日本文学と河川

報告書隅田川飛鳥川の清流再生今井町と飛鳥川映画の川の風景川と今様
18世紀江戸絵画紀州古座川の祭り川の暮らしと民俗和歌と祭り
斎藤茂吉の最上川1中世の一級河川斎藤茂吉と最上川2中国文学
島崎藤村と千曲川アメリカ文学フランス文化と川水の歴史・・・
 

雑学の世界・補考   

日本文学に見る河川 (報告書)

日本文学などを題材として、日本人がどのような想いを抱きながら川と接してきたのか、川と日本文化との関わりはどうであったか、「川と風土」等を探ることを目的として、「歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」−日本文学に見る河川−を設置しました。 この懇談会では、時代毎に日本人は河川をいかに表現し、河川に対してどのようなイメージ・河川観を持っていたのか、現代と比較して変わった部分、変わらない部分は何かなどを議論するとともに、万葉集にみる佐保川、明日香川などのイメージとそれを復活・復元するための川づくりはいかにあるべきか等、歴史と風土の観点から見た望ましい河川像とは何かを考察することとしています。  
近代以降の効率的な治水を優先せざるを得なかった川づくりを経て、今、川が本来持っていた治水・利水、水質浄化、癒し、生態系保全等のいろいろな機能を充足するような本当の意味での川づくり、川の個性を生かした川づくりが求められている。そのような川づくりに当たっては、現時点でのものの見方だけではなく、川から見た長い歴史の流れの中の「今」をとらえることが重要である。その際、我々のよすがの一つとなるのは、古くからの和歌、俳句等の文学・芸術に見られる、その時代時代の切り口から捉えられた川の姿である。
このような中で、本懇談会では、川の姿、川と人との関わりを、文学などを中心とした芸術の中でたどり直してみるということを眼目とし、時代毎に日本人が河川をいかに表現し、河川に対してどのようなイメージ・河川観を持っていたのかを議論してきた。
今後の河川の整備においては、川づくりに求められる治水・利水や環境保全の機能の確保はもちろん、伝統工法、舟運、祭りなどの保存、継承や多自然型の川づくり、水辺の景観整備などによって地域の特性にあった川の魅力を引き出し、個性ある地域づくりに寄与するような取り組みが求められる。このためには、河川管理者は川から見た流域全体の長い歴史・風土をひも解き、十分に理解する中で、川の魅力や川の本来持っていた様々な機能を再認識し、個性ある河川整備に息長く取り組んでいく必要がある。
本報告を端緒の一つとして、河川行政が地域とともに歩み、各地域の歴史・風土に一層根ざしたものとなり、また、二十一世紀の川が人との関わりを回復し、ふるさとのシンボルとしてながく住民の心に残る原風景となることを期待するものである。
■背景 / 社会的な変化
アジアモンスーン地域に位置する我が国では、多様な降雨形態や、急峻な山地、複雑な地形・地質などにより、多様性に富んだ河川が形成され、その中でさまざまな風土が育まれてきた。川は風土の重要な構成要素の一つであるとともに、豊かな自然、人々の交流の場であり、地域共有の公共財産であった。
一方、稲作を中心とする生活を営んできた我々日本人は、洪水と隣り合わせの土地(氾濫原)に生活の場所と糧を求め、川を管理し、利用する知恵を長い歴史の中で育んできた。また、川は古来より重要な交通路であり、水運を通じて河川の上下流はひとつの共同体として存在していた。同時に、川はコミュニティの境界でもあり、しばしば左右岸、上下流で対立の場ともなっていた。このような我が国における川との深い関わりの証として、万葉集以来、川が文学作品に頻繁に登場していること、清め、弔いなどの信仰の場として流し雛のような行事や祭りが各地で今日にいたるまで脈々と受け継がれてきていること等が挙げられる。
近年、国民のニーズやライフスタイルが多様化し、社会は成長から成熟へと急速に転換しつつある。ゆとりや安らぎ、自然との触れあいを求める社会の流れの中、地域の人たちは身近な歴史・風土に関心を持ち、川にまつわる歴史や風土に愛着を持ち始めている。例えば、舟運の復活を求める動き、水源地整備基金・水源税構想など、流域の連携に向けた活動が始まっている。また、川を活かしたまちづくり活動等、地域の特性を踏まえた個性的な地域づくりや川づくりの必要性が認識され、様々な取組が行われるようになってきている。
川の姿は地域の歴史、風土を反映したものでもある。地域の自然、歴史、風土等を大切にしつつ、共有の財産である川について、地域の人々自らが見つめなおし、川づくりに取り組んでいく必要性が高まってきている。
■日本の文学等に見る河川の姿
日本の文学等における河川の特性
古代より稲作を行ってきた我々日本人は、河川と密接に結びついた生活を営んできており、このつながりは、文学や絵画、能や歌舞伎など様々な芸術に豊かにかつ多彩に表現されてきた。また、これら表現された芸術は、地元だけでなく、広く全国にも知られ、日本人特有の河川観をつくり上げていった。すなわち、清冽な水、山紫水明の景観、移ろいゆく淵瀬などに代表される我が国の川の姿は、多くの文人や画人に表現され、そして、その作品を通じて日本全国に広められることによって、地域固有の川の姿(名所、歌枕など)や川の持つ無常観などの特有の河川観をつくり上げていった。
これほど豊かに、そして多彩に川の芸術を有する国民は、日本人を除いて世界的にそう多くはないと考えられ、川というものが、我々日本人の記憶の奥底にまで入っているということをあらわしているものと考えられる。また、地域固有の川の個性は、地域と川との関わりの中で、さまざまな民俗を育んでいった。
例えば、洪水の常襲する地域では、川の怒りを収めるための祭りや洪水に関わるさまざまな言い伝えが多く残されている。一方、渇水の恐れのある地域では、川や水の恵みへの感謝をささげるための祭りや雨乞いなどの行事が多く残されている。
このようなことから、一つの川・流域の歴史や風土を表す俳句・和歌などの文学や絵画などの芸術や川や水に関わる民俗を空間的・時間的に系統立てて収集・整理することにより、川から見た歴史・風土、すなわち、その川が持っていた個性・役割・特徴を浮かび上がらせることが可能となる。
代表的な文学等に見る河川の姿
ここでは、懇談会での話題提供・議論をもとに、和歌、俳句、歌枕、今様、民俗や伝承、祭りや信仰、絵画、映画、近代文学に表現されてきた川の姿について、報告する。
和歌、俳句にみる川の姿
清らかで変化に富む川の流れ、川で生活を営む人々の姿、千鳥や氷魚に代表される川の自然など、四季折々の川の風景は、古来、多くの文人に愛され、和歌や俳句に表現されてきた。和歌は、古代から現在に至るまで多くの歌人によって詠まれており、多くの川が、表現されてきた。例えば、我が国最古の歌集である万葉集には、飛鳥川を次のように詠んでいる。
明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば 流るる水ものどにかあらまし
[柿本人麿 / 明日香川に塞(せき)を渡してとめたら、流れ去る水も皇女の遠ざかることも、ゆるやかになるにちがいないのに。]
年月もいまだ経(へ)なくに明日香川 瀬瀬(せ・せ)ゆ渡しし石橋もなし
[年月もそれほど経っていないのに、明日香川の瀬から瀬へと渡した石の橋も今は無い。]
ここから、飛鳥川が非常な急流であり、石橋も頻繁に流されてしまっていた様を想像するに難くない。このような川の激しい流れ、移りゆく淵や瀬の姿は、月日の流れの早さの比喩として使われることも多かったが、やがて、「方丈記」の冒頭に見られるような、人の世の移ろいやすさ、無常観へとつながり、緩やかな流れの大陸では育たなかった、日本人独特の河川観が形成されていくのである。
また、近代を代表する歌人の一人である齋藤茂吉は、最上川に関する多くの和歌を残しており、最上川が、彼にとってかけがいのない川であったことが読み取れる。
わが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと
ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ
敗戦の前後、病気となり、故郷へ疎開した茂吉は、最上川によって心を癒され、励まされて、最上川を主題とする歌を詠み続けたのである。つまり、最上川は、茂吉にとって物理的な存在を越え、傷心の彼をその懐に抱き、一段と大きく育んだ「母なる川」であったのであろう。
また、和歌に詠み込まれる歌詞(うたことば)や歌を詠んだ場所そのものを指すものとして、歌枕がある。歌枕は、古代から人の行き来した地域や、著名な歌人や歌を詠むような貴族たちが通った地域について多く残っており、平安時代に京都にいた知識人たちの頭の中にあった日本列島の地域ごとに生まれたさまざまな歌が、網羅・分類されて残されている。
すなわち、歌枕は、和歌に詠われた地形を分類し、その地形が存在する地名を特定するとともに、その地名を詠み込んだ歌を集めた、日本の国土の索引、一種の文化のインデックスとなっており、現代の日本で失われた地名や当時の日本の人々の心に浮かんだ風景の索引ともいえるべきものである。日本の主な川は、平安朝のころに歌枕によって整理されており、「万葉集」以来の日本の勅撰歌集の中に出てきたような歌、そこに詠み込まれた地名、川の名前が網羅されて、川の名前からも歌が引けるようになっている。このことは、歌枕となった川が、当時の人々にとって、重要な、あるいは、かかわりの深い川であったことを示すものであり、今日で言う「一級河川」に相当する存在であったと考えることができよう。
なお、平安の後期ぐらいになると歌学びの本ができ、歌枕がリストアップされ、平安から室町にかけては京の都人が実際には出掛けもせずに歌に詠み込むという使い方がされていたため、単なる歌枕としての川と、人間が実際に生活している現実の川の姿との違いには留意する必要がある。
俳句に着目して川の姿を求めると、芭蕉と蕪村という二大俳人に出会う。彼らは伊賀上野と毛馬という生まれた場所こそ違うが、奇しくも同じ淀川水系の水を飲んで育っており、川にまつわる不思議な縁を感じさせる。彼らは、先の齋藤茂吉にとっての最上川ほど強烈ではないものの、その俳句の中で自らが生まれ育った身近な川を母なるものと見て、そこに還っていく自分をイメージしており、川が彼らの作品の中でいかに重要であったかを想像することができる。
例えば、伊賀上野の木津川支川の服部川という小さな川の近くで生まれた、芭蕉の末期(時世の句の後に詠んだといわれる)の句では、
清滝や波に散り込む青松葉
と詠んでおり、自分を青い松葉に重ね合わせ、清滝川に散り込んでいく、すなわち、母なる川に還っていく様を造形しているといえる。
また、淀川下流の毛馬で生まれた蕪村は、淀川やその近くの風景を多くの句で読み込んでおり、
花いばら故郷の道に似たるかな
うれひつつ丘にのぼれば花いばら
などと、「花いばら」と母の面影を重ね合わせ、そして、故郷毛馬の川沿いの道を思いやっているのである。
また、俳句や和歌をひも解くと、「奥の細道」に代表されるように一種の詩的地誌とも言えるくらいの現地の地形に関する把握力を持っているものがある。例えば、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ、
五月雨をあつめて早し最上川
の「あつめて」という言葉の中には、最上川の背景にある山々に五月雨が降り注ぎ、それが滝になり、谷川になり、支流になって、最上川に合流することを見事にとらえ、舟に乗ってみたときの川の流れの実感として表現している。
また、古代の歌人である柿本人麻呂も
穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲ゐ立てるらし
と「穴師川の川波が高いから、巻向山にきっと嵐が来ているのだろう」という歌を詠んでおり、古代からの俳人なり歌人が、地理的な観念を持ち、地域の川の特性を踏まえて周囲の山や川を詠っているという、世界的にも希少な特性をもち、すでに流域単位の概念を持ち合わせていたことが伺える。
今様にみる川の姿
今様は、平安時代から鎌倉初期ぐらいまでに下って三百年ほどの間に広く流行した歌謡或いは民衆歌謡というもので、現代でいえば歌謡曲に相当する。
この今様には、人と川との関わり合いを謡ったものが、替え歌も含めて非常に多くあり、そこから当時の川が、人々の暮らしにいかに大きく関わっていたかをうかがうことができる。また、今様は淀川と関わりが深く、多くの今様が淀川とその水系で謡われている。これは、淀川が大阪湾あるいは瀬戸内海と都を結ぶ交通の要所であり、多くの人が行き来し、そして、それら旅人を接待する遊女たちが、今様を謡っていたことに起因するものである。
例えば、後白河法皇が編集した「梁塵秘抄」をひも解くと、
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとをしや
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首結ひ 現世はかくてありてもありぬべし
後生我が身をいかにせん
のように、鮎や鵜飼の姿と遊女である自分の境涯を重ね合わせ、嘆く若い女性の姿を見出せる。また、
八幡へ参らんと思へども賀茂川桂川いとはやしあなはやしな淀の渡に船うけて
迎へ給へ大菩薩
思ふ事なる川上に迹垂れて貴船は人を渡すなりけり
のように、現世のしがらみ、彼岸と此岸を分ける境として、川を謡いこみ、浄土にわたる救いを求めるものや、
いづれか法輪にまいる道うちの通りの西の京それ過ぎてや常盤林のあなたなる
愛敬流れくる大堰川
嵯峨野の興宴は鵜舟筏師流紅葉山陰響かす筝の琴浄土の遊びに異ならず
のように、当時の川の姿や風俗を謡いこんだものなど、様々な今様が納められており、その風景の中に当時のどんな日本人がどんなことを考えていたのかを伺い知ることができる。
また、今様には、神(若宮)にささげる謡という特徴もあり、巫女が今様をささげると、神(若宮)も巫女の口を通して今様を返すということになっているのである。
このような信仰と川のかかわりの姿は、
大将立つといふ河原には大将軍こそ降り給へあづちひめぐり諸共に
降り遊び給へ大将軍
に見られるように、「天から降りてくる神は、河原に降り立ち、そして河原で遊ぶ」と信じられており、故に河原かその近くに神社(若宮)を建立し、河原と疫病を鎮めてもらうということになるのである。
このように、中世の社会において、川とその周辺は、交通の要所としてだけでなく、遊興の場、信仰の場として、非常に重要な役割を果たしており、このような川の姿、人と川との関りは、当時の流行歌であった今様に、特に強調されて見出せる。
民俗にみる川の姿(「川の民」の記憶)
少し前の日本には、川を生活の場とする「川の民」が各地にいた。井上鋭夫の「山の民・川の民」によると、彼らは、かつては法印と呼ばれる山伏たちに従って、実際に金掘などの仕事をしていた「山の民」であり、近世になって、法印たちが金掘などから撤退すると、彼ら「山の民」も山を降り、川沿いに定住の地を求めて、そして「川の民」となり、交易や物資の輸送、塩木流し、筏流しなどといった生業についていったものと考察されている。
このような、川の民の姿は、現在ではほとんど消えつつあるが、かろうじて「聞き書き」などの手法により、その姿を見出すことができる。
最上川において、彼ら川の民の暮らしを追いかけると、今はほとんど消えてしまった「渡し場」「渡し舟」に出会うことができる。それらは、点在する集落をその対岸と結ぶという機能だけでなく、風景としても美しく観光名所や写真に取り上げられることが多い。しかし、これら渡し場には、その牧歌的な風情だけでなく、多くの場合、悲惨な記憶も絡まりついていることを忘れてはならない。
また、最上川流域では、渡し舟の船頭を「タイシ(太子)」と呼ぶことが多いが、これは、この地域の川の民たちが、太子信仰を携えて、物資の輸送であるとか、交易、川漁などを生業とする人々が点々と存在していた、そんなかすかな痕跡を残しているのではないかと想像することができる。
一方、地方に残されている民話や伝承の中にも、川の民の姿を見出すことができる。例えば、最上川流域に残されている「サケの大助」という有名な伝承では、サケが遡上するときにはサケの声(伝承では「サケの大助、今上る」という)を宴会などをして聞かないようにするという伝承がある。これは、遡上し、産卵するサケに対し、遡上時に漁をしてはならないという水産資源を保護する教えを与えるものであり、ここにも川の民の姿が垣間見えよう。
祭りや信仰にみる川の姿
「今様にみる川の姿」で述べたように、既に中世の日本において、川や河原は神々が降り立ち、遊ぶところと考えられていた。また、遡って、神話についてみても、例えば、天照大神が岩戸にこもって、困った神々が相談する場所は、「天安河原」と呼ばれる河原である。
このように、川や河原は古代から、神々が集まる神聖な場所として、日本人の信仰の対象となってきたと考えられ、これ故に、川沿いに多くの神社(若宮)が建立されたのであろう。
京都を代表する賀茂川についてみると、一番下流が稲荷社、祇園社、それから下賀茂社、上賀茂社の両社、さらに上って、貴船社(賀茂社の若宮と言われる)というように、賀茂川沿いに多くの神社が建立されていたことがわかる。なお、京都は元々賀茂川の西側が中心地であったが、やがて、賀茂川の治水がしっかりなされてくると、東側に新しい場が形成され、洛中を此岸、それに対し、賀茂川の東側を彼岸とするようなとらえ方もされるようになった。
なお、川に関わりの深い京都の祭りは多くあるが、上述の賀茂川の最上流にある貴船社は、川をつかさどる龍神を祀る社でもあり、「止雨の祈り」や「祈雨の祈り」が良く行われている。
また、京都の夏の風物詩でもある祇園社の祭り(祇園祭)においても、元々は賀茂川にわざわざ舟橋をかけ、彼岸側の祇園から此岸の洛中へと、賀茂川の瀬を神輿が渡って、そして、再び帰っていくのである。
また、淀川についても、下流の天神祭りはもちろんのこと、宇治の平等院、石山寺、比叡山の鎮守である日吉社があり、琵琶湖を浄土の海として捉えられていたようである。
一方、和歌山県南部の古座川においては、「河内様(こうったま)」と呼ばれる神を祀る変わった祭りがある。この祭りでは、漁船が川を遡り、川の中央にある花崗岩の小島「河内様」を夜中に三回廻り、神を迎えるといったものである。なお、河内様という神様については、河童などの諸説があり不明であるが、いずれにせよ、古座川と言う川に祀られている水の神様なのであろう。
また、この古座川の河口の海上には、九龍島(くろしま)と呼ばれる島が、河内様と併せて地域の信仰を集めており、河内様の祭りの時には、この海の神と川の神の双方が祭られることとなっている。
さらに、伝統的ではないものの、河川事業が一つの祭りを生み出すこともある。
例えば京都府北部を流れる由良川では、昭和初期の北丹後地震での災害復旧により、鋼矢板を用いた強固な堤防が築かれ、当時の災害査定官の名前を取って岩沢堤と名付けるとともに、毎年八月には堤防祭りが行われている。
また、北海道の夕張川においても、治水事業に貢献した技術者を祭り、治水感謝祭という祭りが続けられている。
これら両事例は、その地域が苦労して川と付き合い、時として、川と戦ってきた歴史を物語るものであり、地域の人々の河川事業に対する思いが感じられる。
このように地域や川によってさまざまな形の信仰や祭りが残されており、地域の特徴やその地域の人々の川への思い、そして川との関わりの姿を見出すことができる。
絵画にみる川の姿
川の姿を描いた絵画は、古くより多くあるが、江戸期以前は様式化されることが多く、当時の川の姿が具体的に表現されるのは江戸時代以降と考えられる。この江戸期以降の絵画で川は、遠近法を意識したパノラマ的な表現、あるいは、上流から下流、または、河口から上流へ遡上する連続画面形式の絵画として描かれていた。パノラマ的な絵画については、十八世紀末に西洋から遠近法が入ってくる以前に日本独自の遠近法で描かれていた浮絵や覗き眼鏡を覗いて風景を見る眼鏡絵がある。
例えば、司馬江漢の「三囲景図」は、日本最初の銅版画として製作された眼鏡絵であり、三囲神社付近の風景と隅田川が描かれている。
一方、連続画面形式のものとしては、「隅田川両岸一覧図巻」と呼ばれる絵巻物形式の江戸名所絵などが一七八一年(天明元年)に描かれている。
また、十八世紀末から十九世紀にかけては、同じように連続画面形式で「真景図」と呼ばれるものが、画人たちに描かれるようになる。
例えば、紀州熊野本宮から新宮までの熊野川沿いの風景を描いた「熊野舟行図巻」(谷文晁)などがこれにあたる。
これら真景図においては、現在、使用されている地図のような正確さ、いわゆる工学的、数理学的な正確さはないが、一つの川の流れに沿って見える景観を、実際上どう見えるかということを超えて、あたかも旅をするかのごとく、恐らく、画家が美しいと思ったものや場所をことごとく取り込んで、一幅の絵の中に表現しようとしたものと考えられる。
このように、川を描いた絵画の場合、川を遡上、あるいは、下降するという「旅」を表現することによって、空間の移り変わりだけでなく、時間の流れをも表し、一つの物語をかもし出す役割をなしていると考えられる。この要因としては、例えば、陶淵明の「桃源郷」のような古来からの物語、叙述も何らかの影響を与えている可能性がある。すなわち、何か理想的な場所を求めるという物語の中において、川が果たしていた役割の大きさが、日本人の心の深い部分に残り、これが川をモチーフとしたときに何らかの影響を及ぼしたのではないか、と推測することができる。
また、川は、生活と密着した場所であるがゆえに様々な絵画に描かれ、その中からその時代の生活や産業などを見てとることができる。例えば、江戸の名所図絵が描かれるにあたってテーマとされる場所は、意識的に選ばなくても何らかの形で水に関係した場所になるほどに、江戸の町は水辺、川と重要な関係にあった。
このように、江戸が水辺をもって絵画に描かれた幾つかの要因には、物資の輸送がほとんど水路を使って行われていたこと、そして、水陸交通の結節点とも言うべき場所、例えば江戸橋の広小路、両国広小路といった産業活動上重要な拠点であった場所の周辺には、それと同時にいわゆる盛り場が形成されていたこと、芝居小屋など人々を自然的に多く集める遊興の場所も水路を使って人々を大量に運ぶような構造になっていたことなどが挙げられる。このことは、浮世絵に影響を及ぼされたヨーロッパの絵画にも見られ、特に、浮世絵調に絵を描こうとしてこだわったのは川の存在であったようである。
映画にみる川の姿
これまで述べてきたように、川は日本人の心の深い部分の一要素をなしていると考えられるが、このことは、歴史的な文学や絵画などにととどまらず、近代に作成された映画にも色濃く出ていることがある。例えば、東京の低地を流れる荒川(放水路)についてみると、(隅田川の名前に比べて)歴史の浅い川ではあるものの、実に多くの映画に取り上げられている。昭和十三年に作られた山本嘉次郎監督の「綴方教室」では、高峰秀子演じる主人公の少女が、貧しいながらも、荒川の土手で子供たちと遊んだり、ウサギの餌となる草を土手に取りに来たりするシーンが描かれている。これらシーンは、全体に暗くなりがちな貧しい家庭で育った少女の情景を明るくおおらかに映し出すのに効果的に使われている。
同様に、昭和二十三年の小津安二郎監督の「風の中の牝鶏」でも、小津映画としては非常に暗い物語となっているが、この中で唯一、主人公を演じる田中絹代が小さい男の子を連れて荒川にピクニックに出かけるという、川を舞台とした明るいシーンが挿入されているのである。
このように荒川が東京に住む人々にとって、身近な娯楽の場であったことは、昭和二十八年に作られた小津安二郎監督の「東京物語」にも描かれている。この映画では、東山千栄子演じる、尾道から東京に出てきた老婆が、長男の息子(老婆にとっての孫)と二人で、荒川の土手で遊ぶシーンがあり、ここでの印象的な台詞と併せて、この映画の名場面の一つとなっている。
また、永井荷風の短編を原作として、昭和三十年に作られた久松静児監督の「渡り鳥いつ帰る」では、東京大空襲の戦火を逃れて荒川の土手に避難してきた中年の男女が、終戦後、再び荒川の土手で偶然出会い、恋が生れるといった物語であり、能での川での取扱いと同様、「出会いの場所」として川が取り上げられ、昭和三十年頃の荒川の風景とともに描かれている。
このように、荒川だけについてみても多くの映画の中で表現されており、そこには、川を憩いの場として生きる人々の姿を垣間見ることができる。
また、最近話題の宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」においては、具体的な川ではないものの、物語の全体に川をテーマとして取り上げている。例えば、汚された川が湯屋で綺麗になる、あるいは、埋められて失われた川の化身である龍が準主役として出てくるなど、川と人とのつながりをテーマとして映画に表現しているように考えられる。
このように、川は、多くの映画監督たちによって、さまざまな映画の中で描かれてきており、当時の風景を残す貴重な映像資料として、また、風景としての川の美しさを発見するものとして、重要な機能を果たしている。
近代文学にみる川の姿
近代文学にも川をモチーフや舞台として書かれた作品が数多くある。例えば、永井荷風が隅田川を舞台とした「すみだ川」、多摩川を舞台とした室生犀星の「あにいもうと」、利根川を題材とした田山花袋の「田舎教師」、千曲川の風景をつづった島崎藤村の「千曲川のスケッチ」、北上川での思い出をつづった宮沢賢治の「イギリス海岸」、藤沢周平の「蝉しぐれ」や芥川龍之介の「大川の水」「本所両国」等も川を描いた近代文学と言えるだろう。
では、近代文学の作家たちは、いかに川を捉え、表現してきたのであろうか。例えば、「すみだ川」を著した永井荷風は、「断腸亭日乗」によると、昭和七年から昭和八年にかけて、頻繁に隅田川沿いを歩いているのだが、沿川の市街化が進むと嫌になって、今度は、さらに東の荒川(荒川放水路)まで足を伸ばすこととなる。そこで彼は、荒川のその荒涼たる、茫漠たる風景(この当時荒川下流域は放水路完成後十五年程度しか経ていない)に癒され、三日に一回くらいの頻度で荒川を訪れ、「濹東綺譚」という名作を生み出すこととなる。
このように、川と文学の関わりをみた場合、例えば、国木田独歩が誰も見向きもしなかった武蔵野の雑木林を見て美しさを見出したように、それぞれの文人たちが、その川の風景の美しさ(万人がみて美しいと感じる物ではないのかもしれないが)を発見することが重要であり、また、併せて人と川との強いつながり、係わり合いの姿が見出されることが必要なのであろう。
■歴史・風土に根ざした川を目指して
今求められていること / 地域の特性に合った川の魅力を引き出し、個性ある地域づくりに寄与する
平成九年の河川法改正により、河川行政の目的は治水、利水に加え、環境へと広がり、生態系保全や河川利用に向けた整備が一段と重要になった。しかし、未だ川を上流から下流に至る流域全体として捉える視点が不十分であり、生態系、景観等を包括し、歴史・風土という地域や人とのつながりを含めた包括的な河川環境の整備に取り組むことが重要である。また、同時に、今後の河川の整備においては、個性ある地域づくりに寄与することが求められており、地域の特性に合った川の魅力を引き出すことが重要となっている。すなわち、川と地域の歴史・風土を十分に理解し、川の個性、地域の特性に応じた河川整備を計画・実施することが求められているのである。
一般に、日常から川と接することの多い地域住民は、土地勘や特定の場所に関する現況や変遷などの豊富な知識および地域固有の自然、歴史、風土等に関する豊富な知識を有していることが多く、また、市民団体は活動地域の細やかなニーズを把握することができるほか、その活動に地域の他の人々も参加しやすいという柔軟性を有している。一方、河川管理者は、河川整備の計画手法や工学的判断などについては精通しているものの、地域固有の歴史・風土に関する知識は限られており、全国で同様な河川整備を実施してしまうことが多い。
すなわち、地域の特性を十分に理解し、川の個性に応じた河川整備を計画・実施するためには、川と日常から接している地域住民、NPO、市民団体等と連携して、地域の歴史・風土と川とのかかわりに関する情報を共有し、これを計画に反映することが肝要である。
したがって、今後の河川整備においては、地域住民と接する機会を積極的にもうけていくことはもちろんのこと、地域と川の歴史や風土について十分に調査を行い、この情報を地域住民と共有するとともに、協働を強化・推進していくことが、川の魅力を引き出し、個性ある地域づくりや川づくりを推進するために不可欠である。
歴史・風土に根ざした川づくりのための「よすが」
ここでは、本懇談会での議論をもとに、川づくりにあたっての基本となる考え方、調査段階、計画段階における「よすが」について整理する。
【基本的考え方】
川は、我々日本人にとって記憶の奥底にまで入っている要素である。このため、川にまつわる歴史・風土は、いかなる河川においても残されており、そして、それは、地域の特色や時代的、社会的背景、各河川の個性を踏まえてはぐくまれており、それぞれの川で固有のものといえる。したがって、河川管理者は、工学的、生態学的な知見に加え、それぞれの川の歴史・風土を十分に調査・把握し、画一的でない、個性ある河川整備に取り組んでいくことが肝要である。
【調査段階における「よすが」】
・ 和歌・祭りについては、本懇談会を受け、既往文献などをもとに全国的な整理を実施している。これらは、あくまでも初期の情報を提供するものであり、各河川においては、自治体史などを利用した地元での調査結果から明らかとなった情報を補完する必要がある。
・ 川の歴史・風土は、その地域の社会的環境の変化によって推移していると考えられる。このため、空間的な整理に留まらず、時間的な整理も行い、歴史・風土が形成された背景について十分理解しておくことが必要である。なお、和歌については、詠まれた時代と歌集に収録された時代に差のある場合もあり、注意が必要である。
・ 調査にあたっては、既往文献調査や有識者からの指導はもちろんのこと、地元に密着した人々(地域の古老など)からの「聞き書き」も有効な手段である。
・ 和歌・俳句や歌枕、今様、絵画などについては、舟運や交通などともかかわりが深い。このため、歴史的な街道や宿場、河岸や船着場などについても整理しておくことが理解を助ける。
・ 歌枕は、日本の国土の索引、インデックスとして有効であり、これを手がかりに地域の歴史・風土を調査することも可能である。ただし、歌枕は、当時の政治体制との関わりも大きく、ほとんど歌枕の存在しない地域もある。
・ 祭りや年中行事、信仰については、地域と川との関わりを示すものであり、例えば、長年洪水に悩まされてきた地域には、荒れる川を宥めるための祭りが残されているであろうし、渇水の地域には、雨を乞う祭りや水の恵みに感謝する祭りが多く残されている可能性が強い。ただし、かつての川は、氾濫原の中をある程度自由に移動しており、現在の河道のみからでは理解しきれないことも多い。
【計画段階における「よすが」】
・ 川だけを美しくしても何ら意味を持たない。道路やあるいはまちづくりと一体となって、地域の歴史・風土に根ざした川づくりを進めることが重要であり、このためには、関係機関や地元住民、市民団体などとの連携が不可欠である。
・ 歴史・風土に配慮した川の整備計画を策定するには、その川の流域における地位、地域における地位、日本における地位、世界における地位について、スケールを変えて十分理解し、これを念頭に計画を策定する必要がある。
・ このためには、その川の役割を十分に知っているさまざまな分野の有識者の意見を良く聞き、計画に活かすことが必要であり、十分な意見聴取と計画策定期間が必要である。
歴史・風土に根ざした川を目指して
地域の歴史・風土に根ざした川を実現するためには、まず、「よすが」を手がかりに、流域単位で川の歴史、風土や文学、文化などを十分調査研究し、空間的、時系列的に整理することが必要である。このためには、様々な分野の知見を集めた共同研究として取り組んでいくことが必要であり、また、将来的に他分野の研究成果にもとづく加筆が可能なものとする必要がある。
なお、このように川に関わる様々な歴史・風土が育まれているのは、我が国固有の特性と考えられ、我が国の文化を諸外国に理解してもらうのに格好の材料と考えられる。また、このように、歴史・文化の視点から川や流域、人と川の関わりを考察することは、世界で発生している水問題を捉える一つの視点とも考えられるため、複数言語での資料の作成を心がけ、世界に向けて発信することも望まれる。
 
和歌にみる最上川
もがみ川 深きにもあへず いな舟の心かるくも返るなるかな(藤原定方)
最上河 のぼればくだる いな舟の いなにはあらず この月ばかり(よみびと知らず)
もがみがは 瀬々の岩かど わきかへり 思ふこゝろは おほかれど 行く方もなく 
せかれつゝ 底のみくづと なることは 藻にすむ蟲の われからと 思ひしらずは(源俊頼)
最上川いなとこたへて いな舟の しばしばかりは 心をも見ん (後鳥羽院下野)
最上河 のぼりもやらぬ いな舟の 逢瀬すぐべき 程ぞ久しき(道因法師)
もかみ河 人のこゝろの いな舟も しばしばかりと きかば頼まん(藤原有家)
おしくだる 最上川の川はあけぼのの 水の漲り響きもたたず(鹿児島寿蔵)
最上川ぞひにひたすらくだり来て 羽黒の空の 夕焼けを見つ(折口信夫)
最上川を 中にはさめる此岸も 彼の岸も雪しづかにて白し(佐藤佐太郎)
最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ (齋藤茂吉)
最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも (齋藤茂吉)
最上川の 上空にして のこれるは 未だうつくしき 虹の断片 (齋藤茂吉)
最上川 流れさやけみ 時の間も 滞ること なかりけるかも (齋藤茂吉)
最上川 流るるくにに すぐれ人 あまた居れども この君我は (齋藤茂吉)
最上川 岸の山群 むきむきに 雲篭るなかを 濁り流るる(若山牧水)
大最上 海にひらくるところには 風もいみじく 吹きどよみ居り(若山牧水)
もがみ川 あふせぞしらぬいな船の さすがいなとは いひもはなたで(本居宣長)
広き野を ながれゆけども 最上川 うみに入るまで にごらざりけり(昭和天皇)
最上河 人をくだせは いな舟の かへりてしづむ 物とこそきけ(寂然法師)
最上川綱手ひくらん いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ(西行)
つよくひく 綱手と見せよ 最上川 そのいな舟の いかりをさめて(西行)
いな舟も とま引きおほへ 最上河 しはしばかりの 時雨なりとも(藤原基家)
いな舟も のぼりかねたる 最上河 しはしばかりと いつを待けん(藤原嗣房)
最上河 みかさまさりて 五月雨の しはしばかりも はれぬ空かな(藤原家實)
最上河 瀬々にせかるゝ いな舟の しばしぞとだに 思はましかば(藤原俊成)
最上川 しばしとたのむ 契だに 猶いな舟の とほざかりつゝ(鴨祐夏)
いとゞしく 頼まるゝかな 最上川 しばしばかりの いなとみつれは(藤原相如)
毛見の衆の 舟さし下せ 最上川(与謝蕪村)
新米の 坂田は早し もがみ河(与謝蕪村)
五月雨を あつめて早し 最上川(松尾芭蕉)
暑き日を 海にいれたり 最上川(松尾芭蕉)
旅人や 秋立つ船の 最上川(正岡子規)
旅の秋 立つや最上の 船の中(正岡子規)
ずんずんと 夏を流すや 最上川(正岡子規)
 
委員
美術史、特に江戸時代の18世紀以降の絵画を専門としています。もともとは洋風画と言われている秋田蘭画という画派の研究をしており、そこから派生して、大名文化、大名庭園などの関係も勉強しました。川と文学で思い出したのが、與謝蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」という俳句です。一番好きな川の絵は、明治の浮世絵師である小林清親の「東京新大橋雨中の図」、東京両国の「百本杭暁景」、そして川瀬巴水の大根河岸の絵です。明治以降の浮世絵版画の中に特にノスタルジックな、何か自分自身の思い出と重なるものを感じます。江戸の絵画で一番にお勧めしたいものが、19世紀前半に江戸で松平定信に仕え、19世紀の江戸画壇の中枢となった画家、谷文晁です。紀州熊野の「熊野周航図鑑」という絵があります。もう一つが、木下逸雲という画家の「舟行の耶馬渓図巻」という大分の耶馬渓をかきました図巻があります。あとは、池大雅という画家で、18世紀の方ですが、大変な愛妻家でもあり、1762年ごろにその愛妻・玉瀾のために描いたと言われる「富士十二景」という絵があります。その中の3月と5月の、特に5月の方に、「平原滄溟」という画題を持った一図があります。それは、富士の手前に緩やかに、黄瀬川(?)が流れており、その脇に、一見棚田とも見える初夏の田に農民たちの田植えが描かれています。池大雅はアクの強い絵画が一般的には知られていますが、大変さわやかで、近代絵画を思わせるようなものになっています。江戸の絵画の中で、河川の絵画ということで最高傑作は、円山応挙が絶筆として亡くなる1カ月前に描いたとされる、両方の屏風を合わせると10mにも及ぶと言われます「保津川屏風」です。
もともと生まれ育ちが奈良です。今の明日香川、佐保川を見ると、ある意味ではショックを感じます。ああいう川がずっと今後続いてしまうと、私どもの子供、あるいは孫は、万葉にしても、そういう世界を自分のものとして理解できなくなってしまう恐れを感じています。今回の川と日本文学の懇談会は、日本の芸術の中で川がどういうふうに扱われ、今後いかに残すとか、新しい時代の中で日本民族が今まで持ってきた自分たちの歴史を理解できるようにすることは大きなテーマだと思います。能楽に少々興味があります。お能の中で直接川のつくのは「隅田川」と「桜川」と2つあります。「桜川」は茨城の筑波学園都市に流れている桜川に題材をとった作品でどちらも狂女ものです。日本人の情念というか、思いの深いところは、川のイメージと重なっていると思います。「隅田川」にしても、大念仏が唱えられるのは川のほとりです。「桜川」もやはり川を題材にとって、親子、母と子の情を歌っています。また、「道成寺」も、日高が、蛇身との関係で、感情の奥深いところに、川の存在を持っています。水が流れている空間、夜見れば本当に怖いというような空間が影響しているのでしょう。国際的な水の問題の取り組みということで、2003年に日本で「世界水フォーラム」というのを開くことになっています。水、川との関係というのは、世界にそれぞれ受けとめ方があります。しかし、今なら、まだいろんな川づくりの中で、日本人が持っておる感性を伝えられて、日本人の感性がそのままでわかるような川づくりをできる。ぎりぎりのタイミングだと思います。
散歩が大好きです。この場所(狸穴)もかの永井荷風の住んでいた偏奇館のすぐ近くです。川を歩くのも大好きで、利根川の土手を真夏に炎天下歩いたこともあります。盛岡では、新幹線の盛岡の駅をおりて商店街のほうに向かって歩いたら北上川が流れていて、なんとそこで子供たちが泳いでいるのを見てびっくりしました。また川で泳げることができたらいいなと思って、この会に参加しております。荷風が好きです。荷風も川が大好きだった人で、隅田川のほとりもよく歩いたようです。東京の川の中で大好きなのは、荒川放水路です。荒川について書かれた本は少なく、何か忘れられた川です。それでも永井荷風の「断腸亭日乗」を読むと、昭和の初めに荷風が足しげく荒川放水路に通って、日記に紹介しています。あの茫漠たる風景に惹かれ、スケッチまでしています。岡本かの子の「渾沌未分」という、川で泳ぐのが大好きな少女を主人公にした小説があります。最後、荒川でこの少女が海に向かって泳いでいくところで終わっています。これは非常にいい小説だと思います。川をテーマにした作品というのは多くて、多摩川を舞台にした室生犀星の「あにいもうと」、田山花袋の有名な「田舎教師」あります。利根川のほとりの風景が実によく描かれています。その他、諫早湾に流れる本明川の河口を舞台にして描いた、芥川賞を受賞した作家で、野呂邦暢さんの「鳥たちの河口」、これは非常にいい小説です。そのほか、映画も大好きなので、映画の中に描かれている川の話になると、これもたくさんあります。
日本中世史を研究していますが、最初の卒業論文というのは、領主による開発がどういうふうに行われているか、河川の周辺の水を取り入れながら、どんな開発を行っていたのかというものです。エール大学の朝河貫一氏が西洋と日本との比較のために使われた入来文書というものがあります。その関係から、川の開発、川周辺の開発というものに、研究の初発の段階から関わっていました。その後、いろいろ研究対象が変わり、中世社会というようなものを探っていくことになりました。最近は「梁塵秘抄」という、今様、当時の歌謡曲を探っており、「なごみ」というお茶の雑誌で連載しています。「梁塵秘抄」の中では、「淀河の底の深きに鮎の子の鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめくいとほしや」という、遊女が淀川の船に乗りながら歌っていると思われる歌があります。自分の境涯を鮎の子に託しながら歌っています。貴族的な発想というよりは、民衆的な発想のものが多いように思います。今回、「梁塵秘抄」の風景の中から、どんな日本人が、どんなことを考えていたのかというのを考えれば、多少責が果たせるかと思っております。
私にとっても川は非常に思い出が深いです。最上川の支流の寒河江川という川で、映像という以上の感覚を憶えている。あそこで日本の縄文以来の歴史を、我が体の中に受け継いだとも思えます。川というのは、我々日本人にとって、非常に深い記憶の中にある最も原始的な、下部意識にまで入っている要素でしょう。水の経験というのは、風の、空気の経験とか、火の経験と同じぐらいに、人間にとって重要な経験です。川を考えることは、つまり川を通して世界の文化の根本に、普遍の文化の根本にさかのぼることもできます。人間にとって、地水花風、それがどういう意味を持つのか、それからどんなふうな想像力を人間に与えて、想像力の力を培ってきたものかということを考えるところまで行けばいいと思っています。
専門は歴史地理学で、地理学にアクセントがあります。主として日本、朝鮮半島、中国の古代、あるいは中世の都市途上論をやっています。日本の地域空間というのは、原初的には川というものを骨格としてつくり上げられました。私は奈良生まれの奈良育ちです。邪馬台国も、いまや奈良県であることはもう動かないような状況ですが、邪馬台国があったところは大和川の上流である初瀬の川です。さらに、その大和川の一つの支流をのぼっていくと、明日香川ということになりますが、行くたびに明日香が変わってきています。いいように変わっているのか、悪いように変わっているのかは、今度現地へ行かれたら一目瞭然だと思います。その風景というものが、かなり土木工事の影響が入ってきています。 次回、現地をご案内して明日香を直接見ていただきたいと思っております。
生まれは新潟県の中ほど、長岡市の近くの田舎です。信濃の国、信州というのは、川の向こうに憧れの世界があるという思いがあります。この5月の末に、十日町から入り、信濃川をさかのぼり、小諸に行きました。藤村ゆかりの宿に泊まりました。千曲川のスケッチや千曲川旅情の歌など、いろいろ藤村は書いています。「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ」。千曲川がすばらしい風景を取り戻すような、そういう参考になるようなお話が伺えたらと思っています。今、若い人たちも、意外なところから川に興味を持っていると思います。うちの学生の1人は利根川の水神様のことを調べています。もう1人は、奥沢に蛇祭りがあり、それが水にちなんでのものだというのがわかったので、それを調べています。自分の住んでいる地域と、そこの水との、あるいは川との関わりを持っていこうとしている若い人たちがいるについて思うところがありました。
風景とか景観の研究が専門です。専門は土木だが、相当自分なりに内面的には苦労しました。風景とか景観という感性的、情緒的な世界と、土木工学という、それらを捨象した論理を組み立てていく世界と、そのずれというのを常に感じてやってきました。工学の論理もそれだけで自立するものでなくて、もっと違う感性、トータルなものとして環境、あるいは我々の住んでいる棲息地というようなものをもう一度見直していくという視点というのが大事なのではないかと思います。私自身は、育ったところが利根川の近くです。会の川用水路で小さいころで泳いでいました。川本委員が挙げた「田舎教師」の舞台になったところに住んでおり、ほぼ似たような風景が残っています。ただ、利根大堰ができたために、下流の水質はかなり悪化しており、少し寂しい思いをしています。今は、山の中の川のほうに関心があります。折口信夫の「水の女」に一番興味があります。水の神と女性、天皇制とも関わって、非常に面白い弁論文です。それを起点にして、日本人と水との関わりというのを考えたことがあります。日本人と水と神との関わりをとらえないことには、水の問題はよくわかりません。絵では、横山大観の「生々流転」だ好きです。迫力のある天と地がもう一度一体化するという世界、そういう一つのシステムというのが川ではないかなと感動した覚えがあります。谷崎潤一郎の「芦刈り」に描かれていた風景は、川の下流ではなかったかなという感じがします。何かモヤッとしていて、上流の川と違った何か面白い風景だと思います。
少年のころは俳句をつくっており、少年俳人でした。坪内稔典委員は7歳上でしたが、京都の先輩俳人として輝かしい方であって、仰ぎ見たこ記憶がまだ鮮烈に残っています。私が所属していたのは、石田波郷という江東区の砂町に住んでおられた方が出していた「鶴」という雑誌です。俳句雑誌をごらんになった方はわかると思いますが、近世の名残で、名前の上に住所が載ります。そこに「松山」と書かれるのが嫌で、何とかこれを偽ろうと思いました。俳句雑誌というのは、住所と名前を偽ることは容易です。送られてくる雑誌に挟み込まれている投句用紙ないし短歌を書いて投函することが必要十分条件であって、どのような名前、どのような住所が書かれていようと関係がありません。全くすばらしい制度です。句をつくっている人間がどこに住んでいることになっていようが、化けようが全く構わないわけです。当時、学校で使っていた地図帳の後ろの地名を見て、日本で一番美しい名前の土地に住んでいることにしようと考えました。名前も、自分の好きな名前にしようというので、地名索引をしらみつぶしに見ました。先ほどの芳賀先生のお話でちょっと驚きましたが、私が選んだのは寒い川のほとりという名前の地名であり、冴えわたる川のほとりに住むことにしようしました。私は寒河江在住の少年俳人として、寒河江川と月山を何年にもわたって書きました。 今日ここには久保田先生と、今日来ていらっしゃらない坪内先生のお二人がいらっしゃいます。久保田先生は日本の和歌を中心に活躍されている方、坪内先生は近代を中心に古典も俳句を中心になさっている方です。私が専門にしているのは、そのお二方をつなぐ連歌と俳諧です。これは大勢の人間が集まって意識の流れをつむいでいって、句を続けていくとものです。もし流れる川が源流から河口までそのまま文学になると、連歌・俳諧になります。それが中世に非常に愛されて、近代は全く愛されないというのも、また不思議な現象です。ところで、俳諧のほうの代表である芭蕉と蕪村という2人がおります。これが同じ川の水を飲んで育ったということをご存じでしょうか。芭蕉が生まれたのは、伊賀上野の服部川という小さな川の堤防の上の高台の家です。服部川は流れて木津川になり、木津川は流れて淀川になります。一方、淀川が大阪湾に注ぐ毛馬という堤防の、おそらく堤防上の家に生まれたのが蕪村です。同じ水をこの二大俳聖は飲んで育っています。不思議なものです。 芭蕉という人の辞世は、まだ「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」が最後の句だと言われていますが、その翌日にもう一句、「清滝や波に散り込む青松葉」と詠んでいます。その「清滝や波に散り込む青松葉」は、京都の清滝川に松葉が青いままに散り込んでいくというものです。これは、先ほど尾田委員が挙げた桜川のイメージをとったものです。桜川は桜の花びらが川に散り込む、それを母親がすくい取るというイメージです。それに対して芭蕉は、自分は青い松葉が清滝の川に散り込んでいくと歌いました。川を母なるものと見て、そこに還っていく自分というものを、面影の中で造形したということになります。川は、芭蕉にとって、生家のそばを流れていた服部川のイメージが、最後に母になったのだと思います。 蕪村のほうは、「花いばら故郷の道に似たるかな」という句がある。また、「うれいつつ丘にのぼれば花いばら」という句もある。「丘にのぼれば」であり、また、いばらが育つというのはあまり人が頻繁に行き来するところではありません。「故郷の道」というのは、もしかすると、堤防の河川敷などかと思います。いばらの花というのは、日本に咲く花で最も白く輝く、発光するカンディラの色です。これは、日本の文学のイメージの中では女のおしろいの色です。ですから、「花いばら故郷の道に似たるかな」という「花いばら」は、きれいにおしろいを塗って、目の前にいた、おそらく自分の母、ないしその面影の人の象徴だろうと思います。だからこそ、「うれいつつ丘にのぼれば花いばら」という、おまえは何かつらいことがあるのかと、花いばらが語りかけてくるというイメージだろうと思います。 川のそばに生まれたこの2人の俳人が、やはり川を母として一生をイメージしたということは意味のあることではないかと思います。
文学、芸術という中で、現代的なものを批判されたので、ちょっとばかりカバーさせていただきます。棟方志功の「奥の細道」というものがあります。晩年の、一番最後の作品集ですが、「奥の細道」の句碑のあるところへ行って版画を彫りました。その中で、芭蕉の「奥の細道」には入っていませんが、信濃川の洪水をなくすためにつくった新潟の大河津分水へ行って、版画を彫っています。大河津分水は建設省も力を入れており、資料館があるが残念なことにその絵は収蔵されていません。もう一つは、関東震災の後の隅田川の復興計画について、藤牧義夫の絵巻があります。1年かかってつくって、つくったと同時に行方不明になって亡くなります。その絵は東京都の美術館と館林の美術館にあります。先ほど荒川放水路について、何にもなく寂しいという話がありましたが、「キューポラのある町」という映画があります。「いつでも夢を」もそうですが、吉永さゆりが主演です。舞台は開削されてから35年目の荒川放水路です。今、70年目です。ちょうど真ん中で、荒川を見ると、人間がつくった川でも、30年ぐらいはやっぱり人工の川という感じだが、ちょっと置いておくとすごくよくなるんだなということが分かります。同じ舞台を、今「金八先生」の舞台にしているので、3つ映像を並べておくといいかなと思います。
 
隅田川の文学

私は出身は東京ですが郊外なので、隅田川の界隈というのは一種の異国のような感覚です。川本さんの「荷風と東京」を拝見すると、永井荷風は山の手の人間ですが、山の手の人間として下町を愛し、下町に親しんでいたことが分かります。
私の専門は中世の和歌になります。和歌は従来から現代まで短歌として伝統があり、いろいろな時代の歌に関心を持っています。歌屋と自称しています。中学生のころから近世文学の一部といっても芝居なんかに親しんでいます。特に隅田川の文学を考え始める、きっかけとなったのは、一首の歌と長唄の一曲でした。
その一首の歌とは、鎌倉時代も終わりぐらいに選ばれた勅撰集、「新後撰和歌集」に載っている法印清誉というあまり有名でない歌人の「都鳥幾代かここに隅田川ゆききの人に名のみ問はれて」という歌です。長唄のほうは、江戸も末にこの清誉の歌をそっくり最初のところに取り込んでいる「都鳥」という曲です。
20年ぐらい前ドイツにいて、「罪無くして配所の月を見る」とはこんなものかじゃないかと思いましたが、自分の専門から解き放され、昔読んだ荷風とか鏡花を読み返してみると、無性に隅田川が見たくなりました。
日本に帰り、日本文学風土学会で、ドイツで読み返した荷風の「すみだ川」について話をした。久保田教授から近代文学の話を聞くとは思わなかったとを言われました。その後も機会があるとそんな話をし、「新日本古典文学大系」などに短い文章を書きました。ここで最初に引用したのは、例の「江戸名所図会」です。これは隅田川界隈の文学伝統を考える際には必見の文献と言えます。
東京大学在職中は中世文学担当で、教室ではこんな道楽はできませんでした。先輩の教授に三好行雄教授という近代文学の大家がおられ、その下で近代のことなんて怖くて話せません。三好先生が退官され、自分自身も定年、退官することになり、最後の年は少し勝手なことをしてもいいのではないかと思い、文学史の1つの試みと称し、隅田川を軸に近代から近世、中世、中古とさかのぼる形で、好き勝手なことを1年やりました。
近代で取り上げた作家は永井荷風、広津柳浪、それから正岡子規、泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介などです。近世は、ほとんど浄瑠璃、歌舞伎に限定しました。中世になると、京都から文化人が東国に下り紀行文を残しています。例えば「北国紀行」とか「廻国雑記」、そんなものを取り上げました。だんだん時間がなくなり、自分の専門の和歌については話す時間がなくなり、駆け足でやりました。そのときのメモに基づく小文が「「隅田川の和歌」表現史序説」。物々しい名前がついていますが、簡単な年表だけのものです。
ただこんな年表もつくってみると、本当に京都の人にとっては遠いはるかかなた、鳥が鳴く東に流れている大川である隅田川、それが歌枕としてだんだんと定着していくまでの過程というのが透けて見えてきたような気がします。歌枕という概念が確立してくるのが中世だと思います。この場合の中世というのは鎌倉時代ですが、そこまでをたどって、それで結局、時間切れになってしまいました。
歌枕としての隅田川が、人間がその周辺で実際に生活する現実の川として認識されてきた段階で、それをどう歌うか、歌枕として歌っていた隅田川と現実の隅田川を歌う場合とは違うはずだろうと細かく考えるのが本来の専門ですが、とてもそこまでいっていません。
ただ、本を見ているだけではわからないことがあり、そのころから努めて歩くようにしました。荷風の「すみだ川」の長吉は東京の人間なので、人に道を聞くのはどうも嫌いだとあります。私も長吉と同じで、人に道を聞くのはおっくうです。ですから、ただやみくもに随分いろいろ探し歩いたようなことがあります。
浜町に清正公という小さなお寺があります。詳しい地図でないと出ていません。浜町公園の一角にぽつんとあり、これが泉鏡花の小説の「鴛鴦帳」で重要な場面になります。また、私たちの世代は遊廓を全然知りません。有名な洲崎の遊廓というのがよくわかりません。鏡花の「芍薬の歌」という作品の重要な場面で、どうしても押さえておきたく、行ってみたら、遊廓の面影はなく遊歩道になっていました。
現在の白百合女子大学に移ってから、演習という形式で2年ほど隅田川の文学を修士課程の大学院生に自由に報告させました。中には島崎藤村とか堀辰雄なんかについて報告した学生もいましたが、この頃の学生は、推理小説をよく読んでおり、江戸川乱歩、それから横溝正史、宮部みゆきなんていう、そういう作家の隅田川が出てくる作品をよく取り上げます。
そんなことをやっているうちに、岩波書店から新版の荷風全集が出るということで、月報に短い文章を書きました。ちょうど「日和下駄」をおさめている間の月報でしたが、そこで「日和下駄」や「深川の唄」、「すみだ川」なんかに引っかけて短い文章を書きました。そしたら、その編集者から隅田川の文学ということでまとめてみないかということを言われ、2年ぐらいかけてできたのが、参考資料にある岩波新書の「隅田川の文学」です。
参考となる文学作品としては、東京日日新聞社編の「大東京繁盛記下町編」です。これは大変楽しい本です。執筆者が豪華メンバーで、芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、吉井勇、久保田万太郎、田山花袋、岸田劉生の7名の作家文人が、関東大震災直後の東京の復興ぶりを実際に現地を見て歩いて書いたルポルタージュです。連載されたのは昭和2年で、出ましたのは昭和3年です。芥川のほとんど終わり近い文章になります。この芥川の「本所両国」、それから鏡花の「深川セン景」というのは、私は大好きなものであります。この単行本は挿絵入りであり、それが楽しいと思います。最近平凡社から復刻版が出たようです。山の手編と下町編と両方です。
鹿児島徳治の「隅田川の今昔」という本が72年に出ています。都立葛飾高校の先生をやっておられた方で、地図入りでして、俳句や和歌の引用が非常に多い、そういう点で隅田川の文学を考えたときに便利な本だと思います。それから鈴木雅臣さんの「江戸の川・東京の川」、隅田川流域の歴史と社会なんかについて詳しく書いていらっしゃいます。
かのう書房というところから出されている「隅田川の歴史」。89年に出されたもので、11人の方の文章をおさめています。宮村委員が「隅田川の移り変わり」という文書をお書きの本で、文学関係では、半藤一利さんの「オール娘に花が散る」、加太こうじさんの「歌、演劇、講壇、落語などの隅田川」がなかなかおもしろい。
鶴見誠の「隅田川随想」。明治37年の生まれなので、相当な年だが、今でも元気で、かなり斬新というか、思い切ったことも書いています。平安時代の隅田川の渡しは今の春日部市の花積のオモヤセの渡しであるということを強く言っています。隅田川のあの辺に梅若寺があるのはおかしいということを書いています。「江戸名所図会」の記述もところどころ間違っているということを言っています。
高見順が編さんした「文学に見る日本の川」というのがあります。サブタイトルが「隅田川」です。これは昭和35年に出ており、21人の人の文章を集めたものです。先ほどの「大東京繁盛記」のうちの吉井勇や北原白秋の文章もおさめられていますが、有名な芥川龍之介の「大川の水」も入っています。それから編者自身としては、これは「東京新誌」といいますが、「柳橋新誌」のもじり、そのうちの一部が入っています。姉妹編として、まだ見ていませんが、瀧井孝作編の「文学に見る日本の川、多摩川」というのもあるようです。
中尾達郎という人の「江戸隅田川界隈」という本が96年に三弥井書店から出ています。大正11年生まれで、慶應で折口さんに習ったと記されています。民族学の立場からも書いているそうですが、特に近世文学における隅田川に非常に詳しい本です。
私の小さな本では分量が非常に限られていますので、取り上げたいと思いながら、見送ったジャンルがたくさんあります。近代文学では、近代短歌での隅田川、近世和歌、特に江戸派などの隅田川の歌等々触れるスペースがありませんでした。江戸派の歌人にとっての隅田川は単なる歌枕ではなくて、現に自分が生活している一部の隅田川になると思います。
京都の歌人である香川景樹がそのころ江戸にやってきて、現実の隅田川を見ています。その香川景樹の歌う隅田川と村田晴海、橘千蔭らが歌う隅田川とどう違うかはおもしろい問題だと思いますが、そのことは触れられていません。近代、現代の作品も大事なものを随分外しています。例えば小山内薫の「大川端」。佐藤春夫の「美しき町」は、中洲に理想郷をつくろうという物語です。それは夢物語で終わる話ですが、こんなのも隅田川の文学として加えたいと思います。
近世も演劇だけに限っています。演劇は、近世の音曲類も必然的にいろいろかかわりがあるので、もっと考えなくてはいけませんでしたが、この本ではほとんど取り上げていません。ごく一部だけにしか取り上げていないので、今回を機会に、「隅田川の音楽 略年表稿」というのをつくって、本日の資料に入れていただいたのですが、これもまだ一部です。
小唄端唄俗曲に隅田川もたくさん出てきますが、これらは年代が確定できないため、年表形式に入れようがありません。例えば荷風の「すみだ川」の初めのところに明らかに影響を及ぼしていると思う「夕暮」という小唄端唄がありますが、年表に入れらないので入れていません。
音楽ですと、当然近代の音楽、例えば武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」、(明治33年)も入れるべきで、歌謡曲のたぐいはたくさんあります。加太こうじの「明治一代男」、歌謡曲の「隅田川」、昭和12年だそうですけれども、こんなものまで入れて、隅田川の音楽をもう少し体系的に見たいと考えています。この年表の中で、隅田川界隈の雰囲気をよく伝え、よく表現している曲を一、二挙げますと、清元の「梅の春」。これは荷風の作品にもよく出てきます。それから常磐津の「乗合船」、この辺がいかにも隅田川の音曲だという感じがします。
「梅の春」は情景描写で、隅田川界隈の地名の大事なスポットがきちっと押さえられて、歌い込まれています。「乗合船」は、風俗舞踊の浄瑠璃で、隅田川界隈に生きた市井の人の生活感情がよく出ています。
安田武、多田道太郎両氏に「「いき」の構造」を読む」という本がありますが、この中で安田さんがこの常盤津「乗合船」について論じています。大変おもしろい文章ですが、下品だといっておられます。常磐津の文句をあまり上品ではないのですが、それは亡くなった名人の松尾太夫の語った「乗合船」は節回しといい、語り口といい、野卑で下品である。下品でいて、それで実に粋なんだ。だから粋というのはそういう要素を持っているんだ、と安田さんが説いています。
隅田川は江戸文学では、自殺、心中の名所として扱われています。そういう心中の曲としては、清元の「お半」、同じく清元の「お染」等があります。本来は上方の芝居で、その上方を江戸の隅田川に移しています。文化現象としてもおもしろいと思います。
荷風の「すみだ川」に重要な曲として、清元の「十六夜清心」がある。これも芝居の上では鎌倉の稲瀬川というふうに称していますが、明らかに隅田川であり、一種の装置としておもしろい。
隅田川縁はよく人殺しや殺伐な事件も起こりました。有名なのは、明治20年の6月に起った花井お梅の事件です。酔月楼女将のお梅が浜町河岸で箱屋の峰吉というのを殺す。このことを語った新内があり、年表に入れようとしたが落しました。心中事件があった翌年に新内の「酔月情話」というのが作曲され、現在、これは流行曲であると、平岡正明の「新内的」という本に書いてありました。
清元「夕立碑」、これも三囲あたりで実際にありました殺人事件を戯劇化したものです。これは黙阿弥であり、いわゆる散切り物の芝居の切りに使う清元です。この芝居は私は見たことはありませんが、風俗史的にはおもしろい。
こんなことを考えると、当然、隅田川の演劇、戯曲なんかの年表もつくる必要があります。当然、昔から現在まで物語、小説、その他随筆、さらには地誌なんかを全部網羅して、隅田川文学年表というものをつくってみたいなという気がしますが、これはいつまでたってもできないと思います。また、切りがないなという気もします。
これも昔読んでもう忘れていましたが、ついこの間、大佛次郎の「赤穂浪士」を2晩かかって読んだ時に、当然、吉良上野介の屋敷が出てくるあたりが書かれている。これも隅田川の文学に入れてもいいかという気がします。とても生涯読み切れない気もしますが、池波正太郎とかたくさん読む必要があるわけです。
隅田川と申しますと、だれでも「粋」な情緒というものを連想すると思います。その「粋」について論じたのは、言うまでもなく九鬼周造です。九鬼周造の残した詩歌を見ていると、この人は大変エピキュリアンであることがわかります。「「いき」の構造」ばかり初め読んでいたので、あまり知りませんでした。相当遊んでいる感じはしていましたが、歌を読むと本当に驚きます。児島喜久雄とともに小唄勝太郎や市丸なんかを座敷に上げて、随分酒杯を重ねています。
例えば、「大川の水面に粋ななげしまだ移りてくるる柳橋かな」、「大川に枕のごとき物浮けば瓶のほつれを歌う市丸」、こんな歌を残しています。九鬼周造の大変ユニークな哲学は、結局、この隅田川の情緒というものをさらに取り込んで構成されたものではないでしょうか。
このようなわけで日本文学の、あるいは日本芸術の根本的な美意識というものを考えたときに、隅田川だけではなく、川、それから水というものが大事な意味を持っているのではないかというふうに考えています。
私の本を読んだ同業者の関西の方で、島津忠夫は自分は淀川の文学を書きたくなったと言っていました。これはやはり大事ことだと思います。淀川水系というか、賀茂川、宇治川、大井川、桂川等を含めて、淀川水系の文学というものについて、これはぜひ光田さんあたりを中心にしてやっていただけるとありがたいと思っています。
 
飛鳥川の清流再生について

飛鳥川は、特に万葉の歌にたくさん歌われているすばらしい川で、歴史文化的にも意義のある川です。そして、また明日香村全体が日本の国の発祥地であるので、現在、総理府、続いて国土交通省で担当していただきますが、「古都法」によります明日香の整備という形で第3次整備計画をこの12年度から内閣の方でご承認頂き整備をさせていただいております。
そのような中で、川の問題が大変いつも話題になっております。橿原市の水源にもなっております。また、近年どうも川の水量が少なくなっているが、逆に大雨が降ったときには、濁流となって流れてしまうというジレンマがあります。このため昔飛鳥ダムを計画し、洪水調整、その他利水をお考えいただいたこともありますが、「ダムは悪い」という言葉の形になっているものですから、飛鳥ダムが中止になり、そのかわりに飛鳥川の河川整備で対応を考えていただいております。
一方、先ほどのように昔の水量、雨量が現実に少なくなっています。原因は、山の形態が杉、ヒノキというような形で保水力がなくなってきていることも大きな要因かと思います。さらに、明日香村の中山間には、田んぼ、畑、溜池、作物をつくるための小さな井戸もたくさんありました。それと棚田がきちんと管理されていました。これらがかつて雨の調節をしていたとも思います。しかしながら、これらを今から復元する事は困難なことです。
また、飛鳥川は大変土砂が多く困っております。私は、基本的に川は水を流すところであって、土砂を流すところではないと思います。この土砂を何とかして止めると川自体の整備も変わると思います。
この問題からもダムは土砂を止めて、下流の河川の整備に大変役立つと思います。また砂防ダム等により、小さな谷をゆっくりと水が下流に流れる仕組みが必要ではないか。上流は上流の河川の整備の仕方、そして下流では上流と異なる整備の仕方があると思います。
現在、河川公園とか親水公園の整備が進む中で、一回の大雨で土砂が堆積したり、すぐに雑草が生えたりし、当初の目標から少し逸脱したような河川になってしまいます。明日香村だけで考えるダムを含め砂防的な谷どめ等を取り入れた河川整備の方法がありがたいという思いをしております。そうすることによって、水も地下水としてゆっくりと河川に流れてくると思います。
また、飛鳥川の場合、災害復旧等の事業の実施により洪水を早く下流に流す形になっています。昔は石橋もたくさんありました。道が平になる利点もあり、新しい橋もたくさんでき、古い石橋は不要になり撤去されました。このため遊びの水たまりがなくなってしまって、洪水がすっと流れてしまう。県にもお願いしているんですが、明日香村は水をゆっくりと流す工夫をして欲しい。昔の石橋の上と下とでは、20センチぐらいの落差ができ、水止めの効果があったと思います。
飛鳥川の場合は、万葉の世界でも歌われてるように、ごく自然な形の河川整備が必要であると思います。その地域の文化、歴史を考慮に入れ、どこも同じような道路整備とか河川整備とかでないものを認めていただけたらありがたいという思いをいたしております。飛鳥川は、万葉の世界では大変大きな川のように歌われておりますが、小さな川です。私は整備のやり方もそう大して工夫は要らないと思います。今後の河川整備にあたってはご配慮のほどよろしくお願いいたします。
中世、今井町が生まれてから飛鳥川は優しくもありますが、たけだけしく荒ぶる川でもございました。何度か決壊いたしました。決壊すれば飛鳥川は東に流れていますが、西の端の私の家まで数分で水が来るのだそうです。
今井町は先人もいろいろ考え、現在も考えております。まず、今井町の住人は明日香村でまず治山をしようということから、川、畑、冬野山を求めまして、明日香の人たちに整備してもらい、治山も志して現在までやっております。
その暴れる川を何とかなだめようと、遊水池として小綱池を考え、小綱池から放水してふだんは農業のかんがい用水に使い、蘇武の桜と大和図解にもありますが、堤防に桜を植えて楽しんでおりました。本日ご覧いただきました河畔にある蘇武井戸では名水が出て茶の湯など町衆文化が栄えました。ところが、戦後、荒廃しまして、桜の木を薪にかえ、放水路の上に住宅や店舗を建てて、現在の形になっております。今、今井町の子供たちは、飛鳥川の優しさを知りません。昔の水辺を取り戻して子供たちの憩いの場になればと願う次第です。
■懇談
明日香村は大変遺跡が多く、研究者や観光客の人も随分来ると思います。その人たちはどこに泊まるのですか。
20年前に明日香立法ができ、この地域の凍結的保存が行われ、宿泊施設や新しい建物は許可されなかった経緯があります。その間経済の動きが大きくこの地域は完全に取り残されてしまった。現在の第3次整備計画の中では一定の場所を決めて開発ができるように変更していただいた。凍結から創造的活用という言葉を歴風審の中でいただいております。将来的には明日香村をまるごと博物館にして、ある程度の観光客を呼び込もうと考えています。そして、100年間かかっても掘りきれない遺跡の発掘を活かして文化財産業を興そうとも考えております。
明日香村を通るきには、必ず通行料とか入村料を取ったらどうですか。
昔、今の入村料のアイデアもありました。その当時は農林業もきちっと生計が立っていましたので、明日香村の人を見せ物にするのかという意見もあって、拒否した経緯があります。今であればもらっておいたらよかったなと思います。しかし、日本国明日香村で結構ですから、別段お金はとらなくても国の方できちっと管理してくれれば、いろいろな形で明日香村の住民は生きていけると考えます。
明日香村の観光客の大観光スポットですが、本当は縄文の青森の三内丸山、佐賀県の吉野ケ里とか、あれ以上ですね。今以上にまだ出てくるわけで、何か国としても管理を考えなくてはいけない。
ですから、建設省の方に大変ご苦労いただいています。今度キトラも国営公園の整備をしていただく。亀型石造物のところもできたらと思います。もう1つ大きく言いますと、50年、 100年かかってもいいから、飛鳥京を全部表に出して見せてください。そうすると、石舞台周辺の集落や役場のところの集落・飛鳥寺の集落全部移転します。そういう夢は見させてください。そこまで言っているんですが、難しいようです。
先ほど見た景観としての棚田が、うまくすれば、治水の方に猛烈に役立つ場合もあります。早期の稲だと、台風シーズンに余り役に立ちませんが、棚田のあぜの高さを3〜5cm上げれば治水池という位置づけで飛鳥川整備事業の一環としてあり得るかなと思います。多分、明治以前に棚田の水深はもう少し深かったと思いますのでその頃の状態に戻せばいい。風景を変えずに治水機能を上げる。こういう花崗岩の地帯では棚田は洪水のときに水を溜めるだけではなくて、森林よりもはるかに保水能力がある。 それから、先ほど小綱池の話がでました。この辺の溜池地帯を一つの歴史遺産だと考えて、それをさらに利用する。つまり流域変更して吉野川が下流に来てますので、それを一つの安全弁としながら、溜池をファームポンドみたいな、全部個別にやっていく形で細かいシステムができるように思う。大滝ダムの関係があって水が来るのかどうかわかりませんが。この地区を古い歴史と人間生活のちょっと近代的になった近世以降の歴史の風景というものを織りまぜながら環境整備、飛鳥川の整備を考えられた方がいいという気がしました。 いきなり治山事業、あるいは砂防事業をやって、この原風景守られるかなという心配があります。石を取ってしまうと、かえって砂が流れてくる心配があるような気がします。
日本的な遺産というか、世界遺産というのは、人工物としての立派なお寺とか、棚田でも何か人工的につくった東南アジアみたいなすごい力の入ったものしか評価しない傾向があります。しかし、ここは少し違うと思います。人為と自然とがうまく調和して、誰が見ても誰もがパッとする、そういう雰囲気の遺産と言ってもいいと思います。そういう意味での世界遺産として、説得するのは非常に大変なことらしいです。ヨーロッパ人に文化庁の役人が行って、こんな文化財を世界遺産として価値を認めてもらうのは、彼らの価値観からすると非常に難しいということらしい。しかし、ぜひともここを舞台にしてその難題を実現してもらいたいと思います。京都はかなり近代化されて難しいけれど、ここは面的な形で自然と田園風景があって遺跡もある。世界にはまたそういうところあるかもしれませんが、そういう意味で非常におもしろい遺産ではないかと思います。 日本の守るべき景観をどのようにこれから守り、世界にアピールできるのか。それが問われている印象がします。そういう意味でぜひともこの文化財を管理、一元化して、一つの文化的な政策を展開していただきたい。
私は橿原市民ですが、橿原市のために弁じますと、橿原市は飛鳥・藤原京歴史的風土保存地区です。藤原京は、実は橿原市なんです。藤原京が平城京に移転した後、飛鳥川から水利とって水耕田をやって今日にきておるわけです。明日香ばかりが日の目が当たって、藤原京は、一体どないなってんねんと。これは市民として偽らざる心境です。
河川の整備方法について一言。先ほど飛鳥川再生計画のパンフレットとか見せていただきましたが、日本中、こういうたぐいの再生計画が出て、どこにでもあるような形になります。こういう計画がどういうプロセスを経て出てきているのか、ちょっと疑問に思います。つまり世界遺産に手を加える、また世界遺産を目指す、ということであれば最終案が出てくるまでには相当もまれて、相当鮮度の高いもの、宣伝度の高いものが出てこないとまずいと思います。
飛鳥川が日本の中でどういう地位を占めているのかを全然頭に置かずに計画をつくっていることが一番大問題。 それと、飛鳥川だけが良くなってもダメで、例えば飛鳥川の甘樫丘のところでも、飛鳥川のところ両側に道路が走っています。飛鳥川だけを綺麗にしても何ら意味ないわけで、道路そのものを振らないといけない。飛鳥川−この明日香地区全体の公共事業をやるときには、非常に質の高い委員会を設けて、すべて委員会の決定を受けない限りやらないというようなあらゆる公共事業をそこで審査する枠組みをつくる必要があると思います。
明日香にお世話になりまして、多分40年近くになります。昭和30年代の終わり頃から、自分自身学生だった頃から毎年寄せてもらい、今も伺っています。今年あたり8月の終わりに10人の女子学生と自転車で伺いました。 昔の犬養孝先生ですと、朝から夕方まで歩いたわけですが、今では、自転車の世話になっています。サイクリングロードを整備してくださるのは非常にありがたいですが、どこを走っていても、川と離れないで川の風情を味わえるような心遣いをしていただけるとありがたいと思ってます。
明日香に伺ったのは本当に久しぶりで、今日は楽しく過ごさせていただきました。私の場合、昭和30年代の始めぐらい、まだ大学院の学生だったときに、研究室の修学旅行ということでまいりました。 そのとき、犬養孝先生が先頭に立って引き連れてくださいました。それで、香久山を臨む地点で何か神社のようなところだったでしょうか、そこで、ちょうど夕方になりました。犬養先生は、ロマンチストなんですね、ここでローレライを歌いましょうというので、ローレライを歌わされました。 万葉の風土であることは、言うまでもないことですが、その後、都が京都に移った後も、この大和のあたりは歌枕としてずっと歌人の記憶には残っているわけです。岩出とか、高市の里とか、桧前川も近くにありますが、こういうのはずっと後々まで出てくる歌枕です。そういうところは実際に歩くとまことに楽しいことです。テレビの番組等でこの飛鳥川の流域も時々全国に紹介していただくと、日本人全体が明日香に関心を持つようになるのではないかと考えてます。
こういうところでの計画づくりのは、どう進めればいいかなということをずっとお話聞かせてもらいながら考えていました。やはり明日香なり、こういう土地の重要性を十分おわかりの方達のご意見を聞く。ただ、そのとき、聞くご意見がたまたま一回来てもらうような形ではダメで、やはり月に1回か2回ずっとおいでいただいき、1年ぐらいかけて計画をつくる、そんなスパンで物を考えないと、こういう地域の計画として本当のものになってこないのではないかなと考えたりしています。 そういう計画づくりを本当にどうやっていくのか。住民の方にお入りいただくのは勿論それは非常に大事ですが、日本全体あるいは世界との比較においてこの地域の持ってる特性をわかっている方たちが、本当に取っ組み合いをされるような形で出てくる計画にならないと、本当のものにならないのではないか。そういう計画づくりを奈良県さんが中心になってやっていただければありがたいなと私は思います。
どうもありがとうございました。いろいろとかなり突っ込んだご意見いろいろ出ました。それでは、千田委員から「飛鳥と水」ということでお話を伺おうと思います。
 
