山さえ乏しい現代を舞台に出来なかった理由の一つは、ここにあったのではないか。
人は、暗闇の原生林を伐採し、都合のよい改変を施して明るい里山を作り出して来た歴史を持つ。それは人間中心主義の観点からは懐かしく素敵な森であるが、自然本来の生命力の成せる森ではない。人間には恐ろしく凶暴なものであっても、本来の姿は神秘的な生命力の宿る闇の原生林なのである。
宮崎監督は、自然との共生思想の現実性に於いて、里山の大切さを充分認識しながら、一方で原生林征服という人間の大罪も描こうと試みている。本来の自然の征服から人の文明は始まったのである。同時に、「人と自然がどう関わるべきか」という大テーマもここから始まったのである。宮崎監督は、『もののけ姫』の制作に当たり「ジブリのこの十年の歩みを嘘にしないために作った」と語っているが、その真意もここにあったのではないか。
また、宮崎監督は、作中で北方の美しいナラ林と南方の恐ろしい照葉樹林、さらに懐かしい里山を明確に描き分けるため、五人の美術監督をわざわざ出身地域別にシフトしている。徹底的に文化圏の描き分けを行うことを意識した何とも贅沢な人選である。
余談ではあるが、東京都出身の宮崎監督が南方の原生林に憧れ、三重県出身の高畑監督が雑木林の里山(それも東北)を描き続けているのは、東西が逆転しているような気もして興味深いことである。 
2、,エミシの村
九世紀まで、東北地方は大和ノ国ではなかった。東北には大和の国境線があり、ここより北は「蝦夷」の統治する別世界であった。蝦夷とは、大和朝廷の侵略により歴史の彼方に消えてしまった謎の民族である。その生活形態・風習・文化水準などのほとんどが未だ解明されていない。
宮崎監督は、多くの研究成果や仮説を踏まえながら、独自のエミシ観に基づく創造世界を作り出している。もののけ姫・サンとも森を伐る大和人とも心通わせることの出来る主人公は、ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を持つエミシの少年でなければならなかった。
人目を忍んで森と共生するアシタカの村。作中の描写から監督の「エミシ観」を推察する。
蝦夷とは何か
七二〇年に成立した『日本書紀』は、東北に「夷の国」が在り、そこに「蝦夷」「毛人」などと呼ばれる野蛮な異民族が住んでいると記している。
『日本書紀』の『景行紀』には、「夷の国」に関する記述がある。それによれば、「住民は男女共髪を椎の形に結い、性格は勇敢で凶暴。村には族長がおらず、悪神や鬼がおり、大和の村々を襲っている。夷の中で最も強いのは蝦夷である。冬は穴で暮らし、夏は樹上に住む。毛皮を着て、獣の血を飲み、鳥のように山をかけ登り、獣のように草原を走る。矢を束ねた髪に隠し、刀を衣服に帯びている。辺境を犯し、作物を略奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。故に、昔から王化に従ったことがない。(抜粋・大意訳)」とある。これは四世紀頃、景行天皇が息子のヤマトタケルに蝦夷討伐を命じた時の言葉とされる。この頃すでに大和による蝦夷侵略が開始されていたのかも知れない。
また『斉明紀』では、六五九年に遣唐使となった斉明天皇が蝦夷の男女二人を伴って唐(中国)の皇帝に拝謁したと記されている。これには蝦夷を倭国の属国として、皇帝に認めさせる意図があった。皇帝にあれこれと問われた蝦夷は以下のように答えている。「蝦夷には三種類ある。遠き者を津軽、次の者を麁蝦夷、近き者を熟蝦夷と言う。私は熟蝦夷である。蝦夷に五穀の栽培はなく、肉を食べる。宿はなく、深山の樹の本に住んでいる。(大意訳)」と。
このように蝦夷の記述は、一貫して「農耕を知らない野蛮人」との評価だが、これには異国人への敵意と賤視を含めた誇張が含まれていたと思われる。「蝦夷」の当文字は、「蝦」はエビ(ガマガエルとする説もあり)、「夷」は大弓を示しているらしい。いかにも野性的表記で余り好意的とは思えない。実際には、大和に匹敵するほどの高度の狩猟・採集の文化圏を持つ部族であったと思われる。
稲作文化の東進を根拠として成立した大和朝廷は、様々な少数民族を侵略・吸収して膨張して来た。ところが、大和朝廷の勢力は、東北に及ぶに至り最大の障害に突き当たった。それが蝦夷であったのだ。
明確な国家を持たなかった蝦夷の各部族(各小国)は、対大和の戦争に於いて、統一戦線的連合体をなしていったと思われる。
隼人・熊襲・国樔・土蜘蛛
蝦夷と同様に、近畿以南には「隼人」、九州には「熊襲」という民族が在ったが、これらの諸族も大和によって併合された。
「隼人」と「熊襲」は同一民族だとする説が多いが、異民族説もある。民族の全貌は、蝦夷同様謎のままであるが、その起源をインドネシアなど南方系に求める説も多い。
また、蝦夷・隼人・熊襲は、いずれも野生動物を冠する文字で表現されている。これは、蝦夷の「蝦」は水棲生物の「水」、隼人は文字通り鳥であるから「空」、熊襲は陸上動物の「陸」をそれぞれ意味している―とする説がある。つまり、この三民族の当て字は、水・空・陸の世界構成要素を全てを天皇が支配したという権力神話的な意味が込められていたのではないかと言うのだ。この説からも、大和の侵略的側面が見てとれる。
一方、これら地域定住型で国家らしきものを形成していた民族とは別に、
各地に散見された民族もいた。「国樔人」(『日本書紀』の『応神紀』に記載)、「土蜘蛛」「佐伯」(『常陸国風土記』に記載)などがそれである。
いずれも、大和とは異種の文化圏を持ち、山に住んでいた非稲作(特に水田)民らしい。これらの諸族も失われた民であり、実体はよく分からない。
このように、古代日本には多種多様の民族が併存していたのである。中でも、朝廷に対する最大級の抵抗闘争を繰り広げていたのが蝦夷であった。
征夷政策と蝦夷の絶滅
六世紀頃までは、蝦夷の一部は大和と属国関係を結び、平和的交易も行っていた。しかし六四五年に「大化の改新」が起き、六五八年には阿倍比羅夫らによる蝦夷征伐(征夷)が行われる。さらに、八世紀に律令国家が成立するに至り、大和は蝦夷に対する侵略政策を飛躍的に強化していく。差別的待遇(奴隷的使役)や領土侵略(村の焼き討ち)などに対して蝦夷の諸族の不満が高まり、ついに武装蜂起が起きるようになる。一方、国境では蝦夷側の亡命者や難民が相次いで流入して来た。これに対し、律令国家は、「城柵」を東北各地に設置し、侵略の前線基地と出張官庁を兼ねた業務を行わせた。七三七年には要所である多賀柵(宮城県多賀城市)が築かれた。これが七八〇年には多賀城となる。
七七四年律令国家は、ついに二万七千人の大軍を派兵して征夷の大戦争を開始した。以降、八一一年の沈静化に至るまで三十八年間もの間、大和対蝦夷の戦争は続いた。当初は、蝦夷の騎馬を駆使したゲリラ戦術に壊滅的打撃を受けていた征夷軍であったが、七九四年の十万人の大軍を派兵した掃討作戦などにより攻勢に転じ、勝利を手中にした。この結果、日高見国周辺(現・岩手県)の蝦夷は滅亡の道を余儀なくされたのである。
当然だが、蝦夷の戦力や人口は小規模であった。徹底抗戦の意志と巧みな戦略抜きに、戦闘の長期継続は不可能であった。この史実から蝦夷の優秀な組織力や戦闘力を伺い知ることが出来る。三十八年戦争を闘った蝦夷を指揮していた者は「アテルイ」という名であった。八〇二年、アテルイは大和の和平勧告に応じて一族五〇名と共に生命を保証された捕虜として入京したが、だまし討ちに合って河内で斬り殺された。当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、後に「征夷の英雄」として語り草になっている。
更に時代が下り、平安時代になると安倍氏が東北一円を支配し、ついには朝廷軍と闘って勝つという「前九年の役(一〇五一〜六二)」が起きる。安倍頼時は一時和平に応じたが、息子の貞任・宗任兄弟は再び反乱を起こし、一〇六二年源頼義に討たれるまで抗戦を続けた。
さらにその後、安倍氏と縁故関係にある清原氏が勢力を伸ばし、一族間の闘争が激化し「後三年の役(一〇八三〜八七)」が起きた。源義家がこれに介入して鎮圧したことから、源氏の東北支配が始まったと言われる。この安倍氏・清原氏が蝦夷の末裔と言われる。この事件以降、蝦夷の影は歴史から姿を消してしまう。
このように、蝦夷は一貫して「伏わぬ民」であった。大和(日本)の他民族侵略=単一民族化への衝動は、この蝦夷征伐に端を発し、近世史の蝦夷(アイヌ)地侵略、琉球(沖縄)処分、更には現代史の朝鮮・中国侵略と触手を広げて行くのである。
作中、蝦夷の長老が「朝廷との戦に破れて五百年余」と語るシーンがある。室町時代という設定から逆算すると、その戦とは「前九年・後三年の役」のことを示すと思われる。アシタカは安倍氏か清原氏の末裔か、あるいはそれに加勢した部族の末裔なのかも知れない。
縄文人の末裔としての蝦夷
蝦夷の起源を縄文文化を引き継ぐ民族とする説は多い。
狩猟と採集を主軸とした縄文文化(農耕の可能性も指摘されている)は、朝鮮からの渡来人たちの持たらした稲作を中心とする弥生文化にとって代わられた。それは異民族支配によって急激に成された文化の転換であった。安定した食料によって人口は爆発的に増え、西日本には豪族が集結して国家が出来、その勢力圏を拡大した。縄文文化は野蛮で遅れた文化として屈服と同化を迫られ、その文化圏は北や南に追いやられてしまった。つまり、隼人・熊襲・蝦夷ら山民の平定は、渡来人による縄文人弾圧の歴史であったとする説である。そして、弥生文化圏が日本を制圧していくのである。
これを裏付ける事実として、北端のアイヌと南端の琉球には今尚、縄文文化と共通するアニミズム信仰や狩猟・漁労・採集の風習(特にアイヌは非水田農耕文化が主流であった)が残されていることがしばしば挙げられている。彼らは現代史にあっても独自の文化圏を持つがゆえに、依然として日本政府の差別政策にさらされている民族であることも不変なのだ。
この縄文文化と弥生文化の差異は、各地の遺跡で発掘されている人骨などから人類学的にも証明されている。顔の形では、縄文人系は堀が深く鼻筋が通っている。これは「古モンゴロイド」と言われ、亜熱帯の東南アジアによく見られる。弥生人系は、長円型の輪郭で一重瞼、低く丸い鼻を持つ。これは、寒冷地に対応した「新モンゴロイド」と言われ朝鮮・モンゴル・中国によく見られる。日本人には、この二種が混在していると言われている。二千余年に及ぶ混血が進んだ現在でも、「古モンゴロイド」系の顔を持つ人々が関東・東北地方、「新モンゴロイド」系の人が関西・中国地方に多いと言われる。他にも体毛の薄(新)・濃(古)、耳垢の乾(新)・湿(古)など様々な特徴が挙げられる。
蝦夷の起源については、有力なアイヌ説から北方渡来人説、白人説まで様々あるが、その生活形態や遺跡などから判断して、縄文人の末裔である可能性が高い。誇り高き山の民、原日本人と言えるかも知れない。
主人公・アシタカは、作中で勇猛果敢な正義漢として描かれる。彼は、縄文人の末裔であるが故に、大和人が失った自然崇拝に長け、驚異的な体力・知力を発揮出来るのではないか。そこには、宮崎監督の失われた縄文文化人への熱い思いが伺える。
また、「毛人」と言われたように、蝦夷の男性は長い髭をたくわえた者が多かった。これはアイヌ文化とも共通している。作中の男たちも長い髭を生やしている者が多く見られる。アシタカの眉も濃い。
蝦夷の王権
縄文時代には、巨大権力はなかった。弥生時代において、西日本から急激に権力の集中が起きるのである。巨大な方形周溝墓の建造、大量の甕棺製造など、王の権力を示す墓作りのために多くの森林が姿を消した。森林が残っていた地域では木棺を使用したと言われる。
続く古墳時代には、前方後円墳に代表される巨大墓建造が各地で行われる。しかし、それは関東地方が東端で、東北地方には巨大墓が作られなかったのである。
アシタカは、ある部族の王(族長)の子息と言われる。しかし、蝦夷には王はいなかったと言われている。それは、巨大墓や部族抗争を示す武器類が発掘されていないからである。つまり、朝廷や豪族のように巨大な権力を公使する王がいなかったと思われる。小さな部族による自給自足の共同社会であったのだ。
王(族長)は信頼を得ていたであろうが、民衆と同じように貧しかった。他人の搾取による富の集積が行われなかったために、王と民衆の差別化が起きず、権力をめぐる血生臭い抗争も起きなかったのであろう。アイヌにも巨大な王権はなかったと言う。
作中のアシタカの村も、巫女や長老による合議制社会と思われ、絶対権力者は見当たらない。アシタカは王なき国の王子だったと言うべきか。
それは、漫画版『風の谷のナウシカ』のラストで、王政を廃止してトルメキア国の指導者となったと伝えられる女傑・クシャナにも通じる思想である。
隠れ里と椀貸伝説
アシタカは「隠れ里」の村に住んでいる。「隠れ里」とは何か。
古来、人間が到達出来ない深山の奥地や、水底にあると伝えられる異世界は「隠れ里」として伝えられて来た。
人寄せで多くの椀が必要な時に、池や淵に行って頼むと貸してくれるという「椀貸伝説」は全国にある。貸し主は不明なままか、龍神、蛇などの水神の場合が多い。隠れ里から取って来た椀を持っていると幸福になるという伝説もある。『浦島太郎』の竜宮城も、この類型である。
近世には、次のような隠れ里の記録があると言う。「山奥から機織りの音が聞こえたり、川の上流から米のとぎ汁や椀が流れて来て、その存在を知った」、あるいは「狩りに出かけて偶然見つけた」など。いずれも、再び行こうとしてもたどり着けないという例が多い。
隠れ里は空想上の地ではなく、実在の村を元にした伝説だとも言われる。
それは平家の落人の末裔であるとか、縄文時代の末裔たる山民であったなど、諸説ある。山形県と新潟県の県境、岩舟郡朝日村奥三面はかつて隠れ里と言われたそうだし、他にも地名に「隠里」と残る地域もあるようだ。
もし、東北地方の辺境のどこかに隠れ里が実在したのであれば、それは「蝦夷の末裔が落ち延びて住んだ村」であった可能性も考えられる。
また、何故か椀にまつわる伝説が多いが、人里では見慣れない特殊な形の椀だったのであろうか。とすれば、アシタカの椀が特殊な形をしているのも、「幸福伝説の元になるような」という描写意味があったのかも知れない。
アワとヒエ
アシタカの村には石垣で囲われたアワとヒエの段々畑が描かれている。これは、山の急斜面を苦心して開拓した畑であり、平地に住むことのできない虐げられた民であることを感じさせる。おそらく焼畑農業であった筈だ。
粟と稗は、最も歴史の古い雑穀である。この村はアワ・ヒエ、そば・ムギなどの雑穀を主食としていたと思われる。それは稲作伝来以前の照葉樹林文化の典型的な食文化である。
アワやヒエは砕いて臼でつき、餅状にしたものを蒸して食べる(チマキのようなもの)か、粥(シトギと言う)にして食べる。これは、中国中部や北タイ、台湾などの照葉樹林帯に広く分布する調理法である。南九州の五木村でも、一九六〇年代まではソバ・ムギなどと共にアワ・ヒエを食べていたことが確認されている。
なお、作中アシタカがヤックルに与える餌は絵コンテによれば、「ムギ」とあるので、やはりムギの栽培も行っていたのであろう。
鹿ト
西村真次氏の著書『万葉集の文化的研究』によれば、「占い」の語源は、ツングース語のトナカイを意味する「Ula」であり、つまり日本では鹿を意味したと言う。中国東部からシベリアに分布した北方騎馬民族ツングース系民族は、古代日本に多大の文化的影響を及ぼしたと言われる。(ツングース系民族が弥生時代に渡来して、大和王朝を築いたとする説もある。)
古代日本には「鹿ト」「太占」と呼ばれる占術があった。鹿の肩甲骨や肋骨の表面を剥いだ上に、火をつけた小枝か焼火箸を突っ込んで、その亀裂を見て占うのである。鹿トは、中国・朝鮮から伝わった亀の甲羅を焼いて占う「亀ト」よりも更に古い歴史を持つと言う。
人里近くの森に棲む鹿は、古代から祭祀と関係が深い。弥生時代に作られた謎の神器・銅鐸にも「鹿紋」と呼ばれる鹿の絵が刻まれている。後述のように、鹿は神として祀られていたのだ。
作中蝦夷の村で、ヒイさまがアシタカを占う際に使うのも鹿角と鹿骨である。火を使わず鉱石や木片と併用して放るという特異な占いだが、これも鹿トの一種(運命判断や方角占いの類か)と思われる。
アシタカは、鹿の骨が示した方角に趣き、鹿の神に逢ったことになる。
鉄はなかったのか?
作中の蝦夷の村には、石段作りのアワ・ヒエ畑が描かれている。弓矢の鏃も石製であり、石加工の技術が盛んな風習があると思われる。しかし、これを短絡的に「その風俗には、古のまま、時がとまってしまったかのような(『月刊アニメージュ』九七年四月号)」などと解釈していいのだろうか。
史実に照らせば、蝦夷は高度な鉄加工技術を持っていた。東北地帯の製鉄は、砂鉄ではなく磁鉄鉱を用いたものが盛んであった。中国・朝鮮からの鉄鉱石(近世には「南蛮鉄」と呼ばれた)や加工品された鉄器の輸入も行っていた。
「蕨手刀」と呼ばれた蝦夷特有の内反り型短刀も鉄製であった。アシタカの刀も鉄製ではないか。蝦夷は騎乗して短刀で相手を突く接近戦と、中距離から弓矢で射る戦法が得意であった。その戦力は歩兵十人分に匹敵する強さだと言われていた。
「隠れ里」に住むようになって、鉄とは無縁の生活を余儀なくされた末に石器主流の文化に逆行したのか、あるいは鉄は貴重品として珍重されていて、農具や加工器具にしか使われなかったのか。大木を伐採して組んだ監視櫓などの土木建築、狩猟や農作業、調理、衣料品加工など、いかに自給自足とは言え、その生活水準は鉄器が皆無とは思えない。
また、アシタカの携帯する木椀も、轆轤か彫刻刀などの鉄器で加工されたものと考えた方が自然だ。先代から伝えられたものか、里で秘密裏に交換したものか、いずれにせよ珍品のようだ。漆塗りの赤はアイヌ文化を彷彿とさせる。(椀を携帯する風習は前述のようにブータンにもある。)
いずれにしても、鉛玉=鉄滓を知らないことから、「鍛冶はあっても製鉄技術はない村」と解釈すべきではないか。尤も、人目を忍ぶ目的の「隠れ里」で派手に火を焚く製鉄作業が出来る筈はなく、技術は先祖が放棄(または禁止)したとも考えられる。
石の信仰
アシタカが占いを受ける寄合小屋には、壁から突き出た岩石が「御神体」として祭られている。彼らは石を信仰する民族なのだ。
柳田國男氏によれば、石神信仰には石を神の依代・磐座とする信仰と、石そのものに精霊が宿って霊異を示す信仰に二つの系統があると言う。石神は東京の「石神井」の地名に明かなように、「シャグジ」とも呼ばれていた。全国にある石の地蔵が将軍塚と呼ばれることが多いのは「シャグジ」の語源に由来するという説もある。石神や地蔵塚は、土地の境界線、生死の境界線(死者供養)などの「境」の役割があったする説もある。
『日本書紀』の『斉明紀』によれば、六五七年に斉明天皇が蝦夷の使いを「須弥山の像」という石の像を作ってもてなしたとある。その場所は現在の石神遺跡(奈良県)に当たる。仏教的石神を与えることにより、下級民族を教化する意味があったという説があるが、これも「貴賤の境」の意味があったのかも知れない。あるいは、蝦夷に石神信仰が盛んだったのか。なお、作品の舞台となった出雲にも、石神を祀った神社がある。
作中に引きつけて解釈すれば、大和との「境を護る」意味で石神を祀っていたとも考えられるし、金属器に頼らない石の文化そのものを祀っていたのか、あるいは縄文文化的自然信仰の類であったのかも知れない。
渦状紋と靭皮の衣服
作中の蝦夷の村には、上下左右四つの半円を直線で結んだシンボルマーク的な模様が多く用いられている。この渦のような紋にも何らかの含意があるのではないか。渦巻紋や卍型紋は、アイヌやロシアの女真族の衣裳に多いと言う。
アシタカの救出に駆けつけた男は、この紋をあしらった木の盾を持っている。この形状は、隼人が用いたと言われる「隼人盾」に似ている。隼人盾にも渦巻紋が描かれているが、これは雷を示すという説がある。
巫女のヒイさまの着物にも同じ紋が見られるが、これは刺繍か染め抜きか、それともアップリケか。アイヌには「ルウンペ」と呼ばれるアップリケの技術がある。作中の紋も「ルウンペ」によるものかも知れない。
着物自体の素材は、アイヌの衣裳「アトゥシ」に習えば、植物の甘皮「靭皮」から織り出したものと考えられる。「アトゥシ」は、アイヌ語で「オヒョウ(ニレ科の木)」の意である。沖縄には、同様の靭皮繊維で織った芭蕉布がある。いずれも非養蚕民の文化である。アシタカの村も靭皮繊維の文化があったのではないか。
一方、宮崎監督が参考にしたと思われるブータンにも、どてらのような「ゴー」と呼ばれる着物があり、現在も着用されている。尤もこちらは、シルクロードの影響下で養蚕も盛んであり、木綿または絹製である。
また、作中の衣裳は男女共、紺系で黒っぽい。これは、「藍染め」ではなかろうか。藍の原種であるリュウキュウアイは沖縄・九州から南方の照葉樹林地帯に多く生えており、栽培もされていた。新種の藍が自生していたのか、あるいは、特殊な交易ルートがあったのかも知れない。
以上は憶測も含めての展開であったが、衣裳の不明な蝦夷の風俗を実在の民族衣装を基に発展させた監督の苦労が偲ばれる。
黒曜石のナイフ
アシタカの出立に際して、妹カヤは黒曜石のナイフを手渡す。それは、結婚の際に乙女が変わらぬ心の印に異性に贈る「玉の小刀」であると言う。カヤのアシタカへの思いの深さを知ることが出来る。
火山付近で多く発掘される黒曜石は、切り口がガラス状に裂けることから神秘的な印象を受ける。縄文時代中期、黒曜石文化が各地を覆っていた。黒曜石は、鏃、呪術具、アクセサリーなど多くに加工された。採掘出来ない地方では、貴重品として扱われていた。
黒曜石は、北海道十勝岳、中部日本の和田峠、九州の姫島・阿蘇山を三大産地として、ここから半径二〇〇キロ範囲で出土している。これは、縄文時代に広範囲の交通路が存在し、黒曜石の大交易が行われていたことを示している。
蝦夷が、東北には貴重な黒曜石を宝として扱うのは、あり得る話だと思われる。黒曜石文化は、宮崎監督が敬愛する考古学者の藤森栄一氏の著書にも詳しい記述がある。
「見送りしない」という掟
ヒイさまは、アシタカに「掟に従って見送りはせぬ」と告げる。死出の旅路であるからか、「隠れ里」を出る者だからか。アシタカは結局戻らないのだが、一度出た者は戻れない掟なのであろう。
蝦夷の中には、古くから大和への帰化・同化をする部族が多かった。武力で恫喝され、やむを得ず同化した者も多かったが、利害関係で自ら同化した者も多かったらしい。稲作による安定した食料や、都文化への憧れもあったのだろう。夜逃げ同然に深夜村を出て行った者もいたのではないか。
そして、同化蝦夷たちは朝廷の征夷の際に動員され、ある者はスパイとして出戻り、ある者は侵略兵として同族に弓を弾く役割を負わされるのだ。昨日の隣人が今日は自分を殺しに来る。蝦夷の経験して来たこの悲惨な歴史が、一度大和の地へ旅立った者は戻らない→大和の地へ旅立つ者は見送らない、出発は深夜に限る、そういう掟を作り出したのではないか。
アイヌには、「和人(シャモ)に化かされるから和人の里に近づいてはならない」という類の伝承がある。和人との交易で酷く欺かれた経験があったのだ。これも、苦い教訓が伝承となった例と思われる。
沖縄には、自殺した者は一族の墓に埋めてもらえない―つまり沖縄に還れないという風習がある。自ら死を選ぶことは「生き抜け」という先祖の意志に背くことになるからである。アシタカの場合には生きんがための旅立ちであるから逆であるが、同族保存の意志に背く行為が歓迎されないという掟の構造は似ているように思う。
ヤックルは獅子か
作中では、蝦夷について「北に赤獅子にまたがる鬼あり」という噂が語られていたが、「赤獅子」こと「ヤックル」の存在は監督の創作である。多くの設定を史実や民俗学に依っている本作にあって、ヤックルの存在は一際異色であり、ファンタジックである。しかし、「赤獅子」の仮面を被って豊穣や好天などを祈る「獅子舞」の儀礼は日本全国にある。その起源は中国ともインドとも言われるが、よく分からない。
なお、蝦夷のいた東北地方には「鹿踊」の風習がある。これは獅子面をつけた踊りであるが、起源は鹿頭をつけた踊りであったらしい。儀式として定着したのは近世以前らしいが、農耕儀礼との関連が不明な地域もあり、もとは蝦夷の狩猟儀礼と何らかの関係があったのかも知れない。
「獅子」はライオンのことではなく、河童や鳳凰などと同様の架空の動物と言われている。だが、麒麟や鵺などと違い、何体かの異種動物の混在した露骨な想像動物ではない。何らかの実在動物が原型になっている可能性が高い。獅子面は、大きな瞳と鼻穴、角(または尖った耳)が二本生えた赤面が特徴である。その風貌は、作中のヤックルに近いと思えなくもない。宮崎監督は、ヤックルを獅子信仰の原型動物という大胆な発想に基づいて登場させたのではないか。
このヤックルが登場したのは、宮崎監督が中央アジアを舞台として描いた絵物語『シュナの旅』が最初である。ヤックルが個体名なのか、種族名なのかは不明である。
実在の同類種ではガゼル、ボンテボック、オリックスの仲間が近い形をしているが、いずれも1メートル前後の中型種で人が乗れるような動物ではない。ウォーターバックは二メートルを越えると言うが、ずっと短足である。このような偶蹄目ウシ科の大型動物に乗って疾走する民族はおそらくいない。つまり、ヤックルはガゼルと馬を足したような(『ナウシカ』のトリウマのような)架空動物である。
宮崎監督は、漫画版『風の谷のナウシカ』でもガゼルを登場させ、映画『天空の城ラピュタ』ではヤクを登場させるなど、ウシ科の動物に特別の愛着があると思われる。ウシ科にはハーテビーストなどの絶滅種が多いからかも知れない。 
3、室町時代の民衆像
『もののけ姫』の舞台は室町時代の中期頃ではないかと思われる。この時代は、南北朝の動乱を経て戦国時代へ至る歴史の大転換点に当たる。朝廷の威光も幕府の権力も零落し、「下克上」に代表される戦乱と混沌の中から戦国大名が頭角を現す時代である。一方、技術と道具の発展により生産力を拡大させた農民たちは「惣村」制度によって団結し、やがて土一揆が吹き荒れた時代でもある。
念仏教の時宗や浄土真宗、禅宗など民衆救済を目的とする新宗教の普及、「書院造」などの建築技術の発展、味噌と醤油と炊飯米という食事メニューの確立、そして能や狂言に代表される芸能と、腐敗し切った中央政治に逆行して文化・学問・宗教・産業が怒涛のごとく開花した時期でもある。これらの文化が、現在に連なる日本の骨格を形成しているのである。
以上のような特徴が、従来語られて来た中世の歴史観である。しかし、ここには決定的に欠けているものがある。
庶民の使う農具・日用品・衣料品・木材・装飾品、武器・鎧などはどこで誰が作っていたのか。米以外の畑作・畜産・養蚕農家の製品や、山海食品はどのようにして普及したのか。それらの加工食品を生業とする者はなかったのか。能や狂言などの芸能は、農民の生活から突然生まれたものなのか。これらの現実的諸問題は、「水田耕作農民と侍」という二元的民衆観では解決出来ない。
網野善彦氏の著作に代表される最近の中世研究によって、民俗学・考古学と合流した新しい中世史の体系が明らかになっている。特筆すべきは、稲作農民に代表される平地の「定住民」とは全く別の生活圏を持つ「遍歴民(山民・海民・芸能民など)」が膨大に存在していたという史実である。
『もののけ姫』は、この遍歴民たちの世界で展開される物語である。それは、日本映画で初めて中世史をアウトサイダーの側から描くという、「時代劇の革命」を意図したものであった。
供御人制度と自由な遍歴民
中世の遍歴民は、以下の二つの傾向に大別出来る。
第一に、多種多様な職能民である。
塩作(製塩)、牧童(畜産)、馬借(運送)、木こり、木匠、細工、鎧師、炭焼、轆轤師(木地屋)、鵜飼などと呼ばれた人々。これらの一部は「座」と呼ばれた大規模な職人集団を構成し、各地で工業プラントを組んで資源と共に遍歴し、あるいは船団を組んで流浪し、それぞれ機動力のある商売を展開していた。運搬は、海路・河川路を縦横に開拓し、海外との交易も頻繁であった。これらの職能民は「市」と呼ばれた定期的なマーケットに出荷し、自ら営業・販売を担い、中には巨利を得て金貸しに転じた者もあった。中でも後述するように、武器・農具・鍋釜を製造する製鉄民、「鍛冶」「鋳物師」は特殊な位置を占めていた。
第二に、芸能民や宗教関連業である。
猿楽・傀儡子・遊女・白拍子・桂女などは、特別な祭事などに招かれて特殊な歌や踊りを披露する集団である。これには女性が圧倒的に多かった。占いを行う巫女、仏師なども古代から多数いたと言われる。
これらの職種にある人々は、平民が持たない特殊な技能を持つことから、神仏・天皇の使いと見なされる傾向にあり、「神奴」「神人」「寺奴」「寄人」「供御人」とも呼ばれ崇拝されていた。朝廷や大神社は彼らを庇護し、彼らへの危害は法で処罰されたのである。朝廷は、彼らを天皇直轄の民と認めて、海路・陸路共自由な往来を保証した。(平民は「関銭」など交通税を支払う義務があった)課税も免除され、給免田畠(年貢なしの自由耕作田)を与えられ、食料も補償されていた。
これは「神人・供御人制」とでも言うべき特権制度で、鎌倉時代に確立した「御家人制度」と並ぶ中世社会の大きな柱であった。
古来日本には、「俗世以外は全て神の世界」として崇める汎神論とアニミズムがあった。人里離れた薄暗い森には動物や木々の神々が、海や河川には死んだ人間たちや水棲・海洋動物の神々がいる―として、それぞれの神々を祀る習慣があった。よって、山海に出入りして特殊な食品や製品を作り出す職能民や、死者や神の世界を代弁する芸能民が「神界と人間世界の境界線を行き来する人々」として神聖視する宗教的傾向があったのは当然とも言える。
しかし、室町時代になると多くの遍歴民が社会的地位を失ってしまう。それは、南北朝の内紛に大きな要因がある。また、相次ぐ戦乱と貧困、急速な貨幣経済の到来などが功利主義を第一義に押し上げ、宗教的職業の価値を押し殺してしまったとも言われる。その趨勢は、群雄割拠の戦国時代を迎えて決定的となる。それはアウトサイダーを社会の底辺に押しやる「穢れ」の思想であった。
一方、職能民の中には大商人や金貸しとして社会的に成功した者も現れた。これを、日本の資本主義化の第一段階とする説もある。
以上のように、室町時代中期から末期(戦国時代)は、遍歴民が威光を失い始めた境目の時代でもあったのだ。
女性職能民・芸能民の活躍
中世の職能民・芸能民の特色は、何よりも女性が多いことである。室町時代の女性は、自ら新職を興して経営を担うほど自立的で、たくましく活発であったのだ。
その職種たるや膨大である。
まず、以下のような職種に女性が目立つ。山海の産物を扱う魚売、心太売、農産物や加工食品を売る酒作・餅売・麹売・米売・豆売・豆腐売、繊維製品を扱う紺掻・機織・帯売・縫物師・組師・摺師・白布売・綿売、化粧品や手工業製品を扱う扇売・白物売・挽入売・紅粉解・燈心売・畳紙売・薫物売、など。いずれも、販売・営業だけでなく、生産工程まで女性が担っていたようだ。
また、宗教・芸能民である白拍子・曲舞ゝゝ・持者・巫・比丘尼などの女性芸能集団もあった。これらの集団は、船を居として移動しており、代表者・経営主も女性のケースが多かったらしい。
平安末期以降には、重労働である炭焼の女性集団である小原女も確認されている。当時の炭は専ら製鉄の燃料に使用されていたことから、炭焼と製鉄は一体の職種と見る向きもあり、製鉄民の女性集団が実際にあったことも考えられる。
前述のように、炊飯米と野菜のおかずという典型的和食の調理法が確立されたのは室町時代である。醤油と味噌の二大調味料、餅・うどん・芋などの間食が一般に広く普及したのもこの時代なのだ。その影には女性職能民・商人の活躍があったと思われる。作中、ジコ坊が粥に味噌を入れて煮るシーンがあるが、これは味噌の普及という史実を反映させたものである。
更に、各種の訴状記録には女性が商売上の権利を巡って訴えを起こした例が数多く残されていると言う。おそらく、旦那より社会的地位が高く稼ぎが多い既婚女性もザラであったろう。
これらの例は、遍歴民女性が農村よりも解放された立場で社会進出していることを物語っている。逆に言えば、封建的差別の支配する農村から逃散して遍歴民になった女性が多かったとも解釈出来る。また、これらの女性集団が自衛武装していたのかどうかは不明だが、一説には近現代と価値観が違って自衛の必要がなかったのではないか(あるいは政治的に保護されていた)とも言われている。中世の絵巻物には無防備な女性の一人旅の姿が多く描かれていると言う。
ともあれ、『もののけ姫』に登場するエボシ御前のような有能な女性指揮官や、おトキのような男勝りの快活な既婚女性は、この時代にはたくさんいたと考えられる。室町時代には、女性職人や女性商人たちが軒を連ねた大マーケットが存在していたのである。
「職人歌合」に描かれた女性たち
宮崎監督は室町時代の女性について、以下のように語っている。
「女達も『職人尽しの絵』にあるように、より大らかで自由であった」(演出覚書)「街頭で物を売っているのは女たちです。男と女の力関係のようなものは、江戸時代に作られた関係がいつの時代でも同じだと思い込んでいるところがあるんですけれども、室町時代の女たちはもっと自由でかっこいいですよ。」(九七年三月十日、制作発表記者会見での発言)
「職人尽絵」とは、十六世紀中期(安土桃山時代)以降の作品で、職人たちを描いた屏風絵などであるが、監督の指すものは中世に描かれた「職人歌合」のことであろう。室町時代には著名な『三十二番職人歌合』『七十一番職人歌合』の二作品がある。それぞれ室町時代の中・後期に描かれ、様々な職人たちが職業に則した歌を交わす構成となっている。『七十一番職人歌合』には、何と百四十二人もの職人が登場する。しかも、女性が大変多い。作中に登場する女たちの性格や衣裳は、この絵巻に触発されたものと言える。
作中に登場する米売やタタラ場の女たちは、皆頭に白い被物をしているが、これも史実と一致している。白い被物は「桂包」または「桂巻」と呼ばれるもので、その起源は桂女の格好である。
桂女は、元は鵜飼であったが、何らかの理由で芸能民に転じたとされる。鵜は、水に潜って魚を捕ることから「水=神界」と「地上=俗世」を繋ぐ聖なる鳥と考えられており、鵜飼も神の使いとして扱われていた。桂女は特殊な結び方の白い布を頭に巻いて、その上に鮎を入れた桶を乗せて売り歩いていた。これが、市庭に出入りする女性商人に広まったらしい。これは遍歴民女性特有のスタイルだったようだが、後世の花嫁の「角隠し」の起源となったとも言われている。
作中の女たちが着ている身幅が広く袖が短い着物は、「小袖」と言われるもので、質素で活動的な生活に適していて無駄がない。また、エボシ御前が着ている扇模様の染め抜きを施した小袖は、扇売が多用した「扇散らし」と言う染型である。これらは、中世の女性職人の典型的なファッションである。
なお、織豊政権期から近世以降の「職人尽絵」では女性職人が激減していることから、女性の社会的地位が他の遍歴民と共に下がってしまったのではないか、とする説もある。
婆娑羅の風
一方、「婆娑羅」と呼ばれた派手な模様の衣裳も流行していた。この種の美装は特権ある民にしか許されていなかったが、地侍や悪党・盗賊などに非合法で流行した。その起源は、刑期を終えてから使庁職に従事する元罪人が、派手な装束と異様な形の棒を持たされて平民と区別されたことに由来する。「放免」と呼ばれたこの人々には特別な資格が与えられていたらしい。
各々が勝手に派手な衣裳をまとった盗賊連合は、さぞかし異様な迫力があったことだろう。同時にこれは、既に幕府や朝廷に悪党を取り締まる力が無くなっていることを象徴している。室町時代には「婆娑羅大名」と呼ばれた、悪党の成り上がりも多数出現した。
暴力・略奪・退廃の象徴として流行した婆娑羅は、時代の境目に吹いた荒々しい風であった。作品に登場する小悪党の地侍たちの無秩序な装束にも、婆娑羅の影響が見てとれる。
しかし、宮崎監督によれば、「エボシ御前そのものが婆娑羅だ」と言う。監督は「バサラの気風、悪党横行、新しい芸術の混沌の中から、今日の日本が形成されていく時代」(前述『演出覚書』参照)とも記している。監督の婆娑羅についての解釈は、必ずしも「悪」(悪は強者の意とする説もある)一辺倒ではなく、混沌とした社会秩序を破壊して独自の体系を打ち立てるという、革命的なイメージも含まれているようだ。

作中には、様々なタイプの笠が登場する。
蝦夷の村では、女の子たちが中央の尖った「市女笠」らしき笠をかぶっている。市女笠は、中世の女性が外出によく使用した笠だ。「市女」とは古くは女性商人の意味であったと言う。ただし、市女笠は山の先端が平らなものが多いが、これは尖っているので、あるいは別の笠かも知れない。
ゴンザ率いるワラットたちは、頭部全体を覆うような三角形の大きな笠をかぶっている。これは、「苧屑頭巾」と呼ばれた猟師・鷹匠用のカラムシ製頭巾や、「猟師笠」に似ている。
エボシ御前の笠は「韮山笠」を朱に塗ったもののようだ。
「韮山」とは、静岡県田方郡の町名であり、幕末に製鉄用の反射炉があった地である。砲術調練が盛んであり、砲術士専用の笠が開発された。それが韮山笠である。本来は黒漆塗りだと言う。当然、室町時代にはなかったと思われる。
砲術士でもあるエボシ御前の笠は、韮山笠の原型という解釈ではないだろうか。
刀剣の流行
室町期の刀剣には特色が多い。
南北朝時代には、権威を示す大ぶりの太刀が流行したが、次第に機能優先の小ぶりの先反り刀に取って代わられた。特に、抜くと同時に斬ることを目的として、刃を上向きにして腰に刺す「打刀」と、短刀の「脇差」が流行した。殺傷力に優れた打刀は、戦乱の時代を物語っている。
中期以降になると武器の需要が急増し、「束刀」と呼ばれた粗悪な量産品が出回る。一方、戦国武将の依頼で作られた「注文打」と言われる名刀も多く生まれた。伊勢の「村正」、美濃の「兼定」「兼元」などである。
作中の地侍たちは、流行遅れの太刀や束刀を使っていると思われる。
また、地侍たちは薙刀も扱う。薙刀は室町中期に最も多く使われた武器である。振り回すことで殺傷する薙刀には、特別の技能が必要だ。この為、戦国時代には、薙刀に代わって槍が大流行する。槍は体重をかけて突くだけなので誰にでも扱える武器であった。
各武将たちは、これらの武器の安定的確保のために、どうしても製鉄民や鍛冶を取り込むことが必要であった。
アサノ公方は浅野氏か
各地の戦国大名は、鉱山と製鉄民の獲得を競ったと言う。
作中には、地侍たちの黒幕として「アサノ公方」なる侍大将がいると語られる。実体は不明であるが、エボシタタラの経営権を独占しようと狙っている。地侍たちは、エボシ御前がシシ神殺しに出陣した隙に、攻略戦を仕掛けるわけだが、これが朝廷や幕府と密通した作戦なのか、独自の諜報ルートがあったのかははっきりとしない。
いずれにしても、まだ正式な軍を組織し得ていない新進の戦国大名と思われる。(尤も舞台が室町中期以前だとすれば「戦国」とは言えないが)
この「アサノ」は、史実に照らせば尾張(愛知県)の浅野氏と受け取れる。
浅野氏は清和源氏の子孫で、美濃(岐阜県)で氏を興し、後に尾張に居を移して織田・豊臣に家臣として仕えた。室町末期から安土・桃山時代には有名な武将・浅野長政(一五四七〜一六一一)がいた。長政は、秀吉の五奉行の首座を務めた。その子、幸長(一五七六〜一六一三)は、徳川時代に紀伊(和歌山県)に封ぜられ、後代には広島藩の藩主となった。忠臣蔵の舞台となった赤穂は浅野氏分家の城下であった。
実在の浅野氏は、後世に亘って西日本を支配したことから、当時すでに尾張から出雲に手を延ばしていた可能性もある。早くから鉄砲に強い関心を示した信長に近しい浅野氏が、タタラ場独占を狙うのは当然と言える。作中の「公方」は、浅野長政の先代かも知れない。 
4,タタラ製鉄
宮崎監督は、二十歳の頃から製鉄民に強く惹かれていたと言う。映画『太陽の王子ホルスの大冒険』では、鍛冶場にブタ型の送風装置(吹子)を考案するなど、既に製鉄作業の描写へのこだわりを見せていた。以来三十年、ついに自作で製鉄民を本格的に描くという夢が叶ったのである。
『もののけ姫』では、太古の昔から日本最大の製鉄プラントが在った出雲地方(現在の島根県)のタタラ場が舞台となっている。
タタラ製鉄の由来と特性
日本の製鉄は太古より行われていた。日本には、原材料となる鉄鉱石は乏しかったが、火山国の特性として上質の砂鉄が大量に採掘出来た。このため、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術が発達した。この日本独特の製鉄技術を「タタラ製鉄」と呼ぶ。
タタラとは、神話時代から使われていた古い言葉であり、今も地名に残っている。タタラには、年代順に「蹈鞴」「鑪」「高殿」などの漢字が当てられた。「蹈鞴」は、「鞴」を「蹈む」という意味。「鑪」は製鉄に使う溶鉱炉の意味。「高殿」は製鉄用の特殊な建物(後述)を示す。漢字の推移は、そのままタタラの発展を示すものでもある。
タタラ製鉄は、諸外国で行われた鉄鉱石の製鉄に比して、はるかに硬度と柔軟性に富む上質の鉄を作り出す技術であった。不純物が混在している鉄鉱石に比して、砂鉄は原料段階で不純物を除去出来る。砂鉄自身の純度が高ければ、極上の鉄塊を作ることが出来るのだ。タタラ製鉄で出来た鉄塊は、現在の製鉄技術を駆使しても及ばないと言われるほど高純度なのである。世界最高峰の鉄刀と言われ、各国に輸出されていた日本刀も、タタラ製鉄なればこそ出来たのである。
しかし、幕末に「攘夷思想」と共に軍艦建造が計画されるようになると、かつてないほど大量の鉄が必要となった。この為、西欧の反射炉精錬と高炉製鉄という近代的製鉄技術が輸入され、鉄鉱石の採掘出来る各地には大工場が建設された。高炉製鉄が盛んになり、鉄の量産体制が整う明治時代になると、タタラ製鉄は次第に姿を消して行ったのである。
タタラ製鉄の作業行程
タタラ製鉄の作業工程は以下のような手順である。
まず膨大な量の樹を切り、山から運び出して炭焼が木炭を作る。同時に川や山から大量の砂鉄を採集する。砂鉄採集は、当初は「竪穴掘り」と呼ばれた露天掘り、後に「鉄穴流し」と呼ばれた水路設置による分離法(比重選択法)に発展する。大量に採集しなければならないため、大変な重労働であった。これは、「鉄穴師」と呼ばれた者たちによって担われた。
始めに炉床を深く掘り、石と炭を多層的に詰めて窯状の床を築く。この地下で、土を乾燥させるべく二ヶ月を要して徹底的に炭を焼く。この際、わずかな湿気があっもよい鋼は出来ないと言う。
次に、粘土によって作られた窯であるタタラ炉を設置する。ここに木炭をくべて火を焚き、砂鉄を放り込みながら炉に空気を送り込み、一五〇〇度以上の高温を保つ。これを指揮者の「村下」一人(表村下・裏村下として二人制の場合もあった)、「炭坂(炭焚き)」二〜三人程度の交代制で行う。
送風は、数十人を動員して手動のふいごで行っていたが。中世になると六人程度で稼働する「踏みふいご」が出来る。近世には更に改良され、二人ですむような「天秤ふいご」が出来た。作中に登場するのは、「踏みふいご」である。交代制でふいごを踏み続ける重労働を担う者を「番子」(「代わり番子」の語源か)と呼び、力自慢の荒くれ者が多かったらしい。
このように、一工程の操業には最低十人は必要であった。三日四晩不眠不休で炉を燃やし続け、ふいごを踏み続けると、砂鉄はようやく溶けて鉄の塊となる。これを「ケラ(金へんに母と書く)」と言う。タタラ炉を取り壊してケラを取り出す。この一行程を「一夜」と呼ぶ。
極上の真砂砂鉄で作られた鋼鉄は「玉鋼」「和鋼」などと呼ばれ、刀剣類や武器・農具に加工された。これらの鉄塊を取り出す前述の製鉄法を「ケラ押し法」と言い、これが最も高度な技術を要する製鉄法である。
その残りは「錬鉄」と呼ばれ、「左下法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鍛冶が包丁などに鋳造した。
これとは別に、赤目砂鉄で作られた鋼を「銑鉄」「鋳鉄」と呼び、「銑押し法」と呼ばれる製鉄法で取り出され、鋳物師の手によって鍋釜に加工された。
以上の三様式が、典型的なタタラ製鉄の行程である。
このようにタタラ製鉄には、伐採・運搬・炭焼・砂鉄採集・炭焚き・タタラ踏み・鍛冶・鋳物師などの諸職が不可欠で、当然大人数による産業共同体を構成していた。彼らは、平地の稲作農民からは「タタラ者」「山内者」などと呼ばれていた。
なお、作中のタタラ炉は実に巨大だが、絵コンテに「四日五晩踏み続ける」とある。よほど巨大な鋼塊を作っていたと思われる。
タタラ場の立地条件
タタラ製鉄の集落を構えるための立地条件は、何より水と樹木に囲まれた地であることである。
まず、膨大な砂鉄を採掘出来、木炭の原材を提供する森林の際であることが必須条件である。また、鉄塊の水冷作業が出来、船輸送に便利な水際でなければならない。
また、急激な森林伐採により山崩れや鉄砲水などの人為的災害を引き起こす製鉄民は、平地の稲作農民からは嫌われていた。この為、人里離れた山中で作業を行う方が都合が良かった。中世以前は、地と水のせめぎ合う地や、人気のない山奥は「人と神々の境界線」として崇拝する傾向が強かったため、「神ががりの職能民」としての位置も保てたのである。
作品の設定と描写は、これを忠実に再現していると言っていい。ただし、実際のタタラ場は、周囲を防塵・防災のために松などを植林した里山に囲まれており、資源枯渇を補うために禿山には植林を行っていたらしい。つまり当時の鉄製民は、作中ほどすさまじい環境破壊はしていなかったのである。これは、監督が現代的環境破壊を意識した誇張表現とも考えられる。
高殿
煉瓦作りや石作りの建築技法が伝わらなかった日本では、専ら木造建築が発展した。建物は火災に脆く、炎が高く巻き上がる炉を覆う建物を作るのは困難であった。それには高い天井を支える高度な建築技術が必要だったのだ。このため、タタラ製鉄は露天で行う「野鑪」のみであった。
江戸時代中期の安永年間(一七七二〜一七八〇)にまで下って、ようやく全国に高い吹き抜けの天井を持つ「高殿」と呼ばれる建物が公に登場する。ただし、これがいつ頃開発された建築物なのかは不明である。
作品中ではすでに高殿が存在し、重要な位置を占めている。これはおそらく監督のフィクションであると思うが、今後の考古学の進展によっては、製鉄民の歴史が作中のように書き変わる可能性もないとは言えない。
ともあれ、作中に登場するのは、当時の最先端技術を集結したタタラ場であったのだ。
製鉄による森林破壊
記録によれば、一回のタタラ製鉄で砂鉄十九トンと木炭十五トンが消費され、出来る鋼はわずかに五トン程度であったと言う。炉の新設時には、炉床の基礎工事と地盤乾燥に一五〇トンもの薪を焚く。一回の製鉄作業に一山丸ごと消費するとも言われた。まさに「山が鉄を作る」のである。
製鉄の歴史は古く、稲作発生以前とする説もある。人類は、製鉄技術を開発したことで、森を切る速度を格段に速くすることとなった。鉄製の農機具と調理器具を開発して安定した食料を得た。鉄製の武器を開発して大量殺戮と部族抗争の果てに大国家を作り上げた。しかし、その結果として、自らの首を絞めるほど環境を破壊してしまった。
中国や西アジア、ヨーロッパなどで進行する砂漠化・禿山化は、もとは製鉄(初期は製銅)で樹を切り過ぎたためとも言われている。太古の彼の地では、樹を植える習慣もなく、森林も復活しなかったのである。文明は森を伐って栄え、伐り尽くして滅んだのである。
ところが、照葉樹林地帯では、湿潤な気候のため、かなり切っても回復が可能だった。このため、近世までの製鉄民たちは切っただけ樹を植えて、三十年程度で戻って来て作業を再開したと言う。(江戸時代末期には、これが土佐藩によって「番繰山」という名で制度化された)その間は場所を移動しながら回遊していた。豊富な水と樹に恵まれた日本は、まさに製鉄民にとって最高の操業地域であったのだ。中でも、作品の舞台となった出雲地方には、もっとも古くから製鉄民がいたと言われている。
平地の稲作農民にとって、鉄穴の泥と排水を下流に流し、山を崩して自然災害を引き起こすタタラ者は、天敵であった。出雲には、スサノオノミコトが火炎を吐く大蛇を退治する伝説がある。これを被害に苦しんだ農民が大和朝廷に訴え、製鉄民が平定された話―とする解釈は多い。
最近の考古学では、弥生時代以降、日本の森が急激に減ったことが明かにされている。日本の稲作は、弥生時代以降に全土に広がったわけだが、当初の開墾時期にはすでに鉄製農具が使われている。稲作と同じ時期に、製鉄も発生したのである。鉄器で森を切り、焼畑と鉄製農具によって開墾された稲作地帯が急増したのだ。
いくら照葉樹林地帯でも、人の手による開拓が余りに急激であれば、樹が生える余裕はない。邪馬台国の謎の移動も、製鉄で失われた森を求めてのものだったとする説もある。
以来、日本の森の減少は現在まで続いている。
特別保護されていた製鉄民
権力に欠かせない武器や庶民の必需品を作り出す製鉄民は、他の職人たちと共に、幕府や朝廷の特別な保護を受けていた。陸路・海路の自由通行権の付与、年貢を取らない免田耕作の許可等々。製鉄民の保有数=鉄の生産量が、国の政治力を決することにもなっていたのだ。
一方、手配中の犯罪者や身元不明の者など、怪しげな身分の荒くれ者が、世間の目を忍ぶために製鉄民となったケースも多かった。恩寵を受けているが故に、政府のおとがめなしの解放区でもあったのだ。とりわけ単純だが重労働のタタラ踏みには、荒くれ者が多かったと言う。
エボシ御前のような婆娑羅の女傑が、特権を利用して職能民女性や荒くれ者を集めて小国のごとき共同体を作っていたのも、あり得ない話ではない。
女人禁制だったタタラ場
タタラ場には女人禁制の厳格な掟があったという。作中の華やかな「タタラ唄(儀式唄)」も実際は男たちが歌っていたのである。高殿に入れる女性は「宇成」と呼ばれた飯運びの老婆だけであり、作業員たちの内儀(女房)は、タタラ場の操業中には髪も結わず化粧もしてはならなかったと伝えられる。いつ頃からこの風習があったかは不明だが、かなり古くからあったらしい。その形成要因を、未開地域の伝承に求める説もある。
アフリカのタンザニアやスーダンなどの各地に残る伝承によれば、黒石や黒砂から武器や農具を取り出す製鉄民は、呪術師やマジシャンのように扱われ、「文化英雄」として神聖視されていたらしい。(エジプトでは「ホルス神の使者」という伝承もある。)この為、鉄には神秘的エネルギーが宿っており、製鉄民と一般民がふれ合うことは危険と見なされていた。これが転じてアフリカにおける操業中の性交禁止や日本の女性忌避につながったと見る説がある。
日本には、相撲の土俵など、神聖とされる場所が女人禁制であるケースが他にもあるが、これにも何らかの関連があると思われる。
月経時や出産時の女性を特に忌避する傾向があったとも言う。これを「赤の穢れ」「血の穢れ」と解釈する説もあるが、現代の女性差別に直結するものなのか、別の意味があったのかは判別出来ない。
赤とは逆に黒色は歓迎され、男達は黒衣で製鉄に臨んだとも言う。作中ゴンザらが、黒っぽい衣裳を着ているのはこの為ではないか。
作中の設定は、下克上や婆沙羅のはびこる時代の風に乗じて、出生不明の女性指揮官が女性製鉄民を率いていた、という大胆な創作である。それは、エボシ御前の卓越した政治力と組織力を裏付けるものであるが、同時に、室町期の女性職人の地位の高さを考慮に入れた創作でもある。女性職人忌避は戦国時代に入って加速する。
もしかすると、女人禁制の風習は戦国時代以前は厳格なものでなかったのかも知れない。後述のように、タタラ製鉄の開祖は女性の神様であったという伝承がある。タタラの神が女性であるから、返って女性が敬遠されたとも言う。 
5,石火矢
『もののけ姫』では、「石火矢(ハンドカノン)」と呼ばれる鉄製の大砲が登場する。その砲身に刻み込まれた模様から、中国製の輸入品を基に生産したものと思われる。物語は室町時代であるから、末期であれば鉄砲伝来後であり、鉄の大砲も考えられなくはない。しかし、これはそのような単純な応用型フィクションではなく、歴史の新解釈によって生まれた現実性を帯びた設定なのである。
鉄砲は「種子島伝来」以前に日本に在った?
鉄砲の伝来に関しては不明なことが多い。正史によれば、室町末期の一五四三(天文一二)年、種子島にポルトガル船が偶然漂着し、二丁の鉄砲(火縄銃)が伝来したとされる。これは、国内文献『種子嶋家譜』『鉄砲記』、国外文献『廻国記』『新旧発見年代記』『日本教会史』などの諸資料検討の結果決定された史実だが、実は異説も多いのである。
一六〇七年に書かれた『鉄砲記』によれば、一年後に種子島でも鉄砲開発に成功し、その二、三年後には生産技術が全国的に波及したとのことだ。「ごく短期間で鉄砲生産に成功した」というこの記述は、当時の鍛冶職人たちの技術水準が驚異的に高かったことを伺わせる。しかし、貿易盛んな隣国朝鮮・中国から一切伝わらずに、漂着したポルトガル人から、わざわざ製鉄業の盛んだった種子島に着いた―というのも不思議な話である。
隣国には鉄砲はなかったのか?否である。「種子島以前に隣国から鉄砲が伝来していた」と考えるのは、かなり現実性のある話なのだ。
実際に、江戸時代に書かれた『中古治乱記』には、一五〇一年に南蛮国(ヨーロッパでなく中国と解釈する説もある)から鉄砲が献上されたが、火薬がなく、使用法が不明なので壊した―とする記述がある。同じく江戸時代に書かれた『北条五代記』『甲陽軍艦』『重編応仁記』などは一五一〇年に鉄砲が伝来したと記している。これらの書物は信頼度が低いようだが、新たな確証が発見されれば歴史が書き変わる可能性もある。
「石火矢」は実在した
火薬の発明年代は不明である。しかし、五〜六世紀の中国には火薬とほぼ同じ成分の発火装置があり、七〜八世紀頃には火薬が開発されていたとする説が有力である。それは、硝石・硫黄・木炭の混合物から成る「黒色火薬」であった。宋(九七九〜一二〇六)代には火薬の武器への転用が進み、一〇四五年に書かれた『武経総要』には、「火毬類」として八種類もの火器が紹介されている。
初期の火器は、鉄球に火薬を詰めて導火線で発火させて投石器で発射するという、爆弾のようなものであった。一二七四年に元(モンゴル)軍が日本に襲来した際、投石器で鉄の火毬を撃ち込んだという記述がある。これが「てっはう」と書かれたもので、日本史に登場した最初の火器である。以降鉄砲伝来まで二六九年間、「てっはう」に対する研究が日本で成されていた可能性は高いと思われるが、確証はない。
一二三二年には金(中国)軍が蒙古軍に対して「飛火槍」と呼ばれた火器を使用している。これは、特殊な紙を十六枚重ねて作った筒の中に発火用の縄を付けた槍を詰め、火薬で発射するというものであった。一二五九年には、筒を竹に変え、弾丸式の火薬を詰めた「突火槍」が開発された。これが世界に伝播した筒型火器の原点である。一三〇〇年頃には木筒製の「マドファ」と呼ばれた火器がアラビアで開発された。それから間もなく、青銅や銅製の筒型火器が開発された。金属器の開発年は不明だが、一三〇〇年前後と思われる。現存する世界最古の金属製筒型火器は、一三五〇年頃に中国で作られた青銅製の「手把鋼銃(ハンドカノン)」である。
この中国製筒型火器が日本に伝来していた可能性は高い。しかし、少なくとも室町末期には筒状火器が実戦に使われていた。それは日本独自の改良を加えた鉄の大砲であった。それら大小の火器は「石火矢」と総称された。石火矢は、各地で様々な型が開発されたが、やがて実用的な火縄銃に取って代わられ、次々と姿を消していった。
実戦における「石火矢」の活躍
石火矢が伝来した時期は不明であるが、以下のような伝書類から鉄砲伝来前後には既に実戦配備されていた可能性が高い。
『武要辨略』という書物では一五五一年に南蛮人が大友家に献上したとある。また、『豊薩軍記』によれば、一五七六年に南蛮人が石火矢を伝えたので、大友宗麟がこれに「国崩」と命名したと言う。国を崩す超兵器という意味であろうが、余りに不吉であることからこの名は伝わらなかったらしい。一五八六年には、島津軍の攻撃を受けた大友家は、「大震雷」という名の石火矢で応戦し、これを撃退したとことである。大友家の石火矢は、今も二門現存しているが、初期のものかどうかは分からない。
一方、近代兵器に一早く執着していた武将としては、織田信長が有名である。信長は、一五七五年に日本初の鉄砲隊を組織し、一五七七年に大砲三門を有する鉄の軍艦を建造している。この巨大砲も石火矢の名で呼ばれることがあったらしい。
また、天正年間(一五七三年〜一五九二年―安地桃山時代初期)には上杉謙信の家臣が開発した「山口流神器砲」と呼ばれる筒型火器があったとされ、これも現存している。
宮崎監督によれば「応仁の乱(一四六七〜一四七七年―室町中期)に石火矢が使われていた形跡がある(出典など不明)」とのことである。これが事実だとすれば、石火矢伝来は鉄砲伝来より七〇年も遡ることになるが、可能性は十分と言える。
ちなみに、大形石火矢が生産されなくなった江戸〜明治時代には、小型の石火矢「火矢筒」が作られている。これは、七〇センチの中型から七センチの超小型までが現存しているが、見せ物芸やアクセサリーに使われたらしい。
石火矢の実戦での活躍は、ほんの一時期でしかなかったのである。
「指火式石火矢」から「歯輪式佛郎機」へ
作中の石火矢は、中国の初期型とほとんど同じ旧式である。砲口から弾と火薬を詰める。中心の球形状に膨らんだ箇所に火門があり、ここに棒状の物で直接点火して発射する。(これを「指火式点火法」と言う。)作中の石火矢には、砲身に中華模様のような紋様、火門の球状部には「虎」などの文字が刻まれているが、実際に文字や文様が砲身に刻まれている砲も多い。「火矢筒」などは全て模様入りであったし、朝鮮製の「銃筒」は文字を刻んだものが多い。
しかし、この旧型の石火矢は日本には現存しておらず、発見された記述もない。日本で確認されているものは、「佛郎機」「破羅漢」と呼ばれた新式大砲であり、いずれも中央の球形の膨らみはない。
作中にはエボシ御前専用の「新型石火矢」が登場する。これは、薬室カートリッジ式の「子母式」と呼ばれる構造の大砲である。これが佛郎機と同じ型なのである。子母式開発以降、石火矢は大型大砲化の道を歩むことになる。
宮崎監督の意図は明かである。師匠連の持ち込んだ旧式石火矢の改良型が、その後各地の戦場で使われた佛郎機であったということだ。作品の舞台裏は、佛郎機の開発過程をも描いているのである。
また、この新型機の着火装置は、指火式でも火縄式でもない。絵コンテからは正確には分からないが、おそらく「歯輪式」「鋼輪式」と呼ばれる装置であろう。
カートリッジ脇にある「鶏頭」と呼ばれるS字型部品の先端に黄鉄鉱をくわえさせ、それに銃身部内にある歯車を回して摩擦で着火させるというものである。つまり、現在の百円ライターのような着火構造である。摩擦回転がより速くなったものが「鋼輪式」である。全国的に火縄式が普及した日本では、この型の銃が作られた記録はない。ただし、一八一四年頃考案されていた記録もあり、作られていた可能性もある。
和製銃の着火装置は「火縄式」だけではなく、「歯輪式」の佛郎機もあった―、つまり、タタラ職人たちの技術の素晴らしさは、まだまだ知られていないという独特の解釈である。ここにも、歴史の可能性を信じる宮崎監督の姿勢が貫かれている。
朝鮮から渡来した破裂弾
『もののけ姫』に登場する石火矢の弾丸は、時折着弾と同時に光を放って火薬が爆発する。つまり、単なる鉛弾でなく、火薬を詰めた破裂型の鉛弾もあったと思われる。この為、発射時の暴発は撃ち手の命とりとなる。実は、これも映像上の効果を考慮しての監督の独創ではなく、史実に裏付けられた設定である。
当初の筒型火器は命中精度が低く、直接的な戦果が上がるような兵器ではなかった。実際の兵器としての有用性よりも、爆発音と火光によって敵を恐れさせることが主目的であったらしい。このため、中国では「神器」と呼ばれていた。当初より破裂弾も作られていたらしい。
また、朝鮮では中国の明(一三六八〜一六四四)代以前に筒型火器が伝来し、以来「銃筒」として様々なヴァリエーションの手持ち式火器の開発を行っていた。独自の技術で命中精度も上げ、一五〇〇年代には「震天雷」と呼ばれる大形破裂弾も開発されていた。豊臣秀吉軍の第一次朝鮮出兵(一五九二年「文禄の役」)の際には「震天雷」の犠牲になった兵が三〇人を越えたと言う。
作中の弾は、朝鮮製の破裂弾(震天雷の原型か)を基に「師匠連」が開発したものか、あるいはエボシタタラが独自に開発した新型弾かも知れない。
「師匠連」―「唐傘」「石火矢衆」は韓鍛冶か?
『もののけ姫』では「師匠連」と呼ばれる謎の組織の存在が語られる。大和朝廷と密通し、エボシ御前に指導的影響力を及ぼす存在らしい。ジコ坊はその一員であり、戦闘プロフェッショナルらしき「唐傘」、石火矢に精通したコマンドらしき「石火矢衆」四〇名を配下に持つ。
「師匠連」の組織実体は作品では語られず、謎のままである。シシ神の首を狙っていた理由も、朝廷の命であったからだけなのか、独自の思惑があったのかは不明である。そこで、その実体を類推してみたい。
大量の石火矢を輸入し、実践経験を詰んだ独立部隊を有する組織が守護大名にあっただろうか。増して天朝と密約を交わして暗躍する組織となれば、かなり特殊な勢力である。ジバシリなど異形の山民も動員出来るのであるから、その勢力範囲も広く、古来からの特殊な権威を持つ集団なのかも知れない。ジゴ坊は、身なりこそ僧侶のようだが、布教活動をしている風でもなく、むしろ特殊工作部隊の現場指揮官のような役割を担っている。
そもそも「師匠連」という名称は、宗教教団的なイメージよりも、職人集団的イメージを連想させる。ここにこだわるならば、師匠連は「韓鍛冶」ではないかという推測も成り立つ。
「韓鍛冶」とは、朝鮮から渡来した製鉄・鍛冶職人である。彼らは、太古の昔に日本に移住し、倭人に製鉄技術を伝えた。日本人の製鉄の「師匠」である。彼らは数世紀を経て日本人の中に同化していった。しかし、彼らの末裔には廻船民として故国・朝鮮と日本とを往来する商人となった者もあっただろう。中には、中国・朝鮮の最新製鉄技術を常に伝える廻船民、乃至は武器商人もいたかも知れない。または、朝廷に石火矢の一大プラント建設を持ち込もうとアピールしていた新たな渡来人がいたかも知れない。これらのいずれかの勢力が自ら「師匠」と名乗ったとしても不思議はない。
いずれにしても、師匠連は石火矢の威力を示して朝廷から独自の位置を認められていたと思われる。彼らが石火矢の量産工場として目をつけたのが出雲のエボシタタラであり、その威力を天下に示すためにシシ神退治を(天朝、エボシ、アサノ公方の三方に)焚きつけたとも考えられる。師匠連が、朝廷からの加護で満足していたのか、朝廷の裏支配までも目算に入れていたのかは定かではない。
いずれにせよ、権威の零落していた朝廷が、武家社会の粛正を願って、最新の武器である石火矢に飛びついたのは考えられる話である。そして、エボシタタラが兵器量産工場として完成してしまったら、その後に続く近世の歴史は大きく変わってしまったことであろう。たとえば、織田信長軍以前に、朝廷が間接的に指揮する鉄砲隊が出来ていたかも知れない。そうであれば、戦国時代の勢力地図は更に複雑になっていたことであろう。まさに「国崩」の惨禍が続いたわけである。 
6,神々の世界
民俗学者である早川孝太郎氏の著書『猪・鹿・狸』の序文に、肥後の五箇床(熊本県八代郡)に伝わる以下のような実話が紹介されている。
「猪の群を遠巻きにして一群の狼がいる。それはあたかも海で鰯の大群を囲んだ鰹のように、機を測っては外側から蚕食している。猪の中には真っ黒い毛を持ったもの、または黒と白の斑毛のもの、全身が白毛に包まれたものもいた。そうして山から山を幾日もかかって移動していた。あのおびただしい猪の群は全体どこに落ちていったものか、狼は―。それが不思議でならない。」
かつて、この国の大型動物の多数派は人間ではなかった。この国の森には、人間の二倍とも三倍とも言われる膨大な数の動物たちが棲んでいた。森の主人は、鹿であり、狼であり、猪であり、猿であり、狐や狸であった。獣の棲む森の中は、人智の到底及ばない神々の世界であったのだ。
タタリ神―「猪笹王」の伝説
民俗学者の折口信夫氏によれば、「タタリ」の古い語源は「立ち現れる」であり、神の示現を表す言葉であったと言う。神界にいる神々が、何らかの形で俗世に降りて来るという意味である。作品中では、シシ神の森の守護神である「ナゴの守」がタタリ神となって人里を襲う。その原因はエボシ御前らの撃ち込んだ鉛玉であった。実際に、これと良く似たタタリ猪の伝説がある。
伯母峰峠(奈良県吉野郡)で、ある侍が笹の塊を背負った奇妙な大猪を発見し、鉄砲で撃った。深手を負った猪は、侍に化けて付近の温泉で湯治治療をした。ところが、宿屋の主人に正体を見られてしまった。猪は、「自分を撃った侍の鉄砲と犬を取り上げて持って来い。さもなくば、恨みを晴らすために村人を殺す。」と主人を脅した。侍はこれに応じなかった。すると、峠の村には一本足の鬼が出現し、村人や旅人を次々と喰い殺した。それから何度も鬼が出現しては人を喰い、村は寂れ果ててしまったと言う。
猪は「猪笹王」と呼ばれる森の神であった。人間に撃たれたことで、怨霊となり鬼に化けて出たのである。後に、高名な僧が猪笹王の霊を弔い鎮めたと言い、その地蔵尊は今も実在している。
ここには、人間が動物神=自然界への畏怖を捨てて殺意を示す時、神は怨霊と化して人間を襲うという図式が見てとれる。鬼とタタリ神の違いこそあれ、モチーフはそっくりである。
かつては立ち向かう術もなく、森は神の世界であり、その住人である動物たちは崇めるしかなかった。しかし、人間は鉄砲という殺傷能力の高い武器を開発し、鉄斧によって容易に樹を切れるようになった。今や神を殺すことも可能となったのである。立場は逆転したのだ。
作中のヌメヌメとした蛇状の「タタリ神構成要素」は、動物神が高貴な心を捨てて、人間への復讐と憎悪に染まった時に現れる。ジワジワと迫る死の影に、さすがの神も成す術がなく、ついに呪いの塊と化す。それは、客観的には醜悪な姿であるが、同時に滅びの道を暴走する悲しい姿でもある。なお、アジアでは蛇を神とする信仰が多いが、ヨーロッパでは邪悪の象徴である。
また、冒頭現れるタタリ神(ナゴの守)の姿は、地をはう土蜘蛛にも似ている。古来、蜘蛛は悪霊の化身として恐れられている。能には、『土蜘蛛』という演目がある。源頼光に退治される妖怪の話である。『土蜘蛛草子』など退治談を綴った絵巻もある。この種の妖怪は、差別された山の民たる「土蜘蛛」と同一視されていたとする説もある。
モロの君と狼族
モロの君は、巨大な銀狼である。
「狼」は「山犬」とも呼ばれ、「大神」とも書く。農作物を荒らす狸や鹿を退治して食らうことから、感謝され荒ぶる神として祀られていた。
近世までの人々は、猪や鹿の作物荒らしに成す術もなかった。案山子や見張り小屋の泊まり込み、落とし穴を掘っても、襲い来る獣たちの数の前にはさして効果がなかった。彼らの天敵である肉食動物=狼による捕食(つまり食物連鎖)は感謝に絶えないものであった。「落とし穴にかかった狼を逃がしたところ、翌日鹿一頭が返礼に置いてあった」という類の昔話が全国に残っているのもこの為だ。
一方、家畜や人間を襲う凶暴な獣という面もある。仔狼を人間に殺された狼たちが群を成して人家を襲ったという伝説、背後からヒタヒタとついて来て、転んだ途端に襲うという「送り狼」の伝説などである。(余談だが、アシタカが市場を出て地侍に付けられる下りの絵コンテに「送り狼」と記されている。)いずれも、人間が真っ当に生きていれば襲われないという奇妙な共通点があり、「天罰」的含意がある。
日本の狼伝説には、西欧童話のずるがしこく愚かな狼像と違い、毅然とした神の風格がある。特に白い狼は神の使いと言われた。自然界の突然変異種である白子(アルビノ種)は、大変貴重であることから神聖視される傾向があった。白蛇を御神体として祭る信仰などは、その典型である。
モロの君やサンの、猪族に対する皮肉な態度や人間に対する怒りは、歴史的に優位に立ってきた森の王たる狼族の誇りがそうさせるのであろう。あるいは雑食動物への肉食動物としての蔑みか。彼らのタタラ場への攻撃は、まさに「天罰」としての攻撃ではないか。
その後開拓が進んで生息地が狭まると、狼たちは人里に下りて専ら家畜や人を襲うようになった。人間への狂犬病被害も深刻となり、各地で徹底的な撲滅作戦が組織された。狼狩りには賞金が出された。岩手県では四斗俵の米一俵が一円五、六十銭の時代に、牝一匹七円、牡一匹五円、仔一匹二円の高額賞金を出した。人々はこぞって狼を狩った。こうして、ニホンオオカミは一九〇五年には絶滅してしまったのである。
一方、天敵を失った猪や鹿が増えたかと言えば、どちらも更に生活の場を追われて激減してしまった。言うまでもなく、新たな敵は人間であった。
鹿や猪の狩には、農作物を護るという目的もあった。
鹿は狩が容易なため、賞金は低額であったが、毛皮目的や食用として徹底して狩られた。猪は、日清戦争(一八九四〜九五)前に「豚コレラ」と呼ばれた疫病が流行したことで数を激減させたと言うが、その後も大量に狩られた。
現在も、日光など一部地域を除いて、鹿も猪も減り続けている。
「もののけ姫」サンの文化
「もののけ姫」サンの容姿や装束には謎が多い。
第一に、朱塗りの土面である。何故、戦闘時には土面をつけるのか。
古来より仮面には神がかりの意味がある。つまり、仮面は人間が素顔たる本性を隠して、神や悪霊・妖怪に変身する願望を示したものなのだ。
土面本体の形状は縄文晩期に作られた土偶や土面に似ている。強いて言えば、「木菟型土偶」に良く似ている。これは、丸いボタン型の目・口を有するミミズクのような顔の土偶である。鼻は額から続くわずかに隆起した線で表現されている。
日本には、鬼・天狗・猩々など赤い仮面が数多くある。赤は、怒りの表情や酒酔いの表情など、頭に血が上った状態を示す色でもある。
サンの土面は、狼族を意味する白髪と耳を携えており、背中にも白毛皮を背負っている。これは、狼族の証でもあるのだろう。
その風貌は、秋田県男鹿半島に伝わる「生剥」にもどこか似ている。ナマハゲは、森から来た鬼が女子供を脅して食物を奪うという奇習である。
仮面をかぶって動物に仮装する風習は多い。熊に仮装した踊りをする風習がアイヌやシベリアのオチャスク族にあると言う。獅子舞や鹿踊りもこの類ではないか。いずれも狩や稲作の豊穣を祈り、災疫を防ぐものと言われる。
これらの諸要素から、サンの土面や装束は、人間としての本性を捨て、怒れる狼神に変身したことを示すと思われる。
第二に、顔三ヶ所に刻まれている三角型の朱の入れ墨である。
三世紀前半の日本を記したとされる『魏志倭人伝』には、「朱丹を以て其の身体を塗ること」という記述が見られる。古代日本では朱の入れ墨が盛んであったと思われる。女性を型どったと言われる縄文晩期の土偶には、顔の頬を縦に流れる模様が刻まれているものが多い。それらは、疫病封じや成人儀礼など、重要な呪術的意味があったと思われる。
また、アイヌ女性には口の周りを赤く染める入れ墨の風習があった。含意は異なるだろうが、その姿はポスターなどで使われた口の周りを血まみれにしたサンを彷彿とさせる。
宮崎監督はサンについて以下のように記している。
「少女は類似を探すなら縄文期のある種の土偶に似ていなくもない」(『もののけ姫』企画書)
サンの入れ墨にも、土偶と同様に呪術的意味があると思われる。
第三に、短刀や首飾りやイヤリングなどのアクセサリーである。
短刀と首飾りは形状と色から判断して、狼族の牙や骨で作られていると思われる。縄文時代の遺跡からは、「骨角器」と呼ばれる鹿角や猪の骨を加工した鏃・銛・釣針などが多く発掘されている。
アイヌは、「マキリ」と呼ばれた鉄の短刀であらゆる物を加工した。アイヌは、鹿角と獣骨に彫刻を施し、短刀の柄や鞘、装飾品を作り出している。また、イヌイットにも、セイウチの牙を加工する文化がある。
イヤリングは金属か貝か石か牙製だろうが、大きな丸い形状は、古代の装飾品に多い。木菟型土偶にも、丸いイヤリングを付けたものがある。『蝦夷島奇観』などを見ると、アイヌにも白色に輝く丸い金属製イヤリングの風習があったらしい。
祖先の牙や骨を身につけることには、サンにとって一族の力を借りるという霊的な意味もあるのだろう。槍や短刀の刃元に刻まれた赤いV字型文様も、顔の入れ墨と同じく呪術的意味があると思われる。
靴は一枚皮で足を包んで紐でくくるようなものらしいが、アイヌにも魚の一枚皮を加工した靴をはく習慣があったと言う。
他、ヘアバンドや腕輪、ノースリーブのシャツとワンピースらしき衣服(靭皮か)なども自分で作ったものと思われるが、どのようにして製作技術を学んだのか(あるいは盗品か)は不明である。
これら装飾品の加工・製作技術や干肉などの食料加工技術は、育ての母であるモロの君が教えたものと思われる。人語を解する動物神であるモロは、人間の文化にも精通していたのであろうが、何故わざわざ人語を教え、人間的衣裳を身につけさせていたのか、多くの点に疑問は残る。
森で獣に育てられたと言う実在の「狼少年」や「狼少女」は、一様に四本足で歩き生肉を喰らう獣そのものであったと伝えられるが、サンは通常二足で歩行し、四足は非常時だけと思われる。人間と拮抗するだけの独自の文化を身に付けているのだ。
この点について、以下、強引な解釈を試みる。
生贄
モロは「生贄」として捧げられ、人間に捨てられたサンを不憫に思いながらも、純粋な狼族としてではなく、人間として育てていたのではないか。いつか人間として暮らせる時が来たとしても、暮らしていけるだけの智恵を与えていたのではないか。あるいは、人間と徹底的に対決するためにも、人間文化を学ばせる必要を感じたのか。
サンの衣裳・容姿に共通しているものは、縄文文化の呪術的性格である。モロは、室町時代の人間を憎みながらも、自然と共生していた縄文人を人間の模範と見立て、狼族とは違った教育をサンに施していたのではないか。たとえば、土面の風習は稲作文化の始まった弥生時代には途絶えている。
なお、人間を生贄として森に捧げる風習は太古より世界各地にあった。いずれも暗い森のほとりに住む人々が畏れと信仰によって行ったものである。サンは、荒ぶる森の神々を鎮めるために、ほとりの村から捧げられたものと思われる。物語から十年〜十五年位前のことだろうか。この時期に何があったのだろう。
エボシタタラの操業開始か。それとも大規模な鹿・猪・狼猟か。もし、人間が神々の攻撃を回避するために、自らの罪を改めずに生贄だけを贈ったとすれば、モロの人間への深い軽蔑の理由も分かるような気がする。つまり、「生贄を差し出すので破壊を認めろ」というエゴ丸出しの請願である。そこに、共存の発想は欠片もない。
現代にも、これと構造的によく似た話がある。森と村をダムの底に沈め、地蔵や神社の御神体だけを移動させるのである。土地を殺して神だけ残す。突然移された場所に、都合よく同じ神が宿るだろうか。
乙事主と猪族―ニタとくまどり
乙事主は鎮西(九州)猪族の総大将であり、人語を解する「猪神」である。タタラ神となったナゴの守も出雲の一族を率いた猪神であった。
猪神の話は、「野猪」という名で『今昔物語集』にも登場する。人を呼び止めてからかった罪で殺されてしまう野猪の話、夜な夜な病死体を覆う青白い光を放つ野猪が退治されるの話(いずれも『巻第二十七』収録)などである。乙事主も青白い姿をしている。白子(アルビノ種)が神であるのは、モロの君同様よく伝えられるところである。
一種の図鑑である『和名類聚抄』では、「毛郡類」の項目で、人を騙す高等順に「狐」「狢(正体不明の動物。狸という説もある。)」、そして「野猪」を挙げている。つまり、ナンバー3の位置を与えられているわけであるが、その正体は不明である。ちなみに、単なる猪(イノシシ)ははるか後の項目できちんと扱われている。
猪は、体を冷やし、皮膚の虱を取るために、山中のたまり水に出没し、体をこすりつける。あるいは松の木などにも体をこすりつける。この習慣を「ニタ(またはヌタ)をウツ」と言い、作中でもきちんと描かれている。日本各地に残る「ニタ」「ムタ」などの地名の語源である。
このニタは、「神の出現する場所」という含意があるとする説もある。沖縄の宮古島の島尻部落では、自然の貯水池を「ニッダァ(ニッジャ)」と呼び、神界への入口と見なしている。祭りの時には、仮面を被った男がここで泥を塗って部落に下りて来て祝福を与えるという儀式がある。
作中の猪たちは、出陣前に盛んにニタをうち、互いの体に泥で円を描く「くまどり」を行っていた。この儀式には、お清めや神がかりの意味があったと考えられる。
「隈」とは、歌舞伎役者が顔(目の周囲や顎など)に施す特殊な化粧を指す。これも仮面と同様、凡庸な人間からの変身を意味するものである。
また、作中では猪の無謀な特攻が描かれるが、実際「猪突猛進」の語意通り、追いつめられた猪の反撃はすさまじいものだそうである。手負いの猪の攻撃を受け、絶命した狩人も多く、「崖っ淵まで追われて、ついに谷底に落とされた」という伝承も多く伝わっている。
乙事主の故郷である九州には猪を祭る神社が多い。大分県大野郡の熊野神社の元宮には、大量の猪の下顎骨(「カマゲタ」と言う)が祭られている。宮崎県西宮市のの銀鏡神社では、今でも猪の頭を供えて祭りを行う。
猪は山の神であるとの伝説もある。ヤマトタケルは、伊吹山の神様を退治しようとしている際に、巨大な白猪に会った。猪は氷雨を降らせてヤマトタケルを悩ませ、ついには死に至らしめる。白猪は地域全体の神であったのだ。乙事主は、この伝説に現れたような存在であったのかも知れない。
なお、巨猪伝説としては、北設楽郡古戸の山で実際に三五〇キロ近い巨猪が狩られた―という伝説もあるそうだ。まさに、作品顔負けの巨猪である。あの時代、本当に「獣は大きかった」のかも知れない。
猩々
「猩々」と書いて「しょうじょう」と読む。大形の類人猿であるオラン・ウータンの俗称を指すと言う。だが、本来の意味は、古代中国に伝わる伝説の怪物で、猿の一種とされる。『広辞苑(岩波書店)』には、「人に似て体は狗の如く、声は小児の如く、毛長く、その毛色は朱紅色で、面貌は人に類し、よく人語を解し、酒を好む」とある。
日本にも『猩々』という演題の能がある。内容は酒に浮かれた猩々が舞を舞うというもの。猩々の役者は、赤い能面をつけて演じる。原型となった猩猩の伝説が古くからあったと思われる。
また、赤褐色は猩猩の血で染めた色と言われ、「猩々緋」と呼ばれた。赤褐色の葉や花を持つ「猩々木」「猩々草」、鮮血色の美しい「猩々蝦」などの派生語がある。更に、酒や甘味に群がる習性のある蝿は「猩々蝿」と名付けられ、酒豪の人を赤ら顔にたとえて「猩々」と呼ぶ風習もある。
このように、猩猩は日本人の生活文化に深く根を降ろしている。その関連語彙は、同じく古くから親しまれた「河童」以上かも知れない。よほど身近にいたと信じられていたのか、あるいは過去に大形猿人か何かの怪物が実在していたのかも知れない。
作中の猩々は、群を成して闇に出没する。両眼は赤いが、体は黒々としている。まるで、亡者か餓鬼のような描かれ方で、神の一族としての誇りは感じられない。これは、宮崎監督独特の猩々像と言えそうだ。
ところで、エボシ御前の小袖はまさに猩々の血を思わせる「猩々緋」で染め抜かれており、「穢れを払う」象徴と言われた「扇子」が染め抜かれている。扇子の黄色は、チベットのラマ信教の衣裳「黄衣」にあるように、「神の色」であったとも言う。これは単なる偶然なのであろうか。
コダマ
コダマは、「木霊」「木玉」などと表記し、樹木に宿る精霊のことを指す。いわゆる「山彦」のことではない。山彦はコダマの成せる技のほんの一つでしかないと言う。
鎌倉期に編まれた『天地麗気記』によれば、山の神の群族として「木玉神」「応音神」がいると言う。これらは、「天の声」を発する類の神であり、時には人を死に至らしめるとも言う。
『今昔物語』の中に、次のような話がある。ある舎人が山中で独りで歌を詠んだところ、「面白い」という声が聞こえた。恐ろしくなって戻ったが、うなされて死んでしまったと言う。
八丈島や青ヶ島には、森の伐採の際に、コダマの宿る樹を伐るとタタリがあるという伝承が多くある。伐採の際には必ず一本残し、コダマサマを祀り供養をすると言う。
作中のコダマも木々の精霊と思われる。木々の数だけ増え続け、木々の死と共に死に続ける。可愛らしく滑稽なその姿は、何故か人の子供のような形である。木々が人間にさり気なく訴えるべく現れた姿なのか、あるいは人の眼を通すとこんな形に見えてしまうのか。
いずれにしても、宮崎監督が「木々の一本一本に生命が宿っていることの重さ」をヴィジュアル化する試みであったと思われる。それは、ラストショットに明かなように、作品のテーマに深く通じる設定である。
サカキの木と「あの世」の島
死にかけたアシタカをサンが連れて行った場所、それは森の深部にある不思議な中州(島)であった。サンは、サカキの小枝を折ってアシタカの頭の前に刺した。それが墓標の意味なのか、シシ神への何かの符号なのかは不明である。そこは生と死の境目の島であり、シシ神が現れる場所であった。シシ神はここでディダラボウへ変化するのである。いわば、森の心臓部である。夜は月明かりが射し、昼は陽光が射す。静かで穏やかで、この世とは思えない場所である。
中州は、水(神界)と地(俗世)のせめぎあう土地として神聖視されていた。中世に中州で市を開いた職人たちが多かったのもこのためと言われる。『古事記』のイザナギ・イザナミ神話でも、一面の泥海を矛でかき回して出来た中州島(オノゴロ島)に降り立って結婚したとある。天と地を結ぶ場所、生と死を司る場所の典型と解釈すべきではないか。
サカキは、「榊」「賢木」の字に明かなように「神」の宿る「木」と言われている。神社の境内などによく植えられる常緑樹である。太古より祝い事や神事に欠かせない樹であり、僧侶や巫女はサカキを両手に持って呪術的儀礼を行っていた。現在も、シメナワと共によく用いられる神具である。
また、サカキを枕元に敷いて寝ると吉夢を見るとも言う。サンは、アシタカが苦痛なく天界へ旅立つことが出来るよう、サカキを頭の上に刺したのではないか。
ところで、作品の舞台となった室町時代には、次のような不思議な絵が描かれている。
それは、神鏡に映る十一面観音と鹿を描いた『春日鹿曼陀羅』という絵である。この絵では、鹿の背にかけられた鞍に、神鏡を支える神木が立てられている。それがサカキなのである。観音→サカキ→鹿という構図は、室町時代に鹿を神仏の使いとする信仰があったことを示すと言われている。
鹿信仰
物語の鍵を握る幻の神・シシ神は、漢字で「鹿神」と書く。その名通り身体は鹿だが、頭は人に見えることもある。その形状は諸星大二郎の描いた漫画『孔子暗黒伝」に登場した「開明獣」を彷彿とさせる。(宮崎監督は同作品の熱心なファンであった。)物語では、その血に不老不死の魔力があると伝えられる鹿神だが、この設定にも史実の影を感じる。
中世の僧侶の旅支度には鹿衣と鹿杖(鹿角の付いた杖)は欠かせないものであった。『梁塵秘抄』にも「聖の好む物、木の節・鹿角・鹿の皮」とはっきり記されている。これには仏教的な理由がある。一つは、釈迦が入山した際にまとっていたのが鹿皮と鹿杖だった。もう一つは、空也上人(九〇三〜九七二)の話である。上人が修行中に親しんだ鹿が漁師に殺されたことから、あわれみに角と皮をもらい受けて身につけた。このことから、浄土教の流れを組む一遍上人(一二三九〜八九)など時宗一派に鹿杖・鹿皮のスタイルが流行したと言う。
鹿は実際に神として祭られてもいた。筑前の志賀島は、古くは「鹿島」と表記された島で、志賀海神社には一万本の鹿角が祭られている。鹿は群をなして海を渡る動物と言われ、海人との関係が深いとも言う。東北には前述の「鹿踊」の風習がある。日光では、今も狩猟の際に鹿の頭に祈りをさざける風習がある。
鹿の美しい皮としなやかな肢体は、古来より狩人たちの格好の的とされ、徹底的に狩られて来た。中世に於いて「狩」とは、「鹿狩り」のみを指す用語だったと言う。また、狩人たちが鹿を祭るのは供養の意味もあったと言う。潤んだ大きな瞳に、死に行く獣の哀れみを感じた為か。
なお、司馬遷の『史記』に『秦其ノ鹿ヲ失ヒ天下共ニ之ヲ遂フ』とあり、これに由来する「鹿を遂う(互いに政治権力を得ようと競争する)」という故事もある。『もののけ姫』の物語はまさに「鹿を遂う」話である。
シシ神―生死を司る神秘の自然
作中のシシ神は、生命の授与と奪取を行い、新月に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返すと言う。
月の満ち欠けが生物の生死に関わるという説は多い。海に棲む魚類や甲殻類には、満月を選んで産卵する種族が多い。
人間の場合も、潮の満ち欠けと同じように、体内の水圧・血圧が高まると言う説がある。月の引力が高まる満月・新月には、出産率や死亡率、さらには事故率・犯罪率まで高まると言うのだ。満月になると変身する「狼男」の話なども、月の引力が体内を変化させる性質に注目したフィクションではないか、とする説もある。
シシ神の存在は、月と連動する生死の神秘と関わるものかも知れない。
また、カモシカのように大きいシシ神の角は、樹木で出来ていると言う。角に魔力があるという信仰は多いが、森の神として樹木を頂いているのか。また、生物の頭には力が宿るという信仰は多いが、頭部が人間に見える(変化する)のもこの為か。
シシ神は、何とも解釈しがたい不思議な表情をしている。
宮崎監督は、かつて映画『ネバーエンディング・ストーリー』(一九八四年西ドイツ/ウォルフガング・ペーターゼン監督)の龍や亀の擬人化された顔形を嫌い、作者の自然崇拝の貧困さが透けて見えるとして痛烈に批判していた。
「何を考えているかわからない方が、自分たちにとってはるかに憧れの対象になるんです。要するに、人間が擬人化して、感情移入しやすいものにすればするほど、つまらなくなるのですね。」「簡単には理解できない存在、力みたいなものへの憧れが、どうも初めからある。」「そういう自然観を自分たちが持っている。」(「季刊iichiko」No,33号掲載/対談『メタファーとしての地球環境』)
シシ神の表情は、人間には解せない自然の摂理や真理とでも言うべきものを内包しているからと解釈すべきだろう。それは、人間感情を自然に対しても押し付ける擬人化を嫌い、自然は人間の理解を超えた存在と考える監督の自然観が生み出したものであった。
ディダラボッチ―唐草模様で覆われた夜の闇
シシ神の夜の姿であるディダラボッチは、世界各地に伝わる巨人伝説を彷彿とさせる。天を覆う不気味な巨人は、まさに夜そのものである。
直接的には、関東一円に伝わるダイダラボッチ伝説に語源を求めることが出来る。ダイダラボッチは手足足長の巨人で、深夜に出没して橋や建物を動かすと言われている。東京都世田谷区ではダイダラボッチがかけたと言われる橋があり、地名もこれに由来して「代田」と名付けられている。
ダイダラ伝説の中には、頭を奪われて凶暴化したダイダラが土地を荒らすという、作品そっくりの内容もあると言う。
沖縄本島には、アマンチュウ(天人)が岩に踏ん張って天を押し上げ、空を高くしたという巨人による創世神話が伝えられている。
作中のディダラボッチは、宵闇に広がり天を覆う。灯の少なかった時代(室町時代にはエゴマ油によるランプ程度はあった)には、夜は神々の独占する時間であったのではないか。照葉樹林から発生して、果てしなく広がる巨大な暗闇。それは、畏怖すべき悠久の自然の猛威と人間の矮小さを痛感させる。
また、全身半透明のディダラは「唐草文様」らしき斑紋で覆われている。唐草文様は、植物の花や葉の形を蔓状のリズミカルな曲線で繋いだものである。古代エジプトを発祥地として、ギリシャで完成されたと言われ、中国・朝鮮を経て日本に伝えられたのは古墳時代ではないかとされている。
唐草文様は、世界各地にヴァリエーションを持つ。中でも「波状唐草」は、山と谷を表す記号(等高線のようなものか)であったと言う。作中のディダラの文様ははっきりとは分からないが、唐草であれば、山の神の紋章という意味ではないか。 
7,森の再生
一度死滅した森が再生するラストシーンは圧巻であるが、これには様々な意味が込められていると考えられる。
「死体化生型神話」としてのラストシーン
ラストシーンで、エボシ御前に首を狩られたシシ神=ディダラボウは、バラバラになって、山を焼き払いながら襲いかかる。その後、サンとアシタカの活躍によって首を取り戻したディダラは、朝陽を浴びて倒れ、再びバラバラになって消滅してしまう。ところが、このバラバラになって降り注いだ塊から方々に緑が芽吹き、森は再生し、タタラ場も緑で覆われる。
実はこのラストシーンは、日本神話に共通する内容を多く含んでいる。それは、「神を殺して、バラバラに埋めた場所に緑が生まれる」という図式である。これは各地に伝わる「死体化生型神話」に通じるものがある。
『古事記』(七一二年完成)には、次のような話が記されている。
「下界に下ったスサノオはオオゲツヒメに食べ物を所望した。ところが、オオゲツヒメは、鼻や口や尻から食物を出して饗宴したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。すると、ヒメの死体の頭に蚕、両目に稲、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じた。そこでカミムスビノカミがこれを取って種にした」
また『日本書紀』第五段には、次のような話が記されている。
「アマテラスの命で弟のツクヨミが下界のウケモチノカミを見に行った。ウケモチノカミは口から御馳走を吐き出してもてなそうとした。しかし、ツクヨミは、けがらわしいと言って斬り殺してしまう。そのウケモチノカミの死体の頭からは牛・馬、額に粟、眉の上に蚕、眼に稗、腹に稲、陰部に麦と大豆・小豆が生じた(一書十一)」
「イザナミが火神カクヅチを生み、産道に大火傷を負って死ぬ。カクズチはハニヤヒメと夫婦になり、ワカムスビを産む。ワカムスビの頭の上に蚕と桑が生え、臍の中に五穀が生まれた。(一書二)」
いずれも、女神の死後(ワカムスビの場合は不明)、死体からバラバラに作物が生じる展開であり、作物起源神話と言われている。山姥伝説や、瓜子姫とアマノジャクの昔話にも、良く似た類型を探すことが出来る。
これらの神話や昔話は、世界各地の神話に類型を見い出すことが出来る。中でも、東部インドネシアに伝わる「ハイヌヴェレ型」神話は、最も古いものではないかと言う。これを発生源として神話が各地に伝播した可能性も高い。こちらの話では、民衆に殺された女神=ハイヌヴェレが、夫によってバラバラにされて埋められ、そこから作物が発生したとされている。
ところで、縄文時代に、土偶をバラバラに砕いて埋めるという風習があったことはよく知られているが、これは最初から壊しやすいような工法(「分割塊製作法」と言う)で巧妙に作られていたと言う。しかも、土偶のほとんどは妊娠状態にある女性を形どったものである。このことから、女神をバラバラにして埋めて豊作を祈る儀式であった可能性を指摘する説がある。それは、「縄文時代にすでに農耕文明があった」という大仮説を裏付ける有力な証拠でもある。
一方、作物だけでなく、イザナミが死の間際に苦しんだ際の嘔吐からは金属の神カナヤマヒコとカナヤマビメが生まれたとも言われる。さらに、イザナギによって殺されたカクヅチもバラバラにされ、それぞれが山の神や水の神になったと言う。古来より、神の惨殺―バラバラ死体と農耕・産業の発生は一体と考えられていたのだろうか。
本作では、累々たる神々の死とバラバラ遺体が人間の明るい展望に繋がるというラストが描かれる。これは、どうにも幾多の神話と重なって見えて仕方がない。
照葉樹林文化としてのラストシーン
前述のように、実際のタタラ製鉄民は、山を伐りっぱなしではなく、樹を植えて、資源再生も行っていた。人工的に管理された里山でタタラ場を囲み、防災と食料自給も行っていた。それは、伐ったら砂漠化してしまうことのない照葉樹林帯なればこそ可能なリサイクル型の産業であった。
映画の後、エボシタタラの人々は樹々と共存し、タタラ場の中にも樹を植えたのではないか。―と言うより、シシ神より与えられた木々を大切に育てたと言うべきか。いずれにしても、シシ神によって「有限なる資源のリサイクル」という環境学的観点を与えられたと考えられる。シシ神をめぐる戦禍の教訓によって、鉄製民(人間)は産業と環境との共存を学んだのである。
これを、もう少し構造的に分析してみたい。
暴走するディダラによって焼かれた山々は、「焼畑」を彷彿とさせる。古来より照葉樹林帯では、木々を伐採して乾燥させた後に火を放ち、焦土を開墾せずに畑にする焼畑農業が行われて来た。それは、最も原始的な畑作農業の形態である。
しかし、この作業はいきなり焼き払うのではなく、事前に神々の土地を侵すことに許しを請う儀式が不可欠であった。人は森の神々に気を使う下宿人であり、主人ではなかった。そして、人が畑作を止めて移住してしまえば、また森は復活出来たのだ。
首を捕られたシシ神は、森の守護神としての力と権威を失い、人々に森をあけ渡すことを余儀なくされた。そして、このことが山々が焼けただれる=焼畑による開墾に直結する。大規模で徹底的な焼畑は、生態系のバランスを崩し、土地の保水力も奪うことから、自然災害が多発し、人は自業自得の苦しみを味わうことになる。これが首を失って凶暴化したディダラの姿に相応する。
しかし、シシ神の首を返還することによって、神としての権威は復活する。ただし、シシ神は朝陽を浴びたために実体を失い、バラバラになった姿で地下に浸透することになった。至る所で森は復活するが、人々の家屋を押し潰し破壊するまでに木々が茂ることはなかったようだ。
これは、森との共存=資源のリサイクルを自覚した人間たちが、自覚的な環境保全を行ったことを意味しているのではないか。ただ、暗い闇を含んだ原生森(シシ神=ディダラ)は一度征服(斬首)され、隅々にまで文明の光(つまり朝陽)があてられてしまったために、神々の威光は失われてしまった。人間の心からの畏怖・自然信仰はなくなってしまった。これがサンの語る「シシ神様は死んでしまった」の意味である。
しかし、アシタカは語る。「シシ神は死なない。生と死そのものだから。」
と。つまり、シシ神への畏怖=森との共存は人の生死に直結していると言うことである。一度実体を殺してしまった神を、自らの心に再生出来なければ、再び森は壊滅してしまうだろう。その時、自然は凶暴化し、資源も枯渇して人心も荒れすさび、文明は滅びてしまうのである。重要なことは、自然と真剣に共生するという観点と、人間の欲望のコントロールである。
アシタカの言葉は、司馬遼太郎氏が生前何度も語った、「人間として最も大切なものは礼節である」という思想を代弁したものではないだろうか。
コダマはなぜ一人しか復活しなかったのか
『もののけ姫』の絵コンテ(現時点では作品は完成していない)は、破壊の爪痕著しい森の最深部にただ一人たたずむコダマのショトで終わっている。一見、これは明るい未来を描いた希望的終息と感じることも出来る。しかし、これは本当にハッピーエンドだろうか。
このショットは、映画『風の谷のナウシカ』のラストショットを彷彿とさせる。それは、「青き清浄の地」にチコの芽が吹いていたショットである。これを見たC・W・ニコル氏が感激して「あそこに開拓団を送り込むのか」と宮崎監督に語り、監督が失望したというエピソードは有名である。 (対談『メタファーとしての地球環境』)
監督の意図がそれほど単純でなかったことは、漫画版を読めば誰でも分かることである。監督は、自然搾取を場所を変えて行うだけの開拓を嫌い、人間の手の届かない場所での原生林の復活を願っていたのではないか。『もののけ姫』もまた、単純に森林復活でコダマも再生したという人間中心主義の希望を描いたラストとは思えない。
このショットをよく考えてみると、森は再生しても深部は再生せず、樹の精霊たるコダマはほとんど再生しなかったことになる。このコダマがかつての生き残りなのか、新生児なのかも不明である。コダマが一人もいない森とは、神のいない明るい森、人間の作り上げた森である。
つまり、このラストショットは、原生林と里山の境目を描いた苦い結末と解釈すべきではないか。逆に言えば、わずかながらも原生林の生命力が残されているという光明を描いているとも言える。たった一人のコダマが今後増えるのか、あるいは絶滅してしまうのか、コダマ族の命運は人間の行い次第という含意があるのではないか。
それは、糸井重里氏が考案した『となりのトトロ』のキャッチコピーを「このヘンないきものは、もう日本にはいないのです。たぶん。」から、「このヘンないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」に変更することを要請した宮崎監督らしい複雑な願望と言える。それをどうとらえるかは観客次第である。 
8,「生きろ」の意味
以上見て来たように、『もののけ姫』のラストは、「万能のシシ神の力で何でも叶った」という安易な描写でもなければ、人間中心主義のハッピーエンドでもない。作品で描かれた事件は、一筋の光明を描いて終わっているが、史実は楽観を許さない。では、物語の完結の後、どのような事態が展開したのであろうか。また、物語の前と後では何が変わったのであろうか。
物語の後の物語
エボシ御前は、天朝様との約束(タタラ場の自治権存続と交換にシシ神の首を献上することであったと思われる)を果たせず、師匠連から送り込まれた監視役である唐傘連とも対立状態となった。アサノ公方の差し向けた地侍たちも大量に殺してしまったのであるから、侍との戦闘状態も継続するのではないか。エボシ御前がタタラ場を存続させるためには、天朝・侍双方を敵とした孤立無援の闘い、乃至は高度の政治的駆け引きが問われることになるであろう。いずれにせよ、森と共存するタタラ場の存続は困難を極めるに違いない。だからこそ、アシタカはこの地に残る決心をしたのではないか。
しかし、史実を見るならば、室町時代中期以降にシシ神の教訓が生かされた形跡はない。製鉄産業=森林破壊は更に進み、武器は粗製濫造されるに至る。武器が幾らあっても足りない戦国時代に突入してしまうのだ。遍歴民の地位は落ち、百姓一揆も一層頻発するようになる。エボシタタラとシシ神の森を維持するための闘いは、一層厳しいものとなったであろう。
金屋子神の思想
物語では描かれていないが、実際のタタラ製鉄の場所には必ず祀られていた神があった。その名を「金屋子神」と言い、何故か日本神話には登場しない神である。各地に微妙に異なる金屋子神の昔話が伝えられている。
金屋子神は、播磨から出雲に赴いた製鉄の神で、自ら初代の村下となって働いたと言われる。(村下を随行していたとする話もある。)その素性が面白い。カナヤマヒコ(金属神)と、山神・海神を父母に持つ人間の娘との間に生まれた子供だというのだ。これは、タタラ製鉄は山=樹木と海=水との共存・調和があって初めて栄えるという示唆を含んでいるのであろう。
これとは別に、カナヤマコヒとカナヤマヒメの子供であるとする伝承もある。金屋子神の両脇には杉の大木が植えられているが、これが親子三神を意味するとのことである。
また、金屋子神は女性だったと伝えられている。しかも、犬(土地によっては四つ目の犬)に追われて、その土地に倒れ込んだというのだ。山犬に片腕を取られ、タタラ場に生還したエボシ御前そっくりの話である。
さらに、中国にも良く似た女神の話がある。『広東新語』には広東地方の製鉄の祖として「湧鉄夫人」という守護神の話が書かれているという。それには「炉将に傷めば、すべからく白犬の血をもって炉に灌げばすなわち無事をうるべし。(中略)その神は女子。(中略)その夫官鉄の逋欠するを以て是において身を炉中に投ず。以て鉄多く出る。」とある。ここでは何と、白犬の血(生贄か)で修復された炉に、自ら投身自殺をすることで鉄が湧いたと言うのである。これも、作中のモロの死や片腕を失うエボシ(宮崎監督によれば、「壮烈な死」という腹案もあったと言う)の話と不思議なほど対応する。
中国でも日本でも、製鉄の神がなぜ女神なのか、製鉄を妨げる者がなぜ犬なのかは分からない。神聖なる技が母神信仰とつながったのか、森を伐る自然破壊の後めたさが犬神殺しとなったのか。これらの含意は、作中の構造と通じる部分が不思議なほど多い。
ともあれ、差し迫る乱世にあって、エボシタタラの人々に問われたのは、この「金屋子神」の思想であったのではないか。あるいは、エボシ御前とサンをめぐる寓話が後世に語り伝えられて、「金屋子神」信仰となった―などと考えてみたくもなる。
近世に出雲最大のタタラを有していた菅谷地区の金屋子神は、今も大きな岩の下に祀られている。その岩をタタラ場の人々は愛着を込めて次のように呼んでいたと言う。「烏帽子岩」と。
絶望の一歩手前の希望
宮崎監督は、「失われた可能性」というモチーフを反復して使っている。
『風の谷のナウシカ』は、腐海に埋没する直前の村々や戦場が舞台であった。『天空の城ラピュタ』は、失われた文明の末裔の物語であった。冒頭の舞台は失業者であふれる直前の炭坑の町で、軍隊が台頭する直前のキナ臭さも描かれていた。『となりのトトロ』は、高度経済成長から列島改造論へ至る直前の日本の農村風景が舞台であった。『紅の豚』では、世界恐慌からファシズム台頭に至る過程のイタリアが舞台であった。また、デビュー作である漫画『砂漠の民』に於いても、後にモンゴル帝国によって絶滅させられた架空の騎馬民族の前史を描いていた。
並べて見ると、いずれも絶望的に環境が改編される一歩手前の舞台背景を選んでいることが分かる。これは趣味の連載漫画などでも、第二次世界大戦末期のドイツや日本の兵器にまつわる物語を多く描いていることからも分かる。そして、いずれも「このような人物たちがいれば、万に一つは絶望が回避されたかも知れない」と思わせるような、快活で聡明な人物たちの物語を作り上げて来たのである。
もちろん、史実の壁は厚く、数人の英雄的活躍などで絶望的状況は回避されたりはしない。しかし、こんな人物たちがいたら、そして絶望の一手前で大変な冒険を経験していたならば、最悪の状況でも逞しく生き抜いていけるのではないか。そうすれば、歴史はもう少しマシになっていたかも知れない。それは、「失われた可能性」の発掘作業としての作品作りと言うべきではないか。宮崎監督は、以前以下のように記している。
「人間は生まれ落ちたときに、“可能性”を失っているのである。過去と未来に人類の歴史がある中で、一九七八年に生まれた瞬間、あらゆる時代に生まれてくる可能性をその可能性をその人は失ってしまったわけだ。そこで、空想の世界で人は遊ぶ。これは、一種の失われた世界への憧れであり、アニメをつくる原動力になっているといえよう。」(『月刊絵本別冊アニメーション』一九七九年三月号掲載『失われた世界への郷愁』)
『もののけ姫』の場合、これまで見て来たように「失われた可能性」の発掘作業が細部の設定に至るまで驚異的なほど徹底している。照葉樹林、蝦夷、室町時代の女性職人、タタラ製鉄、石火矢、森の神々―。これらは、単なるお伽噺ではない。これらは、人間中心の近代文明の発展の中で失われてしまった「もう一つの日本」であり、学ぶべき多くの教訓を含んでいるのだ。
壮大なスケールで「失われた日本」を描き、そこに現代に通じる「自然と人間の関わり」という普遍的テーマを貫くこと、宮崎監督の「決着」の一つはここにあったのではないか。そこには、経済的・政治的閉塞状況下で、最悪の二十一世紀を迎えようとしている現代世界に対する強烈なメタファーが込められている。同時に、現在を「失われた過去」にしないために、作中の人物たちのように絶望的環境であっても積極的に可能性を模索して生きなければならない―というメッセージが込められているのだ。
これが世界の観客に向けられたキャッチコピー、「生きろ」の意味だったのではないか。
実在の人物たちへの尊敬
「失われた可能性」というキーワードからは、宮崎監督が尊敬する以下の実在の人物たちを想起することも出来る。
まず、優秀な飛行機乗りで作家のサン=テグシュペリ(一九〇〇〜四四)である。ファンタジックな児童文学『星の王子さま』や、飛行士の体験を基に綴った『人間の土地』『夜間飛行』などの著作で有名な彼は、対ナチスのフランス解放戦争に従軍し、地中海上で行方不明となっている。
次に、対ナチス戦争で英国軍戦闘機乗りとして活躍し、後にアメリカで作家になったロアルド・ダール(一九一六〜九〇)。アフリカの石油売りだったダールは、突然志願して飛行機乗りとなり、わずかな訓練でナチス機を迎撃した天才であった。その行動には迷いがなく、豪快で自己完結的であった。作家としては、宮崎監督が傾倒した『飛行士たちの話』『単独飛行』など初期の自伝的小説の他、人形アニメーション映画『ジャイアント・ピーチ』(一九九五年アメリカ/ヘンリー・セリック監督)の原作として有名な『おばけ桃の冒険』などの児童文学がある。『単独飛行』に登場する複葉機「タイガー・モス」は、後に『天空の城ラピュタ』に登場する海賊船の名前にもなっている。
そして、国内で最も尊敬していた作家に堀田善衞氏(一九一八〜)と司馬遼太郎氏(一九二三〜九六)がいる。
堀田氏は、戦中・戦後を通じて独自の観点から日本の軍国主義を批判し、ヨーロッパ文明や日本中世などを俯瞰された人物である。監督は、当初堀田氏の著書『方丈記私記』を下敷きとした平安末期の時代劇を構想していた。
『方丈記』の著者鴨長明(一一五三〜一二一六)の生きた平安末期は、遷都後の政治混乱に飢饉・大地震・火災などが重なり、荒廃の一途であった。長明は、世を捨てて隠遁したが、乱世の観察と原因探求を怠らないことで社会批判の姿勢を示した特異な人物である。堀田氏は、『方丈記』の世界と第二次大戦末期から敗戦に至る日本社会の混乱を重ね合わせ見たのである。
監督の構想が実現しなかった背景には、鴨長明の生きた死屍累々たる混沌の時代が、余りにオウム真理教事件や阪神大震災の世情とダブって見えたため敬遠したと思われる節がある。(前述『週刊朝日』掲載・司馬氏との対談)
司馬氏は、二十二歳で敗戦を迎えて日本に失望したことを原点として、尊敬すべき日本人像を求めて歴史小説の作家になったと言う。小説を断筆した末期に書いたエッセイ『この国のかたち』や対談・紀行集は、自己批判と一体の現代社会批判の意味があったのではないかとも言われている。司馬氏が小説に託して変革を望んだ日本人像とは、遠くかけ離れてしまった社会に対して、庶民の歴史と風俗という観点からアンチテーゼを発し続けていたのである。なお『この国のかたち』の最終巻には、司馬氏がこだわり続けた鉄についての考察が収録されている。
また、考古学の分野では藤森栄一氏(一九一一〜七三)の影響を受けたと言う。藤森氏は、独自の山岳フィールド・ワークの成果に基づき、「縄文中期の信州・八ヶ岳に農耕文化圏があった」という仮説を立て、学会の猛反発に合いながらも生涯筋を曲げずに通した気骨漢であった。同時に、優れたエッセイストでもあった。近年、青森県の三内丸山遺跡など大規模な縄文遺跡が次々と発掘され、縄文時代農耕起源説が再考されている今日、藤森氏の学説は再び大きな注目を集めている。
これらの人々は、物を見極める理知的視線とドン・キホーテ的痛快さを併せ持ち、時代の大勢に切り込んでいった人々ではなかったか。また、国家のイデオロギーや民族主義に振り回されることなく、独自の価値観を貫いて来た人々でもあった。それは「失われた可能性」に対する抵抗や自己主張であったと呼んでもいいのではないか。
宮崎監督の作品に登場する気持ちのいい人物たちには、この実在の人物たちに対する尊敬が脈打っているのではないか。「どう生きるべきか」という処方箋は、独り勝手な瞑想にふけって生まれるのではなく、必死に生きた人々を手本に必死に習わなければならない実践的問題でもあるのだ。 
9,思想の物語
『もののけ姫』が「人間と自然」をテーマとして扱った物語であることは一目瞭然である。人間も自然も心優しい存在でなく、自らの生を賭けて凶暴な破壊と殺戮を繰り返す。憎悪は最後まで残り、破壊の爪痕も消えることはない。一見明るくも苦々しい結末には、宮崎監督の現代社会を生きるための思想が滲み出ている。
これまで述べて来たように、『もののけ姫』の各シーンには多くの学説や神話の要素が凝縮されている。本論で挙げたものの中には宮崎監督が意識していないものもあったかも知れないが、それは同じ人間の営みの中で生まれた物語というアバウトな共通性でご勘弁願うことにしたい。
本論の最後に、作品の背骨を形成している宮崎監督の思想を追ってみたい。
ギルガメシュの物語
『もののけ姫』の物語全体の大枠を思わせる物語がある。それは五千年以上前に書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』である。
かつて人類最初の文明が発生した地、メソポタミアには巨大なレバノンスギの原生林があった。シュメールの神エンルリに命じられた半身半獣の森の神フンババは、数千年もの間、人間たちから神々の森を護って来た。
ところがある日、ウルクの王ギルガメシュは「人間は今まで、長い間自然の奴隷であった。この自然の奴隷の状態から人間を解放しなければならない。」と決意し、エンキムドゥと共にフンババ退治に出かけたのである。
森は余りに美しく、ギルガメシュは一瞬たじろぐが決意を新たに森を伐る。怒ったフンババは凶暴化し、嵐のような唸り声をあげて、口から炎を吐いて襲いかかる。ところが、ギルガメシュとエンキムドゥはひるまず立ち向かい、ついにフンババは首を刈られて殺されてしまう。それを可能にした最強の武器こそ青銅の斧であった。人類は金属器の開発によって、ついに森を征服したのだ。
しかし、フンババ殺しの天罰を受けてエンキムドゥは殺されてしまう。ギルガメシュは、あの世に旅立ちエンキムドゥを連れ戻そうとするが失敗する。不死の薬を入手することも出来ず、失意の末にウルクにたどり着いたギルガメシュは次の言葉を残して息絶える。
「私は人間の幸福のために、いかなるものを犠牲にしても構わないと思っていた。フンババの神と共に、無数の生きものの生命を奪ってしまった。やがて森はなくなり、地上には人間と人間によって飼育された動植物だけしか残らなくなる。それは荒涼たる世界だ。人間の滅びに通じる道だ。」
神を殺して最高の権力を手にした者にも手に入らなかったもの、それは生死を司る自然の摂理であり、支配でなく共生の価値観であった。アシタカの言葉「シシ神は生と死そのものだ」が頭をよぎる。
宮崎監督の意図かどうかは分からないが、『ギルガメシュ』には『もののけ姫』に深く通じるテーマを感じる。同時に、五千年の時を経ても人間の抱える矛盾が少しも解決されていないことを思うと暗澹たる気分になる。
ギルガメシュに相当するエボシ御前は、部下でなく片腕を失い、失意の底で死ぬことなく、生き延びるわけだが、タタラを囲む復活の新緑は「人間と人間が飼育する動植物」にならなかったかどうか。史実の回答は否定的である。
消えた巨石像文明の謎
ギメガメシュの物語は、単なる神話ではなく、史実を鋭く見据えたものだったのではないだろうか。この物語は、昨今話題となっているある学説とよく符合する。それは、「イースター島の文明がなぜ滅んだのか」という問題である。
謎の巨石像モアイで有名なイースター島は、南米チリの沖合にある面積わずか一二〇平方キロの小さな火山島である。
五世紀頃ポリネシア系の移民が住み始めた頃、この島はヤシ類で覆われた緑の島であった。しかし、動植物・魚類の資源は乏しく、雑穀類も育ちにくい痩せた土壌であった。人々は鶏とサツマイモを主食とする単純な食文化を築き、余剰時間を専ら宗教的祭祀に当てた。島の火山ラノララクの凝灰石を石器で削って巨大な石像を彫り上げ、海岸線に散在する「アフ」と呼ばれる祭壇に運んだ。その運搬方法は大木を伐り、延々たる丸太の行列をコロにして運ぶというものであった。また、暖房用の薪や家屋・船の建設のために更に多くの樹が伐られた。
高度な祭祀文化に明け暮れる平和な島の人口は、年々確実に増え、一六〇〇年頃には七千人(一万人以上とする説もあり)に達したとされる。ところが、一六五〇年頃から急激な食糧危機に見舞われ、資源争奪を巡って部族抗争が頻発、果ては食人にまで及んだのである。この時代の地層から発掘された多くの武器やバラバラに砕かれた人骨がそれを物語っている。
各部族の象徴である巨石像は、力の宿る眼の部分を潰され、次々に引き倒された。戦争に明け暮れるうちに人口も激減し、人々は文化を失い、次第に未開状態へと逆行していった。
一七二二年、オランダ人のJ・ロッグベーンがヨーロッパ人で初めてイースター島を訪れた。島には樹がなく、一面草原に覆われ、住民は草ぶきの小屋や洞窟で原始人的な暮らしをしていた。一七七四年、クック船長が訪れた時には、住民は武器を手にして闘っており、人口は六百人程度まで減っていた。それは文明の終末を物語る風景であった。
一八六二年以降は、奴隷商人がやって来て次々と住民をペルーに連行した。そして、一八七七年には住民はわずか一一〇人になってしまった。それも奴隷としては役に立たない老人と子供だけであった。
こうして、イースター島の文明は消滅した。残ったのは、後世物議を醸すことになる千体もの巨石像(うち三百体は作りかけで放棄されたもの)と樹のない荒れた大地であった。
イースター島の教訓
一六五〇年以降のイースター島の食糧危機はなぜ起きたのか。それは、人口が増え過ぎたためと、何よりも樹を伐り過ぎたためである。
樹の激減は土地の養分と保水力を低下させ、表土流出を招いて畑作を不可能にする。河川は枯れ、泥水でも飲まねば生きられず、疫病が発生する。海に流れる養分もなくなるため、近場の魚はますますいなくなる。遠洋航海用の大船を作る樹もないので、漁も移住も不可能になる。木造家屋の建造も不可能となり、草ぶき小屋や洞窟住まいを余儀なくされる。唯一の食料である鶏を他部族から守るために石小屋が建てられ、それを巡って抗争が起きる。―そして全島で戦乱が頻発し、相互に殺し尽くし、食べあうという最終事態にまで至ったのである。
島の資源は最初から乏しく有限であった。島に暮らす住民は、七千人もの人口を支えられる食料が続くわけもなく、樹を伐り尽くせば生えないことは充分分かっていた筈である。にも関わらず、人々は人口増加も森林伐採も抑制することが出来ず、最後の最後まで巨石像を彫り続け、運ぼうとまでしていたのである。人々は自滅するまで資源消費の欲望を捨てることが出来ず、ついに資源再生と共生の術を知らなかったのだ。
環境考古学者の安田喜憲氏によれば、クレタ島のミノア文明やローマ文明もまた、数世紀の繁栄を欲しいままにしたものの、樹の消滅と共に資源争奪戦争が起こって消滅したと言う。イースター島文明滅亡の歴史は、世界各国の文明の歴史を凝縮したものであったのだ。
我々には、イースター島やローマの民を「愚かな民」と笑う資格はない。現在、地球の総人口は毎日増え続け、資源も減り続けているが、大量消費の欲望を制限しようという動きは極わずかなものであるからだ。
一九五〇年代には二五億人に過ぎなかった地球の総人口は、わずか四〇年で五〇億人を突破している(九七年現在で五八億人)。地球の資源総量で、先進国の価値観で言う「最低限の人間生活」を維持出来るのは、八〇億人が限界と言われている。しかし、今のままでは単純計算で二〇二〇年には八〇億人を突破、二〇五〇年には百億人に近くなる。それは、全世界の砂漠を緑化し、耕地面積を最大限に拡大しても、まかない切れない数だと言う。さらに、先進諸国の贅沢な消費生活や後進国の人口増加の加速が、このリミットを大幅に前倒しにすることは確実である。
宮崎監督の見解はさらに厳しい。
「地球の人口が百億になることを想定して物事を考えたりするのは、非常に傲慢な感じがする。とても百億まで行かないだろうと思ってしまいます。」(前述『週刊朝日』掲載・司馬氏との対談)
「アトピーやエイズの渦の中で、子供を生み、人口が百億人になっても、ひしめき合いまじり合って生きていかなければならないと考えている。」(『朝日新聞」九四年二月二四日付インタビュー)
「資源を喰い尽くせば文明は消滅する」という教訓は、全世界に重くのしかかっている。たとえ、この国が照葉樹林地帯であっても、アスファルトとコンクリートの敷設された土地や、水脈や生態系を破壊して建造したゴルフ場には森は再生しない。現在の消費量を維持するために、他国の資源争奪を巡って戦争が起きないという保証はない。(実質的には既に経済的な市場争奪戦下にある。)他国を収奪して豊かになれば、ますます難民や移民が増えることになるだろう。ギルガメシュの遺言であった「滅びの道」を驀進している我々は、イースター島の教訓を生かすことを真剣に学ばなければならないのではないか。
なお、宮崎監督は漫画版『風の谷のナウシカ』の連載終了前後に、このイースター島学説を序章とするクライブ・ポンティングの著書『緑の世界史』を読み、大きな衝撃を受けたと語っている。(『COMICBOX』九五年一月号掲載インタビュー)『もののけ姫』の制作にあたり、監督はここに思想的出発点を見い出したのではないか。
前述の「シシ神は生と死そのもの」という言葉には、この全人類的大テーマが含まれていたのではないだろうか。
エコロジーの行方
前項で絶望的大状況を提示したわけだが、刹那主義に浸ってあきらめることは宮崎監督の本意ではないだろう。あくまで生き抜く力強さと、人間の可能性への信頼こそ宮崎監督作品の底流を流れる思想と言える。それは、個人の殻に閉じこもって大状況を正視しない現代的な若者文化とは、異質なものであろう。しかし、困難な大状況と正面から立ち向かう者こそが新時代を開拓するのではないだろうか。混沌とした世界にあっても、大状況を拓り開こうとする思想の流れはある。
宮崎監督は、自らの不健全な生活スタイルから、「エコロジスト」と呼ばれることを大変嫌っている。しかし、八〇年代以降のエコロジー思想は様々に分化・展開しており、一言で括ることは出来ない。あくまで実践重視の宮崎監督に近いと思われる新たな思潮も生まれている。それらを、宮崎監督の思潮と対比させつつ簡単に紹介してみたい。
まず、「ディープエコロジー」の思想である。
ディープエコロジーとは、八〇年代アメリカを中心として盛り上がりを見せた実践型の環境保護思想のことである。その起源は一九七三年にノルウェーの哲学者アルネ・ネスの提唱した論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」で、人間を自然の一環に組み込まれた網目の一つとして考えることを核としている。西欧の自然支配主義から、生命相互が関連する平等主義へ転換しようというもので、「なるべく環境を保全しよう」という常識的倫理を唱えるだけの非実践的エコロジーを「シャロウエコロジー(浅いエコロジー)」として批判したのである。
ディープエコロジーは、個人や企業の自覚を一義に考え、生活様式や発想の転換を強く呼びかけた。具体的には、「ウィルダネス(原生自然)」と呼ばれる大いなる自然に触れ、そのエネルギーを感じ取ること、「生活地域主義」として地域の動植物との共生を中心としたおだやかな小規模社会を実現することなどであった。
「自然を神(人間)が作ったもの」として利用・支配の対象と教えるキリスト教文化圏にあって、ディープエコロジーは体制批判の思想とも言われた。しかし、「一人一人の変革が環境を変える」とするディープエコロジーには理想主義の限界があった。そもそも自然と共生して来た歴史を持つが故に差別されて来た原住民をどう考えるのか。環境破壊の産業でも誘致しなければ生きていけない貧しい国々の人々をどう考えるのか。
次に「ディープエコロジー」を「社会問題を切り捨てている」として、真っ向から批判した「エコフェミニズム」の思想を見てみたい。
エコフェミニズムは、以下のような主張を展開した。
ディープエコロジーは、「人類が環境を汚染した」と規定するが、少数の原住民や抑圧された女性まで「人類」とするのは誤りである。この「人類」とは、先進国の男性のことである。西欧の合理主義と産業第一主義が、自然環境を破壊し、生命を抑圧する支配の構造を作り上げて来た。それは、女性や少数民族差別の歴史と同根である。つまりは家父長制の男性社会が暴力で自然を破壊し、女性を抑圧して来たのだ。だから、女性の解放こそが環境問題の解決にもつながるのだ。体内に生命を宿すことの出来る女性こそが、本当に生命連鎖を実感出来、環境保護の理念を実現出来るのだ。
これらの思想は、宮崎監督の思想とも通じるところがある。「ウィルダネス」の概念や「生活地域主義」からは、宮崎監督が好んで描く大樹・森林崇拝や村落共同体を思い浮かべることが出来る。『となりのトトロ』のビデオがアメリカで爆発的なセールスを記録した背景には、ディープエコロジー流行の影響もあったのかも知れない。
また、女性こそが生命連鎖を実感出来るとするエコフェミニズムからは、ナウシカやシータなど自然に寄り添って暮らす歴代ヒロインを思い浮かべることも出来る。
ただし、これらはあくまで部分的かつ構造的な類似であって、宮崎監督が特定の「主義者」でないことは明かである。ただ、このような類似点は、ディズニー配給による今後の世界市場の展開に於いて、宮崎監督作品が普遍性を持ち得る根拠を示すには充分ではないだろうか。
一方、宮崎監督作品には、環境保護の思想だけでなく、次に見るような独特の生命倫理が貫かれている。
崩壊する生命倫理
現代は、これまでのどの時代にも増して、生命と生命のつながりが希薄な時代、生命の重さが実感出来ない時代と言わねばならない。
カルト教団による大量自殺や無差別殺人、女性・幼児に対する変質的猟奇的殺人事件の頻発、老人や労務者の虐待、さらには小動物の惨殺までが連日起きている。学校現場ではいじめが続き、少年・少女の自殺は後を断たない。仮想世界でも、大殺戮ゲームのごとき推理サスペンス映画や、ボタン一つで生殺が行えるペットゲームが大流行するご時勢である。
そして、バイオテクノロジーと呼ばれる動植物の生命操作技術が発達し、ついにクローン羊が誕生するに至った。人間は高等生物の生命まで操れる時代になりつつある。この国では、人の脳死問題の是非までが不透明なまま国会で論議され、法案が採択されている。
一方、地域共同体が崩壊し、他人と関わらない一方通行の個人主義文化がはびこっている。これとは逆に、自閉症の子供や痴呆症の老人の治療には、アニマル・セラピーと呼ばれる動物飼育が有効だと言われる。
これらの諸現実を関連づけて考える時、人間は生命の価値を見失い、本質的な生命力を失いつつあるのではないかと思えて仕方がない。
人間が生きることは、それ自体他の生命を殺して食べることである。人間は、自らの生命を維持する限り、他の生命を奪い続けるのである。これは逃れられない現実である。この現実に向き合うことなく、生優しい自然保護などを唱えたところで、それは敗者に対する勝者の哀れみのようなものでしかない。
では、生命倫理をどこに見い出すべきなのか。
いのち論の彼方
縄文人の残した貝塚は、食べかすのゴミ捨て場ではなく、貝の墓場だと言われている。貝を弔うことで、貝の子孫が戻って来ることを願ったのである。縄文時代の遺跡からは、子供の鹿や猪の骨が発掘されていないと言う。彼らは無駄な狩猟や殺戮はしなかったのである。そこに流れているのは、人間を自然の一環に組み込んだ「生命の循環」の思想ではなかったか。
アイヌには「イヨマンテ」と呼ばれる熊おくりの儀式がある。人間に食料や衣料を提供してくれる熊に感謝し、丁重に弔う儀式である。殺した熊に対する感謝を忘れず、熊の遺体を食べ尽くし無駄なく活用するならば、熊は喜んで他界し、生まれ変わってもまた身体を提供してくれると言う信仰である。それは、人間の犠牲にされる他の生命への感謝に支えられた生命循環の礼儀作法である。
しかし、われわれは合理主義の基に呪術的礼儀の意義を切り捨て、縄文人の生命倫理とはかけ離れた社会を作り出してしまった。ここに学ぶべきものは多いが、実践的にはどうすべきなのか。森岡正博氏によれば、近年の生命倫理は「いのち論」として日本独自の展開を見せていると言う。
たとえば、東京都の公立小学校教諭を三十年間続けた鳥山敏子氏は、生徒達に「生きた鶏を殺して食べさせる」という授業を行っている。
鳥山氏は、他の生命を殺して生きなければならない苦悩の末に、空高く飛び続けて星になってしまうという、宮沢賢治の童話『よだかの星』に流れる思想に感銘を受けたと言う。氏は、殺す者と食べる者の分業が始まってから差別が始まり、生命の境界線があいまいになったのではないかと主張する。
「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいはどんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう。」(鳥山敏子・著『いのちに触れる』)
授業の当日、女子生徒は鶏を抱いて逃げ回り、泣きながら「殺さないで」と叫んだが、やがては空腹の余り肉を食べたと言う。子供達には、直に生命を奪った後味の悪さが残った。
子供達は、その後の授業で如何にたくさんの生命を奪って生きているかを実感し、食物に宿る生命の重さを知り、戦争や無意味な殺戮に対して強い嫌悪を抱くようになったと言う。
他の生命を奪って身体に取り込むという強烈な自覚が、自らを維持するために捧げられた他の生命への感謝に繋がり、自らの生命も他の生命も慈しむ心が生まれたのである。それは、いのちに触れる授業であった。
血まみれの残酷さと向き合う中から、生命の重さをつかみ取るという生々しい葛藤。それは、いのちといのちの荒々しいぶつかり合いであり、自然と人間との対話ではなかったか。このような強烈な自覚を伴ってはじめて、人間の生命力は回復に向かうのではないか。そして、生きることの楽しさと苦しさを受け止め、自然保護を実戦し得る力強さも立ち昇ってくるのではないだろうか。
ここには、「人間はドブ川にわくユスリカの幼虫のようなものだ」(リクルート社発行『ダ・ヴィンチ』九四年六月号掲載インタビュー)と語る宮崎監督独特の平等主義に深く通じる思想があると思えてならない。
環境保護の概念も、善行一般のキレイ事でなく、同じ生命としての痛みを分かち合う苦悩なしには、耳慣れた道徳的宣伝文句と化すだろう。
闇にまたたく光
宮崎監督は漫画版『風の谷のナウシカ』のクライマックスで、ナウシカに以下の台詞を語らせている。「いのちは闇の中にまたたく光だ」と。これは、文明の全てを是として、「正義の光」にたとえがちな人間中心主義に対する宮崎監督流のアンチテーゼである。宮崎監督は、以前以下のように語っていた。
「アメリカ映画に限らないのですが、ヨーロッパからはいってくるファンタジーがありますが、光と闇が闘っていつも光が善なのです。悪い闇がのさばってくるのを、光の側の人間がそれを退治する。それと同じ考えが日本をむしばんでいると思います。」
「森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが。」(鼎談集『時代の風音』)
ここで語られている「闇」とは未開世界、人間の生存権以外の自然である。前述の『ナウシカ』で語られている「闇」は、更に広義に、自然に則した人間生活全般をも指しているように思われる。つまり、「光を際限なく拡大させる人間社会」と「闇に寄り添う人間社会」の違いである。このモチーフは、『もののけ姫』にも立派に受け継がれている。
『もののけ姫』の物語の後、タタラ場に残ったアシタカは、サンと話し合いながら樹を伐り続け、動植物を殺して食べ、鉄を作り続けることになる。それは、余りに困難な共生構造である。だが、破壊と殺戮の中にしか人間の存続はない。その人間としての業を実感しながら生きることは、心に闇を持つことではないか。心を光で満たすことが人間中心主義の破壊と生命倫理の崩壊につながるのなら、逆に心に闇を持つことが破壊の抑制と生命倫理の再生につながるのではないか。
重要なことは、人間と自然が互いに生かし生かされるという生命循環の思想、互いに生命権を主張しながら必死に生きるという共存の思想があるかどうかである。これが芽生えた時、破壊の闇の中にほんの一瞬、生命の共振現象が起き、共存の光が瞬くのではないだろうか。その光とは、人工的な蛍光灯のネオンではなく、生命エネルギーに溢れた自然光であろう。その光の量が、人間の未来を照らすものであると思いたい。『もののけ姫』には、そのような宮崎監督の願いを強く感じる。監督は、以下のようにも語っている。
「光と闇は全部人間の内部に混在してあるものでしかない。人間は汚れを生みだしながらも、その環境の中で生きるしかできないと考え始めました。」(『朝日新聞』九四年二月二四日付インタビュー)
「これから三十年、日本の人口は減りはじめますから、攻撃性を失うんじゃないかと期待しているんです。そして、この島で緑を愛して、慎ましく生きる民族になってくれないかなと。根拠のない妄想ですが…。」(鼎談集『時代の風音』)
これを宮崎監督が全力を尽くして「次世代へ手渡したバトン」であると解するならば、真の「決着」はわれわれ観客一人一人の前に開かれている。渡されたバトンを持ってどこへ走るのか、それはもうわれわれ自身の問題である。つまり、観客に引き継がれて現実へと続く思想の物語なのだ。
そして、歴史の方向如何によっては、映画『もののけ姫』は伝説的名作となることだろう。五千年の時を経てなお現代を照らす、あの『ギルガメシュ』のように。〈了〉 
 
