戦国時代の日本[1]

山本勘助勘助2勘助3勘助4竹中半兵衛松姫三成の関ケ原石田三成直江兼続お江「ガマ」の研究東北武将の系譜山内一豊川中島の武田上杉諸将黒田官兵衛(如水)黒田長政太閤記豊臣家の人々・・・
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織田信長の「敦盛」  明智光秀 

雑学の世界・補考   

山本勘助1

以下はすべて「甲陽軍鑑」と言う歴史書に記載されている事項が元になっており、現在我々が良く知る「山本勘助」となっているが、資料の信憑性は低く、不確定要素が多い。
明応2年?-永禄4年(1493?-1561) 川中島の合戦(第4回)で戦死。享年69歳
別称 / 晴幸、勘助、勘介、菅助、管介、道鬼
子 / 勘蔵信供
山本勘助は諸国を巡り兵法・剣法に通じていたが、風貌は「醜男」で、おまけに隻眼、手の指も不自由、足も引きずっているなど、見てくれは悪かったと伝えられている。
山本勘助はイノシシ狩りの際負傷して片目を失い、片足が不自由になったとも言われている。
ただし、人間中身が重要。山本勘助は武勇に優れ、陣地の構えなど戦場での駆け引き、築城技術、その他にも天文学など軍法の知識も豊富と、まれに見る「逸材」である。
三河は牛窪(現在の愛知県豊川市)から駿府に出てきた山本勘助は今川家の老臣・庵原安房守の元に居候した。庵原安房守は今川家で召抱えてはと今川義元に推挙したが、採用されなかった。
理由の1つは風貌が悪かったからだ。京の公家を大変重んじる今川家だけに、家臣の服装・身だしなみも「正統派」=きちんとしているものだと言う家風・風潮を想像できる。
もう1つの理由は、供を誰も連れていなかったこと。それほど優れた人物が、なぜ供1人おらぬのか?と、召抱えられたいが為に「嘘」をついていると思われてしまった模様である。
今川家では実力を評価されなかったが、天文12年(1543年)正月(3月とも)、山本勘助51歳の時板垣信方の推薦で府中(現在の甲府)に入り、武田家に仕官。最初武田より知行100貫(現在で年収1000万円程度か?)を与えられた。
外見がともかく名声が高いのは能力に優れた証拠だが、山本勘助がみすぼらしいかっこうで府中(現在の甲府)にやってくると、他の家臣への印象が悪くなる可能性があり、事前に馬、弓、槍、小袖、小者などを与えた。その為、山本勘助は、体裁を整えて府中(甲府)に来ることができた。その様子がますます立派だと、武田晴信(のちの武田信玄)は更に知行を増やして200貫とした。これは武田晴信が山本勘助を高く評価していたからである。
当時は足軽大将格。諏訪頼重の娘を武田信玄の側室にするのに賛成し、老臣たちを説得した。
天文17年(1548年)、山本勘助56歳の2月14日、上田原の戦いで手柄をたてる。
武田軍の兵力7000。北信濃に威を張る葛尾城主・村上義清(兵力5000)と戦になった。
それまで連戦連勝だった武田軍は、いとも簡単に村上軍の第一線を崩したが、勢いに乗った甘利虎泰・板垣信方ら歴戦の武将が敵陣深くまで深追いし、村上軍に包囲され逆に討死。救援に向かった諸将も勢いづいた村上軍の逆襲にあい、初鹿野伝右衛門など多くの犠牲を出し、武田晴信(のちの信玄)自身も傷を受けた。
山本勘助は「敵の軍勢を南に向け鋭鋒を鈍らせ、武田軍の危機を脱し勝利を得る」と武田晴信に進言。自らが行くと50騎を所望。まだ数人の従者しか持っていなかったが望み通り50騎を与えられ、それを率いて武田本陣から5町ほど離れ、備えを建てた。
村上軍は人数をまとめて南に下がり、同じく備えを建てて対抗することになり、武田軍も体勢をたてなおすことができた。
村上軍も優勢になったものの損害も大きく、その後膠着状態が続いた。
晴信が軍の撤退を命じたのは激戦の20日後のことで、武田晴信にとって49勝2敗20分の最後になる2敗目の敗戦と言われている。別途村上義清の章に手も詳しく紹介。
その後、山本勘助は800貫。足軽75人持ちの足軽大将。そして参謀を兼ねたとされている。また築城技術を生かし、高遠城・小諸城・海津城などを築き、馬場美濃守・小幡山城守・広瀬郷左衛門らに築城の方法を教えたとも言われている。
永禄4年(1561年)山本勘助69歳。9月9日深夜から10日昼にかけて川中島で行われた、武田信玄と上杉輝虎(のちの上杉謙信)の4回目の合戦。第1次-第5次の中で唯一大規模な戦となり、多くの死傷者を出した。
武田軍は兵力20000、上杉軍は13000と言われている。(諸説有)
軍師になっていた山本勘助は、武田信玄に自ら考案した啄木鳥の戦法(キツツキ戦法)を提案し、採用された。啄木鳥戦法とは敵主力を本陣から出撃させることにより、敵大将ら本隊の防御が弱まったところを叩き潰すという戦法である。山本勘助はこの戦法を得意としていた。
武田信玄は本隊約8000を率いて武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部大炊介、今福善九郎、浅利信種、山本勘助らで八幡原に待機。別働隊約12000として、高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡尾張守らには夜間のうちに上杉軍本隊のいる妻女山の背後に向かわせ、上杉軍が山を降りた際に八幡原で挟み撃ちにしようとする作戦である。
恐らく、両軍とも「間者」を頻繁に出していたものと推測する。
しかし、上杉謙信はこの動きを察知し、まだ12000の武田別働隊が来ないうちの10日払暁(午前6時頃と伝えられている)に「霧」が立ち込める中、全軍が妻女山を降りて、手薄になっている武田本隊8000に突撃した。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したが、武田信玄の弟の武田信繁、諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死するなど、不利な形勢となった。
窮地に追いこんだ責任を感じ、山本勘助も自ら敵陣に突っ込み、被官の大仏(オサラギ)庄左衛門、諫早佐五郎らと共に戦死。山本勘助が受けた傷は68創もあったと言われている。
本隊が危ういことに気がついた武田別働隊は上杉軍の殿を務めていた甘糟隊を蹴散らし、昼前(午前10時-12時)には八幡原に到着。武田本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟み撃ちにされると言う形になった。
今度は逆に不利になった上杉軍が、犀川を渡河し善光寺に退いたことで戦闘は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた約3000の部隊に合流して越後に引き上げた。
この戦による死者は、一説によれば上杉軍が3000強、武田軍が4000強であり、戦後時代でもマレに見る多数の戦死者を出した激戦であった。勝ちどきは双方からあがったといわれているが、その後も北信濃の支配は武田が行っていたことから、戦略的には武田軍が負けたとは言えない。
また、事実であると確認されてはいないが、この戦では上杉謙信と武田信玄が一騎打ち(正確には打ち合い。謙信が騎乗しており、信玄は床几に座っていたとされるため)したと言われており、その場面が歴史小説やテレビドラマ等にしばしば登場している。
 
山本勘助2

 

武田二十四将の一人であり、武田信玄の五名臣の一人でもある。独眼で片脚が不自由であったと伝えられ、軍略に長じて信玄の軍師をつとめ、永禄4年(1561)川中島の合戦で戦死した。明応2年(1493)生まれという説のほか、明応9年(1500)説、文亀元年(1501)説もある。三河国・牛窪の出。諸国を放浪して見聞をひろめ、甲斐に入り武田信玄に仕官し、諸国の情報と自らの経験に基づく策をもたらす。
山本勘助は実在したのか?
戦国の軍師として有名な山本勘助は、架空の人物であるといわれてきた。勘助に関する良質な史料が存在しないからだ。勘助の名はさまざまな人が書き継いで江戸時代初期に成立したという武田信玄・勝頼父子の事蹟や逸話を記した甲州流の軍学書『甲陽軍鑑』(作者不詳)にしか登場しないため、虚構の人物だと考えられたのである。しかし、昭和44年(1969)北海道釧路市在住の市川良一氏宅から市河藤若宛の信玄の書状が発見された。書状の日付は弘治3年(1557)6月23日で、第三次・川中島の合戦の最中であり、信濃・越後の国境に領地を所有していた市河氏は信玄に味方していた。そして、その書状には「猶可有山本菅助口上候(なおやまもとかんすけよりこうじょうあるべくそうろう)」という文言があった。「菅助」とは勘助のことで、これによって勘助が信玄の正式な使者としてこの書状を持って市河氏を訪ねた、つまり、勘助は架空の人物ではないどころか、武田家において身分の軽い者ではなく、信玄の信任の厚い武将級の存在であったことが証明された。
武田信玄、異形の男を召し抱える
武田信玄が宿老・板垣信方の斡旋で山本勘助を引見したのは天文12年(1543)正月のことだという。三河国牛窪(うしくぼ/愛知県豊川市牛久保)出身の勘助は、血統・由緒正しい名門の出身ではなかった。小男で「一眼、手(傷)を数ヶ所負(お)へ候(そうら)へば、手足もちと(少々)不自由に見えたり。色くろ(黒)う、かほど(かなりひどい)の無男(醜男)にて」(『甲陽軍鑑』)という。片眼で醜男で、指が欠け、跛足(はそく)で色の黒い男である。甲斐(山梨県)に入る前、勘助は諸国を放浪して見聞をひろめ、駿府(静岡県静岡市)に9年間も滞在して今川家の有力な武将であった庵原(いはら)氏を通して仕官(就職)活動を行ったが、その外見の醜怪さゆえに義元に仕官できなかったともいわれる。その異形(いぎょう)の男に、父・信虎を追放して甲斐の国主になって間もない信玄は、200貫文の給禄をあたえて雇うことにした。
武田家中における勘助の地位は不明だが、のちに北巨摩(きたこま)郡(山梨県北杜市高根町)に800貫文=約8000石の支配地をあたえられている。
織田信長は清洲城をふりだしに、小牧(愛知県)、岐阜(岐阜県)、安土城(滋賀県)と、連続的に根拠地を点々と移動させながら天下取りに大手をかけていった。しかし、信玄は甲斐から根拠地を移さないまま、山峡(やまがい)の閉鎖的な地域の土着農兵を中心とする軍事力に頼る、中世的で守旧的な武将であったから、日本の各地に流浪を重ねて見知らぬ他国の新鮮な情報を持ってきた45歳の勘助を「客人(まろうど)」として迎え入れたのに違いない。家中における地位がはっきりしないのは、勘助が職制で括(くく)りきれない客分であり、顧問格であったからであろう。
『甲陽軍鑑』によれば、勘助は「大剛のもの」で「城取・陣どり(陣取)一さい(一切)の軍法をよくたんれん(鍛錬)いたす」者で、剣は「きやうりう(京流)の兵法もでうず(上手)」で「ぐんばい(軍配)をも存じ仕(つかまつ)りたるもの」であった。
非常に強く、城の設計、建造、陣の構えなどあらゆる軍法に鍛錬を積んでいる。京流の剣法も上手で、合戦のときの軍の指揮・用兵・易占(えきせん)に長じている、という。また、外科医でもあったとも伝えられている。
その勘助の具体的な業績は、まず高遠城、小諸城、松代城(海津城)などの縄張り(設計)、構築、修築と伝えられる。どれも名城で、最も有名なのは丸馬出(まるうまだし/大手正面前の半月型の曲輪)を備えた松代城(長野県長野市松代町)である。のちに勘助流、甲州流築城術といわれる築城術の祖型となった。
勘助が甲斐にもたらした諸国事情
信玄は、ことあるたびに勘助を呼んでは雑談風に政治向きのことやあちこちの武将の人物評、合戦時の作戦、敵を屈服させたあとの占領地支配の方法などを尋ねた。
たとえば、信玄から諸国の人々の気質を訊かれて、勘助は次のようにこたえる。
「諸国の牢人(浪人)つきあひ、見聞(けんぶん)申(もう)すに我等本国三川(三河)からきり東の人々は、大方(おおかた)ひとつにて候。尾州より河内・和泉迄(まで)ハ、ひとつかたぎ(気質)にて候。又(また)四国・九州ハかたぎ大かたおなじ事にて候。つくし(筑紫)のおく(奥)は奥州衆により申候(もうしそうろう)」
甲斐・三河から東、尾張から大坂一帯、四国と九州の北半分、九州の南半分と東北地方と、勘助は日本人を四区域に分けて把握している。
信玄にとって、こうした勘助の情報・観察・分析・洞察は大層興味深かったはずだ。
むろん、合戦の現場でも、勘助が軍師として業績をあげた話がある。
天文12年(1543)11月中旬に信玄は信濃に兵を進め、12月半ばまでの約1カ月で九城を攻め落とし、それはひとえに勘助の「武略」によるものであったという(作り話だともいう)。
また、勇猛をもって知られる村上義清に属する戸石城(長野県上田市)の攻防についても『甲陽軍鑑』には誤記や混乱した記載がなされているといわれるが、天文15年(?)の戦いのとき、足軽25人を預かっていた勘助は信玄に、すでにわが軍は有力武将2人が討ち取られており、村上軍はこの本陣を目指そうとしているように思われる、といった。さらに「敵の軍勢を南に向けさせたならば、この合戦は結局勝ちになります」(『甲陽軍鑑』笹本正治訳・以下同じ)と述べた。
そして、信玄の了解を得た勘助は50人の別働隊をひきいて「道を五町ほど出て、備えを立てた。これを敵が見て案のように人数をまとめ、切所(せっしょ/山道などの難所、要害の地)を越して、勘助の勢に攻め掛かろうとした。敵はこちらが攻め掛からなくとも南に向いた。敵が南に向けば、味方の旗色はことごとく立ち直って、軍勢が集まってきた」ので、ついには「敵は敗北した」という。
勝利をおさめた、というより、信玄軍がようやく危機を脱することができたということだろうが、敵を南に向ける、ということは、自軍が太陽を背負うということで、正面の太陽に向かった敵がまぶしくて戦い難くなるという作戦である。
この逸話は、天文19年(1550)の信玄の武将人生のなかで最も痛手をこうむった合戦「戸石崩(といしくず)れ」のときのものだともいわれる。
戸石城の攻防戦で武田軍は多くの将兵を失った。信玄は撤退するしかないと判断して退却し、村上軍はこれを追撃し、武田軍は戦死1000人、負傷兵2000という有様だった。その撤退のとき勘助が活躍して村上軍の追撃をおさえたのかもしれない。
もっとも、こんなに多くの犠牲者を出すのでは、信玄についている軍師・勘助はそれほどすぐれた軍師とはいい難いという理屈も成り立ちはしないか。また、敵を南に向けるという戦法も、たまたま当たったからいいようなものの、原始的で単純に過ぎるのではないか。たしかに勘助は有名ではあるけれども、それほど、指折り数えられるほど凄味のある才能豊かな軍師だったのだろうか。
川中島で散る
川中島は千曲川と犀川(さいがわ)にはさまれた三角洲であり、交通・軍事上の重要な地域であったから、信玄と上杉謙信のどちらもここを制しておかなければならなかった。両者の間に計5回の攻防戦がくりかえされ、その最大規模の対決が永禄4年(1561)の4度目の合戦である。
永禄4年4月25日。
勘助は数名の家臣とともに川中島へ向かった。見送ったのは妻・お悦、子の勘蔵、源三兄弟である。お悦はこれが一生の別れと察してか、勘助の姿が見えなくなるまで見送ったという。
7月末に謙信は善光寺平に進出し、勘助が心血をそそいで築いた松代城攻めのために妻女山(さいじょざん/長野県長野市松代町・千曲市土口)に本陣を構えた。
信玄もただちに出撃して松代城に入り、両雄は睨(にら)みあいに入り、膠着(こうちゃく)状態になった。勘助は信玄に「キツツキの戦法」を提案した。キツツキは木のなかの虫を捕ろうとするとき、正面から襲わず穴の反対から嘴(くちばし)でつつく。その音に驚いた虫が穴から出たところを食べてしまう。
同様に勘助は2万の兵力うち別働隊1万2000に妻女山の謙信陣の背後を襲わせ、勝敗は別として、謙信軍が一戦したあと移動するところを八幡原(はちまんぱら)に置いた残り8000の軍勢で挟み撃ちにし、殲滅(せんめつ)する作戦をたてたのである。
が、謙信はその日の夕刻に松代城から炊事の煙が盛んに立ちのぼるのを望見して信玄軍に不穏な動きがあることを察知した。勘助の挟撃(きょうげき)作戦はたやすく見破られたのである。
陣地をそのままにして、1万3000の謙信軍は夜の間に音をたてないように注意深く妻女山をおりた。
そして、雨宮の渡しを渡り、八幡原へ進出して陣構えを整え、朝を待った。
夜が明けて濃くたちこめていた霧が晴れると、謙信軍が「近々と」陣を構えている。
謙信軍がすでに目の前にいるので、驚いた信玄軍は陣を立て直し、間もなく両軍は激突した。あわてた信玄軍は叩かれ、謙信軍は力押しに押しまくった。
作戦に失敗したことを悟った勘助は、責任をとって一番駆けに突撃した。それを見て左翼の典厩信繁(てんきゅうのぶしげ/信玄の弟)も突撃、これに諸角豊後守(もろずみぶんごのかみ)、小笠原若狭守(わかさのかみ)、一条六郎、山県(やまがた)三郎兵衛らが続いて激戦になった。この戦いで勘助は戦死した。69歳(62歳とも)であった。典厩信繁も討ち死にした。
信玄軍は妻女山に向かった別働隊が駆けもどって謙信軍を背後から攻めて、ようやく劣勢を挽回することができた。
『甲陽軍鑑』では、信玄は、勘助を「分別才覚があり、工夫の知略がよろしく、思案の宏才(こうさい)のある者である。一文字を引かなくとも、学問がなくとも、物識りというのは勘助のことであろう。これはただ智者と申す者である」と非常に高く評価している。
だが、そうだろうか。そうではないのではないか。
勘助の作戦は『三国志』に出てくる兵法みたいに古すぎて、幼稚で拙劣単純杜撰(ずさん)である。ただのヤマカンで意外性がなく、緻密さにも欠ける。先見性のない乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けでは、勝利は得られないに決まっている。このときは、信玄側の討ち死に4630余名、謙信側の討ち死に3470余名であった。信玄側は謙信側の死者を1000名以上も大きく上回るおびただしい戦死者である。これほどの犠牲者を出して、ほんとうに名軍師といえるのだろうか。
勘助はどこか決定的に間抜けなところがある、凄まじい敗北を味わわされた帝国陸軍のインパール作戦を構想した辻政信同様、戦を誤解していた軍師だったのではないかとさえ感じさせる。
信玄が、勘助の死後も勝ち続けた武将だからそう考えざるを得まい。
自らの胸の内を話す相談相手を求めた信玄
山本勘助が甲斐の武田信玄に仕官したのは、齢45歳。現代でいうところの隠居年齢であった。
しかし、なぜ、信玄は人生の老境にさしかかった勘助を積極的にヘッドハンティングしたのだろうか。信玄と勘助を結びつけたものとはいったい何だったのか。それはおそらくお互いの"孤独"ではないだろうか。
勘助はその異形の容貌もあって身寄りもなく天涯孤独の身上。一方、信玄もまた一国一城の主、つまり孤独な権力者である。孤独である権力者ほど自らの問題意識や悩みをぶつけられる相談相手をいつもほしがっている。もちろん、単なる慰み話をしてほしいわけではない。問題を解決に向かわせるだけの見識をもった対話である。その点、諸国を修行してまわり、泥の中から這い上がってきた勘助は、まさに人生経験が豊富で発想豊かで、もってこいの人材だったのではないだろうか。
もちろん、齢を重ねているがゆえの体力的なハンデもあるが、戦況の問題を直視する勘助の姿勢は、他の家臣の心を打つだけの飾らない若々しい力強さがあった。信玄と勘助、まさに年の功同士が取りもった出会いだったのだろう。
自分の成功パターンは他人の成功パターンではない
若いころから諸国を渡り歩き、実戦経験を積んだことが信玄による取り立てにつながったことはいうまでもない。勘助をひとことでいえばまさに「行動の人」ということになる。
しかし、そうした勘助の行動主義の矛先は諸国の大名批判へと向かう。たとえば、周防の国の大内義隆については、「生まれつきの大名であるがゆえに、諸芸に長けており、内典・外典にも明るく、歌を詠み、詩をつくり、裃を離さない。しかし、よいことをしすぎれば家中は悪くなる」と手厳しい。今川義元については、「北条氏康、上杉謙信、武田信玄の10分の1くらいしか苦労せず、能・猿楽・茶の湯に興じたことが今川家没落の原因である」と批判の手綱を緩めない。家臣についても「学芸に仕える者ではなく軍役に仕える者を取り立てるべきだ」と語っている。
このあたりに、勘助の軍師としての限界があったようにも思える。優秀な軍師であれば自らの成功観や人生観はひとまず横においておき、物事の本質を見極めて、過去の成功パターンにとらわれず、正を負に、負を正にと柔軟に価値転換を図る。
しかし、勘助の場合はどこか一途で軍師になりきれていない感が否めない。それは前半生に苦労をしすぎたがゆえの慎重さや臆病さとみることもできるし、宮仕えであっても譲れない勘助の人生哲学と読むこともできる。  
 
山本勘助3

 

山本勘助 
戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、1892年(明治25年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。
生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年 - 1561年という。生年には、明応9年(1500年)説、文亀元年1501年説など異説もあるが、没したのは1561年9月10日で、川中島の戦いで討死したとされる。
近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。 
生涯
以下に記述する勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である。
生誕地
『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。
江戸時代後期成立の『甲斐国志』によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。大河ドラマ『風林火山』(NHK)もこの説を採用している。甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。北越軍談では愛知県豊田市寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部名誉教授の小和田哲男によると、信憑性が低いとされるが、『牛窪密談記』に初出の愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)。
牢人
(「牢人」は「浪人」と同じ意味。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。)
勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。上泉秀綱が武者修行に出たのは勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。
勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている(萩藩の『萩藩閥閲録遺漏』の中に子孫を称する百姓・山本源兵衛が藩に提出した『山本勝次郎方御判物写(山本家言伝之覚)』がある。それによると勘助は大内氏に仕えていたが天文10年に妻子を残して出奔したとあるが、その後の話に辻褄が合わない部分もあり裏付けに乏しい)。
天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の新当流(塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。
武田家足軽大将
勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国国主武田晴信(信玄)に勘助を推挙した。天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。取り消されることを心配した庵原忠胤はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。勘助は深く感服した。(このとき勘助は、晴信から「領地はいくらほしいか」という問いに対し、「領地は少しでかまわないから、働く場所がほしい」といったといわれる)。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、年数が合わない。
晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者への破格の待遇から妬みを受けて、家中の南部下野守が勘助を誹謗した。晴信はこれを改易して、ますます勘助を信頼した。南部下野守は各地を彷徨い餓死したという。
同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行300貫となった。
天文13年(1544年)晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、これを殺した。なお、史実では晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年(1542年)である。
頼重には美貌の姫がいた。翌天文14年(1545年)晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対した。だが、勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。結局は諏訪家も後継ぎが欲しいであろうという根拠から、姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となると考えた。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎える。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになる。翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。最後の武田家当主となる四郎勝頼(諏訪勝頼、武田勝頼)である(勝頼が武田家滅亡の際に、子息の信勝に家督を譲る儀式を行った事から、信勝が最後の当主になったという説もある)。
天文15年(1546年)晴信は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻めた。戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。そこへ猛将・村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退し、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。勘助は晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動。この間に晴信は体勢を立て直し、武田勢は勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破ったという。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖した。この功により勘助は加増され知行800貫の足軽大将となる。この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年(1550年)である。
立身した勘助は暇を受けて駿河の庵原忠胤を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君晴信を「名大将である」と褒め称えた。
晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。
晴信と勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政、松平清康について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。後年、義元は桶狭間の戦いで敗死している。
天文16年(1547年)晴信は上田原の戦いで村上義清と決戦。重臣・板垣信方が戦死するなど苦戦するが、勘助の献策により勝利した。村上義清は越後国へ走り、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。以後、謙信はしばしば北信濃の川中島へ侵攻して晴信と戦火を交えることとなる。なお、史実では上田原の戦いは天文17年(1548年)であり、戸石城攻防戦の前である。また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年(1553年)である。
天文20年(1551年)晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では晴信の出家は永禄2年(1559年)とされる。
天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。
『真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。
これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。 「山本勘介由来」、「兵法伝統録」によると勘助の兵法の師は鈴木日向守重辰(家康が初陣で討った人物)と伯父山本成氏、「吉野家系図」では父貞幸が軍略の師範となっている。
川中島の戦い・勘助の死
永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。
夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。謙信は勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って千曲川を渡り八幡原に布陣していた。武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。
江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。
勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。
なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、一説には山本勘助の名前が由来とされている(大言海、辞海)。  
実在を巡る議論
江戸時代・甲陽軍鑑登場以後
山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いた初出の史料は、江戸時代初期の17世紀初頭に成立したと考えられる『甲陽軍鑑』であり、その後もその印象が江戸時代の講談に引き継がれて、さまざまに脚色されて天才肌の「軍師山本勘助」像が形成された。江戸時代には『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という名軍師の存在も広く知れ渡ることになる。しかし、元禄年間作成の松浦鎮信(天祥)の『武功雑記』によると、山本勘助の子供が学のある僧で、わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。
明治時代の評価
明治になって近代的な実証主義に基づいた歴史学が日本にも取り入れられ、『太平記』や『太閤記』といった古典的な軍記物語に対する史料批判が行われ、その史料性が否定されるようになった。明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定、『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」は山県昌景配下の身分の低い一兵卒が元であろうとした。田中は『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、『武功雑記』の記述を根拠として、『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。ただし、田中は『甲陽軍鑑』の史料性は低く評価するものの、山本勘助の実在性に関しては疑っていない。実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。活動はおろか、名前自体がその他の史料での所見がない山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、戦後には1959年刊行の奥野高廣『武田信玄』において、勘助を架空の人物とした。
市河家文書の発見
昭和44年(1969年)10月、同年に放送されていた大河ドラマ『天と地と』に触発された北海道釧路市在住の視聴者が、先祖伝来の古文書から戦国時代のものと思われる「山本菅助」の名が記された1通の書状を探し出し、北海道大学、信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と確認された。これは信濃国高井郡の国衆で、戦国時代には武田家臣、近世には上杉家家臣となり、明治期に屯田兵として北海道へ渡った市河氏の子孫家に伝来した古文書群で、市河家文書と呼ばれる。現在は大半が所蔵家のもとを離れ本間美術館に所蔵されている。そのうち手元に残した一部が「釧路市河家文書」で、「山本菅助」文書はこの中に含まれる。現在は山梨県立博物館所蔵。この書状の発見によって、実在そのものが否定されかけていた山本勘助の存在に、新たな一石が投じられた。市河家文書の発見を受けて、磯貝正義、佐藤八郎、小林計一郎ら山梨・長野県の研究者による研究が相次ぎ、磯貝は市河家文書の発見を持って「山本菅助」の実在は立証されたとしつつも、『甲陽軍鑑』における信玄の軍師としての逸話や諱の「晴幸」に関しては疑問が持たれる点を指摘した。小林は「山本菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一人物とし、さらにこの文書が第三次川中島合戦に際した弘治3年(1557年)の発給で、菅助は従来の見解による山県の家来でははなく、信玄側近として使者を務める地位の高い人物と評した。一方、佐藤八郎は磯貝の見解を支持しつつも、「山本菅助」を「山本勘助」に結びつける点に関しては慎重視する見解を示した。
市河家文書以降の研究
市河家文書以降の山本勘助に関わる研究は多様なものが見られるが、勘助に関わる確実な記録・史料は『甲陽軍鑑』以外では市河家文書のみであるという状態が続いた。山梨県の郷土史家・上野晴朗は『甲陽軍鑑』を肯定的に評価し、1985年には『山本勘助』を刊行し、山梨県北巨摩郡高根町上蔵原(現・北杜市高根町)に所在する伝・山本勘助の墓石・屋敷墓を紹介した。上野はこれらの墓石群を中世の五輪塔・宝篋印塔とし、付近には中世土豪の屋敷が所在し、『甲斐国志』に記される八ヶ岳南麓の山本勘助に関わる伝承の記述から、勘助は国信国境に近いこの地域に配置された家臣であるとした。また、1988年には渡辺勝正が『武田軍師山本勘助の謎』を刊行した。渡辺は『萩藩閥閲録』の『遺漏』(江戸後期の天保年間に成立)に収録されている、勘助の子孫を称する長門国三隅の山本家由緒書や武田氏関係文書を紹介し、勘助子孫が毛利家中に滞在し子孫を残したとした。ただし、渡辺の論は『萩藩閥閲録』・『遺漏』などの編纂史料や伝承に拠るもので一次史料に基づいていない点や、紹介している武田氏文書に関しては偽文書である可能性が指摘されている。1990年代には小和田哲男が戦国時代における「軍師」の役割を検討し、軍師は合戦の吉凶を占う軍配者としての軍師と、主君に対して軍事上の助言を行う参謀として軍師の両面があることを指摘し、勘助は双方の役割を兼ねた「軍師」であったと指摘した。1990年代後半から2000年代初頭にかけては『戦国遺文 武田氏編』や『山梨県史』の編纂が行われ、武田氏関係文書の徹底的な集成・調査が実施されたが、勘助に関する新出史料は発見されなかった。2006年からは丸島和洋が武田一族・家臣の名が多く記された高野山過去帳の紹介を行っているが、現在でも勘助に関わる名は発見されていない。一方、1990年代には国語学者の酒井憲ニが『甲陽軍鑑』の国語学・書誌学的な再検討を行い、これが2000年代には歴史学方面にも波及して、甲陽軍鑑の史料性に関する再評価が提示された。2007年には井上靖原作のNHK大河ドラマ『風林火山』が制作・放映され、前年から山本勘助に関する文献が多く出版された。
真下家所蔵文書の発見
2007年には柴辻俊六が「山本勘助の虚像と実像」『武田氏研究 第36号』を発表し、東大史料編纂所所蔵「古文書雑纂」における「高崎山本家文書」の調査記録に注目した。これは1892年(明治25年)に旧上野国高崎藩士・山本家当主が所蔵文書の鑑定を依頼した際の記録で、柴辻は文書自体は質の悪い写本であるとしつつも、「山本菅助」宛武田晴信書状については一定の信憑性があるものと評価した。2008年には、群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館による同市に居住する真下家の所蔵古文書の調査において武田氏関係文書が発見された。同年には山梨県立博物館による資料調査が実地され、「山本菅助」とその関係者とみられる5点の新出文書が確認された。なお、真下家所蔵の古文書群は当初「真下家文書」と呼称されていたが、その後の調査で本来的には真下家に伝来したものではなく蒐集した古文書であることが判明したため、現在では「真下家所蔵文書」と呼称されている。この5点の文書は「山本菅助」宛て文書が3通、「菅助」子孫の山本氏宛てと考えられている文書が2通で、『市河文書』以来の「山本菅助」関係文書として注目されているほか、山梨県立博物館の調査により「菅助」子孫の動向も判明した。さらに、2009年11月には静岡県沼津市で「第二十四回国民文化祭・しずおか2009」の一環として開催されていた企画展「後北条氏と沼津」において出展されていた古文書の中に、2007年に柴辻が紹介していた「山本菅助」宛武田晴信書状と同一の写本が発見された。これにより文書の所蔵家から古文書・家譜類などの「沼津山本家文書」が発見され、高崎藩士であった「山本菅助」子孫が明治後に移住していたことが判明した。
真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見に伴い山本菅助の研究は加速し、特に沼津山本家文書の家譜類から初代「山本菅助」の法号が『甲陽軍鑑』における山本勘助の法号と同様の「道鬼」であることが確認された。近世初頭においては「山本菅助」子孫や武田遺臣、再仕官を願った大名家の間では、初代菅助は『甲陽軍鑑』における「山本勘助」と同一視されており、両者は同一人物であると指摘されるに至った。また、真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見は近世初頭における武田遺臣である「菅助」子孫の再仕官に関する事情を豊富にもたらし、中世・近世移行期における大名家臣の動向に関する史料としても注目されている。
一方で、『甲陽軍鑑』における山本勘助の活躍や軍師としての役割などの点については解明されるに至らず、課題として残されている。
2010年(平成20年)には山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」が開催され、研究成果が一般に公開された。同展ではシンポジウムも開催され、海老沼真治、丸島和洋、柴裕之、平山優らによる諸論考が発表された。なお、2013年には同シンポジウムの成果やその後の調査などが山梨県立博物館監修・海老沼真治編『「山本菅助」の実像を探る』(戎光祥出版)として刊行されている。 
子孫
「山本菅助」とその子孫
真下家所蔵文書・沼津山本家文書によれば、初代山本菅助の子息には二代山本菅助がいる。幼名は兵蔵、諱は幸房とされる。二代菅助は『甲斐国志』巻之九十六では「山本勘助」の項目に続いて勘助子息の「山本某」を立項し、実名を不詳としつつ一本系図によれば名は「勘蔵信供」としている。「山本某」は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死したとし、『沼津山本家文書』でも二代菅助は長篠合戦で戦死したと記している。また、『甲斐国志』巻之百九では「饗庭修理ノ亮」を立項し、饗庭利長(越前守)次男の十左衛門頼元が勘助の娘を妻とし改姓し、山本十左衛門尉を名乗ったとしている。
文書上においては『天正壬午起請文』において「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名が見られ、武田氏滅亡後に徳川家康に使えていることが確認されている。
2009年に群馬県安中市で発見された真下家文書には「山本菅助」文書を含む5通の山本氏関係文書が存在しているが、その中には天正4年推定の「山本菅助」の後継的立場にあると考えられている山本十左衛門尉宛の軍役文書が含まれている。また、慶長7年(1602年)から慶長11年間推定の結城秀康書状は十左衛門尉の子平一宛で、徳川家康に仕えた菅助・十左衛門尉の子孫が越前松平家に仕えた可能性が考えられている。
また、真下家文書のうち天文17年山本菅助宛武田晴信判物は東京大学史料編纂所所蔵「古文書雑纂」に収録されているが、注記に拠れば「雑纂」所載山本氏文書は明治25年12月に小倉秀貫が山本勘助子孫であるという旧上野国高崎藩士山本家所蔵の写を探訪したものであるという。高崎藩主は松平信綱5男信興を祖とする松平家で、家臣団関係資料である「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には信興期からの家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士が存在していることから、「雑纂」注記の高崎藩士山本家に比定されるものと考えられている。
山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、「山本菅助」子孫は徳川氏に仕えた後に再び浪人し甲斐にいたが、寛永10年(1633年)頃に山城国淀藩主永井尚政に再仕官し藩士となり、「菅助」の名乗りを復したという。その後は永井氏の丹波国宮津藩への転封に従い丹波へ移り、後に松平信興に仕え、信興の転封により常陸国土浦藩、下野国壬生藩、越後国村上藩などを経て最終的に上野国高崎藩士となっており、好事家の真下家により文書が収集されたものと考えられている。
沼津山本家文書によれば「山本菅助」子孫は初代「菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一視しており、再仕官したのちも甲州流軍学を学んだ軍学者として活躍している。
諸藩の山本家と山本勘助
越前松平家は山県昌景子孫など武田遺臣を家臣団に加えているが、越前松平家の藩士系図「諸士先祖之記」には秀康期家臣に山本内蔵助成本・山本清右衛門の存在を記しており、山本内蔵助は系図が不分明であるものの山本勘助を先祖としており、山本清右衛門も武田信玄に仕えた山本氏を先祖としている武田遺臣であるという。
越後長岡藩文書『蒼紫神社文書』などによると、同藩の家老連綿の家柄である山本氏は、山本勘助弟・帯刀(帯刀左衛門)の末裔とする。山本家の名跡を継いだ、大日本帝国海軍軍人として著名な山本五十六連合艦隊司令長官は、山本勘助と同じ家系に連なる人物であるとして各方面で紹介されている。
また『寛政重修諸家譜』によると旗本・山本氏250石も、山本勘助の家系を汲む者となっている。 なお、肥後藩の正史である『綿考輯録』巻四十六」に拠れば、熊本の細川三斎に正保年間三百石で仕えていた下村己安(傳蔵)は、勘助が討ち死にしたときに幼い三男(長男と次男は川中島で討死と誤記)だった下村安笑の子、すなわち山本勘助の孫としている。 
市河家文書
武田晴信(信玄)書状
内容は弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いに際した長尾景虎野沢之湯出陣に対して、武田方の援軍出兵を市河藤若に対して報告した書状。この際に使者として「山本菅助」が派遣されており、「山本菅助」の名は市河家文書以外では群馬県安中市の真下家所蔵文書のみに確認される。
   注進状披見仍景虎至于野沢湯進陣
   其地へ可取懸模様又雖入武略候無同意剰
   備堅固故長尾無功而飯山へ引退候哉誠心地
   能候何ニ今度其方擬頼母敷迄候就中野沢
   在陣候砌中野筋後詰之義預飛脚候き則倉
   賀野へ越上原与三左衛門尉又当手之事も塩田
   在城之足軽為始原与左衛門尉五百余人真田江
   指遣候処既退散之上不及是非候全不可有
   無首尾候向後者兼存其旨塩田之在城衆ニ
   申付候間従湯本注進次第ニ当地へ不及申
   届可出陣之赴今日飯富兵部少輔所へ成下知候
   条可有御心易候猶可有山本菅助口上候恐々
   謹言
      六月廿三日  晴信(花押)
      市河藤若殿
上杉景勝書状
   兼日如申定候飯山野地無相違
   被相渡候事誠忠信感悦不浅候
   乍此上各以稼其国弥任存分候様
   肝煎任置候然者春日弾正忠今
   般可抽忠信之由被申越候旁任
   指図ニ朱印差越候雖無申迄候
   一功有之様ニ催促可被申候猶
   以面可申候恐々今言
      六月廿日  景勝(花押)
      市川治部少輔殿
      河野因幡守殿
      大瀧土佐守殿
      須田右衛門尉太夫殿 
真下家所蔵文書
群馬県安中市の真下家に伝来した古文書群。2009年に安中市学習の森ふるさと学習館、山梨県立博物館による調査で発見された。発見当初は「真下家文書」と呼称されていたが、その後の調査で真下家の家伝文書でないことが判明したため「真下家所蔵文書」と呼称される。高崎藩士山本家に伝わった武田氏・山本氏関係文書であるが、「市河家文書」以来となる「山本菅助」関係文書が含まれる点で注目され、本稿でも真下家に伝わる古文書群のうち、武田氏・山本氏関係文書について翻刻する。底本は海老沼真治「群馬県安中市 真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」『山梨県立博物館研究紀要第三号』(2009)。同書のほかに写真版が掲載。『山梨県史』『戦国遺文武田氏編』には未収録。
武田信玄判物
年代は天文17年(1548年) 内容は武田家臣山本菅助に対して信濃国伊那郡における働きを賞し恩賞を与えたもの。
   (晴信花押)
   今度於伊奈郡
   忠信無比類次第候
   因茲黒駒関銭
   之内百貫文可
   出置者也仍如件
      天文拾七 戊申 卯月吉日
      山本菅介との
武田信玄書状
年代は不明だが、文中に登場する「小山田」は小山田信有(越中守)、小山田虎満(備中守)が想定され、前者とすれば天文20年、後者とすれば永禄年間に推定される。筆跡から信玄自筆である可能性が高いと考えられている。
   朔日極楽寺差越候砌
   具申越候仍揺巳
   下之儀審調談可然候
   次小山田種物相煩既
   極難義候彼人之事
   当州宿老と云縦
   雖如何之隙入候以三日之
   御留罷越候腫物之
   様躰可見届候殊更
   彼是用所候間必々
   可罷越候也謹言
      卯月廿日 晴信(花押)
      山本菅助との
武田家朱印状
年代は永禄11年6月7日。内容は不足する武具の調達を指示した軍役定書。朱印は外径6.1センチメートル、内径5.6センチメートル。宛所の「山本菅助」は二代目にあたる人物である可能性が考えられている。
   (龍朱印)定
   一、小物具足二両
   一、小物甲手蓋
     喉輪四人之分
     不足之所急渡
     令支度来出陣之
     砌可持参此外可
     為如日記物也
      戊辰 六月七日
      山本菅助殿
武田家朱印状
年代は同文の軍役定書が存在することから天正4年に推定される。
(龍朱印)定 軍役之次第
   一、鉄砲 可有上手歩兵之放手一挺
     玉薬三百放宛可支度   一挺
   一、持鎚 実共ニ二間之中たるへし  一本
   一、長柄 実共ニ三間木柄歟打柄歟
     実五寸朱志て有へし   弐本
   一、小幡    弐本
     巳上道具数五
   右何茂愚息・甲・手蓋・喉輪・指者有へし
   如此調武具可勤軍役者也仍如件
      五月十二日
      山本十左衛門尉殿
結城秀康書状
年代未詳(江戸初期)、内容は訪問に対する礼状。
   (奥ウハ書)「ー 山本平一殿 秀康」
    尚々煩故印判を以申候以上
   先日者御帰残多存候不任
   心中付而何へも右之通候随而此
   候へ共羽織壱進之候誠書
   中之験迄候猶使者可申候恐々
   謹言
      六月拾六日  秀康(黒印) 
川中島の戦い 
日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。
1.第一次合戦:天文22年(1553年)
2.第二次合戦:天文24年(1555年)
3.第三次合戦:弘治3年(1557年)
4.第四次合戦:永禄4年(1561年)
5.第五次合戦:永禄7年(1564年)
戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。
なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。1929年には渡辺世祐がはじめて五戦説を提唱し、戦後には小林計一郎以来この五回説が支持されている。二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。 
戦国期東国の地域情勢と川中島合戦
室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。
甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となり、諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を次々と攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で大敗させ、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。
同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、一方的とも言える大敗を喫する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。
対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。 
川中島
信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。
この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。 
第一次合戦
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信と戦った。
天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。
なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。 
第二次合戦
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
天文23年(1554年)、晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉方と対峙する北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。
天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆栗田鶴寿が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。
晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城。景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。
その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。 
第三次合戦
第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市川氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には景虎家臣の大熊朝秀が武田方に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田方に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。
長尾方でも攻勢を強め、4月18日には景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。晴信は市河氏への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。長尾方では武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には尼飾城を攻めるが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。
武田方では7月5日に安積郡小谷城を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には「上野原」において武田・長尾方は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
一方、このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に晴信は信濃守護、嫡男義信は三管領に補任されている。晴信の信濃守護補任の条件には景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。
一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(長野盆地北部)を失って弱体化する。このため、景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。 
第四次合戦
『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが。『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。 
合戦の背景
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。
北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。 
『甲陽軍鑑』等における合戦の経過
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。攻めなかった理由は不明だが、この海津城の存在が戦場で大きな意味を持つことになる。
更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。
9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。
10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、入れ替わり立ち替わり次々攻撃する陣形。いわゆる波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、劣勢であったと言われる。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけ、馬を刺したので、惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、あまりにも出来すぎているため、創作と考えられることが多い。なお、江戸時代に作成された上杉家御年譜では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。ただし、乱戦かつ上杉軍が攻めなければならない状況や、謙信の性格を考慮すれば、絶対に無かったとまでは言い切れないものがある。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走し、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となった。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。
この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。 
参戦武将
武田軍
旗本本隊(8000人)
総大将:武田信玄
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景(山県昌景)、内藤昌豊、諸角虎定、跡部勝資、今福虎孝、浅利信種、山本菅助(勘助)、室賀信俊
妻女山別働隊(12000人)
春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、小山田信有(弥三郎)?、甘利昌忠、真田幸綱、相木昌朝、芦田信守、小山田虎満(昌辰)、小幡憲重
上杉軍(13000人)
総大将:上杉政虎
柿崎景家、斎藤朝信、本庄実乃、色部勝長、五十公野治長、山吉豊守、安田長秀、長尾政景、加地春綱、中条藤資、村上義清、高梨政頼、北条高広、宇佐美定満、荒川長実、志田義時
直江実綱(小荷駄護衛)
甘粕景持(殿(しんがり))
『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。 
第五次合戦
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。
永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていたため、戦略的には武田氏の勝ちといえる。 
戦後の甲越関係と川中島
川中島をめぐる武田・上杉間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている。永禄3年(1560年)5月には桶狭間の戦いで駿河国の今川義元が尾張の織田信長に討たれ、今川氏は今川氏真へ当主交代する。これに伴い三河国岡崎では松平元康(徳川家康)が自立するなど、国衆の反乱が相次いだ(遠州忩劇)。
武田氏は今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)には信長の幼女が信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に嫁いだ。同年10月には、武田家中において今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚した義信事件が発生する。義信は永禄10年10月19日に死去し、永禄11年11月には氏真の要請で義信正室が駿河へ帰国した。一方、氏真は上杉氏と秘密外交を行い、信玄による今川家臣の内応工作により、今川・上杉間の交渉が露見した。こうして武田と今川の関係は悪化し、永禄11年(1568年)に武田氏は駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は相模の北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏では越後上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、信玄は将軍足利義昭を要する尾張の織田信長と友好的関係を築き、越後との和睦を模索している(甲越和与)。
その後、武田氏では三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、越後とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。
元亀4年(1573年)信玄死去後、1575年の長篠の戦いで惨敗した武田勝頼は上杉謙信に救援を要請し上杉軍に守られて甲斐に無事帰国している。謙信死去により越後で後継をめぐる御館の乱が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。上杉景勝は勝頼の異母妹菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立する。これは甲相同盟を再び破綻させ、上杉方では柴田勝家らからなる織田軍の攻勢を防備するが、武田方では天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による本格的侵攻(甲州征伐)により滅亡する。
武田氏滅亡後の川中島を含む信濃領国は森長可ら織田家臣によって支配されるが、同年末の本能寺の変において信長が横死すると森長可が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦(天正壬午の乱)となり、武田遺領は徳川氏により確保された。その後、豊臣秀吉によって上杉家は会津米沢へ移封されて川中島の地域は徳川の勢力下となった。
一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、徳川政権により上田から海津城(松代)に移された真田家にとっては藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。
後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。 
 
山本勘助4 雑話

 

勘助の行雲流水的な生き方
五十二歳にもなれば、いまさら若者のように一国一城の主になりたいなどという野望はない。また、「能力に応じた処遇をしてもらいたい」という期待もない。勘助は長年の修行で、″行雲流水″的な生き方を身につけていた。自分の期待が実れば実ったでいい。が、実らないからといってべつに落胆もしない。そういう感情の起伏は若い時代のことだ。
(この年齢になれば、何が起ころうと自然に受け入れられる)と思っている。だから、だれが仕組もうと企もうと、自分が甲斐国の武田家に行くことはいわば、「天の命じた道」なのである。結局は、みんなからよってたかって邪魔者にされた形にはなるが、だからといってそれが自分に課された天の道であるなら、従容とその道を歩いて行くほかはない。荒修行を続けながら、この国の詰所を歩きまわっていて勘助が感じたのは、「どんな苦境におちいっても決して悪あがきはしない」ということである。置かれた立場を構成する条件をそのまま受容すれば、それなりに道は開ける。ばたばたして慌てるとせっかく見えかかった道もどこかへ消えてしまう。いままで何度そういう目に遭ったことか。この人生観は、体のあちこちに残っている傷跡が生んだものだ。勘助は肉体に八十敷か所も傷を負っている。しかしそれは合戦によって得たものではない。山中の荒修行によって、若や風雪がつけた傷だ。死ぬ思いもたびたびした。その傷の痛みを感ずるたびに、勘助の心の中に強い縄が縒られていった。その結び目は固く、おそらく死ぬまで解けることはないだろう。  
信玄は民のために合戦し人材を登用する
(晴信様はおもしろいお館だ)と感じた。こんな大将に会ったのは初めてだ。しかし晴信の言うことは正しい。普通大将は、軍師(参謀)を置いておいて、合戦をはじめる前に必ず軍師の意見を聞く。したがって、主として合戦の作戦を立てるのは軍師だ。大将はそれに対し、承認したり否定したりする。大概は、「よし、その作戦で行こう」と決定する。どんなに軍師を頼りにしていても決定権は大将一人の固有の権限だからだ。ところが晴信の場合は違った。
「作戦もおれが立てる。だから軍師は置かない。しかし、山本勘助よ、おまえはおれが作戦を披露したときには必ず賛意を示せ」ということである。つまり山本勘助は武田晴信の引き立て役をつとめろということだ。勘助は心の中で笑いながら、一人おもしろがった。そして、(言われたとおりにしよう)と思った。が、かれもしたたか者だ。聞いた。
「お館のご意向に従いますが、一つ二つ伺ってもよろしうございますか」「ああ、何でも聞け」晴信は受けて立つ構えを見せた。気負いはない。しかしその構えの底には、(おまえには絶対に負けぬぞ)というような若武者らしい街気も見えた。勘助は聞いた。
「そもそもお館は合戦をどのようにお考えでございますか」「三つの考えを持っている」晴信は即座に答えた。
「一つは、敵の状況を詳しく知り、これを分析する。そして、大事なことはすべて部下に知らせておく。二つ目は、合戦の勝敗は六分か七分を持って勝利とする。決して、九分、十分の勝ちを狙ってはならない。これは逆に大敗の原因になる。三つ目は、武士として四十歳前は勝つように心掛け、四十歳から先は負けぬように心掛けることが大切だと思っている」
立て板に水を流すようにそう言った。勘助は聞いていて、(練りに練ったお考えだ)と感じた。思いつきでこんなことを言っているわけではない。しかしまだ二十歳をちょっと過ぎたばかりの晴信がこんなことを言うのには、いままでどれだけ膨大な量の軍略書を読み、それについて考えてきたか計り知れなかった。勘助は晴信の偉大さに驚いた。特に、
作戦展開で重要なことはすべて部下に知らせておく
勝ちは六分、七分をもってよしとし、九分、十分の勝ちは求めない
という考えは、実に老成したものであって、若年者の考えではない。それだけでもこの武田晴信という大将が、いかに傑出したものであるかを物語っていた。最初に聞いた大将の功名について、晴信は、「人の目利すなわち人材登用と、国の仕置すなわち民への治政が大切だ」と述べた。これは突っ込んでいえば、「民の暮らしを豊かにするためにおれは合戦を行うのだ。そのために有能な人材を登用するのだ」ということになる。つまり合戦の目的は、「民のため」であり、その合戦も、「有能な人間によって行う」という道筋をきちんと立てている。小気味よかった。勘助の頭の中はすがすがしくなった。駿府時代にうごめいていた厚い雲が完全に裂け、上方から輝く陽光が射し込んだ気がした。こんな晴れ晴れした気分はいままで味わったことがない。勘助は、「このすがすがしさは、すべて晴信様の発する気(オーラ)に根ざしている」と感じた。勘助は聞いた。
「お館の合戦・治国の要諦はいずこにございますか」晴信はにやりと笑った。こう答えた。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し。侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」「孫子でございますな」勘助はそう言った。晴信は領いた。そして、「風林火山。おれが合戦のときに掲げる旗だ。そしてこれがおまえの言う合戦と治国の要諦だ」そう言った。
「風林火山」勘助は呟いた。そして、(まさに、このお館の気質をそのまま表している言葉だ)と思った。その勘助に晴信がさらに言葉を投げつけた。「山本、おれは人を用いぬぞ。人のわざを用いる」勘助は領いた。晴信が言うのは、「おれにとって、人がいいとか立派だとかいうことは関係ない。能力だけが大事なのだという合理的な割り切った考えなのである。この朝、勘助は晴信から徹底的に、「武田晴信のすべて」を叩き込まれた。  
信玄が見誤った性格
甲府に戻ってからも、勘助は毎日のように晴信に呼ばれた。軍談や兵法の話だけではない。晴信は「人間論」も語った。
山本勘助が武田晴信という若い大名に、底の知れない恐ろしさを感じたのは、ある日、晴信が勘助に語った次のような人間観であった。
「わしはいままでしばしば人を見聞違えた。それが人材登用の面で大きな過ちを犯す結果を生んだ。いま気をつけている」そう言って、いろいろな種類の人間のタイプを並べた。つまり、晴信自身が、「見誤った性格」である。
隙だらけの人間を落ち着いた人間と見誤ったこと
軽率な人間をすばしっこい人間と見誤ったこと
優柔不断でグズな人間を沈着な人間だと見誤ったこと
早合点するそそっかしい人間を敏捷な人間と見誤ったこと
頭の働きがゆっくりしている人間を慎重な人間と見誤ったこと
脈絡もなくべらべらしゃべる人間をさばけた人間と見誤ったこと
ガンコな人間を剛強武勇の人間だと見誤ったこと
「わしもまだ若年だ。至らぬ人間だからしばしば人を見誤る。大将としては恥ずかしいことだ。いまは気をつけている。おぬしも以前見たように、軍談を聞く子供でさえあのように反応が幾種類にも分かれる。人間とは複雑なものだ、な?」最後は共感を求めるように言った。勘助は領いた。  
勘助に買われたサキの智恵
「薪はもっと安くなります」「どうするのだ?」「この辺の村里には林がいっぱいあります。倒れかかった古本もあります。あれをただでもらってきたら、燃料費はいらなくなります」「そんなことができるのか」「やってみます。ただ」「ただ、何だ?」「古木をもらった村には、新しい苗木を差し上げたいと思います。ですから、苗木を買うお金が少しいります。全くのただというわけではありません」「苗木の代金など知れている。しかしおまえは随分と工面がうまいな」勘助が感心しているとサキはこう言った。
「志賀城では苦労しましたから」「こいつめ」自分のお株を取られたので勘助は拳を固めてサキを打つまねをした。サキは飛び下がった。脇で猪太郎がキヤツキヤとはしゃいだ。サキは自分の案を実行した。手伝いに来る足軽の家族たちを連れて村々を歩きまわった。そして倒れかかった老木の持ち主に交渉してはその木をもらい受けた。理由を聞いて木の持ち主は、自分で木を倒し、さらに細かく切り砕いて薪にして渡してくれた。なかには、「重いから」と言って自分が背負って届けに来る者さえいた。勘助は呆れた。そこで勘助はサキにまた金の袋を渡した。
「苗木の代金とおまえたちのご苦労賃だ。みんなにも分けてやってくれ」サキの才覚は、近所の武士の家に勤める連中の羨望の的になった。みんな、「山本様のところに奉公したい」と言い出す始末だった。勘助自身の支出が増えたわけではない。薪代もただ同様だったし、みんなにご苦労賃を払っても収支はべつに崩れたわけではなかった。そしていつのまにか、足軽の家族たちの魚や野菜の持ち帰りがなくなった。サキの知恵によっていろいろな家計上の工夫をするので、自分たちも気まずい思いをして魚や野菜を盗むようなまねをしなくてもすむようになったからである。みんな明るくなった。足軽の家族たちも、「山本様のおうちのお手伝いができて幸せだ」と言い合った。これが亭主のほうにも響いていく。初めのうちは勘助を新参者と思い、同時にまたその姿に対し蔑みの気持ちを持った者もいたが、次第にそんなものは消えた。いまでは二十五人の足軽は心から山本勘助を尊敬していた。それは山本勘助が新参のせいもあるだろうが、勤務年数が重なってきても、決して自分個人の立身出世を願うような色が全くなかったからである。
「うちの隊将はめずらしい人だな」足軽たちはよくそんな噂をした。
「家中では立身出世競争が盛んで、往々にして人の足を引っ張ったりするものなのに、山本様は絶対にそんなことはしない。お館への忠誠心一本やりだ。本当に立派だなあ」評判がいい。金丸佐平がある日ぶらりとやって来て言った。
「隊将、女房をもらわなくてもいいんですか」「べつにいいよ。なぜだ?」「いや、夜がご不自由ではないのかと思いましてね。うちの女房も心配してます。初めはおサキをこの家に入れたとき、そういうこともさせるのかと思っていたんですが、どうもそうでもないらしい。どういうおつもりですか」「どういうつもりもなにもないよ。おれはおれだ」「お困りになりませんか」「ないよ」  
臆病武士と言われた岩間のメンテナンス上手
「信濃国の治国の方針を中途半端にしたまま突入したのが、今回の敗因の大きな原因である」ということだと思った。普通の大将ならこんなことは言わない。負け惜しみを言うだろう。そして敗北後さっさと甲府に引きあげたに違いない。しかし武田晴信は二月十四日の敗戦後、およそ二十日近くもあの千曲川の畔に座り続けたのである。会議を閉じる前に晴信は最後にこう言った。
「しかし、今度村上勢に敗れたのはもう一つ大きな敵がいたためだ」大きな敵とは何だろう、隊将たちは一斉に晴信を見た。晴信は突然あっはっはと高く笑った。そしてこう言った。
「雪だ。あの大雪がわれわれを破ったのだ。これからは信濃に攻め込むときは気をつけよう、な」な、と念を押した。みんなも笑った。敗戦後、初めて武田家中が上げた笑い声であった。晴信軍が躑躅ケ崎の館に戻ったのは三月二十六日のことである。例によって、みんなから一時期″臆病武士″とばかにされていた岩間大蔵左衛門が、とくとくとして門の前まで迎えた。留守中にかれが指揮をした使用人たちも揃って頭を下げた。岩間大蔵左衛門は当然、今度の敗戦を知っている。しかしかれはいまでは、現代でいう″メンテナンス″の達人だったので、晴信が留守の間は館の管理の監督者になっていた。館内を掃除しピカピカに磨き上げ、そして塵ひとつ落ちていない状況に毎日保つよう使用人たちを叱咤激励した。その成果が上がって、今度も躑躅ケ崎の館は輝いていた。晴信はその状況を見ると岩間に目をとめ、「岩間、また館をきれいに磨きたてたな」とほめた。岩間は顔を赤くし、しかしうれしそうに頭を下げた。  
キツツキ戦法は信玄自身の作戦
別軍がキツツキのように妻女山の上杉軍を攻撃する
驚いた上杉軍はそのまま山を下って渡河し、川中島に退く
それを待ち受けていた武田本軍がこれを繊滅する
という戦法であった。この合戦におけるキツツキ戦法は、「山本勘助が立案したものだ」といわれるが、筆者はすこし首を傾げている。というのは武田信玄が山本勘助をいわゆる″軍師″として合戦で活用した実績があまり発見できないからだ。それにこの本でしばしば書いてきたように、信玄そのものはあまり軍師の存在を重要視しない。自分に軍師的才質があると思っているから、このときもおそらく信玄自身が立てた作戦ではなかったろうか。しかしこの作戦は失敗する。それは上杉謙信のほうが一枚上手だったからである。謙信は妻女山からじつと海津城の動きを見ていた。突然海津城から煙の柱が何本も立ち上った。謙信は脇の者に言った。
「武田軍が動くぞ」「なぜですか」「煙がいっせいに上った。あれは飯を炊いている煙だ。やつらは飯を食った後必ず動く。場合によってはここへ来るかもしれない」「ここへ7」部下はびっくりした。謙信は領いた。
「キツツキ戦法だ」そう告げて謙信は、にやりと笑った。そして、「その手は食わぬ」そう言うと、ただちに全軍に命じた。
「川を渡って川中島に出る」この後の上杉軍の行動が、のちに頼山陽の有名な詩に歌われる″夜河を渡る″ということになる。しかし、翌九月十日は、未明から川中島一帯に深い霧が立ち込めはじめた。武田軍は信玄が命じたとおり、二軍に分かれ行動を起こした。別軍の大将は高坂日日信がつとめた。昌信は張り切っていた。山本勘助は信玄の供をして本軍に加わった。高坂は勘助に言った。
「山本殿、場合によってはこれが今生のお別れになるかもしれません」「うむ、おぬしの活躍を祈る」「山本棟もどうか武運のお強きを」「おぬしもな」二人はそう言って別れた。  
 
竹中半兵衛

 

天文13年(1544)、美濃国の土豪・竹中重元(しげもと)の長子として生まれる。名は重治(しげはる)、半兵衛は通称。はじめ美濃国主である斎藤氏に仕えたが、織田信長がその手腕を見込んで召し抱えようとした際、差し向けられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の熱意に負け、秀吉の配下に入る。戦国時代を代表する軍師として知られ、黒田官兵衛とならんで「秀吉の両兵衛」と呼ばれた。秀吉の三木城攻囲の最中の天正7年(1579)、病没。享年36歳。
軍奉行は優男
竹中半兵衛(重治(しげはる))は黒田官兵衛(如水(じょすい))とともに秀吉の軍(いくさ)奉行として活躍した。
見かけは色白で、女性のような優男(やさおとこ)だったといわれるが、半兵衛は戦にかけては実に沈着冷静な謀略を実行に移せるまたとない知将であった。
半兵衛の父・重元(しげもと)はもともと美濃国(岐阜県)の斎藤道三に仕えていたが、永禄年間の初めごろに不破(ふわ)郡の岩手城主・岩手氏を滅ぼして菩提山(ぼだいさん)に城を築き、6000貫文を領していた。菩堤山は伊吹山の東南にある山で、現在の岐阜県不破郡垂井(たるい)町にある標高425mの山である。
半兵衛はその重元の長子で、容姿は前述のように「状貌婦女(じょうぼうふじょ)の如し(『名将言行録』)」といわれるほど優しく、性格も温順で細かいことにこだわらない鷹揚(おうよう)な人物であった。少年のころから読書が好きで、中国の張良(ちょうりょう)や諸葛孔明(しょかつこうめい)などの兵法書を読みふけって野戦攻城の技術を磨いていたという。
ところが、半兵衛は周囲の者からは凡庸(ぼんよう)に思われたらしく、18歳のころに稲葉山城(のちの岐阜城)から下城しようとする半兵衛めがけて櫓(やぐら)から小便をひっかけた者がいた。美濃国主・斎藤龍興(たつおき)の側近の者たちだった。しかし、半兵衛は黙って尿をぬぐうと、何をいうでもなくその場を立ち去った。
そして、妻の父・安藤伊賀守のもとを訪ねて龍興の傍若無人ぶりを訴えた。
美濃国では、斎藤道三が息子の義龍(よしたつ)に討たれ、義龍の次の3代・龍興は酒色にふけり、暴政には目にあまるものがあった。それを憂うる声が領内に満ち溢れ、さすがの半兵衛も義憤を感じていた、といわれる。
土豪の1人として、竹中氏は弟の久作を龍興の稲葉山城へ人質に送っていたが、ある日、半兵衛はその弟が病気になったための看護と称して数人の武士を城内に入れた。さらに武具をしのばせた長持ちをもたせ、自身も十数名の家来を引き連れて登城した。やがて日が暮れると、武具に身を固めた半兵衛の手の者が一斉に城内に斬って出た。
その夜の在番頭(ざいばんがしら)・斎藤飛騨守がまず討たれ、城内は大騒ぎとなり、龍興は命からがら城から逃げ落ちていった。世にいう稲葉山城乗っ取り事件である。
もともと半兵衛に謀反の心はなかった。
ただ龍興を諌めることだけが目的だった半兵衛は、半年後には城を龍興に返し、自分は不破郡栗原山(不破郡垂井町)の麓にひっこんでしまった。
三顧の礼で迎えられ秀吉の軍師となる
この半兵衛の鮮やかな行動に目をつけたのが織田信長である。
当時の信長は美濃攻略に頭を悩ませていたが、稲葉山城は難攻不落の名城で、さすがの信長にも手にあまるものがあった。そこで、苦もなく稲葉山城を乗っ取ってしまった半兵衛を召し抱えようと考え、差し向けたのがまだ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉であった。
しかし、秀吉のたび重なる誘いにも、半兵衛はなかなか首をたてに振らなかった。
ついにある日、秀吉の熱意に負け、信長に仕官するというよりは秀吉の与力としてならと承諾することになった。半兵衛は秀吉の人物に感じるものがあったのだろう。
以来、半兵衛は黒田官兵衛とならんで「秀吉の両兵衛」「秀吉幕下の張良・陳平(いずれも中国・漢の高祖の軍師)」と呼ばれて秀吉を参謀、軍師として支えることになった。
あるとき、官兵衛が知行(ちぎょう)を増やしてやるという秀吉の奉書を見ては、嘆いている。「これは空証文だった」というのである。
半兵衛はそれを見せてくれといい、いきなりそれを破り捨て、火鉢に投げ入れてしまった。「こんな紙切れをいつまでも持っているから加増ばかりが気になってしまう。奉公に励んでいさえすれば、知行はおのずからついて増えるものだ」と、官兵衛を諭したという。
やがて、秀吉が墨俣に一夜城を築いたことによって、信長は念願の美濃攻略に成功し、上洛を視野に入れるようになり、それを阻(はば)もうとする近江の浅井勢と対峙することになった。
半兵衛は秀吉の軍師としての本領を発揮し、浅井側の有力武将を調略して次々と寝返らせ、秀吉の信頼をますます勝ち取るようになっていった。
元亀元年(1570)信長は浅井・朝倉の連合軍を姉川の合戦で打ち破った。
その後、秀吉は横山城に拠って小谷城の浅井勢と対峙していたが、あるとき浅井勢が大軍を引き連れ城を出た。出撃しようとする秀吉を、半兵衛はおしとどめた。
「あれは、われわれをおびき出そうとして、いざとなれば攻めかかってくるつもりです。備えを堅くして誘いに乗らないことです」といったので、秀吉は半兵衛に従い、味方を一歩も出さないようにして弓も鉄砲も打つことを禁じた。
浅井勢は案の定、これをあなどって近づいてきた。充分近づいたところで半兵衛は射撃を命じた。そして一進一退が続き、あたりが暗くなって敵が引き上げようとしたとき一気に攻めかかった。浅井勢はたまらず敗走していったという。
天正3年(1575)の長篠の合戦でも、半兵衛は存分に戦の才能を発揮した。
武田勝頼軍が、対峙する秀吉勢から左に2丁ほど移動した。これを見た谷大膳衛好(もりよし)がこれに対応するよう味方の備えを移動させようとしたが、半兵衛は、すぐ移動せず、待って備えを堅くしたほうが得策だろう、と進言した。
しかし、大膳は意に介さないで軍勢を移動させてしまったが、一方の半兵衛は手勢をそのままおしとどめて動かなかった。
はたして、しばらくすると敵はいっせいに元の陣にもどってきた。
半兵衛がそこに留まっていなかったら、味方はまんまと敵の作戦に欺かれ、戦線を突破されるところだった。以後、秀吉はますます半兵衛を重用するようになった。
柔らかく、厳しく、そして情に厚く
半兵衛はその才能を驕(おご)ることはなく、常に謙虚でいつも変わるところがなかった。
そんな半兵衛をこころよく思わない者もいた。
その1人の武将がある日、自分の思う通りに布陣していたところ、半兵衛がやってきて馬から降りてにこやかにいった。
「いやいや、さすがに見事な布陣ですな。筑前殿(秀吉)も感服なさっております」と相手を持ち上げ、気分よくさせたところで、おもむろに「筑前殿は足軽の備えや旗の位置などはこれこれかように変えたらさらによくなるであろうと仰せでございます」といってのけた。もちろん秀吉の意向ではなく、半兵衛自身の意見である。
相手はしてやられたことはわかっていても「なるほど、ごもっとも」というよりほかはない。その武将はただちに陣替えをしたという。
要するに半兵衛は人の心の動きを熟知していたのである。
こんな話もある。
ある日、半兵衛らが戦物語をしているとき、同席していた半兵衛の嫡子・重門(しげかど)が厠に立とうとした。これを見た半兵衛は「尿(いばり)をたれたければここでたれよ。今は国の大事である戦話をしている席であるぞ」と怒ったという。大事な席で厠に立つとは何事か、真剣な話をしているときに不謹慎だ。そんなくらいならここで尿を漏らしたほうが、よほど真剣さが皆に伝わるだろう。もっと緊張感を持て、というのである。
また、信長が浅井・朝倉氏を滅ぼし、家康と連合軍を組んで戦った長篠の合戦では武田勝頼を破って安土に壮大な城を築き、近江、続いて中国地方の攻略にとりかかろうとしていたときである。
いったん信長に恭順の意を示しながら、摂津の荒木村重は天正5年(1577)に突然信長に反旗をひるがえした。このころ、同じ播州の小寺氏に仕えていた黒田官兵衛はかつて親しくしていた村重を説得しようと、伊丹・有岡城(兵庫県)に入った。
ところが、村重は諌める官兵衛に耳を傾けるどころか、捕らえて牢に入れてしまった。
いつまでも帰らぬ官兵衛を、信長はてっきり裏切ったと考え、かねてから人質として秀吉の居城・近江(滋賀県)の長浜に預けてあった官兵衛の嫡子・松寿丸(後の長政)を殺すよう命じた。
秀吉はこれをうけて松寿丸を殺すよう半兵衛に命じたが、半兵衛は長浜から松寿丸を連れだすと、自分の居城の近くにかくまってしまった。かくまった場所は、現在、小振りなお堂の前に赤い鳥居が立ち並び、長政手植えといわれる銀杏の木が聳えている五明稲荷(岐阜県垂井町)のあたりであったと伝えられる。
有岡城の村重は、織田軍の猛攻によく耐えたが、天正7年(1579)ついに落城し、官兵衛は助け出された。
黒田官兵衛、号泣す
さらに播磨・三木城(兵庫県)に拠る別所長治(ながはる)がやはり信長に反逆したとき「干(ほし)殺し」つまり兵糧攻めにしようと献策したのは半兵衛であった。
そして、鳥取城の兵糧攻めも同じ半兵衛の策だったといわれている。秀吉は後年「三木の干殺し、鳥取の渇(かつ)え殺し、太刀も刀もいらず」と自分の戦術を自慢したが、これらは実は半兵衛の力によるところが大きいのだ。いずれにしても、秀吉が数多くの戦いに勝利することができたのは、竹中半兵衛と黒田官兵衛という優れた軍師に恵まれたことが大きい。
いいかえれば、秀吉はこの「両兵衛」に育てられて天下人になり、太閤にまで登りつめることができたということである。
その半兵衛も、三木城が落城したときには出家して高野山に入る準備を整えていたという。あまりに切れる参謀は危険でもある、と秀吉が思いかねないと先を見通していたからである。
しかし、その必要はなかった。
残念ながら半兵衛は、鳥取城はおろか、三木城の落城も見ることができないまま死んだ。
三木城攻めの最中に発病し、いったんは秀吉の勧めに従って京都にもどり、療養していたが、回復の見込みがないことを知ると、再び三木城攻めの陣にもどった。武人らしく陣中で死ぬことを望んだからである。享年わずか36。
有岡城攻めのとき、官兵衛は獄中で死ぬ思いをしたため、有馬の湯で湯治中であったが、半兵衛の死と松寿丸の無事を知った官兵衛は、友の情を思い、激しく泣いたという。
後年、成長した松寿丸は長政となり、関ヶ原の戦後、筑前(福岡県)52万石を徳川家康から賜ったとき、半兵衛の孫・重次を呼び寄せて高録で召し抱え、恩義に報いたという。
私心を捨て去ることで物事の本質が見えてくる
天才軍師・竹中半兵衛の名を歴史に刻んだ理由の一つに武将としての栄達への野心を生涯抱かなかったことがよく挙げられる。『太閤記』によれば、半兵衛は、戦場に出ても功を急ぐ猛々しい振る舞いはせず、服装も地味で、具足は馬の革の裏を表にしてつぶ漆であらあらと塗り、浅葱の木綿糸の威(おど)しであった。
また、平素は寡黙でやたらと口出しはしないが、意見を求められればその発言は必ず理にかない、正しい方向を示す筋の通ったものであったという。秀吉から与えられた知行に対しても不服を唱えることは一度としてなかったと伝えられている。
ほとんど仙人を思わせる“半兵衛伝説”は、歴史的に脚色された部分が多いように思えなくもないが、おそらく半兵衛自身の乏しい生命力に対する自覚が、立身出世という男子の一般的な興味を削ぎ落とし、それによって結果的に“澄んだ心”が、いかなる窮地でも状況判断を見誤らない天才軍師としての資質を開花させたと考えられる。
歴史史料から半兵衛の本心を正確に推し量ることは困難だが、少なくとも細心の注意を払いながら己の胸中を誰にも読み取られることなく自分の心を透明化していった半兵衛という人物は、稀代の軍師であるとともに思想家であったといえる。
ちなみに、こうした半兵衛のエピソードは、“秀吉の両兵衛”のもう1人、秀吉の傍で絶えず立身出世の機を狙っていた野心家の参謀・黒田官兵衛と比較して語られることでより強調されたこともつけ加えておきたい。
名君としての資質も合わせ持っていた天才軍師
半兵衛は、戦わずして勝つことが肝要であり、戦によって困窮してしまった民百姓の生活や人心を安定させることが戦の勝利よりも大切と考えていた。
信長・秀吉の配下に加わったのち、彼の最初の大仕事は、近江の浅井長政の家臣・堀次郎の調略であった。半兵衛は、堀次郎の重臣・樋口三郎左衛門を説き伏せて調略に成功すると、すぐに秀吉に進言し、戦や一揆によって荒廃した江北の民百姓を救うために堀氏に米100俵を与えた。
また、軍師として浅井家の小谷城を攻め落とし、秀吉が今浜(長浜)に新しい城と城下町の建設にとりかかった際、半兵衛は、町割りや行政組織の構築にまで積極的にかかわった。生活困窮者に対しては、用水や里道の労役をもって年貢を免除するなどの施策も進言したという。さらに三木城攻略時には、城下の百姓の生活を助けるために山林や田畑を寄進。半兵衛が世を去ったのちも、秀吉は半兵衛の進言を取り入れて三木城下の年貢や諸役の免除を実行し、民百姓の生活を守った(現在の兵庫県三木市には「竹中山」と呼ばれる一帯が残されている)。
軍師としての半兵衛を貫いた信念は、戦わずして勝つ、戦うなら効率的に勝つ、さらに民百姓の災禍は最小限にとどめるというものだった。歴史にタラレバはないが、仮に半兵衛が、一国一城の主となったならば、名君として日本史にその名を刻んだことは間違いないだろう。
 
武田滅亡と松姫

 

松姫は武田信玄の娘である。
油川信守の娘(1528-1571)が武田信玄の側室に1553年頃なったとされ、1561年9月、5女として松姫誕生。兄には猛将で知られる武田信玄5男・仁科盛信(1557-1582)と、6男葛山信貞(?-1582年)、そして妹の菊姫(1563-1604)がいる。
1561年、川中島の戦いで仁科盛政が武田を裏切り上杉に寝返った為、捕らえた仁科盛政を武田信玄は処刑したが、仁科家の名跡を5男として、のち仁科盛信が仁科家(安曇仁科森城)を相続し、仁科家家臣並びに領民を安堵させた。
1568年、武田信玄と織田信長の同盟の為、松姫(7歳)と織田信忠(11歳)と婚約が成立する。婚約決定の宴は、盛大なものだったようで、結婚に向けて新しく設けた館に松姫は入り「新舘御寮人」と呼ばれた。
武田氏関係の古文書で「御寮人」とは美人の姫君を指すことが多い為、美人だったと考えられる。
それから、織田信長は贈り物や手紙をこまめに松姫に送るよう、織田信忠に指示していた為か、政略結婚をする間柄とは言え両者は次第に愛は芽生えていたようだ。しかし、実際に生涯に渡り松姫と織田信忠が対面することはなかった。(憶測になるが織田信忠の行動に不明な点が多いことから、織田信忠が武田領内までやって来て、2人で会ったことがあると言う説もある。)
同じ1568年、葛山氏元が今川氏を見限り武田氏に内通。1569年、北条氏が今川氏救援の為出した軍により、本拠地(裾野市葛山)を北条氏に奪われる。その際、武田信玄は6男を葛山氏元の娘と結婚させ、養子に入れ、葛山信貞と名乗らせ、葛山氏元から家督を譲られた。
1572年、武田信玄が西上の軍を発して、三方が原(浜松)で徳川家康と戦いとなった。徳川と同盟関係だった織田信長は徳川家康に援軍を出した為、織田と武田は敵同士となり松姫(11歳)と織田信忠の婚約は自然に破棄された。
その後、織田信忠は監川伯耆守の娘を娶り、三法師らの子供を設けている。
武田信玄が没すると、織田信忠と婚約していたことで松姫は敵対する織田勢に親しい者と見られ、府中(甲府)の武田勝頼の元にいられず兄・仁科盛信(15歳)が松姫(12歳)を保護する。
1579年10月、妹の菊姫が武田と上杉同盟の為、上杉景勝の正室として嫁いだ。
1580年、武田勝頼の命により、仁科盛信が高遠城城主となる。
1582年正月、松姫は兄の高遠城を訪れている。
1月27日、木曽義昌謀叛の知らせが武田勝頼に入る。
2月2日、織田信長は武田総攻撃の命令を出し、信濃伊奈・木曽からは織田信忠、駿河から徳川家康、相模から北条氏政、飛騨から金森長近が侵攻。総勢25万の兵力とも言われる。
2月始め、兄・仁科盛信は従者ら十数名を松姫の護衛につけ、仁科盛信の4歳になる督姫と共に甲府へ避難の為向かわせる。
2月4日、甲府に向かう途中、新府城にいた武田勝頼の4歳になる貞姫、武田一族・小山田信茂の4歳になる香貴姫が合流し、従者らと姫4人で甲府に向かう。時に松姫22歳。
途中、甲府の入明寺で盲目の信玄二男・竜宝にもこの先について相談をした。
2月5日、松姫一行は山梨市の海島寺(旧開桃寺)に到着し,ここで1週間ほど逗留。
その後、すぐ近くの於曾(甲州市塩山)の向獄寺へ移った。
2月20日、武田勝頼は菊姫の嫁ぎ先、上杉景勝に援軍要請。(上杉は援軍を出さず)
織田勢の総大将:織田信忠は、高遠城に僧を使者として送り、城主・仁科盛信や家臣の命の保証と引換えに、城の明渡し、賠償などを求めたが、使者の僧は耳鼻をそがれ帰される。
2月28日、高遠城は織田信忠の攻撃を受け陥落。仁科盛信ら討死(享年26)。
3月6日、織田信忠が甲府に入る。(3月7日とも)。
3月11日、武田勝頼は自刃し武田氏滅亡。
武田勝頼死去のあと、葛山信貞や小山田信茂は甲府善光寺で織田勢に拝謁を申し出たが殺害され、松姫の兄弟、そして、督姫、貞姫(小督姫)、香貴姫らの父もこの世からいなくなる。
3月23日、松姫らは落武者狩りが行われると聞き、一旦山中に籠もるものの移動開始したとされ、塩山・向獄寺を発つ。
3月27日、陣馬街道の和田峠(案下峠)を下り、八王子・上恩方にある金照庵に到着。
松姫らは、恐らくは、北条氏を頼ろうとしたのだろう。東へ東へと逃れて行った。最終的に武田勝頼に嫁いでいた北条夫人の親元=北条氏を頼ろうと東へと逃れた。
6月2日の本能寺の変。織田信忠(25歳)も京都・二条城で自刃。
本能寺の変より前のこと、八王子に松姫が生存していると知った織田信忠は、改めて妻として迎えたいと使者を出したと言う。松姫が織田信忠の元へと向かう途中で、この本能寺の変を聞いたという説がある。
また別の説では、北条氏照の配慮で上野原で織田信忠からの迎えの「輿」を待つ事となったが、約束の上野原で待つ松姫には、織田信忠からの迎えの「輿」はとうとう来ず、織田信長が本能寺にて死に、同じく織田信忠は妙覚寺で死すと言う知らせだけが届いたとも言う。
金照庵での仮住まいであったが、同1582年秋には、心源院に入り出家し、信松尼となり8年間過ごした。
川原宿に今もある心源院は八王子城主・北条氏照の祈願寺であり、八王子城陥落の際にも僧侶が豊臣勢に抵抗しており、八王子城の砦の役目も果たしていたようだ。
1590年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅亡した頃の話では、八王子・御所水(八王子市台町)のあばら家に移り住み、尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々だったと言う。
生涯を終えるまで、松姫は生涯、婚約者織田信忠への愛を貫き通し、心優しい松姫は八王子の地元民からも大変慕われたと言う。
徳川家康は天下統一を果たした後、武田信玄の娘・松姫が恩方にいることを知り、元武田家臣(大蔵長安→土屋長安)で当時八王子の代官頭だった大久保長安(おおくぼながやす)に支援を指示。大久保長安は自分の家の近くに信松尼のために草庵を作るなどし、旧武田家臣が多かった貧しい八王子千人同心の心の支えにもなったと言う。
1616年4月16日、松姫は56年の生涯を閉じた。翌4月17日は徳川家康も逝去。
JR八王子駅では「松姫御膳」と言う駅弁が販売され、現在でも松姫を偲んでいる。
上杉家に嫁いだ菊姫は、甲州夫人・甲斐御前と呼ばれ、諸費倹約を奨励し、賢夫人と皆に親しまれたと言うが、上杉氏は武田が織田勢に攻められた時、武田を支援するのに力添えできず、役割を果たせなかった。武田滅亡の折、武田信玄の6男で海野城主だった武田信清は菊姫の縁を頼り上杉氏家臣となり、武田信清の子孫は現在も続く。
1595年、菊姫は春日山城から京都伏見の上杉別邸に入り、豊臣政権下で人質となり、以後を京で過ごし、甲斐や越後に帰ることなく1604年47歳で亡くなった。
現在墓所は、八王子市の信松院にある。
武田勝頼の娘・貞姫
僅か4歳前後だった貞姫は松姫一行が八王子に逃れた同年1582年に駿河・田中に居住した徳川家臣・高力正長が預ったと言う記録があり、八王子に留まるのもつかの間、徳川家康の命により高力家が養育したようだ。
江戸幕府ができる1603年前後(25歳前後の時)に、徳川家康の配慮により宮原義久の正室として嫁ぎ、1606年、高家宮原家の跡継ぎになる宮原晴克を生んでいる。
宮原家と言えば、清和源氏・足利尊氏の子孫(足利尊氏の4男・鎌倉公方・足利基氏の血筋)と言う名家で、1代前に足利性から宮原に性を変えて、宮原義久は徳川秀忠の側臣として、徳川家に仕えていた。
宮原義久は1602年、兄・宮原義照の死去により、高家宮原の家督を相続。当主及び嫡子のみが宮原姓を称し、庶子は穴山姓を称することを徳川家康より命じられたとされる。
大坂の陣には将軍・徳川秀忠に従い出陣。二条城の守備などを担当した。1630年12月5日死去、54歳。
貞姫は夫の死から29年後の1659年6月3日81歳で亡くなった。
貞姫が生んだ宮原晴克以後も高家宮原家は明治まで続いている。
仁科盛信の娘・督姫(小督姫)
督姫は金照庵→心源院→台町の庵(信松院)と松姫と共に行動し、松姫が信松院を与えられた頃、僧坊(元横山町・大義寺西隣り)を寄贈されたが、その後、留守居の侍女をおき、法蓮寺(八王子市川口町)で出家し、生弌尼となった。
督姫は体が弱かったようで、嫁がず出家して父母の冥福を祈ったが、病の療養のため僧坊に戻り1608年7月29日29歳で亡くなった。
その後、僧坊は荒れ果ててしまい、現在は、極楽寺に改葬して供養されている。
小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫)
香具姫(香貴姫)は、最後に武田勝頼を裏切った小山田信茂の娘であった。松姫はそんなことなど関係なく、我が子のように一緒に甲斐から逃亡し、養育したと言う。しかし、4歳前後だった香具姫も、恐らくは貞姫と同じように、徳川家臣の家で養育されたのだと考えられる。
その後、香具姫は貞姫同様、徳川家康の配慮によって、陸奥・磐城平7万国の藩主(福島県いわき市平)内藤忠興(1592-1674)の側室となった。
内藤忠興には正室・酒井御寮人(酒井家次の娘)がいたが男子が誕生しておらず、香具姫は2男1女を生み、跡継・内藤頼長(内藤義泰)を生んだのは香具姫となった。
長男・内藤頼長は1619年生まれ。香具姫41歳の時で、父の内藤忠興は28歳と13歳も年下の主人だった。
内藤忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させるなど、政治面でも活躍した。
香具姫は徳川家綱の時代まで長生きし、1673年8月6日、95歳で亡くなる。内藤氏の側室になってからは幸せな人生を送れた事であったろうか?
なお、香具姫が生んだ内藤忠興の娘、要するに孫娘が、武田信玄から続く武田宗家の武田信正に嫁ぎ、1672年には武田信興を生み、武田の血脈を現代に残している。
松姫峠
大月市と小菅村を結ぶ国道139号に「松姫峠」があるが、下記の理由から歴史研究上では松姫はこの峠を越えていないとされ、松姫峠を通ったという説明は間違えである。
1.車で踏破するにも大月市側は大変険しい峠道である。
2.松姫峠の名は明治以降に新しく開通した新道路の峠名として、山梨県知事様が松姫伝説に思いを寄せ命名したとされ、昔から松姫峠と呼ばれてはいない。
3.八王子恩方へ逃げるコースよりだいぶ逸脱している。
 
三成の関ケ原

 

大坂の繁昌は太閤のおかげでだと独断する三成
「島左近こそ、武士の典型だ」とその死後、数百年の徳川時代を通じて武家社会から慕われた。徳川時代にこれほどの人気があるのはよほどのことであった。本来、島左近は、「打倒家康」の作戦本部長なのである。幕府にはばからねばならぬ名前ではないか。
おもしろい話がある。
秀吉が死んだ直後、ある日、石田三成は家来をつれて、大坂城の天守閣にのぼった。いうまでもなく、日本最大の建造物である。眼の下に大坂の町なみがひろがり、道は四通八達し、ゆききする人の姿が、蟻のように小さい。「この町の繁昌ぶりをみるがよい」と、三成は、いった。
「故太閤殿下の偉大さがわ。かるではないか。むかし、この日本が青年にわたって乱れていたとき、故太閤出ずるにおよんで、群雄を一手にしずめ、五畿七道を平定し、この大坂に政都をもうけ、天下の民を安んじた。町をみるがよい。町民どもは、月々の暮らしをよろこび、あすの日また皇家の保護によってかくあらんとこいねがっているかのようではないか」
遺児秀頼の世が、永世であることを町民はねがっている、と三成はいうのである。
「いかにも左様で」と、側近たちがうなずいた。しかし島左近はだまっている。三成は気になり、「左近、そうではないか」というと、左近は三成の側近をさがらせて三成を一人きりにし、「いま申されたこと、正気でござるか」といった。
「正気だ」「殿、頭のよい人というのは、自信がつよい。自信がつよければ独断が多い。独断は事をあやまる。いまいわれたこと、もし正気ならばばかげている」「なぜだ」と、三成は、自分が主君ながら左近という男にだけはなんとなくあたまがあがらない。
「町の繁昌が豊家のおかげだと申されるのはあとかたもないうそじゃ。古来、支配者の都府というものに、人があつまるのが当然で、なにも大坂にかぎつたことではござらぬ。利があるから人があつまる。恩を感じてあつまるわけではない」
さらに、いう。「大坂が繁昌であると申されるが、それは都心だけのことでござる。郊外二、三里のそとにゆけば、百姓は多年の朝鮮ノ役で難渋し、雨露の漏る家にすみ、ぬかを食い、ぼろをまとい、道路に行きだおれて死ぬ者さえござる。豊家の恩、皇家の恩と穀はいわれるが、そのかけ声だけでは天下はうごきませぬぞ」
左近は、三成とはちがい、冷徹に時勢をみている。秀書は晩年にいたって外征をおこし、このため物価はたかくなり、庶人はくらしにくくなっている。きらにその外征中、建築好きの秀吉は伏見城をはじめ、無用の城、蒙邸をさかんに建て、民力をつかいすぎた。
「じつをいえば家康を討滅する秘謀の件は」と、島左近はいう。
「まだ早うござる。いま民力を回復させ、さらには外征から帰陣した諸侯や、故太閤の普請のお手伝いをした諸侯に休息をあたえ、十分に休めおわって豊家万歳の気持をおこさせてから、家康を討つ。もっともそれが理想だが、家康のほうがそれを待ちますまい。挑発をしかけてくる。むずかしさはそこにある。ただ申したいのは、殿のように豊家の恩だけで天下がうごくとおもわれるのはあまい、ということです」左近は、そんな男である。  
秀吉と家康の関係はたがいに怖れ、機嫌をとりあった
豊臣の天下が安定し、秀吉がついに外征をはじめ、家康をともなって、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に滞陣していたころ、退屈のあまり、仮装園遊会をもよおした。
瓜畑の上に仮装の町をつくり、旅寵、茶店なども建て、諸侯に仮装をさせた。こういう遊びをする点では、秀吉は天才的な企画者であった。
会津若松九十二万石の蒲生少将氏郷が担い茶売り、旅の老憎が織田有楽斎、五奉行のひとり前田玄以が、長身肥満のいかにも憎さげな尼姿、有馬則頼が、「有馬の池ノ坊」の宿のおやじ、丹波中納言豊臣秀保が漬けもの売り、旅籠屋のおやじが、秀吉近習の蒔田権佐、その旅籠でさわがしく旅人をよびこんでいるのが、美人できこえた奥女中の藤壷。
というかっこうだった。−家康はどうするかというのが、秀吉の関心事だったろう。家康は、鷹狩りと武芸以外は無趣味な男で、こういう企てを、どちらかといえばにがにがしく思っているはずの男だった。
しかし、秀吉白身が、怪しげな柿色の椎子に黒い頭巾をかぶり、菅笠を背中にかけ、藁の腰簑を引きまわして、きたない瓜売りのおやじになっているのである。
(わしがこうしている以上、江戸内大臣もなにかせずばなるまい)とおもっているうちに、仮装の町の辻にでっぷりとふとったあじかへ土運びのザルに似たもの)売りがあらわれたのである。
家康であった。いかにも不器用に荷をにない、荷をふりふり、「あじか買わし、あじか買わし」と呼ばってきた。内心、おそらく不機嫌であったろうが、秀吉の機嫌を損じてはなるまいと思ったのであろう、必死に売り声をはりあげてくる。
これにはどっと沸き、−そっくりのあじか売りじゃの。と目ひき袖引きする者が多かった。ともあれ。−このふたりの関係は、秀吉もつとめたが、家康も哀れなほどにつとめた。たがいに怖れ、機嫌をとりあい、(いつあの男が死ぬか)とひそかに思いあってきたに違いない。もし家康がききに死んだとすれば、秀吉はえたりかしこしと理由を設け、その諸侯としては過大すぎるほどの関東二百十余万石の大領土を削るか、分割し去ってしまったであろう。
しかし、すでに、秀吉のほうがさきに死ぬ。
家康は内心、(勝負は、ついには寿命じゃ)とおもったにちがいない。しかも諸侯に対し、−秀頼様にそむくな。という誓紙をとる役まわりになったのである。この男は、その皮肉な役を、神妙に、世も律義な顔でつとめた。  
三成の異常な正義心と弾劾癖
清正という人物は、舌戦練磨の将だけに、ひどく「功名上手」なところがある。
第一次征韓ノ役のとき、小西行長が第一軍司令官、清正が第二軍司令官としてそれぞれ別路を北上し、「たがいに揉み進みながら、どちらが京城に一番乗りするか」ということで、はげしい競争になった。
この競争は、清正が一日負け、かれが大軍をひきいて京城にちかづいたときには、城壁の上に小西の旗がひるがえっていた。
−おのれ、やりおったか。
と清正は歯噛みしたが、すぐ一計をめぐらし、その場から急使をきし立てて肥前名護屋の大本営にいる秀吉のもとに走らせ、
−何月何日、京城に入りました。
と報告した。「真っさきに」とか「一番乗りにて」とかいううそをついていないが、かといって行長が何日に入城したという事実には一切触れていない。清正にとって幸いにも当の行長からの使者がも仁名護屋についていなかったため、秀吉はてっきり清正が一番乗りしたとおもい、「虎之助め、やりおったわ」と、感状をあたえた。
「それは間違いでございます」と、三成がいちいち事実について調べ、秀吉に報告した。三成の異常な正義心と弾劾癖が、ここでもしつこくあらわれている。
このほか軍状を調査し、「作戦の失敗や食いちがいは、ことごとく清正の行長に対する非協力にありまする。このままでは統一作戦など絵にかいた餅で、敵側は日本軍の仲間割れをあざけり、よろこんでいます」と、捕虜の証言までならべて、秀吉の判断材料として提供した。秘書官としては当然なことであったろう。が、前線にいる実戦部隊の感情を害することはなはだしかった。  
三成は好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむ
余談だが、三成と島津家のつながりは、家康のばあいとくらべものにならぬほど古く、かつ深い。
秀吉の島津征伐のとき、いまの竜伯そのころの島津義久はついに降伏に決し、頭を剃り墨染のころもを着、小童ひとりつれて山路を歩き、秀吉の本陣のある泰平寺の軍門にくだった。
秀吉はその降をゆるし、島津家が略取した九州諸地方の新領土はことごとくとりあげ、薩摩、大隅、日向のうちで五十五万九千五百三十三石だけは安堵きせることにして三成にその敗戦処分をまかせ、大坂へひきあげた。
三成はこのころ、数えて二十八歳である。
秀吉の退陣後、薩摩にのこり、秀吉の命令を的確に実行する一方、島津家のなり立つようにさまざまの温情をあたえた。おかしな男であった。
「へいくわい者」と世間でいわれる一方、好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむのである。かれは薩摩の人間風土と島津義久、義弘がよほど気に入ったらしく、「事敗れて領土がせまくおなり遊ばしたが、それでも国が立つ法がござる。理財の道でござる」と、それまで領土拡張のみが能であった薩摩人に対して、新鮮な思想を吹きこんだ。それまで薩摩は薩摩領内だけの経済でしかなかったが、秀吉が天下をとって以来、それまで地方地方のみを天地にしてくらしてきた日本人が、天下を往来しはじめた。それにともない諸国の物資も日本的な規模のなかで動きだした。これは日本人が経験した、歴史はじまって以来の最初の体験であった。
そういう時代なのだ、と三成は島津義久、義弘におしえた。
「お国の米も、お国だけで使わず、どんどん大坂へ回送してその市場で売りさばけばよろしい」と言い、その回送方法、販売方法、売りあげ代金の送金方法まで手をとるようにして教え、そのほか、あたらじい大名家め家計について三成は語り、「飯米、塩、みそ、薪炭、あぶらなどの台所用品は、小払い帳というものを作っておけば便利です」と言い、その帳の作成方法までおしえた。  
三成は前田利家のような大将の一言がない
ところがその日から利家は寝こんでしまい、会議は年を越した。慶長四年正月七日、利家はようやく登城し、相役の大老である徳川家康をはじめ、中老(相談役)、五奉行の登城をもとめ、席上、この老人は無愛想なくらいの簡単な切り口上で、ずけりといった。
「上様のおおせ置かれたとおり秀頼様を奉じ大坂までお供つかまつる。以後、ご本拠は大坂ということになろう」と、それだけであった。奉行の浅野長政がすすみ出、日はいつでござる、ときくと、「十日」といった。みなそのあわただしさにおどろいた。あと三日しかないではないか。浅野長政は、それは早すぎる、われわれは支度もできぬ、というと、「さればきょう陣触れの太鼓が鳴っても、弾正(長政)殿は支度がととのわぬと申されて人数を出きれぬのか」と、利家はいった。みな沈黙した。家康はにがい顔でだまっていた。
ところが意外な故障がおこった。かんじんの淀穀と秀頼が反対したのである。
「まだ寒い」というのが理由であった。せめて四月か五月、温かくなるまで伏見に居たい、と淀殿はかたくなに言い張った。しかし淀殿といえども利家という頑固者にはむだだった。
「おのおのは」と、利家はわざと淀投のほうは見ず、大蔵卿ノ局らその老女団にむかい、たったひとこと、底ひびきのする声でいった。
「上様ご逝去なされてまだ五カ月というのにはや御遺言にそむき奉るおつもりか」
利家は、豊臣家の安泰をまもるみちは、秀吉の遺法、遺言を忠実にまもりぬく以外にない、と信じきっていた。語気にそれがあらわれていた。これには淀殿も沈黙せざるをえなかった。
三成がその夜、下城してきて家老島左近を茶室へさそった。すでに夜ふけであったために、茶はたてずに炉で酒をあたためて主従水入らずで飲んだ。
三成がきょうの穀中での利家老人の威厳のことを話すと、左近はひどく感銘し、「さすが、加賀大納言は無駄には戦場を踏んでおられませぬな」といった。三成はそういう左近をおかしがって、口もとをゆるめからかうように微笑した。左近が好きそうな話だ、とおもったのである。
「お笑いあそばされるな」と、左近はにがい顔でいった。
「戦場で大軍を統率できるのは、ああいう仁のことでござる。ひとことで全軍が鎮まる。いまひとことで全軍が死地へ往く。加賀大納言はそういう呼吸を知りぬき、その呼吸をつかわれたまででごぎる。しかし」と、左近はいった。
「そのひとことを持っておるか、おらぬかで将か将でないかがわかり申す」(わしはどうだ)という顔を三成はした。左近も無言で、さあ、というふうに首をかしげた。
左近は三成の逸話をきまざまにおもいだしている。
まだ秀吉が在世のころ、大坂付近に豪雨がふりつづき、ある夜、枚方方面で淀川の堤が決潰し、京橋口の堤防もあぶないという急報が、三成の御用部屋にもたらきれた。
三成はただ一騎で本丸から京橋口の城門にあらわれ、近在の百姓数百人をあつめ、放胆にも城の米蔵をひらかせ、
「この米俵を土俵にして堤防を補強せよ」と命じた。百姓もどぎもをぬかれてたじろいだが、「雨が去ったあとは分けて.とらせる」と三成がいったためにわっとむらがり、うわきをきいて近郷からも人数がかけつけ、たちまち応急補強ができあがった。そのあと三成はその人数をつかい、数日かけて本物の土俵できずきなおさせ、約束どおりさきの米俵はことごとく労役の人数にあたえた。
左近はそのとき、あらためて三成という男の放胆と機転に舌をまいたが、しかしそれが三成の将器をあらわすものかどうか。
(すこしちがうな)と左近はおもった。利家老人にはそういう機智はないが、その人柄には例の一言の重みをそなえている。大将にはそれだけで十分で、その一言で数万の将士が躍動すればよいことであった。(天下をとるまでの太閤には、さすがにそれがある。利家の一言のほかに、治部少輔さまの機敏さ機智がある)  
三成の救いがたい観念主義
「暗殺」左近は言い、肩を落した。
この男は、当節、信州の真田昌幸、上杉家の老臣直江山城守兼続とともに、「天下三兵法」といわれている。大軍を駈けひきさせては及ぶ者のない軍略家とされているのだが、刺客を放っての暗殺は軍略ではない。
「好むところではござらぬ。なぜと申せば、当方の非力、智恵のなきを白状するようなもので、そういう法はとりたくない。しかしこのまま、あの男の生命をとめずにいるならば、自然々々に秀頼様の天下はあの男のものになってしまいましょう」「いやだな」「暗殺が、でござるか」「そうだ」三成は、みじかく答えた。
「男としてなすべきことではない。まして将としてとるべき手段であるまい。左近、そなたはきほどに書物は読まぬ。わしは読む。だから知っている。書物とはおそるべきものだ。これは百世に伝わる。暗殺すれば百世の物笑いになる」「では、どうなさるのでござるかな」「戦野で」三成は、いった。
「堂々と雌雄を決するわ。鼓を鳴らし、旗をすすめ、軍略のかぎりをつくしてあの者とたたかい、而して勝つ。されば世間も、後世も、正義がかならず勝つ、ということを知るにちがいない」
左近は沈黙している。かれは三成を愛し、この男のために死のうと思っているが、しかし三成の救いがたい観念主義だけはどうにも好きになれなかった。
(諸事、頭だけで考える)と、左近は三成の外貌のきわだった特徴である才槌頭を、ため息をつくような思いで見た。正義、義、などという儒者くさい聞きなれぬ漢語をつかいその漢語にふりまわされて、そこから物事を考えたがる。出てくる思案は、すべて宙にういている。
(人は利害で動いているのだ。正義で動いているわけではない)そこを見ねば。と、左近は思う。左近は無学で、仁義礼智、といったような事は知らない。しかしそういう道徳など、治世の哲学だとおもっている。秩序が整えばそういう観念論も大いに秩序維持の政道のために必要だが、(しかし乱世では別なものが支配する)人も世間も時勢も利害と恐怖に駆りたてられて動く、と左近はみている。  
三成暗殺を止めた家康の度量
家康自身のことである。が、家康は、目に涙をうかべてそれをいった。
「治部少輔が、おのおの申されるごとく好物ならば、それがしも豊臣家の大老職に任じている者でござる。時節到来を待ち、大老の職分上、それがしが討ちます。そのときは、おのおのの御手も拝借しましょう。よろしいか」と、家康はそこで言葉を切り、一同の顔を見わたした。自分の言葉の効果をさぐるためである。一同、ある種の昂揚を感じさせるおももちで家康を見つめている。
(これでよし)と、家康はおもった。三成を討つときはこの七人の猛将は、自分を信じ、無邪気についてくるであろう。
「しかし、いまはなりませぬぞ。なにごとも秀頼様のおためでござる。乱をおこす種をお蒔きなきれてはならぬ。もしそれでもなお治部少輔を討つ、と申されるならば、この家康がお相手になる。七人衆、国もとで兵を整え、そろって打ちかかって来られよ。いかがでござる」「いや、それは思いもよらぬことでござりまする」と、むこうのはしにいた加藤嘉明が、勢いの失せた、小さな声で答えた。この、のちに徳川家から会津四十余万石というとほうもない大領をもらい、やがてはとりつぶしの目に遭う男は、このときとくに三成憎しで走りまわっていたわけではない。加藤清正や福島正則とは幼なじみで、三人ともどもに秀吉の長浜城主時代に小姓として仕え、それ以来、三人仲間として世を渡ってきた。清正や正則はこの嘉明を孫六、とよび、嘉明はかれらを、虎之助、市松、といまでも古い通称でよんでいる。この三成事件のばあい、仲間の首領株の清正が三成にふんがいしていたため、正則や嘉明もいわば徒党意識で雷同したにすぎない。
とにかく、清正ら七将は、家康の一喝にあっては力なく徳川屋敷を去った。
この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。かれが意外にも秀頼思いという点では天下に比類がないということ、つぎにこの老人は、自分に敵意をもつ三成をきえかばうほどの大度量であること、きらには、荒大名として知られる七将できえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということ−この三つはたちまち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした三成は、敗北した。
とは、この男は気づいていない。家康が清正らを追っぱらったと知ったとき、「わしの予想どおりじゃ。毒竜の毒をもって睾蛇どもの毒を制したことになる」と内心おもい、自分の智力に満足した。
その翌日、三成は、本多正信老の家来五十人に護衛されつつ、伏見城内の自分の屋敷にひきあげた。
島左近にむかい、「これがおれの智恵よ」と、うれしそうに笑った。こういうとき、三成の顔はひどく無邪気になる。「結構でござった」と、口うるさい左近も、いっしょによろこんでやるしか、手はない。  
城の粗末さが徳川軍団の素剛さや蓄積ぶりをあらわす
朝倉内膳もそう思ったらしく、左近をかえりみていった。
「家康はまさかこの城で戦おうとは思っていまい」事実、家康の日本制覇への構想のなかには江戸籠域の一項などはないであろう。
「この城をみても、家康の料簡がわかる」と、左近がいった。
「家康にとっていま必要なことは城普請で金銀米塩をつかうよりも、それをひたすらに貯めおいていざというときの軍資金にすることだ。城など、いかに粗末でもいずれ天下をとれば諸侯に手伝わせて一挙に壮麗なものにすることができるのだ。あの老人の利口さが、あの土塁やあの粗壁にもあらわれている」
かといって、江戸城は他大名の城郭とくらべれば巨大である。家康は、自分の家来だけでも万石以上の大名級の者を多く抱えているのである。それらの江戸屋敷が、域の内外にびっしりならんでいる。
左近たちは、その屋敷群をも観察した。
(感心なことに、どの屋敷も、田舎の地侍の館より造作が粗末だ)と、左近はおもうのである。それは徳川軍団の貧弱さをあらわすものではなく、むしろ逆にその素剛さ、その資金の蓄積ぶりをあらわすものであろう。
(手ごわい)と、左近は思いつつ下町のほうにゆくと、海浜がどんどん埋めたてられて街衝が出来てゆきつつある。
非常な活気であった。都市の規模としてはまだまだ京大坂にくらぶべくもないが、町で活勤している商人、職人などの顔つきは上方の両郁よりもはるかに活力にあふれているようにおもわれる。
「庶人の数が、ふえる一方だそうだ」内膳はいった。諸国からこの新興都市をめざして馳せあつまってくる庶人の数は、あるいは増加率は京大坂をはるかに凌ぐであろう。
(庶人には勘がある。江戸へくれば職がある、物が売れる、という目さきの利益だけでなく、江戸がやがては天下の中心になることをかれらは皮膚で感じとっているのではあるまいか)  
上杉景勝は自ら躾けて、外形、挙措動作、勇気、気概の点で謙信以上になった
それほど無口なのである。多弁は結局、おのれの手のうちやはらわたを他人に見せてしまう、無口ならばそれがわからない。
−殿様はいったい何をお考えなのか。
家中の者さえわからなかった。景勝のそば近くに仕えている近習の者さえわからない。このため上杉家の家中の者の景勝を怖れるさまが尋常ではなく、みな汲々として自分の義務を遂行し、さだめられた統制に服従し、戦場では勝手に退く者はなく、みな生死をわすれて突撃した。
ふしぎな大名というほかない。
察するに、謙信の遺臣というよりも弟子をもって任じている直江山城守が五つ年上の景勝をそのように訓練づけたものであろう。
「わが君は先代謙信公のお血をひかれているとは申せ、その神才までは継がれておりませぬ。されば謙信公の形のみひたすらにお真似あそばしませ。頭脳のほうはそれがしが引きうけまする。主従二人あわせれば、かろうじて謙信公に相成りましょう」とは露骨に言わなかったであろうが、自然と景勝が悟るように仕むけて行ったにちがいない。景勝も人並以上の男である。直江の意を汲み、自分を自分でそう躾けて行き、ついには外形、挙措動作、勇気、気概、という四点では謙信以上の謙信になりおおせてしまったのであろう。
その景勝を、正副二人の使者は、顔をあげてじっと見つめている。
(この男、何を考えているのか)景勝の表情のなかからそれを懸命に読みとろうとしていた。
景勝は、渡された書状を黙読している。この書状は身分がら、家康が差しだした、という形をとっていない。景勝と親しい相国寺の僧承先の忠告書、という形式をとっている。が、内実は家康の詰問書であることにはかわりない。景勝は読みおわり、顔をあげた。眼光に凄味がさしたほかく結ばれたままである。  
家康と捨て城の城将・鳥居彦右衝門との最期のシーン
「上方で石田三成が旗をあげるであろう。このことはまちがいない」家康は、一語々々、噛んでふくめるようにゆっくりといった。
「石田は大坂で西国大名を掻きあつめ、まずこの伏見城に攻めてくるであろう。人数は十万、あるいはそれ以上かと思われる」
伏見城は、陥ちるであろう。
家康にとって、捨て城といっていい。その捨て城の城将として、この鳥居彦右衝門を任命しようと家康はしている。
(律義者の彦右衝門以外の者には、この死城の城将はつとまらぬ)と、家康はみていた。奮戦のうえ玉砕すべき城である。もし利口者を域将にすれば巧妙に立ちまわって敵と妥協するか、降伏するかもしれない。
(そうすれば徳川家の威信は地に落ち、後日の政略にまで影響する)彦右衛門ならば、負けるとわかりきった防戦を愚直に敢行し、死力をつくして戦い、三河武士の勇猛ぶりをぞんぶんに発揮して天下を戦慄せしめてくれるであろう。この任は、彦右衝門しかない。
「残ってくれるか」家康はさらに、彦右衛門の副将として、内藤家長、松平家忠、松平近正の三人を添える旨をいった。総勢およそ千八百人である。
「承知つかまつりました」と、彦右衛門は、顔色も変えずにうなずき、しかしながら、といった。
「どうせ陥ちる城」と彦右衛門は、大広間を見渡し、「いま申きれた三人の助勢は無用でござりまする。かれらは会津陣にお連れなされませ。この城の寵域は彦右衝門ひとりで十分でござる」例の頑固さではげしく言い張ったが、家康にも考えがある。どうせ死戦とはいえ、彦右衝門の手が一手では五百にも足らず、城はあっけなく陥ちてしまい、これまた天下に徳川家の武威をうたがわれることになる。せめて何日かでも城をもたせるべきであろう。それには右の三人の助勢が必要なのである。
その旨を説くと、「なるほど左様なお吐か」と、彦右衛門はかるがるとうなずき、家康の説に賛同した。
〈ひとつ難がある)この城は故秀吉の別荘ともいうべき道楽城で、鉛弾の貯蔵があまりない。
「彦右衡門」家康は、思いきったことをいった。「当城は太閤御存生のころから、天守閣にずいぶんと金銀を貯えられている。もし戦端がひらかれ、鉛弾が欠乏したとき、あの金銀を鋳つぶして弾として撃て」「さてこそは」と、彦右衛門は膝をうった。
「それがし御幼少のころからお側ちかくに仕え苦労をかさねてきた甲斐がござる。それほどの御大度ならば、上様は天下をおとりあそばすでござりましょう。伏見城の金銀など、弾として撃ちつくしても、後目天下をお取りあそばせばいかほどでも取り戻せまする」
夜に入って、家康はふたたび彦右衛門を奥座敷によび、酒をあたえ、さまざまの物語をした。彦右衛門はこころよく酔い、駿河流寓時代の話などをし、「おもえば、ながい主従の御縁でござりましたが、これが今生で拝謁できる最後になりましょう」と、彦右衛門はさりげなくいって座をさがった。やがて廊下を退がってゆく彦右衛門の足音が聞こえてきた。この老人は三方ケ原の合戦でびっこになったため、足音が異様に高い。その足音が遠ざかってやがて消えたとき、家康は急に顔を蔽って泣いた。
ちなみに筆者いう。彦右衛門のような型の三河者のいるのが、家康の軍団の特色といっていい。信長の軍団にも秀吉のそれにも、こういう気質の将士はいなかった。風土のちがいといっていい。信長は、尾張衆を率いていた。尾張は交通が四方に発達し信長のころから商業がきかんなため、自然、土地の気風として投機的性格がつよい。才覚はすぐれていても、律義、愚直、朴強といった気風にとぼしい。隣国ながら、三河は逆である。純粋の農業地帯で、流通経済のうまみをまったく知らない地帯といっていい。自然、信長の軍団の投機的華やかさにくらべ、家康の軍団には百姓のにおいがある。この気質からくる主従のつながりの古めかしいばかりの強勒さが、いま天下の諸侯をして家康の軍団を怖れしめている最大のものであろう。  
家康暗殺より大合戦で儀を通そうとする三成の学問好き
この日の、前々日のことである。湖岸の佐和山城の奥ノ間で、三成の家老島左近が、三成にしきりと弁じた。
「ご決意あそばせ」ということである。家康が東下の旅行を開始している。東海道を用いているため、途中、この近江の南部地方を当然、通過する。
「幸い、水口城は、長束大蔵少輔殿の御城でございます。この水口城を利用し、途中、一挙に家康を刺し殺し、天下の乱のモトをお摘みとりなされませ」「大蔵少輔は、気の小さな男だ。はたして加担するかどうかわからぬ。たとえ加担しても小心な者はとかく事をしくじるものだ」「なんの、手前がうまくつかまつる」「さて、のう」三成は、煮えきらなかった。
「殿はなお、大合戦をお考えでござりまするか、天下真二つに割る、という」「それしか考えておらぬ」三成は、派手好みな男だ。おなじ家康を討つなら、古今にない大合戦の絵巻をくりひろげつつ天下の耳目を聳動させ、堂々と戦場で家康を討ちとりたい。
「仕掛を大きくすればするほど、世道人心のためになるのだ。義はかならず勝ち、不義はかならず亡びる、という見せしめを、おれはこの無道の世に打ち樹てたい」「ご無用なことを。戦さは世道人心のためにするものではござりませぬぞ」
(いつまで結ってもこの鞍は嘴が黄色い)左近は、にがい額で思った。三成はむかしから学問が好きで、ちかごろいよいよその傾向がつよくなってきている。物の考え方が観念的にするどくなり優っているかわり、それのぶんだけ、現実へそそぐ目がにぶくなっているようだ。左近は、徹底した現実主義者である。  
三成には電光石火のすばやさで事務を片づけてゆく能力がある
三成には類のない能力がある。いぎ挙兵ときまると、電光石火のすばやさでその「事務」を片づけてゆくことだ。稀代の能吏といっていい。それに、計画規模がつねに全国的であるということだった。かれの脳裏には、日本列島の極彩色の地図がつねに存在している点、他の武将には類がない。
かれと仲のわるい「野戦派武将」の頭目である加藤清正が、たとえ三成の立場になっても、その挙兵は地方的にとどまったろう。清正できえそうである。三成以外、家康をのぞくほかは、日本的規模において計画し、号令し、諸侯をうごかす能力をもった者はたれもいなかった。
その点、若いころから秀吉の秘書官として天下の行政、財務、人事を見つづけていたかれには、ものを六十余州の規模でみるという頭脳の訓練ができていたに相違ない。
三成はその夜、大谷吉継、安国寺恵竣のふたりと挙兵の決定をしたあと、寝かせ、自分は寝なかった。すでに探夜である。表書院に煌々とあかりをつけさせ、士格以上のすべてを召集した。
「好戦家康を討つ」と三成は、言明した。頬が、血を噴くように紅潮しているのが、「討って、豊臣家の御安泰をはかる。この一戦、成否は天にあり」と、三成の声はふるえはじめていた。
「予の一命の安否もいまは問題ではない。そのほうども、一命を予にあずけよ」これは、訓辞といっていい。三成は簡潔にそれだけ言い、十一人の家老をのこして一同をひきとらせた。
燭台がこの一群のまわりに片寄せられ、灯明りがいよいよ光輝を増した。
「そのほうどもに対しては、いままで議をつくしてきた。もはや論ずべきなにごとも残っていない。あとは予が命ずることを、そのほうどもは神速に実行してゆくのみである。されば」と、三成はこの挙兵に関する最初の命令を舞兵庫にくだした。
「越後に一揆をおこさしめよ」それだけで舞兵庫には内容がありありとわかった。すでにここ数カ月、討議に討議をかさねてきたところである。  
小早川秀秋への三成と家康の対応の違い
翌三年、秀秋は小早川家に入った。隆景は安堵し、毛利家の養子については自分の末弟にあたる穂田元清の子の宮松丸を入れて事をおさめた。
秀吉の小早川秀秋に対する愛はなおもつづき、第二次朝鮮出兵では、この秀秋を自分の名代として総大将にしている。
秀秋は朝鮮出陣中、おろかしい所業が多く小早川家の家臣たちを悩ました。軍法でも小早川家の慣習をまもらなかった。十六万三千という大軍の絶大将としての将器がないばかりか、ときに気負いだって士卒のように敵陣に駈けこむようなことがあり、在陣の諸将を当惑させた。
その報告が、在陣中の七人の軍監から当時伏見城にいた三成の御用部屋に届いた。三成はそれを整理し、秀吉に報告した。
秀吉は、激怒した。「小僧をすぐ呼びもどせ」と命じた。このころの秀吉には栄華に呆けたところが多かったが、軍陣での不都合をゆるさぬという点では、少壮のころとかわらなかった。盲愛している秀秋に対してもこの点だけはかわらない。
すぐ呼びもどし、叱責の上、筑前・筑後五十余万石の巨領をとりあげて、越前北ノ庄へ移し、わずか十数万石に減知してしまった。
秀秋の旧領はそのまま豊臣家の直轄領ときれ、豊臣家の執政官である三成はこのときその事後始末に九州へ下向している。
この間、秀吉が、「金吾の旧領はそのほうに呉れてやろう」といったが、三成は「遠国ではお城勤めが不自由でございます」とことわっている。ひとつには、「三成めが謹言した」と世間に言いふらしている秀秋の愚にもつかぬ観測をこれで裏付けることになる。三成はそれを怖れ、「佐和山の所領で十分でございます」と秀吉に返答した。
三成讒言説というものが世上にひろまったのには、無理からぬこともある。秀秋の在陣中の暴状を報告した七人の軍監のうち、福原直桑、垣見一直、熊谷直感は、三成がひきたててきたかれの与党の者であった。世間は当然、三成が秀吉に悪口雑言したとうけとるであろう。
「でなければ、あれほど盲愛なされていた金吾中納言を、上様があのように手痛い目にあわきれるはずがない」と世間はみた。三成の世間の評判は、これによっていよいよ悪くなった。
損な立場、としか言いようがない。この男はむしろ小早川家に同情していた。減封によって小早川家では多数の牢人が出たが、三成はそれらを諸家に世話をし、自分の家には最も多数ひきとった。が、こういういわば美談は、世上に伝わらなかった。官僚としての三成の人徳のなさというものであろう。
その点、家康は、なにが人の心を得るかということを知っていた。
秀吉の死後、家康は豊臣家大老という職権によって、去年の二月、小早川秀秋の領地をもとの筑前・筑後五十二万二千五百石にもどしてしまったのである。
理由は、「太閤投下の御遺言により」ということであった。秀吉はそういう遺言はひとことも遺してはいなかった。
秀秋は暗愚ながらもこの家康の思わぬ好意によろこび、「内府のためならば」という気持を強くした。それまでこの男は家康とはなんの親交もなかった。家康のにわかな、それも過大すぎるほどの好意がなにを意味するものであるかは、むろんこの若者には洞察する能力がない。
秀秋は、海路大坂に入るとすぐ登城して本丸で秀頼に拝謁してご機嫌を奉伺し、そのあと奉行衆にも会った。
(治部少づれが)と思っているこの若者は、三成のほうには視線もむけなかった。すべて三成の同僚の増田長盛や長束正家と会話をかわした。が、三成は厳にいった。
「よろしゅうございますな。このたびは秀頼様のご命令にて、内府を打ち懲らしまする。中納言様は御一門でありまするゆえ、公儀(豊臣家)のおん為に諸侯にさきがけてお働きあそばしますように」
こういう一種の険をふくんだ言葉調子は、三成のくせであった。とくに秀秋に対してはそうであった。理屈っぽい番頭が、主家の放蕩息子をさとすような口調に、ついなってしまうのである。
秀秋は、にがい表情でうなずいた。が、三成のほうは見ず、言葉もあたえず、石のように黙りこくっている。
その様子をみて、三成はさほどの神経はつかわなかった。この豊臣家子飼いの官僚からみれば、豊臣家の権成で天下の諸大名は動くと信じていたし、まして秀秋は豊臣家の縁者であった。あほうは阿呆なりに、懸命に働くだろうと見ていた。  
山内一豊の城を家康に差し出した功名の一言
そのあと、・こまごまとしたことがきめられたが、その席上、「あいや」といってすすみ出た人物がある。忠氏の父の旧友山内一豊であった。
「申しのべたきことがござりまする。拙者の城はご存じのごとく海道筋の掛川にあり」と喋り出した内容は、今朝、忠氏が得意のあまりつい洩らした忠氏自身の秘計ではないか。
忠氏は、唖然とした。「内府に、わが城と領地をさしあげる」というあのすさまじい発案である。家康も、この発議にはおどろいた。古来、こんなことを申し出て味方になった男もないであろう。「対州殿、かたじけない」と、家康はなかば腰を浮かせて叫んだほどであった。これは家康が狂喜するに値いした。なぜならば、一豊の発議にたまりかねて、一豊と同列の海道筋の城主がことごとく城をさしだしたからである。忠氏も、そのうちのひとりであった。が、もはや遅かった。
関ケ原ノ役後、山内一豊は戦場ではなんの武功もなかったが、このときのこの一言で掛川六万石から一躍土佐一国二十四万石の国主の身分になった。この論功行賞のとき、さすがの本多正信も家康の気前よきにあきれ、「対州はなんの戦功もござらぬのに」というと、家康は、「戦場での働きなどはたれでもできる。小山での山内対馬守の一言こそ、関ケ原の勝利を決めたようなものだ」といった。  
福島正則は三成への憎悪だけ家康に味方
正則はさらに使いをやり、「足下は清洲城での約束をきたなくもやぶった。いましばし城攻めを中止して拙者と勝負せよ」と申し入れると、輝政もさすがにこの執拗さに手を焼き、辞を低くし、「昨暁、われら渡河のときいきなり開戦したのはわが本意ではなく、敵が鉄砲を打ちかけてきたためやむなく応戦したまでである。またこの城攻めも敵の大手門を攻めるつもりではない。大手門は足下が攻められよ。拙者は水ノ手口にむかう所存」と正則のもとに申し送ったため、正則の感情はいささか鎮まった。
「三左めは、膝を屈しおったな」正則は天にむかって哄笑し、采配を振り、軍を旋回して大手門にむかった。奇妙な性格というべきであった。正則にとってつねに片腹痛いのは味方であり、味方への憎悪と競争心だけがこの男の行動の基準になっている。かれが東軍に加担したのも単に三成への憎悪だけであり、東軍最強の猛将として奮迅のはたらきをいま開始しようとしているのも、家康のためではなく、同列の先鋒大将池田輝政との競争心からであった。この奇妙人を眺めつつ、(上様は御運がよい)と軍中で思いつづけているのは、家康の代官井伊直政であった。直政は思うに、もし福島正則という男が東軍にいなかったら事態はよほどちがったものになっていたであろう。なにしろ東軍諸将はことごとく豊臣家恩顧の大名であるために、西軍との接触が近づくにつれて気持が当然重くなり、ついには戦意をうしなうか、あるいは一部で寝返りさえ出ようという危険を感じてきた。ところがその自然な感傷を、正則の暴風のような競争心が吹っとばし、諸将も正則の勢いにあおられて敵にむかって猪突しはじめた。東軍諸将の戦意をここまでひきあげた功績は福島正則の性格にあるといってよく、このゆえにこそ井伊直政は、−上様は御運がよい。とおもったのである。  
三成は最初の固定観念に、諸情勢・諸条件をあてはめたため破れる
「兵力を分散しすぎまするな」と、この大戦略をたてた当初、謀臣の島左近が首をひねって消極的な反村をした。が、積極的に三成の構想に反対する能力は左近にはなかった。
左近の得意とするところは、局地戦闘の指揮にある。三万の兵を指揮して五万の敵と戦わせれば島左近ほどの勇敢で智略に満ちた指揮官はいないであろう。
が、天下を両分してその一を持し、他の一に当たるという大戦略の構想は、なんといっても若いころから秀吉の側近にいてその戦略の樹て方、進め方をまざまざと見てきた三成の領分に属する能力であった。自然、こんどの一挙では、戦略は三成がうけもち、戦闘は左近がうけもつ、という分担になった。
「これでいい」と、三成の信念はゆるがなかった。家康が出てくるまでに時間がありすぎる、と三成は観測している。それも不動の観測をくだしている。豊富すぎる待ち時間のあいだ、諸将を陣地で遊ばせておけば自然の惰気が生じ、敵に謀略をもって切り崩されぬともかぎらない。
「なるほど」としか、島左近は言えなかった。左近にすれば丹後、近江、伊勢の田舎の小城を陥しているより、日本列島の中央平野における予定戦場にできるだけの兵力を結集しておくほうが急務ではないかと思うのみである。
「なんの、家康はなかなか来れまい」という三成の観測が、あくまでもこの戦略の基盤になっている。
「田舎の小城というが、それを攻めることによって烏合の衆が一つの心になってゆく」というのが、三成の意見だった。この寄り合い世帯の西軍の諸将をして弾丸の洗礼を受けしめることによって彼等の戦意を高め、団結をかため、亡ぶも栄えるももろとも、という共同運命感を盛りあげてゆく。百の政治論議よりも一度の合戦のほうが、かれらを固めさせる契機になるであろう。これが、石田治部少輔の戦略理論であった。
「しかし、家康が、こちらの想像を裏切って早く来ればどうなさいます」「そういうことはない」
三成は言いきっていた。敵が生き者である以上、敵の動きをそう言いきることはもっとも柔軟な思考力をもつべき戦略家としてあまりにも信念的でありすぎるのだが、この頑固さは三成の性格的なものかもしれない。ただしこの一戦に快勝すれば、三成はその不退転の信念と不動の覿測能力を理由に逆に好意的に評価され、日本史上最大の名将といわれるにいたるであろう。あとは賭偉かもしれない、と島左近はおもうのである。
美濃の大垣城に入ってからも、島左近はなお疑問を提示した。
「どうでありましょう」と左近はいうのだ。木曾川むこうの尾張清洲城に東軍諸将が集結している。家康の本草こそ来着しないが、来着せずとも、清洲結集の東軍はそれだけでも美濃の城々にいる西軍より大部隊であり、かれらが野戦軍として、二千三千の守備兵しかいない美濃の城々を攻撃すれば、すさまじい破壊力を発揮するであろう。
「心配は要らぬ」というのが、相変らずの三成の覿測であった。観測というより信念であろう。信念というよりも自己の智恵に対する揺ぎなさが、三成の性格であったろう。三成が敬慕する秀吉や信長の場合、すべての情勢と条件を柔軟に計算しつくしたあげく、最後の結論にむかって信念的な行動にうつるのがやりくちであったが、三成の場合は最初に固定観念がある。その観念に、諸情勢・諸条件をあてはめてゆき、戦略をたてる。
自然、その戦略は動きがとれない。
(逆だ。−)と島左近はなんとなくそう危なっかしく思うのだが、それを駁論するだけの戦略感覚を左近は持ちあわせていなかった。左近はあくまでも名人肌な局地戦闘家なのである。
ところが事能心は、一変した。木曾川むこうの尾張清洲城に屯集している東軍諸将が、家康も来着せぬのに、自儘に動きはじめたのである。
「彼等が川を渡って岐阜城にむかった」ときいたときの三成の驚愕は、大げさにいえば天地が逆になったほどのものであった。
「まことか」と、その報をもたらした者に、三成は何度かききなおした。ありうべからざることであった。事実とすれば、三成の固定観念はこの瞬間に雲散霧消し、戦略構想はその根本から音をたてて崩壊し去ったといっていい。
「誤報だろう」と、正直なところ、三成は思った。当然、誤報であるべきだった。この自己の信奉者にとっては、そういう敵の動きは、敵こそおかしいのである。
−敵は間違っている。と三成は怒号したかった。しかし敵は三成にすれば間遠っているとはいえ、すでに木曾川を越えきってしまったのである。しかも、岐阜城を陥してしまった。この間、三成は自分のつまり石田家の兵を割いて援兵として送ったが、その程度の増援では焼け石に水であった。  
三成はつねに受け身の反射
三成はそういって、秀家の旅館を出た。城にもどると、一同が騒いでいる。西方の天にしきりと火煙があがっているという。三成はいそぎ天守閣へのぼった。
(なるほど)方角は西である。中山道垂井から関ケ原にかけて黒燻があり、すでに薄暮だけに火があかあかとみえる。ありようは、東軍の藤堂高虎が、そのあたりに滞陣するにあたって敵襲に備え、民家が敵の防秦に使われぬよう、せっせと焼き立てているにすぎない。
が、三成は別の反応を示したく(佐和山城があぶない)と見たのである。なるほど美濃から近江佐和山に出る道が、垂井−関ケ原の中山道である。敵は美濃から一挙に三成の居城の佐和山を衝くのではないかと三成は考え、いそぎ階段を降り、島左近をよび、「おれはちょっと佐和山に帰る」と言いだした。
左近はおどろき、わけをきくと、例の西方の火事である。左近もすでに望見して知っている。しかし敵に佐和山急襲の意図があろうとは思えなかった。
(大変な、想像力だな)妙に感心した。その想像はいい。想像してうまれる反射が、三成の場合つねに受け身なことだった。たとえば敵の疲労を想像して夜襲を思い立つという積極的な反射ではなく、敵の放火をみて自城の防御を思い立つという消極的な反射では、戦さは主将の反射がするどければ鋭いほど受け身になり、ついには窮地に追いこまれてしまう。
(頭のするどいお人だが、やはり素人だ)と左近はおもった。戦さは、頭脳と勇気と槻敏さの仕事だが、その三つがそろっていてもなにもならない。三成の場合、その三つは信長、秀吉とさほど劣らぬであろう。しかし致命的にちがうのは、三つを載せている資質だった。受け身の反応なのである。左近はそう思いつつ、素人だとおもった。
「あの火はそうとは思えませぬ。もし東軍が佐和山城を攻めるならそれこそ勿怪の幸い、宇喜多勢と手を合わせて敵に追尾し、背後から撃ち、佐和山城番の衆と呼応して敵を挟み討ちにすればよろしゅうございましょう」「いや、気になる。戻ってみる」「この夜中、陣を捨てて?」左近はあきれた。三成はこれだけの大戦さの準備で心気を労したあまり、気の病いにかかっているように思われた。
「それほど気になさるなら、拙者が駈け行って参りましょう」「いや、わしがゆく。城の防ぎの手くばりを締めなおした上、死守せよ、と申してくる」「殿」左近は袴をとらえた。「すでに博打ははじまっております。佐和山の一つや二つ、お捨てなされませ」
三成はふりきって支度をした。敵中を突破する以上、変装せねばならぬ。このため家臣に垢だらけの小袖、伊賀袴を借り、それを着用して供三騎をつれ、ひそかに大垣城を抜け出した。味方にもだまったままである。
(やれやれ、気ぜわしいことよ)左近は首筋の凝る思いだった。いかに三成が小身者とはいえ、西軍の謀主であり、事実上の大将ではないか。
暗夜の街道を駈けながら、三成もその点が物哀しかった。
(これでも謀主か)と思うのである。家康はこんなことをしていないであろう。正式の指揮権をもたぬ、小身者のかなしさであった。  
三成は情報収集であまい
岐阜で家康は諜者を大垣方面に放ってみたところ、なお大垣の西軍陣地に変化がないことがわかった。ここにいたってもなお西軍は家康がほんの四、五里さきまで来ていることに気づかないのであろう。
(おどろくべきうかつさだ)と、家康は敵の三成の力量を、この一事で知った。かつて家康の盟主であった織田信長や、小牧長久手の戦いの敵であった秀吉とくらべると、なんとあまい敵であろう。
家康はさらに隠密をつづけるために、家康の存在を証拠だてる馬印、旗、戦鼓、伝令将校団、親衛隊などを夜陰ひそかに岐阜から発たせ、ひとあしさきに赤坂の前線へむかわせた。
翌十四日、家康は夜明けとともに岐阜を出発し、赤坂にむかった。途中、西軍から寝返った稲葉貞通、加藤貞泰が出迎え、道案内をつとめた。
長良川には、臨時の架橋がしてある。付近の鵜飼舟を七十艘ばかりあつめ、その上に板を敷き渡したもので、家康とその三万余の直轄軍はらくらくと渡った。
家康は、駕簸である。途中、一人の憎がやってきて、大きな柿を献上した。
「はや、大垣(柿)が手に入った」と家康はめずらしく冗談を言い、駕寵のなかからその大柿をころがし、「それ、大垣ぞ。奪いとれ」と、駕寵わきの小姓たちにたわむれた。
途中、南宮山のそばを通ったとき、家康は駕寵の引戸をあけて山を見ようとした。
(これが問題の山か)という興味がある。
西軍に属する諸将のうち、毛利香元、安国寺恵竣、長束正家、長曾我部盛観といった諸将が、戦さの役にも立たぬこの高峻の上に陣をかまえ、謎の行動を示しつつある場所であった。彼等はおそらく勝敗をこの戦場の山で観望しつつ最後まで一発の弾も撃たぬつもりなのであろう。
「これが、南宮山でござりまする」と、赤坂から出迎えた柳生宗厳が駕籠わきから説明したが、家康は先刻承知であった。
毛利秀元軍二万が山頂にいる。それを山頂で縛りつけているのは、毛利軍の参謀ですでに家康に内応している吉川広家であった。
(この布陣なら、動けまい)家康は安堵したが、なおも山上のほうを見あげようとし、駕寵を上へ傾けさせ、「かまわぬ。もっと傾けよ」とさらに命じて山頂や尾根のあたりの陣形を見きわめようとした。やがて家康は満足し、駕寵をもとどおりにさせ、赤坂にむかわせた。  
三成は明敏な頭脳をもつが、つねに物の一面しかみえない
勝った、とおもった。じつは物見が霧のなかを駈けもどってきて、家康が桃配山に本陣を置いた、ということを告げたのである。
家康にとって最悪の場所であった。
三成は当初、家康がどこに本営をおくかということをあれこれと想像してみたが、どう考えても関ケ原の北方、菩提山山麓の伊吹柑のどの丘陵かをつかう以外に適当な場所はない。
まさか、桃配山とはおもわなかった。味方が陣どる南宮山の一方の斜面ではないか。
(あれほどの戦き上手が)信じられぬことではあったが、事実とあればこれほど味方にとって勿怪のさいわいはない。
三成は大きく膝を打った。「勝った」三成の癖であった。これほど明敏な頭脳をもつ男が、つねに物の一面しかみえないのである。この場合も、なぜ家康ほどの千軍万馬の老練の将が、わざわざそんなところを本営に選んだかということを疑ってみようともしなかった。疑えば、−ひょっとすると南宮山の味方は寝返っているのではあるまいか。
という疑問は当然うまれたであろう。が、三成の性格は、その思考力をつねに阻んである。自分に有利な、自分にとって光明になる計算しかできないのである。表裏あわせ読むという能力に、この男ほど欠けている人物もすくないであろう。
「南宮山へ、狼煙をあげよ」三成は、明るすぎるほどの声で叫んだ。明るい、といえば、美濃にきて以来、三成はこの瞬間ほどあかるい表情をみせたことはなかった。狼煙の通信法は、すでに南宮山の諸将とうちあわせが済んでいる。狼煙があがればかれらは山をくだって家康の本官を衝くであろう。
狼煙が、あがった。霧はすでに半ばはれているため、南宮山上の味方がこの黒い煙を見おとすはずがない。  
島津豊久は三成に感情をもつれから戦わなかった
戦勢は、有利であった。天満山の山麓では、字書多隊が余裕をもって福島隊以下をあしらっているし、この石田隊の前面の敵は何度か撃退きれている。
(しかし、南宮山も松尾山もまだうごかぬ)いま山を駈けおりれば、味方の勝利はたれの目にも確実ではないか。
三成は絶叫したくなり、それらの陣にむかって何度めかの狼煙をあげさせた。
このころ、石田隊の広くもない前面の野は、敵の人馬で満ちはじめている。
黒田長政、細川忠興、竹中重門、加藤嘉明、田中書政、戸川達安の諸隊だけでなく、戦場の中央部にいた佐久間安政、織田有楽斎、古田重勝、稲葉貞通、一柳直盛といった小部隊も、−おなじかかるならば、治部少の陣に。
という気持もあって、ひしめきながら駈けあつまってきた。
が、陣前の野がせまいために十分に働けず、また、柵内からの石田隊の射撃が激しいために近づくことができない。
この戦場全般のふしぎさは、西軍はその兵力の三分の二が動かず、三分の一が死力をつくしてはたらいていることであった。その点、東軍は全力をあげて各戦闘場で馳駆している。実働実数でいえば西軍はほば四倍の敵に立ちむかっていた。しかも戦況はいよいよ西軍に有利なのである。(勝つ。−)とは、三成はおもったが、しかしそれを決定的にするには、三成が足掻く思いでこがれているように、たった一つの条件が必要だった。不戦の味方が、その三割でもこの戦場に参加してくれることであった。
「島津隊は、なにをしている」三成は、悲鳴をあげるようにいった。それさえ、動いていなかった。島津隊は石田本陣の右翼、北国街道ぞいに布陣し、しかも一発の鉄砲も撃たず、族旗をしずめて戦況を傍観している。
「助左衛門、いま一度島津陣へゆき、出勢を催促せよ」と、三成は八十島助左衝門という物頭に命じた。すでに先刻、三成は同人を走らせて督促はしてある。
が、島津豊久は、「諾」とうなずいたきり、依然として兵を動かしていないのである。
八十島は、二度目の督促便として駈けだした。この男は三成の老臣八十島助左衛門入道という者の子で、平素弁口がすぐれ、他家への使いをよくする。しかし戦場の役に立つ男ではない。
この男が、背に母衣をかけて駈けた。
島津惟新入道、同豊久の心境は、この戦場のいかなる将の心境ともちがったものであった。むろん他の不戦諸将とはちがい、東軍へ寝返る気持はさらにない。
戦闘は辞せぬつもりではいる。しかし複雑なことに、三成の指揮下で戦う気持をなくしきつていた。
「敵がわが島津の陣前に立ちむかってくれば撃退はする。しかし治部少のためには戦わぬ。もはやわれらは西軍の一環ではない」と、豊久はその配下にも言っている。惟新も豊久も、三成に対して感情をこじらせていた。理由は山ほどある。さきに大垣城外の戦線を三成が撤収したとき、前線の島津隊を置きざりにしたこと、ついで大垣城の最後の軍議のとき、島津豊久の夜襲案を一譲もなく蹴ったこと、などであり、さらにいえば、西軍のなかでもっとも武略すぐれた島津惟新を、三成はさほど優遇していない、ことなどであった。  
小早川秀秋の裏切り
「あれが、金吾様の御旗じゃ。あの御旗に狙いをつけて射ちあげよ」足軽たちは一列にならび、草の上に腰を据え、研敷の姿勢で銃尾を右股にあて、銃口を仰角にあおがせつつ操作した。むろん、鉄砲の射程は山頂までとどかないが、山頂の陣は家康の意思がどこにあるかを知るにちがいない。
火縄をはさみ、火蓋をひらき、いっせいに引金をひかせた。硝煙があがり、銃声は天へ噴きあがった。
「なにごとだ」と、山頂で、秀秋はかん高い声をあげた。
「指物に覚えがござる。あれは内府の鉄砲頭布施源兵衡でござりましょう」と、側近の者がいった。
「なぜ、内府が」「督促でござろう」と平岡石見がいった。平岡は家康の意図を察したが、かといってここで即座に行動をおこす気にはなれない。が、秀秋のほうは顔色が変わっていた。
「内府が、怒っている。石見、早くせぬか」「裏切りでござるか」「知れたこと」秀秋は、床几を掛って立った。平岡はそれをなだめていま一度腰をおろさせ、「されば采配つかまつりましょう」と言い、使番を集め、諸隊長へ伝うべき命令を記憶させた。
「仔細あって、裏切る」というのである。使番たちはこの命令の意外さにおどろいた。
「いまからいっせいに山を降りる。敵は、大谷刑部である。大谷が陣の背後、側面を衝け」というのであった。使番に、命令の批判はゆるされない。かれらは四方に駈け散った。  
三成は最後まで黒田長政の策に気がつかなかった
「なにをいう」三成は、背骨を立てた。頬は削げおちていたが、両眼に気塊をこめ、正則をにらみすえた。
「うぬのような智恵たらずの男に、おれの心のありかがわかってたまるか。そこをどけ。めぎわりである」と、ひくいが、しかしよく透る、底響きのする声でいった。三成は、自分の尊厳を維持することに、残された体力のすべてをつかおうとしていた。
「なぜ汝は」と、正則はさらにいった。死なぬ。切腹をせぬ。縄日のはずかしめを受けておる。とたたみかけたが、三成は蒼白の顔をひきつらせ、うぬに英雄の心事がわかるか、と、みずからをもって英雄とよんだ。「英雄たるものは最後の瞬間まで生を思い、横会を待つものである」と言い、かつ、これは三成が声を大きくして叫びたいところであったが、「人々の心の底を、この日で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見とどけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見とどけた上でなければ死ぬ気にはなれなかった。三成は秀吉在世当時もその検察官的性格のために人人にきらわれたが、この期にいたっていよいよそれが露骨になり、いまや地にすわらせられながら、馬上の勝利者どもを検断する気塊だけで生きているようであった。
「世迷いごとを言うわ」と、正則はついには言葉がなくなり、蹄で土を蹴って三成のそばを去った。
つぎに来たのは、黒田長政である。この間ケ原の裏面工作の担当者は、三成の姿をみるや、馬をおり、三成の前に片膝をつき、「勝敗は天運とはいえ」と、意外な態度でなぐさめはじめた。五奉行の随一といわれた貴殿がこのお姿になったことは、かえすがえすも御無念であろう、といった。長政は三成を憎み、三成の肉を吹いたいとまでいった男である。それが三成の手をとり、その冷たさにおどろき、自分の着ていた羽織をぬいで三成に着せかけた。
三成は、検断者としての言葉を失い、目を閉じ、顔を凝然として天にむけている。
ついに三成ははずみをうしない、一言も発しなかった。この意外なやきしさが長政の性格でもあり、ひとつには関ケ原における長政の最後の策でもあったというべきであろう。ここで三成からよしなき罵倒をうけ、豊臣家への忘恩行為をあばきたてられて無用に男をさげるのは、長政のとるところではない。長政は、羽織一枚で三成の口を封じた。三成にすれば最後の最後まで長政の策に致きれおわったというべきであったが、三成の奇妙さは、これほど明敏な頭脳をもった男でありながら、長政に致されているとは気づかなかったことであった。
その証拠に、長政が去ったとき、面を伏せ、−かたじけない。と、つぶやくようにいったのであるいこの男の頭脳にはもともと政治感覚というものが欠けていた。
 
石田三成1

 