今井町と飛鳥川について

私は建設省の道路局のこういう委員会のメンバーでもあります。だから、道路局のやっていることが良いというわけではありませんが、こういう委員会の議事録が完全にホーム頁に出ています。それを河川局もやっていただいたら国民の皆さんに飛鳥をアピールできるのではないか。そして縦割り行政が前から言われているわけですが、道と河川というのは、もう少し歩み寄った形でしないと飛鳥全体の計画ができないという感想を持つわけです。今後、そういう方向性は当然出てくるとは思います。
今日お帰りになりましたら、早速道路局のところをクリックしてみてください。道路局が割と公平だなと思うのは、私は奈良盆地の今計画している京奈和道路の悪口を大分お話をしましたが、その悪口どおりにホーム頁載せてくださっている。大変ありがたい話です。そのようにして徐々にこれから変わっていくのだと思います。
私は悪口を言うのは決まっているわけですが、その道路局の京奈和道路建設促進委員会で、またしゃべらされました。結局道路というのは、どんなふうにつくっても、奈良盆地というものと風景がうまくいかないかもしれないが、今、奈良盆地で飛鳥だけが、保存問題で非常に話題が集中している。奈良盆地全体は、やはり飛鳥と一体化しているんだから、その全体を含めて奈良盆地全体を景観保全するような機構、オーガニゼーションをつくって、そこで、先ほどの話に出ているような非常に質の高い検討会をつくっていかないと、明日香が守られたら奈良のどこはもうつぶしてもよろしいというふうな議論がやっぱり出かねない。
明後日には、また、橿原市の問題ですが、大和三山の景観保全のシンポジウムがあります。橿原市は、大和三山の風景を守れば、あと橿原市はどんなに宅地化してもよろしいという免罪符をそこでとろうとしている。これはありありと見えるわけです。だから、拠点、拠点が守られればよろしいというのではなくて、やっぱり全体的に守るような考え方を持っていかないと、明日香の人たちは大変だと思います。自分達が、言うなら言葉は良くないですけれども、犠牲者になれば、それで他は開発しても良いという方向でこれから日本のいろんな土木行政が進んでいく可能性は大いにあります。
また、関連しますが、例えば都会でマンション生活をしている人が、日曜日に自分の疲れた心をいやすために明日香に来て、田園風景を見てああきれいだな、だからこの田園風景を残してほしい、あるいは白壁の家を残してほしい、というのは、これは非常に僣越であると思います。自分たちがマンション生活をして、そして車の排気ガスをどんどん吹かしながら、ああ、環境保全をしましょうという自分達の持っている立場というものを全く無視して、明日香は日本の宝です、という言い方はやめるべきだと思います。
さらに幾らすばらしい一流のデザイナーが来て、ここをいろいろしなさいと言っても明日香で生活している人は、やはり犠牲者にならざるを得ない。だから、その犠牲をできるだけ少なく食い止めること、それができたら一流のデザイナーと言ってもいいかもしれないが、そういう方向性は、僕は絶対持っていただきたい。
なぜ明日香が、今のように保存されてきたか。もちろん明日香特別立法で保存の網の目がきちっと張られたこと。もう1つは、関西にあって明日香にアクセスする交通手段が近鉄であったこと。これはすごく明日香にとって良かった。近鉄はおっとりした会社ですから、そうがつがつした開発はしない。これが西武なら完全に商業化になって壊れていた。だから、東京のデザイナー、西武で飯食ってるようなやつが来たら完全につぶすと思いますね。ここが大事なんです。ここは世界遺産にすると言っても、よほどおっとりとしたデザイナーでないと、余りピカピカにしてもらうと、大変なことになると思います。先ほど村長もおっしゃったように、橿原市なら宅地として高く売れるけれども、ここは売れない。だから、サラリーマン生活を続けるという、そういう難しい問題を持っている場所であるということを理解するような人でないと、どれほど世界的なデザイナーが来ても僕はここを壊すと考えているんです。
お話に出たように、明日香では執筆者であるとか、あるいはカメラマン、そういう人たちに対しては、高い入村料を取るべきだと思います。明日香はそういう場所である。入場料取ると、今度は金を払って明日香村に入っているので、いろいろ文句や注文がでてくる。明日香の人は、そういう点ではすごく苦労していることをまず認識しないと、明日香の問題というのは発展しないのではないかと思います。そういうものを認識して、しかも最大の歴史遺産であることを両方合わせたうまい発展計画を立てる。そのためには先ほどおっしゃったように、その経済的に潤うような、そういうものを目指すことが必要です。
今はやりの明日香のキャッチフレーズは、「水と石の都」といいます。私自身はもう一つ木の都と言っている。「木と石と水の都」と言おうとしています。今日は水の話だけをしようと思います。その水の都になる源泉としてやっぱり飛鳥川があって、この飛鳥川は、飛鳥の都を彩る大変な役割をしてきた川であると思います。
資料の写真が、4つほど分類をして出してあります。いずれも水に関係します。
まず、右上の写真は、年老いた男と女が背中合わせにくっついている、石人像と言われています。その右が、これはお鏡のような三段重ねですが、一応、須弥山石と呼ばれています。いずれにしてもこれは噴水です。例えば、この石人像は口から水がピュッと出る。それから、須弥山石は一番下の方から小便小僧のように水が出る。サイフォンの仕組みであるという。その場所が矢印で示してありますが、明日香の北の方に石神遺跡とあります。明治年間に出土しました。この石神遺跡の性格がまだ良くわかりませんが、辺境の民を歓迎の宴をするとき場所のようです。蝦夷であるとか、トカラから来た人。トカラの場所はわかりませんが。とにかくここでは、朝鮮半島であるとか、中国から来た要人たちをここで歓迎する宴は全くされてません。そういう変わった迎賓館であるわけです。この石神遺跡の水がどこから来ているかは、今まだわかりませんが、恐らく飛鳥川からの水だと思います。
今度は資料左上ですが、水落遺跡、これはずばり水に関係あるわけです。これは小字名が水落という字名だったので遺跡名になっているわけです。ここからもわけのわからない建物遺構が出ました。当時は大きな楼閣遺構と考えられていました。よく観察してみますと、ちょうど真ん中から漆塗りの箱のようなものが出てきた。その箱がどうも水時計の水を入れる容器に関係すると解釈されています。
古代人にとって一番大事なのは朝の時刻なんです。役人達は朝出るわけですね。だから朝廷、朝の廷というんですが、昼からは帰るんです。だから早起きをしなければならない。何か鐘を鳴らすか何かあったんだと思います。
これも飛鳥の水を利用していると考えざるを得ないし、あるいは先ほど言いました石人像とか須弥山石への水も、もしかしたらこの水時計のこの遺構から水が供給されていた可能性もないとは言えない。まさに水にかかわる遺構がたくさんあります。
資料真ん中の下の写真ですが、すばらしい庭園遺構が出ました。苑池遺構です。最近また再開され、この中にもやはり噴水的な石がある。地図の方には伝板蓋宮跡と書いてあります。板蓋宮というのは少し斉明より前ですが人物は同じです。皇極天皇という。同じ女性が2回天皇についているわけです。大化の改新のときの天皇です。伝と書いてあるため、この場所が本当に板蓋宮であったかどうか若干疑問もあります。
一番上に出ている遺構と二層目、三層目の遺構でそれぞれ時代が違うわけですから、当然宮の名前も違う。一番上の遺構は、この部分を含めて役場の東側に、もう一つ遺構がある。それらを含めて天武天皇の飛鳥清御原宮と思われているわけです。その宮域の北側、後ろにあったので、日本書紀での、白錦後苑、白錦公園と我々は呼んでおりますが、その苑池遺構であるとまず間違いない。
この水も恐らく飛鳥川から何らかの形で引いたのではないか。だからこうなってくると、飛鳥川の果たした役割というのはすごい役割であったというふうになります。
今までの遺構は大体奈良国立文化財研究所と橿原考古学研究所に発掘されてきました。しかし、大体国とか県の自治体は、いいところを掘るわけです。明日香村の人は気の毒です。道路つくるから掘る。そういう人たちが掘ると当たるんです。これがすごい。この先ほど見学した亀石は明日香村により掘られた。このような石は見ることができなかった。
これは何ぞやということです。亀というのは仙人の住んでいる山です。崑崙山でも蓬莱山でもいいんですが、腕で支えるあるいは背中に乗せるという中国の神仙思想、広く言えば道教の考え方を反映しているわけです。
ここから、南東の方に行くと多武峰という山がある。談山神社という紅葉の名所で、よく蹴鞠なんかやるわけですが、そこに斉明天皇は天宮という仙人の宮をつくるんです。それは日本書紀を幾ら読んでもこんな低いところにつくったと書いてない。多武峰の峰のところにつくったと書いてある。
この亀のところにある人工の丘は斉明天皇が宮の東の山に丘をつくると書いてあるわけなんです。ただし、仙人の住んでいる天宮なる宮殿は、多武峰につくったと書いてありますから、恐らくその多武峰を支えているのがこの亀であろうというのが私の解釈ですけれども。多武峰に行けば天宮跡があるかもしれないとして探しました。ところが見つからない。
冬野川という川がある。あれトウノガワと読むんだという説があって冬野という集落が上にあるんです。冬野という集落に行くと土器の破片がいっぱい落ちている。そこを天宮だというふうに私は考えた。私は1つ仮説を出したんですけれども、当然これは水があるから、井戸が出てくるであろうという、つまり、僕はその井戸が出る前に予言をしたわけです。そうしたら湧水が出てきた。そのときはすごかった。どんどん水が出てくる。それが先ほどのお飲みになった水です。
この場所は何かというと、やはり儀式をやったような場所だろうとしか言わざるを得ないわけです。ただ、ここだけが、飛鳥川の水を使ってないんですね。これは湧水なんですよね。
しかし、飛鳥の都というのは水の都のようなんです。もちろん石もあったんでしょうけれども、そんな風景ではなかったかな。そうすると、飛鳥に対してなぜ水というものがそんな重要であったかという問題がここで出てくるわけなんです。
これはどなたも踏み込んでいません。言うと問題になりますが、ちょっと言っておきます。斉明天皇のときにこういうものがどんとできる。斉明天皇の出身は、滋賀県の坂田郡、近江の息長氏の血が入っている。息長氏の信仰では水の神の信仰があるんです。水に対する非常に深い信仰がある。恐らく息長の信仰がここに入ってきたんであろうと。蘇我氏には水の信仰が全然ないんです。
日本の宮都の歴史、日本の都城の歴史では、水の都であるのは、ここしかありません。あと大和三山の藤原京に移るわけですから、そこは平城京と同じような中国式の都城ができ上がる。こういうのは、朝鮮半島にも、中国にもない。非常に珍しい。
もう一つは、先ほどサイフォンの話をしましたし、この亀だって、この小判型のところから、亀の顔というか頭のところまで、細い穴が開いているんです。この穴の開ける技術、あるいはサイフォンのために穴を開ける技術というのは、20世紀の技術でもないと考古学者は言うんです。それを既に飛鳥の時代やっていたという。すばらしい技術だと思います。だから、明日香というのは本当に何が出るかわからない。
いいかげんな話ですけれども、水に関連して飛鳥川と飛鳥の都というのは大変密接な関係がある。そういう話でした。
飛鳥というのはどういう意味ですか。
いろんな説があります。1つは、安いという字、物価が安い。それから宿屋、安宿と書いて古代朝鮮語で、安らかな場所という意味。概説の本にも安宿説がある。別の説では、「あ」は接頭語で、「すか」は清々しい、清らかという意味。非常に飛鳥川の水があって清らかな場所という。その2説がある。
水の都ですか。
だから、ベニスで売り出す手もあるんです、大阪の港に隋とか唐からの使節が着く。そうすると大和川は当時そこまで流れていたわけで、船で大和川で初瀬川の海石榴市のところまで船で来た痕跡がある。
■懇談
今のは飛鳥水郷説、水京説ですね。
ただ、石もある。日本書紀の記事を見ますと、石人像は全然日本書紀に出ないんですが、須弥山の像は辺境の民が来るたびに、須弥山の像をつくるとある。日本書紀を素直に読めば、倉庫に入れてあった。運んでくるんです。
こういうのは、例えば、水飲み場というか噴水とかそういう性格のものではないんですか。大体、ヨーロッパの噴水は、もともと水飲み場ですよね。
そんなのじゃないと思います。儀式のたびに出した。だから、当然、宮の中には井戸があったんですよ。今は湧いていませんが井戸が出ているんですよ。
これだけの都があったとなると、用水のシステムはあったはずです。江戸時代の城下町とか見ると、今は殆ど我々それ忘れてしまっているかもわからないけれども、用水のシステムはすごい。1戸、1戸に水路が行くようになってますから。
どの遺跡掘っても井戸は1つぐらいついてきます。奈良万葉文化館が建っている飛鳥池遺跡も2つほど井戸出てますし、飛鳥京のところも出てますし、大官大寺のところも出てますし、方々で井戸は皆出ている。割と湧き水はきれいなんです。酒屋さんもあるぐらいですから。
昔はやっぱり湧き水を延々と運んで来て使ってましたよね、目の前に川が流れておっても下の水を汲み上げるのは大変ですから、古代ローマがつくった町は全部そうですね。アクアダクトでずっと掘っていきますから。川の水を使えるようになるためには、水の力で水車で圧力ポンプにして、汲み上げる技術ができてからです。
飛鳥川の水を引いているとおっしゃるという先生のお話だと、取ったのは、多武峰の方からかもしれない。そうしたら、日並皇子の挽歌の天ツ水という考えだったのかもしれません。ちょっと時代は下がってしまいますが。そういうのがずっとあって、それが歌われているのかもしれません。水の都は、結局、藤原の宮や板蓋宮でも、皆まず井戸を中心にしてぐらいに考えられますよね。特に藤原京をつくるときの歌というのは、木をどこから運んできたのか、水をどこからどうしたか。それでもって都をつくったという賛美の歌になってますよね。やはり都は結局、水をどう確保したかで、それを歌に入れたんじゃないか。村レベルでも沖縄の宮古島の村だての神話というのは神様が自分たちの住むところをどうやって水を確保したか。井戸を探していって、ここの水が甘いからここに住むことになったという神話があって、それは今もお祭してますよね。
資料にひいてある万葉の歌の飛鳥川の一番最初の歌ね「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし」の「のどにかあらまし」というのは「のどかにあらまし」のことですか。つまり急だったわけですね。もし、しがらみ渡し塞いたならば、もっとのどかにゆっくりと流れてくれるだろうにと。つまり非常な急流だったわけか。 昔から石橋はすぐなくなっていたじゃないですか。4首目「年月もいまだ経なくに明日香川瀬瀬ゆ渡しし石橋も無し」しょっちゅうなくなっていたわけですね。
万葉で歌われた飛鳥川は大きく分けると2つです。亡くなった人を思って歌っているんですが、葬るため、向う側に葬るために渡る。それから恋人と会うために向う側に渡っていく。基本的にこの2つです。
明日香の面積は24km2ありますが、実際の明日香の中枢部というのは大体4km2ぐらいです。この4km2というのは、永田町と霞ヶ関を合わせたぐらいです。ということは、首都機能なんて分散する必要はないわけなんですよね。4km2あったら、日本は治めることができるんです。田園景観を保存することは難しい。ところが田園景観というのは現代の景観であって、一方では歴史的景観を保存せよという。そうするとこれは発掘を全面的にしないと歴史的景観は出てこない。そこのジレンマがある。
田園的であって、そこにも埋もれているという。そこの淡いがいいところ。
淡いはいいんですが、田園計画を保存するということは、農業を持続しないといけない。農業で生活をできるようにしてくれるかという住民の主張が当然あるわけです。
明日香村が本気でやられるなら、先ほどの話のあらゆる公共事業をすべてそこのチェツクを通らない限りつくらさないというような常設の委員会をつくられたらどうですか。そのとき委員は少なくとも1年のうち20日間は明日香村に住んでいることとか、そういうのが必要と思いますけれども。いずれにしても日本はどうもトータルで見て何かやるというのが無い。
ローマも遺跡だらけですが、あれはどうしているんですか。ローマ、フィレンツエ、それからエジプトのカイロあたり。これは事務局の方で調べていただけますか。 飛鳥川は割合小さいから、20kmの長さというから割合まとまって整備が可能では。
お金をかけても十分価値がある川だという認定をいただければ、それはやっぱり心構えも変わってくるでしょう。
そういう意味でここに予算につける場合は必ず文化的なものという形で1割増しするとか。同時にソフトな意味でも十分いろいろなことをよく考えてつくることは必要でしょう。  
 
映画に描かれた川の風景

川の映画というのは多種多様でたくさんあって、30分の中で全部触れるのは難しいので、きょうは荒川に話を絞ってお話をしたいと思います。と申しますのは、東京の川というとすぐ隅田川を皆さん思い浮かべて、隅田川について書かれた本というのはたくさんございます。それに対して荒川というのはどちらかというとマイナーな川だったということもありますし、東京の東の外れを流れている川ということもあって非常に語られることの少ない川です。ところが、よく見ますと映画の中で案外荒川放水路が大事な川として描かれています。その場合、やはり東京の下町よりもう少しさらに外れた庶民の町として、庶民の哀感を描くときに格好の風景として選ばれています。
荒川放水路というのは大正時代に約10年間かけてでき上がった人工の川ですけれども、恐らく映画史に残るような作品で最初に登場したのは、昭和13年、1938年につくられた山本嘉次郎監督の「綴方教室」ではないかと思われます。豊田正子という当時の葛飾区の本田小学校というところに通っていた小学生の女の子、ブリキ職人の子供が綴り方を書いて、それが非常に出来がいいというので出版され、当時大きな反響を呼んだ本です。それを原作に少女時代の高峰秀子が主演して映画になりました。舞台にもなって、たしか山本安映が主演の少女を演じています。ブリキ職人の一家が荒川を越えた四ツ木、現在の上野から出ている京成電車で荒川を渡った次の駅ですけれども、そこに住んでいるという設定です。貧しい少女の物語なのですけれども、そこは子供の世界で、全体的には明るい方に持っていって、荒川放水路の土手で子供たちが夏に遊んだり、その少女がウサギを飼うので、ウサギの餌になる草を荒川の土手で取ったりするシーンが描かれています。川にとって土手、草土手、草の生えている土手はいかに大事であるかというのがうかがえます。
戦後の映画では、最初に荒川放水路が出てくる重要な映画では、小津安二郎監督の佐野周二・田中絹代主演の「風の中の牝鷄」という映画があります。昭和23年の作品です。これは小津映画の中では非常に評価の低い作品なのですけれども、私は個人的には好きで、夫が戦争で兵隊に取られていて、まだ戦地から引き揚げてこない留守家族の妻、田中絹代が演じているその妻の物語です。その妻が子供を抱えて苦しい生活をしていて、やむにやまれずあるときどうしてもお金が必要になって体を売るという、そして戦争から戻ってきた夫がそのことを知って大いに悩むという、小津の映画としては非常に暗い物語なのですけれども、この映画の中に唯一明るいシーンがありまして、それは田中絹代の住んでいる深川あたりなのです。田中絹代はその深川の長屋の一角の2階を間借りしている。夫が帰ってこないので1人で裁縫などをして生活を立てているのですが、その苦しい日々の中で唯一明るいシーンがありまして、何をするのかというと、ある日曜日、田中絹代が小さい男の子を連れてピクニックに出掛けます。どこに出掛けるのかと思って見ていますと荒川の土手に出掛けます。恐らく深川からだったらバスで30分もかからないでしょう、もしかしたら歩いていったかもしれません。そういう日曜日に春の荒川の土手に座って子供を遊ばせ、お弁当を広げるという、ここでも川の土手、草土手というものが下町の庶民にとって非常に大事な場所として描かれていることに気がつきます。小津安二郎という監督は、後でお話をしますけれども、もう一本重要な映画でやはり荒川放水路を登場させます。
それから、永井荷風が原作の映画で、昭和30年につくられた久松静児監督の「渡り鳥いつ帰る」という小説があります。これは永井荷風の戦後の作品、短編に「にぎり飯」というのと「春情鳩の街」、それから「渡り鳥いつ帰る」という戦後の3つの短編がありまして、それを荷風を尊敬していた俳句の久保田万太郎が戯曲、映画用の物語に仕立て直したものです。永井荷風の作品は6本ほど映画化されていますけれども、この「渡り鳥いつ帰る」が初めての映画化作品です。昭和30年の作品ですから、昭和34年に亡くなる永井荷風はまだ健在なときで、荷風の日記を見ていますと、でき上がったこの映画を浅草の映画館に見に行ったということが記されています。この映画の中では荒川が非常に大事な役割を果たしています。というのは、舞台になっているのが「鳩の街」という、向島に戦後できた私娼街ですね。そこを舞台にして、そこに生きる女性たちを描いているので、その「鳩の街」から近い荒川放水路というのがしばしば画面の中に出てきます。中でもこの「にぎり飯」という荷風の短編が荒川放水路が最も大事に描かれているものなのです。深川に住んでいる荒物屋さんのおやじさんと江戸川区の総武線の走っている平井に住んでいるクリーニング屋さんのおかみさんの中年の恋物語です。そもそも2人が出会うきっかけは、昭和20年3月10日の東京大空襲のときです。家を焼かれた、荒川を挟んで西側に住む深川の人間が火に追われて荒川の土手に逃げてきます。それから、荒川の東側に住む、江戸川区の平井に住むクリーニング屋のおかみさんが、やはり火に追われて荒川の土手に逃げてくる。当時、荒川の土手はそういう東京空襲のときの避難所になったと言いますけれども、そこで空襲のときに2人が出会う。2人ともすでに自分の連れ合いとはその空襲の最中に生き別れになってしまっているという。戦争が終わって何年かたって、行商をしているときに2人がまた偶然荒川の土手で出会うという場面があります。荒川の土手、江戸川区寄りの土手の方から葛西橋が左手に見えて、向こう側が江東区の方です。ここで2人が戦後再会して、中年の男女の恋が生まれるという非常に庶民的な話になっています。この映画はビデオにもなっていますけれども、昭和30年ころの荒川の風景が見事に残っていて貴重な映像資料になっています。周りにまだ高い建物が全くないので、広々とした田園の中を川が流れています。それから、この写真にあるように、葛西橋はまだ木の橋です。多分、東京の川に架かった大きな橋の中で最後まで木の橋だったのは、この荒川放水路の橋ではないかと思います。隅田川にかかっている橋はすべて関東大震災の後のいわゆる震災復興橋梁と呼ばれるもので大正末から昭和の初めにかけてつくられたわけですけれども、隅田川の橋が立派な鉄とコンクリートの橋なのに対し、荒川の橋は昭和30年代までまだ木の橋だったということがわかります。この映画には、さらに荒川放水路に並行して流れている綾瀬川も映りますけれども、今は汚染度の高い川というと必ず綾瀬川が挙がるのですけれども、この時代の綾瀬川は本当にきれいで、漁師の帆掛け船のようなものもこの川を走っているという、信じられないぐらい美しい川の風景がこの映画の中で見ることができます。
それから、荒川放水路で有名だった建物は北千住にあった東京電力火力発電所の煙突、いわゆる「お化け煙突」と言われたもので、4本の煙突が極端な平行四辺形の配置のために、4本に見えたり3本に見えたり2本に見えたり1本に見えたりするので「お化け煙突」というあだ名がついて下町の人たちに非常に愛されました。この煙突が全国的に有名になったのは、昭和28年につくられた五所平之助監督、田中絹代・上原謙主演の「煙突の見える場所」によって、全国的に知られるようになりました。この映画の原作は椎名麟三の「無邪気な人々」という短編小説なのですけれども、原作では世田谷区あたりの何でもない住宅街が舞台ですけれども、それでは映画化するに当たって映像としておもしろくないということで、五所平之助監督初めスタッフが東京のロケハンをして荒川放水路沿いにある「お化け煙突」に目をつけたわけです。正確に言いますと「お化け煙突」そのものは隅田川沿いにありました。その隅田川沿いにあった「お化け煙突」を荒川の方から見るという設定になっています。これは田中絹代と上原謙の中年夫婦の庶民の日常生活を綴った映画ですけれども、この2人の住んでいる場所が荒川を越えた現在の足立区の梅田あたりに住んでいるという設定になっています。当時の荒川放水路でロケされていまして、昭和28年当時の荒川の風景が実によく全編ロケでとらえられています。鉄橋を渡る京成電車であるとか、あるいは常磐線の電車であるとか、葦の生い茂った河川敷、あるいは、今ではもうありませんけれども、当時、土手の上をバスが走っていたということもあって、若い高峰秀子が上野の方に通勤に行くときにこのバスに乗るというシーンもあって、土手というものが非常に効率よくこの時代、使われていたなということがわかります。
それからもう一つ、荒川放水路が出てくる大事な映画で日本映画の映画史に残る傑作中の傑作と言われている昭和28年につくられた小津安二郎監督の「東京物語」があります。これは尾道から年老いた両親、東山千栄子と笠智衆が演ずる年老いた両親が東京にやってきて、すでに東京で暮らしている大きくなった子供たちに会いにくるという物語ですけれども、ちょうど現在の核家族を先取りした映画と言われています。
尾道から東京に着いた両親が最初に行く家が長男の家です。この山村聡が演じている長男が荒川放水路沿いの堀切というところで町医者をやっています。堀切というのは東武伊勢崎線で浅草から5つほど行った墨田区の一番北の外れになります。画面の中に堀切の駅が映し出されますけれども、いまだに同じ駅舎が残っていて、町も当時と恐らくそれほど変わっていないかと思われます。駅をおりるとすぐそこが荒川放水路で、改札口を出ると目の前に荒川放水路のパノラマが広がるという設定です。尾道から来た両親がその堀切の長男の家に行って最初に言うことは、長男は東京に行って偉くなったとばかり思って期待していたらこんなところだったのだなとがっかりする場面がありますけれども、そのぐらい荒川放水路というのは非常に寂しいところにもかかわらず、だからこそ庶民の哀感を描くときには非常にいい風景を持っているということがあります。「東京物語」の中には幾つか名場面がありますけれども、中でも私など何度見てもちょっと涙が出てくるシーンがありまして、それは東山千栄子演じる尾道から出てきたおばあさんが長男の家の孫、まだ小さな4つぐらいの男の子と2人で荒川の土手に出て遊ぶシーンがあります。先ほどの小津安二郎の「風の中の牝鷄」で田中絹代が草土手でピクニックをしたように、やはりここでもおばあさんと子供が2人で遊ぶという、土手が庶民の遊び場所になっていたということがわかるのですけれども、そこでおばあさんが孫に、「あなたが大きくなったころにはおばあちゃんはもうこの世にはいないかもしれないね」みたいなほろりとさせるせりふを言うのですけれども、この撮影場所が堀切駅のちょっと横にあります堀切橋の手前です。もちろん当時の堀切橋は木の橋です。
それで、私は前から小津安二郎が何でこんなに荒川放水路にばかりこだわるのだろうと長年不思議に思っていたのですけれども、数年前、疑問が解消しました。というのは、5年ほど前、映画の本専門の出版社から「小津安二郎全日記」という日記が出版されました。それを読んでいたら、この「東京物語」をつくる前の年、彼が夢中になって読んでいる本があり、毎日のように読んでいます。それは何かというと、その当時出版された永井荷風全集の中の日記、「断腸亭日乗」なのです。その記述を読んだとき、私ははたとひざを打ちました。というのは、荒川放水路というだれもが目をとめなかったあの東京の場末の川、あれを最初に文学の言葉で表現したのは実は永井荷風なのです。永井荷風の「断腸亭日乗」を読みますと、昭和7年から8年にかけて、彼は、最初は隅田川が好きで隅田川べりを散歩するのですけれども、隅田川べりがだんだん工場化され、高い建物が建ってきて嫌になってきて、足を東に伸ばすのです。すると、ある日、荒川放水路にぶつかります。そこで彼は荒涼たる、茫漠たる川の流れ、風景に初めて出会います。それで孤独好きな彼はその風景に非常に癒されるわけです。港区の麻布に住んでいた荷風が荒川放水路まで行くには、当時ですから電車を利用しても恐らく2時間はかかったと思いますけれども、3日に1回ぐらいの割合で荒川放水路を歩き続けます。これは別の物語になりますけれども、その結果、実は名作「墨東綺譚」が生まれるわけですけれども、ともかくその時点で荷風は荒川放水路を歩き続ける。普通の人が見たらもう寂しい荒涼たる風景なのですけれども、孤独を愛する1人の文士から見るとそれが非常に美しい風景に見えて、彼は日記の中でついに荒川放水路のスケッチまで載せていきます。何枚も荒川放水路のスケッチが出てきます。そのスケッチをしている場所がまさに堀切橋の小津安二郎の「東京物語」の名場面、東山千栄子と孫が遊んでいるまさにその場所なのです。私はそれで、小津はやはり荷風の日記を読んで「東京物語」のロケ地をこの荒川放水路にしたに違いないと確信して、荷風と小津、両方が好きな人間にとっては非常に感動したわけです。そういうように、荒川放水路というようなだれもが語らない、普段忘れられている川、それを文学作品を経由して映画監督たちが大事な場所として描いてきたということは忘れてはいけない事実です。よく風景の発見ということが言われますけれども、風景というのはただそこにあるだけでは存在し得ないのです。明治の初め、国木田独歩がだれも見向きもしなかった武蔵野の雑木林を美しいと書いたことによって一気に雑木林の重要さ、風景としての美しさが立ち上がるというように、誰かそれを発見する人がいるわけで、私はこれだけ日本映画の名作の中に荒川放水路という現在でも余り語られることの少ない川がこれだけ描かれていたということは非常に大事なことではないかと思います。
以上で私の報告は終わります。
■懇談
先ほど荒川放水路の名称の話が出ておったのですが、昭和40年の3月に荒川放水路を「荒川」と呼ぶようになったのだそうでございます。 また、隅田川と「荒川放水路」という名称は、荒川放水路の工事が始まったときからそういうふうに呼ばれたのだそうでして、昔は荒川の本流である隅田川は下流から大川、浅草川、宮戸川というふうにいろいろなところで呼ばれていた。その名称を統一して「隅田川」というふうに呼ぶようになったということのようなのです。掘り始めてから大分時間がたちまして、昭和40年頃、「隅田川」という名称が定着したということで、河川法で名称を定める際に「隅田川」、それから放水路の部分を「荒川」というふうに名付けたというようでございます。
ほかでも放水路というのは余り聞かなくなりましたね。釧路の「釧路川放水路」とか豊川の「豊川放水路」とか、昔は言っていたような気がするのですけれども。
豊川はまだ言っていますね。
今言われたことはこの委員会のテーマとしては大事なことだろうと思います。それで、「荒川」という名前を国土交通省がオーソライズしても、地元では「放水路」と呼んでいて、バスの駅にも「放水路」という駅があるのですよ。それから、「放水路」というのを校歌に入れている学校もある。先ほどの小津安二郎さんは「放水路を掘っているよ」という砂町の出身の方ですね。それは校歌を歌うときからつながっていたのかなと思いますし、みんなが放水路と思って「放水路」と言っているのに、いきなり「放水路」を取ってしまったのでしょう。そうすると、歴史がなくなってしまうのですね。
一昨年、名古屋の洪水の時も「新川」と言ってもよくわからないのです。「庄内川・新川」とついこの間まで言っていた。そうするとわかりやすいわけでしょう。多分、荒川の「放水路」という名前になってからちょっと様子が変わったなというところがあるのです。つまり、「放水路」と言っている限り人工の川だよという、人間が苦労しているのだよというところが出てくるわけです。それを取ってしまった途端に普通の川になってしまうわけです。そういう意味で、「荒川放水路」がなくなってしまったのは残念だなという、そういう声が出てもいいのかなと。現実にそういう名前を取り戻そうかという動きもあります。
たまたま埼玉の方へ行く地下鉄があそこへ通りましたね。それが通ったのでバス路線が廃止になるのです。そうすると、「放水路」という名前の停留所がなくなってしまう。その辺で町内の人が寂しいという話もありまして、全体としてはやはり「放水路」という名前は残しておくべきだと思いますね。
今の川本さんのお話は大変的確なお話で、荒川放水路ができてから70年ちょっとたつわけで、ちょうど映画が盛んなころが真ん中の年なのです。30年代まではやはり人工の川という感じがするのです。最近で言うと、「金八先生」が続けて3巻目を撮っていますね。そのころになるといかにも人工の川がなくなって、70年たつと人工の川も自然になるのだと、その間に洪水が3回、4回あるとか、人工臭さが直ってくるなというような気がします。
それから木橋が残ったのは、1つは火災のときに燃えていないということが、東京の橋では決め手かなという感じがしました。大変楽しく聞かせていただきました。
河川の呼称が上流からどんどん変わってきますね。私がこれから話題にする淀川にしても、大井川、桂川、さらに淀川と、そういう河川のいろいろな呼称などもかなり残しておく必要があるのではないかなと思いますね。もちろん行政の方で言えば何か統一しておかないと大変なのかもしれないけれども、それぞれの地域によって川とのあり方というのは非常に深い繋がりを持っていますので、できるだけそういう河川の呼称というものを変えるときに当たっても、何とか残すような算段というものは取っておくべきだろうと思いますね。
国土交通省はこの懇談会の説に従って、じゃあ「放水路」に戻しましょうということはできるのではないですか。
最近、大分変えていますね。例えば、「新宮川」というのを地元の要望で。和歌山の新宮市の市長が要望されたのですね。市長が、本当なら自分の町の名前を残せと言われるのが普通なのだけれども、あそこは熊野地方全体の川だから「熊野川」に変えろというので地元の総意として御要望があって変えた事例があります。だから、「荒川放水路」に変えようということで関係の沿川の人が皆さんそうおっしゃったら当然変わるのでしょうね。
別の会合で、「川というのはその場所との密着度が非常に強い。道路というのは余りそういう生活とは関係なくて車がずっと通過していくだけだ」と。だから、川は非常にナショナリズムの表現になっている。だから、「坂東太郎」とか、そういうような名前で呼ばれ、非常に生活感がある。
それ以後、荒川は余り映画には入ってきていないのですか。
いえ、近年もあります。最近のですと、アジア人の留学生や何かが結構あの辺には多くて、彼らを描いた映画などに荒川放水路が出てきたりしています。
テーマごとに検索はできるのですか、例えば、「荒川」なら「荒川」と。
川本委員 それはないと思います。今だったら、だれか個人的にホーム頁か何かつくっているかもしれませんね。
国土交通省河川局はいよいよやることがふえましたね。川の名前をもとに戻すこと、それからそういう映像の映画を含めた写真、映像記録を日本の河川についてある限りのものをとにかく登録すること、それから収集すること。それをビデオ化、あるいはデジタル化して検索させること。
少なくとも川ごとに私どもは出先がありますので、そこの事務所長が中心になってずっと息長くやればいいことですからね。大してロードはかからないですよ、それは。自分の川のあれがどこにあるかということさえわかれば、探すだけですからね。
あとは集めて保存されているものをどこかが一括して検索できるようにして、全国からアクセスすれば見ることができるように、それがなかったら持っているだけではだめなのですね。
「荒川放水路」という言い方はいつごろからですか。
もうできたころからそう呼ばれた、荷風の日記など読んでいますと「荒川放水路」と書いてありますね。昭和の初めです。
そのころ、意外とそういうのが文学者というか、文化人というか、そういう人に興味を持たれたのではないですかね。土屋文明という歌人に「放水路」という歌集があるのですよ。あの「放水路」は私が読んだイメージでは荒川の方ではなくて、品川とかこっちの方という感じがしたのだけれども。
しかし「放水路」というのは何か格好いい言葉ですね、確かに。
堤防系では「疎」という名前で統一している。「堤、浚、疎」と言ったのですよ、川の技術の三原則みたいなことを。堤防の「堤」、「浚」というのは掘ること、「疎」というのは分けるとかためるとか。「疎」を1つのもので表現するというのは割合なかったのですね。
言葉で言うと「土手」という言葉が私は好きで、「堤防」より「土手」と言った方が何か懐かしい感じがする。今は余り「土手」というのは余り使わない。
「堤(つつみ)」というのもありますけれども。堤防の「堤」だけ取って何々堤と。
それもいいね。「堤防」というのは何かね。私は上賀茂の土手沿いに住んでいて、タクシーの運転手に土手を上がってくれと言うと、ああ堤防ですかなんて言われて、京都で。
 
川と今様

今様から河川を考える」ということで話をさせていただきたいと思いますけれども、今様という現代で言えば歌謡曲になるのですけれども、大体平安時代から鎌倉初期ぐらいまでに下って300年ほどですか、広く流行した歌謡、一般的に民衆歌謡というふうな言い方をするところもあるのですけれども、それが比較的河川とのかかわり合いというのを歌った歌が非常に多いので、そこから見えてくる河川のあり方というものを探ってみようということです。
素材になるのは「梁塵秘抄」という、これは後白河法皇が編集したものでありまして、後白河法皇は、若い時代、お母さんの影響を受けまして今様三昧で喉を3度つぶしたと言われるぐらい今様好きで、今様を歌って往生したいというのが1つのあれだったわけですね。そういう稀代の歌い手が編集したのが「梁塵秘抄」というものです。
そこに挙げておきましたけれども、淀川と今様との関係が深い。これはなぜかと言いますと、淀川の河口のところは江口というのですね。それからそのすぐ隣の神崎川のところに神崎という、これが遊女たちの根拠地になりまして、瀬戸内海と淀川とを結ぶ交通の要衝ですから、そこに往来する客を接待するというふうな中でもって今様が広く歌われていたわけです。ですから、その遊女たちが淀川に船を浮かべながらさまざまな歌を歌っているということで、幾つかそこに淀川と遊女たちのかかわり合いのある歌を挙げておきました。
例えば「京よりくだりしとけのほる 島江に屋建てて住みしかど そも知らず打ち捨てて いかに祭れば百大夫 験無くて花の都に帰すらん」と、こういうふうな歌があるのですね。恐らく京から下ってきた「とけのほる」という遊女なのではないかと思うのですけれども、島江というのが江口と神崎との間ぐらいですから、江口からこのあたりは、昔は入り組んだ海との接点になっていました。島江はちょっと江口より西の方になりますけれども、その島江に家を建てて住んだけれども、どうしたのかそれを打ち捨てて都に帰ってしまった。「百大夫」というのは、これは遊女たちが信仰している障の神ですね。簡単に言えば自分の愛するお客になってくる人とぜひとも結びつけてほしいという祈りを込めてやった神様なのですけれども、その百大夫という神様にどう祭ったのだろうか、あいつはその験なくして、その印もなくて都に帰ってしまったというふうな今様なのです。
では淀川はどういうふうに歌われているかということですが、475番、「淀川の底の深きに鮎の子の 鵜という鳥に背中食はれてきりきりめく いとをしや」という歌があります。これは、淀川の底の深いところで鮎の子が鵜という鳥に背中を食われてきりきりともがいている、かわいそうだと、こういうふうな歌になるわけですね。淀川に船を浮かべながら、そこで、鵜飼い船でもって鮎を取っている。そういうふうな中でもって見えた情景というもので、この最後の「きりきりめく いとをしや」というのが、非常に語感の響きがいい歌になっておりますけれども、恐らくそれは単に鮎の子がかわいそうというのではなくて、逆に言うと遊女の自分の境涯というようなものが鮎の子に託されているというふうに考えるべきなのだろうと思うのですね。
そういう点からその次の04番、355番、「鵜飼いはいとほしや 万却年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん」、鵜飼いは気の毒だ、鵜の餌に多くの年も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。いわば殺生によって生きていくというのは地獄に落ちるのだと。そんなようなことから見ると、自分の後生も遊女をやっていたら救われないのだ。「泥犂」というのは地獄と言いますけれども、「泥犂に入りなんず」という歌もありまして、そういうところから、みずからのことを鮎の子に託したのではないかということですね。
このように淀川から遡って桂川ではずっと鵜飼いが行われていて、一方では遊宴の場というのが川で繰り広げられているということになりますから、その次の「盃と鵜の食ふ魚と女子は 法無きものぞ去来二人寝ん」、こういう酒と鮎と女の子と3つそろえばどうにもならない、さあ2人で寝ようとするかという、これは恐らく客の方から歌った歌なのだろうと思うのですけれども、淀川の川を舞台にしながら、当時の人々というものが生活していたということがよくわかるかと思うのですね。
その次の390番になりますと、「淡路の門渡る特牛こそ 角を並べて渡るなれ しりなる女牛の産む特牛 背斑小女牛は今ぞ行く」、こういう歌があります。淡路の門を渡る牝牛たちは角を並べて渡っていく。最後に進む牝牛の産んだ牝牛、背が斑な小さな牝牛が渡っていくよという歌です。
この「淡路の門」というのは淡路島から瀬戸内海を渡って行く風景を歌ったのだというふうに言われてきているのですけれども、どうも船を渡る牛たちの風景にしては角を並べて渡るとか、最後に進んでいる牝牛の産んだ牡牛とか、背が斑な小さな牛が今渡っていくというのはどうも表現としておかしいのですね。これはどうも「淡路」というふうなものは淡路島ではないのだろうというふうに考えられるわけですね。 私はそんなふうに漠然と思っていたのですが、あるときにちょっと江口に行こうとしましたら、ちょうど阪急の淡路駅で降りる、「あれ淡路というのはここではないか」ということになるわけですね。「淡路の門」というのは、必ずしも海というわけではなくて、川門もあるわけですから、淀川にも「淡路の荘」という摂関家の荘園がちょうどあるわけですね。それから「典薬寮の味原牧」、「あじふのまき」とも言いますけれども、これに「牛の牧」というのがありまして、大江匡房の「遊女記」にも江口の近くに「典薬寮の味原牧」というようなものがある。あるいは、藤原頼通の高野山参詣の記録にも、これは「乳牛の牧」となっているのです。「乳牛の牧の前の水絶へ瀬に改む、弥よ往還の煩有り」ということですから、どうもこれは牛が淡路の門というものを渡っていく風景を描いたものだ。そうすれば角を並べて渡っており、後ろの方にいるのがどうのこうのというのもわかってくる。調べていきますと、「延喜式」の中に乳牛の牧というのが、毎年4歳から12歳までの母牛と子牛とが乳牛の院というのに送られていくのですね。そこで乳牛というようなものが取られる。ですから、ちょうどそういうふうな風景を歌っていると考えられるわけです。
その牝牛というのは牛乳を取るのですか。
ええ、牛乳です。
醍醐か。
ええ、醍醐です。醍醐味というのは5番目の最上のミルクなのですね。
淀川をずっと京都の方に行きますと、途中、東の方のところに男山の石清水八幡宮があるのですね。石清水八幡宮にかかわる今様というのは非常に多いわけでして、そこに挙げましたのが261番、「八幡へ参らんと思へども 賀茂川桂川いとはやし あなはやしな 淀の渡に船うけて迎え給へ大菩薩」という歌があります。八幡へ参ろうと、こういうふうに思っても賀茂川や桂川の流れが非常に早い。ああ、早いことだと。淀の渡に船を浮かべてお迎えください、八幡大菩薩よと、このままでは渡れないから八幡大菩薩よ、迎えに来てくださいという、非常に信心があるようなないような、一見すると歌にとれるのですけれども、これは単純に早いから浮かべてくださいというだけではなくて、ここの意味はどういうことかというと、八幡に行こうと思っているのだけれども、淀川とかそういうふうな現世のいろいろなものがあってなかなかそこを渡れない。そこで、申しわけないけれども、八幡大菩薩よ、阿弥陀様よ、私を救いに来てください、此岸から彼岸へと、そういう救いの意味を込めてこの歌というものが歌われているわけですね。
淀川をさかのぼっていきますと、やがて桂川、それから賀茂川とこうなっていくわけなのですけれども、桂川の方、これもやはり遊女たちの歌が見えます。「桂川と大井川」というところですが、307番、「いづれか法輪にまいる道 うちの通りの西の京 それを過ぎて や 常盤林のあなたなる 愛敬流れくる大堰川」というのがあります。「法輪にまいる」というのは、大堰川の渡月橋を渡ったところにある法輪寺ですね。知恵の神である虚空蔵菩薩の信仰で有名なところですね。ですから、京都の貴族というのは、大体は教育のためになるとここに小さいころからお参りをするわけですね。お参りすると言っても嵯峨野とかそういうのは一方では遊び場になっておりますから、もちろん教育の意味もあるのですけれども、1つはそういう意味合いがありまして、「愛敬流れくる」、まさにこの「愛敬」というのが「あいきょう」になるわけです。「捨芥抄」に「大井河(傀儡)」という、これが遊女のことになるのですね。「傀儡居住上一町許」。藤原為家の「寄傀儡恋 大井河岸のとまやの竹柱うかりし節やかぎりなりけん」。ですから、やはり大井川の周辺にもこの遊女たちがいたということになります。
ですから、「嵯峨野の興宴は 鵜舟筏師流紅葉 山陰響かす筝の琴 浄土の遊びに異ならず」ということで、この嵯峨野一帯の風景というもの、特に「鵜舟筏師流紅葉」というふうなものが当時から愛でられていたということになります。
また、308番、「嵯峨野の興宴は 山負う桂 まうまう車たにてうが原、亀山法輪や大堰川 ふち々々風に神さび松尾の 最初の如月の 初午に富配る」というふうな歌がございまして、桂川一帯というふうなものが遊宴の地としてもてはやされたということになるわけですね。
それから24番、「西山通りに来る樵夫 を背を並べてさぞ渡る 桂川 しりなる樵夫は新樵夫な 波に折られて尻杖捨ててかいもとるめり」という歌があります。これは西山から桂川を渡っていく樵夫たちの風景。ちょうど先ほどは牛が渡っていて、一番後ろをヨチヨチしていた牛の話だったのですけれども、こちらではかなり強い流れの中で樵夫になったばかりなのが杖を折られてもがいている。恐らくそういうふうなものを見ながら遊女が歌った歌なのではないかというふうに考えられます。
こういうふうに桂川というのは淀川の上流として同じように遊女たちによって歌われ、そこが活動の場としてあったわけなのです。
賀茂川の方に入っていきますと、ずっと川沿いに神社があるのですね。最初が稲荷社、それから祇園社、それから下賀茂、上賀茂の賀茂社の両社、それからさらにずっと北の方に行って貴船社というふうに、ちょうど賀茂川に沿いながら神社が建てられていく。特に、下賀茂社、上賀茂社、この神は賀茂川を上って、そしてここに鎮座したのですね。上賀茂は別雷と言われるようにそこからさらに鎮座した。それからずっと北の方に行くと貴船社というのも、これは賀茂社の若宮であると言われている神社でありまして、いずれにしても川沿いにこういうふうな神と神社というものが設けられております。
それと同時にもう一つ本来は西の京、広隆寺とかがあるように、あちらの方が中心地だったのですけれども、やがて賀茂川の治水がしっかりしてきますと、東の京の方が栄えるようになるわけですね。そうしますと、今度は賀茂川の東の方に新しい場が生まれてきまして、洛中というのが世俗のいわばこちらの岸、此岸、それに対して賀茂川を渡った東山の方が彼岸、こういうふうなとらえられ方もしております。
賀茂川には基本的には2つの橋がかけられています。1つは五条大橋と言われる、清水寺橋とも言いますけれども、清水寺に行く橋。それから祇園社、京都の祇園社に行く四条の橋、この2つの橋。それ以外は、橋は基本的にはかけられませんでして、どういう橋かというと、普通ですと船をつないだ船橋というものですね。船をつないでそこを渡るという仮設の橋というものがかけられて、それが橋を渡るということになります。
314番「いづれか清水へ参る道 京(極くだ)りに五条まで 石橋よ 東の橋詰四つ棟六波羅堂 愛宕寺大仏深井とか それを打ち過ぎて八坂寺 一段上りて見下ろせば 主典大夫が仁王堂 塔の下天降り末社 南を打ち見れば 手水棚手水とか 御前に参りて恭敬礼拝して見下ろせば この滝は様がる滝の 興がる滝の水」という、これは洛中から清水寺に行く参詣路を歌った歌なのですけれども、まあ1人で当然行くわけではなくて、2人で行くわけです。清水寺橋というのは清水寺参詣の橋ということで、民衆から喜捨を受けまして建てられた橋になるわけですね。そこを渡っていきますと四つ棟の六波羅堂、六波羅密寺がある。愛宕寺大仏、これは雲居寺と言われているお寺なのですけれども、奈良の大仏の半分、雲居寺の大仏と言いまして、これも阿弥陀仏ですね。深井というのは今も地名としては残るのですけれども、どうも何か余りよくわかりません。それを打ち過ぎて八坂寺、法観寺ですね。今、八坂の塔があります。恐らく、「一段上りて見下ろせば」とありますので、八坂寺の塔の上から見下ろしたのでしょう。「主典大夫が仁王堂」というのははっきりしませんけれども、恐らく、愛宕寺近辺の1つのお堂なのではないか。「塔の下天降り末社」というのは、八坂の塔の下から、祇園社の末社の牛王寺社というのがある。そこから祇園社までがお百度参りの起点になっていたところなのですけれども、そこであろうと考えられます。それで「南を打ち見れば」ということで、そこから南を見ると手水棚がある。そこで手水で手を洗って「御前」、清水寺の観音様の御前に恭敬礼拝して見下ろすと、そこに清水寺の滝があったというふうな歌です。ここにもやはり「石橋よ」と、東の橋詰めというので、この賀茂川を通る石橋の存在というものが非常に印象的な歌になっております。
観音信仰というのは非常に当時盛んでして、32番、「観音験を見する寺 清水石山長谷の御山 粉河近江なる彦根山 間近く見ゆるは六角堂」というので、西国三十三箇所というのはこの後、少したつと成立するわけなのですけれども、そのちょっと前の時期ですね。しかし、ほとんどそこに歌われているようにまず清水寺、それから石山寺、南の方の大和の長谷寺、それから粉河寺。なぜか飛んで近江なる彦根山というのがあるのですけれども、これは現在、井伊氏によって建てられた彦根城というのがあるのですね。その前に彦根寺というのがありまして、これは西の寺、西寺とも言われていたお寺で、非常に繁盛していたというのが院政期の資料には残っているのですけれども、それを探して一度彦根中を歩き回ったことがあるのですけれども、名前が変わって、「北野寺」という名前で、別に移されて、北野神社の近くに置かれまして、「彦根寺」という名前まで変えさせられてしまいました。あと「間近く見ゆるは六角堂」、まあ京都のへそと言われている六角堂。そんなことを考えますと、「いづれか清水へ参る道」というのは起点はひょっとしたら六角堂あたりだったかなという気がします。
このような観音信仰というものが盛んになるわけですけれども、33番「君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂河に河中に それを求めむと尋ぬとせし程に 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は」という、いい歌ですね。ぜひ賀茂川あたりを秋の夜に散策するときには、この歌を女性に向かって歌うといいのではないかと思うような歌になっておりますね。綾藺笠というのは武士が狩りをするときにつける笠なのですけれども、恐らく狩りには特定せずに、これは祭礼のときなどにはよくやりますので、綾藺笠を持ちながら、恐らく遊女なのか何なのかはよくわかりませんけれども、そういう風景が浮かんでくるようなものですね。
それから賀茂川へ上っていきますと、賀茂社にかかわる歌はたくさんあります。「千早振賀茂の川辺の藤波は 懸けて忘るる時の間ぞ無き」、「御生引き引き連れてこそ千早振 賀茂の川波立ち渡りけれ」、「神山の麓を求むる御手洗の 岩打つ波や万代の神」、幾つかありますけれども、こういうふうなものは基本的には和歌に歌われている。和歌に歌われたものが今様に歌われて広く歌われるわけですね。
和歌というのは「勅撰和歌集」を見てもちゃんときちんと名前、だれが作者であるか。作者がわからないときでもこれは詠み人知らずとあるのですけれども、「梁塵秘抄」にはそういう作者の名前はありません。いろいろな人の和歌が今様に歌われていくわけですね。そしてその場、その場で替え歌として歌われるわけで、さまざまな替え歌ができる。それが非常にいいことですので、「千早振」というのも、「賀茂」をいろいろなものに変えて歌えばそれなりに見えてくる。そういう中から浮かんでくるのはこの川辺の藤波であったりしまして、川というものがいかに大きくかかわってくるかということになります。
その賀茂川からさらに上流になりますと貴船になります。貴船は賀茂社の若宮であると言われています。「思ふ事なる川上に迹垂れて 貴船は人を渡すなりけり」というように、この若宮の信仰ということとともに、川上に仏が迹を垂れて神となって、「人を渡すなり」というのは、その川を渡すということと同時に浄土へ渡してくれるのだという思いが込められておりますね。ですから、川の近くにある神に歌うということによって、浄土への願いというようなものがこれに込められているということになります。
38番、そういう神ですから、さまざまな人々の願いがそこに込められてくる。ですから、「貴船の内外座は 山尾よ河尾よ奥深吸葛 白石白髭白専女 黒尾の前駆はあはれ内外座や」、何が何だかよくわけのわからないようですけれども、貴船の境内の内外に祭られている神をこういうふうに列挙したものですね。山尾、河尾、奥深吸葛、さらに白石白髭白専女、また黒尾の前駆はおそろしや、内外の社よと、こういうふうにありますけれども、鎌倉時代になると「覚禅抄」という書物の中に呪詛する神として「貴布禰、須比加津良、山尾、河尾、奥深」とこうなりますから、貴船の山奥で呪詛するために、あの人と添わせてくださいというふうな縁を求める歌もあれば、あの人とあの人の縁を切ってくださいというふうなものもある。
そして、貴船は一方ではこの「川上に迹垂れ」と言いますから、龍神、川を司る神でもあるわけですね。ですから、雨が降っているときにはここには止雨の祈り、それから雨がないときには祈雨の祈りというふうなのが貴船ではよく行われております。
和泉式部がここで歌ったというのも「物思へ沢の蛍も我身よりあくがれ出ずる魂かとぞ見る」と、夫に疎んぜられたことを嘆いた歌というものもあります。
そうしたところ、神から「奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたちまちばかりものな思ひそ」と、ですから神に今様を捧げると、神も今様でもって答えてくれるということですね。このように今様を神にやりますから、こういうところには巫女というようなものが登場してくる。
例えば春日神社は春日大宮という4つの主たる大宮と、もう一つ若宮というのがあるのですけれども、巫女がいるのは若宮の方なのですね。若宮が登場するのは大体10世紀の末ぐらいでありまして、そこで今様を捧げますと、若宮は巫女の口を通して今様でもって返してくれるという形になってきます。そういう若宮の祭が実は奈良の祭となっていまして、今も12月に若宮御祭というのが盛大に行われているわけです。
このように京都周辺の地では今様を捧げられるような神社などが広く展開していくわけなのですけれども、河原と社ということですと非常に明快に示しているのが269番「大将立つといふ河原には 大将軍こそ降り給へ あづちひめぐり諸共に 降り遊ふ給へ大将軍」と、大将が立つという河原には大将軍に降りてほしい、あづちひめぐりというのは弓で的を射るのですね。的の後ろの方、その的がそれないようにやるのですね。それを経巡って一緒に降り遊んでほしい大将軍よという歌です。このように天から降ってくるのは河原に降りるのですね。そういう河原という場、神の遊ぶ場、神が降り立つ場、ですから、そこに神社というものが設けられる。それによって今度はその河原も鎮めてもらい、疫病も鎮めてもらう。そういう関係になっています。
祇園舎も河原の背後の方に建てられておりまして、「祇園精舎の後には 世も世も知られぬ杉立てり 昔より山の根なれば生いたる杉 神の験と見せんとて」というので、祇園舎が賀茂川の河原のそのまま真っすぐ行った山の杉のところに建っているということですね。
それから稲荷神社、393番、「彼処に立てるは何人ぞ 稲荷の下の宮の大夫御息子か 真実の太郎やな 俄にあか月の兵士に付い差されて 残りの衆生達を平安に護れとて」。この稲荷は3つ社がありまして、下の宮というのが稲荷の地主神、従来からあった神と言われております。その大夫の息子というのが警護のために突然呼び出されてやっているのだという話なのですけれども、この稲荷神社にしても祇園舎にしても、祭礼というのはどういう形で行われるかというと、賀茂川の東岸にありまして、京都の中(洛中)にある時期に迎え入れられて、これが祇園祭であったら祇園の御霊会の日になるわけですけれども、神輿迎えが行われる。そして、やがて再びそれが終わりますともとに戻っていくわけです。賀茂川の瀬を渡ってくるわけですね。ですから、賀茂川というのは非常に重要な役割をしております。ただ、橋は渡りません。橋は渡らなくて、祇園の祇園橋、四条の橋はあるのですけれども、わざわざ船橋をつくりまして、そこを神輿は渡ってくるようになっています。
こういう話をしていると切りはないのですけれども、ほかにも川にかかわるものと言いますと、巨椋池が、今はもう干拓してなくなってしまいましたけれども、それから宇治川がありまして、平等院ですね。
この平等院あたりを歌ったのが271番「内には神坐す 中を菩薩御前 橘小島のあだ主 七宝蓮華は鴛鴦剣」ということで、宇治の離宮明神、それから宇治橋の西の端の橘の小島というところの橋姫ですね。こういうものを歌った歌があります。
それから、さらに宇治川をそのままずっと上っていきますと石山寺から琵琶湖ということになりまして、このあたりも琵琶湖というものを中心とした歌も幾つかありまして、その琵琶湖のところにも石山寺、それから比叡山の鎮守である日吉社。琵琶湖がいわば浄土の海と考えられまして、いろいろな歌が歌われているというふうに、今様というものを探っていきますと川、河原というものが非常に重要な意味を持っております。
これはもちろん中世の社会にとっては川というものが重要な意味を持っていることから当然なのですけれども、特に今様にはそういうものが見えるということは強調されていいと思いますし、神仏集合を初めとする信仰の問題と河原というものは切っても切り離せない。しかし、そういうものが今は遮断されてしまいまして、何も関係ないかのようなのですけれども、かなり重要な意味を持っていたということで発表を終わらせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。またまたこれは思いがけないところにまた川の文学が広がって、たくさんあるのですね。この後白河法皇が集めた今様は大体京都、大阪のあたりの歌ですね。
そうですね。ただ、もう一つは今様の根拠地というようなものは墨俣ですね。美濃、尾張の境の墨俣が傀儡、寄傀儡ですので、東国の歌もあることはあります。ただ、東国の歌の方には余り川とかかわる今様が多くはないようですけれども、京都の方ではこういうふうな川とのかかわり合いの歌が多いようです。
■懇談
あなたは「きふね」と言っているけれども、「きぶね」とどっちですか。この間、ちょっと地図を見たら「きぶね」と書いてあって、それから国史辞典を引いたら「きぶね」で出ていました。国史事典って山川から出た一冊になったもの。吉川弘文館の方は知らないけれども。
これはどんどん変わりますから。
まあそうか、「きぶね」の方が落ち着くような気がするね。この貴船にも遊女はいたのですか。
ちょっと遊女がいたという記録自体はないのですけれどもね。先ほど言いましたようにちょうど今宮とか若宮とか、そういうところと巫女の発達というのが似ているのですね。ですから、ちょうど今様、歌を神に捧げ、そうすると神からも戻ってくる。そのいわば媒介者の巫女がやる神楽が今様であったり、やがて白拍子が取り入れられたり。ちょうど12世紀ぐらいになりますと、結局これは基本的には歌を中心としている。白拍子の方は舞が中心になるわけですね。女性の舞はある時期途絶えまして、それでいわば男舞が中心になって、そしてもう一つ童舞という童の素人舞ですね。そういうのが中心になった時期に今度は女性の舞を復活していく中でもって白拍子舞というものが成長してくるわけですね。そうすると、今度はその白拍子舞が成長すると、それに今様が食われていく。
川があればこうやって昔から交通が川の上に、川沿いに発達し、人が多くなれば必ず遊女の集落ができ、遊女がいれば必ずそこで歌や舞が発生し……。
いやいや、必ずというわけではないのです。やはり芸に秀でていないと、ということですよね。ですから、出張して、呼ばれて貴族の邸宅に行く。そうするとその貴族の邸宅に行くとそこにふさわしい歌を歌うわけです。本来は中国の蓬莱思想から来ているものですから、ここではやりませんでしたけれども、今様には結構そういうふうな内容のものは多いのですね。
先ほどお話が出ました奈良の御祭の若宮さんが御旅所へ深夜着かれますね。その後、最初の夜はたしか巫女さんが踊りを奉納されて、そのときに楽士と、歌われる方と3人ぐらい伴奏がつくのですね。そのときに歌っておられるのが今様ですかね。
どうですかね。巫女さんもどんどん変えていきますからね、その時代、時代に。ですから、鎌倉末期になると今様というよりは白拍子とか何か、またくせ舞とか何かいろいろなものを取り入れていくので、果たして現在残っているものがそうかどうかというのは何ともいえませんけれども。若宮の御祭は一番古い形を保っているとこういうふうに言われておりますので。
「淀川」という名前は平安以降でしょう、川の名前に「淀川」というのは。「古事記」か「日本書紀」は「山城川」になっていますね。仁徳天皇の皇后の磐之姫が「山城川を宮上り」とか何か。
川の名前というのは、その川がどんどんどんどん使われていって地域に密着していけば、いろいろな名前がやはり出てくるのではないかと思うのですけれどもね。 今様がかなり貴族の邸宅の中に入り込んで広く歌われるのがちょうど院政期、ですから12世紀の初めぐらいですね。ですから、受領にかかわるような歌が多いのは大体そのぐらいまでなのです。それを過ぎますともう受領の地位は低下してしまいますので、その後にあらわれたのが後白河院で、これはもうある意味では今様が少し衰退し初めていたというふうな時期。自分の弟子がなかなかうまく生まれないからということもありまして、ですからそれを過ぎるころから、今度は白拍子舞みたいな、むしろ音芸よりも体の身体を使ったような芸能、それからもう一つは琵琶法師によるああいうふうなものも出てきまして、さまざまなものが出てきて…。
なるほどね。絶えず遊芸が広がり、変化しながら広がり、また上の方の文学、芸術に吸収され、それからまた下に及んできている。そして下のもともとの民衆の間の遊芸に影響を与える。これは日本文化史の特徴だそうです。フランスでもイギリスでもそういうものはちょっとない。上のものが下に行き、下からまた上に上がりという、絶えず交流があるというのはない。 日本文化は何か、下の庶民の文化と貴族の文化が絶えず行き来していて、それがまた都から地方への広がりとも関係し、ジャンルの多様化をも生み出しながら交流が続いていくという。いやいや、どうもありがとうございました。きょうは大学院の講義を2つ続けて聞いたような、はなはだ高級な研究会でありました。久しぶりのお勉強だったのではないでしょうかね。
あなたは「きふね」と言っているけれども、「きぶね」とどっちですか。この間、ちょっと地図を見たら「きぶね」と書いてあって、それから国史辞典を引いたら「きぶね」で出ていました。国史事典って山川から出た一冊になったもの。吉川弘文館の方は知らないけれども。
これはどんどん変わりますから。
まあそうか、「きぶね」の方が落ち着くような気がするね。この貴船にも遊女はいたのですか。
ちょっと遊女がいたという記録自体はないのですけれどもね。先ほど言いましたようにちょうど今宮とか若宮とか、そういうところと巫女の発達というのが似ているのですね。ですから、ちょうど今様、歌を神に捧げ、そうすると神からも戻ってくる。そのいわば媒介者の巫女がやる神楽が今様であったり、やがて白拍子が取り入れられたり。ちょうど12世紀ぐらいになりますと、結局これは基本的には歌を中心としている。白拍子の方は舞が中心になるわけですね。女性の舞はある時期途絶えまして、それでいわば男舞が中心になって、そしてもう一つ童舞という童の素人舞ですね。そういうのが中心になった時期に今度は女性の舞を復活していく中でもって白拍子舞というものが成長してくるわけですね。そうすると、今度はその白拍子舞が成長すると、それに今様が食われていく。
川があればこうやって昔から交通が川の上に、川沿いに発達し、人が多くなれば必ず遊女の集落ができ、遊女がいれば必ずそこで歌や舞が発生し……。
いやいや、必ずというわけではないのです。やはり芸に秀でていないと、ということですよね。ですから、出張して、呼ばれて貴族の邸宅に行く。そうするとその貴族の邸宅に行くとそこにふさわしい歌を歌うわけです。本来は中国の蓬莱思想から来ているものですから、ここではやりませんでしたけれども、今様には結構そういうふうな内容のものは多いのですね。
先ほどお話が出ました奈良の御祭の若宮さんが御旅所へ深夜着かれますね。その後、最初の夜はたしか巫女さんが踊りを奉納されて、そのときに楽士と、歌われる方と3人ぐらい伴奏がつくのですね。そのときに歌っておられるのが今様ですかね。
どうですかね。巫女さんもどんどん変えていきますからね、その時代、時代に。ですから、鎌倉末期になると今様というよりは白拍子とか何か、またくせ舞とか何かいろいろなものを取り入れていくので、果たして現在残っているものがそうかどうかというのは何ともいえませんけれども。若宮の御祭は一番古い形を保っているとこういうふうに言われておりますので。
「淀川」という名前は平安以降でしょう、川の名前に「淀川」というのは。「古事記」か「日本書紀」は「山城川」になっていますね。仁徳天皇の皇后の磐之姫が「山城川を宮上り」とか何か。
川の名前というのは、その川がどんどんどんどん使われていって地域に密着していけば、いろいろな名前がやはり出てくるのではないかと思うのですけれどもね。 今様がかなり貴族の邸宅の中に入り込んで広く歌われるのがちょうど院政期、ですから12世紀の初めぐらいですね。ですから、受領にかかわるような歌が多いのは大体そのぐらいまでなのです。それを過ぎますともう受領の地位は低下してしまいますので、その後にあらわれたのが後白河院で、これはもうある意味では今様が少し衰退し初めていたというふうな時期。自分の弟子がなかなかうまく生まれないからということもありまして、ですからそれを過ぎるころから、今度は白拍子舞みたいな、むしろ音芸よりも体の身体を使ったような芸能、それからもう一つは琵琶法師によるああいうふうなものも出てきまして、さまざまなものが出てきて…。
なるほどね。絶えず遊芸が広がり、変化しながら広がり、また上の方の文学、芸術に吸収され、それからまた下に及んできている。そして下のもともとの民衆の間の遊芸に影響を与える。これは日本文化史の特徴だそうです。フランスでもイギリスでもそういうものはちょっとない。上のものが下に行き、下からまた上に上がりという、絶えず交流があるというのはない。日本文化は何か、下の庶民の文化と貴族の文化が絶えず行き来していて、それがまた都から地方への広がりとも関係し、ジャンルの多様化をも生み出しながら交流が続いていくという。いやいや、どうもありがとうございました。きょうは大学院の講義を2つ続けて聞いたような、はなはだ高級な研究会でありました。久しぶりのお勉強だったのではないでしょうかね。  
 