芥川龍之介の「歴史小説におけるエゴイズム」

 

先行研究 
一.研究動機
黒澤明のおかげで、映画化とされた芥川龍之介の作品『羅生門』が一層知られるようになった。そして、日常生活中、結果もない、答えもない、謎のような事件を「羅生門」と自然に言われている。専門学校の時、初めて芥川龍之介の作品『羅生門』を読んだ。あの時の私は、その中の複雑な人間の情けがあまりよくわからなかった。そして、大学の授業で『鼻』を勉強した時、その中に描いた人間の自利が印象的であった。それから引き継いで、芥川龍之介の作品『地獄変』を読んだ。作品中の情景描写、物語の語る手法、特に人間の醜悪な生まれつき、諧謔を含んだ軽妙な筆致はとても印象的だった。さらに、これらの作品のいずれは『今昔物語』、『源平盛物語』、『平家物語』などの日本の古典文学によったもので、いわゆる歴史小説だということを知った私はますます芥川の創作した動機及び歴史小説に現しているエゴイズムに興味を持つようになった。したがって、「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにし、卒業論文を書くことにしたのである。
二.先行研究
芥川龍之介の歴史小説を論ずるなら、『今昔物語』などの日本の古典文学から材料を採ったことを無視してはならない。この点について伊豆利彦は次のように論じている。
芥川における精神的な革命、新しい芸術への開眼は、生命の発見であり、人間の発見であった。芥川は固定的な善悪の観念にとらえられ、その対立葛藤に悩んでいた。この善悪を超えた激しい生命の燃焼に、芥川は人間を発見し、芸術を発見した。芥川が『今昔物語』の世界に感動し、そこに自分自身の現代的な文学の主題を見出すようになったのは、この精神的な革命と密接不可分である。(中略)古代といい、平安といい、王朝といえば、いたすら『源氏物語』に見られるような優美な宮廷の世界をのみ思いうかべる一般的な風潮に対して、芥川は『今昔物語』を埋もれた古典の世界から掘り出して、そこに現世の内なる「修羅、餓鬼、畜生の世界」をざまざまと見た。そしてそこになまなましい「野性の美」を見出し、「人間喜劇」を見た。当時は未だ一般には『今昔物語』はそれほど高い文学的評価を与えられていなかった。芥川における『今昔』の発見はそれだけ大きな意味を持っていたということが出来る。
この論述によると、芥川の「歴史小説」は大きく価評されていることが窺える。次に、『今昔物語』について、芥川がどう考えているかを見よう。伊豆利彦は次のように説明している。
芥川はまた『今昔』の写生的筆致について述べ、それは当時の人々の精神的争闘をもやはり鮮やかに描き出していると指摘した。「彼等もやはり僕等のやうに娑婆苦の為に呻吟した」のであり、『今昔』は「最も野蛮に、−或いは殆ど残酷に彼等の苦しみを写してゐる」と述べている。
上述したように、『今昔物語』の中に社会の底の暗い間の中にうごめいていて、生まれついていた人間の醜悪さを掘り出した芥川の姿勢が見られる。それから、『今昔物語』における「エゴイズム」に対して、芥川が感動した原因を、伊豆利彦では次のように分析している。
芥川は支配権力による民衆支配の道具としての宗教、道徳、思想を、いつわりのものとして強く排撃する。それは人間てき生命を抑圧し、人間の醜悪を隠蔽し、偽善と虚飾を強制するである。芥川はそれからの解放を痛切に求めていた。平安末期、『今昔』の世界が芥川にとって魅力ある時代であったのはこのためである。たしかにそれは暗黒の時代であった。無法の時代であり、無明の時代であった。しかしこの暗黒の内部において、社会秩序の枠の中で窒息し、宗教、道徳の権威によっておしゆがめられた人間性が、新しい息吹きをもってよみがえり、赤裸々な自己を主張して躍動する。それはまさしく、「現状からかけ離れた愉快な」時代であった。
上の論述から、『今昔物語』を読んだ芥川が感動した原因が人性の反発にあることが明白である。そして、芥川が人間のエゴイズムを深刻的に体験して、作品を完成したことについて、芥川は『あの頃の自分の事』の中で、「自分は半年前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになる気が沈んだから、その反対になる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取って、この二つの小説(『羅生門』と『鼻』)を書いた」と説明している。これを見れば、芥川が人間のエゴイズムを作品の主題として、創作したのは、自分の体験によったことが明白になる。そして、伊豆利彦は芥川が悪い人柄を掘り出した原因を次のように解釈している。
芥川は暗黒そのもの、人間が醜悪なエゴイズムを露出して生きるとそのことを肯定し、讃美したのではない。ブルジョア的俗物主義の社会的外面的な道徳や宗教が、人間的生命を疎外して、自己=人間の醜悪さを隠蔽し、偽善と虚飾を誇示することに反発し、真実の人間的生存と救済を求めたのである。
上の引用によると、芥川が自分の醜悪をまともに正視すればこそ、新しい人格が生まれることと思ったことが明瞭になる。「自分の醜悪を隠蔽し、自己を合理化し道徳化するものは、現状を肯定し、虚偽の中に生き継ぐけるものである。芥川は自己の醜悪を露出して生き、それはによって傷つくものにこそ、新しい人間よみがえりの可能性を見た」と言った伊豆の主張は、確かに示唆的で、新たな観念だと言えよう。伊豆利彦はこの論点に関して、以下のように論じている。
生活の手段をうしなうことによって、この青年は道徳的思想的基盤をうしない、暗い巷をあてもなくさまよっているのである。彼は新しい世界へつき出すのは、老婆の、人間は誰でも醜悪なもので、こうしなければ餓え死にするしかないのだという言葉だった。下人はこの老婆の言葉に説得されたから、老婆をつき倒し、引きはいだのではい。老婆に対する半発が彼を前へ突き出したのである。そうでなければ老婆に暴力をふるうことはしなかったであろう。なるほど老婆の言葉はもっともな理屈であった。しかしそのもっともらしい、したり顔の理屈を下人は憎んだ。老婆が自分を合理化するもっともらしい論理で、自分自身がつき倒され、おしつけられ、引きはがれる所に作者の感じた痛快さがある。
上の引用文から、芥川龍之介が新しい領域を開拓して表現した人の心に隠れていた醜悪さがありありと見られる。
以上の論点を再びまとめてみると、次のようである。芥川が『今昔物語』から材料を採って小説を書くまでは、日本の古典文学の世界は優美なものだと思われがちであるが、そうした中で「エゴイズム」という人間の生まれつきの醜悪を芥川が重要な主題とし、書き出した芥川の歴史小説は確かに特異に見える。エゴイズムが一体どのように芥川文学、特に彼の歴史小説に表現されているかは、研究に価する課題だと思って、芥川龍之介の「歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにしたのである。
三.研究内容及び方法
本論文は「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」をテーマにした研究である。具体的に大正3年から7年までの作品、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、『蜘蛛の系』の四作品を研究内容と限定したい。そして、研究方法としては、文献調査法で行うことにする。以下、三つのステップを踏えた上で、研究対象としたものにアプローチしていきたい。
1.まず、発表順にこの四作品における「エゴイズム」を分類し、各作品に現れている特色を明らかにする。
2.次に、各作品の特色を見出した上、各作品にある共通点及び相違点を比較する。また、その間に見られる変遷をも究明したい。
3.それから、第2点でまとめた「エゴイズム」を芥川龍之介の生い立ちに照らし合わせながら、そのかかわりを明白にさせるように作家論へと発展させていく。
以上のように、上述した三つのステップに沿って、芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズムの内実を究めたいのである。 
第一章 芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム 
第一節『羅生門』をめぐって
『羅生門』の主人公は下人と老婆である。『羅生門』は従来、下人のエゴイズムと老婆のエゴイズムの差別を中心として論じられてきた。そこで、エゴイズムを明らかにさせたいために、以下、老婆の場合と下人の場合及びその心理転化に分けて論じることにする。まず、下人に関する描写を見よう。
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでゐる遑はない。選んでゐれば、築土の下か、道ばたの土の上で、飢死をするばかりである。さうして、この門の上へ持つて來て、犬のやうに棄てられてしまふばかりである。選ばないとすれば—–––下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やつとこの局所へ逢着した。(中略)「下人は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、當然、その後に來る可き「盜人になるより外には仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
以上のように、下人は羅生門の下で、自分の未来を考えて、どの手段を尽くして、生活ができるかに困っている。生活を支える手段を失った下人は生きるために、下人は「盗人になろう」という結論に辿り付いた。それにもかかわらず、この結論に面した下人は子供から教育されている道徳観、つまり、人間の是非善悪を厳守することのため、「盗人になろう」を積極的に肯定した勇気が出せなかった。その時、もとは羅生門の二階に登って、一晩を楽に過すつもりでいる下人は死人の髪を抜いた老婆に偶然に会った。その出会いは次のようである。
その髪の毛が、一本づ拔けるのに從つて、下人の心からは、恐怖が少しづ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづ動いて來た。─いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分每に強さを増して來たのである。
道徳感を強く持っている下人は、老婆のした醜悪な事を見ると、正義感が生じ、それに対する嫌悪感が増してきた。その時、下人の心理は次のようである。
この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考えてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。(中略)下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を拔くかわからなかつた。(中略)しかし下人にとつては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざるであつた。勿論、下人は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。
老婆が死骸の髪を抜いているところを見た下人の示した反応はごく普通であろう。死者を犯す行為を見た下人は、醜悪な行為をしたら、生きるより、飢死したほうが尊厳のあることだと考えいた。この考え方を持っている下人は老婆の行為を詳しく知りたいため、次のように老婆に聞いて見た。
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一しよに、心の中へいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。
死骸の髪を抜いた老婆の「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」という答えに対しては下人は、「存外、平凡なのに失望した」と「失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一しよに、心の中へいつて來た」とあるように、老婆の平凡な答えに失望したと同時に過去で分らなかったことが分かってきた。その後、下人の心境には変化が見られる。
しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて來た。それは、さつき門の下で、この男には缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。下人は、饑死をする盜人になるかに、迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出来ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
以上の観点から見れば、下人は老婆の答えから悪への原動力を得たと思われている。なぜというと、善人であった下人が老婆の利己心に左右され、「生存のために、悪い事をしてもいい、これは仕方がないことだから」という考え方を肯定して、盗人になったのである。「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」という老婆の答えは、すなわち、下人が生存のために悪人になる道へと歩き出した理由ともなったのである。このように、老婆の答えは下人の持った善悪の価値観を変えた。と同時に、下人が盗人になったのである。一方、老婆の場合はどうかを以下の描写から見よう。
成程な、死人の髮の毛を拔くと云う事は、何ぼう惡い事かもしれぬ。ぢやが、こにゐる死人どもは、皆、その位な事を、されてもい人間ばかりだぞよ。(中略)わしは、この女のした事が惡いとは思うてゐぬ。せねば、饑死をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。(中略)ぢやて、その仕方がない事をよく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。
上の描写から見れば、老婆の利己は純粋的なエゴイズムだと言える。なぜというと、老婆の動機は「これをしなければ、結果は飢死だけでしょう。だから、その結果を避けるために、悪いことをするしかない。これは仕方がないことだから」ということにあるからである。
さらに、老婆の下人の働きがけを見るために、それに関連する場面を表(一)にまとめて見た。
表(一)老婆の動作とそれに対する下人の反応
場合描写下人の反応
初めて下人は老婆が死人の髪を抜いたところを見たばかりした時。今まで眺めてゐた死骸の首に兩手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるやうに、その長い髪の毛を一本づ拔きはじめた。髪は手に從つて拔けるらしい。下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさへ忘れてゐた。
老婆の髪を抜いた行為に従っての下人の心理転化その髪の毛が、一本づ拔けるのに從つて、下人の心からは、恐怖が少しづ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづ動いて來た。(中略)恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した木片のやうに、勢よく燃え上り出してゐたのである。
老婆の理由を聞いた下人の感じである。下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑と一しよに、心の中へいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。意外的な答えを聞いて、期待している心はまた、前の気分に返した。
老婆がこの行為の動機を次に解釈している事を聞いた下人の心も何か知ることがない勇気を生まれて来た。わしは、この女のした事が惡いとは思うてゐぬ。せねば、饑死をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。(中略)ぢやて、その仕方がない事をよく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて來た。それは、さつき門の下で、この男には缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。
最後、下人の動作である。では、己が引剝をしようと恨むまいな。己のさうしなければ、饑死をする體なのだ。下人は、すばやく、老婆の着物を剝ぎとつた。それから、足にしがみつかうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。
表(一)によると、下人は初めて老婆が死人の髪を抜いたところを見た時、恐怖と好奇心のあまり、呼吸も忘れていた。と同時に、老婆の髪を抜いた行為を見た下人は初めての恐怖から死者を犯したことへの怒りや正義感を心の底から湧いてきた。この正義感のために、下人は飢死しても、道徳を失う事をしないという考え方を浮んできた。それから、老婆に理由を聞いた下人は、最初、老婆の答えに対しての失望すると共に、老婆に対する軽蔑の念も生じてきた。さらに、この行為に対する老婆の解釈を聞いた下人は、老婆の理由を押し付けられて、自分の長い時間で持っていた道徳を捨てて、エゴイズム的考えに巻き込まれた。つまり、人間は生存のために道徳に違反しても構わない、いわゆる利己の本能が窺えるのである。人々が生存のために、平気で盗人になったのではなく、実は、皆の心の中に良知と道徳があり、それを超えるには、もっと大きな勇気がいる。それは、まさしく、渡部芳紀は「<飢死をする>か<盗人になる>か、どちらを選ぶか迷っている下人、いや、<盗人になる><勇気を出ずにゐた>下人が、<わしのしてゐた事も悪い事とは思はぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの>という老婆の言葉に理由を得、勇気を得て、盗人になる」と論じている通りである。「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」ということを、自分が生きるには一番大切な理由として認められ、どんな罪悪の事をしても、許される。それで、堂堂と「善」の世界から「悪」の世界へ入っていったのである。
以上のように、下人が持っていた自分の良心を隠して、老婆の論理に説得されたあげくに、盗人になった。下人のエゴイズムについては、伊豆利彦が「もちろん下人は自覚的論理的に考えたのではない。無意識に、衝動的に行動している。しかし飢えに直面した下人の内部には、社会に対する反感が次第に強まっていて、それが老婆の言葉で一挙に爆発したということが出来る」と述べている。それによると、下人は老婆の言葉に迫り、「エゴイズム」という人性の醜悪さを出したのである。下人のエゴイズムは死亡に面して、生じた人間の本能だと言え、自己を解放していた人性である。それに対して、老婆の心境は飢死をしないために、何をしても許されるということである。この点について、伊豆利彦は「老婆は一切の理想と道徳を否定して、人間のエゴイズム、生きる本能だけを肯定する」と説明している。それゆえに、何のことより、自身の生存が一番大事であり、道徳に違反しても、論理を守られなくて、仕方がない事だと認めている老婆のエゴイズムは人間の本性だと思われる。
以上のことに照らし合わせると、エゴイズムというのは人間の生まつきの利己心だと考えられる。すなわち、老婆の答えに説得された下人が引き起されたエゴイズムと老婆のエゴイズムとも人性の醜悪な天性であろる。昔から従っていた論理と道徳は、一旦、自身に関する生存と衝突すると、すぐ捨てられたものになる。良人の下人は盗人になろうという考えが最初、道徳にとらえられたが、老婆の説明を聞いた後、生きるために何をしてもかまわないというエゴイズムが下人の心に芽が生えてきたのである。それで、エゴイズムは、人間の本能の一部分だと言えるのではないか。 
第二節『蜘蛛の糸』をめぐって
『蜘蛛の糸』の主人公は键陀多である。『蜘蛛の糸』で注意されていることは、主人公−键陀多が「人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒。」である。このような悪人だが、「小さな蜘蛛」を助ける心を持っている。以下は键陀多の場合とその心理転化に分けて論じことにする。まず、键陀多に関する描写を見よう。
この键陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたつた一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、或時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて行くのが見えました。そこで键陀多は早速足を挙げて、踏み殺さうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無闇にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつたからでございます。
以上のように、たとえば残酷な人でも、心の底で慈悲の心を持っていることが分かる。すなわち、彼は人間である以上、少しは慈悲心がある。その故に、键陀多は小さい蜘蛛を助けるので、お釈迦様から地獄を脱す機会を与えられた。それは次のようである。
何気なく键陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひとそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光りながち、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。键陀多はこれを見ると、思はず手を拍つて喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼつて行けば、きつと地獄から抜け出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さへも出来ませう。さうすれば、もう針の山へ追ひ上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。かう思ひましたから键陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしつかりとつかみながら、一生懸命に上へとたぐりのぼり始めました。
そうして键陀多は蜘蛛の糸のおかげて、だんだん地獄に脱出した。键陀多が本、自分がいる血の池を見下ろして、心の嬉しさは言うまでもないことである。次のように键陀多に聞いて見た。
所がふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼつた後をつけて、まるで蟻の行列のやうぬ、やはり上へ上へ一心によぢのぼつて来るではございませんか。键陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、暫くは唯、莫迦のやうに大きな口を開いた儘、眼ばかり動かしでおりました。自分一人でさへ斬れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪へる事が出来ませう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。(中略)今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまふのに違ひありません。
蜘蛛の糸を掴んでいる键陀多がいっぱいな罪人が自分の後を追っていることを見て、第一に頭に浮かんでいるのは自分の安全である。「もし、蜘蛛の糸を切たら、ほかの罪人でもなく、私でも本の地獄へ落とさなければならない。そうすると、私も地獄を逃げられない。」ということを考えている键陀多は思わず、次のことを話した。
そこで键陀多は大きな声を出して、と喚きました。その途端でございます。今まで何ともまかつた蜘蛛の糸が、急に键陀多のぶら下つてゐる所から、ぶつりと音を立てて断れました。ですから、键陀多もたまりません。あつと云ふ間もなく風を切つて、独楽のやうにくるくるまはりながら、見る見る中に暗の底へ、まつさかさまに落ちてしまひました。
地獄から脱げられた键陀多は思わずに口から滑らした話のために、蜘蛛の糸が切れて、地獄へ返してしまった。自分の安全に深く関わりに键陀多が思わずに「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼつて来た。下りろ。おりろ」という話により、エゴイズムという人間の醜悪も明白に現れた。すなわち、「利己」という観念は人間の生まれた本能だと言える。
以上の内容から見れば、本文は利己主義を中心としたものが見られる。主人公−键陀多は本、地獄から脱し出す機会を持っていていたが、利己心があるため、かえて、地獄へ帰った。細く蜘蛛の糸も键陀多に対して、厳しい試験だとも言える。角度を変えて見れば、これはお釈迦様が键陀多への人性のテストかもしれない。吉田精一は「どんな罪人にも慈悲の心があること、それによって人間が神仏に救われ得ること。しかし自分ひとりだけよい目にあおうとするエゴイズムが、結局は他の人々を救われないものにするとともに自分をも破滅させる。」と説明している。そのゆえに、エゴイズムは人間が生きるために必要であるが、そのエゴイズムは他を破滅させるばかりでなく、自己をも滅ぼすのではないか。 
第三節『鼻』をめぐって
『鼻』の主人公は禅智内供である。この内供は寺院の高僧であり、しかも、この内供は特別な鼻があるので、有名人になった。一方、内供はこのことに、大変困っている。なぜかというと、この鼻が長すぎて大変な不便だからである。以下は内供の長い鼻のために感じ不便さに関する内容を見よう。
そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ座らせて、飯を食ふ間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げてゐて貰ふ事にした。しかしかうして飯を食ふと云ふ事は、持上げてゐる弟子にとつても、持上げられてゐる内供にとうっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代わりをした中童子が、嚏を拍子に手がふるへて、鼻を粥の中へ落ちした話は、當時京都まで喧傳された。−けれどもこれは内供にとつて、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は實にこの鼻によつて傷けられる自尊心の為に苦しんだのである。
以上のように、内供が困る理由は明白である。寺院の高僧としての内供がこんなおかしい鼻に困ったが、本当は自尊心が傷けられるである。その同時に、内供もこの鼻によって引き起こした噂に気にする。その部分は次のようである。
池の尾の町の者は、かう云ふ鼻をしてゐる禪智內供の為に、內供の俗でない事を仕合せだと云つた。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思つたからである。中には又、あの僧だから家出したのだらうと批評する者さへあつた。しかし內供は、自分が僧である為に、幾分でもこの鼻に煩される事が少なくなつたとは思つてゐない。內供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的事実に左右される為には、餘りにデリケイトに出来てゐたのである。そこで內供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損をは恢復しようと試みた。
以上の内容から見れば、內供が自分の鼻のことに気になっているのは人々からの異様な目つきと噂である。この点について、吉田精一は次のように説明している。
ふつうに考えると、肉体的な不幸は、慣れれば自然にある程度こだわりがとれるはずである。ことに、学問もあり、仏に仕えて悟りに近づいているはずの高徳の僧ならば、なおさらのことだ。しかし、この內供はそうではない。かれは卑俗な名誉心や虚栄心の持ち主で、悟りを開いた高僧らしく見せかけようとするいやらしさがある。新しい治療をする場合にも、なんのかのと、ていさいばかりつくろっている。その点、俗人と少しもかわらず、いやそれ以上の気どり屋である。
自分の欠点について、俗人と同じな気持ちを持っている內供は様々な方法を試した。
さらに、內供の働きがけを見るために、それに関連する場面を表(一)にまとめて見た。
表(一)內供の試した方法と內供の反応
內供の試した方法內供の反応
これは人のゐない時に、鏡へ向つて、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換へるだけでは、安心が出来なくなつて、頬杖をついたり頤の先へ指をあてがつたりして、根氣よく鏡を覗いて見る事もあつた。しかし自分でも滿足する程、鼻が短く見えた事は、是までに唯の一度もない。時によると、苦心すればする程、却て長く見えるやうな氣さへした。內供は、かう云ふ時には、鏡を箱へしまひながら、今更のやうにため息をついて、不承不承に又元の經机へ、觀音經をよみに帰るのである。
それから又內供は、絶えず人の鼻を氣にしてゐた。池の尾の寺は、僧供講説などの屡行はれる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て續いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしてゐる。従つてこへ出入りする僧俗の類も甚多い。內供はかう云ふ人々の顔を根氣よく物色した。一人でも自分のやうな人間を見つけて、安心がしたかつたからである。だから內供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れてゐるだけに、有れども無きが如くである。內供は人を見ずに、唯、鼻を見た。−−しかし鍵鼻はあつても、內供のやうな鼻は一つも見當らない。その見當らない事が度重なるに従つて、內供が人と話しながら、思はずぶらりと下つてゐる鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤めたのは、全くこの不快に動かされての所為である。
最後に、內供は、内典外典の中に、自分と同じやうな鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさへ思つた事がある。けれども、目連や、舎利□の鼻が長かつたとは、どの經文にも書いてない。無論龍樹や馬鳴も人並の鼻を備へた菩薩である。內供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄コの耳が長かつたと云ふ事を聞いた時に、それが鼻だつたら、との位自分は心細くなくなるだらうと思つた。
內供がかう云ふ消極的な苦心をしながらも、一方では又、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざこに云ふ迄もない。內供はこの方面でも殆出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすつて見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと□の上にぶら下げてゐるではないか。
所が或は年の秋、內供の用を兼ねて、京へ上つた弟子の僧が、知己の醫者から長い鼻を短くする法を教はつて來た。その醫者と云ふのは、もと震旦から渡つて來た男で、當時は長楽寺の供僧になつてゐたのである。內供は、いつものやうに、鼻などは氣にかけないと云ふ風をして、わざとその法もすくにやつて見ようとは云はずにゐた。さうして一方では、氣輕な口調で、食事の度毎に、弟子の手數をかけるのが、心苦しいと云ふやうな事を云つた。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待つてゐたのである。(中略)弟子の僧は、內供の豫期通り、口を極めて、この法を試みる事を勸め出した。さいして、內供自身も亦、その豫期通り、結局この熱心な勸告に聽從する事になつた。
表(一)から見ると、內供は色々な方法を試した。まず、人がいない時、鏡へ向って、様々な角度で自分の鼻を映して、根気よくどんな角度で自分の鼻が短く見えるようにとがんばっていた。また、寺へ行く人々の鼻を観察することで、自分の鼻と同じ鼻を持った人を見出したことに努力していた。それから、内典外典の中に、自分のような長い鼻がある人を精一杯探そうとした。しかし、結果は自分とそんな長い鼻を持った人はいないことである。內供はこう言う消極的な長い鼻がある人を見出そうとしたが、失敗した時、それに対して、積極的な方法も試している。たとえば、烏瓜や鼠の尿などを飲んだり、鼻に擦ったりしたこともある。だが、すべては失敗に終ってしまった。この点について勝倉壽一は次のように論じている。
やはり「何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げてゐる」という、絶望的な結果を見ることになる。こうして、內供の努力は全て徒労に終わり、不快と失望と疎外感という重苦しい感情の鬱積だけが増大し、生来の奇形を宿命として確認させるに至る。毀損した自尊心の回復を計ろうとする空しい足掻きにも似た內供の心理は、たまたま「京へ上つた弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする方法を教はつて」来るという予期せざる幸運の出来によって、さらに深い混迷に陥ちて行く。
この論述によると、特別な鼻のせいで、內供の苦悩が窺える。所で、或る日、內供の弟子が友達のお医者さんから長い鼻を短くする方法を知って来た。そのことを聞いた內供の反応は以下のようである。
內供は、いつものやうに、鼻などは氣にかけないと云ふ風をして、わざとその法もすくにやつて見ようとは云はずにゐた。さうして一方では、氣輕な口調で、食事の度毎に、弟子の手數をかけるのが、心苦しいと云ふやうな事を云つた。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待つてゐたのである。弟子の僧にも、內供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに對する反感よりは、內供のさう云ふ策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであらう。弟子の僧は、內供の豫期通り、口を極めて、この法を試みる事を勸め出した。さいして、內供自身も亦、その豫期通り、結局この熱心な勸告に聽從する事になつた。
以上の内容によると、內供がこの新しい方法に対しては、実に楽に聞いて、しかも、心の中にもこの方法が試したがるが、表面に平気な顔をした。なぜかというと、內供の内心で、弟子の僧からの勧告で自分を説得することを待っていると同時に、自分の鼻を短くしたがる気持ちを他の人にしらせたくない。それは、この態度で自分の心情を表現したからでる。この点について、勝倉壽一は以下のように説明している。
その「策略」が成功を奏して、弟子の僧の同情心を動かし、彼はついに弟子の「熱心な勧告に聴従する事にな」るのであるが、そこには弟子の好意に対してさえも自尊心の毀損から身を守ろうとする警戒心が強く働いており、同情と勧告を強要するに至っている。「弟子の僧にも、內供のこの策略がわからない筈はない」のであり、自尊心を守ろうと腐心することが、かえって內供の心の貧しさを見透かされる結果になる。
確かに吉田精一が言ったように、「かれは卑俗な名誉心や虚栄心の持ち主で、悟りを開いた高僧らしく見せかけようとするいやらしさがある(中略)その点、俗人と少しもかわらず、いやそれ以上の気どり屋である」だから、內供の愚かさはこの内容で明らかに明白した。そして、內供の鼻を短くした過程は表(二)にまとめて次のようである。
表(二) 過程順序
湯は寺の湯屋で、毎日沸かしてゐる。そこで弟子の僧は、指も入れられないやうな熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで來た。
しかしぢかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯氣に吹かれて顔を火傷する惧がある。
そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。
しばらくすると弟子の僧が云つた。−−もう茹つた時分でござらう。
內供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは氣がつかないだらうと思つたからである。
鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食つたやうにむづ痒い。
弟子の僧は、內供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯氣の立つてゐる鼻を、兩足に力を入れながら、踏みはじめた。
內供はになつて、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動く眼の前に見てゐるのである。
弟子の僧は、時々氣の毒さうな顏をして內供の禿げ頭を見下ろしながら、こんな事を云つた。−−痛うはござらぬかな。醫師は責めて踏めと申したで。ぢやが、痛うござらぬかな。
內供は首を振つて、痛くないと意味を示さうとした。所が鼻を踏まれてゐゆので思ふやうに首が動かない。そこで、上眼を使つて、弟子の僧の足に皸のきれてゐるのを眺めながら、腹を立てたやうな聲で、−−痛うはないて。と答へた。實際鼻は所むづ痒い所を踏まれるので、痛いより卻て氣もちのい位だつたのである。
しばらく踏んでゐると、やがて、栗粒のやうなもでが、鼻へ出来はじめた。云はば毛をむしつた小鳥をそつくり丸炙にしたやうな形である。弟子の僧は之を見ると、足を止めて獨り言のやうにかう云つた。−−之を鑷子でむけと申す事でござつた。
內供は、不足らしく頰をふくらせて、默つて弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない譯ではない。それは分つても、自分の鼻をまるで物品のやうに取扱ふのが、不愉快に思はれたからである。
內供は、信用しない醫師の手術をうける患者のやうな顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂をとるとのを眺めてゐた。脂は、鳥の羽の莖のやうな形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
やがて之が一通りすむと、弟子の僧は、ほつと一息ついたやうな顔をして、−−もう一度、之を茹でればようござる。と云つた。內供は矢張、八の字をよせたま不服らしい顔をして、弟子の僧の云ふなりになつてゐた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、何時になく短くなつてゐる。これではあたりまへの鍵鼻と大した變りはない。內供はその短くなつた鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極りが悪るさうにおづおづ覗いて見た。
鼻は−−あの顎の下まで下つてゐた鼻は、殆嘘のやうに萎縮して、今は僅に上脣の上で意氣地なく殘喘を保つてゐる。所々まだらに赤くなつてゐるのは、恐らく踏まれた時の痕であらう。
かうなれば、もう誰も哂ふものはないのにちがひない。−−鏡の中にある內供の顔は、鏡の外にある內供の顔を見て、滿足さうに眼をしばたいた。
表(二)によると、內供の鼻を短くした過程がわかるようになった。勝倉壽一は「奇怪な治療を受ける時の內供の心理の解剖もまた詳細を極めており、弟子の処置と言葉から微妙に自尊心を傷つけられる姿が浮き彫りにされる」と述べている。その点について、吉田精一は次のように話している。
そこに現れる自嘲、不服、不愉快などの感情は、鼻の治療が彼の毀損した自尊心の回復を計るための最善の方策として行われたにもかかわらず、一面で、鼻が彼の自尊心の象徴として、それが物品のように取り扱われることに微妙に自尊心を傷つけられることになるという、心理の矛盾をそれとして理解し得ない哀れさを露呈したものである。
以上の観点から見れば、その過程の中で、「もう茹つた時分でござらう」という僧の言葉に「苦笑した」。それから、「內供は、不足らしく頰をふくらせて、默つて弟子の僧のするなりに任せて置いた。」という気持ちで、「自分の鼻をまるで物品のやうに取扱ふのが、不愉快に思はれたからである。」と、內供はそうと考えていた。さらに、「內供は、信用しない醫師の手術をうける患者のやうな顔をして、不承不承」に聞く、「もう一度、之を茹でればようござる。」という言葉を聞いた內供は「矢張、八の字をよせたま不服らしい顔をして」いるなどによると、內供の心理転化はここで明らかに見られる。それから、鼻を短くした內供の心情は次のようである。
しかし、その日はまだ一日、鼻が又長くなりはしないかと云ふ不安があつた。そこで內供は誦經する時にも、食事をする時にも、暇さへあれば手を出して、そつと鼻の先にさはつて見た。が、鼻は行儀よく脣の上に纳まつてゐるだけで、格別それより下へぶら下つて來る氣色もない。それから一晚寝てあくる日早く眼がさめると內供は先、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。內供はそこで、幾年にもなく、法華經書寫の功を積んだ時のやうな、のびのびした氣分になつた。
ここでは、內供が「かうなれば、もう誰も哂ふものはないのにちがひない」という気持ちを持ったが、「その日はまだ一日、鼻が又長くなりはしないかと云ふ不安」を持って暮らした。それで、「誦經する時にも、食事をする時にも、暇さへあれば手を出して、そつと鼻の先にさはつて見た」ことも時々ある。しかし、短くした鼻は依然「行儀よく脣の上に纳まつてゐるだけで、格別それより下へぶら下つて來る氣色もない」。そのために、內供は従来、法華經書寫の功を積んだ時、のんびりした気分があるようになった。ところが、二三日が経ったあと、內供は意外な事實を発見した。それは次のようである。
池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しさうな顔をして、話も碌々せずに、ぢろぢろ內供の鼻ばかり眺めてゐた事である。それのみならず、嘗、內供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で內供と行きちがつた時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらへてゐたが、とうとうこらへ兼ねたと見えて、一度にふつと吹き出してしまつた。用を云ふつかつた下法師たちが、面と向つてゐる間だけは、慎んで聞いてゐても、內供が後さへ向けば、すぐにくすくす笑ひ出したのは、一度や二度の事ではない。
ここで、內供は奇怪な現象を発見した。それは侍や中童子などは、內供の短くした鼻を見た時、前より、一層可笑しい顔をしたことである。內供はこれらの情景を見た時、最初は自分の顔が変わったことを原因として考えていたが、「とうもこの解釋だけでは十分に說明がつかないやうである」から、內供はやはり中童子や下法師達の笑顔がなんか可笑しいと思っている。「前にはあのやうにつけつけとは哂はなんだて」と、內供は、「誦しかけた經文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々かう呟く事」があった。その時、四五日前、鼻が長かった事を思い出した時、「今はむげにいやしくなりさかれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」という感じがある。內供に対して、この問題についての答えは分らないでははないが、それで深い息がある。それは以下のようである。
人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出來ると今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる。さいして何時の間にか消極的ではあるが、或敵意をその人に對して抱くやうな事になる。−−內供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思つたのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍觀者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。
ここで、この作品の主題を明らかになった。作者が言った通り、人間は不幸な人に同情する気持ちと幸せな人に不服する気持ちと二つ矛盾した心情がある。この二つ矛盾した気持ちに左右された內供も、他人の目に映る自己の姿を基準にすることにより、自分の存在を捉えられないで、自己の価値に迷って、判断がつかなくなった。それから、內供がかえて短かった鼻を恨んだ心情は次のようである。
そこで內供は日毎に機嫌が悪くなつた。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまひには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさへ、「內供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきく程になつた。殊に內供を忿らせたのは、例の惡戲な中如童子である。或日、けたたましく犬の吠える聲がするので、內供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまはして、毛の長い、瘦せた尨犬を逐ひまはしてゐる。それも唯、逐ひまはしてゐるのではない。內供は、中童子の手からその木の片をひつたくつて、したかその顔を打つた。木の片は以前の鼻持上げの木だつたのである。內供はなまじひに、鼻の短くなつたのが、反て恨めしくなつた。
ここで、內供の長い鼻だった時のことを思い出して、短かった鼻をかえて恨んだ、矛盾した気持ちを話し出した。もとは、異様に長い鼻をほかの人の目に気にした內供は烏瓜を煎じて飲んだり、鼠の尿を鼻へなすったりするような、さまざまな仕方を試みた結果、漸く長い鼻を短かった。しかし、ほかの人の嘲笑した目のために、臆病になって迷った。この点について勝倉壽一は以下のように述べている。
鼻の治癒によって自尊心の回復を計るという大きな事件を経験したにもかかわらず、彼は以前と同じ状態に立ち戻り、再び自尊心の毀損に傷つき、回復を試みる無駄な営みを続けなければならない。畢竟、それは自らの道をしかと見定め貫く自我の確立なしに、対人関係の中で揺れ動く自意識に振り回されて、自尊心の保持を鼻の治療に賭けて傷を深めていくという、人間の営為の愚かで哀れな矛盾と悪循環を摘出したのに外ならないのである。
以上の内容から見ると、周囲の人の目の下に生活した內供が皆の意見に揺れて動いた內供の愚かと哀れは明白である。当初、自尊心を治すために、短かった鼻がかえて、內供に奇怪な嘲笑をもたらしたことは意外である。自分の存在した価値が分らなかったことは內供が一番大切な問題だと思われる。それから、內供の鼻の状況については次のようである。
すると或夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさい程枕に通つて來た。その上、寒さもめつきり加はつたので、老年の內供は寢つかうとしても寢つかれない。そこで床の中でまじまじしてゐると、ふと鼻が何時になく、むづ痒いのに氣がついた。手をあてて見ると少し水氣が來たやうにむくんでゐる。とうやらそこだけ、熱さへもあるらしい。−−無理に短うしたで、病が起つたのかも知れぬ。內供は、佛前に香花を供へるやうな恭しい手つきて、鼻を抑へながら、かう呟いた。翌朝、內供が何時ものやうに早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黃金を敷いたやうに明い。塔の屋根には霜が下りてゐるせゐであらう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光つてゐる。禪智內供は、蔀を上げた縁に立つて、深く息をすひこんだ。殆、忘れようとしてゐた或感覺が、再內供に歸つて來たのはこの時である。內供は慌て鼻へ手をやつた。手にさはるものは、昨夜の短い鼻ではない。上脣の上から□の下まで、五六寸あまりもぶら下つてゐる、昔の長い鼻である。內供は鼻が一夜の中に、又元の通り長くなつたのを知つた。さうしてそれと同時に、鼻が短くなつたと同じやうな、はればれした心もちが、どこからともなく歸つて來るのを感じた。−−かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない。內供は心の中でかう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
寝られない內供はなんか鼻が痒く、水気もある感じをし、熱さでもの感じがあって、「無理に鼻を短くしたから、病を起こしたかもしれない。」と呟いた。翌朝、黄金のような銀杏や橡の落葉を庭に敷いていた情景と朝日の九輪がまばゆく光っていることを見た內供は蔀を上げた縁に立って、深く息を吸い込んだ時、突然、殆ど忘れしまっていて、懐かしい感覚が又戻った。漸く短かった鼻が昔の長い鼻に戻った。この意外さに面した內供は異様に平気である。「かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない」という思っていた內供はもう自己の生き方と態度をかろうじて捜し出した。この点について、関口安義は「うすい朝日に塔の屋根の九輪がまばゆく光る描写をも含めると、ここに批判‧中傷に耐え、新しく生き抜こうとする主人公の明るい姿が自然描写の中からも来るのである」と論じでいる。その故に、いつも周囲の人の目にかまっていた內供がいくらの困難に出遭い、皆の嘲笑を受けていた最後、他人の目から解放した新しい內供の考えはもう生まれたことは明白である。人間として、周囲の人の目に全然かまわないのはたぶん可能性が薄いが、みんなの目にあまり気にすると、皆の意見に振り回される恐れがある。內供のような臆病な性格だと言えるかもしれない。人間なら多かれ少なかれこのような性格を持っていると言えるのではないか。 
第四節『芋粥』をめぐって
『芋粥』の主人公は「五位」である。『芋粥』の中で人間の愚さか、悲しさと生活の空しさを題材として論じている。「五位」はいつも、周囲の軽蔑を受けて生活している。まずは五位の外貌から見よう。
五位は風采の甚揚らない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、目尻が下がつてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える。唇は−一一、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上がつてゐたのである。
この男が、何時、どうして、基経に仕へるやうになつたのが、それは誰の知つてゐない。が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確かである。その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたと思はれない。(五位は四十を越してゐた。)
以上によれば、「背が低い」と「赤鼻で、目尻が下がつてゐる」と「口髭は勿論薄い」と「頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える」、「唇は−一一、数へ立ててゐれば、際限はない」から見て、五位は確かに外貌の方面に色々な欠点を持っている。それだけでなく、「同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて」いる様子から、五位はみずぼらしく、たらしい人のように見える。それで、周囲の人達に差別されていることも自然に思われる。以下は周囲の人が五位に対しての態度である。
侍所にゐる連中は、五位に対して、殆と蝿程の注意も払はない。有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう。(中略)彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表現の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。人間に、言語があるのは、偶然ではない。従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つているらしい。そこで彼等は用が足りないと、その男の歪んだ揉烏帽子の先から、切れかかつた藁草履の尻まで、万遍なく見上げたり、見下ろしたりして、それから、鼻で哂ひながら、急に後を向いてしまふ。
「殆と蝿程の注意も払はない」、「不思議な位、冷淡を極めてゐる」、「五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない」と「空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう」などは別人が五位に対する態度である。侍所にいる連中は話さえ五位としない程、五位を軽視している。同僚達がそうだけでなく、ひどすぎる悪戯も始めた。そして、同僚達の悪戯が見られる。
所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を翻弄しようとした。年かさの同僚が、彼の振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂興言利口の練習をしようとしたからである。彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。そればかりではない。彼が五六年前に別れたうけ脣の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。その上、どうかすると、彼等は甚、性質の悪い悪戯さへする。それを今一々、列記する事は出来ない。が、彼の篠枝の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡、想像される事だらうと思ふ。
上の描写から見れば、同僚達の中に五位の地位が非常に低い事は言うまでもない。それから、これらの軽蔑を受けた五位の反応は次のようである。
それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じないほど、意気地のない、臆病な人間だつたのである。(中略)五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけむぬのう、お身たちは」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或るいぢらしさに打たれてしまふ。
人間は外の人から軽視や軽蔑を受けたら、不服と抵抗などの反応は一般的であるが、主人公「五位」は逆に、黙って受けていて、怒るなどのは殆どしない。それらの卑劣な悪戯に対して、「全然無感覚」で、「何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない」態度を持った。この点について、勝倉壽一は悪意を込めた周囲の人間達の悪戯に対しては、臆病な五位は「笑ふのか、泣くのか、わからない笑顔」に隠しながらも、「いけぬのう、お身たちは」という精一杯の抗議の声を発することが出来た。だが、彼の生を奪ったものが、憐憫や好意であり、幼稚な悪戯心であるとき、被害者は怒ることも泣くことも出来ない」と指摘した。周囲の人が五位の反応を見た後で、意気地のない、臆病な五位だと思う事は不思議な事ではないと思われる。それにしても、五位はやはり僅かな勇気を出した時がある。それから、その場合はどうかを以下の描写から見よう。
或日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処かから迷つて来た、尨犬の首へ縄をつけて、打つたり殴いたりしてゐるのであつた。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と声をかけた。
ここは五位が殴られた犬を見た時、声をかけた場面である。たぶん、犬を殴った人は子供かもしれないからと思っているので、犬を救う事を試みたかった。この点について、勝倉壽一は「路上で尨犬を虐める悪童らに向かって、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と生涯で殆ど唯一の「勇気」を奮いおこして言った時、彼は確かに世間に「打たれ」る自らの「痛」みをも語っていたはずである」と述べている。しかし、相手は子供だけが、やはり、五位の気持ちを挫かせた。それは次のようである。
すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云は侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれたうもない」その子供は一足下りながら、高慢な脣を反らせて、かう云つた。「何ぢや、この赤鼻めが。」五位はこの語が自分の顔を打つたやうに感じた。が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。後では、子供が六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」をしたり、舌を出したりしてゐる。勿論彼はそんな事を知らない。知つてゐたにしても、それが、この意地気のない五位にとつて、何であらう。
本は、相手は子供だと思った五位は、依然、鼻を折った。「上眼を使つて、蔑すむやうに」五位を「いらぬ世話はやかれたうもない」と見て、「いらぬ世話はやかれたうもない」と言い出した。この話を聞いていた五位は却って、「自分の顔を打つたやうに」感じであった。黙って帰ったのは五位が唯、出来ることである。こんな五位は、来る日も来る日もいつも軽蔑されて生活しているが、実は、五位の心に、ある小さい希望を持っている。それは以下のようである。
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生まれて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない、五位は五六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。(中略)吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさへ、飲めるのは僅に喉を沾すに足す程の少量である。そこで芋粥をあきる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。(中略)五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。
「芋粥を飽きたい」というものは五位が唯、一つの願いである。五位は毎年、芋粥を食べる機会があるが、少量の芋粥だけあるから、五位はいつも、痛烈に飲めなかった。その時の五位は、自分に属する芋粥を飲んでしまった後、「何時になつたら、これを飽ける事かのう」と小さい声で呟いた。それは以下のようである。
「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな」五位の語が完らない中に、誰かが、嘲笑つた。錆のある、鷹揚な、武人らしい声である。(中略)声の主は、その頃同じ基経の恪勤になつてゐた、民部卿時長の子藤原利仁である。(中略)「お気の毒な事ぢやの」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを等分に見比べてゐた。「おいやかな」「、、、、、、」「どうぢや」「、、、、、、」(中略)答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、莫迦にされさうな気さへする。彼は躊躇した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭さうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」と云はなかつたなら、五位は、何時までも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。彼は、それを聞くと、慌しく答へた。「いや、、、、忝うござる」この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや、、、、忝うござる」−かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。所謂、橙黄橘紅を盛つた窪坏や高坏の上に多くの揉烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。中でも、最、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。「では、その中に、御誘ひ申さう」さう云ふながら、彼は、ちょいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。「、、、しかと、よろしいな」「忝うござる」五位は赤くなつて、吃りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層可笑しさうに広い肩をゆすつて、哄笑した。
ここで、第二の主人公−利仁が登場した。利仁は「肩幅の広い、身長の群を抜いた逞しい」大男である。『芋粥』で、利仁を「この朔北の野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。」と説明している。だから、利仁は五位を笑う事も可笑しくないと思われる。利仁が「軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声」で「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」という話を聞いた五位は「いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない」ようにあまり信じられないで、「はい」と肯定な答えに決まりを付けない。しかし、五位はやはり自分の長い時間での願いに違反しないために、「何時までも、椀と利仁とを、見比べて」いて、漸く「いや、、、、忝うござる」と答えた。この答案に、皆も哄笑して、「いや、、、、忝うござる」と五位の声を真似た人さえもいた。以上の内容から見れば、五位は又、皆に冗談をした事は言うまでのない。五位が呟いたことを聞いた利仁は五位に、極めて吸引力がある誘いを提出した。少し躊躇したが、五位は自分の心と相違しなく、「忝うござる」と吃った声で答えた。皆に笑われても、五位も構わないで、「芋粥」というものに集中して自分の世界に落ち込んだ。その時、五位の気持ちは次のようである。
五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。前に雉子の炙いたのがあつても、箸をつけない。黒酒の杯があつても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝の上の置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢の辺まで、初心らしく上気ながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。
そうすると、利仁と誘われた五位とは芋粥を食べるために出発した。「物静に晴れた日」で、「加茂川の河原」に沿って、「芦毛」に乗った五位は「月毛」に乗った利仁に「どこへ行く」と聞いて、「栗田口辺」という返事をもらった。けれども、栗田口辺を通り過ぎて、やはり乗っていた五位は再び利仁に聞くと、「山科」という答えをもらった。それから、やっと山科に着いた利仁と五位は昼食を終った後、又馬に乗って、道を急いだ。この時、五位に聞かれた利仁はやっと終点を話し出した。それから、利仁と五位との間の話は以下のようである。
利仁は微笑した。悪戯をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向かつてするやうな微笑である。鼻の先へよせた皺と、目尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さいして、とうとう、かう云つた。(中略)「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。−敦賀とは、滅相な。」五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。(中略)すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
五位からの断らずにした質問に、利仁はやっと微笑して、悪戯をしたように話し出した。芋粥を飽きる事を手段として、五位を京都から騙し出してしまった。一方、芋粥を飽きるために、利仁につれて、一心に辿っていた五位は、そんな遠い所へ行かなければならないと思い出すと、芋粥のために湧いた微かな勇気も一瞬に失った。その時、馬に乗りながら観音経を口の中に念じ上げた五位は「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう」という利仁の話を聞いた。そして、次の場面を見よう。
「これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄に客人を具して下らうりする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせ参れ。』よいか忘れるなよ。」云ひ畢ると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢の中へ、抛り出した。
突然、声を出した利仁は間もなく、狐を捕った。そして、「これ、狐、よう聞けよ。其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄に客人を具して下らうりする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせ参れ。』よいか忘れるなよ。」と言い終り、狐を放った。この情景を見た五位はどう考えたか。その考え方は次のようである。
五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。−阿諛は、恐らく、かう云う時に、最自然に生まれて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄にこの男の人格を、疑ふ可きではない。
この場面を見た五位は開いた口が塞がらないままに、尊敬した態度で利仁を神様のように見始めた。いつも軽視された生活した五位は、この事に会った後で、考える時間もなく、思わずに利仁の行為に引かれたから、自分と利仁の間に大きな差別があると五位の心で深く考えている。その考え方を持っている五位は自然に、一心不乱に利仁を信じている。そして、五位と利仁が着いた状景は以下のようである。
此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。「あれを御覧じろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」(中略)「夜前、稀有な事が、ございましてな。」二人が、馬から下りて、(中略)「何ぢや。」利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝や破籠を、五位にも勤めながら、鷹に問ひかけた。「さればでございます。夜前、戌時ばかりに、奥方が俄に、人心地をお失ひなされましてな。『おのれは、坂本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』(中略)『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日未時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに鞍置馬二疋牽かせ参れ。』と、かう御意遊ばすのでございまする。」「それは、又、稀有な事でござるのう」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌を打つた。「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わくわくとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れば、おのれが、殿のご勘当をうけならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」(中略)「如何でござるな。」郎等の話を聞き完ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。「利仁には、獸も使はれ申すわ。」「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には今、飲んだ酒が、滴になつて、くつついてゐる。
高島にやっと着いた五位と利仁は、利仁が言った通りに、郎等が迎える同時に、二匹の馬を用意した情況を確かに見た。それから、郎等は五位と利仁とに、「夜に可笑しい事を話した。これは奥方が自分の意志を失って、狐の話し方で「明日未時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに鞍置馬二疋牽かせ参れ。遅れまいぞ。遅れば、おのれが、殿のご勘当をうけならぬ」などを言った。この対談を聞いた五位は「それは、又、稀有な事でござるのう」を話さなければならなかった。そう話した五位は最後に、「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」を言いながら、呆れた様子をしたことも忘れなかった。上記の内容から見れば、五位このいつも皆から軽蔑を受けた男に深く同情に寄せたと思われる。同情を寄せる原因は軽蔑されることではなく、五位の愚かだからである。そこで、この作品の主題である人間の愚かさを見出すことが出来る。次に、五位が敦賀に来た部分を見よう。
雀色時の靄の中を、やつと、この館へ辿りついて、長櫃に起こしてある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、(中略)直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿厚なのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。
以上の本文は五位が敦賀に漸く来た気持ちの描写である。「炭火の赤い焔」を見て、「ほっとした気持ち」で、「綿厚な衣」を着て、「汗が出るほど暖かい」など、京都の自分の寮に比べると、「雲泥の相違」である。そんなによい気分に五位の心情はやはり不安である。その原因は以下のようである。
が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。そかもそれと同時に、やるの明けると云ふ事が、−芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
敦賀に泊まった五位は暖かい衣を着たり、ほっとした気持ちをしたり、少しお酒を飲んだりしても、安心できない。「待っている」気持ちと、「芋粥を早く食べたくない」気持ちと矛盾した気持ちの中で、五位は迷っている。迷っている原因は以下を見よう。
どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。
ここから、五位が迷っている原因が明らかである。唯、大事な願いを守っている、幸せな五位は「年に一度、臨時の客の折に」、「僅かに喉を沾すに足る程の少量」しか味わない芋粥を一旦、飽きたい希望を完成するなら、生活の目標も失ってしまった。「芋粥を飽きる」と期待した。一方、あまり容易に達せられると心で気にした。その気持ちを持った五位は本当に、芋粥を飽きることに面している時に、どんな場面であるかを以下の引用から見よう。
さいして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食欲は、実に、此時もう、一半を減却してしまつたのである。(中略)これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。−五位は提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。
芋粥を食べるために、京都から遠い路を急いた五位は、こんな一杯な芋粥を見るだけでもううんざりした。可笑しい気持ちだが、この気持ちは確かに、今の五位の心情である。だから、鍋の前に座っている五位は気を悪くした。それから、利仁はどんな手段で、五位に芋粥を飲ませる情景は次に見よう。
「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」(中略)「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」利仁の側から、新な提をすめて、意地悪く笑ひながらこん事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸ひやうがない。「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。−いやはや、何とも忝うござつた」五位は、しどろもとろになつて、かう云つた。余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。「これは又、御少食な事ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る」
この一文から、利仁の悪戯な心を読み取ることができる。利仁が側に意地悪く笑いながら、「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」と言った。それに対して、臆病な五位は一層、弱く見えそうである。この点について、勝倉壽一は「利仁の形象には、「微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして」越前まで連れ出す悪戯心と、それを隠し通せずに、「笑つてしまはふか、しまうまいかとためらつてゐる」人の良さ、及び、「悪戯をして、それをみつけられさうになつた小供が、年長者に向かつてするやうな微笑」などが付加されて、その行為の稚気性が強調される」とに説明している。上記の論述から、利仁の本意五位への悪戯を読み取れる。「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」と憐憫な声で、五位にそう言い出した利仁はやはり、ほかの人と同じように、意地悪い考えを持った。この場面に発展するに至って、五位の結末は次に見よう。
利仁の命令は、言下に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与つたのである。五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢや。この赤鼻めが、」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯一人大事に守つてゐた幸福な彼である。−彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。
上述の内容から見れば、五位は皆の注意が自分から狐へ移転したので、芋粥をついに止めたことがわかる。この利仁の命令により、芋粥をご馳走した事を見た五位はまだ、ここへ来ない尨犬のような自分を思い出した。あの時の自分は、いくら軽蔑を受けても、孤独に沈んでも、みずぼらしく、だらしい水干を着た自己に属した希望を持ったので、やはり幸福を抱えている。芋粥を飽きる機会をもらうために、利仁と交換したのは、本の幸福である。反って、五位が得たのは、芋粥に飽きたことがもたらした不自由である。言い換えれば、五位は自由な「尨犬」から、自分での意志でもない一層哀れな「狐」への境地に入った。これについて、勝倉壽一は以下のように指摘している。
「夢想の無惨な実現によって五位の人生には確かな変革の時期が到来した。それは、自らの生活を律してきた芋粥の夢に対する執着からの解放をも意味していた。芋粥の夢こそは、惨めな世俗生活を忍従するための逃避の場でもあったからである。しかし、自立の意志も展望も、人間の誇りさえ持たない尨犬は、芋粥の夢想に生きた過去を懐かしむ、より惨めな境遇に塒を求めるばかりである。
上述したことから窺えるように、つまらない悪戯や、優れた人「利仁」の自尊心や、弱い人「五位」の哀れや、表に好意という傍観者のエゴイズムなどの色々な人間性が明らかになった。この作品で、長い時間で追求した希望を一心に達して、漸くもらった結果が現実と合わない時に、失望し、問いなどの気持ちがあったが、やはりこれらの気持ちを隠して、「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな顔」をする五位は確かに現実社会に生きる人々に示唆的だと思われるのではないか。 
第二章 エゴイズムの特徴 
第一節自分自身のエゴイズム
芥川龍之介の作品は、従来、人性の醜悪を中心に論じている。特に、人間が自身の生存についての時、自然に表させるエゴイズムである。ここで、『羅生門』と『蜘蛛の糸』との二つ作品の中でのエゴイズムをまとめる。まず、『羅生門』の下人の心理変化を表(一)にまとめて見よう。
表(一)下人の心理変化
第一点選ばないとすれば—–––下人の考へは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やつとこの局所へ逢着した。(中略)その後に來る可き「盜人になるより外には仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
第二点その髪の毛が、一本づ拔けるのに從つて、下人の心からは、恐怖が少しづ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづ動いて來た。─いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分每に強さを増して來たのである。
第三点この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考えてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。
第四点成程な、死人の髮の毛を拔くと云う事は、何ぼう惡い事かもしれぬ。ぢやが、こにゐる死人どもは、皆、その位な事を、されてもい人間ばかりだぞよ。(中略)これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの。(中略)その仕方がない事をよく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。
第五点しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて來た。それは、さつき門の下で、この男には缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。下人は、饑死をする盜人になるかに、迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出来ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
第一点から見れば、生活を支える方法を失った下人は、自分の未来を考えていたことがわかる。いくら考えても、最後、まとめた結果に面している下人はこの思い方があっても、勇気が出できない。下人が勇気が出されない原因はたぶん道徳を縛り付けたと思われる。
それから、第二点と第三点を見よう。その時、下人は老婆に会った。死人の髪を抜いた老婆を見た下人は自然に憎悪感が湧いてきた。それにも関わらず、この情景を見た後で、下人の内心で、前の時、「盗人になろう」とその考えも一瞬間に消えてしまった。それに代わりに、下人は思わず「飢死」を選んだその感情は人間として生まれつきの正義感だと言える。
しかし、下人は老婆のもっともらしい理屈を聞いた後、やはり、老婆の言い方に押し付けられた。第四点は老婆の見方である。老婆が死人の髪を抜いた事は確かに、悪い事だが、「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」というもっともらしい、有力な言い訳で下人を説得した。その話を聞いた下人は自分の考え方を守り切れなくなり、反って、老婆の理由に賛成して、「飢死」と「盗人」との間に、「盗人」を堂々に選んだ。この点について、勝倉壽一は以下のように説明している。
過去の道理·習慣の束縛から脱し得ていない下人の側であり、老婆の言辞に「許し」と読み得る契機が存在したとしても、それは自己の生死を支配している下人の安直なモラルを満足せしめる計算にに立つものでしかない。老婆の論理の陥Ωに落ちて、老婆の論理を奪い取った自己満足と、「許される」という自覚を得たとき、彼は決定的に「黒洞々たる夜」を宰領する老婆の支配下に落ちたのである。
この文から、下人の心理変化が明らかに見える。ここで、下人は老婆から悪へと動き出す力をもらって、盗人になった事が明白になった。実は、下人は心で自分の将来に関しての生存手段をもう探し出した。しかし、この道徳に違反する行為ができない。そんなに彷徨している下人は「これとてもやはりせねば、飢死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの」と言った老婆に会った後で、老婆の言葉に引き出された。もし、下人が老婆が死人の髪を抜いた動作を見た後、自然に、心から「あらゆる惡に對する反感が、一分每に強さを増して來た」ものは人間の生まれた「善」だということに対して、すぐ、老婆の言い訳に従って、老婆の論説から「許す」ような、「正当な理由を得た」ような、自分の立場が間もなく変ったのは人間の生まれた「悪」である。なぜかと言うと、これは、下人は「何の未練もなく、饑死を選んだ事」との正義感をよく持たれないで、過去の道徳を守れないで、盗人になった証拠だからである。その後の生活に密切な関わりがあるので、一瞬に迷っても、生存のために、悪の事をするのは「仕方がない」ものだという利己主義、エゴイズムに巻き込まれた。だから、下人の反応を見たら、エゴイズムは人間の生まれた本能だと見出すことが出来る。それから、『蜘蛛の糸』を見よう。『蜘蛛の糸』の主人公は键陀多である。键陀多は悪の事をした悪人である。そこで、键陀多が死んでから、地獄へ落ちた。次に键陀多が地獄から脱出した過程を表(二)を以下に示そう。
表(二)键陀多が地獄から出る過程
第一点この键陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、(中略)小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて
第一点行くのが見えました。そこで键陀多は早速足を挙げて、踏み殺さうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無闇にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつたからでございます。
第二点遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光りながち、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。键陀多はこれを見ると、思はず手を拍つて喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼつて行けば、きつと地獄から抜け出せるのに相違ございません。
第三点所がふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方所には、数限もない罪人たちが、自分ののぼつた後をつけて、まるで蟻の行列のやうぬ、やはり上へ上へ一心によぢのぼつて来るではございませんか。
第四点自分一人でさへ斬れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪へる事が出来ませう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません。(中略)今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまふのに違ひありません。
第五点そこで键陀多は大きな声を出して、と喚きました。その途端でございます。今まで何ともまかつた蜘蛛の糸が、急に键陀多のぶら下つてゐる所から、ぶつりと音を立てて断れました。ですから、键陀多もたまりません。あつと云ふ間もなく風を切つて、独楽のやうにくるくるまはりながら、見る見る中に暗の底へ、まつさかさまに落ちてしまひました。
第一点から見て、键陀多は一切の悪の事をした大悪人だと分かった。しかし、人を殺したり、家に火をつけたりしたことはもちろん、小さいな蜘蛛を殺した時、反って、「蜘蛛は小さいな蜘蛛だが、生存の権利があった」という道理を思い出した。この点から、どんなに残酷な人でも、少し慈悲心がある。すなわち、人間として、心の中に微かな「良いもの」がきっとある。『羅生門』の下人が老婆が死人の髪を抜いた情況を見てから、湧いた悪に対する反感という道理と同様に、、『蜘蛛の糸』の键陀多は人間の生まれた「善」という慈悲心を持っている。
そうして、键陀多もこの珍しい慈悲心のおかげに、地獄から脱した機会をもらった。この銀色の蜘蛛の糸を見たばかり、键陀多が頭に浮んだ思いはこの糸に沿って、地獄を脱走できることである。だから、糸を掴んでいる键陀多は地獄から逃げる途中に、ふっと自分の下に、罪人達もこの蜘蛛の糸を登ってきでる情景を見た。それを見た键陀多はすぐ、蜘蛛の糸がそんな細いのに、いっぱいの人が上ったら、この糸はきっと切れるに違いないと感じた。「もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません」ということを思うと、思わずに、声をかけた。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼつて来た。下りろ。おりろ」と言った。そして、話を言い終ると、蜘蛛の糸が断れた。键陀多は又、地獄へ返った。键陀多は蜘蛛の糸が切れる恐れがあると思って、口から「下りろ」と言ったが、蜘蛛の糸は反って、键陀多の話のために断れた。だから、蜘蛛の糸はお釈迦様から键陀多への試験だと言えるかもしれない。しかし、この試験は键陀多にとって、あまり厳しすぎる。人々がそんな細い蜘蛛の糸を上っていて、誰にも、この状況を見ると、糸が切れる恐れがあると感じでいる。況して、键陀多もこの糸を掴んでいる。そのために、键陀多がまず、自分のことだけを考えるという反応を示した。键陀多の反応により、人間としての自分自身のエゴイズムの証拠だと見られる。键陀多の反応が『羅生門』の下人が老婆の論点を聞いた後、すぐ、巻き込まれた道理と同様に、自分の生存こそ一番大切なものである。自分の生存に関して、「これをしなければ、生けないから、これは仕方がないことだ」という訳で、悪の道へ歩いても、醜悪の事をしても構わない。だから、键陀多の口から脱した「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼつて来た。下りろ。おりろ」と言った話は一番人間のエゴイズムが代表できるものではないか。 
第二節傍観者の利己主義
ここで、「傍観者の利己主義」を中心に論じている。傍観者の利己主義というものは確かに、微妙なものだと言える。『鼻』の主人公−禅智内供は異様に長い鼻があるのに対して、『芋粥』の主人公−五位はいつも、周囲から軽視を受けている。この二人主人公の共通点は皆の嘲笑な対象となっていることで共通している。『鼻』の内供の心理変化を次のように表(一)にまとめて見よう。
表(一)内供の心理変化
第一点鼻を粥の中へ落ちした話は、當時京都まで喧傳された。−けれどもこれは内供にとつて、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は實にこの鼻によつて傷けられる自尊心の為に苦しんだのである。
第二点內供は、自分が僧である為に、幾分でもこの鼻に煩される事が少なくなつたとは思つてゐない。內供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的事実に左右される為には、餘りにデリケイトに出来てゐたのである。そこで內供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損をは恢復しようと試みた。
第三点內供は、いつものやうに、鼻などは氣にかけないと云ふ風をして、(中略)内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待つてゐたのである。弟子の僧にも、內供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに對する反感よりは、內供のさう云ふ策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであらう。弟子の僧は、內供の豫期通り、口を極めて、この法を試みる事を勸め出した。さいして、內供自身も亦、その豫期通り、結局この熱心な勸告に聽從する事になつた。
第四点しかし、その日はまだ一日、鼻が又長くなりはしないかと云ふ不安があつた。(中略)それから一晚寝てあくる日早く眼がさめると內供は先、第一に、自分の鼻を第四点撫でて見た。鼻は依然として短い。內供はそこで、幾年にもなく、法華經書寫の功を積んだ時のやうな、のびのびした氣分になつた。
第五点池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しさうな顔をして、話も碌々せずに、ぢろぢろ內供の鼻ばかり眺めてゐた事である。(中略)用を云ふつかつた下法師たちが、面と向つてゐる間だけは、慎んで聞いてゐても、內供が後さへ向けば、すぐにくすくす笑ひ出したのは、一度や二度の事ではない。
第六点人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出來ると今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる。さいして何時の間にか消極的ではあるが、或敵意をその人に對して抱くやうな事になる。−−內供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思つたのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍觀者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。
第七点そこで內供は日毎に機嫌が悪くなつた。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。(中略)殊に內供を忿らせたのは、例の惡戲な中如童子である。或日、けたたましく犬の吠える聲がするので、內供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまはして、毛の長い、瘦せた尨犬を逐ひまはしてゐる。それも唯、逐ひまはしてゐるのではない。內供は、中童子の手からその木の片をひつたくつて、したかその顔を打つた。木の片は以前の鼻持上げの木だつたのである。內供はなまじひに、鼻の短くなつたのが、反て恨めしくなつた。
第八点殆、忘れようとしてゐた或感覺が、再內供に歸つて來たのはこの時である。內供は慌て鼻へ手をやつた。手にさはるものは、昨夜の短い鼻ではない。(中略)內供は鼻が一夜の中に、又元の通り長くなつたのを知つた。さうしてそれと同時に、鼻が短くなつたと同じやうな、はればれした心もちが、どこからともなく歸第八点つて來るのを感じた。−−かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない。內供は心の中でかう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
第一点と第二点は內供が長い鼻に悩んだ原因であることが明白になる。異様に長い鼻があったのは確かに生活に色々な不便をもらした。しかし、内供が困ったものはこの生活にの不便と外貌の醜悪ではなく、噂や別人からの眼光に傷けられた自尊心である。それから、内供の矛盾について説明した。内供は長い時間に佛に仕えて、自分の外貌の欠点に面して、外人からの噂を捨てるはずであるが、高僧とした内供は反って、別人の話に、気にしていた。だから、この点から、高僧になっても、人間の生まれた人性があるとわかる。すなわち、人間が皆からの噂や眼光を恐れている。それで、内供が消極的にも、積極的にも、色々な仕方を試みたい気持ちも同感する。
第三点は内供が鼻を短くしたいが、良い仕方を聞いても、平気な振りをした。弟子から自分を勧める態度をした様子を歯切れよく描写した。読者もここで、内供が俗な、貧乏な心理状態と精神態度が見出せる。すなわち、弟子の「熱心な勸告に聽從する事」に似た態度をした事から見ると、内供が微かな自尊心を守りたい気持ちと、とても試みたい心情を隠す気持ちがよく分ってきた。第四点は漸く、鼻を短くした内供の心情を述べている。毎朝、起きた時、鼻が又、長くなった恐れを除いて、鼻が短い内供は毎日、のびのびした気持ちで、日を渡った。こんな内供は経を読んだりしても、お久しぶりの安心を得た。しかし、こののびのびした日は内供が意外な事実を発見してから、終わった。
第五点は内供が気が付いた意外な事である。池の尾の寺を訪れた侍や、內供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子や、用をいいつかつた下法師たちなど、皆も一層可笑しい態度で、内供を見た。「今はむげにいやしくなりさかれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」と思った内供は皆の態度がよく分らなくなった。ここに、『鼻』の主題がある。「傍観者の利己主義」というものが皆の内供への態度に現れている。それは、「少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる」のことである。だから、内供は鼻が短くしてから、のんびりした気持ちを失っていた。その代りに、毎日、機嫌を悪くしている。そうして、第七点の後で、内供はもっと短く鼻を恨んだ。その時の内供はもし、機会があれば、反って、元の長い鼻がほしがっている。ある夜、内供はなんか鼻がおかしい感じをする時、内供も平気でその感じをかまわない。翌朝、内供は平日の通りに起きた時、突然、殆ど忘れような感じをした。内供は自分の鼻に触れると、昔のように、異様な長い鼻が又顔に掛かっていた。内供はこの事実に、残念な気持ちがない。かえって「かうなれば、もう誰も哂ふものはないにちがひない」という気持ちで面した。上記の内容から、内供は自分の鼻は如何な様子で顔に掛かる問題がもう気にしなくなった事を読み出すことができる。すなわち、内供はもう外人の眼光をかまわなくなった。なぜかというと、昔の内供はいつも、別人の意見にあまり気にするために、自分が迷った。皆の目に振り回された。しかし、一旦鼻が長いとか、鼻が短いとか、どの情況にしても、皆の意に合えない事実を発見した内供も鼻の問題を構わなくなったからである。だから、「寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落した庭は黃金を敷いたように明い。未だ、薄い朝日にの九輪がまぶしく、光っている」とは、他人の嘲笑から生じた新しい内供の考えを説明している。いつも、周囲の人々の目の下に生活した内供は「傍観者の利己主義」に深く傷付けられたと言える。しかも、読者にとって、生きている例だと思われる。
それから、『芋粥』を見よう。『芋粥』の主人公五位はいつも、皆からの軽視を受けている。五位の心理過程は表(二)をまとめて見よう。
表(二)五位の心理過程
第一点五位は風采の甚揚らない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、目尻が下がつてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけているから、顎が、人並はづれて、細く見える。唇は−一一、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上がつてゐたのである。
第二点侍所にゐる連中は、五位に対して、殆と蝿程の注意も払はない。有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、目を遮らないのであらう。
第三点それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じないほど、意気地のない、臆病な人間だつたのである。(中略)五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。
第四点この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と声をかけた。すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云は侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれたうもない」その子供は一足下りながら、高慢な脣を反らせて、かう云つた。「何ぢや、この赤鼻めが。」五位はこの語が自分の顔を打つたやうに感じた。
第五点始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを等分に見比べてゐた。「おいやかな」「、、、、、、」「どうぢや」「、、、、、、」(中略)答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、莫迦にされさうな気さへする。彼は躊躇した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭さうな声で、(中略)彼は、それを聞くと、慌しく答へた。「いや、、、、忝うござる」この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや、、、、忝うござる」−かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。
第六点「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。−敦賀とは、滅相な。」五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
第七点五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。−阿諛は、恐らく、かう云う時に、最自然に生まれて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄にこの男の人格を、疑ふ可きではない。
第八点「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には今、飲んだ酒が、滴になつて、くつついてゐる。
第九点我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。そかもそれと同時に、やるの明けると云ふ事が、−芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。
第十点どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、第十点又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。
第十一点さいして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食欲は、実に、此時もう、一半を減却してしまつたのである。(中略)これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。−五位は提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。
第十二点「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」(中略)「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」利仁の側から、新な提をすめて、意地悪く笑ひながらこん事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。
第十三点利仁の命令は、言下に行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与つたのである。五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢや。この赤鼻めが、」と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ欲望を、唯一人大事に守つてゐた幸福な彼である。−彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。
第一点からは、五位の外貌を述べている。「背が低い。それから赤鼻」など、それに、「余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎した烏帽子をかけて」いる描写から、五位がとても貧乏な外貌とみすぼらしい様子が思える。だから、連中が五位に対して「殆と蝿程の注意も払はない」ほど、「空気の存在が見えない」ように、「目を遮らない」ことも想像できる。それから、第三点は五位がこれらの不公平な待遇を受ける反応である。五位は周囲の人々からの軽蔑されても、やはり平気でいる。「一切の不正を、不正として感じない」ほど、すこしも怒ってもいない。もし、同僚の悪戯がひどすぎるなら、五位は「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔」で、「いけむぬのう、お身たちは」と言っただけである。そこで、五位は臆病な、意気地がない人だが分かる。
ある日、五位は道で子供たちが犬を虐めた事を見た。たぶん、相手は子供だと思ったから、五位はこの犬に同情を寄せていて、口を開けた。「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれば、痛いでのう」と言ったが、子供の反応は第四点である。子供たちが「いらぬ世話はやかれたうもない」を話そうな目で、五位に「何ぢや、この赤鼻めが」と言った。この話を聞いた五位は怒るこtおなく、「自分の顔を打つた」を感じて、「恥をかいた」と思って、「きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠し」ながら、黙って離れた。このように、五位がとても弱い人である。しかし、そんな臆病な五位はある夢を持っている。これは芋粥に飽けることである。
ある日、五位はいつもの通り、外の仕達と一緒に、残肴を食べている。喉を潤すくらい程度の芋粥を飲んだ五位は自分に「何時になつたら、これを飽ける事かのう」と言った。五位が呟いた言葉を聞いた利仁は五位に「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう」という請求を提出した。それから、第五点は五位がこの話を聞いてからの反応である。「始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない」ように、五位は「例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔」で、この問題を考えている。利仁の提出に面した五位はやっと芋粥への欲に敵わないから、利仁と一緒に行った。しかし、利仁と行った五位は敦賀へ行かなければならないのを聞いた後で、第六点のことを話した。「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句を越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。−敦賀とは、滅相な」と言った五位は口で呟いた。実は、この内容から、五位が芋粥を食べるために、京都から離れた勇気は「芋粥を飽きたい」の希望から生じたことが分ってきた。しかも、「芋粥」は五位に対して、とても大切なものだと見える。その時、ある不思議なことが生じた。「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう」と言った利仁は、狐に客があるので、どんな用意をするかなどの話をした。この話を聞いた五位は口が閉じられないように、狐に言い付けた利仁を神様のように尊敬し始めた。そのために、五位の心で、利仁が自分と違って、大きな差別があるのは勿論なことだと信じてきた。その点から、五位もだんだん利仁に控えられたことが明白になる。だから、「それは、又、稀有な事でござるのう」や「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」を言った五位の馬鹿な様子を想像にかたくない。
そうすると、やっと敦賀に着いた五位は京都から遠い道を急いだのに、芋粥があまり食べたくなくなった。この点についての説明は第九点と第十点である。「どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、何か突然故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい」とそのものは五位の考え方である。その思い方を持っている五位は一杯な芋粥に面して、もう「芋粥を飽きる」欲が全然出せない。しかし、利仁が以下の話を言った。「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや」と「これは又、御少食な事ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る」と言った利仁は意地悪くそう話した。口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になって垂れている五位は一層に、弱く見えそうである。
上記の内容から、「遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない」と思った五位はもう自分の意識で自分の欲を選ぶ権利がなくなったことを読み取ることができる。最後に、第十三点を見よう。利仁の命令により、狐は芋粥を飲み始めた。五位も皆の注意が自分から狐へ向けたので、芋粥を食べれない。五位はその狐を見た時、昔の自分を思い出した。以前の五位は皆の嘲笑を受けても、夢があるから、苦しくないという感じである。一方、芋粥の夢を追求する同時に、自分の価値も捨てられた。この点は『鼻』の内供と同じだと思われる。なぜというと、内供も周囲の人々の意見を迎えたいので、自分の価値をだんだん失ってきたからである。それに、五位は自分の夢を追ったが、その夢は想像の通りに美しくないと気が付いた。それに対して、内供は様々な仕方を試みた最後、漸く短くした鼻を反って怨んできた。こうしたことから窺えるように、内供と五位とは二人も自分の願いが叶った後で、元の夢に失望した。この点について、吉田精一は「例によつて新奇で滑稽なもとの話を一方では忠実に辿りながら、その裏に人生に於ける理想なりは、達せられない内に価値があるので、それが達せられた時には、理想が理想でなくなつてしまひ、却つて幻滅を感じるばからだといふ、人生批評を寓したのである」と言っている。
そうして、内供は夢の破滅に面して、傍観者の嘲笑から成長しつつあった最後、自分の価値を漸く捜し出した。一方、五位はやはり、皆の嘲笑に生活している。だから、「庭は黃金を敷いたやうに明い。(中略)九輪がまばゆく光つて」いる事と「笑ふのか、泣くのか、わからないやうな顔」をした事のどちらかを選ぶ権利は実は、やはり自分にあるのではないか。 
第三章 エゴイズムと生い立ちのかかわり 
本論文で『羅生門』と『蜘蛛の糸』と『鼻』と『芋粥』とを中心に論じている。そして、この四つの作品の中に二点が見出せる。まず、この四つの作品は殆ど『今昔物語』から題材を得た作品である。第二、この四つの作品の主題は「エゴイズム」と「傍観者の利己主義」とを中心に展開している。だから、この二点から、「歴史物語」と「利己主義」とは芥川龍之介にとって、とても大切なことが明らかである。そうして、まず、芥川龍之介の幼年時代を見よう。
芥川龍之介は明治二十五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に生まれた。(中略)龍之介の生まれた当時の築地入船町は、外人居留地になっていた。それゆえ、この町に日本人で家を構えていたのは、龍之介の家を含めてわずか三軒を数えるのみで、異国情趣の色濃くただよう町であった。彼は生まれて一年にもみたない短い月日をこの町で送ったにすぎない。しかし、この生まれた土地を懐かしむ心は年とともに、彼の胸裏に強くなっていったようである。後年の龍之介における異国的なものへの憧れは、この外人居留地に彼が生まれたということと無関係ではなかろう。
この一文から、芥川龍之介の成長背景が明らかにした。そして、芥川龍之介の家庭情況を以下に示そう。
龍之介の生まれた年は、父が四十三歳の男の厄年、母が三十三歳で女の厄年にあたっており、いわゆる大厄の年の子であった。そのために、旧来の迷信に従い形式的に捨て子とされた。まだ封建時代の風習が強く残っていた当時としては、このような縁起をかつぐ習慣は、決して珍しいことではない。拾い親は、父親の旧友である松村浅二郎という人であった。龍之介は出生の第一歩において、たとえ形式的にせよ、一応親から捨てられたのである。(中略)龍之介の父敏三は、牛乳販売業者としての成功者の誇りをもった、激しい性格の人であった。そのような夫に仕えていた小心で内気な芥川龍之介の母にとって、長女初子を幼くして失ったことと、長男龍之介を捨て子の形式までして育てねばならなかったということはきわめて大きな苦しみであったろう。それらは堪えがたい重さをもって、彼女の肉体や精神をしめつけたに違いない。この不幸な母は龍之介を生んでから七ヶ月後に発病し、その後十年間、狂人として生きつづけた。この母の発狂は、龍之介にとって大きな通手であった。狂人の子であるという自覚は、やがて狂気の遺伝を恐れる心となり、彼の肉体の衰弱とともに次第に激しいを加えていったのである。
ここで、芥川龍之介の実家から養家への原因が明白である。一方、母の発狂のために、芥川龍之介に、大きな影響を与えたことも、この一文の中にはっきりに読み取れる。母の発狂のために、芥川龍之介は母の兄の家へ行ったことになった。そうして、芥川龍之介は養父母の家庭からどんな大きな影響を受けている事は次のようである。
母の発病のため、龍之介は本所区小泉町に住んでいた母の芥川道章に引きとられた。芥川道章は龍之介の伯父にあたり、家は代々お数寄屋坊主として殿中に奉仕していた、江戸時代から続く旧家であった。(中略)芥川家で龍之介を最も愛したのは、養父母より、むしろ伯母のふきであった。一生を独身で通したこの伯母は、彼を生みの母のように愛し育てた。幼時いつも抱寝してくれたのはこの伯母であり、乳の代わりに牛乳を飲ませてくれたのもこの伯母であった。そのかわり、この伯母によく似通っていた。顔かたちばかりではなく、心持の上でも彼はこの伯母と一番共通点が多かった。(中略)一方、江戸時代の迷信に生きる養父や養母から、あるいは伯母から、夏の夜の縁台で、寝る前の床の中でしばしば聴かされて育ってきた。さらにまた、家の本箱の中や、暗い土蔵の中の古い草双紙の挿し絵の中に怪奇の世界を見つけて育ってきた。この点から見れば、龍之介の作品のあるものに奇怪な趣味が色濃く流れているのは、生まれた性格的なものの外に、幼少の時に、このような怪奇の世界に触れた時の戦慄が、成人した後でまで消えずに残っていて、それが文学表現の中に流れ出たと解釈されよう。
芥川龍之介の養家はお数寄屋坊主としての殿中だから、芥川龍之介は幼少の時から、養父と養母と一緒に歌舞伎に行ったことがあった。しかも、芥川龍之介の養父が俳句や南画や盆栽などに趣味が持ったから、その方面にも渡っていた。そんな関係で、芥川龍之介がだんだん画や俳句に渡り、漢文能力にも強く示したことにも、芥川龍之介は養家の雰囲気から大きな影響をもらった。それから、芥川龍之介の学生時代を以下に見よう。
龍之介は学校の授業では、特に英語と漢文に抜群の力を示した。(中略)五年生の時、校友会雑誌に寄せた『義仲論』は彼の中学時代の作品としては最もまとまったものであるが、特に彼の漢文と歴史の高い学力を示すものとして注目に値しよう。『義仲論』は中学生の作品とは信じられないほどの歴史への鋭い観察とたくみな文章からなり、単に漢文と歴史との総合学力を示しているだけではない。この『義仲論』一編に後の小説家龍之介誕生の可能性を見出すとともに、彼の文学的才能のあまりにも早熟な開花を見せ付けられるのである。
以上の内容から見ると、芥川龍之介の文学的才能が再び肯定できる。芥川龍之介は中学の時、『義仲論』を發表した。『義仲論』で、強く現われている力強い義仲に高く評価を与えたことから、芥川龍之介はこんな破壊力へ、大きな憧憬があることを読み出すことができる。だから、この憧憬は芥川龍之介の作品への影響も思える。次に、芥川龍之介の高校時代を見よう。
明治四十三年、龍之介は第一高等学校に入学した。(中略)久米正雄、菊池寛、恒籐恭、成瀬正一(中略)山本有三、土屋文明、(中略)秦豊吉、藤森成吉、豊島与志雄、山宮允、近衛秀麿らがいた。後年、文壇や学界に名を馳せたこれらの青年との接触は龍之介に色々な意味で感化を与えたことであろう。殊に、菊池、久米、松岡らが同級生にいたことは芥川龍之介の将来を決定する一つの要因となった。彼らの交友が、小説家龍之介の誕生の上に、大きな役割を果たしたことはいうまでもない。一高入学はそのまま小説家への道につながっていたのである。
久米正雄、菊池寛、恒籐恭ら、これら人は殆ど大正時代での有名な作家達であった。芥川龍之介は高校時代から、様々な考え方を持った人々と一緒に学問が進んでいたことにより、違い思想に触れたことでも言える。それから、芥川龍之介の大学時代を以下のようである。
龍之介たちが大学へ入った年は耽美主義文学の最盛期であった。(中略)この耽美主義思潮の影響は、決して軽視できない。龍之介をはじめに、久米正雄も菊池寛も自然主義以上の感化を受けているのである。(中略)このように大学時代の龍之介は耽美派の文学に最も心を惹かれ、強くその影響を受けているのであるが、そのほかにも、森鴎外の感化を忘れてはならない。鴎外の作品中、特に大きな影響を与えたのは『諸国物語』である。(中略)この翻訳小説『諸国物語』は短編小説の新しい手法、新しい内容と様式を龍之介に暗示したという点で大きな影響を持つ作品集である。そのほか鴎外の歴史小説も龍之介に強い感化を与えており、文体の面でも鴎外と龍之介には似通った点が多いのである。後年、佐藤春夫は「芥川君はその門に出入した点では確かに漱石先生の弟子ではあるけれども、作品から重大な影響を受けたのは、鴎外先生の方が或は多からうと思へる程です」と語っているが確かにそのとおりである。
ここから、芥川龍之介が森鴎外からの影響を受けたことは言うまでもない。この影響で、芥川龍之介は歴史物語に創作しはじめた原因だと思われる。そして、大学時代の芥川龍之介は友人久米正雄らからの鼓吹で、だんだん小説家の道へ始まった。そのために、第三次の「新思潮」は創作された。参加者は芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、山本有三、豊島与志雄らがいた。第三次「新思潮」の同人となって、小説の創作を試みたことは芥川龍之介の将来の進路を決定的な重要な事だと同時に、この時期に芥川龍之介にとって、大きな事件が芽生えかけていた。
芥川龍之介の初恋の相手は、彼の実家新原家の知り合いの家の娘であった。名前は吉田弥生といい、きわめて聡明な女性であった。順当ならば結婚にまで進んでところを、どういう理由でか、芥川家ではその結婚に反対で、彼女の家を龍之介が訪問することさえ喜ばないようになった。(中略)この初恋の破局は龍之介に深い痛手を与えた。彼はいまさらながら、養子であるわが身の不自由さを痛感したに違いない。そして、誰よりも愛する伯母に、誰よりも強く反対されたことによって、二人の間にある愛にもエゴイスティックなものを見出したであろう。龍之介は恋を捨てて、伯母への愛を取らなければならない。
元は、結婚したことは、家庭からの反対で中断した。その事件芥川龍之介に対して、極めて重要な事柄だと言える。しかも、その事件も芥川龍之介は人間のエゴイズムを痛烈に体験した。それから、「エゴイズム」という点について、芥川龍之介は恒藤恭宛への書簡には、以下の言葉を書かれた。
イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人の間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまに生きる事を強ひられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ。
上記の内容から、恋愛というものは芥川龍之介にとって極めて深刻な問題だが見出すことができる。そして、この初恋が芥川龍之介にどんな影響をされに見よう。
愛そのものの中にもエゴイズムを認めざるを得ないほど深く自覚されるようになった。そして、ともすれば暗くなる気持ちと直面するのを避けるためにも、彼はことされ現実から目をそむけ、なるべくユーモラスな古典の世界に浸ろうとする傾向を強めていくのであった。
この悲しい初恋の経験を契機として、芥川龍之介は人性の醜悪を中心に作品を書き始めた。だから、芥川龍之介の成長背景や、養家の家庭や、学校時代の友達や、恋愛経験から、芥川龍之介へのどんな大きな影響は読み出せる。
まず、自分の母は狂人だの事実だので、芥川龍之介は自分の体にも狂人の遺伝因子がある恐れだと思った。次、封建時代の迷信だから、芥川龍之介は生家から離れなければならなく、養家に入った。しかし、養家に入っただけあって、芥川龍之介は江戸時代の風俗や習慣や、草双紙や俳諧や南画によく知っていた同時に、漢文能力にもその時に強くなった。
そして、養父母と伯母から怪談や因縁話を子供時期から聴いて育ったきたために、怪奇な世界に触れた戦慄がよく作品に流れていた。それから、大学の時、森鴎外の『諸国物語』などの作品を読んだから、「歴史物語」と「短編小説」に大きな動機を起こしたことが思われる。最後、吉田弥生との悲しい恋愛があったので、芥川龍之介が「エゴイズム」という人性を徹して感じだと言うまでもない。
そこで、以上の原因から、『羅生門』と『鼻』と『蜘蛛の糸』と『芋粥』との四つの作品の中に、『今昔物語』に対しての感動と、歴史物語から取り出したものに新しく、革命的な精神と、人性の醜悪を痛烈に抉っていた濃い利己主義とエゴイズムなどを流れていることにも意外ではないと思われる。 
第四章 結論 
研究動機で述べたように、芥川龍之介の作品を読んだ後で、作品の中の複雑な人性や人間の情けにとても、印象的であった。そのために、芥川龍之介の歴史物語におけるエゴウズムをもっと深く探究したいので、「芥川龍之介の歴史物語におけるエゴイズム」をテーマとして卒業論文を書き始めた。
まず、第一章では、芥川龍之介の初期時期の『羅生門』と『蜘蛛の糸』と『鼻』と『芋粥』と四つの作品で、「エゴイズム」の内実を究めた。
その結果、この四つの主人公には、二つエゴイズムを見られる。一つは利己主義で、もう一つは傍観者の利己主義である。
『羅生門』と『蜘蛛の糸』での中に、現われたエゴイズムは利己主義であったのに対して、『鼻』と『芋粥』での中に、現われたエゴイズムは傍観者の利己主義である。
さらに、第二章では、利己主義と傍観者の利己主義について究明した。
『羅生門』の中で、下人が老婆の言葉から悪への動力をもらって、盗人になったことにより、自分の生存のために、エゴイズムをして生きられることが明白した。
一方、『蜘蛛の糸』の主人公键陀多は自分の生存だけを考えたせいで、却って地獄へ返った。
そのゆえに、この二つの対照的な結果から見ると、エゴイズムは人間が生きるために、必要なことだと同時に、エゴイズムも他人を滅ぼすばかりでなく、自分も破滅される可能性があることが読み取れる。
そして、『鼻』と『芋粥』との主人公内供と五位はいつも、周囲の人に嘲笑された人である。内供は自分の外貌で他人に自尊心を傷けられてたので、色々な方法を試みた後、つい傍観者の利己主義に落ち込んだ。
しかし、内供は最後、他人の目から解放して、自分の価値を新しく生まれた。皆に迎えたために、振り回された悲惨な経験があって、やっと、新たな生き方を捜し出した内供に対して、五位は他人の嘲笑や悪戯にずっと平気な態度で面した。
しかし、五位は芋粥を飽けるために、返って傍観者の利己主義に巻き込まれた。
なぜかというと、五位は夢を完成したのに、自分の意志でも失ってきたからである。だから、この点から、傍観者のエゴイズムは確かに卑劣だが、やはり自分の意志に従って抵抗できることが明らかである。
最後、第三章では、芥川龍之介自身の人生とエゴイズムと作品との関連を捜し出した。その結果、芥川龍之介の恋愛経験により、エゴイズムを深く感じたことが分かった。だから、芥川龍之介が身を持って感じたエゴイズムを作品の主題としたことが明瞭した。本論文、「芥川龍之介の歴史小説におけるエゴイズム」を通じて考察した結果から、人性のエゴイズムは人間の生まれた天性だと思われる。
さて、外国文学からの影響と、古典文学からの文学素養と、新文体の成熟を加えて、芥川龍之介の文学で見事に完成られたために、芥川龍之介が、大正文学を代表する作家だということもある。だから、芥川龍之介は大正時期、日本文学での重要な作家だと言えよう。その上に、芥川龍之介の作品を支配された「エゴイズム」は芥川文学を論ずなけらばならない一つの観点だと思われる。というのは、『羅生門』から『芋粥』にかけて、エゴイズムを焦点として見れば、芥川文学の歴史物語での一つの側面を窺えるからである。そこで、芥川龍之介の作品における「エゴイズム」を明らかにする本研究はそれなりの価値があると考えられる。 
 
百人斬り競争・南京大虐殺

 

「百人斬り訴訟」における陳述書
本年四月十九日に、公開の法廷で陳述されたものであるゆえ、ここに公開させていただくことにする。読まれれば、戦犯の家族の思いは、長年無視されてきた北朝鮮に拉致された同胞の家族の思いと底で繋がっていることを感じられるであろう。これが、「戦後」という時代だったのだ。本訴訟は、四月十九日の第5回の口頭弁論を経て、七月十二日の第6回で、現在南京などの反日施設で掲げられている向井、野田両少尉の写真を撮影したカメラマン(91歳)の証人尋問を行い、次回の第7回口頭弁論は九月六日午後1時半からの予定である。
陳述書
原告 向井敏明長女
   記
毎日新聞社へ 
毎日新聞社は、「百人斬り」記事について、責任感と良心に欠けている態度をとり続け現在に至っています。それが世界中の誤解、誤信、曲解を招き、そのうえ現在においても、まだ無視、無言を保ち続けることが私および千恵子の父向井敏明と野田毅氏の命や面目を無視し、二人の命を若くして失わせ、各々の遺族の心と人生に、絶え間なく治ることのない深い傷を負わせ、無念の涙にくれる過去半世紀あまりの厳しいいばらの人生を歩かせたことに、重大な責任があると信じます。
米国のタブロイド紙のようなものと比べたくもない日本を代表するメディアであれば、日本という国を代表する責任と良心ある誠実な態度で、過去の自らの過ちを認め、ことを正してから前進すべきだと信じます。
先日、ニューヨークタイムズ紙が若いレポーターに取った行動は正しいもので、たとえ同じでなくとも似たような行動を、毎日新聞社は何故浅海一男記者にもとり、社の面目を保つべきではなかったか、と考えます。
1947年の南京軍事裁判は、故向井敏明と故野田毅にたいするデタラメな裁判は、今では世界中の多くの人々に知られています。
「百人斬り」の記事と、二人が並んだ写真が唯一の証拠で死刑判決が言い渡されましたが、二人は「二つの命の灯火」が燃え続けられるか消されるかの別れ道に立ち、「溺れるものワラをもつかむ」の思いで浅海氏に「あれは、私のフィクションでした」という言葉を待ちました。しかし、浅海氏からの言葉は実に賢い言い方で、「私が見たことではありません・・・」でした。
二人は命の綱と頼んだ浅海氏の言葉にそういう形で裏切られ、軽視されたまま1948年1月28日、南京市雨花台の地上には雪が見られる寒さの中、沢山の中国兵に囲まれ、幌もないトラックで拘置所から刑場まで運ばれた事実は、今日も写真に残り、中国の人々の目にさらされ続けています。
そのときの父は、きっと寒さなど感じてはいなかったことでしょう。それよりも、わずか数分後に自分の人生が終わるという現実も信じられず、一方で病身の年老いた母や、既に母を失っている娘二人の養育や将来など、わずか36歳の父には最高に辛いことだったはずです。
私たちが、父の処刑を知ったのは、数日後の朝日新聞の5センチ四方の小さい記事でした。
そのとき私は、12歳でしたが、それから今日までの道程は、言葉では表現できぬほど厳しく冷たく残酷な道でした。
1997年だったかアイリスチャンの本「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」の出版の際、いつものようにABCテレビの「グッド・モーニング・アメリカ」を見始めたとき、全く予期していなかった「百人斬り」の記事に囲まれた父と野田氏の写真がテレビ画面にいっぱいに出てきて、驚きとショックで危うくひっくり返るところでした。
方々探して2ヶ月かかりその本を手にいれ読みました。
父たちの事に関しては、何一つ新しいことはありませんでした。
昨年他の州に住む友達達は「コンピューターのウェブサイトにあなたのお父さんのことが出ている」と知らせてくれ、私の息子も「知らない人(父のこと)でも、あれを見ると感情的になる」とウェブサイトに掲載されている事柄について言っています。
私は、過去55年余りの間、繰り返し何度も何度も味合わされた胸中をわしづかみにされ引き裂かれる、とでもいう痛みと苦しみ、悲しみと怒り、無念さから逃げられないでいます。
また、いくつもある歴史だけのチャンネルのインターナショナルのものの一つで「ワールド・ジャスティス」という番組もあり、私は偶然にアイリスチャン自身の司会の「レイプ・オブ・ナンキン」を見ました。
見たくないが、ある一方見ておかなくてはならないという気持ちも強く、苦痛を我慢して見ました。これも「百人斬り」の記事と写真でした。記事の上には「東京日々新聞」とはっきり読めるのは何を語っているのでしょうか。
もし、あの記事と写真がこの地上になかったら・・・。
父達が、一方的な裁判で裁かれ、公衆の面前で射殺され、雨花台の地に掘られた穴に投げ込まれ、今はその場所さえ不明ということが、遺族達にとってどういうものか真に理解できる人が何人いるでしょうか。「死人に口なし」をよいことに、日本人でありながら、個々自らの想像で事を判じ、想像に想像を重ね他の人々の事と混ぜ合わせて、事実からはるかに遠い想像を繰り返してきた人々が日本にいることを、私は1973年以来知っています。私にはこの人々の神経も精神状態も全く分かりません。
「百人斬り」の記事と写真で回り始めた「車」は、どんどん大きくなり、スピードを増し、私たちの手では止める事が不可能な現在の状態で、「事実でなかったこと」が「歴史の一片」として伝えられ残される事は日本自身にも害になっても有利ではないと私は信じます。
最近私が知った事は、父達は日本の見も知らぬ小学生に「バカヤロー」や「日本の恥だ」と言われていることで、全く理解に苦しみます。
どんなに努力しても、私たちの55年間の苦痛、悲しみ、怒り、無念さを数片の紙面に書く事は無理です。そして、現在の物差しで66年前の日本や日本人達を計る方が間違いで、正しい答えが出るはずもないでしょう。
しかし、「百人斬り」がこのまま世の人々に真実であると信じられ、教えられることは、私たち遺族には耐えられないことです。
毎日新聞社のどの方にも個人的な感情はありませんが、新聞社としての責任はあるでしょう。
どうか日本の小学生に、父達は「バカヤロー」でも「日本の恥」でのない事を教えてやってください。
私は、今も父をよく覚えています。親孝行で良い父でした。
本多勝一氏へ 
私が本多氏の名前を耳にし、目にしたのは1972年の初めでした。
当時まだ軍にいた夫がベトナムより帰米し、「最低3年は在日できる」と大喜びで神奈川県座間にある米軍基地に向かったときです。
私は、日本の中で日本人同士が「百人斬り」のことで論争しているとは夢にも思わなかったから、大きな驚きと激しい痛み、悲しみに続いてどうしようもない怒りと悔しさに潰されました。
寝耳に水と昔のことわざがありますが、そのときの私にはそんな優しいものではありませんでした。「寝ているところを野球のバットでぶん殴られた・・・」とでもいうほうが近いでしょうか。
戦後一ヶ月もたたない一九四五年九月十日に、私(当時9歳)と4歳の妹千恵子は母を失いました。その後2年半で父を36歳の若さで失いました。
私たち姉妹は孤児となり、人生、世の中の荒波に放り出されました。幼い妹は、年老いて病身であっても精神面ではまだしっかりしていた祖母に母代わりをしてもらい、私はまだ10台の半ばであったにもかかわらず、何とかして一人で歩かなくてはと、明日の事も見えず考えられないのにがむしゃらに、悲しみ、苦しみ、不安、おそれ、心の痛み総てを押しのけながら歩き始めました。
それはコンパス(父母)を持たない小さな小船(私)が、荒波の太平洋に浮き沈みしているようなものでした。そういう世の中の荒波にあって、常に私の心を支えてくれたものの第一は、亡き父母達が残してくれた言葉でした。
自らの死を悟って母は、死の4日前、「目に見えなくても、何時も一緒にいますよ」と言いました。大人になっても「そう信じていたい」と思いました。母が残した書き物には、私が生まれる前からのものもあり、母の人柄がありありと分かります。
父の言葉は、5年生だった私に、「何も悪い事はしていないからすぐに戻れるだろう。心配するな。おばあちゃんの手助けをして、千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい。」そう言って二人の私服の刑事さんたちと汽車で東京へ向かった。それが、私が最後に父の生きている姿、顔を目にしたときのことでした。
父の書いたものもわずかですが、父の人柄を忍ぶことができます。その一つに中国で「兵隊達に感謝する、みんなよくやってくれる」云々と、陰でノートに書き残しています。また同じ頃父は、自分の父親が亡くなったことを知り、中国人の食堂の二階をかりて、一人思いっきり泣いたとか。その後父は、中国戦地にいる弟に、どのように父の死を知らせようかと悩んでいる事も書き綴られています。父の人柄の一片一片が父の書いたもののなかから私には伝わってきます。
一見して、本多氏および彼等が書かれた種々のものとは、無関係のようなこのようなことを書きましたのは、すくなくとも過去30年余にわたり、本多氏が数々のもので、私の父を「父」とは全く違って「大きな冷血の化け物」に想像や曲解や他の人々の書いたものと混ぜ合わせて、本多氏の勝手な想像での「大悪人」に作り上げ、世にさも真実であり、「真の父の人柄」であるかのように報道し、現在では日本だけでなく、中国始め世界の多くの人々に信じ込ませ、「レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリスチャンのような人にも利用されて、アメリカのウェブサイトでは誰でも自由に見る事ができる「資料」の一つになり世の中に残り続けようとしているからです。
私は短い間ではあっても、父を良く知っていますし、この年になっても良く覚えています。父も母もまだ30台の若さのまま、私の胸の中に生き続け、辛酸の人生を歩んできた私の支えになってくれましたし、今も見守ってくれています。
父は数々の思い出を作り残してくれました。亡き祖父母達には一番の親孝行でしたし、2人の伯父たちにとっては、思いやりのある優しい兄でした。私には良い父でした。それだけに、父を知る者の心は痛んでやみません。
こういう父が、何故に見も知らぬ本多氏に死後もムチ打たれ続けなくてはならないのでしょうか。そして、間違った事を信じ込まされた少女に「バカヤロー」と呼ばれ「日本の恥」と言われなくてはならないのでしょうか。父はさぞ無念で 、死んでも死に切れないはずです。
本当の「日本の恥」は、日本人でありながら、自らの国や同国人たちの悪口を真偽をとはず、自らの想像で海外にまで撒き散らすものたちのことでしょう。一体その理由は何なのでしょうか。また、こういうことを平気でし続ける人の人柄や良心、責任感等はどういうものなのでしょう。死者達のみで終わらず、遺族まで平気で何十年も苦しませている事は「残酷」でなくて何といえるでしょうか。
私は、1972年の始めに日本を訪れて、「3年在日」どころか一年で帰米しました。
本多氏に作り上げられた父の本当の姿とはまったく別人の「化け物」のために、あんなに喜んだ在日は「悪夢」に変わり、それらより逃れるため1973年早々にアメリカに戻りました。その後20年間、私は日本の土を踏みませんでした。
その間も次々と止むことのない日本での「百人斬り」に関しての論争は、そのたびに古傷は鮮血を噴出し、私はどこに行ってよいのか、行き場のない痛み、悲しみ怒り無念さに苦しみ、現在も続いています。
アメリカに戻ったからと言って「百人斬り」の事から逃れた訳ではありませんでした。アイリスチャンの「レイプ・オブ・ナンキン」では、本多氏や鈴木氏のことが出ており、明らかに敵味方の使い分けをしているのが分かります。これは私にとっては、刃物で心臓を刺されるような痛みを感じないではおれませんでした。
現在ではコンピューターを通じて父たちのことが世界中に広がっていると、私の友人知人たちから知らされます。
本多氏の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物きり」ですか。どこでそのようなことが行われたのでしょうか。いつどこで、父が本多氏の言うような行動が取れたのでしょうか。一人の日本兵に目撃される事もなく返り血一滴のシミもなく。全く不思議な事があるものです。
私は父が「南京進軍中に負傷したという傷」を見ています。父が終戦後にステテコ姿のときに話してくれた事がありました。
長い間の事を数枚の紙上で書ききれるわけではありませんが、日本を遠く離れていても、日夜今もって苦悩し、涙している者がいることを忘れないでください。
そして、過去の「価値のない意地っ張りや面目」などを捨てて、良心に恥ずかしくないよい仕事を始めてください。
尊い人命のことなど全く頭におかず、良心もない鵜野氏が書いたものと父や野田氏のことを混同したり、比べたりすることも止めていただきたいものです。
鵜野氏のかかれたことが本当にあったことであり、彼の行動であったのなら、彼のような人こそ、冷血で残酷な人間であり、戦犯として処刑されるべき人でした。私は旧日本軍や南京全体のことの弁護をするわけにはいきませんし、私には出来ないことです。
今生きていれば90歳を越した父であっても、私の心の中は、わずか35歳の最後に見た父です。懐かしく忍びながら、また時には幼い日の私に戻り、一人大声で泣いたりします。
何年もの間、日本人の顔は見ませんし、日本語も口にするのは妹との電話くらい、日本語で文章を書く事も思うようにはかどらなくなりました。
最後のもう一度、「どうか死者をムチ打ち続ける事をやめて、静かに安らかに眠らせてやってください」、そして、「真実」を求め、誠意をもって、「日本を愛する日本人らしい」仕事をしてください。
昭和は遠く去っていくようです。 
 
百人斬り競争

 

日中戦争(支那事変)初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる行為である。当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞、鹿児島新聞、鹿児島朝日新聞、鹿児島毎日新聞において報道されたが、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争となっている。また遺族を原告とした名誉毀損裁判が提訴されたが、訴訟については毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一の勝訴が確定している。
この競争の模様は、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の、1937年11月30日付、12月4日付、12月6日付、12月13日付によって報道された。
その後、1938年に野田少尉は鹿児島に帰還し、「最終的に374人の敵を斬りました。」と語っていることを鹿児島新聞(3月21日)、鹿児島朝日新聞(3月22日)が報じている。野田は3月24日には神刀館で百人斬りの講演を行っている。
1939年5月19日に向井少尉は305人斬り、500人斬りを目指して奮闘中であると東京日日新聞が報じている。 
戦犯裁判
戦後、向井・野田両少尉は、東京日日新聞の報道や「南京の役 殺一〇七人」の軍刀などを基に南京軍事法廷において起訴された。石美瑜裁判長によって「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪で死刑判決を受け、中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。 
論争
1971年、本多勝一が朝日新聞に連載していたルポルタージュ『中国の旅』(のちに単行本化)でこの事件を取り上げた。このとき、本多は両少尉をA少尉、B少尉と匿名で表現した。これに対してイザヤ・ベンダサン(山本七平)が「百人斬り競争は存在しない」と主張し、「なぜ両少尉を匿名にしたのか。実名を明らかにしていただきたい。この話は「伝説」なのでしょう。この二人は存在しないから実名が記せないのでしょう。」と批判した。これに対し本多が両少尉の実名入りの新聞記事や鈴木二郎記者、志々目彰の手稿(後述)を挙げ、「これでも伝説と主張しますか」と反論した。その後、鈴木明が「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、「百人斬りは事実でなかった」と主張した。のちに、山本は成瀬関次の著書「戦ふ日本刀」(1940)を引用して「日本刀で本当に斬れるのは3人が限界。だから百人斬りは嘘」と主張。秦郁彦はその山本の主張に対し、「1.無抵抗の捕虜を据えもの斬りすることを想定外としていること」「2.成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、都合の悪い事例を無視していること」から『トリックないしミスリーディングといえよう』と評している。洞富雄も同様に山本七平と鈴木明を批判している。
肯定する根拠
野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が百人斬りの講演を行い、野田自身が捕虜を斬ったことを自分から告白していたことを証言している。
野田少尉と同じ小隊に所属していた望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)』に、「百人斬り」の一環として、野田少尉が無辜の農民を日本刀で惨殺した記述がある。
当時の南京の状況や日本軍の状況を考えると、「百人斬り」の様な残虐行為があっても不自然ではない。
そもそも戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為であり、ほとんどは戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと考えられる(志々目手記、望月手記にも示されている)。
少なくとも、戦時中は野田・向井両名とも事件を否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。 また、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、「百人斬り」の実行を記している。
秦郁彦は野田の故郷鹿児島でインタビューを行い野田自身が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号に発表している。
否定する根拠
当時、向井少尉は丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であったという証言がある。
銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はほぼない。
向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う2人が相談して「何らかの戦果を競争する」ことは不自然である。また、向井少尉には軍刀での戦闘経験はない。
戦時報道は言うまでもなく、両少尉の証言は戦意高揚、武勇伝としてのものである。
仮に抜刀による戦闘が実際あったとしても民間人を殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」のようなものは、東京日日新聞の記述とは全く異なるものである。 
名誉毀損裁判
2003年4月28日、野田・向井の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一らを提訴した。 
訴訟の主な争点
「戦闘による百人斬り」を言いだしたのは誰か
原告の主張 - 報道された新聞記事大阪毎日新聞、東京日日新聞の記者らが戦意高揚のために創作した。
被告(毎日新聞)の主張 - 報道された新聞記事は両少尉が記者たちに語ったことをそのまま伝えた。記者たちは実際に二人が中国人を斬ったところは見ていない。
裁判所の判断
日日新聞に掲載された写真を撮った佐藤記者(原告側証人)は、記事に執筆には関与していないが、「百人斬り競争」の話を両少尉から直接聞いたと供述しており、これは当時の従軍メモを元にしている点からも信用性が高い。両少尉自身も、遺書等で両少尉のいずれかが記者に話したと記している。野田少尉が中村硯郎あてに百人切りを自慢する手紙を送ったり、地元鹿児島で百人切りを認めるコメントをしたり講演会をしたりしており、少なくとも野田少尉は百人切りを認める発言をしている。
等の理由により、『両少尉が浅見記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。』と判断した。 
向井少尉の負傷について
原告の主張 - 当時、向井少尉は丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であった。両少尉の手記や、冨山大体長の証明書にも同旨の記載がある。
被告(本多勝一)の主張 - それらは南京軍事裁判で向井少尉が死刑を回避するために捏造したものである。検察の主張をそのまま認めたら死刑になってしまうのでこの行為自体は仕方ない行為だが、資料の裏付けは無く、信憑性はない。
裁判所の判断
両少尉の手記や、冨山大体長の証明書は南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり、南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていない。
向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、離隊しているのであれば、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然記載があるはずだが、そのような記載はない。
等の理由により、『向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ、紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるにたりない』と判断した。 
戦闘による百人斬りは実際に行われたか
原告の主張 - 山本七平は著書「私の中の日本軍」で「日本刀は三人戦闘で斬れば使い物にならなくなる。だから100人も斬れるはずがないので100人斬り報道は虚偽である」と主張。原告もそれを引用して同様の主張をした。
被告(本多勝一)の主張 - 宮本武蔵や佐々木小次郎でもない一般人が百人も戦闘で斬れるはずがない。実際には両少尉は捕虜や農民を斬ったのであり、それを新聞記者にぼかして伝えたのだ。
裁判所の判断
南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である。 
実際には何が行われたか
被告(本多勝一)の主張 - 野田少尉が教官だった望月五三郎が靖国神社に寄贈した体験記「私の支那事変」に、野田少尉が農民をひっぱってきて首を斬り、その行為は中国人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしていった記述がある。野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、野田少尉が自ら「実は百人斬りの内容は捕虜を斬った」ことを語ったと証言している。「南京大虐殺のまぼろし」を記した鈴木明も、対象者が捕虜であれば可能性があることを認めている。南京攻略戦当時の日本軍には捕虜や農民の殺害はありふれていたことであり、そのことを裏付ける資料は多数存在する。
等の根拠から、実際には両少尉は捕虜や農民の殺害数を競う「殺人ゲーム」をしていたと推察される。
裁判所の判断
望月五三郎の記述の真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存在しない。志々目彰の小学校の同級生である辛島勝一も、志々目彰と一緒の機会に、野田少尉から、百人という多人数ではないが逃走する捕虜をみせしめ処刑のために斬殺したという話を聞いた旨述べている。辛島が野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることに鑑みれば、ことさら虚偽を述べたものとも考え難く、少なくとも野田少尉が「捕虜を斬った」という話をしたことは両名の記憶が一致している。本多は捕虜を斬ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も、真偽のほどは定かではないというほかないが、自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものと言える。
以上の点から、その重要な部分において全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。以上と異なる前提に立つ原告らの主張は、いずれも採用することはできない。 
時効
被告(毎日新聞)の主張 - 新聞記事は1937年のものであり、民法724条の除斥期間(3年)は経過しており、訂正・謝罪の義務はない。
原告の主張 - 新聞記事は60年以上前の物であるが、その記事は虚報であり、その虚報を正さずに放置し続ける限り、時効は延長する。
裁判所の判断
前述の通り新聞記事が「虚偽であることが明らかになったとまで認めることはできない」。よって時効は考慮するまでもない。また仮に原告らの請求権が存在していたとしても除斥期間を経過しており時効は成立している。
上記等の理由により、2005年8月23日、東京地裁において原告請求全面棄却の判決が出された。

原告は控訴、2006年2月22日、東京高裁は一回審理で結審した。なお、控訴人が提出した第2準備書面の一部の陳述について、裁判長は内容不適切(裁判官侮辱)につき陳述を認めないとした。結審の後、控訴人側弁護士は裁判官の忌避を申し立てたが3月1日却下された(結審後の申立てや訴訟指揮を理由とした裁判官忌避は通常認められない)。5月24日、控訴棄却判決。
原告側は上告したが12月22日、最高裁においても上告棄却判決。原告の敗訴が確定した。 
その他
台湾台北市の国軍歴史文物館の南京大虐殺を説明するパネル写真には刀身に「南京の役 殺一〇七人」と刻まれた日本軍刀と中華民国軍が主張する日本刀がはめ込まれて展示されている。2004年、集英社の週刊ヤングジャンプ43号掲載された本宮ひろ志の漫画『国が燃える』第88話において南京事件をとりあげ、二人の兵士が捕虜を並べて速く斬る競争をする描写をしたが、政治結社正氣塾や『集英社問題を考える地方議員の会』の抗議を受けて集英社は、「現在、戦犯として処罰された方々のご遺族の皆様が裁判中です。係争中という時期に、誤解を招きかねない描写を掲載した件につきましては、関係者の皆様には、深くお詫び申し上げます」とし、当該シーンを削除した。
毎日新聞社が1989年(平成元年)に刊行した『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』には、向井少尉が負傷して不在であったことを理由として、この記事の百人斬りは事実無根だったと主張している。
1991年に秦郁彦は野田の故郷鹿児島で上述の(志々目や辛島が聞いた)野田の講演の聴衆に対し裏付け調査を行った。野田が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を公言していたことに対して複数の証言が得られたので、「どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい」と結論づける論文を2005-2006年に発表している。
中華人民共和国南京市にある南京大虐殺紀念館では、この東京日日新聞の記事を「虐殺の証拠」として等身大パネルを作成して展示をしている。また台湾(中華民国)の台北市にある中華民国軍の歴史資料館である国軍歴史文物館では刀身に「南京の役 殺一〇七人」と刻まれた「南京大虐殺時の日本軍の刀」であるとする傷ついた刀が、同じく「虐殺の証拠」として写真パネルとともに展示されている。 
 
「百人斬り競争」報道から学ぶ

 