石田三成の出自は、近江国石田村(長浜市)の土豪の子であると考えられている。
幼名は佐吉。当時の長浜は、長浜城主となった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による領国経営で短期間のうちに経済が活性化した。恐らく、石田三成はその羽柴秀吉と言う人物の手腕に興味も抱いていた事であろう。
石田三成が羽柴秀吉の小姓になった有名な話「三献の茶」がある。
長浜城主となった羽柴秀吉は、ある日、鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ると、汗だくの羽柴秀吉を見た寺小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきた。飲み干した羽柴秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出した。羽柴秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗に入れて持ってきた。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのだった。これを羽柴秀吉はいたく感心し、三成は召し抱えられたという話である。
ただし、この話は江戸時代になってから創作されたと考えられ、事実ではない可能性が高いが、石田三成が相手の様子を見て、気配りができる人物だったと言う事を物語っている。なお、寺は大原・観音寺ではなく、古橋・法華寺と言う説もある。
また、この逸話とは関係なく、石田三成が18歳の時に姫路で羽柴秀吉に仕えることになったと言う説もある。
秀吉が石田三成に禄を与えようとしたとき「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上金(税金)徴収を許していただきたい。それで10000石の軍役を致します。」と答えた逸話がある。石田三成は、葦の税収にて、豊臣秀吉の丹波攻めに約束どおり10000石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したと言われるが、そもそも丹波攻めがいつあったのか特定もできておらず、この話も創作の可能性が高い。
実際の石田三成は検地でも才覚を表し、目覚しい働きをした。その為、豊臣秀吉が九州に33万石の領地を用意したが、石田三成はこの破格の厚遇を断ったとされる。
理由としては、自分が九州の大名になってしまうと、大阪(中央政府)で行政を担当する者がいなくなり、豊臣政権に問題が生じると懸念したからだ。
石田三成は自身の出世よりも、豊臣秀吉のため、豊臣政権の為になることを重視していたと言う表れである。
いずれにせよ、戦国時代の長浜は商業が盛んな為、算術(算数)に優れた人物が多くいたとされており、石田三成も役人として非常に高い能力を持っていたと言う事は間違えない。そんな石田三成の才能を見出して、羽柴秀吉は側近にしたのであろう。
石田三成の戦での活躍は、1583年の賤ヶ岳の戦いで一番槍を務めたのが見られる。その後も、27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めにも従軍したが、石田三成はほとんど武勲を挙げていない=戦での活躍がない。
要するに、石田三成は、武人として活躍したのではなく、計算(算数)が必要となる検地、戦の時には、何をどのくらい調達し、どのようにして運ぶのかを担当する補給部門で才覚を表し活躍した。
例えば21万人を動員したと考えられる小田原征伐では、兵士が現地で食べる食料調達や輸送などを緻密に計算し、裏方として豊臣の大軍を支えた。(実際には忍城水攻めなどの軍事作戦行動もとったが・・。)
また、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、海を渡ることになる16万の大軍に対して、船を何艘用意して、何往復すれば輸送できるなど、石田三成が輸送計画を立てた。
このように、武勇や武功では目立たなかったが、政治面・経済面で優れた能力を発揮。豊臣秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、石田三成を優遇し、1591年には近江北部の佐和山城190000石を、僅か31歳の石田三成に与えた。
さて、話は戻り、石田三成が知行500石を得た際に、最初の石田家臣として渡辺了(渡辺新乃丞、渡辺勘兵衛)を登用した。
渡辺了は、それまでに柴田勝家の10000石、豊臣秀吉の20000石と言う雇用の話を「100000石でなければ仕官しない」と断っていた豪傑。
しかし、僅か500石の石田三成の家臣になったのである。
豊臣秀吉がどうやって、渡辺了を説得したのかと石田三成に尋ねると「私の500石すべてを新乃丞に与えました。だから今、私は新乃丞の居候になっております。」と涼しげに回答したと言う。
なお、石田三成が将来100万石になった際には、渡辺了は10万石にすると約束もしたそうであるが、渡辺了はそんな私利私欲に走らない石田三成に惚れ込み、何度も加増の話を断り生涯500石で仕え、関が原の戦いで石田三成勢として奮戦し討死したと言われている。
しかし、知行は500石ではなく、200石の時だったと言う説や、400石の時だったとする説もあり、実際の渡辺了は直接豊臣秀吉に2000石で家臣となったことから、渡辺性の武将は多いので渡辺了とは別の人物であった、又は話そのものがこのあと紹介する島左近と後世で混同した可能性も考えられる。
島左近(島清興)が石田三成の家臣になった際の話。
島左近は筒井順慶の元で智勇兼備の名将として活躍したのち、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えたが、のち浪人となって近江で暮らしていた。
そして、近江40000石となった石田三成は、島左近に家臣になるよう要請したのであった。それまでも多くの仕官を断ってきた島左近は、当初断ったが、石田三成の必死の説得により仕官を受け入ることになる。
豊臣秀吉は、40000石になった石田三成が、どれだけ多くの家臣を得たのか興味を持ち、石田三成に問うと、石田三成は「あれから1人を登用しました」「島左近1人であります」と回答した。島左近は石田三成よりも20歳も年上の名将であり、豊臣秀吉はどのようにして、あの島左近を家臣にしたのか?と質問すると、石田三成は「知行の半分、20000石で登用しました」と述べたと言う。これに対して豊臣秀吉は「これは面白い。主君と従者が同じ知行高など聞いたことがないわ」と感心して、後日、島左近を呼び、高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったと言われている。
なお、石田三成が佐和山城主になった際に、島左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分。その加増はどうか部下達に」と断ったと言う。
この島左近仕官の話が渡辺了仕官の話を生んだものと考えられる。
また、実際に、島左近が石田三成に仕えたのは、石田三成が佐和山19万石の城主になってからと言う説が有力であり、それでも浪人から2万石での取り立ては破格の待遇であったことには違いがない。島左近は関が原で勇猛果敢に突撃し討死している。(生き延びて僧になったとする説もあり。)
徳川家康が石田三成に側室として送り込んだとされる初芽局がいる。
初芽局は女忍者(くノ一)で石田三成の動向などを徳川家康に報告する任を負って石田三成に近づいた。しかし、彼女はまっすぐな性格の石田三成に惚れてしまい、徳川家康を裏切り、ついに徳川方の忍者に殺されたと言われている。(関ヶ原の戦いの後も生き延び、石田三成の菩提を弔ったという説など、諸説有)なお、初芽局が実在したと言う証拠はない。
1595年、豊臣秀次失脚の時は、諸将が豊臣秀次を見限る中、石田三成は「秀次公無罪」と、最後まで豊臣秀次の助命に動いた。これに、豊臣秀次の家臣であった前野忠康ら若江八人衆は感激し、以後、石田三成の家臣に加わった。
天下統一がなされ、豊臣秀吉は朝鮮出兵を計画したが、石田三成は無益な事と最後まで反対したと言う。しかし、豊臣秀吉は16万の大軍で朝鮮出兵を決め、石田三成はその命に従う。石田三成は主に輸送部隊の指揮を命ぜらた他、文禄の役の際には、幸州山城の戦いに参加し、負傷もしている。
豊臣秀吉は2度も朝鮮に兵を送ったが1598年8月に亡くなると、石田三成はすぐさま全軍退却を指示した。
なお、石田三成と加藤清正はこの朝鮮出兵時と撤退時に激しく対立している。
出兵当初、加藤清正はあとさきを考えず進撃を続け、自らだけでなく、あとから来る友軍までも窮地に追い込み、勝手に豊臣清正と名乗るなど、自分勝手な問題行動が目立った。また、即時撤兵して兵力温存を考える石田三成と、戦後の交渉を有利にする為にも最後に戦果を挙げるべきとする加藤清正と口論になった。
石田三成は日本の豊臣秀吉へ「清正が和睦の邪魔をしている」と報告。怒った豊臣秀吉は加藤清正を即時帰国させ謹慎処分にした。これを恨んだ加藤清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹となっても仲直りなどできぬ」と激怒したと言う。
豊臣秀頼がまだ5歳。豊臣秀吉は他界する直前に五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)を呼び、豊臣秀頼への忠誠を誓約させた。
そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格にし、両者の指揮のもと合議制により政治運営をするよう遺言した。
この時、石田三成はこう誓ったと言う。「天下が騒乱にあった時、秀吉様が世を治め、やっと今日の繁栄となった。続いて秀頼公の世になることを誰が祈らないものがあろうか。絶対に再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」。
豊臣秀吉は選んだ五奉行をこのように評価していた。
「浅野長政は兄弟同様で会議に必要な人柄。前田玄以は智将・織田信忠が認めた男であり確かな人材のはず。長束正家は丹羽長秀の下で名判官と言われた。増田長盛は財政経理に詳しい。石田三成は進言する際に機嫌や顔色をうかがわず堂々と意見する。」
一方、石田三成は不正を極度に嫌い、情実も介さず、常に自らの信念に基づいて豊臣政権の行政を担当していた。ところが、そのあまりな謹厳実直な性格が、周囲からは融通のきかない傲岸不遜、横柄な態度と映り、諸大名からの人望を得られなかったようである。
豊臣秀吉は特定の大名が力をつけないよう、大名同士の婚姻を禁じていたが、1598年8月に豊臣秀吉が亡くなってから6ヶ月も立っていないのに、徳川家康は、伊達政宗や福島正則、加藤清正、黒田長政らと親戚関係になる動きを見せた。1599年1月、前田利家や石田三成らは徳川家康に問罪使を派遣し、徳川家康も豊臣政権で孤立する不利を悟って縁組を止めたが、前田利家が1599年3月に病没すると、一気に徳川家康が権力を掌握し始める。
前田利家が他界した夜、石田三成は以前から対立していた加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将ら武闘派の諸将に大坂屋敷を襲撃された。石田三成は佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し伏見城に入る。徳川家康の仲介により、和睦するが、石田三成は五奉行の引退を承諾。佐和山城で謹慎することになる。
そして、徳川家康は大名との婚姻を断行、所領を勝手に分配するなど、禁止されている事項を破る。
そして運命の1600年、徳川家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。1600年6月、徳川家康は五大老の1人・上杉景勝の会津討伐のため江戸に入り、諸国から兵を集めた。
その動きを見て、7月11日、石田三成も水面下で反徳川家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。
大谷吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが石田三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らなかった為、大谷吉継は「三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかないけと腹をくくった。
この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、豊臣秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と賞賛された名将だった。当時の人々はハンセン病を感染病と思い込んでいたので、大谷吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。
ある日、豊臣秀吉の茶会で、大谷吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶碗に垂れてしまった。大谷吉継は茶碗を隣に渡せなくなり、居合わせた諸侯は絶句したが、石田三成は立ち上がり「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗を奪い取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したと言う。石田三成とは、そういう男である。
徳川家康を討つと言っても、徳川勢80000に対して、石田三成手持ちの兵力は6000でしかない。しかも、謹慎の身である。
その逆境に屈することなく、石田三成は豊臣寄りの諸侯に手紙を送り、大阪城に集結させ、最終的には94000が集まった。会津・上杉家を入れると合計130000の兵力で、徳川勢を上回る。
西軍は手始めに伏見城を攻略し鳥居元忠を討ち取り、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧する。
そして、1600年9月15日、ついに天下分け目の合戦が始まるのであった。石田三成40歳、徳川家康58歳。
真田昌幸の活躍もあり、上田で足踏みした約38000の徳川秀忠軍は関が原に間に合わず、最終的な布陣は、西軍85000、東軍75000と石田三成がやや有利な情勢に。
しかし、石田三成に味方したはずの小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなった。
石田三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れ、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。そして、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出て、曲谷、七廻り峠から草野谷に入った。この時、付き従っていた家臣は磯野平三郎・渡辺勘平・塩野清助の3名だけ。石田三成は、最後まで付き従うという彼らを諭し「運が開けるならば大坂で再会しようぞ」別れを告げ、あとは1人で行動したとされる。
そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て、近江・古橋に逃れた。(逃亡ルートは諸説有)
古橋村は飢饉に襲われたとき、石田三成が年貢を免祖した村であったと言われている。また、古橋には当時、石田三成の母の菩提寺である法華寺があり、石田三成は手厚い保護を与えていたという。
日暮れを待って法華寺を頼ったが、村人たちの知るところとなり、かつて石田三成から恩を受けたことがある農民・与次郎太夫が岩窟に隠し、石田三成に毎日食事を届けたとされる。しかし、石田三成の存在が知られ、9月21日、岩窟で隠れていた石田三成は田中吉政らに捕らえられた。(諸説有)
石田三成は9月22日、大津城まで護送されて、その後、徳川家康と会見。本多正純に預けられた。
ここで本多正純と石田三成の会話が残されている。
本多正純「秀頼公はまだ幼少で事の是非をわきまえておられるはずはない。私心による戦を起こしたがために、このような恥辱を受ける羽目になったのではないか」
石田三成「農民に生まれてより一城の主としていただいた太閤の御恩は例えようもない。世相を見るに、徳川殿を討たずば豊家の行く末に良からじと思い、戦を起こしたのである。二心ある者のために、勝つべき戦に敗れたのは口惜しい限りじゃ。さなくば汝らをこのように絡め捕らえておったであろうに、我が敗れたるは天命である」
本多正純「智将は人情を計り時勢を知るという。諸将の一致も得られず、よくもまあ軽々しく戦を起こしたものだ。敗れた上に自害もせず捕らえられたのは如何に」
石田三成「汝は武略を知らぬも甚だしい。人手に掛かるまいと自害するのは葉武者のすること。汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と言い返したと言う。
石田三成は、源頼朝のように、1度や2度戦に敗れても、自害せず大身を成す者こそ、誠の武将の生きる道と論したのである。
9月27日には大阪に護送され、石田三成は9月28日に小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。
徳川家康勢が小袖を与えた際、小西行長、安国寺恵瓊の2人は有りがたく受け取ったが、石田三成は「この小袖は誰からのものか。」と聞き「江戸の上様(徳川家康)からだ。」と言われると「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか。」と反論して受け取らなかったと言う。
徳川家康は「石田は日本の政務を執っていた者である。小西も宇土城主、安国寺もまた卑賤の者ではない。戦に敗れてこのような姿になろうとも、勝敗は兵家の常であり珍しいことではない。命をみだりに捨てなかったのも大将の心とするところであり、古今に例も多く恥ではない。そのまま市中を引き回せば将たるものに恥をかかせることになり、それは我が恥でもある」として、小袖を贈ったのである。
石田三成は9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれる。
そして、10月1日、徳川家康の命により六条河原で斬首された。
斬首される前に石田三成は、喉が乾いたので水を所望する。
水は無いが柿ならあると、柿(干し柿)を与えられたが「柿を食べると身体に障るのでいらない」と言って食べなかったとされる。これに対して「すぐに死ぬ身が身体を気にする場合ではなかろう」と嘲笑されると「大志を持つ者は最期の最期まで諦めないものだ」と返答したと言う。
最後まで潔い態度であったと聞いた徳川家康は「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは人間の出来が違う。」と述べたと言われている。
落城した佐和山城に入った東軍の兵は、佐和山城の質素さに驚いたと言う。
19万石ともなれば、さぞかし立派なものと考えていたのだが、実際には住居はみな荒壁で、上塗りなどはなく、住居の中も板張りのまま。庭には風流な樹などは無く、粗末な石があるくらいであったと言う。金銀の蓄えもほとんどなく、あったのは豊臣秀吉から送られた感状のみだったと言われている。
戦後、佐和山に入った井伊直政は佐和山城の山頂部を14mも削るなど、石田三成の象徴とも言うべく佐和山城を徹底的に破壊した。
石田三成の死後、佐和山の領民は、石田三成生前の善政に報うべく、石田三成を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどして、霊を慰めたという。
石田三成は、侫臣、傲慢、小賢いという人物像が一般的であるが、これは、勝者・徳川家康から見た人物像である。
水戸光圀は大日本史に「石田三成は非常に立派な人物だ。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。徳川家の敵といって三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ」と記している。
幕末維新の英傑、西郷隆盛もこの三成評に同感し、公平に評価していると日記に残している。
なぜ、敗戦の将であるにも関らず、石田三成の人柄を表すような逸話が多く残されているのだろう?それには、徳川家康に敗れこそはしたが、石田三成と言う人物が高く評価されていたから他ならない。
石田三成は大一大万大吉と記された家紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味である。
わずか19万4000石で毛利・島津・上杉を動かし、天下を二分し、250万石の徳川家康と五分に渡り合ったのである。
もし、豊臣秀吉がもっと長生きしていたら、もし、小早川秀秋が裏切らなかったら・・。人生、一寸先は闇と言う事なのであろう・・。
明治40年、京都大徳寺三玄院の石田三成の墓が発掘された。
石田三成2

 

近江国石田村(滋賀県長浜市)の土豪の子として生まれる。幼名佐吉。信長の命令で長浜城主となった秀吉は、巧みな領国経営によって3年間で長浜を活性化させた。17歳の三成はその過程を見て、日本中がこのように繁栄したらどんなに素晴らしいかと、秀吉に憧れていた。
ある日、秀吉が鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ると、汗だくの秀吉を見た寺小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきた。飲み干した秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出した。秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗に入れて持ってきた。最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、三成はぬるいものから出したのだった。これを秀吉はいたく感心し、三成は召し抱えられることになる(この出会いのエピソードは「三献の茶」として語り継がれている)。
1582年(22歳)、信長が本能寺で自害。翌年、三成は秀吉VS柴田勝家の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」に参陣し一番槍を務めた。27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めに従軍するなど、秀吉の天下統一事業を参謀としてサポートする。
三成は戦場で全くと言っていいほど武勲を挙げていない。それでも秀吉が側近として寵遇したのは、補給・輸送に腕を振るい(兵一人当たりの兵糧、弾薬を緻密に計算し輸送していた)、経済面での才能を高く評価していたからだった。三成は後の太閤検地の実施でも成果を挙げており、秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、彼に感服していた。1591年、三成は近江北部に所領を与えられ、31歳で城を持った(佐和山城、19万石)。
三成が初めて500石の領地(知行)を持った時、最初に渡辺新乃丞を家臣として登用した。新乃丞は以前に秀吉が2万石で誘ったのを「10万石なら」と言いのけた英傑。秀吉がどうやって説得したのか三成に尋ねると「私の500石すべてを新乃丞に与えました。だから今、私は新乃丞の居候になっております」。三成が100万石になれば新乃丞に10万石を扶持する約束だったが、終生500石で仕えたという。
秀吉は三成が4万石に加増された時、才気に富んだ三成がどんなに多くの人材を登用したのかワクワクして尋ねた。「あれから一人を登用しました」「たった一人だと!?」「島左近であります」。島左近は三成よりも20歳も年上の名将。「あの島左近がお前のような若僧に仕えるのか!?ありえん!」「私もそう思い、知行の半分、2万石で登用しました」「これは面白い。主君と従者が同じ知行など聞いたことがないわ」。秀吉はこの話に感心して、後日左近に高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったという。三成が佐和山城主になった時、左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分なので、その加増はどうか部下達に」と断った。
三成が検地で目覚しい働きをしたことから、秀吉が九州に33万石の領地を用意したところ、三成はこの破格の厚遇を断った。「私が九州の大名になってしまうと、大阪で行政を担当する者がいなくなります」。三成は個人の出世よりも、故郷・長浜が復興したように、国全体を活性化させることを重視していた。
1592年、秀吉の朝鮮出兵に対し、三成は無益さを訴えて最後まで反対していたが、秀吉はどうしても大陸を支配するといって聞く耳を持たず、ここに足掛け6年間の不毛な侵略戦争が始まった。日本軍は16万という大軍で力攻めをし、当初は優勢だったものの、やがて明の大援軍が介入して一気に戦況が悪化した。三成も渡航し最前線で戦い負傷する。翌年、明軍と和平を結ぶために休戦。明の講和使節を伴って帰国したが会談は決裂。1596年、再出兵。「補給線もズタズタに寸断されており、このままでは日本軍は全滅してしまう」。そのように三成が危惧していた矢先、秀吉があっけなく病没する(1598年8月)。三成はすぐさま全軍に朝鮮からの退却を指示した。
最初の朝鮮出兵の撤退時に、三成と加藤清正は激しく対立した。即時撤兵を考える三成と、交渉を有利に運ぶ為にも最後に戦果を挙げるべきとする清正で口論になった。清正は戦線を無理に拡大して友軍まで窮地に追い込んでおり、勝手に“豊臣清正”と名乗るなど問題行動もあった。三成は日本にいる秀吉に“清正が和睦の邪魔をしている”と報告。怒った秀吉は清正を帰国させ謹慎処分にした。これを逆恨みした清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹を申し付けられても仲直りなどできぬ」と激怒した。
秀吉 他界
秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ5歳。秀吉は他界する前、まだ幼い秀頼の将来を心配して、五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)に、秀頼への忠誠を誓約させた。そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格に置き、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なえと言い残した。秀吉の死を看取った三成は誓う。「天下が騒乱にあった時、秀吉様が世を治め、やっと今日の繁栄となった。 続いて秀頼公の世になることを誰が祈らないものがあろうか。絶対に再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」。
五奉行を選抜した際の秀吉の所感が残っている。「浅野長政は兄弟同様で会議に必要な人柄、前田玄以は智将・織田信忠が認めた男であり確かな人材のはず、長束正家は丹羽長秀の下で名判官と言われた。増田長盛は財政経理に詳しく、石田三成は進言する際に機嫌や顔色をうかがわず堂々と意見する」。秀吉はこのように考えていた。(甫安太閤記)
1599年1月(39歳)。秀吉は特定の大名が大きくならないように、大名間の婚姻を厳禁していた。ところが秀吉の死からまだ半年も経っていないのに、家康はこれに背いて伊達政宗、福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せた。この時は家康以外の十人衆が全員で問責して縁組を止めさせた。しかし、3月に家康と並ぶ実力者・前田利家が病没してしまい、これで一気に家康が権力を掌握し始める。利家が他界した夜、三成は以前から彼と対立していた加藤清正、福島正則ら武闘派の諸将に襲撃された。命は助かったものの、大阪城からは追い出され滋賀の居城で謹慎することになった。
そして運命の1600年。家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。6月、家康は五大老の1人上杉景勝(会津)の討伐準備で江戸に入り、諸国から兵を集めた。7月11日、三成も水面下で反家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らぬため、吉継は“三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない”と腹をくくった。
この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞された名将だった。当時の人々はこの病を感染病と誤解していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶に垂れてしまった。列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまった。吉継は茶碗を隣に回せなくなり、場の空気は固まった。その時、三成が立ち上がる。「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗をもぎ取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したのだ。石田三成とは、そういう男だ。
関ヶ原の戦い
“家康を叩く”といっても家康軍8万に対し、三成には6千の兵士しかいない。しかも政治の中心から干されて1年以上が経っている。普通なら諦めるところだが、彼は筆一本にかけた。西国にはまだ五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家がいる。「家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」三成は家康の非を訴え両者を説得し、挙兵の約束をとり付けた。また五奉行も長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行(自身を入れると四奉行)が味方になった。7月17日、二大老・四奉行の連署で、家康の罪科13ヵ条を記した檄文を全国の諸大名に送る。毛利輝元は西軍総大将として大阪城に入城した。これを受けて各地から続々と反家康勢力が大阪に結集し、その数は9万4千まで達した。既に数の上で1万余も家康側を上回っている。さらに東北の上杉軍3万6千を入れると13万になり、東軍をはるかに超える巨大戦力となる。「…勝った!」。西軍は手始めに伏見城、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧した。
西軍と東軍の戦闘は日本各地で行なわれており、東北で上杉(西)VS伊達・最上(東)、中山道で真田(西)VS徳川秀忠(東)、九州では黒田勢(東)が西軍諸勢力と戦っていた。
9月15日朝8時。ついに天下分け目の合戦が始まった。時に三成40歳、家康58歳。両陣営の最終的な布陣は、西軍8万5千、東軍7万5千。西軍は兵数で有利を保ったまま戦に突入できた。
まず東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊へ攻撃を開始。両陣営が一進一退を繰り返すなか、三成は山上に陣を張る西軍陣営に対し、「加勢せよ」と合図の“のろし”をあげるが、なぜか山から下りてこない。西軍で戦っているのは、親友の大谷吉継、文官の小西行長、大老・宇喜多の三隊という3万5千の兵だけ。どうもおかしい。そして正午、やっと小早川秀秋の大軍が参戦してきたと思ったら、なんと西軍に襲い掛かってきた!午後1時、勇戦していた大谷隊が持ちこたえられず全滅。吉継は自分の首を敵に晒されることを良しとせず、切腹の後に地中深く埋めるよう側近に命じた(今も発見されていない)。
小早川の寝返りがきっかけとなり、味方の裏切りに歯止めが利かなくなっていく。やがて宇喜多隊、小西隊が敗走し、とうとう残るは三成の本隊のみとなった。三成の家臣は四方から津波のように押し寄せてくる東軍を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたが、多勢に無勢、一人、また一人と、壮絶に散っていった。だが、これほど絶望的な状況でも、三成の家臣だけは誰も裏切らなかった。午後2時、死闘の果てに三成隊は全滅。ここに合戦は終わった。
西軍総大将を引き受けたはずの毛利輝元は、大阪城に入ったまま関ヶ原にやって来ず、合戦では三成が総大将になるしかなかった。毛利はこともあろうに、家康の「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのだ…。
三成軍の最期を歴史書「天元実記」はこう刻む「三成は武道に名誉ある者であれば、何をおいても召抱えた為に、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」。
合戦3日後に居城の佐和山城も落城。城内にいた父兄、石田一族は自害した。西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚いた。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうと東軍は思っていた。ところが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。ある東軍の軍医は記す「佐和山城には金銀が少しもない。三成はそれらを貯えてはいなかった」。
三成はよくこう語っていた「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」。
敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後、潜伏先の古橋村で捕縛された。9月24日、家康のもとへ護送される。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき、丁重に言った。「この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい」「鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けばあの鉄砲隊の威力は向上しましょう」。この助言に感謝した高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。
そして迎えた、家康との対面。最初に家康が声をかけた。「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥にはあたらぬ」。三成は少しも臆することなく「承知。ただ天運が味方しなかっただけのことよ。さっさと首をはねられい」。「さすがは三成、やはり大将の器量がある。(命乞いをした)平宗盛とは大いに異なることよのう」。
関ヶ原から2週間が経った10月1日、三成は京の都を引き回された後、六条河原で処刑された。享年40歳。なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成はこう答えた--「私はまだ再起するつもりだった」。
三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたという。
死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。
三成が検地改革に取り組むまで、各地で長さ・体積の単位は異なっていたうえに、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していた。三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。
小西行長もまた、三成と一緒に斬首された。行長の場合はキリシタンなので自害しなかった。
三成は西軍内の裏切りに薄々感づいていた。合戦直前の手紙に「小早川が敵と内通し、敵は勇気づいているという」「毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている」「人の心、計りがたし」と記している。
家康の次男・秀康は、豊臣の時代は三成と仲が良く、名刀・五郎正宗を三成から贈られていた。秀康はこの刀を「石田正宗」と名づけ、生涯にわたって愛用した。
“黄門様”こと水戸光圀は三成をこう評している「石田三成を憎んではいけない。主君の為に義を心に持って行動したのだ。(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共によく心得るべし」。西郷隆盛はこの三成評に感銘を受けて記す「関ヶ原で東西は決戦し、三成は怒髪天を突き激闘した。だが勝負は時の運である。敗戦を責められるべきでない事は水戸藩の先哲(光圀)が公正に判断している」。 
 
直江兼続1

 

直江兼続(1560-1619)、名を上げるまでには諸説あるが、1560年、越後・長尾家臣の樋口兼豊(樋口惣右衛門兼豊)の長男として生まれたとされ、幼名は与六と言った。母は信州・泉重蔵の娘で、名は藤(ふじ)と考えられる。別の説では藤は直江親綱の娘、またまた別説では泉重歳の娘であるが名は蘭子(らんこ)とする説もある。
1560年と言えば、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年であり、石田三成も1560年生まれとされている。
この頃、直江兼続の父・樋口兼豊は、上田衆として長尾顕景(のちの上杉景勝)の実父である長尾政景に仕え、薪炭用人として、坂戸城(六日町)の台所まわりで働いていたとされる。(諸説有)
坂戸城は現在、上越新幹線や関越自動車道も通る、交通の要所で、当時、越後から関東へ出る際の戦略上でも上杉家に取って重要な地点であった。
上杉謙信の姉で、坂戸城主・長尾政景に嫁いでいた仙桃院が、あるとき坂戸城内で父・樋口兼豊と一緒にいた幼い与六が長尾顕景と共に学んでいるのを見て、その聡明さに目をつけたようだ。
1564年、坂戸城主・長尾政景が野尻湖にて琵琶嶋城主・宇佐美定満と共に溺れて死去する事件が起こる。この時、家督を継ぐべき長尾政景の子、長尾顕景(のちの上杉景勝)は、まだ9歳だったこともあったからだろう。長尾顕景は上杉謙信の養子になることとなり、上杉氏の本城・春日山城に入った。その際、仙桃院の推挙によって、4歳前後の与六は小姓として春日山城にて長尾顕景(のちの上杉景勝)の近侍となったと言う説が有力だ。
この辺りは、一生涯独身だった上杉謙信の跡目を補う政略的な判断もあったのだろう。
長尾顕景(のちの上杉景勝)は1566年に初陣を果たしているが、樋口兼続の元服や初陣など若かりし頃の行動は良くわかっていない。
その後、1570年、北条氏康と和睦した際、小机衆を率いていた北条氏康の七男・北条三郎(北条氏秀)が、人質として上杉家に送られたが、その後、上杉謙信が養子にした。上杉謙信は美男だった北条三郎を大変気に入ったようで、上杉景虎の名を与えるなど、上杉家一門、そして後継候補として厚遇したようだ。ちなみに、仙桃院の長女(長尾顕景にとっては姉で名前不詳)が、上杉景虎の正室になり、2人は春日山城の二の郭に住んだ。
1575年、長尾顕景は名を上杉景勝に改めると共に、上杉謙信から弾正少弼の位を譲られた。
上杉謙信は1576年に越中を平定。1577年には織田勢が加賀に進軍。柴田勝家18000を先発させ、織田信長自身も30000で出陣したが、迎え撃った上杉謙信勢約20000と手取川の戦いで激突。上杉謙信は織田勢に大勝したと言われている。
1578年3月、関東遠征と考えられる侵攻準備のさなか、1578年3月13日に上杉謙信が死去(享年49)。脳卒中と言われており、突然の死であった為、後継者が決まっておらず、上杉景虎と上杉景勝の間で家督争いに発展する。上杉景虎は御館に籠もって抵抗したので、御館の乱(おたてのらん)と言う。
上杉景勝は春日山城の本丸を占拠し、遺言により自分が後継者であることを近隣の諸氏に報じた。以後、約1年に渡り、上杉景虎との家督争いが続いた。
当初、上杉景虎勢は上杉景信・本庄秀綱・北条高広らを味方につけ、越後に迫る北条勢力に恐れをなす譜代家臣の支持を集めた。また、北条・武田の援軍が派遣され、上杉景虎が優勢であった。しかしながら、上杉景勝勢は春日山城を抑えていた為、上杉謙信が残した城内の資金を使い対外工作に成功。春日山城には2万7140両の蓄えがあり、武田勝頼にはそのうち1万両を送ったと東上野の割譲を約束したとも言われている。
最終的には武田勝頼も上杉景勝に鞍替えし、1578年12月には武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟するなど、上杉景虎を孤立させた。
1579年2月1日、御館の上杉景虎はついに逃亡。正室だった上杉景勝の姉は降伏勧告を拒んで自害(享年24歳?)。上杉景虎は出身地の北条を頼るべく小田原を目指すが、途中、立ち寄った鮫ヶ尾城で鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、もはやこれまでと自害。(享年24歳)
もともと、家臣の争いが絶えない、上杉家を象徴するかのように、その後も栃尾城・本庄秀綱、三条城・神余親綱らが上杉景勝に抵抗するが、上杉景勝勢は攻略し名実共に越後の後継者となった。
この御館の乱で、樋口兼続(のちの直江兼続)は父・樋口兼豊や弟・樋口与七と共に上田衆を率いて奮戦し、戦功があったとされ、1580年7月17日に、樋口兼続は河海免除の船一艘を与えられ奉行に就任した。1580年8月15日には奉行職として佐藤庄左衛門、皆川式部丞に上杉景勝からの知行書を出すと言う重要な役割をしているのが確認できている。
その後、1581年4月24日には、樋口兼続の名で、新潟の船江明神に諸役を免除する書状を出している他、6月3日には、松倉城主・上条宜順が加賀・能登の敵情を探って樋口兼続に報告するなど、以後、頻繁に書状などにて兼続の名が確認できている。
1581年9月1日、春日山城内で家老・直江信綱と家老・山崎秀仙が対談中、毛利秀広がきて不意に山崎秀仙を切り捨てた。直江信綱は驚いて毛利秀広と切合い、毛利秀広の顔面に傷をおわせたが、毛利秀広は反撃して直江信綱を斬り倒す事件が起こった。
これは御館の乱による恩賞争いが原因で、この乱に勝利したのは五十公野重家、三条道寿斎、毛利秀広らが上杉景勝に味方した為であり、彼らにぜひ城を与えてほしいと上杉景勝派の軍奉行・安田顕元が上杉景勝に言上し、上杉景勝も一時は同意した。一方、山崎秀仙らは最初から味方した譜代の家臣ではなく、途中から味方した言わば外様の五十公野らに第一の恩賞を与えることに反対し、結果、上杉景勝は譜代の家臣を重用し、安田顕元は五十公野らへの恩賞の約束を果たせなかったことで、責任をとり自害したと言われている。しかし、恩賞への不満は収まらなかったのである。
なお、毛利秀広は、その場に居合わせた岩井信能・登坂広重に討ち取られている。
越後の名家・直江家は断絶することになったが、上杉景勝は、直江家の娘で、直江信綱の未亡人・お船の方(おせん)(25歳)と樋口兼続(22歳)を結婚させ、樋口兼続に直江家を継がせた。樋口兼続は直江家に婿入りし、名門・直江家の当主・直江兼続となった。
1581年11月19日に須田満親が直江兼続宛に書いた書状にて、初めて直江兼続と表記が見られるので、恐らく10月頃にお船と結婚したものと推測される。
直江兼続は与板衆121名を配下に従え、以後、若き直江兼続と頭角を表していた狩野秀治の2人で上杉家で内政外交全般の執政を取ることになった。
1581年、御館の乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田家と結び、北から越後に侵入し、西から織田勢の柴田勝家が攻め、上杉勢は挟み撃ちにあう。この頃、織田勢は各地で攻勢に出ており武田勝頼も1582年3月に自決。1582年、柴田勝家を大将に佐々成政・前田利家・佐久間盛政、不破光治らが上杉勢の魚津城を攻撃。織田勢は最終的に40000の兵力を動員し、篭城する魚津城を攻撃した。
これに対して、守備する上杉勢は3800。1582年3月2日には、魚津城から直江兼続宛てに、救援要請と落城間近で決死の覚悟であることを訴えたと言われている。上杉景勝はこの頃、信濃を占拠していた織田勢への備えを重視していたが、春日山城からは魚津城救援のため、1582年4月13日援軍先発隊として上条政繁・斉藤朝信らが出陣。4月23日には、魚津城の山本寺景長・吉江宗信・安部政吉・石口広宗・若林家吉・亀田長乗・藤丸勝俊・蓼沼泰重・寺嶋長資・竹俣慶綱・中条景泰らが連署して決死の覚悟であることを直江兼続に報告。
これに対し上杉景勝は、織田信長が4月3日に甲斐国を発ち富士山見物をして駿河国・遠江国を経て安土に凱旋したことを確かめたあと、5月4日には上杉景勝自ら上杉本隊5000(3000とも)を率いて春日山城を出発、5月19日(5月15日説あり)には魚津城東側の天神山城に入り陣を張ったが、織田軍は5月6日に魚津城の二の丸まで占拠。守備する魚津城は5月9日に鉄砲の弾薬が底をついた。短期決戦を望む上杉景勝に対して、柴田勝家は土塁や柵、深い堀を築いており、上杉の救援部隊は容易に織田勢に戦をしかけられる状態ではなかった。こう着状態が続く間に、信濃・海津城の森長可は5000で、春日山城近くの二本木まで進出や上野・厩橋城の滝川一益も三国峠を越えようとした。この後領内に進入する織田勢の動きを察知した上杉景勝は越中を捨てる覚悟で5月27日に退陣を決断し、上杉本隊は春日山城に退却した。一説では、上杉景勝はこのとき、魚津城を明け渡す条件で、柴田勝家と和議を結んで帰国しても構わない、という内容の直判の書を城中に送ったともいわれる。
包囲されてから約80日後、魚津城で篭城していた上杉勢の山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱といった13名は自刃し、1582年6月3日に魚津城は陥落。織田勢は越中を完全に制圧した。中条景泰ら諸将は「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と、自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したと言い、この光景を見た織田勢の将兵は「上杉恐るべし」の感を強くしたと言う。
この魚津城の戦いで注目すべきは、織田の大軍が攻めてきた際に、内部から崩壊した武田のように、上杉勢からに織田に寝返る者が出ていないことである。また、菊姫の縁を頼って、武田信玄の子である武田信清(安田信清)が上杉家臣に加わるなどしている。
上杉氏はあと少しで滅亡と言う危機に陥ったが、魚津城が落城した1日前の1582年6月2日に織田信長が本能寺の変で倒れていた。魚津城落城の前日に織田信長は命を落としていたのである。柴田勝家のもとには6月4日に本能寺の変が届き、織田勢は混乱し撤退。明智光秀を破った羽柴秀吉は柴田勝家や柴田勢の佐々成政に対抗すべく、素早く上杉景勝に協力して欲しいと要請すると上杉景勝も羽柴秀吉に協力する事を決した。
1583年に柴田勝家は豊臣秀吉に敗れて滅亡。上杉氏は危うく難を逃れたが、羽柴秀吉から依頼されていた柴田勝家攻めに出兵するだけの余力もなく、信濃で北条氏との対立もあり、新発田重家の攻略は苦慮するなど、旧領を回復もならず国力はかなり衰退していた。ちなみに1583年、豊臣秀吉は大阪城を築城開始している。また、24歳になった直江兼続もこの1583年より山城守を称するようになり、豊臣秀吉の家臣・石田三成と書状のやり取りも始まった。
なお、1584年末に狩野秀治が病に倒れると、直江兼続は上杉家の内政・外交のほとんどを担当するようになり、当時の上杉家臣は、上杉景勝を「御屋形様」と呼び、直江兼続を「旦那様」と呼んで、実質この2人が上杉家を引っ張っていた。
一方で羽柴秀吉は1584年徳川家康と小牧・長久手の戦いになり、織田信雄が羽柴秀吉と和議を結び、徳川家康が2男を羽柴秀吉の養子にと大阪へ送り、1585年7月には関白の位を受けて羽柴秀吉は豊臣秀吉と改名し、着々と豊臣秀吉の天下が形成されつつあった。また、豊臣秀吉は1584年9月以降、木村秀俊を越後に使者として送り、上杉家との講和を求める起請文を何度も送ったりしている。
そんな中、1585年8月、豊臣秀吉は佐々成政の富山城を10万の大軍で包囲し、佐々成政は織田信雄の仲介により無血降伏した。
その頃、上杉氏は魚津城奪還の為、佐々成政と対立しており、佐々成政を攻略すべく8000で出陣している。上杉景勝は糸魚川に在陣していたのを知って、豊臣秀吉は石田三成・木村秀俊ら38名と僅かな供だけを連れて、上杉勢の須賀盛能(須賀修理亮盛能)が守る越後の最西端・越水城(勝山城、墜水城)を訪問した。木村秀俊は須賀盛能(須賀修理亮盛能)と顔見知りであり、須賀盛能を通じて豊臣秀吉は上杉景勝との会談を希望したのだ。
須賀盛能は糸魚川の上杉景勝に早馬を出し、豊臣秀吉らを丁重に越水城に招き入れた。
この時、報を受けた上杉景勝は直江兼続・藤田信吉・泉沢久秀らを伴い直ちに70名ほどの人数で越水城(勝山城)へと向かった。
この際の逸話としてこのような話が残されている。
須賀盛能は「もし秀吉を害するならばお手を煩わせるまでもなく私が討ち取ります」と上杉景勝に申し出たが、「もはや天下の権を司る秀吉が、この戦国の中に数多くの難所を越えてはるばる越後までやってきたのは、ひとつは先年の約を違えず景勝と誼を結ばんため、ひとつはこの景勝が卑怯な振る舞い(暗殺)をしないと信じてこそ来たのである。それをここで討ち取ってしまっては、景勝が今までに取った弓矢の名を汚すであろう。ここは秀吉と会談して望み通りに親しくなるか、さもなくば、一旦彼を帰した上で、改めて正々堂々と勝負を決するべきである」と述べたという。
こうして越中・越水城にて家臣一同一通りの挨拶の後、豊臣秀吉と石田三成、上杉景勝と直江兼続らは4人だけで会見し、豊臣秀吉は上杉氏に協力を要請。4時間に渡る会見で、上杉景勝も豊臣秀吉の義に応える形で豊臣氏と上杉氏は同盟関係となった。この時、石田三成は直江兼続と同い年の26歳。お互いは意気投合し盟友となる。これを世に「越水の会(落水の会、おちみずのかい)、落水盟約」(1585年8月)と呼ぶ。
翌年1586年、甘粕景継・色部長真・本庄繁長らに春日山城の守りを任せて、5月20日に上杉景勝は直江兼続を連れて春日山城を出発し上洛。6月7日京に到着し、六条本国寺へ逗留。6月14日に大阪城で関白・豊臣秀吉と会見。白銀500枚、越後布300反を贈り、もはや豊臣の天下と豊臣氏に臣従した。上杉は越中と上野の領有を放棄。(上野は真田昌幸の所領となる。)かわりに佐渡・出羽攻めを許可された。6月16日には豊臣秀吉が上杉景勝を茶の湯に招き、千利休は直江兼続・千坂対馬守を茶の湯に招いた。そして、6月21日、上杉景勝は従四位下左近衛少将、直江兼続は従五位下に任ぜら、6月24日に帰途につき、7月6日に越後に着いた。上杉はすぐさま新発田攻めを再開し、8月26日には御弓頭として直江兼続も出陣している。
豊臣秀吉は1587年九州征伐。上杉も度々新発田攻めを行っており、1587年夏以降、豊臣秀吉の支援を受けて1万余の大軍にて新発田城包囲。10月25日に新発田重家が自刃し、長年敵対していた新発田重家を討伐。この戦いにて直江兼続・藤田信吉らが五十公野城を陥落するなど直江兼続も武功を挙げた。
1588年4月20日に春日山城を発ち、再び上杉景勝と直江兼続は、須田満親、色部長実、泉沢久秀らと共に上洛し、5月7日京の本国寺に到着。5月26日、上杉景勝は従三位参議に昇進。8月17日、直江兼続自身も、関白・豊臣秀吉から従五位下を賜り、須田満親、色部長実らと一緒に直江兼続も豊臣の氏を授けられ、改めて山城守を賜った。
この上洛中、上杉景勝と直江兼続は高野山を参詣し、直江兼続の縁者である高野山龍光院の清融阿闍梨とも面会。8月下旬に帰国した。
上杉家は1589年6月に佐渡の本間氏も平定し、上杉家は安定期を迎えた。
度重なる上洛の際に直江兼続は五山文学を中心に、禅僧との交流を深め、中国の史書や古典などを積極的に集めると言う側面も見せている。
1590年には豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。その際、上杉勢は10000の兵にて北国軍として2月10に春日山城を出陣し、上杉景勝や直江兼続らは2月15日海津城に入った。
北国軍の総大将である前田利家も前田慶次ら18000で2月20日に金沢を発し、信濃で上杉勢に合流。
そして真田昌幸・真田信繁ら3000と、松平康国の4000が加わり35000の大軍となった。
北国軍はまず15000で4月20日に松井田城を攻略。6月14日には鉢形城を落とし、そして、八王子城も攻め、6月20日大量虐殺の上、八王子城も陥落させている。
8月23日には庄内藤島一揆が起き、直江兼続も上杉景勝に従って出陣し、11月下旬に春日山城に戻った。
1591年3月7日、直江兼続は単独で京に上洛し、細川幽斎と連句を楽しんだ。4月には直江兼続が藤島一揆の残党を討伐し、大宝寺城を改修。年末からは朝鮮出兵の準備に追われた。11月18日には、来年に朝鮮へ出陣するため春日山城の留守将・藤田信吉や安田上総守と協議するよう庄内在留の諸将に命じている。
1592年3月1日、豊臣秀吉の朝鮮出兵の為、5000を率いて上杉景勝と直江兼続・泉沢久秀らは出陣。3月13日から京に数日滞在し、3月22日には肥前名護屋での茶会参加が見られる。肥前名護屋には約2ヶ月滞在。6月2日には豊臣秀吉の乗船である小鷹丸に乗り、上杉景勝に従い朝鮮に渡り、6月17日釜山浦に着岸した。上杉勢は熊川城を築城し従軍する。ただし、この戦は無益と直江兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたいたと言う。
朝鮮で年越ししても戦は続いたが、上杉勢は病気に悩まされ、藤田信吉勢は310名中、44名が病で亡くなった。
上杉勢はようやく1593年9月8日に肥前名護屋に帰陣。豊臣秀吉の命ですぐさま越後に帰国し休養した。この年、本庄繁長の子・主馬長房が、直江兼続の養子となり与次郎と改名するが、のち生家に帰っている。
1594年3月23日、上杉景勝に従い、京に上り、豊臣秀吉の命により伏見城の総構堀普請に従事する。8月16日には直江兼続が庄内2郡の法度15ヵ条を発行。8月16日、上杉景勝は、従三位、権中納言に昇進し、太政大臣になることができる公家に準じた。9月時点で直江兼続の知行高は53217石、公約人数3193人。10月28日、太閤・豊臣秀吉が、上杉景勝の聚楽邸に寄った。この時、直江兼続は、太刀一振、馬代銀子200枚、小袖10領を献上。
1594年のこの年、直江兼続35歳になって初めての嫡男・平八景明が誕生。幼名竹松。
1595年1月、豊臣秀吉より佐渡・金山の管理を上杉景勝が賜る。11月には直江兼続の指導で上杉の伏見邸が完成。また、1595年、豊臣秀吉の人質となった上杉景勝の正室・菊姫に付き添う形で、直江兼続の正室・お船の方も京都伏見の上杉邸に移る。
1596年、直江兼続は甘粕景継と共に羽黒山・長寿寺の金堂宝形を造営
1597年1月20日、伏見城改築にあたり豊臣秀吉より、直江兼続は伏見舟入奉行に命じられる。これに対して直江兼続は越後の人夫4000人を使い、自ら監督。完成後、豊臣秀吉より普請場御殿を賜った。2月16日には上杉景勝の命により、春日山城修築を開始し、直江兼続は山田雅楽助に工事の総監督を命じた。この年、上杉景勝が五大老に就任。
1598年1月20日、豊臣秀吉の命で上杉景勝が越後から会津120万石(会津四郡、仙北八郡、田川遊佐、置賜、佐渡)に加増移封されると、豊臣秀吉は直江兼続に出羽米沢6万石(諸説有・3万石とも)を与えると発表し、直江兼続は大名格になった。
豊臣秀吉は「天下の政治を安心して任せられるのは、数人しかいないが、その一人が直江兼続だ」と高く評価している。
また、当初は金山がある佐渡も召し上げになる予定だったが、石田三成の進言で、佐渡島はそのまま上杉家の所領となった模様で、国替えが難しい中、上杉家は比較的円滑に国替えが進められた。
上杉が会津入りすると「かぶき者」と言われた前田慶次郎が直江兼続の誘いを受けて上杉景勝の家臣になりたいと申し出る。1591年に前田利家を騙して水風呂に入れて前田家を出奔し、京都で暮らしていた。「録高は問わない。自由に勤めさせてもらえばよい」と仕官を願ったとされ、上杉景勝は組外御扶持方と言う自由な立場として1000石で迎えている。
2月16日、直江兼続は石田三成と協議し、蒲生氏国替えに関する掟書を発令している。
3月6日、上杉景勝は伏見を発して会津を目指し、3月24日越後から会津に入り、家臣を配置。直江兼続は一足早く、3月11日に米沢の検地を実施し、米沢市中の諸役を定めた。お船の方も伏見から米沢に移り、上杉家は絶頂期を迎えたが、同年1598年8月18日に豊臣秀吉が死去する。
9月19日、神達明神を富士山の裾野より米沢に移し、直江兼続は、父である樋口兼豊に管理を命じている。また、直江兼続は上杉景勝より一足早く伏見に入っている。12月下旬には、豊臣秀吉の遺命により、陪臣ではただひとり、直江兼続は太刀兼光を一振拝領している。
1599年は新しい領地となった120万石の整備に努め、7月6日には直江兼続の名で、普請奉行を派遣して仙道七郡の道路・橋梁を整備したり、8月には伏見から会津に入り、春日右衛門に米沢の庶務を命ずるなどしている。しかし、同年3月3日には前田利家も亡くなり、徳川家康を抑えられる大名がいなくなり、次の天下人として台頭。豊臣家を重んじる石田三成らとの対立が徐々に深まっていき、徳川家康は石田三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。
1600年2月2日からは延べ12万人を動因し、上杉景勝は新城(神指城)の築城を開始。会津若松城の約2倍にもなる築城普請は総監として直江兼続が担当し、弟・大国実頼も普請に勤めたが、、甘糟景継も直江兼続のもとで普請奉行を務めている。
上杉景勝や直江兼続はもともと豊臣秀吉と義を重んじ、石田三成と親しくしており、上杉氏は徳川家康と対立。上杉家重臣・藤田信吉が徳川家との融和を主張し、直江兼続は藤田信吉と対立したが大森城主・藤田信吉は上杉家から出奔。藤田信吉は徳川秀忠のもとに逃れた。
また、上杉氏のあとに越後領主となっていた堀秀治(堀久太郎秀治)もこのような上杉氏の行動を謀反の疑いがあると徳川家康に報告。それに対して徳川家康は上杉景勝に使者を出し上洛を促し、更に徳川家康の親近の僧である豊光寺の承兌(しょうたい)からの書状も、1600年4月13日、直江兼続に届き、上杉景勝の上洛を催促した。
直江兼続は道路橋などの普請や新城の必要を書状にて説明し、謀反の疑いがあると言う者にその真偽を確かめるべきと、堂々と申し開きをし、その書状は5月3日に豊光寺の承兌に到着。
しかしながら、徳川家康の度重なる上洛要求を拒み、新城築城していることを謀反との口実にして、徳川家康は1600年6月18日伏見から会津に向けて出兵。徳川軍約5万が7月24日に小山まで進軍。石田三成挙兵の報が入り、8月4日に徳川家康は結城秀康を見殺し覚悟で上杉勢の抑えに残して5万の兵を西に方向転換させた。
この時、上杉軍は白河の南にある革籠原に着陣しており、この千載一遇の機会に直江兼続はすぐさま徳川を背後から襲うよう追撃戦を上杉景勝に進言したが、上杉景勝は「追い討ちは謙信公の教え(義)に背くこと」と徳川勢の追撃は行わず、徳川に上杉軍備増強の密告をした最上攻略を優先し会津に帰陣した。初めて上杉景勝が直江兼続の言うことを聞かなかったとされるが、なぜ上杉景勝は追撃しなかったのか、歴史の謎となっている。本来であれば、この時、上杉氏は少なくとも打倒徳川が最大の目標であったはずである。
仮定の話だが、退却する徳川勢を追撃して少しでも打撃を与えたり、関東へ侵攻していたなら、石田三成は有利に対徳川の戦を進められたかも知れない。結果的に徳川家康は上杉を奥州に封じ込めて、主力を西に向かわせる事ができ、天下分け目の戦いだけに集中することができた。
上杉勢は石田三成の挙兵による混乱が長引くと考え、その間に山形を攻略しようと会津に帰るとすぐの9月9日に最上義光の山形へ侵攻。3万(2万5千とも、4万とも)を直江兼続が率いて出陣した。米沢城は父・樋口兼豊に守備をお願いしている。
直江兼続は色部修理を先手として細谷城を攻めるが、最上勢の江口光清ら300が守る細谷城を9月13日に攻略し、江口道連を討ち取る。しかし、細谷城攻めでは3日間も費やし、味方に多数の死傷者を出した。
引き続き9月14日には山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を攻略し、残すは最上義光の山形城と長谷堂城のみとなった。
次に志村光安・鮭延秀綱らが守る長谷堂城や上山城を攻めるが、上杉勢の武将・上泉泰綱が戦死するなど長谷堂城の攻略に手間取った。最上勢は4000人が出兵中で、留守部隊は志村高治ら3000人と推測できるが2000もの鉄砲を用いて、直江兼続の上杉勢18000を相手に防御に徹したようだ。
この長谷堂城の戦いで直江兼続は最上義光本隊が戦場に出てくるのを待つ事にしたが、その頃、美濃では1600年9月15日に関ヶ原の戦いとなり、西軍が敗れた事が奥州に伝わると、勢いに乗った最上勢には、伊達政宗が味方し、留守政景を大将にした3000の援軍を送り、上杉勢は一気に不利な情勢となった。
その為、9月29日、関ヶ原で石田三成敗退の報が届き、上杉景勝は、直江兼続らに撤退を命令。
10月1日、直江兼続は長谷堂城の包囲を解き退却開始。伊達家臣・留守政景勢が上杉勢を追撃し激戦になる。この日6キロ撤退するのに10時間要し、その間28回も戦闘があったとされる。この状況にさすがの直江兼続も絶望し、ついに自決を覚悟したと言う。しかし、前田利益(前田慶次郎)が。「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし。心せはしき人かな。少し待ち、我手に御任せ候へ」と諌め、前田利益(前田慶次郎)は水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持った5名と兵300で追って来る最上勢を何度も蹴散らした。
直江兼続も鉄砲800挺で最上勢を迎撃。これら上杉勢の殿(しんがり)を努めた水原親憲が鉄砲200丁で支援射撃を行うなど諸将の奮戦もあり、細谷城に入り、なんとか撤退し10月6日(10月4日とも)米沢に帰着する。
この直江兼続らの活躍で大きな被害も無かった長谷堂城の戦いの見事な撤退戦は敵にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の「日本戦史」でも取り上げられるほど見事なものであったとされる。
10月20日、会津で軍事会議を開催し、千坂景親より上方の報を検討した結果、和平の道を模索することになる。
最上義光は上杉勢を撃退した功により24万石から57万石となった。一方、石田三成に味方していた上杉氏は徳川家康に申し開きをする機会を与えられ、上杉景勝と直江兼続は1601年7月1日会津を発ち、7月24日伏見邸に入った。
直江兼続はこの戦の一切の責任は自分にあり、その証拠に上杉景勝は徳川家康軍が撤退した際に追撃を許さなかったなどと釈明し、その罪を一身に受けると、北庄城主・結城秀康を頼って徳川家康に言上した。
その結果、8月17日、徳川家康からお家存続は許さる。しかし、上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となった。
8月20日、直江兼続は安田能元・水原親憲・岩井信能を米沢へ移転させ、家臣の知行地が3分の1になる君令を平林正恒に伝えた。
120万石から30万石と25%の石高になったが、約6000名のほとんどの家臣は去らずに11月28日、米沢に移った。
直江兼続も5000石に禄高が減った。
前田利益(前田慶次郎)も、他国から高禄の誘いをすべて断り、500石(2000石?、300石?、200石など諸説有)に禄高を減らされたが、人柄に惹かれた上杉景勝に最後までついて行ったのである。
当時、人口約6000人の米沢に、上杉家臣団の約6000人が入り、移った家臣は住む家もなく、食べ物にも困ったと言う。
直江兼続はあふれた家臣や民の為、米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産・鉱山開発を推めるなど、米沢藩の内政に力を入れる。
直江兼続は、城下を拡張させ、家臣団の屋敷割りと町割りを行い、城下に収容しきれなかった下級武士は米沢郊外の南原・東原(山上・花沢)に配置し、荒地を開拓させた。
また近江国住友村から吉川総兵衛、和泉国堺から和泉屋松右衛門という優れた鉄砲鍛冶を雇い入れて、白布温泉近くに200石をそれぞれに与え住まわせ、上杉家の軍備強化を図り、10年間に約千挺製造したと言う。
また直江兼続は徳川重臣の本多正信とも交流があり、その本多正信の取り計らいで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。
1602年9月12日、樋口兼豊(直江兼続の実父)、死去。10月、直江兼続は、上杉景勝の名代として江戸城に登城。
1603年徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
1604年2月16日、上杉景勝の正室・菊姫が京都で死去。同じく2月、直江兼続は米沢大町札辻を基点として各村への里程を定めて、米沢市街の防備を厳重にするように命じている。また、9月には近江・友村の吉川総兵衛と和泉・堺の和泉屋杢右衛門を招いて白布高湯で鉄砲鋳造開始。
なお、上杉景勝に唯一の子・上杉定勝が1604年5月に誕生するが、上杉定勝の生母である桂岩院が8月に死去するなどした事により、直江夫妻が上杉定勝の養育を引き受けた。
また同1604年8月、前田利長に3万石で仕えていた本多正信の息子である本多政重が直江兼続の娘・於松の婿養子となって直江勝吉(直江大和守勝吉)と称し、上杉景勝は10000石を与えた。しかし、徳川2代将軍に徳川秀忠就任した、翌年(1605年)の8月17日には新婚僅か1年であった於松が亡くなる。また、1月には次女(名前不詳)も亡くなっていた。
1606年5月13日、2代将軍・徳川秀忠は、上杉景勝に江戸・桜田邸右向かいの鱗屋敷を与え、直江兼続はそこに住居した。
関が原以後、直江兼続は上杉家と徳川家の融和を図り、直江兼続は徳川家に忠誠を誓い、1608年1月4日、直江兼続は直江重光と改名した。(本文中では以後も直江兼続と記載する。)この年、上杉景勝は米沢城の外堀を掘る工事を開始し、直江兼続が総監を務めた。
1609年6月には本多正信の取り成しで10万石分の役儀が免除された。直江勝吉が安房守(直江安房守勝吉)に改名。9月には、直江兼続の実弟・大国実頼の娘・阿虎(おとら)を直江兼続の養女として、直江勝吉と再婚させ直江勝吉は直江政重(直江安房守政重)を称した。
12月2日、直江兼続の嫡男・直江景明は、徳川家康の近習から30000石藩主となっていた近江・大津の膳所城主・戸田氏鉄の娘と、本多正信の媒酌で結婚。上杉景勝は、直江兼続父子および新婦に祝儀を下賜している。
戸田氏鉄の娘の嫁入りに際しては戸田家から豪華な道具類が直江家に届けられ、直江兼続の家臣らはそれらの道具に負けないものをお返しすべきと考えたが、直江兼続はその必要など無用と答え、どうしても高価な道具類が必要ならは、婚儀を破談にしても良いと答えたと伝わる。
このように質素倹約に努める中、ようやく米沢城下町の整備も整ったこともあり、直江兼続は生来病弱で両眼を病んでいた長男・直江景明や上杉家などの為に五色温泉に湯壷を開き、浴舎や小屋を設け、大名並みの足軽60名に警護させて、長男・直江景明は長期間湯治を行ったとされ、現在も秘湯感漂う一軒宿が残る。
この頃、直江兼続の禄高は30000石と幕府に報告。
1611年に本多正信の息子である本多政重が直江兼続の元を離れて上杉家を出奔。本家に戻り本多政重(本多安房守政重)と改名。翌1612年には前田家に帰参し3万石を拝領。妻の阿虎は本多政重が加賀藩に復帰すると加賀の夫の所に行ったが、この際、豪胆で武勇に優れていた本多政重や阿虎を慕い、本庄長房ら多くの直江家家臣が阿虎に従って本多政重がいる加賀へと出奔した。
本多政重が直江家に入ったり、前田家に仕えたり、仕官先を頻繁に代えているのは、一説に、本多正信の意を受けて、諸大名を内偵したのではとも言われているが、直江兼続と本多正信はその後も親交は続いていたようだ。
1613年には直江兼続が馬術稽古の練習場を米沢城の北側に造るなどの動きが見られる。
1614年からの大坂の陣においては、江戸へ上る途中だった上杉景勝に10月5日に大阪城攻めの命が届き、直ちに米沢の直江兼続に使者を出し、直江兼続は10月9日に出陣の準備を上杉家臣に命じた。そして、上杉勢は10月16日に米沢を出発。途中、藤枝で上杉景勝と合流し、山城の木津に11月6日着陣した。上杉勢は11月26日、鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)に勝利。須田長義・水原親憲・黒金泰忠らに戦功があった。直江兼続は徳川勢として長男・直江景明(直江平八景明)と共に殿軍を務め、武功を挙げ、1615年1月17日、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた。このとき、長男・直江景明結核を患っていたとされる。
1615年2月29日、直江兼続と上杉景勝は米沢に帰還。しかし再び大阪城攻めの命が下ると、4月10日、米沢を出発し、下旬に大阪に着陣。
5月2日、再び大阪の陣が勃発し豊臣氏滅亡。6月に上杉景勝と共に米沢へ戻ったが、1615年7月12日、長男・直江景明が看病の甲斐も無く早世。享年22。時期は不明だが、直江景明の正室(戸田氏鉄の娘)はのちに板倉重宗の継室になっている。
同年1615年の6月10日には、本多政重の正室・阿虎も死去していた。
1616年3月4日、直江兼続は上杉景勝に従い、江戸を出発。徳川家康の病気見舞いのため駿府へと向った。4月17日に徳川家康が死去。享年75歳。
1618年、直江兼続は足利学校で修行した九山和尚を米沢に呼び寄せ、禅林寺(現法泉寺)を開いた。禅林寺には直江兼続が集めた図書を置き、米沢藩士の学問所とし藩内に学問を広めた。また、この年、上杉景勝は軍備増強を命じている。
1619年も、上杉景勝と直江兼続は精力的に行動し、3月16日に米沢を発ち、3月28日に江戸に到着するが、5月に直江兼続は体調を崩す。そして5月8日には上杉景勝に従い江戸を発ち、5月13日に京に入るなどしたが、1619年10月、直江兼続は床に伏せ、1619年12月19日、江戸鱗屋敷で病死。享年60歳。結核と考えられている。
上杉景勝は香典銀50枚、将軍・徳川秀忠も銀70枚(50枚とも)を供え、直江兼続の遺骨は高野山清浄心院の上杉家墓地の西隣に納められた。墓は米沢徳町徳昌寺(現:長慶寺)に造られた。
直江兼続と正室・お船の方との間には長男・直江景明と長女・於松、次女(名前不明、1605年1月病死)に恵まれたが、長男・直江景明も上記に記載のとおり1615年に早世していた。
その為、直江家は断絶したが、減移封を招いた責任や、上杉家の財政を助ける為に直江兼続が意図的に跡継ぎを設けなかったする説もある。
藩政運営は直江兼続の右腕として働いていた平林正興に引き継がれ、死後も米沢藩内での直江改革は引き継がれていった。
1924年(大正13年)2月11日、宮内省より直江兼続に従四位が追贈された。改名後の直江重光ではなく、兼続名に対して追贈であった為、現在のように一般的に直江兼続の名で知られることになっている。
お船の方のその後
直江兼続は正室・お船の方と大変仲が良かったとされ、直江兼続は生涯側室を持っていない。
「お船の方」は直江兼続没後「貞心尼」と称し、上杉景勝から化粧料として3000石を与えられ、直江家の江戸鱗屋敷に住んだ。なお、貞心尼(お船の方)は、上杉氏の文献で源頼朝の後に影響力を得た北条政子に例えられ、直江兼続没後も上杉家の運営や政治で、相談を受けるなど、影響力を与えていたようだ。
また、上杉景勝が1623年に亡くなり、上杉定勝が米沢藩主になった後も、貞心尼(お船の方)は化粧料3000石に加え、手明組40人を与えられ、1636年に病に掛かると藩主・上杉定勝自らも見舞いに訪れた。君主が家臣の後室に対してここまでするのは異例な事である。しかしながら、貞心尼(お船の方)は1637年1月4日に81歳で没した。家臣の妻という立場でありながら、葬儀は、異例の藩葬同様に行われたと言う。遺骨は高野山の直江兼続の傍らに納められたと言う。
兜には「愛」の文字
直江兼続の兜には「愛」の文字を着けていたことで有名だ。「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」の由来とされているが実際にはよくわかっていない。その兜が米沢市上杉博物館や米沢市の上杉神社に保管されている。
父・樋口兼豊(樋口惣右衛門兼豊)
樋口氏は木曽義仲の四天王の一人・樋口兼光(樋口次郎兼光)の末裔と伝わる由緒ある家柄。
直江兼続の父である樋口兼豊は、当ページの冒頭でも触れたとおり薪炭用人と身分の低い武士だったと言われているが、この説は江戸時代に書かれた新井白石著作の「藩翰譜」に記載されているからである。
しかしながら、樋口兼豊の妻は、信州高井郡の豪族でのちの飯山城主になったと考えられている泉重蔵の娘、もしくは、直江景綱の妹とも言われている。
このように樋口兼豊の妻は、名の知れた武士の娘で、ある程度身分が高い事から、小生は、実際の樋口兼豊も長尾政景の重臣だったのではと存じている。
本当に薪炭用人だったとしても、それは最も若い頃で、その後、メキメキと頭角を表し、長尾政景に重んじられて家老格となり、身分の高い娘と結婚したものと小生は考える。
直江兼続の父である樋口兼豊は、1578年の御館の乱での戦功や新発田攻めの功などにより、1584年11月24日には直峰城主に命じら、11月27日には、上杉景勝より本領・新地とも郡司不入の待遇を与えられた。1594年頃、樋口兼豊の知行は809石1斗6升4合。同心衆として下平彦兵衛、登坂与総右衛門、北村監物、登坂弥太郎、滝沢孫兵衛、岡村源助、上村三郎右衛門、星次郎左衛門、香坂三郎右衛門、山田杢之助、吉田作右衛門、井田玄蕃、浅間縫殿、小市源左衛門の14人を抱えている。
新発田攻略の翌年、1588年4月16日には伊予守。
1598年の上杉景勝の会津転封に従い、3000石となったが、米沢に移ってからは1000石となった。
1602年9月12日没。
樋口兼豊には3男3女がおり、長男・兼続は直江家、次男・実頼は大国家(小国家)を継ぎ、三男・樋口与八(樋口秀兼)が樋口家を継いだ。そして、樋口秀兼の子孫が米沢にて現在も続いている。
お船とゆかりある高野山の高僧
お船の方が最初に結婚した直江信綱との間には、子は無かったと言われているが、高野山にある龍光院の第36世、法印権大僧都清融(清融阿闍梨)の存在が気になったので調べてみた。
「金剛峯寺諸院家祈負輯」では、この龍光院の人物を「直江山城守息」と記載しており、「高野山春秋編年輯録」では「直江山城守庶子」とある。
直江山城守は、ご存知の通り直江兼続のことである。要するに、僧である清融は直江兼続の子ではあるが、嫡男以外、家督相続権のない男子と言うことで、仏門に入ったと考えられる。普通に考えれば側室に生ませた子と判断するところだが、直江兼続は側室を持たなかったと言う事を信用すると、養子に迎えた子、もしくは元々直江家の子で、家督を継いだ直江兼続が自動的に父親になったとも予測できる。
その清融は1631年10月22日に58才で死去し、逆算すると、生まれは1574年。
1574年の状況を確認すると、直江兼続は14歳、お船17歳。直江兼続は元服していたかどうかといった所。お船と直江信綱が結婚したのは1577年3月24日にお船の父である直江景綱が亡くなったあととする説が有力なので、その説を取るとその3年前(1574年)では直江信綱とお船の子と言う線もない。
事実としてわかるのは、直江兼続が直江家を継いだ1581年に際には、この清融は8歳だったと言うこと。
寺に伝わる話では、清融が養母よりも早く亡くなった為、寺がお船に使者を出したところ、お船は泣いて悲み、寺に観世音三十三尊像を寄進したと言う記録がある。
この話を本当だと捉えると、清融はお船に養われていたことがある子なのである。
この清融は高野山の一乗院と宝亀院の住職も兼務している。当時、龍光院や宝亀院の住職には今ほど簡単になれないので、相当優秀な人物だったのであろう。
これらを考慮すると、清融はなんらかの事情で、直江兼続とお船の養子となり、高い教育を受けて、若くして高野山の僧となった。
時期的に考えると、魚津城で自決した武将の遺児や、直江信綱の出身である長尾氏の遺児、もっと想像を含まらせると御館の乱で敗北した上杉景虎の2男であるとも考えられる。
1588年の上洛中には、上杉景勝と直江兼続が高野山を訪れ、清融阿闍梨とも会っている。それほど、上杉家にもゆかりのある人物なのである。
 
直江兼続2

 

越後の農村を拠点に天下取りの構想
(上杉景勝を天下人にしたい)などということを、それでは直江兼続は一体いつ考えたのだろう。正確にいえば京を発って越後に戻る旅の時にである。彼ははっきり思った。
(他人のやれることがおれたちにできないはずはない)と。そう思うと、かれの夢は一挙にふくれあがった。
(よし、天下を取ってやる!)が、かれの考えた天下取りは豊臣秀吉のような取り方ではなかった。妙心寺の書庫で眼の裡に浮かんだ越後の土と水と緑の美しさである。自然の美しさをたっぷり残した農村の姿であった。その農村をかれは天下に結びつけた。
とてつもない考えだったが、兼続は越後国を拠点に天下を取ろう、と考えたのだ。ということは、「越後を日本の都にする」ということである。
(あんなキンキラキンの宋楽第が、この国の都の中心であっていいはずがない)秀吉のつくった″人工〃の文化に、兼続は甚だしい反撥をおぼえた。越後に戻る旅の間中、緊楽第と越後の農村の姿が、脳裡で何度も激突した。そして、越後の土と水と緑が、やがて聚楽第を制圧した。兼続の脳裡から聚楽第の姿が消えた。脳裡には越後の、それも上田荘の農村の光景がどっしりと根をおろした。
(これだ!)兼続の頭の中を天恵のような光が走った。
(越後国を日本の郡にするのだ!そしてそのために、上杉景勝を天下人に押し立てるのだ。おれはその日をこの手でつくる!)そう思った。だからいま、積極的に豊臣秀吉に協力するのは″その日″を一日も早くちかづけるためである。つまり秀吉との接近は、天下への接近でもあった。京都での三か月は、直江兼続にそういう野望を育てさせた。その意味では、京はやはり″魔の都″であった。
兼続がそんなことを考えたのは、突然胸の中を、(上杉謙信公には、そういう野望があったのではないか?)という思いが走ったからだ。ひらめきにも似たその考えは、にわかに真実味をおびた。そうなると、(そうにちがいない)という確信に変った。旅中、馬上で兼続は何度も、「そうでしょう?」と、胸の中の謙信に呼びかけた。が、どうしたのか謙信は無言だった。というより、いつもはスッと現れる謙信の像がこの時はまったく現れなかった。
(なぜですか?私の問いが愚かだからですか?)兼続は呼びかけつづけた。が、以前として謙信は現れない。兼続の胸の中は空洞だった。暗い間だけがあった。
しかし、兼続は躍る思いをおさえ切れない。
「越後を日本の都にする」という発想は、かれを有頂天にさせた。  
直江兼続の恐ろしさを知る徳川家康
「石田三成蜂起」の報をきいた家康は七月二十日(即ち小山到着の翌日)、有名な”小山軍議”をひらいた。そして冒頭、「諸将の妻子は、大坂で人質として三成におさえられた。この上は家族のために、即刻大坂に戻り、石田三成に一味してもこの家康は少しもうらみに思わない」と告げた。一同は唖然とした。家康にすれば大ハッタリのジャブだ。が、このジャブにすべてを賭けた。陣中には暗い空気が立ちこめた。諸将の胸に一様に湧いたのは、(上杉と石田に挟撃されて、家康殿は滅びるのではないか?)という不安であった。
諸将の中から、この不安をふりはらうように、つぎつぎと、「妻子の心配はご無用です。この上は即刻反転して三成を討ちましょう」という声が出た。これこそ家康ののぞむ声だった。というのは、東北に遠征してきて、家康も胸の中で、(上杉に敗れるかも知れない)と考えはじめていたからだ。家康も兼続と同じように情報を取っていた。そのどれひとつをとっても、上杉方は意気盛んだ。豪もひるんではいない。白河口に結集した大軍は、堂々と大決戦を挑んでいる。その態度は、(何が天皇と秀頼公が承認した征伐だ?この合戦は、上杉村徳川という、豊臣家の大老村大老の決戦である。対等の戦いだ)というものであった。それがひどく家康を不安にさせていた。
結局、上方軍は反転した。上杉攻めをやめてしまったのだ。そのひきあげぶりはかなりあわてていて、味方の軍がまだ渡りきらないうちに、切って落した橋もあった。それほど上方軍は上杉軍の追撃をおそれたのである。
そして、それをもっともおそれていたのが家康であった。家康は直江兼続をおそれていた。
「上方の生き方を否定する田舎者」の実力を、こんどは自分の眼でいやというほど見たのだ。白河口での布陣ぶりを知らされて、家康は、自己圏内で戦う兼続の優位と、遠征軍の自軍の劣位をまぎまぎと感じた。
家康は恐怖心をおさえつつ、江戸城に入った。そして、恐怖心を鎮めるためか、そのまま在城して動かなかった。
「上方に向かった諸将の動向を見届けるためだ」といわれるが、それだけではあるまい。骨の髄まで直江兼続の恐ろしさをしみこまされたためである。  
徳川軍の追撃をやめた上杉
こういう家康の様子を、兼続は透視していたのだろうか、「家康を追撃しましょう」と景勝にいった。が、景勝は、「いや、やめよう」と首をふった。兼続は景勝を見た。
「どうなさいました?勝てますよ」「わかっている」「それならば、なぜ?」「うむ」景勝はしばらく無言だった。
やがて、まっすぐに兼続を見つめながらいった。
「上杉の役割はここまでだ」「えっ?」真意をはかりかねるように、兼続は景勝を凝視した。
「上方の戦いは、所詮上方同士で結着をつけなければならん。われわれは家康を白河口まで誘い出した。もしそこで、一戦となれば、上杉も死力をつくして戦っただろう」「はい」「だが、家康は反転した。敵の主力が兵を返した以上、上杉と上方の一方の実力者との決戦は終った。上杉に背を向けた相手を、追いかけてまで討ち取らねばならない義理はない」「しかしながら、いま、家康を追撃すれば、家康の力を確実に弱めることができます」「うむ」「そうすれば、石田殿の勝利はいっそうたしかなものになります」「それはそのとおりだ。だが、それには、上杉の蟻牲も多くなる。後ろには最上や伊達の若僧が上杉領を狙って兵を集結させている。たとえ、家康に大打撃を与えられたにしても、凱旋してくる上杉に飢えた狼のように伊達の若僧が襲いかかってこよう。上杉だけで家康を完全に討ち取ってしまえるのであれば、あえて出撃するのも意味はあろう。が、自国領を空にしてまで追撃し、上杉だけで家康と家康に従う上方軍を壊滅させるだけの実力がいまのわれわれにあると思うか」「ありません」「上方者同士の戦いは、いずれにしろ徳川と石田の間ではっきりと結着をつけなければならない。おれもおまえも石田三成の側に賭けた。そして、ぎりぎりの危険を冒して上杉のできる最大の努力ははらった。あとは、秀頼さまの御名と石田三成の采配に命運を賭けるしかない。  
地域の評価
直江山城守兼続に関心を抱いたのは、いくつか理由がある。ひとつは、かれは「上杉家の名参謀」あるいは「名補佐役」として伝えられてきている。上杉謙信の頃はたしかに名補佐役であり名参謀だったかもしれないが、そのあとをついだ上杉景勝の代になると、果たして直江は名参謀であったのか、また名補佐役であったのか、ちょっと疑問な面もある。これは、直江だけに限らない。たとえば、武田信玄の名参謀といわれた山本勘介にしても、あるいは尼子氏の名参謀といわれた山中鹿之介にしても、その結果からいうと、「果たしてかれらは名参謀だったのだろうか?」という疑問がわく。というのは、かれらは共通して作戦を失敗させ、主人を窮地に陥らせているからだ。山本勘介は、川中島の合戦で有名なキツツキの作戦を進言し、採用された。ところが上杉謙信に作戦の裏をかかれて、武田軍は大混乱に陥った。一時は総大将の信玄すら命が危なかった。また、尼子氏の山中鹿之介にしても、結局は主家を再興することができず、彼自身も毛利軍に捕えられて首を斬られてしまう。
直江兼績も同じである。かれが、有名な「直江状」によって、徳川家康に真っ向から挑戦し、関ケ原の合戦では西軍の石田三戌に味方した。しかし、西軍が破れると、上杉家は懲罰のために、それまで領有していた会津百二十万石を失ない、代わりに米沢三十万石を与えられた。しかし、米沢三十万石は、もともと豊臣秀吉によって、直江兼続に与えられていた領地である。いってみれば、上杉家は領土のすべてを失い、主人の上杉景勝が、重役の直江兼続の領地に転がり込んできたということだ。こういうことを考えると、直江も含め「名参謀」と伝えられている人々が、果たして名参謀だったのかどうか疑わしくなる。名参謀の作戦がすべて裏目に出ているからである。
にもかかわらず、名参謀たちの名は依然として高い。とくに直江兼続の名は高い。そうなると、作戦以外の面で、何か偉大なことを成し遂げてきたのではなかろうか、という疑問が沸いてくる。そしてそれは歴史の上に表われなくても、むしろ直江が生きた地域の中にそういう評価が伝わっているのではないかという気がしてくる。
それでは、直江兼続に村する地域の評価とはいったいなんだろうか、というのがこの作品のモチーフだ。それを、筆者は、「北の王国」と名付けて、その構想者を直江山城に指定してみた。つまり、直江兼続の本当の存在意義は、上杉景勝の参謀や補佐だけにあったのではなく、かれ自身はるかに大きな志右持っていたのではないか、ということである。では、その志とは何か。
昔から、福島県の白河の聞から奥を「みちのく」という。これは「道の奥」の略だ。道とは「陸」の字をあてる。陸の奥が転化して、「陸奥」に代わった。しかしみちのおくとはいったい何を指すのだろうか。明治維新のとき、東北に攻め込んだ政府軍の一将校が、「白河以北一山百文」といった。つまり、白河の開から北は、山一つでも百文で買えるというバカにしたいい方である。これに腹を立てた東北のあるジャーナリストが新聞を出した。将校がいった言葉から河という字と北の字をとり「河北新報」と名付けた。また、東北で最初の総理大臣になった原敬は、自分の号を「一山」と名付けた。これも「一山百文」が基になっている。
こういうように、「みちのおく」というのは、東北地方全体に対する蔑称である。日本にはかねてから、「西高東低」の考え方がある。すべて、政治・経済・文化の中心は、西方、とくに上方にあったからである。
これに対して古代から東国に抵抗者が多く生れた。平将門はそのスターティングランナーであった。やがて奥州平泉(岩手県)に、藤原三代が生まれ、絢爛たる黄金文化を築いた。この伝統を受け継ぎながら、しかし上方に発生した中央政権、とくに豊臣氏の″桃山文化″を導入したのが、伊達政宗である。政宗は、京都伏見に生じた桃山文化の″仙台化″をはかった。現在、かれが作ったとして残された多くの国宝級の建造物は、すべて桃山文化の粋を集めたものだ。だからといって、伊達改宗は上方の政治権力に心の底から屈服していたということにはならない。むしろ、そういう導入によって、藤原三代が守り続けた″東北の自治″を保とうとしたのだ。
この作品で書いた直江兼続の″北の王国″には、そういう伝統的な発想が流れている。しかし、それだけではない。直江兼続には、″土と水と緑″の思想があった。あくまでもかれは土の人間である。農を大切にした。いまなら第二次産業や第三次産業にも目をむけたかも知れないが、かれの生きた時代は一次産業しかない。それを大事にした。そしてかれは人を愛した。が、素朴な土と人間に対する愛情が、上方中央政権に巣くっている連中をみていると、つぎつぎと破壊される現状を見た。
「これではならない」とかれは決意した。  
 
お江

 

(1573-1626) 江(ごう)、小督(おごう)、江与(えよ)とされるが、実際にどの名だったのかは諸説あり、はっきりしていない。再婚した際に、名を変えた可能性もあり、他にも、達子、徳子などの名が見られる。以下は「お江」として統一して表記する。
父は浅井長政、母は織田信秀の娘(織田信長の妹)で市、1567年に織田信長の命により浅井家に嫁いだ市(お市の方)。市と浅井長政は大変仲が良かったとされ、お江は浅井長政の3女として1573年に誕生した。長姉には1569年誕生の茶々(のちの淀)、次姉には1570年誕生の初(京極高次正室)と3姉妹で、母の市とこの3姉妹は戦国の流れに翻弄されていく生涯を送る事になった。
下記の本文では、織田家と浅井家の関係を記載しつつ、お江を年表式に紹介して行きたい。
1567年に、織田家のお市の方が浅井長政に嫁ぎ、浅井と織田は同盟を結ぶ。織田信長は上洛経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとし、一方、浅井長政も織田と言う大勢力と同盟することによるメリットは大きかった。
1570年4月、織田信長からの上洛参集要求などを拒んで対立することになった越前の朝倉義景を織田信長が攻める。浅井家と朝倉家は隣国で古くからの盟友。そのため、織田の朝倉攻めに対して、浅井は朝倉救援の為、織田勢の背後を襲う。これにより織田と浅井の同盟関係が崩れた。
織田勢は、北から朝倉勢、南から浅井勢に挟み撃ちされ、全滅の危機にあったが、木下藤吉郎の殿(しんがり)の活躍もあり、辛くも織田勢は大津方面に退却成功し、難を逃れた。
しかし、結果的に織田信長は激高。すぐさま、軍を再編して、6月には浅井領に侵攻。織田・徳川連合軍は約28000、浅井には朝倉が援軍を出し約18000で対峙した。朝倉・浅井はこの姉川の戦いで織田勢に敗北。多くの武将が討死し、被害は甚大であった。
1573年7月、織田勢が5万の大軍で浅井長政の居城である小谷城を包囲。朝倉義景は15000の援軍を向け、織田と浅井・朝倉はにらみ合いとなった。そして10月に武田信玄が27000で三河に侵攻し三方ヶ原の戦いで徳川家康が敗北。織田信長は浅井・朝倉と対峙中で、退却するにも浅井・朝倉に背を向けるのは危険で、武田迎撃に本隊を向けられない窮地にたっていたが、12月、朝倉義景は積雪と兵の疲労を理由に一乗谷城に退却。浅井の兵力だけでは織田勢を追撃できず、織田信長はなんとか岐阜城に撤退することに成功した。
武田信玄は朝倉義景に再出兵するよう再三書状を送ったが、朝倉は動かず、武田単独で西を目指すが、1573年4月、武田信玄が陣中で病死し、武田勢は甲斐に退却。同1573年8月8日、織田信長は3万で近江に侵攻。朝倉義景も浅井救援の為、全軍を動員しようとしたが、これまで数々の失敗を重ねており、有力家臣からは出陣拒否され、結局2万にて出陣。しかし、田部山の戦いで朝倉勢は大敗し、追撃を受け撤退にも失敗。朝倉勢は本家部隊が壊滅、有力家臣が多数戦死するなど再起不能の大打撃を受けた。僅か10名ほどの側近と朝倉義景はかろうじて一乗谷城に8月15日帰還するが、城兵も皆逃走する有り様で、翌日の8月16日には一乗谷城を放棄して、領内最深部の大野郡にある東雲寺、賢松寺と逃れる。しかし、同族衆筆頭の朝倉景鏡に裏切られ、隠れ家が包囲され8月20日早朝に自害。享年41。僅か8日間の戦闘で、栄華を誇った大名・朝倉家は滅んだ。
一乗谷城を落としたあと、織田勢は全軍を浅井に向ける。
織田勢は一乗谷城を包囲し、浅井長政に降伏を勧告。しかし、浅井長政は降伏を拒否。お市の方には生き延びよと説得し、お市、とお江ら3人の娘を織田勢に逃がすと、同年9月1日、父の浅井久政と共に浅井長政は自害。享年29。
この浅井氏が滅亡した1573年にお江は生まれたが、生まれた月日は不明。恐らくは小谷城又は城下で誕生したのであろう。
戦乱のさなか、浅井長政の長男とされる10歳の万福丸も小谷城から脱出したが、織田勢に捕まる。お市の方が織田信長に助命嘆願したものの、織田信長の命により羽柴秀吉が万福丸を処刑した。また浅井長政の次男・万寿丸には出家する事を命じた。
以後、お市の方とお江ら3姉妹は、織田信長や織田信長の弟で伊勢国上野城主・織田信包の庇護を受け、安濃津城や清洲城にて過ごす。織田信包は「浅井家の血が絶えるのはしのびない」と、お市や三姉妹を手厚く保護し、姪たちを養育した。織田信長もお市と三姉妹を何かと気にかけていたようだ。しかし、そんな平和も9年余りであった。
1582年6月2日、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれる。
6月27日、織田の後継者を決める清洲会議により、母・お市の方は柴田勝家と再婚することになり、越前・北ノ庄城(北の庄城)へ移る。最近の研究では羽柴秀吉の仲介だったとする説が有力だ。お江ら3姉妹も、母・お市の方に従い、寒い越前の北ノ庄城に移った。
しかし、権力拡大を狙う羽柴秀吉と柴田勝家は対立し、1583年3月12日、柴田勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江・柳ヶ瀬に布陣。羽柴秀吉も3月19日に5万にて木ノ本に布陣。織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵すると、羽柴秀吉は4月17日、一部を残し、多くの兵を美濃に向けた。その後、柴田勢が攻勢に出た為、羽柴秀吉は大垣城から木ノ本までの52kmを僅か5時間(一説には7時間)で移動すると言う「美濃大返し」を行い、驚いた柴田勢は撤退を開始。しかし、撤退の途中、羽柴秀吉らの大軍に強襲され、前田利家らの裏切りもあって柴田勢は総崩れとなった。
この賤ヶ岳の戦いのあと約1ヵ月後の4月23日には北ノ庄城を前田利家ら羽柴勢が包囲。柴田勝家は戦力を増強する間もなく自害し、お市の方も共に自害した。享年37。
3姉妹の茶々、お初、お江(10歳)は以後、羽柴秀吉に保護された。
茶々は、織田長益(織田有楽斎)の庇護の下、安土城に住み、その後は聚楽第で伯母の京極マリアの縁を頼って京極竜子の後見の元に過ごしたと考えられている。
1583年、柴田勝家を破った羽柴秀吉には織田旧臣の多くが臣従し、羽柴秀吉は大阪城の築城を開始。徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統などの有力戦国大名が相次いでは柴秀吉に使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めたと言う。
12歳前後になったお江は3姉妹で最初にお嫁に行く。1584年、豊臣秀吉の命により11歳で母の姉・お犬の方の子にあたる、佐治一成(16歳)へ嫁いだ。佐治家は佐治水軍を率いる尾張大野50000石の豪族。織田信長の時代から一門衆並みの待遇を受けていた。しかし佐治一成は、お江を迎えたのもつかの間、同年1584年3月、小牧・長久手の戦いにおいて織田信雄を擁立した徳川家康に味方した為、羽柴秀吉の怒りをかい、佐治一成は、所領没収のうえ、お江とも離縁させられ、追放されると伊勢へ逃れた。一説によると、大野川を渡るのに難儀していた徳川家康に船を貸したとも言われている。
1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任し、豊臣秀吉に姓を改める。
次姉・お初は細身の美女だったようで、1587年、豊臣秀吉の仲介により、従兄弟にあたる名門・京極高次の正室となる。当時、京極高次は大溝10000石で大溝城主。以後、お初の七光りで出世した事から、京極高次は蛍大名ともささやかれた。
長姉・茶々は、1588年頃、豊臣秀吉の側室となった。豊臣秀吉は茶々の母・お市の方に憧れていたとされ、三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女である茶々を、側室に迎えたとされている。もっとも、豊臣秀吉は300人とも言われる、当時世界で一番多い奥さん(側室)を抱えていた。
1589年、茶々が懐妊したのを豊臣秀吉は喜び、茶々に産所として築かせた山城の淀城を与えた。以後、茶々は淀殿(淀君)などと呼ばれるようになった。そして、1589年5月27日に淀城で、捨(鶴松)が誕生。淀殿は鶴松を産んだときに高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめている。
53歳だった豊臣秀吉は生後4ヶ月の鶴松を大坂城に入れて後継者に指名。
1590年には小田原・北条氏を滅ぼし、豊臣秀吉は天下統一を果たした。しかし、捨(鶴松)は生まれつき病弱で1591年1月に発病。名医などの診察のかいもあり一旦は快復したものの、8月5日に大坂城にて、わずか3歳で病死。
その後、豊臣秀吉は、自分の養子である豊臣秀勝に、20歳になっていたお江を再婚させた。恐らく1592年4月前後と考えられる。
豊臣秀勝は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、当時、岐阜1カ国の大名(岐阜城主)であり、岐阜宰相と呼ばれた。
1592年8月3日には、淀殿が拾(豊臣秀頼)を産んでいるので、その懐妊を知った豊臣秀吉が、豊臣秀勝を後ろ盾とするため、お江を嫁がせたのであろう。嫁いでまもなくお江は初めての子を懐妊する。しかし、豊臣秀勝は総大将として朝鮮出兵していたが1592年9月9日に巨済島にて病没。(享年24歳)お江は新婚4ヶ月で亡くなった豊臣秀勝の女子・完子(さだこ)を、この年(1592年)に、長姉・淀殿のもとで産んでいる。
1593年、淀殿(茶々)が拾(後の豊臣秀頼)を産む。
1595年、豊臣秀吉は養子であった関白・豊臣秀次を高野山に追放し、のち自害に追い込む。また、お初の夫である京極高次が豊臣秀吉より6万石を与えられ大津城に入る。
そして、お江は豊臣秀吉の命で3回目の結婚をする事になる。
1595年9月17日、お江が23歳の時、今度は徳川家康の3男・徳川秀忠(17歳)に嫁いだ。お江与と言う名は「江戸に与える」と言う意味でこの名が付いたとも言われている。
前夫・豊臣秀勝との子である完子は、長姉・淀殿に引き取られ養われた。この婚儀も、拾(豊臣秀頼)の後ろ盾に徳川家をつけたいと言う豊臣秀吉の意図が見て取られる。一方、徳川秀忠は13歳の時、一度結婚したが、すぐに離縁させられていたと言う経緯もあり、お江同様、政略に翻弄されていた。
なお、淀殿に引き取られた完子は、大切に育てられたようだが、恐らくは相続権の問題からか、養子ではなく猶子として養育している。
1596年9月、拾は元服し豊臣秀頼を名乗り、伏見城に入った。また、豊臣秀吉は五大老・五奉行などの職制を導入して、豊臣秀頼を補佐する体制を整えた。
1597年、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われたその年、お江は、1597年4月11日に京都・伏見城内の徳川屋敷にて、徳川秀忠の長女・千姫を出産。
豊臣秀吉は1598年5月から病に伏せるようになり、1598年8月18日にその生涯を終えた。
その後もお江には子が生まれ、1599年には珠姫を江戸城で出産。その後、加賀・前田利家の正室・まつを徳川家が人質に取ることになり、その代わりとして珠姫は1601年、僅か3歳で、加賀藩・第2代藩主・前田利常に嫁いだ。
1600年には徳川秀忠の長男・長丸が誕生するが、母は不明。お江とする説もあるが不確定要素が多い。いずれにせよ、その後、僅か3歳で亡くなっている。
1601年6月12日には勝姫を江戸城・西の丸で出産。1602年8月25日には初姫を伏見城・二の丸(又は江戸城・西ノ丸)で出産。
7歳になった千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったと言われ、1603年に千姫は豊臣秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入った。
その間、1600年には関ヶ原の戦いで石田三成勢が敗れて、徳川家康勢が勝利し、1603年2月12日には朝廷から徳川家康が征夷大将軍に任命され、同年に江戸幕府が開かれた。1605年4月16日には、徳川家康が隠居し、徳川秀忠が征夷大将軍に就任。将軍職は徳川家が世襲することを天下に示された。
1604年6月には、淀殿に預けていたお江の実子・豊臣完子が、九条忠栄(後の九条幸家)に嫁いだ。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。また義弟・豊臣秀頼名義で豪華な九条新邸を造営もした。1608年12月26日、九条忠栄が関白に任官し、完子は従三位・北政所となる。
そして、結婚10年目の同年1604年8月12日に、お江はのちの徳川3代将軍となる竹千代(のちの徳川家光)を江戸城西の丸で出産。次期将軍の誕生に伴い、元・明智光秀の家臣、斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、のちの春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱らの小姓が付けられた。
4女・初姫は、子がなかったお江の姉・お初の養女として1606年7月に若狭国小浜藩主の京極忠高の元へ嫁ぐ。ただ、夫婦仲は悪かったようで2人の間に子供はいない。
一方、お江は1606年に、3男・国松(のちの徳川忠長)を江戸城西ノ丸にて出産。徳川忠長はのち駿河国・遠江国など55万石の譜代大名となったが、奇業が目立ち、のちに蟄居のうえ、領地すべて没収。1633年に幕命により自害。
1607年10月4日には、和子を江戸城で出産。
三女・勝姫が越前・福井藩主の松平忠直と161年に結婚。勝姫は大変気の強い女性だったと言われている。
お静の方が1611年に徳川秀忠の子・幸松(後の保科正之)を、見性院(武田信玄の2女で穴山梅雪正室)の元で出産したが、お江の嫉妬から逃れる為に、徳川秀忠は一切面会せず、のちに保科家に養子に出し、お静の方共々、高遠城に入った。徳川秀忠は側室を容認しなかったのである。
1615年5月、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、淀殿や豊臣秀頼は自害。千姫は落城する大阪城から救出され、徳川家に戻った。
豊臣滅亡により、完子は徳川秀忠の養女となったが、九条忠栄(後の九条幸家)は、妻・完子と完子の実母・お江との縁もあり、朝廷と幕府の貴重な仲介役として活躍した。
1616年4月、徳川家康死去。1616年9月29日、千姫は桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。10万石の化粧料を与えられたといわれる。
お江は徳川秀忠との間に、三男四女(4男4女とも)をもうけた。これによりお江は大奥をはじめ徳川幕府にも絶大な影響力を持ち「大御台」と呼ぶにふさわしい確固たる地位を築き上げた。
1620年2月20日には、徳川和子が後水尾天皇の女御として入内(後に中宮)。第109代明正天皇の母は和子である。
徳川秀忠・徳川家光・徳川忠長が上洛中の1626年9月15日、お江は江戸城西の丸で死去。享年54。
1626年11月28日に朝廷より従一位を追贈さ「達子(さとこ)」の諱を受けた。自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、お江の血筋は現在まで続いている。
徳川将軍の御台所(正室)で、将軍生母となったのは、15代将軍の中でもお江だけ。父母や長姉の死や、政略・跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、後半は、将軍御台所・将軍生母として安定した生活を得た。
お江の死後は二男・徳川家光が、崇源院(お江)を増上寺(東京都港区)に埋葬した。昭和の戦後、増上寺の徳川家墓所発掘調査にて、崇源院(お江)の墓も発掘調査し、その遺骨も調べられた。それによると、遺体は火葬にされており、生前はかなり小柄で華奢な美女であったようだとされている。増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけ。
 
「ガマ」の研究序説

 

棚田とガマ
大阪府豊能郡能勢町長谷地区は町内の南西端に位置し、周囲を険しい山並で取り囲まれ、中央を東流する長谷川に沿ってわずかに平坦地がある。水田のほとんどは山腹の急峻な谷に広がり、棚田として他とは違った景観を呈している。
この棚田には「ガマ」と呼ばれる特異な水利施設の存在が、以前より知られていた。これは山腹を流れる水脈に石組みを構築するもので、その上に盛土して水田をつくり、棚田を造成している。この石組みは横穴式で、棚田の各所の石垣擁壁にその入り口を見ることができる。この横穴式の石組みが「ガマ」と称される。そして棚田は、このガマを利用して灌漑を行なっているのである。
棚田は前述のように山腹の谷に広がる。ガマの分布する谷は、“山田の谷”“宮の谷”“中西”“溝谷”“土井谷”の五つで、これらの谷に造成された棚田にガマが構築されている。1984年度の調査(後述)では、棚田の総面積17.4haに217ヶ所のガマが確認されている。
その中でも分布密度の高い谷は“中西”と“宮の谷”である。“中西”では比高差172m、平均勾配1/5.8、面積5haの棚田に140ヶ所のガマがある。また“宮の谷”では比高差98m、平均勾配1/4.3、面積0.4haの棚田に21ヶ所のガマがある。
ガマは棚田の灌漑だけでなく、洪水調節機能も合わせ持つ。すなわち大雨の時にこのガマに水を集めて素早く下に流し去るのである。ガマは急峻な棚田が長年にわたって崩れることなく維持されてきた大きな要因の一つとなっている。
ガマの構造
最も標準的で典型的なガマの構造を模式的に図化したものが下記の図である。
ガマは落とし口、水溝(横穴式の暗渠)、ガマ口で構成される。上の落とし口に入った水は、水田下の水溝を通ってガマ口に出て、次に下段のガマの落とし口に入って水溝→ガマ口と繰り返しながら連続して流れる。落とし口をベニヤ板もしくは土嚢で塞ぐと、水田に水を供給することができる。
これは標準的・典型的な例であって、すべてのガマがこうであるわけではない。落とし口の不明なもの、水が流れないで機能を失ったもの、ガマ口を土管に置き換えたもの、ガマ全体が改修されてヒューム管に替わっているものなどがある。
また落とし口と水溝最奥部とは離れている場合が多く、その間は集石暗渠(いわゆる盲暗渠)となっていたり、単なる集石であったり、時には近年に改修されてパイプ管が敷設されていることもある。
ガマに利用される石は長谷地区に多い自然の転石である。ガマは人が動かせる程度の転石を集めて組み上げ、構築されたものである。
なお転石でも巨大なものは棚田の水田面に露頭することがあり、人力で除去できないので耕作の支障となっている。
既往の調査
ガマの最初で本格的な研究は、鳥越憲三郎氏によるものである。主に文献資料や民俗学的な観点からの研究であるが、ガマそのものの実測調査も行なっており、総合的な研究と言える。その成果は(註1)の文献で発表されている。ガマの評価については、この研究の発表後は基本的にその見解に負っているといっても過言ではない。
ガマはその文化遺産としての重要性から、1984年度に大阪府農林水産部が分布調査を実施した。また1989年度にガマの構造を見るために同部が大阪府教育委員会の協力を得て、“宮の谷”8のガマの発掘調査を実施した。以上の調査成果は内部資料として当初公表されなかったが、後に(註2)、(註3)の文献のなかでそれぞれ公表されている。
1991年度になって長谷では圃場整備事業が計画され、ガマが影響を受けることになった。そのため同事業に先立ち大阪府教育委員会が発掘調査を実施することになり、“山田の谷”4、5、8のガマが調査された。(註2)の文献にその概要が報告されている。
ガマの時期
ガマがいつ頃構築されたかについては、鳥越氏によれば、 「何時の時代につくられたかについては、文献の上からも、また口碑としても明らかではない。しかし、ガマをもつ耕地すべてが文禄検地帳に記載されており、耕地を設定してから後に構築されたものではないところから推して、少なくとも文禄以前につくられたものだということだけは断言できる」
「ガマのあるところはすべて文禄古検の耕地に限られている。ガマの構築が耕地をつくって後につくられたものではないことから考えて、ガマは文禄以前に構築されたものと見てもよかろう。文書によるガマの考証は、文禄以前に遡ることを得ないが、その起源はそれよりも更に古く、相当早くからこの地に発生したものであることだけは推測できる。」(註1)と、文禄三年(1594)の太閤検地以前のものと推論されている。
1990年2月に実施された“宮の谷”のガマの調査では、江戸時代前半かと考えられる伊万里焼の破片の出土が報告されている。報告者は「これがガマ構築の時期を示すどうかは、にわかに決め難いが、ガマが相当古い歴史をもつ事は確実である。」(註2)と慎重である。
1991年の“山田の谷”のガマの調査では、 「上段集石部分の掘り込み部分は鎌倉時代の遺物包含層(瓦器、土師器、白磁等が出土)を掘り込んだものであり、また、掘り込み面上層からは近世の陶磁器片が出土する事から、構築時期がある程度限定できる。」「今回の調査によると、鎌倉時代にまで遡らせることは不可能であるが、少なくとも室町時代の範囲内に絞り込むことは可能である。」(註3)と報告されている。
ところで、棚田の擁壁である石垣は、水田と水田の間をほぼ垂直の段差とすることによって水田面積を広げることになり、収穫量の増大につながるものである。ガマも石垣も同様に石を組むものであるから、一体として構築して棚田を造成したものと考えることは可能である。石井進氏は、全国的に棚田を概観して、「戦国・織豊時代、全国に急速に広まった石垣造りの築城法に伴い飛躍的進歩をとげた石垣積みの技術が、「徳川の平和」と一国一城令の影響で軍事技術から生産・産業技術に転換したことが、石垣の畦が普及した背景にあったと考えれば、その時期はいくら早くともやはり江戸時代に入って以後となろう。」(註4)と論述されている。この見解を取り入れるならば、ガマは中世ではなく近世に入ってから構築されたことが考えられる。
ガマの時期については、更なる調査と研究が望まれるところである。
註1 鳥越憲三郎「摂津西能勢のガマの研究」1958年
註2 大阪府教育委員会「岐尼地区遺跡群発掘調査概要・U」1992年
註3 大阪府教育委員会「岐尼地区遺跡群発掘調査概要・V」1993年
註4 石井進「棚田への招待」(第一法規「月刊文化財平成9年1月」所収) 
 
東北武将の系譜

 

最上
最上義守(1521-1590)
最上家10代目。右京大夫。中野城(山形市)の中野義清(最上義定の甥)の次男。山形城(山形市)の最上義定の死により、僅か2歳で最上家を継ぐ。伊達稙宗の介入による相続だったため、一族や家臣に反対運動が起こった。このため伊達家の「天文の乱」では稙宗方についた。1560年寒河江城(寒河江市)に拠る大江兼広を攻撃したが、攻めきれずに終わった。嫡男の最上義光と不和で、次男の義時に譲ることを画策していたが、宿老氏家定直が病をおして諫言したため、1574年義光に家督を譲り、隠居。次男義時には実家の中野家を継がせた。だが、すぐに次男中野義時や天童氏、上山氏など反義光派の中心となり、娘婿の伊達輝宗にも最上領への出兵を要請して嫡男義光の打倒を図った。結局、義時や天童氏など反義光勢力は義光に滅ぼされたが、義守自身は70歳でまで生きた。 
最上義光(1546-1614)
最上家11代目。左近衛権少将。母は大崎氏。山形城主最上義守の嫡男として生まれたが、父に愛されず家督も弟の義時に譲ろうとするほどであった。義光自身は剛勇で、16歳のとき高湯(蔵王温泉)で賊に襲撃され、賊の首領を真っ二つに斬捨て、撃退したという。義光は何とかして家督を継ぐため、1570年には山寺こと立石寺(山形市)に祈願文を納めている。その後、宿老氏家定直の諫言で義守は1574年義光に家督を譲った。だが、その直後から義光を打倒するため次男中野義時や天童氏などを引き込み反義光包囲網を形成し、義光を追い詰めた。妹義姫の夫伊達輝宗も義守の要請で最上領に兵を出していた。義光は輝宗と和睦して伊達軍を撤兵させ、また谷地城(河北町)の白鳥十郎長久が間に入り、反義光派との和睦を一時実現した。だが一方、中野城を攻めて弟、義時を自害させた。1577年反義光の中心天童城(舞鶴城)の天童頼貞を攻撃したが、城は落ちなかった。頼貞の跡を継いだ天童頼澄も「(天童)城中よりは山形を直下に見下し、例え数万の軍勢で攻めても落ちるべくもない」などと豪語して臣従を拒否した。天童方の猛将、延沢能登守満延にも手こずり、義光は延沢の息子と自分の娘の縁組を提案し、延沢満延を寝返らせて天童に味方する勢力を切り崩していった。1580年上山城主(上山市)の上山満兼は伊達輝宗に通じて反抗していたが、義光の謀略で家臣里見越後、民部父子に殺された。同年天童頼澄の舅、小国城(最上町)の細川直元を攻略。天童二郎三郎(頼澄の弟)が拠る東根城(東根市)も落城し、1581年家臣里見景佐が城主となった。さらにこの年、仙北の横手城主小野寺景道に属する鮭延城(真室川町)の鮭延(佐々木)典膳秀綱を降伏させた。1582年義光方で清水城(大蔵村)の清水義氏が庄内の武藤義氏に攻められると、武藤義氏打倒を計画。1583年義氏側近の前森蔵人を寝返らせ、義氏を自害に追い込んだ。だが義氏の弟義興が上杉景勝の力を背景に跡を継いだので義光はまず最上川より西の村山地方制圧に乗りだした。1584年谷地の白鳥十郎長久の娘と嫡男義康の縁組をすすめ、さらに自分が病で余命幾許も無いと装い、白鳥を山形城に誘き寄せた。義光は白鳥に後のことを頼むふりをして油断した白鳥を斬り殺した。続いて寒河江城の大江堯元と中野原で戦い、堯元の弟で剛勇の橋間勘十郎頼綱を自陣に誘い込み、鉄砲で射殺。大江堯元は貫見に逃れ自害し、鎌倉以来の名家大江家は滅亡した。また同年孤立無援となった天童頼澄と北目の八幡山(天童市)で戦い勝利。ついに天童城も落城し、天童頼澄は山を越えて千代城(仙台市)の国分氏のもとに逃れ、伊達家臣となった。庄内の武藤義興は上杉家臣本庄繁長の次男義勝を養子にして上杉景勝との連携を強化し、伊達政宗や小野寺義道に最上義光を攻めさせ、義光に対抗しようとした。1586年仙北の小野寺義道が最上に攻め込み、義光の嫡男最上義康らが有屋峠(金山町)で迎え撃った。1587年義光は鮎貝宗信に謀反させて伊達の動きを封じ、武藤氏重臣で東禅寺城(酒田市)の東禅寺筑前守義長を誘い、謀反を起こさせた。東禅寺義長らとともに尾浦城(鶴岡市)を攻めて武藤義興を自害させ、念願の庄内支配を果たした。1588年伊達政宗は大崎義隆に謀反した氏家吉継を応援して大崎を攻め、義光は大崎義隆を後援したため対立が激化し、中山(上山市)で最上・伊達両軍が対峙するが義光の妹で政宗の母、義姫が両軍の間に居座り、最上と伊達を講和させた。一方、庄内では越後に逃れた武藤義勝(義興養子)が本庄繁長(義勝実父、上杉家臣)とともに庄内を攻撃。尾浦城下に迫り、東禅寺義長らは十五里ヶ原の戦いで敗死。庄内は一年で上杉領になってしまう。義光は豊臣秀吉に「惣無事令」に違反していると訴えたが、上杉の勝訴となった。豊臣政権下では関白豊臣秀次と結びつきを強め、娘駒姫を側室に出したが、1595年駒姫は秀次処刑に連座して京都賀茂河原で惨殺された。こうして義光は豊臣から離れ、徳川家康との結びつきを強めた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、庄内以来の因縁がある西軍の上杉景勝から攻められた。直江兼続率いる上杉軍に長谷堂城(山形市)を包囲され、窮地に陥ったが東軍の勝利で上杉軍は撤退。1601年には逆に上杉領の庄内を攻略した。こうして五十七万石の大大名となったが、義光は最上家安泰のため、徳川家に仕えたことのある次男家親を後継者にしようと画策し、1611年長男義康を高野山に出し、途中庄内で義康を鉄砲で暗殺してしまう。1614年65歳で義光は亡くなるが、一生のほとんどが謀略と暗殺に血塗られ、その悲劇は次の代にも受け継がれた。 
最上家親(1582-1617)
最上家12代目。義光の次男(清水義親を次男とし、家親を三男とする説もある)。13歳で徳川家に奉公したことがあり、関ヶ原の戦いでは秀忠の真田攻めに従う。このため兄義康に代わって跡継ぎとなる。1614年義光が亡くなり、跡を継ぐ。兄弟の清水大蔵大輔義親は清水義氏の跡を継いだが豊臣との結びつきが強く、また最上川舟運の基地清水を支配していた。時あたかも大坂の陣直前で家親は義親に謀反の疑いをかけ、清水城(大蔵村)を攻めて義親を自害させた。大坂の陣では江戸留守居役を努める。だが1617年36歳の若さで急死。叔父の楯岡光直に毒殺されたという説もある。
最上義俊(1606-1632)
最上家13代目。家親の子。家信とも称す。父の急死で12歳で跡を継ぐが家臣団が争い、収拾できなかった。1622年国を統治できないとして改易され、近江一万石に転封された。 
最上義康(1574-1603)
最上義光の長男。修理大夫。白鳥十郎長久謀殺では白鳥の娘を娶るとして白鳥誘き出しに一役買っている。1586年伊達政宗らに呼応して横手城の小野寺義道が侵攻してきた際は、有屋峠の戦いで小野寺義道と戦った。1595年秀次事件に巻き込まれ、父義光が窮地に立った際は無実証明、存命祈願を寺社に命じたという。1600年直江兼続率いる上杉軍に攻められた際、伊達政宗に援軍を要請に行き、援軍を連れて帰る。さらに撤退する上杉軍追撃を行った。大いに活躍したが、徳川との関係から父義光は弟家親に跡目を譲ろうとし、義康を高野山に追い出し、途中の庄内で鉄砲で義康を襲撃して討ち取った。 
清水義親(1582-1614)
最上義光三男。大蔵大輔。氏満。清水城主(大蔵村)。母は清水義氏の娘。清水義氏に男子が無く、義親が清水家を継いだという。清水は最上川舟運の要衝で仙北や大崎にも通じる重要拠点だった。1600年関ヶ原の戦いでは叔父楯岡光直とともに長谷堂城(山形市)を救援し、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。義親は若い頃、豊臣秀頼に仕え、大坂方に通じていたとも一栗兵部とつながっていたともいう。1614年正月父最上義光が亡くなり、6月には一栗兵部が志村光清、下吉忠を斬殺する事件が起き、10月義親も家親から謀反の疑いで攻められ、自害した。嫡子義継も11月11日13歳で自害した。徳川家康が大坂に軍を進め、大坂冬の陣が始まったのは11月15日であった。
山野辺義忠(1588-1664)
最上義光四男。右衛門大夫。光茂。山野辺城主(山辺町)。1600年直江兼続率いる上杉軍により、山野辺城は落城した。1601年最上義光は四男義忠を山野辺城主とし、山野辺義忠を名乗った。だが1617年兄家親の急死により義俊が12歳で跡を継ぐと、楯岡光直ら最上家臣の多くが山野辺義忠を藩主に擁立せんとして御家騒動が勃発。このため1622年最上家は改易となり、義忠も池田家にお預けの身となる。だが将軍家光により許され、徳川御三家水戸頼房に仕えた。子の義堅は山野辺兵庫を名乗り、水戸光圀に近侍した。
上山義直(?-1626?)
最上義光五男。兵部大夫。光広。上山城主(上山市)。1616年上山城主となる。1622年最上家改易により黒田家にお預けの身となり四、五年後自害したという。 
駒姫(1579-1595)
最上義光の次女。豊臣秀次の側室。お伊万の方。1591年九戸政実討伐の帰途、山形城に立ち寄った豊臣秀次が駒姫の可憐さに心を動かし、最上義光に差出すよう要求した。秀吉の実子鶴松の死去によって秀次は関白となり、駒姫も1595年聚楽第に迎えられ、お伊万の方と称されたが、同年秀次は太閤秀吉によって謀反の罪を着せられ、高野山で切腹させられた。秀次の妻子34名も賀茂河原で斬首され、駒姫もその中に入っていた。16歳または15歳だったという。辞世「罪をきる弥陀の剣もかかる身のなにか五つのさわりあるべき」。父、最上義光も秀次の謀反に加担したとされ、一時幽閉された。この恨みで義光は徳川家康に接近し、関ヶ原では東軍についたという。 
義姫(1548-1623)
最上義光の妹。伊達輝宗の正室で伊達政宗の母。保春院。お東の方。政略結婚により17歳で伊達輝宗と結婚した。輝宗との間に伊達政宗、小次郎、女子一人を産んだ。1574年夫輝宗が弟中野義時について兄最上義光と戦った際、あるいは1588年息子政宗と兄義光が中山(上山市)で激突寸前になった際、伊達・最上両軍の間に乗り込んで戦をとめたという。1585年夫輝宗が二本松城主畠山義継に拉致され、非業の死を遂げると暴走気味のわが子政宗を抑え伊達家安定を図っていたが、1590年小田原参陣直前に政宗が毒を盛られ、これを弟小次郎擁立派によるものとして小次郎を斬殺したため、決定的な不仲となり、義姫は山形城に帰り、南館(山形市)に住んだ。しかし朝鮮出兵に出陣する際には政宗と手紙をやり取りしている。1600年最上家が上杉軍に攻められると政宗は参謀片倉景綱の山形を捨石にする策を容れず援軍を送った。母義姫がいたためであった。1622年最上家が改易されると義姫は息子政宗により仙台に迎えられ、翌年亡くなった。 
中野義時(?-1574)
最上義光の弟(長瀞義保と同一人物説あり)。父最上義守は兄義光と不和で義時に最上家を継がせようとしたが、1574年宿老氏家定直の諫言で義光が家督を継ぎ、義時は中野城(山形市)に入り、中野家を継いだ。しかし父義守とともにすぐ反義光包囲網を形成し、伊達輝宗や天童氏などとともに兄義光と戦った。しかし義光と輝宗は和睦し義時は義光調伏の呪いをかけようとしたという理由で義光に滅ぼされた。 
楯岡光直(?-?)
最上義光の弟。甲斐守。義久。1600年甥の清水義親とともに長谷堂城を救援し、上杉軍と戦った。1618年楯岡城主(村山市)となる。1617年甥の最上家親が急死し、義俊が12歳で跡を継いだが家臣をまとめられず、光直は義光の四男山野辺義忠を後継に推し、最上家中は二分した。松根光広は1622年最上家親の急死は光直による毒殺だと幕府に訴えたが証拠不十分で松根は筑後柳川に流された。しかし最上家も改易の憂き目を見て、光直は酒井家にお預けとなった。 
氏家定直(?-?)
最上家宿老。伊予守。最上義守に仕え、1542年天文の乱では義守の名代として戦場に赴いた。1570年義守が家督を次男義時に譲ろうとし、嫡男義光と争ったとき定直は病に臥していたが義守に諫言し、調停に入って家督を義光に相続させた。 
氏家守棟(?-?)
氏家定直の子。尾張守。最上義光に仕えて名代を勤めることが多く、1574年最上義光が家督相続をめぐって父義守、弟義時と争った際、義守の要請で最上領に侵攻した伊達輝宗と和解交渉を行った。1581年鮭延(真室)城の鮭延秀綱を攻略している。1586年庄内の観音寺城(八幡町)を攻略している。1591年雄勝郡、由利郡を平定している。守棟は義光の懐刀で義光の数々の謀略は守棟が献策したものという。 
氏家光氏(?-?)
氏家守棟の養子。守棟の従弟成沢道忠の子。尾張守。守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、跡を継いだ。最上義光の三女を娶り、重臣として活躍。1600年直江兼続率いる上杉軍に攻められた長谷堂城(山形市)の援軍に出陣した。 
清水義氏(?-1586)
孫三郎。清水城主(大蔵村)。清水氏は最上氏一族で成沢氏から分かれた。最上川舟運の拠点清水を支配し、内陸進出を狙う武藤氏から度々攻められた。義氏の父、孫市郎義高は1565年武藤義増に攻められ、本合海で討死した。義氏は娘を最上義光の妻にして義光の力を後ろ盾にした。1582年武藤義氏に攻撃され、これ以降最上と武藤の対決になっていった。義氏の跡は最上義光の三男清水大蔵大輔義親が継いだ。
楯岡満茂(?-?)
豊前守。楯岡城主(村山市)。最上氏一族で義光に仕え、活躍した。1586年仙北の横手城主小野寺義道が侵攻した際、有屋峠の戦いで最上義康とともに小野寺義道と戦った。1595年逆に仙北に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を落とし城主となった。1603年由利郡天鷺城(亀田町)に移り、1612年本荘城(本荘市)に移り、姓を本荘に改めた。最上家改易により酒井家にお預けとなった。
延沢満延(1544-1591)
能登守。信景。延沢霧山城主(尾花沢市)。大力剛勇の武将で当初天童氏に与力し、最上義光を大いに苦しめた。だが義光が長女を満延の子光昌に嫁がせると懐柔して、義光に寝返った。相当の強力で、ある時義光が戯れに満延と力比べをしたところ、満延のあまりの強さに義光は桜にしがみついたが、満延は義光を引き離そうとし、桜ごと引き抜いてしまったという。さすがに義光も満延を恐れ亡き者にせんと図ったが果たせなかったという。息子光昌は義光の長女松尾姫を娶り、1600年長谷堂城救援や1614年清水義親攻めに活躍したが、1622年最上家改易によって肥後加藤家にお預けの身となった。 
鮭延秀綱(1562-1646)
佐々木貞綱の子。越前守。佐々木典膳。愛綱。鮭延城主(真室川町)。鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族で小野寺氏に仕えていた。小野寺氏が最上への南下を始めると佐々木氏はその先鋒として最上川河畔の岩鼻城(戸沢村)に進出した。1563年佐々木貞綱は庄内から最上川を攻め上ってきた武藤義増に敗北。鮭延城(真室川町)に逃れ、姓を鮭延と称した。秀綱は武藤義増の人質となっている。1581年最上義光は氏家守棟を派遣して鮭延城を攻略した。秀綱は敗北後、最上義光の家臣となり義光の庄内攻略のため来次氏など庄内の豪族に調略を仕掛けている。1590年検地一揆を抑えるため湯沢城(湯沢市)に在番した。1600年関ヶ原の戦いでは直江兼続が率いる上杉軍が最上方の志村光安が守る長谷堂城(山形市)を包囲した。秀綱も清水義親や楯岡光直らと援軍に駆けつけ、上杉軍大将直江兼続の本陣を脅かす活躍を見せ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。1622年最上家の改易により土井利勝に預けられたが、秀綱は家臣を大切にしたため、家臣が乞食をしても主人を養うと言って離れなかった。利勝はこれに感じて秀綱を召抱えた。1646年土井家の領地古河で死去。 
中山朝正(?-?)
玄蕃。長崎城主(中山町)。中山氏は代々大江(寒河江)氏に属していた。八代城主中山玄蕃頭朝政は渋谷懐良に乗っ取られた長崎城を取り戻した。玄蕃頭朝政は1583年に68歳で亡くなり、子の玄蕃朝正が九代城主となる。1584年大江氏滅亡により最上義光の家臣となる。1586年東禅寺義長らと尾浦城(鶴岡市)の武藤義興を攻め滅ぼし、尾浦城主となった。しかし、翌年には上杉家の本庄繁長が義興の養子義勝を擁して庄内に攻め込み、十五里ヶ原の戦いで大敗を喫した。東禅寺義長兄弟は討死し朝正は山形に逃げ帰った。1600年直江兼続率いる上杉軍が最上義光を攻撃した際、長崎城を守備したが敗れた。 
日野定重(?-?)
将監。新庄沼田城主(新庄市)。1581年沼田城主日野左京亮が最上義光に攻められ降っており、これも日野将監の一族とも考えられる。天正年間、将監は中山氏の臣で左沢城主(大江町)であった。1584年大江氏滅亡により最上義光に降った。1614年延沢光昌とともに清水義親を攻め滅ぼし、清水城(大蔵村)を管理下に置いた。この頃、沼田城主(新庄市)であったらしい。1622年最上家改易により藤堂高虎に召抱えられた。 
谷柏直家(1551-1610)
相模守。谷柏館主(山形市)。1570年伊達晴宗・輝宗父子が対立したとき最上義守の使者として和解工作を行う。1574年最上義光と伊達輝宗の和解対面では義光の名代を勤めた。1600年上杉軍が長谷堂城を攻めた際、近隣の谷柏も攻撃されたが城を守り抜いた。 
江口光清(?-1600)
五兵衛。道連。畑谷城主(山辺町)。畑谷城は対上杉氏の最前線であり、1600年出羽合戦において直江兼続率いる上杉軍二万の猛攻を真っ先に受け、兵五百で守ったが二日で畑谷城は落城し、自刃した。最近になって文禄二年(1592年)から慶長五年(1600年)にかけて詠まれた最上家中の連歌がみつかり、最上義光、最上義康や重臣の本荘(楯岡)満茂、氏家守棟らとともに江口光清も名を連ねている。 
草刈志摩守(?-1600)
1600年上杉軍が最上領内に攻め込んだとき上山城に援軍に赴いた。上山城将里見民部とともに物見山の戦いで上杉軍を迎撃し、敵将本村親盛を討ち取った。しかし、追撃戦で上杉領中山(上山市)まで進撃したところ逆襲を受け、広河原の戦いで上杉鉄砲隊の餌食となり討死した。  
坂光秀(?-1616)
紀伊守。成沢城主(山形市)。1600年の長谷堂城(山形市)攻防で援軍に駆けつけ、上杉軍と戦った。戦後長谷堂城主となり、1603年には里見民部の後の上山城主(上山市)となった。
小国光基(?-?)
蔵増(倉津)安房守の子。日向守。光忠。安房守は1580年細川直元討伐に功があり、安房守の子、光基が小国城主(最上町)となり、小国氏を称した。1596年小野寺義道が湯沢城(湯沢市)を攻撃したため、その救援に赴いた。1622年最上家改易により、光基は鍋島家にお預けとなった。 
里見民部(?-1614)
里見越後の子。上山城(上山市)の上山満兼に仕えていたが、最上義光の謀略で裏切り、1580年父とともに満兼を暗殺し、上山城主に収まった。上山城は対伊達の前線基地で、伊達軍の小梁川盛宗にも攻められている。関ヶ原の戦いでは上杉軍に内通していたともいうが、最上義光が父の越後を人質に押さえていたため、逆に奮戦して上杉軍本村親盛を討ち取る活躍を見せた。しかし1603年義光の長男最上義康の謀殺に加担し、その罪を問われて上山城を出奔した。加賀前田家に逃れたが引き渡され、途中の庄内丸岡で殺されたという。 
里見景佐(?-?)
東根城(東根市)の坂本頼景に仕えたが、1581年坂本氏に取って代わって自ら東根城主となり、最上義光に臣従した。1622年最上氏改易により、里見氏は阿波に流された。 
天童頼澄(?-?)
天童頼貞の子。頼久。天童城主(天童市)。天童氏は成生荘地頭里見氏の流れで古くから村山盆地に勢力を拡げていた。最上氏の祖斯波兼頼が山形に入り、孫頼直が天童氏に養子に入って最上一族となったが独立性が強かった。下筋八楯の盟主で東根氏、上山氏などは天童氏から分かれている。頼貞は娘を最上義守の嫡男義光に嫁がせ、千代城(仙台市)の国分氏から妻を娶り、最上氏をしのぐ勢力を誇った。頼貞は1574年義守と義光が争った際、義守について出羽統一をめざす義光と対立した。1577年義光に攻められたが、天童城はなかなか落ちなかった。頼貞の子頼澄も義光と対立を続け、天童(舞鶴)城の堅固さを誇って臣従を拒否した。義光は天童氏の配下で剛勇の武将、延沢能登守満延に延沢の子息と義光の娘の縁組を持ち掛けて裏切らせた。こうして義光は八楯を切り崩し、1584年天童頼澄は敗北し、千代城の国分氏のもとに逃れ、伊達家臣となった。頼澄は1585年人取橋の戦いで活躍した。頼澄の跡は留守政景の次男重頼が継いだ。 
上山満兼(?-1580)
上山城主(上山市)。姓は武衛(永)とも。上山氏は天童頼直の子満長に始まり、上山氏または武衛氏を称した。1535年武衛義忠が上山城を高楯から月岡に移している。以後上山城は月岡城とも呼ばれ、武衛義忠、義節、義政の三代が居城したという。上山満兼(武衛義政か?)は最上義光の叔母婿で対伊達の重要拠点上山城主であったが、最上・伊達どちらにつくともはっきりしなかった。また1574年には最上義守を中心とした反義光連合に与したため義光は1580年満兼の家臣里見越後・民部父子を裏切らせ、満兼を暗殺した。 
細川直元(?-?)
摂津守。小国城主(最上町)。天童頼澄の舅。1580年最上義光に攻められ、万騎の原の戦いで敗北し、滅亡した。 
庭月広綱(?-1650)
佐々木理右衛門。庭月城主(鮭川村)。鮭延氏の一族で一千石を領した。1581年、宗家の鮭延秀綱同様、最上義光の攻撃を受けて降った。
鳥海信道(?-?)
最上郡差首鍋城主(真室川町)。1581年最上義光に攻められた鮭延秀綱を救援したが敗北した。 
沓沢玄蕃(?-?)
差首鍋城主(真室川町)。1581年鮭延秀綱を攻略中の最上義光が庄内との連絡路にあたる差首鍋を攻めた。籠城戦となり、城中の清水も枯れて城の窓から首を差し出すように鍋をつるして眼下の大沢川から水をくみ上げて耐えたことから「差首鍋(さすなべ)」の地名の由来になったという。結局、城は焼打ちに遭って落城したという。 
白鳥長久(?-1584)
十郎。谷地城主(河北町)。白鳥長久はもともと白鳥城(村山市)にいたが、中条氏を滅ぼして谷地に進出した。1574年次男に跡を継がせようとする最上義守と嫡男最上義光父子が争い、義守の娘婿伊達輝宗も介入して諸豪族も巻き込む争乱になった際、白鳥は間に入って和睦させた。1577年織田信長に鷹や馬を贈って中央政権との結びつきを強めている。最上義光同様に出羽の支配を狙っていたが、1584年最上義光から嫡男義康と白鳥の娘の縁組の話が持ち込まれ、承諾したが義光の謀略を警戒して山形城(山形市)には行かなかった。義光は仮病を使い、息子義康のことを託すということで白鳥を山形城に誘き寄せ、実際に病を装い最上家の行く末を頼んだ。白鳥がこれで油断したところを義光自ら斬りつけ、傷を負わせた。白鳥は山形城内の桜に追い詰められ、最上勢から討ち取られた。こうして白鳥氏は滅亡。山形城内の桜は「血染めの桜」と呼ばれた。 
橋間頼綱(?-1584)
大江堯元の弟。勘十郎。柴橋城主(寒河江市)。姓は羽柴とも。大力無双の剛の者で大江軍と白鳥旧臣を指揮し、中野原の戦いで最上義光を相手に奮戦した。てこずった義光はわざと退いて勘十郎を誘い込み、伏兵の鉄砲隊で討ち取った。 
大江堯元(?-1584)
大江(寒河江)兼広の養子。吉川基綱の子。高基。寒河江城主(寒河江市)。大江氏は源頼朝の臣大江広元の子孫で村山に根付いた一族が大江氏または寒河江氏を称し、置賜を支配した一族が長井氏を称した。大江兼広は1560年最上義守の攻撃を撃退している。兼広には男子が無く最上義光の長男義康を婿にして跡を継がせる約束があったが、これを反故にして一族吉川氏の堯元に跡を継がせたため、遺恨を残したという。1583年庄内の武藤義氏が謀反で自害した。堯元は援軍を派遣したが間に合わなかったという。最上義光は最上川西岸の支配を目論み、白鳥十郎を謀殺し、続いて大江氏を攻撃した。堯元は弟勘十郎に白鳥の旧臣を預けて中野原で最上軍と戦ったが勘十郎は討死し、敗北した。堯元は貫見(大江町)に落ち延びたが自害し、大江氏嫡流は滅亡した。 
林崎重信(1542-?)
甚助。民治丸。楯岡(村山市)の生まれで居合術の神明夢想林崎流を興した。塚原卜伝に師事したともされ、上杉家臣松田尾張守の指南役となった。林崎甚助の父、浅野数馬源重治は楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた。天文十一年(1542年)林崎甚助は浅野数馬の子として誕生し、幼名は民治丸といった。ところが天文十六年(1547年)熊野明神での囲碁の帰途、数馬は坂上主膳の闇討ちに遭い暗殺された。民治丸は父の仇討を志し、天文二十三年(1554年)民治丸十三歳にして仇討のための剣法上達を祈願して修行に励み、二年後に「神妙秘術の純粋抜刀」の典旨を神授されたという。永禄二年(1559年)民治丸は十八歳にして遂に「純粋抜刀」を開眼した。元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り、仇討の旅に出た。永禄四年(1561年)林崎甚助は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし、本懐を遂げた。甚助は帰郷して熊野明神に刀を奉納し、これより純粋抜刀を林崎流と称したという。永禄五年(1562年)残された母も病で亡くなり、林崎甚助は故郷を去り、旅に出て武者修行をしながら、門弟の育成に励み、抜刀を広め、居合道の基礎を確立した。諸国を修行し、70歳ぐらいまで生きたという。 
郷目貞繁(1497?-1577?)
右京進。寒河江の大江氏一族。1520年伊達稙宗が最上領に侵攻して高擶城(天童市)を攻めた際、捕虜となり5年ほど伊達領にいたともいう。武人画家となり、1529年「紙本著色瀟湘八景図巻」を制作。1529-37年頃「絹本著色釈迦出山図」を制作。1557年「紙本墨画芦雁図」。1563年妻の菩提を弔うために天童若松観音堂に「板絵著色神馬図」を奉納している。画域は広く、村山地方に20数点の遺作を残している。 
蜷川親世(?-1568)
親俊。蜷川氏は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代(沙汰人)を務めた。親世も十三代将軍足利義輝に仕え、丹波国船井郡蟠根寺城に拠ったが、1565年義輝が松永久秀に討ち取られ、親世は所領を失い、落衣(寒河江市)の高松左門を頼って出羽に落ち延びた。親俊は金谷原(寒河江市)で数年暮らしたが1568年失意のうちに亡くなり、金谷原の土佐林に葬られた。その墓は「土佐壇」と呼ばれた。子の親長は土佐の長宗我部元親、後に徳川家康に仕え、子孫は旗本となった。 
 
伊達 

 

