本居宣長

本居宣長玉勝間うひ山ぶみ玉くしげ秘本玉くしげ菅笠日記古今集遠鏡枕の山
大和心・・・

雑学の世界・補考   

関連「日本の美意識」
調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
本居宣長

もとおり のりなが、享保15年-享和元年9月(1730-1801) 江戸時代日本の国学者・文献学者・医師である。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵(しゅんあん)、自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。当時、既に解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。
本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれた。幼名は富之助。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。そして、執筆もするようになった。16歳の時 、寛延元年(1748)伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。しかし3年後に離縁して松阪に帰った。宝暦2年(1752)商売の勉強の為に上京し、堀景山(ほりけいざん)に入門した。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の「大日本天下四海画図」を起筆した。また宝暦7年(1758)に江戸より帰郷し医者となった。その後京都へ初めて神社参詣の為に上る。この時の見聞を元に、自分用の資料として「都考抜書(とこうばっしょ)」を延享3年(1746)より起筆(宝暦元年(1751)頃まで書き継がれた)した。兄が死んだ後、その小津家を継ぐ。そして、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を朱子学者の堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
宝暦7年(1758)松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で「源氏物語」の講義や「日本書紀」の研究に励んだ。27歳の時、「先代旧事本紀」と「古事記」を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵に手紙で教えを乞うようになった。宝暦13年(1763)5月25日、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見した。そして、かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。
真淵は、万葉仮名に慣れるため、「万葉集」の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて「古事記」の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の図随筆集「玉勝間」に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の「小学国語読本」に掲載された。一時は紀伊藩に仕えたが生涯市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に、天明年間(1781-1789)の末頃から増加する。天明8年(1788)末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。

宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された「古事記」註釈の集大成「古事記伝」や、「源氏物語」の注解「源氏物語玉の小櫛」、「玉勝間」などがある。日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱した。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を尊重する荻生徂徠を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは多大な影響を受けていることも指摘されている。「古事記伝」の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。師・賀茂真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張した。
門下生として服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿(みかまろ)・長瀬真幸(まさき)・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などが在籍している。
また、宣長は法学においても特記される提言を行っている。紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と死刑の緩和をすすめている。

家業を手伝うも商人には向かないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年(1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は「済世録」と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。また意外な一面として、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。 書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい、などの考えを記している。
 
「玉勝間」抄

江戸後期の随筆。14巻、目録1巻。寛政5年(1793)起稿し、享和元年(1801)に没するまで書き続けた。寛政7-文化9年(1795-1812)刊。宣長の学問・芸術・人生への考えを記したもの。
「玉勝間」はどう読むの?
「たまがつま」と読んで下さい。草稿本の内題には、宣長の自筆で「玉賀都万」とあり、また、巻1の巻頭歌も「言草のすゞろにたまる玉がつまつみてこゝろを野べのすさびに」とあります。本来、この言葉は、玉と言う美称と、かつま(密に編んだ篭)が結合して出来た語で、それが連濁で「たまがつま」となったのです。
「玉勝間」というのは美しい篭という意味?
そう。先程の歌をもう一度よく読んでみて下さい。言草(ことば)が、すずろに(思いがけなく)たまったので、美しい篭に摘もう。そうすれば、自分の心を述べる、つまり気持ちを伝えることができるし、野原での遊びとなる、気分転換となるだろうと言うの。若い頃から読書や考察を怠らなかった宣長が、その中で気付いたことを、随筆という形でまとめ、また、学者としての自分の歩んできた道を素直に語った本なのです。
歌に「野」が出るのは、この本の清書を始めたのが、正月の子ノ日だったからよ。正月18日が子ノ日というのは、この前後だと寛政4年(1792)と、翌5年(1793)だから、どちらかの年に書き始めたということね。昔、宮中では、正月子ノ日には、野に出て若菜を摘む習慣がありました。美しい篭と正月子ノ日、この連想から命名されたのです。
宣長の書いた本の書名には「玉」がよくついていますね。
「草庵集玉箒」「続草庵集玉箒」「万葉集玉の小琴」「玉くしげ」「玉くしげ別巻」「玉あられ」「源氏物語玉の小櫛」「玉鉾百首」「詞の玉緒」「玉椿」ざっとこれだけあります。一番最初に「玉」がついたのは、39歳の時に刊行された「草庵集玉箒」かもしれません。実は、34歳の時に書いた「紫文要領」は、後に「源氏物語玉の小琴」と改められ、更に「源氏物語玉の小櫛」となったので、玉箒が最初とは明言しにくいのだけど。
「玉勝間」という名前が初めて出るのもやっぱり書き始めた頃かしら?
ところが、既に40年以上前、19歳頃に書いた「和歌の浦 二」に、「万葉拾穂抄口訣【季吟撰】」からの引用として「十二○玉勝間(タマガツマ)【本文アリ、秘訣別ニ注ス云々】」とあるのが、宣長のこの言葉との出会いの最初なのよ。
【内容】
ところで「玉勝間」ってどんな本ですか?
国学者本居宣長の随筆集です。随筆と言っても、今の随筆と違って、近世考証随筆のひとつで、非常に知的な内容です。寛政5年(1793)に書き始め、亡くなるまで書き続けられました。刊行は、寛政7年から、宣長没後の文化9年(1812)にかけてされました。本文が14冊、目録が1冊で全15巻です。
「玉勝間」は小項目に分かれていますが、全部で何項目ありますか?
1,005項目です。
これで完成しているわけですね?
書簡に依れば、宣長は、もっと書き続けて行くつもりだったようです。亡くなったので果 たせなかったのですが。
全部を一度に書いたの?
材料は、二十代の頃から書き始めた「本居宣長随筆」など、長年の書きためたものですが、それを寛政元年から編集にかかり、同5年から現在のような「玉勝間」として執筆しています。先程の寛政5年着手とはそういう意味です。この時に、文章は一文字一文字まで検討され、書かれていったことは、残っている草稿の加筆や訂正からよくわかりますし、また、佐竹昭広氏の「玉勝間覚書」で詳しく検証されています。
宣長自筆の草稿は全部残っているのですか?
残念ながらわずかしか残っていません。またその中の一部は、現在写真でしか見ることが出来ないのです。
どうしてですか?
草稿は「草庵集玉箒巻六、七」(重要文化財)という本の裏に書かれているのです。その後、「草庵集玉箒」の稿本として綴じられたので見ることが出来ないのです。
【読み方】
正直な話、200年も前の随筆集を今も読む人はいるのかしら?
宣長の本の中では、よく読まれていると思います。どんな人が読むのか大ざっぱに言いますと、まず、宣長を研究する人や、宣長に関心を持つ人です。この本の中には、宣長の読書遍歴、また、研究を続ける中で巡り会った人との思い出が書かれています。また、随筆ですから、宣長が何に関心を持っていたのかが分かるのです。次に、国語の先生。先程「文章は一文字一文字まで検討され」と言いましたが、文法や語法の正しい文章で書かれているので、教材や、テストに最適なのです。次に、古典研究者です。この本には、宣長の50年に及ぶ研究の成果 がびっしり詰まっていますが、気になって書き留めはしたものの未解決なこともたくさん書かれていて、研究者にとっては宝の山となっているの。あとは、暇な読書家です。拾い読みすると実に面白いのです。たとえば、針の穴をミミヅといったとか、三味線を和歌に詠めと頼まれた話とか。1,005項目ですから、色々楽しみ方はあります。
絵は入ってないのですか?
説明のためのごく簡単な挿絵が2枚入っています。
読もうと思って開いてみたら最初のページでいやになってしまいました。
最初から読まずに、たとえば次のような順序で読んでみて下さい。
まず、宣長が生まれ育った伊勢の国についての概説「伊勢国」(巻14)があります。次に宣長の読書遍歴を見てみましょう。巻2の「ふみども今はえやすくなれる事」「おのが物まなびの有しやう」「県居の大人の御さとし言」「おのれ県居の大人の教をうけしやう」を読んでいただくと、少年時代から、契沖の本との出会い、賀茂真淵(県居大人)との対面、いわゆる「松坂の一夜」までが書かれています。
宣長の考え方を知るには、「道にかなはぬ世中のしわざ」(巻2)「富貴をねがはざるをよき事にする論ひ」(巻3)「うはべをつくる世のならひ」(巻4)「金銀ほしからぬかほをする事」(巻12)「しづかなる山林をすみよしといふ事」(巻13)「一言一行によりて人のよきあしきをさだむる事」(巻14)を読んで下さい。たとえば、「金銀ほしからぬかほをする事」では、お金が有れば本も買えるから、ありがたいが、あまり金々言うよりは、いらとぬ言っている方がよいと言っています。私たちの感覚、価値観と大変よく似ていると思いませんか。しかし、宣長はそのような中でも自分の考えはしっかりと持っていて、本質を見逃すことはありません。「世の人仏の道に心のよりやすき事」(巻7)や「道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事」(巻7)は、そのような冷静な目で見た文章です。
学者、また師としての宣長の意見は、「師の説になづまざる事」(巻2)「わがをしへ子にいましめをくやう」(巻2)「玉あられ」(巻6)「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」(巻7)の外、あちこちに出てきます。
宣長は、好みがはっきりしていた人ですが、好きな花や場所などを知りたかったら「花のさだめ」(巻6)「絵の事」(巻14)「おのが京のやどりの事」(巻13)や、先にあげた「伊勢国」を見て下さい。
読んでみると存外面白いと思います。読み方は、ざっと飛ばし読みして、また後から読み直す、これが秘訣です。宣長が「うひ山ぶみ」でも言っているように、「初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつ」るようにして下さい。
宣長の悩みとかは書かれていませんか?
学者としての悩みは、最後の段「道」(巻14)にも書かれてますし物忘れするようになったと言う程度のことは書かれています(巻4「わすれ草」)が、本書の執筆目的は、国学者として、後世に書き残しておきたいことですから、自分の回想でも、書く以上は、何か意味があるのです。
この本に一番よく出てくる人は誰ですか?
日本人では契沖、賀茂真淵、神武天皇の順です。また、日本人以外では、孔子が多いですね。  
玉かつま一の巻 / 初若菜 一

言草のすゞろにたまる玉がつま つみてこゝろを野べのすさびに
此言草よ、なにくれと数おほくつもりぬるを、いとくだくだしけれど、やりすてむもさすがにて、かきあつめむとするを、けふはむ月十八日、子ノ日なれば、よし有ておぼゆるまゝに、まづこの巻の名、かく物しつ、次々のも、又そのをりをり思ひよらんまゝに、何ともかともつけてむとす、
かたみとはのこれ野澤の水ぐきの 淺くみじかきわかななりとも
1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事[四]
からごゝろを清くはなれて、もはら古ヘのこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居ノ大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ 物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古ヘ言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古ヘぶりの文などをさへ、かきうることとなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、ただおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御陰(ミカゲ)によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典(イニシヘノフミ)をうかゞふにも、漢意(カラゴコロ)にまどはされず、まづもはら古ヘ言を明らめ、古ヘ意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そもそもかかるたふとき道を、ひらきそめたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、
2 わたくしに記せる史[七]
よにおほやけの史にはあらで、私に御代御代の事を記せる書、これかれとおほかるを、むかしの皇國人は、佛をたふとばぬ は一人もなかりしかば、かゝる書にさへ、ともすればえうなきほとけざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたはらいたきことおほし、又さかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬ をいとひて、おほくは神武天皇より始めてしるして、神代のほどをばはぶけるは、から國のむねむねしき書に、さるたぐひのあるを、よきことと思ひて、ならへる物也、そもそも外(トツ)國々は、その王のすぢ、定まれる事なくして、よゝにかはれば、心にまかせて、いづれのよより記さむも難(ナム)なきを、御國の皇統は、さらに外(トツ)國の王のたぐひにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にましまして、天地とともに、とこしへに傳はらせ給ふを、その本のはじめをはぶきすてて、なからより記してやからめや、よろづをから國にならふも、事によりては、心すべきわざぞかし、
3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事[九]
儒者に皇國の事をとふには、しらずといひて、恥とせず、から國の事をとふに、しらずといふをば、いたく恥と思ひて、しらぬ ことをもしりがほにいひまぎらはす、こはよろづをからめかさむとするあまりに、其身をも漢人めかして、皇國をばよその國のごともてなさむとするなるべし、されどなほから人にはあらず、御國人なるに、儒者とあらむものの、おのが國の事しらであるべきわざかは、但し皇國の人に對ひては、さあらむも、から人めきてよかンめれど、もし漢國人のとひたらむには、我は、そなたの國の事はよくしれれども、わが國のことはしらずとは、さすがにえいひたらじをや、もしさもいひたらむには、己が國の事をだにえしらぬ 儒者の、いかでか人の國の事をはしるべきとて、手をうちて、いたくわらひつべし、
4 古書どものこと[一〇]
ふるきふみどもの、世にたえてつたはらぬは、萬ヅよりもくちをしく歎かわしきわざ也、釋日本紀仙覺が萬葉の抄などを見るに、そのほどまでは、國々の風土記も、大かたそなはりて、傳はれりと見えたり、釋に引たる上宮記といふ物は、いさゝかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きはふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有けむ、又風土記は、いとたふとき物なるに、今はたゞ出雲一國ののみ、またくてはのこりて、ほかはみな絶えぬ るは、かへすかへすもくちをし、さるは應仁よりこなた、うちつゞきたるみやこのみだれに、ふるき書どもも、みなやけうせ、あるはちりぼひうせぬ るなるべし、そも今の世のごと、國々にも學問するともがら多く、書どもえうじもたるものおほからましかば、むげにたえはつることはあらじを、そのかみはいまだゐなかには、學問するともがらもいといとまれにして、京ならでは、をさをさ書どももなかりしが故なめり、されどから國のふるきふみどもはしも、これかれとゐなかにも殘れるがあるは、むねとからを好むよのならひなるが故也、かくて風土記も、今の世にもかれこれとあるは、はじめの奈良の御代のにはあらず、やゝ後の物にて、そのさま古きとはいたくかはりて、大かたおかしからぬ もの也、其中に、豐後ノ國のは、奈良のなれど、たゞいさゝかのこりて、全からず、そもそもかくはじめのよきはたえて、後のわろきがのこれるは、いかなるゆゑにかと思ふに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、ふるくてからめかぬ をば好まず、後のいさゝかもからざまに近きをよろこべる故なるべし、神代ノ巻も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、えうぜぬ をもてなずらへしるべし、さてしかもとの風土記はみな絶ぬる中に、國はしも多かるに、出雲ののこれることは、まがことの中のいみしきさきはひ也、又日本紀はもとよりたゆまじきことわりなるを、古事記萬葉集のたまたまにたえでのこれるは、ことにいみしき後の世のさきはひなり、大かた今の世にして、古ヘのすがたをしることは、もはら此二ふみのみたまになむ有ける、
5 また[一一]
書紀の今の本は、もじの誤リもところどころあり、又訓も、古言ながら多くは今の京になりてのいひざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいとふるくめづらかにたふときこともまじれるを、その訓おほくは全からず、あるはなかばかけ、或はもじあやまりなど、すべてうるはしからず、しどけなきは、いといとくちをしきわざ也、板本一つならでは世になく、古き寫し本はたいとまれなれば、これかれをくらべ見て、直すべきたよりもなく、すべて今これをきよらにうるはしく、改め直さむことは、いといとかたきわざ也、今の世の物しり人、おのれ古ヘのこころ詞をうまらに明らめえたりと思ひがほなるも、なほひがことのみおほかれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこなひぞ多かるべき、されば今これをゑり改めむとならば、文字の誤リをのみたゞして、訓をば、しばらくもとのまゝにてあらむかたぞ、まさりぬ べき、
6 また[一二]
續紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤リことにおほく、脱(オチ)たることなどもあり、そもそも書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、續紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなることなく、たゞよのつねのから書(ブミ)の訓のごとくにてよろしければ、今いかで三代實録までを、皆古きよき本を、これかれよみ合わせて、よきをえらびて、うるはしきゑり板を成しおかまほしきわざなり、
7 又[一三]
萬のふみども、すり本(マキ)と寫し本(マキ)との、よさあしさをいはむに、まづすり本(マキ)の、えやすくたよりよきことは、いふもさら也、しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本のよきあしきをもえらばずてゑりたるは、さらにもいはず、物しり人の手をへて、えらびたるも、なほひがことのおほかるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬ れば、もろもろの寫シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、たゞ一つにさだまる故に、誤リのあるを、他本(アダシマキ)もてたゞさむとすれども、たやすくえがたき、こはすり本(マキ)あるがあしき也、皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やうやうに板にはゑれるを、いづれも本あしく、あやまり多くして、別 によき本を得てたゞさざれば、物の用にもたちがたきさへおほかるは、いとくちをしきわざなりかし、然るにすり本ならぬ 書どもは、寫し本はさまざまあれば、誤リは有ながらに、これかれを見あはすれば、よきことを得る、こは寫本にて傳はる一つのよさ也、然はあれども、寫本はまづはえがたき物なれば、廣からずして絶やすく、又寫すたびごとに、誤リもおほくなり、又心なき商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、こゝかしこひそかにはぶきなどもして、物するほどに、全くよき本はいとまれにのみなりゆくめり、さればたとひあしくはありとも、なほもろもろの書は、板にゑりおかまほしきわざなり、殊に貞觀儀式西宮記北山抄などのたぐひ、そのほかも、いにしへのめでたき書どもの、なほ寫本のみねてあるが多きは、いかでいかでみないたにゑりて、世にひろくなさまほしきわざ也、家々の記録ぶみなども、つぎつぎにゑらまほし、今の世大名たちなどにも、ずゐぶんに古書をえうじ給ふあれど、たゞ其家のくらにをさめて、あつめおかるゝのみにて、見る人もなく、ひろまらざれば、世のためには何のやくなく、あるかひもなし、もしまことに古書をめで給ふ心ざしあらば、かゝるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、其道の人に仰せて、あだし本どもをもよみ合せ、よきをえらばせて、板にゑらせて、世にひろめ給はむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功(イサオ)なるべし、いきほひ富(トメ)る人のうへにては、かばかりの費(ツヒエ)は、何ばかりの事にもあらで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世までのこるわざぞかし、かへすがえすこゝろざしあらむ人もがな、
8 また[一四]
めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、ひなかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくどゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ 人の、よに多き物ぞかし、
9 また[一五]
人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり、本におりめつけたるは、なほるよなきものぞかし、
10 もろこしぶみをもよむべき事[二二]
から國の書をも、いとまのひまには、ずゐぶんに見るぞよき、漢籍も見ざれば、其外ツ國のふりのあしき事もしられず、又古書はみな漢文もて書たれば、かの國ぶりの文もしらでは、學問もことゆきがたければ也、かの國ぶりの、よろづにあしきことをよくさとりて、皇國(ミクニ)だましひだにつよくして、うごかざれば、よるひるからぶみを見ても、心はまよふことなし、然れども、かの國ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理をつくしたるやうに、こまかに諭ひ、よさまに説(トキ)なせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつりやすく、まどひやすきならひなれば、から書見むには、つねに此ことをわするまじきなり、
11 學問して道をしる事[二三]
がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意(カラゴコロ)をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬ ほどは、いかに古書をよみても考へても、古ヘの意はしりがたく、古ヘのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そもそも道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心(マゴコロ)なるぞ、道には有ける、眞心(マゴコロ)とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、眞心をばうしなひはてたれば、今は學問せざれば、道をえしらざるにこそあれ、
12 がくもん[二四]
世ノ中に學問といふは、からぶみまなびの事にて、皇國の古ヘをまなぶをば、分て神學倭學國學などいふなるは、例のから國をむねとして、御國をかたはらになせるいひざまにて、いといとあるまじきことなれ共、いにしへはたゞから書學びのみこそ有けれ、御國の學びとては、もはらとする者はなかりしかば、おのづから然いひならふべき勢ひ也、しかはあれども、近き世となりては、皇國のをもはらとするともがらもおほかれば、からぶみ學びをば、分て漢學儒學といひて、此皇國のをこそ、うけばりてたゞに學問とはいふべきなれ、佛學なども、他(ホカ)よりは分て佛學といへども、法師のともは、それをなむたゞに學問とはいひて、佛學とはいはざる、これ然るべきことわり也、國學といへば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬ いひざまなり、世の人の物いひざま、すべてかゝる詞に、内外(ウチト)のわきまへをしらず、外ツ國を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみよみなれたるからの、ひがことなりかし、
13 からごゝろ[二五]
漢意(カラゴコロ)とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ 人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬ れば、おのづからその意(ココロ)世ノ中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そもそも人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別 (コト)に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、實の是(ヨキ)にはあらず、非(アシ)とすること、まことの非(アシキ)にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず、又當然之理(シカアルベキコトワリ)とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬ れば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、
14 おかしとをかしと二つある事[二六]
田中ノ道麻呂が考へけるは、物をほめていふおかしは、おむかしのつゞまりたるにて、おの假字也、又笑ふべき事をいふをかしは、をこといふ言のはたらきたるにて、をの假字也、さればこは本より二つにて、異言(コトコトバ)なるを、假字づかひみだれて、一つに書(カク)から、同言のごと心得たるは、誤也といへる、まことにさることにて、いとよきかむかへなり、ほむるとわらふとは、其意大かたうらうへなるを、いかでか同じ言を通 はし用ふることのあらむ、おむかしは古ヘ言にて、書紀に徳ノ字また欣感などを、おむかしみすとよみ、續紀の宣命には、うむかし共見え、萬葉の歌には、おをはぶきて、むかし共よめり、此道まろといひしは、美濃ノ國多藝ノ郡榛木(ハリノキ)村の人にて、後は尾張の名兒屋に住て、またなくふることを好み、人にもヘへて、ことに萬葉集を深く考へ得たる人になむ有ける、年はやゝこのかみなりしかども、宣長が弟子(ヲシヘノコ)になりて、二たび三たびはこゝにも來(キ)、つねはしばしばふみかよはしてなむ有けるを、今はむかしの人になむなりぬ る、大かたかの名兒屋に、いにしへ學びする人々の出來しは、此おきながみちびきよりぞはじまりける、
15 東宮をたがひにゆづりて[二七]
此里に、これも宣長がをしへ子に、須賀直見といひしは、いときなかりしほどより、からやまとの書をこのみよみて、いとよく學びて、歌をもよくよみ、物のさとりもいとかしこかりけるを、まだ四十にもならで、はやくみまかりぬ るは、いとあたらしきをのこになむ有ける、それがいへりしは、古今集の序の細註に、東宮をたがひにゆづりてとあるは、たれもいと心得ぬ いひざまなる、こは東宮とにぞ有けむを、ともじとをもじとよく似たれば、見誤りて書キつたへたる物なるべし、宇治ノ稚郎子をさして、東宮とは申せる也とぞいへりし、此考へにてよくきこえたり、
16 漢意[三五]
漢國には、おほよそ人の禍福(サキハヒワザハヒ)、國の治亂(ミダレヲサマル)など、すべて世ノ中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊(タフト)く畏(オソ)るべきものぞすなる、さるはすべて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そもそも天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊(タフト)み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿(ミヤトノ)をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外ツ國には、萬ヅは神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有リながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外ツ國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬ヅの事に、その理リをのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、ことごとしくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説(ツクリコト)にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典(ミフミ)をとくともがら、もはらこれらの理リをもて説(トク)なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがことなるをば、えさとらず、其垣(カキ)ツ内を出デはなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小(チヒサ)き理リにかゝはり泥(ナヅ)みて、まことの道の、微妙(タヘ)なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にましまして、その御孫(ミマノ)命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其理リは測(ハカ)りしらるべききはにあらず、おのが智(サトリ)もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小(チヒサ)きからごゝろなるをや、
17 又[三六]
漢國にも、神あることを、むげにしらざるにもあらず、尊みもし祀(マツ)りもすめるは、まことの傳への、かたはしは有しならむ、然れ共此天地をはじめ給ひ、國土(クニツチ)萬ノ物を造りなし給ひ、人の道をも萬の事をも始め給ひ、世ノ中のよろづの事をしり行ひ給ふ神たちのましますことをば、すべてえしらずして、これらの重(オモ)く大きなる事には、たゞ天をのみいひて、ただかたはらなる小(チイサ)き事にのみ、神をばいひて、此世を照し給ふ日ノ大御神をすら、かろがろしく、ことなることもなき物のごとくして、此神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだにしらざるは、いとあさましきわざなりかし、
18 言をもじといふ事[三八]
歌のみそぢひともじを、近きころ古學するともがらは、字といふことをきらひて、卅一言といひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみいふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、いにしへよりかくいへり、すべてもじといふは、文字の字の音にて、御國言にはあらざれども、もんじといはずして、もじといへば、字の音共聞えず、御國言めきてきこゆる、此外にも、ほうし(ママ)ぜにふみなどのたぐひ、字の音をなほして、やがて御國言に用ひたる例多かり、されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばといひてわろき所をば、もじといへることおほし、のもじをもじなどいふ類也、これらをも、近く古學の輩の、のの語をの語などいふなるは、中々にからめきてぞ聞ゆる、源氏物語などには、別 (ワカレ)といふことをすら、わかれといふもじといひ、葵ノ巻には、今はさるもじいませ給へなどあるも、さる詞といふこと也、かく詞といひてもよきをだに、もじといへることあれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、さら也、
19 あらたなる説を出す事[三九]
ちかき世、學問の道ひらけて、大かた萬ヅのとりまかなひ、さとくかしこくなりぬ るから、とりどりにあらたなる説を出す人おほく、其説よろしければ、世にもてはやさるゝによりて、なべての學者、いまだよくもとゝのはぬ ほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひ也、其中には、ずゐぶむによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき學者の、心はやりていひ出ることは、たゞ人にまさらむ勝(カタ)むの心にて、かろがろしく、まへしりへをもよくも考へ合さず、思ひよれるまゝにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがことのみ也、すべて新なる説を出すは、いと大事也、いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとほりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずは、たやすくは出すまじきわざ也、その時には、うけばりてよしと思ふも、ほどへて後に、いま一たびよく思へば、なほわろかりけりと、我ながらだに思ひならるゝ事の多きぞかし、
20 音便の事[四一]
古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり、後ノ世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつみえそめて、よゝをふるまゝに、やうやうにおほくなれり、そは漢字三音考の末にいへるごとく、おのづから定まり有て、もろもろの音便五くさをいでず、抑此音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などをよむには、一つもまじふべきにあらざるを、後ノ世の物しり人、その本ノ語をわきまへずして、よのつねにいひなれたる音便のまゝによむは、なほざりなること也、すべて後ノ世には、音便の言いといと多くして、まどひやすし、本ノ語をよく考へて、正しくよむべき也、中にもんといふ音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便也とこゝろうべし、さてその音便のんの下は、本ノ語は清ム音なるをも、濁(ニゴ)らるゝ音なれば、皆かならず濁る例也、たとへばねもころといふ言を、後にはねんごろといふがごとし、んの下のこもじ、本ノ語は清ム音なるを、上のもをんといふにひかれて濁る、みな此格なり、然るを世の人、その音便のときの濁リに口なれて、正しくよむときも、ねもごろと、こをにごるはひがこと也、此例多し、心得おくべし、
21 からうたのよみざま[四五]
童蒙抄に、ある人北野にまうでて、東行南行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよひ日うらうら、とこそ詠ずれと仰られけり云々とあり、むかしは詩をも、うるはしくはかくさまにこそよみあげけめ、詠(ナガ)むるはさらなり、いにしへはすべてからぶみをよむにも、よまるゝかぎりは、皇國言(ミクニコトバ)によめるは、字音(モジゴエ)は聞にくかりしが故也、然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇國言よりは、字音なるをうるはしきことにし、書よむにも、よまるゝかぎりは、字音によむをよきこととすなるは、からぶみまなびのためには、字音によむかたよろしき故もあればぞかし、
22 大神宮の茅葺(カヤブキ)なる説[四七]
伊勢の大御神の宮殿(ミアラカ)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒メなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也、質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし、御殿(ミアラカ)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ、みあらか又獻り物などを、質素にするは、禮(ヰヤ)なく心ざし淺きしわざ也、そもそも伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重(オモ)みし守りて、變(カヘ)給はざる物なり、然して茅葺ながらに、その荘麗(イカメシ)きことの世にたぐひなきは、皇御孫(スメミマノ)命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故也、さるを御(ミ)みづからの宮殿(ミアラカ)をば、美麗(ウルハシ)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは、すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古ヘの意にそむけりと知べし、
23 清水寺の敬月ほうしが歌の事[五七]
承久のみだれに、清水寺の敬月法師といひけるほうし、京の御方にて、官軍にくはゝり、宇治におもむきけるを、かたきにとらはれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける、「勅なれば身をばすててきものゝふの八十宇治川の瀬にはたゝねど、かたき此歌にめでて、命ゆるして、遠流にぞしたりける、此事も同じ書に見ゆ、  
玉かつま二の巻 / 櫻の落葉 二

 

なが月の十日ごろ、せんざいの櫻の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる、
花ちりし同じ梢をもみぢにも 又ものおもふ庭ざくらかな
これをもひろひいれて、やがて巻の名としつ、
24 兩部唯一といふ事[七二]
天下の神社のうち、神人のみつかふる社を、俗(ヨ)に唯一といひ、法師のつかふる社を、兩部といふ、又兩部神道とてヘふる一ながれもあり、兩部とは、佛の道の密ヘの、胎藏界金剛界の兩部といふことを、神の道に合せたるを、兩部習合の神道といへり、かの兩部を以て、神道に合せたるよし也、部ノ字にて心得べし、神と佛とをさしていふ兩にはあらず、さて又唯一といふは、兩部神道といふもののあるにつきて、その兩部をまじへざるよし也、されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は、兩部神道有ての後也、然るに此名を、兩部に對へたるにはあらず、天人唯一の義也といひなせるは、いみしきひがこと也、天と人とひとつ也とは、いかなることわりぞや、そはたゞ天をうへもなくいみしき物にすなる、漢意よりいひなしたることにて、いたく古ヘの意にそむけり、抑天は、天つ神たちのまします御國にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ、世の物しり人みな、古ヘのこゝろをえさとらず、ひたぶるに漢意にまどへるから、何につけても、ことわり深げなることを説むとて、しひてかゝることをもいふにぞ有ける、
25 道にかなはぬ世中のしわざ[七三]
道にかなはずとて、世に久しく有リならひつる事を、にはかにやめむとするはわろし、たゞそのそこなひのすぢをはぶきさりて、ある物はあるにてさしおきて、まことの道を尋ぬ べき也、よろづの事を、しひて道のまゝに直しおこなはむとするは、中々にまことの道のこゝろにかなはざることあり、萬の事は、おこるもほろぶるも、さかりなるもおとろふるも、みな神の御心にしあれば、さらに人の力もて、えうごかすべきわざにはあらず、まことの道の意をさとりえたらむ人は、おのづから此ことわりはよく明らめしるべき也、
26 道をおこなふさだ[七四]
道をおこなふことは、君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの學ぶ者は、道を考へ尋ぬ るぞつとめなりける、吾はかくのごとく思ひとれる故に、みづから道をおこなはむとはせず、道を考へ尋ぬ ることをぞつとむる、そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこゝろにあらず、下なる者はたゞ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ、古ヘの道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ、
 27 から國聖人の世の瑞といふもの[七六]
もろこしの國に、いにしへ聖人といひし者の世には、そのコにめでて、麒麟鳳凰などいひて、ことごとしき鳥けだ物いで、又くさぐさめでたきしるしのあらはれし事をいへれども、さるたぐひのめづらしき物も、たゞ何となく、をりをりは出ることなるべきを、たまたま出ぬ れば、コにめでて、天のあたへたるごといひなして、聖人のしるしとして、世の人に、いみしき事に思はせたるもの也、よろづにかゝるぞ、かの國人のしわざなりける、
28 姓氏の事[七七]
今の世には、姓(ウヂ)のしられざる人のみぞおほかる、さるはいかなるしづ山がつといへども、みな古ヘの人の末にてはあるなれば、姓のなきはあらざンなる事なるを、中むかしよりして、いはゆる苗字をのみよびならへるまゝに、下々なるものなどは、ことごとしく姓と苗字とをならべてなのるべきにもあらざるから、おのづから姓はうづもれ行て、世々をへては、みづからだにしらずなれる也、さて後になりのぼりて、人めかしくなれる者などは、姓のなきを、物げなくあかぬ 事に思ひては、あるは藤原、あるは源平など、おのがこのめるを、みだりにつくこといと多し、すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏たゞしからず、皆いとみだりがはしくぞなれりける、その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平也、そはいにしへのもろもろの氏々は絶て、此三氏(ミウヂ)のかぎり多くのこれるにやと思へば、さにはあらず、中昔よりして、此三うぢの人のみ、つかさ位 高きは有て、他(ホカ)のもろもろの氏人どもは、皆すぎすぎにいやしくのみなりくだれるから、其人は有リながら、其姓はおのづからかくれゆきて、をさをさしる人もなく、絶たるがごとなれる也、又ひとつには、近き世の人は、古ヘのもろもろの姓をば、しることなくして、姓はたゞ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古ヘもろもろの姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬ る也、又古ヘの名高くすぐれたる人をしたひては、その子孫ぞといひなして、學問するものは、菅原大江などになり、武士は多く源になるたぐひあり、すべて近き世は、よろしきほどの人々も、たゞ苗字をなんむねとはして、姓はかへりて、おもてにはたゝざるならひなる故に、おのが心にまかせて物する也、さて又ちかき年ごろ、萬葉ぶりの歌をよみ、古學をする輩は、又ふるき姓をおもしろく思ひて、世の人のきゝもならはぬ 、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢學者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐひにて、いとうるさく、その人の心のをさなさの、おしはからるゝわざぞかし、いにしへをしたふとならば、古ヘのさだめを守りて、殊にさやうに、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日ノ前の探湯(クカダチ)をもおそれざンなるは、まことに古ヘを好むとはいはるべしやは、そもそも姓は、先祖より傳はる物にこそあれ、上より賜はらざるむかぎりは、心にまかせて、しかわたくしにすべき物にはあらず、まことに其姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおほぢ父の世より、なのり來(キ)てあらんは、なほさても有べきを、おのがあらたに物せむことは、いといとあるまじきわざになむ、姓しられざらんには、たゞ苗字をなのりてあらむに、なでふことかはあらん、すべて古ヘをこのまむからに、よろづをあながちに古ヘめかさむとかまふるは、中々にいにしへのこゝろにはあらざるものをや、
29 又[七八]
よに源平藤橘とならべて、四姓といふ、源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬ るは、いかなるよしにかあらむ、おもふに嵯峨ノ天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓のことは、もろこしぶみにさへいへる、そはむかしこゝの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるしたンなるを、かしこまでしられたることと、よにいみしきわざにぞ思ふめる、すべて何事にまれ、こゝの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしきことにおもふなるは、いとおろかなることなり、すべてかの國の書には、その國々の人の、語れる事を、きけるまゝにしるせれば、なにのめづらしくいみしきことかはあらむ、
30 神典のときざま[八五]
中昔よりこなた、神典(カミノミフミ)を説(トク)人ども、古ヘの意言(ココロコトバ)をばたづねむ物とも思ひたらず、たゞひたぶるに、外國(トツクニ)の儒佛の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、萬葉を見ず、むげに古ヘの意言(ココロコトバ)をしらざるが故に、かのから意(ゴコロ)のことわりの外に、別 (コト)にいにしへの旨(ムネ)ありて、明らかなることをえしらず、これによりて古ヘのむねはことごとくうづもれて、顯れず、神の御(ミ)ふみも、皆から意になりて、道明らかならざる也、かくておのが神の御書をとく趣は、よのつねの説どもとはいたく異にして、世々の人のいまだいはざることどもなる故に、世の學者、とりどりにとがむることおほし、されどそはたゞ、さきの人々の、ひたすら漢意にすがりて説(トキ)たる説(コト)をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごゝろのくせの清くさらざるから、そのわろきことをえさとらざるもの也、おのがいふおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古ヘの傳説(ツタヘゴト)のまゝ也、世の人々のいふは、みなそのまどひ居る漢意に説曲(トキマゲ)たるわたくしごとにて、いたく古ヘノ傳ヘ説(ゴト)と異也、此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや、もしおのが説をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし、此御典(ミフミ)どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむることえじ、
31 ふみよむことのたとへ[八九]
須賀ノ直見がいひしは、廣く大きなる書をよむは、長き旅路をゆくがごとし、おもしろからぬ 所もおほかるを經(ヘ)行ては、又おもしろくめさむるこゝちする浦山にもいたる也、又あしつよき人は、はやく、よわきはゆくことおそきも、よく似たり、とぞいひける、おかしきたとへなりかし、
32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事[九〇]
大かたよのつねにことなる、新しき説をおこすときには、よきあしきをいはず、まづ一わたりは、世中の學者ににくまれそしらるゝものなり、あるはおのがもとよりより來つる説と、いたく異なるを聞ては、よきあしきを味ひ考ふるまでもなく、始めよりひたぶるにすてて、とりあげざる者もあり、あるは心のうちには、げにと思ふふしもおほくある物から、さすがに近き人のことにしたがはむことのねたくて、よしともあしともいはで、たゞうけぬ かほして過すたぐひもあり、あるはねたむ心のすゝめるは、心にはよしと思ひながら、其中の疵をあながちにもとめ出て、すべてをいひけたむとかまふる者も有リ、大かたふるき説をば、十が中に七ツ八ツはあしきをも、あしき所をばおほひかくして、わづかに二ツ三ツのとるべき所のあるをとりたてて、力のかぎりたすけ用ひんとし、新しきは、十に八ツ九ツよくても、一ツ二ツのわろきことをいひたてて、八ツ九ツのよきことをも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用ひず、人にももちひさせじとする、こは大かたの學者のならひ也、然れども又まれまれには、新なる説のよきを聞ては、ふるきがあしきことをさとりて、すみやかに改めしたがふたぐひも、なきにはあらず、ふるきをいかにぞや思ひて、かくはあらじかとまでは思ひよれども、みづから定むる力なくて、疑はしながら、さてあるなどは、あらたなるよき説をきゝては、かくてこそはと、いみしくよろこびつゝ、たりまちにしたがふたぐひも有かし、大かた新なる説は、いかによくても、すみやかには用ふる人まれなるものなれど、よきは、年をへても、おのづからつひには世の人のしたがふものにて、あまねく用ひらるれば、其時にいたりては、はじめにねたみそしりしともがらも、心には悔しく思へど、おくればせにしたがはむも、猶ねたく、人わろくおぼえて、こゝろよからずながら、ふるきをまもりてやむともがらも多かり、しか世ノ中の論さだまりて、皆人のしたがふよになりては、始メよりすみやかに改めしたがひつる人は、かしこく心さとくおもはれ、ふるきにかゝづらひて、とかくとゞこほれる人は、心おそくいふかひなく思はるゝわざぞかし、
33 又[九一]
此ちかき年ごろとなりてはやうやうに古學のよきことを、世にもしれるともがらあまた出来て、物よくわきまへたる人は、おほく契沖をたふとむめり、そもそも契沖のよきことをしるものならば、かれよりもわが縣居ノ大人の、又まさりてよきことは、おのづからしるらんに、なほ契沖にしもとゞまりて、今一きざみえすゝまざるは、いかにぞや、又縣居ノ大人まではすゝめども、其後の人の説は、なほとらじとするも、同じことにて、これみな俗(ヨ)にまけをしみとかいふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、かならず學者のこゝろは、おほくさるものなりかし、
34 儒者名をみだる事[九三]
孔丘は、名を正すをこそいみしきわざとはしつれ、此方(ココ)の近きころのじゆしやは、よろづに名をみだることをのみつとむめり、そが中に、地(トコロ)の名などを、からめかすとて、のべもつゞめもかへも心にまかせて物するなどは、なほつみかろかるべきを、おほやけざまにあづかれる、重き名どもをさへに、わたくしの心にまかせて、みだりにあらため定めて書クなるは、いともいとも可畏(カシコ)きわざならずや、近き世に或ル儒者の、今の世は、萬ヅ名正しからず、某(ソレ)をば、今はしかしかとはいふべきにあらず、しかしかいはむこそ正しけれ、などいひて、よろづを今の世のありさまにまかせて、例の私に物せるは、いかなるひが心得ぞや、そもそもかの孔丘が名を正せるやうは、諸侯どものみだりなる、當時(ソノトキ)のありさまにはかかはらずて、ひたぶるに周王のもとの定めをこそ守りつれ、かの或ル儒者のごと、古ヘよりのさだめにもかゝわらず、今の名にもしたがはず、たゞ今の世のありさまにまかせて、わたくしにあらたに物せむは、孔丘が春秋のこゝろとは、うらうへにて、ことさらに名をみだることの、いみしきものにこそ有けれ、皇國は、物のありさまは、古ヘとかはりきぬ るも、名は、物のうつりゆく、其時々のさまにはしたがはずして、今の世とても、萬ヅになほ古ヘのを守り給ふなるは、いともいとも有がたく、孔丘が心もていはば、名のいとただしきにこそありけれ、さるをかへりてただしからずとしもいふは、何につけても、あながちに皇國をいひおとさむとする心のみすゝめるからに、そのひがことなることをも、われながらおぼえざるなめり、
35 松嶋の日記といふ物[九七]
清少納言が年老て後に、おくの松嶋に下りける、道の日記とて、やがて松しまの日記と名づけたる物、一冊あり、めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみしき偽書(イツハリブミ)にて、むげにつたなく見どころなき物也、さるはちかきほど、古學をする者の作れる口つきとぞ聞えたる、すべて近き年ごろは、さるいつはりぶみをつくり出るたぐひの、ことに多かる、えうなきすさびに、おほくのいとまをいれ、心をもくだきて、よの人をまどはさんとするは、いかなるたぶれ心にかあらむ、よく見る人の見るには、まこといつはりは、いとよく見えわかれて、いちじるけれど、さばかりなる人は、いといとまれにして、えしも見わかぬ もののみ、世にはおほかれば、むげの偽リぶみにもあざむかれて、たふとみもてはやすなるは、いともいともかたはらいたく、かなしきわざ也、近きころは、世中にめづらしき書をえうずるともがら多きを、めづらしきは、まことの物ならぬ がおほきを、さる心して、よくえらぶべきわざぞかし、菅原ノ大臣のかき給へりといふ、須磨の記といふ物などは、やゝよにひろごりて、たれもまことと思ひたンめる、これはたいみしき偽リ書なるをや、かかるたぐひ數しらずおほし、なずらへて心すべし、
36 ふみども今はえやすくなれる事[一〇二]
二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、たゞちかき世の歌ぶみをのみ學びて、萬葉をまなぶことなく、又神學者といふ物も、たゞ漢ざまの理をのみさだして、古ヘのまことのこゝろをえむことを思はねば、萬葉をまなぶことなくて、すべて萬葉は、歌まなびにも、道の學びにも、かならずまづまなばでかなはぬ 書なることを、しれる人なかりき、されば、契沖ほうし、むねと此集を明らめて、古ヘの意をもかつがつうかゞひそめて、はしばしいひおきつれども、歌人も神學者も、此しるべによるべきことをしれる人なかりしかば、おのがわかくて、京にありしころなどまでは、代匠記といふ物のあることをだにしれる人も、をさをさなかりければ、其書世にまれにして、いといとえがたく、かの人の書は、百人一首の改觀抄だに、えがたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人にかりて見て、かはばやと思ひて、本屋(フムマキヤ)をたづねたりしに、なかりき、板本(スリマキ)なるにいかなればなきぞととひしかば、えうずる人なき故に、すり出さずとぞいへりける、さてとかくして、からくしてぞえたりける、そのころまでは、大かたかゝりけるに、此ちかき年ごろとなりては、寫本(ウツシマキ)ながら代匠記もおほく出て、さらにえがたからずなりぬ るは、古學の道のひらけて、えうずる人おほければぞかし、さるは代匠記のみにもあらず、すべてうつしまきなる物は、家々の記録などのたぐひ、その外の書どもも、いといとえがたかりしに、何も何も、今はたやすくえらるゝこととなれるは、いともいともめでたくたふとき、御代の御榮(ミサカ)えになん有ける、
37 おのが物まなびの有しやう[一〇三]
おのれいときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よりづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるははかばかしく師につきて、わざと學問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞからのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき、かくてはたちあまりなりしほど、學問しにとて、京になんのぼりける、さるは十一のとし、父におくれしにあはせて、江戸にありし、家のなりはひをさへに、うしなひたりしほどにて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒學をもせむとてなりけり、さて京に在しほどに、百人一首の改觀抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、餘材抄勢語臆斷などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、さるまゝに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからずおぼえけれど、そのかみ同じ心なる友はなかりければ、たゞよの人なみに、ここかしこの會などにも出まじらひつゝ、よみありきけり、さて人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける、そはさるべきことわりあり、別 にいひてん、さて後、國にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辭考といふ物を見せたるにぞ、縣居ノ大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ 事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出來つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ 、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が萬葉の説(トキゴト)は、なほいまだしきことのみぞ多かりける、おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき、さて又道の學びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたててわざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも學ばむと、こゝろざしはすゝみぬ るを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇國のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものの説(トク)おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬ れば、師とョむべき人もなかりしほどに、われいかで古ヘのまことのむねを、かむかへ出む、と思ふこゝろざし深かりしにあはせて、かの冠辭考を得て、かへすかへすよみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへてせちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へるを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみしくゝちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき、さてつひに名簿を奉りて、ヘヘをうけ給はることにはなりたりきかし、
38 あがたゐのうしの御さとし言[一〇四]
宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典(ミフミ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意をたづねえずはあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説(トケ)る趣は、みなあらぬ から意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける、
39 おのれあがたゐの大人のヘをうけしやう[一〇五]
宣長、縣居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、その後はたゞ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、そのたびたび給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬ る、さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、かし給ひ、又中ツ巻下ツ巻は、かたはらの訓を改め、所々書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき、古事記傳に、師の説とて引たるは、多く其本にある事ども也、そもそも此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら萬葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ 事どももおほし、されば道を説(トキ)給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去(サ)れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり、
40 師の説になづまざる事[一〇六]
おのれ古典(イニシヘブミ)をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、ヘヘられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也、大かた古ヘをかむかふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめつくすべくもあらず、又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤リもなどかなからむ、必わろきこともまじらではえあらず、そのおのが心には、今はいにしへのこゝろことごとく明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむかへもいでくるわざ也、あまたの手を經(フ)るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、
41 わがをしへ子にいましめおくやう[一〇七]
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事[一〇八]
小篠大記御野(ミヌ)といふ人は、石見ノ國濱田の殿のじゆしやにて、おのが弟子(ヲシヘノコ)也、天明八年秋のころ、肥前ノ國の長崎に物して、阿蘭陀人(オランダビト)のまうで來てあるに逢いて、音韻の事どもを論じ、皇國の五十音の事をかたりて、そを其人にとなへさせて聞しに、和のくだりの音をば、みな上にうを帶て、ゐはういの如く、ゑはうえのごとく、をはうおのごとくに呼て、いえおとはひとしからず、よく分れたり、こは何をもて然るぞと問ヒしかば、はじめの和にならへば也とぞいへりける、かの國のつねの音も、このけぢめありとぞ、此事おのが字音かなづかひにいへると、全くあへりとて、いみしくよろこびおこせたりき、なほそのをりの物がたりども、何くれといひおこせたりし中に、おかしき事どもあれど、こゝにはもらしつ、  
玉かつま三の巻 / たちばな 三

 

立よればむかしのたれと我ながら わが袖あやしたちばなのかげ
これは題よみのすゞろごとなるを、とり出たるは、ことされめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の巻の名つけむとてなむ、
43 から國にて孔丘が名をいむ事[一一二]
もろこしの國に、今の清の代に、その王が、孔子の諱(イミナ)を避(サク)とて、丘ノ字の畫を省(ハブ)きてかくことをはじめて、秦漢より明にいたるまで、夫子を尊むことをしらざりしといひて、いみしげにみづからほこれども、これいとをこなること也、もしまことに孔丘をたふとむとならば、其道をこそよく行ふべきことなれ、その道をば、全くもおこなはずして、たゞいたづらに、其人のみをたふとまんは、なにのいみしき事かあらむ、其道をだによく行ひなば、いにしへよりいむことなくて有リ來つる、其もじは、今さらいまずとて、なでふこたかあらむ、これたゞ道をたふとみがほして、世の人にいみしく思はせむためのはかりこと也、すべてかの國人のしわざは、大かたいにしへよりかくのごとくにて、聖賢といふ物をたふとむを、いみしき事にすなるは、みなまことに尊むにはあらず、名をむさぼるしわざ也、
44 から人のおやのおもひに身をやつす事[一二二]
もろこしの國の、よゝの物しり人どもの、親の喪(オモヒ)に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりもあらざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩(ヤセ)さらぼひて、ことさらにかほかたりをやつして、いみしげにうはべを見せたるがおほかりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事にほめたるも又をこ也、うせにし親を、まことに思ふ心ふかくは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病などもおこりて、もしはからず、なくなrなどもしたらむには、孝ある子といふべしやは、たとひさまでにはいたらずとも、しかいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、おやはさこそこゝろぐるしく思はめ、いかでかうれしとは見む、さる親の心をば思はで、たゞ世の人めをのみつくろひて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ、すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまひをして、いみしき事に思はするは、かの國人のならひにぞありける、
45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ[一二三]
世々の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ榮えをながはず、よろこばざるを、よき事にすれども、そは人のまことの情(ココロ)にあらず、おほくは名をむさぼる、例のいつはり也、まれまれにさる心ならむもの有とも、そは世のひがものにこそあれ、なにのよき事ならん、ことわりならぬ ふるまひをして、あながちにながはむこそは、あしからめ、ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富(トミ)さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ、身おとろへ家まづしからむは、うへなき不孝にこそ有けれ、たゞおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝をわするゝも、又もろこし人のつねなりかし、
46 神の御ふみをとける世々のさま[一三三]
神御典(カミノミフミ)を説(トク)事、むかしは紀傳道の儒者の職(ワザ)にて、そのとける書、弘仁より代々の、日本紀私記これ也、そはいづれも、たゞ漢學の餘力(チカラノアマリ)をもて考へたるのみにして、神御典(カミノミフミ)をまはら學びたるものにあらざるが故に、古ヘの意詞(ココロコトバ)にくらく、すべてうひうひしく淺はかにて、もとより道の趣旨(オモムキ)も、いかなるさまとも説(トキ)たることなく、たゞ文によりて、あるべきまゝにいへるばかり也、然れども皇朝のむかしの儒者は、すべてから國のやうに、己が殊にたてたる心はなかりし故に、神の御ふみをとくとても、漢意にときまげたる、わたくし説(ゴト)もをさをさ見えず、儒意(ジュゴコロ)によれる強説(シヒゴト)もなくて、やすらかにはありしを、後ノ世にいたりては、ことに神學といふ一ながれ出來て、もはらにするともがらしあれば、つぎつぎにくはしくはなりもてゆけど、なべての世の物しり人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみをとく者も、さかしらをさきにたてて、文のまゝには物せず、おのが好むすぢに引つけて、あるは儒意に、ときまぐることとなれり、さていよいよ心さかしくなりもてゆくまゝに、近き世となりては、又やうやうに、かの佛ごゝろをまじふるが、ひがことなることをさとりて、それをば、ことごとくのぞきてとくこととなれり、然れどもそれは、まことに古ヘの意をさとりて然るにはあらず、たゞ儒意のすゝめるから、いとへるもの也、さる故に、近き世に、神の道とて説(トク)趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず、このともがら、かの佛に流れたることのひがことをばしりながら、みづから又儒にながるゝことを、えさとらざるは、いかにぞや、かくして又ちかき世には、しか儒によることのわろきをも、やゝしりて、つとめてこれをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、それはたいまだ清く漢意をはなるゝことあたはで、天理陰陽などいふ説をば、なほまことと心得、ともすれば、例のさかしらの立いでては、高天ノ原を帝都のこととし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神(ワタツミ)ノ宮を、一つの嶋也とするたぐひ、すべてかやうに、おのがわたくしの心をもて、さまざまに説曲(トキマゲ)ることをえまぬ かれざるは、なほみな漢意なるを、みづからさもおぼえざるは、さる癖(クセ)の、世の人のこゝろの底に、しみつきたるならひぞかし、  
玉かつま四の巻 / わすれ草 四

 

からぶみの中に、とみにたづぬべき事の有て、思ひめぐらすに、そのふみとばかりは、ほのかにおぼえながら、いづれの巻のあたりといふこと、さらにおぼえねは、たゞ心あてに、こゝかしことたづぬ れど、え見いでず、さりとていとあまたある巻々を、はじめよりたづねもてゆかむには、いみしくいとまいりぬ べければ、さもえ物せず、つひにむなしくてやみぬるが、いとくちをしきまゝに、思ひつゞける、
ふみみつる跡もなつ野の忘草老てはいとゞしげりそひつゝ
もとより物おぼゆること、いとともしかりけるを、此ちかきとしごろとなりては、いとゞ何事も、たゞ今見聞つるをだに、やがてわすれがちなるは、いといといふかひなきわざになむ、
47 故郷[一五五]
旅にして、國をふるさとといふは、他國(ヒトノクニ)にうつりて住る者などの、もと住し里をいへるにこそあれ、たゞゆきかへるよのつにの旅にていふは、あたらぬ 事也、されば萬葉集古今集などの歌には、しかよめるはいまだ見あたらず、萬葉などには、ゆきかへる旅にては、國をは、國又は家などこそよみたれ、然るを後の世には、おしなべて故郷といひならひて、つねのことなれば、なべては今さらとがむべきにもあらざれども、萬葉ぶりの歌には、なほ心すべきことなるに、今の人心つかで、なべてふるさととよむなるは、いかゞとこそあぼゆれ、
48 うき世[一五六]
うきよは、憂(ウ)き世といふことにて、憂(ウ)き事のあるにつきていふ詞也、古き歌どもによめるを見て知べし、然るをからぶみに、浮世(フセイ)といふこともあるにまがひて、つねに浮世(ウキヨ)とかきならひて、たゞ何となく世ノ中のことにいふは誤り也、古歌を見るにも、憂(ウ)きといふに心をつけて見べし、
49 世の人かざりにはからるゝたとひ[一六五]
皇國と外國とのやうを、物にたとへていはば、皇國の古ヘは、かほよき人の、かたち衣服(キモノ)をもかざらず、たゞありにてあるが如く、外國は、醜(ミニク)き女の、いみしく髪かほをつくり、びゝしき衣服(キモノ)を着(キ)かざりたるがごとくなるを、遠(トホ)くて見る時は、まことのかたちのよきあしきは、わかれずして、たゞそのかざりつくろへるかたぞ、まさりて見ゆめるを、世の人、ちかくよりて、まことの美醜(ヨキアシ)きを見ることをしらず、たゞ遠目(トホメ)にのみ見て、外國のかざりをしも、うるはしと思ふは、いかにぞや、すべて漢國などは、よろづの事、實(マコト)はあしきが故に、それをおほひかくさむとてこそ、さまざまにかざりつくるには有けれ、
50 ひとむきにかたよることの論ひ[一六七]
世の物しり人の、他(ヒト)の説(トキゴト)のあしきをとがめす、一(ヒト)むきにかたよらず、これをもかれをもすてぬ さまに論(アゲツラヒ)をなすは、多くはおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし、たとひ世ノ人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず、人のほめそしりにはかかはるまじきわざぞ、大かた一むきにかたよりて、他説(アダシトキゴト)をば、わろしととがむるをば、心せばくよからぬ こととし、ひとむきにはかたよらず、他説(アダシトキゴト)をも、わろしとはいはぬ を、心ひろくおいらかにて、よしとするは、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよき事にもあらず、よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならば、かならずひとむきにこそよるべけれ、それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず、よしとしてよる所に異(コト)なるは、みなあしきなり、これよければ、かれはかならずあしきことわりぞかし、然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也、よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるずぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也、人はいかにおもふらむ、われは一むきにかたよりて、あだし説をばわろしととがむるも、かならずわろしとは思はずなむ、
51 前後と説のかはる事[一六八]
同じ人の説(トキゴト)の、こゝとかしことゆきちがひて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどはしくて、大かた其人の説、すべてうきたるこゝちのせらるゝ、そは一わたりはさることなれ共、なほさしもあらず、はじめより終リまで、説のかはれることなきは、中々におかしからぬ かたもあるぞかし、はじめに定めおきつる事の、ほどへて後に、又ことはるよき考への出來るは、つねにある事なれば、はじめとかはれることあるこそよけれ、年をへてがくもむすゝみゆけば、説は必ズかはらでかなはず、又おのがはしめの誤リを、後にしりながらは、つゝみかくさで、きよく改めたるも、いとよき事也、殊にわが古學の道は、近きほどよりひらけそめつることなれば、すみやかにことごとくは考へつくすべきにあらず、人をへ年をへてこそ、つぎつぎに明らかには成リゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なることは、もとよりあらではえあらぬ わざ也、そは一人の生(イキ)のかぎりのほどにも、つぎつぎに明らかになりゆく也、さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、其人のさだまれる説とはすべかりける、但し又みづからこそ、初めのをばわろしと思ひて、改めつれ、又のちに人の見るには、なほはじめのかたよろしくて、後のは中々にわろきもなきにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人のこゝろになむ、
52 人のうせたる後のわざ[一八八]
人の死(ウセ)たる後のわざ、上ツ代にはいかに有けむ、神代に天若日子(アメワカヒコ)のみうせにし時、八日八夜遊(アソブ)と有て、樂(ウタマヒ)して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知がたし、但し音樂して遊びしことは、なべてのさだまり也、そのよしは古事記ノ傳にいへるがごとし、さて死(シニ)を穢(ケガレ)とすることは、神代より然り、されどそれも、日數のかぎりの定まりしは、後なるべし、又忌服は、から國をまねびたる、後の事也、書紀の仁徳天皇の御巻に、素服といふ字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそあれ、そのかみさる事有しにあらず、仲哀天皇崩(カムアガ)りましまして、いくほどもなく、神功皇后の、重き御神わざの有しにても、服なかりけむことしられたり、そもそも漢國に、喪服といふことのかぎりを、こまやかにさだめたるは、ねもころなるに似たれども、中々に心ざし淺き、うはべのこと也、親などにおくれたらんかなしさは、その月の其ころまでと、きはやかにかぎりの有べきわざにはあらざるに、しひてかぎりをたてて、きはやかに定めたるは、かの國のなべてのくせにて、いひもてゆけば、人にいつはりをヘるわざ也、親を思ふ心の淺からむ子は、三年をまたで、はやくかなしさはさめぬ べきに、なほ服をきて、かなしきさまをもてつけ、又こゝろざし深からんは、三とせ過たらむからに、かなしさはやむべきならぬ に、ぬぎすてて、なごりなくしなさむは、ともにうはべのいつはりにあらずや、さるを皇國に比服といふことのなかりしは、きはやかなるかぎりのなきかなしさのまゝなるにて、長くもみじかくも、これぞまことにかなしむには有でる、服はきざれども、かなしきはかなしく、きても、かなしからぬ はかなしからねば、いたづらごと也、さればかの國にても、漢の文帝といひし王は、こよなく服をちゞめたりしを、儒者は、いみしくよからぬ ことに、もどきいへども、ことわりある事ぞかし、皇國にならひまねばれたるにも、ちゞめて、おやのをも、一とせと定められたり、さるはいと久しく、身のつとめをかゝむも、えうなきいたづらごとなれば、かなしながらに、出てつかへんに、なでふことかあらむ、さてかくいふは、服てふ事のありなしの、本のあげつらひにこそあれ、ふでにその御おきてのあるうへは、かたく守りて、をかすまじき物ぞかし、すべて何わざも、いにしへをたふとまむともがら、おのが心にふさはしからず思はむからに、今の上の御おきてにたがひて、まもらざらんは、いみしくかしこきわたくし也かし、
53 櫻を花といふ事[一九〇]
たゞ花といひて櫻のことにするは、古今集のころまでは、聞えぬ事なり、契沖ほうしが餘材抄に、くはしくいへるがごとし、源氏ノ物語若菜ノ上の巻に、梅の事をいふとて、花のさかりにならべて見ばやといひる事あり、これらはまさしく櫻を分て花といへり、
54 為兼卿の歌の事[二〇九]
六條ノ内大臣有房公の野守の鏡の序に云ク、此ごろ為兼ノ卿といへる人、先祖代々の風(フウ)をそむき、累世家々の義をやぶりて、よめる歌ども、すべてやまと言の葉にもあらず、と申侍しかど、かの卿は、和歌のうら風、たえず傳はりたる家にて侍れば、さだめてやうこそあらめ、と思ひ侍しほどに、くはしくとふ事もなくてやみにき、今又これをうれへ給へるにこそ、まことのあやまりとは思ひしり侍ぬ れといふにかの僧あざわらひて、堯舜の子、柳下惠がおとゝ、皆おろかなりしうへは其家なればとて、かならずしもかしこかるべきにあらず、又佛すでに、わが法をば、我弟子うしなふべしとて、獅子の身の中の蟲の、獅子をはむにたとへさせ給へり、そのむねにたがはず、内外の法みな、其道をつたふる人、其義をあやまるより、すたれゆく事にて侍れば、歌の道も、歌の家よりうせむ事、力なきことにて侍る、かの卿は、御門の御めぐみ深き人にて侍るなるに、これをそしりて、みつしほのからき罪に申シしづめられん事も、よしなかるべきわざにて侍れば、くはしく其あやまりを申しがたし、たゞこの略頌にて心得給へ、それ歌は、心をたねとして、心をたねとせず、心すなほにして、心すなほにせず、ことばをはなれて、ことばをはなれず、風情をもとめて、風情をもとめず、姿をならひて、すがたをならはず、古風をうつして、古風をうつさざる事にてなん侍る、を申すに云々、
55 もろこしの經書といふものの説とりどりなる事[二一一]
もろこしの國の、經書といふ物の注釋、漢よりよゝのじゆしやのと、宋の代の儒者のと、そのおもむきいたく異なること多く、又其後にも、宋儒の説を、ことごとくやぶりたるも有リ、そもそも經書は、かの國の道を載せたる書にて、うへもなく重き物なめれば、そのむね一ツに定まらではかなはぬ 事なるに、かくのごとく昔より定まりがたく、とりどりなれば、ましてそのほかの事の、善惡是非(ヨサアシサ)のいさゝかなるけぢめをば、いかでかよく定めうべきぞ、たゞ皇國のいにしへのごと、おほらかに定めて、くだくだしき論ひには及ばぬ こそ、かへりてまさりてはありけれ、又かの宋儒の、格物致知窮理のをしへこそ、いともいともをこなれ、うへなく重き經書のむねをだに、よく明らめつくすことあたはずして、よよに其説とりどりなるものを、萬の物の理リを、誤りなくは、いかでかよくわきまへつくす事をえん、かへすかへすをこ也、
56 もろこし人の説こちたくくだくだしき事[二一二]
すべてもろこし人の物の論ひは、あまりくだくだしくこちたくて、あぢきなきいたづら言(ゴト)多し、宋儒の論ひを、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それもたゞいさゝか甚しからぬ のみにこそあれ、然いふものもなほこちたし、
57 初學の詩つくるべきやうをヘヘたる説[二一七]
ちかきころあるじゆしやの書る物を見れば、初學(ウヒマナビ)の輩の、から歌を作るべきさまをヘヘたる中にいへるやう、所詮(ショセン)作りならひに、二三百もつくる間(アヒダ)の詩は、社外の人に示すべきにまあらず、後に詩集に収録すべきにもあらざれば、古人の詩を、遠慮なく剽竊して、作りおぼえ、なほ具足しがたくは、唐詩礎明詩礎詩語碎錦などやうの物にて、補綴して、こしらゆるがよき也といへるは、まことによきをしへざま也、歌よむも、もはらさる事にて、はじめよりおのが思ふさまを、あらたによみ出むとすれば、歌のやうにもあらぬ 、ひがことのみ出來て、後までも、さるくせののぞこりがたき物なれば、うひまなびのほどは、詞のつゞきも、心のおもむきも、たゞふりたる跡によりてぞ、よみならふべきわざ也ける、
58 歌は詞をえらぶべき事[二一八]
童蒙抄に、「水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のもなかなりける、もなかとよめるを、時の人、和歌の詞とおぼえずと難じけるを、歌がらのよければ、えらびにいれりとあり、
59 兼好法師が詞のあげつらひ[二三一]
けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや、いにしへの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとひ、あるはまちをしむ心づくしをよめるぞ多くて、こゝろ深きも、ことにさる歌におほかるは、みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬ を歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風をまち、月に雲をねがひたるはあらん、さるをかのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことのみやびごゝろにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此たぐひ多し、皆同じ事也、すべてなべての人のねがふ心にたがへるを、雅(ミヤビ)とするは、つくりことぞおほかりける、戀に、あへるをよろこぶ歌は、こゝろふかゝらで、あはぬ をなげく歌のみおほくして、こゝろ深きも、逢見むことをねがふから也、人の心は、うれしき事は、さしもふかくはおぼえぬ ものにて、たゞ心にかなはぬことぞ、深く身にしみてはおぼゆるわざなるは多きぞかし、然りとて、わびしくかなしきを、みやびたりとてねがはむは、人のまことの情(ココロ)ならめや、又同じほうしの、人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれといへるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にもよみ、つねにもいふすぢにて、いのち長からんことをねがふをば、心ぎたなきこととし、早く死ぬ るを、めやすきことにいひ、此世をいとひすつるを、いさぎよきこととするは、これみな佛の道にへつらへるものにて、おほくはいつはり也、言にこそさもいへ、心のうちには、たれかはさは思はむ、たとひまれまれには、まことに然思ふ人のあらんも、もとよりのまごゝろにはあらず、佛のをしへにまどへる也、人のまごゝろは、いかにわびしき身も、はやくしなばやとはおもはず、命をしまぬ ものはなし、されば萬葉などのころまでの歌には、たゞ長くいきたらん事をこそねがひたれ、中ごろよりこなたの歌とは、そのこゝろうらうへなり、すべて何事も、なべての世の人のま心にさかひて、ことなるをよきことにするは、外國(トツクニ)のならひのうつれるにて、心をつくりかざれる物としるべし、
60 うはべをつくる世のならひ[二三二]
うまき物くはまほしく、よきゝぬきまほしく、よき家にすままほしく、たからえまほしく、人にたふとまれまほしく、いのちながゝらまほしくするは、みな人の眞心(マゴコロ)也、然るにこれらを皆よからぬ 事にし、ねがはざるをいみしきことにして、すべてほしからず、ねがはぬかほするものの、よにおほかるは、例のうるさきいつはりなり、又よに先生などあふがるゝ物しり人、あるは上人などたふとまるゝほうしなど、月花を見ては、あはれとめづるかほすれども、よき女を見ては、めにもかゝらぬ かほして過るは、まことに然るにや、もし月花をあはれと見る情(ココロ)しあらば、ましてよき女には、などかめのうつらざらむ、月花はあはれ也、女の色はめにもとまらずといはんは、人とあらむものの心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ、しかはあれども、よろづにうはべをつくりかざるは、なべてのよのならひにしあれば、これらは、いつはりとて、さしもとがむべきにはあらずなん、
61 學者のまづかたきふしをとふ事[二三四]
物まなぶともがら、物しり人にあひて、物とふに、ともすればまづ、古書の中にも、よにかたきこととして、たれもときえぬ ふしをえり出て、とふならひ也、たとへば書紀の齋明御巻なる童謠、萬葉にては、一の巻なる莫囂圓隣云々と書る歌、などやうのたぐひなり、かうやうのかたきことを、まづ明らめまほしく思ふも、學者のなべての心なれども、しからばやすき事どもは、皆よくあきらめしれるかと、こゝろむれば、いとたやすき事どもをだに、いまだえよくもわきまへず、さるものの、さしこえて、まづかたきふしをかきらめんとするは、いとあぢきなきわざ也、よく聞えたりと思ひて、心もとゞめぬ ことに、思ひの外なるひがこゝろえの多かる物なれば、まづたやすき事を、いく度もかへさひかむかへ、とひも明らめて、よくえたらん後にこそ、かたきふしをば、思ひかくべきわざなれ、  
玉かつま五の巻 / 枯野のすゝき 五

 