川辺風景の発見・18世紀江戸絵画と河川

表題の〈川辺〉が「カワノベ」なのか「カワベ」なのか、読み方が自分でも定まっていないのでございます。そしてまた、「18世紀江戸絵画と河川」という副題をつけましたが、実際には18世紀〜19世紀の江戸時代の絵画を対象といたしまして、お話をさせていただきます。
この懇談会は「文学に見る」という副題がついておりまして、さて困ったな...というのが、今回お話をするようにと御指名を受けての最初の難問だったのでございます。また、河川をテーマにした美術史なるものが現在までに論文あるいは著作等であっただろうかと思いまして、さかのぼって調べましたが、ございませんでした。そういうことで、今回参考とするものがなかなかなかったのですが、たまたま今年の夏、ニューオータニ美術館で「水辺の情景とジャポニスム」という展覧会がございまして、本日はそのジャポニスムにかかわるところから少しお話をさせていただきたいと思います。30分と伺っておりますが、40分近くなってしまうかと思います。どうぞお許しください。それでは、スライドを見ながらお話をさせていただきたいと思います。(以下スライド)
これは、1891年にアンリ・リヴィエールという人がつくりました「エッフェル塔三十六景」というシリーズ物のパリ風景です。本来は石版画ですが、今映しているものは木版画の作品でございます。「オートウイユ鉄橋より」という題名がついています。
「エッフェル塔三十六景」自体は1892年に石版画の方が完成しまして、リヴィエール作品の中で今ごらんいただいているものは最初の秀作です。こういった19世紀末のヨーロッパの絵画に対して、江戸時代の浮世絵版画が大変な影響を及ぼしていることは周知のとおりでございます。例えば、「江戸名所三ツの眺」というシリーズで「日本橋雪晴の図」です。手前にやはり川が流れていて、日本橋が架かっており、その向こうに富士山が見えるという、典型的な広重の江戸名所絵の構図になっております。
アンリ・リヴィエールのように、19世紀末のパリに居住し、絵を描いていた画家たちが、江戸を描いた浮世絵版画と同じようにパリを見、そしてそれを浮世絵調に絵を描こうとしたときに、こだわったのは川の存在だったようです。既に指摘されていることなのですが、先ほどの川の向こうに富士山が見える。実は、こちらの版画の中では、手前に川、奥にエッフェル塔、つまり、この場合、エッフェル塔は浮世絵版画の中の富士山に見立てられて使われている、そういう構図をとっているわけです。
広重は、こうした江戸の名所絵を、雪晴れや青空のもとだけではなく、これは月が出ておりまして、時は夜でございます。両国の風景ですが、両国橋です。夏の夕べでありまして、屋形舟を出し、そしてここに花火が上がっている、そういった夜景を描いております。こういった夜景なども、浮世絵を通じて19世紀末の西洋の画家たちにも刺激的に影響を与えたらしく、実はこれもアンリ・リヴィエールの石版画の作品ですけれども、富士山に見立てられているエッフェル塔が非常に大きく描かれ、そして夜景のセーヌ川、人々は舟を浮かべ、そして日本風の提灯もここにあります。リヴィエールがこういった作品をつくっておりました当時、ちょうどフランス革命100周年記念で万国博覧会が開かれておりましたので、恐らくこの夜景の図は万博のお祭り騒ぎの中での一光景ということだと思います。
私がこれを最初にお目にかけて一つ問題提起を申し上げたいと思いました点は、実はこの「エッフェル塔三十六景」は全体が36枚で1シリーズとして構成されているものですけれども、そのうちの17枚までが何らかに水辺の風景を取り込んだパリの景色を描いている。ここでパリの街の構造をここで思い浮かべていただきたいのですが、パリの街の中は、江戸とは異なりまして、かつてより水路や運河などが縦横に走っているという構造にはなっておりません。流れている川は、セーヌ川と、ビェーヴル川だったでしょうか、その二つしかございません。多少の水路はございますけれども、かつての江戸の町のように縦横に走っているような構造にはなっていない。つまり、浮世絵版画の風景画の中において、江戸が水辺をもってあらわされた幾つかの要因は、一つは都市の構造上の問題で、江戸の経済活動を考えてみますと、物資の輸送はほとんど水路を使って行われていた。そして、水陸交通の結節点とも言うべき場所、例えば江戸橋の広小路、両国広小路といった産業活動上重要な拠点であった場所の周辺には、それと同時にいわゆる盛り場が形成されていた。それから遊廓や芝居小屋など、人々を自然的に多く集める遊興の場所も、水路を使って人々を大量に運ぶような構造になっていたことがあります。したがって、江戸の名所絵が描かれるに当たってテーマとされる場所は、何らかに水に関係した場所になる。意識的に選ばなくても、それほどに江戸の町は水辺、川と重要な関係にあった。しかし、パリは必ずしもそういう構造になってはいない。にもかかわらず、リヴィエールの版画の中で水辺が多く選ばれたということは、一つ、日本的な視覚のとり方、風景の切り方の中に水辺というものが大きな役割を果たしていて、それがそのままパリの街に映されていったのではないか。そんなふうに考えられるのではないかと思います。
こうした広重などの浮世絵版画の源流において、どのような水辺が描かれてきただろうか、川辺が描かれてきただろうかということですが、これには絵画史上において二つの構図的な特徴を指摘することができます。
一つは遠近法を意識したパノラマ的な表現です。これは今申し上げました広重や葛飾北斎といった浮世絵版画の風景画に直結していくという意味で、画面構成上、重要な点だと思います。後にお話しします歌川豊春の浮絵、あるいは司馬江漢の洋風風景画あるいは銅版画、そういったものにパノラマ的表現が使われます。
もう一つ、江戸時代の絵画において河川を描いた場合の構図の点で非常におもしろいものがあるのですが、それは連続画面形式の絵画です。それは、川を上流から下流へ下降する、あるいは逆に河口から上流へと遡上する、どちらの感覚にも通じていくものです。
それでは、まず最初にパノラマ的な表現に関してお話をしてまいりたいと思います。
今お目にかけておりますものは、歌川豊春が1760年代、明和、安永期にかけての時代の浮絵と呼ばれる風景画です。広重、北斎の時代よりも半世紀以上さかのぼるころの江戸の風景画でございます。今ごらんいただいておりますものは上野の不忍池の風景です。中央に弁天島がございまして、恐らく手前の方が上野広小路の位置になるのではないかと思うのですけれども、人々が集っております。不忍池の周りにはお茶屋さんがたくさんありました。それは、中央の弁天島に参詣する人々を集客していったわけです。
浮絵というのは、18世紀末に西洋から遠近法が入ってくる以前に日本人に獲得されていた遠近表現、風景表現で使われたものです。なぜ浮絵と言うかと申しますと、奥を小さく書いて手前を大きく見せるというやり方をいたしまして、極端な遠近法がとられるというやり方でございます。
浮絵はレンズを通して見るものではないのですが、もう一つ、こういった覗き眼鏡で覗いて風景を見るものがあります。今ごらんいただいているのは神戸市立博物館に現存しているもので、これは日本でつくられたものだと考えてよろしいのでしょう。
ここに載っているものは西洋の眼鏡絵ですが、眼鏡絵に関してはこれからお話しいたします。反射式覗き眼鏡と言われている、一種のからくりおもちゃみたいなものです。
今ごらんいただいておりますものは、中国でつくられておりました18世紀の眼鏡絵です。これはレンズで覗きますと、左右が逆に見える構造になっています。
(中略)
こうした反射式覗き眼鏡による遊びが、1760年代から1770年代にかけて江戸で大流行いたします。そして、輸入品の絵画に飽き足らず、江戸の画家たちもまた、こういった反射式の眼鏡で覗く、そういう絵を描き出します。
これはヨーロッパで同時代につくられていた覗き眼鏡で見る絵画です。これは「フォンテーヌ・ブロー宮殿運河の図」ですけれども、これも、覗くと左右が逆になります。これは後でお話を申し上げたいと思っているのですが、覗き眼鏡の絵の中に使われるのには、このように水辺を取り込むというやり方をいたします。
そして、これが江戸の絵画によって描かれた初期のころの眼鏡絵です。作者は司馬江漢と言われています。今は覗き眼鏡で反転して見た状態のものをごらんいただいております。中央に中州がありまして、川が二俣に分かれていく。つまり、ここでは消失点が二つできるというやり方になっていまして、覗き眼鏡で見たときの効果的な構図を考えているのだと思います。
これは肉筆、ハンドライティングされているものですけれども、司馬江漢は大量生産するために銅版画で覗き眼鏡絵を完成させます。今ごらんいただいているものは元の状態のもので、「三囲景図」と言われております。1783年、日本で最初の銅版画として制作されたものです。こちらに三囲神社がございまして、こちらが隅田川です。舟が浮かべられておりまして、遠くへといざなわれていく視点というものが効果的に使われております。空が青くなっている、こういう表現も江戸の絵画においては革新的な表現でした。これを先ほどの覗き眼鏡で覗いてみますと、水の方が高くなってしまっている、そういう状態になります。覗きからくりの中で、三囲神社を見せること以上に川の方を見せている。江戸の風景の中において名所として既に確立されている場所よりも、隅田川の大らかさを見せる、そういう効果をねらっております。向こうは今戸の瓦焼きの煙です。随分もくもくと出ていたんですね。
さて、そうした江戸名所絵の初期段階を過ぎて、江戸において名所絵の流行が始まります。先ほどお見せしました広重の江戸名所絵の前段階、浮世絵において風景画が描かれる前段階に、絵本の世界においてたくさんの江戸名所絵が描かれることになります。
今ごらんいただいておりますものは、「絵本隅田川両岸一覧」という若き日の葛飾北斎が描いた絵本の中の一光景です。最初にお見せいたしました浮世絵版画、司馬江漢の絵をごらんいただいてもわかりますように、初期の浮絵、司馬江漢の作品などでは、江戸の名所をとらえるに当たっては、今現在の写真のスナップで撮るように一画面が選ばれて、それによって一つの名所絵が成立するというやり方でした。今ごらんいただいているものも、絵本ですから、頁をあけますと、このように見開きで一図となります。実は「両岸一覧」と銘打たれているところが一つのポイントです。
これ(16、17、18、19)は同じく「絵本隅田川両岸一覧」ですが、見開きで見ますと、本来はここの場所が見開きで見えます。隅田川がありまして、その両脇に展開される名所旧跡、歳時にまつわるいろいろな状況が描き出されるわけです。実際、頁はここで折られているのですが、この頁は先へ先へと続いていく、頁をくるごとに画面は右から左へと流れていく、これは河口から隅田川を上流へとさかのぼっていく、そういう形で絵本がまとめられていくことになります。このように絵本の中で画面が連続していくこと自体が珍しいのですけれども、それは、隅田川そのものが途切れることなく綿々と続いているわけですから、そういう感覚を絵本の中に再現しようとした一つの試みだったと思われます。
1800年前後にあらわれた、このような連続式の川をテーマとして画面構成は、どうやら浮世絵だけのものではなさそうだということです。そして、1800年前後というのが一つのポイントでありまして、この時期、「真景図」というものが江戸の画壇において大変センセーショナルな意味を持ってまいります。きょうお手元に配らせていただきました私の「江戸絵画と文学」という本の205頁から「真景図」に関しての細かい議論をしておりますので、後ほどそちらをあわせてお読みいただければ幸いでございます。ここでは川にかかわる部分で、「真景」という点も含めて、さらにお話を進めていきたいと思います。
実は、北斎の「隅田川両岸一覧」が浮世絵関係のものでは連続画面形式のものとして最初のものかと思っておりましたら、最近になりまして、こういった作品(20、21、22、23)が北斎に先立つこと約20年前に既に存在していたことがわかってまいりました。天明元年(1781年)に鶴岡蘆水という画家によって描かれました、現在では、仮にですが、「隅田川両岸一覧図巻」と呼ばれている絵巻物形式の江戸名所絵です。やはり河口から遡上していくという形式です。そして恐らく画家は手前の岸にいると思われるのですが、そちらからあちらの岸へと移るときの橋の表現に、大変効果的に、遠近法を極端なものとして使った表現が見られます。画面は右から左へと進んでまいります。
今ごらんいただいたところなどを見ますと、浮世絵とあまり大差ない感じですが、場面が進んでいきますと、例えばこういったところに江戸の名物である運河の表現、こういったところには浮絵の表現なども使われていて、いわゆる連続画面形式であるだけではなく、それ以前の浮世絵であった浮絵あるいは眼鏡絵などの絵画表現も取り込まれた形で、川が効果的に描かれていくことになります。
同じく、18世紀末から19世紀にかけて、こうした絵画と同様に、やはり連続画面で「真景図」というものが文人画家たちによって描かれます。
お手元のレジュメの2枚目をごらんください。モノクロですけれども、今スライドでごらんいただいております作品、「熊野舟行図巻」です。これは紀州熊野本宮から新宮までの熊野川沿いの風景を描いていっております。ですから、上流から河口へ進んでいくという形式になっております。
大変おもしろいのは、今ごらんいただいておりますものは熊野の本宮を描いたところですが、こちらの場所、中州になっているんですね。今、熊野の本宮は完全に山に囲まれた場所になっておりまして、このように中州ではないのですが、こういったものを見ますと、江戸時代当時は熊野の本宮が熊野川の中州にあった(その後の水害で移った)ということがわかります。そこの場所を示すところに金の貼り紙などがされております。これまでごらんいただいた江戸の名所絵等では、このように、描かれた場所がどこの場所なのか、どういう山なのかという名称を紙で書いて張るというような指示はされていないのですけれども、この図巻に至っては、大変細かく、金の貼り紙でその場所場所が明記されております。これは一つは地図としての意味も持っているとに言えるかと思います。
しかし、現在私たちが使っているような地図の正確さ、いわゆる工学的、数理学的な意味での正確さということにおいて言えば、これは大変不正確な地図ということになります。しかし、ここではそのような数理学上の合理性を求めているのではなくて、一つの川の流れに沿って見る景観、それが実際上どう見えるかということを超えて、あたかも旅をするかのごとく、そして恐らく画家が目にして美しいと思ったものや場所、そういうものをことごとく取り込んで、一つの絵画の中に表現しようとした、その結果ではなかったかなと思われます。つまり、現実の風景や地理性をある程度は踏まえつつも、絵画といういわゆる絵空事の世界の中では、操作をし、圧縮してしまって連続画面へとつなげる。しかし、お手元のレジュメをごらんいただいてもわかるかと思いますが、川の上流から河口へと流れていく時間、方向性には、一方方向に流れていく方向性というものが与えられております。
この図巻は、お手元のレジュメでもそうですが、今、すべて絵巻物を広げた状態でごらんいただいております。絵巻物というのは本来このように全部を広げてみるものではございません。絵巻物というのは、実際は鑑賞者の肩幅で見ることが鑑賞の基本になっておりますので、縮尺の加減で多少の誤差はあるかと思いますけれども、画面を区切りながら、画面をずらしてごらんいただければ、絵巻物として鑑賞されるように、これがどのように風景が構成されていったのかということが、ある程度おわかりいただけるかと思います。
今、ごらんいただいている絵巻の最後の部分に年記が書かれておりまして、「此熊野舟行図巻、昔日過目真景也」(これ熊野舟行図巻、昔日に目に過ぎし真景なり)というふうに画家が書いております。また、最後のところには、
(命に応じ、これを制す)
と書いてあります。恐らく当時の紀州徳川家の藩主から命じられて、そして画家・谷文晁がこれをつくったという意味です。これは1804年に成立しているのですけれども、実際に谷文晁自身がこの場所に赴いたのは、これをつくる8年も前のことだったんです。ですから、真実の景観と書きますけれども、「真景」と言いながらも、これは即座にその場でスケッチをして描いたというよりも、後からそれをまとめ直しているという点において、これは完全な写実ではないということになるのです。
こうした絵画は、浮世絵における連続画面の川の表現以前に既に幾つか出てまいります。今ごらんいただいているものは、1736年に岡田半江という大阪の画家によって描かれた「江南景勝図巻」、すなわち淀川に舟を浮かべ、そしてそれを下降する舟遊びをしたときの情景を描いたものです。
また、これ(27、28)は名古屋の中林竹洞という画家が描きました「東山図巻」です。手前に川があります。これが鴨川です。これは春の風景だと思われるのですが、ここに桜の並木がありまして、奥に東山が展開する。当然、絵巻物ですので右から左へと画面が展開してまいります。ということは、これは恐らく鴨川を遡上する形で描かれたものだと思われます。
こうした真景図巻、真景川図巻とも呼べる作品をさらに求めて時代をさかのぼっていくと、どのぐらいまでさかのぼれるのだろうと思っておりましたら、これは1765年の円山応挙が描きました「淀川両岸図巻」という作品です。これが大変おもしろいのは、これまでごらんいただいてまいりました川図巻と違いまして、上下をひっくり返しても、どちらからでも見られるものです。右からいっても左からいっても見ることができる。つまり、ここに舟があるのですけれども、反対側から見ると、舟自体はひっくり返ってしまうのですが、景観は、こちら側から見ればこちらが正しい正像として見えるし、こちらを下にすれば、それもまた正像として見える、そういう描かれ方になっております。これでおわかりいただけますでしょうか。山がこちらにひっくり返っております。逆さになっております。こちらに村のようなものが描いてあるのですが、こちらにも山が描かれている。これを下図の段階で見ますと、実際の場所はどこということを正確に記録しておこうという意識、地図の意識があります。
先ほど眼鏡絵のお話をさせていただきましたけれども、京都の画家でありました円山応挙は、恐らく江戸の司馬江漢たちとは別のルートで、自らも眼鏡絵に興味を持ち、若き日に制作していたということがわかっております。恐らく、こういった作品の中には、単に両岸を描くだけではなくて、両岸からの風景も遠近法を用いて描こうということもございまして、この絵の中には、浮絵や眼鏡絵、いわゆる絵地図、そして先ほどお見せしました連続して続いていく河川の表現、そういったものが複合的に応挙の作品の中に見ることができるのではないかと思います。
日本におけるこうした川を遡上したり下降したりするような川の表現は、18世紀以前にさかのぼってまいりますと目立ったものは見つけることができませんでした。今お見せしておりますもの(35、36)は、12世紀前半の中国、南宋初期の張択端という画家によって描かれた「清明上河図」という作品の一類型のものです。ごらんいただいておりますものは、1577年、明代に、趙浙という画家によって描かれた張択端の作品の模写になるものです。(ベン)という川(運河)が流れているそうでして、この川に沿った、北宋の都でありました京(ベンケイ)という都市の活況の様子を描いたものです。川を遡上するような形で多分描かれてあるのだと思います。時々、こういう城壁などが描かれて、その城壁の内側の都市の活況が描かれることになります。こういった作品などが直接浮世絵における「隅田川両岸図巻」のような作品へとインスピレーションを授けることになったのではないかと、そう考える研究者もおられるようですが、実際的なつながりはまだ研究されていないようです。また、こういった作品が日本にいつの時代に伝わり、日本の河川の表現に影響を及ぼしていったのかということは、これからの研究課題ではないかと思います。
もう一つ、日本における川の表現で多少文学にかかわる点で考えておきたいと思いますことは、川を下るという一つの流れは、先ほど「旅」というふうに申し上げましたけれども、一つの時間的な流れをつくり出していると思います。それは、旅の移り変わり、旅の時間の流れという点において一つの物語をかもし出す、そういう役割をなしているのではないかと思われます。narrativeという一つの質を認めることができるのではないかと思います。
もう一つ、これは日本において川に対する意識が高まったと言ってよいのではないかと思いますが、そういったものの非常に深い深層意識の中に、例えば陶淵明の「桃花源記」、桃源郷を発見するという古来からの一つの物語、叙述も何らかに関係するのではないかと思います。「桃花源記」においては、漁師が桃の花咲く渓流に沿って川をさかのぼっていくと、その先に一つ穴のうがった山を見つけ、そこを通ると、その奥に桃源郷を発見する。そういう川の遡上によって発見されるパラダイス、物語という構図があるわけです。したがって、花を求める、何か理想的な場所を求めるという物語の流れの中において川が果たしていた構造的な役割の大きさ、これは必然的に日本人の心の中にも「川」をモチーフとしたときに何らかの影響を及ぼしていたのではないか。例えば幕末期に描かれた浮世絵の風俗画の中です。絵巻物の巻末は実は吉原の花魁たちが華々しくいる遊廓の場所へとたどり着くのですけれども、最初は河口から舟に乗って、最後は遊廓へとたどり着く、そういう構造を持った浮世絵の風俗画などが絵巻物として残っております。それは、隅田川を使って、最後には花としての場所である遊廓へたどり着く、そういう一つの理想の形、物語が奏でられているように思われます。そのように、実在の川あるいは一つの物語や伝説上の川が、日本人の意識の中にはさまざまに交錯し、そして河川の表現、川辺の風景というものが発見されていったのではないかと思います。
長くなりましたが、ここで終わらせていただきます。
■懇談
10年ほどで三囲神社と隅田川のあれが逆転してしまうとおっしゃっていましたね。それがちょうど1760年代から1770年代の時期で、真景図も大体そういう形だと。ですから、あの時期は全体として河川交通が相当整備されたのではないか。1760年代といいますと田沼時代ぐらいですね。そのあたりから急速にさらに発展していく。それから、熊野川は熊野詣だし、淀川もそうですね。金比羅詣とのかかわり合いで描かれたりしますね。そういうものとかかわり合いがあるのかなと。
おっしゃるとおり、パラダイスが先にあるということもあると思うのですけれども、寺社の物詣も川と相当関係していると思います。淀川の場合、住吉、天王寺に詣でるときはやはり川だし、熊野詣は熊野川がかなり関係してまいりますね。だから、そういうことで川というものが非常に人々に意識される。それが時代が下ると絵のテーマになるのでしょうね。
そして庶民に広がっていく。宇治川は描かれたことはないのですか。「源氏物語」の「宇治十帖」は「源氏物語絵巻」の方には出てこないの。
宇治川は出てこないのではないですか。宇治橋の絵は有名なものがありますね。
14世紀初頭の絵巻「石山寺縁起」ですね。琵琶湖から流れ出て、瀬田から宇治川に来るところ。瀬田川の橋の上で院宣を落としてしまったら、魚が飲み込んで、それを宇治の橋で釣り上げたら、お腹の中から院宣の文書が出てきたという話です。
物語や戦には随分あちこちに川が出てくるわけでしょう。川中島の合戦の話もあるし。
川の構造そのものが実際の場所を踏まえた形で描かれることは、どうやら18世紀まではなかったと言えると思います。
そうかね。あなたは江戸派だから頑張るけれども、そうですかね。月次絵屏風とか、ああいうものに富士川が描かれていたりしないかな。
富士川が描かれているのは、「一遍聖絵」にはありますけれども、典型ですね。一部分だけですから。川沿いにこういうふうにやっていくのは、やはりこの時期ぐらいかな。
原物は残っていないでしょうけれども、障子絵、屏風絵なんかは、歌の方で歌われますから、題としては残っていますね。そうすると、随分と川が描かれていたはずなんです。その川がどういうふうに描かれていたのか、非常に知りたいところですけれども、残っていないから。
よくわかりませんが、例えば狩野派でしたら、狩野派によって一つのタイプといいますか、非常に様式化された宇治川の形、宇治川とそこに架かる橋ということになりますと、それが実際の景観とは限らず、こう描けば、これは川と橋というふうに。先生がイメージされていらっしゃるのは景物画と言われている類のものだと思うのですけれども、工芸的にデザイン化されてしまっているので。
隅田川はもっと前に絵になっていませんか。
なっていないですね。僕は絵の中身はあまりわからないのですけれども、先ほど司馬江漢の絵がありましたね。変わった絵で、今戸のところでなくなる絵、あそこの風景は、ああいうふうに見えるんですよ。ちょうど今戸の煙が出ている裏のところから日本堤が上野の山へ行くんです。あの堤防だけが南北に走っていて、それがだんだん消えていく。ですから、水の方が高く見えるんです。実際に、あの辺に住んでいる人もそういう感覚なんです。その表現をしようと思ったら、ああいう絵になったのかなと。下の方も、上っていくか下っていくかを含めて、川の表現をどういうふうにしようかというときの技法の変化ですね。その辺をもっと組み合わせると、おもしろいかなという気がします。
三囲は確かに低いんです。だから、芝居の場合、三囲の鳥居を腰かけみたいにして、かけてしまうという話があります。だから、かなり写実的なとらえ方だと思います。
その境目が今戸の付近です。あそこから下へ行きますと、逆に高いところがない。そうすると、橋だけなんです。橋が隅田川に入ってくる運河の玄関です。目印になりますから、これはデザイン化ではなくて、むしろそういうふうにする。その後、馬車が入ってきたとき、滑って困るのは、その辺なんです。石畳にしますので。 浮世絵など江戸時代にできた絵が全部あの辺に集中するのは、あの辺の中で堤防が一番高いからなんです。ですから、そこから見る富士がいいので、あれより下へ行けば行くほど、富士はだめなんです。
あの辺がよく川が溢れるところだから、そこだけ特別に堤防を高くしているの。
もちろん、そうです。つまり、こういう堤防なんです。その上側が浮世絵なんかの舞台です。じょうごのような形で、洪水が出てきたら……。この下は江戸の市街地なんです。江戸の市街地の外れに、逆八の字の堤防なんです。ですから、周りから見ると堤防が一番高いし、周りが溢れる。ですから、そこが一番見晴らしのよい場所、ビューポイントになっているので、江戸時代のいろいろな技法がそこのところに入ってくるのだろうと思います。
三囲神社そのものが名所というよりも、雪見をするときに視界が開けて大変美しかった、だから名所になったということをちょっと伺ったんですが、やはりそうですか。
歌枕ではなくて、このごろ言う「俳枕」なんでしょうね。其角が雨乞いの句を奉納したりということで、一種の名所ではあると思います。それから、別のことを伺いますが、最初に拝見したアンリ・リヴィエールの「エッフェル塔三十六景」というのは、画家が「三十六景」とうたっているわけですか。
自ら、そういう題名をつけています。Les trente-six vois de la tour Effelというふうに。「富嶽三十六景」にならって「エッフェル塔三十六景」ということです。
富士山のかわりにエッフェル塔にして、隅田川のかわりにセーヌ川でしょう。やがて大正になると、セーヌ川やテムズ川を隅田川に見立てて、パンの会に北原白秋たちが集まる。行ったり来たりで、やはり川は大事ですね。隅田川がセーヌ川やテムズ川になって、テムズ川になるとホイッスラーが描いて。ホイッスラーは、テムズ川を隅田川に見立てて、浮世絵にあるような橋を描いているわけでしょう。それがやがて大正のころになると日本に入ってきて、今度は隅田川をテムズ川やセーヌ川に見立てて、川のほとりのレストランに高村光太郎や北原白秋、それから吉井勇、山本鼎、ああいう人々が集まって、よく西洋料理を食べて、夜遅く、午前1時2時までドンチャン騒ぎをやって気炎を上げたんです。
それから、「真景」という言葉が大変おもしろいと思いました。似たことで、平安時代の歌人、能因が歌の方でそういうことをやっているんです。 「能因歌枕」は、実際に陸奥へ行かず、白河の関を越えないのに白河の関の歌を詠んだという伝説、あれは実際には行っているんです。奥州に行って、奥州のいろいろな名所を見ているんですけれども、それをはるか後、京都に帰って歌に詠みます。ですから、おっしゃるように、かつて見たものを自分の中で昇華して、それを再現して一つの作品群をつくるんです。それで、例えば「野田の玉川」という六玉川の一つの有名な歌ができるのですけれども、それを能因は「想像」と言うんです。imaginationの想像です。全く逆ですね。空で想像しているのではなくて、かつて見た体験を再現していることを「想像」と言っているんですけれども、それが「真景」に当たるわけです。imaginationの「想像」を当てて、「想像奥州十首」という作品があるんです。だから、同じことをやっていても、観念の方にウエイトを置くか、写実の方にウエイトを置くかによって全く違った呼び方が出てくるのだなと思って、「真景」ということは大変おもしろく伺いました。
さっきの中国の「清明上河図」は、場所は開封ですね。城壁というより、開封を囲んでいるのでしょうね。堤防があるでしょう。あそこに行きますと、ああいうふうに見えますよね。
随の煬帝のつくった大運河が、南から北へ上がっていって、?京に行って、あの絵の中に描かれているのは東西に流れている運河かな。
東西に向かっています。運河自体は南北ですが。あそこだけで、ものすごい名所となる場所なんです。
「清明上河図」は、本物は10mぐらいの長さでしょう。あれは中国の中でも何遍も模写を重ねられていて、秦朝あたりに描かれたものかな、台北の桃園空港の待合室に、壁画になって、タイルでずうっと入っています。まことに見事です。 中国で蘇州の市街を描いた絵、ああいうものもみんな「清明上河図」から来ているのではないか。だから、日本の洛中洛外〈上杉家本〉なども、みんな「清明上河図」から来ているのではないかと僕は思っているんです。「清明上河図」は長くて、日本ではそれを屏風に仕立てている。そしてやはり鴨川がある。
そうですね。「洛中洛外図」は関係あるかもしれないですね。
先ほど見せていただいた谷文晁の絵ですけれども、あれは川上から河口に向かって描いている。ほかの隅田川なんかで見せていただいたものは、みんな河口から上流へという感じでしたね。だから、これはちょっと異様なのではないかと思うんです。単に旅人の意識ではないと思うんですけれども、何ですかね。
あれは本宮から新宮への参詣ルートだから、河口が新宮でしょう。そうすると、新宮から本宮というルートもあるけれども、普通でいうと……。
もう一つ、花火が出てきた広重の絵で月が丸く描かれていたのが異様だったんです。通常、隅田川の花火を描くときに、月はあんなふうに丸々と描きますか。
「両国の夏の月」と、わざわざうたっているんですよ。考えてみたら、そうですね。
浮世絵の中に満月が描かれるのは珍しいね。あまりない。日本の絵画でも、真ん丸い満月というのは、あまりないのではないか。必ずちょっと上弦か下弦か……。
「両国の夏の月」と、わざわざうたっているんですよ。考えてみたら、そうですね。
「石山寺縁起」では、琵琶湖に満月が映っているものがあります。
満月を描くことが主題であれば当然満月を描くんですが、風景の典型として、夜だということを示す程度の意味で月を描くときにわざわざ満月を描くというのは、あまりないかもしれないですね。
満月と花火が重なってしまうでしょう。満月の晩に花火をやっても、あまり効果がないんじゃないかな。
 
河内様・紀州・古座川の祭り

もう20年ほど前に仲間で見てきた祭りです。それについて仲間内でつくった本「和歌山県 古座の河内祭り」(白帝社.昭和57年刊)で、取材費も本を出すお金もみんな自分のお金で出したものですから、極めて粗末な本ですけれども、もうなくなってしまいました。次第では「こったさま」とルビを振ったのですけれども、後でよくよく聞いてみたら、現地の人たちは「こうったま」という言い方をしていたものですから、私の資料には「こうったま」とルビをつけておきました。
我々があちこち見て回った川の祭りでは、いい祭りだったんです。祭りですから、説明よりは、どんなふうに行われるのか、まず見ていただいた方がいいと思いまして、NHKが放映していた「ふるさとの伝承」という連続番組の中の一つであります「熊野 海の民・山の民−和歌山・古座川の1年」という40分物の中に、祭りの部分が10分ぐらい、そして川の風景、空から撮った写真が3〜4分あるものですから、まずそれを見ていただいてからお話ししようかと思います。
(ビデオ)
こんな祭りですけれども、今では6月26日から準備が始まって、7月26日に大体終わる。中心は23日、24日、25日ですけれども、戦前まではどうも7月13日、14日、15日あたりが中心だったようです。
2枚目以下に私が撮ってきた写真を張りつけてみましたけれども、およその場所と物です。今の映像には、夜の御舟の動き、夜ごもりの様子が全然出てきませんでしたけれども、ライトなどをこうこうとつけて撮影することは今でも多分禁じられていると思います。我々は特別に撮らせてもらったんですが、静かに真っ暗な闇の中を回っていくんです。多分それが神が御舟におりてくるという状態なのではないかと思います。
古座川は、古くは祓川と言われたのだそうです。それは、1枚目の地図の下の方で言うと、高瀬より少し左の方、つまり上流にさかのぼっていったところに、祓ノ宮というのがありまして、瀬織津姫が祀られているそうです。ここは京都の聖護院門跡が大峰入りをするときに御祓をしていったところなので、そんな言い方をするらしいです。そういうことを見ても、川の名前は、今でこそ「古座川」と言っていますけれども、少し歴史があったにしても、その前はどんな名前であったのか、よくわからないところです。
そこに「河内様」という花崗岩、鬼御影があって、一枚岩がある。それを木あるいは笹が覆っている、そういう場所なわけです。東の方に宮山があるというので、僕のような素人が見ると、昔は陸続きだったのが何かで切れてしまったのではないかと思うような感じです。
それは別にして、私の考えていた空間の構造から言うと、先ほど画面に出てきましたけれども、九龍島と宮山と河内様を結ぶ、この線が多分神様を敬拝する聖なる空間だったのではないかと思っています。「クロシマ」は今でこそ「九龍島」という書き方をしておりますけれども、これは紀伊徳川家が改めたものだそうで、「黒島」だそうです。黒島と言うと南から北まで随分名前のある島ですけれども、海の仕事をする人たちが特に信仰していた島、大切にしていた島に、そういう名前がよくつけられます。ここの九龍島では、弁天様、龍王、蛭子さんを祀っているということですけれども、先ほどの画面にもありましたように、漁師の人たちは、殊の外、そこを信仰しておりまして、舟の調子直しなどのときに、よくお参りをすると言っています。調子直しというのは、魚がとれる、とれないという、験直しとか、そういうことと同じことだと思います。
祭りを取り仕切っている古座神社は、八幡神社がもとであったみたいです。今では住吉神社と河内神社とあわせて、3社が合祀されています。墨之江大神にしろ、応神天皇にしろ、みんな海に関係した神様ですが、河内神社の素戔嗚尊、あるいはこれは豊国主尊だという話もあるのですけれども、これがもともと宇津木にあった、さっきの岩で、その神様であるわけです。それが素戔鳴尊であったり牛頭天王であったりというところを見てもわかりますように、時代ごとに祭神は意味づけられていっているみたいですけれども、結局のところは水の神という感じに受け取れます。
それから、境内社に豊漁に関係した神様が祀られています。
大事な場所は潮汲みの場所です。そこに列挙しておきましたように、いろいろなとき、特に古座の人たちはそこで禊ぎをする。その水を受けてくるという感じです。
もう一つ、石ですが、「オニノメ」という角のとがった小石を拾ってくる。これも数がそのときによって決まっているようです。
今ごらんいただいたように、古座の人たちは、あのように、にぎにぎしく舟を並べて、「河内様」に行く。それから周辺の農家や山林を持っている人たちもそれぞれやってくる。そして、河原に座をしつらえて、お祭りを一緒にする。そういう感じになっています。つまり、ビデオでも言っていましたが、海の民と山の民が一つの神様をめぐって一緒の祭りをするという形になっています。もとはそれが別々になされていたようですが。
この祭りを見まして、いろいろ考えさせられたことがあるのですが、一つは夜ごもりです。7月24日、御舟が上っていって、夜中の10時ぐらいまででしたか、1艘が1時間以上かけて、ゆっくりと、あの小さい島をめぐるんです。見ているこっちがあきれ返ってしまうぐらいです。3回回るのだそうですが、3度目に回るときには舟が重くなったという感じだと、だれもが言うんです。つまり、神様を迎えに行って、そこに神様がおりてきたという感じをしているのではないかと思います。
我々はみんな古代の文学をやっていた人間だったものですから、だれもが言ったのは、万葉集にある額田王、「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」、ああいう感じを思い起こさせてくれる風景だったんです。夜ごもりのときの逸話なども本に入れておきましたけれども、牛鬼が出てきたという話もあったりするし、わけのわからない、ものすごい大音響がしたという話も語り伝えられています。これが祭りのときの重要な部分なのだろうと思います。
それから、上りのときははっきりしていませんでしたけれども、下りのときに六蛇の瀬を渡る御舟がありました。上りのときも、かつては若い衆が結婚相手を見初める場ともなったという話です。これはどうも俗的な話のようですが、結構古い意識が続いてきている感じがします。そのことはまた後で見てみたいと思います。
まず、「河内様」という神様についてですが、先ほども言いましたように、いろいろな説明がされてきています。ガッタラボシ、つまり河童だと言う人もあるのですけれども、古座川という川に祀られている水の神様なのだろうと思います。だからがゆえに、海の人たちにも山の人たちにも信仰されているところがあるのだろうと思います。それを形の上であらわしているのが、潮汲みの水、あるいは「オニノメ」と言われるものです。
それから、ビデオの最後の方に大晦日から正月の場面があるのですけれども、古座の人たちは、大晦日の晩、歩いて河内様まで行って、あの河原で去年もらってきた石を返して、今度は新しい年の石を拾ってくるのだそうです。その形や色は家によって違うそうです。そんな形で、神を祀る一つの形あるものを水と石で象徴しているところです。
前にも申しましたように、この祭りは今でこそ7月23日、24日、25日あたりが中心になっていますけれども、その前は7月の13日、14日、15日あたり、さらにその前は、「丑祭り」という言い方をされていた旧暦の6月の初丑の日だということです。今で言えば土用の丑の日あたりを考えてよろしいのでしょうか。そうしてみると、我々は鰻を食べて夏に向かっての元気づけをしていくということがありますが、多分それと通ずるような、季節の変わり目に、海の人たちは豊漁を授かる力を得たい、農家の人たちは稲が穂腹みをするときですから大事なときだと思うんですが、そういうところから神様を祀っていくという形でなされたものではないかと思いました。
恋の話ですが、九龍島には鯛がいて、河内様には蛇がいて、河内様の蛇が九龍島の鯛と恋仲になったということです。ところが、双方が会うことができなくなったので、それを祭りのときに会わせてやるのだという話も伝わっています。
そんな祭りの素材、質みたいなものを引き合わせてみましたところ、ちょうど当時の私は沖縄や奄美に盛んに行くようになっていた時期でして、奄美大島で大和村という小さな祭りに夢中になっていたんですが、あそこは集落の浜の向こうにポコッと立った岩山があるんです。そういうものを奄美一体では立神と言います。それに向かって神様を迎える、あるいは送る行為をしているんです。向こうで見ていくと、海の彼方の神の世界から、神様は立神を目指してやってくる。それから、すぐには陸に上がらないで、集落の背後にある神山におりる。その神山から、水脈、川の流れ伝いに集落におりてきて、祀られる。そして帰るときは、川伝いに海に出て、立神のところから海の向こうへ帰っていく。大体そんな信仰を持っているわけですけれども、大和村の場合はそれがはっきりと祭りの中に出てきていたんです。
そんなことがありまして、いろいろ考えてみたんですが、立神と言われるものをずっと調べ回って地図に落としてみましたら、一番外れの与那国島から、日本海側に来ると、私の知ったところでは、島根県の大田市にあります。太平洋側では三重県の阿児町まで、全部で40前後のものが確かめられました。その幾つかのものは祭りとかかわって非常に重要なものを占めているということがわかった。要するに、大体が海辺に出ている、ポコッとした岩山です。中には、ごく小さい、ちょっとした岩みたいなものもありますけれども、それも立神と言っています。阿児町の場合は、立神があって、これは今でも「ひっぽろ神事」というのが、大晦日から正月の三カ日ぐらい、ずっとあります。そんなふうにありました。
そんなことを考えてみましたら、祭りというものは、海の向こうから神が多分宮山を目指してやってくる。それが河内様という場所において周辺の人々の信仰心の中に入っていき、そしてそれぞれの力となっていく、そういう構造がわかったんです。
その前に、もう一つ、九龍島がその立神に相当するのだろうということを考えてみたのですけれども、さて古典の中ではどうなんだろうと考えたときに、御存じのように天地初発のときの神話ですが、「古事記」で言えば、天之御中主、高御産巣日、神産巣日と三柱があって、もう一つ、わけのわからない神様が出てくるんですが、その後、天之常立神というものが出現したことになっています。それで五柱なので、「別天津神」というふうに一区切りされて、今度は別口として国之常立神があらわれたというふうになっています。ところが、「日本書紀」の場合は、国之常立神が神の名前として初めてあらわれてくるものとして位置づけられています。要するに、これは立つ神だと思うのです。「立」に意味があると思うのですけれども、「古事記」と「日本書紀」、あるいは「日本書記」の1書、いろいろありまして、その伝えでちょっと違ってきていますが、国家レベルでつくられた神話の中にも古い日本人の神聖空間観がこんなふうにあらわれてきているのではないか。それが、時代のいろいろな信仰形態の影響を受けて変質・変容しながらではあるけれども、根本的なものを探ってみると、神を迎え、その祝福を受けるという中にある一つの基本構造なのではないかと思ったわけです。
以上でございます。
■懇談
「河内様」みたいに農民と漁民、離れた村が両方寄ってきての祭りは珍しいんですか。
必ずしもそうではないんですけれども、本来は違うはずの期待を持っている人たちが一つの神祭りに来るというのは珍しいですね。特に、内陸部にある神様の居場所に海の人たちが入っていくのは。
どれぐらいあるんですか。
5kmと言っていました。だから、それほど遠いわけでもないんです。古座町の一番外れですから。この河内様の所が境目で、古座町と古座川町に分かれているんです。 祭りが終わった後、方森一夫さんに九龍島に連れていってもらった帰り、漁師の人たちは、遠くへ出まして、自分の港へ帰ってくるときに、昔ですから当て山を必ず持っていたわけですけれども、それが河内様並びに宮山の背後に連なる、あの山並みだったそうです。
当て山というのは目印にするものですね。
目印にする。漁師は必ずそれを持っていたと思うのですが。
稚児さんといいますか、ショウロウ様は男の子が2人、女の子が1人ですね。女の子が稚児として入るのは珍しいのではないですか。
そうでもないです。まだ初潮を迎えない小学校の3〜4年生の女の子が選ばれる祭りは結構あります。
九龍島というのは神聖な島なんですね。そうすると、ふだんは誰も近づかない。
普通は上げてもらえないところです。多分漁師の人たちが禊斎して、行くんだろうと思います。九龍島の場合は、そんなにはっきりとも言えませんけれども、そこに龍王や恵比寿さんがまつられている。今は弁天様とも言うので、その弁天様の祠まで案内してもらったんです。私の撮った写真、2頁の右上の写真でもごらんいただけますが、左側の方に平らに広がっていっていますね。そこの近くあたりは七草が全部そろっているのだそうです。そんなことでも貴重にされていたのだそうです。九龍島の向こうの方に薄く見えるのが紀伊大島です。ですから、この九龍島そのものは極めて小さいです。
潮汲み場ですから、当然、淡水ではないんですね。川でも完全に海水になっているんですね。だからこそ、蛇と鯛の恋の物語が生まれてしまうんですね。
当然、鯛が女神でしょうね。そして、蛇の方が通うという話になっているわけですね。
隅田川はもっと前に絵になっていませんか。
そうですね。私の本の93頁にその辺のことを書いたと思いますが。
そうすると、蛇は川の神であると同時に山の神なんですね。
そう言っていいかと思います。今のビデオには、実は養蜂、蜂蜜とりと山仕事をしている人たちの生活ぶりも入っていたんです。山の仕事をしている人たちがお参りして、供え物をして、山仕事をするときに山の神を祭る画面もあったんですけれども、今はカットしてしまいました。それはこの祭りのときとはちょっとずれているみたいです。
海の港の方から川の中の島までさかのぼって、こんなに巡ってというのは随分珍しいですね。ほかにあるの。
ちょっと知りません。
かなり大きな舟ですね。飾り立てて。
有名な愛知県津島市の津島天王さん、あれも、御祓の神事というのは、多分内陸部の人たちが港から舟に乗って、海に出ていって汚れを流してくる、そういうふうになってしまうと思うんですが。あるいは、今でもやっておられると思うのですけれども、皇室では節折の神事が古くからあることになっていまして、笹竹をとって天皇の身長を測るんですけれども、昔はそういう類のものを浜離宮に捨てたそうです。そんなふうに、海は汚れを捨てる場としてよくありますね。
先ほどの熊野の本宮の中州もそうですけれども、川の中の河内様の島のようなものとか中州とか、そういうところが聖地化されるのは日本の各所に見られるものですか。
はい。先ほど御説明のあった洪水になったから移したという話、あれは僕も何かで読んだことがあるんですけれども、京都の賀茂神社は、今はあんなふうに安全になっていますけれども、もともとは河原と考えていいのではないですか。神話的に言えば、神々が相談する場所が天安河原です。天照大神が岩戸にこもって、困ってしまって八百萬の神が相談するのが、天安河原。
あれは河原なんですか。
ええ、河原は神様の集まる神聖な場所であるわけです。
天の八百萬の神が踊ったところは河原ですか。
それは岩戸の前と言われるものですが、その相談をしたところ。
河原というのは、砂地と石ころが両方混じっているんですか。
河内様の前の河原は石ころがいっぱいです。これは随分前にここの関係で申し上げたことがあったのですけれども、石ころをやたらに拾ってくるのは、石ころに神様の霊魂が宿っているので自分がもらい受けてくるということだと思います。1年たつと、それが衰えていくので、返して、また新しいものをもらってくる、そういう考えだと思います。
あの石ころはどこで拾ってくるんですか。海岸ですか。
この祭りのときは座が設けられる河原のところです。おショウロウさんが座って、みんながお参りしていた、あの河原です。大晦日の晩も、あの河原です。
あの河原は、いつもちゃんと三角に残っているんですか。
そうなんです。不思議ですね。
ちょっと水がふえれば、こんな河原はすぐに…。
そう思いますが、あそこでカーブしていますから、一度流れても、ちょうどあそこでたまるんじゃないですか。
隅田川にはああいう河原はないの。
ないんです。京都の鴨川と似ているので。上流は真砂という花崗岩でしょう。そういう似たところは、似たような風景が出てくる。
さっきの仕立てた舟には京都風も入っているんじゃないの。おショウロウさんなんかも。
おショウロウさんという言い方をしているんですね。
いでたちも葵祭りの稚児みたいで。
祇園の稚児ですね。ショウロウさんは、ジョウロウという言い方をしたりして、そのジョウロウがジョロウになって、そういう式で説明する他の祭りもあります。
3時間で回るとか、3時間後には重くなるとか、ちょうどこの辺が潮の干満の境目だから、いい時間帯だなという感じがしますね。そういう観察の中から出てきたのではないか。
あの辺まで潮が上がってくるわけですね。
多分、境目ぐらいではないですか。海岸のところに突堤が出ますから、結構出にくいんですね。そういう箇所で神事ができるのは自然現象を見ながらだと、そういうふうに結びつけられないことはないような気もします。
2〜3時間もの時間をかけて河内様の島を回るというのは、夜ですか。
夜中です。最初は神様への挨拶で、昼間に上がって潮やお神酒をかけていましたけれども、その夜です。
何艘かが上がっていましたね。一緒に回るのではないの。
そんなに回れません。真っ暗の中、あんなに狭いところですから。しかも、岩も出ているでしょうし。ですから、ゆっくり、ゆっくり行くんです。画面にも出ませんでしたし、僕も説明しませんでしたけれども、日中、一つのイベントとして、集落ごとの舟の競漕があるんです。いわばボートレースです。それは若者たちがやります。それは、すごい競り合いです。
夜ごもりは夜中の何時ごろですか。
あのときで8時ごろから11時ぐらいでした。昼間といっても着くのは午後になってしまっているんですけれども、河原で少し飲んだりして、一度あの人たちは家へ帰って、御飯を食べて、そしてまた行って、それで舟を漕ぐんです。
夜、だんだん真夜中に向かって時間がキリキリときつく縛られていく、夜のほどろというのは、その縛られたのが緩んでいくのだということですね。万葉の歌なんかも、それがある。だから、万葉人、古代人は、夜は時間が引き締まると。それが丑三つ時あたりを過ぎるとだんだん緩んでいくので、それで夜のほどろが夜明けになっていくと。「夜のほどろ」という言葉は万葉の中に3回か4回ぐらい出てくるね。つまり、「ほどろ」というのは、施す、ほどける、緩む。
それは知りませんでした。でも、夜は本当に神聖な時間ですね。神楽だって夜が最も盛り上がるわけですから。確かに夜の時間というのは凝縮していると思います。それがだんだん明けてくると、「明星」などを歌って神楽も終わりますから、確かに濃密な時間なのでしょうね。
真夜中を過ぎると緩んでいく時間になるから、その前に回るのかな。だから、あれは夜の時間をキリキリとまいているんだよ。
あまり説明しませんでしたけれども、右回りと左回りということをよく言うんです。さっきの画面では、右回りはめでたいとき、左回りは不祝儀のときだと言っていましたが。
右回りというのは、時計回りですね。
ここでのものはそれでも説明がつくんですけれども、沖縄の祭りを見ていると、ちゃんと左回りと右回りを区別しているものがありました。日本人は、今の説明の仕方ですから、左回りというのは不祝儀のときのものだということですけれども、あるいは泥棒回りとも言いますけれども、それは俗のことでして、要するに神がおりてくる、あるいは神の世界に近づく回り方が左回りなんです。右回りは人間の世界の回り方だと思います。
左縄というのは、昔の言葉では、よくないことを言いますね。
はい。だから、祭りのときも、これは左縄というのがあります。
調子直しというのは、神事をやるだけなんですか。具体的に何か……。
さっきも出てきましたけれども、験直し、調子直しというのは、銘々によってやり方が違うらしいです。
やり方があるんですか。
はい。自分たちでやるんです。方森さんの正月の舟霊様が起こしていく儀式、あの人は退役したから撮らせてもらえたんだと思うんですが。
現役で本気でやっているときは撮らせてもらえないわけだ。
ええ。秘密でしょう。それを人が知ったら、人に真似される。あの人が豊漁続きだといって盗まれてしまえば、自分のところが……。だから、自分だけが特有なものを考えて、やるのでしょう。
どれぐらいあるんですか。
調子直しというのは独特の言葉ではないのでしょう。
ええ。別にそうではないと思います。この調子直しは。そういう言い方で説明してくれたんですけれども、ここの土地の言葉では特別なものがあると思います。僕らにわかりやすいように説明してくれたんです。
お役所の方はいかがですか。今橋さんのお話、高橋さんのお話、御一緒にどうぞ。
先ほどの絵画の話で、川を描くことそのもので時間の流れが何となく出てきますけれども、あれほど時間をギュッと一つの画面にねじ込んで、なおかつ空間も一つの空間にギュッとねじ込んでしまう、そういう絵画の技法は世界的にはあるんですか。あんなことをやるのは日本人だけじゃないかという気がするんですが。
両岸図で、しかも上の方が春で、河口が冬だということですね。春は曙で、河口に行くと夕方だと。季節が移ろうだけではなくて、時間も移ろう。
北斎のものに関しては、河口から上流に向かっていくに従って春から冬へと進んでいく。あれだけはそういう形で、冬から、最後はもう一度春で終わるんです。絵巻物のような横に綿々と続いていく画面構成の仕方は、東洋文化の特異な表現形式なので、恐らく西洋でそういうものを見出すことは大変難しいのではないかと思います。 もう一つ、川というものに沿った形で何かの物語的な時間の流れを編み出そうという考え方自体が、世界的に存在しているのかどうか。私は見たことがございませんけれども、エジプトのピラミッドの内壁に描かれてあると言われる壁画の中に、ナイル川に沿ってというのがあるのかどうか、わかりませんが。いかがですか。
あまり聞いたことがない。ミシシッピ川に沿ってというのはマーク・トウェーンですね。でも、それはずっと後、19世紀ですね。そして映画にはなっていない。セーヌ川は歌やシャンソンになっているけれども、あれもみんなつい最近ですね。それから、ロシアのヴォルガ、あれは何かありそうですね。
ヴォルガは長くとったものがありますね。全部かどうかわかりませんが絵になっています。でも、それは舟人のためですよ。ドン・コサックのグループみたいなものの。
西洋でそういうものがもしあるとするならば、教会等、非常にシンボリックな建物の中の障壁画で続いていくとか、そういうことでない限りは……。西洋ではいわゆる一枚絵という形でしか存在し得ないので、絵巻のような形となると、探すのは大変難しいのではないかと思います。
日本は1枚の縁起図で全部時間も入れてしまいますので、日本の絵は不思議な絵だなと思うんです。
ヴォルガは一種の航海図です。4カ月も凍ってしまいますので、凍ったときも動けるという灯台の役割も全部ひっくるめて描いたんです。しかも、風景がガラッと変わる。針葉樹林と草原地帯が半分ずつで、ガラッと変わります。それから、川を境にして、どちら側が東洋なのか西洋なのか、ちょうど境目の川なので、向こう側へ渡ったら向こう側を描くという、そういう表現を見たことがあります。本人が意識して描いたのかどうかはわかりませんが。
日本人の意識の中には、いろいろな川に対する思いが……。例えば、連綿と描かれていく絵画で、実在の川ということはわからないのですが、非常に長大な川の図巻として描かれているものでは、皆様がよく御存じの雪舟が「山水長巻」を描いております。それは15mも続く大変長い山と川の絵巻物の形ですが、意味的には非常にシンボリックなものというふうに受けとることができるのではないかと思います。例えば、人生の荒波であるとか、人間自体の心の中の起伏のようなもの。 ですから、現実の時間とか空間、あるいは実在の場所などの凝縮や連続性ということになると、やはり江戸時代までさかのぼらないと、なかなか……。 また、おもしろいなと思うのは、きょうはお話しできなかったのですけれども、明治に入りますと、江戸時代の人が獲得した現実の川に沿った表現が失われてしまったような感じがするんです。例えば横山大観が描きました「生々流転」のようなものは、どこの実在の場所や川ということではなくて、それは非常に哲学的な、何かシンボリックな、人間の内面に存在する川、そういうものにまた変わっていく。 現代はどうなのか、そこまではまだ追っていないんですが。
その中間で、昭和の初めに藤牧義夫みたいな絵がありますね。あれは決して心の中に入っていくわけではなくて、写実絵ですね。
あれも一種の隅田川両岸図ですね。非常に精密な写生で、しかし独特の変形を与えていて、おもしろい絵です。国土交通省河川局は、こういう博物館もつくっておかなければいけないね。いつか日本じゅうの河川に関する資料を集めた図書館をつくること、データベースにすること。
映画の方も。
横山大観の「生々流転」は、数億円するだろうし、幾ら国土交通省でも買えないでしょうから、レプリカでも。それから、川の絵を集めていったりすれば、たくさんありますね。
今回発表する機会をいただいて、なぜこんなテーマで展覧会がないのだろうかと。川の多面性ということでは、造形上、これだけ豊かにあるのにと思いました。
滝の絵は、日本経済新聞に日本の滝の絵10選とかで載っていましたね。あれは、菱田春草の「春秋の滝」とか、北斎の「諸国滝廻り」とか、いろいろあるでしょう。
「短歌」という雑誌の表紙が、今年1年はみんな滝です。これは写真ですけれども、いろいろな土地の滝を撮ってきまして。表紙と口絵もあったかと思います。
滝は今のうちにちゃんと撮っておかないと、だんだんインチキの滝になってくるでしょう。みんな上の方にダムをつくって、調節しながら水を流すから、怖くも何ともない滝になって…。水道をひねると滝がプツッとまったり、観光客が多いときは水道をひねって水がダッと出たり。華厳ノ滝だって危ないですね。
華厳ノ滝は調整しています。お客様が多いときは出しています。
最上川河畔の、芭蕉の「奥の細道」に出てくるのは白糸の滝でしたね。
あれは問題ない。
白糸ぐらいはね。ナイアガラの滝は、大きいだけで、大したことがなかったね。日本の滝川のように本当に落ち込んで、真っ青な清らかな滝川だと思っていたんですが、ナイアガラの滝は黄河の汚れた水を落としているみたいな感じで、水が透き通って見えるわけでもないし、聖なるという感じはしませんでした。南米のあれは何でしたかね。イグアスの滝。あれは、すごい。滝の絵から始まって、淵があって、那智の滝のようなものがあって、そして川になっていって、さっきのようないろいろな島があって。しかし、日本の詩歌の中でいけば、川と山だらけですね。
山が一番多いでしょうね。でも、次は川でしょうね。山は目立つからだと思いますが。
山は神様がいる山でしょう。
神様がいますね。
川も神様も。
川も大体いて、水の神は上流あたりに鎮座していると思います。
日本じゅうの主な川は、平安朝のころは歌枕によって整理されているわけですね。
歌枕は五畿内が圧倒的に多いです。特に山城、大和、摂津。そして、意外に東北、陸奥が多い。ところが、歌枕というのは四国はほとんどない。九州も少ない。だから、政治との関係が随分ありますね。
東北はそんなに多いですか。でも、せいぜい塩釜か喜多方どまりではないの。もっと北はあるの。最上川…。
これは確かではないのですけれども、壷の碑はどこかというのが問題で、一つの説としては青森あたりまでだと。青森の天間林あたりに古碑だというのがありますから、北は相当向こうまで行っているんです。
歌枕というのは国土交通省のバイブルだと思うのですよ。平安のころ、歌に歌われた地形、その地形が存在する地名、その地名を詠み込んだ歌、それを全部集めたわけですから。
歌枕の本はたくさんありまして、このごろは若い人たちが随分よく研究しています。昔の歌人は、能因ではないのですけれども、居ながらにして歌枕を拾っている、実際に旅行していないで見もしないところを歌うということをよく言うのですけれども、そればかりでもなくて、やはり何らかの知識はあるんです。また、たとえ自分が行っていなくても、人から聞いたりして、結構そういうことが当時としては地理学の最も基礎的な知識になっているのだと思います。ですから、歌枕をあまりばかにしない方がいいと思います。
非常に大事だと思う。あれは日本の国土の索引、一種のインデックスをつくったわけですから。山、川、そして海岸でも浜とか浦とか磯とか江とか、ちゃんと言葉を分けている。磯というのは石ががらがらしている、浦というのは緩やかなところ、入り江というのは入っているところというふうにちゃんと区別して、その上でさまざまな絵や詠んだ歌をちゃんと集めてあるわけです。万葉から古今、十代集ぐらいまでかな。
よく森が出てきますけれども、森というのは大体神社なんです。神が祀られている。
海岸でも、海岸の形態によってちゃんと分類しているわけです。呼び方も違うわけです。山もいろいろある。丘というのは分類してありますか。
丘もあります。簡単なものですと、順徳院の「八雲御抄」というのが非常に細かく項目を立てていまして、現在の地理学的な概念に相当する言葉が大体あります。藤原範兼の「五代集歌枕」、あの辺が歌枕では比較的早い方です。だんだん時代が下るにつれて、それが整備されてきた。鎌倉の末あたりには、「歌枕名寄」というのがあって、これはほとんど全国に及んでいます。江戸時代に増補されたものが出版されています。
国土交通省は、入省試験に歌枕を出して、「君の知っている歌を10首挙げて、これをそれぞれ歌枕によって分類せよ」と。そして10題のうち5題できなければ、国土交通省はだめ、農林省に行けと。それぐらい、あれは本当に基本ですよ。日本の国土を完全にカバーしているわけですから。初めは四国がないということはありますが。名所旧跡はあれで決まっていくわけです。
昔の歌の分類は、大まかに言いますと、四季、恋、雑なんです。だんだん時代が下ってきますと、雑が非常に細かくなってくる。四季と恋と雑が平安以降の歌の三大分類ですけれども、雑のうち、天象、地儀祇、人倫と分けまして、天象は太陽や空気ですね。地儀が地理に当たるわけで、地儀をまた非常に細かく、山、川、海、湖というふうに分けていくんです。ですから、地儀関係、これが国土交通省に一番関係の深いところですね。
日本列島だから、あんなことができたんでしょうね。境界線がはっきりしているし、そう広くない。人が割合行き来しているし、最初からそれぞれ地形にあわせて地名を詠み込んだ歌がたくさん蓄積されている。そして、歌によって地形を分類し、地名を特定化して、そこを名所、歌枕にしていく。だから、地理は文化の蓄積の上に成り立っているわけです。 富士山が意味があるのは、富士山が火山だからではなくて、神話の山であり、歌の山であり、物語の山、絵の山、信仰の山であるから、意味があるわけでしょう。中南米あたりにあるどこかの火山とは全然違うわけです。そういう安っぽい火山とは違う。要するに、富士山というのは文化の山なんです。だから、見ると、今でもすっきりするんだね。伊吹山もそうですね。
伊吹山の周辺は水がいいですよ。
そうらしいですね。あそこは薬草の地ですからね。今でも染色のための色に使う草木があって、伊吹山の中にいろいろな染色会社が秘密で畑をつくっているらしいです。人になるべく知られないように。だから、伊吹山の左肩を石灰会社が崩したけれども、あれはストップしてくださいよ。国土交通省でできるんじゃないですか。見るたびに、だんだんひどいし、だんだんなくなってしまうのではないかと思っているんです。新幹線から見ると、要するに山から言えば右肩です。あれが石灰岩を取るためにだんだん目立ってきた。雪が降ると、あれが見えなくなるから、いいんですが。 せっかくの神話を露骨に削り落としているわけですからね。あれは目立ちますよ。新幹線で京都を往復しているとき、きょうは伊吹山が見えるか見えないかということで、すごく楽しみにしている。新幹線の中では一番おもしろいところですね。しかも、そこは、「さしも知らじな 燃ゆる思ひを」ですね。上は何でしたかね。
「かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしも知らじな 燃ゆる思ひを」で、藤原実方です。
あそこで、もぐさがたくさんとれたんでしょう。伊吹山は芭蕉の俳句にもたくさん出てきますね。伊吹山を見ながら冬ごもりをするんです。だから、日本列島の山や川は、中国の黄河や揚子江と同じぐらいに文化史的存在であって、単なる自然現象ではないわけです。
話がまた戻るようですけれども、絵柄に関係して、東洋人は川のほとりで思索にふけるようなことがよくあるわけですが、西洋人はどうなんですか。例えば、「詩、川上にありて日く」というような、そういう言い方は西洋人にはあり得るのですか。
川のほとりでね。シャンソンにはある。でも、ローマのテベレ川、あれは大事なところでしょうね。それから、ハイデルブルグのネッカーもたくさんある。哲学者の打ち合わせも、川沿いも加わるわけだし。あれは例外だろうな。セーヌ川を歩いたって、恋はするけれども、哲学はしないな。
でも、恋をするのだったら、絵が生まれてもいいな。
絵はいっぱいあります。でも、大体印象派以降だから。今橋さんの言う浮世絵の影響などもあるわけです。でも、ターナーもテムズ川を描くからね。
無常感みたいなものは関係なかったんですかね。東洋では、川はどうしても無常感を誘うんですね。
絵でいえば、三途の川から、何の滝でしたか、曼陀羅に絵を描いてしまいますものね。
三途の川もあるね。こうなると、本当に集大成しなければいけなくなってきましたね。こういうところで話し合って、ふらっと忘れているようでは、もったいないですね。 3,000万円ぐらい出してくださると、我々全員で集めますよ。この研究会の延長で。本物も、作品の写真も。今度の補正予算あたりで、そうしましょうか。日本列島、北海道から沖縄まで含めると、大変だな。川をめぐる詩歌、絵画、信仰、祭り、それをそれぞれに集大成して、「〇〇川」とインターネットで引くと、ずらっと出てくるようにする。そうなると、初めて文化国家日本の国土交通省ということになるわけですね。
各川の事務所に文化課をやらなければだめですね。歴史課でもいいですけれども。環境課がやっとできつつありますので。
環境の中に文化環境も歴史環境も含める。緑がきれいか、汚濁がどうかといったことばかりではなくて。我々から見れば、川は汚れたっていいんです。文学が残ればいいんです。空気など、どろどろになっても、秋の風は白いものであるということを子供たちに伝えるのが我々の義務であるから。「石山の 石より白し 秋の風」ということで、昔から秋は白なんです。だから北原白秋だと。したがって、秋の風は白い。秋の風は白くて、ひんやりとしているということを子供に伝えることの方が、空気が汚れるかどうかということより、もっと大事だろうと思う。
私もそれはすごく大切なことだと思うんです。つい二、三日前の大学での授業のことですが、アニメーションの話をしておりまして、この夏話題になっています「千と千尋の神隠し」という宮崎駿の映画、皆さんがごらんになっていらっしゃるかどうか、わからないのですが、あれは究極のテーマが川だということ、御存じでしょうか。 テーマになっているところが、八百萬の神たちが集まってくる湯屋、お湯屋さんの場所なのですけれども、ある日、どろどろに汚れた神様がやってくるんです。みんなはその神様を拒絶して、この湯屋に入れることはできないと言うんですけれども、尊い神様を差別することはできないということで神様をお風呂に入れると、最後にものすごいヘドロが流れ出た後、聖なる川の神様がすっきりと垢を流して帰っていく、そういうところがあります。そこを見ながら子供たちが非常に驚いているわけです。川の神様という考え方自体が彼らにとってはとても新鮮なようで、大学生たちにとっても非常に新鮮なようでした。 もう一つ、主人公の千尋という少女を助けてくれる少年が出てくるんですが、そのハクという少年がなぜ湯屋で働いているのかということが明かされると、その少年は、本来は龍の姿を少年に変えているんです。そして、その龍は、かつて千尋という主人公が溺れたことのある川そのもので、川が少年に姿を変えて、少女の前に再びあらわれた、そういう設定になっているんです。 しかし、なぜハクという少年が仮に人間の姿になっているかというと、かつて少女が溺れたその川は、埋め立てられて今はどこにも存在していない。つまり、行き場のない川の神の化身としてあらわされている。ただ、龍は川の神の一つの象徴的な形象であるということを若者たちは知らないんです。私なんか、それを見ただけで非常に感動しているにもかかわらず。 これはいかんぞと。川の文化が子供や若者たちに何も伝わっていないのだと思って、非常に危惧を覚えました。
その話は宮崎氏はどういうところからとっているのでしょうかね。あの人はそういう一種の神話を生かすのがうまいですね。「もののけ姫」でも。
龍も西洋と東洋では違いますね。東洋は水ですが、西洋の龍は火を吹くでしょう。だから、全然違いますね。
西洋では龍は必ず退治されるものになっている。要するに異教の八百萬の神なんです。だから、キリスト教が支配するようになってからは、サン・ジョルジュは必ず龍を殺していますね。ドラゴンはキリスト教の秩序に反抗する野生、ワイルドなデビルなんです。ところが、東洋では、龍神と言って、龍は神様ですからね。だから、根本的に違う。だから、今度の国際環境問題のときは、龍の話だけでもおもしろいですね。そんな話も何も知らないアメリカの代表あたりを、こてんぱんにやっつけてやってくださいよ。
今のお話ですが、古座の人たちは大人も子供もみんなこうやって祭りに行くから、そういうことが体験できるのですけれども、今いろいろ送られてくる雑誌を見ると、河川局関係の川のイベントも全国でものすごい数がありますね。あれは結構なことだけれども、あれでは、子供たちは、楽しかったか、つまらなかったかということだけで終わってしまうのではないかと思います。
宮崎駿も、映画を見ているだけでは、だめなんです。やはり川で泳いで、少しアップアップしてみたり流されたり、そういう経験が大事なんだな。川でも、縄張りをしておけばいいんです。そして、1人ぐらい大人が見張っていればいい。
けがをしたって、いいんです。死にさえしなければ。
そうなんです。流されていけば、やがてはまた浅瀬に乗り上がる。あわてなければね。
 