伊達稙宗(1488-1565)[号:直山]
伊達家14代目。伊達尚宗の次男。左京大夫。奥州探題の大崎氏を超える力を誇り、前例の無い陸奥守護職を得た。伊達氏は本来、福島県伊達郡の領主であるが、8代宗遠、9代政宗父子の時、長井氏を滅ぼして山形県置賜郡を制圧し、伊達郡の桑折赤館城と置賜郡の高畠城を半々居城とした。この頃既に伊達氏の武威は奥州随一とされている。1514年に長谷堂(山形市)で最上義定を破り、妹を義定の妻に送り込み、最上氏を事実上伊達の傀儡政権にした。最上一族の反発が続く中、義定の没後は最上一族の中野氏から2歳の幼児、最上義守を迎えて当主の座に据えた。1536年大崎氏に内紛があった際は内紛を解決できない当主大崎義直の要請で古川城(古川市)の古川刑部大輔持煕や岩出山城(岩出山町)の新井田頼遠を滅ぼして大崎氏に介入し、次男(大崎義宣)を大崎氏の養子に送り込む。このように稙宗は数多くの子どもや一族を近隣諸将との政略結婚・養嗣子に利用し、大いに勢力を拡大している。また内政面では半田銀山に近い伊達郡の西山城(桑折町)を本拠とし、戦国最大の分国法「塵芥集」を制定した。だが皮肉にも彼の外交の特徴、養嗣子政策が引き金となり、天文の乱(洞の乱)(1542-1548)が起こる。三男の伊達実元を精兵百騎をつけて越後守護上杉定実(?-1550)の養子に送り込もうとした際、嫡男の晴宗が中野宗時ら家臣に担がれて「有能な家臣を他国にやり、国の中が空虚になっている」として父に謀反し、実元の越後行きを武力で阻止し、稙宗を西山城に幽閉したのである。事件の背景には「塵芥集」と前後して制定された「棟役日記」「段銭古帳」の田畑に課する特別税をめぐる稙宗と家臣団の対立があったという。稙宗は間もなく小梁川宗朝の手により西山城を脱出。稙宗方には養子に出した大崎義宣、葛西晴胤、伊達実元ら息子のほか、会津地方の有力大名芦名盛氏(1521-1580)をはじめとする相馬顕胤、田村隆顕、二階堂輝行など稙宗の娘婿にあたる近隣の諸豪族、稙宗が擁立した山形の最上義守がついた。一方晴宗方は晴宗の妻久保姫の実父岩城重隆、大崎氏本来の主大崎義直、稙宗の弟の留守景宗、そのほか中野宗時をはじめとする桑折氏、白石氏、小梁川氏などの伊達家家臣がついた。当初、稙宗方が優勢で西山城を奪回し、晴宗は白石城に逃れたが芦名盛氏が晴宗方に寝返ったことで戦況は逆転。長井(置賜地方)を晴宗に押えられ、最上義守らも晴宗方に寝返る。事此処に至り田村隆顕が父子の和解を策し、1548年13代将軍足利義輝が停戦を命じ、稙宗は家督を晴宗に譲り、丸森城(丸森町)に隠居することになった。だが、この天文の乱は伊達氏と相馬氏との関係を悪化させ、その後も続く伊達氏と相馬氏の戦いの原因となった。また、稙宗は置賜と越後を結ぶ交通路整備に取組み、1521年大里峠を開削し、現在の山形県小国町と新潟県関川村を結んでいる。 
伊達晴宗(1519-1577)[号:保山]
伊達家15代目。伊達稙宗の嫡男。左京大夫。伊達氏の実力を背景に代々大崎氏が継承してきた奥州探題職を得た。天文の乱で父、稙宗と争い、家督相続後は本拠地を米沢城(米沢市)に移す(1548年)。有力家臣と妥協し、父の稙宗の政治路線を改め、知行判物を再交付した。伊具郡をめぐって相馬盛胤(顕胤の子)と抗争を続けた。一方で宿老中野宗時を重用し、宗時の専横を許した。次男の輝宗とも対立したが、1565年に輝宗に家督を譲り、杉ノ目城 (福島市)に移って隠居した。晴宗も父同様に多くの子ども達を政略結婚や養嗣子に利用し、勢力拡大を図った。晴宗の妻久保姫は岩城重隆の娘で、白河結城氏に嫁ぐところを晴宗が拉致して妻にしたという。晴宗との間に十一人の子女をもうけたという。 
伊達輝宗(1544-1585)[号:性山]
伊達家16代目。伊達晴宗の次男。左京大夫。父との対立を経て、1565年家督を継ぐ。相馬盛胤・義胤父子と抗争を続けた。父の寵臣で権勢を振るう中野宗時と対立。1570年中野宗時が小松城(川西町)で謀反し、これを討伐するが中野一族が相馬に逃れたため相馬氏との仲はさらに悪化した。中野に代えて、信用のおける遠藤基信を引き立て宿老として重用し、進物を贈り織田信長への接近も図った。妻、義姫(保春院)の実家最上氏の内紛では、義父の最上義守の要請を受けて1570年上山へ、1574年に最上領内に出兵。義兄、最上義光と戦う。だが相馬氏との抗争が激化していたため義光とは和睦し、撤兵した。対相馬戦では精強な相馬軍との正面衝突を避け、相馬軍が出陣して手薄になったところを衝き、勝利を重ね、1584年伊具郡を奪還し、相馬との講和に持ち込んだ。同年、嫡男の政宗に家督を譲り、隠居として政宗を後見する。1585年政宗の圧力に追い詰められた二本松城主畠山義継が御礼言上に訪れ、応対した際に畠山により拉致されてしまう。連れ去られる途中、阿武隈川河畔の高田原にて畠山義継共々、駆けつけた政宗の命を受けた伊達家鉄砲隊によって射殺された。享年42歳。資福寺(高畠町)に墓所がある。輝宗は名僧虎哉宗乙を資福寺の住持に招き、我が子政宗の教育を託していた。また片倉小十郎景綱の才を見抜き、小姓に取立て、我が子政宗の近侍に抜擢した。 
伊達政宗(1567-1636)[号:貞山]
伊達家17代目。伊達輝宗の嫡男。権中納言。幼少の頃、疱瘡を患い隻眼になったことから「独眼龍」と呼ばれる。幼名は梵天丸。名僧虎哉宗乙に教育され、片倉小十郎景綱らの補佐を受けた。1577年元服し、置賜を制圧して鎌倉公方の軍勢と互角に渡り合った伊達家中興の祖、9代伊達政宗にあやかって伊達藤次郎政宗と称す。三春城主田村清顕の娘、愛姫(陽徳院)を妻に娶る。1581年には対相馬戦で初陣を飾る。1584年には早々と父、輝宗から家督を譲られ、翌年、仙道攻略に乗り出す。伊達と芦名の間で去就の定まらない大内定綱を攻撃し、小手森城では撫斬りを強行。女子どもから家畜まで皆殺しにしたため、周辺では政宗を恐れた。大内は会津の芦名氏のもとに逃亡し、続いて二本松城の畠山義継が狙われた。畠山は御礼言上を装い、隠居の伊達輝宗を拉致したが、駆けつけた政宗は阿武隈川河畔の高田原で父の輝宗もろとも畠山義継を鉄砲隊で銃撃、射殺。父の仇として畠山の遺体をずたずたに切り刻み、遺体を藤蔓で縫い合わせて磔にし、晒し者にしたという。続いて二本松城を攻めるが堅固な上に大雪のため攻略に失敗。この状況を見て、北関東から奥州の南部に勢力を拡大した常陸太田城主「鬼義重」こと佐竹義重(1547-1612)を中心に芦名氏、岩城氏、石川氏、結城氏、二階堂氏、相馬氏が連合し、三万の軍勢で政宗に攻めかかった。政宗は八千の兵を率い、人取橋の戦いで三万の連合軍と激突。鬼庭左月良直などの将が戦死するが寡兵でよく防ぐ。連合軍は佐竹義政(義重叔父)が暗殺され、安房の里見氏と水戸の江戸重通が背後から攻めかかったため撤退を余儀なくされた。翌1586年二本松城は開城し、伊達領となった。1587年伯父の山形城主最上義光が庄内を攻略し、さらに置賜に触手を伸ばして鮎貝城(白鷹町)の鮎貝宗信を政宗から離反させた。このため政宗は鮎貝氏を滅ぼし、伯父義光との対立が鮮明となる。1588年には政宗は叔父の留守政景に命じて中新田城(中新田町)の大崎義隆を攻めたが敗退。逆に最上義光の計略で最上、大崎、芦名、佐竹の有力大名による政宗包囲網が結成され窮地に追い込まれる。遂に伊達政宗と最上義光が中山口(上山市)で直接対決に至るが、政宗の母で義光の妹でもある義姫(保春院、お東の方)が籠で両軍対峙する中に乗り込み、説得の末に両軍を引き上げさせた。その頃、南では芦名氏が佐竹義重の次男義広を当主に迎え、再び佐竹・芦名連合軍が結成され、郡山城(郡山市)を襲った。しかし石川昭光(伊達輝宗の弟)らの調停で両軍は兵を退く。一方、庄内で最上義光は上杉景勝配下の本庄繁長軍に敗北し、勢力を後退させ、1589年政宗も大崎義隆を事実上降伏させて包囲網は崩れた。政宗は安子島城と高玉城を攻略し、会津芦名氏攻略の足掛かりをつくると反転して相馬領を攻め、妻の実家田村氏を攻める相馬氏、岩城氏をけん制する。さらに芦名氏一族で猪苗代城主の猪苗代盛国を寝返らせ、米沢城からは別働隊に桧原峠を越えさせ北から会津を攻め、政宗本人は猪苗代城に入った。須賀川まで出陣していた芦名義広は急遽黒川城(会津若松市)に戻り、磐梯山麓の摺上原で伊達軍と激突した。他家からの養子でまとまりの無い芦名軍は重臣が戦闘に参加せず敗北。芦名義広は黒川城を脱出し、実家の佐竹氏のもとに逃れた。会津の芦名氏を滅ぼすと立て続けに須賀川城の二階堂氏を滅ぼし、白河結城氏や石川氏、岩城氏も帰服させた。事実上政宗に降っている大崎氏や葛西氏の領土を合わせると宮城県全域、福島県ほぼ全域(相馬除く)、山形県南部、岩手県南部の南奥羽のほとんどを統一した。しかし既に豊臣秀吉が天下をほぼ手中に納めており、豊臣秀吉の惣無事令に違反して芦名氏を滅ぼしたことで伊達家は存亡の危機にあった。ここで政宗は毒を盛られ、これを政宗に代わって弟小次郎を当主に据えようと目論む者の仕業として弟小次郎を殺害。母、義姫は実家の最上義光のもとに去った。家中の不穏な勢力を抑えた政宗は漸く1590年小田原の北条氏政を攻めている秀吉の下に帰参した。この時、白装束で秀吉に面会し、遅参を詫びたところ秀吉から「もう少し来るのが遅ければこの首が危なかった」と首筋をたたかれたエピソードがある。政宗は会津と仙道南部を没収されたが、置賜郡及び伊達郡など仙道北部諸郡、宮城郡など宮城県南部の諸郡は安堵された。だが奥州仕置に際し、葛西・大崎一揆が勃発。政宗は鎮圧に活躍したが、1591年置賜郡及び仙道北部は没収され、葛西・大崎領を与えられた。裏で一揆を扇動したのが当の政宗だったからという。この時は公の花押の鶺鴒の目に針穴を開けておくことで、一揆扇動の密書は穴の無い偽物と申し開きして難を逃れた。こうして岩出山城(岩出山町)に居城を移す。秀吉政権下の政宗は「醍醐の花見」の出席武将(他は秀吉とその養子、徳川家康、前田利家のみ)に名を連ねていることから、破格の待遇を受けていたらしい。だが豊臣秀次が不行跡と謀反の疑いで切腹させられその一族も処刑されると、政宗にも謀反加担の疑いがかかり、石田三成らが詰問に訪れた際「秀吉公が秀次に関白を譲ったほどなのに片目の自分が人を見誤るのは当たり前、秀吉公が秀次に譲るというので秀次に奉公したまででそれを罪というなら自分の首を刎ねろ」と秀吉の痛いところを衝いて処刑を免れた。また秀吉には碁の勝負で勝ち側室「香の前」を譲り受けたという。秀吉が亡くなると徳川家康に接近し、長女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、上杉軍の甘粕景継が守る白石城を攻略し、本庄繁長が守る福島城にも攻めかかった。また上杉軍の直江兼続に攻められる山形城の最上義光に援軍を出したが、このとき片倉小十郎景綱が上杉軍と最上軍が争わせ疲弊したところを攻めよと献策したが、政宗は母(義姫)が山形に居るとしてこの策を拒否した。後に最上家が改易されたとき、政宗は母を自領の仙台に迎えている。政宗は家康から旧領の置賜郡及び伊達郡など仙道北部を与える約束をもらっていたが、南部氏の領地で和賀忠親に一揆を扇動させたため不興を買い約束を反故にされた。のちに3代将軍徳川家光の時代にこの約束を蒸し返したが、井伊直孝により、そのお墨付は「今の世にこれを出せば、かえって伊達家62万石をつぶすもと」として焼かれてしまった。一方、政宗は海外にも目をやり、キリスト教と接触した。1613年家臣支倉常長を月の浦からヨーロッパへ出航させた。しかし支倉常長が1620年に戻った頃にはキリスト教は弾圧の対象になっており、政宗もキリスト教弾圧に転じていた。1615年の大坂夏の陣では政宗は騎馬鉄砲隊を率い、大阪方の後藤又兵衛基次を討ち取る活躍を見せた。これと前後し1614年長男秀宗が伊予宇和島藩主に取立てられ、家督は次男の忠宗に譲ることになった。背景には秀宗が豊臣秀頼に近侍したことへの憚りがあったらしい。さらに1616年家康が没すると娘婿の松平上総介忠輝が改易される。大坂の陣で遅参したこと、キリスト教や外国貿易との関係が理由とされるが、政宗と通じて謀反を図ったという説も流れていた。当時、幕閣では本多正信・正純父子と大久保一族が対立しており、1613年には松平忠輝の内政に関与していた幕府の金山奉行大久保長安が亡くなった後、不正が発覚して長安の子が死罪、一族の大久保忠隣も改易となっていた。これを背景に政宗・忠輝・長安が陰謀をめぐらしたとされた。だが政宗は忠宗に秀忠の養女を娶らせ、家康からは秀忠を盛りたてるよう頼まれ、秀忠が亡くなる際には家光のことを頼まれている。実際に謀反を起こすことも無く徳川政権下の重鎮として活躍している。政宗は新領地で北上川など河川改修や治水に努め、新田開発も進めていたが、その結果、表高62万石に対して実高200万石とも言われるほど成長した。さらに貞山堀をつくり、石巻港整備を進め、水運も栄えた。こうして仙台藩の米は「仙台米」として江戸に運ばれ、江戸の米の三分の二を占めるまでに至った。1603年には仙台城(青葉城)に移り、東北の中心都市仙台の原型を創りあげた。1636年70歳で死去。 
愛姫(1568-1653)
田村清顕の娘。母は相馬氏。陽徳院。愛姫は「めごひめ」と読む。1579年伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという。1590年秀吉の人質として京都に住まう。1594年五郎八姫(いろはひめ)を産み、1599年忠宗(第二代仙台藩主)を産む。政宗が亡くなる時、看病したいと強く願ったが許されなかった。このため自分が亡くなるときは夫政宗の命日まで頑張り、夫の命日に死去したという。また政宗は隻眼にコンプレックスを持ち、全ての肖像に両目を入れさせたが、愛姫は夫の正しい姿を残しなさいと言い、政宗の片目の木像を造らせたという。眉目秀麗であったという。 
久保姫(1522-1594)
岩城重隆の娘。栽松院。幼少から色白で美しくえくぼがあったので「笑窪御前」と呼ばれたという。白河結城家に嫁入りが決まっていたが、嫁入りの途中に伊達晴宗が久保姫一行を略奪して自分の妻にしてしまったという。晴宗との間に岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗、二階堂盛義室、伊達実元室、芦名盛隆室、小梁川盛宗室、佐竹義重室と六男五女をもうけ、奥羽諸大名にその血を伝えた。晩年は孫の伊達政宗の庇護下にあり宮城郡根白石で没した。 
伊達小次郎(1568?-1590)
伊達輝宗次男。幼名竺丸。政道と名乗ったらしい。政宗に比べ、母に愛されたという。芦名氏の養子候補となったが芦名氏は佐竹氏から義広を養子として迎えたため、伊達と芦名の仲は険悪になった。1590年政宗が毒を盛られた際、政宗によって斬られた。家中の小次郎擁立派が小田原参陣をめぐって窮地に陥った政宗に代えて小次郎を当主にせんと企んだからという。この一件で母義姫(保春院)は実家最上家に戻り、養育役の小原定綱は殉死した。 
伊達実元(1527-1587)
伊達稙宗の三男。兵部大輔。藤五郎。信夫郡大森城主(福島市)。越後守護上杉定実の養子になることが決まっていたが、兄晴宗は武力で入嗣を妨害し、父稙宗は西山城(桑折町)に幽閉され「天文の乱」が起こった。実元は父稙宗方の武将として信夫周辺で兄晴宗の軍と戦った。父が隠居し、乱が終結した後は兄晴宗に仕えた。1570年中野宗時が輝宗に謀反し、追討を受け、相馬に逃れたが、実元を通じて帰参を願った。しかし、輝宗は許さなかった。また畠山氏が八丁目城(福島市)を奪ったが、1574年畠山義継を攻め、奪回した。1576年対相馬戦の起請文に名を連ねる。1585年息子成実に家督を譲り、隠居して八丁目城に入る。同年、畠山義継の和睦願いを取次いだが、これが輝宗の非業の死につながる。1586年相馬義胤からの伊達・畠山の和睦要請を取次ぎ、二本松城を開城に導いた。この結果、二本松城(二本松市)は息子伊達成実が城主を勤めることになった。伊達家の紋「竹に雀」は実元入嗣の際に引出物として上杉家から贈られたという。 
伊達成実(1568-1646)
伊達実元の子。安房守。兵部。藤五郎。母は伊達晴宗の娘であり、伊達輝宗の従兄弟にして甥。伊達政宗より一つ年下で、幼い頃から側に仕えていたともいう。1585年家督を相続し、大森城主(福島市)。同年、伊達輝宗が畠山義継に拉致される事件が起こり、輝宗は義継もろとも伊達軍に銃撃され、非業の死を遂げたとされるが、一説では政宗は不在で銃撃を命じたのは成実だったともいう。続く人取橋の戦いでは佐竹を中心とする連合軍相手に勇戦し翌年二本松城(二本松市)が開城すると二本松城主となる。1588年郡山の戦いでも活躍。1589年摺上原の戦いでは第三陣を勤め、芦名軍に斬り込む活躍を見せた。1590年葛西・大崎一揆鎮圧の際は蒲生氏郷の疑念を解くため人質として名生城(古川市)に赴いた。1591年政宗の岩出山移封により角田城主(角田市)となる。ところが朝鮮出兵から一時帰国して、伏見にいた成実は1593年高野山に密かに脱出してしまう。自分の戦功が認められず他の将より位が下であったのが理由とされる。留守政景が説得したが聞き入れず、政宗の命により屋代景頼が角田城を攻撃し、成実の妻子や家臣は討取られた。しばらく浪人の身で、1600年関ヶ原の戦いを控え、上杉景勝が五万石で迎えようとしたが断った。同年7月関ヶ原の戦いの直前、片倉景綱、留守政景、石川昭光の説得により伊達家に帰参した。1602年亘理城主(亘理町)となる。1615年大坂の陣にも出陣した。1638年江戸で将軍家光に拝謁し、奥州の軍議を談じて家光は成実の勇略に嘆称したという。成実は「成実記」(「政宗記」「伊達日記」)を著し、政宗の一代記を後世に伝えている。成実は「英毅大略あり武勇無双」と評された武勇の士であり、片倉景綱、茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称せられた。またその兜には「決して後戻りしない」とあらわすため毛虫の前立がついていた。 
亘理元宗(1530-1594)
伊達稙宗の十二男。兵庫頭。元安斎。亘理城主(亘理町)。亘理氏に養子に行った兄綱宗が死去し、元宗が亘理氏に養子に入った。相馬氏の領地に接することから、常に対相馬戦で活躍した。1570年中野宗時らが謀反し、追討を受け、高畠・白石を突破して相馬に逃げようとするところを刈田郡宮(白石市)で迎撃している。このため置賜・伊具・名取の三郡で所領を加増された。1574年最上義光との戦いに出陣。和睦の使いを勤めた。1578年対相馬戦を一任され、相馬盛胤と伊具郡で戦う。1583年子の重宗も加わり、策をめぐらして金山城、丸森城(丸森町)を相馬から奪回した。1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の戦いにも参加した。1590年葛西・大崎一揆では佐沼城の戦いで政宗に代わって戦を指揮し、負傷している。翌年、伊達家移封に伴い、涌谷城(涌谷町)に移った。 
留守政景(1549-1607)
伊達晴宗の三男。上野介。留守氏の養子となる。留守氏は陸奥国留守職の家柄で高森(岩切)城(仙台市)を居城とし、伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、伊達家の傀儡であった。政景はは留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により1567年養子に迎えられた。1568年黒川晴氏の娘を妻に迎える。1569年政景の入嗣に反対する村岡氏を滅ぼした。その後利府城(利府町)に移った。1574年兄輝宗に従い最上義光を攻め、1577年対相馬戦のために小斎に出陣した。1585年人取橋の戦いで奮戦した。1588年大崎義隆攻めの総大将として中新田城(中新田町)などを攻めるが、大崎家とつながりのある舅黒川晴氏の裏切りもあり大敗した。しかし黒川の厚意で窮地を脱したこともあり、黒川の助命嘆願をしてこれを救っている。1591年伊達家移封に伴い黄海(藤沢町)に移住した。1592年朝鮮出兵に出陣し、帰還の途中で伊達姓を拝領する。1600年関ヶ原の戦いでは最上義光への援軍を率い、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。1604年一関城(一関市)に移った。 
国分盛重(1553-1615)
伊達晴宗の五男。彦九郎。国分盛氏の養子となる。千代城主(仙台市)。盛重の国分氏入嗣には鬼庭良直の計略があった。置賜地方では下長井荘玉庭(川西町)、萩生城(飯豊町)などが国分氏の所領とされる。また最上義光に追われて千代に逃れた天童頼澄を迎えている。人取橋の戦いで活躍し、摺上原の戦い後は鮎貝城(白鷹町)を守備した。葛西・大崎一揆では米沢城留守居を努めた。蒲生氏郷の疑いを解くため、名生城に人質として赴いたこともある。しかし1599年病と称し、岩出山城(岩出山町)の政宗のもとに来なかったため、政宗は盛重を疑い、殺害を図ったので佐竹氏のもとに逃れ、佐竹家臣として横手城に住んだ。 
大有康甫(1534-1618)
伊達稙宗の十三男。一風軒。東昌寺(東正寺)十四世住職。6歳で出家し、伊達家の外交官として活躍。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の教育係に推挙した。1600年仙台北山に東昌寺を移した。南陽市赤湯にある東正寺はかつて東昌寺と称し、「赤湯温泉誌」では慈覚大師の草庵があった所に伊達家が押領した際、伊達家4代目の伊達政依(粟野蔵人)が跡地に精舎を建て、東昌寺と号したと伝える。ほかに1338年道叟道愛開山説と1383年長井氏を滅ぼし、9代伊達政宗が高畠城に入ってから元中年間に建立した説がある。仙台の東昌寺に伝わる説では1283年伊達政依が建立し、陸奥安国寺となり、1383年伊達氏の置賜郡攻略とともに夏刈(高畠町)に移り、大有康甫の時に仙台に移したとされる。しかし夏刈には以前から長井氏が開基した大寺院の資福寺があり、虎哉宗乙が資福寺住持になったことで赤湯の東昌寺と由来が混同した可能性もある。また「米沢地名選」によると東昌寺北山腹に「永仁二年(1294年)伊達式部少輔」の古碑があるとして、米沢に館を置く長井氏を滅ぼす以前から伊達氏は赤湯近辺を支配していたとも考えられる。赤湯に隣接する二色根に3代伊達義広の後胤という粟野氏が居城を置き、やはり伊達政依が建立したという観音寺(明治に廃寺)があったことと併せて考えると、東昌寺も長井氏滅亡以前から赤湯近辺を押領した伊達氏よって移されたか、最初から当地に建立された可能性がある。また伊達政依が建てた東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と呼ばれ、のち観音寺と興福寺は長井氏が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になったという。 
小梁川宗朝(1469-1565)
小梁川親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、鞍馬山中で暮らしていたが、将軍足利義晴に召しだされる。伊達稙宗も黄金を贈って扶持した。帰国して稙宗に近侍したが、1542年稙宗が嫡男晴宗により西山城に幽閉されると、変装して城に潜入し、稙宗を救出した。天文の乱では稙宗方として活躍し、稙宗が隠居して丸森城(丸森町)に移るとこれに従った。稙宗が亡くなると殉死した。息子宗秀は1570年天文の乱の元凶で伊達家の政治を牛耳った中野宗時が主君輝宗に背いたとき、先鋒として小松城(川西町)の中野宗時を攻め、宗時を相馬に追いやったが戦死した。 
小梁川盛宗(1523-1595)
小梁川親宗の子。泥蟠斎。高畠城主(高畠町)。小梁川氏は伊達家11代伊達持宗の三男盛宗に始まり、2代親朝は1514年伊達稙宗に従い、最上氏を長谷堂(山形市)に破り、長谷堂城を守備した。3代親宗は天文の乱で晴宗方について高畠城主となる。中野宗時と共に北条氏康への使いもしている。4代盛宗は1570年中野宗時らが伊達輝宗に背き、討伐を受け相馬に逃れた際、むざむざ高畠城下を通過させてしまったため輝宗に叱責された。1574年最上家での義守・義光の父子争いに際し、輝宗の命で最上家臣里見民部の守る上山城(上山市)を攻め、細谷で最上軍と戦った際は先鋒も務めた。1585年刈松田で大内定綱と戦う。後に出家して泥蟠斎を称す。政宗に近侍し、種々献策しており、勇武に秀でた謀臣だったという。 
桑折貞長(?-?)
播磨守。景長。桑折氏は伊達家3代伊達義広の長男親長に始まり、伊達郡桑折を領した。貞長(景長)は天文の乱において中野宗時と共に世子伊達晴宗に働きかけ、実元の上杉家入嗣を阻止させた。貞長は晴宗の参謀として活躍し、晴宗を奥州探題にするため奔走し、自身も守護代に任ぜられ、播磨守を名乗った。この奥州探題補任の返礼に鷹・馬・黄金三十両を贈っている。景長(貞長)は小松城主(川西町)で1577年小松城で没している。 
桑折宗長(1532-1601)
桑折貞長の子。点了斎。宗長は最初、出家して覚阿弥と称し、相模国藤沢遊行寺にいたが、本来の跡継ぎが早く亡くなったため還俗して貞長の跡を継いだ。1576年相馬氏との戦いに臨み、起請文を出し、1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の役では軍奉行。1589年摺上原の戦いでも子の政長と出陣した。政長は朝鮮出兵で病死したため、石母田景頼が桑折家を継いだ。宗長は伊達政宗の評定衆でしばしば談合に加わった。 
虎哉宗乙(1530-1611)
臨済宗の僧。美濃の福地氏の出で快川紹喜の門下として首座を勤めた。当初、伊達輝宗の叔父康甫が住職を勤める東昌寺に寓居していたが、1572年輝宗の要請で資福寺(高畠町)の住持となり、伊達政宗の師としても活躍する。した。1575年明人の翰林学士楊一龍が東昌寺に寄寓した際、宗乙と詩を唱和したという。また同年、京都妙心寺の住持にもなった。数々の寺の住持を歴任したが、1587年には非業の死を遂げた輝宗のため、政宗を開基として米沢の郊外遠山に覚範寺を開いた。1600年覚範寺を仙台に移転している。また松島瑞巌寺の再興を政宗に勧め、1604年から5年かけて再建させた。齢80にして歯が生えたともいう。 
片倉景綱(1557-1615)
米沢八幡神主片倉景重の子。母は本沢刑部の娘。小十郎。置賜郡では小桜城(長井市)、片倉館(長井市)、夏刈城(高畠町)などが片倉氏の城館とされる。景綱は遠藤基信に見出されて伊達輝宗の小姓に抜擢され、1575年輝宗の嫡男政宗の近侍となる。疱瘡で片目を失った政宗を補佐し、その知略で政宗の参謀として活躍した。1585年人取橋の戦いでは政宗を守り、奮戦した。1589年摺上原の戦いでは第二陣を受け持ち、戦見物をしている農民たちに発砲して逃げさせた。これを味方の敗走と勘違いした芦名軍は浮き足立ち、合戦に勝利したという。二本松城在番や大森城主(福島市)も務めている。豊臣秀吉からの小田原参陣要求に伊達家では臣従するか、一戦交えるか揉めたが、景綱は秀吉を蝿に例えて追い払ってもまた来ると言い、政宗に参陣を決意させた。1591年伊達家転封により亘理城主(亘理町)となる。朝鮮出兵でも軍船を賜り、活躍した。1600年関ヶ原の戦いに際しては西軍上杉景勝の白石城を攻め落とし、白石城主(白石市)となる。また上杉軍に攻められている最上義光から援軍要請を受けたときは主君政宗に「山形城は犠牲にして双方疲労の極みに達した時に上杉軍を完膚なきまでたたくべき」と献策したが、政宗の母、義姫が山形に居るのを知っていての冷酷な策だったため、さすがの政宗も怒って拒否した。伊達成実や茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と並び称せられたり、「武の成実、知の景綱」とも言われた。上杉家の直江兼続とともに二大陪臣として高く評価され、秀吉からも五万石の大名にすると誘われたが、自分は伊達家の家臣であると断った。1615年息子重長を自分の代わりに大坂の陣に出陣させた。 
片倉重長(1585-1659)
片倉景綱の子。小十郎。生まれた時、父景綱はまだ子が無い主君の政宗を慮って幼い重長を殺そうとしたという。重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川金吾秀秋に追い掛け回されたという。一方、勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。1600年白石城攻めに父とともに参加。1615年大坂夏の陣では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し、討ち取った。続いて真田幸村と対決した。重長の勇将ぶりを見込んだ幸村は娘阿梅を重長に託し、重長は阿梅を妻とした。こうして真田家の血は片倉家に受け継がれた。 
喜多(1539?-1610?)
鬼庭良直の娘。母は本沢刑部の娘。鬼庭綱元の異母姉。片倉景綱の異父姉。少納言。伊達政宗の乳母を勤めたという。 
鬼庭良直(1513-1585)
周防守。左月入道。鬼庭家は茂庭(福島市)と置賜郡永井(長井)荘の一部を領した。置賜郡永井荘川井(米沢市)に居館を構えた。伊達輝宗に重用され、評定役を務め、国分盛重の国分家入嗣のため画策した。1585年人取橋の戦いでは金色の采配を賜って総軍を指揮した。良直はしんがりとして奮戦し、200の首を挙げたが、老齢のため甲冑を着けず黄色の帽子をかぶって戦ったため、敵の目標となり岩城家臣窪田十郎に討ち取られた。しかしこの活躍で政宗は難を逃れることができた。 
鬼庭綱元(1549-1640)
鬼庭良直の長男。石見守。1575年家督を継ぎ、置賜郡永居郷川井城主(米沢市)となる。1585年人取橋の戦いで父良直を討った窪田十郎を捕らえたが、捕虜を斬るのは士道に恥じるとして仇を討たず釈放した。窪田十郎は感じ入って綱元の家臣となったという。1586年奉行に抜擢される。補給手腕に優れ、政宗の軍事行動を支え続けた。葛西・大崎一揆の件で政宗が一揆扇動の嫌疑を受けた際は上洛して弁明に努めた。1592年朝鮮出兵では肥前名護屋城で物資補給を任され、伊達軍に餓死者を出さなかった。豊臣秀吉に気に入られ、茂庭姓に改めさせられたり、側室香の前を与えられたりした。だが政宗の怒りを買って一時出奔したが、香の前を政宗に献上して許された。1600年上杉景勝を攻めた際は湯原城(七ヶ宿町)を攻略した。政宗の長男秀宗が宇和島藩主になった際は、宇和島に赴き初期の藩政を助けている。国老として数十年間活躍した。伊達家の内政・補給面を支え片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と呼ばれた。 
遠藤基信(1532-1585)
役行者金伝坊の子。山城守。伊達家で権力を握っていた中野宗時に見出されて用いられた。しかし、宗時の謀反の企みを知り、新田景綱とともに輝宗に訴えた。中野宗時らは討伐されて相馬へ逃亡し、宗時に代わり基信が伊達家の政治を司ることになった。基信は宿老に任ぜられ、織田信長、徳川家康、北条氏照らとの外交交渉を進めたり、片倉景綱など優秀な人材を見出したりした。1585年自分を重く用いてくれた主君輝宗が畠山義継に拉致され、非業の死を遂げると輝宗に殉死した。その墓は輝宗の墓に並ぶように資福寺跡(高畠町)に残されている。 
屋代景頼(1563-1608)
勘解由兵衛。屋代氏は置賜郡屋代荘(高畠町)を本拠とし、景頼の祖父屋代閑盛の時代には伊達家国老となるほどであった。しかし父の代で罪があり所領は没収され、兄は鹿股源六郎を名乗って鹿股家に入ったため景頼が屋代家を継いだ。景頼は政宗に近侍し、旧領を回復。1591年国老に任ぜられた。葛西・大崎一揆鎮圧では一揆を起こした物頭衆をだまし討ちで皆殺しにした。1592年朝鮮出兵が始まると岩出山城の留守を預かり、国政を取り仕切った。1596年伊達成実が政宗の命に背き、高野山へ出奔すると成実の居城角田城(角田市)を攻め、成実の妻子や家臣を討ち取っている。1600年関ヶ原の戦いに際し、最上義光への援軍として直江兼続率いる上杉軍と戦い、福島城攻めの第二陣も務めた。しかし、驕った振る舞いが多いという理由で1607年所領を没収され、浪人する。翌年、近江で死去したという。裏の仕事を仰せつかることが多かった景頼だが政宗の弟小次郎の殺害を命じられた際は、さすがに再三辞したため、政宗自身の手で弟小次郎を殺したという。 
原田宗時(1565-1593)
左馬助。幼名虎駒。原田城主(川西町)。山嶺源一郎の子だが、1582年伯父原田大蔵宗政が戦死した跡を継いだ。1585年牢人平田を派遣して芦名の武将を内応させ、会津を攻めたが平田自身が敵方に走ったため敗北した。原田は後藤信康が自分を笑ったことを怒り、決闘を申し入れたが信康は二人が争って死ぬことは国の損失で、国のために戦って死ぬことが大切と説き、原田は己の未熟さを悟り、信康と親交するようになった。1585年刈松田に出陣し、大内定綱に備えた。続いて本宮に出陣し、佐竹・岩城連合軍に備えた。1588年郡山の戦いでは評定衆として活躍。また原田家は宿老の家柄で常日頃から政宗に近侍し、談合に参加した。1592年原田は朝鮮出兵への出陣で大太刀を背負い、金の鎖で結び、駿馬にまたがり現れ、伊達軍中でも一層目立ったという。しかし翌年釜山で病気になり、対馬まで帰るがそこで亡くなった。29歳の若さであった。なお原田宗時の孫、原田甲斐守宗輔は伊達騒動の中心的人物で、事件を起こした罪で原田家は断絶した。 
後藤信康(1555-1614)
湯目重弘次男。後藤信家養子。肥前守。孫兵衛。知勇兼備の将で黄色の母衣を背負って戦ったことから「黄後藤」と呼ばれた。1585年芦名氏攻略の別働隊として米沢から桧原峠を越え、桧原(北塩原村)を攻略し、桧原城を守備した。しかし退屈なので従者が逃げてしまいましたなどと政宗に言上している。原田宗時が内応させた芦名の武将と芦名の本拠地黒川城(会津若松市)を攻めて敗退した時、信康はこの話を聞き笑った。原田は怒って信康に決闘を申し入れたが、信康は碁を指しながら「お主の言うことはもっともで、決闘を受け入れても構わない。だが私的な理由でお主のような勇士が命を落とすのは国にとっての損失だ。むろん私もこんなことで命を失いたくはない。互いに国のために戦い死ぬことがほんとうではないか。」と語った。これで原田は自分が未熟であると恥じて信康と親交するようになった。二人は朝鮮出兵の出陣式で2.7mの大太刀を金の鎖で肩から下げ、派手な伊達軍の中でも一層目立った。原田が朝鮮出兵中に病で29歳の若さで亡くなると信康は原田の大太刀を譲り受け、家宝にしたという。葛西・大崎一揆では佐沼の戦いで敵将山上内膳を一騎打ちで倒し、宮崎城攻めでは夜襲をかけ落城させたが軍令違反で知行没収となった。またキリシタン武将の後藤寿庵を義弟としている。仙台城築城では普請総奉行を勤めた。大坂の陣では出陣を命ぜられなかったことに抗議するため、愛馬「五島」にまたがり、城の本丸から飛び降りて死んだとも伝えられる。 
湯目景康(1564-1638)
湯目重康の子。豊前守。幼名知喜力。湯目氏は大橋(南陽市)、長岡(南陽市)、筑茂(高畠町)、洲島(川西町)などに城館を構え、最上川、吉野川、和田川の合流する置賜盆地中央部に勢力を張っていたらしい。吉田東伍博士によれば赤湯の旧名が湯野目であるとしており、或いは赤湯由来の豪族かとも推測される。景康は人取橋の戦い、摺上原の戦い、葛西・大崎一揆鎮圧で活躍し、佐沼城(迫町)を与えられる。朝鮮出兵でも活躍。1595年豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられた事件で主君の政宗が謀反加担の疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗に罪が無いことを訴えた。これ以降、津田と改姓したという。関ヶ原の戦いでは白石城攻略や最上への援軍の副将として活躍。大坂の陣でも活躍した。 
粟野秀用(?-1595)
木工頭。喜左衛門。二色根城主(南陽市)。伊達小次郎の傅役であったが、小次郎が兄政宗に斬られたため、伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。武功により取立てられ、伊予松前十五万石の大名にまでなるが、秀次事件に連座して1595年自害した。このつながりで政宗も秀次一味と見られ、秀吉への弁明に奔走することになった。粟野氏は南陽市川樋、岩部山などに居館を持ち、南陽市付近で勢力があったらしい。また、かつて二色根には伊達家4代目伊達政依(粟野蔵人)開基とされる観音寺があった。伊達家3代目伊達義広は「粟野次郎」を名乗っており、「米沢事跡考」によると粟野氏は伊達義広の後胤にあたるらしい。 
鮎貝宗重(1555-1624)
日傾斎。鮎貝城主(白鷹町)。家督を政宗に譲った輝宗を隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えている。子の鮎貝宗信と仲が悪く、1587年宗信は最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが、聞き入れられず、政宗に言上して鮎貝城を攻めさせ、宗信を最上に追いやった。その後、政宗の近侍として種々の談合に参加した。 
鮎貝宗信(?-?)
鮎貝宗重の子。藤太郎。忠旨。鮎貝城主(白鷹町)。父、鮎貝宗重と仲が悪く、1587年最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが宗信は聞き入れず、政宗に鮎貝城を攻められ、最上に落ち延びた。 
新田景綱(?-?)
遠江守。景綱の息子義直は中野宗時の孫娘を妻にしていたが、1570年中野宗時の謀反に加担し、それを知った父、景綱は遠藤基信らと主君輝宗に訴え、息子義直を館山城(米沢市)に滅ぼし、中野宗時らの追討軍を率いて小松城(川西町)を攻め落とした。別の息子義綱は1585年後藤信康とともに桧原城(北塩原村)に在番した。 
中野宗時(?-?)
常陸介。伊達稙宗に仕え「塵芥集」制定の際、家老評定人として連署している。1542年稙宗の子実元が上杉定実の養子に入るとき、稙宗の嫡男晴宗を説いてこれを実力で阻止させ、稙宗を西山城に幽閉させた。こうして天文の乱が始まると晴宗の参謀として活躍し、天文の乱を晴宗の勝利に導く。家督を継いだ晴宗から重用され、多大な所領得た。次男久仲には宿老牧野家を相続させ、伊達家中随一の権勢を振るった。1555年晴宗の左京大夫任官と輝宗の将軍の一字拝領に奔走し、子の牧野久仲を守護代にした。また北条氏康への使者も務めている。だが、1565年輝宗が家督を継ぐと宗時を抑えようとする輝宗と対立し、1570年息子牧野久仲や新田義直らと謀反を計画した。だが、宗時に仕えていた遠藤基信や義直の父新田景綱らが輝宗に訴えたため輝宗に追討される。新田景綱、小梁川宗秀らの追討軍に小松城(川西町)を攻められ、落城。高畠、白石を抜け相馬へ逃れた。先代の晴宗や実元を通じて輝宗に帰参の許しを請うたが許されず、相馬から会津に流浪したが、飢えと寒さで死去したという。息子久仲も孫美濃も許されず、その次の盛仲に至って伊達政宗に召しだされた。 
牧野久仲(?-?)
中野宗時の子。弾正忠。宗仲。天文の乱の最中、伊達家累代の宿老、牧野宗興とその子景仲が相次いで没し、久仲が牧野家に入った。天文の乱後、父中野宗時とともに権勢を握り、伊達晴宗の奥州探題任官に奔走。桑折貞長とともに守護代となる。だが1570年父とともに小松城(川西町)で伊達輝宗に謀反し、輝宗の討伐を受けて相馬に逃れた。のち帰参を乞うが許されなかった。孫の盛仲に至って許され、伊達政宗に召しだされた。 
上郡山景為(?-?)
右近丞。小国城主(小国町)。伊達家移封により、玉造郡宮沢城に移った。 
錦織即休斎(?-?)
伊達政宗の側近。二本松城攻略中の政宗より書を送られる。度々茶・料理の席に相伴している。佐竹義重との和睦では検使役を勤め、談合にも参加。政宗の母義姫が政宗を毒殺しようと毒を盛った際、政宗に薬を調進して政宗の命を救った。
白石宗実(1553-1599)
白石宗利の子。若狭守。白石城主(白石市)。祖父実綱は天文の乱で西山城を追われた伊達晴宗を白石城に迎え、晴宗方として活躍。父宗利は1570年中野宗時が輝宗の追討を受けて相馬に逃れる途中、むざむざ白石を通過させたことで輝宗の怒りを買ったが、同様に見逃した高畠城主小梁川盛宗とともに許されている。宗実は伊達政宗に従い1576年相馬攻めに際して起請文を出し、1584年相馬の駒ヶ嶺城攻めの殿(しんがり)を勤めた。1585年大内定綱と戦い、敵の小浜城の内応を画策。1586年相馬義胤からの伊達・畠山和睦要請を政宗に取り次いでいる。これらの功で塩松城主となる。1588年郡山の役では軍評定に加わり、1589年摺上原の戦いでは第四陣を勤めた。政宗の移封に伴って水沢城主(水沢市)となり、1593年には朝鮮出兵に出陣した。しかし、1599年伏見で47歳で死去したため、梁川宗清(伊達稙宗の子)の子宗直が跡を継いだ。 
鈴木元信(1555-1620)
岩出山市正の子とも、会津黒川の穂積氏の出ともいう。伝えられる名前も秀信、高信、重信と多い。和泉守。商人の出で、京で茶を学び、茶道の師として政宗に召抱えられた。行政・経営に優れたため重用された。政宗の移封に伴い、古川城主(古川市)となる。伊達政宗が天下を取った時のために「式目」「憲法」草案を作ったが、幕府が安定したため、臨終の際に幕府の疑惑を招くからとして焼却したという。 
支倉常長(1571-1622)
山口常成の子。支倉忠正の養子。与市。六右衛門。支倉氏は柴田郡支倉(川崎町)を領有した。政宗の命により、宣教師ソテロとともに月ノ浦(石巻市)から出航し、メキシコ、スペイン、ローマを訪れる。スペインでは洗礼を受け、ローマではローマ教皇に謁見した。だが目的の通商締結は不成功に終わり、マニラを経由して1620年日本に帰った。しかし帰国した頃は既にキリシタン弾圧に乗り出しており、常長が活躍することは無かった。 
泉田重光(1529-1596)
泉田景時の次男。安芸守。泉田景時は伊達晴宗の代から家臣になった。1582年重光の兄光時が対相馬戦で戦死したため、重光が跡を継いだ。重光は岩沼城主(岩沼市)となり、政宗のもとで二本松城攻略などに活躍。1588年大崎義隆の中新田城(中新田町)を攻めた際は大敗し、重光が最上氏の人質になることで撤退できた。和議の後、伊達家に戻り、朝鮮出兵にも従軍した。 
小山田頼定(?-1588)
筑前守。柴田郡小山田の領主。1588年留守政景に従い、軍奉行として大崎義隆の中新田城を攻めるが、敵将南条隆信の抵抗で苦戦。退却中に敵兵に討たれた。勇将であったという。 
山岡重長(1544-1626)
志摩守。柴田郡小成田の領主で輝宗の頃から伊達家に仕えた。1588年大崎義隆攻めでは軍目付。1590年葛西・大崎一揆鎮圧に功があった。朝鮮出兵では敵の女武者を生け捕り、妻にして帰った。大坂の夏の陣でも功を挙げた。 
 
蒲生 

 

蒲生氏郷(1556-1595)
近江日野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代。六角氏を滅ぼし、南近江に進出した織田信長の人質となるが、信長に気に入られ、信長の娘冬姫を娶わせられる。浅井・朝倉攻め、長島一向一揆、長篠の戦、伊賀攻めなど多くの合戦で活躍。信長没後は秀吉に従い滝川一益攻め、小牧・長久手の戦いで活躍し、伊勢国で十二万石を領し、松ヶ島城主となる。その後も九州征伐や小田原征伐に従軍し、奥州仕置の後、伊達政宗の旧領会津と仙道及び置賜に移封され九十二万石の太守となった。だが本人は喜ばず「小身でも畿内にいれば天下取りの機会もやってくるが奥州の田舎ではそれもかなわない」と嘆いた。秀吉とすれば伊達政宗、上杉景勝、最上義光、そして徳川家康らの有力大名の狭間でにらみを効かせられるのは氏郷だけと見込んだのだが、同時に信長の婿で大望もある蒲生氏郷を畿内に置くのは危険と判断した節もある。政宗が送った刺客を捕らえた際、かえって忠誠をほめたという。また次の天下人を聞かれて「前田利家か自分である。家康には知行を惜しみなく分配する器量が無いから天下人にはなれない。」と答えた。氏郷の美学ではこのような評価になのかもしれない。居城の黒川城を(会津)若松城、米沢城を松岬城と称したが、かつて領有した伊勢や近江の地名にならったという。40歳の若さで死去。茶人千利休の高弟でもあり、洗礼名レオンを名乗るキリシタン大名でもあった。氏郷の治世によって近江商人、伊勢商人が山形に進出するようになり、置賜地方では切支丹が増えたらしい。また南陽市には蒲生飛騨守氏郷に由来するという蒲生田の地名が残る。 
蒲生秀行(1583-1612)
幼名鶴千代。1595年父、氏郷の死で13歳で跡を継ぐ。1598年に家臣同士の争いが起き、蒲生郷安が亘理八右衛門を討ち果たした。この御家騒動で秀行は会津九十二万石を没収され、宇都宮十八万石に移された。蒲生氏の置賜支配はこうして8年で終わった。秀行はその後、関ヶ原の戦いの功で会津六十万石(※置賜は領しない)に復帰した。また1626年には秀行の次男の蒲生忠知が上山藩主となったが、僅か一年で兄の会津藩主蒲生忠郷が急死したため、本家を相続して伊予松山に移封された。 
蒲生郷安(?-1600)
元六角家臣赤坂隼人。蒲生氏郷に使え、改名。氏郷の会津移封後、米沢城主に抜擢され三万八千石。筆頭仕置奉行として活躍したが、秀行の代になり、秀行の寵臣亘理八右衛門を斬った。蒲生家は転封となり、郷安は小西行長に預けられた。関ヶ原の戦いでは小西行長の将として肥後で戦い、加藤清正に捕らえられ自刃した。 
蒲生郷可(?-?)
旧名上坂左門。九州征伐で先鋒として巌石城を攻撃。左一番隊の戦奉行。氏郷の会津移封後、最上との国境にある中山城(上山市)で一万三千石を領した。郷可は郷安と仲が悪く、1592年宮内城(南陽市)を修築し、米沢城の郷安を攻めようとしたが諸将の仲介で和解したという。 
佐久間安次(1555-1627)
安政。久右衛門。久六郎。父、佐久間盛次は織田信長の重臣佐久間信盛の兄。兄の佐久間盛政は「鬼玄蕃」と呼ばれ、柴田勝家に仕えた猛将。もう一人の兄、柴田勝政も柴田勝家に仕えて柴田姓を与えられた。安次も柴田勝家に仕えた。安次は保田知宗の養子となり、一時保田姓を称する。柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗北した後、織田信雄、北条氏政に仕えて秀吉に抵抗し続けた。小田原落城後は蒲生氏郷に仕え、会津転封の際に小国城主(小国町)となり一万石を領した。置賜地方は蒲生郷安、蒲生郷可、佐久間盛次の三人で統治された。弟の佐久間安之(勝之)も蒲生氏郷に仕えた。1600年関ヶ原の戦いでは弟とともに徳川家康に従い、1615年信濃飯山二万石を領した。小国城主の名前については佐久間久右衛門とも佐久間久左衛門とも書かれ、安次とも盛次とも伝わり、はっきりしない部分もある。 
 
上杉1 

 

上杉景勝(1555-1623)
坂戸城(新潟県六日町)城主、長尾政景(上田長尾氏)の次男。上杉謙信の養子。母は謙信の姉、仙桃院。1559年5歳で叔父上杉謙信の養子となり元服し、喜平次顕景を名乗る。1564年実父長尾政景が宇佐美定満と舟遊中に事故で溺死。1575年上杉弾正少弼景勝と改名した。景勝は「御中城様」と呼ばれ、謙信の軍役に従う武将でもあった。1578年養父謙信が亡くなると同じく謙信の養子で実姉の夫、上杉三郎景虎(北条氏康の子)と謙信の跡目を争う(御館の乱)。景勝は謙信の遺言で相続したとして春日山城の本丸(実城)を抑えた。一方、景虎は前の関東管領上杉憲政の住む御館に入る。当初、実家北条氏の威を借りた景虎が優勢であったが、景勝は劣勢挽回のため、武田勝頼の家臣に賄賂を握らせ勝頼と和睦し、武田信玄の娘で勝頼の妹、菊姫を妻に迎えた。この結果、次第に形勢は逆転し、景虎側は関東からの援軍北条氏照、氏邦が雪のため撤退。北条景広は景勝勢に討たれた。上杉景信は景勝方の山浦国清(村上義清の子)に討ち取られた。御館の上杉憲政は景虎の子道満丸を連れて和解のため景勝のもとに赴くが二人とも斬殺された。景虎は妻とともに鮫ヶ尾城に逃れるが、城主堀江宗親の裏切りで追い詰められ自害した。こうして景勝は越後を統一したが、論功行賞のもつれで直江信綱が斬殺され、安田顕元は自害、新発田重家に至っては織田信長に通じて1581年反乱を起こした。景勝は重要拠点の新潟(新潟市)をめぐって新発田軍と攻防を繰り返し、1583年ようやく新潟を制圧。1586年信濃川対岸の沼垂を制圧した。港町新潟と沼垂の町人は武装商人で彼らが味方についたことが景勝にとっては大きかった。補給路を失った新発田城は1587年落城し、新発田重家は自害した。この間、1582年織田軍により越中魚津城が落とされ窮地に陥るが、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、越後の危機は去る。代わって信長の後継者となった羽柴秀吉に誼を通じた。1589年佐渡を平定した。翌年小田原攻めに参加し、松井田城、鉢形城、八王子城を攻略。朝鮮出兵にも参加。1596年には五大老に列せられた。1598年蒲生氏が移された後の会津に転封となる。会津、仙道、置賜、庄内、佐渡といった広範囲を領有し、百二十万石を数えた。景勝は新領地、会津で道路の整備、神指城築城などに取り組んだが、豊臣秀吉が没し、五大老筆頭の徳川家康が実権を握ると景勝の動きを謀反を企むものと決めつけた。これに対して景勝は徳川家康との対決姿勢を鮮明にし、家康から上杉征伐を受ける。だが家康の真の狙いは石田三成を挙兵させて反徳川勢力をまとめて潰すことにあったようで、上杉を攻めずに挙兵した石田三成率いる西軍と戦うために関ヶ原へ向かった。上杉軍は伊達や最上など東軍諸将に釘付けにされ、東北もまた戦の舞台となった。特に直江兼続率いる上杉軍が最上義光を攻撃して長谷堂城を包囲し、山形城に迫る勢いだったが西軍の敗報を受けて撤退した。一方、白石城は伊達政宗に攻略され、福島城まで攻め込まれた。戦後、米沢三十万石に移された。大坂の陣では鴫野口を守り、功を挙げた。この時、家康からねぎらわれたたが、景勝は「子どものケンカみたいなもので骨を折ることもありません」と答えた。景勝は家臣からも恐れられた。富士川の渡しで家臣が乗りすぎ船が沈みそうになったとき、景勝が無言で杖を振り上げると家臣は皆一斉に川に飛び込んだという。景勝の行列も共の者の誰も喋る者、咳をする者が無く、足音しか聞こえなかった。また景勝は笑顔を見せない男だった。あるとき飼っていた猿が景勝のマネをして、景勝の帽子をかぶり、腕を組んで家臣に指示する如く頷いていた。これを見て景勝は笑顔を見せたのだが、これが家臣に見せた生涯ただ一度の笑顔だった。 
菊姫(1558-1604)
武田信玄の娘。上杉景勝の妻。大儀院。「本朝二十四孝」の八重垣姫のモデルともいう。1578年御館の乱が勃発し上杉景勝は謙信のもう一人の養子で実家小田原北条家がバックについている上杉景虎を相手に苦戦を強いられた。この状況を打破するため、景勝は武田勝頼の家臣に賄賂を贈り、武田家との同盟を成功させ、勝頼の妹菊姫を妻に迎えた。菊姫は賢夫人であったそうで倹約にもよく努め、弟武田信清も上杉家に迎えた。1595年秀吉の人質として京都伏見に住まうようになった。1604年京都上杉邸で亡くなり、米沢林泉寺に葬られた。 
武田信清(1563-1642)
武田信玄の六男もしくは七男。景勝の妻菊姫の弟。大膳大夫。三郎。幼名大勝。当初僧となり玄龍と称したが、兄武田勝頼の命で還俗し、安田三郎信清を名乗る。1582年兄武田勝頼が織田軍に攻められ、天目山で自刃すると僧姿で高野山に逃れ、のちに義兄上杉景勝を頼って越後に赴き、その家臣として武田大膳大夫信清を名乗った。上杉家親族として高家衆筆頭に列せられ、代々米沢藩に仕えた。1642年80歳で死去し、林泉寺に葬られた。 
仙桃院(1523?-1609)
長尾為景の娘。上杉謙信の姉。綾姫。坂戸城主(六日町)上田長尾氏の長尾越前守政景に嫁ぎ、二男二女を産む。長男義景は早くに亡くなり、1564年夫長尾政景も溺死する。次男顕景(後の上杉景勝)を弟上杉謙信の養子にし、二人の娘をそれぞれ謙信の養子上杉景虎(北条氏出身)と上条政繁(畠山氏出身)に嫁がせ、謙信一門を固めた。聡明な女性で上杉家を陰で支えていた人物であり、樋口与六(直江兼続)の才を見出し、わが子景勝の近習として取り立てたという。1578年謙信の死で景勝と景虎の家督相続争いが始まり、御館の乱が勃発。戦いは景勝が勝利し景虎とその妻(仙桃院の娘)は自害した。その後は景勝を支え続け、1609年米沢で亡くなった。 
直江兼続(1560-1619)
樋口兼豊の長男。山城守。幼名与六。後に名を重光と改める。坂戸城(新潟県六日町)に生まれる。坂戸城主長尾政景の次男で上杉謙信の養子、上杉景勝の近習となり、名将上杉謙信の感化を受けて育ったという。御館の乱の後論功行賞を巡って上杉家重臣直江信綱が毛利秀広に斬殺される事件が発生。景勝の命により信綱の寡婦お船と結婚して直江家を継承し、与板城主(新潟県与板町)となる。兼続は景勝の参謀として活躍し、豊臣秀吉の懐刀、石田三成との交流を深める。秀吉からも「天下の仕置を任せられる男」と高い評価を受け、豊臣姓を与えられた。景勝が秀吉の命によって会津百二十万石に転封されたときには、米沢城主となり四分の一の三十万石を領したという。秀吉没後、徳川家康が景勝の築城や道路整備を謀反ではないかと詰問した際、いわゆる「直江状」を家康に送って一つ一つに反論し、家康に挑戦したとされる。一説には関ヶ原の戦いは兼続が石田三成と共謀して起こしたものとするものもある。こうして関ヶ原の戦いでは西軍に属し、兼続は上杉軍を率いて山形の最上義光を攻めた。白鷹山を越えて畑谷城(山辺町)を落とし、城主の江口五兵衛光清を討ち取った。続けて志村伊豆守光安の拠る長谷堂城(山形市)を包囲攻撃したが、志村はよく粘り、逆に上杉方の上泉泰綱が戦死した。長谷堂城包囲中に西軍の敗報が届き、撤退を余儀なくされた。戦後、上杉家の所領は米沢三十万石に減らされた。兼続は米沢領の開発に努める一方、徳川家康の参謀、本多正信の次男政重を養子に迎え、徳川との関係改善に努めた。大坂の陣でも活躍した。兼続は民政家として優れており、米沢に入部してすぐの慶長年間には腹心の春日元忠を高畠城代に据え、赤湯白龍湖周辺の湿地帯(大谷地)開拓を推進している。米沢市内を流れる最上川には「直江石堤」と呼ばれる堤防を築き洪水を防いだ。領内の主要街道には一里塚を置き、整備している。米沢の城下町整備にも力を入れ、下級武士達を南原など米沢周辺の原野に配し、守備に開発に役立てた。軍備も怠り無く、白布温泉に鉄砲鋳造工場を建設した。この鉄砲は大坂の陣で大いに活躍したという。兼続の逸話に次のようなものがある。「上杉家中の者(三宝寺勝蔵とも横田式部ともいわれる)が些細なことで下人を殺害したため、下人の親類が怒って下人を返せと騒いだ。兼続は銀二十枚を出して弔うように宥めたが、親類は返せの一点張りで埒があかないため「ならばお前達が直接行って閻魔大王に頼んで来い」と親類を殺して閻魔大王宛ての高札を立てた。」兼続の為政者としての優秀さと厳しさをあらわす話として伝えられている。兼続はプライドも高く、伊達政宗が懐から黄金の大判を取り出して己の財力を諸大名にひけらかしていたところ、自分に回ってきた大判を扇で受けて羽根つきのようにひっくり返して眺めた。政宗が手にとって見ても差し支えないと言うと兼続は「自分の手は謙信公の時代から采配を取ったもので、こんないやしい金銭は手に取るのも穢らわしいので扇に乗せて見ているのだ」と言い、大判を政宗に投げ返したという話も残されている。兼続はたいへんな学問好きであり、城を落とせばまず書庫を探して書物を集めたと言われるほどであった。特に朝鮮出兵では宋版「史記」「漢書」「後漢書」といった貴重な史書を得ている。自らも直江版文選といわれる「五臣註文選」を著している(「文選」は中国の南北朝時代に梁の昭明太子が編纂したもの)。また学問所「禅林文庫」を設立し、のちに藩校興譲館につながる米沢藩の学問の基礎をつくったとされる。 
お船(1559-1637)
直江実綱(景綱)の娘。直江兼続の妻。直江家には男子が無かったため、当初惣社長尾家の信綱を婿に迎えたが、1581年御館の乱の論功行賞に不満の毛利秀広が直江信綱と山崎秀仙を春日山城内で斬殺した。このため景勝の側近で信任の厚い樋口与六兼続を婿に迎え、上杉家重臣直江家を存続させた。兼続を内助の功で支えた。主君景勝の子定勝(第二代米沢藩主)を養育し、定勝もお船になついた。1615年兼続との嫡子直江平八景明が22歳の若さで病没し、娘婿で養子の直江勝吉(本多政重)も妻が亡くなったため上杉家を去り、加賀前田家臣となった。このため、直江家は断絶が決まった。1637年江戸鱗屋敷で81歳で亡くなり、米沢林泉寺に葬られた。 
直江勝吉(本多政重)(1580-1647)
直江兼続の養子。本多正信の次男。1597年徳川秀忠の乳母の子を斬って徳川家を出奔。大谷吉継家臣を経て宇喜多秀家の家臣となる。1600年関ヶ原の戦いでは同僚明石全登とともに宇喜多軍を率いて東軍を相手に奮戦した。戦後近江堅田に隠棲したが、前田利長や小早川秀秋から仕官の誘いがあり、一度はこれらを断り高野山に入った。その後福島正則、前田利長に仕えたが旧主宇喜多秀家配流を知り、同行を願うも叶わなかった。1604年上杉景勝に仕え、直江兼続の娘を娶り直江勝吉を称した。しかし、1611年妻が亡くなり前田家に戻る。前田家では幕府との交渉役として活躍し、前田家家老としては最高の五万石を得た。1614年大坂の陣にも出陣し、真田丸に拠る名将真田幸村と戦ったが敗北した。上杉家を去った後も直江兼続を義父として敬ったという。 
樋口兼豊(?-1602)
直江兼続、大国実頼の父。伊予守。長尾政景家臣であったが1564年長尾政景溺死の後、上杉謙信に仕えた。1578年謙信の死で養子景勝と景虎が争う御館の乱が勃発。兼豊は景勝の配下として活躍し、直峰城主(安塚町)となる。主家の会津移封、米沢移封に従う。樋口家は三男秀兼が継いだ。 
大国実頼(1562-1622)
直江兼続の弟。1582年小国重頼の養子となり、後に命により大国姓に改めた。1586年新発田重家討伐に従軍した。聚楽第完成の際は豊臣秀吉への賀使を務めた。1598年上杉家会津移封の際は南山城代(田島町)となる。関ヶ原の戦い後は1602年亀岡文殊での歌会で出題者を務める。しかし兄直江兼続と仲違いして高野山に出奔。兼続が没した後、上杉家に戻り、高畠城代(高畠町)となった。 
前田利大(1542-1612)
前田利久の養子。前田利家の甥。実父は滝川一益とも益氏とも。利益。利治。慶次郎。叔父前田利家に仕えていたが傾き者で奇行で有名だった。数々のエピソードがあるが、叔父で主君の前田利家を悪戯で水風呂に入れて前田家を出奔したという。その後上杉景勝の家臣となり、穀蔵院ひょっと斎と称したという。「大ふへんもの」と旗指物に書いて皆が「大武辺者」とは何事かと怒ったのを「大不便者」じゃとケムに巻いた話とか、勝手に朱槍を用いて他の武将が怒り、他の武将にも朱槍を許すことになったとか、林泉寺の和尚を碁の罰ゲームにかこつけて殴った話とか多数の話が残る。1600年直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。しかし最上方の長谷堂城はなかなか落ちず、関ヶ原で西軍が敗れた知らせを受け、撤退する。最上義光はこれを追撃したが、利大はこの退却戦で奮戦し、撤退を成功させた。続いて伊達政宗が福島城を攻めた際は伊達軍に一騎打ちを求め、槍で相手の頭をたたいて気絶させ相手に小便をかけ、自陣へ帰った。戦後は米沢郊外の堂森にある庵に隠居したが、ここでも「兜をむくる」と村人を集めておいて、ただ兜を後ろ向きにするという奇行をやっている。1602年には亀岡文殊で直江兼続が開いた歌会に安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らと参加している。利大はただの変人ではなく、当時の風俗がわかる「前田慶次道中日記」も書き残している。 
上泉泰綱(1552-1600)
新陰流の祖、剣聖上泉伊勢守信綱の孫(次男ともいう)。主水正。憲元。浪人していたが前田利大らとともに上杉景勝に仕えるようになった。1600年関ヶ原の戦いが起こると上杉軍も最上義光を攻め、上泉も直江兼続に従い最上を攻める。しかし長谷堂城はなかなか落とせず、上泉は敵に突撃を仕掛け、援軍の伊達勢と壮絶な戦いを演じるがついに上泉は討死した。 
車斯忠(?-1602)
佐竹家臣。丹波守。1571年佐竹家重臣和田昭為を讒言により白河結城氏のもとに追いやり、佐竹義重の側近として活躍。1593年朝鮮出兵では肥前名護屋城に赴いた。関ヶ原の戦いの前に上杉景勝に仕え、1600年関ヶ原の戦いでは福島城、梁川城に在番。これは中立の立場をとる佐竹氏が上杉家に助力するため、車を送り込んだものともいう。戦後、常陸に戻るが、1602年佐竹氏の秋田移封に反対し、水戸城奪回を企てたが捕らえられて殺された。その一族は将軍家に仕え、代々車善七を称して非人頭を勤めたという。 
水原親憲(1546-1616)
大関親信の子。常陸介。弥七。越中の出身で上杉謙信に仕える。1561年川中島の合戦で活躍した。1582年水原満家が新発田重家の謀反軍との戦いで戦死したため、水原氏を継ぎ、水原城主(水原町)となる。1598年上杉家の会津転封に従い猪苗代城代(猪苗代町)となる。1600年徳川家康の会津征伐の際、石田三成が上方で挙兵したという報を受け、家康が上方に向ったが、それをほかの家臣が喜ぶ中、家康が戻れば三成は敗れ、上杉は孤立してしまうと冷静に見ていた。続いて直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。長谷堂城を攻めるがなかなか城を攻め落とせず、清水義親と楯岡光直の最上軍が救援にやってきたが、水原は鉄砲隊を率いて須川で待ち伏せて最上軍を撃破した。予想通り関ヶ原で西軍が敗北した知らせを受け、撤退に転じる。最上義光はここぞと追撃を仕掛けるが富神山まできたところで伏兵となっていた水原の鉄砲隊が最上義光を攻撃した。義光は水原の退路を絶とうとしたが、そこへ直江兼続、前田利大らが最上軍に攻めかかり食い止めた。結局、最上義光は追撃を断念。撤退に成功した。1614年大坂冬の陣にも出陣し、鴫野の戦いでは大野治長ら豊臣軍一万二千に五千の上杉軍が攻撃された。第一陣須田長義が押されて後退したところ、第二陣の水原は鉄砲隊で豊臣勢を攻撃。そこへ横から安田能元が攻めかかり、豊臣勢を撃退した。この働きに対して徳川秀忠は水原に感状を与えたが水原は「こんな戦は子供の石合戦のようなもの。昔は今日死ぬか明日死ぬかという戦いでも感状などもらえなかった。こんな花見みたいな戦で感状がもらえるとは笑い話じゃ」と言ったという。1601年大石綱元が亡くなった後、会津三奉行の一人になったという。また将軍家が手紙に「水原」と書くところを「杉原」と書いたため、杉原に改姓したともいう。 
色部光長(?-1620)
色部長実の子。長門守。与三郎。平林城主(神林村)。1592年父色部長実が亡くなり、幼少ながら跡を継ぐ。直江兼続の妹を妻にした。朝鮮出兵に参加。上杉景勝の会津転封に従い、金山城主(南陽市)となる。1600年関ヶ原の戦いでは兼続率いる最上義光攻めの先鋒となり、江口五兵衛光清が守る畑谷城(山辺町)を落した。続いて長谷堂城(山形市)の志村伊豆守光安を攻めるが城を落とせぬまま、関ヶ原で西軍が敗退。逆に最上義光の追撃を受け、これを防いで撤退に成功した。上杉家が米沢三十万石に減封された後は窪田(米沢市)を知行とし、千眼寺を建立した。千眼寺の保呂羽堂では毎年十二月に裸餅つきが行われる。大坂の陣にも出陣している。色部家は江戸時代を通して上杉家重臣として活躍している。 
春日元忠(?-1608)
信濃更級郡の出身。旧武田家臣。1582年の武田家滅亡で、上杉景勝に仕える。専ら直江兼続のもとで活躍し、兼続の絶大な信頼を受け「直江被官の棟梁」と呼ばれた。1584年信濃青柳城主。1591年庄内で起きた一揆を鎮圧した。この件で所領没収となった本庄繁長の居城本庄城(後の村上城)(村上市)に入る。1598年主家の会津転封に際し、高畠城代(高畠町)となる。高畠では白龍湖周辺の湿地帯大谷地の開拓を進めた。1600年には直江兼続について最上義光攻撃に参加し、長谷堂城包囲を行っている。関ヶ原での西軍の敗報を受け、最上義光に追撃されたが撤退に成功した。主家の米沢転封後も高畠城代を務め、1602年には直江兼続主催の亀岡文殊での歌会に前田慶次、安田能元、岩井信能、大国実頼らとともに参加している。1603年からは米沢奉行も務めた。 
横田旨俊(?-?)
式部少輔。葦名旧臣。葦名家没落後、越後に移って直江の配下となった。主家の会津転封後、対最上義光の最前線、中山城主(上山市)となる。1600年最上義光を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛らと里見民部が守る上山城(上山市)を攻めるが、敵の援軍草刈志摩守も到着し、物見山の戦いで敗北。この戦いで本村親盛が討死した。また横田氏は赤湯に開田し、後に横田家中の者十九家が赤湯北町に移り住み、今もその子孫が残る。 
篠井泰信(?-?)
1600年最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、本村親盛らとともに上山城(上山市)を攻めるが、里見民部、草刈志摩守率いる最上軍と物見山で戦い敗北。 
本村親盛(?-1600)
造酒亟。最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、篠井泰信らと上山城を攻めるが、敵将里見民部、草刈志摩守との物見山での戦いで討死した。 
須田長義(?-1615)
須田満親の子。須田氏は信濃の豪族だったが、1553年武田信玄の侵攻により、父須田満親は越後に逃れ、上杉謙信に仕えた。長義は上杉家の会津移封で梁川城主(梁川町)となり、1600年関ヶ原の戦いに際して伊達政宗が梁川城を攻めたが撃退した。1614年大坂冬の陣でも鴫野の戦いで後藤又兵衛と戦い、のちに徳川秀忠から感状を受けた。 
千坂景親(1536-1606)
千坂景長の子。対馬守。鉢盛城主(笹神村)。1578年上杉謙信没後の御館の乱では景勝に属し、武田勝頼との同盟を成功させ、景勝の家督相続を助けた。1582年織田信長によって滅亡寸前の武田家救援のため、信濃海津城に出陣した。のちに京都伏見留守居役を勤め、関ヶ原の戦いの後、上杉家存続のため本多正信と和平交渉に努めた。1603年米沢藩初代江戸家老となる。 
安田能元(1543-1622)
安田景元の子。顕元の弟。上総介。御館の乱では兄顕元とともに上杉景勝の家督相続のため戦った。1580年恩賞が少ないため新発田重家が謀反したことの責任を感じて兄顕元が自害。能元が跡を継ぎ安田城主(柏崎市)となる。1598年主家の会津転封に伴い、二本松城代(二本松市)となる。直江兼続の下で奉行を務め、大石綱元や岩井信能とともに会津三奉行と呼ばれた。1600年関ヶ原の戦いの後も一戦交えようと主張したが景勝に抑えられた。1602年には亀岡文殊の歌会に参加している。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで水原親憲とともに豊臣軍を撃退する活躍を見せた。しかし水原は感状をもらったが能元はもらえず「俺は殿(景勝)のために戦っている。この程度の手柄を申し上げるまでもない。公方(徳川)のために働く必要など無い。公方の感状などは面目でもなんでもない」と言ったという。 
平林正恒(1562-1622)
平林正家の子。旧武田家臣。武田勝頼の命で信濃上尾城主から信濃牧ノ島城主となる。1582年主家滅亡により上杉景勝に仕える。1594年伏見舟入普請を担当。1598年の会津転封で白河城代(白河市)となる。関ヶ原の戦いの後、米沢に転封された後は福島城で伊達・信夫郡の奉行を努めた。1608年春日元忠の後を受けて米沢奉行となる。 
岩井信能(?-1620)
岩井満長の子。備中守。父は信濃岩井城主だったが、越後の上杉謙信に仕えた。1581年御館の乱の論功行賞の不満から毛利秀広が重臣直江信綱と山崎秀仙を斬殺したときは居合わせた信能が毛利秀広を討取った。1582年飯山城主(飯山市)となる。翌年、飯山城下の整備を行っている。1598年主家の会津転封に従い、宮代城に移る。1600年の関ヶ原の戦いでは一時福島城を守る。1602年亀岡文殊(高畠町)で行われた歌会に参加した。1614年大坂冬の陣に出陣している。大石綱元(のち水原親憲)、安田能元と並ぶ会津三奉行の一人で茶の湯の達人であったという。 
清野長範(1573-1634)
平田輔範の子。周防守。助次郎。旧芦名家臣。1589年芦名家が伊達政宗に滅ぼされると浪人となり、越後に逃れて木戸玄斎に仕えた。のちに上杉景勝に近侍し、景勝の信頼を得て重用される。1592年信濃の豪族清野家を継いだ。1598年景勝の会津移封で出身地会津に戻り、伊南城代となる。1601年上杉家の減封で米沢に移り、1633年米沢奉行となる。長範は容貌が非常に美しく、才智があったため景勝に愛され、旧芦名家臣では異例の出世を遂げた。気性が激しい景勝を相手に一度も機嫌を損ねることが無かったともいう。景勝臨終の際、景勝は長範に来世で会うため自分と同じ導師にせよ指示したという。
山浦国清(1546-?)
村上義清の子。蔵人。源吾。景国。上杉謙信に仕え、沼垂郡笹岡の山浦氏を継ぐ。謙信の側近として活躍し、1578年御館の乱では景勝方で活躍し、功により景国と名を改める。1582年織田信長が本能寺の変で死ぬと、村上氏旧領の北信濃に進出して海津城主となったが、一族が徳川家康に内通した責任により召還された。この件で家は没落し1598年景勝の会津移封で塩松城代となったが、以後の消息は知れない。一説では関ヶ原の戦いで米沢減封となった際に上杉家を退散したともいう。のちに景勝の妻四辻氏の甥でキリシタン公卿の猪熊光則がキリスト教迫害を逃れ米沢の上杉家に仕えて山浦氏を継ぎ、山浦玄蕃を称した。だが弾圧の激化により1653年玄蕃は米沢で斬首された。 
大石綱元(1532-1601)
武蔵国の大石氏の一族。播磨守。山内上杉憲政の家臣だったが、のち上杉謙信に仕える。御館の乱で景勝につき、会津移封後は保原城代(保原町)となる。安田能元、岩井信能とともに会津三奉行に数えられた。 
黒金泰忠(1564-1635)
黒金景信の養子。島倉泰明の子。上野介。1599年神指城築城の総奉行を勤めた。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで活躍し、徳川秀忠から感状を受けた。1620年江戸城石垣普請や1629年江戸城堀普請の総監も勤めた。 
泉沢久秀(?-1615)
河内守。上田衆の出で、1578年御館の乱では景勝方で戦う。1598年景勝の会津移封で荒砥城代(白鷹町)となる。 
安部綱吉(1569-1646)
菅原内膳の子。右馬助。十市。菅原内膳は越後安部里を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。内膳の子十市は小国、梨郷と渡り歩き、宮内(南陽市)に落ち着き、安部右馬助綱吉を称したと伝えられる。1598年の上杉家入部で信州飯山城主から宮内の宮沢城主となった尾崎重誉の家臣となっている。1600年倉賀野綱元の配下として小滝口(南陽市)から長谷堂城(山形市)を攻め、武功を挙げた。その後、宮内の町割を行い、北条郷(南陽市一帯)の荒地の開発を推し進めた。吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した。1629年代官兼金山奉行となり金沢、大洞など赤湯(南陽市)周辺の金山を経営した。77歳で没し、息子綱正が開基した宮崎の綱正寺に葬られた。 
大熊信次(?-?)
直江兼続の近侍で稲富一夢祐直に稲富流砲術を学び、米沢藩砲術の重職となった。稲富流砲術は米沢藩に伝わり、上杉鷹山も稲富流砲術の名手であった。 
 
上杉2 

 

武藤晴時(?-?)
庄内の武藤氏は鎮西奉行武藤(少弐)資頼の弟、武藤氏平が庄内の大泉荘地頭となったことに始まる。当初は大泉氏、のちに大宝寺城(後の鶴岡城)(鶴岡市)に入り大宝寺氏も称した。武藤氏は羽黒山別当を兼務し、羽黒山の権威を利用して勢力を拡大した。武藤晴時は1532年一族の砂越氏維に攻められ、大山の尾浦城(鶴岡市)に居城を移した。居城を移した背景には赤川の流路の変化による水害もあったという。 
武藤義増(?-1581)
武藤左京亮の子。従兄弟武藤晴時の跡を継ぎ尾浦城主(鶴岡市)となる。上杉謙信に従属していたが越後揚北衆と結びつきが強く、1568年の本庄繁長の謀反では一時本庄の謀反に加担したが、すぐに息子義氏を人質に出し、和睦した。最上川を遡って内陸地方への進出も図っており、1565年本合海(新庄市)付近の合戦で清水城主(大蔵村)清水義高を討ち取っている。 
武藤義氏(1555-1583)
武藤義増の子。出羽守。幼少時、上杉謙信のもとで人質生活を送る。戻ると上杉氏の武力を背景に勢力拡大に乗り出した。1574年伊達輝宗らと連合し、最上義守を中心とする反最上義光包囲網に加わっている。1579年織田信長に馬と鷹を贈って「屋形」号を許された。義氏は上杉氏や中央の力を背景に庄内の支配を強化し、外征を重ね、勢力拡大を図ったが、その強権政治ゆえに「悪屋形」と呼ばれ、領民や武士には恐れ嫌われ「義氏繁昌、土民陣労」と歌われた。1582年最上川を遡り、最上義光に従う清水城(大蔵村)の清水義氏を攻めたため、義光は武藤家の前森蔵人や砂越氏・来次氏に謀反を働きかけた。まず砂越氏と来次氏が挙兵し、義氏は討伐のため前森に兵を預けるが、前森は一旦出陣した後、逆に尾浦城を攻撃。追い詰められた義氏は自害した。 
武藤義興(?-1587)
武藤義氏の弟。始めは丸岡城主(櫛引町)で丸岡兵庫を名乗る。のちに藤島城主(藤島町)となり、羽黒山別当も兼務した。兄義氏が討たれると家臣に擁立され、武藤家を継ぐ。上杉景勝との結びつきを強めるため、本庄繁長の次男義勝を養子に迎えた。しかし最上義光に寝返った東禅寺義長らの軍勢に尾浦城を攻められ自害した。 
武藤義勝(1573-1623)
上杉家臣本庄繁長の次男。千勝丸。尾浦城主武藤義興の養子となる。養父義興が最上義光に寝返った東禅寺義長らに討たれると、辛うじて小国城(温海町)に逃れた。義勝は実父本庄繁長の援軍を得て庄内を攻撃。十五里ヶ原の戦いで仇の東禅寺義長・勝正兄弟を討ち取った。最上義光は「惣無事令」に違反していると豊臣秀吉に訴えたが、本庄・武藤父子の主張が認められ庄内を領有した。1588年には秀吉に拝謁し、太刀などを献上し、翌年には出羽守に任ぜられたが、1591年一揆扇動の嫌疑により所領没収。庄内は上杉氏が直接支配するようになった。義勝は後に朝鮮出兵に参じて許され、上杉家臣となった。 
東禅寺義長(?-1588)
前森蔵人と同一人物ともいわれる。氏永。筑前守。東禅寺城主(後の亀ヶ崎城)(酒田市)。武藤義氏に仕えていたが、最上義光に内通し、1583年砂越氏らの討伐の際、逆に尾浦城を襲い、義氏を自害させた。その後、重臣らと協議で義氏の弟、義興が継いだが上杉との関係を深める義興に対し、再び義光に内通して尾浦城を攻め、義興を自害させた。庄内は最上領となり、東禅寺は実質上庄内を支配したが支配は上手く行かず、間もなく義興の養子義勝が本庄繁長らの上杉軍を味方につけ、庄内に侵攻。東禅寺らは十五里ヶ原で決戦に及んだが敗北し、討死した。 
東禅寺勝正(?-1588)
東禅寺義長の弟。右馬頭。兄とともに尾浦城の武藤義興を攻め、尾浦城将となった。十五里ヶ原の戦いで兄筑前守が討たれると、最後に敵将本庄繁長に一太刀浴びせようと名刀「正宗」と味方の首を片手に敵陣へ潜入し、首実検装い、本庄繁長に斬りつけたが「明珍」の甲冑に阻まれ、逆に本庄に討たれた。右馬頭の名刀「正宗」は本庄の手に渡り「本庄正宗」と呼ばれ、のち徳川紀州家に伝えられたという。 
土佐林禅棟(?-?)
林杖斎。藤島城主(藤島町)。武藤義増に仕え、上杉家臣本庄繁長の謀反に加担した時は、講和のため上杉謙信のもとに赴く。また本庄繁長の藤懸城攻めの総大将に任命された。武藤義氏が家督を継ぐと後見したが、1570年義氏と反目して上杉謙信が仲介に入った。しかし1571年再び義氏と対立し、攻撃されて没落したという。その後、藤島城には義氏の弟義興が入った。だが1583年武藤義氏が自害すると復権したものか、秋田の安東愛季に羽黒山造営の木材を請うている。 
来次時秀(?-?)
観音寺城主(八幡町)。1570年本庄繁長に書状を送っている。庄内の争乱を沈静化させるほどの力を有していた。 
来次氏秀(?-?)
観音寺城主(八幡町)。1578年上杉謙信の死去で武藤氏の影響力が低下すると、一時離反したが武藤義氏は知行を与えて懐柔した。鮭延城(真室川町)の鮭延秀綱(愛綱)から書状を受け、武藤vs最上の戦いでは日和見的立場をとり、上杉vs最上の戦いになると上杉方についた。秀吉の小田原攻め以来、上杉景勝の臣下となり、関ヶ原の戦いで西軍敗北により、上杉家が庄内を失うと氏秀もまた主家に従い観音寺城を去った。 
砂越氏維(?-?)
砂越城主(平田町)。砂越氏は最上川以北の有力な領主で武藤氏の庶族である。1532年氏維は武藤晴時の大宝寺城(鶴岡市)を攻め、大宝寺城下を焼き払い武藤氏を尾浦城に追いやった。砂越氏はその後も度々武藤氏に反抗したが十五里ヶ原の戦いで上杉家臣本庄繁長と子の武藤義勝が勝利すると砂越城を去ったという。 
池田盛周(?-?)
讃岐守。朝日山城主(酒田市)。父、池田盛国は天文年間、武藤氏に仕えた。1582年盛周は武藤義興に抵抗するが、戦後、武藤義興に所領を安堵された。1588年には武藤義勝を擁する越後の本荘繁長に抗戦したが、降伏後、武藤義勝に所領を安堵された。1590年の太閤検地に反対する一揆では一揆側に加わり、敗れて最上郡に逃れた。 
阿部良輝(?-?)
磐井出館主(平田町)。姓は安倍とも。前九年の役の安倍氏の子孫を称し、伊氏波神社別当職を勤めた。武藤氏に仕えていたが、子の貞嗣は最上氏に従い1588年十五里ヶ原の戦いで本庄繁長軍と戦い討死した。 
板垣兼富(1539-1564)
飽海郡菅里城主(遊佐町)。武藤義増の最上地方侵攻に従軍したらしい。1564年討死した。 
金右馬丞(?-?)
1590年豊臣秀吉の命で上杉景勝が行った奥州仕置に対し、藤島城を乗っ取り、平形館の平賀善可とともに藤島一揆を起こす。景勝が九戸政実征伐のため、九戸(岩手県)に出陣した隙を突いたものだった。平賀は尾浦城を攻めたが敗北し、火あぶりにされる。金は翌年まで籠城し、抵抗し続けた。ついに上杉家重臣直江兼続が起請文を出して開城させた。その後、佐渡に渡り、子の代に庄内藩に仕えて開拓に従事した。この一揆の裏には上杉氏の直接支配を嫌う本庄繁長・武藤義勝父子の暗躍があったという。 
 
上杉3 

 

本庄繁長(1539-1613)
本庄房長の子。雨順斎全長。弥次郎。本庄城(後の村上城)(村上市)城主。父房長は伊達実元の越後上杉家入嗣問題に際して、弟小川長資と一族鮎川盛長によって本庄城から追われ、猿沢城(新潟県朝日村)に逃れた。繁長は猿沢で生まれ、父の遺志を継いで1551年13歳で叔父小川長資を討って本庄城を奪回した。1558年上杉謙信に謁見し、上杉軍の精鋭として活躍するようになる。揚北衆では中条藤資に次ぐ実力者となり、1561年川中島の合戦ではその奮戦ぶりに対し、謙信から「血染めの感状」をもらうほどであった。しかし恩賞は無く、同僚と謙信の采配を批判したところ繁長に同僚を討伐させたため、謙信に不信感を持つようになった。そんな時、繁長は武田信玄から謀反の誘いを受け、庄内の武藤義増や一族の鮎川盛長、色部勝長、中条藤資らに声をかけ挙兵せんと図った。だが武藤以外は誰も同調せず、逆に中条が謙信に急報して、1568年謙信の討伐を受けることになった。繁長は籠城して抵抗するが、武藤義増は謙信に寝返り、武田信玄も救援に来ないため、ついに翌年芦名盛氏と伊達輝宗が仲介して謙信に降伏した。繁長は嫡子顕長を人質に出して再び、謙信の配下となる。1578年謙信が没し、御館の乱が起きると上杉景勝の家督相続のために戦った。一方、次男義勝を庄内の武藤義興の養子とし、庄内への影響力も強めたが1587年最上義光の庄内進出で武藤義興が自害し、息子義勝が逃れてくると、1588年庄内奪回のために兵を出した。十五里ヶ原の戦い(鶴岡市)で最上軍を撃破し、敵将東禅寺筑前守義長を討取った。その弟、東禅寺右馬頭勝正が一太刀報いようと繁長に斬りつけたが、返り討ちにして名刀「正宗」を手に入れたという。しかし1590年奥州仕置の際に起きた一揆を扇動した疑いで息子武藤義勝ともども所領を没収され、浪人する。しかし朝鮮出兵に際して、上杉家臣に復帰し、上杉家の会津転封に付き従って福島城主(福島市)となる。1600年関ヶ原の戦いでは伊達政宗に福島城を攻められたが、政宗を引き付けて槍で猛攻撃し、須田長義に命じて政宗の背後を突くという巧妙な戦術で政宗を撃退し、陣幕まで奪った。馬術でも「一に謙信二に繁長北条桃井負けず劣らず」と評された勇将だった。 
芋川正親(1539-1608)
芋川正章の子。越前守。元武田家臣だったが1575年上杉謙信に仕える。1586年信濃牧之島城主。1590年大宝寺城(鶴岡市)を守備したが庄内の検地反対一揆に敗れて落城。1598年会津移封で白河城代(白河市)。1601年米沢減封後は大森城代(福島市)を勤めた。 
甘粕景継(?-1611)
登坂清高の子。備後守。1577年上杉謙信の命で甘粕家を相続。護摩堂城主(田上町)、五泉城主(五泉市)を経て1591年要地である東禅寺城主(酒田市)として酒田を統治し、水路の開削や米倉の増築、平田郷開田などを行う。1598年上杉景勝の会津転封の際に、白石城主(白石市)となる。1600年関ヶ原の戦いで伊達政宗が白石城を攻めた際は、相談のため城を留守にしており、城を奪われてしまった。槍と長刀の名手であったともいう。その後、一族の甘粕右衛門信綱(ルイス)らはキリシタンであったため1628年米沢北山原で処刑された。 
志駄義秀(1560-1632)
志駄義時の子。修理亮。1561年川中島合戦で父が戦死したため、2歳で家督を継ぎ、夏戸城主(寺泊町)となる。直江兼続配下の与板衆として活躍した。1598年上杉景勝の会津転封の際、東禅寺城主(酒田市)となる。1600年、関ヶ原の戦いでは最上義光が東禅寺城攻略と庄内進出を図ったため、上杉は最上義光を攻撃することを決めたともいう。義秀も上杉軍別働隊として最上川を遡り、最上領に進撃したが、関ヶ原での西軍敗退により最上義光が逆襲に転じ、1601年最上方に降伏した下吉忠を先鋒に庄内に侵攻。義秀は持久戦を展開したが、ついに落城して米沢に落ち延びた。1602年改めて荒砥城代(白鷹町)に任ぜられた。平林正恒没後は米沢奉行を務めた。息子秀富は剣豪上泉家を継ぎ上泉主水秀富を名乗った。姓の志駄は志田と書かれることもある。 
下吉忠(?-1614)
対馬守。実秀。尾浦城主(鶴岡市)。父下土佐守秀忠は小田原北条氏に仕え、1590年小田原征伐で戦死した。吉忠は上杉家に仕え、1593年庄内河南(田川郡など)の代官となり尾浦城主(鶴岡市)を勤めた。1600年関ヶ原の戦いでは上杉軍別働隊として、庄内から六十里越を越えて最上義光を攻め、白岩城(寒河江市)、谷地城(河北町)を奪う。しかし、直江兼続が西軍の敗報を受けて無断撤退したため取り残され、そのまま最上義光に仕える。最上軍の庄内侵攻の先陣を勤め、尾浦城主に返り咲いた。義光の長男義康謀殺に加担し、家臣を使い義康を殺害。家臣を抹殺し、責任を免れた。同じく上杉から最上に鞍替えした原八右衛門も加担していたが、こちらは責任を取らされ打ち首となった。しかし1614年清水大蔵大輔義親と通じていた一栗兵部が鶴岡城内で志村光清と下吉忠を襲撃し、二人とも討ち取られた。のち最上家が改易になると養子の下秀政は上杉家に戻った。 
松本助義(?-1600)
伊賀守。1598年上杉家会津移封により小国城主(小国町)となる。1600年尾浦城(鶴岡市)を守るが最上軍の攻撃で討死した。その後、松本家は篠井泰信の弟高次が継いだ。 
佐野清順(1576-1650)
明鏡院。養源坊。修験者であった。天正年間の末、直江兼続は庄内を平定すると清順を羽黒山主とした。関ヶ原の戦いの後は米沢に移り、羽黒山別当として領内の修験を支配した。後に還俗して玄誉を称し、お伽衆として儒学・兵書を講義した。 
志村光安(?-1609)
伊豆守。高治。長谷堂城主(山形市)。1600年直江兼続率いる上杉軍によって長谷堂城を包囲されたが、粘り強く籠城を続け、伊達家の援軍も得て、関ヶ原での東軍の勝利により上杉軍を撤退に追い込んだ。翌年庄内の上杉勢を討伐し、志村は東禅寺城主(酒田市)となった。1603年酒田に巨大亀が上陸し、主君最上義光に報告した。これを吉兆として東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城(鶴岡市)を鶴ヶ岡城と改めた。1608年羽黒山五重塔の修造を担当。その子孫は最上氏改易後、東根で帰農して横尾姓を名乗り代々郡中総代名主を勤めたという。 
志村光清(?-1614)
志村光安の子。亀ヶ崎城主(酒田市)。1614年鶴岡城内で清水義親と通じていた一栗兵部により斬殺された。 
新関久正(1568-1624)
因幡守。1602年藤島城主(藤島町)となる。1607年赤川右岸に因幡堰を開削し(1689年完成)、庄内平野の水田を潤した。鶴岡城代も勤めていたが、1614年一栗兵部が志村光清、下吉忠を鶴岡城内で斬殺すると、久正は一栗を追討した。1622年最上家改易により庄内を離れ、1624年古河で病死。最上義光は鶴岡城を隠居城とするべく、新関に拡張工事を命じており、次男家親を山形城(山形市)、三男清水義親を清水城(大蔵村)に配置した一族による分割統治を目指していたらしい。 
北楯利長(1548-1625)
大学。1601年狩川城主(立川町)となる。1612年最上義光の許可を得て、立谷沢川から取水する北楯大学堰を建設した。堰の完成により、庄内平野は大いに潤った。1622年最上家改易により、新たに庄内領主となった酒井忠勝が利長を召抱えようとしたが固辞し、1625年没した。その功績を讃えられ、北楯神社に祀られている。 
松根光広(?-1672)
最上義光の甥(義光の弟長瀞義保の子ともされる)。備前守。白岩備前守の養子として白岩城(寒河江市)を居城としたが、1615年松根城(櫛引町)を築城し、城主となり松根氏を称した。白岩は村山側、松根は庄内側における六十里越街道の入口で光広は両要所を支配し、六十里越街道を押えた。最上家の家老を勤めたが、1617年最上家親が急死し、1622年これを楯岡光直による毒殺であると幕府に訴えた。幕府は光直を糾問したが証拠が無く、却って光広が筑後柳川の立花宗茂のもとに配流された。1672年配所にて没した。 
大山光隆(?-1623)
最上義光の六男。筑前守。1615年大山城主(鶴岡市)となる。1622年御家騒動により最上家が改易になると酒井家にお預けの身となる。広島で自害したという。 
一栗高春(?-1614)
兵部。旧大崎家臣。玉造郡一栗城主で、1591年葛西・大崎一揆では伊達政宗の鎮圧軍に最後まで抵抗して伊達軍を苦しめた。その後、最上義光に仕え田川郡添川を領した。豊臣秀頼に近い清水義親(最上義光三男)とのつながりがあり、家中の派閥争いが激化する中、1614年鶴岡城内にて志村光清と下吉忠を斬殺した。すぐに新関久正の追討を受け、一栗は三千の大軍を相手に戦い討死したという。 
永田勘十郎(?-?)
酒田の豪商。酒田三十六党の一。先祖若狭は三河出身で敦賀、松前、久保田(秋田)を経て酒田に移り住んだとされ、酒田沿岸の漁業税や移出税を請け負い領主に納めた。秀吉の小田原攻めでは役米徴収を請け負った。1600年出羽合戦では町兵を指揮して奮戦している。その後、志村伊豆守の相談役となり、酒田町並の割り直しに尽力した。 
 
山内一豊

 

天文15年-慶長10年(1546-1605)
下克上の戦国時代、信長、秀吉、家康の天下取り。山内一豊は、この三人の権力者に巧みに仕え、権力闘争を乗り切った戦国武将です。その武勇よりも妻千代の内助の功が広く人々に知られ、決して派手ではないこの武将の一生は、掛川の今日と深いつながりがあります。
遺児から戦国の乱世に
山内一豊は、天文十四(1545)年、但馬守藤原盛豊の第二子として尾張の国に生まれました(幼名辰之助)。父盛豊は、二分していた織田家の信安方に仕え、家老となり葉栗郡黒田城を預けられていました(年号不明)。弘治三(1557)年七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、父盛豊が手傷を負い、長兄十郎は討死。当時13歳であった辰之助は、母や弟妹達と家臣に救われ難を逃れましたが、永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めで父盛豊死去により岩倉も追われ、織田浪人として流浪の中に時を過ごしたといわれ、山内家の親戚に身を寄せては転々とします。この苦難に満ちた永禄二年、辰之助は元服して通称を伊(猪)右衛門、一豊と名乗ることになりました。
朝倉攻めの武勇 -信長家臣時代-
翌永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで信長が頭角を現しました。「山内家史料」にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、一豊は、身を寄せた牧村政倫が織田の家臣となった永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に、信長に仕えるようになったといわれています。「一豊公御武功御伝記」や「近代諸士伝略」などの書物に、次のような武勇が伝えられています。
元亀元年三月、織田信長の上洛に従い、四月二十日朝倉義景征伐のために京都を出立して、羽柴秀吉配下として一豊もこれに従軍。金ヶ崎の合戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを友人で見方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。
この手柄により、秀吉に与えられた領国の一部である唐国二百石を信長から与えられたのが、山内一豊戦国武将としてのスタートでした。
掛川城と城下町の大都市整備に着手-秀吉家臣時代-
天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉は、天正十八(1590)年の小田原征伐において後北条氏を滅ぼし、天下統一を果たしました。家康は関東へ移封され、家康の旧領には秀吉配下の大名が配置されました。
一豊は同年九月二十日、正式に相良.榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。時に一豊46歳のこと。秀吉にとって天下統一を強固なものにするために、掛川は大井川をひかえて東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示したのです。
秀吉の命を受け赴任した一豊は、徳川おさえの基盤づくりとして、掛川五万石の規模にしては大規模な本格的都市計画を実行します。それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。一豊の計画は城郭だけにとどまらず、城下町の整備も大々的に取り組みます。この頃、秀吉が行った兵農分離や兵商分離発令により、人々の生業が定着した時代で、これに従って職業別に町割りを行って城下町を形成しました。その名残りは現代の町名にも見ることができます。
また天正十九年には、大井川下流の志太・榛原を洪水の害から守るため、駿府城主の中村一氏と強力して大井川の治水工事に着手し、相賀赤松山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行っています(天正の瀬替え)。
妻の内助と変わり身の早さで栄転-家康に忠節を表明-
出世した一豊は秀吉の配属を離れ、中村一氏や堀尾吉晴らと共に関白秀次(秀吉の甥)の補佐役をつとめました。しかし、文禄二(1592)年、淀君に実子秀頼が生まれると、秀吉は秀次に切腹を命じます。当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。このように晩年、その奇行から家臣の信望が薄れた秀吉でしたが、慶長三(1598)年八月没。世はふたたび権力争いの動きが高まり、諸将はその政治的手腕を問われることになります。
関ヶ原合戦前の慶長五(1600)年7月。秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら西軍方の確約に奔走します。悲観したガラシャ夫人が自害するなどの事件が起き、緊張が高まっていました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大坂から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が一豊のもとへ届きます。一豊は、この密書を開封せず家康に手渡しました。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明したのでした。
また、一月前の慶長五年6月、一豊は伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山にある久遠寺に茶亭を建てて饗応しています。秀吉の死後、権力争いを窺う秀吉家臣諸将に対して、一豊は早くからポスト秀吉は家康であると言動に含めながら、権力の流れを家康に運ぶ手助けにもなっていたのでした。関ヶ原合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられるとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城の主人となったのです。
武勇の誉れから政治手腕の時代へ
いったい一豊はこのような渡世術をいかにして身に付けたのでしょう。楽市楽座や南蛮文化吸収、人質や婚姻政策で、一気に権力への階段を上りつめ非業の死をとげた織田信長。足軽から身を起こして天下統一を果たした豊臣秀吉。多感な若年時代に個性的な二人の武将に仕えた一豊は、彼らの政治手腕をつぶさに見て吸収していったのでしょう。そして時代は武勇の戦いから政治の戦いへ。どちらかというと武勇よりも官僚的能力に長けた一豊が成功したのは、時代の流れと言えるのかもしれません。慶長五(1600)年7月25日、諸将の意見を聞くため小山軍議が開かれ、この席で一豊は家康への城明け渡しを提案。諸将が同意して誓書を提出したとあります。しかしこれは一豊の創案ではなく、日頃交友の深かった浜松城主堀尾忠氏の考えでした。このような一豊を室鳩巣は「人の分別を取って自分の功に成さる事とて恨み申されけり」と言っています。一豊には、人の言を機会をとらえて功名に結び付ける才知を持つ、いわゆる「ずるい人」という評価も一方にあったのでしょう。
*4 福島正則との説有り。本文は「鶴頭夜話」を参照。
土佐鎮圧-晩年の一豊-
土佐の国を賜った一豊の入国は、すみやかには進みませんでした。長宗我部の遺臣たちが浦戸城に立てこもって抵抗する浦戸一揆が起こり、まずは先立って弟の康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。翌慶長六(1601)年一月、どうやら鎮静した土佐に入国しました。 一豊が土佐に入国してまず行ったのは、後に年中行事となる馬の駆初めや、相撲大会を催して民衆の不満をなだめることでした。それでも、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。それでも入国から二年経って民心はおさまらず、滝山一揆の鎮圧などに苦慮しています。
一豊は、入国した慶長六(1601)年から河中山(こうちやま)城を築城しています。この工事視察の時、巡見笠、面頬、袖なし羽織り姿の一豊が、常に同じ背丈装束の五人の影武者と共に巡視したといいます。人々はこれを「六人衆」と呼び、これには多分に嘲笑が込められていたようです。このような、戦国の乱世をくぐって出世した武将とは思えない細心の警戒心は、一豊よりも妻千代が高名を成した所以ともいわれます。
一豊は土佐に入国して五年後の慶長十(1605)年、61歳で没しました。高知の日輪山に葬られましたが、千代の死後、京都の大通院に移されました。大通院の堂内には夫婦墓が並んでいます。大名の夫婦墓はきわめて稀なことで、夫妻の仲の良さを暗示しているようです。
 
川中島の武田上杉諸将

 

川中島の戦い
日本の戦国時代に、北信濃の支配権をめぐり、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した結果となった。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)と推定されており八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと思われる。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。
1.第一次合戦:天文22年(1553年)
2.第二次合戦:天文24年(1555年)
3.第三次合戦:弘治3年(1557年)
4.第四次合戦:永禄4年(1561年)
5.第五次合戦:永禄7年(1564年)
戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。  
戦国期東国の地域情勢と川中島合戦​
室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。
甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、仁科盛能を臣従させ、中信地方を制圧する。
同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。
また、武田信玄は越後隣国の越中国の内乱に干渉し続けた為、上杉謙信は度々越中国に遠征しなければならず、天文4年(1576年)には上杉謙信が越中国を統一する事となった。(越中の戦国時代を参照)
対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。  
川中島​
信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南で、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。
この地域には栗田氏や市河氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。  
第一次合戦​
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。
天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して上杉景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。
なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。  
第二次合戦​
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
天文23年(1554年)、武田晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉氏と対峙する後北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広(越後北条氏)に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。
天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿 (初代)が武田氏に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾氏方諸豪族への圧力が高まった。
晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは裾花川を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に葛山城(長野県長野市)を築いた。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。
その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。  
第三次合戦​
第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、武田晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。上杉景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市河氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には上杉景虎家臣の大熊朝秀が武田氏に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田氏に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。上杉謙信の対応は雪解けまで遅れた。
長尾氏も攻勢を強め、4月18日には長尾景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を攻め、高井郡山田城、福島城を落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、長尾景虎は武田氏領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍した。
6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。晴信は市河氏(志久見郷)への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。武田氏は志久見郷の防衛に成功。長尾氏は武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には高井郡野沢城・尼飾城を攻めるが武田氏は決戦を避け、長尾景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。
弘治3年(1557年)7月5日、武田氏は安曇郡平倉城(小谷城(長野県))を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には髻山城近くの水内郡上野原において武田氏・長尾氏は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
足利義輝の仲介​
このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に武田晴信は信濃守護、嫡男武田義信は三管領に補任された。
武田晴信の信濃守護補任の条件には長尾景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている。
武田氏が高梨氏館(中野城)を落とす
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城)(長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。  
第四次合戦​
『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
合戦の背景​
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。
永禄4年(1561年)4月、武田信玄が割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄の信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になる。
北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。
『甲陽軍鑑』等における合戦の経過​
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。
膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。
9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。
10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。
頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。しかし武田軍にとってはこの戦で家中の調整役であった信玄の実弟信繁が討ち死にしてしまったことが後の義信事件の遠因になったとする見解もある。
また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦に参戦したとされる長尾藤景が川中島合戦における上杉政虎の戦術を批判したとして政虎からの不興を買っている。数年後に政虎(当時は輝虎と改名)は同じく家臣の本庄繁長に命じて藤景を成敗させているが、この際に恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国の武田信玄の誘いに応じて上杉家に謀反(本庄繁長の乱)を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦いは後年の上杉家にしこりを残しているといえる。
この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。
参戦武将​
   武田軍
   旗本本隊(8000人)
   総大将:武田信玄
   武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景(山県昌景)、工藤祐長(内藤昌豊)、諸角虎定、跡部勝資、今福虎孝、浅利信種、山本勘助、室賀信俊
   妻女山別働隊(12000人)
   春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、小山田信有(弥三郎)?、甘利昌忠、真田幸綱、相木昌朝、芦田信守、小山田虎満(昌辰)、小幡憲重
   上杉軍(13000人)
   総大将:上杉政虎
   柿崎景家、本庄実乃、五十公野治長、中条藤資、安田長秀、加地春綱、色部勝長、本庄繁長、鮎川清長、山吉豊守村上義清、高梨政頼、井上清政、北条高広、宇佐美定満、荒川長実、志田義時、大川忠秀
   直江実綱(小荷駄護衛)
   甘粕景持(殿(しんがり))
   長尾政景(春日山留守居)
   斎藤朝信(越中方面守備)
『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。  
第五次合戦​
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、武田信玄の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する上杉謙信に対して、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して後北条氏との戦いを続けた。後北条氏と同盟する武田氏は常に上杉輝虎の背後を脅かしていた。上杉輝虎の武田信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓った。
飛騨国内紛に武田・上杉が介入​
飛騨国では国衆同志の争いが武田氏・上杉氏の対立と相関し、飛騨国衆の三木良頼・三木自綱親子と江馬(江間)輝盛は、江馬時盛と敵対していた。永禄7年(1564年)には信玄が江馬時盛を、輝虎が三木氏・江馬輝盛を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となる。同年8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、上杉輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
第五次合戦 組討ち説​
永禄7年(1564年)8月15日に武田信玄が、安馬彦六を選び、上杉方と組討ちをさせ、その勝負の結果にて川中島の領有権を決めようとの申し入れを行わせた。上杉方は、直江山城守の取り次ぎで上杉謙信に、明日は組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたいとの信玄の言葉を伝え、謙信も承諾し、翌日12時に組み討ちをすることになった。8月16日に、武田方から安馬彦六、上杉方から長谷川与五左衛門基連が選ばれ組討ちを行った。結果、長谷川与五左衛門基連が安馬彦六の首を取り、以後越後領となり、争いは終結したとする古文書も存在する。  
戦後の甲越関係と川中島​
川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されることになる。
武田氏は、対外方針を転じ、同盟国であった今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える。同年10月、今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し(義信事件)、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが(駿河侵攻)、これは北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)。
その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。
長篠の戦い以降​
元亀4年(1573年)の武田信玄死去後、1575年の長篠の戦いで惨敗した武田勝頼は上杉謙信と和睦して甲斐に無事帰国している。
謙信死去により越後で後継をめぐる御館の乱(1578年)が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。上杉景勝は、勝頼の異母妹菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立する。
甲州征伐​
甲越同盟によって、武田氏の勢力は、川中島の戦いの係争地であった川中島四郡を超えて越後国に及んだ。結果、甲相同盟を再び破綻させ、上杉氏では柴田勝家らからなる織田軍の攻勢を防備するが、武田方では天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による侵攻(甲州征伐)により滅亡する。
武田氏滅亡と天正壬午の乱​
武田氏滅亡後の川中島を含む信濃領国は森長可ら織田家臣によって支配されるが、同年末の本能寺の変において信長が横死すると森長可が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦(天正壬午の乱)となり、武田遺領は徳川氏により確保された。
豊臣政権​
豊臣秀吉によって上杉家は会津を経て米沢へ移封され、川中島の地域は徳川氏の勢力下となった。天下統一をなした豊臣秀吉は、川中島の地を訪れ、人々が信玄と謙信の優れた軍略を称賛するなか、「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。
江戸時代​
元和8年(1622年)、真田家が、徳川政権により、上田城から海津城(松代城)に移される。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。  
両軍の兵力​
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。
両軍の規模
     上杉軍 武田軍   備考
第一次 8,000人 10,000人 小競り合いにて終結。
第二次 8,000人 12,000人 膠着状態になり、今川義元の仲介にて、旭山城の破却と犀川を境として北を上杉領、南を武田領とすることで和睦。
第三次 10,000人 23,000人 足利義輝の仲介(御内書)にて和睦。晴信が信濃守護となる。
第四次 13,000人 20,000人 前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。武田方は武田信繁・諸角虎定・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしているが、上杉方の主だった指揮官の犠牲はなし。ただし北信濃の地は武田が制圧。
第五次 ?人 ?人 両軍睨み合いのまま双方撤退。  
異説​
川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているものとは別の説が存在する。
川中島の戦いは、戦を行う理由として、武田、長尾(上杉)両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったとする説がある。また、同盟関係の証明のため、武田が攻めざるを得なかった、という説もある。
『甲陽軍鑑』に記される「啄木鳥の戦法」については、いくつかの異論や反論が存在する。まず、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため、実際に挟み撃ちが可能かについて疑問が出されている。そこで妻女山に陣をしいた上杉軍を取り囲んで兵糧攻めにしたところ、窮地を脱しようと上杉軍が全軍で武田軍本陣に突撃をかけたのではないかとする説が生まれた。
両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという「不期遭遇戦説」もある。この説は、当時の合戦にしては異常ともいえる死亡率の高さの説明にもなり、状況証拠などの分析により一定の信憑性があるとされる。なお、「不期遭遇戦説」についてはNHKの「歴史誕生」や「その時歴史が動いた」でも紹介された。
妻女山は戦術的に死地にあたり(兵を動かしにくく補給も困難で囲まれやすい)直江景綱・柿崎景家らが反対したにもかかわらず謙信はあえて陣を敷いたともいわれる。稀有な戦術眼の持ち主である上杉謙信が川中島の地形を理解していなかったはずはないため、背水の陣を敷いたのではないかとの推測もある。
また、第四次川中島合戦に関して『浄興寺文書』(信州水内郡長沼にあった寺に伝わる文章。現在の浄興寺は場所が異なる)と言う文章に川中島合戦に関連する一節があり、そこには永禄4年9月28日、合戦の折に寺が戦火にあった旨の記述がある。文章の真偽のほどは確定していないが、この記述が事実だとすると、9月10日の戦いで両軍共に全軍の2割に達する戦死者を出しながら、なおも長期間戦いを続けていたことになってしまい、文書の日付か、合戦の日付か、戦死者数の記述のどれかが怪しい事になる。  
川中島合戦図​
近世には『甲陽軍鑑』『北越軍談』に基づいて甲州流軍学・越後流軍学が形成され大名家にも招聘された。江戸前期から大名家においては『軍鑑』『軍談』『甲越信戦録』『絵本甲越軍記』などに基づいて川中島合戦図屏風が制作されたものと考えられている。現在でも数々の作例が現存しており、特に岩国美術館所蔵品や和歌山県立博物館所蔵品(紀州本)などが川中島合戦図屏風の代表作として知られる。川中島合戦図屏風は作例により『軍鑑』『軍談』それぞれの記述に忠実なものや両者が折衷したものなど特徴が見られ、これは製作された大名家における軍学の影響力が製作事情に反映されているものであると考えられている。
主題として描かれるのは主に永禄4年(1561年)9月1日の八幡原における合戦の場面で、画面構成は武田陣営には白熊兜や北斗七星の軍配を持ち床几に座すなどの特徴で信玄の姿が描かれ、上杉方では白頭巾や連銭芦毛の駿馬を駆った姿を特徴とする上杉謙信が描かれ、上杉勢の強襲により敗走する武田勢や迎え撃つ山県昌景の軍勢、妻女山から急行する武田別働隊、さらに信玄・謙信の一騎討ちなどの場面が異時同図的に描かれる。合戦の様子ではなく配陣図を描いた作例も見られる。
更に浮世絵の画題の一つ武者絵においても、川中島合戦図はしばしば描かれ、その数は200種類を超えるとも言われる。古くは懐月堂安度の肉筆画による信玄軍陣影図や一騎討ちの図、版画では二代鳥居清倍や奥村政信、喜多川歌麿らが一騎討ちの図を手掛けている。三枚続の群像表現を導入したのは、文化6年(1809年)の勝川春亭が最初である。その後、文政から天保にかけて同様の川中島合戦図は殆ど描かれていないが、天保15年(1844年)5月に歌川広重が春亭図を模した作品を描く。同年10月には本図の出版に対して伺書が提出され、南町奉行より出版許可が降りた。これが契機となって、続く弘化以降には歌川国芳や歌川芳虎ら国芳一門、歌川貞秀ら歌川派を中心に数多くの川中島合戦図が描かれるようになる。天正年間以降の合戦や人物を扱った作品では変名が使われるのが通例だが、それ以前の合戦である川中島合戦の場合は、人物や合戦名も史実通りに表記されるのが特徴である。場面としては一騎討ちの他にも、第四次合戦における山本勘助の活躍や討死などの名場面や、さらには武田・上杉両軍の諸将が対戦した創作的な作例も見られる。明治以降になると、歴史画の隆盛で画題が広がり、相対的に川中島合戦は描かれなくなるが、大分な揃物の中には、しばしば信玄や謙信が姿が見受けられる。  
武田家

 

武田信玄(たけだ・しんげん)[1521-1573]
学問好きの文学青年から戦国大名へ
甲斐源氏の一門・武田家の嫡男で、甲斐国内の統一に成功した武田信虎(たけだ・のぶとら)と大井信達(おおい・のぶたつ)の娘(大井夫人)との間に大永元年(1521)11月誕生した。幼名は太郎または勝千代(かつちよ)といい、元服後は晴信(はるのぶ)、のち出家して信玄と名乗った。
幼年から長禅寺の禅僧・岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)から禅学や兵法を学び、学問好きの文学青年として成長。そんな信玄に対し、武徳を尊ぶ父信虎は疎んずるようになる。信玄はこのころには機略に富み人の心を掌握する術に長けていたという。
天文10年(1541)には父信虎を駿河の今川義元のもとへ国外追放して家督を得、翌年、諏訪攻略を手はじめに信濃へ侵攻する。諏訪頼重(すわ・よりしげ)、高遠頼継(たかとお・よりつぐ)、小笠原長時(おがさわら・ながとき)、村上義清(むらかみ・よしきよ)といった信濃の豪族との戦いを制し、甲斐と信濃の大部分を領する戦国大名となった。
川中島の戦いと信玄
信玄に追われた豪族たちの請願により信濃へと出兵した越後の上杉謙信とは、川中島を合戦場として11年にわたる5度の戦いが繰り広げられた。戦国史上最大の激戦といわれる永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山に布陣していた上杉謙信に「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破られ、弟の武田典廐信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)、山本勘助らを失った。
川中島の戦い以降、北信濃のほとんどを掌握した後、上野、駿河、遠江への侵略を開始し、元亀3年(1572)の三方ケ原の合戦では徳川・織田の連合軍に大勝。上洛作戦を図るがその途上の元亀4年(1573)4月、「3年間は喪を秘し兵を休めるよう」と遺言を残し、伊那郡駒場(こまば)で息を引き取る。享年53歳。信玄亡き後、武田家は、諏訪頼重の息女(由布姫・ゆうひめ)との子・勝頼(かつより)が家督を相続した。
戦国最強の武士団を作り上げた人間性
信玄は、和歌や詩、絵画に優れた才をもち、古代中国の兵書『孫子(そんし)』を好んで読んだという。「人は城、人は石垣、人は堀……」とする信玄は家臣を重んじ、その人間性にひかれて山本勘助や真田幸隆といった優秀な人材が集まり、「風林火山」の孫子旗と諏訪法性旗(すわほっしょうき)の下、戦国最強と喧伝される武士団をつくりあげた。
また、善光寺如来を甲府に移し甲斐善光寺を建立し、戸隠神社をはじめ各地の社寺に戦勝祈願状を納めるなど神仏に対する信仰も篤く、ときにはそれを外交戦略に利用する現実的な軍略家でもあった。
内政においては、山本勘助の意見も反映されたと伝わる「甲州法度之次第」(分国法)の制定や税制・度量衡の統一、交通制度の整備、「信玄堤」に代表される治山治水、金山などの鉱山・森林資源の開発など、民政家としての卓越した業績を残している。
山本勘助晴幸(やまもと・かんすけ・はるゆき)[?-1561]
城づくり、兵法に長け、諸国の事情にも通じた名軍師
武田信玄の知恵袋、謀将、城造りの名人、などと称讃される山本勘助。甲州流兵法の祖といわれ、隻眼(せきがん。目が片方しか見えないこと)で手足が不自由ながら築城術と兵法にひいでた名軍師として、武田二十四将の中でも高い人気を誇っている。
『甲越信戦録』では、勘助は三河牛窪(みかわうしくぼ・愛知県豊橋市)の侍で、諸国を歴訪し、戦国大名の事情に精通し、築城法をはじめ、文武百般に通じていたとしている。天文12年(1543)、その才覚を見込んだ板垣信方(いたがき・のぶかた)の推挙により武田晴信(はるのぶ・信玄)に召し抱えられ、足軽隊将となる。
風貌異形の勘助を晴信(信玄)は気にもせず重用したことから、その恩義に報いるため、己のすべてを主君に捧げようと決意。策略家として次々と城を落とし、信濃攻略においてその才能を開花させていった。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、妻女山(さいじょざん)に籠もる上杉軍に対して啄木鳥(きつつき)の戦法を進言。しかし謙信に裏をかかれ、信玄本陣を窮地に陥らせてしまう。責任を感じた勘助は、信玄を守るため上杉軍に決死の討ち入りを図るが、柿崎景家(かきざき・かげいえ)隊により討ち取られ、泥真木明神(どろまきみょうじん、泥木明神、勘助宮跡)付近において69歳の生涯を閉じたという。
「月のような一眼」を持った伝説の人物
謀殺した諏訪頼重(すわ・よりしげ)の娘“由布姫(ゆうひめ)”を側室にと、重臣たちを説き伏せたのも勘助であり、信玄は全幅の信頼を置いていた。晴信(信玄)の一字を受けて“山本勘助晴幸(はるゆき)”と称し、信玄が出家したときには同じく出家して“道鬼(どうき)”と名乗った。築城術にも長け、川中島の戦いに備えた海津城をはじめ、由布姫の子勝頼(かつより)が城主となった高遠城、村上義清(むらかみ・よしきよ)攻略・上州進出の足がかりとなる小諸城の縄張りなども勘助によるものとされ、その技術は馬場信春(ばば・のぶはる)に伝えた。「万人の眼は星のようで、勘助の一眼は月のようである」と信玄は評していたという。
勘助の生誕地は静岡県の富士宮あるいは愛知県の豊橋など諸説あり、山梨県(甲斐)、愛知県(三河)、静岡県(駿河)、長野県(信濃)には勘助にまつわる伝承が数多く残されている。討ち死にした川中島古戦場付近には、勘助の墓をはじめ、胴合橋、勘助宮などのゆかりの地が点在している。
由布姫(諏訪御料人)(ゆうひめ、すわごりょうにん)[1531?-1555]
父の仇・晴信の妻として生きた、短く薄幸な人生
天文11年(1542)、武田晴信(信玄)による諏訪攻略によって自刃させた諏訪頼重(すわ・よりしげ)の息女。側室小見[おみ]氏(麻績[おみ]城主小見氏の娘・華蔵院[けぞういん])との子といわれ、「目のさめるような美貌」で晴信に見初められて側室となる。天文15年(1546)、後に武田家当主となる四男勝頼を15歳で生む。10年後の弘治元年(1555)、わが子の晴れ姿を見ることなく、薄幸な生涯を閉じた。
晴信の側室として迎えるにあたり、家臣たちは「手にかけた諏訪家の娘、いつ上様の寝首をかかれるやもしれません」とこぞって反対したが、「諏訪への懐柔策となり、武田家にとって必要なことである」という山本勘助の進言によって、天文12年(1543)、晴信との祝言が行われたとされる。
文学作品に描かれる由布姫の姿
歴史上、その本名は知られておらず、海音寺潮五郎の『天と地と』では“諏訪御料人(すわごりょうにん)”、新田次郎の『武田信玄』では“湖衣姫(こいひめ)”と名づけられた。井上靖の『風林火山』には、由布姫の名で登場し、敵である晴信を憎む一方で、深く愛する心に揺れる、内に情熱を秘めた女性として描かれている。物語ではそんな美しく怜悧な由布姫に思慕の情を寄せる山本勘助が、勝頼に自らの夢をかけて二人を見守ってゆく。
由布姫の故地、小坂観音院と高遠・建福寺
なお、由布姫が暮らしたという諏訪湖岸の龍光山[りゅうこうざん]観音院(小坂[おさか]観音院)には“由布姫の供養塔”が建ち、また伊那市高遠の建福寺[けんぷくじ]には勝頼が母親の菩提を弔ったとされる由布姫の墓がある。法名は「乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼」という。
武田信虎(たけだ・のぶとら)[明応3年(1494)-天正2年(1574)]
甲斐国を統一し、戦国大名・武田家三代の礎を築いた猛将
甲斐武田家18代当主。武田晴信(信玄)の父。14歳で家督を継ぎ、叔父の油川信恵[あぶらかわ・のぶよし]や、小山田信有[おやまだ・のぶあり]、大井信達[おおい・のぶさと]ら同族合いまみえた内乱をおさめ、甲斐国の統一を果たす。
永正16年(1519)、信虎は領国経営の本拠地となる躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を築き、領土拡大をはかって信濃への侵攻を開始。また、駿河の今川氏や相模の北条氏とも各地で戦いを繰り広げた。
わが子・信玄に駿河の今川家へ追放され、信州伊那で波乱の生涯を閉じる
天文10年(1541)、信濃の豪族・村上義清[むらかみ・よしきよ]らと協力して小県[ちいさがた]の海野棟綱[うんの・むねつな]を討った信虎は、その同年、晴信と重臣らのクーデターにより、娘(定恵院[じょうけいいん])の嫁ぎ先である駿河へ追放される。クーデターの理由は諸説あり、嫡男晴信との軋轢や、度重なるいくさで疲弊する領内も顧みず、暴虐で専制化する信虎の圧政に領民・家臣の不満が高まったためともいわれる。甲斐を追放された信虎は今川義元の庇護下で暮らすが、永禄3年(1560)桶狭間[おけはざま]の戦いで義元が織田信長に敗れると、信玄に駿河攻めを促すなどの画策により、今川家から追い出されてしまう。その後、信虎は縁故を頼って京都に上り、信玄没後の天正2年(1574)、甲斐の地を二度と踏むことなく、信州伊那で81歳の天寿をまっとうした。
伊那市高遠の桂泉院[けいせんいん]には、信虎の墓があり、高遠城で壮絶な最期を遂げた信玄の五男・仁科盛信[にしなもりのぶ](信盛とも)の位牌もおさめられている。信虎の墓は、高遠城南の法幢院(ほうどういん)にあったが、のちに現在の桂泉院裏の月蔵山[がつぞうざん]中腹に移されたといわれている。
武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)[大永5年(1525)-永禄4年(1561)]
武田信繁、左馬助※武田二十四将の一人でもある。
武田の副大将として兄・信玄を支え続けた稀代の名将
武田信虎の次男で信玄の実弟。母は大井(おおい)夫人。幼名次郎、元服して左馬助信繁[さまのすけのぶしげ]と名のる。典厩[てんきゅう]とは左馬助の唐(中国)名。
父信虎は信玄よりも信繁を寵愛し跡目相続にと考えていたという。晴信(信玄)による信虎追放後は兄の臣下となり、副大将として兄を支え続けた。文武両道に優れ、誠実な人柄で家臣からの人望も篤く、たぐいまれなる名将と後世に讃えられた。嫡男・信豊[のぶとよ]に伝えた九十九ヵ条の教訓「信玄家法」は、江戸時代の武士教育にも影響を与えたといわれる。
川中島の激戦で兄を守り討ち死に、ゆかりの典厩寺に眠る
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、鶴翼[かくよく]の陣の左翼隊を率い、大乱戦の中で討ち果てた。『甲越信戦録』によると、信玄本陣に押し寄せる上杉勢に武田劣勢とみた信繁は、兄の身を案じて、「私が敵の攻撃を防いでいる間に、勝つ算段を考えてくださるように」と使いを送った。そして自分の黒髪と母衣[ほろ]を形見として息子・信豊[のぶとよ]に手渡すようにと家臣に託し、「われこそは信玄の弟、武田左馬之助信繁なり!われと思わん者はこの首をとれ!」と大音声をあげ、敵中に突入し奮戦、最期は鉄砲で撃たれ、宇佐神駿河守定行[うさみするがのかみさだゆき]の槍に突かれて討ち死にしてしまう。
信繁の遺体は水沢の地に埋葬され、のちに初代松代藩主・真田信之[さなだ・のぶゆき]が信繁の菩提を弔ったという典厩寺[てんきゅうじ]にその墓はある。
武田刑部少輔信廉(たけだぎょうぶのしょうゆうのぶかど)[1525、1528、1532年等諸説あり-天正10年(1582)]
武田信廉・逍遙軒信綱※武田二十四将の一人でもある。
兄・信玄を支え続けた武田親族衆の筆頭。戦国期屈指の武人画家としても知られる
武田信虎の三男で、信玄、信繁の同母弟。幼名孫六、のち逍遙軒信綱(しゅようけんのぶつな)と号した。親族衆の筆頭として信玄本陣を固め、情報戦略の面でも力を発揮し、兄・信玄を補佐した。永禄4年(1561)の川中島の戦い、天正3年(1575)長篠の合戦にも参陣し、勝頼が躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入ると伊那高遠城の守将をつとめた。天正10年(1582年)織田軍の甲斐攻めで伊那を追われて甲斐に退却するが、捕らえられ古府中で処刑された。
信廉は戦国期屈指の武人画家としても有名で、父・信虎と母・大井夫人を描いた画像は、現在国の重要文化財となっている。
信玄の影武者ともいわれる人物
風貌が酷似していたことから、信玄の影武者をつとめた人物といわれている。第4次川中島の戦いでも信玄の影武者を演じ、また、信玄が伊那駒場で没したときも、兄になりすまして甲府に軍を戻すことに成功させたというエピソードがある。
『甲越信戦録』によると、第4次川中島の戦いで上杉謙信が信玄の本陣に斬り込む際、間者を放ち、信玄の居所を探らせた。信玄本陣に見事入り込んだ間者たちは、大将然とした法師姿の武者が二人並んでいるのを見て、どちらが信玄か見極められなかった。その時、太郎義信(信玄の息子)の苦戦の報を受けた一方の武者が「我に構わず太郎を救え」と叫んだ。間者らはその声を発した武者が信玄だと見届け旗を振り、謙信はその合図の旗をめざして一騎討ちに挑んだ。この時のもう一人の法師姿の武者が、実は逍遙軒信綱(信廉)であったという。
武田四郎勝頼(たけだしろうかつより)[天文15年(1546)-天正10年(1582)]
武田勝頼
諏訪家の名跡を継ぎ、武田家最後の後継者となった由布姫の子
武田家20代当主。武田信玄の四男で武田家最後の後継者。母は由布姫(諏訪頼重の息女・諏訪御料人)。諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗り、永禄5年(1562)伊那高遠城主となる。
信玄は反発する嫡男・義信[よしのぶ]との不和から、勝頼を偏愛した。元亀4年(1573)、信玄が死去すると勝頼が跡を継ぎ、甲斐の躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]に入る。
長篠の合戦で惨敗。家臣の相次ぐ離反を契機に滅亡の道を歩む
勇猛な武将として名をあげ、徳川方の高天神城[たかてんじんじょう]を落とすなど武田の版図(領土)を広げたが、天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗。多くの将兵を失い大打撃を受けた甲州軍は、家臣らの内紛も深めながら、弱体化の一途をたどっていった。
そして天正10年(1582年)、織田・徳川・北条連合軍の甲州攻めに遭い、追い詰められた勝頼は、天目山にて子の信勝とともに自害する。享年37歳。これによって名門甲斐武田氏は滅びた。
勝頼に天下取りの夢を託した山本勘助
『風林火山』のなかで、勝頼の将来を由布姫に託された山本勘助は、永禄4年(1561)上杉謙信との川中島決戦で初陣をはやる勝頼をまだ時期ではないと思いとどまらせる。そのまま勘助は、勝頼初陣の雄姿を眼にすることなく、川中島にたおれていった。
武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)[天文7年(1538)-永禄10年(1567)]
武田義信
武田家の後継者と目されながら、父・信玄と対立を深め自害した悲劇の将
武田信玄の嫡男。母は三条夫人。信濃・伊那攻めで初陣を飾り、各地を転戦。第4次川中島の戦いでは、旗本50騎、雑兵400騎を率いて武田家の総領の名に恥じない戦いぶりをみせ、二カ所に手傷を負った。小説『風林火山』の川中島の戦いでは、押し寄せる上杉軍から父・信玄を救うため敵本陣に斬り込もうとした義信だったが、武田の血を一人でも絶やさぬようにと山本勘助が代わりにその役を引き受け、謙信の首めがけ修羅場の中に突っ込んでいくクライマックスシーンが描かれている。
武田家の後継者として目された義信だったが、今川義元の長女を正室に迎えていたため、桶狭間[おけはざま]の戦いで織田信長に敗れ弱体化した今川氏を攻略しようとする父・信玄との対立を深める。永禄8年(1565)、叛意を問われた義信は甲斐の東光寺[とうこうじ]に幽閉、守り役の飯富虎昌[おぶ・とらまさ]は処刑される。2年後の永禄10年(1567)、義信は自害。翌年より信玄は今川氏の駿河侵攻を開始したのであった。
高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょう※まさのぶ)[大永7年(1527)-天正6年(1578)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
高坂(香坂)弾正・昌信・昌宣、春日源助・源五郎・虎綱
川中島合戦後も海津城将として北信濃統治を任された智将
信玄と勝頼に仕えた武田軍きっての智将。「武田四名臣」の一人。北信濃の名族高坂氏を継ぐが、のち、もとの春日姓にあらため、春日虎綱[かすが・とらつな]と名のる。
石和の豪農・春日大隅の子で、当初は春日源助、源五郎と名のっていた。美少年でもあったといわれ、信玄の近習[きんじゅ]として寵愛を受け、天文21年(1552)に小姓[こしょう]から150騎の侍大将に抜擢された。山本勘助の縄張り(築城)による小諸城の城代を務めたのち、北信濃攻略の重要拠点となる海津城を守った。第4次川中島の戦いでは、妻女山[さいじょざん]の上杉軍本陣へと向かった啄木鳥[きつつき]隊を指揮。合戦後は敵味方の区別なく死者を弔い、義をもって戦後処理にあたったという。勝頼が織田・徳川の連合軍に大敗した天正3年(1575)長篠の合戦には参戦せず、海津城主として上杉勢に備えた。
天正6年(1578)、海津城内において52歳で病没。亡骸は遺命により、明徳寺[めいとくじ]に葬られた。
慎重な戦運びからついた“逃げ弾正”の異名。鋭い眼力は勘助を圧倒する
高坂弾正は、冷静沈着で温厚な性格だったといわれ、あらゆる情報を集めて戦況を分析し、無理な戦いをしない慎重さから“逃げ弾正”とも呼ばれた。信玄が徳川家康を破った三方ヶ原[みかたがはら]の戦いでも、敗走する徳川軍の追撃を無益であると宿将のなかでただ一人反対したという。民政にも長じ、川中島合戦後も北信濃の経営に力を注いだ。
ちなみに『風林火山』の物語の中では、信玄は難しい戦が予想されると「八分の信頼と二分の軽蔑感」をもって高坂(昌信)を赴かせ、「合戦さえあてがっておけばそれで十分満足」する若き武人として登場する。山本勘助が川中島に海津城を築城するにあたり、尼巌城の高坂昌信は勘助のよき相談役となって助言し、対上杉戦での武田の弱点も指摘。その鋭い眼力に、勘助は軍師としての自分の衰えを思い知らされ、物語は終章の川中島の戦いへと向かう。
馬場美濃守信房(信春)(ばばみののかみのぶふさ/のぶはる)[永正11年(1514)?-天正3年(1575)]
馬場信房・信春・信政・氏勝・民部少輔、教来石景政
40余年の戦歴にかすり傷一つなし、器量も深い知勇兼備の剛将
信虎・信玄・勝頼三代に仕えた譜代の重臣。「武田四名臣」の一人。
甲斐の教来石を領し、教来石景政(信房)[きょうらいしかげまさ/のぶふさ]と名乗っていたが、跡目の絶えていた武田重臣・馬場姓を継ぐとともに民部少輔[みんぶのしょうゆう]に任じられた。のち豪傑と謳われた原美濃守虎胤[はらみののかみとらたね]の美濃守称を許され、馬場美濃守信房(のち信春)と改名した。
戦の巧さには定評があり、諏訪、佐久の信濃攻略で数々の功名を成す。40余年の戦歴に擦り傷一つ受けたことがないという猛者で、度量が深く、知謀に優れ、信玄はもとより諸将・雑兵までが揺るぎない信頼を寄せる器量人であった。
深志城、牧之島城の城将を歴任、築城の巧さは勘助ゆずり
天文19年(1550)筑摩郡深志城[ふかしじょう](現松本城)の城将を務め、弘治3年(1557)には落合氏が籠もる葛山城を落とし、武田の善光寺平掌握の中核として活躍する。第4次川中島の戦いでは、対陣する上杉軍との一戦をどうするか、信玄は山本勘助を召しだし、馬場信房とともに評議させた。結果、勘助の啄木鳥(きつつき)の戦法により、信房は本陣・妻女山[さいじょざん]攻撃隊を率いた。合戦後の永禄5年(1562)、越後上杉の防御として牧之島城[まきのしまじょう](現信州新町)を築き、城将として北信濃の抑えを固めた。甲州流の築城の名手とされ、山本勘助の継承者とされる。
勝頼の代には譜代家老衆の筆頭格として活躍した。天正3年(1575)長篠の合戦では、敗走する勝頼軍の殿[しんがり]をつとめ戦死。その比類ない働きは敵の織田方も称讃したという。
内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)[大永3年(1523)?-天正3年(1575)]
内藤昌豊・昌秀・修理亮
功名よりも武田全軍のために忠義を尽くした“甲斐の副将”格
信玄・勝頼の二代に仕えた重臣。永禄4年(1561)、川中島で討ち死にした信玄の弟・典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)亡き後、甲斐の副将格と目された。「武田四名臣」の一人。
初名は工藤源左衛門尉祐長[くどうげんざえもんのじょうすけなが]。信虎の老臣であった父親が手討ちになり国外追放の身となるが、のち晴信(信玄)に呼び戻されて旧領を復活、やがて50騎の侍大将に抜擢され、内藤家を継承した。
武略に優れ、思慮深い人物といわれる。多数の大将首をとったが、「合戦での勝利が第一、いたずらに大将首を取るなど小さい事」と大局的見地に立ち武田軍の統率に心を砕いた。第4次川中島合戦では、旗本陣の右翼を担って死守。その後、筑摩郡深志城、西上野の箕輪城城代を務める。天正3年(1575)、長篠の合戦にて戦死。
山県三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)[享禄3年(1530)?-天正3年(1575)]
山県昌景・山形昌景・飯富源四郎
「職」の座につき信玄の補佐役として活躍、三方ヶ原の戦いで徳川家康をも怖れさせた猛将
「武田四名臣」の一人。譜代家老衆として信玄・勝頼の二代に仕えた。飯富虎昌[おぶ・とらまさ]の実弟で飯富源四郎[おぶ・げんしろう]といった。信玄の近習小姓から伊那攻めにて初陣。のち侍大将に抜擢されて、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]亡きあとの最高指揮官「職[しき]」をつとめ、信玄を補佐した。信玄の嫡子義信が謀反の罪で幽閉された事件で兄虎昌が誅された後、山県姓を名のる。
短期間で城を攻略することを得意とし、敵を恐れぬ猛将であったといわれる。元亀3年(1572)三方ヶ原[みかたがはら]の合戦では、徳川本陣に正面から攻撃し、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」と家康に言わしめた。天正3年(1575)、長篠の合戦にて、鉄砲の玉を受けても落馬せず、采配を口にくわえたまま戦死したという。
『甲越信戦録』に描かれた勇士
第4次川中島合戦では、本隊鶴翼[かくよく]の陣の左翼を守り、『甲越信戦録』にも、乱戦で、「四尺三寸の大太刀真っ甲に差しかざし……真っ向縦割り、輪切り、縦切り、膝折、腰車と切り伏せ、切り伏せる」と山県昌景の勇士ぶりを描く。続けて、敵に取り囲まれた武田太郎義信に気づいた昌景は、ちょうどそのとき相対していた上杉軍の鬼小島弥太郎[おに・こじま・やたろう]に「主君のため、この勝負、待ってくれぬか」と頼みこみ、義信の難を救った。そこで昌景は「鬼とはだれが名づけたことぞ」と弥太郎の忠義精神を讃えるシーンが綴られている。
板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)[不詳-天文17年(1548)]
板垣信方・信形
晴信(信玄)の守り役をつとめた宿将。信虎追放の中心的役割をなす
信虎、信玄の2代に仕えた宿将。駿河守を称した。板垣氏は、武田氏の祖・武田信義[たけだ・のぶよし]の次男・板垣三郎兼信[いたがき・さぶろう・かねのぶ]を祖とする名門甲斐源氏の流れをくむ。御親族衆として信虎の代から家中の重臣として活躍。晴信(信玄)の守り役をつとめたといわれ、一時若い晴信が遊事にふけった際には、自ら詩作を習いそれを諫めた。天文10年(1541)、信虎追放時には、晴信の苦渋を理解し、中心的な役割を演じた。
その後も晴信から全幅の信頼を受け、甘利虎泰[あまり・とらやす]とともに最高職「職[しき]」の地位を得、軍政・民政の中枢を担った。天文12年(1543)、攻略した諏訪氏の上原城に入り、郡代として諏訪・伊那地方を統治。また上杉憲政が送り込んだ関東管領軍を佐久の小田井原で撃破するなど、信濃攻略の主力として活躍した。
山本勘助の仕官に尽力し、由布姫・勝頼の後ろ盾となるが、上田原の合戦で討ち死に
『甲越信戦録』には「邪なことが嫌いな廉直義節の勇士」で、義に外れた者は成敗するので憎む人間も多かった。信方をそれゆえに信頼する晴信は、その高邁さを案じたという。天文17年(1548)村上義清との上田原の合戦で先鋒をつとめ奮迅の末、討ち死にした。
板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助の才幹を見込み、晴信に推挙した人物とされる。『風林火山』の物語によると、「武田一の合戦上手」だが「苦戦になると弱い」と勘助は信方を評するが、家中に心許せる者が少ない勘助と由布姫にとっては、唯一後ろ盾となってくれる頼もしい武将であった。
甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)[不詳-天文17年(1548)]
甘利虎泰
板垣信方と並ぶ信虎時代からの重臣。戦わずして敵が逃げ出す甘利隊を率いる
信虎・信玄の二代にわたり仕えた屈指の宿老。板垣信方同様、信玄の重臣で最高指揮官「職[しき]」として活躍した。甘利家は、武田氏の始祖信義の子一条忠頼の末裔で、甲斐源氏一門の名族。
虎泰は信虎の初陣から側近として従い、内乱の甲斐国統一にも大きく貢献した。信虎追放のクーデターでは板垣信方らと組んで晴信(信玄)擁立をはかった。軍略家として抜きんでた才を発揮し、青年時代の信玄には合戦の駆け引きを教えたという。侍大将として常に先陣をつとめ、その凄まじさから戦わずして敵が逃げ出すといわれる甘利隊を率いて、豪傑の名をほしいままにした。天文17年(1548)村上義清との上田原の合戦で討ち死に。
『風林火山』の物語中、山本勘助が初めて武田家中の重臣たちと対面した時、「こいつ一人が厭な奴」として二人の軋轢を強調している。ちなみに虎泰の跡を受け継いだ息子の昌忠[まさただ](清晴とも)も、父に劣らぬ勇将だったが、家臣思いで部下から深く慕われたという。昌忠は第4次川中島の戦いで、高坂弾正忠昌信、飯富虎昌、真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]隊を率いた。
飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)[永正15年(1518)-永禄8年(1565)]
飯富虎昌
“飯富の赤備え”隊を率いて敵陣を圧倒した甲山の猛虎
信虎、晴信の二代に仕えた武田家の譜代の重臣。甲斐源氏の流れを汲み、武田の族臣とされる。
信虎追放の国主交代事件では、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]らの重臣とともに晴信(信玄)を擁立。合戦では常に先陣をつとめ、信濃侵攻で小笠原長時、村上義清を苦しめ、「甲山の猛虎」と恐れられた。虎昌の隊は赤一色の軍容(装備)で火のように敵を圧倒したことから「飯富の赤備え」といわれ、後年、これにならい徳川家康は井伊直政[いい・なおまさ]による赤備え隊を作ったという。
信玄の嫡子(正室三条[さんじょう]夫人との子)義信[よしのぶ]の守り役で、永禄8年(1565)、義信謀反クーデターの主謀者とされ自害した。
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、茶臼山から海津城に入った信玄に、「上杉に恐れをなしていると嘲けられるのは残念」と馬場信房[ばばのぶふさ]とともに早めの合戦開始を訴え、9月9日、高坂弾正忠昌信、真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]部隊を率いた。
真田弾正忠幸隆(さなだだんじょうのじょう※ゆきたか)[永正10年(1513)-天正2年(1574)]
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
真田幸隆・幸綱・一徳斎
武田きっての知将、信玄の信濃攻略に大きな功績を残す
真田氏は、東信濃に勢力を張った滋野[しげの]一族・海野[うんの]氏の流れをくむ豪族。幸隆は松尾城主・真田頼昌[さなだ・よりまさ]の子で、海野棟綱[うんの・むねつな]の孫にあたるといわれる。
天文10年(1541)、真田父子は海野一族とともに戦った海野平合戦で、武田信虎・村上義清[むらかみ・よしきよ]・諏訪頼重[すわ・よりしげ]らの連合軍に東信濃を追われ、上州の箕輪城主・長野業政[ながの・なりまさ]のもとに身を寄せた。
やがて晴信(信玄)が甲斐の領主になると、幸隆は武田に出仕。信玄に臣従後は信濃先方衆の筆頭格として信濃攻略の尖兵を担う。内部工作のよる謀略戦に抜きんでた才を発揮し、佐久攻めでは望月一族を帰服、さらには難攻不落とされた村上義清の砥石城[といしじょう]を一晩で乗っ取るなど、武田の知将の名をほしいままにした。
上田原の戦い、砥石崩れで、無敵を誇る武田軍を二度も破った村上義清であったが、幸隆の砥石城乗っ取りに「武田に戦いで勝ちながら、謀略に負けた」と口惜しがったという。
昌幸・幸村・信之……真田一族中興の祖
本領真田郷を取り戻した幸隆は、弘治2年(1556)、川中島平の掌握をはやる信玄の督促に応じ、東条[ひがしじょう]氏の尼巌城[あまかざりじょう]を見事攻略。北信濃進出の重要な布石をなした。またこの頃には、幸隆は信玄、山本勘助とともに出家し、「一徳斎[いっとくさい]」と号するようになる。
第4次川中島の戦いでは、嫡子・信綱[のぶつな]とともに出陣し、高坂弾正忠昌信、飯富虎昌らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]部隊を率いた。川中島平定後は、上野国岩櫃城[いわびつじょう]を攻略し、城代となって対上杉・上州攻略の中核任務を担った。天正2年(1574)、信玄の後を追うようにして病没。享年62歳。
子の信綱、昌輝[まさてる]とも武田勝頼にも仕えたが、長篠の戦い(1575)で戦死。真田家は昌幸[まさゆき]が継ぎ、幸村[ゆきむら]と信之[のぶゆき]に受け継がれる。上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]には幸隆夫妻と昌幸の墓が建ち、長野市松代の長国寺[ちょうこくじ]にも幸隆ら真田一族の供養塔が建っている。
諸角豊後守虎定(もろずみぶんごのかみとらさだ)[不詳-永禄4年(1561)]
諸角(両角・室住・諸住)虎定・昌清・豊後守
信虎の代から武田に仕えた最古参の重臣
信虎・晴信の二代に仕え武田家譜代の重臣。諸角[もろずみ]は、両角・室住・諸住とも記し、虎定は昌清[まさきよ]ともいう。信玄の曽祖父・信昌[のぶまさ]の六男といわれる。別説には父の代に信州諏訪から甲府に移住してきたともされる。信虎の代から数多くの合戦に出陣して武勲をあげ、信玄の代では最古参にあたる武将であった。
81歳の高齢で川中島に参戦。地元では「もろずみさん」の愛称で親しまれる
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、81歳の高齢にもかかわらずに参戦。内藤修理亮昌豊[ないとうしゅりのすけまさとよ]とともに鶴翼[かくよく]の陣の右翼を守っていたが、乱戦状態となって本陣を死守しているうちに、信玄の弟で副将の典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]が戦死を遂げた。これを知った虎定は、激怒のあまりわずかな手勢で敵陣に突入し、白髪頭を振り乱し奮戦するが、上杉軍に首を討ち取られてしまう。虎定の首は同心によって奪い戻され、のち戦死した場所に葬られたという。
老いの身を顧みず忠義を尽くして散った老将の墓は、現在長野市稲里町下氷飽(しもひがの)に建ち、地元の人々から「もろずみさん」の愛称で親しまれている。
小山田出羽守信有(おやまだでわのかみのぶあり)[永正16年(1519)?-天文21年(1552)]
小山田信有、桃隠、左兵衛尉、藤丸
武田家との同盟者、郡内・小山田家の当主。信濃侵攻の尖兵として多くの武功をあげる
信虎、信玄の2代に仕えた武田の重臣。甲斐の郡内[ぐんない]地方(山梨県東部)を領有していた小山田家16代当主にあたる。父の越中守信有[えっちゅうのかみのぶあり]は信虎に降り、以後小山田家は武田氏の同盟者・一門衆となる。
信有は知勇に優れ、参謀としても力を発揮。郡内勢が得意とする投石隊を指揮していたといわれる。天文11年(1542)の諏訪攻略にはじまり、伊那、佐久へと展開する晴信の信濃侵攻には尖兵となって活躍した。
武田軍の残虐劇として伝わる佐久の志賀城攻めでも信有は戦功を立て、志賀城主・笠原氏の夫人を引き取り側室とした。天文17年(1548)上田原の戦いでは、信玄の側近として奮戦し、その後、佐久の牙城・田口城[たぐちじょう]を攻略。上田原の武田軍敗戦によって力を盛り返した佐久勢の鎮圧に成功する。天文19年(1550)、堅塁を誇る村上義清の砥石城[といしじょう]合戦で援護の鉄砲隊を指揮した信有だったが、苦戦を強いられ、重傷を負う。その傷も癒えぬまま、2年後、天文21年(1552)信有は他界。葬儀には1万人が参列し、郡内一番の弔いとなったと伝えられる。その後、小山田家は長男の信茂[のぶしげ]が跡を継ぐ。
秋山伯耆守信友(あきやまほうきのかみのぶとも)[大永7年(1527)?-天正3年(1575)]
秋山信友・春近・晴親
伊那郡代として高遠城・飯田城を守衛
武田氏に仕えた甲斐源氏の一族・秋山氏12代目の当主で、父は新左衛門信任[しんざえもんのぶとう]。天文11年(1542)の諏訪攻めでは初陣を飾り、天文15年(1546)頃には、侍大将となる。外交的手腕に長けていたといわれ、伊那平定後は伊那郡代・高遠城の衛将、飯田城代となって美濃の織田信長に備えた。
西上作戦の別働隊長となって岩村城を攻略し、信長の叔母を妻に迎える
元亀3年(1572)信友は、信玄の上洛軍の別働隊を率いて東美濃に侵攻し、岩村[いわむら]城(岐阜県恵那市岩村町)を攻略。織田信長の叔母(遠山氏)を妻にして、城主となる。
天正3年(1575)、長篠の戦いで勝頼が敗れると、信友は織田軍に降伏。信長は信友を許さず、家臣と叔母である遠山氏もろとも長良川の河原で磔刑[たくけい、たっけい](はりつけ)に処した。なお、川中島の戦いでは、信友は織田軍の牽制のため参戦はしていない。
穴山玄蕃頭信君(あなやまげんばのかみのぶきみ)[天文10年(1541)-天正10年(1582)]
穴山梅雪・信君・信良・左衛門大夫・伊豆守・陸奥守・梅雪斎不白
信玄の姉を母に、妹を妻にもつ武田親族衆の筆頭
穴山伊豆守信友[あなやまいずのかみのぶとも]の嫡男。穴山氏は、武田と同じ甲斐源氏の流れをくみ、武田宗家の族臣として逸見筋[へみすじ]穴山(山梨県韮崎市)の地を領し、穴山氏を称したのが始まりという。
母親は信玄の姉・南松院[なんしょういん]、妻は信玄の次女・見性院[けんしょういん]。信玄にとっては血のつながる甥にあたる。信玄・勝頼の2代にわたって仕え、親族衆筆頭として軍事・外交にわたり武田家の中枢をなした。川中島の戦い、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)、長篠の戦い(天正3年/1575)などに参陣し、主に本陣の守衛を担った。
武田家再興のため、勝頼を見かぎり“裏切り者”の烙印を甘んじた
駿河進出では、天正3年(1575)長篠の戦いで戦死した山県昌景[やまがたまさかげ]の後を受けて、江尻[えじり]城(静岡県静岡市清水区)城将となり、東の北条氏、西の徳川氏に備えた。
天正10年(1582)武田家滅亡時には、義兄弟である勝頼の戦列から離れて、江尻城にて徳川・織田両氏との外交に務めるが、最後は徳川家康に降った。この離反は、武田家の血筋を残し、再興を図るための決断だったともいわれる。しかし、同年6月、本能寺の変の混乱により浜松へ帰国途中、一揆の一団によって横死した。享年42歳。風趣を好み、学識も深い武人だったといわれる。
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)[天文9年(1540)?-天正19年(1591)?]
小幡(小畑・尾畑)信貞・信定・信実・信真・右衛門尉・尾張守・上総介・兵衛尉
武田軍団の中で最大の部隊を誇った上州の朱武者
父・尾張守憲重[おわりのかみのりしげ](重貞とも)は、上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)の国峰[くにみね]城を本拠とする有力国人といわれる。夫人は箕輪[みのわ]城主(群馬県高崎市箕輪町)・長野業政[ながの・なりまさ]の娘。関東管領上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]が越後に逃れた後、憲重・信貞父子は身内の謀反により本領を追われ、天文22年(1553)武田晴信(信玄)の幕下に加わった。
信貞は、西上野先方衆として武勇をはせ、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、妻女山攻撃隊(啄木鳥[きつつき]隊)の一隊として参戦。戦後、武田軍の上野侵攻により旧領を回復し、箕輪城、駿河・小田原攻め(永禄12年/1569)、三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)を転戦し、勝頼の代には長篠の戦い(天正3年/1575)で善戦した。『甲陽軍鑑』によると、憲重・信貞率いる小幡氏一党の部隊は常に500の騎馬隊を従え、その数は武田家中最大を誇った。赤漆の鎧を身にまとった軍装で勇猛果敢に戦い、敵将からは「上州の朱武者」として恐れられたという。
武田家滅亡後、真田氏を頼って上田・塩田平に隠棲
天正10年(1582)武田家滅亡後、織田信長に仕えて本領安堵されるが、本能寺の変(天正10年/1582)後は後北条氏の配下となり、さらに小田原征伐で徳川家康に小幡領を明け渡した後、旧知の真田昌幸を頼って信州塩田平に隠棲。天正19年(1591)同地で没したと伝えられ、別所温泉(上田市)の安楽寺[あんらくじ]には、信貞の墓が建てられている。
遠州(静岡県西部)から来た小幡山城守虎盛[やましろのかみとらもり]とは、別系の小幡氏。永禄9-10年(1566-1567)の「生島足島神社[いくしまたるしまじんじゃ](上田市)起請文[きしょうもん](誓詞)」は、「小幡右衛門尉信実」の名で納められている。また、信貞の養嗣子(弟・信高の次男)も「信貞」を名乗った。
小幡山城守虎盛(おばたやましろのかみとらもり)[延徳3年(1491)?-永禄4年(1561)]
小幡(小畑・尾畑)虎盛・孫十郎・織部・日意
合戦36度、感状36枚、刀傷47カ所、“鬼虎”の異名を持つ足軽大将
父・日浄[にちじょう](盛次)とともに遠州勝間田(静岡県牧之原市)から甲州に来て、武田信虎に仕え、のち足軽大将に抜擢された。はじめ織部、後に山城守を名乗り、信虎から「虎」の一字を受け、虎盛と称した。生涯、合戦に30数度の出陣、体には40数カ所の傷を受け、“鬼虎”の異名で恐れられた。大将として率いる部隊の采配ぶりは定評があり、主君信玄や山本勘助も称讃したという。
海津城の副将として川中島を警護
信玄の出家に際しては、原虎胤[はらとらたね]、真田幸隆とともに剃髪入道し、日意[にちい]と号した。高坂弾正忠昌信[こうさかだんじょうのじょうまさのぶ]の副将をつとめ、海津城二曲輪[くるわ]の守衛にあたっていたが、永禄4年(1561)6月、上杉軍との決戦を前に病に倒れ、没した。臨終には「よくみのほどをしれ」の遺言を残し、子孫への戒めにしたという。家督を継いだ嫡男の豊後守昌盛[ぶんごのかみまさもり](又兵衛)は、父親の後継とされた海津城副将を辞退し、第4次川中島の戦い(永禄4年/1561)では旗本衆として本陣の信玄を守った。
西上野先方衆の小幡上総介信貞[かずさのすけのぶさだ]とは別系の小幡氏だが、『甲越信戦録』巻之四の二「小幡家由緒のこと」では、小幡入道日意(山城守虎盛)は上野国に住む「群馬の音人[おとひと]」を先祖とする同族として語られている。
小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)[天文8年(1539)?-天正10年(1582)]
小山田信茂・信重・弥三郎・又兵衛尉・越前守・出羽守
何事にも万能の才を発揮し、武田軍最強の部隊を率いた郡内国主
出羽守信有[でわのかみのぶあり]の嫡男。天文21年(1552)信有の死後、弱冠12歳で家督を継いだといわれ、弘治3年(1557)の第3次川中島の戦いで初陣。永禄4年(1561)の激戦では、高坂弾正忠昌信[こうさかだんじょうのじょうまさのぶ]、真田幸隆らとともに妻女山攻撃の啄木鳥[きつつき]隊を率いた。また、永禄12年(1569)の小田原攻めでは北条氏照[ほうじょううじてる]軍を撃破するなど、信茂率いる郡内[ぐんない]勢は武田軍中最強の部隊とうたわれた。山県昌景[やまがたまさかげ]は「若手にては万事相調いたる人よ」と讃えたという。
信玄死後は勝頼を支えたが、天正10年(1582)織田信長の武田攻めに対し、先鋒となって抗戦するも、最後は武田の不利を察し、郡内国主でもあったことから勝頼に見切りをつける。武田家滅亡後、信茂は織田信長に降ったが、その不忠を信長になじられ、同年3月甲府善光寺で誅された。
三枝勘解由左衛門尉守友(さえぐさかげゆさえもんのじょうもりとも)[天文7年(1538)?-天正3年(1575)]
三枝守友・宗四郎昌貞・勘解由・左衛門尉、山県善右衛門
花沢城攻めで一番槍の功名をあげた若獅子
甲斐源氏の勢力伸長により断絶となった名族三枝[さえぐさ]氏を、武田信虎が同族の石原氏に名跡を継がせた。信虎時代は守綱[もりつな]、信玄には子の虎吉[とらよし]とその嫡男だった守友が仕えた。
守友は元服後、使い番を経て奥近習の一人として信玄に出仕。曾根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)らとともに信玄から特に目をかけられた側近だった。川中島の戦いでは旗本組に属し、永禄7年(1564)頃には侍大将に抜擢されたという。
永禄12年(1569)の小田原攻め・三増[みませ]峠の戦いなどで武勲をたて、永禄13年(1570)の駿河の花沢[はなざわ]城(静岡県焼津市高崎)攻めでは一番槍の功名で感状を受けている。また高天神[たかてんじん]城(静岡県掛川市下土方)の攻略(元亀2年/1571)や、さらに三方ヶ原の戦い(元亀3年/1572)でも獅子奮迅の活躍をみせ、そんな守友をひいきにした山県昌景は、名刀吉光の太刀を授けて山県姓を名乗らせたという。
天正3年(1575)、織田・徳川連合軍との長篠の合戦では、武田信実[たけだのぶざね](信玄の弟・信虎7男)の副将として鳶ヶ巣山[とびがすやま/鳶ノ巣山とも]砦に陣取るが奇襲に遭い、討ち死にした。
曾根下野守昌世(そねしもつけのかみまさただ)[生年・没年不詳]
曾根(曽根)昌世・昌清・内匠助[たくみのすけ]・孫次郎勝長・右近助
信玄の薫陶を受けた直参の将。主君の一眼となって多方面に奔走
曾根氏は甲斐源氏の一族で、武田氏譜代の重臣。虎長[とらなが]の嫡子とされる昌世は、はじめ信玄の奥近習衆として側に仕え、薫陶を受けながら成長。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは本陣中央を守り、永禄期末には足軽大将に出世した。
情報参謀として国内外の情勢に目を光らせ、また合戦の際は検使[けんし](戦場を視察し確認する役)となって各部隊の戦況を本陣に報告する役目を果たしていたといわれる。武藤喜兵衛(真田昌幸)とともに、信玄に「わが両眼のごとき者」と言わしめ、厚い信望を得ていた。勝頼の代には、駿河の興国寺[こうこくじ]城(静岡県沼津市)の守将となった。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、織田・徳川氏に従うが、後に天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条氏の小田原攻め後には徳川氏を離れ、会津の蒲生氏郷[がもう・うじさと]に仕えたといわれる。
多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)[文亀元年(1501)?-永禄6年(1563)]
多田淡路守・満頼・三八・昌澄・昌利
夜襲戦の妙手として抜きんでた才を発揮。火車鬼退治の武勇伝も残る武田きっての強者
多田氏は清和源氏源満仲[みなもとみつなか]の後裔とされる。美濃国(岐阜県南部)出身の満頼は、甲斐に移って信虎に召し抱えられ、足軽大将となって信玄にも仕えた。夜襲戦にかけては右に出る者がいなかったといわれ、『甲陽軍鑑』の中では「多田三八」の名で登場。小荒間の合戦(天文9年/1540)の話には、村上義清方の侍大将清野[きよの]氏率いる3,500の軍勢に夜襲をかけ、村上軍を敗走に追い込み、172の首を討ち取ったことが描かれている。虚空蔵山[こくぞうさん]城(坂城町南条・上田市)の在番中、地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説を持ち、合戦数は29回、身に27カ所の刀傷を負い、29通の感状を授かったという豪傑。信虎・信玄が誇る自慢の部下であったといわれる。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いには、嫡男の新蔵[しんぞう](久蔵)が足軽隊を率いて参戦。満頼はその2年後の永禄6年(1563)、病没した。
土屋右衛門尉昌次(つちやうえもんのじょうまさつぐ)[天文14年(1545)?-天正3年(1575)]
土屋昌次・昌続・晴綱・直村・信親、金丸平八郎
武田の領国支配を中心的に支えた青年武将。起請文のとりまとめ役も担った
甲斐の旧族で、信玄の守り役を務めた金丸筑前守虎義[かなまるちくぜんのかみとらよし]の二男。奥近習の一人として信玄に仕え、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは初陣を果たし、本陣中央に備えた。上杉軍の攻撃が本陣にまでおよぶ乱戦のなか、信玄の側で奮戦したという。その後、頭角を現し、数多くの戦功により侍大将に抜擢。永禄11年(1568)頃には武田氏の譜代重臣・土屋氏の名跡を継いだと伝えられる。
有力宿老として家臣らの信頼も厚く、永禄9-10年(1566-1567)に信玄が家臣諸将に忠誠を誓わせた「生島足島神社の起請文」の一部取りまとめ役も担った。天正元年(1573)、信玄の訃報に接した昌次は殉死しようとしたが、高坂弾正忠に説得されて思いとどまったというエピソードも残されている。
天正3年(1575)、織田信長との長篠の合戦で、騎馬隊封じの馬防柵(馬止めの柵)を突破しようとして、鉄砲隊の一斉射撃を受け、戦死した。
原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)[明応6年(1497)?-永禄7年(1564)]
原虎胤・虎種、清岩
後利用を考えた城攻めで、筑摩の要害・平瀬城を攻略
下総千葉氏の一族・原氏の出自で、永正期(1504-1521)に父・能登守友胤[のとのかみともたね]に伴われ、房州臼井(千葉県佐倉市)から甲斐に来て、信虎・信玄の2代に仕えた。
信玄が家督を継承した頃、足軽大将となり、板垣信方[いたがきのぶかた]・甘利虎泰[あまりとらやす]・飯富虎昌[おぶとらまさ]氏らとともに武田の中枢を担い、信濃経略の主力として活躍。効率的な城攻めに長け、奪い取った後も補修せずに利用できる攻略法を得意としていた。天文20年(1551)には、信濃守護小笠原長時[おがさわらながとき]の属城だった平瀬[ひらせ]城(松本市島内)を攻略し、城将を務めた。
“甲斐の鬼美濃”と恐れられ、隣国にその名を轟かせた猛将
「10の兵をもって100の敵に当たる」を信条とし、合戦にのぞむこと38回、全身に受けた傷は53ヶ所を数え、隣国に“甲斐の鬼美濃”と恐れられた猛将だが、情けには厚い武人であったという。のちに馬場信春は虎胤の“鬼美濃”の武名にあやかり、「馬場美濃守信春」と称している。
また、『甲陽軍鑑』によると、虎胤は浄土宗と日蓮宗との法論(仏法の教義に関する議論)を禁じた法度(『甲州法度之次第』)を破った罪で、一時は甲州を追放され相模の北条氏に仕えたが、翌年には帰参したエピソードもある。
信玄が出家の際には、山本勘助・真田幸隆・小幡虎盛とともに剃髪し、清岩[せいがん]と号した。永禄2年(1559)信越国境の割ヶ嶽[わりがたけ]城(上水内郡信濃町)攻略のとき、銃弾を受け負傷。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでも傷が癒えずに出陣できず、永禄7年(1564)に没したという。
甲州系の原隼人佑昌胤[はらはやとのすけまさたね]とは別系の原氏だが、『甲越信戦録』巻之三の六「海野平対陣のこと」および七「原美濃守由緒」には、原美濃守虎胤が「信俊(弥五郎)」の名で登場し、同一門として語られている。
原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)[大永6年(1526)?-天正3年(1575)]
※生年には所説あり
原隼人・昌胤・正種・昌勝・胤長・昌国・隼人助・隼人佐・隼人正
武田随一の陣取りの巧者。信玄の側近として様々な重要任務を遂行した譜代家老
武田の譜代家老衆として信虎・信玄の2代に仕えた加賀守昌俊[かがのかみまさとし]の嫡子。原氏は、一条庄高畑郷(甲府市高畑)の一帯を領有していたとされる。天文18年(1549)、父・昌俊が死ぬと家督を継ぎ、120騎持ちの侍大将になって隼人佑を称した。親子ともども陣取りの名手であったといわれ、地理に明るく、合戦場となる地勢・地形を見極めて、有利に戦うための場所を探し出す卓越した才能を発揮した。信玄も陣取りの采配を一任し、合戦の際には各部隊の戦況をとりまとめ本陣に報告する陣場奉行を務めたという。
また一方では、西上野国衆ほか他地域の国衆など各所からの要望を信玄や関係役所に取り次ぐ役務「奏者[そうじゃ]」の任にあたったり、治水事業を指揮したり、のちには山県昌景[やまがたまさかげ]とともに最高指揮官「職[しき]」を務めたことなども伝えられ、いずれも武田の参謀として重要な要職についていたと考えられる。ちなみに永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いにも出陣し、信玄本陣の脇備隊左翼を守ったとされている。
信玄の死後は勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで左翼山県隊の横に布陣し、銃弾を浴びて戦死する。嫡子・昌栄[まさひで]が家督を継ぎ、天正8年(1580)には末弟貞胤[さだたね]が継承。三代(三人)にわたって原隼人を名乗った。
下総千葉氏一族の“鬼美濃”原美濃守は、別系の原氏。同族には中間頭(ちゅうげんがしら)の原大隅守[はらおおすみのかみ]がいる。
武藤喜兵衛昌幸(むとうきへえまさゆき)[天文16年(1547)-慶長16年(1611)]
武藤喜兵衛・三郎左衛門尉、真田昌幸・喜兵衛・安房守
信濃先方衆・真田幸隆の三男。父に勝るとも劣らぬ武略家として名を馳せる
東・北信濃侵攻で砥石[といし]城、尼厳[あまかざり]城を攻略した智将・真田幸隆[さなだゆきたか]の三男。幼名は源五郎。第1次川中島の戦いで村上義清の塩田城を攻略し、東信濃を支配下に治めた天文22年(1553)、父・幸隆が小県[ちいさがた]の旧領に戻る代償として、7歳で武田家の人質となり、信玄の近習として出仕。その後信玄の母方の武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛と名乗る。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで初陣を飾り、以降旗本として活躍する。
信玄の死後、勝頼に仕えるが、天正3年(1575)織田・徳川の連合軍に大敗した長篠の戦いで二人の兄、信綱[のぶつな]・昌輝[まさてる]が戦死し、昌幸が真田家を継いだ。勝頼の信頼も厚く、西上野(群馬県西部)の備えを任されて小県の真田郷に戻り、松尾城・砥石城を拠点に上州(群馬県)経営を担った。父に似て軍略の才に優れ、天正8年(1580)には上野沼田[ぬまた]城(群馬県沼田市)を無血で謀奪し、沼田地域を支配した。
天下の情勢を読み取り、乱世を生き抜いた名族・真田家の意地
天正10年(1582)、武田家滅亡後は、上田城(上田市)を築城し、北条氏、徳川氏、上杉氏を転変する。天正13年(1585)には昌幸と子・信幸(信之)が上田城にこもり、徳川家康の大軍を迎撃し大勝。また慶長4年(1599)徳川主力の秀忠[ひでただ]の大軍を防ぎ関ヶ原の合戦を遅らせ、天下の徳川軍に2度圧勝したことは後世の語り種となっている。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後は没落し、高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ配流。慶長16年(1611)山麓の九度山[くどやま](和歌山県伊都郡九度山町)で病没した。享年63歳。
その間、長男・信之[のぶゆき]を東軍徳川方に、次男・幸村[ゆきむら]を西軍豊臣方につけ、いずれにしても家名を存続させる手段をとっていたが、結果、東軍についた信之が徳川松代十万石の藩祖となって真田氏は受け継がれた。昌幸の墓は、上田市真田の長谷寺[ちょうこくじ]にあり、幸隆夫妻の墓とともに並んで建っている。
横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)[長享元年(1487)?-天文19年(1550)]
横田備中守・高松・十郎兵衛
敵の動きを機敏にとらえる抜群の合戦勘で、数多くの勝利を導いた知謀の将
横田氏は、近江源氏・佐々木氏の流れをくむ六角[ろっかく]氏。甲州に来て信虎に仕えた。信玄の代には騎馬30騎、足軽100人の足軽大将となり、甘利[あまり]隊の相備え[あいぞなえ]をつとめた。
合戦に34回出陣し、受けた刀傷は31カ所を数える猛者。敵がどこに来るのかをいち早く察知し、敵の裏をかきその場所を陣取る先手必勝を得意とした。信濃経略にあたっては第一線の部隊を率いて、天文15年(1546)の佐久郡志賀城攻めなどをはじめ、板垣信方[いたがきのぶかた]・甘利虎泰[あまりとらやす]・飯富虎昌[おぶとらまさ]らの侍大将に匹敵する活躍をみせた。隣国にもその武名はひびきわたり、敵を恐れさせたという。
天文19年(1550)村上義清の砥石[といし]城攻めで、味方の撤退を援護する殿[しんがり]をつとめ、最後まで敵地に踏みとどまり奮戦。村上軍の追い討ちによって横田隊は包囲され、1,000人の兵とともに討ち死に。信玄はいつまでも高松の死を惜しんだという。
相木市兵衛昌朝(あいきいちべえまさとも)[生年不詳-永禄10年(1567)?]
政信、依田能登守常喜
信玄に重用された信濃先方衆の精鋭/川中島の戦いで妻女山攻撃隊の一隊を率いる
佐久郡南部、相木城(見上城・佐久郡南相木村)城主で、天文12(1543)年ころには、武田氏の配下となり、信玄の信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげた。信玄からの信頼も厚く、騎馬80騎持ちで田口城(佐久市臼田)城主となったと伝えられる。
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、高坂弾正[こうさかだんじょう]、真田幸隆らとともに妻女山の上杉軍を突く啄木鳥[きつつき]隊の一隊を指揮した。
川中島の戦い以降、相木氏は善光寺城山下付近に相木城を築き、善光寺平の治安維持に務めたという。長野市三輪には昌朝が在陣したと伝わる相木氏の城館址があったが、昭和33年(1958)長野女子高等学校建設により取り壊され、跡地に小宮と城跡碑が建立された。この地籍を走る北国街道は現在「相ノ木通り」と呼ばれている。
仇敵村上氏に対抗し、武田に従った相木依田氏
相木氏は、阿江木[あえき]氏ともいわれ、小県郡依田荘(上田市丸子)を発祥とする依田氏の一族という。当初、北佐久地方を治めていた大井氏の重臣だったが、文明16年(1484)、村上政清、顕国※父子が佐久に侵入し、大井城が攻略されてからは、相木氏は大井氏を離れ、佐久郡相木城を拠点とした。その後、相木能登守(昌朝)の代となり、武田信玄の信濃侵攻を機に、かねてから村上氏を快く思わなかった相木氏は、武田方に与したのではないかともいわれる。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、相木氏は小田原北条氏に属したが、徳川方の依田(芦田)信蕃[しんばん/のぶしげ]に田口・相木城を落とされて関東へ逃れた。天正17(18)年(1589、1590)には伴野貞長らとともに旧領を奪還すべく相木に挙兵したが、松平康国に攻められて敗れ、再び上州(現在の群馬県にあたる)へ逃れたという。
※この村上顕国の子が、村上義清である。 
上杉家