秋過て、草はみながらかれはてて、さびしき野べに、たゞ尾花のかぎり、心長くのこりて、むらむらたてるを、あはれと見て、よめる、
かれぬべきかれ野の尾花かれずあるをかれずこそ見めかれぬかぎりは、かゝるすゞろごとをさへに、とり出たるは、みむ人、をこに思ふべかめれど、よしやさばれとてなん、
62 あやしき事の説[二四〇]
もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首(カシラ)といふ所有て、その左リ右に、耳といふもの有て、もろもろの聲をよくきゝ、おもての上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又下に、口と云フ物ありて、おくより聲の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすまゝに、その聲さまざまにかはりて、詞となりて、萬の事をいひわけ、又首(カシラ)の下の左リ右に、手といふもの有て、末に岐(マタ)ありて、指(オヨビ)といふ、此およびをはたらかして、萬ヅのわざをなし、萬の物を造り出せり、又下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うがかしはこべば、百重(モモヘ)の山をものぼりこえて、いづこまでもありきゆきつ、かくて又胸(ムネ)の内に隠(カク)れて、心(ココロ)といふ物の有つるこはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件(クダリ)耳の聲をきゝ、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける、さるに此人といひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重(オモ)りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いさゝかうごくこともせずなりてや(止)みにき、と記したらむ書を、じゆしやの見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ、とぞいはむかし、
63 歌の道 さくら花[二六一]
しき嶋の道又歌の道といふこと、後の世には常まれど、古今集ノ序を見るに、かの御世や歌のこゝろをしろしめしたりけむ云々、こゝにいにしへのことをも、歌のこゝろをも、しれる人云々、人まろなくなりにたれど、歌のこととゞまれるかななどあるは、後の世の文なりせば、かならず歌の道とぞいはましを、かく歌のこゝろ、歌のことなどいひて、道とはいはず、眞字序には、斯(コノ)道とも吾道ともあるを、かな序には、すべて歌に道といはること見えず、又櫻の花を、さくら花といふこと、これも後の世にはつねなれど、古今集には、詞書には、いづこもいづこも、さくらの花と、のもじをそへてのみいひて、たゞにさくらばなといへることは、歌にこそあれ、詞には一つも見えず、おほかたこれらになずらへて、歌よまむにも、文かゝむにも、古ヘと後ノ世とのけぢめ、又漢文と御國文とのkぢめあること、又歌と詞とかはれることもあるなどを、いさゝかのことにも、心をどゞめて、わきまふべきわざぞ、こは古今集をよむとて、ふと心つけるまゝに、おどろかしおく也、
64 いせ物語眞名本の事[二七四]
伊勢物語に、眞名本といふ本あり、萬葉の書キざまにならひて、眞字(マナ)して書たる物也、六條ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王(ミコ)の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ 僞(イツハリ)にて、後の物也、まづすべての字(モジ)のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ ことのみぞ多かる、そが中に、闇(クラ)うを苦勞(クラウ)、指之血(オヨビノチ)を及後(オヨビノチ)などやうにかけるは、たはぶれ書キにて、萬葉にもさるたぐひあり、又東(アヅマ)を熱間(アツマ)、云々にけりを迯利(ニケリ)など書るも、清濁こそたがへれ、なほゆるさるべきを、なんといふ辭に、何ノ字を用ひ、ぞに社、とに諾ノ字を用ひたるたぐひ、こと心得ず、しかのみならず、思へるを思惠流(オモエル)、給へを給江(タマエ)、又こゝへかしこはなどのへをも、みな江(エ)とかき、身をも、これをやなどの、をもをやといふ辭を、面 親(オモオヤ)と書、忘(ワスレ)を者摺(ハスレ)と書るなど、これらの假字は、今の世とても、歌よむほどのものなどは、をさをさ誤ることなきをだに、かく誤れるは、むげに物かくやうをもわきまへしらぬ 、えせもののしわざと見えて、眞字(マナ)はすべてとりがたきもの也、然はあれども、詞は、よのつねの假字ほんとくらべて考ふるに、たがひのよきあしきところ有て、かな本のあしきに、此本のよきも、すくなからず、そを面 へば、これもむかしの一つの本なりしを、後に眞名には書キなしたるにぞ有べき、されば今も、一本にはそなふべきもの也、然るにいといと心得ぬ ことは、わが縣居ノ大人の、此物語を解(トカ)れたるには、よのつねの假字本をば、今本といひて、ひたふるにわろしとして、此眞名本をしも、古本といひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき眞字(マナ)を、物の鐙(アカシ)にさへ引れたるは、いかなることにかあらん、さばかり古ヘの假字の事を、つねにいはるゝにも似ず、此本の、さばかり假字のいたくみだれて、よにつたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすかへすこゝろえぬ ことぞかし、さて又ちかきころ、ある人の出せる、舊本といふなる、眞名の本も一つ有リ、それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京になりての世の人の、およびがたき眞字の書キざまなる所多し、さればこれもまことのふるき本(マキ)にはあらず、やがて出せる人の、みづからのしわざにぞ有ける、然いふ故は、まづ今の京となりての書(フミ)どもは、すべて假字の清濁は、をさをさ差別 (ワキ)なく用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分ケて、みだりならず、こは近く古學てふこと始まりて後の人ならでは、さはえあらぬ こと也、又かきつばたといふ五言を、句の頭にすゑてとかける、これむかし人ならば、五もじとこそいふべきを、五言といひ、歌のかへしを和歌(カヘシ)、瀧を多藝(タギ)、十一日を十麻里比止日(トヲマリヒトヒ)と書るたぐひ、時代(トキヨ)のしなを思ひはからざるしわざ也、十一日など、此物語かけるころとなりては、十一日とこそ書べけれ、たとひなごめてかくとも、とをかあまりひとひとこそ書クべけれ、それをあまりのあをはぶけるは、古學者のしわざ、又とをかのかをいはざるは、さすがにいにしへのいひざまをしらざるなり、又うつの山のくだりに、よのつねの本には、修行者あひたりとあるを、此本には、修行者仁逢有(ニアヒタリ)と、仁(ニ)てふ辭をそへたるなども、古ヘの雅言(ミヤビゴト)の例をしらぬ 、今の世の俗意(サトビゴコロ)のさかしら也、かゝるひがことも、をりをりまじれるにて、いよいよいつはりはほころびたるをや、
65 いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ[二八〇]
初のくだり、男のきたりける云々、男ののもじひがこと也、眞名本になぞよろしき、男のとては、云々(シカシカ)して歌を書てやる事、女のしわざになる也、月やあらぬ てふ歌の條(クダリ)、ほいにはあらで、此詞聞えず、眞字本に、穗(ホ)にはとあるも、心ゆかず、ほにはいでずなどこそいへ、ほにはあらでなどは、聞つかぬ こゝちす、猶もじの誤リなどにや、うつの山のところ、わがいらむとする道は、いとくらう細きに、つたかへではしげりて云々、かへではのはは、てにをは也、上の道はのはと重ねて、かうやうにいふ、一つの格(サマ)也、「秋はきぬ 紅葉は屋どにふりしきぬ道ふみ分てとふ人はなしなど、三つも重ねていへる、此類多し、眞名本に葉と書るによりて、然心得ては、いとつたなき文になる也、「君がためたをれる枝は云々、此歌は、君にわが心ざしの深きにかなひて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染たり、といふ意なるべし、注どもに、秋といふ言になづみて、女の心のうつろふことにこゝろえたるはいかゞ、さてはかへしの歌めづらしげなし、又女の心をうたがふべきよしも、上の詞に見えず、「いでていなば心かろしと云々、此出ていぬ るは、女とはおしはからるれども、上の文のさま、女とも男とも分りがたし、いさゝかなる事につけてといへる上に、女とあるべき文也、さて此歌の次に、云々此女とあるは、心得ず、此女といふこと、こゝに有ては、聞えず、こゝは男とあるべきところ也、かくのごとくまぎらはしきによりて、或人は、出ていにしは、女にあらず、男也といへれども、すべてのさま、男の出ていにしとは聞えず、又男にしては、かの此女とあるは、よくかなへれども、下なる「人はいさの歌の次に此女いと久しう云々とある、此女てふこと、彼ノ男とあらではかなはず、「つゝ井づゝ云々、妹見ざるまには、妹が見ざるまに也、妹を見ざるまにはあらず、上におのが長(タケ)だちの事をいへるにて、それを妹が見ざるまになること知ルべし、さて此ノ條(クダリ)は、下に、かの女やまとのかたを見やりてとも、やまと人云々ともあれば、井のもとみあそびたりしも、大和ノ國にての事也、さればはじめに、むかしやまとの國に、などあるべきことなるに、たゞゐなかわたらひしける人と、のみにては、京の人とこそ聞ゆれ、よろこびてまつに、度々過ぬ ればといへる所、詞たらず、其故は、まつにといふまでは、たゞ一度のさまをいへる文なるに、たびたび過とつゞけていひては、俄也、さればこは、よろこびてまつにこず、さること度々なりければ、などやうに有べき所なり、むかし男かたゐなかに住けり、眞名本に、昔男女とあるぞよき、男とのみにては、次なる男といふこともあまり、又まちわびたりけるにといふも、上に女といふことなくては、聞えず、「梓弓眞弓つき弓云々、此歌、初メ二句、いかなる意にか、さらにきこえず、又眞名本に、神言忠令見とかけるは、もとより借字ながら、いとつたなき書ざま也、下句は、むかしわがうるはしみせしが如く、今の男に、うるはしみせよといへる也、「見るめなきわが身を云々、此歌のこと、古今集の遠鏡にいへり、さて此歌をこゝに出せるは、下句、はしの詞にかなはず聞ゆ、又色このみなる女といふことも、こゝに有べき詞にあらず、これらによりて思ふに、これは、「秋の野にてふうたの次に、おほく詞落て、もと上とは別 條(ベツクダリ)にぞ有けむ、ええずなりにけることと、わびたりける人の云々、眞名本には、わびを慙とかけり、ともにかなへりとも聞えず、歌によりて思ふに、おぶらひたりける人の、など有べきにや、「おもほえず袖に云々、袖に湊のといふこと、聞えず、又眞名本に、袖に浪渡(ナミダ)のと書るは、下句とむげにかけあはず、ひがこと也、浪渡は、異所(コトトコロ)にもかく書て涙也、されば思ふに、こは袖の湊のなるべし、たとひ袖の湊といふ名所はなくとも、涙の深きことを、下ノ句の縁に、然いひつべきもの也、のをにに誤れるなるべし、女の手あらふところに云々、こゝの文きこえず、眞名本にて聞えたり、但しかの本も、なく影のうつりけるを見ててふ下に、女といふことなくてはいかゞ、たち聞ても、彼本にきゝつけてとあるぞよき、「水口に我や云々、此歌の初二句の注ども、いづれもいさゝかたがへり、こはさだめてわが泣(ナク)影も、ともに見えやすらんといへる也、かやうに見ざれば、下句にかなはず、わが影のみゆるにやあらむといふとはこと也、「ならはねば云々、此歌、詞たらはで、聞えぬ 歌なり、とかくなまめくあひだに、かのいたる螢を云々、かくては、なまめくは、いたるにはあらで、異(コト)人と聞えていかゞ、とかくなまめきつゝ、螢をとりて、などこそ有べけれ、此ほたるのともす火にや云々、こゝは眞名本に、此螢の、ともしびにや似(ニ)むと思ひて、けちなんとすとて、男よめる、とあるぞよろしき、但し上に、車なりける人とあれば、下なる男といふことは、なくてあらまほし、もし又、ともし火にやにんと思へるを、女の心とせば、思ひければ、などこそ有ルべけれ、思ひてといひては、かなはず、「出ていなばたれか別 れの云々、此歌、上と下と縁なし、又はしの詞にもいとうとし、眞名本に初ノ句、いとひてはとあるも聞えず、又眞名本に、此歌の次に、女辺爾付而、「いづくまでおくりは云々、此歌もをさなし、なほおもひてこそ、聞えず、眞字本に、なほざりにとあるにて聞ゆ、今の翁まさにしなんやは、為(シ)なんやにてさるすける物思ひをば為(シ)なんやの意なり、死なんやにては、からうして息出たり、といふにかなはず、「いでていなばかぎりなるべし云々、いにしへの人も、かばかりつたなき歌よみけるにや、これは上にいふべかりけるを、おとしたる也、なほはたえあらざりける中なりければ、此詞あまりて聞ゆ、眞名本には、さりとてはた、いかではえあらざりける中なりければと有、心にとゞめてよますはらに云々、聞えぬ こと也、眞字本は聞ゆ、うまのはなむけせんとて、人をまちけるに云々、人をといふこと、あまれり、眞字本にはなし、但し上なる、物へいく人にといふ詞の、なき本もあり、それは人をまちけるにてよろし、又男、「行水と過るよはいと云々、此歌此ノ條(クダリ)にかなはず、眞名本になきぞよき、又男女のしのびありきしける云々、此詞も、此くだりにかなはず、人しれぬ 物思ひけり、此詞いたづら也、むかし心つきて云々、心つきて、聞えず、眞名本に、榮而とあるも心得ず、田からんとては、男の事にて、此男の田からむとてあるを見て、といふ意也、かくてものいたくやみて云々、此事、上の詞歌に似つかず、別 條(コトクダリ)なりしが、詞共落て、亂れたるなるべし、昔としごろ音づれざりける女、昔の下に、男のといふことなくては、たらず、又よさりこの有つる云々の上にも、その男、或はその人など有べきこと也、「これやこの我に云々、此歌、あふみをといふこと、聞えず、近江にいひかけたりとせんも、しひごとなり、もし然らば、上に近江ノ國のことなくては、とゝのはず、又下句も、これやこのといへるにかなはず、むかしよごゝろつける女云々、これは、女にてはかなはず、眞名本に、嫗女(オンナ)とあるぞよろしき、假字の亂れたるより、かゝるまぎれも有也、女はを、嫗はおの假字にて、分るゝ也、又つけるといふ詞もいかゞ、眞名本に、世營とかけり、よごゝろあると訓(ヨム)べし、色好む心のある老女也、あひえてしも、同本に、あひ見てしとあるよろし、その次の詞も、かの本よろし、出たつけしきは、男のなさけ有て、嫗のがりゆかむと思ひて、出たつ也、いづくなりけん、けんといふ詞いかゞ、いづくなるらんと、などあるべきにや、もし又けんをたすけていはば、物語の地の詞として、いづくにての事なりけんと見べし、昔男いせの國なりける女云々、眞字本に、女乎(ヲ)とあるよろし、むかしそこには云々、眞字本に、昔男とあり、むかし男、いせの國にゐていきて云々、こは本トは、いせの國なる女に、京にゐていきて云々、と有しが、にもじの重なれるによりて、京にといふことの、後に落たる也、次なる歌ども、必ズ伊勢なる女とこそ聞えたれ「いはまより云々、此歌の四の句、ときえたる人なし、しほひしほみちは、とまれかくまれといふ意なるを、海の詞にていへるのみ也、今はともかくもあれ、末つひにはかひ有て、逢ふこともあらんといへる也、けふの御わざを題にてのけふのは、その日のとあるべきこと也、やよひのつごもりに、その日云々、その日といへる詞、いたづらにてつたなし、紅葉のちくさに見ゆるをり、此詞いかゞ、眞名本になきぞよき、もみぢもとあらば、有てもよからんか、板敷のしたに、したはしもなるべし、板敷のうちのしもつかたをいふなり、板じきのしたには、人の居るべきにもあらず、みちの國にいきたりけるにとは、此物語の作者(ツクリヌシ)の、みづから行たるよしにや、もし此歌よめる翁の事ならば、かの翁といふこと、みちの國にの上になくてはいかゞ也、かりはねんごろにもせで、上に狩に來ませるよしをいはざれば、此詞ゆくりなく聞ゆ、これによりて思ふに、櫻花を見ありくを、櫻がりといふなれば、此條に狩といへるは、皆櫻がりの事にやあらん、上にも下にも、たゞ櫻のことをのみいへれば、かたののなぎさの家その院の云々、こは聞えぬ 詞也、眞名本に、かたののなぎさの院のと有よろし、かのうまのかみよみて奉りける、かのうまのかみといふこと、なくてあらまほし、「思へども身をし分ねばは、分ケぬ にといふ意也、此例古き歌には多し、身を分るは、身を二つにわくる也、めかれせぬ は、雪故にえかへらで、そこにあるをいふ、さてそれを、わが本意也といへる也、「今までに云々、とてやみにけりといふ詞、上に心ざしはたさむとや思ひけむ、といへるに、かなへりとも聞えず、此くだり、眞字本はよくきこえたり、昔男ありけり、いかゞ有けむ、その男云々は、眞名本に、昔男女云々とあり、さらではたらず、さてやがて後つひに、此所詞重なりて、くだくだし、眞名本には、さてつひにと有、さてこゝは、作者(ツクリヌシ)の語なれば、けふ迄といへるもいかゞ也、然れば、さて後つひによくてやあらん云々、とこそ有べけれ、むくつけきことといふより、おはぬ ものにやあらんといふまでは、のろひごとを評(サダ)したる語也、むくつけきことは、むくつけきことよといふ意也、かくて今こそ見めといふ一句は、さかでうちたる男の、のろひていへる言なるを、評(サダ)する語の中へ引出ていへる也、よき酒ありときゝて、此下に詞落たる也、さらでは、下にその日はといへるも、より所なし、こゝろみにその落たる詞をおぎなはば、よきさけ有リときゝて、うへにありける人々、のまんとてきけり、左中弁云々、などや有けむ、あるじのはらからなるの下に、男などあらまほし、なくなりにけるを、眞名本に、なくなりたる女をと有、よろし、かへし「下ひもの云々、又かへし「戀しとは云々、かへし「下ひもの云々とあり、よろし、今はさることにげなく云々、たれともなくて、かくいへること聞えず、眞名本には、なま翁の今は云々と有リ、よろし、されど歌の上に、中將なりける翁とあるはわろし、かの翁とこそいふべけれ、又は上を、中將なりける翁いまはさること云々といひて、歌の所には、何ともいはでも有リなん、大鷹のたかがひを、眞名本に、大方之(オホカタノ)鷹とあるは、ひがこと也、西宮記にも、鷹ノ王卿、大鷹ハ者、着ス二地摺ノ獵衣ヲ一、綺ノ袴玉 帶、鷂者(コタカガヒハ)云々とある、こゝによくかなへるをや、昔みかど住吉に云々、此條すべて詞たらず、他條(コトクダリ)の例に似ず、「我見てもの歌も、たが歌ともわきまへがたく、大神の現形も俄也、他條の例にならひていはば、昔男、みかどの住吉に行幸し給ひける、御供につかうまつりてよめる、「我見ても云々、とよめりければ、大神云々、などこそ有べけれ、「むつましと云々の歌は、何事ぞや、二の句を、君はしたずやとすれば、大かた聞ゆるやうにはあれど、猶いとつたなし、むかし男久しう云々、眞名本に、いへりければの下に、女とあり、むかし女の、あだなる男の云々、女のののもじ、ひがこと也、すべてのてふ辭は、心得有て、おくべき所と、必ズおくまじきところとのあることなるを、これはさるわきまへをもしらぬ 、後の人の、何心もなくくはへたるなるべし、眞名本に、女のといふことなし、それも女といふことたらず、むかし男、女のまだ世へずと云々、此くだり詞とゝのはず、物聞えたるを、後に聞て、などこそ有べけれ、
66 業平ノ朝臣のいまはの言の葉[二八二]
古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、たゞなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし、此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の僞リをあらはして死ぬ る也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ、から心なる神道者歌學者、まさにかうはいはんや、契沖法師は、よの人にまことをヘヘ、神道者歌學者は、いつはりをぞしふなる、  
玉かつま六の巻 / からあゐ 六

 

おのが歌に、からあゐの末つむ花、とよめりければ、ある人、すゑつむ花は、くれなゐのとこそよみたれ、からあゐのとはいかゞ、といへるに、おのれこたへけらく、萬葉集の歌に、くれなゐを、からあゐともよめり、そもそもくれなゐといふは、此物もと呉(クレ)の國より渡りまうできたるよしにて、呉(クレ)の藍(アヰ)といふを、つゞめたる名なるを、そは韓(カラ)國よりつたへつる故に、又韓藍(カラアヰ)ともいへるなり、といへる説のごとし、但しからといふは、西の方の國々のなべての名なれば、これは呉ノ國をさしていへるにて、呉藍(クレナヰ)といふと同じことにもあるべし、さるを萬葉の十一の巻には、鷄冠草(カラアヰ)とも書るにつきて、鴨頭草(ツキクサ)也とも、鷄頭花(ケイトウゲ)也ともいふ、説どもの有てまぎらはしきやうなれども、つき草とも、鷄頭花ともいふは、みなひがことにて、紅花(クレナヰ)まること疑ひなし、さればからあゐるなはち紅花(クレナヰ)なることを、さとしがてら、ことさらにかくはよめるぞ、ついでにいはむ、同七の巻に、「秋さらば移(ウツ)しもせんとわがまきしからあゐの花をたれかつみけん、移(ウツ)すとは、おろして染るをいふ、此移ノ字を、本に影に誤れり、といへりければ、うなづきてやみぬ、其おのが歌は
からあゐの末摘花の末つひに色にや出ん忍びかねてば
寄草戀といふ題にてよめる也、古今集なる、「我戀をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出ぬべし、といふ歌にぞよくにたると、又いふ人もありなんか、
67 書うつし物かく事[二八七]
ふみをうつすに、同じくだりのうち、あるはならべるくだりなどに、同じ詞のあるときは、見まがへて、そのあひだなる詞どもを、寫しもらすこと、つねによくあるわざ也、又一ひらと思ひて、二ひら重(カサ)ねてかへしては、其ノ間ダ一ひらを、みながらおとすことも有リ、これらつねに心すべきわざ也、又よく似て、見まがへやすきもじなどは、ことにまがふまじく、たしかに書クべき也、これは寫しがきのみにもあらず、おほかた物かくに、心得べき事ぞ、すべて物をかくは、事のこゝろをしめさむとてなれば、おふなおふなもじさだかにこそかゝまほしけれ、さるをひたすら、筆のいきほひを見せむとのみしたるは、いかなることとも、よみときがたきが、よにおほかる、あぢきなきわざ也、常にかきかはす、消息文(セウソコブミ)なども、もじよみがたくては、いひやるすぢ、ゆきとほらず、よむ人はたくるしみて、かしらかたぶけつゝ、かへさひよめども、つひによみえずなどしては、こゝよみがたしと、かへしとはんも、さすがになめしきやうなれば、たゞおしはかりに心得ては、事たがひもするぞかし、
68 手かく事[二八八]
よろづよりも、手はよくかゝまほしきわざ也、歌よみがくもんなどする人は、ことに手あしくては、心おとりのせらるるを、それ何かはくるしからんといふも、一わたりことわりはさることながら、なほあかず、うちあはぬこゝちぞするや、のり長いとつたなくて、つねに筆とるたびに、いとくちをしう、いふかひなくおぼゆるを、人のこふまゝにおもなくたんざく一ひらなど、かき出て見るにも、我ながらだに、いとかたはに見ぐるしう、かたくななるを、人いかに見るらんと、はづかしくむねいたくて、わかゝりしほどに、などててならひはせざりけむと、いみしうくやしくなん、
69 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこゝろ[二八九]
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして、此歌、とりどりに解(トキ)たれども、いづれも其意くだくだしくして、一首(ヒトウタ)の趣とほらず、これによりて、今おのが思ひえたる趣をいはんには、まづ二つのやもじは、やはてふ意にて、月も春も、去年にかはらざるよし也、さて一首の意は、月やは昔の月にあらぬ月もむかしのまゝ也、春やは昔の春にあらざる、春もむかしのまゝの春なり、然るにたゞ我身ひとつのみは、本の昔のまゝの身ながら、むかしのやうにもあらぬことよ、といふ意をふくめたる物也、にしてといへる語のいきほひ、上ノ句に、月も春もむかしのまゝなるに、といへるとあひ照(テラ)して、おのづからふくめたる意は聞ゆる也、此人の歌、こゝろあまりて、詞たらずといへるは、かゝるをいへるなるべし、いせ物語のはしの詞に、立て見ゐて見見れど、こぞに似るべくもあらず、といへるは、此ふくめたる意を、あらはしたるもの也、去年ににぬとは、月春のにぬにはあらず、見るわがこゝちの、去年に似ぬ也、新古今集雜上に、清原ノ深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我身ひとつのあらずも有かな、とよめる歌は、此ノ業平ノ朝臣の歌を、註したるがごとし、これにて、よく聞えたる物をや、
70 縣居大人の傳[三〇三]
あがたゐの大人は、賀茂ノ縣主氏にて、遠祖(トホツオヤ)は、神魂(カミムスビノ)神の孫、鴨武津之身(カモタケツノミノ)命にて、八咫烏(ヤタガラス)と化(ナリ)て、神武天皇を導き奉り給ひし神なること、姓氏録に見えたるがごとし、此神の末、山城ノ國相樂ノ郡岡田ノ賀茂ノ大神を以齋(モテイツ)く、師朝といひし人、文永十一年に、遠江ノ國敷智ノ郡濱松ノ庄岡部ノクなる、賀茂の新宮をいつきまつるべきよしの詔を蒙りて、彼ノクを賜はり、すなはち彼ノ新宮の神主になさる、此事引馬草に見え、又綸旨の如くなる物あり、又乾元元年にも、詔とかうぶりて、かの岡部の地を領ぜる、これは正しき綸旨有て、家に傳はれり、かくて世々かの神主たりしを、大人の五世の祖、政定といひし、引馬原の御軍に功有て、東照神御祖ノ君より、來國行がうちたる刀と、丸龍の具足とを賜はりぬ、此事は三河記にも見えたり、さて大人は、元禄十年に、此岡部ノクに生れ給ひて、わかゝりしほどより、古ヘ學ビにふかく心をよせて、享保十八年に、京にのぼりて、稻荷の荷田ノ宿禰東麻呂ノ大人の教をうけ給ひ、寛延三年に、江戸に下り給ひて、其後田安ノ殿に仕奉り給ふ、かの殿より、葵の文の御衣を賜はり給へる時の歌、「あふへてふあやの御衣をも氏人のかづかむものと神やしりけん、明和六年十月晦の日、とし七十三にて、みまかり給ひぬ、武藏ノ國荏原ノ郡品川の、東海寺の中、少林院の山に葬、こは大人の弟子(ヲシヘコ)なる某が、しるしたるまゝに、とりてしるせり、なほ父ぬし母とじなどをも、しるすべきものなるに、もれたるは、又よくしりたらむ人にとひきゝて、しるすべくなん、
71 花のさだめ[三〇四]
花はさくら、櫻は、山櫻の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず、葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり、大かた山ざくらといふ中にも、しなじなの有て、こまかに見れば、一木ごとに、いさゝかかはれるところ有て、またく同じきはなきやう也、又今の世に、桐がやつ八重一重などいふも、やうかはりて、いとめでたし、すべてくもれる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず、松も何も、あをやかにしげりたるこなたに咲るは、色はえて、ことに見ゆ、空きよくはれたる日、日影のさすかたより見たるは、にほひこよなくて、おなじ花ともおぼえぬまでなん、朝日はさら也、夕ばえも、梅は紅梅、ひらけさしたるほどぞ、いとめでたきを、さかりになるまゝに、やうやうしらけゆきて、見どころなくなるこそ、いとくちをしけれ、さくらの咲るころまでも、ちることしらで、むげににほひなく、ねべれしぼみて、のこりたるをみれば、げに有てよの中は、何事もみなかくこそと、見る春ごとに、思ひしらるかし、白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり、大かた梅の花は、ちひさき枝を、物にさして、ちかく見たるぞ、梢ながらよりは、まされる、桃の花は、あまた咲つゞきたるを、遠く見たるはよし、ちかくては、ひなびたり、山ぶきかきつばたなでしこ萩すゝき女郎花など、とりどりにめでたし、菊も、よきほどにつくろひたるこそよけれ、あまりうるはしく、したゝかにつくりなしたるは、中々にしななく、なつかしからず、つゝじ、野山に多く咲たるは、めさむるこゝちす、かいだうといふ物、からめきて、こまやかにうるはしき花也、そもそもかくいふは、みなおのが思ふ心にこそあれ、人は又おもふこゝろことなンべければ、一(ヒト)やうにさだむべきわざにはあらず、又いまやうの、よの人のもてはやすめる花どもも、よにおほかるを、かぞへいでぬは、ことされめきたるやうなれど、歌にもよみたらず、ふるき物にも、見えたることなきは、心のなしにや、なつかしからずおぼゆかし、されどそれはた、ひとやうなるひがこゝろにやあらむ、
72 玉あられ[三四六]
宣長ちかきころ玉あられといふ書をかきて、近き世にあまねく誤りならへることどもをあげて、うひ學のともがらをさとせるを、のりなががをしへ子として、何事も宣長が言にしたがふともがらの、其後の此ごろの歌文に、此書に出せる事どもを、なほ誤ることのおほかるは、いかなるひがことぞや、此書用ひぬよそ人は、いふべきかぎりにあらざるを、それだに心さときは、うはべこそ用ひざるかほつくれ、げにとおぼゆるふしぶしは、たちまちにさとりて、ひそかに改むるたぐひもあるを、ましてのりなががヘをよしとて、したがひながら、改めざるは、此ふみよみても、心にとまらず、やがてわすれたるにて、そはもとより心にしまず、なほざりに思へるから也、つねに心にしめたるすぢは、一たび聞ては、しかたちまちにわするゝ物にはあらざるを、よそ人の思はむ心も、はづかしからずや、これは玉あられのみにもあらず、何(イヅ)れの書見むも、おなじことぞかし、
73 かなづかひ[三四七]
假字づかひは、近き世明らかになりて、古ヘ學ビするかぎりの人は、心すめれば、をさをさあやまることなきを、宣長が弟子(ヲシヘコ)共の、つねに歌かきつらねて見するを見るに、誤リのみ多かるは、又いかにぞや、抑てにをはのとゝのへなどは、うひまなびの力及ばぬふしある物なれば、あやまるも、つみゆるさるゝを、かなづかひは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらはべも、いとよくわきまふべきわざなるを、猶とりはづして、書キひがむるは、かへすかへすいかにぞや、これはた心とゞめず、又ひたぶるにまなびおやにすがりて、たがへらむは、直さるべしと、思ひおこたりて、おのが力いれざるからのわざにしあれば、かつはにくゝさへぞおぼゆる、しか人にのみすがりたらんには、つひにかなづかひをば、しるよなくてぞやみぬべかりける、さればいゐえゑおを、又はひふへほわゐうゑを又しちすつの濁音(ニゴリコヱ)など、いさゝかもうたがはしくおぼえむ假字は、わづらはしくとも、それしるせるむみを、かゝむたびごとにひらき見て、たしかにうかべずは、やむべきにあらず、何わざも、おのがちからをいれずては、しうることかたかンべきわざぞ、人の子の、としたくるまで、おやのてはなるゝことしらざらむは、いといといふかひなからじやは、
74 古き名どころを尋ぬる事[三四八]
ふるき神の社の、今は絶たる、又絶ざれども、さだかならずなりぬるなど、いづくにも多かるは、いとかなしきわざ也、神祇官の帳にのれるなどは、かけてもさはあるまじきわざなるを、中ごろの世のみだれに、天ノ下のよろづの事も、古ヘのおきても、皆みだれにみだれ、たえうせにたえうせにたる、萬ヅにつけて、いともいともかなしきは、亂れ世のしわざなりけり、さるを今の御世は、いにしへにもまれなるまで、よく治まりて、いともめでたく、天の下榮えにさかゆるまゝに、よろづに古ヘをたづねて、絶たるをおこし、おとろへたるを直し給ふ御世にしあれば、神の社どもは、殊に古ヘに立かへりて、榮ゆべき時なりけり、然あるにつけては、絶たるは、跡をだにさだかにたづねまほしく、又今も有リながら、さだかならず、疑はしきをば、よく考へ尋ねて、たしかにそれと、定めしらまほしきわざになむありける、次には神ノ社ならぬも、いにしへに名あるところどころ、歌枕なども、今はさだかならぬが多かるは、かゝるめでたき時世(トキヨ)にあたりて、尋ねおかまほしきわざ也、かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌まくらにまれ、何にまれ、はるかなるいにしへのを、中ごろとめうしなひたるを、今の世にして、たづね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有ける、其ゆゑをいはむには、まづ此ふるき所をたづぬるわざは、たゞに古ヘの書どもを考へたるのみにては、知リがたし、いかにくはしく考へたるも、書(フミ)もて考へ定めたることは、其所にいたりて見聞けば、いたく違ふことの多き物也、よそながらは、さだかならぬ所も、其國にては、さすがに書(カキ)もつたへ、かたりも傳へて、まがひなきことも有リ、さればみづから其地(トコロ)にいたりて、見もし、そこの事よくしれる人に、とひきゝなどもせでは、事たらはず、又たゞ一たび物して、見聞キたるのみにても、猶たらはず、ゆきて見聞て、立かへりて、又ふみどもと考へ合せて、又々もゆきて、よく見聞たるうへならでは、定めがたかるべし、さて又其ところの人にあひて、とひきくにも、心得べきことくさぐさあり、いにしへの事を、あまりたしかにしりがほにかたるは、おほくは、書のかたはしを、なまなまにかむかへなどしたるものの、おのがさかしらもて、さだめいふが多ければ、そはいと頼みがたく、なかなかのものぞこなひなり、又世に名高き所などをば、外なるをも、しひておのが國おのが里のにせまほしがるならひにて、たゞいさゝかのよりどころめきたることをも、かたくとらへて、しひてこゝぞといひなして、しるしを作るたぐひなどはた、よに多きを、さる心して、まどふべからず、ふみなどは、むげに見たることなき、ひたぶるのしづのをの、おぼえゐてかたることは、しり口あはず、しどけなく、ひがことのみおほかれど、其中には、かへりておかしき事もまじるわざなれば、さるたぐひをも、心とゞめてきくべきわざ也、されぢ又、むかしなまなまの物しり人などの、尋ねきたるが、ひがさだめして、こゝはしかしかの跡ぞなど、をしへおきたるをきゝをりて、里人は、まことにさることと信じて、子うまごなどにも、かたりつたへたるたぐひもあンなれば、うべうべしくきこゆることも、なほひたぶるにはうけがたし、又みづからそのところのさまをゆき見てさだむるにも、くさぐさこゝろうべきことどもあり、おほかた所のさまかみさびて、木立しげく、物ふりなどしたるを見れば、こゝこそはと、めとまる物なれど、それはたうちつけには頼みがたし、大かたなにならぬ所にも、ふるめきたる森はやしなどは、多くおるもの也、木だちなど、二三百年をもへぬるは、いといと物ふりて見ゆるものなれば、ふるく見ゆるにつきても、たやすくは定めがたきわざなりかし、村の名、山川浦磯などの名に、心をつけて尋ぬべし、田どころなどのあざなといふ物などをも、よく尋ぬべし、寺の名に、古きがのこれるがよくあること也、しかはあれども又、すべて名によりて、誤ることもあるわざ也、又寺々の縁起といふ物、おほかた例のほうしのそらごとがちなれど、其中に、まれまれにはとるべきこともまじれるものなれば、これはたひたぶるにはすつべきにあらず、ふるきあとは、中ごろほうしどもの、國人をあざむきて、佛どころにしなしたるが、いづれの國にも多ければ、ほとけどころをも、其心してたづぬべし、ふるき寺には、ふるき書キ物など有て、古き事ののこれるおほし、むげに尋ぬべきたづきなき所も、思ひかけぬところより、たしかなるしるしの出來るやうもあれば、いたらぬくまなく、よろづに思ひめぐらして、くはしく尋ぬべし、かくて尋ねえたりと思ふところも、なほたしかには定(サダ)むべからず、よにさるべき人の定めおきつる所などは、ひがさだめなるも、つひにそこにさだまりて、後のまどひとなるわざ也かし、そもそも此くだりは、名所(ナドコロ)をたづぬるわざのみにもあらず、よろづのかむかへにもわたることどもありぬべくなむ、
75 天の下の政神事をさきとせられし事[三五三]
職員令に、神祇官を、もろもろの官のはじめに、まづあげて、それが次に、太政官を擧られたり、延喜式も、同くはじめに神祇式、次に太政官式也、後の世ながら、北畠ノ准后の職原抄も、令にならひて、ついでられたり、そもそもよろづの事、さばかり唐の國ぶりをならひ給へりし御世にしも、かく有しは、さすがに神の御國のしるしにて、いともいともたふとく、めでたきわざになむ有ける、世ノ中は何につけても、此こゝろばへこそあらまほしへれ、>  
玉かつま七の巻 / ふぢなみ 七

 

あるところにて、藤の花のいとおもしろく咲りけるを見て、あかずおぼえければ、かへらん人にといふ歌を思ひ出て、
藤の花わが玉のをも松が枝にまつはれたみむ千世の春迄
とよみたるを、そのまたの日、此巻をかくとて、例のなづけつ、
76 神社の祭る神をしらまほしくする事[三五五]
古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、しられぬぞおほかる、神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされずたゞ其社號(ヤシロノナ)のみを擧られたり、出雲風土記の、神社をしるせるやうも、同じことなり、社號すなはち其神の御名なれば、さも有べきことにて、古ヘはさしも祭る神をば、しひてはしらでも有けむ、然るを後の世には、かならず祭る神をしらでは、あるまじきことのごと心得て、しられぬをも、しひてしらむとするから、よろづにもとめて、或は社號につきて、神代のふみに、いさゝかも似よれる神ノ名あれば、おしあてに其神と地(クニ)にも、其數かぎりなくおはしますことなれば、天の下の社々には、其中のいづれの神を祭れるも、しるべからぬぞおほかるべき、神代紀などに出たる神は、その千萬の中の一つにもたらざンめるを、必ズ其中にて、其神と定めむとするは、八百萬の神の御名は、神代紀に、ことごとく出たりと思ふひや、古書に御名の出ざる神の多かることを、思ひわきまへざるは、いかにぞや、さればもとより某(ソノ)神といふ、古きつたへのなきを、しひて後に考へて、あらぬ神に定めむは、中々のひがこと也、もしその社ノ號によりて定めむとせば、たとへば伊勢の大神宮は、五十鈴ノ宮と申せば、祭る神は五十鈴姫ノ命にて、鈴の神、外宮は、わたらひの宮と申せば、綿津見(ワタツミノ)命にて、海神也とせんか、近き世に、物しり人の考へて定むるは、大かたこれに似たるものにて、いとうきたることのみなれば、すべて信(ウケ)がたし、しられぬをしへてもとめて、あらぬ神となさむよりは、たゞその社ノ號を、神の御名としてあらんこそ、古ヘの意なるべきを、社ノ號のみにては、とらへどころなきがごと思ふは、近き世の俗心(ツタナキココロ)にこそあれ、今の世とても、よに廣くいひならへる社號は、そをやがて神の御名と心得居て、八幡宮春日明神稲荷明神などいへば、かならずしもその神は、いかなる神ぞとまでは、たづねず、たゞ八幡春日いなりにてあるにあらずや、もろもろのやしろも、皆同じことにて、社ノ號すなはち其神の御名なるものをや、
77 おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事[三五六]
中昔よりして、神主祝部のともがら、己が仕奉る社の神を、あるが中にも尊き神にせまほしく思ひては、古き傳へのある御名をば、隠(カク)して、あるは國常立ノ尊をまつれり、天照大神を祭れり、神武天皇をまつれりなどいひて、例の神祕のむねありげに、似つかはしく作りなして偽るたぐひ、世に多し、おのれ尊き神につかふる者にならむとて、その仕奉る神を、わたくしに心にまかせて、いつはり奉るは、いともかしこき、みだりごとならずや、
78 皇孫天孫と申す[三五七]
邇々藝ノ命より始め奉りて、御代々々の天皇を、皇(スメミマノ)命とも、天神御子(アマツカミノミコ)とも申すを、書紀の神代ノ巻に、皇孫又天孫と書れたるは、ともに古言にあらず、皇孫とは、皇御孫ノ命と申す御號(ミナ)を、例の漢文ざまに、つくられたる也、他(ホカ)の古書どもにはみな、皇御孫ノ命と見えて、續紀の歌に、皇(スメ)をはぶきて、御孫(ミマノ)命とはよみたることあれども、命(ミコト)をはぶきて申せることは見えず、まして天孫と申せることは、古き文には、すべて見えず、天孫とは、天神御子(アマツカミノミコ)と申すを、つくりかへられたる文字と見えたり、然るを世の人、ひたぶるに漢文ざまのうるはしき方を好むならひとなりては、此皇孫天孫と申す御號(ミナ)のみひろまりて、かへりて皇御孫ノ命天ツ神ノ御子と申す、いにしへのまことのうるはしき御號はかくれたるが如し、皇孫はすめみま、天孫はあめみまと訓たれども、文字になづまで、皇孫をば、すめみまのみこととよみ奉るべく、天孫をば、あまつかみのみことよみ奉りて古ヘのまことの御號(ミナ)を、ひろくせまほしきわざ也、あめみまといふは、殊につたなく、よしなき訓なるをや、
79 神わざのおとろへのなげかはしき事[三六九]
よろづよりも、世ノ中に願はしきは、いかでもろもろの神ノ社のおとろへを、もて直し、もろもろの神わざを、おこさまほしくこそ、今の世の神ノ社神事のさまは、おほかた中ごろのみだれ世に、いたくおとろへすたれたるまゝなるを、今の世の人は、たゞ今のさまをのみ見て、いにしへよりかゝるものとぞ思ひたンめる、まれまれ書をよむ人なども、たゞからぶみをのみむねとはよみて、其心もて、よろづをさだして、皇國のふるきふみどもをば、をさをさよむ人もなければ、古の御世には、神社神事を、むねと重くし給ひしことをばしらず、又まれにはしれる人もあれども、なほ今の世のならひにまぎれては、いにしへを思ひくらべて、これを深く歎く人のなきこそ、いと悲しけれ、
80 よの人の神社は物さびたるをたふとしとする事[三七〇]
今の世の人、神の御社は、さびしく物さびたるを、たふとしとおもふは、いにしへ神社の盛(サカリ)なりし世のさまをば、しらずして、たゞ今のよに、大かたふるく尊き神社どもは、いみしく衰へて、あれたるを見なれて、ふるく尊き神社は、もとよりかくある物と、心得たるからのひがことなり、
81 唐の國人あだし國あることをしらざりし事[三七二]
もろこしの國のいにしへの人、すべて他國(アダシクニ)あることをしらず、おほかた國を治め、身ををさむる道よりはじめて、萬の事、みな其國のいにしへの聖人といひし物の、はじめたるごとく心得て、天地の間に、國はたゞわれひとり尊(タフト)しと、よろづにほこりならひたり、然るをやゝ後に、天竺といふ國より、佛法といふ物わたり來ては、いさゝかあだし國のあることをも、しれるさま也、かくて近き世にいたりては、かの天竺よりも、はるかに西のかたなる國々の事も、やうやうしられて、おほかた今は、天地の間の、萬の國の事、をさをさしられざるはなきを、そのはるかの西の國々にも、もろこしにあるかぎりの事は、皆むかしより有て、もろこしにはなき物も多くあり、もろこしよりはるかにまされる事も有リ、その國々は、みな近き世まで、もろこしと通ひはなかりしかども、本よりしか何事も、たらひてあるぞかし、そもそももろこしの古ヘは、たゞその近きほとりなる、胡國などいふ國の事のみを、わづかによくはしりて、其外は、さしも遠からぬ國々の事も、こまかにはしらず、おぼおぼしくて、すべて他國の事いへるは、みだりごとのみ也、かくてそのよくしれる胡國などは、いたづらに廣きのみにして、いといやしくわろき國なるを、つねに見しり聞しりては、他國はいづれも皆、かゝる物とのみ思へりしから、何事もたゞたふときは吾ひとりと、みだりにほこれる也、いにしへあだし國の事を、ひろくしらざりしほどこそ、さもあらめ、近き世になりて、遠き國々の事も、まなよくしられても、猶古ヘよりのくせを、あらたむることなく、今に同じさまに、ほこりをるなるを、皇國にても、學問をもする人は、今は萬ヅの國國のことをも、大かた知リたるべきに、なほむかしよりの癖(クセ)にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるにかの國を尊みて、何事もみな、かの國より始まれるやうに思ひ、かの國より外に、國はなきごと心得居るは、いかなるまどひぞや、
82 おらんだといふ國のまなび[三七三]
ちかきとしごろ、於蘭陀といふ國の學問をする事、はじまりて、江戸などに、そのともがら、かれこれとあめり、ある人、もはらそのまなびをするが、いひけるおもむきをきくに、於蘭陀は、其國人、物かへに、遠き國々を、あまねくわたりありく國なれば、其國の學問をすれば、遠き國々のやうを、よくしる故に、漢學者の、かの國にのみなづめるくせの、あしきことのしらるゝ也、あめつちのあひだ、いづれの國も、おのおの其國なれば、必ズ一トむきにかたよりなづむべきにあらず、とやうにおもむけいふめり、そはかのもろこしにのみなづめるよりは、まさりて一わたりさることとは聞ゆれども、なほ皇國の、萬の國にすぐれて、尊きことをば、しらざるにや、萬の國の事をしらば、皇國のすぐれたるほどは、おのづからしるらむものを、なほ皇國を尊むことをしらざるは、かのなづめるをわろしとするから、たゞなづまぬをよしとして、又それになづめるにこそあらめ、おらんだのにはあらぬ、よのつねの學者にも、今は此たぐひも有也、
83 もろこしになきこと[三七四]
もろこしのまなびする人、かの國になき事の、御國にあるをば、文盲(モンマウ)なる事と、おとしむるを、もろこしにもあることとだにいへば、さてゆるすは、いかにぞや、もろこしには、すべて文盲なる事は、なき物とやこゝろえたるらむ、かの國の學びするともがらは、よろづにかしこげに、物はいへども、かゝるおろかなることも有けり、
84 ある人の言[三九三]
櫻の花ざかりに、歌よむ友だち、これかれかいつらねて、そこかしこと、見ありきける、かへるさに、見し花どもの事、かたりつゝ來(ク)るに、ひとりがいふやう、まろは、歌よまむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有けむ、こまやかにも見ずなりぬといへるは、をこがましきやうなれど、まことはたれもさもあることと、をかしくぞ聞し、
85 土佐國に火葬なし[三九五]
土佐國には、火葬といふわざなし、さる故に、かの國人は、他國の、火葬にすることをかたれば、あやしきわざに思へりとぞ、これもかの國人のかたりけるに、そは近き世のさだめかととひしに、いにしへより然りとぞいへる、
86 はまなのはし[四〇一]
さらしなの日記にいはく、濱名の橋、くだりし時は、黒木をわたしたりし、此度はあとだに見えねば、舟にて渡る、入江に渡せし橋也、との海は、いといみしく浪高くて、入江のいたづらなる洲どもに、こと物もなく、松原のしげれる名かより、浪のよせかへるも、いろいろの玉やうに見え、まことに松の末より、浪はこゆるやうにみえて、いみしくおもしろし、それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはぬわびしきを、のぼりぬれば、三河ノ國の高師の濱といふ、
87 おのれとり分て人につたふべきふしなき事[四〇九]
おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしのヘのおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむかへさとれるのみこそあれ、其家の傳へごととては、うけつたへたることさらになければ、家々のひめことなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし、されば又、人にとりわきて殊に傳ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を考へて、さたりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、たゞあらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ、
88 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事[四一〇]
おのれ今まことの道のおもむきを見明らめて、ときあらはせるを、漢學(カラマナビ)のともがら、かの國の老子といふものの説(トキゴト)によれり、と思ひいふ人、これかれあり、そもそもおのが道をとく趣は、いさゝかも私のさかしらをばまじへず、神典(カミノミフミ)に見えたるまゝなること、あだし注釋どもと、くらべ見て知べし、かくてその趣の、たまたまかの老子といふものの言と、にたるところどころのあるを見て、ゆくりなく、それによりていへりとは、例のかのもろこしの國をおきて外に國はなく、かの國ならでは、何事も始まらぬことと、ひたおもむきにおもひとれる、ひが心より、さは思ふなンめり、いにしへより、漢ノ國と通へることなく、たがひに聞キも及ばざりし國々にも、ほどほどにつけつゝ、有べきかぎりの事は、おのおの本よりありける中にも、殊に皇國は、萬ヅの國の本、よろづの國の宗(オヤ)とある御國なれば、萬ノ國々わたりて、正しきまことの道は、たゞ皇國にこそ傳はりたれ、他國(アダシクニ)には、傳はれることなければ、此道をしることあたはず、然るにもろこしの國に、かの老子といひしは、すぐれてかしこく、たどりふかき人にこそ有けめ、世のこちたくさかしだちたるヘヘは、うはべこそよろしきにたれ、まことには、いとよろしからず、中々の物害(モノソコナ)ひとなることをさとりて、まことの道はかくこそあるべきものなれと、はしばしみづから考ヘ出たることの中に、かむかへあてて、たまたま此まことの道に似たるふし、合へることもあるなりけり、さるはまことの道は、もとより人のさかしらをくはへたることなく、皇神(スメカミ)の定めおき給へるまゝなる道にしあれば、そのおもむきをとかむには、かれが、さかしらをにくめる説は、おのづから似たるところ、あへるところ有べきことわり也、しかはあれども、かれがいへるは、たゞおのが智慮(サトリ)もて、考へ出たるかぎりにこそあれ、皇國に生れて、正しく此道を聞るにあらざれば、その主(ムネ)とある本のこゝろは、しることあたはず、いたくたがひて、さらに似もつかぬことなるを、かの漢學のともがら、しかたがへるところをがしらで、たまたまかたはし似たることのあるをとらへてそれによれりとしもいひなすは、いとをこ也かし、大かたよろづの事、おのづからこれにもかれにも、かよひてにたることは、かならずまじる物にて、此道も、儒のおもむきかよけるところもまじり、佛の道とも似たることはまじれゝが、おのづからかの老子とも、かたはし似たるところ過へるところは、などかまじらではあらむ、
89 道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事[四一一]
道をとかむに、儒にまれ老にまれ佛にまれ、まれまれに心ばへのかよへるところのあるをとらへて、おのが心のひくかたにまかせて、かよはぬところをも、すべてそのすぢに引よせてときなし、あるは又他(アダシ)道と同じからんことを、いとひさけて、ことさらにけぢめを見せ、さまをかへて説(トカ)むとする、これらみないとあぢきなくしひたるわざ也、似ざらむもにたらむも、異(コト)ならむも同じからむも、とにかくに異道(アダシミチ)の意には、いさゝかもかゝはるべきわざにあらず、又かくときたらむには、世にうけひかじ、かくいひてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いさゝかもときまげむことは、又いとあるまじく、心ぎたなきわざ也、すべて世ノ人のほめそしりをも、思ふべきにはあらず、たとひあだし道々とは、うらうへのたがひあり、世にも絶えて信ずる人なからむにても、ただ神の御ふみのおもむきのまゝにこそはとくべきわざなりけれ、
90 香をきくといふは俗言なる事[四一二]
香(カウ)を聞クといふは、もとからことにて、古ヘの詞にあらず、すべて物の香(カ)は、薫物(タキモノ)などをも、かぐといふぞ雅言(ミヤビコト)にて、古今集の歌などにも、花たちばなの香をかげばと見え、源氏物語の梅枝ノ巻に、たき物共のおとりまさりを、兵部卿ノ宮の論(サダ)め給ふところにも、人々の心々に合せ給へる、深さ淺さを、かぎあはせ給へるに、などこそ見えたれ、聞(キク)といへる事は、昔の書に見えたることなし、今の世の人は、そをばしらで、香(カウ)などをかぐといはむは、いやしき詞のごと心得ためるは中々のひがこと也、きくといふぞ、俗言(サトビコト)には有ける、
91 もろこしに名高き物しり人の佛法を信じたりし事[四一三]
佛の道は、もろこしの國にて、よゝに名高き儒者などの中にも、信じ尊みたるが、あまた聞とゆるによりては、まことにすてがたき物にこそ、と思ふ人あンめれど、かのもろこしにて、しか名高き物しり人どもの、佛をしんじ尊みたるやうなくは、まことの心に信じたふとみたるは、いとすくなくて、おほくはたゞもてあそびたるにこそあれ、さるはかの道の説(トケ)るやう、あやしく廣く大きにして、此世のほかを、とほく深く、さとり明らめたるさま、すべて心のおきてなど、めづらかにおかしきものなるが故に、詩作る人などは、さらにもいはず、さらぬも、これをもてあそびて、風流(ミヤビ)のたすけにぞしたンめる、又その諸宗に、高僧と聞ゆるほうしどもの中にも、實に尊み信じて、おこなひたるにあらで、世の中の人にたふとまれ、いさぎよくいみしき名をとゞめて、後の世まであふがれむために、その道のふみを深く學び、もろもろの欲をも忍び、たへがたき行ひをもして、まことしげにふるまひたるぞ、多く見えたンめる、そもそも利のため名のためには、命をさへに、をしまぬたぶひもあるわざなれば、何かは、それはたあやしむべきことにもあらずかし、
92 世の人佛の道に心のよりやすき事[四一四]
ほとけの道には、さばかりさかしだちたる、今の世の人の心も、うつりやすきは、かならず其道よろしと、思ひとれるにしもあらねど、むかしよりあまねくさかりにて、おしなべて世ノ中の人の、皆おこなふわざなるに、かたへはもよほさるゝぞ多かりける、すべてなにわざも、世にあまねく、人のみなする事には、たれもすゞろに心のよりやすきならひぞかし、
93 ゐなかにいにしへの雅言(ミヤビゴト)ののこれる事[四一五]
すべてゐなかには、いにしへの言ののこれること多し、殊にとほき國人のいふ言の中には、おもしろきことどもぞまじれる、おのれとしごろ心をつけて、遠き國人の、とぶらひきたるには、必ズその国の詞をとひきゝもし、その人のいふ言をも、心とゞめてきゝもするを、なほ國々の詞共を、あまねく聞あつめなば、いかにおもしろきことおほからん、ちかきころ、肥後ノ國人のきたるが、いふことをきけば、世に見える聞えるなどいふたぐひを、見ゆる聞ゆるなどぞいふなる、こは今の世にはたえて聞えぬ、雅(ミヤ)びたることばづかひなるを、其國にては、なべてかくいふにやととひければ、ひたぶるの賤(シヅ)山がつは皆、見ゆるきこゆるさゆるたゆる、などやうにいふを、すこしことばをもつくろふほどの者は、多くは見える聞えるとやうにいふ也、とぞ語りける、そは中々今のよの俗(イヤシ)きいひざまなるを、なべて國々の人のいふから、そをよきことと心得たるなンめり、いづれの國にても、しづ山がつのいふ言は、よこなまりながらも、おほくむかしの言をいひつたへたるを、人しげくにぎはゝしき里などは、他(コト)國人も入まじり、都の人なども、ことにふれてきかよひなどするほどに、おのづからこゝかしこの詞をきゝならひては、おのれもことえりして、なまさかしき今やうにうつりやすくて、昔ざまにとほく、中々にいやしくなんなりもてゆくめる、まことや同じひごの國の、又の人のいへる、かの國にて、ひきがへるといふ物を、たんがくといふなるは、古ヘのたにぐゝの訛(ヨコナマ)りなるべくおぼゆ、とかたりしは、もことに然なるべし、此たぐひのこと、國々になほ聞ることおほかるを、いまはふと思ひ出たることをいふ也、なほおもひいでむまゝに、又もいふべし、  
玉かつま八の巻 / 萩の下葉 八

 

人はこず萩の下葉もかつちりて嵐は寒し秋の山ざと、はもじを重ねたる、いにしへのうたどもを見て、ふとおかしきふしにおぼえたるまゝにわれもいかでとよみ出たる也、きこえてやあらむ、聞えずやあらむ、われは聞えたりと思ふとも、人の見たらんには、いかゞあらん、きこえずやあらむ、しらずかし、
94 ゐなかに古ヘのわざののこれる事[四一九]
詞のみにもあらず、よろづのしわざにも、かたゐなかには、いにしへざまの、みやびたることの、のこれるたぐひ多し、さるを例のなまさかしき心ある者の、立まじりては、かへりてをこがましくおぼえて、あらたむるから、いづこにも、やうやうにふるき事のうせゆくは、いとくちをしきわざ也、葬禮婚禮(ハフリワザトツギワザ)など、ことに田舎(ヰナカ)には、ふるくおもしろきことおほし、すべてかゝるたぐひの事共をも、國々のやうを、海づら山がくれの里々まで、あまねく尋ね、聞あつめて、物にもしるしおかまほしきわざなり、葬祭(ハフリマツリ)などのわざ、後ノ世の物しり人の、考え定めたるは、中々にからごゝろのさかしらのみ、多くまじりて、ふさはしからず、うるさしかし、
95 ふるき物またそのかたをいつはり作る事[四二二]
ちかきころは、いにしへをしのぶともがら、よにおほくして、何物にまれ、こだいの物といへば、もてはやしめづるから、国々より、あるはふるきやしろ、ふるき寺などに、つたはりきたる物、あるは土の中よりほりいでなど、八百年(ヤホトセ)千とせに、久しくうづもれたりし物共も、つぎつぎにあらはれ出来る類ヒおほし、さてしかふるくめづらしきものの出来れば、その物はさらにもいはず、圖(カタ)をさへにうつして、つぎつぎとほきさかひまでも、寫しつたへて、もえあそぶを、又世には、あやしく偽リする、をこのものの有て、これはその國のその社に、をさまれる物ぞ、その國のなにがしの山より、ほり出たる、なにのかたぞなど、古き物をも圖(カタ)をも、つきつぎしくおのれ造りいでて、人をまどはすたぐひも、又多きは、いといとあぢきなく、心うきわざ也、さいつころ、いにしへかひの國の酒折宮(サカオリノミヤ)にして、倭建ノ命の御歌の末をつぎたりし、火ともしの翁のかた、火揚ノ命ノ像としるしたる物を、かの酒折ノ社の、屋根の板のはざまより、近き年出たる也とて、うつしたる人の見せたる、げに上ツ代の人のしわざと見えて其さまいみしくふるめきたりければ、めづらかにおぼえて、おのれうつしおきたりしを、なほいかにぞや、うたがはしくはたおぼえしかば、かの國に、その社ちかき里に、弟子(オシヘコ)のあるが許へ、しかしかのものえたるは、いかなるにかと、とひにやりたりしもしるく、はやくいつはりにて、すなはちかのやしろの神主飯田氏にもとひしに、さらにかたもなき事也と、いひおこせたりき、又同じころ、檜垣嫗(ヒカキノオウナ)が、みづからきざみたる、ちひさき木の像(カタ)の、肥後ノ國の、わすれたり、何とかいふところより、ちかく掘出たる、うつしとて、こゝかしこに寫しつたへて、ひろまりたる、これはた、出たる本を尋ぬるに、たしかなるやうにはきこゆれど、なほ心得ぬこと有て、うたがはしくなむ、すべてかうやうのたぐひ、今はゆくりかにはうけがたきわざ也、心すべし、
96 言の然いふ本の意をしらまほしくする事[四二三]
物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの意を、しらまほしくして、人にもまづとふこと、常也、然いふ本のこころとは、たとへば天(アメ)といふは、いかなる意ぞ、地(ツチ)といふは、いかなる意ぞ、といふたぐひ也、これも學びの一ツにて、さもあるべきことにはあれども、さしあたりて、むねとすべきわざにはあらず、大かたいにしへの言は、然いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、よく明らめしるべきなり、用ひたる意をだに、よくあきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべき也、そもそも萬ヅの事、まづその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論なけれど、然のみにもあらぬわざにて、事のさまによりては、末よりまづ物して、後に本へはさかのぼるべきもあるぞかし、大かた言の本の意は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也、されば言のはのがくもんは、その本の意をしることおば、のどめおきて、かへすがへすも、いにしへひとのつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり、たとひ其もとの意は、よく明らめてたらむにても、いかなるところにつかひたりといふことをしらでは、何のかひもなく、おのが歌文に用ふるにも、ひがことの有也、今の世古學をするともがらなど殊に、すこしとほき言といへば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのがつかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし、すべて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意とは、多くはひとしからぬもの也、たとへばなかなかにといふ言はもと、こなたへもかなたへもつかず、中間(ナカラ)なる意の言なれども、用ひたるいはたゞ、なまじひにといふ意、又うつりては、かへりてといふ意にも用ひたり、然たるを言の本によりて、うちまかせて、中間(ナカラ)なる意に用ひては、たがふ也、又こゝろぐるしといふ言は、今の俗言(ヨノコト)に、気毒(キノドク)なるといふ意に用ひたるを、げんのまゝに、心の苦(クルシ)きことに用ひては、たがへり、さればこれらにて、萬の言をも、なずらへ心得て、まずいにしへに用ひたるやうを、さきとして、明らめしるべし、言の本にのみよりては、中々にいにしへにたがふことおほかるべしかし、
97 今の人の歌文ひがことおほき事[四二五]
ちかきよの人のは、うたも文も、大かたはよろしと見ゆるにも、なほひがことのおほきぞかし、されどそのたがへるふしを、見しれる人はたよになければ、たゞかひなでに、こゝかしこえんなることばをつかひ、よしめきて、よみえなしかきちらしたるをば、まことによしと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したりがほすめる、いとかたはらいたく、をこがましくさへぞおもはるゝ、さるにつけては、かくいふおのが物することも、なほいかにひがことあらむと、物よくみしれらむ人のこゝろぞ、はづかしかりける、人のひがことの、よく見えわかるゝにつけては、我はよくわきまへたれば、ひがことはせずと、思ひほこれど、いにしへのことのこゝろをさとりしるすぢは、かぎりなきわざにしあれば、此外あらじとは、いとなんさだめがたきわざまりける、
98 歌もふみもよくとゝのふはかたき事[四二六]
ちかきよの人の歌ども文どもを、見あつむるに、一ふしおかしとめとまることは、ほどほどにあまたあンめれど、それはたいかにぞやおぼゆるところはまじりて、大かたきずなくとゝののひたるは、をさをさ見えず、これを思へば、後の世にして、いにしへをまねぶことは、いといとかたきわざになむ有ける、いにしへのかしこき人々のだに、これはしも、露のきずなしとおぼゆるは、多かる中にも、すくなくなんあれば、まして今の人のは、いさゝかなるきずをさへに、いひたてむは、あながちなるにやあらむ、されど同じくは、ひとのいさゝかもなんずべきふしまぜぬさまにこそはあらまほしけれ、よきほどにて、心をやるをば、もろこしのいにしへのひとも、よからぬことにいひおきけるをや、
99 こうさく くわいどく 聞書[四二七]
いづれの道のまなびにも、講釋とて、古き書のこゝろをとききかするを、きくことつね也、中昔には、これを談義となんいひけるを、今はだんぎとは、法師のおろかなるもの共あつめて、佛の道をいひきかするをのみいひて、こうさくといふは、さまことなり、さて此こうさくといふわざは、師のいふことのみたのみて、己が心もて、考ふることなければ、物まなびのために、やくなしとて、今やうの儒者(ズサ)などは、よろしからぬわざとして、會讀といふことをぞすなる、そはこうさくとはやうかはりて、おのおのみづからかむかへて、思ひえたるさまをも、いひこゝろみ、心得がたきふしは聞えたれど、それさしもえあらず、よの中に此わざするを見るに、大かたはじめのほどこそ、こゝかしこかへさひ、あげつらひなどさるべきさまに見ゆれ、度かさなれば、おのづからおこたりつゝ、一ひらにても、多くよみもてゆかむとするほどに、いかにぞやおぼゆるふしぶしをも、おほくなほざりに過すならひにて、おほかたひとりゐてよむにも、かはることなければ、殊に集ひたるかひもなき中に、うひまなびのともがらなどは、いさゝかもみづから考へうるちからはなきに、これもかれも聞えぬことがちなるを、ことごとにとひ出むことつゝましくて、聞えぬながらに、さてすぐしやるめれば、さるともがらなどのためには、猶講釋ぞまさりては有ける、されどこうさくも、たゞ師のいふことをのみ頼みて、己レちからいれむとも思はず、聞クことをのみむねとせむは、いふかひなくくちおしきわざ也、まず下見(シタミ)といふことをよくして、はじめより、力のかぎりは、みづからとかく思ひめぐらし、きこえがたきところどころは、殊に心をいれて、かへさひよみおけば、きく時に、心のとまる故に、さとることも、こよなくして、わすれぬもの也、さて聞て、家にかへりたらむにも、やがてかへり見といふことをして、きゝたりしおもむきを、思ひ出て味ふべし、また聞書といひて、きくきくその趣をかきしるすわざ有リ、そは中にわすれもしぬべきふしなどを、をりをりはいさゝかづゝしるしおかむは、さも有べきわざなるを、はじめより師のいふまゝに、一言ももらさじと、筆はなたず、ことごとにかきつゞくるかし、そもそもこうさくは、よく心をしずめて、ことのこゝろを、こまやかにきゝうべきわざなるに、此きゝがきすとては、きくかたよりも、おくれじとかく方に、心はいそがれて、あわたゝしきに、殊によくきくべきふしも、かいまぎれて、きゝもらい、あるはあらぬすぢに、きゝひがめもするぞかし、然るにこれをしも、いみしきわざに思ひて、いかでわれこまかにしるしとらむと、たゞこれのみ心をいれて、つとむるほどに、もはら聞書のためのこうさくになるたぐひもおほかるは、いといとあぢきなきならひになん有ける、
100 枕詞[四三二]
天又月日などいはむとて、まづひさかたのといひ、山といはむとて、まづあしひきの、といふたぐひの詞を、よに枕詞といふ、此名、ふるくは聞も及ばず、中昔の末よりいふことなめり、是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず、枕はかしらにおくものにはあらず、かしらをさゝゆるものにこそあれ、さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、間(アヒダ)のあきたる所を、ささゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、明(アキ)たるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし、梅の花それとも見えずひさかたの云々、しのぶれど戀しき時はあしひきの云々などのごとし、そもそもこれらは、一つのさまにこそあれ、なべて然るには荒ザルを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ、名づけたりけむ、なべてはかしらにおく詞なれば、吾師の、冠詞(カウブリコトバ)といはれたるぞ、ことわりかなひては有ける、しかはあれども、今はあまねく、いひならひたれば、ことわりはいかにまれ、さてもありぬべくこそ、
101 もろこしの國に丙吉といひし人の事[四四一]
わらはべの蒙求といふからぶみよむをきけば、かの國の漢といひし代に、丙吉といふ大臣有けり、春のころ、物へゆく道に、牛の人にひかれてくるが、舌を出して、いみしく苦しげに、あへぐを見て、いま夏にもあらざるに、此うしいたく暑ければこそ、かくは喘(アヘ)ぐなれ、すべて寒さぬるさの、時にかなはぬは、わがうれふべきこと也、といひければ、みな人げにとかしこまりて、よにいみしきことに思ひあへりとぞ、今おもふに、こはいとをこがましきこと也、暑きころならずとて、ことによりては、などかしかあへぐこともなからん、又さばかり陰陽のとゝのひを、心にかけたらむには、つねにみづからこゝろむべきわざなるに、たまたま道かひに、此牛のさまを見て、ゆくりなくさとりたるは、いかにぞや、もし此うしのあへぐを見ずは、しらでやむべきにや、さればこは、まことにさ思ひていへるにはあらで、人にいみしきことに思はせむとての、つくりことにこそ有けれ、もしまことにしか心得たらんには、いふかひなきしれものなるを、よにいみしきことにしるしつたへたるも、いとをこなり、又もとより陰陽をとゝのふなどいふこと、あるべくもあらず、すべて世の中の事は、時々の天地のあるやうも何も、みな神の御しわざにて、時の氣(ケ)のかなひかなはぬなど、さらに人のしるべきわざにはあらぬを、かくことごとしげにいひなすは、すべてかの國人のならひにて、いといとこちたく、うるさきわざ也かし、
102 周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢たりといへる事[四四二]
又きけば、周公旦といひける聖人の、子をいましめたる詞に、我一タビ沐スルニ三タビ髪ヲ握リ、一タビ飯(クフ)ニ三タビ哺ヲ吐テ、起テ以テ士ヲ待テ、猶天下ノ之賢人ヲ失ハムコトヲ恐ルといへり、もしまことに然したりけむには、これもよの人にいみしきことに思はせむための、はかりこと也、いかに賢人を思へばとて、口に入たらむ飯を、呑(ノミ)いるゝまを、またぬやうやは有べき、出迎へむ道のほどにても、のみいれむことは、いとやすかるべきを、ことさらに吐出して、人に見せたるは、何事ぞや、すべてかの國には、かくさまに、甚しくけやけきふるまひをしたるたぐひの、何事につけても多きは、みな名をむさぼりたる物にして、例のいとうるさきならひ也、
103 藤谷ノ成章といひし人の事[四四三]
ちかきころ京に、藤谷ノ專右衛門成章といふ人有ける、それがつくれる、かざし抄あゆひ抄六運圖略などいふふみどもを見て、おどろかれぬ、それよりさきにも、さる人有とは、ほの聞たりしかど、例の今やうの、かいなでの歌よみならんと、みゝもたゝざりしを、此ふみどもを見てぞ、しれる人に、あるやうとひしかば、此ちかきほど、みまかりぬと聞て、又おどろかれぬ、そもそも此ごろのうたよみどもは、すこし人にもまさりて、もちひらるゝばかりにもなれば、おのれひとり此道えたるかほして、心やりたかぶるめれど、よめる歌かける文いへる説などをきけば、ひがことのみ多く、みないとまだしきものにて、これはとおぼゆるは、いとかたく、ましてぬけ出たるは、たえてなきよにこの藤谷は、さるたぐひにあらず、又ふるきすぢをとらへてみだりに高きことのみいふともがらはた、よにおほかるを、さるたぐひにもあらず、萬葉よりあなたのことは、いかゞあらむ、しらず、六運の辨にいへるおもむきを見るに、古今集よりこなたざまの歌のやうを、よく見しれることは、大かたちかき世に、ならぶ人あらじとぞおぼゆる、北邉集といひて歌の集もあるを、見たるに、よめるうたは、さしもすぐれたりとはなけれど、いまのよの歌よみのやうなる、ひがことは、をさをさ見えずなん有ける、さもあたらしき人の、はやくもうせぬることよ、その子の專右衛門といふも、まだとしわかけれど、心いれて、わざと此道ものすときくは、ちゝの氣はひもそはりたらむと、たのもしくおぼゆかし、それが物したる書どもも、これかれと、見えしらがふめり、
104 ある人のいへること[四八三]
ある人の、古學を、儒の古文辭家の言にさそはれていできたる物なりといへるは、ひがこと也、わが古學は、契沖はやくそのはしをひらけり、かの儒の古學といふことの始めなる、伊藤氏など、契沖と大かた同じころといふうちに、契沖はいさゝか先(サキ)だち、かれはおくれたり、荻生氏は、又おくれたり、いかでかかれにならへることあらむ、
105 らくがき らくしゅ[五一六]
いはまほしき事の、あらはにいひがたきを、たがしわざとも、しらるまじく書て、おとしおくを、落し書(ブミ)と今もいへり、ふるくより有しことにて、そを又門屏などやうのところに、おしもし、たゞにかきもしけむ、かくてそのおとしぶみを、もじごゑに、らくしよともいひならひしを、後に其もじにつきて、らくがきともいひて、又後には、たゞなにとなく、たはぶれに、さるところに物かくを、らくがきとはいふ也、又たはぶれのさとび歌に、らくしゅといふ一くさ有リ、これもかのおとしぶみよりうつりて、もとは落書(ラクショ)なりけんを、訛りてらくしゅとはいふなンめり、愚問賢注に、童謡落書の歌とある、これ也、  
玉かつま九の巻 / 花の雪 九

 

やよひのころ、あるところにて、さくらの花の、木ノ本にちりしけるを見て、一とせよし野にものせし時も、おほくはかうやうにこそ、散ぬるほどなりしかと、ふと思ひ出られけるまゝに、
ふみ分し昔恋しきみよしのの山つくらばや花の白雪、かきあつめて、例の巻の名としつ、雪の山つくられし事は、物に見えたり、
106 道のひめこと[五六九]
いづれの道にも、その大事とて、世にひろくもらさず、ひめかくす事おほし、まことに其道大事ならば、殊に世に広くこそせまほしけれ、あまりに重くして、たやしく伝へざれば、せばくなりて、絶やすきわざぞかし、そもみだりにひろくしぬれば、其道かろがろしくなることといふなるも、一わたりは、ことわりあるやうなれども、たとひかるがるしくなるかたはありとても、なほ世にひろまるこしはよけれ、広ければ、おのづから重きかたはあるぞかし、いかにおもおもしければとても、せばくかすかならむは、よきことにあらず、まして絶もせむには、何のいふかひかあらむ、されどちかき世に、道々に秘伝口決などいふなるすぢ、おほくは、道をおもくすといふは、たゞ名のみにて、まことは、ひとにしらさずて、おのれひとりの物にして、世にほこらむとする、わたくしのきたなき心、又それよりもまさりて、きたなき心なるぞおほかる、さるたぐひも、もろもろのはかなき技芸の道などは、とてもかくてもありぬべけれど、うるはしくはかばかしき道には、さること有べくもあらず、
107 契沖が歌をとけるやう[五七一]
歌の注は、むつかしきわざにて、いさゝかのいひざまによりて、意もいきほひも、いたくたがふこと多きを、契沖は、歌をとくこと、上手にて、よくもあしくも、いへることのすぢうよくとほりて、聞えやすし、しかるにをりをり、くだくだしき解(トキ)ざまのまじれるは、いかにぞや、たとへば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、うきたる物なれば、久しく吹とづべきものにはあらざるによりて、しばしといへる詞、よくかなへり、といへるたぐひ也、すべてかのころなどの歌は、よみぬしの心には、さることまでを思へるものにはあらず、然るをかくさまに、こまかに意をそへてとどけるたぐひは、思ふに、佛ぶみの注釈どもを、見なれたるくせなめり、すべてほとけぶみの注尺といふ物は、深くせむとて、えみいはずくだくだしき意をくはへて、こちたくときなせる物ぞかし、
108 つねに異なる字音のことば[五七五]
字音(モジゴエ)の言の、みかしよりいひなれたるに、常の音とことなる多し、周禮をしゅうらい、檀弓をだんぐう、淮南子をゑなんじ、玉篇をごくへん、鄭玄をぢやうげん、孔頴達をくえうだつといふたぐひは、呉音なれば、こともなし、越王句践を、ゑつとうこうせんとよむは、たゞ引つめていふ也、子昂をすかうといふは、扇子銀子鑵子などのたぐひにて、これもと唐音(カラコエ)なるべし、子ノ字今の唐音にては、つうと呼(イフ)なれど、すといふは、宋元などのころの音にぞありけむ、又天子の物へ行幸の時、さきざきにて、おはします所を、行在所といふを、あんざいしょとよむは、此とき別(コト)にあんの音になるにはあらず、行灯行脚(アンドンアンギャ)などといふあんと同じことにて、これもむかしの唐音なるべし、今の唐音は、平声の時も、去声の時も、いんといへり、又もろこしの國の、明の代の明を、みんと呼(イフ)も、唐音也、今の代の清を、しんといふは、唐音の訛也、清ノ字の唐音は、ついんと呼(イヘ)り、又明の代のとぢめに、鄭成功といひし人を、國姓爺と称ふ、この姓ノ字をせんといふも、唐音にすいんといふを訛れる也、さてこの國姓爺といふ称(ナ)は、國姓とは、当時(ソノトキ)の王の姓をいひて、此人、明の姓を賜はれるよし也、爺は、某(ナニ)老某(ナニ)丈などいふ、老丈のたぐひにて、たふとめる称(ナ)也、ちかき代かの國にて、ことによくつかふもじ也、こは筆のついでにいへり、
109 八百萬ノ神といふを書紀に八十萬ノ神と記されたる事[五八五]
もろもろの神たちを、すべていふには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにもみな、八百萬(ヤホヨロヅノ)ノ神といへるぞつねなるに、たゞ書紀にのみは、いづこにもいづこにも、八十萬(ヤソヨロヅノ)ノ神とのみありて、八百萬神とあるところは見えず、こはいかさまにも、撰者の心あることと見えたり、神の御名に、日高(ヒタカ)と申すをも、彼ノ紀には、みなかへて、彦としるされたるは、当代(ソノコロ)の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、此八十萬ノ神は、いかなるよしにかあらむ、いまだ思ひえず、さてかようのたぐひも、神の御名の文字なども、何も、後の世の書どもは、おほかた書紀にのみよれるをたまたま此称は書紀によらず、今の世にいたるまでも、八十萬ノ神とのみいひならへるは、めづらし、
110 人ノ名を文字音(モジコエ)にいふ事[五八六]
人の名を、世に文字の音にて呼ならへる事、ふるくは、時平(ジヘイ)大臣、多田ノ満仲(マンヂウ)、源ノ頼光(ライクワウ)、安倍ノ清明(セイメイ)などのごときあり、やゝ後には、俊成卿、定家卿、家隆卿、鴨ノ長明など、もはらもじこゑにのみいひならへり、琵琶ほうしの、平家物語をかたるをきくに、つねにはさもあらぬ、もろもろの人の名どもも、おほくはもじこゑに物すなるは、当時(ソノカミ)ことに、よの中にさかりなりしことなめり、
111 神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事[五九八]
世の人の、神をなほざりに思ひ奉るは、かへすかへすこゝろうきわざなり、さるはほどほどに、たふとみ奉らぬにしもあらざンめれど、たゞよのならひの、人なみ人なみのかいなでのたふとみのみこそあれ、まことに心にしめて尊みたてまつるべきことを、思ひわきまへず、たゞおろそかにぞ思干たンめる、目にこそ見えね、此天地萬の物の、出来はじめしも、又むかし今の、世ノ中の大き小きもろもろの事も、人の身のうへ、くひ物き物居どころなにくれ、もろもろのことも、ことごとく神の御めぐみにかゝらざることはなきを、さるゆゑよしをばわすれはてて、なべての人、ただまがつひのまがことにのみまじこり、心をかたむけて、よろづにさかしだつひとはた、からぶみごゝろを、心とはして、まれまれに神代のおのが身々のうへにかゝれる、本なることをおもひたどらず、よろづよりもかなしきは、神の社神事(カムワザ)のおとろへなるを、かばかりめでたき御代にしも、もろもろのふるき神の御社どもの、いみしくおとろへませるを、なほしたて奉らんの心ざしある人はうるさしとも思ふらめど、此事のうれしさの、あけくれ心にわすらるゝ間もなくおぼゆるから、筆だにとれば、かきいでまほしくてなん、
治まれる御代のしるしを千木たかく 神のやしろに見るよしもがな  
玉かつま十の巻 / 山菅 十

 

はてもなしいふびきことはいへどいへど なほやますげのみだれあひつゝ
此野べのすさびよ、いとかくはかなき手奈良ひを、ものものしく、巻ごとに名つけて、歌をさへにそへたるは、我ながらだに、あやしくおぼゆるを、おのづからも見む人は、ましていかにことごとしと思ふらん、さるははじめの巻のはしに、ゆくりかに歌ひとつ物して、巻の名つけるまゝに、つぎつぎも一つ二つそかせしが、おのづからならひになりて、かならずさらではえあらぬわざのごとなりもてきぬるを、今さらにたがへむも、さくがにて、例のごと物するになむ、そもそのをりをり、思ひうるまゝに、よみいでもし、あるは他事(コトコト)によみたるがあるをも、とりいでなどするを、につかはしくおぼゆるも、なきをりなど、今かゝむとすとては、筆とりながら、思ひめぐらすに、例の口おそさは、とみにもいでこで、しりくはへがちなるも、あぢきなく物ぐるほしきわざになん、此山菅も、からうじてほりいでたる、さる歌のきたなげさよ、
112 物まなびのこゝろばへ[五九九]
むかしは、皇國(ミクニ)のまなびとて、ことにすることはなくて、たゞからまなびをのみしけるほどに、世々をふるまゝに、いにしへの事は、やうやうにうとくのみなりゆき、から國の事は、やうやうにしたしくなりもてきつゝ、つひにそのこゝろは、もはらからざまにうつりはてて、上つ代の事は、物の意はさらにもいはず、言葉だに、聞しらぬ異国(ヒトクニ)のさへづりをきくがごと、ものうとくぞなりにける、かくて後にいたりて、皇國の学(マナビ)を、もはらとすることもはじまりつれども、しか漢意(カラゴコロ)の、久しくしみつきたる人心にしあればたゞ名のみこそ、みくにのまなびには有けれ、いひといひ、おもひと思ふことは、猶みなからにぞ有けるを、みづからも、さはおぼえざるなめり、されば近き世、まなびの道ひらけて、よろづさかしくなりぬるにつけても、なかなかにそのからごゝろのみ、深くさかりにはなりて、古の意は、いよいよはるかになむなりにけるを、此ちかきころになりてぞ、そこに心つきぬる人の出来そめて、世はみなからなることをさとりて、人も我も、いにしへのこゝろをたづぬる道の、明(アカ)りそめぬる、しかすがに神直毘大直毘(カムナホビオホナホビ)の神のましましける世は、なほゆくさきいとたのもしくなむ、
113 いにしへよりつたはれる事の絶るをかなしむ事[六〇〇]
よの中に、いにしへの事の、いたくおとろへたる、又ひたぶるに絶ぬるなどもおほかるを、かゝるめでたき御代にあたりて、何事もおこしたてまほしき中に、たえたるも、あとをたづねて、又かじめむに、はじめづべきは、おそくもとくも、直毘ノ神の頼みの、なほのこれるを、一たび絶ては、またつぐべきよしなく、又はじむべきたよりなき事どもこそ、殊にいふかひなく、くちをしきわざには有けれ、ふるき氏々など、神代のゆゑよし重(オモ)きなどは、さらにもいはず、さらぬも、はやく末のたえはてぬるがおほき、今はいかに思ひても、二たびつぎおこすべきよしなくなん、これらをおもふに、萬のふるきことは、わづかにも残りて、絶ざるをだに、おとしあぶさず、よくとりしたゝめて、今より後、たゆまじきさまに、いかにもいかにも、つよくかたくなしおかまほしきわざぞかし、
114 もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事[六〇二]
よろずの草木鳥獣、なにくれもろもろの物の事を、上の代よりひろめ委しく考へて、しるしたる書こそ、あらまほしけれ、もろこしの國には、本草などいふ、さるすぢのふみどもも、いにしへよりこゝらあンなるを、御國には、わづかに源ノ順の和名抄のみこそはあれ、かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引出たるやうなども正しからず、いにしへさまのことにうとく、すべてたらはぬことのみ也、されどこれをおきては、ふるくよるべき書のなきまゝに、人も我も、もはら萬の物の考へのよりどころにはする也、ちかきころ、新撰字鏡といふもの出て、ふるくはあれども、事ひろからずかりそめなるうへに、あやしきもじども多くなどして、ことさまなるふみなるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、おほくぞ有ける、これらをおきて、後の世に作れるどもは、あまたあれども、たゞみな例のからまなびのかたによれるのみにて、皇國のまなびのためには、おさおさ用もなきを、今いかで古事記書紀万葉集など、すべてふるきふみどもをまづよく考へ、中むかしのふみども、今の世のうつゝの物まで、よく考へ合せて、和名抄のかはりにも用ふべきさまの書を、作り出む人もがな、おのれはやくより、せちに此心ざしあれど、たやすからぬわざにて、物のかたてには、えしも物せず、いまはのこりのよはひも、いとすくなきこゝちすれば、思ひたえにたれば、今より後の人をだにと、いざなひおくになん、此六七年ばかりさきに、越前ノ國の府中の人とて、伊藤東四郎多羅といへる、まだわかきをのこなりけるが、とふ(ム)らひきて、かたりけるは、多羅が父は、いはゆる物産の学を好みて、ものしけるまゝに、多羅も、わらはなりしほどより、其すぢに心よせけるを、もろこしさまの事は、たれもたれも物するわざにて、人のふみはたよにともしからぬを、皇國の此すぢの事、よくしるしたるは、いまだ見え聞えざンなれば、多羅は、今より皇國のこのまなびを、物してんと心ざして、かつがつ考へたる事どももある也とて、一巻二巻かきあつめたるをも、とうでて見せけるを、はしばしいさゝか見たりしに、おのが思ふにかなへるさまにて、考へも、よろしく見えしかば、これいかでおこたらずつとめて、しはててよと、ねんごろに、かへすかへすすゝめやりしを、さて後いかになりぬらむ、音もなし、ちかきころ、しのちかき國の人にあへりしに、この事かたりて、とひけるに、たしかにはしらぬさまにて、かのをのこは、みまかりぬとか、ほのかに聞しよしいひたりし、それまことならば、いとあたらしくくちをしきわざにぞ有ける、
115 譬ヘといふものの事[六〇五]
たゞにいひては、ことゆきがたきこゝろも、萬の物のうへにたとへていへば、こともなくよく聞ゆること、多くあるわざ也、されば、このたとへといふ事、神代より有て、歌にも見え、今の世の人も、常にものすること也、皇國のみにもあらず、戎(カラ)の國々にも、古より有けるを、もろこし人は、すべて物のたとへをとること、いち上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬(タト)ヘたりとおぼゆることのおほかるを、佛の經どもに、殊に多く見えたるたとへは、おほくは物どほくして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだくだしくながながといへるなど、いといとつたなし、佛といへる人のいへることも、かゝるものにや、
116 物をときさとす事[六〇六]
すべて物の色形、又事のこゝろを、いひさとすの、いかにくはしくいひても、なほさだかにさとりがたきこと、つねにあるわざ也、そはその同じたぐひの物をあげて、其の色に同じきぞ、某のかたちのごとくなるぞといひ、ことの意をさとすには、その例を一つ二つ引出ヅれば、言おほらかで、よくわかるゝものなり、
117 源氏物語をよむことのたとへ[六一〇]
源氏物語とて、世にもて興ずる、五十四帖の草子とやらむ、心みに、なにことぞと、くりひろげて見しかば、みだれたる糸すじの、口なきやうにて、さらによみとかれ侍らぬは、いかにと問、さかし、たゞなれよ、のちのち見もてゆかば、さながらまどひはてじ、ととへていはば、六月ばかり、いと暑き日かげをしのぎきたらむ人の、内に入ては、やみのうつゝのさだかならで、物のいろふし、あやめもわかれねど、をること久しくなれば、じねんに、かのうつは物此調度と、こまかに見わかるゝが如し、と同集の文にあり、この集は、長嘯子の歌又文をあつめたるふみ也、
118 さらしなのにきに見えたること[六一八]
さらしなの日記にいはく、二むらの山の中に、とまりたる夜、大きなる柿の木の下に、いほをつくりたれば、よひとよいほのうへに、柿のおちかゝりたるを、人々ひろいなどすといへり、これは菅原ノ孝標といひける人の女のかける物にて、さしもとほき世の事にもあらぬを、そのかみなほ旅の屋どりは、かゝる事も有けるをおもへば、つねに歌によむなる、草の枕もあがれりし世には、まことにさることにぞ有けむかし、
119 おのが帰雁のうた[六一九]
帰雁の題にておのれ、「春くれば霞を見てやかへる雁われもとそらに子ひたつらむ、いまひとつ、「かへるかりこれもこしぢの梅香や風のたよりにさそひそめけむ、とよめりける後なるをよく思へば、末の二句に、雁の縁なくて、いかにぞやおぼえければ、またとかく思ひめぐらして、「うめがかやさそひそめけむかへる雁これも越路の風のたよりに、となんよみなほしける、これはしも、こしぢを末の句にうつしたるにて、雁の緑はさることながら、歌ざまは、いさゝかおとりておぼゆるは、いかならむ、歌よく見しれらむ人、さだめてよ、
120 師をとるといふ事[六二二]
源氏物がたりの紅葉賀ノ巻に、舞の師どもなど、よになべてならぬをとりつゝ、おのおのこもりてなんならひけるとあり、世の言に、師匠をとる、弟子をとるといふも、ふるきことなりけり、  
玉かつま十一の巻 / さねかづら 十一