川の暮らしと民俗

芳賀先生から紹介をいただきまして、このフォーラムそのものは歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会、たしか「日本文学に見る河川」という副題がついているんですが、余り文学の方のかかわりは僕自身はないので、きょう皆様のお手元に届いているかと思います「山野河海まんだら」という本は、僕が4〜5年前に、2年間にわたって山形県内を歩きまして、聞き書きをしたときの記録であります。その中の、渡し舟のある風景というものを取り上げてみたいと思いました。いろいろな角度から川についての話はできるんですけれども、きょうは「渡し舟」ということで話をしてみます。
僕の手元に今、昭和51年に出ました北井一夫さんが主に撮られたと思うんですが、写真集があります。今から25年から30年前には、渡し場とか渡し舟はたくさんあったんです。でも、ほとんどもう消えていると思います。山形県内にはついこの間まで、大蔵村の「稲沢の渡し」という渡し場が観光名所のように整えられて残っていたんですけれども、それも、もう利用する人がいなくなったということで、閉鎖されました。最上川の最後の渡し場ということで、もう山形県内には渡し場は一つもなくなったと思います。
渡し場の聞き書きというふうに特別にやっていたわけではないんですけれども、川の暮らしを追いかけていくと、どこでも、渡し場、渡し舟に出会いました。つまり、橋がなかったんです。橋がないということがどういう意味を持つのか。それは、この川の傍らで暮らしていた人たちでなければわからない苦労があったんです。多くの場合、例えば最上川沿いで言いますと、国道47号が走っている側、その向かい側というのは、山を背にして、ごく土地の狭いところに集落が幾つか点在しているぐらいなんですが、それらの村は、かつては渡し舟によって対岸とつながっていた。そういう村の幾つかも訪ねています。
渡し場といいますと、この本でもそうなんですけれども、風景として大変美しいんです。ですから、観光名所になったり、こういう写真集にも取り上げられたりするんですけれども、聞き書きをしていますと、決してそういう牧歌的なものだけではなくて、大抵の渡し場には大変悲惨な記憶が絡まりついています。きょう取り上げます「稲沢の渡し」に関しても、明治以降少なくとも二度、一度は7人ほど、もう一度はその2倍、十数人でしょうか、死者を出す事故が起こっています。最上川の雪解け水が流れている季節は、流れも速いですし大変危険なんです。牧歌的に見えるその渡し場の風景の背後に、死者たちの記憶というのが絡みついている、そんな気もいたします。
現在では、川沿いを歩いていると、あそこに渡し場がありました、というような話は至るところで聞きます。ワイヤーの跡が残っていたりとか、崩れかけた渡し場の跡があったりとか、そんな形でしか確認できませんが、僕自身は聞き書きの中で、何人かの方に、この渡し場の民俗ということに関してお話を伺っています。
先ほどから何度も触れています大蔵村の稲沢の渡しというのは、山形県の中では最上地方、北の方なんです。その最上川沿いに合海とか、清水とか。清水というのは、かつて川町があったところで、最上川舟運で大変栄えたところです。その上流、下流幾つかのところに渡し場がありました。烏川、稲沢、作之巻、そういったところにありました。
こちらの写真が載っていたのでちょっとチェックしておいたんですけれども、これが烏川の渡しです。もうここは、僕が訪ねたときはなくなっていました。それから、こちらが後ほど触れます外川というところなんですが、ここに家が見えます。僕が訪ねたときは、2人の老人だけが集団離村の後に残っていました。その方たちの話も伺っています。
なぜ、渡し場なんだ。実は僕が関心を持ったのは、歴史家の方であればすぐに気がつくんですけれども、最上川の流域で、渡し舟の船頭さんが「タイシ(太子)」と呼ばれているんです。なぜタイシと呼ばれていたのか。それを知りたくて僕はこの辺の聞き書きをしたようなものなんですが、まず大蔵村の稲沢の渡しで現役の船頭さんであった方、そして、そのお母さんから聞き書きをしました。その中で、船頭のことを舟越(ふなこし)、舟渡(ふなど)、タイス、タイシ、ダイスとなまっていますけれども、そういう名前がさまざまにあったようですけれども、このお母さんがしみじみと言われていたのが、「舟越で、一代、喰(か)せてもらったな」ということでした。
その言葉にはいろんな意味合いが含まれているんですけれども、そのお宅は、明治20年代に寒河江に生まれた祖父が大蔵村に開拓の仕事でやってきて、働き者なものですから、村の人に見初められたというか認められて、村の女性と結婚したんです。そして、ここに暮らすようになった。その祖父が若いころから、舟越、渡し場の船頭をしている。烏川の渡し場の船頭をしていたんです。
多分象徴的だと思うんですけれども、その祖父は、つまりよそ者である。そして土地を持ってないんです。多分相手も土地持ちの娘ではなく、そして結婚して、船頭になっているんです。それから、その息子さん、さらに孫と3代にわたって、この菊地さんの家では舟越、タイシをやって暮らしていた。
渡し舟のことを、「タイス舟」と呼ぶというふうにも聞いています。そして興味深いことに、先ほど触れました清水という近世の最上川舟運で栄えた川町の中に道筋が幾つもありまして、その一つに「太子道」という地名がわずかに残っています。太子信仰にかかわるような遺跡物は一切なくなっていますが、一本の小さな道が「太子道」ということで、かつての歴史の記憶をわずかに残している。
いろいろなことをお聞きしました。僕が関心を持ったのは、そのタイシと呼ばれた人たちがどのように収入を得ていたのかということなんです。戦後になると、渡し舟の船頭さんは多くの場合市町村に雇われる、市町村の嘱託職員のような形で働いています。もう少し時代をさかのぼっていくと、小さな集落が抱えるような形での船頭さんもいた。あるいは、個人持ちの船で渡しをしていた人もいたようです。
それでは、稲沢の渡し、烏川の渡しではどういうシステムがあったのか。まず、渡る人たちから渡し賃を1回ごとにとる形があります。それから、常にその渡しを使う集落があるわけですが、対岸の集落は村が違うんです。村の違う対岸の集落の人たちからは、その集落からまとめて年に1俵から2俵の米をもらうという形であったようです。
そして、大蔵村のこの渡しを利用する集落が4つ5つあるんですけれども、その集落を女性たちがめぐって、「秋廻り」、「正月廻り」と称して米を集めて歩く民族があったようです。この渡し場の女たちが集落をそれぞれ回って、「烏川のダイスだ、秋廻りが来た」というふうに。多分これ、唱えごとはもう少しあったはずなんですが、僕が話を伺ったお母さんは、自分では歩いたことがないということで、これ以上のことは聞けませんでしたけれども、烏川のダイスだ、タイスだ、秋廻り来たと唱えごとをしながら、家々を1軒ずつ回って米を集める。それが3俵、4俵になったということです。
「秋廻り」、「正月廻り」というスタイルは、かなり古い時代からのタイシ、渡し場を支えていた集金のシステム、集金というんでしょうか、支えるシステムだったと思います。こういう形を聞くことができたのは、ここだけでした。恐らく明治の初めごろから、こういうスタイルだったんだろうと思っています。どこにも橋がなかったんですね。今は橋があります。
戸沢村の金打坊というところを訪ねました。鮭川と最上川が合流する地点にありまして、戸数が17戸のとても小さな集落ですが、田んぼはたくさん持っています。そして、ここにはまだ川漁を行う人たちが何人もいて、古い時代の面影を伝えています。この家々の向こう側に鮭川が流れている。ですから、しょっちゅう水上がりなんです。堤防をつくればいいんですけれども、堤防をつくると田んぼがつぶれるというので嫌がって、僕が訪ねた年の前の年にも水上がりがあったということで、田んぼが全部水びたしになった。この家々のすぐ下まで水が上がったということで、一面の湖ですよね。そういう状況にあったということです。
この村でも渡し場の話をお聞きました。この金打坊という村そのものは地名伝説にもいろいろ出てくるんですが、弁慶がついていた鐘が飛んできて、そこに村がつくられたという話があったり、出羽三山のお参りにかかわって、その舟宿があったというふうにも言われている。あるいは鮭川の方、上流の方は真室川という大変ブナの森があって、僕が訪ねたときにも、ついこの間まで木の伐採、木流しということをやっていた村々がありまして、そこで切り出された木が、木流しによって鮭川をずっと流される。それが、一たん、金打坊の土場に集められるんです。そのまま最上川に流してしまうとわからなくなるということで、木材を改める土場があったとも言われています。あるいは、木材と限らず、さまざまな荷を改める川関所が置かれていたというふうにも言われています。
今も、村には川漁を行う人たちがいます。アユ、ザッコ、そしてサケもとられています。女たちは男たちがとったサケ、アユを抱えて行商に出るということが、ついこの間まで行われていました。
この村では、渡し場のことを「フナト(舟渡)」というふうに言っています。その舟渡についてもいろいろお聞きしたんですけれども、今は立派な橋があります。昭和50年代に橋がかかったんです。それまでは、舟渡、渡し舟でしか往来できなかった。川岸にあった渡し場には小屋があって、「タイシ小屋」と呼ばれていました。そして渡し舟をこぐ人たちを、この金打坊でも、あるいは戸沢村一体で、「タイシ」と呼んでいたということです。
この集落では昔から、このタイシ番というのは、集落全体、全戸が順番に担当する周り番だったんです。タイシ小屋には札がかかっていて、順番にその役割をやっていく。朝の子供たちを学校にやらせるための渡しから夕暮れまで、そこに人が詰めて、対岸に人があらわれれば舟をこいで呼びに行く。時間が過ぎるとタイシ番は家に戻ってしまいます。その後帰ってきた人は、対岸から集落に向かって呼ぶんです。そうすると一番岸に近い家の人が、子供たちがきっとその家の人を呼びに行くんです。もうあとは自分で勝手に舟を出して迎えに行くという形になります。戦争のころは女のタイシが多かったということで、女性たちがこの役割をやっています。
この村は三方を川、背後を山に囲まれていますから、この渡し舟がなければほかの地域につながることができない。ほとんどの家が舟を持っていたということです。「ムカサリ」というのは山形では結婚のことなんですけれども、ムカサリのためにこの村にやってきたおばあちゃんの話を聞いたときにも、上流の方から舟に嫁入り道具を積んで、たくさんの人が乗った。そして自分は嫁入り衣装に身を包んで、舟に乗ってこの村にやってきた。そういうことを70代のおばあちゃんたちはみんな語ってくれます。
興味深いんですけれども、この最上川の中流域の村々では、大抵渡し場の船頭さんが「タイシ」と呼ばれています。そのタイシって一体なんだろう。とても気になってきました。例えば、戸沢村はかつて8カ所の渡し場があったと言います。この金打坊の渡し場もその一つだったわけですが、専門の船頭さんを雇う場合と、集落の全戸が金打坊のように周り番で船頭役を務める場合がありました。これ、昔々を考えてみるとどうなんでしょう。村抱えで集落抱えで船頭さんを雇う場合と、全戸が周り番で務めるというその2つの形態があったんだろうと思います。どちらが古いのか新しいのか、一概には言えないと思っています。
この船頭さんはタイシと呼ばれて、そのタイシ役というのは一体何なんだろう。とても気になるんですが、少なくとも世襲ではない。代々家から家へと受け継がれる仕事ではないというふうに感じます。むしろ一つの権利として意識されている、そういう様子がうかがえました。
大蔵村の稲沢の渡しの菊地さんから話を聞いていたときにも、村の人たちの中に、自分もやりたいということでちょっかいを出してきた。それではということで、余り言われるんで、やってもらったところが長続きしなかった。実はこの船頭さんの仕事は、忙しいときには何十回もこの川を往復しなくてはいけない。体に相当きつかったんです。川風で心臓を悪くした、体を壊したという話も何度も聞きました。
恐らく一つの権利としてそれが意識されていて、ほかの人たちが、金になるということでやっても長続きしない。そして、また自分のところに戻ってきた。そんなことも聞きます。恐らくですけれども、想像というふうに言っておくべきですが、田んぼや畑をほとんど持っていない比較的貧しい家が、このタイシ役を専業として選んでいます。それも集落の人たちがその家の状況というものを見て、任せようという形でこのタイシ役がどこの家がやるかということが決まっていくようです。
聞き書きによって届く時間の射程というのは決して長くはないです。ただ、僕が聞き書きに歩き始めた10年ぐらい前からの感覚で言いますと、例えば明治40年代の老人に話を聞くことができると、その老人の記憶というのは、明治維持のあたりまで何とかさかのぼることができます。自分のおじいちゃんが明治維新の前後に生まれている。そのくらいなんです。そうすると、聞き書きとしてある程度そのあたりまでは届くんです。
ですから、僕自身の聞き書きによって届く時間の射程は、明治以降だなと思っています。なぜ最上川の中流域では渡し場の船頭さんがタイシと呼ばれてきたのか。民俗学者の中には、対岸のスノイカというふうに注釈をつけたりしていますけれども、全くだめですね。なぜだめかというのは本当は事象的には言えないんですが、歴史家の方であれば、すぐに井上鋭夫さんの「山の民・川の民」という著作が頭に浮かぶはずです。この本を読んでいましたから、最上川で「タイシ」という言葉を聞いたとき、僕はびっくりしました。どういう人々かといいますと、新潟県の岩船郡、荒川とか三面川の流域の地方の話なんですけれども、近世から明治期にかけて、この地域に「ワタリ」とか「タイシ」と呼ばれていた人たちがいたというんです。ワタリというのは、舟を操って交易とか物資の輸送に従った渡り師、世間を渡るのワタルですね。定住的な人々ではないということで、ワタリと呼ばれたんだろうと思います。彼らはどうやら太子信仰を奉じ、中世にはゲンシコウシュウの担い手として活躍した人たちである。そして、近世になると彼らが箕作り、箕をつくったり、塩木流し、塩木として上流で切り出された木を木流しで流して行って、海岸の村々で塩を焼くのに使う塩木、それを流す。あるいは、筏に組んで材木を上流から下流に流す筏流しということを生業とした、タイシと呼ばれる人々がいたというんです。
彼らは、井上さんによれば農地を持たなかった。そして、河川や海のほとりの船着場、湊などに住み着いた川の民だっただろうというふうに、井上さんは資料から、あるいは民俗調査から語られています。この人たちがどういう人たちなのかということに関しては、井上さんは、中世にまでさかのぼるだろうというふうに考えられています。中世には法印呼ばれた山伏、修験者たちが、これはたしか井上さんの言葉だったと思いますけれども、山の知識から何からいろんな知識を持っていて、そして、中世には山伏たちが金山、鉱山を掘る仕事をしているんです。
その法印と呼ばれた山伏たちに従って、実際に金掘りのような仕事をした山の民がいた。そして、彼らが近世の初めになると、修験者たちが金山を掘るということから撤退していく。そうすると、実際に金を掘っていた山の民たちも山をおりて、以前から彼らが舟を操る川の民の顔を持っていたんですが、川沿いに定住の地を求めて、そして川の民となり、ワタリとかタイシと呼ばれて交易とか物資の輸送に従い、あるいは箕作り、塩木流し、筏流しという生業につくようになったんじゃないか。
というふうに、中世、近世、そして明治までのワタリ、タイシと呼ばれた人たちの歴史を、井上鋭夫さんは資料や民俗調査によって明らかにされている。そして、荒川流域には現在もまだかなりのタイシがいるというふうに、さりげなく書かれています。このタイシというものを頭に置いて、最上川の船頭さんたちが、タイシと呼ばれたことにつながりがあるのかないのか。地図が頭にある方はすぐにわかると思うんですけれども、新潟県の荒川とか三面川というのは、もう山形のすぐ境ですね。河川で言うと三面川、その向こうが念珠関があって念珠関川、さらに荒川、赤川、そして最上川になる。河川としては大変近いですよね。
そこで、僕はまた別の村を訪ねて聞き書きを重ねていったんですけれども、先ほどから出ている戸沢村の写真を見ていただいたんですが、小外川という村を訪ねました。この辺はもう最上川の川幅も広くて、80mから100mぐらいの幅があるんです。こちら側が国道
47号が走っているメインストリートなんです。その対岸に村があります。小外川と言いまして、戸数が13戸の村でした。僕が訪ねたときにもう集団離村をしていたんです。橋をかけてくれ、橋をかけてくれという要望を出し続けて、結局ここにはかからなかった。上流の方にはかかっております。ここは結局、子供たちの教育のため、病人が出たときのためといった理由によって、ほとんどの人たちが離村していった。
頑固に、おれは離れたくないと言って残っていた一人の老人を僕は訪ねました。この家に暮らしていたのが加藤イサミさんという方でした。何年か前に亡くなられたので、ここは既に廃村状態になっていると思います。
幾ら話を聞いても僕には理解できなかったことがあります。この村の人たちはどうやって暮らしていたんだろう。田んぼもほとんどないというんです。明治20年代に開墾されたんだけれども、田んぼ仕事がへたくそで、ちっとも米はできなかった。いつの間にか放棄されてしまった。畑もほとんどないというんです。野菜をつくってもウサギやなんかに食われてしまって、大豆もつくれない。小豆ぐらいしかつくれなかったというんです。さすがに小豆は固くて、ウサギさんも手を出さなかったということなんです。
一体どうやって食べていたんだろうと不思議で不思議でしようがなかったんです。ところが僕が話を伺った加藤さんというのは、養子縁組で50年ほど前にここに来た人なんです。下流の立川町の農家から来ているんです。ですから、向こうの歴史がなかなかたどれないんです。そして、加藤さんが言うことでは、戦後はほとんどの家が出稼ぎをして食べていた。戦前はどうしていたんだろう。炭焼きをしていたというんです。そして、悲惨なことに昭和9年の凶作のときには、この村から、ほとんどの10代の女の子たちが身売りという形で売られていっている。そういう歴史もあります。僕は新聞で知っていたんですけれども、聞くことはできなかったですね。多分、その加藤さんと同い年の小学校では席を並べていた女の子たちが、みんな姿を消しているはずです。
それでは、炭焼きが始まる前は何をしていたんだろう。うまく歴史をたどることができなかったんですが、見えてきたのは、川漁がかなり盛んに行われてきたということです。全戸に舟がありました。もちろん渡し場もありました。明治10年の戸籍簿を調べてみると、戸数は9戸でした。その9戸のうち7戸が雑業、2戸が農業というふうに出てきます。2戸が農業というのも僕はほとんど信じていませんけれども、雑業というのは、恐らく川漁であったり、舟運であったり、そういう川仕事にかかわる仕事だっただろうと思われます。出稼ぎ、炭焼き、川漁や舟運にかかわる仕事、いずれにしても、ほとんど田畑がない。農民ではないんですね。川の民です。川の民の村の歴史が消えていく最後の場面に僕は立ち会ったんだろうと思います。
聞き書きの後に、いろいろな資料をあさり始めました。「新庄古老覚書」という近世の終わりにできたらしいんですが、さまざまな伝承を集めた本がありまして、復刻もされております。その本を開いてみると、小外川、ほかにクツガミとか何カ所かあるんですが、つまり最上川の国道47号が走っている方から見ると、対岸の5カ所ぐらいの村の名前が出てきて、その村々の始まりというのは、中世の末に最上ヨシミツによって置かれた川舟が遭難事故を起こしたとき、その救助をするために助ける「助け屋敷」と出てくるんですが、助け屋敷として最上川沿いの5カ所ぐらいのところに置かれた。その助け屋敷が始まりとなって村々の歴史が始まったというようなことが近世の末期の伝承の中に出てくるんです。果たしてどういう歴史があったのか。伝承の向こう側に広がっている歴史というものは確認できないですね。
それからもう一つ見つけたのが、名所図絵だったんです。これは庄内のどこかにあるもので、新庄史誌か何かに入っていました。出羽三山に参詣する人たちが、最上川をずっと使うわけです。ですから、その絵図を見ると、最上川を下っていくコウカイ舟とか、ヒラタ舟と呼ばれた舟、米を積んだ舟が下って行く。帆をかけているんです。あるいは、出羽三山に参詣する人たちがたくさん舟で下って行く。そして、空っぽで上ってくる舟もある。 そういう絵図を見るととてもおもしろいんですが、その絵図がその中心に描いているのが、小外川のすぐ傍らに隣接してある仙人堂というところなんです。今、白糸の滝ドライブインというところがあって、その対岸にこの仙人堂があります。舟をチャーターすれば渡れるんですが、この仙人堂のあたりの絵図を見ますと、明らかに修験の霊場なんですね。ちょっと持ってこなかったので具体的にはお話できないんですけれども、山の斜面一帯に修験にかかわるお堂とか地名がたくさん並んでいるんです。近世には恐らくここが修験の霊場であったということがわかる。そして、小外川と大外川という2つの外川の人々が、この仙人堂を守ってきたというふうに言われています。離村するときに、対岸の村の人たちに仙人堂の管理を任せた。それまでは、間い間、外川の人々がこの仙人堂を守ってきたんです。
そして、僕が話を伺った加藤さんのお宅には、「羽州外川山虫除仙人大権現」という掛け軸、そして仙人様のお姿の掛け軸が残っていました。加藤さんは、これは最上川から拾い上げたものだというふうに聞いているということでした。この仙人堂は、かつて田んぼにつく虫を除ける、退治する力があるということで、ここのお札が大変人気があったんです。みんなお札を買って行って、田んぼの水口にそれを差しておくと虫がつかないという、そういう御利益があったらしいですね。
その絵図を見ていたときに、僕がこれは衝撃を受けたんですけれども、小外川の集落の周りには魚がぴょんぴょん飛びはねている。多分、魚をとっていたんですね。舟も行き交っている。そして、その集落の中に「太子堂」という文字があったんです。太子堂というのは、聖徳太子の太子の堂なんですね。川岸にこの太子堂があるというふうに出てきました。恐らく200年ほど前の絵図だろうと言われています。今、太子堂は全く姿、形もありません。聞き書きの中でも、太子堂に触れられたことはなかった。ですから、そんなものがあるなんて夢にも思っていなかったんですけれども、その名所図絵の中には、この小外川の岸辺に太子堂があったんですね。いつの時代にか、水上がりで流されてしまったんだろうと思います。
改めて、最上川の中流域の村々で、なぜ渡し場の船頭さんたちがタイシと呼ばれたのかという最初の問いに戻りたいんですけれども、この戸沢村の小外川には、中世末期に遭難救助のためにつくられた「助け屋敷」だという伝承が残っていました。そして、仙人堂というすぐ傍らの霊場、修験の霊場とも深いかかわりを小外川の人たちが持っている。そして、太子堂があった。この村の川の民が太子信仰を携えていた人たちだということが想像できます。
こうしたか細い糸をつないでいくと、タイシという呼称の背後にある歴史というのが、少しだけ見えてくるんじゃないかという気がします。かつて最上川の流域にも、タイシと呼ばれた、そして太子信仰を携えて川の仕事に従う、物質の運送とか、交易とか、川漁という仕事に携わる人たちが点々といたんじゃないか。そのかすかな痕跡が、今渡し舟の船頭をタイシと呼ぶことに残されているんじゃないか、そんなふうに僕自身は想像しています。歴史の人たちであれば、このタイシということに大変関心を持たれるだろうと思います。
そして、このタイシという言葉の背後に、実はとても豊かな中世以来の歴史が、川の民をめぐる歴史がうずもれていることに僕は関心を持ってきました。荒川とか三面川に関しては報告があるんですけれども、最上川のタイシについてはほとんど報告もないということで、きょうはそんな話をさせていただきました。ちょっと長くなりましたけれども、終わります。
■懇談
赤坂さん御自身で歩いて、戸沢村を中心として最上川流域に残されていた昔からの伝承、信仰、それをめぐるワタリ、タイシたちの暮らしということが浮かび上がってきました。どうぞ、御質問、御意見をお出しください。
戸沢村のところは、最上川の関係でいくと、少し厳しい場所ですね。今いろんな産業のお話をされましたが、その中で鉱山、鉱物とのかかわりは先生の話の中に組み入れられるものがあるんでしょうか。例えば、最上川の水をとるのが非常に不便なところなものですから、どうしても沢水を持ってくるか、別のところから水を持ってきて、田んぼをつくったり何かするんですが、そのときに、比較的新しい地質なものですから、竹の先を細くして掘るとどんどん掘れていくんです。そういう技術をマンボとこの地域では呼んでいる。そのマンボの技術は鉱山技術から出てきたというふうに鉱山誌の方には書いてあるんです。川で生きるには大変難しい場所だけに、そのことと渡し、物を運ぶということが。最上川というと、米とか紅花とかそういうものに行ってしまうんですが、戸沢村の付近というのは何かそういうことがないのかなと。その鉱山技術をやっていた人たちの中に、たしか、「ひわたし」という姓の人が随分いる。これは桶という字に渡すなんですね。何かその辺の関係があるかなと思って。これは用水路なんかの懸樋の樋という字、渡すことを懸樋というんですが、そんなことをふと思いついて質問して申しわけないんですが、もし何かお考えいただければ。
先ほどの小外川の加藤さんは立川町から来ているんです。立川町の立谷沢川沿いのある村から来ているんです。それはちょっと確認してなかったんですけれども、実はその立谷沢川という川の最も上流に、砂金掘り、カネ掘りをしていた村があります。上瀬場、瀬場村というんですけれども、最上流の瀬場のあたりではかつて砂金掘りをしていまして、その先祖は新潟の方から移ってきたとあったと思います。そして徳川家康の許可状を持ち伝えているという伝承も、もう少し正確には読んでいただければいいんですけれども、出てきます。そのカネ掘りの技術もいろいろ僕はお聞きしたんですが、小外川に関してはないと思います。小外川の背後の山、そのさらにもっと奥の方の山には鉱山があるんですけれども、多分それとの直接的な関係はないと思います。 ただ、この村の始まりがいつなのかということも含めて、多分こういう瀬場の砂金掘りの村とか、川沿いの川の民の村とか、いわば井上鋭夫さんが「山の民・川の民」というふうに呼んだ人たちが、中世の末期あたり、かなりこの最上川沿いの河川流域にもいろいろ動いてきて、少しずつ定着して、さまざまな歴史をつくっていったんじゃないかということぐらいは想像できるかなと思っております。
実はその付近は1966年に大きな水が出まして、あの辺一帯は非常にひどかったんです。その調査をしているときに、例えば戸沢村古口なんかは、今は最上川の舟下りなんかやっていますが、そういうところの柱に、何年というのをやっているんですが、かなり古い400〜500年という傷が入れてあるんです。恐らく日本で柱の傷を入れて洪水をあらわしているのは、そこが一番古いかなというふうに感じました。今言われたような立谷沢川の砂金とりは、運ぶときに雪解け水を使ったという話が出ております。そうすると、少し遠いところの鉱山の方も何かあるのかなと。ただ、対岸の鳥海山の方には余りないですね。
さっき赤坂さんが、井上鋭夫さんの「山の民・川の民」を引用なさったときに、その中に、中世、近世の修験者に同行して一緒に金山掘り、鉱山掘りをやった男たちがいて、やがて修験道がすたれるとその人たちが川端におりてきて川の民になったんだというけれども、山から川におりた後は、もう山はいないわけですか。
いや、そんなことはないです。大体山の民と川の民というのは一緒です。山仕事、狩猟をやったり山菜、キノコ、木の実をとる名人は、大体川漁の名人でもあるということです。
そういうときは川と山が本当にくっついているわけですね。すぐ山なんですね。
僕が5、6年前にずっと歩いたんですけれども、川の民の姿というものはほとんどないんです。川と人間というのは本当に切れてしまっているんです。でも、かろうじて聞き書きの消えていく薄闇の中で、川の民が出てくるんですよ。例えば、サケの大助という有名な伝承があるんです。大きなサケが上ってくるときには、みんなでドンチャン騒ぎしてその声を聞かないようにする。「サケの大助、今上る」という声を聞かないようにするという伝承があります。「サケの大助、今上る」と叫びながらサケが上ってくるらしいんですよ。その伝承というのが非常にダイナミックなんです。山で牛をワシにさらわれたので、ある男が毛皮をまとってワシをつかまえてやろうと思って待っていると、来て持ち上げられてずっと連れて行かれるとその先が佐渡であったりとか、玄界灘であったりとか、海のかなたなんです。そこからサケの大助の背中に乗って、やっと村に戻ってくるという伝承があるんです。今の話はいいかげんですけれども、山と川と海をつなぐ非常にダイナミックな話で、恐らくサケが上流で産卵して、産まれて、海に行って、また帰ってきます。それをサケの大助伝承がたどっているんだと思うんです。そういう伝承を伝えていた人たちの姿がかろうじて見えるんですけれども、どうも川の民なんですよ。今は川の民なんて全く姿がわからなくなっていますから、伝承としてしか研究されていません。
何でサケの大助が上ってくるときに、その声を聞かないようにするんですか。
それは、産卵するサケを全部とってしまったら資源の保護にならないわけです。だから、ある時期はヤナをあけて、そこを上って行くサケを全部通す。そういうサケ漁の知恵とかわざが伝承に託されているという側面があります。
サケの大助という名は伝承ではしょっちゅう出てくるんですね。文学の方ですとギョチョウヘイケといいますか、大変滑稽な動物の世界を人間のあれに映した室町時代の物語りで、サケの大助がたしか出てくると思うんですけど、そういう呼び名なんかも、遠くそういう伝承と無関係ではないのかもしれませんね。 それから、今渡しのことを伺ってふと思いましたのは、中世の説話文学の伝承で、ゲンピン僧都が渡し守になったという話があります。奈良時代の高僧で、ゲンピンは非常に朝廷から重じられるんですけど、名利を嫌って、朝廷から僧都か何か叙せられそうになるのを嫌って逃げて、それで渡し守になったという話があります。何かもともと宗教にかかわっている人たちが、そういう渡しなんかになっていくんですかね。それから、センジュショウなんかにも、やはり世捨て人が名利を嫌って、寺院から行く方をくらまして船頭になるというような話がありますね。ですから、実際のこういう民俗をある程度反映しているのかなと思いながら伺っていました。
世捨て人になって船頭というか渡し守になるというのは、その因果関係は何かあるんでしょうか。
僧侶というのは彼岸から彼岸に渡すということで、渡し守というのは非常に罪のない仕事というのか、むしろ人を救う仕事だというような説明をしておりますね。
河川法改正が平成9年になされたわけですが、その折、「河川環境」という言葉を考えたときに、人と川とのつながり、かかわりみたいなものをずっとイメージしておったんですけれども、まさに渡し守といいますか、そこがある意味で一つ原点かなという思いでずっと聞かせていただきました。 先般、白神山地のマタギの方とお話をしていましたら、マタギというのはズドーンの方の猟師と見られていますが、川の魚釣りの漁師の面と両方持っているそうです。山の民・川の民というのはどういう定義で使うのか私はよくわかりませんが、確かにズドーンと撃つ方も余り確率がありませんから、川の方の漁と一緒でないと生活が成り立たないんだというふうに話をされておりまして、もともとズドーンの方のベースには川の民といいますか、そちらに生活の基盤を置いて、こちらの方はある意味では上がりみたいなところがあるという感じで私は受けとめています。
僕は山の民・川の民、今出てきている話でも、かなり系統がいろいろあると思うんです。秋田のマタギとか狩人たちは、あの地方に既に定住している人たちで、その人たちが、秋田の阿仁マタギなんかはそうなんですが、旅マタギでどんどん移動して、その移動した村々で技術を教えて定着したりとか広がっていますけれども、今のこの話に出てきたタイシ系の人たちは、南の方から北に上がって行っているという感じです。全然感触が違うんですよ。
この渡し、タイシの人たちは最上川の舟運には携わらないんですか。米を運んだり魚を運んだり。
かつてはかかわっていたと思います。渡ししか結局残らなかったんです。だから、最上川舟運は、近代になって鉄道、道路網、交通網ができると一気に没落していきます。近代の中では、アタゴを運ぶという形が最後まで、戦後間もなくまで残ったんです。それが終わってしまう。そうすると舟運がなくなってしまうし、川漁と言っても川魚は余り需要がなくなってくるし、見えになくなっていったんだと思います。
そういう渡しが始まったのはいつごろなんですか。ずっと昔は、多分最上川ぐらいの川だと長い間渡れなかったわけですね。始まったのはいつごろなんですか。というのは、謡曲では三井寺なんかでも渡しが出てきますね。近世に入ると、落語にしても浪曲にしても、よく渡しのところの情景が出ていますが、古いところはどの辺ぐらいまでさかのぼるんですか。
それはもう古代からです。「古事記」応神天皇の巻のウヂノワキイラツコの話に船頭が出てきますから、古代と言ってもいいですね。
最上川の渡しも、本当に舟をこぐだけですか。鉄条が渡してあって、それに金輪を引っかけてグーッと行くとか。
いろんなスタイルがあるんです。上流の方まで一たん行って、そこからくさび形におりてくる。流れが強過ぎれば、ワイヤーを渡してそれに引っかけて行くとか、いろんな形があったみたいです。事故があるたび安全に安全にということで、最後がワイヤー形式だったんだと思います。
船乗り、船頭、魚をとる漁師、昔から非常に文学に好まれますね。農民というのはなかなか文学に出てこない。おもしろくない。漁師というのは格好がいいんです。自由度が高い。昔は漁師というのは、漁夫の何とかの詩がありましたね。屈原ね。それから、禅画の墨絵の中にも、カンコウトクチョウズですか、寒い川で、木の葉のような舟を浮かべて漁師が魚を釣っている。それは有名なバリンかなんかの絵になっている。それから、陶淵明の「桃花源記」の中で、桃源郷を発見するのは漁師だしね。要するに行動が自由で、行動範囲が広くて。農民というのは、一つの村に生まれたら、もう一生その村から出ることはない。一生に1回ぐらい、どこか隣町に行ったことがあるというようなことで。それから、薬草とりは山の中に入って行って自由に自分のプランで動く。そういう人が桃源郷を発見する。農民とか、教師とか、お役人には絶対桃源郷は発見できない。それは陶淵明がはっきり書いているんです。非常におもしろいと思うんです。
日本文学で王朝から中世ぐらいですと、やはり農民の方が多いと思うんです。農耕の年中行事が多いと思うんです。もっとも漁夫、ショウシャというのは対句的に、これは中国文学の影響だと思うんですが、中世ぐらいになると両方がよく出てきます。
タイシという呼び名が、もし太子信仰との関係でということであるならば、きょう先生からお話があったのは山形、新潟のお話でしたが、日本海側をさらにさかのぼって、秋田、青森でもその呼び名というのは発見できる可能性はあるのでしょうか。
どうでしょうね。あるとしたら秋田の雄物川沿いあたりの舟運にかかわって、あそこあたりが限界だと思います。
僕が子供のころ、今でもあるかもしれないけれども、おだいしさまという太子堂があちこちありました。いつだか、ちゃんとお祭りもあって。何の太子か全然知らないけど、おだいしさんと言って。山形市内の三日町を東の方に上って行って突き当たりのところ。今もまだお社がありますよ。
それは職人の方だと思うんです。大工とか職人が太子信仰を持つ。
川の民は、この辺は羽黒山に近いわけだから修験道とつながる。つながらない。
どうでしょうね。つながると思いますけれども。
羽黒山を開いたのは聖徳太子ではないけど、別な太子でしたね。こうやると、いろいろ日本史でわからないことがいっぱいあるんですね。
 
全国一級水系の和歌と祭り

前回の懇談会の際に、歌枕というのは日本全国の地誌を網羅していて、そういったものを調べることを通じて、川の姿というのが勉強できるのではないかという御指摘を受けまして、今回、和歌と祭りという調査について発表させていただきます。和歌と祭りだけということではないんですが、とりあえずできたのはこの2つということでございます。座って御説明させていただきたいと思います。 まず、調査の趣旨でございますが、私ども平成9年に河川法を改正しまして、河川環境の整備というものを河川局の業務の目的の一つに追加しておりますが、今までの取り組みとしては自然環境、例えば生態系の保全とか景観への配慮についての取り組みはこれまでいろいろしてきたんですが、歴史・文化という切り口での環境整備というのは、なかなかまだ目が行ってないところでございます。 そこで、私どもの管轄している全国の一級水系は全部で109ございますが、これに係る川の情景を詠んだ和歌、あるいは、川と人とのつながりが理解できる祭りというものを網羅的にリストアップして、今後の河川整備に役立てていこうということで調査いたしました。今のは資料3−1でございます。 そういった調査結果をどんなふうに使っていくのかという見本として、資料の3−2でございますが、最上川・北上川の和歌・祭りを通じて川をどうとらえ、どう生かしていくかということをつくってみました。 (中略) こういった使い方を予定しておりまして、全国的な調査をしたリストが、資料3−3として用意してございます。 (中略) 以上、私からの御報告を終わりにしたいと思います。
■懇談
福知山の由良川の堤防祭りは、環境問題で言うと大変皮肉なことでして、ずっと堤防があったことはあったんですけど、地震で崩れちゃったんです。平場が余りないものですから、余り大きい堤防もできない。それから、勾配がきついので、洪水になると、洪水になっている時間が長くて悩み抜いていたところなんですが、初めて鋼矢板という鉄板を入れることをやったんです。それでもってわずかの面積で非常に強い堤防ができたということで大変感謝されて、それを採用した岩沢さんが、岩沢堤とあえてつけられたくらい地元では大変な感謝をされまして、それが今の花火大会まで続いているということですね。
矢作川ではなくて、矢作川に入る巴川だったかな、あそこも毎年8月の第1土曜日は大花火大会をやりますね。なかなかの見もので、私は毎年夏、第1土曜日はそこに行くようにしております。やはり、川と花火というのは非常に相性がよくて。あれ、山でやってもしようがないですね。危ないしね。
福知山のやつは山車が出るんです。花火をやる前に、みんな回るわけです。山車が回るところが排水門とか、ポンプ場とか、いかにも治水の祭りということを出していますけど、地元としては非常になじんでいます。最近は、そういうポンプ場とか、施設とか、鋼矢板というのはものすごい悪口を言われますけど。ここの場所は、もともと鉄道の要衝なんで、そういう面では鉄路の拠点地みたいなところなんです。そんなようなこともあったのかもしれません。
堤防神社というのは、本当にそういう名前ですか。何だか随分殺風景な名前だな。
もう一つ、治水感謝祭というのが北海道であるんですけれども、これは保原元二さんという北海道の役人の方の功績で、これは保原元二さんを祭ったんですが、御神体は日高から持ってきております。この2つだけが治水祭りだと思います。
木曽川の平田靭負ところもあります。そのほか、もっともっとあるんだと思います。
そうですね。特に今御紹介になっていた近代のやつは極めて珍しいですね。近代人の河川の技術の人がそのまま神様になるというのは、大変すごいインパクトというか、強引というのかわからないですけれども。
祭りを取り上げるクライテリアといいますか、琵琶湖はだめというのは全然説明になってないと思うんです。昭和56年からもう20年たっているわけですね。だから、200年たてばいいのか、20年だとだめなのか。
琵琶湖に関しては、確かに年数としてはあるんですが、いわゆる川と人とのつながりを理解するのに役立つかどうかという観点で、イベント的かと思って、こういう整理にしております。
それは全然曲解じゃないかな。別に私は第3回世界水フォーラムがあるからと滋賀の肩持つわけではありませんが、多分、世界湖沼会議で湖沼の問題を考える、それをずっと続けていこうということのはずなので、それなりに水の問題を考えるという意味では、はずす理由には僕は今の御説明では全くならない。逆に、入れるべきだという御説明のように聞きました。
この歌枕というのは、万葉以来の日本の勅撰歌集の中に出てきたような歌、そこに詠み込まれた地名、川の名前を選んで、それを網羅して、川の名前からも歌が引けるようにしてあるわけですね。
どうも万葉に1回出たぐらいでは、初めは歌枕とは認定してないんですけれども、万葉の歌を本歌取みたいな形で中世なんかで詠みますね。そうすると、もう歌枕になると思うんです。たった1回だけというのは、厳密に言うと歌枕とは言えないだろうと思います。
ああいう歌枕の編成というのは日本だけですか。中国にはないでしょう。大体平安、鎌倉のものは。揚子江というのはあるけれども、あれは歌枕というのかな。それから、三峡とか、あれはよく詩歌に出てくるけれども、歌枕というのとちょっと違うんだよな。一種の歌枕ですか。それから、五山。泰山とか、衡山とか、廬山とか。ああいうところから来たんですかね、歌枕というふうにして地形で文学とを組み合わせて、いわばインデックスをつくるというのは。
これは外国の影響というよりは、日本的なものじゃないでしょうか。中央政治の支配とは非常にかかわってくるので、中世になると、特に後鳥羽院なんかは、かなり政治的な意図で歌枕を名所として。それこそ、宰相しているのにショウジワカというのをやりますから、そうすると中央政治の支配が行き渡ってないところは非常に歌枕は少ないですね。四国はほとんでないです。
歌枕にしてやって、中央の支配を自覚させる。表彰する。
それから、官人が受領なんかになって行きますね。それで、いろいろ東北のものを歌う。それで、都びとに、東北にはこんないいところがあったということを伝えます。そうすると貴族たちは行かないで、ただ想像するだけですけど、歌枕にする。平安の後期ぐらいになると歌学びの本ができますね。そこで歌枕がリストアップされて、この歌枕にはこの景物を詠むのがいいんだという、そういうハンドブックができちゃいますから、どうしてもそうなっちゃうんです。
俳句は一応それを排除するわけですね。
芭蕉なんかは受け継ぐと思いますよ。歌枕を見に行くわけですから。歌枕の歌集がたくさん中世から近世にかけてできまして、その中で「マツバメイショ和歌集」というのがあるんですけれども、それは芭蕉の愛読書だったようです。しょっちゅう座右に置いていて。ですから、芭蕉は陸奥の歌枕は非常によく知っていて、一応その歌枕を見に行くということで。また、芭蕉の研究者に言わせると、知っているところばかり寄っているんだというんですけど。
最上川というと、「いなにはあらずこの月ばかり」と。最上川というと稲舟、稲舟というとつまり農の稲、そういうふうにつながっているけど、そんなことは芭蕉は全く関係ないでしょう。最上川を詠みはしているけれども。
連歌の中では大分それを使っているんじゃないですか。芭蕉も。
使っています。歌枕的発想をね。芭蕉は「五月雨をあつめて早し最上川」と言ったときは、最上川というのは歌枕として言葉では使われていたけど、しかし、「五月雨をあつめて早し」というところは全く新しい。歌枕の系譜は、最上川という地名に入っているだけであって。 それから、最上川で舟に乗ってみたら、だれでも「あつめて早し」というのではなく、初めて芭蕉が言った。「五月雨をあつめて涼し最上川」、それが「早し」になって。それで、舟に乗ってみて、これは「涼し」どころじゃない、「早し」だと。最上川はダーッと行きますからね。しかも、「あつめて」というのが見事な把握であって。最上川の背景にある吾妻連峰から、朝日岳から月山、それから奥羽山脈、蔵王山、あの辺の山形側に降った水は全部最上川に合流していくわけですから、「あつめて早し」と。芭蕉はそういう地理的観念が非常に頭にあったんだと思うんです。「奥の細道」を読んでいくと、かなり彼は地理的に、頭の中にその土地の図形が頭にあって、それで書いている。地図を持っているんでしょうね。でも、あの当時の地図だよね。等高線なんかあるわけないから。寒河江川も、米沢の川も、結局はみんな最上川に集まっていく。そのことを踏まえて「五月雨をあつめて早し」だから、あの歌は山まで詠んでいるわけです。だから世界水フォーラムのモットーは、この芭蕉の俳句を一つ置けばいいね。 それから、今、山の木を増やすと川がきれいになるとか何か言うでしょう。それもそういうところで言っている。「五月雨をあつめて早し」の「あつめて」という中に。山の斜面に降って、それが滝になって、谷川になって、支流になって、結局最上川に集中していく。その過程を全部詠み込んだ。その動詞の使い方一つで、芭蕉は天才であった。それから、行った先が「あつきひを海に入れたり最上川」でしょう。これも海と川と山との関係、歴史との関係を置いて、これ以上の詞はちょっと世界文学にないんじゃないかな。
ただ、今の話はエジプトの連中にしてはわかるかといいますと、カイロは年間降水量が30ミリですから、どうしてナイル川が増減したか彼らは全然わからなかったはずなんですね。ですから、星占いとか、星を見てとか、そういう技術が発展したんだろうと思います。彼らには水を集めてナイルが流れているという感覚は全く持ち得なかったんだろうと思うんです。ですから、日本の俳句とか日本の文学は、日本の川の特性を踏まえて成り立っていると思うんです。 これは一つ私の希望なんですが、例えば飛鳥川なんかで、万葉からずっといろいろ詠まれているはずですね。これはもう空間的に集めていますが、時間的にある特定の川でずっと集めて、その流れの中で、今の飛鳥川なら飛鳥川をどう考えるべきかという、そういう議論を1回ぜひもらえると僕はおもしろいんじゃないかと思います。そういうところもこの懇談会のねらいの一つじゃないかと思っています。
去年の2月でしたか、一度、千田稔さんを船頭にして飛鳥川に行きましたね。何か水がちょろちょろでしたね。それでも、明日香村の方はよく保存されていてありがたかったです。 巻向の川というのは今もちゃんとしていますか。巻向の穴師川の瀬音が高いから、これは巻向の山に今きっと嵐がきているんだという人麻呂の歌がありますよね。あれはやっぱり、「五月雨をあつめて早し最上川」の原流になっている。山と川が。特に日本では、急斜面に雨が降って、すぐに滝になって、谷川になって、急流に川に注ぐ。だから、人麻呂の歌もあるし。川の波音が高くなってきた。つまり今、山で嵐がきているんだろうということで非常に不安な感じもある。それから、「五月雨をあつめて早し」とは、ちゃんと日本の地形の基本の型をつかまえている歌だと思うんです。
ちょっと補足ですが、川の問題を考えるときに、流域単位で考えるべきだというのが今やっと世界的認識になってきておりまして、そういう意味で言えば、日本ではまさに柿本人麻呂の時代から水循環というか、それをアプリオリにつかまえておったんです。これは世界全体の中の比較で言えば非常に特異な事例で、大体雨の水が降って、それがいずれ川に出て、そして海に行ってまたというこの水環境は、レオナルド・ダ・ビンチなんかも全然実感できてないんですね。あのイタリアに住みながら。やっぱり幾らかタイムラグがあります。これを実感できているのは、水問題を考える上において、私は日本人はものすごい特性を持っているんだろうと思います。
だって、自分たちの住んでいるところのすぐ裏に山があって、あそこの山に雨が降ったら、さあ、川は大変だというのはすぐわかるわけでしょう。それが大きな川に入って、例えば最上川なら海に出る。大体、山の民でも川沿いにいろんな情報が入ってきているわけだから、これが海に出て行くんだということがわかっていたんでしょうね。そうか、エジプトじゃわからないか。
わからない。全くわかりません。そういう問題を考えるのに一番適した世界のモデル河川が、日本の川だというイメージだと思います。
昔から水利の技術が発達し伝えられてきているわけですね。水利をやってなければ年じゅう洪水を浴びているわけで。この歌枕をこうやって集めて、国土交通省としてはどう使いますか。
やっている立場からちょっと申し上げたいと思いますが、今はまず先生方の御指導のもとに全国的にあらあら調べたんですが、やはりこういうことについて現場の事務所の所長なり課長なりが理解して、常にこういうことを念頭に置いた河川整備をすべきであると。先ほど尾田先生からも流域を考えなければならないという話が出ていますが、当然、川の上流から下流、流域を見た上で、その歴史・風土をバックボーンとして、環境の中の今までは景観、それから、エコロジーにきたんですが、やはり歴史・伝統・文化ということから見ると、人とのふれあいも非常に大切だと。それで、最上川とかそういう舟運の復活も必要でしょう。祭りによって地域活性化も必要でしょう。画一的に例えば多自然型とか、水辺整備とかやるのではなくて、どの場所がどの特徴を持っているから、こういう整備、こういう祭り、こういう舟運が必要なんだというのをみんなで理解した上で、少ない予算を回して河川整備に持って行きたい。その理解を深めるために、各所長さん方にわかってもらうために、今後頑張りたいと思っています。
各現地、現地で地元固めになるわけですね。この川はこういう歴史があって、昔から歌になったり俳句になったりして、それが地元だけではなくて日本国民全体に分かち持たれて、この川、あるいは一般に「川」というものについての日本人の考え方をつくり上げてきている。今の国土交通省の各地方の河川の事務所は、その先端を担っている。過去と現在を結びつけるエージェントである。重要な役割を持っている。過去を生かしながら現在を守って、よりよき未来につなげる。 やたらめったらに現在を変えてはいけない。なぜなら、過去にはこれだけの、この土地に住んだ人、この川を詠んだ人たちのこういう思いが託されているのだから。それを無にしてしまうような形の改修とかそういうことを考えない。なるべく生かすようにする。人々の霊、思いがそこに込められている。
現役の皆さんは言いにくいところがあろうかと思いますので、私の方から申しますと、やはり、敗戦後何とか経済復興しようということで、少々の雨が降っても氾濫しない川にしたいということで、治水優先でずっとやってきたのが事実なんだろうと思います。その結果が今の日本の川の現状で、確かに少々の雨が降っても、少々の大きな台風がきても、死者を出すとかそういう大きな被害が出ないところまで、確かにきたんだろうと思います。もちろん、超大型といいますか、アイオン、キャスリンクラスが来れば話は別ですが、そういう現状まできて、日本の川を翻って見たときに、本当にこれでいいのかという反省が、川の管理をしている人の胸にあるんだろうと思います。 これから、川が本来持っていたいろんな機能を充足するような本当の意味での川づくり、それぞれの川の個性を持った川に仕上げていく。そういう作業をするときに、今時点での物の見方ではなしに、長い歴史の流れの中で今の現在があって、それを今後どう考えていくべきか。その軸で考えるときに、我々のよすがになるのは、こういう古くからの歌であり、和歌であり、文学である。だから、そういうものをもう一度訪ねてみようというか、そういうものがある意味では唯一の指針になるのではないかと思っています。 それから、川が本来持っているいろんな機能を満足するような川に、これからある意味ではつくり直していく。これからやっとそういうことができるところまで、とりあえずばたばたと敗戦後、走ってきたんじゃないかという感じがしております。
事務局の方に御質問したいんですが、和歌、祭り、能ときましたので、きょうの赤坂先生のお話ともかかわる部分があるかと思うんですが、例えば今後この資料をさらに充実化させて、昔話とか説話といった分野で、河川の資料というのをぜひつくっていだだければなと思うんです。
絵もあるし、写真もあるしね。さっきの赤坂さんの話に出てきたような、いろんな聞き書きもしなければいけないですね。
そうですね、すでに活字化された昔話の集成のようなものではなくて、今も人々の中で生きているそういった聞き書きとか、伝承とか、芳賀先生の先ほどのお話にもありましたが、結局、土地に暮らす人々の記憶の深いところに流れている川との接触という問題を考えるときに、多くの庶民は、万葉集や古今集を知らずに一生終える人もたくさんいたわけです。また、松平定信の記録の中に、私は現物は見たことはないんですが、諸国全国の歌枕の地を家臣に旅をさせまして、そこここの土地に伝わる話など聞き書きしたものが、まとまってどこぞやにあるといううわさを聞いてはいるんですけれども、そういったものも今後、本来は歴史学なりの方が発掘していただけるといいと思うんです。あと、江戸時代のころの随筆のたぐいに分類されているようなものの中にも、河川と説話や聞き書きのようなものが、まとまっている形ではございませんけれども、入っておりますので、明治以降途切れてしまった記憶が、そういったものの中からも多少は拾遺できるのではないか。きょうこの資料をお示しいただいただけにそれを感じました。
大変な御苦労をなさった資料だろうと思います。これが単に目先の批判をかわすためにやっているということでないといいなと僕は思いながら見ていました。 実際、僕が聞き書きして歩いていても、昭和50年代に戸沢村の古口に特殊堤防ができるんです。それまでは、あそこは本当に年がら年じゅう水びたしになっている、大変な水上がりとの闘いの歴史を刻んできた土地なんです。やっと特殊堤防ができて、洪水、水上がりから解放される。立谷沢川も大変な暴れ川で、もう聞き書きしていると竜神信仰がたくさんあるんですね。もう神にすがるしかないような。そして、木とかで足場を組んで、洪水のときに一生懸命に立てて、対岸に水が流れるようにする。そうするとまた向こうでやる。そういうけんかのようなことがもう命がけで行われた。そういう歴史がついこの間まであるんですよ。 ところが、とにかく堤防ができた。治水がかなりきちんとできた。そうした歴史はすぐに人間は忘れちゃうんです。忘ると同時に、忘れることを非難するよりも、多分人間と川とのかかわりをめぐる歴史というのが、新しいステージに入ったんだと考えるべきじゃないかと僕は感じています。 つまり、高い堤防を建てることによって、確かに洪水や水上がりから人間は解放されたんです。それが同時に、人間たちが川とかかわってつくってきた歴史そのものをまた消しちゃったんですよ。川がすごく遠くに行っちゃったんです。川が遠いということは、川にごみを捨てても何も感じないわけです。川とかかわる暮らしというのがあれば、川を汚せば魚がとれなくなる。そういう具体的な日常の場面で自分にはね返ってきますから、そこは川とのかかわりも大事にする。人に言われなくても、村じゅう総出で、川が汚れてくれば浚渫工事をみんなしていたんですよ。川さらいをみんなやっていたわけです。そういうことも全部それこそ建設省や国土交通省に押しつけてしまった。それは、人と川との距離が非常に遠くなってしまったということが大きいと思うんです。それをこれからの新しいステージの中では回復しなくてはいけない。こういう歌枕とか祭りの調査というのもそういうことだろうと思うんです。 ただ、僕は今、5年ぐらいかけて最上川の調査研究をやろうと思っているんです。膨大な仕事があるんです。県も、最上川をきれいにするということで大きなプロジェクトを立てているんですけれども、文化にはさっぱりお金を出さないんです。出さないなら勝手にやってしまおうと思って、いろいろ考えています。5年かけて最上川の映像史をつくってみたいと思いまして、予算も自分のところでつけたんです。今撮りたいと思って、映画をつくろうと思っているんです。それも、自腹でやれる限りやろうと思っているんです。
今お話が出たような取り組みは全国の川で始まっておりまして、例えば千曲川では千曲塾というのが始まっています。これは1年ぐらい経過しているんですが、今まで河川管理者が物を知っておって、地元の人たちに教えるという形で接しておったわけですが、そうではなしに、本当に川のことは流域の方たちが御存じなのではないか。まず流域の方たちの教えを請うという取り組みが既にありまして、数カ月に1回ずつ地元のそういう方にお話を伺う。伺うのはまた流域の人たちというような、そういう取り組みが進んでおります。そういう取り組みの一つの形態として、具体的なこういう形でやっていこうというのが出てくれば、それを受けて地元の現地の事務所で対応をしていくことが、全国でこれから起こってくるのではないかと思います。そうなってくると、それぞれの川ごとに川の特性にあわせた具体的な取り組みが出て、それが一つのデータベースとして将来残っていくということになっていけば、すばらしいなと私は思います。
それは四国の吉野川でも同じようなことをやっているし、あるいは上流地域、中流地域、下流地域に分かれて、それぞれ河川浄化の問題から河川の研究までやっているけれども、しかし、最上川のところみたいに、大学の中に非常にしっかりした研究組織がイニシアチブをとって、それをきちんと学問的な形にまとめようとしている。それはなかなかないんです。今の千曲川だって、地元の人たちが集まって動き始めているだろうけれども、それを信州大学がきちんと受けとめてやるというのならいいけれども。学問的水準まで行っている河川研究は、まだちょっとないんじゃないかな。石狩川でも、信濃川でも、吉野川でも。吉野川でも、いわば地元の人たちの市民運動というものは県の推奨もあって動き始めているけれども、このように、これだけの本もあって、蓄積があって、それで映像から歴史、民俗まで含めて、一級河川の流域をずっと研究をやるというのは、非常に重要ないいモデルになりますね。
ただ、私これ(歌枕と祭り)の作業をなさった初めのころ見せていただいたんですが、歌枕と祭りをお取り上げになったのは、とてもおもしろい組み合わせだと思うんです。これは多分この資料づくりで終わったのではなくて、河川局関係で全国規模で作業をなさっていらっしゃるということですから、大変なものだと思うんです。これを正確性を期していけばいろいろ使われていくと思うんです。
今度の世界水フォーラムまでに、この川の「歌枕集」をつくってしまうといいね。それで英訳ぐらいつけて。大したお金じゃなくてできますよ。
世界水フォーラムの話が幾つか出ましたけれども、私どもで、「水と文化」という展示を行いまして、そこに活用していくこと、それから、「水と文化」というセッションも用意されておりまして、発表したいと思って登録しています。
ちょっと補足しますと、「水と文化」ではフランスが非常に熱心でして、フランスと日本とアラブと3つの例にとって、水と文化の関係を展示で表現しよう。これ、京都でぜひやりたいという提案がきておりまして、そういう方向で多分動いていくんだろうと思います。どういう内容になるかは、今日本側とフランス側で話を詰めているところです。フランスに水アカデミーという、アカデミ・デ・ローというのがつくられておりまして、日本水アカデミーをつくってはどうかという提案もあります。これはぜひやりたいと思っております。そういうことになりましたら、よろしくお願いいたします。
 