 

上杉謙信(うえすぎ・けんしん)[1530-1578]
「軍神」「越後の虎」…様々な異名を持つ戦の天才
武田信玄の宿命のライバル上杉謙信は、「越後の虎」「越後の龍」とも呼ばれる戦国時代屈指の武将。そのカリスマ性と抜きん出た指揮統率能力、電撃的な速攻で生涯無敗を誇る功績から「軍神」との通称もある。
謙信は、享禄3年(1530)越後国守護代長尾為景(ながお・ためかげ)の三男として生まれ、幼名を虎千代(とらちよ)といい、元服して長尾景虎(かげとら)と称した。天文17年(1548)に長尾の家督を譲られ春日山城主となり、永禄4年(1561)に上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)から上杉家を譲られ、同時に関東管領職に就く。上杉政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)を名乗った後、出家して上杉謙信となった。
神仏への厚い信仰心、義を重んじた謙信
天文22年(1553)武田信玄に追われた村上義清(むらかみ・よしきよ)らの求めに応じ信濃へ出兵した謙信は、武田信玄と川中島で5度にわたり戦った。川中島の合戦を通して生涯の宿敵であった信玄との間には友情めいたものがあったのではないか、という推測もあり、信玄の死を伝え聞いた時には「惜しい男をなくした」と箸を落としたという。敵国甲斐の領民に塩を送った逸話(※「首塚」の紹介文参照)でも知られるように、義を重んじ、私利私欲では動かなかったという謙信。青年期までは曹洞宗の古刹・林泉寺(りんせんじ・新潟県上越市)で名僧天室光育(てんしつこういく)から禅を学び、後に臨済宗大徳寺にも参禅、晩年には真言宗に傾倒し高野山で位階も受けるほど、神仏への深い信仰心をもっていた。
自らをその化身と仰ぐ毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の旗織をはためかせ信濃から北陸、関東へと進出するが、天正6年(1578)、天下への夢を果たすべく織田信長挟撃を画して戦を進めているなか、脳溢血(脳いっけつ)で倒れて49年の短い生涯を閉じた。戦国時代を疾風のように駆け抜けた合戦の天才であった。
※毘沙門天多聞天。仏教の守護神で、北方を守る四天王の一人。七福神の一人ともされ、悪魔を成敗する武装した姿で戦国期には武神とあがめられた。
上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)[大永3年(1523)-天正7年(1579)]
北条氏の圧迫を受け、越後へ追い立てられた関東管領
関東管領上杉憲房[うえすぎ・のりふさ]の子。享禄4年(1531)上野国平井城に関東管領の職を継ぐ。北条氏康[ほうじょう・うじやす]に圧迫され、天文15年(1546)に北条方の河越城[かわごえじょう]を大軍で包囲するが、奇襲にあって大敗(「河越夜戦」)。この戦いを機に北条氏は勢力を拡大し、憲政は次第に北関東へと追い詰められいく。天文21年(1552)北条氏に平井城を攻略された憲政は、長尾景虎[ながお・かげとら](上杉謙信)を頼り、越後に逃れた。その後、長尾景虎を養子として鎌倉鶴岡八幡宮で管領職を譲り、上杉政虎[うえすぎ・まさとら]と名乗らせ隠退する。
上杉謙信の養子となった景虎と景勝による跡目相続の争い(「御館[おたて]の乱」)に巻き込まれ、天正7年(1579)、武田勝頼[たけだ・かつより]の支援を受けた景勝によって討たれる。享年57歳。
上杉景勝(うえすぎかげかつ)[弘治元年(1555)-元和9年(1623)]
顕景・喜平次
上杉家第二代の家督を実力で獲得。家臣たちも恐れた厳粛な剛将
父は長尾政景の次男。母は長尾為景の娘(上杉謙信の姉)、仙桃院(仙洞院・せんとういん)。幼名は卯松(うのまつ)と称し、政景の没後、上杉謙信の養子となって、天正3年(1575)に名を景勝と改め、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に叙任された。正室は武田勝頼の妹・菊姫。
小柄ではあったが、容姿秀麗で、人となりは寡黙で笑うことは少なく、勇猛にして大胆。その厳格さに家臣たちは敵よりも景勝を恐れたという。
天正6年(1578)謙信の死後、北条氏からの養子の三郎景虎と家督相続をめぐって争い、国内を二分にして戦った。このとき信州出身の豪族たちも二派に分かれ、村上国清、岩井昌能父子、島津左京亮らは景勝を支援した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いで、景勝はいち早く春日山城を占拠し、武田勝頼と同盟するなどの策により、天正8年(1580)三郎景虎に勝利。上杉家を継承し、越後・佐渡・越中・能登を領する戦国大名となった。
武田・織田氏滅亡後、北信濃に侵攻。川中島四郡を支配する
天正10年(1582)信濃の大半を支配していた武田勝頼が織田信長の侵攻で自害し、その織田信長も本能寺で倒れたことにより、景勝は北信濃に進出。飯山城と海津城を掌握し、川中島地方を制圧した。その後、景勝は長沼城に島津忠直、また海津城には村上景国を配して北信四郡(北信濃の高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡を指す)支配の拠点とし、領国の支配体制を固めた。これにより上杉方の北信濃諸将は旧領を回復する。
天正13年(1585)には海津城に信濃高井郡の土豪だった須田満親(すだみつちか)を入城させ、さらに真田昌幸との同盟により、北信四郡の東から東南部の境界を確立。こうして度重なる合戦の舞台となった川中島は、ようやく安定化へと向かう。
豊臣秀吉、そして徳川家康に臣従し、上杉米沢藩の初代藩主となる
天正14年(1586)、景勝は上洛して豊臣秀吉に臣下の礼をとり、以後豊臣政権に参画。五大老の一人となる。慶長3年(1598)、秀吉の命で越後から会津120万石に転封となり、このとき、信濃の武将たちの多くは景勝に従って旧領を去った。秀吉の死後は、徳川家康に降り、出羽米沢30万石へと減封されるが、直江兼続ら家臣とともに米沢藩政の基礎を築き、以後、米沢は明治維新まで上杉氏歴代の城下町として栄えた。景勝は元和9年(1623)3月、米沢城で逝去。享年69歳。
宇佐美駿河守定行(うさみするがのかみさだゆき)[生年没年不詳]
謙信の軍師をつとめた越後第一の勇士/川中島の戦いで武田信繁を討ち取る
『甲越信戦録』によると、上杉四天王の一人・宇佐美駿河守定行は、越後第一の勇士との誉れ高く、上杉謙信の軍師と仰がれた。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いにおいても武功比類ない働きを見せ、八幡原の武田本陣に切り込んだ定行は、鋭く突き出す槍さばきによって、武田典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]を討ち死ににいたらしめた。永禄7年(1564)7月、定行は野尻池に船を浮かべ、謙信の姉婿にあたる政景(上杉景勝の父)に叛心があるとして、政景を道連れに入水自殺を図り、殺害した。野尻池は、上水内郡信濃町の野尻湖ともいわれ、湖の中に浮かぶ琵琶島(びわじま)には「定行の墓」がある。
また、上杉軍の川中島への進出拠点となった髻山(もとどりやま)城には、第4次川中島の戦い(川中島八幡原の戦い)の後、定行が立てこもり戦ったという伝承があり、「宇佐美沢」の地名が残されている。
宇佐美定満がモデルとなった伝説の武将
駿河守定行は、寛永年間(1624-1643)、定行の子孫と自称する宇佐美定祐[うさみ・さだすけ]が刊行した『北越軍記』『越後軍記』のなかに登場する創作上の人物とされ、実在した宇佐美駿河守定満[うさみするがのかみさだみつ]がモデルという。定祐は、その定満の孫とも伝わる。
宇佐美氏は、伊豆国宇佐美荘(静岡県伊東市)の豪族で、藤原頼朝に仕えた工藤左衛門祐経[すけつね]の弟、三郎祐茂[すけしげ]の末葉とされる。南北朝初期に越後守護上杉憲顕[のりあき]に従い越後に入府し、戦国期には琵琶島城(新潟県柏崎市)を本拠とした。天文20年(1551)、長尾政景と景虎(謙信)の家督相続争いで、駿河守定満は景虎側につき、臣下となった。
『甲越信戦録』にも語られているのと同様に、永禄7年(1564)、野尻池に船を浮かべて遊宴中、長尾政景とともに溺死したといわれる。なお、定祐は、越後流軍学の総帥で、紀州(和歌山県)藩士となり、宇佐神(うさじ)流という兵法を創唱したという。
直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)[永禄3年(1560)?-元和5年(1619)]
兼續、数直
川中島の戦いで小荷駄隊を指揮/合戦中は丹波島の渡しを死守した『甲越信戦録』の山城守兼続
『甲越信戦録』に登場する「直江山城守兼続」は、木曾義仲四天王の内、樋口次郎兼光の末葉とされ、上杉の四天王の一人に数えられる。
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、小荷駄(こにだ/食料、弾薬や馬糧などを運ぶための専門部隊のこと)奉行として丹波島に留まり、上杉謙信の本隊を側面から支えた。9月10日早暁、八幡原の武田本陣に猛虎のように攻めかかった上杉軍だったが、武田別働隊が駆けつけ、形勢は逆転。上杉勢は犀川を渡り善光寺方面へと北走する。丹波島の渡し付近の直江山城守は、200騎ばかりで高坂・甘利[あまり]の武田二勢を引き受け、味方が川を渡るのを援護した。やがて日が暮れ、大将の謙信が越後に逃れたことがわかると、直江山城守は犀川を渡り、旭山のふもとの諏訪平に後詰めの陣を張って、甘粕近江守[あまかすおうみのかみ]とともに甲州勢の攻撃に備えた。
犀川を挟んで布陣する直江・甘粕の上杉軍を叩かんと出撃命令を請う高坂弾正忠に対し、信玄は「敗戦して混乱した戦況にもかかわらず、あっぱれの勇士。その上、直江が後詰めに控えているのであれば、そのままに捨てておけ」と追撃を押しとどめた。3日後、直江・甘粕近江守隊は、陣を払い、越後に引き上げた。(『甲越信戦録』より)
上杉三代の重臣・直江大和守実綱亡き後、非凡な才を見込まれた樋口与六が直江の名跡を継ぐ
上杉謙信の代、多くの史料によると兼続はまだ幼少であったことから、一般的には義父の大和守実綱[やまとのかみさねつな](のち景綱)が、川中島の戦いに参戦したとされている。
大和守実綱は、与板城(新潟県長岡市与板町)を本拠に、長尾為景、晴景、上杉謙信の三代に仕えた重臣であった。上杉家における政治面での中枢を担い、領地経営や外交など奉行職で活躍したが、天正5年(1577)70歳(伝)で没した。
実綱には子がいなかったため、上杉景勝(謙信の養子)の命で、天正9年(1581)、樋口惣右衛門(与三左ェ門、与七郎とも)兼豊の子・与六が直江の名跡を継ぎ、山城守兼続[かねつぐ]と称した。兼続は早くから景勝の近習として仕え、その非凡な才を見込まれていた。
兜の前立ては「愛」の一文字/文武兼備の名宰相、上杉米沢藩の基礎を築く
景勝の腹心となった兼続は、内政・外交・軍事にわたって才腕を発揮し、のち豊臣秀吉にも重用された。景勝の会津移封に伴い、米沢城(山形県米沢市)に入城。慶長6年(1601)、徳川家康が天下を治め、景勝が米沢30万石に減封された後も、景勝を一貫して支え続けた。城下では、農業や商工業の振興、水利事業、鉱山の採掘などに注力し、出羽米沢藩の基礎を築き上げた立役者といわれる。逸話では景勝が会津120万石から米沢30万石に減封の折、兼続は3万石を与えられたが、それを諸将に配分し、残りの1万石の私領をさらに二つに分け家中に与えたと伝わる。文学・学問を好み、まさに文武兼備の名宰相であった。
元和5年(1619)江戸鱗(うろこ)屋敷で死去。享年60歳(伝)。生涯仲睦まじく寄り添った年上の妻・お船(せん)の方とともに、山形県米沢市の春日山林泉寺[かすがやまりんせんじ]に墓所がある。また、兼続は兜の前立て(兜の前面につける飾り)に、愛染明王[あいぜんみょうおう]・愛宕権現[あたごごんげん]を表す「愛」の字をつけていたといわれ、上杉神社稽照殿(けいしょうでん・山形県米沢市)にその兜が収蔵されている。
『甲越信戦録』では、上杉家を代表する名家老・兼続の英傑を讃え、謙信の四天王として川中島の戦いに登場させたとも考えられる。
甘粕近江守景持(あまかすおうみのかみかげもち)[生年不詳-慶長9年(1604)?]
景重・長重
謙信秘蔵の侍大将の筆頭。川中島の戦いで武田啄木鳥隊の渡河を阻む
上杉謙信・景勝に仕えた重臣で、謙信秘蔵の侍大将の筆頭。上杉四天王の一人。率いる部隊の強さは、柿崎景家[かきざきかげいえ]とともに上杉軍団の双璧を成した。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、山本勘助の啄木鳥(きつつき)戦法を見破り、千曲川を渡った上杉1万3千の将兵のうち、1千余人の兵は甘粕近江守指揮の下、戌ヶ瀬(いぬがせ)・十二ヶ瀬(じゅうにかせ)に留まり、武田別働隊に備えた。9月10日朝、甘粕隊は少数の部隊で、八幡原へと加勢に急ぐ武田別働隊(妻女山攻撃隊)1万2千の行く手を阻み、自身は半月のような大長刀を取り延ばし、武田勢を圧倒した。
戦いの終盤、上杉軍が撤退する際に直江山城守とともに殿(しんがり)をつとめ、すべての兵が犀川を渡った後、市村(いちむら)に陣をしき、後詰めに備えた。(『甲越信戦録』より)
武田の『甲陽軍鑑』に「近隣他国に誉めざる者なし」と雄姿を讃えられる
武田方の『甲陽軍鑑』にも、甘粕近江守の永禄4年(1561)の活躍は描かれており、大混戦の中、犀川へと1千余りの軍勢を乱すことなく率いる采配の見事さに、武田兵の多くは「謙信が指揮しているのではないか」と疑うほどであった。その様を近隣他国で誉めない者はいなかった、と高く称讃している。
甘粕氏の出自については諸説あり、清和源氏・甘粕野次広忠[あまかす(の)のじひろただ]春日山林泉寺を祖とし、桝形城(新潟県長岡市越路)を居城とする越後の豪族であったともいわれる。景持は、天正6年(1578)謙信が没した後、跡目相続争いの御館(おたて)の乱で勝利した上杉景勝に仕えた。天正10年(1582)には三条城将(新潟県三条市)となり、恩賞をめぐって景勝に背いた新発田重家[しばた・しげいえ]の居城・新発田城(新潟県新発田市大手町)攻めの前衛を担った。慶長3年(1598)、徳川家康に屈した景勝に従い、越後から会津(福島県)へ移り、慶長9年(1604)没したと伝わる。子孫は米沢(山形県)上杉藩士として続いたという。
柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)[永正10年(1513)?-天正2年(1574)?]
弥次郎
上杉軍の先鋒隊将をつとめた剛勇無双の猛将
柿崎氏は、鎌倉時代に白河荘(しらかわのしょう・新潟県阿賀野市周辺を支配した大見安田[おおみやすだ]氏の一族といわれる。戦国時代、長尾為景[ためかげ]に従属して戦功をたて、和泉守を称した。為景没落後は、柿崎城(別名木崎城・新潟県上越市柿崎区)を本拠地に、上杉謙信の側近として奉行職をつとめた。戦場では、他に並ぶ者のない越後随一の勇猛果敢な武人と称され、その剛将ぶりは、遠く中国地方にまで聞こえたといわれる。
川中島の戦いで山本勘助を討ち取った柿崎隊
永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、朝霧に包まれた八幡原の信玄本陣・典厩信繁[てんきゅうのぶしげ]隊に先陣をきって突撃し、猛攻を加えた。武田軍は苦戦を強いられ、本陣を死守しようと躍り出た山本勘助を討ち取ったのは、柿崎の隊であった。(『甲越信戦録』より)
伝えられるところによると、景家は、天正2年(1574)に没し、子の晴家[はるいえ]は織田信長との内通を疑われて天正5年(1577)誅殺。天正6年(1578)の御館(おたて)の乱※以降、景勝側についた晴家の遺児・憲家[のりいえ]が柿崎家を再興したという。
柿崎家の菩提寺である楞厳寺(りょうごんじ・新潟県上越市柿崎区)には、景家と上杉謙信の幼少時代の師であった天室光育[てんしつ・こういく]の墓がある。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)[生年不詳-天正末年(1592)?]
斎藤朝信・為盛
攻めれば攻め取り、戦えば勝つ「越後の鍾馗(しょうき)」謙信の信頼厚く、部下や領民からも慕われた忠勇の士
上郡・中郡(現在の新潟県上越・中越地方)の有力国人で、越後刈羽郡の赤田城(新潟県柏崎市)主。謙信・景勝の二代に仕えた。仁愛の心深く、部下をいたわり領民を慈しんだので、領内はよく治まったという。謙信政権下で奉行を務め、内政に参画する一方、戦場では勇猛ぶりを発揮し、その働きは「越後の鍾馗(しょうき/疫病除け、魔除けの神様)」と称された。謙信も朝信にたびたび先陣を命じ、城を攻略するとその城将に任じたといわれる。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、一向一揆に備えるため越中に出陣し、謙信の信濃出兵を側面から支えた。
天正6年(1578)に謙信が没した後、家督争いの「御館(おたて)の乱」が起こり、朝信は景勝方に味方して活躍。乱後も台頭する織田信長の勢力に備えた甲越同盟の実現に向けて奔走。天正10年(1582)には武田攻めの織田軍に対抗するため信州に出陣し、北信濃統治の拠点となっていた海津城を守った。
朝信亡き後は嫡子・景信が斎藤家を継ぎ、景勝の会津移封では越後に残ったという。
『甲越信戦録(巻の六/六)』の中には、隻眼の小男「斉藤下野守則忠」の名で登場。使者として甲州・武田方に赴き、機転の利いた巧みな弁舌をふるい、信玄もその才を讃えた。
小島弥太郎勝忠(こじまやたろうかつただ)[生年不詳-永禄4年(1561)?]
鬼小島弥太郎・慶之助・貞興
謙信の幼少時代から仕え、活躍した剛力無双の勇将/敵将の山県昌景いわく「花も実もある武士」
長尾為景に仕え、謙信の幼少時代からの近臣と伝えられる。六尺(約1.8m)を超えるたくましい体格で、当初は為景の馬廻りを務めながら各地を転戦し、数多くの軍功を重ね、のち徒武者(かちむしゃ/馬に乗らない、徒歩の兵)大将となったという。勇猛果敢な豪傑ぶりから“鬼小島”とあだ名され、近隣国人衆から恐れられた。
上杉家の史料にはその名が登場せず、架空の人物ともされるが、上杉家中には小島姓も多くさまざまな伝承を残している。武勇伝も数知れず、『甲越信戦録』には、武田方への使者に遣わされたとき、信玄の家臣たちが画策して放った猛犬を悠然と口上を述べながら片手で押しつぶしたエピソード(巻の六/一)のほか、謙信の上洛につき従った弥太郎が将軍義輝の飼っているどう猛ないたずら猿を痛めつけ、謙信の威信を保った話(巻の六/二)などが語られている。また、永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、弥太郎と立ち合った山県昌景だったが、主君武田義信の窮地を見るや、勝負を待ってくれるよう懇願し、弥太郎はその忠義に免じて槍を引き下げた。山県は心中に「花も実もある武士であることよ。鬼小島とは誰が名づけたものか」とつぶやいたという(巻の八/一)。
新潟県新井市には弥太郎が居住したと伝えられる館跡や新潟県長岡市の龍穏院(りゅうおんいん)には位牌と墓がある。一方、飯山市の英岩寺(えいがんじ)にも鬼小島弥太郎の墓があり、一説には第4次川中島の戦いで深手を負った弥太郎は春日山城への帰陣途中、鬼ヶ峰(飯山市小佐原)で自害し、埋葬されたとも伝えられている。
安田治部少輔長秀(やすだじぶしょうゆうながひで)[生年不詳-天正10年(1582)?]
安田長秀・弥三郎
景虎時代からの側近として軍功多数の大剛の士/第4次川中島の戦い後、「血染めの感状」を授かる
揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)で安田城(新潟県阿賀野市保田)主。安田氏は、伊豆の豪族・桓武平氏の子孫・大見氏を祖とし、越後北蒲原郡白河庄安田条を領していた。長秀は、謙信の父長尾為景の代から臣属していたとされ、天文17年(1548)、長尾家中での景虎(謙信)擁立のクーデターにも参加した。
謙信が政権把握後は、関東や信濃へも参陣し、戦功を挙げた。永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、武田信玄の嫡子・義信の隊を直江大和守景綱や甘粕近江守景持とともに苦しめたといわれ、戦後、謙信から「血染めの感状」※を授けられている。
天正6年(1578)、謙信亡きあとの上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」では景勝方につき、軍功をたてた。天正9年(1581)、景勝に背いた新発田重家(しばた・しげいえ)の謀反鎮圧の陣中で病没したと伝えられる。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。
色部修理進勝長(いろべしゅりのしんかつなが)[生年不詳-永禄11年(1568)]
色部勝長・顕長
謙信に忠節を尽くした揚北衆の忠臣/川中島の戦いで謙信から「血染めの感状」を授かる
揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)で、岩船郡平林城(新潟県岩船郡神林村)主。色部氏は平姓秩父氏の一族で、本庄氏の支族でもある。鎌倉時代より越後国小泉荘色部条(現在の岩船郡神林村北部及び村上市岩船地区のあたり)を領していた。
謙信の父・長尾為景の代から臣従していた勝長は、人心を読み戦略・戦術の才に優れ、内憂の絶えなかった色部家を再興し、合戦でも数々の功名をたて勢力を広げていった。
弘治3年(1557)、武田軍が北信濃に侵攻し葛山城を攻略しようとした際、勝長は謙信より救援の出陣を求められたともいわれるが、勝長が兵を出したかは不明で、のち葛山城は武田軍の手に落ちてしまう。
永禄4年(1561)第4次川中島の戦いでは、謙信に従い先陣の柿崎景家を援護し、武田方の赤備えと恐れられていた飯富虎昌の隊を敗走させたともいう。合戦後には謙信から「血染めの感状※」を授かった。
永禄11年(1568)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が武田方に内通し謙信に反旗を翻すと、勝長はその制圧に乗り出し、繁長の本庄城を包囲する。しかし翌12年(1569)繁長は夜襲をかけ、両軍激戦となって勝長は討ち死にしてしまう。独立心が強い揚北衆の中にあって、最後まで忠節を尽くした勝長の死を謙信はたいそう惜しんだという。家督は子の顕長[あきなが・兄]、続いて長実[ながざね・弟]が継ぎ、謙信・景勝の二代にわたり、忠勤に励んだという。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。
本庄美作守慶秀(ほんじょうみまさかのかみよしひで)[生年没年不詳]
本庄実乃・実仍・新左衛門尉・宗緩
栃尾城時代から謙信を補佐/直江景綱、大熊朝秀らとともに奉行職を務め、政権の中枢を司る
越後古志郡・栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)主。天文12年(1543)、林泉寺(りんせんじ)を出て還俗した謙信(当時は景虎)は、兄晴景より栃尾城に派遣され、越後平定を支援。そのころ城代を務めていたのが慶秀であり、以来、側近として若き謙信を補佐した。やがて晴景に代わり、実力ある謙信を擁立しようとする動きが起こると、これを支持。天文17年(1548)、謙信が長尾の家督を相続して、春日山入城を果たしたのちは、春日山城に移り、長尾家譜代の家臣直江景綱、守護上杉家の重臣大熊朝秀らとともに奉行職を務め、謙信政権の中枢を担った。
天文23年(1554)頃より、守護上杉家の旧家臣と謙信擁立派との政争が起こり、旧家臣団に属していた大熊朝秀と対立。慶秀と直江景綱側が勝利を得、敗れた大熊朝秀は越後を去り、甲斐の武田信玄に仕えた。
慶秀の子秀綱は、天正6年(1578)上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」※で、小田原北条氏の景虎派を支持し、敗れて会津に逃れたという。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
山吉孫次郎豊守(やまよしまごじろうとよもり)[天文12年(1543)?-天正5年(1577)]
山吉豊守
外交に卓越した手腕を発揮。謙信の側近中の側近として軍政両面で活躍し、上杉家最高の軍役数を担った
蒲原郡山吉(新潟県見附市山吉町)の出身。代々、越後守護代の三条長尾氏の被官であり、三条城(新潟県三条市)を領した。
永禄10年(1567)以降、謙信の旗本として奏者(そうじゃ)を務め、信濃や関東地方の諸大名との交渉や派遣された諸将との連絡調整、国内での境界紛争の調停など、外交折衝に手腕を発揮した。永禄12年(1569)ころには主に小田原北条氏との折衝にあたり、越相同盟の締結にも尽力した。また、触れ書きや禁制の制定にもあたっていたという。
謙信からの信頼は厚く、天正3年(1575)の「上杉家軍役帳」には、旗本・譜代として、鑓(槍)235丁・手明(兵糧を積んだ馬を引く兵)40人・鉄砲20丁・大小旗30本・騎馬52騎、計377人という謙信指揮下の諸将のなかで最大の軍役を担っていた。
天正5年(1577)病没。家督は弟の景長が継いだ。
新発田尾張守長敦(しばたおわりのかみながあつ)[生年不詳-天正8年(1580)]
新発田長敦・源二郎
弟の重家とともに謙信を支えた揚北衆の重鎮/御館の乱で国人衆を統率し、景勝を勝利に導く
新発田城(新潟県新発田市)主。新発田氏は、佐々木加地氏の支族で揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の一員。長敦は、武勇の誉れ高く、春日山城門番を務め、内政・外交面で活躍し、謙信・景勝の二代に仕えた。天正3年(1575)「上杉家軍役帳」には194人の軍役を負担している。
天正6年(1578)謙信亡き後の家督争い「御館(おたて)の乱」※では、国人衆をとりまとめ、弟・重家とともに軍功を挙げて、景勝方の勝利に大きく貢献した。また同年景勝と武田勝頼との和議に向けて奔走し、甲越同盟成立にも尽力した。
しかし、家督を継ぐことに成功した景勝は上杉家の譜代・旗本衆を遇したため、揚北はじめ他の国人衆にはなんの恩賞も与えられない状況のまま、長敦は天正8年(1580)に没した。新発田家を継いだ弟の重家は、恩賞のないことを不服として、景勝に対して謀反を起こす。景勝は重家討伐の兵を挙げるが、重家の抗戦は6年に及んだ。そして天正15年(1587)新発田城は落城し、重家は自害した。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
河田豊前守長親(かわだぶぜんのかみながちか)[生年不詳?-天正9年(1581)]
河田長親・禅忠
上洛した謙信に目をとめられ、側近となった近江国の智将/後年は魚津城・松倉城を守り、北陸方面の総指揮官となる
近江国守山(滋賀県守山市)の出身。永禄2年(1559)、上杉謙信が将軍・足利義輝に拝謁するため二度目の上洛をした際、その才能を認められて近臣として召し抱えられ、奉行職を歴任した。性格の穏やかな知勇兼備の士で、一説には謙信の寵童(ちょうどう)であったともいわれている。
永禄年間(1558-1569)には主に関東に出陣し活躍。一向一揆との戦いが激化すると北陸方面に派遣され、魚津城(富山県魚津市)、富山城(富山県富山市)などを預かり、謙信の越中経略の中核を支えた。元亀4年(1573)に武田信玄が没すると、その情報を入手し、いち早く謙信に告げたともいわれる。
長親は、上杉景信の跡目として古志(こし)長尾氏を継承し、謙信から長尾の姓と紋を与えられたが、長尾姓を名乗ることは畏れ多いとして辞退した。天正6年(1578)謙信が急死し、上杉家の相続争い「御館(おたて)の乱」※では中立の立場をとり、収束してからは上杉景勝に仕えた。その後も松倉城(富山県魚津市)主として織田軍との攻防に奮戦したが、天正9年(1581)越中にて病没したと伝えられる。
※御館の乱……天正6年(1578)、上杉謙信が死去し、越後国主の地位をめぐって、養子の景勝と景虎が争った内乱。天正8年(1580)、春日山城を占拠していた景勝が勝利した。
中条越前守藤資(なかじょうえちぜんのかみふじすけ)[生年不詳-天正2年(1574)?]
中条藤資・弾正左衛門尉・梅波斎
謙信腹心の勇将。川中島の戦いでも獅子奮迅の働きを見せ、激戦後、謙信より「血染めの感状」を授かる
北蒲原郡奥山・鳥坂城(新潟県胎内市羽黒)主。揚北衆(あがきたしゅう・阿賀野川以北、現在の新潟県下越地方の有力国人)の実力者で、当初長尾為景に臣属していたが、上杉定実(さだざね)との養子問題で為景の跡を継いだ晴景と対立。信濃の高梨政頼らとともに謙信(景虎)の新守護代擁立を積極的に押し進めた。謙信が長尾家の家督を継承後、謙信の無二の忠臣として仕えた。
謙信に従って関東や信濃に出陣を重ね、数々の戦功をあげた。永禄4年(1561)には高齢にありながら第4次川中島の戦いにも参陣。謙信旗本の後陣をつとめ、奮戦した。この激戦で中条氏の被官らの多くが死傷し、戦後、藤資は謙信より「血染めの感状」※を受けた。
また、永禄11年(1568)武田方に通じた本庄繁長の謀反をいち早く謙信に通報し、繁長の居城・本庄城の攻撃にも加わったという。藤資は病により80年余りで生涯を閉じ、子の景資が中条氏を継いだ。
※「血染めの感状」……感状は配下の武将に合戦の武功を讃えて授ける書状。「血染め」と呼ばれるのは、合戦で死傷した一族や郎党らの死(血)の代償という意味によるという。 
関係諸将

 

今川義元(いまがわ・よしもと)[永正16年(1519)-永禄3年(1560)]
母・寿桂尼とともに駿河・今川家の采配をとった信玄の義兄
駿河の守護大名・今川氏親[いまがわ・うじちか]の子。母親は京都の公家である中御門宣胤[なかみかどのぶたね]の娘・寿桂尼[じゅけいに]。二人の兄の死後、氏親の側室の子・玄広恵深[げんこうえたん]と相続争い(「花倉[はなぐら]の乱」)の末、天文5年(1536)に家督を掌握。梅岳承芳[ばいがくしょうほう]と称する僧であったが、還俗して今川家9代当主となる。
正室は武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院[じょうけいいん]。氏親時代から対立関係にあった武田とは友好関係を深め、三条[さんじょう]夫人が武田晴信(信玄)の正室となったのも今川家の斡旋によるものという。また、のち甲斐から追放された信虎は義元の庇護を受けることになる。
川中島の戦いで武田・上杉を調停。「海道一の弓取り」は桶狭間で敗れる
天文23年(1554)には相模の北条氏康[ほうじょう・うじやす]と戦うが、勝敗決せず、晴信、義元、氏康の三者が互いに姻戚関係を結ぶことで和睦。甲・相・駿の三国同盟が成立し、義元は駿河・遠江・三河を支配下におさめ、「海道一の弓取り」といわれるほどの大きな勢力を築き上げた。弘治元年(1555)、武田・長尾(上杉)両軍が長期にわたって対陣した第2次川中島の戦いでは、義元が乗りだし、和睦成立の仲介もなす。永禄3年(1560)京都への西上の途中、織田信長との桶狭間[おけはざま]の戦いで討ち死に。享年42歳。以後、今川家の勢力は衰退していく。
今川家にも仕官を望んだ山本勘助
『風林火山』の物語には、山本勘助が今川家への仕官を望み続けたが、拒まれて武田晴信(信玄)のもとに向かった。また、『甲越信戦録』では、「お前のようなものでも召し抱えてやろう」と言う義元を「自分の勇猛に誇り、他の善悪を知る人物ではない」と、勘助のほうから主君としての見切りをつけている。
北条氏康(ほうじょう・うじやす)[永正12年(1515)-元亀2年(1571)]
河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせ、関東一円を制した相模の獅子
小田原・後北条[ごほうじょう]氏3代目当主。北条氏綱[ほうじょう・うじつな]の長男で、戦国大名の先駆けといえる北条早雲[ほうじょう・そううん]の孫。天文10年(1541)に家督を継ぎ、初代早雲が築いた領国を次々と拡大。難攻不落とされる相模小田原城を本拠地に関東一円の支配をめざし、武田信玄・上杉謙信と覇を競った。
天文15年(1546)、今川義元と提携した関東管領[かんとうかんれい]上杉憲政[うえすぎ・のりまさ]らの軍勢をわずか10分の1の兵力で撃破した河越[かわごえ]夜戦で武名を轟かせる。天文20年(1551)には上杉憲政を越後に追放し、関東の大半を手中におさめる。天文23年(1554)の甲・相・駿の三国同盟にあたっては、子の氏政[うじまさ]のもとに武田信玄の長女(黄梅院[こうばいいん])が嫁ぎ、今川氏真[いまがわ・うじまさ]のもとには娘を嫁がせた。永禄10年(1567)、信玄が駿河に侵攻したことで同盟は破れ、氏康は一時上杉謙信とも手を結んだ。
“氏康傷”は勇者の証し。軍略・民政に卓越した手腕を発揮する
氏康は、勇猛で武略に長じ、外交・内政ともに卓越した力を発揮した。顔に2カ所、体に7カ所の刀傷があり、16歳で初陣以来、36回の合戦に出陣したが、一度も敵に背を見せなかったことから、向う傷のことを「氏康傷[うじやすきず]」と呼ぶようになったという逸話もある。また、戦国随一の民政家とも評され、文武両道に秀でた名将であった。元亀2年(1571)、氏政に武田との和睦をはかるようとの遺言を残し、57歳でこの世を去った。領主の死に多くの家臣・領民が涙を流して悲しんだといわれる。その後、北条家は孫・氏直[うじなお]の代に豊臣秀吉によって滅ぼされた。
諏訪頼重(すわ・よりしげ)[永正13年(1516)-天文11年(1542)]
頼茂、左近大輔、刑部大輔
義兄・武田信玄に滅ぼされた諏訪総領家の当主
諏訪神社上社[かみしゃ]の神官家・諏訪氏の当主。祖父・頼満[よりみつ]は、下社[しもしゃ]の金刺[かなさし]氏をおさえて上原城を本拠として諏訪地方を統一した。頼満の死後、父・頼隆[よりたか]が早世したため、天文8年(1539)、24歳の頼重が諏訪家を継ぐ。翌年には武田信虎の娘(信玄の妹)禰々[ねね]を妻に迎え、武田家と同盟関係になる。
娘の由布姫は信玄の側室となり、勝頼を産む
しかし、天文11年(1542)、義兄である武田晴信と同族の高遠城主・高遠頼継[たかとお・よりつぐ]に突如として諏訪に攻め込まれ、和議を受けいれ降参。その後、甲斐に送られて、東光寺にて自刃させられる。享年27歳。諏訪総領家は滅亡するが、小見(麻績)[おみ]氏との間に生まれた娘(由布姫・諏訪御料人)は、のちに信玄の側室となって勝頼を産み、諏訪家の名跡を継いだ勝頼は、武田家最後の後継者ともなる。
村上義清(むらかみ・よしきよ)[文亀元年(1501)-元亀4年(1573)]
左衛門尉
葛尾城を本拠として、北信濃に一大勢力を誇った戦国武将
平安時代以来、信濃国更級郡[さらしなぐん]村上郷におこり、清和源氏の流れをくむ有力土豪・村上氏の末裔。戦国時代、葛尾城[かつらおじょう]を本拠として、小県地方から善光寺平にかけ、東・北信濃に最大の勢力を誇った。天文10年(1541)に、武田信虎、諏訪頼重[すわ・よりしげ]とともに海野棟綱[うんの・むねつな]の滋野[しげの]一党を攻撃し、小県[ちいさがた]を掌中に治めたが、この戦いに参戦した真田幸隆[さなだ・ゆきたか]は、海野氏とともに信濃を追われ、のち武田信玄に出仕。武田の信濃先方衆として、宿敵となった義清を追い詰めていく。
上田原の戦いと「砥石崩れ」、無敵の武田軍団を二度も破り、信玄の信濃攻略を阻む
天文17年(1548)、義清の軍勢は、信濃攻略を進める武田信玄と上田原で戦い、板垣信方[いたがき・のぶかた]、甘利虎泰[あまり・とらやす]といった有力武将を討ち取って、無敵といわれた武田軍に勝利する。さらに天文19年(1550)の砥石城[といしじょう]の合戦では「砥石崩れ」と称されるほどの大打撃を武田軍に与え、信玄に二度も苦杯をなめさせた。
しかし、その勝利もつかの間、翌天文20年(1551)に、義清に臣従していた各地の領主たちは次々と武田に調略され、難攻不落といわれた砥石城を真田幸隆に乗っ取られてしまう。同盟関係にあった筑摩郡[ちくまぐん]の小笠原長時[おがさわら・ながとき]も信濃を追われ、義清は次第にその勢力を弱めていった。
武田軍に抗いきれず、越後の上杉謙信を頼った義清。そして、川中島の戦いは始まった
天文22年(1553)4月、武田軍の攻撃により、本城・葛尾城もついに自落。城から逃れた義清は、北信濃の高梨[たかなし]氏や井上氏らとともに越後の上杉謙信に救援を求め、これを機にして、12年の長期におよぶ川中島の戦いは始まる。
求めに応じた謙信の信濃出兵で一時は旧領を回復した義清だったが、武田軍の追撃をかわすことはできず、嫡子・国清[くにきよ](のち景国[かげくに])とともに越後へと敗走。以後、上杉謙信の配下となって、幾度もの川中島の戦いに参戦するが、自領復帰はかなわず、元亀4年(1573)正月、越後根知城(新潟県糸魚川市)で没した。享年73歳。
武田氏滅亡後、上杉景勝[うえすぎ・かげかつ](謙信の養子)に臣従した子の景国は、海津城主を命じられて、越後に召還されるわずかな間だが故地に返り咲きを果たしている。
現在、村上氏の本拠だった坂城町には義清の供養塔が建っている。また上越市の光源寺[こうげんじ]にも五輪塔がある。
高梨政頼(たかなしまさより)[永正5年(1508)?-天正4年(1576)?]
上杉謙信と縁戚関係にあった北信濃の有力土豪
高梨氏は、井上氏の一族で、南北朝時代から戦国期にかけて高井郡から水内郡にかけて勢力を誇った北信濃の有力な国人領主であった。戦国時代、越後守護代の長尾為景[ながおためかげ]を援護して関東管領の上杉顕定[うえすぎあきさだ]を討ち取り、近隣の地侍を配下にし、中野郷(中野市)を本拠とした。
越後の長尾家とは代々縁戚関係を結び、為景の妹を妻に迎えた政頼は、長尾景虎(上杉謙信)の義理の叔父にあたる。長尾晴景と景虎の家督争いの際は、景虎を支持した。
武田軍の圧力に耐えかね、村上義清らとともに上杉謙信を頼り、川中島の戦いを惹起する
政頼は、東信濃の村上義清と対立関係にあったが、武田信玄による脅威が北信濃にも及ぶと、義清と和睦して共同戦線を張り、天文19年(1550)武田軍の砥石城攻め後、反旗をひるがえした寺尾氏の寺尾城を攻撃するなどした。
天文21年(1552)信玄に本領を追われた林城主の小笠原長時は、子の貞慶とともに、長尾家に縁のある高梨政頼を介して越後の長尾景虎を頼った。天文22年(1553)には村上義清の葛尾城が自落し、北信濃は一気に武田の脅威にさらされ、義清と政頼はじめ、井上・島津・須田・栗田氏ら信濃国人衆も景虎に救援を求めた。義に厚い景虎は求めに応じて信濃に出陣。こうして12年におよぶ川中島の戦いが始まった。
越後の援軍を受けた政頼と村上義清らだったが、武田軍の猛攻を阻止できず、弘治年間(1555-1558)に政頼は本拠地の中野郷をあとにし、上杉謙信の庇護下で飯山城(飯山市)を拠点として武田信玄の北信濃計略に対抗した。そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いには、子の秀政[ひでまさ]らとともに上杉軍の先陣を務めた。
枯山水庭園跡など貴重な遺構を持つ、国史跡指定の高梨氏館跡
武田氏滅亡後、北信濃が上杉氏の所領となると、高梨頼親[よりちか]の代に本領の一部を回復するが、慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、高梨氏も会津へ移ったという。
高梨氏の拠点であった高梨氏館跡(中野市)は、東西約130m、南北約100mの大規模な方形居館で、貴重な枯山水様式の庭園跡をもつ。館跡は公園として整備されており、2007年には国史跡に指定されている。 
 
黒田孝高 / 黒田如水1 (黒田官兵衛)

 

(くろだよしたか/くろだじょすい)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さ、或いは「孫子」の一文を引用したとされ、人生訓として用いたといわれる。水徹を号に用いた竹中重治にちなむとする見方もある。
また、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョスエ(Josué)も引用しているとされる。なお、当時の他の武将の名付け例に小西行長などに仕えた内藤如安などがいる。ジョスエは城攻めの才能にあるとして宣教師から伝わっていた。
また孝高は「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあったが、人を害したり、また神社仏閣を聖絶する事を好まなかったといわれる。
孝高が用いた印章には、「SIMEONIOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)と読めるものとがあり、いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「じょすい」、「くゎん(官)」と考えられる。なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた。 
生涯
出身
黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、守護赤松晴政、後に御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。
播州時代
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。
永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。
天正元年(1573年)小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち将軍義昭を追放し畿内で勢力を拡大する織田信長と、山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の、2つの大勢力に再び挟まれることになった(浦上宗景は信長、宇喜多直家は輝元と相手を入れ替えて結んでいる。)。天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を勧め、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。さらに政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させた。一方9月、宗景が毛利氏と結んだ直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びる。
天正4年(1576年)、亡命した将軍・足利義昭を迎えた毛利氏は、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する三木通秋の所領である英賀に上陸させ5,000の兵で播磨に攻め込ませるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。天正5年(1577年)の秋、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは2の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。羽柴秀長に従い生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻めに、蜂須賀正勝らと共に加わった。
織田家臣時代
ところが天正6年(1578年)、東播磨の大勢力である三木城主・別所長治が、殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退けたが、秀吉本隊は上月城の戦いの後に、山中幸盛らを残し、信長の指示に従い軍を撤退。さらに織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。
この時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出された。
天正8年(1580年)、秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載がある事から、それ以降とも考えられる。)。孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、織田家臣として秀吉の与力となる。
天正9年(1581年)、秀吉は因幡国の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。
また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。
豊臣家臣時代
高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。
天正12年(1584年)の前年より大坂城の縄張りに当たっていたが、小牧・長久手の戦いの時期には、外交に手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。
天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。
天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。
豊前国主
九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。
天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、右近らがこれに反抗して改易される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行ないは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。
天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。
家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。
文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。文禄2年(1593年)には日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。
慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たち(三成などにも親しい)が酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった(一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。)。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。
慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。黒田氏は当主・長政が家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。
中津に帰国していた如水も、家康方(東軍)として行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)、毛利勝信の小倉城などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月には、加藤清正とともに柳川城を攻め、立花宗茂を降している。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。
晩年
関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)37万石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。 
人物
築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城などに縄張りや助言を行った。
倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば長政の動員した軍が6000とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した。
歴史小説等では不遇の天才武将として描かれることが多い。関ヶ原の合戦では家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下をとろうとするも息子の長政の活躍によって阻まれた、とする作品が多い。しかし、実際には主君を裏切ったことは一度もない。
遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。 
人間関係
竹中重治との関係
荒木村重謀反の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(黒田長政)を殺害するように命じた。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。重治の子の竹中重門の元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。
秀吉との関係
秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。
本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したという。同書には続けて「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている。
秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5,000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正・福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。孝高と並んで「両兵衛」と称された竹中半兵衛に関しても、同様にわずかな知行しか与えられていない。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。 
その他
京都の聚楽第邸内の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。
関白の豊臣秀次には、将棋の相手をさせられていたという。
小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋は、豊臣秀頼誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、小早川家の養子となった。
徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生すると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。 
逸話
孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったと言うが、最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。
旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
関ヶ原の合戦の後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。
関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという。
身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。
隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。海音寺潮五郎はこの事を指して、信長・秀吉・家康の三英傑より人物的には勝っていると評した。 
黒田如水2 (黒田官兵衛)   
信長支持は天意に沿うもの
官兵衝はこのときここで何を説いたかといえば、もちろん年来の主張の織田支持を力説したのである。天下はやがて必ず織田軍の旗によって風靡される。たとえ毛利家がいかに強大でも、公方の残存勢力を擁する三好党がどんなに抗戦してみても、織田信長のまえには、到底、焼かれる燦原の草でしかないことを、その信念で繰返したにとどまる。
だが、それは前提であって、彼が改まってこの日いおうとしたのは、なぜ、そうあらねばならないかの問題だった。
「思うに、この騒暗の地上に、自然が信長を生れしめたのは、いわゆる天意ともいうものであって人意人工ではない。いまこの人がなければ、誰がこの抑えてのない衆愚と衆暴の乱脈時代を我意と我意の際限もない同胞同士の闘争を一応ひとつものにまとめてゆけようか。そのためにはまた誰がご衰微を極めている皇室を以てこの国に適したすがたとして、衆民が和楽してゆけるような大策へ現状の乱れを向けてゆけるだろうか。これは信長以外になす者は見当らないではないか」
そしてまた、
「信長の兵馬は、信長を主君としているものにはちがいないが、その信長は、皇室と衆民のあいだの一武臣たる位置にあることを常にわすれてはいないようだ。そうした彼の思想は父信秀の代からのもので政略や付け焼刃ではないようだ。彼の過去にてらしてみても、今川義元をうち、美濃の斎藤を略し、浅井朝倉また彼の敵でなく、はや今日ほどの勢威を占めうれば、ふつうの人間ならもうそろそろ思いあがるべき頃だ。が彼は、勝つたびにかならずその部下をひきいて京都に入り、まず宮門に乱の平定を報告した後、庶民には善を施し、社寺には供養をすすめ、道路橋梁の工事を見たり、荒れすたれた禁裡の諸門をつくろうなど、さながら家の中心になってよく働く子が、上には親に仕え、下には弟妹のいじらしきものを慰めるような真情をつくして、それに依る四民共々のよろこびを以て自身のよろこびとしているような姿ではござらぬか。およそ足利十数代のあいだ、また諸国の大名を見わたしても、かくの如き人がひとりでもいたろうか。毛利は強国といっても元就以来の家訓を守って、自己の領有を固守するものに過ぎず、その志は天下万民にない。三好氏は紀伊、伊賀、阿波、讃岐などに、公方の与力と旧勢力をもっている点で無視できないが、これとて要するに悉く頭の古い過去の人々であるばかりで、世を素し民を塗炭に苦しめた罪は、決して軽からぬものでござろう。何よりはまた彼等はすべて民心の信望から見かぎられている」
と、ことばつよく断じ、
「こう観てくれば、信長以外に、ご当家のご運を賭し、またわれら侍の一死を託す者は他にないことは余りにも明白でありましょう。われらの感じるところ、また衆民の共感するところで、信長出でて初めて万民は曙光を知ったというも過言でありますまい。さきにいったような志をもって衆民の信頼をつよくつなぎ得ている者の理想が、この時代に行われないはずはありませぬ。まして天下いま他に悼む何ものとてない時代においてをやであります」
さしもの広い部屋も、この中の惰気も、また自我も争気も、しばらくは一掃されて、彼ひとりの声しかそこには聞えなかった。 
黒田官兵衛によって浮田の織田家へなびく
秀吉が但馬から帰陣すると、信長の本軍は、一翼を加えたので、本格的に、三木城の攻囲にかかった。
そしてまず三木城の衛星的要害をなしている神吉の城や志方の城を、たちまち陥した。
だが、別所一族が七千余人を以て守る三木城の本拠そのものは、いわゆる天峻を占めているし、一族郎党の血にむすばれている強兵だし、加うるに、海路毛利方から新鋭の武器兵糧も充分に籠め入れてあっただけに、到底、短期間にこれを攻めつぶし得る見込みはなかった。
安土の方針も、長期を覚悟して、根気攻め兵糧攻めにするほかなし、というところにあったので、八月に入ると、信忠はあらかたの大将とその諸部隊を従えて、一応、安土へ引揚げてしまった。
「あとは、長囲になろう。お汝に委しておく」というのが、還るに際しての、秀吉へのことばであった。
秀吉はこれにも唯々として、「ご心配なく」と、答えた。そして前と比較にならない寡勢をもって、三木城の正面、平井山にその長囲態勢の本営をおいた。
信忠の引揚げには、一方、もうひとつの理由があった。それは、毛利方の吉川、小早川の大軍が上月城を攻め陥すとまもなく、戦況の持久的になるのを察して、吉川元春は出雲へ、小早川隆景は安芸へ、それぞれ退いてしまったことにある。
実に、戦況の相貌は、不測複雑である。
離反常なし、という戦乱下の人心は、いまや遺憾なく、その浮動性を露呈して、(毛利に拠るが利か。繊田に属すが勝か)を見くらべて、朝に就き、タベに去り、ほとんど、逆賭し難いものがあった。
備前、播磨の国境から、毛利軍が引揚げを行うとともに現われたものが、浮田直家の裏切りだった。
彼が、備前一国をあげて、毛利家を去り、繊田家へ就いたというとは、これは由々しい戦局の変化であり、織田家にとっては画期的な好転といっていい。信忠と、信忠に従う諸将は、この有利な新情勢を土産として、一応の凱旋をなしたものであるが、何ぞはからん、これを実現させた者は黒田官兵衛の足と舌であった。
もちろん主人秀吉も同意の上ではあり、竹中半兵衛の頭脳も多分に働いた上の主従一体の力ではあるが、それを動かすにもっぱら足を運び舌を用い、生命を敵地にさらして、何度も密使行の危険を潜っていたものは、官兵衛であったのである。
浮田の家中に、よい手蔓もあった。直家の家臣の花房助兵衛とよぶ者である。これはいわゆる「話せる男」で、たちまち官兵衛と意気相照らし、紛々たる藩中の異論を排しのけて、主人直家に織田随身の決意をなさしめてしまったのである。 
獄中で藤の花を見て生きることを決意する
去年の十二月初めころ、この城を中心として、ただならない物音を幾日か聞いた。
そのときこそは、(さてこそ合戦。織田どのの軍勢が寄せて来たな)と、独り胸をおどらせ、同時に、ある場合の覚悟もかためていたが、その死を強いて来る日もそれきり訪れ.て来なかった代り、以来、胸おどるような寄手の喊声もばったり聞えない。
「繊田方の形勢は悪いな。万一にも、毛利の水軍が、触艦をそろえて、摂津の沿岸に上陸して来たら、ひとり荒木や高山や中川清秀にとどまらず、彼方此方に、離反の旗職をかざす者が相継いで、安土は容易ならざる重囲の中に取り塞がれよう……いやいや、すでにそうした最悪の情勢になり終っているのかも知れぬ」
そう思いつめると、今は官兵衛の生への執着も日毎にうすくなった。心のどこを探しても、滅失以外のものが見出し難いここちになった。
「むしろ死なんか!」ある日、ふっと、そう思い出したら、矢もたてもなく、死にたくなった。
支えている骨と皮の肉体はそれほどに毎日の苦痛と闘っているものだったのである。灯りきれた灯皿の燈芯のように、精神力が枯渇を告げると、肉体はそのままでもや他の何の力を加えないでもバタと朽木のように貼れて終ってしまいそうであった。
「待て」彼は彼にいった。あぶら汗のたれるような必死をもって自分の肉体へ告げた。「いつでも死ねる。もうすこし待て。…オオ、あの高窓の藤萎もいつか茂り、しかも短い花の房すら持って咲こうとしている。……そうだ、白藤か淡紫かあの花の咲くまで見ていよう」陽あたりのわるいせいか、房は垂れているが花の咲くのは遅かった。
「やあ、今朝は咲いた。……紫であったか」幾日目かである。
朝陽のもるる中に、彼は鮮やかな藤の花を見た。すぐ窓の下まで這っていって、手をのばしてみたが、捕物ふさには届かない。
けれど、うすい朝陽をうけている紫の房からこぼれてくる匂いは、官兵衛の面を酔うばかりつよく襲ってくる。彼は仰向いたまま、白痴のように口をあいて恍惚としていた。
「…吉瑞だ」いきなり彼は叫んだ。跳び上がる体力もないが、跳び上がった以上の衝動を満身に覚えた。めずらしく彼の額に血のいろが映えた。
「獄中に藤の花が咲くなどということは、あり得ないことだ。漢土の話にもこの日本でも聞いた例しがない。……死ぬなよ。待てば咲くぞ、という天の啓示。そうだ天の啓示だ」
彼は、掌を合わせて、藤の花を拝んだ。その袖口から軋も這い出て、かすかな朝陽の影と、藤のにおいに、遊びまわっていた。 
牢獄から助けられる瞬間
池のそばへ出た。池の水、そして広い藤棚。それを見ると、彼女のあとについて、共に駆けて釆た栗山善助や母里太兵衛たちは、「あっ。ここだっ」と、思わずどなった。
−と見るうちに、彼女はもう池のふちを腰まで浸って、龍女のように、しぶきをあげながら、獄舎の建物の下をざぶざぶと進んでいた。
「−官兵衛さまっ」彼女は藤の木につかまった。そして死にもの狂いで高いところへ攣じて行こうとしていた。その下から衣笠久左衛門ものぼって行った。そしてようやく獄の窓口ヘ手をかけてさし覗いたが、中はすでに赤く晦く、何ものも見えなかった。
一方、栗山善助と母里太兵衛は、べつな入口から入って獄屋の大床を区切った太い格子組の前に出ていた。荒木の家中らしい武者四、五名を見かけたが、敢て遮りもせず逃げ散って行った。ふたりは獄外を見まわして、約二間半ほどもある角の古材木が一隅に寄せつけてあるのを見つけ、二人してこれを持ち、撞木で大鐘を撞くように、その突端を牢格子へ向って何度も打つけた。
みりっと一部が破れた。あとは一撃二撃だった。躍り入るやいな、二人は声いっぱい「殿っ。おむかえに参りました」「姫路の家臣の者ですっ、殿っ、殿っ。…」見まわした。らんらんと獄中を見まわした。官兵衛のすがたが容易に見当らないからである。
−が、官兵衛はなお健在だった。熱気と煙に、あの冷たい北側の壁も湯気をたてていたが、そこを背にしたまま、彼はなお枯木のような膝を組んで坐っていたのである。
「……?」いま、突として、眼のまえに、思いがけない家臣のすがたを見、その忠胆からしぼり出るような声をも、あきらかに耳にはしたが、彼はなお茫然としていた。容易に信じられなかったのである。
「あっ。そこに」「おうっ。…おうっ」働笑して抱き合うかのごとき異様な声がやがてそこに聞えた。走り寄ったふたりは、すぐ、主君の身を扶け起していた。その主君の身の軽いことに驚いたとたんに、上の窓を破って衣笠久左衛門も跳び降りて来た。 
信長への憤悶などで我を失わない境地であった
獄中、彼は小袖の狭を噛みやぶったこともある。血は煮え肉はうずき、あわれもののふを知らぬ大将よと、信長の無眼無情をうらみつめた幾夜もあった。
けれどそれに憤悶してわれを失う彼でなかったことが倖せであった。彼がひとつの死生観をつかむには、それ以前にまずこれらの怨恨や憤怒はおよそ心の雑草に過ぎないものと自ら嘲うくらいな気もちで抜き捨てなければ、到底、達し得ない境地なのであった。
−そうした心中の賊に打ち剋つには、あの闇々冷々たる獄中はまことに天与の道場であった。
(あそこなればこそ、それが出来た−)ずっと後になっては、官兵衛自身ですら、時折に、その頃のことを思い、以て、とかくわがまま凡慮にとらわれ易い平時の身のいましめとしていたという事である。
さて。それはともかく。官兵衛はいまやその信長の前へこの姿のまま運ばれてゆく途中にある。担架を担う小者の歩み、前後に従う諸士の足のその一歩二歩に、信長の顔は、彼の戸板の枕頭に近づきつつあるのであった。
−もしこれが、この機会が。
かの荒木村重からいろいろ事実を聞かされていた当時だったら、所詮、彼はこの姿を信長の前へ曝すには、その無念に忍び得なかったにちがいない。
奮然、西を指して、(中国へやれ)と、叫んだに相違ない。生涯二度と、信長の顔は見たくもないと唾して誓ったかも知れないのである。
けれど今は−明け初めた今朝は−そういう心もわいて来ない。灰かに秋の朝となった地上を戸板の上から眺めて、「ああ、ことしも秋の稔りはよいな」と、路傍の稲田の熟れた重り穂にうれしさを覚え、朝の陽にきらめく五穀の露をながめては天地の恩の広大に打たれ、心がいっぱいになるのだった。
今、彼のあたまには、一信長のすがたも、一本の稲の重り穂も、そう違って見えなかった。べつに、もっともっと偉大なものがこの天地にはあることがはっきりしていた。そして信長の冒した過誤へ感情をうごかすには、自分もまた稲の一と穂に過ぎない一臣の気であることがあまりにも分り過ぎていた。 
黒田如水3 (黒田官兵衛)  
 1
無名時代の坂口安吾は、暇に任せてよく歴史書を読んでいた。人気作家になってから、彼はその蓄積をネタにして、たくさんの史傳ものを書いたが、そのなかに黒田官兵衛をテーマにした「二流の人」という作品がある。安吾からすると、黒田官兵衛は「二流の人」だったのである。
この作品の冒頭で、坂口安吾は秀吉が最も怖れていたのは家康だっけれども、その次に怖れていたのは黒田官兵衛(如水)だったといっている。
<黒田のカサ頭(如水の頭一面に白雲のような頑疾があった)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ奴(如水は片足も悪かった)何を企むか油断のならぬ奴だと思っている(「二流の人」)>
秀吉がなぜそれほど黒田官兵衛を怖れたかといえば、彼には官兵衛という人間が理解できなかったからだ。社会の下層から身を起こして、天下を取った秀吉は、その時代の誰よりも人間通だったが、官兵衛だけは彼の理解の埒外にある不可解な人物だった。
<主に対しては忠、命をすてて義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外である(「二流の人」)>
坂口安吾は、これほど有能な黒田官兵衛を、なぜ「二流の人」に格下げしてしまったのだろうか。
安吾の書くものは、要所要所に独断を交えながらも明快に論旨を展開し、最後にあっと驚くような結論に到達するのを常としたが、黒田官兵衛を論じるときに限って、その明快さが失われ、官兵衛は律義であるけれども、天衣無縫の律義でなかったとか、彼は律義という天然の砦がなければ支えることの不可能な身に余る野望を持っていたとか、彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望を抱くほど偉くないのが悲劇だったとか、それゆえ彼は滑稽笑止であったとか──、書いているいることが、妙にバラバラで話の筋が一貫していないのだ。
坂口安吾にとっても、黒田官兵衛は理解不能な人間だったのである。
安吾が言いたかったのは、官兵衛は生死を賭して一度はバクチをして成功した。だが、その後の官兵衛は、肝心なときにバクチを避けたから、二流で終わってしまったということらしいのだが、官兵衛が生きるか死ぬかという究極のバクチを避けてしまったのは、安吾の言うように官兵衛に詩人の魂がなかったからではない。
では、安吾のいう「一流の人」とは、いかなる人間か。
<家康も三成も山城(直江兼続)も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流儀で大きなロマンの波の上を流れていたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であった。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄うあの純粋な魂であった(「二流の人」)>
最初に安吾の黒田官兵衛論を読んだときには、そんな見方もあるのかなと思っていた。ところが、手持ちの本を電子書籍化して、大佛次郎の「乞食大将」や司馬遼太郎の「播磨灘物語」を読んでいるうちに、官兵衛に関する私の見方が徐々に変わりはじめたのだ。官兵衛に対する坂口安吾の評価は、間違っているのではないだろうか。
「乞食大将」は講談本で有名な後藤又兵衛を現代的な観点から描いた新聞小説で、この作品のなかに又兵衛の主君だった黒田官兵衛がちらっと姿を現している。又兵衛は、黒田官兵衛の嫡男の黒田長政と子供の頃から一緒に育てられ、共に戦場で戦っていたが、兄弟同様に親しくしていた長政が藩主になると二人の関係は悪化し、又兵衛は豊前中津城を去って浪人になってしまう。後藤又兵衛の名声は全国に鳴り響いていたから、各地の大名はきそって彼を召し抱えようとする。すると、そのたびに黒田長政が、その藩に対して強硬に抗議し、仕官話を壊してしまう。そのため、又兵衛は乞食のようあちこちを放浪することになるのだ。
大佛次郎は、こういう狭量な息子とは対照的な武将として黒田官兵衛を描いている。大佛次郎は官兵衛を高く評価していたのである。
「乞食大将」には、ちらっとしか出てこない官兵衛を、司馬遼太郎は、「播磨灘物語」で克明に描き出した。私がこの三冊続きの本を買ったのは、安吾の「二流の人」を読んで官兵衛に興味を感じたからだったが、二段組みに印刷された司馬の本は読みにくく、そのためこの本を買ったきりで手つかずのまま、放り出していたのだった。もし、この三冊を電子書籍化することがなかったら、結局、私はこれを最後まで読まずに終わったろうと思う。
坂口安吾は、黒田官兵衛が天下取りのために乾坤一擲のバクチに出なかったから「二流の人」だという。戦国の武将は、大抵が天下を統一して全国支配をなしとげようと考えていた。それは、現代の国会議員が何時かは、首相になってやろうと考えているのと同じなのである。
天下取りの野心を持っていた点では、官兵衛も家康、三成、直江兼続と変わらなかった。彼は関ヶ原の合戦が始まると息子の長政を家康側に味方させておいて、自分は豊前の本拠に留まり、三成側についた九州大名の留守城を攻めて次々に陥落させて行った。そして彼は機を見て自軍を中国地方に展開し、九州に転出する以前の居城だった姫路まで進出して、そこで関ヶ原合戦の勝者と決戦する計画をたてていた。
関ヶ原戦に家康が勝ち、播州平野で家康と官兵衛が対峙することになれば、官兵衛の息子の長政は家康の手で詰め腹を切らされることになる。それを覚悟の上で彼は、こうした天下制覇の戦略を立てていたのだ。官兵衛の戦略が成功するためには、東軍と西軍がへとへとになるまで闘い続け、どちらが勝利しても官兵衛と戦う余力がなくなっているという状況が必要だったが、関ヶ原合戦が案に相違してあっという間に終わってしまったので、官兵衛の計画は、ついに日の目を見ることなく終わったのである。
官兵衛は息子が豊前に凱旋してきたとき、笑いながら夢に終わった自分の計画を語り、場合によればお前が家康に殺されることも覚悟していたよ、と打ち明けたという。彼がまるで他人事のように自分の計画を笑い話にして語り得たのは、官兵衛が計画の成否をあまり問題にしていなかったからだ。彼はこの計画にすべてを賭けていたわけではなかった。うまく行けば儲けもの程度にしか考えていなかったのである。
黒田官兵衛も戦国武将の一人であるからには、天下取りの野心を持っていた。だが、彼の本質はフランス・モラリスト風の人生省察家たることにあったから、天下取りの野心すら彼の内部の多元的な欲求の一つとして相対化されていた。ニヒリストといってもいいほど冷徹な黒田官兵衛は、自身が全国制覇に成功しようが、失敗しようが、それらの行動自体を他人事のように落ち着いた眼で眺めることが出来た。黒田官兵衛は自分の運・不運さえ、冷たい微笑を浮かべながらリアルに眺めることができる男だったのである。
彼は秀吉の軍師として、何時もそうした眼で状況を観察し、戦略と謀略を立案していた。だからこそ、彼は秀吉に警戒されたのである。官兵衛は日本の戦国武将には絶えていなかった近代的、西欧的なパーソナリティーの所有者だった。 
 2
室町時代末期から戦国時代にかけて、世は下克上の時代だった。武士の世界には、主従とか、本家・分家というような上下の秩序があったが、下克上の社会では力さえあれば分家が本家を追放し、家来が主君を殺害することなど当たり前になっていたのである。言ってみれば、戦国大名とは縄張り争いを続ける暴力団の組長たちのようなもので、彼らの頭にあるのは打算と駆け引きだけであり、戦国大名に教養やモラルを求めるのは、そもそも無理な相談だったのだ。
そんな中で、黒田官兵衛だけが、その教養と識見で目立っている。
黒田一族は、室町時代に近江国の守護職佐々木氏の傍流として、近江国伊香郡黒田村に住んでいたらしい。だが、官兵衛の曾祖父が室町将軍義植の怒りに触れたため、一族は近江を退散して各地を流浪することになる。官兵衛は祖父と父にくっついて備前国の福岡まで流れていった。
官兵衛にとって幸運だったのは、黒田家には家伝の目薬を製造販売するという収入源があったことだった。祖父は目薬で得た収入を低金利で周辺の商人や農民に貸し出して恩を売り、土豪としての実力を貯えていった。同時に彼は、和漢の書籍を集めて家族の知的レベルを維持することにも努めた。黒田一族は、代々、儒学を家学として尊重し、優れた人材を生んで来ていたのである。
黒田家が農家の若者たちを雇い入れて武装させ、着々と土豪化していくのを見て近隣の地侍たちも黒田に臣従するようになった。官兵衛の父は、御着(ごちゃく)に城を構える地域の豪族小寺藤兵衛の傘下に入るために、自発的に部下を率いて小寺のために戦い、小寺藤兵衛から感謝される。やがて官兵衛の父は、小寺の下で筆頭家老になり、御着で城勤めをするかたわら、姫路城の守備を命じられることになる。
黒田官兵衛は十六歳の頃から、父とともに小寺家に仕えている。そして、父が「倅の方が私より有能ですから」と息子を後任に推薦して引退した後は、二十歳台の若さで筆頭家老になるのである。
筆頭家老になった官兵衛が取り組まなければならなかったのは、播磨国の地方領主小寺氏を毛利と織田のいずれに荷担させるかという難題だった。播磨地方の小領主たちは、毛利と織田という二大勢力に挟まれて、どちらに付くべきか苦慮していたのである。毛利は山陽、山陰の要地を抑えて中国地方で圧倒的な勢力になっていたが、尾張の織田信長が京都から摂津に進出して中国地方に食指を伸ばして来たので、この両勢力のいずれにつくべきか播磨の小領主らは皆迷っていたのだ。
この時期に青年家老黒田官兵衛は、国内の情勢を探るために二度も京都に出かけている。彼は一種の直感で、将来性のあるのは織田の方ではないかと考えていたから、京都に出かけて、その辺を確かめようと思ったのである。
だが、情勢を探るためだったら、短期間に二度も京都を訪ねる必要はない。彼はそれまでに儒学と老荘学をみっちり勉強し、仏教にも関心を持っていたが、儒学や仏教を生んだ中国やインドの彼方には、ヨーロッパがあり、欧州の国々は中国・インドよりも更に進んだ文明を発展させていることを知っていた。そのヨーロッパ世界について学ぶことも京都行きの重要な目的の一つだった。京都にはキリシタン寺院の「南蛮寺」があり、ここを訪ねれば求めていた情報を手に入れることができるはずだった。
官兵衛が南蛮寺に詣でてみると、そこには彼と同じような知識欲に燃えた青年たちが集まっていた。その多くは室町将軍に仕える幕臣たちだった。
細川幽齋
和田惟政
高山右近
彼らと親しくなった官兵衛が毛利と織田のいずれを取るべきか質問してみると、彼らは異口同音に、「無論、織田を取るべきだ」と答える(その言葉通りに、彼らは信長が近畿支配に成功すると揃って信長の家臣になっている)。官兵衛は彼らの助言に従って、まず秀吉に面会し、その仲介で信長と会うことができた。黒田官兵衛が、秀吉の幕下に参じるようになるのは、この時彼が信長への橋渡しをしてくれたからだった。
官兵衛は南蛮寺に通ううちにヤソ会の宣教師からも信頼されるようになり、やがて彼は、ドン・シメオンという洗礼名を与えられてキリシタンになっている。彼は、儒・仏に関する豊かな知見に加えて、ヨーロッパの思想にも触れ、同時代の誰もが及ばないほど広い知的世界を持つことになるのである。
二度の京都行きで織田支持の立場を固めた官兵衛は、帰国するとその線で藩論をリードしはじめた。だが、小寺の家中には、まだ30にもならない若造を筆頭家老に仰ぐことに対する反感が根深く潜んでいて、織田一辺倒を主張する官兵衛の意見は容易に受け入れられなかった。近隣の小領主は、毛利・織田を両天秤にかけて形勢を慎重に観望しているときに、なぜ自分たちだけが織田支持を鮮明に打ち出して毛利の憎しみを買う必要があるか、というのである。
だが、領主の小寺藤兵衛は官兵衛に説得されて、家中の反対論を押さえて織田方につくことを決定する。官兵衛は、次に近隣の領主の説得に乗り出し、それまで気分的に毛利支持に傾いていた領主や土豪たちを翻意させることにも成功するようになった。
播磨国の形勢は、織田方に有利に動き始めた。だが、これを確定したものにするためには信長が播磨に兵を入れる必要があった。その辺の事情は信長も呑み込んでいたから、彼は秀吉に中国攻略を命じ、いよいよ織田と毛利が雌雄を決する時期が来たのだった。
秀吉に率いられた兵が入ったことで、摂津、播磨の大半は織田方になったが、播磨には毛利方の別所氏が頑張っていて、どうしてもその城を落とすことができない。その間に織田方の最前線にあった上月城が毛利方に包囲されて危うくなる。秀吉がこの上月城を守り抜かなければ、織田方に付いている播磨の小領主や土豪らの間に動揺が走り、毛利方に寝返る危険性があった。それで秀吉は尾張の信長に増援の軍を派遣してくれるように矢の催促をしたけれども、全国各地に軍を展開させている信長には、播磨に回す軍を捻出できなかった。彼は秀吉に、上月城はあきらめて毛利に与えよと指示を出した。
この危機に際して、黒田官兵衛は備前の浮田直家を織田方に引き入れることに成功している。彼は毛利方の浮田が主家を次々に裏切って成り上がったダーティーな男であることに目をつけ、敵陣にひそかに潜入し、浮田直家に直接会って織田に味方するように説いたのである。
一方、織田方からの救援を得られなかった上月城は苦戦の末に陥落して、毛利の手に落ちてしまう。上月城の陥落は、摂津・播磨の領主らに想像以上のショックを与え、そこにつけこんで毛利の工作が活発になったから、ついに摂津の荒木村重と播磨の小寺藤兵衛が毛利側に寝返ってしまう。
浮田を味方に引き入れる工作をしている間に、官兵衛は、荒木村重ばかりか小寺藤兵衛の裏切りを招くという手痛いしっぺ返しを受けたのである。彼が秀吉に密着して織田方の軍師役を勤めている間に、御着(ごちゃく)城の毛利派が小寺藤兵衛の取り込みに成功していたのだ。
黒田官兵衛は、このピンチを切り抜けるためにどうすべきだろうか。
まず、御着城に戻り、領主をはじめ家中の者を説得して方針転換を中止させなければならない。問題は皆が官兵衛の説得を聞き入れなかった場合である。
その時には、彼はハラを決めて、御着城の仲間と縁を切り、織田側の軍師として、旧主の小寺と戦うべきだろうか。それとも自説を引っ込めて御着城に留まり、家中の面々と協力して、織田勢力と戦うべきだろうか。 
 3
秀吉は、官兵衛が御着城に帰って領主や家中を説得することには懐疑的だった。そんなことをしても成功する可能性は少ないし、帰城した瞬間にとらえられて処刑される危険性だってあるのだ。
官兵衛も、その危険性は承知していた。もし小寺藤兵衛が浮田直家のようなダーティーな男だったら、邪魔者は殺せとばかり帰城した彼をすぐさま処刑してしまうだろう。だが、官兵衛は十六歳の時から近習として、そして筆頭家老として仕えてきて、小寺藤兵衛の性格をよく心得ていた。藤兵衛は意志が弱く、まわりの意見にすぐ動かされる。彼は、今のところは家中の意見に押されて、筆頭家老が帰城したら、毛利方に忠誠を示すために織田派の官兵衛を処刑するか、牢に押し込める積もりでいるかも知れない。だが、その前に彼は官兵衛に対して、自分が織田を裏切った理由について一応の弁解をするだろう。その時が、チャンスなのだ。官兵衛は、その時に再度城主を説得すればいい。
官兵衛は、帰城を決意した──坂口安吾が、「黒田官兵衛は一度だけバクチをした」といっているのは、彼が危険を冒して、敢えて帰城に踏み切ったことを指している。
官兵衛が御着城に戻って、小寺藤兵衛に再会してみると、さすがに藤兵衛も面映ゆそうだった。彼が官兵衛の説得を受けて織田方に付くことを決めてから、まだ、さほど日がたっていないのである。官兵衛が改めて毛利よりも織田を、と説き始めると、小寺藤兵衛は彼を制止した。
「分かっている。もう、言うな。わしは、荒木村重と盟約を結んで、毛利につくことを決めたのだ。荒木が翻意して、また、織田側に戻るというのなら、わしも異存がないぞ。お前は、これから有岡城に出かけて荒木を説得してくるがよい」
官兵衛は、釈然としないものを感じたが、小寺藤兵衛のいうことにも一理あったから、領主の用意してくれた伴揃えに守られて荒木村重の元に赴くことにした。史書によれば、小寺藤兵衛は、早馬を仕立てて荒木村重に手紙を送り、官兵衛がそちらに到着したら、すぐに殺してほしいと依頼している。しかし荒木と官兵衛は親しい間柄だった。彼は官兵衛が到着すると、一度も顔を会わせることなく、城内の牢に入れてしまう。彼も自分の手で官兵衛を殺す気にはならなかったのだ。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」は、物語のハイライトを獄中の黒田官兵衛を描くことに置いている。吉川英治の「黒田如水」も同じである。官兵衛は陰湿な牢獄で、一年間を耐え抜いたのである。
牢舎は城の片隅の湿地にあった。牢の背後にはアオミドロの浮いた溜め池があり、牢の左右と前には鬱蒼と竹藪が繁っていた。そのため、牢の内部は昼間でも夕闇のように暗い。しかも牢には床がなく、冷たく湿った土間になっている。
建物はひどく狭く、立ち上がろうにも頭がつかえて直立できないのである。寝るときは足をまっすぐ伸ばすことが出来なかった。司馬遼太郎は、その狭さは押し入れというより、棺桶のようだったと書いている。
牢の中には、便器として桶が一つあるだけで、牢番が中身を捨てるのを怠るので、汚物が溢れて土間を濡らしていた。そんな地面で夜は寝なければならなかった。官兵衛は、たちまち全身が湿疹に悩まされた。特にひどかったのは、頭に出来た瘡で、これが白雲状になってぽろぽろ剥がれ落ちるのである。
官兵衛が、この耐え難い獄中から逃れるには、自分も毛利側につくと荒木村重に伝えるだけでよかったのだ。荒木村重も、内心でそれを待っていたのだが、官兵衛は最後まで屈しなかった。
事情が分からない信長は、官兵衛が御着城に行ったまま帰ってこないと聞くと、さては寝返ったかと激怒し、官兵衛が人質として差し出していた嫡男を殺すように命じている(官兵衛の同僚竹中半兵衛がかくまってくれたので、嫡男は難を免れた)。
一年後、有岡城が織田方の攻撃を受けて陥落したとき、官兵衛の家来が主人を牢から救出した。その時の官兵衛について、司馬遼太郎はこう書いている。
<官兵衛は髪は抜け落ち、四肢はミイラのように硬くなっていて、体の自由がまったくきかなかった(「播磨灘物語」)>
官兵衛は、まるで亡者のようになっていたので、家来は主人を抱き上げて牢の外に運び出さなければならなかった。
牢獄でどん底の生活を体験してから、官兵衛はすっかり変わったように見えた。それまでの彼は、知識欲に燃え、儒教や仏教だけでなく、キリシタンの文書も読んでいた。官兵衛はそれらを通して人間と社会を観察し、フランス・モラリスト風の人生省察者になっていたのだ。
だが、自身の糞尿にまみれるながら暗い牢舎で一年を過ごしてみると、仏教もキリスト教も、そして儒教哲学も、何の力にもならなかった。
過酷な現実に耐えて行くためには、まず、現実を受け入れなければならなかった。官兵衛の目には、毛利に付くことを選んだ小寺藤兵衛も、荒木村重も愚かな人間だったが、二人を説得できると過信して御着城に乗り込んだ彼はもっと愚かだったのだ。
官兵衛に必要なことは、自己を過信せず、卑下もせず、自然体で生きることだった。自然体になって、この受け入れがたい現実とつきあって行く以外に方法はない。
牢を出てからの官兵衛は、禅宗の勉強を始めている。
──彼は以前から老荘を座右の書にして、晩年に「如水」を名乗っていたほどだった。「如水」、すなわち水のごとく生きよ、というのは、老子の説き続けたスローガンなのである。
官兵衛は小寺藤兵衛に仕えているときにも、「雄を知りて、雌を守れ」という老子の言葉を心に刻んでいた。「雄」はリーダー、「雌」は従者を意味している。老子は、たとえ為政者としての能力を持っていても、臣下として生きよといっているのである。
官兵衛は秀吉の軍師になった時にも、たえず老子の言葉を思い出していた。秀吉が官兵衛を薄気味悪い怪物のように思っていたのも、何となく彼のこの心事を感じ取っていたからだった。
黒田官兵衛は、これまで老子的な処世術で生きて来たが、入牢を体験してからはそれだけでは不十分だと感じ始めたのだ。官兵衛は老子に加えて禅的な精神に学ぶ必要を感じ始めたのである。
官兵衛は一年間の過酷な牢獄生活に耐えて変節しなかったことで、周囲の尊敬を集めるようになった。これまでの官兵衛は知の人であり、カミソリのように頭の鋭い軍師として恐れられていた。だが、今や彼は、義の人、節操の人として畏敬されるようになり、秀吉でさえ、官兵衛に一目置くようになった。
しかし人々を困惑させたのは、官兵衛には分からないことが多すぎたからだった。
第一に、彼は城持ちの身になったのに、妻一人で満足して側室を持とうとしないのである。大名が側妾を持つのは好色のためというより、彼女らに子を産ませて後継者を一定数以上確保しておくためだった。にもかかわらず、官兵衛は、男の子一人を産んだだけの妻以外に女を持たないでいる。一人息子が死んでしまったら血を分けた跡継ぎがいなくなるではないか。
官兵衛が、武器を取って出陣することを意識的に避けているのも、分からないことの一つだった。彼はいざとなれば豪腕をふるって強敵を倒すこともできた。それなのに、どうも彼は、人を斬ったり殺したりすることを好まないようだった。彼は、合戦をするよりも謀略で相手を屈服させることを選び、謀略よりも正面から相手を説得することを好んでいた。このやり方でちゃんと成果を出しているから表だって非難を受けることはなかったが、彼が人々に臆病者と見られていることは疑いなかった。
城持ちになった官兵衛が、大名としての体面を欠くほど節約に努めている点も、分からぬことだった。倹約に努めるというのは、黒田家の伝統で、目薬の製造販売で富裕になり蔵には備蓄の米俵が溢れるようになっても、その暮らしは常に質素だった。
しかし、吝嗇というのではなかったのである。官兵衛は関ヶ原合戦が始まると、支度金を出して多くの浪人を雇い入れている。列を作って順番待ちをしている浪人の中には、既に支度金を貰っているのにもう一度列に並ぶものもいたが、官兵衛は黙ってそのものに要求通りの金を払っていた。
こういう官兵衛の行動から感じられるのは、近代的、合理的な精神であり、欧米人的な生活感覚だった。坂口安吾は、天下を取ってやろうというロマンがないとか、命を賭けたバクチを避けているという理由で、黒田官兵衛を二流扱いしている。だが、その点にこそ、時代の先を行く先覚者としての彼の面目があったのである。
晩年になってから、官兵衛は城を抜け出して足軽長屋に出かけ、子供たちと遊んでいたといわれる。よく躾けられた上級武士の子供たちは、官兵衛の前に出れば硬くなって物もいえなくなる。しかし、足軽長屋の子供は野性的で、官兵衛に馴染んでくると、彼をその辺の爺さんとしか見ないようになる。だから、足軽の子供と遊んでいると面白いのだ。
官兵衛は自分ではどうにもならない問題は運命に任せ、耐えるべきところは耐え、人生で一番面白いところを選んで生きた男だった。人が自分を二流と呼ぼうが、三流とけなそうが、意に介しなかったのである。 
 
黒田長政

 

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いで大きな武功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になった。父孝高と同じくキリシタン大名であった。 
生涯
織田家臣時代
永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。幼名・松寿丸。天正5年(1577年)から織田信長への人質として、織田家家臣の羽柴秀吉に預けられ、その居城・近江国長浜城にて過ごした。
天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻す(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させる為に伊丹城(有岡城)へ乗り込むも逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ父を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で処刑される松寿丸であったが、竹中重治の機転により一命を助けられている(竹中氏の居城・岩手山城下に匿われた)。やがて有岡城の陥落後には、救出されて疑念の晴れた父とともに姫路へ帰郷できた。
羽柴(豊臣)家臣時代
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、中国地方の毛利氏と戦った(備中高松城の戦い)。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、長宗我部水軍と戦った。その功績により、2千石を与えられる。
天正15年(1587年)の九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられた。天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。
文禄元年(1592年)から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略した。6月15日の大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。翌16日敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。8月初旬の漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長等の守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。
和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。
慶長元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。慶長2年(1597年)7月に元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ右軍に属して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政は加藤清正や毛利秀元等と右軍を形成して忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。『黒田家譜』によると駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めたとされる。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。
占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理楊鎬・提督麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。
このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。
関ヶ原
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との対立路線から五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えた。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃した。慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった。長政は調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に52万3千石を与えられた。
江戸時代
慶長8年(1603年)、従四位下、筑前守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、代理として嫡男の黒田忠之が出陣。翌年の大坂夏の陣では2代将軍・徳川秀忠に属して豊臣方と戦った。元和9年(1623年)8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京したが、まもなく発病して京都知恩寺で、56歳で死去。後を長男・忠之が継いだ。 
人物
父・孝高ほどの知略の人物ではなく、どちらかといえば武勇に優れた勇将であった。但し関ヶ原における調略に代表される様に、高い知略も持ち合わせていた。
秀吉の死後は藤堂高虎に匹敵するかのように、家康に忠実に仕えた。蜂須賀正勝の娘を離縁して家康の養女を娶り、さらに家康の命令の普請賦役を恙無くこなした。これにより、外様大名でありながらも信頼された。
三成を恨んだのは、かつて父が失脚した一因に三成との対立があったからだと言われる。しかしこれには後日談があり、関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに馬を降りて敵軍の将として礼節を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったとされる。この時、長政は自らの羽織を三成に遣わし、手向けの言葉を送ったという。
熟慮断行の気性であったようであり、父・如水はそれを優柔不断のように見えたのか「自分はかつて小早川隆景に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたらしい。長政はその言葉をヒントに、後年「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上で決断する仕組みを作ったとされる。 
逸話
関ヶ原戦直後、家康は長政の功労に自らその手をとって賞したという。帰郷してこの事を父・如水に話すと、如水に「それはどっちの手であった」と尋ねられた。長政が「右手でございます」と答えると、如水に「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手で家康を刺さなかったかと言う意味)と詰問されたという話がある。
晩年には長男の満徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの家訓(御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。また、一時は忠之を廃して三男の黒田長興を後継者にすることを考えたとされる。後に忠之の時代に黒田騒動が起こった事を考えると、この長政の心配は当たっていた事になる。
嫉妬深い一面があり、父・如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く、如水から大名なみの厚遇を与えられていた後藤基次を追放し、さらに奉公構という措置を取った。これは、長政が基次の功績と、かつて如水に寵愛された事を嫉妬したからだという。ただし、実際には、むしろ如水が、基次を「謀反人の一族なので、そば近くに召し使うことは無用」と命じたにもかかわらず、長政が厚遇したのであり、基次出奔も、長政が、仲の悪い細川家との付き合いを家臣に禁じたにもかかわらず、これに従わなかったことが原因とされる。
忠之が4歳の袴着式を迎えた時、母里友信は「父君以上の功名を挙げなさい」と言ったという。それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ」と激怒し、友信を殺そうとしたという。ただし、周囲から取り成しにより収まった。
死の床につき、家老宛に「徳川が天下を取れたのは、黒田父子の力によるもの」としたためたという。このことから関ヶ原の戦いでの東軍勝利の影の功労者として、長政はこの戦いを生涯の誇りとしたとされる。
バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。 
 
新史太閤記

 

自在に演技できる顔
「よほどめずらしいしろものらしゅうござりまするな、この顔が」「ふむ」嘉兵衛は言葉をにごし、猿がどう出るかを測りつつ、「まあ、臨済寺の寺小姓にはなれまいな」用心ぶかくいった。「そのかわり、ひと目みれば誰も忘れぬ」と、おだててもやった。が、猿はそんなことはききたくない。
「お伺いしとうござります。この顔は、醜うござりまするか、それとも怖ろしゅうござりまするか、あるいはとぼけて他人の笑いを誘いそうでござりまするか」「休もう」嘉兵衛は、蒲公英の群がりのなかに腰をおろした。すでに猿の関心のありかがわかった以上、親切に相手になってやろうと思った。
「そちは利口だな」まずほめた。猿が、自分の顔の印象を三種類にわけた的確さに募兵衛は感心したのである。「わるいが三つともそろっている」と、嘉兵衛は小声でいった。
「お答え、ありがとうございます。しかし醜いということでございますが、薄気味が悪うございますか」「時にはな」「例えばどのような時」「そちが、朋輩と争ったあと、なにやら心鬱するがごとく物思いにふけっているときだ。そのときの顔のむごさは、あたりを冷えびえさせるほどに暗く、目の光が蛇に似、なにやら別人のように奸悪な表情になる。人はそちを薄気味のわるい倭人としか見まい」「たとえば、こうでござりまするか」
嘉兵衛がおどろいたことに、猿は腕を組み小首を垂れ、両眼だけを薄く見あげた。武家奉公させておくのは惜しいほどの演技力である。
「もう、やめろ」嘉兵衝は、血がさがるほどにおびえた。いかさま、ゆだんがならぬと思った。この猿には、もともと腹の黒い、血の冷えた、倭人の素質があるのではないか。
「ありがとうございました」猿は顔を崩し、急に陽が照ったように笑った。そこに、別人が誕生したように明るい目である。
(こわい男だ)嘉兵衝は、腰をちょっと退きたくなるような思いでおもった。が、猿はニコニコしている。
「こんどは、怒ればどのような顔に相成りましょう。ちょっとやらせて頂きます」猿は会釈をし、やがて顔をあげ、あごをちょっとひいた。
もうそれだけで、忿怒の形相が、そこに居た。寡兵衝はふたたび驚かねばならなかった。猿の顔たるや、小振りながらも鬼神のようなすさまじさなのである。 
信長に仕えて人生が転換
ある日、信長は小牧山まで鷹狩りにゆき、夕刻騎馬で清洲まで帰ってきた。
すると、路傍に人がすわっている。平伏していたが、やがて信長が通りかかるときにひらりと顔をあげた。
「−」と、信長は見おろし、弾けるように笑いだした。世の中でこれほど奇妙な顔をみたことがない。顔はひどくつつましやかな表情に作っているが、見ようによっては満面が恍けた味でふくらんでいる。
きっ、とその顔が笑ってみせた。その瞬間、馬が愕くぐらいの奇相になったが、それだけに物好きな信長は見惚れてしまった。なにしろ信長は男根をたたいて踊るようなおどけ者の家来が気に入ったり、晩年も南蛮憎が献上した黒人を珍重がり、−まさか墨を塗っておりはせぬな。
とわざわざ湯に入れて試し、まぎれもなく天然の皮膚だと知るといよいよ可愛がり、ついには弥助と名づけて太刀持ちにしたほど、この種の癖のある男である。
信長の顔はだんだん好奇心ではち切れそうになり、「汝は、何ぞ」と叫んでしまっていた。
猿の演技は、完了した。平伏し、地に蝶の立つほどの大声で自分の亡父が織田家の足軽木下弥右街門であったこと、継父が竹阿弥であること、すでに嘆願の筋は足軽組頭浅野又右衛門であるこ。となどを朗々と述べ、「−なにとぞ」と、泣くように叫んだ。
「御小者のおはしにお加え下され、お草履を取らせて頂きとうござりまする」
(妙なやつだ)信長の顔はすでに前方の天にむき、馬を打たせて行きすぎてしまった。が、帰城してめしを食っていると、箸の合間々々にあの妙な顔が浮んできて、だんだん惜しくなってきた。
「あの猿をさがせ」近習に命じた。
彼等はすでに路傍で猿の口上をきき、浅野又右衝門という名が出ていたことから夜中、人を走らせて足軽長屋をさがさせると、折よく猿は一若の長屋に泊っていた。
数日して猿は信長の草履取りになった。
猿の運よいことに、ほどなく足軽の欠員ができたため、浅野又右術門の組子になり、長屋を一つ貰った。
その欠けた足軽が、「藤吉郎」という名であったため、その穴を埋めた猿も自然織田家の習慣によってそう呼はれることになった。もっとも名だけで、足軽には姓というものはない。
いずれにせよ、猿は織田家の水に適っていたのであろう、遠州時代とはまるで人がわりしたように生き生きと働きだした。
織田家の熱風が陽気なせいか、例の鬱し顔も影をひそめ、年中罪のない法螺を吹いている剽軽者として長屋の人気者になった。猿の人生は一変したといっていい。
法螺といえばこのころ、他の組の組頭で坪内玄蕃という顔利きの者がおり、この男が猿をずいぶん目にかけてくれた。猿もあまりの親切に恐縮し、「御礼の申しようもござりませぬ。されば他日天下を取りましたるときは、すかさずあなた様を家来として使いましょう」と熱情をこめて言いつのったから玄蕃も興醒めしたという噺がある。 
信長と共通の発想法
いや、この発想法は信長の影響によるものかもしれなかった。信長自身がつねにそういうあたりに発想点をおき、脳髄のその場所からあらゆる政略戦略を生み出し、家中の統御法もそのひどく商業的な場所から発想している。家柄や門地に一文の価値もみとめず、自分に儲けさせるものを好む。信長の発想がつねに他国の大名の意表に出るのは、頭脳の明敏さよりも発想点の置き場所のちがいであろう。
猿はそれを機敏に察した。
他の家中の者が依然として室町的な旧随意識のなかにいるとき、猿のみが信長のそういう発想点をさがしあてたのは、猿の天才というよりもこの場合やはり猿が商人のあがりだったからにちがいない。
墨股の域外に、敵地である西美濃の平野がひろがり、大垣の城が遠がすみにかすんでいる。
「奪らばや」。と、猿はおもった。
この墨股城外の村を二つ三つとれば千貫になるであろう。猿は蜂須賀小六に命じ、間断なく作戦させ、ほどなく千貫を越す新領地を得た。
「猿は、やる」信長は、猿の報告に満足した。むろん、猿が切りとってきた土地のわずかな切れっぱしをよろこんだのではなく、猿の物の考え方に満足したのである。この物の考え方を猿がつづけてゆくかぎり、信長は猿を安心して使えるであろう。
「猿は、まるであきんどのようだ」信長はあとで笑った。信長自身そうであることに、当人は気づいていないらしい。
後年の話になるが、すでに筑前守になっている猿は安土城で法螺を吹き、手を大きくひろげながら、「ほどなく山陽・山陰道を切り取ってみせます。しかしご恩賞などは要りませぬ。そのかわり九州攻めをおおせつけくださりませ。やがて九州は鎮定つかまつりましょう。すべて上様の御威光でございますからご恩賞は要りませぬ。ご恩賞のかわりに九州を一年だけ支配させていただき、その米の収穫を兵糧とし、上様の公達お一人を奉じ、朝鮮大明に攻め入らせてくださりませ。大明を上様の御領地として、それがしは朝鮮を治めさせて頂きとうございます」といった。朝鮮がほしい、などは、火星を貰う、というほど現実感がとぼしく、そのうえ信長の懐ろは痛まない。猿は信長から禄という資本を借り、その資本によって信長に儲けさせ、そのことをのみ考えつづけた。猿が主従の経済関係をこのように考えるのは、やはり鎌倉・室町体制いらいの武門の旧家にうまれていなかったからにちがいない。猿は自分のもつ行商人的考えで信長との関係を考えてゆくしかない。この点、猿も奇妙人であるし、それを受け入れる信長もほとほと奇妙人というほかはない。 
調略の名人だが懐っこさと信義のあつさがあった
「(織田家に仕官したが、美濃に対しては裏切りたくない)という感情が、半兵衝にある。ところがおどろいたことに、猿にはその微妙な心情がわかるらしい。ひとこともいわず、三日にあげずやってきては、「瓜を召せ」と言い、瓜をすすめるのみで、その話題に触れない。この男はどこで買ってくるのか、いつも真桑村の瓜をたずさえてやってくる。皮の肌が黒いほどに青く、剥いて歯を入れると肉の香気が鼻腔に満ち、愛しいほどにうまい。
「季節のものを食べるほどの法楽は世にござりませぬなあ」と、毎度、猿は天真爛漫な声をあげる。瓜を食っているときの猿の顔ほど、無邪気な顔はない。
そのつど、(相当な人物だな)と、竹中半兵衛重治は思わざるをえない。猿は、半兵衝に瓜を食わせるのみで、稲葉山城攻略の工夫をひとこともきこうとしないのである。
猿は、人懐っこく、かつ信義にあつい。人懐っこさと信義のあつさは、猿の香気であり、もっとも重要な特徴であるように、半兵衛には思えた。げんに猿自身も、かつて半兵衛にいったことがある。
「わしは、人を裏切りませぬ。人に酷うはしませぬ。この二つだけがこの小男の取柄でございますよ」といった。そのくせ猿は調略(謀略・外交)の名人というべき才器のもちぬしなのである。もし猿に人懐っこさと信義のあつさがなかったなら、おそるべき詐略、詐欺、陰謀の悪漢になったであろう。猿はそういう悪漢の才能をことごとく備えていた。ところがそれらの悪才を、猿は、その天成のあかるさと信義の厚さというたった二つの持ち前の徳でもって、もののみごとに実質に転換させているのである。
信義のあつさという点では、たとえばこの墨股城を竹中半兵術にまかせっきりにして、猿は、ほとんど城に屠ない。
(おれにその気があれば)と、半兵衝はおもう。この城をらくらくと奪れるではないか。半兵衝はほんのこのあいだまでは、猿の織田家の敵国人であった。いかに転身したとはいえ、日も浅く、気心も知れまい。であるのに猿は半兵衝にこの城をまかせっきりにして、せっせと外で仕事をしている。胆気の大きさというか、人を信ずることのあつさというか、人離れがしているというべきであろう。(これが、この藤青郎の魅力だ。とにかく毛色が変っている) 
信長は調略の才を認めた
藤吉郎の場合、前述したように竹中半兵衛、蜂須賀小六などがそうであり、堀尾茂助のような少年でさえ、信長直参になっていた。この信長流の異凰な中央集権の軍事体制が、織田家の動員のスピードを類のないはやさにしていたし、その戦場行動を軽快にし、かつ、信長の号令が雑兵のはしばしにまでとどくもとにもなっていた。
−加増は要りませぬ。
といった猿の言葉の背景には、そうした織田軍団の特殊事情がある。加増してもらわなくても信長のめがねにさえかなえばおおぜいの与力を貸与され、大部隊を指揮することもできるのである。
「猿、はげめ」と、信長は、そのことは一つをほうびにあたえた。信長のやり方であった。信長は後年、たれかの戦功を賞したとき、「これをやる」といって焼き栗を二つ三つあたえたことさえあった。信長の急務は、天下取りのために織田軍団の人数をふやすことに意を用いており、そのために家来への報奨を薄くした。これでも家来たちが我慢をしたのは、(いずれ、殿様が天下をおとりあそはしたなら、われらはどれほどの大身になれるか)という他家にはない希望があったからであった。織田家が天下をとる、という希望を、信長は家中に意識的にあたえた。とくに稲葉山城を略取した直後、信長は、天下布武という金印をつくらせ、公文書に用いた。家中の者は、猿だけでなく、わが身の薄禄をわすれて昂奮したのもむりはない。
稲葉山城とその城下の井ノロの町は、信長の命令で「岐阜」と改称された。この時期から猿の家中での勢力は大いにあがったが、それはかならずしも戦功のせいではない−と前述した。その理由はひとすじに、猿の別の才能が信長にみとめられたからであった。
調略の才である。
(猿の調略は、捨てたものではない)信長は、おもった。亡父信秀以来、屍山血河の力攻をしても陥ちなかった稲葉山城が、猿の敵地におけるごく日常的な調略活動のつみかさねの結果、ころりと陥ちたのである。
(妙な男だ)信長は、猿を見なおした。 
悲痛な殿部隊の志願
この場が、そうであった。信長は、馬も通りにくい琵琶湖東岸の山岳地帯が幸い浅井氏の属領程度であるところからこの経路をとって退却することに決めた。
猿はたまたまこの信長本陣にいたが、−死を賭けるは、いましかない。
と覚悟した。この戦場に残留しようと決めたのである。殿部隊になり、全軍の退却をたすけ、敵の追撃をくいとめ、ついには全滅するという悲痛な役割であった。百のうち一つも生還はできまい。
「手前が」と、信長に申し出たとき、猿はさすがにその醜怪な顔が真赤になり、眼球が飛び出そうになるまで緊張していた。
「かの金ヶ崎城に寵り、殿を相つとめ、敵の荒波を斬りふせぎまする」猿にすれば、このような経歴で身をかざらぬかぎり、一介の巧弁の徒、調略家としてしか家中で評価されない。前田又左衛門利家が、−武功をたてよ。
と忠告したのはそこであろう。猿はその機会をうかがっていた。ついに来た、とはいえ、この申し出はあまりにもすさまじすぎた。猿が言いだしたとき、満座が息をとめ、感動することさえ忘れた。それほどに懐惨な役目であった。
信長は、沈黙した。さすがの信長も、即座に返答しかねた。信長はこの猿を、抱きしめてやりたいような愛憐を感じたのは、このときが最初であったろう。
(猿は、こういう男だ)信長の藤吉郎観が、このときに確立した。こういう実体さ、可憐さ、潔さがなければ、猿は所詮、ペてん師であったろう。それを信長は思った。ここ十年手飼いにし、人がましくしてやった礼に、狼はいま繊田軍の潰滅をふせぐための人柱になろうというのである。
「猿、ゆるす」「あっ」猿は、平伏した。これが今生の別れになるであろう。猿はそう叫び、「御無事で、おすこやかに」と、あく強く信長の多幸を祈った。
これには信長も閉口してしまい、馬に飛びのるなり、涙を横なぐりに拭いた。この種の涙を信長が流したのは、少年のころ、自分の悪行を諌めて切腹した傅人の平手政秀老人の死を知ったとき以来であろう。あのときは信長は悲しみ、城下を狂人のようにほっつき歩いた。 
人を動かす才能
秀吉は、決心した。あとは、工事であった。城の北方と東方は、わずかな田地をへだてて山陵地帯である。これは、自然の堤になる。城は南方と西方の平野にひらいていた。この開放面を閉じればいい。
閉じるための堤の長さは、四キロを要する。気の遠くなるほどの長大さだが、秀吉の心象からみれば棒ほどの長さにしかおもえないらしい。
秀吉は、堤防の規模−幅と高さを決定した。底面の幅がなんと四十メートルであった。高さは十メートルあまり、その上は道路になる。道路(秀吉の時代の土木用語では馬蹄)は約二十メートルで−ある。
(そのような工事が急速にできるか)と、官兵衝はおもった。それとなく秀吉に工事日数の予定をきくと、−なあに、十日か十五日もあればできるだろう。
と、秀吉はおどろくべきことをいった。なるほどそれだけの日数でできるとすれば毛利の救援軍も問にあうまいが、しかし神のみがそれは可能である。
が、秀吉は、天性の土木家らしい。
土は、土俵で運ぶ方式をとった。土俵ごとほうりこんでゆく。その土俵はざっとどのくらいの数量が必要か。
それを、算用達者の小西弥九郎(行長)に計算させた。弥九郎はすぐ計算した。
「七百五十九万三千七百五十俵でござりまする」というのが、その答えであった。幕僚のたれもがその数量に気を遠くしたが、しかし秀吉だけはおどろかなかった。大量の人力を、機能的に、しかも一挙に集中させる方法を考えればそれだけでよい。その集団労力を機能化するという点では、この男にかかっては信長もおよばない。この男の最大の特技であった。信玄や謙信などは、はるかにおよばぬであろう。この男のばあい、自分のその特技世界に、合戦そのものをひきずりこんでいるかたちであった。
秀吉は二千余人の労働力をあつめた。その連中は、備前と備中の戦いで獲た捕虜であった。それを二十三組に分け、一組百人単位に奉行一人、杖突き(土木監督)四人を置いた。奉行には紙の小旗を腰にささせた。以上が、この築堤工事の主力であった。
が、二千余人ではすくない。ほかに、この地方の百姓町人ほぼ一万人をつかった。しかしこの男の流儀で強権はさほどに用いず、かれらの欲を刺激した。土俵一俵を運んでくれば、銭百文と米一升をあたえるという。条件が、夢のようであった。
−うそだ。と、かれらは最初信じなかった。堤の長さ三メートル余で、必要土俵の数が三千五百二十八俵になるとすれば、羽柴から支払われる米銭は、銭が三百五十二貫八百文で、米が三十五石二斗八升である。さらにこの大築堤ができあがったときに支払われる代価を計算してゆけば、米だけで二十八万八千倉石という、よほど大胆な者でも胴慄いのしそうな巨額であった。それだけが、この地方に落ちる。
しかも百姓町人としては資本いらずであった。土俵を作って土を詰めればよい。土が、米と黄金に化るというのはまるでお伽話か、神話であった。
が、やがて事実とわかり、備中、備前一帯の人間は発狂した。発狂同然になった。子供や老婆まで土俵をかつぎだした。八キロむこうの備前岡山あたりからも、土俵を積んだ百姓車が陸続としてつづいた。神話が、現実のものになった。
「みろ、人がうごく」と、秀吉は猿が燥ぐような無邪気さで、はげしく手をたたいた。人を動かすというのがこの男の才能であり、欲望であり、いちどこの味を知ればこれほどおもしろいものはない、とかれ自身ひそかにおもっていた。この時期、かれは竜王山の頂上から本営を移し、高松城へいちだんと接近した丘陵−俗称蛙ケ鼻で指揮をとっていた。官兵衛がたえずかれのそばにいる。その官兵衡へ、「みろ、みろ」と、やかましく催促した。官兵衝はちょっと迷惑した。
「みております」というと、もっと驚け、もっと目をまるくしろ、と官兵衛の肩を二つ三つ、力まかせにたたいた。
「世を動かすのは、これだ」と、秀吉はいった。これ、というのは人間の欲望を指している。秀吉は人間の欲望を刺激した。すると水が低きへ流れを変えるように、秀吉の思うがままの方向に人間どもはうごきだした。世を動かす原理は人間の欲望である、ということを、秀吉は年少のころから勘づいていたが、その証拠として、これほど壮大な規模で目の前にくりひろげてくれた光景はかれ自身もはじめてみた。昂害しきっていた。 
主筋の信孝を討つために声を大にして正義を叫ぶ
「ご成人なさるまでは、わしの膝下でお育てする」として、秀吉の再三の抗議をはねつけている。三七信孝にすれば当然であろう。三法師を擁しているかぎり、柴田・滝川・織田信孝の連合軍は織田家の正統であり、必要があれば「三法師ぎみの御教書」ということで中立系諸大名に命令することもでき、場合によれば秀吉に叛臣の称をかぷせることもできるのである。
これでは秀吉はたまらない。
「三法師ぎみを岐阜から取りあげて安土へお移し申さねばおれはどうにもならぬ」と、秀吉は官兵衝にいった。
(そうだろう)と、官兵衛は肛のなかでうなずいた。あの清洲会議で秀吉は三法師ぎみの傅人(保護者)になろうとし、そのためもあって長浜城と北近江三郡を勝家にゆずった。幸い、一座の承認を得てかれは傅人になった。秀吉は畳の上の駆けひきに成功したのだが、しかしそのあと柴田方にくつがえされた。かれらは実力をもって三法師を抱きこみ、手放さない。
「だから」と、秀吉はいった。「当方もカでゆくしか仕様がないさ」「しかし、どうでありましょう」むずかしい、と官兵衝はおもう。相手は織田家の三七信孝なのである。ひとつ間違えば秀吉は主筋を討つ者として満天下から悪評をあびることになるだろう。
「その点が」「むずかしいか」秀吉は急に手綱をゆるめ、天を仰いで笑いだした。
「官兵衛、世の事はすべて陽気にやるのよ」それが秘訣だ、と秀吉はおもっている。悪事も善事も陽気にやらねばならない。ほがらかにあっけらかんとやってのければ世間の者もその陽気さにひきこまれ、眩悪され、些細な悪徳までが明色にぬりつぶされて一種の華やかさを帯びてくる。
(そういうものだ)と、秀吉はこの重大行動に出るにあたってことさらにそれを思った。
美濃境に入るころになって、にわかに天候がかわり、風雨になった。秀吉は国境の山中村に諸将をあつめ、「われらは美兼濃へ入る」と宣言し、しかしながら、−三七信孝どのを討つ。とはひとことも言わず、「岐阜にいます三法師ぎみを迎え奉る。命に代えても守り奉り、故右大臣家(信長)の居城安土へ移し奉る。このためにわれらは美濃へ乱入するが、この忠誠を阻む者があれば容赦なく討ち、城をつぶし、その首は六逆の大悪人として京の三条河原に梟け、天下のみせしめにするつもりである。それがたとえ主筋の御人であろうとも容赦はない。心得たか」と、まず大喝して満座の空気をひきしめさせた。正義を確立させたのである。
(なるほど)と、官兵衝は座にあって聴き、秀吉の演技力に驚嘆した。正義はつねに両つあるとすれば、声の大いなる側が有利であろう。それに諸大名の戦意をさかんにするためにはかれらから罪悪感を消さねばならない。
−岐阜を攻撃することは罪悪どころか、正義である。
と、秀吉は鼓を撃ち鳴らすように言い、満座の心を一つにしてから美濃攻撃の部署をきめた。軍を三つにわけた。
岐阜城を主城とする美濃には小城が多い、いずれも織田家の大小名が城主になっているが、清洲会議以来かれら美濃諸将は三七信孝に所属するようになっている。それらをまず降伏させねばならなかった。
秀吉はその翌日鞭をあげて美濃に進入し、大軍をもって国中の城々に威圧を加えつつ美濃諸将に使いを出したところ、いちはやく大垣の氏家行広、曾根の稲葉一鉄が来属し、秀吉のためにその城を空けた。かれらにすれば柴田が北陸の雪にとざされている以上、そのほうに義理をつくしてやみやみと秀吉に討たれるよりもいっそ秀吉に属し、それによって自家の運をひらくほうがはるかに得策だとおもったのであろう。
美濃の平定はわずか二日で片づき、岐阜城ははだか城になった。秀吉は軍をすすめて岐阜城をかこみ、「ご改心あれ」と、そういう表現で三七信孝に申し入れた。
「ご改心あって三法師ぎみを安土にお移しなさるとあれはこの囲みはすぐにも解き申す。さなくほ悪逆のお人としてお首を頂戴し、天下のため懲しめ奉る。ご決心は如何」
これには三七信孝もすべがなかった。頼む柴田は雪のために来援できず、美濃の部将も秀吉に寝返ったとあればこの場はとりあえず秀吉の要求を容れるしかない。
「猿めにおどされてくやしい」と、殿舎の廊下を駆けまわってわめいたが、しかし老臣たちになだめられ、とりあえずうわべだけでも降伏を偽装しようとした。
「詮ない。汝のいうとおりにする。この岐阜から三法師を連れて出よ」と、秀吉の陣に使者を送って申し入れたが、しかし秀吉はこのことばを信じなかった。
「うそさ」と、使者の肩をたたいた。
「古来、貴種というものは舌が一枚ではない。言葉が違うものだ」と、かれはいった。貴族のうまれの者は世のきびしさがわからず、約束の厳粛さを解しない。つい平気で自分の言葉をひるがえすというのである。
「三七どのに申しあげよ。そのお言葉が真実なら、まずわが陣中に人質を送りとどけられよ、と」「猿めは!」と、三七信孝はいよいよ憤ったが、三万の兵にかこまれている以上、秀吉のことばに抗するわけにいかず、その要求どおり生母の叛氏、それに娘、さらに家老の人質をつけて秀吉の陣中に送った。秀吉は三法師をうけとった。 
天下取りへ向けて、前田利家と松との対面
いまお松はかぞえて三十七歳になっていた。肥り肉で唇小さく目ほそく頼ゆたかで、挙措がゆるやかであったが、物言いに独特の華やかさがある。秀吉はこのとき、利家よりはまず彼女の心を得ておこうとおもったのであろう。
「いやさ、こちらへまず参ったのは播磨のむすめの息災なことを申したいがため」と、秀吉はお松にいった。播磨のむすめとは播州姫路域にいる蒙姫のことである。蒙姫はすでに十歳になっていた。
「そのこと、くれぐれも寧々からもよろしくと申しておった」と、まるで世間ばなしのようにいう。
そこへ前田利家が、あたふたと書院から渡ってきて台所奥のお松の部屋に入った。利家はすぐ秀吉に会釈しようとすると、秀吉は、−わしらの間柄でなんの、水くさい。と手をふり、さらにお松にむかい、「このたびの合戦、亭主どのにたすけられ、そのおかげにて大勝利を得た」といった。この言で、秀吉は利家に対する自分の心底と今後の間柄を隈なく知らしめたつもりであった。事実、利家にもお松にも理解できた。台所の土間に詰めていた利家の家臣たちのあいだに安堵のため息が洩れた。
人扱いは、秀吉にとってもはや名人芸というべきであろう。この男は、内通、裏切りといったような、ひとの倫理観を刺激するような言葉をいっさい使わなかった。かれはあくまでも、−利家にたすけてもらった。とのみ言い」お松にまで感謝した。さらに柴田勝家という名もこのばあいいっさい口から出さなかったし、「今後、どちらにつく」といったふうの露骨なことば。つかいも利家への思いやりのために避けた。ただお松にこういった。
「このように土足のままじゃ。なにぶん北ノ庄へいそがねばならぬため気が急く。いまから発たねばならぬが、ついでのことに亭主どのをお借りしたいが、どうであろう」「それはもう」お松は笑い、利家をかえりみた。利家も苦笑している。秀吉は、亭主を借りる、ということばで羽柴・前田の同盟を成立させたつもりであった。
利家には、ことし数えて二十二になる長男がいる。孫四郎利長であった。孫四郎は父とともに賎ケ岳にも出役した。
「孫四郎どのは、母御のお身をまもるためにこの府中城の留守をなされよ」と、秀吉はそのようなことまでこまかしく言い、そのあと、「ひやめしは残っていないか」と、台所までもどってきていった。湯清けを所望した。さほどに腹がへっているわけでもなかったが、湯漬けを無心することによって利家への親しみをあらわそうとした。
湯漬けが、運はれてきた。
「いや、ここでよい」と、台所の土間に立ち、立ち食いで三椀たてつづけに食った。 
敵の佐々成政を寛容であることを天下に示すために活用
(この自分が)と、秀吉はおもう。この自分がいま経略しつつあるのは日本六十余州の征服であり、佐々成政程度の男に対する私怨にむくいることではない。秀吉の日本征服のためには、あの佐々成政という男が必要であった。
成政の武辺でもなく勢力でもなかった。成政の器量程度の男なら、秀吉の子飼いの者のなかに幾人もいた。まだ経験という点では著すぎるかもしれないが、加藤虎之助(漕正)、福島市松(正則)などは武辺においては成政におとらないし、いま腰をもませている大谷紀之介も醸良な性格ながら謀才がありそうであり、石田佐吉は外交に長け、げんにいまも越後の上杉景勝との同盟のために春日山城に使いしている。手足になる人材はより以上にほしくはあったが、かといって七十ちかい成政を秀吉は自分の手足として使おうとはおもわない。
秀吉が成政において欲しているのは、天下の評判であった。成政がいかに古くから秀吉をきらい、いまなおきらいつづけているであろうということは、天下の者が知っている。その成政に対してすら秀吉は旧怨をすて、捨てるどころかかれの分国を安堵し、さらにはのちのちいま以上に華やかな存在にすらしてやろうというのである。この噂は、すぐさま四道を奔って天下にひろがるであろう。それを天下の英雄豪傑が聞けば、かれらは秀吉というあたらしい軍事勢力に対する疑念をすて、自分もゆるされるかとおもい、城をひらき、鉾をすてて帰服してくるにちがいない。秀吉は、それらをことごとくゆるすつもりであった。信長のように敵をいちいちすりつぶしつつ進めてゆくやりかたでは六十余州の征服は何十年もの歳月を必要としてしまうであろう。秀吉はとにもかくにもこの天下をあらごなしに地ならしし、粗壁ながらも見せかけの普請をし、政権を確立させてからあらためて整えようとしていた。事はいそがねばならず、いそぐためにはそれぞれの地に割拠する者は割拠のままその本領を安堵する方針をとらねばならず、そのためには秀吉の心根が人敗れのしたほどに寛容であることを天下にむかって知らしめねはならなかった。それを天下に示す好材料としては、佐々成政はうってつけであろう。
(そこまでは、又左は気づくまい)秀吉は思い、やがてねむった。大谷紀之介は他の小姓をよび、秀吉のからだをその衾まで運ぶべくかつぎあげた・背矮く、腰ほそく、手足みじかく、肉付き薄く、顔面のしなびたこの主人は、かれら荒小姓どものわかわかしいカの群れのなかでかるがると苗に持ちあげられ、しきいを越えて空をすべりつつやがて衾のうえにのせられた。 
 
豊臣家の人々

 

秀吉は行状が心配な秀次に誓紙を提出させた
(おれはこれほどのもの身か)とおもったが、孫七郎の能力、性格を見抜いているのは秀吉はなおもそう思わせず、ゆめ油断せしめず、依然としてあほうをあつかうように、孫七郎の生活を、法をもって縛った。法は五ケ条より成り、手紙の形式をとり、孫七郎からは遵守するという旨の誓紙を提出させている。第一条は武備を厳にせよ、第二条は賞罰を公平にせよ、第三は朝廷を大切にせよ、第四条は士を愛せよ、ということで、その内容はいっさい抽象的表現を避け、幼童に箸の使い方を教えるように具田的でこまごましい。たとえば第五条の内容が、秀吉にとってもっとも気がかりであった。秀吉にすれば、自分の政権の後継者が単にあほうであればいっそ始末がよかったであろう。厄介なことに性欲を構えており、それも尋常でなく、ただその点だけ秀吉に似たのか、とめどがなさそうなことなのである。秀吉はこの条文をのべるにあたって「自分を真似るな」といった。「茶の湯、鷹野、女狂いに過ぎ侯事、秀よし真似、こはあるまじき事」と書き出している。「ただし茶の湯は慰みであるからしはしはこれを催して、人をも招待してもかまわない。さて女のことである。使女(妾)は五人十人ぐらいは邸内に置いてもかまわない。その程度にせよ。邸のそとで淫らがましいことはするな」ということであった。孫七郎はこれに対し、梵天帝釈四大天王以下日本中の神々にちかって違背せぬ旨、熊野誓紙をもって誓い、もしこれに違背するにおいては、「今世においては天下の役難を受け、来世においては無間地獄に墜つべし」と、誓紙の常法どおりにしたためている。
「この誓紙、あずけておく」と、秀吉は、京から送られてきた関白秀次の誓紙を、側役の木下半助に保管させた。そのあとわずか一年九カ月経ったのち、秀吉はあの孫七郎に後嗣権をあたえてしまったことをはげしく後悔した。後悔せざるをえなかった。淀殿と通称されている側室の浅井氏が、ふたたび男児を生んだのである。拾、と名づけられた。
この実子誕生の報を孫七郎が受けたとき、どういうわけか、どういう不安も感じなかった。本来ならは自分が豊臣家の後継者であることも、養子であることも、返上すべきであろう。単に自分が後嗣権をもつ人形である以上、もはやその存在理由は雲散霧消して果てたと思うべきであろう。関白になる前の孫七郎ならあるいはそう思ったかもしれないが、いまは、思わない。といえるほど、孫七郎は、人変りがした。というより、この若者ははじめて人形から人間になったといったほうが正確かもしれなかった。 
殺生関白−めくらを斬る
−女じゃな。これしきのことを。と、痩せた腹をゆすり、痛烈に笑い、いよいよ好んだ。自分こそは勇者であると思った。さらには他人の競技を見物するだけでなく、自分もこの殺戮に参加しょうとした。夜陰、徴服し、辻にかくれ、町人がくると走り出て斬った。こんどは右袈裟でやる、つぎは真向でやる、久しぶりで女の絶命の声を開きたい、などと言い、つぎつぎと刀をふるっては人を斃した。倒れると、人は思いのほか激しい地響きをたてて倒れる。この手応えのおもしろさは、「鷹狩りの比でほない」と秀次はいった。
「わが武をみよ」と、ただの一太刀で仕止めたときなどは、先に吼えるような声をあげて慮従者をよび、それらを獲物である死体のそばに群がらせ、心臓に耳をあてさせ、それが確実に停止しているかどうかを確かめさせた。
ついには、まだ陽が残っている時刻にも出た。北野天神の鳥居わきを敏行しているとき、むこうから盲人が杖のさきで足もとを探りつつやってきた。盲人は、この殺人趣味者にとって最初の経験である。どう反応し、どんな手応えがあるか、秀次は唾をのむような思いで近寄り、「めくら」とよんだ。
「来う。酒を食べさせる」やさしげに手をとった。盲人は顔をあげ、左様にご親切なことをおおせあるはどこのどなたぞや、とうれしそうについてきたが、やがて秀次は腰をひねるなり、その盲人の右腕を付け根から斬り落した。秀次の経験では、目あきなら、この衝撃でもう気絶をする。ところが盲は心理の世界がちがうのか、この瞬間、三尺も躍りあがり、腰も伸び、おどろくほどの声をあげ、「遠近に人はないか。いたずら者めがどうやら人を殺しおるようじゃ。人々、おりあえや、われを助けよや」と、間のびした、しかし目あきには見られぬほどに落ちついた語調でつぎつぎと言葉を吐きはじめた。
「めくらほ、べつな味をもっている」秀次がいうと、この種の殺生にはつねに従って秀次の機嫌をとりむすんでいる熊谷大勝亮直之という若い大名が、秀次の興をさらに深めるためにめくらに近づき、
「うぬにはもう腕がない。血も井戸替えの水のごとく流れている」と、現実を教え、知れは悶絶するかと思い、その反応を期待した。が、めくらは別な反応を示した。急に鎮まり、小首をひねり、声も意外なしずかさで、「ああ、知れた。わかったぞ」とつぶやいた。「この下手人は日頃このあたりに出るという殺生関白であるか。必定、これならん」
秀次塵従の熊谷は、熊谷次郎直実の後裔といわれている男で、家はかつての室町幕府における譜代の名家であり、代々京に住み、いまは若狭井時の城主でもある。小才子だけに秀次がどの点に興味をもっているかをよく呑みこんでいた。医師が愚老の病状でもきくように、「そちはめくらである。しかもいま腕をうしない、これで片輪も二重になった。そこで聞くが、それでもそちは生きたいか」どういう心境か、というのである。秀次も熊谷の肩ごしに首をのばし、かたずをのんでめくらの返事を待った。
生きとうはないわい、と怒鳴りあげたのがめくらの回答である。これ以上、こんな不自由に堪えられるか。いっそ殺せ。この首を刎ねよ。見よ、そのあたりでざわざわと気配がするのは町の衆が戸の隙間から見ている証拠であろう。いそぎわが首を刎ね、うぬが邪悪の名を後世に遺せ、因果の酬いをうけよ、と叫んだために秀次は癇癪をおこして度をうしない、刀をふるって斬りつけたが、刃にあぶらがついたのか斬れず、肩骨の割れる音だけが聞えた。このためめくらはころがり、喚きにわめいた。いよいよ秀次の手もとが狂い、あとは顔を撃ち、足を撃ち、胴を突き、歯を欠き、手を斬り、指を落し、ほとんど人間の形をとどめぬほどにずたずたにし、やっとこのしぶとい生き物の息の晩をとめた。辻斬りを噛んで以来、これほど手のかかった大仕事はない。めくらほどおもしろいものはない−と秀次は息の下からいったが、疲労ですねが萎え、疲労が背後からささえねはならぬほどだった。 
秀次の母子併姦の悪行
一ノ台と言い、菊亭大納言晴季の娘である。先妻の池田氏が死んだため、秀次は晴季に迫ってちかごろこれを正妻とした。一ノ台は、齢は秀次より十ばかり老けているが、その流麗は洛中に及ぶ者がない。一度他家に嫁し、亡夫とのあいだに娘が一人ある。まだ十一歳の女童にすぎなかったが、秀次はこの娘まで伽に召し、お宮ノ方と称せしめて側室とし、母娘ともに戯れた。人々は「母子併姦など、もはや人倫ではない、畜生遣である」とささやき、実父の晴季もこの母子併姦の無法に泣いた。
「どうだ」と、秀次は、めくらの一件をこの一ノ台に誇ったのは、彼女が公家社会の出身だったからである。公家どもは、文をひねり、典故をもてあそび、礼式にくわしくとも、これほどの武はもっていまい。みな刃物や血をみれば慄えあがる連中はかりだ、といった。一ノ台は、だまっていた。
「なんとか、音をあげよ」と秀次はつねにこの無口な母子に物を喋らせようとするのだが、彼女らは繁楽第に住んで一年余というもの、ついぞ秀次の前で声というものを発したことがない。
ちなみに、秀次の妻妾の数は、養父秀吉が制限したよりもはるかに越え、このころには三十余人にまでなり、当の秀次でもいちいち指を折らねばかぞえられぬほどであった。
(どうやら、箍がはずれてしまったらしい)と、秀次に独立の人格を持つように勧めた木村常陸介も、この俄か関白がわずか一、二年でここまでになり果てたことを見てむしろ後悔よりも恐怖した。常陸介よりも秀吉のほうがはるかに孫七郎を知っていたのであろう。あれほど小うるさく箍をはめてようやくこの人物は人間の姿をなしていた。いまやはずれきって自分自身が制御できなくなっているこの男は、たとえばこういうことをした。丸毛不心斉という老臣の女房を見、媼というのはどういう体具合をしているのであろうと興味を持ち、むりやりに召し出さし、妾にした。東と言い、齢は六十表である。五十代の者はいなかったが、四十三歳の女はいた。また家臣岡本彦三郎という者に母があり、秀次はある日、母親という、つまりそういう種類の女が欲しいと言い出し、これも召し出した。かうという名で三十八歳である。女どもを年齢でわけると、十代が十一人、三十代が四人、四十代が一人、六十代が一人、あとは二十代であった。最上義光の娘おいまのように大名の娘もいたし、捨子あがりのお竹という者もいた。こういう女どもがわずか一、二年のあいだに集められ、聚楽第を檻のようにして飼われた。 
秀吉は秀次に関白辞退の期待したが裏切られる
秀吉は京における秀次の不行状をうすうす知ってはいたが、麾下が遠慮して言上しないため、くわしくは知らなかった。ただ気にかかるのは実子秀頼の将来のことであった。秀吉は苦慮し、ついに結論を得、秀次を伏見によんだ。
「そのほうは、どう思うか。わしは日本国を五つに割りたいと思う」と、秀吉は提案した。「こうしよう。そのほうにその四つまではやる。あとの一つを秀頼にくれてやれ」といった。言いつつ、秀次の表情を注意ぶかく見た。秀吉にすれはすでに跡目の相続を決定したあとであるため、いまさら言いづらくもあり、それをあれこれと気をつかい、遠慮気味に言いだしたつもりであった。が、秀次の表情は、それに応えなかった。
秀次は無言でいた。その鈍い、無神経な、どちらかといえはふてぶてしくもある面つきをみていると秀吉は一人踊りをしているような自分の気のつかい方がむしろ滑椿になり、みじめになった。というより、秀吉は秀次の同情にすがろうとしている自分を知った。秀吉の心情はもう、哀願にちかい。老いて子をなしたこの老人を、哀れとおもわぬか、自分はここまで悩んでいる、その気持を汲んでくれ、汲むならいっそ、関白を辞職し、養嗣子を辞退する、という音を一声あげよ、と秀吉はひそかにそれを期待した。
が、秀次の感受性は、それに応えない。口ではなるほど返答した。
「父上様のよろしきように」といったが、その顔つきには表情がなく、唇のはしに拗ねた色さえ溜まっている。秀吉はそう見た。むしろ曲げてでもそう見たい心境に秀吉は追いこまれていた。
−この天下は、たれの天下か。
そう吼えあげたい気持を、かろうじておさえた。その怒りを、秀吉はいつものように訓戒に代えた。が、訓戒を聴く表情態度さえ、秀次はどこか以前の孫七郎のようではなかった。孫七郎のころにはまだ小鳥のようにおびえているところがあり、その点でかろうじて、可愛らしさがあったように思われる。
(こいつ、変ったな)秀吉は興醒めたが、それでもなお我慢した。自分の死後、秀頼を保護してくれる老はこの秀次しかなく、その点でいえばもはや秀吉のほうこそ哀願せねばならぬ立場にあることを知っていたからである。 
秀吉は秀秋の処分を決める
秀吉は蔚山逆包囲のときに秀秋が士卒とともに槍の功をあらそったことを地響きするほどの大声で責め、「わしはそちのような者を上将にしたことをいまになって悔いている」とまで言い、その戦功には一と言も触れなかった。
(なんということだ)最初、呆然とした。ついで、これこそ在鮮諸将がみな怨嗟しているところの石田三成の讒言であろうと思った。
「さ、左様な」秀秋は、根が小心なせいか、昂奮するとほとんど聴きとれぬほどにどもった。どもるせいか、つい声が大きくなった。そのことが、義理の伯父を虚喝しようとしている様子にもとれた。左様なことはない。上様はまちがった報告を受けておられる、と叫び、「されはさ、これにて軍監をお呼び下され。かの治部少(三成)めもお呼びください。上様のおん前にて、黒白を決しとうござる」「われア、何をいう」
秀吉も、尾張の地言葉で秀秋以上の大声を出し、喚いた。声のわりには秀吉はすでに老衰しきっており、その衰弱には死病の翳さえ感じさせる。かつて歴史をつくりあげたかれの理性はどこにもなく、ただ感情だけがかれの体を小刻みに震わせていた。秀吉にすれはこの怪しげな少年を(といっても二十一歳になっていたが)貴族にしてやり、大大名にしてやったのはすべて自分である。それを忘れ、この竜いさきのない老人を怒鳴るとはなんという忘恩ぶりであろう。
秀吉は舌を失ったがごとく一言も発しなかった。悲しみと怒りが、かれを支配し、袖のなかで震えている。秀吉にすれは例がない。元来多弁で、当意即妙で、豊かすぎるほどの表現力をもっていた秀吉は、その点でも別人になっていた。無言のまま席を蹴り、奥へ入ってしまった。
「床に入る」秀吉は、近侍の者にそう命じた。さきに衰弱のあまり寝床で失禁し、からだが尿で滞れたことさえある。きょうの秀吉は、寝床で涙をこぼした。無念であり、不安である。あの忘恩漢が秀頼のための保護者たるべき位置にあるかと思うと、このまま死にきれぬとおもった。秀吉は処分の決心をあらたにした。 
秀吉の養子であった秀秋と秀家の明暗
正則は頽勢を盛りかえしては、逆襲した。このため諸方の陣地からみていると、福島家の山道の旗と字喜多家の太鼓丸の旗とがたがいに黒煙りをあげるようにして進退し、ときには入れちがい、ときには一方が追い、ときには一方に追われたりして勝敗の見さだめもつかない。午前十一時ごろには、石田陣の正面の東軍も撃退され、大谷陣は大きく盆地の中央へ突出する気構えをみせ、それに対して東軍は盆地の中央部にかたまり、いたずらに人馬の渦を巻かせているにすぎない。
が、正午になって逆転した。
松尾山上の小学川秀秋が寝返り、一万五千の兵を駈けくだらせて山麓に陣所をもつ西軍大谷隊を衝き、その伸びきった隊形を寸断し、それをほとんど全滅させたためであった。吉継は自刃した。このため字喜多隊は東軍の過半によって包囲され、鉱立した。
秀家には、この瞬時におこった変転が理解できない。あれは金吾(秀秋)か、金吾ではあるまい、と最初に叫んだのはこの言葉であった。秀家には信じられなかった。金吾秀秋の挙動のあやしさについては開戦前から三成ら西軍首脳が疑惑をもちつづけていたが、秀家はあくまでも楽観し、「左様なことはありえぬ」と三成にも言い、吉継にも言っていた。この男らしくその理由は単純きわまりない。
「かれは太閤の養子である」そのことだけであった。太閤から大恩をうけている。自分も養子であり、その立場から金吾の心底を察するに、万人が秀頼様を裏切ろうとも、とうていそのような心情がおこらない。自分はうけあってもいい。金吾はゆめゆめ裏切らぬであろう。と、そのことのみを秀家は言い、しかも本気でそれを信じているようであった。極楽人であられる、と三成はかげで秀家のことをそう言い、じつのところ挙兵以来秀家にはその種の政情の複雑な内容についてはほとんど相談したことがない。
が、秀家は世の奇怪さを、いま戦場を急変させつつある異変で知った。この秀家という歌ずきな−世が泰平なら二流程度の歌詠みになっていたであろうこの男は、自分の政治感覚の略さをさとるよりも、むしろ相手の不徳義に憤激した。金吾をゆるせぬ、といった。許す許さぬよりもすでに限下の宇喜多勢は東軍に蹴散らされ、ほとんど陣形をなさぬまでに崩れていたが、秀家の関心事はそれだけであり、むしろそのことで死を決意した。床几を捨て、「馬を曳け」と命じた。いまから馬を躯って小早川陣に斬り込み、金吾を求め、かれと刺しちがえて死ぬというのである。「天道がゆるさぬ」と秀家は言い、あぶみに足をかけるや、鞍の上の人になった。
明石掃部が、手綱をおさえた。「およろしくありませぬ」掃部は、敗戦の慣例として主将の秀家をこの戦場から落そうとしていた。東北をのぞむとすでに三成の笹尾山陣地も落ち、先刻まで山上にひるがえっていた「大一大万大昔」の旗が失われているところをみると三成も落ちのびたのであろう。それを掃部がいうと、「治部少は治部少、わしはわし」と、この若い歌人はいった。秀家のいうところでは、治部少はあるいは一身の野望のためにこの一戦をおこしたのかもしれぬが、わしはわしの存念でこの戦場に来、働いている。余事は知らぬ。ただ故殿下のご遺言をまもり、秀顛様の世を守ろうとし、カのかぎり働いた。それを、金吾の不徳義がために敗れた。金吾をこの剣で誅伏する以外、この一存を通すみちはない、と秀家は言いつづけたが、掃部は耳をかさず、さっさと旗を巻かせ、大馬印を折り、さらに秀家の旗本に命じ、かれをかこんで落ちることを命じた。秀家はその人馬に流されるようにして西方へ落ちた。
秀家は敗れ、字喜多家はほろんだ。しかし、秀吾が豊臣家の藩屏としてとりたてた養子たちのうち、この男だけが養父の希望にこたえた。 
寧々は的確な人物評価をした
加藤清正や福島正則を長浜の児小姓のころから手塩にかけ、その人物を小柄のうちから見ぬき、はやくから秀吉に推輓していたのは彼女であるという噂もあり、他のその種のはなしを成政は多くきいている。秀吉も、彼女の人物眼には信用を置いていたし、つねづねそれを尊重し、その意見をおろそかにしなかった。藤吉郎のむかしにさかのぼれは、豊臣家は秀吉と紋女の合作であるとさえいえるであろう。
寧々は陽気な性格で、しかも容体ぶらず、いささかも権柄ぶったところのない婦人であったが、しかしただひとつの癖は北ノ政所になってからも草創時代と同様、家中の人物について評価することを好み、人事に口出しすることであった。しかもその評価に私心が薄く、的確であるという点で、秀吉もそれを重んじ、ときには相談したりした。自然、彼女の威信ややさしさを慕う武将団が形成された。前記加藤清正や福島正則、それに彼女の養家の浅野長政、幸長父子などはそのサロンのもっとも古い構成員といえるであろう。
佐々成政が、自分の数奇なほどの栄達が、あるいは北ノ政所の口ぞえによるものであろうという想像をしたのも、この豊臣家にあっては不自然ではない。
(なぜあの婦人が自分のような者を好くか)という理由も、おぼろげながらわかる。寧々の男に対する好みにはあぎやかなくせがあり、殿中での社交上手な人物よりも戦場での武辺者に対して評価があまい。男のあらあらしさと剛直さを愛し、たとえかれらが粗費なために失敗を演じたとしても、彼女はむしろその失敗を美徳であるとする風があった。秀吉はあるとき二三の武士を「無精(粗放)着である」という理由で追放しようとしたが、彼女はそれを耳にし、かれらのためにしきりにわびを入れ、ついに救ってやったこともある。彼女のもとにあつまる武将団がやがては武断派という印象を世間にあたえるにいたる。 
寧々は最高の栄達を手にしたが人柄は変わらなかった
事実、豊臣家主婦としての寧々の地位はいかなる時代のどの婦人にもまして華麗であった。
秀吉が内大臣になったとき彼女は同時に従三位になり、さらに進められて天正十五年に従二位になった。つづいてこの年の九月十二日、彼女は姑の大政所とともに大坂から京の聚楽第に移ったが、このとき秀吉の好みでととのえられた道中の行列、行装は、史上、婦人の道中としてあとにもさきにも類のない妻華さであった。女官の供だけで五百人以上にもなったであろう。輿が二百挺、乗物が百挺、長梗以下の荷物の数はかぞえきれない。これに従う諸大夫と警固の武士はことごとく燃えるような赤装束で、いかにもこの国で最高の貴婦人の上洛行列を装飾するにふさわしかった。
しかも、沿道では男の見物は禁じられた。僧といえども、人垣にまじることは禁止された。理由は、かれらが若い女官の美貌をみて劣情をおこすかもしれぬことを配慮したがためであった。ひそかに想うことすら、北ノ政所に対する不敬であるとされた。この行列は評判をよび、天下打喧伝された。北ノ政所こそ日本国第一等の貴婦人であるという印象が六十余州にゆきわたったのは、秀吉が演出したこの行列の成功に負うところが大きい。
翌十六年四月十九日、つまり清正の肥後冊封より一月前、この「豊臣吉子」は従一位にすすめられた。すでに人臣の極位である。尾張清洲の浅野家の長鼻で薄べりを敷いて粗末な婚礼をとげたむかしからおもえは、彼女自身でさえ信じられぬほどの栄達であった。
「しかし、私が私であることにかわりはない」と、寧々はつねづね、侍女たちにいった。彼女の奇跡は、その栄達よりもむしろ、そのことによっていささかもその人柄がくずれなかったことであった。彼女は従一位になってもいっさい声言葉や御所言葉をつかわず、どの場合でも早口の尾張弁で通した。日常、秀吉に対しても、同様であった。藤吉郎の嫁といったむかしむかしの地肌にすこしも変りがなく、気に入らぬことがあると人前でも賑やかな口喧嘩を演じたし、また侍女を相手につねに高笑いに笑い、夜ばなしのときなどむかしの貧窮時代のことをあけすけに語っては皆を笑わせた。さらに前田利家の妻のお松などは岐阜下の織田家の侍豪で隣り同士のつきあいをしていたが、その当時の「木槿垣ひとえの垣根ごし」の立ちはなしをしていた寧々の態度は、お松に対してすこしも変らない。
「またとない御方である」と、お松などはしはしばいった。「北ノ政所さまは、太閤さま以上であるかもしれない」お松はかねがね、その嫡子の利長、次男利故にいった。
このお松という、前田利家の古女房そのものが、利家の創業をたすけてきたという気概があるだけに尋常な女ではない。利家の死後は、「芳春院」というあでやかな法名でよばれ、加賀前田家では尼将軍ともいうべき権勢があった。これはのちの話になるが、利家の死後、前田家の帰趨について、いちいち寧々と相談し、いちいち寧々の意向に従った。 
豊臣を支えた秀長
「面倒なことをいうものだ」と、秀吉はいった。秀吉の解釈としては昔は昔、今は今−ということであった。過去の権利は百年の争乱でいったん水に流れたものと見、豊臣政権になってからあらたにこの政権が土地を寄進する、過去とは関係がない、というたてまえをとっている。だから秀吉は宮廷に対しても、皇室領や公卿たちの領地を、あらためて献上した。かれらはそのはるかな先祖の栄華はともかく、ここ数代、飲まず食わずできた境渡と比較して大きによろこんでいる。ところが奈良の門跡たちは、歴史的権利に固執するところがつよい。
「これは、冗談ではありますけれど」と、小一郎は声を低めた。いっそ源氏を称されて征夷大将軍におなり遊はさわ、幕府をひらき、醇乎たる武家政治をひらかれるほうがよかった、というのである。豊臣政権はこの点、中途半端であった。秀吉は関白になり、その一族も秀次や自分をはじめとしてみな公卿になった。公卿の身でありながら諸大名をひきい、六十余州を統治している。その公卿の身分としては奈良の門跡たちと同一社会であり、同一社会である以上同一原理をもたねはならぬことになり、かれらの要求に対してつい議論が弱くなる−と、小一郎はいうのである。
「いいかげんにしておけ」秀吉はいったが、それにしてもおどろくのは、小一郎の行政理論家としての犀利さであった。いつのまにこのような濃やかな思考能力を身につけたのであろう。
「そのことはわかったが、実際にはどう始末しているのだ」「金でござる」と、小一郎はゆるゆると呼吸しつついった。土地のかわりに黄金をあたえてしまう。すると、ふしぎなほどの効き目で訴訟人はおだやかになるのである。黄金といえば、ちかごろ佐渡をはじめ全国の金山から湧くように出ている。この金属を正規の流通貨幣として採用したのは、この国では秀吉がはじめてであったが、小一郎は早くもその効用を、奈良の門跡たちにおいて知った。秀吉は大いに笑い、その処置に満足した。
小一郎は、奈良の難物たちだけでなく、豊臣家の大名間の不平や軋轢をよく調整した。秀吉の怒りを買って忌避された大名たちはみな北ノ政所か、小一郎にとりなしをたのんだ。小一郎はよく言いぶんをきいてやり、秀吉に対してとりなしてやった。また秀吉の側近官僚たちにうとまれて当惑している大名たちも、小一郎にその調整をたのんだ。小一郎はみずから御用部屋に行って実否をしらべ、側近官僚がまちがっている場合は、びしびしと叱った。このため大名や公卿のなかには、−豊臣家は大和大納言で保っている。とまでいう著さえあった。 
関ケ原の敗戦に鈍感であった淀殿
「なんということでございましょう」と淀殿側近の、ことに大蔵卿ノ局などは家康のうって変った態度を非難したが、しかしその声は小さく、他の侍女に聞えることすら怖れ、淀殿にのみささやいた。なにしろ家康は関ケ原ノ役後豊臣家の大名のことごとくをその掌ににぎってしまっていた。豊臣家の武権が消滅した。
最初、淀殿は関ケ原の敗戦について鈍感であり、単に石田三成以下が没落したという程度にしかうけとらなかった。ひとつには家康の策略によるであろう。家康は関ケ原で大勝するや、すぐさま使いを大坂へ急派し、「関ケ原の一件は石田治部少稀の私欲から出たものであり、秀頼稼ご母子にはなんのお関係もないことを当方は存じております。されば恨みには存じておりませぬ」と言い、そのことによって大坂城が無用に混乱することをふせいだ。これによって淀殿も安堵した。
「徳川殿は、わるいようになさらぬ。だまっていれは何事もあるまい」淀殿もそう言い、大蔵卿ノ局もそのように信じた。が、家康は大坂城に入城するや、態度を変え、にわかに恫喝の声を放った。
「どうも関ケ原の一件は、石田治部少輔ひとりのほしいままな計画でもないらしい。調べるにつれてもし重大な謀議があかるみに出れば、いかなる尊貴の人といえども容赦はせぬ」という意味のことを、人の口を頼りて城内に言いふらせた。いかなる尊貴の人といえども−という範頓にはむろん秀頼母子が入るであろう。これには淀殿はふるえあがった。かつての秀次とその妻妾子女のごとく三条河原で串刺しの刑我にあうのではなかろうか。このため、淀殿は家康の機嫌を損ずることをおそれ、家康についてのいっさいの批評を、その侍女団につつしませた。
「大坂の女どもは息をひそめおった」家康は満足した。「それでこそ、やりやすい」と家康はおもったであろう。かれは淀殿らが首をすくめているあいだに西ノ丸での論功行賞の作業をすすめ、その作業中に豊臣家の領地をいきおいよく削ってしまった。
その削り残された故秀吉の遺産というのは、大坂城一つと摂津、河内、和泉の三国(大阪府)のうちで六十五万七千四百石にすぎなかった。もはや秀頼は一大名−それも加賀前田家よりも石高の低い−位置に落ちたというペきであろう。が、淀殿らは気づかない。「どうも様子がおかしい」と侍女たちが人のうわさをきいてさわぎだしたのは、家康が江戸へ去ってからであった。彼女らはうかつにもそれまで豊臣家の石高がその程度になっていることを知らなかった。
「そんなはずはない」淀殿は、なおも信じなかった。 
 