 

こぬものを思ひたえなでさねかづら まつもくるしやくるゝ夜ごとに
これは夜毎にまつといふ、題よみのなるを、巻の名つけむとて、例のひきいでたるになん、
121 人のうまるゝはじめ死て後の事[六七二]
人の生れ来るはじめ、また死(シニ)て後、いかなるものぞといふこと、たれも心にかけて、明らめしらまほしくするならひなるを、佛ぶみに説たる、生死(うまれしに)の趣、心性のさだ、いとくはしきやうなれど、みな人の考へたるつくりことなれば、よくさとりあきらめたらむも、つひに何の用もなき、いたづらわざ也、たゞ儒者の説に、死(シニ)て身ほろびぬれば、心神もともに消うせて、のこることなしといへるぞ、よく思ひめぐらせば、まことにさるべしことわりとは聞こえたる、然はあれども、これも又たのみがたし、すべてものの理は、かぎりなきものにて、火の色は赤きに、所焼(やけ)たる物は、黒くなり、又灰になれば、白くこそなれ、すべてかく思ひのほかなること有て、思ひはかれるとは、いたくたがへることのおほければ也、されば人の死て後のやうも、さらに人の智(サトリ)もて、一わたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず、思ひのほかなるものにぞ有べき、これを思ふにも、皇國の神代の神のつたへ説(ごと)に夜見(ヨミノ)國にまかるといへるこそ、いといとたふとけれ、から國のことわりふかげなる、さかしき説どもは、なかなかにいとあさはかなること也かし、
  122 うひ学びの輩の歌よむさま[六七四]
今の世にうひまなびのともがらの、よみ出たる歌は、きこえぬところを、聞ゆるさまにとりなほせば、古人の歌と、もはら同じくなること、つねにあり、これさるべきこと也、いかにといふに、うひまなびのほどは、おほかた題をとりぬれば、まづ昔のよき歌の集の中の、その題の歌どもを見て、その中の一つによりて、こゝかしこすこしづゝ詞をかへて、つゞりなすならひなるを、大かた古ヘ人のよき歌は、其詞みな、かならず然いはではかなはぬさまにて、おほかた一もじかへがたきものなるを、いまだしきものの、心もえず、こゝかしことかへぬれば、かへたる所の、必ズとゝのはぬわざなるゆゑに、歌よく心得たる人の見て、そをとゝのふさまに引なほせば、かならず又本の古歌とひとしくはなる也、さてさやうに古歌ともはら同じくては、新によめるかひなきやうなれども、うひまなびのほどのは、後まで、よめる歌数に入びきにもあらざれば、そはとてもかくてもありぬべし、歌のさまこゝろえむまなびのためには、しばらくただおいらかにて、上の件のごとしたらむどよかるべき、さるをはじめよりさかしだちて、人のふるさぬめづらしきふしをやまむとせば、中々によこさまなるあしき道にぞ、まどひいりぬべき、
123 後の世ははづかしきものなる事[六九三]
安藤ノ為章が千年山集といふ物に、契沖の万葉の注釈をほめて、かの顕昭仙覚がともがらを、此大とこになぞらへば、あたかも駑胎にひとしといふべしといへる、まことにさることなりかし、そのかみ顕昭などの説にくらべては、かの契沖の釈は、くはふべきふしなく、事つきたりとぞ、たれもおぼえけむを、今又吾ガ県居ノ大人にくらべてみれば、契沖のともがらも又、駑胎にひとしとぞいふべかりける、何事もつぎつぎに後の世は、いとはづかしきものにこそありけれ、
124 うたを思ふほどにあること[六九四]
歌よまむとて、思ひめぐらすほど、一ふし思ひたえたる事のあるに、心のごといひとゝのへがたくて、時うつるまで思ひ、あるは日をかさねても、同じすぢにかゝづらひて、とかくつゞけみれども、つひに事ゆかぬことあるものなり、さるをりは、そのふしをば、きよくすてて、さらにほかにもとむべきわざなるを、さすがにをしく、すてがたくて、あいあずはおぼえながら、いかゞはせむに、しひてつゞり出たる、いと心ぎたなきわざにはあれども、たれもよくあること也、又さように久しく思ひわずらひたるほどに、そのかゝづらへるすぢにはあらで、思ひかけぬよき事の、ふとかたはらより出来て、たやすくよみ出らるゝこともありかし、されどそれも、深く思ひ入たるから、さるよきことも出来るにて、はじめよりのいたつきの、いたずらになれるにはあらずなむ、そもそもこれらは、えうもなきあだことなれども、おもひ出たるまゝに、書出たるなり、
125 假字のさだ[七〇六]
源氏物語梅枝巻に、よろづの事、むかしのはおとりざまに、浅くなりゆく世の末なれど、かんなのみなむ、今の世は、いときはなくなりたる、ふるきあとは、さだまれるやうにはあれど、ひろきこゝろゆたかならづ、ひとすぢに通ひてなむ有ける、たへにおかしきことは、とよりてこそ、書いづる人々有けれといへり、此ノかんなといへるは、いろは假字のこと也、此かたは、空海ほうしの作れりといふを、萬の事、はじめはうひうひしきを思ふに、これも、出来つるはじめのほどは、たゞ用ふるにたよりよきかたをのみこととはして、その書キざまのよきあしきをいふことなどまでは及ばざりけんを、やうやうに世にひろくかきならひて、年をふるまゝに、書キざまのよさあしさをも、さだすることにはなれりけむを、源氏物語つくりしころは、此假字出来て、まだいとしも遠からぬほどなりければ、げにやうやうにおかしくたへにかきいづるひとのいでくべきころほひ也、
126 皇國の学者のあやしき癖[七〇六]
すべて何事も、おのが國のことにこそしたがふべけれ、そをすてて、他ヒトの國のことにしたがふべきにはあらざるを、かへりて他ヒトの國のことにしたがふを、かしこきわざとして、皇國のことにしたがふをば、つたなきわざとこゝろえためるは、皇國の学者の、あやしきくせ也、はかなきことながらたとえば、もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、しかいふをばつたなしとして、中華中国などいふを、かしこきこと心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中国などは、いふままじきことと、物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もし唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、震旦支那など書クたぐひもあンなるは、中華中国などいふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名なれば、そもなほおのが國のことをすてて、人の國のことにしたがふにぞ有ける、もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、かく己が國のことをたてたらむこそは、雄々(ヲヲ)しき文ならめ、他(ヒト)の國のことにへつらひよりて書むは、めゝしくつたなきわざにぞ有ける、こはもろこしの國の名のみにもあらず、よろずにわたれる事ぞかし、なほ此たぐひなる事を、一ツ 二ツ いはば、遥なる西の國々にて此大地にあらゆる國々をすべて、五ツに分たるも、つけたる名どもも、もとより他(ヒト)國のことにて、殊に近き世に聞えきつることなるを、神代より皇國に伝はりたる説のごと、うちまかせてしたがいよるは、これはた他(ヒト)の國のことといへば、たふとみ信ずる、例のあやしき癖にぞありける、又もろこしの國の音(コエ)は、他國の音を訳(ウツ)すに、いと便リあしくて、いにしえに天竺の國の佛ぶみを訳(ウツ)せるにも、多くはまさしくはあたりがたかりしことなるを、近く明の世のほどなどに、かの遥なる西の國國の名ども、又そのよろづの詞を、訳(ウツ)せるどもを見るに、其字の音、十に七八は、かの言にあたらず、いたくたがへるがおほければ、假字づけなくては、其言しりがたく、訳字(ウツシモジ)はいたづらなるがごとし、かくいふは、皇國の漢音呉音によりてにはあらず、ちかき世の唐音といふ音によりていふ也、かゝればもろこしの國國の言をおぼえたらむは、皆誤りてぞ有べきを、皇國の假字は、他國の音を訳(ウツ)すに、いとたよりよければ、おさおさたがふことなし、さればこうこくにては、かのもろこしの訳字をば、みな廃て、此方(ココ)の訳(ウツシ)をのみ用ふべきこと也、それも片假字は、しどけなくて、漢文などには書キがたくは、眞假字(マガナ)を用ふべし、眞假字ちは、いはゆる万葉假字にて、伊呂波爾保閇登とやうにかくをいふ、すべてあらたに此假字を用ひて、かの五つの洲の名の、亜細亜をば阿自夜(アジヤ)、欧羅巴をば要呂波(エウロハ)とやうに、萬ヅの言を、みなかくさまに訳(ウツ)しなば、いとよろしかるべきに、よろしくたよりよき、己が國のことを用ひずして、かのみろこしの、ものどほくたよりあしく、あたらぬ訳字を、大事と守りて用るは、いといとつたなく愚なることにて、これはた例の、他國(ヒトノクニ)のことにしたがふを、かしこきわざと心得たる、あやしき学者のくせなりけり、
127 万葉集をよむこゝろばへ[七一〇]
万葉集今の本、もじを誤れるところいと多し、こは近き世のことにはあらで、いとはやくより、久しく誤り来ぬるものとぞ見えたる、然るにちかきころは、古学おこりて、むねと此集を心にかくるともがら、おほきが故につぎつぎによきかむかへ出来て、誤れる字(モジ)も、やうやうにしられたること多し、されど猶しられざるもおほきなり、その心してよむべき也、むげに聞えぬところどころなどは、大かた誤字にぞ有りける、さて又すべて訓(ヨミ)も、誤いと多し、さるは此集はじめは、訓はなかりしを、やゝ後に始めて附ケたりし、その訓は、いといとをさなくて、えもいはぬひがことのみにして、さらに用ひがたきものなりしを、中むかしまでさて有しを、仙覚といひけるほうし、力を用ひて、多く訓を改めたる、今の本は、此仙覚が訓にて、もとのにくらぶれば、こよなくまさりてぞ有ける、然れどもなほよからざること多きを、ちかき世に、契沖法師があらためたるにて、又こよなくよくなれり、然れども誤字なるをしらずして、本のまゝによめるなどには、強(シヒ)たることおほく、そのほかすべてのよみざまも、なほよからざること多きを、その後又此集の事、いよいよくは敷くなり茂木塗るまにまに、訓もいとよくなれれども、なほいまだ清く直(ナホ)りはてたりとはいひがたし、まづ誤字のことごとくしられざるほどは、訓もことごとくよろしくは直りがたきわざ也、誤字のなほいとおほかるを、その字のままによむとせぬには、かへりてしひごとになるたぐひ多かンべきを、よく心得べし、又すべての訓ざま、假字書キのところをよく考へて、その例をもてよむべきなり、おほかたこれら、此集をよむに、むねと心得べき事ども也かし、
128 足ことをしるといふ事[七一一]
たることをしるといふは、もろこし人のつねに、いみしきわざにすめることなるを、これまことにいとよきことにて、しか思ひとらば、ほどほどにつけて、たれもたれも、心はいと安(ヤス)かりぬべきわざにぞ有ける、然はあれども、高きみじかき、ほどほどにのぞみねがふことのつきせぬぞ、世の人の真情(マゴコロ)にて、今はたりぬとおぼゆるよはなきものなるを、世には足(タル)ことしれるさまにいひて、さるかほする人の多かるは、例のからやうのつくりことにこそはあれ、まことにきよく然思ひとれる人は、千万の中にも、有がたかるべきわざにこそ、  
玉かつま十二の巻 / やまぶき 十二

 

われとひとしき人しなければ、といひける人も有けれど、よしやさばれおのれは
思ふこといはではやまじやまぶきも さればぞ花の露けかるらむ
129 又妹背山[七二九]
寛政十一年春、又紀の国に物しけるをり、妹背山の事、なほよくたづねむと思ひて、ゆくさには、きの川を船よりくだりけるを、しばし、陸におりて、批山をこえ、かえるさにもこえて、くはしき尋ねける、そは紀の国ノ伊都ノ郡橋本の駅より、四里ばかり西に、背山村といふ有て、其村の山ぞ、すなわち背山なりける、いとしも高からぬ山にて紀の川の北の邊に在て、南のかたの尾さきは、川の岸までせまれり、村は、批山の東おもての腹にあり、大道は、川岸のかの尾さきのやゝ高きところを、村を北にみてこゆる、道のかたわらにも、屋どもある、それも背山村の民の屋也、批山までは伊都の郡なるを、その西は那賀の郡にて、名手の駅にちかし、かくて花の雪の巻にも、既にいへるごとく、妹山といふ山はなし、批背ノ山の南のふもとの河中に、ほそく長き嶋ある、妹山とはそれをいふにやと思へど、批嶋は、たゞ岩のめぐりたてる中に、木の生ヒしげるたるのみにて、いさゝかも山といふばかり高きところはなし、又批嶋を背ノ山也といふも、ひがごと也、そは川の瀬にある故に、背の山とはいふと、心得誤りて、背山村といふも、批嶋によれる名と思ひためれど、然にはあらず、万葉に、せの山をこゆとあれば、かの村の山なること明らけし、川中の嶋は、いかでかこゆることあらむ、さて、又川の南にも、岸まで出たる山有りて、背ノ山と相対ひたれば、これや妹山ならむともいふべけれど、其山は、背ノ山よりやゝ高くて、山のさまも、背の山よりをゝしく見えて、妹山とはいふべくもあらず、そのうへ河のあなたにて、大道にあらず、こゆる山にあらざれば、妹の山せの山こえてといへるにも、かなはざるをや、とにかくに妹山といへるは、たゞ背の山といふ名につきての、詞のあやのみにて、いはゆる序枕詞のたぐひにぞ有ける、
130 俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事[七六〇]
ちかきころ、万葉ぶりの歌をものするともがら、みだりにこゝろ高きことをいひて俊成ノ卿定家ノ卿などの歌をば、いたくつたなきやうに、たやすげにいひおとすなるは、世の歌よみどもおしなべて、神のごとたふとみかしこむを、ねたみて、あながちにいひくたさむとする、みだりごと也、そもそも批卿たちの歌、あしきことも、たえてなきにはあらざめれど、すべてのやう、いにしへより世々のあひだに、ぬけ出たるところ有て、まことにいとめでたし、しかいひおとすともがら、いかによむとも、あしもとへもよることあたはじをや、
131 物しり人もののことわりを論ずるやう[七六二]
世のものしり人、人の身のうへ、よの中のことわりなどを、さまざま心たかく、いとかしこげには論へども、といふもかくいふも、みなからぶみのおもむきにて、その垣内を出ることあたはざるは、いかにぞや、
132 歌に六義といふ事[七六三]
歌に六義といふことを、やむことなきことにするは、いと愚かなることなり、六義は、もろこしの国にて、上代の詩にさだせることにこそあれ、歌にはさらにさることなし、歌にいふは、古今集の序に、歌のさまむつ也とて、その六くさを分て、あてたるよりおこれる事なるを、そはかのもろのこしの詩にならひて、六くさには分たれども、さらにかなはぬことどもにて、そへ歌といひ、なずらへ歌といひ、たとへ歌といへるなど、此三つは、皆同じことなるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しひて分たるもの也、又いはひ歌を、此うちに入レたるも、あたらず、もしいはひ歌をいれば、恋歌かなしびの歌などをも、いれずはあるべからず、そもそも此古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、たゞもろこしにて、上代の詩の事をいへるを、そのまゝにとりて書ること多くして、歌にはさらにかなはぬことがちなる中に、此六義は、殊にあたらぬことにしあれば、深く心をいれて、とかく論ふは、やくなきいたづらごと也、もろこしにて、詩のうへの六義だに、さまざま説有て、さだめがたきことなるに、いはむや歌にうつしあてては、いかでかよくかなふやうのあらむ、いはゆる古注に、おほよそむくさにわかれむことは、えあるまじきことになむといへるぞ、よくあたれる論ヒには有ける。此ノ一ト言にて、六義の論はつきたるべし、
133 物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事[七八五]
ものまなびに心ざしたらむには、まづ師をよくえらびて、その立たるやう、教ヘのさまを、よくかむかへて、したか゛ひそむべきわざ也、さとりにぶき人は、さらにもいはず、もとより智とき人といへども、大かたはじめにしたがひそめたるかたに、おのづから心はひかるゝわざにて、その道のすぢわろけれど、わろきことをえさとらず、又後にはさとりながらも、としごろのならひは、さすがにすてがたきわざなるに、我とかいふ禍神さへ立そて、とにかくにしひごとして、なほそのすぢをたすけむとするほどに、終によき事はえ物せで、よのかぎりひがごとのみして、身ををふるたぐひなど、世におほし、かゝるたぐひの人は、つとめて深くまなべば、まなぶまにまに、いよいよわろきことのみさかりになりて、おのれまどへるのみならず、世の人をさへにまどはすことぞかし、かへすかえすはじめより、師をよくえらぶべきわざになむ、此事は、うひやまぶみにいふべかりしを、もらしてければ、こゝにはいふ也、
134 八景といふ事[七八六]
世に八景といふことの、こゝにもかしこにも多かるは、もともろこしの国の、なにがしの八景といいふをならひて、さだめたる、近江八景ぞはじめなめるを又それにならひてなりけり、さるはむげに見どころもなきところをさへに、しひて入れなどしたるがおほかるは、いかにぞや、まことにその景を賞とならば、けしきよきかぎりをとりてこそ、さだむべけれ、その数にはさらにかゝはるまじく、いくつにても有べきに、数をかたく守りて、かならず八にとゝのへむとしたるこそ、こちなくおぼゆれ、
135 よはひの賀に歌を多く集むる事 なき跡にいしぶみをたつる事[七八七]
よはひの賀に、やまともろこしくさぐさの歌を、ひろくこひももとめて集むる事、今の世に、人のおほくすることなり、みやびわざとはいへど、さる心もなきものの、みだりにふくつけく物して、たゞ数おほくあつまれるを、たけきことにすなるは、中々にこちなくぞおぼゆる、又さしもあるまじききはの人の、墓にもこと所にも、ことごとしきいしぶみをたつることも、今の世にはいと多かる、これはたあまりたぐひおほくて、めづらしげなく、中々にこゝろおとりせられて、うるさくさへこそおぼゆれ、
136 金銀ほしからぬかほする事[七八八]
金銀ほしからずといふは、例の漢やうの偽にぞ有ける、学問する人など、好書をせちに得まほしがる物から、金銀はほしからぬかほするにて、そのいつはりはあらはなるをや、いまの世よろづの物、金銀をだに出せば、心にまかせてえらるゝものを好書ほしからむには、などか金銀ほしからざらむ、燃はあれども、はゞかることなくむさぼる世のならひにくらぶれば偽ながらも、さるたぐひは、なほはるかにまさりてぞ有べき、
137 雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること[八〇二]
もろこしの国に、むかし孫康といひける人は、いたくがくもんを好みけるに、家まずしくて、油をえかはざりければ、夜は、雪のひかりにて、ふみをよみ、又同じ国に、車胤といひし人も、いたく書よむ事をこのみけるを、これも同じやうにいと貧くて、油をええざりければ、夏のころは、蛍を多くあつめてなむよみける、此二つの故事は、いといと名高くして、しらぬ人なく、歌にさへなむおほくよむことなりける、今思ふに、これらもかの国人の、例の名をむさぼりたる、つくりことにぞ有ける、其故は、もし油をええずは、よるよるは、ちかどなりなどの家にものして、そのともし火の光をこひかりても、書はよむべし、たとひそのあかり心にまかせず、はつはつなりとも、雪蛍には、こよなくまさりたるべし、又年のうちに、雪蛍のあるは、しばしのほどなるに、それがなきほどは、夜ルは書よまでありけるにや、いとおかし、  
玉かつま十三の巻 / おもひ草 十三

 

末ひろくしげるけりかな思ひ草 を花が本は一もとにして
かくよめるこゝろは、恋の歌につねに、尾花がもとの思ひ草とよむなるは、そのはじめを尋ぬれば、万葉集の十の巻に、「道のべのをばなが本の思草、今さらに何物か思はむ、といへる歌たゞ一ツあるのみにて、これをおきては見えぬ事なるを、此一本によりてなむ、後にはひろくよむこととなれるよしをよめるにぞ有ける、そもそも此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを、一とせ尾張の名古屋の、田中ノ道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思ひ草といひて、すゝきの中に生る、小き草なむあるを高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし、此草薄の中ならでは、ほかには生ず、花のはしつかたなる所の中に、黒大豆ばかりの大キさる実のあるを、とりてまけば、よく生る也、されどそれも、薄の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古ヘの思ひ草も、これにやあらむ、されどすゝきの中にのみ生るから、近き世に事好むものの、おしてそれと名づけたるにもあらむかといひて、其草のカタをも書て、見せにおこせたる、そのかたは、かくぞ有ける、其後に又あるとき、花の咲たるころ、一もとほりて、薄のきりくひごめに、竹の筒の中にうゑて、たゞに其草をも、見せにおこせたるを、うつしうゑて見けるに、しばしは生つきたるさまにて有しを、ほどなく冬枯にける、又のとしの春、もえや出ると、まちけるに、つひにかれて、薄ながらに芽も出ずなりにきかし、さるは後にたづね見れば、此わたりの野山なる、すゝきの中にも、ある草にぞ有ける、これ古の思草ならむことはしも、げにいとおほつかなくなむ、
138 しづかなる山林をすみよしといふ事[八五〇]
世々の物しり人、又今の世に学問する人などもみな、すみかは、里とほくしづかなる山林を、住よくこのましくするさまにのみいふなるを、われはいかなるにか、さらにさはおぼえず、たゞ人げしげくにぎはゝしきところの、好ましくて、さる世ばなれたるところなどは、さびしくて、心もしをるゝやうにぞおぼゆる、さるはまれまれにものして、一夜たびねしたるなどこそは、めづらかなるかたに、おかしくもおぼゆれ、さる所に、つねにすままほしくは、さらにおぼえずなむ、人の心はさまざまなれば、人うとくしづかならむところを、すみよくおぼえむもさることにて、まことにさ思はむ人も、よには多かりぬべけれど、又例のつくりことの、漢ぶりの人まねに、さいひなして、なべての世の人の心と、ことなるさまに、もてなすたぐひも、中には有ぬべくや、かく疑はるゝも、おのが俗情のならひにこそ、
139 おのが京のやどりの事[八五一]
のりなが、享和のはじめのとし、京にのぼりて在しほど、やどれりしところは、四條大路の南づらの、烏丸のひむかしなる所にぞ有けるを、家はやゝおくまりてなむ有けれど朝のほど夕ぐれなどには、門に立出つゝ見るに、道もひろくはればれしきに、ゆきかふ人しげく、いとにぎはゝしきは、ゐなかに住なれたるめうつし、こよなくて、めさむるこゝちなむしける、京といへど、なべてはかくしもあらぬを、此四條大路などは、ことににぎはゝしくなむありける、天の下三ところの大都の中に、江戸大坂は、あまり人のゆきゝぬ多く、らうがはしきを、よきほどのにぎはひにて、よろづの社々寺々など、古のよしあるおほく、思ひなしたふとく、すべて物きよらに、よろづの事みやびたるなど、天ノ下に、すままほしき里は、さはいへど京をおきて、外にはなかりけり、
140 しちすつの濁音の事[九〇一]
土佐ノ国の人の言には、しとちと、すとつとのにごり声、おのづからよく分れて、混ふことなし、さればわづかにいろはもじをかくほどの童といへども、此仮字をば、書キ誤ることなしと、かの国人かたれり、  
玉かつま十四の巻 / つらつら椿 十四

 

萬葉集の一の巻に、巨勢山のつらつら椿つらつらに、といふ歌をおもひ出て、われもよめるは、
世中をつらつらつばきつらつらに 思へばおもふことぞおほかる
さるはわがみのうへのうれへにもあらず、なべての世のたゝずまひ、人のありさまの、よきあしきことにつけて、おふけなく思ふすぢの、心にこめがたきは、おりおり此巻々にも、もらせるふしもおほかれど、猶いひてもいひても、つきすべくもあらずなむ、
141 一言一行によりてひとのよしあしきをさだむる事[九三五]
人のたゞ一言(ヒトコト)たゞ一行(ヒトワザ)によりて、其人のすべての善(ヨ)き悪きを、定めいふは、から書のつねなれども、これいとあたらぬこと也すべてよきひとといへども、まれにはことわりにかなはぬしわざも、まじらざるにあらず、あしき人といへども、よきしわざみまじるものにて、生(イケ)るかぎりのしわざ、ことごとに善き悪き一かたにさだまれる人は、をさをさなきものなるを、いかでかはたゞ一言一行によりては定むべき、
142 今の世の名の事[九三六]
近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し、又すべて名の訓は、よのつねならぬがおほきうちに、近きころの名には、ことにあやしき字、あやしき訓有て、いかにともよみがたきぞ多く見ゆる、すべて名は、いかにもやすらかなるもじの、訓のよくしられたるこそよけれ、これに名といふは、いはゆる名乗実名也、某(ナニ)右衛門某(ナニ)兵衛のたぐひの名のことにあらず、さてまた其人の性(シヤウ)といふ物にあはせて、名をつくるは、いふにもたらぬ、愚なるならひ也、すべて人に、火性水性など、性といふことは、さらなきことなり、又名のもじの、反切といふことをえらぶも、いと愚也、反切といふものは、たゞ字の音をさとさむ料にこそあれ、いかでかは人の名、これにあづからむ、
143 絵の事[九五二]
人の像を写すことは、つとめてその人の形に似むことを要す、面やうはさらにもいはず、そのなりすがた衣服のさまにいたるまで、よく似たらむと心すべし、されば人の像は、つとめてくはしくこまかにうつすべきことなり、然るに今の世には、人の像を写すとても、ただおのが筆のいきおひを見せんとし、絵のさまを雅にせむとするほどに、まことの形にはさらに似ず、又真の形に似むことをば要せず、ただ筆の勢ひを見せ、絵のさまを雅にせんとすることをむねとするから、すべてことそぎてくはしからず、さらさらとかくゆに、面やうなど、その人に似ざるのみならず、甚いやしき賎やまがつのかほやうにて、さらに君子有徳の人のかほつきにあらず、これいとにくむべきことなり、
144 又[九五三]
古人の像をかくには、その面やういかにありけむ知がたければ、たゞその人の位にかなへ、徳にかなへて、位たかき人のかたは、面ようすべてのさまけたかく、まことにたかき人と見ゆるように書クべく、徳ありし人は、又その徳にかなへてかくべし、然るに後の絵師、この意を思はず、たゞおのが筆の勢ひを見せむとのみするほどに、位たかき人、徳ある人も、ただしず山がつの如く、愚味なる人の如くかきなせり、
145 又[九五四]
かほよき女のかたちをかくとても、例のたゞおのが筆のいきほいおのみをのみむねとしてかくほどに、そのかほ見にくやかなり、あまりなまめかしくかほよくかけば、絵のさまいやしくなるといふめれど、そはおのが絵のつたなきなり、かほよくてゑのさまいやしからぬやうにこそ書べけれ、己が絵がらのいやしくなるをいとひて、かほよき人を見にくゝかくべきいはれなし、美女のかほは、いかにもいかにもかほよくかくべきなり、みにくやかなるはいといと心づきなし、但し今の世に、江戸絵といふゑなどは、しひてあながちにかほよくせんとするほどに、ゑのさまのいやしき事はさらにもいはず、中々にかほ見にくゝ見えて、いとつたなきことおほし、
146 又[九五五]
世に武者絵といひて、たけき人の戦ひのさまをかく、其かほやう人とも見えず、目丸く大きに、鼻いかり口大きにて、すべて鬼のごとし、いかにたけきさまを見せむとすればとて、人にもあらず、しか鬼のやうには書べきわざかは、ただおだやかに人と見えて、しかもたけきいきほひあるさまにこそかくべけれ、或から書に、皇國の絵の事をいへるに、その人夜叉羅刹の如しといへり、思ふにこの鬼の如くかける武者絵を見ていへるなるべし、されどかの國人は皇國人のさまおば見しらねば、さいへる書をよみては、日本人のかほはすべてみな、鬼の如くなる物とぞ心得らむ、すべての事、皇國人は、もろこしの事は、から國のもろもろの書をよむゆゑに、よくしれるを、もろこし人は、皇國の書をよむことなければ、皇國の事はしらず、まれまれには、かに國の書の中にいへることあれば、それを定(デウ)として心得ることぞかし、皇國の人物の絵も、異國の人の見ては、それをでうとすることなれば、かの位高き人のかほを山がつのごとくいやしく書キなし、かほよき女のかほを見にくゝかきなせるなどを、異國人の見たらむには、日本人の形いやしく女もみな見にくきことぞとぞ心得べき、こは異國人のみにもあらず、同じ皇國人にても、しらぬ昔の人のかほは、絵にかけるを一度見れば、おのづからそのおもかげを、その人のかほと思はるゝ物ぞかし、
147 また[九五六]
おのれ、絵のことはさらにしらねば、とかくいふべきにあらざるに似たれども、よろずのことおのがよきあしきはえしらで、かたはらよりはよく見ゆるものなり、もろもろの藝などもそのでうにて、その道の人は、なかなかにえしらで、かへりて他よりよきあしきさまのよく見ゆることあり、絵もさる心ばへあれば、今おのが思ふすぢをいふなり、まづやまともろこしの古より、代々の絵の事は、あまたも見あつめず、くはしくしらねば、さしおきて、たゞ今の世につねに見およぶところをもていはん、そはまづ、墨絵、うすざいしき、ごくざいしきなど、さまざまある中に、墨絵といふは、たゞ墨をべたべたと書て、筆数すくなく、よろづをことそぎて、かろがろとかきて、その物と見ゆる、こはたゞ筆の力いきほひを見せたる物なれば、至りて上手のかけるは、げにかうも書べしとおぼえて、見どころあるもあれど、おしなべての絵師のかけるは、見どころなく心づきなきものなり、さるを世の人、たゞ此墨絵をことにいみしきことにしてめづるは、世のならひにしたがふ心にて、まことにはみどころなきものなり、近き世に茶の湯といふわざを好むともがらなど、殊に此墨絵をのみめでて、さいしき絵はすべてとらず、これもその人々、まことにしか思ひとれるにはあらず、たゞその道の祖のさだめおきつる心ばへを守りて、しかるなり、すべて此茶の湯にめづる筋は、絵も、書も、さらに見どころなくおかしからなるを、かたくまもりてたふとむは、いといとかたくななることなり、さてうすざいしきは、なつかしくやはらびておかし、ごくさいしきいといふにいたりては、物によりてめでたきもあり、又まれにはあまりこちたく見えてうるさき所もあるなり、水を紺青といふ物にしてかけるたぐひ、ことにこちたし、さて絵の流、さまざまある中に、むかしよりこれを業とたてたる家々あり、大かた此家々の絵は、その家々の伝ありて、法をのみ重くまもりて、必しもその物のまこともさまをばとはず、此家といふすぢの絵に、よきことありあしきことあり、まずかの位たかき人のかほのいやしげに見え、美女のかほふくらかにて見にくきなど、いといとこゝろづきなし、又人の衣服のきは、折目などの筋を、いとふとくかけるもかたはなり、これみな、筆の力を見せむとするしわざなり、もろこしの松をかくに、一種から松といひて、必ことなる松をかくは、思ふにむかしかの國人のかける絵に、さるさまの松ありけむをならひつたへたるならむ、これから國にさやうのまつの、一種あるにはあらず、たゞ世のつねの松なるを、かきさまのつづきなきは、つたなくかける墨絵、このからまつ、人物の衣の折目の筋ふとき、さてはだるま、布袋、福禄寿などいふもののかた、すべて是ら、一目見るもうるさく、二度と見やらんとおぼえずなん、大かた旧き定めをばまもるは、いとよきことなれども、そは事により、物にこそよるべけれ、絵などは必しも然るべからず、他のよきを見て、うつることあたはざるはいとかたくななり、されど又、家の法といふ中に、いといとよろしく、まことに、屋上を去て内を見する事、雲をへだてて遠近をわかつこと、さるべきことにて、その法にはずれては、いとあやしきこともおほくして、今時のこゝろにまかせれかきちらすゑどもの、及びがたき事もおほかりかし、又今の世に、もろこしのふりとてまねびたるさまざまあり、その大かたは、まづ何をかくにも、まことの物のやうをよく見てまねびかく、これを生(シヤウ)うつしとかいふ、こはまことによろしかるべくおぼゆることなり、しかれども、まことの物と絵とはことなることもありて、まことのあるまゝにかきては、かへりて其物に似ずして、あしきこともある物なり、故にかの家々には法ありて、かならずしもその物のまことのまゝにはかゝはらぬ事あるなり、こは法のいみしくしてすてがたき物なり、まづ山水といふ絵、すべてこゝの家々の絵よろし、もろこそやうはいといとわろくこちなく見ぐるしきことおほし、これその法によらずして、心にまかせてかくゆゑなり、あるひは道あるまじき所に道をかき、橋あるまじき所に橋をかき、その外いはほ草木など、かきてわろき所にかき、おほくてよき所にはすくなく、おほくてわろきところにおほくかくたぐひ、すべてもののかきどころわろく、草木岩根のたゝずまひ、さかしきみねのさまなど、つたなく見ぐるしきこと、大かたこれらは上手の絵の中にも此なむはあるなり、かの家々のはかゝることもみな法ありてかくゆゑにつたなからず、又から絵に舟をかくに斜めにかくことおほきもいたくわろし、大かた船のゆくゆくことはなゝめにみゆることつねにあれども、ゑにかきてはわろきなり、なゝめによらず、たゞまことの物のまゝにかくゆゑの失なり、又鳥虫をかくにこまかにくはしくはあれども、飛動くさまの勢ひなきがおほし、草木をかくに葉も茎も地との際の筋をかゝず、これわろし、是また際の筋は実はなき物なればじつによれるなれども、絵にかくときはすじなくてはあざやかにわかれず、すべてよろずの物、その実の物は、何もなき所が地にて、何もなき所は色なき物なるを、絵は白きが地にして、何もなき所が白し、その白き所へかくことなれば、実の何もなき空の地とは異なれば、きはの筋なきことあたはず、から絵に此筋のなきは此わきまへをしらざるなり、人の面をかくにはから絵といへども、地とのきはの筋をかゝざる事を得ず、又から絵は、木の枝ざし、草花のもとだち、葉のあり所など、法なきが如くにて、心にまかせてかくゆゑに、とりしまりなし、家の画はみな法ありとおぼしくて、とりしまりよくつたなきことなし、大かたこれらなべての唐画のつたなき所なり、しかれども唐絵は、鳥獣蟲魚草木など、すべて此方の家の画とくらぶれば、甚くはしここまかにかくゆゑに、じょうずのかけるはまことに、上手のかけるはまことに眞のその物のごとく見ゆるを、此方の家々の絵は、獣の毛のさま、草木の花のしべ、葉のあやなど、すべてあらくかける故に、くらべて見ればからゑにけおさるゝ事おほし、こは広き家の屏風壁などの絵は、やゝ遠く見ゆる物なる故に、あまりこまかにくはしくかけるは詮なく、中々によろしからざる事として、さらさらと書るをよしとするなるべけれど、猶こまかにくはしき唐画の方ぞまさりて見ゆる、大かた此家々の画と、唐絵とたがひにえたる所、得ぬ所ありて、勝劣をいひがたき事上件の如し、又ちかきころは、家の法にも菜づ先ず、唐絵のかきざまにもかたよらず、たゞおのが心もて、いづかたにまれよしとおぼゆるところをとりてかくたぐひも多き、そのすぢはよきをえらびわろきをすてて画ゆゑに、いづれもいみしきなんはをさをさ見えざるなり、
148 漢ふみにしるせる事みだりに信ずまじき事[九五七]
世の学者、ことの疑はしきを、から画にしかしか見えたりといへば、疑はず信ずるはいとをこなり、すべて漢籍、うきたる事、ひがこと、そら言いと多し、その言よきにまどひて、みだりに信ずべきにあらず、
149 世の中の萬の事は皆神の御しわざなる事[九五九]
世の中のよろづのことはみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなることをえしらずして、己がおしはかりの理を以ていふはいとをこなり、いかにともしられぬ事を理を以てとかくいふは、から人のくせなり、そのいふところの理は、いかさまにもいへばいはるゝ物ぞ、かれいにしへのから人のいひおける理、後世にいたりてひがことなることのあらはれたる事おほし、またつひに理のはかりがたきことにあへば、これを天といひてのがるゝ、みな神ある事をしらざるゆゑなり、
150 聖人を尊む事[九六〇]
世々のもろこし人おしなべて、かの國の聖人といふ物を尊み信ずる中には、実に尊みしんずるひともあるべく、又こゝろにはいかにぞや思ふことあれども、聖人にたがひては世の人のそしりてうけぬことなるによりて、尊み信ずるかほして、世にしたがへるもありげに見ゆるなり、又もろもろの聖人どものなかに、孔子は、かの國の王にあらず、もはらその道の人なるがゆゑに、あるが中に此人をばことに尊み信ずめるは、これつとめてこれをほめたてて、その道を張むとするなり、
151 ト筮[九六一]
もろこしの國とても、いと上代には、後世のごとく、萬の事、己がおしはかりの理を以て定むる事は、さしもあらざりしこと、ト筮といふ物あるをもてしるべし、ト筮は己が心にさだめがたき事を、神にこひてその教えをうけて定むるわざなり、ト筮にいづるは、かみのをしへなり、然るを後世のごとく、己がこころをもて、物の理をはかりて、さだむることは、大かた周公旦といふさかしら人より、盛んにその風になれるなり、
152 から人の語かしこくいひとれること[九六三]
むかしより、世々に、もろこしひとのいへる、名たかき語どもをおもふに、たゞかしこく物にたとへもし、又たゞにても、おかしくいひとれるのみにこそあれ、そのこゝろは、学文もせぬつねの人も、心かしこきは、大かたみなもとよりよく心得たる事にて、さしもこゝろに及ばずめづらしき事はなし、されどよくいひとれるがかしこさに、げにさこそはあれと、みな人は感ずるなり、
153 論語[九六四]
論語の雍也篇の朱注に、仲弓蓋シ未喩夫子可字可字之意云々といへり、朱熹、つねに格物致知を教ふ、しかるに仲弓は孔丘が高弟なるに、いまだ可の字の意をだに喩らぬは、いかでか致知えを得む、孔丘が高弟すら、かくに如くならむには、常人はいかでかこれを得ん、大かた朱学の牽強付会みなかくの如し、
154 又[九六七]
同書に子曰、孰レカ謂微生高ヲ直シト、或乞ヘルニ醯ヲ焉、乞テ諸其隣ニ而与フ之ヲとあり、聖人の教えの刻酷なることかくの如し、これらはたゞいさゝかの事にて、さしも不直といふべきほどの事にあらず、かほどの事さえ、不直といひてとがむるは、あまりのことなり、又たとひ此事は、実に不直にもせよ、いさゝかなる此一事によりてその人を不直なりと定むるも、いといとあたらぬ事なり、すべてよき人にもあやまちわろき事はあるものなり、あしき人にもよき事もあるものなるを、たゞ一事の善悪によりて、その人のよしあしを定むるは、聖人の道のくせにて、ひがことなり、
155 又[九六八]
同書に、厩焚タリ、子退テ朝ヨリ曰、傷人乎、不問馬ヲ、これ甚いかがなり、すべての人の家の焚んにも、人はさしもやかるゝ物にあらず、馬はよくやかるゝものなり、まして馬屋のやけんには、ひとはあやふきことなし、うまこそいとあやふけれ、されば馬をこそ問ふべけれ、これ人情なり、しかるにまづ人をとふらいかゞなるに、馬をとはざるはいと心なき人なり、但し人をとへるはさることなれば記しもすべきを、うまをとはぬが何のよきことがある、是まなびの子どもの、孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし、
156 はやる[九六九]
時ありて世に盛にものすることを、俗言にはやるといふ、疫病のはやる、医師のはやるなど、よろづの物にも、事にもいへり、この言中昔の書にも見えて、抄出しおきたり、それは今時にいふとはいさゝか心ばへかはりて聞ゆ、其人のはやり給ひし時とあり、これはたゞ時にあひて栄え給ひし時といふことなり、今医師などのはやるといふは、その産業の盛に用ひらるゝをいふを、かれはたゞその身の栄えをいへるなり、
157 人のうまれつきさまざまある事[九七一]
人のうまれつきさまざまあるものなり、物の義理、事の利害など、すべて萬の事を、心にはよく思ひわきまへながら、口にはえいはぬ人もあり、また口にはよくいへども、しか行ふ事はえせぬひともあり、又口には得いはねども、よく行ふ人もあり、又口にはよくいへども、ふみには得かきいでぬひとあり、又口にはえいはねども、文にはよく書いづるひともあるなり、
158 紙の用[九七二]
紙の用、物をかく外にいと多し、まづ物をつゝむこと、拭ふこと、また箱籠のたぐひに張て器となす事、又かうより、かんでうよりといふ物にして、物を結ふことなどなり、これらのほかにも猶ことにふれて多かるべし、しかるにもろこしの紙はたゞ物かくにのみ宣しくて、件の事どもにはいといと不便にぞありける、かくて皇國には國々より出る紙の品いといと多くて、厚きうすき、強(コハ)きやはらかなる、さまざまあげもつくしがたけれど、物かくにはなほ唐の紙に及(シク)ものなし、人はいかゞおぼゆらむしらず、我はしかおぼゆるなり、
159 古より後世のまされる事[九七三]
古よりも、後世のまされること、萬の物にも、事にもおほし、其一つをいはむに、いにしへは、橘をならびなき物にしてめでつるを、近き世には、みかんといふ物ありて、此みかんにくらぶれば、橘は数にもあらずおされたり、その外かうじ、ゆ、くねんぼ、だいだいなどの、たぐひおほき中に、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘によく似てこよなくまされる物なり、此一つにておしはかるべし、或は古にはなくて、今はある物もおほく、いにしへはわろくて、今のはよきたぐひ多し、こりをもておもへば、今より後も又いかにあらむ、今に勝れる物おほく出来べし、今の心にて思へば、古はよろづに事たらずあかぬ事おほかりけむ、されどその世には、さはおぼえずやありけん、今より後なた、物の多くよきがいでこん世には、今をもしか思ふべけど、今の人、事たらずとおぼえぬが如し、
160 名所[九七五]
歌枕の國郡を論ずるに、ふるき歌によめるをよく考へて、その國郡を定むべし、後世の歌は、たゞ歌の趣意により来れる所をよむ故に、その国所をばしらずそらによめる故に、後世の歌はさらに據とするにたらず、題詠のみならず、後世の歌は、その所にいたりてよめるも取がたきことあり、いかにといふに、ふるき歌枕を、中昔の書に某国にありと注せるには、いみしく誤れる事のみ多きを、後の人、その誤れる注によりて、その國に其名所をつくりかまへて、或は萬葉によめる某山はこれなりなどいふたぐひおほきを、それも年を経ればその名のひろまりて、もとよりその所の如くなれるを、他国の歌人そこにいたりて、その名をきゝてよめるたぐひおほければなり、
161 教誡[九八〇]
もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいへるは、いといとうるさし、人は教によりてよくなるものにあらず、みとより教をまつものにはあらぬを、あまりこちたくいましめ教るから、中々に姦曲詐偽のみまさる事をしらず、周公旦、あまりにこちたく定めたるゆゑに、周の末の乱をおこせり、戦国のころのひとの邪智ふかきは、みな周公がをしへたることなり、皇国の古書には、露ばかりもをしへがましき事見えず、此けじめをよく考ふべし、教誡の厳なるをよきことと心得たるは愚なり、
162 孟子[九八一]
孟子に、不孝ニ有三、無ヲ後為大ナリトといへり、然る時は、後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ、しかるを、儒者の富貴を願はざるは、たゞおのが身を潔くせむとして、親を思はざるなり、これ又不孝といふべし、
163 如是我聞[九八三]
もろもろの佛經のはじめに、如是我聞といへること、さまざま故ある事のごといひなせれども、末々の文にかなはず、はじめにかくいへるは、いずれにしてもひがことにて、つたなきことなり、又如是我聞とこそいふべけれ、言のついでも、いとつたなし、これらのこと、天竺のなべてのならひにもあるべけれど、なほ翻訳者も拙し、すべて漢学びする人の、手をかけるにも、詩文を作れるにも、和習々々と、つねにいふことなるを、佛書の文には、又天竺習の多きなり、
164 佛道[九八五]
佛道は、たゞ悟と迷ひとをわきまへて、その悟を得るのみにして、その余の事はみな枝葉のみなり、かくてその悟といふ物、また無用の空論にして、露も世に益ある事なし、しかるを、世の人、その枝葉の方便にまどへるは、いかなる愚なる心ぞや、
165 世の人まことのみちにこゝろつかざる事[九八六]
もろこしの國には、道教といふもの、世々に盛に行はれて、大かた佛道とひとしきばかりなり、此道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、たゞあやしきたはふれわざのやうなることにて、そのむねをきはむれば、やうなきいたづらぎとなり、皇國に、此道のわたりまうでこざるは幸ひなり、しかはあれども、天ノ下の人の心、佛道と儒道とに、ことごとく奪はれてたるは、又なげかしき事なり、大かた天下の人、上中下、さかしき愚なる、おしなべて、奥山の山賤(ヤマガツ)までも、佛を信ぜざるは一人もなく、その中に、まれまれさすがに己が家の業と思ひ得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは佛意儒意なり、又神の道といふも、皆儒佛によりて設キまげたる物なれば、まことのみちは、大かた絶はてたるも同じなり、天ノ下大かた、件の如くなれば、たゞ何國も何國も、佛寺のみ栄えて、神社はいたく衰へmして、その衰へをうれふる人もなく、神はたゞ、病その外の祈りことのみに用ひられて、此道もたゞ、世ノ中の無用の物のごとく、たゞいにしへより有来れる事として、ひたふるに廃られぬといふのみなり、此道は、これ天下を治め、國を治め、先務要道なることをしれる人は、われいまだ、夢にも見きかず、いともいともかなしき事ならずや、
166 宋の代 明の代[九八七]
もろこしの國、宋の代にいたりては、よろづの事理屈三昧にして、國政につけても、何につけても、無用の空論のみなり、明の代の人は、又見識ひらけて、宋の理屈のわろき事をしり、又古より世々の物しり人の説の、誤り、心もつかざりしことなどをも、見つけたる人多きは、めずらしき事なり、されどつひにまことの道をばしる人なくして、その代終りぬるは、神の御國にあらざるがゆえなり、
167 天[九九〇]
から人の、何につけても天天といふは、神あることをしらざる故のひがごとなり、天は、たゞ神のまします國にこそあれ、心も、行ひも、道も、何も、ある物にはあらず、いはゆる天命、天道などといふは、みな神のなし賜ふことにこそあれ、又天地は、萬物を生育するものと思ふもひがごとなり、萬物の生育するも、みな神の御しわざなり、天地は、たゞ、神のこれを生育し給ふ場所のみなり、天地のこれを生育するにはあらず、から人の云く、天聖人に命じて、暴を征伐して、民を安ジせしむといへり、しからば、天のしわざは、正しき物にして、ひがことはなき物と聞えたるに、世ノ中には、理にたがひたる事の多きはいかに、その理にたがひたることあれども、たゞ天の命なればせんかたなしとのみいひて、その天のひがことするをば、とがめざるはいとをかい、天もひがことするならば、かの聖人に命じて、君を亡して、天下をとらせたるも、店のひがことといふべし、
168 國を治むるかたの学問[九九一]
國を治むる人の、がくもんし給はんとならば、をさまれる世には、宋学のかた、ものどほけれど、全てそこなひなし、近き世の古文辞家の学問は、ようせずは、いみしきあやまちを引いづべし、さて乱れたる世には、しばらく、もろもろの書はさしおきて、たゞ近昔の戦を記したる、軍書といふものをつねによく読べし、その世の人々の、よしあしさ、かしこきおろかなる、こゝろしわざ、たゝかひのしやうなどを、よくよく考ふべし、
169 漢籍の説と皇の古伝説とのたとへ[九九五]
漢ぶみの説は、まのあたり近き山を見るがごとく、皇國の上代の伝説は、十里廿里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし、漢ぶみの説は、人情にかなひて、みな尤と思はるゝ事なり、皇國の上代神代などの故事は何の味もなく、たゞ浅はかに聞ゆるは、凡人の思ひはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆゑ、その理の聞えず、たゞ浅はかに聞ゆるなり、これかのとほき山は、たゞほかに山と見ゆるのみにて、その景色も何もみえず、見どころなきが如し、これ景色なきにあらず、人の目力の及ばぬ故なり、又漢籍の理ふかく尤に聞ゆるは、ひとのいへる説にて、人の情に近きなり、是かの近き山は、けしきよく見えわかれて、おもしろき見所あるがごとし、
170 米粒を佛法ぼさつなどいひならへる事[九九九]
穀物をおろそかにすまじきよしをいふ時に、米粒などを、佛法といひ、東國にては、菩薩といふ、これ大切にして、おろそかにすまじきよしなれば、然いふ心はいとありがたけれども、佛菩薩より尊き物はなしと心得たる心よりしかいふなれば、言はいとひがことなり、神とこそいふべけれ、まことに穀はうへもなき尊きものなれば、神とも神と申すべきものなり、
171 世の人のこざかしきこといふをよしとする事[一〇〇〇]
世の中のこざかしき人は、いはゆる道歌のさまなる俗歌をよみて、さとりがましき事をよくいふものなり、或は身こそやすけれなどいひて、わが心のさとりにて身のやすきよしをよむこと、みな儒佛にへつらひたる偽ごとなり、まことには、わが身を安しとして、足事をしれるものはなきものなり、たとへば人の齢など、七十に及ぶは、まことにまれなる事なれば、七十までも長らへては、はやく足れりと思ふべきことなれども、人みな猶たれりとは思はず、末のみじかき事をのみ歎きて、九十までも、百歳までも生(イカ)まほしくしふぞ、まことの情なりける、
172 假字[一〇〇一]
皇國の言を、古書どもに、漢文ざまにかけるは、假字といふものなくして、せむかたなく止事を得ざる故なり、今はかなといふ物ありて、自由にかゝるゝに、それを捨てて、不自由なる漢文をもて、かゝむとするは、いかなるひがこゝろえぞや、
173 から國の詞つかひ[一〇〇二]
皇國の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり、たとへば罕言といふこと、皇國言にては、まれにいふといふと、いふことまれなりといふと、心ばへ異なり、まれにいふは、言(イフ)といふこと主となりて、罕ながらもいふことのあることなり、いふことまれなりは、罕といふこと主となりて、いふことのまれなるなり、他の言も此たぐひ多し、すべてのことみなかくの如し、
174 佛經の文[一〇〇三]
すべての佛經は、文のいとつたなきものなり、一つに短くいひとらるゝ事を、くだくだしく同じことを長々おいへるなど、天竺國の物いひにてもあるべけれど、いとわづらはしうつたなし、
175 神のめぐみ[一〇〇四]
上は位たかく、一國一郡をもしりて、多くの人をしたがへ、世の人にうやまはれ、萬ゆたかにたのしくてすぐし、下はうゑず食ひ、さむからず着、やすく家(ヲ)る、これらみな、君のめぐみ、先祖のめぐみ、父母のめぐみなることはさるものにて、その本をたづぬれば、件の事どもよりはじめ、世にありとあるもろもろのこと、みなかみのみたまにあらずといふことなし、しかれば、世にあらむ人、神を尊まではわえあらぬ事なるを、平日(ツネ)になりぬることは、さしも心にとめず、忘れをるならひにて、君のめぐみ、先祖のめぐみをもさしもおもはず、もとより神の御たまなることは、みなわすれはてて、思ひもやらぬは、いといとかしこくあるまじき事なり、一日も、食物なくはいかにせむ、衣物なくはいかにせむ、これを思はば、君のめぐみ、先祖父母のめぐみをつねにわするべきにあらず、しかるを世の人、さることをばしらずおもはず、神をばたゞよそげに思ひ奉りて、たまたまさしあたりて祈る事などかなはねば、その神をうらみ奉りなどするは、いといとかたじけなきことなり、生れいづるより死ぬるまで、神の恵の中に居ながら、いさゝか心にかなはぬ事ありとても、これをうらみ奉るべきことかは、又祈ることきゝ給はねば、神は尊みてやくなき物のごと思ひなどするは、いかにぞや、かへすかえすも萬の事、ことごとく神のみたまなることを、平日(ツネ)にわするゝ事なくは、おのづからかみのたふとまではかなはぬ事を知べし、たとへば百両の金ほしき時に、秘との九十九両あたへて、一両たらざるが如し、そのあたへる人をば悦ぶべきか、恨むべきか、祈ることかなはねばとて、神をえうなき物にうらみ奉るは、九十九両あたへたらむ人を、えうなきものに思ひてうらむるがごとし、九十九両のめぐみを忘れて、今一両あたへざるをうらむるはいかに、
176 道[一〇〇五]
神の道は、世にすぐれたるまことの道なり、みな人しらではかなはぬ皇國のみちなるに、わづかに糸筋ばかりよにのこりて、たゞまことならぬ、他の國の道々のみはびこれるは、いかなることにか、まがつひの神の御こゝろは、すべなき物なりけり、
 
「うひ山ぶみ」

 