1 イザヤ・ベンダサンと山本七平 
wikipediaの「山本七平」の項目では、山本七平の評価について「山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。」と前置きし、「死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。・・・その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。・・・」としています。
そして、その具体的な批判として、朝日新聞の本多勝一記者との、いわゆる「百人斬り競争」をめぐる論争を取り上げ次のように批判しています。
「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2〜3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がるものの、この理論がユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい。」
こうした主張は、wikipediaの、この項目の「ノート」を見ていただければ判りますが、「らんで」さん外、山本七平を批判される方が執拗に主張しているものです。しかし、「彼(山本七平)はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、・・・」というのは、以下に述べる通り事実に反していますし、山本七平が「百人斬り競争」の新聞記事を批判した根拠は、「日本刀の性能」だけではなく、また、そこで使われた論理が誤っていたわけでもありません。さらに、「この論理がユダヤ人からわざわざ『ヒントをもらった』とは考えにくい」という批判も意味がわかりません。
「百人斬り競争」をめぐる論戦におけるイザヤ・ベンダサンの主張は、「朝日新聞のゴメンナサイ」(『諸君』S47.1)で、朝日新聞の「中国の旅」を日本人の謝罪=責任解除の問題として取り上げたことが最初です。これに対して本多勝一氏が「イザヤ・ベンダサン氏への公開質問状」で、私も「日本的な『謝罪』の無意味さ」を指摘してきた。また、私は「南京大虐殺事件」当時幼児であり直接の責任はない。従って、中国に「ゴメンナサイ」とはいわない。そのかわり、その真の責任者である天皇の戦争責任を追及することが真の謝罪になる、と反論しました。
これに対して、イザヤ・ベンダサンは、「日本人がすぐ『私の責任』という」のは、本多氏のいう「責任回避」の意味ではなく「責任解除」(一種の「懺悔告解」)という意味だ。また、本多氏が、中国民衆への真の謝罪は「天皇の戦争責任」を追求すること、と断言する以上、天皇裕仁個人に公開書簡を送るなど個人責任の追及をすべきではないか。また、そのように天皇の責任追求を主張する方が、「中国の旅」の「百人斬り競争」(=殺人ゲーム)における加害者の名前をなぜ匿名にしたか(といっても「身代わり羊」にしろということではなく、すべての人間には「釈明の権利」があるということ)。また、一体、本多氏はこの「百人斬り競争」報道で、「中国人がかく語った」という事実を示しているのか、それとも「中国人が語ったことは事実だ」といっているのか。おそらく、私は、この物語は「伝説」だと思うが、ルポとは、この「伝説」の中から事実の「核」を取り出す仕事ではあっても「伝説」を事実だと強弁することではありますまい、と反論しました。
これに対して、本多氏は、「責任回避でなく責任解除だ」というベンダサンの論は理解しない(できない?)まま、あなたのおしえてくれた天皇の『責任の糾弾』の方法は、ばかげた、ムダなことなのでしない。「中国の旅」には加害者個人の名前を全部出したが新聞社の編集権によりA,Bとなった。また、あなたは、この「百人斬り競争」を伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」といったが、ではルポ的な方法でお答えする、といって、『東京日々新聞』(1937.11.30、12.13)の「百人斬り競争」の2本の記事、月刊誌『丸』(1971.11)の鈴木二郎もと特派員の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」の記事、月刊誌『中国』(1971.12)の志々目彰氏の「日中戦争の追憶」の資料を提出し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおもダンコとして『伝説』だと主張いたしますか」と反論しました。
これに対して、ベンダサンは、「中国の旅」の記者に「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送ったところ、反論とともに「事実である」という多くの証拠が『諸君』に掲載された。しかし、ここで提出された「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は3人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションということになる。一体どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか。というのは、これらの記事はともに「語られた事実」にすぎず、従ってその相互の矛盾から、ぎりぎりの推断によって事実の「核」に迫るべきであるが、この記者は「語られた事実」と「事実」を峻別することができず、いまだ証明されてもいない「語られた事実」を事実と断定して、それと矛盾する資料でも量を集めればそれの証拠となる、と考えているらしい。もし、本多氏があくまでもこの記事が『事実』だと主張するなら、それがフィクションであることを一つ一つ論証すると反論しました。
こうしたイザヤ・ベンダサンの主張に対して山本七平は、この時点で提示された「百人斬り競争」関連資料(鈴木明氏の発掘したものを含む)だけで、この事件をフィクションと断定することはできないのではないかと考え、次のような会話を訪れた記者と交わしたといっています。「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫ですかな。事実だったら大変ですな」と。そこで「いかなる論拠でフィクションと断定できるか」という趣旨の手紙をベンダサンに出し、しばらくして返事をもらったとして、その内容を紹介しているのです。
つまり、山本七平は、イザヤ・ベンダサンとは全く別の手法で、自分と、この事件の首謀者とされる向井少尉、野田少尉との共通体験(向井とは同じ幹部候補生出身で砲兵、野田とは同じ副官経験を持ち、また日本刀で手足を切断したというような)を手がかりに、この東京日々新聞の「百人斬り競争」記事は、この記事を書いた新聞記者の創作ではないかと論証していったのです。(この論証の内容は、大変おもしろい、というよりここで紹介された日本人の行動様式は、日本人が、戦争という危機的状況におかれたときどのように行動するか、を考える上で誠に貴重な体験といえるものですから、是非ともこの『私の中の日本軍』をご一読いただきたいと思います。)
話はもとに戻りますが、wikipediaのノートで「らんで」氏は、このようにイザヤ・ベンダサンと山本七平の主張をごちゃ混ぜにすることによって、山本七平はその著作において虚偽、捏造を行った人間であり信用できないときめつけているのです。(そんなに言うなら「らんで」なんていう匿名も使うべきではないと思いますが。)
驚くべき事に、この種の「ためにする」批判が、山本七平に対する批判の主要な根拠となっているのです。つまり、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物視することで、「出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。」といった批判が作られているのです。現在では、『日本人とユダヤ人』の著作は山本の外2名のユダヤ人が、それ以降のベンダサン名義の著作は山本の外1名のユダヤ人が関わっていることが明らかとなっているにもかかわらず。
この件に関して、『日本人とユダヤ人』には英語の原著がなく、日本語で書かれたものであることをもって、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物と見なす意見がありますが、この謎について、山本七平は「昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた三人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本になった」と説明しています。ただ、稲垣氏自身は、「それは多分、ローラーとホーレンスキーの語った部分を日本語にしたものを、山本が参照したものにすぎないと思われる。」としていますが。
私自身は、今まで論じてきたように、この問題は、山本七平の言葉によって理解すべきだと考えているわけですが、たとえ、稲垣氏のいうように『日本人とユダヤ人』のコンセプトは山本七平自身のものであったとしても、イザヤ・ベンダサン名義の著作に出てくるエピソードのうち山本七平自身の体験とは思われないものは、当然、ローラーやホーレンスキーによりもたらされたものと考えるのが筋だと思います。山本七平は自らの名義で、ベンダサン名義のものとは別のコンセプトでこの問題に関する著作をしているのですから。
そこで次回から、本多勝一氏が1971年に朝日新聞に連載した「中国の旅」においてとりあげた「百人斬り競争」をめぐる論争において、山本七平がどのような主張をしたかを、詳しく見てみたいと思います。この問題は近年裁判でも争われ(2006.12.22最高裁で原告敗訴)、その結果をめぐって誤解も生じているようですが、この問題から私たち日本人が何を学ぶべきかということについては、すでに、イザヤ・ベンダサンと山本七平によって論じ尽されている、と思うからです。
ネットにおけるこの裁判に関するコメントも見てみましたが、こうした観点からなされたものを見つけることはできませんでした。「天秤の論理」の世界では、ものごとを歴史的に把握する視点がなく、「今」の勝ち負けだけで物事を判断する傾向がある、と山本七平は指摘しています。そこで、次に、この「百人斬り競争」をめぐる論争の経過を、「歴史的」に検証してみたいと思います。 
2 「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問 

 

まず、「百人斬り競争」といわれる事件の概要を述べます。
この事件は、1937年7月7日北京郊外で勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争が、北京、天津陥落後8月に上海に飛び火し激しい市街戦となり、10月からは上海周辺に築かれたゼークトライン(ドイツ軍事顧問団の指導により塹壕要所に機関銃ポスト(トーチカ)を設けたもの)での攻防、そして11月5日、日本軍が杭州湾に上陸(第10軍柳川兵団)して以降、全面潰走となった国民党上海攻囲軍(約50万)を南京城まで追撃する間、二人の日本軍将校が、11月26日頃から12月11日までの約2週間余りの間、無錫‐南京間(約180q)において、どちらが早く日本刀で100人を斬るかを競ったとされる事件です。
この事件は、東京日々新聞(今の毎日新聞)の従軍記者だった浅海一男等により、武勇談として当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日の支社)に4回にわたり掲載されました。戦後、この記事が東京裁判の国際検事団の注目するところとなり、昭和21年6月、関係者が召喚され尋問を受けましたが、同7月「書類不備」(証拠不十分)ということで不起訴釈放(向井少尉)されました。ところが、昭和22年になって再び戦犯として身柄を拘束され、巣鴨刑務所から南京軍事裁判所に移され、同年11月頃南京軍事裁判所の検察官の尋問を受けました。二人は、この記事は、無錫における記者を交えた「食後の冗談」を浅海記者が戦意高揚のため武勇伝化したものであり事実無根と訴えましたが、二人は12月18日「捕虜および非戦闘員を屠殺」したとして死刑判決を受け、翌年1月28日南京郊外で処刑されたものです。
この事件は、戦後は特に注目されることはなく、ほとんど忘れ去られていましたが、朝日新聞の本多勝一記者が、昭和46年8月から12月にかけて、朝日新聞紙上に「中国の旅」(日中戦争時における日本軍の残虐行為を紹介)を連載し、同年11月5日この事件を「競う二人の少尉」という見出しで、中国人の姜さんの話として次のように伝えたことから、この話が事実か否かをめぐって大きな論争に発展しました。
「”これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが”と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さん(日本軍の南京攻撃の際に日本兵に家族が虐殺された経験を持つという人物─筆者注)はみている」
この記事を見た鈴木明(『南京大虐殺」のまぼろし』(1973.3.10)の著者)は、「ちょっと待てよ、・・・この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には『許される』残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の『殺人ゲーム』を許すという人はいないだろう。では、何故、本多氏はあえてこのような記事の書き方をされたのだろうか?」と疑問に思い、そのモトの話とは、一体どんなものなのだろうか、と当時の新聞をしらみつぶしに調べたところ、すぐに上述の東京日日新聞に該当する記事を見つけることができました。(この本で紹介されているその新聞記事は第1報と第4報のみですが、ここでは第2報、第3報も併せて紹介しておきます。なお、この記事は、東京日々新聞(毎日新聞の東京支社)と大阪毎日新聞だけに掲載され、他紙の後追い報道はありませんでした。また、この両紙に掲載された記事内容には若干の違いがありますが、追って検討したいと思います。)
1937年11月30日付朝刊(第1報)1937年11月30日付朝刊(第1報)
百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人
(本文)[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ
1937年12月4日付朝刊(第2報)
急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
(本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。
1937年12月6日付朝刊(第3報)
89−78/百人斬り¢蜷レ戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。
1937年12月13日付朝刊(第4報)
百人斬り超記録′井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦
(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)百人斬り競争≠フ両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。
鈴木明は、この記事は、「今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている」として、次のような指摘をしました。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。
その上で次のような感想を述べています。
「これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」
こうした感想を、氏は昭和47年4月号の『諸君』に「『南京大虐殺』のまぼろし」と題して発表したわけですが、この同じ号の『諸君』には、本多勝一氏のエッセイ「雑音でいじめられる側の目」が掲載されていました。これは、私が前回のエントリーで紹介したように、イザヤ・ベンダサンが同誌に「日本教について」の連載中1月号で「朝日新聞のゴメンナサイ」と題して、日本人の謝罪の不思議について論じたところ、本多勝一氏がこれに「公開質問状」(同2月号)を寄せ、これに対してベンダサンが「本多勝一様への返書」(同3月号)と題して、朝日新聞の「中国の旅」における日本軍の二人の少尉の「殺人競争」の話を伝説だといい、このA、B二少尉の実名を明らかにするよう求めたことに対する反論として掲載されたものです。
この中で本多勝一氏は、私の原稿では実名を出していると述べた上で、先に紹介した東京日日新聞の第1、4報の外2資料を示し、次のように述べました。
「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして”伝説”だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年一二月八日、また向井は一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。惜しいことをしました。と申しますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもお知らせできたでしょうに」(死刑は二人とも昭和二三年一月二八日─筆者注)
これを読んで、鈴木明ははじめて二人が南京で二十数年前に銃殺されたことを知り大きな衝撃を受け次のような感想を漏らしました。
「『美談』が『真実』とうけとられ二人の人間が衆人の前で銃殺され、更にその『真実』は『神話』にまで高められ、『日中国交回復に当たって、まず日本人が中国に土下座して詫びなければならない残虐行為の代表的なもの』にまでなってしまった」と。
ところが、こうして「百人斬り神話」はそのまま「神話」として、永劫の彼方に消え去るかに見えましたが、ある日、『諸君』編集部に「北岡千重子」さん(向井少尉の未亡人)から手紙が送られてきて、その手紙には向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井敏明付弁護人の上申書が添えられていたのです。そしてこれ以降、先に述べたような鈴木明の疑問を解き明かす新たな事実が次々と明らかにされていくのです。 
3 向井少尉の弁明そして遺書 

 

鈴木明が、向井少尉の申辨書と彼の遺書の一部を読んだのは、昭和47年3月中旬頃のことです。また、向井少尉から彼の母宛の遺書(全文)を読んだのは、成田に住む先妻の次女千恵子さんを訪れた3月24日です。この遺書や申辨書が中国からどのようにして持ち出され遺族の手に渡ったかというと、それは「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活した」人たちの手によるもので、このことは、その中の一人当時島根県江津市に住む小西さんという方が、鈴木氏に次のような手紙を送ったことで判明しました。
─「私は当時南京戦犯拘留所で、向井、野田、田中その他の人たちと一緒に生活し、彼らが内地から送られてきたときから、死刑になるまで、ともに語り合ったものです。
当時拘留所は木造の二階建てで、元陸軍教化隊のあったところとききました。一階が各監房、二階半分が監理室、半分が軍法廷あてられていた関係もあり、耳を澄ませば二階の裁判の模様がききとれるような環境でした。
谷中将と向井、野田両氏が何時送られてきたかのはっきりした記憶はありませんが、彼らが着いて直後、予審とも記者会見ともわからないようなものをやり、この人たちがはじめから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。『事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である』といっていたそうで、大虐殺の犯人(「南京大虐殺」─筆者)として事件に結末をつける政略的なものであろうと、我我も話をしていました。
彼らは死刑判決後、柵をへだてた向こうの監房に移されましたが、書籍や煙草を送ることや、会話は許されました。彼らは、この事件は創作、虚報であるとくり返し訴え、浅海記者がそのことを証明してくれるだろうといっていました。
判決後、その浅海記者の証言を取り寄せるため、航空便を矢つぎ早に出しました。その費用を出すため、私たちも衣類を看守に売ったりして援助しました。やがて待望の証言書が届き、その時は彼は声を上げて泣きましたが、この証言内容は、よく読むと老獪というか、狡猾というか、うまく書いてあるが決して『創作』とは書いてありませんでした。そして、彼らは処刑されました。
残された我々は当時、皆涙を拭いながら、浅海記者の不実をなじったものです。記者が、どういう思惑があったかは知りませんが、何物にもかえ難い人命がそこにかかっていたということを、知っていたのでしょうか。
たしかに、裁判もでたらめでした。二回の審議で、つぎは判決だったと思います。証拠も新聞記事が主なものでした。彼らは日記をつけていたので、私たちが遺族にとどけようということになり、私は向井、酒井隆、鶴丸光吉のものを引き受けました。向井の分は上海拘留所に移された時、無罪で三重県に帰る人がいたのでお願いしました。後に、確かに渡したという照会も致しました。
私はこの手紙を書くに当たって、今更このようなことを書いても、余りに空しいと思いましたが、刑の執行の朝、彼らが、軍事法廷になっていた二階で、”天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇ってくるので、あえてここに筆を執りました。まずは、ご参考までに。」
また、この時、鈴木明の見た「上申書」は、向井少尉の弁護人(『偕行』記事によると薛弁護士)が南京軍事法廷に提出したと推定されるものです。(南京軍事裁判所の検事による二人に対する審問は昭和22年11月6日に始まり、12月18日に死刑判決が下されるまで数回なされていますが、この審問の後二人が裁判所に提出したものが「答辨書」で、起訴事実に対する論駁として提出したものが「申辨書」です。ここで鈴木の見た「上申書」はこのいずれかの草稿と思われますが、日付の記載がないのでわかりません。)また、この本には、この「上申書」(カナ書きで長文のもの)を鈴木明が要約したものが掲載されていますので、ここでは、平成17年8月23日に言渡された本裁判(東京地裁)の判決資料として付された向井少尉の答辨書(s22.11.6)─おそらく最初の審問後に裁判所に提出したもの─を紹介しておきます。
(向井少尉の答弁書11.6警察庭における審問後提出)
「昭和12年11月、無錫郊外において、私は、浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は、浅海記者に向かって、『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから 、花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は、笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので 、『できない。』と答えた。浅海記者とは、『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。」
「私は、無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら、砲撃戦の位置は、第一線よりも常にはるかに後方で、肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では 、冨山大隊長の指揮から離れて、私は、別個に第十二中隊長の指揮に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ)、その後 、第十二中隊とも離別し、看護班に収容された。」
新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い、かつ、百人斬りを続行したかのような記載があるが、事実においては、句容や常州においては全く戦闘がなく、丹陽以後 、私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃、湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は、引き続き砲兵学校に駐留していたが 、昭和13年1月8日、北支警備のため移動した。その間、私は、臥床し、治療に専念していた。」
「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し、常に砲撃戦の任にあったものであって、第一線の歩兵部隊のように肉迫、突撃戦に参加していない。その任務のために、目標発見や距離の測量 、企画、計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間、私は、弾雨下を走り、樹木に登り、高地に登ることを常としていたために身軽であって、軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため 、私は、軍刀を持って戦争した経歴がない。」
「私の戦争参加に関しては、新聞記事に数回連続して報道されたが、私は、中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで、かつ、無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが 、記事には数回会合したかのように記載してある。しかも、私は負傷して臥床していたにもかかわらず、壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。」
「昭和21年7月1日、国際検事団検察官は、私と新聞関係者、1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果、百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと 、私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと、私が戦闘に参加したのは、無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること 、私が丹陽の戦闘で負傷し、野戦病院に収容され、爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し、本件に関しては再び喚問することがないから、安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて 、同月5日、不起訴釈放されたものである。」
鈴木明はこの「上申書」を読んで、すぐに北岡千重子さんに会いに行きました。(3月19日)そこで、彼女から向井少尉との出会いや、昭和21年の夏に向井少尉が復員して以降約1年間の生活のこと、そして、東京の市ヶ谷の軍事法廷に連れて行かれた時の様子をきくことができました。「ある日、警察が『MPが向井敏明という人を探しているが、お宅の敏明さんは、本人ではないのか』と照会してきた。向井敏明は、彼女の実家である北岡家の養子という形で入っていたので、姓も北岡と変わっており」、警察は「姓も違うし、もし本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に逃亡をすすめたといいます。
しかし、彼は「僕は悪いことをしていないから、出頭します」といい、「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるのかも知れない。大丈夫だよ。連合軍の裁判は公平だから」といったそうです。(*すでに21年7月に国際検事団の審査を受け不起訴となった経験があったからと思われます─筆者注)彼女が、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・?」と彼にきくと「あんなことは、ホラさ」とこともなげにいい、「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いていたんだから。そんなこといい出したら、国中がホラ吹きでない人は一人もいなくなる─」とまじめな顔をしていったといいます。
その後、鈴木明は向井少尉の先妻(先の北岡千重子さんは再婚)の次女にあたる向井千恵子さんに合い、彼女の所持していた、向井少尉から祖母(つまり向井少尉の母)宛ての遺書を見ることができました。千恵子さんは祖母のフデさんに(実母は終戦後ほどなく死亡)親代わりの愛情をそそがれて育ちました。フデさんのこうした苦労の支えになったのは、この『孫を頼むといった敏明の遺書』だったそうです。
その遺書は次のようなものです。(『「南京大虐殺」のまぼろし』にはその一部が紹介されているだけですので、ここでは、その全文を紹介しておきます。)
向井敏明氏の遺書
辞世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
我が死を以て中国抗戦八年の若杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
中国の御奮闘を祈る 日本の敢奮を祈る
中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井 敏明
遺書
母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
野田君が、新聞記者に言ったことが記事になり死の道ずれに大家族の本柱を失わしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。
猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした、兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明書も猛の手紙も見たです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間がする事ではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねてご不自由の御身老体に加え孫二人の育成の重荷を負せまして不幸これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当に苦労する事は明かですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互に相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生る為に収入の道も拓かねば成りますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です、早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理は申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。
母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりお姿が浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不幸の連続でたまらないものを感じます、赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮して下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過して下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不幸の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と三名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝え願います。 
4 野田少尉の弁明そして遺書 

 

ここまで、鈴木明が朝日新聞の連載記事「中国の旅」の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)を読んで以降翌年3月までに発掘した資料を紹介してきました。ほぼこれと平行してイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏との論争が始まっていたのですが、本多氏が『諸君』紙上に「百人斬り競争」に関わる4つの資料を提示したのは『諸君』4月号(4月1発売)ですから、鈴木明は、彼らとは別に、独自の視点で調査を進めていたことになります。(洞富雄氏は「鈴木氏は、〈ベンダサン〉とともにお窮地に追い込まれた『諸君』編集部によって頽勢を一挙に挽回せんものと送り出された」などどいっていますが・・・)
こうして新しく発掘された資料をもとに書かれたものが「向井少尉はなぜ殺されたか」(『諸君』8月号掲載)でした。ここには、先に紹介した向井少尉に関する資料だけでなく、野田少尉の母親から送られてきた「上訴申辨書」(死刑判決後に、最後に弁護人が裁判所に出したもの)や、東日の「百人斬り競争」の新聞記事をもと書かれたティンパーレの「南京殺人レース」と題する英字新聞記事の概要、南京法廷における向井少尉の無罪を証明す「証言」集めに奔走した実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友の証言、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏の証言、さらに、台湾の台北市に行き、この裁判を担当した五人の裁判官の内の一人(石氏)の証言も得ています。
この内、石氏の証言次のようなもので、きわめて貴重な証言といえます。
「南京事件は大きな事件であり、彼らを処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には可応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。私個人の意見はいえないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まできたのであろう。・・・最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけはいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と──」
こうした取材のエピローグとして、鈴木明は次のようにいっています。
「本多勝一氏は『中国の旅』の連載途中で、読者への断わり書きとして、『かりに、この連載が中国側の”一方的な”報告のようにみえても、戦争中の中国で日本がどのように行動し、それを中国人がどう受けとめ、いま、どう感じているかを知ることが、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と書いた。いま僕も、全く同じように『かりに、この小文が、”銃殺された側”の”一方的な”報告のようにみえても、終戦後の中国で、二人の戦犯がどのように行動し、それを、関係者や遺族がどう受けとめ、いまどう感じているかを知ることも、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。そして、同じく『百人斬り』を取材しながら、このルポで僕が取材した内容の意識と、朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき、僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持ちにならないではいられなかった。」と
その後、鈴木明は、もう一人の戦犯である野田少尉が死の寸前に書いたと思われる獄中手記を入手したとして、その一部を紹介しています。この全文は、向井少尉の遺書と同じ『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)に収録されていますが、ここでは、平成一三年三月に、野田少尉の実妹、野田マサさん(当時七二歳)が保管していた遺品の中から見つかった「新聞記事の真相」と題する手記と、死刑当日(昭和23年1月28日付)の日記に記された「遺書」を紹介しておきます。
新聞記事ノ真相
被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」
記者 「斬レマスカネ」
向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」
其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ
記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
野田 「ソウデスカ」
記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。
野田毅氏の「遺書」(昭和23年1月28日日記より)
南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々
死刑に臨みて
此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。
只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。
宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴らさんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が、到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願します。
中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
野田毅 
5 南京軍事法廷判決と上訴申辨書  

 

向井少尉が復員したのは昭和21年4月です。秦郁彦氏の「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実」によると、「中国政府は1946年6月頃、百人斬りの容疑者として向井、野田の捜索と逮捕を東京裁判の事務局であるGHQ法務局(カーペンター局長)に依頼したらしく、復員局と地元警察を通じて6月末に三重県に居住していた向井を召喚」し、7月1日から5日まで数回尋問を行いましたが、5日には向井を不起訴処分とし釈放しています。
同じ頃、東京日日の浅海、鈴木二記者も法廷事務局に呼び出され取り調べを受けましたが「書類不備」(要するに伝聞証言だけだということ)ということで却下となり「もう二人ともこなくてよい」といわれたと証言しています。
しかし、中国側がこれで納得したわけではなく、引き続きBC級戦犯の中国法廷への召喚を求めたものと思われます。この間の事情を秦氏は、GHQ法務局は、「二人の引き渡しについては「一事不再理」の原則もあり引き渡しを渋ったもの思われる。しかし、昭和21年8月頃から東京裁判法廷で検事側証人が次々に登場して生々しく南京の惨状を語りはじめ内外の世論を衝動するに及び、向井たちの引き渡し要求を拒みにくくなった」のではないかと推測しています。
そんなわけで、野田は昭和22年8月15日鹿児島の実家において、向井も同じ頃(9月1日)、妻の実家のある三重県に居住していたところを逮捕され、市ヶ谷の軍事法廷に送られ取り調べを受けました。その後、巣鴨拘置所を経て10月12日に南京に送られ、11月4日に起訴され、11月6日から審理開始、そのわずか一ヶ月半後の12月18日、半年近く前に南京に送られていた田中軍吉とともに「捕虜及び非戦闘員を屠殺した罪」により死刑判決を受けたのです。判決文は次の通りです。
〈判決文〉
「向井敏明及び野田厳(「野田穀」が正しい─筆者)は、紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し、その結果 、野田厳は105名、向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」
その理由は、以下のとおり記載されている。
「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は當時南京に在留しありたる外籍記者田伯烈が其の著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず即遠東國際軍事法庭中國検察官辯事處が捜獲せる當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。尚被告等が兇刃を振ってその武功をR耀する為に一緒に撮影せる写真があり。その標題には「百人斬競争両将校」と註しあり。之亦其の証拠たるべきものなり。
更に南京大屠殺案の既決犯谷壽夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり。之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。更に亦本庭の其の発葬地点に於て屍骸及び頭顱数千具を堀り出したるものなり。
以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。
然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。
所謂殺人競争の如き兇暴'惨忍なる獣行を以て女性の歓心を博し以て花嫁募集の広告となすと云うが如きは現代の人類史上未だ嘗て聞きたることなし。斯る抗辯は一つとして採取するに足らざるものなり。」
この判決を受けた時の印象を、野田は獄中手記の中で次のように述べています。
「二十二日判決文が参りました。相手にとって不足がないぐらい、物凄い判決文でした。われわれは南京大屠殺に関係があり、向井君と私は、残虐なる百人斬りによっての獣行によって日本女性の歓心を買わんとしたことは、現代人類史上聞いたことがないといふのです。思はず笑い出してしましました。」
そこでただちに、向井と野田は、両者連名で中国側弁護人を通して南京軍事法廷に上訴申辨書を提出しています。その要旨は次の通りです。
1 原判決は、被告等の「百人斬り競争」は田伯列(ティンパーレ)の著作「日本軍暴行 紀実」に記載されていることをもって証拠としているが、この記事は当時の日本の「東京日日新聞」の「百人斬り競争」に関する記事を根拠としたもので、田伯列が南京において目撃したものではない。然るに、原判決に「詳明シ記載アリ」とあるのは如何なる根拠によるものか判知し得ざるところである。
2 いわんや、新聞記事を証拠となし得ざることは、すでに民国最高法院の判例にも明ら かであり、単に事実の参考に供するに足るもので、唯一の証拠とすることはできない。 なお、犯罪事実はすべからく証拠によって認定すべきことは刑事訴訟法に明らかに規定 されている。(この証拠とは積極証拠を指していることはすでに司法院において解釈されている。)
3 然るに、貴法廷は、被告等が殺人競争をしたという直接間接の積極的証拠は全くない にもかかわらず、被告等と所属部隊を異にする部隊長たる谷寿夫の罪名認定をもって南 京大虐殺に関する罪行ありと推定判断しているが、かかることの不可能であることは些 かも疑義はない。
4 原判決は、「東京日日新聞」と「日本軍暴行紀実」とは符合すると認定しているが、 後者の書籍の発行期日は前者の発行期日後であって、田伯列が新聞記事を転載したこと は明瞭である。いわんや、新聞記者浅海一男は民国36年(昭和22年)12月10日に記述した証明書に、この記事は記者が直接目撃したものではないことを明言しており、 すなわち、この記事は、被告等が無錫において記者と会合した際の食後の冗談であって 全く事実ではない。この件は東京の盟軍(GHQ法務局)の調査でも不問に付されたものである。
5 被告等の所属大隊は、民国26年(昭和12年)12月12日、麒麟門東方において行動を中止し南京に入っていないことは富山大隊長の証明書により明瞭であり、被告野 田が紫金山付近で行動せざることを明白に証明している。また、被告向井は、12月2日、丹陽郊外で負傷し事後の作戦に参加せず紫金山付近に行動せざりしことも富山大隊長の証言で明瞭である。
6 また、この新聞記事の百人斬りは戦闘行動を形容したものであって、住民俘虜等に対 する行為ではない。残虐行為の記事は日本軍検閲当局を通過することはできなかった。 ゆえに、貴法廷が日本軍の検閲を得たことをもって被告の残虐行為と認定したことは妥 当ではない。以上の如くであり新聞記事は全く事実ではない。
7 貴判決書に多数の白骨が埋葬地点より出たことをもって証拠とする記述があるが、被 告等が入っていないところで幾千の白骨が出ても、被告等の行為と断ずる証拠とはならない。
8 被告等は全く関知しない南京大虐殺の共犯とされたることを最も遺憾とし、最も不名 誉としている。被告等は断じて俘虜住民を殺害することはしておらず、また断じて南京 大虐殺に関係ないことを全世界に公言してはばからない。被告等の潔白は、当時の上官、 同僚、部下、記者が熟知するとKろであるのみならず、被告等は、今後帰国及び日本国 は恩讐を越えて真心より手を握り、世界は岩の大道を邁進せられんことを祈願している。
以上陳述したとおり、原判決は被告等に充当することはできないと認めれれるので、 何卒公平なる複審を賜らんことを伏して懇願いたします。 (以上)
山本七平は、「私にこういうもの(『私の中の日本軍』)をかかしたのも、実はこの中国人弁護士催文元氏の態度であり、また二人が創作記事によって処刑されるのだということを、的確に見抜いた最初の人は、おそらく彼なのである。彼はこういうことを平然とやっている日本人を、内心軽侮したことであろう。心ある一人の人の軽侮は、「殺人ゲーム」で惹起された百万人の集団ヒステリーの嘲罵より、私には恐ろしい。」といっています。
また、この申辨書は、「実に問題の核心を突くとともに、それまでの裁判の経過を明らかにし、この軍事法廷で、「無罪か死刑か」が最後まで争われたその争点が何であったかをも明確にしている」として、次のようにいっています。
つまり、彼は、まず原判決が田伯列(ティンパーレ)の記述が東京日日新聞と符合するといっても、ティンパーレが新聞記事を転載したことは明瞭であるとしてこれをしりぞけ、その他の物証も一切ないことを証明し、さらに、新聞記事を証拠となし得ないことは、判例にも明らかであり、それは単に事実の参考に供するに足のみであって、唯一の罪証とすることはできない、と主張しているのである。そしてここが、彼がいかに誠意をもって努力しても、もう彼の力ではどうにもならない限界なのである。
「すなわち新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。──これが「浅海証言」(注1)が二人を処刑させたのであって、この処刑は軍事法廷の責任ではなく浅海特派員と毎日新聞の責任であると前に書いた理由であり、また私が催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと考えた理由だが──・・・だが少なくとも中国人が誠心誠意弁護しているものを、何も日本人がその足をひっぱる必要はないはずだ。両者の関係は、催弁護人の「申弁書」と「浅海証言」「本多証言」を比較すれば、だれでもおのずと明らかであろう」
注1 「浅海証言」(向井少尉の実弟向井猛氏が、昭和22年10月12日に南京に送られる以前、市ヶ谷の軍事法廷の軍検事局に拘留中の向井少尉を訪ねたとき「とにかく証拠が要る。今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうには、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼むほかはない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったんだということを、是非証言してもらってくれ。それから、戦友たちの証言ももらってくれ」と頼まれた。彼は、まだやけビルの後も生々しい有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ね、次のような証言を得ました。彼はできればあの記事は創作であると書いてほしかった、といっています。
1 同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。2 両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲局をパスすることはできませんでした。3 両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でありました。4 右の事項は昨年七月、東京における連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります。
また浅海記者及び鈴木記者は昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室において米国のパーキンソン検事から尋問を受け、次のように証言しています。
(問)毎日新聞に掲載されたニュース記事を2本お見せした上で、あなたがその執筆者かどうか、あるいはいずれかの記事の執筆に携わったかどうかをお聞きしたいと思います。
(答)1937年12月5日付けで掲載された記事は自分が書いたものではありません。しかし、12日付けで毎日新聞に掲載された二つ目の記事は私が浅海さんと一緒に書いたものです。
(問)日本語版に掲載された写真は同じようにあなたが送ったものですか。
(答)この写真はサタさんという別の従軍記者が撮影しました。常州で撮影したものです。
(問)この写真は別の人が撮ったということですが、自分の記事の一部としてあなたが送ったものですね。
(答)私はこの写真について知りませんが、浅海さんは知っています。実際は彼が送信したものですから。
(問)しかし、写真は浅海さんが撮ったのではありませんね。
(答)佐藤という名の別の従軍記者が撮ったものです。
(問)それから鈴木さん、あなたが浅海さんと共同で、記事の一部として送ったのですね。
(答)浅海さんが送った、と言った方がいいでしょう。
(問)浅海さんと協力して執筆した記事をあなたが送ったのですか。それとも浅海さんが執筆に加わった記事を彼が送ったのか、またはあなたが参加した記事を彼が送ったのか。
(答)その記事は浅海さんが主に執筆したものです。
(問)しかし、加わったのは…。
(答)鈴木さんが加わりました。
(問)つまり共同執筆ですか。
(答)そうです。
(問)では、12月5日付け東京毎日新聞に掲載された記事を執筆したのは誰ですか。
(答)5日付けに掲載された記事については、私は何も知りません。
(問)浅海さん。鈴木氏に対する質問と答えを聞いていましたね。彼が言ったことが正しいと思いますか。
(答)その通りです。
(問)1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか。
(答)はい。私がこの記事の執筆者です。
(問)では、鈴木さん。あなたは12月12日の記事の執筆に関わりました。あなたはその記事に事実として書かれていることが真実か虚偽か知っていますか。
(答)はい、知っています。
(問)真実ですか、虚偽ですか。
(答)真実です。
(問)浅海さん。たった今、鈴木さんに尋ねた質問をお聞きになりました。あなたもこれらの記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか。
(答)真実です。
(問)では、この新聞発表2本を確認する上で、お二人の共同供述書に署名を頂くことができますか。執筆者であること、そしてその記事が真実であること、つまり、記述内容が真実であることを供述してください。
(答)はい。供述します。 
6 週刊新潮の常識的判断 

 

この上訴申辨書は、鈴木明が昭和47年4月10日、向井少尉の長女恵美子さんをキャンプ・ザマに訪れて話を聞き、それが終わって東京に帰ったとき、もう一人の「犯人」(?)である野田少尉のお母さんから届いていた手紙に同封されていたものです。ただし、これが公開されたのは『諸君』8月号(8月1日発売)ですから、それまで、鈴木明は、実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏、そして、この裁判を担当した裁判長(石美瑜氏)を台北市に訪ねるなど、取材を重ねていたわけです。
この間、『週刊新潮』昭和47年7月29日号に、「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事が掲載されました。この記事は、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」(『諸君』s47.4)の内容を紹介した後、この”鈴木レポート”をさらに広げ、深める作業を行う、として「東京日日」の「百人斬り競争」の記事作成に関わった「同僚記者二人の証言」と「浅海記者の華々しき戦後」(毛主席一辺倒、文化大革命礼賛の「日中友好促進派」として「毎日」を代表する記者として活躍)を紹介したものです。
この中の「同僚二人の証言」では、まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか──を問うことから始めています。『東京日日』の記事は第一報から第四報までありますが、この第四報(「百人斬り”超記録”向井106─105野田 少尉さらに延長戦」浅海、鈴木特派員発)には、城門の前に立つ二人の少尉の写真が、「常州にて佐藤振寿特派員撮影」というキャプション付きで掲載されていました。そこで『新潮』は、記事は創作することもできるが、写真をデッチあげることは難しいとして、この写真を撮った佐藤カメラマン(58歳フリー)を取材し次のような証言を得ています。
「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」
「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。―それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」
この証言によって、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、〔常州にて廿九日〕と日付のある”第一報”取材の時点で撮ったものであることが、判明しました。
さらに、”第四報”に名前の出て来る「鈴木」特派員(「鈴木二郎」65歳、当時毎日系別会社役員)にも取材し証言を得ています。
「鈴木氏は抗州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、『そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです』
南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、『今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ』といわれた。
『そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです』」
こうした証言を受けて『新潮』は次のように結論づけています。
「ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると『十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた』という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。
鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。『本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです』
記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、ニ将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者の方が、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった―と考えるのが妥当なのではあるまいか。」(この結論からすると、この記事のタイトル「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした・・・」は言い過ぎということになりますね──筆者)
この『週刊新潮』の記事は発行直後山本七平も見ており、その時の感想を次のように述べています。
「『南京百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事を読んで驚いた。半年ほど前には断固たる『事実』として立派に通用していた物語が、いつのまにか当然のことのように「虚報」とされており、この記事の焦点は、どのようにしてこの虚報が出来上がったかにむけられていることである。昨日の事実が今日の虚報とは、世の中の流れは全く速いものである。
『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」
つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということであり、そのことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事では、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかということです。
実は、この事実を、山本七平も『週刊新潮』の佐藤振寿氏の証言を読むまで知りませんでした。「従って、・・・何の疑いもなくこれを歩兵小隊長向井少尉と、同じく歩兵小隊長野田少尉と受けとり、当然のことだから(新聞記事では)『歩兵小隊長』を略した」と考えていたのです。「私自身もこの記事を読んだとき、当然のこととしてそう読んでいた。そう読んでしまえば、この記事は全くしっぽが出ないし、さらに何となく『同一指揮系統下』と思いこませれば少しの疑念も湧かないのである。ただ一つ私がひっかかったのは、『僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ』という野田少尉の言葉だった」といっています。
「ところが鈴木明氏の調査で、驚くなかれ(これが)副官だとわかった。つづいて『週刊新潮』に佐藤振寿カメラマンの驚くべき証言がのった。氏はこの二少尉に会ったのがただ一回なのに、35年後の今日でも、驚くほど正確に証言している。「・・・野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲の小隊長なんですね」そしてその傍らに浅海特派員もいっしょにいたと証言しているのである。従って浅海特派員は、はっきりと二人の正体を知り、一人が歩兵砲の小隊長、一人が大隊副官であって、全く指揮系統も職務も異なることを知りながら、同一指揮下にある第一線の歩兵小隊長として描いているのである。
関係者は『見たまま聞いたまま』を書いたと証言している。しかしそれは嘘である。といってもこれは『百人斬り競争の現場を見ていないのではないか」という意味ではない。現に目の前に見ている二人、すなわち副官と歩兵砲小隊長を、見たまま書かず歩兵小隊長に書き上げているという意味である。従って二人はすでに、筋書き通りに歩兵小隊長を演じさせられている役者であって、副官でも歩兵砲小隊長でもない。これが創作でなければ、何を創作といえばよいのであろう」
この二人の職務が、最前線の白兵戦で「百人斬り競争」を行うようなものでないことは南京軍事法廷に提出した答辨書にそれぞれ明快に述べています。
「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し、常に砲撃戦の任にあったものであって、第一線の歩兵部隊のように肉迫、突撃戦に参加していない。その任務のために、目標発見や距離の測量 、企画、計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間、私は、弾雨下を走り、樹木に登り、高地に登ることを常としていたために身軽であって、軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため 、私は、軍刀を持って戦争した経歴がない。」
「当時、私は、・・・昭和12年9月から昭和13年2月まで、冨山大隊副官にして常に冨山大隊長の側近にあって、戦闘の間は作戦命令の作成、上下への連絡下達、上級指揮者への戦闘要報の報告等を、行軍の間は、行軍露営命令の作成下達、露営地の先行偵察、露営地の配宿、警戒警備線の実地踏査、弾薬、糧秣の補充及び指示、次期戦闘の準備等で忙しく、百人斬りのようなばかげた事をなし得るはずがない。」 
7 山本七平からベンダサンへの質問状 

 

山本七平が自分の手で「百人斬り競争」に関する資料を集め始めたのは、昭和47年7月29日号の『週刊新潮』の記事や、『諸君』8月号の鈴木明の記事を読み、向井少尉が歩兵砲小隊長、野田少尉が大隊副官であることを知った後の9月頃からだといっています。その後、二人の上訴申辨書を書いた中国側弁護人(山本は催文元、鈴木明は崔培均、洞富雄は薛某としている。以下原文のまま)の公正な態度に感銘を覚えるとともに、その弁論の限界点も知りました。すなわち、催弁護人は両少尉の新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。従って、催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと、山本七平は考えたのです。
しかし、山本七平は、こうして「百人斬り」を究明していく内に、何とも解しかねる問題に改めてつき当たらざるを得なくなった、と次のように言っています。
「これは私にとって余りに不思議であり、不可解なことであった。この記事は、35年間も事実であった。事実だったが故に、二人の処刑が事実になった。「おかしい」と思った人も昔も今もいたであろう。しかし、「おかしい」というのは、事実ともフィクションとも判断がつかないということであっても、「フィクションだ」ということではない。事実という証拠はなくても「フィクションだ」という証拠もなかったはずなのである。従って、資料が出てこない限りあくまでも「おかしい」で終わるはずである。
ところが、本多・ベンダサン論争で、〈ベンダサンは、この二少尉の百人きり競争は伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」と、またしてもご指導下さいました。たしかに、ご指導されるまでもなく、そのとおりであります。自称ユダヤ人としてのあなたの目には、日本の新聞記者などは、かくもいい加減なものにみえるようですね、こういうひとにたいしては、やっぱりルポ的な手法でお答えすることにしましょう。まず、事実を列挙しますから、じっくりお読み下さい。〉
という本多氏の前書き付きで、『浅海版』が三十五年ぶりに再登場したとき、ベンダサン氏はすぐに『浅海版』もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。
・・・初めはあまり気にもならなかったが、昭和47年7月『週刊新潮』を見、その後、鈴木明氏の『向井少尉はなぜ殺されたか・補遺』(「諸君」十月号)を読んで自分で分析しはじめてから、この疑問は日々に強くなった。というのはこれらの資料を一、二度読んだぐらいでは、このフィクションがどのように組み立てられていったかは、ちょっとやそっとでは解けないはずだからである。これは軍隊の記事だから、軍隊の実情を解明しつつ解かなければ、絶対に「フィクションと断定する証拠」は出てこないはずなのである。日本軍といっても最盛時には七百万もいたそうだから、兵科や境遇が違えば、その人の位置によっては、かえって事実にみえてくることもあるはずなのである。
偶然としか言えないが、向井・野田そして私という三人が実に似た境遇にいたことが、資料以外の大きな解明のポイントのはずである。何しろ向井少尉は幹候の少尉であり(山本七平も同じ幹候=幹部候補生の少尉のことで士官学校出の本職の将校に対して臨時雇いの将校のこと──筆者)、しかも野田少尉も私も「ブヅキはコジキ」のブヅキ少尉(本部付将校とか指令部付将校の総称で、本部と現場の中間に位置し連絡調整・条件整備をする職で、同じ少尉でも本部付もいれば小隊長もおり、後者が殿様なら前者は乞食ぐらいの待遇の差があったという。──筆者)であり、向井少尉は歩兵砲とはいえ私と同じように「砲測即墓場」の一人であって、「ツッコメー、ワーッ」ではない。このほかにも共通点はあるが、何しろ七百万の中からこれだけの共通点がある三人が会い、私に二人と似たような体験があり、それを基にして資料を分析するから解けるので、そうでなければ、私ではフィクションと証明することは不可能なはずである。第一、もし二人が本当に第一線の歩兵小隊長であったら、もうそれだけで、私には何も論証できない。「おかしいと思うけどネ」が限度である。
従って少なくとも私にとっては、これは、前記の三要素、すなわち資料・体験・共通性が、どれか一つでも欠けたら絶対に解けないはずなのである。そしてベンダサン氏は、そのどの一つも持っているはずがないのである。たとえ氏が日本軍に関する資料や情報をもっていても、それは、「本多版」「浅海版」という二つの記事だけから、これをフィクションと断定する根拠を提供(ママ)するはずがないからである。
氏がフィクションと断定された直後、事務所に来られた「諸君!」の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言って笑ったおぼえがあるが、氏がフィクションと断定したので、私も二つを読み比べたのだが、私にさえ、フィクションと断定を下す鍵は見つからないのである。・・・
私は資料を読んでいるうちに、資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがないという気になった。私がこれを解明していく根拠は、あくまでも資料・体験・同境遇の三つだが、氏はそのいずれももっていない。そして、この三つがない限り、絶対に解けないはずだ。何しろ、今までに何百万人という人が、あらゆる体験者がこれを読んだはずなのに、結局、記事だけでは、誰一人シッポをつかまえることはできなかった。その記事を初めて目にした人間が(ひょっとしたら始めてではなかったかも──筆者)その記事だけを見て、なぜすぐにフィクションだと断言できるのか。それは不可能のはずだ。・・・
私は、自分の方法で解明を進めていけば行くほど、この疑問は強くなった。そしてついに氏に質問状を送った。要旨は簡単で、「これは確かにフィクションである。しかし二人が、同一指揮系統下の歩兵二小隊長であれば、フィクションと証明することは不可能である。そして記事は、二人が歩兵小隊長ではないという事実を、伏字まで使って消している。そして不可能なゆえに事実とされてきたはずである、あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」ということであった。
大分かかったが返事が来た。一読して私は驚いた。軍隊経験とか資料とか同一体験とかいったものが全くなくとも、いや軍隊も戦場も中国も何一つ知らなくても、「本多版」「浅海版」の二つだけでこれをフィクションと断定しうる鍵はちゃんとあったのである。まさにコロンブスの卵、といわれればその通りで、今となるとなぜそれに気づかなかったか不思議なくらいである。以下氏の分析を要約しておこう。氏は次のようにいわれる。」
ここで、読者の皆さんも、「本多版」と「浅海版」をごらんになって、分析してみられてはいかがでしょうか。あるいは、読者の中には、この「百人斬り競争」論争は、最高裁で原告敗訴となったことで決着済み、と理解されている方もおられるのではないかと思いますが、私見では、決着したのは、民法上の「名誉毀損」等をめぐる訴訟であって、その敗訴の理由は、結局、この問題は論争としては未だ決着していないということなのです。東京高裁判決4争点に関する裁判所の判断は次のように述べています。
「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、現在まで肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。以上の諸点に照らすと、・・・本件摘示事実(これが実は曖昧なのですが、ここでは浅海版新聞記事の内容としておきましょう──)が全くの虚偽であると認めることはできないというべきである」
つまり、「浅海版百人斬り競争の新聞記事の内容が全くの虚偽である」ということは未だ証明されていない、といっているのです。私が、再度、この論争の歴史的経過を再点検してみようと思い立った所以です。 
8 ベンダサンのフィクションを見抜く目 

 

以下の文章は、前回紹介した山本七平からベンダサンに宛てた質問状に対するベンダサンの回答を山本七平が要約したものです。大変おもしろいので、長くなりますが、そのまま引用させていただきます。
〈これは競技の記事である。たとえ場所を戦場に設定しようと、競技の対象が殺人という考えられない想定であろうと、これは競技の記事であって、戦争の記事ではない。言うまでもなくすべての競技には「ルール」「審判」「参加者」が必要であり、それを記録するなら「記録者」が必要であり、そしてその全員がルールを熟知していなければ、競技も競技の記述も成立しない。全員が自分たちが何を争っているかわかっていない競技は存在しない。従ってこの二つの記事にも、もちろん最初にまずルールが記述されている。ルールは「本多版」も「浅海版」も同じで、それは「本多版」に次のように明確に記されている通りである。
「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本人がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。従って、この競技は、「フィールドの範囲を示し、次に数を限定し、時間を争う型」の競技である。従ってその原則は基本的に百メートル競走と差はない。「一人斬り」を「一メートル走り」となおせばそれでよい。すなわち競技者は、どちらが早く百に達するか時間を争っているはずであって、時間を限定して数を争っているのではない。
通常、競技は、ルールという多くの確定要素の中の一つの不確定要素を争うもので、不確定要素が二つあっては競技は成立しない。またこの不確定要素すなわち争点が絶えず変化する競技も存在しない。
しかしこれはあくまで原則であって、実際には、不確定要素が二つある場合もある。これがいわば「百人斬り競争」であって、百という数は確定していても、これは百メートルのように予め設定されているわけではなく、現実には、競技の進行と同時に発生していく数である。
この種の競技に審判が判定を下す方法は原則として二つあるが、通常採用されているのは「ストップ」をかける方式である。一応「ストップ方式」としておく。すなわち、一方が百に達した瞬間にストップをかける。その際、もちろん、相手の数が百を超えることはありえない。この際、相手が九十八ならその差は数で示されるが、この数はあくまでも時間を数で表現しているのであって、争われているのは時間である。
この方式は、通常、減点方式がとられるはずである。明らかにこの「ストップ方式」を想定しているのが「本多版」である。これについては後述するが、いかにフィクションとはいえ、戦場においてストップ方式を採用させることは出来ない。理論的には別だが、実際問題において、この種の競技はストップ方式しかとれないのが普通だから、「事実」にしようと思うなら、戦場もしくは戦闘行為という想定をはずさなければならない。従って「本多版」は、実質的に戦場ではない。前記のルール通りなら、こうする以外には不可能である。
ここで「浅海版」を見てみよう。恐るべき論理の混乱ではないか。この点「本多版」から本多氏の加筆を除いた部分は、論理の混乱は全くない。中国人は日本人より論理的なのかも知れぬが、これは恐らく「浅海版」が、基本的には上記と同じ論理を戦場にあてはめようという「不可能」を無理に行ったため生じた混乱であろう。
「百人斬り競争」という言葉自体が、「数を限定して時間を争う」ことを規定しており、同時に部隊が移動していることは、場所の移動が時間を示している。言うまでもなく、向井少尉の「丹陽までで云々」は丹陽につく時間までには、百というゴールに到達してみせるぞ、という意味であって、この場合の彼の言葉は、あくまでも「百という数を限定して、それを争っているこの競技において、おれは、時間的に相手を切り離したから、俺の勝ちになるぞ」といっているわけである。ここで彼は、はっきりと数を限定して時間を争う競技と意識しており、これへの野田少尉の返事も同じである。ところがいつの間にか、このルールをあやふやにして、時間を限定して数を争う競技でもあったかの如く、次のように変えている。
野田「おい俺は百五だが貴様は?」向井「俺は百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、改めて百五十はどうぢゃ」
いかなる競技であれ、本当に競技を行ったのなら、そしてそれが「時間を争う」競技なら、百に達した時間を記憶していないと言うことはない。第一その時に出てくる質問はあくまでもまず相互に「お前は何時何分に(場所にかえて「どこで」でもよい)百に達したか」であっても数ではない。次のそれにつづく「改めて百五十」とは何を意味するのか。数を決めて時間を争うというのか、時間を決めて、百五十を目標に争うと言うのか。
もし、本当にルールが設定され、競技が行われ、その結果を摘記要約したのなら、いかなる競技の記事であれ、このような混乱は生じえない。たとえばオリンピックの百メートル競走において、百メートルという数を限定してそれに到達する時間を争っている、と書いているものが、途中で、時間を十五秒にきめてその間に何メートル走れるかを争っている、と書きかえていたら、すべての人が、この記述はおかしい。何かの混乱か、誤記か、とまず考えるであろう。私の考えでは、そう考えない人のほうがおかしい。だが、事実を記述した場合の混乱は、記者の認識不足から生ずるのであって、「事実」が混乱を生じているのではない。従って事実を整理すれば、記者の認識不足が浮かび上がる。そしてこの場合は、フィクションではないと考えるのが本当であろう。だがここで、この点で「本多版」の検討に移ろう。
「本多版」は論理的構成においては破綻を来しておらず、ルールの設定、審判の態度、その他すべて筋が通っており、二人は終始、はっきりとそれを意識して数を限定して時間を争っている。第一回は百に達しなかった。これは百メートル競走において一人が八十九メートル、もう一人が七十八メートルで転倒したに等しい。これでは競技をやりなおすより仕方がない。しかし第二回においては、一方が百に到達した瞬間にストップをかけよと審判に注意すべきものが失念し、二人が共に百を超してしまったときに、はじめて審判がこれに気づいた。いわばゴールにテープをはるのを忘れて、一方が百六メートル、一方が百五メートルまで走ってしまったときにそれに気づいたに等しい。当然審判は不機嫌になり、コースを百五十メートルにのばして、もう一度競技を再開することを命じた。
この設定を読んだ場合、本多氏のように、「・・・二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」と見ることは少しおかしい。そうでなく姜氏は、三回目には審判もストップ係も緊張して、一方が百五十に達したときにストップをかけ、従って一方は百五十以下にとどまり、競技は成立したであろうと見ているはずである。記者の認識不足により生ずる混乱はこのような形で起こる。従って本多氏がこの話を聞いたという事実は、絶対にフィクションではない。これが、事実を整理すれば記者の無能と理解力の欠如に基づく誤認及びこれに基づく混乱がわかる例である。だが「浅海版」はそうではない。しかし「本多版」をさらに検討しよう。
なぜ上官が登場したか。これは、審判である。前述のように不確定要素が二つあるに等しいため、ストップをかけて時間を数に還元して勝敗を決めるという方式の競技は、実際には、審判の目の前で行い、審判がストップをかけねば成立しないからである。従って、数に異常な誇張がなければ、「本多版」は、論理的には「ありえなかった」とは断言できない。
従ってこのように記者の誤認を整理すれば、論理的設定が完全な場合の真偽は、数を単位に還元して調べる以外にない。たとえば長距離競走の記事があり、その論理的構成は完全であっても、逆算すると百メートルを三秒で走ることになっていたら、そういうことはあり得ない。しかしこれは人間の能力測定の問題であって議論の対象ではないから、これを議論の対象にすることはおかしい。
ではここで「浅海版」へもどろう。戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。
もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。従ってそれによって生じた混乱は、「本多版」の混乱とちがう。
なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。
しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・〉
高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげています。しかし、このことは35年前に始まったこの論争の認識の出発点だったのです。前回のエントリーで、山本七平が『週刊新潮』の常識的判断に疑問を投げかけたことを紹介しましたが、ベンダサンもこのことを基本認識に据えた上で、この話をフィクションと断定していたのです。 
9 ベンダサンが「中国の旅」を取り上げたワケ 

 

ベンダサンが朝日新聞の「中国の旅」を取り上げたのは「昭和47年1月号の『諸君』です。ベンダサンはこの時「日本教について─あるユダヤ人への手紙」と題するエッセイを『諸君』に連載中で、これはその第9回目にあたり論題は『朝日新聞の「ゴメンナサイ」』となっていました。
ベンダサンのこのエッセイは、その前年に出版されて大評判となった『日本人とユダヤ人』の内容を敷衍するもので、『日本人とユダヤ人』が主として「日本教」の長所と思われる部分(=政治天才など)を論じていたのに対して、ここではその逆に「日本教」の短所と思われる部分を論じていました。
それは「言葉の踏み絵と条理の世界」に始まり、日本人は言葉を「踏絵」として差し出す。この踏絵は一宗教団体が正統、異端を見分けるためのものである。この踏絵の基礎となる教義を支えている宗教が私のいう日本教である。そして日本語とは、その日本教の宗教用語である。その基礎は教義であって論理ではない。日本語には論理はない。論理がないから、厳密な意味の叙述もない、など、かなり思い切った論述がなされていました。(立花隆氏などはこれに猛反発していましたね)
では、日本人の論理(論理ではないが、何かそれに似た順序で、結論を追っていく方法)とはどういうものかというと、それは「天秤の論理」とでもいうべきもので、天秤皿の一方には実体語(=本音に近い言葉)が載っており、他方の分銅を乗せる皿には、その尺度としての空体語(=建前に近い言葉)が載っており、この二つの言葉を(日本人の言う)「人間」という支点でバランスをとることによって、提示された問題についての政治的決着がはかられる、というのです。
また、こうした政治的決着に至るためには、その相手と「お前と、お前のお前(=自分)」という二人称の関係に入ることが必要で、そのためには両者の「話し合い」が極めて重要になると論じています。また、日本人はこのような二人称の関係に入ることを「民主的」と考えている、というのです。
そしてここから、日本人における「責任」という問題に論及し、夏目漱石の「坊ちゃん」の狸校長の「私の寡徳の致すところ」(=自分の責任)という言葉を引き合いに出して、日本人の謝罪の不思議を指摘しました。いわく、日本人は「自分の責任」ということによって自分の純粋性を証明し、それによって、逆に「自分の責任が免除される」ことを当然としている、と。
こうした論述の流れの中で、冒頭に述べた朝日新聞の「中国の旅」がとりあげられたのです。つまり、今、朝日新聞が、中国で日本人が行った虐殺事件の数々を報道しているが、不思議なことにこの記事にも、この記事への反響にも、その虐殺事件を起こした個人に対する責任追及が全くない、というのです。
そしてベンダサンは、「『ソンミ事件』の報道がカリー裁判となったように、この報道が中国における虐殺事件の責任者を日本の法廷に立たせることが起こりうるか、と問われれば、この連載はまだ終わってはいないが、終わった時点においても、日本ではそういうことはもちろんのこと、個人の責任の追求も、絶対に起こらないと断言できます。」
といっても、「もちろん日本人は一部で誤解されているような『フェアーでない民族』ではありませんから、以上の考え方を自己弁護のため自らにだけ適用しているのではなく、自らが被害者になった場合にも等しく適用しているのです(これは見落とされがちですが)。たとえば『原爆反対』の運動はあっても『ヒロシマに原爆投下を命じたトルーマン元大統領(故人)の責任を追及する』ということは起こらないのです。」
「では一体『朝日新聞』は何のためにこの虐殺事件を克明に報道しているのでしょうか。これによって『だれ』を告発しているのでしょうか。『だれ』でもないのです。・・・(それは)『戦争殺人』『侵略殺人』『軍国主義殺人』を告発しているのであって、直接手を下した下手人個人および手を出させた責任者個人を告発しているのではないのです。そしてこの虐殺事件を起こしたのは『われわれ日本人』の責任だといっているのです。」
そこで、こういった日本人の態度について、「坊ちゃん」の狸校長への批判の言葉を適用すると、「われわれ日本人の責任だというなら、そう言っているご本人も日本人なのだろうから、そう言う本人がまずその責任をとって、記事など書くのはやめて、自分が真っ先に絞首台にぶら下がってしまったら、よさそうなもんだ」ということになります。
「しかしそう言えば、この記者はもちろんのこと、『朝日新聞』も識者も読者も非常に怒り、・・・『そういうことを言うやつがいるから、こういう事件が起こるのだ』と言われて、この言葉を口にした人間が『責任』を追求されますから、これはあくまでも『ひとりごと』に止めねば、大変なことになります。」
つまり、「日本教=二人称の世界では、『それは私の責任』ということによって『責任=応答の義務』はなくなるのに、この論理は逆に『(私の)責任だと自供したのなら、自供した本人がその責任を追及されるのは当然だ』としているからです。もう一度申し上げますが、これは日本教では絶対に許されません。もしこれを許したら、日本教も天皇制も崩壊してしまうからです。」
以上のように述べた後、ベンダサンは再び『朝日新聞』の「中国の旅」にもどり次のように言います。
「私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本には現在『日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ』という強い意見があります。一見、誠に当然かつ正しい意見にみえますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。すなわち『私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係に入りうる』と言う考え方が前提に立っているとしか思えないのです。・・・
しかし中国側からこれを見れば『日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ』ということになります。これは『債務を認めます』と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いされたと同じような怒りを中国人に起こさせるわけです。」
今「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関の共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は皆無と言って過言ではありません。・・・理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは『お前のお前』という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。」
そして「以上のことは、もちろん、別に日本の政府や新聞を批判するために書いたわけではありません。ただこれらのことを絶えず念頭に置いておきませんと、これからのべる『世にも不思議な物語』が、全く理解できないであろうと考えたからです。」といって、「松川事件」における被告の、ほとんど「鸚鵡的供述」ともいうべき「自供」「証言」の「不思議」について論究していくのです。
これに対して、朝日新聞の「中国の旅」の記者である本多勝一氏は、同年の『諸君』2月号に「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し、次のように反論しました。
「あの一月号のベンダサン氏の文章を読んだら、最初から『あ、これはアラビア人の目で日本人を見たときと同じだ』そのような共通な視点にある僕に対して、ベンダサン氏は『責任を持って追及すべき相手は〈ゴメンナサイ〉といわなかった者でなく、この行為の下手人と責任者なのだ。それをしないで〈ゴメンナサイ〉といわない者を追求しても、それで〈日本人は責任を果たした〉と考えるのは日本人だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか』とかみついているんだなあ。困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いているんだから。」といって、氏の著作『極限の民族』「秘境日本」の一節を引用しています。
〈・・・とにかくだまされたら命がないのだから、人間は絶対に信用してはいけない。また、たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのだ。100円の皿を割って、もし過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれないからだ。だからサラを割ったアラブはいう─『このサラは今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない』
さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない─『まことにすみません』。ていねいな人は、さらに『私の責任です』などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと『イタリアのサラならもっと丈夫だ』というようなことをいうだろう。
私自身の体験ではせますぎるので、多くに知人、友人または本から、このような『過失に対する反応』の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。『私の責任です』などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどいない。日本とアラビアとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い〉
本多氏は、このように、日本人にすぐ「私の責任です」と謝る習性があることについて、それは世界の主な国においてはまことに特殊なことだと、ずっと前に私自身指摘していると述べた上で、次のような内容の、氏が、「中国の旅」の取材に協力してくれた人たちに対して述べたお礼の言葉を紹介しています。
その要旨は、南京大虐殺が行われていた当時私は幼児だったので、この罪悪に対する直接の責任はない。本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。だから、私自身が皆さんに謝罪しようとは思わない。だが、日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年過ぎた今なお、中国で日本が何をしたかという事実そのものを知らされていない。その事実を日本国民に知らせ、現在進行中の日本における軍国主義の進行を阻止することこそ、真の謝罪になる、というものです。
そして、その終章で「真の犯罪人は天皇なのだ」として、ベンダサンが発した、朝日新聞の「中国の旅」の記者は「これによって『だれ』を告発しているのでしょうか」という問に答える形で、次のような、氏が『月刊社会党』に書いた一文を紹介しています。
〈中国人が何千万人も殺された行為が、どのような構造によってなされたかを、素朴に、原点にさかのぼって考えてみよう。・・・天皇制。すべては天皇に象徴される天皇制軍国主義によってなされた。・・・すべては天皇の名において駆り出され、殺されたり、殺させられたり、あるいは本土でも大空襲や原爆で殺された。・・・ところが、そのわかりきった最大の戦争犯罪人を日本の私たちは平然と今でもそのまま保存している・・・
天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだということは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。少しでも、ましな民族になってほしいと、いたたまれない『愛国』の気持ちで、こんな文章も書いている。・・・
戦後、天皇は人間になったなどといわれたが、『象徴』という奇妙な存在として、結局は天皇制が残された。この曖昧な存在。こういう思想的甘さが、どれだけ残酷な結果をもたらしてきたことだろうか。天皇が断罪されるかどうか。まさにこれこそ日本人がアニミズムから脱却できるかどうかの「象徴」なのだ。・・・このような天皇制について、一切口をぬぐっている者は、中国やアジア諸国に対して「謝罪」の如きを決して口にしてはならない〉
そして、最後に、ベンダサンが、「中国の旅」を「謝罪」だと決めつけたことに対して、あれは、とにかくまず素材としての事実を知ることを第一の目的とするルポであるといい、ベンダサンの視点と自分の視点は「ある限界までは同じ」だが、「基本的には同じ」ではないとして、ベンダサンに対して、その名解釈を期待したいとする次のような問題を出しました。
「『責任者個人』を追求して裁判にかけないのは日本的特徴だと彼は書いているが、またこれには僕自身も大賛成なのだが、それでは、アメリカ人が主体となってやった東京の極東軍事裁判は、どうして天皇を裁判にかけなかったんだろうか。これでは日本人のやり方とアメリカ人のそれと全く一致してしまうじゃないか」と。
こうして、イザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争が開始されたわけですが、ここにおける本多氏の論を見れば、この論争が「日本人の謝罪」論に止まるものではないことは明らかです。しかし、それにしても、この本多氏の公開状に対するベンダサンの返書は驚くほど挑発的なもので、慇懃無礼というほかないものでした。識者の中にはこれを惜しむ意見もありましたが、その後の、ベンダサン自身の「種明かし」によると、これはなんと、氏が「日本教について」で論じてきた、日本人の証言における「鸚鵡的供述」(=オシャベリ機械)を、本多氏を相手に紙上で再現するためであった、というのです。
なにはともあれ、次回以降、その論争の跡をたどってみましょう。ここから「据えもの百人斬り競争」という恐るべき主張が姿を現すことになるのですから。 
10 ベンダサンVS本多勝 / 論争の帰結 

 

本多氏は、「中国の旅」のルポの目的を、日中戦争時における日本軍の中国人に対する残虐行為を、被害者である中国人自身に語ってもらうことによって、日本人にその「素材としての事実」を知らせることにあった、といっています。このことは、それまで、こうした報道が日本人自身の手でなされることがほとんどなかったことを考慮すると、「危険」を冒してでも、こうした「事実」に迫ろうとした本多氏のジャーナリストとしての勇気は評価されるべきだと思います。
一方、ベンダサンは、「日本人の謝罪の不思議」──「ゴメンナサイ」ということによって「責任が解除」され、それによって相手と「二人称の関係」に入りうる、という日本人独特の謝罪観──を指摘する中で、本多氏の『中国の旅』における、特に「競う二人の少尉」について、この両少尉の名を匿名にした(または書かされている)ことは、これは「日本人全部の責任です。ゴメンナサイ」という態度ではないかと指摘したのです。
これに対して本多氏は、両少尉を匿名にしたのは朝日新聞の編集部であって、自分の原稿は実名になっているとして、ベンダサンに前言撤回を迫りました。ベンダサンは、この記事が無署名であればその通りだが、署名した以上「たとえ実情は本多氏の語る通りであっても、署名者がいわゆる内部的実情を口実に第三者に対抗することはできない(もしそれが出来たらあらゆる契約が破棄できます。)」といい、本多氏にはこうした署名という考え方は皆無だ、と反論しました。
ただ、本多氏自身は朝日新聞の「中国の旅」の原稿も氏の著作『中国の旅』も、両少尉の名を実名で書いていましたから、氏に対してはベンダサンの「ゴメンナサイ」の指摘は当たらないと思います。(といっても、ベンダサンは「私が取り上げましたのは『中国の旅』であって本多様ではありません。従ってここに取り上げましたのも、上記の記事(『競う二人の少尉』)と(本多勝一氏の)『公開状』のみであって、本多様個人には私には何の関係もありません」といっていますが。
また、ベンダサンは、日本人がすぐ「私の責任だ」というのは、本多氏のいう「お人好し」とは無関係で、元来は「いさぎよい・いさぎよくない」という、日本教の価値判断から出ていることで、「漱石の卓見はこれを『私の責任・イコール・責任解除』と捕らえたことでした。(誤解なきよう『責任回避ではありません』)」と述べています。そして氏は、これを日本教=人間教における「相互懺悔・相互告解」と解しており、それ故に和解が成立する(従って責任解除となる)わけで、こうした日本の鎖国期(=徳川期)に発達した考え方は、今や「地球に鎖国された」状態に近づきつつある人類にとっても貴重な経験といえる、と述べています。(つまり、こうした考え方を否定しているわけではないのです)
また、ベンダサンが本多氏に対して「個人名を出せ」といっているのは、「それは、その個人を『身代り羊』にして、みなで徹底的に叩いて、それを免罪符のかわりにしろ」といっているわけでもありません。「すべての人間には、釈明の権利がある、ということです。欠席裁判では結局何も明らかにされません。私が特にこの問題を感じましたのは、前記引用の文章(「競う二人の少尉」)に強い疑問を感じざるを得ないためです。」といい、続けて次のように述べています。
「本多様は「とにかく事実そのものを示してみせるのを目的とするルポってものを、彼は知らないんだなあ」と安直に書いておられますが、本多様はこのルポで『中国人はかく語った語った』という事実を示しているのか、また『中国人が語ったことは事実だ』といておられるのか、私には本多様の態度が最後まで不明です。結局その時の都合で、どちらにも逃げられる書き方です。と申しますのは、この物語はおそらく『伝説』だと私は思うからです。事実、恐るべき虐殺に遭遇した人々の中から様々の伝説が生まれたとて、これは少しも不思議なことではありません。むしろ、一つの伝説も生まれなかったらそれこそ不思議でしょう。伝説の中心には『事実の核』があります。しかし伝説自体は事実ではありません。がしかし、それは中国の民衆がいい加減な嘘を言っているという意味ではありません。しかしルポとは元来、この伝説の中から『核』と取り出す仕事であっても、伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい。
以上のように感じましたのは、『約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人』という記述です。この記述ですと軍隊は行軍しているはずで、一時間四キロとすれば、約十キロは百五十分ということになります。百五十分に八十九人を殺したとすれば、一分三十秒に一人ずつ殺したことになります。これは個人ゲームだと記されておりますから、武器は、軍刀か拳銃か三八式歩兵銃だということになります。軍刀と拳銃は問題外ですから、果たして三八式歩兵銃で、しかも行軍しつつ、一分三十秒に一名ずつ射殺することが物理的に可能かどうかです。この小銃にはスパイナーはなく、従って非常に精度が悪く、弾倉に五発入れられるとはいえ単発式で、一発ごとに槓杆を引いてもどし、その上で銃をかまえて照準して発射するはずです。従って私には、行軍しつつ、動き回る敵に対して、約九十秒に一発のわりで、命中弾を発射しうるとは思えません。・・・
そして私の見るところで、本多様も、これが伝説であることを見抜いておられるはずです。もし見抜けないなら、新聞記者もルポライターもつとまりますまい。本多様はそれを見抜きながら、何かの理由で見て見ぬふりをされているのだと思います。とすると本多様が実名を出さないのは、もし出せばその人が前記のように反論するかも知れぬことをおそれてでしょうか。・・・
本多様は『ベンダサン氏は、ちょっと調子にのりすぎて、ルポそのものが『ゴメンナサイ』だと書いちまったわけだ』と書いておられますが、以上のルポそのものが『日本人全部の責任です、ゴメンナサイ』という態度でないと主張されるなら、今からでも遅くありません。『中国の旅』全部にわたって本多様の知っている加害者の名前を明らかにし、かつ本多様が内心これは『伝説』だと思われていることをはっきり『これは伝説に過ぎないことはほぼ明らかだが・・・』とお書き出し下さい。それが出来ないなら、私は、自分の書いたことを撤回いたす必要を感じません。私が書いたのは、まさに、そのことなのですから。」
これに対して本多氏は、ベンダサンが「中国の旅」の「殺人ゲーム」を伝説だといったことに対して、『東京日日新聞』の昭和12年11月30日の記事と12月13日の記事(第一記事と第四記事)、雑誌『丸』の昭和41年11月号に載った鈴木二郎氏の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」からの引用、雑誌『中国』昭和46年12月号に掲載された志々目氏の「日中戦争の追憶─”百人斬り競争”」(「hyakunin.htm」をダウンロード )からの引用の四つの資料を提示し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか、と反論しました。
これに対してベンダサンは、次のようにいっています。
「『中国の旅』の記者に前回記しました「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送りましたところ、反論と共に「事実である」という多くの「証拠」が『諸君』に掲載されました。この中には事件の同時代資料である1937年の新聞記事がありました・・・『中国の旅』の記述とこの「1937年の記事」を、一応前者を「殺人ゲーム」後者を「百人斬り」(見出しが「百人斬り競争」となっていますから)としておきます。この場合、『中国の旅』の記者が1「殺人ゲーム」という「語られた事実」を「事実」と断定して、その「事実」を証明するために「百人斬り」を提出したのか、それとも2「殺人ゲーム」も「百人斬り」も、ともに「語られた事実」にすぎず、この記述にはそれぞれ内部に矛盾があり、また相互に大きな矛盾があるから、これは実に喜ぶべきことであり、そこでこの二つの「語られた事実」を同一平面上に置いて、この矛盾を道標として「事実」に肉薄し、広津氏のいう「ぎりぎりの決着の『推認』までもって行って、もうこれ以上『推認』のしようがないところに到達して、『これで満足しなければならない』というところ」に行こうと言っているのか、それとも3これらの証拠で「ぎりぎり決着の『推断』に行き着いたといっているのか、それを判別しようと何度も読んだのですが結局不明なので、私は「ぎりぎり決着の」ところ1と「推断」せざるを得ませんでした。これは、結局この記者に、以上のように123と分けて考える、というような考え方が皆無なためでしょう。つまりファクタとファクタ=ディクタの峻別という考え方が全くないということです。
しかし、1と考えるとさらに不思議になります。というのは「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションだということになります。すると、どうして1でありうるのか、どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか、──といえば『中国の旅』の記者はなんと反論して来るか。実は一番聞きたかったのはこの反論で、1を主張する以上これが含まれているはずなのですが、それがないのです。
何と想像すべきか理解に苦しみますが、もし今から反論があるとすれば、おそらくそれは「松川事件」を担当した田中最高裁判所長官の「雲の下」論に似た議論を展開してくるはずです。この「雲の下」論というのは、「雲表上に現れた峰にすぎない」ものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・・立証方法としては十分である」、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって「事実」がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない、という議論です。・・・
(これを)「殺人ゲーム」にあてはめれば、百人斬りの「実行行為という事実」が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り」の間の場所・時刻・時間・登場人物数、周囲の状況等の矛盾した点を、非常にクローズアップし、それが否定されると、犯罪事実の存在自体が架空に帰すかのように主張し、そしてこれに引き込まれてさような錯覚に陥ることは正しくないし、同時に、そういう議論の進め方をする人間は正しくない人間であるということになります。
そこで共に「雑音」に耳を貸すな、となるわけですが、この場合も同じで、百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなります。・・・従って1であるとすれば、この記者も「雲の下」論者であるというより「雲の下」論を自明の前提にしていることになりましょう。」
つまり、「殺人ゲーム」も「百人斬り」も百人斬りという犯罪についての「語られた事実」にすぎず、従って、百人斬りの「実行行為という事実」に肉薄するためには、こうした相互に矛盾する「語られた事実」(複数)を分析することによって「ぎりぎり決着の『推断』に到達するほかない。にもかかわらず、本多氏は、ベンダサンの問いかけに対し『これは伝説にすぎないことは、ほぼ明らかだが・・・』などと書き足すような次元の問題ではないとして、その「犯罪事実の存在自体」を、「今更問題にする必要もない歴然たる事実」と結論づけているのです。
ベンダサンは、なぜそうなるかということについて、それは、本多氏には中国への迎合があるからだ。そのため本多氏にとっては「殺人ゲーム」は一種の「踏絵」になってしまう。従って、少々意地の悪い言い方で「あなたは中国に迎合して、フィクションを事実と強弁しているのだろう」といえば、「冗談いうな。事実だから事実だと言っているのだ」といわざるを得なくなる。迎合していなければ、「君は迎合しているではないか」といわれても平然として、「現地の惨状を目前にすれば、意識しなくても多少は迎合する結果になった点もあるだろう」ということが出来、かつ、こう言った瞬間、その人は完全に迎合していなくなる、といっています。
また、ベンダサンは、このように本多氏が証言したからといって、それは「殺人ゲームは事実だ」と彼が証言したわけでもない。また、そう証言しなければ氏が不利な立場に立つとも考えられない。これをフィクションだと証言してならない理由は、氏には全くない。にもかかわらずこうした結果になるのは、日本人は言葉を、相手の政治的立場を判別するための踏絵として差し出すからで、そのために「語られた事実」と「事実」との区別がつかなくなり、結果的に、二少尉の犯行のデッチ上げに加担することになった、ともいっています。
このように、ベンダサンvs本多勝一論争における、ベンダサンの主張の基本的性格は、あくまで『日本人とユダヤ人』の中で取り上げた「日本教」を、「あるユダヤ人(=アメリカの高官)」のために解説・敷衍しようとしたものです。その中で、「日本教」における「言葉の踏絵」、その操作法としての「天秤の論理」、「二人称の世界」における「迎合」という問題を指摘し、その論理を松川事件で検証するとともに、さらに、本多氏との論争を、その「松川事件」の「鸚鵡的供述」を再現するために使った、といっています。
ベンダサンの、このような「殺人ゲーム」や「百人斬り」を共にフィクションと断定する主張と平行して、それを新資料の発掘によって裏付けようとしたのが鈴木明であり、また体験的に裏付けようとしたのが山本七平であったといえます。しかし、本多氏はこうした論証を全く受け入れることなく、その後、百人斬り競争の「実行行為としての事実」を、それを戦闘行為としては否定しつつ、その核となる「事実」について、それを捕虜や非戦闘員を対象とした「据えもの斬り競争」であった、と主張するに至るのです。
そこで次に、「百人斬り競争」における「実行行為としての事実」とは一体いかなるものであったかを、鈴木明や山本七平の論証外その後の研究成果等も合わせて考えてみたいと思います。 
11 ”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結 

 

イザヤ・ベンダサンが「朝日新聞のゴメンナサイ」で、本多勝一氏の「中国の旅」の「殺人ゲーム」について指摘したことは、「日本教」における「謝罪の不思議」ということでした。ベンダサンは、それを人間同士の「相互懺悔・相互告解」と理解し、朝日新聞はこの特集を通じて、中国に対し懺悔・告解することによって相互に和解が成立し、中国と「二人称の関係」に入りうると考えているのではないかと指摘したのです。問題はそのように「私の責任です」と言いまわることで「責任は解除された」と中国が考えるかどうかだと。
また、この記事を契機に始まった本多勝一氏との論争において、ベンダサンは本多氏に対し、「言葉の踏絵」を逆用した誘導術を使って、「殺人ゲーム」は事実だと証言させ、それを証明する数多くの証拠(=信憑性のほとんどない伝聞証拠)を提出させることに成功したといっています。これによって、ベンダサンは、日本教徒がどのようにして「相手に迎合してオシャベリ機械」になってしまうかを紙上で再現し得たとしてこの主題を打ち切っています。また、それに続けて次のような驚くべき見解を述べています。「日本人は世界一謀略に弱い・・・これによって日本人をある方向へ誘導することは、そう難しいことではない・・・とすれば『真珠湾攻撃』の謎も解けるはずです。」と
なお、この時、本多勝一氏が証拠として提出した「百人斬り競争」の新聞記事についても、ベンダサンはフィクションだと断定し、「もしこの一九三七年の記事の記者も、あくまでもこの記事が『事実』だと主張したら、そのときは前回と同様に『調書』の中の非常に類似したものと対比しつつ、一つ一つ論証いたします。」と述べています。この論証については、本エントリーのサブタイトル──ベンダサンのフィクションを見抜く目──で紹介しましたのでご覧下さい。
こうしたイザヤ・ベンダサン独自の主題設定とは全く別の観点から「中国の旅」の「殺人ゲーム」に疑問を持ち、その「事実」解明に立ち向かったのが鈴木明でした。
鈴木明は、「中国の旅」の「殺人ゲーム」の記事について、これを東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事と比較し、次のような感想を述べています。
「今の時点で読めば(東京日日の「百人斬り競争」の新聞記事は)信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。
これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」
では、こうした鈴木明の疑問が、その後どのように解明されていったかを見てみたいと思います、がその前に、まず、ベンダサンが提出した疑問─「『殺人ゲーム』と『百人斬り』は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし『百人斬り』が事実なら『殺人ゲーム』はフィクションだということになります。・・・どう読めばり『百人斬り』が『殺人ゲーム』の証拠となりうるのか」について、その答えを紹介しておきます。
この疑問については、洞富雄氏が指摘していることですが、「中国の旅」で中国人の姜さんが本多勝一氏に語ったという「殺人ゲーム」の話は、「これは当時日本で報道された有名な話」だと姜さん自身が断っているように、当時の東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がもとになっているのです。では、なぜ、この二つの話に、場所、時刻、総時間数、周囲の情景描写、登場人物の違いが生じたのでしょうか。
その理由は、この「殺人ゲーム」のもとになった東京日日新聞の記事は、実際は1937年11月30日の第一報から1937年12月13日の第四報まであり、これが東京で発行されている英字紙『ジャパン・アドバタイザー』に転載されたとき、1937年11月6日の第三報と12月13日の第四報の記事のみが紹介され、第一報及び第二報の記事の紹介が漏れていたのです。これを、当時上海にいたティンパーレー(マンチェスター・ガーディアン特派員、その実国民党中央宣伝部顧問)が『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』の「付録」として掲載したものが、「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この(東日の第一、二報抜きの)話が中国人に知られるようになったのです。
洞氏は、このように「殺人ゲーム」が東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事をもとにしていることを知りつつ、さらに、「百人斬り競争」の二少尉の職務が、大隊副官(野田)と歩兵砲小隊長(向井)であり、この二人が、歩兵小隊長のごとく第一戦に出て戦えるわけがない、と戦闘行為としての「百人斬り」を否定しつつも、実は、この東日の「”百人斬り競争”はやっぱり虐殺だったのだ。野田少尉もまた、百人以上の中国兵を虐殺しながら、恬として「私は何ともない」といってはばからないような精神状態の持ち主に仕立てられていた、若手将校だったのである」と述べています。
それにしても、この二つの話は句容という地名や八九や七八という数字は合っていますが、物語としてはずいぶん異なっています。こうした相違点の分析を通して、どのように「事実」に肉薄するかが、問われていると思うのですが、しかし、洞氏は、「殺人ゲーム」の出所となった「百人斬り競争」の新聞記事の信憑性を自ら否定しながら、「殺人ゲーム」=伝説には向かわず、逆に、「百人斬り競争」を「戦場では不可能であるが・・・捕虜の虐殺なら・・・ありえたと思う」という形で「殺人ゲーム」を「事実」と推断しているのです。
では、この東京日日新聞の「百人斬り競争」に関する第三、四報の記事が、どのような経路を経て「殺人ゲーム」に変化したのかを見てみましょう。
A1 東京日日新聞の「百人斬り競争」第三報(12月6日朝刊)は次のようになっています。
(見出し) 八十九─七十八/百人斬り¢蜷レ戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。
A2 同第四報(12月13日朝刊)は次の通りです。
(見出し) 百人斬り超記録′井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦       (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ、と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
この記事の第三報が、昭和12年12月7日付のジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。(東京高裁判決3資料より転載)
B1「百人斬り競争の両少尉 接戦中
日本軍が完全に南京を占領する前に、どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか、仲良く競争中の句容の片桐部隊、向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。
「朝日新聞」によれば、句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は、向井少尉89人、野田少尉は78人であった。」
次いで、第四報が、1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。
B2「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦
向井敏明少尉と野田厳少尉の、日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった、と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人 、競争相手は105人を斬ったが、どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに、目標を50人増やすことにした。
向井の刀はわずかに刃こぼれしたが、それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で、二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う 、と言った。
土曜日の早朝、日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると、別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが 、砲弾が頭上を飛び過ぎる間、呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は、一発の弾も私には当たりませんよ。"と彼は自信満々に説明した。」
これを、ティンパーレーが『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』に「付録」として掲載しました。(『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明より転載)
C1〔南京”殺人レース”
一九三七年一二月七日「日本新聞(The Japan Advertiser)」という東京にあるアメリカ人経営の英字日刊紙が、次の記事を掲載した。
陸軍少尉、中国人百人斬りレースで接戦す。
句容(Kuyung)にあった片桐部隊の向井敏明少尉と野田毅少尉は、日本軍が完全に南京を占領する前に、刀による単独の戦闘(individual sword combat)でどちらが先に中国人百人を切り倒すかという腕くらべ(friendly contest)でギリギリの終盤戦に言っているが、ほとんど五分五分の競り合いを演じている。彼らの部隊が句容郊外で戦っていた日曜日には、『朝日新聞』(原文のまま)によれば、その”スコア”は向井八十九人、野田七十八人であった。
C2 一九三七年一二月一四日、同紙は次の追加記事を掲載した。
向井少尉と野田少尉とで争われたどちらが先に日本刀で中国人百人を殺すかという競争の勝者は決まっていない、と、『東京日日新聞』が南京郊外紫金山麓から伝えている。向井は百六人を数え、彼のライバルは百五人を片づけたが、二人の競争者はどちらが先に百人の目標を超えたか決められないことがわかった。討論でそれを解決するかわりに、彼らは目標を五十人だけ増やすことにした。
向井の刀身は競技中少し痛んだ。彼はそれを彼が中国人を鉄カブトもろとも一刀両断にした結果である、と説明した。この競技は、”遊び(fun)”だ、と彼は言明した。そして二人とも相手も百人を超しているとは知らずに百人の目標を超えたことはすばらしいことだ、と彼は考えている。「この刀を肩にかついでいれば、一発も当たらない」と彼は自信たっぷりに説明した。〕
このティンパーレーの紹介記事をもとにしたと思われる「殺人ゲーム」では
D 「AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」
となっています。
そこで、このA,B,C,Dの記事を、1表題、2行為の性質、3対象者及び方法、4場所・時間、5結果、の各項目について比較すると次のようになります。
A 1「百人切り競争」 2刀による「私的盟約」に基づく戦闘行為。(第一報では向井少尉は、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたとなっており、個人的戦闘行為か集団的戦闘行為か明確でない) 3中国人兵士 4無錫から南京まで約180キロの間 5第一報では無錫から常州まで向井59、野田25、第二報では丹陽まで向井86、野田65、第三報では句容まで向井89、野田78、第四報では紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったかは不問、ドロンゲームとし、改めて150人を目標とする。
B 1「百人斬り競争」 2刀による個人的戦闘行為。 3白兵戦で中国兵100人を日本刀でどちらが先に斬るかを競う 4句容から紫金山まで約25キロの間 5紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、話し合いで決着するかわり目標を50人増やす。
C 1「南京”殺人レース”」 2刀による単独の戦闘(individudal sword combat) 3中国人(戦闘員か非戦闘員かはっきりしない)100人をどちらが先に斬るかを競う 4句容から紫金山まで約25キロの間 5紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、討論で解決するかわりに目標を50人増やす。
D 1「殺人ゲーム」 2上官がけしかけた個人的殺人ゲーム 3中国人(非戦闘員)  100人を先に殺した方に賞を出そう(武器の指定なし) 4句容から湯山まで約10キロの間 5向井89人、野田78人にとどまった。上官は、湯山から紫金山まで約15キロ間にもう一度100人殺せと命令、結果は、向井106人、野田105人。上官は、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”と命令した。
次に、これらの4つの記事を比較すると、次のようなことが明らかになります。
1 Aの、無錫から南京まで約180キロ間における、戦闘行為としての百人斬り競争の 話が、B、Cでは、句容〜紫金山まで25キロの間における白兵戦での、百人斬りを競う個人的戦闘行為となっている。 ただし、Cでは対象が「中国人」となっており、戦闘員か非戦闘員かの区別が曖昧になっている。Dでは、句容から南京城までの間に、非戦闘員百人をどちらが先に殺すかという殺人ゲームを、3ラウンド繰り返した話になっている。これは、B、C、DがAの第3、4報の記事によっていることの証拠であるとともに、Cは非戦闘員殺害をほのめかし、Dは、事件の残虐性を明確にするため、はっきりと非戦闘員を対象とし、湯山という地名を新たに設けて、殺人競争を3ラウンド繰り返すなど、もとの記事にはない創作が加えられ、ほとんど”伝説”と化している。
2 Aは、第一報の、数をきめて時間を争う方法の非現実性に気づき、第四報で、その矛 盾を隠蔽する答弁を向井にさせている(野田に対して、何時100人に達したか聞かず に、現在までの到達人数を尋ねさせていること。つまり、数を決めて時間を争う競技を、時間(=場所)をきめて数を争う競技であったかのような表現にしている。どちらとも逃げられる表現で、実際の競技ではあり得ない)さらに、そのルールを曖昧にしたまま、改めて150人を目標としている。しかし、これも、プラス50人という意味か、改めて150人という意味わからない。つまり、競技のルールが明確でないということで、虚報であることの決定的な証拠となる。この点、B、C、Dではルールーの自覚は明確で、B、Cでは、うっかり100人を超えてしまい、どちらが先に100人斬ったか話し合いでは決められなかったので、仕方なく目標を50人増やしたとしている。Dは、数を限定して時間を争う競技を、3ラウンドやり直させたことにしている。ジャパン・ アドバタイザーの記者及びティンパーリー、さらに中国人は、この競技のルールをそのように理解し、それが一貫して適用されたとものと理解しているのである。
3 Aは、二少尉による「私的盟約」に基づく戦闘行為としての「百人斬り競争」である。 しかし、徹底的な縦社会であり命令のみで動く軍隊組織では、こうした「私的盟約」に基づく戦闘行為は絶対に許されない。これが、B、Cでは個人的戦闘行為(Iindividual combat)とされている理由であり、Dでは、上官のそそのかし、または命令によったことになっている。これが、Aでは、第一報で、向井少尉が部下と共に敵陣に切り込んだとする記述があり、必ずしも個人的戦闘行為とはいえぬ部分があり、このことは向井少尉が「私的盟約に基づき陛下の兵を動かした」ことになり、そう認定されれば日本軍では「死」以外にない。これが、「百人斬り競争」報道に対する、野田少尉と向井少尉のその後の対応の差になっている、と山本七平は見ている。
4 B、Cは、Aの記述を紹介した記事だから、そのまま、日本刀による「百人斬り競争」 の話になっている。しかし、Bでは、白兵戦での戦闘行為だが、Cでは、相手が戦闘員か非戦闘員かが曖昧になっている。これに対してDでは、平時における非戦闘員の殺人ゲームとなっている。また、「殺人ゲーム」の武器としての刀が明示されていない。非現実的な話ととられることを避けるためであろう。
5 Dでは、競技の勝者に賞を出す話になっている。中国ならではの督戦の方法か。「滅 私奉公」の「天皇の軍隊」には考えられない発想である。日本軍の、いわゆる手柄に対 する報償は、「個人感状」あるいは「勲章」である。
6 Aでは、両少尉は、同一指揮下の歩兵小隊長であるかのような書き方がなされている。野田の場合○官と表示されその職務が故意に隠されている。だが、実際には、野田は大隊副官、向井は歩兵砲小隊長であり、両者とも前線に出て白兵戦を行う職務ではなく、彼らが自らの職務を放擲して「百人斬り競争」を行うことは不可能である。従って、Aでは両少尉の職務を隠した。これは、この記事を書いた記者がそのことを知っていたことの有力な証拠となる。(このことは『週刊新潮』の佐藤証言でも明らか。)B、C、Dは当然のことながら、二少尉を同一指揮系統下の歩兵として扱っている。
7 Aには、「鉄兜もろとも唐竹割」などという非現実的な記述がある。「鉄兜」という言葉は恐らく新聞造語であって軍隊にはない。軍隊では「鉄帽」であって、軍人は「鉄兜」などという言葉は口にしないものである。Dでは、こうした表現はなくなっている。
このようにAの記事の内容をB、C、Dと比較してみると、Aが虚報である故に隠蔽せざるを得なかったと思われる部分が、B、C、Dで必然的に浮かび上がっていることに気づきます。と同時に、戦意高揚のため戦闘中の武勇をたたえるはずの記事が、次第に、非戦闘員の虐殺を目的とした前代未聞の「殺人ゲーム」へと変化していることにも気づかされます。その結果、二少尉が、必死にそうした「残虐行為」はしていないと弁明しても、一切受け入れてもらえず、その新聞記事が「自白」に基づく唯一の証拠とされ、死刑判決が下され、さらに南京大虐殺を象徴する残虐犯人へと祭り上げられていったのです。
こうした虚報のもつ恐るべきメカニズムの解明に立ち上がり、両少尉の等身大の実像を、南京法廷の裁判記録や両少尉の答辨書や手記や遺書等を発掘して明らかにしたのが鈴木明であり、こうした虚報のもつ罠に陥りやすい日本人の「日本教徒」としての弱点を指摘し、それを克服する視点を提供したのがイザヤ・ベンダサンであり、これらの視点を、日本軍の軍隊経験に照らして検証し、両少尉の無実を論証するとともに、「虚報」が日本を滅ぼしたという「事実」を、渾身の力で証明したのが山本七平であったといえます。
では、次に、以上のような論証を一切無視して、Aの記事の「真相」について、それを捕虜や非戦闘員に対する「据えもの百人斬り競争」であったとする「恐るべき」主張について、果たしてそうした主張が成り立つものかどうかを、山本七平の論考等を参考に考えてみたいと思います。 
 
「百人斬り競争」報道の「実像」

 

1
私は、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で、本件に関する高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげていることを指摘しました。
しかし、本稿副題─『週刊新潮』の常識的判断─で、すでに指摘した通り、こうした見解は、今回の裁判で初めて明らかにされたものではなく、35年前に行われた論争における出発点でもあったのです。こうした議論をふまえて山本七平は、昭和47年7月29日の『週刊新潮』の「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」の記事内容について、次のように述べています。
「『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」
つまり、山本七平は、ここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実と信じて収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。
そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということで、このことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いている、と指摘しているのです。
また、ベンダサンは、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で紹介した通り、氏独特の論理分析によって、東京日日の「百人斬り競争」をフィクションと断定し、結論として、「この記事はまず「百人斬り」という俗受けする表題がまず先にあり、その上で、両少尉と浅海記者の三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した」と述べているます。これも繰り返しになりますが、その結論部分を再掲しておきます。
「戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。
もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技(ある時間または地点に到達するまでに何人殺すかを競う競技=筆者)なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。・・・
なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。
しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・」
このように、山本七平もベンダサンも、二少尉がホラを吹いたことは認めた上で、実は、浅海記者もこれがホラであることを承知の上で、これを「百人斬り競争」という主題にあうように、いわば「三者合同」で戦意高揚記事を創作した、と推断しているのです。ただ、ベンダサンの場合は、本多氏との論争を通じて、日本人には「語られた事実」と「事実」を峻別することができないという、当時の氏の連載(「日本教について」)における所論を、紙上で実証することに関心を寄せていて、浅海氏の責任を追及する、というような方向には向かっておりません。
これに対して山本七平は、「百人斬り競争」という虚報が、それが意図的に隠蔽した部分を補うという形で必然的に「殺人ゲーム」に変化していくプロセスを明らかにするとともに、さらにその記事の内容を、鈴木二郎特派員や佐藤振寿特派員の証言ともつき合わせて仔細に分析することによって、特に昭和12年12月10日の両少尉の会見の記述について、それを浅海記者の創作と断定し、これが両少尉の非戦闘員殺害の「自白」と見なされたことが、二人を処刑場に送ることになった、と言っています。
これは相当に思い切った推論で、洞富雄氏が浅海氏を弁護するところともなっているわけですが、この新聞記事が唯一の証拠となって二人が処刑され、今では南京大虐殺を象徴する残虐犯として、両少尉の写真が、その後南京大虐殺記念館の入口に掲示されることにもなったのですから、その無実を確信する限り、この記事の「創作」責任を問う方向に向かわざるを得なかったのだと思います。というより、山本七平は、戦場においてこの二少尉と同様の境遇にあり、また、「戦犯」の怖さを身を以て体験していましたから、両氏の「虚報」による刑死を人ごととは思えなかったのです。
そこで、次に、山本七平の、以上のような結論に至るその論証の過程を詳しく検証してみたいと思います。その上で、「百人斬り競争」の報道内容と、実際の両少尉の動きや会話を、現在までに明らかになっている証拠資料とも突き合わせて、そのより真実に近い「実像」の再現に努めてみたいと思います。 
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この事件の概要については、本エントリー─「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問─で紹介しましたが、ここでは、どうして北京郊外の廬溝橋で偶発的に発生した事件が、華中の上海に飛び火し、それが首都南京の攻略戦に発展したのかについて、もう少し詳しく説明しておきたいと思います。
昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけに始まった日中の紛争は、「通常なら現地交渉ですぐに片づく程度の局地紛争」にすぎませんでしたが、「満州事変にひきつづく日本の華北進出をめぐって、悪化しつつあった日中関係は、すでに局地紛争が連鎖的に全面戦争へエスカレートしていくだけの危機的条件を成熟させて」いました。
「すなわち、『一面抵抗、一面交渉』を標語に日本との衝突を回避しながら、念願の本土統一をほぼ達成した中国は、1936年頃から国共合作を軸とする抗日統一戦線を形成し、これ以上の対日譲歩を許さない姿勢に固まりつつ」あったのです。こうした趨勢を決定づけたものが「西安事件」(1936.12.12)で、これ以降、支那は内戦停止・一致抗日へと結束を固めていきました。
「しかし、日本政府も軍部も、こうした中国ナショナリズムの新しい潮流を認識せず、武力による威嚇か、悪くても一撃を加えるだけで中国は屈服するだろうと楽観し、マスコミも世論も中国を軽侮し続けてきた固定観念から、安易に『暴支鷹懲』を合唱」していました。つまり、”排日・侮日を続ける支那を懲らしめる”といった程度の認識で、「大戦争になるという予想なしに」安易に華北戦線を拡大していったのです。
一方、蒋介石(中国国民政府主席)は、廬溝橋事件勃発後の7月17日、「最後の関頭演説」といわれる次のような演説を行っています。「万一、避けられない最後の関頭に至ったならば、我々は当然ただ犠牲あるだけであり、抗戦あるのみである。我々の態度は戦いに応ずるのであって、戦いを求めるのではない。我々は弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せねばならず、祖先から託された歴史上の責任を負わざるを得ない。」
その蒋介石の日中戦争に臨む戦略は、第一段階が「華北退却戦」、第二段階が「華中への誘引作戦」、第三段階が「奥地引き込み戦略」であったといいます。この作戦通り、蒋介石は、華北戦線ではつねに「決戦を回避して早々に退却する戦術」をとりました。その一方で、「中央軍の主力を上海地区に投入、主戦場を華北から華中に転換」するよう誘引作戦を行いそれに成功しました。(大山中尉事件など)
こうして、8月11日、「張治中の指揮する中央軍三個師団(約三万)に攻撃が下令され、上海市街を守る兵力四千の日本海軍陸戦隊との間に、十三日から上海における本格的戦闘が始ま」りました。一方、「同日、日本政府は海軍の要請を承認して、陸軍へ威力の増援を決定、その後、中国軍の増勢に応じて華北から兵力を抜き、内地からも増援部隊を次々に投入」していきました。
しかしながら、日本政府は、「上海に出兵したものの、拡大への不安から兵力を出し惜しみ、苦戦するとそのつど追加投入して、さらに損害を増すという拙劣な対応を重ね」ました。一方、中国は、1936年からドイツ式の近代装備を持つ師団編成に取り組むと共に、ドイツ軍事顧問団の指導により、上海の非武装地帯にトーチカを備えた網の目のような防御陣地を構築しており、その総兵力は30万に達していました。
そのため、8月23日に応急動員のまま軍艦で上海北方に輸送された第11師団と第3師団は、網の目状に広がるクリークを利用した堅固な防御陣地による中国軍の激しい抵抗に会い、攻撃は停頓し、兵員の損害も急増しました。そこで陸軍中央部は、9月7日に台湾から重藤支隊、10日に内地から第9、第13、第101師団などを送り込み、こうして上海地区の激戦は、10月末まで二ヶ月余にわたってつづいたのです。
そこで、こうした「正面からの力攻めだけでは戦局は打開しないと判断した参謀本部は、華北から一部の兵力を抜いて、11月5日、新たに第十軍(柳川平助中将)を編成、杭州湾北岸に上陸させ、また、16師団を揚子江上流の白茆口に上陸させ、上海派遣軍の危急を救う」とともに、三方向から上海の中国軍を包囲撃滅しようとしました。しかし、それは主戦場を華北から華中に転換するものでしたが、作戦は、あくまで上海地区に限定する方針に変わりはなく、補給計画もそれに応じるものでしかありませんでした。
ところが、「それに先だって、上海方面の戦局も急速に動きはじめて」おり、「10月26日大場鎮陥落後は、中国軍の防御態勢は崩れ落ち」、かつ「第十軍の上陸北上を知ると、側面から包囲されることを恐れた中国統帥部は西方への全面退却を下令」しました。「すでに浮き足だっていた中国軍の逃げ足は速く、日本軍の上海西方地区での包囲殲滅は夢に終わりましたが、それが、陸軍中央部が予定していなかった南京追撃を誘発することに」なったのです。
ところで、この二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものでした。「戦死9,115名、戦傷31、257名、計約4万という数字は、惨烈無比といわれた日露戦争の旅順攻防戦(死傷者6万人)に迫るもの」となりました。「こうした上海戦の惨烈な体験が、生き残り兵士たちの間に強烈な復讐感情を植えつけ、幹部をふくむ人員交代による団結力の低下もあって、のちに南京アトロシティーを誘発する一因となった」と秦郁彦氏は述べています。
そこで、本題に戻りますが、「百人斬り競争」の主役となった向井少尉と野田少尉は、先ほど述べた、華北から上海派遣軍に増援された第16師団(11月13日揚子江南岸の白茆江に上陸)の歩兵第9連隊第3大隊(冨山大隊)に属していて、総退却となった中国軍を追って、11月25日無錫、11月29日常州、12月2日丹陽、12月5日句容、12月11日紫金山へと急追・進撃したのです。
無錫、常州、丹陽、句容間はそれぞれ約40キロで、この間をそれぞれ三日程度で走破していますから、一日10キロ以上進んだことになります。この間、向井少尉は「無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加したが、・・・常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では、冨山大隊長の指揮から離れて、別個に第12中隊長の指揮下に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中負傷して看護班に収容された」と南京軍事法廷で証言しています。
一方、野田少尉は、冨山大隊(定員1,091名)の副官であり、その冨山大隊(歩兵一個小隊、歩兵砲小隊を除く)は、丹陽付近から北方に遠く迂回し、本隊(第16師団)に遅れたため、草場部隊の予備隊となり、本隊に追求すべく急行軍を実施した。従って、常州、丹陽、句容に入ることはなく、これらの地では全く戦闘をしていない(同11月15日付答辨書)と同様に証言しています。
これに対して、東京日日新聞の浅海記者は、11月29日常州発「百人斬り競争」の新聞記事で、「記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。」として、次のような両少尉の会話を記事にし新聞に掲載しています。
「向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。」
つまり、浅海特派員は、常州で、はじめて、両少尉が、「百人斬り競争」をしていることを知ったとして、11月29日発の「百人斬り競争」の第一報を書いているのです。浅海記者はこのことの証人とするため、同僚の佐藤振寿カメラマンを呼び、この取材の様子を写真に撮らせています。この時、佐藤カメラマンは、両少尉に対して、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と質問したといっています。
また、浅海氏は、本多氏の「中国の旅」を契機に、この東日の「百人斬り競争」記事に疑問が投げかけられるようになって後、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52)に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する小論を寄せています。その中で、両少尉との最初の出会いを「無錫の駅前の広場の一角」としていますので、次の野田少尉の「新聞記事の真相」に述べる通り、その発端となった両少尉との出会いは、無錫であったことが明らかとなりました。
おそらく浅海記者は、この話を、先の小論でも弁解している通り、数日間暖めていて(気後れしたのか?)、11月29日に佐藤振寿カメラマンに両少尉の写真を撮らせた段階で、それを、その日に(はじめて)取材したように記事を書き、本社である大阪毎日に送ったのです。大阪毎日はそれを支社である東京日日に転送し、両者それぞれ、その原稿をもとに新聞記事を作成し、それぞれの新聞に掲載したのですが、興味深いことに、その原稿の取り扱いに違いが生じています、がそれは後ほど。
そこで問題は、この「百人斬り競争」の話が、どのような経緯で新聞に掲載されることになったのかということなのですが、「百人斬り競争」報道から何を学ぶか4─野田少尉の弁明そして遺書─で紹介したように、野田少尉は、この間の事情について、昭和22年12が18日の死刑判決後に、「新聞記事ノ真相」と題して次のような手記を残しています。再掲になりますが、全文紹介させていただきます。
被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」
記者 「斬レマスカネ」
向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」
其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ
記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
野田 「ソウデスカ」
記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。
おそらく、この野田少尉の、自らの死を覚悟して後の「被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス」としたこの手記の内容が、「百人斬り競争」報道がなされるに至った事実関係を、最も正確に描出しているのではないかと思います。ここで野田氏は、浅海記者に対して、「右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と告発する姿勢も見せています。
これに対して、向井少尉の浅海記者に対する態度は、浅海氏との共犯関係をより強く想起させるもので、一方で浅海氏をかばう姿勢を見せつつも、他方でその”非情”をうらむ屈折した心情を吐露しています。が、その怒りの矛先は、浅海記者に対してより、むしろ、こうした非道な裁判を行い、無実の自分等を処刑しようとする中国に対して向けられているように思われます。その遺書には次のような言葉がつづられています。
「母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。・・・何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。」
これからわかることは、この「百人斬り競争」報道に対して、向井少尉は、野田少尉よりはるかに強く責任を感じていて、「人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。」と自分がやったことに対する自己弁護を試みています。
また、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とその善意を認めつつ、しかしその一方で、「浅見(ママ)氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。」と述べています。
この一ヶ条(一項)というのは、向井少尉の弟である向井猛氏が、市ヶ谷に拘留中の向井少尉に頼まれて、「今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうのは、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼む外はない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったということを、是非証明してもらってくれ。」といわれ、有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ねて書いてもらった証明書の第一項のことです。そこには、”1 同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。”と書いてありました。
つまり、向井少尉は、この浅海氏の証明書の第一項について、確かに自分がそうした武勇伝を氏に話したことは事実だが、しかし、それが事実でないことは浅海記者自身も知っていることではないか。なのに、この書き方では、”それが事実でない”ということを浅海記者が知っているというその事実を、浅海記者自身が否定していることになる、そう”誤解をすればとれる”書き方ではないか、それは”人情”にもとるではないかといっているのです。
確かに、そうした武勇伝が新聞記事で報じられれば、戦場における手柄話であり故郷の名誉となるし、自分が元気でいることの家族への知らせにもなる。また、婚期を逸して出征した自分の花嫁募集の宣伝にもなる(山本七平氏によると、これは、早く内地に帰って平和な生活をしたいという隠されたメッセージだそうです)。一方、記者は、行軍ばかりでおもしろい記事がなく困っているというから、ホラ話の武勇伝を特ダネとして提供したわけで、それで”飛来する弾雨の中で取材する特派員”としての面目も立ったではないか、というわけです。
こうした、三者合作の申し合わせがあったことを窺わせる記事が、実は、12月1日付大阪毎日新聞(夕刊)に掲載された「百人斬り競争」第一報に残されています。これは、東京日日に掲載された第一報の記事にはないもので、記事の末尾の”僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ”という野田少尉の会話の後に、「記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤らめて照れること照れること」という記述があるのです。
11月30日付東京日日新聞(朝刊)の第一報では、この部分が削除されていますが、さすがにその「不自然さ」が気になったのでしょう。もちろんこの記事の原稿は、浅海氏が先の小論で証言している通り、まず大阪毎日新聞本社に送られ、それからその支社である東京日日新聞に送られているのです。ということはもとの原稿にこの記述があったということです。両少尉との約束を律儀に守ろうとする、浅海記者の”苦心”の跡が見えるようではありませんか。 
3 

 

ここで、浅海一男氏の記す、向井、野田両少尉との出会いそしてその後の経過と、氏が東京日日新聞に書いた「百人斬り競争」の記事との関係について考えてみます。
浅海氏がこの間の事情についてはっきり語ったのは、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52.9初版)に収録された氏の文章「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においてですが、氏が戦後はじめてこの事件についての取材を受けたのは、昭和47年4月(20日を過ぎた頃)のことです。それは、鈴木明が、前回紹介した向井少尉の弟向井猛氏を取材した直後に、『諸君』編集部を通じて電話をかけたのが最初でした。鈴木明は、浅海氏にできればお会いしたい旨告げましたが、浅海氏は「向井、野田両少尉に関しても浅海氏は『どこかの戦場で会ったような気がする』という程度の記憶」しかなく面会を断ったそうです。
それでも鈴木氏は、「当時でも、人間を百人斬るというのは異常なことだったと思うのですが、その信憑性について疑いは持たなかったのでしょうか?」とたずねたところ、浅海氏は「当時どういう風に感じたかについても記憶はありません。唯、責任ある人(将校という意味?)が語ったことだから、そのまま信じて疑わなかったのだろうと思います。あり得ることだと思いました」
「後にこれが問題になるとは想像もされなかった?・・・?」
「戦闘中の話として書きましたから・・・。戦後遺族の方からこういう答弁をしてくれと依頼があり、お気の毒と思って上申書を書きましたが、何しろ本人が言ったことを書いたわけですから、他に証明書の書きようもなかったわけです。その辺のこともよく覚えていません」(中略)
「処刑された二人に対するお考えは?」
「特に亡くなられた方だから、何も言いたくありません──」と答えています。
その後「週刊新潮」昭和47年7月29日号に掲載された「南京百人斬りの”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という見出しの、氏に対するインタビュー記事では次のように答えています。
「(前略)当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ、証人はいたはずだ。また、私の報道が証拠になったかどうか、これも明らかではありませんからね。しかし、私は立派な亡くなり方をなさった死者と、これ以上論争したくないな・・・」
そして、昭和52年の「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」では次のようにいっています。
「連日の強行軍から来る疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る若い日本将校に出会ったのです。・・・筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕野営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄ってきたのでした。『お前たち毎日新聞か』といった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、今は記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、彼ら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズ第一報であったのです。
両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗を掲げて戦場の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやってくるさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。」 また、当時は、多くの将兵が新聞記者に声をかけてきて、かれらの部隊が何県何郡出身だとか、元気に戦っているか知ったら、郷里の人々がどんなに喜んでくれるとか、安心してくれるとか、また、さまざまの武勇のさまを話したことを紹介した後、浅海記者は、自分自身の従軍記者としての身分上の制約と、多くの武勇の話の中から、なぜ「百人斬り競争」を選択したかについて次のように説明しています。
「当時の従軍記者には、これらの(将兵たちの語る)『談話』について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは『陸軍省から認可された』従軍記者だったからです。」もっとも、われわれはこれらの『談話』のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであったことは、前にあげたようなもろもろの『戦果ばなし』がそれ自身かなり現実性をもっていたことと、『陸軍省認可』のわれわれの身分とが規定していたのです。
事実、「『敵』を無造作に『斬る』ということは、激しい戦闘の時はもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。」そして、その実例として、氏が見聞したいくつかの捕虜処刑の様子や、普通の市民を「東洋鬼」に変えていった南京戦の過酷な実情を紹介した後、次のように「百人斬り競争」のその後の経過を述べています。
「このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現れてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の付近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。 そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり緊急を要しない記事は二日、三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」
つまり、浅海氏は、「百人斬り競争」の話は両少尉が浅海記者の取材チームに持ち込んだものであること。その話にはリアリティーがあったから記事にしたこと。しかし、われわれは「陸軍省から認可を受けた」従軍記者であり、また、当時は「敵」を無造作に「斬る」ことは、戦闘中でなくても不道徳な行為とは見なされていなかったので、「百人斬り競争」のような武勇談を戦意高揚記事として書いたこと。また、そうした話に冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だったこと等を述べています。
要するに、浅海記者は「百人斬り競争」の新聞記事の内容は、両少尉の話を記事にしただけで、自分に責任はない。また、それを戦意高揚のための武勇談として新聞記事を書いたことについても、「陸軍省から認可を受けた」従軍記者としてやったことで、自分に責任はない。また、冷静に事実関係を確かめることなくこの記事を書いたことについても、こうした「手柄ばなし」に「冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だった」ので、自分に責任はない、といっているのです。
だが、「両少尉の話を記事にしただけ」という氏の言い分は、その後、鈴木明の調査で両少尉の上申書や手記・遺書が発見されたことにより、三者談合の存在が明らかとなりました。また、山本七平による自らの体験に基づく分析によって、記者は、両少尉が大隊副官と歩兵砲小隊長であることを知っていたのに、「百人斬り競争」を事実らしく見せるため、二人をあたかも第一線の歩兵小隊長であるかのように描いていることが指摘され、さらに、記事は、両少尉に「筋書き通り」に戦果を語らせ、浅海記者がそれを「百人斬り競争」らしく仕立て上げる形で創作されたものであることが解明されました。
また、山本七平は、冷静に事実関係を確かめることなく、国民の戦意高揚のため、不確かな「手柄ばなし」を特電として報じたことについて、新聞記事というのはあくまで事実に基づいて書かれるものであり─それ故にこそ、それが唯一の証拠となって二人の人間が処刑されようとしているのだから─軍に迎合してこのような記事を書いたことについて、浅海記者の新聞記者としての責任を鋭く追及しました。同時に、毎日新聞もこの記事を再調査をすることなく放置したのだから責任は免れない、まずこれを事実と報道したことを取り消し、遺族に賠償してほしいと訴えたのです。 
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では次に、「百人斬り競争」の実像に迫るため、浅海氏の主張する「事実経過」と両少尉の主張する「事実経過」とを突き合わせて見ましょう。
浅海氏は、この「百人斬り競争」の話が両少尉よりもたらされたのは、最初は「無錫の駅前の広場の一角」で、その次は、丹陽をはなれて少し前進したころで一度、その次は、麒麟門の付近で一度か二度、その次は、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度といっています。また、両少尉はあるときは一人で、あるときは二人でやって来、そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていった、と述べています。
これに対して野田少尉は、「新聞記事ノ真相」(参考)で、浅海記者とは(11月26日頃)無錫において向井少尉とともに「笑談」した。その後、冨山大隊(野田少尉はその副官)は丹陽東方から北方に迂回した(この時、向井少尉の歩兵砲小隊と別れた)。従って、常州(注1)、丹陽、句容には入っていない。その後、12月11、12日頃麒麟門東方付近において戦車に乗った浅海記者と出会った。浅海記者は、その時、最後の記事(第四報)を送ったことと、記事は日本国内で評判になっていることを告げた、と述べています。
一方向井少尉は、無錫郊外で野田少尉と共に浅海記者に会って「笑談」した。私は無錫戦が初陣で、常州では戦闘はなく、11月末、(本隊を見失ったために第12中隊の指揮下に入り)丹陽の砲撃戦に加わり、左膝頭部及び右手下膊部を負傷し看護班に収容された。また、句容では戦闘はなく、昭和12年12月中旬頃湯水鎮東方砲兵学校において所属部隊である冨山大隊に復帰した、と述べています。
そこで、新聞記事の方ですが、両少尉は11月25日、無錫入場後「百人斬り競争」を始め、11月29日常州入場まで、向井56人(注2)野田25人、12月2日丹陽まで向井86人野田65人(ここで向井少尉は丹陽城中正門一番乗りを果たす。野田少尉は手首に軽傷を負う)12月5日句容まで向井89人野田78人(両少尉は句容入城にも最前線に立って奮戦)、12月10日紫金山の某所で、両少尉は刃こぼれした日本刀を片手に対面”(野田)おれは105だが貴様は (向井)おれは106だ”。翌12月11日昼紫金山中山陵を見下ろす所で、向井少尉が「百人切りドロンゲーム」の顛末や紫金山残敵あぶり出しの話などを浅海、鈴木記者相手にしたことになっています。
こうした新聞記事における斬殺数の推移は、両少尉と浅海記者が無錫で「笑談」した際、それぞれの日本刀の話から「百人斬り競争」の話が出た後、浅海記者から”競争してみたら”との慫慂をうけ、向井少尉が「小説として」語ったという数字(無錫から常州まで向井40対野田30、丹陽まで60対50、句溶まで90対80、南京まで向井、野田共に100以上)と、記事の後半部分でほぼ一致しています。しかし、野田少尉は丹陽東方で第3大隊本隊が北方に迂回したため丹陽にも句容にも入っておらず(この事実は、東中野修道氏が近著で論証)、また、向井少尉は12月2日、丹陽の砲撃戦で負傷し,12月中旬部隊復帰するまで戦闘に参加しなかった、といっています。(山本七平は向井少尉の部隊復帰の日を10日と見ています)
次に、こうした三人の主張から何が判るか、ということですが、まず、三者の無錫における談合の事実は間違いないと思います。三者にはそれぞれにこの談合に加わる動機がありました(前述の通り。ただし、浅海・向井は積極的、野田は消極的)。しかし、この無錫での三者談合は、常州で写真を撮った佐藤カメラマンには隠され、浅海記者はあたかも常州ではじめて両少尉に会い「百人斬り競争」を知ったようなふりをしてこの記事を書いたのです。なお、記事の発信人は、浅海特派員の他光本特派員、安田特派員となっていますが、光本特派員は大阪毎日本社の特派員で浅海記者と同行していなかったことが判明していますし、安田特派員は無電技師で記事とは関係ありません。つまり浅海氏の取材ティームといっても、実際は浅海記者一人なのです。
また、その後の、第二報における丹陽までの戦闘の描写中、「中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」という記述は先に述べた通り事実に反していますし、「野田少尉も右の手首に軽傷を負ふ」の記述は、あるいは、向井少尉の負傷のことかも知れません。また、向井少尉の「野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、(この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、)野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふ(ワッハッハッハ)」という台詞ですが、それを、向井少尉が、追撃中の行進の隊列の中からニコニコしながら語ったというのですから、「ふざけている」としか思えません。(ここの( )内の会話は、大阪毎日新聞朝刊に載った第二報の記事にあるもので、それが東京日日でカットされたのは、おそらく、そこに「悪ふざけ」を読み取ったためと思われます。それにしても、ここでの向井少尉の台詞が何時のものか、負傷の前か後か、そもそも負傷の事実がなかったのか、それとも記者の創作か、判然としません。)なお、第三報の記事は、句容入城まで向井が89野田が78という筋書き通りの経過を知らせるためだけのものですが、両少尉とも句容に入城しておらず、談話もとれなかったためではないかと推測されます。
最大の問題は、第4報の紫金山における12月10日の両少尉の会見と、12月11日の向井少尉の浅海、鈴木両記者を前にしての怪気炎─”知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ”─ですが、山本七平は、12月11日の会話がなされたことは、その内容から見てほぼ確実だとし、一方、その前日の12月10日の両少尉の会見記事は、イザヤ・ベンダサンが指摘したように、浅海記者が「百人斬り競争」を「時間を争う競技」から「数を争う競技」に切り替えるために行った創作と断定しています。
そして山本七平は、向井少尉が部隊に復帰したのを12月10日湯水鎮と推定し、12月11日部隊本部は紫金山麓の雲谷寺にいたので、両少尉と浅海記者及び鈴木記者との会合は、この紫金山東麓の霊谷寺付近ではないかと推測しています。これについて野田少尉自身は、浅海記者とは11日か12日に麒麟門東方(霊谷寺東方約5キロ)で行き違ったとのみ答え、向井少尉は12月半ばに湯水鎮東方の砲兵学校(霊谷寺東方約15キロ)で部隊復帰したと答えています。しかし、鈴木記者が12月11日に紫金山麓で両少尉に会ったと証言していますので、この紫金山麓というのは大隊本部がいた霊谷寺付近ではないかと見ているのです。(ただし、12月11日の新聞記事の会話には野田少尉は出てきません)
ところで、山本七平は、こうした判断を、東京日日新聞の「百人斬り競争」の2回(第一報と第4報)の記事をもとに行っているのです。しかし、実際には「百人斬り競争」の記事は4回あり、山本七平は「私の中の日本軍」執筆当時は、第二 、第三報の記事の存在を知りませんでした。また、浅海記者の書いた記事原稿は、実は、大阪毎日新聞に掲載されたものがオリジナルで、東京日日新聞に掲載されたものは、東日の編集部の手が加えられていることも知りませんでした。しかし、もし知っていたなら、両少尉は丹陽東方で別れた後別ルートを進み、丹陽にも句容にも入城していないのに、第二、三報では、両少尉がそこで戦闘をしたかのように書かれているのですから、さらに明確に「百人斬り競争」の創作性を指摘できたと思います。
ともあれ、この「百人斬り競争」の記事は、無錫における三者談合に始まり、その後、向井少尉にその筋書き通り「百人斬り競争」の戦果を語らせ、それを浅海記者が「取材」するという形で記事が書かれたものと思われます。その際、浅海記者は、この記事が「創作」であることがばれないよう、向井、野田両少尉を、同一指揮系統下にある歩兵小隊長であるかのように描き、佐藤カメラマンや(あるいは)鈴木記者を引き込んで談合の事実をカムフラージュし、また、記事中両少尉の「談話」を組み込むことで、記事の創作性を隠蔽しようとしたのです。
しかし、丹陽東方で第3大隊にアクシデントが生じて、両少尉は別ルートを進むことになった。また、丹陽の砲撃戦で向井少尉が負傷した。そのため第三報が数あわせのためだけの記事になってしまった。幸い(?)紫金山麓で部隊復帰した向井少尉に会い筋書き通り怪気炎を吐かせ、それを「取材」することができた。だが、野田少尉がいないと話が完結しないので、12月10日の紫金山某所における両少尉の会見記事を創作し付け加えた。おそらく、そんなところではなかろうかと私も思っています。
さて、この場合、浅海記者の言葉「当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたってことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。」(この言葉は、浅海記者が向井少尉に求められて南京軍事法廷に提出した証言内容と同趣旨)には正当性があるでしょうか。山本七平は、次のように言っています。
「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからといって、死が重くなるわけでもないのだから。
しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。たしかに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかもしれぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで『事実』であって、この場合、取材の相手の言ったことを『事実と認定』したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉には反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、『建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ』といっているわけである。それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、『二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない』と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が『二人の語ったことは事実だ』と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。これでは、この処刑は軍事法廷の責任だとはいえない。」
(注1) 常州は、文章の前後の関係から間違いと思われる。
(注2) 東日の第一報では総計56のはずが内訳を合計すると59(55+4)になる。しかし、オリジナルの記事原稿と思われる大阪毎日の第一報では56(52+4)になる。東日の単純ミスと思われる。 
 
「百人斬り競争」裁判、東京高裁の事実認定

 