本能寺の変

 

信長の遺体
安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺は、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。
秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。
天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。
信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。
「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。
織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。
「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」
「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」
このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。
しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。
「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」
遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。
よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。
江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている。
小瀬甫庵の『甫庵信長記』では
「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。
『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。
「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。
『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。
そこには、
「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。
ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。
「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。
『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。
しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。
ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。
一説に本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。
話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。
摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。
秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。
信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。
当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。
ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。
一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがある。
以上の中で、私が最も注目したいのは京都市上京区の阿弥陀寺。
当時の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は非常に興味深い。
本能寺の変を聞いて清玉上人は僧20人以上を連れて現場に駆け付けた。
「…表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。…」とリアリティを感じるのだ。
また、秀吉が清玉上人に信長の1周忌を喪主して執り行うことを申し出たということも興味深い。その際清玉上人は、信長の継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に対し「人の道にあらず」と断ったという。秀吉が他の寺ではなく最初に阿弥陀寺に申し出ているところに信憑性がありそうだ。
清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転させ、所領を大幅に削っている点も面白い。
私には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』が作り話のようには思えないのだが、もし伝えられている内容が真実であれば、秀吉は阿弥陀寺の信長の遺骨は本物だということを確信していたということになる。しかし、自らが喪主になることが許されなかったので、今度は阿弥陀寺にある遺骨が本物である事が流布しないように、信長の遺体が見つからなかったということを広めて光秀の戦略の拙さに焦点を当てた物語を書かせて、阿弥陀寺のことを人々の記憶から消し去ろうとしたという見方はできないだろうか。 
本能寺で無警戒だった信長 

 

前回、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。
「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。…兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…」
明智軍は毛利攻めへの出動を信長から命じられていたはずなのだが、兵士たちは家康を討ちにいくのではないかと考えていたというのだ。
このような記録は、この戦に参加した武士の記録にも残されている。
本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の武士本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』)がある。
「…あけち(明智)むほんいたし、のぶなが(信長)さまニはら(腹)めされ申候時、ほんのふ寺(本能寺)へ我等よりさきへはい入申候などという人候ハバ、それハミな(皆)うそにて候ハん、と存候。其ゆへ(故)ハ、のぶながさまニはら(腹)させ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこ(太閤)さまびつちう(備中)ニ、てるもと(毛利輝元)殿御とり相ニて御入候。それへ、すけ(助)ニ、あけちこ(越)し申候由申候。山さき(山崎)のかたへとこころざし候へバ、おもい(思い)のほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやす(家康)さま御じやうらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存候。人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介(斉藤利三)殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまち(片原町)へ入申候。… 」
と、一般の兵士は、毛利攻めに行くつもりが、急に京都に向かうこととなり、てっきり家康を討ちに行くのだと考えたが、信長を討つことは夢にも思わなかったと書いてある。基本的に書いてあることはフロイスの記述とほぼ同じだが、斉藤利三が本能寺へ向かう明智軍を先導したということは注目してよい。
いずれの記録にも、信長から「家康を討て」という命令があったとは書いていないが、多くの兵士たちが「家康を討つことになるのだろう」と考えたのは何故なのだろうか。本能寺の変に至るまでの経緯をまず振り返ってみることにしよう。
天正10年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月には武田氏を滅ぼしている。
明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、15日に秀吉から応援の要請が届いたため信長はその日に光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に戻り、26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。
一方徳川家康は、重臣たちを引き連れて5月14日に安土に到着し、安土城での饗応の後、信長の命により5月21日に安土を出て、京都や堺などを見学することとなる。
また、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。
そして本能寺の変のあった6月2日には家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出てこの本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されているそうだ。
武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見学させられることになった。家康ほどの人物ならば、重臣たちとともにどこかで命が狙われる危険を察知していて当然だろう。
またこのとき筒井順慶も軍を引き連れて大和郡山城から京都に向かっていたというのだが、信長が光秀にも順啓にも本能寺に集結することを指示していたのなら、この日に信長が本能寺で家康の暗殺を仕掛けていたという明智憲三郎氏の説(プレジデント社『本能寺の変四二七年目の真実』)は、的を得たものであると思う。
この時代を生きた江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』で、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという。」と書かれている。
信長は家康を警戒させないために、信長は関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて手薄にさせ、信長自らも本能寺にわずかの人数で宿泊している。信長は6月4日に毛利攻めに出陣することを決定しており、織田軍の主力は出陣に備えて上洛途中か、安土城に集結していたと考えられる。
手勢が少なかったのは家康も同じであったのだが、明智憲三郎氏の考えでは、家康はまんまと信長の術中にはまったふりをしながら、この危機から逃れる手をすでに打っていたということになる。明智光秀は徳川家康と繋がっていたというのだ。
本能寺の変の謎はいくつもあるのだが、なぜ信長は本能寺にあれほどに無警戒であったのか。この点は重要なポイントであるはずだ。
その理由を明智憲三郎氏は「…信長が謀反に全く無警戒であったのは、自分自身が家康を討つ罠を仕掛けていたからです。自分の仕掛けた罠の実行に気を取られ、それを逆手に取られることなど思いも及ばなかったからです。」
光秀は信長による家康の暗殺計画の全貌を知っていたからこそ、それを「逆手に取る」ことで簡単に謀反を起こすことができた、と分かりやすい。
『信長公記』の本能寺の朝の場面を読むと、確かに信長の発した言葉は、光秀に自分の考えた策の「逆手を取られた」という気持ちが出ているように思える。
「…(光秀は)桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり侯。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり、…。是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。…」
信長が何故「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのか。謀反を起こしたのが明智勢と聞いて、信長に思い当たるところがあったということではないのか。
では、明智光秀が織田信長から家康暗殺を指示されたのはいつなのか。
この記事の最初に本能寺の変までの流れをまとめたのだが、光秀は安土城で家康の接待役を務めている。その接待の打ち合わせを不思議なことに信長と光秀は密室で行っているのだ。
ルイス・フロイスの「日本史」にはこう書かれている。
「これらの催し物の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが…、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長が立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが…」
と書かれているが、そもそも饗応の打ち合わせについてなぜ密室でなされる必要があるのか、この時に家康の暗殺の手筈が光秀に指示されたのではないかということを明智憲三郎氏をはじめ多くの人が指摘している。光秀が信長に足蹴にされたのは、一旦は光秀は家康暗殺に反対したのではないのか。
次に、光秀はいつ家康と本能寺の変の打ち合わせをすることができたのか。先ほど本能寺の変が起こるまでの経緯を記述したが、5月15日に安土城で光秀が家康の接待役を命じられている。その時に信長の計画を逆手に取る密談ができる時間はたっぷりあったのである。
信長の謀略を裏付ける資料はほかにもある。奈良の興福寺多聞院で140年間書き継がれた『多聞院日記』に、この日の筒井順慶軍のことが記述されている。
「一順慶今朝京へ上処、上様急度西國へ御出馬トテ既ニ安土へ被帰由、依之被帰了」(筒井順慶は今朝上洛の途中、信長は急に中国へ出陣するために安土へ帰ったとのことなので引き返した)
この記述には2つのポイントがある。1つはなぜ信長が出陣したので順啓が京都に行く必要がなくなったと納得したのか。もう一つは誰が、信長が安土に向かったというデマを流したのか。
前者については、順啓は毛利攻めに加担するのではなく、京都にしか用事がない仕事であった。これは向かう先は本能寺しかありえないということになる。
2つ目は光秀以外の何者かが、この日の朝に本能寺に何が起こるかがわかっている人物いて、ニセ情報を使って筒井順慶が京都(本能寺)に近づくことを阻んだという事実である。もしこのデマが流されなかったら、明智光秀と縁戚関係にある筒井順慶は、明智方についた可能性が高かったと考えられるのだ。
ではそのニセ情報の出し手は誰なのか。家康なのか、秀吉なのか。秀吉も安土城での家康の接待の日にあわせて毛利攻めの加勢を申し入れている。これは恐らく信長か仕掛けたのではないか。とすれば、秀吉は本能寺で6月2日に何があるかは判っていたはずだ。
このように本能寺の変を当時の史料で見ていくと、通説とは全く異なる有力武将同士の権謀術数の世界が見えてくる。明智光秀が単独で謀反に及んだというのが通説だが、これらの史料を読めば、明智光秀の単独の犯行というような単純な話ではなさそうだと誰でも思うだろう。戦国時代の真実は、我々が学んできた歴史よりもはるかにドロドロとしたものなのだ。 
明智光秀の裏切り 

 

本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。
前回、信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。
明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説があるのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。
この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。
「本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。
刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。
大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉正の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語であってものでありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。
また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民の竹槍に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。
また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)〜享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。
これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。
よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。
しかし前回書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。
『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。
しかし、前回紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。
信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。
前回『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。
私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。
危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。
長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。
明智憲三郎氏によると、「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」と書いてある。
土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。
決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。
しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。 
 
織田信長の最後 / 本能寺の変2

 

本能寺の変は、天正十年(1582)六月二日(新暦七月一日)未明、丹波亀山城主・明智光秀が、その主、近江安土城主・織田信長を京都四条西洞院本能寺に襲撃してこれを殺し、即日、信長の嫡男・信忠をまた二条の御所に襲撃してこれを殺害した事件である。
本能寺は、四方に掻き上げの堀を設け、その内側に土塁を築き、木戸を構えて出入りを警戒するという城砦の造りで、内に仏殿以下、客殿その他の殿舎を建て、厩舎までも設けてあるといった有様だったが、まだ塀は塗らないであったという(『信長公記』)。
『信長公記』
信長の家臣・太田牛一著『信長公記』に記される戦いの状況は次のとおりである。
光秀の軍は、鬨の声を挙げ、また鉄砲をつるべ撃ちに放つと同時に、築地を乗り越え、木戸を破って構えの内に乱入した。
信長も小姓たちも、下々の者らが喧嘩を始めたぐらいに思っていたが、やがて鬨の声や鉄砲の響きを聞くに及んで、信長は、
「これは謀反か。誰の企てだ。」と仰せられた。
それに対して、森蘭丸が
「明智の者と見ました。」と答えたところ、
「是非に及ばず。」と言って、ただちに御殿に入った。
表御堂の番をしていた者たちも御殿の人々に合流した。
厩舎からは矢代勝介ら4名が斬って出て討ち死にした。中間衆24名も厩舎で討ち死にした。
御殿においては27名の小姓が討ち死にした。森乱・森坊・森力の三兄弟をはじめとする小姓衆は、繰り返し敵に向かったが討ち死にした。
また、町屋にいた湯浅甚介と小倉松寿が、敵に混じって本能寺に駆け込んだが討死。高橋虎松は御台所口で奮戦した。
信長は、初めは弓を持ち、二度三度それを射たが、滅亡の時が来たとみえ、弓の弦が切れてしまった。
その後は、槍をとって戦ったものの、肘に槍疵を受けたため退いた。
この時まで側に付き添っていた女房たちに、
「女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ」と仰せになって、追い出された。
御殿には火が燃え広がり、自身の姿を見せまいと思ったのか、殿中の奥深くに入り、内側から御納戸の口を引き立てて、腹を切られた。
『信長公記』の著者・太田牛一は、本能寺の変には立ち会っていないが、自身で「女どもこの時まで居申して、様躰見申し候と物語候」と記すように、信長に帯同していた女人衆からその有様を聞いたのである(池田家文庫本)。
ただ、女人らも、信長に退避を命ぜられ、その後、彼がどのような最後を遂げたのかは見ていない。すなわち「腹を切った」というのは、牛一らの推測になるが、けだし、それは事実だったろう。
フロイス『日本史』
一方で、宣教師フロイスは、『日本史』で本能寺の変の様子を次のように纏めている。
本能寺には、宿泊していた若い武士たちと、奉仕する茶坊主、女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちは抵抗する者はいなかった。
そして、この件で特別な任務を負った(明智方の)者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手ぬぐいで体をふいている信長を見付けたので、その背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である「長刀」という武器を手にして出てきた。
そして、しばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、部屋を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に火を放ち、生きながら焼死したと言った。
だが、火事が大きかったので、誰も彼がどのように死んだのか知らない。
『信長公記』と比べ、信長が身支度をしている際に、背中に矢を受けたという箇所が特筆される。
しかし、信長が一人でそのような事をするのか、さらに、誰にも気づかれずに矢を放てるかは疑問だという説がある(鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』)。
それはともかく、信長の最後については、正直に記載しており、自刃説、焼死説など、当時から様々に推測されていた様子が伝わってくる。
『言経卿記』
安土・桃山時代の公家・山科言経の日記である『言経卿記』には、天正十年(1582)六月二日について、次のように書かれている。
二日、戌子、睛陰、一、卯刻前右府本能寺へ明智日向守依 謀反 押寄了、則時に前右府討死、同三位中将妙覺寺を出了、下御所へ取籠乃處に、同押寄、後刻打死、村井春長軒己下悉打死了、下御所は辰刻に上御所へ御渡御了、言語道断之爲體也、京洛中騒動、不及是非了
いずれも事実だけを列記した簡潔な内容だが、京都中が混乱状態に陥ったというのは、想像に難くない。
『本城惣右衛門覚書』
明智光秀に従軍し、本能寺に攻め入った武士・本城惣右衛門という者(「のゝ口ざい太郎坊」という武士の配下)が、江戸時代になって本能寺の変を懐古し、親族らしき人物に宛てた手紙である『本城惣右衛門覚書』という史料には、次のように、生々しい現場の状況が述べられている。
(本城惣右衛門が本能寺付近に到着すると、明智軍の部隊から)騎馬武者が二騎出てきた。それは内蔵介(斎藤利三)殿の子息と小姓であった。
彼らが本能寺の方へ馬を進めたので、私どももあとに続き、かたはら町に入った。
二人は北の方へ向かった。私どもは南の堀際へ東向きに進み本道に出た。
そこの橋際に人がひとりいたので、首を取った。
それから内に入ると、門は開いていて、ねずみ一匹すらいなかった。首を持って内に入った。
北の方から入ったらしい弥平次(明智秀満)殿の母衣の衆ふたりが、「首は討ち捨てにせよ」と命じられたので、首を堂の下へ投げ入れた。
表御堂へ入ったところ、広間には誰もおらず、蚊帳が吊られているだけであった。
庫裏の方から出てきた、下げ髪で白い着物を着た女一人を捕らえた。
侍は一人もいなかった。
女は、「上様は白い着物を召されている」と言ったが、それは信長様のこととは思わなかった。その女は内蔵介様へ引き渡した。そこにはねずみ一匹いなかった。
信長の奉公衆が二・三人、肩衣姿で袴の股立ちを取り、堂の内に入ってきた。そこで首をもうひとつ取った。その者は水色の帷子姿で、帯も締めずに刀を抜き、奥の間から一人で出てきた。
その頃には、味方が大勢、堂に入ってきたので、それを見ただけで敵は退いた。
私どもは吊られた蚊帳の陰に入り、例の男が通り過ぎるところを、後ろから斬った。これで首は二つ取ったことになる。褒美として槍を頂戴した。
この記録から「広い境内にはおそらく百人余りしか泊まっていない。人数があまりに違いすぎ、合戦の形にならなかったのではなかろうか」(谷口克広『織田信長合戦全録』)と解釈するものもある。
「是非に及ばす」
本能寺の変で、銃声と鬨の声を聞いた信長は、森蘭丸が明智らしいと言うと、
「是非に及ばず」と答えている(『信長公記』)。
この言葉は、一般には、明智の軍であればもはや逃れられない、死を覚悟し「仕方がない」「どうしようもない」といった意味で発せられたとされている。
また一説によれば、その解釈は、信長が本能寺で殺されるのを知っている後年の人の考えることで、当の信長は未だ生き延びることを諦めてはおらず、「何が起こったか分かったうえは、是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ。」という意味で言ったとする(鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』)。
この言葉の次に、
「透をあらせず、御殿で乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候(直ちに、御殿に入られ、面御堂で番をしていた人々も御殿に合流された)」と迎撃体制を整えている(『信長公記』)ことが、その傍証という。
同書は、信長は「信頼していた部下の裏切りで、心底頭にきていた」のだろうとする。
戦国武将の真骨頂で、激烈な性格の持ち主である織田信長のことであるから、このように解釈するのが正しいと感じられる。
他の説
『三河物語』によれば、信長は「上之助がべつしんか。」(城介が別心か)と述べたという。つまり、近くの妙覚寺にいた嫡男の信忠の謀叛を疑ったという。
『日本王国記』(イスパニア商人・アビラ・ヒロン)は、「何でも噂によると、信長は口に手をあてて、”余自らが死を招いたな”と語ったという。」と記されている。
明智光秀の動機
本能寺の変を起こした明智光秀の動機は永遠に闇の中であり、戦国史最大の謎である。
現在約50の説が乱立し、怨恨説、野望説、突発説、黒幕説などに分類される。また、光秀の単独の犯行だったのか、否そうではなかったのかなども百花繚乱、諸説紛々である。その中で怨恨説は江戸時代の軍記ものなどから説かれ明治時代までは定説のような状況であった。
これに反論を唱えたのが「天下を取りたかった」とされる高柳光壽氏であった。
怨恨説では
@八上城の波多野兄弟を光秀が攻めたとき、信長は光秀の波多野兄弟に対する約束を蹂躙し、光秀の母が殺された事
A家康が安土城に礼来した際に信長は光秀に饗応の役を任じたが、西国の出兵を命じられ、光秀は面目を失った事
B光秀の重臣・斉藤利三の去就で信長に突き飛ばされた事
C信長との宴席で小用のために退席した光秀が叱責された事
D信長の甲州征伐時に光秀の発言に激昂した信長が光秀の頭を打擲した事
E光秀の妻女を信長が欲した際、光秀は信長と知らず扇で叩いた事
などが根拠とされてきたが、高柳氏はそれらを厳密に精査して、いずれも後の書物の創作であると断言し、また光秀直筆の小早川隆景宛の書状に怨恨による謀反であると本人が記しているのは「謡い文句」であるとする。
他にも長宗我部元親との折衝を担当していたが武力征伐の決定で面目を失った事とか出雲・石見への領地替えなども怨恨の所以として説かれるがいずれも確証はない。
高柳光壽氏は、そこで「野望説」を主張された。すなわち、信長のやり方や秀吉の躍進に自己の地位の不安を感じた事のとは別に「天下が欲しかった」(『明智光秀』)というのである。
一方、同じく戦国史の権威であった桑田忠親氏は怨恨説を主張された。Aはルイス・フロイスの『日本史』に記載されており、BやCなども信長の性格を鑑みれば一概に虚実であると断言できないといわれ、さらに野望説には明確な根拠がないとして退けられている。
最近では、戦国史家・小和田哲男氏が、「信長が先例のない平姓将軍に仕官しようとしたのを、源氏である光秀が阻止し、信長の悪政・横暴を阻止しようとした」として「信長非道阻止説」をたてられている。
大阪大学教授の脇田修氏は「信長に対する信頼感の欠如と、戦国武将なら、心のどこかにもっている天下人への夢を実現」しようとした野望説を継承されている。
三重大学教授の藤田達生氏は鞆幕府の緻密な研究によって「足利義昭黒幕説」を主張され、西ヶ谷恭弘氏は朝廷と信長の間に立った光秀が不信をつのらせたといわれ、最近では立花京子氏は「イエスズ会黒幕説」を説かれる様に、いまだ定説をみない。
ただ、井上鋭夫氏が述べられたように怨恨説の根拠はすべてを認められるものではないし、野望説もすべて戦国武将が等しくもっていたものでもない。その他のいずれの説についてもまだ弱点を抱えており、それらのひとつに限らない、複合的な理由によるものではなかろうか。
なお、高柳光壽氏の「天下が欲しかった」という、光秀単独野望説は、最近、鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』によって、綿密に補強されている。
同書では、現在、流布している黒幕説をことごとく否定し、光秀単独の謀反とする。その内容は、傾注に値するものだといえる。 
 
本能寺の変3

 

日本史のいろいろな出来事の中でも、「本能寺の変」は大きな謎に包まれています。たとえば「本能寺の変には黒幕がいた」という説は、根強く論議されています。そして、明智光秀と通謀していた黒幕は豊臣秀吉だとする説、または天皇家・公家だとする説、そして徳川家康だとする説などありますが、なかでも徳川家康説はいくつかの状況証拠が残されていて、かなり興味深いものとなっています。
本能寺で信長が討たれた時、家康はわずかな手勢とともに堺を見物中でした。事件を知った一行は、光秀の襲撃から逃れるため、直ちに伊賀の山中を抜け、伊賀忍者の助けをかりて領地に帰っています。しかし、これは自分が関係していないのを示すポーズだったのではないか、というものです。
また、明智光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れて逃亡の途中、農民に竹槍でつかれて死んだとされていますが、実はそれは影武者であって、光秀はその後も生き延びたという説もあります。なぜそのようなことが言われるのでしょうか。その根拠とされるのは、次のような見解です。
(1)家康は信長を憎んでいた。
まず動機の点ですが、家康と信長との同盟関係は名ばかりで、実際は、家康はいいように使われるばかりでした。また、正室と長男を信長に殺されたようなもので、ほんとうは深い恨みがあったはずだというものです。
(2)伊賀忍者の助けを借りた。
光秀の一族はもともとは伊賀の出身です。ところが家康は、光秀の襲撃から逃れるために堺を脱出する際、光秀ゆかりの地である伊賀を通り、伊賀の忍者たちに守られて帰ったといいます。これはきわめて不自然だというものです。
(3)土岐氏は所領を安堵された。
光秀は土岐氏の出身です。その土岐氏は斎藤道三に城を奪われた後、武田氏や松長氏を頼っていましたが、後に江戸時代に入ると所領を安堵されています。謀反人・光秀の出た家であり、また家康と同盟関係だった信長の敵にあたる土岐氏であるにもかかわらず、家名を存続しているのです。徳川家と何か特別な関係があったのではないかと勘ぐられるところです。
(4)光秀の死は確認されていない。
光秀の首が秀吉のもとに届けられたときは、すでに腐敗が進み、誰の首かの見分けはつかなかったといいます。すなわち、光秀の死ははっきりとは確認されていないのです。
(5)死んだはずの光秀が寄進した石灯籠?
比叡山のある寺に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれている石灯籠があるそうです。慶長20年といえば、本能寺の変から33年目にあたり、豊臣家が滅亡する寸前の時期です。この光秀とは、いったい誰なのでしょうか?
(6)光秀の位牌と肖像画に残された文字。
大阪・岸和田にある本徳寺という寺には、光秀の位牌が残っていて、その位牌の裏にも、また謎めいた文字が書かれているといいます。「当寺開基慶長四巳亥」というのがそれで、慶長4年に光秀が寺の寄進者になっているというのです。ここでも慶長年間に光秀が生きていたことになります。
また、この本徳寺には光秀の肖像画が残っています。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文があります。それは「放下般舟三昧去」という部分で、つまり、仏門に入り去っていったというものです。光秀はこの寺に来て仏門に入り、その後寺を出たというのでしょうか。本徳寺は、かつて光秀の子が住職だったことがある寺です。
(7)天海僧正の登場
関ヶ原の戦いの後、天海という僧が突如、歴史の舞台に登場します。この天海は、それ以前はどこで何をしていた人物なのか全く不明です。僧でありながら、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を具申したりもしています。当時は戦さの知識にたけた僧もいるにはいたようですが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて戦さ上手の僧というのも不思議な存在です。
天海の姿は『関ヶ原合戦図屏風』に描かれています。「南光坊」と書かれている人物がそれで、家康の傍で鎧をつけています。この鎧は大阪城に現存しているのですが、大小の立派な角があり、敵から身を守るための鎧というよりは、高い身分や威厳を表わしているように見えるものだそうです。
(8)日光東照宮に「桔梗」の紋。
日光の東照宮は、家康を東照大権現として祀ってあり、当然ながらいたるところに徳川家の「葵」の御紋が見られます。ところが、陽明門を守る木像の武士の紋は「葵」ではなく、なぜか「桔梗」なのです。「桔梗」は明智の家紋です。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼の庇の裏には、隠れるようにおびただしい数の桔梗紋があります。東照宮には、密かに明智の桔梗紋が数多く入り込んでいるのです。これは何を意味しているのでしょうか。
(9)春日局との再会?
春日局といえば、3代将軍・家光の育ての親ですが、初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は天海に平伏し「お久しゅうございます」と言ったそうです。とすると二人は初対面ではなかったことになります。春日局と天海はどのような関係だったのでしょうか。
実は、春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘です。つまり、もとは光秀一族の側の人間なのです。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上ですから、天海が光秀であれば春日局が平伏するのも納得できるのです。
いかがでしょう。本能寺の変の黒幕が徳川家康であり、山崎の戦いで死んだはずの光秀が生き延びて、天海僧正となっていたとしたら、光秀は討ち取られたどころか、徳川幕府の全国支配に大いに貢献したことになります。これはミステリーです。 
 
本能寺の変4

 

天正10年(1582)6月2日早朝、本能寺の変が起き、織田信長は天下統一の志半ばにして倒れました。
長篠の戦に破れた武田勝頼はその後甲斐に戻り体制を整え直そうとしますが、父信玄ほどのカリスマのない彼の元を去る武将も多く国内はガタガタになっていきます。この年の正月にはとうとう姉婿の穴山梅雪が徳川家康のもとに走り2月には徳川と固い同盟関係にある織田信長の軍も信州に侵入してきました。勝頼は郡内に移ろうとしますがこの時彼に従ったのは女性や子供まで入れてもわずか300人であったと伝えられます。しかし目指す郡内へは結局またまた離反により入れず、栖雲寺の近くで敵勢に囲まれる中自刃して果てました。これを栖雲寺の山号をとって天目山の合戦といいます。これにより武田家はあっけなく滅亡し、その所領の大半が徳川家康に帰しました。
この戦勝の祝いと協力へのお礼を兼ねて、家康は5月15日、その穴山梅雪をともなって安土城に信長に会いに来ます。信長は各地に部下を派遣して厳しい戦闘をやっている最中でしたので祝いの気分ではありませんでしたが、徳川は織田にとって重要な同盟相手、仕方なく取り敢えず手の空いていた明智光秀に家康たちの饗応を命じました。
信長はこの時非常にイライラしていたといいます。数日後家康と一緒に踊りを見に行った時にも突然怒りだして舞手をどなりつけたというエピソードも伝えられていますが、恐らく16日には光秀の館に家康を訪問した信長が魚が傷んでいるといって怒り、光秀に饗応役の御免を申しつけるという一幕もあったとのことです。
そんな中備中で毛利勢と対決していた羽柴秀吉から救援の軍を乞う書状が届きます。信長は毛利と勝負をつける時が来たと直観、今お役御免を申し渡したばかりの光秀を呼びつけ、自ら備中へ向かうことを告げその先鋒を務めるよう申し渡しました。光秀はただちに準備に取りかかりますが胸中複雑な思いが満ちていました。
21日には信長は家康と梅雪を京都・大阪などへの遊覧に向かわせ、29日には蒲生賢秀・津田信益らに安土城を託して自らも京都に向かい本能寺に宿しました。このとき信長自身の護衛兵はわずか数十人でした。
6月1日信長は公家衆とお茶会をし、夜には長男の織田信忠と京都所司代の村井貞勝が訪れ楽しく歓談して過ごします。信忠は妙覚寺に宿を取り、村井は本能寺の門前の自分の館に引きこもりました。
一方の明智光秀は部下に遠征の準備を命じつつ26日には居城の亀山城に入り、ひとり思案にふけっていました。そして27日には愛宕山にのぼり何度も何度もおみくじをひいたと伝えられます。翌28日には愛宕山西の坊で連歌を催します。光秀がよんだ歌は『ときは今あめが下知る五月哉』この時光秀の決意は固まりました。
光秀率いる毛利遠征軍は6月1日夕方亀山城を出発しました。その出発の少し前光秀は『京都の森蘭丸殿より使いがあって出陣の様子を信長殿にお目にかけるようにと言われた』と家臣に告げます。そこで一行は何の疑問もなく中国方面ではなく京都へ向かって進軍をはじめました。
そして進軍を始めるとまもなく斎藤利三(後に徳川家光の乳母となる春日局の父)ら5人の側近を集め、はじめて信長を討つつもりであることを打ち明け、みんながついてこない場合は自分ひとりで本能寺に討ち入って果てると告げました。側近たちは光秀についていくことにします。
桂川まで来た時光秀は全軍に武装を整えさせます。そして光秀は「兵糧を使い物具を固めよ。わが敵は中国に無し。京都四条の本能寺にあり。急ぎ攻め討て」と下知し、斎藤利三が「(光秀殿が)今日よりして天下様に御成りなされ候間、下々草履取以下に至るまで、勇み悦び候え」と告げました。(『川角太閤記』)
信長は早朝、騒がしい外の音に起こされます。最初は誰かが喧嘩をしているのかとおもったのですが、やがて鉄砲の音が聞こえてきたので「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」と言いますと、そこへ信長の近習・森蘭丸が来て「明智が者と見え申し候」と答えました。信長は「是非に及ばず」と答えると自分も武器をとって戦い始めます(『信長公記』)
しかし明智の軍勢は1万5000人、信長を守っていた兵はわずか160名。勝負はあっけなくついてしまいます。信長は弓・槍・なぎなたなどで戦いましたが、もはやこれまでと見ると部屋にこもって自刃して果てました。その頃にはもう既に森蘭丸以下の護衛の兵たちもことごとく討ち死にしていました。これが本能寺の変で、これから明智光秀の10日天下が始まります。
この騒ぎに最初に気が付いたのは当然本能寺の門前の館にいた村井貞勝でした。しかし彼も信長と同様最初は誰かの喧嘩かと思っていたため対応が遅れました。気が付いた時にはもうなすすべもなく、やむを得ず彼は妙覚寺の織田信忠の所へ走り急を告げます。そして二条城にこもって共に光秀の軍を迎え撃ちますが、両者の手勢や急を聞いて京都市内から駆けつけた兵を合わせても1500人程度。よく奮戦しましたが光秀の大軍の前にはかなわず、結局村井は討ち死、信忠も城に火をつけて自刃しました。
徳川家康と穴山梅雪はこの時堺に遊覧中でしたが、信長が京都に来たという知らせを聞き、挨拶に向かおうとしていて、路上で偶然三河出身で家康と旧知の茶屋に会い本能寺の変を知りました。当時信長に心酔していた家康はショックを受け、自分も本能寺に行って信長公の死んだ跡地で腹を切って後を追うなどと言い出しますが側近の本田忠勝に止められ、弔い合戦をしましょう、その為に陣容を整えるのに急ぎ三河に戻りましょうと勧められます。
家康は本田忠勝・酒井忠次らその場にいたほんの数名とともに伊賀を越えて三河への道を急ぎました。この時は土地の山賊に襲われたりとかなり危険な行程でしたが途中から伊賀忍者の柘植三之丞(服部半蔵だったとの説もあり)らが駆けつけて守護につき、なんとか無事三河まで行くことができました。しかし同行していた穴山梅雪は家康の行動に疑問を持ち行動を共にせず、やや遅れて伊賀越えをしますが途中で農民に襲われて殺されてしまいました。家康が三河で弔い合戦の準備を始めたのは6月5日でした。
柴田勝家は前田利家らとともに北陸で上杉と戦っていました。6月3日には魚津城を落として戦いが一段落し4日変事を知りますが、京都に引き返すには敵軍の追撃を受ける恐れがあり、すぐには行動に移れませんでした。
信長の三男神戸信孝と丹羽長秀は四国討伐に行くため大阪城にいました。しかし父信長と兄信忠が討たれたのを聞いて信孝の部下が大量に脱走してしまい、長秀は自分の兵で信孝を守護します。そして同じ大阪城にいて光秀と通じているのではないかと疑った光秀の女婿津田信澄(信長の甥だがその父は信長に殺された)を討ちました。そんなことをしている内に時間がたってしまいました。
そして今一人の信長の重臣、滝川一益は上野厩橋にいましたが、その地を治めるよう命じられて赴任してきたばかりで、大きな兵を動かすことができませんでした。
そして結局光秀に対してすぐに行動を起こすことができたのは羽柴秀吉だけでした。 
 
本能寺の変5 / SEが歴史を捜査

 

歴史学には全く無縁だった情報システムエンジニアが日本史最大の謎とされる「本能寺の変」の全貌を解明しました。解明された真相は従来の通説をことごとく覆すものです。その内容はプレジデント社より2009年3月に『本能寺の変 四二七年目の真実』と題して出版されていますが、本稿では歴史研究界が長年かかっても解明できなかったことをどうやって情報システムエンジニアがたった1年で解いたのかをご紹介します。
1.「本能寺の変」歴史捜査の経緯
私は工学部出身のエンジニアです。三菱電機(株)に入社したのは1972年。情報システムの構築を担当する部門に配属され、コンピュータの研修を3ヶ月受けて早速システム設計の実務を担当させられました。当時としては大規模な国鉄の貨物操車場の自動化システム「YACS」でした。
これが私のシステムエンジニア(以下SEと略記)としてのスタートでした。以来、一貫して情報システムにかかわる仕事をし、SEとしての技術を磨き、身に付けてきました。情報システムの企画から保守までの全てを経験した後、その実務担当の立場を卒業しても、自分の仕事のスタイルは全てSEとして身に付けたスタイルを通しました。専修大学の魚田先生はSEとは「システム分析、設計、開発して一つのシステムをまとめ上げる人」と定義されていると本会員コラムに静岡大学の市川照久先生が書いておられます(2009.8.25)。正に私はどのような仕事も「分析し、設計・計画し、実行して一つのものをまとめ上げる」やり方を通してきました。
こうして仕事一途に取り組んできた「SE」が7年前、57歳のときに突然「本能寺の変の全貌解明」を自らやらざるを得ないと決意しました。
なぜかというと、「本能寺の変」の歴史研究にはSEから見れば根本的な誤りがあり、真相解明が全く期待できないと思ったからです。「このままでは誤った常識が世の中に益々蔓延してしまう。自分が生きている間に何としても真相を明らかにしたい。これは何年かかるかわからないプロジェクトなので、今始めないともう間に合わない」。そういう危機感が明智光秀子孫の心の臨界点をとうとう越えてしまったということです。 
2.「本能寺の変」歴史研究批判
それでは何故、これまでの歴史研究では「本能寺の変」の真相に行き着けなかったのでしょうか。
そこには「本能寺の変」を研究する方々に共通する、根本的な研究姿勢の問題があります。
(1)軍記物容認
一つ目は「軍記物容認」です。
軍記物とは江戸時代に木版印刷されて出版された「戦国物語」です。本能寺の変に関するものとして有名なものは本能寺の変から四十年以上たって出版された『太閤記』や百十年以上もたって出版された『明智軍記』です。
軍記物に書かれた話は『太閤記』を原本とした吉川英治『新書太閤記』や『明智軍記』を原本とした司馬遼太郎『国盗り物語』で世の中に広がり、さらにNHK大河ドラマで日本中の隅々まで知れ渡りました。皆さんがご存知の「本能寺の変」についてのエピソードはどれも軍記物に書かれているものと思って間違いありません。
このような軍記物に初めて書かれた話は史実ではなく作者の創作だとみるべきですが、驚くことに歴史研究者がこれらを史実として扱っているのです。そもそも軍記物は物語です。これは何ページか実際の軍記物を読んでみればたちどころにわかります。工学の分野で研究者がSF小説に書かれている話を事実として論文に使ったら笑い者になりますが、「本能寺の変」研究ではそのようなことが大手を振るってまかり通っているのです。「軍記物に書かれていることを史実と混同するな」という人の方が笑い者にされてしまうような驚くべき状況です。
犯罪捜査でいえば、不確かな証拠や証言をもとにして犯人探しが行われているわけなので真犯人が見つかる可能性は全くありません。真実には決して行き着けないのです。
(2)武将私人論
二つ目は「武将私人論」です。
歴史を英雄物語としてとらえてきた影響でしょうか。戦国武将を公人ではなく、私人として見ています。
そのため、光秀謀反の動機を光秀個人の感情や性格に求めています。「信長から苛められて怨んだ」という怨恨説や「天下が欲しかった」という野望説に始まり、「保守的な性格なので朝廷に忠義を尽くした」という朝廷黒幕説、「足利幕府再興にロマンを懸けた」という足利将軍黒幕説、「よく理由はわからないが発作的に」といった発作的犯行説まで様々な説が唱えられていますが、いずれも光秀を私人とみて、彼の私情に動機を求めています。
ところが光秀は土岐氏という一族を率いる氏族長として一族郎党の生死にかかわる全責任を負っていました。また、丹波の領主として領民への統治責任もあり、信長政権を支える家臣団の長としての責任も負っていました。つまり、現代でいえば企業の経営者であり、自治体の長であり、政府の要人でもあったのです。これは光秀だけについていえることではなく、信長・秀吉・家康をはじめとする武将全般についていえることです。
正に戦国武将は公人であり、彼らが重要な決断をする場合には公人としての判断があったはずです。特に、失敗すれば一族郎党滅亡する謀反という重大事項です。そういったリスクを犯してでも謀反を起こすのですから、謀反を起こさねば一族郎党滅亡するという危機認識を抱く理由があったはずです。また、謀反を起こす限りは絶対に成功させて政権を取るという施策を立てていたはずです。こういったことは投資効果にもとづく政策決定を日常的に行っている企業人であれば即座に理解できることだと思います。
こういった理解を欠いた武将私人論は、犯罪捜査でいえば犯人の思考の論理を理解せずに推理しているわけですから犯行の動機もプロセスも解明できる可能性は全くないと言えます。
(3)蓋然性欠如
三つ目は「蓋然性欠如」です。
工学の世界では実験で得た大量のデータを分析して答を求めていきます。情報システムの構築においては現状分析を徹底して行って実態を見極めてからシステムの設計にとりかかります。まず、全ての事実の把握を行い、そこから推論を行って、蓋然性の高い答を見出すというのが我々エンジニアの常識です。
ところが、「本能寺の変」研究ではこれがなされていません。わずかな手がかりから安易に答を出してしまっています。たとえば、「イエズス会は信長が邪魔になったので消した」というイエズス会陰謀説や「信長の遺体が見つからなかったのは本能寺の地下にトンネルがあって秀吉がそれを塞いだからだ」という秀吉陰謀説がその最たるものですが、怨恨説、野望説などいずれをとっても同様です。(蛇足ですが現代でも火災現場で遺体が見つかれば必ずDNA鑑定しないと身元を確認できません。それほど損傷が激しいのです。燃えて崩れ落ちた本能寺の焼け跡から信長の死体を特定することなど当時の技術ではできるわけがありません)
答が先にあって、それに合いそうな「史実」をいくつか見繕って説明が付けばよし。しかも、その「史実」なるものが軍記物に書かれたもの、というのですから、犯罪捜査でいえば正にでっち上げの冤罪作りということになります。 
3.歴史捜査手法による解明
これに対して私が採用した手法はあらゆる予断を捨て、答を先に作らず、犯罪捜査の如くに証拠に基づいて推理して答を出す手法です。私はこれを「歴史捜査」と命名しましたが、私が普段仕事で行っているSEの仕事のやり方そのものだと思います。そのやり方を以下にご説明します。
(1)徹底した情報集め
まず、最初のステップは「徹底した情報集め」です。
犯罪捜査でいえば証拠・証言集めですが、歴史捜査ではその当時に書かれた史料からの関連記事の収集です。当時の史料としては古文書といわれる書状や触書など、そして古記録といわれる日記や報告書類などです。光秀の書いた書状、公家の書いた日記、イエズス会宣教師の書いた報告書などが残っております。四百年以上も前のことですが、調べてみると意外に多くの史料が現代まで伝わっていることがわかりました。
それらが活字化されて編纂された本が国会図書館で読めたり、インターネット上の古本屋で買うことができます。また、信長の家臣太田牛一の書いた『信長公記』、長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』、家康家臣の大久保彦左衛門が書いた『三河物語』など現代語訳されて出版されているものもあります。
こういった本を私の書斎である朝夕の通勤電車の中でキーワード検索していきます。私の捜査に関連するキーワードが出てくる箇所を見つけては付箋を付けていきます。それらを休日に整理して、どの史料の何ページに何が書いてあるかを記録しました。
ジグソーパズルでいえば、全てのピースを集めてきて、表返しにして図柄が見えるように広げた状態にしたということでしょう。
既に「本能寺の変」研究者が踏み荒らし尽くしたといってもよい状況で、今さら新しい証拠が見つかるだろうかと疑問を持ってスタートしたのですが、予想以上にいろいろ出てきました。恐らく、これまでの研究者も見つけていたはずですが、それが通説に合わないという理由で捨てられていたのだと思います。
(2)情報の洗練と関係付け
二番目のステップは「情報の洗練と関係付け」です。データ・フローの作成といってもよいでしょう。
犯罪捜査でいえば証拠の信憑性評価と証拠間の関連付けです。たとえば、太田牛一という信長側近が書いた『信長公記』の記述はそのまま証拠として採用してよいのかどうかを検討しました。結論は信長や織田家に関する記述は直接取材ができた話なので信憑性が高いが、光秀や家康の行動について書かれた記事は誰かからの伝聞であり、信憑性が落ちるということになりました。そして、その情報を誰から得たのかを検討することにより情報の流れを整理していくことができました。
こうして調べていくと、今まで明らかになっていなかったいくつかの情報の流れが見えてきました。
たとえば光秀が謀反の前日に重臣を集めて謀反の企てを初めて明かした、という通説についてです。このときの重臣の数が五人なのか四人なのかで二つの情報の流れが見えてきます。
軍記物は全て五人と書いています。そのもとになっているのが本能寺の変の四ヵ月後に秀吉がお抱えの作家に書かせた『惟任退治記』という「本能寺の変」の顛末を報告した史料です。そこに、五人の名前が書かれているのです。軍記物の作者は『惟任退治記』を見て五人の名前を書いたわけです。
軍記物が『惟任退治記』から取り入れたのはこれだけではありませんでした。『惟任退治記』には光秀が信長を怨んでいたこと、天下盗りの野望を抱いていたこと、光秀ひとりが密に謀反を企てたことも書かれています。つまり、通説となっている「怨恨説」「野望説」「光秀単独犯行説」はいずれも秀吉が作り出したものだということが、この情報の流れから明らかになりました。
一方、四人と書いているのは太田牛一の『信長公記』とイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『一五八二年日本年報追加』です。『信長公記』とルイス・フロイスの報告書や書簡には同文、ないしは極めて似た記述があることはよく知られていることです。情報の流れとしては信長の身近にいた太田牛一から当時九州にいたフロイスへと情報が流れたとみるべきです。
ところが、フロイスの報告書や書簡が出来事の直後に書かれているのに対して、『信長公記』がまとめられたのははるかに後になってからなので、「フロイスが『信長公記』を読んで書いた」ということはありえません。となると、太田牛一は『信長公記』の原稿を出来事の都度書いて、その情報をその都度フロイスへ渡していたということになります。こうして当時の信長とイエズス会との緊密な関係が見えてきました。
もうひとつの例をご紹介しましょう。
信長が本能寺で光秀謀反と知ったときに言った最期の言葉に関してです。有名なのは「是非に及ばず」です。これは軍記物の創作ではなく、『信長公記』に書かれた言葉です。太田牛一は本能寺を逃れ出た女性から取材してこの記事を書いたと『信長公記』に書いていますので信憑性は極めて高いと判断できます。
ところが、別の言葉を言ったと書いた史料もあります。その一つがアビラ・ヒロンというスペイン人の商人の見聞記『日本王国記』に書かれた「予は自ら死を招いたか」という言葉です。信長の言葉を知りえる立場にない人物の書いたものとして歴史研究者からは無視されてきた記述ですが、データ・フローが確認できました。
アビラ・ヒロンは「何でも噂によると」という前置きを書いています。これは報告者として極めて適切な記述です。ヒロン本人が聞いたわけではなく、そういった噂がヒロンの周辺にあったということです。そのことは事実と見てよいでしょう。誰かが信長の最期の言葉を聞いて語ったことが、ヒロン周辺の人々に伝わったと考えることができます。
それではそのような可能性を持った人物が本当にいたのでしょうか。信長の最期の瞬間に信長の側にいて、さらに本能寺から生き残って脱出し、さらにヒロンに縁のある人々にそのことを伝えられた人物です。信長の小姓はことごとく本能寺で討死したはずですが・・・・
実はその条件を全て備えた人物がたった一人いたのです。その人物は信長の小姓として常に信長の側に付き従っていたことが『信長公記』にも松平家忠という家康の家臣の日記『家忠日記』にも書かれています。名前は彌介と書かれています。そして、フロイスの『一五八二年日本年報追加』には、その彌介が小姓としてはただ一人本能寺から生きて脱出し、二条城で戦った後に降伏し、光秀の命令で京都の教会へ身柄を預けられたことが書かれています。なぜイエズス会の教会へ預けられたかというと、この人物は1年ほど前にイエズス会が連れてきたアフリカ人奴隷だったのです。彼が語った話が宣教師達に広まり、噂となってヒロンの耳まで届いたと考えられます。
このようにして次々とデータ・フローができていきました。ジグソーパズルでいえば、何個かのピースが組み合わさった塊がいくつもできあがっていく感じです。
本稿で強調して申し上げたいのはSEであればこういった情報のつながりを分析していくのが得意だということです。従来の歴史研究にたずさわった方々と比べると決定的に優位な経験と技術を持っているのです。
(3)情報の補強と関連付けの追加
三番目のステップは「情報の補強と関連付けの追加」です。
情報の関連性を調べていくと不足している情報に気が付きます。ジグソーパズルにたとえれば、ある塊のピースが不足していることに気付くのです。こうして再度情報収集に立ち戻った事項がいろいろありました。たとえば、愛宕百韻、土岐氏、服部半蔵、日光東照宮などです。犯罪捜査でいえば裏付けを固めるための追加の証拠・証言集めです。
(4)全体の構成と設計
四番目のステップは「全体の構成と設計」です。
犯罪捜査でいえば犯行動機と犯行プロセスの全貌を推理して答を見出すことです。歴史捜査では「真実の復元」と名付けましたが、ジグソーパズルでいえば、いくつかのピースの組み合わされた塊を全体枠の適切な位置に順次はめ込んでいき、全体図を完成させる作業です。
この作業をやるためには全体枠の理解が不可欠です。つまり、その当時の状況を理解する必要があります。たとえば、信長に服属した武将の松永久秀や荒木村重は信長に謀反を起こしており、そのことは当時の武将が忠義・報恩ではなく、利害で結ばれていたことを示しています。
信長は秀吉を毛利攻め、柴田勝家を上杉攻めに派遣する一方、武田家を滅ぼして、その領地の甲斐・信濃を息子に与えました。これは信長が近国は織田家で固め、遠国に武将を配置するという政策を進めていたことを示しています。
こういった状況を理解した上で、何が起きていたのかを復元していくのです。
この作業はかなりウンウンうなりながらやることになりました。そう簡単に答は見付かりません。若い頃に没頭して取り組んだデバッグ作業(プログラムの不良箇所を探して見付ける作業)を思い出しました。私は不良箇所(バグ)に理詰めで迫っていくデバッグ作業が推理小説の犯人捜しのようで大好きでした。いくら考えてもわからない、と諦めた答が突然ひらめいて解けたという楽しさを何度も味わいました。人間の脳もバックグラウンド・ジョブが流れていて、突然答が出てくるのだとコンピュータとの類似性に気が付いて妙に感心したことを思い出します。
とはいえ、デバッグは後ろ向きの作業です。デバッグ作業をイヤというほどやらざるを得なかった経験から得られた信念は「絶対にバグのないプログラム/システムを作ろう」ということでした。これが私のSEとして目指した情報システム作りになりました。私自身はその答を見つけたつもりでしたが、それを普及させるのは難しかったと痛感しています。初めに楽をして後で苦労するのはやめたらよいのに、と忠告し続けたのですが。
さて、歴史捜査を行って30年ぶりにデバッグ作業での脳の活動が再現されて、その楽しさを満喫することができました。夜、ベッドの中で眠りかけてウトウトしているとふと閃く。急いで起きて忘れないようにメモを書く。こういったことが何回もありました。
こうして全ての証拠が矛盾無く成立するストーリーが復元できました。ジグソーパズルでいえば、最後のピースがピタッと収まって全体の図柄が完成したということです。この瞬間の感激は忘れることができません。
でも、歴史捜査はこれで終わりではありません。最後の大事なステップが残っています。
(5)結果の検証
最後の五番目のステップは「結果の検証」です。
犯罪捜査でいえば解明した動機とプロセスが本当に正しい答なのか、別の答の可能性はないのかと確認する作業です。
私の復元した真実は正に驚くべきものだったので、他の答の可能性がないのか何度も検証してみました。その結果、やはりこれしかないと納得せざるをえなかったのです。 
4.歴史捜査で復元された真実
本稿は歴史捜査の手法をご紹介することによって情報システムエンジニアが「本能寺の変」を解けたことをご説明するのが主旨ですので、解かれた答がどのようなものであったのかをご紹介するのは躊躇するところです。なぜなら、初めからそのような答が用意されていて、それに合う証拠を並べたてただけではないかと、従来の「本能寺の変」研究と同じように見えてしまうことを危惧するからです。
とはいえ、答を示さなければ読者には不消化感が残ると思います。そこで答を簡潔にご説明しますが、それを裏付ける証拠や推理については紙面の制約で説明を省略していることをくれぐれもお忘れにならないでください。
(1)謀反の動機
光秀は謀反の直前に愛宕山で戦勝祈願の連歌の会を催しました。そこで詠まれた連歌が愛宕百韻です。通説では五月二十八日に催され、光秀は発句に「ときは今 あめが下しる 五月かな」と詠んだとされています。この句は「土岐氏である自分が天下を盗る五月になった」という意味で、光秀の天下盗りの野望を現していると解釈されています。戦勝祈願として詠んで愛宕神社に奉納された連歌ですので、これに光秀の謀反の心が詠み込まれていたことは確かです。
ところが、コンピュータの論理性に負けまいとプログラムのロジックを必死に追い続けたSEの論理性からみると、この句は「あり得ない句」なのです。何故ならば、光秀が謀反を起こしたのは六月二日だからです。光秀が天下を盗りたかったのは六月であって五月ではないのです。
この年の五月は二十九日しかありませんので六月とは二日の違いです。だから気にすることはないと四百年間、誰も疑問に思わなかったのでしょうが、プログラムのデバッグに没頭してきたSEからみると、これは100%間違いなくバグです。
この通説となっている句は軍記物がこぞって書いて通説としてしまったものですが、最初に書いたのはやはり秀吉が書かせた『惟任退治記』です。秀吉が意図的に光秀の野望を演出した可能性が高いとみました。調べてみると1文字違いの「ときは今 あめが下なる 五月かな」と書かれた写本が伝わっていることがわかりました。詠んだ日も五月二十四日。二十四日だと六月とはかなり離れています。秀吉が意図的に句の言葉と詠んだ日付を改竄したと推理しました。
SEとしてはこれを確かな証拠によって証明しなければなりません。愛宕百韻に参加した人物が二十八日に別の場所にいたという証拠をつかもうとしたのですがそのような記述はどの史料にも見付かりませんでした。諦めていたらふと思い付きました。「天気だ!」。「あめが下しる」でも「あめが下なる」でも雨が降っている情景を詠んでいます。したがって、「その日は愛宕山に雨が降っていなければならない!」。やはり脳内のバックグラウンド・ジョブが流れていたのです。
調べてみると日記にその日の天気を書いた人物がいました。朝廷の公家(京都在住)、興福寺の僧侶(奈良在住)、松平家の城主(三河在住)です。これらの日記に書かれた天気を調べた結果、二十四日は雨、二十八日は晴れ。つまり、二十四日には「あめが下なる」と詠めたが、二十八日には「あめが下しる」とは詠めなかったのです。これで秀吉が四百年前に改竄して作り出した通説が覆ったわけです。
そうすると「ときは今 あめが下なる 五月かな」という光秀の句にはどのような祈願が込められていたのかということになります。「土岐氏は今、この激しい雨にたたかれているような苦境にある五月である。しかし、月が変わって六月になればこの苦境から脱したい」。これが光秀の祈願であり、謀反の動機です。土岐氏滅亡の危機を光秀は救いたかったのです。
(2)謀反のプロセス
それでは、その危機とは具体的に何だったのか、光秀はどういう成功の目算を立てて謀反に踏み切ったのか、光秀の謀反はどうして簡単に成功したのか、そして最後は失敗に終わったのか。これらの答は長文になってしまいますので拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に譲ることにして、本稿ではこれら全ての鍵を握っていた「信長による家康討ち」についてご説明しておきます。
信長は家康とその重臣二十名ほどを六月二日に本能寺におびき寄せ、一網打尽に光秀の軍勢に討ち取らせる計画を立て、全ての段取りを整えていたのです。ところが、この計画を信長と打ち合わせて熟知していた光秀が千載一遇のチャンスと気付き、信長の段取りした時間よりはるかに早く本能寺へ討ち入って信長を討ってしまったのです。
したがって、光秀は謀反の成功を100%確信して謀反に踏み切れたし、簡単に謀反を成功させられたわけです。そして、信長には「予は自ら死を招いたか」と思わず最期の言葉を漏らさざるを得ない事態が訪れたのです。 
5.歴史捜査から得た情報システム化の提案
こうして歴史捜査は思いがけずもわずか1年で終了しました。でも、さらにその先がありました。私の解明した真実を世の中に広めるために本にして出版しなければならなかったのです。これには丸4年もかかってしまいました。SEの仕事柄、仕様書はたくさん書きましたし、構造化した文書の書き方にも精通していたつもりでしたが、世の中に広く読まれる本にするには経験も技術も不足していました。出版社が納得してくれる本にするために「面白く読める本の書き方」を勉強して何度も書き直しました。
仕事でもそうでしたが、今まで経験したことのない新しい世界を知ることは楽しく、ワクワクするものです。特に、自分自身で設定したプロジェクトでしたからなおさらでした。
そういった活動を通じて気付いた情報システム化の提案が二つありますので、それをご紹介して情報システム学会の会員コラムらしく締めくくらせていただきたいと思います。
(1)史料データベースシステム
歴史研究にとって研究に必要な史料を読めるということが必要不可欠な条件です。江戸時代後期から古文書・古記録類の活字化事業が継続して行われてきたお陰で専門家でなくても貴重な史料が読めるようになりました。私の歴史捜査もその膨大な努力の成果がなければできなかったことです。しかしながら、大きな問題が二つあり、研究活動が極めて制限されている状況です。
一つは活字化されている史料の閲覧性が極めて低いということです。電子データ化が進められているとはいえ、その範囲はまだ限られています。頼るのは図書館となりますが、とても閲覧能率が低いです。またインターネット古書店で購入できたとしても費用負担が重いですし、能率が極端に向上するわけでもありません。
もう一つは活字化されて出版されている古文書・古記録はまだほんの一部に過ぎないということです。それでいながら、江戸時代後期から続いてきた活字化・出版活動である「群書類従編纂」の活動は昨年店じまいしてしまいました。まだ活字化されていない貴重な史料が日の目を見ずに消えていってしまう日本史研究上の危機にあるように思います。これは極めて重い問題だと感じます。
筆で書かれた原本を読んで活字にできる専門家が気軽に登録でき、多くの人が効率的に検索・参照できる史料データベースシステムが是非とも必要だと感じます。
(2)書籍販売データベースシステム
自分で本を出版してみて驚いたことがあります。「私の本はどこで何冊売れていますか?」という質問に出版社は答えられないのです。つまりPOSのデータを持っていないのです。これは出版社−流通業者−書店チェーンという三層の業界構造から生じたものと思います。
本の販促には、その本がどの店や地域でどれだけ売れているのか、在庫はどれだけあるのかを知ることが不可欠のはずです。そのデータがあれば販売戦略を立てて宣伝・増刷・配本を出版社が能動的に実施していけるはずです。
ところが、このデータがないために出版社は「返本数の最少化」という守りの戦術しか採れないのです。出版不況といわれる状況はどうやら電子書籍化だけがもたらしたものではないようです。
出版にかかわる全業種・全企業が大同団結して共用の販売データベースシステムを構築するべきではないでしょうか。開発すべき機能は簡単なものだと思います。難しいのはシステムに関連する企業間の利害調整だけです。 
6.おわりに
拙著は読者からは期せずして同じ三つのお褒めの言葉をいただいています。「目からウロコが落ちた。歴史観が変わった」「推理小説を読むように面白い。ワクワクして読んだ」「よくここまで調べた。よくここまで突き詰めた」。
そして、「情報システムのエンジニアだからこそできたのだろう」という感想もいただきました。その代表例としての中島情報文化研究所代表の中島洋氏がビジネスプロセス革新協議会メールマガジンに書いた文章をご紹介します。
「この本の記述はシステム的な思考で貫かれている。情報システム分野で鍛えた思考は、歴史に新しい光を当てる可能性があることを提起してくれた。定年でリタイアするシステム技術者もこれからは大量に出てくるが、第二の人生を是非ともこうした新しいジャンルに振り向け、エネルギーを注いでもらいたいものである」
私が歴史捜査という実に楽しい領域を切り開くことができたのは情報システムの仕事で身に付けた技術のおかげです。この仕事にたずさわることができた幸運に感謝しております。これからも、少しでも情報システム界に貢献できるように頑張っていきたいと思います。そして、講演会やブログ「明智憲三郎的世界 天下布文!」で情報発信を継続していきますので、歴史の真実の普及にご支援をよろしくお願いいたします。「目の前には厚く高い壁がある。だから挑戦する」。私にとってSE魂は永遠です。 
 
本能寺の変6 / 光秀決起の真相諸説

 

小和田哲男【戦国武将】
一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。
(また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。
本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。
・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。 
桑田忠親【明智光秀】
史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。
明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。
こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。 
高柳光寿【明智光秀】
信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。・・・
いくら光秀が天下を欲しがっていたところで、彼は信長の部下に過ぎない。・・・光秀は信長と争い得る兵力はない。けれども機会さえあれば信長を倒し得ないことはない。今やその機会が与えられたのである。
信長は近臣数十人を率いて(いるに過ぎず、)信忠は馬廻りだけで(あり、滝川も柴田も羽柴もそれぞれ当面の敵と対峙していて、仮に信長を倒した自分を攻撃して来るにしても)三十日、五十日を要すると見て差支えない。・・・このような状態で、いま信長を倒すことはたやすいことである。・・・信長を倒すのには、今のような時期はまたと来ないであろう。天下を取るのは・・・今をおいてほかに機会はない。こう光秀は考えたのではなかろうか。・・・
(そう考えるに至った理由は)まず第一に・・・ライバル秀吉の躍進振りである。・・・(これまでは)大体光秀の方が秀吉よりも(出世の点で)先行して来た。ところが・・・最近の形勢は・・・秀吉の方が先行するような気配がないでもない。・・・そして信長の性格についても考えたであろう。・・・信長は何を考え、何をたくらみ、何をするか見当がつかない・・・(佐久間)信盛・(林)通勝の追放(などを考えると)・・・家臣は安心して信長の下では働けない、・・・もうこの辺が止りだ、そんな気がしたのではないかと思う。 
武光誠【戦国の名脇役たち】
私は、明智光秀は信長との主従関係をこえる大義のために立ったと考えている。天正10(1582)年に武田勝頼は滅び、毛利輝元が信長に降るのは時間の問題となった。あと一歩で、信長は日本を統一する。
そのとき、公家たちは信長に対抗できる大名がいなくなれば、信長は皇室の利用価値がなくなったと考え、天皇にとって代わろうとするのではないかと恐れた。いまのうちに信長を除かねばならない。そう思った公家たちは、信長の家来で、自分たちに最も近い位置にいる明智光秀を使うことにした。
このとき、光秀と親しい堺の豪商、津田宗久らが公家たちの意向を受けて謀反をすすめたと思われる。 
徳富蘇峰【織田信長】
既に信長のために、働くだけは働き、また信長より、得るだけは得ている。この上は自ら信長に取って代わるも、また丈夫快心のことではあるまいか。・・・
・・・信長と、光秀とは、どこやらそりの合わぬところがあった。光秀は・・・何事も腹へ腹へと、持ち込む流儀であった。信長は直截屋であった。前提よりも結論からやり出す流儀であった。信長の怒罵・嬉笑を、平気の平左で、行雲流水に付し去る秀吉とは違い、・・・信長との干係を、現金勘定にせず、ただ帳簿上の勘定とした。すなわちこれが十数年間、溜りに溜まって、光秀と信長との間に、一個の障壁が出来上がったのだ。加うるに安土における不首尾(家康の接待をすることなく出陣を命じられた、と解釈する)については、胸中の不平・懊悩やるせなかった。すなわちかかる場合において、光秀はたちまち一場の活路を得た。それは別儀でない、本能寺打ち入りである。これは思いがけなくも、信長が光秀に与えた、好機会であった。・・・
信長既に義昭に代る、我豈(あ)に信長に代るべからざる理あらんや。織田はこれ尾州武衛家の被官--つまびらかにいえば、被官中の被官--にあらずや。我は土岐の庶流なれば、織田に代りて、天下を管領するに、なんの不可かこれあらむと。 
林屋辰三郎【日本の歴史12 天下一統】
直接の動機は、・・・家康の御馳走役をつとめる光秀にたいして信長があたえた屈辱である。・・・家康の饗応に心をつかった信長が、家康の宿とした明智館に見舞ったとき、夏季のため用意の生魚がいたみやすく、悪臭を放っていたので、信長はひじょうに立腹し、料理の間にじきじきに出かけ、このようすにては馳走役は勤まらぬというのでただちに改役したという一件である。・・・
これまでは光秀はだいたい秀吉の一歩先を歩いてきていた。しかし光秀にはその位置をいつまで保ちうるか自信がなかった。・・・そこに加算されたのが、光秀が四国で長宗我部氏側に取次ぎをしていた失点である。・・・追討ちをかけるように備中の秀吉への援軍という命令がもちこまれたのである。その前途には毛利氏があり、そこにはかつて自分の手で天下への道を導いたこともある(足利)義昭が推戴されているとすると、光秀も考えざるをえなかったであろう。
こうして信長打倒、謀叛の気持が急速に大きくなっていった。謀叛の真因は何か? 天下が欲しかったから・・・。かれが元亀・天正の武士である以上、あまりにも当然のことである。やはり安土での直接の動機となった怨恨から謀叛までには、単に欲望とはいいきれぬ苦悩もあれば思案もあったといわねばならない。 
藤本正行【信長の戦国軍事学】
(武田討伐後)当時五十八歳の滝川一益が、占領直後で治安状態の不安な関東に派遣されたことは、少なくとも四十の半ばを越えていたとみられる光秀の心理に影響を与えたと思う。
信長と毛利氏の戦いが続く限り、光秀自身も戦い続けなければならないし、信長が勝てば、中国はおろか九州にまでも派遣されることになりかねない。実際、彼は天正3(1575)年7月に、信長の要請により、朝廷から九州の名族である惟任の姓を許され、日向守にも任じられているのである。信長政権の構想を考えれば、彼が将来、九州に派遣される可能性は充分にあった。
筆者は、仮に光秀が・・・将来に不安を感じていたとすれば、その原因は佐久間信盛追放の一件などよりも、滝川一益の関東派遣にあったのではないかと思う。光秀の経歴・力量をみれば、彼が信長の処断におびえる理由が見当たらないからである。
・・・彼のように文化の中心地である畿内で長く暮らした教養人にとって、老後を西国で送ることは、想像しただけでも苦痛であったはずである。特に新領地の経営の困難さは、・・・丹波平定の過程で、身に染みていたであろうから。彼をして謀反に踏み切らせた動機は様々に考えられるが、心理の片隅に以上のような不安が介在していたと考えるのは穿ちすぎであろうか。 
二木謙一【明智光秀のすべて】
天正10(1582)年の春頃からであろうか、光秀は、信長の自分に対する態度が急に冷たくなったことを感じ始めたと思われる。原因ははっきりつかめないが、あるいは羽柴筑前守秀吉というやり手が、信長の気に入りとなったことと関係があるかもしれない。
信長も、・・・光秀の行政手腕を利用してきたが、彼よりもすぐれた秀吉を重んずるようになった結果、光秀は反故のように捨てられたのである。天正10(1582)年5月、家康饗応の直後、光秀は領国丹波一国を取り上げられ、代りに毛利領の出雲・石見の二カ国を切り取り次第で与えるという空手形を渡され、西国出陣を命じられたのである。不要になった行政官の哀れなる左遷であったといえよう。
・・・戦国乱世では、切り取り次第の功名が普通であった。ふりかかる禍を常に武略・計略をもって福に転じて生きなければならなかったのが戦国のならいであった。光秀がこの大難を切り抜けることができなかったのも、彼が槍一筋に生きた戦場の勇者ではなく、実務派型の武将であったからであろう。
光秀の反逆は間接的には怨恨もあろうが、その根本は信長に見捨てられ、乱世を生き抜く自信を失った実務派型武将のノイローゼ的反抗と考えている。 
古屋裕信【覚え書きノート】
周知のことですが、前権中納言山科言経(四十歳)は、その日記に、「斎藤(内)蔵助、今度謀反随一也」(六月十七日条)と書いています。この一文は、・・・彼(利三)が本能寺の南面で闘いの指揮をとっていたのを洛中の民衆が注意深く見守っていたことを示す字句と私は考えています。信長謀殺を直接に指揮したのは斎藤利三だと私は思っています。・・・
利三における危機感は何であったのか? 利三において背骨を揺さぶるような事態とは何であったのか? ・・・「配下の大名の所領支配にまで干渉する」信長の「武士道」と、光秀、及びその家臣団が背骨とする旧来の「武士道」との(イデオロギー上の)対立、ということです。・・・
織豊政権による「検地・指出し」施行に対する国人衆、寺院の抵抗はあなどり難く、ために豊臣秀吉は天正十八年、即ち東国平定=天下統一を実現するまで、検地を行うについては(国人層を刺激せぬよう)細心の注意を払わねばなりませんでした。・・・
丹波の国人層は比較的古い体質をもっていたと思われるのですが、「城割り」「検地」「国人層の粛清」を通じてそれまでと全く異質の世界が現出していくのを彼らはどう受けとめたのでしょうか? 「本能寺の変」の中に「国人層の検地反対一揆」的契機を読みとることはできないか? と思うのです。 
ルイス・フロイス【回想の織田信長】
信長は・・・その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募り、ついにはそれが天下の主になることを彼(光秀)に望ませるまでになったのかもわからない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。 
『総見記』『柏崎物語』
天正6(1578)年、丹波攻略を進めていた光秀は八上城を攻めたが、守将の波多野兄弟が一年以上にもわたって頑強に抵抗したため、翌天正7(1579)年6月、兄弟の助命を約束し、その保証に光秀の母親を人質として八上城に入れることで開城させた。ところが、安土に送られた兄弟ら三人を、光秀の要請にも拘らず信長は磔にしてしまった。これを知り違約に怒った八上城兵は人質となっていた母親を殺し、城外に打って出てことごとく討死にしたという。そのために光秀は信長を怨むことになった。
『川角太閤記』『祖父物語』
天正10(1582)年3月、甲斐征討の際、法華寺の陣所にあって、諏訪郡を制圧した戦果を祝い光秀が「これまで骨身を惜しまず働いてきたことが報われた」と語ったところ、信長は「その方、どこで骨を折ったのか」と詰問し、光秀の頭を欄干にこすり付け、さんざん打ちのめした。
『川角太閤記』
天正10(1582)年5月、甲斐征討戦の戦功により駿河を与えられた家康が、御礼言上のため安土に伺候することになり、信長は光秀に休暇(出陣の体勢を解くこと)を与えその接待を命じた。当日、信長が膳の支度の具合を確認するために光秀邸に赴くと、夏場のこともあって生魚が傷んでいたとみえて、悪臭が漂ってきた。信長は激怒し、光秀に接待を任せられないと役を堀秀政に替えた。面目を失った光秀が、用意した肴や器を堀に投げ込んだため、安土城下中に腐臭が漂った。そのため、急遽休暇を召し上げられ、秀吉救援を命じられた。
『義残覚書』『続武者物語』『柏崎物語』
柴田勝家ら重臣二十人ほどが揃った庚申待の酒席、途中で厠に立った光秀を見咎めて、信長はその横着ぶりを罵り、鑓を取って後を追うや、その穂先を光秀の首筋に当てて「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めた。
『続武者物語』
斎藤内蔵介利三は、初め美濃の稲葉一鉄の家臣だったが、後に一鉄のもとを去り、光秀に仕え重用されるようになった。一鉄は光秀の主筋の信長に、利三を戻すよう訴え出た。信長は一鉄の訴えを認めて光秀に利三を返すよう命じたが、光秀は譲らず、怒った信長が光秀の髻を掴んで突き飛ばし、手打ちにしようとした。 
 
本能寺の変7 / 歴史物語

 

家康、安土へ
信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼・同太郎信勝、武田典厩、一類、歴/\討ち果たし、御本意を達せられ、駿河・遠江両国、家康公へ進めらる。其の御礼として、徳川家康公、并びに、穴山梅雪、今度上国候。一廉御馳走あるべきの由候て、先づ、皆道を作られ、所/\御泊/\に国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、及ぶ程、結構仕り候て、御振舞仕り候へと、仰せ出だされ候ひしなり。【信長公記(桑田)】
長兄(信忠)ならびに信長が都を観せんために招いたその義弟である三河の王(徳川家康)その他占領したる諸国の領主等(穴山梅雪等)が当地に着いた。予ならびにイルマン等当カザにゐた者は、三河の王が都において噂された如く、カザに滞在することあらんかと心配したが、我等の主はこの苦労を与へ給はず、彼はカザの附近に宿泊し、二、三日を経て信長の来る前に堺及び奈良の町々を観んために行った。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
信長、家康接待の準備を命じる
十四日、辛未、長兵(長岡藤孝)早天安土へ下向、今度徳川、信長爲御礼安土登城云々、惟任日向守在庄申付云々、【兼見卿記(別本)】
十四日、辛未、未明長兵下向安土、明日十五日徳川至安土被罷上也、就其各安土へ祗候云々、徳川逗留安土之間、惟日在庄之儀自信長被仰付、此間用意馳走以外也、【兼見卿記(正本)】
一安土ヨリ仰書被下、春清持來、去十五(日)ニ盃臺・樽三荷・小折二合・畑茶[十斤]進上ノ處、臺無比類トテ上一人ヨリ下万人稱美、寺門ノ名譽御門跡ノ御高名也、過分ノ金銀唐物進上モ如此御悦喜御滿足ハ無之、一段々々ノ御仕介也ト、尤珍重々々、(家康接待のための道具を安土に届ける)
一寺門ノハ盃臺不入御意、張良ハ祝言ナルカ、クラマ天狗ニ此事ヲウタイ、ヲコレル平家ヲ西海ニ追下ト云事、信長ハ平家ノ故御氣ニ障ル歟ト推量了、
一家康并スルカノ穴山入道十五日ニ安土へ來云々、事ヲ盡クル翫用意、惣見寺ヲ座敷ニ用意、唐和ノ財ニテ粧ト云々、言慮不及事共也ト、充滿々々、いさよひの空こわ物ヽヽ、【多聞院日記(五月十八日条)】
一三河屋形家康安土へ御越付、自寺門御音信在之、彩色盃臺[アヤツリ張良]・小折[三合]。麩[一合六寸シヒ百]・桶[一合、繪書之金銀之上ニ]・積交[一合クリ、キンカン、カンシ]・大樽[五荷]・三百疋惟日、百疋宛掘久・矢善・針阿弥明智傳五、使良圓、慶春ヲソユル、十二日ヨリ遣了、十八日ニ歸了、無殘仕合由也、臺結講分ニ五人[人形居之]、一人[石公]、一人[張良]、一人[龍~]、二人ハ伴也.然ル處自上意御尋在之、人形多事不審也ト被仰出了、結講分多沙汰不可然、リンセツ也并石公上ヲ見ル事不謂也、龍~大口モ無理也ト被仰出之一々尤之事也、重而可有分別事也、其道々ノ事テハ其人ニ任テ置事常也、雖然令機遣可尋明事也、【多聞院日記(別會所記)】
五月廿九 八木駿河守ヲ使者ニテ、上樣(信長)へ御盃臺、御折十合。【宇野主水日記】 
信長、家康を接待する
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷結構にて、十五日より十七日まで、三日の御事なり。【信長公記(桑田)】
織田殿ヨリ、日向守召ニ依テ登城シケルニ、信長公忿(イカリ)給ヘル御気色ニテ宣ヒケルハ、今度大君入来ニ付、配饌(ハイセン)ノ儀云(ヒ)付シ処ニ、過分ニ山海ノ珍物ヲ集メ、或ハ箸木具迄モ金銀ヲ鏤ル条、以ノ外ノ奇怪ナリ。徳川殿ハ初(メ)兄弟ノ契約ニテ、幕下ニ属スト云ヘトモ、吾今三公ニ至リ、天下ヲ執権スル身ナレバ、総シテ旗(ハタ)下ノ輩、左程ニハ有間敷事也。然レバ、汝不料簡ニ非アラスヤ。左アレバ、箇程迄華美ヲ尽スニ及間敷事ゾカシ。重テ主君ニ饗応スル事アラバ、如何致スベキヤ。其段、一手無用意コソ僻事(ヒガコト)ナレ。大君ニ対シ、左様ノ入魂ハ万(ヨロ)ヅ無□(ヲボツカ)事ナリ。以来ノ為、打擲セヨト被仰ケレバ、御前ナル小々姓四、五人立テ、扇ニテ光秀ガ頭ヲゾ打ニケル。其中ニ森蘭丸モ座席ヲ立テ、扇ヲ取直シ、銕(クロガネ)ノ要ヲ以テ、健(シタタカ)ニ打ケレバ、頂上破レテ血流落ケルヲ、信長公御覧シテ、罷立候ヘト御意ニヨリ、則退出申ニケリ。次ノ間ニ縁者ナリケル長岡兵部太輔藤孝在合ケルガ、御広間ノ傍(カタハラ)へ光秀ヲ招テ被申ケルハ、叢蘭(サウラン)欲(レバ)茂(モセント)、秋風破之。王者欲(レバ)明(ナラント)、讒臣闇(クラマス)之ト云ヘリ。唯今森蘭丸ガ為体(テイタラク)ヲ見ルニ、内々人ノ語レルニ思(ヒ)合(セ)候キ。彼ハ既ニ織田殿長臣森三左衛門可成(ヨシナリ)ガ子成ナルノ故ニ、未令元服ト云トモ、齢二十二歳ナレバ、奏者ノ役ヲ勤メ、青山与三・湯浅甚助・矢部善七ナトガ上ニ列シ、諸事ヲ執行(トリオコナフ)身也。殊ニ先月二日、濃州岩村ノ城主ト成テ、五万石領知セリ。係ヲ、歳ニモ足(タラ)ヌ小々姓同前ノ形勢(アリサマ)ハ、兎角言語ニ絶シタル事ニ候。内々承リシハ、彼者ノ亡父森三左衛門尉ハ、西近江宇佐山ニテ討死ス。今貴方、其地ヲ領シ給ヘバ、光秀無(キ)之ナラバ、父ガ落命(ラクメイノ)地(ノ)旨申立テ、西近江ヲ官領セバヤト、心中ニ深ク思ケル由聞及候トゾ被申ケル。日向守ハ具(ツブサ)ニ是ヲ聞ケレトモ、何ノ挨拶モナク、涙ヲ拭ヒテ私宅ヘゾ帰ケル。斯テ同月十九日、東照大君ヲ饗応馳走儀、惟任日向守ハ召離サレ、織田上野介ニ被仰付ケリ。【明智軍記】
五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。【宇野主水日記】
徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。【宇野主水日記】
五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず、【信長公記(桑田)】
五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめくらさたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候 【宗及茶湯日記他會記】
五月廿日、惟住五郎左衛門、堀久太郎、長谷川竹、菅屋玖右衛門四人に、徳川家康公御振舞の御仕立仰せつけらる。【信長公記(桑田)】
廿一日、(中略)安土より鵜善六の折帋越候、家康去十五日ニ安土へ御越候、御山にて御ふる舞候、十八日ニも家康御せんヲハ、上樣御自身御すへ候由候、各御供衆ニも、御てつから、ふりもミこかし御引候由候、御かたひら二つつゝ被下候、一つハ女はう衆ミやけとて、くれなゐノすゝし之由候、【家忠日記】 
信長、諸将に出陣の準備を命ずる
(信長は)四、五年前より毛利に対して始めた戦争を速に終らんと欲し、これを征服するためすでに羽柴殿を派遣してゐた。(中略)毛利は山口の王で十三カ国の領主であったが、大いに窮追せられたるを見て、全力を尽し死に至るまで戦はんと決心して多数の兵を集めた。羽柴殿は二万五千人を有するにすぎなかったので、信長に援兵を送らんことを請うたが、彼自ら来ることなく、三万人を派遺せば速に毛利の領国を占領し、その首を彼に献ずることができるであらうと言った。併し信長は自ら行くことに決し、都に来り、同所より堺に赴くこととし、毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成してシナを征服し、諸国をその子達に分ち与へんと計画した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
其翌日(廿二日)羽柴筑前守秀吉方ヨリ、飛札ヲ以テ被申上ケルハ、今度備中国ニテ、数箇所ノ敵城ヲ攻落シ、其ヨリ高松ト申無双ノ要害ヲ取巻候テ、種々工夫ヲ廻シ、川々トモヲ堰入(セキイレ)、水攻ニイタシ候処ニ、敵ノ総大将毛利右馬頭輝元評議シ、元就・隆元・我等迄相伝ノ所領ナルヲ、敵ニ奪レテハ叶マジトテ、(中略)拾万計ノ勢ヲ卒シ、高松ノ城後詰トシテ、安芸国ヨリ出張申ノ由註進セリ。信長公此旨ヲ聞召テ、其儀ナラバ急キ出馬セシメ、毛利ト合戦シ、有無ノ可決雌雄ト也。然共、諸軍ヲ催スノ間、可延引条、早々先勢計ヲ遣スベキトテ、書付ヲ以テ触ラレケルハ、池田勝三郎・同紀伊守・同三左衛門・堀久太郎・惟任日向守・長岡兵部太輔・同与市郎・同頓五郎・中川瀬兵衛・高山右近・安部仁右衛門・塩川伯耆守・同吉大夫、右十三頭ハ急キ致支度、来月朔日・二日ニ郷里ヲ立テ、備中国ヘ馳下、秀吉ガ可任指図ナリ。信長公・信忠卿ハ五、七日中ニ京都迄出陣有テ、諸軍ヲ集メ、来月八日ニ都ヲ出陣シ、中国ヘ下向可有也トゾ被書ケル。惟任ガ臣下共此触状ヲ見テ、大ニ怒テ申ケルハ、既ニ当家ハ一方ノ大将トシテ、京極・朽木ヲ始メ、宗徒ノ人々十八人組下ニ有レ之処ニ、此触状ニハ次第不同ノ端書モナク、光秀仮名(ケミヤウ)ヲハ半ニ載ラルヽ事、無法ノ儀ニ非ズヤ。剰(アマツサヘ)、秀吉ガ可任指図旨、奥書ニ記シルサルヽ事、旁(カタ/\)以テ無念ノ次第也。其上、今度徳川殿御馳走ノ品々故ナクシテ召上ラルヽ条、万(ヨロ)ヅ生涯ノ恥辱トコソ存候ヘト、泪ヲ浮(ウカ)メ申ケレバ、日向守家来共ノ鬱憤ノ様ヲ聞テ、実々(ゲニ/\)汝等ガ申通、先年日本国ヲ可平ク大将ヲ定メラルヽニ、北陸道ヲバ柴田修理亮、東山道ハ滝川左近将監、東海道ハ徳川殿、南海道ハ佐久間右衛門尉、山陽道ハ羽柴筑前守、山陰道并ニ筑紫ヲバ某(ソレガシ)ニ仰付ラル。依之、但馬国征罰ノ事度々訴訟セシカトモ、終ニ御許容無之シテ、山陽・山陰へ羽柴進発ス。如何ニ共量ハカリガタシ。其ノ上先月ヨリ以来、恨ヲ含ム儀多ケレトモ、古語ニ雖君不為君、不可臣以不為臣ト見ヘタレバ、必左様ニ恨申ベキニ非ズトテ、則触状ニ令判形、先々ヘゾ送リケル。然処ニ、青山与三ヲ上使トシテ、惟任日向守ニ出雲・石見ヲ賜フトノ儀也。光秀謹テ上意ノ趣承リシニ、青山申ケルハ、両国御拝領誠ニ以テ目出度奉存候。去ナガラ、丹波・近江ハ召上ラルヽノ由ヲ、申捨テゾ帰リケル。爰ニ於テ、光秀并家子・郎等共闇夜(アンヤ)ニ迷フ心地シケリ。其故ハ、出雲・石見ノ敵国ニ相向、軍ニ取結フ中ニ、旧領丹波・近江ヲ召上レンニ付テハ、妻子眷属少時(シバラク)モ身ヲ可置所ナシ。敵ハ毛利ノ輝元、安芸・備後・備中・周防・長門・豊前・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐以上十二箇国、先祖ヨリ持来レル大敵ナレバ、輙ク攻破リガタシ。丹波・近江ハ被取上、出雲・石見ハ難治メニ付テ、沖ニモ不出、磯ヘモ寄ザル風情ニテ、所々ニ尸(カバネ)ヲ曝サン事、口惜次第ナリ。昨日ノ触状ノ体、先日徳川殿御馳走ノ儀モ、敢ナク取放サレヌ。今日ノ趣何カニ付、鬱念不巡之存ズルナリ。佐久間右衛門尉・林佐渡守・荒木摂津守其外ノ輩、滅却セシ如ク、当家モ可亡ス御所存ノ程、鏡ニ掛テ相見へ候。前車ノ覆(クツガエス)ヲ見テ、後車ノ戒トスト云ル通リニ候ヘバ、以往(アナタ)ヨリ其色立無之以前ニ、謀叛ノ儀是非ニ思召立セ玉フベシト、忿(イカ)レル眼ニ涙ヲ{汀−丁+前(ソヽヒ)}テゾ申ケル。其者共ニハ、明智左馬助・同治右衛門・同十郎左衛門・妻木主計頭・藤田伝五・四天王但馬守・並河掃部助・村上和泉守・奥田左衛門尉・三宅藤兵衛・今峰頼母・溝尾庄兵衛・進士作左衛門、以上十三人トゾ聞ヘケル。光秀ハ黙然トシテ座セシガ、此時何レモニ向テ申ケルハ、抑、我等事、身ハ賤シヽト云トモ、源家累代ノ嫡流土岐伯耆守頼清ガ後胤トシテ、数代濃州明智ニ居住セシガ、弘治ノ比ヨリ永禄九年ノ冬迄ハ、越前ニ在(アリ)シヲ、信長頻リニ招カルヽニ付、則岐阜ニ往(ユキ)、其ヨリ武功ヲ励ミ次第ニ立身セリ。元亀二年ニハ、各ガ働キニ依テ、西近江ヲ討随へ、天正三年ニ丹波国ヲ可レ治由ニ付、彼国へ発向シ、弥(イヨ/\)何レモ粉骨ヲ尽シ、数箇年ノ間(アイタ)軍シテ、終ニ丹州ヲ手ニ入キ。織田家ニ来テ十七年ニ成ヌレトモ、強(アナガ)チ信長ノ譜代恩顧ト云ニハ非ズ。尤君恩トハ云ナガラ、唯某(ソレガシ)ガ武勇ノ鋒先ヲ以テノ故也。誠ニ昼夜安堵ニ不住シテ、今ニ至リヌ。然ルヲ、先月五月甲州ニ於テ、無利ノ儀ヲ仰立ラレ、信長直ニ拳ヲ以テ、三ツ四ツ光秀ガ面ヲ擣(ウチ)玉ヒ、又去十八日ニハ当城ニシテ、小姓ニ仰セ、無体ニ某(ソレガシ)ヲ打擲セラル。彼是前代未聞ナリ。其節憤リヲ含ムト云トモ、大行ハ不顧(カヘリミ)細勤(サイキンヲ)ト云事モアレバ、思(ヒ)鎮(シヅメ)テ退出セシナリ。殊ニ今係ル難題ヲ仰懸ラルヽニ付テハ、当家ノ滅亡ノ時節到来不及是非次第ナリ。左有(サアラ)バ、当月下旬ニハ、信長・信忠諸共ニ上洛有ベキト聞ナレバ、思知セ可申也。然ラバ、急ギ坂本・亀山ニ立越、残ル股肱の輩ニモ云談ジテ、謀ヲ廻ラスベシ。必(ス)何レモ隠密アルベシトテ、早々安土ヲ発足ノ刻、日来(ヒゴロ)数寄ノ道トテ、心知(ラ)ヌ 人ハ何トモ云ヘバ云ヘ 身ヲモ惜マジ 名ヲモ惜マジト打詠シテ、坂本ノ城ヘゾ帰リケル。【明智軍記】
芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、惟任日向守、長岡与一郎、池川勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
五日十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも/\、同事に本国へ罷り帰り候て、御陣用意候なり。【信長公記(桑田)】
信長は三万人を率ゐて羽柴殿を助け、毛利を亡ぼすことを彼(光秀)に命じた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信長公ハ不聞給(毛利との)和睦。依可有中國出馬。先立テ被命明智日向守。筒井順慶。細川兵部太輔父子。池田勝三郎父子。中川瀬兵衛。高山右近等三万五干余騎。【豊臣記】 
信長、上洛する
廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、召具侍從(兼見息兼治)至山科罷出、雨降、未刻御入洛、御迎衆各可罷歸之由先ニ御案内之間、則急罷歸畢、【兼見卿記(別本)】
廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、至山科罷出、數刻相待、自午刻雨降、申刻御上洛、御迎各無用之由、先へ御乱(森長定、乱丸)案内候(之カ)間、急罷歸了、【兼見卿記(正本)】
五月廿九日、信長公御上洛。
(中略)
御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。【信長公記(桑田)】
一日、丁亥、(中略)信長へ諸家御礼云々、予依神事不罷出、明日御礼可申入所存也、【兼見卿記(別本)】
一日、丁亥、(中略)信長へ諸家御礼、各御對面云々、予依神事明日可罷出覺悟也、【兼見卿記(正本)】
一日、丁亥、リ陰、雨、天霽、
一、前右府(織田信長、宿所本能寺)へ礼ニ罷向了、見參也、進物者被返了、參會衆者、近衞(前久)殿・同御方御所(信基)・九条(兼孝)殿・一条(内基)殿・二条(昭實)殿・聖護院(道澄)殿・鷹司(信房)殿・菊亭(今出川リ季)・{往−主+(匕*匕)、徳}大寺(公維)・飛鳥井(雅ヘ)・庭田(重保)・四辻(公遠)・甘露寺(經元)・西園寺亞相(實益)・三条西(公國)・久我(季通)・高倉(永相)・水無瀬(兼成)・持明院(基孝)・予・庭田黄門(重通)・勸修寺黄門(リ豊)・正親町(季秀)・中山(親綱)・烏丸(光宣)・廣橋(兼勝)・坊城(東坊城盛長)・五辻(爲仲)・竹内(長治)・花山院(家雅)・万里小路(充房)・冷泉(爲滿)・西洞院(時通)・四条(隆昌)・中山中將(慶親)・陰陽頭(土御門久脩)・六条(有親)・飛鳥井羽林(雅繼)・中御門(宣光)・唐橋(在通){犬−大+(寸−丶+(冫−丶))}也、其外僧中・地下少々有之、不及記−、數刻御雜談、茶子・茶有之、大慶々々、【言経卿記一】
信長公諸将ニ下知シ玉ヒケルハ、中国へ向フニ付、各用意ノタメ御暇下サルヽノ間、来ル六月五日・六日比ニ京都へ令参上ベシトゾ仰出サレケル。偖、御自身ハ、湯浅甚介・森蘭丸・金森義入斎ナド近習ノ人々二百騎計ヲ召具セラレ、上洛御坐テ、四条西洞院本能寺ニ著御(チヤクギヨ)セラル。城介殿ハ、斉藤新五・毛利新介・菅谷(スゲノヤ)九右衛門・福富平左衛門・団平八ヲ先トシテ、三百余騎ヲ引卒シ、岐阜ヨリ上京有テ、二条ノ城郭へ入玉フ。信忠卿ノ御舎弟織田源三郎勝長ハ、津田又十郎・同勘七以下ノ一族達ヲ催シ、尾州犬山ノ居城ヲ立テ、同ク京著シ、妙覚寺ニ寄宿セラレ、諸将ノ参向ヲゾ待レケル。【明智軍記】
五月廿九日、信長公御父子近臣僅の御人数にて御上洛、本能寺に御座候【綿考輯録】 
光秀、坂本へ帰国
五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで籤を取りたる由、申候。廿八日、西坊にて連歌興行、【信長公記(桑田)】
惟任日向守光秀ハ、同廿七日、三千余騎ヲ帥(ヒキイ)テ坂本ヲ発シ、白河越ニ掛リ、都ヘハ不入シテ、西ノ京ヲ過ギ、嵯峨ノ釈迦堂ニ至リ、爰ニテ家来共へ申サレケルハ、我聊カ寄願キグハンノ事有ニヨリ、愛宕山ニ詣テ通夜セシメ、明日丹州へ可レ行也。汝等ハ是ヨリ唐櫃越ヲ歴ヘ、又ハ大江山(オオエノヤマ)ニ懸リ、亀山へ参著スベシ。前日ヨリ彼道筋ノ里人ニ金銀ヲ与へ、竹木ヲ払ヒ、路次ヲ広ク作ラセタルゾ。其分相心得、道狭キ所アラバ、能様ニ可沙汰(ス)トゾ下知シケル。【明智軍記】 
光秀の決意
(信長は)三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準傭について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上り、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたと言うことである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもわからない。【回想の織田信長】
火曜日(天正10年5月29日)軍隊が城内に集った時、彼は四人の部将を招いて、密に信長とその子を殺して天下の主とならんと決心したことを告げたところ、彼等は皆驚いたが、彼がすでに決心した以上、これを援けてその目的を達するほかはないと答へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
水曜日(天正10年6月1日)の夜、同城に軍勢が集結していた時、彼は最も信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。とりわけ、彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長子を誤つことなく殺害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思い及ばぬ状況にあり、兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、更に彼の三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するために出発している。かかる幸運に際しては、遅延だけが(考えられる)何らかの心配の種となりうるであろう。
(中略)
一同は呆然自失したようになり、一方、この企画の重大さと危険の切迫を知り、他面、話が終ると、彼に思い留まらせることも、まさにまた、彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを見、感じている焦慮の色をありありと浮かぺ、返答に先立って、互いに顔を見合わせるばかりであったが、そこは果敢で勇気のある日本人のことなので、すでに彼がこの企てを決行する意志をあれほどまで固めているからには、それに従うほかはなく、全員挙げて彼への忠誠を示し生命を棒げる覚悟である、と答えた。【回想の織田信長】
彼は信長ならびに世子(信忠)が共に都に在り、兵を多く随へてゐないのを見て、これを殺す好機会と考へ、その計画を実行せんと決心した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
明智軍、亀山を発向する
六月朔日、夜に入り、丹波亀山にて、惟任日向守、逆心を企て、明智左馬助(秀満)、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐(利三)、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主(しゆ)となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草(みくさ)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老(おい)の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。【信長公記(桑田)】
山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申し候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺といふところもしり不申候。【本城惣右衛門覚書】
従軍の兵士たちは、毛利との戦いに赴くのに通らねぱならぬ道でないことに驚いたが、抜け目のない彼(光秀)は、その時まで何ぴとにも自らの決心を打ち明けておらず、かような無謀な企てが彼にあることを考える者は一人としていなかった。【回想の織田信長】
兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。【回想の織田信長】
彼(光秀)は実行方法につき命令を発し、何人も裏切ることなきやうその面前において武装せしめた。而して夜半出発し、都に着いた時すでに明方であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
天正十午ノ年六月二日。光秀公備中出陣之可有御暇乞とて。六月朔日ノ夜半計に。丹波之龜山迄被成御立候。【細川忠興軍功記】
六月朔日、中国へ発向スル勢揃ト号シテ、申ノ刻ニ及テ、日向守ハ、能条畑(ノウデウハタ)ニ打出テ、水色ノ幡(ハタ)ヲ立、軍勢ノ手組(テクミ)有テ、三手ニ分ツ。一手ハ、明智左馬助・四王天但馬守・村上和泉守・妻木主計・三宅式部、一手ハ、明智治右衛門・藤田伝五・並河掃部助・伊勢与三郎・松田太郎左衛門、自身ハ、明智十郎左衛門・荒木山城守・諏訪飛騨守・奥田宮内・御牧三左衛門ヲ先トシテ、酉ノ下刻バカリ、保津ノ宿ヨリ山中ニ懸リ、水尾ノ陵(ミサヾキ)ヲ徐(ヨソ)ニナシ、内々作ラセ置タル尾伝(オヅタヒ)ノ道ヲ凌(シノ)ギ、嵯峨野ノ辺ニ打出テ、衣笠山ノ麓ナル地蔵院迄著陣ス。左馬助ハ、本道ヲ歴ヘテ大江坂ヲ過、桂ノ里ニ打越ル。治右衛門ハ、王子村ヨリ唐櫃越ノ嶮難ヲヘテ、松尾ノ山田村ヲ通リ、本陣近クゾ寄合ケル。諸軍勢此形勢(アリサマ)ヲ見テ、中国ヘノ出陣ハ播磨路ニ可趣処ニ、只今ノ上洛ハ不審多キ事也トテ、武頭(モノカシラ)等ニ向ヒ其様ヲ尋シカバ、士大将是ヲ聞、謀叛ノ儀ヲ隠密シテ偽云ケルハ、織田殿ノ仰ニハ路次ノ程廻リナレトモ、当手(タウテ)武者押(ヲシ)ノ次第、京都ニ於テ御見物可有ニ付、如此ト聞及処ナリト答ケレバ、諸人実(ゲニ)モト思ツヽ、何心モナク、終夜(ヨモスカラ)駒ヲ早メテ、都近クゾ上リケル。爰ニテ光秀諸勢ニ触ラレケルハ、各兵粮ヲ仕ヒ武具ヲ固メヨ。敵ハ四条本能寺・二条城ニアリ。可攻討ト下知シケレバ、偖ハ野心ゾト心得テ、何レモ小荷駄ヲ招キ、支度ノ体不穏便(ナラ)ト云トモ、曽テ外ヘハ知ザリケル。【明智軍記】 
明智軍、京に向かう
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。【信長公記(桑田)】
都に入るに先立ち、都に入って信長に己(光秀)の率ゐた軍兵の優秀なることを示す必要上、十分の武装なすことを全軍に命じた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
銃は皆火縄に点火して引金に挟むことを命じ、鎗も整へさせた。部下はこれが何のためであるか疑ひ、或は信長の命により明智が信長の義弟三河の王(家康)を殺すのであらうと考へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
次て御人數可懸御目とて。堅木原に御人數立申候か。明智左馬之助光遠人數。京へ俄に出し申候。殘人數も押寄。無程本能寺に攻懸り候。【細川忠興軍功記】 
明智軍、本能寺を囲む
あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。
(中略)
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くび(濁ママ)とり申候。【本城惣右衛門覚書】
信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【信長公記(桑田)】
天王寺(本能寺の誤り)と称する僧院の附近に着いて、三万人は天明前僧院を完全包囲した。(中略)わが聖堂は信長の所より僅に一街を距てたのみであった故、キリシタン等が直に来て、早朝のミサを行ふため着物を着替へていた予[パードレ・カリヤンならん]に対し、宮殿の前で騒が起り、重大事件と見ゆる故暫く待つことを勧めた。その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は街の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こった何らかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリアン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。【回想の織田信長】
二日ノ曙ニ、明智左馬助光春ヲ武将トシテ、其勢三千五百余騎、本能寺ノ館(タチ)ヲ百重千重ニ取巻ケリ。又明智治右衛門光忠ヲ頭ニテ、軍兵四千余騎、二条城・同妙覚寺ヲ取囲(カゴ)メリ。総大将日向守光秀ハ、諸軍ノ命ヲ司(ツカサドツ)テ、二千余騎ヲ随へ、三条堀川ニ扣(ヒカ)ヘタリ。【明智軍記】 
明智軍、本能寺に突入する
それより内へ入候へバ、もんハひらいて、ねずミほどなる物なく候つる。【本城惣右衛門覚書】
明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がなかった【イエズス会日本年報(1582年追加)】
明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当っていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに低抗する者はいなかった。【回想の織田信長】
本能寺方ニハ、是ヲ夢ニモ不知(ラ)ケネニヤ。夜既ニ明ニケリトテ、総門ノ扉ヲ啓(ヒラ)キケル黎(コロヲヒ)ナリシニ、敵門外近ク進来リ、鉄炮ヲ打掛、開ケルヲ幸(サイハイ)ト門ノ内ヘ責入。此節、御内ノ兵僅(ワヅカ)九十余人也。其中ニ、森蘭丸長康ハ、鶴ノ丸付タル緇梅(クリムメ)ノ帷子ヲ著(チヤク)シ、太刀堤(ヒツサ)ゲ奥ノ方ヨリ表ノ椽行(エンガハ)へ、立出テ、三ノ是ニ御座アル所ナルニ、何者ナレバ斯ル狼藉ヲ致スラント、高声ニゾ呼(ヨバヽ)リケル。寄手ニハ、三宅孫十郎・四王天又兵衛・藁地甚九郎ト声々ニ名乗、真先ニ進タリ。【明智軍記】 
本能寺での戦闘
其くび(門外で討ち取った頸)もち候て、内へ入申候。さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハうちすてと申候まゝ、だう(堂)の下へなげ入、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。そこにてくび又一ツとり申候。其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。其折ふしハ、もはや人かず入申候。それヲミ、くずれ申し候。我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。其時、共ニくび以上二ツとり申し候。【本城惣右衛門覚書】
(明智軍は)内部に入って信長が手と顔を洗ひ終って手拭で清めてゐたのを見た。而してその背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて薙刀Nanginata、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其の後、御鎗(やり)にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深入り給い、内よりも御納戸の口を引き立て、無情に御腹を召され、【信長公記(桑田)】
或人は彼(信長)が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。併し我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである。
かくの如く速に信長を斃し、また官中に宿直してゐた少年貴族数人を殺した後、かの寺院を悉く焼いた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
(信長は)そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。【回想の織田信長】
二日之朝五ツ時分御殿に火をかけ。信長樣被遊御自害候。【細川忠興軍功記】
二日、戊子、リ陰、
一、夘刻前右府本能寺、へ明智日向守(光秀)依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、同三位中將(織田信忠)妙覺寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王御所)へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒(貞勝)已下悉打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻ニ上御所(内裏)へ御渡御了、言語道斷之爲躰也、京洛中騒動、不及是非了、【言経卿記一】 
本能寺から妙覚寺へ
二日、戊子、早天自丹州惟任日向守(光秀)、信長之御屋敷本應(能)寺へ取懸、即時信長生害、【兼見卿記(別本)】
二日、戊子、早天當信長之屋敷本應寺(能)而放火之由告來、罷出門外見之処治定也、即刻相聞、企惟任日向守(光秀)謀叛、自丹州以人數取懸、生害信長、【兼見卿記(正本)】
すでに都では、しだいに事件が明らかとなり、駈けつけた数名の殿は内部に入ることを望んだが、兵士たちが街路を占拠していたので、それが叶わず、嗣子(信忠)の邸宅(複数)に向かって引き返して行った。【回想の織田信長】
對信長公ニ明智光秀逆心ノ刻。光秀筒井へ使ヲ被指越ハ。信長公ニ怨甚依有之。本能寺へ押寄セ御腹メサセ。其ヨリ二條ノ屋形へ取詰。【大和記】 
信忠、二條御所に入る
三位中将信忠、此の由きかせられ、信長と御一手に御なり候はんとおぼしめされ、妙覚寺を出でさせられ候ところ、村井春長軒(貞勝)父子三人走り向かひ、三位中将信忠へ申し上け候趣、本能寺は早落去(らつきょ)仕り、御殿も焼け落ち候。定めて是れへ取り懸け申すべく候間、二条新御所(二条城)は御構へよく候。御楯籠り然るべしと申す。これに依りて直ちに二条へ御取り入り、【信長公記(桑田)】
引き取りて退かれ候へと、申し上ぐる人もあり。三位中将信忠御諚には、か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかゝり候ては後難無念なり。爰にて、腹を切るべしと仰せられ、御神妙の御働き、哀れなり。【信長公記(桑田)】
彼がこの報告に接した時には、まだ寝床の中にいたが、急遽起き上り、宿舎にしていたその寺院(妙覚寺)は安全でなかったので、駈けつけた武士たちとともに、近くに住んでいた内裏(正親町天皇)の息子(皇子誠仁親王)の邸(二条御所)に避難した。【回想の織田信長】
世子(信忠)はこの報を聞き、まだ床に就いてゐたが起出で、滞在してゐた寺院(妙道寺、妙覚寺の誤り)は安全でないと考へ、駈けつけた人々と共に附近にあった内裏の御子の居(二條御所)に赴いた。(中略)世子はこの邸に入ったが、甚だ急いで刀のほかは携へず、同所は内裏の御子の居で婦人のほかゐなかったため、武器はなかった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
親王ら、二條御所を出る
(二條御所での戦闘の)最中親王御方・宮・館女中被出御殿、上ノ御所へ御成、新在家之邊ヨリ、紹巴(里村)荷輿ヲ參セ、御乘輿云々、本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、【兼見卿記(別本二日条)】
右之於二条御殿双方乱入之最中、親王御方(誠仁親王)・若宮(和仁王)御兩三人・女中各被出御殿、上之御所(禁裏)へ御成、中々不及御乘物躰也、【兼見卿記(正本二日条)】
三位中将信忠、御諚(ごじょう)には、軍(いくさ)の巷(ちまた)となるべく候間、親王様、若宮様、禁中へ御成り然るべきの由、仰せられ、心ならずも、御暇請(イトマゴイ)なされ、内裏へ入れ奉り、爰にて僉議(けんぎ)区なり。【信長公記(桑田)】
内裏の御子(誠仁親王)はかくの如き客を迎へて甚だ当惑され、都の総督村井殿Muraidono(京都所司代村井貞勝)が世子に随ってゐたので、その進言に従ひ、馬上その街に来てゐた明智のもとに使を遣はして、いかにすべきか、己もまた切腹すべきかと尋ねられた。明智は何も要求するところなく、ただ直にその邸を出で、信長の世子(信忠)が逃るることなきやう、馬に乗らずまた駕籠に乗らぬことを希望した。内裏の御子はこの報に接して婦人等と共に出で、上の都の内裏の宮殿(上御所、禁裏)に向はれた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
(信長の)嗣子とともに都の副王(所司代)である村井(貞勝)殿がいたが、その進言に従って、内裏の息子は馬にまたがったまま、外側の街路にいた明智の許へ使者を派遺し、自分はいかになすべきか、切腹すべきかどうかを糺した。明智は、殿下(Sua Alteza)に対しては何もしようとは思っておらず、ただちに同所から出られるが良いと思う。ただし、信長の息、城介殿が逃亡することがあってはならぬから、馬や駕籠で出ることがないように、と答えた。内裏の息子はこの報告に接すると、その女たちとともに彼の父の邸に入るため上京に向かった。【回想の織田信長】 
二條御所での戦闘
同三位中將陣所妙見(覺)寺ヘ取懸、三位中將二条之御殿(誠仁)親王御方御座也、此御所ヘ引入、即以諸勢押入、三位中將生害、村井親子三人(貞勝・清次・貞成)、諸馬廻等數輩、討死不知數、【兼見卿記(別本二日条)】
三位中將爲妙覺寺陣所、依此事而収入二条之御殿(下御所)、即諸勢取懸、及數刻責戰、果而三位中將生害、此時御殿悉放火、信長父子・馬廻數輩・村井親子三人(貞勝・清次・貞成)討死、其外不知數、【兼見卿記(正本二日条)】
明智治右衛門以下ハ、二条ノ要害、同ク妙覚寺并京都ノ所司代村井長門入道長春ガ堀川ノ館ナドヲ遠巻シテ、尺地ヲ余サズ取包、本能寺ヲ隔(ヘダチ)シガ、信長公ヲ討亡シ凱歌(カチドキ){口+童(ドツ)}ト挙ケレバ、所々ノ敵共是ヲ聞テ、偖ハ我身ノ上ニ迫リヌルヨト思シカバ、信長公ノ四男織田源三郎勝長・其叔父津田又十郎長利・村井春長軒并勝竜寺城代猪子兵助等ハ、秋田城介信忠卿ノ御座(ヲハシマ)ス二条城へ馳入、四方ヲ払テゾ籠リケル。【明智軍記】
明智左馬助妙覺寺襲。【佐久間軍記】
御敵、近衛殿御殿へあがり、御構へを見下し、弓鉄炮を以て打ち入り、手負死人余多出来。次第/\に無人になり、既に御構へに乗り入れ、火を懸け候。三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴/\、宗従の家子郎等、甍(いらか)を並べて討死。【信長公記(桑田)】
世子(信忠)はよく戦ひ、弾創、矢傷を多く受け、明智の兵は遂に勝ち、邸内に入って火を放ち、多数の人は焼死した。世子もまた焼死者の中にあった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
(二条御所の)内部にいたのは、選抜された重立った武将たちであったので、実によく奮闘し、一時間以上にわたって戦ったが、外部の敵は多く、よく武装されていた上に、大量の鉄砲を具備していたので、内部からの低抗は困難をきわめた。その間、嗣子(信忠)は非常に勇敢に戦い、銃弾や矢を受げて多く傷ついた。かくて明智の軍勢はついに内部に侵入し、火を放ったので、多数の者が生きながら焼き殺された。その中に混じり、信長の世継ぎの息子は、他の武士たちとともに不幸な運命のもとに生涯を終えた。【回想の織田信長】 

五月廿一日、家康公御上洛。此の度、京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、上意にて、御案内者として、長谷川竹、相添へられ、織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門両人は、大坂にて家康公の御振舞申しつけ候へと、仰せつけられ、両人大坂へ参着。【信長公記(桑田)】
廿一日、戊寅、天リ、
三位中將(織田信忠)殿・參川{往−主+(匕*匕)、徳}川(家康){犬−大+(寸−丶+(冫−丶))}上洛了、【言経卿記一】
(五月)廿一日 城介殿も甲州より御歸城。今日徳川召供アリテ、京都へ御入洛云々。五三日洛中見物にて、堺■■(ノ津)見物徳川殿可有御越云々。堺ノ茶湯者共ニ被仰付、徳川殿事いかやうにも振舞馳走可仕云々。友感法印ハ兼日ニ下津アリテ、徳川殿まかなひ方ノ儀被申付云々。【宇野主水日記】
五月廿七八日比歟(家康)御上洛アリ、於京都御茶湯御遊覧等可在之云々。【宇野主水日記】 
大坂
天正十年春信長樣御代。大坂之御城御本丸は。丹羽五郎左衛門長秀殿御預り。千貫矢倉は。織田七兵衛に。御預け被成被召置候由之事。【細川忠興軍功記】
この時三七殿と称する信長の第三子(信孝)は、前に述べたとほり堺に在り、その父が彼に与へた四カ国を攻略するため、兵を率ゐて行く準備をしてゐたが、その父と兄との死を聞いて、直に引返して復讐する準備を始めた。而してまづ信長の長兄(弟信行)の一子七兵衛殿Xichinbeoidono(信澄)といふ彼の従兄弟を殺して安全を計らんと考へた。
(中略)この青年(信澄)は信長に父を殺され、また明智の一女と結婚してゐたので、何人も彼が岳父(光秀)と共に信長の死を計ったであらうと考へた。この青年は当時信長の命によって、丹羽五郎左衛門といふ他の貴族と共に堺より三レグワの所に在る大坂の城を守ってゐた。
(中略)
彼(信孝)の従兄弟(信澄)は彼を入城せしめぬやう大いに努力し、その兵が彼と共に入城することを許さなかったので、兵は町に留めた。彼は同所に二日ゐた間にに五郎左衛門(丹羽長秀)と協議し、大いに警戒して塔の最高所に留りかつて室外に出なかったその従兄弟を殺す手段を定めた。彼を殺すために用ひた策略は、城の第二の司令官である五郎左衛門が三七殿を船まで送り、偽って三七殿の兵と五郎左衛門の兵との間に喧嘩を起し、従兄弟が殺さるることを惧れて城を出でず、その兵もまた出なかったので、五郎左衛門は負けたる真似をして城に逃込み、三七殿の兵はこれを追って入城した後、一団となって従兄弟の兵の多数を殺した。従兄弟は塔内にゐたが、或は自殺したと言ひ、或は少年の武士等に殺されたとも言はれてゐる。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
然は七兵衞殿色か立。御本丸方かこひ被申體に相見へ申候に付。五郎左衞門殿御本丸より。千貫矢倉へ鐵炮。稠敷打掛被申候。下々わきこほれ申候を。三七樣御手にて數多御打取被成候故。無程七兵衞殿も。切腹被成候事。【細川忠興軍功記】
二日早天より、信長ノ宿所本能寺へ、惟任日向守取懸、信長ヲ討果了。城介殿ハ、二條ノ下御所ヘトリコモラレ候ヲ惟日人數御寄相戰、城介殿ヲモ討果云々。
(中略)
如此アリテ、惟任日向守達存分訖。其節、三七郎殿、惟住五郎左大坂ニ在城アリテ、七兵衞殿ヲ於大坂生害サセ了。【宇野主水日記】
六月五日、於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿・五郎左衛門兩人之爲御覺悟之儀也、即、首ヲ堺之北之ハシニカケラレ候、【宗及茶湯日記他會記】
大坂ニハ神戸三七信孝・丹羽五郎左衛門・蜂屋出羽守以下会合シテ申サレシハ、近所尼个崎ノ城主織田七兵衛信澄ハ、則三七殿ノ従弟ナレトモ、敵味方ノ儀未分明(ナラ)。但シ、信澄ノ父武蔵守信行ヲ、先年信長公無故シテ殺害セラル。其時分、信澄ハ幼稚ナレバ何ノ弁(ワキマ)ヘモナカリシニ、成仁(セイジン)ニ随テ、伯父ナガラモ信長ハ父ノ仇ナリト、思籠給由風聞アリ。其上、明智日向守ガ聟ナレバ、旁(カタ/\)以テ心底如何共量(ハカリ)ガタク候ヘバ、神戸殿ヨリ御使ヲ立ラレ、此地へ呼参セラレ、実否ヲ糺サルヘシト各評議イタシケリ。因(リ)茲(コレ)、使者尼个崎ニ至ケレバ、七兵衛尉武運ヤ尽タリケン。何ノ思案モナク、小勢ニテ大坂へ参ラレケル処ニ、信孝ノ家臣峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水出向ヒ、会釈スル体ニ持(チ)成(ナシ)、中ノ間迄賞(シヤウ)ジ入、敢ナク七兵衛ヲ討留タリ。信澄モ最期ヨク脇指ヲ抜、峰竹・山路両人ノ者共ニ、手ヲ負セラレケルトカヤ。其時家来三十余人、主君ノ討レ玉ヒケル声ヲ聞テ、座敷ノ上へ走上リ、面々ニ相働キ、各討死ヲゾ遂ニケル。【明智軍記】
大坂ニハ三七信孝。四國赴カンタメ堺ニ有。丹羽五郎左衛門長秀。信孝ヲ大坂へ招入。織田七兵衛信澄[光秀聟、有大坂]ヲ殺シ。長秀。池田信輝ト相議光秀ヲ撃ト秀吉へ通。【佐久間軍記】
信澄カ與力朽木河内吉武次左衛門夜更。來丹羽長秀宅。兩人ハ依所領。假リニ屬信澄者也。依信長公ノ不忘芳恩。告信澄逆心。明曉信孝長秀攝州出勢ノ時。信澄發兵。使長柄川不殘可討取謀之云々。長秀感之。相議信孝。未明ニ攻入千貫櫓。微勢ニシテ剩被越先難防自害ス。【豊臣記】 

徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也、【今井宗久茶湯日記書抜(五月廿九日条)】
同五月廿九日ニ、徳川殿堺へ被成御下津(堺へ行く)候、庄中ニ振舞之儀、從宮法被仰付候而、請取/\いたし(次から次と順番をうけて)候而仕事ニ候、【宗及茶湯日記他會記】
(五月)廿九日 徳川堺見物トシテ入津。穴山同前。其晩ハ、宮内法印にておほ(ちカ)つきの振舞アリ。【宇野主水日記】
六月一日 朝、宗久にて茶湯朝會。晝、宗牛(天王寺屋宗及)にて同斷。晩ハ宮内法印にて茶湯。其後幸若ニ舞ヲまはせ候(られカ)樣酒宴有之。徳川殿に、案内者トシテ城介殿よりハ杉原(家次)殿。上樣よりハお竹(長谷川秀一)ヲそへられ訖。彼兩人も座敷へ被出云々。堺南北ノ寺庵ノ(ニカ)寄宿。【宇野主水日記】
同六月一日晝 徳川殿 穴山 長谷川御竹殿 【宗及茶湯日記自會記】
今朝、於京都 上樣惟日カ爲ニ御生害の由、友閑老ヨリ申來候、【今井宗久茶湯日記書抜(六月二日夕条)】
家康モ二日ニ從堺被歸候、我等も可令出京と存、路次迄上り申候、天王寺邊ニ而承候、宮法モ從途中被歸候、【宗及茶湯日記他會記(六月二日条)】
三七殿が報道を得たのは未だ(四国征討のための)船に乗らぬ時であって、二時間後には出発して明智と戦はんと欲した。然るにその兵は各地から集合した者であった故、変事を聞いて大部分は彼を棄てて去った。彼は望を果すことの不可能なことを見て、後の従兄弟七兵衛殿(信澄)のゐた大坂に赴いた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
此時。家康公。泉州堺ニ御座。亂ノ發ヲ聞召。御上洛有テ光秀ヲ撃ト被仰ケレトモ。御勢不足ニヨリ。後戰ヲ期。江州信樂ヲヘテ勢州ニ出御。爰ニ柴田源六勝之。甲州以後安土ノケイエイニ居。信長公御事ヲ聞馳登。道ニヲイテ奉參會。勢州白子マテ供奉ス。【佐久間軍記】 
徳川家康、堺を出る
二日朝徳川殿上洛。火急ニ上洛之儀候、上樣安土より廿九被ニ御京上之由アリテ、それにつき不□(イ本ふた/\)と上洛由候也。これは信長御生害ヲ知テ、計畧ヲ云テ上洛也。【宇野主水日記】
徳川家康公、穴山梅雪、長谷川竹、和泉の堺にて、信長公御父子御生害の由承り、取る物も取り敢へず、宇治田原越えにて、退かれ候ところ、一揆どもさし合ひ、穴山梅雪生害なり。徳川公、長谷川竹、桑名より舟にめされ、熱田湊へ船着なり。【信長公記(桑田)】
於京都、上樣(信長)を討果申由有其聞。そのまゝ家康も歸國トテ堺ヨリ被出了。【宇野主水日記】
三河の王(徳川家康)と穴山殿(梅雪)と称する人はこの報に接し、即日急にその国に行くため引返した。三河の王は多数の兵と賄賂とすべき黄金をもってゐたため、困難はあったが通行ができて国へ帰った。穴山殿は少しく遅れ、兵も少かったため、途中で掠奪に遭ひ、財物を奪はれまたその兵を殺され、非常なる困難を経て逃れた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
三日、ふり初尾安部三郎殿より越候、己丑、雨降、京都酒左衞門尉所より、家康御下候者、西國ヘ御陣可有之由申來候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申來候、酉刻ニ、京都にて上樣ニ明知日向守、小田七兵衞別心にて、御生かい候由、大野より申來候、
四日、此方御人數、雑兵共二百餘うたせ候、庚寅、信長御父子之儀秘定候由、岡崎緒川より明知別心也、申來候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衞殿別心ハセツ也、【家忠日記】
明智光秀對信長公逆心之節。權現樣(徳川家康)ニハ穴山梅雪御同道ニテ。攝津國堺ノ浦ニ被成御座候處ニ。京都ノ樣子御聞被遊。取物モ取敢ズ。境ヨリ直ニ大和路江御退被遊候。大和ニハ筒井殿光秀方被致ト御聞被遊。御氣遣ニ思召。先大和ノ國ト河内ノ境。竹ノ内峠ト申處ヨリ。布施左京方へ御使アリ。此邊ノ案内御頼可被遊由也。布施申上ルハ。唯今ノ折柄ニ候間。京郡へ聞へ如何奉存候ヘトモ。案内者進上仕候トテ。家老吉川主馬之助ト云者ヲ。竹内峠マテ指遣ス。則此者ヲ被召連。其道筋ヲ直ニ東ノ方へ。御先ハ穴山殿都合。三百計ニテ御通被遊候處ニ。竹内峠ヨリニ里半計東ニ。屋木ト申處御座候。其東ノ町ハズレニ。天神山ト申小キ山御座候カ。其山隠ヨリ石原田ト申候大和中ノ惡黨者。五十人計罷出。時ノ聲ヲアゲ鐵炮ヲ五六挺打懸申候。梅雪ハ不及申。權現樣ニモ二三町御引退被遊候所ニ。右ノ主馬之助眞先ニ進テ。惡黨トモヲ追拂候故。其所ヲハ無事ニ御通被遊候。(中略)亦者カマノ口ト申所御通被遊候カ。其處ノ出家ヲ御頼被遊候トモ申候。夫ヨリ山傳ヒニ伊賀路へ御越被遊。漸漸參河へ御入遊サレ候由申候。【大和記】 
鷺森
三日五時分、京都之儀、堺より申來。追々方々より注進有之。其趣者、二日早天より、信長ノ宿所本能寺へ、惟任日向守取懸、信長ヲ討果了。城介(信忠)殿ハ、二條ノ下御所ヘトリコモラレ候ヲ惟日人數御寄相戰、城介殿ヲモ討果云々。【宇野主水日記】 
変直後の京
六月二日、辰の刻、信長公御父子、御一門、歴/\討ち果たし、明智日向申す様に、落人あるべく候間、家/\を{打−丁+八(捜)}せと、申しつけ、諸卒洛中の町屋(チヤウヲク)に打ち入りて、落人を{打−丁+八}事、目も当てられず、都の騒動、斜ならず。【信長公記(桑田)】
明智の兵は街々の家を探し、信長の家臣、貴族及び殿達を発見し、その首を斬ってこれを差出した。首は明智の前に山をなし、死体は市街に遺棄された。都の住民は事の結末がいかになるか心配し、明智が家に匿れてゐた者を殺さんとして都に火を放つであらうと考へた。我等カザにゐた者が一層惧れたところは、明智が悪魔及び偶像の友であり、我等と親しからず、デウスの教を嫌ってゐたのみならず、我等は信長の庇護を受けた者である故、火をカザに放たせ、その部下が聖堂の物を掠奪するであらうことであったが、町智は都の街々に布告を発し、市を焼くことはない故、安堵し、彼が成功したことを喜ぶべく、もし兵士にして害を加ふるものがあれば、これを殺すべしと言った。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
明智は、都のすべての街路に布告し、人々に対し、市街を焼くようなことはせぬから、何も心配することはない。むしろ、自分の業が大成功を収めたので、ともに歓喜してくれるようにと呼びかけた。そしてもしも兵士の中に、市民に対して暴行を加えたり不正を働く者があれば、ただちに殺害するようにと命じたので、以上の(掠奪・放火に対する)恐怖心からようやく元気を挽回するを得た。【回想の織田信長】
三日、(中略)京都酒左衞門尉所より、家康御下候者、西國ヘ御陣可有之由申來候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申來候、酉刻ニ、京都にて上樣ニ明知日向守、小田七兵衞別心にて、御生かい候由、大野より申來候、【家忠日記】 
光秀、京を出る
悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢、【兼見卿記(別本二日条)】
事終而惟日大津通下向也、山岡(景隆、近江勢多城主)館放火云々、【兼見卿記(正本二日条)】
京より直ちに勢田へ打ち越し、山岡美作・山岡対馬兄弟、人質出だし、明智と同心仕り候へと、申し候のところ、信長公御厚恩浅からず、忝きの間、中々同心申すまじきの由候て、勢田の橘を焼き落し、山岡兄弟居城に火を懸け、山中へ引き退き候。爰にて手を失ひ、勢田の橋つめに足がゝりを拵へ、人数入れおき、明智日向守、坂本へ打ち帰り候。【信長公記(桑田)】
ことを成し終って、明智は兵を率ゐて朝の八、九時頃都を出で、当地より四レグワの所に在り、坂本Sacamotoと称する彼の城に赴いた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
光秀公より沼田權佐御使に被遣。忠興樣御人數被召連。急き御上り被成候樣にと。被仰進侯。御返事。此度は助被歸候。重て參候はは御誅伐可被成候迄。承届歸申候事。【細川忠興軍功記】
四日、庚寅(×辰)、洛中騒動不斜、【言経卿記一】 
光秀、安土城に入る
都より安土山までは十四レグワであった故、この悲しい報知は同日(二日)昼の十二時頃同地に達した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信長がしばらく前に作らせたばかりの、日本随一と言われる瀬田の橋と称する美しい橋があり、その下をかの二十五レーグアの湖水(琵琶湖の水)が奔流しており、橋際に監視だけを使命とする指揮官と兵士がいる砦があったが、彼(指揮官)は、信長の訃報に接すると、明智の軍勢があまり迅速に、安土に向かって通過できぬように、異常な注意深さをもってただちに橋梁を切断せしめたからである。そのために、次の土曜日まで通行できなかったが、明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された。【回想の織田信長】
五日、辛卯、日向守安土へ入城云々、日野蒲生(賢秀)在城、無異儀相渡城之由説也、【兼見卿記(別本)】
五日、辛卯、日向守入城安土云々、日野蒲生(賢秀)在城、不及異儀相渡云々、【兼見卿記(正本)】
土曜日に明智は安土山に着いたが、諸人が逃亡してゐたため少しの抵抗もなく、信長の宮殿と城を占領し、城の最も高い所に登って、信長が金銀および各種貴重品を満したと言はれる蔵を開いた。ここには日本中のよいものが皆集めてあったが、これを十分にその部下に分った、信長が十五年乃至二十年の大なる骨折と戦争によって得たものを、二、三日の間に貴族達には身分に応じて分配し、低い者には己の意に従って黄金を分ち与へた。高貴な人達には各々金の一両ychirios一千すなわち七千クルサドを与へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
都に禅宗すなはち現世の後には何者もなしといふ宗派の主要な僧院が五カ所あり、これを五山Gosamと称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長のために葬儀を行はせた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信用できる権威ある人々が我々司祭に語ったところによると、武将たちの中には金の棒で七千クルザードを与えられた者も幾人かいたと言われる。なぜなら、すべてこのように正確に、配分がすでに取り決められていたからである。(なお)他の者は三、四千クルザードを(支給し)、日本全土の国王である内裏には、後に好意を得ようと、二万クルザード以上を贈呈した。五山と称せられる五つの重立った寺院があるが、(その)おのおのに対しては、信長ならびにその長男の葬儀と供養を営ましめるため数千クルザードを贈った。(中略)幾人もの貴人や貧者にそれらを配布し、更にただその(財産の)臭だけをかぎつけて同所へ急ぎ集まって来た未知の人々にも二百ないし三百クルザードを与えていた。【回想の織田信長】 
光秀、畿内の平定に心を砕く
三日、己丑、雨降、日向守至江州相働云々、【兼見卿記(別本・正本)】
四日、庚寅、江州悉属日向守云々、【兼見卿記(別本)】
四日、庚寅、江州悉属日向守、令一反(變カ)云々、【兼見卿記(正本)】
六日、壬辰、自勸修寺黄門(晴豊)書状到來云、御用之儀在(有)之、早々可祗候之旨仰也、即向勸黄門、令同道祗候(誠仁)親王御方、御對面、直仰云、日向守へ爲御使罷下、京都之義無別義之樣堅可申付之旨仰也、仰畏、明日即可致發足、段(緞)子一卷可被遣之、即請取、退出仕了、【兼見卿記(別本)】
六日、壬辰、自勸黄門(晴豊)書状到來、御用之間早々可祗候之由申來、即刻祗候了、親王御方御對面、直仰曰、日向守へ爲御使可被下之旨仰也、畏之由申入、明日可致發足之旨申入、段(緞)子一卷被遣之、請取退出了、自御方御所(近衞信基)者無御音信之儀、【兼見卿記(正本)】
七日、癸巳、至江州下向、早々發足、
申下刻下着安土、佐竹出羽守小性新八、爲案内者、召具新八令登城、跡ヨリ予登城、門外ニ暫相待、以喜介(鈴鹿)罷下之由日向守へ案内、次入城中、向州對面、御使之旨、卷物等相渡之、忝之旨請取之、予持參大房フサ之鞦一懸遣之、今度謀叛之存分雜談也、蒲生未罷出云々、
令下山城、町屋一循、錯乱之間不弁之爲躰也、【兼見卿記(別本)】
七日、癸巳、至江州安土發足、喜介(鈴鹿)・小十郎・与一・弓源三郎・弓金十郎・中間与左衞門・小五郎・孫六・与三郎、人夫二人、申下刻下着安土、召具佐竹羽州案内者一人、新八、以此使者申案内登城、門外ニ暫相待、次入城申、日向守面會、御使之旨申渡、一卷同前渡之、予持參大房鞦遣之、次退城、一宿町屋、不弁之体迷惑了、當國悉皈附、日野蒲生一人、未出頭云(々脱力)、【兼見卿記(正本)】
八日、甲午、早天爲上洛發足畢、日向守上洛、諸勢至路次罷出訖、明日至攝州手遣云々、先勢山科・大津陣取也、午下刻在所(吉田郷)へ罷上令休息、令祗候委細申入畢、御方御所(誠仁親王)樣御對面、直申入畢、【兼見卿記(別本)】
八日、甲午、早天發足安土、今日日向守上洛、諸勢悉罷上、明日至攝州手遣云々、先勢山科・大津陣取也、予午下刻□(皈カ)宅、令体(休)息、參禁中、御返事申入了、【兼見卿記(正本)】
九日、乙未、早々日向守折紙到來云、唯今此方へ可來之申、以自筆申來了、飛脚直令出京之間、不及返事、未刻上洛、至白川予罷出、公家衆・攝家・清花、悉爲迎御出、予此由向州ニ云、此砌太無用之由、早々先へ罷川可返申之由云々、即各へ云、先至在所、公家衆來也、次向州予宅ニ來、先度禁裏御使早々忝存、重而可致祗候、只今銀子五百枚、兩御所(禁裏・誠仁親王)へ進上之、予相心得可申入之由云、五百枚進上之、以折紙請取之訖、此次五山へ百枚ツヽ遣之、予ニ五十枚、此内廿枚被借用、大徳寺へ百枚遣之、不寄存知仕合也、
於小座敷暫逗留、方々注進、手遣之事被申付也、次進夕食、紹巴(里村)・昌叱(里村)・心前(里村)・予相伴、食後至下鳥羽出陣、路次へ送出申礼畢、及晩進上之銀子五百枚持セ罷出、先向勸黄門、即令同道祗候、長橋御局(高倉量子、實父薄以諸)披露也、御方御所御對面、委細申入訖、被成奉書之間、直下鳥羽之陣所へ罷向、銀子之御礼、奉書ヲ向州へ見之、忝之旨相心得可申入也、入夜皈宅、【兼見卿記(別本)】
九日、乙未、早々自江州折帋到來云、唯今此方へ可來之由申了、不及返事、飛脚直出京、即予爲迎罷出白川、數刻相待、未刻上洛、直同道、公家衆・攝家・清華、上下京不残爲迎至白川・神樂岡邊罷出也、向州(惟任光秀)云、今度上洛、諸家・地下人礼之義(儀)堅停止之由被申、於路次對面勿論、於此方無對面之義也、次至私宅、向州云、一昨日自禁裏御使忝、爲御礼上洛也、随而銀子五百枚進上之由、以折帋予ニ相渡之、即可持參候(之カ)由申訖、次五山之寺へ百枚宛各遣之、大徳寺へ百枚、予五十枚、爲當社之御修理賜之、五山之内依不足、賜予五十枚之内廿枚借用之、次於小座敷羞小漬、相伴紹巴(里村)・昌叱(里村)・心前(里村)也、食以後至下鳥羽出陣、次進上之銀子五百枚令持參罷出、以勸黄門(晴豊)申入候(之カ)処、親王御方御對面、委細申入訖、銀子長橋御局(高倉量子、實父薄以緒)披露了、【兼見卿記(正本)】
十日、丙申、(中略)日向守至攝州相働云々、
西天王祭礼也、乱中之間無神幸之儀、餝神輿、備神供、【兼見卿記(別本)】
十日、丙申、(中略)日向守至河州表相動云々、西天王祭礼也、依乱中無神幸之儀、餝神輿、安鎭假殿了、【兼見卿記(正本)】
十一日、丁酉、日向守至本陣下鳥羽歸陣、淀之城普請云々、【兼見卿記(別本)】
十一日、丁酉、向州至本陣下鳥羽皈陣、淀之城普請云々、【兼見卿記(正本)】
明智が信長を殺した時には、都に接した津の国の殿達ならびに重立った貴族は毛利との戦争に赴いてゐたのに、明智が盲目であって直に同日の諸城を占領させなかったことは、その滅亡の因となったのである。(中略)明智は右近殿が帰城の上、必ず己の味方となるものと考へ、人をジュストのもとに遺はして、少しも心配せず依然城を守るべしと伝へた。高槻の家臣達は偽って時宜に適した返答をなし、これによって明智は安心し、人質としてその子を求めず、また我等を捕へることもしなかった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
信長の義兄弟の守護した勝竜寺Xorenziといふ重要な城を取った。同所で彼の味方に投ずる者を待ち、また羽柴殿がいかなる処置をなすか見んとしてゐた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
明智は都から一レーグアの鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝龍寺と称する、都から三レーグア離れた非常に重要な一城を占拠していた。彼はその辺りにいて、自分の許に投降して来る者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見極めようとした。(中略)そして津の国の者たちが、予期したように、自分に投降して来ないのを見ると、彼は若干の城を包囲することを決意して、高槻に接近して行った。【回想の織田信長】
光秀公より沼田權佐御使に被遣。忠興樣御人數被召連。急き御上り被成候樣にと。被仰進侯。御返事。此度は助被歸候。重て參候はは御誅伐可被成候迄。承届歸申候事。【細川忠興軍功記】
光秀公は三七樣。五郎左衞門殿。御打果可被成候間。筒井順慶に人數出し候へは。洞か峠にて御待合可被成と。被仰遣候へは。則人數出し可申と申に付。中一日二夜。洞か峠に野陣被成。筒井御待被成候事。【細川忠興軍功記】
對信長公ニ明智光秀逆心ノ刻。光秀筒井へ使ヲ被指越ハ。信長公ニ怨甚依有之。本能寺へ押寄セ御腹メサセ。其ヨリ二條ノ屋形へ取詰。信忠公ニモ御自害被雖候。然ハ御手前ト某事。數年ノ親ミ此時ニ候條味方ニ與シ玉フニ於テハ可爲本望候。於左候ニハ大和紀伊和泉三箇國可進ノ由被申越候。順慶モ家臣ヲ集メ評議區々ノ處ニ。何モ家老ドモ申ハ。兎角明智ノ味方ヲ被成可然ノ旨。申候トモ。松倉右近申ハ。先出馬可有之旨。御返答被成。八幡山マテ御出被成彼地能要害ノ處ニ候條。暫御在陣候得テ。樣子御見合可有。【大和記】
都に接した津の国の殿達ならびに重立った貴族は毛利との戦争に赴いてゐたのに、明智が盲目であって直に同日の諸城を占領させなかったことは、その滅亡の因となったのである。この諸城は信長の命によって破壊されて居り、兵士がゐなかった故、五百人を率ゐて行けば諸城から人質を取り、己の兵を城に入るることは容易であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
細川藤孝(幽斎)・忠興
毛利輝元殿大軍にて後卷に出被申候。秀吉公無勢にて御座候に付。御加勢被仰請候。然は明智日向守光秀殿。筒井順慶并忠興樣。此三人迄可被遣と。被仰出候。何も御陣御用意被成候事。【細川忠興軍功記】
三日(愛宕下坊)幸朝よりの飛脚(早田道鬼斎)宮津に来る、藤孝君・忠興君御仰天御愁傷甚し、暫有て藤孝君被仰侯は、我は信長公の御恩深く蒙りたれは、剃髪して多年の恩を謝すへし、其方事光秀とは聟舅の間なれは彼に与すへきや、心に任せらるへしと有、忠興君御落涙被成、御同意にて倶に御薙髪被成侯、扨光秀より沼田権之助光友(光寿院様の御弟無程忠興君に仕へて改直次)使として来り、又書簡を以御父子を招かれ候、
 覚(一本覚之字無之)
一御父子もとゆひ御拂之由尤無余儀候、一旦我等も腹立候へ共、思案之程かやうにあるへきと存候、雖然此上は大身を被出侯而、御入魂所希候事、
一国之事内々摂州を存当侯て、御のほりを相待侯つる、但若之儀思召寄侯ハヽ、是以同前候、差合きと可申付侯事、
一我等不慮之儀存立候事、忠興なと取立可申とての起(イ儀)ニ候、更無別条侯、五十日百日之内ニハ近国之儀可相堅候間、其以後は十五郎・与一郎殿なとへ引渡申候而、何事も存間敷候、委細両人可申候事、
  以上
 六月九日            光秀判
右御本書有之、堅紙也、当所は無之、
一本兵部太夫殿と有は誤なり
如斯なれ共、御同心なく弥御義心を励され侯、此時より藤孝君御隠居にて、御国を忠興君へ御談被成、御剃髪にて幽斎玄旨と御改被成候、【綿考輯録 第一巻 巻四】
六月三日、御出馬可被成とて松井・有吉等之御先手ハ宮津より半道計押出し、犬の堂迄至る比ニ、愛岩(宕)下坊幸朝僧正より之飛脚泥足ニ而御広間ニ走上り文筐差出侯、其子細は昨二日明智殿の人数俄ニ襲来り、信長公御父子本能寺と二条御所ニ而御切腹被成候との注進也、【綿考輯録 第二巻 巻九】
忠興樣は六月三日に。備中へ御出陣被成候に付。丹後宮津御居城之外に。犬堂と申所迄。御人數押出し御出相待申候所。愛宕下坊より飛脚。泥足にて御廣間へ走上り。文笈指出申候を。取次上け申候。忠興樣早御法體被遊。御出被成。信長樣御父子共に御腹被爲召候注進に候。御人數打入可申迄。被成御意候に付。御人數引入申候事。【細川忠興軍功記】
忠興君ハ信長公の弔ひ合戦の為丹波の国に攻入り二ケ所之端城を攻落され、羽柴秀吉に使を馳て光秀か逆意に与せす、丹波に攻入り支城二ツ攻落侯との御注進有(一ニ此使米田甚左衛門・三上友蔵とあり)、摂州江も飛脚を被遣、信孝并丹羽長秀ニ通して光秀に御一味なき旨を告られ侯(一ニ松井康之より告ると有)、【綿考輯録 第二巻 巻九】 
本願寺顕如
六月十一日ニ惟任日向守へ御書。使ハ少進もの也。飛脚同前之分也。御文體ハ、今度屬御存分之儀。就其御入魂被頼入トノ事也。但此使途中ニアル間ニ、日向守合戰ニ打負、討死ニつきて、路次より罷歸云々。【宇野主水日記】 
徳川家康、その後
五日、辛卯、城江出仕候、早々歸候て、陣用意候へ由被仰候、伊勢、おハりより家康へ御使越候、一味之儀ニ候、ふかうすへかへり候、
六日、壬辰、雨降、日待候、來八日ニ東三川衆、岡へ御より候、爰元衆ハ御左右次第之由、酒左より申來候、
七日、癸巳、かりや水野宗兵へ殿、京都にてうち死候由候、
八日、甲午、小田七兵衞、去五日ニ大坂にて、三七殿御成敗之由候、
九日、乙未、雨降、西陣少延候由申來候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、
十日、丙申、明後日十二日出陣候へ之由、酒左より申來候、
十一日、雨降、丁酉、夫丸出し候、陣十四日迄相延候由にて、夫丸よひ返候、宗兵衞殿苅屋へ御越候由候、
十三日、己亥、雨降、岡崎迄越候、城へ出候、
十四日、庚子、鳴海迄越候、
十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、伊勢かんへより注進候、
十六日、壬寅、雨降、明十一日ニ津嶋へ陣替可有由申來候、
十七日、癸卯、酒左手寄衆計津嶋へ陣替候、
十九日、乙巳、羽柴筑前所より、上方一篇ニ候間、早々歸陣候への由申來候て、津嶋より鳴海迄歸候、【家忠日記】 
中国大返し
(秀吉は)信長の死を聞くや、毛利がこれを聞く前に己に有利な平和を彼と結んだ。而る後殿達は急いでその城に帰り、羽柴殿自らも明智と戦争をする準備をした。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
毛利の諸国の征服者である羽柴の陣営では、敵方に先立って信長の死を知ると、すでに彼らを大いなる窮地に追いこんではいたが、羽柴は有利な立場で彼らと和を講じた。そしてただちに殿たちは、急遽、自身の居城に帰還し始め、当の羽柴も明智と一戦を交えに行く準傭を完了した。【回想の織田信長】
山崎迄十二日ニ着陣、即、我等モ爲見廻參、堀久大郎殿路次ヲ令同道候、即十二日ニ筑州ハ富田ニ御在陣也、【宗及茶湯日記他會記(六月十二日条)】
同(六月)五日秀吉直家(宇喜多)拂陳。一月一夜經廿七里打入姫路。輕可息人馬處。光秀語織田七兵衡信澄手合河州旨。八日酉ノ刻聞姫路。信孝於生害可爲武勇瑕瑾。九日出姫路。十一日至攝州富田。【豊臣記】 
明智軍、山崎に陣取る
十二日、戊戌、在所之構普請、白川・浄土寺・聖護院人足合力也、
日向守敵歟、自山崎令出勢、於勝龍寺西足軽出合、在(有)鉄放軍、此近邊放火【兼見卿記(別本)】
十二日、戊戌、在所之構、南之外堀普請、白川・浄土寺・聖護院三卿(郷)之人足合力也、自攝州山崎表へ出足軽、勝龍寺之西ノ在所放火、此義ニ近可(所カ)衆驚、止普請各皈在所、【兼見卿記(正本)】
光秀公筒井御待被成。洞か峠に御座候處。大坂より七兵衞殿切腹被成候。又秀吉公は備中より御上り被成候。早兵庫迄御着之由之注進。被聞召候に付。其儘洞が峠御引取被成候て。狐川を渡り。山崎表へ御人數御集被成。先手は山崎へ被押向。御籏本は隠坊塚に御人數御立被成候由之事。【細川忠興軍功記】
一番ノ中備ハ、明智十郎左衛門光近・柴田源左衛門・奥田宮内・同市助・斉藤内蔵助・溝尾庄兵衛・後藤喜三郎・磯野弾正・阿閉淡路守・多賀新左衛門・鳥山主殿助・久徳六左衛門、其勢五干騎、左ノ先手ハ、村上和泉守清国・山本対馬入道山入・津田与三郎・進士作左衛門・伊勢安房守・上野筑後守・杉原讃岐守・伊藤志摩守・庄田権之助・松本主膳、其勢二千七百余騎、右備ハ、藤田伝五行政・向藤三・伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門・舎弟勘兵衛・詑美隠岐守・桜井新五左衛門・逸見木工允・香川刑部、其勢二千、又山ノ手へ向ケルハ、並河掃部易家(ヤスイヱ)・同息八助・松田太郎左衛門・妻木忠左衛門・荻野彦兵衛・波々伯部権ノ頭・加治石見守・酒井孫左衛門・和田木工助、其勢三千余騎、光秀ガ旗本ハ、中沢豊後守知綱(トモツナ)・三宅孫十郎・比田帯刀・村越三十郎・開田太郎八・堀口三ノ丞・同三太夫・隠岐内善ヲ先トシテ、其勢五千、総人数合テ壱万八千二百余騎也。【明智軍記】 
山崎の戦い
十三日、己亥、雨降、申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟、【兼見卿記(正本)】
播州より羽柴攝州有岡城入城アリテ、ソレヨリ三七郎殿一味ニ、山崎表へ打上リ、日向方ノ衆、十三日ニ山崎ニテ及一戰。日向守キリマケ、敗軍シテ一万計討死。日向守ハ山科ニテ一揆ノ手へ討捕之。【宇野主水日記】
明智の兵は甚だ急いで逃亡し、(中略)その途中に明智が占領してゐた城(勝竜寺城)も安全でないと考へ、午後二時当地(都)を通過した。彼等は急走するに槍も銃も荷物となるので、悉く道に棄てて走った。我等は住院よりその逃亡するを見たが、通過するに二時間余を要した。多数は都に入らんことを欲したが、市民はその市内に入ることを防ぐため門を閉ぢた。よって彼等は明智の主城坂本に向ったが、村々の盗賊その他各所の人々が出て、彼等の馬及び剣を奪はんためこれを殺したので、坂本に着くことができなかった者が多数であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
明智軍敗退
果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川一条(乘)寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守令敗軍、取入勝龍寺云々、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、落人至此表不來一人、堅指門數(マヽ)戸、於門内用心訖、今度南方之諸勢、織田三七郎・羽柴筑前守・池田紀伊守(恒興)・丹羽五郎左衞門(長秀)・蜂屋(頼隆)・堀久太郎(秀政)・矢椰善七(家定)・瀬兵衞尉(中川清秀)・多羅尾、二万余取卷勝龍寺云々、然間、南方衆此表へ不來一人也、【兼見卿記(正本十三日条)】
大将日向守ハ、猶是迄モ本陣牀机(ショウギ)ノ上ニ坐シケルガ、今ハ某(ソレガシ)一戦シテ万卒ノ報恩ニ尸(カバネ)ヲ曝スベシトテ、馬挽寄(ヒキヨセ)乗ントシケルヲ、比田帯刀申ケルハ、此戦場ニシテ御命ヲ失セ給ハン儀、末代迄モ知慮ノ様ニ相聞候ハン事口惜覚候間、先々勝竜寺ノ城ニ引入玉ヒ、其上ニテ、如何様ニモ御存分ニ任セラルベキニテモヤ候ラント申ケル処ニ、進士作左左衛門貞連(サタツラ)・溝尾庄兵衛茂朝(シゲトモ)等太刀打折、甲ノ前立モ切落サレタル体ニテ馳参シ、帯刀同前ニ諫言申ニ付、其儀ナラバ免モ角モ各計(ハカラウ)ベシトテ、比田ヲ先打ニテ、漸ク七百余騎ヲ相具(アイグ)シテ、其日ノ暮程ニ勝竜寺ニゾ籠リケル。【明智軍記】
都から敗戦の地(山崎)まで四レグワあったが、その途中に明智が占領してゐた城(勝竜寺城)も安全でないと考へ、午後二時当地(都)を通過した。彼等は急走するに槍も銃も荷物となるので、悉く道に棄てて走った。我等は住院よりその逃亡するを見たが、通過するに二時間余を要した。多数は都に入らんことを欲したが、市民はその市内に入ることを防ぐため門を閉ぢた。よって彼等は明智の主城坂本に向ったが、村々の盗賊その他各所の人々が出て、彼等の馬及び剣を奪はんためこれを殺したので、坂本に着くことができなかった者が多数であった。
(中略)
明智(光秀)は同日午後一部の兵と一緒に前に占領した勝竜寺の城に入った。その後全軍が追撃して来り、都までも聞えた程終夜銃を放ち、また城の周囲の家屋に火を放って警戒してゐた。(中略)天明に至って城は降伏した。明智は城内にゐては安全でないと考へ、宵の口に主城坂本に向って逃げた。彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、聖母の祝日にはどこか知れぬところに隠れてゐた。(中略)隣むべき明智は隠れてゐて、坂本の城に連れ行かんことを農夫等に請ひ、黄金の棒を多く与ふることを約したが、彼等は刀と黄金を奪はんと欲し、槍で刺して彼を殺し、首を斬った。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
聞くところによれば、同日の午後、明智は戦場から約二レーグアほどのところにある勝龍寺城に閉じ籠っており、間もなく(明智の)全軍が彼のところへ来たが、狡滑な彼は夜は隠居していた。なぜなら彼はもはや、自分とともに内部にいる者を信用しようとしなかったからである。とはいえ、外にいた者は大いに警戒に努め、一晩中、発砲し続けていたのが都まで聞こえ、よく敵を見張るために城の周囲で盛んに火をたいた。【回想の織田信長】
哀れ明智は、隠れ歩きながら、百姓らに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。【回想の織田信長】
同十三日ニ於山崎表かつせんあり、惟日まけられ、勝龍寺へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗かけられ候、
同六月十六日ニ我等も上洛いたし候、首共見候也、【宗及茶湯日記他會記】
夜更明智勝兵衛。進士作左衛門。村越三十郎。堀池與次郎。山本義入。三宅彌十郎随從シテ過伏見。小栗栖ニシテ當郷人鉾極運難遁落馬。各雖介錯絶入ヌ。無爲方討首投叢退散ス。五十五歳。【豊臣記】
勝竜寺ニ軍立為何(イカヽ)セント評議セシ処ニ、城代三宅藤兵衛申ケルハ、名将此小城ニ御坐(ヲハシマサ)ン事、武略ニ拙キニ候ヘバ、急キ坂本ヘ御帰城有テ、御計策候ハヾ然ベク奉存候。御跡ノ儀ハ並河八助・中沢豊後守モ、唯今山手ノ陣ヨリ遁来リ、丹波武者三百計相見候間、此勢ト引合セ、某(ソガシレ)当城ニ相怺(コラ)ヘ、敵寄来ナバ一戦ヲ遂トゲ、見苦ク無之様ニ可仕ト申ケレバ、光秀実(ゲニ)モトヤ思ヒケン。村越三十郎・堀与次郎・進士作左衛門ヲ先打トシ、溝尾庄兵衛・比田帯刀ヲ後陣トシテ其勢五百余騎、十三日ノ亥刻ニ勝竜寺ヲ出、川端ヲ上リニ、北淀ヨリ深草ヲ過ケルニ、家来共終日ノ戦ニ人馬共ニ草臥(クタビレ)ケレバ、或ハ疲伏(ツカレフシ)、又ハ落失テ、雑兵共ニ漸ク三十余騎ニゾ成ニケル。斯テ、十四日丑ノ剋計、小栗栖ノ里ヲ歴ヘケル処ニ、郷人共蜂起シテ、落人ノ通ルニ物具剥(ハゲ)ト{匍−甫+言(ノヽシ)}ル声シテ、鑓ヲ以テ竹垣ゴシニ無体ニ突タリケル。日向守ハ、馬上六騎目ニ通(リ)シ処ニ、薄運ニヤ有ケン。脇ノ下ヲゾ撞レケル。其時、是ハ何者ナレバ狼藉ナリト云ケレバ、郷人鑓ヲ捨皆々北去(ニゲサリ)ヌ。斯テ、三町計往過(ユキスギ)タレトモ、彼鑓疵痛手ナレバ、光秀道へ傍ニ馬ヲ乗寄、鎗ヲ田ノ中ニ立置ケル。是ハ鎗ヲステヽ逃タルト、後人ニソシラレジトナリ。扨、溝尾庄兵衛茂朝(シケトモ)ニ申ケルハ、唯今手負タレバ坂木迄ハ行付ガタシ。然レハ、爰ニテ自害セント思フナリ。是ハ辞世ナリ。汝ニ与ヘントテ、鎧ノ引合ヨリ一紙ヲ取出スル。溝尾謹デ是ヲ見ルニ、
 逆順無二門  大道徹心源
 五十五年夢  覚来帰一元
   明窓(ミヤウソウ)玄智禅定門
トゾ書ケル。是ヲ読ケル間ニ、光秀脇指ヲ抜テ、腹一文字ニ掻切ケレバ、茂朝驚キナガラ、即介錯シケリ。【明智軍記】
十三日、惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、伊勢守(伊勢貞興)已來(下)三十余人打死了、織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、二条屋敷(下御所)日向守、放火了、首共本能寺ニ被曝了、
十五日、惟任日向守醍醐邊ニ{空−工+牛、牢}籠、則郷人一揆ト{夕−厂}打之、首本能寺へ上了、【言経卿記一】 
山崎の戦い、その後
十六日、癸酉(壬寅)、三七郎殿其外諸勢至安土下向云々、數万騎不知數之由申訖、向州頸・筒(胴)体、於本應寺曝之云々、【兼見卿記(正本)】
十七(×六)日、日向守内齋藤(内脱)藏助(利三)、今度謀叛随一也、堅カタ田ニ{空−工+牛、牢}籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了、【言経卿記一】
齋藤内蔵介十七日ニ車さた也、即首ヲ被切候也、【宗及茶湯日記他會記】
十八日、乙亥(甲辰)、生捕齋藤内藏助上洛、令乘車渡洛中、於六条川原刎首、日向守同前曝之、於片田(堅田)伊加伊(猪飼)半左衞門搦取云々、【兼見卿記(正本)】
廿三日、庚辰(己酉)、日向守・齋藤内藏助・築頸塚粟田口之東■■(路次カ)之北云々、自廿二日築之云々、奉行{鏨−斬+秋}原・村井清三、【兼見卿記(正本)】 廿九日、乙卯、向州之家中衆弥平次(明智秀滿)親、在城丹州横山(天田郡福知山城)、今度生捕上洛云々、【兼見卿記(正本)】
(七月)二日、戊午、天リ、
一、粟田口ニ去  (マヽ)日ニ、明智日向守(光秀)首・ムクロ{犬−大+(寸−丶+(冫−丶))}相續、張付ニ懸了、齋藤(内脱)藏助(利三)同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、今日又明智弥兵次(秀滿)父(三宅出雲)六十三才、召取、生張付ニ同所ニ被懸了、【言経卿記一】 
安土・坂本
十五日、壬申(辛丑)、安土放火云々、自山下類火云々、(中略)侍從(兼和息兼治)云、向州事秘(必カ)定也、於路次見之由申訖、坂本之城、天主放火云々、高山次右衞門付火切腹云々、【兼見卿記(正本)】
安土山においては、津の国において起った敗亡が聞えて、明智が同所に置いた守将(明智光春)は勇気を失ひ、急遽坂本に退いたが、あまり急いだため、安土には火を掛けなかった。(中略)附近にゐた信長の一子がいかなる理由によるか明でなく、智力の足らざるためであらうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。【イエズス会日本年報(1582年追加)】 
吉田兼和
十四日、庚子、昨夜向州退散勝龍寺云々、未聞落所、津田越前入道來云、今度日向守當所へ來、禁裏其外五山へ銀子配分之儀、今度於御陣所執々其沙汰、曲事之旨也、有樣慥可申入之由、織田三七郎御使云々、即請宅、以直面一々申理了、不承伏氣色也、皈京了、則參禁裏、右之旨申入之處、親王御方(誠仁親王)御對面、具猶申入了、三七郎方へ早々被遣御使可被下之由申入候(之カ)處、被成御意得之旨仰也、後刻爲柳原亞相(淳光)御使陣所へ下向了、令退出、向徳雲軒(施藥院全宗)、此義相談候(之カ)処、不苦儀也、羽柴筑前守聊不可有存分、早速可申理、今日三井寺陣所也、明日者早天江州へ手遺也、先{鏨−斬+秋}原(桑原貞也)方へ可申遣之由徳(施藥院全宗)云、最(尤)也、菟角存分次第任之由申訖、徳使者・予使者左馬允(鈴鹿定繼)、兩人{鏨−斬+秋}原方へ申遣了、{鏨−斬+秋}原返事云、此義更不苦義也、最前之御使越前入道(津田)者、不可有三七殿之義、可爲私之存分也、惣別如此不届仕合、京中方々度々儀也、連々拘置武衞(織田信孝)之門、武衞へ可申遣之由、{鏨−斬+秋}原存分、直武衞へ遺使者之処、且以無御存知、然者被召寄越前入道可被相尋之由使者申候(之カ)処、今朝令他行、于今不歸宅之由返事也、{鏨−斬+秋}原如推量、越前私之義也、重而若申來者、留置其人可注進之由、{鏨−斬+秋}原存分之由申訖、先以安堵了、次禁裏之御使柳原(淳光)皈、御返事云、此義三七郎且以不申付、曲事也、所詮搦捕其者可有注進之由、堅固之存分也、對予折帋到來、見于左、
津田越前對其方難題申懸之由候、抑我等不申付事、何之輩申懸候哉、不審候、所詮其者搦捕、其者可被上候、若及異儀(脱アルカ)可申付、恐々謹言、
 六月十四日 三七 信(織田三七郎信孝)
  吉田神主(兼和)殿
忝之旨申入退出、皈在所各申聞、安堵了、【兼見卿記(正本)】
廿二日、己卯(戊申)、宮内卿法印(松井有閑)上洛之時、罷向面會、帷越後一、持參、連々信長ヘ奏者、今度當方馳走也、仕合祝着、随而日向守此方へ來銀子配分之事、一々申理了、
三七郎殿諸勢濃州へ下向云々、本陣へ差下左馬允、御朱印之次(繼)目三七殿へ申入、(又カ)先度銀子配分之樣、各々以条書、奥以誓言申入了、可相談水無瀬兵衞督之由申合、【兼見卿記(正本)】
村井清三申觸云、向州預物・近衞(前久、龍山)殿御物等、令糺明可出之由□以雜色相觸了、向徳雲軒、帷木布一、持參、最前早□(速カ)馳走之儀也、弥羽筑(羽柴秀吉)取合憑入之由相談了、別而入■■(魂也カ)、【兼見卿記(正本廿三日条)】 
近衞前久
廿日、丁丑(丙午)、近衞相國(前久、號龍山)、自三七殿可有御成敗之旨依洛中相觸、御方御所(近衞信基)御身上御氣遺御迷惑也、出京之刻、流布之間祗候了、内府(信基)御身上聊無別義之由、{鏨−斬+秋}原・長谷川宗仁祗候了、【兼見卿記(正本)】
 