寛政10年(1798)成立。国学の入門書として、研究の心構えや態度を平明に説いたもの。
  
<イ>世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一トようならず、そのしなじなをいはば、まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶ有リ、これを神学といひ、其人を神道者といふ、又官職儀式律令などを、むねとして学ぶあり、又もろもろの故実、装束調度などの事を、むねと学ぶあり、これらを有識の学といふ、又上は六国史其外の古書をはじめ、後世の書共まで、いづれのすぢによるともなくて、まなぶもあり、此すぢの中にも、猶分ていはば、しなじな有べし、又歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり、大かた件のしなじな有て、おのおの好むすぢによりてまなぶに、又おのおのその学びやうの法も、教ふる師の心々、まなぶ人の心々にて、さまざまあり、かくて学問に心ざして、入そむる人、はじめより、みづから思ひよれるすぢありて、その学びやうも、みづからはからふも有ルを、又さやうにとり分てそれと思ひよれるすぢもなく、まなびやうも、みづから思ひとれるかたなきは、物しり人につきて、いづれのすぢに入てかよからん、又うひ学ビの輩のまなびやうは、いづれの書よりまづ見るべきぞなど、問ヒ求むる、これつねの事なるが、まことに然あるべきことにて、その学のしなを正(タダ)し、まなびやうの法をも正して、ゆくさきよこさまなるあしき方に落チざるやう、又其業のはやく成るべきやう、すべて功多かるべきやうを、はじめよりよくしたゝめて、入らまほしきわざ也、同じく精力を用ひながらも、そのすぢそのまなびやうによりて、得失あるべきこと也、然はあれども、まづかの学のしなじなは、他よりしひて、それをとはいひがたし、大抵みづから思ひよれる方にまかすべき也、いかに初心なればとても、学問にもこゝろざすほどのものは、むげに小児の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは、必ズあるものなり、又面 々好むかたと、好まぬ方とも有リ、又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも有ル物なるを、好まぬ 事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし、又いづれのしなにもせよ、学びやうの次第も、一トわたりの理によりて、云々(シカシカ)してよろしと、さして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果 してよきものならんや、又思ひの外にさてはあしき物ならんや、実にはしりがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、実はたゞ其人の心まかせにしてよき也、詮(セン)ずるところ学問は、ただ年月長く倦(ウマ)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠(オコタ)りてつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇(イトマ)のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也、されば才のともしきや、学ぶことの晩(オソ)きや、暇(イトマ)のなきやによりて、思ひくづをれて、止(ヤム)ることなかれ、とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし、すべて思ひくずをるゝは、学問に大にきらふ事ぞかし、さてまづ上の件のごとくなれば、まなびのしなも、しひてはいひがたく、学びやうの法も、かならず云々(シカシカ)してよろしとは、定めがたく、又定めざれども、実はくるしからぬ ことなれば、たゞ心にまかすべきわざなれども、さやうにばかりいひては、初心の輩は、取リつきどころなくして、おのづから倦(ウミ)おこたるはしともなることなれば、やむことをえず、今宣長が、かくやあるべからんと思ひとれるところを、一わたりいふべき也、然れどもその教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ人も有べきなれば、しひていふにはあらず、たゞ己が教ヘによらんと思はん人のためにいふのみ也、そはまづ
<ロ>かのしなじなある学びのすぢすぢ、いづれもいづれも、やむことなきすぢどもにて、明らめしらではかなはざることなれば、いづれをものこさず、学ばまほしきわざなれども、一人の生涯の力を以ては、ことごとくは、其奥までは究(キハ)めがたきわざなれば、其中に主(ムネ)としてよるところを定めて、かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより
<ハ>志(シ)を高く大にたてて、つとめ学ぶべき也、然して其余のしなじなをも、力の及ばんかぎり、学び明らむべし、さてその
<ニ>主(ムネ)としてよるべきすぢは、何れぞといへば、道の学問なり、そもそも此道は、天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道は、いかなるさまの道ぞといふに、
<ホ>此道は、古事記書紀の二典(フタミフミ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうえに備はりたり、此ノ二典の上代の巻々を、くりかへしくりかへしよくよみ見るべし、
<ヘ>又初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十編よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉 矛百首、玉くしげ、葛花などやうの物を、入学のはじめより、かの二典と相まじへてよむべし、然せば、二典の事跡に、道の具備(ソナ)はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固(カタ)まりて、漢意(カラゴコロ)に、おちいらぬ 衛(マモリ)にもよかるべき也、道を学ばんと心ざすともがらは、
<ト>第一に漢意儒意を、清く濯(スス)ぎ去て、やまと魂(タマシヒ)をかたくする事を、要とすべし、さてかの二典の内につきても、
<チ>道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし、
<リ>書紀をよむには、大に心得あり、文のまゝに解しては、いたく古への意にたがふこと有て、かならず漢意に落入べし、次に古語拾遺、やゝ後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し、早くよむべし、次に万葉集、これは歌の集なれども、道をしるに、甚ダ緊要の書なり、殊によく学ぶべし、その子細は、下に委くいふべし、まづ道をしるべき学びは、大抵上ノ件リの書ども也、然れども書紀より後の、次々の御代々々の事も、しらでは有べからず、其書どもは、続日本紀、次に日本後紀、つぎに続日本後紀、次に文徳実録、次に三代実録也、書紀よりこれまでを合せて
<ヌ>六国史といふ、みな朝廷の正史なり、つぎつぎに必ずよむべし、又件の史どもの中に、
<ル>御代々々の宣命には、ふるき意詞ののこりたれば、殊に心をつけて見るべし、次に延喜式、姓氏録、和名抄、貞観儀式、出雲国ノ風土記、
<ヲ>釈日本紀、令、西宮記、北山抄、さては
<ワ>己が古事記ノ伝など、おほかたこれら、
<カ>古学の輩の、よく見ではかなはぬ 書ども也、然れども初学のほどには、件の書どもを、すみやかに読ミわたすことも、たやすからざれば、巻数多き大部の書共は、しばらく後へまはして、短き書どもより先ズ見んも、宣しかるべし、其内に延喜式の中の祝詞(ノリト)の巻、又神名帳などは、早く見ではかなはぬ 物也、凡て件の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず、たゞ便にまかせて、次第にかゝはらず、これをもかれをも見るべし、又いづれの書をよむとても、
<ヨ>初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読ては、又さきによみたる書へ立かへりつゝ、幾遍(イクヘン)もよむうちには、始メに聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也、さて件の書どもを、数遍よむ間ダには、其外のよむべき書どものことも、学びやうの法なども、段々に自分の料簡の出来るものなれば、
<タ>其末の事は、一々さとし教るに及ばず、心にまかせて、力の及ばむかぎり、古きをも後の書をも、
<レ>広くも見るべく、又簡約(ツヅマヤカ)にして、さのみ広くはわたらずしても有リぬ べし、さて又
<ソ>五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ズこゝろがくべきわざ也、
<ツ>語釈は緊要にあらず、さて又
<ネ>漢籍(カラブミ)をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝徳天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、万ヅの事、かの国の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの国ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也、但しからぶみを見るには、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことよきにまどはさるゝことぞ、此心得肝要也、さて又段々学問に入たちて、事の大すぢも、大抵は合点のゆけるほどにもなりなば、いづれにもあれ、
<ナ>古書の注釈を作らんと、早く心がくべし、物の注釈をするは、すべて大に学問のためになること也、さて上にいへるごとく、二典の次には、
<ラ>万葉集をよく万ぶべし、
<ム>みづからも古風の歌をまなびてよむべし、すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をするものは、なほさらよまではかなはぬ わざ也、歌をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅(ミヤビ)のおもむきはしりがたし、
<ウ>万葉の歌の中にても、やすらかに長ケ高く、のびらかなるすがたを、ならひてよむべし、又
<ヰ>長歌をもよむべし、さて又歌には、古風後世風、世々のけぢめあることなるが、古学の輩は、古風をまづむねとよむべきことは、いふに及ばず、又
<ノ>後世風をも、棄(ステ)ずしてならひよむべし、
<オ>後世風の中にも、さまざまよきあしきふりふりあるを、よくえらびてならふべき也、又伊勢源氏その外も、
<ク>物語書どもをも、つねに見るべし、すべてみづから歌をもよみ、物がたりぶみなどをも常に見て、
<ヤ>いにしへ人の、風雅(ミヤビ)のおもむきをしるは、歌まなびのためは、いふに及ばず、古の道を明らめしる学問にも、いみしくたすけとなるわざなりかし、
   上ノ件ところどころ、圏(ワ)の内に、かたかなをもてしるししたるは、いはゆ
   る相じるしにて、その件リ々にいへることの、然る子細を、又奥に別 にくはしく
   論ひさとしたるを、そこはこゝと、たづねとめて、しらしめん料のしるし也、  
<イ>世に物まなびのすぢしなじな有て云々、 物学ビとは、皇朝の学問をいふ、そもそもむかしより、たゞ学問とのみいへば、漢学のことなる故に、その学と分むために、皇国の事をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也、みづからの国のことなれば、皇国の学をこそ、たゞ学問とはいひて、漢学をこそ、分て漢学といふべきことなれ、それももし漢学のこととまじへいひて、まぎるゝところにては、皇朝学などはいひもすべきを、うちまかせてつねに、和学国学などいふは、皇国を外(ヨソ)にしたるいひやう也、もろこし朝鮮於蘭陀などの異国よりこそ、さやうにもいふべきことなれ、みづから吾国のことを、然いふべきよしなし、すべてもろこしは外(ヨソ)の国にて、かの国の事は、何事もみな外(ヨソ)の国の事なれば、その心をもて、漢某唐某(カンナニトウナニ)といふべく、皇国の事は、内の事なれば、分て国の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中おしなべて、漢学をむねとするならひなるによりて、万ズの事をいふに、たゞかのもろこしを、みずからの国のごとく、内にして、皇国をば、返りて外(ヨソ)にするは、ことのこゝろたがひて、いみしきひがこと也、此事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり、
<ロ>かのしなじなある学びのすぢすぢ云々、 これをはじめにいへるしなじなの学問のことなるが、そのしなじな、いづれもよくしらではかなはざる事どもなり、そのうち律令は、皇朝の上代よりの制と、もろこしの国の制とを合せて、よきほどに定められたる物なれども、まづはもろこしによれることがちにして、皇国の古ヘの制をば、改められたる事多ければ、これを学ぶには、其心得あるべく、又此すぢのからぶみをよく明らめざれば、事ゆかぬ 学問なれば、奥をきはめんとするには、から書の方に、力を用ふること多くて、こなたの学びのためには、功(テマ)の費も多き也、これらのところをもよく心得べし、さて官職儀式の事は、これももろこしによられたる事共も、おほくあれども、さのみから書に力をもちひて、考ふることはいらざれば、律令とはことかはれり、官職のことは、職員令をもととして、つぎつぎに明らむべし、世の学者、おほく職原抄を主とする事なれども、かの書は、後世のさまを、むねとしるされたる如くなるが、朝廷のもろもろの御さだめも、御世々々を経るまゝに、おのづから古ヘとは変(カハ)り来ぬ る事ども多ければ、まづその源より明らむべき也、なほ官職の事しるせる、後世の書いと多し、もろもろの儀式の事は、貞観儀式弘仁の内裏式などふるし、其外江家次第、世におしなべて用ふる書なり、されどこれも、古ヘとはやゝかはれる事ども多し、貞観儀式などと、くらべ見てしるべし、ちかく水戸の礼儀類典、めでたき書なれども、ことのほか大部なれば、たやすくよみわたしがたし、さて装束調度などのことは、世にこれをまなぶ輩は、おほくは中古以来の事をのみ穿鑿して、古ヘへさかのぼりて考える人は、すくなし、これも後世の書ども、いとあまたあれども、まづ古書より考ふべし、此古書は、まづ延喜式など也、さては西宮記北山抄、此二書は、装束調度などの学のみにはかぎらず、律令官職儀式、其外の事、いづれにもわたりて、おほよそ朝廷のもろもろの事をしるされたり、かならずよくよむべき書なり、さて件のしなじなの学問いづれもいずれも、古ヘざまの事は、六国史に所々其事どもの出たるを、よく参考すべし、又中古以来のことは、諸家の記録どもなどに、散出したるを、参考すべし、さて歌まなびの事は、下に別 にいへり、むかし四道の学とて、しなじなの有しは、みな漢ざまによれる学びなれば、こゝに論ずべきかぎりにあらず、四道とは、紀伝明経明法算道これ也、此中に明法道といふは、律令などの学問なれば、上にいへると同じけれど、昔のは、その実事にかゝりたれば、今の世のたゞ書のうへの学のみなるとは、かはり有リ、さてなほ外国の学は、儒学仏学其外、殊にくさぐさ多くあれども、皆よその事なれば、今論ずるに及ばず、吾は、あたら精力を、外(ヨソ)の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならんや、
<ハ>志を高く大きにたてて云々、 すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究(キハ)めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠(ウミオコタ)るもの也、
<ニ>主(ムネ)としてよるべきすぢは云々、 道を学ぶを主とすべき子細は、今さらにも及ばぬ ことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事のみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生まれ来つるは、幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇国の道を学ぶべきは、勿論のこと也、
<ホ>此道は、古事記書紀の二典に記されたる云々、 道は此二典にしるされたる、神代のもろもろの事跡のうへに備はりたれども、儒仏などの書のやうに、其道のさまを、かやうかやうと、さして教へたることなければ、かの儒仏の書の目うつしにこれを見ては、道の趣、いかなるものともしりがたく、とらへどころなきが如くなる故に、むかしより世々の物しり人も、これをえとらへず、さとらずして、或は仏道の意により、或は儒道の意にすがりて、これを説(トキ)たり、其内昔の説は、多く仏道によりたりしを、百五六十年以来は、かの仏道によれる説の、非なることをばさとりて、其仏道の意をば、よくのぞきぬ れども、その輩の説は、又皆儒道の意に落入て、近世の神学者流みな然也、其中にも流々有て、すこしづゝのかはりはあれども、大抵みな同じやうなる物にて、神代紀をはじめ、もろもろの神典のとりさばき、たゞ陰陽八卦五行など、すべてからめきたるさだのみにして、いさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬ こそ可笑(ヲカ)しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致(ムネ)一ツなる故に、これを仮(カリ)て説(トク)也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説ク輩も又、神道とても、仏の道の外なることなし、一致也とぞいふべき、これら共に、おのおの其道に惑へるから、然思ふ也、まことの神道は、儒仏の教ヘなどとは、いたく趣の異なる物にして、さらに一致なることなし、すべて近世の神学家は、件のごとくなれば、かの漢学者の中の、宋学といふに似て、いさゝかもわきめをふらず、たゞ一すぢに道の事をのみ心がくめれども、ひたすら漢流の理窟にのみからめられて、古の意をば、尋ねんものとも思はず、其心を用るところ、みな儒意なれば、深く入ルほど、いよいよ道の意には遠き也、さて又かの仏の道によりて説るともがらは、その行法も、大かた仏家の行法にならひて、造れる物にして、さらに皇国の古ヘの行ひにあらず、又かの近世の儒意の神道家の、これこそ神道の行ひよとて、物する事共、葬喪祭祀等の式、其外も、世俗とかはりて、別 に一種の式を立て行ふも、これ又儒意をまじへて、作れること多くして、全く古ヘの式にはあらず、すべて何事も、古ヘの御世に、漢風をしたひ用ひられて、多くかの国ざまに改められたるから、上古の式はうせて、世に伝はらざるが多ければ、そのさだかにこまかなることは、知リがたくなりぬ る、いといと歎かはしきわざ也、たまたま片田舎などには、上古の式の残れる事も有とおぼしけれども、それも猶仏家の事などまじりて、正しく伝はれるは有がたかめり、そもそも道といふ物は、上に行ひ給ひて、下へは、上より敷キ施し給ふものにこそあれ、下たる者の、私に定めおこなふものにはあらず、されば神学者などの、神道の行ひとて、世間に異なるわざをするは、たとひ上古の行ひにかなへること有といへども、今の世にしては私なり、道は天皇の天下を治めさせ給ふ、正大公共の道なるを、一己の私の物にして、みづから狭く小(チヒサ)く説(トキ)なして、たゞ巫覡などのわざのごとく、或はあやしきわざを行ひなどして、それを神道となのるは、いともいともあさましくかなしき事也、すべて下たる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のまゝに、従ひ行ふぞ、即チ古ヘの道の意には有ける、吾はかくのごとき思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀リ、供仏施僧のわざ等も、たゞ親の世より為シ来りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也、学者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず、されば随分に古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書キ遺(ノコ)しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これ宣長が志シ也、
<ヘ>初学のともがらは宣長が著したる云々、 神典には、世々の注釈末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必ズ然すべき故あり、いで其故は、注釈末書は多しといへども、まづ釈日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の説といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也、又その後々の末書注釈どもは、仏と儒との意にして、さらに古の意にあらず、返て大に道を害することのみ也、されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし、さりとて又初学のともがら、いかぼど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく会得しがたかるべし、こゝにわが県居ノ大人は、世の学者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし教へて、盛ンに古学を唱へ給ひしかども、其力を万葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず、されば道のすぢは、此大人の説も、なほたらぬ こと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也、さる故に下には、古事記伝をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり、かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、いはざらんは、かへりて初学のために、忠実(マメ)ならざれば、あしくいはむ人には、いかにもいはれんかし、
<ト>第一に漢意儒意を云々、 おのれ何につけても、ひたすら此事をいふは、ゆゑなくみだりに、これをにくみてにはあらず、大きに故ありていふ也、その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大にこれを誤りしたゝめたるは、いかなるゆゑぞと尋ぬ れば、みな此漢意に心のまどはされ居て、それに妨(サマタ)げらるゝが故也、これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染着(シミツキ)てある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近きころは、道をとくに、儒意をまじふることの、わろきをさとりて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬ かるゝことあたはずして、その説クところ、畢竟は漢意におつるなり、かくのごとくなる故に、道をしるの要、まづこれを清くのぞき去ルにありとはいふ也、これを清くのぞきさらでは道は得がたかるべし、初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固(カタ)くすべきことは、たとへばものゝふの、戦場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典(ミフミ)をよむときは、甲冑をも着ず、素膚(スハダ)にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝろに落入べし、
<チ>道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし、 まづ神典は、旧事紀古事記日本書紀を、昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に至りてやうやう、旧事紀は真の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学問の道大にひらけたるが故也、まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、たゞ古ヘよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるしに、これにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古学のともがらの、尤尊み学ぶべきは此書也、然るゆゑに、己レ壮年より、数十年の間、心力をつくして、此記の伝四十四巻をあらはして、いにしへ学ビのしるべとせり、さて此記は、古伝説のまゝにしるせる書なるに、その文のなほ漢文ざまなるはいかにといふに、奈良の御代までは、仮字文といふことはなかりし故に、書はおしなべて、漢文に書るならひなりき、そもそも文字書籍は、もと漢国より出たる物なれば、皇国に渡り来ても、その用ひやう、かの国にて物をしるす法のまゝにならひて書キそめたるにて、こゝとかしこと、語のふりはたがへることあれども、片仮字も平仮字のなき以前は、はじめよりのならひのまゝに、物はみな漢文に書たりし也、仮字文といふ物は、いろは仮字出来て後の事也、いろは仮字は、今の京になりて後に、出来たり、されば古書のみな漢文なるは、古ヘの世のなべてのならひにこそあれ、後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず、さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ 物なる故に、古書にもこれをば、別に仮字に書り、それも真仮字也、又祝詞宣命なども、詞をとゝのへかざりたるものにて、漢文ざまには書がたければ、これも別 に書法有し也、然るを後世に至りては、片仮字平仮字といふ物あれば、万の事、皇国の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古ヘのやうに、物を漢文に書べきことにはあらず、便よく正しき方をすてて、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也、上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書クをよきことと心得たるは、ひがこと也、然るに諸家の記録其外、つねの文書消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書クならひにて、これも男ぶみといひ、いろは仮字をば女もじ、仮字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古ヘのならひのまゝに為シ来(キタ)り、女は便にまかせて、多くいろは仮字をのみ用ひたるから、かゝる名目も有也、
<リ>書紀をよむには大に心得あり云々、 書紀は、朝廷の正史と立られて、御世々々万の事これによらせ給ひ、世々の学者も、これをむねと学ぶこと也、まことに古事記は、しるしざまは、いとめでたく尊けれども、神武天皇よりこなたの、御世々々の事をしるされたる、甚あらくすくなくして、広からず、審ならざるを、此紀は、広く詳にしるされたるほど、たぐひなく、いともたふとき御典也、此御典なくては、上古の事どもを、ひろく知べきよしなし、然はあれども、すべて漢文の潤色多ければ、これをよむに、はじめよりその心得なくてはあるべからず、然るを世間の神学者、此わきまへなくして、たゞ文のまゝにこゝろえ、返て漢文の潤色の所を、よろこび尊みて、殊に心を用るほどに、すべての解し様(サマ)、ことごとく漢流の理屈にして、いたく古ヘの意にたがへり、これらの事、大抵は古事記伝の首巻にしるせり、猶又別 に、神代紀のうずの山蔭といふ物を書ていへり、ひらき見るべし、
<ヌ>六国史といふ云々、 六国史のうち日本後紀は、いかにしたるにか、亡(ウセ)て伝はらず、今それとて廿巻あるは、全き物にあらず、然るに近き世、鴨ノ祐之といひしひと、類聚国史をむねと取リ、かたはら他の正しき古書共をもとり加ハへて、日本逸史といふ喪の四十巻を撰定せる、後紀のかはりは、此書にてたれり、類聚国史は、六国史に記されたる諸の事を、部類を分ケ聚めて、菅原ノ大臣の撰給へる書也、さて三代実録の後は、正しき、国史は無し、されば宇多ノ天皇よりこなたの御世御世の事は、たゞこれかれかたはらの書共を見てしること也、其書ども、国史のたぐひなるも、あまた有、近世水戸の大日本史は、神武天皇より後小松ノ天皇の、後亀山ノ天皇の御禪(ミユヅリ)を受させ給へる御事までしるされて、めでたき書也、
<ル>御世々々の宣命には云々、 書紀に挙られたる、御世々々の詔勅は、みな漢文なるのみなるを、続紀よりこなたの史共には、皇朝詞の詔をも、載せられたる、これを分て宣命といふ也、続紀なるは、世あがりたれば、殊に古語多し、その次々の史どもなる、やうやうに古き語はすくなくなりゆきて、漢詞おほくまじれり、すべて宣命にはかぎらず、何事にもせよ、からめきたるすぢをはなれて、皇国の上代めきたるすぢの事や詞は、いづれの書にあるをも、殊に心をとどめて見るべし、古ヘをしる助ケとなること也、
<ヲ>釈日本紀、 此書は後の物にて、説もすべてをさなけれども、今の世には伝はらぬ 古書どもを、これかれと引出たる中に、いとめづらかに、たふときことどもの有也、諸国の風土記なども、みな今は伝はらざるに、此書と仙覚が万葉の抄とに、引出たる所々のみぞ、世にのこれる、これ殊に古学の用なり、又むかしの私記どもも、皆亡(ウセ)ぬ るを、此釈には、多く其説をあげたり、私記の説も、すべてをさなけれども、古き故に、さすがに取ルべき事もまゝある也、さて六国史をはじめて、こゝに挙たる書共いづれも、板本も写 本も、誤字脱字等多ければ、古本を得て、校正すべし、されど古本は、たやすく得がたきものなれば、まづ人の校正したる本を、求め借りてなりとも、つぎつぎ直すべき也、さて又ついでにいはむ、今の世は、古ヘをたふとみ好む人おほくなりぬ るにつきては、おのづからめづらしき古書の、世に埋れたるも、顕れ出る有リ、又それにつきては、偽書も多く出るを、その真偽は、よく見る人は、見分れども、初学の輩などは、え見分ねば、偽書によくはからるゝ事あり、心すべし、されば初学のほどは、めづらしき書を得んことをば、さのみ好むべからず、
<ワ>古事記伝云々、 みづから著せる物を、かくやむことなき古書どもにならべて挙るは、おふけなく、つゝましくはおぼゆれども、上にいへるごとくにて、上代の事を、くはしく説キ示し、古学の心ばへを、つまびらかにいへる書は、外になければぞかし、されば同じくは此書も、二典とまじへて、はじめより見てよろしけれども、巻数多ければ、こゝへはまはしたる也、
<カ>古学の輩の、 古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問也、此学問、ちかき世に始まれり、契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すじを開きそめたり、此人をぞ、此まなびのはじめの祖(オヤ)ともいひつべき、次にいさゝかおくれて羽倉ノ大人、荷田ノ東麻呂ノ宿祢と申せしは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立テ給へりき、かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける、大かた奈良ノ朝よりしてあなたの古ヘの、もろもろの事のさまを、こまかに精(クハ)しく考へしりて、手にとるばかりになりぬ るは、もはら此大人の、此古学のをしへの功にぞ有ける、
<ヨ>初心のほどは、かたはしより文義を云々、 文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とどこほりて、すゝまぬ ことあれば、聞えぬところは、まづそのまゝにて過すぞよき、殊に世に難き事にしたるふしぶしを、まづしらんとするは、いといとわろし、たゞよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也、こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、すべてこまかなる意味もしられず、又おほく心得たがひの有て、いつまでも、其誤リをえさとらざる事有也、
<タ>其末の事、一々さとし教るに及ばず、 此こゝろをふと思ひよりてよめる歌、筆のついでに、「とる手火も今はなにせむ夜は明てほがらほがらと道見えゆくを、
<レ>ひろくも見るべく又云々、 博識とかいひて、随分ひろく見るも、よろしきことなれども、さては緊要の書を見ることの、おのづからおろそかになる物なれば、あながちに広きをよきこととのみもすべからず、その同じ力を、緊要の書に用るもよろしかるべし、又これかれにひろく心を分るは、たがひに相たすくることもあり、又たがひに害となることもあり、これらの子細をよくはからふべき也、
<ソ>五十音のとりさばき云々、 これはいはゆる仮字反シの法、音の堅横の通 用の事、言の延(ノベ)つゞめの例などにつきて、古語を解キ明らむるに、要用のこと也、かならずはじめより心がくべし、仮字づかひは、古ヘのをいふ、近世風の歌よみのかなづかひは、中昔よりの事にて、古書にあはず、
<ツ>語釈は緊要にあらず、 語釈とは、もろもろの言の、然云フ本の意を考へて、釈(トク)をいふ、たとへば天(アメ)といふはいかなること、地(ツチ)といふはいかなることと、釈(ト)くたぐひ也、こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古学の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬ ひがこと多きぞかし、
<ネ>からぶみをもまじへよむべし、 漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固(カタ)まりて、動くことなければ、晝夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、とかく倭魂(ヤマトタマシヒ)かたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗(ウルハ)しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ 、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし、
<ナ>古書の注釈を作らんと云々、 書をよむに、たゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限リあるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても、格別 に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也、されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて学問に大いに益あること也、是は物の注釈のみにもかぎらず、何事にもせよ、著述をこゝろがくべき也、
<ラ>万葉集をよくまなぶべし、 此書は、歌の集なるに、二典の次に挙て、道をしるに甚ダ益ありといふは、心得ぬ ことに、人おもふらめども、わが師ノ大人の古学のをしへ、専ラこゝにあり、其説に、古ヘの道をしらんとならば、まづいにしへの歌を学びて、古風の歌をよみ、次に古の文を学びて、古ヘぶりの文をつくりて、古言をよく知リて、古事記日本紀をよくよむべし、古言をしらでは、古意はしられず、古意をしらでは、古の道は知リがたかるべし、といふこゝろばへを、つねづねいひて、教へられたる、此教へ迂遠(マハリドホ)きやうなれども、然らず、その故は、まづ大かた人は、言(コトバ)と事(ワザ)と心(ココロ)と、そのさま大抵相かなひて、似たる物にて、たとへば心のかしこき人は、いふ言のさまも、なす事(ワザ)のさまも、それに応じてかしこく、心のつたなき人は、いふ言のさまも、なすわざのさまも、それに応じてつたなきもの也、又男は、思ふ心も、いふ言も、なす事も、男のさまあり、女は、おもふ心も、いふ言も、なす事(ワザ)も、女のさまあり、されば時代々々の差別 も、又これらのごとくにて、心も言も事も、上代の人は、上代のさま、中古の人は、中古のさま、後世の人は、後世のさま有て、おのおのそのいへる言となせる事と、思へる心と、相かなひて似たる物なるを、今の世に在て、その上代の人の、言をも事をも心をも、考へしらんとするに、そのいへりし言は、歌に伝はり、なせりし事は、史に伝はれるを、その史も、言を以て記したれば、言の外ならず、心のさまも、又歌にて知ルべし、言と事と心とは其さま相かなへるものなれば、後世にして、古の人の、思へる心、なせる事(ワザ)をしりて、その世の有さまを、まさしくしるべきことは、古言古歌にある也、さて古の道は、二典の神代上代の事跡のうへに備はりたれば、古言古歌をよく得て、これを見るときは、其道の意、おのづから明らかなり、さるによりて、上にも、初学のともがら、まづ神代正語をよくよみて、古語のやうを口なれしれとはいへるぞかし、古事記は、古伝説のまゝに記されてはあれども、なほ漢文なれば、正(マサ)しく古言をしるべきことは、万葉には及ばず、書紀は、殊に漢文のかざり多ければ、さら也、さて二典に載れる歌どもは、上古のなれば、殊に古言古意をしるべき、第一の至宝也、然れどもその数多からざれば、ひろく考るに、ことたらざるを、万葉は、歌数いと多ければ、古言はをさをさもれたるなく、伝はりたる故に、これを第一に学べとは、師も教へられたる也、すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理窟は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅(ミヤビ)たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける、さて此万葉集をよむに、今の本、誤字いと多く、訓もわろきことおほし、初学のともがら、そのこゝろえ有べし、
<ム>みづからも古風の歌をまなびてよむべし、 すべて万ズの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、浅深の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ 物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬ ところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別 にて、深き意味をしること也、さればこそ師も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられるなれ、文の事は、古文は、延喜式八の巻なる諸の祝詞、続紀の御世々々の宣命など、古語のまゝにのこれる文也、二典の中にも、をりをりは古語のまゝなる文有リ、其外の古書共にも、をりをりは古文まじれることあり、これかれをとりて、のりとすべし、万葉は歌にて、歌と文とは、詞の異なることなどあれども、歌と文との、詞づかひのけぢめを、よくわきまへえらびてとらば、歌の詞も、多くは文にも用ふべきものなれば、古文を作る学びにも、万葉はよく学ばではかなはぬ 書也、なほ文をつくるべき学びかた、心得なども、古体近体、世々のさまなど、くさぐさいふべき事多くあれども、さのみがこゝにつくしがたし、大抵歌に准へても心得べし、そのうち文には、いろいろのしなあることにて、其品によりて、詞のつかひやう其外、すべての書キやう、かはれること多ければ、其心得有べし、いろいろのしなとは、序、或は論、或は紀事、或は消息など也、さて後世になりて、万葉ぶりの歌を、たててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出来たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあぞぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也、さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし、それにつきては、道のために学ぶすぢをば、姑くおきて、今は又ただ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必ズ詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、後世の人のやうに、思ひめぐらして、よくよまんとかまへ、たくみてよめることはなかりし也、然れども、その出来たるうへにては、おのづからよく出来たると、よからざるとが有て、その中にすぐれてよく出来たる歌は、世間にもうたひつたへて、後ノ世までものこりて、二典に載れる歌どもなど是也、されば二典なる歌は、みな上代の歌の中にも、よにすぐれたるかぎりと知べし、古事記には、たゞ歌をのせんためのみに、其事を記されたるも、これかれ見えたるは、その歌のすぐれたるが故なり、さてかくのごとく歌は、上代よりして、よきとあしきと有て、人のあはれときゝ、神の感じ給ふも、よき歌にあること也、あしくては、人も神も、感じ給ふことなし、神代に天照大御神の、天の石屋(イハヤ)にさしこもり坐(マシ)し時、天ノ兒屋根ノ命の祝詞(ノリトゴト)に、感じ給ひしも、その辞のめでたかりし故なること、神代紀に見えたるがごとし、歌も准へて知ルべし、さればやゝ世くだりては、かまへてよき歌をよまんと、もとむるやうになりぬ るも、かならず然らではえあらぬ、おのづからの勢ヒにて、万葉に載れるころの歌にいたりては、みなかまへてよくよまんと、求めたる物にこそあれ、おのづからに出来たるは、いとすくなかるべし、万葉の歌すでに然るうへは、まして後世今の世には、よくよまんとかまふること、何かはとがむべき、これおのづからの勢ヒなれば、古風の歌をよまん人も、随分に詞をえらびて、うるはしくよろしくよむべき也、
<ウ>万葉の歌の中にても云々、 此集は、撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば、古ヘながらも、あしき歌も多し、善悪をわきまへて、よるべきなり、今の世、古風をよむともがらの、よみ出る歌を見るに、万葉の中にても、ことに耳なれぬ 、あやしき詞をえり出つかひて、ひたすらにふるめかして、人の耳をおどろかさんとかまふるは、いといとよろしからむこと也、歌も文も、しひてふるくせんとて、求め過たるは、かへすかへすうるさく、見ぐるしきものぞかし、万葉のなかにても、たゞやすらかに、すがたよき歌を、手本として、詞もあやしきをば好むまじき也、さて又歌も文も、同じ古風の中にも、段々有て、いたく古きと、さもあらぬ とあれば、詞もつゞけざまも、大抵その全体のほどに応ずべきことなるに、今の人は、全体のほどに応ぜぬ 詞をつかふこと多くして、一首一編の内にも、いたくふるき詞づかひのあるかと見れば、又むげに近き世の詞もまじりなどして、其体混雑せり、すべて古風家の歌は、後世家の、あまり法度にかゝはり過るを、にくむあまりに、たゞ法度にかゝはらぬ を、心高くよき事として、そのよみかた、甚ダみだりなり、万葉のころとても、法度といふことこそなけれ、おのづから定まれる則(ノリ)は有て、みだりにはあらざりしを、法度にかゝはらぬ を、古ヘと心得るは、大にひがごと也、既に今の世にして、古ヘをまねてよむからは、古ヘのさだまりにかなはぬ 事有ては、古風といふ物にはあらず、今の人は、口にはいにしへいにしへと、たけだけしくよばはりながら、古ヘの定まりを、えわきまへざるゆゑに、古ヘは定まれることはなかりし物と思ふ也、万葉風をよむことは、ちかきほど始まりたることにて、いまだその法度を示したる書などもなき故に、とかく古風家の歌は、みだりなることおほきぞかし、  
<ヰ>長歌をもよむべし、 長歌は、古風のかた殊にまされり、古今集なるは、みなよくもあらず、中にいとつたなきもあり、大かた今の京になりての世には、長歌よむことは、やうやうにまれになりて、そのよみざまも、つたなくなりし也、後世にいたりては、いよいよよむことまれなりしを、万葉風の歌をよむ事おこりて、近きほどは、又皆長歌をも多くよむこととなりて、其中には、万葉集に入ルとも、をさをさはづかしかるまじきほどのも、まれには見ゆるは、いともいともめでたき大御世の栄えにぞ有ける、そもそも世の中のあらゆる諸の事の中には、歌によまんとするに、後世風にては、よみとりがたき事の多かるに、返て古風の長歌にては、よくよみとらるゝことおほし、これらにつけても、古風の長歌、必ズよみならふべきこと也、
<ノ>又後世風をもすてずして云々、 今の世、万葉風をよむ輩は、後世の歌をば、ひたすらあしきやうに、いひ破れども、そは実によきあしきを、よくこゝろみ、深く味ひしりて、然いふにはあらず、たゞ一わたりの理にまかせて、万ヅの事、古ヘはよし、後世はわろしと、定めおきておしこめてそらづもりにいふのみ也、又古と後世との歌の善悪を、世の治乱盛衰に係(カケ)ていふも、一わたりの理論にして、事実にはうときこと也、いと上代の歌のごとく、実情のまゝをよみいでばこそ、さることわりもあらめ、後世の歌は、みなつくりまうけてよむことなれば、たとひ治世の人なりとも、あしき風を学びてよまば、其歌あしかるべく、乱世の人にても、よき風をまなばば、其歌などかあしからん、又男ぶり女ぶりのさだも、緊要にあらず、つよき歌よわき歌の事は、別 にくはしく論ぜり、大かた此古風と後世と、よしあしの論は、いといと大事にて、さらにたやすくはさだめがたき、子細どもあることなるを、古学のともがら、深きわきまへもなく、かろがろしくたやすげに、これをさだめいふは、甚ダみだりなること也、そもそも古風家の、後世の歌をわろしとするところは、まづ歌は、思ふこゝろをいひのぶるわざなるに、後世の歌は、みな実情にあらず、題をまうけて、己が心に思はぬ 事を、さまざまとつくりて、意をも詞をも、むつかしくくるしく巧みなす、これみな偽リにて、歌の本意にそむけり、とやうにいふこれ也、まことに一わたりのことわりは、さることのやうなれども、これくはしきさまをわきまへざる論也、其故は、上にいへる如く、歌は、おもふまゝに、たゞにいひ出る物にあらず、かならず言にあやをなして、とゝのへいふ道にして、神代よりさる事にて、そのよく出来てめでたきに、人も神も感じ給ふわざなるがゆゑに、既に万葉にのれるころの歌とても、多くはよき歌をよまむと、求めかざりてよめる物にして、実情のまゝのみにはあらず、上代の歌にも、枕詞序詞などのあるを以てもさとるべし、枕詞や序などは、心に思ふことにはあらず、詞のあやをなさん料に、まうけたる物なるをや、もとより歌は、おもふ心をいひのべて、人に聞カれて、聞ク人のあはれと感ずるによりて、わが思ふ心は、こよなくはるくることなれば、人の聞クところを思ふも、歌の本意也、されば世のうつりもてゆくにしたがひて、いよいよ詞にあやをなし、よくよまむともとめたくむかた、次第次第に長(チヤウ)じゆくは、必ズ然らではかなはぬ 、おのづからの勢ヒにて、後世の歌に至りては、実情をよめるは、百に一ツも有がたく、皆作りことになれる也、然はあれども、その作れるは、何事を作れるぞといへば、その作りざまこそ、世々にかはれることあれ、みな世の人の思ふ心のさまを作りいへるなれば、作り事とはいへども、落るところはみな、人の実情のさまにあらずといふことなく、古ヘの雅情にあらずといふことなし、さればひたすらに後世風をきらふは、その世々に変じたるところをのみ見て、変ぜぬ ところのあることをばしらざる也、後世の歌といへども、上代と全く同じきところあることを思ふべし、猶いはば、今の世の人にして、万葉の古風をよむも、己が実情にあはず、万葉をまねびたる作り事也、もしおのが今思ふ実情のまゝによむをよしとせば、今の人は、今の世俗のうたふやうなるうたをこそよむべけれ、古ヘ人のさまをまねふべきにはあらず、万葉をまねぶも、既に作り事なるうへは、後世に題をまうけて、意を作りよむも、いかでかあしからん、よき歌をよまんとするには、数おほくよまずはあるべからず、多くよむには、題なくはあるべからず、これらもおのづから然るべきいきほひ也、そもそも後世風、わろき事もあるは、勿論のこと也、然れどもわろき事をのみえり出て、わろくいはんには、古風の方にも、わろきことは有べし、一トむきに後世をのみ、いひおとすべきにあらず、後世風の歌の中にも、又いひしらずめでたくおもしろく、さらに古風にては、よみえがたき趣どもの有ルこと也、すべてもろもろの事の中には、古ヘよりも、後世のまされる事も、なきにあらざれば、ひたぶるに後世を悪しとすべきにもあらず、歌も、古ヘと後とを、くらべていはんには、たがひに勝劣ある中に、おのれ数十年よみこゝろみて、これを考るに、万葉の歌のよきが、ゆたかにすぐれたることは、勿論なれども、今の世に、それをまなびてよむには、猶たらはぬ ことあるを、世々を経て、やうやうにたらひて、備はれる也、さればこそ、今の世に古風をよむ輩も、初心のほどこそ、何のわきまへもなく、みだりによみちらせ、すこしわきまへも出来ては、万葉風のみにては、よみとりがたき事など多き故に、やうやうと後世風の意詞をも、まじへよむほどに、いつしか後世風にちかくなりゆきて、なほをりをりは、ふるめきたる事もまじりて、さすがに全くの後世風にもあらず、しかも又古今集のふりにもあらず、おのづから別 に一風なるも多きぞかし、これ古風のみにては、事たらざるところのあるゆゑなり、すべて後世風をもよまではえあらぬ よしを、なほいはば、まづ万葉の歌を見るに、やすらかにすがたよきは、其趣いづれもいづれも、似たる事のみ多く、よめる意大抵定まれるが如くにて、或は下ノ句全く同じき歌などもおほく、すべて同じやうなる歌いと多し、まれまれにめづらしき事をよめるは、多くはいやしげにて、歌ざまよろしからず、然るを万葉の後今の世まで、千余年を経たる間ダ、歌よむ人、みなみな万葉風をのみ守りて変ぜずして、しかもよき歌をよまんとせば、皆万葉なる歌の口まねをするやうにのみ出来て、外によむべき事なくして、新タによめる詮なかるべし、されば世々を経て、古人のよみふるさぬ おもむきを、よみ出んとするには、おのづから世々に、そのさま変ぜではかなはず、次第にたくみもこまやかにふかくなりゆかではかなはぬ だうり也、古人の多くよみたる事を、同じさまによみたらんには、其歌よしとしても、人も神も感じ給ふことあるべからず、もし又古ヘによみふるさぬ 事を、一ふしめずらしく、万葉風にてよまんとせば、いやしくあしき歌になりぬ べし、かの集の歌すらさやうなれば、まして今の世をや、此事猶一ツのたとへを以ていはん、古風は白妙衣のごとく、後世風は、くれなゐ紫いろいろ染たる衣のごとし、白妙衣は、白たへにしてめでたきを、染衣も、その染色によりて、又とりどりにめでたし、然るを白妙めでたしとて、染たるをば、ひたぶるにわろしとすべきにあらず、たゞその染たる色には、よきもありあしきもあれば、そのあしきをこそ棄ツべきなれ、色よきをも、おしこめてすてんは、偏(ヒトムキ)ならずや、今の古風家の論は、紅紫などは、いかほど色よくても、白妙に似ざれば、みなわろしといはんが如し、宣長もはら古学によりて、人にもこれを教へながら、みづからよむところの歌、古風のみにあらずして、後世風をも、おほくよむことを、心得ずと難ずる人多けれども、わが思ひとれるところは、上の件のごとくなる故に、後世風をも、すてずしてよむ也、其中に古風なるは数すくなくして、返て後世風なるが多きは、古風をよむべき事すくなく、後世風をよむ事おほきが故也、すべていにしへは、事すくなかりしを、後世になりゆくまにまに、万の事しげくなるとおなじ、さて吾は、古風後世風ならべよむうちに、古と後とをば、清くこれを分ちて、たがひに混雑なきやうにと、深く心がくる也、さて又初学の輩、わがをしへにしたがひて、古風後世風ともによまんとせんに、まづいづれを先キにすべきぞといふに、万の事、本をまづよくして後に、末に及ぶべきは勿論のことなれども、又末よりさかのぼりて、本にいたるがよき事もある物にて、よく思ふに、歌も、まず後世風より入て、そを大抵得て後に、古風にかゝりてよき子細もあり、その子細を一ツ二ツいはば、後世風をまづよみならひて、その法度のくはしきをしるときは、古風をよむにも、その心得有て、つゝしむ故に、あまりみだりなることはよまず、又古風は時代遠ければ、今の世の人、いかによくまなぶといへども、なほ今の世の人なれば、その心全く古人の情のごとくには、変化しがたければ、よみ出る歌、古風とおもへども、猶やゝもすれば、近き後世の意詞のまじりやすきもの也、すべて歌も文も、古風と後世とは、全体その差別 なくてはかなはざるに、今の人の歌文は、とかく古と後と、混雑することをまぬ かれざるを、後世風をまづよくしるときは、是は後世ぞといふことを、わきまへしる故に、その誤リすくなし、後世風をしらざれば、そのわきまへなき故に、返て後世に落ることおほきなり、すべて古風家、後世風をば、いみしく嫌ひながら、みづから後世風の混雑することをえしらざるは、をかしきこと也、古風をよむひとも、まづ後世風を学びて益あること、猶此外にも有也、古と後との差別 をだによくわきまふるときは、後世風をよむも、害あることなし、にくむべきことにあらず、たゞ古と後と混雑するをこそ、きらふべきものなれ、これはたゞ歌文のうへのみにもあらず、古の道をあきらむる学問にも、此わきまへなくしては、おぼえず後世意にも漢意にも、落入ルこと有べし、古意と後世意と漢意とを、よくわきまふること、古学の肝要なり、
<オ>後世風の中にもさまざまよきあしきふりふりあるを云々、 かの染衣のさまざまの色には、よきも有リあしきもあるが如く、後世風の歌も、世々を経て、つぎつぎにうつり変れる間ダには、よきとあしきとさまざまの品ある、其中にまず古今集は、世もあがり、撰びも殊に精しければ、いといとめでたくして、わろき歌はすくなし、中にもよみ人しらずの歌どもには、師もつねにいはれたるごとく、殊によろしきぞ多かる、そはおほくふるき歌の、ことにすぐれたる也、さて此集は、古風と後世風との中間に在りて、かのふるき歌どもになどは、万葉の中のよき歌どものさまと、をさをさかはらぬ もおほくして、殊にめでたければ、古風の歌を学ぶ輩も、これをのりとしてよろしき也、然れども大かた光孝天皇宇多天皇の御代のころよりこなたの歌は、万葉なるとはいたくかはりて、後世風の方にちかきさまなれば、此集をば、姑く後世風の始めの、めでたき歌とさだめて、明暮にこれを見て、今の京となりてこのかたの、歌といふ物のすべてのさまを、よく心にしむべき也、次に後撰集拾遺集は、えらびやう甚ダあらくみだりにして、えもいはれぬ わろき歌の多き也、然れどもよき歌も又おほく、中にはすぐれたるものもまじれり、さて次に後拾遺集よりこなたの、代々の撰集ども、つぎつぎに盛衰善悪さまざまあれども、そをこまかにいはむには、甚ダ事長ければ、今は省きて、その大抵をつまみていはば、其間ダに新古今集は、そのころの上手たちの歌どもは、意も詞もつゞけざまも、一首のすがたも、別 に一ツのふりにて、前にも後にもたぐひなく、其中に殊によくとゝのひたるは、後世風にとりては、えもいはずおもしろく心ふかくめでたし、そもそも上代より今の世にいたるまでを、おしわたして、事のたらひ備りたる、歌の真盛(マサカリ)は、古今集ともいふべけれども、又此新古今にくらべて思へば、古今集も、なほたらはずそなはらざる事あれば、新古今を真盛といはんも、たがふべからず、然るに古風家の輩は、殊に此集をわろくいひ朽(クタ)すは、みだりなる強(シヒ)ごと也、おほかた此集のよき歌をめでざるは、風雅の情をしらざるものとこそおぼゆれ、但し此時代の歌人たち、あまりに深く巧をめぐらされたるほどに、其中に又くせ有て、あしくよみ損じたるは、殊の外に心得がたく、無理なるもおほし、されどさるたぐひなるも、詞うるはしく、いひまはしの巧なる故に、無理なる聞えぬ 事ながらに、うちよみあぐるに、おもしろくて捨がたくおぼゆるは、此ほどの歌共也、されどこれは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげにまねび得べきところにはあらず、しひてこれをまなびなば、えもいはぬ すゞろごとになりぬべし、いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまをしたふべからず、されど又、歌のさまをくはしくえたらんうへにては、さのみいひてやむべきにもあらず、よくしたゝめなば、まねび得ることも、などかは絶てなからん、さて又玉 葉風雅の二ツの集は、為兼卿流の集なるが、彼卿の流の歌は、皆ことやうなるものにして、いといやしくあしき風なり、されば此一流は、其時代よりして、異風と定めしこと也、さて件ンの二集と、新古今とをのぞきて外は、千載集より、廿一代のをはり新続古今集までのあひだ、格別 にかはれることなく、おしわたして大抵同じふりなる物にて、中古以来世間普通 の歌のさまこれなり、さるは世の中こぞりて、俊成卿定家卿の教ヘをたふとみ、他門の人々とても、大抵みなその掟を守りてよめる故に、よみかた大概に同じやうになりて、世々を経ても、さのみ大きにかはれる事はなく、定まれるやうになれるなるべし、世に二條家の正風体といふすがた是也、此ノ代々の集の内にも、すこしづゝは、勝劣も風のかはりもあれども、大抵はまづ同じこと也、さて初学の輩の、よむべき手本には、いづれをとるべきぞといふに、上にいへるごとく、まづ古今集をよく心にしめておきて、さて件ンの千載集より新続古今集までは、新古今と玉 葉風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし、然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほふしの草庵集といふ物などを、會席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也、此人の歌、かの二條家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき歌もさのみなければ也、其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず、但し歌よむ時にのぞみて、歌集を見ることは、癖(クセ)になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし、たゞ集共をば、常々心がけてよく見るべき也、さてこれより近世のなべての歌人のならひの、よろしからざる事共をいひて、さとさむとす、そはまづ道統といひて、其伝来の事をいみしきわざとして、尊信し、歌も教ヘも、たゞ伝来正しき人のみ、ひたすらによき物とかたくこゝろえ、伝来なき人のは、歌も教ヘも、用ひがたきものとし、又古ヘの人の歌及び其家の宗匠の歌などをば、よしあしきを考へ見ることもなく、たゞ及ばぬ こととして、ひたぶるに仰ぎ尊み、他門の人の歌といへば、いかほどよくても、これをとらず、心をとゞめて見んともせず、すべて己が学ぶ家の法度掟を、ひたすらに神の掟の如く思ひて、動くことなく、これをかたく守ることのみ詮とするから、その教ヘ法度にくゝられて、いたくなづめる故に、よみ出る歌みなすべて、詞のつゞけざまも、一首のすがたも、近世風又一トやうに定まりたる如くにて、わろきくせ多く、其さまいやしく窮屈にして、たとへば手も足もしばりつけられたるものの、うごくことかなはざるがごとく、いとくるしくわびしげに見えて、いさゝかもゆたかにのびらかなるところはなきを、みづからかへり見ることなく、たゞそれをよき事と、かたくおぼえたるは、いといと固陋にして、つたなく愚なること、いはんかたなし、かくのごとくにては、歌といふものの本意にたがひて、さらに雅(ミヤビ)の趣にはあらざる也、そもそも道統伝来のすぢを、重くいみしき事にするには、もと仏家のならひよりうつりて、宋儒の流なども然也、仏家には、諸宗おのおの、わが宗のよゝの祖師の説をば、よきあしきをえらぶことなく、あしきことあるをも、おしてよしと定めて尊信し、それにたがへる他の説をば、よくても用ひざるならひなるが、近世の神学者歌人などのならひも、全くこれより出たるもの也、さるは神学者歌人のみにもあらず、中昔よりこなた、もろもろの芸道なども、同じ事にて、いと愚なる世のならはしなり、たとひいかほど伝来はよくても、その教よろしからず、そのわざつたなくては、用ひがたし、其中に諸芸などは、そのわざによりては、伝来を重んずべきよしもあれども、学問や歌などは、さらにそれによることにあらず、古ヘの集共を見ても知べし、その作者の家すぢ伝来には、さらにかゝはることなく、誰にもあれ、ひろくよき歌をとれり、されば定家卿の教ヘにも、和歌に師匠なしとのたまへるにあらずや、さて又世々の先達の立チおかれたる、くさぐかの法度掟の中には、かならず守るべき事も多く、又中にはいとつたなくして、必ズかゝはるまじきも多きことなるに、ひたぶるに固くこれを守るによりて、返て歌のさまわろくなれることも、近世はおほし、すべて此道の掟は、よきとあしきとをえらびて、守るべき也、ひたすらになづむべきにはあらず、又古人の歌は、みな勝(スグ)れたる物のごとくこゝろえ、たゞ及ばぬ 事とのみ思ひて、そのよしあしを考へ見んともせざるは、いと愚なること也、いにしへに歌といへども、あしきことも多く、歌仙といへども、歌ごとに勝(スグ)れたる物にもあらざれば、たとひ人まろ貫之の歌なりとも、実によき与あしき与を、考へ見て、及ばぬ までも、いろいろと評論をつけて見るべき也、すべて歌の善悪を見る稽古、これに過たる事なし、大に益あること也、然るに近世の歌人のごとく、及ばぬ 事とのみ心得居ては、すべて歌の善悪を見分べき眼の、明らかになるよしなくして、みづからの歌も、よしあしやをわきまふることあたはず、さやうにていつまでもたゞ、宗匠にのみゆだねもたれてあらんは、いふかいなきわざならずや、すべて近世風の歌人のごとく、何事も愚につたなき学びかたにては、生涯よき歌は出来るものにあらずと知べし、さて又はじめにいへる如く、歌をよむのみにあらず、ふるき集共をはじめて、歌書に見えたる万の事を、解キ明らむる学ビ有リ、世にこれを分て歌学者といへり、歌学といへば、歌よむ事とをまなぶことなれども、しばらく件のすぢを分て然いふ也、いにしへに在リては、顕昭法橋など此すぢなるが、其説は、ゆきたらはぬ 事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以来の人々の説は、かの近世やうの、おろかなる癖(クセ)おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず、然るに近く契沖ほふし出てより、此学大キにひらけそめて、歌書のとりさばきは、よろしくなれり、さて歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顕昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬ は、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、歌学のかたに深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬ わざなれば、其中に無益の書に、功(テマ)をつひやすこともおほきぞかし、
<ク>物語ぶみどもをもつねに見るべし、 此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもはらしつ、
<ヤ>いにしへ人の風雅(ミヤビ)のおもむきをしる云々、 すべて人は、雅(ミヤビ)の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘのみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅(ミヤビ)たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物学びする人々のやうを見渡すに、主(ムネ)と道を学ぶ輩は、上にいへるごとくにておほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、歌などよむをば、たゞあだ事のやうに思ひすてて、歌集などは、ひらきて見ん物ともせず、古人の雅情を、夢にもしらざるが故に、その主とするところの古の道をも、しることあたはず、かくのごとくにては、名のみ神道にて、たゞ外国の意のみなれば、実には、道を学ぶといふものにはあらず、さて又歌をよみ文を作りて、古をしたひ好む輩は、たゞ風流のすぢにのみまつはれて、道に事をばうちすてて、さらに心にかくることなければ、よろづにいにしへをしたひて、ふるき衣服調度などをよろこび、古き書をこのみよむたぐひなども、皆たゞ風流のための玩物にするのみ也、そもそも人としては、いかなる者も、人の道をしらでは有べからず、殊に何のすぢにもせよ、学問をもして、書をもよむほどの者の、道に心をよすることなく、神のめぐみのたふときわけなどもしらず、なほざりに思ひて過すべきことにはあらず、古ヘをしたひたふとむとならば、かならずまづその本たる道をこそ、第一に深く心がけて、明らめしるべきわざなるに、これをさしおきて、末にのみかゝづらふは、実にいにしへを好むといふものにはあらず、さては歌をよむも、まことにあだ事にぞ有ける、のりなががをしへにしたがひて、ものまなびせんともがらは、これらのこゝろをよく思ひわきまへて、あなかしこ、道をなほざりに思ひ過すことなかれ、
こたみ此書かき出デつることは、はやくより、をしへ子どもの、ねんごろにこひもとめけるを、年ごろいとまなくなどして、聞過しきぬ るを、今は古事記ノ伝もかきをへつればとて、又せちにせむるに、さのみもすぐしがたくて、物しつる也、にはかに思ひおこしたるしわざなれば、なほいふべき事どもの、もれたるなども多かりなんを、うひまなびのためには、いさゝかたすくるやうもありなんや、
いかならむうひ山ぶみのあさごろも 浅きすそ野のしるべばかりも
 
「玉くしげ」

 

「玉くしげ」「秘本玉くしげ」この2つの本は、宣長(58歳)の時、天明7年(1787)12月に成り、別巻を添えて紀州藩主・徳川治貞に奉られた。別巻(「玉くしげ」)が理念編であり、国学の中心思想が書かれている。「世の中に、死ぬ るほどかなしき事はなき」という有名な一節もこの中にある。秘本は実際編、つまり政治の具体策が書かれている。疲弊する藩経済をいかに建て直すか、百姓一揆の根本的な解決策はあるのか、また藩と町人の関係などが具体的に説かれている。松坂の町人社会の一員としての経験と、古典研究の成果 を生かし、良識ある国学者としての意見として、200余年の歳月を隔てた今でも傾聴に値する。また、生活者としての宣長を知る上でも欠かすことの出来ない著作である。  
玉くしげの序
此書は。わが鈴ノ屋ノ大人の。ある國の君に。道の大かたを。いまの世のさとび言もて。たれしの人もかやすくさとり得つべきさまに書て。奉られたりし書なるを。下書の。名におふ匣の底にのこれるを。此里の廣海が乞出して。木にゑるにつきて。おのが一言をくはへてよとあるまゝに。書つけけらく。そもそもわがうしの。道びきのこゝだくのいさをは。いはまくもさらなれど。なほいさゝかいはむには。此まことの道はしも。外國ぶみの。うはべよきまがこと共に。かきくらされて。かの須佐之男命の。勝さびの御あらびに。天照大御神。ゆゝしくも天の石屋にさしこもらして。世ノ中は常夜ゆきけむ事のごとく。光見る人もなくて八百年千年を經にけるに。思兼神の御靈やそはりけむ。此大人の深くおもひ遠く思ひて。うまらにおもひ得られたる。此まことの意よ。長鳴鳥のこゑ高くとほく。天の下に聞えわたりて。世ノ人皆の秋の長夜のいめさめて。朝目よく仰ぎ見む。朝日のひかりは。まぐはしきかもうらぐはしきかも。明らけきかもたふときかも。時は寛けき政と改まりて。天ノ下よろこび榮ゆるはじめの年の春のなかば。かくいふは尾張の殿人 横井千秋
玉くしげ
此書は、ある御方に、道の大むね今の世の心得を書て奉れるなり、それに歌をもよみて書そへたる、中の詞を取りて、かくは名けつ、其歌は、
身におはぬしづがしわざも玉くしげ あけてだに見よ中の心を
まことの道は、天地の間にわたりて、何れの國までも、同じくたゞ一すぢなり、然るに此道、ひとり皇國にのみ正しく傳はりて、外國にはみな、上古より既にその傳來を失へり、それ故に異國には、又別にさまざまの道を説て、おのおの其道を正道のやうに申せども、異國の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、たとひこゝかしこと似たる所は有リといへども、その末々の枝道の意をまじへとりては、まことの道にかなひがたし、いでその一すぢの本のまことの道の趣を、あらあら申さむには、まづ第一に、此世ノ中の惣體の道理を、よく心得おくべし、其ノ道理とは、此天地も諸神も萬物も、皆ことごとく其本は、高皇産靈神神皇産靈神と申す二神の、産靈のみたまと申す物によりて、成出來たる物にして、世々に人類の生れ出、萬物萬事の成出るも、みな此御靈にあらずといふことなし、されば神代のはじめに、伊邪那岐伊邪那美二柱大御神の、國土萬物もろもろの神たちを生成し給へるも、其本は皆、かの二神の産靈の御靈によれるものなり、抑此産靈の神靈と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどいふことは、さらに人の智慧を以て、測識べきところにあらず、然るを外國には、正道の傳へなき故に、此神の産靈の御しわざをえしらずして、天地萬物の道理をも、或は陰陽八卦五行などいふ理窟を立て、これを説明さむとすれども、これらは皆、人智のおしはかりの妄説にして、誠には左様の道理はあることなし、さて伊邪那岐大御神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、豫美國まで慕行せたまひしが、此顯國にかへらせたまひて、その豫美國の穢惡に觸給へるを、清めたまふとして、筑紫の橘小門の檍原に御禊し給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神生出ましまして、御父大御神の御事依しによりて、永く高天原を所知看すなり、天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即チ今此ノ世を照しまします、天津日の御事ぞかし、さて此ノ天照大御神の、皇孫尊に、葦原中國を所知看せとありて、天上より此土に降し奉りたまふ、其時に、大御神の勅命に、寶祚之隆當與天壤無窮者矣とありし、此ノ勅命はこれ、道の根元大本なり、かくて大かた世ノ中のよろづの道理、人の道は、神代の段々のおもむきに、ことごとく備はりて、これにもれたる事なし、さればまことの道に志あらん人は、神代の次第をよくよく工夫して、何事もその跡を尋ねて、物の道理をば知べきなり、その段々の趣は、皆これ神代の古傳説なるぞかし、古傳説とは、誰言出たることともなく、たゞいと上代より、語り傳へたる物にして、即チ古事記日本紀に記されたる所を申すなり、
さて此二典に記されたる趣は、いと明らかにして、疑ひもなき事なるを、後世に神典を説者、あるひは神秘口授などいふことを造り出して、あらぬ僞を説きヘヘ、或は異國風の理窟にのみ泥みて、神代の妙趣を信ずる事あたはず、世ノ中の道理は、みな神代の趣に備はれる事をもえさとらず、すべて吾古傳説の旨をば、立ることあたはずして、かの異國の説のおもむきにすがりて取さばかむとするから、その異國のいふところに合はざる事をば、みな私の料簡を以て、みだりに己が好むかたに説曲て、或は高天原とは、帝都をいふなどと解なして、天上の事にあらずとし、天照大御神をも、たゞ本朝の大祖にして、此土にましましし神人の如くに説なして、天津日にはあらざるやうに申す類、みなこれ異國風の理窟にへつらひて、強てその趣に合はさんとする私事にして、古傳説を、ことさらに狹く小くなして、その旨ひろくゆきわたらず、大本の意を失ひ、大に神典の趣に背けるものなり、抑天地は一枚にして、隔なければ、高天原は、萬國一同に戴くところの高天ノ原にして、天照大御神は、その天をしろしめす御神にてましませば、宇宙のあひだにならぶものなく、とこしなへに天地の限をあまねく照しましまして、四海萬國此ノ御徳光を蒙らずといふことなく、何れの國とても、此ノ大御神の御陰にもれては、一日片時も立ことあたはず、世ノ中に至て尊くありがたきは、此ノ大御神なり、然るを外國には皆、神代の古傳説を失へるが故に、これを尊敬し奉るべきことをばしらずして、たゞ人智のおしはかりの考を以つて、みだりに日月は陰陽の精などと定めおきて、外にあるひは唐戎國にては、天帝といふ物を立て、上なく尊き物とし、其餘の國々にても、道々に主として尊奉する物あれども、それらは或はおしはかりの理を以ていひ、或は妄に説を作りていへる物にして、いづれも皆、人の假に其ノ名をまうけたるのみにこそあれ、實には天帝も天道も何も、あるものにはあらず、
そもそも外國には、かやうに實もなき物をのみ尊みて、天照大御神の御陰の、よに尊く有がたき御事をば、しらずしてあるは、いとあさましき事なるに、皇國は格別の子細あるが故に、神代の正しき古説の、つまびらかに傳はりて、此ノ大御神の御由來をもうかゞひ知て、これを尊み奉るべき道理をしれるは、いといと難有き御事にぞ侍る、さて皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩ョをおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、
かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、
此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、さて外國には、古傳説なければ、此ノ子細どもをせらざるも、せんかたなきを、本朝には、明白に正しき傳説の有リながら、世の人これを知ることあたはず、たゞかの異國の妄説をのみ信じ、其ノ説に泥み溺れて、返てよしなき西戎の國を尊み仰ぐは、いよいよあさましき事ならずや、たとひまさりたりとも、よしなき他國の説を用ひんよりは、己が本國の傳説にしたがひよらんこそ、順道なるべきに、まして異國の説はみな虚妄にして、本朝の傳へは實なるをや、然れども異國風のなまさかしき見識の、千有餘年心の底に染著て、其他を思はざる世の人なれば、今かやうに申しても、誰も早速にはえ信ずまじき事なれども、惣じて異國風のこざかしき料簡は、よくおもへば、返て愚なることぞ、今一段高き所を考へて、まことの理は、思慮の及びがたきことにして、人の思ひ測るところとは、大に相違せる事のあるものぞといふことを、よくさとるべきなり、又かの異國人の思へるごとく、本朝の人も、此ノ御國をば、たゞ小國のやうにのみ心得居るに付ては、天地の間にゆきわたりたるまことの道の、かゝる小國にのみ傳はらんことはいかゞと、疑ふ人も有ルべきなれども、これ又なまさかしき一往の料簡にして、深く考へざるものなり、惣じて物の尊卑は、その形の大小によるものにあらざれば、國も、いかほど廣くても、卑く惡き國あり、狹くても尊く美しき國あり、其ノ内に、むかしより外國共のやうを考ふるに、廣き國は、大抵人民も多くて強く、狹き國は、人民すくなくて弱ければ、勢におされて、狹き國は、廣き國に従ひつくから、おのづから廣きは尊く、狹きは卑きやうなれども、實の尊卑美惡は、廣狹にはよらざることなり、そのうへすべて外國は、土地は廣大にても、いづれも其ノ廣大なるに應じては、田地人民はなはだ稀少なり、唐土などは、諸戎の中にては、よき國と聞えたれども、それすら皇國にくらぶれば、なほ田地人民は、はなはだ少くまばらにして、たゞいたづらに土地の廣きのみなり、これは彼ノ國の書どもに、代々の惣口數戸數を擧たると、本朝の戸數口數とをくらべ見て、よくしらるゝことなり、又今現在に本朝の國々にて、同じ一國の内にても、土地は廣くて、人民物成のすくなき所あり、狹くて人民物成リは多き所もあるを以て、惣體土地の廣狹にはかゝはるべからざることをさとるべし、古ヘ大國上國中國下國、大郡上郡中郡下郡小郡と分定められしも、必ズしも土地の大小にはかゝはらざりし事ぞかし、
然るにむかしより世の人、此わきまへなくして、たゞ土地の廣狹を以て、其國の大小を定むるは、あたらざることなり、皇國は古ヘよりして、田地人民の甚ダ多く稠密なること、さらに異國には類なければ、此ノ人數物成リを以て量るときは、甚だ大國にして、殊に豐饒殷富勇武強盛なること、何れの國かはよく及ぶ者あらん、これ又格別の子細にして、何事も神代より皇神たちの、かくのごとく尊卑勝劣をたておかせ給へるものなり、然るに近世儒者など、ひたすら唐土をほめ尊みて、何事もみな彼ノ國をのみ勝れたるやうにいひなし、物體なくも皇國をば看下すを、見識の高きにして、ことさらに漫に賤しめ貶さんとして、或は本朝は古ヘに道なしといひ、惣じて文華の開けたることも、唐土よりはるかに遲しといひ、或は本朝の古書は、古事記日本紀といへども、唐土の古書にくらぶれば、遙に後世の作なりといひて、古傳説を破り、或は日本紀の文を見て、上古の事はみな、後の造りことぞといひおとすたぐひ、これらは皆例のなまさかしき、うはべの一わたりの論にして、精く思はざるものなり、そのうへ唐土の書にのみ泥み惑ひて、他あることをしらざるものなれば、返て見識もいと小く卑きことならずや、又かやうに他國を内にして、吾ガ本國を外にするは、己がよる所の孔子の意にも、いたく背けるものなり、すべて右の論どもの、當らざることをいはば、まづ皇國の古ヘは道なしといふは、此方にまことの勝れたる道のあることをしらずして、たゞ唐戎の道をのみ道と心得たるひがことなり、かの唐戎の道などは、末々の枝道なれば、ともあれかくもあれ、それにかゝはるべきことにあらず、又文華早く開けたりとて、唐土を勝れたりと思ふも、ひがことなり、早く文華の開けたるやうなるは、萬ヅの事の早く變化したるにて、これ彼ノ國の風俗の飽く惡く輕薄なるが故なり、いかにといふに、かの唐戎は、上古より人心なまさかしくして、物事舊きによることを尚ばず、ひたもの己が思慮工夫を以て、改め變るをよき事にせる國俗なる故に、おのづから世ノ中の模様は、世々に速に移りかはりしなり、然るに皇國は、正直重厚なる風儀にて、何事もたゞ古き跡により守りて、輕々しく私智を以て改むる事はせざりし故に、世ノ中の模様のよゝにうつり變ることも、おのづから速にはあらざりしなり、此ノ重厚の風儀は、今もなほ遺れることぞかし、猶此變化の遲速の勝劣をいはば、牛馬鷄犬などのたぐひは、生れてより成長すること甚速なるを、人はこれらに比ぶれば、成長する事甚遲し、これらを以て准へ見るに、勝れる物、變化すること遲き道理も有ルべし、又かの成長することの速なる鳥獣などは、命短く、人は遲くて、命長きを以テ見れば、世ノ中の模様の、うつりかはれること早き處は、其國の命短く、うつりかはることの遲き國は、存すること永久なるべし、そのしるしは、數千萬歳を經て後に見ゆべきなり、又古書の事を、その撰出の時代を以て論ずるも、うはべのことなり、其故は、右に申せる如く、唐戎はなまさかしく、私智をふるふ國俗にて、其ノ古書も、おのおの作者の己が心より書出せる故に、その時代に應じて、古き近きの勝劣あることなるが、皇國の古ヘは、重厚なる風儀にて、すべての事に、己がさかしらを用ひず、かろがろしく舊きを改むることなどはせざりしかば、古傳の説も、たゞ神代より語り傳へのまゝにて、傳はり來りしを、其ノ古傳説のまゝに記されたる、古事記日本紀なれば、かの輕薄なる唐戎のあらはせる書どもと同じなみに、時代を以て論ずべきにあらず、撰録の時代こそ後なれ、
其ノ傳説の趣は、神代のまゝなれば、唐國の古書どもよりは、返てはるかに古き事なるをや、但し日本紀は、唐土の書籍の體をうらやみて、漢文を餝られたる書なれば、その文によりて解するときは、疑はしき事おほかるべし、されば日本紀を見るには、文にはかゝはらず、古事記とくらべ見て、その古傳の趣をしるべきなり、大かた右の子細どもをよくわきまへて、すべて儒者どものなまさかしき論には、惑はさるまじきことになん、さて世ノ中にあらゆる、大小もろもろの事は、天地の間におのづからあることも、人の身のうへのことも、なすわざも、皆ことごとく神の御靈によりて、神の御はからへなるが、惣じて神には、尊卑善惡邪正さまざまある故に、世ノ中の事も、吉事善事のみにはあらず、惡事凶事もまじりて、國の亂などもをりをりは起り、世のため人のためにあしき事なども行はれ、又人の禍福などの、正しく道理にあたらざることも多き、これらはみな惡き神の所爲なり、惡神と申すは、かの伊邪那岐大御神の御禊の時、豫美國の穢より成出たまへる、禍津日神と申す神の御靈によりて、諸の邪なる事惡き事を行ふ神たちにして、
さやうの神の盛に荒び給ふ時には、皇神たちの御守護り御力にも及ばせ給はぬ事もあるは、これ神代よりの趣なり、さて正しき事善事のみはあらずして、かやうに邪なる事惡き事も必ズまじるは、これ又然るべき根本の道理あり、これらの趣も皆、神代より定まりて、其ノ事古事記日本紀に見えたり、その委き子細どもは、古事記ノ傳に申し侍り、事長ければ、こゝにはつくしがたし、さて豫美國の穢れといふに付て、一ッ二ッ申すべきことあり、まづ豫美と申すは、地下の根底に在リて、根國底國とも申して、甚ダきたなく惡き國にて、死せる人の罷往ところなり、其ノ始メ伊邪那美尊かくれさせ給ひて、此豫美國に往せたまひしが、黄泉戸喫とて、其國の炊爨の物を食し給ひし穢によりて、永く此顯國にかへらせたまふことかなはず、此穢によりて、つひに凶惡の~となり給ひて、その穢より、かの禍津日神は成出給へれば、此道理をよく思ひて、世に大切に忌慎むべきは、物の穢なり、さて世の人は、貴きも賤しきも善も惡きも、みな悉く、死すれば、必ズかの豫美國にゆかざることを得ず、いと悲しき事にてぞ侍る、かやうに申せば、たゞいと淺はかにして、何の道理もなきことのやうには聞ゆれども、これぞ神代のまことの傳説にして、妙理の然らしむるところなれば、なまじひの凡智を以て、とやかくやと思議すべき事にあらず、然るを異國には、さまざまの道を作りて、人の生死の道理をも、甚ダおもしろくかしこげに説ことなれども、それは或は人智のおしはかりの理窟を以ていひ、或は世の人の尤と信ずべきやうに、都合よく造りたる物にして、
いづれも面白くは聞ゆれども、皆虚妄にして、實にあらず、惣じて人のかしこく造りたる説は、尤なるやうに聞え、まことの傳へは、返て淺々しく、おろかなることのやうに聞ゆる物なれども、人の智慧は限ありて、得測りしらゆところ多ければ、すべてその淺はかに愚に聞ゆる事に、返て限なく深き妙理はあることなるを、
及ばぬ凡智を以てこれを疑ひ、かの造りことの、尤らしく聞ゆる方を信ずるは、己が心を信ずるといふものにて、返ていと愚なることなり、さて死すれば、妻子眷屬朋友家財萬事をもふりすて、馴たる此世を永く別れ去て、ふたゝび還來ることあたはず、かならずかの穢き豫美國に往ことなれば、世の中に、死ぬるほどかなしき事はなきものなるに、かの異國の道々には、或はこれを深く哀むまじき道理を説き、或は此ノ世にてのしわざの善惡、心法のとりさばきによりて、死して後になりゆく様をも、いろいろと廣く委く説たる故に、世ノ人みなこれらに惑ひて、其説共を尤なる事に思ひ、信仰して、死を深く哀むをば、愚なる心の迷ひのやうに心得るから、これを愧て、強て迷はぬふり、悲まぬ體を見せ、或は辭世などいひて、ことごとしく悟りきはめたるさまの詞を遺しなどするは、皆これ大きなる僞のつくり言にして、人情に背き、
まことの道理にかなはぬことなり、すべて喜ぶべき事をも、さのみ喜ばず、哀むべきことをも、さのみ哀まず、驚くべき事にも驚かず、とかく物に動ぜぬを、よき事にして尚ぶは、みな異國風の虚僞にして、人の實情にはあらず、いとうるさきことなり、中にも死は、殊に哀しからではかなはむ事にして、國土萬物を成立、世ノ中の道を始めたまひし、伊邪那岐大御神すら、かの女神のかくれさせ給ひし時は、ひたすら小兒のごとくに、泣悲みこがれ給ひて、かの豫美國まで、慕ひゆかせたまひしにあらずや、これぞ眞實の性情にして、世ノ人も、
かならず左様になくてはかなはぬ道理なり、それ故に、上古いまだ異國の説の雜らざりし以前、人の心直かりし時には、死して後になりゆくべき理窟などを、とやかくやと工夫するやうの、無uのこざかしき料簡はなくして、たゞ死ぬれば豫美國にゆくことと、道理のまゝに心得居て、泣悲むよりほかはなかりしぞかし、抑これらは、國政などには要なき申し事なれども、皇神の道と異國の道との、眞僞の心得にはなり侍るべき事なり、さてかの世ノ中にあしき事よこさまなる事もあるは、みな惡き神の所爲なりといふことを、外國にはえしらずして、人の禍福などの、
道理にあたらぬ事あるをも、或はみな因果報應と説きなし、あるひはこれを天命天道といひてすますなり、しかれども因果報應の説は、上に申せるごとく、都合よきやうに作りたる物なれば、論ずるに及ばず、また天命天道といふは、唐土の上古に、かの湯武などの類なる者の、君を滅して其ノ國を奪取る、大逆の罪のいひのがれと、道理のすまざる事を、強てすましおかんためとの、託言なりと知べし、もし實に天の命天の道ならば、何事もみな、かならず正しく道理のまゝにこそ有ルべきに、道理にあたらざる事おほきは、いかにぞや、畢竟これらもみな、神代のまことの古傳説なきが故に、さまざまとよきやうに造りまうけたる物なり、さて右のごとく、善神惡神、こもごも事を行ひ給ふ故に、世々を經るあひだには、善惡邪正さまざまの事ども有リて、或は天照大御神の皇統にまします朝廷をしも、ないがしろにし奉りて、姦曲をほしいまゝにし、武威をふるへる、北條足利のごとき逆臣もいでき、さやうの者にも、天下の人のなびきしたがひ、朝廷大に衰へさせたまひて、世ノ中の亂れし時などもなきにあらざれども、然れども惡はつひに善に勝ことあたはざる、神代の道理、又かの神勅の大本動くべからざるが故に、さやうの逆臣の家は、つひにみな滅び亡て、跡なくなりて、天下は又しも、めでたく治平の御代に立かへり、朝廷は嚴然として、動かせたまふことなし、これ豈人力のよくすべきところならんや、又外國のよく及ぶところならんや、さて右のごとく、中ごろ朝廷の大に衰へさせ給へること有リしは、天下の亂れて、萬ヅの事もおとろへ廢れしなり、此道理をよく思はずはあるべからず、そもそもかの足利家の末つかたの世は、前代未曾有の有リさまにて、天下は常闇に異ならず、萬ヅの事、此時に至て、ことごとく衰敗して、まことに壞亂の至極なりき、然るところに、織田豐臣の二將出たまひて、亂逆をしづめ、朝廷を以直し奉り、尊敬し奉り給ひて、世ノ中やうやく治平におもむきしが、其後つひに又、今のごとくに天下よく治まりて、古ヘにもたぐひまれなるまで、めでたき御代に立かへり、榮ゆることは、ひとへにこれ、東照神御祖命の御勲功御盛コによれる物にして、その御勲功御盛コと申すは、まづ第一に、朝廷のいたく衰へさせ給へるを、かの二將の跡によりて、猶次第に再興し奉らせ給ひ、いよいよますます御崇敬厚くして、つぎつぎに諸士萬民を撫治めさせたまへる、これなり、此御盛業、自然とまことの道にかなはせ給ひ、天照大御神の大御心にかなはせたまひて、天神地祇も、御加護厚きが故に、かくのごとく御代はめでたく治まれるなり、かやうに申シ奉るは、たゞ時世にへつらひて、假令に申シ奉るにはあらず、
現に御武運隆盛にして、天下久しく太平なることは、申すに及ばず、又前代にはいまだ嘗てあらざりし、めでたき事どもも、數々此ノ御代より起れるなど、彼此を以て、その然ることをしればなり、惣じて武將の御政は、かの北條足利などの如くに、大本の朝廷を重んじ奉ることの闕ては、たとひいかほどに仁コを施し、諸士をよくなつけ、萬民をよく撫給ひても、みなこれ私のための治術にして、道にかなはず、これ本朝は、異國とは、その根本の大に異なるところなり、その子細は、外國は、永く定まれるまことの君なければ、たゞ時々に、世ノ人をよくなびかせしたがへたる者、誰ひても王となる國俗なる故に、その道と立るところの趣も、その國俗によりて立たる物にて、君を殺して國を簒へる賊をさへ、道にかなへる聖人と仰ぐなり、然るに皇國の朝廷は、天地の限リをとこしなへに照しまします、天照大御神の御皇統にして、すなはちその大御神の神勅によりて、定まらせたまへるところなれば、萬々代の末の世といへども、日月の天にましますかぎり、天地のかはらざるかぎりは、いづくまでもこれを大君主と戴き奉りて、畏み敬ひ奉らでは、天照大御神の大御心にかなひがたく、この大御神の大御心に背き奉りては、一日片時も立ことあたはざればなり、然るに中ごろ、此ノ道にそむきて、朝廷を輕しめ奉りし者も、しばらくは子孫まで榮えおごりしこともありしは、たゞかの禍津日神の禍事にこそ有リけれ、いかでか是レを正しき規範とはすべき、然るを世ノ人は、此大本の道理、まことの道の旨をしらずして、儒者など小智をふるひて、みだりに世々の得失を議し、すべてたゞ異國の惡風俗の道の趣を規矩として、或はかの逆臣たりし北條が政などをしも、正道なるやうに論ずるなどは、みな根本の所たがひたれば、いかほど正論の如く聞えても、畢竟まことの道にはかなはざることなり、
下々の者は、たとひ此大本を取違へても、其身一分ぎりの失なるを、かりにも一國一郡をも領じたまふ君、又その國政を執ん人などは、道の大本をよく心得居給はではかなはぬことなり、されば末々の細事のためにこそ、唐土の書をも随分に學びて、便によりて其ノかたをもまじへ用ひ給はめ、道の大本の所に至ては、上件のおもむきを、常々よく執へ持て、これを失ひ給ふまじき御事なり、惣じて國の治まると亂るゝとは、下の上を敬ひ畏るゝと、然らざるとにあることにて、上たる人、其ノ上を厚く敬ひ畏れ給へば、下たる者も、又つぎつぎに其ノ上たる人を、厚く敬ひ畏れて、國はおのづからよく治まることなり、さて今の御代と申すは、まづ天照大御神の御はからひ、朝廷の御任によりて、東照神御祖命より御つぎつぎ、大將軍家の、天下の御政をば、敷行はせ給ふ御世にして、その御政を、又一國一郡と分て、御大名たち各これを預かり行ひたまふ御事なれば、其御領内御領内の民も、全く私の民にはあらず、國も私シの國にはあらず、天下の民は、みな當時これを、東照神御祖命御代々の大將軍家へ、天照大御神の預けさせ給へる御民なり、國も又天照大御神の預けさせたまへる御國なり、然ればかの、神御祖命の御定め、御代々の大將軍家の御掟は、すなはちこれ天照大御神の御定御掟なれば、殊に大切に思召シて、此ノ御定メ御掟テを、背か頽さじとよく守りたまひ、又其國々の政事は、天照大御神より、次第に預かりたまへる國政なれば、随分大切におぼしめして、はぐゝみ撫給ふべき事、御大名の肝要なれば、下々の事執行ふ人々にも、此旨をよく示しおき給ひて、心得違へなきやうに、常々御心を付らるべき御事なり、さて又上に申せるごとく、世ノ中のありさまは、萬事みな善惡の神の御所爲なれば、よくなるもあしくなるも、極意のところは、人力の及ぶことに非ず、
神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ物なれば、此根本のところをよく心得居給ひて、たとひ少々國のためにあしきこととても、有來りて改めがたからん事をば、俄にこれを除き改めんとはしたまふまじきなり、改めがたきを、強て急に直さんとすれば、神の御所爲に逆ひて、返て爲損ずる事もある物ぞかし、すべて世には、惡事凶事も、必ズまじらではえあらぬ、神代の深き道理あることなれば、とにかくに、十分善事吉事ばかりの世ノ中になす事は、かなひがたきわざと知ルべし、然るを儒の道などは、隅から隅まで掃清めたるごとくに、世ノ中を善事ばかりになさんとするヘにて、とてもかなはぬ強事なり、さればこそかの聖人といはれし人々の世とても、其國中に、絶て惡事凶事なきことは、あたはざりしにあらずや、又人の智慧は、いかほどかしこくても限ありて、測り識りがたきところは、測り識ことあたはざるものなれば、善しと思ひて爲ることも、實には惡く、惡しゝと思ひて禁ずる事も、實には然らず、或は今善き事も、ゆくゆくのためにあしく、今惡き事も、後のために善き道理などもあるを、
人はえしらぬことも有リて、すべて人の料簡にはおよびがたき事おほければ、とにかくに世ノ中の事は、神の御はからひならでは、かなはぬものなり、然らば何事もたゞ、神の御はからひにうちまかせて、よくもあしくもなりゆくまゝに打捨おきて、人はすこしもこれをいろふまじきにや、と思ふ人もあらんか、これ又大なるひがことなり、人も、人の行ふべきかぎりをば、行ふが人の道にして、そのうへに、其事の成と成ざるとは、人の力に及ばざるところぞ、といふことを心得居て、強たる事をば行ふまじきなり、然るにその行ふべきたけをも行はずして、たゞなりゆくまゝに打捨おくは、人の道にそむけり、此ノ事は、神代に定まりたる旨あり、大國主命、此ノ天下を皇孫尊に避奉り、天神の勅命に歸順したてまつり給へるとき、天照大御神高皇産靈大神の仰せにて、御約束の事あり、その御約束に、今よりして、世ノ中の顯事は、皇孫尊これを所知看すべし、大國主命は、幽事を所知べしと有リて、これ萬世不易の御定めなり、幽事とは、天下の治亂吉凶、人の禍福など其外にも、すべて何者のすることと、あらはにはしれずして、冥に神のなしたまふ御所爲をいひ、顯事とは、世ノ人の行ふ事業にして、いはゆる人事なれば、皇孫尊の御上の顯事は、即チ天下を治めさせ給ふ御政なり、かくて此ノ御契約に、天下の政も何も、皆たゞ幽事に任すべしとは定め給はずして、顯事は、皇孫尊しろしめすべしと有ルからは、その顯事の御行ひなくてはかなはず、又皇孫尊の、天下を治めさせ給ふ、顯事の御政あるからは、今時これを分預かり給へる、一國一國の顯事の政も、又なくてはかなふべからず、
これ人もその身分身分に、かならず行ふべきほどの事をば、行はでかなはぬ道理の根本なり、さて世ノ中の事はみな、神の御はからひによることなれば、顯事とても、畢竟は幽事の外ならねども、なほ差別あることにて、其差別は譬へば、神は人にて、幽事は、人のはたらくが如く、世ノ中の人は人形にて、顯事は、其人形の首手足など有リて、はたらくが如し、かくてその人形の色々とはたらくも、實は是レも人のつかふによることなれども、人形のはたらくところは、つかふ人とは別にして、その首手足など有リて、それがよくはたらけばこそ、人形のしるしはあることなれ、首手足もなく、はたらくところなくては、何をか人形のしるしとはせん、
此差別をわきまへて、顯事のつとめも、なくてはかなはぬ事をさとるべし、さてかの大國主命と申すは、出雲の大社の御神にして、はじめに此天下を經營し給ひ、又八百萬神たちを帥て、右の御約束のごとく、世ノ中の幽事を掌り行ひ給ふ御神にましませば、天下上下の人の、恐れ敬ひ尊奉し奉らでかなはぬ御神ぞかし、惣じて世ノ中の事は、神の御靈にあらではかなはぬ物なれば、明くれ其ノ御コをわすれず、天下國家のためにも、面々の身のためにも、もろもろの神を祭るは、肝要のわざなり、善神を祭りて福を祈るは、もとよりのこと、又禍をまぬかれんために、荒ぶる神をまつり和すも、古ヘの道なり、然るを人の吉凶禍福は、面々の心の邪正、行ひの善惡によることなるを、神に祈るは愚なり、神何ぞこれをきかんとやうにいふは、儒者の常の論なれども、かやうに己が理窟をたのみたてて、神事をおろそかにするは、例のなまさかしき唐戎の見識にして、これ神には邪神も有リて、よこさまなる禍のある道理を知らざる故のひがことなり、さてかの顯事の國政の行ひかた、并に惣體の人の行ふべき事業は、いかやうなるが、まことの道にかなふべきぞといふに、まづ上古に、天皇の天下を治めさせ給ひし御行ひかたは、古語にも、神隨天下しろしめすと申して、たゞ天照大御神の大御心を大御心として、萬事、神代に定まれる跡のまゝに行はせ給ひ、其中に、御心にて定めがたき事もある時は、御卜を以て、神の御心を問うかゞひて行はせ給ひ、惣じて何事にも大かた、御自分の御かしこだての御料簡をば用ひたまはざりし、これまことのみちの、正しきところの御行ひかたなり、其時代には、臣下たちも下萬民も、一同に心直く正しかりしかば、
皆天皇の御心を心として、たゞひたすらに朝廷を恐れつゝしみ、上の御掟のまゝに従ひ守りて、少しも面々のかしこだての料簡をば立ざりし故に、上と下とよく和合して、天下はめでたく治まりしなり、然るに西戎の道をまじへ用ひらるゝ時代に至ては、おのづからその理窟だての風俗のうつりて、人々おのが私シのかしこだての料簡いでくるまゝに、下も上の御心を心とせぬやうになりて、萬ヅ事むつかしく、次第に治めにくゝなりて、後にはつひに、かの西戎の惡風俗にも、さのみかはらぬやうになれるなり、抑かやうに、西の方の外國より、さまざまの事さまざまの物の渡り入來て、それを取用ふるも、みな善惡の神の御はからひにて、これ又さやうになり來るべき道理のあることなり、その子細を申さんには事長ければ、こゝにはつくしがたし、さて時代のおしうつるにしたがひて、
右のごとく世ノ中の有リさまも人の心もかはりゆくは、自然の勢なりといふは、普通の論なれども、これみな神の御所爲にして、實は自然の事にはあらず、さてさやうに、世ノ中のありさまのうつりゆくも、皆神のみ所爲なるからは、人力の及ばざるところなれば、其中によろしからぬ事のあればとても、俄に改め直すことのなりがたきすぢも多し、然るを古ヘの道によるとして、上の政も下々の行ひも、強て上古のごとくに、これを立直さんとするときは、神の當時の御はからひに逆ひて、返て道の旨にかなひがたし、されば今の世の國政は、又今の世の模様に従ひて、今の上の御掟にそむかず、有リ來りたるまゝの形を頽さず、跡を守りて執行ひたまふが、即チまことの道の趣にして、とりも直さずこれ、かの上古の神隨治め給ひし旨にあたるなり、尤モ刑罸なども、ゆるさるゝたけは宥めゆるすが、天照大御神の御心にして、神代に其跡あり、然れどもまた臨時に、止事を得ざる事あるをりの行ひかたは、上古にも背く者あるときなどは、あまたの人を殺しても、征伐し給ひし如く、これ又神代の道の一端なれば、今とてもそれに准へて、何事によらず、其事其時の模様によりて、宜しき御はからひはあるべきことなり、次に下々の惣體の人の身の行ひかたは、まづすべて人と申す物は、かの産靈大神の産靈のみたまによりて、
人のつとめおこなふべきほどの限は、もとより具足して生れたるものなれば、面々のかならずつとめ行ふべきほどの事は、ヘヘをまたずして、よく務め行ふものなり、君によく仕奉り、父母を大切にし、先祖を祭り、妻子奴僕をあはれみ、人にもよくまじはりなどするたぐひ、又面々の家業をつとむることなど、みな是レ人のかならずよくせではかなはぬわざなれば、いづれも有ルべきかぎりは、異國のヘヘなどをからざれども、もとより誰もよくわきまへしりて、よくつとめ行ふことなり、然れども其中には又、心あしく、右の行ひどもの闕たる者も、世には有リて、人のため世のために惡きわざを、はかり行ふ者などもあるは、これ又惡神の所爲にして、さやうの惡き者も、なきことあたはざるは、神代よりのことわりなり、人のみならず、萬ヅの物も、よき物ばかりはそろひがたくて、中にはあしきも必ズまじるものなるが、その甚ダ惡きをば、棄ることもあり、また直しもすることなれば、人もさやうの惡き者をば、ヘヘ直すも又道にして、これかの橘の小門の御禊の道理なり、然れども大かた神は、物事大やうに、ゆるさるゝ事は、大抵はゆるして、世ノ人のゆるやかに打とけて榮むを、よろこばせたまふことなれば、さのみ惡くもあらざる者までを、なほきびしくをしふべきことにはあらず、
さやうに人の身のおこなひを、あまり瑣細にたゞして、窮屈にするは、皇神たちの御心にかなはぬこと故、おほく其uはなくして、返て人の心褊狹しくこざかしくなりて、おほくは惡くのみなることなり、かやうのヘヘの瑣細なる唐戎の國などは、邪智深く姦惡なる者、殊に多くして、世々に國治まりがたきを以て、その驗を見るべし、然るに此道理をしらずして、惣體の人を、きびしくをしへたてて、悉にすぐれたる善人ばかりになさんとするは、かの唐戎風の強事にして、これ譬へば、一年の間を、いつも三四月ごろのごとく、和暖にのみあらせんとするがごとし、寒暑は人も何もいたむものなれども、冬夏の時候もあるによりてこそ、萬ヅの物は生育することなれ、世ノ中もそのごとくにて、吉事あれば、かならず凶事もあり、また惡事のあるによりて、善事は生ずる物なり、又晝あれば夜もあり、富る人あれば、貧しき人もなくてはかなはぬ道理なり、それ故上古に道の正しくおこなはれし時代とても、此道理のごとくにて、惡き人も世々に有リて、それはその惡きしわざの輕重にしたがひて、上にもゆるしたまはず、人もゆるさざりしことなり、然れ共上古は、惡きはあしきにて、惣體の人は、心直く正しくして、たゞ上の御掟を恐れつゝしみ守りて、身分のほどほどに、おこなふべきほどのわざをおこなひて、世をば渡りしなり、しかれば今の世とても、おなじことにて、惡き事する者は、その輕重によりて、上よりもゆるしたまはず、世ノ人もゆるさねば、其餘は、いさゝかは道理にあはざる事などのあればとて、人をさのみ深くとがむべきにもあらず、今の世の人はたゞ、今の世の上の御掟を、よくつゝしみ守りて、己が私シのかしこだての、異なる行ひをなさず、
今の世におこなふべきほどの事を行ふより外あるべからず、これぞすなはち、神代よりのまことの道のおもむきなりける、あなかしこ、
 
「秘本玉くしげ」

 