ここまで「『百人斬り競争』報道の実像に迫る」と題して、山本七平の説を振り返りながら、より真実に近いと思われる事実関係を探ってきました。そこで、以上提示した事実関係と、「百人斬り競争」裁判において、東京高裁が認定した事実関係とを対比して見てみたいと思います。〈 〉で囲んだ部分が判決文(斜体部分が地裁判決文のうち高裁判決で修正された部分)、*部分がそれに対する私のコメントです。
〈(ア) 本件摘示事実について a 原告らは、そもそもいわゆる「百人斬り競争」を報じた本件日日記事自体が、浅海記者ら新聞記者の創作記事であり、虚偽である旨主張する。そこで 、検討するに、本件日日記事は、昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ、南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容 、南京攻略戦における新聞報道の過熱状況、軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると、上記一連の記事は、一般論としては、そもそも国民の戦意高揚のため、その内容に 、虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして、前記認定のとおり、田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば 、冨山大隊は、句容付近までは進軍したものの、句容に入城しなかった可能性もあること、昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は、向井少尉が、百人斬り競争の話が冗談であり 、それが記事になった旨を言明した旨陳述していること、さらには、南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。
しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。
前記認定事実によれば、1 本件日日記事第四報に掲載された写真を撮影した佐藤記者は、本件日日記事の執筆自体には関与していないところ、「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事以来 、当法廷における証言に至るまで、両少尉から直接「百人斬り競争」を始める旨の話を聞いたと一貫して供述しており、この供述は、当時の従軍メモを基に記憶喚起されたものである点にかんがみても 、直ちにその信用性を否定し難いものであること、2 本件日日記事を発信したとされる浅海・鈴木両記者も、極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来、自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ 、本件日日記事については、両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり、本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること 、3 両少尉自身も、その遺書等において、その内容が冗談であったかどうかはともかく、両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって、本件日日記事が掲載された旨述べていることなどに照らすと 、少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。〉
* 問題は、無錫における「三者談合」の存在である。そもそも近代戦において日本刀で「百人斬り」を競うなどということはあり得ず、また、それを事実と信じて記事を書く新聞記者がいるとも思われない(佐藤カメラマンも信じていない)。要するに戦意高揚のための武勇談を「特ダネ」として報じたい、という記者の思惑に、両少尉(特に向井少尉)が乗せられたということなのである。
両少尉は、無錫における戦闘終了後の食後の「笑談」を記者相手にした際、記者に軍人の手柄意識や里心をくすぐられ、新聞に掲載してもらう代わりに「百人斬り」という俗受けする表題の物語に名を貸すことになった。こういう場合、そのディレクター役ができるのは記者以外にはいない。両将校を歩兵小隊長にしたのも、佐藤カメラマンを呼んできて写真を撮らせその写真を使ったのも、最後に鈴木記者を仲間に引き込んだのも、この話を「事実」らしく見せるためのカムフラージュである。その証拠に、両記者とも三人の無錫における「三者談合」の存在を知らず、佐藤カメラマンに至っては、「百人斬り競争」は常州から始まるものと思いこんでいた。
判決は、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。」としているが、しかし、問題は誰が「百人斬り競争」をプロデュースしたかであろう。確かに、「両少尉が 、浅海記者ら新聞記者に(ほら)話をした」ことは事実であろう。しかし、戦場における「ほらやデマ」のもつ意味については、山本七平が「戦場のほら・デマを生み出すもの」(『私の中の日本軍』)で次のように詳細に論じているところであり、従軍記者にそうした実情が判らぬはずはない。浅海記者が「百人斬り競争」の記事を書くに際して「両少尉から取材した事実に粉飾を加え」たことは明白である。
この点、本高裁判決で特に重要な部分は、上記2の判決文「浅海・鈴木両記者が、自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ、本件日日記事については 、両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり、本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること」における下線を付した部分である。高裁は、ここで初めて、浅海記者がいった「真実である」という言葉の意味について、「両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。」としたのである。(本パラグラフ追加10/1)
「苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に半ば意識的に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとするのである。それが軍隊におけるほら・デマ・妄想であって、これは、狂い出さないための安全弁だったといえる。」
「『管理社会』とか『人間を歯車にする』とかいう言葉があるが、これが最も徹底していたのは軍隊であって、その徹底ぶりは戦後社会の比ではない。そしてこれが徹底すればするほど、また現実の苦痛が増大すればするほど、残酷映画やポルノや低俗番組顔負けの、ものすごいほらやデマが飛び始めるのである。──斬り殺した、やり殺した、焼き殺した、人肉を食った、等々々々・・・(そうした)兵士のほらやデマや妄想を、それは現実ではないと言って論破する人間がいたらかえっておかしいのである。しかし一方、そういうほらやデマや妄想を収録して、『これが戦場の現実だ』と主張する人間がいたら、それは『人斬り』動画を現実だと主張することと同じことで、これも少々おかしいと言わねばならない。」
「以上のことは、日本軍に虐殺も強姦も皆無だったという意味ではない。」「毎日の新聞を開けば、強盗殺人、痴情殺人、カッとなったという意味不明の殺人、集団暴行、集団輪姦、強姦殺害、死体寸断等々、こういった記事が載らない日はないと言っても過言ではあるまい。」一昔前なら、そのような事件を起こした人も当然一兵士、一将校であった。「従って、もし歩兵のように警備隊に編成替えされて、さまざまな場所にばらばらに駐屯すれば、多くの事件が起こったと思う。だがそのような事件と、兵士のほらやデマを事実だと強弁することは別である。そしてそのことは、(前記のような)日本の実情を記すということと、低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実だと主張することとは別なのと同じである」
浅海記者のやったことは、戦場における苦痛から逃れるための安全弁としての兵士の「ほら・デマ」を、「ほら・デマ」と知りつつ、それを、あたかも事実であるかのように粉飾して新聞記事を書いたことが明白であるにもかかわらず、戦後それが問題となると、一転して「低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実」と信じたというが如く、「百人斬り競争」を「そのまま事実だと信じた」と主張しているに等しい、と山本七平はいっているのである。
〈また、前記認定事実によれば、昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には、野田少尉から中村碩郎あての手紙のことが記事として取り上げられ、その記事の中で野田少尉が「百人斬り競争」を認めるかのような文章を送ったことが掲載されていること 、野田少尉が昭和13年3月に一時帰国した際に、鹿児島の地方紙や全国紙の鹿児島地方版は、野田少尉を「百人斬り競争」の勇士として取り上げ、「百人斬り競争」を認める旨の野田少尉のコメントが掲載され 、野田少尉自身が鹿児島で講演会も行っていることなどが認められ、少なくとも野田少尉は、本件日日記事の報道後、「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる。〉
* 野田少尉本人は「武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」と思いつつも、結果的に「百人斬り競争」の新聞報道により英雄視され、内地に一時帰郷したときなどに新聞記者の取材を受け、また講演等を依頼されたりした。そういう場合、報道内容を完全否定することは困難であって、「お茶を濁すか」「恥にならぬ程度に話を一般化する」こと位しか出来なかったであろう。野田少尉は、「虚報ならばなぜ訂正しなかったか」と問われ、「善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点である」「反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的には虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」と弁明している。(昭和12年12月15日付け申辨書)
ただし、新聞報道後の向井少尉と野田少尉の態度は逆転している。これは、向井少尉は記事中に自ら口にした「ホラ話」が第一、第二(?)、第四報に収録されており、その内容も砲兵なのに「部下と共に敵陣に斬り込み55名を斬り伏せた」とか、「丹陽中正門一番乗り」をしたとか、「残敵あぶり出し」(=催涙ガスの使用)を漏らすなど、場合によっては軍法会議にかけられてもおかしくない内容を含んでいた。故に「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」というのが向井少尉の正直な気持ちであったと思われる。氏は、この話を話題にされるのを終始いやがったという。
一方、野田少尉の記事中の言葉は「二人とも逃げる奴は斬らないことにしている」とか「おれは105だが貴様は?」程度で、戦闘描写も個人戦闘の話であり、向井少尉よりはるかに気が楽だったと思われる。また、南京軍事法廷では「自分は中国人7名の生命を救ったことがある」(野田少尉最終発言)とも述べており、遺書を見ても「武人としてのいさぎよさ」は十分持っていたようである。そうであるが故に、「百人斬り競争」を「善事の報道」と割り切るところもあったのではないだろうか。もし、そうした報道の裏で、罪もない住民を虐殺するなどの後ろめたい行為をしていたとすれば、そうした疑いを生じさせるパフォーマンスを生徒たちの前でするはずがなく、逆に、野田少尉に「虚報をてらう」気持ちがあったからこそ、そのパフォーマンスが、志々目証言にあるような誤解を生じさせる結果にもなったのだと思う。(こうした野田少尉と向井少尉の対応の違いは、前者が陸士出の職業軍人将校であり、後者が幹部候補生、いわば民間からの臨時雇将校であったことが起因していると山本七平は指摘している。)
〈もっとも、原告らは、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、救護班に収容されて前線を離れ、紫金山の戦闘に参加することができなかったと主張し、南京軍事裁判における両少尉の弁明書面や南京軍事裁判における冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。しかしながら 、前記認定事実によれば、両少尉の弁明書面や冨山大隊長の証明書は、いずれも南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり、この点に関して南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていないこと 、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、離隊しているのであれば、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然その旨の記載があるはずであるにもかかわらず、そのような記載が見当たらないこと 、犬飼総一郎の手記には、向井少尉の負傷の話を聞いた旨の記載がなされているものの、その具体的な内容は定かではないことなどに照らすと、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ 、紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるに足りないというべきである。
また、原告らは、紫金山の攻撃については、歩兵第三十三連隊の地域であり、冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張する。しかしながら、前記認定のとおり、冨山大隊は 、草場旅団を中心とする追撃隊に加わり、先発隊として活動していたのであって、その行軍経路には不明なところがあるものの、第九連隊第一大隊の救援のため、少なくとも紫金山南麓において活動を展開していたと認められ 、紫金山南麓においては、比較的激しい戦闘も行われていたようであって、本件日日記事第四報が「中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉」と報じている点などをとらえて、本件日日記事を虚偽の創作記事であると言うことはできない。〉
* 各種の証言を総合すると、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷したことは事実だが、おそら傷の程度は比較的軽く、救護班で治療を受けた後は部隊に戻り、移動時は馬に乗るなどして部隊と行動を共にできたのではないだろうか。山本七平は、向井少尉が部隊に復帰した日を昭和12年12月10日湯水鎮とし、11日、部隊が霊谷寺(紫金山東方山麓)にあったとき、野田少尉と共に浅海記者及び鈴木記者と会合したのではないかと推測している。また、向井少尉が部隊復帰後紫金山の戦闘にどの程度関わったかについては明らかでないが、第四報の記事から見て、向井少尉は、少なくとも、紫金山の残敵掃討戦で使われた「毒ガス=催涙ガス」を吸引し棒立ちになる経験をしたことは間違いないと見ている。
ところで、ここにおける裁判所の判断は、原告が、両少尉とも紫金山の戦闘に参加しておらず、第四報の記事は全て記者の創作であると主張していることから出てきたものである。しかし、私は、山本七平の解明した実像の方が、より「事実」に近いのではないかと思っている。また、その事実を認めたからといって、原告が特に不利になるとも思わない。
〈さらに、原告らは、向井少尉が、昭和21年から22年ころにかけて、東京裁判法廷において、米国パーキンソン検事から尋問を受け、「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となった旨主張する。しかしながら 、向井少尉の不起訴理由を明示した証拠は何ら提出されておらず、また、パーキンソン検事が向井少尉に対して、「新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。」と述べたことを裏付ける客観的な証拠も何ら存在しないのであって 、その処分内容及び処分理由は不明であるというほかなく、仮に向井少尉が不起訴であったとしても、東京裁判がいわゆるA級戦犯に対する審判を行ったものであることからすると 、A級戦犯に相当しないと見られる向井少尉の行為が、東京裁判で取り上げられなかったからといって、当然に事実無根とされたものとまでは認められないというべきである。 〉
* 東京裁判における向井少尉の不起訴理由は、「百人斬り競争」の証拠としては東京日日新聞の記事があるだけで、その記事が記者の「伝聞」に過ぎないものであることが明白だったからである。確かに浅海記者や鈴木記者は、この件で昭和21年6月15日に東京裁判の検察官の尋問を受け、「記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか」と聞かれ、見てもいないのにいずれも「真実です」と答えている。しかし、浅海記者が検事の請求によって陳述台に立ち、宣誓を終えるや否や、判事の一人が「この証人の陳述は伝聞によるものであるから、当裁判の証人、証拠となり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない」と発言したという。すると裁判長はこの発言を取り上げ、浅海記者は直ちに退廷を命じられた。この間1分にも満たない短時間だった、と浅海記者自身が回想している。(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」その後、向井少尉は即刻不起訴処分となったのであるから、これは裁判上「事実無根」と認定されたということにほかならないと思う。なお、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われた松井石根はB級裁判で死刑判決を受けたのである。 
〈 〉で囲んだ部分が判決文(斜体部分が地裁判決文のうち高裁判決で修正された部分)、*部分がそれに対する私のコメントです。判決文中の記号については「東京高裁判決文」参照。
〈以上によれば、少なくとも、本件日日記事は、両少尉が浅海記者ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載されたものであり、その報道後、野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言を行っていたことも窺われるのであるから 、連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については、虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。
また、原告らは、被告本多において両少尉が捕虜を'惨殺したことの論拠とする志々目彰らの著述内容等が信用できず、本件摘示事実における捕虜斬殺の点が虚偽である旨主張する。
そこで検討するに、前記2(1)ナ(エ)で認定したとおり、志々目彰は、小学校時代に野田少尉の講演を聞き、その中で、野田少尉が、「百人斬り競争」について、そのほとんどが白兵戦ではなく捕虜を斬ったものである旨語ったところを聞いたとして 、野田少尉による「百人斬り」のほとんどが捕虜の斬殺であった旨を月刊誌において述べていることが認められるが、そもそも,志々目彰が野田少尉の話を聞いたというのが小学生時であり 、その後月刊誌にその話を掲載したのが30余年を経過した時点であることに照らすと、果たしてその記憶が正確なのか問題がないわけではない。
また、前記2)ナ(オ)で認定したとおり、志々目彰と同じ小学校で野田少尉の話を聞いたとするBは、百人斬ったという話や捕虜を斬ったという話を聞いたことがない旨陳述しており 、その他、別機会に野田少尉の話を聞いたことがあるとする複数の者から、志々目彰の著述内容を弾劾する陳述内容の書証が複数提出されているところである。
しかし、他方、前記2(1)ナ(オ)で認定したとおり、志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるKも、志々目彰と一緒の機会に、野田少尉から、百人という多人数ではないが 、逃走する捕虜をみせしめ処罰のために斬殺したという話を聞いた旨述べていることも認められ、Aが野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることにかんがみれば 、殊更虚偽を述べたものとも考え難く、少なくとも、当時、野田少尉が、志々目彰やAの在校する小学校において、捕虜を斬ったという話をしたという限度においては、両名の記憶が一致しているといえる。
また、当時野田少尉を教官として同少尉と一緒に従軍していたという望月五三郎は、前記2(1)ナ(コ)のとおり、その著作物において、野田少尉と向井少尉の百人斬り競争がエスカレートして 、奪い合いをしながら農民を斬殺した状況を述べており、その真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しないのである。
これらの点にかんがみると、志々目彰の上記著述内容を一概に虚偽であるということはできない。
なお、被告本多は、「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」においては、本件摘示事実の推論根拠として、昭和12年12月ころ、○(さんずいに栗)水において 、日本軍将校により、14人の中国人男性が見せしめとして処刑された場面に遭遇した旨の襲其甫の話や、日本刀で自ら「捕虜据えもの斬り」を行ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も 、客観的資料に裏付けられているものではなく、その真偽のほどは定かではないというほかないが、自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、これらを直ちに虚偽であるとまではいうことはできない。
さらに、「百人斬り競争」の話の真否に関しては、前記2(1)トで認定したものも含めて、現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は 、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。
以上の諸点に照らすと、本件摘示事実が、一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない。 〉
* ここでいう「本件摘示事実」というのは、「百人斬り競争」の新聞記事そのものではなくて、その記事の素材となった何らかの実行行為(本多勝一氏等はこれを非戦闘員に対する「据えもの斬り競争」とする)を指していると思われるが、しかし、それを証拠立てるものは、望月証言以外すべて伝聞であり、鵜野晋太郎の証言に至っては、ご本人の(看過すべからざる)犯罪事実を告白するものではあっても、向井、野田少尉の行為とは何ら関係のないものである。(志々目証言については先述の通り)
そこで望月証言についてだが、これは、本多氏らの主張する「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」を立証する唯一の史料といえるものである。ただし、これは同時代の記録ではなく、「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」が公然と唱えられるようになって以降、昭和60年に書かれた自家出版の回想記(『私の支那事変』)であり、明らかな間違い(あるいは作り話)も多く、史料というより「読み物」と称すべき代物である。とはいえ、ここにおける「百人斬り」の記述は、望月氏自身が体験した(?)、両少尉による、まさに絵に描いたような支那人(=農民)虐殺競争であり、それだけに、これが原告側に与えた衝撃は相当のものであったろうと思われる。
私は、この史料の「南京攻略作戦」部分しか見ていないので確言はできないが、しかし、その45ページに渡る南京攻略、南京占領に関する記述中、日本兵による残虐行為と思われる叙述は「百人斬り」以外皆無であり(いわゆる「南京大虐殺」はなかったということか)、その主たる著作目的は、下級兵士間の友情・苦労話である。一方、士官学校出の将校に対する不信感は極めて強い。あるいはこうした将校に対する反感が「百人斬り」の記述に反映したかとも推測されるが、その前後の記述とも読み合わせてみると、「百人斬り」の記述がいかにも唐突で、不可解の念を禁じ得ない。
というのは、ここに描かれた二少尉による「百人斬り」の実像は、全く何の罪のない農民を殺すことをゲームのように楽しみ、両者のうちどちらが早く百人を斬るか競争し、それを周囲の兵士も上官も黙認し、あまつさえ、そうした残虐行為を武勇伝に作り変えて新聞で報道・宣伝し、国民の戦意をあおった、とするものである。望月氏はこれを「世界戦争史の中に一大汚点を残したもの」と断罪しているが、もしこれが真実であるとすれば、これはまさに、残虐、無法、無情、卑怯、卑劣極まる残虐行為ということになる。ところが、不思議なことに、この「百人斬り」の章の直前の章の末尾には、これとは全く対照的な良質な日本兵士像が描かれている。
「これだけ厳しい抗日思想をたたき込まれた、支那の子供達が日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか(否定ではなく、肯定の意味=筆者)、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である」。つまり、支那の子供たちは、その清い目で見るので、支那人による厳しい抗日思想教育にもかかわらず、自国支那兵より日本兵の方が質がよいと正確に判断している、と言っているのである。
さらに続けて、現代の師弟教育のあり方について次のような自説を開陳している。
「そこで今私は現在の子弟教育方針に対し、一言意見がある。現日教祖(ママ)の教育方針は文部省を手こずらし、PTAのPを心配させている。日本の子供たちは恵まれた環境に育ってすくすくとのびている。本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通りの国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ、教育勅語の中で“朕”がいけないと云ふ、天皇は“私”といっておられる“義勇奉公”が軍国主義に通ずると云ふ、現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲がった方向に進めさせないでほしい。」
このように、支那兵より日本兵の方が質がよかったと自負する人が、さらに、日本の子弟の教育方針、とりわけ、情操教育のあり方について、教育勅語にある”義勇奉公”を重んじる人が、前述のような卑劣きわまりない両少尉による「百人斬り競争」=「農民虐殺競争」を証言しているのである。
また、さらに不思議なことに、先に述べた望月氏による「百人斬り」の目撃証言に続いて、著者は、辻政信の著書『潜行三千里』(著者は敗戦後戦犯を恐れて逃亡し、その後国民党軍に共産軍に対処する戦略等をアドバイスするなどして支那重臣の庇護を受け、昭和23年5月帰国。昭和25年その間の消息を回想した本書を出版)の一節を引用し、戦後連合軍が両少尉をどう扱ったかを紹介している。
「野田・向井両少佐(少尉の間違い=筆者)が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は、一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不十分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお陰で、どんなに弁明しても採上げられず、ただ新聞と小説を証據として断罪にされた。永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無である(注1)ことは勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石になろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって”天皇陛下万才”を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
◎やれ打つな 蝿が手をする足をする(一茶)」(この俳句は望月氏が付したもの)
注1 『潜行三千里』(s25)では、「罪は絶無である」ではなく「罪は絶無でない」となっている。これは、両少尉に対する嫌疑を否定するための改変であろうか。
これらの記述・引用・改変と、先の両少尉の残虐行為を批判する記述とは矛盾していないか。一体、どちらが著者の真意であるか、不可解というほかないが、全文を見ているわけではないので、ここでは以上の疑問を提示するに止めておく。
そこで、本裁判における東京高裁の結論であるが、それは、「「百人斬り競争」の話の真否に関しては、前記2(1)トで認定したものも含めて、現在に至るまで、肯定 、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。」ということである。また、本件摘示事実(本多勝一氏等の主張した「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」)の主張については、未だ、これを「一見して明白に虚偽である」と認めるまでには至っていない、としている。
実際のところ、本稿で紹介した山本七平やイザヤ・ベンダサンの見解と、今回の裁判における原告の主張には、「百人斬り競争」の新聞記事中、どの程度、両少尉の発言が含まれているかをめぐって食い違いが生じている。また、平成19年1月に出版された東中野修道氏の著書『南京「百人斬り競争」の真実』では、冨山部隊本隊と向井少尉の歩兵砲小隊が丹陽東方で別れて別ルートで南京に向かったとする一方、両少尉が浅海記者と初めての会合をもった場所を常州とするなど、「百人斬り競争」報道を虚報と考える人々の間でも見解が分かれている。
私自身は、山本七平やイザヤ・ベンダサンの論理や分析結果をふまえ、その後発掘された資料や研究成果等も含めて総合的に検討し、「百人斬り競争」新聞記事を、浅海記者をプロデューサーとする向井少尉主演、野田少尉脇役の戦意高揚のための創作記事と見ているわけである。一方、「百人斬り競争」=「据えもの斬り競争」とする見解については、私は、それが成立するためには「日本人残虐民族説」にでも立たない限り不可能だと思っている。それだけに『私の支那事変』における思想的混乱は興味深いし、その史料批判も含めて、あらためて「百人斬り競争」論争が展開されるべきであろうと思っている。 
 
「百人斬り競争」論争

 

思想的課題 
前回述べたように、東京高裁は、「「百人斬り競争」の話の真否に関しては、前記2(1)トで認定したものも含めて、現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており 、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。」 といっています。2(1)トで認定されたものとは次のような見解をさします。
「ト 「百人斬り競争」については、現在に至るまで、その存在に否定的な見解と肯定的な見解とが対立しており、当裁判所に提出された各種書籍や論稿には、以下のものがある。
(ア) 鈴木明は、上記単行本「『南京大虐殺』のまぼろし」において、向井少尉の未亡人である北岡千重子からの手紙をきっかけに、同人のほか、原告千惠子、原告エミコ 、向井少尉の実弟である向井猛、浅海記者、南京軍事裁判所の裁判長であった石美瑜など関係者に対するインタビューや南京軍事裁判の資料を基に、「百人斬り競争」をルポルタージュという形式で検討した。鈴木明は 、「いま僕も、全く同じように、『かりに、この小文が、"銃殺された側"の"一方的な"報告のようにみえても、終戦後の中国で、二人の戦犯がどのように行動し、それを、関係者や遺族がどう受けとめ 、いまどう感じているかを知ることも、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。そして、同じく『百人斬り』を取材しながら、このルポで僕が取材した内容の意識と 、朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき、僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持にならないではいられなかった。」と記載して、被告本多及び被告朝日らの見解を批判している(甲16)。
山本七平は、上記単行本「私の中の日本軍」において、自らの軍隊経験を中心として、「百人斬り競争」について検討し、本件日日記事第四報の取材場所があり得ないこと 、本件日日記事の内容自体が軍の規律に違反するものであること、本件日日記事に使用された用語が軍隊の通常の用語とは異なること、日本刀の殺傷能力から見て、「百人斬り競争」が不可能であることなどを検討し 、本件日日記事が虚報であると断定するとともに、被告本多らの見解を批判している(甲87)。
(イ) 阿羅健一は、昭和62年「聞き書 南京事件」を出版し、その後、同書の一部を「『南京事件』日本人48人の証言」で文庫本化した。阿羅は、同書において、昭和12年12月に南京で何が起こったのかについて 、日本人の生存者から証言を集めており、その中には東京朝日新聞足立和雄記者、佐藤記者、鈴木記者及び浅海記者に対するインタビューが含まれている。阿羅は、その陳述書において 、インタビューをした当時の状況について供述し、佐藤記者の話が信用性のあるものであったこと、鈴木記者自身は真実であると答えているが、本心は虚偽だと思っているのではないかと思われたこと 、浅海記者が最後までインタビューに応じなかったこと、昭和12年当時の浅海記者を知る足立記者から、浅海記者の人柄などを含めた上で、「百人斬り競争」は創作かもしれないとの話を聞かされたこと 、向井少尉の直属の部下であった田中金平から「百人斬り競争」について信用していないことなどの話を聞かされたことなどを理由として、「百人斬り競争」が創作だと確信した旨供述している(甲36、91)。
(ウ) 北村稔は、「『南京事件』の探求」において、南京戦当時の中国当局の国際宣伝と戦時対外戦略について分析し、本件日日記事の「百人斬り競争」については、当初 、斬殺の対象が戦闘中の中国兵士であり、武勇伝として紹介されたものが、ジャパン・アドバタイザーに転載される際の翻訳では「剣による個々の戦闘において」と記載されていたにもかかわらず 、斬殺の対象が「百人の中国人」と記述され、さらに、ティンパレーの著書に収録される際には「殺人競争」という表題が付けられ、いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であるという装いがなされた旨記載している。また 、北村稔は、その論稿及び陳述書において、南京軍事裁判における両少尉の判決書を分析し、本件日日記事にはない捕虜と非戦闘員の殺害が理由としてあげられていること、紫金山麓において「老幼を択ばず逢う人を斬殺」することがあり得ないこと 、本件日日記事がジャパン・アドバタイザーに転載された後、さらにティンパレーによる「日軍暴行紀実」に転載される過程で、あたかも残虐事件の報道記事であるかのように仕立て上げられてしまったこと 、南京軍事裁判が政治裁判であり、本件日日記事を詳しく確認せずに判断されたこと、両少尉の弁護側としても、記事の内容の真偽のみならず、本件日日記事が戦闘中の敵兵を斬り倒す描写であることを争うべきであったにもかかわらず 、そうしなかったことなどを記載し、両少尉に対する死刑判決が事実誤認である旨供述している(甲52、90、143)。
(エ) 中山隆志は、その陳述書において、南京攻略戦当時において日本刀を使用した白兵戦が起きる頻度が低かったこと、南京攻略戦では捕虜取扱いについて明確な方針等が準備されず 、日本軍の中でも対応が分かれていたこと、両少尉が本件日日記事第一報の内容を自ら記者に話すとは考え難く、その内容も軍事上の常識からみれば理解し難いこと、本件日日記事第二報については 、向井少尉の離隊の事実と矛盾すること、本件日日記事第三報については、向井少尉の離隊の事実や冨山大隊主力が句容を攻撃することなく、通ってもいないことと矛盾すること 、本件日日記事第四報については、負傷したはずの向井少尉が隣接部隊の行動地域にいることが疑問であること、南京攻略戦当時の砲兵砲小隊長と大隊副官において、白兵戦に加入するのが真に危急の場合だけであることに加え 、南京攻略戦当時の新聞報道の規制状況などから見て、「百人斬り競争」があり得ない旨述べている(甲89)。
犬飼総一郎は、その論稿において、日本刀で短期間に百人も殺害できないこと、両少尉がいずれも大隊長の側近として、常時大隊本部と同行し、最前線に出ることがないこと 、冨山大隊が無錫駅を発進してから南京城東の正門「中山門」に進出するまでの18日間に戦ったのが8回であること、向井少尉が昭和12年12月2日に負傷し、同月3日には野戦病院に入院していたことなどを指摘し 、「大野日記」や野田少尉の手記、佐藤記者の証言などに基づき、本件日日記事が虚報であると述べている(甲115)。
なお、このほかにも、南京攻略戦に関する論稿に対する批判や本件訴訟に提出された資料の検証、戦争体験などから、本件日日記事や「据えもの百人斬り」を信用できないとする旨の供述がある(甲121、123ないし125、142)。
(オ) 鵜野晋太郎は、上記「ペンの陰謀」に「日本刀怨恨譜」を寄稿し、その中で、中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたこと、鵜野晋太郎自身 、昭和31年に、住民、捕虜等を拷問、殺害したとの罪により中国当局によって禁固13年を言い渡されたことなどを述べ、「百人斬り競争」については、「当時私は幼稚な『天下無敵大和魂武勇伝』を盲信していたので 、百人斬りはすべて『壮烈鬼神も避く肉弾戦』(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合 、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で、立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが 、それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては、進撃途上で比隣部隊から『どうぞ、どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に『戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々』とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵戦で斬ったのか真偽の程はきわめて疑わしくなる。何れにせよ 、こんなにはっきりしていることを『ああでもない、こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中五○年戦争――とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。」と記載している(乙1)。
(カ) 洞富雄は、上記「ペンの陰謀」に「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」を寄稿し、その中で、山本七平、イザヤ・ベンダサン及び鈴木明の見解を批判するとともに 、「それはさておき、山本七平氏のとなえるような、極端な『日本刀欠陥論』はうけいれられないにしても、たとえ捕虜の殺害とはいえ、二本や三本の日本刀で一○○人もの人を斬るなどということが 、はたして物理的に可能かどうか、だれしもがいちおうは疑ってみるのが常識というものであろう。したがって、野田・向井両少尉が、無錫から紫金山まで約半月の戦闘で、どちらも一○○人以上の中国兵を斬った 、と彼らみずから語ったのは、あるいは『大言壮語』のきらいがあるかもしれない。だが、たとえ『百人斬り』は『大言壮語』だったとしても、それは、二人の場合、捕虜の虐殺はまったくやっていないとか 、『殺人競争』は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。」、「極東国際軍事裁判で裁判長は、『百人斬り競争』を日本軍がおかした捕虜虐殺の残虐事件としてとりあげなかった。だが 、このことは向井・野田両少尉を『不起訴』にしたとか、『無罪』にしたとかいうことを意味するものではない。極東国際軍事裁判はA級戦犯を審判した法廷であるから、向井・野田両少尉は 、残虐事件の証人としてこの裁判の法廷に立たされることはあっても、戦犯として裁判されるはずはないのである。しかしながら、極東国際軍事裁判における検察側の処置は、ただちに両少尉を 、中国関係B・C級戦犯の容疑者として、南京の軍事裁判で裁かれる運命からまぬがれさせるよりどころになるものではなかった。」、「私は拙著『南京事件』で、この『百人斬り競争』の話を 、『軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である』若手将校にみられた残虐性の一例として簡単に紹介しておいた(212−3.235−6.244−5ページ)。そこでは 、五味川純平氏ののべているところなどにもふれながら、斬られたものの大半は捕虜である、と考えたのであるが、この見方は今も変わっていない。でも、私はこの二人の将校は 、あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐`性を責めるのではなく、その根源の責任が問われなければならない。」と記載している(乙1)。
また、田中正俊は、「戦中戦後」において、「南京攻略までにいたるいわゆる『百人斬り競争』について、調査官がその事実の信憑性に疑義を唱えたと聞くが、この"事実"は 、当時の"検閲"を経て『東京日日新聞』1937年12月13日(月)に写真入りで報道されており、『百人斬り"超記録"両少尉さらに延長戦』の見出しのもとに、『十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を前に対面した。(中略)両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったか……』という記事を載せている。それぞれが人数を確認して百人以上も殺しておきながら 、刃こぼれしたのは刀のみで、両人とも何の負傷も見せず、写真の中で肩をいからせているところを見ると、控え目に考えても、被害者の殆どすべての人々が非武装者であったのではないか 、というのが、一歴史研究者としての私の客観的史料にもとづく実証的見解であるが、教科書調査官もまた、これらの記事を実証的に"調査"するとともに、これらの新聞紙面に窺われる当時の日本人の日中戦争観が 、いかに傲慢で軽薄で、非人間的であったかについても、知見を広め、かつ深めておくべきであろう。」と記載している(乙2)。」
こうした対立する見解をふまえて、東京高裁は先に紹介した次のような事実認定をしています。
「本件日日記事は、昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ、南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容 、南京攻略戦における新聞報道の過熱状況、軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると、上記一連の記事は、一般論としては、そもそも国民の戦意高揚のため、その内容に 、虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして、前記認定のとおり、田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば 、冨山大隊は、句容付近までは進軍したものの、句容に入城しなかった可能性もあること、昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は、向井少尉が、百人斬り競争の話が冗談であり 、それが記事になった旨を言明した旨陳述していること、さらには、南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。
しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」
つまり、「本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。」とする一方、「両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」という一見矛盾する判定をしているのです。
要するに、東京日日の「百人斬り競争」の記事にある戦闘戦果は甚だ疑わしいが、両少尉が「百人斬り競争」として報道される事に違和感を持たない、何らかの競争をした事実自体を否定する事はできない。故に、東京日日の記事を「全くの虚偽」であると認める事はできない、というのです。
しかし、「百人斬り競争」として報道された内容はあくまで「戦闘行為」であって、「捕虜据えもの斬り」などではありませんし、事実、そうした残虐行為が両少尉によってなされた事を立証する「一次史料」(望月証言は一次史料ではない)はありません。その後の両少尉による「武勇談」も例によって新聞記者の戦意高揚記事です。
こうした東京高裁の判断について、原告側弁護団は平成18年9月6日「最高裁上告受理申立理由書・上告理由書」において、次のように批判しています。
「原判決は、東京日日新聞の「百人斬り」と相手方本多のいう「捕虜据えもの百人斬り」を根拠もなく同じ次元の事実ととらえたうえで、そのような全く異なる二つの事実を渾然一体としてごちゃ混ぜにし、「『両少尉』が〈百人斬り〉と称される殺人競争において捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどして殺害した』」等という訳のわからない事実を新たに作り出した。これは日本刀で百人以上斬り殺すなどという「全くの虚偽」をカモフラージュするため『「据えもの斬り」などして殺害』などという抽象化をあえてしたのである」
こうした東京高裁の論法は、かって、イザヤ・ベンダサンが指摘した「雲の下論」を思い出させてくれます。ベンダサンは、松川事件裁判で田中最高裁長官の主張した論法「『雲表上に現れた峰にすぎない』ものの信憑性が、『かりに』『自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても』『雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である』、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって『事実』がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない」という論法、これを「雲の下論」と名付け次のように解説しています。
この論法は、「語られた事実」を「事実」だと主張して、その「事実」の証拠を他の「語られた事実」に求めるとき必ず出てくる議論であり、本当は、「百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは、百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなる」
つまり、唯一の証拠とされた東京日日の「百人斬り競争」の記事内容は、全ての関係者において事実として否定されているのに、何の証拠もない「捕虜据えもの斬り百人斬り競争」が「犯罪事実の存在自体」=本件事実摘示として認定されているのです。あまつさえ、その証拠として、戦中、中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたと自ら「暴露」した鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」の記述を証拠として取り上げているのですから、全く気が知れません。
鵜野晋太郎は、1956年6月19日中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷において、次のような判決を受けています。
「被告人は日本陸軍の身分をもって日本帝国主義が我が国を侵略した戦争に参加し、しかも、重大な犯罪をおこなった戦争犯罪者である。(鵜野氏自らの手で殺害した人は45人、捕虜収容所長として餓死、病死させて人は55名と認定=筆者)その犯罪行為からすれば、国際法の規範と人道主義の原則を公然とふみにじっており、もともと厳罰に処すべきが当然であるが、しかし、本法廷は各被告人が勾留期間ちゅう悔悟の態度をあらわしている事を考慮に入れ、被告人の犯罪の具合的な情状にしたがい、ここに、・・・被告人にたいし、つぎのとおり判決をくだすものである。 被告人鵜野晋太郎 禁こ十三年に処する。・・・
《個人的感慨としての追記》
・・・敗戦─戦犯─裁判・・・
毛沢東主席は私に「生きなさい」と言った。時に三十五歳であった。禁固十三年。これは驚くべき判決であった。
私が虐殺した遺族の方々の悲痛な泣訴は、永遠に私の耳朶を離れない。「私は家を出る時夢にも敗訴するとは思わなかった・・・この鬼が禁固だなんて・・・私はどの面下げて私以外皆殺しになったあの天宝山麓の家に帰って墓前に報告したらいいのですか?」あふれる涙で泣きじゃくる遺族の姿に、身震いするような自己の罪悪に唯頭を下げ慚愧の涙にむせぶのであった。・・・
思えば私の再生の大恩人は毛主席であり、毛沢東思想のお陰で今生きているともいえよう。今後とも軍国主義の告発を原点としての日中友好に微力を捧げる決意である。」
正直な感想ではあると思いますが、この不当判決に怒り、絶望し、泣きじゃくる被害者遺族の泣訴する声が聞こえるようではありませんか。(南京での「百人斬り競争」裁判では一人の被害者も登場しません。また、両少尉の堂々と無罪を訴える態度に傍聴の民衆も終始静粛であったといいます=筆者)一体、このような鵜野晋太郎氏「個人」の罪がはたして「軍国主義の告発」で贖えるものでしょうか。また、これと同様の考え方は、洞富雄氏もしており、次のように述べています。「私はこの二人の将校は 、あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく、その根源の責任が問われなければならない。」
こうした考え方に異議を唱えたのが、実は山本七平でした。山本七平は『ある異常体験者の偏見』連載中の新井宝雄氏との論争の「あとがき」で次のように述べています。
「『一握りの軍国主義者』などという抽象的存在がこの世にいたのではない。そこにいたのは具体的存在としての個々の人間である。・・・この世に『生まれながらの悪玉』などは存在しないと同様『生まれながらの軍国主義者』などというものは存在しない。ある人間が、ある思想を抱き、その思想に基づいてある判断を下し、その判断の下に一つの発想をして、その発想の下に計画をたて、その計画を実行に移したのである。そしてその人は、そうする事を最善と考えた──ではなぜ最善と考えたのか。彼らの多くは誠心誠意それを実行した。それは残念ながら否定できない事実ではないか。そして誠心誠意やったという事は何ら正当性を保証しないことを、われわれはいやというほど思い知らされたのではなかったか。その人たちがどれほどまじめであったかなどということは無意味である以上に、その人たちを醜悪化し戯画化することも無意味である。・・・その一人一人が、その時点でなにがゆえにある思想・主義を絶対と考え、それに基づく行動を正しいとしたか。それを徹底的に究明せずに、ただ『一握りの軍国主義者』で方づけ、『オレは彼らを声高に非難している。従ってオレは彼らとは関係がない純粋潔白な人間だ』という態度をしてそれですべてを終わりにすれば、かえって何もかも隠蔽してしまうではないか。・・・私が問題にしているのはそうなって行くことの底にある精神構造で」あると。
ここで、向井少尉及び野田少尉の死刑に臨んでの遺言を紹介しておくのも無駄ではないと思います。
向井敏明少尉(三十六歳)の辞世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害する事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思ひ日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸いです。
中国の御奮闘を祈る
日本の関頭を祈る
中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明
野田毅少尉(三十五歳)の遺書(死刑当日昭和23年1月28日)
死刑に臨みて
此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩わしましたる事に就き厚くお礼申し上げます。
只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対お受け出来ません。お断りいたします。死を賜りましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せいたします。
今後は我々を最後として生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。
宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨をはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願いたします。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。
中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
野田毅
他に責任を転嫁する態度の微塵も見られないこと。自らの運命は自ら受け決して他を恨んだりしないいさぎよい態度。その上で、明快に自己の無実を訴え、裁判官に対し冷静かつ公正な裁判を求める両少尉の堂々たる態度に、驚き以上に救いを感じるのは私だけでしょうか。また、野田少尉は昭和22年12月30日(この翌日が死刑執行の日と覚悟していた)の手記に大東亜戦争について次のような反省を語っています。
「つまらぬ戦争は止めよ。曾っての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人全部がそうだったとは言わぬが皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠のある処に人類の幸福がある。・・・」 
裁判から再び論争の場へ 

 

「百人斬り競争」裁判というのは、平成15年4月28日、両少尉の遺族三人(向井少尉の長女エミコ・クーパーさん、次女の向井千恵子さん、野田少尉の妹の野田マサさん)が原告となって東京地裁に提訴したいわゆる「名誉毀損」訴訟でした。
訴状では、『中国の旅』『南京への道』(共に朝日新聞社)『南京大虐殺否定論十三のウソ』(桂書房)にある「百人斬り競争」に関する記述によって、信憑性の乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き、名誉を傷つけられた」として、被告等に対し、謝罪広告、出版差し止め、損害賠償を求めました。
被告は、「百人斬り」を最初(昭和12年)に報道した毎日新聞、昭和46年11月に朝日新聞の「中国の旅」において、それを「殺人ゲーム」として報道した朝日新聞及び本多勝一記者、そしてその後それを捕虜等の「据えもの斬り競争」だったと主張する本多氏らの論考を掲載した本『南京大虐殺否定論十三のウソ』を刊行した柏書房でした。
この裁判で毎日新聞側は、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の記事は1時間の経過で請求権が消滅している 2報道当時二人は記事で英雄視された 3記事は適正に取材し、取材結果を正確に記録した──などと報道内容の信憑性には触れずに名誉毀損には当たらないと主張していました。
また、一方で、「百人斬り」は戦闘中の出来事を報じたもので「悪意を持ち捕虜を虐殺したと、誤って引用したものまで責任を問われる理由はない」として、「二少尉が捕虜らを据えもの斬りにする『百人斬り』競争をしたことは明らかな事実」とする本多氏や朝日新聞の主張とは一線を画していました。
この裁判の第一審である東京地裁判決は平成17年8月23日に出ました。しかし、それは「原告らの請求を棄却する」というもので原告敗訴となりました。
判決理由は、
1 『中国の旅』『南京への道』『南京大虐殺否定論十三のウソ』の百人斬りに関する記述が両少尉の名誉を毀損するものであることについては認めるが、上記三冊の本には遺族の名前が出てこないので遺族らの固有の名誉を毀損したとはいえない。
2 遺族らの死者に対する敬愛追慕の情が侵害されたというためには、記述の重要な部分が一見して明白に虚偽であることを遺族側で立証しなければならない。
3 百人斬りの記事そのものは戦意高揚記事で虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分考えられる。また、南京攻略戦闘の実態、冨山大隊における両少尉の職務上の地位、日本刀の性能、殺傷能力から「百人斬り」を記事の内容通りに実行したかどうかについては疑問の余地がないわけではない。しかし、重要な部分において一見して明白な虚偽とはいえない。よって、遺族らの請求を認めるわけにはいかない、というものでした。
これに対して遺族側は控訴し、平成18年5月24日に東京高裁で控訴審判決が出ました。結果は、東京地裁の一審判決がそのまま支持されましたが、「百人斬り競争」の事実認定に関しては、一審より一歩進んだ判断が示されました。
「南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。」
つまり、一審判決の「百人斬り競争の記事の内容通りに実行したかどうかについては疑問の余地がないわけではない」という表現から、「同記事の『百人斬り』の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」に訂正されたのです。
しかし、東京高裁の結論としては「両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」としました。
つまり、「百人斬り競争」の新聞記事の内容が「全くの虚偽」であることを立証する義務を原告側に課した上で、しかし、提出された証拠書類によると、両少尉は、「百人斬り競争」が新聞報道されることに違和感を持たなかったと認定されるので、その新聞記事の戦闘戦果は甚だ疑わしいが、その話に結びつく「何らかの競争」をした事実自体は否定できない、というのです。つまり、両少尉のいわゆる「自白」(=戦場のホラ)を唯一の証拠としているのです。
しかし、問題は、この「自白」にどれだけの事実が含まれているかということではないでしょうか。浅海記者は、「本人たちのいう通りに書いた、ただし現場を見ていない」といっています。高裁判決では、浅海記者が東京裁判の検事の尋問に答えた「記事は真実です」という言葉について、「両少尉から取材した事実に粉飾を加えていない」という意味に解しています。つまり、「百人斬り競争」の記事内容は全て両少尉が記者に語ったものと認定しているのです。しかし、その一方で、新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。」と認定しているのですから、結局、それは全てホラを吹いた両少尉の責任だ、といっているに等しい。
しかし、ここまで本稿を読んでいただいた皆さんには、浅海記者が「両少尉の話をホラと知りつつ(あるいは両少尉を慫慂してホラ話をさせ)、それをあたかも事実のように粉飾して「百人斬り競争」という戦意高揚記事を創作した」ことは明白だと、納得していただけるのではないでしょうか。
それを決定づけるものが、無錫における両少尉と浅海記者の三者談合の存在です。これが証明されれば、「粉飾を加えていない」という裁判所の判断も覆ります。そして、この事実こそ、イザヤ・ベンダサンが本多氏との論争の時点で指摘したことであり、山本七平が浅海氏を批判した論拠も、実はこの一点に置かれていたのです。
裁判は、最終的には平成18年12月22日、最高裁(第二小法廷(今井功裁判長)判決がでて、遺族側の上告を棄却する決定をし、上述したような二審の東京高裁判決における事実認定が支持され(原告の請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決が含まれる) 朝日新聞社などの勝訴が確定しました。 
しかし、一方で、高裁判決は「百人斬り競争」については、「現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は 、未だ、定まっていない状況にあると考えられる」としています。そこで、この問題を、裁判のテーマから論争のテーマに戻して、「『百人斬り競争』論争の現在」について、秦郁彦氏の論考を中心に考えてみたいと思います。 
虚報の帰結 

 

前回まで「百人斬り競争」裁判について見てきました。その判決理由について私が最も注目する点は、東京高裁が、浅海・鈴木両記者が、「極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来 、自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ、本件日日記事については、両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり、本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨」述べていることについて、それを(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される)としている点です。
つまり、東京高裁は、両記者の記事は「真実である」という主張を、東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事の内容の全ては、両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり、「取材した事実に粉飾を加えていない」という意味に解する一方、「百人斬り競争」の記事内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」としているのですから、結局、両少尉が 、浅海記者ら新聞記者に「ホラ話」をしたことが問題であり、その責任は全て両少尉が負うべきとしている点です。(記者の責任にはほとんど言及していない)
はたしてそうか。向井少尉はその上申書で〈「記者は、『行軍ばかりで、さっぱりおもしろい記事がない。特派員の面目がない』とこぼしていた。たまたま向井が『花嫁の世話をしてくれないか』と冗談を言ったところ、記者は『あなたが天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる』といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は書かれたのである〉と主張しています。
また、野田少尉が「上訴申弁書」に付した「新聞記事ノ真相」と題する一文には、次のような会話が再現されています。(再掲)
「十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
向井 「関ノ孫六デス」
野田 「無名デス」
記者 「斬レマスカネ」
向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」
其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ」
これに対して、浅海記者は、「無錫の広場の一角でM少尉、N少尉と出会った。M、N両将校はわれわれが掲げていた新聞社の社旗を見て向こうから立ち寄ってきた。その談話の中で両少尉が計画している「百人斬り競争」の計画を話してくれた。筆者らが、このコンテストの成績結果をどうしたら知ることができるか質問すると、「どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ」といった。その後両少尉は三、四回れわれのところに現れて彼らのコンテストの経過を告げていった。たしか、丹陽をを離れて少し前進したころで一度、麒麟門付近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けた。両少尉はある時は一人で、ある時は二人でやってきて、そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていった」(『ペンの陰謀』s52.9「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」)と述べています。
このいずれが真実なのか。いうまでもなく東京高裁は後者の言い分を認めているわけですが、私はこれが東京高裁の判決内容の最もおかしな部分だと思います。すでに「百人斬り競争」報道から何を学ぶか8─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で紹介しましたが、イザヤ・ベンダサンはこの新聞記事の論理的矛盾を指摘して、「この事件には『はじめにまず表題があった』のである。『百人斬り』とか『千人斬り』とかいう言葉は、いうまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何者かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその物語にふさわしい物語を創作した」と述べています。
また、山本七平は、問題の焦点は、浅海記者が二少尉の話を「事実として聞いたのか」それとも「フィクションとして聞いたのか」にあるとして、昭和48年4月号の『文藝春秋』「不安が生みだす『和気あいあい』」)で、次のように浅海記者の責任転嫁と逃げを非難しています。
「浅海特派員は、あらゆる手段を使って「百人斬り競争」の『話の内容に適合するように』主人公を創作し(向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官─いずれも「前線」でなく「後方」の職─であることを知っていながら、あたかも前線で白兵戦を演じる歩兵小隊長の如く描いていること─筆者)・・・そう見せるため伏字まで使っている。(第一報における野田少尉の会話「僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ」で副官を○官としていること─筆者)それだけでなく、『表題』が戦場の実情にマッチしないことがわかれば、巧みに記述の内容を転換している。(どちらが先に「百人斬」るかという競争が戦場では不可能だと気づくと、第四報では、この数を決めて時間を争うという競技のルールをあいまいにして、時間を決めて数を争う競技ででもあるかのように巧みに切り替えていること─筆者)これをした以上、・・・「二少尉の話を事実として聞きました」という権利は浅海特派員にはない。フィクションとして聞いたからこうしたはずだ。」だが、氏は「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、・・・全てを二少尉に転嫁して逃げようとしている。」
山本七平は、こうした論拠によって、無錫における三者談合の存在を指摘し、浅海記者は、ここで「百人斬り競争」という俗受けする表題の新聞記事に両少尉の名前を使うことの了解をとったのではないかと推測しています。また、浅海記者はこの「談合」の事実をカムフラージュするため、あたかも、常州ではじめて両少尉を取材して「百人斬り競争」を知ったようなふりをして、佐藤振寿カメラマンを呼び両少尉の写真を撮らせた、つまり、無錫と常州の二度の取材を、常州での一度の取材のようにして第一報の記事を送ったのではないかと推測しています。
その上で、第一報の記事にある野田少尉の談話「野田少尉=僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせる 」について、こういう言い方は軍隊語ではない(「僕」という一人称代名詞は絶対に使わず、あくまで自分の名前を言う。使う場合は「自分」である)ので当初は創作かと思ったが、創作なら意識的に「軍隊語」らしくするはずだし「○官」という危うい部分が入ってくるはずがないので、逆に、この部分だけは「○」を除いて、おそらく野田少尉が向井少尉をからかってふざけて言った言葉ではないかと推測しています。(記者は後で「副官」を「○官」にしたとも)
また、第四報にある「野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ!』」という会話については、「軍隊語」の二人称代名詞は俗説では「貴様」だが、これはあくまでも「兵隊語」であって「将校語」ではない。将校が同階級の将校をいきなり「貴様」と呼ぶのは「親しいものの私的な会話」でも異例である。従って、この言い方は、実際の「将校語」ではなく、むしろ当時世間一般で考えられていた「軍隊語」で、従って、この会話は、記者が、将校の会話らしく見せるために創作したものであろうと言っています。また、このことは、この会話が「百人斬り」という数を決めてその達成時間を争うという競技のルールをあやふやにする模範的会話になっていることでも証明されるとしています。
さらにこの第四報の記事中、浅海記者が本当に本人の談話をメモしたものは12月11日の記事中の向井少尉の長広舌だけだと言っています。というのは「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ」という向井少尉の談話について、ここには戦場の軍人の感情がはっきり出ている、つまり「敵は強かった」という軍人特有の感情がでているので本人の談話に違いないといっています。
しかし、それが余りに陽気でうきうきしすぎているのが少し不可解であったが、彼が丹陽に向かって前進中に12月2日に迫撃砲弾によって足及び右手を負傷したとい言う事実を知ってその疑問も氷解したと次のように述べています。
「戦傷は戦死より恐ろしい・・・特に足の負傷は・・・動けなくなることであり、生きたまま死体になることであった。一応その危機を脱すると次に恐ろしいのが「ガス壊そ」であり、普通、負傷の二日後ぐらいに起こり、恐ろしい高熱と苦悶の打ちに死ぬ。その危機が過ぎると、次に来るものは化膿・敗血症・死という恐怖である。」向井少尉は負傷して、この談話記事ノ直前まで担送されて、そして現地に到着した。彼はこの時点で「負傷」の持つあらゆる恐怖から解放されたところだったのではないか。しかし一方、実戦に参加しなかったひけ目、それを裏返した強がり、もう戦争は終わったという安堵感と同時に「手柄タテズニ死ナリョウカ」という軍歌に象徴された「手柄意識」それを強要してくる「世論」・・・おそらく全く支離滅裂ともとれるあの「談話」もそういう状態なら、あり得て少しも不思議ではない」
このように山本七平は、「百人斬り競争」の記事中両少尉が実際に話したと思われる部分を摘出しようとしたのです。その上で、そのほかの両少尉の指揮系統と職務を隠蔽してあたかも歩兵小隊長による戦闘行為のように記述した部分や「何」を斬ったかがはっきりかかれていない部分は、浅海氏の創作と見たのです。ではなぜその「何」を欠落させたかというと、それは、その「何」=「小銃・手榴弾等で武装した戦闘員」という目的語を挿入すると、日本刀で「小銃・手榴弾等で武装した戦闘員」が守るトーチカや敵陣に突進し、何十人も完全武装の兵士を斬り伏せたということになって、虚報であることがばれてしまうからだと言っています。その上で、次のような虚報のもたらす恐るべき帰結に言及しています。
このような「目的語」を故意に欠落させた記事を中国人が見れば、戦闘行為としてみれば虚報になるが、「戦闘中の行為」と読めば、「戦闘中の」非戦闘員虐殺行為と読める。しかし、この新聞記事は「武勇伝」のはず。武勇伝とは「戦闘行為」においてのみ発生するはずで、「戦闘中の行為」すなわち戦闘行為によって派生した非戦闘員殺害は、武勇伝になるはずがない、とすると、この矛盾を解消する論理はただ一つ。日本人は非常に特異な残虐民族であって戦闘中に派生した非戦闘員殺害も武勇と考え、これをニュースとして大々的に報ずる民族である。こうして、日本人=残虐民族説が成り立つ、と。
こうしてみれば、なぜ、中国のみでなく、日本人である本多氏、洞氏やその支援者たちが、「日本人=残虐民族説」に陥って行ったか、そのメカニズムがわかるような気がします。さらに、なぜ鵜野晋太郎氏のような恐るべき残虐犯(「中国の撫順市戦犯監獄に収容された千余人のうち、大尉以下の八百人中ただ一人重刑となった陸軍情報将校」が存在したことをもって、「百人斬り競争」=「捕虜据えもの斬り競争」の存在証明としたのか、その謎が解けるような気がします。それにしても、東京高裁判決がそのような陥穽に陥っていなければ幸いですが。 
報道は”やらせ” 

 

前回申しましたように、この「百人斬り競争」という新聞報道と、それにつづく二少尉の南京法廷における「俘虜及非戦闘員の屠殺」犯としての処刑という事件は、当時のマスコミによる戦意高揚という「軍部に対するごますり記事」=虚報が生んだ「悲劇」なのです。つまり、一種の「やらせ」報道事件であって、本来なら、「やらせ」をした記者や新聞社の責任が問われて然るべきなのに、この事件では、「やらせ」で武勇伝を語らされた二少尉が、戦後、「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として処刑され、いまもなお「南京大虐殺記念館」にその写真が掲示され、その汚名がすすがれないまま今日に至っているのです。
このことについて東京高裁の「百人斬り競争」裁判の判決は、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」としています。しかし、両少尉が「百人斬り競争」をすると記者に話していたことや、野田少尉が一時帰郷した時に、記者の取材や講演等でそれを認めていたことなどを取り上げ、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、『百人斬り競争』の記事が作成された」としています。つまり、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたこと自体は否定でき」ず、従って、東京日日新聞の「百人斬り競争」の新聞記事を記者の創作であり「全くの虚偽」とは認められない、としているのです。
しかし、その「新聞報道されることに違和感を持たない競争」について、本多勝一氏らが「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害した」と主張していることについて、「いかに戦争中に行われた行為であるとはいえ、両少尉が戦闘行為を超えた残虐な行為を行ったとの印象を与えるものであり、両少尉の社会的評価を低下させる重大な事実」と認定されるものであるともいっています。しかし、それは、「歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由」に関わるものなので、遺族の主張が認められるためには「少なくとも、個人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要する」といっています。
もし、この「百人斬り競争」裁判が刑事裁判であったならば、両少尉の犯罪事実を訴えるものがその挙証責任を負うわけです。しかし、この裁判は両少尉の名誉の回復やその遺族の故人に対する敬愛追慕の情(一種の人格的利益)の侵害を訴えた民事裁判ですから、その挙証責任は原告側が負わなければなりませんでした。つまり、こうした原告の主張が認められるためには、本多記者や朝日新聞の主張する「摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が、全くの虚偽であること」を立証する義務が原告側に課せられたわけです。しかし、それは極めて困難なことで、原告側はこれを立証することができませんでした。
結局、全面敗訴だったわけですが、しかし、これで、両少尉の犯罪事実が立証されたというわけでは全くありません。そうではなくて、判決がいっていることは、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」が、しかし、それが新聞記者の創作による「全くの虚偽」であるということは、未だ立証されていない、といっているに過ぎないのです。つまり、「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、・・・現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあ」り論争は継続中だといっているのです。
私が、本稿を書き始めたのも、この裁判の以上のような結末について、あたかも、本多勝一氏らの主張──「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害したとの事実摘示──が事実として認定されたかのように論評するものがネット上に見られるので、そうではないと指摘するためでした。それと同時に、この裁判における原告側の主張に、今までの論争の経過、特にイザヤ・ベンダサンや山本七平の論証の成果を生かしていないと思われる部分が見受けられたので、それを指摘し今後の論争に生かすべきと思ったのです。
原告の主張のうち、その論証があいまいなため、余計な反証を招いてしまったと思われる部分は次の二点です。
一、原告側は、「百人斬り競争」を報じた東京日日新聞の記事が、浅海記者の創作記事であり、虚偽であると主張したこと。
これについては、前回紹介した通り、山本七平は、「百人斬り競争」の新聞記事の全てが記者の創作であるとはいっておらず、二少尉が語ったと思われる部分と記者による創作と思われる部分を区別しようとしたのです。氏は、まず、無錫における両少尉と浅海記者の三者談合の存在を指摘し、常州では、浅海記者は佐藤振寿カメラマンを呼んで両少尉に「百人斬り」の”やらせ会見”をさせた。その時、佐藤カメラマンは両少尉が副官と歩兵砲小隊長であることを知り、この話を信用しなかったが、浅海記者はこの話を二人の歩兵小隊長の話に作り変え、常州ではじめて二少尉を取材したように装って第一報を送った。従って、この記事中、歩兵小隊長の戦闘行為として記述されている部分は記者による創作、としたのです。
二、原告側は、紫金山攻撃については、歩兵第三十三連帯の地域であり、冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張したこと。
これは第四報の記事内容について述べたものですが、山本七平は、この記事は、昭和12年12月10日における向井、野田両少尉の紫金山某所における会見と、11日の紫金山山麓における向井少尉、鈴木二郎記者及び浅海記者3人の会合の二回あったように書いているが、鈴木二郎記者の証言から判断して、実際にあった会見は、11日の野田少尉を含めた4人の会見だけだとしました。ではなぜこのような記事構成にしたかというと、一報の記事との整合性を図るためである。(「百人斬り競争」という創作記事をここで完結させるため、及びベンダサンの指摘した、「100人斬り」という数を決めて時間を争う競技を、戦場では無理と途中で気がつき、時間を決めて数を争う競争であったかのように粉飾するため)従って、12月10日の紫金山某所における会見談話は(その言葉遣いから見ても)浅海氏の創作としました。また、向井少尉が否定している紫金山における会見とは、この12月10日の会見記事であり、向井少尉は丹陽で負傷したものの12月10日ころ紫金山東麓の霊谷寺あたりで部隊復帰し、12月11日に紫金山山麓の安全地帯で両記者と会見をしたのではないか。というのは、11日の記事中の向井少尉の談話には、敵は強かったという兵士の心理が現れており、また、極秘であるはずの毒ガス(催涙ガス)使用を口走っていることなどから見て事実と推論しているのです。また、11日の会見に鈴木二郎記者が参加していることについて、これは、第一報における佐藤振寿カメラマンの場合と同じく、三者談合の事実を知らない鈴木記者の前で、両少尉に「百人斬り競争」の”やらせ”会見をさせた、ものと見ているのです。
以上、山本七平がこのように推断した時点では、氏は東日の「百人斬り競争」の第1報と第4報の記事だけしか知らず。その間に第2報と第3報があったことを知りませんでした。(本多勝一氏が提示した記事がこの二つだったため)また、東日の「百人斬り競争」の記事はその本社である大阪毎日新聞にも掲載されており、浅海記者の書いたオリジナル原稿はおそらく大阪毎日の「百人斬り競争」の記事であることも知りませんでした。従って、さらに、この第2、3報の記事及び大阪毎日の記事を加えて分析してみれば、この「百人斬り競争」の新聞記事が両少尉の主張する通り、三者談合にもとづく創作であることがさらに明らかになってくるのです。
次回は、こうした点、(すでに指摘したことも含めて)にも論究しつつ、さらに、では、なぜ両少尉がこうした浅海記者による危険な記事の創作に加担させられていったかについて、山本七平の説く当時の日本軍兵士の置かれた過酷な状況や、その中における兵士の心理分析などを紹介しつつ、論争として「百人斬り競争」の真否に迫ってみたいと思います。 
論争の真の争点 

 

前回の末尾で「さらに、論争としての『百人斬り競争』の真否に迫ってみたい」と申しました。東京高裁判決文では「『百人斬り競争』の話の真否」となっており、その「真否に関しては、現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」と述べられています。
しかし、よく考えてみると、その真否を問うべき「『百人斬り競争』の話」とは、そもそもどういう「話」なのでしょうか。裁判における議論を聞いていると、あたかも両少尉が、捕虜及び非戦闘員である中国人を一人でも二人でも斬ったことがあるかどうかが争われているかのような印象を受けますが、実はそんなことは、この「話」の争点ではないのです。その真の争点とは、両少尉がそれによって南京法廷において死刑判決を受けたその訴因、そこで認定された「事実」の真否が問われているのです。
南京軍事法廷の判決文は次のようにいっています。
「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は・・・當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。(中略) (また)既決犯谷壽夫の確定せる判決(昭和22年3月10日死刑判決4月27日銃殺=筆者)に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り・・・之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。・・・以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。」
要するに、向井、野田両少尉は南京戦で捕虜及び非戦闘員の屠殺競争を娯楽として行い、野田は合計105名、向井は106名を斬殺した事実は、「東京日日新聞」の記事によって明らかである。また、この殺人競争は、谷寿夫裁判の確定判決文にもある通り、19万人に上る中国人俘虜軍民の集団的殺戮の一部として行われたものである。また、両少尉は、この罪責をごまかすため「東京日日新聞」の記事はほら話を記載したものであり、それは日本女性の人気を博して良縁を得るためだったと弁明した。しかし、日本軍はこの作戦期間中新聞の検閲を行っており、特に「東京日日新聞」は日本の代表的な新聞であり、もし、その殺人競争がなかったとすれば、その貴重な紙面を割いて被告の宣伝をするはずがなく、従って、その記載内容は「伝聞」ではなく確実の証拠となる、といっているのです。
つまり、こうした恐るべき事実認定が、「東京日日新聞」に記載された「百人斬り競争」の記事を唯一の証拠としてなされ、その結果、両少尉に死刑判決が下されたということ。その新聞記事は、日本人の新聞記者が日本の一流新聞に書いたものであるがゆえに、単なる「伝聞」とは見なされず、十分にその判決の基礎となるべき証拠とされたということ。では、なぜ、元来は単なる戦意高揚のため武勇を伝えるはずのこの記事が、このような恐るべき判決をもたらしたのか、こうした問に答えることにこそ、「百人斬り競争」という「話」のその真否を問う意味があるのです。
『「南京大虐殺」のまぼろし』の著者鈴木明は、その続編『新「南京大虐殺」のまぼろし』のなかで、「『百人斬り』の向井、野田両少尉を、僕はなぜ無罪だと信じるのか」について、両少尉の死刑判決後、裁判長石美瑜に提出された「上訴申辨書」が崔培均という中国人弁護士によって書かれたことを最大の理由としています。その「上訴申辨書」には、判決は「東京日日新聞」の記事だけを証拠としていること。中国の最高法院判例でも、犯罪事実は必ず積極証拠によって認定されなければならず、新聞記事は証拠にできない等が主張されています。つまり、この法廷には、「向井、野田両名が実際に中国人を斬っている場面を証言した人間は、軍人、一般市民を問わず、誰一人いなかった」のであり、「積極証拠」は何一つ提出されなかったのです。
従って、これを刑事裁判としてみれば、東京裁判の予備審理で向井少尉が不起訴となったように、伝聞証拠だけで両少尉を有罪にすることはできませんから、この南京法廷における判決が不当であることは言うまでもありません。では、なぜこのような無茶な判決が出されたのかというと、これはこの判決文を見れば明らかなように、戦後の東京裁判において、中国が南京事件を「南京大虐殺」として立証しようとした際、他に有用な「積極証拠」が得られなかったために、「百人斬り競争」の新聞記事が、その大虐殺の一部を「自白」する格好の証拠として利用されてしまった、おそらくこれが、事の真相ではないかと思います。
もちろん、いわゆる「南京事件」においてどれだけの不当殺害がなされたか、ということについては、南京大虐殺論争が開始されて以降、調査研究が深められており、偕行社の『南京戦史』でも、不当殺害と認定されるべき事実が相当数あったことを認めています。しかし、その内容と、東京裁判における中国側証人の供述内容とは、今日までの研究成果に照らしてもその懸隔甚だしく、政治謀略的要素が濃厚であり、実は、こうした傾向の一端が、この南京法廷における「百人斬り競争」裁判にはからずも露呈した、と見ることができると思います。
こうした推測を裏付けるものは、この事件に関する「東京裁判記録」にも残されており、その代表的なものは、「南京地方法院主席検察官」のいう肩書きの陳光虞と署名のある「宣誓供述書」で、その前文に次のようにある、と鈴木明が指摘しています。この「南京地方法院」では、1945年11月7日所定の文書を印刷して一般の市民に告知し、南京市民がどのように日本軍に暴行を受けたか、そのアンケート調査を南京中央調査統計局ほか14の部門を総動員して実施しました。ところが、その宣誓供述書の冒頭には、
「この間、敵側の欺瞞、妨害等激烈にして、民心消沈し、進んで自発的に殺人の罪を申告する者、甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際においても、冬の蝉の如く口をつぐみて語らざる者、あるいは事実を否認する者、あるいはまた、自己の対面をはばかりて告知せざる者、他所に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり」で、調査には異常な困難があった、という文章が記されているのです。「本来なら敵国日本が無条件敗北をし、市民は驚喜して、進んで「調査」に協力すると思うのが常識」であるはずなのに。*カナ文をかな文に漢字は常用漢字にしました。
また、こうした中国の政治謀略活動については、北村徹氏が次のような指摘をしています。
「曾虚白『自伝』は、国際宣伝処(日中戦争時の国民党の宣伝工作機関=筆者)の成立から説き起こし、日本軍の南京占領直後の状況を次のようにいう。『我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたづさわる将志たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事跡であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じがたいほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項として敵の暴行(の事例)を探し求めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた』。曾虚白は、日本軍の南京攻略時に東京日日新聞が伝えた『百人斬り競争』の報道と、日本軍は『怒濤のごとく南京場内に殺到した』という読売新聞の掲げた見出しに飛びついた。」
「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をを出すべきでなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。(中略)この後ティンパーリーはその通りにやり、(中略)二つの書物は売れ行きの良い書物となり宣伝の目的を達した。」
ここに出てくるスマイスとは、昭和12年12月13日南京陥落後、安全地帯(市民の非難地帯)で発生した事件の記録「市民重大被害報告」をもとに「安全地帯記録輯」をまとめた人物で、ティンパーリーの書いた『戦争とは何か』にはその全件数の45%が付録として掲載されています。そして、その本の付録の一つに、『ジャパン・アドバタイザー』に転載された東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がありました。(その転載記事は、オリジナル記事とは微妙に異なり、相手は兵士ではなく中国人となり、また、この競技は、”遊び(fun)”だ、とされていた)そして、その記事が「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この話が中国人に知られるようになったとされますが、実は、この背後には国民党国際宣伝処が控えていたのです。
この間の事情、武勇談のはずの記事が、なぜ、殺人競争を行ったと告発されることになったか、そのプロセスについては「”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結」で詳説しましたのでここでは繰り返しませんが、要するにこの記事が「虚報」であったことがその第一の原因なのです。
山本七平は、次のように言っています。
「虚報の実態は、消した部分が明らかになったくればくるだけ、はっきり姿を現してくるのである。では(「百人斬り競争」の新聞記事において記者は)何を消したか、系統的指揮権と職務と兵器が消された。野田副官の直属上官である大隊長と向井歩兵砲小隊長の直属上官である歩兵砲中隊長が消され(実際は大隊本部に直属=筆者)、ついで本人の職務、すなわち副官と歩兵砲小隊長が消され、次いで兵器、すなわち歩兵砲が消された。・・・軍隊とは系統的指揮権と職務と兵器で成り立つもので、この一つがかけても成り立たない。」
「そうしておいて二人をあくまでも軍人として描く。するとこの虚報の受け手は無意識のうちにそれを補ってしまう。・・・すなわち、二人を・・・あくまでも第一線の歩兵小隊長という印象を与えるように書く。当時の日本人の通念では、歩兵小隊長とは、着剣して六歩間隔に展開した散兵の先頭に立ち・・・日本刀を振りかざして敵陣に突入するものであった。そしてそう思わせる描写に誘導されると、この架空の二小隊長の直属上官すなわち中隊長までが、ごく自然に創作されてしまう。これが本多版『百人斬り』に登場する上官である。いわば「上官」のいない軍人は、天皇以外にはありえないから創作されてしまうわけである。こうなると『百人斬り』はまさに『虚報作成の原則』の通り」である。
「従って『百人斬り』も・・・発表部分の一部は非常に正確である。そして消した部分は永久にわからない。否、わからないであろうと、本多氏も浅海氏もたかをくくっている。・・・(私は)日本を破滅させたのは虚報」だと思っているが、『私はこれを『国民をだました』という点で問題にしているのではない。虚報の恐ろしい点は、内部の人間に幻影を与えてめくら以下にしてしまうだけではない。・・・内部の人間がそのようになるのに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。」
「前にも言った通り、その者のもっている情報の総量を知っている者には、そのうちのどれを発表し、どれを隠したは一目瞭然である。そうなると、この発表された部分と隠した部分を対比さえすれば、相手の意図、目的、実情、希望的観測、潜在的願望といったものが、手にとるようにわかるのである。」
「日本の陸海軍の首脳は、今でも、自分で何かをしたつもりでいるかも知れないが、実は潜在的願望も秘匿した企図もすべて見抜かれ、その希望的観測を巧みに誘導されて、真珠湾から終戦まで、文字通り鼻面をつかんで引きずまわされていたのであろう、と私は思っている。・・・」
「国内向けの虚報が国外に出て行き、それがはねかえってきて恐るべき惨劇を起こしたというこの図式は、この点でもまた、そのまま『百人斬り』にもあてはまる。」「(このような)『頓馬なセンセーショナリズム』のみの記事は、これでもかこれでもかと、洪水のように紙面にあふれ、私などを『嫌悪症』に陥れるほどひどかった。ある意味でこの記事は九牛の一毛にすぎない。従って浅海特派員自身が、自分の記事が『戦犯』の証拠として出現しようなどとは、全く夢想だにできず、誰かが予言しても信じなかったであろう。」
「この記事が再び事実として報道され、だれ一人疑わぬ事実として通ることは、外形は変わり表現は変わっても、国民全体の心理状態は昭和十二年当時と非常に似ている証拠かも知れない。・・・今の何らかの新聞記事を証拠に、まただれかが絞首台にひかれて行っても、いま傲然とすべてを蔑視している人やグループが、あき缶をぶら下げて一列に並び、ひしゃくでつがれる水のようなカユをそれに受けてすすっていても、私は少しも驚かないし、悲しまないし、絶望もしない──私がそれらの一員であろうとなかろうと。虚報の描出する幻影のみを見ていれば、それが起こる方が当然なのかも知れない。それはかって起こった。従って当然将来も起こりうるし、起こって少しも不思議ではない。」 
論争の現在 

 

ここまで、wikipedia の山本七平評──「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2〜3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した」というもの──の紹介からはじめて、山本七平が「百人斬り競争」論争においてどのような主張をしたのかを見てきました。この間、私は「日本刀」に関する山本七平の議論には全く触れませんでしたが、それは、この議論が本論に対していわば傍論に過ぎず、あえて論じる必要を感じなかったからです。
また、この「百人斬り競争」論争は、ついに裁判でも争われることになり、これは昨年末に最高裁が東京高裁の判決を支持して結審しましたが、私は、その事実認定に疑問を持ちました。というのは、東京高裁判決は「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」として、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできない」と認定しているからです。
つまり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことの原因を、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことにのみ求めている。さらに、東京裁判の検事が浅海記者に記事の信憑性を訪ねたのに対し、記者が「真実です」と答えたことについて、それを、「両少尉の言葉に粉飾を加えていない」という意味に解し、それをそのまま受け入れている。結局、ホラを吹いた両少尉の責任であり、それを「見たまま聞いたまま」記事にした新聞記者には責任はないといっているに等しいのです。
実は、こうした見方に最初に疑問を投げかけたのが山本七平でした。山本七平は、『週刊新潮』の記事「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」について次のようにいっています。
「『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」
つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。「浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なることを、浅海記特派員は知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかと。」
しかし、そうはいっても、以上のような東京高裁の判断は、こうした山本七平の見解も検討した上で下されたはずです。しかし、そうならば、それを覆すだけの、「記者が、両少尉の言葉に粉飾を加えていない」ことを立証する確たる証拠が示される必要がありますが、それは皆無です。というより、そうした観点からの議論を回避しているとしか思えません。あるいは、それが「その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」という判断につながっているのかも知れませんが・・・。いずれにしても、これが、残された論争におけるの第一の争点だと思います。
次に問題となるのが、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたという事実自体は否定することができない」という裁判所の判断です。しかし、これは必然的に、「両少尉が捕虜や非戦闘員を(一人でも二人でも)殺したことがあるか否か」を問うこととなり、もともとの「百人斬り競争」報道をめぐる論争の真の争点──この新聞記事を唯一の証拠として「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として両少尉が処刑された!──からずれてしまいます。従って、この点に十分注意した上で、ではなぜ両少尉は記者にそうした話をしたのかが問題となります。裁判所のいうように、「新聞報道されることに違和感を持たない競争をした」事実が背後にあったからか、それとも、両少尉のいうように単なるホラ話か、これが第二の争点です。
以上のように、「百人斬り競争」論争の争点を整理した上で、「『百人斬り競争』論争の現在」について、秦郁彦氏やトロント大学のボブ・ワカバヤシ氏の所論等を紹介しながら、私見を申し述べたいと思います。が、その前に、洞富雄氏が、これまでに紹介したイザヤ・ベンダサンや山本七平の見解に対して、逐一詳細な反論を行っていますので、それを概略見ておきます。ネット上では、こうした反論をもって、山本七平や鈴木明の主張が完全に論破されたと見なす向きもあるようですが、本論の冒頭に紹介したwikipediaの山本七平評に見るごとく、見当外れのものが多いようです。
では、洞富雄氏の山本七平に対する反論を「”南京大虐殺”はまぼろしか」(『ペンの陰謀』1977.9.25所収)に見てみたいと思います。ただ、こうした洞氏の反論に対しては山本七平も鈴木明もほとんど何も答えていません。実際のところ、氏の反論は、あまり生産的なとはいえないものが多いですから、そうしたのだろうと思いますが、それが誤解を招いている部分もあると思いますし、一方、肯首すべき論点がないわけでもありませんから、今後の論争の発展のためにも、ここで概略紹介し、あわせて、それに対する私見を申し添えておきたいと思います。
論点1〈職務が隠された真相〉
(山本)真実は、浅海記者は、両少尉の話をホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、二少尉の職務(向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であり指揮系統も職務も全く異なる)を隠し、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないか。
(洞)野田少尉を「○官」として登場させてしまったのは、「百人斬り」が正当な戦闘行為ではなかったこと、(つまり、「捕虜の据えもの斬り」だったということ)を最初から知っていたからではないか。だが、真正面からそうとは書けぬので、向井少尉の職務の方は曖昧にしてしまったのであろう。
論点2〈浅海記者の証言は偽証か〉
向井少尉の実弟向井猛氏が、向井少尉にたのまれて、「あの記事は本当ではなかったんだということ」を書いてもらおうとしたが、浅海氏は、1同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません、等と書いて、「百人斬り競争」の新聞記事が創作記事であることを認めなかったことについて。
(山本)「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからと入って、死が重くなるわけでもないのだから。
しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。たしかに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかもしれぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで『事実』であって、この場合、取材の相手の言ったことを『事実と認定』したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉には反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、『建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ』といっているわけである。それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、『二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない』と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が『二人の語ったことは事実だ』と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。
(洞)この山本の主張は浅海氏の人格を抹殺するようなものである。向井・野田少尉を救うために、「百人斬り」は実は虚報だったと、なぜ偽証してくれなかったのだ、と浅海氏の非情をとがめるのならまだしもだが、浅海氏の証言は「”『百人斬り』は事実だから、早く処刑しなさい”といっているに等しい」といっているのは曲解というものだ。だいいち、十分な根拠もなしに、どうして人に向かって”お前は人殺しだ”などといえるのだろう。
論点3〈なぜ、二少尉は「新聞記事」を了解したか〉
(山本)「虚報作成」の談合は、まず浅海特派員と向井少尉の間で成立したはずである。その談合が終わった後か途中かで、野田少尉が、向井少尉の相手役もしくは引立て役として参加を求められた。これは軍隊でいう『オダアゲ』=『報告の義務なき私的放談』の一種で、野田少尉は気楽に加わったものと思う。ではなぜ向井少尉は、そんなホラ話が新聞記事になることに同意したのか。1向井少尉は「幹候将校」(陸士での本職の将校でなくいわば臨時雇いの将校で山本も同じ=筆者)で、彼らには、本職の将校と違って、英雄として社会から喝采されたいと願う手柄意識があった。2そこに浅海記者から「貴方が天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」といわれれば全く無抵抗になって、いわれるままに勇士を演じたとしても無理はない。3また、兵士には、すべての者に潜在する戦場独特のホームシックがあった。浅海記者は、それを逆用し「あなたは、記事の形で内地と連絡できますよ」と誘いかけ二少尉を思うがままにあやつった。4浅海記者は行軍ばかりで特派記者として面目ない、とこぼし、「特ダネ記事」をほしがっていた。また、従軍特派員として、弾雨の中で危険を冒して取材をしていると見栄を張る記者心理が働いていた。
(洞)こうした軍隊経験のない私には、山本氏の戦場心理の分析を理解できないのは残念だが、常識で考えた場合次のようなことがいえる。上官に秘密にして「百人斬り」を創作するのはよいとしても、それが新聞で報道されることに同意する将校がいるとは私には到底考えられない。山本氏のいうように、これは私的盟約のもとづき軍を勝手に動かしたとして、「軍法会議」に回されるほどのことだからである。また、4のような記者の心理が働いていたとしても、そんなすぐにネタ割れするインチキ記事を、四度まで堂々と大新聞に書き続けたとは、到底考えられない。
以上三点が、洞氏の山本七平の見解に対する主要な反論です。これに対する私の意見は次の通りです。
〈論点1〉について
これは洞氏が「百人斬り競争」の新聞記事は「捕虜の据えもの斬り競争」であったと、何の証拠もないのに予断を持って決めつけているだけの話です。こうした洞氏の見方は、いいかえれば「本当は『捕虜の据えもの斬り』をしているのに、それを偽って白兵戦における正当な戦闘行為であるかのように粉飾し新聞記事にして報道した」といっているに等しく、氏自身の言葉を借りれば、これは両少尉の「人格を抹殺」するものであり、「十分な根拠もなしに、どうして人に向かって”お前は「捕虜の据えもの斬り」競争をしただけでなく、それを英雄行為と偽って大新聞に載せ宣伝した恐るべき非人格的人間だ”などと、どうしていえるのだろう”ということになります。
〈論点2〉について
これも、〈論点1〉と同じく、洞氏が「百人斬り競争」の新聞記事は「捕虜の据えもの斬り競争」であったと、何の証拠もないのに予断を持って決めつけているだけの話です。確かに、山本が、浅海氏の証言は「”『百人斬り』は事実だから、早く処刑しなさい”といっているに等しい」というのは、言い過ぎでしょうが、このあたりは、山本七平自身が、実際にフィリピンの戦闘に参加し、戦後は捕虜収容所に収監され戦犯の恐怖に直面した経験と無縁ではありません。(B、C級戦犯で約一千名が処刑。その悲惨な経緯については『世紀の遺書』に記録)それが、創作記事と知っていながら自己保身を図った記者に対する、激しい怒りの感情になって現れているわけです。
〈論点3〉について
山本七平がいうように、この「百人斬り競争」の新聞記事において、その会話部分の多くを記者に語ったのは向井少尉です。どうして浅海記者の誘いに乗って、そんなホラ話を新聞にのせることに同意したのか、その理由を、山本七平は自らの体験をふまえ、1から3に紹介したように、戦場における兵士の心理を紹介し説明していると思います。それが「理解できない」といえばそれまでですが・・・。
このことについて、野田少尉自身は、南京法廷で「なぜ新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」と聞かれて次のように答えています。
「私は、まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず、かつ笑談戯言であるため意に止めずにほとんど忘れていた。」「私は、昭和13年2月、北支でその記事を見たが、余りにも誇大妄想狂的であって、恥ずかしく思った」「『百人斬り競争』の記事は、誇大妄想狂的で日本国民の士気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり、これが事実無根の第一の理由である」(以上昭和22年11月22日付け野田少尉「答辨書」)
「自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐した頃であるが、その後も各地を転々としたため、訂正の機会を逃がし、かつ軍務繁忙のため忘却してしまったこと、何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが、善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること、自分の武勇を宣伝され、また賞賛の手紙等を日本国民から受けたため、自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく、積極的に教法を訂正しようとしなかったこと、また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」
一方、向井少尉は、「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」といっています。というのは、新聞記事には、向井少尉が「横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」と書いてあり、これは砲兵の向井少尉にとっては、上官の命令を無視し、勝手に砲側を離れ、勝手に兵を動かした」ことになるからです。つまり、こんな事は、「上官の命令は天皇の命令」である日本軍では絶対に許されないことであり、そう認定されれば死以外になく、従って、そういうことは、たとえ口が裂けても向井少尉が新聞記者にいうはずがなく、この点、あらゆる関係者は一致して、向井少尉が『百人斬り』に触れられることを生涯いやがったと証言しています。
また、向井少尉自身は「浅海記者が創作記事を書いた原因として、向井少尉が冗談で『花嫁の世話を乞う』と言ったところ、浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて、花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり、それから察すると、浅海記者の脳裏には、このとき、既にその記事の計画がたてられていたであろうと思われ、浅海記者は、直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し、報道しており、無錫の記事を見れば、『花嫁候補』の意味を有する文章があって(大阪毎日の記事=筆者)、冗談から発して創作されたものであることが認められる」といっています。
ただ、両者には、その後の浅海記者に対する対応に違いが見られることも事実です。というのは「新聞記事の内容は記者の創作である」という主張が明確なのは、野田少尉の方で、「被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と明確に浅海記者の責任を問うているのに対し、向井少尉は「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」(遺書)と、むしろかばう姿勢を見せています。
しかし、母に充てた遺書では、浅海氏が南京軍事法廷に提出した証言の第一項「同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。」について、「浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。」と一種の「うらみ」の心情を吐露しています。
これらの証言から解ること、それは、野田少尉の場合は、そんな冗談が新聞に載るとは思いもよらず、かつ、その誇大妄想狂的な記事を見て、大変恥ずかしく思った。しかし、自分の武勇を宣伝されたため、自分自身悪い気持ちはせず、従って、積極的に虚報を訂正しようとしなかった。また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」というのが正直な彼の気持ちではなかろうかと思います。
一方、向井少尉の場合は、自分がホラ話を浅海記者にしたこと、それを「百人斬り競争」として新聞記事に載せることに同意し、かつ、第一報や第四報で記者の求めに応じて、「百人斬り」のシナリオに沿う発言をしたことの責任を十分自覚しており、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とかばう一方、その証言の第一項について、「正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。」 というに止めているのです。これらの証言は、洞氏の疑問に対する説明として、十分納得できるものだと私は思います。
また、浅海記者が、そうした、すぐネタバレするインチキ記事を四度までも書くはずがない、という洞氏の意見についてですが、しかし、どう考えても、彼の書いた「百人斬り競争」の新聞記事は、洞氏がいい、また浅海氏自身も後にそれをほのめかしているように(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」『ペンの陰謀』所収)、両少尉が「捕虜の据えもの斬り競争」をやっていて、それを白兵戦における武勇伝として話したのを、それをそのまま粉飾することなく記事にした、とはとても思われません。
もし、そうなら、それは浅海記者が事実を見抜く目を全く持っていなかったということになりますし、また、「据えもの斬り」を知っていて、それを武勇伝に仕立て上げたというのなら同罪ということになります。さらに、両少尉が副官と砲兵であることは、佐藤振寿氏の証言によって、浅海記者が第一報の記事を常州で書いた段階ですでに知っていたことは明白です。それをあたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのように描いている、これを粉飾といわずして何というのでしょうか。
東京高裁の判決文も、「百人斬り競争」の記事について、浅海記者が粉飾を加えていないと認定している(かのよう)ですが、これについては洞氏以下の盲断というほかありません。 
 
「百人斬り競争」事件

 

二少尉の完全無罪を主張した中国人弁護士
1月30日の産経新聞に、30日富山で行われた日教組の教育研究全国集会において、日中戦争の南京戦で報道された日本軍の“百人斬(き)り”を事実と断定して中学生に教える教育実践が報告された、との記事が掲載され、ネットでも話題になっています。この事件が冤罪であることはほぼ確実ですので、事実とすれば、何と不勉強なことかと思い、事実を確認してみました。
次は、その部分の記述内容です。
「これは、中国で撮られた写真と新聞記事です。何の写真でしょうか」字が小さいので、こちらで見出しだけ読んであげた。
「百人斬り超記録」「向井1 0 6−1 0 5野田」「両少尉さらに延長戦」‥‥
それでも、生徒たちはピンと来ない様子。「『百人斬り』って、誰を斬ったの?」「そう、中国人をね。日本は中国に攻め入って。たくさんの中国人を殺しました。考えてみてください。普通の世の中であれば、一番してはいけないことは何ですか?」急な質問に生徒たちはとまどっている。質問を変える。「では、一番重い罪になるのは何ですか?」「人を殺すこと」「そうだね、人を殺すこと。だけどどうだろう。戦争になったらこのように、人を殺すことは良いことだということになってしまう。相手国の人をたくさん殺せば殺すほど、勲章がもらえてたたえられるんです。この記事が新聞に載ったということは、この記事を見た日本め人たちはすごいと賞賛したんでしょうね。だから記事になってるんです。戦争になれば、価値は大逆転するんです。人を殺すことが手柄になってしまう。もうそうなったら、何でもありです。相手国の人の物を盗む?家を燃やす?女性に乱暴する?‥・.すべてが許されることになうてしまいます。だから、殺されたのは兵士だけではなく、一般のお年寄りや女性、子どもたちもです」
レポートの「百人斬り競争」に関する記述はこの11行だけです。これを読む限り、この授業の焦点は、「百人斬り競争」の事実云々というより、むしろ、これを兵士の手柄として報道した新聞、それを日本人が”すごい”と称讃した事実に重点が置かれているように思います。つまり、ふだんは人殺しは一番重い罪なのに、戦争になるとこんな風に価値観が逆転するのだ、ということを教えているのです。
これに対して、今回の産経新聞の報道では、この教師が「”百人斬り競争”を事実として教えたこと」を問題にしています。拓殖大学藤岡正勝教授も「事実でない中国のプロパガンダを教えるという意味で問題。わが国の歴史に対する愛情を深めさせることを求めた学習指導要領にも反しており、極めて不適切だ」と言っています。
しかし、この教師は、授業の始めに、この新聞記事を生徒に見せ、それを日本が中国に攻め入ってたくさんの中国人を殺した、という話につなげているだけで、この事件の事実関係についての説明は一切していません。だが、こうした印象操作による問いかけを受けた生徒達は、当然これを事実と思い込むわけで、これは、生徒たちの感想文「多くの人を理由もなく殺し・・・」という言葉に現れています。
だが、もしこの生徒達が、この先生の印象操作によって、「多くの人を理由もなく殺した」その典型例と思い込んだ「百人斬り競争」が、実は、この新聞で報道された内容とは似ても似つかぬものであったことを知れば、この素直な生徒達は、一体どのような感想を持つでしょうか。あるいは、残虐非道な日本軍人というイメージから、”なんてひどいマスコミ!”に転化するかも知れません。また、この二少尉が意外にも立派な日本人であったことに誇りを感じるかも知れません。
本稿は、以下私の述べることが絶対正しいと主張するものではありません。しかし、今日までに出てきた資料を分析する限り、この「百人斬り競争」は、この教師が印象操作したような、日本軍人の残虐行為を示す典型例では決してなかった。従って、この事件から生徒達が学びうることは、マスコミによって事実は如何様にでも変えられるということ。「虚報」はどのようにしたら見抜けるか。あるいは、この二少尉の残した遺書から、何を学ぶことができるか、等々だろうと思います。
この「百人斬り競争」事件は、こうした、今日の日本人にとっても大きな課題となっている事実認識や価値判断の問題、また、自分自身の生き方を考える上でも、極めて示唆に富む内容を含んでいると思います。それだけに、今回の日教組教研集会における「百人斬り競争」を題材にした平和教育は、この事件の真相は一切問わないままに、一方的に、二少尉を「多くの人を理由もなく殺した」残虐な日本軍人の典型としただけでなく、上記のような「知恵」を学ぶ機会を生徒達から奪っているように、私には思われました。
そこで、以下、この事件の真相について、私が理解している範囲で、できるだけ分かりやすく説明し、皆さんの参考に供したいと思います。
まず、この「百人斬り競争」事件の核心は、この事件が事実であったか否か、ということにあるのではなくて、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約される、ということを述べておきたいと思います。
言うまでもなく、南京軍事法廷において、二少尉が有罪とされたその唯一の証拠は、この記者が書いた「百人斬り競争」の記事だけでした。このことは、両少尉がこの軍事法廷において死刑判決(昭和22年12月18日)を受けた後、この法廷に提出した「復審を懇請」するための上訴申弁書(12月26日)に明らかです。
次にそれを示しますが、注目すべきは、この申弁書を書いた(12月20日)のは、向井、野田両少尉の弁護人を務めた中国人弁護士崔培均(官選弁護人)で、それを「陳某」(名不詳)が日本語に翻訳して向井敏明、野田毅両名に届け(12月22日)、両者連名で法廷長石美瑜に再審を懇請し、合わせて蒋介石への転呈(取り次ぎを願うこと)を願ったものだと言うことです。
この中国人弁護士崔培均は、「民衆で満員三階迄一杯」(ただしこの裁判に関しては「始めより終わり迄、民衆は声無く聞く」と向井少尉の「獄中日記」にある)の法廷において、彼等の弁護を務めたわけですが、この「上訴申弁書」には次のような申し立てがなされ、二少尉の無罪が主張されています。*野田はその遺書の中で「中国にもこの人あり、このような弁護士もおられるかと思ふと、日本と中国は真心から手を握らなければならないと思いました」と書いています。
なお、この申弁書は、向井、野田両名と共に南京の収容所に収監されていた戦友が、釈放後、ザラ紙一杯に細かく書き込まれた向井、野田両名の遺書と同時に、二人が最後に「上訴申弁書」として出した紙切れ二枚(「上訴申弁書」原文は漢文で、これはそれを和訳したもの)を、靴底に隠して日本に持ち帰り、遺族の許に届けたものでした。以下の文は、鈴木明が読みやすくするためこれをさらに現代語訳したものです。
[野田毅、向井敏明]上訴申弁書
民国三十六年十二月二十日
具呈人 向井 敏明  野田 毅
国防部審判戦犯軍事法庭
庭  長  石
国防部長  白   転呈
主  席  蒋
「被告向井敏明と野田毅は、民国三十六年十二月十八日に、国防部審判軍事法廷で、死刑を即決されました。しかし、この判決に不服がございますので、左の通り上訴申弁書を提出致しますので、再審をお願い申し上げます。
一、この判決は、被告たちの「百人斬り戦争」は、当時南京に住んでいたテインパーレー(原著名は田伯烈・そして、既にご存知のように、ティンパーリーは南京にはいなかった)の著『日本軍暴行記実』に鮮明に記載してあるので、これが間違いのない証拠である、と書かれておりますが、『日本軍暴行記実』に記載されている「百人斬り競争」に関する部分は、日本の新聞を根拠にしたものであります。この本は、この法廷にもありますので、改めて参照することは簡単であります。
ところが、原判決で”鮮明に記載してある”というのは、どのような根拠によるものでしょうか、判断が出来ません(「向井、野田両名を指してどの男が犯人だ」という証人が現れなかったことを示唆している)。その上、新聞記事を証拠とは出来ない、ということは、既に民国十八年上字第三九二号の貴最高法院の判例で明らかになっております。新聞記事は、事実の参考になるだけであって、それを唯一の証拠として、罪状を科することは出来ません。
なお、犯罪事実というものは、必ず証拠によって認定しなければならない、ということは、刑事訴訟法第二六八条に明らかに規定されております(後に調べたが、「中華民国刑事訴訟法第二六八条の中国語原文は、下記の通りである。「犯罪事實應依證據認之」)この、いわゆる”証拠”とは、積極証拠を指しているものであることもまた、既に司法院で解釈されていることであります。
ところが、貴法廷には、被告人が殺人競争を行ったことを証明する、直接、間接の証拠は全く提出されませんでした。単に、被告の部隊名や、兵団の部隊長であった谷寿夫の罪名が認定されたからといって、被告等に南京大虐殺に関して罪がある、と推定判断することは、全く不可能であります。
二、原判決では「東京日日新聞」と『日本軍暴行記実』には同じことが書かれてある、と認定しています。しかし。この本の発行期日は、「東京日日新聞」に記事が記載された後であり、ティンパーレーの方が、新聞記事を転載したことは明らかであります。さらに、新聞記者(東京日日新聞)浅海一男から、中華民国三十六年十二月十日に送付された証明書の第一項には、「この(百人斬りの)記事は、記者が実際に現場を目撃したものではない」と明言しております。即ち、この記事は被告等が無錫で記者と雑談を交したとき、食後の冗談でいったもので、全く事実を述べたものではありません。東京で、浅海一男及び被告の向井に対する『盟軍』(アメリカ軍のこと)の調査でも、この記事は不問に付されたものであります。
被告等が所属した隊は、民国二十六年二九三七年)十二月十二日、騏麟門(南京城の門名ではなく、南京城門外、東部にある地名を指す)東部で行動を止め、南京には入城しなかったことは、富山大隊長の証明書で明らかであります。これは、被告野田が、紫金山付近では行動していないことを証明するものでもあります。
また被告向井は、十二月二日、丹陽郊外で負傷し、その後の作戦には参加していませんでした。従ってこれも紫金山付近で行動していないことは、また富山大隊長の証言でも明らかになっています。
さらに申し上げれば、この新聞記事の中の”百人斬り”なるものは、戦闘行為を形容したものでありまして、住民、捕虜などに対する行為を指しているものではありません。残虐行為の記事は当時の日本軍検閲当局を通過することは出来ませんでした。このような次第ですから、貴法廷が”この記事は日本軍の検閲を経ているから、被告たちの行為は間違いない”と認定しているのは、妥当ではありません。
以上のように、新聞記事は全く事実ではありません。ただ、被告等と記者との食後の冗談に過ぎないのに、貴法廷の判決書には、多数の白骨が埋葬地点から堀り出されたことが証拠である、と書かれています。しかし被告たちが行ったことのない場所で、たとえ幾千の白骨が現出したとしても、これを被告等の行為であると断定する証拠にはなりません。
もし、貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その自白が事実と符合しないのですから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできません。
三、被告等は、全く関知しない南京大虐殺の共犯と認定されたことを、最も遺憾とし最も不名誉としています。
被告等は、断じて俘虜、住民を殺害したことはなく、また、断じて南京大虐殺に関係ないことを、全世界に向って公言しております。被告等が無罪であることは、当時の上官、同僚、部下、記者などがよく知っているだけではなく、被告等は今後、貴国及び日本国は、恩讐を越えて、真心から手を握り、世界平和の大道を邁進することを心から念じております。
以上申し上げた通り、原判決は被告等にとってふさわしくないので、何とぞ、公平なる再審を賜ることを、伏してお願いするものであります」 
浅海記者は二少尉から聞いたままを記事にしたか 

 

だが、こうした中国人弁護士崔培均等の努力も向井、野田両少尉の訴えも空しく、両少尉は、昭和23年1月28日、南京郊外の雨花台で処刑(銃殺)されました。
ではなぜ、これだけの反証がなされたにもかかわらず、二少尉の死刑判決は覆らなかったのでしょうか。そこでまず、私が前回、この事件の核心として述べたこと、この記事を書いた記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」について検討したいと思います。言うまでもなく、この「百人斬り競争」の記事は事実ではありません。それは、この南京法廷自体がこれを戦闘行為だとは認めていないことで明らかです。
つまり、近代戦においては、「百人斬り競争」のようなことはありえず、だから、中国人は、これを住民・俘虜虐殺事件と見たのです。本多勝一氏等は、こうした主張を「百人斬り競争」論争が不利に陥った後になすようになりましたが、こうした見方は、中国側が南京裁判以前より主張していたのです。
しかし、これは、前回紹介した「上訴申弁書」によって完全に論破されました。というのは、裁判所が「百人斬り競争」を住民・捕虜の虐殺と認定したその唯一の証拠は、浅海記者が書いた東京日日新聞の記事以外にはなかったからです。だから、もし、これが浅海記者の創作つまりフィクションであった事が証明されれば、住民・捕虜虐殺の証拠と見なされたその元になる事実がなくなるのですから、これを住民・捕虜虐殺事件にすり替えることも出来なくなります。故に、浅海記者が、自分の書いた記事について「二少尉の話を事実と思って書いたか否か」が問題になるのです。
だが、この事を知っているのは、浅海記者、向井少尉、野田少尉の三名しかいない。そして、向井少尉と野田少尉は、裁判の中でこれを「無錫において記者と会見した際の食後の冗談であって全然事実ではない」と全面否認している。そこで浅海記者は何と言ったか。彼は、向井少尉の弟に懇請されて南京法廷宛ての証明書に次のように書きました。(本来なら軍事法廷は、彼を召喚して証人尋問すべきだったのですが・・・。)
一、同記事に記載されてある事実は右の両氏より聞き取って記事にしたので、その現場を目撃したことはありません。
二、両氏の行為は決して住民・捕虜等に対する残虐行為ではありません。当時といえども残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることは出来ませんでした。
三、四は省略
もし、この記事作成の事情が二少尉の主張する通りのものであったら、この浅海記者の証明書は、「両氏より聞き取って記事にした」ではなく、戦意高揚記事を書くため、両少尉に架空の武勇伝を語ってもらい、いわゆる”ヤラセ”をやり(山本七平は、無錫で三者談合、常州では両者を佐藤振寿記者の前及び紫金山周辺の安全地帯で鈴木記者の前で”演技”させたと見ている)、それを佐藤記者や鈴木記者の前で自分がはじめて取材したように見せかけて、「百人斬り競争」の記事を書いた」となります。
しかし、浅海記者は、向井猛氏(向井少尉の弟)の願いにもかかわらず、この証明書には、「両氏より聞き取って記事にした、ただし現場を見ていない」としか書きませんでした。ということは、浅海記者は、裁判所が彼の書いた記事を住民・捕虜虐殺があったことの証拠としているのに、「私はその記事を事実と思って書いたが、直接見ていないので、それが住民・捕虜等に対する残虐行為であるはずはないと思うが、実際に何があったかは知らない」と言ったことになります。
では、本当に浅海記者は、一切の「主観的操作」を加えないで、この記事を作成したのでしょうか。このことを検証したのが山本七平の『私の中の日本軍』で、その結果、この「百人斬り競争」の記事は、先に述べた通り、浅海記者による”ヤラセ”事件であったことが明らかになったのです。
これが事実であれば、三階まで中国人でぎっしり詰まった南京法廷において、戦犯容疑の日本兵の弁護人を務め、前回紹介したような「上訴申弁書」を作成して、その全面無罪を主張したのが中国人弁護士であったのに対して、この日本人新聞記者は、自分の記者生命を守るため、戦意高揚記事作成のために自分に協力してくれた二少尉を見殺しにしたことになります。
では、なぜそう言えるか。もちろん、こうした解釈はこの記者にとって大変不名誉なことですから、その後の論争でも本人はこれを否定しています。また、この「百人斬り競争」については、今日まで様々な観点からの論評・論争がなされています。しかし、私は、この事件の核心は、先に述べた通り、浅海記者は「二少尉から聞いたという話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」というこの一点に集約できると考えています。
以下、こうした観点に沿って、山本七平が浅海版「百人斬り競争」をフィクションと断定した思考経路をたどってみたいと思います。
○ ベンダサンvs本多論争で、ベンダサンが本多勝一氏の書いた「中国の旅 競う二人の少尉」をフィクションだと断定したのに対し、本多氏は、東京日日新聞の浅海記者が昭和12年末に書いた「百人斬り競争」の新聞記事を証拠として提示した。これに対して、ベンダサンは、この浅海記者の書いた記事も直ちにフィクションだと断定した。しかし、山本は、なぜベンダサンがこれをフィクションと断定できたのか分からず、事務所に来た『諸君』の記者に、「氏はやけに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言った。
○ その後、鈴木明が『南京大虐殺のまぼろし』を書き、向井少尉の未亡人から送られてきた向井少尉の遺書と南京裁判における向井敏明付き弁護人の「上申書」によって、この浅海版「百人斬り競争」が作成された経緯を明らかにした。それによると、浅海記者は、向井少尉と野田少尉に「行軍ばかりで・・・特派員の面目がない」といい、向井少尉が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、「貴方があっぱれ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」と言った。これに両少尉が応じたことからこの記事が作成されたという。
○ この記事の発表後、向井、野田両少尉は、記者の創作した「百人斬り競争」という虚報記事によって、南京大虐殺の象徴的な犯人とされ処刑された、との見方が一般化した。しかし、山本は、これは、両少尉が記者に「百人斬り競争」の武勇伝を話し、記者がそれを事実と思って記事にしたのか、それとも記者はこれをフィクションと知りつつ記事にしたのか判らない。結局これは水掛け論に終わらざるを得ないと思った。そこで山本は、その時書いた文藝春秋の記事に”これはもう良心の問題だ”と書いた。
○ ところが、その後の鈴木明の調査で、この両少尉は、最前線で戦闘する歩兵小隊長ではなく、向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官だった事が明らかになった。山本は、浅海記者が書いた「百人斬り競争」の第一報における野田の会話に「僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」とあるのを、歩兵には何か○官という職務でもあるのか、と思っていたが、まさか、これが副官の「副」を伏字にしたものだとは気づかなかった。
○ そこではじめて、この記事は、職務も指揮系統も全く異なる歩兵砲小隊長と大隊副官を、あたかも同一指揮下にある歩兵小隊長であるかのように見せかけた記事であることが分かった。つまり、前者は砲兵、後者は副官つまり部隊長付の事務官であって、前線に出て戦闘する職務ではない。そこでこの記者は、これが読者に分かると「武勇伝」としての「百人斬り競争」が成り立たなくなるので、野田少尉の「僕は副官をやっている・・」という会話の副官を○官としたのではないかと、山本は思った。となると話は違ってくる。なにしろ山本は軍隊では砲兵であり、また実質的に副官の職務を経験していたからである。
○ そこで、この「百人斬り競争」の記事をよく見ると、同一指揮系統に属する二人の歩兵小隊長が、部下と共に敵陣に切り込み、「百人斬り競争」しているように描かれている。しかし、それが誰の命令によるものかは分からない。まるで二人が「私的盟約」に基づいて兵を動かしているようにも見える。しかし、軍隊ではこのような「命令無視」の戦闘行動は絶対に許されない。もし私兵を動かしたとなれば、直ちに処刑されても仕方ない。
○ つまり、この記事に書かれたような戦闘は軍隊ではあり得ないのである。だから、この記事をもとに中国人が作成したと思われる本多版「百人斬り競争」には、上官が登場し、両少尉に「殺人ゲームをけしかけ」、三度次のような命令を下したことになっている。また「賞を出そう」とは、極めて中国的な「傭兵的」発想ということができます。
「南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ」。
だが、この記事は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」とは、競争区間も人数もゲームのルールも違っている。ベンダサンは、本多氏がこの記事を本多版「百人斬り」が事実である証拠として持ち出したことに対して次のように言った。「事実」と「語られた事実」は別である。我々は「語られた事実」しか知り得ない。従って、「事実」に肉薄するためには、「語られた事実」をなるべく多く集めて、その相互の矛盾から事実に迫るしかない。ところが本多氏は、この矛盾に満ちた二つの「語られた事実」をそのまま「事実」としていると。 
武勇伝のはずが殺人競争に変身 

 

○ なお、近代戦においては、銃や機関銃で武装している敵に、日本刀で切り込むような馬鹿なことはできない。そのため、本多版「百人斬り競争」では、相手が兵士ではなく中国人となっている。つまり、兵士を相手とした「武勇伝」のはずが、住民・捕虜を対象とした「殺人ゲーム」になっているのである。そこで浅海版の「百人斬り競争」を見てみると、二少尉がその部下と共に敵陣に日本刀で切り込んだようになっているが、敵の武器については何も書かれていない。つまり、それを書くと、銃や機関銃を持った敵に日本刀で切り込んだことになりフィクションであることがばれるので、あえて敵の武器を隠したのである。
○ 山本はこのような分析を経て、この「百人斬り競争」の記事は、記者がで創作したのではないかと考えるようになった。あるいは、この記者は、両少尉の話を信じただけ、つまり彼等の職務が砲兵や副官であることを知らないままにこの記事を書いたのではないかとも考えた。しかし、これについては、佐藤振寿記者の次の証言によって、浅海記者は、「野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長」であることを知っていたことが明らかになった。佐藤記者が常州に着いた時、「浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んできた」そこで「私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた」「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。・・・(そこで)”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。」 *この時、佐藤振寿記者は、こんなばかげた話はありえないと思い信用しなかったという。
○ つまり、浅海記者は両少尉の職務を知っていたが、それが紙面に出ては「百人斬り競争」の真実味がなくなるので、両少尉の本当の職務を隠し、あたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのようにしてこの記事を作成したのである。こうした記事作成上の作為は浅海記者にしかできない。つまりこの記事は、浅海記者が単に両少尉の話を聞いたまま記事にしたのではなく、まず浅海記者自身に「百人斬り競争」武勇談の構想があり、それに協力してくれる役者=兵士を探し、つまり「ヤラセ」によってこの記事は作成されたのである。
○ ここに至って山本は、次のような疑問に行き当たった。自分はこれだけの資料を得て、しかも自分がかって砲兵であり、また副官の職も経験していたので、彼等の戦場心理も理解でき、それで、浅海記者の記事がフィクションであることを見抜くことが出来た。しかし、なぜベンダサンはこれらがない中で、この記事をフィクションと断定できたのかと。そこで、ベンダサンに問い合わせをした。暫くして返事が返ってきたが、それは次のようなものであった。
○ この記事は戦場で100人の敵兵をどちらが先に殺すかを競う競技である。競争には必ず審判と勝敗を判定するための基準となるルールが必要である。従って、この競争を戦場でやるためには、戦闘中、審判者が両少尉につきそって走りつつ、何人殺したかを数えなければならない。そして、一方が100人に達した時ストップをかけ、それを相手に知らせ戦闘を中止しなければならない。
しかし、そのような事は戦場では不可能である。記者はこのことに第一報を送った後に気がついた。そこで、競技のルールを、数を限定して時間を争う競技から、時間を限定して数を争う競技に変更する必要に迫られた。そこで、これをできるだけ他に覚られない方法で行うため、第四報(山本は四報あった「百人斬り競争」の記事の中の第二、三報を飛ばしてこれを第二報としている)にある10日の次の会話を両少尉に”ヤラセ”た(山本はこれは浅海記者の創作としている)。
野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。
もし、この競争が事実であれば、これはあくまで時間を競う競技だから、野田少尉は向井少尉に、まず100人に達した時間を聞くはずである。しかし、ここでは数を聞いている(と言うことは競争のルールが判っていない?)。また、その後の会話では「いづれが先に百人斬ったかこれは不問」といっている。これは、競技のルールを時間を競う競技から数を競う競技に転換すると同時に、それまでの時間を争うルールを「これは不問とする」という言葉で巧妙にキャンセルしたということである。こんな芸当が戦闘中の兵士に出来るわけがない。
つまり、この「百人斬り競争」は、まず戦場ではあり得ないルールを設定していることからしてフィクション臭いが、以上説明したようなゲーム途中におけるルールの変更を、出来るだけ人に気づかれないような形で行っていることから見ても、これは誰かが作為的に行ったこととしか考えられず、それが出来るのは浅海記者だけであるから、この「百人斬り競争」の記事は、記者によって創作されたと断定したのである。
○ これがベンダサンの山本に対する返事だった。(このあたり、ベンダサンは山本との通説が一般的になっている現在、奇妙な感じがしますが、ここでは触れません。)山本は、このような見方ができることに全く気がつかず、ユダヤ人にはこんな論理的な見方が出来るのかと驚いた。なお、中国人が語った本多版「百人斬り競争」にも、浅海版にあるような論理的矛盾が見られず、中国人は日本人よりも論理的なのではないかと言っている。
(以下山本の見解も交えた渡邉の見解)
浅海記者が書いた「百人斬り競争」の記事の中で裁判所が問題としたのは、両少尉の会話の内「自白」と見なされた部分である。山本はこれを10日の両少尉の会話のみとしているが、常州での会話も「自白」と見なされ得る。従って、先に紹介した「上訴申弁書」には、「貴法廷が被告等の冗談を被告の自白だと認定しようとしても、その「自白」が事実と符合しないのであるから、刑事訴訟法第二七〇条の規定によってこれを判決の基礎とすることはできない」旨の申し立てがなされている。
また、戦闘継続中に職務も指揮系統も違う両少尉が10日、11日と2日続けて記者会見に応ずるというのもおかしい。実際の会見は、鈴木二郎記者の証言から11日と思われるが、この日に、上記のルール変更の会話を鈴木記者の前で両少尉にさせることは困難だから、これを10日のこととして、上記の両少尉の会話を創作したのであろう。この作為の跡は「十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」という、未来のことを過去形で語った叙述にも見ることができる。
また、11日の会話には、向井少尉の鉄兜の唐竹割りや、紫金山残敵あぶり出しの会話がでてくるが、山本は、鉄兜などという言葉は軍では使わないし、また、紫金山残敵あぶり出しというのは毒ガスのことで、軍では絶対の軍事機密であり、これを口に出すとは軍の常識では考えられない。おそらく、この会話は、紫金山の戦闘が終わった後の安全地帯における会話と思われるが、ほとんど酩酊したような精神状態の中で発せられた言葉としか考えられないという。
では、なぜ向井少尉はこのような「軍の常識では考えられない」発言をしたのか。山本はその原因を次のように推測している。向井少尉は丹陽郊外で負傷し、その負傷の持つあらゆる恐怖(負傷による破傷風などで「生きた死体」になること)から解放されたばかりで、その喜び、それに実戦に参加しなかった引け目、その裏返しとしての強がり、これで戦闘は終わったという安堵感(皆これで戦争は終わると思った)、その他手柄意識などの様々の感情が重なって、あのような支離滅裂な会話になったのではないかと。
ところで両少尉は、裁判において、常州での会見も紫金山周辺での会見も否定している。これは、先ほど指摘した通り、ここでなされた会話が、裁判において「自白」と見なされたからである。これらの会話は、実際は浅海記者との談合に基づく「やらせ」であって事実ではない。しかし、これを裁判で「自白ではない」と主張することは極めて困難だから(ここに日本人における「迎合」の問題がある)、これが事実ではない事を主張するためには、この会見自体を否定する他なかったのである。 
「百人斬り」新聞記事の真相 

 

以上の山本の分析を通して、私は、浅海記者の書いた「百人斬り競争」は、まずその構想が浅海氏にあり、その協力者を探すため無錫で両少尉に近づき、両少尉の里心や手柄意識を、”新聞に載る――それによって無事を親元に知らせることができる”ことでくすぐり、架空の「武勇談」を両少尉に語らせ、それを聞き取る形で戦意高揚の記事を作成した。あわせて、戦場のまっただ中で取材活動をしている?自分をアピールしようとしたのではないかと思いました。
その様子は、先に紹介した「上訴申弁書」に次いで作成された「第二上訴申弁書」に付された、次の野田少尉の「百人斬り競争記事の真相」の内容とほぼ符合します。ただし、常州と紫金山周辺における会見が漏れているのは、前回説明した通り、「やらせ」で喋らされ、あるいは創作された会話が、裁判で「自白」と見なされたためです。また、この「真相」は「第二上訴申弁所」に付したものでしたので、この事実は隠さざるを得なかったのだろうと私は推測します。
野田少尉の「百人斬り」新聞記事の真相
〈「被告等は死刑判決により既に死を覚悟しあり。「人の死なんとするや其の言や善し」との古語にある如く、被告等の個人的面子は一切放擲して、新聞記事の真相を発表す。依って中国民及日本国民が嘲笑するとも、之を甘受し、虚報の武勇伝なりしことを世界に謝す。十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも、無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一節、左の如きものもありたり。
記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
向井「関の孫六です」
野田「無名[銘]です」
記者「斬れますかね」、
向井「さあ未だ斬った経験はありませんが、日本には昔から百人斬とか千人斬とか云ふ武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を斬ったとか云ふが」
記者「一体、無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
向井「常に第一線に立ち、戦死さへしなければね」
記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走[争。以下、同じ]してみたら。記事の特種を探してゐるんですが」
向井「そうですね、無錫附近の戦斗で、向井二〇人、野田一〇人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では、向井四〇人、野田三〇人。
無錫から丹陽まで六〇対五〇、
無錫から句容まで九〇対八〇、
無錫から南京までの問の戦斗では、向井野田共にI〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」
野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
記者「百人斬競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刹[殺]到しますぞ。ハハハ。写真をとりませう]
向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借[貸]してあげませうか」
記者「記事は一切、記者に任せて下さい」
其の後、被告等は職責上絶対にかゝる百人斬競走の如きは為ざりき。又、其の後、新聞記者とは麒麟門東方までの間、会合する機会無かりき。
したがって常州、丹陽、句容の記事は、記者が無錫の対話を基礎として、虚構創作して発表せるものなり。尚、数字に端数をつけて(例、句容に於て向井八九、野田七八)事実らしく見せかけたるものなり。
野田は麒麟門東方に於て、記者の戦車に搭乗して来るに再会せり。
記者「やあ、よく会ひましたね」
野田「記者さんも御健在でお目出度う」
記者「今まで幾回も打電しましたが、百人斬競走は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに【行替え後、一行判読不可能】
野田「そうですか」
記者「まあ其の中、新聞記事を楽【し】みにして下さい。さよなら」瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
尚、[当]時該記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として、紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事、及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。
右述の如く、被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは、全く被告等の責任なるも、又記者が目撃せざるにもかかわらず、筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一半の責任あり。
貴国法庭[廷]を煩はし、世人を騒がしたる罪を此処に衷心よりお詫びす。〉
この「百人斬り競争記事の真相」は、死刑判決が12月20日にあり、12月22日に先に紹介した第一回「上訴申弁書」を書き、それでも再審が認められなかったので、最後の望みを託して、「自分の個人的面子は一切放擲」して新聞記事の真相を打ち明けたものです。しかし、残念ながらこれは提出には至らなかったようです。しかし、なんとしても自分らに着せられた住民・捕虜虐殺の汚名だけは晴らしたいと思いこれを後世に残したのです。
なお、この「真相」の末尾には、記者の責任に言及する部分が出てきます。これは、二少尉以外で事実を知る者は浅海記者だけで、彼だけが、この記事が創作であることを証言できる。しかし、氏はついに、この事実を証言せず、「記事は両少尉から聞いたままを書いた、ただし見ていない」としか言いませんでした。つまり、両少尉は浅海記者に裏切られたわけですが、そのことへの不満が、ここでようやく表出したのではないかと思います。俺たちが死ねば「死人に口なし」ということかと・・・。実際、この事実は、本多勝一氏が朝日新聞の「中国の旅」で「百人斬り競争」(s46)を報じ、これをベンダサンがフィクションと断定(s47)するまでは誰も知らなかったのです。この点で本多氏は、一定の役割を果たしたといえるのかも知れませんね。
その後、両少尉は遺書を書き始めました。両氏ともかなりの分量になりますが、その内容には全く驚かざるを得ません。自ら「南京大虐殺」につながる住民・俘虜の「百人斬り競争」の汚名を着せられ死刑判決を受けながら、公判中も堂々たる態度を崩さず、日本及び日本人に対する警鐘を行い、日中両国の友好親善を祈りつつ、なお自分の死を以て今後日中間に怨みを残すなと伝言するなど、戦後生まれの私たちには到底まねの出来ない立派な態度だと思いました。なお遺書は、向井少尉の立派な遺書も沢山ありますが、紙面の都合上、野田少尉(終戦時は大尉)の「日本国民に告ぐ」を紹介します。 
論争は「ヤラセ」が証明された30年前に終わっていた 

 

次は、野田少尉が、最終的に第二回「上訴申弁書」の提出を諦め、自らの死を覚悟した後に書かれた「日本国民に告ぐ」と題された遺書です。
野田毅「日本国民に告ぐ」
(昭和二十二年十二月二十八日)
一、日本国民に告ぐ
私は曾て新聞紙上に、向井敏明と百人斬り競争をやったと言われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが、冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせ申し上げたことにつき衷心よりお詫び致します。
「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。
日本は見事に敗戦致しました。もはや虚飾欺瞞するの秋ではありません。赤裸々に本心をぶち開け、誠心を披瀝して、平和日本再建に邁進すべきの時です。この意味に於て私も過古の恥を申上げて、お詫び申し上げた次第です。
只、今般中国の裁判に於て捕虜住民を虐殺し、南京屠殺に関係ありと、判定せられましたことに就いては、私は断固無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京に於いて百人斬りの屠殺をやったことはありません。此の点、日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとえ私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位は日本にとっては問題ではありません。ただし問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。
私の死を以て今後中日間の怨みや讐や仇を絶対に止めて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以てしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。中国人も人間であり東洋人です。吾々日本人が至誠を以てするなら、中国人にも解らない筈はありません。至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり、東洋平和の人柱となり、何ら中国に対して怨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得たことを以て、日本国民もこれを諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
(中略)
一、日本青少年諸君に与う
一国の攻防は青少年を見れば足る。最も惨憺たる悲運の境遇にある諸君は最も幸運と云うべし。此れ以上の敗戦の惨苦と不幸はあらざるが故なり。前途は只洋々たる再建希望の日本あればなり。
かかって諸君の双肩にあり。身を以て予は大愛と至誠を感得せり。日本青少年よ、異常なる大勇を以てせざれば「大愛」と「至誠」の実行は不可能なり。乞う、大死一番、右の二句を以て世界平和に邁進せよ。
(一月二十八日)
南京戦犯所の皆様、日本の皆様。さようなら。
雨花台に散るとも、天を恨まず、人を恨まず。日本の再建を祈ります。
萬歳、萬歳、萬歳
これを読んで、胸の詰まる思いをしない日本人はいないでしょう。ところで、この両少尉の死が、その他の中国に捕らえられていた日本人戦犯二百六十名の命を救ったかも知れないのです。というのは、この「百人斬り競争」は東京裁判でも審理がなされ、両少尉それに浅海記者も取り調べを受けたのです。その結果、この記事はすべて「伝聞」によるものであるとして、「東京裁判では本裁判は無論のこと、個人を裁く『戦争放棄を無視したC級裁判』としても、このことを立証し有罪に持ち込むことは不可能である」と判断され起訴はされなかったのです。
ところが、両氏を南京事件の容疑者として南京に送れとの中国からの要請があり、マッカーサー総司令部司法部長のカーペンターは「中国では公正な裁判ができるのか、あるいは、少なくとも表面的に、公正な裁判であることを印象づけられるような裁判ができるのか」危惧しましたが、結果的には、先に谷寿夫をB級戦犯容疑者として南京に送った経緯があり、二人を南京に送ることに同意しました。
その結果、カーペンターが危惧した通りのことが起こった。当時中国では「国共内戦」が後半期にさしかかっており、国府軍は全東北地方から撤退しつつあり、共産党は国共内戦の最大の山場である「北京戦」に勝利し、北京に入城し、「北京市人民政府」を樹立していました。そこで、カーペンターは谷寿夫、向井、野田両少尉の裁判の様子を聞き、「もうこれ以上は待てない」と思ったのか、中国に捕らえられている日本人戦犯260名を、共産党に引き渡すことなく日本に帰還させたのです。
つまり、野田、向井両少尉等の裁判が、新聞記事だけを証拠に死刑判決を下すという近代法では考えられない無謀な裁判となったことによって、その他の日本人戦犯260名は、無事日本に召還されたのです。この事実が両少尉にとっていくらかでも慰めになればと思いますが・・・。
一方、この虚報によって両少尉を死に追いやった日本の記者及び新聞社の責任はどうなるでしょうか。山本七平は30年ほど前に書いた『私の中の日本軍』の中で次のように言っています。
「この事件は、今では、中国語圏、英語圏、日本語圏、エスペラント語で事実になっている。しかし、明らかに記事の内容自体は事実ではない。従って、これを事実と報じた人びとは、まずそれを取り消して二人の名誉を回復して欲しい。独裁国ですら、名誉回復と言う事はあるのだから。そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社(東京日日新聞現在は毎日新聞=筆者)は、遺族に賠償してほしい。戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人々にとって、どれだけの苦難であったろう。
人間には出来ることと出来ないことが確かにある。しかしこれらは、良心とそれをする意志さえあれば、出来ることである。もちろん私に、そういうことを要求する権利はない。これはただ、偶然ではあるが、処刑された多くの無名の人々の傍らにいた一人間のお願いである。」
ご存じの通り、この事件は裁判でも争われました。この裁判のポイントは、「浅海記者は両少尉の話をあくまで事実として聞きこれを記事にした」と認定したことにあります。毎日新聞社も取材は適正に行われたと主張しています。従って、仮に、この「百人斬り競争」が虚偽だったとしても、それは「誤報」であって「虚報」ではないというのです。朝日新聞が、この事件を戦闘行為ではなく「住民・捕虜の虐殺」だったとする書籍を販売していることについては、歴史的事件の「論評」であって言論表現の自由の範囲内としました。
つまり、この「百人斬り競争」事件のポイントは、私が本論の冒頭で述べた通り、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いた話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約されるのです。浅海記者は、東京裁判検察官の尋問に際しても”真実=事実として聞いた”と答えています。はたしてそうか。確かに、この記事は、二少尉が「語り」それを浅海記者が記事にしたものであることは間違いありません。
だが、それは戦場心理を逆用した「ヤラセ」だったのではないか。浅海記者はそれを事実らしく見せるため、わざわざ佐藤振寿記者や鈴木記者を連れてきて「証人」としたのではないか。だが両氏は浅海記者に誘われて両少尉と会見している。もちろん両氏とも、浅海記者が両少尉と無錫で談合した事実を知らない。また佐藤記者は両少尉より”数の勘定はお互いの当番兵を交換して・・・”と聞いたが、第二報の記事では「東日大毎の記者に審判になってもらうよ」となっている。また、鈴木記者は、この競争のルールを「南京まで(=一定の時間内)に100をめどにどちらが多くの敵を斬るか」だと思っている。
ということは、この競争において誰が審判を務めるかということも、その競争のルールが何であるかということも、プレーヤーである両少尉が知らず、佐藤記者は審判を当番兵と聞き、鈴木記者はそのルールを「時間を限定して数を競う」ことと理解していたということです。そして、これらを「知っていた」のは実に浅海記者ただ一人だった。だからルールの変更も出来たのです。これだけのことをやっていて、二少尉の話を「事実として聞き、そのまま記事にした」と言えるでしょうか。自分が創作した記事だからこそ、先に指摘したような「事実」に見せかけるための数々の細工が出来たのではないか。
以上本稿では、この事件を、浅海記者は両少尉の話を「事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という観点に絞って、山本七平やベンダサンの分析を紹介してきました。これによって、それが「ヤラセ」であったことは明白になったと思います。そして、これが架空の武勇談であれば、その後の、これを「住民・捕虜虐殺」事件とする議論は全て霧消します。にもかかわらず、あえてこれを証明しようとする人たちがいますが、それは、冤罪が確定した人物の余罪を探し回るような行為であって、止めはしませんが正気とも思われません。
つまり、この事件についての論争は、山本七平が以上のような論証を行った30年前に、すでに決着していたのです。そもそも裁判は、訴因に基づいて法律的な判断をするだけで、歴史的事実を解明するものではありません。従って、その判決如何に関わらず、毎日新聞社は、この事件の結末について報道機関としての責任があります。また、朝日新聞社も非人権的な行為は止めるべきです。これは山本七平が言ったように、まさに日本の報道機関の「良心」の問題です。
一刻も早くこの事件に決着を付け、これを、昭和史の謎を解明する一つの手がかりとすると共に、日本人における迎合の問題やマスコミによる虚偽報道、言論空間における空気支配の問題等を克服するための”歴史的教訓”とすべきだと思います。
以上
山本七平は洞富雄に論破された、という人がいますので、洞氏の論理を検証して見ました。論破されたなどとんでもないことが判ります。 
「百人斬り競争」論争の現在と未来 