本城惣右衛門覚書

 

信長襲撃の際、一番に本能寺に突入したと述懐する本城惣右衛門による、その時を伝える一文です。
あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。
明智(光秀)が謀反し、(織田)信長様に腹を召させた時、本能寺に我等より先に入ったという人がいたら、それは全て嘘です。
其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。
その理由は、信長様に腹を召させようとするとは、夢にも知りませんでした。
其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。
その頃、太閤様(羽柴秀吉)は備中(現岡山県)にあって、(毛利)輝元殿と合戦の最中でした。(信長様より)明智に対して、その助勢に向かうようご指示がありました。
山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申し候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺といふところもしり不申候。
山崎(京都府乙訓郡)に向かって進んでおりましたが、意外にも、京へ(向かう)との指示がありました。我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。本能寺がどこにあるかも知りませんでした。
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。
隊の中から、騎馬の二人が出て参りました。誰かと思えば、斎藤(利三)内蔵介殿の子息(と)小姓の二人が、本能寺の方に向かいましたので、我等はその後に続き*1、近くの町*2に入りました。
それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。
その(騎馬の)二人は北の方*3に向かいました。我等は南の堀沿いに東に進みました。
ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くびとり申候。
本道*4に出たところで、端のところに人が一人いましたので、すぐにその首を取りました。
それより内へ入候へバ、もんハひらいて、ねずミほどなる物なく候つる。其くびもち候て、内へ入申候。
それから(本能寺の)中に入りましたが、門は開いていて、鼠でさえもいない様子でした。取った首を持って中に入りました。
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。
恐らく北門から入った(と思われる三宅)弥平次殿と母衣衆の二人が、「首は捨てろ」とおっしゃるので、堂の下に投げ入れ、本堂に入りましたが、広間には誰もいませんでした。蚊帳が吊ってあるばかりで、人はおりません。
くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。
庫裏の方に、下げ髪の白い着物を着た女がおりまして、この女を捕らえましたが、侍は一人もおりませんでした。(その女は)「上様は白い着物をお召しです」と言うのですが、(それが)信長様のことだとは知りませんでした。その女を斎藤(利三)内蔵介殿に渡しました*5。
御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。
御奉公衆(信長の家臣)は袴に肩衣で、股立を取り、ニ三人が本堂の方へ入って行きました。
そこにてくび又一ツとり申候。其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。其折ふしハ、もはや人かず入申候。それヲミ、くずれ申し候。我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。
そこ(本堂)で又首を一つ取りました。その者は、一人で奥の間から、帯もせずに、刀を抜き、浅黄色の帷子を着て出て来ました。その頃には、既に多くの味方が攻め入っておりました。それを見て、敵は崩れました。我等は吊ってある蚊帳の陰に隠れ、その者が出て来て、前を通り過ぎようとしたので、後ろから切りました。
其時、共ニくび以上二ツとり申し候。ほうびとして、やりくれ被申候。
その時の首と(門外で取った首と)合わせて二つ取りました。褒美として槍を頂きました。
のゝ口ざい太郎坊ニい申候。
のの口ざい太郎坊*6の配下にいた時のことです。 
*1 本能寺の場所を知らなかったために、斎藤内蔵介子息らの後に続いたということでしょうか。
*2 広い堀川小路(堀川通)を北上して、四条坊門小路(蛸薬師通)に入ったということではないかと思います。
*3 四条坊門通(蛸薬師通)と油小路の交差する辺りでのことと思います。斎藤内蔵介子息らは油小路を北へ、本城らは四条坊門を東に進んだようです。
*4 「本道」は「大きい通り」を意味し、西洞院通かと思います。
*5 このことから、本城は斎藤内蔵介の率いる隊に属していたと考えられます。
*6 別項に「のゝ口ざい太郎坊ニ付候へと被申候」とあり、本城の上官でしょうか。 
 
明智軍記

 

巻第一 
壱.美濃国守護の事 / 附記・明智入道宗宿が事
よくよくと日本や中国の伝記から国家の興亡や人の存亡を考えてみると、ただこれは人の心の善悪によってその分岐点で別の道を進んでいって、終には盛衰・吉凶が決まってしまう。天は良い事をする人には幸いを、悪い事をする人には禍を与える。これは必然の道理であって今も昔も日本でも中国でも違った事はない。天道は、本当に畏るべきものだ。道理をわきまえない人は良くない事をすると身に禍が降りかかってくる事が分からない。それどころかその危うさを軽く見て、その亡んでいくさまを楽しんで、他人が諫言してくれることを鬱陶しくおもう。例えて言えば、病気になっているのに病院に行かないようなものだ。それがむしろ自分の身を亡ぼしていくとも知らない。悲しいことだ。
ここに昔にさかのぼって美濃国の国主の土岐氏の先祖を辿ってみると、源頼光から数えて七代目の子孫源光基の子息土岐光衡という人がいて彼は文治年間に源頼朝卿から美濃国の守護職を賜った。そしてこの国に居城を移した。光衡から数えて五代目の土岐頼清は足利尊氏公の時代まで美濃国を治めてその子孫は繁栄して嫡子の土岐頼康、次男の明智頼兼、三男の揖斐頼雄、四男の土岐頼忠そのいずれも分家相続を行った。その後土岐頼忠の六代目の子孫土岐芸頼の代になって各々の分国を治める政道はそれまでにないものとなった。世は戦国時代。隣国が計略を廻らして美濃国をうかがわないということは無かった。この頃、土岐家の家臣に斎藤竜基というものがいた。日頃から伊尹・召公の志を学び、韓信・張良の兵術をわきまえて、不正を正して、民をいたわったので他の家臣を始め主家土岐一族に至るまで主君の芸頼の愚かなこと歎き、美濃国が他国に奪われるのではと悲しんでいたた。そのため、美濃国民は皆竜基に従ったので美濃国は無事に治まっていた。その後竜基は出家して道三と号した。その子息義竜が道三に引き続いて美濃国を治めたので国民は平和な国になったと誇りに思った。そういうところに、美濃国が傾いてしまう原因の一端があったのであろうか。義竜は常日頃から嫡子たる竜興を差し置いて次男の竜重や三男の竜定を可愛がり、ゆくゆくはこの二人に斎藤家を譲ろうと思うといっていたた。それを知った竜興は立腹して親子間に対立がおこり、とうとう弘治二年の夏に竜興は義竜が狩にでる隙を窺って弟二人を偽って適当な理由で呼んで家来の日根織部と長井助右衛門に命じて殺害させた。その後井の口の因幡山の本城まで取って返して父に対しての謀反の意思を表明した。義竜は狩り場においてこのことを聞き、無念この上なしと思ったけれども突然のことだったのに加えて家臣の大半が竜興の下についてしまったためどうしようもなく婿の尾張国主織田信長に援軍を依頼したがなにぶん遠いためうまく行かなかった。義竜は寡勢で鷺山というところに陣を構え、井の口の城に向き合って親子の合戦を行ったけれどもついに衆寡敵せず、同年四月二十日享年四十八にて息子の竜興のために討死させられてしまったことはいたましいことだ。
そのころ義竜についた家臣の明智光安という人物がいた。彼は明智頼兼の七代目の子孫の明智光継の次男で兄の光綱が早死にした後、東美濃の明智というところに居城を構えていたが、土岐家が逼塞した後は斎藤道三に従っていて特に情けをかけられていた。義竜とも同じく懇ろだったので君臣水魚の思いだったところに、今度の竜興が親の義竜を殺してしまった事を怒って明智の館に篭城した。竜興はこれを聞いて長井隼人佐を大将として二階堂出雲守、遠山主殿助、大沢次郎左衛門、揖斐周防守、舟木大学、山田次郎兵衛、岩田茂太夫をはじめとして総勢三千騎余りを発し、同年八月五日に明智城に押し寄せ昼も夜も無く攻め立てた。城内でもかねてからこの日ある事を予期し待ち受けていたので勇敢な士卒、騎馬武者達は何度か城外へ打って出てここが死に場所と必至で防戦した。しかし、元々光安は一万貫の領主だったため城内に篭った兵は僅かに三百八十騎、義ということを頑なに守る勇敢な兵とは言え、度重なる合戦で次々に討たれていって残る兵は少なくなってきたため、光安が必死に督戦してもこれ以上は持ち堪えられなくなった。そのため同年九月二十六日の夕刻に弟光久と一緒に華やかに討死にをして後世に名を残した。同じ時に光安は甥の光秀も一緒になって討死にしようとするのを光秀の鎧の袖を掴まえて言うには
「それがしは亡君の恩に報いるためにここに殉じる。しかしそなたはここで死ぬべき身ではない。生き延びて家名を再興してもらいたい。それこそが先祖への孝行となるのだから。そのうえ光秀は明智家の嫡孫でもありまた殊の外その勇才は優れた人物で並みの人とも思えない。そこで私の息子光春と甥の光忠をもどうか連れていってもらいたい。そしてどのようにでも育ててきっと明智家を再興してもらいたい。」
としきりに諫言されたので光秀はその意を汲んで城を去るほか無くなった。そして一族を伴って涙を流しながら城を抜け出し、郡上郡を経て越前の穴馬というところに一族を落ち着かせ、自分は諸国を廻った後に越前に留まって太守の朝倉義景のもとに仕えて五百貫の領地を授かった。 
弍.越前従り加賀一揆を鎮むる事
そうしているうちに月日は流れ永禄五年の秋、加賀の人民が一揆をおこして越前の大名朝倉義景の命令を聞かなくなった。そもそも加賀・能登・越中は以前から一揆が蜂起して一向宗の本山摂津国大坂の本願寺に随って勝手にしだしたため、先の弘治元年に越前から朝倉宗滴を大将として数万騎の兵を遣って数ヶ月に及ぶ合戦を経て手取川を国境として半国に及ぶ地域を越前の領土としていた。このように北陸では戦時下にあったため、米穀が京都に上らなかったので朝廷の愁いははなはだしかった。このため、将軍足利義輝は天皇のお考えを伺って、将軍から命をうけた大館左衛門佐、武田治部少輔が越前まで赴き朝倉家と本願寺の争いを収めて朝倉義景の娘を本願寺の跡継ぎ教如とめあわすようにと詰問した。両者はその意に従って和解した。このため加賀を本願寺に返させた。これより暫くは平穏になっていたところにまた、加賀の悪党達が納米を大坂に運送せずに好き勝手にしはじめたので、教如の父の顕如上人から朝倉家へこの事の経緯を弁明してきたため、加賀にその意を伝えたが聞き入れなかった。それどころか柏野、杉山、倉橋、千代などというところに要害を造って国を往来する荷物を理不尽にも奪い取るようになった。このため、皆義景の下に訴えてきて歎いたのでこれは放置できないと北庄城主の朝倉景行を大将として青蓮華景基、野尻主馬助、黒坂備中守、溝江大炊介、武曽采女、深町図書、細呂木薩摩守以下都合三千八百余騎が加賀へ向けて出発して月津、御幸塚、庄、安宅、敷地に陣取って一揆方へ使者を送り、
「先年の約束を破って大坂に納米を上らせないとはどういうことだ。それどころか荷物の通行を妨害するということはとんでもないことだ。そのため事の是非をはっきりさせるためにここまで来た。おまえ達の考えによっては厳しく征伐するつもりだ。」
と言わせると石川郡尾山の一揆の大将坪坂伯耆という者からの返事が来て
「御使者の言う所は分かりました。おっしゃるとうりに昔の約束に随うべきだとは思いますが、皆と相談すのでそれまで暫くお待ちいただけないでしょうか」
と言ってきた。しかしどうも怪しく思ったのでそれぞれの陣所を堅く閉ざしてしばらく様子をみていたところに青蓮華景基の陣所がある御幸塚の東の方にひとつの気が立って南にたなびきだした。皆これを知らなかったが青蓮華景基に従っていた明智光秀はこの軍気に気づき急いで景基に言上していうにいうには
「東の方に一つの気が立っていて南を侵しています。これは戦闘を始めようとするときに起こるものです。ゆめゆめ御油断なされませぬように。」
景基はすぐに光秀を連れて高台に上り軍気を見分し、諸隊に一層固く守るように通達した。そうしていた所に九月二十日の夕方になって一揆勢が雲霞のごとく殺到してきた。景基は前からその陣の外に堀や柵を構えていたため全く騒がずに静まり返って待ち受けていたところ、先陣の一揆の大将金剛寺三郎右衛門という者が一揆勢二千を引き連れて太鼓を打って南方から攻めてきた。味方の兵が非常に近くまで敵を引き寄せたところに明智光秀、明智光春、明智光忠を筆頭に優れて鉄砲の名手が五十人、櫓に登り鉄砲を釣瓶落しに撃ちかけたところ、一揆勢は鉄砲という言葉は知っていてもどのようなものか知らなかった。そのため草のように立ち並んでいたのでどうしてこらえ切れようか。一向宗徒三百余人将棋倒しのように為す術も無く打ち倒された。一揆勢はこれを恐れて矛先を変えて東の陣に押し寄せたがそこを守っている中に朝倉家きっての大力の強者、真柄直隆とその息子真柄隆元、並びに随伝坊がいた。かれらは逃げ腰の一揆勢がやってきたのをみると三騎のみで木戸の小門から打って出た。この真柄親子はこの当時日本に並ぶもの無き大力無双のもので、愛用の太刀は越前の千代鶴という鍛冶の有国と兼則という者達と相談して七尺八寸(約2m34cm)に作らしたもので「太郎太刀」と名づけた。従者4人がかりで担ぐ大太刀なのを直隆は軽々と引提げた。その子隆基も「次郎太刀」という六尺五寸(約1m95cm)あるものを左肩に軽くのせ二番手に続いた。随伝は樫棒の一丈二尺(約3m60cm)あるものを六角にして筋金を渡して手元は丸く拵えたものを右手の脇に携えて声々に名乗り、相手と打ち交わすこともなく唯三騎のみで敵の大勢の中に割って入り縦横無尽に斬り回って四方八方輪違いに駆け破って八方に追いやって息つく暇も無く戦い続けると、向かってくる一揆勢はあっという間に八十余人を薙ぎ伏せた。この勢いに辟易して一揆の残党はそこかしこ突っ立って一息入れている。その有り様を明智光秀は一見して
「今こそ討って出る時です」
と青蓮華景基に申し上げれば青蓮華景基は
「それであれば皆討って出よ」
と下知し、赤塚、安原、野坂、立田、河崎、磯部などいう者達を先陣として精鋭五百騎が柵門を開いて槍の穂先を揃えて喚声を上げてどっと討って出ればもともと戦意を失っていた一揆勢は一支えもできずに皆我先に逃げ出した。逃げる一揆勢を六、七町(約650〜760m)も追っていった頃、光秀はまた青蓮華景基に向かって
「『逃げる敵を追うは百歩にすぎず』とは兵書にも有りますれば、これ以上の長追いは無益であります。先遣軍よりも敵本軍が重要であります。」
と申し上げれば青蓮華景基はそれもそうだなと思われたようだ。法螺貝で引揚の合図のを上げさせたので追討をしていた兵は各々要害に引き返してきた。この日の戦闘で討ち取った首級は七百五十と記録された。こうして加賀の一揆勢はこの御幸塚の一戦に敗北した後、全く変わってしまった。総大将の朝倉景行のいる月津の陣に降参して今後は一切いわれることに背くことはありませんとの証人と共にいろいろと詫び言を言ってきたため屋形の朝倉義景に窺いを立てて一揆勢からの人質を取り決めた後、遠征軍は越前に凱旋した。さて、この度の加賀役にて戦功が有った者についての論功行賞が行われた。真柄親子はこの度の働きこれまでにもないものとして今北東郡において千貫の所領を加えられた。明智光秀は敵が寄せてくる気を察して、特に鉄砲で多数の一揆勢を打ち倒してその上軍配への申し条が何れも的を得ていたと思われるので朝倉義景より感状を賜り、また褒美として鞍付きの月毛の馬を引いてこられた。その他の勇士にもそれぞれ賞が与えられた。 
参.明智光秀鉄砲誉事 / 附記・諸国勘合の事
こうして、朝倉義景の威勢は日を追って盛んになっていったので加賀のことはいうに及ばず、能登・越中までも威令下に置くようになった。さて又、若狭の武田義統も
「私もその縁に連なるものであれば、朝倉家の幕下に属したい」
と敦賀の郡代朝倉景恒を通じて懇望してきた。西近江や北近江の者達も越前に随う意向を表してきたために、いよいよ一乗谷は繁栄した。この朝倉家の先祖を溯ると人王三十七代の孝徳天皇の皇孫表米宮の御子荒嶋のといわれる方に行き着き、この方が但馬国の太守として朝来郡に居られて日下部氏の先祖となった。この荒嶋より二十二代目の裔の朝倉広景は斯波高経に従って延元の頃越前にやって来て坂南郡本郷の黒丸城を居城とした。この広景から家景まで六代の間は斯波武衛家の家臣であったが、教景の孫家景の嫡子敏景が(応仁の乱で)戦功が有ったので時の将軍足利義政から越前を自領として認めてもらい、足羽郡一乗という所に城塞を築き、文明三年五月廿一日に黒丸城から始めてここ一乗谷に移り敏景・氏景・貞景・孝景・義景まで五代百余年、掟を守り、武威は盛んにして隣国までもその勢力下に置いたので諸人は安心して暮らしていけた。そうしているうちに迎えた永禄六年の夏、義景は明智光秀を召され
「そなたの事は去年の加賀一揆勢との一戦のときに鉄砲にて大勢の敵を撃ち倒して功名を挙げたと聞いた。鉄砲などというものは昔はなかった。永正の頃に異国から始めて我が国に入ってきたとは聞いているが近年まではめったに見る事の無いものであったのに、その方が鉄砲で名声を挙げたのは感心な事である。されば近日中にそなたの鉄砲の腕前を見てみたいものだ」
と言われた。光秀は畏まって承り、諸役奉行の印牧弥六左衛門と相談して安養寺の側の西の馬場の辺りに的を設置してそこから北に向かって二十五間(約45m)の所で構えた。そうして義景がお出でになれば、城内の侍も多数付き随ってきて貴賎問わず群集してきた。即ち一尺(約30cm)四方の的を立てて四月十九日の巳の中頃(午前十時頃)から撃ち始めて正午を告げる貝の音が吹かれる頃に百発の射撃を終了した。黒星(中心)に当たったのは六十八発、残り三十二発も的には的中していた。即ち百発百中と言うわけで、見物人は皆感嘆した。その後義景は光秀の才能の程に感心したのであろうか、百人を選抜し鉄砲寄子として光秀に預けたので光秀は秘術を尽くして鉄砲指南を行った。
さて、ある時光秀に向かって義景が言われるに
「汝は軍鑑鍛練のために天下を廻国して各家の軍配方法を調べてきたと聞いている。昨今日本は戦国の世であれば、もっともなことだ。兵法修行してきた所を遠慮無く言ってみるがよい。」と。
光秀は承り、
「申し上げるようなものでも有りませんが、御意には逆らえませんので憚りながら申し上げます」
と言って義景の寵臣鳥居兵庫助に向かって語るに
「それがしは去る弘治二年の秋、美濃国より当国にやって参りまして、幸い長崎の称念寺に所縁の僧が居りました故称念寺に妻子を預け置き、同三年の春頃加賀・越中を通り越後春日山へ伺候いたし上杉謙信の勇健な有様を見聞いたしました。その後、奥州会津の葦名盛高の城下を経て同じく奥州大崎の伊達輝宗、同じく奥州三閉森岡の南部高信、下野に宇津宮広綱、同じく下野の結城晴朝、常陸に佐竹義照、下総に酒々井の千葉親胤、安房館山の里見義頼を訪ね、相模小田原の北条氏康の坂東を随えさせている知謀のほどを察して、ここから甲斐に向かい武田信玄の武略のほどに納得して、駿河の今川義元、尾張の織田信長、近江観音寺に佐々木義賢を訪ね、ここから京に上り公方義輝様の治世を窺って、和泉堺の三好義長、播磨三木の別所友治、備前岡山の宇喜多直家、美作高田の三浦元兼、出雲富田の尼子晴久を訪ね、安芸の広島に毛利隆元の数カ国を治める猛威の行いに一見させられ、さて硫黄灘を豊後国に渡海いたして府内の大友義鎮、肥前の竜造寺隆信を訪ね、竜造寺旗下の鍋嶋・諫早・神代などという城下を過ぎて肥後は宇土の菊池義武を訪ね、薩摩鹿子嶋に島津義久の弓矢のほどを察し、ここから船に乗り海路土佐岡豊へ着岸して長宗我部元親の武勇の様子を聞き、さて阿波国に行って岡崎より海路紀伊の港へ渡りそこから高野山・吉野山を過ぎて泊瀬路を伊勢神宮に参詣し、伊勢国司北畠具教、同じく伊勢の長野祐則、同じく伊勢亀山の関盛信の館付近を通り帰途に就き、途中日吉大社で祈願を行い西近江を経て当地越前へ六年ぶりに帰って参りましたところ、早速御当家に召出され殊に幾人もの寄子を預けて頂いたことはとても大きな御恩でございます。」
と述べた後、訪ね来た各家の方式、自領を治め敵国を討伐する際の武勇・知謀の兵術の次第とともに各家の宿老・武将・武勇の名が高い兵士らの名前を実名で各家毎に五十人・三十人ずつ書き付けた子細を記した日記を義景公に進覧したところ、義景公は大変喜ばれてしばらく日記を手元に置かれて、その後光秀の元に返された。 
四.朝倉義景永平寺参詣の事 / 附記・城地の事
義景公は御父上孝景公の十七回忌に当たられるため、永禄七年三月二十二日払暁に一乗谷を出発されて吉祥山永平寺に参詣された。仏事が終わって境内の諸閣を巡られた後、永平寺の開基について尋ねられた。住持の祚玖和尚が答えていうには、
「そもそも当寺開山の道元和尚は、俗姓は久我通忠卿の御次男であられます。後堀川院の貞応の末年の頃道元二十四歳のときに震旦(中国)の太白山下の天童山景徳寺の如浄禅師に師事し悟道見性された。そして仏心曹洞宗を伝授されて宋に居られる事六年にして日本に帰ってこられ、肥後の国の河尻に如来寺を建立されてその後に都に上られ天福の時分に宇治に興聖寺を立てられた。その後、山居の志が有られた所に越前の先の太守波多野義重から頻りに招請されたため、道元和尚が考えられたのは、『私が宋に居たときに、碧巌集を書写していたとき日本の北陸の鎮守白山権現の助筆を蒙りし事があった(一夜碧巌)。それであれば神恩に報いるためにも、また我が師如浄禅師は震旦の越州に御生まれになられたのであるし、あれこれ以って望ましい国だ』として寛元二年の夏、越前に赴かれ吉田郡志比の庄に一宇の精舎を建立されて吉祥山永平寺と号せられた。山号は仏法興隆に吉祥の位があって太白天童山を彷彿させる。寺号は、天竺(印度)から震旦に仏心宗が伝わったのが漢の永平年間であった。今また、震旦より日本へ曹洞宗を伝えるにおいて三国にわたって同じ理が行われるようにと異国の年号をとって永平寺と云う。ここ永平寺には玲瓏厳、白石禅居、涌泉石、租壇地月、偃月橋などという十一景があります。また後嵯峨天皇より紫の方袍を授けられようとされましたが、道元は再三これを辞退されました。しかし許されなかったのでこれを受け取り上謝して曰く、
紫 却 勅 永
衣 被 命 平
一 笑 重 雖
老 猿 重 谷
翁 鶴 重 浅
永平谷浅しと雖ども 勅命重きこと重々 却って猿鶴に笑われる 粢衣の一老翁
さてまた宝治元年の秋、北条時頼より頻りに招請されたため鎌倉に赴かれ最明寺時頼禅門(北条時頼)に菩薩戒を授けられた。禅門が尊敬する事は他より際立っていたけれども、永平寺の霊地を慕って翌年の夏帰山された。こうして御弟子の懐弉和尚を二代目と定めた。この人は藤原為実の子息とも云々。その他義介、義演、義尹、寂円、詮慧、義準、道荐以下の懐弉の法眷を皆懐弉の弟子とされて建長五年八月二十八日、五十四歳で入寂された。全て正法に奇特なきところの奇特です」
と道元、懐弉、義介、義演の行徳をじっくりと説明されると義景は随喜の涙を催された。義景がまた
「永平寺の末寺はどうなっているのか」
と尋ねられると住持が答えて曰く
「永平寺前三代目住持義介和尚は天童山に参る用事が有ったため宋へ渡り数年後に帰国された。この人の俗姓は鎮守府将軍藤原利仁の的孫の斎藤信吉の子孫で越前の足羽郡で生まれました。そのため親戚であったのでしょうか、富樫家尚に招請されて永平寺から加賀へ赴き、徳治に年石川郡に昌樹林大乗寺を立てられた。義介の弟子瑩山和尚は能登まで赴き永光寺を建立した。瑩山の弟子の蛾山和尚は同じ能都の諸嶽山総持寺を取り立てて住んでおられましたが後宇多上皇の勅定によって京都に行かれて即ち帝の師となられて、紫衣を授けられました。この弟子の大源・通幻・無端・大徹・実峰以下、行徳を備えた門弟が多数参集したため諸国の末寺は繁昌しました。蛾山の法眷明峰・無涯・壺菴・孤峰・珍山等も各々寺菴は広い。さて義尹和尚も文永の頃大国(中国)に渡って霊隠寺の虚堂禅師に拝謁し、その後に帰朝する際に肥後の国守源泰明に是非にと乞われて滞在し、長橋というところに大慈寺を建立されました。彼の門弟斯道・鉄山・愚谷・仁叟以下、国々に寺院を建てられた。義尹は後鳥羽院の皇子にて修明門院の御腹から御生まれになったので亀山院の仰せになるときは「法王長老」と常に勅定があったとか。さて寂円和尚は太白の如浄禅師の甥であられたのですが、禅師は老体だったため道元を頼りにしたため道元はこれを承諾し寂円に我朝に来ていただき朝夕法味を授与された。大野郡宝慶寺の開山であります。その後永平寺後三代目住持義演和尚遷化ののち、寂円の弟子の義雲和尚をもって当寺の四代としました。五世を曇希、六代を以一、七代を義純といいます。今愚僧まで十八代になりまする。」と申された。
さて朝倉殿が一乗谷に戻られるために徒歩にて山道を下っておられた折、ふと明智十兵衛を召し寄せて義景が言われるに
「異国は知らぬが、我が国では防御のために昔は山城を築いていた。最近は鉄砲が普及し出したため昔のままでは役不足に思うのだが。我領内ではどこが居城として適しているか?遠慮無く申してみよ。」
十兵衛は承り
「御意の通り山の中腹より大筒を撃ちかけてきますため城域から二十余町(約2km以上)以内に山が無い場所に築けば悪くはないでしょう。しかし黄石公は三略に「国を治め家を安んずるは人を得ればなり」と申しております。また古人も軍法の狂歌として、
人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 怨は大敵
とありますれば、これら和漢の言葉からも言えるのは城の強弱は城郭によってのみ決まるのではないということです。但し、御当国の城地の事はそれがしが愚案するに平城なら北庄、山城なら長泉寺が然るべき場所だと見受けました。」
と申し上げると
「されば加賀の国ではどの辺りがよいか?」
との問われたため十兵衛は
「加賀にては小松寺の辺りがまずまずよいでしょう。」
と申し上げた。すると義景がまた言われるに
「上方ではどのような適地があるのか?」
明智が承って曰く
「京近辺にはこれと行った場所はございません。しかし御縁者であられる摂津大坂の本願寺の寺内こそまたと無き場所でございます。」
と申し上げれば義景殿はそれを聞かれて
「光秀は寺跡ばかり気に入ったものとみえる。」
と言って笑われた。既に暮れようとする春の景色にて梢に残る遅桜、知った顔をして藤波の松に懸って色深く山吹の清げに咲き乱れたるなどに取り取りに興を誘われながら一乗谷へ帰城されていった。 
伍.北海舟路の事 / 附記・根上松の事
永禄八年の五月上旬、明智十兵衛光秀は小瘡を患ったため休暇を申し出、許されたので加賀山代の温泉へ湯治に行く事とした。それを聞いた長崎称念寺の園阿上人も丁度良い機会だからと同行する事になった。急ぐ旅でもないのでゆっくり遊興しながら進んで行き、三国湊に立ち寄って津の風景を眺望された。堅苔崎で称念寺の伴僧たちが堅苔、黒苔、若布などを取る。明智が言われるには、
「あなたたちが取っている種類は、良くないな。私なら鯛・あわび・大蟹、三国の鮭・鱒等を求めたいものだ。」
と相手が僧なのを知りつつの冗談をいいながら、そのあたりを遊覧した。そこから船で雄島へ参詣された。荘厳さを持つ森の景色・緋の玉垣に締縄がはられ、磯の巌石が切り立ち、白波が岸を洗い、沖をこぐ船に風はゆるやかである。兀良拾の国(モンゴル)はここから北方、日本海を越えた向かい側と聞いているのでうっすらと見えるかもしれない、とそちらの方を眺めてみる。島の姿は優雅で清水がわき出て、海へ流れ落ちたり、古松が枝をたれ儻樹が茂っている。本当に北陸に比べる場所も無いほどの地景である。絵に書こうとしても筆で表現するのは難しい。まるで蓬莱・方丈・瀛洲の仙人の島に来た気がしたので感涙を浮かべて、光秀は技巧も尽くさず思ったままを即興で詩を作った。
万 蓬 篇 神
里 瀛 舟 縞
雲 休 棹 鎮
遙 向 処 祠
浪 外 上 雅
作 尋 瑤 興
堆 去 台 催
神島の鎮祠雅興催す 篇舟棹さすところ瑤台に上ぼる
蓬瀛外に向いて尋ね去ることを休めゆ 万里雲遙にして波堆を作なす
園阿も腰折を綴ろうと
帰るさを雄島の海士も心しれ 是やみるめの限り成るらん
その夜は祝部冶部大輔のところで一泊して、連歌興行を行った。園阿と明智は両方とも名人だったため、両吟ですぐに百韻になる。さらに一巡しようと光秀の家来である三宅・奥田、称念寺の小僧である定阿弥を加えて、一晩中遊ばれた。そうしている処にここ三国浦の船乗の刀弥と言うものが来て、蝦夷人と干物を商売した折の話しをした。それを聞いた光秀は、
「その方の話はまことに興味深い。ところでその蝦夷の松前という処は遥か遠くにあると聞く。しかし、その方はその島人と逢った時の話を話してくれた。されば、ここからその蝦夷地までは船路でどれくらいかかるのであろうか。その途中の港はどのような処がところがあるのであろうか」
と尋ねられた。刀弥はその質問を承り、
「はい。私は何年も大船で商売のために北から南まで航海していますので、港の名前で知らないところはありません。」
と言って懐中から書付を取りだして、
「これをご覧ください。ここに書かれている港の数々は大船四、五百艘が停泊しても狭くはない港です。殊の外当国においてはここ三国以外に大丹生・吉崎、加賀においては安宅・本吉・宮腰、また若狭においては「高浜の八穴浦」と言いますほど港が数多くありますが、その多くは大船が出入りできるようなところでは無いのでこれは除きます」
と言って取り出した日記を示す。その内容としては
「越前より寅の方角、船路にて三十里過ぎのところに能登国の福浦港がある。それより先は十八里で同国和嶋港、七里で同国珠洲崎塩津港、四十五里で佐渡国の小木港、二十五里で同国鷲崎港、十八里で越後国の新潟港、二十五里で出羽国の青嶋港、三十里で同国止嶋港、二十里で同国酒田港、三十里で同国秋田港、十八里で奥州霧山の渡鹿港、この先はどこまで行っても奥州の地になる。渡鹿の先は十八里で野代港、 三十五里で津軽の深浦港、十八里で鯵个沢港、十八里で十三港、七里で小泊港、ここから北に八里渡海して松前に到着。そこから北は蝦夷地なり。また、小泊から東に向かうと外浜・今別・小湊・南部の川内・田名部・佐井・大畑・志加留などという港がある。小泊から志加留までは百三十里となる。」
などと書かれている。明智が言うには、
「松前まではここ越前より三百七十里、奥州志加留までは五百里に及ぶということか。されば船路にて日数はいくらばかりかかるのであろうか。」
と尋ねたので刀弥は
「されば順風にて十日ばかりで到着いたします。毎年三月上旬に当港を出港して彼の地にて商売を致し、五月には戻ることに成っています。」
と答える。光秀はまた
「上方へも行けるのであろうか。」
と問う。刀弥は承り、
「中国を廻り、摂州大坂港・伊勢国の大湊まで二、三回参ったことがあります。対馬国の夷崎港、肥前国長崎港にも行きました。長門国の下関までは何度か行きました。」
とこれもまた別の書付を取りだす。そこには
「越前の三国港より二十五里で同国敦賀港、是より申の方角に十二里で若狭国の小浜港、十三里で丹後国の井祢、五里で同国経箇御崎、十八里で但馬国の丹生芝山、七里で同国諸磯、二十二里で出雲の国三尾関、十八里で同国加賀、十三里で同国宇竜の於御崎、十八里で石見の湯津、十八里で同国絵津、二十里で長門の仙崎、七里で同国蚊宵、二十五里で同国下関に至る。」
と記してある。光秀はこれに感じ入って酒飯を与えてまた時服などを褒美として与えた。このようにしているうちに夜も明けた。空は晴れ気温は温暖なため海辺を回って北潟の御万燈を拝観する。それから潮越しの根挙松を見物される。その姿は遠くから見ると風情があり年を経ており、葉も短く色も鮮やかである。海辺近い砂岳に生えているので潮風が吹きつけて根もとの砂が吹き飛ばされて根が顕れてきたように見える。松の太さは二丈(6m)余りで根の挙っている様子は、元の地境まで一丈七・八尺ある。根の数は十余本で、太さも周囲四・五尺程で、付近に四方へ伸びている。日本は小国とはいえ七十州ある。光秀はそのうちの五十余州を廻り、名木と言うものも数多く見てきた。しかしこの木に似た色をしたものを見たことが無い。昔は業平中納言や西行法師達が詩歌を詠んで愛された。九郎判官義経も奥州に向かう途中、ここで休憩したと聞いたことがある。その折から四百余年を経た今でも変わらない松の色、幾千年の時を経てここにあるのだろうかと感嘆して遊覧しているところに村社の祠があった。里の人に聞くと「出雲大社を奉っている」と答えた。光秀は聞いて「出雲大社で奉られているのは素盞烏尊で、尊は和歌の祖神であるため、稚拙な歌だが一首作ろう。」と詠み、端紙に書いて近くにいた子供に与える。
満潮の 越てや洗う あらかねの 地もあらわに 根あがりの松
それから吉崎の湖水を船で渡って、加州へ向かい山代へ着いた。 
六.足利将軍家の長物語の事
そして明智十兵衛は十日ばかり山代温泉に入っていると、小瘡はほとんどなおった。その逗留中に敷地の天神・山中の薬師・那多の観音に参詣した。その折に、園阿上人のもとに越前豊原の索麺を長崎から送ってきていたのでこれを「これは越前の名物ですから」と宿の主はもとより近所の人々や明智家の若党に至るまで皆に振舞った。その後茶の湯などをして話し込んでいる処に越前から飛脚が来て、「今月十九日に京都で将軍義輝公が、三好・松永のために殺害されました」との報をもたらしてきた。しかしそれは京のみのことで、遠国では今のところ目立った動きは無いとも付け加えた。湯屋の主人はこのことを聞き、光秀に対して言うに
「上方は大変なようですが、その外の国は落ち着いてるようで取りあえず安心致しました。さて、この公方と申される方は諸国の武士の主君だとは聞いていましたが、身分の低い私たちはそれまでのいわれを知りません。恐縮ではありますが、どういういわれがあるのか話をして頂けないでしょうか。」
と願った。そのとき園阿上人が言うのには
「やれこの私も将軍家の御先祖の方々については詳しくは存じませぬ。出家している身とは申せ同じ日の下に生きている身であればこれは聞いておくべきことだ。五月雨も静かに降っている事でもあるし、夜もすがら御話願えませんでしょうか。」
といって、亭主と二人で「是非後学の為に」と頼まれると、その場に居る皆も一緒になってしきりに話しを頼んだ。それに応えて光秀が話されるには、
「私も細部までは詳しく存じませんし、またとても長い話しに成りますので当座の興として話すのであればあらましをお話する事と致しましょうか。但し、元弘から応安の間の事は『太平記』という書物に載っていますのでこれを略してお話致しましょう。」
と言って話し始めた。
「そもそも公方様の先祖であられる足利尊氏公は、強敵新田義貞を暦応元(一三三八)年閏七月二日に越前吉田郡藤嶋郷で討ち取り天下を握られ、その治世二十二年にして延文三(一三五八)年四月二十九日に五十四歳にて亡くなられた。御子息の権大納言義詮公が天下を継がれたものの治世十年にして貞治六(一三六七)年十二月七日に三十八歳にて亡くなられた。義詮公の弟君である基氏公は鎌倉に居て、関東八州と伊豆・越後・佐渡・出羽・陸奥の以上十三ヶ国を治められていた。この方も貞治六(一三六七)年四月二十六日、二十八歳で没せられた。基氏公の子息である氏満、その子の満兼、その子の持氏まで続いて四代を、鎌倉の公方と世間ではいいまする。さて将軍義詮公の子息である義満公は、応安元(一三六八)年に十一歳で将軍職を継ぎ、細川右馬頭頼之を執事にして全国を統治されていた。ところが同三(一三七〇)年の秋に、後醍醐天皇の皇子の後村上の味方として南方の敵が台頭してきたから、細川頼之・斯波越中守義将・畠山播磨守基国・山名陸奥守氏清・赤松筑前守光範などに大軍を率いて出発させた。そして楠左馬頭正儀と合戦をして楠を河内の南へ追いこんだ。その後南方の敵のおさえとして山名氏清を和泉の堺に留めておき、諸軍勢は帰陣させた。また九州で菊池肥後守武光は最初から南方の味方として良懐親王を吉野御殿から下向してもらって、親王は征西将軍宮と名のって筑紫を討ち取ることを計画した。このままにしておけないので応安七(一三七四)年の春頃、征夷大将軍義満は都から九州へ出発し少弐・大友・伊東・大内を先陣として、細川・斯波・畠山・土岐・佐々木・京極・一色・赤松・今川・荒川以上の総勢十万余騎が、鎮西へ向かい菊池と合戦した。その結果武光は討ち負けて降服を願った。これらのことで筑紫の目代には駿河蒲原の将、今川伊予貞世入道了俊を配置して、同年九月に西国から義満公は帰京された。それから全国は平和になり永徳元(一三八一)年の春に後円融院は初めて将軍の屋敷へ行幸され、義満公を太政大臣に任命された。これからは公方と名乗りますます将軍家の威光が輝いてきた。その後山名陸奥守氏清は南方で楠次郎左衛門正勝と数回戦ったが、その度山名が勝利した。この理由は正勝の父である正儀が少し前に病死したので南方の勢力が衰えた為だとかいう。そうしたことで山名が威勢を誇って将軍に対し反逆をおこし、明徳二(一三九一)年十二月下旬、和泉の堺から京に攻め上った。大将には山名氏清・子息の左馬助時清・二男の民部少輔満氏・三男の小次郎熈氏・山名播磨守満幸・同上総介義数・同中務大輔氏冬・山名弾正少弼義理・同駿河守氏重・小林修理亮・同上野介以下が内野と洛中へ攻め入った。将軍の味方には、細川武蔵守頼之・同頼元・斯波義重・畠山基国・大内義弘・今川泰範・一色詮範・同満範・佐々木満高・京極高詮・赤松義則・山名時熈・同氏幸などが参集して防戦して、すべての山名方を追い払った。大晦日に山名陸奥守氏清は内野で自殺した。山名の一族は討死したり敗北したりしてこの乱は終わった。また同三年の夏には畠山尾張守義深は堺を出発し楠左馬頭と戦って、楠が篭城する千剣破(千早)の城を攻め落した。正勝は十津河(十津川)の城に引き篭った。その後正勝の弟である兵衛尉正元は密かに京都に入りこみ将軍の命をねらっていたが、露見して殺された。楠の一味である菊池肥後守貞頼と大宰少弐忠資・千葉・大村・日田・星野・赤星らは筑紫で陰謀を廻らせた。しかし大内介義弘がこれを平定した。義満公は三十八歳で出家され、鹿苑院道義と名のられた。応永五(一三九八)年に斯波義将・細川頼之・畠山義深を三管領とし、一色詮範・山名時熈・京極高詮・赤松義則を四職に定めた。特に斯波は武衛と名乗り、全国の政務を行った。大内介義弘は三管領四職の何れにもなれなかったのを恨んで、和泉の堺にひき籍り反旗をひるがえす。このため将軍の義満公は八幡に兵を集められ、管領職の人々を泉州に派遣して堺を攻められた。その結果として大内介左京大夫多々良義弘は戦死した。その子息の持世は降服した。応永十五(一四〇八)年五月六日に将軍義満入道道義が五十一歳で没された。治世は四十年で子息の義持公が後を継がれた。全国はすべて平安で四海も波静かなようすで、万民は万歳を叫んだ。義持公は応永三十(一四二三)年の春には、子息の義量公へ政権を譲られた。しかし同三十二(一四二五)年二月二十七日に義量公は十九歳で他界された。正長元(一四二八)年まで治世として六年。そして先の将軍義持公が、四十三歳で没せられた。治世は十五年であった。政権をつぐための子息がないので、鎌倉の左馬頭持氏の子息である賢王丸を養子にされようとされたが、三管領四職の人々は協議をし、義持公の弟である僧で青蓮院にいた義円を還俗させて義教と改名してもらい六代目の将軍としてにして仰いだ。そうしたところ、永享十(一四三八)年に鎌倉の賢王丸は鶴岡八幡宮で元服し左兵衛督義久と名のった。その執事である上杉安房守憲実が主君の持氏公へ諌言して言うには、「賢王殿が元服されるにおいて、先例に従えば京の将軍の御意を得るべきです」と、何度も持氏公に申し入れたのに承諾されなかった。このため憲実は怒って将軍へ訴えた。義教公はすぐに今川上総介範忠,武田太郎信重・小笠原信濃守政康、さらに武衛の名代である朝倉右衛円尉教景ら数万騎をつれて鎌倉に攻め入らせた。上杉憲実はこのとき持氏公に従わず将軍に意を通じて、上方勢と一緒になって持氏公と合戦をした。鎌倉方は討ち負けて、同十一 (一四三九)年二月十日に持氏・義久の父子は自殺された。義久の弟である春王丸・安王丸は、その家臣の結城弾正氏朝・同七郎持朝が迎えて結城に立て寵った。上方勢と上杉の一族などが激しく攻め戦い、嘉吉元(一四四一)年四月十六日に結城氏朝・持朝の父子はみな討ち死をし、春王・安王は生けどられて京に送られる途中でチュウせられた。それから数か年を経て、持氏公の四男である左馬頭成氏を関東の武士たちが主とし再び鎌倉に居ることを願った。その後事情があって下野の国の古河に移り、成氏・政氏・高基・晴氏・義氏の以上五代と続き、関東では古河の公方と呼ばれた。そうした中に赤松則祐の孫で義則の子である播磨守満祐は生まれつき小男であったため、将軍はいつもそれをからかわれた。その上満祐の娘を給仕の為と言って出仕させたが、殺してしまった。また嘉吉元(一四四一)年の夏の頃赤松の所領である備前・播磨・美作を没収し、彼の又従兄弟である赤松伊豆守貞村に知行させようと将軍義教公は思われた。満祐・同教康の父子はこれを聞いて深く恨んでいたが表情には出さず、「結城合戦の御祝いのため」とそれとない様子で将軍の義教公を赤松の屋敷ヘ招きたいと願った。それが聞きいれられ義教公は六月二十四日に赤松邸に来られて、遊宴・猿楽の遊びを楽しんだ。この頃に鎌倉の持氏の従弟である福井四郎左衛門貞国という将軍の近習がいた。貞国は持氏が滅ばされたのを心底憤激していた。これを赤松は誘っていて、よい機会をねらい満祐は太刀を抜き、即座に将軍を殺してしまった。義教公は四十八歳で、治世は十二年である。これにより赤松父子は播磨の白幡の城にひき篭った。京の騒ぎは大変なもので、将軍の長男である義勝公が八歳になっていたのを主君にして播磨を攻撃した。追手には細川右京大夫持之・同讃岐守持常・大内介持世・赤松伊豆守貞村・武田大膳大夫信賢であり、搦手には山名右衛門佐持豊・同修理亮教清・同相模守教之などが赤松と激しく交戦した。山名の一族が大仙口から乱入したために、同九月十日に赤松満祐は自殺し、長男の彦次郎教康はその場は逃れたもののその後伊勢で没する事と成った。嘉吉三(一四四三)年七月二十一日、将軍の左中将義勝公は、落馬がもとで没した。年は十歳で治世は三年である。弟の義政公が八歳で政権を継がれた。それから享徳三(一四五四)年の夏頃から、畠山尾張守政長と畠山伊子守義就とは従弟であるのに仲が悪くなっていった。そのわけは政長が、管領の左衛門督持国入道徳本の甥を養子にしたからである。義就は徳本の実子であった。こうしたことで互いに家督について論争した。細川勝元は政長を手助けし、山名持豊は義就に味方すた。それから河内・大和の地域で小競合が絶えなくなった。またこの頃武衛である治部大輔義健が没した。しかし子がなかったから一度左衛門佐義敏を養子にしたが、適当でないとして改めて治部大輔義兼を武衛にした。こうしたことから両者は対立した。また富樫介の跡目を次郎政親と叔父の安高とが争った。細川勝元は政親を援助し、畠山徳本は安高を助けていい争った。その間も将軍の義政公は三十歳になられても子どもがなかったため、弟の僧である義尋に政権を渡されることにされた。義尋は辞退されたが将軍の命令であるから寛正五(一四六四)年の冬に還俗されて、今出川大納言義視と名のりすぐに細川右京大夫勝元を老臣に定められた。しかし義政公は政治の実権を手放す意思はなかった。こうしたところへ同六(一四六五)年に義政公の奥方が男子を出生したので義尚と命名し、山名右衛門佐持豊入道宗全を老臣にされた。こうした理由で細川と山名の両臣は内心から不和になった。応仁元(一四六七)年の春には畠山義就と畠山政長とが対立したため、ついに天下の大乱になった。京で合戦になり政長方は細川右京大夫勝元を大将にして、京極持清・赤松政則・斯波義敏・富樫政親・武田国信以下の軍勢十六万騎が大内裏から東山に布陣した。義就方は山名持豊入道宗全を大将にして、武衛義廉・一色義直・土岐成頼・佐々木高頼・大内政弘以下約十二万騎が都の西野に布陣した。日夜、朝晩とも戦いの攻防はやまなかった。文明九(一四七七)年までの間にその前六年と後五年の都合十一年間戦いがあり、その後に皆国々へ帰っていった。しかし各地での争いは一層激しくなりやむことは無かった。今出川義視公は大乱に嫌気がさし、伊勢の国司である北畠教具の所へ行かれた。後に将軍義政公から迎えがあって帰京されるが、その後また濃州の土岐のところへ下向された。応仁以降の度重なる戦の為に朝廷も焼けはてわが国の旧記も紛失し、公家の伝記もほとんど散らばってしまった。後花園上皇も将軍の屋敷である室町殿でなくなられた。文明九(一四七七)年の冬に義尚公を征夷大将軍に捕任した。同十二(一四八〇)年に義政公は東山慈照院に隠居した。それから茶道を好み、風流の道具を愛玩したり、華道を愛し盆石を探し、書画を楽しみ、古筆を集めたり、彫り物を寄せ、打物の銘作を選んだり、珍膳を味うなど風雅を好み、珍奇な物を愛されることは前代未聞のことであった。義政公の治世は三十年であった。長享元(一四八七)年の秋に佐々木六角高頼が公方に謀反をしたから義尚公は江州へ出向く。佐々木は甲賀山にひき篭った。将軍はすぐに鉤の里に布陣した。翌延徳元(一四八九)年二月二十六日に江州鉤の陣中で将軍義尚公は二十五歳で病死された。治世は十五年であった。政権を継ぐ方がないために義視公の子息である義材公は義政公の甥であったが、義政公はこれを養子にして大将軍にされた。この義材公は後に義稙と改名され二度将軍になった。また義政公の弟である伊豆堀越の政知公の子息である義澄はこれまた慈照院殿の甥であったから、義政公はこの人も養子になされようとした。延徳二(一四九〇)年一月七日に慈照院義政公は五十六歳で没せられた。こうしている間に明応二(一四九三)年の春に畠山尾張守は将軍義材公を奉じて河内の国へ出陣した。そして畠山伊予守義就の子である弾正少弼義豊の誉田の城を攻めた。義材公と政長は正覚寺に布陣した。こうしたところに管領の細川政元は将軍に恨みをもち敵の義豊と同盟して、四月二十三日に逆に正覚寺を攻め政長を討ち取った。政長の子である尚順は紀州へ落ち延びた。将軍の義材公も敗れて周防の国の山田へ流浪し大内介義興を頼られた。治世は四年であった。同明応三(一四九四)年に細川右京大夫政元・畠山義豊たちは、伊豆から義澄を迎えて主君とし大将軍にされた。こうしている中に永正四(一五〇七)年の夏に細川政元・同九郎澄之などが、家来のために洛中で殺されて都中は大騒ぎになった。大内介義興はこのことを聞くと同五(一五〇八)年の春に九州・四国の兵を集め、前の将軍である義材公を伴われて上方へ攻め上がってきた。このため同四月十六日には、将軍の義澄公と細川澄元・同政賢以下は江州へ退いた。同六月八日に義材公は入京し、名前を義稙と改められ再び大将軍になった。そして大内介多々良義興を管領に任ぜられた。同年の冬に義澄公の味方をして三好筑前守長輝が兵を率い、阿波の国から攻め上がってきた。これに合わせて江州から佐々木高頼も京都に入った。しかし軍勢に利運がなく、三好長輝・弟長光・同長則などは都の百万遍・知恩寺で自害をした。この三好は小笠原長清の後継であったが、阿波の国では一宮と名のりその後三好と改めた。永正八(一五一一)年八月十四日、将軍義澄公は近江の国の岡山で病死した。二十二歳で治世は十五年である。義澄公の家臣である細川右馬助政賢・佐々木大膳大夫高頼は、深く悲しんで主君の逝去を秘密にし兵をおこし急に都を攻撃した。このため同八月(十)七日には、将軍義稙公とさらに管領大内介義興などが丹波の国へ逃げ落ちた。こうしていたところ義澄公の病死が知られたから、義稙公は丹波から帰京し同八月二十四日には舟岡山で合戦をした。その際に細川政賢が戦死をし江州勢は敗北した。同九(一五一二)年の春には義稙公は江州へ出発されて佐々木高頼を攻められた。戦いは思いのほか有利でなく、将軍は甲賀山へ入った。そこで発令した防敵命令を越前守護の朝倉弾正左衛門孝景が聞いて、兵を率い江州の観音寺の城に向った。このため佐々木は甲賀表の軍勢を撤退させて、観音寺に立て寵った。これでやっと将軍は甲賀山から帰京された。同十五(一五一八)年の秋には、大内介義興は義稙公に恨みがあって京都から住国の山口の城へ帰った。大永元(一五二一)年の春には、細川武蔵守高国・三好筑前守長慶・佐々木大膳大夫高頼などが、前の将軍である義澄の子息の義晴を擁立して都を攻撃しようとした。このために義稙公は、都を去って淡路島へ落ちられた。これを世間では『島の将軍』といっている。義稙公は同三(一五二三)年四月九日に五十八歳で没し、治世は十三年で最初の四年を合わすと十七年間将軍であった。それから義晴公は征夷大将軍に補任され、細川高国を管領にして右京大夫に任じた。この人は先の管領である政元の子である。それからどんなことあったか知らないが、高国は義晴公を恨み大永六(一五二六)年のころ四国へ行く。同七(一五二七)年の冬には細川高国・三好長慶は、阿波の国から攻め上った。それで将軍の義晴公は都の西の桂川へ出向き、細川晴元・朝倉孝景らが阿波軍を防戦をした。その軍功によって阿波勢を追い崩し勝利をしたが、まだ高国は天王寺付近に留まって京都をうかがった。このために同四(一五三一)年の夏に細川右京大夫晴元は摂州へ出向き、細川武蔵守高国と従弟であったが交戦した。ついに高国はうち負け尼崎で自害した。晴元は政元の甥澄元の子である。そうしている中に天文八(一五三九)年の頃から、将軍に晴元は敵対して争闘がたえなかった。将軍は京から去り江州の朽木民部少輔植綱の屋敷に入ったが、また帰京された。天文十五(一五四六)年の冬に義晴公は、政権を子息である義輝公に譲られた。同十六(一五四七)年の春には将軍の父子が北白河に要害を構えたが、同七月十三日に細川晴元・佐々木定頼が北白河の城を焼き払った。その結果将軍は江州の坂本に篭居した。その後和解されて、晴元・定頼は坂本に参向した。この和睦により将軍父子は帰京された。同十八(一五四九)年の春には三好筑前守長慶は細川高国の子である次郎氏綱をとり立て、摂州中島の城に居陣した。これを聞いて細川右京大夫晴元は、摂州へ出陣し三宅の城に布陣した。三好下総守長秀入道宗三は、晴元に味方し江波の城にいて氏綱・長慶方と合戦を何回も行った。同六月十一日には江口の渡しで宗三と長慶の叔父と甥とが激しく争い、将軍方は敗北し三好宗三入道も戦死した。このため将軍の父子と細川晴元・弟の晴賢・同元常・佐々木義賢以下、京を去って東坂本を仮御所とした。同七月九日に三好筑前守長慶が入京したが、滞在せずに摂州へ帰った。長慶は長輝の孫で薩摩守長基の子であり、細川の家来である。天文十九(一五五〇)年の春には将軍は如意ヶ獄に要害を造り、穴太の山中と名づけ、将軍を移された。同五月四日に前将軍義晴公が、病気のため穴太山でなくなられた。年は四十歳で治世は二十六年であった。同年の冬に三好長慶は摂州から上京して、東山・相国寺また大津などにたて寵る将軍方を追い払い、要害、人家まですべてを焼き捨て摂州へ帰った。それから将軍義輝公と細川氏綱・三好長慶とか和解し、天文二十一(一五五二)年一月二十八日に将軍は上京された。この日細川晴元は髪をそり出奔した。永禄始めの頃には毛利右馬頭元就・朝倉左衛門義景。長尾弾正少弼輝虎を御相伴衆に加えられた。同四(一五六一)年一月二十四日には、三好義長が上京し将軍の妹婿になった。三月末に将軍は三好の屋敷へ出向くことを申し入れた。御相伴衆は細川右京大夫氏綱・弟の右馬頭藤賢・三好修理大夫長慶・子息の筑前守義長・松永蝉正久秀であった。同七月に三好義長が急死した。その理由として家臣の松永弾正に毒を飲まされたと言う風説がまことしやかに流布している。義長には子がなかったので弟の左京大夫義継に家督を継がせて、長慶の後を継がせた。その後長慶は老死した。今の義継は若くて松永は策謀家で威勢がある。将軍自身の勢いは衰えてきたので、今度は三好と松永が謀反するのはまちがいなさそうである。義輝公は温和な方であり武将には適さない方であると聞いているが、本当に残念なことである」
と光秀は話終えると涙を流した。園阿上人を始めとしてすべての者は念仏をし、悲しみにくれた。このようにして五更(午前四時)も過ぎ夜も明け始めたので、明智十兵衛光秀は湯屋の主人に別れの挨拶をし、越前の一乗谷へ帰られた。 
巻第二 

 

一.織田信長公の由緒の事、それに尾州を平定した事
そもそも尾張の国主である織田上総介信長公の祖先をざっと聞くと、先祖の織田帯刀左衛門常勝は、越前の国の織田神社の神主である常昌の子であった。それが延元の頃に足利尾張守高経の近習として伺候し、後には士大将の列に加わった。高経の子息の武衛治部大輔義将は、永和年中に越前に加えて尾州を拝領した頃、譜代の老臣である甲斐美濃守・朝倉弾正左衛門・千福中務大輔・二宮左近将監の四人を越前の警護にして、各地に残し置いた。尾張八郡の統治は、その織田常勝の長男である帯刀左衛門教信と次男の次郎左衛門教広の兄弟を任命された。教信の子息である伊勢守常信は、尾州の岩倉に居城を構えた。教広の子である大和守常任は、清洲の二の丸に居住し、主君の武衛殿を仰いでいた。それから数代を経た祭に、武衛殿に実子がないため、 一族の大野左衛佐義敏を猶子にされた。しかし越前、尾張の家臣達はこれを嫌って将軍義政公へ訴え、渋川治部大輔義廉をまた武衛にした。これ以後斯波の武衛家は、威勢がなくなり、両国の家臣達が、それぞれの形勢に応じ争いをやめなかった。その頃織田伊勢守常信から六代目の、左馬助敏信の子息である伊勢守信安は、岩倉から興って尾州平定をうかがっていた。また常任から五代目の大和守宗信は、清洲にいて国中を従えようと望んでいた。この大和守の弟である弾正忠信定入道月厳は、勝幡という所に住んで兄の権威に従っていた。月厳斎の子である備後守信秀のその子息が、織田信長公である。天文十五(一五四六)年には、那古野に城を築き、信長は十三歳にして城主となった。そして平手中務大輔清秀を老臣にした。その後美濃の国主の斎藤山城守義竜の息女を、祖父の道三入道の娘として信長に嫁がせられた。同じく十八年(一五四九)には父の備後守信秀が没される。弘治元(一五五五)年に信長は叔父の孫三郎信光と相談して、清洲の城主である織田大和守宗信の孫の定信の子である彦九郎広信を討ち滅ぼす。信長は二十二歳の夏に、清洲の城へ移られ、那古野は叔父の信光の城となった。そうしたところ思いがけないことがおきた。孫三郎信光が家来に殺されたので、その後信長は弟の武蔵守信行に林佐渡守をつけて、那古野の城主とされた。しかしこの武蔵守信行は、兄である信長を滅ぼす計画をしていると密告する者がいた。信長は若気のいたりからであろうか、密告内容を詳しく調べもせずに、信行を殺されてしまったことは無残なことである。後に、罪がないことがわかったので、上総介はとても後悔して、武蔵守の子息である七兵衛信澄を幼少であったが、特にかわいがられるようになった。また弘治二(一五五六)年四月中旬には、信長の舅である斎藤山城守義竜の方から、書状でいわれるには、
「息子の右兵衛大夫竜興は密かに家臣と密談し、不意を襲って弟二人を殺し、その後急いで本城である因幡山を占領した。父に対する叛逆はもうどうこういっても仕方が無い事だ。急いで信長殿にも出向いてもらい、竜興の討伐をお願いしたい。たとえ自分の生涯は終わるとしても、この鬱憤を忘れずにいてもらえば二世まで厚恩に思うであろう。」
といって来たので信長は大変驚き、取る物もとりあえず濃州大良口まで出陣をしたのだが、そこで山城守が今朝すでに竜興のために命を落としたと聞いたので、上総介は残念でならないと泣いて退却した。この時竜興の方から牧村主水助・林半太夫・加々井弥八郎・岩田勘解由などという侍を追撃として差し向けられてきたが、これに尾張勢はおくれをとりなんとか清洲へ帰る事が出来た。ここに尾州岩倉の城主である織田伊賀守信知は、織田家総領の伊勢守信安の子息であるから、同族として意志の疎通ができないわけないのに、竜興と好を通じて兵を起こし、他にも前守護の武衛や知多の石橋・三河の吉良なども誘い、諸勢と計略をめぐらせて清洲を攻めようとしていた。信長はこのことを聞かれ、
「それなら計略を遮って、こちらから逆に攻撃しよう。」
と、森三左衛門可成・坂井右近重康・滝川左近一益・佐久間右衛門信盛・柴田権六勝家・飯尾近江守定宗・織田十郎左衛門信清を先頭に軍勢三千余騎で、永禄元(一五五八)年七月十二日に岩倉の近くの浮野で戦い、敵を追い崩して信長は勝利した。翌年の春にはまた岩倉の城へおし寄せて、数ケ月に渡って合戦をして信知を討ち滅ばした。そして岩倉に一味した者たちを尾州から追放し、尾張の大部分をうち従えることになった。とはいえ、すでに武衛家は衰退しその力は及ばず、尾張は大半が乱国になり家臣たちが郡村をめぐって争っていた。そこへ三河・遠江・駿河三国の守護である今川治部大輔義元は、先年から出兵し東尾張をうち取って笠寺に要害を造って駿州の武士の戸部新左衛門を守将として置いた。それで信長は漢の陳平・太元の帝師の術に習って、緻密な謀略をめぐらし、戸部を今川殿に殺させたのは恐ろしいことである。こうして笠寺付近が、信長の支配下に入った。その後今川義元は尾州の大半をうち取る為に、永禄三(一五六〇)年の夏には、参・遠・駿の軍兵二万五千を率いて攻め上ってきた。織田領の城々がある鳴海・大高・沓懸の要害などを攻め落とした。鳴海には岡部次郎右衛門・大高には松平蔵人・沓懸には鵜殿太郎左衛門を守将として置いた。さらに丹家・中島・善照寺・鷲津・丸根の砦をも攻め落とそうとして、今川殿は沓懸から桶狭間という所に陣替えをして駐屯した。信長はこのことを聞き、
「凡そ古来から今日まで大軍に対して、小勢でかかって勝った例がない。この上は十死に一生の戦いをして、敵の不意を衝く以外に方法はない。」
といって、熱田の社に深く祈願した。案内役は、他に知るものも少ない宮から左側の小道をたどった。五月十九日の巳(午前十時)の頃、旗を巻いて持たせながら、わずか二千二百騎で東に廻わり南に出て、今川家の本陣がある桶狭間へ無二無三に切りかかっていった。帷幕の中へ侵入した。今川方は大勢であったにもかかわらず、予想しない方向から敵に攻撃されて、あわて騒いで
「馬はどこだ、武具は!?。」
と狼狽している間に大将がうち取られたから、どうすることもできず三河をめざして退いた。この勢にのって上総介信長は尾張八郡をほとんど争う事も無く平定した。同四(一五六一)年一月十一日には、尾張の平定を祝うために清洲で信長は諸臣への饗膳の席を設けた。 一族では弟の上野介、同じく安房守・源五・九郎、叔父の四郎次郎・孫十郎、飯尾近江守・隠岐守、織田十郎左衛門・勘解由左衛門・玄蕃・造酒丞、津田藤左衛門・左馬允。士大将では林佐渡守・柴田修理亮・滝川左近将監・坂井右近・佐久間右衛門尉・森三左衛門・平手監物。足軽大将では簗田出羽守・毛利河内守・丹羽五郎左衛門・塙九郎兵衛・池田勝三郎・長谷川宗兵衛・佐々内蔵助・青山興三・菅谷九右衛門・川尻興兵衛・福富平左衛門。そしてそのほかの者たちまでが、盃をもらった。その後信長がいわれるには、
「舅の斎藤山城守が討ち死の時にいわれたことを、自分は昼夜朝晩忘れたことは無い。特に大良表の後退に失敗したこと、また岩倉の一族らが自分に敵対したのも、すべて濃州の斎藤右兵衛大夫竜興の悪逆が原因である。しかしながら近年は、自国の戦に謀殺されこの件についてはじっと耐えざるをえなかった。私と心を同じくする者は舅の義竜の遺言を晴らし、身のわだかまりを払ってあげたいものだ。」
と、怒った眼に涙を浮かべていわれた。柴田修理亮・佐久間右衛門尉・滝川左近将監らはみな、
「おっしゃられた事はもっともである。忠孝の道に誰がそむくことができましょうか。 『忠を第一として孝を尽くして、孝を勤めて忠をも励め』とも言われている。心の中に私たちもその恨みが残っているから、早く命令をして出発させてほしい。」
と進言し、座に集っていた面々にも同意するように促した。このことを信長の内室が聞かれ、五位局・粟田殿・広沢殿のこの三人の女房たちを使にして、折を十合、樽を五荷、打鮑を夥しく盛った台を三脚、広間の中へ運び出させた。五位局が諸士に対していわれるには、
「北の方は本当に曹蛾の心境よりもまさっていて、その思いがつのって沈んでいられる時に、みなが濃州へ出向いて、その無念さをはらすというので、感慨の涙で袖があふれてしまうくらいであられます。近年は兵乱が永く続き、すべてのことに苦労しているのに、命を借しまずに恨みに思う敵を滅ぼそうとしてくれている。自分の喜びもこれにまさるものはないから、祝儀としてこの酒をふるまうのです、とのことです。」
と、おだやかに話されたので、集まっていた皆はありがたく思う気持が強く顔色に表れていた。信長も満足なようすで、それから酒宴が始まり、諸侍だけでなく足軽・小者まで打鮑を貰う事が出来た。その後信長がいわれるには、
「濃州は大国である。きっと合戦は数か年続くであろうから、その準備のために春中は休養した方がよい。」
といわれた。 
弐.秀吉が身を立てる事
永禄四(一五六一)年四月中旬に織田信長公は弟である上野介信包卿を始めとして、六千五百の精兵を率い初めて西美濃へ討って出られ、敵地の状況を巡見された。その頃濃州岐阜の城には、藤利仁将軍の子孫である斎藤義竜の子息の竜興という勇将が所々に砦を構え、要害を厳しくしてたて篭っていた。信長公はこれを見て、まず竜興方の要害を攻め落し各地に放火をし付城を新しく築いた。そして
「詳しくこれを見定めずしては、敵方の計略なのかどうかわからない。それなのに今すぐにこの城を撃って出たら、後日義元が生きていたならば、どのように釈明したらよいだろうか。はっきりさせた後であればどうにでも出来ようが、今は敵が襲撃して来たなら、この城を枕にして討ち死するのが、武士の本分である。」
といわれた。諸軍勢はその道理に従って、受け持ち口を厳しくし三日間留まっていた。その時今川の家老である朝比奈兵衛大夫の所から書状で、
「早く帰らせてほしい。」
といって来たから、
「この上は仕方がないことだ。」
と、歎息しながらも参州岡崎への帰陣を許可された。敵も味方もこのことを聞いて、
「分別がある行動だ。」
と感心した。そうしたところへ義元の子息である今川五郎氏真は、居城の駿府から遠方にいたため、三河の武士を蔑んで無視した。義元の戦死の時には武勇に勝れていた者たちを、駿河で君側に蔓延る佞臣達が自分に力がないことを隠そうとして、その武勇の士達を嘲笑し領土を取上げるように非難・中傷した。本来氏真は愚将だったから、佞臣を信用し、岡崎の城は松平に一時預けただけだと言った。松平は勢力の弱い者で、松平という所から出て、岩津・安城へ移った小領主だったが、義元の時代に岡崎の主将とされた者である。今は早速にも没収して他人に領有させると命令したため、蔵人は怒りをつのらせる。織田信長はこのことを聞くと、
「松平蔵人は大高城の退際を観察してみるに、若い人ではなかなか対抗する者がいない者である。どうしても直接会ってみよう。」
と計画する。酉の三月中旬にそっと使者を派遣し、講和をしたいと伝えられた。蔵人はこのことを聞いて、
「信長は今川義元の怨敵だから、怒りが残っている。しかし氏真が岡崎をとり上げようとしていることも確かに聞いている。しかし信長は、今では対抗する者がいない大将だと思ってもいるので、隣国であるし、よく考えると会う方がよいな。」
と承諾された。そしてすぐに小栗大六という者を織田方の使者に付いていかせ、信長に講和をしたいと伝えられた。信長は大変喜んで、子孫に及ぶまで松平家に対して、疎略にしないことを起請文に詳しく書き、信長公の血判を小栗大六にお見せになった。それから山口飛騨守を使節にして、
「これから貴方と信長は、骨肉同体の兄弟として親睦をはかろう。」
と、厚紙七枚にまた誓約の言葉を書く。さらに諱を
「徳川三河守家康に改められよ。」
と言い遣わされた。こうして三河の元来武勇がある者らの多くが、今川家を離れて東照君に従ったため、三州の中で広瀬・梅が坪・石が瀬・寺辺・苅屋・長沢・戸屋金・西尾・東条・八方原・御油・八幡・左脇・牛窪・吉田・下地などという所で、みな戦いにうち勝ち、また野寺の一接をも平定した。特にこの国の一の宮で、徳川方の軍勢二千で、今川氏真の一万余の大軍を追い崩して東照君は勝利を得られたから、松平の一族はいうまでもなく、酒井・水野・大久保・本多・戸田・石川・榊原・奥平・菅沼・長沢・安藤・内藤・鳥居・鈴木などが帰順し、東照君の支配下に入ったので三河はすぐに平定されることになった。こしうしている中に永禄四(十五六一)年五月中旬に、信長公は六千五百の軍勢を率いて、初めて西美濃にうって出る。竜興支配下の要害を攻め落とし、各地に放火をし対抗の城を構えたり、新城を築くと共に、また濃州の武士などへ縁に従い仲介人を入れ、いろいろと手のこんだ対策をする。それから信長公は、この武士たちを招き、
「濃州の境は大海をはさんでいるから、簡単に行き来ができない。美濃から帰陣する祭、敵が追撃してくるのに対応できなかったり、または洪水の時に苦労する。それで川向の美濃側の敵地に要害を築いて、その裏から舟で安心して往復したよいかと思うのだが。」
といわれた。舎弟の上野介信包がいわれるには、
「いわれることは、もっともである。しかし敵地の上小勢では要害を持ちこたえることは出来ないであろうし、多勢ではどうしようもない。誰を配置したらよいか、それに私も考えがつかない。だから大将の考えこそが大切だ。」
と話される。家来たちはこのことを聞いて、敵国中で一人で城を守るのは困難だと思ったから、手に汗を握り頭を下げていた。信長公はこのようすを見て、
「大切な砦であるというので尾州で名前がある大将を派遣したとしても、命を失わせては割りにあわんな。」
と思い、その頃所領百貫を受納していた木下藤吉郎秀吉を呼んで、
「北方の向いの村木の辺に新城を築いた後守る将として、如才がない者と思うから、お前を配置したい。軍勢はどの位必要か。」
と尋ねられた。秀吉は聞いて、
「三百騎いれば敵がどんなに多勢でも、もちこたえれましょう。それについてですが、私は小身者だから大身の方々は命令に従って頂けないでしょう。そこで浪人たちを集め、それを預けてもらえば結構です。」
と、申し上げた。他の家来たちはこれを聞き、自分がはずされたことを喜んで、
「藤吉郎は小者であるが、勇気があり、彼にまさる者はいない。」
と話合った。
「千騎ぐらいでも危険な篭城を、三百でもちこたえれるというし、その上それほど名の有る者でもないから、もし討ち死したとしてもそれほどの損失ではないな。」
と思われた。そこで同六年九月三日に東美濃へ侵入し、あちらこちらに放火をし、北方の渡しの向側の中野円成寺の辺に陣をはった。その背後の河端へ信長公が言葉を寄せられて、藤吉郎が縄張りをして新城を築いて武具・兵糧を十分入れた。さて篠木・柏井・科野・秦川・小幡・守山・根上などから、流浪者らを三百人を選んで秀吉に預け、その要害へ篭めおいた上で尾州へ帰陣された。その後濃州の軍勢が四千余りで、藤吉郎の存在を馬鹿にして、城をとり巻き攻撃してきた。秀吉は生まれつき武勇と智略をもつ英雄の資質を持つ者であったため、蜂須賀小六、同又十郎、稲田大炊、加治田隼人、松原内匠、日比野六太夫、青山新七、同小助、川口久助、長江半之丞などという軍兵に命じ、構えの橋をはずし門を閉じて弓・鉄砲を撃って防戦した。寄手は大軍であったとはいえ、攻め入る方法が見つからなかった。そこで城中をだましおびき出して討とうとしたが、城方は城外には出ず一言も話さず、静かにして待ち構えている。竜興の軍勢たちは二十余日も激しく攻めたが、要害は少しも弱くならなかったので、逆に寄手は退屈して井の口へ帰陣した。それから四・五日後、城中からそっと人数を出し付近の村里に夜討ちをして。兵糧・家財ばかりか若くて元気そうな男女を数十人ずつ人質として捕えて帰り城中の召使いに用いた。郷民たちはこれに困って、
「貴領の百姓となるから、夜討ちをやめて頂きたい。」
と侘びてきた。そこですぐに人質・雑具を返し与え、この村人を案内者にして、また次の里に行った。いつまでもこのように民衆を苦しめていったために帰順した村里はすでに五十余村になった。この領地は六千貫をこえたということだ。信長公はこのことを聞かれ、すぐに今度支配下に置いた村々を全部木下藤吉郎に授けると共に、さらに敵国を討ち従えるように命じた。また蜂須賀小六が見事な働きをしたのは、これ以上目出度い事はないと思ったので今度支配した領地の内で五百貫を授けられた上、彦右衛門政勝と改名を命じられ、また秀吉の後見とされた。本当に藤吉郎は経験が浅いのに庶民から士大将の列に加わったことは、武運があったといえ、奇妙である。元来秀吉公といわれる人は尾張の清洲近くの、中村の弥助という庶民に仕えていた下女が、余りに自分が貧しいのを嘆いて、甚目寺の観音に百日参りして祈り、天文五(一五三六)年に秀吉を生んだ。申の年であるから、童名は猿であった。父は不明でもとから家が貧しかったために、近くの里の農民の召使いなどをしているうちに十七歳になった。そして猿がしみじみ考えたことは、
「武士に仕えて身の安泰をはかろう。」
そこで清洲の工人である青木勘兵衛という者の妻が伯母だったので、このことを話してみた。伯母は大変喜んで、 一枚の着物を銭にし十分に準備し、青木につれられ三州へ行き奉公に励んだ。数年たってから国元へ帰った。永禄元(一五五八)年九月一日に藤吉郎は二十三歳のとき、信長の小者になり昼夜仕えた。同四(一五六一)年八月二十日には、清洲の館の塀が崩れたとき、その奉行をよく勤めたので足軽になった。在名だったので、中村藤吉郎と名のり、木下雅楽助の組に入った。翌年の五月中旬に濃州墨股で、福富平左衛門が金竜の笄を失くした時、藤吉郎は犯人と疑われ無実の罪に苦しんだが、いろいろ知略をめぐらしその盗人を捕えた。そこで信長は感心し、すぐに没収した所領三十貫を授けられ、寄親の木下雅楽助に命じて、名字をもらい木下藤吉郎と名のらせる。その後犬山で一戦の時に、兜首を討って恩賞があり百貫になった。さて士大将に昇進し、永禄七(一五六四)年正月の出仕では、数千の同僚をこえて上席についたのは、こうしたわけである。 
参.信長の妹を浅井へ嫁がせられた事 / 附記・斎藤竜興が没落した事
そうしている中に濃州の大半は、織田信長に従ったが、まだ斎藤竜興は井の口の城にいて退かないため、どうして滅ぼすかと評議にかけた。そこで丹羽五郎左衛門長秀が話すには、
「江州の佐々木と意を通じられると威光は高まり、敵国から次第に帰順する者が多くなると思われますが。」
といわれた。信長も
「もっともな考えである。」
と、江州から来ていた浅井新八郎を使者にして、観音寺の城主である佐々木修理大夫義秀、その後見役の箕作左京大夫義賢入道承禎の所へ、すべてにわたり疎遠にならないようにと、言葉をやわらげていい遣わされた。佐々木義秀は
「どんなことも承禎にまかせてある。」
といわれる。このため承禎入道が考えて言われるに、
「近年、信長の動きを聞いているが、鬼神さえだます大将だと聞いているから、親密な関係を結ぶのは結構だと思っている。とすれば信長と縁を結んで絆を強め連帯を深める手だてが必要であると思うが、当家には該当する者がいない。しかし親類である浅井下野守久政の子息である備前守長政には妻がないため、これを信長の親類にとなされればよろしかろう。」
と、申しあげられた。佐々木殿は
「そうしよう。」
といわれた。抜関斎承禎は、すぐ新八郎にこのことを話す。新八郎は久政と一族であるため、観音寺からすぐ浅井の居城である小谷へ行き、下野守にこのことをいい聞かせた。久政は喜んで
「全てを新八にまかす。」
といわれた。数日して清洲に帰参し、近州の状況を細かく信長公に報告した。こうして和睦がなったので、祝いをされた。とりわけ浅井の先祖を聞くと、藤原氏閑院の三条の内大臣実政公の孫で、大納言公綱卿の子息の新左衛門尉重政は、永正年中に江州浅井郡小谷の庄に初めて居住し公家を離れて弓矢を持った。久政は重政の四代目の兵庫頭賢政の孫の備前守亮政の子息である。
「・・・当主備前守長政は、勇敢な領主だといわれており、佐々木と浅井とは、近い親類と聞いているから、互いに信頼できる関係にある。そうした状況なら、自分の妹を遣わしたい。」
といって、再度浅井新八を近江へ出発させた。下野守久政は大変喜んで、迎えとして一族の浅井福寿庵・家臣の安養寺三郎左衛門・赤尾美作守の三人を尾州へ派遣した。上総介は心をこめて準備を整え、佐々内蔵助・福富平左衛門を伴ない、四月中旬に輿を小谷へ入れられた。このようにして尾州・三州・江州が一つになったという評判を聞き、濃州の軍兵たちはこのために弱り、特に信長のほこ先が鋭くなる情勢に気おくれがして、急に竜興が人倫に欠けるのを憎み、その愚かさを非難しはじめた。そして
「上総介殿は先君の義竜と仲がよかったから、味方になろう。」
といって清州へ降参しにきた者たちには、稲葉伊予守、氏家常陸介、安藤伊賀守、蜂屋兵庫頭、不破河内守、丸毛三郎兵衛、遠藤左馬助、遠山久兵衛、原彦次郎、金森五郎八、西尾五右衛門、加藤左衛門、竹中采女、伊藤彦兵衛らである。これらを一方の将とし、百騎、二百騎とひきつれてそれぞれ従うことを誓った。その後、信長の計略で三河表で行動すると陣触をし、尾州の小牧に軍勢を揃え、東へ行かずに北方を越えた。そして永禄八(一五六五)年八月一日、諸軍兵に命令して、
「濃州の井の口を攻めとれ、進め、勇士たち。」
といわれた。柴田、佐久間、森、滝川、丹羽、毛利等という軍兵は、先を争い、瑞竜山にとり登り、峯続きに因幡大菩薩の社壇の後にある高嶺を越えて、本城の近くを攻めた。また加納・大宝寺・鏡島口から向った者もいた。峰屋・遠山・原・金森は東の山に布陣した。大垣の氏家・曽祢の稲葉・河戸の安藤は、西美濃から参陣した。すべてが堅鎧の強兵で、 一万余騎が鯨波をあげ、昼夜を分けずに攻撃した。竜興の方にも揖斐・船木・池田・国枝・長井・日比野・岩田・加々井・山田・大桑等というの者たちが駆けつけ総勢一千余騎、忠誠を強くしめす気持があった。しかし急に来襲されたので、驚き、騒いでなんとか本城に立て篭った。そして生命を惜しまずここを最後と防戦した。因幡山が名城とはいえ、食糧がなく水も少ない状態では長く持ちこたえる事は難しく、同月十五日に斎藤右兵衛太夫竜興は降服を願い、城を開いて長良川を越えてどこかの地へ退散した。そして城を受け取り、弟の上野介信包・柴田修理亮勝家・丹羽五郎左衛門長秀を守将とし、尾州へと凱旋された。その後斎藤の残党征伐を行い、六年間を掛けやっと濃州の大半が平定された。そうして舅の義竜の跡を継ぐため美濃に居城を移すべきだとして、尾州の清洲には長男の三郎信忠が十二歳に成ったのを城主として置き、林佐渡守・平手監物・長谷川宗兵衛を付家老として留め置かれ、那古野や小牧といった城は廃城とし、自分は翌年三月十五日に、清洲から美濃の厚見郡井の口に移り、名を岐阜と改めた。信長三十三歳、ここを居城と決められた。 
四.織田殿に明智が招かれた事
明智十兵衛光秀は、越前にいた時には朝倉義景の下に仕えていたが、永禄八年の冬の頃から義景の側に出れることが少なくなっていった。その理由は何かと言えば、鞍谷刑部大輔嗣知が讒言したことによる。この嗣知は、足利公方義満公の次男大納言義嗣卿の四代の孫右兵衛佐嗣俊の孫の掃部頭嗣時の子である。この義嗣は父の鹿苑院殿義満の最愛の子だったので、義満公は義嗣の兄で将軍となった義持公を蔑ろにされることも多かった。将来的には義嗣に天下を譲り渡そうと考えていたのだが、応永十五年の夏、鹿苑院道義禅閤が亡くなられたので、その後は義嗣卿は不遇をかこった。同二十五年の春にはその大納言も他界されたので、その子の嗣俊は孤児となってしまった。そこで縁を頼って越前に下向されて、味間野の辺に仮家を設けられたので、ここを鞍谷御所といって朝倉家から保護された。特にこの刑部大輔の娘は、義景の内室となっているので、主君の舅と言う事にもなり、また才覚もある人だったので国中の皆から尊敬されていた。ある夜、話のあいだに義景に鞍谷殿が言うには、
「近頃濃州から来た明智光秀の様子をみていると、戦には勇敢で知謀才覚は人に勝っており、弁舌も巧みな者である。しかしその野心に限度はなく、常に朋輩の中でも上座に控えている。こんな輩は譜代の重臣を軽んじ、後々には主君である義景様をも欺き、些細な事を怨み、その野心に果てが無いような者です。朝倉金吾入道も申されているとおりです。」
といったので、その後義景もなんとなく光秀を近習から外し、皆に加増が有った時にも光秀に沙汰しないようなことをした。またその頃、美濃の国主だった斎藤竜興が尾州の信長と数年に渡って戦っていたが、終に討負けて濃州から流浪して拝星峠を越えて大野郡に塾居して、朝倉家を頼ってきた。光秀はこの事を聞いて、
「竜興は明智家の仇敵であれば、これといい、あれといい、この国に居て益が有る事は無い。細徳の険微を見て買生が書いたという筆の跡も、こう言うことかと実感されるわ。」
と思っていたところに、織田上総介信長から、明智の許へ、密かに書簡が送られてきた。
「そなたを招こうと思ったのは、私は今度右兵衛大夫竜興を亡し、尾濃両国を平定し、尾張から美濃に移って、岐阜に在城している。明智というのは元来私の舅斎藤山城守義竜の臣として、濃州の郡司であった家である。時に光秀の叔父宗宿入道は、主君義竜の為に忠義を全うし死んでいった者であれば、この信長としても常に其恩に報なければならないと神明に誓って思っていた処に、今、怨敵竜興を追い出して、会稽の恥辱を雪めて本望を達した。汝もきっと累年の憤りを散らそうではないか。私は、山城守と意を同じくしているので、光秀も旧里に帰って、再度家を起して、世上に名を知らしめてはどうか。」
と再三懇に書状を送られてきた。そこで、十兵衛も又徳輝を覧て下ると言って、信長の言うことを信じて、義景に暇を申しでて、永禄九年十月九日、越前から濃州岐阜へと参ったのであった。その頃、光秀は三十九歳であったそうだ。そして、旧知の猪子兵助を通して、御目見えを申上した。その祭には、持参した祝儀として菊酒の樽五荷と鮭の塩引の賃巻を二十を献上した。また、信長の内室は、光秀の従兄妹であるので、これとは別に御台所へ土産として、 住国越前の大滝の髻結紙を三十帖と府中の雲紙千枚、戸口の網代組の硯箱・文箱・香炉箱の類のもの五十ほどを献上した。信長は光秀の奇特な振る舞いをご覧になって濃州安八郡で四千二百貫の所領を光秀に授けられた。 
伍.北伊勢で争った事 / 附記・神戸納得並びに長野の事
美濃国の残党達は、信州木曽を越えて武田入道信玄を頼むものや、または伊勢へ行き北郡の士大将に頼んで織田家対し刃向かうのに恨みを以っていることを聞かれた。そこで信長公は
「そのことなら聞いている。では北伊勢を平定しよう。」
として滝川左近将監一益を大将にして、永禄十(一五六七)年二月五日に濃州を出発し大河を渡って、多度郡より勢州に攻め入った。その頃の伊勢の国は国人同士が相争っていたので、一団となって侵攻を防ぐということはできなかったので、ある者は撃ち滅ぼしある者は伊勢から追い出した。そのため滝川の威勢は大いに上がった。明智光秀も滝川に従い、丸尾兵庫助・竹中丹後守・平塚因幡守・伊藤彦兵衛・高木権右衛門・五井四郎次郎等と共に勢州に向かったのだが、員弁郡に勝恵和尚という光秀が昔から知っていた禅僧を尋ね、この和尚に依頼して
「北伊勢の士大将達に織田殿に従うなのなら、本領の安堵は請合おう。その上忠節を尽くせば必ず加恩があることを詳しく説いて頂きたい。」
と依頼したので、勝恵和尚は色々と説得したので、在地の上木九郎左衛門、木股隠岐守、持福右衛門尉たちが降服した。そこで明智から滝川へ取次を申し入れた。この事を信長は御聴きになって、感じ入って光秀の下へ書状を遣わしていうには
「敵国を治める法はその地の士卒を帰服させる事を最善とする。今光秀の功績により勢州は悉く治める端緒を得る事ができた。今後も更に知謀を巡らせるように。」
とおっしゃられた。それと同時に一益の方にも
「何事も明智と相談して計略を決めるように。」
と言い渡した。これを聞いた者は皆、羨ましい事だと話し合った。同八月上旬に信長公は、始めて勢州へ出馬し、桑名、員弁、多度、朝明、菴芸の五郡の武士たちと合戦になる。岡・加藤・進士・焼野・庄田・木梨などの者を、ほんの一戦で追討された。その後南部治部少輔・加用監物は、木股・上木・持福たちの誘いで、信長公へ挨拶にやって来た。そこで彼らを案内者にして、楠摂津守の城を攻めるよう命令された。北伊勢・南美濃の軍勢は、持ち楯・竹束を築き寄せ、大音声をあげて攻撃する。十兵衛光秀も十月十二日の早朝から討って出て、明智弥平次、同次右衛門、同十郎左衛門、溝尾庄兵衛、隠岐五郎兵衛、進士作左衛門を先頭にして、手勢の二百余騎が、 一番に追手の城戸口近くを攻めた。そうしたところへ城中から、楠の後援にきていた贄川十太夫と名のる武者が、黒糸の鎧に四方白の甲の緒をしめ、六、七十騎でうって出た。周辺の敵をなぎ払い辺りの敵がいなくなったところへ、明智弥平次光春と名のる緋威しの冑と半月を指物にし、水色の笠印の百余騎がまっ先に進んできて、贄川方と槍を合わせあちこちで戦った。そして城方の野田彦右衛門、橋本佐太郎、河辺五助らという強兵を十八騎もうち取った。それで贄川も対抗できないと思ったのか、城中へしりぞいてしまった。そこにつけ入ろうと進んだが、楠の家風か小反撃しながら徐々に後退し、やっと門を閉じた。その後摂津守は、笠印を出し甲を脱ぎ、弓の弦をはずして降参してきたので、後の戦のためとお許しになった。楠を先駆にして、神戸蔵人友盛の家臣である山路弾正がたて篭る高岡城をとり巻いた。しかしその頃濃州に野望をもつ者がいて、伊賀伊賀守範俊も同志らしいという風評が流れた。そこで滝川、明智を残しておいて、信長公は岐阜へ帰陣された。さてこの伊賀伊賀守という人は始めは安藤伊賀守といったが、今は伊賀伊賀の守といわれるようになった。その冬に菴芸郡の士大将で、稲葉対馬守という者が、明智を頼って味方になるとやってきた。少したって濃州の反逆のことは嘘であったのがわかったから、翌年の辰の春にはまた信長公は、大軍を引率して勢州へ出発した。すぐにこの地の士大将の千草信濃守、後藤市正、宇野部右馬助、堀越中守などが降服した。また去年から囲んでいる神戸の支城である高岡を、十重二十重にとり巻き、昼夜をとわずに攻め戦った。その後勝恵和尚によって、和平の仲介があった。神戸蔵人大夫友盛には女子はいたが、男子がいなかったので信長公の三男の三七郎信孝は、生年十一歳になっていたのを友盛の婿養子にして、家督を譲る手はずに決めた。滝川左近将監、明智十兵衛尉が供をして、神戸の屋敷に入られた。守役に幸田彦右衛門、岡本太郎右衛門、三宅権右衛門、山下三右衛門などという武士を付けられた。このようにして信長公と神戸友盛と同盟が成立したので、その一族の峯筑前守を始めとして、国分佐渡守、鹿伏兎右京亮以下は、みな三七殿を主君にした。その後亀山の城主である関安芸守盛信も、味方として参上した。この関、神戸の一家というのは、小松三位中将資盛の孫である関左近大夫実忠の後継と聞いている。家紋は揚羽蝶である。それから信長公は、中伊勢の長野左衛門次郎具祐を滅ばそうとして、北伊勢の軍兵と神戸の一党を先頭に、まず長野の一族である細野九郎右衛門の居城の、細野城を攻められた。またそのほかの一家の城などを囲まれた。そうした中で彼の一族の中に分部左京亮政寿、河北内匠助の二人は、長野に恨みがあったので早速信長公へ帰服した。その後、明智光秀を通して、分部が話すことは
「私たち一党の長野というのは、頼朝公の時に工藤左衛門尉祐経の次男であるエ藤薩摩守祐長に、勢州安濃郡の長野の城を与えられた時から長野を大将にして、雲林院、草生、分部、家所、細野、河北、中尾、乙部に及ぶまで、どれも工藤家である。家紋は三つ引両で尊氏公から拝受し、都合五千騎をもって数代に及んでいる。ところが前の長野左衛門尉祐則には、実子がないため、国司の北畠中納言具教の二男を養子にされ、長野次郎具祐と名のられた。しかし一族と不和で、みんなは具祐に離反をするようになった。工藤家の名跡だけたてて頂ければ、 一族たちは織田家の味方として参上するつもりです。」
と申し上げた。これを聞いて信長公は大喜びで希望通りに、弟の織田上野介信包を、工藤家の大将に決められた。このため雲林院出羽守、草生与市左衛門、家所主馬助、中尾権頭、乙部勘解由以下のみながお礼に伺候して、信包を大将に推戴した。こうして長野左衛門具祐は、 一族たちがこのように背きだしたから、とる方法がなくなり長野を出て、親父の具教公の居城である一志郡多芸の屋敷に退いた。その後信包は、神戸蔵人大夫の姉婿になられたために、長野家と神戸とは、味方になり、勢州の大半は織田殿に従属した。まもなく伊勢五郡は、滝川左近将監一益の知行とされ、矢田の城に居住して、信孝、信包の両方を指導するよう命令された。信長公は濃州岐阜へめでたく軍馬を引き上げられた。今度の勢州表で忠誠を示した者たちに、身分により賞禄などを与えられた。その中に明智十兵衛光秀にも、加恩として五十貫を知行地の安八郡の近くでもらった。これにより五百騎の士大将になられた。 
巻第三 

 

壱.義昭公が濃州へ移られた事
ここに将軍の光源院義輝公の弟である足利義昭公は、織田信長公を頼られて、逆徒の三好左京大夫義継を滅ぼし、その宿願を果したいというお気持ちがあるように聞いている。もともと義輝公という方は、源尊氏公から八代目の後継であり、将軍を継がれて十三代に当たり、万松院義晴公の長男である。弘冶・永禄の頃になると全国は少し安定して、阿波の三好修理大夫長慶・近江の佐々木大膳大夫義実などもみな服従したため、都中も穏かで万民はほっとしていた。ところが三好長慶・佐々木義実の両将がともに病死すると、佐々木の子の修理大夫義秀は愚かで、後見の箕作義賢入道承禎に国務を任せて、三好の子である左京大夫義継は、年が若いので家来の松永弾正久秀が万事を執行していた。こうしたことで礼儀がすべて乱れて、貴賤をとわず将来を不安に思うようになった。こういう状況下で心配していたように三好の家臣の松永弾正忠は、主君の義継に謀反をすすめ、ひそかに京都へ軍兵を入れた。永禄八(一五六五)年五月十九日には、急に将軍の御所を包囲した。この頃は少し社会が平和だったので、将軍側も特に用心もしていなかったため、反逆人は思い通りに営中に攻め入り、すぐに将軍を殺してしまった。義輝公のお歳は三十歳と聞いているが、残念なことであった。将軍の弟の僧が奈良の興福寺の一乗院と、洛外の金閣の鹿苑院の両所におられた。まず鹿苑院の周蒿を殺害し、一乗院の覚慶も殺してしまおうと奈良へ討手を派遣した。覚慶は早く気づかれて、春日山に逃げ入り、それから伊賀国を経て江州の甲賀に出られ、佐々木修理大夫の家臣である和田和泉守秀盛の屋敷へ入られた。その後矢嶋郷へ移り、そこで還俗し義昭公といわれるようになった。この佐々木義秀の母は将軍の義晴公の娘で義昭公の姉であったから、少しも粗略には扱われなかったけれども、義秀は生来愚かであったために、君臣の親疎の弁えもなく、無分別に過していたので一族である箕作左京大夫入道承禎と子息の右衛門尉義弼が、すべてをとりしきった。この箕作父子は三好と親類だったので、義昭公を敬服しなかった。その上三好、松永方が密かに連絡をよこしてきて「還俗した義昭を急いで殺害するように」といって来たから、どうしたらよいか考えていた。このことを義昭公が何となく聞かれて、
「そうであるなら、近州にいるのは危険である」
と、密かに矢嶋の郷を忍び出て、若狭の小浜に行き、武田大膳大夫義統を頼られた。この義統には実子がなかったので、佐々木義秀の弟である右京亮義頼を養子とされたが、これも義昭公の甥であったから、武田父子は義昭公を尊敬された。しかし若州は小国なために、ずっと居るわけにも行かないだろうと以前に旗頭に頼んでいた越前の守護である朝倉左衛門督義景へ、佐分利谷の石山の武藤上野介から申しこまれた。義昭公は朝倉家を心から頼りにされたからである。その際義昭公からも副使として、大館治部大輔晴忠をさし遣わされたので、義景は謹んで承諾し、すぐ迎えとして一族の朝倉式部大輔景鏡を若州へ派遣して、永禄九(一五六六)年九月晦日に、まず領内の敦賀の城へお移りいただいた。城主は亡き朝倉金吾入道宗滴の子である九郎左衛門景糺とその子息である中務大輔景恒の父子が迎えて、馳走は他に例がないほどであった。その後しばらくして義景の居城である一乗谷へ入られるはずであったが、その頃義景の家臣である堀江中務三郎利茂という者が、朝倉に離反するということが起こったので、堀江の坂北郡の領地を没収し、本庄の屋敷をとりあげて加賀の方へ追放した。この騒動で義昭公は、少しの間敦賀に滞在されることになったが、それからの一乗谷へ入いられた。御供として仁木伊賀守義正・大館冶部大輔晴忠、同伊予守信竪・上野陸奥守信忠・同中務大輔清信・一色播磨守晴家・同式部大輔藤長・伊勢下総守貞隆・同右京亮・武田治部少輔信賢・三淵大和守秋家・同長岡兵部大輔藤孝・飯川山城守信方、同肥後守、安藤蔵人泰識・杉原兵庫助長盛・丹羽丹後守・大日治部少輔・曽我兵庫助・能勢丹波守・沼田弥十郎・牧嶋孫六郎をはじめ、上下百三十余人であった。義景の敬服は大変なもので、逆徒の三好左京大夫を討伐するための計略をめぐらされた。義昭公は大変喜ばれ、さらに戦いの評議をされている間に、朝倉家の一族郎党に対面したいという意向をおっしゃった。義景は恐縮しながらその命令に従い義昭公と対面がかなったその者とは、一族では朝倉孫三郎景健・同土佐守景行・同中務大輔景恒・同式部大輔景鏡・同玄蕃允景連・同掃部助景氏・同出雲守景盛・同兵庫助景綱・東郷下総守・青蓮華近江守・鳥羽右馬助・三段崎権頭・向駿河守・中嶋周防守・阿波賀但馬守であり、家来では山崎長門守吉家・前波藤右衛門尉景定・詫美越後守行忠・河合安芸守宗清・桜井新左衛門元忠・印牧丹波守能俊・魚住備後守景固・栂三郎右衛門吉仍・溝江大炊介長逸・富田民部丞・小林備中守・波多野次郎兵衛・青木隼人佐などで、それぞれ御礼に参られた。そうしたところに加州に流浪していた堀江中務三郎利茂が、京都の三好・松永の誘いにのって、加賀・能登・越中で一揆をおこし、越前に対してすぐに恨みを晴らそうと侵攻する計画をたてる。その際三好方から金銀・衣類などまで沢山送り届け、細かな誓紙を作り送ってきた。その内容は朝倉を悩ませて軍功があれば堀江に越前を知行る、と。また加賀・能登・越中は、一揆たちの希望通りにするから心から頼む、などと言って来たので堀江は大変喜んで、加州石川郡の一揆の首領である鏑木右衛門が住む松任という所へみな集めて「朝倉義景が将軍を伴って上洛したなら、その後から越前へ攻め入ろう」と準備を始めた。朝倉はこのことを聞き、国境に押えをおき上洛することを決めた。北国には特に目立った敵はいないとはいえ、野望をもち気ままで残酷な一揆たちが、雲霞のようであり、特に加州からこの方へ来襲できる道筋も多いので、一万と人数を残さないと対抗できない。当家の常備の二万三千余と若狭の武田の軍勢の三千五百を合わせた二万七千のうち、所々の押えに差し分けると、二万にもならない軍勢となる。とりわけ江州の箕作承禎の腹が読めなかったので、今大軍を出したとしてどうすればよいかと、いろいろ相談して数か月を過した。義昭公はこのことを聞かれ、
「朝倉が慎重に考えるのは、みな当然なことである。分国の問題を解決しなければ軍をおこせないであろう。それでは濃州の岐阜に居城する織田上総介信長に頼んで、積年の恨みをはらしたい」
といわれたので義景は承諾し
「当家は義昭公の意向を粗略にはしないが、三好の勧誘で北国の一揆がおきたなら、おそらく数日間戦いがあると思われる。祖父の貞景、親の孝景、そして私の代に及ぶまで、その地の悪党が当国へ襲来したのは、永正三(一五○六)年八月二日を初めとしてすでに五回になる。毎回当家は勝利をし、ほとんどを討ち滅ばし、残党を追い返してきた。敵はおそらくその鬱憤が残っていると思われるため、今度も手をやくほどの防戦になると覚悟をしてほしい。そうした理由で上洛が延びているので、どんなこともご決意に従いたい」
といわれた。それならとまず使者を送って、信長の心のうちを聞く必要があるといわれ、上野中務大輔清信と長岡兵部大輔藤孝を岐阜へ派遣された。信長は二人に対面していわれるには、
「私は先祖の平相国清盛の二十七代の子孫であるとはいえ民間に下った後数代の斯波家の陪臣として長い歳月が過ぎているところに、今回恐れながら君命をもらって身にあまる光栄である。この機会に義兵をおこして、忠勤に励み将軍の怨敵を滅ぼし、御恨みをはらす考えである。それで当国へ御座を移されるなら、急いで軍兵を集め、やがて逆徒を討伐することを堅く誓って翻意しません」
といわれた。二人の使者は越前に戻って、このことを詳しく申し上げると、義昭公は機嫌良く感心され、永禄十一 (一五六八)年七月十八日に一乗谷を出られた。義景から道中の警護として、前波藤右衛門景定が五百騎で同伴し、敦賀の港に到着した。ここから朝倉中務大輔景恒の三百騎が前波に加わり、送列に加わった。そうしたところへ浅井下野守方から迎えとして、従弟の浅井玄蕃、同雅楽助兄弟を刀祢坂まで寄越し、そして北近江の余古の庄に着いた。備前守長政も木本宿まで出向いて、小谷の城へ奉じて入られる。そこへ岐阜の信長から案内者として、不破河内守、村井民部少輔をさし寄越したから、朝倉家の両使は小谷で任を終え帰った。浅井備前守は関ケ原の宿まで送りましょうと言われた。同二十五日に、義昭公は濃州岐阜の旅館へ入られた。 
弐.信長が江州へ出発した事 / 附記・勢揃の事
このようにして義昭公が美濃の国へ入られると、織田上総介信長は拝礼していわれることは、
「公方様が当地においでくださったことは当家の名誉に思われる。だから急いで人数を集め、怨敵三好一党を討伐するのに日時をかけないつもりです。しかしその途中に居城する佐々木修理大夫義秀は貴方の親族だから御味方だと思っていたのに、先々年に矢嶋の郷へ移られた時、義秀の後見の箕作承禎父子は三好と親類なため、大変不義を多く行ったと聞いている。そのことがあったので今度もまた礼に反するかもしれないので彼の腹積もりを見極めるために、信長は使者と同行し江州へ出向いて、よくその心底を見ぬき、その上で軍評定をするつもりである」
といわれた。義昭公はそれを聞かれて、
「どうなろうと上総介に一任するつもりだ。だから御家人である仁木伊賀守義正・飯川山城守信賢・一色式部少輔藤長、この三人を使者として派遣したい」
といわれた。このため信長は私宅に帰り、尾濃両国の頼みとする家臣三十余人に対し言われることは、
「みなの家臣の中から強兵を十騎ずつ、江州へ同道させるので寄越すように。」
このため皆その意に従い、甲冑をつけて急いで岐阜へと集まった。その際に信長は馬廻りから強兵を選び、約千五百余騎でその三人の使節を伴い、同年八月八日に岐阜を出発し、十日に江州犬上郡の佐和山に到着した。それから将軍の使者の三人のほかに、信長方から瑞竜寺の住職と武井夕庵を、観音寺城へ寄越されたがその際に
「今回は義昭公が逆徒を討伐するための上洛であるから、近江勢に先陣を命じるので、そのようによく心得ておくように」
と申し渡された。城主の佐々木修理大夫義秀は二十四歳であるが、生まれつき愚かで物事の分別にかけていたため、その後見役である佐々木入道承禎と嫡子である箕作右衛門尉義弼・次男の次郎左衛門賢永の三人が協議した上で義秀には相談せずに返答して言うには、
「最前義輝公が殺害されたからこちら、天下は闇夜のようであり、三好左京大夫義継と同山城入道笑岩などが、前の将軍であった万松院義晴公の甥になる右馬権頭義維の子息である左馬頭義栄公を永禄九(一五六六)年の冬には天下の主君として推戴して以降、京都は静かになった。特に当年二月八日に義栄公が禁色の着衣と昇殿を許され征夷大将軍に任じられた。その際に当家は管領職を頂き、江州に加えて美濃・尾張を拝領することになった。だとすれば信長は斯波家の陪臣であると聞くが、今からは佐々木家の家臣となるので、こちらが宛った土地を知行すべきである。その際には奈良の一乗院にいて還俗した義昭を、捕えて差し出すのがよい」
といわれた。使者はそれぞれ佐和山へ帰ってこのことを申されると、信長は笑って話をするには、
「狂言で戯れるのにも時節というものがあるはずだ。我が主である義昭公は、将軍義晴公の子息で将軍義輝公の御兄弟ではないか。一方の左馬頭殿は将軍家の庶流だから、そこには雲泥の差がある。義昭公と義秀とは叔父と甥の間柄で、誰がこれを引き裂くことができようか。このために今度の先陣を仰せつかったのである。早々に御意に従って忠節を尽されるなら、京都の所司代に任命されるはずである」
と再び使節を派遣されたが、受け入れられることなしに使者は空しく帰ってきた。その時諸士は大変憤り、
「此の期に及んでは早く軍勢をくり出し、まず佐々木を征伐なされるべきだ」
と申し上げると、信長がいわれるに、
「もう一度佐々木の意向を聞いた上で初めて評議すべきである」
と重ね重ね三度まで使者を派遣され、内々に義秀と信長とが気の置けない仲であることを述べ、相互に人質を交換し、さらに浅井備前守と縁組をしたことなど、あれこれとぜひ同意してほしい旨を遣わされたが、やはり不調に終わった。それだけではなく使者を嘲笑し、何かと悪口をいって返してきた。
「こうなれば近日中に軍兵をおこし、ふみ潰してやる」
と信長は大変怒られ、翌十八日には帰途につこうとされたが、そこへ佐々木の家臣である野村越中守高勝という者が、箕作入道に恨みごとがあるため、急いで退去し信長の所へやって来た。また江州日野に居住する蒲生兵衛大夫賢秀も信長の知勇を知り、戦いの大勢を察して秘かに使者をよこしてきた。そうこうしてすでに夜明けになってから信長は明智十兵衛光秀をよんで、
「今日の後陣(しんがり)はそなたが行え」
と直接命令されたので、百余騎の軍勢で後陣を勤めた。こうして上総介殿は帰国の途に付き、その夜は柏原の成菩提院で一泊された。その道中から佐々内蔵助成正、福富平左衛門貞次を使者にして、浅井下野守久政、子息の備前守長政の居る小谷城へ遣わされて言うには、
「今度将軍の義昭公は逆徒を追討されるため、佐々木に先手を命じになったが、期待に反し敵と組み上意にそむいたのは許しがたいことである。心底からの忠誠がない者は、天の罰を負わされるべきである。備前守は信長と縁者の間柄であるから、味方となり忠節を尽されるべきである」
と両使が細かに申し入れれば、長政はこれについて言質を与えなかった。久政がいうには、
「これからもう一度返事をさし上げる」
とはっきりしない返答であったので、佐々と福富は立腹して、浅井も近江の旗頭である佐々木と同じ仲間であると推量してつぶやくのに、
「治承の昔、山内の首藤の滝口三郎経俊が大庭と組んだのと似たようなものだ」
として、さっさと北近江から帰った。同二十二日に信長は岐阜に着いて、江州の様子を義昭公へ話され、その後手分けし分国中へ触れを出されて、軍議が決して、まず兄の織田大隅守信広を尾州犬山の城に残し、岩村・明智・苗木・金山の兵を加え二千余騎は信州の木曽口をおさえた。三州の軍勢八千騎は、今川・武田・北条に備えて岡崎の城に残して置き、東照大君の名代として、松平勘四郎信一に小組の足軽大将を二十人そえ、約一千騎を岐阜の城まで遣わした。美濃・尾張の勢の二万二千騎は、来月七日が吉日になるため、出陣するにふさわしいとして武具を補強し、甲冑を美しくして勇んでいるようにみえた。また伊勢の武者の八千のうち三千騎は、国司である北畠中納言具教のおさえとして、織田上野介信包を大将として、織田掃部助、雲林院出羽守、草生与市左衛門、河北内匠助以下は、長野・安濃津・上野の三箇所に居城する。残る軍勢の五千余騎は、滝川左近将監一益を先陣にして、神戸蔵人大夫友盛・関安芸守盛信・峰筑前守・国分佐渡守・分部左京亮、細野九郎右衛門・家所主馬助は、岐阜勢の合図で佐々木の一族である梅戸左衛門大夫実秀の梅戸の城を攻め落して実秀の首をとり、そこから山中丹後守秀国がたて篭る伊勢と近江の境である蟹が坂の城も攻めくずし、土山の宿に布陣した。 
参.箕作が落城した事 / 附記・佐々木が城々を開き退いた事
そうしている内に、佐々木を追討するため信長は諸士を集め、江州の詳しい絵図を使って軍議を終えた後、義昭公にいわれるに、
「近江の敵の討伐などに、御出馬される必要はありませぬから、しばらくここに居られ、今後の成り行きによって移動されるとよい」
と申された。その後浅井方へ使者を出されたが、いまだにはっきりしない様子だった。それで
「縁者とはいえ彼の態度がわからないため、用心しておく方がよい」
と、丸毛兵庫助、安藤右衛門尉・斉藤新五・竹中采女・平塚三郎入道無心・その子の因幡守らを将として、五百余騎で多摩の城を守らせた上で、永禄十一 (一五六八)年九月七日には、勇敢な精兵約二万八千余騎を率いて、道中の小城を攻め散らし、同十一日に近江の国愛智川の宿に着陣した。このことが佐々木方へ伝わると、入道抜関斎承禎は大変驚き、「それならば」と要害を構え防戦しようとした。領有する城々を数えるとまず観音寺を本城として、箕作・和田山・八幡山・永原・佐和山・山本・小谷・横山・鯰江・梅戸・蟹坂・甲賀・雄琴・堅田・和爾・田中・新庄の以上十八か所があり、そこに兵糧を貯え、武具を準備してまち構えていた。特に観音寺の城は、総大将の佐々木修理大夫義秀の居城であるから一際堅固に縄張してあり、これを守るため箕作左京大夫義賢入道承禎をはじめ、そのほか青地伊予守秀資・馬淵伊賀守定春。片桐備後守実光・乾甲斐守秀氏・三雲新左衛門・永田左近右衛門・三田村左衛門・野村肥後守・木村豊前守以下が七千余騎でひかえていた。箕作の城には佐々木右衛門尉義弼を大将として、吉田出羽守実重・建部源八兵衛信勝・駒井美作守氏宗・真野土佐守信重・池田伊豆守・匹田四郎左衛門・平井備中守など三千余騎でたて篭った。和田山の城は敵方から近いということで、大原次郎左衛門賢永・種村大蔵大輔実高・永原安芸守信頼を三大将として、伊庭民部少輔実宗・間宮若狭守信冬・高宮参河守信氏・大野木土佐守・大宇大和守・今村掃部助・鳥山左兵衛・船木十兵衛・蒲生将監を先頭に、強い兵が五千余騎で立てこもった。このほかの城々もそれぞれ五百騎・千騎ずつと、城の規模によりそれぞれたて篭った。こういう状況下で佐々木の家臣である進藤山城守秀成・後藤喜三郎頼基の両人は、箕作承禎父子は秘かに恨んでいたが、主君の義秀の厚い思いをすてきれないでいた。そして上総介殿が愛智川に陣をとったと聞いて、よい機会が来たと思ったのであろうか。一族を率いて居住する木浜城に引き籠もり、信長の味方になる様子であった。こうしたところ信長は愛智川の駅に留まり、遠く敵陣のようすを巡見していわれるには、
「兵が勝つには敵の様子を内偵して、その不意を攻撃することだ」
といわれた。そして
「観音寺・和田山の要害を攻めとるには、数日はかかるだろう。だからまず両城に押えをおいてから、遠くにある箕作を攻め崩し、敵の残党を残さないようにすべきである。」
として和田山の押えには弟の安房守信時を大将にして、林佐渡守光豊・平手監物清澄・明智十兵衛光秀・氏家常陸介友国、稲葉伊予守長通・伊賀伊賀守範俊・蜂屋兵庫頭頼隆・不破河内守以下七千余騎が、長蛇のように城の周りで備えた。観音寺の押えには信長の本陣を寄せ、こちらの陣には柴田修理亮勝家・森三左衛門可成・坂井右近将監重康・飯尾隠岐守信宗・長沼彦次郎重宗・津田市之助信成・毛利河内守秀頼・簗田出羽守・山田三左衛門などが八千余騎で、鶴翼に備えて箕作から遠回しに陣取った。信長の弟の織田源五長益は、三千余騎の将として、愛智川の宿に陣を張り、各方面の敵を押える。さて箕作の城を急いで攻め落すようにと、浅井新八郎を案内者にして、佐久間右衛門尉信盛・丹羽五郎左衛門長秀・木下藤吉郎秀吉・松平勘四郎信一、その軍勢四千五百余騎が、東の道を経て同十一日申の下刻(だいたい午後四時)に、箕作の出下へ砂埃を吹き上げながらとり巻いておし寄せてきた。城中からこれを見て山下の城戸口へ人数を出し、ここで防戦しようとしたところを佐久間・木下は真っ先に対抗し激しく攻戦すると、城兵は防ぐことができず新手を「交代しろ」と呼んだ。山上の本城からこの様子を遠見して、「味方を討たすな」と大勢がかけおりたが、丹羽・松平はすき間もなく攻め入ったから、 一の城戸口から少し後退して混乱してきた。寄手の大将は誰もが采配を取り諸軍卒を励まし、
「読みどおりじゃわい。付け入れ!」
と命令した。強兵・鉄騎の者たちは馬を乗り放し、大声をあげて攻め入った。これによって城中はますます戦い疲れて、二の手と一か所になろうとして山上に向かって引き上げかけたが、寄手の兵も一緒になって追って来て城方を追い立てて突きふせ、切りふせどんどん攻め上っていった。城中では二の手も一緒に突きたてられて坂道では身分のある武士が二百余人も討たれた。その頃信長は観音寺表におられたが、本陣に旗、馬印を残したまま、津田左馬允・猪子内匠を先頭にして、馬廻り三百騎ほどで箕作にかけて来て、勇み進む味方の兵を鼓舞しようと大声でどなられると、その声は十余町に聞えた。士卒たちはいよいよ先を争って進み、道が悪いところや岩があるところなどもものともせず、「えい。えい。」と声をあげてかけ登って、二・三の丸をうち破り、詰城へ攻めかかった。城方は建部源八兵衛・吉田出雲守、匹田四郎左衛門・真野土佐守を始めとして、宗徒の士五百余人が力の限り応戦したが、枕をならべて討ち死してしまった。城主の右衛門尉義弼はこの様子を見て臆し、降服を願って命は助かったので、夜半ごろに城をあけ渡して、甲賀をめざして落ちて行った。明けて十三日の卯の中刻(だいたい午前六時)になって、信長は勝鬨をあげられた。今度の箕作攻めに際して誰もが力の限りに戦ったが、特に三州勢がめだった活躍をしたので信長は感じいり、松平勘四郎信一を伊豆守にした。一日休息するように命ぜられて、母衣衆から他の敵城を押えている者たちに、さらに陣を固く守るように触れられた。佐々木方は箕作の落城を聞き、手足が萎える気持ちでこの上なく驚いた。そうして「今夜は夜襲がありそうだ」という風説により、各人がそのため用意をしていた時に蒲生兵衛大夫賢秀、同子息の忠三郎氏郷、両名は観音寺城にいたが、大将の義秀が空しく坐っている所へ来て、そっといったことに、
「この戦いの原因を考えると、元は承禎入道が三好方の人間であるが故に義昭公の命令にそむかれたことにある。君と将軍とは親しい間柄だから、決して敵方であると思っていられないと思われます。信長にこのことをいわれて、よいように頼まれたらどうか」
と具申した。佐々木殿は、
「それならばともかくよきに計らえ」
と言われたので蒲生父子は義秀を伴って、搦手の小門からそっとぬけ出て、日野谷へ落ちて篭った。その時はこのことを知っている者はなかったが、だんだんもれ聞えて来たので、承禎を始め城中はみな大騒ぎになり、
「本当に言葉もない義秀の振舞だ。その身は愚かであるとはいえ、佐々木源三秀義の後継として六角近江守時信の九代目の孫になるため近江の屋形といわれ、諸国の崇敬も厚かったのに、当代で滅亡することをみることになろうとは」
と、非難しつつ嘆きつつ皆は力を失い坐っていた。これは平治元(一一五九)年に源左馬頭義朝を捨て二条院内裏から六波羅へ行幸された事や、建武三(一三三六)年に後醍醐天皇が新田義貞を見放なされて、比叡山から都へ帰られた事と同じ事だ。過ぎた昔の事を思い知った気持ちである。このようにして観音寺城には、箕作落城に加えて大将が行方知れずになったことが伝わったので、同日の晩には身分の低い者から騒ぎ出し、妻子をつれて城戸をくぐり、狭間を破って我先にと逃げ迷った。最初は制止していたが、後には城中は身分を問わず誰もがあちこちへと落ちて行った。抜関斎を始め、馬淵・青地・三雲・片桐以下の者たちも、大勢にひき立てられ、仕方なく城を出て甲賀の方へ向った。このために和田山の城も、、
「観音寺がこうなってはこの城だけ防いでも仕方がない」
と、散らばって姿を消していった。この外に滋賀の郡雄琴の領主の和田中務丞秀純、堅田の領主の沢田兵庫助宗忠も、信長の威勢をおそれて、城を捨て姿をかくした。和爾越後守氏条・新庄伊勢守貞光・高嶋越中守高泰なども、このことを聞いて一戦するというような考えは無く、ただ落ちる準備に専念した。そして信長は翌日にすべてを平定され、十五日の巳刻(だいたい午前十時)の頃には、観音寺城へ入られて、和田山に安房守信時を、箕作ヘは源五長益を移された。身分を問わず士卒は大変喜び、このまま入洛して三好の一族を討ち滅ぼすのは簡単だと心は勇んだ。そして将軍の義昭公を迎えるため不破河内守を派遣された。
 
本能寺の変の真因

 

諸説入り乱れている『本能寺の変』の真因。巷にはこれらの逸話が真実であるかのように流布しており、また一方で研究書などなどでは詳しい理由も無く「『変』の理由とは考えられない」と書いてあったりします。それは何故に「考えられないのか?」その辺を踏まえてそれらの諸説を紹介しつつ、事実を思われない説についてはその根拠を示して「論駁」を試みます。 
怨恨説
我、予テヨリ遺恨アリ。
怨恨説の根拠には幾つか有りますが、有名な所では
一.八上城の母見殺し
二.丹波近江の召し上げと石見・出雲の給付
三.長宗我部への違約
四.斎藤利三の移籍問題
伍.家康接待役の罷免もしくは『生魚事件』
等。あとは
甲州征伐時の「我等も苦労したかいが有ったもの」と言って「そちがいつ骨を折ったのだ」と信長にからまれ折檻を受けた
信長が下戸の光秀に大杯と共に刀を突き付け「酒を飲むか刀を飲むか」と迫り光秀が酒を飲むと「そちでも命が惜しいか」と言った
宴中に光秀が小用に席を中座したのを信長が見咎め折檻した
等という「信長が光秀に折檻した」という類のものがほとんど。
これらの俗説は信じるに足らぬものだと思いますが、未だに根強いものがあるようなのでここで私としてもそれを論駁しようと思います。
「八上城の母見殺し」
八上城包囲中の光秀は波多野兄弟に誘降を試み、助命の条件で応諾の感触を得たが「信長の家臣の言う事は信が置けない」と波多野側が言う為に、自分の母(義母、乳母、母代わりのものとも)を人質として差し出した。そのためそれを信じた波多野兄弟は城をでて光秀に応対し、饗応を受けたがその最中に囚われ、安土へ送られた。しかし信長は波多野兄弟を許さず、処刑。怒った城兵は母を城門にある松の枝に吊るして殺した。そのため光秀は八上城を落としたものの違約した信長に遺恨を覚えた・・・『総見記』『柏崎物語』
というのが流布しているものであろう。がそもそも『総見記』では安土に送る途中秀治は負傷して死んだが、秀尚らは安土で生害した、と書きつつもその後、波多野三兄弟は安土で張付にされたがその最後は神妙であった、ともある。なぜ途中で死んだ秀治がまた安土で張付にされるのか?全く以って矛盾も甚だしい。どちらか、あるいは双方が虚偽の記述だとしか考えれない。その元本と考えられる『原本信長記』ではたんに「光秀は調略により波多野兄弟を召し捕った」とのみある。
それに城内には兵は1000名ほど、囲む明智軍は10000前後。加えて城内は兵糧攻めで餓死寸前。それでも光秀が攻撃しなかったのは兵の損耗を嫌ったからで、そんな落城寸前の城の開城の為にわざわざ人質をだす方が不自然である。それに加えて『太閤記』では逆に城兵が波多野兄弟を捕まえて自らの命乞いをしたと書かれている。『明智軍記』にも老母云々とは書かれていない。
また一説に光秀が開城を急いだのは、
信長に丹波攻略の後れを咎められ〜
対抗馬・秀吉の躍進に焦った光秀が開城を急ぎ〜
言う理由が説明されている。そのために落城目前をわかっていたにも関わらず母を人質に出したと有る。が、この年(天正七年)、光秀は丹波の波多野方諸城を連戦連勝で攻略しておりそれを「遅い」と言われるはずも無い。実際、この年八月九日に黒井城を攻略した段階で「永永丹波に在国候て粉骨の度々の高名、名誉比類なきの旨、忝くも御感状成下され、都鄙の面目これに過ぐべからず」『信長公記』というように感状を下しているのに何故譴責しようか。そもそもこの時期、摂津では荒木村重が突然信長に反旗を翻し有岡城に篭っている。それは毛利と通じて丹波の波多野、三木の別所とも繋がっていた。その反信長の連鎖を最初に断ちきった光秀を誉めこそすれ叱る理由はない。
またこの年の秀吉は前年自身の失言から最初は味方であった別所を敵に廻してしまったためその居城三木城を包囲し「干殺」していた。そもそも先年北陸軍に援軍として赴き主将柴田勝家と意見の不一致から戦線を無断で離脱し、信長の叱責を受けている。そのため中国方面軍の主将に廻されたとはいえ、これ以上失敗は許されない。これ以上の失態は信長を激怒させるだけだと恐怖していた。そのため焦っていたのはむしろ秀吉の方であった。同年九月、独断で宇喜多家の織田家臣従の取り成しを決めてしまい、事後承認を求めて安土で信長に面会した際にその独断専行を激しく叱責されている。感状を貰った光秀と激しく叱責された秀吉。この時期は秀吉の方が追い込まれていたといえる。
またこの時別働隊を組織して奥丹波を攻略し、福知山その他を落として光秀の援護をしたともあるが、三木城包囲でさえ城内とほぼ同数しか廻せないという秀吉にそんな余力がある筈も無く、逆に前年の上月城後詰めの際などには光秀らの援軍を得ている。こちらは事実である。これなども秀吉の天下となったために「光秀の功は出来るだけ秀吉の功に」しておこうとする歴史作家の「おべんちゃら」の結果だと思われる。若しくは秀吉周辺からの指示だったかもしれない。
また八上城落城後すぐに光秀は連歌興行を行っている。普通の人間の精神状態からして母親(またはそれに準じる人)を見殺しにしてしまった後に遊興しようと思うであろうか?特に普通の戦国武将よりも繊細な心を持っていたといわれる光秀が(実際は図太い人間だった可能性もあるが)。また八上城城門には「母を吊るす」ような松が植えれるような場所は無いとのこと。
以上のように考えるとどうもこの件は「天下の謀反人・光秀」の名を貶める為に作られた創作としか考えれない。天下を取った「秀吉」は正義、当然その秀吉が覇業を受け継いだ「信長」も正義、それに対立した「光秀」は悪。しかし光秀に目に付くような欠点が無かった為に「母を見殺しにした冷血漢」というイメージを植え付けようとしたと考えれます。またそれにより「本能寺の変」の原因に結びつけようとした・・・
「丹波近江の召し上げと石見・出雲の給付」
これについてはある意味ありえたかもしれません。しかし出典が『明智軍記』のみということではその説得力に欠けますが。もしあったとしても「近江・丹波の即時没収」はありえないと思われます。もしそうだとすれば一体どの軍を用いて「石見・出雲」の攻略を行えと言うのでしょうか。これまで、例えば光秀に「丹波切取自由」とした時も近江の旧領はそのままです。秀吉の播磨、滝川一益の上野、森長可の信濃等も同じです。旧領はそのまま、新領は切取自由。これなら理解可能です。一部丹波召し上げの根拠として丹波国衆に出された信孝の徴兵状が挙げられますが、これは単に信孝の兵だけでは四国遠征軍に足りなかったため(信孝の所領は伊勢の内の鈴鹿・河曲二郡のみ)、そのころどことも戦争状態に無かった光秀旗下の丹波国衆を借り受けようとしたものだと思います(このころまだ光秀の中国出兵は決まっていなかった)。またもしこのような命令を出したとすれば即時城の受取奉行が坂本・亀山他の各城に現れるのが当然なのにその記録も気配も無い。この「信孝の徴兵状」には偽書説もあるということも付け加えときます。
更に通常、こういう命令(旧領没収)を出されれば相手が激昂してしまうかもしれない(普通は頭に来るというのが容易に考え付く:『明智軍記』でもそうなったと書いてある。)ことは想像に難くない。だからその時点で明智軍の武装解除をしなければおかしいのにその気配も無い。城受取の者が坂本・亀山その他に向かったといういう記録もない。第一信長自身が軽身で京に上った事からしてこのようなことがなかった証明です。もし本当にこのような命令が出されたのであればそれは信長自身が耄碌していて自業自得としかいいようが有りません。蛇足ですが、同一の理由により信長が信康の自害を命じたという事も無かったと考えています。閑話休題。
但しこのような命令が出されたのは事実かもしれません。尤も即時召し上げでなく新領確保後ですが。それはありえる事です。信長から見れば一国二郡から二国への格上げだと言う意識があったのかもしれません。もともと光秀はその与えられた姓・官名「惟任日向守」からも九州攻めの先鋒を「羽柴筑前守秀吉」「惟住長秀」らとともに予定されていた事が窺えます。とすればこの「石見・出雲の給付」についても九州攻めまでの中間処置であったとも窺えます。が当時の織田軍の勢いなら天正十年中に中国・四国の征伐は完了したでしょう。とすればわざわざ中国に領国を与えずとも九州攻めが終わった段階で官命どおりの「日向」あたりを与える方が信長の考えとしては妥当だと思うのですが。信長にしても既に毛利との戦に「負けはない」と踏んでいたと思われます。とすれば石見・出雲を切り取り次第というのは中途半端です。光秀を山陰の重鎮にするのであればまだしも、九州攻めに充てる予定なのであれば。
また、何より決定的と思うのは「嘉吉の変」との関連です。ここでは一々指摘しませんが、足利義教と織田信長は非常に良く似ています。行動、思想、その死まで。詳しくは別HPに譲るとして、この「嘉吉の変」で赤松満祐が足利義教を殺害した一番大きな理由は「所領召し上げの不安からの決行」というものがあります。
当時、義教は赤松氏庶流赤松貞村と男色関係にあり、その為世間では『いずれ義教は満祐から播磨・美作・備前三ヶ国の守護を取り上げ貞村に与えるつもりだそうな』とういう噂がもっぱらであった。赤松満祐は将軍義持の代に、義持の命によりその寵童赤松持貞(貞村の叔父)にあやうく所領を奪われかけた経緯があった。そうすると、今度の噂もいつまた現実のものになるかもしれない。相手が義持以上の専制将軍だけにその不安は一層強く、そこで満祐は思い詰めた末に兇行に及んだのではないかと考えた・・・。
この「所領が召し上げられる」というのは実際に義教がそういった訳ではなく「世間がそう見ており、満祐もそう思った」からだ、とされている。が読んで分かるとおり「義教が召し上げと言ったわけではない」し「満祐が所領召し上げを恐れて凶行に及んだという証拠がある」わけでもない。世間一般が「そう思った」だけである。義教の寵童貞村がいた事と義教が「天魔の所行」を行うような人物だったため「こういう事を言ったかもしれない」と世間が憶測し、また「満祐もそれを信じたらしい」と世間が更に憶測した・・・という「二重の憶測」の上に成り立っている。理由が分からない場合は往々にしてこういう「憶測」が真実のように伝わっていく。
さて、そこでこの「丹波近江の召上」との関連。「本能寺の変」の理由は当時から不可解だった。そこで当時の知識人なら当然、「信長のオリジナルとも言うべき相似系の前例:足利義教」の事を思い出す。そしてその殺された理由が「所領召し上げ」という事(として伝わっている)に気づく。すると「信長も光秀に同じような事をしたんじゃないか?」と憶測する。それを傍証する逸話が残っています。
「ある時、信長が蘭丸にさまざまな珍しい物を見せ、『いずれか気に入ったものをやろうと』言った。しかし、蘭丸は自分の望むものはこの中にないと言う。そこで、お互いの手のひらに蘭丸の望みのものを書いた。合図と同時に手のひらを見せると、双方”近江坂本八万石”と書いていた。そこは乱丸の父可成の旧領であったが、その時は明智光秀の領地となっていた。この話を障子越しに聞いていた光秀は、この時から主君を疑うようになったと言う。」
細部が異なる異伝が幾つか存在するが、基本的にいずれも「信長の寵臣・蘭丸が光秀の領地を欲しがり、信長もそれを承知していた。そしてそのことを光秀が知った」というものである。これは「義教の寵臣・貞村が赤松本家の所領を欲しがり、義教もそれを知っていた。そしてそのことを満祐が知った」とする話と全く同じコンセプトの話であるのは明白である。ここまでそっくりな話になるとこれは「作話」の可能性が非常に濃厚になるということは分かって頂けると思う。
おそらくこの「丹波近江の召上」の話は「先例・義教の場合」の「殺された原因」(事実だったかただの憶測だったかは不明)を「今回・信長の場合」の「殺された原因」にも類推した結果、こう言うものが出来てきたと考えれる。もしくは「事実でない事を知った上であえてミスリードを誘うためにそういう理由を書いた」可能性もあります。これは本当の原因を書けない理由がある、「正史」等を書く場合によく行われる事ですが、「明智軍記」成立の事情を考えると正史ではないにせよこの可能性も多いにあります。
以上のように考えるとこの「丹波近江の召上」の話は「嘉吉の変」の理由からのただの類推、もしくは、実際信長が行っていた「新領切取自由」という政策に「嘉吉の変」の理由を継ぎ足して作った「ミスリード」を誘うための創作であり、事実とは到底考え難いものだと思います。
個人的には作者の意図(創作ならば)とは逆に「真の理由を隠すために敢えて虚偽の理由を書いた」という疑いを濃厚にした逸話です。 
 