1 身におはぬしづがしわざも玉匣 あけてだに見よ中の心を
我々如き下賎の者の、御國政のすぢなどを、かりそめにもとやかく申奉むことは、いともいともおふけなく、恐れ多き御事なれ共、とにかくに御武運長久、御領内上下安静ならん事を、恐れながらあけくれ祈り奉る心から、とらばやかくあらあばやと思ふ事共のおほきところに、吾 君御仁徳深くましまして、此度ありがたき思召共仰出され、猶又勘辨の事もこれあらば、隔意なく申出べしとの仰事を承はるに付ては、いよいよつねずね祈り奉る心の内のかたはしをも、申し顕さまほしくて、下賎の身分をわすれ、恐れもかへり見ず、當時うけ給はり及ぶ他國の様子共を、かれこれ引出て、存心のほどをつくろはず、かざらず、此一書に申述侍る也、然れども猶恐れあるべき事とならば、御覧に備へられむことは、ともかくも取傅へ給はん人の心にまかせ奉る也、さて又我々ごとき者の申す事、百千にひとつも、取用ひさせ給はんことなどは、思ひもかけ奉ず、たゞ願はくは、かりにも一たび、御目にふれさせられて、御咎だになくは僕が大幸也、且又高貴の御方へ御覧にも備ふべき書は、其詞を、口上に申上る趣にも書べきなれ共、左様にては返て恐れもあるべきまゝ、たゞ同輩どちの物語の心持の詞を以て書つゞり、惣體の文もかざることなく、たゞ通俗の平語を以て申す也、是又愚意のほどをおしはからせまして、何事も御覧じゆるされむ事をこひ願ひ奉るなり、あなかしこ、  
2 凡て天下を治め一國一郡を治むる政道大小の事につきて、其善悪利害の料簡を立るに、まづ學問せざる人の料簡は、多くはたゞ今日眼前の手近き事のうへばかりにつきて、工夫をめぐらして、根本の所には心のつかぬことおほし、たとひ又その本の所へ心はつきても、その工夫の至らざること多し、殊に近来の世の風儀はたゞ眼前の損得の事をのみ計りて、根本の所を思ひていふ料簡をば、今日の用にたゞずまはり遠き事にして、とりあはぬならひとなれる、これ大なるひがこと也、今日眼前の利益を思はば、まづ其根本より正さずはあるべからず、本を正さずしては、いかやうに工夫をめぐらして、よき料簡を立るといへ共、諺にいはゆる飯上の蝿をおふといふ物にて、末とぐることなく、皆いたづら事となり、或はつひに大害を引出ることもあるもの也、然ればさしあたりてはまはりどほく迂遠なるやうなりとも、とにかくに根本の所に眼をつけて、諸事の料簡を立べき也、さて又少々學問にたづさはる人の料簡は、多くはたゞ四書五経など經書の趣を以て、今日の政事に施さむとす、これは根本の所には近けれども、經書の趣ばかりにては、時世のもやう、國處の風儀、古今の變化などにうとき故に、今日の政務には、まことに迂遠にして、辺て世俗の料簡にもおとれる事もある物也、然れ共惣體は、かの当座の利益にのみわるし俗吏の料簡よりは、はるかにまさるべし、又一等學問に深く身を入れて、經書のみならず、歴史諸子などをも取リあつかひ、その意味をも思ひ、古今にひろくわたりて、何事もよく辨へ經濟のすじみちをもよく呑込たる人の料簡は、本をも末をもよく照し考ること故、まことにあつはれと聞えて、俗人の及ひがたき事多し、なほ又世にもしられたるほどの學者の、經濟の心がけあるは、いよいよ學問も厚く廣ければ、なほさら宣しきことは多きなり、然れども又いかほど學問よく、經濟の筋にも鍛錬し當世の事情にも通達したるも、とかくに儒者は又儒者かたぎの一種の料簡ありて、議論のうえの理窟は、至極尤に聞えても、現にこれを政事に用ひては、思ひの外のよろしからざる事もおほくして、返て害ある事もある也、惣じて何事も、實事にかけては、その議論理窟の如くにはゆかぬ物也、又儒者はかの聖人の意を本とすること故に、國政の根本の所は、もとよりあくまでよく知れるやうに思へ共、實はなほ知(シ)らざる所あり、故にこれぞ國政の根本至極と思へる趣も、相違して、實の道には叶はぬことあり、さればこそさばかり議論かしこくとりおこなふ唐土の代々に、久しく治平のつゞけることはなし、彼國は學問をよくし、かしこき智者どもの世々に出て、面々さまざまのよき料簡を立れども、古ヘより今に至るまで、つひに治まり方宣しくて、其政の久しく行はれたることなし、
そのありさまを考るに、まづ前の人の立たる料簡につきて、其通りを行ひこゝろむるに、思ひの外宣しからざるによりて、是はいかゞと思ふ所へ、後の人の出て、前の人の料簡の非なることをいへば、げにもと思ひあたる故に、又其料簡につきて行ふに、それも又よろしからず、又その非をいひたてて、又新しき料簡をたて、いつまでもかくの如くにて、ひたもの度々改め變(カフ)るほどに、よき事は出来ずして、返て改むる度ごとに害多く、その間には姦曲なる者も多く出て、さまざまと國を亡すに至れり、さて右の如くいろいろと改め改めて、代々を經たるあひだには、しばらくは久しくつゞきて、後世より見ても、その仕方まことに宜しと思はるゝ事もあれども、それも又そのかたを後に行ひ見る時は、思ふやうにもあらずして、改むるなり、すべて儒者の癖として、先代の滅びたる所以を論じて、かくの如くなりし故に、其國はほろびたれば、此度は改めてかやうにせば、必長久なるべしといふは、代々のつねのこと也、然れ共その先代の弊に懲りて、これを改ても、又それも同じことにて、久しくはつゞかず、又ぎろんには常に聖人の道みちといひたつれども、その聖人の道のまゝにても、國は治まりがたきゆえに、代々にいろいろの新法を立ることなり、惣じて古ヘより唐土の國俗として、何事によらず、舊きに依ることをば尚(タツト)ばず、たゞ己が私智を以て考へて、萬の事を改め易(カ)へて、功を立んとするならはし也、これたゞ己が才智を恃(タノ)みて、まことの道をしらざるもの也、然るを此方にても、儒者の料簡は、ひたすらかの唐土のかたをよき事に思ひて、物事を己が心もて改め變(カヘ)んとする、かの儒者かたぎの一種の料簡と申すはこれ也、儒者はとかく唐土の治めかたをよろしきやうにいへども、かの代々の治まりぶり、學者の論議のやうにはゆかざるを以て、その實はよろしからざることをさとるべし、かの國はさばかりかしこき聖賢の出て、學問もあつく、智慧深き人も多げに聞ゆる國なるに、いかなれば左様に代々の治まりかた悪しく、とりしまらぬことぞといふに、上に申せる如く、道の根本を知りがほはすれども、實は是をしらざるが故也、惣體世ノ中の事は、いかほどかしこくても、人の智慮工夫には及びがたき所のある物なれば、たやすく新法を行ふべきにあらず、すべての事、たゞ時世のもやうにそむかず、先規の有ても、大なる失はなきものなり、何事も久しく馴来りたる事は、少々あしき所ありても、世ノ人の安(ヤス)んずるもの也、
新に始むる事は、よき所有ても、まづは人の安んぜざる物なれば、なるべきたけは舊きによりて、改めざるが國政の肝要也、これ即まことの道にかなへる子細あり、そのわけは別巻に委くいへるが如し、さて又唐土の治めかたにては、此方にてはいよいよ道にかなひがたきわけあり、かやうにいはば、儒者の心には返てをかしく思ひて、天地は一枚にて、人情はいづくもいづくも同じければ、唐土日本とて道に二つはなく、治めかたの根本にかはり無き事也、殊に唐土は聖人の國なれば、其道をおきて外に、身を治め國を治むべき道はあることなし、聖人のみちをおきて、外に道をいふものは、みな異端にして、正道にあらずと儒者はいふべし、然れども是は一通り誰も皆いふ事にて、めづらしからず、猶其うへを今一段高く考へて、かの聖人の道は、なほ根本の所にたがひ有て、まことの道にかなはざるところある事を探り求むべき也、うはべの論議の美しきに惑ひて、彼道になづむべきにあらず、殊に、本朝は、異国とは格別のしなあれば、別して國政を行ふに、道の根本を知らずはあるべからず、これらのわけも委く別巻にあり、但し根本の所こそ違ひたれ、唐土の道も、さばかりの聖人の智慮を以て、建立したるものなれば、末々の今日の行ひの筋などには、取用ふべき事おほし、本朝とても中古以来は、おほく漢様の政にて、風俗人心もなべて漢様に成ぬる世ノ中なれば、今は末々の事には、かの國の道をもまじへ行はではかなはぬやうなることもある也、されば國君たる人は申すに及ばず、その政を執行ふ人々も、随分に漢學をもして、其道の宜しき所をば、事によりて取用ひもすべく、又かの國の代々の治め方の、實によろしからざることをも考へ知り、その根本の所に至ては、大に違ひ有といふことをよく辨へ悟りて、ゆめゆめかの道にかたより惑ふべからず、かへすかへすも此根本の所ぞ大切なる、大かた世ノ人すべて漢學をする者は、必かの道にかたより惑ひて、他ある事をしらず、此根本の違ひをえさとらざる故に、返て國政をもあやまること多き也、此ところをだによく辨へ悟り、心にしめて動かざれば、いかほど漢籍を看て朝夕これの馴居ても、害は無かるべし、
さて右の如くなれば、その大本の趣を、まづ開巻のはじめに申すべき事なれども、世に書籍をも見るほどの人の料簡は、漢によるとなれど、おのづからみな漢様の料簡なるものにて、其漢様の料簡の外なることは、耳に入がたき物なれば、始めにその大本のわけを先ズ申しては、甚迂遠に聞え、國政に無益なるいたづら事の如く聞ゆべければ、看(ミ)む人たちまち巻をすてて、末をも見給うまじきことをおそるゝが故に、これをばしばらく末へまはし、別巻として、本書には手近き事共をのみ申す也、その別巻は、先年述作せるところなるを、此度相添へ侍る也、さて國政は、甚事廣く多端なるものにて、一々はたやすく申しつくしがたければ、此所はたゞ當時さしあたりたる事共を、これかれ抜出ていさゝか愚意を申すのみなり、さて此書は、その末々の手近き事に至るまでも、根本の意を土臺として、是に背かざるやうを詮とすれば、事によりては猶まはり遠く、無益の事に聞ゆる所も多かるべし、然れ共萬の事、まことの道理にそむきては、いかほど尤に聞ゆることも、これを行ひ見る時に、その思ひし如くには行はれぬ物にて、かへりて傷害あることもあり、又當分は利益あるやうにても、必末とほりがたきもの也、又根本の道理によりておこなふときは、まはり遠きがごとくにて、返て思ひの外に速にその験ありて、よく行はるゝ事も有、或は當分はそのしるし見えざれども、つひにその験あらはれて、永久に行はれ、或は目に見えてはしるしなきやうにても、目に見えぬ所に大なる益ある事などもあるなり、されば打聞たるところ迂遠なればとて、これを取らざるは、かしこきやうなれ共、返て愚なること也、かへすかへすも道の大本の所を土臺として、末々の細事までも、これに背かざるやうを詮として、何事をもとり行ふべきことなり、  
3 惣體上中下の人々の身分の持チやう、各その分際相應のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相應のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ、實は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡して、これを按ずるに、今の世の人々の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重々しきに過たり、まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重々しさは、上古の天子中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、萬事重々しき也、それに准じて中下人々もみな同じ事にて、たとへば今ノ世に千石もとる武士は、昔壹万石乃至四五萬石も取し人ほどの重々しさ也、百石とる人は、むかし千四五百石もとりしほどの人に同じ、かくのごとく上中下おしなべて、身持殊の外に重々しき故に、それに准じて、分際不相應に心持も重々しき身分のやうにて、むかしは大名の自身にせしほどの働きをも。今は百石五十石ぐらゐ取ルほどの人もみな、下なる者に云ヒつけ働かせて、自身はせぬ事のやうになれり、富メる町人などは猶更の事也、然れどもこれ天下一同の事なる故に、各分際に過たりといふことをみづからも覺えず、もとよりかやうに有べきはづの物とのみ心得居る也、身分を重々しくするは、奢リとは、別の事のやうなれ共、これ即大なる奢リ也、其中に平人のおごりは、其身一分ぎりのことにて、其害の他に及ぶことはなきを、上たる人の奢リは、其害領内に及ぶこと也、惣體治平の代久しくつゞくときは、いつとなく世上物事華美になりて、漸々に人の身持も重々しくなる事なるを、時々にこれを押へずして、すておくときは、年々月々に長じゆきて、際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、つひにはいかゞはしき事の起る也、既に近来諸大名の家々用脚足らず、多くは御勝手大に逼迫するは、全ク此ゆゑなり、むかしは諸大名いづれも、年々に大(タイ)さうなる軍役などを勤められし時すら、今の如く逼迫する事は無くして、ゆたかなりしに、今の世はつひに軍役などは勤め給ふこともなく、知行の物成リは、新田なども出来て、多くこそなりつれ、昔より減じたることはなきに、返て御勝手の其ひっぱくするは、いかなる事ぞや、全く是世上次第に華美になり、いつとなくじねんに御みぶんのあまり重々しく成て、何に付けても御物入の昔より多きが故なり、然りとて、目に見えては先例と格別にかはりたることもあるまじけれ共、たゞ目に見えざる事共に、大にかはり来むること多かるべし、
さて御身分の重々しきによりて、次第に御物入りの多くなれるわけは、まづ眼前には、飲食衣服音信さては調度などなれども、これらは大名の御身上にては、何ほどの事にもあらず、然るを世に倹約といへば、まづ第一に飲食衣服音信などをおとす事なれども、是は下々の身上にてこそ、大なるちがひもある事なれ、大名の御身上にては、これらの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直るほどの事は、出来がたかるべし、これらの外に、急度それとは心のつかざる事共に、廣大の費あること多し、まづ御身分の甚重々しきによりて、それにつきたる萬事を、殊の外重々しく取扱ふから、武備國政の外に、御身分の事につきたるさまざまの役人など多くして、一人にてもすむべき事にも、上役下役段々に有て、人多くかゝり、さしてもなき事にも、多くの人手間かゝり、次第に事もしげく費多く、その一々のとりあつかひに、一つとして御物入のなき事はあらず、又段々の役人多ければ、横道へ抜行ク物入も多かるべし、惣體上の事を、下々にて取扱ふこと、あまり重々しき故に、下の煩となることは申すに及ばず、無益の費も甚多きことなるを、そもこまかなる事共までは、上には御心もつきがたきことなるべし、かの飲食衣服などの如きも、上にめさるゝところは、いかほど美をつくしても、たけのしれたる事なれ共、それを下にてあまり重々しく取扱ふにつきて、役々なども多く、ひたすら念を入るゝをよき事とするならひにて、年々月々に諸事重々しく成て、無益の事に甚念をいるゝから、何に付ても費の甚多き也、すべての事を、あまりに大切に重々しくするときは、たゞ無益の費、無益のあつかひのみ多くして、返て其本意の實をば失ひ、表向ばかりになりて、麁末に取扱ふよりは、結句はるかに劣る事も多く、又返て手行の甚あしき事多し、たとへば直に御前へ達してもよき事をも、こゝの役人の手を經ヘ、かしこの役所へうかゞひなど、かれこれとする故に、無益の人手間かゝり、紙筆の費などのみ有て、返ていそぎの御用の辨じなどは滞りて、何の益はなし、萬の事これに准じて知べし、大かた今の世、大名方の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな略きてもよき事のみ也、これ皆先規の定格のやうに思へども、昔は惣體物事無造作にして、今の世のごとく重々しくはあらざりしゆえに、何事も物入は今の半分にもあらずして、返て手行も宜しかりし也、
さて軍記などを読て、むかしの大名の身分働きと、今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしきことを考へ知べし、主君の然るのみならず、家中までもみなほどほどに、分際よりも殊の外重々しくなれること、上にも既に申せるがごとし、これらは戦國の時代と、治世とは、同じ口にはいふべきにあらざれども、今の世のありさまは、あまりに重々しきに過たり、たとへば甲乙丙丁と上下段々の役人有て、事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも、今は乙に云ヒ付て取扱はせ、先年は乙が勤めたリしわざをも、近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁に勤めさせて、丙は手をおろさぬやうになりて、惣體下々まで武士の身持ち、次第に重々しく成行クに付ては、國中の政事のためにも、宜しからぬこと多き也、右のごとく身を重く持ツにつきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の勞はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面々のためにも損也、さて又諸大名の江戸御往来の人數、殊の外に多きこと也、今の大名の御往来の人數は、全く軍陣の人數なり、平常の往来に、かやうにおびただしき人數をめし具せらるゝ事は、和漢古来聞も及ばぬことにて、無益の費おほかるべき事也、但しこれは、昔戦國より間近かりし時代の御定めにて、武備にあづかり、公儀へかゝはる御事にて、今私に減少はなりがたきわけも有べきか知らねども、今の治平の御代の有様にとりては、大に減少し給ひて、五分の一ぐらゐにても宜しかるべく思はるゝこと也、さて主人の人數の多きに准じて、家中の人々の常々の往来の人數も甚多し、一僕にしても宜しかるべきほどの人も、三人五人めしつれ、三人五人ぐらゐにてよろしかるべきをりも、廿人卅人五十人もめしつれらるゝ、かやうに人數は多けれども、眞坂の時の用にも立べき供まはりは、稀なるべければ、これ皆無益の人數にて、たゞ外見の美々しきと、途中身の用事を自由に辨ずるとの二つには過ず、たとひ武備のためになるにもせよ、かく静謐の御代に、常々の往来に、さばかり多くの人を引連レずとも、何のあやまちかあらん、畢竟たゞ身分を重々しくするかざりにのみなることなり、さて又江戸詰の人數も、是又大抵 公儀の御定めあるかは知らねども、治平の御代にしては、甚おほくして、費おびたゝしき事なるべし、御領内の政務の筋は、みな國元にてとり行はるゝ事なれば、江戸御屋敷の御用とては、たゞ 公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、并に御國元との掛引などのみにて、其餘は大方みな、御方々の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、たゞ御身分の重々しき方に付たる、男女の人數の甚多きなれば、無益の御物入のおびた々しかるべきこと也、大かた右の事共など、今の人は、今の通りをあたりまへの御事とおもふべけれども、大に然らず、書をよみて、昔とくらべ見て、今は何事も大に過(スギ)たることをさとるべき也、
惣體大名の御身分のあまり重々しきにつきて、御物入のおびた々しきは勿論の事にて、又これによりて國政の妨となること、何につけてもおほし、そのわけは其所々に申すべし、抑下民は定まれる禄なければ、困窮に及ぶ者の多きも道理なるが、武士は定まれる禄あれば、其分限相應にさへくらさば、逼迫することはあるまじき道理也、大名方も、おりおり凶年水損など有て、御収納の減ずる年もあれ共、これらは古ヘよりある事にて、今始まりたることにあらざれば、常々その御手當はなくてかなはぬ事、又 公儀の御手傅などに、過分の御物入ある、是も定まりたる事なれば、常にその手當も有べき事也、又凶年などには、御領内の民をば、随分丈夫に救ひ給ひて、一人も飢寒に至らぬやうに取計らひ給ふべきはづ、是も定まれる事也、さて御軍用のたくはえは申すにも及ばぬ事、すべてつねづね右の事共の手當をも、丈夫にして、其餘のところを量りて、年々の御用脚をまかなひ給はんには、格別の御逼迫はあるまじき道理なるに、右の御手當共の行とゞきがたきのみならず、あまつさへ年々定まれる御まかなひさへ出来がたき家々の多きは、いかなる事ぞや、古ヘは下民より上る物、今の年貢にくらぶれば、甚いさゝかなることにて有し時代すら、今の如く上の逼迫し給ふ事はなくして、民を救ひ給ふ筋も、随分ゆきとゞきて、凶年なれば年貢をも、或は半分も減ぜられ、時によりては皆ながらも免し給へる事も有て、又それそれの御手當などもよく出来てとほりし也、然るに今は、臨時に年貢を過分に免し給ふこともなく、惣體の御収納も、古ヘには十倍せるに、なほ用脚の足らざるは、惣體の事の取扱ひ、あまりに重々しく、無益の事繁多にして、御物入の過分に多きが故ならずや、さて中下の武家の、多く内証困窮するも、又同じく分限不相應に身分重々しく、諸事華美になりて、物入おほき故也、武士はおほくは町人などにくらぶれば、内々は華美とはいはれぬが如くなれども、それも世につれておのづから何事も華美になれる也、武士奢れば金銀のほしきまゝに、おのづから非義をも行ひ、又至リて困窮するときは、おのづから肝心の武備をも闕クことあり、よくよく心得べき事也、それに付て思ふに、當時役用のしげくもなき家中衆は、大小上下共に、随分多く農作をさせ、家内婦人は、女工を出精せられて宣しかるべきにや、其中に輕き人々は、随分なるべきたけは、自身鋤钁をとりて働き、又自身はさすがにそれほどにはたらく事も成がたきほどの人々も、随分かけまはりて指圖手傅等をして、惣體多く榮田(ツクリ)をせらるゝやうにあらまほしき也、さやうにするときは、さし當りてまづ内証用脚の助けにもなるべく、又武士の筋骨身體つよくなりて、第一武事の働きのためにも甚宣しかるべき也、惣體武士は、つねづね身を重々しく安佚に持ならひては、身體柔弱になりて、肝心のはたらきの時大に苦しむべき事なれば、つねつね是を心がけて、筋骨を丈夫にあらせまほしきこと也、  
4 近来百姓は、殊に困窮の甚しき者のみ多し、これに二つの故あり、一つには地頭へ上る年貢甚多きが故也、二つには世上一同の奢につれて、百姓もおのづから身分のおごりもつきたる故也、まづ一つに地頭へ上るねんぐの、はなはだ多きと申す子細は、まづ唐土の上古には、十が一といふを、中分の宣しき程としたるなれども、後には段々多くなりたり、然れ共此方の今のごとくに多くはあらず、さて本朝は、大寳のころ令の御定めを考ふるに、廿分の一ほどにあたりて、たとへば米二十俵とる所にて、年貢はわづかに一俵ほどにて濟たる也、但しこれにはいさゝかふしんなること有て、別に僕が考へもあれど、たとひその考への如くにしても、十分の一には過ざること也、其外に調庸など云物ありしか共、それも何ほどの事にもあらず、大寳の比かくのごとくなれば、それより以前、上古はなほなほすくなかりけむ事、思ひやあるべし、さて中古より令の制くずれて、年貢なども、全くそのかみの定めの如くにはあらざりしかとも見ゆれども、さのみ過分にかはれる事はなかりしに、源平の亂の後、鎌倉より諸國にことごとく守護地頭といふものをおかるゝ世になりては、領主と地頭と両方へ年貢を上る事になりて、此時より年貢よほど多くなれる也、領主といふは、もとより其地を領じ居たる京家の人々也、守護地頭は武家なり、さて次第に守護地頭の威勢つよくなりて、足利の世の中比より後になりては、領主へ上クべき年貢をも、一向に皆地頭へ押シ取り、大将軍の號令も行はれぬやうになりては、天下の大名小名、面々心まかせに領地を治め、隣國を攻メ取ルをつとめとするほどに、面々武威を盛んにし、兵力を強くせんために、段段人數を多く扶時するから、年貢をも過分に多く取らでは足らぬやうになりて、年々に増シ取ルことになりし也、大かた此戦國の時のもやうは、田畠の物成リの内、わづかに農民の命をつゞけて、飢に及ばぬほどを百姓の手に残して、其餘は皆年貢に取れるくらゐの事なりしは、甚しき事ならずや、さて豐臣關白の御世に、天下統一に治まりて、何事も法制定まりて、みだりなる事は止ミぬれ共、年貢の分量は、大抵もとの戦國のときのまゝにて、舊にかへり減じたることもなかりき、次に 東照神御祖命の御時も同じ事なり、此時世ノ中治平に歸(キ)して、軍事は止むといへども、かの戦國の時のもやう、時代を經て、久しくそのならひに成ぬることなれば、俄に天下の武士を減少し給ふべきやうもなければ、たとひいかほど御志はましましても、年貢も俄に過分減じ給ふことはなりがたき、自然の勢なれば、其分にて今に至れる也、されば今の世の年貢は、かの戦國の比のまゝなれば、至て多きこと也、然に今の武士は、古ヘの定めの分量をも考へず、次第に多くなりぬるわけをも思はずして、たゞ本より今の如くに上るべはづの物と心得居て、みだりに百姓をしへたげ苦しむる國もよそには有ときくは、いかなる事ぞや、さて年貢廿分の一ほどにて濟(スミ)し、古ヘの代とても、百姓富メる者ばかりにはあらず、貧しき者も有しかども、其時代は、年貢いさゝかなりし故に、一反か二反の田を作れば、今の世に一町の餘も作るほどの米を得たる故に、貧しき者も貧しきなりに、身を勞し心を勞する事は、甚少なかりしに、今の世は年貢多き故に、古ヘに一反二反の田を作りて取しほどの米は、一町も二町も作らざれば、我物になりがたきによりて、それだけに身を勞し心をも勞する事甚しきがうへに、あまつさへ正味の米は、多くは上へ上ゲて、自分はたゞ米ならぬ麁末の物をのみ食して過す也、これを思へば、今の世の百姓といふものは、いともいともあはれにふびんなる物也、さて今の世いづれの國にもせよ、仁徳深くおはします領主有りて、右の子細をよく考へ辨へ給ひ、百姓を不便に思召て、年貢を半減にも改めまほしく思召す御志ありても、是は決してかなひがたきこと也、其故は、戦國以来諸大名の武士をおびたゝしく扶持せらるゝこと、おのづから定まりと成て、久しく年代を經来りたる事なるに、其武士を過分に減ぜられては、公儀の御軍役も勤まりがたく、又あまたの武士の、俄に難儀に及ばるゝことにて、是を減ずることなりがたければ、年貢も今更俄に減ずることは、決してなりがたき御事也、又百姓も、年代ひさしくなれ来りたる年貢の事なれば、今の定まりほどは、必上るべきはづのものと心得居て、是を過分に多しとは思はぬことなれば、ふびんながらも、年貢は定まりのとほりなるべき事なれ共、せめては右の子細を思召て、今の世の百姓は、心身を勞する事も、古ヘよりは甚しく、年貢に大に苦しむものぞといふ事を、朝夕忘れ給はす、不便に思召て、有リ来りたる定まりの年貢のうへを、いさゝかも増さぬやうに、すこしにても百姓の辛苦のやすまるべきやうにと、心がけ給ふべき事、御大名の肝要なるべく、下々の役人たちまでも、此心がけを第一として、忠義を思はば、随分ひゃくしょうをいたはるべき旨を、常々仰付らるべき御事にこそ、さて今の世には、百姓の方にも、年貢のすぢに正直ならざることをかまへて、これを免れんとする者もあることなれ共、それも畢竟は上よりのいたはりなく、あしらひの悪さに、下よりも左様のかまへをばするあり、上の御めぐみだに行とゞけば、下は速に感じ奉るものぞかし、然るに他國の様子をうけ給はれば、上々も下々の役人も、百姓をあしらふに、露ほどもめぐみいたはる心はなくして、年貢は本より今の世の定まりの如く出すべきはづのものと心得、その定まりの年貢の外にも、猶さまざまの事共を工夫し出して、たゞひたすらに取上ることをつとめとして、あきたる事なく、たまたま主君は仁心ありて、これをゆるやかにせんと思ひ給へ共、下なる役人これをゆるさず、或は下なる役人仁心あれども、上よりこれをゆるさず、たゞ百姓をば苦しめに苦しむる所もありとかやうけたまはる、右にも申せる如く、年貢は有来りたる定まりのほどは、やむ事を得ず其通りなり共、せめては其うへをいさゝかも増ぬやうにこそあらまほしきに、近来は漸々に増ス事のみにて、少しも減ずる事はなく、猶又さまざまのかゝり物などいふことさへ次第に多くなり、其外何のかのと云て、百姓手前より出す物、年々に多くなりゆく故に、百姓は困窮年々につのり、未進つもりつもりて、つひに家絶(タヘ)、田地荒(ア)るれば、其田地の年貢を村中へ負する故に、餘の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねては、農業をすてて、江戸大阪城下城下などへ移りて、商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人はせんかたなく百姓を立さすれども、残りはおほく町人の方へ奉公に出して、つひに商人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の寵は段々にすくなくなりて、田地荒れ郷中次第に衰微す、これに因て法度を立て、百姓の兄弟子供などを外へ出す事を、きびしく禁ぜらるゝ國々もあれども、それは源を濁して、流の末を清くせんとするが如くなる物なる故に、其禁制もとかくに立がたく、又今の世は、たゞ當座の事をのみはかりて、始終の所を考へざるならひなれば、さしあたりまづ其としの上納だにとゝのへば、宜しき事にして、百姓の痛むをばかへり見ず、百姓いためば、ゆくゆく上の大なる御損失なることをも思はず、漸々に農民のおとろへゆく事は、かへすかへすも歎かはしき事の至り也、さて二つに、百姓の身分は、右のごとくくつろぎなきうへに、又町人のおごりを見ならひて、おのづからおごりもつきたる故に、いよいよ困窮甚しき也、尤町人の奢リにくらぶれば、百姓のおごりは、何ほどの事にもあらざれ共、地體くつろぎなきうへなれ共、いさゝかの事にても、痛みにはなるなり、困窮の百姓の身分にて、奢リなどなどいふほどの事は、とてもならぬことなれ共、世上につれて、覺えずしらずおごりの付きたる事多し、たとへば衣服など、昔はもめんならでは用ひざりし程の者も、今はおしなべて衿帯びなどには、絹類をも用ふるやうになり、むかしは藁筵ならでは敷ざりしほどの屋も、今は畳を敷クやうになり、昔は雨中に蓑笠わらんづにてありきし者も、いまは傘をさし屐をはくやうになれり、これらに准じて、餘の事にも此類多くして、物入多き也、  
5 百姓町人大勢徒して、強訴濫放することは、昔は治平の世には、おさおさうけ給はり及ばぬこと也、近世になりても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は年々所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり、これ武士にあづからず、畢竟百姓町人のことなれば、何程のことにもあらず、小事なるには似たれ共、小事にあらず、甚大切の事也、いづれも困窮にせまりて、せん方なきよりおこるとはいへども、詮ずる所上を恐れざるより起れり、下民の上をおそれざるは、亂の本にて、甚容易ならざる事にて、まづ第一その領主の恥辱、これに過ぎたるはなし、さればたとひいさゝかの事にもせよ、此筋あらば、其起るところの本を、委細によくよく吟味して是非をたゞし、下の非あらば、その張本のともがらを、重く刑し給ふべきは勿論の事、又上に非あらば、その非を行へる役人を、重く罰し給ふべき也、抑此事の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり、今の世百姓町人の心も、あしくなりたりとはいへ共、よくよく堪がたきに至らざれば、此事はおこる物にあらず、たとひ起さむと思ふ者ありても、村々一致(イツチ)することはかたく、又悪黨者ありて、これをすゝめありきても、かやうの事を一同にひそかに申シ合す事は、もれやすき物なれば、中中大抵の事にては、一致はしがたかるべし、然るに近年此事の所々に多きは、他國の例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取はからひもいよいよ非なること多く、困窮も甚しきが故に、一致しやすきなるべし、然れ共又近来世間に此事多きに付ては、何れの國も、上にもつねづねその心がけおこたらず、起しがたきやうのかねての防(フセ)きもあることなれば、下はいよいよ一致しがたく、起しがたき道理也、上のかねての防きは、隠(カク)すべき事にあらざれば、いかやうにも議しやすく、表向にてとりはからふ事なれば、行ひやすく、又たとひ下へ隠してはからふ事も、上はもとよりいっちなれば、いかやうにもなる事なるに、下のかやうの事を起さんとするは、上へ隠して、至て密々に談合すべき事にて、殊に世間ひろければ、かならず中途にて漏(モレ)顕はるべき道理なるに、近年たやすく一致し固まりて、此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらす、上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也、然りとていかほど起らぬやうのかねての防き工夫をなす共、末を防くばかりにては、止ミがたかかるべし、とかくその因て起る本を直さずはあるべからず、その本を直すといふは、非理のはからひをやめて、民をいたはる是なり、たとひいかほど困窮はしても、上のはからひだによろしければ、此事は起る物にあらず、然るに近年は、こゝにもかしこにも多きによりて、めずらしからぬ事になりて、まづ一旦静まればよきことにして、さのみ跡の吟味もくはしからず、張本人を一兩とらへて、定まりのとほり刑に行へば、其むきにて、跡の上の取計らひをたしなみ改むることもせず、世間に例多ければ、さのみ恥辱とも思はれぬやうの所もありとど、さてその張本人といふものも、近来はたゞ假(カリ)にまうけたる者にて、實の張本人にあらず、その假リの者といふは、かねて此事をおこす始より、相對にてかりにこれをちょうほんにんといふ物にたてて、後に刑に行はるべき覺悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民を殺すは、あはれむべき事也、上にも假リの者といふことは知ながら、たゞ定法だに立テばよき事にして濟す也、近来はすべてかやうの輕薄無実の刑多きは、甚あるまじき事也、たとひ我レ張本人と名乗出る者あり共、よくよくその實否を吟味して、疑はしくは、實の張本人の出る迄は、そのにせ物を刑すべきにあらず、草の根を分ても、まことの張本人を尋ぬべき事也、さて又近来此騒動多きにつきて、其時の上よりのあしらひも、やゝきびしくて成て、もし手ごはければ、飛道具などをも用ふる事になれり、これによりて下よりのかまへも、又先年とは事長じて、或は竹槍などをもち、飛道具などをも持出て、惣體のふるまひ次第に増長する様子也、これいよいよ容易ならず、此さわぎに乗じて、萬一不慮の變など相添フ事あらんも、又はかりがたき物也、まづ下は高が百姓町人のことにて、その願ふ所を聞とゞけだにすれば宣しく、又たとひ眞坂に及びても、武具などもそろはず、戦の法などもしらぬ者なれば、畢竟は恐るゝにはたらぬ事のやうなれども、もし上より用捨なくきびしくこれをふせがば、下よりも又いよいよ用捨なく、身命をすててかゝる事もあらん、其時たとひ武士一人は、百姓町人の三人五人つゞに當るほどの働きありとも、つひに多勢に及びがたからん事も、はかりがたく、又たとひいかやうの計略をめぐらして、十分勝ちをとるとも、敵とするところ、みな自分の民なれば、一人にてもそこなふは、畢竟は自分の損也、又手にあまれる時、近國などより加勢ありて、人數を出されては、たとひ早速静まりても、いよいよ恥辱の至りなり、但しさしあたりては、手強(テゴワ)きときは、やむ事を得ず、少々人を損じてなりとも、まづ早く静むるやうにはからんこと、もとより然るべきこと也、又後来を恐れしめんためにも、一旦は武威を以て、きびしく押へ静むるも權道也、然れども始終は武威ばかりにては押へがたし、此方よりきびしくあしらふは、以後又彼方よりもいよいよきびしくかゝれと、教ふるやうの道理なればなり、然れば此事はとにかくに、その因て起る本をつゝしむ事緊要たるべし、  
 

 

6 今の世町人の奢リは、殊に甚しき事也、すべて飲食衣服よりはじめ、書道具住居等、みな高貴の人のうへとさのみ異ならず、中にもすぐれて富メる者などは、内々こまかなる事のおごりは、だいみょうにもをさをさおとらず、何事も善美をつくして、ゆたかにくらすこと也、さて町人は、殊に定まれる階級のなきものにて、先ツはひら一まいなるが故に、身上の大小は雲泥ちがひても、とかく富たる者のうへを見ならひうらやみて、さしもなき者もそのまねをして、分不相應にゆたかに暮さんとするから、内証は困窮する者甚多き也、或はその困窮を隠さむとするから、いよいよ困窮つのり、或は身上を持直さんために、急に大利を得んと欲して、あらぬことにかゝり、家をほろぼす者も多し、さてかやうに惣體殊の外におごり長じたれ共、これ天下一同の事なる故に、地になりて奢リといふやうにも見えず、面々みづからもおごり也といふ事を覺えず、本よりかやうにあるべき物のやうに思ひ居る也、その中にたまたま、世上奢リの長じぬる事に心つきて、物事質素を心がくる者もあれ共、世間並をはづれては、返て變(ヘン)なるやうに云ヒなされ、人にわろく思はるゝによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるゝことあたはず、又時々倹約倹約といひたてて、省略する事共もあれ共、或は止(ヤ)めてもさのみ為(タメ)にもならぬ事を止(ヤ)めなどして、惣體の奢リは相替らず、又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事は露ほどもなくて、年々月々世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれておのづから物入多く、困窮する者のみ多きなり、さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなる物なれども、左様にはあらず、上中下ともに身分不相應におごりて、内証は困窮なる故に、商事は多くても、買たる物の價をえ出さざる者殊の外多く、又借リたる金銀を返さざる者おほき故に、賣ル者貸ス者利を得ることなりがたくて、損をすることおほく、又世上の惣體の商は多けれども、百姓の商人になるが多くて、商人の數次第に多き故に、手前手前の一分の商高は多からず、商高すくなくては、渡世になりがたき故に、しひて多くせんとすれば、掛損など多くなりて、又困窮に至る、さて町人は内証は困窮しながらも、百姓よりは身を勞する事もすくなく、又百姓よりは奢りてとほる物ゆゑに、百姓は是をうらやみて、とかく町人になることを願ふ者多し、それ故に商人は年々に多くなりて、友つぶれになること也、さて又世上の奢リ甚しき故に、其奢リのすぢに用るもろもろの物おびたゝしく、それに人の手間をつひやす事もおびたゝしき也、およそ人間の用をなす一切の物は、其本は皆地より生ずる事なるが、其中に無くてかなはぬ物と、無益のおごりに用る物とあるを、世上のおごり長じぬれば、その無益の事に多くの物を費やす、その無益の物のために、田地山林多くつひえて、有用の物の出る妨となり、又無益の事にさまざま人の手間入ル事多き故に、有用の業をなすべき者も、その無益のわざをなして世を渡る、これ天下の手間の費エにして、かの無益の物に土地をつひやすも同じ事也、然るに世ノ人此子細をわきまへずして、何事をしてなり共、人の渡世になる事多く、商事おほければ、世上のにぎはひ繁盛也と心得るは、ひがことなり、平民の身一分のうへにては、いかにも何わざをしてなりとも、金銀を得る事の多きが利なれ共、上に立て民を治むる人の身にとりては、領内おしならして利益あることならでは、損ある也、たとへば城下はにぎはふて、商人は利を得ること多くても、在在百姓のつまりてと成ては、本を失ふて末を益する也、但しこれは、天下と一國一國との差別あり、たとへば何にもせよ、世上に無益の奢リのために用る物を、多く作り出す國あらんに、これは天下のうへよりいへば損なれども、其國にとりては損にあらず、いかにといふに、其物を多く作り出すだけ、米穀を作り出す事すくなけれども、其物の價を取て、米穀等をば、それだけは他國より買取ルゆゑに、其國には損なし、然れども、其國にてその米穀を作り出さざるだけ、天下のうへにては損ある也、すべてこれらに限らず、天下と一國一國とのうへにて、其趣のかはる事外にも多し、さて又こうえきのために、商人もなくてはかなはぬ物にて、商人の多きほど、國のためにも民間のためにも、自由はよきもの也、然れ共惣じて自由のよきは、よきほど損あり、何事も自由よければ、それだけ物入多く、不自由なれば、物入はすくなし、然るに今の世は、人ごとの我おとらじとよき物を望み、自由なるがうへにも自由よからんとするから、商人職人、年々月々に、便利よく自由なる事、めずらしき物などを、考へ出し作り出して、これを賣弘むる故に、年々月々に、よき物自由なる物出来て、世上の人の物入は、漸々に多くなること也、すべて何事も、今まで無ければ無くて足リぬる事も、あるをみては、無きが不自由に覺え、又今までは麁相なる物にて事たれるも、それより美(ヨキ)物出れば、麁相なるは甚わろく思はるゝ故に、次第次第に事も物も數々おほくなり、華麗になりゆくこと也、かくて事も物も、一つにても多くなり、華美になれば、それだけ世話も多く、物入は勿論おほき也、これ皆世中の奢リの長ずるにて、畢竟は困窮の基となることぞ、さて又世間の困窮に付ては、富る者はいよいよますます富を重ねて、大かた世上の金銀財寳は、うごきゆるぎに富商の手にあつまる事也、富メる者は、商の筋の諸工事面よき事は、申すに及ばず、金銀豊かなるによりて、何事につけても手行よろしくて、利を得る事のみなる故に、いやとも金銀は次第にふゆる事なるを、貧しき者は、何事もみなそのうらなければ、いよいよ貧しくなる道理なり、さて世上困窮して、不勝手なる商人多ければ、その不勝手なる方は、何事も手行あしきから、賣ル者も買フ者も、多く手行のよき方へつく故に、富商はいよいよ工面よき也、又世上困窮に付ては、金銀を借ル者多き故に、ゆたかなる者は、これを貸シて利を得る事多きに、貧しき者は、借りて利を出して、いよいよ苦しむ也、尤借りて返さざる者も多けれ共、それに付ては貸ス者は又いろいろと勘辨して、慥なるやうを考へて、かしこく立まはる故に、損をする方はまづ少(スク)なし、惣じて今の世は、大抵利を得る事は難(カタ)くして、そんはしやすき時節なる故に、富商は随分金銀をへらさぬ分別を第一として、慥なるかたにつく故に、まずは減ずる事はすくなくて、とにかくにふゆる方おほきなり、さてそれも少(スコ)し不廻(フマハ)りなる方に趣くときは、又萬事みな右のうらへまはる故に、鉅萬の金銀も、消やすき事も又春の雪の如し、されど其金銀も、貧民へは潤はずして、それも又富商の手に入ルなり、又富メる者は、一旦大に損をする事あれ共、土臺が丈夫なれば、又取返すこともやすきに、貧しき者は、損をしても、再ヒ取返すべきたねなければ、永くその損をいやすことあたはず、何に付ても貧人と富人との堺は、甚しく違ひにて、貧人は富人のために貧を増し、富人は貧人によりて、いよいよ富をかさぬる事也、右は商人のみならず、百姓などのうへにても同じ事にて、富メる者は、百姓ながらに多く商をもし、金銀のやりくりのうへにて利を得る事も、商人にかはることなく、又農作のうへにても、富る者はりを得ること多し、肥(コヤ)しなどをも丈夫にいれ、人手間をも十分にかけてつくる故に、みのりも殊に宜しく、米などを売出すにも、利の多き時を待て賣ル故に、急に賣レば見す見す利を得ることなりがたくして、すべて商人の趣とかはることなし、とにかくに貧民は、何に付てもふびんなる物なり、然れども世上の金銀財寳は、とかく平等には行わたりがたき物にて、片ゆきのするは古今のつねにて、ほどよく融通するやうにはなりがたき事也、其内にも今の世は別して、貧しき者はますます貧しく、富る者はますます富ムことの甚しければ、上に立て治め給ふ人の御はからひを以て、いかにしても、甚富る者の手にあつまるところのきんぎんを、よきほどに散(サン)じて、専ら貧民を救ひ給ふやうにあらまほしき物也、但しその散(サン)じやうは、其者の歸服して、心から出すやうにあらではおもしろからず、いかほど多く蓄へ持たればとても、これみな上より賜はりたるにもあらず、人の物を盗めるにもあらず、法度に背きたる事をして得たるにもあらず、皆これ面々の先祖、又は己己は働きにて得たる金銀なれば、一銭といへ共、しひて是を取ルべき道理はなし、金銀はいかほど澤山に持ても、人毎に猶ふやさむとこそ思へ、いさゝかにても、故なくてこれを出す事をば、甚愁ふるもの也、然れ共又、心より歸服だにすれば、よしなき佛寺などのためにも、多くの金銀を出して、惜しむことなければ、ましてりょうしゅのひんみんを救ひ給ふ、御仁政のためならんには、其模様に依て随分心から感服して、相働き御用に立ツべき事にて、是には宜しき仕方の有べき事也、とにかくにしひてこれを召(メサ)む事は心よからず、又其金銀を、他の事に用ひんも心よからず、ひたすら貧民を救はまほしきこと也、上より民を救ふ御仁政の専ら行はれて、貧民其御めぐみを有がたく存じ奉る様子を見は、仰付られずとも、おのづから富人は救ひの志シ出来べきこと也、さてもし志ありて、貧民を救ふ者あらんには、其ほどほどに厚くこれを賞美し給はば、いよいよ相はげみて、救ふ者多かるべし、然れ共他國の様子をうけ給はるに、近来民を救ふ政はすくなくして、たゞひたすら上の御用の金銀をのみ云ヒ付らるゝ故に、富人はこれを恐れて、志ある者も、救ヒをば得せず又たまたま救ふ者あれども、それをば賞せらるゝ事もなくして、たゞ上の御用に立ツ者をのみ、賞せらるゝやうなるが、左様に金銀を以て、上の御用に立て、賞味せられ、はぶりのよき者をば、世上にては返てそねみ悪(ニク)むこと故、それを望む者はすくなし、貧民を救ひて賞せられんは、世の中の人の甚悦ぶ事なれば、そねみにくむものはなくして、これをうらやむ者のみ多かるべし、此所をよく考へて、富人の金銀を散(サン)じて、貧民を賑(ニギ)はすべき仕方はあるべき事也、さて右にも申せる如く、富人とても、その金銀は、面々の働きにて得たるところなれば、しひてこれをめされんは、心よからぬ事也、又やむ事を得ずこれを借リ給ふことあり共、それもしひては心よからず、但し御領内に住居して、ゆたかにくらす君恩を、ありがたく思ひ奉て、冥加のたねにさし上んことを願う者あらんは、格別の事也、されど左様の金銀も、皆貧民に施して、なるべきたけは、上の御用には用ひ給はぬやうにこそあらまもしけれ、又面々の勝手のためにもなり、冥加のためにてもあればとて、常に金銀の御用をうけ給はるに付て、人に金銀を貸スにも、その御用の筋にことよせて貸シつくること、近世何方のも多し、これますます富商を富マす事にて、世の貧民のための大なる害也、たとひ上のためには、御勝手になる事なりとも、下民にために害あらん事は、すべて禁ぜらるべきのこそ、さて又今の世は、武家大小によらず、仕送(シオク)りといひて、町民に勝手をまかなはすること多し、是は便宜にして自由はよきやうなれ共、つまる所は損多し、町人はこれによりて、多くの利を得る、それだけ武家に損あることは、目に見えたれども、困窮の節など、さしあたりて便宜なるによりて、損をば知ながら、皆申シ付る事也、然れども是は皆、富商のうけ給はりてする事なれば、ますます富を重ねさせて、武家には損あることなれば、なるべきたけは無用にせまほしき事なり、  
7 人は何事も、其身の分限相應にするがよき也、分限に過て奢るがわろき事は、申すに及ばず、又あまりに降して輕くするも、正道にはあらず、大名は大名相應に御身を持給ふがよし、質素がよきとて、下々の武士の如く御身を持給ふべきにもあらず、次に其下にたつ武士も、又その相應相應がよし、百姓町人も、又其身上相應に身を持ツが宜しきなり、すべて事を輕くするがよろしとても、又あまり身持かろがろしければ、それに應じて、おのづから心も萬の行ひも、いやしく輕々しくなりて、上にたつ人などは、殊によからぬ事多きもの也、又倹約を心がくれば、おのづから悋嗇(シハ)かかたに流れやすき物にて、必スすべき事をも止(ヤメ)てせず、人にとらすべき物をも、倹素にしてしかも悋嗇に流れぬやうにはありにくき物也、殊に上にたつ人など、此わきまへなくして、悋嗇なるときは、下の潤ヒかわきて、甚よろしからず、されば倹約も實には宜しき事のあらず、とかく上中下各身分相應にくらすがよきなり、然りといへども、その相應といふは、いかほどが相應なりや、てほんのなき物なれば、よきほどは知がたき事なるに、惣じて華美なるかたにはうつりやすく、すこしも質素なる方へはうつりにくき物なれば、治平の久しくつゞける世は、一同に段々華美の長ずるならひにして、上にも申せる如く、今の世ほど下が下まで華美なることは、古今の間になきことなれは、今の世にこれぞ分限相應のよきほどならんと思ふ事は、皆大に分限には過てある也、然れば、これをよきほどにせんと思ふときは、萬事を大にそぎすてて、狂人かと人に笑はるゝほどに落(オト)さざれば、おのおの身分相應の所へは當りがたし、然れどもさほどまでには、とてもおとしがたき物にて、たとひ自分一人は、人にかまはず、右の如くにおとしても、家内にまでにも行とゞきがたく、又上よりいかほど厳しく命令を下して、これを制せられても、時世の勢は、中々防きがたく、人力の及びがたきところある物也、たとひしばらくは命令に恐れて、これを慎しむやうにても、末とげがたく、又うはべは命令を守るやうにても、内内にては皆これを破る、衣服の制などみな然なり、又一國ぎりこれを制しても、天下一同ならざれば、其制立チがたき事も多し、又惣體表向へ見ゆる事は、制も立べけれ共、今の世は上下共に、表へは出ざる、家内のこまかなる事の奢リの甚しきを、一つ一つ吟味をとげて、これを禁ずべき由なければ、とにかくに此世上一同の華美おごりは、いかやうにしても、俄には停めがたく、年々月々に長じゆくばかり也、然れ共物はかぎり有て、のぼりきはまる時は、又おのづから降ることなれば、いつぞは又本へかへる時節も有べき也、されど此世上の奢リなどの、左様に自然と質素の方へかへるといふことは、まづは何ぞ變なる事などのなくては、復(カヘ)りがたきことなれば、その變の有て、自然とかへるを、安閑として待居るべきにもあらず、されば上にたつ人は、随分なるべきたけは、工夫をめぐらして、自他奢リの長ずることなければ、起るべき變事もおこらずして、長久に無事なるべし、さてそのはからひはいかにといふに、右に申せる如く、此事は厳しき命令ばかりにては、とても直りがたきことにて、たゞ面々自然とたしなむ心になりて、おのづから化するやうにはからふべき事也、下はとかくに、よき事もあしき事も、上にならふものなれば、先ツ上より物事おとさるゝたけ落して、輕くして見せ給はば、漸々におのづから、御家中も下々の民も、それにならひ其心に成て、つひには返て華美なる事を笑ふやうにもなるべき事也、すべて何事にても、心より歸服してする事にあらざれば、末とほりがたく、永くは行はれぬものなり、さてその下々を心より歸服せしむることは、皆うえよりのはからひ仕方によることぞかし、  
8 金銀通用はその法によりて、大に得失の有べき事成、まづ此金銀といふ物は、上ヘもなき寶にてあれ共、實は飲食のかはりにもならず、衣服のかはりにもならず、すべて何の用にも立がたき物なるに、これを通用するは、その何の用にもたゝぬ物を以て、世中の一切の用を辨じさする仕方なる故に、その仕方によりて、得失はある事也、其仕方とは、まづ第一に天下に通用する所の金銀の多少によりて、大に得失あるべし、抑金銀を廣く通用する事は、慶長のころより始まれることにて、その以前はたゞ錢のみの通用なりき、然るに此金銀通用始まりては、甚世上の便利にして、尤自由よろしき事也、さて通用の金銀は、隨分多きほど便利にして、自由は宜し也、然れ共それに付て又失ある事多く、返て世上の困窮に及ぶ基ともなること也、かくて當時天下に通用する金銀は、殊の外に多くして、甚便利はよき事なるに、今の人は、もとよりかくのごとくなる世に馴たる故に、金銀の甚多きといふことをしらず、便利の甚宜しき事をも覺えずして、返て世上通用の金銀の拂底にて、得がたき故に、世は困窮するやうに思ふは、商人心にして、末をのみ思ひて、本を知らざるもの也、今の世に金銀の得がたきは、少(スクナ)き故にはあらず、あまり多きよりおこれること也、その道理はいかにといふに、まづ米穀をはじめ、其外何にても、萬の物を取引するに、その正物を取引するよりは、價をはかりて金銀にて取引するが、格別に便利よき故に、昔は正物にて取引したる事をも、今はみな金銀にてするやうになり、其外萬の事、みな金銀にてとりはからふやうになりて、次第に金銀のとりやり多くしげくなり、其とりやりかけ引の間に、なほ又さまざま便利なる仕方などある、かやうに萬物萬事みな、金銀にて間(マ)の合フやうになれるは、これ全く世上通用の金銀の甚多きが故也、少なくては、いかほど便利よき事有ても、かやうに廣く何事にも用ふることはなりがたし、さて昔は金銀を取引することも、今よりはすくなく、又金銀にて萬の事を取はからふ事も、まれなりし故に、人のこれを願ふ心も、今のやうに甚しくはあらざりしを、今は右の如く世間に此とりやり掛引しげく、金銀つねに人の耳目にちかく親しく、又金銀にて何事も濟む故に、人毎にこれを得んことを願ふ心も、むかしよりは格別に甚しく切(セツ)なるによりて、甚得がたきやうに覺ゆる也、惣じて至て得がたき物は、これを得んと欲する念もなきものなるに、今の人の金銀の得がたきを憂ふるは、地體が多くて得がたからぬ故也、さて又何事につけても金銀のはたらきしげく、いそがはしき故に、實に得がたくもあり、得がたきによりては、少(スク)なきやうに思ふ也、たとへば毎年盆前と極月には、常よりも又格別に金銀ひつはくして、いよいよ得がたきは、いかなるゆゑぞ、此時とても世上の金銀、つねよりすくなくなるにあらず、常には遊ばしおく金銀をさへ、二季には出して働かす事なれば、常よりは多きに、返て左様に得がたき事は、常よりも又やりひきしげく、金銀いそがはしきが故ならずや、是を以て惣體金銀の得がたきは、少なき故にあらざる事をさとるべし、基本を尋ぬれば、實には世上通用の金銀甚多くして、自由に手まはるから起りて、何事にもこれを用ふるやうになり、次第にはたらきいそがはしくなれるによりて、其多さよりも、なほいそがはしき方が勝ツゆゑに、得がたくて、すくなきやうに思はるゝ也、さて金銀通用始まりて、いまだ久しからざりし程は、多ければますます便利のよろしきのみにて、さのみ其幣はなかりしが、漸く年代久しくなるにつきては、その幣も多くなれる也、右に申せるごとく、世上何事にも是を用ひて、取引する事多きまゝに、其取引の間にて、過分の利を得る事多く、或は商人ながら、物の交易をもせず、たゞ金銀のうへのみを以て、世を渡る者もおびたゝしく、富人は別してこれによりて、ますます富を重ぬること甚し、惣じて金銀のやり引しげく多き故に、世上の人の心みなこれにうつりて、士農工商ことごとく、己が本業をばおこたりて、たゞ近道に手早く金銀を得ることにのみ、目をかくるならひとなれり、世に少(スコ)しにても、金銀の取引にて利を得る事あれば、それだけ作業をおこたる故、世上の損也、いはんや業をばなさずして、たゞ金銀のうへのみにて世を渡る者は、みな遊民にて、遊民の多きは、國の大損なれば、おのづから世上困窮の基となれり、又世上の金銀おほくして便利なれば、人々買フまじき無uの者をも買ひ、爲(ス)まじき無uの事をも爲(シ)などする故に、おのづから奢リを長ずる、これらみな世の困窮の端となること也、なほ又上下の人ことごとく、金銀にのみ目をかくるゆゑに、今の世は武士も百姓も出家も、みな鄙劣なる商人心になりて、世上の風儀も輕薄になる事ぞかし、かくのごとく世上通用の金銀甚多くして、自由便利なるにつきては、其失も甚多けれ共、年久しく馴來りたる事なれば、此ならひは俄には改めがたし、不便利なる事すら、久しく馴たるを俄に改めては、人の歸服しにくき物なるに、ましてこれは甚便利なる事なるを、今更通用の金銀を減少などしては、當分大にさしつかゆる事など多くして、返て大に失あるべし、且又金銀通用の筋などは、天下のうへの事なれば、いかほど害ある事有とても、一國ぎり私には、いかに共すべきやうなし、然れ共右の子細どもを、つねづねよく心得居て、惣體正物にて取引すべき事は、少々不便利にはあり共、やはり正物にて取引をして、金銀の取引の筋をば、なるべきたけはこれを省き、猶又さまざまの金銀のやりくりなどをも、なるべきたけは隨分これを止(ヤ)め、又爲(ス)べき事を、金銀にて仕切るやうの筋は、猶更無用にあらまほしき事なり、それも民間にて下々どちの細事などは、さる事もあるべけれ共、少々金高にも及ぶほどの事には、決してあるまじきわざ也、惣じて物事は、不便利にても地道なることは、始終全くして、失なきものなるを、算用にかゝり、便利にわしるときは、必間違いもいでき、詐欺のすぢもありやすく、思ひかけぬ失のあることなれば、國の政をとり行はん人などは、此所をよく考へて、萬事なるべきたけは、金銀便利の筋にはかゝらぬやうに心がけ給ふべきにこそ、さて金銀のやりくり取引をば、なるべきたけは、省きて、少(スク)なくするときは、自然とすこしづゝも、人情金銀にうとく遠ざかるやうになりて、面々の本業を大切にはげむやうになり、金銀にのみ目をかけて、近道にわしるならひ、少々づゝもうすらぎて、人の鄙劣なる心、輕薄の風儀も直るべきもの也、とかく下は上を見ならふものなれば、かやうの事も、上のしならはせ計らひに有べきことにこそ、  
9 天下のため國のために害なる事、世に多し、其中に、實は大に害あれども、害と見えざる事もあり、又こゝにはuあれども、かしこに害ある事あり、又當分はuあるやうなれ共、後日に大害となる事あり、これら皆人の惑ふこと也、国政をとらん人つねに心を付らるべし、又眼前に大害と知れながらも、停めがたく、國君の勢にても、公儀の御威光にても、俄には禁止しがたき事も多くある也、然るにその類を、俄にしひて禁ぜんとするときは、返て又害を生じて、いかん共しがたき事もある物なり、されば害ながらも、俄に禁じがたき事は、常々に心をつけて、隨分長ぜぬやうにはからひ、いつとなくそろそろとこれを押へて、おのづからと止(ヤ)む時節をまつより外なし、萬の事は、日々に搨キすることも、思ひの外に、又いつとなく衰へゆく時節もあるものなれば、かならず事を急にして、しそんずまじき也、又國のため民のために、利uある事を考へ出して、これを行はむとするも同じ事にて、たとひ利uある筋も、新規に俄にこれを行はむとすれば、人も歸服しがたく、又返てそこなひも出來ることある物也、とかく人は、久しく馴來りたる事は、少々勝手あしき事も、其分にて安(ヤス)んじ居るもの也、ある事も、新規なる事は、煩はしく思ふならひなれば、有來りたる事は、少々はあしくとも、大抵のことはそのまゝにて有べく、新規の事は、大抵はまづはせぬがよき也、すべて世中の事は、何事もよきもあしきも、時世の勢によるものにて、いかほど惡きを除かんとすれども、いかほど善キ事を行はむとすれ共、極意のところは、人力には及びがたきものなれば、しひて急にこれを行はんとはすべからず、たゞつねづね、善キ事はそのかたのくづれざるやうに、止(ヤマ)ぬやうにはからひ、惡き事は、少々づゝも消するやうに、長ぜぬやうにと心がけ、さて又新規に始めんとする事は、よくよく考へて、人々の料簡をもきゝ、他國の例などをも聞合せ、諸人の歸服するかせぬかをよく勧へて行ふべし、すべて新法は、これを始めて、國のため人のためにもまことに宜しくて、末長く行はるゝときは、後世までの功にもなることなれ共、思ひの外人も歸服せず、ためにもならず、或は思ひかけぬつまづきなど有て、長くは行ひがたくて、程なく是を止(ヤ)めなどするときは、返て費のみ有て、國政のかろがろしき譏りをもとること也、隨分かしこき人の工夫し出て、大uあらんと思ふ事も、爲(シ)て見ぬ事はョみにならぬ物にて、思ひの外最初の料簡のごとくにはゆきがたき物なれば、とにかくに大抵事すまば、舊きにしたがふにしくはなし、  
10 近來上下おしなへて、内證困窮する者多きわけ、又奢リの自然とうすらぐべき仕方など、段々上に申せるが如し、然れども困窮甚せまりて、いかに共すべき方なく、さしつまりたる時に至りては、右のごとくゆるやかなる仕方ばかりにては、とてもさしあたりての間(マ)には合ひがたき事なれば、左様の時は、いかにしてなりとも、急にそのはからひなくてはかなはず、上下大小ともに皆同じ事なり、其中に、大名の御勝手の甚逼迫して、さしつまりたる時の作略は、まづ町人百姓の金銀をめさるゝが、近代世間並の事也、然れども是は上にも申せる如く、甚心よからぬ事也、たとひしひてこれをめされても、それは限ある事なれば、いつまでも左様にて濟ムことにあらず、始終のすまぬ事に、大切なる御國政に瑕をつけん事は、いかにしても残念なること也、さればさしつまりてやむ事を得ざる時は、御家中の禄を、年を限りて減じ給ふより外の上策は無し、これ當然のあたりまへなり、但し御家中大小上下、いづれもいづれもほどほどに、先祖よりその禄を賜はり、御によりて家をたて、代々妻子をはぐゝみ、家の子を扶持し來りたるに、俄にその禄を過分減ぜられては、一同に甚難儀の至り、殊に近年世上困窮の時節、御家中は別して切つめたる禄にて、餘分くつろぎもありにくきうへなれば、いよいよ難澁の人々多からん事、まことにいとほしき御事なれば、なるべきたけは、此事はなくてあらまほしき物なれ共、上の御身分につきたる御物入共をも、なるべきたけ省略減少せられ、はしばしくまぐままで御手をつめられて、そのうへやむことを得ぬ時は、此法より外に作略は有まじきこと也、故に近年此法を行はるゝ方々、諸國に多きなり、これ全く已(ヤム)事を得ざる故の事なれば、もし此事ありとても、必々御はからひを恨み奉るべきに、ありがたくも静謐の御代に生れて、身命を全くし、飢ず寒からず、安穏に世を渡る君恩を思ひ奉りて、戰場に命をすつるかはりに、いさゝか大恩を報じ奉るのみぞと思ひとりて、しばらくの難儀をばしのぎ給ふべき也、さてもし何國にもせよ、此法を行はれんに付ては、おのおの禄の大小によりて、減少の差別あるべきこと、勿論なれども、下々に至て微禄の人々は、殊にくつろぎなければ、迷惑甚しかるべし、此所かへすかへすも御かへりみあるべき也、さて又此年限の内に、是非とも御勝手の立なほるべきやうの、算用のつもり、其しまり方、且又年限終りて後のしまり方など、かねてよくよくつもりあるべき事也、もし此つもりのしまりあしくては、年限の内恩収納の過分に多きがくせに成て、年限終りたる時、又俄に大に御手づかへ有て、數年御家中一同の辛法も、いたづら事になり、返て御勝手のひつはくいやまさること有べし、其時又年限を延られんは、いよいよ氣の毒也、とかく物はくせづきやすきならひなれば、此年限の間に、御収納多きが癖にならぬやうの作略、かへすかへすも肝要たるべきにや、  
 

 

11 上と下との間甚遠くして、下の情態の上へとほりがたく、知れがたきことは、古ヘより誰もよく知れることなるが、近代は別して大名の御身分殊の外に重々しき故に、猶更此幣は甚しきなり、たとひ此御心つきて、下の様子を知らんと思召しても、委しく知給ふべきてだてなし、御前へ出る人々とても、たゞ恐れ愼しむのみにて、中々こまごまとしたる事を、御咄し申上るやうの事はなりがたく、一通り申上る事も、たゞあたりさはりを思ひ、御機嫌をあやぶむ故に、たゞ不調法を申さぬやうに、難のなきやうにのみ申上て、下の事はたゞ宜しきやうに、諸民ありがたがる様子にのみ申上て、すこしにても、わろき事を申上る者とてはあることなし、是は其人の申上ざるがあしきにはあらず、たゞ上の重々しくて、申上がたきやうのならはしなるがあしきなり、同輩どちの中にてすら、その人のわろき事などは、少(スコ)しにても云ヒにくき物なれば、まして主君に對し奉りては、其はづの事也、家老たる人をはじめとして、右の如くなれば、まして下々の人は、いかほど目にあまる事の下に有ても、直に申上るなどいふことは、叶はぬこと也、階級を經て段々に申上る事は、其中途にて、次第に違ひゆく物なれば、下々の有さま、とかくありのまゝには上へはとほりがたし、學問をし給へば、書物のうへにて、大抵下々の役人の事、民間の事も、おほだゝいの所は知(シ)ることなれ共、當時のこまかなる趣は、中中書物のうへなどにて知るゝことにあらず、下々には、上の御存シ寄リも無き事共のさまざまあるなり、さればたゞ書物のうへの一通りの趣を以てはからひては、思召ス旨とは違ふこと多かるべし、たとへば上には深く下をいたはり給ふ御心にて、いさゝかにても民の痛みとならぬやうにとおぼしめしても、其通り下へはとほりがたく、他國の様子をうけたまはるに、下々の取はからひは、上の思召シとは、大に相違する事共のある様子なりとかや、その下のくはしき様子は、上には御存知のなければ、たゞ仰出されたる通りにゆく事とおぼしめすなるべし、又下より願ふ筋なども、とかくに中途にて滯りて、上へはとほりがたき事がち也、これら皆、上のあまり重々しくして、遠き故の失也、小身の御大名などは、さほどにもあらぬ事もあるべけれど、御大家ほど此失は多きなり、  
12 大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ輕き人なりとも、少しも憚ることなく、申出るやうに有たきものなり、然れ共惣體たゞ上の事を重々しくするならひにて、中々輕き人などは、御政務筋の事などは、申出がたきやうのならひにて、萬一身分に過たる事などを申出れば、上を輕しむるなどいひたてて、返て咎められ、或は又よき料簡ありて申出る事ありても、傍よりとやかく妨げて、其申シ分立がたく、又何事にても一ト料簡ある事は、必スすこしは障る所も有ル物なれば、その障る所よりこれを妨げなどする程に、申出テたき事有ても、憚りて得申出ざる也、況や君へ諫言がましき事などは、決して申上られぬことになれり、諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして否(イナ)それは共申されぬことになれるは、あまりに重々しきならはしにて、甚しき政道の妨也、隨分に威を嚴重にして、下の恐るゝやうにすべきは、勿論の事なれども、それも事により、程のあるべきこと也、とかく御政務につきては、御前へ出たる人、あまりに憚り恐れず、何事もうちくつろぎて、料簡を申上るやうにし、輕き役人をも近く召れて、心やすく何事をも申上るやうにあらまほしき物也、  
13 惣體新法の事を立テ行ふに、思ひかけず間違あやまちなどあれば、最初に其事を申出して、始めたる者の越度として、これを咎むることなれ共、最初より惡(ア)しかれとて始めたることにあらず、思ひかけざるあやまちは是非なければ、其者をとがむべき事にはあらず、惣じてかやうの取はからひも、あまり上の事を重々しくするから、あたらぬ事もある也、さて武士の風儀として、上へ對して申シ譯なき事などあるとき、切腹するは、まことにいさぎよくはあれ共、よろしからぬならはしなり、實に死なでかなはぬ事は格別なれども、其餘さしての惡事にもあらず、たゞいさゝかの一時のあやまちによりて、大切なる一命をうしなひ、父母妻子の歎きも殊に深かるげきを思へば、甚いとほしき事也、願はくは此ならひをば停メまほしき事なれば、御先代に天下一同に追腹殉死を禁ぜられたる如く、此切腹の事も、上より仰付らるゝの外は、私に切腹する事をば、堅く禁止せらるべきにや、誰とても一時のあやまち、思ひはからぬ不調法は、あるまじきにあらざれば、さのみ深く咎むべきにもあらず、いさゝかの事にて、一命をすつるには及ぶまじきこと也、すべて少しの事にても、品によりて切腹するならひは、もと戰國の風なり、さて又上の事をあまり重々しく取扱ふならひなる故、すこしの不調法をしても、身のたゝぬやうに思ふから也、惣じて何事によらず、主君へ對しては、たゞいさゝかの不調法ありても、重くとがむるならひなれ共、其筋によりて、大かた心より外にあやまりてせる事は、大抵の事は宥免せらるべき也、かやうの事を至て嚴密にするも、一ツの法にてはあれども、今の世のならひを見れば、あまり嚴に過たることも多きなり、  
14 一國の政道は、萬事家老たる人々心を一致にして、其ノ元をよくしめくゝり、其趣を以て、次々下々の諸役人まで、一國の諸事のはからひ、みな一致するやうに有べき事也、然るに近來他國の様子をうけ給はるに、御大家などは、まづ家老たる人々は、さのみ國内の政事に、こまかにはかゝはられずして、次なる役人その元をしめくゝりて、取はからはるるとかや、これ宜しからぬ事也、何事によらず、元のしめくゝり、政務の出る所は、家老たる人たるべし、惣じて重き所より出たる事は、傍よりも妨げがたく、下々の受る心持も格別にて、諸事しまり宜き物也、次なる人にては、憚るところ有て、諸事のはからひ十分に伸(ノビ)がたく、又下の受る心持も違(チガ)ひて、取リしまりがたく、一致しがたき物也、もし一國の政事一致せずして、たとへばこゝの役所の趣と、かしこの役所の趣とは相違して、同一國内の政とも見えず、本の出る所異なるが如くにては、政事とりしまりがたし、これその本のくゝりの所の、しまりわろきが故也、又それそれうけとりたる役義をば、自分の身のうへの事にして、隨分身を入レて働くべき事なるに、左様の人は少(スク)なくて、たゞ不調法さへなければよしとし、又我カ役の内不調法なくてさへすめば、跡はいかやうになりてもかまはず、たゞ身分のための用心をのみ第一にして、役義のための事は思はず、又たまたま心ある人の役の内に、惡き事を直し、よき事を始めおきなどしても、其人役替有てのけば、其跡役の人は、身に入レて世話もせぬ故、たちまち消失て、よき事を始めおきたるもuなく、又本のくゝり所にしまり無ければ、下は心々別々のやうになりて、たとへば先役人の時に、堅く約束したる事も、其人かはれば、跡役の人はそれを用ひず、その約束の事も立チがたきやうになる、これら大にあるまじき事也、何國にても役人は、下々のためには、殿様も同前なれば、たとひ其人はいくたり替るとも、前に一度約しおかれたる事は、決して變ずまじきはづ也、すべたかやうの事とりしまりなく、約束などたやすく變じては、おのづから上を輕しむる端と成て、命令なども行はれがたくなる事也、  
15 世に目附といふ役あれども、猶又所役人いづれも、互に目附役をするがよき也、それはいかにと云に、まづ今は自分の受取リまへの役目をさへ勤むれば、他の役義の事はかゝはらぬこととして、たとひ傍に目にあまるほどのわろき事、或はぶてうはふなるはからひをする事有て、上の御ためにも、よろしからぬ事とは見うけながらも、我役義にあづからぬ事は、たゞそのまゝ見て居るばかり也、これ甚不忠なることなれ共、左様なるならひなれば、心ある人もせんかたなし、然るをたとひ己がかゝはらぬ他の役義のうへの事にもせよ、宜しからずと思ふ事あらば、互に心を添て相助け、又事によりては、早速に申出るやうにあらば、これ諸役人みなたがひに目附役となること也、  
 

 

16 惣じて物を得ることを願ふは、千人萬人まぬかれがたき人情のつねにて、本より然るべき理也、それに付ては、物を人のくるゝを悦ぶも、又人情なる故に、物を人に贈りて、志のほどをあらはすも、本より然あるべき道理、古今いづれの國とても皆同じ事也、されば萬の事に、その相手の人を悦ばせて、其事を成就せんとはかるに、賄賂といふ物をつかふ事のあるも、おのづから然るべき勢也、さて物を得るを悦ぶは、本より人情なれば、その賄を受るも、さのみ咎ともいひがたし、殊更此事世中のなべてのならひと成ぬる事なれば、其人を深くとがむべき事にもあらず、然れ共此賄の筋は、甚國政の害となる事故に、古ヘより深くこれをいましむる事なれ共、とにかくに止(ヤミ)がたき物にして、次第に増長し、近來は殊に甚しき事共あり、それも主君たる人正しければ、さすがに身分重き役人は、おのづからたしなむ事もあれ共、下々の役人は、上へは知れぬ事をよくのみこみるうへに、たとひ萬一知れても、身分輕ければ、高をくゝりて、憚る所なく、何事にもこれをむさぼる也、又主君ぐるみに昧きは、上中下おしなべて、いよいよ甚しき事あり、其中にたとひたまたま廉直なる人有ても、其自分の役義ばかりこそ廉直なれ、外々の防きにはならず、又目附横目をつけても、多くは其人ぐるみに、此道におちいる故に、uあることなし、惣體近世は何事によらず、此賄の行はれざる事はなくして、公事訴訟に横しまなるさばきをなし、刑罸にあたらざる事多きなどは、申すに及ばず、其外諸の作事普請などに付ても、此筋もつはら行はるゝこと也、それも少々づゝの事は、さても有べきなれ共、甚しき事のみ多くして、すべて賄を多くつかへば、其仕方わろくても、よしとして是を濟マし、賄すくなければ、よくても、わろしといひて、濟マさず、それゆゑに下なる者もそこを計りて、爲スべき事をば多く手抜キをして、賄をつかひて、其事のすむやうにし、又法度にそむきたる事をする者も、賄をつかへば、見ぬふりをして、是を咎めざる故に、賄を行ふて惡事をなす者も世に多し、猶此外も此筋に付ては、種々さまざまの正しからざる事多くして、ことごとくは擧るにいとまあらず、餘はおしはかりて知べき也、すべて世中に此筋盛んなる故に、おのづから國政正しくは行はれがたく、又上に損失ある事おびたゝしく、下にも損害甚多し、たとへば金千兩入ルべきところをも、役人へ三百兩賄すれば、五百兩にて濟ム故に、下にも二百兩の得(トク)あれども、上には五百兩だけの所の損あり、或は五百兩にて濟ムべき事も、賄をせざれば、七百兩も八百兩も入リて、其二百兩三百兩は脇道へ抜ケ行クやうの事も有て、上にも利なく、下には大損ありて、あまつさへ上を恨み奉ること甚し、されば國政の大害下民の大患、此賄に過たるはなし、然れ共上と下とは甚遠ければ、その吟味もとかくに行とゞきかぬる事なれば、これを止ムる法は、まづ賄を取ル者を禁むるのみならず、これをつかふ者をきびしくいましめて、何事によらず、いさゝかにても賄をつかふ者、相知るゝに於ては、急度曲事に申付べしとの旨を、つねづね觸おかれて、もし犯す者あらんには、一人二人きびしく咎められなどせば、つかふ者は勿論にて、取ル人もおのづから氣味わろかるべく、上の制禁ならんには、これをつかはぬを怒ることもえせじ、そもそも賄は、つかふ者にはとがなくして、罪は取ル者にある事なれ共、取ル者をのみ制しては、止(ヤミ)がたければ、つかふ者をいましむるも、一つの權道なるべきにや、  
17 公事訴訟願ひ事、御咎め筋などの類、早く濟マしてもよきことは、隨分なるべきたけ早く濟マすべき也、なほざりにして、一日もすておくべきにあらず、下にては、惣じて上へかゝりたる筋の事は、いさゝかの事にても、相濟ムまでは、甚心勞することにて、殊に貧しき者などは、家業にも障り、甚迷惑する事なるに、上にかまふ事なければとて、なほざりに捨置て、長引カするは、いと心なき事なり、又訴訟にかぎらず萬の事に、權門がゝりの筋は、取リさばく役人の、甚迷惑なるものにて、これ大なる國政の妨となる事あり、されば何事によらず、權門の威を以て押す事、又下々まで主人の權威をふるひて、無理非道のふるまひをすまじき旨、常にきびしく制せらるべく、又諸役人、いさゝかも權門を憚りて、不正の叛斷などをなすまじき旨をも命ぜらるべきなり、此事は古ヘより異國にも本朝にも、つねにあるならひにて、誰もよく合點はしたることなれ共、とかく止がたき物也、  
18 刑は隨分ゆるく輕きがよき也、但し生(イケ)ておきては、たえず世の害をなすべき者などは、殺すもよき也、さて一人にても人を殺すは、甚重き事にて、大抵の事なれば、死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也、然るに近來は、決して殺すまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒藥などを用ひて、病死として、その吟味をすます事なども、世には有とかうけ給はるは、いともいとも有まじきこと也、又盗賊火付ケなどを吟味する時、覺えなき者も、拷問せられて、苦痛の甚しきにえたへずして、僞りて我也と白状する事あるを、白状だにすれば、眞僞をばさのみたゞさず、其者を犯人として、其刑に行ふやうの類もありとか、是又甚あるまじき事也、刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして、返て輕々しく人を殺す事あり、よくよくつゝしむべし、たとひ少々法にははづるゝことあり共、とかく情實をよく勘へて、輕むる方は難なかるべし、さて又異國にては、怒リにまかせては、みだりに死刑に行ひ、貴人といへども、會釋もなく嚴刑におこなふならひなるに、本朝にては、重き人は、それだけに刑をもゆるく當(アテ)らるゝは、これ又ありがたき御事なり、  
19 何事にても、先規よりの方を守るといふは、天下一同の事にて、まことによろしきこと也、然れ共近來は、これを守るといふはたゞ名ばかりにて、實は大にくづれて、其法の本意にも背ける事のみ多し、又法は法と立チおきて、其法をよけて、さはらぬやうに惡事をなす者甚多きを、たゞ法だに立テば、いかほど惡事をなす者有ても、とがめざる事あり、たとへば關所をこゆることかなはざる者も、ぬけ道をして通れば、とがむる事なく、其關をさへ超ざれば、見のがすやうのことあり、萬の事に此類おほし、但し昔定まりたる法も、年代久しくうつり、世のもやうのかはれるにつきては、今は其法の如くならでも、害なき事、又其法の守りがたき事などもあるをば、大目に見ゆるしながらも、ひたすらに先代の法を癈せんことをば憚りて、其法をばやはり法と立テおきて、背かざるやうにするは、おのづから本朝の厚き古意にかなひて、宜しき事なれば、其事の筋にもよるべきものなり、  
20 近來は上より命令ある事をも、下にはゆるかせに思ひて、是を守らざる事多く、又しばらくは守る事もあれ共、程なくくづるゝ、これ甚あるまじき事也、一度仰付られたる事は、長く堅くこれを守るやうにあれざれば、政道立がたし、然るにかやうに制令法度の立がたきは、いかなる故ぞといふに、上より命令出る事あれども、たゞ一通り是を觸渡すばかりにて、其令を守るか守らざるかの吟味もなく、犯す者有ても、咎めもなき故に、やぶれやすくしまりがたく、又上にも申せる如く、急度約束有し事も、たちまち變じ、或は重き役人の證文などさへ、反古になりてやくにたゝず、すべてかやうに、下に對して、上の信なき事多きときは、下民も上の仰せをつゝしまず、おのづから輕しむる心出來て、命令をも守らざるやうになる也、又すべて命令の趣は、ことごとく道理のつみたる事にあらざれば、下の心から歸服はせぬものなり、いさゝかにても、上の勝手にまかせて、尤ならざる事のまじる時は、うはべこそ威勢に畏れて、服せるやうなれ、内々にてはあざ笑ひて、中々歸服はせず、かやうの事も、上をかろしむる端となる事なれば、よくよく心すべきこと也、とにかくに下の上を恐れず、輕しむる心のあるは、第一に宜しからざる事ぞかし、  
 

 