 

前回、5回にわたって「百人斬り競争」事件に関する記事を投稿させていただきました。何を今さら、と思われた方もいるかと思います。この論争は、ベンダサンvs本多論争以来の議論の積み重ねがあるし、裁判でも争われたのに、それを無視しているのではないかと・・・。
では、その後、この論争はどのように発展してきたでしょうか。実は、それは、「日本刀の硬性」=日本刀で何人の捕虜等を殺傷できるかなどの、脇道にそれた議論に終始しただけで、論争としてはほとんど進歩がなかった、と私は考えています。
ところで、この「日本刀の硬性」ということについては、秦郁彦氏が「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実(二)」で、山本の「日本刀はバッタバッタと百人斬りができるものではない」という言に対し、無抵抗の捕虜を据えもの斬りする場面を想定外としていることと、成瀬著の『戦ふ日本刀』から都合のよい部分だけ引用している、という二つの理由から、「トリック乃至ミスリーディング」と評しています。
しかし、山本が日本刀の脆弱性について言及したのは、東日の新聞記事の第4報で、両少尉が互いに100を超えたレコードを「さすがに刃こぼれした日本刀を片手に」報告し合い、さらに向井少尉が、記者の前で「俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ」と述べたことを受けてのことでした。
つまり、本当に両少尉が百人斬り競争をしたとすれば、その時の日本刀は、血糊による刃先の腐食、刃こぼれ、刀身の曲がり、目釘のがたつきなどでひどい状態になっていたはずで、記者らはその日本刀を見たのか、それを見れば、「百人斬り競争」が事実であったか否かすぐに分かったはずだ、と言っただけのことです。
そもそも、捕虜等を「据えもの斬り」で殺そうと思えば、何も日本刀を使わなくても、カミソリでも可能です。つまり、なぜここで「日本刀の硬性」が問題になったかといえば、近代戦において日本刀で100人の敵をバッタバッタ殺すようなことはできない、という単純な事実を指摘したに過ぎません。このことは、成瀬の著書によらずとも、本多氏等が持ち出した鵜野晋太郎の証言でも証明されます。
また、「百人斬り競争」裁判も行われました。その判決は、「百人斬り競争」の記事の内容を信じることは出来ないし、その戦闘戦果ははなはだ疑わしいと考えるのが合理的である。しかし、両少尉が新聞報道されることに違和感を持たなかった、つまり、その記事の元となった武勇伝を記者に話したことは事実であるから、これを記者の創作記事であり全くの虚偽であると認めることは出来ない、というものでした。
また、朝日新聞の出版した書籍に、両少尉を「殺人ゲームの実行者」「捕虜虐殺競争の実行者」と名指しする表現があることについては、これは甚だしい名誉毀損表現であるから、控訴人等が受けた精神的障害を賠償する義務がある、としました。ただし、本件摘示事実(捕虜等を「据えもの斬り」したと主張されていること)が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないので、当該書籍の出版差し止め等は認められないとしました。
これは要するに、たとえ両少尉が「ヤラセ」で武勇談を語らされたとしても、あくまで本人が語ったことであって、いわば自白と見なされるということです。従って、これが記者の利益誘導によるものであっても、その対象となった戦場心理は戦後生まれの裁判官には分かりませんから、その結果、両少尉の「自白」が重視され、「ヤラセ」を誘導した記者の責任は問われない、ということになったのです。(南京裁判と同じですね)
また、「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽である事が証明されたわけではない、とする判断については、その論拠となったのは、大なり小なり、この「百人斬り報道」の延長あるいは余波としてなされた両少尉の言動、あるいはそれにまつわる伝聞証言や手紙その他新聞記事等であるようです。しかし、これらはその何れも「百人斬り競争」報道がない限り、生まれないものでした。
ところで、この両少尉の「百人斬り競争」が新聞記事となるについてとった態度には違いがあって、山本七平は、向井少尉が主導的な役割を果たし、野田はそれを茶化しながらも親しい友人のことだから「引き立て役」で付き合う、といった態度だと見ていました。実際、記事にある台詞は、ほとんど向井少尉で、野田少尉の会話は以下のような半ば冗談のようなものでした。
それは、第一報の野田の会話「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」に現れています。というのは、軍隊では人称代名詞を使う場合は必ず「自分は」でなければならず、「ボク、キミ、アナタ、ワタシ」は禁句で、次のような戯れ歌まであったといいます。”ボクといったら撲られた、ワタシといったら撲られた、ホンマに軍隊ヘンなとこ”。
また、この「百人斬り競争」は「前線ではさしたる話題にはならず、なっても新聞の誇大な武勇伝の一つとして軽く受け止められていた」。しかし、数年経つと内外を問わず二人は有名人になってしまい、「二人はどう対応したらよいかとまどったようすが窺える。話題を振られると、小心なところがあった向井は苦い顔で沈黙し、剛胆奔放な野田は開き直って茶化すという正反対の対応に走った例が多」かった、と秦氏は述べています。(秦上掲論文)「百人斬り」裁判で提出された新資料にはこうした両者の性格の違いがよく現れています。
また、これらの資料の中でとりわけ注目を集めたのが、望月五三郎の『私の支那事変』(私家版)における「百人斬り競争」に関する記述でした。ここでは「百人斬り競争」はまるで絵に描いたような住民(=農民)虐殺競争として描かれています。しかし、この本の出版は昭和60年7月1日で、本多氏等が「虐殺説」を唱えはじめた後の出版であり、前後の文脈からして不自然で、資料的価値は全くないと思います。
そもそも、両少尉の所属する第16師団が白茆口に11月15日頃上陸し、無錫から紫金山まで約180キロの間を14日間で、後退する敵と戦闘を交えながら走破した強行軍において、そんな農民=住民虐殺ゲームなどやってる暇などなかったはずです。また、前回も指摘しましたが、この強行軍の中で多忙を極める大隊副官と歩兵砲小隊長が、自らの職務を放棄して、このような残虐な私的競争をやるなどあり得ない話で、また、軍紀上も決して許されなかったと思います。
また、戦後生まれの私たちは、時代劇の影響で人を斬ることが簡単なように思っていますが、実は、「人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮かんできたり、夢に出てきたりするほど、衝撃的なこと」だといいます。「従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、先ず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないもの」なのだそうです。まして、それを武勇談にして新聞に載せるなどありえない話です。
にもかかわらず、裁判所の最終判断が、「百人斬り競争」において示された「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないとしたのは、これらの新資料によるのではないかと思われます。しかし、こうした判断は、前回の論考で述べた通り、東日の「百人斬り競争」記事が「ヤラセ」であったことが証明されれば、自ずと消えて然るべきものです。そして、その証明は30年前の論争で決着したと思っています。
聞くところでは、南京大虐殺記念館を世界遺産として登録申請しようとする動きもあるそうです。その時、その入り口に掲げられた等身大の両少尉の写真は、私たちに何を語りかけるでしょうか(前回紹介した野田少尉の日本国民に向けた遺言も想起すべきだと思います)。その時までに、私たち日本人は、この事件の真相を明らかにしておく必要があると思います。なにしろそれは、戦意高揚をねらった日本の新聞記事により引き起こされた歴史的冤罪事件だったのですから。 
 
「百人斬り競争」関係資料

 

野田毅「日本国民に告ぐ」(昭和二十二年十二月二十八日)
一、日本国民に告ぐ
私は曾て新聞紙上に、向井敏明と百人斬り競争をやったと言われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが、冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせ申し上げたことにつき衷心よりお詫び致します。
「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。
日本は見事に敗戦致しました。もはや虚飾欺瞞するの秋ではありません。赤裸々に本心をぶち開け、誠心を披瀝して、平和日本再建に邁進すべきの時です。この意味に於て私も過古の恥を申上げて、お詫び申し上げた次第です。
只、今般中国の裁判に於て捕虜住民を虐殺し、南京屠殺に関係ありと、判定せられましたことに就いては、私は断固無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京に於いて百人斬りの屠殺をやったことはありません。此の点、日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとえ私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位は日本にとっては問題ではありません。ただし問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。
私の死を以て今後中日間の怨みや讐や仇を絶対に止めて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以てしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。中国人も人間であり東洋人です。吾々日本人が至誠を以てするなら、中国人にも解らない筈はありません。至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり、東洋平和の人柱となり、何ら中国に対して怨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得たことを以て、日本国民もこれを諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
(中略)
一、日本青少年諸君に与う
一国の攻防は青少年を見れば足る。最も惨憺たる悲運の境遇にある諸君は最も幸運と云うべし。此れ以上の敗戦の惨苦と不幸はあらざるが故なり。前途は只洋々たる再建希望の日本あればなり。
かかって諸君の双肩にあり。身を以て予は大愛と至誠を感得せり。日本青少年よ、異常なる大勇を以てせざれば「大愛」と「至誠」の実行は不可能なり。乞う、大死一番、右の二句を以て世界平和に邁進せよ。
(一月二十八日)
南京戦犯所の皆様、日本の皆様。さようなら。
雨花台に散るとも、天を恨まず、人を恨まず。日本の再建を祈ります。
萬歳、萬歳、萬歳
朝日新聞「中国の旅」<競う二人の少尉>
「『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような《殺人競争》を紹介した。AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう──。二人はゲームを開始した。結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった。『どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、今度は百五十人が目標だ』 この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」
東京日日新聞記事 
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>
百人斬り競争!両少尉、早くも八十人
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。
無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 / この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉 / 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ
1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <第2報>
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。
1937年(昭和12年)12月6日付朝刊 <第3報>
89−78百人斬り¢蜷レ戦 勇壮!向井、野田両少尉
南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。
1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <第4報>
百人斬り超記録 向井 106−105 野田 両少尉さらに延長戦
南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。
十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が 「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。
十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
国防部審判戦犯軍事法庭 判決
公訴人 本庭検察官
三十六年度審字第十三号
被告 
 向井敏明 / 男 / 年三十六歳 / 日本山口県人 / 砲兵小隊長
 野田巌(即ち野田毅)年三十五歳 / 日本鹿児島県人 / 日軍第十六師団富山大隊副官
 田中軍吉 / 男 / 年四十三歳 / 日本東京人 / 日軍第六師団第四十五連隊中隊長
指定弁護人 蔀誦斉律師  崔培均律師
右被告等の戦犯案件は、本庭検察官に起訴せられ本庭に於て判決すること左の如し。
主文
向井敏明、野田巌、m中軍吉は作戦期間、共同連続して、俘虜及び非戦闘員を屠殺したるに依り各死刑に処す。
事実
向井敏明、野田巌は作戦期間内、日軍第十六師団中島部隊に隷属し、前者は少尉小隊長、後者は副官に任しあり、田中軍吉は第六師団谷寿夫部隊に隷属し、大尉中隊長なり。
民国二十六年十二月南京の役に於て、我軍の強硬なる抵抗に遭遇し、街痕[恨]の余り計画的屠殺を以て欝噴を晴らさんとし、田中軍吉は京城西南郊外一帯に於て宝刀『助広』を使用して俘虜及び非戦闘員計三百余名を連続的に斬殺したり。
向井敏明及び野田巌は、紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し、各々刺刀を以て老幼を問わず、人を見ればこれを斬殺しその結果、野田巌は百五名、向井敏明は百六名を斬殺し、勝を制せり。日本投降後、野田巌等相前後して東京に於て盟軍総司令部に逮捕され、我駐日代表団に依りて南京に解送され、本庭検察官に依りて起訴されたるものなり。
理由
按ずるに被告向井敏明及び野田巌は、南京の役に参加し紫金山麓に於て、俘虜及び非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し、その結果、野田巌は合計百五、向井敏明は百六名を斬殺して勝利を得たる事実は、当時南京に在留しありたる[実際には在留せず一外籍記者田伯烈が、その著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず
即ち遠来国際軍事法庭中国検察官弁事処が捜獲せる当時の「東京日日新聞」が、被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし、如何にその超越的記録を完成し、各その血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して、「悦」につけ[い一りある状況を記載しあるを照合しても、明らかなる事実なり。
なお、被告等が兇刃を振ってその武功を舷耀する為に、一緒に撮影せる写真があり、その標題には「百人斬両将校」と註しあり、これ亦その証拠たるべきものなり。更に南京大屠殺案の既決犯谷寿夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても、それには「日軍が城内外に分室して大規模なる屠殺を展開し」とあり、その一節には殺人競争があり、これ即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。
その時、我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは十九万人に上り、彼方此方に於て惨殺され、慈善団体に依りてその死骸を収容されたるもののみにても、その数は十五万人以上に達しありたり。これ等は均しく該確定判決が確実なる証拠に依拠して認めたる事実なり。更に亦、本庭のその発[叢]葬地点に於て、屍骨及び頭顧数、数千具を掘り出したるものなり。
以上を総合して観れば、則ち被告向井敏明及び野田巌が南京大屠殺作戦の共犯として係ったことは、実質的に毫も疑義なし。被告等は自らその罪跡を譚飾するの不可能なるを知り、「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし、以て専ら被告の武功を昴揚し、日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと読弁したり。
然れども作戦期間内に於ける日本軍当局は、軍事新聞の統制検査を厳にしあり、殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり、若し斯る殺人競争の事実なしとせば、その貴重なる紙面を割き、該被告等の宣伝に供する理は更になく、況んや該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は、確実の証拠を以て、これを証実したるものにして、普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。これは十分に判決の基礎となるべきものなり。
所謂殺人競争の如き兇暴惨忍なる獣行を以て、女性の歓心を博し以て、花嫁募集の広告となすと云うが如きは、現代の人類史上未だ曽て聞きたることなし。斯る抗弁は一つとして採取す るに足らざるものなり。
次で田中軍吉は既決犯谷寿夫の直属部隊であり、谷寿夫が南京に攻め入り屠殺を実施せる時に、軍刀「助広」を携えて参興せる事実は、被告が既に自ら自白せる所なり。
敵首谷寿夫が当時部隊を引率して、我が首都に於て惨絶塵宣の大屠殺を十数日に亘りて行い、その惨殺に遭遇せるものは三十万人の多きに達しあり、これは本庭三十六年度、審字第一号の確定判決に依り、証し得るのみならず、世を挙げて共聞の事実なり。
被告田中軍吉は谷寿夫の直属部下の地位にあり、刀を持して参与し、その混乱中に被告の「助広」刀下に斬殺されたる我方俘虜軍民の数は三百余人の多きに達しあり。右は日本の軍官山中峯太郎がその著「皇兵」なる一書に被告の軍刀の写真を掲載し、その標題に「三百人斬の隊長(指田中軍吉)愛刀助広等の傍註があることに依って立証し得るものなり二三頁の写真参照」。依ってこれは南京大屠殺案中、殺人を実施せる共犯の一にして疑いなし。
被告は、その写真はシャツを着用しあるを以て、これは夏季に撮影したるものであり、而して南京攻撃は冬季なるを以って該写真は、南京以外の某所に於て一人を斬殺せるものなりと抗弁したるも、然し刀を揮い、力を奮って猛斬なさんとするものがその動作の便利を期さんが為に、例え冬季とは言えども上衣を脱却することは、常事とする所にしてこの事に依り罪証を避くることは不可能なり。且つ南京大屠殺に参与せる事実は己に衆証確実なるものあり。読弁は許されざるものなり。
按ずるに被告等は、連続的に俘虜及び非戦闘人員を屠殺せるは、海牙(ベーダ)陸戦規例及び戦時俘虜待遇公約に違反するものにして、その行為は戦争罪及び人道罪を構成するものなり。平民の屠殺を武功と認め、殺人競争を娯楽となすことはその兇悪絶頂に達し、その野蛮的行為は倫理にも反し、これは実に人類の善賊であり、文明の公敵であり、若し法を尽して厳懲せざれば如何にして紀綱を粛し、世道を維持するを得んや。爰に各極刑に処し、世を戒むべし。
掲て上建の論結に依り、刑事訴訟法第二百九十一条前段、海牙陸戦規例第四条第二項、第二十三条第三款、第四十六条第一項 戦時俘虜待遇公約第二条、第三条 戦争罪犯審判条例第一条、第二条第二款、第三条第一款、第十一条 刑法第二十八条第五十六条前段第五十七条に依り、判決すること主文の如し。
本案は本庭検察官李熔薮庭をして職務を執行した。
中華民国三十六年十二月十八日
国防部審判戦犯軍事法庭
審判長 石美喩、審判官 李元慶、審判官 孫建中、審判官 龍鍾煙、審判官 張替坤
右正本は原本と相異なきことを証明す。       書記官 施 泳
中華民国三十六年十二月十八日
[野田毅、向井敏明]上訴申弁書
民国三十六年十二月二十日
具呈人 向井 敏明  野田 毅
国防部審判戦犯軍事法庭
庭  長  石
国防部長  白   転呈
主  席  蒋
被告向井敏明及び野田毅は、民国三十六年十二月十八日国防部審判戦犯軍事法庭に於て、死刑を即決せられたるも、該判決に不服有之、左の通【り】上訴申弁書を提出し復審を懇請す。
一、原判決は被告等の『百人斬競争』は、当時南京に在りたる田伯烈[ティン・パーリイーの著『日本暴行紀実』に詳明に記載しあるを以って証し得るものなりと認めあるも、『日本暴行紀実』に掲載されある『百人斬競争』に関する部分、日本新聞の報導に根拠せるものなり。
該書は本件関係書類として貴法庭にも在り。復ねて参照するも難しとせず。則ち田伯烈の記述は明らかに南京に於て目撃したるものに非ざることは言を挨たざるものなり。然るに原判決の所謂『詳明に記載しあり』とは、如何なる根拠に依るものなりや判知し得ざるところなり。
況や新聞記事を証拠と為し得ざることは、己に民国十八年上字第三九二号の最高法院の判例にも明にされあり。それは単に事実の参考に供するに足るのみにして、唯一の罪証と為す能はざるものなり。なお、犯罪事実は須く証拠に依って認定すべきものにして、この事は刑事訴訟法第二六八条に明に規定せられあり。その所謂『証拠』とは積極証拠を指して言うものなることは、己に同法院に於て解釈されたるところなり。
被告等は公判廷に於て屡(る)次に亘り、殺人競争を否認しあり。而して貴法庭には被告等が殺人競争の行為を為したることを証明する直接、間接の積極的証拠は毫も無く、単に被告等の所属部隊と異なる兵団の部隊長たる谷寿夫の罪名認定を以って、被告等に南京大屠殺に関する罪行ありと推定判断するものなるも、斯ることの不可能なることは些も疑義なきところなり。
二、原判に於ては、『東京日日新聞』と『日軍暴行紀実』とは符合すと認定せるも、該紀実書籍の発行期日は東京日日新聞記載の期日後にして田伯烈が新聞の記事を転載したること明瞭なり。況や、新聞記者浅海一男の中華民国三十六年十二月十日記述したる証明書第一項には、『該記事は記者が実地目撃したるものに非ず』と明言しあり。即ち該記事は被告等が無錫に於いて記者と会合せし際の食後の冗談にして全然事実に非ず。東京に於ける記者浅海一男及び被告向井に対する盟軍の調査に於ても、この記事は不問に付せられたるものなり。
被告等所属大隊は、民国二十六年十二月十二日旗麟門東方に於て行動を中止し、南京に入らざりしは富山大隊長の証明書により明瞭にして、被告野田が紫金山付近に行動せざることを明白に証明しあり。
また、被告向井は十二月二日丹陽郊外にて負傷し、爾後の作戦に参加せず。従って紫金山付近に行動せざりしこと、亦富山大隊長の証言書にて明顕なり。
また、該新聞記事の百人斬りは戦斗行為を形容したるものにして住民、俘虜等に対する行為に非ず。残虐行為の記事は日本軍検閲当局を通過するを得ざることは記者の証言書にて明白なり。故に貴庭に於て記事が日本軍の検閲を経たるを以て、被告の残虐行為なりと認定せられたるは妥当ならず。
以上の如くなるを以って、新聞記事は全然事実に非ず。唯、被告等と記者との食後の冗談に過ぎず、貴判決書に多数の白骨叢葬地点[紫金山附近の文字を削除し、上記四文字に書き替えている」より現出するを以て証拠なりと述べあるも、被告等未到の地に於て幾千の白骨現出するとも、これを被告等の行為と断する為の何等の証拠となすに足らず。
若し、貴庭が被告等の冗談を被告の自白なりと認定せんとするも、その自白が事実と符合せざるものなるを以て、刑事訴訟法第二七〇条の規定により判決の基礎となすに足らざるものと信ず。
三、被告等は全然関知せざる南京大屠殺の共犯と認定せられたるは、最も遺憾とし最も不名誉とするところなり。
被告等は断じて俘虜、住民を殺害せることなく、また断じて南京大屠殺に関係無き事を全世界に向い公言して憚らず。被告等の潔白は当時の上官、同僚、部下、記者等が熟知しある所なるのみならず、被告等は今後貴国及び日本国は恩讐を超えて、真心より手を握り世界平和の大道を邁進せられんことを祈願するものなり。
以上陳述せし通り、原判は被告等に充当し得ざるものと認むるに付き、何卒公平なる復審を賜わらんことを伏して懇願す。
註 富山武雄  証明書  二通
浅海一男  証明書  一通  添付す  (了) 
 
南京大虐殺は幻か / 洞富雄の論理を検証する

 

1、職務がかくされた理由
(洞)
・ 確かに向井少尉が歩兵砲小隊長であることは秘匿している。
・ だが、野田少尉についてはそうは言えない。
・ 官といえば、すぐさま「副官」だと考えるのが普通ではなかろうか。
・ ○官という職務を持った歩兵小隊長など聞いたことがない
・ 「副」を伏字にしたのも、はたして浅海記者自身であったかどうか疑問である。軍の検閲係かもしくは本社のデスクであったかもしれない。
・ だが、歩兵砲小隊長や大隊副官が、終始第一戦の戦闘に参加して百人斬りをする確率は極めて少ないだろう。
・ ではなぜ浅海記者はこうした疑わしい記事を書いたのか
・ 第四記事で野田少尉を○官としたのは「百人斬り」が正当な戦闘行為ではないことを知っていたからではないかと思う。だから向井少尉の職務のほうは曖昧にしたのだろう。
・ それで、私的盟約ととられるような記事まで書かざるを得なくなった。もっとももこうでも書かなければ検閲をパスできなかっただろう。
要するに洞氏は「浅海記者は正当な戦闘行為ではない事を知っていたから、向井少尉が歩兵小隊長であったことを隠し、野田少尉を○官としたのであり、かつ、「私的盟約」ととられかねない記事まで書いた。そのようにして検閲をパスした」といっているのです。
それなら、なぜ浅海記者は、そんな残虐行為がなされていると知りながら、その実行犯である二少尉の職務を隠し、上官の命令に基づかない「私的盟約」による戦闘行為を捏造してまで、軍の検閲をパスさせて新聞報道しようとしたのでしょうか。「特ダネ」記事を書くためには捏造記事を書くことも厭わなかったということになるわけで、これ、記者の行為として弁護できますか。
この洞氏の浅海記者弁護論は、冒頭から浅海記者を「特ダネ」を書くためには残虐行為を武勇伝に書き直すことも厭わない、いわゆる「虚報」を流すトンデモ記者と規定したことになります。 
2、淺海記者の証言は偽証か
・ 浅海記者が「見たままを記事にした」と証言したことについて、山本が身の安全を図るため偽証したと批判したことについて
(洞) 向井・野田少尉を救うために「百人斬り」は実は虚報だったと、なぜ偽証してくれなかった、というならまだしも、十分な根拠なしにどうして人に向かって”お前は人殺し”だなどと言えるか。
・ 山本は浅海記者は「二人の話をフィクションと聞きながらこれを事実として聞いたと証言した」と理解するが、この論理にはついて行けない。
1.で洞氏は自ら、浅海記者を残虐行為を武勇伝とする「虚報」を書いたとしているわけで、それは残虐行為を見て見ぬふりしただけでなく、それを武勇談に仕立て上げ、その残虐行為を奨励したと言っていることになるわけで、これこそ”お前は人殺し”だと言っていることになります。これなら、浅海記者にとっては「フィクションを事実として聞いた」と非難された方がよほどましです。全く、この論理には”ついて行けません” 
3、奇妙な心理分析
(洞)
・ 山本は、両少尉は浅海氏の書いた台本どおりにおしゃべりしたと断言する。談合は浅海と向井の間で成立、野田が引き立て役、軍隊でいう「オダアゲ」だという。
・ 私は「オダアゲ」も将校的なものの言い方も皆目知らないが、野田が「百人斬り」の創作に参加すれば新聞に出るわけで、これを上官に報告しなかったとは到底考えられない。野田の言葉は余りに短かすぎて十分な資料とは言えないのに、断固として上記の判断を下せるか。
両少尉とも「オダアゲ」がどんな記事になるか皆目見当がつかなかったのです(戦場には数週間遅れでしか日本の新聞は届かない)。野田は連隊長に「スポーツ競技じゃないぞ、と叱られた」ようですし、向井は6ヶ月後にこの記事の内容を知り「大変驚き、且つ恥ずかしかった」といい、その後この記事に触れられるのを極度にいやがったと言います。まあ、軍のことは山本七平のほうが詳しいわけで、皆目知らないなら、こうした山本の判断をとりあえず尊重すべきでは。 
4、次は向井少尉の心理分析について
(洞)
・ 幹部候補生という向井の、職業軍人にはない手柄意識、花嫁候補、ホームシック・・・こういう戦場心理の分析も私には理解できない。常識で考えた場合、「百人斬り」創作が事実として新聞に載れば、日本の軍隊では死ではなかろうか。また私兵を動かしたという「死刑の宣告」のような記事を両少尉が承知したとは理解に苦しむ。
先に述べた通り、どんな記事になるか判らず、上記のような戦場心理に負けて記者の求めに応じて「オダアゲ」してしまった。山本はその心理を体験上理解できると言っているわけで、これも「戦場心理が理解できない」のであれば、「理解に苦しむ前に」山本の解釈を尊重した方がよろしかろう。
(洞) 浅海記者もすぐにネタ割れするインチキ記事を4回も新聞に書き続けたとは到底考えられない。
冒頭の「虚報」を流すトンデモ記者、という洞氏の浅海記者の規定と矛盾します。 
5、向井君の冗談から
(洞)
・ 浅海と向井・野田両少尉のなれ合いで創られた記事と山本はいうが、それを確証する証拠はあるか。両少尉の手紙に「口は禍の元」とあるが、新聞記事は事実無根であったとしても、新聞記事の根源は同少尉の「大言壮語」にあったことを自ら語るものではないか。
新聞記事は事実無根であったとしても、どちらが先にその「事実無根」の話を持ちかけたか、両少尉の方ではないか、と洞氏は言っているのですが、浅海記者が誘ったか両少尉が持ちかけたか、それは判りません。だが両者なれ合いで、記者が両少尉に「ヤラセ」をさせることでこの記事が創られたと、山本は言っているわけで、この洞氏の問いは問いになっていません。
(洞) 向井「自分は一体何のために殺されるのか判らなくなってきた、生来誰一人手をかけたこともないのに殺人罪とは・・・」これは裁判関係者に見られることを予測して書かれているはずであり、裁判官は心を動かされず客観的証拠に基づいて判決を下したのだろう。
裁判官が向井を殺人罪とする客観的証拠を持っていたというのですが、これは判決文が出てきていますので、そんなものはなく、唯一の証拠は浅海記者の書いた「新聞記事」であったことが明らかになっています。 
6、アリバイに触れない山本氏
(洞) 山本は、野田は大隊副官でありながら「百人斬り」を戦闘詳報に記さず大隊長に知らせず、新聞を見て初めてこの事実を知った、というが、戦闘詳報を読んだのでなければこんな断言は出来ないはずだ。
野田少尉は第16師団歩兵第19旅団歩兵第9連帯歩兵第3大隊大隊長付き副官です。「百人斬り競争」は洞氏も認める通りの「私的盟約」に基づいたような戦闘として記事に書かれているのですから、それが戦闘詳報に書かれるはずがありません。戦闘詳報を読んだのでなければ断言出来ないというようなものではないのです。洞氏はこれを捕虜虐殺と見ているのですからなおさらでしょう。
(洞) 仮に戦闘詳報に記されていなくても別に不思議でない。捕虜に対する残虐行為なら記録しなかったはずである。
その通り
(洞) 佐藤振寿記者と鈴木記者の言葉は誤差があってもその通りだろうと言う山本の判断と、向井・野田両少尉のアリバイの主張は両立し得ない。にもかかわらず向井上申書にいう「浅海記者が創作をなしたる・・」事実を認めようというのか。
山本は、佐藤が証言した常州の会見と、鈴木が証言した紫氏金周辺での会見は、そこでなされた両少尉の会話等を見て事実だろうと見ています。私もそう思います。だた、本人達は否定している。それは、そこでの会話が裁判で「自白」と見なされたからで、それを「ヤラセ」だったといっても裁判では通用しないので、やむを得ず否定したのだと私は見ています。
なお、「浅海記者が創作をなしたる・・・」というのは、その会見のことではなく、いわゆる「ヤラセ」で「オダアゲ」したことが「百人斬り競争」という武勇談になったと言う事実のことを言っているのです。会見の事実と「ヤラセ」の事実は別であって、ここでは向井は浅海が「ヤラセ」で創作記事を書いたという事実を言っているのです。
(洞) 山本は崔培均弁護人を高く評価しているが、弁護人が両被告の無実を信じていたということにはならない。弁護人の仕事は、例え、被告に不利な点があっても被告を無罪に持ち込むため全力を尽くすものである。
「上訴申弁書」が「判決書」の判決文に挙げられた各証拠に対して、完璧な反証を行い両少尉の無罪を立証していることは事実であって、それだけで弁護士としては十分な評価に値すると思います。物的証拠もなしに両少尉を捕虜虐殺犯と決めつける洞氏のような弁護士もいくらでもいるわけで、法定弁護士であった崔氏は誠に立派であったと思います。 
7、捕虜虐殺の告白はとりつくろいか
(洞) 志々目証言、野田少尉の母校での発言「白兵戦の中で斬ったもの四、五人しかいない」の山本の解釈は、百人斬りは虚報の証明というが、これは捕虜虐殺の証明だ。
100人斬りのヒーローと紹介されて、子供の前に「白兵戦で斬ったのは五、六人」というのは、「百人斬り」虚報の証明か、それとも「捕虜虐殺」の証明か、常識的判断では子供の前で嘘はつきたくなかったが全部嘘というわけにはいかないので五、六人と言ったのでは?「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる、それを片っ端から……」というような言い方は、当時の兵隊支那語だったらしく、戦後生まれの私も、この言葉が子供の間で「支那兵を馬鹿にした言葉」として使われていたことをかすかに憶えています。
そういった観念が当時の日本人の頭にあった事は事実だと思う。野田少尉はそういう世間に流布した表現を判りやすくするため使ったのではないだろうか。と言っても志々目は小学6年生頃の記憶であって、実際の表現がどのようなものであったかは判らない。ただ、これを「捕虜虐殺」の証明というのは無理で、この言葉は「虐殺の証明」ではなく、単に「日本兵が支那兵を馬鹿にしていた事の証明」と見るべきではないか。
(洞) 山本は定説が出来てしまうと「とりつくろう」しかないというが、子供の前で、英雄のイメージをぶち壊すような残虐な話につくりかえて「とりつくろう」必要がどこにあるか。おおらかな、事の真相の告白とみるべき。
上に述べた通り、そうした「中国兵のイメージ」が少しも残虐な話としてではなく、子供の世界にも通用していた、ということです。ご高齢の洞氏の記憶にもあるはずだと思いますが・・・。 
8、向井少尉の長広舌と負傷後の心理
(洞)
・ 山本は「向井少尉の長広舌」は戦場の軍人の感情が出ているので談話そのものという。
・ 山本は、向井少尉の「担送」のアリバイがあったから戦犯法廷に出張していった、と言うが、ここで戦犯法廷とは極東軍事裁判であって、警官による有無をいわさぬ拘引だったはずである。躊躇する暇などなかったはず。
向井を拘引に来た警察官は暗に逃亡を勧めたと言います。しかし向井は「僕は悪いことはしてないから、出頭します」「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるかも知れない。大丈夫だよ.連合軍の裁判は公平だから」といい、奥さんが虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・?」と彼に聞くと、彼は、「あんなことは、ホラさ」と、事もなげにいった、と言います。
また、弟の猛さんにも22年の4月頃市ヶ谷の軍事法廷の検事局に出頭したとき、猛が「危なければ逃げたほうがいいんじゃないか」と念を押したが、「百人斬りが本当でないぐらいのことは、子供でもわかるさ」と楽観していたといいます。実は、山本七平は、この戦犯裁判の実態についてフィリピンの捕虜収容所に収容されていたときの経験からこの戦犯裁判のデタラメさをよく知っていて、戦後帰国後も一年数ヶ月熊野に逃げていました。少しでも危険が感じられれば、皆そうしたそうです。
そうした経験に照らして、この向井少尉の態度を見ると、よほど無罪証明に自信があったからだろうと山本は言っています。それが丹陽郊外から紫金山の部隊に復帰するまで負傷療養した事実がアリバイとしてあったからだろうと、山本は見ています。
(洞) 担送の事実、「上申書」では15と、6日となっているのを、10日復帰としているが、どう辻褄を合わせたのか説明がない。
山本は、11日の記事にある向井少尉の会話をその内容から向井少尉の会話だとみています。このあたり稲田朋美さん等が起こした裁判では、両少尉の申し立て通り否定していますが、私は、山本の見方の方が正しいと思います。向井が舞台復帰の日を15、6日としているのは、山本も推測する通り、10日の会話が自白と見なされそれで死刑求刑されているのですから、記事にある10、11日から少しでも遠く離れたかった、そういう心理が働いたものと思われます。 
9、日本刀神話の「実態」
(洞) 山本は、「日本刀で鉄兜唐竹割り・・・大新聞がこんなばかげたことを・・・信憑性があるから記事にした・・・断固として伝説だと主張しますか・・・全く何といってよいやら言葉に苦しむ・・」という。ご説ごもっとものようだが、部分的な過ちを犯したからといって、全体が駄目だというに等しい説き方は論理が短絡過ぎる。
部分的な過ちを指摘しているだけでしょう。一方、洞氏は一方的に、「百人斬り競争」全体を「捕虜虐殺」と決めつけ、部分的な過ちがあることをもって全体が駄目だと言うのは短絡的すぎる、と言っているわけですが、全体像が明らかでないから部分的な検証を積み重ねているのであって、そんな検証なしに全体を「捕虜虐殺」と決めつける洞氏こそ短絡的です。 
10、日本刀ははたして軟弱か
(洞) 日本刀の威力を証明するのに、鵜野晋太郎が捕虜虐殺に日本刀を使った例を挙げている。
私が、いわゆる虐殺派の人たちがどうしても理解できないのは、鵜野晋太郎というとんでもない捕虜虐殺事件を引き起こした人間を引き合いに出し、かつ、それが自らの犯行を自白したことをもって高く評価している点です。普通なら、国内で裁判をやり直してでも極刑に値する人物です。そんな異常な殺人鬼のような人物のやったことを、なぜ、普通の日本軍兵士にあてはめ一般化しようとするのでしょうか。
(洞) 百人は大言壮語だったとしても二人の場合捕虜虐殺は全くやっていないとか「殺人競争」は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。
これも大言壮語と認めつつ、捕虜虐殺は全くやっていない・・・ことにはならない、という訳の判らない論理です。「百人斬り競争」を「百人捕虜斬り競争」とすることの無理を、「捕虜斬りを全くやっていないはずはない」という論理に転換しているわけで、このあたり、自分の主張に無理を感じ始めたのでしょうね。 
11、戦闘行為と戦闘中の行為
(洞) 山本はなぜ東京の軍事法廷が二人を不起訴にし、南京軍事法廷が二人を死刑にしたか調べよという。また、近代戦において「百人斬り競争」と言う戦闘行為がありうるとは誰も信じないという。
その違いは前者は伝聞を証拠としなかった、後者はその伝聞証拠の中の自白を証拠としたことです。なお、洞氏自身も近代戦に「百人斬り」が可能と信じていないから「捕虜虐殺」と言っているのでは。
(洞) また、山本は、新聞記事では斬った相手が戦闘員なのか非戦闘員なのか判らない。そこでは「戦闘行為」としてではなく「戦闘中の行為」と書いている。これは戦闘中の非戦闘員虐殺と読める、という。この解釈はこじつけである。
「戦闘中の行為」には「戦闘中の非戦闘員虐殺」も含まれるとを言っているのです。
(洞)目的語を省くのは、日本語の文章としては何回も同じ事を書かない方がむしろ気が利いている。
敵について「銃や機関銃で武装した敵」ということを一カ所でも記事の中に書いていれば、それを繰り返さなくてもかまいませんが、どこにも書かず、「戦闘中の行為」を描写しているから、こう言っているのです。
(洞) 「百人斬り競争」の記事を読んで捕虜の虐殺ではなかろうかと疑うのがむしろ自然。
戦時中の日本人はこれを武勇談として読むということが記者に判っているから記者はこの記事を書いたのです。これに対して、中国人はこの記者や日本人よりリアルなものの見方をするから、これを捕虜虐殺と読んで、これを反日プロパガンダに利用したのです。
(洞) 山本は戦闘中の非戦闘員の殺害は処罰の対象になる、という。
そりゃそうでしょう。
(洞) 浅海氏の証言は「住民・捕虜に対する虐殺行為ではない」であって「戦闘中の行為」とはいっていない。
浅海記者の証言を信用したいなら、素直に「百人斬り競争」は「住民・捕虜に対する虐殺行為ではない」と言うべきです。 
12、東京では「不起訴」、南京では「死刑」
(洞) 東京裁判で無罪放免になったというが、「B・C級裁判の向井・野田少尉を東京裁判の被告とみるのはおかしい。」浅海氏は極東軍事裁判の証人として出廷したのか。私は見落としていたが、新聞記事は証拠としないということではないか。しかし、これは「不起訴」にしたとか「無罪」にしたとかを意味するものではない。極東軍事裁判はA級だから、南京に送っただけ。
東京裁判で処刑された松井石根はB級で死刑判決を受けました。まあ、この極東軍事裁判での検察の証人調べは「百人斬り裁判」で資料が出ましたから、言う事はありません。伝聞証言は証拠にならなかったと言うだけです。
(洞) 山本は、戦闘中の非戦闘員殺害を武勇伝として大々的に報道する民族=残虐民族説も成り立つと言うが、こういったまか不思議な論理は理解できない。捕虜虐殺と見た人ならいたかもしれない。
この「捕虜虐殺」と見られかねない記事を武勇伝として、世界が見ているにもかかわらず平気で報道する日本人を見て、欧米人はそう見たというのです。これ、まか不思議な論理ですかね。中国もこれを捕虜虐殺記事として宣伝価値があると見たから、これが本多記者の聞いてきたような捕虜「百人斬り競争」として伝わったのです。
(洞) 山本は、この記事だけが証拠なら有罪宣告は不可能だろうという。新聞記事以外に、なにかのがれられぬ証拠があったのではないか。例えば、母校における講演の筆記とか、両少尉の手記とか。
・ 上訴申弁書は被告側の一方的資料にすぎない。裁判に関する全記録を検討した上でなければならない。
・ 鈴木明氏は起訴状や判決書を公開すべき
起訴状や判決書は公開されています。その結果、この記事だけが証拠となり死刑宣告がなされたことが明らかになりました。 
13、十二月十日の会見記事
(洞) 週刊新潮の第四報の解釈、山本の間違い
その通り、これは山本の間違いです。
(洞) 山本は、浅海記者が10日の正午と11日午後3時以降、鈴木特派員と一緒に「中山稜を眼下に見下ろす紫金山で」向井少尉と会って、その長広舌を聞いていたという印象を与える体裁に書かれている、と見ている。
だた私にはそうは考えられない。「百人斬りドロンゲーム」の顛末を語ってのち云々」とあるのは、明らかに、浅海記者が紫金山で向井少尉に会った11日昼で、このときはじめて”ドロンゲーム”の顛末を聞いた事を示しているのではないか。つまり浅海記者が資金山で向井少尉に会ったのは11日の昼1回きりで、その時、前日の昼頃両少尉が対面して、たがいに「百人斬り」のレコードを誇り合い、明11日からは、目標を更新して「150人斬り」・・・を誓ったことを聞き、12日の記事で、10日の両少尉の対談を現場で見聞きしたように生き生きと書いた、ということであろう。
この記事から、10日両少尉会談、浅海記者立ち会いを詮索するのはむしろこじつけではないか。この記事が12日に書かれたものだとすれば、「11日からいよいよ150人斬りがはじまった」と書いてあるからといって、別におかしくない。山本のいう作為などない。
要するに、10日の会談は両少尉だけの会談と言いたいのでしょうが、この会話は、数を決めて時間を争う競技を、時間を決めて数を争う競技に転換するための巧妙な会話で、こんな芸当が戦闘中の両少尉に出来るはずもなく、第一、両少尉は常州で佐藤記者に審判を当番兵と言い、第二報の記事には「東日新聞の記者に審判をしてもらう」といい、審判を誰がやるかもはっきりしてなくて、ルールの確認どころの話ではなかったのではないですか。故に、この会話はこのルールの矛盾に途中で気づいた浅海記者がその修正のために創作した会話ではないかと見ているのです。私もこの見方に同意します。
(洞) 向井上申書「10日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない」というのは、帰隊は15、6日といっているのだから、山本の11日会合を認める山本の証言にはならない。
この点は先述した通りで、私も山本の見解に同意します。
(洞) 鈴木証言では、紫金山での会見は一回だけ11日か12日だろうと言っていることで、「両少尉による10日正午の会談が虚偽である」という判断を導くことは出来ない。
鈴木記者は一回しか両少尉に会っていないと言うだけのことです。10日の両少尉の会談の内容は、先ほど述べた通りルールの変更のためでしたが、鈴木記者は、10日の会談の意味を全く理解していません。簡単に「ドロンゲーム」に出来る問題ではないのです。つまり、不可能なルールで紫金山まで「百人斬り競争」をやっていたことになるわけで、一体誰が両少尉と同時に走りつつ死者を数えたのですか。こんなことはあり得ないわけで、そこで、それを修正するため浅海記者は10日の両少尉の会話を創作したのではないかと、山本は判断したのです。私もそう思います。
(洞) 山本は10日会見でっち上げの理由を、「11日は敗残兵狩りの真っ最中」としたため、二少尉の会見を10日に持っていった。決定的なのは、数を限定して時間を争っても時間を限定して数をあらそってっもどちらも破綻しない模範的回答を腹案として持っていて、10日の会見としたのだろうという。
・ だがこれだけで10日の両少尉会談を否定することは出来ない。他に確証がなければ裁判官に耳を傾けさせることは不可能であろう。
これだけではないことは前に説明した通り
(洞) 「敗残兵狩り」「敗残兵掃討」と言う軍事行動は日本軍全体に見られた常套的手段であり将兵の戦犯の責任を問われるものではなかった
「敗残兵狩り」と「敗残兵掃討」は違うのでは。 
14、真実のアリバイか偽証か
(洞) 山本は、向井少尉の15、6日帰隊の主張の解釈、死刑宣告されており少しでも死から遠ざかりたかったというが、向井は富山大隊長の証明書を見ないうちに上申書を書いた。それが15、6日で一致しているのは、向井が南京に送られる前にアリバイ工作があったからだ。
そうかもしれませんね。ただ、自白と見なされた会見、それは「ヤラセ」であって事実ではないのだから、何としてもこれを否定したかった。しかし裁判ではこの説明で裁判官を納得させることは困難だから――この事実は日本の「百人斬り競争」裁判でも両少尉の自白が証拠とされています。――この会見自体を否定するほかなかった。私はそう推測しています。
(洞) 向井負傷の証言は二、三あるが程度場所は不明、だが負傷した事実はあると見てよい。もし負傷が丹陽攻撃であったとすれば、第二、第三報は虚報となり、立派なアリバイとなるが山本はこれをアリバイにしようという考えが全然ない。
この負傷の証明ができれば無罪は勝ち取れたと思います。大体、向井の歩兵砲小隊は句容を通っていないのですから、これだけでも第三報は虚報であることが判ります。向井が丹陽攻撃で負傷したという事実を認めるなら、なぜ、この記事全体を虚報としないのか。山本はこのアリバイを認めているから、向井の酔っ払ったような長広舌の解釈を自分の体験に基づいてしたのです。人を非難している場合ですか。
(洞) 私は「百人斬り競争」の話を「軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である」若手将校に見られた残虐性の一例として紹介し・・・斬られたものの大半は捕虜であると考えたのである。二将校は日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者・・・個人の残忍性を攻めるのではなくその根源の責任が問われなければならない。
このあたり、二少尉を捕虜虐殺犯と決めつけていることに、言い訳をしてその責任を問われることから逃げようとしているのです。罪を憎んで人を憎まず風に・・・。何の物的証拠もなく、自分もこの記事は虚報で、向井にはアリバイがあると感じているのに、何としてでも両少尉を「捕虜虐殺犯」にせねばならない、一体どういう精神構造をしていれば、こんな無責任な人権意識の欠如した考え方が出来るのでしょうか。これが大学教授というのですから、恐ろしくなります。 
 
「南京大虐殺」は捏造だった

 

「南京大虐殺」とは?
1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。
この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。
日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。
しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。
南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。以下はその詳細です。
南京に戻ってきた住民
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。
また占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないでしょうから、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万〜27万人程度だろう」と書いています。
このように南京占領後、南京の人口は増えているのです。
南京入城に際し、新聞記者たちも同行
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。
蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず
中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。
日本軍によって殺された民間人はわずかだった
日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。
そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。
そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。
また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。
その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。
しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。
もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。
また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。
兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。
その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。
このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。
岡村寧次大将の記録は?
一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1) 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1) 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)
しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。
軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち
捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。
多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。
また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)。
このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。
もう少し中国兵の行動をみてみましょう。
日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』)
つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。
捕虜は虐殺されなかった
一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。
「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)
つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。
けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。
「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」
また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。
さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。
また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。
「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)
さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。
虐殺はなかったとする証言
当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』)
日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』)
東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」
歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』)
南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」
第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」
日本兵による悪事の証言の信憑性
ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。
市民・捕虜と日本兵の交流・温情
南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。
「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実』)
「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)
「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同)
都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 
さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』)
また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。
南京大虐殺と南京事件を区別すべき
以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。
けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。
もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。
つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。
中国兵らによる悪事の数々
南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。
「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』)
また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
黄 私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」
日本兵の犯罪は少数あった
つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。
南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』)
大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。
にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。
「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正)
つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。
では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。
しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。
つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。
安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』)
このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。
『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。
「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』)
このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。
隠れていた大勢の中国兵ら
いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。
「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編)
つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」
このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。
これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities)
松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正)
南京国際委員会が提出した被害届は、ほとんど中国人からの伝聞
南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、
「事例5:12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」
「事例10:12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」
こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。
まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。
また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。
強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。 
「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。
「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。
その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。
時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計)
このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。
ジョン・ラーベのリポート
この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
またラーベは、同じ日に、
「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。
「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)
このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。
強姦事件の真相
つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
両教授はこうも書いています。
「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。
マギー・フィルムの真相
日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。
またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。
「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」
この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。
マイナー・ベイツの虚偽報告
マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
と証言しているのです(南京事件)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。
ベイツによるすりかえ
マイナー・ベイツはまた、
「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』)
スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」
最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15、760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。 
 
南京事件

 

日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。この事件については、事件の規模、存否を含めさまざまな論争が存在している(南京大虐殺論争)。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件、The rape of Nankingなど多様な呼称がある(後述)。
南京攻略戦
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。蒋介石は12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智も12月12日に逃亡した。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊を置いていった。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。
南京入城までの両軍の動向
日本側 / 1937年11月、第二次上海事変に投入された松井石根司令官率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始し、12月13日に南京城に入城した。なお、当時の上海軍発表によると、南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である。
中国(中華民国)側 / 1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、中国軍は総崩れとなり南京城は陥落。中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長の証言によると城内に人はおらず住民は非武装地帯に避難していた。
一般市民への被害
日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の敗残兵・便衣兵の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った。市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認できていないが、南京攻防戦では無差別に市民を虐殺する命令を受けたとする元兵士の証言がしばしば取り上げられる。中国人側からは、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたとの証言が出ている。松井石根司令官、畑俊六大将、阿南惟幾・陸軍省人事局長、岡村寧次大将、河辺虎四郎・参謀本部作戦課長、真崎甚三郎大将などの軍関係者も「強姦、略奪」行為があったことを認める発言をしている。当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人はただの一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある。当時南京に残留したアメリカ人牧師ジョン・マギーは東京裁判で「市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった」と答え、ついで強姦の現場を二件見たと証言している。マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影した8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。女性アメリカ人宣教師ミニー・ヴォートリンは「ミニー・ヴォートリン日記」として南京での惨状を書き残している。
投降者の殺害
中国軍は南京陥落後に撤退命令を出したが、南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そのため、正規兵も軍服を脱いで便衣兵となり逃走をはかったものがあった。当時の国際法の観点では、便衣兵は正規の軍人としての交戦権を有しておらず、投降しても捕虜の待遇を受ける資格はなかった。占領地で交戦権をもたない敵兵や非戦闘員による敵対行為を取り締まるための軍律や軍律会議はハーグ陸戦法規第三款42条以下で認められると解されており、スパイ行為や攻撃準備などの敵対行為(戦時反逆)は即決処分が可能であり、軍律および軍律会議は軍事行動であり戦争行為とされていた。また、捕虜の待遇についても、俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)について、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していたが、日本は署名のみで批准しておらず、日中双方に捕虜の取り扱いに対する人道上における個別の合意もなかった。ただしこの場合でも批准のあるハーグ陸戦条約の定める捕虜に対する一般的な取り扱いに適法であったかが問われるが、捕虜に認定されるには、正規の軍人である必要があり、便衣兵は投降したゲリラとなり、その取り扱いは当事国の立法(直接には軍令)に従うことになる。これに対して、朝香宮鳩彦王の南京城入場を安全に完遂する目的で捕虜を殺害したという歴史的検証もある。さらに事例の中で検証可能な数万人の殺害については当時の国際法や条約に照らしても不法殺害であるとする説や、あるいは仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する行為であったとの主張もある。日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたという指摘がある。第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの投降者が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が投降者約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な殺害と数字については疑問視されている。南京北部の下関では、投降者が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報と言われているものによれば、旅団命令によって投降者を殺害したことが記録されている。
外国メディアによる報道
この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ(英語版)』や『ニューヨーク・タイムズ』、中華民国内では『大公報』などのマスコミによって “Nanking Massacre Story”, “The Rape of Nanking”, “Nanking Atrocities” として、それらが真実として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出たものの、事件初期において殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられていた。戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった。一方で、これらの報道にも反論がある。東中野らはこれらを根拠に乏しい虚偽報告とし、それがおこなわれた要因として、当時の中華民国政府からの多額の献金により、これらのマスコミが買収された可能性を主張している。渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の中には「大虐殺」があったと伝える記事もあるが、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したものと推定されるとしている。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある。また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)。『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン(英語版)通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。
事件の背景について
南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある。
また、兵士の日記について、日々行軍と戦闘に明け暮れ疲労の激しい兵隊が毎日の様に日記を克明につけることなどありえない、インク瓶からスポイトでインクを入れるものしかなかった万年筆を持ち歩くことが考えられない、などの理由から、捏造または改竄されたものであるとする指摘もある。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている。
中支那方面軍の編成
中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。
中支那方面軍 - 司令官:陸軍大将 松井石根
  上海派遣軍 - 司令官:陸軍中将 朝香宮鳩彦王
    第3師団先遣隊 - 連隊長:陸軍大佐 鷹森孝
    第9師団 - 師団長:陸軍中将 吉住良輔
    第16師団 - 師団長:陸軍中将 中島今朝吾
    山田支隊(第13師団の一部) - 歩兵第103旅団長:陸軍少将 山田栴二
  第10軍 - 司令官:陸軍中将 柳川平助
    第6師団 - 師団長:陸軍中将 谷寿夫
    第18師団 - 師団長:陸軍中将 牛島貞雄
    第114師団 - 師団長:陸軍中将 末松茂治
    国崎支隊(第5師団歩兵第9旅団) - 支隊長:陸軍少将 国崎登
戦後の軍事裁判における扱い
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅と向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。
「人道に対する罪」と訴因
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった。
東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる。
このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。
東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた。
論争
この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年の日中歴史共同研究公表に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実態を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる。
また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。
被害者数と事実在否について
2010年1月に公表された日中歴史共同研究によれば、中国側は南京軍事法廷の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依拠した犠牲者数を主張している。
日本国内においては産経新聞「蒋介石秘録」の40万人説を上限として、数万人説、数千人説、否定説などが存在する。日本政府は、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとしつつ、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であるとの立場をとっている。
名称の種類と変遷
南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎、洞富雄ら)」「南京大残虐事件(洞富雄)」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。
歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦、笠原十九司ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している。
東京裁判
1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)・殺戮と記述されている。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawfully killed and murderedとされている。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している。1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」英文「THE RAPE OF NANKING」などと表記されている。
戦後の教科書における表記
敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された。
55年体制から1960年代まで
1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており、1965年から家永教科書裁判が開始されている。1956年に刊行された『世界歴史事典』および、1961年の『アジア歴史事典』などでは、「南京事件」で立項している。1966年には毎日新聞記者五島広作と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した。
1970年代
国会では1971年(昭和46年)7月23日の第66回参議院外務委員会で西村関一により「南京虐殺事件」および「南京大虐殺事件」という表記が使用されている。1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「潮」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある。1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京大虐殺論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された。一方で藤原彰や本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している。1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる。
第一次教科書問題と1980〜1990年代
1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたと誤報道され、中国の干渉を招き外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された。歴史学者の秦郁彦が1986年には「南京事件」(中公新書)を発表。同書では「虐殺」の表記に関しては括弧を使用する。アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War IIが話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
近年の動向
近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」、帝国書院が「南京大虐殺」、清水書院が「南京大虐殺事件」、山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている。2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。その他、井上久士、小野賢二、笠原十九司、藤原彰、吉田裕、本多勝一、渡辺春巳などが集まった研究会は「南京事件調査研究会」としている。
日本国外における表記
中国または中華民国ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking (Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。
Nanking Incident表記に関する日本国外での議論アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグ(英語版)は、『アーカンソー・デモクラット=ガゼット(英語版)』2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した。 
 
南京大虐殺論争

 

日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる大虐殺の存否、規模(誇大に表現されている場合があること)を論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた。この論争に様々な説があるのは、それぞれの説に「日本軍による不法殺害の定義」「それが行われたとされる地域や期間」「埋葬記録や人口統計などの資料の解釈」についての相違があることによっている。
当時の上海派遣軍は、南京防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品小銃十二万九百・・・であったと発表している。
これにつき、2010年1月に発表された第1期日中歴史共同研究の報告書の中で、 波多野・ 庄司は、
日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上(松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究 では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。
犠牲者数に諸説がある背景として、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。
と指摘している。
死者数
三十万人以上
主に中国側論者の見解である。代表的な論者は、アイリス・チャン(ジャーナリスト)、孫宅巍(江蘇省社会科学院研究員)、高興祖(南京大学教授)などがおり、中国共産党政府、南京大虐殺紀念館、また台北市の国軍歴史文物館も同様の見解をもっている。ちなみに、孫宅巍は30万人以上とする推計のうち、南京防衛軍の総数を十万余としている。1976年にサンケイ新聞刊行の『蒋介石秘録12』で30万〜40万と記された。ただし、これらの数字には、いずれも科学的根拠が一切なく、日本側の学者からは支持されていない。
2010年1月に日中歴史共同研究の報告書が公表された際、中国メディアは中国共産党宣伝部の指示により、20万人を上限とする日本側研究者の見解を報道しなかった。
十数万人以上
代表的な研究者は、南京事件調査研究会のメンバーである洞富雄 (元早稲田大学教授)、藤原彰(一橋大学名誉教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士(駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、高崎隆治(戦争研究家)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)などが挙げられる。
4万人上限説
歴史学者秦郁彦の説。秦は「おそらくアトローシティに関する一般理論の構築は無理で、外的な要因だけで無く、兵士たちの集団心理を組み合わせて内在的に追従しないと結論は出ないだろうと思うが、この点で参考になるのは、曽根一夫氏の近著と早尾軍医の報告書であろう」と述べ、曽根の著作を「類書に無い特色を持つ」と高く評価していた。秦は「筆者としては、スマイス調査(修正)による一般人の死者2.3万、捕らわれてから殺害された兵士3.0万を基数としたい。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(2分の1か3分の1)すべきだと考える。つまり3.0万+1.2万(8千)=3.8〜4.2万という数字なら、中国側も理解するのでは無いか、と思うのである。」として、中国側に政治的配慮をしつつ曽根の著作に依拠しながら4万人説を導き出した。
その後、曽根の「手記」そのものがまったくの創作であることが判明し、さらに北村稔の調査でスマイス調査の隠された実態が明らかになるなど、従来の自身の説の根拠が大きく揺らいできたなかで、2007年、自身の著書の増補版にて「なお旧版では特記しなかったが、この計数は新資料の出現などを予期し、余裕を持たせたいわば最高限の数字であった。この20年、事情変更をもたらすような新資料は出現せず、今後もなさそうだと見極めがついたので、あらためて四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下回るであろうことを付言しておきたい」と、それまでの自説から下方修正した。
久野輝夫(元中京学院大学准教授)は被害者数を37820人としている。
数千〜2万
代表的な研究者は、畝本正己(元防衛大学校教授)、板倉由明(南京戦史編集委員・南京事件研究家)、原剛(防衛研究所調査員)などの他、中村粲(獨協大学教授)が挙げられる。
板倉自身は「虐殺数30万人のみを否定する南京事件派」と標榜している。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計する。その上で虐殺数を8,000人と推計する。市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000人と推計する。兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1〜2万人と推計する。
北村稔(立命館大学教授)は、南京軍事法廷および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析。従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘した資料で確認している。一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとしている。2007年4月2日の日本外国特派員協会における講演で、「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」と述べた。
その他
笠原十九司は、SAPIO1998年12月23日号に掲載された論文の中で、「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」と断言している。ただし、城外、郊外、長江岸の中国人軍人の死者も含めた総計を、10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上と推計している。(中国軍総数を約15万人と推計し、約5万人が国民政府軍に帰還、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍による殺害と推計している。民間人の犠牲者数の推定は極めて困難としつつも、ジョン・ラーベ著『ヒトラーへの上申書』をもとに推計。)
「虐殺」否定説
更に攻略戦時の兵士・市民の犠牲者を「虐殺」とは見なさない見解がある。主な研究者は、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、中川八洋(筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学名誉教授)、早坂隆(ノンフィクション作家)など。
中華民国政府の顧問マイナー・シール・ベイツによる矛盾がある。ベイツは「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」と東京日日新聞の記者と握手している(東京日日新聞昭和12年12月26日号)。ベイツは「南京で虐殺があった」と証言したが実際に虐殺死体を自分の目で見ていない。彼の報告は伝聞にすぎず、南京国際委員会が提出した被害届でも殺人の事例の証言者の欄にベイツの名はなくアメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められた時もベイツはその証明が出来なかった。
また昭和13年ティンパリー編著の『戦争とは何か』では「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられアメリカ人に日本軍の非道を訴えその後の日米戦争の一因となった本であるが実際ティンパリーは上海にいて南京には居なかった。と云うのもその情報はベイツから発信されたものであるとティンパリー自身が本の中に書いている。
ベイツは蒋介石率いる支那国民党の顧問で国民党の戦略は例え虚偽を用いてでも「支那の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界中に訴えてアメリカを味方につけて支那事変に巻き込み日本を叩き潰すようにする事であってベイツはこの国民党の戦略に沿い日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのである。
東中野の研究によると、便衣兵(ゲリラ兵)、投降兵の殺害については戦闘行為の延長であり戦時国際法上合法であるとし虐殺に分類しない。日本兵による犯罪行為も若干はあったが大規模な市民殺害は当時の史料では確認できない。しかも、南京大虐殺があったとされる3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録があり、大規模な市民殺害があれば人口が増えるはずがないので、百人単位の虐殺もなかったとされる。埋葬記録などの死体数に関する資料は捏造・水増しであり、史料により確認できる死体は虐殺に該当しないと主張する。よって、虐殺に該当するような行為はほとんど無かったと主張する。
2007年4月9日、東中野・阿羅などが委員を務める「南京事件の真実を検証する会」は訪日していた温家宝首相に対し、「事件の存在を信じるには無理がある」とする公開質問状を提出した。内容は中国英字紙が報道し、日本の国会でも松原仁衆議院議員によって取り上げられた。
質問状の中では
毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺などということを言わず、当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても言及されたことがない。
国際委員会の活動記録というべきものが「Documents of the Nanking Safety Zone」と題して1939年に出版されているがそこで述べられている南京の人口は12月中ずっと20万と記録され、翌1月14日には人口25万と記録されると、これ以後は25万とされていた。そして殺害件数は26件と報告されるものの1件を除き目撃情報はなく、その1件も合法的なものとされている。
虐殺を証明する写真がなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されている。
と主張し、これらの点から南京大虐殺は考えられないものだとして温家宝に回答を求めている。
鈴木明は、日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめた『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)を編集したハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であった事を明かした著書を出版。南京事件の存在については「不明」としているが、笠原十九司は鈴木を「否定派の中心メンバー」と評している。
戦時国際法上合法説
事実の証明・確定について、多くの日記や証言等は十分に史料批判がなされていないとして安易に証拠価値を認めず、現在では完全な事実の証明は最早不可能としつつも、当時のハーグ国際法を解釈・適用すれば、日本軍は合法的に処理したとし、虐殺に当たる行為は否定されると主張する説。
軍事目標主義(ハーグ25条)によれば、南京城内は安全区も含め防守地域であり、この地域に無差別に攻撃をしても合法であった(一般市民の犠牲は戦死に準じた扱い)が、日本軍は安全区に無差別攻撃を仕掛けなかった。そして、安全区に侵入した中国軍の便衣兵の摘出は、憲兵によりおこなわれており(予備審問)、これに基づいて裁判(軍律審判)がなされたとする)、捕虜の取扱についても、軍事的必要性や復仇の可能性について言及するものもある。南京事件の原因は、第二次上海事変を起こした蒋介石や、日本軍の降伏勧告を無視した唐生智、安全区に侵入した中国便衣兵、侵入を許した安全区委員会にあるとする。
1929年ジュネーブ捕虜条約について、「支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は1936年(昭和11)年5月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)」となっており、支那事変当時、日支両国間の関係に適用されたのはハーグ陸戦条約であった。
佐藤和男は、「きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。 」と述べている。
主な論点
一般市民に関して
否定説からは、安全区に対して砲撃を仕掛けなかったことを示す、いわゆる「ラーベの感謝状」や「スマイス調査」を根拠に、万単位の住民虐殺を否定している(他に、日本軍入城前の中国側の漢奸狩りを示す「ミニーヴォートリン日記」等がある)。なお、民主党政権下の2012年10月2日頃、外務省の見解が、「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等」から単に「非戦闘員の殺害や略奪行為等」と変わり、犠牲者数を下方修正した。
冨澤繁信は、「南京安全地帯の記録(Documents of the Nanking Safety Zone)」その他の一次史料をデータベース化し分析した上で、「この『南京安全地帯の記録』という文書は当時のいわば公式記録であり、そこに記載された日本軍兵士の悪行とされるものは、之が全てといってよく、当時の南京城内の状況から見て安全地帯国際委員会に報告されない之以外の事件はないものと思われる.しかもこの記録の内容を分析すれば、これらすべてを、日本軍兵士の所行とされる根拠はなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは、少ないというのが、我々の結論である。しかもこの文書の事件の伝えるところをそのまま認容しても、それは決して後年の大虐殺説の伝えるごとき非難は間違っていることを証明するのである。」としている。
便衣兵に関して
否定説や、(一部)肯定説が「虐殺」を国際法に違反する行為と定義づけているが、どの行為が国際法違反行為に当たるかは争点となっている。
便衣兵の殺害 / 最も殺害数が多いと思われる、便衣兵の摘出と殺害についても見解が分かれる。否定説はハーグ陸戦条約第1条の「交戦者資格の四条件」を満たさない便衣兵(いわゆるゲリラ兵の一種。民間人を巻き込む為同条約第23条第2項で禁止されている)は交戦者資格がない非合法戦闘員であって捕虜待遇を受ける資格がない(同条約第3条)と解釈する。また日本軍は民間人の中から便衣兵を識別し摘出しているが、その過程において誤って民間人を殺害したり、戦意を失い平服で逃亡しようとしていた兵士を殺害した場合があったとしても、戦意や兵器所持の識別は困難であり、そもそもその識別のために交戦者資格の四条件において特殊徽章着用や武器を公然と所持することが条件とされていることなどを根拠に、これらの被害の責任は、民間人を巻き込むおそれを省みず、平服を着用していた便衣兵の側にある。また中国側は最後まで降伏はしておらず、両国間で休戦の合意(ハーグ36・37条)もなされていないとする。肯定説は、これらの処刑は南京が陥落して戦闘が終了した後に行われたものであり、戦闘行為とは見なすことが出来ないと指摘している。また、もう抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していた兵士を便衣兵と見なして殺害したり、一般市民から敗残兵を摘出した際に、便衣兵が紛れている可能性があるとして識別の努力もせず殺害した場合等は虐殺にあたるとする。
便衣兵に対する裁判 / 便衣兵の殺害に関して裁判が必要か否かで見解が分かれる。当時のハーグ陸戦条約を含む戦時国際法では便衣兵のような非合法戦闘員を想定していなかったのが一因であるとする。否定説は、便衣兵は交戦者資格がない非合法戦闘員であり裁判の必要はない。また南京戦では蒋介石をはじめ中国側指揮官逃亡のため、降伏や休戦などの明確な戦闘停止協約が結ばれておらず、南京陥落後も依然として交戦状態が続いていたため、便衣兵の殺傷は戦闘行為であり、処刑にはあたらないとする。肯定説は、便衣兵を死刑として殺害するにはそうと認識する軍事裁判の手続きが必要であったから、裁判を経ずに殺害したということは、その殺害の正当性を証明するべき根拠がなく、違法行為であるとする。これに対し否定説からは、肯定説の要求する裁判とは軍律審判のことであり、驚くほど簡易な手続き(憲兵の取調べ調書のみ)で処分が決定できた(さらに即決・非公開・非対審)ことから、軍民の厳格な分離は裁判が行われていても不可能であるとして肯定派の批判には意味がなく、日本軍がこの簡易手続きを省略するのは考えられないとする。
佐藤和男は、「兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(中略)また市街地における一般住民の 眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」と述べている。
投降兵に関して
南京戦において、中国軍は撤退命令を出し、最後まで全面降伏しなかったため、敗残兵の多くは投降兵とはみなされなかった。戦闘中に降伏して投降してきた兵士を受け入れるかについて見解が分かれる。 投降は、1白旗をあげて、投降の意思を伝える軍使の派遣の意思を示す。2投降条件のとりきめを行う。3投降の合意を経ておこなわれ、戦闘中に両手を挙げて投降の意思を示しても、南京当時の国際法下では、投降を受け入れる義務はなかった。
否定説では、1交戦資格が無かった(戦時重犯罪人であった)、2「捕虜」ではなかった、3それでも審問は行われていた、として一定の手続きを要求していた立作太郎博士の学説「全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所」さえも満たしていたとする。また、軍事作戦の遂行が最優先事項であるから戦闘中において作戦遂行の妨げになる場合には投降を拒否しても合法であるとの指摘もある。
肯定説は、ハーグ陸戦条約第23条第3項「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を根拠に、投降兵殺害の違法性を指摘している。これに対して否定説は、中国軍は交戦法規・慣例の不徹底により、あるいは意図的な背信行為により、陸戦規則第23条ハによる救済を受ける権利を喪失していた、とする。
佐藤和男は、「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるペき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない。」と述べている。
捕虜の殺害に関して
一旦捕虜として受け入れたのちに殺害するケースについても見解が分かれている。否定説では、そもそも捕虜の資格がない者(ハーグ陸戦条約第1条 上述便衣兵の殺害参照)が大多数であり、戦闘員資格のない者の敵対行為の即時処刑は軍律審判として国際法上認められた軍事行動であり合法としている。さらに捕虜となった者の殺害についても戦時国際法学者で戦数否定論者であるオッペンハイムが例外的に捕虜殺害を合法としていた学説部分を引用する。捕虜暴動から発した幕府山事件はこの文脈によれば正当化できる(可能性がある)。肯定説は、ハーグ陸戦条約第4条「俘虜は、敵の政府の権内に属し、之を捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし」や当時の慣習法、一般的な戦時国際法学者の見解などを根拠に、捕虜殺害の違法性を指摘している。捕虜の敵対行動に関しては、否定論と同様に処刑の合法性を否定はしていないが、否定説が主張するようなケースでの手続上の問題点や、そのような事実の存在に関して反論を主張している。
内海愛子は、「日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となった」、と述べている。
立川京一は、「東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長)の尋問調書(1946 年4 月16 日付)によれば、1938 年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されている。つまり、陸軍は、戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。」としている。
事件の期間
東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。
肯定派の笠原十九司は「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を唱えている。また当初6週間としていた張も後に笠原説に同調するとともに、始期を「中国の学術界では12月の初めごろと考えております」と述べている。
地理的範囲
この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。
地理的概念として地区を限定しないもの
南京行政区 :南京市と近郊6県
南京市 :城区と郷区
城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
南京城 :城壁を境にした内部
安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km2)
東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。
三十万人説をとる孫宅巍は南京市(城区+郷区)を地理的範囲と定義する。
笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする。 この定義に対しては、資料に基づいたものとは到底言えず、数合わせのために期間および地理的範囲を拡大しているとの批判が否定派から提示されている。
本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する。
板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする。この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定していると批判がある。
人口推移
日本軍による南京陥落の観測が強まる中、南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が食料配給の試算のため、南京城内の人口調査を行った(この調査は食料問題という厳密性が要求される調査であり、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も全て安全区に避難してくることを想定していた)。
否定派はこの調査で委員会が南京人口を約20万人と認識していた事から「陥落時の南京の人口は20万人しかなく、30万人を虐殺することは不可能だ」とし、安全区外の住民については、「日本軍による南京攻略前に中国軍による堅壁清野作戦が行われたため、ほとんど存在しなかったはずだ」と主張している(南京防衛軍である中国側は、安全区以外にいる一般市民は、「漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発している)。
南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査(スマイス報告)では南京の人口が25万人とされており、否定派は「仮に大規模な虐殺が行われていれば、20万を超える市民が、南京にとどまっていたり、周辺地域から流入することはありえないこと」として「陥落時20万人だった人口が、その後すぐに増加していることから、市民が虐殺の存在を認識していなかった」と主張している。
一方で日本国内で30万人を主張している肯定説は無いとした上で、中国側の主張する30万人には上海戦以降の軍人の犠牲者が入っており、単純に南京の人口と比較することは意味をなさないとの主張がある。また、陥落時20万人という人口数は、南京攻略戦が始まる前の予測値であり、陥落時の実測値ではないこと。攻略前の日本軍の展開により周辺地域から戦災避難者の流入は予想できる事であり、さらに堅壁清野作戦後も南京郊外で日本軍による食料の強制徴用が行われていた事から、実際には逃げ切れなかった多くの住民がいたと思われる事、日本軍に囲まれている状況下、南京国際委員会などが機能する城内の方がましではないかと考えた人々が、南京城内に多く残留していたと考えられるとも主張している。
史料批判
肯定説・否定説ともに、反対説に対し、いずれの史料批判も学術的な妥当性が無く、その史料批判が恣意的であると反論している。また、加害側・被害側の証言や記録を一方的に取り上げ、自身の見解に都合の悪い史料に関しては、捏造・偽証というレッテルをはって切り捨てると主張している。
否定説は、虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被害・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(1984年8月4日大阪版夕刊 - 翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵二十三連隊の戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になったり(1986年1月に和解)、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したと2008年に一部で報道されるなど、関連性が否定されたり、信憑性の疑わしい資料がある。
証言者
東史郎・中山重夫・富永博道・舟橋照吉・曾根一夫・田所耕三・太田壽男・富沢孝夫・上羽武一郎らが、南京事件について証言をしており、その証言の信憑性が議論となっている。
東史郎: 肯定説側の証言者の一人である。中国戦線での体験などを記した日記を公開したが、その著書をめぐって元上官から名誉棄損で提訴され、最高裁で敗訴が確定している。
田所耕三: 『ザ・レイプ・オブ・南京』に引用される。「南京陥落後10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べている。しかし、彼の所属する部隊は陥落後の12月15日には南京から転進しており、この人物が10日間も南京に残留できるはずがない。彼自身、のちの取材に応じて『記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないこと喋ったんだ』と、この発言自体の信憑性を否定している」
中山重雄: 朝日新聞昭和58年8月5日・59年6月23日夕刊は、「戦争の語り部」と持ち上げ、公演活動、新聞・テレビ紹介、記録映画も製作されると報道した。板倉由明の再三の問合せに答えず。語った内容を検証すると、”雨花台で実見した大虐殺”は、「中山氏が所属していた戦車第一大隊は中山門正面で戦闘をしており」、「場所的にも時間的にも目撃不可能であった。また、城内で目撃したと語っている死屍累々の光景は、日本軍兵士の誰も、いや、ほぼ同時に入城して、後に日本軍の虐殺を書いた朝日・今井正剛記者や東京日々新聞・鈴木二郎記者すら見ていない光景であった」
船橋照吉:「石原発言を許さない京都集会実行委員会」が出版した冊子に、元日本軍兵士の証言と日記として、東史郎証言と共に掲載された。板倉由明の質問に、「基本的事項があやふやで、肝心の点は『忘れた』と言い、また、歩兵九連隊の実戦記録とはなはだしく異なる」。結局、「自分は輜重特務兵であった、と」「真実を告げ、9月2日に京都で立ち会いのO氏を交えた会談で、日記の偽造を白状したのである。輜重特務兵なら・・・最前線でトーチカ攻撃をしたり、捕虜を機関銃で虐殺するなどは、すべて架空の話だったことになる」
曾根一夫: 戦友会から隊史、戦闘詳報、陣中日誌ほかの提供を受け「歩兵じゃありません。野砲三連隊です」「歩兵から話を聞いて本を書いたようですよ」「野戦12中隊第一分隊の前馬、・・・一等兵の新兵だったよ」と御者であったことが判明する。御者なら「もちろん銃剣突撃や塹壕で格闘などやらない」。著作の内容を検証した結果、自身の分隊長としての体験記、至南京途中の虐殺原因を半月ずらした糧秣欠乏に求めた点、出たことも無い徴発での虐殺や掠奪、架空の下関大虐殺、戦友の残虐談・部落襲撃、ニセ日記など、戦史、戦友の証言に反することだらけという。秦郁彦は「ほぼ要望に答えてくれる絶好の証言記録が出現した」として、他の「伝聞記」でなく曾根著述から捕虜殺害例、紫金山付近の住民殺害、クーニャン狩り、残虐行為の心的要因に引用。板倉由明は秦に手記全部の削除を要求している。
否定論者である松村俊夫は、被害者・李秀英について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた(李秀英名誉毀損裁判)。東京地裁は、判決理由で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。その後、最高裁まで争われたが、2005年1月に上告棄却となり原告の勝訴が確定した。
これらの裁判の判断を重視する論調もあるが、裁判所はあくまでも当事者の紛争解決機関であり、名誉毀損の裁判では、一般に「真実であると信じるに足りる相当な理由」の有無が争われるのであり、歴史的事実を認定してその事実を世間に対しても拘束させるものではない、という指摘もある。
残虐行為の動機
否定説は、「松井大将が12月9日に「平和開城の勧告文」を飛行機で散布し翌10日正午まで返答を待つなど、南京の軍民を保護しようと尽力したのに、組織的に残虐行為を行ったとするのは根本的に矛盾がある」と主張している。さらに、兵士の体力消耗と弾薬・燃料の浪費であること、サーベルなどで殺害するにしても武器を無駄に傷めることになり、日本軍にとって利益にならないことなどを理由に、日本軍に大虐殺を起こす合理的な動機は存在しないと主張している。
肯定説は、(1)敗残兵の処刑は組織的なものであり、命令があれば動機は必要ないこと、(2)補給(特に食糧の補給)を軽視して現地徴発を多用した結果、この徴発に伴って行われた殺害が多数存在したこと、(3)便衣兵戦術を採る中国軍とのゲリラ戦でかなりの死傷者が出ており、兵士の間で便衣兵への憎しみや恐れが転化して、民間人や捕虜・投降兵の殺害につながったこと、(4)「人を殺した経験がなければ一人前の軍人ではない」という歪んだ英雄主義があったことなどを指摘する。また、多数の予備役・後備役の戦線投入により、兵士の質が低下したことも原因の一つだと考えている。
中島今朝吾日記「捕虜ハセヌ方針」
第16師団長の中島今朝吾中将の1937年12月13日付日記の記述をめぐり、捕虜殺害命令の有無について議論がある。
【注意】研究者の共通認識として、この中島今朝吾日記の記述を裏付ける命令書及び物証は今まで発見されていない。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいる。また戦闘中の捕虜に関しても殺さずに解放している事例も多く見られる。
中島今朝吾日記 12月13日一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル【予定ナリ】
この日記記述について、藤原彰は軍による組織的な捕虜殺害命令と位置付けている。笠原十九司、秦郁彦は、捕虜の殺害命令と解釈している。
吉田裕は、捕虜殺害の方針は「軍」の方針であるとし、裏付けとして次の資料を述べている。()内はそれに対する反論。
第16師団第38連隊の副官・児玉義雄は、師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた証言している。 (混戦時においては、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合がある。オッペンハイム)
第16師団歩兵33連隊「南京附近戦闘詳報」には、捕虜処断として3096名と記されている。 (処断=殺害と解釈するのは無理がある、通常は刑を決めるの意味に用いられていた。)
第114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報には、「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」という捕虜殺害命令が記されている。(この第114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報は原本が存在せず本物であるかについて議論があり、これを疑わしいとした判決がある。)
一方、東中野修道は、「捕虜ハセヌ方針」を捕虜殺害命令だとすると、文章に不自然な捻じれが生じると主張する。「捕虜ハセヌ方針」は、1捕虜にする、2殺害する、3追放する、という3つの解釈ができるが、「1捕虜にする」は「捕虜ハセヌ方針」に反する、「2殺害する」は、当初から殺害する方針であったとすればそのことを日記中に明記するはずであり、明記しなかったということは殺害の方針ではない。したがって、消去法から考えて、投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針だったと解釈する。その裏付けとして、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言を挙げる。
この東中野の見解に対して、以下のような反論がなされている。
東中野の検証には、「一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し…」の一節が完全に抜け落ちており、この記述を見ても捕虜の殺害方針であることは明らか
児玉義雄(歩兵第三十八連隊副官)、沢田正久(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)、宮本四郎(歩兵第十六師団司令部副官)、助川静二(歩兵第38連隊長)は、それぞれ証言や回想において、捕虜殺害命令を受けたとしている。
釈放説を唱える大西一証言は、偕行社からさえも「シロだシロだというだけ」として、信憑性について批判を受けている。
山田支隊の捕虜処断
第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由について議論される。
自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐の手記や証言に基づいた見解で、主に虐殺少数説・否定説が採用している。両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。
小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しないと断じた。この小野説は、南京事件調査研究会など中心とする肯定説において支持されている。小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない。
物理的な「大量虐殺」の可能性について
否定説は、「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量、兵站などを検討すると、虐殺の実行は極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとしている。また、ラーベの感謝状からもわかるとおり、日本軍は、大多数の避難民が存在している安全区に対して、砲撃を始めとする無差別攻撃はしておらず、この方面での暴虐行為の存在は否定されている。笠原は、南京城内において数千にわたる虐殺はなかったと主張している。
ここでラーベの感謝状とされているのは、1937年12月14日に国際委員会より日本軍に提出された文書のことである。この冒頭の「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」という一文が根拠となっている。一方でこの文書は日付から見れば日本軍の南京入城直後に提出していることがわかり、これ以降に南京城内外で発生した可能性がある暴虐行為の存否について直接言及できる史料とはならない。またラーベら国際委員会が蒐集できたであろう情報の範囲や正確性も論点となる。
肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾、連隊の一部に重機関銃を持っていることを考慮すれば大量殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体の処理については、揚子江に流すという手段を指摘している。否定説はこれに対し、いずれも可能性を示すのみでありこれを示す資料が存在しない(河川への死体遺棄はあったと日本側の記録にもあるが、小規模である)と主張している。また、東京裁判で「殺害20万」の根拠となった埋葬数についても、遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているが、殺害が南京城区とその近郊を含む広大な地域で行われた可能性があると肯定説が主張していることと矛盾すると主張している。また、その後の調査で埋葬を行ったという慈善団体に活動実態がなかったとの指摘もある。
事件前後における日本軍の軍紀について
否定説は、南京攻略戦まで日本軍の軍紀は保たれており、そのことは従軍の外国人記者も証言しているとして、南京攻略戦時のみに虐殺を行ったというのは不自然であると主張している。
肯定説は、ティンパーリーの著作や本多勝一の取材によれば上海 - 南京間でも虐殺行為が行われていた事。一部の史料や参戦者の証言によれば上海上陸時から住民に対して殺害する命令が存在していたと主張している。
写真の真偽
否定説・東中野は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた松尾一郎も数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している。 この主張に対して肯定説は、 (1) 今までの学術的な南京大虐殺の研究において、写真を根拠資料とするものはほとんどなく、その写真を「南京大虐殺の証拠写真」と主張すること自体がおかしい、 (2) 東中野の研究の根拠には主観的なものが多く、学術的な研究とは言い難い、 (3) 一部に問題があるという点を明らかにしただけで、すべての写真を否定することはできない、などの反論をしている。
陰謀説
否定説・東中野は、国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。
これに対し肯定説は、 (1) 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』からでは、ティンパーリーが国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったことは証明できない、 (2) ティンパーリーの著作は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、その出自をもって捏造とすることは論理的に不可能である、 (3) ベイツの国民党顧問説の根拠である新聞記事は出所がまったく不明であり、他の史料と比べても内容の信憑性に欠けると批判している。
当時の報道についての議論
否定派の見解では、中国側が国際連盟において「南京における日本軍の暴虐」(犠牲者は2万人としている)を演説しても非難決議が出されなかったことを挙げて、「南京大虐殺」は当時の国際社会でほとんど話題になっていなかったと主張している(日本軍が中国への渡洋爆撃を行った際には国際連盟が全会一致で非難決議をしている)。
肯定派は「国際連盟では話題にならなかったが当時の欧米メディアは虐殺を伝えていた」と反論している。日本軍の南京入城後『ニューヨークタイムズ』などでは「南京の暴虐」などとして取り上げられ、また日本の外交官宛にイギリス人外交官が「市民への虐殺被害」を外電で報告しており、日本政府(もしくは軍部)は早い段階でこの事件を認知していたのではないかとしている。
否定派はこれに対し「南京の欧米人記者は報道はしていたがその情報源はほぼ伝聞によるもので信憑性が乏しい」と主張している。南京の欧米人記者は日本軍の南京入城後(12月15日と16日)に戦艦で南京を脱出しており、スティール、ダーディン両記者の記事のベースは国際委員会のベイツ教授が「さまざまな特派員に利用してもらおうと(ベイツの手紙より)」手渡したティンパーリ編「戦争とは何か」ではないかとの指摘がある。「戦争とは何か」の記述の多くが伝聞に基づくものであって、実際、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみであり(国際委員会編「市民重大被害報告」)、スティールら外国人記者が見たという殺人事件の信憑性を疑う声もある。また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されていたのではないか」としている。
上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の『文藝春秋』においてインタビューに答え、「捕虜の処刑は実際に目撃しましたか」という質問に対し、「捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。」と証言。一方で「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と断言し、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」として「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている証言をした。しかし南京においては「数多くの関係者に質問し、自分の体験や見聞も含めて推定した数」として2万の軍人捕虜と数千の民間人の殺害があったと主張したが、民間人殺害の原因としては、南京の『安全地区』は10万人ほどおり、そこに中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因であるとし、また日本軍が外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかったと証言している。
論争史
前史(1971年以前)
事件当時
南京事件は、事件当時からニューヨークタイムズなど欧米メディアによって大々的に報道され世界に衝撃を与え、ライフ誌は1938年1月と5月に特集記事を組んだ。当時の欧米での認識は、数多くのメディアやティンパリーの著作『戦争とは何か』(1938年)などによって「非武装4万人殺害、3割は兵士でない」というものだった。一方、日本国内では報道されることはなく、当時のほとんどの国民が事件を知ることはなかった(1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた)。
戦後
南京事件は、東京裁判において日本に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している。 また、重光葵は、その著書『昭和の動乱』の中で、「南京に入城した中島師団の暴挙が主となって、南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として、世界に宣伝せされた国際問題がその際起こって、日本の名誉は地に墜ちた。」と書いている。
1971年から1982年まで
再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった。論争は、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平と鈴木明の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった。1975年頃の論争は「肯定派」「否定派」「あったとしても大虐殺というほどではないとする人々」の間で激しく展開された。なお、70年代末生まれの中国の作家朱世巍の著書『东线』によると、当時の中国の教科書は虐殺を記述しておらず、彼の教師が一小学生の彼に大虐殺のことを教えたという。また、1960年から1982年まで人民日報には南京大虐殺を論じた記事は一つもなかった。
1982年から1990年まで
三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)の教科書問題の時である。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報(教科書誤報事件)をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、否定派が支持を拡大した。否定派の中心となったのは松井石根大将の秘書も務めたこともある、評論家・田中正明だった。また、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって1984年(昭和59年)に南京事件調査研究会を発足。これにより大虐殺派が形成された。研究会は日中双方の資料や証言を照合して虐殺事件の全容の解明に乗り出した。
1984年(昭和59年)に入ると、新たな証言が得られるようになった。当時の兵士が事件について語りだしたのである。陸軍将校の親睦団体である偕行社は、機関紙『偕行』にて事件の証言を募集した。当初、偕行社は事件の否定を目指していたが、不法行為を示す多くの証言が集まり、総括として中国人民への謝罪を示した。また、1985年(昭和60年)に、板倉由明が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した。
この頃、板倉や秦郁彦ら虐殺少数派が登場し、偕行社はこれに近い立場をとった。秦はそれまでの論争のありかたに危惧を抱いていると述べ、このままでは歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがあるとし、「南京事件は東京裁判いらい、日中関係の変転を背景に、歴史学の対象としてよりも政治的イシューとして扱われてる不幸な運命を担ってきた」と主張した。偕行社が収集した証言、史料は1989年(平成元年)に『南京戦史』として刊行され、その中で少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めた。そのため、大虐殺派の笠原十九司は、「あったか」「なかったか」というレベルでの論争は、この時点で学問的にはほぼ決着がついたと主張している。
1990年代以降
1990年代には第一次史料の発掘・収集がすすめられて、ジョン・ラーベの日記の邦訳『南京の真実』などをはじめとする多くの資料集が編集・発行され、それらの資料に基づいた論文や歴史書が次々に公刊された。また、アメリカ合衆国では反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになり、その流れでアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』が登場し話題を呼んだ。論争は国際的なものになっていき、その一方で大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった。
1990年代後半になると、新しい歴史教科書を作る会が結成され、その中から否定派として東中野修道などが登場した。東中野は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことは認めたうえで、それは戦時国際法に照らして合法であり便衣兵狩りを虐殺とみなすべきではないと主張し、東中野の国際法理解は誤りとする大虐殺派の吉田裕との間で戦時国際法についての論争が行われた。大虐殺派には、「南京への道・史実を守る会」のようにインターネット論争を通じて、否定派を批判する研究者も現れた。
1997年、笠原十九司『南京事件』V章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された写真(1938年の中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に掲載)が、実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が悪用した写真を気づかずに誤用してしまったことを謝罪し、これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替え、初版本の取り換えに応じた。
東中野修道と吉田裕の論争で決着がついたかに見えた戦時国際法論争であったが、2001年に佐藤和男が雑誌『正論』平成13年3月号にて「南京事件と戦時国際法」を発表し、戦時国際法上合法説を展開した。
2012年6月24日には民間教育機関信孚教育集団を設立した信力建(中国政府や中国共産党に政策上の提言を行う政治協商会議委員)が南京攻略戦での日本軍と満州国軍について「英雄的で勇敢な軍隊が、友軍とともに南京を解放した」と表現した。これに対して南京大虐殺紀念館の朱成山館長が公開謝罪を求め、他にも多くの人が批判・非難を表明した。
2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に日本軍が奴隷狩りや強姦を行っていたとして掲載していた(上記笠原と同様の)写真について誤用を指摘すると、本多は「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では始めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした。
「南京大虐殺」に対して日本政府の考え
1. 日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
2. しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
3. 日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。
学者・研究者の反応
肯定論者は、完全否定説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。否定論者は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張しており、日本「南京」学会は12年にわたり「南京事件」(「南京虐殺」)に関する1次資料を精査した結果、「南京虐殺」はなかったと主張している。日本の研究者は百から十数万の虐殺者数を推測しているが、30万人説を主張したり、時代によって変遷する中国政府の公式発表を鵜呑みにしてその度に自説を変更している研究者はいない。
論争に対する評価
南京大虐殺論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。
心理学者の中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評している。
政治学者の藤原帰一は、論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない」と論評している。
SF作家の山本弘は、この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人虐殺肯定派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くしようとし、右寄りの論者(30万人虐殺批判派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している。 
 
「南京大虐殺」「慰安婦」…誤った史実ひとり歩き

 

米高校で試験にも 日本人生徒「英語でも反論を」 2015/1/8
「日本軍の残虐さを疑う生徒はいない」。米カリフォルニア州の公立高校に通う日本の男子生徒(16)と女子生徒(17)が、世界史や米国史の授業で「慰安婦」や「南京大虐殺」について、どのように習ったかを語った。男子生徒は、旧日本軍が慰安婦を強制連行したと記述、南京事件の被害を誇張して伝えている米大手教育出版社「マグロウヒル」(本社・ニューヨーク)の教科書で学んでいた。誤った歴史の拡散は深刻な事態を招いている。
男子生徒によると、世界史の授業は教師が史実に関する概要を教え、生徒が自宅で教科書を読んで復習するスタイル。「南京大虐殺」については教師が「それまでの歴史で類を見ない残酷さ」と説明していた。
マグロウヒルの教科書「トラディションズ・アンド・エンカウンターズ(伝統と交流)」は、南京事件について「ザ・レイプ・オブ・南京」という項目を立てて、《日本軍は2カ月にわたって7千人の女性を強(ごう)姦(かん)》《日本兵の銃剣で40万人の中国人が命を失った》などと記述している。
日本側の調査・研究をふまえると明らかに誇張された表現だが、こうした記述が実際に試験にも出る。男子生徒によると、「この時代に、日本軍が中国で残酷なことをした事件は」という問題があり、「ザ・レイプ・オブ・南京(南京大虐殺)」と答えさせる設問や、「虐殺で何人が犠牲になったか」と問い、20万人、30万人、40万人の中から選ばせる設問もあった。生徒らは教科書を熱心に暗記していたという。
女子生徒は米国史の授業で、戦争での残虐行為を告白する元日本兵を名乗る白髪の老人の動画を見せられた。日本語で話す内容に英語のナレーションがついていた。老人は「女性を5、6人で強姦して殺害した」などと語っていたという。
女子生徒は老人を、慰安婦問題で虚偽の証言を繰り返した吉田清治氏とは「別人だった」とし、「中国での話だったと思うが、戦争で日本兵がいかに残虐かを説明する際に見せられた」と話した。老人が本当に元日本兵だったかも含め真偽は不明。CDやDVDではなく、ビデオテープだったことから「相当古いもので、長年使いまわしているようだ」とも指摘した。
女子生徒の世界史の授業は「トラディションズ・アンド・エンカウンターズ」は使わなかったが、授業では教科書通りの表現で慰安婦について説明された。
《日本軍は慰安婦を天皇からの贈り物として軍隊にささげた》。全くの虚偽だが、教師からそう説明された日本以外のアジア系の生徒に「天皇からの贈り物だって。すごいよね」と言われ、衝撃を受けたという。
2人とも保護者に話して初めて、授業内容が史実と反することを知った。
男子生徒は、仲の良かったアジア系の級友に「慰安婦の強制連行も南京大虐殺もなかったらしいよ」と言ってみたが、一蹴されたという。「日本語の本や文献しかないので、反論できない」。男子生徒はそう語り、日本政府の立場や、歴史の捏造に対する反論を「英語でも発信してほしい」と要望している。
女子生徒は「世界史を教える先生が日本軍は残虐だったと信じている。先生たちにも日本側の見解を理解してもらう方法を考えてほしい」と話した。
取材に同席した保護者は、「思春期の子供は学校でのことをいちいち親に言わない。どんなことを教わっているか知らない親は多い。『米国での教育』と突き放すのではなく、史実と違うのだから、日本政府は静観しないでほしい」と語った。 
 
南京大虐殺から77年 国際法投げ捨てた日本軍の蛮行 2014/12/13

 

77年前の12月13日は、中国大陸で侵略をすすめる日本軍が、当時の国民党政権の首都だった南京を攻略し、南京大虐殺事件(南京事件)と言われる「残敵掃討」作戦を始めた日です。あらためて南京事件とはどういうものだったのかを見ます。
南京大虐殺は1937年11月に上海を制圧した日本軍が、12月13日南京を占領したあと発生しました。日本軍は南京城の内外で、逃げ遅れた中国兵や子ども・女性を含む一般市民を虐殺し、性的暴行、略奪、放火などを行いました。この虐殺は、南京陥落から約3カ月間続き、被害者は「十数万以上、二〇万人に近いかそれ以上」(笠原十九司著『南京事件』)と言われています。
当時、現地にいた外国人や複数のジャーナリストは惨状を世界に発信します。「(日本軍の)野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった」(ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン、38年1月9日付)。「日本軍は少なくとも5000人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された」(駐華ドイツ大使館の報告第113号に添付)などとしています。
当事者の兵士たちは虐殺を書きとめています。砲兵伍長として参戦した永井仁左右さんは「城壁の隅に多数押し込め鉄条網を張り機関銃で射殺したり、尚又石油を掛け焼殺したりした隊もあった」(『永井仁左右回想録』)。
南京攻略作戦は、上海派遣軍司令官の松井石根(いわね)=A級戦犯、東京裁判で死刑=が参謀本部の統制に従わずに軍隊を進軍させました。そのため、作戦計画は不十分で、食料や軍馬のえさの補給を考えておらず現地調達主義をとり、進軍の途中で略奪や暴行などが頻発しました。
しかも、日本は宣戦布告もせずに「支那事変」と称して「戦争」ではないといい続け、日本軍は捕虜のあつかいなどの戦時国際法の規定を投げ捨てていました。そのうえ、軍規の乱れと中国人への侮蔑意識が虐殺につながりました。
笠原十九司都留文科大学名誉教授は「急に編成された軍隊で、戦意が低いため、南京を占領すれば何をやってもいいと、兵士をあおる上官もいました」と言い、そのうえで、「靖国派は東京裁判が南京虐殺やA級戦犯を裁き、侵略戦争を裁いたことを否定しようとしています」と言います。
こうした「靖国派」の立場はファシズム・軍国主義を否定した戦後の平和秩序に真っ向から挑戦するものです。 
 
「南京大虐殺はなかったという否定派のウソ」と「事実」

 

「戦後の東京裁判で連合国が日本軍の残虐・非道ぶりを示すためにでっち上げたものである」
1937年12月、南京は中華民国の首都であり、諸外国の公館も存在し、外国の報道機関も存在した。虐殺の報道は世界をかけめぐった。日本の外務省も軍も当時から知っていた。当時の外務省東亜局長石井猪太郎が回顧録でこのことを書いている。だいたい軍が知らないということはあり得ない。
1937年12月15日以降多くの欧米の特派員が南京の事態を世界中に打電している。とくにイギリスの「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員ティンバリーは1938年8月に「戦争とは何か・・・中国における日本軍の残虐行為」を出版し、日本語訳も中国語訳も出版されている。日本の外務省はこのティンバリーの上海発の電報を押収し、南京その他で30万人を下らない中国民間人が殺されたと述べていることをワシントンの日本大使館に情報として伝えている。戦後の東京裁判で、はじめて日本が知ったわけではない。
そもそも日本政府はこの東京裁判の結果をサンフランシスコ条約で受け入れたのである。つまり日本政府は公式に承認したということである。
「東京裁判の証拠資料は伝聞ばかりで、直接証拠は何もない。マギー牧師の証言は虐殺をみたのは1件だけだと言っている」
マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。殺害現場に立ち会わなかったのは当然。いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。
東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。
「当時、国際的な批判はこの「事件」についてはなかった」
1937年9月から10月にかけての国際連盟総会は日本軍の中国侵略そのものを非難している。当時日本はすでに国際連盟を脱退し(1931年の柳条湖の事件をめぐっての国際連盟決議を不服として)ていて、国際的な孤立状態にあった。1937年9月というと南京陥落前であったが、南京爆撃を国際連盟の決議は非難している。つまり日本軍の中国侵略そのものを非難しているのである。南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がないからと言って国際批判がないというのは当たらない。
ドイツ人ラーベは南京安全区国際委員長として日本軍が占領した南京に止まり、市民とりわけ女性を日本軍の暴虐から守るために奮闘した。ラーベは1938年2月、帰国命令を受けベルリンに戻った。ラーベはナチス党員であったが、南京での日本軍の残虐行為をヒトラーはじめドイツ政府の指導者に知らせた。そしてヒトラーあての「南京事件・ラーベ報告書」を提出した。
「蒋介石も毛沢東も南京のことは問題にしていない」
1938年7月(南京陥落後)<日中戦争1周年>に蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」
毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」
「当時の南京の人口は20万人しかなかった。だから30万人も殺せるはずがない」
否定派が20万人というのは南京安全区委員会が1937年12月17日付け文書で「もし市内の日本兵のあいだで直ちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者がでることはさけられないでしょう」と書いてあることによる。しかし、これは南京陥落後の安全区内に非難収容された人にかぎった数であり、南京大虐殺以前の南京市の人口ではない。南京市は「城区」(市部)と「近郊区」(県部)にわかれる。城区に限っても1937年11月23日(日本軍制圧直前)に南京市政府が作った文書には人口約50万人となっている。さらにこの後、避難民の流入もあり、日本軍に包囲された中国軍の兵士も15万人いた。 戦前、城区の人口は約100万人、近郊区の人口は約130万人という数字がでている。 そもそも30万人殺したか1万人殺したか数が問題なのではない。日本軍の残虐行為があったかなかったかの問題なのである。南京大虐殺の犠牲になった市民・農民・兵士は一人ひとりの個人であり、名前をもった一度だけの人生を生きていた人たちである。個人の犠牲を考えれば、一万人、四万人、二十万人、三十万人という数の問題はあまり意味をもたない。
「南京虐殺の目撃者はいない」
全体像をみたものなど誰もいない。しかし1937年12月から翌年はじめにかけて南京城区・郊外で強姦、虐殺、略奪がおこったことは確かである。自分のまわりにおこったできごとを「目撃」して生存している人はたくさんいる。中国では幸存者といい、その目撃証言を大事にし記録している。日本政府を訴えている李秀英さんは日本軍の兵士に強姦されそうになり、全身にたくさんの傷を負った証言をおこなっている。この李さんを「ニセモノ」よばわりする人物が書物をあらわしているが、これも李さんは名誉毀損で提訴している。
「李秀英さんの証言を読むと食い違いがある。実際に体験したことではない」
南京虐殺を否定する人は李さんの証言を直接聞いている人はほとんどいない。ニセモノだという人たちも伝聞で書いている。60年以上前のことを前後関係も数字もきちんと覚えていることの方が不思議である。何ケ所刺されたかなど「刺された人」が数えているはずもない。全体として李さんが体験したことに真実をみいだすべきである。マギーフィルムにも李さんが病院で治療している映像が収録されている。ことさら証言の細部にくいちがうことがあるからと言って「南京大虐殺」そのものをなかったことにしようという「よこしまな」意図が働いているとしか言いようがない。
「百人斬り」というのは捏造記事である」
百人斬ったかどうかが問題なのではない。戦闘で斬ったというのは確かに「ウソ」であるが、それよりひどいことをした。捕虜を斬ったのである。戦闘行為ではなく、降伏してきた無抵抗の中国兵を斬ったというのが事実である。これ自体とんでもないことである。もちろん南京虐殺を否定したことにはまったくならない。
「遺体埋葬記録は信用できない。たくさんの人は死んでいない」
紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっているが、1937年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録がある。(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2266体と記録している。その大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなっている。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬をすませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったので、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。
これ以外に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないのだから、実態は当然もっと多いことになる。
「とらえた捕虜が暴動をおこしたので、仕方なく発砲した」
1937年12月13日の戦闘で1万8千人の中国兵が無抵抗で捕虜となった。16日に捕虜収容所内でボヤが発生したが、捕虜の逃亡も銃撃もなかった。この夜、軍命令で揚子江岸の魚雷営で2千人から3千人が試験的に虐殺され、死体はその夜のうちに揚子江に流された。残りの捕虜を翌17日に上元門から約2キロ下流の大湾子で虐殺した。この日の虐殺は大量だったため、薄暗くなるころからはじまった虐殺が18日の明け方まで続いた。そして、死体処理には18・19日の2日間かかった。大量の死体は揚子江に流された。
「日本軍が殺したのは、民間人のふりをした「便衣兵」であり、投降兵である。正当な戦闘行為である」
南京陥落前に主要な中国軍部隊は蒋介石とともに南京を離れている。南京陥落後に南京に残された中国兵は戦意を喪失しており、ほとんど日本軍への攻撃はなかった。南京陥落直後の南京で撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武の記述である。「便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の上海事変の際はもとより、今回の支那事変の初期にもかなり積極的に日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。わたしの知る限り、彼らのほとんどは戦意を完全に失って、ただ生きるために軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって彼らを通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。」(「私のみた南京事件」PHP研究所1977年)
南京占領後日本軍は「便衣兵の疑いあり」というだけで次々と虐殺した。また投降兵についても軍事裁判などの手続きをせずにどんどん殺害していった。
「南京虐殺は日本軍の仕業にみせかけるために中国軍の反日攪乱工作隊がやったことだ」
南京に潜伏した中国軍の兵士がいたのは確かだが、用心深く潜伏していることが重要であって、攪乱するなどという状況になかったことは明白である。こういうこしを発想すること自体「妄想」のたぐいである。
たしかに南京を退却する時の中国軍が脱出・避難のために必要な物資を略奪したり、不法行為を働いた事実もある。しかし、それをはるかにしのぐ進駐してきた日本軍の蛮行があったのである。「ニューヨークタイムズ」のダーディン記者の報告である。「南京に知勇国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の気持ちは非常に大きく、また南京市政府及び防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。しかし、日本軍の蛮行がはじまると、この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。」(「ニューヨークタイムズ」1938/1/9)
「南京大虐殺の写真はニセモノばかりである」
日本の軍隊に従軍して写真をとっていた従軍カメラマンはたくさんいた。南京戦では200名をこす新聞記者やカメラマンがいた。しかし、撮影も報道もしていない。厳しい陸軍の検閲があったからである。「左に列挙するものは掲載を許可せず」といい、・・・我が軍に不利なる記事写真・・・というのである。これでは「我が軍に有利な写真しか」載らない。南京安全委員のマッカラムは日記に書いている。「1938年1月8日、難民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
しかし、平站自動車第17中隊の写真班の村瀬守保氏は輸送部隊であったために比較的自由に写真を撮り、検閲もうけなかった。戦後「一兵士が写した戦場の記録」という写真集をだしている。この中には南京大虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。「虐殺された後、薪を積んで油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが民間人でした」のキャプションがついたものがある。 
 
「南京大虐殺」はなかった / 森王琢

 

はじめに
私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。
昭和12(1937)年7月蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発(ぼっぱつ)後、9月に第16師団(京都)に動員下令、私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、12月9日に南京の東北地区に進出しました。途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死のため、私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。
南京は、昭和12(1937)年12月13日完全に占領されましたが、私は翌年の1月下旬まで約1ヶ月余り、南京及びその近辺で警備に任じられておりました。いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。
私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。当時第一戦において部下と共に戦い、たくさんの部下を戦死により亡(な)くしました指揮官と致しまして、「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、まことしやかに伝えられ、しかもそれを大部分の日本人が些(いささ)かも疑いを持たないで信じている状態は、何としても我慢の出来ないことなのです。
共に戦った戦友、ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、1人でも多くの人に真実を知って頂きたい、そのために自分が役に立つならば、どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、また下手な文章であっても書いて、それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
南京総攻撃の概要
敵の首都、南京を攻撃するために各方面より進撃した各部隊は、昭和12(1937)年12月10日には大体要図のように南京を包囲しておりました。
南京総攻撃の各部隊の配置図
東からは私の属していました京都の第16師団、東南からは金沢の第9師団、宇都宮の第114師団が真南から、熊本の第6師団は西へ、第13師団の山田支隊は紫金山の北側の揚子江に沿(そ)った地帯を前進、さらに揚子江の向こう岸には国崎支隊(旅団長の指揮する第5師団福山第41連隊)と、南京は完全に包囲されていました。
私は京都福知山20連隊の第3大隊を指揮して中山門に向かって攻撃をしたのであります。当時支那軍は、南京城外に第36、51、58、87、88、101、112各師団の南京保衛軍というのが要塞を作って防備をしておりました。
松井石根総司令官は12月9日、飛行機で南京城内外にビラ(和平開城勧告文)を撒き、「戦争をするにしのびないから、南京を明け渡すならば攻撃はしない。承諾するかしないかについては、12月10日正午中山門城外に軍使を出せば、そこで交渉する」と勧告をしたのですが、敵は全く解答をしなかった。
そこで日本軍は南京総攻撃に踏み切ったわけです。流石(さすが)に敵の首都でありますから、確かにものすごい激戦でありました。
私の大隊の正面2キロほど先に溝山(かうざん)という小さな山がありましたが、12月10日の正午に攻撃を開始して、溝山に辿(たど)り着いたもう夕刻でしたが、敵の大部隊を前にして紫金山方面からもの凄い砲撃を受け、全く動けなくなりました。溝山は雑木林であったのですが、それが砲撃で丸裸になる程で、ここでも損害が続出しました。
南京の総攻撃はそういう状況から始まりまして、11日、12日と、全然動けない状態でした。12日の夜半11時から12時頃と思いますが、突然銃撃が激しくなりました。
私はこれは敵が退却する前兆であると感じまして、1時間もすれば銃撃が止むだろうと思っていましたら、案の定ピタッと止まりました。すぐ将校斥候(せっこう。偵察の事。)を派遣しましたが、午前2時過ぎにその斥候が帰って、「中山門まで敵なし」との報告を受けましたので、直ちに中山門に突入する決心を致しまして連隊長に報告をし、第三大隊突入のご承認を得ようとしたのであります。
その報告を出すと入れ違いのように連隊長から、「第三大隊はその場に止まり引き続き警戒に任ずべし。連隊は軍旗を奉じて、予備隊を以(も)って中山門に突入する。」という命令がありました。
今まで3日間程随分苦戦を重ね、今突入出来るという時にそこに止まっておれと言われた、その時の悔しさは私は一生忘れることが出来ません。連隊長が軍旗を奉じて中山門に突入・占領されたのは、13日の午前4時頃でした。
他の部隊も、京都の9連隊が中山陵、明孝陵の辺りを攻撃し、津の33連隊は紫金山を攻撃、佐々木支隊(旅団長の指揮する奈良の38連隊その他の砲兵等)は、紫金山の北側から南京最北の獅子山に向かい突進しました。第9師団は私の師団の左を東南から光華門を占領し、宇都宮師団は雨花台から中華門に、第6師団は西側を北上攻撃、こういう次第で南京は昭和12(1937)年12月13日に陥落したわけであります。
「南京大虐殺」論は何故起こったか
これだけ大きな戦争をやったのです。何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
しかしながら「大虐殺」などということがなぜ言われるようになったのか。その第1は、戦後に東京裁判において、検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択されたことが第一の原因であります。第2は、東京裁判が進行するに従って、NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。第3は、新聞報道機関が「虐殺、云々(うんぬん)」と盛んに書きたてた、それを一般の人が信じるようになった事であります。
NHKラジオ放送と同様、統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、一般の人も信じるようになったわけであります。
東京裁判における検事側の証言
いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、ならばその東京裁判とはどういうものであったか。東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、第1には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。
第2には日本の「歴史の断罪」であります。つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。
第3は、日本人に自虐観念を植え付け、洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。また裁判の運営についても、
(1) 偽証罪の無い裁判であったこと。
(2) 検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、弁護側の証言は多くあるいは抹殺されたこと。
(3) 公正なるべき判事が安易に検事に同調し、検事と全く同じ立場で運営していること。
(4) 弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じたこと。
(5) 判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
その不当なことは明かなのであります。「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
(1) アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
(2) その他、当時南京城内に居住していた牧師、南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、多くは悪意に満ちた証言をしております。
(3) 中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。それを34万人殺害されたと言っている。家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉(ことごと)く掃射を受け、死体揚子江を掩(おお)い、流水為に赤し」中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。対岸は霞かすんで見えません。その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
(4) 崇善堂という慈善団体が、約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。我が軍がそういう片付けをしているのに、そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。
同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか?考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。
さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。第一に広田弘毅という方が軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。
軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、外務大臣であった文官の広田弘毅がその職にあったということで処刑されている。あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。
またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、判決では一切無視されたばかりか、これを印刷することも頒布(はんぷ)することも禁止されました。このように東京裁判の不当な事は、後になって裁判の管轄権者(かんかつけんしゃ)であったマッカーサーでさえ、解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は厳しすぎたと言っております。
その他英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。然るに現在の日本の状態はどうですか。
半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、いわゆる進歩的と称する学者、文人、評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」という麻薬に犯されたまま、「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。
虐殺論者とそのウソ(1)
日本人で「虐殺はあった」と主張する人を一応「虐殺論者」と呼ぶ事に致しますが、この中には新聞記者、学者、評論家という人達、それともう一つは戦争に行った兵隊、下士官、将校がおります。そういう人達の虐殺論がいかにウソでありデタラメであるかをこれからご説明します。
(1) まず、当時の従軍記者の例をあげます。当時南京には、新聞各社の記者が100名以上もおりました。
イ、朝日新聞の今井正剛記者という記者が「南京城内の大量殺人」という本を書いております。大阪毎日(当時)の後藤記者が、「あなたはとんでもない事を書いていますね」とただしたところ、今井記者は、「あれは興味本位で書いたのだ」と白状しています。朝日の同僚の記者は、「今井君は危険な前線に出て、目で見てものを書く人ではなく、後方で人の話を聞いて記事を書くのが上手であった」と批判をしております。
ロ、東京日々新聞の鈴木二郎という記者は、「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言しております。作家の阿羅健一氏が、「あなは12月12日に中山門に入られたのですか。それは13日の間違いではありませんか」と問い正したのにも関わらず、「いや、私は12日に入って、現実に捕虜が殺されるのを見たんだ」と譲らないのです。12月12日には、私は先ほどお話したように、中山門正面約2キロ手前の溝山の山頂にいました。双眼鏡で中山門の城壁がやっと見えたのですが、敵兵がいっぱいおりました。一体いつになったらあれを占領できるのかと、その時思ったことを私ははっきり覚えています。そんな時期に、一新聞記者がどうして中山門に入れるのでしょうか。中山門の高さは約10メートル、厚さ20センチの扉はぴったり閉まっており、しかも門の内側には土嚢(どのう)がいっぱい積み上げられてありました。13日の未明、我が歩兵20連隊が砲撃によって崩れた城壁をよじ登って占領し、私は15日に中山門に入ったのですが、ここで捕虜が虐殺されたような形跡は全くありませんでした。要するに、鈴木二郎という記者の証言は、全くのウソであります。
ハ、東京日々新聞の浅海一男という記者が、「百人斬り」という記事を書いています。京都の9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官が、どちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、勝者に賞を与えようと命じられ、2人が百人斬りを競ったというものでありますが、これが全くのウソであります。
第一に、軍隊で戦争の真っ最中に、上官が将校にかかる競争を命じ、勝った方に賞をやろうなどと言うこと、また将校もそんなエサで釣られるようなことは、軍隊の常識としてあり得ません。その時の上官であると言われている富山大隊長も、「そんな馬鹿なことがあるものか」と、ハッキリ否定しておられます。
さらに野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。そういう将校に、敵に突入して百人斬りを命ずる馬鹿がいるでしょうか?
そういう作り話がまことしやかに書かれ、そのために両少尉は戦犯にされ、処刑されたのです。東京裁判の最中に、向井少尉の家族が、浅海記者にあの記事はウソである、作り話であるということを証言して欲しいと懇願していますが、浅海記者は逃げ回ってその証言を回避しております。
私は、彼が2人の若い将校を殺したのも同然だと考えております。
(2) 次に、戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。
まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。また、証言者が、「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
そのような記事について、「そんなことはあり得ないことである」と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
全く礼儀知らずと言うほかありません。
虐殺論者とそのウソ(2)
さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。
イ、姜根福の証言。日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。紫金山で2千人を生き埋めにした。あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。
ロ、伍長徳の証言。南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。
ハ、李秀英(女性)の証言。日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。
2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。本多記者については、「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
本多勝一記者は、「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。「隠された連隊史」という本を、共産党「赤旗」の下里正樹という記者が書いております。
これには私の属しました福知山歩兵第20連隊のことが書かれています。大体、共産党の機関紙の記者が書いたものですから、内容は読まずとも知れたものですが、私の連隊のことを書いているものですから読んでみますと、よくもまぁこれだけ大ウソを書けたものだと思うくらいのものです。
イ、「歩兵第20連隊では兵士が上官の指揮を批判し、命令に反抗し、将校はひたすら兵に迎合して兵の非行も黙認し、部隊内には下克上の空気蔓延し、将校の権威も指導力も全く零であった」
私は第20連隊の中隊長として、兵士の機嫌を取らねばならない等と、思った事さえ1度もありません。常に部下の兵士と共に、お互いが信頼しあって戦ってきたのです。
その結果もう半世紀も経った今もなお、当時の戦友会が毎年開かれているのです。来月の7日にも、私の中隊の戦友会が京都府の綾部で行われますが、例年のごとく、「隊長殿、是非出席して下さい」と招待されております。
将校が兵士の機嫌を取らねばならなかった軍隊で、そんなことが続けられるのでしょうか?また私が十数年前に大病で下関で入院したことがありますが、当時の部下の多くは京都府に住んでいるのですが誰かれ言うとも無く、「隊長殿がひどい病気だ」ということで、知らぬ間に多額の見舞い金を送ってくれました。
私はベッドで感激の涙にむせんだ事でした。将校と下士官・兵の心が離れていたならば、こんなことはあり得ないと思います。
これは私の場合だけではなく、中隊長と中隊の兵士の気持ちがしっかりと結ばれていなければ、激戦を戦い抜くということは出来ないのです。
ロ、「日露戦争の際、歩兵第28連隊(北海道旭川)の兵2千人が捕虜になり、戦後恥ずかしくて日本には帰らず、ハワイに移住した者もある」これもまた、ものを知らずに書いたにしてもあまりにひどいじゃないか、というものです。1個連隊は約3千人ですが、そのうち2千人が捕虜になったなどということはあり得ないことです。
私に言わせれば、下里正樹は「私はウソを書いております」と、自分で白状しているようなものであります。「天に向かってツバをする」とはこの事でしょう。学者の中にも、盛んに虐殺を主張する者がいます。何人おいる中で2、3人の人を取り上げますと、
1、洞富雄 元早稲田大学教授
「南京大虐殺の証明」という著書の中には私の名前も載っていますが、その中で便衣隊の兵隊を殺したのも虐殺であると言っております。しかし、戦時国際法で便衣隊は捕虜として認めておらず、従って捕虜としての権利は与えられて無いのです。
だから便衣隊を処刑するのは、捕虜を処刑することにはならないのです。便衣隊というのは、軍服を脱いで非戦闘員を装い、しかも武器を隠し持って油断を見澄まして危害を加える者を言います。
軍隊は非戦闘員を攻撃することは許されませんので、非戦闘員を装った敵は危険極まりない存在です。従って戦時国際法は、便衣隊のような存在には正規の兵士が受けるべき権利を認めていないのです。
それを洞富雄氏は、「便衣隊は軍人ではないのだから、殊(こと)に戦争が終わって戦意が無くなったのだからこれを殺すべきでない」と主張するのです。
しかし、現実に堂ノ脇という参謀が便衣隊に襲われ、乗っていた車の運転手が殺されています。戦争の現実も、戦時国際法の規定の意味も知らない暴論と言わざるを得ません。
2、秦郁彦 日本大学教授
この人はなかなかよく調べてはおられるようなのですが、私共から見るとその調べ方が極めて杜撰(ずさん)です。後に触れますが、曽根という元兵士がとんでもないことを書いているのを、もう少しよく調べればウソだと判るのに、非常に高く評価しております。私はこの人には面識がありますが、このことは秦氏の失敗だと思います。
3、藤原彰 元一ツ橋大学教授
この人は陸軍士官学校卒業(第55期)という経歴を持つのですが、終戦後大学で学んで、日本現代史、特に軍事史を専攻しています。これが虐殺論者の学者を集め、南京事件調査研究会の現地調査団長として昭和59(1984)年12月、約1週間中国に参りましてご馳走を食べさせられ、戻って来て「南京大虐殺」という報告書を書いてひたすら中国のお先棒担ぎに汲々(きゅうきゅう)としております。
私共に言わせれば、「汝、ブルータスもか!」と言いたいところです。
参戦者の手記、日記など
実際に戦争に行った人間が、手記を書いたり日記を書いたりという形で色々虐殺を言っています。まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
当時はボールペンなどはありません。終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
また敵と至近距離に対峙たいじして夜を徹することもあります。戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、どうも信用出来ないのです。彼らの証言をいくつかあげてみましょう。
1、中山重夫
岩仲戦車隊の兵で、昭和12(1937)年12月11日に雨花台(南京城南側、中華門外の台地)で、約4時間にわたって捕虜が虐殺されるのを見たと証言。静岡県の中学教師、森正孝という人物が作った「侵略」という8ミリ映画を持ち歩いて各地で講演をして回っています。昭和12(1937)年12月12日は激戦の真っ最中で、そんな中で捕虜を殺している余裕は絶対に無いのです。まして数時間もそれを見物するなどは考えられません。特に、中山重夫氏が配属されていた戦車隊は、南京城東側の中山門攻撃に加わっており、11日、12日の状況はすでにお話した通りです。この部隊にいた兵士が、南京城南側の雨花台で捕虜の虐殺を見るわけがないじゃないですか。そんな大ウソを平気で言うのです。
2、曽根一夫
豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。「私記南京虐殺」3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、「11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落」と書いております。これが全くのウソであります。曽根一夫は豊橋歩兵第18連隊の軍曹ではなく、名古屋の野砲第3連隊の初年兵であったことを、彼と同じ中隊(野砲3、第12中隊)にいた戦友が証言しており、所属部隊の階級も全くデタラメですし、蘇州河の戦闘になどは参加しておりません。また第18連隊の中隊長、及部巷氏は、「11月7日は激しい風雨であり(朝霧などは無し)、蘇州河は水深2メートル余りで人柱等不可能、さらに当時は敵弾の飛来等ある状況では無かった」と、証言しています。こんなウソを平気で言っております。
3、富沢孝夫
海軍の暗号兵。「昭和12(1937)年12月11日、松井軍司令官の虐殺を戒いましめる暗号を傍受・解読した」と証言。海軍の暗号兵が陸軍の暗号を傍受・解読する事は、技術的に出来ないのです。さらにもう1つは、12月11日には、松井軍司令官は蘇州で入院しておられ、南京にはおられません。にもかかわらず、彼は平気でそういう事を言っております。
4、石川フミ
東北出身の日赤の看護婦で、病院船筑波丸に乗って揚子江を遡行そこう、12月27日に南京に上陸、中山陵を見物し、途中で「女、子供の死体が散乱しているのを見た」と証言。そんな時期に、そこいらに死体がある訳がありません。現実に、私は何度か中山陵に行きましたが、一体の死体も見たことはありません。何度も通った私が全然見ていないのに、たった一度行った看護婦が、散乱した死体を見るわけがないじゃありませんか。
5、東史郎(あずましろう)
歩兵第20連隊第3中隊上等兵。「わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。又「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」「中隊長自ら斥候(偵察)に行った」等と書いています。彼は私の連隊の兵士です。捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、現に私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。またどんなに激戦であろうとも、中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、そんな馬鹿なことも考えられません。各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を我々に資料として提供した」と発表した新聞がありますが、同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、「東の家に倉庫なんてあったことはありません」と、はっきり言っております。又、朝日新聞の記事によりますと、彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。
6、北山与
歩兵第20連隊第3機関銃中隊。「12月13日西山(前記の溝山のこと)麓で捕虜を火刑に処す」「12月14日戦銃隊は紫金山の掃討、約800名、武装解除後、皆殺し」と証言。これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。こんな命令を出したこともありませんし、これほど重要な事を、直接の指揮官である私が知らないはずがありません。そんな大ウソを、朝日新聞は喜んで書いているのです。彼はまた、自分は日記を書いたけれども、それは中隊長に検閲されるから差し支えのないことばかり書いた、と言っておりますが、戦場の中隊長は、兵士の日記を点検するほど暇ではありませんし、またどの兵士が日記を書いているかなんてことは判りません。
7、上羽武一郎
第16師団衛生隊の担架兵。「戦場で放火、殺人、切り捨て勝手たるべしの命令があったので毎夜民家に放火して、住民をあぶり出して殺害した」と、メモに書いていると、新聞のインタビューに答え、「中山門攻撃の歩兵第20連隊の多数の死傷者を運搬のため、住民中の青年約100名を徴用、使用した後虐殺」と証言。「放火、殺人、切り捨て勝手たるべし」などと言う馬鹿なことを言う指揮官がいるわけがありません。また当時の戦場の住民の中に、100名もの青年がそこいらにいる等という事はあり得ません。
8、最近、私が聞いた話で、京都に共産党をバックにした団体がありますが、それが舟橋照吉という男の日記が出た、これが虐殺の動かぬ証拠であると盛んに言っております。
週刊誌に出たその日記なるものを私は子細に読みました。輜重輸卒(補給部隊)で京都の連隊に入ったそうですが、まるで自分1人で敵陣に突入し勇戦奮闘したようなことが書いてあります。輜重輸卒が戦闘に参加したり、まして敵陣に突入するなんてことはあり得ない事です。
9、太田壽男
南京の停泊場司令部の職員の少佐が、「12月16、17、18日に何万という死体を処理した」と書いています。この人は後に戦犯となり、満州の撫順収容所に収容されてそこで書いたものであります。ところが同停泊場司令部に梶谷という職員(曹長)の日記によると、太田少佐は12月16、17、18日に南京にはいなかった。この人は12月25日に、上海から初めて南京に来た人であります。太田という人は、戦犯収容所に収容されて、おそらくそう書くように強制されたものだと思います。それをいかにもまことしやかに、虐殺の証拠だと言うのです。太田少佐の手記については、毎日新聞静岡支局の武田某という記者が広島市に住んでいる畝本正巳氏(陸士46期。戦車隊中隊長として南京攻略戦に参加、偕行社編纂の「南京戦史」の編纂委員)のところに聴きに来た際、畝本氏は、「そんな馬鹿な事は無い」と、梶谷日記も見せて、太田少佐の手記の誤りである事を説明しています。ところがそれが毎日新聞の記事になってみると、虐殺の動かぬ証拠として太田手記を載せ、しかも少佐であった人の証言であり、間違いないと言っているのです。畝本氏の証言も梶谷日記のことも、一切無視しているのです。
今、お話したようなことが、「南京大虐殺」論の実態なのです。
南京に虐殺があったという主張にこれだけウソが多いということがお判りになれば、逆に虐殺は無かったという証拠になるのではないでしょうか。「あった」という証明は簡単なのですが、「無かった」という証明はなかなか難しいのです。
ですから、「あった」という論にこれだけウソが多いことを指摘して、逆に証明する以外ありません。しかしその指摘は、私や戦友、部下達が直接体験したところから出ているのです。
虐殺論に対する反論
これ程多くの新聞記者、学者、評論家その他の人達が虐殺があったと言っておりますけれど、一方「そんなことがあるものか」と、反論する人も多いのです。
先ほどの畝本正巳を始め、犬飼總一郎(陸士48期南京攻略戦参戦)、田中正明(拓殖大学講師を経て評論家)、板倉由明(南京問題研究家)、谷口巌(南京問題研究家)等の諸氏は私も面識があり、この人達はあるいは著書をもってあるいは投稿などにより、虐殺論者に対して反論をしておられます。
作家の阿羅健一氏の著書「聞き書 南京事件」(現在は絶版、小学館刊「南京事件日本人48人の証言」にて再販中)は、当時戦場にいたジャーナリストの人達に集まってもらい虐殺があったかどうかをたずねているものですが、ほとんどの記者が、「そんなことはなかった」と言っております。
有名な細川隆元さんは朝日新聞の編集長だった方ですが、その細川さんが編集長時代に南京に派遣していた記者を集めて、南京虐殺事件の事を聞いたところ、「そんなものはありません。」とハッキリ答えたと言っておられます。
要するに、モノを正しく見て正しい事を言おうとする人は、南京に虐殺事件はなかったとハッキリ言っているのです。虐殺があったと言っている人達は、世の中に迎合している人が多いのです。
戦場の実相
戦場とはどういうものか、当時の日本軍と中国軍(蒋介石率いる現台湾の国民党政権。現在の中国は毛沢東率いる中国共産党政権です。)の実態はどういうものであったかという事について少しお話しましょう。中国軍の実態について申しますと、まず第一に、兵隊の素質が非常に悪い。
日本の兵隊と全く異なる点ですが、中国には昔から「良民不当兵」(良民は兵士にならない)という諺(ことわざ)があります。日本軍が虐殺したと言いますが、まず虐殺をやったのは中国兵なのです。
その実例を申しますと、私が上海付近に上陸後、ほとんど連日は戦闘、引き続き追撃と敵と戦いながら南京へと迫って行きました。従って私の前には日本軍は全くいないという状態で戦闘を続けていました。
ところが私がある部落、あるいは町を占領するというと、そこが既に破壊をされており略奪をされており、焼き払われているどころか、甚はなはだしきは住民が惨殺されているのです。なぜそういう事が起きるかと言うと、逃げる中国兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が中国兵に殺されているのです。
中国兵は退却する時には「清野空室」と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっているのです。昭和の始めに、「南京事件」「済南事件」というものが起こっています。
これは(蒋介石率いる)国民革命軍が北伐をした時に内乱が起こり、在留の日本人や外国人が虐殺された事件です。また昭和12(1937)年7月29日に北京東南の通州というところで起きた「通州事件」があります。
380名いた日本人が、中国の保安隊に260名惨殺された事件です。あるいは、また上海では、大山中尉が水兵と共に殺されていますが、これも惨殺です。
さらに私が直接見たものですが、ある部落に宿営するため設営(宿舎の準備)の兵が自転車で部隊よりも先行して、部落の入り口の門が閉まっていたので、その兵士が「開門(カイメン)、開門」と叩きますと、門の上から手榴弾が投げられて負傷してしまいました。一緒に行った兵士はあわてて帰り、我々がその部落を攻撃して占領し、負傷した兵士を探しますと、門を開けて引きずり込まれたものか、首を斬り落とされていました。
一緒に行った兵士は、その首を抱いて体にくっつけて、泣き叫んでいました。これが私が現実に見た、中国人の残虐性を現す光景であります。中国軍には昔から「督戦隊」というのがあって、後ろから味方の軍に鉄砲を撃って第1線を督励(とくれい)する、そういう事が行われていました。実際に、南京の城外警備軍の87師、88師が総崩れになって城内に殺到するのを、城内警備の37師が味方に向かって発砲して督励しています。
また南京陥落の前、12月6日には南京城門は全部内側から閉鎖され、城外陣地の守備兵は後退の道を断たれ、城外の部落において略奪暴行を行っております。このように、敗走する中国兵が自国の戦友や住民に暴虐を働いた例を見ても、その素質は劣悪であり、その性質は残虐であることは明白であります。
次に、高級指揮官がさっさと逃げている事です。蒋介石は宋美齢を伴い、12月7日飛行機で漢口に脱出し、それに軍政部長に何応欽、総参謀長の白崇禧等も同行しています。
南京の守備総司令官であった唐生智は、12月12日に部下を放置して揚子江対岸に逃げております。こんなことですから、総兵力6万5千〜7万は指揮官を失って暴徒と化したわけです。
これが中国軍の実態なのです。これに比べて、日本の軍隊はどうかと言うと、まず、第一に国民の支援があり、兵士は郷土の名誉を担(にな)い、国家に対する忠誠心と自己の使命感を持っておりました。
また当時は連戦連勝でしたから、士気は極めて旺盛であり、指揮官もしっかりと部下を掌握しており、軍紀厳正でした。
いかに軍紀が厳正であったかということにつきまして、自分の事で恐縮なのですが、先程申しましたように非常な激戦をして、12月12日夜半、連日頑強に抵抗していた敵が総退却したことを察知し、今から城内に突入しようというまさにその時に、連隊長から私の大隊はそこに止(とど)まれとの命令を受け、私も部下も、涙を飲んで止まったのです。
これが軍紀だと私は思います。いかに突入したくとも、「止(とど)まれ」という上官の命令がある、これが軍紀です。
それほど日本軍の軍紀は厳正であったのです。戦場は極めてアブノーマル(普通ではない)な場であります。
非常に悲惨なものであり、非人道的な事がたくさんあります。しかし、全部が全部そればかりではありません。
私自身の体験をお話しますと、ある部落を占領して宿営した時のことです。宿営の準備の第一は、まず掃討(そうとう)して残敵がいない事を確かめると共に、次いで食料等利用出来るものを集めます。
その時一人の兵が、「隊長殿、こんなものがありました」と笊(ザル)に一杯の宝石とか貴金属を持って来たのです。
私は、「そんなもの持って来てどうするんだ。一切そのまま元の場所に返しておけ。1つでも盗んで身に付けていて、戦死でもしたらお前はとんでもない恥をかくぞ」と戒(いまし)めて、一切手を付けませんでした。
勿論(もちろん)私の部下は只の一人もそういうものを盗んだ者はおりません。これは中隊長として自信を持って断言致します。
又別の戦場である所を占領した時の事です。住民は全部逃げて無人でしたが、ある兵士が、「英児が一人取り残されております」と報告しました。
行ってみるとかわいい英児が篭(かご)の中で無心に笑っております。私達が明朝出発すれば逃げている住民は戻って来るでしょうが、今晩一晩はこの子にお乳を飲ませてやらねばなりません。
幸いなことに私の中隊に、入隊前に中国で行商をしていた、中国語の非常に上手な八木という初年兵がおりました。彼は今マレーシアに住んでいますが、その兵士を付けて将校斥候を近くの部落に出しまして、よく事情を説明してお乳の出る女を探して来い、と命じました。
幸いに一人の女を連れて来ましたので、八木に通訳をさせまして、「私が隊長である。これこれの訳でこの赤ん坊がかわいそうであるから、今晩一晩この子を抱いてお乳をやってくれ」と、申しますと、女性も納得致しまして、従ってくれました。
そうして私達はその翌朝、さらに進撃したのであります。こういうヒューマニズムも、戦場にはあるのです。
私のたった一つの体験ではありますが、こういうことは戦場ではいくつもあったと思うのです。かつて私は、グラフ雑誌で兵士が赤ん坊に水筒の水を飲ませているのを見た事があります。
戦場はアブノーマルであるけれども、全く殺伐(さつばつ)だけではありません。そのことを、なぜ報道陣は報道しないのか。
戦争をしたくないというのは、一般人よりも戦場を体験した者が一番切実に感じているのです。瞬間、瞬間に死を直面した状態を続けているのですから。
しかし、そういうモラルやヒューマニズムは一切報道しないで、ことさら悪い面を誇張するばかりか、ありもしないウソまで書いて、それが果たして本当に戦争を防止することになるのでしょうか。
終わりに
結論と致しまして、南京において不法行為は1つも無かったとは申しませんが、しかし日本の兵隊は極悪非道な事ばかりをしていたというのは、色々話して参りましたように全くのウソであります。ですから一般常識から言って「南京虐殺は無かった」と言って良いと私は思います。
にもかかわらず、日本人の大部分の人が何の疑いも無く「南京大虐殺」を信じ、政治家は臆面もなく「悪いことをしました」と土下座外交をしています。一体これが独立国の外交でしょうか。
このような態度は徒(いたずら)に外国の侮(あなど)りを招くだけです。その証拠に、金丸氏が北朝鮮に行った際、「戦後45年の賠償」というような無礼極まる要求をされているのです。
日本は北朝鮮と戦争をしたことは一度も無いのです。賠償をしなければならない理由は全くないにもかかわらず、戦後の分まで払えと言われているのです。
そんな要求をされること、これこそ日本が軽侮(けいぶ)されている証拠ではないでしょうか。あるいは歴代の総理大臣が、なぜ靖国神社には参ろうとしないのか。
日本の靖国神社には参拝しないで、しかもアメリカのアーリントン墓地には参って花輪を献じ、朝鮮に行っては伊藤博文を暗殺した安重根や、昭和天皇に爆弾を投じた不逞(ふてい)の徒を国士として祀(まつ)ってある忠魂碑に土下座して額き、いささかも恥づる事を知らぬ醜態は、正視するに堪(た)えない国辱であります。
このような外交姿勢であってよいのでしょうか。またロシアは、不法に北方領土を侵略、強奪しています。
その返還には誠意の片鱗(へんりん)も示さないで、しかも日本の経済援助を当然のように要求しています。これも、日本が侮(あなど)られている証拠でしょう。
日本は独立国であり、我々は独立国の国民であるということを、もっと真剣に考えようではありませんか。この輝かしい伝統を持つ日本の歴史を、後世にきちんと伝えていくのが我々の務めではないですか。
その為には、日本人一人一人が、日本の姿を正しくみつめて、日本の国を大事にする事、すなわち国旗日の丸・君が代を大事にしなければならないのではないでしょうか。日本の教科書に「虐殺」が書かれている、これは重大な事です。
日本の教育は荒廃し、政治も堕落しています。日本の教科書に、「南京における虐殺」という言葉がなぜ平気で書かれているのか、文部省は一体何をしているのか。
そういうことを書いて青少年を教育するから、独立国の国民たるのプライドも無くいたずらにエコノミック・アニマル的国民に堕落するのではないでしょうか。最後に、レーニンはその著書「国家と革命」の中に、「青少年をして祖国の前途に絶望せしめる事が、革命精神養成の最良の道である」と書いています。
現在の日本がまさにこの危機に直面しているのではないでしょうか。現在の我々が、この大事な日本を後世に立派に申し継がなければならないのです。
そうして青少年が日本の国に対する誇りを持つように育てなければならないと、私は考えています。我々がそれをやらなければ、誰がやってくれるのでしょうか。
元々自分の家庭で子供に日本の国の大事さ、良さ、日本人としての誇りを持たせる努力をしなければならないのではないでしょうか。教育の場にある人は、その職場でそれをやって頂きたいと思うのです。
大変まとまりの無いお話を致しましたが、いくらかでもご理解を頂ければ有り難く存じます。ご清聴まことにありがとうございました。
質疑応答
[問] 戦場で一兵士が日記や手記をつづるということは、大体許されていたのでしょうか?軍の機密を保持するために、禁止されていたのではないでしょうか?
[答] 禁止はされていませんでした。しかし、背嚢(はいのう=兵士の背中に背負うバッグ)にノートや筆記用具などを入れる余裕があったのか、戦場で克明につづる必要があったのか等、戦場の実態を考えると、「日記が出た」「日記が出た」と言われて虐殺の証拠だと言われているものの多くは、ウソであろうと思います。後に記憶をたどり、しかもジャーナリズムにおもねる気持ちで書いたものだと思います。一兵士が日記に軍の配備などを書いていますが、そんなことは分からないはずです。大隊長クラスの私でさえ、連隊の全部、ましてや師団の全部がどうなっているかは等は分からないで、自分の目の前が精一杯なのです。にもかかわらず、一兵士が隣の連隊がどこでどうした等と、まるで軍司令官か参謀長のようなことを日記に書いてあれば、これはウソだと言うしかありません。それを見破ることも新聞記者には出来ないし、あるいは故意に見破ろうとしないのです。
[問] 「南京大虐殺」については、当時英米の新聞等にも載っていないんでしょう?もし、実際にあったのならば、英米の新聞記者も当時南京にいた訳ですから、それを書かない訳がないでしょう。
[答] 当時、英米でそういう記事が載ったという事は聞いていませんね。
[問] 中国共産党の歴史書には、日本軍の「三光作戦」という言葉が必ず出てくるのですが、殺光(皆殺しにする)、搶光(略奪しつくす)、焼光(焼きつくす)という作戦命令は、実際に日本軍で出ていたのでしょうか?これは日本の教科書にもたびたび出てくる言葉となっているのですが・・・。
[答] 軍の命令としてそんな事を出すという事は、絶対にあり得ない事です。中国軍が退却する際の「清野空室」という作戦についてお話しましたが、「三光作戦」も中国側で言い出して、ジャーナリズムはそれを無批判に使っているものでしょう。私は自分の部下には、「殺さなければ殺されるという場合にのみ殺せ」と指示し、住民はもちろん敵兵であっても、無抵抗の者を殺す事は禁じていました。それは軍隊の常識でもあります。
付・便衣兵について
便衣兵は陸戦法規の違反である。戦時国際法によると、「便衣兵は交戦資格を有しないもの」とされている。交戦資格を有しない者が軍事行動に従事して捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人として処罰を受けなければならない。非交戦者の行為としては、その資格なき敵対行為を敢(あえ)てする如き、いづれも戦時重罪犯の下に死刑または死刑に近き重刑に処せられるのが、戦時公法の認むる一般の慣例である。 
 