光秀不死伝説

 

序文
古来英雄には不死伝説が付き纏う。曲亭馬琴の「椿説弓張月」に代表される源為朝不死伝説、あまりにも有名な源義経不死伝説。これは沢田源内の「金史別本」から幕末以降飛躍的に発展した義経=ジンギスカン伝説が特に有名。また戦国でも織田信長や豊臣秀頼、真田信繁(幸村)らの不死伝説が語られる。明治では西郷隆盛ロシア亡命説。これはかの大津事件を引き起こしたことでも知られている。
しかし何といっても「義経=ジンギスカン」伝説と並んで有名なのが「光秀=天海」伝説。ここでは光秀が天海でありえるのか否かを乏しい知識と限られた資料・書物を参考に検証したいと思います。 
第一章・山崎敗戦〜小栗栖落命
光秀は小栗栖で死んだのか?
「通説」における光秀の最後の情景。
光秀は山崎の敗戦後ひとまず勝龍寺城に逃げ込んだものの篭る兵はわずか。回りは多勢の羽柴軍に重囲され、もはや明智方の勝目は無し・・・。そしてその世。十三夜にもかかわらずの大雨をもっけの幸いと、夜陰と雨音に紛れて近江坂本城へと向かう一行の姿があった。坂本で再起を図ろうとする光秀主従十三騎である。一行は羽柴軍の包囲網を巧みにかいくぐり、間道を通ってやがて山科の小栗栖に差しかかった。竹薮の中の細道を一列になって進む一行。その真ん中を行く光秀の横腹に竹槍が繰り出された。光秀は竹槍を切り捨てしばし苦痛に耐えたものの堪らず落馬する。それに気づいて駆け寄ってきた溝尾庄兵衛に「自分の首は知恩院に葬るように」と指示して辞世※を表し、介錯を命じて自害。進士作左衛門、比田帯刀という家臣が殉死。庄兵衛は光秀の首を鞍覆いに包んで近くの薮の溝のなかに隠し、坂本へと落ち延びていった。・・・・。
そして翌朝。近くの農民が三体の遺体を発見した。二体は面皮が削られ誰とも判別つけがたいように細工され、残る一体は首がなかった。が、桔梗紋のついた豪華な鎧を着しており光秀と推定された。さらに付近を探索したところ、土中から光秀の首級が見つかった。この首は秀吉の首実検に供されたあと、首は本能寺に晒された後、胴と繋がれ粟田口に晒された・・・。
※ (順逆二門無し、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚めて来って一元に帰す)
以上のようなところがまず「通説」であるが「通説」から離れてみると疑問点が幾つか浮かんでくる。
まず前後一列で歩む光秀一行の真ん中六番目に光秀がいたとされる。また当夜は上記のように雨が降り漆黒の闇夜であり、しかも竹薮の中である。その中を前後の家臣に気づかれずあやまたずに光秀を狙えたのは何故か?
突いたのは「土民の長兵衛」。「闇夜の中」「一介の百姓」が「大将を識別して」「家臣には気づかれず」「狙いをあやまたずに」「脇腹に命中」させるとは・・・。また一説には襲撃者は小栗栖近在の信長近臣で本能寺で討死にした飯田某の一族という説もあるがいずれにしろ「闇夜の中」「家臣に気づかれず」にどうやって「大将を識別」できたのかは疑問が残る。また信長家臣だったのであれば主君の敵を取った者として多いに表彰されそうなものであるが・・・
また光秀は仮にも「一軍の将」である。その大将が「竹槍」で横合いから突かれただけで脇腹まで貫通するような鎧を着ているものであろうか。ご存知のように光秀は「鉄砲上手」である。鉄砲に熟知している人間が鉄砲対策を施した鎧を着てないはずが無いと思うのは間違いであろうか。鉄砲の防弾対策を施した鎧を竹槍が貫通・・・。
また庄兵衛は主君に「知恩院に首を葬る」ように指示されたにも関わらず首をなぜそのまま「薮の中に放置」したのか。せめて首級だけは敵の手に渡さぬようにするのが家臣の勤めではないか?それが「譜代の重臣」のする事であろうか。また進士、比田両名の面皮は削ぎ落としたというのに光秀の首はなんの処理もせずに付近に放置とはまるで「見つけてください」といわんばかりではないか?
第一ここで殉死したとされる進士作左衛門、比田帯刀の両名は「細川家記」によればその後細川家に随身し、進士は忠隆付に、比田は興秋付になったと記してある。「細川家記」は結構不確かな記述が多いにせよ、この両名が実際に死んでいたとすればそういう「嘘」の記述をする意味があるであろうか?歴史書や家伝などに虚構が紛れ込むのはそれに「明確な意図がある」または「虚構がいつのまにか定説になった」という理由が主なものであろう。前者は権力者の作る歴史書、即ち「日本書紀」「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」「吾妻鏡」「太閤記」「徳川実記」のような物。そこには権力者を正当化する為に意図して虚構が書き込まれる。また後者には真田家の「先公実録」にある「信繁薩摩落ち」などがそうである。しかし、この進士、比田の両名を死んでいない事にするべき理由は無い。政治的にも意味が無いし、また「義経」「信繁(幸村)」のように庶民にも人気があった訳でもないし、それ以前にその名前をもどれだけの人間が知っていたか疑わしい。「秀満」や「利三」のように著名な武将だったわけでも「明智三羽烏」「可児才蔵」のようにのちに講談で語られていたわけでもない。その様な人間について虚偽が紛れ込む理由はほぼ無いといって良い。またどちらか一人というなら細川家にいたのは同名の嫡子(当時は当主が同名を継ぐことも多かった)などとも考えれるが、重要人物が二人揃って親の名前を継ぎ、更に揃って細川家に随身した・・・などということは考えにくい。逆に忠隆、興秋付となりそれぞれの廃嫡に際し表舞台から消えた故名前が使われたと考えた方が自然である。即ち、この両名は死なず明智滅亡後は実際に細川家に仕えていたと考えるのが妥当である。とすると、死んでいない人間が殉死するわけが無いのは当たり前である。
またここで一言いいたいのは、以上のような「通説」が書いてあるのは「勝者・秀吉側」の「軍記物」だということである。「軍記物」といえば現代でいうと「歴史小説」のようなもの。しかも秀吉を褒め称えるために書いてあるといっても過言ではなくそこには光秀の逆臣ぶりを強調し秀吉の忠臣ぶりを際立たせ大衆に広く周知させるという目的がある。上にも書いたけれどもその為には「事実の偽造」などは当たり前。話を面白くしたり秀吉を持ち上げたりする為には寧ろ進んで事実を曲げている面がある。この光秀死亡の場面も「逆臣はろくな死に方をしない」と強調するために話が作られた可能性が高い。その傍証を幾つかあげてみる。
小栗栖は勧修寺が付近にあることからもわかるように勧修寺家の領地である。当時の勧修寺家の当主晴豊日記「晴豊公記」の欠落していた天正十年夏の部分であることがわかった内閣文庫所蔵の「天正十年夏記」の六月二十九日の記録によれば
『明智弥平次二□女房衆、北□あね也。たんはの城主、のけ行きさきにてからめとる也。女はうしゆさうさき左近と申物、藤吉郎者也。これかむさうにておくり申候。立花かつしとくうんと申物、あひむこ也。余ひとつをききてかよういたし候。今夜先女はうしゆ此方へよひとり申候。ままこ二人あり。そのおやにたつねあわし渡へき也。』(□は判別不能文字)
これは永井センセの解釈を参考にして以下のように解釈できる。
『(捕まったのは)明智弥平次(秀満)の北方で(光秀の娘の)姉のほうである。丹波の城主(杉原家次)が避難先で捕まえたということだ。それがたいそう哀れな様子で送還されてきたので相婿の立花と相談して彼女を引き取ることにした。今夜彼女が当邸に一人でやってきた。その継子(秀満の子)を預っていたので(義理の)親(=継母)に引き合わせた。』
だいたいこんなところになる・・・はずです。皆様は自分で訳してみてください。通説では秀満の妻も坂本で自害といわれているがそれは明確な根拠があるわけではない。逆に当時の一級資料「晴豊公記」には晴豊自身が助け出したと書いてある。その勧修寺家の領地内で光秀が自害したと伝えられるのも・・・何か曰く有りげである。
また『醍醐随筆』に興味深い記述がある(という話。確かに「逸話集」でこれを探してたのだが・・・『醍醐随筆』を見た際にはその記述は見つからず)。
「天正十年からおよそ六〇年を経た寛永年間、わざわざ小栗栖に出かけて事件の聞き込みをした者がいた。ところが、光秀の首を発見したとされる中村長兵衛なる男のことについて知っている村人は皆無であった」ということが書いてあるという。事件から六十年といえばまだ当時の様子を知る人間が一人二人いてもおかしくはない。それなのに「そんな人間知らない」というのである。当時の村民にとって光秀の首の発見といえば大事件で、村内だけでなく一円にまで長兵衛の名が広まったろうであろうことは想像に難くない。しかし実際には「知らない」と言うことである。不思議な事ではないであろうか。
他の資料でも
『山階(山科)にて一揆に叩き殺され了んぬ』(『多聞院日記』六月十七日の記録)
『日向守(光秀)山科にて一揆の手へ討ち取る』(天正日記)
『明智め山科の薮の中へ北げ入り、百姓に首を拾はれ申し候』(浅野長政宛ての秀吉書状)
などとはあるものの実際に「狙いあやまたず」に「竹槍で横腹を」一突き、とか光秀の「遺言」「辞世」「庄兵衛の行動」「発見された死体の様子」「発見者」等何も書いてない。秀吉の書状の「百姓に首を拾はれ・・・」というところからの捏造だと考えたほうが妥当ではないであろうか・・・。
『美濃志』や『明智旧稿実録』では光秀には彼に酷似した影武者がおり、その影武者が身代わりとなって小栗栖で自害した、という意味の記述がある。また『美濃志』においては別の不死伝説が語られるがそれはまた別の稿にて述べることになろう。
考察
山崎での勝利後、秀吉としても明智軍を破った今たとえ光秀が実際には生き延びていたとしても、軍勢としては瓦解、一族は滅亡、世間も死んでしまったと思っている、のであれば光秀の実際の生死はさほど重要では無くなったのではないであろうか。それは実際に死んでいるに越したことはないが既に政治的には「死んで」いるのである。一応それらしい首を見つけて光秀としたとしても不思議ではない。万が一どこかに現れれてももう光秀にどうする力も無いし、それならばその際に「本当に」処刑すれば良いと思わなかったであろうか。実際に世間は「主君の敵を討ったもの」として秀吉を認めている。ならば光秀の「本当の生死」など「些事に過ぎぬ」と・・・。
光秀死亡は十三日深夜。首を晒したのは十七日。その間三日経過している。旧暦六月十五日前後といえば新暦七月末で夏も真っ盛りである。三日も放置すればすでに腐敗をはじめて元の顔の判別も難しくなったであろう。それさえも秀吉の「計算」のうちであるとすれば・・・軍記の描く庄兵衛の不可解な行動も秀吉の「計算」を知った軍記作者がそれとなく書き込んだことかもしれない。
以上のことから「小栗栖で光秀が土民の手にかかり自害した」という見てきたような描写は勝者秀吉サイドからのものばかりでその真偽は甚だ曖昧であり確実に死んだとはいえないように思える。また逆に状況証拠からはその後も生き延びた可能性は捨てられない事が分かろう。しかし光秀は目的地・坂本には現れた様子がない。生き延びたとすれば光秀は小栗栖からどこに行ったのであろうか・・・・。 
第二章・黒衣の宰相天海僧正
天海僧正は何者なのか?  
壱 天海僧正とは
天海僧正は諡号を慈眼大師と言う。慈眼号は平安時代の智証上人以来七百年ぶりの大師号である。此れは主に比叡山復興に尽力した功績によるものと思われる。
その慈眼大師こと天海僧正は徳川幕府創成期に隠然とした力を誇った稀代の実力者である。その最後は良く知られているがその出自は不明な点が多い。
その生い立ちについては徳川実記の『天海は芦名の支族三浦氏にて、奥州会津郡高田の産なり。……十四歳より笈を負て諸国の名山霊区を遍歴し、名僧知識の功をつみ、叡山にのぼり、悉く宗門の秘訣心印を得たり。これは天文、弘治の程なりとぞ。あるときは甲陽に下り、武田信玄の寓客となり、あるときは芦名盛隆が聘に応じ、故郷にかへり稲荷堂を守る・・・』というのがまずは通説といえるであろう。しかし他にも将軍義澄の落胤説、同じく将軍義晴の落胤説、古河公方高基の子息説までありしかとは判別できないのが現状である。
また「東叡山開山慈眼大師縁起」によると『天海の素性を弟子達が尋ねたところ「出身地も俗名も生年も忘れてしまってから久しい。私は仏門に入った人間だ。俗人であったときのことなど、お前たちが知ったところで何の意味もない」と答えられたため師の氏素性は誰も知らない』と書かれている。天海は自分の素性について何故何も語らないのであろうか。そこには何か理由が有ると思えるのであるが・・・。
通説では家康と出会うまでにまず会津高田の稲荷堂の別当舜海の下で学んだとも十四歳のときから宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学んだともいう。その後は比叡山で天台宗を収め、三井寺で倶舎宗、興福寺で法相宗を学び足利学校で儒学・禅宗等を収めたとされる。その後故郷の会津高田の稲荷堂に居たとも言うがその間の実際は不明である。しかしどの説を採ってもいえることはこの間奥州から関東・甲信越・畿内などの名山・霊跡等を遍歴していたらしいことである。またその途路、甲斐の武田家に仕えた事があると天海が言った、という話もある。
さて、歴史上に天海が再登場するのは本能寺の変の七年後天正十七年である。先にも引いた徳川実記によれば『(芦名)盛隆が子重隆が時、天正十七年伊達政宗が芦名を攻しとき、芦名の家人等みな政宗に内通し、戈を逆にして主をうつゆへ……天海釈徒ながらこれを守護し、敵の大軍を蹴散らして立退く』とある。しかし「敵を蹴散らして」等というと僧侶というより武将のイメージがかなり強くないであろうか・・・。そして同年常陸江戸崎不動院に入り翌十八年には武州川越喜多院の無量寿寺に入る。
家康との出会いはこの折に鷹狩と称し家康が度々立ち寄ったとも天正十八年の小田原の陣だったともいうが先にも引いた「東叡山開山慈眼大師縁起」のものが有名である。
慶長十三年、天海が駿府を訪れ家康と面会をしたのだが『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張った』と。結局この時は一刻ほども話し合ったという。これはそれこそ旧知だったからこそではないであろうか。
また慶長四年から川越喜多院住持となり兵火で焼けた寺院の再興を行い同十八年には家康から日光の支配権を下付されて荒廃した日光の再興を始めるという。そして家康の覇権の確立の為に奔走し「方広寺鐘名事件」で大坂方との開戦に持ち込み始まった「大坂の陣」では家康に戦の献策をも行ったという。「海道一の弓取り」家康に献策できるほど軍略にも通じている僧侶というのも不思議ではある。
家康に近侍してからはそのブレーンとして諸政策の制定にも関与し、元和二年大僧正になり家康の死に至っては有名な「神号論争」で金地院崇伝らを打ち負かし家康の遺体を日光に改葬させることに成功して政界・宗教界に大きな力を持つに至った。又三代将軍家光の信頼も厚く幕府の陰の重鎮として事実上家康死後の最大の実力者であった。寛永元年忍岡に東叡山寛永時を創建し、後上州世良田の長楽寺に隠居という。その死は寛永二十年十月二日。年齢は九十歳とも百八歳とも百三十五歳ともいわれるが当時としては驚異的な長寿だった事は間違いが無い。まさに戦国から江戸にかけての動乱を生き抜けた怪物的な人物であったといえよう。
以上のように天海僧正の生涯を辿ってみたが読んでお分かりの様に「〜とも〜言う」とか「〜であろう」など家康に近侍する以前の消息については断言できない部分がほとんどである。それまでに既に「普通の人間の一人分」程の人生を生きているのにも関わらず、である。江戸初期に一大権力を握った人物の過去が明らかでないとは誠に不思議な事である。これは信長に臣従する以前が不明な光秀に通じるものがある。そしてまた天海僧正の歴史への登場時期が光秀死後十余年後でそれ以前が明らかでないことからどこからともなくこういう噂が発生してきた。すなわち「天海僧正は明智光秀が成りすましたものである」というものである。これについては次稿で述べていく事にする。 
弐 光秀=天海説
先ずここでは光秀=天海説の根拠を挙げその妥当性を考察したいと思う。
江戸崎不動院・・・不動院は文明二年に開山された天台宗の寺だが開山は当時江戸崎で上杉氏の代官を務めていた土岐氏である。
比叡山の石灯篭・・・天台宗の総本山・比叡山には光秀寄進の石灯篭があり、山内に残るその石灯篭にはこう刻まれている。「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」。
慈眼禅寺・・・亀山(亀岡)にも近い京都府北桑田郡周山村にあるこの寺には表に「主一院殿前日州明叟玄智大居士神儀」、裏に「順逆無二門大道徹心源五十五年夢覚来帰一元」と記された光秀の位牌と木像が安置されている。しかも寺号は、天海の諱の慈眼大師と同じである。
日光明智平・・・日光には明智平というところが在るが、それは天海が名づけたともその地名を聞いた天海が「懐かしい響きだ」と言ったともいう。
秩父札所三四所・・・九番・明智寺、十三番・慈眼寺という名の札所が存在する。明智寺は明地正観音、慈眼寺は壇の下と呼ばれていたが、天海の時代に改名されたといわれる。
川越と刀鍛冶・・・喜多院のある川越には刀鍛冶が盛んでありその中心となった井上氏は丹波からやってきて丹波屋総本家を名乗ったという。
春日局・・・三代将軍家光の乳母お福こと春日局は光秀の重臣斎藤利三の遺児でありその祖母は光秀の妹とも言われる。また春日局は隠然とした権勢を誇ったが天海だけには謙り、まるで「父親か、主君にまみえているよう」であったと言われる。
秀忠・家光の名付け親・・・徳川嫡統の秀忠、家光と言う名はそれぞれ「光秀」からとってつけられたという。また今もその時の直筆が東照宮に保管されており、その紙片は不思議な折りたたみ方がされており、「光秀」という名が出てくるようになっているという。
年齢・・・光秀も天海も生年はほぼ同年代だと推測される(天文年間前後)。
遍歴・・・光秀も天海も若いころは諸国遍歴を行ったと言われている。
天海の鎧・・・天海着用の鎧が現存すると言う。僧兵ならまだしも学僧であったと思われる天海がなぜ鎧を・・・?
家康に献策・・・大坂の陣では「街道一の弓取り」家康に戦の献策を行ったという。
まず不動院。通説では光秀は土岐明智の出だと言われている。関東に在り、天台宗で、土岐氏の氏寺。光秀が成り代わった天海が再出発するにはうってつけの場所ではある。
石灯籠。慶長二十年二月といえば大坂冬の陣が終わって豊臣家も風前の灯火となった時期。天海が光秀なら明智一族を滅亡に追いやった豊臣家を滅亡させれる目処がついた時でもある。また「真の天下統一」も。そして本能寺からもすでに三十年が過ぎている。光秀が実は生きていたと明かしても大勢に影響が無くなった時期とも言えよう。
慈眼禅寺。寺号が天海の諱と同じで、光秀の居城亀山から程近く、光秀の位牌と木像がある。最も光秀と天海を近づけるものであると言えよう。
明智平。この地名が前からあったのか、天海がつけたのか。どちらにしても天海の影響が強い土地に明智の名が在るとは意味深である。
秩父札所。これも明智平と同じく意味深な存在ではある。
川越刀鍛冶。これだけでは何ともいえない。ただなぜ光秀の領国だった丹波から天海と縁が深い川越に来たかというのは不思議である。
春日局。これはまさしく不可解。謀反人として処刑された光秀。中でも斎藤利三は当時から「変」の首謀者と見なされていた。なぜその利三の遺児であるお福を将軍家嫡統の乳母に召し抱えるのか・・・。通説では夫稲葉正成(関ヶ原では小早川秀秋に老臣として仕え、秀秋を東軍に寝返らせたと言う人物である事も興味深い。夫は老臣として主君を裏切らせ、妻の父は主君が裏切りを起こしたときの老臣だったというのも是一興。また稲葉正成に目をつけ、小早川の裏切りに走らせたのはそもそも光秀の縁者だったから、と言う話もある。)と離婚して京に上った際に将軍家若君(家光)の乳母募集の高札を見て応募した、というがこれは明らかに後世の創作だと思われる。確かに話としては面白いがまだ幕府創成期である。諸国の大名は表向きは徳川家に屈服した様子を見せているが本心はまだどうだか分からない時期である。「一朝、事起これば」何が起こるかまだまだ分からなかった時代である。ひょっとすると徳川幕藩体制が崩壊するかもしれなかった。そんな時期に高札で素性の分からないものを将軍家跡取りの乳母に募集するなど考えられない。
「幕府崩壊」を目論むのならばどういう手段をつかってでも徳川家中枢に近づき、徳川家の中枢部を暗殺してしまえば事は成就するのである。それには乳母として将軍家若君に近侍するのは正に打って付けである。そしてそうなれば、その混乱の内に現状に不満を持つ大名や浪人達が幕府に反旗を翻し、元亀・天正の戦国時代に逆戻りになる可能性も大いに在る。それを心の奥で望んでいたであろう大名も居たはずである。「万一」が起きるようなことは極力避けねばならない。慎重居士家康の性格からしても「高札」などのような形で乳母を募集するわけが無いのである。乳母を求めるならば「身元がはっきりしていて、確かな後見人がいる」様な人物を探すであろう。たとえば天海僧正が保証する者、などは正にそれに該当する。
また幕府は思想に「朱子学」を導入して徳川家に逆らおうなどという思想を抹殺しようとした。時はまだ戦国の遺風が色濃く残っており「天下は回り物」という考えをほとんどの者が持っていた。現に織田家の天下は羽柴家の物となり、秀吉死後は徳川家の物となった。家康が二年で秀忠に将軍職を譲ったのも「天下は徳川家のもの。これは誰にも渡さない」ということの意思表示であった。そういう「示威」と同時に「天下人には大人しく従うもの」という考えを定着させる必要があった。それは幕府の存続に関わる一大事だから尤も重点的に政策がねられた事は間違い無い。そして「朱子学」が導入された、但し都合の良い様に変えてしまった上で、であるが。
しかしお福といえば「天下の反逆人」明智光秀の重臣斎藤利三の娘でありその存在自体が「下克上」を思い起こさせるともいえる。これではいくら「示威」して「教育」しても下克上という「事実」が目の前を横切っているような物である。不必要な刺激をわざわざ与えるような人物を幕府の中心、時期将軍の乳母にするなどよっぽどの事が無い限りないと思えるのである。たとえ家康がどんなに光秀を買っていたとしてもそれは個人としてのこと。組織は個人に優先するのである。
こう考えるとお福の乳母就任は何か深い理由があったとしか思えない。もしかすると夫との離婚も「仕組まれたもの」だったかも知れない。
名付け親。この紙片は実際に在るらしいので事実ではあろうと思われる。
年齢、遍歴。推定生年が近くほぼ同時期に諸国を回っていた二人。これだけでは何とも言えないが同一人物という可能性はある。
鎧。光秀が天海となるまで着けていたものでは無いであろうか。
献策。家康に献策すると言う事は軍事に精通していないと不可能な事。光秀なら諸芸に秀でていており可能性はある。
しかし、これには反論もあろう。たとえば
石灯籠。これを光秀自身が奉納したという証拠はない。別人が光秀を追想して名を刻んだとも、全く関係ない「某光秀」という人物が奉納したとも考えられる。
慈眼禅寺、慈眼寺。慈眼とは、「観音経」にある言葉で碩学の天海がそういう名をつけた寺を作るのは別に不思議でも何でもない。
明智平、明智寺。明智(めいち)は「すぐれた知恵」という意味の仏教用語でもあるため、明智光秀から付けた名前かどうかは断定できない。
川越刀鍛冶。たたらに関わる一族が丹波から新天地関東に来てもおかしくはない。
春日局。家康は水野勝成に「光秀にあやかれ」と言っている。また江戸初期では謀反という道徳概念が希薄でもある。
名付け親。秀忠の「秀」は秀吉の「秀」とも言えるのでは?兄が「秀康」というのも秀吉から一字頂戴したからだし。
年齢、遍歴。これだけだと条件とは言えないのでは・・・?あまりにたくさんの人間が該当してしまう。
鎧。大坂の陣の際にでも着たのではないか。
献策。天海は足利学校を出ている。足利学校では漢学、儒学、禅学などと共に兵学等も教えていた。有名な例に直江兼継と南化玄興の例がある。直江の策は実は玄興が考えていたと言われるほどのもので当時の足利学校出の僧侶が如何に重宝されていたのかが解る。天海も足利学校出なら特に不審でも何でもない。
また
天海の両親の墓が会津高田に発見された
足利学校に居た証拠の資料が残っている
天海自身が「武田家に居た」と言った記録がある
もし天海が光秀ならどうしてわざわざ名前を示唆するような事をするのか?光秀というのが都合悪いから天海になったと言うのではないのか?
なども付け加えて反論してくるであろう事は承知の事である。そのうち「武田家に居たと天海自身が言った」というのはこういう経緯がある。それは後年、幕府が成立した後正史編纂の途中の出来事であった。編纂者達が川中島合戦の事を調べている際に武田方の記録『甲陽軍鑑』と上杉方の記録『川中島五箇度合戦之次第』の内容が食い違っていた。徳川家の「正史」としてどちらをとるのか編纂者達は多いに悩んだ。武田旧臣は多く幕臣と成っている。また上杉家は徳川家に屈服したとはいえ謙信以来の「武門の家」を掲げている。どちらの記述を採用しても相手側から突き上げが来るのが予想できた。そうして悩んでいるところへ天海が来て「おう、川中島の合戦か。愚僧もあの頃は武田家に身を寄せていたゆえ良く覚えておる。この記述は武田方のが正しいわい。」と言ってこの問題を解決したという物である。とするとここで天海が「武田家に居た」と言ったというのは「方便」の可能性が強くないであろうか。問題の決着が容易につきそうにないのを見た天海が「自分の責任で」裁決した、と。幕府内でも隠然とした実力を持つ「天海様がそう言うなら・・・」と編纂者たちも言わば「責任」を天海に「転嫁できる」と。そして上杉方が何か言ってきても「天海様がそうおっしゃった」といえば上杉方も無茶は出来ないであろう、と安心して編纂を続けれると。そこまで見越しての「方便」だった、と・・・。とすれば天海が「武田家に居た」というのを本人が言ったとしても信用できないものと成る。それは自身の過去が公でない事を利用した「方便」だからである。
また、確かに慈眼寺にしても明智平や明智寺にしても一つ二つだけなら偶然と言う事も勿論あるだろう。寧ろその可能性の方が高いと思われる。しかしこれだけ重なっても偶然と言えるのであろうか。
「一つ一つは偶然でもそれが重なればそれは必然である。」
「偶然」でこれだけの物が果たして重なるものであろうか。やはりその裏には一つの「ミッシング・リンク」がある、と考えた方が妥当ではないであろうか・・・。
これは本編とはあまり関係が無いが、信長の焼き討ちで実は比叡山全山焼亡はなかったようだ、と言う発掘結果がでたそうである。確かに焼けた跡はあったがそれが全山には及んでいなかったらしい。ただ建物が破壊されたかどうかは分からなかったようだ。だから天正十年当時も往時の旺盛の面影はないにせよ人が居た事は間違いがない。
勝龍寺城を脱出した光秀一行は坂本を目指していた。しかし羽柴軍に見つからぬように間道を通って回り道していたため坂本につくころには既に城には着けなくなっていた。やむを得ず目的地を叡山に変更する一行。そして・・・。
延暦寺では信長を討ってくれた光秀を優遇したといわれている。光秀は長寿院に入り是春と名のり、剃髪して仏教を学んだ。
比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてある。
と言う情報がある。ちなみに先の灯篭もここ長寿院にある。もしこの「文庫」が実在し、しかも本物であれば光秀は天海であった事は間違いが無くなる。そう考えた時に上記「足利学校の資料」「会津高田の両親の墓」等と言うのはどういう事になるのか?幕閣等の創作であるか・・・若しくは実際に原・天海とも言うべき僧侶(随風と言う名)は実在したのかもしれない。本当に会津生まれで足利学校で学び比叡山で修行した者が。
随風が天海になったのは随風55歳の時と言われている。この年齢に見覚えが無いであろうか。そう、光秀が小栗栖で死んだとされる年齢である。ここでこういう推理が考えられる
比叡山に随風と言う光秀とほぼ同年代の会津生まれの僧侶がいた。そして天正十年、山崎で敗戦した光秀が比叡山に逃げて来た。「仏敵」信長を討った光秀に好意を抱いている比叡山は光秀を匿い、長寿院にて是春という僧にした。そして「是春」は随風を知った。このときに随風は死んでいたか、若しくは光秀に「経歴」を譲ったか売ったかした。そして「是春」は会津生まれという経歴を手に入れた。そして名を「天海」と代えた「是春」はほとぼりが冷めたころ密かに関東の天台系土岐氏氏寺不動院に行く。なぜ関東かというと畿内では光秀の名も顔も良く知られているからであろう。秀吉始めの諸将は勿論公家や商人、市民まで。十余年も京に関わった「織田家の出頭人」であえばその顔は広く知れ渡っていたと考えられる。しかし関東ではその名は知っている人間はいても顔を知っている人間は多くない。
そして小田原征伐とその後の家康の入部。かくして二人は近づいて行く・・・・。
というストーリーが考えられる。
考察
つまり上記の考え方でいくと天海の経歴は二人の経歴が一つになったものだということになる。会津に生まれ「随風」と言う名で修行した55歳までの随風の人生。そして天海と名を変えてからの光秀の後半生。この二つが合わさって謎深い天海の経歴が出来上がったと。
そうだとすると天海が昔の事を答えない理由は明白である。詳しい事を光秀は知らないから答えようが無いのである。また下手に喋ってそこからボロが出れば元も子もないので何も喋れないと思われる。それにこちらが沈黙すれば相手が勝手にいろいろ想像してくれるものである。現在に残る天海伝説の多くも「想像」から派生したと考えられる。
しかしこれで光秀=天海説が成立したとは思っていない。あくまでも上記のようにも考えられる、という事を示したまでである。個人的にはそう思っていても実際に他人に納得させるには不十分であるとしか言いようが無い。新資料の発見(上記「文庫」に記載されている資料など)が無い限りこの論争に終止符が打たれることはないであろう。 
参 補記
上記の光秀=天海説では重要な点を書き落としている事に気がついた。それは何故天海となってまでも「『光秀』が死んだ後」も生き続けたのか、そしてその後何年もしてからまた歴史の表舞台に再び姿を表したのは何故か、と言う事である。
これは本能寺の変の原因にも関わってくるが、光秀は信長のやり方に危機感を持っていたと考えられる。それは対朝廷の事、自分を神と称す事、家臣を道具として扱う事、戦は国内統一では収まらない事・・・。
朝廷に対する扱いは三職推任問題、誠仁親王の五宮の猶子の件等。
自分を神と称したというのは本能寺の変前の家康饗応の直前五月十二日に出された「神格化宣言」。
家臣を道具に・・・と言うのは武田征伐後、老境に差し掛かっているにも関わらず光秀よりも年上の滝川一益を関東へ遣わした事。勿論その前の佐久間、林の追放も意識にはあったであろう。
戦は国内では終わらないと言うのは上記家臣の扱いにも関わるが、国内統一後(ここ二、三年の内であったであろう)には大船団を率いて対外進出を行ったであろう事。これは変前日に博多の島井宗室を迎えていた事や後の秀吉の朝鮮出兵からも推察される。仮にこうなれば真っ先に国外へと向かわされるのは九州征伐に参加した光秀と秀吉であったろう。人生五十年、その五十を既に過ぎていた光秀はどう思ったか・・・。
信長のやり方は信長専制による恐怖政治であり、それが良いはずが無い。「もし、自分が信長の立場だったら」そう考えなかったであろうか。少なくとも信長が目指すよりは良い世の中が作れるはず。そう思ったんに違いない。
そして「変」。その後は光秀なりに良い世の中を作ろうとしたが如何せん秀吉の反転が早すぎた。山崎で敗戦。しかし光秀はそれでもこう思ったであろう。
「負けた、か。しかしわしの主たる目的は達成している。即ち前右府どのと三位中将どのを亡き者とすることである。わしは負けたがこの後天下を取るのが筑前であろうと三河殿であろうと修理殿であろうとまたそれ以外の誰かであろうと前右府どのよりはましな世の中を作るであろう。わしのした事は無意味ではなかった。」と。光秀にとって一番重要なのは天下国家や民草の事。それに次いで家臣や家族の事。自分自身の事はそれ以下の些事でしかなかった。しかし天下国家はこれでも良いとしても、不憫なのは家族と家臣達である。できれば自分の身と引き換えにでも助けれるものであれば助けてやりたい。相手が筑前ならそれも可能かも知れぬ・・・・。
そう考えて光秀は勝龍寺城脱出後坂本に戻り一族を城から落とす交渉をして、自分は城で潔く最期を迎える気であったと思われる。世間に称賛された秀満の最期の様に。しかし実際には脱出後予想以上に手間取り坂本に到着する頃には既に城には入れなかった。また兼見卿記には『落ち武者が白川一乗寺あたりへ落ちて行く途中で一揆勢が現れて身ぐるみ剥がれたり打ち殺されたりしたそうだ』と書いてある事や「通説」での小栗栖での土民の襲撃の話等から考えるに、脱出途中で土民に襲われ負傷したのかもしれない。いずれにせよ坂本には入城できず、ひとまず直ぐ近くの比叡山に向かう。
光秀は為す術無いままあっという間に坂本城は羽柴軍に包囲され、秀満始め一族は自刃。光秀の思いとは逆になってしまった。助けようとした家族や家臣は死んで自分は生き残っている。ならば、と光秀は出家して一同の菩提を弔う事にする。
「『光秀』が死んで」八年が過ぎた。天下は秀吉の下統一されようとしている。秀吉は思ったように天下統一の定見など無く、見聞きした信長のやり方を真似ているがそれは信長ほどではない。これならばまず良かろうと思い、自身は関東に行く事にした。今までは秀吉の動向を探る意味も合って比叡山に居たが、一に仏道修行も一通り収めた事、二に畿内には十年近く前までの顔見知りも多く畿内に留まる事は好ましくない事、三に比叡山の復興も始まって徐々に比叡山で出会う人間も増えてきた事、四に「随風」の経歴を手に入れたのであるが齢は既に六十を幾つか越え、また芦名の滅亡等もあって会津や関東で「随風」の顔を知る人間も減ったであろうと言う事等があり、畿内を離れる事にする。天正十八年、天海は江戸崎不動院に姿を見せる。これ以後関東で秀吉の政治を見守る。
そして・・・秀吉の行動がおかしくなって来た。朝鮮出兵などによる必要以上の民の酷使であり、信長張りの残虐さの発露である。「天下人がこれではいけない。秀吉は既にその任ではなくなった。他の人間に変えねば難渋するのは民草である。」そう考えて秀吉に代わる人物に眼をやると・・・そこに家康がいた。かくして「光秀=天海」は家康に近づき、豊臣家の滅亡と徳川家の覇権の確立に全知全能を傾けるのである。 
四 補記・弐
二階堂省センセの「明智光秀の生涯」を読むと上記「叡山文庫」にある記述が載っていました。別に秘文というわけでもなかったようです。それに拠ると典拠は「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項で内容は
『第二世法印権大僧都是春、初名光秀、依光芸薙髪。及住当房監鶏足院。元和八年九月二十五日逝』
とのこと。すなわち
『長寿院の第二世法印であった権大僧都の是春は、俗名を光秀といった。そして長寿院第一世の光芸によって薙髪を受けた。その後は鶏足院に起居した。元和八年九月二十五日に逝く。』
即ち光秀はやはり死んでいなかった、という事に成る。この「世譜」は権力者の手で作られたわけでは勿論無い。というよりも光秀が真に小栗栖で死んだとすればわざわざ「光秀が生きていて僧侶になった事にする」と事実を改竄するべき理由がまるで無いのである。そのような事をして何に成るのか?「天下の謀反人」を生きていたことにして。しかし、そういう記述がある。ということは死ななかったと考えるのが妥当である。
また「光秀」といってもそれが「明智光秀」とは異なる「某光秀」という人物かもしれないじゃないか、と考える方もあろうかと思われる。当時はまだ朱子学が全盛ではなく家康も光秀を評価していた、というから光秀にあやかって同名を・・・・と。しかし、山崎後秀吉は自分の行為を正当化するため光秀を「天下の謀反人」と実際以上に仕立て上げた。とすれば風潮はどうであれやはり実質的には「光秀」と名乗る事は自ら「謀反人」を名乗るに等しい。そういう時代にもし自分が「光秀」と言う名だとすればどうするであろうか・・・・痛くもない腹を探られない様に改名するのではないであろうか。当時は改名する事は現在ほど特別な事ではなかったゆゑに。また自ら「光秀」と名乗ったのであればそれは「天下を狙う」という程の意味を込めているはず。それほどの気概をその名前に込めている人間が「僧侶」になるというのも附に落ちない・・・。また記述する叡山の僧としても単に「光秀」と書けば一般に「明智光秀」と受け取られるという事くらい分かっているはずである。もし是春が「某光秀」という人物なら世譜にも「初名某光秀」と書いたと思われる。そうでなければ「某光秀」という人物の功績は後世「明智光秀の功績」と取られてしまう、と思い及ばなかったことはなかろう。何といっても比叡山山麓の坂本城主は「明智光秀」だったのだから。世譜を記述する僧としても単に「光秀」と書けば誰の事か分かるから「光秀」としか書かなかったのではないであろうか。
話は変わり長寿院第一世光芸の俗名であるが、一説には「明智光安」という説が有るらしい。しかしさすがにそれはどうだろうか・・・
また「逝」と言う字は現在「死ぬ」という意味で用いられるが「逝」という文字の第一義は「さる、去っていく」であり第二義が「死ぬ」ということらしい。二階堂センセは、とすれば光秀は元和八年に長寿院を去り二度とここには戻らなかったとも解釈できる・・・とのこと。また、この元和八年十一月には天海は幕府に対し江戸府内に寺院の建立を願い、許されてその場所に藤堂高虎の別邸のあった上野を指定し、建立を開始する。即ち東叡山寛永寺の創建である。その意味でも「比叡山とは別れを告げ、後は東叡山にて」との意味を込めて「逝」と表現して居るとも考えられる。九月二十五日に二度と「お山」には戻らないと固く心に誓い比叡山を永久に去り関東へ下向。そして十一月に江戸に到着早々から関東での根本寺院創建へと動き始める・・・そう考えると全く無理が無い話である。
元和八年(1622年)は本能寺の変から40年経っている。光秀も「変」当時五十五(五十七)歳だったとすれば当年とって九十五(九十七)歳となる。普通に考えれば死んだと考えた方が妥当な年齢ではないだろうかとは思う。九十五歳でさえ相当な長生きである。しかし、天海が死んだと資料に残っているのは上記寛永二十年(1643年)十月二日。とすればやはり元和八年に叡山を去り二度と戻らずその後は関東で生涯を終えたと解釈するのが妥当である。天海の享年は不明であるが、光秀が天海なら大永六年(1526年))生まれとすれば百十八歳、亨禄元年(1528年)生まれだとすれば百十六歳となる。何れにせよ驚異的な長寿である事には間違いが無い。
以上のように新たに得た「叡山文庫」の内容を吟味してみると、ますます「光秀は死ななかった」との思いを強くした。またその後身が天海だ、という事も・・・。 
伍 その他の不死伝説
その他には有名なところに上でも触れているが「中洞の荒深伝説」というものがある。岐阜県山県郡美山町にある白山神社には以下のような碑文が書かれている
「此の地中洞屋敷白山神社の一角にある高さ106cmの石塔と112cmの五輪の塔はまさしく明智光秀公の墓である。天正十年(1582年)山崎の合戦で、羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者荒木山城守行信である。光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」と恩義を深く感じての「深」で自らを荒深小五郎と名乗り西洞の寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいた。その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴に出たのであるが、18年後の慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ為、死骸を山城守の子、吉兵衛が、持ち帰りこの地に埋葬したのである。以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回の供養祭を行っている。」
同様の話が「翁草」にも見える。
「濃州武芸郡洞戸村に不立と言う禅僧がいて、自ら明智光秀の曾孫だと言っていた。この僧が言うには『光秀は小来栖で野武士の手によって殺された、というのは真実ではない。実際は山崎で敗戦した後は縁を頼ってここ洞戸村に隠れ住んでいた。そして関ケ原役時に神君家康公に味方しようとして村民を引き連れ出発したが途中川で溺れ死んだのだ』といって家に伝わる古証などを出して話したが真偽は定かではない。またこの事がたとえ本当の事だったとしても叛臣弑逆の光秀を家康公がなんで用いる事があろうか。途中で溺死した事はかえって良かった事であった。また件の僧も出家した身で先祖の事をとやかく言うのは良くない事だ」
とある。また別段に
「明智日向守光秀は天正十年六月十三日に野伏に殺された。しかし異説があり、『光秀は山崎での敗戦後、ひそかに逃れて濃州中洞仏光山西洞寺に隠れ姓名を変えて荒須又五郎と称し、関ケ原役の際には神君家康公に味方しようとして親類一同を引き連れて出陣したのだが、途中川で溺れて死んだ』とかいう。その弟宗三の子の不立という禅僧がいて中洞に住んでいる。その僧が持っている古感状には『今夜暫時の間討取数万騎木目今庄芹中三ヶ所之働日本古今無双可及誰也、言語道断為報当座之苦労我家代々之吉光太刀貞宗脇差等令遺候、追付分国可被遺候、弥下知尤に候
八月十七日 信長御判
明智日向守殿』
こういう事はまま、あることだ。源義経、楠木正成なども戦死したように見せかけてひそかに逃れ隠れたという。光秀もその類であろうか。およそ古人の伝説系図等には頗るおかしな事やこじつけてあるものが多々ある。これだけでは何とも言えないものだ。」
とある。ところで、何故中洞が「縁を頼」れる場所なのであろうか。その理由は中洞が光秀の故郷だからというのだ。『美濃土岐明智古戦史』『武芸川町史跡名勝史』などに拠れば、光秀の父は土岐政房の異母弟土岐四郎基頼であり、母は中洞源右衛門の娘であったという。そして光秀の母は子を身ごもると実家に里帰りして水垢離し、「天下に将たる男子か、しからずんば秀麗の女子を授け給え」と祈り大永六年八月十五日に子を産んだ。これが光秀であるという。そしてのち土岐氏支族明智光綱に子が無かったので光綱の養子となり明智光秀となるとする。とすれば光秀が中洞に逃れてきたというのも納得できる話になる。また、現在も中洞一帯には荒深姓が多く残っているが、これは光秀の子乙寿丸の裔だという話である。
また、現存する唯一の光秀の画像がある岸和田本徳寺にも山崎の合戦後光秀が一時身を隠したという言い伝えが残っている。
小来栖で光秀が死んだとするにはあまりにその状況が不審で、またそれが書かれている史料も「勝者」側に拠っていることは書いた。光秀が小来栖で死んだとは思えない。山崎で敗戦した光秀が後に天海になったのではないのなら何処に行ったのであろうか。その一つの答がこの「中洞の荒深伝説」なのかも知れない。
また、宇治の堀家に伝わる話として「6月13日深更、淀城の船着場にたどり着いた光秀を舟で巨椋湖対岸の宇治五ヶ庄・岡屋津まで送り届た。光秀はしばらくその地にひそみ、時のしずまるまで居た」という話も伝わっているという(「宇治茶の文化史」という本に載っているらしい。未確認) 
結語
実際問題としては真実は「歴史の闇の中」である。しかも約400年も昔の「敗者の真実」がそう簡単に分かるはずも無い。もしかしたら永久に分からないかもしれない。だが、個人的にはその残された「真実の欠片」を集める事により完全ではないがある程度は真相に近づくことは可能と考えている。その際には、特に勝者の作った「歴史書」を鵜呑みにする事は出来ない。そこには「権力の擁護」の為に事実が捻じ曲げられているから。「徳川実記」など『東照大神君を称える為に事実とは異なる事が書いてあるところもある』と明記しているほどである。またそれ以外の資料とてそのまま信じるわけにはいかない。書いた当人はそう信じていたとしてもそれが事実ではない事も有るし、わざと事実ではない事を書いていたり、不確かなものをそのまま書いている場合も多いからである。それら「玉石混淆」の資料群から適切な資料を用い、資料批判をして用いるのは中々難しい事ではある。専門家のセンセイ達ですらそれが皆出来ているとは言い難い。ましてや素人には・・・。それゆえこの内容も疑わしい所も多々有ろうとは思いますが、これが現状で調べ得た結果です。今後とも修正・変更すべき点は直し、追加すべき点は追加して行こうとは思いますがひとまずこれにて終了いたします。 
 
明智光秀辞世の句

 

愛宕百韻と並んで有名な光秀の辞世の句。それは本当に光秀が詠んだものであろうか・・・? 
辞世の句
小栗栖で一農民の槍に倒れた光秀がその懐に忍ばせていたという辞世の句。本来はこれは句ではなく褐というのが正しいようだ。
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」。
小栗栖での死の状況が不自然だということは既に述べたので、ここはその辞世の褐(句)について全く偶然に気が付いたことを書かして貰おうと思う。この褐は一般には小栗栖の遭難時に光秀が身につけたいたものだといわれている。しかし一説では「本能寺の変」後妙心寺に引き上げてきた光秀がそこで自害しようとしたが、慌てた周囲に制止された。その際に詠んでいたもの、ともいわれている(出典調査中)。
さて、話は変わり江戸中期の四代将軍家綱治世の頃、越後高田でお家騒動があった。世に名高い「越後騒動」である。詳しく書くと長くなるため概略を示す。越後高田藩でお家騒動があった。ただお家騒動というだけなら他の藩でもあった事なのでどうということはないがこの高田藩はほかとはちょっと違った。何が?越後高田藩松平家の藩祖はかの越前宰相結城秀康であったからである。
もともと秀康は二代将軍秀忠の兄であったが、弟の秀忠が将軍となったため秀康の家(当時は越前松平家)は「制外の家」として別格扱いであった。尤もそれが災いしてその子忠直の悲劇ともなる。この秀康系越前松平家はお家断絶の上再興を繰り返す悲劇の家系となっているが、それは別の話。
当時は紀伊・尾張・水戸の所謂「御三家」と併せて「御四家」といわれていたともいうほどの家格を誇っていた。ともかくそういう「特別な御家」で起こった御家騒動だけに当時世間の耳目が集中したということは想像に難くない。いつの時代も世人はそういう類(たぐい)の話を好むものであるが、「特別な御家」だったとしたら尚更である(現在でも皇室の他愛もない一挙手一投足がニュースになるくらいである)。ということはその当時の世人はもとより、書物を読み書きする「知識人」の間では知らない者はいなかったと思われる。(当時の知識階級の大多数は武士だったことにもよる)。
「越後騒動」の背景には四代将軍家綱の時の「下馬将軍」大老酒井忠清の権勢と、五代将軍となった綱吉との確執も大きな影響を与えたといわれている(詳しくは専門サイトまたは書籍をあたられたし。個人的にはとっかかりとしては上掲書「越後太平記」がおすすめ)。高田藩は掃部派(小栗掃部。本稿の重要人物小栗美作の子:小栗派、逆意方といわれる)と綱国派(永見大蔵長良の子:大蔵派、御為方という)に分かれて党争をしていた。
この「越後騒動」の重要人物の一人、小栗美作。小栗美作は戦国の遺風を振り払い、幕藩体制下における藩運営を追求していく、「改革派」だったようである。当然藩の多数を占める戦国の遺風を引きずる「守旧派」の面々には受けが悪かった。ざっくりいえば「改革派」=「逆意方」、「守旧派」=「御為方」といえる。「逆意方」「御為方」という名称は「守旧派」が自分達が正しいとして名付けた故こうなっている。
小栗美作率いる越後松平家首脳は、藩の運営に際しては中央との太いパイプが必要と考え、実践していた(それの是非は置いておく)。そのため将軍家は勿論、当時権勢を誇っていた「下馬将軍」酒井忠清にも近づいていた。酒井忠清に接近したことは小栗美作や越後松平家に取って吉ともなり凶ともなった。現在の政治でもそうであるが、この中央への工作が「個人」小栗美作としてか、「公人」越後松平家執政としてかは判別しがたいところではある。小栗美作個人としては「公人」としてのつもりであっても世間は、「個人」としてみなしていたようではある。ともかく、この中央工作が功を奏し、家綱治世に一度この越後家の党争に裁定が降りた際には、政治の中枢に太いパイプを持つ掃部派の勝利の裁定を得ていた。しかし将軍の代が変わり、代わった新将軍綱吉は酒井忠清へ含むところがあり、また代替わりを強烈にアピールする方策の一つとしてこの「越後騒動」の再吟味を実施。その結果、裁定は一転して小栗美作は切腹、綱国派は他家御預け、越後松平家は城地没収の上断絶となってしまった(後に再興)。小栗美作は切腹に際し辞世の句(褐)を残した。それは
「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」。
というものであった・・・
さて、前置きが長くなったが、ここからが本題である。この辞世をみて何かお気づきにならないであろうか?そう。光秀が「詠んだといわれている」辞世の句と半分(美作の褐の前半と光秀の褐の後半)がほぼ同じである。「五十五年と五十余年の違い」など同じといっても差し支えない。これは偶然であろうか?
辞世といえばもののふの人生の掉尾を飾る一世一代の作である。二人の共に著名(小栗美作は現在では著名とはいえないが、当時は著名)な人物の辞世が一部というならともかく半分が同じというのは尋常ではない。これは偶然とは考えにくい。しかし二人の著名な人物の辞世が酷似という「事実」があるとする(現状ではそう考えられる)と、その可能性は、
(1) 美作が光秀の辞世を真似た。
(2) 光秀が美作の辞世を真似た。
(3) 光秀の辞世は他人の作で、その「代作」した人物が美作の辞世を真似た。
(4) 美作の辞世は他人の作で、その「代作」した人物が光秀の辞世を真似た。
という場合が考えられる。しかし一読してわかるように(2)はあり得ない。また当時の記録に美作の辞世が残っていることを考えると(4)も考えにくい。・・・戦国の世、戦時というのいであれば勝者によって残される記録は抹消改竄されることは多々ある。それはわかる。しかし徳川治世下の平時の記録ということを考えるとそれは考えにくい。いや、抹消改竄が無いといいたいわけではない。歴史というモノは記録された時点で記録者の主観が入るためにすべて「史実」では無いとも言える。だが「最大権力者の裁定結果」などというものの記録が改竄される可能性は極めて低いと考えられる。いつの時代も平時の官僚のすることは硬直した形式第一主義となるものであり、愚直なまでに先例どおりに記録を行っていくのである。となれば、「越後騒動」の記録も原因や経過については主観により事実と異なる部分もあろうが、結果はほぼ「行われたこと」が書かれていると考えられる。特に辞世などは本物がどこかで別物に変わっている、とは考えにくい。
少し話がそれたが、となれば(1)か(3)ということになる。これらの可能性はどちらもあるといえるが(1)の場合は大きな前提条件が一つある。すなわち「光秀の辞世の句が伝世している」ということである。熊谷宅右衛門ではないが真似をするからには当然オリジナルを知っている必要がある。越後騒動当時に光秀の辞世が伝わっていたという痕跡はあるのか、というとそれは確認できない。そもそも光秀の辞世を載せている資料とは「明智軍記」に他ならない。そしてその成立はおおよそ元禄六(1693)年以前と考えられる、とまでしか判別しない。ただしそれ以前とはいえ、それよりも大幅に遡るとも考えられない。妥当な線は十年一昔ともいうので十年ぐらいであろうか?。となるとその十年前がどのあたりかと考えると、延宝年間後半〜天和年間(1680年代以降)くらいまでは遡る可能性はあるだろう。なお、ここにこれ以前には遡らないだろう、と書いた1680年代最初の年1680(延宝八)年には何があったか?それは四代将軍家綱の死去および五代将軍綱吉の将軍宣下である。
閑話休題、さて「越後騒動」は天和元(1681)年の将軍綱吉親裁をもって最終の決着が付いている。小栗美作の切腹はこの年の六月のことである。とすれば「越後騒動」は「明智軍記」成立時期とほぼ同時期の出来事と言って良いと思われる。同時期の出来事・・・その当時成立した「明智軍記」に書かれている光秀の辞世の句と、同じ頃世間の耳目を集めた「越後騒動」の小栗美作の辞世。これが偶然似ているというのは考えにくい。そう考えた場合、上記(1)が事実だと考えると、
イ) 小栗美作の死の当時には光秀の辞世は伝わっていた。しかしそれは現在に至るまでの過程で「明智軍記」以外の記録は消失してしまった。
ロ) そして小栗美作はその光秀の辞世を真似した。
ハ) さらに小栗美作が死んだのとほぼ同時期に偶然光秀の辞世を現在に伝える「明智軍記」が刊行された。
という条件が揃っていなければならない。が、イ)のようにその当時まで伝わっていたなら「明智軍記」以外の資料にも残されて良いと思われる。しかし残されている形跡がないし、また光秀死後一世紀が過ぎたこの時期に、小栗美作の死と偶然合わさって明智軍記が書かれた理由が説明できない。だた、説明できないだけで、偶然の可能性が無いとはいわない。しかし死後100年を閲した儒学全盛のこの時期にわざわざ「天下の反逆人」の伝記が書かれたという事は、なにか理由があると考えてしかるべきだと思う。一方、(3)の場合だとすれば、
イ)小栗美作の辞世の句を同時期に「明智軍記」を執筆していた作者が取り入れ「脚色もしくは虚構として」明智軍記に取り込んだ
という条件のみで説明が付く。とするとややこしい付帯条件が少ない分、(1)より(3)の方が真実味がある、という結論が導かれる。つまり、光秀の辞世の句は「明智軍記」の作者が「代作」した可能性が高いと思われるということである。「明智軍記」の作者が何を思って小栗美作の辞世の句を取り込んだか、まではわからない。ただ単に個人的に気に入っていたからなのか、あるいは「小栗」から光秀の死んだとされる「小栗栖」が連想されたからか、「越後騒動」における小栗美作の「真実」を明智光秀の「真実」と重ね合わせたかったのか、それともまた別の理由か・・・。捕捉すれば当時の芸術はあからさまに言わないでそれとなく匂わし、客もそれを暗黙で了解するのが粋であった。「言わぬが花」である。「忠臣蔵」なども設定は室町時代のこととしてはいるが、観客も本当はそれが元禄の世に起こった「赤穂事件」をモチーフにしていることは周知であった。光秀と美作の件も同じだとすれば、作者は何を言いたかったのだろうか・・・。ただこの場合も「天下の反逆人」の伝記が書かれたという理由は明確にはならない。だが、先に書いたように正体不明の【作者】が小栗美作の「事実とは異なる不当な扱われ方」に、光秀の同様の扱われ方を二重写しにみた結果、そうではないと表現するため「伝記」の作成を試みるも、「天下の反逆人」を大々的に顕彰しては公儀に差し障ると考え、あえて一読して虚偽とわかる内容を含んだ「伝記」が書かれた、などと想像することはできる。また、光秀=天海説を踏まえれば、天海僧正入寂より五十回忌にあたる1692(元禄五)年に併せて作成された、と考えることもできる。
とまれ、辞世が虚構であると考えられるということはどういうことか?それはその辞世を載せている「明智軍記」の光秀の小栗栖での遭難のくだり自体も虚構の可能性が高い、ということである。とすれば「『光秀は山崎の合戦後醍醐・山科あたりで死んだ』という風聞が当時は有った」というところまでしかはっきりと断定できないということとなる。これでまた「光秀が小栗栖で死んだ」という「事実認定」が一歩後退したと考えてもよいだろう。
あと、光秀の享年は五十五歳と言われているが、これもこの「辞世の句」が有るためにそういわれているのであって、この辞世の句が本物ではないということになると光秀の生年、年齢もまた闇の中に消えてしまうということにもなるのである。
ちなみにこの元ネタともいうべき辞世の句(褐)を詠んだ小栗美作は寛永三(1626)年生まれで天和元(1681)年死亡。となれば・・・・もうおわかりであろう。享年五十五歳。
教科書などで教えられている「歴史」も定まったことではなく、詳細に検討していけば「断定できない、考えにくい」となり、このように曖昧模糊とした歴史の闇の中に翳んでいってしまう。それを決めるのは歴史を顧みる人個人個人だ。そこにはその人の人生経験が反映されるのだから、それら似ることはあっても全く同じということはあり得ない。だからこそ歴史を学ぼうとする人の数だけ歴史が誕生する。教科書に書いてあるものだけが歴史ではない。また同じ人でも歴史を学んでいくに従い認識が変わっていき、以前持っていた歴史とは違う歴史を持つようになる。かように歴史とは能動的なものなのだ。これが歴史を学ぶ醍醐味ではなかろうか? 
 
愛宕百韻の真意

 

愛宕百韻。その発句は余りにも有名で世間に膾炙しているが、光秀の歌に込めた真意は果たして通説どおりのものなのであろうか・・・。 
時は今天が下しる五月哉
通説と新説
各句については愛宕百韻を参照して頂くとしてまず光秀の発句については、通説では発句は2通りの見解があります。すなわち
1 はじめから「天が下しる」だった
2 もともとは「天が下なる」だったのを「天が下しる」に改竄した
というもので1の場合、「時」とは『時=土岐』つまり土岐氏出身の明智家のことであり「天が下しる」とは『天下をしろしめす、天下を知行する、天下を支配する』と言う意味となり発句としては『(土岐家出身の)明智家、すなわちこの光秀が天下を支配することとなる五月であることよ』ということになる。すなわち光秀は天下を望んでいたという「野望説」に通じる事になる。
また2では『土岐源氏の誇りをかけて信長を討つ好機は今、この五月にしかないのだ』となりこれだと光秀は恨みを晴らすため、若しくは信長の重圧でノイローゼだったと言うような解釈が成り立つ。すなわち「怨恨説・ノイローゼ説等」に通じる事となる。
さてここからは
1 連歌興行参加メンバーは「変」のある事を知っていた
2 連歌興行参加メンバーは「変」のある事を発句によって気づいた
と言う解釈が従前よりある。
1 の場合で行くと行祐の脇句にも『まさる(勝る)』とあるし紹巴の三句に『花落ちる=信長が死ぬ』と言う解釈が成り立つ句が在るゆえ密かに光秀を応援していたと言えるのである。
2 の場合で行くと有名な紹巴の『花が落ちて積もり水の流れを堰きとめる=御考え直しくださいませ』と言ったという解釈も成り立つ。むろん、ここで初めて気づいたがそれを歓迎して1 のように詠んだとも考えられるが。
さてしかし。どちらの説も一長一短であるがここに興味深い新説がある。光秀の発句を「天が下しる」とした上で下の句の「五月哉」に着目し
1 「平家物語」における平家に源頼政が反旗を翻した対した宇治川合戦
2 「増鏡」における後鳥羽上皇が鎌倉幕府(執権は北条氏:平氏)に対して討幕の挙兵を行った承久の乱
(このとき土岐氏は上皇側についた者が多数居た)
3 「太平記」における足利尊氏の六波羅探題陥落と新田義貞の鎌倉襲撃
という時代は変われど五月に起こった対平氏の戦の決起を語った物語を踏まえた句だというものです。
これを踏んだ上で4回目の対平氏の戦を起こす、すなわち自らを「平氏」と名乗った信長を倒すという宣言だと。しかもこれらの前例は私憤ではなくみな世のためと思っての決起だった、ということも踏まえた上で。ということは4回目も・・・・。
もしこうだとすると、わずかな文字中にこれだけの意味を凝縮して「詩」にするということを行っている事になります。まさに教養人光秀の面目を躍如するものが在ります。ちなみにこの説を用いると私憤ではなく公憤ということになりその意味する所は「下しる」とは『天下を治める(君)=天皇(朝廷)』を指しす事になりその句全体としての意味は『(過去の平氏の血に繋がっていた朝家に害なすものどもの専横を排除した数々の源氏の功のように)自分もいまこのときに朝廷に害をなしている平家に連なるものを排除して朝廷の実権を取り戻す』即ち朝廷のために信長を除くと宣言したということになり、「朝廷陰謀説・朝廷擁護説」に通じていく事となります。
また別の新説では、第二句以下も同じ流れで解釈できます。
脇句の「水上まさる庭のまつ山」とは「水上」は源氏、「庭」は朝廷を表し『朝廷は源氏(:光秀)が(平氏=信長に)勝る事を待望されています』
となり三句「花落つる流れの末をせきとめて」は『栄華を誇る(信長が)凋落するように勢いを止めて下さい』
で大善院宥源の四句「風は霞を吹おくる暮」は『信長を打ち破って暗黒政治を吹き払うときです』
という意味を表し即ち「愛宕百韻」とは光秀の決意に朝廷は期待している事を連歌師を通じて伝えた場という事になります。
私としては従来の通説よりこの新説の方が説得力に富み妥当なものではないかと思います。それはとりもなおさず朝廷が「変」に関与していた事を肯定する事になってしまいますが・・・。
また光秀は源氏の血筋であり、本能寺に向かうに当たっては古の足利尊氏公が幕府方から天皇方へ鞍替えして、丹波篠村から京都へ上洛して六波羅を攻めた時の道と同じ道を通って、京都(本能寺)に行ったと言われており、光秀の本能寺の変にかける意識がどの辺に在ったのか窺う事ができます。おそらくは自分を、北条氏から厚遇されていながらも鎌倉幕府からはなれ天皇方についた尊氏に重ねあわせていたのだと推察されます。
だとすれば、「自らが天下を望む」と思っていたと考えるのはしっくりきません。かくも尊氏の跡を踏んでいるということは「天下の為、(朝家の為、)厚恩を蒙った主家(尊氏にとっては北条家だった。明智家にとっては織田家)に叛旗を翻す。されど我意のみにあらず」ということを行動で主張していると考えれます。
以上が新説を踏まえた上での愛宕百韻にかけた光秀の思いの推察ですが皆様はいかがお考えでしょうか?ご意見が在れば是非お寄せください。お待ちしております。
捕捉・・・丹波亀岡(旧亀山)にある篠八幡。足利尊氏ゆかりのこの神社の社伝にはこう書かれている。「明智軍の攻め入ってきた天正の兵乱により社殿は焼失。徳川時代になって藩主松平家により社殿を修復される。」と。ということは光秀は尊氏ゆかりの神社を焼いたが再建はしなかったということになる。少なくとも大々的な修復はしなかったようである。確かに丹波平定後も八面六臂の活躍をしていたとはいえ、源氏の末葉を自認するならば先祖ゆかりの神社などは真っ先に修築すると思われるのだが、いかがであろうか。しかし現実に光秀がそうした様子がないとなれば、光秀は本当に源氏の末流だったのか?という疑問がわき上がる。祖先ゆかりのモノは朽ちるに任せて、しかし事あるときはその先祖の行動をなぞる・・・というのは行動に一貫性がないと思います。そう考えるとこの稿も考え直さなければいけないか、と現在は考えています。 
 
明智家逸話

 

ホクロは昔の面影
明智日向守は、かつては十兵衛と言って丹波亀山の城主に仕えていたが、忠勤が認められようやく広敷番に入ることができ、主君側近ではなかったものの精勤していた。彼は朝夕変わらずその志が常人とは違い奉公に私心なく勤めたので、自然と天理に適いほどなく弓大将に任じられ、足軽二十五人を預かることになり武門の面目を施した。この時には具足金として十両蓄えており、既に一国の大名に成ろうという野望を暖めていた。生まれながらの大気でありその身についた徳というものである。十兵衛に未だ妻が無いのを見て娘を持っている者は婿に迎えたいと望みあれこれ話を持ちかけたが、妻は近江佐和山の某という者のに美々しい姉妹があり、どちらが花か紅葉か判らぬほどのものであったが、姉の方がより見目麗しかったので十一歳の時には既に言い交してしかるべき身分に成ることができれば嫁に迎えましょうとの約束をしていた。その約束から七年あまり経っていたのでまだ幼かった娘も世の哀れや人の情も弁えるように成っていた。十兵衛は、
「御約束通り、近々嫁に迎えましょう。」
と娘の両親に手紙を送ったが、時が経つうちには予期せぬ嘆きもあるものである。姉妹の娘は同じ時に疱瘡に罹ってしまい、病が癒えた時にには美しかった姉娘の方は顔にその跡が無残にも残ってしまい、かつての美貌は損なわれてしまった。妹娘の方は順調に回復したので以前と変わらぬ美しさのまま育っていた。十兵衛と約束を交したのは姉娘の方であるがその容姿が変わってしまったので、
「この娘を他人の元に送って醜い容姿で恥をかかせ、また『あれは佐和山の某の娘だ』とあれこれ言われるのも辛いことだ。」
と夫婦で話しあい、
「未だ妹娘に何の約束も無いゆえ、そしらぬふりでこれを十兵衛殿の元に送ろうと思うのだが。」
と約束を交していた姉娘の方に語って聞かせた。姉娘の方はそれを聞いても格別嘆くこともせず、
「私はこんな姿に成ってしまった以上、十兵衛殿の元に嫁げるなどとはもう思ってもいません。まして『そんな容姿でもよい』と言ってくださる方が居られるとしても、十兵衛殿の外の方に嫁ぐなどということは全く思いもよりません。幸い妹は『どちらも甲乙つけがたい』と言われた私たちの昔の姿のままで成長していますし、何事につけても利発で心もしおらしく生まれついて居ますのでどこの家に嫁に出しても御両親の名前を傷つけることは無いでしょう。どうか妹の方を十兵衛様の元に送ってください。私は以前より出家をしたいと思っていたいました。これは諸仏にかけて嘘偽りはありません。」
と慣れ親しんだ唐渡りの手鏡を打ち砕いて浮世を捨てる誓文を立てた。これを聞いて両親は感涙に咽び、暫く思案していたがこう言いだしてしまったからにはもう後戻りできないことだと決心して、妹娘の方に詳しい説明はせずに亀山に嫁がせる旨を言い聞かせたところ、
「どうも納得できませぬ。姉君より先に嫁ぐというのは人の道としても外れています。姉君が嫁がれた後というのであればともかく。」
というのであった。親のほうも
「いや、そなたの言うのももっともだ。確かにそれは世間の道理に適うことではあるが、そなたの姉は前前から出家したいと強く思いこんでいたのだ。そのためこの上はその望みのままに近々南都の法華寺に送ってやり出家させることに成っている。その上でその方は亀山に送るのじゃ。女に生まれたそのほうであるが、これはそなたにとっても幸せな話ぞ。明智十兵衛と言う方は先ず武芸優れた方で、その上世に優れて理に明る方なので、何事につけても上手く物の処置を行える方だ。だから一生連れ添う夫婦としても楽しみが深いであろう。しかもこれから先も更に出世して行かれる事は間違い無い方だから私たちとしても安心して老後のことを頼める方であるのだぞ。」
といろいろ言い聞かせると、妹娘も女心に嬉しく思い、親達が言うに任せて嫁ぐことを承知した。妹娘は吉日を選んで、家の身代に不相応なほど美しく仕立てをされて亀山に送りだされた。
十兵衛も新たに縁で結ばれたのを祝い松竹の島台を飾り、三々九度の盃事を行ったが、その時まで幼い頃に約束していた姉娘だとばかり思っていたがその日の晩の新婚の床に入る際に灯火の近くで互いに顔を見合わせた際に十兵衛は『たしか昔見た横顔には気をつけて見た際に取りたてて目立つと言うほどでもないがホクロが一つあったように思ったのだが大きくなるにつれてそれさえも恥ずかしく思って取ってしまったのかな』と思いながらも何も言わず新妻の耳の辺りを見つめていると、新妻の娘もそれに気づき、
「ここにホクロのありますのは私の姉上にございます。姉上は美しかった容貌も疱瘡のため今ではすっかり変わってしまわれて同じ女の身として考えてもおいたわしいことであります。その姉上を差し置いて私の縁組をするのは順番が違いまするとお断りしたのですが、両親の言うことには背くわけにも行きませんのでこちらに送られてきましたものの、姉上のことは気がかりでなりませんでした。さまざまに今思い合わせてみると、こなた様の御約束された方というのは姉上に違いありません。そうとわかればどうしようと道理の立ちようが無い事ですのでどうかお許しください。かくなる上は私は今日をもちまして出家させて頂きたく思います。」
と守刀で黒髪を切ろうとするのを十兵衛は押し止めて、
「あなたが髪を切って出家しようともそれで世間が納得する話でもありません。他人には知られぬように内緒で事を上手く片付ける考えが私にあります。だから5日の実家に帰る時まで待ってください。しかしあなたも流石は武士の娘、良い心掛けをなさっている。」
と深く感じ入った。そしてその後は二度と顔をあわさず離れて過ごした。里帰りをする際には詳細を記した手紙を書き、その最後に
「そう言うわけで右に記したように私が貰う約束をしていたのは姉娘の方であります。難病に罹ってしまうのは世間一般にも仕方の無いことであり、そのせいでたとえ昔の容姿を損なったとはいっても是非姉娘の方を私の元にお送りくださいますようお願いいたします。私の一命をかけても夫婦として添い遂げたいと思っています。それにこの度の一件で一番感心しましたのは妹娘の心掛で、女ながらも道理にかなっており大したものだと思いました。」
と心のほども付け加えて知らせておいた。それを読んだ娘達の両親も十兵衛の処置に満足して、十兵衛の望み通りに今度は姉娘を送り届けた。その際には二人がうちとけて愛情を寄せ合い夫婦の中が末永く続いて欲しいものだと祈ったのであった。
それにもまして十兵衛の妻と成った姉娘は一層のこと十兵衛の情けを忘れず、何事につけても夫の言うことに従った。この妻がもし美女のままであったなら、心が引かれて名を上げることより夫婦の愛情にのめりこんでしまったかもしれないが、武士としての義理を通すという一念で貰った妻なので、ただ武名を上げることに専心することができたのであった。この妻となった女は姿からは想像しがたいほど気丈な心を持っていて夫婦の間柄でも余計なことは口にせず、戦の戦術を語らせたり、庭に真砂を集めて城の縄張の設計などをさせてみると、自然と理に適った事を言い、十兵衛の考えが及ばないことなどもしばしば示す事があった。こうして妻が結婚当初から十兵衛に武道の油断をさせなかったから、十兵衛は後に武名を上げたのだということである。『武家義理物語』 
光秀の妻・熙子の内助の功
光秀がまだ流浪して越前長崎の称念寺にいた頃の話。光秀に客が訪ねてきた。光秀は厚くもてなしたかったが諸国放浪していて主取りをしていないため何分貧しかった。光秀は悩んだがそこに妻の熙子が来て言うには
「妻というものはいかに貧しいといえども万一のために心構えをしているものでございます。私に心当たりが有りますれば殿は心煩わせませぬよう。」
と言って家を出た。そうして暫くすると酒肴を買って戻ってきた。光秀は大いに喜んで客を歓待した。客が帰った後、光秀は
「そなたのおかげで光秀も面目を保つ事が出来た。礼を言うぞ。しかし我が家にはあのような酒肴を買うための金が有ったとも思えぬが一体如何工面いたしたのじゃ?」
と問うと
「実は...私の髪を売って金に変えました。」
と答え被っていた頭巾を取った。そこにはあれほど美しかった黒髪が根元からばっさりと切られ無くなっており、余りにも痛々しい有り様となっていた。この当時、髪は女の命である。髪を切るのは尼になるときくらいのものであった。女にとっての髪は武士にとっては大小二本にも等しいものである。光秀はひどく驚き
「いかに落ちぶれたとは言えわしの不甲斐なさのために妻にまでかような思いをさせるとは!武士としていや男としてこれに応えずにいられようか!!熙子、みていてくれ。そなたの恩に報いるためにわしはきっと良き主に仕えそなたには二度とこのような想いはさせぬようにするからな!!」
と言って家を出、やがて国主朝倉義景に仕え後織田信長に仕えて近江・丹波を領する身になった。光秀の立身後熙子は亡くなったが光秀は糟糠の妻の恩を忘れず、妻の葬列にはその棺にしっかりと寄り添った。『絵本太閤記』 
細川家への随身
熙子の献身的な行為に大いに感激した光秀は、立身して明智家を再興しこの妻の恩に報いてやらねば思って、その旨を妻に語り立身した後の再会を約束して家を出て細川藤孝に仕えた。その録は僅に八十石であった。しかも石ばかりの田だったので、家老の米田監物入道宗鑑にもうすこし良い土地に代えて頂けないか、と度々頼んだけれども許されなかったので光秀は大に憤って、細川家を辞去した。『名将言行録』 
熙子の内助の功・後日談
前掲の話は江戸時代を通じて美談として語り継がれたらしく、彼の松尾芭蕉もこの話に感銘を受けた一人であった。芭蕉は「奥の細道」の旅の後伊勢を旅した。そのとき宿泊先の又玄と言う者の妻が健気に夫に仕えかいがいしく世話をしてくれた事が有った。芭蕉はいたく感激して一句読んだ。
月さびよ 明智が妻の 咄せむ 
光秀と大黒天
光秀がまだ若かった頃の話。ある時芥川にて大黒天の木像を拾った。回りの人々は口々に
「これはよいものを拾われた。大黒天の像を拾われる方は必ず千人の長になれると言います。今にあなたは出世する事でしょう。」
それを聞くと光秀は
「何だもっと利益が有ると思っていたが、たかだか千人の長か。今時分少し功を立てれば凡人でも千人の長にはなれるものだ。私の望はそのように小さな物ではない。」
と言って惜しげもなくその像を人にあげてしまった。その志大なりと言えようか。大志を持って信を重んじて道義を守って行けば天下の忠臣となれるだろう。しかしその道を悪に向ければ大悪人にならないと言う事が有ろうか。光秀が信長を弑逆した事の発端は既にこの一事に現れている。『山鹿語類』 
浪遊の時・中野との約束
光秀は流浪中に三河牛窪の牧野右近大夫に仕えた事があった。その時の知行は百石であった。ある時光秀が傍輩の中野某に語るのに、
「我等武士の行く先はわからぬものよ。もしわたしが一城の主と成ったなら、貴殿は頼もしい人なので是非に迎へて城代をして頂きたい。貴殿がもし立身したらばわたしもまたそなたの家臣となろう。」
と約束した。光秀後に丹波を賜はった時、約束どおり中野を迎て亀山の城代とした。『名将言行録』 
明智光秀、朝倉仕官の動機
その時とは永禄五年の秋であったが、加賀国一向宗徒が一挨を起し越前へ攻入った際、朝倉土佐守景行が数千の軍兵を率いてこれを防ぐ。明智光秀は越前の長崎と言う所に住居していたが暇を得て一揆の戦を見ようと、御幸塚の戦場に行って見たが既に夕暮も過ぎて戦も止んで互いに燎を焚いて対陣していた。光秀が遥かに御幸塚の東を見ると、 一条の赤気が空にたなびき朝倉の陣営を犯していた。これは一揆の徒が夜討を仕掛ける気配だと見てとったので、全く縁は無かったが土佐守に『このように思えまする』と進言した。朝倉勢はそういう事もあろうかと用心して堅固に敵を待っていた。 一揆の徒が光秀が言ったまさにその刻限に夜討してきたが、予め細心に用心していたので散々に打ち破り十分の勝利を得た。これにより上佐守が光秀の非凡の才能に感心し、義景に勧め仕官の道を開いた。『絵本大間記』 
明智光秀、出世の順序
惟任日向守殿と申す方はまだ出世なさらぬ時、朝倉義景殿に仕えて、明智十兵衛光秀と名乗り、百石を賜わっていた。ある年の大晦日に夜の当番で泊だったため、明日の元旦の出仕の際、そのまま出仕できるようにと、他の朋輩は月代を剃って身なりを整え、鏡をおいたが、光秀が鏡を取って顔を見てみると、鬢に白髪が生えているのが見えた。これではいかんと深く思い悩む事あり、暫くして鏡を置いて朋輩に
「今日は当番の為に他に任せる事が出来ないことを言い忘れました。少々家に戻って用事を申付けて来たい。」
と言い、朋輩も了解した。さて家に帰って妻に向かって、
「なに、今帰ってきたことは別の事ではない。例年は雑煮を振る舞う事が多かったが、明年から例を代えて今年は餅を振る舞う事にする。」
と言って折敷を取り寄せ、有るだけの餅を配った。妻が閉口している処に十兵衛は
「わしは思うところがあって、明日の元旦に朝倉家を退転しようと思う。されば用意いたせ。」
と言う。その頃は戦が第一の時だったので、下人は四人、馬も所有していた。さて下人達に言うには、
「わしは急用があって明日出国する。支度せよ。」
と申し付けた。下人は
「あの・・・最近、障泥が切れてしまって有りませぬ。」と言う。
「であれば、茣蓙を切りってへりをとれ。」
と言って直ぐに作らせた。それから徹夜で支度して、妻を宿場の馬に乗せ、自分自身は騎馬となり鑓を持たせて出発した。それより越前と美濃の国境の柳ケ瀬という所に着き、そこで下人達に暇を与えた。ここには昔は武士をしていたが後に武士を止め、百姓になって名主をしている者が居たが、光秀はこの人物に縁が有ったので暫く逗留することにした。他にも元武士と言う者が多く居たので連歌などをして暮らしていたが、ある時自宅に人を呼ぶのでその饗応を妻に命じた。しかし、妻は『自分の食べる分にも事欠くのにどうするべきか』と思ったけれども、急な事だったので、妻は自分の髪を切って銀二十目で売り、その日の支度を存分に行った。それとは知らず十兵衛は、妻の髪が無いのを見付けて怒って言うに、
「これはどういう事じゃ!これはわしを見捨てようとする準備では無いのか!。」
としたたかに非難していたが、下女が出てきて『これこれこういう理由です』と申し開きをした。それを聞いた光秀は、
「感情が昂ぶってそういう理由があるとはつゆ知らず言い過ぎた。許してくれ。その償いとしてわしがもし天下を取ろうとも決して側室は持たぬ。」
と誓ったということだ。浪人の時より天下を望む志が有ったようである。さて、尾張清須に信長公が御在城であるのでここに仕官しに行こうとして、路銀の為に古い道具や潰れた薬缶、足の折れた五徳などを取出し、古物商に売りに行けば、この商人は大判一枚を取出し、
「これくらいで宜しいでしょうか。」
と光秀に見せれば、光秀はもっての外と怒って、
「このような偽物を持ちまわって、張付にかかりたいのか。」
と思いっきり脅かしたので、この商人は度胆を抜かれその大判をキリキリと捻じ曲げて溝の中に捨てた。さてそのあとに大判を取り出し、曲がりを直し草で磨けば立派な大判に成った。さてその後、かの名主へ言うには
「このようにここに長居したてもジリ貧に成るだけでよい事はない。清洲に行って信長公へ仕官しようと思う。」
と言えば、
「尤もな事です。しかしながら路銀は有るのでしょうか?」
と問い返されたので、
「わしには斯様な時の為に備えて取っておいた大判がある。これで妻子を預ってくれ」
と頼めば、
「さてさて見上げた心構えの侍かな。これだけ有れば米百俵は買う事が出来ますな。されば半分は先の用に備えて持っていって下さい。私たちは残りの半分を預って奥方は長屋にお引き受けして御面倒を見させて頂きます。」
と約束した。さて清須へ行き、子細ありて信長公の御供に加えてもらう事が出来た。その際信長公は『一段と小賢しいものだな』と感じられた。その頃城の石垣を普請中だったのでその検分を光秀に仰せ付けられた。光秀の出した報告書は元よりの能書で普請の次第を事細かに書き付けてあれば信長公はまずその能書を誉めた。その他にも様々な才覚が有る事がわかり、光秀はその年の暮れには三百石を賜った。その後も度々の軍功比類無く感状も数状賜った。これによって段々取り立てられ丹波一国並びに近江にて滋賀・高島郡六万石を領し、細川忠興を信長公の仰せにて婿に取り、その勢いは盛んになってついには謀反を起こすに到り、終には天下の望みを達して将軍に補任されて京の地子銭を免除してその名を今に残している。『一話一言』 
居城築城の事・唐崎の松の植替
光秀が坂本城を築城したときの話。三甫という人が
波間より重ね上げてや雲の峰
と詠んだ。光秀がその脇句をつけた。
城山つたい茂る松村
また光秀は丹波亀山から愛宕山に続く山に城を築きその山を周山と名づけた。自分を周の武王になぞらえて、信長を殷の紂王に喩えた心の現われだと人は噂した。
また、志賀唐崎の松の事。いつのころか枯れてしまったのを光秀が植替たのが今の松である。その折に光秀が詠んだ歌。
我ならで誰かは植えんひとつ松こころして吹けしがの浦風
『常山紀談』 
光秀、浪人を召抱う事
光秀が未だ十万石取の時、堀辺兵太という浪人がやって来た。荷俵を負って来て、召し抱えるのに千石いただきたいと言う。光秀はこれを聞き、堀辺を料理でもてなしている間に内密に荷俵を開けて見れば、長身の刀鎗を如何にも見事に研立て入置いてあるのを見て、面白き志の侍だと言ってすぐに望みどおりに千石を与えて召抱えた。その後数度武功があった。その後丹波にて光秀が波多野勢の裏切りに遭い敗軍の時、堀辺は一番に引き返して奮戦し討死た。人は皆その表裏無しの行動に感服した。
また武田氏が亡んだ時、光秀は半役(通常の半分の軍勢を率いていく事)だったので丹波勢五千余騎を召連れて行った。人馬装束とも一際諸将に抜んでていたため信長に忌れる事の一つだったという。
また光秀が言うに、
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う。これから考えれば、土民百姓は可愛きことなり」
『名将言行録』 
左馬助が小姓の時
細川忠興は光秀の婿となったが、ある時光秀の邸を訪ねた。その折小姓の一人が縁側の障子外を通る際にまるで目通をする様に手を突き、慇懃に拝伏して行った。忠興は光秀に向って、
「光秀殿の御小姓達は律義でありますな。目通でもなくただ障子の外を通るだけであるのに手を突いて拝伏して通って行きましたよ」
と言えば光秀は、
「それは多分三宅弥平次であろう。その小姓を呼んでみなされ」
と言った。忠興は先ほどの小姓を呼んで、その名を問うてみると果して三宅弥平次であった。忠興は殊の外感称した。
この弥平次は後に明智家の第一の重臣となった。明智左馬助秀俊(秀満)と名乗って二千人の大将となった。白練の羽織に狩野永徳に雲龍を墨絵で書せて具足の上着とし、二の谷と言う名物の兜を被り、明智家の先手として働いた。度々高名をあげその名は知れ渡った。『名将言行録』『武辺咄聞書』 
光秀、古今の名将を挙げる
天正元年、信長は武田晴信が死んだと聞いて、
「信玄こそは実に良将と言うものであった。そうだ古来よりの名将というものはどれくらい居るのか?。そなたは古今百般に通じているゆえ申してみよ。」
と光秀に尋ねた。光秀は坂上田村麻呂から諸将の顛末を一々申し述べてゆき、最後に信長まで言及したので、飯尾新七がこれを書付けた。信長はこの書付を見て、
「わしをここに加えるとは片腹痛いわ。そういう光秀、そなたこそ無双の名将というべきであろう。若手でいうなれば徳川家康、我が家中では羽柴秀吉がその資質があるように見える。」
と言われた。『名将言行録』 
安土城築城の事
信長が安上に城を築いた時、光秀に意見を求めた。光秀が具申するのに、里見義弘や大内義興等の天守の事を述べた後、
「当御城においては天下を知召すべき御城ですので、五常五行を表して五重の天守を建られるべきだと存じまする。」
と、古実と共に委細に申したので信長は大いに喜び、光秀を奉行に命じて天守を建られたということだ。『名将言行録』 
光秀、光忠を称賛する事
光秀が福智山で父の年忌を弔ったときに、既に四十万石の大名だったので家老・用人・奉行・頭人等それぞれ規式に則り、装束等も厳重に決められた。焼香順は光秀が一番、二番は左馬助光春、三番は治右衛門光忠であった。光忠の順になると、光忠は遥かに離れた屏風の陰で脇差を外してからおずおずと這ひ出で焼香した。人皆此れを見て笑った。式が終わった後光秀が言うに、
「凡そこの世に生きている者は、治右衛門のように初心を忘れるべきではない。彼は我が父の代には明智近辺の百姓だったのを、父が召抱えて足軽にしたのだ。そしてわたしの代に成ってからは段々取立て今家老の一人になり、明智の苗字を与えたのである。昔を忘れないその礼譲はなかなかできるものではない」
と殊の外讃美された。『名将言行録』 
斎藤内蔵助を召抱う事
光秀は稲葉貞通の家人だった斎藤内蔵助利三を多くの禄を与えて召抱た。貞通が光秀に引き渡すように求めたが光秀は拒否して返さなかった。貞通は怒り、信長に告げた。信長は光秀に斎藤を貞通の所に戻せと下知したが光秀は承知しなかった。信長は怒って光秀の髪を掴み、引伏せて責めた。光秀は、
「国を腸っているのはそれを自身の為に使うのではなく、士を養うのを第一とするためでしょう。」
と理由を申して答えたため、信長は怒りながらも責めるのを止めた。光秀の士を好むことはこのようだったので当時知名の士、多く明智家に集まった。光秀は能く士を恵み、民を撫せたので民も光秀の役に立てるのを喜んだ。『名将言行録』 
光春、秀吉に目見えせず
光秀が亀山城に居た時、羽柴筑前守秀吉が陣中見舞にやってきた。光秀は大に喜んで老臣六人を秀吉に目見えさせようとしたが、光春は病と称して出てこなかった。光秀は残念に思って、
「筑前殿は天下の出来大名であるので、顔を知ってもらっていたら何かと役立つと思うのに弥平次は不幸せな者だ」
と言った。そして秀吉が帰るのを光秀は馬上で道まで送り出て、その後城に帰る時に茜の広袖を着た男が馬を責めているのが目に付いた。光秀はこれを見て周りの近臣に、
「あれは誰だ?」
と尋ねると、
「あれは三宅弥平次殿であります。」
と答えた。それを聞いた光秀は殊の外不興になり、城へ帰ると光春を呼寄せて、
「そなたは日頃思っていたのとは違って愚か者だな。筑前殿は昨今の天下の出来大名だから、あの様な御仁に顔を知ってもらっていることは士の名聞であるのに仮病を使って目見えしないとは何事だ!」
と殊の外怒って言ったらば光春は、
「私が仮病を使ったのは、他の大名に見知られる事が嫌だったからでありまする。世間の侍は諸大名に見知られて、今の主家を辞退した後にその家へ再仕官する手段にしています。私は当家以外に主家を持とうなど微塵も思っておりませぬゆえ、他の大名に見知られたところで少しも益無いのでわざと目見えに出なかったのでございます」
とその存念を申したらば、光秀は何も言わず奥に入っていったということだ。『名将言行録』 
忠興・信澄との縁組み
天正七年正月、信長は光秀及び細川藤孝を召して、林通勝を通して先ず去年丹後を平げた武功を称賛した後、此度十六歳になった光秀の三女を、同じく十六歳になった藤孝の長男与市郎忠興に嫁すようにと命ぜらた。そして其夜両人を召し、
「そなた達が親戚となることに満足している。此上は前々からの予定どおり、山陰道を残らず征伐してゆくように。そうすれば天下もついには静謐するであろうことは火を見るように明らかだ。先ずはその先祝いじゃ」
と杯を腸わった。そしてさらに光秀に言うに、
「わしの甥織田七兵衛信澄はまだまだ若輩で先ごろまでどうなるか分からなかったが、昨今は並み以上の器量人に見え、人なりも穏和のようで一角の将器を持つように見える。されば近々然るべき城主として、一方の固めにしようと考えている。そこで光秀、汝の今年十四歳になる四女を信澄に娶わせ信澄が事、今後は何事も光秀に指南してもらおう。」
と言われ、光秀は重々有り難きお言葉を頂いたものだ、と言って感涙を流した。『名将言行録』 
細川家への随身・その後
光秀が忠興を聟として初めて忠興の邸へ招かれた時、米田宗鑑に対面したいと言っておいたのだが、宗鑑は先に光秀が細川家に居たころ領地替をしなかったことをを恨まれているのを恐れて、頻りに会うのは迷惑だと言外に匂わせていた。それを聞いた光秀は
「宗鑑は迷惑がることはない。あの時、もしわたしの望を聞いてくれていたらわたしは今に至るまで細川の家臣であったろう。そなたが我が望みを聞いてくれなかったが為にわたしは細川家を辞去し信長公に仕へて、今このように立身したのだ。それを思ったらそなたは私にとってさだめし福の神と言えよう。」
と言ったので宗鑑はそれならばと快く面会に応じた。光秀は常に私が今のように成れたのは全く米田のおかげだ、言っていてそうだ。『名将言行録』 
頓知奇才・熊谷宅右衛門
明智家臣の熊谷宅右衛門は、家中でも評判の頓知奇才の持ち主で、特に戯れ歌を作る才能に秀でていた。また、槍功者として「荒武者宅右」という名でも呼ばれていた。ある時、光秀の知人の領内に一挨が起こり、鎮圧の援兵を送ることになった。光秀は阿木弥市という家臣に兵を付けて差し向けることにしたが、 一挨の中には浪人なども数多くまじり、その勢いは容易でないものがあると聞いたため援兵の中に特に宅右衛門を加えた。援兵は隠密に行動しが、熊谷宅右衛門来る。
の報が一挨方に漏れたのであろう、まず、浪人組が真っ先に逃走し、それを見て一挨の者たちが逃げ去り、阿木・熊谷両名が近くまでついた時、物見の者が飛んで来て、
「一揆勢はすべて逃げ去りました。」
と告げた。それを聞いた宅右衛門は、からからと打ち笑い、 一首、戯れ歌をしるした。
阿木来ぬと 目にはさやかに見えねども加勢の音にぞおどろかれぬる
むろん、これは、
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
の古歌を本歌取りしたものである。阿木弥市をはじめ武者たちは、改めて宅右衛門の奇才に感嘆し〔手をたたいて称賛したという。『新井白石紳書』 
森蘭丸、明智光秀を鉄扇で打つ事
天正十年五月の初め、織田信長の招きで徳川家康が上洛することになった。信長は家康を安上で歓待することにしてその宿所を大宝院と定め、明智光秀に接待役を命じた。かねて光秀は自分が主君の信長に気に入られていないことを知っていたので、接待役に選ばれたことを喜び、大宝院に仮の御殴を造り、壁に絵を飾り、柱に彫刻を施し、庭に珍しい草花を植えるなど、抜け目なく準備を整え、四方の番所や道の警回に万全を期し、それは誰が見ても非難の余地がなかった。
しかし、その様子を知った信長は光秀を呼び出して言った。
「こんどの接待を何と心得ているのか。賛沢の限りを尽くすとは不届きだ。関東の上客に、これほどのことをすれば、京都の朝廷から勅使を迎える時には、どうするつもりだ。」
満座の中で光秀は恥をかかされ、怒りを顔に現した。すると、信長は言った。
「誤りを反省しないのか。誰か、光秀の頭を打て。」
周りの者たちは顔を見合わせるだけで、ためらっていると、 一人の小姓が立ち、光秀のそばに寄り、
「ご上意でござる。」
と言って鉄扇で打った。森蘭丸であった。光秀の鳥帽子は破れ、額に血が流れた。光秀は屈序に耐えながら信長の前を退いた。
光秀が信長を討ったのは、それから約半力月のことであった。『絵本太閣記』 
光秀、愛宕山で連歌を興行する事
天正十年五月二十八日、光秀は西坊威徳院で百韻の連歌を挙行した。
ときは今あめが下しる五月かな 光秀
水上まさる庭のなつ山 西坊
花おつる流れの末をせきとめて 紹巴
光秀の本姓は"土岐″である。光秀は″とき(時)"に通わせて、天下を取る決意を発句の中に含めたのである。
後日秀吉が光秀を討った後、秀吉は大いに怒って連歌師の紹巳を呼んで尋ねた。
「天が下知る″時″というのは天下を奪う心の表れだ。そなたは知っておったのであろう。」
と。紹巳は弁解した。
「この発句は、天が下なる、でありました。」
秀吉は追及した。
「それならば、その懐紙を見せよ。」
ということで。愛宕山から懐紙が取り寄せられた。そこには、
天が下しる
とあった。紹巴は落涙しながら言った。
「ご覧下さい、懐紙が削られています。″天が下しる″と書き換えられた跡がはっきりしています。」
たしかに書き換えた痕があると秀吉は紹巴を許した。
さて問題の懐紙は、連歌の当日、書き付け役の江村鶴松が"天が下しる"と書き留めたが、光秀が討たれたあと、紹巴がひそかに西坊と心を合わせ、″しる″の部分を一度削って、また、その上に初めのように"しる"と書いたのであった。『常山紀談』 
すでに"駟も及ばず"
明智光秀が主君の織田信長を殺害しようと考えてから、すでに久しかった。天正十年六月一日の夜、光秀は明智秀満を寝所に呼び入れ、周囲の者たちを退けたあと、秀満に言った。
「一大事を申したい。蚊帳の中に入ってくれ。」
秀満が頭を蚊帳の中に差し入れて、
「何ごとでございますか。」
と尋ねた。光秀は、
「そのほうの首をもらえないか。」
と言った。秀満は、
「私一人だけですか。」
と聞いた。すると、光秀は言った。
「すでに三人の命はもらってある。しかし、まだ足りないので、そのほうに頼んだ。」
三人とは、重臣の明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利三のことである。これに応えて秀満が、
「お安いことでございます。 一大事の成就することを願っています。」
と言ったので、光秀は、
「どうして一大事の内容を知ったのか。」
と問うた。秀満は、
「事新しく申されなくても、日頃の恨みと思い合わせて知ることができました。」
光秀は、
「今、信長を討とうと思う。そのほうを深く頼みとしている。誰よりも先に、まず、そのほうに語ろうと思ったが、謙めるだろうと考えた。しかし、そのほうと力を合わせなければ、志が遂げられない。もし、従わない場合は、そのほうを斬ろうと思っていた。」
光秀は、秀満に盃を差し出した。秀満は、
「確かに、私一人にだけ語られたのであれば、謙め申し上げたことでしょう。しかし、すでに他にも語られた以上、"駟も及ばず"と申します。事が漏れて、臍を噛むことにでもなれば益がありません。 一刻も早く、打ち立たれるべきです。」
と言ったので、光秀は夜半に、にわかに軍兵を押し出し、明けて二日の曙に京都の本能寺に宿泊中の信長を攻めた。光秀に襲撃された本能寺では、信長の小姓衆の森蘭丸長定が、
「物騒しいが、何ごとか。」
と言って白い帷子の上に浅黄鹿子の小袖を羽織って出て見た。壁の外に水色の旗が見えた。光秀軍の先鋒の箕浦大蔵、古川九兵衛、天野源右衛門らが本能寺の大庭に乱れ入って来た。信長は白き一重物を着て、弓を持って射ったが、弦が切れた。地臙脂の帷子を着た二十七、八歳ばかりの女房が十文字の槍を持って来たので、信長は、それを受け取り、しばらく防戦に努めたが、やがて部屋に入り、障子を引き立てた。が、燭台の残光が信長の影を障子に揺曳させた。そこへ天野源右衛門が槍を突き出して刺し通した。十八歳の蘭丸は弟の十七歳の坊丸、十六歳の力丸の二人が斬って出て討ち死にしたので、内部から火を掛けた。このため、本能寺は灰燼となった。『常山紀談』 
本能寺攻め
天正十年六月朔日の夜、光秀は亀山城において秀満及び明智治右衛門光忠・藤田伝五行政・斎藤内蔵助利三・溝尾庄兵衛茂朝の五人を呼び、
「そなた達の命わしに貰いたい。もしそれが無理というのであればわしは首を切って死ぬしかない。」
と言った。五人は目と目を見合わせて息を詰ていたが、そこから秀満が進み出て、
「我等の命など殿の御意のままでありまする。」
と答えたらば、それを聞いた光秀は心中を皆に吐露し、今宵京都へ押寄せて信長公御父子を討とうと思っていると言った。利三は、
「時期が悪く思えますので御止めに成られたほうが良いのではないでしょうか。」
と諌めた時、秀満は
「一旦口から出してしまった言葉は駟も及ばずと申すではないか。われら五人が他言することはないであろうが、天知る地知るといい、いつか必ず露見してしまう。今ならすぐ京都に攻め込めば、大事の成就成るであろう。」
と言った。光秀は直ぐに軍を率いて、西国へ向けての出陣を信長公へ御目に掛けるため言って亀山を亥の刻に出発し、翌二日本能寺を囲んで遂に信長を殺害を成し遂げた。秀満が本能寺の焼跡から信長の屍を捜索していた所に並河金右衛門が信長の首と白綾衣袖を獲てやってきた。秀満はこれらを匿させた。金右衛門は、
「左馬助殿はそれがしの功を隠されようとなさるのか。」
と怒った。秀満が金右衛門を諭して言うのに、
「前右府殿はかつて甲斐征伐において勝頼公の首を罵詈されたが、今になって人人々はこれを誹誇している。もし今殿に前右府殿の首を御見せすれば恨み骨髄に達しているゆえ、必ず陵辱されるであろう。そうなると殿の汚名が末代まで残ってしまう事は必定だ。天命とは実に畏るべきものである。そなたの功はわしが後日必ず証を立ててやるゆえ今は黙ってわしの言う事を聞いてもらいたい。」
と涙を流しながら頼み込んだ。金右衛門もその志に感じて秀満に托す事を了承した。秀満は僧西誉に命じて遺骸を葬いさせた。光秀は信長の屍がなかなか見つからないので斎藤利三を遣わして秀満に伝えさせて言うには
「その方は先陣となっておるのに未だ前右府殿の生死の明証を得ていないとはどういう事だ。若し生き延びて逃げられていたならば既に我等は為す術が無くなってしまう。」
と。これを聞いて秀満は真実を利三に告げた。利三も感じいって、焼け焦げた自綾の衣を取って信長の死の証とした。光秀は二条城を取巻き城介信忠を攻めてた。しかし城の防備は頑強で中々落ちないためまた使をやって秀満に本能寺を捨て二条攻めの加勢をせよ命じた。秀満はその使に向って眼を怒らして大声をあげ、
「信長公を討ち取った今、天下は悉く皆敵である。近国より今にも援軍がやってきたならこの左馬助が持受けて防ごうと思っているため臨戦態勢のまま兵にも休みを取らせずに備えているのである。それなのに二条城がなかなか落ちないので加勢せよとは殿の仰せとも思えない。全軍総掛かりで城攻を行って、若し近国より大軍が押寄せて来たらば誰かその敵を防ぐと言われるのか。全く思いも寄らない事だ。」
と返答してその使を追い返した。誠に左馬助は勇才の大将だと誉めない者は無かった。『名将言行録』『武辺咄聞書』 
明智光秀の馬上の尻餅
その後本能寺で明智日向守の軍勢が本堂へ押し寄せた時、本堂は既に古くなっていた為に根太が落ちてしまった。信長方の長柄鎗など数十本が本堂の天井に掛けられていたが、先の振動ですべて落ちてしまった。それが先を塞いだので取り囲んでいた大勢がこれを取り除けたりしている間に四方田何某と言うものが脇の入口より鑓を掲げて押し込んだ。そうしたところ、蘭丸が左手に刀を提げながら白小袖に髪を修禅寺の平元緒で茶埜髪に結った姿で駆け出て来て
「何者だ」
と詈ってきたのを先の四方田は鎗で突伏た。蘭丸の跡より信長殿が白小袖の寝間着のままで刀を取って出て来られて
「何者だ」
と言われたところ蘭丸が
「惟任殿が謀叛のようです」
と答えれば、信長殿はそのまま奥へ入られてていくのを他の一人が追いかけて
「敵を前に後ろを見せるとはきたなし」
と言葉をかけると信長殿は振り返って睨み返した。そこを先の者が矢を放ったところ素肌を射抜いたが、構わずそのまま奥へ入られて自害されたようである。その後はそのまま火の手が上がって焼け落ちてしまった。四方田何某蘭丸の首を取って惟任に見せた際、目が眩んでじっと見れず、ひたと見てその後
「蘭丸ではないか」
と馬上で喜び、尻餅をついたそうである。四方田は後に越前殿に召し抱えられた丹波の士との事である。四方田を『よもだ』と読むのは間違いである。『しほうでん』と読むべきところを『しをうでん』と読み誤ったものである。今越前に子孫がいて、四王天と書くのが正しい。先の一件は松永貞徳の書、『戴恩記』という書物に有る。実話と思える話である。本堂に鎗が掛っていて大勢が一斉に突入した際に落ちてきた事や、又蘭丸が修禅寺紙の平元結をしていたなど事実だったらしい事である。大体事実はこのような事であったと知られている。明智が目が眩んだことは天罰とはいえうろたえた事が原因である。天とは即ち天罰だと思っています。喜び易く怒り易いのは小人物であって、こういう人物が志を得たといって事を成就させようとするのはどんなものであろうか、肝が小さくて志が大きいというのは恥であろう。『鳩巣小説』 
光秀の謀叛と安田作兵衛功名の事
信長は光秀に備中高松城を攻める秀吉の援軍を命じた。戦支度をした明智軍が大江坂に至ったとき、使い番を送り馬の轡を外して足軽の草履を履き変えさせた。これは戦闘準備なので皆いぶかしがっていたところに桂川を渡ってところで
「私は年来信長公に怨みがあった。今から本能寺に赴いてこれを攻めよ」
と下知したので兵は皆顔色を失って騒然とした。夜も明ける頃には本能寺を十重二十重に囲んで門を開き塀を乗り越え乱れ入った。信長は白綾の単衣を着て弓を持って矢を挟んで
「ここに攻め寄せたのは明智が者か!貴様ら即刻ここから去れ!!無道に組して不義を弁えない奴原は射殺してくれるわ!!!」
と大声で怒り罵ったので寄せ手はその勢いに辟易して寺内に乱入した者共も塀の外に逃げ出した。その中で安田作兵衛一人が名乗りを上げて槍を構えて信長に進み寄った。信長は手にした矢を番えて安田めがけて撃ち放ったところ矢は安田の左肘に刺さった。しかし浅手だったのでものともせず信長を一刺しようとすれば信長は障子を叩き落として寺の中に入っていった。安田は後を追いかけ障子越しに信長を刺した。手応えがあり槍先が動いたため命中したと思い、障子を開けて止めを刺そうとしたがそこに信長の寵童森蘭丸が十文字槍を引提げて走り寄ってきて安田を縁先の溝に突き落とした。蘭丸は縁上から拝み突いたところ安田の内股の間に突き刺ささり陽根の半ばを突き切った。安田は槍をしっかりと握り上から引き上げる勢いで溝から抜け出れた。そして佩刀を抜き、蘭丸を切った。これを機に四方から攻め立てれば内から火が放たれたちまちのうちに灰燼と帰した。
安田は後に天野源右衛門と名を変え寺沢広高に仕えた。秀吉が肥前八万石に広高を封じた際に天野に八千石を与えた。天野は以前から広高と親交を結んでいた。常日頃から
「今この世は乱世である。もしどちらかが槍働きによって一国一城の主になれば互いに相手を十分の一をもって家老としよう。」
と固く誓っていたのでその約定を守るため天野を探し出して約定どうりに履行した。『武将感状記』 
施薬院全宗の事
徳運軒(施薬院)全宗は秀吉に従って中国征討の陣に居た。本能寺の報を聞いた時、秀吉は全宗に暇を与えて京に帰らせた。全宗は、
「是非それがしも一緒に上京させてくだされ。」
と乞うた。秀吉は、
「いやいやそなたの為でもあるから是非に上京されたし。道中の用心のためにこれを与えよう。」
といって鎗一本を与えた上、
「さてもそなたは幸せな者であるな。この後天下を取る者は、わしか明智であろう。その双方に挨拶をしておけばそなたの家の為めには良い事であろう。」
と言われた。そして
「さて、ついては明智に伝言してもらいたい。『今まで幾度も合戦をしたが、大将同士で直に太刀打をしたことはない。しかし此度は主君の敵であるので、二、三日の内に上京するゆえ直の太刀打で勝負を決しようぞ。』とな。」
さて光秀が下鳥羽に陣を構えていた所へ全宗が赴き、秀吉の伝言を伝えた。光秀は、
「そなたは幸せな者であるな。天下はわしか筑前が取るであろう。そなたはどちらにも挨拶しており良きかな。」
と言った。秀吉の言ったのと同じ事であった。全宗は暇を告げた。光秀はいや、ちょっと待たれよ、盃を交そうぞ、と言って盃を交して
「洛中は騒がしいので用心のために鎗を一本贈くろう。」
と。是も秀吉と同じであった。『名将言行録』 
京の仕置の事
光秀は謀反の事を数名の老臣の外には知らせておらず、兵達は皆西国立つものだ思っていた。亀山から樫原まで出て西国の方へ行くのかと思ったが、左では無くて京の方へ行った。兵達は皆怪しんだ。桂川を渡って、初めて陣触をした。機事が洩れ易いことを思ってのことである。既に信長を弑した後、三宅式部大輔秀朝を京都の守護職に任命して京中の地子銭を免じて仕置をした。光秀が亡くなった後、京の民達は七月の盆中に戸毎に燈を点じて、光秀の冥福を祈ったと言う事だ。非義の者が行った義といえども諸人の心を得る事はこの様であった。『名将言行録』 
明智光秀、京中の屋地子を免ず
日向守は槿花一日の栄を思って、床机に座って洛中の礼を受け、京中の屋地子を免除していうには、
「信長は殷の紂王であった。」
と言えば京童が思うのに
「これは御自分を武王に比しての言葉、片腹痛い事だ」
とは思ったが、地子を免ずるとの嬉しさに万歳と祝いて祝辞を述べた。そして今に至るまで京中の屋地子が無いのは、明智日向守の恩である。
※槿花一日の栄:槿花とはムクゲの花。朝開いて、夕方にしぼむので、はかない栄華にたとえる。
また白居易「放言」の「松樹千年終是朽、槿花一日自為レ栄」から、この世の栄華のはかないことのたとえ。『豊内記』 
明智光秀、包葉のまま粽を喰う
塩瀬三右術門という観頭屋が明智家の御用を仰せつかったので光秀より一町を賜ったため、この町を俗に呼んで鰻頭屋町と今も言う。さて光秀がそれぞれを召出し、 各人に対面してそれぞれに言葉をかけた。皆が傍に居る時に名高い道喜綜を三右衛門が献じた。綜はよし綜も菰粽も、大概は包んでいる葉が青々としているのが良いとされる。道喜粽は京都の名物である。光秀は日頃好物のため直ぐに食べようとした時、遥かに閧の声が聞こえた。何やら味方が敗北したのかと心中はその事のみに奪われ、粽の包葉も解かないで食べた。そのため陣中見舞で傍に居た者達は、これを見て
「光秀さまも心遅れしてこんな風になった」
とか
「将軍になると粽は葉を解かずに食べるものだ」
とか様々に言い合った。このことは後年になって、
「明智に似合ず名将とも思えないうろたえた振舞だ」
と、謗る者が居る。しかし実際は全くそうではない。名将と言うのは軍の事のみを心にかけて寝食を忘れるものである。どうして食事にのみ迷うことがあろうか。心がそこに無ければ見ていても見えていないと同様であり、食べていてもその味がわからないものだと。軍にのみ意を尽くしている為、葉とともに食べたというのは却って名将の行いと言うべきである。『大閤真顕記』 
明智光秀の出陣に献進の干し飯
日向守光秀は、
「明日は西国へ出陣なので京町中の者は御礼にあがるべし、東寺の四ツ塚にて引見する」
と言うので、町衆はわかりましたと、思い思いの進物をした。ある者は饅頭、粽、餅の類、あるいは樽肴、菓子などを進上するものもあった。又一方には、
「いやいやそのような物は世が平穏になってからそれぞれ上下の秩序が整った後に御館で進上するものであって陣中で進上するものではない。既に甲冑を着て旗指物を並べ騎馬武者がを左右に駆け廻って黒々と土煙を立てて、しかも鳥羽の野原で受けられる礼であればただ干し飯などこそが相応しいものだ」
と干し飯を積み上げて持ってくるものも多くいた。暫くして日向守が四ツ塚に床几をたてさせて現れて、この進上を見て、
「干し飯を持ってきたとは、心得たものも居るものだ」
と殊の外よろこばれた。その後に言われたのは、
「洛中の礼を受けたので、何か礼をしなくてはなるまい」
と言って、今後町中の地子役を免除すると言われた。皆ありがたいことだと喜び勇んで帰ったとのことだ。『義残後覧』 
明智光秀、謀坂より最後まで
明智が謀反の時、家老には知らせたが諸兵には知らせずにいたので皆、西国に向けての出発だと思っていた。亀山から樫木原まで出てそこから西国の方へ行くと思っていたら、京の方へ向かえと言う。そのためみんな不審に思った。桂川を渡って初めて触を行った。未明に信長の寝所の本能寺(今の茶屋がある場所:西洞院三条二町下る)に押し寄せて、信長は自害して建物に火をかけた。京中には何が起ったか全く知らなかった。焼けた本能寺は別の場所に再建された。この寺は四方にかきあけの堀があって、土居を築き木戸が有ってその構の内にあった。土居に上りて見た者は、
「明智殿の謀反のようだ」
と推量して言う者もあった。紹巴は事の真偽を知っていたが、
「そんなことがあるわけない」
と軽々しい流言を制した。昌叱は思い当たる事が有ると言う。さて木能寺に火をかけてから城介殿(信忠)のいる妙覚寺へ押し寄せる。そのあたりには京の町家も所々にしかなくほとんど障ることが無かったので、土居の上からはっきりと水色の旗が妙覚寺の方へ来るが見えた。そのため
「さては明智殿が御謀反だ」
と皆が知った。妙覚寺は今の室町薬師町にあった。しかしながら構が無けれ防ぐ事が出来ないと、南都の陽光院般(誠仁親王)の居られる小池の御所(二条御所)を借りて、城介殿は移られた。陽光院殿は禁中へ避難されることになった。鳥丸の方の門より出て来られたが、肩興も無かったので人の背に負うて行かれた。又公家の正親町殿は、陽光院殿を見舞に伺ったが、室町の方の門より入った。しかし陽光院殿は既に退去された後であった。しかし敵が直ぐに攻めてきたので、出る事も出来ず中に篭られた。よくその時の様子を見ていて、後に語られたが、篭城した諸士は皆大庭に並んでいた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのでそれを諸士に与へられたが、その時に顔色が変わって萎れたのは皆それまでに功が有った歴戦の者であった。意気揚々たるは皆新参であった。顔色変えた者は討死した。意気揚々の者どもは皆狭間を潜って逃れたということだ。さて正親町殿は室町の方に幾つか町屋のあるところに楽人の家があったので、壁を乗越えて楽人の家に入り、装束を著し鳥幅子をかぶって出たので公家であると許されて通されたために逃げることができたということだ。妙覚寺は既に破れて、明智より紹巴へ使があった。町人に少しも騒がぬ様に言われよ、ということであった。さて安土を接収しようとしてその日の午前より東行する。その際勢田の橋を山岡という者が焼落していたため、その日は勢田に逗留して橋を掛けさせ、明日安上に往き安土を接収し、婿の左馬助を人数三千程添えて安士に残し、明智自身は七日に安土より帰った。安土にいた信長方の者達は、蒲生に一夜の内に男女ともに引取上げて城内に置いたということだ。さて明智が安土より帰る時、大和の国主筒井順慶が味方するかどうか怪しく思ったので、近江より直に大和路へ馬を向け順慶と和議に及び、六ケ国を順慶に与え、光秀の子を養子にする約束で出陣に同意した。この時明智より紹巴へ、
「大和は既に和議と成った。洞ケ峠迄引き返した。」
という書状が来たということだ。明智は大和路より引き返し、下鳥羽に陣をとった。その時の薬院(全宗)は太閣の見舞に行って西国に居たのであるが、帰洛して下鳥羽の明智の陣所ヘ立寄って、
「筑前守はすでにこの事を聞いておりまもなく上洛する。もう直の事だ」
と言えば、明智はあわててその夜雨がしきりに降っていたのに桂川を無理に渡ったので、鉄砲玉薬も濡れて用にたたなくなったということだ。そうしている所に既に太閤の先陣池田勝入、高山右近、中川瀬兵衛ら三軍、山崎宝寺の辺まで押し来て明智の兵を散々に打破る。明智軍はそれに耐えることができずに、青竜寺の城にたて龍った。そこで秀吉軍が取巻き攻めればその夜忍び抜けて東行したが、山科越の際に百姓に殻さた。そのことは暫く誰にも知られず、何日か経って死んだ事が明らかになった、太閤は明智敗北の後に上られた。順慶は日和見したけれども最後には太閤に帰服した。『老人雑話』 
明智光秀の末路
明智光秀は軍が敗れたのを見て、青竜寺の城へ駆け込んだ。この時(脱出の時)までに城は囲まれて隙は無かったが、どうしたものであろうか、側近の従者のみ五六人を従えて城を紛れ出て坂本城へと落ちていった。通常の街道筋は既に手配が廻っているであろうと道を変えて伏見の北の方の大亀谷に掛った。山中で邪魔になる鎧などを脱ぎ捨てて勧修寺を過ぎて小栗栖を通っている時に、野伏達の声がした。
「こんな夜更けに馬の音がするは、落人がやって来たに違いない。さぁ分捕ってやろうぞ!」
という声も有り、
「わしらには関係ないじゃないか。放っておこう」
という声も有った。水無月十三日、月は高く登っていたが大変曇っていたので十三夜にしてはとても暗かった。里の中の細道を出で行く時、垣越しに突き出された鑓が明智光秀の脇に当たった。しかしながら何でもない様子でそのまま駆けて通り過ぎ、三町先まで行き里の外れで馬より転び落ちた。随っていた者は立ち戻り、
「これはどうなされたのです」
と言っていると、里の中の野伏の声で、
「突き出した鑓は当たったぞ。」
それを聞いて光秀が言うには、
「野伏が追ってくると思って、何でもない振りをしてここまで来た。今はもうこれ以上行く事は出来ないようだ。首を切って顔を見つからぬように深く隠してくれ。」
といって息絶えてしまった。慌てふためくがどうしようもなかった。遺言に任せて首を切って乗っていた馬の鞍覆で包んで道から一町ばかり傍の藪の茂っている溝に隠して、死骸は人が見てもわからないだろうと道の少し脇に隠して、従っていた者達はそこから思い思いに落ちていった。『豊鑑』 
明智左馬助の湖水渡り
光秀は信長を殺害した後、安土城を取り秀満に守らせて山崎に向って秀吉と戦おうとした。秀満は、
「私に金庫番をしておけと言うのか」
と呟きながら安土を守っていたが、山崎での光秀の敗北を聞いた秀満は光秀を救援するため、京都をめざして進軍した。しかし途中で光秀の討たれたことを聞いたため、坂本城に向かうことにした。秀満が行き先を変えて粟津から北方の大津に向かっていた時、秀吉軍の先陣の堀秀政の軍勢と遭遇した。秀満の手勢は少なかったのでたちまち打ち破られ道を敵に塞がれた。秀満は仕方なく近くの琵琶湖に馬を乗り入れて坂本に向かうことにした。これを見て、堀秀政の軍勢は汀に並び、
「そのうちに溺れるであろう。見物しよう」
と笑い合った。秀満は、白い練り絹に雲竜を染めた羽織を着込んでいたが、この絵は狩野永徳の描いたものであった。また兜は二ノ谷と名付けられたもので馬は大鹿毛であった。秀満は以前に長く大津にいたことがあるので、坂本近くの唐崎までの遠浅の状況をよく知っており、たやすく唐崎の浜までたどり着くことができた。唐崎に到着した秀満は松の下で馬を休ませ飼い葉を与えたあと坂本に向かい、途中十王堂という社で馬から降り手綱を堂につなぎ失立を取り出し、
「明智左馬助に湖水を渡した馬なり」
と札を書き馬の鬣に結び付けて坂本城に入った。坂本城で秀満は妻子を天守に入れ、安土城から奪い取って来た不動国行、二字国俊という名刀、薬研藤四郎の小脇差、楢柴の肩衝、乙御前の釜という名物の茶器を肩衣に包み天守から投げ下ろした。このあと、秀満は女や童子たちを刺し殺し城に火を掛けて自刃した。自刃する直前に秀満はニノ谷の兜と狩野永徳の描いた雲竜の羽織に黄金百両を添えて使者に坂本の西教寺まで届けさせた。のちに、この兜は豊巨秀吉の家巨山中山城守長俊の孫の作右衛門長俊という者が所望して所有物としたが、他日、紀伊の宇佐美造酒助孝定という者の手に移った。また羽織の行方はわからなかったが、琵琶湖を渡った大鹿毛の馬は無双の駿馬として、秀吉が柴田勝家と賎ケ岳で戦った時に曙と名付けて、美濃の大垣より二十里余りの悪路を走駆したという。後三年の役の際、軍破れ金沢の城が落ちる時に清原家衡が秘蔵の馬が敵の手に渡るのを妬ましく思って自分でこの馬を射殺した事に比べれば雲泥の差の行為であると、世間では話しあわれた。『常山紀談』『名将言行録』 
秀満、黄金を入江に与える
光秀は山崎の合戦において既に敗れてしまっていたが、明智秀満は坂本の城に戻って来てなおこれを守っていた。秀吉は将として堀秀政に命じて一気に城を攻囲させた。篭城兵は恐れをなし逃げ散ってしまい落城は時間の問題に思われたので明朝を以って総攻撃と定められた。入江長兵衛という者が一番乗りしようとして暁方から城壁の下で夜が明けるのを今や遅しと待っていた。秀満は櫓に登って狭間の板を細目に開けて見下ろして見ると城壁の下に人影が見える。敵か味方かといぶかしんでいたが、入江だと解った。入江とは日頃から見知った仲で親しくしていた。
「そこに居られるのは入江殿とお見受けするが。この城は今日中には落城するであろうから私の命も今日限りだ。最後の遺言として貴殿に詞を差し上げたいと存ずる。」
入江は櫓の上を見上げて
「そうおっしゃるのは明智殿か。何でしょうか。」
と言った。秀満は
「私が鉄砲で貴殿を撃つ事はたやすい事だが、貴殿の勇気に感じ入ったためそれはしない。私は若い頃から戦場に赴く度に人一倍の功をあげて武名をあげようと励んだが、それも我が身に変えて子孫の繁栄を望めばこそ。しかし今日私の運命もここに定まってしまう。生きているうちにいくら危険を冒し艱難に耐えてきたことも終にその為すところも無く無に帰してしまう。貴殿もいずれ同じようになってしまうであろう。それよりは武士を止め安全なところに身を置いて危険から遠ざかられよ。貴殿に黄金を与えよう。これで何か他の事を始めよ。」
と言って黄金三百両の入った皮袋を投げ与えた。当時の三百両は今で言うと三千両にも勝る価値があった。入江は秀満の言葉をそのとうりだと思い、攻囲戦が終わった後武士を止めて京に家を建てて利を増やして富家となって歓楽を極めた。しかし、武士としての本意ではなかった。
また羽柴勢は坂本において一戦あるであろうと思っていた。特に秀満の大津での働は見ものであった。最後の一戦はさぞ花々しいものであろうと思っていたが、案に相違して矢一つも射ないで、このような成り行きになったので秀吉も
「流石に古今稀な侍であるな。少し感動して言葉も無いわ。まして珍器名物を引き渡した事は松永久秀が志貴山減亡の日に秘蔵の平蜘の釜を砕いた事とは天地の違いがある。心根の潔さ、天晴な惜しき侍であるな。三宅弥平治といった浪人時代から一城の主として明智左馬助という今日まで、数々の軍功は数える遑もない。先の大津の戦の際に湖水を渡ったその武辺は誰か是に肩を並べる者があろうか。日向守が逆心を抱いたことは忌むべき事だ。しかしこの者共は日向守の恩に報るためにこの様になってしまった。戦もせず、静かにその最後を迎えた事はなんと優しいことだ。日向守が侍を養ったような心を織田殿が持っていたらば日向守の様な者も出なかったであろう。また左馬助のような心を日向守が持っていたならばどうして織田殿を弑殺しようなどと思ったであろうか。お互いになんとも残念な事であった。」
と言ったので、諸将皆感歎した。『武将感状記』『名将言行録』 
斎藤内蔵介と光秀の鳩首
明智日向守の首が晒されていたのを何者かが盗んだ。その詮議が厳しく行われている時に江野伊満という浪人が『わたしが確かに見届けました。日向守の老臣だった斎藤内蔵介のやった事です』と訴えた。そこで直ぐに内蔵介を召しだされて尋ねて言うと、内蔵介は威儀を正して以ての外という気色になり、
「さて斯様な事を筑前守殿がおっしゃるとはらしくない事でありますな。亡君が本意を達せずにこの様に成り果ててしまったその結果であれば、幾年でも晒しておき、諸士の手本にすべきものであるのに、それがしが盗んで隠したところで何の益があるとおっしゃるのでしょうか」
と言ったので、筑前守殿も『なるほどその通りだな』と思われて、この上はこれしかないと内蔵介と伊満とに天神の前で鉄火を握らせたところ、伊満は忽ち焼きただれたのに対し内蔵介には何の変わったころも無かったので、結局この件は無罪となったということだ。『犬著聞集』 
明智三羽烏とその後
「本能寺の変」において織田信長に一番槍をつけたのは安田作兵衛だが、ともかく明智家中で最も功を立てたのは安田作兵衛、古川九兵衛、箕浦大蔵丞の三人である。数年後、天野源右衛門と改名して立花左近将監宗茂に奉公して京都の旅宿にいた安田を、紀伊の浅野幸長に召し出された古川が訪ねて来た。そこへ偶然同じ浅野家臣の箕浦もやって来た。本能寺以来、ひさびさの対面ということで安田がもてなし古話に花が咲いた。そのうち話は「変」での働きぶりに及び、誰が一番よくやったかと我が俺がの争論になってきて、古川・箕浦が口論し始め安田が仲裁しても収まりそうもなかった。その時、突然外が騒がしくなった。三人が二階から見ると、血刀をさげた男が逃げて来るのを二、三十人が追い掛けているのが見えた。「捕まえてやる」と、まず安田が二階から下りた。続いて古川。古い槍傷で少し足の不自由な箕浦は遅れた。ところが古川は今し方まで箕浦と昔の手柄争いで熱くなっていたので、自分が下りると段梯子を取り外してしまった。箕浦が飛び降りようかどうしようかと躊躇っていると、血刀をさげた男は逃げ場を失い屋根へ上がって三階の廂の所を走って来た。待っていましたとばかり箕浦は組んて倒しその首を切り取った。そこへ駆け上がって来た古川にその首を示し、
「このとおり、手柄を立てるのは常に拙者が先だ。本能寺の夜討ちの時もいうまでもない」
と箕浦は誇らしげに言った。武名にかけるこの執念、まさに戦国武士の意地であろう。なお、安田はその後、頬に腫れ物ができていくら治療しても治らず、琴の糸で締めてちぎってもまた肉腫が生しちぎること三度、四度目には自害して果てた。「信長のような英雄を殺した報いだろう」と世間では取り沙汰したという。『翁草』 
 
斎藤道三 1

 

戦国時代の武将。美濃の戦国大名。斎藤氏初代当主。名としては、法蓮房・松波庄五郎(庄九郎)・西村正利(勘九郎)・長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、良質な史料に現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。父は長井新左衛門尉(豊後守)。子に義龍、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利は弟とも、道三が若い頃の子であるともされる。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(織田信長正室)など。北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。
近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉との父子2代にわたるものではないかという説が有力となっている。 
史料に見る道三の来歴
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
1.斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
2.新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
3.新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
4.義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
5.道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。
同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものである可能性が非常に高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見える。 
前半生
明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていた。行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、日運の縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。
この頃、政頼は死去している可能性が高く、その子土岐頼純が反撃の機会を窺っていた。天文4年(1535年)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がった。
天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
これらの所伝には、父新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。同年11月26日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署であり、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。しかし、この文書の後にほどなく景弘は死んだと考えられる。翌、天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)では道三の単独による署名(つまり長井宗家を継承)があるためである。それ以降、景弘の名がどの文献からも見あたらないことから道三が景弘を殺害(もしくは急死)したと推定される。道三が殺害したどうかはともかく、道三は長井宗家の名跡を手に入れていれたとされる。 
美濃国盗り
天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。
しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去したとされる)と連携を結ぶと、両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を背景として、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城に復帰した。天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。一方、頼純も同年11月に病死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市(旧尾西市)冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」と述べたと『信長公記』にある。
この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。 
晩年・最期
天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。しかし道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。
国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。享年63。
戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡した。道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、鼻も削がれたという。
道三の墓所は、岐阜県岐阜市の常在寺に営まれているほか、同市の道三塚も道三墓所と伝えられている。常在寺には道三の肖像や「斎藤山城」印などが所蔵されている。後に江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。
現代に至ると、岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972年)から岐阜市にて毎年4月上旬に道三まつりが開催されている。なお、岐阜城内に展示されている道三の画像には、信長室寄進の文字が確認される。 
 
斎藤家と斎藤道三 2

 

「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の「梟雄(悪逆非道な英雄)」として知られる「斎藤道三」。
彼はまさに、戦国時代における「下克上(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)」の代名詞と言える人物です。
一介の油商人から、一国一城の主にまで登りつめた斉藤道三は、まさに戦国時代の象徴の1つであるとも言えるでしょう。
若い頃、彼がどこで何をしていたのかはイマイチはっきりしていません。
彼は元々、京都にある「妙覚寺」というお寺で修行していた僧だったと言われていますが、僧侶だったのは彼の父であると言う説もあります。
いずれにせよ、彼はその後京都から「美濃(現在の岐阜県)」に渡り、量り売りの油商人となっています。
彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたらそれをタダにするという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者になりました。
その後、僧侶時代のツテもあって美濃の有力者の1人「長井家」に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸」に仕える事になります。
当時、美濃は「土岐家」という大名が支配しており、「土岐頼芸」はその一族の1人でした。
元々彼(道三)は何をやっても器用な人だったらしく、しかも頭が切れ、仕事も遊びも達者で人間的な魅力に溢れていたといいます。
すぐに彼は土岐頼芸の一番のお気に入りの家臣となり、頼芸の側室を与えられて妻とするぐらい信頼される事となります。
しかし、彼の主人の「土岐頼芸」は、実は美濃の大名であった「土岐政頼」とは不仲でした。
そこで彼は頼芸を言葉巧みに誘導し、そして1527年、頼芸と共にクーデターを実行します!
土岐政頼の城を夜襲で一気に襲い、大名だった政頼を追放!
こうして土岐頼芸は美濃の大名となり、若い頃の斎藤道三も土岐家の一番の家臣となります。
ですが、こうした彼のやり方と急激な台頭について、他の家臣たちの多くがあまりよく思っておらず、彼を土岐頼芸に紹介した長井氏も、彼の専横を疎ましく思うようになります。
そこで彼はかつての恩人である長井氏を殺害、そして長井家を乗っ取り、「長井(新九郎)規秀」と名乗って長井家の城「稲葉山城」を居城とします。
さらに敵対勢力を、ある時は非道な謀略で、またある時は巧みな和解交渉で交わしつつ、一方で「稲葉一徹」や「安藤守就」といった有力な豪族(地元の権力者)を味方に引き入れ、力を蓄えます。
そして、元々美濃の守護職(美濃を統治する役職)にあった「斎藤家」の家を継いで「斎藤氏」となり、ついに1538年、クーデターを実行して自分の主人である土岐頼芸の城を襲い、頼芸をも追放!
こうして、彼は美濃の国を奪取し、ここに一国一城の戦国大名にのし上がることになります。
美濃の国を得た斉藤道三は、街道の整備や「楽市楽座」(税金なしでどこでも自由に露店が開けるようにする法令。それまでは商売をするのに場所代を払わないといけなかった)などを実行、これらにより美濃の城下町は商業的に大きく発展していくことになります。
「楽市楽座」はその後、全国的に広まっていく事になりますが、これは街頭で油を売っていた道三らしい法令と言えますね。
「信長の野望Online」の斉藤家は、ちょうどこの頃がスタートの状態となっています。
しかし、斎藤家と斎藤道三の運命は、ここから大きく傾いていく事になります・・・
追い出されたかつての美濃の大名「土岐家」は、美濃を取り戻そうと尾張の織田家に協力を要請、その後押しを受けて斉藤家にたびたび攻撃を仕かけて来ました。
そこで道三は、織田家と縁組をして同盟を結ぶ事を考え、娘を織田家に嫁がせる事にします。
その嫁いだ相手が、尾張の風雲児「織田信長」でした。
1553年、斎藤道三は「正徳寺」というお寺で織田信長と会見。
道中、トンでもない格好でやってきた信長は会見の席では一転して正装して現れます。
さらに尊大な態度で受け答えする信長の姿に道三は大いに感服し、「我が子らは皆、あの男の配下となることだろう」と語る事になります。
しかしこれが、後のわざわいの火種となります。
斎藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元土岐頼芸の側室の妻の生んだ長男、「斎藤義龍」に家督を譲ります。
義龍はその側室が道三に嫁いですぐに生まれたので、道三の子ではなく、土岐頼芸の子だという噂がありました。
そのため道三はこれを利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが・・・
しかし、義龍は道三とは似ても似つかぬ巨漢で、しかも大人しい性格であり、部屋で本ばかり読んでいるような人で、道三とは正反対の人でした。
そのためか道三は「あんな軟弱者に国はまかせられん」と考え、一度は義龍に家督を譲りましたが、後にそれを撤回、他の兄弟に国を継がせようとします。
しかしそれが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでする事になり、そして義龍自身も、自分が道三によって廃されようとしているのを悟ります。
加えて、道三が信長と会見した時に「我が子らは皆、あの男(信長)の配下となることだろう」と語ったことも広まってしまい、ますます義龍は危機感を感じる事となります。
道三がこれまで、非道な裏切りと謀略を繰り返して今の地位を得たと言う事実も、義龍の不安を募らせたかもしれません。
こうして・・・1556年、斉藤義龍は土岐家に恩のあった家臣達や権力者達の支持を受け、道三に対してクーデターを実行!
他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、そのまま父、斎藤道三を襲います!
斎藤道三もすぐに軍勢を集めますが、家臣の多くは義龍の側につき、もはや戦える状態ではありませんでした。
道三は信長への「美濃一国譲り状(美濃の国を譲り渡すと言う書状)」を織田家へ届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で、息子義龍と対峙します。
最後の戦いで道三は、義龍の見事な采配を見て、「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰」と語ったと言います。
そして戦いに破れた道三は、そのまま命を落とします・・・享年62才。
その後斉藤義龍は、美濃の支配をさらに強化しつつ国内を発展させ、「美濃一国譲り状」を大義名分として度々攻撃を仕掛けてくる織田の軍勢を撃退し続けますが、1561年、流行り病によって34才の若さで病没します。
後を継いだ「斎藤龍興」は僅か14才の若さであり、国主としての器量も無く、家臣達は次々と織田家に寝返っていき、そして1567年、織田家の攻撃によって美濃は占領され、斉藤家は滅亡することとなります。 
 
斉藤道三 3

 

  明智光継─┬─光綱───光秀(本能寺に信長を討つ)
       ├─光安
       └─小見の方
          ┃
  松浪基宗───道三─┬─孫四郎
            ├─喜平次
            ├─義龍───龍興(信長に殺さる)
            └─濃姫
               ┃
    信定───信秀───信長(光秀に討たれる)
「美濃のまむし」斉藤道三というより、はるかに、まむしの道三の方が通がよい位、恐ろしい男であった。戦国大名として、これ位謎の多い人物も少ない。一使いの油売りから澪起こし、美濃一国の主となり、娘を織田信長の室にし、天下にその名を「まむし」と呼ばせても、残酷無情、権力欲、野望のためなら何でもやる、一種異様な人物である。
一介の油売りからというと、大変身分の低い事になるが、けっしてそうではない。
祖先代々御所を譲る、北面の武士であるが、父松波左近将監基宗は、故あって山城国乙訓郡西岡に住でいる時、道三は生れた。
顔立ちのよい利口な少年であった。11歳の時京都日蓮宗妙覚寺には入り、法蓮坊と呼ばれ、兄弟々子に南陽房〔後の日蓮上人〕は美濃国守護土岐家の重臣、永井利隆の弟である。
道三には寺の生活は性に合わず、読経なんかより先ず金であった。
寺を飛び出し、生れ故郷の西岡に戻り、油商奈良谷の養子となり娘と夫婦、名を山崎屋庄九郎〔庄五郎〕と改め、油の行商をした。
油行商で各国を巡り、販売にも才覚をあらわし、曲芸まがいの事をして、人を集めて多いに売りまくった。
四角のヒシャクで油〔灯油〕を汲み、ジョーゴを使わないで、一文銭の穴から壺に入れる。油一滴も、一文銭の穴に付かない、その曲芸を見たくて、買人が列をなしたという。
その美事な芸を見た武士が「これ程の芸を武芸に打込んだなら、立派な武芸者に成れる」と賞賛したからたまらない。
道三は、油売等投げ出して、それからは毎日一文銭の穴を的に、長柄の槍で突く練習を一所懸命に励み、相当の腕になったので、件の武士と、寺で知り合った日蓮上人に頼み、守護代長井長弘に仕える事になった。武士となった道三は、長弘の家臣西村氏の名跡をついで、西村勘九郎正利と改名、めきめきと「美濃のまむし」の本領を発揮して行く事になる。 
 
斉藤道三に学ぶ 4

 

「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の「梟雄(悪逆非道な英雄)」として知られる「斉藤道三」。彼はまさに、戦国時代における「下克上(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)」の代名詞と言える人物です。一介の油商人から、一国一城の主にまで登りつめた斉藤道三は、まさに戦国時代を象徴する1人であるとも言えるでしょう。
1.僧侶から油売りに転進
若い頃、彼がどこで何をしていたのかはイマイチはっきりしていません。彼は元々、京都にある「妙覚寺」という寺で修行していたと言われていますが、僧侶だったのは彼の父であると言う説もあります。いずれにせよ、彼はその後京都から「美濃(現在の岐阜県)」に渡り、量り売りの油商人となっています。彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたらそれをタダにするという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者になりました。
2.油売りから武士に転進
その後、僧侶時代のツテもあって美濃の有力者の1人「長井家」に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸」に仕える事になります。当時、美濃は「土岐家」という大名が支配しており、「土岐頼芸」はその一族の1人でした。
3.立身出世を繰り返し大名へ
元々彼(道三)は何をやっても器用な人だったらしく、しかも頭が切れ、仕事も遊びも達者で人間的な魅力に溢れていたといいます。すぐに彼は土岐頼芸の一番お気に入りの家臣となり、妻として頼芸の側室を与えられるほど信頼される事となります。
しかし、彼の主人の「土岐頼芸」は、実は美濃の大名であった「土岐政頼」とは不仲でした。そこで彼は頼芸を言葉巧みに誘導し、そして1527年、頼芸と共にクーデターを実行します!土岐政頼の城を夜襲で一気に襲い、大名だった政頼を追放!こうして土岐頼芸は美濃の大名となり、若い頃の道三も土岐家の一番の家臣となります。
ですが、こうした彼(道三)のやり方と急激な台頭について、他の家臣たちの多くがあまりよく思っておらず、彼を土岐頼芸に紹介した長井氏も、彼の専横を疎ましく思うようになります。そこで彼はかつての恩人である長井氏を殺害、そして長井家を乗っ取り、「長井(新九郎)規秀」と名乗って長井家の城「稲葉山城」を居城とします。
さらに敵対勢力を、ある時は非道な謀略で、またある時は巧みな和解交渉で交わしつつ、一方で「稲葉一徹」や「安藤守就」といった有力な豪族(地元の権力者)を味方に引き入れ、力を蓄えます。そして、元々美濃の守護職(美濃を統治する役職)にあった「斉藤家」の家を継いで「斉藤氏」となり、ついに1538年、クーデターを実行して主人である土岐頼芸の城を襲い、頼芸をも追放しています。こうして、彼は美濃の国を奪取し、ここに一国一城の戦国大名にのし上がることになります。美濃の国を得た斉藤道三は、街道の整備や「楽市楽座」(税金なしでどこでも自由に露店が開けるようにする法令。要するにフリーマーケット)などを実行、これらにより美濃の城下町は商業的に大きく発展していくことになります。
4.道三の軌跡
1.街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者になる。
2.『土岐頼芸』の一番お気に入りの家臣となる。
3.「稲葉一徹」や「安藤守就」といった有力な豪族(地元の権力者)を味方に引き入れる。
彼のエピソードの共通点は、人を惹きつけることです。エピソードから考えると領地を乗っ取った盗人と思う人がいるかも知れませんが、時代は戦国時代です。
強くて領民想いの城主がいなければ、田畑は荒れ領民は飢えます。そこを憂う道三の想いが純粋だったからこそ道三の魅力に人が惹きつけられたのではないでしょうか。
現代も戦国時代、純粋に何かを改革できる良きリーダーの出現が望まれます。  
 
斉藤道三の「油売り」の真偽 5

 

戦国時代の出世頭といえば、云わずとも「豊臣秀吉」が頭に浮ぶのだが、もう一人庶民から成り上がって大名にまで出世した人物がいる。それが斉藤道三である。
斉藤道三は、油売りから身を起こしたという話しが、広く知られている。
通説によると、山城国乙訓郡西の岡(現京都府長岡京市)あたりに生まれた道三は、京都の妙覚寺で修行僧をしていたとある。その後、寺を出て、油売り商人山崎屋に婿入りした。そこで、山崎屋庄五郎を名乗り、油を売りながら各地を歩いているうち、美濃の国情が騒然としていることに目をつけるのである。
そして、修行僧時代の弟弟子に、守護の座にあった土岐氏の重臣長井長弘の弟がいたことから、長弘に接近した。さらに、土岐政頼(まさより)と対立していた弟の土岐頼芸(よりあき)に取り入り、恩人である長井長弘を殺害するのである。その後、ついに土岐頼芸をも殺害し、美濃一国を手中にしたというのである。
NHKの大河ドラマで、司馬遼太郎の「国盗り物語」にも、大体この筋書きで道三の半生を描いている。もともと、この説は『美濃国諸旧記』という書物が伝える斉藤道三の一代記なのだ。しかし、昔から、この書物には可笑しいところが多いとされている。ところが、最近になって、異説の書かれた書物が見つかったというのだ。
『岐阜県史』編纂の過程で見つけられた『六角義賢条書』である。この書には、道三の油売りについての記述が全く無いのである。『六角義賢条書』によれば、道三の父は、京都の妙覚寺の坊主だったが、やがて美濃の長井氏に仕えることになる。その後、頭角を現し、長井姓を名乗ることが許される。そして、その子である道三が。守護代斉藤氏の惣領を殺し、斉藤姓を名乗ったのだとなっている。
通説では、道三の一代記とされているのだが、実は、父子二代に渡る「成り上がり物語」だったというわけなのである。しかも、我々が良く知っている「油売り」に関しては、全く出てこないのである。
現在では、斉藤道三が油売りをしたという説は、かなり怪しいと云うのが有力な見方となっているらしい。  
 
斉藤道三 6

 

二代で美濃を簒奪
美濃一国の「国盗り」を成し遂げた斉藤道三は京都で僧侶だった父・西村新左衛門尉が築いた土台を発展させ、非道な裏切りと謀略を駆使し一介の僧侶だった先代からわずか二代で一国の主へと上り詰めた。道三は行商の油売りから身を立てたと言われており、一文銭の穴を通して油をツボに移すという奇抜な芸で人気を集めた。そして行商として美濃の情報を収集し、城内外の動静にも通じるようになったという、器用で頭も切れた道三らしいエピソードである。道三の父・新左衛門尉は還俗して美濃の守護・土岐氏の家臣であった長井弥二郎に仕え、西村と名乗り土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人まで出世した。新左衛門尉は主人の長井長弘とともに土岐頼芸を担いで、美濃守護の土岐頼武と守護代の斉藤利良を追放するクーデターに成功し、ついに土岐家の中心に食い込むことに成功する。頼芸は自分を守護の地位につけてくれた新左衛門尉を信用するようになった。新左衛門尉の死後そのあとをついだ道三は主人である長井氏の惣領・長井影弘を倒し、長井家の家督と所領を奪うばかりか、長井姓まで名乗るようになる。次の道三のターゲットは、守護代だった斉藤家で、道三はそれも乗っ取り、斉藤姓を名乗った。こうなるともはや守護の土岐家も道三の敵ではなかった。道三は頼芸を尾張に追放し、とうとう美濃を手に入れた。道三は家臣でありながら実に長井家、斉藤家、土岐家の3家の主人を謀略で倒したのだった。
策士、策に溺れる
だが道三の非道は、土岐・斉藤一族の反抗、そしてそれと結ぶ隣国の朝倉・織田氏の侵攻を招いた。そこで道三は娘・濃姫を織田信長に嫁がせる。斉藤家と織田家の和睦が成立し、道三は美濃を平定。その後剃髪して隠居した道三は嫡男・斉藤義龍に家督を譲る。この家督相続にも道三らしい策略があったらしい。義龍はかつて土岐頼芸の側室だった女性に産ませた子であり、道三は義龍が実は頼芸の子で土岐家の正統な跡継ぎであるという噂を流したのである。もちろん実権は道三自身が握るつもりだった。そして、義龍よりもその弟たちを偏愛するようになった。これを見た義龍は不安にかられた。道三が今までどんな非道なことをしてきたのかを知っている義龍は、やがて自分が殺されるのと考えても不思議ではない。そうなる前に道三を倒すことを決意した義龍が「実父、土岐頼芸のかたき」と兵をあげると、道三に不満を持つ旧土岐家の家臣たちが馳せ参じた。その数1万7千。対する道三には2千700の兵しかいなかった。道三は自分の策が裏目にでた形である。だが、道三は逃げずに立ち向かうと、志半ばでその生涯に幕を閉じたのだった。
 