21 近來諸大名方、用脚不足なるが多きに付て、御勝手方と云役人多くある事也、是はその領分の内何事によらず、内外物入の筋に心をつけて、隨分はぶかるゝたけははぶき、或は諸事に算用工夫をつけて、物入すくなく、費なきやうをはかるべき役にして、それは當時隨分尤なる事也、然るに他國の様子をうけたまはるに、此役人は、たゞいろいろと働きて、金銀の工面をするをつとめとせり、さてそれは、專ら金銀を得る工面の事なれば、おほく町人を相手とすること故、武士かたぎの人にては、手行よろしからざれば、商人心の、金銀やりくりに巧者なる人をえらむ事故、下をいたはる憐愍の心などはなく、いかやうにしてなり共、當分金銀を多く得るを働きとして、後日の大害をもかへり見ず、君の御恥辱をも思はず、ひたすらに利をむさぼる商人の如し、然るに上役の人々とても、まづさし當りて金銀の手まはりて、誤用の達するが、當分目前の功なる故に、これを賞するから、いづくにても此筋の役人は、すらすらと立身をする事にて、大かた當時は、此御勝手をはたらくが、第一の政務のやうに成て、金銀を多く得るは、敵國を切取リたらん如くの功となる所もありたかやうけ給はる、抑かやうに、當分の御間(マ)を合さんためばかりに、君の御威光をも損じ、國政の妨となる事、何に付ても多く、又下の上を恨み奉ることも甚しく、おのづから上をかろしむるはし共なるは、いといとなげかはしき事なり、然りといへ共、まことに御勝手大にさしつまりて、當分のまかなひも出來がたき時に於ては、まづ金銀を得るにあらざれば、さしあたりていかにとも作略すべきやうなければ、左様の時は、此働きを重く賞するも、理の當然也、又これを働くも、時に望みての大功なれば、全く其人をわろしといふべきことにもあらず、たゞわろきは、左様に御勝手のさしつまるやうになるがわろきなれば、とかく其本をよく吟味して、諸事をいかやうにつめてなり共、物入の少なきやうにして、是非とも御収納にて何事も事足るやうに相働かんぞ、肝要なるべき、  
22 いづれの御大名にも、無uの輩に、永々扶持知行を給ふ事おほし、昔はいづれも御勝手ゆるやかなりし故に、させてもなき遊藝の輩などにも、左様に御扶持を多く給ひて、代々御扶持人となれる者多けれ共、これらは無uの費也、儒者醫師のたぐひも、其時にすぐれたるを撰て、召抱らるべきは勿論の事なれども、いづれも其子の代になりては、學問も藝も大におとる物にて、殊に身に祿あれば、家業におこたりて、多くは御用にも立がたく、祿おほければ、身分重々しく成て、殊更業をばおこたる也、其外雜藝の輩なども、御用あらば、時々に召抱られて、少々づゝの祿を給はん事は、御大名の御身上にては、隨分さも有べきことなれ共、一たび抱えられたる者は、何の御用もなきに、永々いたづらに多くの御扶持を給はりて過す者、江戸京などにも、其國元にも多きは、甚しき奢リの費也、すべて何の職も、祿を世々にするは、本朝の古格にて、厚き風儀にてはあれ共、その筋にもよるべき事也、然れども久しく有來りたる事の、俄に改まりては、大に難義に及ぶ者多ければ、右の類とても、御先代より有來りたる分は、今さら故なく祿をめしはなたるべき事にあらず、されば左様の輩は、隨分御用にも立ツやうに、それそれの家の道を出精し、相はげみて、其道々に、此上ヘ新加の人なくて、御間(マ)の合フやうにあらせまほしく、猶又その藝すぐれて、其殿の御内の其人と、他國までも名をあぐるほどにもあらば、殊更忠勤にて有べき事也、  
23 武士の兵術軍法を第一に心がくべき事は、今さら申すにおよばざれども、今治平の御代久しくつゞきたることなれば、法も術も、實用をこゝろ見知れる人は、一人もなければ、たゞ家々に傳はりたる通りを學びならひて、其上ヘはたゞ面々の工夫のみなるが、その工夫とても、實にこれを試むるに非れば、畢竟みな空按也、さればその同じ空按の中にも、ただ道理のあたるあたらざるばかりをば考へずして、とかく實用の所を心がくべき也、さて又時代のうつるにつきては、世中のもやう人の氣質なども、うつりかはる物なれば、昔の法のまゝにては、今は宜しからざる事もあるべければ、其時代時代の世中のもやう、人の氣分などをよく辨へて、昔の法をも、これに引當て考ふべき也、さて又もろもろの武術も、治平の代には、實用する事なき故に、おほくは華法といふ物にして、見分のよろしきをよきことにして、巧拙を定め、實用の巧拙をば思はざる事多し、弓を學ぶにも、たゞ的にあたることを詮とし、強弓をひく事をのみよしとす、此二つはいかにも弓の肝要にはあれ共、實用はあながちこれらのみにも限るべからす、其外にも、敵をうけたる時、防くにも攻るにも、これを用ひて、利方おほからんやうを考ふべし、又馬を乘ルとても、たゞ馬にばかりいかほどよく乘ても、實用にはuすくなし、たゞ馬上にての働きを心がくべし、馬に乘るほどの人は、今の世の火消などの如く、たゞ下知ばかりをして濟ム物と思ひては、大に違ふべし、軍書を見て、むかしの馬上の働きを知べき也、すべて武術を稽古するには、何によらず、皆此心がけ肝要たるべき也、  
24 武道軍術のためには、とかく軍談の書を常々見るがよきなり、それも源平盛衰記太平記などの類は、おもしろくはあれ共、よほど時代ふるき故に、近世とはもやうの違ひたる事多し、たゞ足利の代の末つ方の戰のやうをよく考ふべし、殊に織田豐臣の御時代の軍は、古今にすぐれて、たぐひなく巧者なるもの也、大かた武士は、つねづねかの時代に在て、かの戰の中にまじり居る心持になりて、武道をば心がくべき事也、さて唐土の通俗の軍書共は、見てuすくなし、國の模様も大にかはり、時代も遠ければ、間(マ)にあはぬ事のみ多し、かの國の古ヘの名將共の、大利を得たる計策など、今の人に用ひて、心やすく欺かるゝ物にあらず、其外すべて唐土は、軍法議論などは道理をつくして尤に聞え、甚巧者なるやうに見ゆれ共、實用に至ては、さやうにもあらず、軍の仕方は、此方の近代にくらぶれば、大きにつたなし、然るを世人の心に、唐土といへば、軍の仕方も格別に妙なるべきもののやうに思ひ、又殊の外大國と心得、それに應じて軍勢も、甚大軍なるべきやうに心得て、おぢ恐るゝは、皆大なるひがこと也、まづ彼國をひたすら大國とのみ心得るも、料簡違ヒあり、其故は、國の廣さは、いかにも甚廣き事にて、日本の十陪〔ママ〕などよりも過たれども、然れ共日本にくらぶれば、いづくもいづくも空虚の地多くして、廣さ相應には、田地も人民もすくなく、物成リもいとすくなければ、軍もさのみ格別の大軍なることもなし、これみな世々の書にのせたる、彼國中の戸口の數、軍賦の數などを見ても、よく知らるゝこと也、既に豐臣太閤朝鮮御征代の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は、或は五十萬百萬などと聞て、おびたゝしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍兵、始終十萬にも過たることはなし、それ程の軍兵も、大抵の事にては、かり催しがたくて、いろいろと世話をやきて、やうやうに催し立チたるところ、右のごとくなりし、これ皆彼國の書共に見えたる事也、さてかの時の戰ヒは、此方にも小西の如き、臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれまれには負ケ軍もありつれ、左様の聞懼(キキオヂ)だにせずは、始終毎度十分の勝たるべし、さて加藤主計頭殿の、蔚山に籠城せられし時に、明(ミン)の寄セ手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど嚴重なりし事にて、朝鮮の諸人驚き感じて、たのもしく思ひ悦びしが共、久しく攻て、つひに彼城を落すことあたはず、あまつさへはてには、行長が後詰に切リ立チられて、蜘の子をちらすが如く、とる物もとりあへず、我先キにと逃ケ去リしは、あさましかりける有様なりき、すべて唐土は何事もみなかくの如くにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、實用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし、殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、彼國の書に見えたるを、それさへ右の如く、あさましき敗軍に及びたりしを思ふべし、又此方戰國のころ、西國邊あふれ者共、唐土へ渡りて、濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と稱して、殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて靜めかね、國中の大騒動なりし事也、これ此方にては、世の人も一向しらざりし程の事にて、たゞわづかのあふれ者のしわざにて有しすら、彼國にては右のごとく、毎度大きなる騒ぎなりし、これを以ても、唐國の軍法の拙く弱き事を知るべし、然るを例の唐びいきの儒者などの、ひたすら彼國の軍法などをほめあげ、高ぶりて、武士をおどすは、いとをかしくかたはらいたき事也、吾日本は、ありがたき神威の護リの嚴重なる事は、申すに及ばず、國の殷富、田地人民の甚多きこと、外國のかけても及ぶところにあらず、殊更御當代、天下諸國の蕃鎭の盛大なる、今たとひ武備は少々おこたり有といふ共、なほ甚堅固なれば、たとひ他のいかやうの大國より、寇賊來るといへ共、さのみ畏るゝにはたらず、ゆめゆめ聞キおぢなどすべきにあらず、これ又武士の常に心得居るべき事にて、西國方は申すに及ばず、何方にても、海面を受たる國々は猶更也、凡そ天下の大名たちの、 朝廷を深く畏れ厚く崇敬し奉り給ふべき筋は、 公儀の御定めの通りを守り給ふ御事勿論也、然るに 朝廷は今は、天下の御政をきこしめすことなく、おのづから世間に遠くましますが故に、誰も心には尊き御事は存じながらも、事にふれて自然と敬畏のすぢなほざりなる事もなきにあらず、抑本朝の 朝廷は、神代の初メより、殊なる御子細まします御事にて、異國の王の比類にあらず、下萬民に至るまで、格別に有がたき道理あり、此事別卷に委く申せるが如し、されば一國一郡をも治め給はむ御方々は、殊さらに、此子細を御心にしめて、忘れ給ふまじき御事也、是レ即チ、大將軍家への第一の御忠勤也、いかにと申すに、まづ 大將軍と申シ奉るは、天下に 朝廷を輕しめ奉る者を、征伐せさせ給ふ御職にましまして、これぞ 東照神御祖(アヅマテルカムミオヤノ命の御成業の大義なれば也、さて又御武運長久、御領内上下安靜、五穀豐登の御祈?にも、これに過たる御事あるべからず、その子細は、朝廷を畏れ尊み奉り給ふは、 天照大御神の大御心に叶い給ふ御事にて、天神地神の御加護厚かるべければなり、世間の學者たゞ漢流の道理をのみ説て、此子細をしらざるが故に、今ことさらに顯はし申す也、かの 水戸西山公の、格別に此御志シ厚かりし御事、大日本史を修撰し給へる御趣など、道の大本を辨へ給へるほど、まことに有がたき御心ばへなり、そもそも御子孫の中に、かばかり明良なる殿の出給へりしも、ひとへに 神御祖ノ命の御盛コの餘烈、 天照大御神の御はからひと、かへすがへすたふとく有がたき御事也、然れば御大名方、御自身の御心得は申すに及ばず、御家中の人々迄にも、此子細をよく仰渡されて、つねづね相愼みて 朝廷を畏れ奉るべきやう、又公卿官人たちも、其祿こそ輕けれ、ほどほどに官職を帶て、皇朝にしたしく仕奉り給ひ、其重き御禮典をも執行ひ給ふ人々なれば、貴き御方々は申すに及ばず、末々の官人衆に至るまでも、ほどほどに厚く敬禮を加ふべき御事也、その祿うすく身分の輕きをあなどりて、あなかしこ非禮あるべからず、たとひ輕き人にても、官人は 皇朝に仕奉る人也、然るに今の世大かた、堂上の御方々をば厚く敬することなれ共、地下と申す官人衆をば、その祿うすく身分の輕きをあなどりて、物の數とも思はぬやうなるは、いとあるまじき事也、祿のうすきは、亂世にみな武士に奪ヒ取られたる故也、されば心あらむ人は、此所をよく思ひわきまへて、いよいよ大切に存ずべきこと也、  
25 天下の神社は、古ヘはほどほどに、 朝廷より祭らせ給ふ御事にて、諸國の小社までも、その國ノ守のうけ給はりて、祭られし事なるに、今は天下の事、 大將軍家の執リ行はせ給ふ御代にて、諸國の神社の御事、 朝廷よりは御力及ばせ給はねば、其國々を治め給ふ御方々の、ねんごろに祭り給ふべき御事也、然るに中比久しき兵亂によりて、天下の神社大に荒廢し、祭典もすたれ、或は其社跡もなく絶はて、又存在せるもそれと分れずなど、惣じて神社は、いみしき衰微なるを、治平の御代に復(カヘ)りては、御再興ありしもあれども、猶あまねくは御手の及ばざるにや、今に至るまで、すたれたるまゝなるが多きは、いともいとも歎かはしき事なり、今時惣體大名の、領内の神を祭り給ふさまはたゞ戰國の比の風にて、おろそかなる事也、今の世國家の繁昌、諸大名の盛大なる勢に應じては、神社はいかほど興立し給ひても宜しき事なるに、神國の實にも似ず、神社の衰へたる事は、返す返す歎かはしきことなり、そもそも神を敬ひ祭る事は、たれもよく知たる事にはあれども、まことの道の根本の子細をしらざる故に、世人の思ふところは、猶甚おろそか也、別卷に其子細は委しく申せり、今かくめでたき治平の御代久しくつゞけるに付ては、大名方はいよいよ、領内領内の神社を興立し、厚く祭り給ひ、殊に式内の社などは、御自身もをりをり御参詣あるべき御事也、殊に又尾張に田ノ大神、紀の國に日前國懸ノ兩大神、出雲に杵築ノ大國主ノ大神などの類、其外もかやうの殊なる由緒まします大社は、なほさら其領主領主の、大切に厚く敬祭し給ふべき御事也、むかし神領なりし地も、中比の兵亂に、みな奪ひ取られ給ひて、今は大名の領地となれる所多ければ、その御冥加のためばかりにも、なほざりには有まじき事也、其外御武運長久の御ためにも、國内安全のためにも、五穀豐登のためにも、かならず神を厚く祭り給ふ御政あらまほしくなん、さて又領内村々の産神、城下町々の神社など、領主より祭り給ふほどの神社にはあらず共、命令を出されて、其所々の神社を隨分大切に致し、神事を麁略に致すまじきよしを、つねづねねんごろに示し給ふべき御事也、然るに當時は惣じて、神社神事などの、上(カミ)の取扱ひ甚おろそかにて、村々町々の神事などは、假令のいたづら事のやうに心得て、これを押へ、輕くすべきやうにいひつけ、下々にても、神事に物入多きは、無uの費のやうに心得る者もあるは、皆甚しきひがこと也、何事も神の御めぐみ、御守りにあらでは、世によき事はなし、困窮して苦しくは、いよいよ神をば厚く祭るべきこと也、然るを世に儉約といへば、まづ第一に此神事、或は先祖の祭より省略せんとするは、いかにぞや、抑今世上一同に、次第次第に華美になり、奢リ長じたることなれば、それに准じて、神事をも次第に華美に丁寧にすべきは、あたりまへ也、己が身分のみ奢リを揩オて、神を祭る事をば、揩ウずしてはいかゞ也、たとひ身分の事をば、昔にかへして萬を省略すとも、神事のみは、次第に加へ揩ウんこそ本意ならめ、又神事に、風流俳優などをなし、或は酒を飲み遊ぶを、無uの事と思ふも、大にひが事なり、神に物を供じて祭るのみならず、人も同じく、飲食し面白くにぎはしく樂み遊ぶを、神は悦び給ふこと也、これらの子細は、通例の學者、又神道者なども、夢にもしらざる事にて、世間共に大に料簡違ある事也、惣じて世間の人のよき料簡と思ふは、みな唐流の理窟なる故に、其中には、まことの道理にかなはざる事も多し、領主たる御方、并ニ役人中なども、國のためを思ひて、災害おこらず、凶事無く、上下共に安全に榮えて、長久ならんことを願ひ給はば、これらの根本の所の心がけ、大切なるべき御事にこそ、  
祕本玉くしげの序
かうやうのすぢの書(フミ)くさぐさあれども、みな鹽沫(シホノアワ)の凝(コリ)て成たる漢書(カラブミ)にくちあひまじこられたるひとどもの、おのが艶i(サカシラ)ごゝろよりあげつらひ定めたるなめれば、うちきくにはさてこそとおもはるれど、取行ひたらむには、民のうれひ國のそこなはるゝことのみおほくて、いと味氣(アヂキ)なかるべし、かけまくもあやにかしこき現神(アキツカミ)吾大皇の神ろぎ神ろみの尊、八百萬の神たちを高天原に神集え(ツドヘ)々たまひ神議(ハカリ)々たまひて、天地の依相之極(ヨリアヒノキハミ)遠(トホ)く長く堅石(カキハ)に常磐に動(ウゴ)くまじくさだめたまへりしおほむ政のおほん法(ノリ)を、古き大御書等(フミラ)によりてさとり明良目(アキラメ)、今の大御代のおほむ形勢(アリサマ)を深くおもひ遠くはかりて、本居の大人のあきいでたるこれの書はも、野中のC水ぬるきやうなれど、おこなひたらむには、よきこやしいれたる廣田の若苗(サナヘ)の、ひにけにみどりそひつゝさかゆく如くに、人くさの榮え行なむこと疑(ウツ)なし、然而(サテ)かくありがたくたふとき書、うつし卷にてよに乏しくまれなりけるを、こたびわが大御神に同じく仕奉る祝部雄、うゑもじのすりし此書、いはまくもゆゝしき今の現(ウツツ)に、天地八方(ヤモ)にてりとほり大まします天照大御神、珍(ウヅ)の大御子現神吾大皇に依(ヨサ)したまへる大御民を、徒(タダ)にあづかり奉(マツ)りてあらむは、大御神の御照覽(ミソナハシ)、天皇(オオキミ)の御念(オモホシ)めさむ大御こゝろも甚恐懼(イトカシコ)し、いかでやすらかにたひらかにをさめまし、樵(キコリ)にもとひ、くさかりにもきゝて、よきたばかりごともあらばと、寐てもさめてもおきふしにも憂ひおもへる國の守、はたその事執(ト)れる人などの許に洩ゆきたらむには、いかにうれしかるべき、さてはかくひにけにかゞふりてあるおほむめぐみの、千々のひとつもむくへ奉るこゝろにひとしからざらめや、あなかしこあなたのし、
玉くしげ別本序
こは曽祖父宣長翁の、ゆゑありて紀の國のかうの殿、大納言の君のおまへに奉りたる書にて、もとより學の道の書にあらず、世に廣く見すべきものにもあらねば、久しく文筐の底にひめおきしを、先つ年浪花にて活字の板にものすることとなりにたれど、うゑもじなれば誤もあり、はた世にそのすり卷多からず、翁のかゝれたるもの、これのみ正しき摺卷ならぬが口惜しとて、此ごろ人々のすゝむるに、もとよりおのが心もおなじければ、やがてひとわたりよみ校へて、かくすりまきとはなしつるなり、なほ詞のさとびたる、はた徳川氏のことをいへる處々に、いかにぞやおもはるゝ書ざまもあれど、そのかみの世にして、ことに紀の殿に奉れるものにて、正しくみやびにとつとめたるものならねば、今あらためむも中々ならんと、さておきつ、  
 
「菅笠日記」

 

菅笠日記上の巻
ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ。【萬葉一に よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見つ】そもそもこの山分衣のあらましは。廿年ばかりにも成りぬるを。春ごとにさはりのみして。いたづらに心のうちにふりにしを。さのみやはと。あながちに思ひおこして。出たつになん有ける。さるは何ばかり久しかるべき旅にもあらねば。そのいそぎとて。ことにするわざもなけれど。心はいそがはし。明日たゝんとての日は。まだつとめてより。麻きざみそゝくりなど。いとまもなし。その袋にかきつけける哥。
うけよ猶花の錦にあく神も心くだしき春のたむけは
ころは三月のはじめ。五日の暁。まだよをこめて立出ける。市場の庄などいふわたりにて。夜は明はてにけり。さてゆく道は。三渡りの橋のもとより。左にわかれて。川のそひをやゝのぼりて。板橋をわたる。此わたり迄は。事にふれつゝ。をりをり物する所なれば。めづらしげもなきを。このわかれゆくかたは。阿保ごえとかやいひて。伊賀國をへて。はつせにいづる道になん有ける。此道も。むかし一度二度は物せしかど。年へにければ。みなわすれて。今はじめたらんやうに。いとめづらしく覚ゆるを。よべより空うちくもりて。をりをり雨ふりつゝ。よものながめも。はればれしからず。旅衣の袖ぬれて。うちつけにかこちがほなるも。かつはをかし。津屋庄といふ里を過て。はるばると遠き野原を分行て。小川村にいたる。
雨ふればけふはを川の名にしおひてしみづながるゝ里の中道
この村をはなれて。みやこ川といふ川。せばきいた橋を渡りて。都の里あり。むかしいつきの宮の女房の。言の葉をのこせる。忘井といふ清水は。【千載集旅に斎宮の甲斐 わかれゆく都の方のこひしきにいざむすび見んわすれ井の水】今その跡とて。かたをつくりて。石ぶみなど立たる所の。外にあなれど。そはあらぬ所にて。まことのは。此里になんあると。近きころわがさと人の。たづねいでたる事あり。げにかの哥。千載集には。群行のときとしるされたれど。ふるき書を見るに。すべていつきのみこの京にかへりのぼらせ給ふとき。此わたりなる壹志の頓宮より。二道に別れてなん。御供の女房たちはのぼりければ。わかれ行みやこのかたとは。そのをり。此里の名によせてこそはよめりけめ。なほさもと思ひよる事共おほかれば。年ごろゆかしくて。ふりはえても尋ね見まほしかりつるに。けふよきついでなれば。立よりてたづね見るに。まことに古き井あり。昔よりいみしきひでりにもかれずなどして。めでたきし水也とぞ。されどさせるふるき傳へごともなきよし。里人もいひ。又たしかにかのわすれ井なるべきさま共見えず。いとうたがはしくこそ。なほくはしくもとひきかまほしけれど。こたみはゆくさきのいそがるれば。さて過ぬ。此わたりの山に。天花寺の城のあと。又かの寺のがらんの跡などのこれりとかや。又かの小川村の神とて。此里に社のあなるは。神名帳に見えたる。小川の神の社にやおはすらん。さて三渡りより二里といふに。八太といふ駅あり。八太川。これも板橋也。雨なほやまずふる。かくてはよし野の花いかゞあらんと。ゆくゆく友どちいひかはして。
春雨にほさぬ袖よりこのたびはしをれむ花の色をこそ思へ
田尻村といふ所より。やう?山路にかゝりて。谷戸大仰などいふ里を過ゆく。こゝまで道すがら。ところ?櫻の花ざかり也。立やすらひては見つゝゆく。
しばしとてたちとまりてもとまりにし友こひしのぶ花のこの本
大のき川大きなる川也。雲出川のかはかみとぞいふ。此川のあなたも。猶同じ里にて。家共立なみたり。さて川辺をのぼりゆくあたりのけしき。いとよし。大きなるいはほども。山にも道のほとりにも。川の中にもいとおほくて。所々に岩淵などのあるを。見くだしたる。いとおそろし。かの吹黄刀自がよめりし。波多の横山のいはほといふは。【萬葉一に 川上のゆつ岩村にこけむさずつねにもがもなとこをとめにて】此わたりならんと。あがた居のうしのいはれしは。げにさもあらんかし。鈴鹿にしも。かの跡とてあなるは。はやくいつはりなりけり。此わたりゆく程は。雨もやみぬ。小倭の二本木といふ宿にて。物などくひて。しばしやすむ。八太よりこゝ迄二里半なりとぞ。そこを過て。垣内といふ宿へ一里半。そのかいとをはなれて。阿保の山路にかゝるほど。又雨ふりいでゝ。いとわびし。をりしも鶯のなきけるをきゝて。  
旅衣たもととほりてうくひずとわれこそなかめ春雨のそら
【古今物名うぐひす 心から花のしづくにそほぢつゝうくひずとのみ鳥のなくらん】ゆきゆきてたむけにいたる。こゝ迄は壹志郡。こゝよりゆくさきは。伊賀國伊賀郡也。おほかた此山路は。かの過こし垣内より。伊勢地といふ所迄。三里がほどつゞきて。ゆけどゆけどはてなきに。雨もいみしうふりまさり。日さへ暮はてゝ。いとくらきに。しらぬ山路を。わりなくたどりつゝゆくほど。かゝらでも有ぬべき物を。なにゝきつらんとまで。いとわびし。からうじて伊勢地の宿にゆきつきたる。うれしさも又いはんかたなし。そこに松本のなにがしといふものゝ家にやどりぬ。
六日。けさは明はてゝやどりをいづ。十町ばかり行て。道の左に。中山といふ山のいはほ。いとあやし。
河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら
かくいふは。きのふこえしあほ山よりいづる。阿保川のほとり也。朝川わたりて。その河べをつたひゆく。岡田別府などいふ里を過て。左にちかく。阿保の大森明神と申神おはしますは。大村神社などをあやまりて。かくまうすにはあらじや。なほ川にそひつゝゆきゆきて。阿保の宿の入口にて又わたる。昨日の雨に水まさりて。橋もなければ。衣かゝげてかちわたりす。水いと寒し。いせぢより此驛迄一里也。さてはねといふ所にて。又同じ川の板ばしを渡る。こゝにてははね川とぞいふなる。すこしゆきて。四五丁ばかり坂路をのぼる。この坂のたむけより。阿保の七村を見おろす故に。七見たうげといふよし。里人いへり。されどけふは雲霧ふかくて。よくも見わたされず。かくのみけふも空はれやらねど。雨はふらで。こゝちよし。なみ木の松原など過て。阿保より一里といふに。新田といふ所あり。此里の末に。かりそめなるいほりのまへなる庭に。池など有て。絲桜いとおもしろく咲たる所あり。
糸桜くるしき旅もわすれけり立よりて見る花の木陰に
大かた此國は。花もまださかず。たゞこのいとざくら。あるはひがん桜などやうの。はやきかぎりぞ。所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて。けしきよし。此わたりより名張のこほり也。いにしへいせの国に。みかどのみゆきせさせ給ひし御供に。つかうまつりける人の北の方の。やまとのみやこにとゞまりて。男君の旅路を。心ぐるしう思ひやりて。なばりの山をけふかこゆらんとよめりしは。【万葉一に わがせこはいづくゆくらんおきつものなばりの山をけふかこゆらん】此山路の事なるべし。やうやう空はれて。布引の山も。こし方はるかにかへり見らる。
此ごろの雨にあらひてめづらしくけふはほしたる布引の山
この山は。ふるさとのかたよりも。明くれ見わたさるゝ山なるを。こゝより見るも。たゞ同じさまにて。誠に布などを引はへたらんやうしたり。すこし坂をくだりて。山本なる里をとへば。倉持となんいふなる。こゝよりは。山をはなれて。たひらなる道を。半里ばかり行て。名張にいたる。阿保よりは三里とかや。町中に。此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。その門の前を過て。町屋のはづれに。川のながれあふ所に。板橋を二ッわたせり。なばり川やなせ川とぞいふ。いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし。ゆきゆきて山川あり。かたへの山にも川にも。なべていとめづらかなるいはほどもおほかり。名張より又しも雨ふり出て。此わたりを物する程は。ことに雨衣もとほるばかり。いみしくふる。かたかといふ所にて。
きのふ今日ふりみふらずみ雲はるゝことはかたかの春の雨かな
すこし行て。山のそはより。川なかまでつらなりいでたる岩が根の。いといと大きなるうへを。つたひゆく所。右の方なる山より。足もとに瀧おちなどして。えもいはずおもしろきけしき也。又いと高く見あぐる。岩ぎしのひたひに。物よりはなれて。道のうへゝ一丈ばかりさし出たる岩あり。そのしたゆく程は。かしらのうえにもおちかゝりぬべくて。いといとあやふし。すこし行過て。つらつらかへりみれば。いとあやしき見物になん有ける。獅子舞岩とぞ。此わたりの人は言ける。げに獅子といふ物の。かしらさし出せらんさまに。いとよう覺えたり。さていさゝか山をのぼりて。くだらんとする所に。石の地蔵あり。伊賀と大和のさかひなり。なばりより。一里半ばかりぞあらん。そのさきに。三本松といふ宿までは。二里也とぞ。大野寺といふてらのほとりに。又あやしき岩あり。道より二三町左に見えたり。こは名高くて。旅ゆく人もおほく立よる所也といへば。ゆきて見るに。げにことさらに作りて。たてたらんやうなるいはほのおもてに。みろくぼさちの御かたとて。ゑりつけたる。ほのかに見ゆ。其佛の長。五丈あまり有といふを。岩の上つ方は。猶あまりて高くたてる。うしろは山にて。谷川のきしなるを。こなたよりぞ見る。そもそもこゝは。むかしおりゐのみかどの御ゆきも有し事。物にしるしたるを見しこと。ほのほの覺ゆるを。いづれの帝にかおはしましけむ。今ふとおもひ出ず。さて其川にそひて。すこしのぼりて。山あひの細き道を。たどり行てなん。本の大道には出ける。其間に。室生に詣る道なども有て。いしぶみのしるべなくは。必まよひぬべき所也。けふはかならず長谷迄物すべかりけるを。雨ふり道あしくなどして。足もいたくつかれにたれば。さもえゆかで。はいばらといふ所にとまりぬ。此里の名。萩原と書るを見れば。何とかやなつかしくて。秋ならましかば。かりねのたもとにも。  
うつしてもゆかまし物を咲花のをりたがへたる萩はらの里
とぞ思ひつゞけられける。こよひ雨いたくふり。風はげしきに。故郷のそらはさしおかれて。まづ花の梢やいかになるらんと。吉野の山のみ。よひとよやすからず思ひやられて。いとゞめもあはぬに。此やどのあるじにやあらん。よなかにおき出て。さもいみしき雨風かな。かくて明日はかならずはれなんとぞいふなる。きゝふせりて。いかでさもあらなんと。ねんじをり。
七日。あけがたより雨やみて。おき出て見れば。雲のやうやううすらぎつゝ。はれぬべき空のけしきなるに。家あるじの心のうらは。まさしかりけりと。いとうれし。日頃の雨に。ゆくさき道いとあしく。山路にはたあなりときけば。今朝はたれも?みな。かごといふ物にのりてなん出たつ。さるはいとあやしげに。むつかしき物の。程さへせばくて。うちみじろくべくもあらず。しりいたきに。朝寒き谷風さへ。はしたなう吹入て。いとわびしけれど。ゆきこうじたる旅ごゝちには。いとようしのばれて。かちゆくよりは。こよなくまさりて覺ゆるも。あやしくなん。もとよりあひともなふ人は。覚さうゐんの戒言ほうし。小泉の何がし。いながけの棟隆。その子の茂穂。中里の常雄と。あはせて六人。同じ物にのりつれたる。まへしりへによびかはしては。物語などもし。やゝおくれさいだちなどもしつゝゆく。西たうげ角柄などいふ山里共を過て。吉隠にいたる。こゝはふるき書どもにも見えたる所にしあれば。心とゞめて見つゝゆく。猪養の岡。又御陵などの事。【万葉哥に吉隠のゐかひの岡式に吉隠陵。光仁天皇の御母也。】かごかけるをのこにとへど。しらず。里人にたづぬるにも。すべてしらぬこそ。くちをしけれ。又この吉隠を。万葉集に。ふなばりといふよみをしもつけたるこそ。いとこゝろえね。もじもさはよみがたく。又今の里人も。たゞよなばりといふなる物をや。そも旅路のにきに。かゝるさかしらは。うるさきやうなれど。筆のついでに。いさゝかかきつけつる也。なほ山のそはぢをゆきゆきて。初瀬ちかくなりぬれば。むかひの山あひより。かづらき山うねび山などはるかに見えそめたり。よその国ながら。かゝる名どころは。明くれ書にも見なれ。哥にもよみなれてしあれば。ふる里びとなどのあへらんこゝちして。うちつけにむつましく覚ゆ。けはひ坂とて。さがしき坂をすこしくだる。此坂路より。はつせの寺も里も。目のまへにちかく。あざあざと見わたされるけしき。えもいはず。大かたこゝ迄の道は。山ぶところにて。ことなる見るめもなかりしに。さしもいかめしき僧坊御堂のたちつらなりたるを。にはかに見つけたるは。あらぬ世界に来たらんこゝちす。よきの天神と申す御社のまへに。くだりつきて。そこに板ばしわたせる流ぞ。はつせ川なりける。むかひはすなはち初瀬の里なれば。人やどす家に立入て。物くひなどしてやすむ。うしろは川ぎしにかたかけたる屋なれば。波の音たゞ床のもとにとゞろきたり。
はつせ川はやくの世よりながれきて名にたちわたる瀬々のいはなみ
さて御堂にまゐらんとていでたつ。まづ門を入て。くれはしをのぼらんとする所に。たがことかはしらねど。だうみやうの塔とて。右の方にあり。やゝのぼりて。ひぢをるゝ所に。貫之の軒端の梅といふもあり。又蔵王堂産霊の神のほこらなど。ならびたてり。こゝより上を。雲ゐ坂といふとかや。かくて御堂にまゐりつきたるに。をりしも御帳かゝげたるほどにて。いと大きなる本尊の。きらきらしうて見え給へる。人もをがめば。われもふしをがむ。さてこゝかしこ見めぐるに。此山の花。大かたのさかりはやゝ過にたれど。なほさかりなるも。ところどころにおほかりけり。巳の時とて。貝ふき鐘つくなり。むかし清少納言がまうでし時も。俄にこの貝を吹いでつるに。おどろきたるよし。かきおきける。思ひ出られて。そのかみの面影も。見るやう也。鐘はやがてみだうのかたはら。今のぼりこし。くれはしの上なる楼になんかゝれりける。
名も高くはつせの寺のかねてよりきゝこしおとを今ぞ聞ける
ふるき哥共にも。あまたよみける。いにしへの同じ鐘にやと。いとなつかし。かゝる所からは。ことなる事なき物にも。見きくにつけて。心のとまるは。すべて古をしたふ心のくせ也かし。猶そのわたりたゝずみありく程に。御堂のかたに。今やうならぬ。みやびたる物の音の聞ゆる。かれはなにそのわざするにかと。しるべするをのこにとへば。此寺はじめ給ひし上人の御忌月にて。このごろ千部のどきやうの侍る。日ごとのおこなひのはじめに侍る。がくの聲也といふに。いときかまほしくていそぎまゐるを。まだいきつかぬ程に。はやく聲やみぬるこそ。あかずくちをしけれ。又みだうのうちをとほりて。かのつらゆきの梅のまへより。かたつかたへすこしくだりて。がくもんする大とこたちのいほりのほとりに。二本の杉の跡とて。ちひさき杉あり。又すこしくだりて。定家の中納言の塔也といふ。五輪なる石たてり。此ごろやうの物にて。いとしもうけられず。八塩の岡といふ所もあり。なほくだりて。川辺にいで。橋をわたりて。あなたのきしに。玉葛の君の跡とて。庵あり。墓もありといへど。けふはあるじの尼。物へまかりて。なきほどなれば。門さしたり。すべて此はつせに。そのあとかの跡とて。あまたある。みなまことしからぬ中にも。この玉かづらこそ。いともいともをかしけれ。かの源氏物語は。なべてそらごとぞとも。わきまへで。まことに有けん人と思ひて。かゝる所をもかまへ出たるにや。このやゝおくまりたるところに。家隆の二位 の塔とて。石の十三重なるあり。こはやゝふるく見ゆ。そこに大きなる杉の。二またなるもたてり。又牛頭天王の社。そのかたはらに。苔の下水といふもあり。こゝまではみな。山のかたそはにて。川にちかき所也。それよりかのよきの天神にまうづ。社の山のはらに。やゝたひらなる所にたゝせ給へり。長谷山口坐神社と申せるはこれなどにもやおはすらん。されど今は。なべてさる事しれる人しなければ。わづらはしさに。たづねもとはず。大かたいにしへ名ありける御社ども。いづくのも。今の世には。すべて八幡天神。さては牛頭天王などにのみ成給へるぞかし。此わたりすべてこぶかきしげ山にて。杉などは多かれど。名にたてる檜原は見えず。此川かみには。檜の木もおほしと。しるべのをのこはいへりき。かくて此山のうちめぐりはてゝ。里におりける程。又雨ふり出ぬ。けふは朝より空はれそめて。やうやう青雲も見ゆるばかりに成しかば。今はふようなめりとて。とくとりをさめつる雨衣。又しもにはかにとりいでゝ。うちきるもいとわびし。  
ぬぎつれど又もふりきて雨ごろもかへすがへすも袖ぬらすかな
されどしばしにて。里はなるゝ程は。きよくやみぬ。あなたよりいる口に。いと大きなるあけの鳥居たてり。さて出はなれて。出雲村黒崎村などいふ所をすぐ。此あたりは朝倉宮列木宮【長谷朝倉宮は雄略天皇の都長谷列木宮は武烈天皇の都】などの跡と聞こしかば。いとゆかし。此くろざきに。家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば。かのふりにし宮どもの事。たづねがてら。あるじの年おいたるがみゆる家見つけて。くひに立よる。さてくひつゝとふに。ふるき都のあとゝばかりは。うけ給はれど。これなんそれとたしかにつたへたるしるしの所も侍らずとぞいふ。高圓山はいづこぞととふに。そはこのうしろになん侍るとて。をしふるを見れば。此里よりは南にあたりて。よろしき程なる山の。いたゞきばかりすこし見えたる。今はとかま山となんいふとぞ。まことの高圓山は。春日にこそあなるを。こゝにしも其名をおふせつるは。もとよりとかまといふが。似たるによりてか。又は高圓山とつけたるを。里人のもてひがめて。かくはいふか。いづれならん。脇本慈恩寺などいふ里をゆく。こゝよりはかのとかま山。ちかくてよく見ゆ。此里の末を。追分とかいひて。三輪の方へも。桜井のかたへもゆく道のちまた也。今はそのすこしこなたより。左へわかれ。橋をわたりて。多武の峯へゆく細道にかゝる。此橋は。はつせ川のながれにわたせるはし也けり。そもそもたむの峯へは。櫻井よりゆくぞ。正しき道には有ける。とび村などいふも。その道也といふなれば。それも名ある所にて。たづね見まほしき事共はあれど。みな人ほどの遠きをものうがりて。今の道には物するなりけり。東の方にいと高き山をとへば。音羽山とぞいふ。音羽の里といふも。その麓にありとぞ。忍坂村は。道の左の山あひにて。やがて此むらのかたはらをとほりゆく。こゝもふるき哥に見え。神の御社などおはすなれど。ゆくさきいそがれて。さまではえたづねず。なほ山のそはづたひを。ゆきゆきて。倉梯の里にいでぬ。こゝはかのさくら井よりくる道也けり。はつせよりこし程は二里。たむのみね迄は。なほ一里有とぞ。しばしやすめる家にて。例の都のあとを尋ぬれば。【崇峻天皇の都倉梯柴垣の宮】あるじ。この里中に金福寺と申す寺ぞ。その御跡には侍る。このおはしける道なる物をとて。子にやあらん。十二三ばかりなるわらはをいだして。あないせさす。これにつきてゆきて見る。二三町ばかりも立かへりて。かの寺といひしは。門などもなくて。いとかりそめなる庵になん有ける。猶くはしきこともきかまほしくて。あるじのほうしをとぶらひしかど。なきほど也けり。まへにごまだうとて。かやぶきなるちひさき堂のあるを。さしのぞきて見れば。不動尊のわきに。聖徳太子崇峻天皇とならべ奉りて。かきつけたる物たてり。されどむげに今やうのさまにて。さらに古しのぶつまと成ぬべきものにはあらず。くらはし川は。やがて此いほりのうしろをながれたり。すべてこゝは。山も川も名ある所ぞかし。さきの家にかへりて。また御陵【倉梯岡陵崇峻天皇】はいづこぞととへば。そは忍坂と申す村より五丁ばかりたつみの方に。みさゞき山とて。こしげき森の侍るなかに。洞の三ッ侍る。ふかさは五六十間も侍るべし。こゝより程はとほけれど。そのあたり迄も。なほくらはしの地には侍る也といふ。いでその忍坂は。きしかたの道なりしに。さることもしらで。過こし事よと。いとくちをし。こゝよりは廿町あまりもありといへば。えゆかでやみぬ。かの音羽山といひつる山。こゝより東にあたりて。いと高くみゆ。倉梯山は。ふるき哥共によめるを見るに。いとたかき山と聞えたれば。これやそならんとおぼゆ。さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋をわたりて。右の方におりゐといふ村あり。その上の山に。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。かの家のあるじの教へしは。所たがひて覚ゆれど。猶あるやう有べしと思ひて。のぼりて見るに。その森の中に。春日の社とて。ほこらあり。そのすこしくだる所に。山寺の有けるに立よりて。たづぬれば。あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御は。長門村といふ所にこそあなれといふに。さりや。かのをしへしは。はやくひが事也けりと。思ひさだめぬ。されど此森も。やうある所とは見えたり。ふるき書に。【文徳實録九又神名帳】椋橋下居神とあるも。此里にこそおはすらめ。かの土橋を渡りては。くら橋川を左になして。ながれにそひつゝのぼりゆく。此川は。たむの峯よりいでゝ。くらはしの里中を。北へながれ行川也。此道に。桜井のかたよりはじまりて。たむのみね迄。瓔珞經の五十二位 といふ事を。一町ごとにわかちて。ゑりしるしたる石ぶみ立たり。すべてかゝるものは。こしかたゆくさきのほどはかられて。道ゆくたよりとなるわざ也。なほ同じ川ぎしを。やうやうにのぼりもてゆくまゝに。いと木ぶかき谷陰になりて。ひだり右より。谷川のおちあふ所にいたる。瀧津瀬のけしき。いとおもしろし。そこの橋をわたれば。すなはち茶屋あり。こゝははや多武の峯の口也とぞいふ。さて二三町がほど。家たちつゞきて。又うるはしき橋あるを渡り。すこしゆきて。惣門にいる。左右に僧坊共こゝらなみたてり。御廟の御前は。やゝうちはれて。山のはらに。南むきにたち給へる。いといかめしく。きらきらしくつくりみがゝれたる有様。めもかゞやくばかり也。十三重の塔。又惣社など申すも。西の方に立給へり。すべて此所。みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら。道のくまぐままで。さる山中に。おち葉のひとつだになく。いといときらゝかに。はききよめたる事。又たぐひあらじと見ゆ。桜は今をさかりにて。こゝもかしこも白たへに咲みちたる花の梢。ところからはましておもしろき事。いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん。一やうならず。くさぐさ見ゆ。そも此山に。かばかり花のおほかること。かねてはきかざりきかし。  
谷ふかく分いるたむの山ざくらかひあるはなのいろを見るかな
鳥居のたてるまへを。西ざまにゆきこして。あなたにも又惣門あり。そのまへをたゞさまにくだりゆけば。飛鳥の岡へ五十町の道とかや。その道のなからばかりに。細川といふ里の有ときくは。南淵の細川山とよめる所にやあらん。又そこに。此たむの山よりながれゆく川もあるにや。【萬葉九に うちたをりたむの山霧しげきかも細川の瀬に浪のさわげる】たづねみまほしけれど。えゆかず。吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの国中見えわたる所也。なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのゝ山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の雲。かつがつみつけたる。いとうれし。さてくだりゆく谷かげ。いはゞしる山川のけしき。世ばなれていさぎよし。たむのみねより一里半といふに。瀧の畑といふ山里あり。まことに瀧川のほとり也。又山ひとつこえての谷陰にて。岡より上市へこゆる道とゆきあふ。けふは吉野までいきつべく思ひまうけしかど。とかくせしほどに。春の日もいととく暮ぬれば。千俣といふ山ぶところなる里にとまりぬ。こよひは。
ふる里に通ふ夢路やたどらましちまたの里に旅寝しつれば
此宿にて。龍門のたきのあないたづねしに。あるじのかたりけるは。こゝより上市へたゞにゆけば。一里なるを。かしこへめぐりては。二里あまりぞ侍ん。そはまづ此さとより。かしこへ一里あまり有て。又上市へは一里侍ればといふ。此瀧かねて見まほしく思ひしゆゑ。けふの多武の峯より物せんと思ひしを。道しるべせし者の。さてはいたく遠くて。道もけはしきよしいひしかば。えまからざりしを。今きくが如くは。かしこより物せんには。ましてさばかりとほくもあらじ物をと。いとくちをし。されどよしのゝ花。さかり過ぬなどいふをきくに。いとゞ心のいそがるれば。明日ゆきて見んといふ人もなし。そもこのりう門といふところは。いせより高見山こえて。吉野へも木の国へも物する道なる。瀧は道より八丁ばかり入ところに有となん。いとあやしきたきにて。日のいみしうてるをり。雨をこふわざするに。かならずしるし有て。むなぎののぼれば。やがて雨はふる也とぞ。
立よらでよそにきゝつゝ過る哉心にかけし瀧の白糸
八日。きのふ初瀬の後雨ふらで。よもの山のはも。やうやうあかりゆきつゝ。多武のみねのあたりにては。なごりもなく晴たりしを。今日も又いとよき日にて。吉野もちかづきぬれば。けさはいとゞあしかろく。みな人の心ゆく道なればにや。ほどもなく上市に出ぬ。此あひだは。一里とこそいひしか。いとちかくて。半里にだにもたらじとぞ覚ゆる。よし野川。ひまもなくうかべるいかだをおし分て。こなたのきしに船さしよす。夕暮ならねば。渡し守ははやともいはねど。【いせ物語に渡し守はや船にのれ日もくれぬといふに云々】みないそぎのりぬ。いもせ山はいづれぞととへば。河上のかたに。ながれをへだてゝ。あひむかひてまぢかく見ゆる山を。東なるは妹山。にしなるは背山とをしふ。されどまことに此名をおへる山は。きの国にありて。うたがひもなきを。かの「中におつるよし野の川に思ひおぼれて。必こゝとさだめしは。世のすきもののしわざなるべし。されど。
妹背山なき名もよしやよしの川よにながれてはそれとこそ見め
あなたの岸は。飯貝といふ里也。さて川べにそひつゝ。すこし西に行て。丹治といふ所より。よし野の山口にかゝる。やゝ深く入もてゆきて。杉むらの中に。四手掛の明神と申すがおはするは。吉野山口神社などにはあらぬにや。されどさいふばかりの社とも見えず。此森より下にも上にも。此わたりなべて桜のいとおほかる中を。のぼり?て。のぼりはてたる所。六田のかたよりのぼる道とのゆきあひにて。茶屋あり。しばしやすむ。此屋は。過こし坂路より。いと高く見やられり所也。こゝより見わたすところを。一目千本とかいひて。大かたよし野のうちにも。桜のおほかるかぎりとぞいふなる。げにさも有ぬべく見ゆる所なるを。たれてふをこの者か。さるいやしげなる名はつけゝんと。いと心づきなし。花は大かた盛すぎて。今は散残たる梢どもぞ。むらぎえたる雪のおもかげして。所々に見えたる。そもそも此山の花は。春立る日より。六十五日にあたるころほひなん。いづれのとしもさかりなると。世にはいふめれど。又わが国人の。きて見つるどもに。とひしは。かのあたりのさかりの程を見て。こゝに物すれば。よきほどにぞと。これもかれもいひしまゝに。其程うかゞひつけて。いで立しもしるく。道すがらとひつゝこしにも。よきほどならんと。おほくはいひつる中に。まだしからんとこそ。いひし人も有しか。かくさかり過たらんとは。かけても思ひよらさりしぞかし。なほこゝにてくはしくとひきけば。この二月のつごもりがた。いとあたゝかなりしけにや。例の年のほどよりも。ことしはいとはやく咲出侍りつるを。いにし三日四日ばかりや。さかりとはまうすべかりけん。そも雨しげく。風ふきなどせし程に。まことに盛と申つべきころも侍らぬやうにてなん。うつろひ侍りにし。とかたるをきけば。其としどしの寒さぬるさにしたがひて。おそくもとくもあることにて。かならずそのほどと。かねては此里人も。えさだめぬわざにぞ有ける。うしとらの方に。御舟山といふ山見えたり。【万葉に「瀧のうへの御船の山】されどその山は。瀧のうへのとよみたれば。此ちかき所などにあるべくも覚えず。これも例のなき名なるべし。こゝはよし野の里にいる口にて。これよりは。町屋たちつゞけり。二三町ばかりゆきて。石の階をすこしのぼりたる所に。いと大きなる銅の鳥居たてり。發心門としるせる額は。弘法大師の手也とぞ。又二町ばかりありて。石の階のうえに。二王のたてる門あり。此わたりにも桜有て。さかりなるもおほく見ゆ。かのみふね山。こゝよりは。むかひにちかく見えたり。まづやどりをとらんとて。蔵王堂にはまゐらですぎゆく。堂はあなたにむかひたれば。かの門は。うしろの方にぞたてりける。そのあたりに。きよげなる家たづねて。宿をさだめて。まづしばしうちやすみ。物くひなどして。けふ明日の事共かたらひ。道しるべすべきものやとひて。まづちかき所々を見めぐらんとて。いでたつ。このかりつるやどは。箱やの何がしとかいふものの家にて。吉水院ちかき所なりければ。まづまうず。この院は。道より左へいさゝか下りて。又すこしのぼる所。はなれたる一ッの岡にて。めぐりは谷也。後醍醐のみかどの。しばしがほどおはしましゝ所とて。有しまゝにのこれるを。入てみれば。げに物ふりたる殿のうちのたゝずまひ。よのつねの所とは見えず。かけまくはかしこけれど。  
いにしへのこゝろをくみてよし水のふかきあはれに袖はぬれけり
かのみかどの御像。後村上帝の。御てづからきざみ奉り給へるとて。おはしますを拝み奉るにも。
あはれ君この吉水にうつり来てのこる御影を見るもかしこし
又そのかみのふるき御たから物ども。あまた有て。見けれど。ことごとくはえしも覚えず。此寺の内に。さゞやかなる屋の。まへうちはれて。見わたしのけしきいとよきがあるに。たち入て。煙ふきつゝ見いだせば。子守の御社の山。むかひに高く見やられて。其山にも。かたへの谷などにも。ひまなく見ゆる桜共の。今は青葉がちなるぞ。かへすがへすくちをしき。さはいへどおくある花は。さかりとみゆるも。猶あまたにて。
みよし野の花は日数もかぎりなし青葉のおくも猶盛にて
滝桜といふも。かしこにありとをしふ。
咲にほふ花のよそめはたちよりて見るにもまさる滝のしら糸
くるゝ迄見るとも。あくよあるまじうこそ。又雲ゐ桜といふもあり。後醍醐のみかどの。此花を御覧じて。「こゝにても雲ゐのさくら咲にけり。たゞかりそめの宿とおもふに。とよませ給ひしも。
世々をへてむかひの山の花の名にのこるくもゐのあとはふりにき
さてざわうだうにまうづ。御とばりかゝげさせて見奉れば。いともいとも大きなる御像の。いかれるみかほして。かた御足さゝげて。いみしうおそろしきさまして立給へる。三はしらおはする。たゞ同じ御やうにて。けぢめ見え給はず。堂はみなみむきにて。たても横も十丈あまりありとぞ。作りざまいとふるく見ゆ。まへに桜を四隅にうゑたる所あり。四本桜といふとかや。そのかたつかたに。くろがねのいと大きなる物の。鍋などいふものゝさまして。かけそこなはれたるが。うちおかれたるを。何ぞととへば。昔塔の九輪のやけ落たるが。かくて残れる也といふ。口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど。おしはかられぬ。堂のかたはらより西へ。石のはしをすこしくだれば。すなはち実城寺也。本尊のひだりのかたに後醍醐天皇。右に後村上院の。御ゐはいと申物たゝせ給へり。此寺も。前のかぎり蔵王堂のかたにつゞきて。後も左も右も。みなやゝくだれる谷也。されどかのよし水院よりは。やゝ程ひろし。この所は。かりそめながら。五十年あまりの春秋をへて。三代の帝【後醍醐天皇後村上天皇後亀山天皇】のすませ給ひし。御行宮の跡なりと申すは。いかゞあらん。ことたがへるやうなれど。をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし。今は堂も何も。つくりあらためて。そのかみのなごりならねど。なほめでたく。こゝろにくきさま。こと所には似ず。此てらを出て。もとの道にかへり。桜本坊などいふを見て。勝手の社は。このちかきとし焼ぬるよし。いまはたゞいさゝかなるかり屋におはしますを。をがみて過ゆく。此やしろのとなりに。袖振山とて。こだかき所に。ちひさき森の有しも。同じをりにやけたりとぞ。御影山といふも。このつゞきにて。木しげきもりなり。竹林院。堂のまへに。めづらしき竹あり。一ッふしごとに。四方に枝さし出たり。うしろの方に。おもしろき作り庭あり。そこよりすこし高き所へあがりて。よもの山々見わたしたるけしきよ。まづ北の方にざわう堂。まち屋の末につゞきて。物より高く目にかゝれり。なほ遠くは。多武の山高とり山。それにつゞきて。うしとらのかたに。龍門のだけなど見ゆ。東と西とは。谷のあなたに。まぢかき山々あひつゞきて。かの子守の御社の山は。南に高く見あげられ。いぬゐのかたに。葛城やまは。いといとはるに。霞のまより見えたるなど。すべてえもいはず。おもしろき所のさま也。
花とのみおもひ入ぬるよしの山よものながめもたぐひやはある
時うつる迄ぞ見をる。ゆくさきなほ見どころはおほきに。日くれぬべしとおどろかせど。耳にもきゝいれず。くれなばなげの【古今春「いざけふは山べにまじりなん暮なばなげの花の陰かは】などうちずして。
あかなくに一よはねなんみよしのゝ竹のはやしの花のこの本
かくはいへど。ゆくさきの所々も。さすがにゆかしければ。そこにたてる桜の枝に。このうたはむすびおきて。たちぬ。さてゆく道のほとりに。何するにかあらん。桜のやどり木といふ物を。多くほしたるを見て。
うらやまし我もこひしき花の枝をいかにちぎりてやどりそめけむ
ゆきゆきて。夢ちがへの観音などいふあり。道のゆくてに。布引の桜とて。なみ立る所もあなれど。今は染かへて。青葉のかげにしあれば。旅ごろもたちとまりても見ず。かの吉水院より見おこせし。滝桜くもゐざくらも。此ちかきあたり也けり。世尊寺。ふるめかしき寺にて。大きなるふるき鐘など有。なほのぼりて。蔵王堂より十八町といふに。子守の神まします。此御やしろは。よろづの所よりも。心いれてしづかに拝み奉る。さるはむかし我父なりける人。子もたらぬ事を。深くなげき給ひて。はるばるとこの神にしも。ねぎことし給ひける。しるし有て。程もなく。母なりし人。たゞならずなり給ひしかば。かつがつ願ひかなひぬと。いみじう悦びて。同じくはをのこゞえさせ給へとなん。いよいよ深くねんじ奉り給ひける。われはさてうまれつる身ぞかし。十三になりなば。かならずみづからゐてまうでて。かへりまうしはせさせんと。のたまひわたりつる物を。今すこしえたへ給はで。わが十一といふになん。父はうせ給ひぬると。母なんものゝつひでごとにはのたまひいでゝ。涙おとし給ひし。かくて其としにも成しかば。父のぐわんはたさせんとて。かひがひしう出たゝせて。まうでさせ給ひしを。今はその人さへなくなり給ひにしかば。さながら夢のやうに。  
思ひ出るそのかみ垣にたむけして麻よりしげくちるなみだかな
袖もしぼりあへずなん。かの度は。むげにわかくて。まだ何事も覚えぬほどなりしを。やう?ひとゝなりて。物の心もわきまへしるにつけては。むかしの物語をきゝて。神の御めぐみの。おろかならざりし事をし思へば。心にかけて。朝ごとには。こなたにむきてをがみつゝ。又ふりはへてまうでまほしく。思ひわたりしことなれど。何くれとまぎれつゝ過こしに。三十年をへて。今年又四十三にて。かくまうでつるも。契あさからず。年ごろのほいかなひつるこゝちして。いとうれしきにも。おちそふなみだは一ッ也。そも花のたよりは。すこし心あさきやうなれど。こと事のついでならんよりは。さりとも神も。おぼしゆるして。うけ引給ふらんと。猶たのもしくこそ。かゝる深きよしあれば。此神の御事は。ことによそならず覚え奉りて。としごろ書を見るにも。萬に心をつけて。尋ね奉りしに。吉野水分神社と申せしぞ。此御事ならんと。はやく思ひよりたりしを。續日本紀に。水分峯神ともあるは。まことにさいふべき所にやと。地のさまも見さだめまほしく。としごろ心もとなく思ひしを。今来て見れば。げにこのわたりの山の峯にて。いづこよりも。高く見ゆる所なれば。うたがひもなく。さなりけりと。思ひなりぬ。ふるき哥に。みくまり山と讀るも。此所なるを。その文字を。みづわけとひがよみして。こと所の山にしも。さる名をおふせたるは。例のいかにぞや。又みくまりをよこなまりて。中比には。御子守の神と申し。今はたゞに子守と申て。うみのこの栄えをいのる神と成給へり。さて我父も。こゝにはいのり給ひし也けり。此御門のまへに。桜おほかる。いまさかりなり。木のもとなる茶屋に立よりて。やすめるに。尾張国の人とて。これも花見にきつるよし。から哥このむ人にて。名もからめきたる。なにとかやわすれにき。その妻は。やまと言の葉をなん物するよし。それもぐしたる。やゝさだすぎにたれど。けしうはあらず見ゆ。さるはをとつひ。いがの名張にやすめる所にて。見し人也けり。きのひたむのみねにも。まうであひつるを。けふ又竹林ゐんなる所にも。ゆきあひて。かの男なん。小泉にかたらひつきて。ふみつくりかはしなどしつゝ。おのれらがことをも。くはしうとひきゝなどせしとかや。さる事はしらざりしを。又しもこゝにきあひたる。しかじかのよしいひ出て。物語などする程に。春の日も入相のかねの音して。心あわたゝしければ。立わかるゝこの本にて。
今は又きみがことばの花も見んよし野のやまはわけくらしけり
ゆくさきは。明日のついでと。のこし置て。けふはこれより。やどりにかへりぬ。そのよさり。かのをはり人の宿より。うたふたつかきて。見せにおこせたる。かのさだすぎ人のなるべし。けふの花のおもしろかりしよしありければ。かへし。
よしの山ひる見し花のおもかげもにほひをそへてかすむ月影
かくよめるは。かの哥ぬしの名。霞月とありければぞかし。くだものなどそへておくりければ。
みよし野の山よりふかきなさけをや花のかへさの家づとにせん。
これよりは。ゑぶくろに有あひたるまゝに。いせの川上茶といふをやるとて。つゝみたる紙に。
ちぎるあれや山路分来てすぎがての木の下陰にしばしあひしも
茶すこしとは。聞しりなんや。このほか人々の哥どもゝ。これかれかきつけてやりつ。京にいそぐ事あれば。明日はとくたちて。のぼるべきよし。いひおこせたるに。
旅衣袖こそぬるれよしの川花よりはやき人のわかれに
九日。とくおき出て。はしちかく見いだせば。空はちりばかりもくもりなく。はれ渡りたるに。朝日のはなやかにさし出たるほど。木々のこのめも。はるふかき山々のけしき。霞だにけさはかゝらで。物あざやかに見わたされたり。吉水院は。たゞはひわたるほどにて。ゆきかふ人のけはひ迄。まぢかくめのまへに見ゆ。大かた此里は。かのみくまりのみねより。かたさがりにつゞきて。細き尾の上になん有めれば。左右に立なみたる。民の家居どもゝ。前よりこそさりげなく。たゝよのつねの屋のさまに見いれらるれ。うしろは。みな谷より作りあげて。三階の屋になん有ければ。いづれの家も。見わたしのけしきよし。さるはまらうどやどし。又物うりなどするは。上の屋にて。道よりたゞに入る所也。次に家人のすまひは。中の屋にて。その下なれば。戸口より階をくだりてなん入める。今一ッはしを下りて。又下なる屋は。ゆかなどもなくて。たゞ土のうへに。物うちおきなど。みだりがはしくむつかしきに。湯あむる所。かはやなどは。そこしもあなれば。日ひとひあるきこうじたる。旅人の足は。八重山越ゆくこゝちして。此はしどものぼりくだるなん。いとくるしかりける。されど所のさまの。いひしらずおもしろきには。さる事は物のかずならず。 花ちりなばと。まつらん人をもうちわすれて。【新古今西行「吉野山やがていでじと思ふ身を花散なばと人やまつらん】やがてとゞまりても。すみなばやとさへぞ思はるゝ。今日は瀧ども見にものせんとて。例の道しるべさきにたて。かれいひ酒などもたせて。いでたつ。かの竹林院などいふわたりまでは。いかめしき僧坊どもなど。立まじりて。ひたつゞきの町屋なるを。末はやうやう。まばらになりもてゆきて。子守のみやしろよりおくは。人の家もなく。たゞ杉のおひしげりたる中をぞ分行。さてやゝうちはれたる所にいでゝ。左にはるかの谷となづけたるところ。またいと桜おほくて。さかり也。  
高根より程もはるかの谷かけて立つゞきたる花のしら雲
なほ行て。大きなるあけの鳥居あり。二の鳥居又修行門ともなづくとかや。金御峯神社。いまは金精大明神と申て。此山しろしめす神也とぞ。このおまへをすこし左へ下りて。けぬけの塔とて。ふるめかしき塔のあるは。むかし源義経が。かたきにおはれて。この中にかくれたりしを。さがしいだされたる時。屋ねをけはなちて。にげいにける跡などいひて。見せけれど。すべてさることは。ゆかしからねば。目とゞめても見ずなりぬ。なほ深く分入て。茶屋ある所にいたる。その前を。右へいさゝかくだれば。安禅寺也。蔵王堂。大坂右大臣のたて給へるとぞ。東の方に。木しげき山は。青根が峯也とて。此だうのまへより。むかひにちかく見えたり。二三町おくに。何とかやことごとしき名つきたる堂あり。そのうしろへ。木の下道を。二丁ばかりくだりたる谷陰に。苔清水とて。岩間より水のしたゞり落る所あり。西行法師が哥とて。まねびいふをきくに。さらにかの法師が口つきにあらず。むげにいやしきえせ哥也。なほ一町ばかり分行て。かのすめりし跡といふは。すこしたひらなる所にて。一丈ばかりなる。かりそめのいほり。今もあり。桜もこゝかしこに見ゆ。
花見つゝすみし昔のあととへばこけの清水にうかぶおもかげ
このちかきころある法師も。みとせばかり。こゝにこもりゐけるとぞ。京にて高野槇といふ木を。こゝの人は。ただにまきとぞいふ。これを思へば。いにしへ檜のほかに。まきといひしは。この木なるべし。これは。こゝに必いふべきことにもあらねど。此わたりの山に。此木のおほかるにつきて。人のたづねけるに。いらへつることばを聞て。ふと思ひよれるゆゑ。筆のついでに。かきつけつるぞ。本の道を。安ぜんじのまへの茶屋迄かへりて。御嶽へまうずる道にかゝり。三丁あまりもきつらんと思ふ所に。しるべのいしぶみたてる道を。左へ分れゆく。みたけの道へは。これより女はのぼらずとぞ。かの見えし青根が峯は。すなはち此山也けり。すこし行て。東のかたの谷の底はるかに。夏箕の里箕ゆ。ゆきゆきて又東北の谷に。見くださるゝ里をとへば。国栖とぞいふ。此わたり。うちはれたる山の背を。つたひゆくほど。いと遠し。さてくだる坂路のけはしさ。物にゝず。されどのぼるやうに。くるしくはあらず。此坂をくだりはつれば。西河の里也。安ぜんじより。一里といひしかど。いととほく覚えき。山の中につゝまれて。いづかたも見はるかす所もなき里なるを。家ごとに紙をすきて。門におほくほせる。こはいまだみぬわざなれば。ゆかしくて。足もやすめがてら。立入て見るに。一ひらづゝすき上ては。重ね重ねするさま。いとめづらかにて。たつこともわすれつ。さて右の方へ三丁ばかり。里をはなれ行て。谷川にわたせる板橋のもとよりわかれて。左へいさゝかのぼり。山のかひを。あなたへうちこゆれば。すなはち大 滝村也。此間は五丁ばかりもあらんか。此大瀧の里のあなたのはづれは。すなはちよし野川の川のべにて。瀧といふも。やがて川づらなる家のまへより。見やらるゝ早瀬にて。上よりたゞさまにおつる滝にはあらず。此瀧は。遠くては。ことなることもなし。ちかくよりて見よと。貝原翁が。をしへおきつる事もあれば。岩のうへを。とかくつたひゆきて。せめてまぢかくのぞき見るに。そのわたりすべて。えもいはず大きなるいはほどもの。こゝら立かさなれるあひだを。さしも大きなる川水の。はしりおつるさま。岩にふれて。くだけあがる白波のけしきなど。おもしろしともおそろしとも。いはんは中々おろかに成ぬべし。むかしは筏も。此瀬をたゞにくだしけるを。あまりに水のはげしくて。度ごとに。くだしわづらひし故に。いはほのやゝなだらかなる所を。きりとほして。今はかしこをなんくだすなると。をしふる方を見れば。あなたざまに一みち分れて。おちゆく水。げにこなたの瀬より。すこしはのどやかに見えたり。あはれ今くだし来むいかだもがな。いかで此早瀬くだすさま見むといひつゝ。かれいひくひ。酒などのみをる程に。みなかみはるかに。この筏くだしくる物か。やうやうちかづききて。此瀧のきはになりぬれば。のりたる者共は。左右の岩の上に。とびうつりて。先なる一人。綱をひかへて。みな流れにそひて。はしりゆくに。筏の早く下るさまは。矢などのゆくやう也。さて岩のとぢめの所にて。人共皆筏へかへる。そこは殊に水の勢ひはげしくて。ほどばしりあがる浪にゆられて。うきしづむ丸木の上へ。いたはりもなくとびうつるさま。いといとあやふき物から。めづらか におもしろきこと。たぐひなし。みな人此筏に見入て。盃のながれは。いづちならんとも。とはずなりぬ。さて此筏。瀧をはなれて。ひら瀬にくだりたるを。よく見れば。一丈二三尺ばかりの長さなるくれを。三ッ四ッづゝくみならべて。つぎつぎに十六。つなぎつゞけたるは。いといと長く引はへたり。人は四人なんのれりける。川瀬は。此滝のしもにて。あなたへをれて。むかひの山あひに流れいる。右も左も。物をつき立たるやうなる岩岸の下に。さるいかだをしも。くだしゆくけしき。たゞ絵にかけらんやうに見ゆ。かゝる 所にては。中々に口ふたがりて。哥もいでこぬを。わざとうちかたふきつゝ。思ひめぐらさんも。さまあしければ。さてやみぬ。いにしへ吉野の宮と申て。みかどのしばしばおはしまししところ。柿本人まろ主の。御供にさふらひて。滝のみやことよみけるも。この大瀧によれる所なりけんかし。そのをりをりの歌どもに。あはせて思ふに。あきづの小野などいひしも。又滝のうへの御舟の山も。かならず此わたりなりけんこと。うたがひもなければ。今もさいふべきさましたる山やあると。心をつけて見まはすに。この川づらより左の。すこしかへり見る方に。さもいひつべき山あり。船にしていはんには。まへしりへたひらに長くて。なからばかりに。一きは高く。屋形といひつべき所ある山なり。これやさならん。とは思ひよれど。いかにあらん。おぼつかなし。そは瀧の所よりは。すこし下ざまにしあなれば。たきのうへといへるには。いさゝかたがへるやうにもあれど。なべて此わたりならん山は。などかさいはざらん。古忍ばん人。またまたもこゝにきまさば。必こゝろみ給へ。やがて此里の上なる山ぞかし。かくて又里の中を通りて。西河のかたへかへり。こたみは。さきの板橋をわたりて。石のはしを一町ばかりものぼり。こしげき谷かげを分入て。いはゆるせいめいが滝を見る。これはかの大瀧とはやうかはりて。しげ山の岩のつらより。十丈ばかりが程。ひたくだりに落る滝也。この見る所は。かたはらよりさし出たる。岸のうへにて。ちかう滝のなからにあたりたれば。上下を見あげ見おろす。上はせばきが。やうやうに一丈あまりにもひろごりて。おちゆく。末はこなたかなたより。み山木どもおひかゝりて。をぐらき谷の底なれば。穴などをのぞくやうなる所へ。山もとよみて。おちたぎるけしき。けおそろしく。そぞろさむし。かたはらにちひさき堂のたてる前より。岩根をよぢ。つたかづらにかゝりつゝ。すこしのぼりて。滝のうへを見れば。水はなほ上より落来て。岩淵にいる。この淵二丈ばかりのわたりにて。程はせばけれど。深く見ゆ。瀧はやがてこの淵の水のあまりて。落るなりけり。こゝに里人の岩飛といふことして。見するよし。かねて聞しかば。さきに西河にてさるわざするものやあると。尋ねしかど。此ごろは。長雨のなごりにて。水いとおほければ。あやふしとて。するものなかりき。さるはこのかたへなるいはのうへより。淵の底へとび入て。うかび出ることをして。銭をとるなるを。水おほくて。はげしき時には。浮みいづるきはに。もしおしながされて。銚子の口にかゝりぬれば。命たへずとなんいふなる。銚子の口とは。淵より滝へおちんとする際をいふ也けり。そもそも此瀧を。清明が瀧としもいふは。かげろふの小野によりたる名にて。虫の蜻螟ならん。と云し人もあれど。さにはあらじかし。里人は。蝉の滝とも いふなれば。はじめは。なべてさいひけむを。後に清明とは。さかしらにぞいひなしつらん。いま瀧のさまを見るに。かみはほそくて。やうやうに下ざまのひろきは。蝉のかたちに。いとようにたるに。なる音はた。かれが聲にかよひたなれば。さもなづけつべきわざぞかし。又その蝉のたきは。これにはあらず。こと瀧也ともいへど。里人は。すなはち此滝のこと也とぞいふける。そはとまれかくまれ。かの虫の蜻螟は。ひが事なるべし。かげろふの小野とは。かのあきづ野をあやまりたる名にて。もとよりさる所はなきうへに。そのあきづ野はた。此わたりにはあらじ物をや。さて此滝のながれを。音無川といひて。萬よりもあやしきは。月毎のはじめなからは。上津瀬に水といふものなく。後のなからは。又下津瀬に水なしとかや。さて上より来る水は。いづちへいかにして。ながれゆくぞといふに。石のはざま砂の下などへ。やうやうにしみ入つゝ。なくなりては。はるかに下にいたりて。又やうやうにわき出つゝ。流れゆく也といふは。さることも有ぬべけれど。ころをしもたがへで。上つせと下つ瀬と。たがひにしかかはらんことは。猶いとあやしきわざ也かし。されど今は。たゞよのつねの川にて。さりげも見えぬは。此ごろ水のおほき故也とぞいふ。すなはちかの板橋のかゝれるも。此川にて。しもはにじかふの里中をなん。ながれ行める。かの里にかへりて。又けさくだりこし山路にかゝる。けさはさしもあらざりしを。のぼるはこよなくくるしくて。同じ道とも思はれず。さてのぼりはてて。右につきたる道へわかれて。又しものぼる山は。佛が峯とかいひて。いみしうけはしき坂也。さてくだる道は。なだらかなれど。あしつかれたるけにや。猶いとくるしくて。茶屋の有所に。しばしとてやすむ。こゝにて鹿塩神社の御事をたづねたれば。そは樫尾西河大滝と。三村の神にて。西河と樫尾とのあはひなる山中に。今は大蔵明神と申て。おはするよしかたる。この道よりは。ほど遠しときけば。えまうでず。なほ坂路をくだりゆくほど。右のかたを見おろせば。山のこしをめぐりて。吉野川ながれたり。国栖夏箕なども。川べにそひて。こゝよりは。ちかく見ゆ。さてくだりはてたる所の里を。樋口といひ。そのむかひの山本なる里は。宮滝にて。よしのゝ川は。此ふた里のあひだをなん流れたる。西河よりこゝ迄は。一里あまりも有ぬべし。かの国栖なつみなどは。此すこし川上也。しもは上市へも程ちかしとぞ。此わたりも。いにしへ御かり宮有て。おはしましつゝ、せうえうし給ひし所なるべし。宮瀧といふ里の名も。さるよしにやあらん。こゝの川べのいはほ。又いとあやしくめづらか也。かの大滝のあたりなるは。なべてかどなく。なだらかなるを。こゝのは。かどありて。みなするどきが。ひたつゞきにつゞきて。大かた川原は。岩のかぎり也。此岩どもにつきても。例の義経がふることとて。何くれと。えもいはぬこと共を。語りなせども。うるさくて。きゝもとゞめず。此わたり川のさま。さるいはほの間にせまりて。水はいと深かれど。のどやかにながれて。早瀬にはあらず。さて岩より岩へわたせる橋。三丈ばかりもあらんか。宮滝の柴橋といひて。柴してあみたる。渡ればゆるぎて。ならはぬこゝちには。あやふし。又ここにも。かの岩飛するもの有。かたらひ来てとばす。とぶ所は。やがて此はしの下なる。こなたかなた岸はみな岩にて。屏風などを立たらんやうにて。水ぎはより。二丈四五尺ばかりの高さなるを。かなたの岩岸の上よりとぶを。こなたの岸より見るなりけり。そのをのこ。まづき物を皆ぬぎて。はだかに成て。手をばたれて。ひしと腋につけて。目をふたぎ。うるはしく立たるまゝにて。水の中へつぶりととびいるさま。めづらしき物から。いとおそろしくて。まづ見る人の心ぞ。きえ入ぬべき。此比は水高ければ。深さも二丈五尺ばかり有となん。しばし有て。やゝ下へうかひいでゝ。きしの岩にとりかゝりて。あがりきて。くるしげなるけしきもなく。なほとびてんやといへど。おそろしさに。又はとばせでやみぬ。さるは始のごとして。うしろざまにむきても。かしらを下に。さかさまにも。すべて三度迄とぶ也とぞ。大かた此わざは。こゝらの年をへて。ならひうることにて。おぼろけならねば。一さとのうちにも。わづかに一二人ならでは。いうるものなしとぞ。このをのこはいひける。是よりかへるさの道のほどは。一里にたらずとはいふなれど。日も山のはちかく成ぬれば。今はとて。やどりにおもむく。川邊をはなれて。左の谷陰にいり。四五丁もゆきて。道のほとりに。桜木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋をわたりてまうづ。さて川邊をのぼり。喜佐谷村といふを過て。山路にかゝる。すこしのぼりて。高滝といふ瀧あり。よろしき程の滝なるを。一つゞきにはあらで。つぎつぎにきざまれ落るさま。又いとおもしろし。象の小川といふは。此瀧のながれにて。今過来し道より。かの桜木の宮のまへをへて。大川におつる川也。象山といふも。此わたりのことなるべし。桜いとおほかる。今はなべて青葉なるなかに。おのづから散のこれるも。所々に見ゆ。大かた此よし野のうちにも。ことに桜のおほきは。かのにくき名つきたる所。さては此わたりと見えたり。滝を右の方に見つつ。なほ坂をのぼり行て。あなたへ下る道は。なだらか也。其ほどにも。桜はあまた見ゆ。されどいにしへにくらべば。いづこもいづこも。今はこよなう。すくなくなりたらんとぞ思はるゝ。さるは此山のならひとて。此木をきることを。いみしくいましむるは。神のをしみ給ふ故なりとこそいふなるに。今は杉をのみ。いづこにもおほくうゑ生したるが。たちのびて。しげりゆくほどに。桜はその陰におしけたれて。おほくはかれもし。又さらぬも。かじけゆきて。枝くちをれなどのみすめるを。神はいかゞおぼすらん。まろが心には。かく杉うゝるこそ。伐よりも。桜のためは。こゝろうきわざとおぼゆれ。かくてくれはてゝぞ。やどりにかへりつきぬる。まことや大滝の哥。かへるさの道にて。からうじてひねり出たる。
ながれての世には絶けるみよしのゝ滝のみやこにのこる瀧津瀬
宮瀧のも。
いにしへの跡はふりにし宮たきに里の名しのぶ袖ぞぬれける
菅笠日記下の巻

 