斎藤茂吉の最上川1

今日は私が最初に「斎藤茂吉の最上川」というのでお話をいたしまして、それから事務局の方から「和歌に見る最上川の変遷」というご報告もあります。それから今日の夕方から明日にかけての北上川についての、北上川流域探訪について担当の方々からまたお話をいただくということになっております。私のは今日ここに資料をコピーしてお配りいただきました。「芭蕉と茂吉の最上川」というふうになっております。斎藤茂吉だけではなくて、併せて芭蕉も入れておきました。芭蕉の最上川下りもさっき出発点からいま芭蕉が上がってところまで下って来たわけです。これは皆さんよくご存じですし、大石田に寄って、これは元禄2年だから1689年でしたかの旧暦5月28日から6月1日まで大石田にいたわけで、陽暦に直しますと7月14日から17日、だから今日見たあすこの連歌の写しのところに元禄2年仲夏とありましたね。5月末から6月の初めですからやっぱり仲夏でいいのかな。ちょうど夏は4、5、6月の3カ月が夏で、7月になりますと秋になるから、ちょうどその夏の終わりから、出羽三山に入って行った頃は秋の初めということになるわけです。だからその頃の村山地方というのは、その季節では非常に暑い季節で、その暑い季節の中でちょうど五月雨の時期でもあるわけで、雨が多い6月末から、今の暦で言うと7月の初めになって、いろいろ台風も来始めるという頃でありまして、なかなか水も多かったし、暑い季節でもあったろうと思います。
ちょうどここに大石田のところを引いておきました。これは非常に調子のいい文章なので、読んだだけで気持ちがよくなる。読んだだけでなんか芭蕉が分かってしまうという、そういう文章であります。ですからちょっと国語の時間という感じで、高橋先生は国語の先生ですが、私は国語ではないんですが、まあちょっと読んでみましょう。
最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。
ちょっと天気が悪かったんですな。それで船はすぐには出なかった。
ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
うまい文章ですね。簡潔で、しかもいろいろな古語をちゃんと使って、典拠のある古語をみんな使って、「忘れぬ花の昔」というのは何ですか。注を見ますと種からの縁語で花と出てきたんですね。昔から、この東北は東北でそれなりに歌とか俳句の風流がちゃんと伝わってるわけです。だからこれは元禄年間あたりになりますと、大体日本中に俳句のネットワークが出来ていて、あちこちでちょっとしたお金持ちと言いますか、商家とか豪農とか、それからこの大石田のようなところで船問屋をやってる人とか、そういう人ですと大概、この元禄前後の頃になりますと、もう俳句をやっています。芭蕉はその俳句のネットワークに従って追っかけて奥の細道の旅をしたわけですね。行った先々に必ず芭蕉の名前が既に知れていて、江戸の情報がどんどん入ってきていますから、芭蕉先生がいらっしゃると言うので大勢で待ち受けているわけです。尾花沢の鈴木清風のところなんかもそうでした。あれ山刀伐峠からにわかに芭蕉が現れて「おーどなたですか、芭蕉先生ですか」というわけじゃなくて、もうちゃんと何日か前に連絡がいってるんじゃないでしょうか。これから行くぞと。それで鈴木清風のところでは、家の中もきれいにして、江戸からいま一流の、元禄年間に入った頃は芭蕉は江戸でも名高い第一線の前衛詩人ということで、よく知られていましたから、その俳人が来るというので鈴木清風も待ち構えていた。清風さんは紅花問屋でしたね。大きないい家に住んでいらっしゃった。今でも尾花沢に鈴木清風のお宅が残っております。今よりもっと趣があったでしょう。庭なんかも広くて。今は庭もなくて、ただ道路からすぐに入り込むようになっていますが、もっと風情があったんだろうと思います。あそこでもなかなかいい俳句を作っています。
涼しさを わが宿にしてねまるなり
というんですね。「ねまる」というのは尾花沢あたりの古い方言だったそうですね。ねまるというのは寝ころぶという意味ではなくて、こうやってくつろぐことですね。ゆっくりと座ること、あぐらをかくこと。それを「涼しさを わが宿にして」というのは、これまた芭蕉でないと出てこない、いま考えてみても非常に、断然ハイカラな、モダンな、詩的なとらえ方だろうと思います。涼しさ、そのフレッシュネス、フレッシュエア、それ自体をわが宿にする。つまり芭蕉は尾花沢ではその涼しい風の中に泊まったわけですね。そこで私は、その涼しい風を自分の周りにたたえて、そこでゆっくりくつろぐのだというので、考えてみるともう一種シューリアリズムみたいな、そういう詩です。だから1920年代とか30年代になってフランスあたりでシューリアリズムの詩の運動が出てくるわけですが、あんなのは芭蕉から見ればちゃんちゃらおかしいというようなものですね。俳句というのは意外に前衛的、今日からみても先端的な、前衛的な詩で、それがあるゆえにいま世界中に俳句が広まっていて、西洋、アメリカやヨーロッパの詩に非常に深い、深刻な影響を及ぼしつつあります。ものの捉え方、ものをぎりぎりに、これ以上絞れないところまで絞ってものをつかまえる。その焦点が強いから、深いから、捉えたものの奥行きがその詩の中に入ってしまうわけですね。
そういうことをいま俳句はヨーロッパの詩人たちに教えているわけです。ヨーロッパの詩というのは長ったらしいんですよ。議会演説みたいな、あれは建設省なんとか局報告書みたいな長い長い詩でね、それで神がどうだの、天と地がどうだの、人間の運命はどうこうで、歴史はどうこうで、男と女はどうこうで、死ぬということはどうこうでと、そんなのは哲学の本で書けばいいものを詩の中で述べる。だからわれわれから見ると、これが詩かというようなのがヨーロッパの伝統的な詩でした。もうルネッサンス以来ゲーテだってボードレイだってランボーだって、まだまだ長い。それに比べて俳句というのはぶった切っているわけですね。でもダイヤモンドの1粒を、初めから光ったところだけを取る、周りの原石は捨ててしまうというのが俳句。だからその「涼しさを わが宿にしてねまるなり」なんていうこと、それ自体だけでも驚くべき詩を作り上げている。ドナルド・キーンさんの訳によると、メーキング・ザ・フレッシュネス・マイ・ロジンかな、バイ・アイライフ・アト・イーズとかいう。アイ横になるイースね、メーキング・フレッシュネス・マイロジン。フレッシュネスをわが宿にして、直訳してるわけですね。それでちゃんと一つの詩の世界が成り立つというのは、ヨーロッパの長広舌をふるってきた詩人たちから見ると驚嘆すべきことなわけです。
〔参考〕「涼しさを わが宿にして ねまるなり」
Making the coolness My abode, here I lie Completely at ease.
「五月雨を 集めて早し 最上川」
Gathering seawards The summer rains, how swift it is! Mogami River.
(ドナルド・キーン訳 「THE NARROW ROAD TO OKU」より)
そういう詩がこの17世紀の末のあたりの日本中に広まっていて、この尾花沢にも、あの大石田のような所にも、やっぱりこれは最上川が文化を伝えてきているから、酒田から、鶴岡からずーっと上方の文化が入ってきて、その中に俳句も入ってたわけですね。江戸の情報がどういうふうに伝わってきたかと言うと、やっぱり羽州街道なんか伝って入ってきたんだろう。それから紅花のルートを通っても江戸の情報が入ってきていたんだろうと思います。これは考えてみると驚くべきことですね。いまわれわれがちょっと大石田に立って、こんな集まりはなかなか出来ない。わざわざ東京からこうやって来ないとこういう集会出来ないわけですが、大石田では芭蕉の時は、芭蕉が行くとそれを歓迎して芭蕉先生を囲んで一座を設け、さっきのような連俳をやる。商売人ですよね。船問屋さん、船を扱っている人たち。その人たちが芭蕉を歓迎して、さっきあすこで読んでみると結構悪くない。「五月雨を集めて涼し最上川」で始まって、それが芭蕉でしたが、あとの現地の人たちの俳句も五七五も七七も、そう悪くはない。ちゃんとローカルカラーがよく出ているものだと思って、改めて読んで感心しました。ああいう俳諧の種がこぼれていたけれども、新しい俳風と、それから古い詠み方と、それが両方あって、それが一体どっちにいったらいいか分からないでいた。さすがに大石田は田舎ですから。そこに「道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ」と。わりなきというのは、やむにやまれず巻いた連歌一巻とありますが、むりやりに連句をやって出来た。あれはかなり芭蕉も手を入れてるんでしょうかね。そういうことまで分からないかな。でも、ここはこういうふうにしたらいいんじゃないかいと、芭蕉先生が言ったかも知れない。それであれだけの質の高い連句が残ったわけです。あれは鶴岡でやった時もちゃんと残ってますし、それから尾花沢での連句もなかなか悪くない。だから徳川期に入って地方の文化水準というのは非常に高まっていたことが分かりますね。何も徳川期になって急に高まったわけではないんでしょうが、しかし、徳川期になると社会が安定して、その中にああいう文芸をたしなむ人たちが、商売のかたわらたしなむ人たちがあちこちにいるようになる。そしてそれぞれにかなりの水準の高い俳句を作る。山形県内でも意外なところにそういう俳句の集団が出来ていて、今日まで伝わっていたり、書き物で昔の句集がそのまま残ったりしております。こういうのを集め出したら大変なことになると思います。
「このたびの風流ここに至れり」というのは、これはどういうことでしょう。大石田連衆の風流心をたたえることばと、須賀川で「風流の初やおくの田植哥」があって、ここが大石田まで来てやって、その風流を追ってきた旅のきわみであるというようなことを言ってるんです。全体としてこの奥の細道を読んでいきますと、何と言っても出羽の地域に入って、尾花沢に行って、それから大石田、それから羽黒三山、そして鶴岡にくだり、酒田に入り、象潟に行き、それから佐渡に行き、その間の道中の俳句が最高ですね。出羽から始まって、「荒海や佐渡によこたふ天河」あそこまで。出雲崎ね、あそこまでが奥の細道の中では俳句も文章も最高峰に達して、その後ゆるやかに大垣に向かって下って行く。金沢に向けて大垣に向かって下って行くというふうになっているように思います。
なんでまたこの出羽が、それから大体芭蕉はなんで出羽の国なんかに来たのか。詩人だの歌人だのがろくに来たことがないような、能因法師が昔来て、象潟あたりで歌を詠んだとかいろいろ言われていますし、西行法師もこっちまで来ましたかね。白河の関とか、あっちの方は行くわけだけれども、こっちまで来たか、めったに詩人、歌人という人は、まして中央の俳人なんてのは来たことのなかったような所に、芭蕉がどうして来たのか。それ分かってるんですかね。ちょっと研究しなければいけないですね。これ山形県建設事務局、大いに力を入れて、なぜ芭蕉は山形に来たのか。大問題ですね。なぜ? 多分出羽三山に非常に関心があったんだろうと思いますね。あそこが奥の細道の眼目であったんだろうと思います。そこに行くために尾花沢に下ってきた。それから山形、出羽の国が非常に古い、古代からの文化を残している。この元禄の頃かはら見ても一種の秘境である。秘境とまで言わなくても、古い文化がそのまま残って、あまり中央文化によって汚染されてない所だというのが芭蕉には分かっていて、それで入ってきたんじゃないかと思います。だから尾花沢に入ってきた時も、曾良が作った俳句で、あすこでは古代の面影があるというような俳句を書いています。それから今の「涼しさをわが宿にしてねまるなり」という、その土地の古い言葉を使っているというのも、その土地に伝わる古い由緒のある言葉、それからその言葉が伝えている由緒のある人々の生活感情。そういうものに対して芭蕉が非常に興味を持ち、非常に共感するものがあったからだろうと思う。そしてやっぱり出羽に来てよかったという感じで芭蕉は旅を続けたんだろうと思います。それから最上川に入っていく。だからこの奥の細道は意味が深いんですね本当に。奥の細道の文章は曾良の日記と照らし合わせても、いろいろなところでフィクションしていることは分かりますが、しかし、全体として芭蕉の精神がより凝縮され、より緊張高くなって表現されてくることは言うまでもありません。それからその次の
最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危うし。
五月雨を集めて早し最上川
素晴らしい、モーツアルトの協奏曲かなんかを聞いているような、本当に調子が高くて、それから文章のリズムがおのずからある。だから地理的にも非常に芭蕉はこの地域のことを研究していることが分かりますね、これでね。
最上川は陸奥−というのは何ですかね。山形を上流とするのは実は最上川の支流・須川である。でも芭蕉がここで陸奥と言っているのは、どこを言ってるのかよく分かりませんが、でもこの吾妻山、朝日、それから奥羽山脈、蔵王山につながる奥羽山脈、そういう山々からいろいろな支流が出てきて山形あたりでそれが合流していく。村山盆地で合流していくということを当たっていて、これがあるから五月雨を集めて早し−という句が出てくるわけですね。ここの前提があるから。
要するに最上川は置賜盆地から村山盆地、そして最上を経て庄内平野へと、いわば置賜、村山が漏斗の形で三方山に囲まれて、その三方に降った五月雨がみんなさまざまな支流になって最上川に集まってきて、そしてこの急流を作り上げて本合海のところで急カーブをなして酒田へ向かって行く。そのことがよく分かっているわけで、芭蕉は何かかなり詳しい地図を見て語っているんじゃないかと思う。朝日、飯豊、そして吾妻の山々、奥羽山脈の山々、それから月山連峰、出羽三山の連峰、その三方が山になっていて、そこに降る雨が全部この盆地の底に集まってきて最上川になっていく。そのことがあるから、この文章で芭蕉がそのことを認識していることが分かります。それを認識しているから「五月雨を集めて早し−」と出来たわけです。この俳句のキーポイントは「集めて」というところですね。
「早し」でも「涼し」でもどっちでもいいんです。何よりも大事なのは「集めて」という三方、四方から降る雨を。ギャザリングとさっき船頭さんが言ったけれども、レシービング・オール・ウオータース・フロム・オールサイズ・マウンテン・ザ・モガミリバー・ランス・ファーストというわけでね。「集めて」は、直訳すればやっぱりギャザリングかもしれませんが、そこの感じがあるわけです。芭蕉はこういう動詞の使い方が非常にうまい。非常にと言うか、おそろしくうまい。さすが大天才。古今東西、指を屈する世界大詩人の中の1人に入るだけのことはあって、だからこれ英語に訳す時なんかも、この「集めて」を何と訳すか。キーンさんの訳でももっと見てくればよかったんですが、わすれました。これはつまり芭蕉がこの出羽の地形、出羽のことをかなりよく研究していて、出羽の地形が頭の中に大体納まっていたということの証拠だろうと僕は思っていつも読んでおります。
それから碁点・隼。これはこの頃から有名なところで、さっきこの碁点も隼も眺めて来ました。それから板敷山というのは、これは出羽三山の羽黒山から最上川の方に突き出ている山で、今もちゃんと地図に載っています。標高630m、これは下の注にも出ています。歌枕にもなっているんですね。月山山脈の先端と出てます。
板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す
板敷山なんてどうして歌枕になったんでしょうね。これを詠んだ歌があるわけですね。これは新庄工事事務所は出羽の歌枕をちょっと研究しておかないといけませんね。歌枕というのはこれも非常に大事で、歌枕というのは要するに日本列島の文化のインデックスというようなものですね。歌枕は大概まず地形によって分けるわけです。海、山、森、林、村、社というような感じで。それから海岸、海辺。例えば海辺でもただ海辺なんて言わないで、浜、入り江の江、それから浦島太郎の浦、磯、いろいろ分けて、それぞれのそういう地形のところで有名な地名を詠み込んで歌を万葉から五代、六代の勅撰和歌集なんかに選んできて並べていくわけです。だから「磯」というので探すと、あちこちに磯がある。磯というカテゴリーの大きな見出しの中に、今度はそれぞれの地域の大磯、小磯、なんとかの磯とか分けてあって、そういう地名を詠んだ歌がちゃんと列挙されていくわけです。だからこの板敷山は山の部類に入っていて、どこか板敷山を詠んだ歌が1つ2つぐらいしかないのかもしれません。それでもちゃんと歌枕にはなってるわけですね。
この歌枕は近畿地域から大和の方、あの辺がなんと言っても多いところですね。大和のあたりなんかもう100mおきぐらいに歌枕があるぐらいですが、この東北の方まできますと俄然少なくなる。それから九州は殆どないかな。それから四国も殆どない。中部地方になんとかの島とか、なんとかの浦というのがある。やっぱり古代から人の交通した地域、歌を詠むような貴人、貴族の人たちが通ったあたりだけが歌枕に残っている。だから全土を覆っているとは言えませんが、しかし、その当時、平安時代に中央にいた、京都にいた知識人たちの頭の中にあった日本列島、その列島の地域ごとに生まれたさまざまな歌、それが網羅されて、コンピューターもない時代に分類されて、きちんと本になって出てるわけです。だからこの出羽の国もそれなりに、この最上川ももちろんそうだし、それから酒田の袖浦なんてのも歌枕になってますし、この板敷山なんて入ってるというのはちょっと意外です。どんな歌があったのか、そこは調べておりませんが、国土交通省から言えば歌枕というのは非常に重要な宝ということになりますね。
列島の中の各地をああやって登録されていた国というのは滅多にないんじゃないかな。中国にはいくつか三峡とか五山とか、ああいうのがありますね。それから洞庭湖のところの瀟湘(しょうしょう)八景とか若干あるけれども、歌枕のように全国を網羅して統一して、その裏付けに文学作品、歌がちゃんとあるというような形で、しかも1冊の本に整理されて平安末、鎌倉の頃にはもうちゃんと出てるというのは、これは驚嘆すべきことで、フランスには未だにない。イタリアにもない。イギリスにもない。だからイギリスについても、これから歌枕を作ろうと思えば作れるわけですね。精々ワーズワースあたりからとか、あるいはシェークスピアのなんかに出てきたとか、そのくらいしかないだろうと思います。非常に日本列島というのは歌の国であり、文芸の国である。それから国土と文明がピタッと重なり合って相互に影響し合っている。国土が文明を作り出したことはもちろんですが、しかし文芸に歌われ、作られることによって国土は一層美しくなってくるという相乗作用がありました。そういうことになります。
しかし、芭蕉は必ずしもこの歌枕を追って奥の細道を旅したわけではないわけですね。芭蕉なんぞはただ歌枕を追っかけただけであって、例えばさっきの金内村ですか、あんな所には行ってないとか。そんなことは当たり前でね、そういうないものねだりしちゃいけないわけです。それから芭蕉は歌枕になってない所にもちゃんと行って、そこで俳句を作っているわけです。月山とか羽黒山なんて歌枕にはなってないんじゃないかな。それから大石田なんかも歌枕には関係ないわけだしね。だから歌枕を読んだところはこうやって拾ってはおりますが、何も歌枕をたどって奥の細道の旅をしたわけではない。象潟に行った時は歌枕を追っかけて行ったわけですが。
そういうことを言い出しているときりがありませんが、奥の細道というのはそういうふうに一種の詩的地誌とも言えるぐらいの現地の把握力を持っている、現地に対する把握を持っているのだと思います。ただ単なる詩の1冊で、それ以外何もないなんていうものじゃないと思いますね。そして
仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危し。 という短い文章がきて、パッと切れて、そして 五月雨を集めて早し最上川
と散文のあとに五七五を置くというのは、非常に効果があるわけですね。ここまで笛と太鼓できたところに、急に弦が入ったというような感じで、この俳句の効果があるわけですね。それから出羽三山に入っていくわけですが、この出羽三山の俳句なんかも非常に面白い、いいものだと思います。特にこの
涼しさやほの三日月の羽黒山
これは羽黒山の坊に泊まっていて作った句ですね。「ほの三日月」というのは、ほの見えるというのと、わずかに見えるという懸詞(かけことば)になってまして、羽黒山がこの名前からして黒々としてこんもりと茂っていて、その右肩あたりにやさしく、細く三日月がほんのりと掛かっている。一種エロチックな趣があります。安藤継男にいたっては、これはそのまま女性を詠んだのではないかという人さえある。だから
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
というのはそのエロスの極まったところだなんていうような読み方もありました。でも確かにそういう天地自然の持つエロスの働き、芭蕉はそういうものに非常に敏感でした。
雲の峰いくつ崩れて月の山
これは恐らく僕は奥の細道の中の最高峰の句はこういうところではないかと思いますけどね。「五月雨を集めて早し最上川」も素晴らしいんですが、「雲の峰いくつ崩れて月の山」。出羽三山に入ったのは下に書きましたように6月になってから1週間ほどでした。この中のある日、朝早く、羽黒山の南谷の山坊を出て、月山のてっぺんまで登って行って、そこで一夜を過ごして、次の日湯殿山に下って、湯殿山からその日のうちにまた月山のてっぺんを経由して羽黒山まで戻ってきた。曾良の日記によりますと、さすがにへとへとになったと書いてあります。南谷に宿坊に戻った時はね。それが今の陽暦に直しますと7月19日から7月26日。だから庄内平野の最も暑い時期ですね。庄内平野もいくら海があっても暑いのでフェーン現象が起きたりする頃ですが、この芭蕉の時も多分そうだったろうと思います。芭蕉が月山に向かって登って行く道、帰り道にまた月山経由で湯殿山から羽黒山に戻ってくる道、その前にも後ろにも庄内平野に雲の峰がギラギラと白く光って、いくつもいくつも立ち上がっている。空は真っ青、そういう時ですね。それを見ながら修験道の白装束に身を固めて芭蕉と曾良は行ったわけです。月山のてっぺんに近づいた頃、ふっと気がつくと雲の峰がいつの間にか視界からなくなっていて、代わりに目の前に月の光をほのかに受けた月の山、月山が横たわっている−というので、これはおそろしく宇宙の動きを捉えたというような俳句だろうと思います。「雲の峰」というのは、これは夏の季語ですね。しかし「月の山」の月は秋の季語ですね。それから雲の峰というのは陽の世界であって男性ですね。屹立してるわけです。それが崩れて月の山でしょう。女性でしょう、陰の世界。雲の峰というのは、これは生命がギラギラと燃えたぎっている世界、月の山というのは死に臨んでいる。あるいは死の世界。雲の峰というのは動の世界、月の山というのは静の世界、そして雲の峰というのは昼で、月の山は夜。そういうふうに男から女へ、陽から陰へ、生から死へ、昼から夜へ、そして夏から秋へ、その1点にトランジションが五七五の中に全部詠み込まれているという驚嘆すべき詩で、これ一つ読めばホメロスもシェークスピアもゲーテも要らないというぐらいのもんですね。
「雲の峰いくつ崩れて」というのはちょっとあどけない、驚きの少年のような驚きが入ってます。ちょっと子供っぽい言い方、あといくつ寝るとお正月と言う時の、あのいくつ。雲の峰いくつ崩れて−この「崩れて」と言うのが、さっきの集めてと同じようにキーワードで、これが見事な、芭蕉はこの崩れるという感覚に非常に興味を持ってました。ものごとがカチンとしていたのが崩れていくこと、そこに時間の経過を読む。それから形の変化がある。それを芭蕉は込めることが出来た。例えば夏場の食べ物に冷しものというのがありますね。野菜とか果物とかを冷たくしてお皿に出す。ところがいろいろな食べ物の話をしている時に夜が更けた。あるいはもを明け方近くなっているという、冷し物が崩れて夜が明けてるというような、そういう句もあります。だからこの崩れてというのは非常に独特の使い方で、これを見つけた時、芭蕉ははっと喜んだろうと思います。月山の山の上で作ったのか、羽黒山の宿坊に戻ってから作ったのかよく分かりませんが、その中にさっき言ったように昼から夜へ、生から死へ、それから動から静へ、陽から陰へ、それから夏から秋への動きがこの崩れるという動作の中に入ってるわけで、さっきまで屹立して立っていたものが、いま萎えてしまって月の山の中に、女性の中に吸い込まれてしまっているわけですね。そういうところがあって、非常にエロチックな、修験道にはどこかそういう荒っぽいエロスの働きがありますね。そういうのも共鳴してるのかもしれませんけれども、しかし、これはもともと芭蕉が持っている、要するに文学で優れたものというのは、必ずエロチックなものがなければ傑作にならないですね。どんな作品でもね。これはほんの短い中にそのことをよく示している。これは自然のエロスの働きを短い言葉で言い尽くしてしまった句だろうと思います。
こうやってみると奥の細道は出羽の国へ入ってきてから、断然高くなった。その前の中尊寺、「夏草や兵どもが夢が跡」でしょう。あんなのは浪花節じゃない。無法松みたいな、そんな程度なんですね。レベルが全然、中に込められているポテンシャルが全然違う。それに比べると「涼しさをわが宿にしてねまるなり」は断然飛躍してしまっている。詩の純粋度がぐっと上がっているわけです。だから「五月雨を集めて早し最上川」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「閑けさや巌にしみ入蝉の声」とくるわけだから、なんかランクが違うね。出羽の国には芭蕉を一種内的に昂揚させるものがあったのですね。それが古代の文化であり、出羽三山の修験道であり、最上川のこの景観であった。
それからもう一つすごいと思うのは、やがてこの出羽三山から鶴岡に下りて行って、そして酒田に行ってそこで作った、酒田の日和山が今もそのままあって、あそこにも芭蕉の句碑など建ってますが、あそこで作った
あつみ山や吹浦かけて夕涼み
これは一種の言葉遊びですね。温海温泉があって、それから吹浦というのは酒田よりもうちょっと北の象潟に行く途中の遊佐・吹浦なんて言うあたりの海岸で、この日和山の岬に立っていると温海温泉、かなり何十kmか鼠ヶ関の方に下って行ったところにあるが、あそこから吹浦の方までサーッと見渡して、そこに涼しい夕風が立つということですが、それよりはやっぱり
暑き日を海に入れたり最上川
これで奥の細道は終わってもよかったぐらいなんだ。そうするとダダダダーンと、まるでベートーベンの交響曲が終わるみたいなふうにいくところだったんですね。「暑き日を海に入れたり最上川」なんとまあ、19世紀フランスの詩人の代表はあのランボーだと言われますが、ランボーがもしこの詩なんぞ知ってたら、もう狂喜したろうと思う。それでもうおれは詩を作るのに値しないと言って筆を折ったかも知れない、そういう句ですねこれは。「暑き日を海に入れたり最上川」。もちろん暑き日というのは暑い1日でもあるわけです。さっきの「雲の峰いくつ崩れて・・」みたいに、この7月末の頃の庄内平野なんてのは、暑い暑い、気温が朝9時半には、もう38度ぐらいになっていて、夕方4時ぐらいまでずっーとそのまま暑いような、そういう中でこの健脚の芭蕉もさすがに暑かった。しかしいま、その暑い1日を終えて、その暑かった真っ赤な太陽を最上川が海の中に押し沈めていくわけです。最上川は滔々として、集めて早し最上川のあの最上川が、そのままの勢いで酒田から日本海の中に注ぎ込んでいく。その勢いに乗せて赤い太陽を最上川の海に注いだ水の先にジューッと音を立てて夏の真っ赤な太陽が沈んでいく。そうすると日本海に金色の反映がスーッと拡がるというので、まあこれは海と太陽と最上川と大地の力と、それが三つ巴をなしてもんどり打っているという、そういう世界ですね。「暑き日を海に入れたり・・・」という、これもやっぱり動詞を非常にうまく使っている。これは蕪村も一茶も正岡子規も高浜虚子もとてもこんな動詞の強引な、それでピタッと決まった動詞の使い方は芭蕉には及ばなかったと思います。ものすごいもんですね。「暑き日を海に入れたり最上川」。海と最上川、海と大地とそれから太陽と。まるで神話の世界ですね。日本武尊だの須佐之男命だの、ああいうのがいた時代の世界がこの俳句の中に詠み込まれているわけであります。まだ自然が神話であった時代、そういうものを芭蕉はこの出羽の中を旅して行く時に、自分の中に蘇らせ、身につけていったんだろうと思います。
こうやってみると、芭蕉を読んでみただけでも、この出羽の国というのは、この頃すでにいわば後進地域になりかけている時代であり、それから蝦夷の地であり、アイヌの地であり、最後まで中央政府に反抗した地であり、縄文の地であり、恨みの地であり、屈辱の地であり、貧困の地であったはずなんですが、しかし、実はそれが文化の中の最も大事なものを蓄えていた一種のダムでもあったということが、ここを読んでいくだけでも分かるように思います。
さて、それに対して斎藤茂吉の方はどうか。やっぱり最上川などを詠んで芭蕉に対抗し得たのは結局茂吉だけでした。茂吉は芭蕉に劣らぬレベルまで行ってるように思います。言うまでもなく、芭蕉が生まれたのは1644年、茂吉が生まれたのは1882年だから、その間には
240年の隔たりがあるわけですね。随分後になりますね。しかし、茂吉はもちろん芭蕉のこの奥の細道のことは非常によく知ってました。それでよく勉強してました。だからここの中にいくつか奥の細道の芭蕉の旅路を追った歌もいくつか入っています。頭のあたりもそうですね。
いにしへの芭蕉翁のこの山に書きのこしたる三日月の発句 この作品は「涼しさやほの三日月の羽黒山」を言ってるわけですね。それから
天宥を讃へて芭蕉の書きし文まのあたり見てつつしむ吾は
この天宥というのは羽黒山の第50代法印と言うんですが、真言から天台に改宗して出羽三山を一つの境内としてまとめ上げた出羽三山の中興の祖だと言われる。湯殿山と鶴岡藩の間で寺領争いがあったんですが、それを収めたのもこの天宥という偉い坊さんでした。しかし、その後大島に流されて、そこで死んだんですね。芭蕉がまだ20代の頃に大島で亡くなっている。その天宥の偉業を讃えた文章というのは、実は羽黒山に残っていて、これは岩波文庫の奥の細道の中にもちゃんと載ってます。天宥を讃えて芭蕉が書き残した文章をちゃんと見たと。そんなふうに茂吉はこの奥の細道のことをちゃんと自覚して、その後、曾良と芭蕉の2人の旅を何遍かあちこちで、ここに2人が立ち寄ったんだというふうにして思い起こして、そこで歌を作ったりもしています。
茂吉は言うまでもなく山形県の出身で、上山の外れに金瓶村というのがありますが、そこの出なんですね。茂吉の家は山形新幹線で上山を出て山形に向かう途中、進行方向右手に、本当にすぐそこに見えます。それから茂吉が葬られているお墓のあるお寺がやはりすぐ新幹線の窓から見えます。それから有名な「死にたまう母」のシリーズで詠まれている茂吉の母親を焼いた場所、そこもすぐ近くなんですね。今も金瓶村の茂吉の家は、茂吉の妹さん一家か何かが住んでいらして、今もそのままあります。それからその茂吉の家の隣にあるのが、茂吉が通ったという小学校です。木造の本当の掘っ建て小屋。今もそのまま残されていて、その隣がお寺さんで、そこのお寺の坊さんが茂吉の少年時代から茂吉はなかなかの勉強家で頭のいい子だということを見込んで、いろいろなことを教えてくれた偉い天竜さんでしたか、お坊さんのいたお寺ですね。茂吉が生涯にわたって一番深く帰依したと言うか、一番深い教えを受けた坊さんのいたお寺が茂吉の生家と並んであります。
茂吉の生家からすぐ近くに山形新幹線の鉄道に沿って、茂吉の生家と鉄道の間のところを鉄道側に寄って流れているのが須川という川で、そこが茂吉の少年時代の遊び場でした。須川はどの辺で最上川に合流するんですかね。左沢線で行くと途中で須川の鉄橋を渡りますね。あの先でさっき行った寒河江川の地点よりはもうちょっと南のあたりで最上川に入るんでしょうね。須川というのは今は須藤さんなんて言う時の須を書きますが、本来は酢っぱい川なんでしょう。硫黄分が流れ込んでいて魚が住んでないという川のようです。しかし、今は随分浅くて音を立てて流れているようですが、茂吉の頃はあちこち深いところもあって、そこで泳いだりしたようです。茂吉は14歳でしたか、中学校に入るために斎藤家の養子になって行くわけですから、それまではずっとこの上山の金瓶村で育ったわけです。全くの農家ですね。ただ、農家と言っても割に大きな農家で、豪農とまではいかないけれども決して小農ではない。村ではちゃんと名家に入るような家で、お母さんはその家の娘で、それが養子を取って茂吉のお父さんになった。守谷さんと言う家でしたね。そこで育ったわけです。その頃の茂吉の少年時代のことを回想した随筆で「ネンジュ抄」というのがありまして、それが実に素晴らしい文章です。茂吉でなければ書けないような生々しいと言うか、生き生きとした文章で、その頃学校の行き帰りに同級生や上級生なんかと一緒に、学校は初めは自分の家のすぐ隣にあったわけですが、やがてすぐに上山の方に尋常高等小学校が出来て、そこに移されるわけですが、その往復にいろいろないたずらをしながら通学した。それから歩いていく道に木の上から野生の蚕がポタポタ落ちてくるとかね。あの辺はブヨがいるとか、漆でもって手にわざといたずらするわけですね。その通り腫れていったりする。しかも漆で何を書いたかというとがき大将の指示でおチンチンを書くんですね。その通りに漆の跡が残って、家で薬を塗ってもらうのも具合悪くて、腫れたままで我慢してたとか、そういう話があります。それから須川で泳いでいた時、自分の仲間が、同級生かなんかの手が水の上から上がっているのが見えて、どうしたのかと思ってたら結局おぼれていた。あわてて大人たちに教えて、大人たちが助けようとしたがもう間に合わないで死んだとか、そういう話も出てきて、非常に少年時代の印象がどんなに深くこの茂吉の中に入り込んでいるか、それがよく分かります。
茂吉はしかも時代最先端の精神医学をやった秀才だったわけですね。そこがいいんですね。都会派のさらりとした立原道造風なんてのと全く逆なわけですね。農民であり、お蚕のことも、田圃のことも、蛙のことも、何でもみんなよく知っていて、どこにドジョウがいるか、どこがどうやるとアユがつかまえられるか、そんなことはもちろん知ってる、そういう田舎の少年で、その田舎っけ、縄文的田舎を生涯身につけていた。生涯山形なまりでしゃべっていた。その山形なまりだったということは、つまり万葉人だったというのはそういうことですね。芭蕉がわざわざ出羽の国まで来て触れようとした古代の古いもの、それが斎藤茂吉の場合はそのまま生まれた時から身についてたというわけです。
茂吉は芭蕉のような奥の細道の勉強をする必要はなかったわけですね。明治末、大正の岐路の最先端のインテリの秀才だったという、そこが面白いわけですね。だから茂吉というのは20世紀日本の最大の詩人でしょう。萩原朔太郎も三好達治もとても足元にも及ばない。高浜虚子さえ及ばない。若山牧水も正岡子規も釈迢空もちょっと茂吉にはかなわない。茂吉は全く図抜けているわけです。20世紀日本を代表する第一の詩人だということは、つまり20世紀の世界の詩人10人を挙げろと言ったら、この中に入ってしまうということですね。だからわれわれは本当は茂吉というのはもっともっと尊敬しなければいけないわけです。朝起きて茂吉を唱え、夜寝る前に茂吉を唱えるぐらいにならないと本当の文化人にはなれないかも知れない。これから国土交通省は是非、朝、朝礼に茂吉の歌をよみ、終業の時も茂吉の歌を読む。そういうのはいいですな。どうですか河川局。新庄はもちろんだけどさ。本省でもね。
古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
さっき古口から乗ったんでしたか。ちょうどあそこですね。「ほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川」。これは親しい感じなんですね。それで茂吉は最上川の支流である須川で育った、少年時代を過ごしたわけで、最上川を見たりするのはもうちょっと後でしょう。お父さんに連れられて初めて月山に登るわけですね。何歳かになると必ずあの辺の男の子は月山に登らなければいけない。やっぱり装束を着けて。茂吉はお兄さんがいて、それと一緒に登った時に、多分初めて最上川を見たんだろうと思いますね。今日のあの河北町とか、あの辺から西川町の方に入って行って、そして奥から登るわけですから月山に。西川町の奥にあって、月山への登り口にある志津温泉、あすこには何遍か行ってます。あの志津のあたりでも、とってもいい歌を作ってます。山深い、そこを谷川が滔々と流れている。耳を当ててみると地の底に水が流れている、そういうことまで詠んだ歌もあります。そして雪渓を渡って頂上まで行くわけですね。湯殿山から頂上まで行くわけですね。その経験を語った文章もいくつかあります。出羽三山、少年時代から何遍も登る、彼は50歳近くなってからも登ったりしております。蔵王山にも行っています。割合健康で健脚でした。それから最上川の歌を探し始めますといくつもあるんですが、非常に便利なのは山形の上山に斎藤茂吉記念館がありまして、そこで斎藤茂吉作品集山形県内詠短歌叢書というので山形県のあちこちを詠んだ茂吉の歌を大体地域ごとに集めてあります。この中にも随分入っているわけですね。蔵王山から出羽三山、月山、湯殿山、最上川、上山、大石田、酒田、戸沢村、猿羽根峠、肘折温泉、湯野浜温泉、立石寺、いろいろと分けてちゃんと出ておりまして、これ見ると非常に便利に出来ております。これは初めの頃からずっと何度も最上川の歌が出てくるんですが、例えば「霜」という歌集がありまして、昭和7年に刊行された詩集だから、中の詠まれた歌はもっと前の歌ですが、これは大石田で詠んだ歌で
最上川を中にこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに
これも大石田あたりの感じを本当によくつかまえています。「最上川をうちにこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに」さっきから大石田がものすごい雪が降ったとありますが、ましてや戦前の昭和の頃なんかもっともっと降ってたわけで、その頃は2月ですから一番雪が深くなって寒さが厳しい頃「・・雪ぐもり空低く厚らに」また雪が降りそうな、雪をこめた空が、雲が低く大石田の最上川に、そして最上川の中が見えないわけですね。最上川をじかに見てるわけじゃないわけですね。「最上川をうちにこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに」なんか最上川まで雲が降りてきているようなそういう感じ、それが雪ぐもりの重たい雲が大石田の前後の盆地、村山平野の北の方を一面に覆っている。
冬河となりてながるる最上川雪のふかきに見とも飽かぬに
これはもう最上川は茂吉にとって生涯、本当に自分の生命から切り離すことのできない川になっていきます。最上川の支流で少年時代を過ごし、それから最上川をたどって月山に登って一種の元服をしたわけでもありますから、そしていよいよ本当に最上川が彼にとって一つの救いになっていくのは昭和20年、東京から自分の故郷の金瓶村に疎開してきて、そして次の年の正月に雪の中で今度は大石田に疎開して、あそこからですね。これは昭和20年8月に、だから茂吉はこの金瓶村にいる時に敗戦を知るわけですね。茂吉は戦争中は戦争を礼賛する歌をいくつも書きました。本当に彼はあの戦争、大東亜戦争は聖戦だと信じていました。それは和歌を詠む人間としては当然のことなんですね。和歌というのはつまり大和魂を詠むことですから、大和魂なしに和歌は作れないわけであって、だから萩原朔太郎や宮沢賢治にはあまりいい和歌がないわけですね。彼らはあまり大和魂じゃなくて西洋魂の方ですからね。だけどあまりいい歌はないですね、聖戦礼賛の歌は。あれね朝日新聞社から電話が来るんですよ。大本営発表で敵のアメリカ軍空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦5隻沈没したそうです、先生何かいい歌作ってください−と新聞が電話をよこすんだそうです。電話口で斎藤茂吉は新聞に言うわけですね。そうすると次の日の朝、でかでかと敵空母何隻撃沈、かくかくたる戦果なんとかと出ていて、その下に斎藤茂吉戦勝をことほぐ歌と載るわけですね。そういう歌が多いので、茂吉は本当に聖戦だと思って大東亜戦争を支持はしていた。しかし、それで自分が作った歌が本当にいい歌だとはどうも思っていなかったようです。その当時から。しかし、それでも日本国民の1人として、この戦争に勝たなければ日本は破滅すると思っているわけですから、戦争が敗戦になった時に、本当に茂吉は全く白紙還元を経験したんですね。愕然としたなんていう程度のものではなくて、本当に声も出なくなった。一種の精神がカブラダザーという感じで、白紙に戻されてしまった。
しかし、それがどうも僕は、僕の説はそれがよかったんだと思います。茂吉がさらに一段、大歌人になるために、さまざまな今風のもの、それから時世に応じたようなもの、それが一切なくなって、茂吉は本当の弥生人だか縄文人だか万葉人に戻っていってしまった。そこでそういう一種の思い込み、思い上がりとか、近代人風の意識とか、そういうものがなくなった時に大きなこの最上川の、あるいは出羽の山水の霊が茂吉の中に宿った。それが昭和20年の「小園」というあたりから、敗戦直後のあたりの歌から出てきます。
よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川波くぐりしものぞ
アユを食ってるんだからこの辺からもう敗戦の後だったと思いますがね。アユを食べながらこういうことまで思うわけですね。この頃昭和20年、1945年ですから茂吉は63歳くらいになってるわけですか。かなりその当時としては老人になってましたし、老人の意識になってました。それから実際に非常に病気をして、それで衰えたりもしました。「・・鮎ふたつ山の川波くぐりしものぞ」とその歯ごたえがあって、その味の深さがあって、そのありがた味があるわけですね。アユ一つ食って、こんなふうに天地とのつながりを感じる人というのは、やっぱりそうざらにいないですね。これはやっぱり万葉人か殆ど弥生人ですなこれは。塩であぶってある、串に刺してぐっとそっくり返ったアユ、あれこそ天下の珍味ですね。
それから
秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる
これも何でもないような歌ですが、しかし縹渺としていて捉えどころがなくて、ただ寂しくて、いい歌ですね。「秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる」秋風と川と月と、ただそれだけが詠まれている。それからその次もまたなかなか味わいがある。
きさらぎの日いづるときに紅色の靄こそうごけ最上川より
これちょっと面白い着眼ですね。きさらぎなってどっかに春が兆し始めているその時、もやが上がっていく。春、川面からもやが上がるようになる。そこに朝日が当たって、そのもやが赤くキラキラ光る。春がようやく兆してきた喜び、こんなところに春の喜びを覚える、これはやっぱり一種の古代人になってるわけです。近代的インテリとして最先端を走ってきた茂吉が、その近代的インテリの部分をすっかり捨ててしまった。放下してしまった。その後に残ったこの魂が感じているこの出羽の大自然。その次も素晴らしい歌だと思いますね。
四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ
いや、いい歌ですね。これこそ建設省の朝ね「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」とやって、これは仕事おさめの時がいいかも知れないですね。これから始まる時にはあまりよくないかもしれません。皚々として真っ白に、純白に固く、冷たく光ってることでしょう。奥羽山脈も月山も葉山も、後ろの方の朝日岳も真っ白に光ってて、一面の雪の原ですよ大石田のあたりは。そこに最上川だけは、岸のあたりはまだ凍っていても、真ん中あたりは流れていて、そこに三月の雨が降ってくるんですね。冬の厳しい中に、急にこの流れ込んできた春、しかも三月のあめというのを平仮名で書くところもいいですね。いかにもやわらかい。この固い四方の山を、わざと漢語で「皚々として居りながら」と言いながら、三月のあめの方は平仮名で「あめ」と書く。こういうところまで国土交通省はよくこういうのを味あわなければいけないわけで「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」さっきの「紅色の靄」というの、これもちょっと面白い言い回しでした。虹色とか紅色と言わずに「紅色の靄」というのは、こういうところも非常に言葉を工夫しながら選んだんですね。とってもわれわれの及ばない、いわば言語感覚の鋭さがあるわけです。周りが全部大和言葉で言いながら、「きさらぎの日いづるときに」そこだけ「紅色の靄こそうごけ最上川より」と。それから「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」三月の雨はどんなにやわらかく、こまやかであるか。あれは本当に白い屏風のように山々が連なってうねっているわけです。奥羽山脈のあの山の峰々の連なりというのは本当に、なんかドラマチックなんですね。交響曲とまでは言わなくても弦楽四重奏曲というような感じで、うねってくる。それが真っ白で、雪を被ってに山というのは非常に威厳がありますね。ちょっとした
300mぐらいの山でも俄然様子が違う。そういうことをみんな含めているようです。 わが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと
これも本当に敗戦後、自分の心の頼りにしているのは最上川だけなんですね。最上川によって心を慰められ、最上川によって励まされ、最上川を主題としてこの歌を作り続けている。これが敗戦の傷跡から彼を救ってくれて、彼をむしろだんだん大きな歌人にしていった。
それから
彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は
これは殆ど和泉式部の歌にもありましたね。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいずるたまかとぞ見る」ね。京都の貴船に男に捨てられて、その男を取り返すためにお祈りに和泉式部が貴船神社に行って、そうすると貴船の暗い夜闇の谷川のところに蛍がふっふっと飛んでいて、それが自分から「あくがれて」出ていった自分の魂かと見えたりするという歌がありましたけれども、多分それを思い出したんでしょう。茂吉は「彼岸に何ももとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は」。自分の魂もこの蛍のようになってふわふわと、何かを求めて最上川の向こう側に渡っている。
ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ
この辺なんて殆ど一直線に、率直に自分のその頃の弱っていた心と、それを癒してくれる唯一のものとしての最上川を詠んでいます。
ひむがしゆすねりてぞ来る最上川見おろす山に眠りもよほす
これは黒滝の向川寺、黒滝というのは最上川の西側ですか、「ひむがしゆ」というとあの辺から見ると東から来ることになるんですかね最上川からね。東からうねりてぞ来る最上川、見下ろす山に眠りもよおすと。最上川が見えていることで安心して安らかになって、向川寺の山の上でなんか眠くなっている。茂吉はこの大石田にいた頃、しょっちゅう大石田の自分の聴禽書屋ですか、あそこから出てあのあたりを散歩しました。それから
東南のくもりをおくるまたたくま最上川のうへに朝虹たてり
東南という方角は、西北の方から最上川沿いに風が入ってくるのかな。それが雲を押しやっていって晴れていく朝の空に虹がたつ。この辺は昭和21年の大石田で詠んでる歌はみんな「白き山」という茂吉の最高の傑作の歌集ですが、そこに収まっています。
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
これもいいですね。これも国土交通省向きです。いいでしょう。こういう最上川を国土交通省は作らなければいけないわけだ。「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」これはさっきの大石田のところにこれの歌碑があるわけです。僕はまだその歌碑は見てないんですが、これは前の歌にすぐ続いてあるわけで「朝虹たてり」という、その朝の虹がふわっと少し消えかかっているんですね。消えかかった虹というのもまたきれいですね。消えたのかと思って仰ぐと、虹の七色がまだすーっと残っていたりする。それを「断片」と言ったりするところが、これがまた男ぶりがいいと言うか、ますらおぶりがあっていいじゃないですか。漢語を使って、さっきの白皚々もそうですが、紅色の靄もそうです。こういうところに「虹の断片」と。虹の切れ端なんて言ったんじゃ全く駄目なわけですね。そうするとカラオケの歌になっちゃうわけですね。「虹の断片」と言うことによって一気に古今の絶唱になったわけですね。これを読んでいくと斎藤茂吉というのは殆ど柿本人麻呂だと思っています僕は。20世紀日本の柿本人麻呂。その柿本人麻呂が一方で精神病理学をやっていたというわけですね。茂吉の専門は精神医学でしたから、それで精神病院を経営してたわけですね。そういうもので柿本人麻呂的な、短い短歌の中に巨大な自然の動きをつかまえて投げ込んでしまう、そういう力を持った迫力が見事なものです。これを越える詩人というのは、どう見てもいないな。高浜虚子にも虹を詠んで面白い句があります。虹がたった時にあなたがそこにいると思った、虹が消えたらあなたがいなくなったと思ったなんて、そういう俳句がありますが、それに比べたらやっぱり茂吉のこの虹の断片の歌の方がさらにいい。「上空にして残れるは」と、この上空も漢語ですね。「最上川の上空にして残れるは」と何かここも一種いさぎよさがありますね。「いまだうつくしき」というのはつまり、さっきも掛かっていてきれいだった。しかし、消えかかった今も美しい。英語でもフラッグメンス オブ レインボーズと訳されてます。エイミー・ハインレックというドナルド・キーンさんのお弟子さんのアメリカ人の女性が斎藤茂吉研究やりまして、英語で書かれた未だに唯一1冊の研究書が出てますが、そのタイトルはこの虹の断片を取っていて「フラッグメンス オブ レインボーズ」というふうに訳しています。それから
やみがたきものの如しとおもほゆる自浄作用は大河にも見ゆ
こういうのもなんか強引な言い方で、やっぱりドクター斎藤という感じ。自浄作用というのも川がもつ自浄作用、これは要するに自分の中の自浄作用でもあり、日本国の一種の自浄作用でもあるんでしょう。それから孔子様が川を見ていて「行くものはかくの如きか昼夜をおかず」と。孔子もああいうものを見ると、なかなか詩人だったなと思いますが、そういう思いもずっと入ってますね。それから
わが歩む最上川べにかたまりて胡麻の花咲き夏ふけむとす これは昭和21年の夏です。それからまたなかなかいいなと思うのは終わりから2番目の
最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれんとする時にわが居つ
これもいいですね。この支流というのはどの川を指しているか、それは分かりません。どこか大石田のあのあたりでいくつも川が最上川に流れ込んでいる、その支流の両側が山になっているわけですが、そこにいて滔々と最上川になって下っていく、その谷川の響く音だけが鳴ってるような谷間の夕暮れの中に「ゆふぐれむとする時にわが居つ」という、わが立つというのではなく、私がいまいるという、これもなんか非常に意味深い。この頃実存主義がやがてはやりだすわけですが、そんなものがはやる以前に、いわば実存的世界を茂吉は、さっき敗戦によって白紙還元されたと言いましたが、それはいわば実存そのものがむき出しになって、この最上川に対峙している。あとは有名な同じ昭和21年の冬になりかけの頃の逆白波の有名な歌、連作ですね。
かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
これは本当に柿本人麻呂、あるいは山部赤人、昭和21年の大石田にいて、この頃、まだまだ雪の多かった冬を迎えて、そのただ中にいて天を仰ぎ、最上川を眺めて、蓑を着て笠をかぶって雪の中を歩いてこの最上川を見てるんだと思います。「かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」その雪が最上川の上に流れてはさーっと消えていくわけです。最上川で音たてて雪が降る。それから逆白波なんていう言葉も、ここで初めて使われた。しかし、実際には逆白波という言葉は茂吉自身、前に1回だけ使っていて、それからもう1人、これは茂吉よりも前に使った歌人がいるんだということも研究されていますが、しかし、なんと言っても逆白波と言えばこれですね。下流の方から風が強く吹き上げてきて、そのために最上川の波が吹きあおられて白波がたつ。そっくり返って白波を立てている。
逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも これで深い、冷たい冬ゆ雪の中に、最上川もあの大石田の盆地も平野も沈みこんでいくわけです。
この辺でちょっと終えておきましょうか。こうやってみると斎藤茂吉は生涯を通して最上川と深く付き合って、最上川から命をもらっていた。そして殊に敗戦をきっかけにして自分の精神がいわば空っぽになった時に、はじめて最上川が彼の体内、精神を貫いて流れていって、彼の歌を一段と大きくし、20世紀日本の最高の歌がここで生まれた。日本が戦争に負けることによってこんな芸術が生まれたわけですね。そして茂吉がいたことによって、というふうに言えると思います。だから茂吉は最上川なしには茂吉たり得なかったし、最上川はこの20世紀になって斎藤茂吉を得ることによって最上川としての威厳を一段と高めたと言えるんだと思います。あとずっと終わりの方まで最上川の河口のところまで茂吉の歌は続いていきます。でも時間になりますので、この辺でということにさせていただきます。そういうことで芭蕉から茂吉まで、芭蕉も偉大だったし、またこの茂吉も大したもんだと思います。
■懇談
私も芭蕉が好きでしたし、茂吉は特に私、前に「アララギ」に入ってましたし、茂吉の弟子の結社に入ってましたから。僕なんか茂吉の孫弟子になるかもしれませんが、ですからこの小さな結社なんですけれども、そこのみんなで夏でしたけど、はるばると上山からずっとこちらに入って、2度に分けて来ましたかね、訪ねて回ったんです。ですから今日は非常に懐かしい話と、それまで私が考えなかったことをいろいろお話しくださってありがとうございました。 特に茂吉の場合で言いますと、今日つくづく思ったのは、今もお話にあった有名な「逆白波」ですね。言葉としては知っていますし、状況としては想像できたんですけど、地形的にまさにその逆白波のたつという状況が今日よく分かりました。川が流れてる、そしてそれがちょうど風の向きに対するのと、それと今日車で通ってくる途中、地吹雪を避けるためだという、あれ土地の言葉なのか建設界の言葉でなんか言うんですか。防雪柵ですか。今どきですからそうなんでしょうが、もっといい詩的な言葉がないかと思いますね( 笑い) つまりあれは今風に効率よくするために金属製なのでしょうが、昔はやっぱりあれにかわるのがあったと思うんですけどね。ああいう風景というのは私自身が子供の時に、自分の家から駅まで田圃の中の道を通う時の、新潟ですから、ちょうど弥彦山の方から1月の終わりから2月にかけて、もろに顔にぶつかってくる風ですから、その頃は腰まで足が取られるようだったらもう歩けないですね。仕方なくて遠回りして線路伝いに駅に行ったことがありますけど、そういう経験などから想像してみて、今日は茂吉が逆白波と言った最上川の風景が分かりました。目の前が白くなって見えませんし、頬は痛いですし息ができないですね。最上川の歌で言うと先生おっしゃったように、それぞれさすが茂吉だなと思う表現をしてると思うんです。 あと今日先生は最後を急いでお触れにならなかったのかもしれませんが、2枚目の下段の三首目ですね。これなんかも行き着いた当時の心境ではないかなという感じがしました。 最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困 ちょっと僕はこれ好きなんですけどね。「こころの貧困」なんて言うのは。
僕はその次の歌がまた好きなんです。 けふ一日雪のはれたるしづかさに小さくなりて日が山に入る というのね。小さくなって日が山に入る−というのね。太陽自身が小さくなって雪の山の中にかくれていく。自分もなんか一緒にそこで雪の山の中に入っていくようでね。それから つつましきものにもあるかけむるごと最上川に降る三月のあめ また三月の雨が出てくるけれども、さっきの白皚々のあすこと同じでね。
これは面白いですね。そんなことで考えてみますと、茂吉は山形の生まれ、育ちで、そしてまた最後は山形に帰ってきて、歌をこんなふうに最上川に関してまとめていってるんだと思いますが、そういう意味では茂吉は最上川を歌うことによって茂吉の文学を仕上げていったと言うか、そういう感じがしますね。それに対して芭蕉の場合は外からやってきた人なんですけど、外からやってきて最上川を詠むことによって、最上川を含めた出羽の国の自然というものの深さを、あるいは文化を詠み上げて行ったんだろうかなという、そんなふうに今日は先生のお話を伺いながら感じました。 茂吉の少年時代からのお話がありまして、そこは本当に私自身でまた後で来て歩いた時もありまして、いろいろ当時の、もう30年ぐらいたちますかね、その前の風景を思い出していました。
見にきたことがあるんですか。斎藤茂吉を慕って。
まあ、そうですね。
何人かで。歌の仲間とか。
はい。あの頃で15人か20人ぐらいいたでしょうか。上山の茂吉の親戚の宿に泊まって。
あれ今もあるんでしょうか。高橋なんとかさんという・・。
四郎兵衛さん。小さな旅館なさってましたけどね。先生が今日は特に芭蕉の方で「集めて」とか「崩れて」とか「入れたり」とか、動詞の重要さをおっしゃって、しかもそこの意味合いをエロスの問題としてお解きになったのがとても印象的でしたね。「集めて」ということをおっしゃったのと、お酒や醤油などを瓶に入れる、私の田舎なんかでは「じょうご」と言いました。
「じょうご」ですね。最近はあまり使わなくなりましたね。
そうですね。それと芭蕉の句で「ねまる」という言葉、あれは私の田舎でも、私自身も使ってましたけど、それは大人が子供なんかによく言うんですけど、「ねまって」とか「ねまねまして」とかという言い方してましたけど、くつろいだ形ではなくて、私の田舎なんかではちゃんと(正座して)こういうふうに座りなさいという「ねまる」というのというのは、そういう言葉でしたね。
ねまると言うから、なんか横になることだと思ってたんですよ。そうじゃないんですね。鈴木清風が芭蕉先生、どうかねまらっしゃいとか言ったわけですな。ここは涼しいから、どうかよくねまらっしゃいと。芭蕉がはいはいと、その言葉を面白いと思ったんですね。それをちょっと使うわけです。
やはり涼しさを感じ取って一瞬くつろいだと言うよりも、なんでしょうね。
さっぱりした感じ?
そう。それで身体もこう、きちんとしたかな。そういう感じで僕は受け取ったんですけど。
それでまあ鈴木清風に対する挨拶の句でもあるわけですね。お宅はとっても涼しくて、僕は本当にくつろげますと。わが宿にして−と言ったら、本当に自分の家みたいに思って休ませていただきますと。そういうことも入っていて、なかなかこれうまいもんですね。とってもわれわれはそう出来ないね。最上川を詠んだ歌というのはいろいろあるんでしょうけどね。結城哀草果もあるでしょうし。結城哀草果も茂吉の一番弟子でした。あの人は山形市ですかね。山形市ですか。それであの人は学校の先生ですか。
随筆なんかもありましてね。
なかなかいい随筆書いてますね。それで北上川はどうですかね。石川啄木の北上川の何でしたっけ。柳青めるなんとかだっけ。あれと宮沢賢治のなんとかイギリス海岸とかいうような、ああいう詩ぐらいしかないね。ちょっと寂しいですね。あとは「兵共が夢の跡」ですか、あれは浪花節だよ。 あれ読むと僕は無法松の一生とかなんか、大河ドラマというやつ、あれを思い出すんだな。だから皆さんよく知ってるでしょう。 夏草や兵共が夢の跡 ですね。
明日行きますので 。
それに比べると、やっぱり「暑き日を海る入れたり最上川」なんてのは、なんか全然違うね。あっちは割合歴史的な事実にちょっと近過ぎたんだな。芭蕉独自の想像力が十分に離陸してないというか、そういう感じがありましたね。それから「雲の峰いくつ崩れて月の山」なんてのは、僕の解説読むと驚くでしょう。それほどのことかと思うけど、読めばまさにそうでしょう? 雲の峰は本来夏の季語ですからね。月は秋の季語ですから。ちょうど7月の初めで、夏からまさに秋に変わっていく時ですからね。雲の峰はどう見たって男性でしょう。こう突っ立ってるもの。月の山は、あの月山というのはまろやかに伏せてるし、月と雲の峰、夏と秋、昼間と夜、動と静、それから生と死、陽と陰、陰の中にすべて崩れて収まっていくわけです。やっぱりこの世は女性原理が支配する、陰の原理が支配するという。あれはやっぱり形だけでも修験道風にあって、何か一種の啓示のようなものがあったところじゃないかと思いますけどね。芭蕉自身の体験の中にね。それでこれだけの強大な、強烈な、雄渾な句が出来たんじゃないかと思う。同じ場所でもむらがあるわけですね。 あらたうと青葉若葉の日の光 それから金色堂はなんでしたっけ。 五月雨の降残してや光堂 あれもなかなかいいですね。「五月雨の降残してや光堂」あれは歴史の奥行きがあってね、暗い東北の歴史の中に光堂、金色堂だけが光を宿している。本当に目の前に五月雨が降っていて、祭堂があってその中に金色堂があるなんていうだけじゃなくてね。それから周りの五月雨の暗さと光堂のにじみ合いがあるしね。なかなかあれはいいと思う。しかし、それでもダイナミックなところで言えば、なんと言ったって最上川に来て、出羽三山に登ってからですね。山形県はこれを唯一の誇りにしなければいけない。山形県の誇りとは何かと言うと芭蕉が芭蕉になったのは山形であると。芭蕉が最高の芭蕉のなったのは山形であると。しかもそれから二百年あとに斎藤茂吉という20世紀世界最大のワンオブザテングレートストポーエスザワールド オブザトエンティセンチュリーが出た。T・Sエリオットも偉いだろうが、バレリだって悪くはない。しかし、大したことはない。あと歴史ものはちょっとあるとかね。斎藤茂吉は断然残る。 われわれはリルケもドイツ語でちゃんと読んで、バレリもフランス語で読んで、T・Sエリオットも英語で読んでいる。それからオフイラニパスクはスペイン語で読んで、なおかつ斎藤茂吉は日本語で読んでそう言ってんだから確かなんですよ。ノーベル委員会が日本語読めたら斎藤茂吉なんか2回ぐらいノーベル賞もらってるところです。山形へ来るといつも言ってるんです僕は。山形県を元気にするために。 茂吉の歌はただ叙景歌じゃないんですね。景色を詠んでとかそんなんじゃないんですね。目の前の景色を大づかみして、力強くつかまえていながら自分の精神というか、そういうものが全部その中に入ってる、一種形而上学の詩でもある。メタフィズカルポーエットという言い方、そうのもある。リルケの詩なんかよりもいいんじゃないかな。リルケの詩なんて、なんかこんなに明快じゃないですね。明快じゃないと言うか、小面倒くさくてね。それから長ったらしいしね。というので、これから国土交通省河川局は茂吉と芭蕉は抜き差しならぬものとして心得ておいてくださいますように。局長訓示とか局次長訓示という時には必ず一首、この本を持っててさ、これ順に引いていけばいいんですよ。そして河川というのはこういうふうに一種の精神現象でもあるんだとかね。精神の世界に そのまま入り込んでるものもあるということを、よく局員に説いてくださいますように。
自浄作用はなんて。
自浄作用?わが心の貧困なんて。それからね、この最上川と直接関係ないけれども、僕が非常に好きなのは、今日の資料の一番最後に付け足してある歌で ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉(あきつ)のむれよ何処にかねむる この歌なんですけどね。これは昭和20年の9月の初めか半ばぐらいの歌なんです。本当に敗戦直後で「ぬばたま」というのは夜の枕詞で「すがら」というのは日もすがら、夜もすがらなんて言う時に、一晩中という意味ですね。一晩中、あの昼間から夕方、あんなにたくさん飛んでいたミヤマアカネですか、アキツアカネ、あの赤とんぼ、あれ一体どこに眠っているんだとね。トンボを詠んだ歌とか俳句とか詩とかはいろいろありますけれども、トンボの眠りを問うた歌というのはこれが最初で最後じゃないかと思うんです。要するに自分自身も、このトンボと殆ど同じになっているんですよ。本当にアニミズムというのがあるけれども、まさにそれですね。 ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉のむれよ何処にかねむる いま自分も半分眠りかけていて、その半分眠りかけた頭の中で、今日の昼間、夕方、たくさん飛んでいて最上川のほとりの河原の石なんかに止まっていたあの赤とんぼ、あれは今、どこでどうやって眠っているのかと。その赤とんぼに向かって問いかけているわけです。自分自身が殆ど赤とんぼと同じ、同列、同ランクになって、そこまで自分が殆どゼロに近くなっている。これも本当に深い、夜の深さを詠んだ歌で、こういうところが山部赤人や柿本人麻呂に同格で並んでいる歌だろうと思います。だから思想詩人でもあるんだね。こういう日本の思想というのは西田幾多郎だ、田辺元だというばかりじゃないんですね。こういう歌の中に体系化されることの出来ない、体系化以前の思想が宿されているわけで、日本思想史を語るならば柿本人麻呂だ、山部赤人だ、坂上郎女だ、大伴家持だというあたりから、ああいう歌や俳句の中に思想詩を詠んでいる。読んでいくとはじめてちゃんとした思想詩がある。日本はヨーロッパと違う基準があるんですね。歌のレベルの基準の方がより深くて、より広い、そしてより古い。だから時々こういう古い、いい俳句の世界とか歌の世界に戻ることはわれわれ自身をリフレッシュしていくのに非常に大事なことだろうと思います。毎日朝から晩まで、ただ行政というだけじゃなくてね。株価がどうこうというんじゃなくてね、グローバリゼーションなんていう時には、一層こういうことが必要になってくる。僕は以上です。
茂吉の歌の中のかなりの数が、さっき先生がおっしゃったことなんですけれども、夜とか月とか蛍とか、夜の最上川とか、夜を詠んだ歌がかなり多いかなと思うんです。気のせいかもしれないですけれども。
いや、確かに多いですね。それにいい歌も多いですね。
それは何か当時の茂吉の暮らしぶりに・・。
そうでしょうね。精神状況ですね。それから夜の方が、夜になると人間は原始に戻るわけで、昼間は近代人で動いていても夜は原始人になっていく。やっぱり原始人になった時によい歌が生まれるんだろうと思っています。夜ということで、その山部赤人のなんでしたっけ ぬばたまの夜のふけゆけばひさぎ生ふる清き川原に千鳥しば鳴く とかね。あれなんぞ夜そのもの。夜とは何かというと、その定義を問われたら山部赤人のその歌を引けばいいように、万葉の人間にとっては夜というのは時間が絞られていく、きりきりと絞られていく時間なんだそうです。その夜がこのきつく縛られていた時間が緩んでいくのが夜のほどろというので、それは夜明けのことなんですね。ほどろというのは本当にほどけること、それからほどこすこと、拡がっていくことなんですね。そういう時間の感覚があって、それが山部赤人の「ぬばたまの夜のふけゆけばひさぎ生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」というあの歌の中に、まさに螺旋を描いて夜が深まっていく感じが出てるわけです。あれは吉原の上流の宮崎というところに離宮があって、そこに天智天皇かなんかと一緒に行った時の歌なんですよね。ああいう感覚がこの「ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉のむれよ何処にかねむる」、ああいう歌の中にずっと出ている。万葉の夜の暗さ、夜の深さ、そいなものが茂吉の歌の中に入っていると思います。いま夜の歌が多いことに気付かれたのはさすが国土交通省ですね。
いま柿本人麻呂の話が出ていますけれども、斎藤茂吉が柿本人麻呂のお墓というか、亡くなった場所を捜すのに非常に熱心でした。それで私も石見のイワカユ温泉というのがある所なんですけど、考えてみますと江川の広島県の三次盆地から流れ出まして島根県の江津というところの日本海に注ぐんですけど、その中流なんです。茂吉が江川の方から入って行くんですよね。やっぱり最上川とはタイプも違う川なんですが、私もその時の歌なんかすぐ紹介できなく申し訳ないんですけど、川ということにかなり思い入れを持っていらっしゃるかなと思いました。確か川から霧が立ち上るさまを見て人麻呂の地はここに違いないと直感した歌があったように思うんですけどね。
そこの絵図まで書いてますよね茂吉は。斎藤茂吉記念館に行くと茂吉が書いたんだったか、なんかの山の人麻呂の住んだところというのが出ています。しかしね、川はやっぱり、川を遡るというのは物事の起源に戻るということですから。
そうですね、人麻呂がついの命を・・えした鴨山の地をここに定めんと、こういうのが茂吉の・・。
「…鴨山をしもここと定めむ」。「人麻呂がつひの命を終はりたる」。
鴨山ってどういう字でしたっけ。
鳥の鴨です。でかい歌碑がありましてね。
やっぱり、ちょっとその川の方がかなりヒントというか、影響してるかなと、最上川の歌を見て思いましたんですけど。
川というのはなんかそういう・・・。
精神に働きかけることなんでしょうかね。
結局、茂吉の見当つけたところは間違いなんでしょう。
地元の人もあまり信じてはいないようですね。
梅原さんは島の方でしたっけ、あれも発掘までやってみたんですね。あれもちょっと当たらないらしいけれども。でも何か梅原さんもそうだけど、茂吉もそうだけど、柿本人麻呂をきわめてみたかったんですね。歌の源流に遡ってみたかったんですね。そして茂吉は柿本人麻呂のこんな大きな本を2冊ぐらい書いたでしょう。あれで文化勲章かなんかもらったんですね。ものすごく万葉集を研究しているし、岩波新書で万葉秀歌というのが斎藤茂吉編で出ていますね。あれなかなかいい歌を選んでありますね。戦争中は戦地に行く兵士は、大学出なんかの兵士はあれを持って行ったようですね。茂吉の選んだ万葉秀歌。非常にああいう極限の状態になると万葉みたいなのが心の頼りになるんですね。もうひとつは川端康成の柳生・・だそうです。それをジャワあたりの戦線の暑いところで読むわけです。本当に日本が懐かしかった。あんなの戦争中禁止本になったかもしれない。それから茂吉編集の万葉秀歌上下2冊。岩波新書でポケットに入れやすくて。
それこそ明日いらっしゃる北上川の近いところ、宮城県涌谷町の山から黄金、東大寺の大仏を作るためのものが出た、それを家持が越中、今の高岡にいて、そしてはるばる天皇のところに祝賀した歌があるんですよ。
海ゆかば?
はい。それがつまり、家持は大伴氏の氏の上、責任者でしたから、大伴氏が代々休廷に仕えてきた神話を語っている歌に出ています。
■その他(1)
今日、いまやってます懇談会、これは平成12年の8月からやってるんですが、河川環境への会議で河川環境の整備ということの中で、私ども河川局で特に生態ですとか景観ですとか、そういったものに対する配慮はこれまでやってきたところなんですが、歴史とか文化とか、そういった社会環境面というのはなかなか手がつけにくいところと、苦手だというところもあって手がついてないというところがあるかと思います。それでこの懇談会を始めまして、特に文学ですとか絵画ですとか映画ですとか、そういったジャンルに描かれる川の姿というのを何回かの懇談会を開いて、これまで先生方からお話を伺ってきたところです。 そんな中で今日も芳賀先生のお話からあったんですけれども、斎藤茂吉の歌ですとか、それから松尾芭蕉の歌ですとか、そういった歌を皆さん、よく覚えるようにと、懇談会の中では職員採用試験にもその歌枕を採り入れるべきというようなお話もありまして、それを受けて河川局長も現場の人間が地域の歴史文化を語れるようにしなければいけないというご指摘もありまして、前回の懇談会の時にまず私本省の方でこういった分厚い資料を作りまして説明をさせていただいているところです。これは何かと言いますと、全国の歌と祭りについて川に関するものを網羅的に調べたというリストでございます。これを作りました目的は歌に詠まれている昔の情景というのを読み取るひとつのきっかけとして川にまつわる歌を集め、それから人と川のつながりというもの、暮らしぶりというものを反映した川の祭り、そういったものをリストアップして網羅的に、中でも特にそういったものに関して配慮した河川整備をした事例なんかも紹介しました。今日ご覧いただいた新庄市本合海の船着場の復元なんていうのもその1例として現場には断りもなくてすみませんけれども、既にご紹介させていただいているところです。 前回の懇談会ではそんなものを紹介した中で、川の姿の移り変わりというのをある一つの川を選んで、たくさんの歌を時代別に並べてみて、どんなふうになるのかちょっと見てみたらどうかという指摘があったり、それから有名な芭蕉の句であります「五月雨を集めて早し最上川」と。これは実は水循環の歌なんだと、芭蕉が最上川流域の地勢を頭に入れた上で旅をしながら水の循環をうたってるんじゃないのかというようなご指摘もあって、それにまつわる資料として今回ご用意させていただいているものです。それが資料の3になります。お時間もありますので手短にご説明させていただきます。 (中略) 前回の補足なんですけれども、こういった分析を少し紹介させていただきました。どうもありがとうございました。引き続きまして、明日参りますところについて、事務局からご説明させていただきます。
■その他(2)
先ほど先生もご覧になっておりました「FRONT」という雑誌、たまたま9月号の特集が表紙にも書いてあります「北上川」ということで組まれておりまして、きれいな写真等もございます。せっかくですのでこの雑誌「FRONT」を用いて、明日見ていただきます北上川の概要について説明したいと思います。(中略)
志賀直哉も石巻生まれなんですか。
そうですね、志賀直哉も石巻生まれでございます。あと金田一京助が盛岡生まれですか。宮沢賢治などが蒸気船に乗って川を楽しんだというようなことが書かれているということでございます。ここまでが北上川を特集した記事でございまして、このほかにちょっとお手元の東北地方整備局という袋がございます。この袋の中に明日現地に参りますので、詳しくは明日この資料などを使いながら現地で説明があるはずですが、ざっとどんな資料があるかだけ今日紹介しておきます。(中略) これらについては明日現地で説明がございますので、今日は省略させていただきます。以上、簡単でございますが北上川の紹介を申し上げました。
 