虚構「南京大虐殺」 / 世界に訴える日本の冤罪

 

南京虐殺は虚言だと言うことは、使われている写真の殆どが偽物だという新聞記事を読んで知っていました。[再審「南京大虐殺」]では、中国側の証拠を告発人、日本を被告として、真実を明らかにしています。読んでいて、中国側の余りの虚言に呆れるばかりです。それ以上に、中国側証拠を完膚無きまでに否定しているのは痛快でさえある。そんな中国と、互恵関係をいくら結んでも、ODA、世銀を通じた中国への税金の垂れ流し、領海侵犯だけではなく、尖閣及び沖縄占領をも掲げ、核兵器が日本をにらんでいるのが現実です。
文庫本で[松井石根]の本も出版されていますが、日中和平を優先した人でした。結局冤罪で死刑となりました。この本が日本軍(皇軍)の冤罪を晴らすものであることに、感謝いたします。どうか一度手に取り、ご自身で確認して頂ければ、皇軍は無実だったんだと納得されると思います。更に、2013年4月10日に、中山成彬議員が、資料を出して南京事件は存在しなかったことを、初めて国会で証言しました。これを最後に追加しました。
南京の真実
日本軍が南京に入城したのは 昭和12年12月13日。しかしその5日〜6日前の朝日新聞の記事によると南京は支那自らの焦土政策で廃墟となり略奪が横行し、断末魔の形相だった。
本多勝一氏が、南京虐殺写真を捏造だと告白した
本多勝一氏は「南京大虐殺」派の象徴的な人物で、国際的にも著名な元朝日新聞のスター記者であり、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・チャイナ』や反日左翼が「南京大虐殺」の象徴と使っていた。
本多勝一氏は、あの橋の上を中国人老若男女が歩いていた写真を捏造写真と認めたコメントを、『週刊新潮』(2014年09月25日発売)のグラビアページに寄せています。これは、「南京大虐殺」派の象徴的な人物のコメントとして歴史的な意味があり、「南京大虐殺派」にとっても歴史的な事件なのです。そして、『週刊新潮』は、「南京問題論争」の歴史的な資料になりますので、永久保存版として所蔵する価値があります。
これを起点に朝日新聞社の「慰安婦検証」から「南京問題検証」へのスタートにするためにも、『週刊新潮』編集部へ、南京問題の写真を継続して取り上げることをお願いしてください。
資料の価値を一般国民に知らしめることは、同写真の背景を『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』『再審「南京大虐殺」』で写真とともに解説していても、1万人の読者諸賢だけが覚醒していても世論になるには程遠いのが現状です。しかし、『週刊新潮』に取り上げられれば、発行部数から銀行や医院などの待合室に置かれることで数百万人が見ることになり、その影響力は絶大です。
どうか皆様方が、『週刊新潮』を激励していただけば、朝日新聞「南京問題記事の検証」へ一気呵成に追いつめることも可能になります。尚、この記事に関して、2014年9月18日のチャンネル桜でも検証報道しましたので、ネットで視聴していただければ幸いです。  
本多勝一の正体
本多勝一こと“崔泰英”が朝日新聞「中国の旅」を連載し始めた1971年は、財政破綻で苦境に立つ米国がキッシンジャ−を支那に極秘訪問させた年でもある。反日論者の彼は周恩来との秘密会談で“対日封じ込め”戦略で一致した。利にさとい伊藤忠商事は瀬島龍三専務指揮下、国交正常化を前に売国的な「周4原則」を受け入れ早くも中国室を設置している。さらに我が国では時を同じくして、この年に「日の丸・君が代」教育に反対する槙枝元文が日教組委員長に就任し、その後、我が国に対して内外ともに反日包囲網が形成されて行く年であった。
本田が暗躍したあの時代から、米国とシナは日本封じ込め即ち日本貶めで米国は日米貿易問題で恫喝。シナは如何に賠償金に代わる日本から金をせしめるかを、キッシンジャーと共謀したとしか思えない。その後の日本へのシナの執拗な歴史戦が始まりましたね。シナと共謀者のキッシンジャーの暗躍同意が在ったのでしょう。それに乗ったのが朝日新聞が筆頭でNHKが乗ったのでしょう。
本田の南京戦捏造プロパガンダから慰安婦植村、福島原発の嘘報道など全て売国報道でした。新聞社では無くシナ、中朝の反日工作機関が正体でした! 
序言
南京大虐殺とは、南京攻略戦が終わった後、一九三七年(昭和十二)十二月十三日から約六週間にわたつて、南京市内および郊外において、日本軍が組織的・計画的に三十万人以上の捕虜や民間人を虐殺するとともに、大量掠奪や八万件に達する強姦を重ねた。その狂気的殺我の代表的事例が二人の少尉による『百人斬り競争」である。
アイリス・チャンの本には、「虐殺三十万、レイプ二万」と称しているのだから、人権尊重とフェアプレー精神をモットーとする米国国民の間に「日本憎し、厳罰を加えよ」との声が挙がったところで、無理からぬところであったろう。しかし、冷静に考えるならば、事態はこう問われてしかるべきなのである。すべてこれは、(南京大虐殺)が間違いなく存在したということをもつて不可欠の前提としているが、はたしてそれは正しく立証された事実なのであろうか、と。
たとえば、次のような疑問を抱かなかっただろうか。
「わずか六週間で市民三十万人が殺され、死体の多くが石油で焼かれたなどというが、そのためにはアウシュヴィッツ並みの大火葬場が何十箇所も必要であろう。いったい誰があの密閉された城壁空間内(35KM平米)でそんなものを見たのか」
「加えて、『レイプ二万から八万』という。ソ連兵のベルリン攻略の後は大変な“ベビーブーム”だったと伝えられるが、南京戦後、同市内に日中混血児があふれたなどと誰が事実を記したか」
良識ある読者なら、こうした疑問は際限もあるまい。そこで、仮に(南京大虐殺)をある特定の殺人事件としてみよう。すると、いったい、死体は幾つあるのか、被害者は誰か、目撃者はあったのか、犯人の動機は何か等々の基本的な疑問について、当然のことながら、適正な刑事訴訟の手続を通じて厳密に立証されなければならない道理となるであろう。
なるほど、(南京大虐殺)を告発する側では、一応は死体の数も特定され、目撃者の証言、また、犯人の動機らしいものもあると言い張っている。だが、実はそれは、およそ文明国の法廷において証拠能力も証明力も全く認められ得ない、お粗末きわまりない類のものばかりだったのである。そして、まことに驚くべきことに、こうした実情がほとんど欧米世界で知られることなく、ただただ、世にもおぞましい(南京大虐殺)があったという吹聴、プロパガンダのみが、これら反日運動家の主張のままに米国内に定着しつつあるありさまなのだ。
本書では、「大虐殺がなかった」ことを論証するのが目的なのではなく、「大虐殺があった」との立証が全然なされていないという事実を明示しよう、それで一切を明白にするうえに十分であると思料する立場をとった。
ただし、我々の批判の村象とした「告発者」は、右に言及したアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』ではなく、中国政府の(南京大虐殺)論である。その理由は、前者が中国政府の主張に依拠していることと、日本の加害責任を追及する国際反日包囲網の発信源は現在の中国政府にある、との我が方の明確なる認識に基づいている。 
告発の主張を検証する 
中国側からの(起訴状)の全体像
下記の全体像からも判るように、いわゆる〈南京大虐殺〉の最大の争点は、「犠牲者が三十万人以上なのかどうか」ということと、「虐殺は日本軍が組織的計画的に行ったものかどうか」ということである。そこで我々弁護側としては、この二つの争点に力点を置きつつ、告発側が提示した証拠を検証していくことにする。
一、犠牲者数三十万人は真実か
 1 日本軍占領後、南京の人口が三十万人以上減少したか
 2 「戦後の中国側調査」に(証拠能力)ならびに(証明力)はあるか
  イ、十九万人殺人を証言する中国側の十一件の証言
  ロ、崇善堂と紅卍字会による十五万体の死体埋葬
 3 欧米人たちは(大虐殺)を目撃したか
 4 当時の日本軍高官も(大虐殺)を認識していたか
二、組織的計画的大量殺人だったのか
 5 日本軍は組織的殺人を計画していたか
 6 敗残兵掃蕩作戦は組織的殺人だったのか
 7 日本軍は捕虜殺害の方針だったのか
三、組織的大規模掠奪・強姦はあったのか
 8 日本軍は組織的に掠奪を行ったか
 9 日本軍は組織的に強姦事件を起こしたか
四、狂気的殺戦はあったのか
 10 日本軍将校は「百人斬り競争」をしたか 
犠牲者三〇万人は真実か
大量殺人事件の場合、最も重大な争点は犠牲者数だが、この点について、告発側は、南京戦前後の南京市の人口の変動に着目して、少なくとも三〇万人以上が虐殺されたと主張している。
まず、南京の人口を検証するに当たっては次の三点に留意する必要がある。
1. 一九三七年十一月十六日、蒋介石は南京放棄を決定、「三日以内に政府機関は撤退準備を完了せよ」と命じた。このため八月から脱出を始めていた富裕階級に続いて、政府関係者も南京から脱出し、残ったのは、中国軍兵士と貧民だけであった。
2. 十二月七日、中国軍は、南京城外の半径十六キロ以内の数百の村落、建物を焼き払った(「清野作戦」)。日本軍に宿舎や陣地として使用されないようにするためである。近郊の住民は中国軍によって住居を焼き払らわれ、住む所がなくなった。
3. 十二月八日、中国軍の唐生智司令長官が、城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告、市民は身の安全を求めて「難民区」に殺到した。よって城内も、安全区の外は無人地帯となつた。安全区委員会も十二月十七日の「第九号文書」で「十三日に貴軍(日本軍)が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。
では、安全区の人口はどのくらいだったのか。
安全区委員会委員長ジョンーH・D・ラーベは、南京戦が始まった十二月十日付日記に「二十万」と記している。その後、日本軍による市内制圧・占領と続くが、安全区委員会の認識は、十二月十七日付文書以降一貫して「二十万人」であった。こと人口に関する限り、安全区委員会の認識は確かだった。何故なら難民たちの食糧問題に頚を悩ました安全区委員会にとって、安全区の人口を正確に把握することはどうしても必要だったからだ。
南京には中国軍兵士も存在した。その数について東京裁判の判決文には「中国軍はこの市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した」とある。以上から、戦闘開始時の南京城内の総数は、中国人兵士を含め二十五万人と言うことになる。
二月上旬に安全区が解散された後、金陵大学教授ルイス・S・C・スマイスは多数の中国人を動員して人口調査を行い、三月下旬の南京の人口を「二十五万ないし二十七万」と推定している。同じく三月二十八日に発足した南京維新政府南京市政公暑が登録した住民の数は「二十七万七千人」であった。(尚、金陵大学は、南京城内にある大学。)
以上のことから、安全区委員会の記録等で見る限り、南京戦終結時の人口ほ「二十五万」であり、その後、人口はむしろ増加している。「三十万人以上も人口が減った」とする(起訴状)には何の根拠もない。 
「戦後の中国側調査」に(証拠能力)ならびに(証明力)はあるか
中国側はいかなる証拠をもって「三十万人殺害説」を立証しようとしているのか。次のように主張している。
戦後の中国側の調査によると、大虐殺がほほ終わった後、当地の慈善機関が各所で収容し、埋葬した遺体は十九万体に上り、集団虐殺が行われた場所で掘り出された遺骨ほ十五万体と推定され、さらに揚子江に投げ込まれた大量の死体は統計に入っていない。そのうち少数の戦死者を除き、その他は全戦闘終了後に虐殺されたものである。
つまり「三十万人殺害説」の有力な根拠は、戦後の中国側の調査なのである。この調査の史料集の前文には「集団虐殺に遭い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は十五万以上」とあり、十九万と十五万という数字をそれぞれ立証する二つの証拠群が掲載されている。
1 十九万人殺人を証言する中国側の十一件の証言
2 慈善団体である崇善堂と紅卍字会が計十五万体の死体埋葬
集まらなかった中国側証言
まず、十九万殺人を証言する中国側の十一件の証言から検証するが、これらの証言の収集経緯を辿ると、興味深い事実が浮かび上がってくる。
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少き」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口をつぐみて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年二月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯建という人物の「目撃証言」ただ一件であつた。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。ともかく「魯延」証言と、慈善団体である「崇善堂」と「紅卍字会」の二つの埋葬表と新規四件の証拠、計七件の証拠に基づいて「被殺害者確数三十四万人」という結論を出し、一九望ハ年二月に東京裁判所へ提出した(速記録第五十八号)。
しかし“七件”の犠牲者数を単純に積算しても“二十二万八千人”にしかならず、結論の“三十四万”と大きく食い違っている。そこで、その二ヶ月後から五ヶ月間かかって再調査し、その結果、二つの埋葬と、十一の証言により、ようやく犠牲者総数が三十四万となった。
(反対尋問)に耐えられない証言ばかり
以上のように、中国政府は、ようやく集めた十一件の証言によって「十九万人が集団殺戦された」と主張している。しかし、その計算は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというような“十一件”の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主張しているに過ぎないのである。
しかも、この十九万に関しては「集団殺教に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき殺人事件だと言い張るのである。数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が信じることができるだろうか。
実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたものであり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。
何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日までのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本軍歩兵第七連隊第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべて石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。
大量殺害施設として名高いナチスのアウシユヴツツでさえ、殺害数は一日平均七百十人であった。一目平均三万八千人も殺害するためには、アウシユヴツツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はなかった。では十一件の証言はどのようなものか。その内の一件、「魯甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋峡で捕虜と老若男女の避難民を含めた五万七千余人を一カ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きている人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数伴おこなわれた。
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五七四一八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しっくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大茅洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この(証人)が法廷に出廷していたならば当然、次のような〈反対尋問〉を受けただろう。
1. 証人は闇夜の中でいったいどうやって五七、四一人名もの犠牲者を一桁まで正確に数えることができたのか。
2. 日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はどのようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
3. 六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人くらいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人たちはおとなしく縛られたのか。
4. 六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
5. 六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくらいの時間をかけたのか。
更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区にいた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在するのか。この疑問に、本(証人)を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記録されている)。
こうした(反対尋問)を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。「十九万人殺害」 の根拠たる中国側証言に(証明力)はもとより(証拠能力)すらない。
崇善堂は埋葬作業に従事したか
三十四万のうち、残りの十五万は「個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者」だという。
この埋葬十五万体についての証拠は、東京裁判にも書証として提出された二つの「埋葬表」である。その「埋葬表」によれば、一九三七年十二月から翌年秋にかけて崇善堂という慈善団体が十一万体、紅卍字会という慈善団体が四万体それぞれ埋葬したという。しかし、本当に十五万もの死体を埋葬したのだろうか。
経費も人手もかかる埋葬事業には、当然のことながら南京を占領していた日本軍が関わっていた。その経緯は、民心の安定などを担当していた南京特務機関の丸山進氏(元南満州鉄道株式会社社員として南京特務機関に所属。現存)によれば、おおよそ次のようなものであった。
南京攻防戦では、中国軍も果敢に戦い、日中双方に多数の戦死者が出た。日本側の戦死体はすぐに茶毘に付されたが、中国側の戦死体は戦場となつた南京城外に遺棄されたままであった。当時は真冬であり、死体も凍っていたが、放置しておけばやがて春となり、死体が腐って衛生上非常に悪い影響が出る。
そこで一月中旬、「春になるまでに死体を片付けよう」ということになった。特務機関が、南京市の行政を担当する自治委員会と相談し、同委員会委員長の陶錫山が分会長をつとめている紅卍字会に埋葬事業を委託することになつた。その経費は日本軍の特務機関が自治委員会に渡して、自治委員会の方から紅卍字会に渡した。つまり表面上は自治委員会が自発的にやるという形をとったのである。その経費は出来高払いで、一体埋葬する毎に三十銭(白米言口相当)支払った。
このように埋葬事業を請け負ったのは紅卍字会であった。その事実は、特務機関の記録でも南京での埋葬作業に触れた日本の新聞報道でも確認できるのだが、紅卍字会の倍以上の埋葬を行ったはずの崇尊堂の名はどの記録にも出てこない。ベイツがまとめた『南京救済安全区委員会報告書』(一九三九年)にも、南京で埋葬活動をしたと記録されているのは紅卍字会だけであった。
そもそも崇善堂の活動内容は「衣料給与・寡婦の救済・保育」であり「埋葬」は含まれていなかった。しかも市来義道編『南京』(一九四一年、南京日本商工会議所発行)によれば、崇善堂は南京陥落の一九三七年十二月から翌年八月まで活動を停止していた。崇善堂が当時、埋葬作業に従事したとする証拠は存在しないのだ。そもそも崇善堂の埋葬表は、事件から九年経った後の一九四六年に作成されたものであって、一九三八年当時作成されたものではなかった。いくら探しても、崇善堂が埋葬事業を請け負ったことを立証できる当時の記録がないのである。崇善堂の「埋葬十一万体」という数は証拠として採用できない。 
欧米人たちは(大虐殺)を目撃したか
中国側は、南京に残留した欧米人たちも(大虐殺)を目撃しているとして、次のように指摘している。
日本軍による大虐殺に閲し、南京駐在の百人による欧米諸国の外交官や記者、宣教師の大半は直接目撃し、国際的にも大量に報道された。
例えば、英国の『マンチェスター・ガーディアン』記者H・J・ティンパーリーの書いた『外人の目撃した日本軍の暴行』という記事は当時全世界をゆるがした。もっとも信憑性のある証拠はドイツ外交機関が集めたものであった。
当時ドイツと日本は同盟国であり、南京城内のドイツ人はハーケンクロイツ(カギ十字)の腕章をつければ自由に行動でき、日本軍の状況についてもっともよく把握した。戦争中に連合軍によってろ獲されたドイツ外交文書によると、在南京ドイツ大使館から本国への報告書の中で「犯罪をおかしたのはこの日本人あるいはあの日本人ではなく、日本皇軍そのものである。……彼らはまさに一台の野獣のマシーンであった」と述べている。
これを読むと、あたかも欧米人たちも三十万人虐殺を証言しているかのように錯覚してしまうだろう。しかし、この(起訴状)は、ある決定的な事実を隠蔽している。その事実とは、欧米人たちが主張する犠牲者数は、最大でも安全区の責任者・ドイツ人・ラーベの「六万人」であり、南京に残留した欧米人たちのなかに三十万人説を主張した人はいないということである。
そもそも南京陥落から日本軍による占領に至る期間に南京にいた欧米人たちは、安全区委員会のメンバーを中心とする二十数名に過ぎなかった。外交官やジャーナリストらはほとんど南京から離れていた。このため、彼らが残した大量の報告書や記事は、ほぼ同一の情報源に基づいているのである。
例えば、ティンパーリー著『外人の目撃した日本軍の暴行』の中身は、安全区委員会メンバーからの手紙、安全区委員会から日本当局に当てた文書などである。中国国民党の政治宣伝を担当する部門である中央宣伝部の顧問であったティンパーリー自身は当時南京にいなかった。
中国側が引用している「在南京ドイツ大使館の文書」とは、東京裁判において検察側が提出した、トラウトマン駐華独大使よりベルリン外務省に送られた「一九三七年十二月八日より一九三八年一月十三日に至る南京で起きた事件に関する一ドイツ人の秘密見聞記の写」及び「一九二八年一月十四日付のジョン・ラーベより上海総領事宛の手紙」等を指すと思われる。この「秘密見聞記」には、犠牲者数について「日本軍は少なくとも五千人を射殺した」と書いている。また、ラーベの「手紙」には「(日本軍は)数千の無筆の市民(その中には発電所の四十三名の従業員を含む)を残虐な方法によって殺害した」と書いている。
南京陥落後も現場に残っていた欧米の記者は、僅か五名に過ぎなかった。結局、欧米人の報道や米独の公文書のもとを辿れば、南京陥落から翌年一月まで南京にいた特定の欧米人たち、つまり十数名の「安全区委員会」メンバーの情報に行き着くのである。
では、安全区委員会のメンバーはどのくらいの殺人現場を目撃したのか。
ラーベが委員長を務めた安全区委員会は、南京陥落直前の一九三七年十二月十二日から翌年二月七日にわたって安全区委員会が知り得た「日本軍による暴行」を逐一記録している。中国国民政府外交顧問の徐淑希編『南京安全区の記録』に収録された、それら日本当局に送付した四百件余りの「被害届」を集計すると、殺人事件は全部で“二十五件”(被害者四十九人)である。しかも、委員会メンバーが目撃した事件に至っては僅か“二件”に過ぎない)。
その内の一件は、東京裁判でマギーが証言した事件で、十二月十七日、警備中の日本兵が街路を歩く中国人を呼び止めたところ、逃げ出したので後ろから撃ったというケースで、戦地においては正当と判断されるものである。
もう一件は、クレーガーとハッツが目撃した事件で、「一月九日朝、安全区内の池で日本軍将校一名と兵士一名が哀れな市民服姿の兵士を処刑しているのを見た」というものであった。この事件について安全区委員会は聞き取り調査をした結果、「日本軍の行う合法的な処刑について、我々に抗議する権利などない」と記されている。安全区委員は事件を調査した結果、「市民服姿の兵士」が便衣兵であり、便衣兵の処刑は「合法」であることを認めたのである。欧米人が目撃した二件の事件は、ともに違法とは言えない。
日本兵による非合法殺人を、安全区委員会のメンバーが全く目撃していないことは、東京裁判における彼等の証言からも明らかである。東京裁判で多くの残虐事件を証言したO・ウィルソン医師は、証言はすべて伝聞であることを認めている。ベイツと一緒に住み、同じ安全区委員会の仕事をしたマギーも「実際に目撃したのは(前述した)一件に過ぎない」と証言した。
つまり、ハーケンクロイツ(ナチス)の腕章をつければ自由に動き回れたはずのラーベを始めとする欧米の安全区委員会メンバーは誰も、約六週間の間に日本軍兵士が実際に非合法殺人を行った現場を目撃していないのである。
ティンパーリーが国民党政府の宣伝担当だった証拠:[2012年正論5月号]
日本軍に追われるように南京から漢口に逃れた国民党政府で対外宣伝を担ったのは、中央宣伝部の国際宣伝処であった。立命館大学の北村稔教授は、当時、国際宣伝処長だった曾虚白の自伝(一九八八年に台湾で出版)の以下の記述から、『戦争とは何か』の発行が国民党の巧妙な宣伝工作だったことを明らかにした(北村稔著『「南京事件」の探求』文春新書)。
我々は目下の国際宣伝においては、中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際的友人を捜して我々の代弁者となってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的な人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷し発行することを決定した。(中略)
このあとティンパーリーはそのとおりにやり、(中略)
二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。
「二冊の本」とは、『戦争とは何か』と後述する『スマイス報告』である。自身は表面に出ることなく背後に隠れたまま、外国人に日本軍を非難させてアメリカを味方につけるというこの方針は、漢口の国際宣伝処が一九三七年十二月一日から翌年十月二十四日の間に開いた三百回に及ぶ記者会見で、ただの一度も「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と発表していない
ことでも裏付けられている。
会見には、「南京大虐殺」の“第一報”を一九三七年十二月十八日の記事で伝えたニューヨークタイムズのダーディンら外国人記者、外国公館職員が平均して毎回約三十五人、延べ一万人以上が参加していた。ティンパーリーを使った「大虐殺」宣伝を裏で画策しながら、会見でまったく触れなかったのは、「外国人に宣伝させる」という方針が徹底されていたことに加え、国民党の息のて、事件など無かったことが暴露されることを恐れたと考えざるを得ないのである。
産経 / 「南京事件」嘘を世界に広めた豪人記者、台北の史料で判明。2015/04/16
南京事件」(1973年)を世界に広め、東京裁判にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(What War Meand)』(1938年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。
確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。
「責任者」はティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争への支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げることとしている。(※加えて、米国の日本への「くず鉄輸出禁止」を利用し、日本が武器その他の製造をできなくなるように運動を盛り上げる目的として、「南京虐殺」をでっち上げたとされている。)。
史料はティンパリーの工作内容に関して1英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」25月に英国各地で講演36月に訪米し講演4専門書1冊を執筆−などと具体的に記している。
これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。
国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。
豪人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。
南京の死体の死因は十七通り存在する
たしかに欧米人たちは、殺人現場を目撃していないかも知れないが、「南京市内で多くの死体を見た」と証言しているではないか。こう反間する人もいるだろう。「日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戦を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた。水曜日(十五日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。」
この凄惨な光景は、日本の歴史教科書にも(南京大虐殺)を象徴する光景として紹介されている。下関門つまり掘江門の中国兵士の死体は、日本軍によって殺されたものとこの報告をした記者ダーディンは信じたようだが、実際は違っていた。
中国軍第八七師二六一族長はその著『南京衛戊戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、拒江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、推江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、拒江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、把江門内は大惨事となった。」
中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。花江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痔し食料難が加速、一部では暴動が起こつた。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
十日頃には完全な無政府状態に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスビー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。」
つまり、戦い前に、南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。しかし、その死因は加害者が中国人であることも含め論理的には最大限“十七通り”の可能性が考えられる。南京に死体があったからと言って、すべてが日本軍の大規模な非合法殺人にょるものではないのだ。 
当時の日本側高官も(大虐殺)を認識していたか
中国側は、当時、日本軍高官も南京で日本軍が大虐警行った事実を知っていたではないかとして、次のように主張する。
戦争が終わった後の一九四八年、極東軍事裁判所は南京大虐殺に関して当時の中支那方面軍司令官松井石根に死刑を宣告した。その松井本人はそのとき、「南京事件に関してはお恥ずかしい限りです」と語り、さらに「十二月十七日南京入城直後、いたるところで暴行のあったことを知って、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。折角皇威を輝かしたのにあの暴行によって一挙にしてそれを失墜してしまった」と話した。これはできるだけ自分の罪を軽減するための言い逃れであったが、日本軍の犯した罪を認めるものでもあった。・・・
松井司令官が残した『陣中日誌』によると、彼は十二月十七日の南京入城式にあわせて南京に入り、二十二日に南京から船で上海に戻っている。この間、二十日の日記に次のように記している。「尚聞く所、城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか、我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く、多少は己むなき実情なり」
松井司令官が「聞く所」と書いているように、安全区委員会から送付された「被害届」を読んだ誰かから報告を聞いたのである。この点を踏まえてであろう、十八日に慰霊祭を行った際に、松井司令官は各軍の師団参謀長の前で「軍紀の徹底」を指示した。たとえ少数でも掠奪や強姦事件を起こしたことは軍規厳正を求めていた松井司令官にとっては耐え難いことであったのである。その後、軍法会議が開かれ、掠奪や強姦の罪で日本兵十数名が処罰を受けた。これは後述するように「掠奪や強姦は厳罰に処する」との当時の松井司令官の方針を踏まえたものであった。
なお、東京裁判の判決を受けて松井司令官が「恥ずかしい限りです」と述べたのは、掠奪や強姦といった日本軍兵士としてあるまじき行動をとった兵士が十数名でもいたことを反省したのであって、日本軍が(大虐殺)を行ったことについては東京裁判でも最後まで否定し続けた。結局、 (南京大虐殺)を当時認識していた日本側高官など存在しないのである。
(※存在しないものを認識のしようが無い。独のユダヤ人虐殺、連合軍の東京大空襲のような無差別虐殺、原子爆弾による大量虐殺に対する非難をそらすために、東京裁判時にでっち上げられた「南京虐殺」であった。それゆえ、弁護側はたいした証拠も出さずじまいだった。)
日本人の大虐殺•米軍主体の連合国軍:東京大空襲 死者10万人(他日本全土)
• 広島原爆:死者14万人
• 長崎原爆:死者7万人 
日本軍は組織的殺人を計画していたか
殺人事件の場合、明確な犯罪意思、すなわち故意の存在が重要なポイントになる。中国側は次のように、日本軍は故意、つまり組織的計画的に〈南京大虐殺〉を行ったのだと非難する。
たしかに、三十万人も殺害しようとするならば、組織的計画的に実施しなければできない。当然、動員計画から作戦命令まで数多くの公文書があるはずだが、その主張を裏付ける「証拠」は現在に至るまで何ら提示されていない。「日本政府が中国に宣戦布告をしなかったのは、中国に対し戦時国際法を通用しないためであった」からだといって、「いかなる残虐手段を取ってもよく、いかなる交戦国間の国際法も無視し、交戦国の住民と捕虜に対する慣行規則も守る必要はない」ということにはならない。
ただし「事変」において、戦時国際法をいかに適用すべきかについては、当時の日本政府もかなり神経を使った。国際法上、戦時か平時かでその適用内容は全く異なっていたからである。そして日本軍(中支那方面軍)は国際法学者との協議の上、十二月七日、南京城攻略にあたり全軍に「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を示達した。その内容は、事変が国際法上の「戦争状態」にあることを認めた上で、「不法行為の厳禁」「外国権益の保護」「失火注意」などを命じている。事変であっても戦時国際法は遵守すべしというのが、日本軍の公式方針であった。このような現存する命令書について触れないのはフェアではない。
ナチスはユダヤ人絶滅製作が動機だったが、日本には「中国人絶滅政策」などなかった。動機について告発側は 「中国人民を洞喝するため」と説明する。しかしそのことを裏付ける証拠は何も示されていない。
逆に日本には、不法行為発生を避けなければならない動機ならば存在した。
資源の少ない日本は当時、輸入の六十五%は英米圏からであり、武器や燃料の多くを英米圏に依存していた。満洲事変では対日禁輸を検討したうえで見送ったアメリカ政府は、支那事変が勃発してからは本格的な村日経済制裁を検討し始めていた。もし日本軍が南京で国際法に違反して、市民や捕虜に対する残虐行為を繰り返し、南京に残留した欧米人たちから指弾されるようなことになれば、英米から経済制裁を受けることになりかねず、致命的な打撃を受ける。こうした状況を熟知していた日本政府にとって、首都南京での無用の不法行為は絶対に避ける必要があったのである。 
敗残兵掃蕩作戦は組織的殺人だったのか
日本軍は十三日から十六日までの四日間、南京城の内外で戦闘の一環として組織的に掃蕩作戦を実施し、民間人を装って潜伏した中国兵を多数摘発、その一部を処刑している。これらの作戦は民間人を殺害する目的ではなかったが、民間人を装った中国兵を逮捕したため、あたかも日本軍が民間人を組織的に殺害したかのような誤解を、南京城内に残留した欧米人たちに与えたようである。
国際法上適法だとは言え、日本軍はなぜ誤解されるような掃蕩作戦を敢えて実施したのか。その理由は主として三つある。
第一は中国側が停戦に応ぜず、敢えて南京を戦場にしたことである。 日本軍は十二月九日正午に、無用な犠牲者が出ることを避けるため飛行機で「投降勧告文」を投下した。中国国民政府側が日本軍の勧告を受け入れ開城すれば南京戦は避けられたが、中国側は勧告を無視した。降伏勧告を拒否して防衛軍が立て寵もれば国際法上の「防守都市」となり、無差別攻撃を受けても文句は言えない。残留市民にまで戦火が及ぶことを知りながら、降伏を拒んだ蒋介石の責任がまず問われるべきである。  第二の理由 南京防衛軍の最高指揮官・唐生智が陥落直前の十二日午後八時、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という無責任な命令を下して幕僚と共に南京から脱出してしまったことである。最高指揮官を失った中国軍は、日本軍によって包囲された南京に取り残され、ある部隊は組織的戦闘を続行し、またある部隊はパニックに陥って逃走、掠奪に走った。日本軍としては正式な降伏意志が示されない以上、戦闘行動を続けざるを得ない。そして中国軍は掃蕩作戦を開始した十三日の時点でも戦闘を続けていた。現に南京郊外の湯水鎮で十三日、上海派遣軍司令部は、中国軍に襲撃されている。もし仮に中国軍の最高指揮官が明確に降伏意思を伝え、日中両軍の間で停戦が合意され、日本軍の指揮下で南京城内に立て寵もつた中国軍が整然と武装解除に応じていれば、掃蕩作戦を展開する必要はなかっただろう。第三の理由 これら「降伏しなかった中国兵たち」の多くが民間人の服装に着替えて「便衣兵」となり、こともあろうに二十万人近い民間人が避難していた安全区に潜伏したことである。中には、指揮官の命令で組織的に武器を所有したまま潜伏した部隊もあった。明らかにゲリラ活動の準備を安全区で進めていたのである。この非戦闘員を装う「便衣兵」は、一九〇七年に締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」(第四ハーグ条約)附属規則第二十三条の「背信行為」に該当し、国際法違反であった。日本軍が掃蕩作戦を実施して便衣兵を逮捕・監禁したことはあくまで合法的行動であった。  では、日本軍は掃蕩作戦をどのような方針で行ったのか。中国側が指摘しているように、虐殺や掠奪を指示または容認したのか。
上海派遣軍第九師団歩兵第六旅団は十三日、作戦実施に当たって「外国権益保護」「勝手な行動厳禁」「敵意のない市民は保護せよ」「掠奪禁止」等を命じている)。注目すべきは、中国兵を直ちに「殺害せよ」とは命じていないことである。あくまで「逮捕・監禁」 であった。ただし「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ」としているが、これは中国兵が民間人を装って潜伏したため、平服を着ていても青壮年は総て疑わなければならなかったからである。(※帰還兵の方の証言では、井戸や食べ物に毒を入れたりで、日本兵が殺されたとのこと。)
本来非武装であるべき安全区は、なんの防備もない中立地帯などではなかった。中国兵が潜伏し大量の武器が隠されていた危険地帯だったのである。掃蕩戦を通じて日本軍は多くの中国兵を逮捕した上、城内の南京刑務所などに収容した。収容された捕虜は約一万人ほどで、その半数は十二月末に労務者として上海に送られ、残りも、一九四〇年に発足した江兆銘の南京政府軍に編入された。処刑されたわけではない。
民間人を保護する方針を掲げつつも兵士との疑いのある青壮年の民間人も逮捕・監禁したのは事実だが、これらの責任の多くは「中立区」と言いながら多数の中国兵を匿った安全区委員会及び、二十万以上の難民がいる南京を敢えて戦火に巻き込み、国際法違反の便衣隊を使用した中国側に問われるべきである。 
日本軍は捕虜殺害の方針だったのか
中国側は、「日本軍は初めから捕虜を殺害するつもりだった」として次のように批判する。
南京戦の四カ月前の八月五日、陸軍次官は「交戦法規ノ適用二関スル件」という通牒を出し、戦闘の惨害を軽減するためにも「交戦規則(国際法)を努めて尊重し降伏を申し出てきた敵兵を殺害するな」と命じている。この通牒を踏まえて上海派遣軍第十三師団司令部は十月九日、「戦闘に関する教示」という訓令を出し、「多数の俘虜が出た場合は射殺せずに集結監視した上、司令部に報告すること。一方、捕虜が少数ならば適宜処置すること」を命じた。
この訓令を出した日、上海派遣軍の飯沼参謀長は各師団の参謀長を集めて「彼等(中国政府)は日本軍に捕われば殺されると宣伝しあり、之を是正する」よう命じている。つまり、この「訓令」の目的は 「日本軍に捕らわれれば殺される」という中国軍の宣伝を是正することにあった。是正するためにも「日本軍に捕まっても殺されない」という事実を中国兵に知らせる必要がある。
「捕虜をすべて殺害せよ」とする公式文書は存在しない上、公式文書にそれとは逆のことを明示している以上、「日本軍は初めから捕虜を殺害する方針だった」との非難は全く成り立たない。 
日本軍は組織的に掠奪を行ったか
掠奪について中国側は、日本軍が大量殺害の一環として“組織的”に行ったと非難している。この掠奪に関する日本軍の方針はどうだったのか。
日本軍の松井司令官は攻略に当たって全軍に「注意事項」を布告し、「日本軍が外国の首都に入城するのは有史以来のことで世界が注目する大事件なので」「掠奪行為や不注意による失火は厳罰に処する」と厳命した。その方針に基づき、掃蕩作戦を担当した先の歩兵第六旅団は十二月十三日午前十時頃、「掃蕩実施に関する注意事項」を下達し、「外国権益への立入り禁止」「掠奪禁止」「軍紀厳正」等を命じた。翌十四日、安全区の掃蕩を担当した歩兵第六旅団第七連隊長も「捕虜、外国権益に対する注意」を下命、「安全区への他の部隊の立ち入りは禁止」「外国人との間に無用の誤解を生まないように」と細かい注意を与えている)。
これらの方針がいかに徹底していたか。第九師団第三十六連隊長の脇坂次郎・陸軍大佐は東京裁判に提出した宣誓口供書の中で、ある主計中尉が道端に落ちていた中国の婦人靴片足を持ち帰っただけで軍法会議にかけられたことを紹介している。主要貿易相手国である米英との摩擦を避けるためにも、日本軍は南京で日本兵が不法行為を起こさないよう細心の注意を払い、たとえ靴一足でも軍法会議にかけたのである。
日本軍占領下の南京に初めて外部から外国人が入ってきたのは、一九三人年一月六日朝、アメリカ大使館のジェームス・エスビー副領事とジョン・アリソン三等書記官であった。アリソンは、直ちにアメリカ関係の被害状況を確認した。すると、ダーディン記者によればアメリカ大使公邸も日本軍の掠奪の対象となったはずなのに、アリソンは一月八日、ワシントンの国務長官宛に「いわゆる『安全区』内にあるアメリカ人財産は、気まぐれな略奪やコソドロがあったことを除けば、一般に被害は少なかった。」と電報を打っている。
これらの報告を裏付けるように、大掠奪があったとされる十二月十二日から十八日までに安全区委員会が記録した「日本軍の掠奪による被害」は次の通りである。「自動車五両、自転車六両、オートバイ数両、牡牛二頭、ブタ一頭、小馬数頭、米三袋、フトン五百枚、手袋二、牛乳一ビン、砂糖ひとつかみ、鍋一個、ゴミ箱一、万年筆六本、灯油半缶、ローソク若干」であり、これでは大規模な略奪があったとはとても言えまい。
掠奪事件の真相
被害届に載った百七十九件の掠奪事件でさえ、すべて日本軍の仕業とは限らない。三つのケースが考えられる。
第一は、伊太利大使館に潜伏していた中国軍隊長は、難民の掠奪を以下のように証言している。
「一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。夜の間は獣兵(註。日本兵のこと)は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。だから一晩働くと翌日には手に入らない物はなく、色々なものがすべて揃った。」
第二は、安全区に潜伏した便衣兵が撹乱工作の一環として日本軍兵士が掠奪や強姦をしたかのように偽装したケースである。一九三八年のニューヨーク・タイムズに次のような記事が載っている。
「避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力のある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから法学院の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはず
した機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や他の外国人たちのいる前で自白した。」
第三は、日本軍の行動を、欧米側が誤認したケースである。
入城した日本軍はまず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを徴発した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある。 
日本軍は組織的に強姦事件を起こしたか
中国側は、日本軍は占領中に組織的に強姦事件を起こしたとして、こう非難する。
日本軍の南京でのもう一つの犯罪は大勢の婦女を強姦したことだ。東京裁判で確認された資料によれば、日本軍が南京を占領したのちに発生した強姦事件は二万件に達し、「全域の女性の大半が少女と老婦をとわず強姦されたとされている。欧米人が開設した「国際安全区」あるいは外国領事館に逃げ込んだ若い女性も、のきなみ乱入した日本軍に連れさられ強姦された。強姦された女性の大部分は日本軍に殺された。戦後中国の国民政府が発表した南京裁判所の「敵の犯行調査報告」は「当時、本市においてこのようような侮辱を受けた女性は八万人を下らない。その上強姦したあと多くは乳房を割き、腹を切り開くなど残酷な行為が施された」と述べている。従って南京大虐殺は南京強姦事件とも云われている。
東京裁判に提出された証拠の中で強姦事件二万件について触れているものはない。強姦の被害者二万人についてならば、「日本軍当局はその部隊に対して明らかに命令権を失った如く、部隊は占領後数週間に亘り市街を掠奪し、約二万の婦女子を犯した」とするラーベの「一月十四日付上海総領事宛電報」が存在する。もっとも同じ東京裁判で証言台に立ったベイツは自分自身が強姦事件を目撃したことはないと証言しつつ、このラーベ説を否定し、「安全地帯の委員会の報告のみによりまして、強姦事件は八千」と述べた。
ベイツが唱えた“八千人強姦説”の根拠とは「安全区委員会の報告」であった。
では、安全区委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で三百六十一件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに六十一件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに七件であった。どうすれば、これらの強姦事件報告からベイツは八千人強姦説を導き出せるのか、理解に苦しむ。
なお、日本軍に通報があった七件については、「シカゴ・デイリーニューズ」(一九三人年二月九日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった。
告発側が第二の証拠として挙げた「南京地方法院検察処散人罪行調査報告」にはどう書いているか。犠牲者数は明記されていないが、強姦された後殺された数は「二、三十人」とある。中国側は「強姦された女性の大部分は日本軍によって殺された」と書いてある。ということは、被害者は僅かに「二、三十人」ということになり、“八万人強姦説”は中国側資料によって否定されることになる。
そもそも、当時の南京には安全区にしか女性はいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に村し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった。
実際、城門と城壁の警備、対空監視哨の配置その他諸任務に追われた兵士たちに宿営地を抜け出す時間などあろうはずもなかった。唯一安全区内部に侵入するチャンスがあったのは安全区警備担当の第九師団第七連隊だが、総勢でも千六百名ほどだった。大量の強姦事件など起こりようがなかったのである。また、犯行が発覚すれば陸軍刑法で七年以上の懲役に処せられるという、強姦を抑制する大きな理由があったことも指摘しておく。
日本軍内部には、勝ち戦である南京戦が終われば早期に日本に帰還できるだろうとの楽観的な予測が広がっており、又、当時の日本経済は好調で、帰国すれば良い仕事に就くことができる状況にあることを彼らは知っていた。大きな危険を冒してまで不法行為をおこす動機は極めて乏しかった。
強姦事件の真相
安全区委員会が記録した三百六十一件の強姦事件は誰が起こしたのか。実は、強姦についても多くの誤解が存在している。(※、強調は登録者による)
誤解の第一のケースは、売春婦募集を強姦と見なしたケースである。
例えば『南京安全区の記録』には、次のような強姦事件が記されている。
「一月十七日 日本兵は再びやってきた。トラック二台と、クルマ二台に、将校二名を連れて来た。そして、養蚕の建物から男性数名と女性七名を獲得した。ベイツ博士がそこにいて一部始終を目撃した。男や女たちが完全に自由意志で行こうとしているのが分かった。一人の女は若かったが、喜んで行った。」
果たしてこれは強姦事件だろうか。
むしろ日本側の了解のもと中国人が安全区にある金陵女子文理学院に設けられた避難所に売春婦を募集しに行ったところ、女性たちは「喜んで」その募集に応じた情景とみるべきである。ベイツらは、合意のもとでの売春婦募集を日本軍による組織的強姦だと誤認したのである。
誤認の第二は、日本兵と中国人を混同しているケースである。 ベイツは、アメリカ大使館のアリソン宛に一月十四日付で次のような手紙を出している。
「昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。彼らの行動の詳細は十分には分かりません。というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、中学校の門に配備された衛兵たちでした。彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。」
ベイツは「詳細はわからない」と言いながら、また自ら目撃したわけでもないのに、犯人は中国人に変装した日本兵、それも憲兵だと断定している。目撃したと称する中国人の証言を何の疑いもなく受け入れているのだ。しかし何のために日本兵が中国人に変装しなければならないのか、合理性を欠くと言わざるを得ない。
なお、安全区に設けられた十九箇所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり四千名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴオートリン女史が務めたほかはすべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した「難民収容所」で起こつており、「難民収容所」が解散した一九三八年二月以降、そうした強姦事件は起こつていない。
難民収容所の責任者たちが主張した「日本軍兵士の犯罪」を額面通り受け取ることは極めて危険だと言えよう。
第三のケースは、「掠奪」の項目でも取り上げたように、「安全区」に潜伏していた中国兵が撹乱工作の一環として、日本軍兵士が掠奪や強姦をしたかのように偽装していたケースである。
このように中国人たちが主張した「強姦事件」にも三つのケースがあり、実は安全区委員会が記録した「三百六十一件」でさえ、すべてを日本兵の犯行と断言することはできない。 
日本軍将校は「百人斬り競争」をしたか
南京市に建つ侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館には、ひときわ目立つところに軍刀をもった二人の軍人の写真パネルが展示されている。二人の日本軍将校が上海から南京へ至る戦闘中に、どちらが早く百人の中国兵を日本刀で斬ることができるか競争したとされる、いわゆる「百人斬り競争」の展示である。この事件について中国側は次のように触れている。
青壮年を組織的に殺害した他に、多くの日本軍将兵は狂気じみた心理からいたるところで平和な住民をなぐさみに殺戦した。富岡と野田という二人の少尉は、軍刀でどれだけ中国人を切れるかという「人斬り競争」まで行った。一九三七年一二月の東京「日日新聞」は「片桐部隊」(第十六師団)からの「百人斬り競争」というショッキングなニュースを報道した。
一九三七年十二月十三日付「東京日日新聞」に、十二日に紫金山麓にて浅海一男記者の取材に応じた向井敏明少尉が、南京戦に至る戦闘中に野田毅少尉と共に、白兵戦でどちらが多くの中国兵を日本刀で殺すことができるかを競争しているという趣旨の話をした記事が掲載されていることは確かである。
この記事は英訳され、日本で発行されていた英文紙「ジャパン・アドバタイザー」十二月十四日付に転載された。
その記事を、上海にいたティンパーリーが発見し『戦争とは何か』に再転載してしまったことから問題は複雑になった。というのも、ティンパーリーは、この記事に「南京の殺人競争(The NANKING “MURDER” RACE)」という見出しをつけたからである。
ウェブスター大辞典によれば、murderとは「非合法な殺人行為、特に故意または計画的または重大な犯罪中に起った殺人」を意味する。ティンパーリーの見出しによって「戦争中の中国兵相手の戦闘行動」の話が、「意図的な非合法殺人競争」へと変えられてしまったのである。かくして、この英訳記事で「百人斬り」の話を知った中国国民政府は一九四七年十二月四日に、向井、野田両名を南京軍事法廷で起訴し、僅か四日後の十二月八日に死刑を宣告、処刑したのである。
では、「東京日日新開」の報道は事実だったのか。
鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』によれば、南京軍事法廷で向井・野田両名の弁護をした中国人弁護士の崔培均は次のように反論し、記事が浅海記者の「創作」だったことを明らかにしている。
1. 記事を書いた浅海記者から一九四七年十二月十日に送付された証明書には、「この記事は、記者が実際に目撃したものではない」と明言されている。
2. 被告等が所属した部隊は(記事の舞台となった)紫金山付近では行動していない。つまり被告野田は紫金山には行っていない。
更に崔弁護士は控訴趣意書において、次のように主張した。
1. 唯一の証拠として挙げられているのは日本の新聞だけである。そして「新聞記事を証拠とはできない」ことは、中国の最高法院の判例で明らかである。
2. 被告人が、殺人競争を行ったことを証明する直接、間接の証拠は裁判では全く提出されなかった。
3. 多数の白骨が紫金山の埋葬地点から掘り出されたことも証拠であると判決書に書かれているが、被告たちが行ったこともない場所で、たとえ幾千の白骨が現出しても、これを被告等の殺害の結果であると断定できない。
つまり、「百人斬り競争」を目撃した中国人は全くいなかったので、法廷は新聞記事を唯一の証拠として向井らを死刑に処したのである。こんなデタラメな裁判が、証拠裁判主義に照らして許されるだろうか。
そもそも、軍隊の仕組みが分かる人ならばすぐに理解できるだろうが、向井少尉は歩兵砲の指揮官、野田少尉も大隊の副官であり、共に第一線の白兵戦に参加するはずがない。サムライ映画では、日本刀で次々と人を斬る場面がよく出てくるが、人一人斬れば血糊の中に含まれる脂肪分によって斬れにくくなるし、日本刀の性能から見て刃こぼれが生じたり、刀身が曲がったりすることは当時の専門家の見解でも明らかである。刀自身の重さが加わって切断力が増す中国の青龍刀とは違う。
南京戦における日本軍の狂気的殺教の代表例として扱われ、二人の日本軍将校が死刑となった「百人斬り競争」。しかし、その処刑は限りなくシロに近い不当な断罪なのである。 
中国側の主張と矛盾する「証拠」の数々 
日本人特派員が撮った写真が示す「南京」
「東京日日新聞」の特派員であった佐藤坂寄氏は、昭和十二年十二月十五日と十六日にわたって、南京城内の安全区付近で中国人が露店を開いている様子を撮影している。そのなかには、難民が食べ物の露店を開き、食事をする日本兵を難民たち(女性と子供を含む)が取り囲んでいるという場面がある。また、別の写真では野菜や古着を売る露店などがいくつも開かれている。また、当時の「朝日新聞」にも、ほぼ同時期に撮影された一連の写真が掲載されており、十七日に河村特派員によって撮影された写真のなかには銑を持たない日本兵が街路を散歩したり、露店の床屋が営業しているカットすら見られる。
さらに、安全区のなかで多数の中国人が「良民証」の交付を受けるために日本軍が設置した交付所に殺到している様子が東宝文化映画部制作の映画『南京』に記録されている。これは十二月二十四日から翌十三年一月五日までの間に行われた、「兵民分離」の一コマであるが、殺到する多数の中国人には日本兵を恐れる様子は全く見られない。
ところで、これらの写真が撮影された十二月十五日から十七日頃と言えば、中国側の主張する「大規模的集体屠殺期」(十二月十二日〜十八日)の最中であり、また記録映画が撮影された時期はその後の「普遍的屠殺期」にあたり、大規模な強姦や略奪が行われていたとされる時期でもある。
しかし、一連の映像には明らかに秩序が回復された南京市内の様子が記録されており、そこには中国人が日本兵を恐れているという様子もうかがえない。こうした映像は南京のごく一部を記録したに過ぎないし、(南京大虐殺)を直接否定し得るものではないという反論も可能であろうが、こうした平和な情景のすぐそばで大量虐殺、大規模な強姦・略奪が行われていたとは少しでも合理的思考をたしなむ者ならば、とても考えられないであろう。
それとは逆の「映像資料」を一つ紹介しておく。一九三〇年代の米国を代表する映画監督の一人であるF・キャブラによって監督され、一九四四年に劇場公開された『ザ・バトル・オブ・チャイナ』という戦時宣伝映画がある(その中国版が『中国之怒吼』である)。その中に十秒ほどの(南京大虐殺)シーンがあるが、次のような理由で到底「実写」とは考えられない。
1. 婦人を力ずくで連行しょうとしている軍人の肩章は日本軍の将校のそれとは全く異なるし、胸に勲章らしきものをつけているが、そんなデザインの勲章は日本にはない。
2. その人物は腰に弾帯を巻いているが、当時の日本軍が使用していた挙銃は回転式ではないので、弾帯は必要ないし、帯刀している刀は軍刀ではなく、刃のついていない指揮刀である。戦場に指揮刀を持って行くことはありえない。
3. 厳寒の南京に半袖の市民の姿が見える。
4. 生き埋めにされようとしている婦人の胸の上に「三民主義」と善かれた紙片が載せられているが、こんな発想は日本人にはない。
まさに全体が“やらせ映像”であって、先記した東宝映画『南京』とは信憑性において雲泥の差があると言わねばならない。
出所不明のニセ写真ばかり
同様の例を紹介しよう。(南京大虐殺)を裏付ける証拠として提出されているもののなかに、「写真資料」がある。これらの写真は、大虐殺を否定する証拠としてあげた日本人記者が撮影した写真とは違い、撮影の日時や場所、撮影者が明記されたものは存在しない。つまり、一枚として厳密な検証を経た(大虐殺)写真はないと断言しうる。
逆に、全く別の写真に虚偽の写真説明を付けて日本軍の暴虐の証拠写真としたり、あるいは出所不明の死体写真に日本軍の暴虐によるものと説明文をつけているケースがほとんどである。
その中から二つの例を紹介したい。
下図の写真1は、南京の 「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に展示され、また『ザ・レイプ・オブ・南京』にも掲載されている写真である。『ザ・レイプ・オブ・南京』では「日本軍は、何千という女たちを家畜のように追い立てた。彼女たちの多くは、集団強姦されるか、軍用売春を強制された。(軍事委員会政治部、台北)」という説明が付いている。
しかし、この写真は、集団強姦とも、軍用売春ともまったく無関係であることが判明している。なぜなら、実はこの写真は南京事件の約一カ月前に発行された日本の写真週刊誌『アサヒグラフ』(昭和十二年十一月十日号)に掲載されたものだからである。本来は四枚組の写真で、問題の写真はその一枚であり、そこには「硝煙下の桃源郷、江南の『日の丸部落』」というタイトルが付けられ、この写真そのものには「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群(十月十四日、熊崎特派員撮影)」という説明文が付けられている。敗残中国兵による掠奪が常態であった中、この部落は日本軍によって保護され、安全に農作業が行われているという写真だったのである。また、撮影場所は上海近郊の宝山県盛家橋部落と明記されている。
週刊新潮で、捏造を認めた本多氏
笑顔の日本兵と一緒に、少年少女、防空頭巾を被った女性もまた笑顔で橋を渡る。
上記[グラビアアサヒ]のキャプションには“我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ”とある。朝日新聞社が発行していた「アサヒグラフ」(1937年11月10号)に掲載させていた一枚である。
そして、同じ写真が72年発行の『中国の日本軍』という書籍に使われている。著者は、当時、朝日新聞が誇るスター記者だった本多勝一氏(82)。だが、そのキャプションには、“婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を超えた老女にまで及んだ”とあるのだ。
南京事件に取り組んできたジャーナリストの水間正憲氏は、“南京大虐殺派が虐殺の証拠として使う写真ですが、なぜ朝日の記者だった本多氏が、自社の写真を使ったのか不明です”と、そこで本多氏に問いあわせると文書で回答が寄せられた。
“『中国の日本軍』の写真説明は、同所の凡例に明記してあるとおり、「すべて中国側の調査・証言にもとづく」ものです。ただ、中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた南京事件の座談会(「週刊金曜日」99年11月05号)で、吉田さんが次のように指摘しているとおりだと思います。「中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、誰が、どこで撮ったのかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があ反対派につけこまれている」。「アサヒグラフ」の別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです。”
伝説の記者が誤用を認めた。
慰安婦報道同様、相手の言うがまま無批判に載せてしまう朝日のDNAそのものだ。
なお本多氏は「ご指摘の写真の『誤用』によって南京事件自体が否定されたことにならない」とも主張している。流石は、南京虐殺記念館から特別功労賞を贈られただけのことはある。中国は今年、従軍慰安婦に関する資料と南京大虐殺の記録を「世界記憶遺産」としてユネスコに登録申請している。
また、写真2は南京大屠殺資料編集委員会などが出版している写真集『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』に(大虐殺)のシンボルとして掲げられている写真である。この写真集の表紙写真として使われ、さらに三一頁に再度掲げられ、「日本軍は殺害した南京軍民の死体を長江に捨てた」との説明が付けられている。さらに、同じ写真が『ザ・レイプ・オブ・南京』にも掲載されており、「南京市民の死体は、揚子江岸に引きずってこられ、川に投げ捨てられた(モリヤサ ムラセ)」という写真説明が付けられている。
実は、この写真の出所もはつきり分かっていて、南京戦に参加した村瀬守保という兵士が撮影した写真である(モリヤサは間違い)。しかも、藤岡信勝・東中野修道著『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』によって、撮影場所がほぼ特定され、その結果、これらの死体が虐殺されたものではないことが明確になっている。
事情を簡単に紹介すれば、十二月十三日早朝、撤退しようと南下する中国軍と北上する日本軍とが、南京城の西側(南京城と揚水江との間)で衝突した。なかでも、最も揚子江に近い新河鎮では日本軍一個中隊(歩兵第四十五連隊第十一中隊)が中国兵数千と遭遇して激戦となった。この戦闘によって中国軍は大損害を受けたが、一部の中国兵は附近にあった材木などで筏を作って揚子江上に脱出をはかったため、日本軍が河岸からこれを攻撃し、揚子江上でも多数の戦死者が出た。
つまり、この写真に写っている死体は、南京の市民でもなく、また不法に殺害された中国兵でもなく、戦闘によって戦死した中国兵の戦死体なのである。
たしかに、中国兵らしき死体が川辺に折り重なった惨たらしい写真ではあるのだが、しかし、これも(南京大虐殺)を証明するものではない。
(大虐殺)を否定する日本人記者たち
中国側が(大虐殺)の行われたとされる南京陥落時から約六週間の間に、南京には多数の軍人と、のべ百人を越える日本人記者が入っているが、彼らは(大虐殺)なるものを見たことはないし、その当時、開いたこともない、と証言している。
まず、新聞記者などの証言を見てみよう。
たとえば、山本治氏(当時「大阪朝日新聞」上海支局員)は、南京での虐殺について「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことをいったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」と証言している。
また、同盟通信の特派員であった前田雄二氏は、当時、占領後の安全区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったとの外電を開き、「私たちはキツネにつままれたような思いをした」。同盟通信の記者たちは「市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐について知らなかった。もしこうした無法行為があったすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」と証言している(前田雄二『戦争の流れの中に』)。
ジャーナリストたちは、南京陥落後は、南京城内を自由に見て歩くことができた。軍人への取材や報道には規制が加えられていたが、彼らが南京城内やその周辺を歩き見ることに対しては、ほとんど規制はなされていなかった。そのジャーナリストたちのほとんどが、戦後になっても(大虐殺)なるものを見たことはないと証言している−−この事実は重大である。
スマイス教授の綿密な現地調査
もう一つの資料をあげておこう。それはスマイス調査(『南京地区における戦争被害・一九三七年十二月〜一九三人年三月』)といい、金陵大学社会学教授ルイス・C・スマイスと助手による南京市付近の戦争被害調査である。
この調査では、市街地では五〇戸に一戸、農村部では約二五〇世帯に一世帯を抽出して面接調査し、人的被害、住居・建物や農業などの被害を調査しているが、加害者が日本軍なのか誰なのかを特定せず、また、人的被害の分布が日本軍の作戦行動と一致しないなどの矛盾もあるのだが、混乱した当時の情勢を考えれば、唯一の学術的な被害調査と言ってよかろう。
さて、このスマイス調査によれば、南京市街地での、民間人の人的被害は、暴行による死者二四〇〇、拉致四二〇〇(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者は九一六〇で、合計一五七六〇人が一般市民の被害ということになる。これをどう解釈するかは別として、これでは少なくとも(三十万大虐殺)説は成り立たない。
しかも、この数字は「犯人」を特定しない数字であり、当然、このなかには、戦闘員としての戦死、戦闘行為の巻き添えによる死亡、中国軍の「堅壁清野作戦」などによる被害、退却中国兵の不法行為による死亡なども含まれる。また、拉致のなかには、後に帰還したもの、また中国軍による強制的な民兵・軍夫の徴用も含まれる。
従って、日本軍による被害はこの数字よりもかなり少なくなると言わざるを得ない。従って、どのようにみてもスマイス調査は、(大虐殺)を示す証拠とはなり得ないばかりか、(大虐殺)説とは矛盾する資料というべきであろう。
ちなみに、一九四六年(昭和二十一年)六月、南京にいたスマイスは東京裁判のための宣誓口供書を書いているが、調査結果を変更しようとはしていない。この時期には、既に三十万大虐殺説が南京地方法院によって提出されている。その当時も南京に在住し、(三十万大虐殺)説を知っていたはずのスマイスが八年前の調査結果に変更の必要を認めなかったということは、南京法院の調査よりも自らの調査の方が正しいと考えていたと推測できる。
「南京事件」は原爆投下を正当化するために占領軍によって創作された
マーシャル陸軍参謀総長が、1945年9月1日、陸軍長官宛に提出した2年次報告書のなかで、日本に原爆を落とした理由を述べている。原文はつぎのとおりである。
マーシャルのこの報告書は、日本でも占領軍民間情報教育局(CIA)の支援を受けて翻訳され、昭和21(1946)年8月15日、訳者は不明だが、『勝利の記録』と題されてマンニチ社という出版祉から出版された。そこで上記英文はつぎのように訳されていた。
《八月六日の週間は、紛争の連発する中で第一弾を放ち、遂に第二次世界大戦へと進展せしめた国民にとって余りにも唐突な異変の週間であった。日本は奉天、上海、真珠湾、バタアンにおける悪逆に対し充分なる償ひをさせられているのであった。≫
ところが、この本は同年11月30日堅山利忠の訳で『欧・亜戦の戦闘報告』と題されて東京勤労社から再度出版された。そしてそこでは、前記2つの文の第2文がつぎのように訳されていた。
《日本は南京、奉天、上海、真珠湾及びバタアンにおける反逆に充分なる代償を払はせられつつあった。≫
注目していただきたいのは、2番目のこの本では、ゴシックで示されているように原爆を落とした理由として、原文にはなかった「南京」が追加されていることだ。
以上の経緯は、2つの重要なことを示唆している。
一つは、マーシャルが第二次世界大戦を回顧して原爆を落とした理由を述べるとき、「南京事件」は念頭になかったということを明らかにしていることだ。このことは、「南京事件」は、占領下で占領軍によって創作されたものである、ということを傍証している。
他の一つだが、日本で、「南京事件」が初めて日本国民に知らされたのは、昭和20(1945)年12月9日より始まった「真相はこうだ」というラジオ放送であった。だがこのとき日本人のだれもがこんな事件があることを信じなかった。しかしその後、いわゆる東京裁判で糾弾され、マンニチ社の翻訳本の出た昭和21(1946)年8月15日は、ちょうど「南京事件」の審理が行われているときだった。そこで、同年11月30日に出た堅山利忠の訳では、マーシャルの原文にはなかった「南京」が追加されて訳されたのだ。つまり、原爆投下を正当化するために占領下で「南京事件」は創作されたのだということがよく分かる。
つまり、「南京事件」というのは、日米開戦にさきだって、ワシントンの日本大使館で事務失態があり、そのために「最後通告」手交遅延が起こり、そのために日本海軍の真珠湾攻撃が「騙し討ち」となり、それに対するアメリカ国民の憤激から原爆投下が起こり、そしてその原爆投下を正当化するために、原爆の惨劇に匹敵する惨劇として、占領軍によって創作されたものなのだ、ということが分かる。
斎藤邦彦駐米大使は、「南京事件」を糾弾するアイリス・チャンに表立って反論をしなかったのであるが、じつは、「南京事件」はもともと外務省の事務失態から発していたのである。斎藤は、そのような経緯、因果関係はまったく認知していなかったであろうが、外務省は真珠湾の「騙し討ち」に関する責任を隠しきって、それがあまりにも成功しすぎて、現在では、外務省自身も隠したことを忘れてしまっているのだと分かる。
上記、マーシャルの報告書の翻訳で、原爆を落とした理由のなかに、原文にはなかった「南京」がつけ加えられたという大切な事実は、「南京問題」研究家の溝口郁夫氏によって発見された。 
結語 
そればかりではない。南京戦当時の日本はドイツと防共協定を結んで友好関係にあったが、ドイツのユダヤ人迫害政策については、断固として拒否していたという重大な事実があることを知らねばならない。南京戦からほぼ一年たった昭和十三年(一九三人)十二月、日本政府は「多年主張シ来レル人種平等ノ精神」に基づいて「猶太人ニこ対シテハ他国人卜同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置二出ツルコトナシ」との方針を決定した。この決定があったからこそ、あの“和製シンドラー”杉原千畝の精力的な活動も可能になり、多くのユダヤ人が救われたのである。日本人が極端な人種差別から生み出されたナチス・ドイツのホロコーストとは縁遠い存在であることはこの史実からも窺われよう。
そもそも日本人がそのような、「ホロコースト」などと呼ばれる体系的残虐をやる民族かどうか、日本文化の片鱗を知る西欧人なら、夙に周知のはずであろうに。ナチス・ドイツと戦ったレジスタンス戦士としてフランスのド・ゴール大統領からあらゆる顕彰を受けたアルフレッド・スムラーは、その一人だった。アウシュヴィッツからブツヘンヴアルトに至る強制収容所に送られ、拷問に耐えて生還した、この偉大なるフランスのヒーローは、その回想録『アウシュヴィッツ186416号日本に死す』においてこう書いたのである。
「第二次大戦とレジスタンスは何よりも反ファシズム闘争であり、従って日本とヒットラー・ドイツは同日に見るべしとの妄論がますます幅をきかせているのには、とうてい我慢ならない。これは、為にするイデオロギー的プロパガンダ以外の何物でもない……」
二千年余の文化的伝統に誇りを持つ我々日本人が、謂れなきこれほどの国辱に到底よく耐え得ざることは、同じく星条旗の歴史に誇りを持つ米国国民なら十分に理解するところであろう。
翻って、ナチス・ドイツの犯したこの非人道的犯罪に類するものと言えば、ロシア革命以来、共産主義が世界各地で惹き起こしてきた数々の民族虐待・大量殺教ではないか。冷戦の終焉を契機として、二十世紀の人類社会に大きな災厄と惨害をもたらした共産主義に対する総括が本格的になされつつあるが、その一つ、S・クルトワの『共産主義異音』によれば、共産主義の「犯罪」による犠牲者は少なく見積もっても一億人に達するという。死者二〇〇〇万人を出したとされる本家のソ連では一九九一年に共産主義政権が崩壊したが、六五〇〇万人という飛び抜けた数の人々が犠牲となったと推定される中国では、なお、共産党の一党独裁政権が存続しており、さまざまな人権弾圧や少数民族の迫害が後を絶たない。
とりわけ、一九五五年の不当な併合以来、人口のほぼ二割に相当する一二〇万人以上の人民が虐殺され、現在も民族虐待や文化破壊が続けられているチベットの悲惨な状況は、ボスニア・ヘルツエゴヴイナやコソボ以上に残酷な“民族浄化”として知られ、米国人の間でも強い関心を持たれていることは、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」や「クンドゥン」などの映画のヒットによっても明らかである。これを「人道に対する罪」たるホロコーストと言わずして何であろうか。その中国がチベット問題は内政問題であるとして外国からの抗議を静ねつける一方、その存在すら極めて不確かな六十余年前の(南京大虐殺)を声高に非難し続けているのだから、身勝手と言えば身勝手、滑稽と言えばこれほど滑稽な光景はあるまい。
その滑稽さの極致と言っていいものが、中国共産党政府の強力な支援の下に、製作中の『ラーベ日記』の映画化である。もちろん、「虐殺三十万」を非難するキャンペーン映画である。『ラーベ日記』については既に詳しく言及したので、これ以上繰り返さないが、少なくともラーベ自身は「虐殺三十万」とは言っていなかったことを想起すれば、この映画が二重の意味で虚構であることは明白であろう。
中国共産党政府がしばしば(南京大虐殺)を引き合いにしつつ、日本に対し執拗に過去への「反省と謝罪」を求めるのは、米国議会調査局も分析しているように、「狙いは援助や譲歩を引き出すこと」にあることは間違いないが、もう一方には、冷戦終焉後の東アジアに覇権を確保するために、その障害となる日米同盟に楔を打ち込む一つの手投として、旧連合国同士で共感を抱きやすい旧敵国日本の「悪行」の記憶を呼び起こそうとする意図があると見てよい。『ザ・レイプ・オブ・南京』の拡販活動の背後に中国系米国人や在米華僑団体を通して中国共産党政府の影が垣間見えるのもこのことを端的に物語っている。
一九三〇年代から四〇年代にかけて日米両国が激しく対立し、遂には不幸にも戦端を開くまでに至った背景には、日米の離間に全力を傾注した中国などの巧妙な宣伝工作があったことは紛れもない事実である。我々は二度とこの過ちを繰り返してはならないと考える。
(南京大虐殺)の存否をめぐる我々の主張は、いわれなき「冤罪」によってもたらされた日本の汚名を雪ぐということにとどまらず、二十一世紀に向けて日米の成熟した友好関係の形成と強化を視野に入れたものであることを強調しておきたい。 
諸話  
「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」
南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
戦後、東京裁判は「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」と、断定した。その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る「城内では遺体も見とらんです」「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」
戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶められるのは我慢ならんです」と、憤りを隠せない。中国は「30万人虐殺」を喧伝するが、南京で将兵らが見た実像は大きく異なる。
「誠に和やかに尽きる…」 城内に露店建ち並ぶ「平和な進駐」
旧日本軍が昭和12年12月、中国・南京を攻略した後の一時期を、城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹の原田要(98)は、当時の雰囲気をこう振り返る。
「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」
陥落後に城内の飛行場に降り立った原田の印象に残るのは、日常生活を営む住民らの姿だった。露店が立ち、住民らは日本兵を相手に商売を始めていた。原田も豚を1匹買った。「足をひとくくりに縛った子豚で、仲間と一緒に食べました」
攻略戦のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らで作る国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ、平穏さを取り戻していった−。原田らの目には、そう映った。
中国側が主張する「30万人大虐殺」が本当だとするならば、城内の至るところで凄惨な殺戮が行われていたはずだが、「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」。
原田は「便衣兵はゲリラ。接近してきて日本軍がやられる恐れがあった」と感じていた。原田は便衣兵を処刑する場面に出くわした。陸軍兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。
東京裁判は兵役年齢の男性約2万人を機関銃と銃剣で殺害した、と認定したが、原田は首をかしげる。処刑の場面を目撃したのは、この一度きりなのだ。
東京裁判に出廷した元将校の証言によると、城内で捕虜にした残存兵は4千人に上り、半数を収容所に送り、残り半数を後に釈放した。武器を持って潜んでいた便衣兵を軍法会議にかけて処刑することはあるにはあったが、国際法に従って対応していた。
占領地で復興に尽力した堀内大佐中国人から転勤延期の嘆願書も
盧溝橋事件(⇒[盧溝橋事件は中共軍の謀略だった])を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から堀内豊秋少佐(明治33年、熊本県生まれ。終戦後、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑。)は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。(産経 2015/02/16)
黄季通ほか103人の連名、押印の昭和15付嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋介石政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」
「堀内部隊が本島(厦門)に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」
「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」憲兵
昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられず、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。 
橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)は「安全区の掃討には厳重な命令がありました」と話した。
安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。
「虐殺は終戦後、米軍放送で知った」絞首刑の松井石根(いわね)
南京攻略戦で旧日本軍を率いた司令官・松井石根大将にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井は「大虐殺は公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」と、証言している。
戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。
元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。
昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。
「南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」
昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる。
12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷で「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」とも証言した。
非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。
「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」
また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。
「南京で2万の強姦、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。
もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。
松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。
58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。
「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」
戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」としてすり込まれていった。昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。
「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々では浮かばれない」 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
従軍慰安婦問題 

 

歴史修正主義の汚い手口 / 従軍慰安婦問題  
「つくる会」の連中は、「歴史は科学ではない」(「つくる会」歴史教科書白表紙本序文)と公言し、客観的な歴史的事実に基づく歴史教科書ではなく、自分達の勝手で恣意的な主観、意図、動機に基づいて解釈、叙述した歴史教科書が必要だと主張している。また彼らは、「あるべき歴史教科書とは“国民の『物語』”」「歴史は一つの筋を持った物語」だとも主張し、「今日の日本国家がほぼ成功の歴史であった」「大事なことは、われわれはどうも日本の姿を過小評価しすぎてきた……、世界史的にはかなり大規模な事業をしたんだ……そういうことを歴史教科書に書いていく」と、“世界に冠たる日本(民族)”を謳いあげるような、つまり日本人としての自覚と誇りを持てるような歴史教科書こそが理想だとしている(『新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある』小林よしのり編集・扶桑社刊――以下『運動がある』)。
「つくる会」の意図する歴史教科書は、国家主義と民族主義を強く押し出し、自国中心の排他的歴史観によって歴史を“語る”ことで他国とそのアイデンティティを競い合う、極めて反動的なものとなっている。もとより、歴史を語り、歴史から一定の教訓を得、歴史の創造に生かそうとするなら、そこに無色透明な、あるいは不偏不党な観点を求めることなど無意味である。そこには一定の歴史観、階級的で政治的な歴史観が反映されることは当然であり、我々はマルクス主義的な歴史観、すなわち「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」(『共産党宣言』)という唯物史観こそが真に科学的な歴史観であり、そうした歴史観からの教科書こそが必要であると断言する。しかしそれは、現代のブルジョア教育の環境の中では極めて困難で部分的なものにとどまらざるをえないのではあるが、だからこそ、「つくる会」の策動に真に対決し、それを粉砕していくためには、自らの歴史観を突き出し、主張することが求められるであろう。
さてここでは、「つくる会」の連中がどのように歴史的事実を偽造・捏造・一面化し、歴史を修正しようとしているかを、日本が帝国主義的侵略を開始し、朝鮮半島から中国南満州、遼東半島地域に権益を獲得した日露戦争から太平洋戦争の期間に日本軍が行った戦争犯罪、とりわけ従軍慰安婦問題を中心に明らかにしたい。 
一、日本帝国主義の残虐性・野蛮性を象徴する従軍慰安婦問題
「つくる会」の連中は、日本の朝鮮半島・中国大陸への侵略を「五族協和」のためであって、朝鮮・中国の近代化と独立に貢献した、太平洋戦争(彼らは大東亜戦争と言い換えるのだが)は欧米列強と覇権を争う帝国主義戦争ではなく、「大東亜共栄圏建設」の理想の下に遂行された「アジア解放戦争」だと主張する。そうした彼らにとって従軍慰安婦問題は、寸毫も認めることができない“屈辱的自虐的”な問題であり、“自由主義史観”を唱え、「歴史教科書つくり」にまで運動を発展させてきた出発点もまたここにあった。
「五族協和」「大東亜共栄圏建設」「アジア解放」こそ戦争目的と言い抜けるためには、その過程で韓国・朝鮮人を中心に中国、フィリピン、インドネシア、マレー、ベトナム、ビルマといった国々の女性を強制的に「慰安婦」として従軍させたことを認めることなど、口が裂けてもできないのだ。まして、“大国日本”の栄光を背にこれから世界に羽ばたかせようと狙う児童生徒に、この汚辱の歴史を教えることなど決して許せない、軍紀正しき天皇の軍隊には、忠節・礼儀・武勇・信義・質素を本分とする「軍人勅諭」があり、軍隊は一丸となって聖戦に邁進したのだという“物語”を伝えていくためには、絶対に譲ることができないというわけだ。
幸か不幸か、この問題は、長く歴史教科書に載ることはなかった。日本(軍)の戦争犯罪として告発する動きがなかったわけではないが、歴史的事実として必ずしも明確にされてこなかったからである
それは、この種の慰安施設が主に民間業者によって運営され、軍部の関与は当初から間接的なものにとどめられ(あるいはそのように装われ)、さらに敗戦後に追及を恐れた日本政府・軍、あるいは民間売春業者らがあらゆる資料を処分したり口を固く閉ざしたからであり(こうした工作は、南京大虐殺事件や七三一部隊の問題でも行われた)、また、当の「慰安婦」に、自らの過去を積極的に話すことに少なくない躊躇があったからでもある。
だが、東京裁判で告発された南京大虐殺事件にとどまらず、国内外で日本軍が犯した戦争犯罪を追及する試みは続けられてきた。神吉晴夫氏の『三光』(光文社、五七年刊)や、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(双葉社、七三年)、金一勉氏の『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房、七六年)は、その代表的なものである。
従軍慰安婦は、一般には満州事変(三一年)から太平洋戦争終結までの十五年戦争の時期に、戦場に「慰安婦」として派遣された女性たちのことを指しているが、金一勉氏は前掲書の中で、従軍慰安婦(金氏は軍隊慰安婦と呼ぶ)は日露戦争(〇四年〜)後のポーツマス条約(〇五年)で朝鮮半島への支配権が認められた直後から、日本の民間業者が数千名規模の日本人女性を送り込み、朝鮮各都市に「遊郭」を開設したことに始まるとしている(以下、引用は同書より)。以後、韓国併合(一〇年)―朝鮮総督府時代になるとともに「数量ともに大盛況を呈し、公娼制度を急速に発展させた」(当時、朝鮮には公娼制度はなかった。「つくる会」の連中は妓生(キーセン)がいたと言うが、妓生は単なる遊女ではなく、今でいう「官官接待」のための要員で、地方官庁所属の歌舞を専業とする「官婢」だった)。そして満鉄(南満州鉄道株式会社)、関東軍を中核とする中国大陸への侵略が本格化するとともに、その回りに続々と売春業者や「便利屋」(「日本軍隊による現金や略奪品の処分、それのための使い走りや、軍隊用の女性の手引きや、その斡旋、または女を誘拐してきて提供したり、いかがわしい娯楽品の私的調達をするための業者……といってよい。まさに部隊のダニのような存在」)、飲食業者(部隊の門前に店を構え、必ずといってよいほど酌婦を置いていた)などが「“満州の軍隊景気”に目の色を変えて、われもわれもと集まったのである」。この満州侵略の時期に、軍隊と売春業者の持ちつ持たれつの関係はより緊密なものとなり、売春宿も軍隊の移動とともに軍部の要請、支援のもとに移動するようになった。まさに“従軍売春宿”、“従軍慰安婦”が生み出されていったのである。
当初従軍慰安婦は日本人女性によって担われていたが、韓国内での公娼制度の定着もあり、徐々に朝鮮人、中国人がそれに加わるようになった。そして戦況の悪化とともに、その募集も甘言を弄した半強制から誘拐、拉致といった犯罪的なものへと比重を移していった。
「(戦況が悪化するとともに)朝鮮での人狩りはメチャクチャになった。無制限の人狩りの世相となった。朝鮮では片っ端から、女子の動員が強いられた。これまでの勧誘や半強制という、なまやさしいものではない。日本軍の戦場は太平洋全域に広がっており、そこへ送り込むための女子(慰安婦)の大量割当てが密かに伝達されていた。官憲の役目は、人狩りのようなものであった。植民地朝鮮では『挺身隊』という名が氾濫した。目ぼしをつけた娘に対しては、三日前に『挺身隊』を指名する通知を巡査が届けにいく。総督府の指示を受けた末端の輩は、いかなる手段を使っても、割当てられた頭数をそろえる必要から、血眼となって駆けまわった。ある山村地域では割当て人員を達成しようとトラックで走りまわった。そして『挺身隊』を指名する通知を出し、もし逃亡する気配のある女は捕えて手錠をかけて留置場へ放り込んだ」
別掲の写真を見てほしい(略)。これは、「上海楊家宅に設けられた軍直営の慰安所」に掲げられた「慰安所規定」である。規定の冒頭には、「一、本慰安所ニハ陸軍々人軍属(軍夫ヲ除ク)ノ外入場ヲ許サス」とあり、また最後には「昭和十三年十二月三日、東兵站司令部」の文字も見える(軍夫とは、雑用や運搬、炊事のために徴用した現地の人)。軍部の組織的関与を明瞭に裏付ける写真である。この『不許可写真史』には、「“日本陸軍が開設した”慰安所」として次のような記述がある。
「近代国家の軍隊で戦場まで慰安婦をつれていったのは日本軍だけだった。軍部もさすがに恥ずかしかったのだろう。慰安所の写真、慰安婦の写真(の発表)はすべて禁止としていた。
従軍慰安婦が初めて生まれたのは昭和十三年一月十三日か十四日とされているが、はっきりした日時は不明である。ただ、第一号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春婦を直轄で開業したのである。
では、なぜこうしたものを設けたのか、それは上海、杭州湾上陸の将兵が、強姦略奪しほうだいに南京へ進撃していったからだ。杭州湾上陸の第十軍のごときは、毎日戦闘を繰りかえしつつ、一カ月そこそこで三百キロを走り南京に達したが、その秘密はそれであったという人もいるくらいだ。
『日本兵の去ったあと処女なし』といわれ、東京裁判では、一人の女性を日本兵三十人で輪姦した証言もある。
それはともかく、この上海・南京戦線における日本軍の暴行ぶりは、現地の外人宣教師を通じ、上海や南京の外交機関に通報され、さらに外人記者の手で海外へ打電された。日本軍最高幹部は、まず、それにおどろいた。軍の威信にかかわる問題だからだ。このほか、暴行をかさねる将兵のなかへ性病が蔓延するおそれも出てきた。占領後の治安維持、すなわち民心の離反も心配になってきた。これらのことから軍最高幹部は、たけりくるう将兵に、軍が管理する清潔な売春婦をあたえ“鎮める”ことを考えた。すなわち“従軍慰安婦”である。
女性を集めるのは、初め軍から資金をもらった御用商人が内地でおこなった。一人千円の前借金、これを返したら自由というシステムをとった。料金は一回二円だったから、五百人を相手にすれば自由ということである。
こうして南京攻略直後からスタートした慰安所(従軍慰安婦のいる所)は、各地へつぎつぎ設けられ、日本軍のいるところ必ず慰安所があるということになった。昭和十三年四月から軍直営は体面上このましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。
この慰安所のこと、従軍慰安婦のことは日本内地には秘密で、彼女たちの存在がわかる記事も写真をすべて検閲でとめられた。不許可である。
彼女らの大半が朝鮮から強制的につれて来られた女性であったことが知られるようになったのは、戦後二十年たってからだった。戦争中の検閲のおかげである。
彼女たちのなかには、雲南省騰越、芒市などであったように、軍とともに玉砕した者もいるが、玉砕部隊の名は出ても、彼女たちのことは知られないままだった。
敗戦後、彼女らの大半は現地でボロ屑のように棄てられ、なかには、兵隊に産まされた赤ン坊を背負ってさまよう哀れな朝鮮女性もいた。東南アジアでは、いま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗いや靴みがきなどしているのを見ることがある。
従軍慰安婦は兵隊四十名につき一名の割で配属され、総数は八万余名だった」
中国大陸への侵略が、「五族協和」等の美名にもかかわらず、中国民衆からあらゆるものを略奪するどんな大儀も道義性もない、まさしく帝国主義的侵略だったが故に、軍紀・風紀の崩壊は目を覆わんばかりのものがあった。そうであったからこそ軍部は、“従軍売春宿”“従軍慰安婦”を必要とし、売春業者を自らの統制下に置き、“活用”してきたのである。
纐纈厚氏(山口大学教授)は、日本の軍隊の残虐性の背景に創設時からの精神主義と懲罰主義による兵士への統制があったという(以下引用は『侵略戦争』ちくま新書より)。即ち、山県有朋が公布した「軍人訓誡」や、明治天皇の名で出された「軍人勅諭」は、厳罰によって一般兵士の不満や反発を押さえ込み、非合理的で過剰なまでの道徳的教義で「絶対服従」による軍隊秩序の強化をはかろうとするものだった。だが、一種の脅迫と非合理的精神主義による道徳的教義などは、単なるお説教にすぎなかった。
「日中全面戦争開始以降、軍紀・風紀の混乱が一段と顕著となっていく。軍紀犯の内容は対上官暴行、抗命、多衆脅迫暴行、勤務離脱、逃亡、従軍免奪などである。……そうした事件や南京事件に象徴される他民族への残虐行為は、共に大義名分なき戦争への兵士の心理的不安や苦渋の表現でもあった。……日中戦争の膠着化とアジア太平洋戦争末期における絶望的な戦況のなか、指揮統率の混乱や弾薬・食料の欠乏・途絶という状況に置かれた天皇の軍隊の兵士たちは、ここにきて既成の軍隊秩序の非合理性への不満を一気に噴出させ、軍紀は敗北の連続のなかで確実に崩壊の道を辿ることになったのである」
陸軍省が各部隊に通牒した「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」(四〇年)の中には、「事変地に於ては特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる考慮を払ひ殺伐なる感情及劣情を緩和抑制することに留意するを要す」として、「環境が軍人の心理延(ひ)いては軍紀の振作に影響あるは贅言(ぜいげん)を要せざる故に兵営(宿舎)に於ける起居の設備適切にし慰安の諸施設に留意するを必要とす特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして之が指揮監督の適否は士気の振興、軍紀の維持、犯罪及性病の予防等に影響する所大なるを思はざるべからず」と、軍部の統制のもとで「性的慰安所」を設置・運営すべきことを謳っている。
まさに大義名分なき帝国主義的侵略と無謀な作戦は軍紀・風紀の崩壊を招き、殺光(みな殺し)・略光(掠奪しつくす)・焼光(焼き払う)の「三光作戦」という残虐行為(その一つの頂点が南京大虐殺事件だった)を必然化し、「性的慰安所」は軍紀を維持する最後の砦ともされたのである。「従軍慰安婦問題と天皇の軍隊の残虐行為とは、ある意味で表裏一体の関係として把握する必要」があるとする纐纈氏の指摘は、まさにこうした点を総括したものである(本多勝一・長沼節夫共著『天皇の軍隊』も、「三光作戦」のおぞましい実態を暴く中で、従軍慰安婦問題を告発している。その中には、日本軍の将校のみを会員とする「偕行社」も売春業を行っていたことが記されている)。
こうした従軍慰安婦問題に関する歴史的事実、背景が明らかにされてきたにもかかわらず、日本の政府(と文部省)は、“軍と政府の直接の関与を明確に示す証拠(公式文書)”がない等の理由から、謝罪や補償の要求を突っぱね、この問題を載せようとする教科書を検定の名のもとに排除してきた。
しかし、九〇年代に入ってこの問題をめぐる情況に変化がおとずれた。
民主化の進む韓国内では日本の戦争責任・戦後責任問題を追及する動きが大きくなり、韓国女性運動も高揚し、儒教的道徳感の強い社会風土の中からも、少しずつ元「慰安婦」たちが証言を始めた。九一年八月、金学順(キム・ハクスン、九七年没)さんが実名で名乗ったのをきっかけに、以後、韓国・フィリピン・オランダ・在日韓国の女性たち六十五人が、日本の政府に謝罪と補償を求めて提訴したのである。
さらに決定的だったのは、九二年一月に防衛庁から慰安婦関係資料が吉見義明中央大学教授(この問題を中心になって追及してきた)によって発見、続いて外務省・厚生省からも同様の資料が続々と出てきた(当時、合わせて百二十七件も集められた)ことから、情勢は一変した。政府(宮沢内閣)は、この問題を追及する盧泰愚(ノ・テウ)大統領に対して、首脳会談で謝罪せざるを得なくなったのだ。
その後も資料の収集や、韓国での元「慰安婦」からのヒアリングが続けられ、「政府の直接関与」を認める日本政府の報告書が発表された(九三年七月)。そこでは、慰安所の設置や経営・監督、慰安所関係者への身分証明書の発給などの点で、軍隊のみならず「政府の直接関与」を認めている。
1軍占領地で「日本軍人が住民の女性を強姦するなどして反日感情が高まっているため慰安施設を整備する必要がある」という内容の軍の指令
2軍の威信を保持するため、慰安婦の募集にあたる人の人選を適切に行うよう求める指令
3慰安施設の築造、増強のために兵員の提供をもとめる命令
4部隊ごとの慰安所の利用日時の指定、料金のほか、軍医の慰安婦に対する定期的な性病検査を定めた「慰安所規定」
5慰安所開設のための渡航には、軍の証明書が必要とする指示
そして、この報告書に関連し河野洋平官房長官(当時)が談話を発表(九三年八月四日、宮沢内閣退陣の前日)し、「慰安婦の募集や移送、管理などが、甘言、弾圧によるなど『総じて本人たちの意志に反して行われた』と述べて、募集だけでなく全般的に『強制』があったことを認めた。そして『心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる』と、日本政府として改めて謝罪した。さらに『このような歴史の真実を回避することなく、歴史の教訓として直視していきたい』と述べ、歴史教育などを通じて『永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない』と決意を表明した」(同前)のである。
これによって、歴史教科書に「従軍慰安婦」問題を文部省の検定で削除されることなく載せることが可能になったのである。 
二、歴史的事実を否認し歴史修正を企む「つくる会」
「つくる会」の運動の出発点は、歴史教科書から「従軍慰安婦」問題の記述をなくす運動であったことからも、当然、彼らの教科書からは抹殺されている。
藤岡信勝は、「慰安婦問題なるものはもともと存在しなかった。それは戦後半世紀近く経ってから、ある政治的目的のもとに製造された『問題』である。その半世紀間、『被害』を訴え出た女性はただの一人もいない」(『運動がある』、以下、この項の藤岡の発言はすべて本書より)というが、すでに述べたように、儒教的道徳観の強い韓国では、自らの悲惨な体験を進んで話すような環境にはなく、民主化がようやくなろうとした九〇年代に入ってから少しずつ証言が得られるようになったのである。こうした苦痛に満ちた証言への経過を全く無視する藤岡は次のように言ってのける。
「『慰安婦』は戦地売春婦の婉曲語である。それらの女性がかわいそうではなかったかと問われれば、それは少なくとも『平和』で『豊か』な今日の日本人の生活を基準にすれば、確かに、かわいそうな人たちだったといえる。しかし、そういうことを言い出せば、かわいそうな人たちは他にもたくさんいた。例えば、私は確信しているのだが、内地売春婦は戦地売春婦よりももっとめぐまれない、かわいそうな人たちだったはずだ。だから、『かわいそう』論でいけば、戦前のすべての売春婦に日本国家は謝罪と補償をすべきだというおろかな話になる。そうでなければ明らかな差別である」
「内地売春婦」の方が「戦地売春婦」よりももっとめぐまれないとは、何を根拠に言うのであろうか? 単なる「かわいそう」論で従軍慰安婦問題が論じられてきたと言うのか? 政府と軍によって組織的に行われた戦争犯罪を謝罪し補償することが、なぜ差別につながるのか? 我々には全く理解できない論理である。おまけに、「売春が本当に許しがたいことだとすれば、過去ではなく、むしろ今現在、世界中で行われている売春の根絶に取り組むことが首尾一貫した行動であるはず」と言うに及んでは、論点のすり替え以外の何ものでもない。藤岡に説教されるまでもなく、売春そのものを根絶することは我々の課題の一つではあるだろうが、従軍慰安婦問題は単なる売春(婦)の問題ではないのだ。こうした日本軍による残虐行為=戦争犯罪が日本の帝国主義と不可分のものであり、その背景には自国の優越性の強調と他民族の蔑視を必然的な随伴物とする侵略思想が横たわっていたこと、従ってこの残虐行為を徹底的に暴き出すことによって、十五年戦争―太平洋戦争が「大東亜共栄圏建設」と「アジア解放」を目的としたものではなく、帝国日本の帝国主義的野望を実現するためのものであったという歴史的批判を首尾一貫させるという問題なのである。
「唯一の係争問題は、日本国家による慰安婦の組織的な『強制連行』があったかどうかということである」と藤岡が言うように、この問題を否定する論者は、全てが全て、“「強制連行」を直接裏付ける公文書がない”ということを最大の根拠にしている。櫻井よし子しかり、小林よしのりしかりである。我々にとっては、「強制連行」があったかどうか、あるいはそれが直接か関接か、公文書があるかどうか等々は、歴史的事実の前には本質的な問題ではないと考える。
とはいえ、すでに前章で明らかなように、公文書の面からも政府・軍部は、自らの息のかかった民間業者を使って組織的に“従軍売春宿”を運営・管理したのであり、“従軍慰安婦”にさせられた女性も、半ば強制の甘言や恫喝によるばかりか、軍部からの割り当てを消化するために業者・官憲一体となった“狩り出し”という強制連行さえ行われていたのは紛れもない事実である。南京大虐殺事件でもそうだが、こうした歴史的事実を否定しようとする連中は、虐殺の数の問題や、公文書の問題に論点をすり替え、それが明らかになっていないからと詭弁を弄し、まるで全てがなかったかのように主張し続ける。彼らは、事実から目をそらせるために確定しようのない「数の問題」や「公文書の有無」「公文書の性格」等の問題を際限なく持ち出し、蒸し返し、論争を自ら演出し、かくして論争があるのだから事実は確定していないのだと言い抜けようとするのだ。
こうした「さまざまな見解」「論争」を理由にした歴史の偽造の手口は、世界的に歴史修正主義者が共通に使うものである。松浦寛著『ユダヤ陰謀説の正体』(ちくま新書)には、ナチスドイツによるホロコーストを否定する歴史修正主義者の手口を暴露しているが、そこでは、事実の捏造や一面化が巧妙に行われ、それをもとにした書物が翻訳を含め多数出版されることによって、まるでアウシュヴィッツのガス室がなかったかに、あるいは、あったかどうか不確定であるかの様相をつくり出すことこそが歴史修正主義者の目的であるとしている。即ち、歴史修正主義者が目指すものは、歴史的事実の追求や確定などではなく、半世紀もたつのに依然として「さまざまな見解」があり、「論争」が続いていることを演出し、歴史的事実を“薮の中”に投げ入れ、かくして自らの本当の目的を正当化しようとするのである。
ホロコースト否定論者の本当の目的とは、反ユダヤ主義であり、人種主義、ナチズムの正当化である。そして「つくる会」の連中の本当の目的とは、日本の帝国主義の正当化であり、国家主義と民族主義の煽動である。
藤岡は、さらに新しい「論争」のネタを嗅ぎ当て、ここぞと主張する。
「慰安婦問題のすべての出発点は、被害者の訴えでもなければ韓国政府の要求でもなく、吉田清治という詐話師の書いた『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(一九八三年、三一書房刊)という偽書である。昭和十八年に韓国の済州島で慰安婦の奴隷狩りをしたという著者の『証言』を、朝日は何の検証もせず論説委員が手放しでほめそやした。それが全くのつくり話であったことが暴露されてからも朝日は、この大誤報についてただの一行の訂正記事も読者への謝罪も行っていない。金学順さん(故人)がキーセン出身であることをかくし、『名乗り出た慰安婦第一号』に仕立て上げたのも朝日である」
まず吉田氏の本であるが、山口県の労務報国会で動員部長をしていた当時、「一九四二年から終戦までの三年間に、陸軍西部軍司令部などの指示に従い女性千人を含む朝鮮人六千人を強制連行した」と告白している。これについて、「つくる会」に名を連ねる秦郁彦千葉大教授は、吉田証言の舞台となった済州島に出向き、島民の証言からそうした強制連行はなかったとする調査報告を出し、“デマ”“偽書”とキャンペーンをはったのである。だが、秦が済州島に出向いたのはたった一度、事前の準備もほとんどないままに突然現地の人々に朝鮮人従軍慰安婦について聞き取ろうとしても、正確な証言など得られるものではない。おまけに済州島は佐渡島よりもやや大きいとは言え、縁戚知人関係が濃密な狭い地域社会である。「学問的には成り立たない調査」を根拠に、“デマ”と言いたてる手口は、松浦氏がホロコーストを否定する歴史修正主義者の手口としてあげたもの(例えば「自分はガス室を見たことがない」というユダヤ人収容者の証言があるが、見た人はガス室送りになって死んでしまっており、「ガス室がなかったという収容者がいる」からといってガス室の存在そのものを否定する論拠にならない)と同様のものであり、また、この吉田氏の本が強制連行を証明する唯一のものであるかに大騒ぎし、朝日の誤報だするのも論理・論点のすり替えである。
金学順さんがキーセン出身であることを隠したかどうかは知らないが、藤岡はキーセン出身だから強制ではなく進んで慰安婦になったと言いたいらしい。だが、既述したように、日本が朝鮮半島を侵略するまで韓国には公娼制度はなく、ましてや当時のキーセン(妓生)は売淫を業とするような存在ではなかったのだ。藤岡は、それをあたかも売春婦であったかのようにほのめかすのである。
藤岡は、歴史の授業にディベートを取り入れた人物とされている。『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』(教育史料出版会)は藤岡のやってきたディベート方式を、「個別事実を積み上げて総合的な事実認識に到達するのではなく、最初から相反する事実認識の立場のどちらかに立って、あとは相手の認識論の弱点を探し、相手の論理の不完全さを印象づけるために、一点でも相手の論理に弱点があればそこに集中攻撃をかけて、相手の論理全体の説得性のなさを印象づけるというやり方」であると批判している。我々はディベート一般を否定するわけではない。我々は階級的観点にしっかりと立脚し、歴史的事実の科学的分析の中から歴史の真実を学び、教訓とするのであり、そうした立場・観点から反動的歴史観を徹底的に批判するのである。だが、藤岡ら「つくる会」の連中の従軍慰安婦問題をはじめとする日本軍の残虐行為=戦争犯罪を否定する論理は、歴史の真実などどうでもよく、ただ相手を言い負かせればよいといった、皮相浅薄なものでしかないのだ。
例えばこうである。藤岡は、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』に掲載された写真約四十枚のうち四点が「でたらめな写真」だと主張し、そのうち一枚は笠原十九司・宇都宮大学教授の『南京事件』(岩波新書、九七年刊)でも使われ、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」と説明しているが、この写真は三七年刊の『アサヒグラフ』に掲載された「日本軍の兵隊さんたちが村人と交流している写真なんですね」、それぞれがその写真の一部だけを使って「慰安婦強制連行の写真」だというのは「真っ赤な嘘」だったと自慢げに語っている。笠原氏はその後、この写真が中国国民政府軍(蒋介石軍)が出した本に載っていたものをそのまま使ったことを釈明し、誤用を謝罪している。こうした写真の誤用は、例えば七三一部隊の生体実験などを鋭く告発した森村誠一氏の『悪魔の飽食』の中でもあり、森村氏はその経緯を詳細に明かし、謝罪している。こうした写真の誤用はたびたび起きることだが、だからといってこうした著作の全体が「でたらめ」であるわけではない。だが、ディベートが達者な藤岡は、敵の弱点みつけたりと、ここぞと攻撃を仕掛けるのである。
「このようなデマによって構成されている本が世界中に広がっている。これは実に一種の戦争であると私は申し上げたい。武器をとった戦争は二十一世紀には難しくなりました。しかしながら過去の戦争の解釈についての国と国の間の戦争、つまり情報戦・思想戦がこれからの戦争の中心になる」
藤岡ら「つくる会」の連中は、歴史的事実がどうであったかを問題にしてはいない。彼らは、歴史をどう解釈するかの思想戦を展開しているのであって、「それぞれの国にはそれぞれの歴史観がある」と開き直る。まさに彼らが目指すものは、帝国主義大国として再び世界に覇権を築こうとする日本の独占資本の意を体し、国家主義・民族主義を児童生徒の中に植え付け、帝国日本の覇権のための従順な先兵を育成しようということにある。彼らはそれを「戦略的思考」と呼び、教科書づくりだけではなく、採択の運動でもこうした思考に基づいた「思想戦」として取り組んでいるのである。
彼らは、「私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」(「つくる会」趣意書)と、一見もっともらしいことを言う。しかしそれは、「日本は明治以降、近代国家を建設するのに成功した……今日の日本国家がほぼ成功の歴史であったのは否定できない事実」と、日本の近代国家建設の歩みが、富国強兵、日清・日露戦争、そして十五年戦争―太平洋戦争と、資本主義強国=帝国主義国家への歩みであり、侵略と戦争の歴史であったことを隠蔽するものでしかない。そして、「五族協和」「大東亜共栄圏建設」「アジア解放」が戦争目的であったかに吹聴し、「日本人としての自信と責任」を強調するのは、まさに「情報戦争がいま世界規模で戦われて」いる中で、自国中心の歴史観で「国と国の間の」思想戦に打ち勝つ人材を育成しようとするものに他ならない。「つくる会」の運動とは、反動的歴史観による児童生徒の“洗脳”にあるばかりではなく、資源も市場も、また剰余価値の取得においてもますます海外への依存を強める日本独占資本に「忠誠」を誓い、思想堅固で従順な「先兵」を育成する一大反動攻勢なのである。
西部邁の茶坊主として「個よりも公」だと主張する小林よしのりは、「個と公は対立させるものじゃないんですよ。公、つまり国は個人を支えているんですね。それがいま個人が国に権利だけを主張しているんでしょう。……個人の自由というけど、個人にとって一番幸福な自由というのは、やっぱり『国のために』というところから、結局公共性というものを考えていくしかないんじゃなかろうか」(『運動がある』)と、「国のために」行動すること、「国家システムのため」ではなく「郷土のため、そこに住む自分たちの家族を守るため」行動することの崇高さ言いつのり、特攻隊員を英雄視する駄弁を弄し、自分の著作『戦争論』はそのために書かれたとしゃべり散らしている。「国のために」戦争をすることは崇高なことで、人間としての社会性、公共性はそこでこそ本当に発揮されるんだと言うのだ。
小林はこの戦争を、「個と公」の抽象的な論理だけで美化し、「日韓併合にしても、満州国にしても、支那事変にしても、大東亜戦争にしても、全てに日本の言い分があり、日本の立場があり、日本の正義があった。その日本の正義が当時の敵国の中国やアメリカの正義や、今の韓国の言う正義に比べて決して劣るものとは言えない。……戦争で一方だけが絶対善で一方だけが絶対悪だなんて、陳腐すぎて笑っちゃう」などと言うが、おだてに乗って「つくる会」のスポークスマンをつとめ、真剣に日本の帝国主義と闘おうとする人々を小馬鹿にする小林が日本人の正義を云々するのは笑止千万である。
この戦争を、日本やドイツ等の絶対悪を打ち負かした絶対善の民主主義国の勝利だったと主張するのは、戦勝帝国主義国でないとするなら、「ファシズム対民主主義」の戦争と言い立てるスターリン主義者以外にないだろうが、小林もまた、単純にこうした図式に乗っかり、自説を展開する。そして、相も変わらない、「植民地政策が全て悪だったわけではない」などという反動的歴史観へと誘導するのである。
小林は、「戦争を語るときは、大概悲惨な戦争体験しか語ってはいけないことになっているわけですよ、マスコミのなかでは。わしはちょっとそれに反発しまして、痛快な戦争体験を描いてみようと思った」(『運動がある』)と言い、『戦争論』の中で「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」「血沸き肉踊る戦争体験」を描いたと、戦時中の翼賛出版物まがいのことを言い張る。
「つくる会」教科書の執筆者には小林も漫画家の肩書きで名を連ねている。「大東亜戦争(太平洋戦争)」の項目は、小林が書いたものと言われる。
「一九四一年十二月八日午前七時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。
日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである。
同じ日に、日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し、イギリス軍と闘いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍は、ジャングルとゴム林の間をぬって英軍を撃退しながら、シンガポールを目指し快進撃を行った。五十五日間でマレー半島約一千キロを縦断し、翌年二月には、わずか七十日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ・ビルマなどでも、日本は米・蘭・英軍を破り、結局百日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。
これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ。
日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した。日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した」(二七七頁)
小林がこの項目で描こうとしたものは、「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」であり、「日本人の正義」なのだろうが、「つくる会」教科書の皮相、卑俗さと愚劣さ、精神のおそるべき退廃を示す記述であろう。全世界の人口の五分の四を巻き込み、一億一千万人の兵士を動員し、死者は四千万人以上にのぼった第二次世界大戦を、「爽快感、充実感、感動」で描こうという精神構造が、まともなものでないことは明らかだ。
だが、『戦争論』といえば、何といっても「戦争は政治の一手段である」と喝破したクラウゼヴィッツの著書と比較しないではいられない(以下引用はクラウゼヴィッツ『戦争論』徳間書店刊より)。彼は戦争を歴史的科学的に分析し、それが高度に政治的な性格を持ち、「戦争はたんなる政治関係の継続というだけではなく、他の手段による政治の実現である」と規定し、繰り返し述べている。
「戦争は政治の一手段である」のであって、「戦争が政治に所属するとすれば、それが政治によって特質づけられるのは、当然である。政治が大規模で強力であれば、戦争もそうなる。その程度は際限なく、ついに戦争はその絶対的な姿に到達するのである」。
「政治が正しければ、つまりそれがその目標に適合していれば、それは戦争に有利に作用せざるをえない。政治の影響が目標からはずれることがあれば、その原因は、もっぱらまちがった政治のなかに求められねばならぬ」
また、戦争が、「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為」でしかなく、「文明国家の戦争と未開国民の戦争を比べてみると、その残虐性と破壊性において、後者の方がはるかに前者にまさっているが、これは、交戦国家の社会状態や国家相互間の関係に由来する」としつつ、多くの場合、文明人のあいだでは「理性と結びついた意図が優勢である」のに対して、未開人のあいだでは「情緒と結びついた意図が優勢である」ためとしている。文明人、未開人云々はさておくとして、戦争目的が「理性と結びついた意図」から逸れる度合が強いほど、そして他民族を蔑視するような「情緒と結びついた意図」(敵対的感情)がともなうほど、戦争における暴力行為の残虐性と破壊性は極限にまで達すると述べる。
近代以降の日本の戦争は、資本主義強国として欧米列強と伍し、対立し、自らの権益と覇権をかけて挑んだ帝国主義戦争であり、その帝国主義的野望を「大東亜共栄圏建設」の名で粉飾した政治戦略のもとに、国家総動員体制が敷かれ戦われたのである。小林が主張するのとは逆に、この戦争に正義などなく、数々の残虐行為=戦争犯罪を招来したのは、独占資本と軍部の帝国主義的野望が、剥き出しの侵略思想、民族蔑視を正当化し、必要ともしたからである。「政治」が掲げた「大東亜共栄圏建設」「アジア解放」はスローガン、お題目であり、アジアにおける覇権という目標こそが、真実のものであったからこそ、覇権をかけた野望は無謀な戦争計画に反映し、それが行き詰まるとさらに輪をかけた精神主義だけの作戦がまかり通り、インパール作戦、特攻作戦、そして沖縄戦と、戦争の様相は、まさに「まちがった政治」がもたらした悲惨、凄惨なものになってしまったのである。
クラウゼヴィッツの理論に照らしてみれば、日本の戦争目的が、「理性と結びついた意図」によるものではなく、「大東亜共栄圏建設」に名を借りた帝国主義的野望でしかなく、戦争行為における残虐性と破壊性は、アジア諸民族に対する日本民族の優越性という「情緒と結びついた」蔑視感情の煽動によってもたらされたと言うべきであろう。
日本軍が行った残虐行為の多くは、一般兵士の手によるものであるが、その責めは、帝国主義的野望を企んだ独占資本・軍部こそが負うべきだ。この戦争にどんな正義も見出せない一般兵士は、無内容な精神主義と暴力による制裁を手段とした恫喝で動員・参戦したのであり、どんな自発性も積極性も持つことができず、まして小林の言うような「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」などとは無縁だったのだ。
九月五日付『朝日新聞』は、「米議会調査局の資料によると、第二次大戦で日本軍の捕虜になった米軍人二万七千四百六十五人のうち一万一千百七人が死亡。ドイツ軍捕虜になった九万三千九百四十一人の死者は一%強の千百二十一人に過ぎない」と、元米軍捕虜の補償問題に関連して、日本軍の残虐性をこうした捕虜虐待を例に出している。
クラウゼヴィッツも捕虜虐待について言及している。「文明国民は、捕虜を殺したり、村や町を破壊したりしないが、これは、用兵にあたって理性の参加する程度が増し、本能の粗野な表現に比し、暴力行使上いっそう有効な手段が見出されたためである」とし、兵器の進歩や兵站部門の重視といったことをあげている。ここでも文明国民云々は別にして、理性の参加する程度が「本能の粗野な表現」に影響を与えるとしている。
このことは日本軍の残虐性、破壊性についてあてはまるばかりでなく、米軍の原爆投下や東京大空襲、あるいは下ってベトナム戦争時の米軍の数々の残虐行為についてもあてはまるのだが、帝国主義的野望・覇権に基づく戦争が、いかに「理性と結びつか」ず、歴史的正当性を持たない反動的なものであるかを示すものであろう。
太平洋戦争を「ファシズム対民主主義」の戦争であったかに描くスターリン主義者や自由主義者も、日本軍に限らない米軍等の残虐行為を告発するが、その告発は戦争一般の非人道性等々の批判に留まらざるを得ない。それは、世界が帝国主義によって支配、蹂躙されており、太平洋戦争も欧米列強の帝国主義国による世界支配に異を唱え、覇権を求め挑戦した後発帝国主義国たる日本やドイツ・イタリアとの戦争であったことを見ることができないからである(この限りで、「つくる会」の連中が主張する「東京裁判史観」等の批判は、スターリン主義者や自由主義者の歴史観の弱点をつくものとなっている)。「戦争は政治の一手段」であり、「政治の継続、実現」なのであって、太平洋戦争はどちらの側から見ても帝国主義政治の「継続」としての戦争=帝国主義戦争だったのである。そこにおける残虐行為への告発は、帝国主義の世界支配に対する歴史的批判を通じてこそ、真に科学的で階級的な一貫性を持つことができるのである。
従軍慰安婦問題や南京大虐殺、七三一部隊の問題で、一般兵士が重い口を開けたことは、東京裁判で自己弁護に終始したA級戦犯らとは対照的に、まさに一般兵士の側にこそ残虐行為=戦争犯罪に対する深い反省と悔悟の念があることを示してはいないだろうか。歴史の歯車を前に進めることができるのは、支配者階級ではなく、彼らが煽動した戦争で傷つき、大きな被害をこうむった痛恨の歴史から真実を見抜くことができる人民大衆、労働者階級だけであろう。
「つくる会」の歴史教科書は、歴史的事実を無視し、恣意的で反動的な歴史観を広めるものでしかなく、国家主義と民族主義を煽動し、日本の労働者人民の真の意味での戦争責任と、その歴史的使命を曖昧にするものでしかないことは、もはや明らかだ。こうした教科書は、歴史のクズかごに放り込むしか他にないのである。  
 