十日。けふは吉野をたつ。きのふのかへるさに。如意輪寺にまうづべかりけるを。日暮て残しおきしかば。けさことさらにまうづ。此寺は。勝手の社のまへより。谷へくだりて。むかひの山也。谷川の橋をわたりて。入もて行道。さくら多し。寺は山のはらに。いと物ふりてたてる。堂のかたはらに宝蔵あり。蔵王権現の御像をすゑたり。この御づしのとびらのうらなる絵は。巨勢金岡がかけるといふを見るに。げにいと古く見どころある物也けり。それに。ごだいごのみかどの。御みづからこの絵の心をつくりて。かゝせ給へる御詩とておしたり。わきにこのみかどの御像もおはします。これはた御てづからきざませ給へりとぞ。其外かゝせ給へる物。又御手ならし給ひし御硯やなにやと。とうでゝ見せたり。又楠のまさつらが軍にいでたつとき。矢のさきして。塔のとびらに。「かへらじとかねて思へば梓弓なきかずにいる名をぞとゞむる。といふ哥をゑりおきたるも。此くらにのこれり。みかどの御ためにまめやかなりける人なれば。かの義経などゝはやうかはりて。あはれと見る。又塔尾の御陵と申て。此堂のうしろの山へすこしのぼりて。木深き陰に。かの帝のみさゞきのあるに。まうでゝ見奉れば。こだかくつきたるをかの。木どもおひしげり。つくりめぐらしたる石の御垣も。かたははうちゆがみ。かけそこなはれなど。さびしく物あはれなる所也。そのかみ新待賢門院のまうでさせ給ひて。「九重の玉のうてなも夢なれや苔の下にし君を思へば。とよませ給へる御哥など。思ひ出奉りて。
苔の露かゝるみ山のしたにても玉のうてなはわすれしもせじ
と思ひやり奉るも。いとかしこし。本のやどりにかへり。しばしやすみて。此度は六田の方へくだらんとて出たつ。里をはなれて。山の背をゆきゆきて。坂をくだりはてたる所なん。六田の里也ける。今は里人は。むだとぞいふめる。よしのゝ川づらにて。古柳をおほくよめりける所なれば。今もありやと見まはせど。
有としもみえぬむつだの川柳春のかすみやへだてはつらん
舟さし渡りて。かなたの川べをやゝくだりゆきて。土田といふ所は。上市の方より。きの国へかよふ道と。北よりよし野へいる道とのちまたなる駅也。六田より一里といへどちかゝりき。こゝにてそばきりといふ物をくふ。家もうつは物も。いとあやしくきたなげなれど。椎の葉よりはと思ひなぐさめてくひつ。【万葉に「家にあればけにもるいひを草枕旅にしあればしひの葉にもる】これよりつぼ坂の観音にまうでんとす。たひらなる道をやゝゆきて。右の方に分れ て。山そひの道にいり。畑屋などいふ里を過て。のぼりゆく山路より。吉野の里も山々も。よくかへり見らるゝ所あり。
かへりみるよそめも今をかぎりにて又もわかるゝみよしのゝ里
よしのゝ郡も此たむけをかぎり也とぞ。くだる方に成ては。大和の国中よく見わたさる。比えの山あたご山なども見ゆる所也といへど。今は霞ふかくて。さるとほきところ迄は見えず。さてくだりたる所。やがて壺坂寺なり。此寺は高取山の南の谷陰にて。土田よりこし道は五十町とかや。二王門有て。普門観とかける額かゝれり。観音のおはする堂には。南法華寺とぞある。三こしの塔も。堂のむかひにたてり。奥の院といふは。やゝ深く入る所にて。佛のみかたどもあまたつくりなへたる。あやしき岩ありとて。みな人はまうづるを。われはいさゝか心ちなやましくて。え物せず。まへなる茶屋に入てためらひおるに。やゝまつ程へて。人々はかへり来て。有つるやうかたるをきけば。誠にあやしき物なりけり。こゝより。右へ谷の道を十町ばかりくだり行て。清水谷といふ里にいづ。此里は。国中よりあしはらたうげといふを超て。吉野へいる道也。一町ばかりはなれてあなたは。土佐といふ所。町屋つゞけり。高取山の麓にて。この町なかより。山のうへなる城。ちかく見あげらる。大かた此城は。たかき山の峯なれば。いづかたよりもよく見ゆる所なりけり。檜隈は此わたりと。かねてきゝしかば。たづねてゆく。この土佐のまちをはなるゝ所より。右へ三町ばかり細道をゆきて。かの里也。例の翁たづねいでゝ。いにしへの事共とへど。さだかにはしらず。都のあとゝは聞つたふるよし。又御陵どもは。この近き平田野口などいふ里にあなる。いにしへはそのわたりかけて。ひのくまとなんいひしとかたる。さて里の神の社也とて。
森のあるつゞきなる所に。高さ二丈ばかりなる。十三重の石の塔の。いとふるきが立る。めぐりを見れば。いと大きなる石ずゑありて。塔などの跡と見ゆ。ちかきころ。この石をおのが庭にすゑんとて。あるものゝほらせつれど。あまりに大きにて。ほりかねてやみぬる。程もなくやみふして死にけるは。このたゝりにて有けりとなんいふなる。そのまへにかりそめなるいほりのある。あるじのほうしに。この塔の事たづねしかば。宣化天皇の都のあとに【檜隈廬入野宮宣化天皇の都】寺たてられて。いみしき伽藍の有つるが。やけたりし跡也。このあたりにその瓦ども。今もかけのこりて多くあり。とをしふるにつきて見れば。げに此庵のまへも。道のほとりにも。すべてふる瓦のかけたる。数もしらず。つちにまじりてあるを。一ッ二ッひろひとりて見れば。いづれも布目などつきて。古代のものと見えたり。此庵は。やがてかのがらんのなごりといへば。そも今は何寺と申すぞとゝへば。だうくわうじといふよしこたふ。もじはいかにかき侍ると又とへば。此ほうしかしらうちふりて。なにがし物かゝねば。そのもじまではしり侍らずといふにぞ。なほとはまほしき事も。ゆかしささめつるこゝちして。とはずなりぬ。わがすむ寺の名のもじだにしらぬほうしも。よには有物也けり。むげに物かゝずとも。こればかりは。しかじかと人にきゝおきてもしりをれかし。さばかりのあはつけさには。いかで古の事をしも。ほのぼのきゝおきてかたりけむとをかし。後にこと里人にきけば。道の光とかくよし也。されどそれもいかゞあらん。しらずかし。大かた此にきよ。たゞ物の心もしらぬ里人などのいふを。きけるまゝにしるせる事し多ければ。かたりひがめたる事もありぬべし。又きゝたがへたるふしなども有べければ。ひがことゞもゝまじりたらんを。後によくかむかへたゞさむことも。物うくうるさくて。さておきつるを。後みん人。みだり也となあやしみそ。これはかならずこゝにいふべき事にもあらねど。思ひ出つるまゝになん。檜隈川といふべき川は見えざれば。  
聞わたるひのくま川はたえぬともしばしたづねよあとをだに見ん
【古今集に「さゝのくまひのくま川に駒とめてしばし水かへ影をだに見ん】人々もろ共に。こゝかしことあづねありきけるに。たゞいさゝかなる流れは。一ッ二ッ見ゆれど。これなんそれとたしかには。里人もしらずなん有ける。さてをしへしまゝに。平田といふ里にいたりて。御陵をたづぬるに。野中のこだかき所に。松三もと四本おひて。かたつ方くづれたるやうなるつかあり。これなん文武天皇のみざゝきと申す。そこを過きて。又野口といふ里にて。こゝかしこ尋ねつゝ。田のあぜづたひの道をたどり行て。一ッの御陵ある所にいたる。こはやゝ高くのぼる岡のうへに。いと大きなる石してかまへたる所あり。みなみむきに。横もたても二尺あまりなる口のあるより。のぞきて見れば。いはやのやうにて。内せばく。下は土にうづもれて。わづかにはひいるばかり也。うへには。たてよこ一丈あまりのひらなる大石を。物のふたのやうにおほひたり。そのうしろにつゞきたる所。一丈四五尺がほど。やゝたひらにて中のくぼみたるは。ちかき世に。高取の城きつくとて。大石どもほりとりしあと也といへり。みだれたる世に。物の心もしらぬ。むくつけきものゝふのしわざとはいひながら。いともかしこき帝の御陵をしも。さやうにほりちらし奉りけん事の心うさよ。そこにわらびなどたきるてたる跡の見ゆるは。あやしきかたゐなどの。すみかにしつるなめり。と思ひしもしるく。やがて此御山の下に。さるものどもおほくあつまりゐたりき。これを武烈天皇の御陵也と申すなるは。所たがひて覚えし故に。そのわたりにて。これかれにとふに。みなさいへるは。いかなることにか。すべてこの檜隈に御陵と申すは。延喜の式にのせられたるを見るに。檜隈坂合陵は。磯城島宮に天下しろしめしゝ天皇。同じき大内陵は。飛鳥浄御原宮に御宇天皇。又藤原宮御宇天皇。同じき安古岡陵は。同宮にあめの下しろしめしゝ文武天皇にておはします。このうち。いづれかいづれにおはしますらん。今はさだかにわきまへがたし。こゝなるを武烈としも申すやうなる。ひがことしあれば里人のつたへも。もはらたのみがたくこそ。さいつころ並河のなにがしが。五畿内志といふ書をつくるとて。おほやけにも申て。その国々所々を。こまかにめぐりありきて。かゝる事もいと?ねんごろに尋ね奉りし事。此わたりの里人も。年おいたるはおぼえゐて。そのをりしかしかなどかたるなり。げにかの書には。何のあとは。その里のそこにあり。その村に。今は何といふ塚なん。その御陵なるなどやうに。いともさだかにしるしたるは。なにをしるしにさだめつるにか。むげにちかきことなれど。その世までは。なほ里人もよくわきまへしりゐて。かたりけるにや。又おしあてにもさだめつるにやと。うたがはしきことはた多かるを。此度かくこゝかしこと。かつがつも尋ぬるに。とかくさだかならぬにつけては。さまでもつまびらかには。いかにしてたづねえけんと。いさをの程は。おほろけならず思ひしらる。此みさゞきよりすこし行て。ほどなく廣き道にいでぬ。こは土佐より岡へ。たゞにゆく道なりけり。やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を。川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とて。ちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。真白にすくやうなるが一ッ。堂のわきなる屋の。かべの下に。なかばかくれて見ゆるは。げにめづらしきいしずゑ也。尋ねてみるべし。里人は観音堂といふ所にて。道より程もちかきぞかし。つぎに橘寺にまうづ。川原寺よりむかひにみえて。一町ばかり也。此寺は今もやゝひろくて。よろしきほどなる堂もありて。古の石ずゑはたのこれり。橘といふ里も。やがて此寺のほとりなり。日くれぬれば。岡の里にとまる。かの寺よりちかし。此あひだに土橋をわたせる川あり。飛鳥川はこれ也とかや。いまの岡といふ所は。すなはち日本紀に飛鳥岡とある所にや。さらば岡本宮も。【舒明天皇皇極天皇齊明天皇三代の京】その傍とあれば。遠からじとぞ思ふ。又清御原宮は。その南とあなれば。その跡もちかきあたりなるべし。 十一日。朝まだきにやどりをたちて。岡寺にまうづ。里より三町ばかり東のやまへのぼりて。二王門あり。額に龍蓋寺とあり。この門よりまへの道の左のかたに。八幡とて社もあり。さて御堂には。観音の寺々をがみめぐるものども。おひずりとかいふあやしげなる物をうちきたる。男女おいたるわかき。数もしらずまうでこみて。すきまもなくゐなみて。御詠哥とかやいふ哥を。大聲どもしぼりあげつゝ。ひとだうのうちゆすりみちてうたふなるは。いとみゝかしかましく。大かた何事ともわかぬ中に。露をかでらの庭の苔などいふこと。ほのぼのきこゆ。又岡の里にかへり。三四町ばかりも北へはなれゆきて。右の方の高きところへ。一丁ばかりのぼりたる野中に。あやしき大石あり。長さ一丈二三尺。よこはひろき所七尺ばかりにて。硯をおきたらんやうして。いとたひらなる。中の程に。まろに長くゑりたる所あり。五六寸ばかりのふかさにて。底もたひらなり。又そのかしらといふべきかたに。同じさまにちひさくまろにゑりたる所三ッある。中なるは中に大きにて。はしなる二ッは。又ちひさし。さてそのかしらの方の中にゑりたる所より。下ざまへほそきみぞを三すぢゑりたる。中なるは。かの廣くゑりたる所へ。たゞさまにつゞきて。又石の下といふべき方のはし迄とほり。はしなる二すぢは。なゝめにさがりて。石の左右のはしへ通り。又そのはしなるみぞに。おの?枝ありて。左右にちひさくゑれる所へもかよはしたり。かくて大かたの石のなりは。四すみいづこもかどなくまろにて。かしらのかたひろく。下はやゝほそれり。そもそも此石。いづれの世にいかなるよしにて。かくつくれるにか。いと心得がたき物のさま也。里人はむかしの長者の酒ぶねといひつたへて。このわたりの畠の名をも。やがてさかぶねといふとかや。此石むかしは猶大きなりしを。高取の城きつきしをりに。かたはらをば。おほくかきとりもていにしとぞ。すこし行て。飛鳥の里にいたる。飛鳥でらは里のかたはしに。わづかにのこりて。門などもなくて。たゞかりそめなる堂に。大佛と申て。大きなる佛のおはするは。丈六の釈迦にて。すなはちいにしへの本尊也といふ。げにいとふるめかしく。たふとく見ゆ。かたへに聖徳太子のみかたもおはすれど。これはいと近きよの物と見ゆ。又いにしへのだうの瓦とてあるを見れば。三四寸ばかりのあつさにて。げにいとふるし。此寺のあたりの田のあぜに。入鹿が塚とて。五輪なる石。なからはうづもれてたてり。されどさばかりふるき物とはみえず。飛鳥の神社は。里の東の高き岡のうへにたゝせ給ふ。麓なる鳥居のもとに。飛鳥井の跡とて。水はあせて。たゞ其かたのみのこれる。これもまことしからずこそ。石の階をのぼりて。御社は四座。今はひとつかり殿におはします。此御社もとは。甘南備山といふにたゝせ給ひしを。淳和のみかどの御世。天長六年に神のさとし給ひしまゝに。鳥形山といふにうつし奉り給へりしよし。日本後紀にみえたり。されば古。飛鳥の神なみ山とも。神岳ともいひしは。こゝの事にはあらず。そこはこゝより五六町西のかたに。今いかづち村といふ所也。かくて今の御社は。かの鳥形山といふ所也。さればこそ。かの飛鳥寺をも。てうぎやう山とはなづけゝめ。今もわづかに一町ばかりへだゝれゝば。いにしへ寺の大きなりけんときは。今すこしちかくて。此御山のほとり迄も有つる故に。さる名は有なるべし。さて此御山の南のそはを。二町ばかりゆきて。道のほとりの森の中に。大きなる石どもをたてめぐらしたる所あり。中はすこしくぼまりて。廣さ一丈あまり。横は六七尺も有ぬべし。こはまことの飛鳥井の跡などにはあらぬにや。世に鎌足の大臣の生れ給ひしところぞといふなるは。いとうけられず。此やがてちかき所に。大原寺といふ有。藤原寺ともいふよし。ちひさき寺なれど。いときよらにつくりみがきて。めにたつ所なれば。入て見るに。堂などはなくて。たゞきらゝかに作りたる御社あり。大原明神と申て。かのかまたりの大臣の御母をまつれる神也とかや。又此寺は。持統天皇の藤原宮の跡なるよし。こゝの法師はかたりけり。大原の里は。此南の山そひに。まじかく見えたり。藤原といふも。すなはちこの大原の事也といふは。さの有ぬべし。されど持統天皇の藤原の宮と申すは。こゝにあらず。そは香山のあたりなりし事。万葉の哥どもにてしられたり。かねては。この大原といふ里。かぐ山のちかき所に有て。藤原宮も。そこならんとこそ思ひしか。今来て見れば。かぐ山とははるかにへだゝりて。思ひしにたがへれば。いといとおぼつかなけれど。なほ藤原の里は。この大原の事にて。宮の藤原は。べちにかの香山のあたりにぞありけんかし。これより安倍へ出る道に。上やとり村といふあり。文字には八釣とかけば。顕宗天皇の近飛鳥八釣宮の所なるべし。里のまへに。細谷川のながるゝは。やつり川にこそ。やゝゆきて。ひろき道にいづ。こは飛鳥のかたより。たゞに安倍へかよふ道也。山田村。このわたりに。柏の木に栗のなる山ありとぞ。荻田村といふを過て。安倍にいたる。岡より一里也。此里におはする文殊は。よに名高き佛也。その寺に岩屋のある。内は高さもひろさも。七尺ばかりにて。奥へは三丈四五尺ばかりもあらんか。又奥院といふにも。同じさまなるいはやの。二丈ばかりの深さなるありて。内に清水もあり。さて此寺をはなれて。四五町ばかりおくの。高き所に又岩屋あり。こゝはをさをさ見にくる人もなき所なれば。道しるべするものだに。さだかにはしらで。そのあたりの田つくるをのこなどにとひきゝつゝ。行て見るに。これの同じほどの大きさにかまへたるいはやなる。三丈四五尺がほど入て。おくはうへも横もやゝ廣きに。石して屋のかたりにつくりたる物。中にたてり。そは高さも横も六尺ばかり。奥へは九尺ばかり有て。屋根などのかたもつくりたるが。あかりさし入て。ほのかに見ゆ。うしろのかたは。めぐりて見れども。くらくて見えわかず。さて口とおぼしき所は。前にもしりへみのなきを。うしろの方のすみに。一尺あまりかけたる跡のあるより。手をさし入てさぐりみれば。物もさはらず。内はすべてうつほになん有ける。こはむかし安倍晴明が。たから物どもを。蔵めおきつるを。後にぬす人の入て。すにをうちかきて。ぬすみとりし也と。里人はいふなれど。こは例のうきたることにて。まことはかの文殊の寺なる二ッのいはやも。これも。みないと?あがれる代に。たかき人をはふりし墓とこそ思はるれ。そのゆゑは。すべていはやのさま。御陵のかまへにて。中なる石の屋は。すなはちおほとこと思はるれば也。そのかまへ。いと大きなる石を。けたにつくり。なかをゑりぬきて。棺ををさめて。上におほえる石を。屋根のさまにはつくれる物也。さて土輪などいひけんたぐひの物は。此めぐりにぞたてけんを。こゝらの世々をへては。さる物もみなはふれうせ。又ぬすびとなどの。大とこをもうちかきて。中にをさめし物どもは。ぬすみもていにけるなるべし。かの寺なる二ッは。その大とこも。みなかけうせて。たゞとなる岩がまへのかぎり。残れるものならんかし。さてこゝのいはやのついでに。しるべするをのこが語りけるは。岡より五六丁たつみのかたに。嶋の庄といふ所には。推古天皇の御陵とて。つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。又岡より十町ばかり。これも同じ方に。坂田村と申すには。用明天皇ををさめ奉りし所。みやこ塚といひて。これもそのつかのうへに。大きなる岩の角。すこしあらはれて見え侍る也となんかたりける。この御陵どもの事はいかゞあらん。坂田も嶋もふるき所にしあれば。里の名ゆかしく覚ゆ。さてもとこし道を。文殊の寺までかへりて。あべの里をとほりて。田の中に。あべの仲まろのつか。又家のあとゝいふもあれど。もはら信じがたし。大かた此わたりに。仲まろ晴明の事をいふは。ところの名によりて。つくりしことゝぞ聞ゆる。又せりつみの后の七ッ井とて。いさゝかなるたまり水の。ところどころにあるは。芹つみし昔の人といふ事のあるにつけていふにや。こゝろえぬ事ども也。それより戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。横内などいふ里を過て。大福村などいふも。右の方にみゆ。すこしゆきて。ちまたなる所に。地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木。北へわかるれば。三輪へゆく道。南は吉備村にて。香山のかたへゆく道也けり。今はその道につきて。吉備村にいる。村のなか道のかたはらに。塚ありて。五輪の石たてるは。吉備大臣のはかとぞいふ。石はふるくも見えず。又死人をやく所とてあるに。鳥居のたてるがあやしきてとへば。此国はなへてさなりといへり。村をはなれ。南へすこし行て。西にをれて。池尻村といふをすぎて。かしはで村の南のかたはらに。森のあるをとへば。荒神の社といふ。北にむかへり。むかしは南むきなりしを。いとうたてある神にて。御前を馬にのりてとほるものあれば。かならずおちなどせしほどに。わづらはしくて。北むきにはなし奉りしとぞ。此社は。今物する道のすこし北にて。此わたり天の香ぐ山の北のふもと也。此山いとちひさくひきゝ山なれど。古より名はいみしう高く聞えて。天の下にしらぬものなく。まして古をしのぶともがらは。書見るたびにも。思ひおこせつゝ。年ごろゆかしう思ひわたりし所なりければ。此度はいかでときのぼりてみんと。心もとなかりつるを。いとうれしくて。  
いつしかと思ひかけしも久かたの天のかぐ山けふぞわけいる
みな人も同じ心にいそぎのぼる。坂路にかゝりて左のかたに。一町ばかりの池あり。いにしへの埴安の池思ひ出らる。されどそのなごりなどいふべき所のさまにはあらず。いとしのたかゝらぬ山は。程もなくのぼりはてゝ。峯にやゝたひらなる所もあるに。此ちかきあたりのものどもとみゆる五六人。芝のうへにまとゐして。酒などのみをるは。わざとのぼりて見る人も。又有けり。さてはわらびとるとて。里のむすめあんななどやうのもの二三人。そのあたりあ さりありくも見ゆ。山はすべてわか木のしもとはらにて。年ふりたる木などは。をさをさ見えず。峯はうちはれて。つゆさはる所もなく。いずかたもいずかたもいとよく見わたさるゝ中に。東のかたは。うねを長くつゞきて。木立もしげゝれば。すこしさはりて。ことかたのやうにはあらず。この峯に。龍王の社とて。ちひさきほこらのあるまへに。いと大きなる松の木の。かれて朽のこれるがたてる下に。しばしやすみて。かれいひなどくひつゝ。よもの山々里々をうち見やりたるけしき。いはんかたなくおもしろきに。「のぼりたち国見をすれば国原はなど。【万葉一長哥 とりよろふ天のかぐ山のぼりたち国見をすれば国原はけぶり立こめうなはらは云々】聲おかしうて。わかき人々のうちずしたる。さしあたりては。ましていにしへしのばしく。見ぬ世のおもかげさへ立そふこゝちして。
もゝしきの大宮人のあそびけむかぐ山見ればいにしへおもほゆ
かの酒のみゐたりし里人共も。こゝにきて。国はいづくにかおはするなどとひつゝ。此山のふることどもなどかたりいづる。いとゆかしくて。耳どゞめてきけば。大かたここによしなき。神代のことのみにて。さもと覚ゆるふしもまじらねば。なほざりにきゝすぐしぬ。されど。見えわたるところどころを。そこかしこととひきくには。よきはかせ也けり。まづ西のかたにうねび山。物にもつゞかず。一ッはなれて。ちかう見ゆ。こゝより一里ありといへど。さばかりもへだゝらじとぞ思ふ。なほ西には金剛山。いとたかくはるかに見ゆ。その北にならびて。同ほどなる山の。いさゝかひきゝをなん。葛城山と今はいふなれど。いにしへは。このふたつながら葛城山にて有けんを。金剛山とは。寺たてて後にぞつけつらん。すべて山もなにも。後の世には。からめきたる名をのみいひならひて。古のはうせゆきつゝ。人もしらず成ぬるこそくちをしけれ。されど又いにしへの名どもの。寺にしものこれるが多きは。いとよしかし。又その北にやゝへだゝりて。二がみ山。峯ふたつならびて見ゆ。これも今はにじやうがだけと。例の文字のこゑにいひなせるこそにくけれ。伊駒山も雲はかくさず。【きのふけふ雲の立まひかくろふは花のはやしをうしとなるべし】いぬゐの方にかすかに見えたるに。吉野の山のみぞ。ちかきにさへられて。こゝよりは見えぬ。さては東も南も。此国の山々。のこるなく見やられたり。又くになかは。畳を敷ならべたらんやうにたひらにて。その里かの森など。むらむらわかれて見えたる。北のかたは。ことにはるばると。末は霞にまがひて。めも及ばず。山のはも見えぬに。耳成山のみぞ。西北といはんには。北によりて。物うちおきたらんように。たゞひとつ。これは。うねび山よりもすこしちかく見えたるなど。すべてすべてよも山のながめまで。
とりよろふあめのかぐ山万代に見ともあかめやあめのかぐ山
といふを聞て。なぞけふの哥のするめかしきはと。人のとがめけるに。
いにしへの深きこゝろをたづねずは見るかひあらじ天のかぐ山
といへばとがめずなりぬ。今はとて立なんとするにも。  
わかるとも天のかぐ山ふみ見つゝこゝろはつねにおもひおこせん
などいひつゝ。せめてわかれをなぐさめて。この度は南の方へくだりゆく。坂のなからに。上の宮とて。ちひさきほこらあり。麓はやがて南浦といふ里にて。日向寺といふ寺もあり。その堂のまへにも。大きなる松のかれたるあり。このわたりに下の宮といふもあり。すべて此山には。いにしへ名ある神の御社ども。かれこれとおはせる。今はいづれかいづれとも。しる人なければ。此ほこらどもなども。もしさるなごりにもやと。目とまる。此里の東のはしに。御鏡の池といふあり。埴安の池はこれ也といひし人もあれど。信じがたし。此池のほとりに。香来山の文殊とて寺あり。かく山村は。この東にありとぞ。又この南浦村の三町ばかり南に。金堂講堂のあとゝて。石ずゑ丗六のこれりとぞ。こはいずれの寺なりけん。すべてかうやうのところどころも。後にふるきふみどもかむかへあはせなば。その跡とさだかにしらるゝやうもありぬべけれど。さまで物せんも。旅路のにきには。くだくだしければ。例のもだしぬ。又此里のたかむらの中に。神代のふることをいひつたへたる石あり。そのほとり七八尺ばかりは。垣などゆひめぐらしたり。その中に生る竹に。あやしき事有とてかたりしは。後にかゝむと思ひてわすれき。又里を西へいでゝ。道のほとりの田の中に。湯篠やぶとて。一丈ばかりの所に。細き竹一むらおひたるのあり。さて西へ行て。別所村といふに。大宮と申す御社あり。高市社はこれ也ときゝおきしかば。たづねてまうづ。香山のすこし西也。今はこの北なる高殿村といふ所の神也とぞ。この御社の西の方にも池あり。持統天皇の藤原宮と申せしは。このわたりにぞ有けん。今高殿などいふ里の名も。さるよしにやあらん。さて埴安の池も。かならずこのわたりと聞えたるを。今たえだえに所々つゞきて。ひきゝ岡のいくつもあるは。かの堤のくづれのこりたるなどにはあらじや。ふるき哥どもにも見えて。名高き堤なりしはや。又その西に。ひざつき山とて。かたつかたには松しげくおひて。ひきく長き岡あり。これにも神代のふることゝて。かたりしことあれど。例のうきたる事也き。のぼりて見やれば。南の方に。飛鳥川西北さまへながれて。長く見ゆ。此岡の南に。かみひだといふ里あり。もじは神の膝とかくよし。そこよりすこしゆきて。かの見えしあすか川をわたる。このあたりにては。やゝひろき川也。此川のみなみのそひをゆく道は。八木より岡へ通ふ道也。その道を田中村などいふを通て。十町ばかり川上の方へゆけば。豊浦の里。豊浦寺のあとは。わづかに薬師の堂あり。今も向原寺といふ。【日本紀に向原】ふるき石ずゑものこれり。えのは井はいづこぞと尋ぬれど。知れる人もなし。難波堀江の跡とて。ちひさき池のあるは。いともうけがたし。かの佛の御像をすてられしは。津国の堀江にこそありけれ。さて此里は。飛鳥川の西のそひにて。川のむかひは。すなはち雷村也。いにしへ飛鳥神社のたゝせ給ひて。神なみ山とも。神岳ともいひしは。この所ぞかし。今来て見るに。さいふべき山有て。「神なみ山の帯にせるあすかの川。とよめるにもよくかなひて。川はやがて此山のすそをなんながるゝ。このわたりまでも。飛鳥と古いひしは。もとよりの事にて。今も飛鳥の里よりわづかに五六丁なるをや。又人まろが哥にも。雷之上とよめれば。今の里の名もふるき事也。いはせの森などいひしも。このわたりなりけんかし。又豊浦をとほり。西ざまに行て。和田村といふあり。そこよりすこしのぼりて。山のかひを西へうちこゆれば剣の池。道の左にあり。東南も北もひきゝ山にて。池はたてもよこも二町ばかりの廣さなる。中にちひさき山有て御陵也。南西北と池めぐりて。東のみうしろの山につゞけり。さて池の西の堤のしたは。やがて石川村也。此御陵はまがふべくもあらねど。猶さだかにきかんと思ひて。れいの里のおいびとたづねてとへば。第十八代のみかどのみさゞき。御名は何とかやのとて。しばしばうちかたふくを。いな十八代にはあらず。八代孝元天皇よといへば。おいさりおいさりとうなづく。物とはんとして。かへりてこなたよりをしへつるもをかし。此村をいでゝ。あなたは程なく大軽村。是はかの天皇の都の跡也。かるの市などいひしも。こゝなるべし。軽をはなれて。猶西へゆけば。やゝ高き所なる。道の南に。なほ高くまろに見ゆる岡あり。その南のつらに。塚穴といふいはや有ときゝつれば。細き道をたどりゆきて見るに。口はいとせばきを。のぞきて見れば。内はやゝひろくて。おくも深くは見ゆれど。闇ければさだかならず。下には水たまりて。奥のかたにその水の流れいづる音聞ゆ。これは何の塚ぞととへど。しるべのをのこもしらぬよしいへり。もし宣化天皇の身狭桃花鳥坂上御陵などにはあらぬにや。其故は。此岡の下はやがて三瀬村といふ所なるを。牟佐坐神社も。今かの村に有ときけば。身狭は此わたりと思はれ。又坂上とあるに。所のさまもかなへれば也。それにつきて猶思へば。今みせといふ名も。身狭と書る文字を。しかよみなせる物か。又さらずとも。聲かよへばおのづからよこなまりつるにや。かくて西へすこしくだりて。かの三瀬村にいづ。こゝは八木より土佐へゆく大道とぞいふなる。日もはや夕暮に成ぬるを。此里はよろしき家どもたりつゞきて。ひろき所なれど。旅人やどす家は。をさをさなきよしきけば。なほ八木までやゆかまし。岡へやかへらましといてど。さては日暮はてぬべし。足もうごかれずと。みな人わぶめれば。さはいかゞせん。なほ此里にとまりぬべきを。あやしく共。一夜あかすべき家あらば。猶たづねよといふに。ともなるおのこ。ひと里の うちとひありきて。からうじてやどりはとりぬ。  
思ふどち袖すりはへて旅ごろも春日くれぬるけふの山ぶみ
道の程はなにばかりもあらざめれど。そこかしことゆきめぐりつゝ。ひゝとひたどりありきつれば。げにいといたくくるしくて。何事も覚えぬにも。猶このちかきあたりのことども。とひきかまほしくて。まづ此宿のあるじよび出たる。年のほど五十あまりと見えて。ひげがちにかほにくさげなるが。おもゝちこわづかひむべむべしうもてなしつゝ。いでこのわたりのめいしよこうせきはと。いひ出るよりまづをかしきに。わかき人々はえたへずほゝゑみぬ。この東なる山に。塚穴とてあるは。いかなる跡にかととへば。かれは聖徳太子の御時に。弘法大師のつくらせ給ふとかたるには。たれもえたへねど。なほ何事かいふらんと。さすがにゆかしければ。いみしうねんじて。さはいみしき所にも侍るかな。深さはいくらばかりかととへば。おくはかぎりも侍らず。奈良の寒さの池まで通りてこそ侍れといふ。そもその池は。いづこばかりにあるぞととへば。興福寺の門前に。さばかり名高くて侍る物を。しらぬ人もおはしけりといふにぞ。心得てみな人ほころびわらふ。さて畝火山の事かたるついでに。神功皇后の御事を申すとて。じんにくんといへるこそ。よろづよりもをかしかりしか。それより此あるじをば。じんにくんとつけて。物わらひのくさはひになんしたりける。こゝには神の御社やなにやと。たづねまほしき所々おほかれど。かゝるには何事かとはれん。いとくちをしくこそ。
十二日。三瀬をいでゝ。北へすこし行て。左の方へ三丁ばかりいれば。久米の里にて。久米寺あり。今もよろしき寺也。されど古の所はこの西にて。こゝはそのかみ塔のありし跡なりと。法師はいひつ。うねび山。北の方にまぢかく見ゆ。ふる言思ひ出られて。
玉だすきうねびの山はみづ山と今もやまとに山さびいます
【万葉一長哥に「うねびの此みづ山は日のよこの大御門にみづ山と山さびいます云々】此山のかたへつきたる道を。おしあてにゆきて。すこし西へまがれば。畝火村あり。すなはち山のたつみの麓なり。此むらにいらんとするところの。半町ばかり右の方に。ちひさき森有て。中に社もてたるは。懿徳天皇の御陵といふなれど。そは此山の南。まなごの谷の上とあるにあはず。また御陵のさまにもあらねば。かた?いぶかしさに。村の翁にそのよしいひて。くはしくたづねければ。げにさる事なれど。まことのみさゞきは。さだかにしれざる故に。今はかの森をさ申すなりとぞこたへける。橿原宮は。【畝火山の東南橿原宮は神武天皇の都】このわたりにぞ有つらんと思ひて。
うねびやま見ればかしこしかしばらのひじりの御世の大宮どころ
今かしばらてふ名はのこらぬかととへば。さいふ村は。これより一里あまりにしみなみの方にこそ侍れ。このちかり所にはきゝ侍らずといふ。さて此山を。今は慈明寺山といふとかや。されどうねび山ともいはぬにはあらず。それもなべてひもじを清てなんいふめる。又此ほとりの里人は。御峯山といひて。いかなるよしにか。峯に神功皇后の御社のおはするとか。かのじんにくんが語りしは。此御事也けり。さてそこへは。此うねび村よりのぼる道ありて。五丁ばかりときけば。いざのぼらんといへど。日ごろの山路にこうじたる人々は。いでやことなることもなかめる物から。あしつからさんもやくなしとて。すゝまねば。えしひてもいざなはずなりぬ。かくて此村を西へとほり。山の南の尾をこえて。くだれば。あなたは吉田村也。此あひだの道の左に。まなご山まさごの池などいふ名。今もありて。池は水あせて。そのかたのみ残れりとぞ。かのいとく天皇の御陵は。そのわたりなるべきを。しられぬこそいとくちをしけれ。さて吉田村にて。例の翁かたらひ出て。御陰井上御陵をたづぬるに。このおきなは。あるが中にもなへての御陵の御事を。よくしりをりて。こまかにかたる。近き世に江戸より。御陵どもたづねさせ給ふ事はじまりて後。大かた廿年ばかりに一度は。かならずかの仰事にて。京よりその人々あまた下りきて。その里々にとゞまりゐて。くはしく尋ねしたゝめつゝ。しるしの札たてさせ。めぐりに垣ゆはせなどせらるゝ事ありとなん。ふりにし御跡のうせゆきなんことを。かしこみ給ひて。さばかりたづね奉り給ふは。いともありがたき御おきてなるを。下ざまなる人どもは。心もなく。それにつけても。たゞがうけをのみさきに立つゝ。うちふるまふ故に。御陵のある里は。ことなる民のわづらひおほくて。そのしるしとては。つゆなければ。いづこにも。是をからき事にして。たしかにあるをも。ことさらにかくして。此里にはすべてさる所侍らず。とやうに申なすたぐへもあめりとぞ。さてはいよいようづもれゆくめれば。なかなかに御陵の御ためにも。いと心うきわざにて。たづねさせ給ふ。本の御心ざしにも。いたくそむける事ならずや。いさゝかにても。その里にはけぢめを見せて。御めぐみのすぢあらんにこそ。民どもも悦びて。いよ?やむごとなき物に。守り奉るやうは有ぬべきわざなめれ。又かの並河がたづね奉りしをりの事をもかたりき。さて此里中の道のほとりに。御ほとゐといふいまもあり。かたのごと水も有て。たゞよのつねのちひさき井也。御陵は。此井より一町あまりいぬゐの方にて。すなはち畝火山の西のふもとにつきたる高き岡にて。松などまばらに生たり。かしこけれど。のぼりて見るに。こゝにをさめ奉りつらんと思はるゝ所は。まろに大きなるをかにて。又その前とおぼしき方へ。いと長くつき出したる所あり。そこはやゝさがりて。細くなんある。かの翁こゝまであないしきたりて。かたりけるは。すべていづこのも。古のみさゞきは。みなかうやうに作りし物なるを。岩屋などの侍るもあるは。うへの土のくづれ落て。なかなるかまへのあらはれたる也。とかたるをきくに。かの安倍のおくなりし岩屋のさまなど。げにを思ひあはせぬ。かの口より奥へやゝ入ほどは。このまへに長くつきたる所也けり。又いづれにも。むかしはめぐりにから池の有つる。七十年ばかりあなた迄は。これにも侍りし也。といふを見るに。今はめぐりは。畠又はたかむらなどになりて。さるさまもさらに見えず。此たかむらなんそのなごりと。このおきなはいにけり。御山は今もまたくて。有しまゝと見えたり。そもそも御陵の御事をしも。などかくものぐるほしき迄。たづねまどひありきて。くはしうは書記せるぞと。とがめん人もありなめど。末の代まで。いといとあがりての代の物の。まさしくこれとてのこれるは。これより外に有なんや。ことにこのうねび山なるどもは。あるが中にもふるく。それとあしかにはたあなれば。としごろこゝろにかけつゝ。いかでくはしく。まうでゝ見奉らんと。ゆかしく思ひわたりつる物をや。されどいづこなるも。たゞ同じさまにて。めづらしげもなく。何の見るめしなき所々なれば。たゞおのがやうに。いにしへをしのぶ。世のひがものならでは。わざとたづねて見ん物とも思ふまじければ。あなあぢきなの物あつかひやと。よの人のおもふらんを。さりぬべき事也かし。さてよし田村をいで。北ざまに物して。大谷村といふをすぎ。慈明寺村に入んとする所の右のかた。山もとに寺ある。まへの岡のうへに。大きなる塚のかたちの見えたるは。綏靖天皇の御陵にて。里人はすゐぜい塚とぞいふなる。畝火山のいぬゐの麓につきて。これも高き岡なる。例ののぼりて見れば。御陵のさまも。吉田なるともはら同じ事也。東のかたのふもとに。山本村といふみゆ。慈明寺村は。この岡の北につゞけり。やゝはなれて又北のかたに。四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに。綏靖安寧などの御は。さばかり高く大きなるに。これのみかくかりそめなるべきにもあらず。かたかた心得がたし。それにつきてつらつら思ふに。かの綏靖天皇の御と申すぞ。まことには神武天皇の御なるべきを。成務天皇と神功皇后の御陵の。まがひつるためしなど。いにしへだになきにしもあらざれば。これももてたがへて。昔より綏靖とは申つたへつるにや。さ思ふゆゑは。まづ此山のほとりなる御陵どもは。いづれもうねび山のそこの陵とあなれば。この綏靖の御も。今いふ所ならば。必さあるべきを。いづれの書にも。これはたゞ桃花鳥田丘上とのみあるは。此山のあたりにはあらで。神名帳に。調田坐神社とあるところなるべきか。それは葛下郡なるを。この御陵は。高市郡と見えたれば。たがへるやうなれど。この郡どもはならびたれば。さかひちかき所々は。古の書どもにも。郡のかはれる例おほかれば。さはりなし。されどこれは。このつきだといふ所を。よく尋ねて後に。さだむべき事也。又神武のおほんは。山の東北と。日本紀にも延喜式にもあるを。かのすゐぜい塚は。西北にしもあなれば。うたがひなきにあらねども。古事記には山の北のかたと見え。又かの御陰井上の御陵は。山の西なるを。日本紀には。南といへるたがひもあれば。必東北とあるになづむべきにもあらざらんか。後の人なほよくたづねてさだめてよ。さてこの四條村より二三町ゆけば。今井とて。大きなる里也。この今井の町中をとほりて。すこしはなれゆきて。八木にいたる。こゝにしばしやすみて物くふ。このごろは日いとよく晴て。ちりばかり心にかゝる雲もなかりしに。よべよりうちくもりて。今朝は雨もふりぬべきけしきなりければ。宿をいでゝも。空をのみ見つゝこしを。やう?に雲も晴ゆきて。うねび山めぐりし程より。又よき日になりぬれば。たれもたれもいとこゝちよし。當麻龍田奈良などへゆかんには。こゝより物すべきを。いかゞせんといひあはすに。よきついでなればとて。ゆかまほしがる人おほかれど。かの所々は。またまたもきつべし。このたびは。われらはやむごとなき事しあれば。一日もとくかへりぬべき也と。いふ人もあるにひかれて。みなえゆかずなりぬ。さるは旅のならひとて。たれも故里いそぐ心は有ながら。なほいとくちをしくなん。八木を東へいでゝ。四五町ゆけば。耳成山は。道より二町ばかり北也。畝火と香山と此山とは。国中にはなれ出て。あひむかひたる。いづれもこと山へはつゞかぬを。かの二ッは。なほほとりの山にもやゝちかく見ゆる に。此山はことにとほくのきて。こと山にはいさゝかもつゞきたる所なんなき。さて三ッの山いづれも。いとしも高くはあらぬ中に。此山はやゝ高く。香山はことにひきくて。うねびぞ中には高かりける。又そのあひだをくらべ見るに。此山よりうねびは近く。次にはかぐ山ちかくて。うねびとかぐ山の間ぞ。中には遠かりける。いにしへこの三ッ山の妻あらそひとて。うねびと耳成は男山にて。香山の女山なるを。あらそひよばひける。故事の有しは。 今見るにも。まことに二ッの山はをゝしく。かぐ山は女しき山のすがたにぞ有ける。此みゝなし山。今は天神山ともいひて。その社ありとぞ。
さもこそはねぎこときかぬ神ならめ耳なし山にやしろさだめて
かの鬘児が身なげゝん。耳成の池も。此わたりにや有けん。今も道のべに池はあれど。
いにしへのそれかあらぬか耳なしの池はとふともしらじとぞ思ふ
さて三輪の社にまうでんとすれば。やゝ行て。きのふ別れし地蔵の堂あるちまたより。北の道にをれゆくほど。奈良のかたを思ひて。ながめやりたるそなたの里の梢に。桜の一木まじりてさけりけるを見て。  
思ひやる空は霞の八重ざくらならのみやこも今や咲らん
さてゆきゆきて。はつせ川は。みわの里のうしろをなんながれたる。橋を渡りて。かの御社の鳥居のまへにゆきつきぬ。こゝはゆきゝの旅人しげくて。この日ごろの道とは。こよなくにぎはゝしく見ゆ。此鳥居より。なみ木の松かげの道を。三町ばかり山本へ入て。左のかたに。だいごりんじとて。文字はやがて大三輪でらとかく寺あり。二王門。三こしの塔なども有て。堂は十一面観音にて。三輪の若宮と申す神も。同じ堂のうち。左のわきにおはします。さてもとの道をなほ一町ばかり入て。石の階をいさゝかのぼりて。社の御門あり。このわたりに。いと神さび大きなる杉の木の。こゝかしこにたてる。ことゝころよりはめとまる。はやくもまうでし事など思ひ出て。
杉の門又すぎがてにたづねきてかはらぬいろをみわの山本
【古今「わがやどは三輪の山もと恋しくはとふらひきませ杉たてる門】神のみあらかはなくて。おくなる木しげき山ををがみ奉る。拝殿といふは。いといかめしくめでたきに。ねぎかんなぎなどやうの人々なみゐて。うちふる鈴の聲なども。所からはましてかうがうしく聞ゆ。さて本の道にはかへらで。初瀬のかたへたゞにいづる細道あり。山のそはづたひを行て。金屋といふ所にいづ。こはならよりはつせへかよふ大道なり。これよりはつせ川の川べをゆく。しき嶋の宮の跡は。このわたりとぞ聞し。かのとかま山といひし山も。此道よりは。物にもまぎれず。ゆくさきに高く見えたり。さて桜井のかたよりくる道と。ひとつにあふ所を。追分とぞいふなる。さきには此わたりよりわかれて。たむのみねの方におもむきしぞかし。又はつせの里をとほりて。川のはしを渡るとて。
二本のすぎつる道にかへりきてふる川のべを又もあひ見つ
【古今「はつせ川ふる川のべに二本ある杉年をへて又もあひ見む二本あるすぎ】こよひも又萩原の里の。ありし家にやどる。これよりかへるさは。道かへて。まだ見ぬ赤羽根ごえとかいふかたに物せんといひあはせて。ともなるをのこに。かうかうなんといへば。かしらうちふりて。あなおそろし。かの道と申すは。すべてけはしき山をのみ。いくへ共なくこえ侍る中にも。かひ坂ひつ坂など申して。よにいみしき坂どもの侍るに。明日は雨もふりぬべきけしきなるを。いとゞしく道さへあしう侍らんには。おまへたちの。いかでかかやすくは越給はんとする。さらにさらに。ふようなめりといふをきけば。又いかゞせましと。みな人よわく思ひたゆはるゝを。戒言大とこひとり。いなとよ。さばかりおそろしき道ならんには。絶てゆく人もあらじを。人もみなゆくめれば。なにばかりのことかあらん。足だにもあらば。いとようこえてんと。つゆききおぢたるけしきもなく。はげましいはるゝにぞ。さは御心なンなりとてをりぬ。
十三日。雨そほふるに。まだ夜をこめて。かのおそろしくいひつる道にいでたつ。そはこの里中より。右のかたへぞわかれゆく。けさはいさゝかこゝちもあしければ。ゆくさきの山路のほどいかならんと。今よりいとわびし。この道より。室生は程ちかしときけど。雨ふりまさりて。道もいとあしければ。えまうでず。田口といふ宿まで。はいばらより三里半とかや。まづ石わり坂などいふをこえて。道のほどいと遠し。田口より。又山どもあまたこえ行て。桃の俣といふへ二里。又山こえて二里ゆけば。菅野の里也。こゝより多気へ四里ありとぞ。此あひだになん。やまとゝ伊せの国ざかひは有ける。さて今日は。多気まで物すべかりけるを。雨いみしうふり。風はげしくて。山のうへゆくほどなどは。みの笠も吹はなちつゝ。ようせずは。谷の底にもまろびおちぬべう。ふきまどはすに。猶ゆくさき。聞ゆるかひ坂もあなるを。かくてはえこえやらじとて。石な原といふ所にとまりぬ。けふは。はいばらよりこなた。いづこもいづこも。たゞ同じやうなる山中にて。何の見どころもなかりしを。桜はところどころにあまた見えて。なほさかりなりき。されど日もいとあしく。うちはへ心ちさへなやましかりければ。何事もおぼえで。過来つれば。哥などもえよまずなりにきかし。
十四日。雨はやみぬれど。なほここちあしければ。例のあやしきかごといふ物にのりて。飼坂をのぼる。げにいとけはしき山路也けり。されどおのれはかちよりならねば。さもしらぬを。みな人の。とばかりゆきては。いきつき立やすらひつゝのぼるを見るにぞ。くるしさ思ひやられぬる。とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。さてたむけなる茶屋にしばしやすみて。此坂をくだれば。やがて多気の里也。こゝはおのがとほつおやたちの。世々につかうまつり給ひし。北畠の君の。御代々へてすみ給ひにし所也ければ。故郷のここちして。すゞろになつかしく覚ゆ。此度も。おほくは此御跡をたづね奉んの心にて。此道にはきつるぞかし。所のさま。山たちめぐりて。いとしも廣からねど。きのふこし里々にくらぶれば。こよなううちはれて。ひろう長き谷なりけり。かの殿の跡は。里より四五町ばかりはなれて。北の山もとに。真善院とて。わづかなる小寺のある。里人は。今も國司とぞいふなる。そこに北畠の八幡宮とておはするは。具教大納言【國司一世号寂光院不智】の御たまを。いはひまつれる御社とぞ。せんその事思ひて。ねんごろにふしをがみ奉る。をりしも雨いさゝかふりけるに。
下草の末葉もぬれて春雨にかれにしきみのめぐみをぞ思ふ
堂のまへに。そのかみの御庭の池山たて石なども。さながらのこれるを見るにも。さばかりいかめしき御おぼえにて。栄え給ひし昔の御代の事。思ひやり奉りて。いとかなし。
君まさでふりぬる池の心にもいひこをいでねむかしこふらん
この上のかたの山を。雰が峯とかいひて。御城の有し跡ものこれりとぞ。されど高き山なれば。えのぼりては見ず。さてむかしの事共かきとゞめたる物などやあると。此寺のほうしに尋ねけるに。此ごろあるじのほうし物へまかりて。なきほどなれば。さる物も。この里の事おこなふ者の所に。あづかりをるよしいらへけるは。るすなめり。さてその物見に。又里にかへりて。かの家たづねて。しかじかのよしこひけるに。とり出て見せける物は。此所のむかしの絵図一ひら。殿より始めて。つかへし人々の家。あるは谷々の寺ども。町屋などまで。つぶさに写 しあらはしたり。さては。つかへし人々の名どもしるしあつめたる書一巻あり。ひらきて見もてゆくに。かねてきゝわたる人々。又は今もこゝかしこに。そのぞうとてのこれるがせんぞなど。これかれと多かる中に。己が先祖の名【本居宗助】も見えたり。かの絵図に。その家も有やと。心とゞめてたづね見けれど。そは見あたらざりき。かくて此家にかたらひて。くひ物のまうけなどしてゆく。さるは伊勢にまうづる道は。こゝよりかのひつ坂といふをこえて。南へゆくを。今はその道ゆかんは遠ければ。堀坂をこえてかへらんとするを。そのかたは。旅人の物する道ならねば。くひ物などもなしときけばなりけり。又しもかの寺のまへをとほり。下多気にかゝりて。山をこえ。小川柚の原などいふ山里を過て。飯福田寺にまうづ。こゝはすこし北の山陰へまはる所にて。道のゆくてにはあらねど。御嶽になずらへて。さうじなどしつゝ。国人のまうづる所にて。かねてきゝわたりつるを。よきついでなれば。まはりてまうづる也けり。山は浅けれど。いと大きなる岩ほなど有て。谷水もいさぎよく。世ばなれたる所のさまなり。さて与原といふ里にいでゝ。寺に立入て。しばしやすみて。堀坂をのぼる。こはいと高き山なるを。今はそのなからまでのぼりて。峯は南になほいとはるかに見あげつゝ。あなたへうちこゆる道也。このたむけよりは。南の嶋々。尾張三河の山まで見えたり。日ごろはたゞ。山をのみ見なれつるに。海めづらしく見渡したるは。ことにめさむるこゝちす。わがすむ里の梢も。手にとるばかりちかく見付けたるは。まづ物などもいはまほしき迄ぞおぼゆるや。さてくだる道。いととほくて。伊勢寺すぐるほどは。はや入相になりにけり。いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる。うちつれて。暮はてぬる程にぞ。かへりつきける。かくてたひらかに物しつるは。いとうれしき物から。今はとて。ときすつる旅のよそひも。ひごろのなごりはたゞならず。
ぬぐもをし吉野のはなの下風に ふかれきにけるすじのを笠は
よしや匂ひのとまろずとも。後しのばん形見にも。その名をだにと。せめてかきとゞめて。
 
「古今集遠鏡 例言」

 

雲のゐる とほきこずゑも とほかゞみ うつせばこゝに みねのもみぢ葉
此書は、古今集の歌どもを、ことごとくいまの世の俗語(サトビゴト)に訳(ウツ)せる也。
そもそもこの集は、よゝに物よくしれりし人々の、ちうさくどものあまた有て、のこれるふしもあらざンなるに、今さらさるわざは、いかなればといふに、かの注釈(チユウサク)といふすぢは、たとへばいとはるかなる高き山の梢どもの、ありとばかりは、ほのかに見ゆれど、その木とだに、あやめもわかぬを、その山ちかき里人の、明暮のつま木のたよりにも、よく見しれるに、さしてかれはととひたらむに、何の木くれの木。もとだちはしかじか、梢のあるやうは、かくなむとやうに、語り聞せたらむがごとし。さるはいかによくしりて、いかにつぶさに物したらむにも、人づての耳(ミミ)は、かぎりしあれば、ちかくて見るめのまさしきには、猶にるべくもあらざんめるを、世に遠(トホ)めがねとかいふなる物のあるして、うつし見るには、いかにとほきも、あさましきまで、たゞこゝもとにうつりきて、枝さしの長きみじかき、下葉の色のこきうすきまで、のこるくまなく、見え分れて、軒近き庭のうゑ木に、こよなきけぢめもあらざるばかりに見ゆるにあらずや、今此遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色にうつして見するも、もはらこのめがねのたとひにかなへらむ物をや。
かくて此事はしも、尾張の横井ノ千秋ぬしの、はやくよりこひもとめられたるすぢにて、はじめよりうけひきては有ける物から、なにくれといとまなく、事しげきにうちまぎれて、えしもはたさず、あまたの年へぬるを、いかにいかにと、しばしばおどろかさるゝに、あながちに思ひおこして、こたみかく物しつるを、さきに神代のまさことも、此同じぬしのねぎことにこそ有しか、さのみ聞けむとやうに、しりうごつともがらも有べかンめれど、例のいと深くまめなるこゝろざしは、みゝなし山の神とはなしに、さて過すべくもあらずてなむ。  
うひまなびなどのためには、ちうさくは、いかにくはしくときたるも、物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞たらむやうにて、詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣にいたりては、猶たしかにはえあらねば、其事を今おのが心に思ふがごとは、さとりえがたき物なるを、さとびごとに訳(ウツ)したるは、たゞにみづからさ思ふにひとしくて、物の味を、みづからなめて、しれるがごとく、いにしへの雅言(ミヤビゴト)みな、おのがはらの内の物としなれれば、一うたのこまかなる心ばへの、こよなくたしかにえらるゝことおほきぞかし。
俗言(サトビゴト)は、かの国この里と、ことなることおほき中には、みやびごとにちかきもあれども、かたよれるゐなかのことばは、あまねくよもにはわたしがたければ、かゝることにとり用ひがたし。大かたは京わたりの詞して、うつすべきわざ也。たゞし京のにも、えりすつべきは有て、なべてはとりがたし。
俗言(サトビゴト)にも、しなじなのある中に、あまりいやしき、又たはれすぎたる、又時々のいまめき詞などは、はぶくべし。又うるはしくもてつけていふと、うちとけたるとのたがひあるを、歌はことに思ふ情(ココロ)のあるやうのまゝに。ながめ出たる物なれば、そのうちとけたる詞して、訳(ウツ)すべき也。うちとけたるは、心のまゝにいひ出たる物にて、みやびことのいきほひに、今すこしよくあたればぞかし。又男のより、をうな〔女〕の詞は、ことにうちとけたることの多くて、心に思ふすぢの、ふとあらはなるものなれば、歌のいきほひに、よくかなへることおほかれば、をうなめきたるをも、つかふべきなり。又いはゆるかたことをも用ふべし。たとへばおのがことを。うるはしくは「わたくし」といふを、はぶきてつねに、「ワタシ」とも「ワシ」ともいひ、「ワシハ」といふべきを、「ワシヤ」、「それは」を「ソレヤ」、「すれば」を「スレヤ」といふたぐひ。また「そのやうな」「このやうな」を。「ソンナ」「コンナ」といひ、「ならば」「たらば」を。「ば」を省て「ナラ」「タラ」。「さうして」を「ソシテ」。「よからう」を「ヨカロ」、とやうにいふたぐひ。ことにうちとけたることなるを、これはたいきほひにしたがひては、中々にうるはしくいふよりは、ちかくあたりて聞ゆるふしおほければなり。
すべて人の語(コトバ)は、同じくいふことも、いひざまいきほひにしたがひて、深くも浅くも、をかしくもうれたくも聞ゆるわざにて、歌はことに、心のあるやうを、たゞにうち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざまいきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうをよくあぢはひて、よみ人の心をおしはかりえて、そのいきほひを訳(ウツ)すべきなり。たとへば。「春されば野べにまづさく云々」、といへるせどうか〔旋頭歌〕の、訳(ウツシ)のはてに、へヽ/\へヽ/\と、笑ふ声をそへたるなど、さらにおのが今のたはぶれにはあらず。此ノ下ノ句の、たはぶれていへる詞なることを、さとさむとてぞかし。かゝることをだにそへざれば、たはぶれの答へなるよしの、あらはれがたければなり。かゝるたぐひ、いろいろおほし。なずらへてさとるべし。
みやびごとは、二つにも三つにも分れたることを、さとび言には、合せて一ツにいふあり。又雅言(ミヤビゴト)は一つなるが、さとびごとにては、二つ三つにわかれたるもあるゆゑに、ひとつ俗言(サトビゴト)を、これにもかれにもあつることあり。又一つ言の訳語(ウツシコトバ)の、こゝとかしこと、異なることもあるなり。  
まさしくあつべき俗言のなき詞には。一つに二ツ三ツをつらねてうつすことあり。又は上下の語の訳(ウツシ)の中に、其意をこむることあり。あるは二句三句を合せて。そのすべての意をもて訳(ウツ)すもあり。そはたとへば「ことならばさかずやはあらぬ桜花」などの、「ことならば」といふ詞など、一つはなちては、いかにもうつすべき俗言なければ、二句を合せて、「トテモ此ヤウニ早ウ散ルクラヰナラバ一向ニ初メカラサカヌガヨイニナゼサカズニハヰヌゾ」、と訳(ウツ)せるがごとし。
歌によりて、もとの語のつゞきざま、てにをはなどにもかゝはらで、すべて意をえて訳(ウツ)すべきあり。もとの詞つゞき、てにをはなどを、かたくまもりては、かへりて一うたの意にうとくなることもあれば也。たとへば「こぞとやいはむことしとやいはむ」など、詞をまもらば、「去年ト云ハウカ今年トイハウカ」、と訳すべけれども、さては俗言の例にうとし。「去年ト云タモノデアラウカ今年ト云タモノデアラウカ」、とうつすぞよくあたれる。又「春くることをたれかしらまし」など、「春ノキタコトヲ云々」と訳さゞれば、あたりがたし。「来る」と「来タ」とは、たがひあれども、此歌などの「来る」は、「来ぬる」とあるべきことなるを、さはいひがたき故に、くるとはいへるなれば、そのこゝろをえて、「キタ」と訳すべき也。かゝるたぐひいとおほし。なずらへてさとるべし。
詞をかへてうつすべきあり。「花と見て」などの「見て」は、俗言には、「見て」とはいはざれば、「花ヂヤト思フテ」と訳すべし。「わぶとこたへよ」などの類の「こたふる」は、俗言には、「こたふ」とはいはず。たゞ「イフ」といへば、「難儀ヲシテ居ルトイヘ」と訳すべし。又てにをはをかへて訳すべきも有り。「春は来にけり」などの「は」もじは、「春ガキタワイ」と、「ガ」にかふ。此類多し。又てにをはを添フべきもあり。「花咲にけり」などは、「花ガ咲タワイ」と、「ガ」をそふ。此類は殊におほし。すべて俗言には、「ガ」といふことの多き也。雅言の「ぞ」をも、多くは「ガ」と云へり。「花なき里」などは、「花ノナイ里」と、「ノ」をそふ。又はぶきて訳すべきもあり。「人しなければ」、「ぬれてをゆかむ」などの、「し」もじ「を」もじなど、訳言(ウツシコトバ)をあてゝは、中々にわろし。
詞のところをおきかへてうつすべきことおほし。「あかずとやなく山郭公」などは、「郭公」を上へうつして、「郭公ハ残リオホウ思フテアノヤウニ鳴クカ」と訳し、「よるさへ見よとてらす月影」は、「ヨルマデ見ヨトテ月ノ影ガテラス」とうつし。「ちくさに物を思ふころかな」のたぐひは、「ころ」を上にうつして、「コノゴロハイロイロト物思ヒノシゲイ事カナ」と訳し、「うらさびしくも見えわたるかな」は、「わたる」を上へうつして、「見ワタシタトコロガキツウマア物サビシウ見ユルコトカナ」と訳すたぐひにて、これ雅言(ミヤビゴト)と俗言(サトビゴト)と、いふやうのたがひ也。又てにをはも、ところをかへて訳すべきあり。「ものうかるねに鶯ぞなく」など、「ものうかるねにぞ」と、「ぞ」もじは上にあるべき意なれども、さはいひがたき故に。鶯の下におけるなれば。其こゝろをえて、訳すべき也。此例多し。皆なずらふべし。
てにをはの事。「ぞ」もじは、訳すべき詞なし。たとへば「花ぞ昔の香ににほひける」のごとき、殊に力を入たる「ぞ」なるを、俗言には「花ガ」といひて、その所にちからをいれて、いきほひにて、雅語の「ぞ」の意に聞カすることなるを、しか口にいふいきほひは、物には書とるべくもあらざれば、今は「サ」といふ辞(コトバ)を添へて、「ぞ」にあてゝ、「花ガサ昔ノ云々」と訳す。「ぞ」もじの例、みな然り。「こそ」は、つかひざま大かた二つある中に「花こそちらめ根さへかれめや」などやうに、むかへていふ事あるは、さとびごとも同じく、「こそ」といへり。今一つ「山風にこそみだるべらなれ」、「雪とのみこそ花はちるらめ」、などのたぐひの「こそ」は、うつすべき詞なし。これは「ぞ」にいとちかければ、「ぞ」の例によれり。「山風にぞ云々」、「雪とのみぞ云々」、といひたらむに、いくばくのたがひもあらざれば也。さるをしひていさゝかのけぢめをもわかむとすれば、中々にうとくなること也。「たが袖ふれしやどの梅ぞも」、「恋もするかな」、などのたぐひの「も」もじは、「マア」と訳す。「マア」は、やがて此もの転(ウツ)れるにぞあらむ。疑ひの「や」もじは、俗語には皆、「カ」といふ。語のつゞきたるなからにあるは、そのはてへうつしていふ。「春やとき花やおそき」とは、「春ガ早イノカ花ガオソイノカ」と訳すがごとし。  
「ん」は、俗言にはすべて皆「ウ」といふ。「来ん」「ゆかん」を。「コウ」「イカウ」といふ類なり。「けん」「なん」などの「ん」も同じ。「花やちりけん」は「花ガチツタデアラウカ」、「花やちりなん」は、「花ガチルデアラウカ」と訳す。さて此「チツタデ」といふと、「チルデ」といふとのかはりをもて、「けん」と「なん」とのけぢめをもさとるべし。さて又語のつゞきたるなからにある「ん」は。多くはうつしがたし。たとへば「見ん人は見よ」、「ちりなん後ぞ」、「ちるらん小野の」などのたぐひ、「人」へつゞき、「後」へつゞき、「小野」へつゞきて、「ん」は皆なからにあり。此類は、俗語にはたゞに、「見ル人ハ」、「チツテ後ニ」、「チル小野ノ」のやうにいひて。「見ヤウ人ハ」、「チルデアラフ後ニ」、「チルデアラウ小野ノ」、などはいはざれば也。然るに此類をも、しひて「ん」「なん」「らん」の意を、こまかに訳さむとならば、「散なん後ぞ」は、「オツヽケチルデアラウガソノ散タ後ニサ」と訳し、「ちるらん小野の」は、「サダメテ此ゴロハ萩ノ花カチルデアラウガ其野ノ」、とやうに訳すべし。然れども、俗語にはさはいはざれば。中々にうとし。同じことながら、「春霞たちかくすらん山の桜を」などは、「山ノ桜ハ霞ガカクシテアルデアラウニ」、と訳してよろしく、又かの「見ん人は見よ」なども、「見ヤウト思フ人ハ」とうつせば、俗語にもかなへり。歌のさまによりては、かうやうにもうつすべし。
「らん」の訳は、くさぐさあり。「春立けふの風やとくらん」などは、「風ガトカスデアラウカ」と訳す。「アラウ」「らん」にあたり、「カ」上の「や」にあたれり。「いつの人まにうつろひぬらん」などは、「イツノヒマニ散テシマウタコトヤラ」と訳す。「ヤラ」「らん」にあたれり。「人にしられぬ花やさくらん」などは、「人ニシラサヌ花ガ咲タカシラヌ」と訳す。「カシラヌ」「や」と「らん」とにあたれり。又上に「や」「何」などといふ、うたがひことばなくて、「らん」と結びたるには、「ドウイフコトデ」といふ詞をそへてうつすも多し。又「相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人や恋しき音のみ鳴らん」などは、「人ガ恋シイヤラ声ヲアゲテヒタスラナク」とうつす。これはとぢめの「らん」の疑ひを、上へうつして、「や」と合せて「ヤラ」といふ也。「ヤラ」はすなはち「やらん」といふこと也。又「玉かつら今はたゆとや吹風の音にも人のきこえざるらん」などのたぐひも、同じく上へうつして、「や」と合せて、「ヤラ」と訳して、下ノ句をば、「一向ニオトヅレモセヌ」と、落しつけてとぢむ。これらはらんとうたがへる事は、上にありて、下にはあらざればなり。
「らし」は、「サウナ」と訳す。「サウナ」は、「さまなる」といふことなるを、音便に「サウ」といひ、「る」をはぶける也。然れば言の本の意も、「らし」とおなじおもむきにあたる辞なり。たとへば「物思ふらし」を、「物ヲ思フサウナ」と訳すが如き。「らし」も「サウナ」も共に、人の物思ふさまなるを見て、おしはかりたる言なれば也。さてついでにいはむは、世に「らん」と「らし」とをただ疑ひの重きと軽きとのたがひとのみ心得て、みづからの歌にも、そのこゝろもてよむなるはひがことなり。たとへば、「時雨ふるらん」は、「時雨ガフルデアラウ」也。「時雨ふるらし」は、「時雨ガフルサウナ」の意也。此俗言の「アラウ」と「サウナ」との意を思ひて、そのたがひあることをわきまふべし。
「かな(哉)」は、さとびごとにも「カナ」といへど、語のつゞきざまは、雅言のままにては、うときが多ければ、つゞける詞をば、下上におきかへもし、あるは言をくはへなどもして、訳すべし。すべて此辞は、歎息(ナゲキ)の詞にて、心をふくめたることおほければ、訳(ウツシ)には、そのふくめたる意の詞をも、くはふべきわざなり。
「つゝ」の訳は、くさぐさあり。又「雪はふりつゝ」など、いひすてゝとぢめて、上へかへらざるは、「テ」と訳して、下にふくめたる意の詞をくはふ。いひすてたる「つゝ」は、必ズ下にふくめたる意あれば也。そのふくめたる意は。一首(ヒトウタ)の趣にてしらる。  
「けり」「ける」「けれ」は、「ワイ」と訳す。「春は来にけり」を、「春ガキタワイ」といへるがごとし。また「こそ」の結びにも、「ワイ」をそへてうつすことあり。語のきれざるなからにある「ける」「けれ」は、ことに訳さず。
「なり」「なる」「なれ」は、「ヂヤ」と訳す。「ヂヤ」は、「デアル」のつゞまりて。「ル」のはぶかりたる也。さる故に、東の国々にては、「ダ」といへり。「なり」ももと「にあり」のつゞまりたるなれば、俗言の「ヂヤ」「ダ」と、もと一つ言也。又一つ「春くれば雁かへるなり」、「人まつ虫の声すなり」、などの類の「なり」は、あなたなる事を、こなたより見聞ていふ詞なれば、これは、「アレ雁ガカヘルワ」、「アレ松虫ノ声ガスルワ」など訳すべし。此「なり」は「ヂヤ」と訳す「なり」とは別(コト)にて、語のつゞけざまもかはれり。「ヂヤ」とうつす方は、つゞく詞よりうけ、此「なり」は、切るゝ詞よりうくるさだまり也。
「ぬ」「ぬる」、「つ」「つる」、「たり」「たる」、「き」「し」など、既に然るうへをいふ辞は、俗言には、皆おしなべて「タ」といふ。「なりぬ」「なりぬる」をば、「ナツタ」。「来つ」「来つる」をば、「キタ」。「見たり」「見たる」をば、「見タ」。「ありき」「ありし」をば、「アツタ」といふが如し。「タ」は、「タル」の「ル」をはぶける也。
「あはれ」を、「アヽハレ」と訳せる所多し。たとへば、「あれにけりあはれいくよのやどなれや」を、「何ン年ニナル家ヂヤゾヤ。アヽハレキツウ荒タワイ」と訳せる類也。かくうつす故は、あはれはもと歎息(ナゲ)く声にて、すなはち今ノ世の人の歎息(ナゲキ)て、「アアヨイ月ヂヤ」、「アアツライコトヂヤ」、又「ハレ見事ナ花ヂヤ」、「ハレヨイ子ヂヤ」などいふ。この「アヽ」と「ハレ」とをつらねていふ辞なればなり。「あはれてふことをあまたにやらじとや云々」は、花を見る人の、「アヽハレ見事ナ」といふその詞をあまたの桜へやらじと也。「あはれてふことこそうたて世の中を云々」は、「アヽハレオイトシヤト、人ノ云テクレル詞コソ云々」也。大かたこれらにて心得べし。さてそれより転(ウツ)りては、何事にまれ、「アヽハレ」と歎息(ナゲ)かるゝ事の名ともなりて、「あはれなり」とも、「あはれをしるしらぬ」なども、さまざまひろくつかふ。そのたぐひの「あはれ」は、「アヽハレ」と思はるゝ事をさしていへるなれば、俗言には、たゞに「アヽハレ」とはいはず、そは又その思へるすぢにしたがひて、別(コト)に訳言(ウツシコトバ)あるなり。
すべて何事にまれ、あなたなることには、「アレ」、或は「アノヤウニ」、又「ソノヤウニ」などいひ、こなたなることには、「コレ」、或は「此ノヤウニ」などいふ詞を添て訳せることおほきは、其事のおもむきを、さだかにせんとてなり。  
物によせて、其詞をふしにしたる、又物の縁の詞のよしなど、すべて詞のうへによれる趣は、雅言と俗言とは、ことことなれば、たゞには訳しがたし。さる類は、俗語のうへにても、ことわり聞ゆべきさまに、言をくはへて訳せり。
枕詞序などは、歌の意にあづかれることなきは、すてて訳さず。これを訳しては、事の入まじりて、中々にまぎらはしければなり。そも歌の趣にかゝれるすぢあるをば、その趣にしたがひて訳す。
此ふみの書るよう。訳語(ウツシコトバ)のかぎりは、片仮字をもちふ、仮字づかひをも正さず。便(タヨ)りよきにまかせたり。訳(ウツシ)のかたはらに、をりをり平仮字して、ちひさく書ることあるは、其歌の中の詞なるを、こゝは此詞にあたれりといふことを、猶たしかにしめせる也。数のもじは、其句としめしたる也。又かたへに長くも短くも、筋を引たるは、歌にはなき詞なるを、そへていへる所のしるしなり。そもそもさしも多く詞をそへたるゆゑは、すべて歌は、五もじ、七もじ、みそひともじと、かぎりのあれば、今も昔も、思ふにはまかせず、いふべき詞の、心にのこれるもおほければ、そをさぐりえて、おぎなふべく、又さらにそへて、たすけもすべく、又うひまなびのともがらなどのために、そのおもむきを、たしかにもせむとて也。(一)(二)(三)。あるは(上)などしるせるは、枕詞序など、訳をはぶけるところをしめせる也。但しひさかたあしひきなど、人のよく枕詞と知りたるは、此しるしをはぶけり。一二三は、句のついで、上は上の句也。
うつし語(コトバ)のしりにつぎて、ひらがなして書ることあるは、訳の及びがたくて、たらはざるを、たすけていへること、又さらでも、いはまほしき事ども、いさゝかづゝいへるなり。
大かたいにしへの歌を、今の世の俗語(サトビゴト)にうつすすぢにつきては、猶いはまほしきことども、いと多かれど、さのみはうるさければ、なずらへてもしりねと、みなもらして、今はたゞこれかれいさゝかいへるのみ也。又今さだめたる、すべての訳(ウツシ)どもの中には、なほよく考へなば、いますこしよくあたれることどもも、いでくべかめれど、いとまいりて、此事にのみは、えさしもかゝづらはで、たゞ一わたり、思ひよれるまにまに物しつる也。歌よく見しれらん人、なほまされるを思ひえたらむふしもあらば、くはへもはぶきも、あらためもしてよかし。  
 
「枕の山」

 