中世の一級河川

タイトルどおりの話をというなかなかつかみどころのないタイトルになっていますが、要は今まで懇談会でやってきました文学に見る川ということの、少し川の紹介というところに焦点を合わせました。現在、河川の管理は、国土交通省が直接管理している「一級水系」と呼ばれている河川が日本を代表する川になっていますが、少し古い川は、どんな形でどういう川が大事とされたのかという点で、少し前に触れられております「歌枕」を取り出してみました。歌枕の中で、特に「勅撰和歌集」でとられた歌枕、これが平安時代の一級河川と思うような意味合いをくっつけまして、その時代にどんな川が取り出されて、どんな条件のもとに取り出されたかというのを簡単に結びつけてみました。
結びつけたやつを、大変恐縮ですが、グッズですけれども、この湯飲みに川の名前を入れまして、それを「平安時代の一級河川」というような名前で歌枕の川をこんなふうにしてみました。これは私がやったのではなくて、私の研究室の学生がやりました。きょうも学生に紹介させますが、素人ですのでお許しいただきたいと思います。
先にまず学生に、この一級河川の歌枕の川の紹介をさせていただきます。学生の千葉君が話します。
それでは、発表させていただきます。「文学から見た河川、平安時代の一級河川」と題しまして発表いたします。
河川への視点はさまざまなものがあります。文学からの視点もその一つであり、文学とのかかわりで河川を見てきた例はありません。そこで、河川との応答関係を豊かにし、そうした河川と人とのかかわりを文学の視点から追求してみました。具体的には、平安時代に設定された「歌枕」から、当時の河川観にアプローチしてみました。
ところで、全国にはこのように河川がたくさんあります。「歌枕」とは、古歌に詠み込まれた名所であり、特定の連想をもたらす場所としての地名です。地名が歌枕として一般化するのは平安時代とされ、用法として特定の景物に結びつくもの、特定の印象を伴っているもの、掛詞として用いられているものがあります。これらの用法から見ていくと、特定の景物や印象とつながっている歌枕は、人とのかかわりを詠み取る上で有効な指標となると言えます。
次に、歌枕の河川の具体的な説明をします。古歌に詠み込まれている歌枕から河川を選出し、古歌の中でも「勅撰和歌集」を中心に選出しました。勅撰和歌集は、国の命令によってつくられたものであり、国が選んだものです。その歌集に納められていることによって、国に「名所」として許可されていたものであると考えました。
さらに、平安時代までに編集された歌集をもとに、河川名が歌枕として用いられている和歌を抽出しました。平安時代の歌集に限った理由として、鎌倉時代に入ると河川を人間が暮らしやすいように開発し始めたという背景があります。開発が行われる以前の河川が人とどのようにかかわってきたのかを知るために、平安時代の歌集に限定し、平安時代の歌集の中から和歌に詠み込まれている歌枕の河川を指標としました。
そこで、それらの河川を現在で言う「一級河川」であると考え、「平安時代の一級河川」としました。それらを表にしてみました。77河川あります。
次に、平安時代の特色をあらわすものとして街道を取り上げてみます。図を見てください。青色で示したものが平安京より太宰府を結ぶ最も重要な大路、黄色で示したものが中路、桃色はその他の道と太宰府より九州各地へと向かう街道、小路にあらわしました。これらの街道を歌枕の河川の分布と重ね合わせると、街道筋に点在していることがわかりました。街道があるということは人の往来があるということであり、人と密接した関係であると言えます。
平安時代に平安京は天皇が所在していたことから、現在の京都付近は政治的にも文化的にも中心地であり、人の行き来が盛んになり、交通が発達し河川や街道が重要視されるようになりました。その結果、現在の京都周辺に情緒が生まれ、和歌に詠み込まれた河川が多く存在していると言えます。
それでは、個別に現在と昔の様子を見てみようと思います。
こちらは岩手県の地図になります。岩手には衣川という川がありまして、これは北上川の支川となっております。これが昔の様子をあらわした絵になります。
次に、これは宮城県の地図になります。名取川の現在の様子です。昔の様子をあらわした絵になります。
野田の玉川は、現在二級河川、砂押川へ流れる玉川水路となっています。
こちらが阿武隈川の現在の様子と、昔の様子をあらわした絵になります。
山形県の地図になります。山形県を流れる一級河川の最上川です。最上川は王朝時代以前から舟運に利用されており、そのことは「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」という和歌からも知ることができます。「稲舟」は「いなにはあらず」を導き出す序詞ですが、実際に稲を積む舟が最上川を上ったり下ったりした様子が推測されます。昔はたくさんの文化交流の舞台となりましたが、鉄道の普及により舟運は役割を奪われてしまいました。現在は、三大急流として、急流を生かした舟下りが観光事業として力を入れておるほか、昔の舟運の姿は見ることができなくなりました。
こちらが関東地方の地図になります。隅田川は、在原業平によって、「名にしおはばいざ言問わむ都鳥わが思う人はありやなしやと」と詠まれ、「都鳥」が「隅田川」をイメージさせるものとなっています。
男女川は四股名に用いられ、第34代横綱男女川は茨城県つくば市の出身です。
こちらが利根川の昔の様子をあらわした絵になります。
現在の多摩川の様子です。以前の多摩川を描いた絵になります。
こちらが静岡県の地図になります。富士川の現在の様子です。以前の様子をあらわした絵になります。
こちらが新潟県と長野県をあらわした地図になります。千曲川は現在でも多くの文学作品の題材となっています。千曲川は、長野県を流れ、新潟に入り、その名を「信濃川」と変える一級河川です。千曲川は詩情豊かな川です。その景観は上流から下流まで変化に富んでおり、四季それぞれに美しく、古来、数多くのすぐれた文学作品を生んできました。「信濃なる 千曲の川の小石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾(ひり)はむ」と詠まれ、信濃の千曲川の小石でさえ、あなたが踏まれた石ならば玉と思って拾いますという意味があり、「小石」は、美しいロマンチックな川の象徴として古代の人々のあこがれの的でした。
小説や詩歌ばかりでなく、民謡、童謡、歌謡曲、唱歌にも広く歌われ、千曲川に沿って広がる万葉公園には、古く万葉の時代から現代に至るまでの信濃を歌い上げた27の歌碑が建てられているなど、多くの人々に親しまれています。また、橋に「万葉橋」と名づけ、文化の伝承を行っています。
こちらが諏訪湖の現在の様子になります。
こちらは富山県の地図になります。神通川の今の様子です。以前は「鵜坂川」と詠まれ、歌枕になっています。
こちらが三重県の地図になります。三重県を流れる一級河川宮川の支川であり、伊勢湾に注いでいる御裳濯川です。御裳濯川とは、五十鈴川のことです。倭姫尊が裳裾の汚れをすすいだという伝承から、一名「御裳濯川」とも称します。「君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまんかぎりは」と詠まれ、尽きることのない流れは天照大神の悠久性に例えられていました。現在もその清流は尽きることなく流れ、昔の面影を残し、神秘的な雰囲気を漂わせています。
これが、昔の様子をあらわした絵になります。
三渡川とありますが、こちらは歌枕では涙川のことで、現在は三渡川となって、今の様子がこちらの写真になります。
宮川は、以前は「度会の大川」と詠まれ歌枕となっています。これが以前の様子をあらわした絵になります。
こちらが滋賀県と大阪府の地図になります。十禅川とあります。野路の玉川は現在の十禅川となっており、滋賀県の草津市を流れて琵琶湖に注ぐ川です。「あすもこむ野路の玉川萩越えて色なる波に月やどりけり」と詠まれ、川の両岸に埋める萩について詠まれています。萩の名所なり、「萩の玉川」とも呼ばれました。現在は、昭和51年に復元され、両岸コンクリートの護岸となり、幻想的な野景の萩は見られなくなりました。これがその当時の絵になります。
こちらは横川の様子なのですが、横川は現在、比叡山延暦寺のところにある中堂の跡になっています。
こちらが現在の野洲川の様子になります。以前の野洲川を描いた絵になります。
藤子川の現在の様子です。以前は「関の藤川」と呼ばれ、歌枕となっています。こちらが関ヶ原合戦が行われたときの屏風絵になります。
こちらが田上川の現在の様子です。
こちらが琵琶湖の現在の様子になります。昔をあらわした絵になります。
こちらが京都の地図になります。こちらが大堰川の現在の様子になります。昔の様子をあらわした絵になります。
井出の玉川の現在の様子です。
桂川の現在の写真になります。桂川の昔の様子を描いた絵になります。
白川の現在の様子です。昔の様子を描いた絵になります。
こちらが清滝川の現在の様子になります。昔の様子を描いた絵になります。
こちらは鴨川の現在の様子です。鴨川は、京都府京都市上賀茂神社の西を流れ、下鴨神社の南で高野川と流れを合わせ、南下して桂川と合流する川です。現在、一級河川淀川二次支川となっております。鴨川の河原では以前、鳥や獣を集めた見せ物があり、四条鴨川の東には芝居がかかっていました。また、納涼床を大きく取り上げ、歓楽の人々を示し、夏の京都の雰囲気を十二分を見てとることができます。「賀茂川の水底すみて照る月を生きて見んとや夏ばらへす」と詠まれ、川底が見えるように澄んだ賀茂川に、人々は集まり楽しんでいました。
また、楢の小川、瀬見の小川、御手洗川と称するものも鴨川を指しています。このように、鴨川は平安京にとって非常に重要かつ人々に密着した河川であったことは、鴨川が別名でたびたび詠まれていることから言えます。
こちらが木津川の現在の様子です。木津川は「泉川」や「沢田川」といった歌枕として、別名で詠まれています。
こちらが淀川の現在の様子です。淀川の以前の様子をあらわした絵になります。
宇治川の現在の様子です。宇治川は、京都府宇治市を流れる淀川水系一級河川です。柿本人麻呂が近江の国より都に来るときに、「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」と宇治川のあたりで詠んでつくった歌です。 その当時、網代は宇治川の代表的景物と言ってよく、平等院鳳凰堂の扉にも書かれているなど、「万葉集」成立時から宇治川に網代は広く知られていました。平安時代には、宇治川河畔で生活していた人々の日常生活や自然がつくり出す風景は珍しい光景として、宇治を訪れる人々の目に映っていました。特に網代見物、鵜飼い見物は平安貴族に娯楽として親しまれていました。
これが以前の様子をあらわした絵になります。
こちらは、現在の有栖川の様子をあらわした写真になります。
こちらが平安時代の地図なんですが、赤く示した場所が、巨椋の池があったとされる場所です。巨椋の池は現存いたしません。巨椋の池は、宇治川、桂川の水を集め木津川と合流する、湖と言ってもよいほどの巨大な池でした。「万葉集」に柿本人麻呂によって、「巨椋の入江とよむなり射目人(いめひと)の伏見が田居(たい)に雁渡るらし」と詠まれたのが初めてで、巨椋の池の広さは東西4Km、南北3Km、周囲16Kmとされ、水深は1m足らずでした。
このように、写真や絵で見られるように蓮の花が有名でした。この時代の水運交通において、淀川、巨椋の池、琵琶湖、宇治川、桂川等を結ぶ一大遊水地は重要な役割を果たしていました。現在は、河川の付け替えや干拓によって工場や住宅地に利用されているため現存せず、昔の姿はしのぶこともできなくなりました。
こちらが奈良県の地図になります。奈良県を流れる大和川の一次支流一級河川の竜田川です。現在この写真からも見てとれるように、もみじで有名な土地となっています。また、竜田川公園ではもみじ祭りがあり、人々に親しまれています。「ちはやぶる かみよもきかず竜田川 からくれないにみずくくるとは」と在原業平に詠まれ、神々の霊域で不可思議なことが幾ら起こった大昔にもこんなことがあったとは聞いていない、竜田川の水を美しい紅色にくくり染めするとはという意味があり、紅色に染めるというところには、川岸のもみじが美しく川一面に覆い尽くしたもみじの下を水が流れる、という意味があることから、もみじの名所であったことが読み取れます。このように、もみじを通して現在でも昔の様子を見ることのできる河川となっています。
これが現在の吉野川の様子になります。吉野川は、「夏実川」とも別名で呼ばれ、歌枕として定着しています。
こちらが、檜隈川の現在の様子です。檜隈川は大和川の支川となっています。こちらが檜隈川の以前の様子をあらわした絵になります。
こちらが初瀬川の現在の様子です。初瀬川は、「三輪川」とも呼ばれ、歌枕として定着しています。これが以前の様子になります。
佐保川の現在の様子です。佐保川は、歌枕では「細谷川」と詠まれていました。こちらが以前の様子になります。
こちらが富雄川の現在の様子になります。
穴師川の現在の様子です。
こちらが飛鳥川の現在の様子になります。
広瀬川の現在の写真です。
布留川の現在の写真となります。以前の様子をあらわした絵になります。
天の川の現在の様子です。
猿沢の池です。猿沢の池は、奈良市の興福寺の中にあるとされています。こちらが以前の様子です。
こちらの大川の現在の様子なんですが、歌枕では「堀江」と詠まれていました。
玉川の里の現在の様子です。以前の様子を描いた絵になります。
水無瀬川の現在の様子です。
芥川の現在の様子です。
こちらが和歌山県の地図になります。音無川は熊野川の支川です。現在の写真です。以前の様子をあらわした絵になります。
紀ノ川の現在の様子です。
こちらが兵庫県の地図になります。
布引滝は生田川の上流にあります。こちらが布引滝の昔の様子をあらわした絵になります。
こちらの地図が福岡県と佐賀県の地図になります。御笠川は逢染川、染川、思川と詠まれ、歌枕となっています。現在は二級河川です。
こちらが玉島川の現在の様子です。こちらの河川も現在は二級河川となっています。
個別に見ていただきましたが、まとめとして、歌枕として詠まれた河川が特定のイメージを持つとき、当時のその河川と人とのつながりが殊のほか強かったということをあらわしています。そして、人とのつながりの強い河川がその当時の重要河川と言えます。昔、重要視された河川は今も重要なのか、また、今重要視されている河川は昔も重要だったのかを考えると、人々は河川との応答関係から文化をつくり出し、今日の生活の中で息づいているものが見られます。
また、現存するかしないかという観点だけでなく、その地域の人々の中でどのような位置であるかということが、現代の時代による重要性の違いとして見ることができます。ほぼ現在も一級河川であり、歌枕であった河川は、現在も川と人とのかかわりは絶えず進化を続けてきていると言えます。今も一級河川は歴史的にも大事な河川として認識してみました。そして、時代とともに強くなっていると言えます。 終わりになりますが、平安時代と現在の河川間には、時代による違いが見られます。かつて人々は、何げない生活の中でも自然の地形を把握し、自然とかかわってきました。この長い時代の流れの中で人々が得てきたことや、失ってきたことは多くあります。その河川が得たものも失ったものもそれぞれの河川の歴史であり個性です。文化をつくること、守ることはその土地の人にしかできないことです。かつてのものにしてしまうことなく、向き合ってほしいものと考えました。
ということで発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。
文学の先生方の前で文学の話をするというその度胸、歌枕の解説を堂々とするというところの図々しさも川をやっているとこうなる、というふうに御理解いただけたらと思います。
お手元に配りました資料は、歌枕を現在の水系名に直して、どこに所在しているかというのを県名で出して、代表的な歌を一覧表にしております。一等最初に近いころに地図を出しましたが、この資料の3枚目にあるのが日本の河川図で、歌枕だったので北海道は除いていますが、全国の川が書いてある地図を使いまして、それに歌枕の川を落とすとこんな小さい地図ですので点になってしまいますので、先ほどこれを拡大した地図で、府県別にどの川かということを示させていただきました。この街道を入れまして、ちょっと上がっちゃって話を抜かしましたが、これと国府を入れました。そうしますとこの歌枕の川と一致するということで、大変重要な川だったということが浮かび上がってくるかと思います。
私のところでやったこのまとめは、土木工学科の卒業論文の発表会用の中身だと御理解いただければと思います。今度これの続きとして、これは先ほどもちょっと彼女が触れたように、川に対する見方が平安時代で変わるだろうというふうな想定をしております。土地の所有者がリーダーになってからは、開発という概念が入ってきますので、鎌倉時代以降の歌枕に少し変化があるんじゃないかということで、次はその辺から、これは近世まで入れるのか、あるいは近世の前までで一段階した方がいいか。さらに近世を入れて、そして明治になってから今度は、具体的に内務省が河川管理として直轄をどうやって選んだかというところを整理して、そして現代までどうなっているかということで時代区分をしてやる最初の取っかかりとして、歌枕を使わさせていただいたということです。
今、日本全国の中の河川図というのは国土交通省から出されているんですが、なかなか手に入らない。皆さん多分お持ちでないと思うんですが、日本の川だけを書いた地図があると大変便利なので、もしよろしければ、CD−ROMで入れたやつを入れております。これも宣伝になりますが、私の職場の土木工学科が50周年記念のときこれを整理して、土木工学科の高校生の紹介としてこんなものをつくりました。その中にテーマとしては、川のいろいろとして歌枕の川、現代の日本の河川図というのを拡大できるように入れました。全部の川の名前が入っております。
そのほかに、「橋」ということで、橋のいろいろということで世界の名橋を100個ぐらい選んでおります。
それから、これは少し国土交通省ということで意識してお持ちしたんですが、このCD−ROMの中には、川のいろいろと橋のいろいろのほかに、内務省で活躍した人というと大変恐縮になるんですが、つくった人と言った方がいいんでしょうが、古市公威さんという方がいます。このお孫さんが横須賀に生存されていたものですから、お孫さんに、「祖父、公威を語る」という講演をお願いしたので、その講演録が入っております。
それから、川の方で言うと明治の終わりから大正の初めにかけて、渇水流量と言って川の一番水の少ないときの流量調査を全国的にした人がおりまして、菊池さんという方ですが、この菊池先生のお子さんがおられて、この方は建設省の元道路局長をされていた菊池ミツオさんという方ですが、その方に「父、菊池を語る」という話をしてもらいまして、その講演録を入れております。なぜ講演録をやったかというと、古いことを少し皆忘れ過ぎているものですから、忘れないでいなければ土木の紹介はできないよという意味で、古い人の話を集めてみました。
その中で、古市公威さんという方が朝鮮半島の釜山鉄道をつくったときにその祝賀会で演説をしておりまして、その演説の声と、それから、そのときに謡曲で「新年の山」というのを歌っております。それが両方ともコロンビアレコードの試作品として教育に資するということでレコードに入っておりました。それをお孫さんが持っておったんですが、もちろんもう壊れておりました。ひびが入って割れておりましたが、これをNHKに持ち込んで復元してもらいました。昔のレコードというのは回転数は関係なかったみたいなので、その回転数を合わせまして、お孫さんに、これが祖父の声だというところまで合わせましたので、肉声の古市の声で演説と謡曲が入っております。それをこの中に入れてあります。きょうグッズを持って行くのが一番こういうときに話すのにいいと思いましたので。それから、先ほど言いました地図とかその他入っておりますので、これは幾らでもダビングできますので、後でよろしかったらお持ちください。
そんなことで私の役割を終えようという図々しい話になりましたが、来年の学生に少し、歌枕を土地の所有者、つまり開発の思考が入ってきたときに川をどう見ていたかということに視点を置きながら歌枕を整理してみよう、その次に近代まで持ってこようというふうな途中経過だと思っていただけたらと思います。
1時間という時間をいただいたんですが、学生が緊張して少し早くしゃべり過ぎちゃったので、地図やなんかお見苦しかったかもしれませんが、早目に終わりましたので、最後に古市さんの肉声を聞いてください。ちょっと、さわりだけです。
〔古市公威の肉声〕これに音がくっついている機械がなかったもので、マイクで拾ったのでお聞き苦しかったと思います。これは普通のパソコンで聞いていただければ、よい声で聞こえます。河川の最初の親分の声というふうに御理解いただければと思います。いろんな遊びを含めまして申しわけありませんが、そんなことで終わらせていただきます。
大変おもしろいのをありがとうございました。古市公威さんは内務省の方ですか。
内務省の技監です。それから、土木学会の初代の会長でもあります。
そのころは国土交通省は内務省ですね。
内務省から建設省になりまして、それから、現在の国土交通省になったわけですね。
その古市さんは、内務省の中では内務大臣ではないんですか。
内務大臣ではないんです。今の何になるんですか。
どこまでやられたのかよく知りませんが、ポンジュショセイで首席だったという話、トップで卒業されたというふうに聞いています。
2番なんです。その成績証もお孫さんから見せてもらいましたが、高校、大学、2番ですね。
高校は日本ですか。
いや、向こうへ行って。
エコールポリテクですか。
そうです。
ポリテクを出てから、最優秀はエコールデメヌーに行くんですが、その次のトップテンぐらいがポンジュショセイに行きます。その中へ入っております。
いつ留学しました。明治20年代。
最初の留学生ですから。明治の何年でしたか。
最初の留学生というと、岩倉使節団と一緒に行った明治4年出発の。
そのころです。
古市さんは何年生まれですか。
青木シュウゾウが監視役のあれで書いていますから。青木シュウゾウさんなんかが確認している時代です。
ポンジュショセイは一番古い大学ですので。エコーデポンジュショセイですね。
そこに最初に古市は留学したわけですか。中江兆民や何かと同じときの留学生ですね。津田梅子も。
1875年、明治8年です。
じゃあ、その後だ。中江兆民、津田梅子、牧野伸顕などが全部そろって留学生が50名、岩倉使節団に同行して出掛けたのは明治4年ですからね。明治4年というのは1871年ですから、その少し後ですね。
その後に、同じようにオキノさんという人が行きまして。最初の内務省の河川の人たちはフランスで。帰ってきて内務省の組織を事実上つくり上げるんです。
内務省の中では、国土交通省につながるようなところは何と言っていたんですか。内務省の中の何局。
土木局ですね。
それでまた変わりまして、土木局というのは今度は、地方建設局の今の事務所みたいなところを土木局と言ったりするんです。官制の変遷はありますけど。
内務省土木局というのが建設省なり、今の国土交通省になってきたわけですか。
そうです。内務省で官制組織をつくると同時に、東大の最初の工科大学の学長です。その後に土木学会の会長になりました。ですから、川の方の日本で最初の近代的なところの方です。
古市公威について、ちゃんとした伝記は出ていますか。
はい。コウユウカイ、キュウコウカイというのを出しておりますし、さまざまな古市さんの研究は出ています。ただ、声を収集したりというのはなかったので、肉声に迫るということをやったわけです。
その伝記というのは、いつごろ書かれたものですか。亡くなって間もないぐらいの追悼とか顕彰。
顕彰として出しています。それは内務省の時代に最初に出しています。その後も出しております。
最近は。
最近は、「土木史」というのがありまして。
古市についての評伝は。
出ています。個別に古市さんだけ取り出したのはないんですが。
古市公威についてちゃんとした評伝はありますか。
一応3冊ぐらいあります。
資料もよく当たって、フランス留学中のことなんかもよく調べて。
細かい人物評ということではなくて、古市のやったこととして出ています。
土木の方からだけでなくて、古市公威という人物が、どこで生まれて、どういう家柄で育って、どういう学校に行って、何で留学して、戻って来てから内務省の中ではどういうキャリアをたどり、それから、日仏関係では例えばクローデルと一緒に日仏会館をつくった日本側の一番キーパーソンですね。渋沢のもとでね。ああいうことも含めて。それから、いつ死んで。ちゃんとした伝記。
愛媛県姫路市がその出身地なんですが、古市さんの資料を御遺族から寄贈されまして、そのときにまとめたものもあります。それが一番新しいものです。
姫路文学館。
姫路市歴史博物館です。
非常に興味あるね。ちゃんとした評伝を書かなければいけないね。土木のこともきちんと専門的な知識を持って、古市公威の日本土木事業に与えた業績を評価する。それから、日仏関係の上での彼の業績を評価する。
それから、印刷されてない古市さんのヨーロッパ紀行のノートですとか、そういうのも東大の土木の図書室にあります。
東大の工学部ですか。
はい。
土木は今何と言うんですか。
社会基盤。でも、土木というのを使っておりますから。大学院の名前が「社会基盤」という名前で、学部は「土木」です。
そこに資料があると。これは、だれか書かなきゃな。
残念ながらフランスの中に、彼が帰国してからどういうことをしたかというのが一つも伝わってないんです。向こうのポンジュショセイが、200年か300年で卒業生の中で著名な業績を挙げた人というこのぐらいの本を出しているんですが、全くないんです。
一般に、フランス人自身がアジアのことには関心がないし、無知蒙昧だからね。
向こうに戻してないんですね。日本の中で情報が閉じているというのは非常にまずいので、そういう情報を世界に発信するようなことを考えていかないといけないですね。
きちんとした古市公威の400枚ぐらいの伝記を書いて、それも仏訳して出せばいいんだな。でも、古市公威はさっき言ったようにポール・クローデルが大正10年に日本に駐日大使としてやってくると非常に親しくつき合って、日仏会館の建設に非常にお金を集め、設計のことや土地の交渉まで含めていろいろやるんですね。非常に重要な役割を果たすんです。
昭和10年ごろ鎌倉の人たちと提携として、土木の人の顕彰を随分やっているんです。その中で河村瑞軒のお墓の整備は古市さんが発起人の一人としてやっております。
昔の人は、やっぱり昔を大事にしたんだな。
そんなことがあるので、肉声で少し背筋をピンとさせようという思いでやってみました。
関東学院大学土木研究室で、衆知を集めて古市公威の研究というので、300頁ぐらいの本をつくったらいいですね。
たまたまお孫さんがすぐ近くにいらしたので、80何歳ですけど、まだ記憶が新しい方だったので、こんなものをつくってみました。
さっきの謡いの釜山鉄道の開通ですか。釜山鉄道というのは釜山と京城の間の。釜山に行って。
向こうでやったそうです。日本で鉄道省でやって、それから向こうでもオープニングをやったということです。
なるほど。
ちょっと歌枕と離れたんですけど、川の先人はこんなこともやっていたよということです。
資料は関東学院大学の方にあるんですか。
そういうわけではなくて、たまたま。いろんな方が古市さんのことをやり始めているんです。ただ、その資料が一カ所にあるわけではないので、御遺族から寄贈されたのが土木学会が半分と、それから姫路市。というのは、御遺族から資料をあげるよと言われてから、保存しておくのに困っちゃったんです。本当は国土交通省がそれをやればいいんでしょうが、なかなかそうはいかないというので、土木学会の図書館の整備があったものですからそこへ入れようということで、半分土木関係のものだけもらって、個人的なものは姫路の方に。姫路の方も、実は生家がなくなっちゃってタクシー会社の駐車場になっているんです。これは寂しいことだなということもあって、姫路の方で一生懸命やった。これは建設省の国道の姫路工事が一生懸命やって、その資料の渡しのときに記念のシンポジウムをやったんです。
姫路藩の藩士ですか。
そうですね。
建設省が内務省の時代にさかのぼって、土木系の重要な技術の面でも行政の面での重要な働きをした人の研究とか評伝というのは。
やっと始まって、かなり進んできつつあります。
古市公威はその一番最初の方ですね。それから、さっきの菊池さんですか。
この方は逓信省にいたものですから余り評判にならなかったんですが、日本のすべての沢と言ってもいいんですけれども、沢の流量をはかって歩いたんです。明治41年か42年に東大の土木を卒業してから、家にほとんどいなくてずっと歩いた。大変熱心なクリスチャンだったので、日曜学校の先生をやったりして、全国の教会に泊まりながら全国の川の調査をしたという方です。流量調査だけは本になっているんです。これは大変貴重な本で、環境問題が出てきているだけに、本来の川の流量を知るにはいいものです。この方が逓信省ですから電気系統の水力発電の方だったので、洪水の話とはまた違うものですから、割合日の目を見ないままにきていたんですが、たまたまそのお子さんから、「うちの父はどんな人ですか」という設問を朝日新聞を通じて私のところに来たもんで、いや、偉い先生なんだけどという話をして。資料を今集めている最中です。
河川改修技術の上で重要な働きをした行政官、技師の調査と顕彰というのも大事ですね。
そうですね。それが意外に少ないんですよ。それが一つ河川行政の欠点になるのかなと思うんです。
それぞれの川に土着でいろいろ川のことをやった人間もいるけど、しかし、中央政府から官僚として管理した優秀な人物もいるはずですね。
それから、神様に祭り上げられた方も北海道にはいます。小原ゲンジさんという方で、これは夕張川の改修の後、治水神社に祭られたりしています。
どうも失礼いたしました。どうぞ。
貴重な発表いただきました。ただ、和歌の詠まれている時代が大体平安時代で、ちょうどその図で示されているのが江戸時代で、中世の末ぐらいですか、戦国時代にかなり開発が行われているから、そこの間の転換というのは、時代的な変化をもうちょっと入れると、さらによかったんじゃないか。例えば、あれはみんな名所図絵とかそういう関係なんですけれども、絵巻とかその他いろんな図がありますので、それとドッキングさせると非常にいいと思います。
屏風で見つけたのが幾つかあるんですけれども、なかなかないものですから、空けておくより近世のやつでもいいから通し見してみたらというようなことで、苦しまぎれにあれを入れております。あれは平安時代ではないことを十分承知しておりますが、その辺を少し時間かけて発掘して、全部におさめられたらおもしろいなと思います。この作業が少し時間がかかるなということで、彼女たちはまだ1年1カ月か2カ月しか携わってなかったもので、その中では和歌の歌の勉強から始めたものですから。身近にいる先生方を訪ねて行ってそういうところから始めたもので。雰囲気を出す絵図、屏風、その他が出てくるといいなと思うんです。多分あるんじゃないかと思うんですが、その辺は先生、一度お邪魔させていただきます。
あと最近の研究ですと、武士の館の根拠地は大体河川沿いなんです。いわゆる大路とかそういう道、陸路ではなくて河川の方がかなり重要だったのではないか。古代ですと大体大きな道をつくるんですけれども、これ、ランニングコスト、維持するのが大変なんですね。ちょっと雨が降るともう。中世になってくると基本的には大体河川の方がかなり重要になってきて、その周辺に大体こういうふうに館が生まれてくるという感じですね。平安時代の和歌とはちょっと違った、また、いろいろな文学作品なんかにも川が出てきますので、そういう変化を追っていくとさらにいいのではないか。
少し注目したのは大分県の宇佐なんですけれども、ここは「道の駅」の最初のところですね。ここは「館(たち)」と書かないで「家」と書いて、「駅家(えきか)」と呼んでいたようです。それが館とか。今は駅館川となまっているんです。ですから、道の方からきた川の名前なんです。川の名前の中に古代の思いをしのんでいるところがあって。道と川とどういうウエートがあったのか少し探りたいと思ったんですが、やはり道の方が強いなというなという感じは受けているんです。
そうですね。ただ、古代は一生懸命維持するために、たくさん挑発してやるんですけれども、もうできないんですよ。
平安時代にできた道の管理システムを書いたものがあるんですが、これなんかは、街道に食べられる実のなる木を植えろと。どうしようもないときには松を植えろと。今残っている松林がすごいのは、ほかに方法がなかったときに、松林というのはそんな順序でいくとあったりして。道がいかにも人を往来させるために、道そのものの維持管理と、それから旅人へのサービスのためにどういうふうにするかというのは、多分川が前面に出てきて物流という概念になってくるのは、やはり近世になってからかなという感じがしていたんです。 ただ、中世のころにどのようなかかわりを持っていたかというのは、余りよく河川史の方でもとらえてないものですから。物流も実は一番弱点になっているのが、船の数はわかるんですけれども、運んだ量が何の資料もないんですよ。これが日本の舟運の最大の弱点で、原点に返っての評価ができないものですから。海の方はできるんですが、川の方ができないんです。近世になって開発という概念になってきたときに、流域という概念が入ってくるので、中世のころにはそれがなかなか読み取れないんです。そんなことが川の表現の中で違うかなという感じがしているんです。
平安時代は開発がなかったというか、それは僕は違うんじゃないかと思うんです。例えば飛鳥時代から、ものすごく川の開発をして。かんがいをするという視点に立って川と接していますし、そのためには当然治水が必要ですからいろいろ働きかけておって、人間の手もついていない自然としての川という時代があったと私は思ってないんです。そういう視点で奈良、平安の時代の川をとらえると、僕は違うんじゃないかというのが一つです。 物流でいくと古い時代から川が使われておって、メインのルートは川で、その中に配っていくのは道路に頼っているので、その接点の港が非常に大事な働きを持っていると思うんです。そういう意味では、平安の時代が手つかずの自然を持っているというふうにとらえると、全く違うんじゃないかと私は思うんです。
中世のころの川関係、周りの用水路の関係で言いますと、もう反当たり収量を高める技術に入っていますので、かなり。ただその場合に地域分布があって、西南日本の方は反収を高めるための技術が入っている。ところが東北日本の方は開発の緒についたというところで、部分的に開発が進んだところがありますけれども、大きな川が多いところはなかなか手がつかなかったかなと。むしろ小さい川が集まっているところの開発は、ものすごい勢いでいったかなと思うんです。ただ、物流という概念で言うと、本当に船で物流、つまり米を集める必要もなかったというところもかなりあったので。小さいものを街道で運ぶことはあるでしょうけど、実際に川を動脈として生活圏の中で物流する必要があるかないかというのは、ちょっとよくわからないんです。
奈良時代は全部集めていますから、それはものすごい物流があったはずでね。
ただ、その量がどのぐらいのものかというのをつかみ切れないので。近世になると割合つかみやすいので。という意味で、近世と中世と分けてみたらどうかという感じです。
中世より前ですね。そのときから自然とのつながりという意味では今と同じような感じであったはずで、歴史のいろんなものを読むと、日本の古い時代は余りだめだったという印象がものすごく強く書いている本が多いんですが、僕はそうではなくて、もっともっとビビッドな関係があったんじゃないかと思うんです。特に川との関係においては。
それはそうだと思うんです。ただ、近世の開発の概念とその前の開発の概念はかなり違いますよね。つまり、思い切った改造的なものをやっていく場合と、そうでない小区域でやっていく場合と。例えば流域という概念がそんなに前からあったかというと、僕は余り感じられないんです。流域的概念を含めながらやっていくような近世の開発の概念とちょっと違えた方がいいかなという感じで。ただ、川の方から河川史をまとめた例がないので、この辺をもう一回やっていかなければいけないと思っているんです。  ただ、時代と地域の分け方をやらないと、全部同じに押しなべてどういう時代だったかというのは難しいので。西南日本は単収を上げる技術は栽培品種だけではなくて、土地改良をやり始めていますから。そういうことの技術段階と、それから東北日本型の開発の概念と分けて考えてみたらどうかなと、そんな分け方を考えております。ただ、この歌枕に出てきたようなところは、そういう場所と東北の方は違うものですから、そこのところをどういうふうに読んだらいいのかなと思って。もうちょっと先まで行ってみてから振り返ってみた方がいいかなという思いなんです。
おっしゃるとおり川の歴史がないということで、これは3月になっていますが、世界水フォーラムで水の歴史、川の歴史をまとめようとしたとき、日本、アジアが抜けるんですよ。そういう意味では、学問的にもぽこっと穴のあいている部分かもわかりませんね。
でも、揚子江とか黄河とか幾らでも歴史はあるよね。それから、淀川、吉野川だって。
淀川にしても、淀川がどういう変遷をたどったかをコンパクトにまとめた本を1冊用意しろと、それを英語であるかと言われると、ないんですね。日本語でもないんじゃないですか。ありますか。
川の歴史というのは、どういうふうに川と人間がかかわってきたかという歴史。洪水になったとか、橋を架けたとか、物流の手段になったとか、そういうことまで含めた川の歴史ね。矢作川でも、淀川でも。
何川でもいいんですが。
急遽今から淀川をやったらいいじゃないですか。国土交通省、大至急20人ぐらい動員して。
本当にそのぐらいやらないと恥ずかしいぐらいで。
世界水フォーラムを招きながら、それがないの。では、淀川一つでいいよ、ぜひやってくださいよ。今1月24日だから、あと2月ある。2月あれば国土交通省はできますよ。近くのホテルに部屋とって、缶詰で2週間、原稿用紙で300枚書けと。世界水フォーラムからお金を出して、それが今年の国土交通省の一つの業績になる。それは恥ずかしいですよ。だって、ヨーロッパの川以上に、日本の川はもっといろんな人文の歴史をまとって流れているわけで。昔からローヌ川もロワール川も流れていたし、ミシシッピー川もあったろうけど、アメリカの川というのはろくな歴史ないじゃない。それと比べて、日本の文明は川で成り立っているということを言おうというんでしょう。それで川の歴史がないのは残念で、それはぜひ緊急動令で。局長はお帰りになったけど、かわって局長代理で。2週間。
共同作業が要るのに、そういう共同作業をやってないんです。
水フォーラムは滋賀県と京都と大阪でしょう。琵琶湖から淀川でしょう。琵琶湖と淀川だけでいいですよ。大至急。
少なくとも私ども事務局としては、年内には何とかやります。
日本の近代河川改修が始まってから大きい川も大体100年たっていますので、大体100年目ぐらいに各々の川で100年史的なものをまとめているんですが、その中に、過去から川がどういうふうな変遷を経てきたとか、あるいは地域とのかかわりも書いている部分はあるんですが、残念ながらそれを書いているのが土木系の人間が書いているので、人文的な話だとか今お話にある和歌の話とかになりますと、欠落してきている。そういう部分がございます。
古市公威はちゃんと昔の研究もやったいい伝統をとっぱなにつくっているのに、それを継承しなかった。まことに申しわけないじゃないですか。国土交通省、大先輩に対して恥ずかしくて、いても立ってもいられないんじゃないか。困ったもんだな。じゃあ、世界水フォーラムを1年延ばしてもらって。
こういう研究会が始まったのはまさにそういうことでしょうから、この研究会の成果としても出てくることは大事ですよね。だから、そういう作業をやったらどうかな。後の議論にあるのかもわからないけど、本当にまとめて、共同作業としていろんな分野の方の。
それは前から言っていましたね。前の青山さんが局長のころ、局長室に呼ばれて行ったら、本棚にいろんな川の歴史の本がまとまっていましたね。ああいうのもまとめて、もうちょっとスタンダード化してまとめていくといいんですね。それから、川についてのデータベースをつくろうという話も何遍もここで出ましたね。淀川とポンとやると、淀川についてのことがダーッと3時間もぶっ続けに出てくる。映像は映像でバーッと出てくる。流域から、さっきの巨椋池のことから。大正時代どうなって、いつから巨椋池は消えたかとか、そういうことまで含めてダーッと出てくるような、そういう日本河川大百科というのは夢に見ている大叢書ですけど、ぜひ、実現してください。世界水フォーラムの最後の決議案に、日本河川の研究をこれから徹底して周到にやり遂げるということを、ぜひ宣言してくださいますように。
この会のアウトプットとしても、ぜひ委員長に。
それから、さっきの歌枕は、歌枕に出てくる川を全部網羅したわけではないんですね。全部挙げたわけではないんでしょう。
全部挙げました。70幾つ。
もっとほかにもあるんじゃない。時代によって違うけど。
最初のときだけということです。
これは新古今は入っているんですか。1種だけ出ていますけど、ちょっと少ないと思います。
では、どうぞ。
とても立派な発表で、私2年かかって土木工学の論文を書いても、絶対あのレベルのものに行かないと思いますよ。私は専門家の端くれですからちょっと聞きたいんですが、平安時代の歌枕を挙げて、それの和歌を全部集めた本があるんですよ。広辞苑ぐらいの厚さの「平安和歌歌枕地名索引」というのがあるんですよ。それをごらんになった。
いいえ。
それは見た方がいいね。自分一人で作品をつくるというのは立派だからそれはそれで立派なんですが、漏れがないかどうかというのを確認する意味でも。それは本当に便利な本で、「平安和歌歌枕地名索引」と言うんです。和歌を歌枕ごとに集めてあるんです。そこで川の項目だけチェックすればいいんです。
何通りかの歌枕集があって、そこからも取ってあるわけね。
そうです。私家集も取っていますから、漏れなく平安時代のものは全部取っているんです。現存の歌は。ですから、多い河川だと1つの川で100を超えると思います。ですから、その1つの川の総合的なイメージが全部つかめるわけです。ここにこういうふうに抜き出していらっしゃるのはいいけど、どういう基準でこの歌を取ったかと言われると、ちょっとつらいでしょう。私家集は個人歌集の歌は引いてないと思うから、もっとあるんですよ。個人歌集の。
勅撰和歌集だけを取ったんです。
もちろん勅撰和歌集というのはオーソリティーだから、それでいいんですが。
そのとき、特別の個人和歌集の中でも偉い人のも取りましたから、ほぼ取り上げたかなと思っています。
論文にするときは、できるだけ川の総合イメージが大事だから、全体を見た感じで。
一応きょうは話せなかったようですが、それは全部取るようにしています。
それは卒業論文の発表の入れてくださるのね。
「平安和歌歌枕地名索引」というのがありまして、それをこのたびは見る暇がありませんでしたと言えばいいので。あることをちゃんと言っておいてね。
私どもがどういう点があれと思ったところ、これは追加する意味で申し上げるんですが、例えば玉川という川は日本に6つあるんです。これは有名な6玉川、6つの玉川。タマは東京都の多摩川ではなくて、宝石の「玉」の字を書きますけど、その6つの玉川を北から、ここに挙げてありますけど、そのうちの5つしか挙がってないんです。和歌山の紀ノ玉川というのが抜けていますけど、あれは何で抜けたんだろう。あれは勅撰集とか平安時代の歌に出てこない。弘法大師がつくったということになっていて、あれは新古今に出てきたんじゃなかったかな。
弘法大師の集に載っていたんです。
よほど有名な歌だよ。
平成時代に整理された歌集じゃなかったので。
それは中世、伝承として日本の文学にかなり大きな影響を与えるんですよ。6玉川というね。「6玉川の歌」という歌までできるわけです。「陸奥千鳥 武蔵たづくり 近江萩 山は山吹 きどく つうつぎ」という、これは6つの玉川がどの国にあるかを挙げてそこの名産をセットで覚える。これは入試対策の第1号みたいな歌なんですよ。要するに知識を歌われたときに、漏れなく。そういう歌がいっぱいできるんです。川の覚え方もね。あと、海がない国の歌は「無海国の歌」と言うんです。海に面していない国の歌とか、そういうのがいっぱいあって。そういう国土がどういう条件にあるかということを昔の人は、中世ですけど、全部歌にして覚えたんです。それが知識を覚えていく一つの日本の知識修得の伝統になるんです。「鳴くよウグイス平安京」というのは、そういう時代に始まっているんですよ。だから、そういう国土の覚え方を含めて知識がどういうふうに集大成されていくかということを込みでお話になると、もうちょっとおもしろい面が出てくると思います。 それから、これは揚げ足取りで申しわけないんだけど、長野の諏訪海のところに、「近江の海夕波千鳥」というのは琵琶湖だから、これはどうしても間違い。これ、直しておいてね。これは明らかな間違いです。ここにあるのはどう考えてもおかしいので、直しておいてくださいね。それから、もう言わないけど、あと14種ほどちょっと引用の細かい間違いがありますから、後で来てください。引用の細かい間違いをちょっと後で言います。ここの資料としては正確なものを残しておいてほしいですから、来てくださいね。
光田先生は日本の和歌とか俳句なんかの専門家なんです。だから、それはね。今の平安歌枕和歌集成は1冊の本の中に入れてあるわけ。
1冊の本です。
いつ出ました。
1970年ごろだったと思います。
それでは古本でしかないな。
もう新本はありません。
どこの出版社。
ひめまつの会というこれは個人出版に近いところです。平仮名で、ひめまつの会。出版社は大学堂書店という京都の河原町三条の古本屋だったと思います。片桐洋一先生のお弟子さんがやって、あそこで出しているんですよ。もう新本はないと思います。
片桐先生というのは、歌枕の専門家ね。
はい。古本屋で5万ぐらいで買えます。
じゃあ、それは大学で買ってもらえばいいね。
それはCD−ROMにはなってないんですか。
それは……。
万葉はなっているそうですね。万葉は全部入っているそうです。言葉を入れれば、ザーッとすぐ検索できるようになっていると言っていましたね。
国文学研究資料館あたりがそれをやってないかな。国文学研究資料館も、古い歌は全部コンピュータに入れてあって、「落ち葉」、「枯れ葉」というのを引くと、それが入っている歌がバーッと出てくるんです。
それは「新編国家大観」(角川書店刊、CD−ROM版)ですよ。
国家大観を入れたらいいわけですね。
CDになっています。
だから、川の名前さえちゃんとしていればそれで全部出てきます。
ただ、それは川の名前の昔の呼び方をちゃんと知ってないと検出できないからね。そこだけちょっと難しいですね。
「川」と入れればバーッと出てきますね。
いろいろと論文指導、寄ってたかって。
川にも名前がありますよね。
ああいう名前は、だれがいつつけたんですか。
なかなかわからない。日常生活と川は非常に関係があって、道は古代国家ですよね。だから、道というのはすごく維持しようとして国家的なこういうものがあるんだけど、川は非常に日常生活にかかわっているから、どうしても道の思想の方が強いんです。例えば百科辞書とか何とかでは、川の名前を挙げるということはないんです。
いつの百科辞書。
中世の辞書ですね。チュウガイショとかそういうものに川の名前は挙がってませんね。歌枕という形とかそういうことでは。ですから、非常に川は。
歌枕では、川は川だけですか。例えば海岸だと岸もあるし、磯もあるし、浦もあるし、江もあるし、地形によって、海岸の形状によって。石ころだらけの海岸は磯になり、大磯、小磯があり、何とかの浦もあるし、何とかの江もあるし、何とかの潟もあるし、いろいろ使い分けている。海の形態、海岸の形態。川はみんな川だけですか。
川でしょうね。河川の「河」と「川」の区別さえ日本語にはないんですから。中国では江もありますけど。
大小もなければ、滝川から、ゆったり流れている川、その区別もない。
滝は古い川の名前ですけどね。山川を滝と言っているわけですから。滝はあり得ますけど。
そうか、滝と川ぐらいですか。
でしょうね。
何で「川」と言うのか。
それはわからないんですか。
そんなことで調べたことがないので。
でも、山を何で「ヤマ」と言うのか。そこまでいくと、本当に。
おもしろいですよね。
穴師川というのは、あれは何で。足が痛いという書き方もありましたね。あれは何で穴師川ということになったのかな。淀川というのは、淀むからということが考えられますね。ああいう川の名前の由来というのも不思議ですね。地名の由来は。だれが、いつごろですか。やはり奈良の初めですか。
もっと早いんじゃないですか。歌枕についているのは古代から使われていますね。
古代というのは、大和朝廷の成り立ちのころから。
須佐之男がやってきたのはヒノ川でしょう。ヒノ川と言うからあったと考えて。
風土記の時代ですね。
川の名前の由来なんかが出てくる場合がありますよね。それが歌枕にあるとは別にどこにも書いてないわけですけど。しかし、あのつけ方からすると、基本的には神様が何かして、それでこう言ったという名前のつけ方ですね。
利根川というのは、何で「利根」なのか。富士川というのは富士山か。信濃川というのは、信濃の国が決まってからついた名前でしょう。
それは隅田川なんかもそうでしょうけど、土地の人は「大川」ですかね。信濃川は僕らなんかだって、僕のところでは「大川」ですから。
地先の呼び名と全体の呼び名は違って、地先の呼び名から始まったと思うんです。例えば浅草川という名前とかね。
さっきの歌枕に戻ると、それぞれの川に固有の感情が託されていることもあるんですが、そこは余りよく出てきませんね。淀川については淀川なりの風情があって。例えば歌枕で言うと、「吉野」という歌枕は桜の花で、何かにぎやかで、華やかで、めでたい感じ。「宮城野」と言えば萩が必ずつきもので、悲しい、寂しい、旅先という感じで、それでもう定着するんです。「宮城野」と言っただけで、ある寂しい感じがズーンと日本人の中にはわいてくる。「吉野」というだけで、何かフワーッと桜が広がっているイメージがある。歌枕というのはそういう効果を持っているんです。 あなた方が挙げた川の名前では、余りそれははっきり出てこなかったですね。男女川というのはわかるけどね。これも何で「男女」と書いて男女川なのか。こういうことまで言うとわからなくなる。だから、その川独特の風情とか、その川の名前を言うだけである感情を伝統的に日本人の心の中に呼び起こしてきたとか、そういうところまで幾つかの川について、この歌を詠んで歌の中から掘り起こしてくれば、さらに次元は深くなるのではないでしょうか。
おっしゃるとおりです。
この歌枕に詠まれている歌をずっと拾い出さないとだめなんでしょうね。
そうですね。ですから、歌枕集成で見てそれを討議なりすればいいわけですね。
一つごとにはかなりの部分を拾い出してみているんです。残念なことに私どもの弱点は、歌の意味を皆さんに聞いて歩かなければいけないということで時間がかかってしまったんです。ただ、かなりの部分は拾い出してみて、素人なりに雰囲気は何かあるんだなということはわかりました。
ちょっとうろ覚えなんですが、たしか今から15年か20年ぐらい前に「本朝三十六河川」という本が出ておりまして、これは御存じでしょうか。河川はもちろん川という意味なんですが、それは「三十六歌仙」に引っかけているんです。たしか日本の36の川についてその伝統とか歴史とかそれにまつわる文学をかなりまとめた、あれは大森何とかさんという人が世界思想社というところから出したもので、結構おもしろかったんです。あの方は民俗学の人みたいですね。ですから、それはここで参考にしてもいいような本ではないかと思います。
それは使っておりまして。ただ、川の方から言うと、これでいいのかなという部分はありますけれども。
民俗的とか文学的なものが多いでしょうね。
どうもいろいろと一遍にいろいろな意見を、それから、学生さんに対する御丁重なアドバイス、ありがとうございました。
1つ、画面に出ていた千曲川のところのあれ、どこかな。姥捨て山あたりのところでその絵の説明のところに、菅野真澄遊覧記と出ていたけど、菅江真澄、江戸の「江」です。あと、先生にはリバーフロントのあれは差し上げてないのかな。研究所の報告、同じ歌枕をあれしたの。
それは手元に置いてやっております。ですから、それにないやつをつけ加えながらやりました。
どうもありがとうございました。
■報告書案について
これまでの懇談会の経緯と報告書案について、資料3と資料5をごらんいただきながら簡単に御説明させていただきます。
この懇談会は平成12年8月に始まりました。これまで9名の先生方に話題提供いただきまして、いろんな文学から見た川の姿とか川と人のかかわり、そういったものをたどり直してみる。そういったことを眼目として、日本人が川をいかに表現し、川に対してどういうイメージ、河川観を持ってきたのか、そういうことを主に先生方に御議論いただいてまいりました。
具体的には資料3にございますが、もう見てのとおりでございますが、最初に「隅田川の文学」ということで、久保田先生から、隅田川を取り上げているさまざまな文学作品について御解説いただきました。
それから、2回目は明日香村、橿原市を訪ねまして、明日香川の現地視察、それから、明日香村長さんからお話を聞きますとともに、今井町における先人から現在に至る飛鳥川とのかかわり等について伺いました。また、千田先生から飛鳥の都、これは水の都でございますが、その源泉である飛鳥川の役割というもの、遺跡の解説等を中心に御解説をいただきました。
第3回は東京でございます。「映画に描かれた川の風景」、それから、川が今様にどのように描かれているか。前者については荒川放水路の風景などを中心に、川本先生、五味策生から御解説いただきました。
4番でございますが、第4回、今橋先生から江戸絵画の特徴について、それから、高橋先生から「河内様」につきまして、それぞれ御解説いただきました。
第5回は、「川の暮らしと民族」ということで、聞き書きの手法によって最上川の川の民の姿、渡し舟とか、渡し場とか、太子信仰、そういった舟運とか信仰とのかかわり等についてお伺いしました。
それから、事務局からは、全国一級水系についてどんな和歌や祭りがあるのかということを調べて、簡潔に発表させていただきました。
それから、前回は最上川、北上川の御視察をいただきました。きょうの報告書でも出てまいりますけれども、最上川の舟下りをしていただいたところでございます。それから、芳賀委員長から「斎藤茂吉の最上川」ということで、斎藤茂吉とか、松尾芭蕉によって詠まれた最上川の姿、そして川とのかかわりについてお話をいただきました。
それから、今回、宮村先生から「平安時代の一級河川について」ということで御報告をいただいたということでございます。
資料5に移らせていただきます。報告書案と書いてございます。1頁おめくりいただきまして、目次をごらんください。概ねこのような構成になっております。これは今回、報告書案としてどのような感じでまとめたかを最初に報告させていただきますと、これまで9名の先生方に御報告いただいていますが、非常に参考になる高尚なお話を伺ってきたわけでございますが、この話をぜひ我々のような河川管理者、全国に非常にたくさんおりますので、この話を直接聞くことができなかった河川管理者、文学に詳しくない我々のレベルでも十分に理解ができるようにということで、先生方の話題提供の中の情念が伝わるような形で、それぞれの発表をまとめさせていただいております。それが2.の(2)の(イ)から(ト)に至るところに入っております。
その前には、これから御説明いたしますが、川と人とのかかわりがあるから、ぜひひも解いて歴史・風土に根ざした川というものを調べてみましょうということを、はじめにとか、背景というところに書いてございます。また、3.では、そのような川とのかかわりについてどのように調べていけばいいのか、そのことについて簡単にまとめさせていただいております。
2頁でございます。ここでは、はじめにということで、これまでの川づくり、どうしても効率的な治水を優先せざるを得なかったというところから、現在では治水・利水のほかに水質浄化、癒し、生態系保存等のいろんな機能を充足するような個性を生かした川づくりが求められておりますが、そういったときに、我々のよすが、よりどころとなるのが和歌とか俳句等の文学に見られる、その時代時代の切り口から捉えられた川の姿である。
そのことから、先ほど申し上げたようにこの懇談会の中で、川に対するイメージ、河川観を御議論いただいてまいりました。
近年、求められております多自然型の川づくりとか、環境保全等の川に対する機能でございますが、こういった取り組みを通じて地域の活性化に寄与するということが今河川管理者に求められております。河川管理者は、こういったことをやる中で、川の魅力や川の本来持っていたさまざまな機能を十分に認識する必要があろうということを書いてございます。
3頁は背景でございますが、ここには日本における、最初の段落では、日本の地形であるとか、多様な降雨形態をとる。そして多様性の富んだ川がある。そういう中で川が人々の交流の場であったり、地域共有の公共財産であったということを書いてございます。
その次の段落では、洪水と隣り合わせに生きてきた日本人が、川を管理し利用してきたわけですけれども、その日本人にとって川が重要な交通路であったり、あるいはコミュニティの境界であったり、対立の場ともなっていた。非常に日本人が川と深いかかわりを持っていたということを書いておりまして、この証左として、川が文学作品等に頻繁に登場していること、弔い等の信仰の場として、あるいは行事や祭りが行われていることを書いております。
近年の国民のライフスタイル等の多様化によりまして、非常に川に愛着を持って人々が暮らし始めているということがございます。そういった中で地域活性化の取り組みが河川管理者に求められているのであろうと書いています。
一番最後は、今のことを敷衍して、川の姿というのは地域の歴史・風土を反映したものでありまして、それを地域の人々自らが河川管理者を含めて見詰め直して、川づくりに取り組んでいく必要があるということを書いております。
以上のように、日本人と川のかかわりは非常に深くて、そのことが文学にあらわれている。
それでは、それぞれの文学などにどのようにあらわれているのかということを2.に書いてございます。その中には、繰り返しになりますので簡潔にいたしますが、例えば地域固有の川の姿や川の持つ無常感といったものが、多くの文人や画人に表現されて、日本人の特有の河川観をつくり上げていくわけですけれども、日本人の記憶の奥底に入っている川を我々は持っているわけです。
また、地域固有の川の個性としては、祭りとか、雨乞いとか、そういった行事として数々のものが残されております。
このようなことから、(1)の最終段落でございますが、一つの川・流域の歴史や風土を表す俳句・和歌などの文学や絵画などの芸術を系統立てて収集・整理することによって、その川が持っていた個性・役割・特徴を浮かび上がらせることができるだろうということを書いてございます。
(2)は、先ほど申し上げましたが、この懇談会での話題提供・議論をもとに、それぞれのジャンルに基づきまして、表現されている川の姿について報告がされております。
(イ)和歌、歌枕、俳句でございますが、例えば飛鳥川のことを4頁の下に書いておりますが、飛鳥川が非常に急流であったこと、これが月日の流れの早さの比喩と使われ、その後、無常観につながっていくということ。
それから、斎藤茂吉が最上川に関する多くの和歌を残しておりますが、それが彼にとっていかにかけがえのない川であったか。そして、傷ついた彼の心を大きく包む、大きく育む「母なる川」であったということが、斎藤茂吉の歌からよくわかるということが書いてございます。
また、その下、5頁の真ん中ほどでございますが、歌枕について扱っております。歌枕が日本において古くから和歌の中で歌われておりまして、その地形を分類して、地形が存在する地名を特定するとともに、日本の国土の索引となっているということで、こういったものが存在しております。
それから、俳句でございますが、芭蕉と蕪村という二大俳人ですが、同じ淀川水系の水を飲んで育っておりまして、茂吉ほどではございませんけれども、身近な川を母なるものと見て、そこに還って行く自分をイメージしている。具体的には5頁の下にありますが、「清滝や波に散り込む青松葉」、ここに、母なる川に還って行く姿を造形している。
また次の頁には、淀川やその近くの風景をよみ込んで、蕪村が、母の面影や故郷毛馬の川沿いの道を思いやっているということがございます。
一方、地誌的な側面を6頁の上の方に書いております。「五月雨をあつめて早し最上川」ということで、最上川が舟に乗ってみたら非常に急な、「五月雨をあつめて涼し」ではなくて、これは「早し」だという実感が非常に込められて、その近辺の雨を全部集めてそれで早いんだと。そういう地理的な感覚を非常に持って書かれているというもの。
また、柿本人麻呂の穴師川のことでも、地理的な観点、あるいは流域的な概念をもって詠われているということがございます。
それから、(ロ)の今様でございますが、いわゆる昔の歌謡曲でございます。これは人々の暮らしにいかに川が大きくかかわっていたか。具体的に申しますと、「梁塵秘抄」をひも解きますと、淀川の話が、鮎や鵜飼の姿と自分の境涯を重ね合わせて、嘆いている女性の姿が見受けられたりする。その次、「八幡へ参らんと思へども」という歌につきましては、現世のしがらみや、彼岸と此岸を分ける境として、川を謡い込んで救いを求めている。いわゆる信仰につながるものでございますが、そういったものもございます。
それから、7頁の上にございますけれども、大堰川、嵯峨野の饗宴ということで、当時の川の姿、風俗を謡い込んだものなど、さまざまなものが残っておりまして、当時の日本人がどんなことを考えていたのかということを伺い知ることができます。
一方、今様には神(若宮)と言いますけれども、神に捧げる謡という特徴もございまして、巫女が今様を捧げると、神も巫女の口を通して今様を返すということを申されまして、今様に書いておりますけれども、「天から降りてくる神は、河原に降り立ち、そして河原で遊ぶ」。川が当時から信仰と大きくかかわりを持っていたことを見ることができます。
このように、中世の社会での川が、交通の要所、遊興の場、信仰の場所として、非常に役割を果たしていたということを見ることができます。
それから、7頁の(ハ)でございます。民俗にみる川の姿。これは「聞き書き」という手法を通じまして、その地の民俗、あるいは地誌を見出すことができる。その中で、このときは最上川を中心にお話をいただきしたが、「山の民」が山から降りてきて「川の民」になり、その姿が「聞き書き」という手法で追いかけてみますと、昔、「渡し場」があった、「渡し舟」があった、そういったことを見出すことができ、また、そこは美しい風景として取り上げられることも多いんですが、実際にはいろんな争いとか、そういう悲惨な記憶も絡まっているものがございます。
また、7頁下、太子信仰でございますが、太子信仰を携えて、物資の輸送とか、交易等の生業をする人々が存在していた。川の民が存在していた。そういう痕跡をたどることができます。
また、民話の中にも川の民の姿を見出すことができまして、ここに書いてございます「サケの大助」という有名な伝承では、水産資源を保護する教えが伝わっているというものがございます。
8頁、(ニ)でございますが、祭りや信仰にみる川の姿とございます。これは先ほどの今様のところから入ってございますけれども、川や河原が、神々が降り立ち、遊ぶところと考えられていた。昔から神々が集まる神聖な場所として、日本人の信仰の対象になってきた。それがゆえに神社が建立されたということでございました。
具体的に京都で見てみますと、稲荷社、祇園社、下賀茂社、上賀茂社、貴船社というふうに、川沿いに多くの神社が建立されていた。あるいは、賀茂川の治水がしっかりなされてくると、東側に新しい場が形成されて、洛中を此岸、賀茂川の東を彼岸とするようなとらわれるようになった。
また、京都には、雨をとめる祭りとか、雨が降ってほしいという祭り、そういったものが行われて、今も夏の風物詩となっております祇園社の祭りでは、賀茂川に舟橋をかけて、彼岸側の祇園から此岸の洛中へと、賀茂川の瀬を神輿が渡って、再び返っていくというさまを描いております。
また、淀川についても、宇治の平等院等、琵琶湖を浄土の海ととらえて、さまざまな祭りがございます。
それから、8頁の下側でございますが、古座川におきましては、「河内様(こうったま)」という変わった祭りがございまして、「河内様」という川に祀られている水の神様、それから、九龍島という島は、海の神と川の神の双方が祀られていて、夜中に舟が「河内様」を3回回って神様を迎えるとか、そういう川の神様にまつわる祭りが伝わっているというものがございます。
それから、9頁の上の方、若干手前みそではございますが、逆に河川事業が祭りを生み出していることもあるということを書いてございます。このように川が地域といかに関係が深いか、その川と闘ってきた歴史というものがこういった祭りにあらわれているということを見ることができるかと思います。
9頁、中ほどの(ホ)でございますが、絵画に見る川の姿ということで、江戸時代の絵画について、ヨーロッパの絵画に影響を与えたものとして、今橋先生から御発表いただいております。
具体的には、パノラマ的な表現、連続画面の表現として、この頁の真ん中よりちょっと下のところと一番下のところにそれぞれ、司馬江漢の絵と谷文晁の絵が書かれております。
10頁でございますが、こういったものには当時の日本人が、地図のような正確さはないんですけれども、あたかも旅をするように、その当時の画家が美しいと思ったものをことごとく取り込んで、一幅の絵の中に表現しようとしている。
そして、その絵の中には「旅」を表現することによって、空間の移り変わりだけではなくて、時間の流れもあらわし、一つの物語を醸し出すような役割をなしていると考えられます。その要因としては、陶淵明の「桃源郷」のような古来からの物語、叙述も何らかの影響を与えている可能性がございまして、日本人がユートピアといいますか、理想的な場所を求める物語の中で、川がいかに大きな役割を果たしていたか、そういったことを推測することができます。
また、江戸時代の絵には、水辺をもって絵画に描かれたものが幾つかございます。これは、いかに当時の物資の輸送とかそういったものが重要な役割を果たしていたか、また、水辺を中心に盛り場が形成されていたり、芝居小屋が水路を使って人々を大量に運ぶような構造になっていたことなど、いかに生活に重要な役割を果たしていたかということを書いております。
こういったことがヨーロッパの画家にいい影響を与えて、10頁の真ん中の下の方にあるような、水辺を書いたパリの絵が描かれているという影響を及ぼしていることもございます。
それから、10頁の下の方の(ヘ)映画にみる川の姿でございますが、東京の低地を流れる荒川(放水路)、歴史が浅い川でございますけれども、実に多くの映画に描かれております。
11頁の上から順に、「綴方教室」で、子供たちが土手で遊んだり、草を取りに来たりする非常に明るいシーン、その下の「風の中の牝鶏」では、田中絹代が荒川にピクニックに出掛けるという明るいシーン、また、その下の「東京物語」でも遊ぶシーン、「渡り鳥いつ帰る」では出会いのシーンとして描かれております。
このように、荒川だけにつきましても、川が憩いの場として人々の役に立っている、公園の場として生きる人々の姿がその映画の中に描かれている、ということがございます。
また、「千と千尋の神隠し」という映画につきましても、川と人のつながりが大きなテーマとして映画に表現されていると考えられます。
このように、川が多くの映画で描かれ、当時の風景を残す貴重な資料となっているということがございます。
それから、11頁の(ト)でございますが、近代文学にみる川の姿、これは非常にたくさんございますけれども、川をモチーフとして書かれたものがございます。「すみだ川」、「あにいもうと」、「田舎教師」、「千曲川のスケッチ」等々、非常にたくさんございます。
では、どんなふうにとらえられてきたかということを12頁に簡単に書いてございますが、永井荷風が隅田川沿いを散歩しているんですが、永井荷風は茫漠たる風景に癒されて、3日に1回ぐらいの頻度で荒川を訪れ、「墨東綺譚」という名作を生み出すことになった。近代文学の作家が描くに当たって、川の存在がそういう癒しの存在だったのであろうということを「断腸亭日乗」というものにも見ることができます。
このように、川と文学のかかわりでは、それぞれの文人たちが、どのような美しさを発見していたかというものを、それぞれその中に伺いつつ、人と川とのつながり、かかわり合いの姿をそれぞれの文学作品の中に見ることができると思います。
13頁でございますが、ここは、これまでざっと振り返ってまいりました川とそれぞれの文学作品に描かれている川の特徴がございますけれども、そういったものをどう調査していくかということを2頁にわたりまして、ごく簡単に書いてございます。
(1)につきましては、今求められていることということで、地域の特性に合った川の魅力を引き出す。そして、地域の活性化に寄与するということを書いております。そのためには、じゃあ何をしなければいけないかといいますと、川と地域の歴史・風土を十分に理解しなければいけない。まずそこであろうということを書いています。
では、河川管理者がすべて地元のことを十分に理解しているかといいますと、必ずしもそうだと断言することはできませんで、実際には、地元の地域住民の方が非常に豊富な知識、地域固有の自然等に関する豊富な知識を有していることが多い。一方、河川管理者は、そういった地元の知識については必ずしもないんですけれども、河川整備の計画手法とか、工学的判断とか、そういったことについてはそれなりのものを持っている。ですから、地域の活性化に寄与するような、地域の特性に合った川をつくるには、地域の住民と大いに協力して、接触して、十分に調査していくことが必要だということを(1)で書いてございます。
(2)でございますが、歴史・風土に根ざした川づくりのための「よすが」、よりどころでございますが、それについて基本的考え方と調査段階のよすが、計画段階のよすがと、3つに分けて書いております。
基本的考え方としては、川は、日本人の記憶の奥底にまで入っておりまして、それがそれぞれ固有のものを持っております。河川管理者は、それぞれの川の歴史・風土を十分に調査、把握して、画一的ではない、個性ある河川整備に取り組んでいくのが肝要であるということを書いております。
そして、じゃあどう調べるんですかということでございますが、これまで見てまいりました和歌・祭り等々、いろんなものがございますけれども、例えば15頁、16頁には、和歌の全国分布、祭りの全国分布を事務局で懇談会の先生方のお話を受けて整理したものがございます。こういうものを初期情報として河川管理者が自ら調べ、こういった情報を大いに補完していく必要があろう。
また、時間的な整理というのも大事で、そういったことを行ってみたのが17頁、和歌にみる最上川の変遷ということで、時間的な整理も大事だということで、例として示しております。また、「聞き書き」の手法も大事でございます。
それから、舟運や交通ということで、川だけではなくて、川周辺のものについても、歴史的な街道とか宿場についても整理しておくと総合的な理解ができるということを書いております。
その下ですが、歌枕が国土の索引、インデックスとして非常に有効であろうということも書いてございます。また、祭りや年中行事、信仰が、地域と川とのかかわりを示しているということも書いています。
一番下になりますが、計画段階における「よすが」ということで、これは先ほども申し上げましたけれども、地元住民、市民団体との連携が不可欠でございます。また、流域における地位、日本における地位。その川が大きなスケールでどういうものなんだろうなということを考えて、計画を策定する必要があるのではないか。また、その川の役割を知っているさまざまな方の意見を十分に聞いて、そして、十分な時間をとって策定することが必要であろうということを書いております。
概ねこのようになっておりまして、最後の頁には、先生方の名前一覧を入れさせていただいております。
今回につきましては、本日この案をお示しさせていただきまして、事務局としては、先生方がおっしゃったことをなるべく忠実に、かつ河川管理者にわかるレベルに書いたつもりでございますけれども、これについて御意見をいただければと思います。以上でございます。
どうもありがとうございました。きょうを含めて全部で7回に及んだこの懇談会のさまざまな話題、そこで話された内容を随分上手にまとめてくださったと思います。これにつきまして、それから、皆様のお手元に赤いシールがついた各懇談会のときの記録もありますので、それも御参考にしながら、今の事務局がまとめてくださいましたこの報告書について御議論いただきたいと思います。小さいことですが、5頁に、芭蕉と蕪村は、芭蕉は伊賀上野で、蕪村は大阪の郊外の毛馬という場所で、くしくも同じ淀川水系の水を飲んで育ったとあるけれども、伊賀上野も淀川水系でいいんですか。
あの辺の山を越えて、淀川に入っているの。山越えないですか。
河川局長 木津川の上流ですから、笠置があって、その上に上野盆地があるんです。
そういうことも含めまして、細かいこともいろいろとあるでしょうけれども、どうぞ。
私その方の専門家なので、引用されている作品の仮名遣いだけちょっと正しておいていただきたいんですが、6頁、上から3行目の蕪村の「うれいつつ丘にのぼれば」の「うれい」は「うれひ」でございます。それから、下の方に参りまして、「梁塵秘抄」の「淀川の底の深きに鮎の子の 鵜という」の「いう」が「ふ」ですね。仮名遣いですから。それから、2つ目の「鵜飼いはいとほしや」の「鵜飼い」の「い」が「鵜飼ひ」ですね。飼うですから。「鵜飼ひ」でしょう。
そうだっけ。
そうですよ。飼わない、飼ふ、書きますよ。
鵜を飼う方だよ。
違いますか。
これだけは、あいうえおだったような気がしたな。
そうですか。それではもう一回確認しましょう。
物を買う買わないは、はひふですね。鵜飼いは何か……。
わ行ですか。
わ行だか、あ行だか……。
そうかもしれませんね。もう一度確認します。それから、「八幡へ参らんと思えども」の歌ですが、最後の「迎え給え」は「迎へ給へ」にしてください。それから、7頁でございますが、引用の第3種目、「大将立といふ河原には」という今様ですが、その2行目も「給へ大将軍」ですね。これも「給え」になっていますけど。それから、この意味の続きがわかりにくいんですが、「あづちひめぐり諸共に降り遊ぶ」ですか、これ。何でしょう。
「あづちひめぐり諸共に降り遊び給へ」かな。
「び」かなんかじゃないとおかしいですね。「遊び給へ」ですね。それを御確認いただけるといいと思います。それだけでございます。
同じことで、6頁で、「五月雨をあつめて早し最上川」の芭蕉の俳句のところで、「「あつめて」という言葉の中には、最上川の背景にある山々に五月雨が降り注ぎ、それが滝になり、谷川になり、支流になって、最上川に合流していったものが」とありますが、「合流することを見事にとらえ、舟に乗ってみたとき川の流れの実感としてそれを表現されている」じゃなくて「している。」、ちょっと言葉遣いね。主述の関係と、もうちょっとはっきりさせるために。それから、その下の人麻呂の歌でも、「穴師川の川波が高いから、巻向山にきっと嵐が来ているんだろう」じゃおかしいんじゃないかな。「いるのだろう」ぐらいで。そういうことまで言いますと、いろいろとございます。でも、そういう軽微なことだけで。それから、8頁の「河内様」の上のあたりが賀茂川のところで、「なお、川に関わりの深い京都の祭りは多くあるが」というところ、「止雨の祈り」ですか、雨をとめる。もう一つの方は、これは降雨じゃない。雨を祈る祈りということね。
「止雨」、「祈雨」、それでいいんです。
「祈雨の祈り」というのでいいの。
はい。
ダブるけど、「祈雨」という言い方は、よく中世はしますね。
それから、すぐその上のパラグラフの終わりのところ、「賀茂川の東側を彼岸とするようなとらわれ方もされる」じゃなくて、とらえ方もされるようになった。今の「止雨」、「祈雨」のすぐ下の行で、「また、京都の夏の風物詩でもある」だろうな。「夏も」じゃなくて。それから、「こうったさま」の「さ」は要るんでしょう。「こうったま」じゃいけないんでしょう。
これでいいんです。「こうったま」でいいんです。
「さ」はなくていいのか。そんなふうなことがいろいろとありました。あと、どうぞ。
14頁ですが、調査に当たっては、既往の文献調査というのはあるんですけど、今この関係ですと、かなり自治体史ですね。いろんなところの自治体史でかなり網羅的に集めていますので、その自治体史というのはちょっと入れておいていただいて。自治体史などを利用してというふうなものを入れていただけると、いろんなところで出ていますので。恐らく淀川水系をやろうとしたら、それを徹底的に拾ってしまえばかなり出てくると思うんです。
あと、いかがですか。
非常によくまとめていただいていると思いますが、一つ、せっかくこれだけ議論いただいたわけですから、具体的な提言が要るのではないかと思っておりまして、例えば、2番の「よすが」というか、「よすが」になるものというものをしっかりまとめる。例えば流域単位でしっかりした何々川というものをまとめる。そこには川の歴史、文学に基づくもの、聞き書きのもの、そういうものがすべて入ったものをなるべく至急まとめて、一般の人の使用に供するようにする。それをCD−ROMのような形でできれば整理するというようなこと。あるいは海外の人にも使えるように、できれば複数言語が望ましいんでしょうけれども、とりあえず英語版ぐらいはつくるということを、具体的なアウトプットとして各河川ごと、今後計画をつくってそういうものをまとめていくことをこの委員会として提言いただいてはどうかと思います。
ぜひ。
それから、資料をまとめるときに、それをまとめるに際してはいろんな分野の方の共同研究としてまとめる。その流域の中の研究をされている方はもちろん、それ以外のでもそれをまとめるに際してはお知恵を拝借するというような、あらゆる方の立場が入ったものでまとめて、なおかつ、それにずっと補充が効いていくようなまとめ方をすることも、ある意味では河川管理者の重要な責務かもわからないですね。
河川局長 気持ちよく気軽に、大変な宿題をいただきましたけれども、大変重要なことだと思いますので、事務局はうんざりしているかもしれませんけれども、これはやっぱりやった方がいいと思います。
でも、そういうことはこの委員会で前から随分言っていましたね。こういうのは今のコンピュータの時代だったら、割合に容易にダーッと編成できるんじゃないですか。北上川は、岩手県史、何とかの自治体史や地方史があり、堤防のつくり方についての記録があり、その流域の何とか村の村史もあり、いつかの洪水の記録もあり、写真もあり。それから、小説にもなっているし。石川啄木もあるし、宮沢賢治もあるということでダーッと出てきて、北上川河口までくくることができる。最上川も同様。全部でなくても、大きな各地域の有名な大きな川について、利根川、信濃川、淀川、そういうのでずっとくくっていけば。
河川局長 本当に失礼ですけど、また国会関係で失礼させていただきます。次回は最終回なんですか。中間ですか。次回は最初から最後までちゃんと出るようにしたいと思います。
でも、大事な話を聞かれましたからいいですよ。
1つだけでもやりますと、それに基づいて次々にできますので、1つだけきっちりしたのをまずやるのが大事だろうと思うんです。
どこがいいんですか。淀川かな。
一番いいのは淀川ですけどね。ただ、水系がさまざまだから。でも、やっぱり1つ。
今度、世界水フォーラム記念事業で残った金を全部こっちに回すとか。
それで今のお話に触発されて、インターネットを使ってみんなにいろいろ入れてもらうようなシステムをつくると、ものすごくおもしろいですね。多分初めてで、ウェブ上に川の住所を決めてそこにどんどん入れてもらうようなシステムにしたら、ものすごいおもしろいのができますね。
でも、時々それを選択して編集しなければね。
もちろん。
受けっ放しでは。やっぱり淀川かな。琵琶湖から大阪の難波洲の河口までね。そういうときには難波洲とかああいうところも入れていいんでしょう。
広くとらえていただいて、河川の名前がずっと横にあって、縦に時間軸があって、そのボックスのところにいろんな情報がズーッと入って行くようなものにすれば、ものすごいおもしろいのができますね。
おもしろいですね。
報告書案の17頁ですが、和歌にみる最上川の変遷で、上の方に歌集・句集名の欄があって、下に作品が挙がっていますね。確かにこうなるんですけど、勅撰集の場合は、古く詠まれた歌がはるか後の時代に選ばれるケースがかなりありまして、そうしますと、この例歌の中には、この表で見ると例えば室町時代に詠まれたような印象を与えるけれども、実際その歌が詠まれているのは平安時代であるというようなケースがかなりあるんですけど、これ、それでもいいでしょうか。つまり、集として編纂されたのは室町であっても、歌そのものが詠まれているのはずっと前というケースですね。
考え方は二通りあるんです。詠まれた年代に戻すべきだという考え方と、もう一つは、その歌は当時は評価されなくて、後の勅撰集の時代には皆さんの意識に上って名歌とされたという考え方に立てば。
考えればそうなんですけれども、実際は本当のところ言うと、だんだん時代が下ると種切れになってきて、古いのでまだ漏れていたのを拾うんですよ。ですから、これはできることなら、詠まれた時代に近いところに出すようにした方がいいかなと私は思うんですけど、いかがでしょう。そうすると出典が当然変わってくるんですけど。
それはちょっと大変な仕事になるね。
いや、いやそんなに大変じゃないですよ。
100年も後の歌集に入って。でも、さかのぼって一体いつごろだろうと。
だから、大体こういう欄をつくってありますから、それに近いところの方がいいんじゃないかという気がするんです。例えば室町時代のおしまいの方に、「いとゝしく 憑るゝかな 最上川 しはしはかりの いなとみつれは」ですか、それで、藤原相如とありますけど、相如は平安ですし。ですから、ずっと前に行くわけですね。相如の歌集にはきっとこれには出ているんだろうと思います。そういう形で出典名を変えれば大体時代順にはなると思うんです。それから、勅撰集にこだわるならば、まだこれ以外の例を挙げることができるだろうとも思います。でも、いいですか、その辺は。
国文学者がこれだけいらっしゃるから。
それから、これはまた表記の問題ですけど、ショウコキンの歌で、先の内大臣は当然藤原の何がしなので、フルネームで出した方がいいですね。それから、先の関白太政大臣にしてもそうですね。そういう点で、少しわかりやすくする工夫はした方がいいかと思うんです。
それはまことにもっともで、それは本当だと思うんですが、ただ、後世に対する影響ということを考えると、それがどの勅撰集に載ったかということも知っておきたいんです。詞花集の場合は流通していないわけで、それは当時全然知られてなかった歌なのに、勅撰集の例えば18番目に載ったから、それ以降は大抵の人が知ることが常識になって、中世の文学に大きな影響を与えたと。そういう文化史的な面から見ると、もちろんどの勅撰集に載ったかということも知りたい。両論併記ということが一番望ましいと思います。
江戸時代なんかは確かに勅撰集中心のキョウユですから、それはそうだと思います。詞花集にしても、これは実際に挙がっていますけど、山家集というのはまた非常によく詠まれたから山家集で挙げて、これはこれでいいだろうと思うんです。
ついでに最上川で言うと、何と言っても最上川を一番よく絵にしているのは、小松キンという画家ですね。あれは山形の出身で、川端竜子について学んで、それから京都に住んで、後半世は京都の岩倉の奥のあたりに住みついたんですが、最上川の源流から河口に至るまでをずっと高さ2mぐらいの大きな絵で、全部合わせると30mぐらいになるんじゃないでしょうか。何回かに分けて書いていて。ああいうのもありますね。ああいうのも珍しいな。淀川についてあれだけ大きい絵はないんじゃないでしょうか。淀川図一覧というような、北斎の隅田川両岸一覧みたいな絵まき、もうちょっといろいろあるんでしょうけれども。あんなふうに一人の画家が源流から河口までをずっと書いたというのは、ほかになかなかないかもしれませんね。これは本当にやり出したら大変ですね。大変だけれども、一度はやっておいていい仕事でしょうね。最上川、北上川、利根川、信濃川、淀川、紀ノ川とかあちらも。熊野川もあったかな。それから四国の吉野川とか、九州も筑後川があり、球磨川があり。いろいろあって、超一級河川をやっただけでも膨大な量になってきますね。各川の工事事務所に、何年までに何百件集めて報告せよと。報告が立派であったら昇格させてやるとか、それくらいしないと集まらないかもしれないね。黄河とか揚子江についても、それこそたくさん昔から詩があるわけですが、ああいうものを集めてありますか。黄河支川とか、ありそうですね。黄河、揚子江、洞庭湖から、杜甫、李白から。黄河の方が多いか。
水に関するポエムを集めた本が英語では出ていますね。そこに日本とかそういうところが入っているのかどうか、ちょっとあれですけれども。ただ、俳句は相当訳されていますね。フランス語にも相当訳されています。
芭蕉とか、蕪村とか、一茶とか、正岡子規ぐらいになると英訳も仏訳も出ております。独訳もあるし。これは河川文化史ですね。世界水フォーラムが終わると、河川文化史研究センターとか何かそういうものの設置を後に残してくれるんじゃないの。集まっておしゃべりするだけですか。
第3回世界水フォーラムが終わった後どうするかというのは、私どもの事務局の仕事としてはもう終わろうと。あと必要なものがあれば、新たな組織をつくることは、それはそれでまた別途お考えていただければいいことではないかと。
世界の主要河川について、それぞれ文化史的、社会史的記録の修正を行っていこうというふうな決議。ナイル川、ガンジス川、黄河、揚子江、最上川、淀川、ミシシッピー川。
ものすごいおもしろい提案になると思いますが、日本が言えば、金出せと、こういうことになりますので、そこの覚悟が必要だと思います。確かにおもしろいアウトプットの一つですね。現に「水と文化」というパネルが一つありまして、これに関係してフランスと日本とが共同して、「水と文化」に関する展示会を京都の植物園の中で特別にやろうとしております。あそこにそういうパビリオンをつくろうという計画で進めていますので、そういうところから本当にそういうのが出てくればおもしろいんでしょうね。
実際にパビリオンをつくったら、その物も集めて、植物園でいいからそこに残しておいてくださるか、隣に京都府資料館があるから、あそこに寄託してお帰りになるか。
いろんなものを集めるというよりか、現在、川と文化のかかわりみたいなものを日本とフランスと、それともう一つ乾燥の国の川と3つの比較みたいな展示をしようということでして、こういうデータベースをつくろうという本格的なものとはちょっと違います。
もうちょっと啓蒙的なものですか。
見ておもしろいというものです。
なるほど。今はやりのやつね。パネルとか。しかし、世界じゅうで水が問題になって、川が問題になって、つい去年もヨーロッパで大洪水があったりしました。この際、河川と人類というのでだんだん大きくなって、記録大修正の編成にいよいよ取りかかる。尾田さんはそのために金集めにまた奔走するというぐらいになってくださるといいですね。その場合に日本のは割合ちゃんとやれるけれども、中国でも、インドでも、ロシアのボルガ川でも、一体どれぐらいのものがあるか見当もつきませんね。
JICAの一つの計画として、現地政府と組んでそういうことをやる。例えばメコン川ですと中国、ガンボジア、ベトナムが重なる話ですが、そういうところが一緒になってやるようなプロジェクトに育つと、おもしろいプロジェクトになるかもわかりませんね。
メコン川なんかへ行くと文学とか民俗とか、そんな暇なこと言っちゃいられないというんじゃないですか。
ただ、後ろにある文化の関係を捨てては、本当にその川の議論ができないというのが共通認識ですので。
あれも早くやっておいた方がいいかもしれませんね。かつての日本と同じように直線にしたり、えぐったり、やたらに簡単な河川管理をやるかもしれないから。メコン川も大自然の威力を持っているわけで、それを生かしていて、かつもっと民生の安全を図り、かつメコン川が育んできた国、幾つもの国境を越えて渡っていく神話とか、それにまつわる民俗のさまざまな行事、祭り、風俗の川に沿った流れとか、歌とか、そういうものまで集める。そして、メコン川を人類が総がかりで管理する21世紀の理想の川としていいプランを立てていく。そして実行していく。世界水フォーラムの最後の決議にするのもいいな。あの辺が一番問題のある川だし。いまだに年じゅう、決まって毎年あふれるわけでしょう。
そういう意味では、メコンに限らずナイルも。
ナイルは既に管理されているわけですね。
そうでもなくて、10カ国集まって関係者が一堂に会したというのはここ高々数年のことです。意外とそういう取り組みはまだまだこれからですね。日本ですらそれは全くないわけですので。
でも、こういうことは余り目を向けてこなかったんじゃないですかね。フランスだって、ドイツだって、ないんじゃないですか。テムズ川についてもろくにないんじゃないか。
どうですかね。例えばナポレオンが遠征するときに、歴史家を連れて行ってザーッと調査したその成果がルーブル博物館ですよね。そのときにナイル川の奥地まで全部引っくるめて流域全体図をどれだけまとめているかというのは、ちょっとわからないところがありますね。
ナポレオンは、占領して管理するために調べたんでしょうね。でも、そういうはっきりした目標がある方がかえってよくやるかもしれませんね。
そういう河川の問題に取りかかる前に、そういうことを日本がやったとなれば世界的に、特にヨーロッパあたりからものすごく高く評価を受けるでしょうね。そういう人と文化の関係も含めて。
今度、何かいかにもやっているというふうに報告して、緒についたと。日本の主要河川、各地域の主要河川について、太古から現代に至るまでの流域の変遷、経済活動、社会生活上の意味と、それから、それを生み出してきたさまざまな文化の集大成とそれの作品化を国土交通省河川局を中心として現在進行中であって、私もその重要な委員になっていると。そういうことを世界水フォーラムで言ってしまえば、もう後にさがれないと。それくらいのことは今の日本国ならできるんじゃないですか。そういうことは景気がいいだの悪いだのに関係なしに、やっておかなければいけないことでしょう。もっと貧乏国であった明治の時代に、古市公威がちゃんとそういうことをやっているんだから。今の経済大国日本で……。
どれぐらいのスピードでやっていけるかということですね。
どこか一つの河川、淀川なら淀川について。あるいは淀川が大き過ぎるなら最上川でも、何か集約してやってみる。一つかなり完璧なモデルをつくって。飛行場をつくるとか、学校を建てるというのと違うんだから、そんなにお金かからないですよ。
ある意味では、さっきおっしゃったインターネットで既存の既に研究されている方が、こういう資料がこうあると、そういうのをどんどん出していただく。それを取捨選択する部分もありますけど、それを整理していくという形ですと、余りお金もかからないという部分はありますね。
各工事事務所、河川局、各県、地域ごとにある河川の事務所に、とにかく宿題として出す。何年何月まで、まとめて出す。出さないと次の予算を削ると。それくらい。
どうするのかという話になりますと、またちょっと考えなければいけませんが、先ほど局長も言いましたように非常に大事なことだと思うので、どうやるかということをまた担当課の方で考えたいと思います。
あと、どうですか。
まとめることは大変大事なので、一つのきっかけとして大変いいことで。それから、9頁の上の方の千歳川は、夕張川にしておいてください。しかし、こういうのをまとめられると、川に関係して管理をやっている方は大変大きな衝撃を受けると思います。もっとやれという話、大変重要なんでしょうけど。これでも出たら、大変大きなインパクトがあると思いますから、ぜひまとめて出て。 この資料4は、どういうふうになるんですか。
資料4は既にインターネットで出ています。これをこの会に出ない人であっても、我々の河川管理者の各事務所の人間であっても、わかるようにといいますか、そのようにできるだけまとめたつもりが資料5です。4は既に公表されているということであります。
私は、これが出ることで大変満足しております。
いかがですか。
特にありませんけど、インターネットのアドレスはこれですか。
そうです。河川局のところからたどって行くと入ることができますので、後ほど御連絡申し上げます。
日本には川の博物館というのはないんですか。川を対象にしたもの。大阪にサヤマ池の池の博物館というのができましたね。あれはなかなか建物が立派で、みんな建物を見るために。安藤さんのだから。そういう一つの川でも対象にしたものができると。そこの川だけではなくて、そこを拠点にしながらいろんなものを結びつけて。
我々がずっと前に行ったのは、荒川の分かれ際のところにできた資料館でしたね。
個別の川には結構たくさんでき始めているんですよ。ですから、さっき言ったようなものは、そういうところでやったやつをまとめというのも一つですね。
そういうところに集めて、それをまた中央の方に集める。
それはサテライトだと思って、どこかにセンターがあればいいですね。そういうセンターとして、まとめ役だけというのもあるかもしれない。
しかし、そうやって個々の河川について集めた上で、さらに日本人と川と、あるいは水ということで、もうちょっとジェネラライズした意見を出しておく。イントロダクションの部分で出しておく必要がありますね。川と日本神話とか、歌との結びつきはどう始まっているか、信仰はどうか、そういうことをうまくまとめて概観して、それから各河川ごとにワーッと分かれていく。その河川からさらにその支流にまで入って行くこともできる。
今各河川にある資料館みたいなものは、それぞれの思いでみんなつくっておりまして、それはそれで私は非常にいいことだと思うんですけれども、最低限、先ほど来議論が出ているような時間軸と広がりとを持った形で資料を全部、蓄積している機能をそこへ持たすというそういうコンセプトははっきりないんで、それは一つ持たした上で、あとは特色はそれぞれの川ごとに出していいということですね。そこは非常に大事だと思います。
そうですね。とにかく集めておけと。古い写真でも絵でも、それをコピーして。
あらゆるものを入れておいて、それをデジタル化する。いまやデジタル化できるわけですから、デジタル情報に変えておいて検索できるようにする。それをやってもらえると、ほかから使う人はものすごく楽ですよね。それさえできれば、将来自動翻訳機で海外の言葉にずっと変わるのも可能でしょうし。
しかし、万葉や古今の歌をそう簡単に自動翻訳機が翻訳できやしないけどね。「五月雨を あつめて早し 最上川」なんてできっこないけど。
意外に簡単かもわからない。
いやいや、難しい難しい。掛詞があったり。前はこの委員会では、そういう資料、本とか絵とか集めて博物館をつくりましょうということもあったけど、今は電子機器が非常に発達してきたから、そこへ納めてしまうのが一番いいですね。早いし、安上がりだし。それから、地方、各個人からの参加が容易になるし。
今の個別の資料館でいつもネックになるのは、やはり評価をどういうふうにするかということで、入り込み客数がどのくらいあるかとか、どのくらい周りに使われているか。そちらの方にウエートが多くなると、ついついベースの集録が非常にやりにくいので、そういうところを鼓舞するような、余り気にしなくていいよということは言えるのかどうか。それができると、かなり個別の川の博物館でもできるんじゃないかと思います。
今は入館者数というのをすぐにやって、減ったとなると、あんなものつぶしてしまえと市議会とか県議会はすぐに言う。もう待ってましたと。
そのデータベース機能を第一義にして、第二義的にそういう展示機能がもし必要ならそれぞれ持たして、こちらはもうサブだという機能ですから、こっちを主体にしないとだめですね。
せっかく迫っている世界水フォーラム、絶好のチャンスですから、ぜひそういうことをまとめて次の出発に向けての取っ掛かりにしてください。非常にいいんじゃないでしょうか。ちゃんとそういう決議を出しているかどうか、時々見に行きましょう。宝ヶ池の国際会議場でしたね。私のところから近いから。何かよろしいですか。
 