北条早雲と斎藤道三 7

 

油売りから戦国大名になった斎藤道三
『応仁の乱と京都の荒廃』の項目では、応仁の乱(1467-77)の後の室町幕府の権威の失墜について書きましたが、15世紀末から16世紀にかけて時代は弱肉強食の戦国乱世へと突入します。京都の幕府・朝廷の威令が地方に届かなくなり、公的な官職である守護・地頭が有名無実化する戦国時代には、領国を実力で統治する『戦国大名』と呼ばれる独立勢力が次々と姿を現します。しかし、公式の守護・守護代・地頭から戦国大名へと成長した人物が多く、戦国時代においても一般庶民(農民・町民・商人)から戦国大名に上り詰めた人物は豊臣秀吉を除いて殆どいないことにも留意する必要があります。有力な戦国大名(今川・武田・大内・大友・島津・上杉・尼子など)の出自を眺めると、室町末期の下剋上の戦国時代といえども厳然とした身分秩序・立身出世の壁があったことを感じさせられます。
乱世にも一定の身分・官位の壁はありましたが、最後に戦国の世を終わらせて天下統一を成し遂げた『織田信長・豊臣秀吉(羽柴秀吉)・徳川家康(松平元康)』は比較的低い身分階層(国人の地方武士・農民)の出身でした。室町幕府・足利将軍の政権下において正統な分国(領国)の支配者は『守護』ですが、守護とは無関係な家柄の出身者(織田・豊臣・徳川)が安土桃山時代を通して天下布武を実現し、全国を統治する集権的な政治体制を確立したことが『実力勝負の戦国時代』の性格を現しています。戦国時代は中央集権的な室町幕府(足利将軍家)の命令系統が完全に麻痺した時代であり、日本各地の戦国大名が排他的な独自の支配体制を確立した『地方分権の時代』でした。戦国大名は室町幕府や朝廷の権威を完全に無視したわけではなく、『守護(各地の大名)・関東管領(上杉氏)』などの官位の補任(ぶにん)を受ける戦国大名も少なくありませんでしたが、それは戦国大名自身の『支配権力の正当性』を担保するためであり『敵対勢力との戦(いくさ)の大義名分』を得るためでした。
有力な戦国大名は中央(幕府)の政治的統制を受けない独立的な地域国家の領主として、『立法権・検断権(警察権)・裁判権・徴税権』を掌握しました。戦国大名は自勢力の拡大あるいは京都上洛(天下統一の号令)のために周辺諸国と戦闘を繰り返しましたが、戦国大名の武力の中心は『自立心旺盛な国人・被官』を家臣化した軍事組織だったので、その権力基盤は不安定なものでもありました。つまり、戦国大名は西欧の絶対君主のような性格を持つ統治者ではなくて、領国に割拠する国人(地方土着の武士)・被官(家臣化した国人)に戦への出陣を要請して一味同心を成し遂げる『同輩中の筆頭者』としての特徴も持っていました。その為、戦国大名の多くが異国の大名勢力との戦いの前に、領国内部の敵対的な国人を討伐して自勢力に組み込むという『集権的な権力形成のプロセス』が必要でした。室町幕府の日本全国に対する統治権力の衰えがますます明確になる15世紀末に、戦国乱世の到来を告げる斎藤道三や北条早雲といった人物が登場してきます。
美濃国(岐阜県)の斎藤道三(さいとうどうさん,1494-1556)は、油売りから戦国大名にのし上がった下剋上を象徴する人物とされ、濃姫(帰蝶)を正室にした織田信長が『美濃の蝮(まむし)』と呼んでその計略と野心を警戒した武将としても知られます。しかし、『六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)』の文献研究で、斎藤道三の美濃の国盗り物語は道三一代の事績ではなく、道三の父・長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)との共同作業であった可能性が示唆されています。つまり、子供時代に妙覚寺に出家して油売りの娘と結婚し、買収・計略で守護代の斎藤家をのっとって美濃国を統治するようになったという斉藤道三の下剋上の事績は道三一人のものではなく、父の人生の履歴と混同されたものである可能性がでてきたわけです。これまで斉藤道三の人生の過程は、江戸時代に書かれた『美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)』によって推測されていました。峰丸(道三の幼名)は山城国乙訓郡(おとくにぐん)西岡で、北面の武士の血筋である松波左近将監基宗(まつなみさこんしょうげんもとむね)の子として生まれ、11歳で日蓮宗の京都・妙覚寺(みょうかくじ)に出家させられ法蓮房(ほうれんぼう)と称したとされていましたが、この出家した子供は道三ではなく父親だったのではないかという見方が強くなっています。しかし、以下の部分では、便宜的に妙覚寺に出家した子供を道三として説明しています。
妙覚寺を逃げ出した道三は松波庄五郎(まつなみしょうごろう)と名乗りますが、油商人の娘と結婚して全国を行商する『山崎屋』となります。『山崎屋』の油商人として順調な人生を送っていた道三でしたが、1510年頃に妙覚寺時代の知人であった美濃国・常在寺(じょうざいじ)の住持・日運上人(にちうんしょうにん)の紹介で、美濃国の国人・長井家や守護代・斎藤家と親交を持つようになります。松波庄五郎時代の道三が美濃国に入部する以前から、美濃国では守護の土岐氏の家督争いの内紛が激しく内部分裂の危機にありました。美濃守護・土岐成頼(ときしげより,1442-1497)は、嫡子の土岐政房(まさふさ,1457-1519)を廃立して四男・土岐元頼(もとより,生年不詳-1496)に家督を継がせようとしますが、この兄弟間の家督相続争いが船田合戦(1495年)へと発展します。船田合戦では、土岐政房側に斎藤利国(さいとうとしくに,生年不詳-1496)・尾張の織田氏・北近江の京極氏・越前の朝倉氏が味方したので、土岐元頼側について戦った斎藤家の重臣・石丸利光(いしまるとしみつ)は元頼と共に自害に追い込まれました。船田合戦で勝利して美濃国の有力者となった斎藤利国(斎藤妙純)・斎藤利親の親子でしたが、その後間もなく死去することになります。1496年に、斎藤父子は京極政高(きょうごくまさたか,1453-1508)の要請で、石丸利光に味方した近江の六角高頼(ろっかくたかより,1462頃-1520頃)の討伐に参加しますが、その帰りに郷民・馬借の土一揆に遭って命を落としました。
土岐政房から土岐政頼(まさより・頼武,1488頃-1536頃)へと守護職が移りますが、政頼は斎藤道三と結んだ弟・土岐頼芸(よりなり,1502-1582)に家督争いで敗れます。松波庄五郎と名乗っていた道三は、1536年に長井家を掌握して長井新九郎利政(ながいしんくろうとしまさ)と名乗り、1538年に守護代・斎藤利良(さいとうとしよし)が死去するとその翌年(異説あり)に斎藤家をのっとって斎藤左近大夫利政(さいとうさこんのだいぶとしまさ)と名乗るようになります。美濃守護・土岐頼芸を擁立して政権の中心人物となった斎藤道三は、頼芸の子を毒殺するなどの謀略を張り巡らし、遂に1542年に主君の頼芸を攻撃して敗走させます。1548年には対立関係にあった尾張の織田信秀(おだのぶひで,1510-1551)と和解して、信秀の子・織田信長(おだのぶなが,1534-1582)に娘の濃姫(帰蝶)を嫁がせ、鷺山城に隠居してこの頃から『道三(どうさん)』という法名を名乗るようになります。
嫡子の斎藤義龍(よしたつ,1527-1561)に家督と稲葉山城を譲って道三は隠居しますが、その後に義龍を廃して義龍の弟・孫四郎(まごしろう)を立てようとしたことから道三と義龍の対立が激化します。義龍は弟を殺害して父の道三と戦争をすることになり、1556年の長良河畔の戦いで道三を討ち滅ぼします。美濃国の支配者になった斎藤義龍は1561年に35歳の若さで病死することになり、義龍の後を継いだ斎藤龍興(たつおき,1548-1573)も1567年に織田信長に敗れて稲葉山城を去ることになります(稲葉山城の戦い)。伊勢長島へと落ち延びた龍興は、一向一揆などと協調しながら粘り強く信長に対する抵抗を続けますが、天正元年(1573年)8月に朝倉義景と同盟して織田信長と戦って敗死しました。斎藤道三が下剋上の果てに掴み取った美濃国主としての栄華も、『長井新左衛門尉−道三−義龍−龍興』の四代であっけなく終焉の時を迎えたのでした。  
戦国乱世の幕を切った北条早雲(後北条氏)
斎藤道三と並び立つ梟雄(きょうゆう)として北条早雲(伊勢宗瑞)がいますが、後北条氏(ごほうじょうし)の始祖となる北条早雲は下剋上を成し遂げて相模・伊豆を平定した人物として知られます。北条氏を自称し始めるのは早雲の子の北条氏綱(うじつな,)の時代からなので、北条早雲が存命中には伊勢宗瑞(いせそうずい,あるいは伊勢新九郎)と呼ばれていたと考えられます。北条早雲(ほうじょうそううん,1432・1456-1519)と呼ばれる伊勢宗瑞は、鎌倉公方・関東管領(室町幕府の公的官職)に代わって関東地方に覇権を確立する戦国大名(後北条氏)の先駆け的な人物ですが、その出生や人生には不明な部分が多くあります。本名については、盛時(もりとき)という通説や長氏という説があります。北条早雲には『早雲寺殿廿一箇条(そううんじでんにじゅういっかじょう)』という有名な家訓がありますが、早雲(伊勢宗瑞)が存命中には北条氏を名乗っていなかったので『北条早雲』という呼び方をされたことはありませんでした。応仁・文明の乱の時期には、北条早雲は足利義尚(よしひさ)と将軍位を争った足利義視(よしみ,1439-1491)に味方していましたが、義視と一緒に伊勢に下った後は駿河(するが)へと活躍の舞台を移します。
駿河守護の今川氏の事績を記録した『今川記』によると、駿河守護・今川義忠(いまがわよしただ,1436-1476)の嫡子・龍王丸(りゅうおうまる)の母である北川殿(きたがわどの)が北条早雲の妹とされています。1476年、今川義忠は敵の斯波氏に内通した遠江(とおとうみ)の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を攻撃しますが、その帰途で残党の襲撃を受けて倒れます。義忠の嫡男・龍王丸(今川氏親,1473-1526)はまだ4歳だったので、家臣が軍略と武芸に抜きん出た小鹿範満(おしかのりみつ)を擁立しようとして対立が起きます。堀越公方の足利政知(まさとも,1435-1491)と関東執事・上杉政憲、扇谷上杉氏の上杉定正(さだまさ,1443-1494)と家臣・太田道灌(おおたどうかん,1432-1486)が小鹿範満に加勢することで、龍王丸(今川氏親)の家督相続が危なくなります。龍王丸と小鹿範満の家督争いは大きな戦乱に発展しかけましたが、この今川家の内乱の調停をしたのが伊勢新九郎(北条早雲)でした。伊勢新九郎は、龍王丸(今川氏親)が成人するまで小鹿範満が後見役を務めるということで家督争いの危機を調停・仲介します。今川家存続の危機を救ったこの早雲の活躍によって、駿河守護・今川家と早雲の結びつきが強まり『東国支配への足がかり』が出来たことになります。
早雲は、今川家の家督争いを調停して小鹿範満に龍王丸の後見役を頼みましたが、1487年になると突如、駿府館に拠点を置く小鹿範満を攻め落として龍王丸(今川氏親)に家督を継がせます。今川氏親(うじちか,1473-1526)は今川氏を戦国大名へと発展させた人物であり、家臣の北条早雲に富士下方十二郷と興国寺城(あるいは善得寺城)を与えて軍事戦略に早雲を活用しました。氏親の母が早雲の妹なので、氏親と早雲は『甥−伯父の関係』となります。今川氏親は駿河・遠江を支配下に組み入れますが、早雲は堀越公方・足利政知が1491年に病死すると、政知の後を継いだ暴君の茶々丸(ちゃちゃまる)を滅ぼして伊豆・韮山城(にらやまじょう)を勢力下に置くことに成功します(1493年)。茶々丸は家督争いの病的な不安から母と弟を殺害したり、家臣の讒言讒謗に惑わされて多くの粛清を行っていたので家臣団からの信頼を完全に失っていました。伊豆を勢力圏に収めた北条早雲が次に狙いを定めたのが相模(神奈川県)でしたが、相模は三浦氏と大森氏が治めており、実質的な相模の支配者は三浦・大森の主筋の扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎ)でした。
1494年に相模・小田原城の城主である大森氏頼(うじより,生年不詳-1494)が死去して、大森藤頼(ふじより,生年不詳-1503)が後を継ぎますが大森氏は扇谷上杉氏の家臣でした。大森氏頼の娘と扇谷上杉の上杉高救(たかひら)の間に生まれた子の義同(よしあつ)は、相模の名門氏族である三浦氏の養子となり三浦義同(生年不詳-1516)と名乗りました。三浦義同は新井城を拠点とする養父の三浦時高(ときたか)と対立してこれを攻め滅ぼしますが、これと同時期に扇谷上杉の上杉定正(さだまさ,1443-1494)が落馬で事故死してしまいます。定正の後を甥の上杉朝良(ともよし,生年不詳-1518)が継ぎますが、北条早雲は『大森氏・三浦氏・扇谷上杉氏の家督交代という不安定期』を見逃さず、1495年に機略・策略を用いて大森氏が守る相模・小田原城を見事に攻略しました。関東制覇という大きな野心を持っていた北条早雲は、1516年7月に新井城で三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)父子を滅ぼして、伊豆・相模を支配下に組み入れることに成功します。
早雲が最終目標にしていたのは関東管領・守護職を担う両上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)の打倒と関東全域の支配でしたが、山内上杉氏(上杉顕定)と扇谷上杉氏(上杉朝良)は相互に戦い合って次第に勢力を衰退させていきます。早雲の後継者である2代・北条氏綱(うじつな,1487-1541)、3代・北条氏康(うじやす,1515-1571)のときに、後北条氏はますます関東地方における影響力を強化することになり、北条氏康が1546年に上杉朝定(ともさだ)を打倒して扇谷上杉氏を完全に滅ぼします。上杉憲顕に始まる山内上杉氏のほうは、1561年3月に上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を嗣子とし家督・関東管領職を譲ることになります。北条氏康は、山内上杉家の家督を継いだ関東管領・上杉謙信とも戦うことになりますが、氏康は絶えず越後の龍・上杉謙信(1530-1578)を相手に有利な戦いを進める軍事的才覚を見せつけました。北条早雲が始祖となった関東地方(小田原城)を拠点とする後北条氏は、豊臣秀吉に討伐される戦国末期までその政治的影響力を保ち続けることになります。 
 
斉藤道三 8

 

1456(康正2)年、美濃の守護土岐持益の子土岐持兼が早死にしました。持兼の子亀寿丸を支持する揖斐氏と、土岐義遠の子土岐成頼を支持する土岐家の執権斎藤利永とが対立しました。その結果、一色成頼が守護となり、斎藤家が実権を握りました。
1494(明応3)年、松波左近将監基宗の子として、京都乙訓郡西岡に生まれたといいます。幼名を1峰丸といいます。土岐成頼の後継をめぐって、再び争いが起きました。成頼の長子土岐正房を支持する執権斎藤利国と、成頼の末子土岐元頼を支持する斎藤家の家臣石丸利光とが対立しました。その結果、土岐正房が守護となり、斎藤家が実権を維持しました。
1504(永正元)年、峰丸(11歳)は、父が法華宗の信者だった関係で、京都妙覚寺に入り、2法蓮坊と名を改めました。やがて、還俗して、3松浪庄五郎と名を改め、武芸に励むようになりました。松浪庄五郎は、同郷の油商人奈良屋又兵衛(屋号は山崎屋)の娘と結婚し、名を4山崎庄五郎と改めました。山崎庄五郎は、諸国に油を売り歩るきました。
1517(永正14)年、美濃の守護土岐正房の長子である土岐盛頼と正房の次子である土岐頼芸とが対立しました。兄盛頼を支持したのは守護代斎藤利良、弟頼芸を支持したのが斎藤家の家臣長井利隆でした。これに、越前の朝倉氏、近江の浅井・六角氏が、それぞれの利害関係で、複雑に絡み合っていました。
1520(永正17年)、山崎庄五郎(27歳)は、乱れに乱れている美濃に入りました。妙覚寺で同僚だった日運上人の世話で、油店を開き、稲葉山・川手・鷺山など油の行商に出かけました。油売りの技術を見た稲葉山城主長井長弘の目代矢野五左衛門は、山崎庄五郎を雇い入れました。鎗の技術を見た長井長弘は、山崎庄五郎を召抱えました。長井長弘は、山崎庄五郎を川手城の土岐盛頼に会わせました。しかし、政頼は、「尋常の人相にあらず、君子の親しむ者にあらず」と山崎庄五郎の野心を見抜き、採用しませんでした。山崎庄五郎の才を惜しんだ長井長弘は、自分の家臣である西村三郎左衛門尉の跡継ぎに山崎庄五郎を任命しました。そこで、山崎庄五郎は、名を5西村勘九郎正利と改めました。次に、長井長弘は、土岐盛頼と対立して鷺山城にいた弟土岐頼芸に、西村勘九郎を会わせました。遊芸を好んだ頼芸は、西村勘九郎の多芸多才に感心し、即座に、採用しました。
1527(大永7)年、土岐頼芸の信任を得た西村勘九郎(34歳)は、川手城攻略を進言しました。頼芸は、失敗したときのことを心配しましたが、油を売って情報を入手している西村勘九郎は「負けるはずない。負けてもすべての責任は私がとる」と口説きました。夜半、西村勘九郎は、5千の兵を率いて川手城の土岐盛頼を奇襲攻撃しました。不意をつかれた城内は大混乱に陥り、盛頼は越前へ逃れました。頼芸は、美濃守護となり、西村勘九郎は、その補佐役になり、ついに実権を握りました。
1530(亨禄3)年、西村勘九郎(37歳)は、恩人である長井長弘を土岐頼芸に讒言して、上意討ちと称して、長弘を殺害しました。さらに長井家を乗っ取り、6長井新九郎規秀と改名し、稲葉山城を本拠としました。稲葉山城城下の加納に楽市令を布きました。これが楽市令の最初です。
1538(天文7))年、守護代斎藤利隆が亡くなりました。土岐頼芸は、長井新九郎(45歳)に斎藤家の家督を相続させました。長井新九郎は守護代となり、名も7斎藤左近大夫利政と改めました。1542(天文11)年、守護代斎藤利政(49歳)は、大桑城の守護土岐頼芸を攻めて美濃を手中に入れました。頼芸は、尾張の織田信秀を頼り、美濃を逃げ出しました。
1547(天文16)年、土岐頼芸の進言を入れ、織田信秀(信長の父)は、稲葉山城を攻めました。1548(天文17)年、斎藤利政(55歳)は、織田信秀と和睦して、剃髪して道三と号するようになりました。ここに8斎藤道三が誕生しました。道三は、織田家と同盟するために、濃姫を織田信長に嫁がせます。1551(天文20)年、織田信秀が死に、織田信長が家督を受け継ぎました。1533(天文22)年、斎藤道三(60歳)は、尾張の正徳寺で、娘婿の織田信長と会見します。
1554(天文23)年、斉藤道三(61歳)は、国内の土岐勢力や土岐家恩顧の家臣を懐柔するために、斉藤義龍(母は元土岐頼芸の側室の妻深芳野)に家督を譲ります。義龍は、その側室が道三に嫁いですぐに生まれたので、道三の子ではなく、土岐頼芸の子だという噂がありました。斉藤道三は、斉藤義龍に、わが子を励ますために、「美濃は信長の領土になるだろう」と語りました。しかし、義龍は、父道三の真意を理解できず、逆恨みしました。やがて、義龍は、道三と父子の縁を断ちました。
1556(弘治2)年、斉藤義龍は、土岐家恩顧の家臣の支持を受け、弟2人を殺し、1万2千の兵を率いて、鷺山城の父斉藤道三(63歳)を攻撃します。応戦する道三の兵は、僅か2千でした。斉藤道三は、織田信長軍の深入りを心配してか、自害を覚悟し、娘婿の織田信長に美濃一国の譲り状を書き、唯一殺されなかった末子には僧になるよう遺言しました。斉藤道三は、最後に、斉藤義龍の采配を見て、「これで、斉藤家も安泰だ」と語り、死んでいったといいます。道三の首は、息子義龍の命で晒されましたが、何者かが、これを盗んで葬ったといいます。
1561(永禄4)年、斉藤義龍(34歳)が急死しました。後を継いだ斉藤龍興は、まだ、14歳でした。1567(永禄10)年、織田信長は、「美濃一国譲り状」を大義名分として、稲葉山城を攻略し、斉藤龍興を追放しました。信長は、稲葉城を岐阜城と名を改め、斉藤道三にならって、楽市令を発しました。  
野望を才覚と努力で達せいした、斉藤道三
買い物に行って、寄り道をして帰ってくると、「どこで油を売ってきた」といわれた経験は、誰にもあります。その語源は、昔、油は、漏斗(ジョウゴ)を使って、油壷や油徳利に移していました。これにとても時間がかかりました。そこで、油売りは、客を退屈させないような話を長々としていたのです。山崎新九郎は、漏斗も使わず、しかも、一文銭の穴から、壷や徳利に移して、客から喝采を得ました。新九郎の狙いは、この技術を以て、出世の糸口にしようとしたのです。大変な努力を要しました。
案の定、この技術を見た稲葉山城主長井長弘の目代矢野五左衛門は、早速新九郎を雇い入れました。新九郎は、ここでは鎗の猛練習をしました。木の枝に一文銭をつるし、三間半の長柄の鎗の穂先を釘状に細くし、10突10中(100%)するまでになったといいます。この話を聞いた城主長井は、新九郎を召しかかえたといいます。新九郎の作戦どうりでした。
斎藤道三は、婿のうつけぶりをみようと、民家から織田信長の行列を覗き見ます。道三が見たものは、諸肌脱ぎで瓜をかぶりつき、腰には注連縄で結えた瓢箪をぶら下げた、信長の異様な風体でした。次に、道三が目を見張ったのは、鉄砲隊でした。道三でさえ、数十挺しか変えない高価な鉄砲を、信長は500挺も持っていたのです。道三も、信長も鉄砲の革新性を見抜いている点では同じですが、信長の方が経済力・外交力では、道三を上回っていたといえます。道三は、婿の服装に合わせて平服でした。しかし、信長は盛装でした。道三が、「是ぞ山城殿にて御座候」と紹介されると、信長は、「であるか」と答えました。これを見た道三の家臣は、「やはり、信長は、うつけ者だった」と感じましたが、道三は、「わしの子らは、あのうつけの門外へ馬を繋ぐであろう」と言ったといいます。「非凡なものは、非凡なものを理解出来る」という話です。
斎藤道三は、美濃守護である土岐頼芸から「襖の虎の絵の目を槍で突けたなら、何でも与えよう」という賭けに勝ちました。そこで、道三は、頼芸が寵愛する側女の深芳野を望み、そして妻として与えられました。しかし、その時、すでに深芳野が妊娠していたという噂です。深芳野から義龍が生まれたことは事実です。しかし、義龍にとって本当の父は誰かという疑念が、ついに父道三を襲う結果となりました。血が濃い故の悲劇です。
8度の改名は、斎藤道三の波乱の人生と、戦国時代の象徴です。  
 
毛利元就・斉藤道三 9

 

毛利元就
一代で中国十ヶ国の覇者となった元就は、元亀2年(1571)6月14日、75歳で生涯を閉じた。
元就は5歳の時、母を失い10歳で父に死なれ、領地は後見人の井上元盛に横領され、居城の猿掛城から追い出された。
元就は、父の側室だった杉の方に引き取られ面倒を見てもらった。
元就には興元(おきもと)という兄がいたが、24歳の若さで死に、嫡子の幸松丸も9歳で死亡した。
このため、元就は27歳で家督を継ぐことになった。
兄の興元が死去した翌永正14年(1517)21歳の時、一千の兵を率いて四千余の武田元繁と戦い元繁を討ち取っている。
この戦いで、元就の武名は高まった。それ以来75歳で死ぬまで、戦場に臨み指揮した合戦は二百数十回におよぶという。
元就は戦いに明け暮れ領土を拡大していった。
元就が生涯気をつけたのは酒である。
祖父の豊元が33歳、父の弘元が39歳、兄の興元は24歳と、いずれも若くして死んだが、みな酒の飲みすぎで命を縮めていた。
特に興元の時には西に大内家、北に尼子家の大国にはさまれ、どちらに属するべきか相当に悩んだ。
興元はそのうさを晴らすためあびるように飲み続けたらしい。
元就は、そうした兄の姿を見ていただけに、酒にはことのほか警戒したようである。
長男の隆元にも、「酒は分をわきまえて飲むものだ。酒で自分を見失うような事があってはならない」と説教している。
しかし、隆元は41歳で急死している。
その後を継いで当主となった孫の輝元には、母を通して酒の飲み方について注意を促している。
元就は常に餅と酒を用意していた。
城下の侍や下人が来た時、酒の好きな者には酒の利点を話して飲ませ酒の飲めない者には酒の害を語り餅を与えた、と言われている。
確かに餅はスタミナ食だし、適量の酒は疲れが取れ老化防止の効果もあるという。
どちらも度をすごさなければ利点はある。
おそらく元就も適量の酒はたしなんでいたのではないだろうか。
ただ、並の人間よりは厳しく自己管理をしていたのだろう。
元就には、九男二女計11人の子供がいた。
末っ子の九男秀包は、71歳の時の子供である。これも摂生、厳しい自己管理の賜ものかも知れない。
しかし、いくら健康管理に気をつけていても、いつ病魔が襲ってくるかわからない。
永禄9年(1566)2月出雲に出陣している時、元就は病に倒れた。病名は不明だが、1ヶ月後には回復している。
永禄11年(1568)には下関で異常を訴え、更に翌年、郡山城で中風にかかり重態になった。
元亀2年((1571)桜見物をした後、6月14日、75歳の生涯を閉じた。死因は食堂がんだったと言われている。
斉藤道三
修行僧から油売りになり、やがて武家に仕えると世の中の乱れに乗じて謀略の限りを尽くした道三は主君土岐頼芸(ときよりなり)を追放し、ついに美濃一国(現在の岐阜県南部)を手に入れて戦国大名になった。
だが、前半生は伝説で実際の国盗りは父の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と二代がかりであった。
父はもともと京都妙覚寺の僧だったが、還俗して美濃にくだり、美濃守護職土岐氏の家臣永井弥次郎に仕えた。
やがて頭角を現し、大永5年(1525)永井長弘と手をくんでクーデーターを起こし土岐氏の実権を握った。
父の代に道三がのし上がって行く足がかりができていたわけである。
天文2年(1533)、父が死亡し、道三が家督を継いだ。
この頃、道三は長井新九郎規秀(のりひで)と名乗っていたが、まもなく本家の長井景弘を倒し、長井本家の家督と所領を奪った。
更に天文7年(1538)、守護代斉藤利隆が没すると、道三が家督を継ぎ、斉藤利政と改名したのである。
その後、道三は稲葉山城を居城としたが、道三に対抗してきたのは、織田信秀だった。
天文13年(1544)9月、信秀は越前の朝倉孝景と手を結び、25000という大軍で美濃に侵入した。
だが、道三は巧みな戦術で数百人を討ち取り、敗走する織田・朝倉連合軍を追撃してゆく。
このため、連合軍は木曽川で二千人から三千人ほどが溺死したという。
信秀はその後も攻めてきたが、道三は追い払った。
しかし、天文17年(1548)信長の教育係の平手政秀の斡旋によって道三は娘の帰郷を信長に嫁がせ信秀と同盟を結んだ。
天文23年(1554)道三は剃髪して、居城を嫡男の義竜に譲り、鷺山城に隠居した。
一説によると、義竜は道三の実子ではなく、実父は土岐頼芸だと言われていた。
道三は頼芸から愛妾の深芳野を下げわたされたが、すでに深芳野は、頼芸の子を宿しており、生まれたのが義竜だというのである。
そのため、道三は、次男に家督を譲ろうとしたことから、義竜の亀裂が深まって行く。
弘治元年(1555)、義竜は危機感を感じ、先手を打って2人の弟を謀殺した。
この結果、道三と義竜の父と子が争うことに発展した。
弘治2年(1556)4月12日、戦いは長良川の湖畔で始まった。
道三の軍勢約3000人義竜の軍勢約17000人勝負はすでに決まっていた。
約1週間後の4月20日、道三は討たれた。
信長は舅の道三を支援するために出陣したが、途中で道三の死を知り引き帰えした。
道三は63歳、義竜は30歳であった。
道三は野望をむき出しにして、悪運無道を繰り返してのし上がっていった。
確かに下克上の、見本のような人物で「蝮」の異名を取ったのも無理は無い。
しかし、最後には子供の義竜と戦い家臣に討ち取られるという悲惨な末路であった。
力強さとともに、哀れさを感じさせる。

信長と対面した頃の道三は、一目でその才能を見抜き「やがて、我子たちも彼の軍門に下るだろう」といったのは有名な言葉である。  
 
織田信長道三との会見 10

 

まずは道三との会見の章の確認から始めことにする。以下が「信長公記」の章の全文である。
〔天文二十二年〕四月下旬のことである。
斉藤山城守道三から、「富田の寺内町正徳寺まで出向きますので、織田上総介殿もここまでお出でくだされば幸いです。対面いたしたい」と言ってきた。そのわけは、近頃、信長を妬んで(そねんで)、「婿殿は大馬鹿者ですぞ」と人々が道三に面と向かって言っていた。人々がそう言うと、「いや、馬鹿ではないのだ」と道三はいつも言っていたのだが、対面して、その真偽を見きわめるのだ、と聞こえてきた。
信長は遠慮もせずに承諾し、木曽川・飛騨川という大川を船で渡り、出かけて行った。富田という所は人家が七百軒ほどあって、豊かな所である。正徳寺へは大阪の本山から代理の住職を派遣してもらい、美濃・尾張両国の守護の許可状を取って税を免除されている所である。
斉藤道三の計画は、信長は実直でない男だという噂だから、驚かせて笑ってやろう、ということで、古老の者七〜八百人ほどに折り目正しい肩衣・袴・上品な身支度をさせて正徳寺の御堂みどうの縁に並んで座らせ、その前を信長が通るように準備した。その上で、道三は町はずれの小屋に隠れて、信長の行列を覗き見した。
その時の信長の出で立ちは、髪は茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの太刀・脇差二つとも長い柄を藁縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰の周りには猿廻しのように火打ち袋、瓢箪七つ八つほどをぶらさげ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはいた。お供の衆を七〜八百人ほど、ずらっと並べ、柄三間半の朱槍愚百本、弓、鉄砲五百挺を持たせ、元気な足軽を行列の前に走らせた。
宿舎の寺に着いたところで、屏風を引きまわし、生れて初めて髪を折り曲げに結い、いつ染めておいたか知る人のない褐色の長袴をはき、これも人に知らせず拵えて(こしらえて)おいた小刀を差した。この身支度を家中の人々は見て、「さては、近頃の阿呆ぶりは、わざと装っていたのだな・肝をつぶし、誰もが次第に事情を了解した。
しばらくして、屏風をおしのけて道三が出て来た。それでもまだ知らん顔をしていたので、堀田道空が近づき、「こちらが山城守でございます」と言うと、「お出になったか」と言って敷居の内に入り、道三に挨拶して、そのまま座敷に座った。そのうち。道空が湯漬けを給任した。互いに盃をかわし、道三との対面はとどこおりなくお開きとなった。道三はにが虫をかみつぶしたような様子で、「また近いうちにお目にかかろう」と言って席を立った。
道三が帰るのを、信長は二十町ほど見送った。その時、斉藤勢の槍は短く、信長勢の槍は長く、それを掲げ立てて行列して行ったのを道三は見て、おもしろくなさそうな顔で、ものも言わずに帰って行った。
途中、茜部あかなべという所で、猪子高就が斉藤道三に、「どう見ても信長殿は阿呆でございますな」と言った。道三は「だから無念だ。この道三の息子どもは、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろう」とだけ言った。
この章を読むと道三から会見を申し入れがあったことがわかる。そしてその目的を大馬鹿者の噂の真相を確かめるためとしている。この無礼な申し入れに対し信長は「遠慮もせずに承諾した」という。受けて立つというわけである。この道三の申し出はうつけの問題を代弁している。よって信長の出方(返答)をみればうつけの問題もこれではっきりするにちがいない。
ではなぜこのオファーを受けたのだろうか。首を長くして待っていたからである。尾張を統一するためには道三の援助は不可欠な要素となる。いくら自信や策があっても現状は薄氷を踏むようなもろい磐石に立っているに過ぎない。ドングリの背比べのような身内を頼ったところでたかが知れている。これに引き換え道三は美濃一国を支配する堂々たる戦国大名である。幸い道三とは婿と舅の縁者の関係にある。織田家のだれよりも深い縁で結ばれている。しかもこの実力者が隣国に居るのであればこの縁を使わない手はないだろう。事実この会見に懸ける信長の意気込みは「いつ染めておいたか知る人のない褐色の長袴をはき、これも人に知らせず拵えて(こしらえて)おいた小刀を差した」というくだりに表われている。信長は「彼は戦運が己に背いても心気広濶、忍耐強かった」という。このときも四面楚歌の状況にありながら道三から打診が来るのを辛抱強く待っていたにちがいない。
この程度の機微に疎い道三ではないだろう。この縁を使わなければ道三の娘(信長の妻)を娶った意味が無くなってしまう。道三は殊勝にも面識のない信長のことを気にかけていたようである。これを裏付ける次の手紙が残されているという。
織田の家中がごたごたしている由だが、捨て置かずに調停してやってほしい。また使者を以て考えを聞かせてほしい。三郎殿様は若年だから、いろいろと苦労しているだろうとお察しする。
これは信長の大伯父(秀敏)への返信の手紙らしいが気にかけている様子が伝わってくる。
だが両者の縁組は和睦を誓った政略結婚であってこれ以上のものではない。一種の不可侵条的なもので軍事同盟でないのが実情である。よって道三には義理はあっても信長を助ける義務はない。
ではこのような状況で援助を請うとどうなるのだろうか。対等な関係は難しいはずである。対等の軍事同盟を結ぶにはあまりにも道三との力の差がありすぎて話にならない。また弱音を吐けば見損なわれるのは必至である。相手は乱世に一代で大国の主に伸し上った「まむし」と恐れられる梟雄なのである。道三に婿と舅の浪花節的な甘えは通じないだろう。となれば織田弾正忠家の当主として堂々と外交として臨みその場で道三の心をつかむほかない。相手に不利な条件を呑ませるだけの馬鹿でない証を立てることで「人物」を担保に手を握らせるしか手がないからである。
道三はこの事情を察していたからこそ信長の体面を立てて自分の方から申し込んでいるのである。尾張を乗っ取るつもりなら心配するはずがない(先の手紙を参照)。だが道三は信長と会うのに婿の甘えを許さない方針を固めていた。だからこそ軍事同盟を結ぶ絶対条件として「会って馬鹿でない証を立てろ、同盟はその後に判断する」というメッセージを暗喩に吹聴しているのである(「聞こえてきた」とあることの敷衍)。信長もこの意図を理解していたからこそ遠慮なく承諾しているのである。これは前哨戦的な外交の駆け引きがあったことを物語っている。
とはいっても時代ときは戦国の世である。勝手な思い込みで面識のない相手に心を許すほど牧歌的な時世ではない。治外法権の地を会見場所に選んでいるはこのためである。このことから会見に臨む両家のぴりぴりした雰囲気が伝わってくる。
さて信長である。
その後の始末を読むと信長が一世一代の大勝負に出ていたことが分かる。まるでランボオの、まあいい、思いつく限りの仮面をかぶってやるという言葉を体現するかのようにうつけの総決算ともいえる凄まじい格好で臨んでいる。『武功夜話』によるとド派手な衣装の背には男根の絵が描かれていたという。この衣装がこの大仕事に臨む信長の勝負服だったのである(本当の勝負服は衣替えしたときの衣装だったことは言うまでもない)。L・フロイスは「困難な企てに着手するに当ってははなはだ大胆不敵で」と記している。このときもこの気質が激しくたぎってこの有様となったにちがいない。
この信長の意気込みとは裏腹に家臣たちは道三と会うのを恐れていたように思う。次の『信長公記』のくだりがその根拠である。
斉藤道三は、小さな罪を犯した者を牛裂きの刑に処したり、あるいは、大釜を据えて、その妻や親兄弟に火を焚かせて罪人を煮殺したりという、実に残忍な処刑をした。
また道三の非道を詰る落書が尾張の至る所に貼られていたという。こんな魔物のような冷血漢と会うのに何を考えているのかわけの分からない主人に従って行くのである。前途に不安を覚えない者がいるのだろうか。
話を本筋に戻すと、うつけの噂の真相を見極めさせてもらうとわざわざ断ってきている以上そのための小細工を仕掛けてくることは予測がつく。会うだけでなく試せばより良く分かるのが道理である。また会見以外の様子(情報)も知りたいと思うのが人情である。事実道三はこれをしたのである。笑いものにするための準備をし、覗き見したと記されている。
チンピラのような衣装の魂胆を道三はすぐに見抜いたはずである。仕掛けている本人が気づかないのでは話にならない。この場面は会見前から品定め的な腹の探り合いがあったことを示している。「やるな」とほくそ笑む道三の顔が目に見えるようである。
同様に多くの銃と槍を携えてきたことには感心したはずである。これがおれの持ち物(武器・兵器)のすべてです、と探られたくない腹を道三にだけには見せるという誠意の表れなのだから気を悪くするはずがない。
寺で着替えることもすぐに見破ったはずである。仮に着替えないとどういうことになるのか。道三はちゃんと正装で遇しているのにそれを茶化すかのように「おれが信長です」といったふざけた態度で応じるのであればその場でたたき切ってもだれも文句を言わないはずである。まさに救いようのない馬鹿だったということで仕舞いである。
だが信用という点では半信半疑だったと推測する。信長にすれば道三の前で着替えることは兜を脱ぐのと同じである。拙い意地を貫くこともないとはいえない。道三はこの点を重視しているのである。ここで「おれ流」を捨てられるか(大人に成れるか)、それとも織田弾正忠家の当主の自覚を持って政治的な配慮を図れるかは噂の真相(信長の器量)を知る重要な手掛かりとなる。この行方は同盟を結ぶうえで譲れない条件となるにちがいない。道三は信長がこの高いハードルを越えることを期待してこの会見を申し込んでいるのである
屏風を引きまわしてなにやらごそごそやっているという知らせはすぐに道三の下に届いたはずである。衣装を改めるための小細工であることはすぐに察したにちがいない。ならば後は婿と舅のご対面の席で手と手を握り合って爆笑し、腹の探りあいの種明かしをしながら互いの検討を称え合って知己を結べばこの会見の趣旨は満たされる。道三は信長がこう来ると期待して会見に臨んだにちがいないのである。
ところがいざ屏風をおしのけて会ってみると、信長なる男は道三の差し出す手を払い退けるかのようにそっぽを向いて無視している(柱にもたれかかっていたという説がある)。道三が来たことに気付いているはずなのにそれでも気付かぬ様子ふりをして悪態をついている。堀田道空が機転を利かして取り繕っても「デアルカ(お出になったか)」という横柄な態度をとる始末である。道三は、おや?と思ったにちがいない。さらに会見が始まっても一向に同盟の件を持ち出そうとはせず「とどこおりなく」事を進めている。「にが虫をかみつぶしたような様子」というくだりに道三の性格と思いが如実に表われている。露骨に不愉快な表情を浮かべていたということである。「また近いうちにお目にかかろう』と言って席を立ったときは好意を踏みにじられたような不快な念を噛み締めていたことは想像に難くないだろう。
よってこの会見の席では「答え」を出さなかったのである。これでは、馬鹿か、馬鹿でないかの判断が付かない。だとするとこの後に何かが起ったのである。正確にはなにかをしたのだ。現時点で道三の評価を改めさせることを何もしていない以上このように解釈せざるを得ない。では何をしたのだろうか。この疑問に答えるのがこの後の展開なのである。
信長は道三を「二十町ほど見送った」という。二十町というと約2.1〜2キロの距離となる(一町は109.0909mである)。かなりの距離を見送ったといえそうである。道三は『また近いうちにお目にかかろう』と言って去っているのだから見送る義務はない。用がなければこの方が気を使わずに済むともいえる。だとすると信長の方から見送らせて欲しいと申し出たとみるのが自然である。
因みに帰る際は元のうつけの格好に戻っていたはずである。長袴とは浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけたときに履いていたような裾の長い袴とみられている。合理主義者の信長がこんな不合理な格好で馬に乗るとは考えられない。また元の格好で尾張に戻らなければ信長の面子は潰れてしまう。だとすると男根の入った衣装で道三を迎えたのである。「どう見ても信長殿は阿呆でございますな」という側近の最後の言葉にこのときの斉藤側の呆れ果てた思いを読み取ることができる。次第に信長のペースに巻き込んでゆく様子が窺える。
さてここで問題となるのは道三がどのような状況に置かれていたかということである。先の引用にあるように信長は「お供の衆を七〜八百人ほど、ずらっと並べ、柄三間半の朱槍愚百本、弓、鉄砲五百挺を持たせ、元気な足軽を行列の前に走らせた」という隊列で会見に臨んでいた。ならば帰りも同じ軍容で帰ったとみるのが自然である。だとすると信長の前に居たのは足軽だったことになる。足軽なら銃を持っていても不自然ではない。信長の後方には多くの銃と長い槍を持った兵士が従っているという状況で事(見送り)は進められていたのである。
この間道三は信長と馬を並べながら雑談を交わしていたと想像する。この想像的推理に立つと道三は信長の軍に挟まれていたことになる。これに引き換え道三の部隊は「古老の者」が主力であった(信長を笑い者にするために「古老の者」を多く引き連れてきていたと記されている)。先の重臣の言葉から油断していた様子が窺える。これでは仮に信長と同じ隊列を組んでも力の差は歴然としている。信長はこのような状況を作って約2.2キロも見送っていたのである。
この距離と時間があれば道三なら事の重大さに気付くのではなかろうか。信長がひょいと合図をすればとたんに鉄砲が自分に向かって火を吹くことを。またあの長い槍が自分を突き刺すであろうことも。火縄銃はすぐには使えない。ならばある場所を目印に撃つよう命じられていることも考えられる。思えば援助を請うより道三の首を上げる方が利にかなっているともいえる。適うかどうか分からない軍事同盟に賭けるよりこの場で道三の首を上げる方が得という見方が採れる。また道三は舅であっても親父(信秀)の信用を奪った仇でもある。この恨みを晴らすつもりでいてもおかしくないのである。
要するに道三は桶狭間のときの今川義元と似たような状況に置かれていたのである。気がついたらいつの間にか逃げ場のない状況となっており、匕首を首に突きつけられたような絶体絶命の状況に陥っていた。道三の長い人生で初めて経験する深刻な事態だったのではなかろうか。気付かぬ振りをしながら信長の様子を窺い、運を天に任せるしか手がないという状況だったとみて差し支えないだろう。
結局信長は道三の首を上げずに別れている。
道三は「おもしろくなさそうな顔で、ものも言わずに帰って行った」という。
「カリダゾ、ワカッテイルナ」
という信長のメッセージを重く受け止めていたからである。これが、お前の首などいつでも取れるんだ、という強烈な矜持であることも悟ったにちがいない。
「ものも言わずに帰って行った」のは「ものを言えなくなる事態」が起きたことを意味している。槍の長さの違いは覗き見した段階で気付いていたはずである。観れば人目で分かることなのだから覗き見したのであれば気付かぬことは考えられない。
それを改めて取り上げられているからにはこの違いを深刻に受け止める何事かがこの間に起きたことを意味している。覗き見の一件はこのメッセージのために貼られた付箋と解釈しないとその後の道三の変化(軍事的な援助をする)の説明が付かないことからこの見方(解釈)は成り立つのである。
以上がこの会見についての私の推理である。
このとき道三は59、信長は20歳はたちであった。この年齢差を考えれば道三の驚き(ショック)の程が知れると思う。密かに英雄を自負していたであろう道三が娘婿の20歳はたちの若造に子供のようにあしらわれたのである。「この道三の息子どもは、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろう」という結びの予言的な言葉に道三の気持ち(評価)がよく表われている。「あの阿呆」とは驚異的な大物という思いを「変わり者」に見立てて表現した揶揄である。
事実信長がしたことは広域暴力団の組長のハゲ頭を公然と叩いて立ち去るようなものなのである。道三を怒らせればただ事で済むはずがない。道三が尾張の反信長勢力や今川氏と手を結べば信長はひとたまりもなく破滅する。
それなのにまったく動じることなく平然とこれを成し、さらに組長(道三)の心をつかむ知恵を働かせて好転させている。相手の器量プライドを奪うような「借り」をつくることで相手の弱みを握り、この弱味を秘匿することで(面子を守秘するで)自分の望むを果たすよう強要しているのである。
こんな真似が馬鹿にできるわけがないだろう。よほどの度胸と自信と頭脳がなければできることではない。ここに仮面を取った信長が描かれている。見栄(道三の首を上げたことによる名声や評価)より実(軍事的援助への賭け)に拘った点は若いのに大したものである。「英雄は英雄を知る」という箴言ことばに賭けたことが勝因にちがいない。以上が私の推理である。 
 
織田信長の岩倉攻め(浮野合戦) 11

 

信長はなぜ同族の岩倉城を攻めたか
一宮市千秋町浮野海道に浮野古戦場跡の碑が存在する。約450年前、清須城織田信長は叔父で岩倉城織田信安を攻撃するため、浮野原へ陣を進めた。死闘二刻、首級九百余を討ち取った。これを浮野合戦と呼び、首級を埋めた地(通称浮ぐい首塚)に昭和39年春、一宮市が史碑を建て、毎年8月12日に合戦で命を落した武将らを慰霊する供養祭が営まれている。美濃斉藤道三の娘帰蝶(濃姫)は天文17(1548)年、信長の傅役平手政秀の斡旋により信長14歳、濃姫13歳で婚約が成立した。美濃蝮の道三と尾張織田統領信秀(信長の父)は戦では両者譲れず。政略結婚で話が進み美濃、尾張に明るい萌しを感じた。だが翌年、信秀は城中で不慮の最期をとげた。遺言により信長に嗣子(後継)を託した。平手政秀は信長を戒め自害す。同22年4月18日、斉藤道三は尾張の「うつけもの」の正体を見極めるべく富田の聖徳寺=尾西市富田、同歴史民俗資料館下流1キロ=で信長と対面した=写真。
その2年後、弘治2(1556)年3月、濃姫は信長に嫁いだ。道三は尾張の国盗りを感じていた。しかし、嫡男(長男)斉藤善龍は意を異にしていた。道三の実子龍重、龍定二人を殺し、道三打倒の旗を打ちたてる。同翌月24日、道三は長良川河畔で嫡男義龍と戦い、享年63歳で討ち死に。道三は美濃一国を信長に譲ると遺言を残した。
斉藤道三の遺言状
道三は討ち死にの前日、11歳の末子勘九郎に遺言状を託した。【要旨】原文『熊に申し送る意趣は美濃国の地、ついに織田上総介(信長)の存分にまかすべしきの条、譲り状、信長に対し贈り遺わし候。(中略)既に明日一戦に向かい成仏、疑いあるべからず候。げにや捨てだに此の世のほかは、なきものを、いずくか、つゆの住家なりけん』信長は道三の救護に出陣するが間に合わず。蝮の道三、織田統領信秀、天下を盗る思惑は全く崩れ両者は亡くなる。美濃、尾張の関係は急きょ険悪となる。同年9月、斉藤義龍は関城主永井隼人に命じて父道三の妻(お見ノ方、濃姫母)と明智光秀の生家、美濃明智長山城=可児市=を攻め落城させる。信長「うつけもの」の本性をあらわし、尾張統一の始まりである。
年22歳。同年那古野城の将林秀貞等、信長の弟信行を擁立しようとしたが、かなわず、ついに信長に降る。斉藤義龍は明智攻めに乗じ、信長の庶兄信広と謀り、清洲城攻略を計画するが失敗した。翌弘治3年11月、信行は同族岩倉織田信安と謀り再び背いた。信長は病と偽り、清洲城に誘い信行を誘殺する。上の郡犬山城織田信清は信長は今だ若年に候この期に付け入り、たくらんだ。先代信秀の格別の庇護地小坂源九郎政吉が討ち死にしていた。御台地である春日井郡柏井、篠木、三郷の横領を企てた。岩倉織田信安も同心し上郡の者心一つにし、信長如き恐れん、信秀恩顧の者どもも信長へ忠節の者少なく。柏井三郷の侍衆も同心であれば御台地三千貫文を分け与えようと、小久地目代中島左衛門尉、篠木、大留の各村を味方に引き入れた。しかし柏井三郷小坂氏は前野宗吉(小坂雄吉)の母の生家で柏井に在城していた。舎弟前小、峰小、義盟を結び三郷内に侠道尊ぶ者一千余あり、警護仕ると宗吉に伝えた。犬山勢一千有余、春日井原へ乱入、柏井原へ差し出や、山の手数十ケ村一揆衆松明、篝火天を焦がし、幾百のほら貝一斉に鳴り渡った。犬山勢は肝を冷やし、一戦も交えず一夜のうちに引き退いた。犬山城織田信清は信秀亡き後、柏井三千貫文掠め取らんとするも思わぬ不覚となった。信長はここにきて岩倉織田信安を攻める決意を固める。
信長は小折城の縁家生駒氏を根拠として岩倉、小口、犬山の分断を謀り、岩倉を攻める
永禄元(1558)年、濃姫の婚礼の附武将、堀田道空邸(津島)で信長は踊り張行を催し、信長は天女、前野但馬(前小)は弁慶に扮したと『信長公記』に記録されている。この踊りは大役を果たした道空へのお礼興業であったと言われ、生駒屋敷では嫡子誕生で、無礼講の踊り張行を催したと『武功夜話』は伝えている。そのころ信長は小折城生駒家宗の娘吉乃の屋敷で嫡子希妙丸(信忠)が弘治3年に、次いで茶筅丸(信雄)が永禄元年に誕生、翌年五徳(徳姫)と続いて三子が生まれた。信長は尾張北部の小折生駒屋敷で岩倉、小口、犬山の分断を謀り、織田家臣団も信長の時代を感じていた。  
尾張岩倉城を浮野原で戦う三つの謎は・・・
岩倉市は木曽川扇状地の扇端にあり、海抜9.5メートル、東にある矢戸川、五条川は途中合流し南西に流れその西は青木川(浮野川)で囲まれた湿地帯の自然堤防上の街で、弥生中期の大地遺跡が復元されている。岩倉城も五条川の自然堤防上に築かれ、二重の堀を構えた城で、五条川と青木川が自然のお堀のごとく巡らされ、その内側は寄り付きがたい節所である。織田信長は岩倉城を永禄元(1558)年5月28日、同年7月12日、その翌年の初春の頃と3回にわたり攻撃を繰り返した。
急きょ織田信安は引退して信賢が信長と戦う
尾張岩倉城主織田信安には2人の子息、嫡男信賢、次男信家があり、相続の争いになった。父信安は信家をもくろむが、織田家は二派に分かれ、お家安泰を求める家臣も争いを避けるべく分別に苦慮した。信賢の妻は斎藤道三と争った斎藤義龍の息女をめとっており、これを後ろ楯にして、自ら後継者となり父信安追放隠居の画策をする。時代は既に清須城織田信長の時代。信長は相続争いを見逃さず、生駒八衛門尉家長(吉乃の兄)を通じ岩倉織田奉行、稲田修理亮、前野宗康、福田大膳正に接触させ、信安引退をほのめかす。岩倉織田家中一同、評議の上、信賢殿は跡を継ぎ、伊勢守の後継者となられた。信安は俗塵をはなれ陶=各務原市須衛町=の山道、つつじ咲く坂道を越え、妻の生家斎藤氏を頼り、美濃白金=関市=の地に次男信家を帯同して隠居仕り。後継者となった伊勢守織田信賢は、永禄元年に美濃斎藤義龍と謀り信長に攻撃をし掛ける。「武功夜話」
犬山城信清はなぜ信長と組み、岩倉信賢を攻めたか
岩倉家中、これをいさめたが、強気一途の信賢殿。信長と敵対の色濃く、信長殿は生駒家長を説客となし、再三まかり越して上四郡の丹羽、春日部郡は信賢殿、犬山大河筋より葉栗郡(含黒田城)は犬山織信清殿。ただし大久地(大口)は古来より定めの信清殿の領地なれば従来通りと申したが、信賢殿は大久地三千貫文は祖々父が切り開いた地なれば承服しがたし。それは元来、岩倉伊勢守の領地で、信賢の祖々父敏信の頃よりの定めであった。敏信は竹ケ鼻戦で明応4(1495)年討ち死に。父信安が幼少のため、犬山城信康(信清の父)が御後見役となり、大久地三千貫文を支配した。その後、犬山信康は美濃端竜寺山戦で天文16(1547)年に討ち死にしたが、支配を続けていた。生駒家長は筋道立てて説いたが、両者譲らず、ついに物分かれとなった。だが、犬山織田信清殿は武辺の仁(人)。生駒家長は慎重に調略の議を重ね、大久地三千貫文は犬山織田信清殿に認める。よってこのたびの件、今や信長殿の威勢は当国に於いて並ぶ者なき強者也。陣ふれがあれば数千余騎清須に参集する。岩倉七兵衛信賢蜂起あるも保ち得ずと説得し調略の議に成功し、信長の岩倉攻めに協力の誓紙をかわした。
信長は岩倉城の五条川、青木川の湿地帯を避け生駒屋敷(小折城)に近い浮野原に布陣した
岩倉城織田信賢は美濃斎藤義龍、犬山、大久地、黒田勢を頼りに戦を始めたが、尾張勢はみな信長の調略に動いた
永禄元年5月28日、(「総見記」による)
信長は清須より下津=稲沢市=を大きく迂回して岩倉城の北北西約5キロ、青木川の外を回り、湿地を避け足場の良い浮野原に総人数2000余騎で陣地を構えた。「城の体を御覧じ所々に放火し、早まる雄の若侍100騎計を進ませ、足軽を掛けさせ敵侍の動静を静かに伺い給ふ。岩倉城の者共は信長が誘い出さんと見えたり。城中を固め居り。ただ追手門外へ七郎左、山内両人300余騎を出し備えたり。信長若侍150騎計り出さる。敵も150騎計り出会い、矢軍、鑓を手々に攻戦。2度目弓者は森可成500計り出し、敵1000騎計り、森散々に合戦し、柴田権六、横合に突き立ければ、敵方どっと崩れ、門際まで押し詰め、敵首270計討ち取った。其日、森、柴田を浮野原に残し清須へ御凱陣成」
同7月12日
清須より岩倉へ約7.5キロ、節所たるにより5キロ上岩倉を廻り足場の良い浮野原に犬山、大久地衆合わせ3000計り。午剋(正午)頃東南へ向かって切りかかり、数刻相戦い、追い崩し、浅野と言う村に林弥七郎(秀吉の妻ねねの父)と申す者あり、弓達者の仁体なり。清須方の橋本一巴鉄砲の名人、渡り合い、強く弓を引き放つと矢一巴の脇下へ深々と射込む。一巴も二ツ玉の鉄砲にて相打つ。弥七郎も打ち抜かれ倒れける信長の小姓佐脇藤八(前田利家弟)林の首を討ち取らんとするが、弥七郎伏したが、太刀を抜いて藤八の左肘切り落とす。藤八は手早く弥七郎の首取りけり。林弥七郎弓と太刀の両用の働き比類なき武辺者と敵も味方も賞した。さて城中の者共敗軍、岩倉へ引き返し城際まで追い詰め敵の首800〜900討ち取り引き揚げ給う。晩景に難なく清須へ帰陣。
翌永禄2年初春
再度信長は軍を増やして、2000有余浮野原に布陣。岩倉方織田七郎左衛門は1500の手兵を率いて町家垣内取出を固め、両軍しばしうかがい増れど、清須方浮野原より寄せ来らず、一両日取り合いの様子なく、犬山織田信清殿、総勢1000有余二手に分かれ下り来る。犬山勢中島、和田新助300余、前野又五郎手兵140余騎、14日より生駒屋敷に詰めおり、岩倉方は数倍の犬山勢にかなわじと退き、連絡により岩倉方浮野原に出て空城の様子。犬山中島勢、遅しと浮野原へ駆け行き、美濃土田勘助(親正)300余も駆け行き、浮野原鉄砲の音、天地に響きわたった。岩倉方200余、清須方押しまくられ砂塵を上げて退きたる。午の刻過ぎし頃、浮野原一番の取り合いにて犬山、清須衆、信長殿も馬廻り衆を引き連れ町家内へ乗り付けて火を放ちまする。二度、三度と城方引き返し戦いますれど、浮野原にて死力尽しての討ち合い大半討ち取られ、ようやく城へ辿りつきたる兵ども、城空城のごとく四散仕る。信長殿清須へお引き上げは薄暮の頃なり。しかれども、浮野表より崩れ候者共三々五々城内にたどり着きたる者大方手負いて、城内はわずか300有余、町家は焼け落ちまして、一戦覚策なく再三の越訴に及びしが、御容認なく。すでに領地もなくお家存続もかなわず、大人共相談の揚句、古川筋警護の佐々内、前野小兵衛案内仕り、信賢殿美濃へ落ち行かれた。岩倉城は応永29(1422)年、下津城入道常松、嫡男伊勢守織田敏広築城、2代寛広、3代敏信、4代信安、5代信賢永禄2年、織田信長に攻められて落城。その間約130年であった。 
 
国盗物語の道三雑話 12

 

道三は美女を手に入れるだけでなく天下の野望をもつ
庄九郎は、京にむかって歩いている。
(われながら、紳工のこまかいことよ)とおもうのだ。
(お万阿は手に入れることはできる)とまでは、自信はついた。
しかしながら、ただ単にお万阿の女体を手に入れるだけではつまるまい。
ほしいのは、奈良屋の財産だ。
あの有馬の湯でお万阿のののさまを見ながら、なおお万阿を放ちやったのは、庄九郎なりの手管である。
あのときは、お万阿は抱けた。お万阿はよろこんで庄九郎に身をまかせたであろう。
(しかしながら)それだけのことだ、と庄九郎は思う。お万阿を得るだけのことである。
お万阿をして、身も世もなく庄九郎に惚れさせねばならぬ。悩乱して、ついには命よりも大事な奈良屋の身代をなげだすまでにお万阿の心を灼きあげてゆかねばならぬ。
(そのためには)辛抱が肝腎。
庄九郎は、颯颯々と歩いてゆく。一あし一あしが、地を踏みしめるような歩き方だ。
庄九郎には、あらたな自分への自信ができた。自分への発見といっていい。
(おれは稀有の男だ)という自信である。考えてもみよ、と庄九郎は北摂の天を見あげるのだ。
お万阿は、京随一の美女という。京随一の美女といえば、天下随一美女ということでもる。
(天よ、おれを嘗めよ)この松波庄九郎は、その美女を裸形にし、その体を開かせ、しかも抱かなかったではないか。
あの場にのぞんでその事に堪えうる者は、本朝唐天竺ひろしといえどもこの松波庄九郎のほかはあるまい。
(野望があるためだ)と、庄九郎は思うのである。男の男たるゆえんは、野望の有無だ、と庄九郎はおもっている。庄九郎の満足は、自分の野望が女色をさえしりぞけられるほど違い、ということであった。
(いやいやこの庄九郎、いままで男であると思っていたが、これほどの男であろうとははじめて知った。一国一天下を望むも、もはや夢ではないであろう)鳶が、舞っている。
庄九郎は、北摂の山峡を、黙々と京にむかって歩いてゆく。
(京での用事は)お万阿を抱くことだ。あの想いにじれているだろうお万阿のからだを、こんどこそは抱く。抱く。
(どう抱くべきか)残念なことに、学は古今に通じているはずの法蓮房松波庄九郎は、天地万物の事理のなかでたったひとつ、女を抱くすべを知らない。
(いやさ、知ってはおる。男女の合歓は自然の道だ。教えられずともわかるものであるが、ただそれではお万阿の心は蕩かせるわけにいかぬ。芸がいる。芸が。−)芸が。−これが、庄九郎のやり方である。歩一歩、芸でかためつつ、階段をのぼってゆく。 
道三は気のながい「天下への計画」をもっていた
「この寺に、重要文化財の斎藤道三画像が保存されているが、いまひとつ、道三がつかっていたハンコも保存されている。
斎藤山城と刻まれている。
じつに几帳面な印形である。これをもし愛用していたとすれば、庄九郎道三という男は大それた野望をいだきながら、しかも気の遠くなるような着実な場所から、計画的に仕事を運んでゆく男なのであろう。
ふと、エジプトの墓泥棒の話をおもいだした。
古代エジプトの墓泥棒は、王が生前、自分の墳墓をつくりはじめると、かれら泥棒も、沙漠のはるかな人煙絶えた果てから穴を掘りはじめるという。
むろん、五年や十年で、墳墓の底に達しない。場合によっては、父が掘ってそこで死んだ場所から子が掘りつぎ、孫の代になってやっと、墓の中の財宝を盗みだすという。
斎藤道三庄九郎は、やはり日本人だからこれほど気のながい「計画」はできない。
しかし北川英進氏のいわれるこの「真の英雄」は、エジプトの穴掘りどもには及ばずとも日本人としてはめずらしく、「計画」があった。
奈良屋の養子から、たくみにすりかわって、「山崎屋庄九郎」になりすましてしまったことは、重大なことである。店もそのまま。商売道具もそのまま。手代、売り子もそのまま。しかし屋号だけが、奈良屋でなくなり、山崎屋になってしまった。
「ご料人さま、これほどお家にとっておめでたいことはござりませぬ」と、人のいい手代の杉丸などは、ぽろぽろうれし涙をこぼしながら、お万阿ご科人にいうのだ。
「お店は、万々歳でございます」「…?」お万阿は、変な顔をしている。なるほど、いったんは神人どもに取りつぶされた営業権が、庄九郎のあざやかな才智で復活はした。しかしあっというまに奈良屋が消え、山崎屋が誕生している。 
道三は天下の交通の要地・美濃に目をつけた
ついに、「美濃」ときめた。
美濃の国は、郡のかずでいえば十数。米のとれ高は六十五万石はくだらない。
その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。
(美濃を制する者は、天下を制することになる)と庄九郎は見ぬいた。
庄九郎が、美濃をえらんだのは天才的な眼識といっていい。美濃に天下分け目の戦いがおこなわれたのは、古くは壬申ノ乱があり、のちには関ケ原の戦いがある。徳川時代には、美濃に大大名をおかず、つまりこの国を制せられることをおそれ、一国のうち十一万七千石を幕府直轄領とし、あとの六十余万石を大名、旗本八十家にこまぎれに分割してたがいに牽制させた。それほどの要国である。
それに庄九郎は、遠く鎌倉時代から美濃に封ぜられている、土岐家が腐敗しきっていることが、なによりも気に入っていた。
土岐家は足利幕府の諸大名のなかでもきっての名家で、往年は強盛をほこったものであった。 
道三は襖絵の虎の目を射って主君の側室を獲る
まだ、構えている。
くわっ、とひらいた庄九郎の眠が、しだいに細くなってゆく。眼が細くなるにつれて顔から表情が消え、消えるにつれて、肩、両手に入っていた力が抜け、抜けた力は、構えている庄九郎の姿の下へ下へと沈み、やがて腰がすわった。
(まあ、みごと。……)と、舞の上手の深芳野は、庄九郎の肢態の美しさに眼をみはった。
土岐頼芸は、杯を唇にもって行ったまま、金縛りに遭ったように身動きもせず、杯越しに庄九郎の姿をみている。
「………」と、庄九郎は動いた。
駈けた。するするするする、と両足が畳の上をむだなく移動してゆく。素早い。両足がしきいを越えた。いま一つ、しきいをひらりと越えた。
越えると同時に、「うっ」と跳躍し、砥ぎすました槍の穂が光の尾をひいて、頼芸と深芳野の眼の前を通りすぎた。
最後に庄九郎は、大喝した。体がはねあがった。槍の穂がほとばしるように伸び、金色に輝いている虎の眼の黒い瞳の中心でとまった。襖絵の猛虎は、なおも咆哮している。
「殿、おあらためを。−」と庄九郎は槍を背後へころがして、平伏した。頼芸は立った。深芳野もおもわず立ちあがった。
「おお」と頼芸は、虎に顔を近づけてうめいた。
信ぜられぬほどのことだが、虎の瞳の中央に、ブツリと銀針で突いたほどのかすかな穴があいている。
「勘九郎、でかした」と、頼芸はほめざるをえない。
「おそれ入りまする。されば、この賭け、それがとの勝ちでごぎりまするな」「いかにも」「それがしの勝ちとあれば、お約束のものを頂戴つかまつりまする。−深芳野さま」と、庄九郎は深芳野の手をにぎった。
「こちらへ参られますように」と手をとりつつ、そろそろと畳を踏み、頼芸の座からはるかな座にさがって、膝をつき手をつき、平伏した。
深芳野も、庄九郎の横にすわりながら、血の気をうしなった頻を、頼芸のほうにむけている。頼芸は、いまにも泣きだしそうな顔で深芳野を見ていた。
「深芳野さま。なにをなされております」と、庄九郎は頼芸へも聞こえよとばかりの大声でたしなめた。
「頭をおさげあそばすように。ながいあいだの殿のお手塩かけた御養育、おん礼申しあげられますように」「はい。………」と、泣くような小声でいった。 
道三はクーデターで一介の油商人から国主の執事になる
翌朝、庄九郎は軍勢のうち五百を割き、可児権蔵を大将にして鷺山城に急行させ、頼芸を迎えさせた。
頼芸は即日、美濃の府城である川手城に入り、国主の位置についた。
庄九郎は、京都へも手をうった。朝廷も足利幕府も何の威権もないが、賞典の授与権だけはもっている。ほどなく朝廷から頼芸に美濃守任官の沙汰がくだり、幕府からは美濃守護職としての相続を公認する旨、沙汰がくだった。
(これはこれでよし)庄九郎は頼芸に賀意をのべた。頼芸も無邪気なものだ。庄九郎の手をとり、「そちのおかげだ」と、眼をうるませた。庄九郎は手を頼芸にあずけながら無表情にうなずき、「深芳野を頂戴つかまつりましたるときの御約束を果たしたまででござりまする」といった。
このいわばクーデターのおかげで、つい数年前までは一介の油商人にすぎなかった庄九郎は、国主の執事となり、権勢ならぶ者はない存在となった。
が、その権勢も内実は不安定なものであることを、たれよりも庄九郎自身が知っている。なにしろ、頼る者といえば頼芸だけで、頼芸の権威の蔭にかくれてそれをあやつっているだけの存在なのだ。
美濃八千騎。
といわれる。この面積四百方里の国で、それだけの小領主がいるのである。その向背のいかんによっては庄九郎の位置もあぶないものだ。
とにかく頼芸は、庄九郎に対する論功行賞として本巣郡文殊城(現在の岐阜市から西北五里)を与えた。
が、庄九郎はこの城と領内の村々を一度見に行ったきりで、行こうともしない。もっともまるっきり無関心でない証拠に、領内の百姓の租税を美濃の他領よりも心持ゆるやかなものにした。
当然、百姓の好感を得た。この時代の百姓は、徳川時代のような法制化された「階級」ではない。兵農はまだ未分離の状態にあり、大百姓はいざ軍陣のときには小領主に動員されて騎馬武者(将校)になる者もあり、その百姓屋敷に飼われている作男どもはときに卒として活躍する。かれらの世論は重要というべきであった。
庄九郎はそういう「領民」どもをたくみに手なずけた。
なにしろ、庄九郎は京に山崎屋というぼう大な富があり、せかせかと百姓どもを搾らねばならぬようなしみったれた小領主ではない。
とにかく、その城には住まない。川手城内に屋敷をつくり、頼芸と肌を接するようにして土岐家の家政をみている。 
神仏でなく権謀術数の道三
「人の世の面白さよ」庄九郎は具足をつけながら、からからと笑い、つぶやいた。
人は、群れて暮らしている。
群れてもなお互いに暮らしてゆけるように、道徳ができ、法律ができた。庄九郎は思うに、人間ほど可憐な生きものはない。道徳に支配され、法律に支配され、それでもなお支配され足らぬのか神仏まで作ってひれ伏しつつ暮らしている。
(−しかしわしだけは)と庄九郎はおもうのだ。
(道徳、法律、神仏などには支配されぬ。いずれはそれらを支配する者になるのだ)おもしろい。人の世は。−
庄九郎にとってなにが面白いといっても権謀術数ほどおもしろいものはない。
権ははかりごと、謀もはかりごと、術もはかりごと、数もはかりごと、この四つの文字ほど庄九郎の好きな文字はない。
庄九郎はいま、稲葉山麓に城館をかまえる美濃第一の実力家長井藤左衛門を夜討にして討ちとろうとしている。
「それが正義か」と、「道徳」は大喝一声、庄九郎を攻撃するであろう。これほどの不義はない。
京から流れこんだどこの馬の骨ともしれぬ徒手空拳の庄九郎を引き立てたのは長井一族である。長井一族のうち、とくに長井利隆が推挙に推挙をかさねて庄九郎を押しあげてくれたのだが、長井藤左衛門にもまんざらの恩がないでもない。なにしろ藤左衛門は長井一族の宗家である。この宗家の藤左衛門が、−まずまず。
という態度でいてくれたればこそ、さしたる邪魔だてもなく庄九郎は美濃第一の出頭人(にわか立身の者)となり、さらには、「長井」という姓さえ名乗れるようになったのである。いわば、大恩。
さらに、「法律」は責めるであろう。なぜならば、庄九郎は形式的には、美濃の小守護である長井藤左衛門の下僚になる。上下の系列でいえば、美濃守護職土岐頼芸−美濃小守護長井藤左衛門−頼芸の執事庄九郎、というぐあいになる。その庄九郎が、上司を討つ。無法のきわみというほかない。 
美濃衆に囲まれた苦境時に出家して乗り切る
頼芸が、びっくりした。城内のどこでみつけたのか、庄九郎は墨染の破れ衣をまとい、縄の帯をしめ、頼芸の前に大あぐらをかいてすわっている。
「もとこれ、洛陽の乞食法師」庄九郎は、悠然といった。
「所領も城も返納つかまつります。加納城にいる深芳野をはじめ家来の者も、それぞれ身のふりかたをきめましょう。無一物になった以上、いまや失う物はありませぬ。失う物がなければ、怖るるものもない」「……」あまりのことに、頼芸は声も出ない。
「美濃を去ります」「そ、そなたは、わしを捨ててゆくのか」「最後に所望がござる」「な、なんじゃ」「酒を一杯」頼芸はすぐ酒の用意をさせた。しかしなんとか庄九郎を思いとどまらせられぬものかとこの男なりに思案している。洒になった。庄九郎は杯をかさね、いささか酔った。
そのうち、頼芸の側近の者から話が洩れて噂はぱっと川手城にひろまり、すぐ城外に滞陣している美濃衆の耳に入った。
「なに?あの者、城も所領も家来もすてて僧にもどると?」「うそじゃ」そういう者もある。しかし信ずる者も、むろんある。
(あるいはそういう男かもしれぬ)みごとな庄九郎の転身ぶりが、美濃の山里あたりからきた朴訊な武士の心を打ったようでもあった。
さて庄九郎。頼芸の御前にある。−
出家は本気であった。単純な男ではないが、この男なりに、いままですべてのことを本気でやってきた。単なるまやかしだけでは、京の奈良屋(山崎屋)を京洛随一の油屋にすることはできなかったであろうし、美濃にきてからも短期間にいまの位置まで駈けあがることはできなかったであろう。
が、単なる本気ではない。本気の裏っ側でいつも計数、策略が自動的に動いている男である。いまもそうだ。
「酒を所望」といったのは、「自分が出家した」といううわさが、川手城の内外にひろがる時間をかせぐための策略であった。みなに周知させねばならない。理由は、かれのあとの行動の伏線になる。
「ではそろそろ、おん前を退出しとうござりまする」「いや待て、新九郎」と頼芸はその名をよんだ。
「お屋形様、おそれながらその名は、すでにお返しっかまつっておりまする。かように頭をまるめましたる以上は、法名がござる」「法名とは?」頼芸は、きいた。
「道三」と、庄九郎は答え、その文字まで説明した。菊丸に頭を剃らせているときに考えついた入道名である。
「道三とはめずらしい法名だな」「道に入ること(入道、出家すること)三度でござるからな」「ほう、なぜだ。以前、京の妙覚寺本山にて法蓮房と称し、顕密の奥義をきわめたときいたが、こんどが二度目ではないか。それならばなぜ道二とせぬ」「三度目がござりまするよ」「それはいつだ」「死ぬるとき」
平然と答えた。仏法では、死は単なる死ではない。往いて生くるという。死はすなわち道に入ることである。庄九郎は二度入道し、さらに三度日の往生まであらかじめ勘定に入れて、このさき生きようとしている。 
道三は悪罵を気にやまない革命家
「前半期のわしは革命家、後半期のわしは武将として見てもらいたい」と庄九郎は要求するであろう。
なるほど、革命は、美と善を目標としている。すべての陰謀も暗殺も乗っ取りも、革命という革命家自身がもつ美的世界へたどりつく手段にすぎない。
革命家にとって、目的は手段を浄化する。
「ならぬ」ということでも、やる。幕末の勤王家は、同時に盗賊でもあった。殺人犯でもあった。しかしながら、かれらはその理想のためにその行為をみずから浄化し、その盗みを「撰夷御用」と称し、その殺人を「天誅」ととなえた。庄九郎も、かわらない。ただかれが日本の幕末や他国の革命家とちがう点は、その革命をひとりでやった点である。集団ならば御用盗になり天誅になるところを、一人であるがために、その言葉の裏面である悪罵のみを一身に受けることになった。
「もっとも」と庄九郎は、茶をのみながらいうにちがいない。
「その悪罵は、徳川時代の道学者がいっただけで、わしは同時代の者から悪罵はうけなかったよ」
読者は笑え。ここが、庄九郎的人間の特徴ともいうべきものである。庄九郎の同時代でも、人は「蝮」といってかげでは悪口をいったが、庄九郎の耳には入らない。人の悪ロが、耳に入らないたちの人間なのである。すくなくとも、人が悪口をいっている、などとカンぐったり気にしたり神経を病んだりしないたちの人間なのである。だからこそ、気にしない。
見えざる人の悪罵をあれこれと気にやむような男なら、行動が萎える。とても庄九郎のような野ぶとい行動はできない。この男の考え方、行動が竹でいえば孟宗竹のようにいかにもふとぶとしいのは、心の耳のぐあいが鈍感になってもるからであろう。革命家という、旧株序の否定者は、大なり小なり、こういう性格の男らしい。 
道三は織田軍に大打撃を与え海内一の勇将と評された
野武士団は挟み撃ちされるのをきらい、当然ながら山上に背をむけ、麓が庄九郎隊にむかって坂をころがり落ちるようにして突撃を開始した。
その集団が半ば麓におりたときを見はからい、庄九郎はふたたび、弓組、長柄組、騎馬隊の半弓、というぐあいに手順よく繰りかえして相手にすこしずつ打撃をあたえ、やがて、「われに続け」と流星のように一括突出し、敵群のなかに突き入って得意の槍をつかいはじめた。
そこへ白雲の隊が、どっと逆落しに敵の背後を突いたから、野武士群はささえきれずにあちらの田、こちらの竹薮、河原などへ四散しはじめた。
崩れた、となると野武士の群れほど弱いものはない。泣きながら逃げまどっているのもあり、素早いのは河を渡って尾張領へ逃げはじめた。
庄九郎、白雲は、それらをあちこちに追いつめ、悪鬼羅刹のように刀槍をふるった。
陽が落ちるころ、戦いはおわった。
庄九郎は河原で首実検をおこない、ことごとく首帳に記せしめた。
その数、六百七十。
それを尾張領からよく見えるように河原に具し、兵馬をまとめ、一気に駈けて加納城にもどった。
この戦闘と勝利の評判ほど、庄九郎のその後の美濃国内での活躍に利したことはない。
「海内一の勇将」という評判は、美濃一国の郷々、村々で鳴りひびいてしまった。
おそらく、庄九郎の中年すぎまでの好敵手になった尾張の織田信秀の耳にも痛いほどに入ったであろう。
もはや、「油産」などと蔑む者はいなくなった。 
道三は洪水対策で百姓で圧倒的人気を得た
庄九郎は、京に耳次を走らせて赤兵衛に米の運送方を命ずる一方、連日、泥にまみれて自分の領地と頼芸の直轄領の村々の復旧の指揮をしてまわった。
一方、三河、尾張、駿河、伊勢あたりまで頼芸の手紙をもって救援方を乞いに歩いた。
麦、味噌などが、どんどん美濃に入りこみ、それらは、国内の地侍の所領までうるおしはじめた。
古来、領主というものは百姓から年貢を収奪するばかりでこういう政治をする者はまれであった。庄九郎が下層の出身であり、かつ商人の出であったればこそ、そういう感覚も能力も豊かだったのであろう。
この結果、自領、他領をとわず、庄九郎の人気は百姓のあいだで圧倒的なものとなった。
「美濃の救い神じゃ」という声が、村々にあふれた。そのころ赤兵衛の手で京から米が運ばれてきた。それをかゆにして村々で吹き出させたから、人気はいよいよあがった。
庄九郎は、洪水を生かした。
どころではない。この洪水を、捨てるところがないほどに利用した。
「枝広はもはや、あぶのうござる」と頼芸に説き、頼芸も賛成し、かれを川手城・加納城(いずれも現在岐阜市)から北へ五里も入った山地に移すことにしたのである。
大桑城という。
はるかに飛騨の山々につづく大桑山の山上にある古城で、庄九郎がみずから監督してみちがえるほど壮麗な姿に仕立てかえた。なるほどこの山上なら、もはや洪水からの不安はない。
もともと洪水ぎらいの頼芸は、「なぜ早くここに移らなんだか」とよろこんだ。
追いやられた、とは頼芸は気づかなかったのであろう。 
道三は内外に善政を敷いた
ひとは、−美濃の蝮。と、庄九郎のことをいう。はじめはずいぶんこの蔭ロには閉口し、「蝮なんぞで、あるものか」と、自分の家来を厚く遇し、領民に他領よりも租税をやすくし、堤防を築き、濯漑用水を掘り、病いにかかった百姓には医者をさしむけ、かつ領民のための薬草園をつくった。美濃はじまっていらいの善政家といっていい。
このため、ひとはみな庄九郎の家来になろうとし、百姓たちはかれの領民であることをよろこび、他領の百姓まで、−なろうことなら、小守護様(庄九郎)のお屋形の見えるまわりで田を耕したい。
とのぞんだ。蝮は蝮でも、この男は人気のある蝮だったといっていい。
かれはつねづね、「人間とはなにか」と考えている。なるほど、善人もいる、悪人もいる。しかしおしなべて、−飽くことを知らぬ慾望のかたまり。
として見ていた。かれは、自分が学んだ法華経も、人間の慾望に訴えた経典であることを知っている。法華経にいう。
「この経はいっさいの人間を救いたまうものである。生存についての苦悩を救い、さらに人問の願いを満足させたまうものだ。たとえば、渇えた者には水、寒い者には火、裸の者には衣、病める者には医、貧しい者には財宝、貿易商人には海、といったように与え、満足させ、いっさいの苦や病痛から、人間を離れしめたまうものである」と。
庄九郎は正直なところ、法華経の功力などは信じていないが、しかしこの経典が説く、なまぐさい「人間の現実」は信じていた。人間とは慾のかたまりだ、と経典を書いた古代インド人は規定している。
「だからこそ」庄九郎は善政を布く。百姓には水をあたえ、武士には禄をあたえ、能力や功績ある者には惜しみなく財物をあたえ、商人には市をたてて利を大きくしてやる。
(これでも蝮か)と庄九郎はおもうのだ。なんと、法華経が説く「功力」そのもののような男ではあるまいか。法華経は、仏を説いている。
(乱世では、ほとけもマムシの姿をしているものさ)とおもっている。
が、庄九郎は、自分が蝮だといわれていることを気にする段階はすぎた、とおもっている。これからのちは、一方で善政を布きつつ、内外に対して、−れをみろ、蝮だ。がらりとひらきなおるべき時期にきた、と庄九郎は見ている。 
道三は野望という未完成の作品を信長に継がせたいと思った
「帰館してすぐ手紙をかくというのも妙だが、書きたくなる気持をおさえかねた」とか、「わしはすでに老いている。これ以上の望みはあっても、もはやかなえられぬ。あなたを見て、若いころのわしをおもった。さればわしが半生かかって得た体験、智恵、軍略の勘どころなどを、夜をこめてでも語りつくしたい」とか、「尾張は半国以上が織田家とはいえ、その鎮定が大変であろう。兵が足りねば美濃へ申し越されよ。いつなりとも即刻、お貸し申そう。あなたに対して、わしにできるだけのことを尽したい気持でいっぱいである」とかいう、日ごろ沈毅な道三としては、あられもない手紙だった。
自分の人生は暮れようとしている。青雲のころから抱いてきた野望のなかばも遂げられそうにない。それを次代にゆずりたい、というのが、この老雄の感傷といっていい。
老工匠に似ている。この男は、半生、権謀術数にとり憑かれてきた。権力慾というよりも、芸術的な表現慾といったほうが、この男のばあい、あてはまっている。その「芸」だけが完成し作品が未完成のまま、肉体が老いてしまった。それを信長に継がせたい、とこの男は、なんと、筆さきをふるわせながら書いている。
信長は帰城し、例の男根の浴衣をぬぎすて、湯殿に入った。
出てきて洒をもって来させ、三杯、立ったままであおると、濃姫の部屋に入った。
「蝮に会ってきたぞ」と、いった。
「いかがでございました」「思ったとおりのやつであった。あらためて干し豆などをかじりながら、ゆっくり話をさせてみたいやつであったわ」「それはよろしゅうございました」と、濃姫は笑った。言いかたこそ妙だが、これは信長にとって最大の讃辞なのだということが、濃姫にはわかっている。 
道三は平和をこのむ怠惰な老年をむかえようとしていた
−義竜を廃嫡する。とは言明したことがない。お勝の仇討事件で日ごろの義竜への感情がなるほど募りはしたが、廃嫡、とまでは真底から考えているわけではなかった。正直なところ、廃嫡して事を荒だてるには、道三は年をとりすぎていた。
おだやかな毎日がほしい。
そういう慾望のほうがつよくなっている。すでに働き者の権謀家のかげがうすれ、平和をこのむ怠惰な老年をむかえようとしていた。
−それに。道三にとって大事なことは義竜などは愚人でしかなかった。孫四郎以下の実子も、義竜に輪をかけたほどの不器量人である。変えたところで変えばえもしない。また義竜をその位置にすえておいたところで、あの年若い肥大漢になにほどのことができよう。
深芳野という、義竜の出生の秘密を知っている者がいる、ということも、ついぞ道三は考えたことがなかった。深芳野という女は、かつてその体を愛し、それをさまざまに利用した。道三の美濃における慾望の構築に、ある時期はそれなりの役に立った。その効用はおわった。効用のおわった深芳野は、尼になって川手の寺で世を捨てている。それだけのことである。その深芳野が、わが子の義竜に無言の告白をし、そのために義竜の心に思わぬ火がつく、というような珍事は、道三は空想にもおもったことがない。自分以外の者は、すべて無能でお人好しで自分に利用されるがためにのみ地上に存在していると思いこむ習慣を、この老いた英雄はもちすぎていた。
義竜が重病に陥ちた。
と、いうことをきいたときも、である。それを意外とも奇妙とも思わなかった。
(義竜が?‥あの化けものは巨きすぎた。巨きすぎるのは体のどこかにむりがあるということだ。そのむりが、裂け目をひらいた。死ぬかもしれぬ)と、おもっただけである。義竜が死ぬ、ということで、実子の孫四郎をその跡目に立てるということも道三はしなかった。衰竜には竜興という子がある。ごく当然のこととしてその竜興に継がせるつもりであった。されば道三の血統はついに美濃を継がなくなる。それでもよいわさ、というあきらめが、この男にはあった。無能の人間を跡目につければやがてはその無能のゆえにほろぶ、ということをこの老人は身をもって知りぬいてきている。
(どっちにしろ、おれ亡きあとは尾張の婿どのが美濃を併呑してしまうにちがいない。あの若者はきっとやる。それだけの天分をもってうまれている。おれが営々ときずきあげた美濃一国は、あの者がふとってゆくこやしになるだけだろう。それはそれでよい)と、道三はおもっている。こういういわばおそるべき諦観と虚無のなかにいる道三が、たかが義竜ごとき者の一挙手一投足にうたがいの視線をむける努力をはらわなかったのも、当然といえるであろう。 
道三は憐憫によって計算と奇術をあやまらせ滅んだ
(あの馬鹿めを、みくびりすぎた。このおれともあろう者が。−)空をみた。憎らしいほどに晴れ渡っている。
(ひさしぶりで、いくさの支度をせねばならぬ)道三はゆるゆると馬をうたせ、森の下草を踏ませながら、思案した。わが子を相手にどのようないくさをしてよいのか、構想がうかばぬ。
ぼう然と道三は馬をうたせてゆく。その顔はハマデリのように無表情だった。頭のなかに、いかなる電流も通じていない状態である。むりもなかった。義竜ごとき者を相手に−というばかばかしさが、考えよりもまず先立ってしまうのである。
(おれの生涯で、こんなばかげた瞬間をもとうとは思わなかった。義竜は躍起になって兵をつのるだろう。それはたれの兵か、みなおれの兵ではないか。義竜は城にこもるだろう、その稲葉山城というのもおれが智能をしぼり財力をかたむけて築いたおれの城ではないか。しかも敵の義竜自身−もっともばかげたことに、あれはおれの子だ。胤はちがうとはいえ、おれが子として育て、おれが国主の位置をゆずってやった男だ。なにもかもおれはおれの所用物といくさをしようとしている。おれほど利口な男が、これほどばかな目にあわされることがあってよいものだろうか)道三は、顔をゆるめた。
いつのまにか、顔が笑ってしまっている。笑う以外に、なにをすることがあるだろう。
(おれは若いころから綿密に計算をたて、その計算のなかで自分を動かしてきた。さればこそ一介の浮浪人の身から美濃のぬしになった。計算とは、奇術といってもいい。奇術のたねは、前守護職土岐頼芸だった。頼芸にとり入り、頼芸を利用し、頼芸の権威をたねにあらゆる奇術を演じ、ついに美濃一国をとり、頼芸を追い出した。頼芸はおれにそうされるに償いした。なぜならばとほうもないあほうだったからさ。しかしそのあほうにも生殖能力だけがあることをおれはわすれていた。深芳野と交接し、その子宮に杯一ぱいのたねをのこした。深芳野は泣く以外になんの能もない女だったが、深芳野の子宮はふてぶてしくもその胤をのみこみ、混め、月日をかけて一個のいきものに仕立てあげてこの世へ出した。それが義竜だ。おれはそれを自分の子として育てた。そうすることに政治上の価値があったからだが、国主にまでする必要はなかった。それをおれはした。おれの心に頼芸への憐憫があったからだろう。その憐憫というやつが、おれの計算と奇術をあやまらせた。
ばかげている、と思った。人智のかぎりをつくした美濃経営という策謀の芸術が、なんの智恵も要らぬ男女の交接、受胎、出産という生物的結果のためにくずれ去ろうとは。
(崩れるだろう)と、道三は自分の終末を予感した。これが、自分の生涯の幕をひかせる最後の狂言になるだろうとおもった。森を出た。
街道に出るや、道三は森の中の道三とは人がかわったように活気を帯びた。鞭をあげ、馬を打った。馬は四肢に力をみなぎらせ、一散に鷺山城にむかって駈け出した。 
桶狭間の戦い
このころ信長は、山を越えきってすでに谷に入っていたが、途中この嵐に遭い、(天佑か。−)と狂喜したが、しかしいかにこの無法な男でも軍を前進せしめられるようななまやさしい風雨ではなかった。地を遭わなければ吹きとばされそうになる性どの風速で、しかも滝のように降ってくる雨のために視界はほとんどなかった。部隊は細い谷川のなかを進んでいる。忽ち水かさがふえ、足をとられる者が多い。それでも信長は進んだ。
途中、六百メートルほどの平野を横切ったが、この部隊行動が風雨の幕のために今川方からついに見えなかった。信長はさらに山に入って南下した。山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍がのぼりくだりした。が、信長は馬から降りない。子供のころから異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄の置ける場所さえあれば楽々と馬を御することができた。
善照寺を出発して以来、道もない山のなかを六キロ、二時間たらずで踏みやぶり、田楽狭間を見おろす太子ケ根についたのは午後一時すぎであったろう。風雨がさらに強くなったためにここで小歇みを待った。
天がやや零れ、風が残った。その風とともに全軍、田楽狭間に突撃したのは、午後二時ごろであった。
敵の警衛陣は、風雨を避けるために四散していた。雨のなかから躍りこんできた織田兵に気づいた者も、風雨のために友軍との連絡が断たれているため有機的活動ができず、ただ逃げるしか仕方がなかった。それにこの乱軍のなかで、最大の不幸がおこった。
「裏切りぞ」という叫び声があがったことであった。今川軍では信長がまだ熱田か、せいぜい善照寺あたりに居るものと思っていたため、味方の反乱としか思えなかったのであろう。この混乱のなかでそういう疑惑がおこった以上、もはや味方同士を信ずることが出来なくなった。互いに互いと衝突しては打ち合い、逃げ合い、たちまち軍組織が崩壊した。
義元は、松の根方でひとり置き去りにされた。小姓どもは周囲のどこかで戦っているのであろうが、みな義元をかまうゆとりがない。
「駿府のお屋形っ」と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部小平太であった。
「下郎、推参なり」と義元は、今川家重代の「松倉郷の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青員の槍の柄を戛と切り飛ばし、跳びこんで小正丁太の左膝を斬った。
わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃つこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は首のままで歯噛みしており、そのロ中に新助の人差指が入っていた。
戦闘が終結したのは、午後三時前である。四時に信長は兵をまとめ、戦場にとどまることなく風のように駈けて熱田に帰り、日没後、清洲城に入った。
「お濃、勝ったぞ」と、この男は、潰姫にひと言いった。 
工芸的な戦術家は甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出
(その桶狭間でおれは勝った)という自信が信長にある。その自信が信長をしゃにむに前進させた。
余談だが、戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速に集結させ、快速をもって攻め、戦勢不利とみればあっというまにひきあげてしまう。その戦法はナポレオンに似ている。
手のこんだ、巧緻で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸、同幸村、竹中重治といった例がそうであろう。
信長は、一望鏡のように平坦な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため兵力の機動にはうってつけだが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する小味な戦術思想に欠けている。
美濃の地勢はその点、小味で陰性な戦術家を多くそだてている。
陽気な尾張の平野人たちは勢いに乗って猛進した。
ついに稲葉山城が目の前にせまっている長森まできたとき、天地が逆転したかとおもわれるほどの異変がおきた。
まわりの森、薮、土手、部落からおびただしい数の美濃兵が湧き出てきて、信長軍の両側を突き、かつ退路を遮断し、さらにいままで退却をつづけていた美濃軍が、いっせいに旋回して織田軍の先鋒を突きくずしはじめたのである。
美濃風の戦鼓、陣鉦、陣貝が天地に満ち、織田軍は完全に包囲された。
(いかん)とおもったときは信長は馬を尾張にむけさせ、戦場からの脱出をはかったが、美濃軍のなかでも猛将で知られる日根野備中守兄弟が信長の旗本をめがけて火の出るように攻め立ててくるため動きがとれない。
織田方の崩れを見て、稲葉山城から美濃軍の主力がどっと攻めかかり、織田軍を分断しつつ包囲敢滅にとりかかった。
信長は身一つで血路をひらき、やっと尾張に逃げ落ちたが、対岸の美濃では羅刹に追われる地獄の亡者のように織田兵が逃げまどって惨澹たる戦況になっている。
やがて陽が落ち、暮色が濃くなるにつれて織田兵は救われた。闇にまぎれてかれらは南へと退きはじめた。 
明智光秀による覚慶(足利義昭)の脱出
光秀は、無官の身である。
本来ならば供待部屋で待つのがふつうだったが、とくに、「薬箱相持」という名目で、常御殴にあがり、覚慶の寝所にまで入り、次室でひかえた。
米田求政はしかるべく御脈をとり、ほどなく退出した。それが第一日である。
翌日、翌々日、さらにその翌日、とおなじ刻刻にあらわれ、常御殿で脈をとり、投薬をし、帰ってゆく。
五日目。
「きょうは法眼殿はおそいな」と、警戒の武士たちがささやくころ、光秀に松明をもたせて、米田求政はやってきた。
「罷る」「通られよ」武士どもは、すっかり馴れている。
法眼はいつものように診察と投薬をおわると、あたりに人がないのを見すまし、「御所様、今夜こそ。−」と、耳うちした。
脱出の策は、すでにきめてある。覚慶門跡自身が、触れを出し、−全快した。
と称し、その本復祝いに、門わきの詰め所の警備の侍どもに酒を下賜する。
そのとおり、事がはこばれた。酒樽が三つの門にそれぞれくばられ、「存分におすごしなされませ。内祝いでござりまする」と、稚児どもが肴までくばって歩いた。三好・松永の兵は、いまでこそ京をおさえているとはいえ、元来は阿波の田舎侍である。
酒には意地がきたない。
それぞれの屯ろ屯ろ芸みはじめ、夜半をすぎるころには宿直でさえ酔い痴れた。
(いまこそ。−)と、常御毀に詰めている光秀はそう判断し、足音もしめやかに次重から閏を踏みこえて覚慶門跡の病床ににじり寄り、「十兵衛光秀にござりまする」と、覚慶にはじめて言上し、「おそれながら」と、この貴人の手をとった。
「御覚悟あそばしますよう。ただいまよりこの御所の内から落しまいらせまするゆえ、すべてはこの光秀にお頼りくださりませ」「心得た」と、覚慶はうなずいたが、さすが、おそろしいのか、歯の根があわぬ様子である。光秀は覚慶の手をとった。掌がやわらかい。外は、風である。
覚慶、求政、光秀の三人は、茶室の庭から垣根をこえ、這うようにして乾門のわきの築地塀の下まで接近し、そこであたりの人の気配をうかがった。光秀は、地に耳をつけた。
(酔いくらって、寝ている)思うなり、光秀は身をおこした。身がかるい。
ひらり、と、塀の上に飛びあがった。やがて手をのばして覚慶、求政という順で塀の上にひきあげ、つぎつぎと路上にとびおりた。月は、ない。夜目に馴れぬ覚慶には、半歩も足をうごかすこともできない。
「おそれながら、背負い奉る」かるがると背負い、足音を消して忍び走りに走りはじめた。
「光秀、苦労」と、のちに十五代将軍になるにいたる覚慶は、光秀の耳もとでささやいた。おそらく覚慶にすれば、このときの光秀こそ、仏天を守護する神将のように思えたであろう。光秀は足が早い。(この男は、夜も目がみえるのか)と、覚慶があきれるほどの正確さで、光秀は闇のなかを飛ぶように走った。 
信長の信玄への外交戦勝利
信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
「信長とは、信実深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑んで感嘆した。
信長には、魂胆がある。将来のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
程を見はからって、それを申し入れた。
美濃、といっても木曾に近いあたりの苗木に遠山勘太郎という城主がいる。苗木は、現今、観光地の恵那峡のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画や知られている遠山左衛門尉景元という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
この遠山家に、死んだ道三の正室小見の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
それに雪姫という娘がある。
濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
美貌である。
明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
「その雪姫を、なにとぞ勝頼様に」と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。
勝頼は武田家の世嗣である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、「よかろう」といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄九年の末である。
雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶがわるかった。
信長の申し出は、「姫御の菊姫さまを」というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿となるべき信長の長男信忠はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下日の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、「よかろう」と、信玄は快諾した。
このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒に立て、逆らう者どもを蹴散らさせようと考えはじめていた。
信長も、そこは心得ている。
「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
「信長は自分にとって無二の者である」と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
(信玄も存外あまい)と、信長は、虎のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。 
信長は桶狭間を誇らず必ず勝てる条件をつみかさねて戦う
北近江を通過するとき、洩井長政の軍八千がこれに加わり、四万を越えた。
この四万が琵琶湖の東岸を南下し、数日のうちに六角方の十八個の城を将棋倒しに潰滅させるというすさまじい進撃ぶりをみせ、最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
承禎入道は城を出て奔り、甲賀から山伝いで伊賀にのがれ、頼朝以来の名家は、ほとんど瞬時に、といっていいほどのあっけなさでつぶれた。
(驚嘆すべきものだ)と、軍中にある光秀はおもった。光秀も専門家である以上、この圧倒的戦勝におどろいたのではなかった。信長という人物を再認識する気になったのである。
(あの男は、勝てるまで準備をする)ということに驚いた。
この進攻戦をはじめるまでに信長はあらゆる外交の手をつくして近隣の諸豪を静まらせておき、さらに同盟軍をふやし、ついには四万を越える大軍団を整えるまでに漕ぎつけてから、やっと足をあげている。
足をあげるや、疾風のごとく近江を席巻し、驚異的な戦勝をとげた。味方さえ、自軍の強さにぼう然とするほどであった。
(勝つのはあたりまえのことだ。信長は必ず勝てるというところまで条件をつみかさねて行っている。その我慢づよさ)おどろくほかない。これが、あの桶狭間のときに小部隊をひきい、風雨をついて今川軍を奇襲した信長とは思えない。
(信長は自分の先例を真似ない)ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを模倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。
−桶狭間の奇功は、窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎない。
と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過小に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやりはじめた。この上洛作戦がいい例であった。
「戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ」という、もっとも平凡な、素人が考える戦術思想のJに信長は立っていた。このことにじつは光秀はおどろいたのである。(おれの考え方とはちがう) 
信長が京料理人・石斎を生かした理由は自分に有能だから
早速、石斎は牢から出され、すずやかな装束をあたえられ、台所に立たされた。この料理をしくじれば再び牢に逆もどりするのである。自然、台所方の者まで、石斎のために緊張した。
やがて膳出来た。
それを係々がささげて信長のもとにもってゆく。信長は箸をとった。
吸物をぐっと呑んで妙な顔をした。やがて焼き魚を食い、煮魚を食い、野菜を食い、ことごとく平らげた。
そのあと菅屋が入ってきて、いかがでござりました−ときくと、信長は大喝し、「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪しきは世に在る理由なし、―殺せ」といった。
菅屋も、仕方なくひきさがり、その旨を石斎に伝えた。
石斎は大きな坊主頭をもった、とびきり小柄な老人である。ゆっくりとうなずき、動ずる風もない。
「どうした、石斎」「いや、相わかりまする。しかしながらいま一度だけ、御料理をさしあげさせて頂けませんぬか。それにて御まずうござりましたならば、これは石斎の不器量、いさぎよく頭を別ねてくださりませ」といったから、菅屋ももっともと思い、その旨を信長に取り次いだ。
信長も、強いてはしりぞけない。
「されば明朝の膳も作れ」と、わずかに折れて出た。
明朝になり、信長は石斎の料理にむかった。吸物をひとロすすると、首をかしげた。
「これは石斎か」「左様にござりまする」と、給仕の児小姓が指をついた。信長はさらに食った。もともと大食漢だけに膳の上の物はことごとく平らげ、箸を置き、「石斎をゆるし、市原五右衛門同様賄頑として召し出してやる。滅法、旨かった」と、機嫌がなおった。料理のうまさもさることながら、人の有能なところを見るのが信長の最も好むところなのである。
菅屋は、そのとおり石斎に伝えた。石斎はおどろきもせず、「左様でござりましたか。御沙汰ありがたき仕合せに存じ奉りまする」と通りいっぺんの会釈をし、退った。
あとで台所役人たちが疑問に思った。なぜ最初の料理があれほどまずかったか、ということである。
「石斎殿にも似気のないことだ」と囁いたが、やがて石斎が他の者にこう語ったという噂がきこえてきた。
「最初の膳こそ、わが腕によりをかけ料理参らせた京の味よ」だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
「田舎風に仕立てたのよ」と、石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、石斎は暗に言いたかったのである。
この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。
意外に信長は怒らなかった。
「あたりまえだ」と、信長はいった。
この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍の義昭や公卿、医師、茶人などにつきあってかれらの馳走にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎悪していた。
だからこそ石斎の薄味を舌にのせたとき、−(あいつもこうか)と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。
「おれの料理人ではないか」信長の舌を悦ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
「翌朝、味を変えた。それでこそ石斎はおれのもとで働きうる」信長はいった。 
光秀は働きに働いたあげく殺されるだろうという不安を抱えていた
光秀は、ひさしぶりに戦務から離れている。なぜならば近畿平定の担当官だった光秀は、近畿が落着したため、さしあたって兵馬を動かす場所がなかった。しかし信長はその光秀に休息をあたえなかった。
「三河殿(家康)の接待を奉行せよ」と命じたのである。
東海の家康も武田氏の脅威が去り、ひさしぶりに戦争から解放されていた。信長はこの家康に駿河一国をあたえた。家康は自分で切り取った三河、遠江の両国に、いま一国が加わったのである。ながい歳月、織田家のために東方の防壁となり、武田氏の西進をささえ、幾度か滅亡の危機に見舞われつつも信長との盟約を裏切ることがなかった家康に対し、信長があたえた報礼はわずか一国であった。
(上様の出し吝みなさることよ)人々は、心中おもった。信長の功業をたすけてきたふるい同盟者に対し、あまりにも謝礼が薄すぎるではないかというのだが、一面、信長にも内々理屈があるであろう家康に大きな領国をあたえると、織田家をしのぐようになるかもしれない。信長の死後、織田家の子らは家康によって亡ぼされるかもしれず、その危険をふせぐために信長は家康を東海三国の領主にとどめておこうという肚であるようだった。
(信長公の御心情は複雑である)と、このころになって見ぬいたのは、中国担当官の羽柴秀吉であった。信長にすれば天下平定のために、諸将に恩賞の希望をあたえつつ働かさねばならぬ。現実、天下を平定したとき、徳川家康、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の六人の高官には、それぞれ数カ国を連ねる大領土をあたえねばなるまい。現に信長は日本国を分けあたえるような気前のいい話を洩らすときさえある。が、それが現実化すれば、織田家の天下は成立しない。大大名が多すぎて将軍の手綱がきかなかった室町体制がいい例であった。自然、創業の功臣を罪におとし入れて、つぎつぎに殺してゆかねばならない。古代シナの漢帝国の成立のときも功臣潰しがおこなわれたし、彼の地には「狩り場の兎をとりつくしてしまうと猟犬が不必要になり、主人に食われてしまう。国の功業の臣の運命もこれとおなじだ」という意味の諺さえあり、この間の真実をついている。すでに林通勝、佐久間信盛は整理されたが、とりようによってはこの事実こそ織田帝国の樹立後の功臣たちの運命を示唆するものであろう。
(おれも、働きに働いたあげく、ついには殺されるだろう)という慢性的な不安を、ちかごろ光秀も感ずることが多い。羽柴秀吉などは機敏にこれを感じ上っている。このために子のないのを幸い、信長に乞うてその第四子の於次丸を養子にもらい、元服させて秀勝と名乗らせ、それを世嗣としていた。信長にすれば、秀吉にいかほどの領地をあたえても結局は織田家の子が相続する。この点、秀吉はするどく信長の心情を見ぬいそいた。 
本能寺の変
信長は、快く疲れた。やがて侍女にも手伝わさずに白綾の寝巻に着更え、寝所に入った。次室には宿直の小姓がおり、そのなかに信長の寵童森蘭丸がいる。ことし数えて十八歳で、すでに童ともいえないが、信長の命令で髪、衣服をいまなお大人にしていない。森家は美濃の名門の出で、亡父可成はかつて斎藤道三に仕え、ついで織田家に転仕し、美濃兼山の城主であったが、浅井・朝倉との戦さで討死した。信長はその可成の遺児をあわれみ、とくに蘭丸を愛し、美濃岩村五万石をあたえ、童形のままで加判奉行にも任じさせていた。
夜明け前、にわかに人の群れのどよめきと銃声を丸いたとき、目ざとい信長は目をさました。
「蘭丸、あれは何ぞ」襖ごしでいった。信長は、おそらく足軽どもの喧嘩であろうとおもった。蘭丸も同時に気づき、「されば物見に」と一声残し、廊下をかけて高瀾に足をかけた。東天に雲が多く、雲がひかりを帯び、夜がようやく明け初めようとしている。
その暁天を背に兵気が動き、旗が群れ、その旗は、いまどき京にあらわるべくもない水色桔梗の明智光秀の旗であった。
蘭丸は高欄からとび降り、信長の寝所に駈けもどった。
信長はすでに寝所に灯をつけていた。
「謀反でござりまする」蘭丸は、指をついた。そばに堺の商人で信長気に入りの茶人でもある長谷川宗仁がいたが、宗仁のみるところ、信長はいささかもさわがない。両眼が、らんと光っている。
「相手は、何者ぞ」「惟任光秀に候」と蘭丸がいったとき、信長はその癖でちょっと首をかしげた。が、すぐ、「是非に及ばず」とのみいった。信長がこの事態に対して発したただ一言のことばであった。どういうことであろう。相変らず言葉が短かすぎ、その意味はよくはわからない。反乱軍の包囲をうけた以上もはやどうにもならぬという意味なのか、それともさらに深い響きを信長は籠めたのか。人間五十年化転ノウチニクラブレバ夢マポロシノゴトクナリという小謡の一章を愛唱し、霊魂を否定し、無神論を奉じているこの虚無主義者は、まるで仕事をするためにのみうまれてきたような生涯を送り、いまその完成途上で死ぬ。是非もなし、と瞬時、すべてを能動的にあきらめ去ったのであろう。
そのあと信長の働きはすさまじい。
まず弓をとって高欄に出、二矢三矢とつがえては射放ったが、すぐ音を発して弦がきれた。信長は弓を捨て、機敏に槍をとり、濡れ縁をかけまわり、あちこちから高瀾へよじのぼろうとする武者をまたたくまに二、三人突き落した。
この働きは、事態の解決にはなんの役にもたたないが、信長は弾みきったその筋肉を動かしつつ奮戦した。この全身が弾機でできているような不可思試なほどの働き者は最後まで働きつづけようとするのか、それとも自分の最後の生をもっとも勇敢なかたちで飾ろうというこの男の美意識によるものか、おそらくはそのいずれもの織りまざったものであろう。
信長は、自分の美意識を尊重し、それを人にも押しっけ、そのために数えきれぬほどの人間を殺してきたが、かれ自身が自分を殺すこの最期にあたってもっともそれを重んじた。 
明智光秀の最期
この戦術形態こそ、光秀の心情のあらわれであろう。決戦と防衛のいずれかに主題を統一すべきであるのに、両者が模糊として混濁していた。
この、やや尻ごみして剣を抜こうとする光秀の戦術思想を、宿将の斎藤内蔵助利三が批判し、反対し、「味方のこの小勢では、防衛に徹底すべきでありましょう。思いきって近江坂本城にしりぞき、今後の形勢を観察なされてはいかがでありましょう」と内蔵助はいった。内蔵助のいうところはもっともであった。光秀はこの期にいたっても全力をこの野外に投入せず、兵力の四分の一を近江の坂本、安土、長浜、佐和山の四城に置き増えているのである。光秀にすれば野外で敗けたときに近江へ逃げるつもりであるらしい。
「いつもの殿らしからぬ」と斎藤内蔵助は、その不徹底ぶりをついたのである。光秀はたしかに心が萎え、はつらつとした気鋭の精神をうしなっていた。すでにみずからを敗北のかたちにもちこんでいた。貧すれば鈍す、という江戸時代の諺はこのころにはまだなかったが、あれば斎藤内蔵助はそう言って主人をののしったであろう。
十二日、雨。この夜、秀吉軍の接近を光秀は知り、むしろこれを進んで迎え撃とうとした。斎藤内蔵助はふたたび諌めた。−この小人数で、なにができる。とどなりたかった。ところが光秀は全体の戦術構想においては攻守いずれにも鈍感な陣形をたてているくせに、この進襲迎撃については異常なほど勇敢で頑固であった。あくまで固執し、進撃隊形をきめ、それぞれの隊長に、「あすの夜明け、山崎の付近に参集せよ」と命じた。光秀がきめた予定戦場は山崎であった。
雨はやまず、光秀はそのやむのを待たなかった。豪雨をついて下鳥羽を出発し、桂川を捗った。この渡河のときに、明智軍が携行していた鉄砲の火薬はほとんど湿り、濡れ、物の役にたたなくなった。
(なんということだ)光秀は、唇を噛み、いっそ噛みちぎりたくおもった。鉄砲の操作と用兵については若年のころから名を馳せ、織田家につかえたのもその特技があったからであり、その後も織田軍団の鉄砲時の向上に大きな功績をのこした。いまなお鉄砲陣のつかい方にかけては日本で比類がないといわれているのに、この手落ちはどういうことであろう。
(あすは、十分の一も鉄砲陣が使えぬ)そのあすが、釆た。
束正十年六月十三日である。戦いは午後四時すぎ、淀川畔の天地をとどろかせて開始され、明智軍は二時間余にわたって秀吉の北進軍を食いとめたが、日没前、ついにささえきれず大いに散乱潰走した。光秀は戦場を脱出した。
いったんは、細川藤孝の旧城である勝竜寺城にのがれたが、さらに近江坂本にむかおうとし、暗夜、城を脱して間道を縫った。従う者、溝尾庄兵衛以下五、六騎である。大亀谷をへて桃山高地の東裏のが剰軒の割にさしかかった。このあたりは竹薮が多い。里はずれの薮の径を通りつつあったとき、光秀はすでに手綱を持ちきれぬまでに疲労しきっていた。
「小野の里は、まだか」小声でいったとき、風が鳴り、薮の露が散りかかった。不意に、光秀の最期がきた。左腹部に激痛を覚え、たてがみをつかんだ。が、すぐ意識が遠くなった。「殿っ」と溝尾庄兵衛がわめきつつ駈けよってきたとき、光秀の体は鞍をはなれ、地にころげ落ちた。槍がその腹をつらぬいていた。薮のなかにひそんでいたこのあたりの土民の仕業であった。 
 
土岐氏(ときし)

 

鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。清和天皇を祖とする清和源氏の一流である摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた。室町時代から戦国時代にかけて侍所として五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代に斎藤氏・織田氏・北畠氏などの対立する諸大名との勢力争いに敗れて没落し、戦国大名にはならなかったが、一族に優秀な人間が多く、戦国武将として各地の大名に仕えて頭角を現した。明智光秀・浅野長政・遠山友政・土岐定政(菅沼藤蔵)らがそれである。江戸時代末期まで大名として存続したのは浅野、遠山、土岐定政家の三家である。
土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、美濃国内には妻木氏、明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、原氏、浅野氏、深沢氏、饗庭氏、萩原氏など多くの庶流が生まれ、多くの人物を輩出した。時代劇のヒーローとして著名な、明智光秀・坂本龍馬・浅野長矩(浅野内匠頭)・遠山景元(遠山金四郎)はいずれも土岐支流とされる。
家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。「土岐桔梗」と呼ばれている。旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。
現在も地名で、岐阜県土岐市土岐津町や瑞浪市土岐町などゆかりの地名があり、旧土岐郡地域の土岐市、瑞浪市、多治見市の市の花は、桔梗である。 
美濃土岐氏
摂津源氏の源頼光の子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着。居館(大富館、一日市場館など)を構えて土岐氏を称したのが始まりである。頼国の子の国房以降、史料上で美濃での活動が見られている。土岐氏の祖については系図類により国房、光国、光信、光衡の諸説あってはっきりしないが、光衡を祖とする説が有力である。
鎌倉時代
光衝は治承・寿永の乱の時代の人物で、鎌倉幕府の成立にともない源頼朝の御家人になった。江戸時代の書物に光衝が美濃守護に就任したという記述があるが、信憑性は低い。鎌倉時代の美濃の守護は大内惟義、大内惟信、その後は北条氏、宇都宮氏であり、鎌倉時代に土岐氏が守護になったことはない。
承久3年(1221年)の承久の乱では美濃が主戦場となり、京方(後鳥羽上皇方)に「土岐判官代」の名が見え、これを光衝の子の光行とする書物もあるが、光行はこれ以後も幕府の記録の『吾妻鏡』に登場しており、京方の「土岐判官代」は弟の光時と考えられる(谷口研語法政大学兼任講師の説による)。
光定の時に9代執権北条貞時の娘を妻としており、土岐氏が幕府において有力な地位にあったことが分かる。嘉元3年(1305年)、光定の子の定親(蜂屋氏)は連署北条時村襲撃事件(嘉元の乱)に関与して処刑されている。兄弟の頼貞に累は及ばなかったようで、頼貞の系統が土岐氏の嫡流となる。
鎌倉時代には土岐氏は庶流を美濃国内に多く土着させて、家紋にちなんだ「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成していた。
南北朝時代
正中元年(1324年)に起きた後醍醐天皇の最初の討幕計画である正中の変において『太平記』では頼貞が計画に加担し、陰謀を察知した幕府軍に討たれる話になっている。しかしながら、頼貞はその後の戦乱で活躍しており、記録に混乱があるが、土岐氏の一族がこの計画に関与したのは確かである。
元弘元年(1331年)、足利尊氏、新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府が滅亡した時(元弘の乱)には頼貞は尊氏に味方し、その後の南北朝の争乱でも尊氏とともに転戦して戦功をあげ、美濃守護に任じられた。美濃に強い地盤を持つ土岐氏は足利将軍家を支える有力な武士団となっていた。
頼貞から守護職を継いだのは、勇猛な武将でバサラ大名としても知られる頼遠である。頼遠は平安時代からの発祥の地であった、それまでの土岐郡から厚見郡に新築した長森城へと本拠を移転している。その他、合戦では目覚しい働きを示していたが、驕慢な振る舞いが限度を超えて、康永元年(1342年)光厳上皇への狼藉事件を起こして処刑されてしまう。
美濃守護職は頼康(頼貞の孫。頼遠の甥)が継ぐと、合戦では尊氏・義詮父子に味方し、度々戦功を挙げた。本領美濃の他にも、尾張と伊勢の守護職を兼任する大大名となり、最盛期を迎えた。その上、評定衆にも加えられた頼康は、幕府創業以来の宿老として重きを置かれた。
美濃国内においては、叔父が新築した長森城が手狭であるとして、同じ厚見郡内に川手城を築いた。以降、川手城は室町期を通して13代守護頼芸に至るまで、土岐宗家の居城となった。
室町時代
嘉慶元年(1387年)頼康が死去すると、養嗣子に迎えた甥の康行が惣領を継ぐ。ところが、3代将軍義満の治世では将軍の権力強化の煽りを受けて、勢力削減の対象となった守護大名家が出てきた。足利氏の一門である今川氏でさえ、これまで大功のあった今川了俊が処罰され、勢力を弱められている。
だが、土岐氏への処断は今川氏よりも早かった。康行は総領でありながら美濃と伊勢の2か国のみの領有しか許されず、残る尾張は満貞(康行の実弟)に分与されてしまう。この処置に不満な康行は挙兵に追い込まれて、幕府軍の討伐を受けて没落した(土岐康行の乱)。美濃守護職は頼忠(頼康の弟。康行の叔父)に与えられたが、土岐氏の伊勢守護職は認められずに仁木氏へ移った。以後、土岐氏の惣領は、頼忠の系統(土岐西池田氏)が継ぐことになる。
伊勢を召し上げられた康行は、明徳2年(1391年)の明徳の乱で幕府方として参戦。奮戦が功として認められたため、後に伊勢守護に復帰した。この康行の系統は土岐世保家と呼ばれる。一方、明徳の乱に幕府方として参戦した満貞は、卑怯な振る舞いがあったとして尾張守護を解任され没落。尾張守護は斯波氏に継承された。土岐氏の勢力は義満の目論見によって、大きく削がれることとなった。
美濃の守護職を務める頼忠の子の頼益は、優れた武将で合戦でたびたび戦功があり、「幕府七頭」の一家として評定衆に列し、侍所別当として幕閣の重鎮となった。
かつての土岐康行の乱では土岐氏庶流の多くが康行に付随したため、新たに美濃守護となった頼忠の土岐西池田氏は外様の国人である富島氏と斎藤氏を守護代として重用する。その後、持益の頃に富島氏と斎藤氏の争いが美濃全土を巻き込む内乱に発展した(美濃錯乱)。最終的に勝利した斎藤氏が、守護代を単独で継承して美濃の実権を握るようになった一方、持益は隠居させられ、斎藤利永が擁立する庶流の成頼が守護になった。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起きると成頼は西軍に加わった。この乱では斎藤妙椿が活躍、美濃の東軍方(富島氏)を駆逐し、更に公家の荘園や国衙領を盛んに押領して国内を制圧。尾張、伊勢、近江、飛騨まで勢力を伸ばして、妙椿は西軍の重鎮に数えられるようになる。斎藤妙椿は越前の朝倉孝景と共にこの時代に守護代が守護の力を凌いだ事例(下克上)として有名である。
戦国時代
文明12年(1480年)に妙椿が死去すると、2人の甥・斎藤利国(妙純)と斎藤利藤兄弟が争い(文明美濃の乱)、その後は妙純と守護代の家宰石丸利光が戦った(船田合戦)。この美濃の騒乱では守護の土岐氏(成頼、政房)は国人たちの争いに担ぎ出される傀儡に過ぎなくなっていた。
妙純が近江出兵中に戦死すると、斎藤氏は中心を失い国人たちは政房の子の頼武と頼芸の兄弟をおのおの擁立して争い、それに尾張の織田氏や近江の六角氏、越前の朝倉氏が介入した。斎藤氏は没落して、その家宰の長井氏が台頭した。
やがて新参の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)が頭角を現すと、守護の頼武を追放して鷺山城の頼芸を守護に就ける。新左衛門尉は長井氏を乗っ取り、次いで新左衛門尉の跡を継いだその子の長井規秀(後の斎藤道三)が斎藤家の名跡を継ぎ、斎藤利政を名乗った。操り人形に過ぎなくなった頼芸は天文21年(1552年)頃に追放され、美濃土岐氏は没落した。
なお、頼芸の弟の治頼は分流の常陸江戸崎土岐氏を継いでおり、美濃を追われた頼芸は一時江戸崎(現在の茨城県稲敷市)に身を寄せている(このとき土岐氏の嫡流を譲ったとされるが、江戸崎土岐氏もまた豊臣秀吉の小田原征伐に際し領地を失い滅亡した)。更に頼芸は上総万喜城(現在の千葉県いすみ市)のこちらも分流である土岐為頼を頼った(上総の土岐氏も小田原征伐に際し領地を失い滅亡した)。
江戸時代以後
頼芸は天正10年(1582年)まで生きて天寿を全うし、その子・頼次と頼元は旗本として幕府に仕えた。治頼の子孫は紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍職を継いだ時に幕臣となった。 
土岐世保家
明徳元年(1390年)の土岐氏惣領は、土岐康行の乱を起こすも将軍義満の追討を受けて没落。
その当事者である康行は後に帰参を許され、応永7年(1400年)に「伊勢北半国守護」に再任された。しかし、主流の美濃守護職は頼忠の家系(西池田家)に奪われたために、康行の家系は世保家と称して、伊勢守護職を断続的に継承することになる。『看聞日記』には世保家が「土岐氏惣領」と記されており、世保家こそが本来の土岐氏嫡流と見られていたようだ。谷口研語法政大学兼任講師は土岐氏一族の多くは世保家に従っていたであろうと述べている。
応永25年(1418年)、世保系3代当主の持頼は足利義嗣の謀反に加担したとして所領の一部を没収されている。この時に伊勢守護職を奪われたという説もある。さらに応永31年(1424年)、持頼は上皇の女官と密通したと咎められ、幕府の追討を受けた。後に罪を赦され、正長元年(1428年)に伊勢守護に復帰した。持頼は北畠満雅の蜂起(後南朝)の鎮圧に成功している。ただ、伊勢は国司北畠氏の勢力が強く、その後もしばしば反乱が起き、世保家は統治に苦労している。
永享12年(1440年)、持頼は将軍独裁を進める足利義教の命により大和出陣中に殺害された。伊勢北半国守護は一色氏に移る。
応仁の乱が起こると美濃土岐氏が西軍に属したのに対して、持頼の子の政康は東軍に属している。また、伊勢北半国守護の一色義直が西軍であったことも政康が東軍に属した理由である。政康は東軍によって伊勢北半国守護に任じられ、伊勢の支配を巡って北畠具教と戦っている。また、政康は東軍に与した美濃の有力国人の富島氏に協力して美濃土岐氏とも戦っていた形跡がある。
応仁の乱の末期に南北伊勢守護職は一色氏、次いで北畠氏に与えられた。戦国時代末期まで北畠氏が伊勢守護となる。 
常陸土岐氏
土岐光定の6男土岐定親の子、師親が美濃国恵那郡遠山荘原郷原に居住し原氏を称したことから「土岐原氏(ときはらし)」とも呼ばれている。南北朝期に原秀成は山内上杉家の惣政所職の重臣となり常陸国に下って信太荘の管理を行った。後に東条荘、伊南荘に領域を広げ江戸崎土岐氏、竜ヶ崎土岐氏の二氏に分かれ栄えた。後に江戸崎土岐氏が統一して宗家より土岐治頼を迎える。戦国時代には後北条氏に服属を余儀なくされ、小田原征伐においてともに滅亡し、一時豊島氏を名乗ったが土岐朝治の時に徳川吉宗に召し出され土岐氏に復姓し江戸幕府旗本となる。
傍流には、武田氏に仕え陣馬奉行として活躍した原昌俊・昌胤父子や豊臣秀吉に仕えて関ヶ原の戦いでは西軍についた美濃太田山藩主原長頼などがいる。
土岐胤倫-竜ヶ崎城主となる
土岐頼旨-官位は丹波守、禄高7000石初めは書院番頭を務め、その後勘定奉行、下田奉行、浦賀奉行、大目付、大番頭を経て、嘉永5年(1852年)に旗本最高職である留守居に就任。
土岐朝利-徳川慶喜を輩出した一橋徳川家家老 
上総土岐氏
万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。上杉氏の惣政所職として常陸に下った土岐原秀成は伊南荘を時政に任せ万喜城城主とした。原頼元は土岐宗家より9代守護土岐政房の弟、土岐頼房を迎えた。頼房の孫、土岐為頼は、房総の覇権をめぐって里見氏と後北条氏とが対立するなかでたくみに身を処し勢力を維持したが、為頼の死後、土岐頼春(義成)の代に小田原征伐が勃発、頼春(義成)は後北条氏方に与したために滅亡し城は消滅した。
土岐頼春から大垣藩万喜氏、畑中氏、茂木氏、太海氏が誕生した。 
 
六角氏

 

六角氏は近江源氏として名高い佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのが始まりといわれる。しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、確実なところは分からないというのが実情である。 
六角氏の発祥
佐々木氏は成頼の曾孫秀定のとき、沙々貴神社神主系と守護・地頭に任じられた武家系の二家に分かれた。すなわち、秀定の子行定は神主家のほうを継いで真野氏を称しし、一方、は行定の弟秀義は武士としての佐々木氏のほうが継いだ。そうして、秀義は平治の乱に源義朝に属して活躍、以来、源氏とのつながりを密接にしていった。
秀義が仕えた源義朝は平治の乱で敗れ、東国さして逃亡の途中尾張国で横死した。平家全盛の時代になると、義朝に与した秀義は世を隠れて関東の地に雌伏することになった。治承四年(1180)、源頼朝が平氏打倒の旗揚げをすると、息子たちとともに最初から加わった。その後の平氏との合戦において佐々木一族は大活躍をして、鎌倉幕府が成立すると、各地の守護・地頭職に補任されて一大勢力を築き上げたのである。
佐々木秀義のあとを継いだ嫡男定綱は、広綱をはじめとして数人の男子があった。承久三年(1221)、後鳥羽上皇の討幕行動である承久の乱が起ると、惣領の広綱をはじめとした佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落した。そのなかで、幕府方に付いた信綱の流れが佐々木氏の主流となったのである。
信綱には四人の息子がおり、仁治三年(1242)に信綱が死没するとその所領は四人に分割された。長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏を名乗った。そして、三男泰綱が宗家を継いで近江守護職に任じ、近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を名乗った。四男氏信は近江北六郡と京極高辻にあった館を与えられて京極氏を名乗ったのであった。
兄弟四人のうちで、三男の泰綱と四男の氏信が厚遇された背景には、二人の母が執権北条泰時の妹であったことと、近江国に強大な勢力を持つ有力御家人佐々木氏を牽制、分裂させようという幕府(北条執権)の狙いがあったと言われている。
泰綱のあとは頼綱が継ぎ、頼綱には長男頼明を頭に数人の男子があった。しかし、頼明はなんらかの理由で家督を継がず、二男の宗信も早世したため、家督は末子とも盛綱の子ともいう時信が嗣子に定められたという。延慶三年(1310)に頼綱が没すると、時信が家督を継いだがわずか四歳の幼子であった。この時信が鎌倉幕府瓦解から建武の新政、南北両朝の対立という動乱期に遭遇することになる。 
庶流京極氏の台頭
鎌倉時代末期、後醍醐天皇による正中の変(1324)、元弘の変(1331)が相次いだ。近江守護の任にあった時信は幕府の命を受けて、延暦寺の攻撃、摂津摩耶城攻めに出陣して反幕勢力の討伐に活躍した。やがて、上洛してきた足利高氏が倒幕の兵を挙げ、六波羅探題を落とすと、時信は探題北条仲時らの逃避行を援助した。そして、北条仲時たちが近江の番場で自害したのちに官軍に帰服した。庶子家の京極導誉がいち早く官軍に投降、高氏に従って六波羅を攻めたのとは対照的というべき律儀な行動であった。
元弘三年、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が開始されると、時信は近江守護職に任じられるとともに雑所決断所の奉行に登用された。しかし、天皇親政による建武の新政は時代錯誤なもので、論功行賞も依怙贔屓な沙汰が多く、倒幕に活躍した武士たちは新政に失望を深めていった。そして、武士たちの輿望をになった足利尊氏の謀反によって新政もあえなく崩壊、以後、半世紀にわたる南北朝の動乱時代が続くことになるのである。そのような政治情勢下において京極導誉が尊氏に属してメキメキと頭角をあらわす一方で、六角時信は家督を嫡男氏頼に譲ると隠居してしまった。氏頼はいまだ十四歳という若さで、六角氏は多難な動乱期を少年当主を推戴して乗り切ることになったのである。
建武五年(1338)、室町幕府は氏頼から近江守護職を取り上げ、幕府重臣として活躍する佐々木京極高氏(道誉)を任じたのである。幕府にすれば京に隣接する近江を若い氏頼に任せることに不安を抱き、年齢、経験とも申し分のない導誉を抜擢したのであろう。たとえ勢力があるとはいえ京極氏は佐々木氏庶流であり、六角氏頼が大きな挫折感を味わったことは想像に難くない。ともあれ道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび近江守護職に任じられた。やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。さきの時信といい、この氏頼といい、淡白というか、厭世的というか、乱世向きの人物ではなかったというしかない。
六角氏はまたもや当主に幼い千寿丸を戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。
当時、幕府内部では細川氏と斯波氏の間で権力闘争が行われており、それは六角氏の家督争いにも影響、結局、高詮は実家に戻され亀寿丸(満高)が家督を継承した。しかし、満高は将軍足利義満の守護抑圧政策によって、領内統治は思うように行えず、ついに応永十七年(1410)には守護職を解任されるという憂き目を味わった。その後、満高は近江守護職に再任され、家督は満綱が継承した。満綱は領国支配を強化し、山門領・寺社本所領を蚕食していった。しかし、満綱の強引な所領侵略は嘉吉の土一揆の蜂起を招き、京から近江に落去という結果となった。そして、近江守護職も解任されてしまった。 
六角氏の内訌
満綱の引退後、家督は嫡男持綱が継いだが、文安元年(1444)、持綱の弟時綱を担ぐ被官らの持綱排斥運動が起こった。父満綱の支援を得た持綱は、持綱と被官らと戦ったが敗れて父とともに自害した。この六角氏の内紛に対して幕府は、相国寺の僧になっていた時綱の弟久頼を還俗させて六角家の家督を継がせるという挙に出た。兵力を持たない久頼は京極持清に助けられて近江に入り、時綱を自害に追い込むと六角氏の家督を継承したのであった。
一連の六角氏の内紛は、一族を失っただけではなく、被官との関係も破綻をきたし、さらには京極氏の内政介入を招く結果となったのである。ともあれ、文安年間(1444〜48)の内紛を鎮圧した六角久頼であったが、その前途には課題が山積していた。まず、久頼が解決すべき一番の課題は、分裂した被官人をまとめあげ、乱れた領国支配体制を建て直すことであった。
久頼は守護代伊庭満隆の協力を求め、以前は書下によって在地に直接下されていた守護の命令を、満隆を通さなければ効力を持たないという命令形態に改めた。しかし、これは伊庭氏の権勢を高め台頭を促すという皮肉な結果となった。ついで京極家の内政介入を排除するために苦闘したが、老獪な京極持清をおさえることはできず、ついに康正二年(1456)、久頼は自害してしまった。あとには幼い嫡男亀寿丸が残され、山内政綱が後見人に任じられ亀寿丸は無事近江守護職に補された。ところが、長禄二年(1458)、亀寿丸は突然近江守護職を解任され、文安の内紛で自害した時綱の子政尭が六角家の当主に就いた。
六角氏の当主となった政尭は、長禄四年、守護代伊庭満隆の子を殺害するという事件を起こす。近江国内で実権を握る伊庭氏の力を削ごうとしたのであろう。しかし、守護代は将軍に任じられた職であり、政尭は将軍足利義政の勘気を蒙り、京都大原にて剃髪し出奔してしまった。これにより、亀寿丸がふたたび六角家の家督を継ぐことになり行高(のち高頼)と名乗った。
やがて、将軍家の継嗣問題に端を発して応仁の乱が勃発すると、六角高頼は西軍に属し、東軍の京極持清と抗争を繰り返した。京極持清は嫡男の勝秀とともに飛騨・出雲・隠岐の国人を動員して活躍、六角高頼を諸処の戦いに破り、近江における覇権を確立していった。そして、文明元年(1469)、六角氏に代わって近江守護職に任じられた。その翌年、持清は世を去ったが嫡男の勝秀は父に先立って病没していたため、幼い孫乙童子丸が家督を継いだ。ところが乙童子丸も早世したため、京極氏では家督をめぐる内訌が起こり、東軍派と西軍派に分裂してしまった。六角高頼は京極氏の内訌に介入しながらたくみに頽勢を挽回、乱が終わるころには近江における覇権を確固たるものにしたのである。 
伊庭氏の乱
そして、寺社本所領を蚕食、さらには将軍直属の奉公衆の所領まで侵略するなどして、勢力を着々と拡大していった。幕府は再三にわたって押領中止を命じたが高頼はそれを無視しつづけたため、長享元年(1487)、六角氏討伐を決した将軍足利義尚はみずから陣頭に立って近江に出陣したのである。六角家では高頼のもと山内・伊庭の両氏が家臣団を統率して難局にあたり、甲賀武士たちのたくみなゲリラ戦術などで幕府軍を撹乱、戦線は膠着状態となった。将軍義尚は三年にわたって近江に滞陣したすえに、延徳元年(1489)、陣中で病没してしまった。
高頼は管領細川政元の調停をいれて幕府に帰服したが、寺社領の変換命令に応じなかったため、将軍義材の討伐を蒙った。高頼は永源寺に籠り、さらに甲賀に奔って討伐軍に抵抗したが、近江守護職は剥奪されてしまった。この第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになった。伊庭貞隆は管領細川政元とも親しく、高頼に匹敵する権勢を有した危険な存在となったのである。
文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱が勃発する。「伊庭連々不義の子細共候間」として高頼が貞隆の排除を決行したのである。戦闘に敗れ湖西に脱出した貞隆であったが、幕府との強いつながりを持つ貞隆は管領細川政元の後援を得ると反撃に転じ形勢は逆転する。青地城・馬淵城・永原城を次々に落とされた高頼は、観音寺城を捨てて蒲生貞秀の音羽城に落ち延びることになる。
永正四年(1507)管領細川政元が暗殺され、中央政局が大きく混乱する。これにより政元の後継者争いが起こり、永正五年には明応の政変で政元に追放された前将軍足利義材が大内氏の援護を受けて上洛、将軍職に返り咲いた。逆に庇護者を失った足利義澄は近江に落ち延びていった。この義澄を保護したのが伊庭貞隆と被官の九里備前守であった。この政変により義材派である高頼と義澄を保護する貞隆の対立が再燃することになった。永正八年(1511)、岡山城で義澄が死没すると、義材・高国方に転じた高頼九里備前守を討ちはたした。そして、永正十一年(1514)二月、第二次伊庭の乱が始まったのである。
伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔すると、江北の有力大名にのしあがっていた浅井亮政の支援を受けた。これにより戦乱は長期化し、実に足掛け六年にも及んだ。しかし貞隆には第一次反乱のように細川氏の援護はなく、ついに永正十七年(1520)八月、岡山城が陥落して内乱は終結した。『近畿内兵乱記』によれば、永正十一年二月伊庭貞説父子没落とある。ここに、六角氏は目の上のこぶというべき存在であった伊庭氏を滅ぼし、戦国大名への途を歩み始めることになる。ところが、伊庭の乱が終わって二ヵ月後、高頼はあっけなく死去してしまった。嫡男の氏綱は父に先立って死去していたため、二男の定頼が六角氏の家督となった。 
政争に翻弄される
細川政元が暗殺されたのち、澄之を倒した澄元が将軍足利義澄を奉じて管領職についた。ところが、政元の死を知った前将軍義稙が大内義興に奉じられて上洛の軍を起こした。すると、澄元に味方して澄之を倒した細川高国が義稙に通じて澄元と対立するようになった。義稙の上洛軍に敗れた澄元は義澄とともに近江に奔り、義稙が将軍に返り咲き、高国が管領職に就任した。しかし、高国政権も安泰ではなく、やがて将軍義稙と高国が対立、義稙に通じた細川澄元が京に出陣してきた。敗れた高国は定頼を頼んで近江に奔った。高国は定頼の応援をえて京を回復、義稙に代えて義晴を将軍に迎えたのであった。
ところが、大永六年(1526)、高国は讒言を信じて側近の香西元盛を謀殺したことから丹波の波多野氏らの離反を招いた。高国は京に攻め上った波多野軍を桂川で迎え撃ったが敗れ、義晴とともに近江坂本へ逃走した。定頼はふたたび高国を援助し、義晴と高国の京都復活に尽力した。しかし、足利義維を奉じた細川晴元と三好元長が上洛してくると、将軍義晴と高国は京都を追われて近江に脱出した。以後、高国は京を回復することなく、享禄三年(1530)、天王寺の戦いにおいて敗死した。
高国が滅亡したのちは、細川晴元と三好氏が幕政を主導したが、晴元政権も磐石ではなかった。三好元長と木沢長政が対立、勢に劣る長政は一向宗を味方に付けると元長を自害に追い込んだのであった。ところが、一向宗門徒と長政との間に対立が起り、窮した晴元は六角定頼に応援を求めた。これに応じた定頼は永原・馬淵・進藤らを率いて出陣、京の法華宗徒も味方に付けると山科本願寺を攻め落とした。しかし、法華宗徒と山門の宗論対立から、天文五年(1536)、天文法華の乱が起こった。なんとも目まぐるしい事態の変転で、晴元とともに山門に味方した定頼は昨日の味方法華宗徒を討伐、洛中の法華寺院を焼き払ったのである。
定頼が幕府の内訌に気を取られているころ、近江では江北の京極氏に代わって浅井亮政が戦国大名化しつつあった。天文七年、定頼は浅井攻めの陣を起こすと佐和山城を攻撃、亮政を江北から追い払った。天文十年(1541)、定頼は朽木に避難していた将軍義晴を訪ね、翌年、義晴の京都復帰と細川晴元との和解を実現させた。その後、細川晴元と三好長慶が対立するようになると、定頼は晴元を支援して長慶と対立、義晴の子義輝が将軍になるとその京都復帰に尽力した。定頼は文字通りに東奔西走を続け、六角氏を押しも押されもせぬ戦国大名へと押し上げ、その全盛期を現出したのであった。そして天文二十一年、定頼は五十八歳を一期として世を去った。
定頼の一生をみると、結果として幕府体制の安泰を実現することもならず、みずからが幕府を起こすこともなく、無為な政治抗争に振り回され続けただけのようにもみえる。しかし、定頼が生きた時代を振り返れば、室町幕府体制は綻びが目立つとはいえ、まだ瓦解するまでにはいたらなかったということだったのだろう。 
忍び寄る落日
定頼のあとを継いだ義賢は三好長慶と和睦すると浅井氏討伐を進め、天文二十二年、浅井久政を屈服させた。六角氏と三好氏が和睦したことで、朽木にあった将軍義輝も京に還住することができ、政治情勢も一応の安定が戻ったかにみえた。しかし、世の中は戦国乱世であり、義賢は浅井長政(当時は賢政)の離反に手を焼くことになる。浅井攻めを決した義賢は浅井氏に通じる高野瀬氏の肥田城を水攻めにしたが失敗、救援に出陣してきた浅井長政と野良田郷において一大決戦を行った。
六角方は蒲生定秀・永原重興らを先陣とする総勢二万五千の兵を擁し、一方の浅井勢は一万一千という兵力であった。戦いは数に優る六角方の有利に展開したが、緒戦の勝利に油断した六角勢の隙を突いた浅井勢によって戦況が逆転、六角方はまさかの敗北を喫した。この野良田合戦に勝利した長政は、一躍、江北の戦国大名へと飛躍したのであった。
浅井長政に名をなさしめた六角氏は、美濃の土岐氏、越前の朝倉氏らとの外交に失敗、さらに将軍義輝、三好長慶らとも敵対関係となり、衰退の色合いを深めていった。そのようななかの永禄六年(1563)、義賢の嫡男義弼(義治)が重臣の後藤但馬守父子を謀殺するという愚挙を犯したのである。後藤氏は進藤氏とともに六角氏の柱石ともいえる存在で、但馬守もひとかどの人物であった。六角氏の頽勢に焦った義弼が、主家をしのぐ勢力をみせる後藤氏を排除せんとした結果であった。この「観音寺騒動」とよばれる事件は、永田・三上・池田・進藤・平井氏らの離反を招き、さらに、かれらは浅井長政に通じて六角氏に叛旗を翻したのであった。
浅井長政らの攻撃によって観音寺城は落城、義賢は甲賀へ、義弼は蒲生へ落ち延び、六角氏の声望を地に堕ちてしまった。事態は蒲生氏、青地氏らの努力によって一応の収拾をみせ、永禄十年、その処理策の一つとして『六角氏式目』がつくられたのである。六角氏式目は戦国大名が制定した家法の一つとして有名だが、その内容はといえば、六角氏と家臣とが相互にその式目を守るというものだが、つまるところ六角氏の専横を規制するものでもあった。すでに六角氏は家臣団に推戴される存在で、絶対的な権力を持つ戦国大名というものではなかったといえそうだ。
翌永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛の陣を起こした。信長から上洛に加わるように促す書状を受け取った六角義賢・義弼父子は、重臣らを集めて軍議を開いた。義賢・義弼父子は信長と敵対する三好三人衆と結んでいたこと、信長方に宿敵浅井長政が参加していたこともあって、結論は信長軍の上洛を阻止することに決定した。信長軍は箕作城を落とすと、六角氏の本城である観音寺城に攻め寄せた。その勢いをみて恐れをなした義賢・義弼らは、密かに城を脱出すると甲賀に遁走した。甲賀に逃れて再起を期すのは、六角氏伝家の作戦であったが、そのような作戦が巧を奏した時代は過ぎ去っていた。
その後、甲賀を出た義弼は鯰江城に入り、六角氏残党を集めると再起を期した。元亀元年(1570)、信長の朝倉攻めをきっかけに浅井長政が信長に叛旗を翻すと、義弼は長政と結び、さらに本願寺一揆と協力して反信長陣営の一角をになった。しかし、天正元年、朝倉氏、浅井氏がつぎつぎと滅亡、鯰江城も織田軍の攻撃を受けて落城、ついに六角義弼の再起はならなかった。かくして、鎌倉時代のはじめより四百年にわたって近江に勢力を保った佐々木六角氏は没落の運命となった。 
佐々木六角氏の謎
その後の佐々木氏はといえば、残された系図などによれば、義弼の弟義定の流れが徳川家康に召しだされて徳川旗本となった。しかし、江戸時代の中ごろに嗣子が絶えて断絶している。また、義弼は鯰江城が堕ちたのち、武田勝頼を頼ったり、豊臣秀頼の弓術師範になったりしたという。そのあとは甥の定治が継ぎ、加賀藩前田家に仕えた定治は佐々木氏と改めたことが知られている。か細いながらも、佐々木六角氏の血脈は後世に伝えられたのであった。
ところで、六角氏の系譜において、大きな問題が残されている。というのは、定頼の兄氏頼の系統が六角氏の正統であるとする考え方がみられることである。高頼に先立って世を去った嫡男氏綱には男子義実があり、義実の系統が六角氏の嫡流であり、定頼およびその子義賢などは単に執権あるいは後見として補佐したにすぎないというものだ。さらに、義実およびその子義秀、孫義郷は、のちに義賢の系統によって抹殺されたと説き、定頼・義賢らは観音寺城の支城である箕作城の城主で箕作氏であったとするのが正しいというのである。
佐々木氏の歴史に関する史料に、江戸時代に成立した『江源武鑑』がある。この江源武鑑は氏綱の流れを正統とする立場で執筆されているが、その内容は年代など誤謬が多く、とても史実とは思われない記述もあり、すでに江戸時代において偽書とされているものだ。しかし、六角氏の居城観音寺城の発掘に従事され、『近江源氏』を著された田中政三氏、気鋭の郷土史研究家佐々木哲氏らは氏綱流正統説を支持されている。そして、偽文書とされる義秀らが発給した文書の再調査、近江に残る旧家に残る文書・系図などによって氏綱流の実在を証明されようとしている。
さらに、六角氏が居城とした観音寺城の存在が、六角氏の歴史に大きな謎を投げかけている。というのは、近江を制圧した織田信長は観音寺城とは目と鼻の先にある安土山に安土城を築いた。その工事に際して石仏までもが石垣に転用されていることから、当然、観音寺城の資材も転用された可能性は高く、城址は破壊されたものと思われていた。ところが、田中政三氏らの発掘調査によって、観音寺山の樹木のなかより総石垣造りの観音寺城が姿を現したのである。結論として、観音寺城の石垣などは安土城に転用されていなかった。信長に抵抗して義賢・義弼父子が没落したのちも、信長に協力した佐々木氏の誰かが観音寺城に在城していたことで信長は観音寺城を城割りしなかった。そして、その誰かこそ佐々木氏綱流の人物だったというのである。
氏綱流の存在は歴史ミステリーとしても魅力的で、諸氏の研究には説得力もあるが、大勢としては氏綱流実在説は受け入れられていないようだ。これまでの通説通り、戦国時代の六角氏はは久頼−高頼−定頼−義賢と継承、義弼のときに没落したと考えるのが無理がなさそうだ。 
 

 

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