「枕の山」は、寛政12年(1800)71歳の秋から冬、71歳の宣長が、秋の夜長、目覚めた時に詠み続けた桜の歌である。枕の上に桜の山の景色が展開するので「枕の山」だ。成立については跋文に詳しい。  本書は、「桜花三百首」とも言い、題材は桜。花を待つ気持ちから満開へと花の生涯を詠み、さらに桜への思いを歌った歌や、桜讃歌など多様な歌を載せる。村田春海は「凡古人にも一物を三百首まで詠じ申候事は、比類も無之奉存候、・・尤初盛衰落の次序ありて、一首とても同趣なる御歌無之候は、まことに御自在なる義、大家の御作と奉存候」(享和元年10月3日付書簡)と評した。  
櫻花三百首
1 いとはやも高根の霞さき立て櫻さくへき春は来にけり
2 あらたまの春にしなれはふる雪の白きを見ても花そまたるゝ
3 春霞たつより花もいつかはと山端のみそなかめられける
4 いつしかともえ出る野への若草も櫻またるゝつまとなりつゝ
5 とくさけや櫻花見ておふなふな心やるへき春はきにけり
6 春なからまた風寒みさくら花枝にこもりて時やまつらむ
7 まつとてはさかぬさくらの梢をも見つゝそくらすあからめもせて
8 おそしとてよしや恨みし櫻花さかてやみぬる春しなけれは
9 日にそえて霞たちそふ山見れは花も咲へき時にはなりぬ
10 春くれはおよひもたゆし百千度櫻さくへき日数よむとて
11 まちわふる花はさきぬやいかならむおほつかなくもかすむ山のは
12 けふもまた見えぬ高嶺のさくら花それかとまかふ雲はゐれとも
13 花はまた咲りともなしさほ姫の衣はるさめけふもふれゝと
14 山櫻このめはるさめふりさけて見れとも見えすさくやさかすや
15 さきなはとかたらひおきし山里の花のたよりをまちそわひぬる
16 まちわひて尋ねいるかなやま櫻またさかしとは思ふものから
17 花はなとつれなかるらむさきぬやと人も見にくるやとの櫻の
18 櫻花またしきほとに見てしかなかたりて人にうらやまるへく
19 まちわひぬ櫻の花よとくさかはとくちりぬともよしや恨みし
20 待わふるこゝろは時も過ぬるをいつとて花のつれなかるらむ
21 櫻花さかむさかしはしらねとも山へゆかしき春かすみかな
22 さくら花さくときくより出立て心は山に入にけるかな
23 まちつけてはつ花見たるうれしさは物いはまほし物いはすとも
24 さくも皆神のめくみのはつ櫻一枝はまつ折てたむけむ
25 佐保姫も花まちつけしうれしさやけふは霞の袖にあまらむ
26 さくら花今は咲ぬるうれしさか見る見るもなく鶯のこゑ
27 岩か根をふむもおもえす花見むといそく心は空よりそゆく
28 遠しとも思はさらましさくらさく春の山路は八百日ゆくとも
29 岩恨ふむ山もみやこの大路よりけふはゆきよし花見にゆけは
30 さくときくところあまたの櫻花いつれの山をまつ行て見む
31 山深くしけ木かおくも尋ねみむ人にしられぬ花やにほふと
32 たゝそれとまかひしかとも櫻花さけは色なき峰のしら雲
33 梓弓とらねとはるのさくら狩山のかすみを分つゝそいる
34 おくれゐて心空なりさくら花見にとて人のゆくを見る日は
35 山とほく見にこし我をさくら花まちつけかほににほふ嬉しさ
36 やまかつは櫻さくころめつらしく見るさへ花のみやこ人かな
37 来て見れは花の中なる山里のすまひそ春はうらやまれける
38 うきこともきかて見れはや山里は花のにほひも世にまさりける
39 花見には又そきにけるをとつひも昨日もけふも同し山へに
40 あしひきの山へのさくら明日はこじいくか見るともあくよあらめや
41 思ひきやみ山のおくのこかくれにかゝる櫻の花を見むとは
42 あたらしきみやまかくれのさくら花人も来て見よ道とほくとも
43 高しとてたかねのさくらよそなから見てやはやまむ行てこそ見め
44 いとゝしく外山に咲る花みれは峯の霞のおくそゆかしき
45 櫻花里にも野にも山へにも今をさかりと咲にけるかな
46 はるはると来つるもしるく山さくら花はけふこそ盛なりけれ
47 いつれをか分て見るへきさくらはな梢あまたににほふ山へは
48 咲にほふこすゑをおほみをちこちに心うつろふ山さくらかな
49 見る花の木本ことにとまる哉めつるこゝろはひとつと思ふに
50 あかすとてをらはちるへし櫻花なほかくなから見てをやみなむ
51 あかすともをらてこそ見め一枝もやつさは花のつらしと思はむ
52 我も又えこそ過さねさくら花人のをるをはうしと見なから
53 吹風も枝なからやはさそひけるあたら櫻ををる人そうき
54 ひさかたの天路に通ふはしもかな及はぬ花の枝もをるへく
55 櫻花折てかさしておもふとち思ふことなくあそひつるかな
56 くれぬとも今しはし見む山さくら入相のかねはきかすかほにて
57 とほくともいま一たひはきても見むみ山の櫻ちらてまちてよ
58 花見つゝゆけは春日も暮にけりこゆる山路は遠からねとも
59 見てのみやたゝにかへらむ一枝は家つとゆるせ花のやまもり
60 こゝかしこ野山の花にあくかれて屋戸の櫻は見すやなりなむ
61 わか物とはつかに咲る一本もやとのさくらは殊にこそおもへ
62 こぬ人も見にもくるかにわか屋戸の櫻さきぬといさ告やらむ
63 門さして我ひとり見む見にくとも人に見せむは惜き櫻を
64 さひしさも見れはなくさむさくら花物いひかはす友ならねとも
65 散まては世のいとなみもすてて見む花の日数はいくはくもあらす
66 あくまてとみれはいよいよ見まほしき花は櫻の花にそ有ける
67 櫻花見る人ことにあはれてふ言や木陰に山とつもらむ
68 めつらしき花とはなしにさくらさく梢は先そめにかゝりける
69 玉ほこの道のゆくてのさくらはなしるもしらぬもよりつゝそ見る
70 過てゆく人さへそうき立よりて見てたにあかぬ花のこのもと
71 山人もおひこし柴にしはらくはしりうちかけて花をこそ見れ
72 道のへの田面の水に影見えて片山岸に花さきにけり
73 いたつらに櫻は見めや歌よめといはぬはかりの花のにほひを
74 行道にさくらかさしてあふ人はしるもしらぬもなつかしきかな
75 山さとの人としいへは思ひやる櫻の花のゆかりとそ見る
76 此ころはさくらの花のゆかしさに山さと人のなつかしき哉
77 かくすとてあやなくたちそ春霞人にしられぬ花のかほかは
78 かくさるゝさくらのために春も又霞をはらふみそきをやせむ
79 吹とても櫻ちらさぬ風ならは霞のためはまちもしてまし
80 うちわたす礒へに咲る櫻花浪かと見れはよせてかへらぬ
81 こく船も礒山櫻さくころは心よせてや見つゝゆくらむ
82 春の野に霞へたててなくきゝす妻や戀しき花やゆかしき
83 さかりにもなく鶯はさくら花散なむことやかねてかなしき
84 しろたへに松の緑をこきませて尾上の櫻さきにける哉
85 春の日のつねよりことにのとけきは櫻の花のためにや有らむ
86 うくひすも霞もいとゝのとけさをくはふる春の花盛かな
87 さきにほふ四方の梢に風もなく花の京はのとかなりけり
88 雲のうへの花のさかりかひさかたの空ふく風の香ににほふなる
89 へたておほみ身はしもなれは九重の雲ゐの櫻よそにこそ見れ
90 名にしおはは高根の花もまかふ色なくてや見らむ雲の上人
91 さくら花月のなき夜は梢にも衛士のたく火をたかせてしかな
92 みそらゆく月影のみかよる見れは庭の櫻もおほろなりけり
93 思うとち夜をさへ花にあかすかな晝の野山の物かたりして
94 ぬるまなき春のよなから庭さくらさけは朝いもせられさりけり
95 おき出て庭のさくらの花見ると朝食わすれて日もたけにけり
96 池水にしつく櫻の影見れは玉かとそ思ふ海ならねとも
97 さくら花水のかゝみも我なからはつかしからぬ影と見るらむ
98 雨ふれは池のかゝみもくもりけりしをれし花の影は見せしと
99 春雨のふる日は人も見にこねは思ひしをるゝ花の色かな
100 はるさめに落る雫もなつかしきさくらの花はぬれてこそ見め
101 露かゝる櫻か下の草葉さえ花さくころはなつかしきかな
102 契りおきて人まつ人も花を見てあかぬ夕はいそかれもせじ
103 しのゝめのあかぬわかれも中々にいそかれぬへき花のいろかな
104 櫻花ほのほの見ゆる暁はわかれををしむ人やなからむ
105 しぬはかり思はむ戀もさくらはな見てはしはしは忘れもやせむ
106 あちきなく春は櫻の花ゆゑに心いとなし戀はせねとも
107 こゝろから花に心をつくすかなおもひそめすは思はましやは
108 さくら花はかなき色をかくはかり思ふ心そましてはかなき
109 我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり
110 此花になそや心のまとふらむわれは櫻のおやならなくに
111 鳥蟲に身をはなしてもさくら花さかむあたりになつさはましを
112 さくら花なすらひに見む色たにもあらはいとかく思はましやは
113 櫻花ふかきいろとも見えなくにちしほにそめるわかこゝろかな
114 日くらしに見ても折てもかさしてもあかぬ櫻を猶いかにせむ
115 つゆたにもうき色見せよさくら花さらはしひても思ひさまさむ
116 ありぬやと咲て散まてさくら花一春見すていさこゝろみむ
117 年を経てあひも思わぬ友なれと猶うとまれぬ花のいろ哉
118 かきたえて櫻のさかぬ世なりせは春の心もさひしからまし
119 つねよりも花さくころはあやにくに早く日数のすきもゆく哉
120 花見れは秋の日よりもみしかきを長き春日とたのみける哉
121 おなしくはとく咲出てとくちらぬ物にもかなやあかぬさくらは
122 をちこちに多き櫻のいかなれは花を見る日のすくなかるらむ
123 さくら花入ては出る月のごとちりて又明日さくものにもが
124 松にいふ十かへりの花さくらをは年にとかへりさかせてしかな
125 櫻花いろはそれかとまかふとも消ゆく雲にならはさらなむ
126 朝ことのさくらの露をうけためて世のうさはるく薬にをせむ
127 尋ね見むしなぬくすりのありときく嶋にはちらぬ花も有やと
128 花咲てちらぬさくらのたねしあらはとこよの國も行てもとめむ
129 春ことににほふ櫻の花見ても神のあやしきめくみをそおもふ
130 たくひなき櫻の花をみてもしれわか大君の國のこゝろを
131 世の人は見てもしらすやさくら花あたし國にはさかぬこゝろを
132 から國も花は千種にさくといへと櫻はかりはなしとこそきけ
133 なが國に此花ありやとから人にさくらをみせてこたへきかはや
134 から人に櫻見せなはその國にかへりてめつる花やなからむ
135 うべなれやかほもすかたもたゞ人のたねとは見えぬ花のおほ君
136 八千種とにほふが中のおやなれはうべも櫻を花といひけり
137 いにしえも花は櫻と思ひてそさくらを花と名つけおきけむ
138 世の中にたとへむ物もなかりけり春のさくらの花のにほひは
139 にほふ色を何にたとへむさくら花綾かにしきか玉かこかねか
140 寳とてこかねも玉も世にはあれと櫻の花をなににかへまし
141 咲にほふ色は此世のものとしも見えぬさくらの花さかりかな
142 のとかなる春のやよひにさけはかもいとゝ櫻のめてたかるらむ
143 見てもなほ見てもめつらし櫻花野にも山にもこゝらさけれと
144 いかにともこゝろはしらぬ心にも見れは桜はさくらなりけり
145 蓬生のせはき屋戸にもうゑなへて見まくほしきは櫻なりけり
146 人の家のひろき櫻の花園を見れはうき身のなけかれそする
147 世は清くすてたる人もすてかねて見るは櫻の花にそ有ける
148 咲にほふ春のさくらの花見てはあらふる神もあらしとそ思ふ
149 おに神もあはれと思はむ櫻花めづとは人のめには見えねと
150 ちからなき枝にはあれと天地も動かしつへき花の色かな
151 櫻花咲るやしろに中々のぬさはたむけし神はめてめや
152 あたなりとたれかいふらむ神代よりかわらす春はにほふ櫻を
153 花のいろはさらにふりせぬ櫻哉くちのこりたる老木なれとも
154 さくらはなこゝらの春をへぬれとも老たりとしも見えぬ色かな
155 おいぬれとなほこそ春はまたれけれ櫻の花の見まくほしさに
156 老ぬれと咲るさくらの色見れは春のこゝろはわかゝへりつゝ
157 友はみなかはりはてぬる老の世にあはれ昔の花のいろかな
158 わかおいのすかたやさしきさくら花むかしの春の友と見るにも
159 さく花においのすかたははつれとも見ではえあらぬ物にそ有ける
160 ともすれは涙おとして老の身のしれしれしさを花に見えなむ
161 老ぬれはもろく涙のちる我をはかなしとこそ花は見るらめ
162 はちもせてあはれうたての翁やと花は見るらむ老のやつれを
163 おいのくせ人やわらはむ櫻花あわれあわれと同し言して
164 年ことにまさる若木の花見ても嘆きもえそふ老の春哉
165 おいの世にわか木のさくら猶うゑていつまてとてか花をまたまし
166 あわれともかけても見めや櫻花なれよりさきに我はちるとも
167 しなはわれ又いつのよにめくり来てあかぬ櫻の花は見るへき
168 さくら花あかぬ此世はへたつともさかは見にこむあまかけりても
169 さくら花千年まてこそかたからめ猶百とせの春は経て見む
170 かくなからちよも八千世も見てしかな櫻もちらす我もしなすて
171 なからへて咲むかきりの春をへて櫻の花を見るよしもかな
172 かくはかりあかぬ櫻のにほふ世に命をしまぬ人もありけり
173 櫻には心もとめで後の世の花のうてなを思ふおろかさ
174 事もなくもなく櫻の花見むと春は我身のいのらるゝかな
175 人はいさわれは死なすて櫻花千世もやちよも見むとこそ思へ
176 とことはに絶せすさけよ櫻花我も萬代しなて見るへし
177 風ふけとちらてとまるにゆく物は花見る人の心なりけり
178 花さそふ風にしられぬ陰もかな櫻をうゑてのとかにを見む
179 山さくら霞のおくにかくれゐて吹来む風にありとしらるな
180 さくら花夜の間の風もしられぬを明日とて人の見にこさるらむ
181 櫻花けふまても見にこぬ人を明日とはまたすちらはちらなむ
182 枝も木もよにくちやすき櫻哉春咲花のもろきのみかは
183 かたをたにうつしおかはや櫻花にほひなくとも後も見むため
184 いかてかは風に櫻のさわくらむ柳にふくはのとけきものを
185 さほ姫のかさしの花の山さくら霞の袖にちりかゝりつゝ
186 昨日まてつもれる雪と見し花のふるにまかひてけふはちるかな
187 めてられむ藤山吹のためにとや櫻の花ははやくちるらむ
188 さくら花かくはかりとくちる物といつの神世にさためそめけむ
189 あかね色とみなせの神のみことのりいともかしこしちるなさくらよ
190 とくちると何思ふらむさくら花さかりをまたぬ人もある世に
191 ことしのみ散花のごとおもふかないつもとまらぬならひ忘れて
192 あかなくに櫻の花のちるを見て春のなけきそもえ初にける
193 さくをまちちるををしむもくるしきになそや櫻を思ひそめけむ
194 いのちあらは又来む春も見るへきも身にかへてなと花を惜まむ
195 はしめあれはをはりある世のことわりも惜き花には思はれぬかな
196 あかなくにいととくちるは世の人を歎かせむとて咲るさくらか
197 まつほとは久しかりしを咲ぬれはことそともなくちる櫻かな
198 櫻花ちるがつらきにくらふれはまちし思ひは数ならぬかな
199 さても又つひの別れをいかにせむをしき櫻はちらてありとも
200 頼まれぬうきよのさかを見せかほにはかなくもちるさくら花哉
201 さくら花さけはほとなくちる物をとはに見むごとまたれつるかな
202 ちれはまたいとゝうきよの櫻花しはしは見つゝわすれしものを
203 はかなくてちるはさくらの心にも人こそしらねかなしかるらむ
204 櫻花ちる木本に立よりてさらはとたにもいひてわかれむ
205 さくらはなよしや今年はちりぬとも又さく春を忘るなよゆめ
206 さくらしも花の命のみしかきはほかの木草にねたまれてかも
207 櫻花さてもあかぬかこゝろみに一春のこれ時はすくとも
208 ちりぬとも一重つゝちれ八重桜七日八日のほとは見るべく
209 わかれする人も櫻のちるを見は思ひうつりて花やをしまむ
210 鳥ならはもち引かけてとゝめまし散行花はせむかたもなし
211 散てゆく花の別れの鴈ならは又秋とたにまたましものを
212 吹風にそひゆく花をよふこ鳥やよよひかへせをしくやはあらぬ
213 花の枝にちるをゆるさぬ關すゑてなく鶯にもらせてしかな
214 うくひすも聲のかきりはなけやなけ我もなくそよ櫻ちるなり
215 鶯のはねにも尾にもかゝれとも涙こほらぬはなのしらゆき
216 ほかの木にふりかゝりても花の雪花としも見すちりぬと思へは
217 散花の雪しまことの雪ならは咲む春へのちかつかましを
218 雪とたにつもりて残れいとせめて惜き櫻の花のかたみは
219 雪とたに見てまし庭のさくら花うつりも行か風のまにまに
220 はかなくも我物かほに見つる哉よそに散ゆく庭のさくらを
221 櫻花ちるを惜めはよるよるの夢路にたにも残るとはみす
222 今朝見れはみな散にけり山さくらふさに手折てこしかひもなく
223 咲ことは見に来る人におくれしにちるはさきたつ花のあやなさ
224 のこりなくうつりもゆくか山櫻ちるを見にとは我はこなくに
225 ちりぬともわかうへにちれ櫻花こよひはねなむあかぬ木陰に
226 ちるさくら色はしほみてかはるとも袖につゝみてもてやいなまし
227 さくら花ちりかひくもる木本はをしむ涙そ雨とふりける
228 櫻花ちる間をたにとおもへとも涙にくれて見えすも有かな
229 散花を見れは涙にかきくれてよるかひるまか夢かうつゝか
230 花ちれはしつ心なき春の日をのとけきものとおもひける哉
231 ちるころは見るめのみかは櫻花耳にもつらき風の音かな
232 ちるらむとよるはすからにさくら花こゝろもさわく風のおとかな
233 朝またきさそはれそむる櫻花かせや夜のまにちきりおきけむ
234 草も木もなひける御世に君をおきて風にしたかふさくらなになり
235 花はしも散むものとはおもはしをこゝろつよくもさそふ風かな
236 いかにしてしはしとゝめむ心なき風にまかすはをしきさくらを
237 ひさかたの空にかけりて花ちらす山風ふせくまほろしもかな
238 山風に櫻の花のちるころは秋よりかなし春の夕くれ
239 さけはちる花のならひと思へとも猶うらめしき春の山風
240 咲花を何のあたとて山風は世にのこさしとふきはらふらむ
241 一木たに形見にのこせさくら花さそふは風のならひなりとも
242 ふかぬ日もちらてやはある櫻花なとひたすらに風をうらやむ
243 吹風よ心にまかす花ならはちるをもとめよまひはしてむを
244 程もなし春の暮なむ日まてたに櫻の花よ待てちらなむ
245 さくら花散なむ後のさひしさは何にわすれて春日くらさむ
246 何を見て来む春まては過さまし形見もてめで花のちりなは
247 夏も秋もさきなましかは櫻花ちるともかくは惜まさらまし
248 春しこは又も櫻はさきなめとちりし今年の花はかへらし
249 木の本になほ残りても櫻花散ぬる色はいふかひもなし
250 このもとにくちなは朽よちる櫻よそのつちにはなさしとそ思ふ
251 ちりはてし花の梢をけさ見れは心長くそ月はのこれる
252 散過しさくら戀しき木本にわすれ草をや植て見てまし
253 いとゝしくわすられかたき櫻かな思ひくまなくちれるものから
254 いそきしは散てくやしきさくら哉おそくはけふも見るへき物を
255 櫻花をしむかひなく散はててのこるは人のうらみなりけり
256 きのふ来て見てましものを悔しくも山の櫻は散にけるかな
257 もみち葉は散てもそれとみる物をなとて櫻の雪となりけむ
258 あかさりし櫻の花のかたみとて見るもはかなき峯の白雲
259 山里のいつともわかぬさひしさも櫻ちりぬるころの夕くれ
260 のこりても春を春ともおもほえす櫻散ての後の日数は
261 さきたちし櫻の花をしたひてや春も程なくくれてゆくらむ
262 櫻花ちりしなこりのこすゑさへあらぬ青葉にかはり行かな
263 散過し春のさくらにおくれゐて歎きの枝もしけるころ哉
264 ちりぬれはあやにめてたく見し色も夢まほろしの櫻なりけり
265 中々に夢ならませははかなくてちるともさくら又も見ましを
266 咲とみし花も月日も夢なれや散て流るゝ春の山川
267 廣き瀬に袖のせはきをいかにせむ流るゝ花をせきとゝめても
268 したはれて花の流るゝ山河に身もなけつへきこゝちこそすれ
269 の中にさくらの花ををしまぬは風と河瀬の水にそ有ける
270 たえすさく浪の花こそ水の沫と消し櫻のかた見也けれ
271 をしかりし心は猶そうつろはぬ散てほとふるさくらなれとも
272 櫻花またさくを見む春まては面影のこれあかぬ心に
273 散過し花の盛を又見せて夢はうれしき物にそ有ける
274 ちりにしを又は身ましや櫻花夢てふもののなきよなりせは
275 さくら花散し木陰に庵しめて残るわか世はへなむとそ思ふ
276 跡もなく散てう月と思ひしにうれしく残る花もありけり
277 同し色の卯花山のおそ櫻友まちつけし雪とこそ見れ
278 夏の来てうの花さけは今さらに消し櫻の雪をしそ思ふ
279 めつらしともしやとまらむ散花に山郭公なかせてしかな
280 春をおきて五月まためや時鳥櫻てふ花さくとしりせは
281 春ならは花見せましをほとゝきすさくらか枝に来つゝ鳴なり
282 をちかへりいかになかまし郭公さくら咲ころ来たらましかは
283 散そめし花おもほえて絶々に今もさくらに蛍とひかふ
284 かけり来てさくらか枝にとふ蛍散にし花の魂かあらぬか
285 山端をとゝろかしゆく鳴神も櫻はふまじ夏さけりとも
286 あつくともさくらの花のみな月にさく世なりせは風はまためや
287 櫻花きて見る春の山ならはいかにうからむ日くらしのこゑ
288 さくら花ちらしし風を秋たてはうらめつらしと人はいふなり
289 さくら花ちらしし風のやとりかとおもへはいとゝうき萩の音
290 見るほとのなきにはあらす櫻花一夜にかきる棚機おもへは
291 同しくは春のさくらの木本にさかせてしかな萩も尾花も
292 はる日さく櫻はみかともゝくさは百のつかさとにほう秋の野
293 松はあれとさくらは蟲の名にたにも聞えぬ秋の野へのさひしさ
294 櫻花かなしき秋のゆふくれにちらは命も露とけぬへし
295 さくらちるこのもとならは猶いかにあはれならましさを鹿の聲
296 くもりなき秋のもなかの月影に櫻の花を見るよしもかな
297 櫻には猶やけたれむひさかたの月のかつらの花はさくとも
298 なが屋とのかつらの花とさくらとはいつれまされり月人をとこ
299 さくを見て別れし春の面影に櫻戀しきはつ鴈のこゑ
300 立田姫さくらいろにも染分よ紅葉にましる花と見るへく
301 さくらあれはもみち見にゆく山路にも春おもほえて立とまりつゝ
302 来て見れは秋の紅葉も散にけり櫻をうしとなと恨みけむ
303 ならふかにさくらの本に菊を植て盛久しき花を見せはや
304 などとくはちりし櫻そちらされは二度にほふ菊も有けり
305 長月にさかは櫻もきくのごとちらて久しくにほひもやせむ
306 はつしくれふれはおもほゆくれなゐのうす花櫻時ならねとも
307 ちりしける春の花かと見るまてに櫻の下におけるあさしも
308 冬をあさみまてど雪たにまだ見えすまして櫻は遠き山端
309 櫻花散て流れし川風も又身にしみて千鳥なくなり
310 ほのかにもすかたを見せよ春の花峯の炭かまけふり立なり
311 夏も秋も冬も櫻のちらてあれなめつる心のかきりなけれは
312 吹風のさそはぬ年も暮ゆくか花のわかれも昨日と思ふに
313 春立て時ちかつけはさくら花いよいよとほきこその面影
314 春のきて霞をみれは櫻はな又たちかえるこそのおもかけ
315 子の日には櫻も引て植て見む松にならひて千世をふるかに
これか名をまくらの山としもつけたることは、今年秋のなかはも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひのあかしわひたるねさめねさめには、そこはかとなく思ひつゝけらるゝ事の多かる中に、春の櫻の花のことをしも思ひ出て、時にはあらねと此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まきるゝやうなりしかは、よき事思ひえたりとおほえて、それより同しすちを二ッ三ッ、あるは五ッ四ッなと、夜ことにものせしに、同しくは百首になして見はやと思ふ心なむつきそめて、よむほとにほとなく数はみちぬれと、此何かしをおもふとて、のとかならぬ春毎のこゝろのくまくまはしも、つきすへくもあらて、猶とさまかくさまに思ひよらるゝはかなしことともを、うちもおかてよみいていてするほとに、又しもあまたになりぬるを、かくては二百首になしてむとさへ思ひなりて、なほよみもてゆくまゝに、又其数もたらひぬれは、今はかくてとちめてむとするに、思ひかけさりし此すさみわさに、秋ふかき夜長さもわすられつゝ、あかしきぬる夜ころのならひは、此言草のにはかに霜枯ていととしく長きよは、さうさうしさの今さらにたへかたきにもよほされつゝ、夜を重ねて思ひなれたるすちとて、ともすれは有し同しすちのみ心にうかひきつゝ、歌のやうなることともの、多くおもひつゝけらるゝか、おのつからみそ一もしになりては、又しも数おほくつもりて、すゝろにかくまてには成ぬる也、さるは、はしめより皆そのあしたあたに思ひ出つゝ、物にはかきつけつれは、物わすれかちにてもれぬるも、これかれとおほかるをは、しひてもおもひ尋ねす、たゝその時々、心に残れるかきりにそ有ける、ほけほけしき老の寝さめの心やりのしわさは、いとゝしく、くたくたしく、なほなほしきことのみにて、さらに人に見すへき色ふしもましらねは、枕はかりにしられてもやみぬへきを、さりとてかいやりすてむこと、はたさすかにて、かくは書あつめたるなり、もとより深く心いれて物したるにはあらす、みなたゝ思ひつゝけられしまゝなる中には、いたくそゝろきたはふれたるやうなること、はたをりをりましれるを、をしへ子とも、めつらし、おかし、けうありと思ひて、ひめかゝるさまをまねはむとな思ひかけそ、あなものくるほし、これはたゝいねかての心のちりのつもりつゝなれるまくらのやまと言の葉の霜の下に朽残りたるのみそよ  
 
「大和心」

 

1 「物とは」
「禊祓(みそぎはらい)というのは、身体の汚垢(けがれ)を清めることであって、心を祓い清めるというのは、外国(とつくに)の意(こころ)に外ならず、わが国の古代では、そのようなことは決してない。(中略)とにかくも、何事でも心の観点のみによって、理非善悪を裁定することは、私意に属することである。」

「禊祓(みそぎはらい)」というと、普通、宗教的な礼拝や神仏への祈願を行うときに,冷水や海水を浴びて心身の垢を落とす水垢離(みずごり)の慣習を思い浮かべる人が多いと思います。一般に、それを行う目的は、心を浄化するためといわれています。
ところが宣長は、本来「禊祓(みそぎはらい)」というのは、ひたすら身体を清浄にすることであり、禊祓の対象になるのは、「心」ではなく、あくまで「物」としての身体であるといっています。我が国の古代(上代)において、禊祓は「心」を清めるために行われたものではないというのです。
ここでいう「物」という語は、心や精神と対になる、物体・物質の意味で使っていますが、一方、古語しての「物(モノ)」には、物体としての意味以外に、とても幅広い意味があります。それは広く出来事一般まで含み、人間が対象として感知・認識しうるものすべてを「物(モノ)」といいます。
宣長も「もの(物)のあはれ」を筆頭に、「物にゆく道」など、この「物(モノ)」という語をよく使います。当然、彼のいう「物(モノ)」は、古代(上代)に使われていたとされる意味で使われています。詳しい説明は後ほどしますが、宣長によれば、この世界とは実に様々な「物(モノ)」によって成り立っている場のことなのです。
それでは、「禊祓(みそぎはらい)は心を清めるためである」という見方は、なぜ「私し事(=私意)」となってしまうのでしょうか。
宣長は、この「私し事」という語を「公(おおやけ)」という語と対で使っていて、その事やその物が指し示す本来の意味内容を離れて、その物事を、政治や宗教、道徳などの別のカテゴリーの体系に自分の都合よく置き換えて、理解しようとすることを意味します。要するに、物事の心から離れて、自分の論理や世界観(イデオロギー)で勝手に理解し、本来の「物(モノ)」や「事(コト)」を自分流に捻じ曲げてしまうことを、「私し事」というのです。
古事記伝に書かれたこの宣長の言葉は、短いですが、とても射程の深い言葉だと思います。なぜなら、心の浄化を重視する宗教的・倫理的世界観のみならず、私たちが当たり前に思っている物事の了解方法を、根底から疑問視することにつながるからです。
そして宣長のいう「もの(物)のあはれ」の「物(モノ)」とは、こうした私たちが当たり前に思っている見方そのものを取り去ったとき、初めて目の前に浮かび上がってくるのかもしれません。
今回は以上にとどめて、次回から具体的な説明に入りたいと思います。最終的に、宣長のいう「物にゆく道」(直毘霊)の端緒にたどり着ければと思います。

参考までに、古語における、「物」と「事」という言葉の一般的な意味を、以下に概説しておきます。
物(モノ) •形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。
事(コト) •古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以降に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた。 
2 「事(こと)とは」
「そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、皆互いにぴったりと合う物で、上代(古代)は、意も事も言も上代、後の代は、意も事も言も後の代、漢国(からくに=中国)は、意も事も言も漢国である。(中略)
この古事記は、いささかもさかしら(漢意)を加へずに、古代より言い伝えられたままに記されているので、その意(こころ)と事(こと)と言(ことば)も、互いにぴったりと合う物で、皆上代の実(まこと)そのものである。」

ここで、意(こころ)と事(こと)と言(ことば)という三つの用語が出てきましたが、今回は、「事」をとりあげたいと思います。
それでは「事」とは何でしょうか。
まず、宣長のいう「事」を分析すると、次の二つの意味があることがわかります。
1.「事」とは、行い、行為、行動のこと。つまり、「心」が発動し、次に、それに基づき「言(ことば)」が発動し、次に行為すなわち「事」が発動するということです。そして、上記の文で、心と言葉と行為が相かなう (一致する)状態を、「実(まこと)」と言っています。「実(まこと)」とは、俗に言われているような、「善一筋」や「真理のみ」といった意味でないことに、注意が必要です。
2.「事」とは、生起した出来事、事実、また事の有様(事柄)のこと。(物も、そこに存在しているという事実において、すでに「事」である。)
そうすると、宣長において「この世(=世界)」とは、すなわち「事」の集積体のことであるといえます。そこは、一瞬一瞬刻々と生まれ、多種多様、あらゆる形に成りながら、不断に展開し続ける「事」の世界。
「事」は、「物」や「事」と「心」が接する刹那に、次々と際限なく生み出されていきます。言わば私たちは、その世界に「事」顕現の過程(プロセス)として存在しつつ、同時に「事」そのものとして存在しているといえるでしょうか。
注意しなければならないのは、「事」の世界においては、たとえ自分一人の心理上の「事」だからといって、客観的に起こった出来事(事件)と比べて、事としての重み(=重要度)が減ってしまうということはありません。また、その逆も然りです。
「事」の世界において、重み付けの物差しは、唯一、「事」と「心」の接触による感応の度合いの大小です。
そして、「事」に接した刹那、「心」の内に結晶した「或るもの」を、宣長は「情」と名付けました。
この「情」は、「事」をそのままに受容し「もの(物)のあはれ」を知る、あくまで受動的な機能を持ったものと位置づけられています。
さてここに、有名な「もの(物)のあはれ」が出てきましたが、詳細は後段にゆずります。
ところで、この「事(コト)」と、前回に取り上げた「物(モノ)」とは一体どういう関係にあるのでしょうか。
結論からいえば、「物(モノ)」とは、実はこの「事(コト)」に外なりません。
これは現在国語の中で、“モノ”と“コト”が別の意味を表すようになっているので分かりにくいですが、“コト”を瞬間で見るならば、それは“モノ”。“モノ”も“コト”も根源は一緒です。同様に“事(コト)”と言葉の“言(コト)”も、実は一緒です。前回の補足で引用した岩波古語辞典の説明にもありますが、これらは時代を経るにしたがって分化していったのです。
要するに、“モノ”そのものが連なって、その連なりに関連性があり、動き(変化)の相から見るときが“コト”で、ひとつひとつに分解し、静的に見れば、それは“モノ”となります。そして、“モノ”も“コト”も、それぞれ固有の「性質情状(あるかたち)」を持っており、それが人間に様々な「情」を喚起させる。その仕組みは全く同じです。
さらに、“コトバ”というのも、刻々と生まれてくる“モノ”“コト”そのものですから、“コトバ”が生まれた瞬間、表現された“コト”と、出来事の“コト”は等価です。つまり、出来事の“コト”であろうと、言葉の世界で表現(実現)された“コト”であろうが、それを受け止める「情」から見れば、全く同じ感応を受けるのです。
結局、世の中に生起した事(コト)という意味では、出来事として起こった“コト”も、言葉として起こった“コト”も、同じということになります。
宣長によれば、私たちは現実には、そのような世界に生きているということになります。
それでは、このような「事」を、そもそも成り立たせている根拠とは、一体何なのでしょうか。
宣長によれば、まさにこのように思考すること自体が、「漢意(からごころ)」と名づけられた思考方法に外なりません。そして、この漢意(からごころ)こそが、「事」を「事」として、そのままに受容することを、妨げているというのです。 
3 「漢意(からごころ)とは」
「漢意(からごころ)とは、中国風の生き方を好み、中国思想を崇敬する心のみをいうのではない。世間の人が、あらゆる物事の善悪や是非を論じ、物の道理(事象の背後にある、我々に理解可能な、概念化された原理・原則)を論定していうことなどの類は、皆漢意(からごころ)であるのをいうのである。そんなことを言うのは、何も中国の本を読んだ人ばかりではない。本などというものを、一冊たりとも読んだことのない人でさえ、そうなのだ。」

ここで宣長は、「事(コト)」の背後に、何らかの、私たちに了解可能な論理に基づいた原理・原則を、無意識的に求めてしまう志向性を、漢意(からごころ)と名づけています。また、次のようにも言っています。
原文 / 「儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうへに又太極(たいきょく)無極(むきょく)といふものをとけり。然れどもその太極無極は、いかなることわりいかなる故(ゆえ)にて、太極無極なるぞといはむに、 こたふべきよしなきが故に、かの両部神道(りょうぶしんとう)には、仏の道の密教の義(こころ)によりて、今一(ひと)きは上(うえ)を説て、これを阿字真如海変動自在の所作などいひて、もろもろの道に勝(すぐ)れたるごとく、ほこれども、その阿字真如(あじしんにょ)は、又いかなる理いかなる因縁にて、変動自在なるぞといはむには、いかがこたへむとする。すべて物の理は、つぎつぎにその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず。つひに皆あやしきにおつる也。然(しか)れば陰陽も太極無極も、阿字真如も、みなかり(仮)のさへづりぐさにして、まことには其(その)理あることなく、えうなきいたづらごと也(なり)かし。」
口語 / 「儒教では、すべてのことを陰陽(いんよう)の理論で説き、その上にまた太極(たいきょく)無極(むきょく)というものを説いている。しかしながら、その太極無極は、どのような道理、どのような理由でもって太極無極なのだといったとすれば、答える手段がないため、あの両部神道(りょうぶしんとう)の教義では、仏教の密教の理論によって、さらに一層上を説いて、これを阿字真如海変動自在の所作などといって、すべての道理に勝(すぐ)れていると誇っているけれど、その阿字真如(あじしんにょ)は、またどのような道理、どのような因縁によって変動自在なのだ、といったとすれば、どのように答えようとするのであろうか。すべて物の理(ことわり)は、つぎつぎにその根源を推し量り、極めつくしていったとしても、どのような理由とも、どのような道理とも知ることができるようなものではない。終いには皆、不可思議なところに落ちこんでいってしまうのだ。そうであれば、陰陽も太極無極も阿字真如も、みな仮(かり)そめのおしゃべりであって、実際にはその理(ことわり)など存在せず、全く役に立たない無益なしろものということになる。」(玉勝間)
ここで、本居宣長は、「物の存在の根拠(=理ことわり)をいくら問うても、その問いは永遠に繰り返され、終わることはない(趣意)」ということを言っています。
つまり「何故そうなのか?」「どうして存在するのか?」「その理由は何?」という問いは、いかなる解答に対しても、常に再生産され、生き延びてしまう。
なぜなら、そもそも物それ自体の存在性は、人間の認識とは関わりなく、それ自体で(異なった次元で)根拠を持っているため、いかなる理由付けも、所詮人間の「さかしら(漢意)」にすぎず、そもそも存在の根拠を問うという質問自体が、根本的に誤っているというのです。
このように、この世に存在するあらゆる人造の原理やイデオロギーに基づいた概念規定のみならず、倫理的道徳的な当為観念に至るまで、「物」や「事」に外側から付着し、「物」や「事」を規定(限定化)し、概念や観念として実体化する全ての認識方法を、宣長は「漢意(からごころ)」と名づけているのです。
宣長が『玉鉾百首』にも、
原文 / 「人みなの 物のことわり かにかくに 思ひはかりて いふはからこと」
口語 / 「世の人々が、物の道理をあれこれと、考えめぐらしていうのは、まさに漢意(からごころ)というものであるよ。」(玉鉾百首)
と詠んでいる通りです。ちなみに、本居大平によるこの歌の注釈には、
原文 / 「からことは、漢流(からりゅう)の説をいふなり。世の人、何事につけても、それはかやうの理にて、しかり、これは、かやうの理にて、然りと、まづその理を、とやかく也とさだめいふ。そはみな漢国(からくに)の風俗にて、から説(こと)なり。すべてのこと、その理は実はしれぬことなれば、大やうにて、何となく心得おくぞ、御国のいにしへの意(こころ)なりける。」
口語 / 「からこと」とは、漢流(からりゅう=中国流)の説をいうのである。世の中の人は、何事につけても、「それはこのような道理(理屈)でそうである。これはこのような道理(理屈)でこうである」と、まずその道理を、あれやこれやと論定していうが、それは皆、漢国(からくに=中国)の風俗であって、漢流(からりゅう=中国流)の解釈の仕方である。すべてのことの本当の道理は、実は知り得ないことであれば、おおよそを、何となく心得えておくのが、我が国古来の精神(こころ)であるよ。
とあります。
以上、漢意(からごころ)について、簡略に説明しました。次回いよいよ、この漢意(からごころ)を取り去った時、私たちの目に何が見えてくるのか、順次述べていきたいと思います。 
4 「『物』の性質情状(あるかたち) その一」
この陰陽(=二項対立)の理ということは、極めて古い時代から、世人の心底に深く染着(しみつ)いていることで、誰もがこれは天地自然の道理であって、一切の事物が、この理(ことわり)を離れることがないと思うであろうが、それはやはり漢籍の説に迷わされた心である。漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地(あめつち)はただ天地(あめつち)、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性質情状(あるかたち)はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)なるものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。

本来の「物(モノ)」や「事(コト)」を離れ、それを自分勝手に概念化・観念化し、既存の価値体系(イデオロギー)の中に乱暴に放り込んで、「物」「事」の善悪・可否を論定してしまう漢意(からごころ)。
それは、現代を生きる私たちの心の中にも深く染みついていて、時代を経るにつれて、いよいよ強固になっているようにさえ見えます。
このようなものの見方が支配する世界では、概念化・観念化できない曖昧なものや、その基になる価値体系(イデオロギー・理念)に合致しないもの、枠から外れるものは、無価値なものとして、跡形もなく捨て去られてしまいます。
宣長に言わせれば、それは、理念・理論に合致したものだけが存在できる硬直した観念世界であり、本来の「物(モノ)」「事(コト)」がもつ生々しい実在感や躍動感、みずみずしい情感と肌ざわりを欠いた死の世界。宣長のいう「もの(物)のあはれ」など、そこに存在できるはずもありません。
宣長が、漢意(からごころ)に対し、なぜあれほどまで、その生涯にわたって執拗に警鐘を鳴らし続けたのか。ここに思いを致すとき、少なからず理解できるように思います。
それでは、もし漢意(からごころ)を清く洗い去ることができたとき、私たちの目には、一体何が見えてくるのでしょうか。
言いかえれば、「物」を「物」として、「事」を「事」として、そのままに観ることができたとき、その視界に自(おの)ずから立ち現れてくる世界とはどのようなものでしょうか。
実は、今回の原文の後段が、それに対する宣長の答えなのですが、次回、そのことを詳しく述べてみたいと思います。 
5 「『物』の性質情状(あるかたち) その二」
漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地(あめつち)はただ天地(あめつち)、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性質情状(あるかたち)はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)な るものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。

それでは、漢意(からごころ)を清く洗い去り、「物」を「物」として、「事」を「事」として、そのままに観ることができたとき、目の前に見えてくる世界とはどのようなものでしょうか。
これに対する宣長の回答は、「天地はただ天地、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)」というものです。拍子抜けするほどにシンプルな表現ですが、いずれも「ただ」という言葉(副詞)で、二つの「物(名詞)」がつなげられています。ここがとても大切なポイントです。
つまり、漢意(からごころ)がとり払われた私たちの眼前に現れてくるのは、すべてが金色に光輝く天国のような情景などではなく、いかなる観念や概念にも色づけされない「物」が、おのおの独自の性質情状(あるかたち=固有性)をその身に纏いながら、“ただ”「物」そのものとして存在している事実の世界だというのです。
そこには、「物」が「物」として在るという事実より外に、いかなる理(ことわり)も存在しません。既存の観念や概念によって置換されていない分、逆に、その「物」自体が個別にもつ性質情状(あるかたち=固有性)が、生々しいまでの圧倒的な実在感を伴って、見る者に迫ってきます。
このような、「物」そのものもつ存在感と固有性にあふれた底知れない光景は、形容しようにも言葉にならず、ただ深く心に感じるあまり、思わず「ああー」という「嘆息の辞」の外に、何の表現のしようがありません。この「嘆息の辞」を、宣長は「あはれ」という言葉の原義としています。
そして、その「あはれ」を自(みずか)ら深く味わうとき、そこに自然と湧き上がってくるのは、これらの存在に対する、ある種の畏(おそ)れにも似た思い、宣長の言葉を借りれば、「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」感慨ではないでしょうか。
この「物」がこの「性質情状(あるかたち)」をもって眼前に存在しているという、物自体の存在の淵源は、自分たちが理解できる次元、例えば時間の中での因果関係、あるいはその“意味”という観念化したものに落として理解しようとする限り、永遠に極め尽くすことはできません。
すなわち、人間の「私事(わたくしごと)」に属する「心法のさだ」を以ってしては、その根本の理(根拠)を、測り知ることは決してできないのです。それは宣長の言うように、最終的に、みな「奇異(くすしあやし)き」ところに落ちてしまいます。
宣長は、事ここに至ってしまえば、「物」が「物」そのものとして、各々「性質情状(あるかたち)」を自(おの)ずから備えているのは、もはや「神の御所為(みしわざ)」という外ないと言っています。つまり、「奇異(くすしあやし)き」ところから、「神の御所為(みしわざ)」を導き出してくるのです。ここは、後にも述べますが、とても大切なポイントとなります。
ところで、第二回に述べたように、この「物(もの)」という言葉は、そのまま「事(こと)」という言葉に置き換えることができます。
すなわち、「事」が「事」そのものとして存在しているのが、この世界の有り様であり、「事」が「事」として在るという事実より外に、この「事」は何故この「事」としてあるのかと問うても、その答え(根拠)はありません。だから、それは「事」としてあるそのままで、「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」事であり、いかに人間の知恵を尽くしても、明らめることのできないものなのです。
このように、この世界に存在するありとあらゆる「事」は、全てその存在の根底に「奇異(くすしあやし)さ」を持ち、その「奇異(くすしあやし)さ」に支えられて、初めて「事」として存在することができるといえるでしょうか。
そして、この人智に測り知られざる「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なる」働きは、上述したように、宣長(=古事記)においては「神の御所為(みしわざ)」そのものとされていますから、次のようにもいうことができます。
宣長曰く、
原文 / 「そもそも此(この)天地(あめつち)のあひだに、有りとある事は悉有(ことごと)に神の御心なる」
口語 / そもそもこの天地の間のありとあらゆることは、ことごとく神の御心であるよ。(直毘霊)
現代の学者の多くが、この文を理解できず、困惑し、「宣長個人の信仰に基づく言辞」としていることが、いかに的外れであり、自(みずか)らの読みの浅さと、漢意(からごころ)に深く侵されている心を、はからずも露呈しているものといえるでしょうか。 
6 「奇異(くすしあやし)さ」
神代の事が霊妙で不可思議であるのを、人の代の事と同じでないという理由から、怪しみ疑うであろうが、実は人の代の事も種類こそ異なれど、皆霊妙で不可思議であるのに、それは今現実に見慣れ聞き慣れて、常にその中にいるから、霊妙で不可思議であると思わないのである。

宣長は、上記の文のほかにも、玉勝間の中に『あやしき事の説』と題して、次の様な随筆を書いています。とても面白い内容ですので、全文引用してみましょう。
もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首(かしら)といふ所有て、その左り右に、耳といふもの有て、もろもろの声をよくきき、おもて(面)の上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又(また)下に、口と云ふ物ありて、おく(奥)より声の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすままに、その声さまざまにかはりて、詞となりて、万(よろづ)の事をいひわけ、又首(かしら)の下の左り右に、手といふもの有て、末に岐(また)ありて、指(および)といふ。
此およびをはたらかして、万(よろづ)のわざをなし、万(よろづ)の物を造り出せり。
又(また)下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うご(動)かしはこ(運)べば、百重(ももえ)の山をものぼりこえて、いづこまでもあり(歩)きゆきつ。
かくて又(また)胸の内に隠れて、心(こころ)といふ物の有つる。
こはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件(くだり)耳の声をきき、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける。
さるに此(この)人といひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重(おも)りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いささかうごくこともせずなりてやみにき。と記したらむ書を、じゆしや(儒者)の見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理(ことわり)もなく、つたなき寓言(よせごと)にこそはあれ、とぞいはむかし。(玉勝間)
そして、上記に続けて、「すべて神代の事どもも、今は世にさることのなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや。今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね。つらつら思ひめぐらせば、世の中にあらゆる事、なに(何)物かはあやしからざる。いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ。」と記しています。
ここで宣長は、この世の中で我々が最も親しく見慣れている存在である人間でさえも、形容しようのない「奇異(くすしあやし)さ」に満ち溢れており、人間だけでなく、この世に存在するありとあらゆる事で、「奇異(くすしあやし)さ」を有しないものは、一つとして存在しないと断言しています。
このように、漢意(からごころ)を取り去った時、我々の眼に見えてくるのは、まさに「物」が「物」、「事」が「事」そのままに、測り知れない「奇異(くすしあやし)さ」を伴って立ち現れてくる光景であり、そして、この光景に立ち会った我々は、現前するそれらを、まさに「奇異(くすしあやし)さ」故に、「畏(かしこ)きもの」と深く感嘆し、その「奇異(くすしあやし)さ」を受容して、それと一体となる外に、どうしようもない自己に気がつくでしょう。この時、「事」に触れた刹那、「事」の受容の過程で、我々の心の底に結晶されるあるものが、宣長のいう「情」なのです。この「情」は、まさに「あはれ(=深く心に感じる時に思わず発せられる辞。哀しみには限らない)」と深く嘆息する以外に表現しようのない、実在する何かなのです。
以上を要約すれば、以下のようになるでしょうか。
我々の「心」が「事」に触れた時、その「事」がその「事」として、そこに確かに現前しているという「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的驚き。
そして、その「奇異(くすしあやし)さ」をそのままに受容する刹那、「心」の中に「驚き」を伴いつつ結晶化した「情」。
宣長においては、「事」「奇異(くすしあやし)さ」「情」、これら三つが一体となり支え合いながら、この世界を成り立たせている。
そして、「事」の動的な集積体であるこの世界の中で、我々自身も「事」を受容する容器(=「事」)として、数多の「情」を発しながら、存在している。 
7 「「真心(まごころ)」とは」
真心(まごころ)とは、産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって、備え持って生(うま)れたままの心をいう。さてこの真心には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、さまざまであって、天下の人は、ことごとく同じものではないので、神代の神たちも、善事にもあれ悪事にもあれ、おのおのその真心によって行いなさったのである。(中略)すべて善にもあれ悪にもあれ、生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆真心を失うのである。

宣長の玉鉾百首に真心(まごころ)を詠った次のような歌があります。
「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」
彼の弟子、本居大平は、この歌を以下のように注釈しています。
「うごく心とは、うれしともかなしとも思ふは、心のうごくなり。何事にても、楽しき事にても、憂(うれ)はしき事にてもある時は、その事に触れて、感動するぞ、まことの真心(まごころ)といふ物なりける。」
つまり、真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」と定義されているのです。
我々は、「あの人は真心がある」という様な場合、通常「あの人は誠意がある」というような意味で、「真心(まごころ)」という言葉を使っています。そこには、「良い事」において「心がこもった」「一生懸命さ」といった、ある種の実体的な価値判断を伴った意味が、あらかじめ想定されています。
しかし、宣長のいう真心(まごころ)は、これとは異なり、善悪、賢愚、巧拙など、一切の価値判断に関わることなく、何よりも、事に触れて「動く」という心の純粋な機能を、何の障りもなく、十全に働かしている心をいうのです。より簡単に言えば、「うれしい時はうれしい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい、さびしい時はさびしい」と、事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。
従って、宣長においては、巷で良い意味でいわれる「不動心」などというものは、「真心(まごころ)」とは、およそかけ離れたものであることになります。
世の学者が、現代科学によって全ては明らめられたと信じ、どんな物を観ても、その理論理屈で捉えて、心が動ずることがないのを、誇らしげにしているのは、さしあたり真心(まごころ)とは正反対の状態といえるでしょうか。
そして神代では、まさに八百万の神々が、このような真心(まごころ)ではちきれんばかりになって、善であれ悪であれ、諸々の「事」を様々に為していたのです。非常に多様な情動の、ダイナミックに躍動する生き生きとした世界が想像できそうですね。
次に「産巣日(むすび)の神」について考えてみましょう。
古事記では、天地(あめつち)の初めの時に、高天の原(たかまのはら)に、天之御中主(あめのみなかぬし)の神、高御産巣日(たかみむすび)の神、神産巣日(かみむすび)の神の、三柱の神が出現しますが、高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすび)の神の二柱の神を合わせて、「産巣日(むすび)の神」と総称したものです。
宣長の古事記伝によれば、この「産巣日(むすび)の神」は、この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもので、世々に人類の生まれ出で、万物万事の成り出でてきたのは、皆この御霊(みたま)の仕業に外ならないというのです。
まさに産巣日(むすび)の神は、世界の「万物万事の生成」をつかさどっている神といってよいでしょう。
そして、真心(まごころ)、つまり人が持っている「事に触れて動く心」も、他ならぬこの産巣日(むすび)の神によって、人が誕生する時に、あらかじめ先天的に与えられたものであるとしています。
実は、産巣日(むすび)の神については、もっと掘り下げて説明する必要があるのですが、それをするとかなりの分量になってしまうので、詳しくは後の回に譲ります。
ところで前回、漢意(からごころ)を取り去った時、我々の眼に見えてくるのは、まさに「物」が「物」、「事」が「事」そのままに、測り知れない「奇異(くすしあやし)さ」を伴って立ち現れてくる光景であるといいましたが、まさにこれは真心(まごころ)のままに生きている時にも、そのまま同じことがいえるようです。ですから、「真心(まごころ)」とは、「漢意(からごころ)を取り去った心」とも、言い換えることが出来ます。
また、第二回で、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態を、「実(まこと)」と言うといいましたが、真心(まごころ)も、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態に外なりませんから、「真心(まごころ)とは実(まこと)にあることである」ともいえるでしょう。
つまり、我々がこの世において、漢意(からごころ)を取り去って生きるということは、刻々と出現する「事」に対して、常に「真心(まごころ)」を発し続け、「実(まこと)」の位において存在していくことに、外ならないともいえましょう。
この時我々は、そこに存在しているという事実以外、いかなる当為観念や理念も存在しない状態において、純粋に「事」として、また「奇異(くすしあやし)さ」の顕現の通路として、存在することになります。 
8 「真心(まごころ)の型」
まず、すべて人というものは、産霊大神の産霊の御霊(みたま)によって、人が生きていくために行はねばならないような範囲の能力は、もとより具足して生れているので、各々が生きていくために必ず行はねばならないような事は、教えを受けなくても、充分に務め行うものなのである。君によく仕え、父母を大切にし、先祖を祭り、妻子やしもべをあはれみ、人ともよく交わりするなどの類い、また各々の家業を務めることなど、全て人の必ず行わなければならないことであるので、皆々生きている限りは、異国の教えなどを借りなくても、もともと誰でもよく弁え知って、充分に務め行うことなのである。

前回、宣長における「真心(まごころ)」について、簡単に説明しましたが、今日的視点から、一つ疑問に思うところが出てくるかもしれません。
つまり、「真心(まごころ)」とは、善悪に関わることなく、「事に触れて動く」「生まれつるままの心」の状態であるなら、全ての人が、その「真心(まごころ)」のままに、思い思いに行動すれば、世界は善悪入り乱れ、結果的に悪の跳梁跋扈する無規範な混沌状態と化し、社会秩序が根底から崩壊してしまうのではないかという疑問です。
なるほど、これは尤もというべき疑問ですが、上に挙げた本文が、これに対する宣長の答えなのです。
すなわち、生まれたままの真心(まごころ)に従って行動している限りは、世界は無秩序な混沌状態にならない。そこには、真心(まごころ)の表れ方に、産霊大神の産霊の御霊(みたま)によって、予めひとつの型とでもいうべきものが与えられている。そのことによって、多少の悪があったとしても、「真心(まごころ)」に基づく行動は、全体として、自己を含む共同体を必ず維持発展させる方向に、自然に向かうようになっている、というのです。
これは、動物の世界を見てみれば、よく理解できると思います。
動物には、言うまでもなく漢意(からごころ)は全く存在しないのですから、その行動は、むき出しの本能のままです。にもかかわらず、その世界では、同種の仲間同士では、無益な殺し合いは通常起こりませんし、また餌とする相手の動物に対してさえ、自らの生存に必要以上の無益な捕食は、決して行いません。そして中には、子孫を維持し増やしていくために、自ずから群れを形成し、整然とした秩序を備えて、高度な社会的生活を行う種族まで存在します。
当然人間も動物の一種であり、かつ、その発生以来、常に集団を構成している社会的動物です。
それ故人間は、決して独りでは生存できないということを本能的に知っており、その生そのものの欲求から、自己を含む共同体の形成・維持の本能が、自然に発動します。つまり、自分の仲間の死に対する恐れや、他者への思いやり、さらに共同体全体の弥栄に対する希求・努力が、社会生活の開始と共に生まれるのです。
このように、漢意(からごころ)でやかましくいわれる倫理・道徳などは、理念化・観念化される以前に、生活の場で自然と行われていることが多いのです。なぜなら、それらは皆、生存のため必要不可欠だからです。
同様に、法律(掟)も、社会的動物としての人間が、共存発展するための智恵より生まれた、自然発生的なものです。これは「文明の進歩の賜物」などという何かの理念的な価値を有するものではなく、あくまで生存のために必要な、一つの道具なのです。
そして、当然のことながら、これら自然発生的な倫理・道徳・法律(掟)などは、誰か特定個人の観念や理念から創り出された形而上的価値の実現を求めるものではなく、社会的動物としての人間の生存本能という、唯一の共通基盤にその拠り所を置き、何よりもまず、自己の属する共同体の弥栄を求めるものなのです。
以上、解釈の視点が、現代的視点に偏りすぎたきらいがありますが、敢えて説明してみました。
実のところ、宣長のいう「真心(まごころ)の型」には、これとは別の裏付けがあるのですが、ここでは伏せておきます。 
9 「もののあはれ」
「世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事の心を自分の心でありのままに知る。これが事の心を知るということである。物の心を知るをいうことである。物の哀(あわれ)を知るということである。そしてさらに詳しく分析していえば、ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。」

まず、「あはれ」という言葉は、宣長によれば、「深く心に感ずる辞(ことば)」であり、後の世に、ただ悲しいことをのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、「あはれ」は「哀」の意味には限らない、としています。そして、「あはれ」は、元は、うれしい時、悲しい時、面白い時、腹立たしい時、恐ろしい時、憎い時、恋しい時、いとしい時など、そのほか何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「ああー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の辞」であるとしています。
つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、「様々な事または物に触れて、そのうれしく悲しき事の心(性質情状=あるかたち)を、我が身にわきまえ知ること」ということが出来ます。
また宣長は、「紫文要領」の別のところで、「もののあはれ」について、以下のようにも述べています。
「世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れはあるもの也。」
「物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて有物(あるもの)也。」
これによれば、「もののあはれ」は、我々が想像するような、人間の感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その先天的(アプリオリ)な存在様式として、あらかじめ遍在しているものなのです。つまり、「もののあはれ」は、人間の情感に先行して存在しているのです。
そして上記本文に、「ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。」とあるように、「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、それは心が能動的に知るのではありません。あくまで物・事の有り様に即して、その物・事を通して具現されている物・事の心を、我が心に受動的に知るのです。このとき心は、何か実質の詰まった実体ではなく、「空の容器」として、物・事のありのままの受容体として機能することになります。
ところで、この刹那、心の中に瞬時に形成されるのが、宣長のいう「情」であり、それは、「あはれ」という「嘆息の辞」として結実するのです。この「嘆息の辞」は言葉になりません。第六回でも述べたように、自らの眼前に、物が物として、事が事として、ただただ存在しているという「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的驚きが、この「あはれ」という「嘆息の辞」に結実しているのです。対象と心は一体となりながら、存在の「奇異(くすしあやし)さ」に、はっきり気づき覚醒しているので、俗に言う茫然自失の状態とは少し違うようです。「もののあはれ」を知るとはこういうことです。
以上を少し別の角度からまとめて、この回を終わりにしたいと思います。「もののあはれ」は、深く論じれば尽きることはありません。
「もののあはれ」を知るとは、物の持っている「性質情状(あるかたち)」を、ありのままに知ることである。そして、「物のあるかたち」は人間の認識を超えた「奇異(くすしあやし)き」ものであるから、「もののあはれを知る」とは「ものの奇異(くすしあやし)さ」を知るということ。
この時、「知る」とは、知的認識や観念・概念理解ではなく、その「奇異(くすしあやし)さ」をそのまま受容し、ただ「あはれ」という「嘆息の辞」を発するのみ。これがそのまま「情」として結実する。
この「もののあはれ」を知るプロセスを繰り返すことにより、我々人間が、心の奥底に根強く持っている「世の中の全てのことは、ある合理的な理屈によって、最終的に理解し納得できるはず」「世の中の全てのことは、我々人間の理性で納得できる次元で、何らかの意味および根拠があるに違いない」という、二つの漢意(からごころ)を祓い清めることが出来る。 
10 「神」
「かみ」とは古典などにある天地の神々をはじめ、それを祭る社(やしろ)にある御霊(みたま)をもいい、人はもとより、鳥、獣、木草の類、海、山など、その外何でも、世の常ならずすぐれたところのあり、可畏(かしこ)きものを「かみ」という。「かみ」はこのように種々あり、貴(とうと)きも、賎(あや)しきも、強きも弱きもある。善きも悪しきもあり、心も行いもその様々に従い、とりどりにある。まして、善きも悪しきも、たいへん尊くすぐれた神々の身の上は、とてもとても妙(たえ)にして、あやしく奇すしい。人の小さい認識で、その理(ことわり)など、智恵の一片も測りしることはできない。その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みているべきである

今回より、いよいよ宣長の古道論の中核に位置する「神(かみ)」についての注釈に入ります。
宣長は、上記引用の『古事記伝』神代一之巻の本文に対する注釈として、以下の内容を補足しています。わかりやすく口語訳で示します。
「また桃子に「オオカムツミ」という名を付け、みくび玉をミクラタナの神といったことも、「いわねこのたちかやのかきば」の、よくものを言った類も、みな神である。海、山などを神ということも多い。それはその御霊(みたま)の神をいうのではない。直(じか)にその海、山を指して神といった。これらも大変 可畏(かしこ)きものであるためだ。」
「世の人が、(神を)外国にいう仏菩薩・聖人などと同じ類のもののように考えて、しかるべき論理によって神の身の上を推測するのは、大変な誤りである。悪しく邪しまなる神は、何事も道理とは違った行いが多い。善い神でも場合によっては、正しい理(ことわり)のままでないこともある。事にふれて怒るときなどは、荒れたりすることもある。悪しき神も悦べば心なごみ、物に幸いを与えることが、絶えて無いこともない。また、人は理解しないが、その行いの、当面は悪いと思われることも、本当はよかったり、善しと思われることも、本当は悪(あ)しき理のあることもある。人の知恵には限りあり、本当の理は知ることができない。ともかく神の身の上は、みだりに推測して論ずるべきものではない。」
「迦微(かみ)に「神」の字を当てているのは、よく当たっていると思う。ただし「かみ」というのは体言で、単にそのものを指していうのみで、その事その徳を指していうのではない。中国では物を指していうのみでなく、その事その徳などを指していい、体言にも用言にも用いる。例えば、中国の書物で神道というのは、測りがたいあやしい道ということで、その道のさまを指して神といい、道の外に神というものはない。しかし、わが国では神の道といえば、神がはじめた道、行った道ということで、その道のさまを「かみ」ということはない。もし「かみ」なる道といえば、中国の意味のようになるが、それでも、ただ単にその道を指していうことで、そのさまをいうのではない。」
また、『鈴屋答問録』に以下のように言っています。
「わが御国は(中略)目にも見えず耳にも聞こえぬ理(ことわり)をたずねまうけてとかくいへる事さらになければ、火はただ火也(なり)、水は水也、天はただ天、地はただ地、日月はただ日月也と見る外なし。」
「皇国(みくに)にていうかみ(神)は、実物の称(な)にいえるのみにて、物なきに、ただ其(その)理を、指(さし)ていえることはなき也。されば唐の易(えき)に神道と云(いえ)るも、神霊不測なる道と云(いう)意なるを、御国にて神道と云(いう)神は、実物の神をさして云(いえ)り。又(また)社(やしろ)に祀る神の御霊(みたま)などを、かみと云(いう)は実物にはあらぬに似たれども、これも其(その)霊を、直に指(さし)てかみと云也(いうなり)。唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也。故に皇国のかみは体言のみに用いて、用言に云(いえ)ることなし。」
以上、宣長の説くところによれば、我が国の「かみ(神)」とは、現代の我々が容易に連想する一神教で云う「ゴット」「ヤーウェー」「エホバ」「アッラー」などの唯一絶対の創造神、また中国における理の究極的存在たる「太極」などとは、根本的に異なるものであることがわかります。
要するに、常識では測る事の出来ない恐るべき能力を持つものを、我が国では「かみ」というのです。
より正確に言いましょう。第六回で「この世の中で我々が最も親しく見慣れている存在である人間でさえも、形容しようのない『奇異(くすしあやし)さ』に満ち溢れており、人間だけでなく、この世に存在するありとあらゆる事で、『奇異(くすしあやし)さ』を有しないものは、一つとして存在しない」と書いたように、この世に存在するあらゆる「物」と「事」は、其の根源において凡て『奇異(くすしあやし)さ』を持っています。
「かみ」とは、これら全ての奇異(くすしあやし)き「物」と「事」(=この世の全存在)の中で、一際(ひときわ)『奇異(くすしあやし)さ』の度合いが高く、「可畏(かしこ)きもの」にまで昇華したものを、其の実物を直に指していう言葉であるといえるでしょう。
言うまでもなく、『奇異(くすしあやし)さ』に満ち溢れた存在は、何も良きものや尊い徳を持ったものに限りません。悪きもの、奇怪なもの、その外様々な恐るべき能力(徳)を持った存在も、悉く「かみ」とされています。
さらに注意すべきは、例えば山も川も海も神ですが、それはその山や川や海に宿っている霊を指して神というのではなく、上記に「かみ(神)というのは体言で、単にそのものを指していうのみ」(古事記伝)とされ、「直(じか)にその海、山を指して神といった」とあるように、すなわち、山、川、海そのものが神とされていることです。これは、原始社会において、凡てのものに霊魂の存在(精霊・妖精など)を認めるアニミズム(精霊崇拝)と、全く異なる神のあり方であるといえます。この意味において、神道はアニミズムではありません。
さらに、「唐の如く、其(その)霊(くしび)なる所を云(いう)とは異(ことなる)也」とあるように、霊妙不可思議な「働き」、神秘的な「理(ことわり)」などを、神というのでもありません。あくまで、「実物」を指して神というのです。
例えば、第七回で「宣長の古事記伝によれば、この『産巣日(むすび)の神』は、この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもので、世々に人類の生まれ出で、万物万事の成り出でてきたのは、皆この御霊(みたま)の仕業に外ならないというのです。まさに産巣日(むすび)の神は、世界の『万物万事の生成』をつかさどっている神といってよいでしょう。」と産巣日(むすび)の神について説明しました。
しかし、正確に言うならば、『産巣日(むすび)の神』とは、「この世界で物が生み出されること(現象)そのもの」を直に指して神としているのであり、「物が生まれる働きや機能・作用」を指して『産巣日(むすび)の神』としているのではないのです。
また、「この天地も諸々の神も万物も、この産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって成り出でてきたもの」というのも、『産巣日(むすび)の神』の御霊(みたま)の「働き」や「作用」によって、万物が生み出されたのではありません。『産巣日(むすび)の神』の御霊という「実物」が、万物という「実物」を生んだのです。すなわち「物」が「物」を、「事」が「事」を生むのです。これを「成る」といいます。
同様に、有名な「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」というのも、宣長によれば、今もこの世を照らしている「太陽そのもの」を指して神としているのです。
もう少し正確に言えば、我が国の神代に生きていた我ら祖先の目に実際に映り、「凡ての生命の生みの親」であり、彼らに「分け隔てなく御恵みを与え続けてくれる、ありがたくも尊き存在」として、「天照大御神」と名付けられた「太陽そのもの」を、「天照大御神」というのです。
現代の我々が、我が国の神々を外国のゴット、仏菩薩や聖人のように考え、「しかるべき論理」によって神を理解しようとするのが、いかに大きな誤りであるか明らかでしょう。 
11 「神の御所為(みしわざ)」
「さて世の中のあらゆる大小の様々の事は、天地の間に自然とあることも、人の境遇のことも、行う行動も、みなことごとく神の御霊(みたま)による御計らいであるのであるが、総じて神には、尊卑善悪邪正さまざまあるため、世の中の事も、吉事(きちじ)善事(ぜんじ)ばかりではなく、悪事(あくじ)凶事(きょうじ)も混じって、国の乱なども時々は起り、世のため人のために良くない事なども行われ、また人の禍福(かふく)などが、きっちりと道理に合っていないことも多い。これらは、みな悪神のしわざである。」(玉くしげ)

第五回に以下のように書きました。
この世界に存在するありとあらゆる「事」は、全てその存在の根底に「奇異(くすしあやし)さ」を持ち、その「奇異(くすしあやし)さ」に支えられ、その投影であることによって、初めて「事」として存在することができるのです。すなわち「事」は、その測り知られざる「奇異(くすしあやし)さ」の通路であることによってのみ、自(みずか)らを「事」として存在させることができるといえましょう。(第五回)
宣長によると、この世界とは、その根底に「奇異(くすしあやし)さ」を湛えた「物」と「事」の、止まることの無い生起消滅の連鎖体として捉えられています。
そして、宣長が『玉勝間』で、「すべて物の理(ことわり)は、つぎつぎにその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず。つひに皆あやしきにおつる也。」と喝破した通り、「奇異(くすしあやし)さ」は、「物」と「事」の存在自体を成り立たせているだけでなく、それらの織り成す動き(=世界運動すなわち時間)自体も、「何故そのようになったか」という最終根拠の不在によって、人智に測り知られざる「奇霊(くすし)く微妙(たえ)なるもの」とされるのです。
すなわち、前回において指摘した、我が国における「一際(ひときわ)『奇異(くすしあやし)さ』の度合いが高く、『可畏(かしこ)きもの』にまで昇華したものを、其の実物を直に指していう」という神の定義に照らせば、こうした、「物」と「事」の生起消滅に伴う動き自体も、『可畏(かしこ)きもの』として、神とされるのです。
こうして、上記本文の「世(よの)中にあらゆる、大小のもろもろの事は、天地の間(あいだ)におのづからあることも、人の身のうヘのことも、なすわざも、皆ことごとく神の御霊(みたま)によりて、神の御はからひなる」という宣長の言葉が導かれてくるのです。
ここで、古事記に登場する、様々な禍(わざわい)を起こすとされる禍津日神(まがつびのかみ)を例にとって、「神の誕生」を説明しましょう。この神について、宣長は『直毘霊』に以下のように説明しています。
口語 / 「この世間に物を破壊したりなど、すベて何事も正しい道理のままにはあり得ないで、正しくないことも多いのは、みなこの禍津日の神の心によるもので、ひどくお荒れになる時は、天照大御神や高木の大神の御力をもってしても制することができない時もあるのだから、まして人力ではなんともしょうがない。あの善人も不幸な目にあい、悪人も幸福に栄えるという類の、尋常の理に反したことの多いのも、みなこの神のしわざであるが、外国には神代の正しい伝説がなくて、このわけを知ることができないために、ただ天命の説を立てて、何事でもみな当然の理でもって定めようとするのは、非常に愚かしいことである。」 (直毘霊)
注釈 / 上記の神の定義「其の実物を直に指していう」ということに留意して考えるならば、この禍津日神(まがつびのかみ)は、本来、この世に生起した「奇異(くすしあやし)き」までの、禍々(まがまが)しい事象(出来事)そのものを、「可畏きもの」として「神」としたのです。それが禍津日神(まがつびのかみ)と名付けられると、言霊(ことだま)の力によって神が実体化し、次第に人の心の中で、禍々しい不幸な事象(出来事)は、「禍津日神の所為(しわざ)」とされるようになったと考えられます。
この禍津日神のみに限らず、神代においては、「事」の織り成す動きそのものから、様々な性格の神々が、数限りなく生み出され、「可畏き所為(しわざ)」を顕現させ続けていたのです。まさに『八百万(やおよろず)の神々』と云われる所以でしょう。
注:『八百万(やおよろず)』とは、八百万という具体的な数のことではなく、「数の極めて多いこと」「数限りない」「無数の」などの意を表す語。
ところで、宣長の「世の中の何事も神の御所為(みしわざ)」という考え方は、現代人である我々には、容易に納得できないところがあると思います。そこで、現代的視点から若干補足しておきます。
我々は普通、自分の行動は、全て自分の自由意志に基づいて、主体的に選択しているものと考えています。そして、「自分の判断が理性的(合理的)でありさえすれば、絶対に選択を誤ることはない。それを積み重ねていけば、思い通りの人生を構築していくことができる。それだけでなく、我々の住んでいる社会自体も、一つの合理的な理念を着実に実現することにより、欠点の無い完璧なものに作り変えていくことができる。」と信じています。
しかし、フロイト等の精神分析学が明らかにしたところによると、我々人間を実際に動かしているのは、実は我々自身ですら知ることのできない無意識層の世界であり、我々が自分の意志で自由にできると思っている意識領域の底に、もはや人為によっては制御不可能な次元が存在し、それが我々人間の全ての判断と行動を、背後から動かしているというのです。
実際、精神分析における臨床実験で、個人の意識や行動を深く分析していくと、そこに姿を現わしてくるのは、もはや個人の人間性(パ−ソナリティ)や価値観などではなく、混沌とした剥き出しの本能と、盲目的衝動が蠢く、不条理かつ非主体的な世界であるといいます。
もう少し具体的に説明してみましょう。我々が自らの自由意志と理性に基づいて、合理的に判断していると考える場合、その判断の基準となるものは、個人における「善悪の観念」です。
ところで、人間の最も大きな根源的欲求は、私という存在が生き続けることです。(自殺願望は、この欲求の裏返しに過ぎません。)そして生き続けるためには、心地よさ(快)が不可欠です。人間はその獲得ために、あらゆる活動と努力を、惜しむことなくやり続けています。個人における「善悪の観念」は、全てここから発生してきます。
すなわち、自分の心地よい生存に寄与するものを「善」といい、逆に自分の心地よい生存を脅かし、その死滅に寄与するものを、「悪」としているのです。
隣人愛のため、神のため、正義のためなどと、格好のよい様々な理屈をつけて、自分の欲求や行動を正当化していますが、それらは最終的に、自らの心地よい生存の為という一点に収束していきます。
そして「心地よい生存」ということの「心地よい」内容は、人それぞれの感性や価値観、その信奉する観念体系などによって、様々に異なってきますが、生理的なものも含めて、「己の欲求が満たされる」ということが、最も基本となります。
我々人間の全ての判断と行動を操っているとされる「無意識層」は、この己の欲求を満たそうとする衝動の喚起と、対象に対する快(心地よさ)・不快の決定基準に、絶大なる影響を及ぼします。これにより、自らの自主的な判断と行為までが、それとは知らない裡に、この無意識層のコントロール下に入ってしまうのです。
このように、我々が自分の自由な意志により、主体的に選びとっていると信じていた考えや行動は、全て無意識界という得体の知れない存在に、あたかも操り人形のように操られていたものだったということになります。
宣長が『玉くしげ』において、世の中の人間を「人形」に喩え、その「人形」を操る人間を「神」と喩えているのは、人間におけるこのような絶対的受動性を、的確に表現したものといえるでしょう。 
12 「神の道」
「自然の道は、かの老荘が尊むところの自然であって、本当はこの自然の道というものは、存在しないものである。しかしながら、人の作ったものではなくて、神代から自然にある道がある。これは皆(みな)神様のお始めになったものであって、実は自然ではないのであるが、人為に比べれば、やはり自然のようである。そういうことでは、あの中国の陰陽五行などの説の類は、みな神様のお始めになった道によらないで、聖人達が、自分の私智でもって、万事を考え測って、作り設けたものである。そして、その智は限りがあり、及ばないところも多いので、神様のお始めになった道と合致しない事が多いと知るべきである。」

宣長の云う「神の道」には、詳しく分析すると、次の三つの意味があるようです。
@ この世に生起したありとあらゆる「事」の事跡を「神の道」という。外界に出現した客観的事象のみでなく、個人の心と言葉と行為の三つの側面で生起した全ての事(現象)をも含む。すなわち、漢意(からごころ)」によって、実体・実物がないにも関わらず、意図的人為的に生起させられた事象も、「神の道」となる。
これについて、宣長は「鈴屋答問録」に、以下のように記しています。とりわけ大切な内容なので、長文ですが全文を口語訳で示します。
「まず老子の云う自然というのは、真の自然ではない。実は儒教よりも甚しくこじつけたものである。もし、真に自然を尊むのであれば、世の中がたとえどの様になっていこうとも、成り行きのままに任せていくはずであろう。儒教の行なわれるのも、古えの自然が害われていくのも、皆天地自然のことであるのに、それを正しくないとして、古えの自然を強要するのは、却って自然に背く強いごとである。この故に、その流れを汲む者は、荘周などを始めとして、自然を尊むといって、その言うこと為すことは、悉く自然ではなく、作り事であって、ただ世間と違って異様であるのを悦び、人の耳目を驚かせるのみである。
我が国の神道は、大いにそれとは異なり、まず自然を尊ぶということはない。世の中は、何事も皆、神のしわざなのである。これこそが実は第一の安心なのである。もしこの安心が決定(けつじょう)せず、神のしわざということを、かりそめのことのように思ってしまえば、本当に老子にも感化されてしまうだろう。
そうして何事も皆、神のしわざであるのならば、儒教・仏教・老子の教えなどという道の出現したのも神のしわざ、天下の人心がそれに迷ってしまったのも神のしわざなのである。そうであれば、善悪邪正の異なりこそあれ、儒教も仏教も老子の教えも、皆広くいえば、その時々の神道なのである。神には善なるものもあり、悪なるものもある故に、その道も時々に善悪があって、それが世に行なわれるのである。
そうであれば、後世、国・天下を治めるにも、まずはその時の世に害なきことには、古(いにしえ)のやり方を用いて、出来るだけ善神の御心にかなうようにあるベきで、また儒教を用いて治めなければ治まりがたきことがあれば、儒教を用いて治めるのがよい。仏教でなければうまくいかない事があれば、仏教を用いて治めるのがよい。これらの教えも皆、その時の神道であるからだ。
そうであるのに、ただ上古のやり方でもって、後世までも治めるベきもののように思うのは、人の力を以って、神のカに勝とうとするものであって、不可能なだけでなく、却ってその時の神道にそむくものである。
これ故に、神道の行ないといって、別に一つのことがあるわけではないというのも、このことをいうのである。
しかしながら、善悪邪正をわきまえ論じる時は、上古の世は悪神が荒びることなく、人心もよかった故に国が治まりやすく、数多のことが善神の道のままにあったのである。後の世は悪神が荒びて、上古のままでは治まり難くなったのである。
このように、時に悪神が荒びてしまえば、善神の御力でもかなわないことがあるのは、神代の記録にも明らかである。であれば、人のカにはいよいよかなわぬ事であるので、如何ともし難く、その時のよろしきに従うべきものである。
これが、どうして老子の自然を強いるのと同類であるといえようか。」
A この世に生起したありとあらゆる「事」の事跡の中で、特定個人の知恵によって創造された観念体系やイデオロギー、世界観などに基づいて、人為的、人工的にある意図を持って生起させられた事象以外の、人為に依らず出現した全事象のこと。
これは、上記宣長の言葉を借りていえば、「善悪邪正をわきまえ論じる時」は、実体・実物がないにも関わらず、「漢意(からごころ)」によって意図的人為的に生起させられた事象は、そのまま「神の道」と名付けることは出来ないということです。
ここにおいて、宣長のいう「神の道」は、ある面で、近代イギリスの保守思想家のいう「コモンロー(自然法)」に近い意味合いを持っています。すなわち、ある特定個人の作った理念や観念体系(イデオロギー)に基づいて、人為的・強制的に社会を改造をすることを避け、その国の歴史の集積の中で、自然に形づくられてきた「慣習法」、すなわち文化・伝統・慣習の中に自然と息づく、理念を超えた「法」を何よりも大切にしていこうとする姿勢においてです。
故に、「国・天下を治めるにも、まずはその時の世に害なきことには、古(いにしえ)のやり方を用いて、出来るだけ善神の御心にかなうようにあるベき」という宣長の言葉など、イギリス保守思想の文脈からも、十分理解できるのではないでしょうか。
B これはAの定義に、この世における人間の行動の中で、漢意(からごころ)を取り去り、心と言葉と行為が相かなう(一致する)「実(まこと)」の状態において行動することにより生起した事象を加えたもの。
これは、実はAの定義と、厳密に言えば同じなのですが、わかりやすく別立てしました。
ところで、この「漢意(からごころ)を取り去り、心と言葉と行為が相かなう(一致する)実(まこと)状態において行為すること」を、最も純粋に、徹底して行なった存在とは何でしょうか。
それは、(人間の中にも当然そのような存在はあるでしょうが、)第七回に「神代では、まさに八百万の神々が、このような真心(まごころ)ではちきれんばかりになって、善であれ悪であれ、諸々の事を様々に為していたのです」と書いた通り、神代の神々に外なりません。
ここにおいて、神代で八百万(無数)の神々によってなされた夥しい事々の事跡が、そのまま「神の道」と名付けられるのです。そして、これら神々の事跡は、「漢意(からごころ)」に曇らされることなく、宣長のいう「古伝説」として「古事記」に、そのままの形で生々しく記録されているのです。
従って、もし「神の道」を知ろうとするならば、この「古事記」を、「漢意(からごころ)」を洗い清めた目でもって身読するのが、一番の近道ということになります。
但し、@の定義で明らかなように、「神の道」は何も古事記だけに現れているのではありません。この世に生起したありとあらゆる「事」の事跡を「神の道」というのですから、森羅万象、現在も途切れることなく生起し続けている無数の「事」や「物」と、一切の「漢意(からごころ)」なく、直に対面することにより、我々も「神の道」を即座に知ることが可能なのです。宣長は、これを「もののあはれを知る」とも「奇異(くすしあやしさ)を知る」とも言い換えています。
思えば、本居宣長が古事記の身読によって発見したのは、神代とは信じ仰ぐための、はるか過去の世界なのではなく、実にそれは、今もこの現実世界に内在しつつ、それらを動かし続けているという厳然たる事実だったのです。この事実こそ、宣長が「古道」「神の道」と名付けたものの正体です。
そしてこの「神代」は、刻一刻と現在の瞬間に出現し続けています。立ち現れ続ける「神代」。
「神代即今」「今即神代」とはこのことに外なりません。
神道ではこれを「中今(なかいま)」といいます。
以上をわかりやすくまとめるならば、「神の道」とは、神代において、一切の「漢意(からごころ)」なく「真心(まごころ)」のままに「実(まこと)の位」にある人が、「こうやったらこうなった」という事跡の数限りない集積の中から、一切の私智を超えて、自ずから浮かび上がってきた理(ことわり)のことといってもよいかもしれません。
これを、実際に生起した「事」に即した「理」、「事理(じり)」と名付け、一般で言う「理」や究極的真理である「太極」などと区別して使うことにします。
そして、この「事理」の根拠は、あらゆる人造の観念体系(イデオロギー)には存在しません。「事理」とは、「事」が「事」として「そのようであった」という事実以外の、いかなる根拠も有しないものなのです。
・注 / 厳密には「理」という表現は誤りで、実際には各々の事象の「実物」の連なりしかないわけですが、ここではわかりやすく、敢えて「理」という言葉の文底の意味を変えて言っています。
このように、宣長のいう「神の道」では、事実そのものとして現れている事象を、そのまま「神の御所為(みしわざ)」と見るのです。そこに人の形而上学は何ら介在しません。すなわち、直に「物へゆく道」なのです。人の知恵で作り上げた道とは、根本的に異なるのです。また老荘のいう「自然の道」とも異なります。
宣長は、「漢意(からごころ)」全盛の世にあって、この「神の道」を人々に伝えるため、これを「古意(いにしえごころ)」「大和心(やまとごころ)」と名付けました。そして人々が、「事」そのもの「物」そのものに、一切の介在物もなく直面することを求め、それを「もののあはれを知る」生き方として確立したのです。つまり、生きるということにおいて、「存在の奇異(くすしあやしさ)」「事の奇異(くすしあやしさ)」に、人が直に対面することにより、そこに「畏(かしこ)きもの=神」を見い出し続けることを求めたのです。それが彼のいう「人の生きる道」、すなわち「神ながらの道」であったのです。
「鈴屋答問録」の中で、弟子から「生死における安心」について問われた宣長は、「死」は、人間において究極の奇異(くすしあやしさ)であり、死後の「極楽浄土」や「昇天」「輪廻転生」などという、人間の賢しら心によって作り出された虚構に一切絡めとられることなく、「死」とそのまま全身で直面すること、これこそが「神道に生きる」ことだと説きました。
この彼の言葉は、それを聞いた弟子達に、どのように理解されたのでしょうか。
最後に、宣長の歌と言葉を挙げて、この回を終わります。
「悟るべき事もなき世を悟らんと思う心ぞ迷いなりける」
「とにもかくにも、人はもののあはれを知る、これ肝要なり。」 
 

 

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