斎藤茂吉と最上川2

私自身が最初に「斎藤茂吉と最上川」ということでお話し申し上げることになるのですが、実はこの話は昨年、お手元のこれまでの研究会の資料3にどういう研究会をやってきたかの一覧表がありますが、その中に出ております平成14年9月、山形県、岩手県、それから宮城県も入っていたと思いますが、それで約2晩、3日ほどにわたりまして、最上川、それから北上川、そこをグルッと回ったことがありました。国土交通省の方々も、それから現地の河川事務所の方々も加わってくださいまして、いつも全部で20人から30人ぐらいで動きまして、そのときに最上川の河畔の、あれはどこでしたか、新庄から最上川を西に曲がっていったどこか船着き場でしたか、そこにレストラン兼セミナー室みたいなところがありまして、そこで一度お話し申し上げたことであります。ただし、そのときはこの委員会のメンバーは、私と、それからきょう御欠席の高橋さんしか参加していらっしゃらなかった。あとは全部お役人ばかりで、はなはだむなしい感じでお話をしたわけですね。しかも、あのときは、私は7月から9月にかけて7週間ほど前立腺の手当てをずっと毎週京大病院に通って受けていたその直後でへとへとになっていたようなところで、そこで国土交通省のためにと思って必死になってお話し申し上げた次第でありました。
それで、あのときはそういう形でしかお話ができなかったので、もう一回やれというふうに国土交通省河川局の方から御用命が下りました。
斎藤茂吉はもう言うまでもなく、ここに書きましたように明治15年(1882年)に山形県の上山温泉のすぐ隣に金瓶村という村がありまして、そこで生まれました。金瓶村というのは、金瓶の「瓶」はバラの花を生ける花瓶の「瓶」ですね。「金」の「瓶」金瓶村。上山温泉の中心まで歩いていくと1里ぐらいあるのでしょうか。
その金瓶村という、今もそのまま集落の名前で残っておりますが、そこに生まれました。茂吉の生まれた家も、それから茂吉が幼いころからいつも遊びに行っては和尚さんに教えてもらっていた宝泉寺、宝の泉のお寺もそのまま残っておりまして、山形新幹線で上山の駅を越えますと、新幹線の右側の窓辺に、その茂吉の家がすぐあの辺に見えるのですね。いつも感激しながら通っております。20世紀最大の詩人、20世紀日本、つまり20世紀世界最大の詩人の1人があそこで生まれたのだと言っては、だから、私は新幹線はなるべく右側の席に座るようにして、窓から茂吉の生まれた家と、本当に農家です。それと茂吉が幼いころ遊びに行ってはいつも和尚さんにいろいろなことを教えてもらった、茂吉にとって一番生涯、後まで残る蔭応和尚というのでしたか、その和尚さんがいらしたお寺と、それがそっくり見えます。
その線路のすぐ下に流れているのが須川という川でして、これは蔵王山から流れ出てきて、やがて大分行った先で、あれはどの辺でしょうか、天童まで行かないのですが、谷地というあたりで最上川に入っていく支流が鉄道、新幹線とそれから茂吉の家との間を流れています。今も音を立てて、なかなかきれいな川で流れています。ただし、その須川というのはやがて最上川に入るのですが、最上川に入るまでは名前のとおり酸っぱい川なのですね。硫黄鉱山のあるあたりから流れていて、硫黄っ気を含んでいて、魚が棲んだことがないという川であります。
それとまた並行して別な淡水と言いますか、硫黄っ気のない川も流れているようでありまして、茂吉は少年のころからその川で遊んでいたようです。斎藤茂吉には「念珠集」という非常におもしろい抜群の随筆集がありまして、「念珠」というのは数珠のことですね。それはちょうど自分がミュンヘンに大正十何年か、3年ほどドイツに留学している間に自分の父親が、その最後を看取ってやることもなく死んでしまった。そのことを非常に痛恨に思っておりまして、日本に帰ってきてからしばらくたったころ、昭和の初めのころだったと思いますが、その父親を追悼する、冥福を祈る1粒、1粒の数珠のつもりでエッセーを綴っていったというとてもいいエッセーがありまして、その中にその須川の話も一番最初の方に出てきます。
ときどき須川と、それからもう一つそれと並行しているきれいな水の川の間の境目の土手が切れて、須川の水が向こう側の川に流れ込むことがある。そうすると、向こう側の川にいっぱいいる魚が一遍に浮いて死ぬ。それを村人たちはウワッと行って拾うという話ですね。それを「須川落ち」と言ったそうです。ときどきわざとそれをやるのがいたそうですね。あのころは建設省も黙って黙認していたそうです。お巡りさんもね。ときどきはそうやって村人が一斉に魚を拾い上げる。子供たちも、大人たちも、「須川落ちだ」と言って走っていってその魚を拾う。
ちょうどそういうふうにやって向こう側の川が増水したときに、自分の小学校の同級生がそこの瀬の向こう側にちょっと深い淵があって、そこで何かして遊んでいるなと思ったら、いつの間にか彼の手だけが水の表に、白い手が浮いているのが見えた。それを反対側の川っ淵で遊んでいた茂吉が見つけて大声で助けを呼び、大人たちがなかなか来なくて、途中で少し年かさの14〜15歳の少年が飛び込むのだけれども、救うことはできなくて、水の中から顔を出してきて、顔をふいているとか、そういう情景で、やがてようやく大人が来て、上山に近い方の家のそこに婿に来た男というのが、淵の底に沈んでしまっていた八十吉というその少年を救い上げてくれた。ところが、その少年はもうすでにだめだった。その少年を救おうとして村人たちは、大勢大人たちがやってきては、お尻の穴からきせるを突っ込んで、それで空気を盛んに吹き込んだとか、そういう状況も目の当たりにしたようです。7歳か8歳ぐらいの少年茂吉にとっては非常に印象的な川の事故の、自分の親友がそこで死んだわけで、その光景だったようです。
茂吉にとってはそういう少年時代から自分の金瓶村のすぐそばを流れているさまざまな川、それはみんな最上川の支流ですが、それについては非常に深い印象を、印象だけではないですね、体験を持っていたわけです。
やがて茂吉は言うまでもなく、14〜15歳、尋常高等小学校の高等科を上山小学校で終えますと、そこの地域の出身で、東京の浅草の方で精神科病院を開いていた斎藤紀一のところに養子となって行くことになり、父親に連れられて奥羽山脈の笹谷峠というのを歩いて越えて仙台まで出て、そこから汽車に乗って東京に出た。東京に出てきて開成中学校に入るのですね。開成中学校で5年生まで、だから残り何年かをやって、尋常高等科に、今で言えば中学2年に入りますから、残り3年ぐらいを開成でやって、それから旧制一高に入って、それでその一高にいるころに初めて正岡子規の歌集を読んで、それで歌に目覚めて、もともと歌心はあったのでしょうが、自分の中にある歌の才に目覚めて、それから歌をつくり始めた。そしてついに生涯、大歌人としての60数年、70年ですか、を送ったということになります。
ですから、その歌の中には、彼は東京に出てきて、東京帝国大学の医学部精神医学科に入り、そこの助手になり、それからインターンとして巣鴨のあたりの脳病院に勤めたり何かして、その間に、大正2年、自分の実の母親がこの金瓶村で死んだので、それを東京から急遽夜行列車で山形に帰って、その最後を看取ったときのうたがあの有名な「死にたまふ母」という59首でしたか、母親の死んだ年の数の歌をつくった。それが大正2年「赤光」という歌集に入って、ちょうどそのころ自分の先生だった伊藤左千夫が死んだので、その伊藤左千夫を追悼する歌も入って、その「死にたまふ母」と伊藤左千夫を悼む歌と、それが「赤光」の冒頭に載って、暦を逆にたどる形で古い方の歌に行く、そういう形で大正2年に「赤井光」が出ている。これが要するに20世紀の最大の詩集でありました。
芥川龍之介も佐藤春夫もみんな仰天したわけですね。1,200年ほどの伝統を持つ和歌という、短歌という伝統をこんなに新しい現代の最先端の精神を盛り込んで、緊張して、光輝くような歌になることができるということを知りまして、あの当時の人で「赤光」に心を打たれなかった知識人、文人はまずいなかったと言っていいほどであります。
北原白秋もちょうど同じ年に「桐の花」という第一歌集を出しています。ちょうど北原白秋の方の非常にハイカラな都会的センスを実にうまくやわらかい言葉で歌い込んだ「桐の花」と、それからちょっとゴツゴツとした言葉で東北の風土を歌い、自分の死んで行った、本当の農家の家付き娘として生まれて、育って、そこに婿を取って、茂吉などを生んで、そしてほとんど一歩も山形県内から外へ出ることなしに死んでしまった農婦の、生涯全くの百姓女であった自分の母を悼んだ詩、それを載せた「赤光」という歌集が同時に出たわけで、あれは近代日本詩史、History of Japanese poetryの中では一番のピークの年だったろうと思います。
その前に高浜虚子もいたわけですね。それから、その後には萩原朔太郎も出てくるけれども、結局全体を、俳句も自由詩も短歌も通して見たときに、この斎藤茂吉の「赤光」から始まって、晩年の「白き山」に至るまでのうたの業績というのは、結局のところ最も包容している世界が広くて深くて、そのまま西暦7世紀ですか、その柿本人麻呂につながり、そして20世紀の世界の詩歌の中の最先端に立つという、そういう歌であったろうと思います。20世紀、日本のみならず世界の最前衛の詩人でありました。その最前衛の詩人の根っこは万葉の柿本人麻呂にそのままつながっているという、非常におもしろいケースでありました。
だから、私はいつも言うのですが、20世紀、世界を代表する詩人を5人選べと言ったら、その中にこの茂吉は入る。入れていなければそれは間違いである。T.S.エリオットもいたろう、それからリルケも入るかもしれません。しかし、ポール・ヴァレリーなどは落ちてしまう。それから、あとオクタビオ・パスとか、あるいは中国に何かいたかもしれませんが、そんなものでしょうね。残念ながら、佐藤春夫も三好達治も萩原朔太郎もその5人の中には入らない。高浜虚子はすれすれであろう。坪内さんがいるから、そういうふうに言っておきます。
そういう歌人で、その茂吉のそういう大歌人となる茂吉の生涯を貫いて流れていたのがこの最上川及び、その最上川に入るようなさまざまな支流であった。
茂吉の歌集は何集出たのか数えたことはありませんが、20か、3年に1冊ぐらいずつ歌集が出てきまして、ヨーロッパに留学している間の歌集もなかなかいいものがありますし、それから帰国してからもいいものがあります。ヨーロッパに行く前に長崎に行っていたころの歌もおもしろいものがあります。
しかし、最上川のことが一番よく詠み込まれるようになったのは、昭和20年のあれは2月ごろですか、斎藤茂吉がついに東京の家を出て、自分の生まれ故郷である上山近郊の金瓶村の実家に疎開してからであります。そして昭和22年の正月にまた東京に戻るまで、2年近く山形近辺、あの村山盆地で過ごしました。その間の最初の歌集が「小園」という昭和20年の歌をおさめたもの、敗戦を挟んで前後の歌がこの「小園」という歌集の中におさめられておりまして、それからそのすぐ後に続くのが「白き山」、昭和21年からのうたが「白き山」におさめられております。このあたりに一番茂吉にとっての本当の最上川が姿をあらわしていると言えると思います。
途中で斎藤茂吉は、あれは昭和21年の正月になってからですか、敗戦の翌年の正月に自分の生まれ故郷の金瓶村の妹がいた実家に疎開していたわけですが、妹が後を継いでいたわけですが、そこに何となく居づらくなってきて、その金瓶の家を出て、大石田に移ります。大石田には自分のうたのお弟子であった板垣家子夫さんという人がいて、その人が実によく世話をしてくれた。大石田のちょっとお金持ちの、かなり立派なお屋敷の中に別宅があって、その別宅を丸々貸してくれました。今、それが聴禽書屋と言ってそのまま大石田に残されております。広い2階建ての建物ですね。その大石田の疎開先は本当に最上川にすぐでありまして、茂吉は病気のとき以外は毎日のように最上川に散策に行っていました。そして最上川を眺めて歌をつくることによって、敗戦の結果受けた自分の深刻な痛手を、少しずつ癒していったわけです。
だから、川と文学、日本文学に見る河川と言った場合に、河川が最も深刻にある1人の詩人の、作家の心の中に入り込んで、その詩人の精神の構造をなし、それを支えたケースというのは、結局この斎藤茂吉の場合ではないかと思っております。茂吉はこの最上川がなければ救われることはありませんでした。そのまま、日本敗戦とともに滅びていたかもしれない。それほど深く最上川が彼の生活に寄り添って、彼の敗戦によって受けた衝撃を慰めていってくれたわけですね。
昭和20年8月15日、ちょうどまだ茂吉が金瓶村にいたときに敗戦の報を聞いたわけです。その日の日記にも、実に強烈な衝撃を受けたことが書き込まれています。いつかはこの仇を討たなければいけないという、それはそうでしょう。あのころまともな日本男児はみんなそう思ったわけで、そう思わないので、「万歳」などと言ったのは、徳田球一ぐらいでしたからね。ああいうときに、「こいつめ、アメリカめ、いつかは敵を討ってやる」と思うのが、まともに良識のある、しっかりした男だったわけです。茂吉もまたしかりでした。
しかし、そうやって聖戦を真っ向から信じていた、そういうところはよくこういう歌人にある一種、何でしょうね、大変な精神医学をおさめているからその当時の最先端の科学をやっていたわけですが、しかし一方では国内政治とか何かについてはとんまなところがありまして、そのちぐはぐがまた茂吉にとっておもしろいのですが、それで戦争を疑うというようなことはほとんどなかったようですね。だからこそ、敗戦が彼に与えた衝撃は大きかったわけです。
ここには余りそういう歌は挙げていないかもしれませんが、もう口をきく気もしなくなっている。そうすると、敗戦直後の20年の秋の初め、9月のころに山のブドウが黒くなってきて、それに雨が降っている。幾つもあるのですが、
「このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね」
北から渡ってきたかりがねに向かってそう訴えている。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」
そういう歌があります。非常によく、ちょっとうま過ぎるぐらいに自分のこの口惜しさと、それから自分に対する一種の自責の念ですね。それを歌に詠んでおります。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」
どれも有名な歌です。
その間に入っている、これはみんなまだ大石田に移らないで金瓶村にいた敗戦直後の秋の歌ですね。
「星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも」
寂しきものでもあろうかと。
「星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも」
「くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ」
「こがらしの山をおほひて吹く時ぞわれに聞こゆるこゑとほざかる」
「山々は白くなりつつまなかひに生けるが如く冬ふかみけり」
本当に敗戦直後のころの荒涼とした精神状態にいて、そこで彼がたった1つ頼りにできたのはこの山形の村山盆地の、彼が子供のころから見慣れた蔵王山の山々であり、それから少年のころから親しんだ最上川及びその最上川の支流だったわけです。
今のお手元の資料の1枚目の下段の方には茂吉の疎開以前の最上川の歌もありますが、それは飛ばしまして、昭和20年の、真ん中あたりの歌ですと、
「冬河となりてながるる最上川雪のふかきに見とも飽かぬに」
もうただ最上川を見詰めているわけです。
「よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川浪くぐりしものぞ」
こういうのを読んでいくと、茂吉はほとんど敗戦直後のころ一種、縄文、柿本以前まで戻ったという感じですね。一種、縄文詩人になった。日本人の精神構造の中の一番底を流れているのが縄文的なアニミスティックな自然感情だと言えますけれども、霊的なものに対する一種のシンパシー、そういうものに共鳴する力があると思いますが、それが茂吉の場合、敗戦直後の一種のダダによって、敗戦が一種のtabula rasaを、白紙還元をもたらした。そのときに彼の中に蘇ってくるのは、いわばこの縄文の歴史が特に濃く残っている地域に生まれて育った者としての縄文人的感覚の世界、それがあらわになって歌の中に出てきたように思います。
「よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川浪くぐりしものぞ」
鮎を食べながら、その鮎がくぐってきた川を、その鮎の中の臭いでも、歯ごたえからも感じ取っているわけです。多分、縄文人はこうやって鮎を食っていたろうと思いますけれどもね。
それから、あとはもうずっと続いていきます。あとは昭和21年になって、いよいよ最上川のすぐそばのさっき申しました大石田に疎開してからの歌ですね。「秋のかぜ吹くべくなりて」というのは、これは昭和21年の秋なのだと思います。
「秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる」
もうただそれだけの歌です。秋風がいよいよ吹く時期になってきて、その夜、一晩中、最上の川に月てりわたる。この昭和20年、21年の最上川ですから、一切もう汚染のなかったような、そういう川だったろうと思います。それを眺めていると、自分の中のいろいろな慚愧の念、一種の自責の念、悔しさ、そういうものがだんだん、だんだん流されていく。大正、昭和のころの最先端の医学をやっていた抜群のインテリゲンチャが、今こうやって敗戦を契機として自分の精神の一種の白紙還元を経験して、そして最上川に対面している。
「きさらぎの日いづるときに紅色の靄こそうごけ最上川より」
これも昭和21年の「白き山」ですから、21年のときでしょうね。だから、もう大石田にいるわけです。大石田というのは、あの辺は非常に雪の深いところです。大石田から新庄にかけて、それから尾花沢とか、あの辺は山形県の中でも一番雪の深いところでしょう。そこでようやく少しどこかに春の気が差してくる、兆してくる。「紅色の靄」というのはそうなのでしょう。それが2月の朝日を浴びて、川にかかる靄が紅色ににじんでいく。その動いていく光と、それから川の響きと、それを読みとっております。
それから、これもすばらしい歌だと思うのですが、
「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」
これは実際に冬に大石田あたりに行ってみますと、まさに全くこのとおりですね。最近は雪が減ってきたのでどうか知りませんが、四方の山、全く四方が全部山で、西の方が月山、羽山から湯殿山、そして朝日連邦、朝日岳につながる2,000m前後の山々がずっと続いて、それが本当に白く鈍い光を帯びている。それから北の方には鳥海山が見えている。大石田あたりまで行くと鳥海山が見えるようです。それから東の方は言うまでもなく奥羽山脈が非常に激しくうねって、まるでベートーベンの第五交響曲というような感じでうねっているわけで、それがやはり雪をいただいてずっと真っ白に連なっている。それで真ん中に広がる最上川の流域であるあの村山盆地の田畑、それから村落はすべて雪に真っ白に覆われている。その風景の真ん中に立って、「皚々」というのは「白々と」ですね。皚々としておりながら、この「皚々」というふうな漢字を使うのも非常に効果的で、いかにもまだ解けることを拒んでいるような雪の固さ、冷たさ、それが周りを囲んでいながら、この盆地の真ん中を行く最上川には3月の雨がもう降り始めている。「あめ」というのは平仮名で書かれているわけですね。いかにもやわらかい、3月になって春がようやくにじんできたころの感じを、あの盆地の感じと最上川の関係を一言で、一首の歌にすべて詠み取っているような歌です。その真ん中にこの歌人茂吉は立っている。
そのころ彼は気管支だか何だか、そういう病気になりました。かなり長く大石田のさっき言いました聴禽書屋に休んでおりました。
「わが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと」
非常にリズムがやわらかくなって、再び母なる最上川に会いに行ったときの優しい気持ち、それが出ておりますし、
「彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川の上のひとつ蛍は」
これは今度は夏ですね。随分川幅は広いはずですが、その向こう側にひとつ蛍が見えたり消えたりしながら渡っていく。ちょうど和泉式部の、
「もの思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」
というあの歌につながっていくものです。
「ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ」
茂吉は非常に自分が老いたことを感じておりました。昭和20年というと、1945年というのはつまり63歳ですか、まだ大したことはない。まだまだだったわけですが、もう頭は白くなり、病気はするし、戦争の痛手はあったし、ただ、周りに本当によく気のつく、いい木訥なお弟子がいて、その人が支えてくれたので彼はようやく生きながらえたという感じでした。その間に自分で絵を描き始めたりもしております。ちょうど最上川の反対側に金山平三という洋画家が疎開してきておりまして、その金山平三がちょっと絵の手ほどきをしてくれたりもしました。なかなかおもしろいナスの絵とかカボチャの絵とか、石ころの絵とか、そんなものを茂吉はこのころ残しております。
「ひむがしゆうねりてぞ来る最上川見おろす山に眠りもよほす」
これも大石田の反対側、つまり大石田は最上川の東岸にありますが、その反対側に黒滝というようなところがあって、私はこのお寺はすぐのはずなのに行ったことはありませんが、向川寺、ここもよく散歩に行ったようです。そこでお寺の知り合いの和尚さんがいて、そこに行ってうつらうつらとしている。東側からも西側からも、上の方からも下手の方からも茂吉は最上川を1日中眺め、夜になれば夜になって、その最上川の流れを感じながら寝ていたわけです。
「東南のくもりをおくるまたたくま最上川の上に朝虹たてり」
これも同じ昭和21年の夏の歌です。「東南のくもりをおくるまたたくま最上川の上に朝虹たてり」、「くもりをおくる」というのは東南の方から送ってくるのか……、「東南の」だから、東南の方から曇り空が広がっていって、またどこかに行く、そのちょうど境目のところか何かに虹が最上川の上に大きくかかる。
そして、その後の歌がまたすばらしい歌で、ほとんどモーツアルトのレクイエムか何かを聞くような感じですね。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
こういうのがあると、やはりT.S.エリオットも、ヴァレリーも、とても茂吉さんには及ばなかったなという気がしますね。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」
その前の歌の「朝虹たてり」、それがスーッといつの間にか切れていって、上空に虹のフラグメンツだけが残っている。その下に広がるのは最上川であって、こう流れていく。これは本当に天と地と、それから、その中にポツンとかすかに存在している詩人自身、それだけがこのうたの世界をつくり上げているように思われます。「いまだうつくしき虹の断片」、「Fragments of rainbows」、この「虹の断片」というタイトルをとって、「斎藤茂吉の生涯と作品(The Life and Poetry of Saito Mokichi)」という本を出したドナルド・キーンさんのお弟子さんもおりました。これも非常にいい歌で、まことに我々の頭の中に印象深く残る歌です。
「やみがたきものの如しとおもほゆる自浄作用は大河にも見ゆ」
ときどきこんなふうな不思議な歌をつくりますね。こういうところがぶっきらぼうで、ゴツゴツしていて、茂吉の茂吉らしい強さです。「自浄作用」というのは、やはり自分の中にもあるわけで、敗戦まで、戦争を真っ向から信じていた自分の中の不思議な情念、それがこうやって日がたつうちにいつの間にかだんだん、だんだん消えていくということなのでしょうね。それが最上川にもある。自分の中でもあの戦争の不幸はこうやって自分の中からだんだん過ぎ去っていくのだなと思っているのでしょうか。
それから、終わりから3首目あたり、茂吉が大石田に行ったときには上に挙げました松尾芭蕉の最上川の俳句、これをもちろん意識しておりまして、芭蕉の俳句に負けない最上川の歌をつくろうというので大石田に行ったのでありました。本当に芭蕉の「奥の細道」の中の最高のあたりは、ピークになるところはまさにこの出羽の国に入ってきてからでありまして、
「夏草や兵どもが夢の跡」
というあたりはまだまだ浪花節で、何となく歌舞伎仕立てみたいな、それが山を越えてこちらに来ますと、
「涼しさをわが宿にしてねまるなり」
というふうになってくる。ちょうど尾花沢に来ると、芭蕉は急に文化が変わったことを感じたようであります。非常に恐るべき古代の文化がこの地域には今生きているというので、その土地の言葉を使ったり、それから古い風俗をおもしろがって、曽良と一緒になって詠んだりしております。この出羽の国に残る縄文からの古代文化、古代的生活の名残、それを求めて芭蕉は奥の細道の旅をしたのではないかとさえ思われる。だから、最上川周辺に来たときの、最上川及び修験道の三山に登ったときの芭蕉の俳句が、恐らく「奥の細道」の中の最高の句になるのだろうと思います。
「五月雨を集めて早し最上川」
「涼しさやほの三日月の羽黒山」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
というあたりがすごい句ですね。
「暑き日を海に入れたり最上川」
これは、恐らく日本における河川を詠んだ短詩系文学の中の、一方の最高峰をなすのがこのあたりだろうと思いますね。
「五月雨を集めて早し最上川」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
これも「雲の峰」という高くそそり立つもの、陰陽で言えば陽の世界、それから季節は夏、時間は昼、それから男性、女性で言えば男性、それが幾つ崩れてあの月の山に転じたのだろうという、「月の山」というのはもちろん月山のことですが、月に照らされた月山で、高くそそり立つのではなく、平たく丸く伏せているもの、だから陰陽で言えば陰のもの、そして「雲の峰」が生であるとすれば、「月の山」は死の世界でもある。それから、「雲の峰」が夏の昼であるとすれば、「月の山」は秋の夜であって、そこの宇宙の転換がわずかこの五七五の中に「いくつ崩れて」という、「崩れて」という動詞を使って詠み込まれているわけで、驚くべき離れ業でした。やはり大天才でなければできないことをここで芭蕉はやっている。
「暑き日を海に入れたり最上川」
これも最上川のボリューム感ですね。水の量の圧倒的な強さ、大きさ、それが1日中、芭蕉たちの上をジリジリと照らし続けた7月の、あの夏の暑い真っ赤な太陽を日本海にジッと押し込んでいくというすさまじいコスミック・バトルですね。その句ですね。
「暑き日を海に入れたり最上川」
天と地と、それからそこに海が入っている、三つ巴の争いというところです。
そういうものを調べると、
「象潟や雨に西施がねぶの花」
などというのは非常に典型的な、古典的な俳句というふうになるようにも思います。
茂吉はこういう芭蕉の見事な最上川及び出羽三山の俳句、それに負けぬ歌をつくろうという気持ちもどこかにあったようでありました。そんな言葉を漏らしたりもしているようです。
「元禄のいにしへ芭蕉と曽良とふたり温海の道に疲れけらしも」
こんなふうに、ちょいちょいとあちこちに「奥の細道」のあの芭蕉と曽良の師弟二人の姿を詠んだ歌も入ってきます。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
これも非常にいい歌で、まるでニーチェがもし短歌をやれば、こんなふうになるのではないかと思うのだけれども、どうですかね、坪内さん。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
茂吉は一高時代から東大時代にかけて、ニーチェの最大の愛読者でした。恐らく、ニーチェ研究者に言わせますと、斎藤茂吉が一番よくニーチェに近づいた人だそうであります。和辻哲郎よりも、阿部次郎より、その他凡百のいわゆるニーチェ学者よりも。もともとニーチェ的な要素を持っていたのですね、茂吉は。それを自分の中に発見しながらニーチェを読んでいく。ニーチェを読むことによって、自分の中のニーチェ的な、ディオニューソス的なものを発見していくということがありまして、ほとんどニーチェはよく読んでいた。だから、ニーチェの妹が書きましたニーチェの伝記のようなものも自分で訳しかけたりもしておりますし、ニーチェの亡き跡をドイツに留学している間に訪ねたりもしております。ニーチェはバーゼルにいたわけだし、あの辺のアルプスの谷川もこんな感じかもしれません。
「最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ」
そうですね。これはどう見てもゲーテかニーチェという感じですね、この歌は。
「いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山夕ぐれむとす」
これも大石田から北西の方に、遠くに鳥海山が見える。この鳥海山の山頂というのはなかなか見えないのですが、見えるとこんなまことに秀麗な頂きが庄内平野の向こうにそそり立っているわけで、それが秋になったりすると、ときどき下から上まで全部見はるかされ、下から見上げたりすることもできるようになります。私もたった1回だけ、あれは鶴岡から羽越本線ですか、あれでまさに象潟とか本庄とか、あそこを通って秋田に行って、それで角館に行こうとしたときに、ちょうどこういう鳥海山を車内から見たことがありました。本当に息をのむような、上の方は真っ赤に紅葉していて、下の方はまだ黄ばんでいる、そこまで全部姿が見えて、それが夕日を浴びている。ああ茂吉だなと思いましたね。
しかし、この歌はもちろん大石田から遠く鳥海山を眺めやっている歌です。
「いただきに黄金のごとき光もちて鳥海の山夕ぐれむとす」
この鳥海山の麓を最上川は大きくうねって、日本海に向かっていくわけです。こうやってみると、もうこの茂吉という詩人はこの最後に、昭和20年、21年、村山盆地に来て蔵王山を仰ぎ、それから最上川に浸り、そして遠くに鳥海山を仰ぎ、月山を眺め、それがすべて彼の生のよりどころであったということがわかるような気がします。
もうじき終えますけれども、次に2枚目の上の段に挙がっているのが、茂吉と言うと皆さんがだれでも覚えている、これは昭和21年ですね。21年の冬のころの、いよいよ雪が降ってくるころの歌ですね。
「かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」
これは本当にあの村山盆地で、冬の初めの12月になっていよいよ本格的に雪が降り始めて、一日中雪が降り続けるような、そんな中に立ったときの感じでしょう。
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
この辺が「白き山」の中の絶唱として、特に有名な2首でありましょう。「最上川逆白波」というのも、これも茂吉のネオロジスムと言いますか、茂吉の造語だそうです。「逆さ白波」というような、そういうような言葉はあるのかもしれませんし、それから板垣家子夫さんがあるとき、茂吉が大石田にいたときに、最上川に案内したときに、「逆さ白波」とかいう言葉を使った。そうしたら、茂吉は「板垣君、そういういい言葉は大事にして人に言うものではない。」と言ったそうですね。それで自分はそっくりもらっているわけですね。そういうところはとてもおもしろい。
それであのころの茂吉の写真は今、上山にある斎藤茂吉記念館に行くとありますけれども、頭に中折れ帽か麦わら帽か、カンカン帽か、あれをかぶって、ちゃんと背広を着ているのです。チョッキつきの三つ揃えで、もうヨレヨレの背広ですが、そこにちゃんとネクタイもして、足はわらじ履きなのですね。それでバケツをぶら下げている。ちょうどこの疎開していたころ、茂吉は小便が近くなっておりまして、どこでもおしっこをしたくなるので、人に迷惑がかからぬようにということでバケツをわざわざ、あのころバケツは貴重品でしたが、それを買って、それを使って、いつも持ち歩いたそうです。それで、小便用に使わないときは、ときどきそこにおにぎりなどを入れたりしたり、あるいは人からもらった鮎を入れて持ってきたりしたのかもしれませんけれどもね。今もそのバケツは茂吉記念館にそのまま残されております。
「斎藤茂吉専用昭和20年何月これを買う」などというのは、昔の人はみんなバケツでも、梯子でも、たらいでも、炬燵でも、何でも買うと必ず何年何月これを買う、それで「宮村家用」とか、そんなふうに書き込んでいたものですが、茂吉もそういう昔の人でした。そういう恐ろしく古い、やぼったい田舎親父でありながら、最先端の医学をおさめ、柿本人麻呂をみずから深く研究もしたわけですが、それで人麻呂のあの口調、歌いぶり、それをすっかり身につけて、20世紀の世界における詩歌の世界の最先端に立ったというのはまことに興味深い。
そういう中に昭和21年、日本で、
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
というような、ほとんど何も「私」は入っていないのですね。ただ、「ふぶくゆふべとなりにけるかも」という感嘆、慨嘆の、そこに詩人の自我が、この「逆白波」と「ふぶく」の中に消されながら漂っているというところです。「なりにけるかも」というというのは、いかにも大げさな万葉風の言葉の使い方ですが、これがあるからこの歌の大きさとか、川下の方から冷たい吹雪を伴った風が吹き上げてきて、それが最上川の下流に向かう波を逆向きに吹き上げてしまうというのですね。ときどきそういう強烈な吹雪が最上川の下流の方から吹き上げてくる。それによって白波が逆さ向きになってしぶきを上げたりする、そんな夕べとなった。その中に飲み込まれていく自分であり、大石田であり、村山盆地であり、この日本である。
「やまいより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川」
ここに来ると、我々もほっとするという感じですね。
「やまいより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川」
これもめずらしい、おもしろい言い方を自由自在に見つけていますね。六十幾つになって、かなり惚けたりもしたじいさんのはずなのに、こんな新鮮な言葉遣いができるというのは、詩人というのはうらやましいものです。
「ほがらほがらのぼりし月の下びにはさ霧のうごく夜の最上川」
「ほがらほがら」などというのは、西行からもうある言葉ですね。
「月読みののぼる光のきはまりて大きくもあるかふゆ最上川」
「山岸に走井ありと人ら飲む心はすがしいにしへおもひて」
この最上川周辺はよくこういう泉があるのですね。最上川の水が伏流水になって、それが村里に泉になって噴き出ている。私、一度そういう泉で水を飲んだことがありました。あれは楯岡という町の外れの在で、それは本当にすばらしい水で、私の祖父はその水を一升瓶に取ってきて、山形の自分の茶室に持っていって、これは何ヶ月置いても濁らない水だと言って自慢して、それで抹茶を点てて飲んだりしておりました。
楯岡の町で、祖父の昔の女友達だというおばあさんのところにこの水を持っていって、玉露を淹れてもらったことがありまして、あれが昭和二十何年ごろか、あんなうまいお茶はあれ以後、飲んだことがないような気がします。玉露をちょっと淹れると、またすぐにお茶の葉をあけてしまうのですね。そしてまたすぐ、まあ、玉露はこっちから持っていったのです。昭和20年代ではない、昭和30年代でしょうか。それで、山岸の走井から汲んできた水でお茶を点てる。なるほど、そうすると「心はすがしいにしへおもひて」というのはそういう気持ちですね。昔の人はこうやって水を飲んでいたわけで、それこそ縄文、弥生の昔から、それから自分の祖父、自分の親たちも、こういうことができなくなったのは残念ですね。これから国土交通省河川局は、川をやわらかく復元するだけではなくて、川の伏流水を泉にして出してくれるとありがたい。
越前大野、あそこはよくそういう水があって、町中をきれいな水が流れて、それをところどころにたたえて、屋根をかけて、そして神棚まで祭って、その町のその辺の女の人たちがそこに来て洗い物をするという、あの辺はよく水がわいていたのですが、最近、大分水位が下がり、水がわかなくなってしまったそうですね。九頭竜川の伏流水が出なくなってきている。あれも非常に残念なことでありまして、日本の文化が底の方からむしばまれて、だんだん実は消えつつあるということはわかるような気がします。
そういうふうに言っていると切りがありませんのでこの辺にいたしますが、下の段の終わりから3つ目。
「最上川ながれゆたけき春の日にかの翁ぐさも咲きいづらむか」
これは昭和22年の末になってでしたか、疎開からようやく東京に戻ってきて、東京へ疎開から戻ってからの、最後の歌集がこの「つきかげ」ですが、そこで東京にいて、思い起こしているわけです。
「最上川ながれゆたけき春の日にかの翁ぐさも咲きいづらむか」
翁ぐさというのはとてもいい花で、そこに、中から非常にかれんな濃い紅色のしべを出す。割に背の低い。茂吉の生まれた家にも咲いていたようですし、さっき言いました大正2年の「赤光」の中の「死にたまふ母」、死んでしまった母を追悼しつつたたえているのですが、その歌の中にも何遍か、この翁ぐさとか、それから苧環の花が出てきまして、茂吉が一番好きだった花のようです。苧環も非常に品のいい、茶花にも使うのですが、茂吉のお母さんはそれが非常に好きだったようですね。だから、苧環の花や翁ぐさを見ると、農婦として生まれ、農婦として死んでいった自分の実の母親、守谷いくさんを思い出す。それがまた最上川の思い出のイメージともつながっていくわけです。春の日になってきて、今、東京にいて、最上川の流れが、水が満々と豊かになって、そのほとりに翁ぐさも咲いている姿を思い浮かべているのだろうと思います。
そんなふうに読んでみますと、斎藤茂吉という近代日本を代表する大詩人にとって、この川は彼を培い、彼の想像力を養い、また敗戦という悲劇に際して彼を救ってくれて、彼を本当に、今「癒す」という言葉がはやりですが、まさに癒してくれた水の流れであった。そして、その癒しを感じながら、斎藤茂吉は近代日本最高の詩をここに書きつづったと言えると思います。川のおかげでありました。河川局、どうもありがとうございます。
批評はもちろんできないですけれども、とてもきょうは美しくて楽しい茂吉論をお聞きしました。 実はこの前、茂吉の「死にたまふ母」の 「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」 という歌をあるところで読んでいましたら、若い子に、このツバメはなぜのどが赤いのでしょうと言ったら、風邪を引いているからだと言いました。
扁桃腺を腫らしているという話ですか。
ええ、扁桃腺を腫らしている。そんなふうにツバメそのものも知らなくなっていっている時代だし、多分川も実感としてはかなり遠ざかっている中で、例えばそのツバメが風邪を引いていると読んでも、それはそれで新しい読み方としておもしろいというふうに思うのですね。先生がとても美しくお話しになった 「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」 これは本当にとてもきれいだけれども、先生はきょうお話の中で、これはいわば古代的なものが響いているとかいうふうにもおっしゃいました……。
モーツアルトのアリアであると。
そういうとても新しい、何と言うのでしょう、縄文的なドロドロとしたものは感じさせないですね。
そうですね、これはね。
それで、一方でとてもドロドロとしたものを感じさせる、この幅の広さというのはどこから来ているのでしょうか。それは才能と言ってしまうと何か……。
それは斎藤茂吉という人間の精神のレパートリーが広かったということでしょうね。非常に先端の感覚と、それから自分の魂の奥底の方のものを汲み上げる力と、余りドロドロという感じはしないですね。縄文は何もドロドロとは限らないわけで、茂吉の最初のころの「あらたま」か、あるいは「赤光」に、 「萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ」 あれも縄文ですよ。 「石走る垂水の上の早蕨のもえいづる春となりにけるかも」 あれと同じようなことですね。そのままつながっていくのですね。
実は、私などは海の半島の育ちですから、こういう川に余りなじみがないのですね。
どこの半島ですか。
四国の佐田岬半島という。
ああ、佐田岬、あの長い。
はい。
あれじゃ川は目立たないですね。
本当に谷川のような川しかないのですね。だから、ややうらやましいなと思って、こういう最上川があるということは。だから、多くの日本人の中には、こういう動脈のような川辺で育った人と、それからもう少し小さな支流、それから私などは本当に毛細血管のような川ですね。そういうところで育った詩歌も、もしかしたらあるかもしれないなと、そういうことを考えながらお聞きしていました。
佐田岬の谷川のほとりで育つと俳句になり、最上川の豊かな流れで育つと短歌になる。
そうかもしれません。
正岡子規は、あれも余り大きい川ではないですね。
ええ、市内を流れている中ノ川とかいう、松山市内の小さな川がありましたね。
なるほどね。
東京だと隅田川になってしまうのですね。
どうぞ。
芳賀先生のお話は非常に勉強になりました。茂吉がこんなにすごい歌人だったとは、改めて思いました。私の世代だと、息子さんの北杜夫の方ばかりを読んでいたのですけれども、北杜夫の方はむしろ山ですね。信州のアルプスの山で、お父さんが川なのに、息子さんの方は山なのもおもしろいなと思いました。この間うち、北杜夫さんがお父さんのことを書いた「斎藤茂吉」という全4冊ぐらいの本、あれを読んでいたら、斎藤茂吉というのは鰻が大好きだったそうですね。
目がなかったようですね。
講演を頼まれて、戦後、お金が払えなくても、鰻を食べさせると言うと必ず引き受けたというようなことが書いてありました。あれもやはり川好きのせいでしょうかね。
なるほどね。そうかな、まあ鰻は川ですからね。あれも大石田時代の話ですね。「私、講演なぞ嫌です。」とこう言っていたのが、「先生、鰻、出ます。」と言ったら途端に目の色を変えて「やります、やります。」と言ったという、それから、だれか人が食べていると必ず大きさを比べて、ほかの人の方が大きく見えて、自分に取って、取ってみると同じぐらいで、また返したとか、鰻を巡ってはいろいろな……。
娘さんのお見合いの席で鰻が出て、食べない人がいたのを、それを取って食べたという話も聞いたことがありますね。
そういうエネルギッシュなところがあるのですね、茂吉さんは。
川と文学と言いますと、例えば、先生のお話でも名前が出た北原白秋が柳川の川というか、堀割で生まれ育ちましたね。それから、佐藤春夫は紀州の熊野川のほとりですね。そういう川で育った人たちが東京に出てきて、故郷の川と1回離れますね。そのときに、故郷の川の代理として隅田川という東京の川を発見するという1つの心の動きがあるのですけれども…。
在原業平じゃないですか。
茂吉の場合はどうだったのでしょう。東京に出てきたときには……。
なるほどね。隅田川の歌というのはあるかな。浅草観音様は好きでよくお参りに行ったようですね。もともと斎藤家、斎藤紀一という彼を養子にした病院は、浅草の有名な一角にあった。その思い出の随筆も書いていますけれどもね。だから、観音様に行っていたのだから、隅田川はよく行っていたのではないでしょうか。でも、ああいうのは川ではないと思っていたかもしれませんね。溝だ、などと思っていたかもしれませんね。
ヨーロッパに行ったときは、たしかドナウ川のことを書いていますね。
そうですね。ドナウ川の源流まで行ってね。今は、御長男の茂太さんが建ててきたとかいうことで、その源流に茂吉の歌碑が建っているそうです。やはり川を見ると川を遡ってみたくなったり、それから下流まで行ってみたくなる、そういう一種、原始的な心情を持っていた人かもしれませんね。  川本さんはどうですか、川を見るとやはり河口まで、海に注ぐところまで行ってみたり、源流まで遡ってみたり。
永井荷風がやはり川が好きだった作家で、あの人は戦後、市川に移ったときに、間々川という小さな川があって、それをある日、川沿いに歩いていって、河口まで行ってみようと思い立つエッセーがありますね。
でも、荷風はもともと隅田川でしょう。
そうですね。
「すみだ川」という作品もありましたね。それから、最後は「東綺譚」までね。
ええ。だから、本当に作家にとって、川というのは大事なのだなというふうに。
夏目漱石は川はありましたかね。
あの人は牛込の出身だったので、漱石の作品にはほとんど川は出てこないですね。
せいぜい神田川ぐらいですね。
神田川と、隅田川が「吾輩は猫である」にちょこっと出てくるぐらいで。
全く山の手。
ええ。
俳句はあるのですね。漱石の俳句で、「秋の川真白な石を拾ひけり」 きれいではありませんか。「秋の川真白な石を拾ひけり」 とても漱石の繊細な部分が、私は大好きな……。
なるほどね。それから、「秋の江に杭の打ち込む響きかな」 あれもいい句ですね。
そうですね。
あれも大病で伊豆にいたときの句ですね。
そうです。
「秋の江に……」、あれは川の入り江でしょうね。
そうでしょうね。
「秋の江に杭の打ち込む響きかな」
何か九州の筑後川のあたりを旅したときに……。
なるほど、熊本に行ったときにね。
「菜の花の遙かに黄なり筑後川」とかいうきれいな……。
でも、漱石の場合も、茂吉は本当に川が精神に食い入って、彼の肉体にまで食い入っているわけで、一緒になっているわけで、そういう川はないですね。小説家というのは余りそうならないのですかね。でも、まあ荷風はそうか。やはり近代になると遠ざかっているのですね。茂吉の場合は近代に生きた古代人だから。
私も東北でやっておったものですから、特に最上川のいろいろな状況を思い浮かべながら聞かせていただいております。そういえばミュンヘンもきれいな川がありますね。
イザール川。
それで、敗戦後、本当に破壊された後でも、もとの風景をそのまま残すように復元しておって、日本のバラック建てで戻してしまった、別に川に限らず、町全体をですね。非常に大きな違いを感じておったのですけれども、そんなところです。
川を詠んで見事な俳人と言うと、やはり芭蕉でしょうね。それ以後も。
蕪村……。
淀川に来ましたね。
蕪村も、まあね。
「春風馬堤曲」。
「春風馬堤曲」、そうですね。
そういう意味では、上流と中流と下流というか、それぞれおもしろい、そういう分類をしてみるとおもしろいのかもしれませんね。永井荷風はやはり下流、花柳界、「かりゅう好み」というところがあるのでしょうかね。私は新潟から今度は京都に行ったのですけれども、全く表情が違いますね。最下流の川と、ああいう浅瀬の川はやはり表情がありますね。ですから、中流の風景、川の風景というのは、茂吉もまさにそういうところにいたわけで、だから、これだけ川の歌が出てくるのかなという感じがしますけれどもね。下流になってしまうとやはりちょっと詠めないのではないでしょうか。茂吉も詠んでいるけれども、大抵もう海になってしまったり、夕日になってしまったりしていますね。難しいところがあるのかもしれません。
川としてとらえるのには難しいのかもしれませんね、河口のあたりというのは。川だか海だかわからなくなっている。でも、そこがおもしろいところもありますけれどもね。徳島の吉野川などでも、幅広くて。
大変おもしろく聞かせていただいて、おもしろくと言ったら大変申しわけない、授業料なしで、こんなすてきな講義を聞かせていただきまして、ありがとうございました。斎藤茂吉というのはこんなに偉大な人だったというのは私も初めて知らされたのですけれども、今お話に出たように、最上川の中流部で、ある面では、中流部の中のというのは水源に近いような風景ですね。こういう中流部で水源のような歌を詠まれた茂吉さんは、上流部の方は余り行っていないのですか、米沢とか。
余り行っていないようですね。
最上川については、やはりあの中流部の…。
それから、最上川に入る支流の歌はいろいろとあるわけですね。
あの辺が最上川らしさなのですかね。
村山盆地が最上川をつくった盆地だし、それからあと庄内平野とね。
下流の方へ行くと、下流の表情というのは大変難しいのだろうと思うのですが、最上川の下流というと小説家ですけれども、藤沢周平さん。
藤沢周平さん、それから、森敦さん。
藤沢さんの小説は下流の表現が、私ども川をやっている人間から見ると非常にうまい表現をして…。
そうですか。
隅田川などの周りの表現も、ほかの人よりははるかによく表現していますね。多分、藤沢さんは青龍寺川の出ですね。青龍寺川という最上川の元支川、赤川の支川の、それで非常に勾配の緩いところなのですね。流れないで困っているところで、そういう人はやはり隅田川へ来ると何かわかるのですかね。何かそんな感じがいたしました。
「たそがれ清兵衛」的な流れですね。
そういう面では、非常に合う人と合わない人といるのかもしれませんね、地方から東京へ来て、隅田川を見てということで。
川で人を分類するのもおもしろいですね。では、どうもありがとうございました。それでは、こちらの方はこれで終わらせていただきます。
■報告書案
事務局でございます。お時間がございませんので、お手元の資料5「歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」の「報告書案」というものが真ん中に書いてございますが、「報告書案」というものに基づきまして、5分程度で御説明をさせていただきます。
1頁をめくりまして、「目次」というものがございますが、「はじめに」というところと背景で、人と川とのかかわり、文学等をひもといて見ていきましょうということ、今回、この懇談会をやっているゆえんでございますけれども、そこの背景について書かせていただいております。
「2.」では、全国の河川管理者に、ぜひ先生方にしていただいた高尚な話を、我々河川管理者が理解できるようなレベルで、先生方の情念がなるべく伝わるようにということで「2.文学に見る河川の姿」というものを書いております。またそれを踏まえて、では、人と川とのかかわり、川の姿をどう調べていくのだろうということを「3.」に書いてございます。
1頁めくっていただければと思います。「はじめに」というところがございます。少し申し遅れましたけれども、文章の中で下線が引いてあるところがございますが、下線が引いてあるところは前回、第7回の報告書案から変わったところでございまして、下線の一重線は先生方にすでに2月に見ていただいているものと全く変わってございません。2月に見ていただいたものから変わっているものは二重線のところでございまして、ごく一部でございます。
この2頁の「はじめに」というところでは、近代以降の効率的な治水を優先せざるを得なかったころから、今は川が本来持っていた治水、利水、水質浄化、癒し、生態系保全等のいろいろな機能を充足するようなことが求められていて、そのためには長い川の歴史の中の今をとらえることが重要で、その切り口をとらえるためには、その時代、時代で川の姿をとらえた和歌、俳句等いろいろな文学でございますとか、そういったものをひもといていく必要があるであろう。そして、そういったものをひもといて十分に理解する中で、川の魅力や川の本来持っていたさまざまな機能を再認識して、個性ある河川整備に息長く取り組んでいく必要があるということを書いてございます。
1頁めくっていただきまして、3頁でございます。「背景」ということで、最初に日本の川の特質、アジアモンスーン地域に属しておりまして、多様な降雨の形態、急峻な山地、複雑な地形という日本人の個性を育んできた風土のことを書いております。そういった中で、洪水と隣り合わせの土地に生活の場所と糧を求めるなど、要は非常に川とかかわりの深い生活を日本人は送ってまいりまして、それが故に川が文学作品に頻繁に登場して、祭りが脈々と受け継がれてきているということがございます。
そういう中で、ライフスタイル等が多様化しまして、川にまつわる歴史や風土に地域の方たちが愛着を持ち始めている。そういった中で、私たちは地域活性化に取り組んでいく必要がある。そういったことを踏まえて、川づくりに取り組んでいく必要が高まっているという背景を書いてございます。
4頁でございます。今申し上げた川の姿が文学にどうあらわれているのか、それはまさに生活に密着しているからこそ文学に川があらわされ、そしてその文学が国民の皆さんに読まれ、またその川のイメージというものを心の中に持っていくということがあると思います。
そういった中で、川の流域の歴史や風土をあらわす俳句、和歌などについて整理することが、川の持っていた個性、役割、特徴を浮かび上がらせていくのであろうという全般のことをまず書きまして、「(2)」でございますが、ここではそれぞれ、これまで第8回まで先生方に御提供いただいた話題を中心に、それぞれに表現されてきた川の姿について報告をしております。
「(イ)和歌、歌枕、俳句にみる川の姿」ということで、ここは今、芳賀委員長から詳しくお話があったところでございまして、例えば斎藤茂吉にとって最上川がかけがえのない川であったことですとか、そういったことを詳しく書いてございます。また、歌枕というものが日本の国土の索引、一種の文化のインデックスになっていること等も書いております。前回、第7回では宮村先生から、平安時代重要であった河川というものはどういったものかということを歌からたどってみていただいた、そこを真ん中からちょっと下のところで書いていただいております。
5頁から6頁にかけましては、まさに今、芳賀委員長から御説明があったところでございます。
6頁に移っていただきます。「(ロ)今様にみる川の姿」ということで、これは昔の歌謡曲に相当するものでございますが、
「淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとをしや」
といったように、人々の暮らしにいかに川が深くかかわってきたかということをうかがうことができて、鮎や鵜飼いの姿と遊女である自分の境涯を重ね合わせて嘆く若い女性の姿を見出したりすることができます。こういったものがその当時の川や風俗を歌い込んでいて、いかに中世の社会において川とその周辺の社会が交通の要衝としてだけではなくて、遊興の場、信仰の場として非常に重要な役割を果たしてきたかということをごらんいただけるかと思います。
7頁でございますが、「(ハ)民俗にみる川の姿」でございますが、ここは聞き書きでございますとか、伝承に見る川の姿のことを書いてございます。川の民の姿というものがほとんど消えつつあるのでございますが、そういったものを聞き書きという手法で見出して、当時の物資の輸送でございますとか、交易、川の漁などを生業とする人々の存在ですとか、そういった痕跡をたどることができるであろう。また、過去の伝承、民話の中にも「サケの大助、今上る」といったもので、水産資源を保護するような教えを伝えるものもございまして、こういったものに川の民の姿を垣間見ることができます。
8頁、「(2)祭りや信仰にみる川の姿」ということで、ここは京都を代表する賀茂川について、実際に神社が川沿いに多く建立されておりまして、そのことが、いかに川が神々が集まる神聖な場所として信仰の対象になってきたかということをうかがい知ることができます。また、「河内様」と書いて「こうったま」と読みますが、こういった神様を祭る祭りについて、これは高橋六二委員から御説明をいただきましたが、こういったものに昔の川における信仰の姿というものを見ることができます。
9頁、「(ホ)絵画にみる川の姿」ということで、江戸時代の絵画がヨーロッパの絵画にも影響を及ぼしているというものもございます。10頁の上の方を見ていただけますと、谷文晁の絵がございますけれども、1つの川の流れに沿って見える景観をあたかも旅をするがごとく取り込んで、一幅の絵に表現したようなものでございますとか、例えばその下にございます「桃源郷」のような古来からの物語、著述も何らかの影響を与える可能性があるということでございまして、何か理想的な場所を求めるという物語の中で川が果たしていた役割の大きさ、そういったものがこういった絵画に影響を及ぼしているのではないかということを書いてございます。そのほか、その下にございます江戸の絵にいろいろな水路が出ていたりしますが、これがいかに物資の輸送ですとか、そういったものが当時の江戸にとって大事だったかといったことをあらわしているものでございます。
11頁でございますが、「(ヘ)映画にみる川の姿」ということで、これは川本先生に御紹介いただきました例えば「綴方教室」、「風の中の雌鶏」、「東京物語」等で遊び場として、あるいはピクニックの場所として、それから出会いの場所、そういったものとして川の姿が非常にたくさん描かれているというものでございます。
12頁でございますが、「(ト)近代文学にみる川の姿」ということで、これは第1回に久保田先生から「隅田川の文学」ということで御紹介をいただきましたけれども、それぞれの文人たちが川の風景の美しさを発見して、そういったものを文学にあらわし、それがまた先ほど申し上げた映画に影響を及ぼしたというようなこともあるかと思います。
次に13頁でございますが、「3.歴史・風土に根ざした川を目指して」ということで、これはこういった文学などにあらわされているものをどう調査していくのだということを書いてございます。(1)に書いてございますのは、先ほど申し上げた川の個性を生かした河川整備をするに当たりまして、河川管理者というのは川のことはよく知っている、一方、地元の市民団体の方は地元に関する自然、歴史・風土等、豊富な知識を有していらっしゃいますので、よくよく協力していくことが大事であるということを書いてございます。
(2)におきましては、これまでの懇談会で先生方に発表していただいたものから、それぞれ、例えば歌枕でございますとか、あるいは祭り、和歌、そういったものがどういったものをあらわしているのか、そういうものからどういうものを得られるのか、ではどうやって調べていくのがいいのかということを書いてございます。
14頁の「調査段階における「よすが」、よりどころでございますが、よりどころとしてこういったことを中心に河川管理者が十分な調査をしていけるようにということを書いてございます。「計画段階における「よすが」ということも同様でございます。
14頁の「(3)歴史・風土に根ざした川を目指して」ということでございますが、これは第7回で先生方の意見がございました。いろいろな方のお知恵を拝借して、補充がきくような形で記録としてよく残し、海外に発信していくのが必要でございましょうということで、こういったことを踏まえまして、報告書案ということで取りまとめさせていただきました。以上でございます。
大変上手におまとめくださいまして、ありがとうございました。きょう御出席の委員の方々でこの報告書というものについて、何か御意見はございませんでしょうか……。今の4頁の「(イ)」のところで、「和歌、歌枕、俳句」というふうにありますね。「歌枕」というのは独立させて入れていいのですか、どうなのでしょうか。歌枕は和歌によく使われる地名であったのだから、「和歌、俳句」だけでいいのかもしれませんね。そうですね。
はい。
だから、これは「歌枕」というのは要らないですね。「和歌」、「俳句」と並ぶものではないわけだから。
わかりました。
あとはいかがでございますか。
別に修正を求める意見ではありませんが、13頁の「(1)今求められていること−地域の特性に合った川の魅力を引き出し、地域の活性化に寄与する−」というところで、多分今まで発展とか活性化とか、そういうことを目指していろいろなことをやってきたのでしょうけれども、必ずしも発展することがいいのかどうか、活性化するのがいいのかどうか、ずっと今までの議論を聞かせてもらって感じたのは、多分、地域の個性化とか独自化とか、地域の特性を持った何かであって、必ずしも「活性化」という言葉を使うのがいいのかどうかという点が1点。 それから、先ほどの議論で1つ私が感じていましたのは、茂吉が確かにすばらしい、世界の中でも五本の指に入るという非常に力づけられた思いなのですけれども、多分「川」というような議論をするときに、日本人が「川」という言葉を聞いてイメージするものと、ヨーロッパ人が「川」と、「river」にしても、「reviere」にしても、「fleuve」にしても、頭に置いてイメージするものがやはり相当違うということと、ヨーロッパ人の言葉なり、考え方がイスラムとかキリスト教に規制されているとすれば、彼らにはやはりもともと自然の中の川のイメージはあり得ないわけでしょうから、相当違いますので、そういう「日本文学に見る川」というわけですから、その辺のところが少しどこかに入ればいいかなという感じがしただけであります。
今から入れるのはなかなか難しいですね。
ですから、今さら、テイクノートだけをしておいていただければ結構でございます。
確かにセーヌ川やライン川やドナウ川、それからボルガ、ちょっと違うしね。イタリアのポー川、それからフィレンツェの、あれはアルノー川ですか、ああいうのはみんな違うしね。
例えば、ナイルなどにしましても、カイロだと年間の降水量が20oとか30oですね。ですから、ほとんど雨が降らない、それなのにナイル川の水は増減をする。彼らはどうして川の水が増減するか全く理解できないので、星占いと言いますか、天行と結びつけた。これは私の仮説なのですが、だから、茂吉とか、日本の柿本人麻呂にしろ、芭蕉にしろ、彼らの川と雨とを結びつけられる感性というのは、多分我々日本人でしか自然には持ち得ない感性なのでしょうね。ですから、ノーベル賞が取れなかったということではないかと思います。
今の報告書の序文のところにもありましたように、日本は北から南に向けて、列島の真ん中を背骨のように山が抜けていて、その山から日本海側と太平洋側に向かって川がすごい勢いで流れ落ちるわけだから、確かにこれは特別ですね。朝鮮半島とも違うし、中国大陸とも違うし、ギリシャのあの辺の半島にそういう川があるのかどうか、余りなさそうですしね。でも、もとのユーゴスラビアの奥あたりはちょっときれいな川がありますかね。それから、オーストリアのザルツブルクとか、ああいうところはちょっときれいな谷川がある。
そういう意味で言うと、ヨーロッパで言えば、ヨーロッパアルプスから流れ出たあの辺のところ、スイスの中ぐらいの川の形態が日本の川なのですね。
そうですね。スイスの側と、それからイタリアの側と両方にね。
そうですね。
ただ、向こうは余り険峻かもしれませんね。険峻に過ぎる、大体はね。
そうですね。
だから、確かに川を考えてみると、文化の違いが非常にわかってきていいかもしれません。日本の川はどうも人間に非常に親しみやすい、あるいは洪水になるにしても、人を巻き込むわけですが、いずれにしても、非常に原始的な生命力を感じさせるのは日本の川で、それは非常に喜んで感じる場合と恐れる場合と両方あるわけですね。やはり茂吉の歌でも、それから芭蕉の歌でも俳句でも、蕪村の俳句でもそうですが、川の流れの水が持っている一種のエロティックな感覚、それをみんなよくとらえていると思う。茂吉の「小園」や「白き山」の中の最上川にしたってちゃんとエロスがあるので、川のエロスというか、水のエロスというか、水が人間の想像力を働かせて与える一種のエロチックイマジネーション、それが日本の川の独特かもしれませんね。 杜甫とか李白が揚子江を詠んでも、あれは雄大に過ぎて、向こうに千里、今、友を乗せた帆掛け船が長江を下っていく、私はそれを黄鶴楼か何かから見送るとかね。でも、唐代の一番最初の詩人、王維には自分のエステートの中に谷川があり、集落があって、木こりがいたり釣り、漁師がいたりするのですが、そこを詠んだ川荘というのでしたか、それがかなり近いかもしれませんね。それでさざ波が立っていて、そこで女たちがすすぎ物をしたりしている。セリを洗ったりしている。それを王維が漢詩に詠んだりしている。それはまた蕪村が大好きだという、あるいはちゃんと芭蕉も読んでいたという、そういう関係もありますね。 確かに、さっきの報告にも出てきたように、桃源郷に出てくる漁師が遡る谷川、あれはまさにエロスの世界への導線だったわけですね。そこへ導いていく。それで、源流に行くと洞窟があって、そこの暗い中を少し怖く感じながらくぐり抜けると向こうにパッと明るい桃源の村里が広がるわけですね。この水のエロスというのは非常におもしろい問題で、それは世界水フォーラムでも話題になりましたか。
水と文化の多様性のところで議論が出ておりました。ですから、私が申しましたのは、これはこれとして、次のバージョンと言いますか、次の議論のときに世界の文学で見る川と日本の川との比較をすれば、日本の川の特性がさらによりよく出てくるかもわからない。
別に文学にあらわれていなくても比較したっていいですよね。ナイル川とかライン川とセーヌ川。
ただ、文学というか、そういうところで人と川との関係ですので、自然としての川そのものはそんなにおもしろくもありませんので、そういう意味で、提案でございます。
 