従軍慰安婦の虚報招いた吉田清治氏の嘘告発

 

韓国が喧伝する、いわゆる従軍慰安婦のデマは、いまや世界中に拡散し、欧米では「慰安婦=性奴隷」という誤ったイメージが定着してしまっている。その原点は、朝日新聞が報じた強制連行の「誤報」だろう。
かねて朝日の報道をめぐっては、多くの識者やメディアから批判があったが、朝日は依然としてその過ちと向き合おうとしない。そんななか、朝日新聞元ソウル特派員として慰安婦問題を取材した記者の前川惠司氏(現ジャーナリスト)が、告発の声を上げた。
***
1991年5月22日付の大阪本社発行の朝日新聞の、「木剣ふるい無理やり動員従軍慰安婦加害者側の証言(手紙女たちの太平洋戦争)」には、「自分は朝鮮半島で950人の女性を強制的に連行して慰安婦にした」と、告白する著述業・吉田清治氏(故人)の証言を大きく伝えた。
実は、私が川崎支局員だった1980年ごろに、「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので、話を聞いて欲しい」と電話してきたのが、吉田氏だったことがある。
横浜市内の彼のアパートで3〜4時間は話を聞いた。大筋は、当時、警察に直結し、炭鉱などへ労働者を送り込む組織である山口県の労務報国会にいて、朝鮮の慶尚北道に行き、畑仕事をしている人たちなどを無理やりトラックに乗せて連れ去る「徴用工狩り」をした、ということだった。
奇妙なことに、彼はその時、その後に「告白」する「慰安婦狩り」にまるで触れなかった。当時の記憶は薄らいでいるが、それでも、彼の話には辻褄が合わないところもあった。
当時、私は、地方版で「韓国・朝鮮人」という連載を続けており、ちょうど、朝鮮人軍属の体験を書いていたので、吉田氏は、その記事を読んで電話をしてきたのだろうが、すでにたくさんの在日の方を取材し、徴用工だった人からも話を聞いていた。
吉田氏が証言した、集めた徴用工を釜山港で船に乗せるときに「手を縛り、数珠つなぎにした」という話は聞いたことがなかった。山口県の報国会の「朝鮮人狩り」なら、徴用工を連れてくるのは、山口県内で働かせるためだろうから、どこに連れて行って働かせたかを尋ねると、行った先の現場などの名前ははっきりしなかった。重ねて尋ねると、「当時、朝鮮人はモノ扱いだったから」というような返事だった。
余談だが、日本支配下の朝鮮は、経済的な理由や、重苦しい鬱屈した気持ちや、明日を捜そうと、朝鮮から脱出し、日本に行きたい人はたくさんいた。日本は当初、朝鮮半島出身者の流入を抑えたが、長引く戦争で、本土の労働力の穴埋めに徴用に踏み切った。徴用を日本行きの好機とした逞しい人も多かったはずだ。
朝日新聞は、吉田氏の「慰安婦狩り」の証言を何回か紹介したようだが、私は、ソウルで伝手をたどり、
「戦争中に日本兵や日本人警官に無理やり連れて行かれた娘がいたか。そんな噂を聞いたことがあるか」
と60歳を超えた友人の母や、新聞社の幹部、元軍人、大学教授などに尋ね回ったが、そんな噂を聞いたという人は、一人もいなかった。ある人の返事は、
「日本人が無理やり娘をさらったりしたら、暴動が起きましたよ」
日本支配下の1929年に、列車の中で日本人男子中学生が朝鮮人の女子生徒をからかったことがきっかけで、生徒同士のけんかになり、とうとう大規模な独立運動にまでなった「光州学生事件」は、有名な出来事だ。そのようなことも合わせれば、日本の官憲が朝鮮人女性を暴力的に戦地へと連れ去ることなどはできることではないし、また、必要もなかったというのが私の判断だった。
すでに朝鮮には、日本の公娼制度が持ち込まれ、あちこちに売春地区があった。女衒は、もう戦争前からあふれていた。そして、哀しい話だが、当時の日本本土と同様に、娘を売る親はいくらでもいた。
ところで、吉田氏は、1992年8月12日にソウルに現われた。韓国で元従軍慰安婦を支援している団体である、「太平洋戦争犠牲者遺族会」に呼ばれ、亡くなった元慰安婦に謝罪し、慰霊するためだと、ソウルにある韓国プレスセンターで記者会見をした。
吉田氏を取材したのは、彼が、朝鮮半島で慰安婦狩りをしたと書いた、『私の戦争体験朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版する1983年より前で、私は10余年ぶりの彼を見た。
ひょろひょろとしていて、幾分か痩せたような気がしたが、ぬるっとした感じは変わらなかった。
私は、「このうそつき」と言う目で見ていたが、記者会見では、他社の特派員も、済州島での慰安婦狩りについて、執拗に聞き続けるので、彼はちょっとしどろもどろになった挙げ句、会見の席上で怒り始めたように記憶している。
韓国社会を熟知している各社の特派員は、吉田氏の証言を端から疑っていたのだ。朝日新聞だけでなく、ほかの新聞社も、従軍慰安婦問題の記事は、ソウル特派員ではなく、それぞれ本社の社会部などの記者が活躍していた気がする。
結局、吉田氏は1996年には慰安婦狩りは「創作」だったと認めた。証言は、ドラマのような話だったのである。横浜のアパートで、慰安婦狩りを語らなかったのは、まだ、シナリオが十分に練られていなかったからだったか。
ソウルの記者会見で話す吉田氏を写した写真を後から見ると、私の座っている方に顔を向けている写真は一枚もないのに気が付いた。
それにしてもなぜ、慰安婦狩りと言う「物語」が、かくも事実として広まったのか。しかも、いまも、「吉田氏は、実際にはしなかったかもしれないが、本当に済州島で慰安婦狩りをした部下の話を聞いて、しゃべったのだ。だから、証言は本当だ」と主張する人たちがいるのも事実だ。
私は、済州島を自転車で走ったことがある。急げば一周に2日もかからない、小さな島だ。女狩りのようなことが起きれば、あっという間に、島中に知れ渡り、今でも語り継ぐ古老がたくさんいるに違いないのだが。
韓国の繁華街で白昼、普通の娘がいきなりさらわれ、売春街に売り飛ばされることが、頻発し、大社会問題になったことがある。この人さらいのやり方は、乱暴きわまる。街で「獲物」を見つけるや、いきなり殴りかかり、「お前なんで、家を出たんだ」などと叫ぶや、ワゴン車などに押し込んで、連れて行ってしまうのだ。
韓国には昔から、「処女が子を産んでも言うべき言葉がある」という諺がある。まあ、女性の一種の気の強さを言っているわけだが、夫婦喧嘩でも派手に夫に逆らう姿に慣れているから、街中で必死に女性が抵抗し騒ごうが、周りは夫婦喧嘩か、と思い込んでまるで気にしないという、ウソのような、韓国社会ならではの手口だ。
李朝時代には、未亡人を再婚させるときには、相手に「拉致」させた。貞操を守ろうとしたが、無理やりにという形にして、体裁を繕うためだ。
儒教道徳の強い韓国では、「慰安婦にされた娘がいても、口にしたりしない」という人もいるが、他家の噂話にはあけすけなのも韓国だ。おばあさんたちの証言をはっきり裏付ける話が、知る限りでないのが気になるのは私一人だろうか。(SAPIO 2014年9月号) 
 
慰安婦問題 日本を貶め続ける「河野談話」という悪霊

 

強制連行を認めた河野氏
九三年八月四日、宮澤喜一内閣総辞職の前日に、河野洋平官房長官が発表した談話が悪霊のように日本にとり憑いている。
中国や韓国、さらに欧米諸国で"高く"評価されるに至った河野談話は「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と明記して、「官憲」が「強圧」によって慰安婦を生み出したと、公に認める内容だった。
また、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営された」「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは問接にこれに関与した」「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」として、軍による強制の意思が働いていたことを強く示唆する内容だった。
また、河野氏は、直後の記者会見で次のように、より明確に強制連行を認めている。
(官邸記者)今回の調査結果は、強制連行の事実があったという認識でよろしいわけでしょうか。
「そういう事実があったと。結構です」
氏は明快に答えたが、これだけはっきり言うからには根拠があるはずだ。その点を別の官邸詰めの記者が質問した。
強制連行については公文書は見つからずそれで聞きとり調査をしたと理解していますが、客観的資料は見つかったのですか。
この問いに河野氏は次のように答えた。
「強制には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もあるんです。精神的な強制は官憲側の記憶に残るというものではない。しかし関係者、被害者の証言、それから加害者側の話を聞いております。いずれにしても、ご本人の意思に反した事例が数多くあるのは、はっきりしておりますから」
要は、質問に出てきた客観的資料はなかったのだ。しかし、「証拠はないという事実」に反して、河野氏は「強制」があったと断じ、それが一人歩きし始めた。
政府は、当時十六人の元韓国人慰安婦の証言を聴いており、彼女らの証言が「強制」の決め手になったとされた。だが、その証言内容も、証言者の姓名も、今日に圭るまで、一切明らかにされていない。
公表できない調査内容
私が実際にこの問題について当事者らの取材を始めたのはそれから四年近くがすぎてからだった。九七年四月から慰安婦問題が中学の歴史教科書に掲載されることになり、事実はどうなのかという疑問が再ぴ私の中で頭をもたげてきたのだ。
宮澤内閣の力を結集して集めた歴史資料は膨大な量にのぼり、その中には、日本軍による強制を示す資料はただの一片もなかったとされている。にもかかわらず、なぜ、政府は強制を認めたのか、私は考え得る当事者たち全員に取材を申し込んだ。
そして取材を一旦受けながら、直前に断ってきた宮澤首相を除き、河野氏、河野氏の前に官房長官を務めた加藤紘一氏、官房副長官の石原信雄氏、外務審議室長の谷野作太郎氏、武藤嘉文外相、駐日韓国大使の孔魯明氏、駐韓日本大使の後藤利雄氏らの話を聞いた。
その結果確認出来たのは、河野談話には根拠となる事実は、全く、存在せず、日韓間の交渉の中で醸成されていったある種の期待感と河野氏自身の歴史観が色濃く反映されていたことだった。氏の歴史観、戦争に関する極めて、否定的な想いは、宮澤氏のそれと多くの共通項を有してもいた。
河野談話に至る過程で重要な役割を果たしたのが、前述のように、十六名の女性たちの"証言"だった。十六人は韓国政府によって選ばれ、日本側から外政審議室の田中耕太郎審議官ら四名が韓国に派遣され、一人平均二時間半をかけて聞き取りをした。報告書を読んだ谷野外政審議室長は次のように語った。
「凄まじい内容でした。宮澤さんにお見せしたら目を背けました。読みたくないと仰った。余程公表しようと思いましたが、出してもいうことをきかない人はきかない。余りにもオドロオドロしいので出しませんでした」
一方、石原氏は、「最後まで迷いました。第三者でなく本人の話ですから不利な事は言わない、自分に有利なように言う可能性もあるわけです。それを(旧日本軍及び政府による強制連行有無の)判断材料として採用するしかないというのは…」と□ごもった。
氏が□ごもったのは、女性たちへの聞き取りが尋常なものではなかったからである。第一に、日本側から女性たちへの反問も検証も許されなかった。加えて、韓国政府の強い要望で実現した聞き取り調査は、日本政府が、女性たちは生活やお金のために慰安婦になったのではなく、強制連行されたのだと認め、謝罪することにつながるべきだと、韓国政府が要求していたことである。
事実、聞き取り調査の始まる前の七月十四日、孔大使は日本記者クラブで会見し、元慰安婦の名誉回復のため、強制連行だったと日本政府が認めることが第一条件だと述べている。女性たちの証言は日本政府が聞き取りをすると決めた瞬間から旧日本軍による強制連行の"証拠"となるべき運命だったと言える。
韓国人でも証言に疑問
ただ、石原氏も谷野氏も、温度差はあれ、証言内容に疑問を抱いてはいた。「彼女たちの体験を売春だったと開き直れる世界ではありません」と述べた谷野氏でさえ、女性たちの証言を「そのまま信ずるかと言われれば疑問はあります」と答えたのだ。
女性たちの証言を信じ難いとする評価は日本人だけのものではない。韓国においても同様の見方がある。九三年、二月に出版された『強制で連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち証言集1』(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編)は、四十余人を対象に調査を実施した。調査に参加した安秉直・ソウル大学教授はこう書いている。
「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が理論的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ」「調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を、歪曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査を中断せざるを得ないケースもあった」(西岡力氏『闇に挑む!』)
韓国の人々の目にも疑問が残った女性たちの証言を前にして石原氏が懸念したことのひとつは、日本が強制を認めた場合、それが後々、新たな補償問題につながっていく可能性だった。
だが、韓国政府は日本政府より一枚上手だった。彼らは日本側の懸念を見通し、日本政府が強制を認め易くするために、日本には金銭的補償は求めない、補償の必要があれば、韓国政府の責任において行うと明言したのだ。こうして、懸念が取り除かれた日本政府は強制連行を認めるべく、背中を押されていった。
十三歳の少女まで?
だが日本が強制を認めて四年後、状況はまたもや微妙に変化した。九七年春、韓国の柳宗夏外相が、日本政府は慰安婦問題に対して補償し責任を認めるべきだと述べたのだ。日本政府による個人補償の必要性に韓国政府がはじめて言及した瞬間だった。
石原氏は「女性たちの名誉が回復されるということで強制性を認めたのであり、国家賠償の前提としての話だったなら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求めていたはずだ」と語る。
河野談話はそうではないという前提で、"善意"で"日韓関係に配慮して"認めたというのだ。
もう一歩踏み込んで言えば、あの時点で日本政府が強制性を認めれば、韓国側はもはやこの間題を問わないという、阿吽の呼吸とでも呼びたくなる"共通の理解"があったと、氏は述懐する。
河野官房長官の強い意思とそれを支える宮澤首相の決意によって生まれた談話は、いま、国際社会で日本軍による強制連行の動かぬ証拠とされ、日本非難の支柱となった。それにしても、米国下院での状況は、検証のプロセスが欠落している点で、日本での聞き取りと酷似する。
米下院本会議に、「旧日本軍が若い女性を強制的に性的奴隷にしたことに対して、日本政府の公式な謝罪を要求する」という内容の決議案が日系三世のホンダ議員によって提出されたのは、今年一月三十一日だった。
米国下院の決議案には、「日本帝国陸軍が直接的及び間接的に」「若い女性の隷属」「誘拐を組織することを許可した」「慰安婦の奴隷化は、日本国政府によって公式に委任及び組織化され、輸姦、強制的中絶、性的暴行、人身売買を伴っていた」と記述されている。
慰安婦の中には、十二歳の少女もいたとされ、彼女らは、「自宅から拉致され」「二十万人もの女性が奴隷化され」「多くの慰安婦は、最終的には殺害されたり、交戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた」、その結果、「(女性たち)の内僅かしか今日まで生存していない」とある。
こうした対日非難の"証拠"となったのが、またもや、検証されざる女性たちの証言である。たとえば二月十五日の米下院公聴会で証言した韓国人女性は昭和十九年、十六歳のとき、友人に誘われて未明に家出し、国民服の日本人の男についていったそうだ。汽車と船を乗りついで台湾に到着、男が慰安所の所有者だったと知った。男は彼女を電気ショックで拷問し、電話線を引き抜いて縛り上げ、電話機で殴ったという。彼女は売春を強制されたが、「ただの一度も支払いを受けなかった」とも語っている。
検証もせずに批判
真実とすれば、このひどい取り扱いは心底憎むべきものであり、女性には深い同情を禁じ得ない。だが、疑問も残る。たとえば、右の証言はどこで日本国政府や軍による挾致、強制につながるのかという点だ。白ら語ったように、彼女は友人と家出した。彼女らを台湾に連れて行ったのは慰安所の所有者だった。彼女の台湾行きに日本軍や日本政府が加担し、強制したのでないのは明らかだ。
また同じ公聴会で証言したオランダ人女性は「インドネシアの抑留所にいた一九四四年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」と証言した。たしかに、インドネシアでは、現地の旧日本軍人がオランダ人捕虜の女性を同意なく売春婦として働かせたことがあった。
しかし、事態を知った軍本部は、この慰安所の閉鎖を命じ、当事者は戦後、戦争犯罪人として死刑に処せられている。彼女の事件は、むしろ日本側が「国家による強制はなかった」と説明出来る材料なのだ。
にもかかわらず、ホンダ議員らは検証もせずに日本を断罪する。戦後補償問題に取り組むミンディー・コトラー氏も、公聴会で慰安婦問題とユダヤ人虐殺を同列に並べ、日本に、強制連行を否定することで「日米同盟の名誉を汚すのをやめよ」と糾弾した。
河野談話が全ての原因
かつて日本政府は韓国政府の強い要請を受け入れて、疑問を封じ込めて強制を認めたが、今や、女性たちの証言は、韓国政府が要請しなくとも、検証なしで、米国議会で受け容れられていく。まさに河野談話によって、強制性は慰安婦問題の大前提として国際社会に認知されたのだ。そのことに気づけば、駐日米大使の三月の発言も、自ずと理解出来る。
トーマス・シーファー大使は米国下院公聴会での女性たちの言葉を「信じる」「女性たちは売春を強要された」として旧日本軍による強制は「自明の事実」と述べた。
ホンダ議員も、二月二十五日、日本のテレビに生出演して、「強制連行の根拠を示してほしい」と問われ、答えた。
「実際に(河野)談話という形でコメントが出ているじゃありませんか。また、強制的でなかったというのなら、どうして日本の首相は心よりお詫びしたのですか」
日本を深く傷つけ、貶め続ける河野談話。だが、米国の反日グループからは、次のように悪し様に言われている。コトラー氏は公聴会で述べた。
「日本政府は公式な謝罪をしたことがない。今までの首相の謝罪は全部個人の意見としての謝罪である」
「官房長官は、ホワイトハウスの広報担当者とほぼ同じ。広報担当者のお詫びが政府のお詫びでないように、河野氏のお詫びも政府のお詫びではない」
さらに「河野氏はレイムダックで、責任を持てない」人物だとし、「この問題は今日だけではなく明日の問題でもある」と強調した。
河野談話にもかかわらず、未来永劫日本の非をとがめ、責任を問い続けるというのだ。そして決議案は、日本政府は「歴史的責任を明確に認め、受け人れ」、「この恐ろしい罪について、現在及び未来の世代に対して教育し」、「慰安婦の従属化・奴隷化は行われなかったとするすべての主張に対して、公に、強く、繰り返し、反論し」、米国下院の主張する慰安婦のための「追加的経済措置」について国連やNGOの勧告に耳を傾けよと結論づけている。
河野談話が全て、裏目に出ているのである。
証拠ない、と安倍首相
安倍首相はこうした動きについて、河野談話を引きつぐとしながらも、重要な点に言及した。三月一日には「(軍の強制連行への直接関与など)強制性を裏づける証拠がなかったのは事実」と発言し、三月十六日には社民党の辻元清美衆院議員の質問上意書に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見あたらなかった」とする政府答弁を出した。
韓国政府もメディアも即反応した。宋畏淳外交通商相は二日、「健全で未来志向の日韓関係を築く共通の努力の助けにならない」と不快感を表明。有力紙『中央日報』は下院公聴会に関連して「日本は恥ずかしくないのか」との見出しをつけた。
河野談話は「女性たちの名誉を守るため」に「善意」で出されたはずだった。それがいま反対に、恥を知れと日本に突きつけられる。にもかかわらず、つい先頃までの日本政府、外務省の対策は信じ難くもお粗末だ。
たとえば、米国下院の対日非難に対し、駐米大使加藤良三氏はこの数か月、何をしてきたか。たしかに氏は、下院宛に書簡を出した。だがそこには、日本が謝っていないとするのは正しくない、日本はこれまで謝罪を重ねてきたと書かれているのである。事実関係を争う文章は、一行も見当たらない。
但し、加藤氏の名誉のためにつけ加えれば、氏は二月の公聴会の直前、「決議案は事実に基づいていない」とする声明を出した。出さないよりも出した方がよかったとはいえ、公聴会直前の簡単な声明がいか程の説得力を持つのか。なぜこれまで、下院の動きに対して、事実に基づく抗議も説明もしてこなかったのか。
ホンダ議員についても、外務省は調査してこなかった。同議員は後述するように、中国の反日勢力と深く結びついている。そのことを明らかにしたのは産経をはじめとするメディアである。それはメディアの責任である以上に、大使以下、ワシントン大使館の外交官の責務であるはずだ。日本の名誉を汚し、国益を損ねる理由なき外国の主張に、反論もしないのは、責任放棄であり国辱外交である。
反日団体と密なホンダ
「沈黙して耐えるのがよい」。こういう意見は内外に少なからず存在する。たとえば知日派のマイケル・グリーン前国家安全保障会議アジア上級部長である。
氏は「慰安婦問題は、高いレベルで政治介入すればかえって複雑化する。強制性があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では誰もが同情を禁じ得ない。強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない」「日本が政治的に勝利することはない」と言う。
同様の意見は日本国内ではさらに多い。とりあえず眼前の摩擦を回避し、"火を消すのが大事"だと考える結果、事実関係については、"歴史家に任せよ"などと言う。しかし、これまでと同じ小手先の手法が一体どこにつながっていくのか。答を得るためにはホンダ議員が過去に関わった対日賠償請求問題を検証しなければならない。
米カリフォルニア州議会で「賠償・第二次大戦、奴隷的な強制労働」という条項を含む民事訴訟法が成立したのは九九年七月だった。タイトルからはナチス・ドイツ時代のユダヤ人強制労働に対する賠償請求が連想されるが、なんと、それはナチス政権、その同盟国との表現で日本を訴追の対象に含めた法案だった。
同法案成立から一カ月後、同州議会はホンダ議員が提出した第二次世界大戦時の日本軍による戦争犯罪に関する下院共同決議を採択した。それはアイリス・チャン氏の『ザ・レイプ・オブ・南京』を全面的に肯定して日本を貶める、おどろおどろしい内容だった。
ホンダ議員らは、日本の歴史的責任は現在米国で活動中の日本企業が果たすべきだとして、二〇一〇年まで、対日企業賠償請求訴訟を起こすことが出来ると定めた。日本企業への賠償請求金額は一兆ドル・百二十兆円に上った。
ユダヤ人の消滅を国策としたドイツと日本が一緒にされる理由は、断じてない。公正さも国際法も無視したあの東京裁判においてさえも、連合国は日本を"人道に対する罪"で裁くことが出来なかった。にもかかわらず、凄まじい偏見と日本を貶めたという意図に立って対日企業賠償訴訟を法制化したのがホンダ議員だ。同じ人物が、今回もまた、深く関っている。
ホンダ議員が中国系反日団体、「世界抗日戦争史実維護(保護)連合会」による全面支援を受けていることも、すでに明らかにされた(「読売新聞」、三月十六日朝刊」。右の連合会には、中国共産党政府の資金が注入されていると考えるべきであり、一連の展開は中国政府の長年の、そして数多くの反日活動の一環だと断じざるを得ない。
誇り高く事実を語れ
読売の記事は、下院外交委員会でただひとり、「日本はすでに謝罪してきた」として、決議案に反対してきた共和党のダナ・ローラバッカー議員が、地元カリフォルニア州の事務所で韓国系団体の訪問を受け、「決議支援」に転じたとも伝えている。
つまり、私たちは今回の米下院の慰安婦問題に関する動きを日米二国間の関係でのみとらえてはならないのだ。下院の決議案は紛れもなく、中輯両国による反日連合勢力の結実で、その中に米国が取り込まれつつあることを物語る。だからこそ、彼らの反日の意図、空恐ろしいほどの反日戦略を読みとり対処すべきなのだ。沈黙を守れば消え去り、忘れ去られるような生易しい脅威ではない。
日本がこの深刻な事態に対処すべき道はただひとつ、真正面から正論で闘うことだ。拉致問題で、筋を曲げることなく闘ってきたように、安倍首相は同様の決意で日本の名誉と誇りにかけて、全力で対処しなければならない。国際社会に張り巡らされようとしている反日情報の罠の核心をしっかりと見詰め、長く困難な論争になるのを覚悟して取り組むのだ。挫けず、誇り高く、事実を語り、世界を説得していく心構えをこそ新たにしなければならない。  
 
従軍慰安婦について歴史の真実を再考する

 

すべては朝日新聞の捏造から始まった
たしかに「慰安婦」という人たちはいました。しかし、「慰安婦問題」というのはありませんでした。「問題」というのは現代になっても解決せねばならないことがあるかどうかということです。
世界には貧困のために不幸にして自分の性を売らなければならなかった人たちは、歴史的にも、現在にもたくさんいます。そういうこととは別に、日本が国家として権力を使って慰安婦に強制的に性を売らせたということがあれば、それは問題です。もし、そういうことがあれば「慰安婦問題」となるでしょう。しかし、なかった。ですから「慰安婦」はいたけれども「慰安婦問題」はなかったというのが真実です。
では、そのないはずの「慰安婦問題」がいつから出てきたかと言えば、一九八○年代からです。韓国の政権はずっと反日だったと言いますが、一番激しい反日だったのは李承晩政権です。反日と反共を国是としていて、そのため李承晩政権は日本と国交正常化しなかった。そして、日本に対して多額の賠償請求をしていました。
その李承晩政権ですら、外交交渉の場で「慰安婦問題」を持ち出したことは一度もありません。その時代の人たちは「慰安婦」の存在は知っていましたが、それを「問題」化して外交交渉の場に持ち込めるとは思っていなかったのです。
李承晩政権が日本に要求していたのは、徴用された人と徴兵された人たちの補償と未払い賃金です。徴用と徴兵というのは権力によるものですから、外交交渉で補償を求めるのは当たり前です。
すべては八二年から
しかし、いわゆる「強制連行」というものについても、官斡旋や自由募集については補償を求めていなかった。
そもそも李承晩政権が日本政府に過去の清算としての要求を網羅的にあげた「対日請求要綱」の中でも「強制連行」という言葉は使われていません。この言葉も当時、なかったものです。
そして「慰安婦問題」についても、「対日請求要綱」の中にはまったく出てきません。
李承晩政権は反日だから、日本と国交正常化しない。日本からの援助は一切求めない。本当の反日というのはこういうものでしょう。
そして、朴政煕政権になって、植民地支配に対する反感はあるけれども、いまは反共が大義であってアジアの自由主義陣営は団結すべきだという立場から、日韓国交正常化をしたわけです。日本も釜山に赤旗を立ててはいけないということから大規模に援助した。
その後、一九六五年から八二年までの間は、歴史問題を理由にした反日デモが起きたことはないし、歴史問題で外交交渉をしたこともありません。すでに清算はすんでいますから当たり前です。
韓国は反日で、ずっと「慰安婦問題」について言ってきたような印象がありますが、そんなことはない。すべては八二年から始まっているのです。
きっかけは朝日の大誤報
はなぜ、八○年代になって「慰安婦問題」が出てきたのか。それは、一つに戦争中のことを知らない世代が出てきたということがあります。
そしてもう一つ、九八二年の第一次教科書問題があります。
日本の教科書が「華北への侵略」を「進出」と書き換えさせられたという朝日新聞の大誤報があり、それを韓国の新聞が引用する時に「中国・韓国への侵略」と追加の誤報をしました。
当時、全斗煤政権は日本に六十億ドルの経済協力を求めていたのですが、それは安保経済協力と言っていました。共産主義陣営の南下を押さえて、韓国が日本の安保の砦になっているから、韓国の軍の近代化費用の三分の一くらい日本が持てという論理です。それは日本は呑めないと断って膠着状態になっていました。
そんな時に新聞の大誤報があって、中国共産党政権が先にそれを取り上げた。それを見て斗煤政権が歴史問題を使えば日本を追い込むことができて、協力を取り付けることができると考えたわけです。
ここから、全斗換政権が中国共産党と手を組んで、日本批判をして援助をとるという対日歴史糾弾外交を始めます。そして日本発の根拠のない反日の題材を韓国と中国の政権が外交交渉に使うという構造が始まったのです。これは私の師である田中明先生の意見ですが、全斗換政権以降の韓国の反日というのは「引き奇せる反日」です。反日、反日と言いながら、金やモノ、技術をくれと言う。歴史を外交のカードにし始めたのです。
しかし、このような八二年の状況の中でも「慰安婦問題」は出ていませんでした。
一九八三年に今日の「慰安婦問題」のきっかけとなる吉田清治という人が書いた『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』という本が出ます。この中で、昭和十八年に韓国の済州島で、日本の軍人が赤ん坊を抱いたお母さんや若い未婚の女性を狩り立てトラックで連行したという、いま一般に流布している「強制連行」が初めて出てきた。
私は八二年から八四年までソウルに住んでいましたが、その時、吉田清治は韓国のテレビに出演して、自分の戦争犯罪を謝ったりしていました。しかし、それほど韓国では大きな問題になっていませんでした。
吉田清治がテレビに出た後、私は街に出て知り合いの食堂の女の子たちと話をしました、女の子たちにあのテレビを見たかと訊ねたら見たと言う。そして、「我々韓国人にとっては謝ってくれてありがたいけれど、あの人は帰国して大丈夫なんですか?外国に来て自国の悪口を言ったらよくないでしょう?帰国したら袋叩きに合うのではないか」と言っていました。
それぞれの国がそれぞれに愛国心を持っているのだという、当時の韓国人には当たり前のバランス感覚があったのです。
戦争中を知っている韓国の年寄りは「慰安婦問題」で日本を責められると思っていないし、若い人たちも常識があるので日本にまで行って裁判を起こすというのはおかしいと思っていたのです。
一九八九年に吉田清治の本は韓国で翻訳出版され、これを読んだ韓国の済州新聞の女性記者がその本に出てくる日時と場所について現地取材をします。すると、吉田の証言は全くのデタラメであることが判明し、女性記者は吉田証言を全面的に否定する記事を書いています。
八二年の第一次教科書問題の後、在日朝鮮人の指紋押捺の問題、韓国の大統領が来日した際の天皇陛下の謝罪のお言葉の問題があり、そういう中で九二年に宮沢首相が訪韓することになりました。
朝日記者の裏の顔
その宮澤首相訪韓の二年前、大分県に住んでいる青柳敦子という一主婦が韓国に行って「原告募集」というビラをまきます。私はこの主婦に実際に会いましたが、「強制連行された人たち、慰安婦だった人たち、日本を相手に裁判をしませんか。費用は全部私がもってあげます」という内容です。
その主婦は韓国では「原告」に出会えなかったのですが、帰国後、国際電話がかかってきて「やりたい」という人が出てきました。最初は徴用された人たちの遺族でした。しかし、徴用された人たちの遣族が裁判を始めたら、それをテレビで見ていた元慰安婦の金学順というおばあさんが私も出たいと言ってきたのです。
一方で、韓国では全斗換政権以降、対日歴史糾弾外交を進める中で、十年間教育を受けてきた人たちがいます。その人たちは日本の植民地時代について、事実を知っている人からすればバランスを欠いた、まるで暗黒の時代であったかのような印象を持っている。そういう若者たちは、日本の軍隊が突然、村に現れて十代の少女を強姦して連れていったというイメージをすんなり受け人れてしまいます。
そういう中で、日本から火をつけた裁判が始まり、慰安婦だったと名乗り出る金学順さんが出てきたのです。しかし、この金学順さんは四十円でキーセンに売られた人だった。つまり、強制的に連れて行かれた人ではなかったのです。
ここで問題なのは、この金学順さんのことを最初に報道したのは朝日新聞だったということです。朝日新聞の植村隆記者が、世界初のスクープとして報じました。
一九九一年八月十一日付の朝日新聞(大阪版)は、金学順さんの名前はまだ出していませんが、「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人が」名乗り出たと報じたのです。
ここには金学順さんが「身売り」だった事実が書かれていない。金学順さんが日本政府に宛てた訴状には「十四歳の時に四十円でキーセンに売られた」とはっきり書いてあるのにです。
韓国の一番左派のハンギョレ新聞でさえ、「生活が苦しくなった母親によって十四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」とはっきり書いてあります。
植村記者は韓国語もできるので、当然、こういう事実を知っていたはずなのに、わざわざ書かなかった。
さらに提訴後の記事の見出しには、「従軍慰安婦にされた朝鮮女性、半世紀の『恨』提訴へ」、「問われる人権感覚制度の枠超え真の補償を韓国人従軍慰安婦の提訴」と打ち、朝日新聞は「わずか十七歳で慰安婦にさせられた」という大キャンペーンを展開した。
最初の朝日新聞のスクープは、金学順さんが韓国で記者会見する三日前です。なぜ、こんなことができたかというと、植村記者は金学順さんも加わっている訴訟の原告組織「太平洋戦争犠牲者遺族会」のリーダー的存在である梁順任常任理事の娘の夫なのです。つまり、原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです。
いま、テレビ番組「あるある大事典?」の捏造が問題になっていますが、朝日新聞の最初の報道はただ部数を伸ばすためだけでなく、記者が自分の義母の裁判を有利にするために、意図的に「キーセンに身売りした」という事実を報じなかったという大犯罪なのです。
もう一つ、朝日新聞の大犯罪に、一九九二年一月十一日朝刊の一面トップで、「慰安所への軍関与示す資料」「政府見解揺らぐ」という見出しの記事を載せたことがあります。
これは吉見義明中央大学教授が防衛研究所で、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という資料を発見したという記事です。しかし、この資料はよく読んでみると、日本国内で慰安婦を斡旋する業者が人さらい紛いのことをしているが、それは「軍の威信」に関わるから業者の選定を厳しくせよ、という「業者を取り締まる」内容です。
軍は関与しているのですが、それは業者が軍の名前を騙って「強制連行」するな、といういわばよい方向に関与していたのです。
事実確認前の「加藤談話」
このような金学順さんの提訴、朝日新聞の金学順さん「身売り」の事実隠し、同じく朝日新聞の「慰安所への軍関与」という捏造記事という流れの中で、まず、当時の加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」を発表し、謝ってしまった。一九九二年一月十三日です。
事実を調べる前に、まず謝った。
そして、宮沢首相が十七日に訪韓し、盧泰愚大統領に八回も謝りました。
その後、私は「文塾春秋」の取材で、外務省の北東アジア課の担当課に面会を求め、こう訊ねました。
「宮沢首相は、権力による強制連行があったということを認めて謝罪したのか。それとも、当時、日本にもたくさんいた貧乏のために身売りされた人たちの悲劇に対して謝ったのか。どちらなのか。もし、後者だとすれば、日本人で吉原で働いていた人たちに日本政府がなぜ謝らないのか」と。
すると、担当者は「それは、これから調べる」と言ったのです。
「では、吉田清治の証言については、外務省はどう思っているのか」と訊ねたら、「これから調べることだけれども、加害者が嘘をつくことがありますかねと言う。
問題なのは、「これから調べる」ということについて、加藤官房長官、宮沢首相が先に謝ってしまったということです。
韓国の一般の人たちは、大新聞である朝日新聞が報道し、テレビが毎日のように報道し、日本の総理が韓国に來て謝ったわけですから、そんな事実があったと思ってしまう。年寄りの人たちが「慰安婦は問題にできない」と言っても、そちらのほうが説得力がなくなります。
韓国のテレビドラマでは、平和な村に憲兵など(憲兵というのは軍を取り締まる役割ですから、なぜ憲兵なのかわからないが)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらっていったという内容のものが流されました。戦前を知らない人たちは、あたかもそれが事実であるかのように受け取ります。
その当時、十二歳で慰安婦にさせられた人がいたと韓国の新聞が報道しました。彼女は勤労挺身隊で日本に働きに来た人です。その彼女を送り出した教師が自分が送り出した子たちの何人かが終戦後、帰ってこないのでどうなったかと手紙を出して調べたら、京城に戻らないで田舎に行き全員無事だった。それを韓国の新聞が、「十二歳の少女も挺身隊に動員された」という記事にしたのです。
金学順登場の闇
当時、韓国では「挺身隊」=「慰安婦」となってしまっていた。ですから、十二歳の少女まで性奴隷にしてけしからん、と韓国人は怒ったのです。
私はその記事を書いた記者に会いに行って「あなたは勤労動員だと知っていたでしょう?なぜあなたの記事に勤労という言葉が一言もないのか」と聞いたら、彼は「この問題には闇がある。だから私はこの問題はもう書かない」と言う。
彼は「最初はけしからんと思って調べた。インタビューもたくさんした。すると、連れて行かれた後、ひどい目にあったという話は皆、たくさんする。しかし、どう連れて行かれたのかという話になると、はっきりとしたことを言わない。よく聞いてみると女衒が絡んでいる。当時の朝鮮の農村に日本人が入れたと思いますか?」と言うのです。
そして、彼は「だんだん調べていくうちに、戦争であれば起きるようなことなんだなあと思った」と言うのです。つまり、「慰安婦」に接見すると「強制」ではないことがよくわかるのです。
また、金学順というおばあさんがなぜ出てきたのか、ということにも闇があります。日本のテレビ局が何度も金学順さんにインタビューした時に、日本語のわかる女性コーディネーターが金さんにつきました。
私はそのコーディネーターの女性に会って話を聞いたのですが、彼女が「おばあちゃん、なんで出てきたの?」と聞いたら、金学順さんは「寂しかったんや。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら、徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も入るのかなと思った」と言ったそうです。
このようなおばあさんに接した高木健一弁護士は当然、その話を聞いているのですから、「あなたは当てはまりません」とか「出ないほうがいいですよ」とかアドバイスしてあげるのが本当ではないでしょうか。相手は純粋な田舎のおばあさんです。何もわからない状態なのです。しかも金学順さんは率直な人だから、訴状にも「キーセンに四十円で売られた」と最初は書いているのです。
しかし、私が『文藝春秋』でそのことを指摘した後は、金学順さんは「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」と証言を変えたのです。
秦郁彦さんが済州島に取材に行く前に私のところに電話がかかってきました。その時、金学順さんの弁護士である高木健一氏にも電話をして、「西岡さんがキーセンに売られた人だと書いているじゃないか」と言ったそうです。すると、高木は「あれは玉が悪かった」と言ったという。そして、「今、次のいいのを準備している」と一言ったという。とんでもない話です。
本当に韓国人女性のことを思っているのなら、日本から賠償をとれるかどうか本気で見てあげて、恥をさらさないようにしてあげるべきです。金学順さんのように、一度表に出てきてしまった人は、韓国社会にも偏見がありますから、そういう目で見られる。すると、出てきた人はとにかく「強制された」と言わざるを得なくなるのです。
思い出したくない自分の履歴を公開し、日本の反日運動家に利用され、批判され、それによって証言を変えると嘘をついているんじゃないか、と言われる。二重、三重に名誉を傷つけられ、引きずり回されたのが金学順さんなのではないかと思います。
朝日新聞に一番問いたいのはこの点です。弱者の立場に立つと言いながら、弱者を貶めているのです。女性の人権を守ろうというのではなく、朝日新聞は単に日本が悪ければいいのです。
韓国の調沓でも事実はない
私が『文塾春秋」で書き、秦郁彦さんが済州島で取材をし、さまざまな事実が発掘されて、朝日新聞が「強制」と主張する根拠がなくなりました。後に残っている手段としては「慰安婦」の人たちの聞き取り調査です。
聞き取り調査が事実を証明するためには裏付けが必要です。人間の記憶というのはいい加減なものですから、たとえば「挺身隊という制度で連行された」と彼女たちが言えば、「挺身隊というのはそういう制度ではありません」とか、「今は挺身隊という言葉がありますが、当時はそういうふうには言っていなかったんじゃありませんか」と確認し、記憶を呼び起こしてもらわなければいけない。
そういう聞き取り調査をしたのは、政府も含めて日本人にはいません。やったのは韓国の学者です。
韓国のソウル大学の韓国史学者として著名な安乗直教授(現名誉教授)がキャップとなって挺身隊研究会というプロジェクトができ、当時「慰安婦」として名乗り出ていた四十数人の人たちに本格的な聞き取り調査を行いました。
その後、安教授らは調査の結果を「証言集」として本にまとめますが、その中にこう書いています。
「調査を検討するにあたってとても難しかった点は、証言者の陳述が論理的に前と後ろが合わない場合がめずらしくなかったことだ。このような点は、すでに五十年近く前のことであって記憶の錯誤から来ることもありうるし、証言したくないことを省略したり適当にまぜこぜにしたりすることから来ることもありうるし、またその時代の事情が我々の想像を超越するものかもしれないという点もあった。
この中でも調査者たちをたいへん困難にさせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると感じられるケースだ。我々はこのような場合に備えて、調査者一人一人が証言者に人間的に密接になることによってそのような困難を克服しようと努力し、大部分の場合に意図した通りの成果を上げはしたが、ある場合には調査を中断せざるを得ないケースもあった。このような場合は次の機会に再調査することを約束するしかなかった」
九二年、九三年に日本が謝罪している最中でも韓国の学者は、「意図的に事実を歪曲していると感じられるケース」があったと書いているのです。
これは四十人を対象にしている調査でしたが、本にまとめることができたのは十九人でしかなかった。半分以上の人ははじいたのです。しかも、その中でも自分で「強制」だったと言っている人はたった四人です。四人のうち、一人は韓国の釜山で「強制」され、もう一人は日本の富山県で「強制」されたと言っている。しかし、戦地でない所に軍の「慰安所」はありませんから、それだけでこの証言がおかしいことがわかります。
後の一人は、日本政府を相手どった裁判で訴状を出しているのですが、訴状ではいずれもキーセンなどとして「身売り」されたと書いている。つまり、過去の証言と違うことを、言っているのです。この二人の証言者のうち、一人は金学順さんです。
この「証言集」と日本政府が行った聞き取り調査とは、だぶっている部分もあります。しかし、日本政府は誰に聞き取り調査を行ったかということを明らかにしていません。
安教授の行った聞き取り調査の「証言集」を韓国の外務省の課長が日本の外務省の課長に「これに全部入っています」と、いわばお墨付きで渡しています。韓国が自信を持って渡した「証言」でさえ、このようなものです。
そして、吉見教授も和田春樹教授さえも、朝鮮人に対する公権力による強制連行は証明されていないと、後に話してもいますし、書いてもいます。
役人が国を滅ぼす
加藤紘一官房長官が謝罪をし、宮沢首相が謝罪をした後、韓国で「慰安婦問題」が過熱する中で、私はまだ道があったと思います。
「誤解である。調べてみたけれど権力による『強制連行』というものはなかった。ただ慰安所というものがあって、貧困に窮する人たちが業者によって人身売買させられたということはあった。そのような人権侵害については、道義的な責任は感じるし、当事者に対しては同情もする」と言えばよかったのです。
ところが、政府は日本の反日勢力が作り上げた嘘を訂正する努力をしないで、それに迎合するような談話を作って謝罪をし、問題を先送りした。これが一九九三年八月四日に出された河野洋平官房長官による通称「河野談話」です。
頭のいい役人というのは全くすごいことを考えます。韓国との関係上、「強制」は認めたほうがいい。しかしそういう「事実」はない。どうするか。
そこで彼らは「強制」の意味を広げればいいと考えました。つまり、「権力による強制」ではなくても、「本人の意志に反したことは強制」だとした。
本人にインタビューすると皆、ひどい目にあったと言っている。だから、「本人の意志に反して」慰安婦になったことを「強制」とし、定義を拡大したのです。「本人の意志に反して」貧乏な家に生まれ人身売買されたかもしれないし、「本人の意志に反して」女衒にかどわかされたかもしれない。しかし、「本人たちの意志に反して」慰安婦となったなら「強制」と解釈するということです。これが安倍総理が今言っている広い意味での「強制」です。
しかし、公権力による組織的な「強制」はなかったという事実がある。本当ならば、この事実も「河野談話」に明記すべきでしょう。
安倍総理は、「家まで乗り込んでいって人狩りをするような『強制』は証明されていません」ときちっと言っています。「河野談話」を継承すると、言っている中で、安倍総理はギリギリのことを言っているのです。
政府は新しい談話を出す前であれば、前の談話を踏襲しなければなりません。「加藤談話」があり、「河野談話」があったのですから、「塩崎談話」「安倍談話」があってもいい。しかし、まだ談話を出す前ですから、政府見解を引き継ぐと言っているのです。
私は「河野談話」を読んだ時、「強制」の定義を拡大したのだと感じましたが、まだ片足は土俵に残っていると思っていました。
しかし、「河野談話」の中には、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という一文があった。
これは権力による「強制」を認めたことになるのではないか。安倍総理が今言っている狭い意味での「強制」もあったとこの談話は認めたことになるのではないか。そこを政府はきちんと説明しなければいけないと思います。
「河野談話」が出て五年くらいたった時、中川昭一さんが会長となった「日本の歴史教育を考える若手議員の会」が「慰安婦問題」の検証作業をしました。私も出席していたのですが、外政審議室の人が出てきていたのでその人に、「この『河野談話』の官憲等という記述は何なのか。この記述が問題だと思う」と言ったら、「これはインドネシアにおけるオランダ人を慰安婦にした事例だ」と言う。
調べてみると、数カ月ですが本人の意志に反してオランダ人を慰安婦にした事例がありました。しかし、その軍人らはインドネシア駐留軍の上部から軍規違反で処罰され、慰安所は閉鎖になった。処罰されたということは、組織として「強制」していないということです。しかも戦後、その軍人らはBC級戦犯として死刑などになっています。
よくよく調べてみると、こういうインドネシアのオランダ人の事例が一件あった、しかもそれは戦争犯罪だったということですが、この一件しかなかったのだと談話には明記すべきでしょう。
「慰安婦」の人たちに人権があるように、当事の官憲にも人権はあります。たった一つの事例であたかも官憲が組織だって「強制」したかのように受け取られのは、官憲の人権侵害です。
「河野談話」の中では、「官憲等が直接これに加担したこともあった」という記述からわざと段落を変え、「なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が人きな比重を占めていたが、(中略)総じて本人たちの意志に反して行われた」と書かれています。つまり、朝鮮半島の事例については広義の「強制」としか書かれていない。
役人の考えることというのは全く恐ろしいもので、宮沢首相が謝ったことをおかしいと言われないように、しかし証拠が出ていないことを認めないように、どちらから攻められてもきちんと答えられるようにしておきながら、問題は先送りしている。こういう秀才が国を滅ぼすのです。
政府一体で全カ対応を
その後、左翼が国連の場にこの問題を持っていき、国連の人権委員会に吉田の証言などが引用されることになる。日本は国連加盟国なんですから、きちんと公式に反論すればいいのにそれをやっていません。ですから、国連の公式文書で「性奴隷」があったということになってしまっています。
そしてそれがアメリカに飛び火しました。アメリカの華僑と在米韓国人の反日ネットワークがこの十年くらいの間にできていて、その後ろには韓国の左翼政権と北朝鮮と中国共産党がいます。そしてバウネットに代表される日本の反日勢力との連携がついている。
今回のアメリカ、下院の決議について言うと、事実が証明されていないことについて、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、加藤大使は決議を通さないでくれと根回しをしてはいるが、事実に踏み込んだ説明はしていません。
「日本は歴代の総理が謝っているということに対する事実誤認がある」というお粗末なことを言っている。つまり、「謝ってない」と思われているのが事実誤認だと言っているのです。「河野談話」から「村山談話」、歴代の総理がアジア女性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っている。
こういう出先機関の対処では、「性奴隷」はあったけれども、謝ったのだから決議はやめてくれと言っているに等しい。
しかし、安倍総理は「慰安婦問題」の事情をよくご存知ですから、「狭い意味での強制はなかった」と言っているので、他国から見れば歴代の総理は謝っているけれども安倍総理から謝らなくなったということになります。そしていま、アメリカのメディアで安倍攻撃が始まっている。
出先機関と安倍総理の発言がここまで食い違ってしまったら、ここは、やはり新しい談話を出して、国際的な誤解を解くべきです。
安倍総理はいま、「慰安婦問題」について単独で闘っていますが、行政の最高責任者なんですから、官邸にも外務省にも命令して、政府一体となって問題を先送りするのをやめて、国際的誤解を解くために全力をあげるべきです。 
 
従軍慰安婦問題 唯一の武器は『真実』

 

すぎやまこういち氏/従軍慰安婦問題や南京大虐殺についても、たびたび否定的な態度を表明している。ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙に、「南京大虐殺の被害者が30万人という説、およびそれに基づく日本軍の虐殺行為は事実として認められない」という趣旨の意見広告を載せようとし、一度は断られたが、2007年6月14日付ワシントン・ポスト紙に歴史事実委員会名義で「THEFACTS」(従軍慰安婦問題について強制性はなかったとし、アメリカ合衆国下院121号決議案採択阻止を目指す目的の意見広告)が掲載された。これを主導し、広告費全額を負担したのはすぎやまである。決議案は採択されたが、すぎやまは「広告掲載を受けて当時の下院採決には十数人しか出席しなかった。広告には効果があった」と主張している。
これだけある事実
広告では、「五つの事実」を揚げました。
まず一つ目は慰安婦を集める業者、いわゆる女衒に対して日本軍部は「本人の意思を無視して慰安婦にしてはならない。誘拐などとんでもない」との通達を出している事実です。
これらの通達は数多く出されていますが、広告では一九三八年三月四日「陸支密2197号」を取り上げました。「募集に当たっては軍部の名前を不正に利用したり、誘拐に類する方法を用いてはならない」としており、「違反するものは処罰する」との警告も書かれています。
当時の軍部、日本政府は従軍慰安婦にするための強制連行などとんでもないとしており、軍内部へ警告するだけではなく、女衒にも通達しているのです。言われているのとは逆の意味での軍の関与です。
「狭義の強制性はなかったが、広義の強制性はあった」と日本を非難する向きがありますが、この文書は女衒を仲介して慰安婦の強制連行に関与した可能性を否定するものです。
この資料は国立公文書館の東アジア歴史センターに所蔵されています。誰でも簡単に確認することができるので、政府関係者が見ていないとは考えにくい。河野談話を出したときに表に出てこなければいけない資料だったのに、なぜ誰もこの件を主張しないのか、不思議でなりません。
二つ目は、一つ目を補強する事実です。通達を出した証拠があっても「それは形だけで、アリバイ作りではないか」と言われるのを想定し、通達に違反した悪徳業者を逮捕するという記事です。政府の方針に反した不心得者は、きちんと処分を受けていたのです。
一九三九年八月三十一日付の朝鮮の新聞「東亜日報」には、本人の意思に反して強制的に女性を慰安婦にした業者を逮捕するため、当時日本の統治下にあった朝鮮の警察が犯人逮捕に向かったと書かれています。
記事は「犯人を逮捕すれば(儲かるなどと甘言を呈して女性をだました)悪魔のような彼らの活動の経緯が完全に暴露されるだろう」と結ばれています。
これを読めば明らかなように、軍自らが嫌がる婦女子をトラックに乗せて強制的に連れ去るどころか、強制した業者を取り締まっているのです。
性奴隷ではない!
三つ目は、インドネシアのサマラン島の事件です。オランダ人女性を慰安婦として働かせており、これは確かに本人の意思に反するものだったとして、慰安所は閉鎖されています。
これも軍による強制連行などなかったことの証になるでしょう。あれば慰安所が閉鎖されるはずがありません。
四つ目は、元慰安婦たちの証言の変遷です。マイク・ホンダ氏の決議案を初め、従軍慰安婦問題で日本を非難する側の根拠になっているのは彼女らの証言ですが、これがどんどん変わってきている。初めて証言した頃には、軍部や行政機関の強制的行動は全く出てこず、「連行したのは業者」だったのに対し、対日非難キャンペーン後には「連行したのは官憲らしき服装のもの」に変わっているのです。
五番目は、慰安婦たちは決して「セックス・スレイブ(性奴隷)」ではなかったということです。佐官級の収入を得ていた例や、慰安婦に暴行を働いた兵士が処罰された記録も残されています。
また、軍隊が民間人に対して強姦などの暴行を行なわないように慰安所を設けていたこと自体は、当時多くの国がやっていたことで、日本だけが非難されるようなことではありません。
たとえば、一九四五年にアメリカ軍が日本に進駐してきたときも、GHQの要請に基づき日本政府が慰安所を設置し、安全管理、衛生管理を行なっていたのです。
今回の意見広告はこれらの一次資料を並べ、事実を提示した上で「あとは皆さんで理性的に考えてみてください」と投げかけるものです。
広告の結びはこうです。
「これらの事実を覆す具体的な証拠があれば、直ちにお知らせ下さい。事実に基づいた批判であれば、私たちは謙虚に受け止めますが、一方、事実ではないことに謝罪することは、社会全体の判断を狂わせ、日米二国間に悪影響を与えます。正しい判断の出発点はあくまで『事実』『事実』『事実』です!」
これまでさまざまな人たちが中国などの言い分に対して怒り、反論していますが、それはみんな国内での活動です。日本の論陣は海外のメディアで反論しなければならない。そのためには意見ではなく、ファクトを提示していくことが大切ではないでしょうか。
本来であれば、これは私のような民間の、門外漢の人間がやる問題ではありません。本業の合間を縫ってやっているものですから、広告を出そうと思いたちました。 
 
東アジアの歴史認識の壁

 

東アジア地域における経済的連携と協力を阻む一つの大きな障害として、関係する各国民の歴史認識に大きな隔たりの存在がある。主に戦前における日本とアジアとの関係について、具体的には日本の植民地支配と戦争の問題である。すでに、戦後70年を経ているが、この歴史認識の対立と摩擦は間欠的に吹き出して、政治と経済に甚大な打撃をあたえる。第二次大戦後、ヨーロッパは類似の問題を何とか乗り越えてEU結成まで到達したが、東アジアでは今日まで解決できていない。今後も相互に理解しようとする努力なしには、自然に和解に向かうとは思われない。
歴史認識問題の解決の糸口は、単純ではあるが歴史的事実についての知識の共有であると考える。今回は、その代表的な一つである日本と韓国の間によこたわる「従軍慰安婦」の問題をとりあげて考えてみたい。
新史料の発見
一昨年8月韓国で慰安婦に関する新史料が発見された、というニュースがあったがご記憶であろうか。私は経済史の研究者であるが、この史料の日本語翻訳事業に携わった経緯があるので、その史料を紹介しながら少しコメントしたい。
従軍慰安婦問題に関する研究の大きな障害は、事実を明らかにできる史料が乏しいことである。日本と連合軍側の史料は発掘されているが、朝鮮人・韓国人側の史料は、長い時間をへた後の証言のみであった。今回発掘されたものは、慰安所の従業員が当時書いた日記であり、まさしく第一次史料である。筆者はビルマ・シンガポールに設置された軍慰安所の帳場掛の朝鮮人である。日記は1943・44年の二年分が残っており、草書体のハングルで書かれている。一日も欠かさずに記されており、後年の手は一切加わっていない。筆者は特定されているが、すでに物故している。韓国の古書店経由で、ある博物館に収蔵され、研究者によって発見、解読された。この日記は、安秉直(ソウル大学名誉教授)氏が校閲して、原文と現代韓国文に詳細な解説がつけられ、韓国において出版された。
安秉直翻訳・解題『日本軍慰安所 管理人の日記』イスプ 2013年(韓国語)
史料から読み取れる慰安所
日本における慰安婦問題に関する関心は、慰安婦を組織する過程で軍や行政による強制連行があったか否か、代価が支払われていたか否か、という点に集中しており、従軍慰安婦・慰安所の全体像に関する認識は乏しい。この日記から読み取れる事実は実に多様である。
最も重要なのは、慰安所と軍の関係である。「航空隊所属の慰安所」「兵站管理慰安所」「軍専用慰安所」という呼び方は日記中に頻繁に出てくる。施設は軍が提供する場合があった。慰安所は、軍司令部、兵站司令部等に「営業日報」「月別収支計算書」「営業月報」等を、恒常的に提出している。許認可書類としては、従業員らの在留や退去証明願、慰安婦らの在留許可願、就業許可願、閉業許可願、旅行証明願書等があった。2週間ごとに軍医による性病検査が行われ、避妊具はすべて軍支給である。本日記にはビルマで27ヶ所、シンガポールで12ヶ所の慰安所がでてくるが、部隊移動に従って軍の指示で移動している。移動には護衛がつく場合もあり、まれに慰安婦達が危険地域へいやがるのを強制的に移動させられる例もでてくる。
日記の筆者は1942年7月10月釜山から慰安婦19人と一緒に乗船して南方にむかった。筆者達のグループは、日記中で「第4次慰安団」とよばれる団体の一員であったことが記されている。この日に釜山を立った慰安婦の一団については、別の2つの史料で確認できる。元慰安婦文玉珠さんの回想記(森川真智子著『文玉珠:ビルマ戦線盾師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎 1996年)に、彼女が同じ日に釜山から船に乗ったことが記されている。さらに、連合軍がビルマのミシナ(蜜支那)で捕虜にした朝鮮人慰安婦の尋問調書によれば、同日703人の慰安婦と90人の業者・家族を乗せた軍の調達した船団が、釜山からシンガポールに向かって出航している(国戦時情報局心理作戰班『日本人捕虜審問報告』第49号。吉見義明編著『従軍慰安婦資料集』大雪書店 1992年所収)。なお、この性格の異なる3つの史料にでてくる日付や人名などは驚くほど一致していることがあり、このことで文玉珠さんの記憶による証言の信憑性が高いことが裏付けられる。
この慰安婦の大量動員については、既存の研究で考証が行われている。1942年5月南方地域の掌握を終えた南方軍の発議から、日本帝国各地の政府・軍司令部への協力要請→周旋人(すなわち慰安婦業者)への慰安婦募集依頼→周旋人による募集、等手順で慰安婦の動員が行われた。実際に募集された1942年については、残念ながらこの日記が残っておらず、その具体的な過程は不明である。
日本外務省調査局編『海外在留本邦人調査結果表』によって、当時日本人・朝鮮人の地域別在留者数を知ることができる。この資料によれば1940年10月東南アジアにいた朝鮮人は、男が49人、女が6人、インド・ビルマ地域(区分されていない)では男が22人、女が0人である。日本が太平洋戦争を始めるまで、ビルマ地域には朝鮮人女性はまったくおらず、東南アジア全域でも朝鮮女性は6人で、彼女らは皆無就業者であった。つまり、開戦前にこれら南方地域に朝鮮人接客女性はおろか、有職者女性1人さえもいなかった。膨大な数の慰安婦は、すべて日本軍によって運ばれてきた。ちなみに、朝鮮から南方への移動航路は、客船ではなく軍の専用船で無料であった。
慰安婦の処遇を巡る評価の中で、慰安婦の自主廃業が可能であったかどうかは大きな争点である。朝鮮を出て2年が経過した1944年後半期ごろから、慰安婦の廃業に関する記述が出てくるので、それらは慰安婦の年季明けと関連しているのかも知れない。その時に筆者が暮らしていた後方地シンガポールでは、慰安婦の廃業と朝鮮への帰国があった事実は確認できる。ただし、1945年初めから南方と内地との交通手段はほとんど途絶した。さらに、部隊とともに移動していたビルマ前線地域の軍慰安所では、帰国のすべがより早くからなくなっていた。ビルマには日本軍と離れた朝鮮人社会はほとんどなかったので、慰安婦の自主廃業や帰国は実際には困難であったと思われる。先に引用した連合軍捕虜調書では、ビルマ内の慰安婦の廃業が軍によって許可されなかった事例が述べられている。1944年からビルマは連合軍と日本軍の最も熾烈な戦場となったことはよく知られている。そして、多くの従軍慰安婦が戦闘に巻き込まれて悲惨な最期を遂げたことは、連合軍側の史料の研究によって詳細に明らかにされている。浅野豊美(中京大学国際教養学部教授)「雲南・ビルマ最前線の慰安婦達−死者は語る」参照。
日本軍部や戦争史の専門研究者である永井和(京都大学文学研究科教授)氏は、軍の規定やその運用を詳細に分析したうえで、軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと結論した。そして、軍直営でない場合は軍が「請負業者」によって慰安所を経営させたとしている。
この日記によって明らかになった事実は、永井教授による軍慰安所の性格規定と一致しており、その慰安所のあり方が内部史料で明らかになったといえる。この日記に登場する慰安所のほとんどは、業者が経営していた。そして、ビルマの場合は、その多くは朝鮮人であった。それら多くの慰安所はすべて日本軍によって動員・組織されたものであった。軍は兵站の一部として膨大な数の慰安所の設立を計画し、業者を通じて各地で多数の慰安婦を集め、軍の専用運搬船で南方に輸送し、各地の日本部隊に配属して慰安所を運営させた。慰安所は軍によって管理され、作戦の遂行や部隊の移動によって慰安所も移動した。慰安所は外形上では公娼制の擬制を取っていたが、日本軍が日本軍の戦争遂行のために組織動員したものであった。慰安所は業者が経営したが、慰安婦・慰安所を動員した主体は日本軍であり、軍兵站が全体を管理していた。慰安婦と慰安所従業員が、軍属の待遇を受けていたことは、慰安所が軍の兵站組織の一部であったからに他ならない。
慰安婦の貯金と送金
日々書かれたこの日記には、慰安婦と慰安所従業員・経営者の貯金、預金、送金の話が頻繁に出てくる。この件に関して、経済史研究者として若干コメントしておく必要を感じる。というのは、慰安婦の経済的地位について、「将軍以上のより高収入」とか、「陸軍大臣よりも、総理大臣よりも、高収入であった慰安婦のリッチな生活」いう俗説が流布されているからである。
この日記には慰安婦や従業員が野戦郵便局(軍隊酒保内部に設けられた軍専用の郵便局で、郵便、貯金、軍事郵便為替を業務とする)で貯金や送金をする話がよく出てくる。金額は200〜600円が多いが、1,000円を越える例もある。慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局の対象が軍人と軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦と慰安所従業員は軍属待遇であったことを確認できる。
そもそも、日本占領時代の南方(東南アジア地域)において円は全く使われていなかったにもかかわらず、この日記中の貨幣単位はすべて円である。このことがもつ意義を理解するには、あらかじめ戦時期南方の通貨決済システムを理解しておく必要がある。

日本帝国は植民地・占領地を獲得するたびに、それぞれ独自の通貨システムをつくっていた。台湾銀行、朝鮮銀行、満州中央銀行等の植民地銀行の設立である。それらの発行券は日本銀行券と等価で交換する、いわば固定相場制で運営された。これは、それら植民地や占領地と日本内地を緊密に結びつけ、物資、資金、人の移動・交流を円滑におこなうための政策原理として確立された。ところが、これがうまく機能したのは、実は満州国までであった。中国華北・華中の占領地域では、国民政府の法幣との激しい通貨戦と物価高騰のなかで、日本内地と一体化した通貨システムは維持できず、中国聯合準備銀行と中央儲備銀行等の銀行券は激しく暴落した。この事態に対して日本政府は、それら植民地銀行(海外では傀儡銀行と呼ばれている)発行券と日本銀行券との間で、変動為替レートを導入するのではなく、両地域間の資金移動を規制する方法で対処した。つまり、固定為替原理の維持に固執したのである。この点、ドイツが占領地域通貨と本国マルクとの間に為替レートを導入して、資金移動を管理・規制したのとは異なる方法をとった。日本政府は対中国戦争で得た経験をふまえ、太平洋戦争開戦前に、占領する南方(東南アジア)に設ける通貨システムについて十分に検討準備していた。南方には石油、鉄鉱石、ボーキサイト、ゴム、スズ、米穀等、日本が欲しい物資が大量にあるのに対して、日本経済の現状ではそれらに対する代価の物資を供給できないことは明らかであった。物資の交換という正常な貿易関係ではない、日本側の極端な輸入超過を恒常的に維持するために独特な「交易システム」が構想された。1941年11月の「南方経済対策要綱」で、地域ごとの軍票(軍事手票)の導入が決められていたが、これらは為替レートを設けることなく日本円と等価で固定される。そして資金移動を徹底的に遮断するために、南方と日本内地との貿易は臨時軍事費特別会計による買取として扱い、日本の累積する債務は大蔵省の帳簿上の振替として処理される。これによって、基本的に貿易に関する為替決済は発生しない。これが、一方では極端な片貿易によってハイパーインフレが進行するなかで、日本円と等価の現地通貨表示の軍票を発行するためのメカニズムである(柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年、第3部)。
1941年11月「南方外貨表示軍票」が決定され、日本軍は円表示ではない、占領現地通貨表示の軍票を発行した。たとえばマラヤ・シンガポールであれば海峡ドル、ビルマはルピー、フィリピンはペソ等、多種類の軍票が使用された。1942年設立の南方開発金庫はこの軍票発行業務を受け継いだが、ここで発行された南発券も現地通貨表示である。券面のどこにも円やYENの表示はないが、日本人はこれらを皆「円」とよんでいた。日本側が代価となる物資を提供することなく、日本軍や日本商社がこの軍票によって現地物資を「買収」調達したので、経済の原則どおりすぐにハイパーインフレーションが起こった。1941年12月を100とした物価指数は、44年末にシンガポールは10,766、ラングーンは8,707まで急騰した。東京126、京城132のような日本帝国の中心地域とは全く異なる、異次元の経済空間がつくりあげられた(日本銀行調査『日本金融史資料』第30巻)。このようなハイパーインフレが日本内地・朝鮮に波及しないようにするには、先述のように資金移動を完全に遮断する必要がある。
1942年6月南方総軍軍政部総監部「本邦向送金取締規則」では、「南方占領地域に在りては軍政部の許可を得くるに非らざれば本邦(内地、朝鮮……)への送金を為すことを得ず。」として、南方と日本との貿易以外の資金移動を厳格に遮断する制度を設けた。しかし、この占領地通貨システムにはいくつも問題点があった。その一つは、この資金移動を管理するのは軍政当局であったが、資金移動に関わる主体も軍なのであった。軍の財政は臨時軍事費特別会計であり、一律円によって処理される。物資調達のみでなく将兵の給与も円で支払われる。ところが、支払われる円は南方現地では使えない。朝鮮・台湾・満州では問題にならないが、ハイパーインフレが起こっている地域では、様々な不都合が出てくる。まず、現地物資を調達するために、帳簿上の日本円を、急激に価値が下落している現地通貨(軍票・南発券)に換えねばならない。一方で、現地軍当局は現地の運営は現地通貨(軍票・南発券)を使っておこなう。他方で、日本が南方から資金移動を制限するといっても、軍将兵・軍属が日本内地の留守家族に送金したいという要求を抑えることはできない。1945年8月時点に南方に展開した日本軍将兵は83万人、満州を除く中国では122.4万人という膨大なものになった(旧厚生省援護局調)。このハイパーインフレ地域から、日本への資金移動を制限管理するのが軍であり、送金という資金移動を求めるのも軍人・軍関係者であった。制度上の送金制限額はしだいに圧縮されたが、許認可が軍当局であれば実際には軍関係者の送金は止められない。1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。その内実はつまびらかではないが、軍上層部も関わった合法・非合法の送金も相当に含まれていたと想像される。許可する主体が送金するのならば、当事者の規制はあまり意味を持たない。将兵の給与額自体は変化がないのであるが、乱発された軍票を、為替レートが導入されていないので、1軍票単位(ビルマはルピー・シンガポールは海峡ドル)は日本1円という原則を利用して、大もうけしようとする軍関係者もでてくることは必然である。こうしてインフレが日本に流入する道が開かれた。
この事態に直面した大蔵官僚は、これらインフレ資金の内地流入を防ぐべく知恵を尽くしてさまざまな制度を設けて対応した。占領地からの資金流入の封殺措置として、送金額の制限圧縮、強制現地預金制度、送金額に一定比率の負担を課する調整金徴収制度、預金凍結措置等が次々と導入された。最後の預金凍結とは、送金分を外貨表示内地特別措置預金と内地特別預金に分割し、そのうえ内地特別預金でも月々の引き出し額を厳しく規制するものであった。1945年5月華中華南の事例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨現地預金とさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示地預金のわずか1/69にすぎなかった。南方地域についても、内地(朝鮮を含む)に送金しようとする資金については、一部は外貨表示内地特別預金として凍結され、残りを内地特別措置預金としてその引き出しを管理する措置が実施された。このように日本に流入した資金を封鎖することで、資金の「浮動化」の阻止がはかられた。(東京銀行編『横浜正金銀行全史』第5巻(上) 1983年 第7部。柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年 第15章)。ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない。このように占領地域から日本への送金には様々な規制があり、預金凍結措置によってその引き出しには厳しい制限が加えられていたことだけは確かである。
このような日本占領地におけるハイパーインフレの実態、内地送金の規制、日本円との交換制限等の問題は、多くの旧軍人や引き揚げ者が実際に体験しており、終戦直後には広く知られていたことであった。また、学問的には1970年代に原朗氏(原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会 2013年、第3章。論文の初出は1976年)によってそのメカニズムが明らかにされ、近年は柴田善雅氏や山本有造氏の精緻な研究(柴田善雅 前掲書、山本有造『「大東亜共栄圏」経済史研究』名古屋大学出版会、 2011年 第U部)によって、両地域間の物価乖離の中で固定相場を維持した運用の実態が解明されてきている。ところが、そのような研究成果による知見は、南方の従軍慰安婦問題を考えるときには活かされていない。
この日記が作成された慰安所は、軍兵站部酒保の管理下にあったが、完全な軍機関ではなく軍組織と民間にまたがる領域に存在していた。性サービスの提供については軍が管理していたが、日々の生活で慰安所は市場に依拠しなければならない面もあった。慰安婦や慰安所経営者・従業員はハイパーインフレのなかで生きているのであり、そこは軍事費特別会計の円や物資配給が支配する領域ではない。このように慰安所は、日本帝国内で将兵の給与はどこでも同一であるごとく完全に統一されている軍の内部経済と、ハイパーインフレが進行している外部経済にまたがって存在していた。慰安所が兵士から受け取る花代は日記史料では円と書かれているが、実際はすべてルピーや海峡ドル表示の軍票(あるいは南発券)であった。そして、日本内地の円貨表示の水準でルピーや海峡ドル軍票を支払われても、それでは現地では到底生きていけない。これが、インフレ下で生きる慰安婦達の名目上の収入膨張が発生するメカニズムである。この日記によっても、慰安婦達の個別の収入全体は把握できない。ビルマにいた慰安婦の収入を確実に補足できる史料は、先に名前の出た文玉珠さんの事例である。1992年文玉珠さんが来日し日本政府に強く要求した結果、熊本貯金事務センター(現在、戦前の軍事郵便貯金を管理している機関 現在はゆうちょう銀行に移管)は、彼女の軍事郵便貯金通帳の貯金実績一覧を公表した(帳簿自体ではない)。これによって、ビルマにいた慰安婦の収入状態が明らかになった。文さんの場合、1943年3月6日からビルマの日本統治が崩壊する45年5月23日までに25,846 円が貯金されている。マンダレー駐屯慰安所規定」(1943年5月26日 駐屯地司令部)の遊興料金表は、兵士30分1円50銭であった。彼女が先の収入をこの遊興料金(花代)で稼ごうとすると、稼働日や経営主の取り分を考慮すると、1日平均100人をこえる兵士を相手にしなければならない計算になる。もちろん、それはあり得ないことである。慰安所にも休業日もあり、将兵が全く来ない日もあったことは日記によく出てくる。連日フル稼働などということは不可能である。それが意味するとことはただ一つ、文さんの貯金は日本内地の円貨ではない、ハイパーインフレで価値が暴落しているルピー建ての収入であったということである。それが具体的にどのように彼女の手にはいったのかまではわからない。南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた。このようなハイパーインフレ下の見かけの収入額をもって、秦郁彦氏(2013年06月13日TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」)のように慰安婦が「日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたと評価することは、過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。
慰安婦が慰安所での稼働で一定の収入を得ていたことは事実である。しかし、この収入の成果を享受する条件があったかどうかは別の問題である。
(1) 日本政府は、軍票・南発券で膨張した資金の日本内地・朝鮮への流入を極力規制した。慰安婦達が内地・朝鮮に送金した分については、先に述べた外地送金の引出額制限・預金凍結措置によって、月々規定の生活費水準を超える額は引き下ろせなかった。つまり、一定の額しか引き出せない状態で、すぐに日本の朝鮮統治の崩壊を迎えたと思われる。
(2) 戦争末期に運良く帰国できた慰安婦が携行する現金については、基本的に送金と同じ扱いを受けた。軍票・南発券を日本銀行券・朝鮮銀行券に換える場合には、制限額以上は強制的に預金させられた。
(3) 現地に残っていた慰安婦が持っていた軍票・南発券は、連合軍がその通用無効を宣言し焼却を命じたことによって、すべて即時に無価値になった。ラングーンやシンガポールなど英軍占領地域で、破棄された軍票の山が写った写真が数多く残されている。そして、現地から日本・朝鮮への帰還の際しては、この軍票の持ち出しは厳格に禁止された。
(4) 軍事郵便貯金の行方も重要である。軍事郵便貯金は、本人に替わって内地・朝鮮の留守家族が引き出すことは、制度上できなかった。それら軍事郵便貯金と外地郵便局貯金はGHQにより払出が禁止され、サンフランシスコ講和後に日本人には払い戻されたが、外国人預金の払い戻しは停止された。台湾人については、1995-2000年に通帳額面の120倍という物価調整をへた額で払い戻しがおこなわれた(受取者約4万人 39億3000万円)が、韓国人については、1965年日韓条約の民間債務の消滅措置によって権利は失われた。つまり、朝鮮人・韓国人は戦後この郵便貯金を引き出す機会は与えられないままに、権利が奪われた。先の文玉珠さんの場合も通帳記録は確認されたが、払い戻しはされなかった。
これらの条件が重なっていたので、慰安婦達が戦時期南方において巨額の富を得たと評価することはできないと思われる。
従軍慰安婦に関する歴史認識
このように、従軍慰安婦・慰安所とは、日本国家と日本軍による戦時動員・戦時体制の中でつくりだされたものであった。そうであれば、その原因を作った日本は、まずこのような歴史の重みを謙虚にうけとめるべきであると考える。日韓におけて今なお終息をみせない従軍慰安婦問題に対して、いろいろ問題点ははらんではいるが、基本的に1993年8月河野洋平官房長官談話、「アジア女性基金」の活動、歴代「総理大臣のお詫びの手紙」等のスタンスで対応していくのが現実的ではないかと考える。今後これらを覆すことは、歴史的事実から離れていくし、日本の国際的な信頼性を失わせることとなると考える。 
 
日本軍の慰安所政策について

 

はじめに
はじめまして、永井和と申します。日本の京都大学で日本現代史を教えております。しばらくの間、おつきあいをよろしくお願いいたします。まず、この研究会にお招きいただき、報告する機会が与えられたことに対して、あつくお礼申し上げます。とくに、社会史研究会を主宰されている鄭根埴先生のご厚意がなければ、日本国内でもそれほど名を知られているわけではない、私のような者が、ソウル大学校で報告をするという、身に余る光栄を経験することはなかったはずでありまして、心より感謝いたしております。
朴宣美さんより伝えられたところでは、最初は「天皇制と女性」というタイトルで、「従軍慰安婦問題」(韓国では「挺身隊問題」と言うべきかもしれませんが、日本での慣用に従わせていただきます)を天皇制に関連付けながら講演するようにとの、御希望であったのですが、お恥ずかしながら、天皇制はともかく、ジェンダー研究はほとんど私の専門外ですので、私には荷が重すぎる、とてもお話しできそうもないと、お断りしまして、その代わりに、日中戦争初期の陸軍慰安所のことについて、少しばかりお話することにした次第です。
と申しましても、私は軍慰安所や慰安婦について専門的に研究してきたわけではありません。今までに私が軍慰安所と慰安婦について書いたのは、2000年に発表した論文「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」、1本あるのみですので、お世辞にも専門家とはいえません。吉見義明氏をはじめとして軍慰安所や慰安婦問題についての日本の研究者は多数おられますが、私をこの方面の専門家として認める方は、私の友人である大阪産業大学の藤永壮助教授を唯一の例外として、ほとんどいないだろうと思われます。昨年刊行されました尹明淑さんの『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)、この本は、この問題に関する研究としては、日本の大学ではじめて学位を授与された画期的な作品でありますが、そこでも私の論文に対する言及はありません。
そのような私に、「従軍慰安婦問題」について話すようにとのリクエストがあったのは、たぶん、私の唯一の論文が、比較的早くに韓国で紹介されたからではないかと、自分では思っています。私の旧い知り合いでもある釜山外国語大学校の金文吉先生が、たいへんありがたいことに、2001年に韓国で発表された論文で、私の論文に言及されたことがあります。
そのようなわけですので、これからお話いたしますのは、今申し上げた4年前の論文の内容ほとんどそのままでして、それに少しばかり補足を加えただけにすぎません。おそらく皆様のご期待を大きく裏切るであろうことを、あらかじめお断りし、お許しをいただきたいと思います。 
前置きばかり長くなり、恐縮ですが、もう少し話を続けます。私が慰安所及び慰安婦に関する唯一の論文を書くきっかけが何であったかと言いますと、それは、1998年に私の担当する演習で「自由主義史観論争を読む」という授業をいたしまして、そこではじめて藤岡信勝氏や小林よしのり氏の歴史解釈をまじめに検討することになり、その史料解釈がはなはだしく恣意的あるにもかかわらず、政治的言説としてそれなりの支持を受けていること、また従来史料実証主義を看板にしていた一部の歴史家が、この動きに釘をさすどころか、逆にそれを支持する姿勢をとろうとしていたことを知って、いささか驚いたのが、そもそものきっかけでした。
従軍慰安婦問題は、南京大虐殺問題と並ぶ「自由主義史観論争」の二大問題でしたので、それについていろいろ文献を漁ったところ、偶然、1996年の末に新たに発見された内務省の警察資料が、「女性のためのアジア平和国民基金」から刊行された資料集(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』1、1997年)に収録されているのを知り、それを読み進めました。私は歴史家ですので、ともかく史料を読んで、それをもとに考えるという癖が身に染みついてしまっております。読んでみますと、いわゆる「従軍慰安婦論争」において、その史料解釈が論議の的となった陸軍のある文書が、どのような背景で出されたのかを説明してくれると思われた、一連の資料に出くわしました。そこで、史料実証主義の面目を回復できるのではないかと思い、論文を執筆することにしたわけです。
それから、「従軍慰安婦論争」に関する文献を読んでみて、慰安所は軍の施設であるにもかかわらず、論争の当事者双方いずれもが、軍隊制度についての知識を欠いたまま議論をしているのではないかとの、感想をもちました。軍隊というものについて基礎的な知識があれば、「軍慰安所は公娼施設である」といった主張はおよそ成り立つはずがないと、私には思えるのですが、それが堂々と主張され、いっぽう否定する側も、「軍慰安所は公娼施設でない」という主張を、軍隊制度に即して展開するよりも、一足飛びに「公娼施設の抑圧性、犯罪性」を強調することが多く、議論がすれ違っているように見えたのです。日本は戦後ながらく平和が続いたせいか、軍隊についての知識が偏っています。作戦、指揮命令、戦闘、兵器といった面に集中していて、軍隊を支える非常に重要な要素にほかならない、兵站や後方組織についての知識が欠けており、それが「従軍慰安婦論争」において思わぬ視野の狭窄を引き起こしているのではないかと感じたことが、論文を書こうと思ったもう一つの理由です。と言いましても、私自身は軍隊の経験はありません。ただ、軍事史を少しばかり勉強したことがありますので、戦前の日本の陸軍の制度については、一般の人よりも詳しい知識があります。といっても、たいしたものではありませんが、その私が見ても、ある種の軍事的分野についての常識を欠いたまま議論が進められているように思えたのでした。
以上述べましたことからもわかりますように、1991年の慰安婦訴訟の開始から10年ほどの間、つまり従軍慰安婦問題が社会の注目を浴び、日韓の国際問題となり、「従軍慰安婦論争」が展開されていた間ということですが、私自身はこの問題にはまったく無関心でありました。吉見氏が日本ファシズムから戦争責任問題、具体的には軍慰安婦と化学戦へと研究テーマをシフトされていくのを横目に見て知ってはいましたが、私自身はまったく別のことに関心を寄せていたのです。そして、「従軍慰安婦論争」なるものがすでにヤマを越してしまったあと、政治的な言説にのっかった史料の恣意的解釈が横行するいっぽうで、言語論的展開を持ち出して史料実証主義の終焉を宣言する言説1)が出されたあと、史料実証主義の立場からささやかな抵抗を試みたのが、2000年に発表した論文だったと、自分では思っております。その意味では、私も戦争責任問題や戦後補償問題に鈍感な、保守的な日本人の一人にすぎません。そういう者の発言であることを、あらかじめお断りしたうえで、本論に入っていくことにいたします。 
問題の所在
所謂「従軍慰安婦論争」は、直接には1997年度から使用される中学校用文部省検定教科書の「従軍慰安婦」に関する記述の是非をめぐる論争としてはじまったが、その背景をさかのぼれば、1991年以降次々とカム・アウトし、日本政府を告発した韓国、フィリッピン、台湾等の元慰安婦たちの活動、とくに謝罪と賠償を求める法廷闘争と、それに触発されてはじまった日本政府と国連人権委員会の調査活動、そして政府調査結果をふまえてなされた日本政府の謝罪と反省の意志表明といった、一連の動きに対する反発、反動としてとらえることができる。
本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」 (1938年3月4日付−以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス2)
この文書は吉見義明の発見にかかるもので、軍が女性の募集も含めて慰安所の統制・監督にあたったことを示す動かぬ証拠として、1992年に朝日新聞紙上で大きく報道された。吉見はこの史料から、「陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、誘拐まがいの方法で、日本内地で軍慰安婦の徴集をおこなっていることを知っていた」のであり、そのようなことが続けば、軍に対する国民の信頼が崩れるおそれがあるので、「このような不祥事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかりするようにと指示したのである」と解釈し、慰安婦の募集業務が軍の指示と統制のもとにおこなわれたことが裏づけられる、とした3)。
いっぽう、これに対立する小林よしのりは、この通牒をもって「内地で誘拐まがいの募集をする業者がいるから注意せよという(よい)「関与」を示すものだ」、「これは違法な徴募を止めさせるものだ」4)、「「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者がおるから、これを取り締まれ」というふうに書いてあるわけです」5)と、いわゆる「よい関与論」を唱え、同様の主張が藤岡信勝によってもなされた。
藤岡は「慰安婦を集めるときに日本人の業者のなかには誘拐まがいの方法で集めている者がいて、地元で警察沙汰になったりした例があるので、それは軍の威信を傷つける。そういうことが絶対にないよう、業者の選定も厳しくチェックし、そうした悪質な業者を選ばないように−と指示した通達文書だったのです。ですから、強制連行せよという命令文書ではなくて、強制連行を業者がすることを禁じた文書」6)と、言う。また、秦郁彦もこれとよく似た解釈を下している7)。
他方、小林よしのりを批判する上杉聡は、逆にこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのであり、強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」8)と反論した。
いずれも、日本国内で悪質な募集業者による誘拐まがいの行為が現実に発生しており、さらにそういった業者による「強制連行」や「強制徴集」が行われうる、あるいは実際に行われていた可能性を示す文書だと解釈する点では共通している。
ちがいは、吉見および上杉の方は、軍による募集業者の選定と募集・徴集活動の統制が行われていたことを重視し、それゆえこれを「軍の関与」を示す決定的証拠としてとらえ、そこから軍には当然の義務として慰安婦に対して適切な保護を与え、虐待や不法行為を防止する監督責任が発生するのであり、それが守られなかった場合には、その責任を問われうると論じるのに対して、いわゆる自由主義史観派は慰安所に対する軍の関与を認めつつも、その関与とは業者による「強制連行」「強制徴集」など不法行為の取締であり、この通牒は軍がそのような取締を実際に行っていたことを示す証拠であって、この文書がある以上、たとえ数々の不法行為や虐待、性暴力事件が起きたとしても、それはそのような行為をおこした個々の業者や軍の下部機関、一般将兵が悪いのであって、軍および政府の責任を問うことはできないと、そう主張する点にある。
両者の差異は、根本的には、慰安所と軍および政府との関係をどう把握し、そこで女性に加えられた虐待行為に対する軍および政府の責任の有無をどう判断するのか、その立場の差異に由来する。言うまでもなく、吉見や上杉は、慰安所は国家が軍事上の必要から設置した軍の施設であり、そこでなされた組織的な慰安婦虐待行為の究極的な責任は軍および政府に帰属すると考える立場に立っている。
それに対して、自由主義史観派は慰安所に対する軍と政府の関係を否定するか、あるいは否定しないまでも、それはもっぱら業者や利用将兵の不法行為・性的虐待を取締まる「よい関与」であったと主張する。慰安所は戦地においてもっぱら兵士を対象に営業した民間の売春施設であり、公娼制度が存在していた戦前においてはとくに違法なものではなかったから、そこでなされた虐待行為に軍および政府が責任をとわれる理由はない。もし仮に軍および政府が責任を問われうるとすれば、それは強制的に慰安婦を徴集・連行した場合のみだが、そのようなことを軍ないし政府が命令した事実はないというのが、彼らの慰安婦問題に対する基本的理解であり、そのような観点から、この副官通牒を解釈し、もっぱら「強制連行」の有無を争う文脈で論争の俎上にのせたのであった。そのことが上のような解釈の相異を生みだしたのである。
なお、慰安所と軍の関係について自分自身の考えをあらかじめここではっきりさせておくと、私は、慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと理解している。その点では吉見と同じ考えに立っており、これを民間業者の経営する一般の公娼施設と同じであるとして、軍および政府の関与と責任を否定する自由主義史観派には与しない。もっぱら「強制連行」の有無をもって慰安所問題に対する軍および政府の責任を否定せんとする彼らの言説は、それ以外の形態であれば、軍と政府の関与は何ら問題にならないし、問題とすべきではないとの主張を暗黙のうちに含んでいるのであり、慰安所と軍および政府の関係を隠蔽し、慰安所の存在を正当化するものと言わざるをえないからである。
話を副官通牒に戻すと、最近になって警察関係の公文書が発掘され、問題の副官通牒と密接に関連する1938年2月23日付の内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(以下警保局長通牒と略す)の起案・決裁文書とそれに付随するいくつかの県警察部長からの内務省宛報告書が見つかった。
この警察資料を分析することにより、この二つの通牒が出されるにいたった経緯と背景をある程度まで明らかにすることができる。そこから見えてくる事情は、先ほどの解釈論争が想定していたのとはかなり異なるのである。たとえば、警察報告では、たしかに婦女誘拐容疑事件が一件報告されてはいるが、しかし、それ以外には「強制連行」「強制徴集」を思わせる事件の報告を見いだすことはできない。もちろん、発見された警察資料は、山県、宮城、群馬、茨城、和歌山、高知の各県警察部報告と神戸や大阪での慰安婦募集についての内偵報告にすぎないので、日本全国はもちろん朝鮮・台湾など募集がおこなわれた全地域を網羅するものではない。よって、それらの地域で「強制連行」や「強制徴集」がおこなわれた可能性を全面的に否定するものではない。
しかし、副官通牒で言及されている「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」という事件は、間違いなく和歌山県警察部から一件報告されており、そのような事件が現におこっていたことが、この警察報告により証明された。つまり、警察報告と副官通牒との間には強い関連性が存在する。
そこで、今後さらに新しい警察資料が発見され、それによって必要な変更を施す必要が生じるまでは、もっぱら以下に述べる作業仮説を採用し、その上で考察を進めることにする。すなわち内務省は主として現在知られている警察資料に含まれている諸報告をもとに、前記警保局長通牒を作成・発令し、さらにそれを受けて問題の副官通牒が陸軍省から出先軍司令部へ出されたのである、と。
この作業仮説を前提におくと、和歌山の婦女誘拐容疑事件一件を除き、警察は「強制連行」や「強制徴集」の事例を一件もつかんでいなかったと結論せざるをえない。そうすると、副官通牒から「強制連行」や「強制徴集」の事実があったと断定ないし推測する解釈は成り立たないことになる。また、これをもって「強制連行を業者がすることを禁じた文書」とする自由主義史観派の主張も誤りと言わざるをえない。なぜなら、存在しないものを取締ったりはできないからである。では、いったい副官通牒や警保局長通牒は何を取締まろうとしたのか、そもそもこれらの通達はいったい何を目的として出されたのか、それをあらためて問題とせざるをえない。
結論を先回りして言えば、問題の警保局長通牒は、軍の依頼を受けた業者による慰安婦の募集活動に疑念を発した地方警察に対して、慰安所開設は国家の方針であるとの内務省の意向を徹底し、警察の意思統一をはかることを目的と出されたものであり、慰安婦の募集と渡航を合法化すると同時に、軍と慰安所の関係を隠蔽化するべく、募集行為を規制するよう指示した文書にほかならぬ、というのが私の解釈である。さらに、副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。 
T.警察資料について
本稿で考察の材料とするのは、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻(龍渓書舎、 1997年、以下『資料集成』と略す)に収録されている内務省文書の一部である。
最初に、本稿で扱う警察資料の全タイトルを紹介する。このうち、1と8-2は外務省外交史料館所蔵の外務省記録に同じものが含まれており、前々からその存在がよく知られていた。
1. 外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付)
2. 群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付)
3. 山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)
4. 高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付)
5. 和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)
6. 茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付)
7. 宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付)
8.-1. 内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付)
8.-2. 内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付)
9. 「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明)
2〜7および9は、1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告であり、8は軍の要請に応じるため中国への渡航制限を緩和し、募集活動の容認とその統制を指示した警保局長通牒の起案文書(8-1)および発令された通牒本体(8-2)である。
この一連の文書については、すでに、吉川春子9)、八木絹10)によってその内容の概略が紹介されており、さらに和田春樹11)も詳しい紹介をおこなっている。なお、これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。1992年と93年の政府調査報告の際にはその所在がつかめなかったが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したため、その存在が明るみに出ることになった12)。現在は東京の国立公文書館に移管されており、その一部がアジア歴史資料センターで公開されている。 
U.陸軍慰安所の創設
前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しも収録されている。
この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。以下に引用するのはその全文である。
皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
(イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
(ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
(ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
(ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
(ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
(イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
(ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
(イ)就業場所及家屋等ノ準備
(ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
在上海日本総領事館警察署13)
冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ」とあるように、この文書から、1937年の12月中旬に上海の総領事館(総領事は岡本季正)と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれ、その結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定されたこと、さらにその運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。
ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味する。その長は原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称された。軍事面での渉外事項や特殊な政治工作を担当する陸軍の出先機関であり、上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍の隷下にある陸軍特務機関として第三国の出先機関や軍部との交渉、親日派中国人に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との交渉・調整窓口の役割をはたした。
軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、今までの慰安所研究により明らかにされており、今では史実として広く受け入れられている。その意味では、定説の再確認にとどまるのだが、この在上海総領事館警察署の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないとしても、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。
もっともこの文書の記述にもかかわらず、陸軍慰安所開設の決定は、陸軍武官室や憲兵隊、領事館の権限だけでできるものではない。軍組織のありかたからすれば、陸軍武官室と憲兵隊の双方に対して指揮権を有するより上級の単位、この場合は中支那方面軍司令部において、まず設置の決定がなされ、それを受けてこの三者間で慰安所運用のための細目が協議・決定されたのだと解すべきであろう。
吉見および藤井忠俊の研究14)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。
1. 飯沼守上海派遣軍参謀長の日記15) •1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
 ・1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
2. 上村利通上海派遣軍参謀副長の日記16) •1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
3. 山崎正男第十軍参謀の日記17) •1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」
4. 在上海総領事館警察の報告書18) •1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。
5. 常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告19) •1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」
6. 元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた20)。
また、1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した21)。
今回さらに、
7. 在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付)
が新たに加わったわけである。
これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出されたと考えて、まずまちがいない。
それを受けて各軍で慰安所の開設準備が進められるとともに、関係諸機関が協議して任務分担を定め、総領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)および慰安所で働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)の身許確認と営業許可、渡航上の便宜取り計らい、また業務を円滑におこなうため内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業女性の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、さらに特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業女性の性病検査の手配をすることが定められたのであった。
さらにこの依頼状から読みとれるのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、内地の(おそらく朝鮮も同様と思われる)警察にむけて依頼がなされた事実である。
この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、6の麻生軍医の回想によって裏づけられる。なお、麻生軍医に女性100名の性病検査を命じたのは「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日付であった22)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことの傍証となろう。
ところで、依頼状に記された任務分担協定は、陸軍慰安所に対する風俗警察権が領事館警察ではなくて、軍事警察=憲兵隊に属していたことを示している。協定の定めるところによれば、領事館警察は中国に渡ってきた慰安所営業主と女性のたんなる受け入れ窓口にすぎず、手続きが終われば、その身柄は軍に引き渡され、その取締権も領事館警察から憲兵隊に移される。移管とともに彼らは領事館警察の風俗警察権の圏外に置かれるのであり、管轄警察権の所在において陸軍慰安所は通常一般の公娼施設とは性格を異にする。これは慰安所が軍の兵站付属施設であることを意味するのだが、陸軍慰安所を一般の公娼施設と同様とみなす議論は、この点を無視ないし軽視していると言わざるをえない。
通常一般の公娼施設は、それを利用する軍人・軍属の取締のために憲兵が立入ることはあっても、業者や娼妓に対する風俗警察権は内務省警察・植民地警察・外務省警察などの文民警察に属し、軍事警察すなわち憲兵の関知するところではない。ところが、陸軍慰安所の従業員は軍籍を有さぬ民間人でありながら、その場所で働いているかぎりは憲兵の管轄とされるのである。これは慰安所が酒保などと同様、前線近くに置かれた軍の兵站付属施設であり、軍人・軍属専用の性欲処理施設だったことに由来する23)。なお、この点については、補論で詳しく論じたい。
さて、依頼状に「之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ル」とあるように、軍と総領事館から依頼された業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所で働く女性の募集活動に従事したのであった(「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナル」)。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2〜7の警察報告に実例が出てくるので、次章で検討するが、日本内地または植民地において女性を集めた業者は、彼女等を連れて上海に戻ってこなければならない。あるいは上海まで女性を送らなければならない。しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書を所持しなければ、乗船・出国ができなくなっていた。
しかも、1937年8月31日付の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示しており、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていた24)。
まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦・酌婦に対して身分証明書の発給が許されるはずがない。だからこそ、上海の領事館警察から長崎県水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の協議・決定に基づくものであり、決して一儲けを企む民間業者の恣意的事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請(「乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」)がなされたのである。よって、この依頼状の性格は、軍の方針を伝えるとともに、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけるのが至当である。 
V.日本国内における慰安婦募集活動
1.和歌山の誘拐容疑事件
この章では軍と総領事館の依頼を受けて、日本国内および朝鮮に赴いた募集業者がどのような活動をおこなったのかを警察の報告をもとに紹介する。最初にあげるのは、和歌山県でおこった婦女誘拐容疑事件である。内務省警保局長宛報告(前掲史料5の1938年2月7日付「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」)によれば、事件の概要は以下のとおりであった。
1938年1月6日和歌山県田辺警察署は、管下の飲食店街を徘徊する挙動不審の男性3名に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人のうち2人は大阪市の貸席業者で、もう1人は地元海南の紹介業者であった。
彼等は、自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」ととなえ、とある料理店の酌婦に上海行きを勧めた。3人が「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と、常識では考えられないことを言い立てて勧誘しているとの情報をつかんだ田辺警察署は、婦女誘拐の疑い濃厚であると判断し、3人の身柄を拘束した25)。
取調にたいして、大阪の貸席業主金澤は、次のように供述した。
1937年秋、大阪市の会社重役小西、貸席業藤村、神戸市の貸席業中野の3人が、陸軍御用商人で氏名不詳の人物と共に上京、徳久少佐なる人物の仲介で荒木貞夫陸軍大将と右翼の大物頭山満に会い、年内に内地から上海に3000人の娼婦を送ることに決まったとの話を、2人の貸席業主(金澤と佐賀)が藤村から聞き込んだ。そこで、渡航娼婦を募集するために和歌山に来訪し、地元紹介業者の協力を得て、募集活動にあたっているところである。すでに藤村と小西は女性70名を上海に送り、その際大阪九条警察署と長崎県外事課から便宜供与をうけた、と。
また、同じ供述によると、慰安所酌婦の契約条件は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円ニテ、二年後軍引揚ト共ニ引揚クルモノニシテ前借金ハ八百円迄ヲ出」すというもので、すでに前借金470円、362円を支払って2人の女性(26歳と28歳)と上海行きを決めたという。
不審に思った田辺警察署はことの真偽を確かめるために、長崎県警察外事課と大阪九条警察署に照会をおこなった。長崎からは、照会のあった酌婦渡航の件は、上海総領事館警察の依頼によるもので、長崎県警としては、総領事館指定の必要書類を所持し、合法的雇用契約と認められるものについては、すべて上海行きを許可しているとの回答が寄せられた26)。この時点では、1937年8月の外務次官通達がまだ有効だったから、軍及び総領事館から前もっての依頼がなければ、長崎県水上警察署が女性の渡航を許可したかどうかは大いに疑問である。逆に言えば、この第1回の渡航を認めた時点で、長崎県警察は慰安所要員の渡航は「業務上正当ナル目的」を有するものと認定したことになる。もちろんその根拠は、慰安所が軍の決定によるものであり、総領事館から慰安婦の募集と渡航につき便宜をはかって欲しいとの要請が前もってなされていたことによる。
また、大阪九条署からは、内務本省からも渡航を認めるよう、内々の指示があったことを思わせる回答が田辺署に与えられた。その概略は以下のようなものであった。
上海派遣軍慰安所の従業酌婦の募集については、内務省より非公式に大阪府警察部長(荒木義夫)へ依頼があったので、大阪府としても相当の便宜をはかり、既に1月3日に第1回分を渡航させた。田辺署で取調中の貸席業者はいずれも九条署管内の居住者で、身元不正な者ではない。そのことは九条警察署長(山崎石雄)が証明するので、しかるべき取計らいをお願いする、と27)。
この九条警察署の回答書から、1月3日に長崎から上海に70名の女性が送られたとの金澤の供述が根も葉もない嘘ではないことがわかる。その一部は大阪で集められたようであり、警察は内務省の非公式な指導のもとに、慰安婦の渡航に便宜をはかったのであった。
金澤の供述を裏づけるとともに、便宜供与を示唆した内務本省からの非公式のコンタクトがあったとする九条警察署長の言が嘘でないことを示すのが、史料9「醜業婦渡支ニ関スル経緯」と題された手書きメモである。重要なので、以下に全文を引用する(■は公刊に際して抹消された箇所を示す。□は抹消もれと思われるので、永井の判断で削除した)。
一、十二月二十六日内務省警務課長ヨリ兵庫県警察部長宛『上海徳久■■■、神戸市中野■■■ノ両名ハ上海総領事館警察署長ノ証明書及山下内務大臣秘書官ノ紹介名刺ヲ持参シ出頭スル筈ニ付、事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度』トノ電報アリ
一、同月二十七日右両名出頭セルガ内務大臣秘書官ノ名刺ヲ提出シ徳久ハ自身ノ名刺ヲ提出セズ且身分ヲモ明ニセズ中野ハ神戸市福原町四五八中野□□ナル名刺ヲ出シタルガ同人ノ職業ハ貸座敷業ナリ。
一、同両人ノ申立ニ依レバ大阪旅団勤務ノ沖中佐ト永田大尉トガ引率シ行クト称シ最少限五百名ノ醜業婦ヲ募集セントスルモノナルガ周旋業ノ許可ナク且年末年始ノ休暇中ナルガ枉ゲテ渡支ノ手続ヲセラレ度キ旨ノ申述アリ
一、兵庫県ニ於テハ一般渡支者ト同様身分証明書ヲ所轄警察署ヨリ発給スルコトヽセリ
一、神戸ヨリ乗船渡支シタルモノナキモ陸路長崎ニ赴キタルモノ二百名アル見込ミ
一、一月八日神戸発臨時船丹後丸ニテ渡支スル四、五十名中ニ湊川警察署ニ於テ身分証明書ヲ発給シタルモノ二十名アリ
一、周旋業ノ営業許可ナキ点ハ兵庫県ニ於テハ黙認ノ状態ニアリ28)
整理してみると、1937年12月26日に内務省の警務課長(数藤鉄臣)から兵庫県警察部長(纐纈弥三)宛に上海の徳久と、神戸市の中野が協力要請におもむくので、何分の便宜をよろしくとの電報が届き、 翌27日には徳久、中野の両名が山下内務大臣秘書官の名刺を携えた上で、軍に協力して目下最小限500名の慰安婦を募集中であり、 周旋業の免許のない点には目をつむって、渡航許可を与えて欲しいと頼みこんだのであった。
兵庫県警察は違法行為には目をつぶり、二人の要請を容れて、集められた女性に身分証明書を発給した。長崎、大阪につづいて兵庫県警察も募集業者に協力し、慰安婦の調達に支援を与えたのである。それだけではない、非公式にではあるが、内務省の高官(秘書官や警務課長)も彼らに便宜をはかったのである。和歌山田辺の事件では大阪九条警察署長が「内務省ヨリ非公式ナガラ當府警察部長ヘノ依頼」があったと回答したが、おそらく、この内務省メモのようなはたらきかけが、大阪府警察部長に対してもなされたのであろう。
すでに見たように、徳久と中野の2人は田辺の事件にも名前が出てくる。上海総領事館警察署長の証明書を所持する彼らは、上海で軍・総領事館から直接依頼を受けた業者とみてまずまちがいない。徳久と中野の実在が別の資料で裏づけられた以上、藤村経由で中野の話を聞いたと思われる金澤の供述も、細かい点は別として、おおむね信用できると考えてまちがいないだろう。
以上をまとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。
大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。
最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた田辺警察署がどのような処置をとったのかを述べておこう。同署は、「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった29)。
自由主義史観派の主張するごとく、慰安所なるものが軍とは直接関係のない、民間業者の経営する通常の売春施設だったのであれば、自分たちは「軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノ」とのふれこみで、「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と勧誘した金澤らの行為は、軍の名前を騙り、ありもしない「皇軍慰安所」をでっち上げて、女性をだまし、中国へ送り出そうとした、あるいは実際に送り出したものであって、婦女誘拐に該当する。金澤らは釈放されることなく、婦女誘拐ないし国外移送拐取で逮捕・送検されたにちがいないし、警察は当然そうすべきであったろう。
ところが、「皇軍慰安所」がまぎれもない事実、すなわち陸軍慰安所が軍の設置した兵站付属施設であったらどうなるか。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国(=上海)に移送するという、行為の本質においてはいささかの変わりもないにかかわらず、ありもしない軍との関係を騙って、女性をだましたわけではないので、この場合には誘拐と認定されず、逆に「酌婦公募」として警察から公認される行為に逆転するのである。和歌山県警は、金澤らの女衒行為が、もとをたどればたしかに軍と総領事館の要請につらなり、また内務省も内々に慰安婦の募集に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り扱うのを放棄した。すなわち、陸軍慰安所が軍の設置した公認の性欲処理施設であり、通常の民間売春施設とは異なるものであることが確認された時点で、警察は慰安婦の募集と渡航を合法的なものと認定したのである。国家と軍の関与により、それがなければ犯罪行為となるべきものが犯罪行為ではなくなったのであった。 
2.北関東・南東北での募集活動
次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノアリ」30)と目された神戸市の貸座敷業者大内の活動を紹介する。前記副官通牒にも出てくる「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」とおぼしき実例は、以下のようなものだったのである。
群馬県警が得た情報によると、大内は1938年1月5日前橋市内の周旋業者に次のような話をもちかけ、慰安所で働く酌婦の募集を依頼した(前掲史料2「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))。
1. 出征すでに数ヶ月に及び、戦闘も一段落ついて駐屯の体制となった。そのため将兵が中国人売春婦と遊ぶことが多くなり、性病が蔓延しつつある。
2. 「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」。
3. 「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ同僚」の目下上海で貸座敷業を営む神戸市の中野を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」。
4. 「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ目下二、三百名ハ稼業中デアリ兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」
5. 「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ軍ガ直接ヤルノデハナイガ最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ之ヲ使用シタ場合吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」
6. 「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」31)
また前掲史料3「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)によれば、
7. 大内は、山形県最上郡新庄町の芸娼妓酌婦紹介業者のもとに現れ、「今般北支派遣軍〔上海派遣軍のまちがいであろう−永井〕ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトヽナリタル趣ヲ以テ五百名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄前借ハ五百円ヨリ千円迄稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ」と述べ、勧誘した32)。
さらに、前掲史料6「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)からは、
8. 大内は茨城県出身であり、1938年1月4日頃遠縁にあたる茨城県在住の人物に上海派遣軍酌婦募集のことを話して協力を求め、その人物を通じて県下の周旋業者に斡旋を依頼した。
9. その業者の仲介で、大内は水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円にて契約を結び、上海に送るため1月19日神戸に向けて出発した。
ことがわかる33)。
上記1から6のうち、次の諸点については、他の史料とも符合し、大内の語ったことはおおむね事実に即していたと解される。
まず、3の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならぬ。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の件を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野と同一人物であると考えてまちがいない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は田辺事件の被疑者の供述にも出てくる(ただし、山形県警の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。
これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明け、協力を仰いだとの大内の言には十分信がおける。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」との話も、既に紹介した諸史料に照らし合わせて、間違いのない事実とみなせよう。逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼されたのか、その疑問が氷解する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。
警察報告にあらわれた大内の言動のうち、少なくとも3、4は事実に即しており、誇張や虚偽は、かりに含まれていても、わずかだと思われる。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかない。少なくとも、大内は中野からそれを軍の方針として聞かされたことは、まずまちがいない事実であろう。
大内が勧誘にあたって提示した一件書類(趣意書、契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本) のうち、「陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾」する旨を記し、慰安所で働く女性とその戸主または親権者が署名・捺印する「承諾書」の様式が、上海総領事館の定めた「承諾書」のそれとまったく同一であること34)、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の2種類−田辺事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた−)を所持していたことが、それを裏づける決め手となろう。
5で述べられているのが慰安所の経営方針だとすると、慰安所は軍が各兵站に設置する将兵向けの性欲処理施設ではあるが、日常的な経営・運営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、個々の利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれる仕組みだったことになる。これがほんとうならば、軍の当初の計画では、将兵に無料で買春券を交付する予定だったことになる。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて、軍=国家そのものである。もちろん、軍=国家の体面を考慮してのことであろうが、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これをもって軍の当初の計画だったとただちに断定するのは控えねばならないだろうが、しかし、かえってこの計画にこそ、慰安所なるものの本質がよくあらわれていると言うべきであろう。
最後に、大内が勧誘にあたって周旋業者や応募した女性に提示した契約条件を紹介しておこう。
 条件
一、契約年限 / 満二ヶ年
一、前借金 / 五百円ヨリ千円迄 / 但シ、前借金ノ内二割ヲ控除シ、身付金及乗込費ニ充当ス
一、年齢 / 満十六才ヨリ三十才迄
一、身体壮健ニシテ親権者ノ承諾ヲ要ス。但シ養女籍ニ在ル者ハ実家ノ承諾ナキモ差支ナシ
一、前借金返済方法ハ年限完了ト同時ニ消滅ス / 即チ年期中仮令病気休養スルトモ年期満了ト同時前借金ハ完済ス
一、利息ハ年期中ナシ。途中廃棄ノ場合ハ残金ニ対シ月壱歩
一、違約金ハ一ヶ年内前借金ノ一割
一、年期途中廃棄ノ場合ハ日割計算トス
一、年期満了帰国ノ際ハ、帰還旅費ハ抱主負担トス
一、精算ハ稼高ノ一割ヲ本人所得トシ毎月支給ス
一、年期無事満了ノ場合ハ本人稼高ニ応ジ、応分ノ慰労金ヲ支給ス
一、衣類、寝具食料入浴料医薬費ハ抱主負担トス35)
このような条件でなされる娼妓稼業契約は「身売り」とよばれ、これが人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならず、刑法第226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような条件での娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、少なくとも日本帝国内にとどまるかぎりは、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかった。
この契約を結べば、前借金(借金額は500円から1000円だが、そのうち2割は周旋業者や抱主が差し引くので、実際の手取りは400円から800円までである)を受け取る代わりに、向こう2年間陸軍慰安所で売春に従事しなければならない。衣類、寝具、食料、医薬費は抱主の負担とされているが、給与は毎月稼高の1割だから、かりに毎日兵士5人の相手をしたとして(日本国内の娼婦稼業の平均人数)、実働25日としても、月25円にしかならぬ。50円を稼ごうとすれば、毎日10人の兵士を相手にしないといけない。しかも契約書では、所得の半分は強制的に貯金することになっている36)。いっぽう抱主は1人の慰安婦の稼ぎから平均月225円の収入を得ることができ(1日5人の兵士を相手にするとして)、2年間では総額5400円にのぼるのである。
問題なのは年齢条項である。16才から30才という条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」と定めた娼妓取締規則に完全に違反し、満17才未満の娼妓稼業を禁じた朝鮮や台湾の「貸座敷娼妓取締規則」にも抵触する。さらに、満21才未満の女性に売春をさせることを禁じた「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)ともまったく相容れない。大内の活動は明らかに違法な募集活動と言わざるをえない。その点は警察もよく認識していたと見え、群馬県警が入手し、内務省に送付した上記契約条件の年齢条項には、警察側がつけたと思われる傍線が付されている。この契約条件が、上海での軍・総領事館協議において承認されたものなのかどうか、そこが議論のポイントの一つとなろう。私見では、この契約条件がまったく大内の独断で作成されたとはとても思えない。何らかの形で軍ないし総領事館との間で契約条件について協議がなされていたと思われる。たとえそれが契約条件は業者に任せるとの諒解だったとしても、である。
しかし誤解を恐れずに言うと、この年齢条件をのぞけば、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提に、さらに陸軍慰安所が実在し、軍と総領事館がこれを公認しているとの条件のもとでは、就業地が国外である点を除くと、この大内の活動は当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」 とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある。警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。
ただし、念のために言っておくが、自由主義史観派の言うように、慰安所が軍と関係のない民間業者の売春施設であるならば、田辺事件の例と同様、この大内の募集活動も、軍の名を騙って、女性に売春を勧誘するものであるから、婦女誘拐ないし国外移送拐取の容疑濃厚であり、警察としては放置すべきではなかったことになる。
警察報告にあらわれた募集業者の活動は、これ以外にあと二件あり、ひとつは、史料4の高知県知事の報告に、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」37)とあるにとどまり、具体的な事実まではわからない。
他の一件は、宮城県名取郡在住の周旋業者宛に、福島県平市の同業者から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が届いたというもので、警察は周旋業者の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている38)。こちらでは、年齢条件が大内の条件とは異なる。警察が説諭して募集をやめさせたのは、上に述べたことから当然の措置といえよう。また、史料1の外務次官通牒に定める渡航制限の趣旨からしても、そうあるべきである。前述の山形県警察がとった措置ともあわせて考えると、当時の警察の方針は、外務次官通牒に準拠しつつ、売春に従事する目的で女性が中国に渡航するのを原則として禁止していたのだと考えてよい。
以上が、警察報告に現れた業者の募集活動のすべてである。さて、話を例の副官通牒に戻そう。警察資料を見る限り、通牒にあげられた3つの好ましくない事例のうち、「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」は大内の活動およびこれに類似のものをさし、「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が、田辺の婦女誘拐容疑事件を念頭においていることは、まずまちがいない。残る「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」は、これに該当する事例は警察報告に見あたらぬ。このことは、未発掘の警察資料の存在を示唆するとも考えられるが、「従軍記者、慰問者」とあるので、あるいは警察ではなく、憲兵隊の報告だった可能性も十分ありうる。その場合には、警察報告には見つからないはずである。
この通牒があげている好ましくない事例がここで紹介したようなものだとすると、とくに「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさすのだとすれば、この通牒の解釈について、従来の説が当然のこととしてきた前提そのものを再検討せざるをえない。
というのは、この事件で事情聴取された業者の行為は、陸軍慰安所が軍と関係のない民間の施設であれば、まったくの詐欺・誘拐行為にほかならないと断定できるが、それがまぎれもない軍公認の施設だった場合には、そう簡単に誘拐とは断じえない性質のものだからである。たとえ本人の自由意志による同意があろうとも、売春に従事させる目的で前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すこと、それ自体がすでに違法だというならば話は別だが、そうでないとすれば、この業者の行為は、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、先方に着いてから何をするのか、一応きちんと説明した上で、上海行きを誘っただけにすぎず、決して嘘偽りをいって騙したのではない。まして、拉致・略取などに及んではいない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としては、これ以外にどんな方法があるだろうか。ただ、警察から誘拐行為と目されることになったのは、軍がそのような施設をつくり、業者に依頼して女性を募集しているという話そのものが、ありうべからざること、にわかには信じがたい、荒唐無稽なことだったからに、ほかならない。
警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの田辺事件と大同小異のものばかりであって、詐欺や拉致・拐取は一例もない。明らかに違法なのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を実際に勧誘した事実は警察報告からは読みとれない。
現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な副官通牒が出された際に、現実に問題となった誘拐行為は、じつは慰安所そのものが軍の施設であるならば、合法とみなされるべきたぐいのものにすぎなかった。実際には、「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者」や「強制連行」「強制徴集」を行う悪質な業者などどこにも存在していなかったのだとすると、この通牒も直接的にはその種の行為を禁止するために出されたのではないと解釈せざるをえない。では、いったい何が取締まらねばならないと考えられていたのか、そもそもこの通牒は何かを取り締まる目的で出されたものなのか。それを検討するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを見ておく必要がある。 
W.地方警察の反応と内務省の対策
大内の募集活動を探知した群馬県警察はこれに対してどのような反応を見せたのか。史料番号2の警察報告は次のような言葉で締めくくられている。
本件ハ果タシテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且ツ公秩良俗ニ反スルガ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長ニ対シ指揮致置候39)
この史料から、軍による陸軍慰安所の設置とその要請を受けた慰安婦募集は警察にとってはにわかに信じがたいできごとであったことがよくわかる。上海総領事館警察から正式の通知を受け取っていた長崎県や、内務省から非公式の指示があった兵庫県・大阪府は軍の要請による慰安婦募集活動であることを事前に知らされ、それゆえ内々にその活動に便宜をはかったのだが、何の連絡も受けていない関東や東北では、大内の話はまったくの荒唐無稽事に聞こえたのである。
軍が売春施設と類似の慰安所を開設し、そこで働く女性を募集しているとなどという話はそもそも公秩良俗に反し、まともに考えれば、とても信じられるものではない。ましてそれを公然とふれまわるにいたっては、皇軍の名誉を著しく傷つけるにもほどがあると、そう群馬県警察は解した。大内は嘘を言って、女性を騙そうとしたわけではない。真実を告げて募集活動をしたために、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」とみなされたのであった。
他の二県(山形、茨城)でも警察の反応は同様である。山形県警察の報告では、
如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄ニ信ジ難キノミナラズ斯ル事案ガ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ボス悪影響少カラズ更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ40)
と記され、茨城県でも群馬県とほぼ同様に
本件果タシテ軍ノ依頼アリタルモノカ全ク不明ニシテ且ツ酌婦ノ稼業タル所詮ハ醜業ヲ目的トスルハ明ラカニシテ公序良俗ニ反スルガ如キ本件事案ヲ公々然ト吹聴募集スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリト認メ厳重取締方所轄湊警察署長ニ対シ指揮致置候41)
との判断および指示が下されたのであった。すなわち、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリ」と非難され、厳重に取締まるべきものとされたのは、「誘拐まがいの方法」でもなければ、「違法な徴募」「悪質な業者による不統制な募集」「強制連行」「軍の名前を騙る非常に無理な募集」「強制徴集」のいずれにも該当しない大内の活動だったのである。もっと言えば、中国に軍の慰安所を設置し、そこで働く女性を内地や植民地で公然と募集することそのものが(つまり軍の計画そのものが)、「公序良俗」に反し、「皇軍ノ威信ヲ失墜」させかねない行為だったのである。
以上のことから、当時の警察の考えと対応は次のようにまとめられよう。
1. 一部の地方を除き、軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置はにわかに信じがたい話であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは、予想だにしなかった。
2. かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは、皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。そして、実際にそのような募集行為を行わないよう業者を指導し、管下の警察署に厳重取締の指令を下した。
この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、すでに述べたように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄」していたのである。それに対して高知県警察は次のような取締方針を県下各警察署に指示した。
支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等漸増ノ傾向ニ有之候処軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度42)
警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。軍の計画は失敗せざるをえない。このような地方警察の反応を警察報告で知らされた内務省や陸軍省としては、早急に何らかの手を打たねばならないと感じたはずである。
軍の慰安所政策(国家機関が性欲処理施設を設置・運営し、そこで働く女性を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったうえ、そのことが府県警察のレベルにまで周知徹底されないうちに、業者のネットワークを伝って情報がひろがり、慰安婦の募集活動が公然と開始されたため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾して、軍の要請に応じて、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、地方の警察が懸念する「皇軍ノ威信ヲ失墜」させ、銃後の人心の動揺させかねない事態を防止するためにとられた措置が、警保局長通牒(内務省発警第5号)であり、それに関連して陸軍省から出先軍司令部に出されたのが問題の副官通牒(陸支密第745号)だったのである。
警保局長通牒43)は、その冒頭で、最近、売春に従事する目的で中国に渡航する婦女が増加しており、かつまた「軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄」して、内地各地で渡航婦女の募集周旋をなす者が頻出しつつあると、現状を把握した上で、これらの「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル」44)と、慰安婦の中国渡航をやむをえないものとして容認する判断を下した。さすがに警保局長の通牒文書であるので、軍が慰安所を設置し、業者を使って慰安婦を集めている事実にあからさまにふれてはいないが、一連の警察報告を前において読めば、「現地ニ於ケル実情」なるものが陸軍の慰安所設置をさしているのは言わずとも明らかであろう。
その「実情」に鑑みて、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航」を「必要已ムヲ得ザルモノ」として認めたこの警保局長通牒は、それまでの警察の方針を放擲して、慰安婦の募集と渡航を容認し、それを合法化する措置を警察がとったことを示す文書にほかならない。先ほど言及した高知県警察の禁止指令のごとき、地方警察の取締および防止措置をキャンセルし、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じる措置だったのである。同様に、史料1の外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1937年8月31日付)が規定していた渡航制限方針を変更し、それを緩和する措置でもあった45)。
と同時に、警保局は慰安婦の募集と渡航の容認・合法化にあたって、「帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フ」ことのなきよう、「銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フル」おそれのなきよう、また「婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キ」よう、募集活動の適正化と統制を並行して実施するよう指令を下した。ここで好ましからざるものとして念頭に置かれていたのが、大内のそれであることは言うまでもない。通牒が国際条約にふれているのは、大内の所持していた契約条件の年齢条項を意識してのことと推察されるからである。
要するにこの通牒のねらいは、慰安婦の募集と渡航を容認・合法化し、あわせて募集活動に対する規制をおこなうことにあり、7項目にわたる準拠基準が定められた。第1〜5項は「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」に渡航許可を与えるため、前記外務次官通牒に定める身分証明書を警察が発行する際の遵守事項を定めたものである。具体的には、現在内地において売春に従事している満21才以上の女性で性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認し、その際、契約期間が終われば必ず帰国することを約束させ、かつ身分証明証の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行い、同一戸籍内の最近尊族親または戸主の同意書を示すこと、さらに発給にあたっては稼業契約その他の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことを確認してから、身分証明を付与すること、とされている。当時の刑法、国際条約、公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとすれば、だいたいこのあたりに落ち着くのである。
もっとも、この遵守事項がきちんと守られたかどうかは、また別問題である。なぜなら、この通牒が発令されて2ヶ月ばかり後に北海道の旭川警察署が、「醜業ヲ目的トシテ」中国に渡航する満21才未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が知られているからである46)。(補注1)
第6、7項は募集業者に対する規制であり、「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」の募集周旋にあたって「軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館ノ発行スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」の三点が定められた。
つまり、慰安婦の募集周旋において業者が軍との関係を公言ないし宣伝することを禁じたのである。通牒が取締の対象としたのは、業者の違法な募集活動ではなくて、業者が真実を告げること、言い換えれば、軍が慰安所を設置し、慰安婦を募集していると宣伝し、知らしめること、そのことであった。慰安婦の募集は密かに行われなければならず、軍との関係はふれてはいけないとされたのである47)。
この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。
副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が48)、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである49)。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。 
おわりに
1937年末から翌年2月までにとられた一連の軍・警察の措置により、国家と性の関係に一つの転換が生じた。軍が軍隊における性欲処理施設を制度化したことにより、政府自らが「醜業」とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、人道にもとる行為に直接手を染めることになったからである。公娼制度のもと、国家は売春を公認してはいたが、それは建て前としては、あくまでも陋習になずむ無知なる人民を哀れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」にすぎなかった。国家にとってはその営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう厳重な規制をほどこし、そこから税金を取り立てるべき生業だったのである。
しかし、中国との戦争が本格化するや、その関係は一変する。いまや出征将兵の性欲処理労働に従事する女性が軍紀と衛生の維持のため必須の存在と目され、性的労働力は広義の軍要員(あるいは当時の軍の意識に即して言えば「軍需品」と言った方がよいかも知れない)となり、それを軍に供給する売春業者はいまや軍の御用商人となったのである。国家が民間で行われている性産業・風俗営業を公認し、これを警察的に規制することと、国家自らが、政府構成員のために性欲処理施設を設置し、それを業者に委託経営させることとは、国家と性産業との関係においてまったく別の事柄なのである。
そう考えるならば、同じように軍の兵站で働き、軍の必要とするサービスを供給する女性労働力であった点において、従軍看護婦と従軍慰安婦との間には、その従事する職務の内容に差はあれ、本質的な差異を見いだすことはできない。慰安婦もまたその性的労働によって国家に「奉仕」した/させられたのであった。
一連の措置により、慰安婦の募集と渡航が合法化されたことは、性的労働力が軍需動員の対象となり、戦時動員がはじまったことを意味している。それはまた性的サービスを目的とする風俗産業の軍需産業化にほかならず、内地・植民地から戦地・占領地へ向けて風俗産業の移出とそれに伴う多数の性的労働力=女性の流出と移動を生みだした。慰安婦は戦時体制が必然的に生みだした国家と性の関係変容を象徴する存在であり、戦時における女性の総動員の先駆けともいうべき存在となった。彼女たちにつづき、人間の再生産にかかわる家庭婦人が「生めよ殖やせ」の戦時総動員政策のもとで、銃後の母・出征兵士の妻として、兵力・労働力の再生産と消費抑制の大任を負わされ、未婚女性は、あるいは軍需工場での労働力として、あるいは看護婦から慰安婦にいたるさまざまな形態の軍要員として動員されたのであった。
しかし、ひとしく戦時総動員と言っても、そこには「民族とジェンダーに応じた「役割分担」」50)が厳然と存在し、内地日本人男性のみを対象とした徴兵(あるいは軍需工場の熟練工)を頂点に、各労働力の間には截然たる階層区分が存在していた。労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立されたことを思うと51)、この戦時総動員のヒエラルヒーの最低下層におかれていたのが、慰安所で性的労働に従事した女性、なかんずく植民地・占領地出身の女性であったのはまちがいない。彼女たちは戦時総動員体制下の大日本帝国を文字どおりその最底辺において支えたのである。
このような戦時総動員のヒエラルキーが形づくられた要因はさまざまであるが、慰安婦に関して言えば、軍・警察の一連措置が内包していたダブル・スタンダードの持つ役割にふれないわけにはいかない。すでに述べたように、軍・警察は慰安所を軍隊の軍紀と衛生の保持のため必須の装置とみなし、慰安婦の募集と渡航を公認したが、同時に軍・国家がこの道徳的に「恥ずべき行為」に自ら手を染めている事実については、これをできるかぎり隠蔽する方針をとった。軍の威信を維持し、出征兵士の家族の動揺を防止するために、すなわち戦時総動員体制を維持するために、慰安所と軍・国家の関係や、慰安婦が戦争遂行上においてはたしている重要な役割は、公的にはふれてはいけないこと、あってはならないこととされたのである。
国家と性の関係は現実に大きく転換したが、売春=性的労働を「公序良俗」に反する行為、道徳的に「恥ずべき行為」であるとする意識、さらに慰安婦を「醜業婦」と見なす意識はそのまま保持され続け、そこに生じた乖離が上記のような隠蔽政策を生み出すにいたった。慰安婦は軍・国家から性的「奉仕」を要求されると同時に、その関係を軍・国家によってたえず否認され続ける女性達であった。このこと自体が、すでに象徴的な意味においてレイプといってよいだろう。従軍慰安婦が、同様に軍の兵站で将兵にサービスをおこなう職務に従事しながら、従軍看護婦とは異なる位置づけを与えられ、見えてはならない存在として戦時総動員ヒエラルキーの最底辺に置かれたのは、このような論理と政策の結果とも言えよう。慰安所の現実がそこで働かされた多くの女性、なかんずく植民地・占領地の女性にとって性奴隷制度にほかならなかったのは、このような位置づけと、それをもたらした軍・警察の方針によるところが大きいのである。 
補論 / 陸軍慰安所は酒保の附属施設
軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったことはすでに述べた。このことを裏付けてくれる、陸軍の規程を偶然に発見したので、紹介しておきたい。それは1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則である52)。その名の示すとおり、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての規程である。添付の改定理由書によると、日露戦争中の1904年に制定された「野戦酒保規程」が日中戦争の開始とともに、古くなったので改正したとある。改正案の第1条は次のとおりであった。
第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス
 野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得
ここに「慰安施設」とあるのに注目してほしい。改正規程では、酒保において物品を販売することができるだけでなく、軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのである。改正以前の野戦酒保規程の第一条は、以下のとおり。
第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス
ここには「慰安施設」についての但書きはない。第一条改正の目的が、酒保に「慰安施設」を設けることを可能にする点にあったことは、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付をもつ)で、次のように説明されていることから明らかである。
「改正理由 / 野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル」
このことから、1937年12月の時点での、陸軍組織編制上の軍慰安所の法的位置づけは、この「野戦酒保規程」第一条に定めるところの「野戦酒保に付設された慰安施設」であったと、ほぼ断定できる。酒保そのものは、明治時代から軍隊内務書に規定されているれっきとした軍の組織である。野戦酒保も同様で、陸軍大臣の定めた軍制令規によって規定されている軍の後方施設である。してみれば、当然それに付設される「慰安施設」も軍の後方施設の一種にほかならない。もちろん、改定野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、軍慰安所のような性欲処理施設を直接にはさしていない。しかし、中国の占領地で軍慰安所が軍の手によって設置された時、当事者はそれを「慰安施設」と見なしていたことが、別の史料で確認できる。本稿のはじめのところで紹介した、上海派遣軍司令部の参謀達の日記がそれである。念のために再掲する。
• 上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』)
「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12月11日)
「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」(1937年12月19日)
• 同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』)
「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(1937年12月28日) 
これらの記述から、この時上海派遣軍に設置された「慰安施設」は「女郎屋」であり、「南京慰安所」と呼ばれたことがわかる。逆に言えば、上海派遣軍の飯沼参謀長は、「女郎屋」である「南京慰安所」を軍の「慰安施設」と見なしていたことを、上記の史料は示している。
飯沼参謀長が日記に書き留めた「慰安施設」が改定野戦酒保規程第1条の「慰安施設」をさすものであることは、軍隊という組織のありかたからして、まちがいのないことである。つまり、上海派遣軍の軍慰安所は改定野戦酒保規程第1条の定めるところにしたがって設置されたのである。
そう考えると、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』で紹介されている第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年、102頁)中の以下の記述の意味が、よりよく納得されるであろう。
1月8日「夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し」
1月13日「今日、急に酒保係を命ぜられ、酒保へ行く。戦地軍隊は面白い所だ。女給ばかり居る酒保だからな。未だ売る物は一品ばかりだ。○○を買う者がどっとおし寄せて午後より夜遅くまで多忙だ」(秦、p.72)
この聯隊でも、慰安所が「野戦酒保付設慰安施設」として設置されたので、酒保係を命じられた兵士が慰安所の当番兵となり、慰安所を「女給ばかり居る酒保」と呼んだのである。
また秦前掲書81頁には、「第110師団関係資料」を根拠に、「慰安所、女については大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」というルールがあったことが紹介されているが、これも改定野戦酒保規程第3条の以下の規定を考慮すると、納得がいく。
第三条 野戦酒保ハ所要ニ応ジ高等司令部、聯隊、大隊、病院及編制定員五百名以上ノ部隊ニ之ヲ設置ス
前項以外ノ部隊ニ在リテハ最寄部隊ノ野戦酒保ヨリ酒保品ノ供給ヲ受クルヲ本則トス 但シ必要アルトキハ所管長官ノ認可ヲ受ケ当該部隊ニ野戦酒保ヲ設置スルコトヲ得
(略)
野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス(略)
この規程では、大隊以上に野戦酒保を設置できる権限が与えられている。ということは、大隊長以上には野戦酒保の付設慰安施設についてもその設置権限があるということを意味する。また、大隊よりも小さな部隊がどうしても野戦酒保(及び慰安所)を必要とするときは、所管長官(軍司令官、師団長、兵站監、及び之に準ずる兵団の長)に申請してその認可を得なければいけないとあるので、この規定から(慰安所は)「大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」ということになったのだと思われる。さらに「野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス」とあることから、酒保付設慰安施設である軍慰安所についても、酒保と同様に、その管理者は設置者である当該部隊の長であったと結論できる。
他にも野戦酒保規程第6条には次のような条文がある。
第六条 野戦酒保ノ経営ハ自弁ニ依ルモノトス但シ已ム得ザル場合(一部ノ飲食物等ノ販売ヲ除ク)ハ所管長官ノ認可ヲ受ケ請負ニ依ルコトヲ得
平時ノ衛戍地ヨリ伴行スル酒保請負人ハ軍属トシテ取扱ヒ一定ノ服装ヲ為サシムルモノトス但シ其ノ人員ハ歩兵、野砲兵及山砲兵聯隊ニ在リテハ三名以内、其ノ他ノ部隊ニ在リテハ二名以内トス
この規定から、直営でない軍慰安所において慰安所を経営していた売春業者は軍の「請負商人」であったこと、また当該部隊の長の判断により、それらの請負業者を軍属にすることができたこともわかる。ただし、この改定野戦酒保規程では軍属にできる請負商人には定員の枠が設定されているので、実際にどれほどの業者が軍属になったのかはまた別問題である。さらに第13条には「軍属タル酒保請負人ニハ必要ニ応ジ糧食ヲ官給シ又被服ノ一部ヲ貸与スルコトヲ得」とあり、この条項の運用次第では、慰安所の業者が軍から貸与された制服を着用することになっても別に不思議ではない。彼らが直接朝鮮や台湾で女性を集めたとすると、制服を着用しているので、軍人と見なされる可能性は高い。
以上まとめると、日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。 
追記 (2005年 / 2007年)
2005年6月11日に古書店で、『初級作戦給養百題』というタイトルの図書を入手した。これは、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集である。
編者は清水一郎陸軍主計少佐。発行所は陸軍主計団記事発行部で、同部刊行の『陸軍主計団記事』第三七八号附録として刊行された。表紙の右肩に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書されている。なお、『陸軍主計団記事』は靖国偕行文庫には全巻揃っているそうである。
奥付がないので、『初級作戦給養百題』の刊行日付は不明だが、序文に「二六〇一年ノ正月之ヲ発意シ漸ク斯クノ如ク纏メ上ケタリ」とあるので(p.1)、昭和16年すなわち1941年に刊行されたものと推測される。
この書物の第一章総説には、師団規模の部隊が作戦する際に、経理将校が担当しなければいけない作戦給養業務(「作戦経理勤務」)の内容が一五項目にわたって列挙されているが、その一五番目「其他」の項には、以下の小目が含まれる(強調は永井、以下同じ)。
1 酒保ノ開設
2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演芸会ノ開催
3 恤兵品ノ補給及分配
4 商人ノ監視 
このことから、1941年の時点で、「慰安所ノ設置」は、「酒保ノ開設」と並んで経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」のひとつであったことがわかる。これもまた、私が本文で指摘した、「軍慰安所とは、将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設」との主張を裏付けてくれる、軍の内部資料の一つであるわけである。
さらに、この『初級作戦給養百題』には、以下のような状況のもとで、師団経理部の一員として、「次期作戦準備ノ為ノ経理勤務要領」の「考案ヲ附記スヘシ」という問題が収録されている(p.367)。
一、十月中旬師団ハ概ネ初期ノ目的ヲ達シM平地ヲ領有ス
二、茲ニ於テ師団ハ一部ヲ以テABCDニ位置セシメ主力ヲ以テM市及其周辺ニ駐止シ次期作戦ヲ準備セントス
つまり、この問題は、師団規模の部隊が戦闘を終え、所定の場所を占領したまま駐屯体制に入り、次の作戦に向けて準備をする場合に、師団経理部がとるべき措置を起案せよと、問うているのである。この演習問題に対しては、総説に示された「経理勤務要領」に基づく模範解答が掲載されているが、それには以下のような措置が含まれているのである。
十一 其他
1 酒保ノ開設
2 出入商人ノ監視
3 慰安所ノ設置
4 恤兵品ノ補給及分配
1937年9月に野戦酒保の附属慰安施設として陸軍の編成のうちに姿をあらわした軍慰安所は、その4年後の1941年には、給養を担当する経理将校のマニュアル中に、師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合には、必ず設置しなければいけない施設として、酒保と肩をならべて記されるまでの存在となっていたのである。
このような状況となれば、後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。
証言者は、戦後フジサンケイグループの総帥となる鹿内信隆だが、一九三八年に札幌の歩兵第二五聯隊に入営した鹿内は、幹部候補生の試験に合格し、予備の経理将校になるため、陸軍経理学校に入校した。さらに陸軍会計監督官となる教育を受け一九四一年に卒業した。
鹿内は、元日経連会長櫻田武との対談の中で、その経理学校で「慰安所の開設」について次のような教育を受けたという。
鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。
櫻田 そう、慰安所の開設。
鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、持ち時間 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。
(櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、一九八三年)四〇〜四一頁。)
もちろん「ピー屋設置要綱」は隠語であって、正しくは「慰安所設置要綱」であったにちがいない。
鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。
と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。 

1) 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年)。
2) 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)105-106。
3) 吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)35。
4) 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第3巻』(小学館、1997年)165。
5) 小林よしのり「「人権真理教に毒される日本のマスコミ」西尾幹二・小林よしのり・藤岡信勝・高橋史朗『歴史教科書との15年戦争』(PHP研究所、1997年)77。
6) 藤岡信勝「歴史教科書の犯罪」前掲『歴史教科書との15年戦争』58。
7) 秦郁彦「歪められた私の論理」『文藝春秋』1996年5月号。
8) 上杉聡『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、1997年)77。
9) 吉川春子 『従軍慰安婦−新資料による国会論戦−』(あゆみ出版、1997年)。
10) 八木絹「旧内務省資料でわかった「従軍慰安婦」の実態」『赤旗評論特集版』1997年2月3日。
11) 和田春樹「政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」−『政府調査「従軍慰安婦関係」資料集成』を読む」女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会編『「慰安婦」問題調査報告・1999』女性のためのアジア平和国民基金、1999年。
12) この間の経緯については、『赤旗』1996年12月20日に詳しい。
13) 前掲『資料集成』第1巻、36-38。
14) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』28-30、吉見義明・林博史編前掲書、第2章、第4章。
15) 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』(偕行社、1993年)。
16) 同編『南京戦史資料集U』(偕行社、1993年)。
17) 同上。なお、湖州の慰安所については、第十軍法務部長であった小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条にも「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる(小川関治郎『ある軍法務官の日記』みすず書房、2000年、124)。
18) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』175。
19) 同上、195。
20) 高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』(不二出版、1990年)115、120。
21) 麻生徹男軍医少尉「花柳病ノ積極的予防法」1939年6月26日、高崎編、前掲書、55。
22) 前掲藤永論文、169。なお、藤永は麻生徹男『上海から上海へ』(石風社、1993年)に依拠している。
23) 1937年12月に陸軍と総領事館との間に結ばれた風俗警察権の分界協定は、上海・南京戦が終了し、日本軍の駐屯と占領地支配の長期化が明確になった1938年春になって、一部修正の上、再確認された。その年3月には上海で、4月16日に南京総領事館で陸海外三省関係者の協議会が開催きれ、占領地の警察権に関する協定を結んでいる(前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』178-182)。
なお、一般公娼施設と軍慰安所との間で明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を全般的に担当していた日露戦争中の満州軍政や第1次大戦期の青島占領とも性格を異にすることも付け加えておく。
24) 前掲『資料集成』第1巻、3、7。前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』96、97。
25) 前掲『資料集成』第1巻、28、31。
26) 同上、35、36。 / 27) 同上、45。
28) 同上、105-109。この手書きメモは欄外に「内務省」と印刷されている事務用箋に記されており、内容からみて、1938年1月の慰安婦第1回送出のあとに、本省側が兵庫県警に事情を聴取した際に作られたメモと思われる。なお、山下内務大臣秘書官とあるのは山下知彦。海軍大将山下源太郎の養嗣子で、男爵・海軍大佐。36年3月に予備役となり、末次信正の内務大臣就任とともにその秘書官に起用されていた。
29) 前掲『資料集成』第1巻、32。
30) 同上、43。 / 31) 同上、11-13。 / 32) 同上、23-24。 / 33) 同上、48-49。 / 34) 同上、16、43。 / 35) 同上、19-21。
36) 契約書には「一、上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業ヲ為スコト 一、賞与金(給料のこと−永井)ハ揚高ノ一割トス(但シ半額ヲ貯蓄スルコト)」と記されている。同上、14。
37) 同上、25。 / 38) 同上、54。 / 39) 同上、19。 / 40) 同上、24。 / 41) 同上、49。 / 42) 同上、26。
43) この通牒は、警保局警務課(課長町村金五)において1938年2月18日付けで起案され、富田健治警保局長、羽生雅則内務次官、末次信正内務大臣の決裁を受けて、2月23日付で各地方長官に通達された。外事課と防犯課とがこれに連帯している。同上、55。
44) 同上、69-70。
45) 警保局長通牒が外務次官通牒に定める渡航制限の緩和措置であったことは、この通牒が出された後に、粟屋大分県知事と外務省の吉沢清次郎アメリカ局長との間で以下のようなやりとりがなされたことからもわかる。まず粟屋知事は、外務省の既存の指令にしたがえば、山東方面への初渡航者には警察の身分証明書を発行すべきでないと解されるが、同方面の「皇軍慰安所ノ酌婦等募集ヲナス旨ノ在支公館又ハ軍部ノ証明ヲ有スル者ノ募集セル酌婦等ニ対シテハ身分証明書下付相成差支無キヤ」とアメリカ局宛に照会を行い、それに対して吉沢局長は、内務省発警第5号「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル依命通牒」にしたがって「渡支支障ナキ者ナル限リ身分証明書ヲ発給セラレ差支無之」と回答したのであった。すなわち警保局長通牒にしたがい、慰安婦の渡航を認めてよいと指示したのであった。同上、117-120。
46) 在山海関副領事発外務大臣宛機密第二一三号(1938年5月12日付)前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』111。
補注1(2012年1月12日追記) 
内務省警保局長通牒が定めている渡航許可の基準は、実質的には空文化されていたと考えられる。なぜならば、現実に慰安所に送られた例を検討すると、基準が守られていたとはとても思えないからである。以下にみるように、秦前掲書(三八二〜三八三頁)に紹介されている元兵士の証言がその証拠となる。これらは氷山の一角であったと考えてよいであろう。
そのひとつ、華南南寧憲兵隊の元憲兵曹長の回想によれば、一九四〇年夏、中国華南の南寧を占領した直後に、その兵士は、陸軍慰安所北江郷という名の軍慰安所を毎日巡察していたという。その慰安所の経営者は、十数人の若い朝鮮人慰安婦を抱えていたが、地主の息子で小作人の娘たちを連れてやって来たとのことであった。朝鮮を出るときは、契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、若い女の子に売春を強いることに経営者の朝鮮人も深く責任を感じているようだったという。
この慰安所の経営者が女性を騙したのか、それとも経営者自身が他の誰かに騙されたのか、この証言だけでは曖昧だが、連れてこられた女性は明らかに就労詐欺の被害者である。内務省警保局長通牒の趣旨からすればあってはならないことがらである。
一九三二年の上海事変の際には「設置計画中の海軍指定慰安所で働かせるため、長崎地方の女性一五名を事情を隠し、女給・女中を雇うかのように騙して長崎から乗船させ(誘拐)、上海に上陸させた(移送)」事件がおこり、被疑者は起訴されたが、長崎控訴院は刑法旧第二二六条第一項の国外誘拐罪と同条第二項国外移送罪が成立するものとして有罪を宣告し、大審院もこれを支持した(大審院判決が出されたのは一九三七年三月)(戸塚悦郎「確認された日本軍性奴隷募集の犯罪性」、『法学セミナー』一九九七年一〇月号)。
この判例からすれば、南寧の陸軍慰安所の女性も国外誘拐罪、国外移送罪の被害者にまちがいないが、その被害事実がわかっておりながら、慰安所の取り締まりを担当していたこの憲兵曹長は、女性を帰国させずにそのまま放置し、何らの救済措置もとっていない。また、騙した犯人の追及も行なっていない。この憲兵曹長は、慰安所の経営者および慰安婦に同情を寄せていたことから、自身もそこで行なわれていることがよいことではないのを承知していたと思われる。良心的な兵士だったと思われるが、犯罪行為の摘発という憲兵として当然なすべきことを行なわず、しかもそのことに対してとくに後ろめたい気持ちを抱くこともしていない。これはこの憲兵が悪徳憲兵だったからではなくて、軍慰安所が軍にとって不可欠な施設であるために、たとえ違法な方法で慰安婦の募集が行なわれていたとしても、軍事上の必要のためにはやむをえないと考える姿勢、言いかえれば「見て見ぬふりをする」体制がすでに陸軍内にできあがっていたからだと思われる。
この例は朝鮮での募集なので、内務省警保局長通牒は植民地には適用されなかったから例として不適当との解釈もあるかもしれない。そこで日本内地の例を秦同書からあげておく。ただし、刑法旧第二二六条は朝鮮・台湾にも適用されるので、右の例の女性が犯罪事件の被害者であることはそれによって何ら変化を受けるわけではない。
第二の例は、山東の済南に駐屯していた第五九師団の元伍長の証言である。一九四一年のある日、国防婦人会の「大陸慰問団」という日本人女性二〇〇人がやってきた。彼女たちは部隊の炊事の手伝いなどをするつもりだったのが、皇軍相手の売春婦にさせられてしまった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。
なおこれに関連していえば、「軍慰安所で性的労働に従事する女性を、その本人の意志に反して、就労詐欺や誘拐、脅迫、拉致・略取などの方法を用いて集めること、およびそのようにして集めた女性を、本人の意志に反して、軍慰安所で性的労働に従事させること」をもって「慰安婦の強制連行」と定義してよいのであれば、たとえ軍が直接に手を下したり、命令を出したりしなかったとしても、右にあげた例のように、組織的に「見て見ぬふり」をしていた場合、すなわち軍から慰安所の経営を委託された民間業者やそれに依頼された募集業者が詐欺や誘拐によって女性を軍慰安所に連れてきて働かせ、しかも軍慰安所の管理者である軍がそれを摘発せずに、事情を知ってなおそのまま働かせたような場合には、日本軍が強制連行を行なったといわれても、それはしかたがないであろう。
47) 副官通牒や警保局長通牒をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとする上杉聡の見解に私は同意できないが、しかし「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記している」と考える点では、同意見である。
48) 内務省警保局長通牒は各地方長官だけでなく、拓務省管理局長(棟居俊一)、陸軍省軍務局長(町尻量基)、外務省条約局長(三谷隆信)、同アメリカ局長(吉沢清次郎)にも参考のため移牒されている。アメリカ局に移牒されたのは旅券事務が同局の管轄だったからである。前掲『資料集成』第1巻、67。
49) 1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送は、全面的な警察の規制と支援のもとで、秘密裡に行われた。これは政府・内務省の方針の本質をよく示すものである。同上、p.77-100。
注49への追記(2012年1月12日)
1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送については、次のふたつの警察資料が有名である。
1.内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件伺」(1938年11月4日付)
2.内務省警保局長発大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県知事宛「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年11月8日付)(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻)
この文書によると、同年11月4日に第二一軍参謀の久門有文陸軍少佐と陸軍省徴募課長の小松光彦陸軍大佐とが警保局を訪問し、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名(はじめ「千名」とあり、のち抹消)を渡航せしむる様(はじめ「蔭に送付方」とあり、のち抹消)配意ありたし」との申し出を行なった。
久門少佐が警保局長に出した名刺が残されているが、その裏面には「娘子軍約五百名広東ニ御派遣方御斡旋願上候」と記されている。第二一軍と陸軍省は警察の元締めである警保局長に慰安所で働く女性の募集と渡航について斡旋を依頼したのである。
ここで留意すべきは、この行動が、第二一軍が例の「副官通牒」の指示に忠実であったことを示している点である。「副官通牒」が求める「将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ(中略)其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度」にしたがって、第二一軍は久門少佐を警保局に派遣したのである。斡旋依頼を受けた警保局は、大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各府県に対して、女性を集めて中国に送るよう極秘の指令を発したのであった。
さらに補足しておくと、第二一軍軍医部長であった松村桓軍医少将は一九三九年四月一五日に陸軍省医務局で「性病予防のために兵一〇〇人につき一名の割合で慰安隊を輸入す。一四〇〇-一六〇〇名」と報告している(波多野澄雄「防衛庁防衛研究所所蔵《衛生・医事》関係資料の調査概要」前掲『「慰安婦」問題調査報告・一九九九』三五頁)。第二一軍は少なくとも一四〇〇名名の慰安婦を抱えていたのであった。
50) 駒込武「帝国史研究の射程」『日本史研究会』452、2000年、228。
51) 前掲『共同研究日本軍慰安婦』第5章、142-144。
52) この規程は、アジア歴史資料センターで公開されており、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。 
 
「河野談話」と日本軍「慰安婦」問題の真実 2014/3

 

はじめに
日本軍「慰安婦」について政府の見解を明らかにした河野洋平官房長官談話(1993年8月4日、以下「河野談話」)が国政の重大な焦点となっています。
この間、一部勢力を中心に「河野談話」を攻撃するキャンペーンがおこなわれてきましたが、2月20日、日本維新の会の議員は、衆議院予算委員会の場で、(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)「河野談話」は韓国人の元「慰安婦」16人からの聞き取り調査をもとに強制性を認めているが、聞き取り調査の内容はずさんであり、裏付け調査もしていない――などと主張し、「新たな官房長官談話も考えていくべきだ」と「河野談話」の見直しを迫りました。
こうした攻撃にたいし、本来なら「河野談話」を発表した政府が、正面から反論しなければなりません。しかし、答弁に立った菅義偉官房長官は、それに反論するどころか、「当時のことを検証してみたい」、「学術的観点からさらなる検討を重ねていく必要がある」などと迎合的な対応に終始し、2月28日には政府内に「河野談話」の検証チームを設置することを明らかにしました。また、安倍晋三首相が、維新の会の議員に対して、「質問に感謝する」とのべたと報じられました。
「河野談話」見直し論は、歴史を偽造し、日本軍「慰安婦」問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません。
この見解では、「河野談話」への不当な攻撃に反論するとともに、それをつうじて日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするものです。
「河野談話」が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か
まず、「河野談話」が認めた事実とは何か、見直し派による「談話」攻撃の特徴はどこにあるかについて、見ていきます。
「河野談話」が認めた五つの事実
「河野談話」は、1991年12月からおこなってきた政府による調査の結論だとして、次の諸事実を認めました。「談話」にそのまま沿う形で整理すると、つぎの五つの事実が認定されています。
第1の事実。「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた」(「慰安所」と「慰安婦」の存在)
第2の事実。「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」(「慰安所」の設置、管理等への軍の関与)
第3の事実。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」(「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があった)
第4の事実。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれた)
第5の事実。「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があった)
これらの諸事実の認定のうえにたって、「河野談話」は、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明しています。
さらに、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」とのべています。
「慰安所」における強制使役にこそ最大の問題がある
「河野談話」が認めた諸事実のうち、「談話」見直し派が否定しようとしているのは、もっぱら第3の事実――「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという一点にしぼられています。(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)元「慰安婦」の証言には裏付けはない――こういって「河野談話」の全体を信憑(しんぴょう)性のないものであるかのように攻撃する――これが見直し勢力の主張です。
こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることを、まず指摘しなくてはなりません。女性たちがどんな形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍「慰安所」に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書などに照らしても動かすことができない事実です。それは、「河野談話」が、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認めている通りのものでした。この事実に対しては、「河野談話」見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、「軍性奴隷制」として世界からきびしく批判されている、日本軍「慰安婦」制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません。
そのうえで、「河野談話」見直し勢力が主張する、“「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという「談話」の事実認定には根拠がない”という攻撃が成り立ちうるものであるかどうか。つぎに検討していきましょう。
「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃
この攻撃の第一の問題点は、「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃になっているということです。
日本軍「慰安婦」問題が、重大な政治・外交問題となったのは1990年からですが、それから1993年8月の「河野談話」にいたる経過をみると、つぎのような事実が確認できます。
(注)この見解では、「河野談話」にいたる事実経過の検証などのさいに、河野洋平元内閣官房長官と石原信雄元内閣官房副長官の発言を引用していますが、その出典は下記に記した通りです。
(出典a)『オーラルヒストリー アジア女性基金』(「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」編集・発行)に収録された河野氏のインタビュー(2006年11月16日)。
(出典b)同上書に収録された石原氏のインタビュー(2006年3月7日)。
(出典c)『歴史教科書への疑問』(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」編)に収録された河野氏の講演と質疑(1997年6月17日)。
(出典d)朝日新聞に掲載された河野氏のインタビュー(1997年3月31日)。
韓国側から「強制連行の事実を認めよ」との訴えが提起される
まず、日本軍「慰安婦」問題で大きな被害をこうむった韓国から、「強制連行の事実を認めよ」という訴えが、さまざまな形で提起されます。
(1) 1990年5月18日、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の来日を前にして、韓国の女性団体が、日本軍「慰安婦」問題について「日本当局の謝罪と補償は必ずなされなければならない」との共同声明を発表します。しかし、日本政府は、その直後に国会で「慰安婦」問題が議論になったさい、軍や官憲の関与を否定し、「慰安婦」の実態調査も拒否しました(1990年6月6日)。
(2) 1990年10月17日、こうした日本政府の姿勢に対して、韓国の主要な女性37団体が共同声明を発表し、つぎの6項目からなる要求を提起します。
「一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること
 二、そのことについて公式に謝罪すること
 三、蛮行のすべてを自ら明らかにすること
 四、犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること
 五、生存者や遺族たちに補償すること
 六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること」。
(3) 1991年8月14日、韓国の元「慰安婦」の一人である金学順(キム・ハクスン)さんが、「日本政府は挺身(ていしん)隊〔「慰安婦」のこと〕の存在を認めない。怒りを感じる」として、初めて実名で証言します。
同年12月6日、金さんをふくむ韓国の元「慰安婦」3人(のちに9人)は、「組織的、強制的に故郷から引きはがされ、逃げることのできない戦場で、日本兵の相手をさせられた」として、日本政府を相手取って補償要求訴訟を提起しました。
日本国内でも、市民団体や研究者による真相究明を求める運動が起こりました。
日本政府、「慰安婦」に政府(軍)の関与認める
こうした事態をうけ、日本政府は、1991年12月から日本軍「慰安婦」問題について本格的な調査に乗り出します。
(1) 1992年7月6日、加藤紘一官房長官(当時)が談話を発表し、関係資料を調査した結果として、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められた」とし、「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と表明しました。
こうして、加藤談話は、「慰安婦」問題での政府(軍)の関与を認めるものとなりました。慰安所の経営・監督にかかわる公文書には、「慰安所規定」も含まれており、「慰安所」における「慰安婦」の生活が自由のない強制的なものであったこと――強制使役であったことも、この調査によって明らかになりました。同時に、加藤長官が、「朝鮮人女性の強制徴用を示す資料はなかったのか」との問いに、「募集のしかたについての資料は発見されていない」と答えたことが、「強制連行は否定」と報道され、談話への強い批判が寄せられます。
(2) この調査に対しては、国内外から「調査が不十分」との批判があがります。とくに、韓国政府は、日本政府の調査を「評価する」と指摘する一方、「全貌を明かすところまでは至っていない」として、(1)今後も日本政府による真相糾明への努力を期待する、(2)韓国政府として独自の調査報告書を発表する――と表明しました。
1992年7月31日、韓国政府は、元「慰安婦」からの聞き取り調査も経て200ページを超える報告書(「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」)を発表し、韓国政府として「慰安婦の募集方法」などの追加調査を求めました。
“強制性を立証する日本側の公文書は見つからなかった”
(1) これらの事態を受けて、日本政府は再度、国内だけでなく国外まで広げて「慰安婦」問題の調査をすすめます。
この再調査では、「慰安婦」とされる過程での強制性、すなわち「本人の意思に反して慰安婦とされた」という事実を立証する公文書を見つけることが、大きな焦点の一つとなりました。しかし、日本政府の再調査でも、結局、日本側の公文書に関して言えば、そうした文書を見つけることはできませんでした。
それは、「談話」を発表した河野元官房長官が「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書があったかと言えば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかった」(出典c)とのべ、「談話」をとりまとめる事務方の責任者だった石原信雄元官房副長官が「通達とか指令とかいろんな資料を集めたんですけど、文書で強制性を立証するようなものは出てこなかったんです」(出典b)と証言しているとおりです。
(2) 強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議なことでも、不自然なことでもありません。拉致や誘拐などの行為は、当時の国内法や国際法でも、明々白々な犯罪行為でした。政府であれ、軍であれ、明々白々な犯罪行為を指示する公文書などを、作成するはずがありません。かりに、それを示唆するような文書があったとしても、敗戦をむかえるなかで、他の戦争犯罪につながる資料とともに処分されたことが推測されます。
河野氏も「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」(出典d)、「そういう命令をしたというような資料はできるだけ残したくないという気持ちが軍関係者の中にはあったのではないかと思いますね。ですからそういう資料は処分されていたと推定することもできるのではないかと考えられます」(出典a)と同様の認識を示しています。
強制性を証明する日本側の文書が見つからなかったことをもって、強制的に「慰安婦」とされたという事実そのものを否定することは、まったく成り立たない議論です。
強制性を検証するために、元「慰安婦」への聞き取り調査をおこなう
(1) 文書が見つからないもとで、日本政府は、「慰安婦」とされた過程に強制性があったかどうかについての最終的な判断を下すため、ここで初めて政府として直接に元「慰安婦」から聞き取り調査をおこなうことを決定し、調査団を韓国に派遣します。そして、元「慰安婦」16人からの直接の聞き取り調査をおこないます。
このように、元「慰安婦」からの聞き取り調査の目的は、強制的に「慰安婦」にしたという日本側の公文書が発見されないもとで、強制されたという主張が真実かどうかを、直接、被害者から聴取することで検証しようとするところにありました。
聞き取り調査の目的がここにあったことは、河野・石原両氏の証言からも明白です。河野氏は、「文書資料を見つけることも大事だけれども、いわゆる慰安婦だったという方から聞き取り調査を丁寧にやる方がいいということで、韓国で聞き取り調査をやることにした」(出典a)と証言しています。石原氏は、「強制性を立証できるような物的証拠」がないもとで、「元慰安婦の人たちにお会いして、その人たちの話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかどうかを最終的に判断しようということにした」(出典b)とのべています。
(2) そして元「慰安婦」の人たちの証言を聞いた結果、日本政府は、「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったことは間違いないという判断をするに至ります。そうした判断をするにいたった事情について、「談話」のとりまとめにあたった河野・石原両氏は、つぎのように証言しています。
河野氏は、「話を聞いてみると、それはもう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」(出典a)とのべています。
石原氏は、「その報告の内容から、明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、だまされた人、普通の女子労働者として募集があって行ったところが慰安所に連れて行かれたという人、それからいやだったんだが、朝鮮総督府の巡査が来て、どうしても何人か出してくれと割り当てがあったので、そういう脅しというか、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにその意に反して慰安婦とされた人たちが一六人のなかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君から受けたわけです。総理も官房長官も一緒にその話を聞いたんです。結局私どもは、通達とか指令とかという文書的なもの、強制性を立証できるような物的証拠は見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち一六人のヒヤリングの結果は、どう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いないということになりましたので、そういうことを念頭において、あの『河野談話』になったわけです」(出典b)とのべています。
こうして、「河野談話」では、朝鮮半島では「(慰安婦の)募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」ことが明記され、「慰安婦」とされる過程でも「本人たちの意思に反し」た=強制性があったことを、認めるに至ったのです。また、他の証言記録や資料も参照した上で、全体状況としては、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」ことが明記されたのです。
「河野談話」の作成は、もちろん河野氏個人によるものでなく、当時の総理大臣、官房長官、官房副長官、外務省、厚生省、労働省など関係省庁などが集団的に検討・推敲(すいこう)し、内閣の責任でおこなったものであることは、河野・石原両氏が証言していることです。
元「慰安婦」証言から強制性の認定をおこなった「河野談話」の判断は公正で正当なもの
(1) 「河野談話」見直し派は、元「慰安婦」の証言について、「裏付け調査をしていない」ことをことさらに問題視していますが、これは聞き取り調査の目的を理解しない、ためにする議論です。
すでにのべてきたように、元「慰安婦」に対する聞き取り調査の目的は、日本軍「慰安婦」制度において、女性たちが「慰安婦」とされた過程に強制性があったか否かということを最大の焦点として、その実態と真相を究明することにありました。
それは、刑事裁判における証言のように、個別具体的な犯罪行為を特定して裁くことを目的としたものではありません。また、民事裁判における証言のように個々の被害事実を認定して賠償させることを目的とするものでもありません。
16人の元「慰安婦」の聞き取り調査は、「慰安婦」とされた方から直接に話を聞くことで、「意思に反して慰安婦とされた」という訴えに真実性があるかどうかを判断するということを最大の目的にしておこなわれたものです。この点で、十分に確信をもって強制性を判断できる証言を得たというのが聞き取り調査だったのですから、「裏付け調査」など、もとより必要とされなかったのです。
(2) もともと、元「慰安婦」の聞き取り調査について、「裏付け調査をしていない」とか、証言に「間違いがある」、「信憑性に疑問がある」などの批判は、いまに始まったことではありません。こうした批判にたいしては、当事者である河野氏が、すでに1997年の段階でおこなった一連の発言の中で、次のようにのべています。
「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる」(出典d)。
「局部的には思い違いがあるのではないか、こんなことはなかったのではないか、つまり、場所が違ってやしないかとか、何がどうだということはあったとしても、大筋において経験がなければ、体験がなければ、こんなことを証言できないと思える部分というのは、非常にあっちこっちにあるということははっきりしています」(出典c)。
「私はその証言を全部拝見をしました。『その証言には間違いがある』という指摘をされた方もありますが、少なくとも被害者として、被害者でなければ到底説明することができないような証言というものがその中にあるということは重く見る必要がある、というふうに私は思ったわけでございます。
……はっきりしていることは、慰安所があり、いわゆる慰安婦と言われる人たちがそこで働いていたという事実、これははっきりしています。それから慰安婦の輸送について軍が様々な形で関与したということも、これもまた資料の中で指摘をされていたと思います。
そういう状況下でもう一つは、……当時の社会情勢の中で軍が持っている非常に圧倒的な権力というものが存在した。他方、いわゆる従軍慰安婦であったと言われる方々からの証言というものを聞いてみても、それはもう明らかに被害者でなければ言えないような証言というものが聞かれた。等々それらを総合的に判断をすれば、これはそうしたこと(強制性)がなかったとは到底言えない。むしろそういうことがあったと言わざるを得ない状況であろう、というふうに私は判断をしたわけでございます」(出典c)。
河野氏は、かりに個々には「局部的に思い違い」などがあったとしても、16人の元「慰安婦」の証言の全体と当時の資料等を「総合的に判断」するならば、日本軍「慰安婦」制度において、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したことは否定できない事実だとの認定をおこなったとしています。
これは当然の責任ある判断です。当時の政府が、「河野談話」において、こうした立場にたって認定をおこなったことは、公正で正当なものでした。
日本の司法による事実認定――「河野談話」の真実性は歴史によって検証された
「河野談話」見直し派の攻撃の第二の問題点は、「談話」が発表されて以降の20年余、「談話」の真実性を裏付ける無数の証拠が次つぎに明らかにされたにもかかわらず、それを一切無視しているということです。
加害国である日本の司法による事実認定
証拠は、被害者の証言、加害者側の証言・記録、内外の公文書など、さまざまな形で明らかにされていますが、そのなかでも、加害国である日本の司法による事実認定は、きわめて重い意味をもっています。
各国の元「慰安婦」が、日本政府を被告として謝罪と賠償を求めた裁判は、つぎの10件にのぼります。
1、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」(提訴年1991年、原告9人)。
2、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」(提訴年1992年、原告3人)。
3、「フィリピン『従軍慰安婦』国家補償請求訴訟」(提訴年1993年、原告46人)。
4、「在日韓国人元『従軍慰安婦』謝罪・補償請求訴訟」(提訴年1993年、原告1人)。
5、「オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟」(提訴年1994年、原告1人)。
6、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」(提訴年1995年、原告4人)。
7、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第二次)」(提訴年1996年、原告2人)。
8、「山西省性暴力被害者損害賠償等請求訴訟」(提訴年1998年、原告10人)。
9、「台湾人元『慰安婦』謝罪請求・損害賠償訴訟」(提訴年1999年、原告9人)。
10、「海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟」(提訴年2001年、原告8人)。
(注)原告数は、「慰安婦」被害者・その遺族・訴訟承継人の数で、その他の原告は含んでいません。また、原告の数は、2次、3次の提訴分も含みますが、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟」以外は一つの判決にまとめられているので、合計しています。
これらの裁判の結論は、いずれも原告の損害賠償請求を認めるものとはなりませんでしたが、10件の裁判のうち8件の裁判(上記裁判のうち「フィリピン『従軍慰安婦』国家補償請求訴訟」、「台湾人元『慰安婦』謝罪請求・損害賠償訴訟」をのぞく8件の裁判)の判決では、元「慰安婦」たちの被害の実態を詳しく事実認定しています。
それらの一連の判決は、「河野談話」が認めた、「慰安所」への旧日本軍の関与、「慰安婦」とされる過程における強制性、「慰安所」における強制使役などを、全面的に裏付ける事実認定をおこなっています。加害国である日本の裁判所が、厳格な証拠調べをおこなった結果認定している事実認定は、特別の重さがあります。それは、「河野談話」見直し派が声高に叫ぶ「強制連行はなかった」という主張を打ち砕くものとなっています。
「河野談話」が認めた五つの事実のすべてが「事実と証拠」に基づいて認定された
一連の判決の中では、事実認定は、(1)事件の「背景事情」と、(2)「各原告の被害事実」についておこなわれています。
まず事件の「背景事情」について、一連の裁判の判決は、「河野談話」が認めた事実をほぼ全面的に認めるものとなっています。たとえば、韓国人元「慰安婦」たちが提起した「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」における東京高裁判決(2003年7月22日)はつぎのようにのべています。
「本件の背景事情のうち争いのない事実と証拠(……)によれば、次の事実が認められる。
ア、旧日本軍においては、昭和7年(1932年)のいわゆる上海事変の後ころから、醜業を目的とする軍事慰安所(以下単に『慰安所』という。)が設置され、そのころから終戦時まで、長期に、かつ広範な地域にわたり、慰安所が設置され、数多くの軍隊慰安婦が配置された。……
イ、軍隊慰安婦の募集は、旧日本軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者がこれに当たっていたが、戦争の拡大とともに軍隊慰安婦の確保の必要性が高まり、業者らは甘言を弄し、あるいは詐欺脅迫により本人たちの意思に反して集めることが多く、さらに、官憲がこれに加担するなどの事例も見られた。
戦地に移送された軍隊慰安婦の出身地は、日本を除けば、朝鮮半島出身者が大きな比重を占めていた。
ウ、旧日本軍は、業者と軍隊慰安婦の輸送について、特別に軍属に準じて渡航許可を与え、また、日本国政府は軍隊慰安婦に身分証明書の発給を行っていた。
エ、慰安所の多くは、旧日本軍の開設許可の下に民間業者により経営されていたが、一部地域においては旧日本軍により直接経営されていた例もあった。民間業者の経営については、旧日本軍が慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金、利用に際しての注意事項等を定めた慰安所規定を定め、軍医による衛生管理が行われるなど、旧日本軍による慰安所の設置、運営、維持及び管理への直接関与があった。
また、軍隊慰安婦は、戦地では常時旧日本軍の管理下に置かれ、旧日本軍とともに行動させられた。……」。
このように判決文は、「河野談話」が認定した五つの事実のほぼすべてについて、裁判をつうじての「争いのない事実と証拠」にもとづいて、事実認定しています。
被害者の一人ひとりについて詳細な事実認定がおこなわれた
一連の判決は、「各自の事実経過」として、元「慰安婦」が被った被害について、一人ひとりについて詳細な事実認定をおこなっています。
八つの裁判の判決で、被害を事実認定されている女性は35人にのぼります。内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人です。一人ひとりの被害に関する事実認定は、読み通すことに大きな苦痛を感じる、たいへん残酷かつ悲惨な、生なましい事実が列挙されています。その特徴点をまとめると、以下のことが確認できます。
(1) 35人の被害者全員が強制的に「慰安婦」にさせられたと事実認定した
八つの裁判の判決では、35人全員について、「慰安婦」とされた過程が「その意に反していた」=強制性があったことを認定しています。「慰安婦」とされた年齢については、裁判記録で確認できるものだけでも、35人のうち26人が10代の未成年でした。
韓国人の被害者のケース。甘言など詐欺によるものとともに、強圧をもちいての強制的な連行の事実が認定されています。たとえば、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の東京高裁判決(2003年7月22日)、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の広島高裁判決(2001年3月29日)で認定された個々の被害事実のうち、4名のケースについて示すことにします。(〈 〉内は引用者)。
「帰宅する途中、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の男性二人に呼び止められ、『倉敷の軍服工場にお金を稼ぎに行かないか。』と言われ、承諾もしないうちに、船に押し乗せられてラバウルに連行された」。
「『日本人の紹介するいい働き口がある』と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、芙江から京城、天津を経て〈中国各地の慰安所に〉連れて行かれた」。
「日本人と朝鮮人が来て、『日本の工場に働きに行けば、一年もすれば嫁入り支度もできる。』と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられ〈た〉」。
「日本人と朝鮮人の青年から『金儲けができる仕事があるからついてこないか。』と誘われて、これに応じたところ、釜山から船と汽車で上海まで連れて行かれ、窓のない30ぐらいの小さな部屋に区切られた『陸軍部隊慰安所』という看板が掲げられた長屋の一室に入れられた」。
中国人の被害者のケース。そのすべてについて、日本軍人による暴力を用いての文字通りの強制連行が認定されています。「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」の東京高裁判決(2004年12月15日)が認定した4名の被害事実について示すことにします。
「日本軍兵士によって自宅から日本軍の駐屯地のあった進圭村に拉致・連行され、駐屯地内のヤオドン(岩山の横穴を利用した住居。転じて、横穴を穿ったものではなく、煉瓦や石を積み重ねて造った建物も指す。)に監禁された」。
「3人の中国人と3人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭村にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンの中に監禁された」。
「日本軍が襲い、……銃底で左腕を殴られたり、後ろ手に縛られたりして進圭村に連行され、一軒の民家に監禁された」。
「日本軍兵士によって強制的に進圭村の日本軍駐屯地に拉致・連行され、日本軍兵士などから『夫の居場所を吐け』などと尋問されたり、何回も殴打されるなどした上、ヤオドンの中に監禁され〈た〉」。
(2) 「慰安所」での生活は、文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まるものだった
被害者の女性たちが、「慰安所」に入れられた後の生活は、一切の自由を奪われる状況のもとで、連日にわたって多数の軍人相手の性行為を強要されるという、文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まりないものだったことが、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されています。「慰安所」での生活は、性行為の強要だけでなく、殴打など野蛮な暴力のもとにおかれていたことも、明らかにされています。
(3) 被害者は、肉体的・精神的に深い傷を負い、生涯にわたる後遺症に苦しんでいる  
被害者の女性たちが、「慰安所」での虐待によって、肉体的・精神的に深い傷を負い、生涯にわたって後遺症に苦しんでいる事実も認定されています。多くの女性たちが、戦後から今日にいたるまで、「慰安所」での虐待によって、不妊、さまざまな身体的障害、重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)などに苦しめられている事実が明らかにされています。
これらの個々の事実認定は、「河野談話」が認めた「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して」慰安婦とされたこと、「官憲等が直接これに加担したこと」、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものだったこと」を、否定できない事実の積み重ねによって、明らかにするものとなっています。
「河野談話」見直し派は、日本の司法によるこうした事実認定を前にしてもなお、「強制連行はなかった」、「強制的に『慰安婦』とされたという主張には根拠がない」と言い張るつもりでしょうか。
国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為との告発が
日本の司法による判決は、個々の被害事実を認定しているだけではありません。こうした強制が国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為であることをつぎのように告発しています。
「甘言、強圧等により本人の意思に反して慰安所に連行し、さらに、旧軍隊の慰安所に対する直接的、間接的関与の下、政策的、制度的に旧軍人との性交を強要したものであるから、これが二〇世紀半ばの文明的水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった」「従軍慰安婦制度がいわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって、これにより慰安婦とされた多くの女性の被った損害を放置することもまた新たに重大な人権侵害を引き起こす……」(「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」、山口地裁下関支部判決、1998年4月27日)。
「被害者原告らに対して加えられた日本兵による強姦等の所業は、それが日中戦争という戦時下において行われたものであったとしても、著しく常軌を逸した卑劣な蛮行というほかはなく、被害者原告らが被った精神的被害が限りなく甚大で、原告ら主張のとおり耐え難いものであったと推認するに難くはなく、また、そのような被害を契機として、その同胞からいわれのない侮蔑、差別などを受けたことも、国籍・民族の違いを超えて、当裁判所においても、優に認め得ることができ〈る〉……」(「山西省性暴力被害者損害賠償請求訴訟」、東京地裁判決、2003年4月24日)。
「極めて反人道的かつ醜悪な行為」、「ナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害」、「著しく常軌を逸した卑劣な蛮行」――日本の司法による判決でのこのような峻烈(しゅんれつ)な断罪は、きわめて重く受け止めるべきものです。
「河野談話」の真実性は、いよいよ確かなものとなった
元「慰安婦」が提起した一連の裁判の判決の意義について、河野元官房長官は次のようにのべています。
「平成三年(一九九一)か、四年(一九九二)から、いわゆる従軍慰安婦と言われた人たちが、日本へ来て訴訟を起こすわけですね。その訴訟裁判で事実関係についても、いろいろやりとりがある。平成一四年(二〇〇二)に高裁の判決が出て、最高裁に上告されて最高裁はそれを棄却するわけですね。棄却すると結局高裁の判断が最終的な判断ということになるわけですが、その高裁の判断の裁判長の説明の中に、補償することはもうない、時間が経過してしまったし、両国関係において条約的な処理がなされている、したがって、この人に補償を出すことはないという判断ですが、この人が従軍慰安婦としてどのくらいの苦しみを受けたかという事実関係については、高裁が全部認定した形になっているんですね。最高裁が上告を棄却して戻すわけですから、私は日本の司法はその部分については認めたことになっていると思うんです。その高裁の判決文を読むと、……数人の慰安婦と言われる原告が自分の経験を述べておられて、そのことが判決文にみな書かれてある。それはもう司法の判断としても、そのとおりだという判断を下している。司法のレベル、司法の分野では決着がついていると私は見ているわけです。それに対して政治の世界が、あれはおかしいという。あるいは学術の世界では、学問的にどうだということをいう。それぞれお立場上おっしゃることはご自由ですけれども、事実関係については、私はもう日本の司法が認定をしたと考えています。それはわれわれが聞き取り調査をしたりしたことは間違いなかったということを保証してくれるものであると思います」(出典a)。
河野氏がのべているように、日本軍「慰安婦」に関する事実関係について、「日本の司法が認定」を下し、「司法の分野では決着」がついたのです。司法の認定は、16人の元「慰安婦」への聞き取り調査にもとづく当時の日本政府の判断が、「間違いなかったということを保証」するものともなりました。「河野談話」の真実性は、日本の司法によって、いよいよ確かなものとなったのです。
「軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」とする政府答弁書の撤回を
 「強制連行を直接示す記述はなかった」とする政府答弁書は、事実と違う
「河野談話」見直し派が、「強制連行を示す証拠はない」などと主張するさいに、その「根拠」として最大限利用しているのが、第1次安倍政権が閣議決定した2007年3月16日の政府答弁書(辻元清美衆議院議員の質問主意書にたいする答弁書)です。この政府答弁書には、次の記述が含まれています。
「同日(『河野談話』を発表した1993年8月4日)の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」。
しかし、この政府答弁書は、事実と違います。
すでにのべてきたように、「河野談話」を発表した時点までに、「慰安婦」とされる過程での強制性を立証する日本側の公文書は見つかりませんでした。しかし、この時点でも、すでに強制的に「慰安婦」にされたことを示す外国側の公文書は存在していました。少なくとも、つぎの二つの公文書は、日本政府は間違いなく知っていたはずです。
オランダ人女性を強制的に連行して「慰安婦」とした「スマラン事件」
第一は、日本の占領下に置かれたオランダ領東インド(現インドネシア)のスマランで軍が「慰安所」を開設し、抑留所に収容していたオランダ人女性を強制的に連行して「慰安婦」にしたという「スマラン事件」にかかわる公文書です。
「スマラン事件」では、戦後のオランダによるBC級戦犯裁判(バタビア臨時軍法会議)で中将や大佐、少佐など日本の軍人7名と軍慰安所経営者4名が死刑や禁錮15年を含む有罪判決を受けました。
この裁判文書を法務省が要約した「バタビア臨時軍法会議の記録」が、「河野談話」の発表とあわせて公表された「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」(内閣外政審議室、1993年8月4日)に含まれていました。そこには「判決事実の概要」として次のような記述がなされています。
「女性の全員又は多くが強制なしには売春に応じないであろうことを察知し得たにもかかわらず、監督を怠った事実、及び、慰安所で女性を脅して売春を強制するなどし、また部下の軍人又は民間人がそのような戦争犯罪行為を行うことを知り、又は知り得たのにそれを黙認した」(死刑とされた元少佐)
「部下の軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどしたような戦争犯罪行為を知り又は知り得たにもかかわらずこれを黙認した」(有期刑10年の元少佐)
これらの事実は、「河野談話」のとりまとめにあたって各省庁に提出させた文書の一環として、法務省が「いわゆる従軍慰安婦問題に関連する戦争犯罪裁判についての調査結果の報告」としてまとめた報告の中にもほぼ同じ内容で記述されています。
「河野談話」の発表のさいは、法務省のまとめた「判決事実の概要」だけが発表され、そのもととなった裁判原資料は公開されませんでしたが、こうした「概要」からだけでも、強制連行の事実を十分に確認することができます。
さらに2013年9月、法務省の集めていた起訴状や判決文など530枚にのぼる原資料が、市民団体の請求に応じて国立公文書館で開示されました。そこには、判決文をはじめ、強制連行の事実を生々しく示す証拠資料が多数含まれています。判決文は次のように事実認定しています。
「日本占領軍当局は、之等婦女子より自由を奪ふことに依りて完全なる従属状態に置き以て彼女等の扶養、保護に対する責任を一手に掌握せり。之にも飽き足らず、占領軍当局者は此の無援、不当なる従属関係を濫用し、暴力或は脅迫を以て、数名の婦女子を最も侮辱的なる選択の後、抑留所より連行せり」。
これらは、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述」そのものです。しかも、この開示資料の中には、ジャワ軍司令部そのものが関与していたことを示す日本軍幹部の証言も含まれていました。
「河野談話」の発表に先立って、日本政府が、強制連行を直接の形で示すこれらの公文書を把握していたことは、疑いようがありません。
東京裁判の判決に明記されている中国南部の桂林での強制連行
第二は、極東国際軍事裁判所(東京裁判)の判決に明記されている中国南部の桂林での強制連行の事例です。
東京裁判の裁判文書の中には、中国、インドネシア、ベトナムという3カ国での強制連行を示す証拠文書が含まれています。とりわけ桂林については、判決そのものにつぎのような記述があります。
「桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、彼らは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」。
この記述も、軍による強制的な連行を示すものであることは明らかです。
日本は、1952年のサンフランシスコ平和条約で、東京裁判やBC級戦犯裁判の結果を受諾しています。したがって、その内容について知らないはずはありません。また、その内容について異議をのべる立場にないことは明らかです。その点は、安倍政権自身が、「我が国は、日本国との平和条約第十一条により、同裁判を受諾しており、国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない」(2007年4月20日の政府答弁書)と回答している通りです。
日本政府として、BC級戦犯裁判や東京裁判の公文書に明記されている強制連行を示す記述を知らなかったと言い張ることは、通用する話では決してありません。
事実と異なり、有害きわまる役割を果たしている政府答弁書の撤回を求める
このように、「河野談話」の発表までの時点でみても、「政府が発見した資料」(あるいは政府が知っていた資料)のなかに、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述」があったことは、否定しようのない事実です。
さらに、「河野談話」発表以後、日本の司法の裁判によって明らかになった強制連行の数々の事実認定を踏まえるならば、「軍や官憲による強制連行を直接示すような記述が見当たらなかった」とする政府答弁書の立場に、今日なお政府が固執し、その主張を繰り返すことは、許されるものではありません。
第1次安倍政権による政府答弁書は、「河野談話」見直し派によって、「錦の御旗」として利用されています。それは独り歩きして、歴史の事実を捻(ね)じ曲げる役割を果たしています。すなわち、政府答弁書そのものは、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」であるのに、それが「強制連行を示す証拠はなかった」と読み替えられ、さらに「強制連行はなかった」と読み替えられ、日本軍「慰安婦」制度の強制性全般を否定する最大のよりどころとして利用されているのです。
日本共産党は、事実と異なり、歴史の事実を捻じ曲げる有害きわまる役割を果たしている、2007年3月16日の政府答弁書を撤回することを、強く求めるものです。
歴史に正面から向き合い、誠実かつ真摯に誤りを認め、未来への教訓とする態度を
 女性に対する国際的人権保障の発展と、日本軍「慰安婦」問題
この間、国際社会では、女性に対する組織的な性暴力――強姦、性的奴隷、強制売淫、強制妊娠、強制不妊など――を時効の許されない「人道に対する罪」に位置づけた国際刑事裁判所の「規程」の採択(1998年)など、女性の国際的人権保障が大きく発展してきました。
女性に対するいっさいの組織的な性暴力を根絶し、そのためにも、過去の重大な誤りの清算を求めている国際社会にあって、日本軍「慰安婦」問題での日本の態度がたえず批判の対象にされるのは当然であり、日本政府には、国際的な批判にこたえる国際的な責務があります。
「性奴隷制」を認め、強制性を否定する議論に反論を――これが世界の声
(1) 「強制連行はなかった」とする安倍政権の動きが強まった2007年以降、日本軍「慰安婦」制度の強制性を否定する勢力の策動は、世界中から厳しい批判をあびました。
これまでに、米国下院、オランダ下院、カナダ下院、欧州議会、韓国国会、台湾立法院、フィリピン下院外交委員会と七つの国・地域の議会から日本政府にたいする抗議や勧告の決議があげられています。国連や国際機関からも、国連の二つの詳しい調査報告書(1996年の国連人権委員会「クマラスワミ報告」、1998年の同委員会「マクドゥーガル報告」)のほか、国連人権理事会、自由権規約委員会、社会権規約委員会、女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会、国際労働機関(ILO)などから、日本政府にたいする是正勧告が繰り返し出されています。
(2) 2007年7月に採択された米国下院の決議は次のようにのべています。
「日本政府は、……世界に『慰安婦』として知られる、若い女性たちに性的奴隷制を強いた日本皇軍の強制行為について、明確かつ曖昧さのない形で、歴史的責任を公式に認め、謝罪し、受け入れるべきである」。
「日本政府は、日本皇軍のための『慰安婦』の性奴隷化と人身取引は決してなかったとするいかなる主張にたいしても、明確かつ公的に反駁(はんばく)すべきである」。
(3) 2007年12月に採択された欧州議会の決議は次のようにのべています。
「世界に『慰安婦』として知られる、若い女性たちに性的奴隷制を強いた日本皇軍の強制行為について、明確かつ曖昧さのない形で、歴史的かつ法的責任を公式に認め、謝罪し、受け入れることを、日本政府に要請する」。
「『慰安婦』の隷属化と奴隷化は決してなかったとするいかなる主張にたいしても、公的に反駁することを日本政府に要請する」。
日本軍「慰安婦」制度は、政府と軍による「性的奴隷制」であったという事実を明確かつ曖昧さのない形で公式に認めるべきだ、「慰安婦」制度の強制性を否定するいかなる主張に対しても明確かつ公式に反論するべきだ――これが日本政府につきつけられている世界の声なのです。
「河野談話」の見直しを叫び、日本軍「慰安婦」制度の強制性を否定する主張は、日本のごく一部の極右的な集団のなかでは通用しても、世界ではおよそ通用しないものであり、最も厳しい批判の対象とされる主張といわなければなりません。
歴史を改ざんする勢力に未来はない
いま日本政府の立場が厳しく問われています。
安倍政権が、「河野談話」見直し論にたいして、毅然(きぜん)とした態度をとらず、それに迎合する態度をとり続けるならば、人権と人間の尊厳をめぐっての日本政府の国際的信頼は大きく損なわれることになるでしょう。
都合の悪い歴史を隠蔽(いんぺい)し、改ざんすることは、最も恥ずべきことです。そのような勢力に未来は決してありません。
日本共産党は、日本政府が、「河野談話」が明らかにした日本軍「慰安婦」制度の真実を正面から認めるとともに、歴史を改ざんする主張にたいしてきっぱりと反論することを強く求めます。さらに、「河野談話」が表明した「痛切な反省」と「心からのお詫び」にふさわしい行動――事実の徹底した解明、被害者にたいする公式の謝罪、その誤りを償う補償、将来にわたって誤りを繰り返さないための歴史教育など――をとることを強く求めるものです。
歴史はつくりかえることはできません。しかし向き合うことはできます。歴史の真実に正面から向き合い、誠実かつ真摯(しんし)に誤りを認め、未来への教訓とする態度をとってこそ、日本はアジアと世界から信頼され尊敬される国となることができるでしょう。
日本共産党は、歴史の逆流を一掃し、日本の政治のなかに、人権と正義、理性と良心がつらぬかれるようにするために、あらゆる力をつくすものです。 
 
「河野談話」否定論と日本軍「慰安婦」問題の核心 2014/9

 

「吉田証言」が虚偽だったことを利用した「河野談話」攻撃の大キャンペーン
朝日新聞は8月5、6日付で掲載した「慰安婦問題を考える」と題した報道検証特集で「吉田(清治)氏が(韓国)済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」と訂正しました。これをきっかけに、一部右派メディアと過去の侵略戦争を肯定・美化する「靖国」派の政治勢力が一体となって、異常な「朝日」バッシングが続けられています。見過ごせないのは、その攻撃の矛先が、「慰安婦」問題で日本軍の関与と強制性を認め、謝罪を表明した河野洋平官房長官談話(1993年8月4日――以下「河野談話」)に向けられていることです。
それは、「吉田証言」が虚偽であった以上、「河野洋平官房長官談話などにおける、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹は、もはや崩れた」(「産経」8月6日付主張)というものです。「靖国」派議員の集団である自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は8月15日に緊急総会を開き、「河野談話の根拠が揺らいだ」などとして、萩生田光一・同会幹事長代行(自民党総裁特別補佐)が「(河野談話を否定する)新しい談話が出てきてもいい」などと発言しています。8月26日には、自民党の高市早苗政調会長(当時)が「河野談話」に代わる「新たな内閣官房長官談話」を出すよう菅義偉官房長官に申し入れています。「河野談話」否定派からは、「河野談話の取り消しなくしてぬれぎぬは晴らせない。潰すべき本丸は河野談話なのである」(ジャーナリストの桜井よしこ氏、「産経」9月1日付)と、本音があからさまに語られています。
「河野談話」を攻撃するキャンペーンは、これまでも繰り返し行われてきました。それがどのような特徴をもっているのか、歴史の真実と国際的道理に照らしていかに成り立たない議論であるかについては、すでに日本共産党の志位和夫委員長が今年3月14日に発表した見解「歴史の偽造は許されない―『河野談話』と日本軍『慰安婦』問題の真実」(以下、「志位見解」)で全面的に明らかにされています。「志位見解」は、「河野談話」の作成過程と、日本の司法による事実認定の両面から、「談話」の真実性を明らかにしつつ、「河野談話」否定論について、「歴史を偽造し、日本軍『慰安婦』問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません」と批判しました。
ここでは、「志位見解」を踏まえて、「吉田証言」取り消しに乗じた「河野談話」攻撃に反論するとともに、それを通じて日本軍「慰安婦」問題の核心がどこにあるのかを、改めて明らかにするものです。
「河野談話」は「吉田証言」を根拠にせず――作成当事者が証言
第一に、「河野談話」否定派は、「吉田証言が崩れたので河野談話の根拠は崩れた」などといっていますが、「河野談話」は、「吉田証言」なるものをまったく根拠にしていないということです。
「吉田証言」とは、1942年から3年間、「山口県労務報国会」の動員部長を務めたとする吉田氏が、1943年5月に西部軍の命令書を受けて、韓国・済州島で暴力的に若い女性を強制連行し、「慰安婦」とした(いわゆる「慰安婦狩り」)とする「証言」です。この「証言」は、1982年に「朝日」が初めて報じて以来、同紙が16回にわたって取り上げ、「慰安婦」問題が政治問題に浮上した90年代前半には他の全国紙も連載企画や一般の報道記事のなかで伝えました。「しんぶん赤旗」は92年から93年にかけて、吉田氏の「証言」や著書を3回とりあげました。
この「吉田証言」については、秦郁彦氏(歴史研究家)が92年に現地を調査し、これを否定する証言しかでてこなかったことを明らかにしました(「産経」92年4月30日付)。また、「慰安婦」問題に取り組んできた吉見義明中央大教授は、93年5月に吉田氏と面談し、反論や資料の公開を求めましたが、吉田氏が応じず、「回想には日時や場所を変えた場合もある」とのべたことなどから、「吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認する」(『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』97年6月出版)としました。
「吉田証言」の信ぴょう性に疑義があるとの見方が専門家の間で強まり、一方で元「慰安婦」の実名での告発や政府関係資料の公開などによって、「慰安婦」問題の実態が次々に明らかになるなかで、日本軍「慰安婦」問題の真相究明のうえで、「吉田証言」自身が問題にされない状況がうまれていたのです。
そうした状況のなかで、93年8月に発表された「河野談話」は、その作成の過程で、「吉田証言」をどのように扱ったのでしょうか。問題の核心はここにあります。この点で、9月11日に放映されたテレビ朝日系「報道ステーション」の「慰安婦」問題検証特集は、当時、官房副長官として「河野談話」作成に直接かかわった石原信雄氏の注目すべき証言を紹介しました。
そこで石原氏は、「吉田証言」について「あれはこう、なんていうか、眉唾(まゆつば)もんだというふうな議論はしていましたね、当時から」とのべ、日本政府として「吉田証言」をはなから問題にしていなかったことを明らかにしました。
そのうえで石原氏は、「吉田証言をベースにして韓国側と議論したということは、私はありません」「繰り返し申しますが、河野談話の作成の過程で吉田証言を直接根拠にして強制性を認定したものではない」と明言しました。
実際、当時、日本政府は吉田氏をヒアリングの対象にしましたが、証言は採用しませんでした。番組では、当時調査にあたった担当者に取材し、「私たちは吉田さんに実際会いました。しかし、信ぴょう性がなく、とても話にならないと。まったく相手にしませんでした」という証言も紹介しています。
石原氏が断言するように、「河野談話」はもともと「吉田証言」を根拠にしていないのですから、「吉田証言が崩れたから河野談話の根拠もなくなった」などという議論は成り立つ余地などないのです。
元「慰安婦」の証言から強制性を認定――「河野談話」の正当性は揺るがない
それでは、「河野談話」は、何をもって、「慰安婦」とされた過程に強制性があったと認定したのでしょうか。その点で、前出の石原元官房副長官が、同じテレビ番組で、元「慰安婦」の証言によって、「慰安婦」とされた過程での強制性を認定したとあらためて証言したことは重要です。
石原氏は、強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったもとで、韓国の16人の元「慰安婦」からの聞き取り調査をした経過を次のように説明しました。
「政府としては、その(女性の)意に反する形で慰安婦を募集したということがあったのかないのか、これは非常に重大な問題ですから、再度全省庁を督励して当時の戦中の資料の発掘調査を行った」
「慰安所の運営につきまして深く政府が関わっておった」「輸送について安全を図ってほしいとか、あるいは慰安所の運営について衛生管理あるいは治安の維持をしっかり頼むという趣旨の文書は出てきた」
「(募集にあたっての強制性を裏付ける資料は出てこなかったため)当事者(元『慰安婦』)の話を聞いて、その話の心証から、強制性の有無を判定することが必要だと決断した」
そして、石原氏は、元「慰安婦」からの聞き取りを行った結果、「募集の過程で、かなり強引な募集が行われたことがあったようです。結果的に脅かされたとか、だまされたとか、あるいは当時の官憲ですね、まあ巡査なんかが関わってかなり強制的に慰安婦に応募させられたという人がいることが証言から否定できないということになりました」と明らかにしています。
今年3月の「志位見解」は、「河野談話」作成にいたる経過を検証し、強制的に「慰安婦」にされたことを立証する日本側の公文書がみつからないもとで、強制性を検証するために元「慰安婦」の聞き取り調査を行い、他の証言記録や資料も参照したうえで、日本政府が「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったことは間違いないという判断をするに至ったことを、当時の河野官房長官らの証言によって明らかにしました。そのことが、当時、官房副長官だった石原氏の証言によってあらためて裏付けられたのです。
「志位見解」が明らかにしているように、そもそも強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議でもなんでもありません。当時から、拉致や誘拐などの行為は、国内法でも国際法でも明々白々な犯罪行為でしたから、それを命令する公文書などを作成するはずがないからです。また、日本政府と軍は敗戦を迎える中で、みずからの戦争責任を回避するため重要文書を焼却し証拠隠滅をはかったとされています。
被害者の証言は「被害者でなければ語りえない経験」(河野氏)であり、もっとも重要な証拠です。それに基づいて「河野談話」が、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したと認定したことは公正で正当なものでした。
「河野談話」の正当性は、いささかも揺るがないものであることは、これらの経過に照らしても明らかです。
日本軍「慰安婦」問題の本質を覆い隠す、問題の二重の矮小化は通用しない
「河野談話」否定派による、「吉田証言が虚偽だったので河野談話は崩れた」とする議論の根本には、「『強制連行の有無』が慰安婦問題の本質である」(「読売」8月6日付社説)と、「慰安婦」問題を「強制連行」の有無に矮小(わいしょう)化することで、その全体像と本質を覆い隠そうという立場があります。
「河野談話」が認定した事実は、(1)日本軍「慰安所」と「慰安婦」の存在、(2)「慰安所」の設置、管理等への軍の関与、(3)「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があったこと、(4)「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれたこと、(5)日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があったこと―の5点です。
このうち「談話」否定派が否定しようとしているのは、「もっぱら第3の事実――『慰安婦』とされる過程が『本人たちの意思に反していた』=強制性があったという一点にしぼられています」(「志位見解」)。
ここには、日本軍「慰安婦」問題の二重の矮小化があります。
第一に、「河野談話」否定派は、「慰安所」における強制使役=性奴隷状態とされたという事実を無視して、「慰安婦」とされた過程で「強制連行」があったかなかったかだけに、問題を矮小化しています。こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることは、すでに「志位見解」が次のようにきびしく批判しています。
「女性たちがどんな形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍『慰安所』に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書などに照らしても動かすことができない事実です。それは、『河野談話』が、『慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった』と認めている通りのものでした。この事実に対しては、『河野談話』見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、『軍性奴隷制』として世界からきびしく批判されている、日本軍『慰安婦』制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません」
第二は、そのうえで、「河野談話」否定派は、「慰安婦」とされた過程における強制性についても、「官憲による人さらいのような強制連行」があったか否かに問題を矮小化しています。
安倍首相は「家に乗り込んでいって強引に連れて行ったのか」(衆議院予算委員会、2006年10月6日)どうかを問題にして、そんな事例はないと繰り返してきました。首相は、「人さらい」のような「強制連行」だけをことさらに問題にしますが、甘言やだまし、脅迫や人身売買などによって「慰安婦」とされた場合は、問題がないとでもいうつもりでしょうか。「人さらい」のようなものでなくても、「慰安婦」とされた過程に「本人たちの意思に反した」強制があったかどうかが問題なのです。この点で強制性が働いていたという事実は、「河野談話」が明瞭に認定している通りです。
くわえて、「人さらい」のような「強制連行」もあったことは、インドネシア(当時オランダ領東インド)のスマランや中国南部の桂林での事件などでも明確であること、「軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」とする第1次安倍政権時代の政府答弁書は事実と違うことは、すでに「志位見解」で詳しくのべている通りです。
日本軍「慰安婦」問題の本質を覆い隠す、「河野談話」否定派による問題の二重の矮小化は、到底通用するものではありません。
「河野談話」否定派の議論は、国際社会では到底通用しない
国際社会が問題にしているのは、すでにのべた日本軍「慰安婦」問題の最大の問題――女性の人権を無視し、じゅうりんした、「慰安所」における強制使役=性奴隷制度にほかなりません。これまでに、米国下院、オランダ下院、カナダ下院、欧州議会、韓国国会、台湾立法院、フィリピン下院外交委員会と、七つの国・地域の議会から日本政府に対する抗議や勧告の決議があげられていますが、そのいずれもが問題にしているのは、「強制連行」の有無ではありません。軍(政府)による「慰安所」における強制使役=性奴隷制度こそが、国際社会からきびしく批判されている問題の核心なのです。
たとえば、2007年7月に米下院で採択された対日謝罪要求決議は、「河野談話」を弱めたり、撤回させようとする動きを非難し、「(日本政府は)世界に『慰安婦』として知られる若い女性たちに性的奴隷制を強いた日本皇軍の強制行為について、明確かつ曖昧さのない形で、歴史的責任を公式に認め、謝罪し、受け入れるべきである」と求めています。
「朝日」が「吉田証言」を取り消したからといって、この国際的立場はまったく変わるものではありません。英誌『エコノミスト』8月30日号は「『朝日』は済州島の件で間違ったのだろうが、戦時中、女性たちに売春を強制した日本の責任は疑いない」と指摘。同じく英紙のフィナンシャル・タイムズ(8月15日付)も、「日本の保守派の一部は、兵士や当局者が直接女性たちを力で狩り集めたかどうかの問題に焦点をあて、そうでなかったなら日本には責任がないと主張している。しかし、これは醜い言い訳だ」とする慶応大の小熊英二氏のコメントを紹介しています。
日本軍「慰安婦」問題の核心である軍「慰安所」における強制使役=性奴隷状態とされたことを無視し、「慰安婦」とされた過程における強制性も「強制連行」だけに矮小化する「河野談話」否定派の議論は、国際的にも到底通用するものではありません。
それは、「慰安婦」問題の本質と実態を隠し、重大な戦争犯罪を行った勢力を免罪するものにほかなりません。
「河野談話」攻撃の「論拠」が覆るもとでの悪あがき
「吉田証言」取り消しに乗じた「河野談話」攻撃は、みてきたように、実体的な根拠がないばかりか、国際的な道理ももたないものです。
経過を振り返ると、「河野談話」否定派は、「談話」が出た直後から、歴史的事実や被害者の証言も無視して、「河野談話」を“日本の名誉をおとしめるもの”などと攻撃してきました。2012年に第2次安倍政権が誕生すると「河野談話」否定派は勢いづき、今年2月20日には衆議院予算委員会で日本維新の会(当時)議員が「河野談話」見直しを求める質問を行い、同月28日には政府として「河野談話検証チーム」を発足させて作成過程を検討する事態にまでなりました。
こうしたなか、3月14日には、「河野談話」見直し論への徹底反論を通じて、「慰安婦」問題の真実を明らかにした「志位見解」が発表されます。その後にこの「見解」に対して「談話」否定派からの反論はいっさいありませんでした。
さらに、6月20日には政府による「河野談話検証チーム」が、検証結果を報告しますが、これを受け政府は「河野談話の継承」を表明せざるをえませんでした。政府自身が「河野談話の継承」を表明したことで、「談話」否定派は、その足場を失うことになりました。そこに飛び出したのが「朝日」の「吉田証言」取り消しです。「談話」否定派は、これに飛びついて、起死回生の大キャンペーンを開始しました。しかし、「河野談話」を否定する大キャンペーンは、国内外で矛盾をいっそう深めることにしかなりません。
すでに、「志位見解」は、元「慰安婦」らが日本政府に謝罪と賠償を求めた裁判では、(1)八つの判決での被害者35人全員について、強制的に「慰安婦」にされたとの事実認定がなされていること、(2)「慰安所」での生活は文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まるものだったことを、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されていることを、明らかにしています。そして、こうした強制が国家的犯罪として断罪されるべき反人道的行為であることを「極めて反人道的かつ醜悪な行為」「ナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害」などの峻烈(しゅんれつ)な言葉で告発していることを示しています。
「河野談話」否定派がどんなに事実をねじ曲げようとしても、加害国日本の司法によって認定された事実の重みを否定することは決してできません。
「河野談話」否定派がいま行っているキャンペーンは、自らの攻撃の「論拠」が根底から覆されるもとでの、悪あがきにすぎません。歴史を偽造するものは誰か。すでに答えはあまりにも明らかです。
安倍政権、一部メディアの姿勢が厳しく問われている
最後に指摘しておきたいのは、安倍政権が、「河野談話」攻撃に一切反論しないどころか、同調さえするという態度をとっていることです。
安倍政権は「河野談話」を継承するとの態度を繰り返し表明し、検証チームの結論も受けて、「河野談話の継承」を明確にしたはずです。ところが、「朝日」報道をきっかけに「河野談話」攻撃が強められているのに、それにいっさい反論していません。これは、政府としての重大な責任放棄といわなければなりません。
安倍首相は9月14日のNHK番組で朝日新聞に対し「世界に向かって取り消していくことが求められている」としたうえで、「事実ではないと国際的に明らかにすることを、われわれも考えなければならない」などとのべています。首相は、一体何を「取り消せ」というのでしょうか。「吉田証言」が虚偽であったことにかこつけて、日本軍「慰安婦」制度が「性奴隷制」であったこと、「慰安婦」とされた過程に強制性があったことを、「取り消せ」というのでしょうか。そうであるとするならば、「河野談話の継承」といいながら、「河野談話」否定の立場に自らの身を置く、不誠実な二枚舌といわねばなりません。
安倍政権が、「河野談話」否定論に毅然(きぜん)とした態度をとらず、同調する態度をとるならば、国際的信頼をさらに大きく損なうことは避けられないことを、私たちは強く警告しなければなりません。
「河野談話」攻撃に象徴される歴史偽造のキャンペーンに、日本の言論機関、大手メディアの一部がかかわっていることも重大です。戦前の侵略戦争に対して、現在の全国紙の前身である新聞各社は、その片棒をかつぎ、「満蒙は日本の生命線」とする議論をあおり、はては「大本営発表」を垂れ流すことで国民を侵略戦争に駆り立てました。今日のメディア状況をこの時代と重ねあわせ、深い憂慮を抱く人は少なくありません。
歴史偽造の逆流を決して許さない
「しんぶん赤旗」は、日本の良心を代表する新聞の一つとして、そうした心ある人々とともに歴史偽造の逆流を決して許さないたたかいに全力をあげるものです。そして、日本社会の一部に生まれている排外主義の風潮を許さず、女性の尊厳、人間の尊厳が守られる日本社会をつくるうえでも、歴史の真実を広く国民の共通認識にしていくために努力を続けるものです。
「吉田証言」の記事を取り消します
「しんぶん赤旗」は、吉田清治氏の「証言」について、日曜版92年1月26日号、日刊紙93年11月14日付でそれぞれとりあげたほか、日刊紙92年1月17日付では著書を紹介しています。93年11月の記事を最後に、「吉田証言」はとりあげていません。
別掲論文で明らかにしたように、「吉田証言」は、研究者らによって否定され、「河野談話」でも根拠にされませんでした。吉田氏自身がのちに、「本に真実を書いても何の利益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか」(『週刊新潮』96年5月2・9日号)などとのべています。
「吉田証言」は信ぴょう性がなく、本紙はこれらの記事を掲載したことについて、お詫(わ)びし、取り消します。
資料
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 1993/8/4
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫(わ)びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(外務省ホームページから)
日本の司法による事実認定―「河野談話」の真実性は歴史によって検証された
(「志位見解」から抜粋) 各国の元「慰安婦」が、日本政府を被告として謝罪と賠償を求めた裁判で認定された事実について、「志位見解」は、つぎのようにまとめています。
一連の判決は、「各自の事実経過」として、元「慰安婦」が被った被害について、一人ひとりについて詳細な事実認定をおこなっています。
八つの裁判の判決で、被害を事実認定されている女性は35人にのぼります。内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人です。一人ひとりの被害に関する事実認定は、読み通すことに大きな苦痛を感じる、たいへん残酷かつ悲惨な、生なましい事実が列挙されています。その特徴点をまとめると、以下のことが確認できます。
(1)35人の被害者全員が強制的に 「慰安婦」 にさせられたと事実認定した
八つの裁判の判決では、35人全員について、「慰安婦」とされた過程が「その意に反していた」=強制性があったことを認定しています。「慰安婦」とされた年齢については、裁判記録で確認できるものだけでも、35人のうち26人が10代の未成年でした。
韓国人の被害者のケース。甘言など詐欺によるものとともに、強圧をもちいての強制的な連行の事実が認定されています。たとえば、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の東京高裁判決(2003年7月22日)、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の広島高裁判決(2001年3月29日)で認定された個々の被害事実のうち、4名のケースについて示すことにします。(〈 〉内は引用者)。
「帰宅する途中、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の男性二人に呼び止められ、『倉敷の軍服工場にお金を稼ぎに行かないか。』と言われ、承諾もしないうちに、船に押し乗せられてラバウルに連行された」。
「『日本人の紹介するいい働き口がある』と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、芙江から京城、天津を経て〈中国各地の慰安所に〉連れて行かれた」。
「日本人と朝鮮人が来て、『日本の工場に働きに行けば、1年もすれば嫁入り支度もできる。』と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられ〈た〉」。
「日本人と朝鮮人の青年から『金儲(もう)けができる仕事があるからついてこないか。』と誘われて、これに応じたところ、釜山から船と汽車で上海まで連れて行かれ、窓のない三〇ぐらいの小さな部屋に区切られた『陸軍部隊慰安所』という看板が掲げられた長屋の一室に入れられた」。
中国人の被害者のケース。そのすべてについて、日本軍人による暴力を用いての文字通りの強制連行が認定されています。「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」の東京高裁判決(2004年12月15日)が認定した4名の被害事実について示すことにします。
「日本軍兵士によって自宅から日本軍の駐屯地のあった進圭村に拉致・連行され、駐屯地内のヤオドン(岩山の横穴を利用した住居。転じて、横穴を穿(うが)ったものではなく、煉瓦(れんが)や石を積み重ねて造った建物も指す。)に監禁された」。
「3人の中国人と3人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭村にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンの中に監禁された」。
「日本軍が襲い、……銃底で左腕を殴られたり、後ろ手に縛られたりして進圭村に連行され、一軒の民家に監禁された」。
「日本軍兵士によって強制的に進圭村の日本軍駐屯地に拉致・連行され、日本軍兵士などから『夫の居場所を吐け』などと尋問されたり、何回も殴打されるなどした上、ヤオドンの中に監禁され〈た〉」。
(2)「慰安所」での生活は、文字通りの「性奴隷」 としての悲惨極まるものだった
被害者の女性たちが、「慰安所」に入れられた後の生活は、一切の自由を奪われる状況のもとで、連日にわたって多数の軍人相手の性行為を強要されるという、文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まりないものだったことが、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されています。「慰安所」での生活は、性行為の強要だけでなく、殴打など野蛮な暴力のもとにおかれていたことも、明らかにされています。 
 
娼婦諸話

 

性的サービスを提供することによって金銭を得る女性を指す。同義語は「売春婦」「売笑婦」。害意を含んだ呼称に「淫売婦」「醜業婦」など多数ある。古くは「遊女」。また街角で客待ちをする娼婦を「街娼」(俗に「たちんぼ」)という。売春婦は、一説には人類史上最古の職業といわれている。古代世界では神の恩寵を性交を通して与える者「神聖娼婦」として聖職と捉えられることがあった。また、世界各国の軍隊では兵士の強姦事件や性病、機密漏洩の防止のために売春婦を多数雇い入れる例がある。
娼婦になる理由 / 以前は、借金や経済的事情などの事情により、強制されて売春業に就く例があった。例えば江戸時代の郭には、貧乏人の子女が売られていったと言われる。現在の日本では、娼婦になる理由は単純なものではなくなっている。たとえば少女売春に関する著作では、性に関する興味関心からという例のほかに、ホストクラブにはまりその金を捻出するため、ドラッグにはまりそれを売る側の指示で、など様々な理由が挙げられている。 
■日本における娼婦
近世
江戸時代の娼婦には大きく三通りがある。遊郭などの店で客を取った者、飲食店や旅館などで個人的な建前の元で客を取った者、個人的な街娼である。
当時は近代的な性病の検査が不可能であったため、性病の罹患率が高かったと見られている。
近代
明治維新以降、吉原遊郭などの日本の売春システムは、ラザフォード・オールコックなど外交官や宣教師たちの批判にさらされた。明治5年に発生したマリア・ルス号事件により人身売買の容認を指摘された明治政府は、同年に芸娼妓解放令・牛馬切りほどき令を発布し、年季奉公中の娼妓を解放した。しかし、突然発令された芸娼妓解放令に対する遊郭側の反発と、路頭に迷う娼妓の発生といった事態の中、東京府が「貸座敷渡世規則」「娼妓渡世規則」を制定するなど、遊郭制度を国から地方自治に移管し、娼妓が自由意志で営業する形式が整えられた。
新たな遊郭制度に対し、新島襄らの安中教会が先頭となって遊郭公許反対運動が起こされた。また、男女同数論を唱え妾制度を批判した福沢諭吉は『家庭叢談』(明治9年)の中で、芸娼妓は「人外人」であると評し、娼妓を排除・拒絶することでその生業を恥と自覚させ、転向を促すことを唱道した。 娼婦や売春宿の隔離、囲い込みなどが成されたほか、新聞などで娼婦が「醜業婦」、「闇の女」などの別称で呼ばれる例が見られる様になる。 こうした政治・言論界の世論誘導によって、維新以前は花魁と呼ばれた芸娼妓も、明治初期より社会的地位が沈下していった。
近代的な検査が可能になり、公娼制度の下で性病検査が行われるようになった。国際的に見て、アジアなどの広域で各国娼婦が活動する(または売買される)ようになったのは、これが大きいとも言われる。また公娼制度の下での性病検査の存在は、公娼廃止運動に対する反対根拠ともなっている。
第二次大戦後
米軍占領下において、1945年には米兵の慰安、及び一般日本人女性に対する肉の防波堤として特殊慰安施設協会(RAA) が設立。労働は客によって過酷であったが極端に困窮していた国情もあり、戦争未亡人の助けともなった。しかし短期間で終了し、その後1956年には売春防止法が制定され、日本において街に佇む娼婦は、存在自体が違法とされるものとなった。
平成時代
現在の日本においては、「ソープランド」と呼ばれる売春施設における売春行為(「風俗嬢」)の他、アダルトビデオへの出演を行い報酬を稼ぐ(「AV女優」)、アダルトチャットに出演してオナニーしたり男性との性行為を見せて報酬を稼ぐ(「チャットレディ」)など、複数の就業方法がある。また、いわゆる援助交際が新たな売春の形として問題となっている。 
■ココット(フランス語: cocotte)
フランス第二帝政期の高級娼婦で、それ以前であればクルチザンヌと呼ばれていたような存在であり、饗宴、宝石、邸宅などに贅沢な支出をして、しばしば金持ちのパトロンを破滅させたことで知られた。その後もこの言葉は使われ続け、特にベル・エポック期に使用された。
「ドゥミ・モンド(フランス語版)」は、元々は娼婦に身を落とした女性たちの世界を指す言葉であったが、その後、様々な格の高級娼婦を意味するようになり、「Grandes Horizontales」とも表現された。
ココットたちを指す表現は、含意にばらつきもありながら様々なものがあり、danseuse(踊り子)、lorette(ロレット(フランス語版))、fille de noce(結婚式の娘)、grisette(グリセット)、fille de brasserie(ブラッスリーの娘)、buveuse(酒飲み女)、trotteuse(秒針)、pierreuse(石の女)、lionne(雌ライオン)などと称されることがあった。
有名なココットの例としては、ナポレオン公などと関係したコーラ・パール(1835年 - 1886年)や、カラジョルジェヴィチ家やポール・ブールジェ(フランス語版)などと関係したローレ・ハイマン(Laure Hayman、1851年 - 1932年)などがある。パリに残る大邸宅の中にはココットたちのために建てられたものもあり、シャンゼリゼ通りに面したパイヴァ公爵夫人の館(フランス語版)もその例である。
エミール・ゾラの小説『ナナ』は、恋に狂い、関わる男たちを破滅させるような、ココットたちの悲劇的な運命を描いている。庶民である女性たちの中には、ココットとなることは若いうちに富を得る手段であった。中には富を築くものもあったが、若くして悲惨な死を迎えるものいたし、サラ・ベルナールのように、ココットとなった後に人気女優になった者もいた。
「Sentir, puer la cocotte」(ココットのような香り)とは、格の低いココットが付けていそうな質の悪い香水のことを指す表現であり、「ココット (cocotte)」という言葉が含まれている。 
■高級娼婦
娼婦のうち、特に多額の対価を要する者で、おもに高い身分の者、有力者などを客とし、しばしば相手を選ぶ権利をもつ。地域、時代により様々な呼称がある。
以下には、日本語で「高級娼婦」と訳されることがあるものを挙げ、実態は同様でも日本語では別の表現があるものは関連項目に挙げる。
○ヘタイラ - 古代ギリシアにおいて特定少数の男性の相手をしていた娼婦。(一般的な娼婦であるポルナイ pornai とは区別される。)
○クルチザンヌ - 宮廷に仕える女性を意味するフランス語に由来する。公妾もこの語で言及されることがある。
○ココット (娼婦) - おもに第二帝政からベル・エポックの時期のフランスで用いられた表現。同じ女性がクルチザンヌともココットとも言われる場合もある。 
■花魁
吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。現代の高級娼婦、高級愛人などにあたる。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説があると言われる事が多いが、これはどれも通説であり現在典拠に基づいた説は存在しない。
上記脚注の「いろの辞典(改訂版)」編者の小松奎文は川柳研究家であり、学術的な典拠は示されておらず、また、この通説が一般化したのは近世風俗志(守貞謾稿)の記述の一部を引用した上記脚注書のような一般書籍が多数発行されているからに他ならず、近世風俗志(守貞謾稿)の記述自体が原典引用の無いものは「聞き書き」だと大前提だと断っており、また、第廿編娼家下「花魁」の項目は「おいらん」という音であって、「花魁」を「おいらん」と読む証左はなにも無い。
近世風俗志及び、これも一般書籍で引用される"いつちよく咲たおいらが桜かな”の初出は「吉原讃嘲記(寛文7年・1667)」であるが、この後、「増補俚言集覧」と「近世事物考」に類似した川柳が引用されたため、これがあたかも語源であるような錯誤が生まれたと思われる。
江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。
下記に江戸時代の花魁について記述する。
吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658年)の『吉原細見』によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶女郎669人、次女郎1004人がいた。江戸時代後期の安永4年(1775年)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている
別書によると、寛永20年(1643年)に18名いた吉原の太夫は、延享元年(1744年)には5名に、寛延4年(1751年)には1名に減り、宝暦(1751-1763年)の終わりごろには消滅した、
花魁は引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。
花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は『遊女評判記』などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。
遊女の位
遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた(『吉原細見』に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある)。時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、おおむね次の通りである。
○太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。
○格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
花魁は宝暦以降の呼称であるため、太夫や格子は花魁ではない
○散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。
○座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。
○呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。
なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。
しきたり
下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、高級遊女を揚げるには様々なしきたりが存在していたといわれる。
○大店には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。
○座敷では、遊女は上座に座り、客は常に下座に座っていた。花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
○初会(1回目)、遊女は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。この際、客は品定めをされ、ふさわしくないと思われたらその遊女とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
○裏(2回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
○3回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、3回目でようやく床入れ出来るようになった。
○馴染みになると、客が他の遊女に通うのは浮気とみなされる。他の遊女に通ったことがわかると、客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。客は金を支払って詫びを入れたという。ただし宝暦(18世紀半ば)以降ではこのような廓の掟は廃れている。
○馴染みの客の指名がかち合うこともある。その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。(ただしこれは花魁に限ったことではない)
ただし上記の「初会〜馴染み」のようなしきたりは実在が疑問視されている。また実在したとしても、あくまでも大名や豪商が主たる客層であった江戸前期(元禄ごろ、17世紀末)の全盛の太夫に、そのような接客を行った者もいた程度の特異な例であると考えられる。
理由として安価に利用ができる飯盛旅籠(宿場女郎)や岡場所の隆盛したことや、主たる客層が武士層から町民層に移ったことなどにより、煩雑な作法や格式と高価な吉原の運営方式が敬遠されるようになった。 それは宝暦年間には吉原では高価な揚げ屋遊びの消滅や、歴代「高尾太夫」を抱えていた高級店「三浦屋」の廃業、そして太夫の位も無くなるなど顕著に現れ、宝暦以降の吉原は旧来の格式や作法は解体され大衆化路線へと進んだ。
宝暦以降の記録では高級遊女であった呼び出し昼三(花魁)も初会で床入れしており、『古今吉原大全』などこの時期の文献にも「初会〜馴染み」の手順は記載されていない。少なくとも「太夫」に代わり「花魁」の呼称が生じた宝暦以降では、上述のようなしきたりの一般化は考えられず、後世に誇張された作法として伝わったものと考えられる。
『古今吉原大全』によれば「初会で床(とこ)に首尾(しゅび)せぬは客のはじ、うらにあわぬは女郎のはじと、いゝつたふ」とあり、初会の客をつなぎ止めなければ遊女の落ち度となるとされていた。
なお現存する錦絵や歌舞伎芝居や落語、講談、映画やテレビドラマなどの、フィクション世界での遊女の姿は文化・文政期(19世紀初め)の風俗を参考としており、対していわゆる廓の掟と称されるものは宝暦(18世紀半ば)以前の作法に由来するものが多く、虚像と実像には時代的に大きな開きがある点も注意が必要である。(参考:永井義男『図説吉原入門』学研)  
■妓生 (キーセン)
元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。
甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。
高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万〜3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10〜20名、郡に30〜40名、府に70〜80名ほどが常時置かれていた。
起源
巫女の遊女化説と百済の揚水尺説
妓生は歌や踊りで遊興を盛り上げるのを生業とし、売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった。発生には諸説あり、新羅の巫女の遊女化から始まったとか高麗時代の百済の揚水尺に歌舞を習わせたものとも言われている。
中国の妓女と妓生
朝鮮の妓生制度は、中国の妓女制度が伝わったものといわれる。妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 (官妓) を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった。
新羅の源花・天官女
宗教民俗学者の李能和『朝鮮解語花史』(1927年) によると、新羅の真興王37年に「源花を奉る」とあり、源花は花郎 (ファラン) と対になっており、源花は女性、花郎は美少年がつとめ、これが妓生のはじまりであるとする。また、新羅時代の天官女が妓生制に相当するといわれている。
百済遺民説
李能和も『高麗史』にもとづき、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことも起源の一つとしている。また、李氏朝鮮後期の学者丁茶山 (1762-1836) の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺 (賤民) らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう。
日本の傀儡子との関連
柳田國男は妓生と日本の傀儡子は同祖と考えたが、のちに撤回した。その後、滝川政次郎なども同系説を提唱し、川村湊も性器信仰が妓生と傀儡子に共通することなどから、渡来説は有力とみている。
高麗の妓生制
高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった。
官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) とした。高麗は政府直属の掌学院を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当した。
辺境軍人の慰安婦として
掌学院に登録された妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった。
李朝時代にも妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した。
李氏朝鮮の妓生
李氏朝鮮時代の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている。妓生は、官に属する官妓 (妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる) と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。
妓生制存廃論争
1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使 (官吏) が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。
妓生庁
李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。
燕山君と妓生
李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した。
とりわけ燕山君は暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。
燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた。燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。
運平・青女
燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平 (うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している。
妓生と外交
燕山君の時代などでは王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった。川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評した。
貢女
妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢女 (コンニョ) つまり貢ぎ物として「輸出」された。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。
李朝時代でも成宗が辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している。これらは日本人 (倭人) に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている。
川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価 (生け贄) にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした。
李朝の性犯罪と法規
他方、李氏朝鮮時代には性に対して厳格な法規が存在していた。性暴行事件は「大明律」で「犯奸罪」の適用を受けたが、強姦未遂は杖100回と3千里流刑、強姦は絞首刑、近親強姦は斬首刑だった。中宗23 (1528) 10月、宮人の都伯孫が寡婦を強姦した際、中宗が「常人が強姦することも正しくないのに、まして士族ではないか」と言って厳罰を指示したように、支配層には一層厳格な処身が要求された。 和姦は男女とも杖80回だったので女性は強姦だと主張する場合が多かったが、この 場合は女性の当初の意図が判断基準だった。
世祖12年 (1466)、正四品で護軍の申通礼が、官婢である古音徳と何回も性関係を持った。古音徳は、「初めは断って声を出して泣いた[初拒而哭]」という理由で無罪となり、申通礼だけが処罰されたのが、その一例だ。この事件のように、被害女性の身分は重要ではなかった。
妓女の場合も同じだった。暴力がなくても女性の同意がなかったら強姦で処罰したが、被害女性が処罰を望むか否かは量刑の斟酌対象ではなかった。窃盗の途中に強姦までした場合は斬首刑であり、幼児強姦は例外なしに絞首刑か斬首刑だった。 ただし、日本でも江戸時代の「姦通罪」が妾制度や遊郭制度の中で抜け道があったように様々な抜け道が造られて行った。
妓生の身分
七賤
高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級 (中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての七賤と奴婢があった。林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった。
奴婢
奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された。従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。
官卑としての妓生
朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった。朝鮮末期には妓生、内人 (宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令 (獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。
婢女
婢女 (女性の奴婢) は筒直伊 (トンジキ) ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却 (人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている。さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている。
両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった。林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている。
房妓生・守廳妓生
また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。
妓生の種類
一牌・二牌・三牌・蝎甫 (カルボ)
李氏朝鮮時代の妓生は3つのランクに別れていた。最上の者を一牌 (イルペ)、次の者を二牌 (イペ)、最も下級な者を三牌 (サムペ) と呼んだ。
李能和によると、遊女の総称を蝎甫 (カルボ) といい、中国語で臭虫という。蝎甫には、妓女 (妓生) も含まれるほか、殷勤者 (ウングンジャ)、塔仰謀利 (タバンモリ)、花娘遊女 (ファランユニョ)、女社堂牌・女寺堂牌 (ヨサダンペ)、色酒家 (セクチュガ) が含まれた。
李氏朝鮮末期には、三牌も妓生と呼ばれるようになり、これらの一牌・二牌・三牌の区別は付かなくなっていた。
一牌
一牌 (イルベ) 妓生は、妓生学校を卒業後は宮中に出た。宮中に入れた一牌妓生は気位が高く「妓生宰相」とも呼ばれた。また「売唄不売淫」と言う様に貞節を重んじ、身体を売る事は無いことを建て前としていたが、実際には国家が支給する給料に比べて支出が多かったため、特定の両班に囲い込まれる事で資金的援助を得る「家畜制度」 (畜は養うと言う意味) が認められていた。これは、事実上の妾制度である。ただし、囲い込まれた一牌妓生との間に産まれた子供は、例外的に奴婢ではなく良民の子として遇する制度があった。高麗・李氏朝鮮では片方の親が奴婢・賤民の場合その子を奴婢とする制度があった。ただし、この制度の対象となるのは男子のみで、女子は原則として、母親同様妓生となった。
また、宮中に入れなかった一牌妓生は自宅で客をとったりした。また宮中に入った一牌妓生でも、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業 (実質的には売春業) を営んだものもいた。
一牌には「薬房妓生」 (医女参照) や宮中の衣服関係を担当した「針婢」 (「尚房妓生」) も含まれた。
二牌
二牌 (イベ) は、殷勤者または隠勤子といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという。住宅街の中で暮らしながら隠れて売春する者が多かった。
三牌
三牌 (三牌妓生) は完全に娼婦であり、搭仰謀利 (タバンモリ) ともいう。雑歌を唄って接客したとされる。
近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞 (シドン) に集められ、仕事場を賞花室 (サンファシル) と称して、李氏朝鮮末期には、三牌も妓生と呼ばれるようになった。
花娘遊女
花娘遊女は成宗の時代に成立し、春夏は漁港や収税の場所で、秋冬は山寺の僧坊で売春を行った。僧侶が手引きをして、女性を尼として僧坊に置き、売春業を営んでいた。僧侶が仲介していた背景について川村湊は、李朝時代には儒教が強くなり、仏教は衰退し、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためと指摘している。
女社堂牌
女社堂牌は大道芸人集団で、昼は広場 (マダン) で曲芸や仮面劇 (トッポギ)、人形劇を興行し、夜は売春を行った。男性は男寺堂 (ナムサダン) といい、鶏姦の相手をした。女性は女寺堂 (ヨサダン) といい、売春した。社堂 (サダン) 集団の本拠地は安城の青龍寺だった。川村湊は女社堂牌を日本の傀儡子に似ているといっている。
色酒家
色酒家とは日本でいう飯盛女、酌婦で、旅館などで売春を行った。売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ (酒場女)、喫茶店 (チケット茶房) ではタバン・アガシ (茶房女)、現在でもサウナ房 (バン) (ソープランド) や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ (カミソリ娘) という女性がいる。
妓生房
また、ソウルには妓生房と呼ばれるものがあった。主として官庁の管理の元に営業をしていたが、遊郭に似ており、かなり厳格なしきたりを以って運営されていた。しかし地方では三牌が多く、妓生房やそれに類するものは存在しなかったとされる。
妓生制の崩壊と近代公娼制への移行
朝鮮の開国と日本の遊郭業の進出
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。日本や海外からの文化流入により、妓生制度にも変化が見られるようになった。日本の芸者や遊郭制度、ロシアなどから白人の外娼 (甘人=カミンと呼ぶ) などが入り込み、従来の妓生制度と融合して区別が無くなっていった。李氏朝鮮末期には妓生組合が作られているが、これにより、従来雇い主を必要とした妓生も主人を持たない妓生業が行えるようになった。
また、地方の妓生がソウルに入り込み、妓生の形態が激変し、日本統治時代に確立した公娼制度に組み込まれた。また、大韓帝国の時代までは初潮前の少女を妓生とすることも多かったが、韓国併合後に少女を妓生とする事は禁止された。
金一勉と金両基は、朝鮮の都市に公然と遊郭が登場したのは日本人の登場以来の事で、朝鮮各地に娘の人身売買が公然と横行するようになったと主張している。
日本政府による取り締まり
1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札 (営業許可証) の取得を義務づけた。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認 (営業許可制) され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。
日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。
1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった。同1906年には龍山に桃山遊廓 (のち弥生遊廓) が開設した。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、太田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた。
妓生取締令
日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。
日本統治下の公娼制
1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」 (同年5月1日施行) が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている。
妓生と芸者
山地白雨が1922年に刊行した『悲しき国』 (自由討究社) では「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」と記している。
同じ1922年に刊行された柳建寺土左衛門 (正木準章)『朝鮮川柳』(川柳建寺社) では妓生を朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだとし、蝎甫 (カルボ) は売春婦であると書かれている。
1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』では「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」とあり、「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売笑婦」であるとして、妓生とカルボとを区分して書かれていた。
1940年当時の妓生の実態を朝日新聞記者が調査した内容によると「妓生の大半が売笑婦(売春婦)」である事をルポタージュしている。
大韓民国の妓生・キーセン
韓国軍慰安婦
大韓民国の成立後に朝鮮戦争が勃発し、戦火で焼き尽くされた国土の復興には莫大な費用が必要になった。朴正煕大統領は、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約で獲得した資金を元に復興を進め、在韓米軍を新たな復興への資金源として見出した。当時、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与しており、莫大な金額が地下に流出していた。これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。これが便宜的に国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。
「キーセン観光」
日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。 交通公社や近畿日本ツーリストの旅行では、羽田発二泊三日で35,000円位、「妓生」と見合いの後、夕食が終わるとホテルに「妓生」が来た。夜の街に出たり、部屋で駄弁ったりして、翌朝まで一緒にいて、30,000円を要求された。
夜の町に一人で出ると、屈強な男性(人は警察官という)が尾行してきた。おかげで、安心して横町の屋台などで、ソウルの夜が楽しめた。生きたまま刻んだタコを食べたり、直ぐにできるオーダーメイドのシャツを買ったりして、ホテルに戻ってベッドに入るとボーイがドアをノックして来た。「お一人ですか?お寂しくないですか?」ドアーの上の回転窓には、当時日本ではやったジーンズのジャンパーなど羽織った2人位の女性がボーイの後ろで、壁に体を寄せて控えている。
深夜2時過ぎまで、何度もボーイのノックがあった。ボーイにも歩合が入るようであった。業者は、「妓生」とは言わず、「姫様」と呼んでいた。
外国人キーセン
漢江の奇跡を経て、1980年代に韓国経済が軌道に乗り始めると、国営妓生の志望者は減少した。不足を埋める形で成長した民間の妓生では、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアから女性を誘致するようになった。ソ連崩壊後は、ロシア人女性も誘致の対象となった。
だが、やがて外国人娼婦に対する違法行為が頻発し、一部で社会問題化する。そして2004年に、韓国の議会は、全ての売春施設を閉鎖し、売春行為を違法とする法改正を行った。これによって、妓生は大韓民国では事実上廃止された。
キーセン・ハウス
ソウルのキーセン・ハウスでは「清雲閣」「大苑閣」「三清閣」の「3閣」が有名だった。伝統的なキーセン・ハウスで唯一残っていた「梧珍庵」 (오진암) も、2010年に閉店した。
朝鮮民主主義人民共和国の妓生
朝鮮民主主義人民共和国においての妓生の実態は不明である。ただし、李氏朝鮮時代の官妓に類似するものとして喜び組が存在する。
また川村湊は現在の金氏朝鮮 (北朝鮮) が全国から美女を集め「喜び組」と呼んで、気に入った女性を要人の夜伽に供していたことから、金正日は「燕山君などの正統な後継者」と評している。
妓生と公娼に関する議論
妓生から日本による公娼制にいたる成立過程については、日本軍の慰安婦問題とからんで議論がなされている。なお、公娼の定義については公娼#定義を参照。
元日本軍慰安婦の金学順、文玉珠などは妓生学校にいったと証言している。
妓生など朝鮮伝統の制度は、日本による公娼制によって崩壊したとみなす見解がある。山下英愛は「朝鮮社会にも昔から様々な形の売買春が存在した。上流階級では高麗時代に中国から伝わったといわれる妓女制度があり、日本によって公娼制度が導入されるまで続いた」と述べている。
また、妓生制と日本による公娼制との違いについて川田文子は、妓生のほかに雑歌をたしなむ娼女、流浪芸能集団であった女社堂牌 (ヨサダンペ)、色酒家 (セクチュガ) で働く酌婦などの形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるものであるとした。また、在日朝鮮人歴史学者の金富子や梁澄子、在日韓国人の評論家の金両基らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。
金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うものであると反論した。
他方で、川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」とも述べている。  
■過酷な戦場を生き抜く「娼婦」の意外な実態
──15年以上にわたり、世界中の娼婦を取材しています。
世間では彼女たちを陰の存在としてとらえ、暗くて大変そうなイメージを持ってしまう。一面では間違いないが、それだけではない。たとえばタイ・バンコクへ行くと堂々と働いていて、「いったい何者?」とさえ思ってしまう。彼女たちに悲壮感は漂っていないが、反面で今の生活から抜け出したいとも思っている。陰と陽の振り幅が、普通の生活を送る人より大きい。多くの葛藤やもどかしさを抱える生き様に引かれているのかもしれない。
身一つでたくましく生きている
──戦場の娼婦をテーマに選んだ理由とは。
戦争と娼婦は、切っても切れない関係にある。普通の日常を送っていても、戦争や内紛によって娼婦に身を落とす人が当然出てくる。戦後の日本もそうだったが、彼女たちの生きている場所が戦場そのもの。爆弾テロや攻撃の恐怖だけでなく、客とのトラブルで殺される人もいるし、病気の危険と隣り合わせ。身一つでたくましく生きている。
──イスラム教徒が大半を占めるイラクでは、住宅地のビルの中で娼婦たちが隠れるように共同生活をしていました。
取材した当時は、サダム・フセイン政権が崩壊した2004年ごろだった。離婚したり夫に先立たれたり、訳ありの女性たちにとって生きるすべは売春になる。壊れた社会の中で、一つのシステムにさえなっている。今はもっと国が混乱しているから、娼婦の数は増えているだろう。
──内戦後のネパールでは、性同一性障害の「ヒジュラ」と呼ばれる街娼が突然現れたとか。
ヒジュラはニューハーフの意味で使われていたが、取材した一人からは「サードセックス」と呼んでくれと言われた。内戦の終結や王政の崩壊で旧秩序が壊れ、いきなり彼らが街角に立つようになった。ネパールは男性社会で、女性の地位がものすごく低い。その中で男の生き方を捨て、女として自分の生きる場所を切り開いていく。あれは本当に、自分自身との精神的な戦いだと感じた。
社会が開かれたことで、彼らは自分自身のアイデンティティを表に出す機会を得られた。田舎の村でできなかったことが、都会のカトマンズでは実現できる。生きるすべは売春しかないし、ものすごい差別を受ける。少し気を抜けば命を落としかねない環境にある。田舎の父親には黙っていると語っていたように、男尊女卑の傾向が強いヒンドゥー教の社会の厳しさが垣間見えた。
ズダ袋にくるまって寝ていた「デウキ」
──ヒンドゥー教の寺院にささげられ、10歳ごろから境内で生きてきた58歳と80歳の「デウキ」と呼ばれる娼婦も印象的でした。
最初に出会ったときは、本当に衝撃を受けた。境内の軒下でズダ袋にくるまって寝ていた。本来は神と結婚する聖なる存在だったが、経済の発展などにより寺の権威が低下し、経済力をつけた人々の慰み者となる面が強くなったのかもしれない。
長生きしてしまった彼女の背後には、若くして亡くなっていった多くのデウキたちがいるのではないか。すさまじい雰囲気があった。
デウキの村はネパール最西端にあった。かなり貧しく、反政府軍の根拠地になっていた地域だ。グローバリズムの影響で社会が変容する中でも古い慣習が残る場所だったが、今や風前の灯火。近くには売春カーストの集落も存在したが、カトマンズではどちらも聞いたことがない。ヒンドゥー教の因習は、もはや西ネパールにしか残っていないのかもしれない。幼児婚も取材したが、世界的な潮流では犯罪となっている。ネパールでも表立っては聞かれなくなった。
──かつては社会システムの中に売春が組み込まれていたが、グローバル化の波で消えつつあります。
デウキや売春カーストは、社会の成り立ちとともに発生してきた側面が大きい。かつては世界中にあったのかもしれない。ひとくくりにしていいのかわからないが、100年前の日本にも遊郭があった。江戸時代には貧しい家の娘たちが吉原の遊女や街道筋の飯盛女として売られていた。デウキのような生き方は、かつて日本にも存在していたように見える。
──タイでは農村から都会へ出稼ぎに行ったが、エイズらしき病気にかかった一人の女性の悲哀についても取り上げています。
今、彼女が生きているかどうかはわからない。もとはバンコクの華やかなカラオケ店で働いていたが、病気をもらって田舎のイサーンへ帰っていたときに出会った。2年後に再び訪れたとき、すでに亡くなっていると思っていたら、年老いた母親が生きていると言う。ラオス国境の田舎町まで会いに行くと、豆電球がチカチカ光っているような場末のカラオケ店で働いていた。実家でただ飯を食うわけにはいかず、病気になっても死ぬまで体を売る場所を探すしかない。あの境遇は衝撃的だった。
底辺から抜け出すための売春
──農村で自給自足の生活ができたかもしれないのに、経済発展が悲劇を生んでしまったのですね。
都会に出ればおカネを稼げることがわかると、今よりもいい生活を送りたい気持ちが当然強くなる。それが原動力となり、娼婦が大量発生している。社会の底辺から抜け出す一つの手段として、売春があるのは間違いない。
10年にバンコクで武力弾圧事件が起きたときも現地にいたが、半独裁民主戦線であるタクシン派の多くは農民だった。農村地のイサーンは売春婦のみならず、労働者の供給地ともなっている。タクシンが大人気で応接室に写真を飾っている家が多くて驚いた。激しい政治運動も貧困から生まれていることを感じた。
──中国では纏足(てんそく)の女性にも取材しています。世間的にはかわいそうな存在と受け止められていますが、彼女たちの写真は美しい。
今では纏足など絶対にとんでもないが、封建制の象徴として服装や様式美といったものが生み出されたとの見方もできる。80歳以上の女性ばかりだから纏足がなくなるのは時間の問題だし、ぐるぐる巻きにされた小さな足はそうとう痛そうだった。それでも彼女たちは、自分の足はきれいというプライドを持っていた。
──社会が変わると、女性の生き方も大きく左右されますね。
国家ができて男が社会をまとめだすと、家や財産を守るためにシステムを作りたがる。国家や軍隊、階級を男が操る過程で、売春が職業として成立してしまう。それが娼婦を生み出す土壌となっている。 (2016) 
■中世の娼婦
はじめに
Fabliaux(ファブリオー)の時代である13世紀後半〜14世紀前半とは女性に敵対的な都市中産階級繁栄の時代でした。カペー朝(987〜1327年)の時代、1180年フィリップ二世即位すると、中世・聖職者階級(教会)は「女性は本質的に劣等である」という観念につながる教説を確立しました。ヨーロッパ文化が発達し、支配者の権力が増大するにつれて、教会の与える懲罰は世俗の法律によって強化されたのです。
1 売春統制の流れ
1198年には 教皇インノケンティウス三世「娼婦を改心させるように努力すべきだ。」と言いました。そして1209 年には、娼婦と結婚するものすべてに罪の許しを与える(最後の審判で罪が軽減される)という勅令を出したのです。1227年には 教皇グレゴリウス九世が聖マリア・マグダレナ修道会(娼婦の収容施設)を承認し、そして1254年にはルイ九世が売春根絶を試みました。彼は娼婦を改心させようと努力しますがその効果はあまりありませんでした。またベギン会修道院の設立し、娘たちの家(Maison de Filles-Dieu)の建設をしました。そして売春規制の勅令を出しました。それは売春婦及び売春に寄食するものすべてを国家の法律のもとから外すというものであり、彼らの財産・衣類(毛皮・リネンのシューズなど)・日用品の没収し、都市の外へ追放(町の主道路、教会、公共健建造物から隔離)し、さらに差別の印としてハウベ(市民の妻がかぶる帽子)・ベールの着用を禁止するというものでした。そして娼婦を「娼婦の王roi des ribauds」によって監視させたのです。彼らは都市から任命された娼婦の監視役で、衣装・居住地・行動などの点で違反を犯した売春婦を、逮捕し監禁する権限を持っていました。パリの町からは売春の表だった徴候はすべて取り除かれるました。しかし14世紀末になると、問題が多く発生したため、娼婦の追放ではなく管理統制へと移り代わり、売春宿からの税金は国庫の財源となりました。1347年には、ナポリ女王プロヴァンス伯ジャンヌによる布告があり、 娼婦を特別地区に制限しました。彼女はアヴィニョンの街頭から娼婦を追放し、「放蕩の館 Maison de Debauche」(監視付きの立派な娼婦街)に入れたのです。また娼婦を衣服で区別するため外出する場合には左肩に赤いリボンを付けさせました。また毎日の健康診断や、妊娠した娼婦の出産を義務化したり、生まれた子供の教育、食料を与えることを保証したり、祝日と金曜日は休館にすることを義務化したのでした。
2 娼婦の地位(キリスト教の娼婦像)
12世紀 トマス・アクィナスはパリの娼婦を労働者の中に位置づけました。娼婦が悔い改めた場合は、ノートルダム教会へのステンドグラスの寄進を拒む理由はなく、なぜなら娼婦が稼いだ金は正しいからであり、娼婦の仕事の性格は神の掟に背くものであるからといって、彼女たちの収入が不正だということにはならないというのです。さらに 娼婦の地位は軽蔑すべきものではあるが、彼女たちの稼いでいるものまでが軽蔑すべきものとはならないと言い、娼婦は、男性を誘惑する存在であるだけでなく、悔い改めによって聖人にもなれる存在、という位置づけをしたのです。しかし現実に娼婦の社会的地位が上昇したわけではありませんでした。
13世紀後半以降 娼婦の社会的地位の下落します。.ルイ九世売春規制の勅令(1254)により、カルカッソンメヌ、トゥールーズ、アルルなどでは娼婦は市壁の外に住まわせるようになりました。またアヴィニョンではユダヤ人と娼婦は市場で食料品に触れるべからずという令が出て、触れたものはすべて買い取るよう強制されたのです。娼婦は、社会から隔離され排除される者として位置づけられるました。
14世紀末頃になると、娼婦は制度化され、市営の娼婦宿が出現したのです。市壁内の指定区域の限られた者だけに売春を許可するというものでした。ナポリ女王の布告(1347)を他の高級売春宿(トゥールーズ、アンジェ、ストラスブールなど)も倣い、これにより都市の制度内に組み込まれた娼婦が認められたのです。
15世紀には娼婦の存在が公認され、差別の印、「娼婦の王」が廃止されました。それは法的に市民と対等になったということです。ラングドック地方の町では娼婦が焼いたクッキーを、市当局が貧民に配る習慣がありました。また結婚した妻が、家計のためにパートタイマーとして働く(売春をする)こともよく見られました。イタリアでは高級娼婦(ハープ・リラの演奏、読み書き、歌を歌える娼婦)の時代になります。15世紀末(中世末期)になると 知性と魅力を備えた高級娼婦に対する憧憬もあらわれるのです。
3 中世の結婚事情と売春のシステム
都市の手工業者の場合、12世紀には教会が結婚に介入し、結婚はキリスト教の重要な儀式でした。男女両性の結びつきは、聖なる結びつきだったのです。問題点として一般男女の結婚時の年齢差が開いていたことがあります。1140−1190年の調査(ボケールにて、241組の夫婦対象)によると、夫が妻よりも年上が85.5%にのぼり、年齢の開きは平均7.9歳、30代男性と8〜16歳若い妻との結婚は20%、40代・50代男性と20〜34歳若い妻との結婚は15%でした。これは30〜50代男性が、若い男性の相手となるべき適齢期に達した女性の三分の一を嫁にしているということです。ゆえに若い男性の相応の結婚相手がいなくなるのです。そして性のはけ口として娼婦宿が必要となりました。
娼婦のプロフィールを紹介しますと出身は大体、町や周辺の農村で、日雇い労働者の妻、手工業者の妻・娘、職人の妻、手工業親方の妻などがいました。裕福層の妻も20%ほど見られ、放浪女は娼婦の15%のみでした。年齢は17歳位(まれに15歳位)からで30歳位で退職(30歳=老女)しました。動機としては暴行事件の被害者(27%)や、身売り・家族から売られる場合(25%)、自分の意志(15%)などがあり、50%以上の人が本人の意思に反して売春の仕事に就いていたことがわかります。また退職後には、13世紀以前であれば大半は社会復帰(下女、司祭の内妻、正式結婚)をしていました。娼婦は被差別民ではなかったのです。13世紀末以降には修道院に入るということも多かったようです。数としてはルイ9世の時代(1226−70)〕には約12,000人の娼婦がいました。(当時のパリ全人口は約15万人)
娼婦の稼ぎ場として浴場がありました。大都市の浴場は、貧しい人々が頻繁に出入りし、売春とのつながりが深かったのです。イタリア語でbagnio風呂とは売春宿の婉曲表現でもあります。ヘンリー2世の取締令によると、浴場の経営者及びその妻は、女性一人の者を自由に出入りさせることを禁止され、また浴場に女性を住まわせることや、浴場内での性交渉は厳しく取り締まられ、役人が毎週立ち入り検査していました。
13世紀初頭パリでは自ら客引きをして学校内にある売春宿へ連れ込む娼婦もいました。売春宿はしばしば学校と同じ建物にあり、二階では教師が講義を行い、階下では売春婦が商売をするという光景が見られたのです。(学生は売春宿の常連でした。)
13世紀以降では軍隊公認のお付き娼婦がおり、中世の軍隊は「売春婦付き下士官」を持っていました。売春婦付き下士官とは売春婦の管理人であり、軍隊公認の売春婦の秩序を保ち、彼女たちに課せられていた他の義務(病人の看病、選択、便所掃除など)の監督をする役です。1474−75年のノイスの包囲の時、ブルゴーニュのシャルル豪胆公は包囲軍の四人に一人の割合で女をあたえたと言われています。
14世紀末には市営の娼婦宿が盛んになり、都市の内部にはどこでも国や市の直属の娼婦宿があり、各都市の目抜き通りに位置していました。規則として、あまりに年の若い者、既婚者を客にしてはならないというものがありましたが、実際は守られていなかったようです。また、二人で一人の客を相手してはいけないが、一人で二人の客を相手しても良いという規則もありました。女性が葡萄畑で半日働く賃金〔フランスの例〕を稼いでいたようです。普通娼婦は、小路、酒場、教会の門前で客引きをしていました。ヴェネツィア、サン・マルコ広場(ローマ教皇の宮殿がある広場)での客引きの例(1448年)が残っています。
自宅での個人経営もあり、それは日曜日にも営業していました。手工業者たちは日曜日に集団で売春宿へ行ったからです。
取り締まりが厳しくなると、売春に寄食していた者の多くは、他の正業を隠れ蓑にすることを画策しはじめます。。例えば、浴場主の女将が、親の借金の肩代わりに預かった娘を配下におさめ、客がくると紹介し売春をさせるなどしていました。このような仲介の女性は大体40代〜60代の女性で、手工業者(特に理髪屋や浴場主)の妻、未亡人が多かったのです。

娼婦は、中世市民社会で重要な役割を占めていました。ディジョンでは客の二割が聖職者(修道士を含む)だったのです。聖職者が娼婦宿に通うことは、人々から避難される事ではありませんでした。内縁の妻を持っている聖職者や、取り持ち女を通して若い娘や他人の妻と関係を持つ聖職者は不潔な存在として嫌われました。なぜかというと、中世では結婚することが容易ではなく、(聖職者を含む)未婚の者が娼婦宿に通うことには寛容であり、在俗聖職者(俗世間にいる普通の修道士、司祭)でも、地位は高くないので、彼らが超人間的な禁欲行動を行うなど誰も信じていなかったのです。また父親や夫にとって、若い聖職者が自分の妻や娘と関係を持つよりは、娼婦宿を訪れる方が安全であったのです。
売春宿とは都市の家庭の安全を守り、若者の抑圧された性のはけ口であり、若者や手工業者の性欲を満たし性的衝動を一時的に抑える役目も果たしたのです。すなわち娼婦とは正常な結婚をしている婦人たちの安全を守り、性衝動を抑えるための職人であったといえるのです。 
■売春婦
売春をする女性。売笑婦。淫売婦。醜業婦。売女。
街娼 …街頭で客を誘う売春婦の総称。他の売春婦がその居住する家に客を迎え,あるいは客の招請に応じて接客場所へ行くのに対し,みずから街頭に出て誘客するのを特色とする。…
.私娼 …政治権力が承認する公娼に対し,それ以外の売春婦を私娼という。一般には公娼制度下における秘密売春婦をさすが,公娼制をとらない国の売春婦も分類上は私娼に属する。…
.娼妓 …売春婦の異称の一つ。日本では一般に公娼をさすことが多く,ことに明治以後は官制用語となったため,それ以前の遊女と対比して用いられている。…
.売春 …以下の記述においても,近代以前に関しては必ずしも冒頭の定義が適用されえない場合があることに留意されたい。 売春者の大多数は女性であり,売春婦,売笑婦,娼婦などさまざまな呼称があるが,男性の売春(男娼)も当然存在する。この項では女性の売春を中心として,西洋と日本につき概観を試みる。…
.遊女 …売春婦の古称。日本の文献に遊女のことが出るのは《万葉集》の遊行女婦(うかれめ)が最も古く,以後10〜12世紀ころまでに,うかれめ,遊女(あそびめ‖あそび),遊君(ゆうくん),および中国語の妓女(ぎじよ),娼女(しようじよ),傾城(けいせい)などの称が使われるようになった。…  
■元慰安婦を「売春婦」で批判浴びたグーグル、謝罪後も修正せず?
2018年1月8日、韓国・SBSは、韓国の元慰安婦の検索結果に「売春婦」と表記して物議を醸した米グーグルについて、「謝罪後も修正作業を怠っている」と指摘した。
韓国ではこのほど、旧日本軍慰安婦であったことを韓国で2番目に告白した故ムン・オクチュさんをグーグル検索すると、名前の下の人物を説明する欄に「売春婦」と表示されることが物議を醸していた。SBSは「売春婦は日本の極右勢力が慰安婦の存在を否定したり、元慰安婦をおとしめる際に使う表現」と説明している。
これを受け、米グーグルの韓国法人「グーグルコリア」は「検索結果は人ではなくアルゴリズムが自動生成しているため、事実と異なる内容が表示されることがある」と説明して謝罪し、「誤った部分を修正した」と明らかにしていた。しかし、SBSは「調査の結果、グーグルが検索の誤りを根本的に正せていないことが分かった」と伝えている。旧日本軍慰安婦の惨状を絵で世界に伝えた元慰安婦女性の故カン・ドクキョンさんを検索すると、いまだに「大韓民国の売春婦」と記載されているという。
グーグルはこれまでにも、1936年ベルリン五輪の男子マラソン金メダリスト・孫基禎(ソン・ギジョン)氏の国籍を「日本」と表示し、韓国で批判を浴びていた。そのため、SBSは「アルゴリズムを言い訳にせず、同様のミスを繰り返す理由について正確な説明が必要だ」と主張している。
これについて、韓国のネットユーザーからも「ただのミスではなく意図的なものだ」「最も注意しなければならない部分ではないか?」「グーグルの代表と関係者を虚偽事実を広めた罪で処罰するべき」「グーグルは親日派なの?」「職務怠慢だ」「韓国を見下している証拠。対抗する術はないの?」などグーグルに対する批判的なコメントが相次いでいる。その他「日本からいくら受け取ったのだろう?」「日本の金の力は偉大だ」など日本の「ロビー活動」を疑う声もみられた。 (2018)  
 

 

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