中国文学に見る河川と人と

中国の中世文学、中世文学と言ってもちょっと分かりにくいと思うんですけれども、大体7世紀から10世紀。王朝で言いますと唐の時代の唐詩という詩や文章、小説などを勉強しております。
今日は資料をあらかじめ配布しておったんですけれど、図版があった方がご覧いただいて、少しでもイメージが湧きやすいかなと思って、コピーをして頂きましたので、併せてご覧いただければと思います。
中国文学と一口に言いましても、3000年の歴史がありますので、なかなかやっかいであります。的を少し絞りまして私の専門としております唐詩を見てみようというわけです。
中国文学の中で海という言葉は、例えばはじめに書きましたように四海ですとか、それからかいだい海内ですとか、世界や宇宙といった意味でよく使われる言葉であります。しかし、実際に詩人・文人たちが海のイメージをどの程度具体的に持っていたかといえば、非常に漠としている。わかりにくいです。つまり本当に海を見た詩人というのはどれくらいいるのか。つまり、ほとんど海を見てないで海をイメージしているという感じすらします。我々海になじみの深い日本人から見ますと非常に驚くというところがございます。
荀子という書物にはこういう言葉がございまして、土を積みて山となり、水を積みて海となると。土が積み重なって山ができ、水が積み重なって海ができるという。また、王維という詩人には、阿倍仲麻呂、中国名はちょうこう晁衡と言いますけれども、この阿倍仲麻呂は若くして唐に渡りまして官僚になっています。友人には李白ですとか、王維ですとか、当時一流の詩人がいました。で、帰って来ようとして難破して九死に一生を得るんですけれども、その時死んだと、阿倍仲麻呂死すという報が流れまして、李白ですとか王維は非常に悲しんでですね、死を弔う詩を作っています。その前に送別の詩を送っているんですけれども、阿倍仲麻呂が日本に帰るということを聞きまして、中国の詩人たちは遙か大海、大海原の向こうにある海のイメージというのはですね、非常に今から見ますとまるで魑魅魍魎が跋扈する暗黒の世界といった感じで描いております。それに対しまして川というのは、非常に具体的で、しかも頻度も多うございまして、今日話題提供で申し上げますのは、特にその河川、詩歌に見えました河川という点で申し上げたいと思います。
漢詩、唐詩と呼ばれるものにはいくつかのテーマがございまして、今日はそのテーマのいくつか代表的なものを選んで、詩をいくつかピックアップして参りました。まずはじめに見ますのは送別詩に見える川、河川ということで、王昌齢、これは盛唐の詩人なんですけれども、大変有名な詩で恐らく多くの方がご存知かと思うんですが、「芙蓉楼にて辛漸を送る」という詩でございます。
「寒雨 江に連なり 夜 呉に入り 平明 客を送れば 楚山 孤なり 洛陽の親友 如し相問わば 一片氷心 玉壺に在り」
このように歌っております。ここで出て来ます川は「江」。普通、江と言う場合は長江を意味します。黄河の場合はさんずいに河川の河ですね。可能性の可のさんずいの河の方を使うことが多うございまして、仮に長江の本流でなくても、支流でも江と言うことが多うございます。この場合には長江を歌っております。訳をそこに付けておきましたので、ちょっとこの詩を読んでみますと、
「川面をたたき煙らす冷たい雨が激しく降り、我々がいる呉の地方に到来する。一夜明けて旅立つ君を送る早朝には既に雨は晴れ、楚の山がひときわ寂しく聳える。君が帰る洛陽の友人たちが、君に私の消息を尋ねたならば、こう答えてくれと言うわけです。私の心境はあたかも一つの氷が玉の壺、玉壺の中にあるようなもの、と答えてくれたまえ」
ここで詩人たちは友と別れ、帰っていくわけなんですけれども、それを送る光景が一句目、二句目というわけです。ここに注意しなければいけませんのは、川と山が描かれています。多くの場合山水と熟したり、山河と熟したりするように、中国文学においては山と川というのは自然そのものを表すことが少なくありません。山は動かない、川は絶えず動いているという象徴にもなるわけですけれども、この場合、ぽつんとそびえます山は詩人の心象とも言えますし、川というのはそのまま乗っていけば自分の故郷に行き着くという発想で詩人たちは歌っているようであります。
どのような船でどのような別れをしたかというのは非常にわかりにくいんですけれども、今それも併せて私は勉強しております。しだいに考古学的な資料ですとか、絵画の資料ですとかによって、ある程度かなり具体的にですね、詩人たちがどの程度の船、どの程度の経路をとって都との間を行き来しているかということはわかりつつございます。だからここに、図版資料にあげましたのは、かなりシンボライズされていますので、そのまま信用していいかどうか分かりませんし、時代もかなり後期のものです。ただ中国においては絵画が特に発達しますのは明以降、宋から明です。宋のものはほとんど、伝なになにという作家が伝わっていまして、そのまま真物かどうか決めにくいところではございます。明以降に大きく発達しましたので、この明の版画をいくつか載せておきました。このような例にあげましたのは、渡し場と言いましょうか、送る人と送られる人とが別れをしているシーンであります。苫屋船のような船が半分ほど見えまして、船頭が竿を差しています。お付きのかむろらしき童がご主人の乗るのを待っているというような感じであろうかと思うんですけれども、そういう図式で送別のシーンが描かれておりまして、下の飛びまして、Cの方もそのような。こちらの方がちょっと船が大型になっています。マストが2本、少しロープらしきものがあるんですが、これはマストを上げるだけではなくて、先ほどもちょっと我々見学しました時に、船を陸から引くという話をどなたかなさっていたと思うんですけれども、中国ではそれは現在でも行われていまして、急流の時には船をロープで引っ張ります。水夫、その水夫の詩っていうのも唐代には残っておりまして、こういうようなかたちで人々は別れていた。ここに描かれますのは、ほとんどが士人・・・poetではなくてですね、武士の士に人と書きます士人。士人階層ということで、同時に役人でもあり官僚でもあり、また詩人でもあったわけです。そういった階層の人が当時の文化・教養を担っておりましたので、ここに出てくる人々も、概ねはそうだろうと考えられます。
それでは次に送別詩に見える川のB・・・。
今ので、この一片の氷心玉壺に在りというのは有名な言葉のようですけれど、これはどういうことですか。一片の氷心。
一片というのは普通量詞で使われまして、ひとひら、月なども天上に昇る時にはひとひらと感じます。この場合は氷ひとかけらといった場合、それが玉の壺の中にある。つまり、今で言うとガラスのような乳白色の半透明の壺の中に氷が入っている。そのような自分の心境だと言っているんです。 つまり何物にも煩わされない清澄な、澄み切った気持ちということであろうと、今は理解されています。
じゃあ別にこの洛陽の親友は、自分の親友でしょ。その親友から離れていることに自分は不安でも寂しくもないということですか。
そうですね。この場合は実は色々な説がありまして、友人達はこの王昌齢に向かって何をしているんだ。つまり、鳴かず飛ばずではないかと心配しているわけです。それに対して自分はそういう俗世に煩わされるような気持ちはなく過ごしているという例えであろうと理解されています。
悟っているわけですね。冷え冷えとしているわけではない。
この表現はいくつか先行例もございまして、皆がプラスの肯定的な表現で。
ここの最後の一句だけを軸に書いてありますね。
そうですね。ことわざのようになっておりますですね。
つまり、非常に安らかな、静かな気持ちで、俗世に未練を感じたりはしていないと。で、この親友に対して別に悪くないわけね。お前さんいなくたって私は静かにしてるから。川と関係ないけども。
これは旅立つ友人に言付けていくわけですので、自分の心境を伝えてくれということだそうです。
なかなかこうは言えないものな。大変よく分かりました。
続きましてBの方ですけれども。これも送別詩として大変名手だと、李白と並んで名手だろうと言われています王維の作品で、「斉州に祖三を送る」と。この祖三の三という字は排行と申しまして、一族の年嵩の者から大を付けまして、後は二、三、四、五、六と、多いものになりますと三十ですとか四十となります。
総数で。
同世代です。つまり同じ世代ですね。ジェネレーションを同じくする従兄弟、はとこの類は全て当時兄弟とみなしてましたから。
兄弟じゃなくて従兄弟まで含めてこの順番で行くんですか。
その当時一族をどう数えるのかというのも難しいんですけれども、祖父、父親、自分の世代という、それをひとつのジェネレーションと見て、くくっていたようですね。
この祖三というのは祖詠であると。「詠」というのは、ごんべんに永久の永と書きます人だと言われています。これは少し長い形で五言の八句、律詩からなっています。
「相逢いて 方に一笑し 相送りて 還た泣を成す 祖帳 已に離るるを傷み 荒城 復た入るを愁う 天 寒くして 遠山 浄らかに 日 暮れて 長河も急なり 纜を解けば 君 已に遙かなり 君を望みて 猶お佇立す」
という詩です。ここでは王維が見送る人で、祖詠が見送られる、旅立つ人という図式で作られています。最初は君と会っては破顔一笑、別れては涙を流すということで、その出会いと別れを描いています。祖帳というのは別れの宴を言います。この言葉は大変古い言葉で、他には祖餞ですとか、祖宴ですとか、餞というのはしょくへんに錢という字のつくりを書きます。はなむけするという意味であります。こういった宴で詩人達は友人を送るわけですけれども、これについては後で少し補足説明致します。荒城というのは荒れ果てた町ということで、荒城の月の荒城と意味としては同じなんですが、城ではありませんで、これは町。まあ中国は城郭都市ですので、城というのはほぼイコール町と考えていただいていいかと思います。友人のいない町に帰るのは悩ましい。君は既にいないから、帰る町も荒れ果てて見えると、これは心象の風景であって、現実町が荒れているわけではありません。その次にやはりまた山と川が出てまいりまして、天寒くして遠山清らかに。遙か遠く、山々がくっきりと見える。寒いと言いますからこれは季節感を表す言葉で、秋から冬、多くは冬のことを詠む言葉が多いです。日が暮れますと、長河も急なりとはどういう意味かと言いますと、天が寒くなると空気が澄み、遠くの山々がはっきり見えると。これは視覚的な描写で、六句目は日暮れて長河も急なり。日が落ちまして、落ちると視覚的な器官が働かなくなりますので、聴覚的な、耳で川の流れを聞いている。せせらぎが急に聞こえてくるということだと思います。
纜を解きますと、君は既に遙かに遠くまで行って点になってしまう。ずっと君を望み続けては佇み続けるという詩であります。これもやはり山と川が象徴的に歌われておりまして、山は両者を隔てるもの、川は遠く離れた地点を結ぶものといったイメージで、この川の流れに乗れば見送られる祖三は、あっという間に遠く離れていく。やがて帰っていく土地に帰りつくと詠まれている。最後の2連は、君を望めば既に遙けしと読む読み方もございまして、これも人口に膾炙している表現かと思われます。
これも別れの詩なんですけれども、先ほど申しました祖帳について一言申しますと、この祖帳というのは現在の別れですと、例えば駅でも飛行場でもそうですけれども、まあ見送る者と見送られる者がさようならと言って別れます。当時は、例えば長安、都から西もしくは東南に別れるのが主なんですけれども、西に行く人には渭城と言って渭水のほとりの町まで一泊して見送りに行ったんです。つまり見送る者も一泊して、同道して途中まで行きます。で、見送る者は、また帰ってくるわけですね。旅立つ人はそのまま旅先へ進むというかたちで送る、つまり儀式と言いましょうか、これは古代の儀式から繋がっている発想でして、その名残が、実は祖帳とか祖餞とか祖宴というかたちで、別れの宴ということで残っていた。実はその宴というのは、大袈裟に言いますと宗教的な儀礼と言ってもいいかもしれません。古代の社会によっては、そういうようなことが漢字の方からは認めることが出来ます。それが宴と結びついて、儀式というほどの大袈裟なものではないんですけれども、一種セレモニーとして、別れの宴として定着したのが、祖帳、祖宴、祖餞という言葉です。この祖帳というのは「とばり」。直訳しますとテントですので、本来は道ばたにテントを張って宴をしたというのが、原義です。もちろん後には宿屋でこれを行っております。
なんでこれは「祖」という字を使うんですか。
祖というのは道祖神の祖でもあるんですけれども、道の神様を祖と言いまして、この祖には色々な原義が考えられていますけれども、「且」というのはですね、道の神様だろうと言われております。元々しめすへんは神を示しますので、本来このしめすというのは元々神の依代で、これはしめすでもいいですし、Tの字型、あるいはTの字に点々が左右にふたつ付くという、これは神の依代にお酒を振りかけるというところから来ている象形文字でして、これはローマ字で言いますとIの字、Tの字、それからこの「しめす」という字で、いずれも同じ意味です。ですからかたちとしては変わって表れますけれども、意味は同じで神の依代。右側の「かつ且」と字に本来の意味があったように思われます。 これは道の神様、道神と考えられていまして、その道の神様をお祭りする。中国の古代社会には祖という、道の神様はどういうのかという儀式まで今ではかなりはっきり分かっていまして、その儀式がどういうものであったかというと、ちょっと話が長くなりますので、そちらはあとで、もしご質問等あればお答えしたいと思います。
この長河は、これは黄河ですか。
これは黄河です。 詩人たちは漢詩の場合、ひょうそく平仄というのがございまして、今の中国でもございますけれども、平らな響きと傾きのある響きというのをはっきり分けていまして、もちろんそれによって使い分けすることもあるんですけれども、川においては、ほとんどその使われる型はありません。
それでは2頁の方に頁をめくっていただきますと、ローマ数字のUというのは「登高遠望詩」にみえる川といって、「登高遠望詩」というのも耳馴染みがないと思いますけれども、要するに高いところに登って遠くを望み見るという、これも元々は宗教的な祭祀に由来する節句に定着した儀礼なんですけれども、端的に申しますと9月の9日、これは例えば1月の1日から3月3日、5月5日、7月7日という奇数月は、いずれも例えば、3月上巳ですとか端午の節句ですとか、7節供七夕ですとかという奇数月は節句として定着しているんですが、以前中国から伝わった習俗で日本にも重陽の節句というのがございまして、九・九ですね。9月9日は高いところに登って菊の花を浮かべた酒を飲むという風習がございました。その元々の宗教的な祭祀に由来する節句と思っていただければいいんですが、この高いところに登って遠くを望み見るというのは、高いところとは何処かというと、山でも結構ですし、丘でも結構ですし、楼閣ですね、高殿、うてな台、塔。唐の詩人はここに出て来ます台ですとか、それから塔ですね、タワーです。それに登って詩をよく作っております。Cに挙げましたのは李白の金陵の鳳凰台に登るという、現在では南京に相当するところの鳳凰が飛来したと伝わる台に自分は登ってみて、その感慨を詩に歌っています。
これは先ほどの詩よりもちょっと長くなりまして、1句が7言8句からなりますから、7言の律詩ということになります。
「鳳凰台上 鳳凰遊び 鳳去り 台空しくして 江自ら流る 呉宮の花草は 幽径に埋もれ 晋代の衣冠は 古丘と成る 三山 半ば落つ 青天の外 一水 中分す 白鷺洲 總て浮雲の能く日を蔽ふが為に 長安見えず 人をして愁えしむ」
この詩は実は崔という人の黄鶴楼、黄色い鶴のたかどの楼というのが武昌にあったと。現在は再建されて鉄筋コンクリートの高殿が立派に建っていますけれども、唐代のものは消失して、現在はそのものはございません。それを意識した詩だと言われるんですけれども、鳳凰台上に鳳凰が来たけれども、鳳凰は既に去って、台だけが空しくある。傍らを長江が流れていく。呉宮の花草は幽径に埋もれ、晋代の衣冠は古丘と成るというのはいずれも繁栄を誇った呉の宮殿、その花草も道端に埋もれてゆき、晋の時代栄華を誇った貴族たちも、今は丘となっている。三山半ば落つ青天の外、切り立った山がここでもまた出てまいりますけれども、これは天から落ちたようだと、逆の発想をしております。ひとつの川が白鷺洲を挟んでふたつに分かれて流れていく。ここまではつまり、鳳凰台上から見た景色であるわけですけれども、その後が、ちょっと比喩が入っておりまして、浮雲が、浮き雲が太陽を覆い隠すが為に、自分にとって故郷である長安は見えず。人というのは自分のことを言いまして、これも慣用句です。私は悲しくなる、このように歌っています。
これは高いところに登って遠くを望み見るというのはどういう意味なのかと言いますと、実はこれはある方向性がこのテーマには隠れていまして、ひとつは望郷、故郷を懐かしむ。郷愁ですね。もうひとつは時間の推移、時間の経過を嘆くという主題がほとんどの場合、この登高遠望詩には認めることが出来ます。
従って李白はこの金陵の鳳凰台という台に登りながら、自分は故郷に帰りたいなぁという思いと、それから時代の移り変わりですね、栄華を誇っていた人たちも、昔この地で栄華を誇っていた人たちも今は既に皆滅びてしまっていなくなる。そういう二重の時間の推移、それから時代の変遷、望郷という、巧みに読まれていると思います。
この詩の7句目ですね、最後から2句目に、浮き雲が太陽を覆い隠すという表現が出てくるんですが、ここも色々諸説があって、これは古詩十九首詩という漢代に作られた詩を意識して作られているということで、恐らく自分を排斥した高力士などをこのように批判しているんだろうという説もございます。
それからもうひとつDの文、これは明らかに九日と出ておりますので先ほど申しました重陽の節句ですね。重陽の陽という字は陰陽の陽、陽を重ねると書きます。中国人は奇数を陽、偶数を陰と考えましたので、10までの最大の数である9が重なるということで、重陽の節句を一番尊んだわけです。このDは9月の9日に斉山という山に登って、やはり高いところに登り遠くを見ているという詩であります。
ここでは、
「江は秋影を涵して 雁初めて飛び 客と壺を携えて 翠微に上る 人世 口を開きて笑うに逢いがたく 菊花 須く満頭に挿して帰るべし 但だ 酩酊を将って 佳節に酬いん 用いず 登臨して 落暉を怨むを 古往近来 只だ 此くのごときのみ 牛山 何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんや」
折しも9月、秋ということで、重陽の節句、牛山に登って遠くを望み見ようとします。お酒を携えて、翠微というのは山の中腹を翠微というと辞書にございます。人生人の世、口を開きて愉快に笑うに逢いがたくというのは、「荘子」に典拠がございまして、「人生、口を開きて笑うは一月のうち4〜5日のみ」と。人生というのは辛いもので、1ヶ月のうちに大きく口を開けて愉快に笑うことが出来るのは4日か5日ぐらいだと、人生を道破した言葉だと思いますけれども、それを踏まえて言っております。ですから菊花、菊の花を頭一杯挿して帰ろうと言っているんです。菊の花は邪を払う効能があって、お酒に菊の花を浮かべたり、普通は懐に挿しても結構ですし、頭に挿しても結構ですし、肘に当時は付けたという説もございます。菊の花は邪を払うということで、一年の厄を払おうというわけです。ただ高いところに登って落暉を怨む、つまり夕日が落ちていくのを悲しむ必要はないよと言っていますのは、先ほども言いましたように、高いところに登って遠くを望み見るということは必ずしもただ、物見遊山で行くんではなくて、望郷ですとか郷愁ですとか、そういうものを持って行く行為ですので、夕日を怨むまでもない、何故ならば古往近来、昔から現在に至るまで人生というのはみんなそんなもんなんだ。なるようにしかならない。時間は刻々と過ぎていく。「牛山何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんや」というのは非常にわかりにくい言葉だと思うんですが、これは昔、斉の景公が牛山に登って泣いたわけですね。そうすると側近の二人もはらはらと涙を流して、王様が泣いているんだから自分も悲しいというわけですが、独り側近のあんえい晏嬰だけはにっこりするわけです。王様が泣いているのに何お前笑ってるんだと怒られるわけですけれども、それはおかしいというわけですね。もし王様、死を恐れているのだったらそれはおかしい。もし人間死ななかったならば、王様の先代、またその先代、その先代という優れた聖人賢人がたくさん死なずに残っていて、王様が出る幕はないんですよ。こう諫めることがあった。ですから牛山何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんやというのは、死を恐れる必要はない、涙を流して悲しむ必要はないんだという戒めの言葉になっています。
ここでも実は何故ここで河川が大事なのかということになるわけですが、図版の資料のBをちょっとご覧いただきたいんですけれども、これは柳宗元という人が幽州に左遷された時のある山に登ってやはり望郷をしているところなんですけれども、これはまあ大変分かりやすいから載せてきましたけれども、よく見ますと、下は川なんですね。遠くに見えますのが、この山の向こうには自分の故郷である都があるという図式なんですけれども、その高台に至るまでに階段が見えまして、そのところにやはりお付きの者がお茶かお酒か分かりませんけれども、お酒だと思うんですが、それを持って階段を上ろうとしている図式です。ここに見えますのはつまり、高いところに登って故郷が見えるのか。例えば金陵から見えるはずがありませんし、この斉山からも自分の故郷が見えるはずがありません。例えばここ長野から東京が懐かしいと言って、東京が見えるはずもないんです。ただ、心境としては遠くを望み見るという行為自体に背景があって、それも時間があれば補足致しますが。問題なのはこの山と川であります。この山と川というのは、望んで遠くを見るというのは、人間はですね、昔からそうなんですけど、上と下、天と地と言いましょうか、山と川を詠じて、天地の間にあるものを全て詠じたする、見たとする、そういう発想がございます。現実には見ていないんですけれども、ひとつひとつはつぶさに詩に読むことは出来ません。例えば山、その山にある木、あるいはそこに動物がいたりする、鳥が飛ぶ、畑がある、河川がある中州がある鳥がいるというのは全部読みきれません。しかし、この山と川を描くことによって、その天地の間にあるもの全て把握した、見たという発想がございまして、ここに山と川が決まって歌われるのはそういう意味があります。従って山は天に近いもの、川は地を流れるものという意味で、河川が出てまいります。この河川に乗れば、先ほどの送別詩のように自分の故郷に帰り着くという発想がございます。
登高遠望というのはそのように、ただ9月の9日になると高殿や山や丘に登って菊を浮かべた酒を飲むという風習だけではなくて、その背後にやはり山や川に託した思いがですね、あるということをご注意いただければと思います。
それではちょっと先を急ぎますけれども、3頁をご覧いただきたいと思います。
「隠逸詩」に見える川ということでございます。
これも詩の中の代表的なテーマのひとつなんですけれども、隠逸という言葉を説明しますと、先ほども申しましたように詩人たちは同時に官僚であり、また教養を支えていく階層でありました。当時の詩人は殆ど、100%と言っていいくらい、官僚です。しかも高級官僚です。ですから今で言うとキャリアの人たちということになります。
この隠逸というのはですね、隠れ逃れるという意味です。どこから隠れどこへ逃げるのかということなんですけれども、ひとつは一番分かりやすいのは、先ほどご紹介頂きましたけれども、私の勤めている大学が國學院といって國という字は正字で書きます。これを学生達は古い字体だと言ったりしますけれども、漢字に古い新しいの区別はございませんで、この國という字をご覧いただきたいんですが、この國という字はどういう意味かと申しますと、実は右側にほこ戈があるんですね。その戈で護られている小さな中の四角が都城を意味します。つまり、城郭を矛で守っているというのが或という、或いはという字なんですね。それで十分城郭を意識しているんですが、後の人はそれでは足りないということで、更に城郭に城郭を囲ったのが、この國という字になります。つまりこの國を一歩出たならば危険だ。古代で言うと魑魅魍魎が跋扈する、悪霊がいる世界ということになりますので、人々は人知の及ばぬ世界と考えたわけですね。ですから国の中は秩序立って、人為的な完成された空間ということになります。そこから一歩出ると、そこが非常に危険な地ということになる。つまり人為的に完成された国に排除されたり、あるいは折り合いがつかずにそこで住みにくくなった人間は、そこを出るほかないんですね。そこは何処かというと、そこが自然だったんです。実は自然というのは、中国人にとって、ずっと好ましいものではありませんでした。実は悪意があったわけですね、自然というのは。ですから自然の中で生活をするということは、同時に非常に危険を伴いますし、人間的な生活は出来なかったという発想なんです。
ところが人間の世界で上手くいかない人間はそこに住むわけにいきませんので、そこから逃げて隠れるわけです。山に隠れ、川に隠れたわけです。それが実は隠逸詩という詩として、肯定的な意味を持って自然が捉えられるようになった、ひとつの契機であります。
ですから山海経と言って古代の中国人の地理感と言いましょうか、認識を表した書物があって、それには図がついていたと伝わるんですけれども、その図そのものは残っておりません。現在は後世のものが残っておりますけれども、そこに出てくる動物ですとか、何々の国というのがあります。その国の住人というのは、今から見れば妖怪ですとか、魑魅魍魎といった類に描かれております。ですから当時の人々が人為的な国の外にある世界をどう捉えていたかというのは、そういうことからも端的に分かるんですけれども、それがいつ、自然が人間に好意を持ったか、あるいは人間が自然に好意を持ったかというのは、西暦で言いますと4〜5世紀頃、いわゆる秦漢帝国以降の魏晋南北朝という中国が三国志で有名なんですけれども、分割され群雄が割拠する時代、つまり黄河を中心とする文明から長江を中心とする文明の美意識が再認識された時期にほぼ重なりまして、南の地方ですね。まあ中国を大きく分けまして華南とか華北とか大雑把に言いますけれども、あれはどこで分けるか、何が境になるかというと、ひとつの文化的な線がですね、秦嶺山脈と淮河を結ぶ線だと言われています。ですからそこに見えない線を引いていただくと、恐らく文化的な境目があるだろうと。ですからそこから北の物は粉食文化ですね。粉で食物を加工して食べる。北が粒食文化といって、粒でお米を食べると。今はそんな区別はあまりございませんけれども、例えば北京の人々が餃子を好んで食べるのですが、餃子というのも小麦粉の文化ですね。日本人は麺というとヌードルを思い浮かべますかれども、元々中国語で麺というと小麦粉です。小麦粉を言います。ですから麺というのはまんとう饅頭でも結構ですし、蕎麦でも結構ですし、餃子でも何でも結構なんですね。粒食文化は南の方ですから、我々と非常に風光も似てます。ですから華南は自然だけ見ますと非常に日本の風土と似ているし、風景だけ見ますとちょっと分かりませんですね。ただ川から水牛がわぁーと出て来たりしますので、ちょっと違うなという感じはしますけれど。風光だけ見ると似ております。
そういう自然が人間に好意を持つ、人間が自然の美を発見するというのが最初にEに挙げました、謝霊運の時代。謝霊運は最初の人と言っていいかもしれませんですね。これは「始寧の墅に過る」と、長い詩でしたから、川が描かれていて、美がどのように描かれているかというところを節録して参りました。この謝霊運というのは謝氏と言って南朝随一の貴族であります。もともとは謝玄の孫に当たりまして、そのままでいけば諸侯あるいは王、下手をすれば天下を取ったかもしれないんですけれども、時あたかも晋の時代から宋になる時代でして、冷遇されます。政治的な才能もあり文学的な才能もあったんですけれども、非常に冷遇されまして、その憤懣を自然の中に求めたと言われています。その一節が表れている部分を引いてまいりました。
「山行して 登頓を窮め 水渉して 沿を尽くし 巌は峭しくして 嶺は稠畳たり 洲はめぐりて 渚は連綿たり 白き雲は 幽き石を抱き 緑の篠は 清き漣に媚ぶ 宇を葺きて 迴れる江に臨み 観を築きて 層なる巓に基す」
山歩きしては上り下り。謝霊運は大変山歩きが好きだと。自分で山歩き用の下駄を作ったと史実にはあります。川を――上り下りとありますが、これは遡り、水に沿って下るという意味にご理解いただければと。で、切り立つ巌は険しくて、嶺は重なり、中州はぐるりと回って、渚はずっと続いていくという景色を。15句目の句は1句で、これだけで諺にもありますけれども、白き雲は幽石、幽き石を抱くようにして、空に浮かび、緑の竹は清きさざなみに媚びるようにゆらめいているという表現かと思います。ここに謝霊運は、しょ墅を構えて、政治の世界を捨ててこの別荘に帰って参ります。タイトルのしょ墅という字は野原の野に土と書きますけれども、今でも使われる言葉ですけど「別荘」と理解して良いかと思います。まあ園林と言ってもいいかもしれません。自然に手を加えて、美意識をそこに再発見するというきっかけになる時代です。
Fは王維で、これは先ほど送別詩にも出してきた詩人なんですけれども、実は王維という人は19歳で科挙に合格して、67〜68歳で官吏を辞めるまで隠棲したことはございません。つまり厳密な意味で官位を捨てたことはないんです。役人を捨てたことはないんですが、この人は隠逸詩人として非常に知られています。それは何故かと言いますと、実は半官半隠、半分官吏で半分隠者だというような評がありますように、そのバランスを取った非常に精神的なバランスを取った詩人として先駆けをなす人です。その終南山、都のほぼ東南にありました終南山に別荘をこしらえて、川谷という、南川谷というのが正しいんですけれども、川という谷がありまして、その谷川のほとりに別荘を作っています。
ここでは
「中歳 頗る道を好み 晩に家す 南山の陲 興来たれば 毎に独り往き 勝事 空自しく知る 行きて 水の窮まる処に到り 坐して 雲の起こるを時を看る 偶然 林叟に値い 談笑 還期無し」
王維のお母さんは崔氏と言いましたけれども、大変仏教に信心深くて、王維も子供の頃からその影響を受けまして、仏教に帰依しておりました。ですから中歳頗る道を好みというのは、中年の頃よりは仏道に親しんできたということです。
晩に家すというのは、実際には晩年ではないんで中年からやや後半ですけれども、自分ではそう言っています。南山、つまり終南山のほとりに居を構えたことですね。興が乗ってくればいつでも一人で歩き回り、自然の美しさを目で味わう楽しみは私だけが知っている。歩き回っては川の水の尽きるところに行き着き・・・、ここがまた大事なんですけれども、川の行き着くところは何処かというと、これは川の流れに沿って行き着くところに行き着いたというのは陶淵明の桃花源記、ユートピアのある世界。ユートピアと桃源郷とは必ずしも同じではないと思うんですが、簡単に言ってしまうとそこにもうひとつの別世界があったというところを踏まえておりまして、この川沿いに行って、水の窮まるところ、川の行き着くところに誰がいたかといいますと、そこに木こり、林叟というのは林間に住むおじさんという意味なんですけれども、この木こりと出会ってはずむ会話に家に帰るのを忘れてしまう、というのはどういうことかと言いますと、実はこれ木こりだけではなくて、川辺ですから漁師がいたっていいわけです。これは漁師の場合もあるわけです。たまたま木こりなんですけれども。実はこの木こり・漁師というのは、隠逸詩に出てきます木こりや漁師というのは、同時に自分が住みたい理想的な世界の住人であるというふうに考えられまして、象徴的に歌われます。ですから、先ほども申しました国家という人為的な世界、秩序立って完成された人為的な世界からはじかれた人間、もしくはそこに住みにくいと思った人間は、そこから逸脱するほかなかったんですけれども、王維はそれを仮の理想の空間世界として、この別荘、終南山の山麓を選んだわけです。今風に言うと週末にそこに帰ってきて、また仕事が始まると都に戻っていくという感じで、バランスを取った詩人というように考えられます。この木こりと漁師というのはそういう意味では自分の住む世界から理想的な世界の仲立ちをするキャラクターとして中国文学にはしばしば、両者が並称されましたり、この一方だけ歌われたりすることがございます。その図版資料のDのところをちょっとご覧いただきたいんですけれども。
これは単純に見ますと川辺で、釣りをしている漁師さんかなぁと思うのですが、この人は良く見ますと漁師ではありませんし、なんかまじめに釣りをしてませんですね。これは船浮かべて、櫂を枕代わりに頬杖をして、釣りをしているジェスチャーをしているように思えます。これは服装から見ても漁師そのものではないんで、恐らく頭巾を付けてますから詩人だと思われますけれども。この人は自分は漁師だとポーズをつけていて、魚を釣る釣らないなんて関係ない。こうしていることが実は精神の自由、別世界に住む自由を得たと考えてまして、この絵画の先にはですね、あるいは洞窟があって、その中には別世界があったということを考えていいのかもしれません。そういう大変興味深い版画ではあります。
これは川谷ということですか、王維の別荘で。
これは全く別です。これは必ずしも詩と一致していませんで、これは別の詩人であります。最後に詩人達が川に浮かんでどういう思いをし、どういう気持ちで川に浮かんでいたのかということを4番目にいたしました。しゅうこう舟行、舟をやるという、舟に乗って旅をする、船旅をするということで舟行という言葉がございます。それをGとHに載せました。Gは時代から言うと南宋になりますので、随分後になるんですけれども、非常に興味深い詩であります。このりくゆう陸游という人は詩をたくさん残した人でも有名なんですけれども、左遷あるいは出世する度にですね、かなり細かな日誌、記録をつけていまして、この時は下のアスタリスクのところをご覧いただきたいんですけれども、乾道5年(1169)11月6日に四川省奉節県の副知事に任命されました。ただ当時病気中でありまして、直ちに赴任することが出来ません。そこで病の癒えるを待って5月に故郷の浙江紹興を発っております。
紹興酒の紹興ですか。
そうです。浙江省の紹興ですね。文豪の魯迅の故郷でもあります。お酒で有名な紹興であります。何故こんな12月6日なんて日にちまで分かるんだというとですね、自分が事細かに「入蜀記」つまり四川省に向かう記録という意味で「入蜀記」というのを書いていまして、そこに旅立ちから何月何日にどこで泊まって、舟をどうしたとかですね、その状況を事細かに書いていまして、この一月後の7月11日の記録を見ますと、ここに出てきます。じぼき慈姥磯という、磯というのは川に巌が突き出したところを言うんで、日本の磯もそこから来たのかも知れませんけれども、その慈姥磯というところのもとに、夜泊まったという時の詩であります。
これは先ほどと同じ五言の八句ですから、五言律詩であります。
「山断ちて 峭崖立つ 江空 翠靄 生ず 漫りに多し 往来の客 尽きず 古今の情 月砕かれて 流れの急なるを知り 風高くして 笛の清らかなるを覚ゆ 児らは 笑う 老子の 睡らずして 潮の平かなるを待つを」
水際の切り立った断崖、峡谷に挟まれた空に緑色の靄が立ちこめる。ここを行き交う旅人は多く、そのさまを見ては昔を思い出す。以前、陸游はここを通ったことがございます。水面に映る月は急流のために円形を結ぶことはなく、笛は秋風のつよさにひときわ澄んだ音色を響かせる。子供らは、眠らずに潮流の静まるのを待っている父親を笑いながら見ている。
お父さんが明日舟を出せるか出せないか心配に見ているのを、子供達は笑いながらからかっているという感じでしょうか。ここは図版資料のEのところ。これもイメージで場所的にはちょっと違うんですけれども、赤壁と金陵あたりですので、ちょっと必ずしも陸游の土地とは一致しないんですけれども、これは長江の急流の様を描いた版画です。ここには先ほど言ったロープで舟を引っ張るというシーンはないんですが、長い竿を突き立てながら長江を遡っていくという図式が見えます。これは図にはロープで引くものもございます。長江は今でも、中国行った方は直接ご覧になった方もいらっしゃると思うんですが、外国人が行く場合は5,000トン、10,000トンクラスの、しかも今はかなり高速のエンジンを積んだ速い舟が行き来しておりますけれども、それでも今でもですね、土地の人がジャンクという小さい、こんな舟で大丈夫なのかなと思うような舟で何日もかけて遡って行きます。下るんではなくて遡っていくんですね。それでも陸上を行くよりは遙かに速かった。ですから私も長江を遡ったことがございます。まる4日舟の中にいましたけれども、普通は上りは2週間、下りは1週間と言われています、長江は。上海から重慶まで。ですから遡りますと倍近く時間がかかるわけですから、昔ですからエンジンを積んだ舟はないわけですから、風を待ち、潮の流れを待ち、そして良い時を選んで出かけていきます。
この入蜀記を見ますと、風を待つというシーンがいろいろ出てまいります。好風を待つとかですね、風に阻まれるという表現が出てきて、舟行、舟をやるということがいかに難しくて大変だったかということが良く伺われます。
このGの詩はそのひとつの家族のワンシーンと言いましょうか、自然の厳しさ、断崖絶壁の中で舟泊まりしている親子のですね、ちょっとユーモアも込めて描かれているようであります。
この潮というのは川だから・・・。
我々は潮というと潮流と言って、海を意味しますけれども、必ずしもそうではありません。中国の場合には川の流れも潮と言うことがございます。有名なところでは浙江の怒潮と言って、海の潮流が100q、110q遡るということも無くはないんですけれども、必ずしもうしお潮と言ったからといって海のものとは限りません。
要するにこれは流れが今激しすぎるわけですね。
そうですね。
というよりは風に吹かれて・・・。
風を待ち、凪ぐのを待っているといった感じでしょうか。
最後のHは「建徳江に宿る」で、これも実は孟浩然という詩人は日本人は大変「春眠暁を覚えず 処処に啼鳥を聞く」という詩で知っているんですけれども、その割にはなかなか知られていない詩人なんですが。この詩人はどこが違うかというとですね、舟の上で詩をたくさん作っているということなんです。つまり舟の上で詩を作った人も少なくないんですけれども、この人は舟の中で周りの景色をまるでビデオか映画で撮るように撮っているという、そういう特色がある詩人であります。ほぼ李白や王維と同じ時期を生きた詩人でありました。
「建徳江に宿る」にという詩であります。 
「舟を移して 煙渚に泊す 日暮 客愁新たなり 野は曠くして 天 樹より低し 江は清くして 月 人に近し」
これは今までかなり間違って読まれてまして、この低いというのを垂れるという動詞で読むという読み方もあるので、「天、樹に垂れる」と読まれておりましたけれども、これは多分そうではなくて、こう読むのが正しいだろうと思いますけれども、これは先ほどこちらの整備局の方が色々資料をくださって、それを見ていた時に、川の断面図というのがありましたですね。それを思い浮かべていただくといいんですが、この作者は舟に浮かんでいます。ですから両側は高い両岸になります。その上に木々がある。自分は一番下の水面にいるという感じでして、水面から空を見ているという感じだとよく分かると思うんですが、従って建徳江に宿った孟浩然は靄霞む渚に停泊します。日が暮れて旅愁がますます募ると。天樹より低しというのはどういうことかというと、空が樹より低いはずないだろうと言うんですけれども、今申しましたけれど、水面にいます詩人からは、天は樹よりも低く見える。つまり天というのは天上だけを意味しません。天から地上までの空間ですね、それが自分の身近に感じられる。江は清くして月人に近しというのは水面に映った月は、天上にある月よりもはるかに近くに感じられる。そういうシーンで、非常に川に浮かぶ詩人のたゆたう感じと、あてどもなくさまようと言いましょうか、旅愁というものが、わずか五言絶句の中に巧みに詠じられているように思います。
あと、5頁は時間の関係でいちいち読みませんけれども、同じように旅の夜に舟を停めて感慨を詠じた詩であります。このIは「旅夜書懐」旅の夜の思いを書すというところの作品ですけれども、これもやはり水面に浮かぶ、川に浮かぶ詩人の感慨。しかもあてどもなく彷徨う自分はどんなもんだろうかな、さもそれは天地の間にさすらう一羽のカモメであるというふうに言っているところが非常に印象的でありますし、川に浮かぶたゆたう感じと、人間というものは川に浮かんで流れていくようなものであると感慨がこれには出ていると思います。
J、Kについてはいずれも、まああるいは送別詩として言っていいかもしれませんし、一応舟行の詩に収めましたけれども、詩人たちはこのように舟に乗って旅をしていくという思いを詠じております。
中国文学は先ほど申しましたように川は大変豊富です。一方海についてなにか詩、文章、小説、曲の類はなかなかありませんけれども、非常に少のうございまして、それも具体性を欠くようなものであります。近世になりますと川と海というものはかなり出て来て、海に対しても外国との接触が増えてきたということもあって認識が外に向くんですけれども、特に古代から中世、近世の初期にかけては文明自体が内に完結するという中国という地がですね。ですから地理的にも中国というのは「中つ国」「中の国」という、自分たちが真ん中にいるという意識が強うございまして、周辺の国については注意が薄いということです。ですから川も二大河川だけではなくてたくさんあるんですけれども、そういうものが二つの大きな本流として支えられ、海が周りを取り囲んでいるというのが大きな認識であったと考えています。
その間の動脈になったのが、生活の動脈でもあり文明の動脈でもあったのが恐らく河川だろうと。河川は絶えず動くもの、山は不動のものという意識も今日でも変わらないと思います。
以上雑駁ですけれども、中国文学とりわけ唐詩に見える河川と人ということが話題提供させていただきました。
どうも大変ありがとうございました。久しぶりに漢詩のお話を聞きました。いいものですね、漢詩は。いかがでございましょうか、ご意見・ご質問。あの、詩は日本では山紫水明「山は紫にして水清し」その4文字をよく使いますが、中国語ではあまり山紫水明・・・あれは日本製の熟語ですか。
山紫水明自体はありますけれども、中国にはありますけれどもそれを日本のように多用するということは無いと思うんですね。例えば自然の美しさを詠じたものですと、花鳥風月という言葉がございますし、清風朗月、清らかな風に明るく澄み通って、そういう言葉です。
我々はそういう言葉を書いて日本の風土を中国人とは違うイメージで持っているんです。
それもありますし、輸入というんでしょうかね。例えば瀟湘八景に対する八景ものは中国が始まりで、日本にそれを置き換えたといいましょうか。
日本の漢詩ですと中国風なのをそのまま読むようなのは、唐詩くらいなんですかね。
両極端だと思うんですね。古代は文字も文物もそのまま輸入して、例えば懐風藻ですとか、勅撰漢詩集というのはかなり向こうの六朝時代のものをそのまま取ってきますね。それが自分達で熟成、いわゆる国風文化を創り出すと、独自のものとして。それがまた近世になりますと非常に近くなってまいりまして、例えば江戸の詩壇は明清の影響を強く受けている。ですから真ん中が独自のもので、だから逆にわかりにくいという、室町期の五山の禅僧、禅だから難しいというのはあるかもしれませんけれども、独自のものがあって、中国とはまた違う独自性が・・・。
あの先刻のお話の瀟湘八景は日本に入って来て、色々絵に描かれ詩に読まれたあげく、近江八景になったりする。するとこの長江・黄河、日本人はどこに見立てます?
瀟湘の方は長江の支流の洞庭湖から瀟江になりますね。それであれは洞庭湖南という言葉がありまして、洞庭湖とその南の方ですね。それから湘水、瀟江ということで湘南という言葉も日本には入って参りましたけれども、もともと瀟湘八景が出ますのは宋以降なんです。私が専門にしているのが唐なので、それより前なんですけれども、その美意識は唐の中期以降に少しずつ出だしまして、瀟湘八景も以前ご紹介したことがあるんですけれども、非常に明確な輪郭でない、例えば幽谷ですとか、雨ですとか、靄ですとか、その輪郭が少しぼやけているというのを好むという時代は中国・・・。
瀟湘やこうてんぼせつ江天暮雪。
そうですね。それからえんじばんしょう煙寺晩鐘ですね。ですからそういう昼間のですね、風景画ですとはっきり輪郭が見えるというよりはどちらかというとぼやーっとした。
だから宋代の墨絵に似合ったんですね。
そうですね。その考証に合致している。それがある程度日本人の好みにも合ったのではないか。それが恐らく盛唐から中晩唐にかけての美意識の変化だというのが私の考えなんですけれど。
だから、その瀟湘八景を日本では紆余曲折の挙げ句、近江八景に見立てたですね。そうすると長江を日本の漢詩人はどこに見立てようとしていましたか。あるいは黄河、苦労したんじゃないかな。ちょっとね、長江・黄河に見立てられる川、いくら河川局が立派でもないですよ。
瀬戸内海が一番近いですよ。
淀川・・・。
瀬戸内海もそんな感じです。
江戸時代になると一生懸命隅田川を・・・ところが明治になると隅田川はテムズ川、あるいはセーヌ川に見立て変えられると。色々漢語はたくさん借りてきているけど、実際の風景。こういう李白や杜甫や孟浩然を読んでいても、日本の詩人たちは困ったんじゃないかな。今の最後の李白の「孤帆の遠影 碧空に尽き 唯だ見る長江の天際に流るるを」。これはどうしたって日本には無いですよね。困っちゃいます。そこでやっぱり海に見立てなきゃならんと。
古代だったらそうでしょう。江戸時代になるともう渡れませんからね。大陸には。だから最後のところはもうどうしようもないんでしょうね。
いや、でもそのイメージは関与しているわけですからね。それを日本人はとにかく見立てなきゃいけない。日本列島の中で。それで苦労してたんでしょう。吉野川はあれですね。昔桃花源の川に、漁師が遡っていく川に見立てたりしましたよね。吉野川の奥に桃源がある、と。 あんまり地元の川は・・・ 出てこないですね。長江と黄河ばっかりですね。
そうですね。支流でも江と呼んだり、河と呼んだりしてしまいますので、出てこなくはないんですけど。それでもかなり大きな川が多いですね。
あんまり千曲川程度の川は滅多にない。よっぽど四川省か雲南省の奥にいかなきゃこんな川見られないでしょう。中国ではね。これが川かと思うような川が、湖かと思うような川が流れているんですからね。
私も最初長江に舟で浮かんだ時もやっぱり、河口が広いんですね。海と思って。上流に行くともちろん断崖絶壁、手を伸ばせば届くようなところに行くわけですけれども、それでも流れていくというよりは、湧いてくるといいましょうかね、水流がですね。そういう感じがしました。
水が多いわけですか。
多いですね。
一つ質問してよろしいですか。今お聞きしますとこういう詩はないんでしょうか。洪水の歴史でもあったと思うんですが、その洪水・氾濫を歌う。私共越後、信濃川の文献ということを考えると、その中のひとつに良寛さんの水害を憂える詩があるんですけれども、それはまさに氾濫する川を歌った詩でございまして、そういうことでいつからなんでしょうか、川との戦い、水との戦いということ、戦いということで言い出したのは、あるいは近代土木技術の歴史から始まるのか、川と・・・青山氏という方の例えば萬象にですね、天意を悟る者は幸いなり、こういう言葉の意味が、いつも私共の資料館に来る方から問いかけられて、考えるんですが、青山士は川と戦う、水と戦うという言葉をあまり語っていないような気がするんです。
青山士って誰ですか?
信濃川、大河津分水補修工事の責任者で、ただ一人アメリカのパナマの設計に参加しましてね。明治・大正・昭和にかけての近代土木技術者を代表する人でもあるんですけれども、そういうことで、中国の、あるいはこれまでの千曲川の旅情の詩など聞くとそうなんですが、これはこの後のお話にも聞きたいんですが、氾濫し、川が暴れ、仇するそういうものをですね、文芸で描かれているものがあったらお聞かせいただきたい。川と人を考える時に、災害と戦うというものと、共にそこに過ごそうとする発想等あると思うんですけれども、そういうものが文芸の中でどうかなということでお聞かせいただきたい。
大変難しいご質問だと思うんですけれども、お答えになるかどうか分かりませんけれども、中国の理想的な天子に禹というのが、堯・舜・禹・湯というふうに聖天子が続くんですけれども、堯帝・舜帝・禹帝、その禹帝の禹というのはちょっと難しい字書くんですけれども。治水の神様と言われていまして、中国はご承知の通り洪水・・・洪水伝説というのは中国の始祖伝説、族祖伝説でして、人間がどう出来たかというと洪水で瓢箪が浮いてきて、その瓢箪の中から人間が出てきたというような神話伝説がございます。それくらい洪水が多くて、私が初めて行った時も、今言った旅でもう30年以上前ですけれども、その時は重慶に行った時は、その2週間前に大洪水がありまして、水位が21メーターあったということです。ということは、重慶はご存知の通り神戸とか横浜に似て、丘・山が多うございまして、その上に町があるわけですけれども、嘉陵江と長江が合流するところで大変美しい、今日見させていただいた千曲川のように風光明媚なところなんですけれども、それが水位がここまで来たというところをペンキで書いてあるんです。7月21日。
考えもつかないです。もうそれはですね、山が半分というか7分目くらい隠れちゃうような水位。ですから昔からそういう洪水があったということは間違いないんです。それが頻繁にあったことも長江の水流の地形が氾濫のたびに変わっていますのでそれは間違いないんですが、詩人たちはそれを詠んだかというと、実は水は弱くて・・・、老子のなかにこんな言葉がありますけれども、「水を制するものは無い」と。つまり水はちょろちょろで少なければ非常に脆弱なんだけれども、それが集まるとそれを制することが出来ないという言葉が老子にありまして、それは恐らく中国人の認識の反映だと思うんですね。
つまり戦うという意識が恐らく、いつ頃出てきたか私にもはっきり申せませんけれども、今先生仰ったように非常に新しい発想で、むしろそれに従って、天の定めに従って、むしろそれに順応して上手くやっていくかという考えが当時の人々には先に出てきたんですね。神話伝説にはもちろん治水という言葉があって、水を治めてうまくやっていくという言葉はあるんです。それはあくまで戦うんではなくて、水の力を利用して、それをどう人間の世界に活かしていくかということであろうかと思うんですね。
氾濫を歌った詩がないかというと、無くはないんですけれども、今日大洪水のお話を伺いましたけれども、その時に何人もの多くの方が亡くなったという、そういう記録を杜甫は残しておりますけれども、その時は自分の家が水びたしになって、大変苦労したと。お客さんが来るにもこれないし、食べる物もなくなったという生活苦の方から歌いまして、それから戦うという姿勢はあまり認められないように思えます。ですから恐らく戦うという意識は、人間が天人相関説と中国では言いますけれど、天の命を受けて人間は生きている。それを人間が自立できる時代、その時が恐らく戦うという意識の出始めではないかと思うんですけれども。
その天人相関説が克服されるのはやはり宋代以降になるかと思います。従って12〜13世紀以降。あるいはその戦う詩が出てくるかもしれませんですけれども、ちょっと不勉強でそこは・・・。
ちなみにですね、良寛はその水害を詠む詩の中で、禹を出しているんですね。治水上の皇帝。そして禹のように何故今政治をしている人たちが、この民の苦しみを抑えてくれないのだろうか。禹は四載と言って四つの乗り物に乗って水を治めた。そのことが出来ないんだろうか。こう言っているんですね。大河津分水を歌った大谷句佛。これは西本願寺の法主ですけれども、この方は「禹に勝る業や心の花盛り」と大河津分水の分水の治水の偉業をですね、「禹に勝る業や心の美しさ」、その心の美しさをたたえて、今私共の公園に大きな句碑が建っています。ちなみにですが。
 
島崎藤村と千曲川

資料6のところへ話題提供させていただきます。ごく簡単に説明させていただきます。 「千曲川のスケッチ」について、「千曲川の旅情の歌」について、それから「藤村と川」、この3つの点について若干お話させていただきたいと思います。今の中国の壮大・雄大な川に比べまして日本の川は非常に幅も狭いし、急流ということで形が違うかと思うんですが、千曲川は日常生活に非常に密接に繋がっている、ということになるんだと思います。千曲川は全長213.5Kmと東北信の4,650平方Kmを流域としています。甲武信ヶ岳を源としまして、それから上田盆地、長野盆地、飯山盆地というふうに形成をしているわけでございます。昔から、今も非常に人々の生活と密接に繋がっているということでございます。 さきほどお話にありましたが、9月1日には千曲市というのが誕生しまして、ここも千曲市でございます。それから学校の校歌に千曲川を歌っている学校も相当数ありまして、県立歴史館の市川先生の資料によりますと、小学校で84校、それから中学校で43校、高校で31校、合わせまして158校で千曲川を校歌に入れております。
例えば大体この辺ですか。
そうですね。東北信の学校総数の約半数以上が。
信濃川に入るところで、千曲川も信濃川に入るんですか。
あの、新潟県に入って信濃川となります。
新潟県に入るあたり。
そうですね。長野県の学校ですが、このように非常に人々の生活と深く関わっているという次第です。それから島崎藤村と千曲川ということになりますと、「千曲川旅情の歌」それから「千曲川のスケッチ」というものが代表だと思います。 まずその「千曲川のスケッチ」でありますが、資料の中に「千曲川のスケッチ」が入っていると思いますが、それをお出しいただいて、それをご覧いただきながらお願いします。
僕は自分の文庫から持ってきたら、昭和22年ですね。4月29日。昭和22年だから,1947年ですか。
「千曲川スケッチ」は、小諸時代を記念する作品でございます。表題が示します通り、藤村が足かけ7年、小諸で生活をして、この浅間山麓の小さな町を中心にしまして、それから川上の方へ、あるいは川下の方へ旅した時の見聞を交え、すべてこの千曲川沿いの自然と人々をスケッチしているということであります。ご承知のように藤村は明治32年に木村熊二の招きによって小諸へ来るわけでございますが、その来る理由は2つあったようですね。一つは、記念館でも、ちょっとお話しましたけれども、木村熊二に大変世話になっているということですね。数え年10歳で東京へ出て勉強をするわけでありますが、共立学校の時に木村熊二から英語を教わったり、あるいは木村熊二は牧師であります、明治学院で洗礼を受けたりします。あるいは一時期木村熊二の家から学校へ通ったというようなこと。そういうようなことで大変世話になっているということがひとつですが、もうひとつ、この方が本当は大きいんではないかと言われております。それは「千曲川のスケッチ」の序のところに書いてありますが、線の@に書いてありますけれども、「もっと自分を新鮮に簡素にすることはないか。これは私が都会の空気から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった」とありますが、新しい自分を開拓しようという気持ちが強く働いていたようであります。
藤村は小諸に来まして結婚をするわけであります。明治女学校を出ました函館の網問屋秦冬子さんと言う人ですけれども、結婚するわけであります。そして馬場裏に新居を構えるわけです。そして小さな畑を借りまして、初めて鍬を持って畑を耕すということもするわけです。ここにも藤村の並々ならぬ決意を感じるわけであります。
藤村は小諸へ来る時に、イギリスの評論家ジョン・ラスキンの「近世画家論」というのを携えて来ております。このことからも既に藤村は詩にはある程度限界を感じていたんではないか。詩から散文へという思いが働いていたようであります。そしてラスキンの芸術観とか自然観とか批評精神とか、そういうものに強く影響を与えられたようです。そしてこのラスキンに学びまして、雲の観察なんかを書くわけでありまして、「落梅集」にもそれを載せております。
もうひとつ自然主義文学の主張にも刺激されて、事物を正しく見ようと、そういう気持ちが強く働いていたわけでございます。明治学院時代に二葉亭四迷の「あいびき」などを読んでおりまして、これは訳文でありますけれども、その新鮮な自然描写に非常に強く感銘と言いますか、文体に感銘をしていったというようなことが書いてあります。
それから小諸義塾の同僚に三宅克巳という図画教師がおったわけでありますが、その写生画に心を惹かれまして、三宅に頼んで三脚まで買って、日課のようにしてそれを、小諸の自然と風俗などをスケッチした、観察記録したと、忠実にということですね。藤村はこれを「スタディ」という言葉を使っております。それから千曲川のスケッチの奥書に書いてあります。
「自分の第四詩集、というのは落梅集のことでありますけれども、その時には私はもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心はかなり激しかったので、その為に私は3年近くも心静かに黙して暮らすようになった。いつ始めることもなくこんなスケッチを始め、これをていねいに書き続けることを自分の日課のようにした」とここにはあります。
しかし、この黙していた間にヨーロッパ文学を一生懸命むさぼり読むわけであります。トルストイ、ツルゲーネフ、モーパッサン、ドフトエフスキーとか、そういうものをたくさん読むわけであります。ツルゲーネフの「猟人日記」は英訳した「スポーツマンスケッチ」という訳本でも読んでいるわけであります。これが小諸における自然と人間の観察に活かされて、「千曲川のスケッチ」を産むことになったと言われております。
この「千曲川のスケッチ」を書き始めたのは明治33年頃から37年にかけてであります。しかし発表したのは大正元年であります。これは何故発表しなかったといいますと、藤村は発表するつもりがなかったと、そのことも書いてございます。
最初のところにありますが「このスケッチは長いこと発表しないでおいたものであった。またこの他にも私があの山の上で作ったスケッチは少なくなかったが、ひとに示すべきものでもなかったので、その中から年若い人たちの読み物に適しそうなもののみを選んで、更にそれを書き改めたりして、西村渚山の編集をしておりました博文館の雑誌、「中学世界」に毎月連載したと。「千曲川のスケッチ」と題したのもその時であった。と、このように書いてあります。
このことからも分かりますように、小諸で書いたものそのものではなくて、改めて書き直したというようであります。小諸で書いたそのものは無くなってしまったわけであります。だから比べることはできませんけれども、書き直したということは目次からも分かりますように、その1、その2というかたちで12の章に分けられて書いてあります。
そしてそれらが季節の変化によって分けられております。目次の後ろのところに表にしてありますように、その1は春、その2は初夏、その3その4は夏というように、季節ごとに分けて1年間の様子が分かるように組み立てられているわけです。と同時に千曲川流域に沿って組み立てられているということにも注目していいかと思います。その1が小諸から田中、その2からその5までが小諸及びその近辺、その6が千曲川の上流、その7その8が小諸及びその近辺、その次が上田、長野方面です。その10が水内、飯山方面、その11、12が小諸というように、千曲川のその流域に沿ってまとめて書いてあります。これは小諸で書いた原スケッチにはそういうことにはなってなかったと思うわけです。明らかにこれは意図的に構成されたものであることが分かります。
それから始めのところにも書いてありますが、これは樹くんに宛てると書いてありますね。これは吉村樹。これは藤村が樹のお父さん、忠道さんに東京に行った時に世話になったわけでありますが、樹というのは藤村の春樹の樹の一字ですね。貰ってつけているほどですが、非常に仲がよい。お兄ちゃんお兄ちゃんと樹くんは呼んでいたようですし、藤村はしげ樹ちゃんと呼んでいたと言われております。そういうことであります。
もうひとつ「千曲川のスケッチ」には1年間の中に、巧みにその自然、風物、年中行事というものを配置しまして、読者を小諸付近、あるいは浅間であるとか、あるいは川上に遡った、あるいは川下に下った。千曲川沿岸の様々なものに目を向けさせてくれます。藤村の筆は郷土のあらゆる事象を驚くばかり確実に、また巧みに表現して見せてくれます。ある人が調べたところによりますと、このスケッチの中に表れている人物とか、地名とか動植物とか、それを見ますと人物は444名、職業は63種類、地名が158、動物が30種類、植物は180種類というふうに数えている人がいます。その他方言なども巧みに会話の中に取り入れております。55言というように。
「ごわす」「よくしみやすなあ」とか、地方のことばも使ったり書いたりしています。いかに藤村が広く深く観察しているかということがうかがい知れると思います。
資料の2枚目に千曲川の流れの様子が書かれている場所もたくさんあるわけでありますが、4ヶ所ぐらい挙げておきました。A〜Dでありますが。A目次その4の「中棚」からのものであります。ちょっと最初のところを読んでみますと「暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れてここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う」と。隅田川との流れの早さの違いのようなことを書いております。
それからBはその6「甲州街道」からの部分です。秋の修学旅行で千曲川の上流を指して出かけたところを書いているんですが、川上の方から押し流されてきた大きな石が見られる。馬流付近の様子ですね。今も大きな石や岩が出ております。それからこの文章に続いて木々のことが書かれています。白楊、芦、楓、漆、蒲、楢などの類が私たちの歩いている川岸に生い茂ってきたというのが続いて書かれております。これは植物のことですね。
それからCはその10の「千曲川に沿うて」の最初のところです。真ん中にちょっと傍線をしておきましたけれども、「暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽しみとした」とあります。この一文を見ても、いかに藤村が千曲川とそこに生活している人々の姿とか、生活に関わる生き物、植物、気候などに深く関心を持って見たり、聞いたり、またそれを正確に記録していたかが分かるわけです。
Dの「川船」にもよく表れています。最初のところを読んでみます。「降ったり止んだりした雪は、やがて霙に変わってきた。あのしとしとと降りそそぐ音を聞きながら、私たちは飯山行の便船が出るのを待っていた。男は真綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の真綿を亀の甲のように背中に負って家の内でも手拭を冠る。それがこの辺で眼につく風俗だ」
それから終わりのところですが「暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。上流の方には高い吊橋が多いが、ここへ来ると船橋も見られる」
手拭いのことでは、この先の10のところに「愛のしるし」というのがありますが、そこでもこんなことが書いてあります。「飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこのあたり近在の女は皆手拭を大事にして、落としておくことを嫌う。それは縁起が良いとか悪いとかいう類の話に近い。でも優しい風俗だ」と、あります。
まあ時間がありませんからほんの一例を挙げただけですけれども、藤村はこのように自然、風物、風俗などを巧みに取り入れているということが分かる情景です。
それから先ほどの奥書のところに戻りますと、こうも言っています。「実際、私が小諸に行って飢え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、白雪も残った遠い山々、浅間、牙歯のような山続き。すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の目に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。なんとなく内部に別のものがはじまったような気がしました」と、書いてあります。これは従来の浪漫的傾向ですかね、若菜集の頃のものと変わってきて、現実的方向を取ろうとする藤村の気持ち。厳しい寒さの中で家庭を思って生活をしているその厳しさということと、もう一つは詩を捨てて小説に転ずると言いますかね。散文の方へ移行しようと、こういうことを意図しているものだと思います。
作品でこう描かれた事象は、単純な自然描写だけではなくて、その背景として地方の生活者の実態とか、そういうものも浮き彫りにしようとしたというところにも特色があったと思います。
このような姿勢は藤村自身も言っております。その中に書いております。「ある意味から言えば自分の散文はこのスケッチから出発したと言ってもいいのである」。このように語っております。
そして終わりのところに、「とうとう私は7年もを山の上で暮らした。その間には小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田國男君を馬場裏の家に迎えた日の事も忘れがたい。私はよく小諸義塾の鮫島理学士や、水彩画の丸山晩霞君と連れだって、学校の生徒等と共に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出かけた。このスケッチは色々な意味で思い出の多い小諸生活の形見である」と結んでいます。
この岩波文庫の解説を井出孫六さんが、昨日も井出孫六さんのお話を聞いたんですけれども、こんなふうに書いてあります。「千曲川のスケッチ」は国木田独歩の「武蔵野」が依然文語体の枠組みから脱しきれないのに比べ、藤村はほぼ完全に近代口語体の基礎工事は終えている、と言っている。裏を返して言えば、日本語が日常の言葉で描写が可能になってたかだか100年に過ぎないとも言えるのだが、その意味で、千曲川のスケッチは文学革命だったと言うことも出来る。昨日もそういうことを、「言葉の革命だった」ということをお話しておられました。
このように藤村にとって「千曲川のスケッチ」は詩から散文に、また小説に移行するための重要な作品であるばかりではなくて、文語体から口語体に変革したという意味でも重要な作品であるということになるかと思います。
次に簡単に「千曲川旅情の歌」に触れますけれども、もうひとつ忘れてはならないのが「千曲川旅情の歌」であります。この方が一般には良く知られているわけでありまして、これによって小諸が全国に知られたということにもなりますが、現在「千曲川旅情の歌」というのは1、2となっておりますけれども、1は明治33年4月に雑誌「明星」に「旅情」という題で発表されたものです。これは記念館にありましたから見ていただいたと思いますが、それは34年の落梅集では「小諸なる古城のほとり」と改題しております。それから昭和2年に岩波文庫の藤村詩抄で「千曲川旅情の歌 1」として収録されております。2の「昨日またかくてありけり」は、やはりこれも同じ明治33年4月に雑誌「文界」というところに「一小吟」という題名で発表されたものであります。そして「落梅集」では「千曲川旅情の歌」と改められました。そして藤村詩抄で「千曲川旅情の歌 2」として収録されております。このように藤村というのは何回も題を変えたり直したりということをする人でありました。
これは私からくどくど申し上げる必要もありませんので、ごく簡単に申し上げますと、藤村は人生を旅と考えておったようでありまして、自分も旅人であるというふうにこの詩を書いたようであります。旅人が旅情に浸って懐古の思いに耽りつつ、濁り酒を飲んで慰めようという。山国の侘びしさ、旅愁の念を抱いて、旅の重さをしみじみと歌った叙情詩であります。
これは「若菜集」などでは七五調でした。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき」の、それがこの「千曲川旅情の歌」では「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」と、五七調になって調べが重厚な感じになってきていますし、コモロ小諸なる コジョウ古城のほとり クモ雲白く KKKですね。非常に覚えやすいし、親しみやすい巧みな表現になっております。
藤村は西行や芭蕉も勉強しておりますし、その影響もあったでしょうが、漂泊者のモノローグというものを感じます。もう一方では叙情的な雰囲気でありながら、また小諸の自然を人間の生活と社会、歴史、それを捉えつつ、小諸の自然を歌っているようにも思えます。特に「昨日またかくてありけり」は、人間の日常の生活の中に歴史を見、また人の世の変化する様々を捉えています。藤村は時の流れの中で変わりゆくものと、変わらずにあるものとを見ています。千曲川とその自然は人間の変転する様相をただ見守っているのです。藤村はその自然との対比によって人間のはかなさと、しかし生きていかなければならない人間の宿命を感じているのではないか。藤村はこの「落梅集」を最後に詩ときっぱりと決別するわけです。以後一切書いておりません。
最後に「藤村と川について」まとめてみますと、藤村は川というものに非常に親しみを持っていたようであります。信州に海はありません。ですから私共は海に憧れます。藤村も木曽の山の中に生まれておりますし、海に憧れを持っていたわけです。ですから川というものは海を目指すものでありますから、非常に親しみをもって、憧れを持って、海に通ずるということで非常に関心もあったし、親しみを持っていたのではないか。幼児期を過ごした馬籠では、木曽福島に入りますと木曽川の清流がありましたし、それから数え年10歳で東京へ出るわけですけれども、その少年時代というものは隅田川の流れに親しんでいますし、関西漂白の旅でも様々な川に接し、明治29年仙台に赴任した時には広瀬川の岸辺に住んでいます。そして明治31年には利根川に接します。今までにない大河の趣をそこで感じています。「夏草」の中に「利根川のほとりに」というのがありますが、その中でこんなふうに書いています。「利根川は淡々として平野の間を流れる大河なれば、木曽川の奇もなく天竜川の壮もなけれど、水静かにして旅人の心をひくこととし、例えば木曽川は草、天竜川が行にして、利根川は楷」書体の楷、行、草というふうになぞらえて表現しております。そうしていよいよ明治32年に信州小諸に赴任して千曲川に接するわけであります。
「藤村文学における河畔的性格」、川の持つ意味ですけれども、そのことにつきまして藤村研究の第一人者であります東洋大学の名誉教授 伊東一夫先生はこんなふうに言っております。「木曽川は故郷の風土として森林と共に不可欠の要素であるが、なお仙台の広瀬川、佐久の千曲川、東京の隅田川、それから旅行へ色々行ったところがありますが、関係のある碓氷川とか湯河原の藤木川とか、川越の入間川とか、フランスのセーヌ川、色々あるんですけれども、そういう川は藤村の文芸の形成にとって、川の持つ役割は注目されなければならない」と、こんなふうに言っております。「一つは流動性、そこから生まれてくるものは無常観と詠嘆性、あわれが導き出されると言っております。それから現実性と、そこから導き出されるものは現実変革の近代精神であり、現実諦観の精神である。そして次は展開性である。これはいつも時代と歩調を合わせて進むことができる傾向であって、新しい状況に応じうる可能性である」と言っています。
要するに川というものは藤村にとって文芸の形成に重要な働きをもたらしていると言うことができると思います。特に千曲川は「千曲川のスケッチ」はもちろんのこと、小諸でいくつかの短編小説を書くわけですけれども、「藁草履」とか「老嬢」とか「水彩画家」とか。いずれも千曲河畔の物語であります。「破戒」もですね、場面の多くが千曲川を中心として展開しております。この「破戒」には千曲川流域の図というのをわざわざ挿入して入れてあります。それほどかように藤村と川、特に千曲川は切っても切れない深い関わりを持っていると言えるかと思います。以上雑駁ですけれども、藤村と千曲川についてお話をさせていただきました。終わります。
今、川が作品として大変重要な役割だったということを、具体的な川ですか、千曲川の風貌と、木曽川という風貌みたいなものを書いているようなお話だったですね。先ほど隅田川はというお話がありましたが、比較をするというような。
結局その、川の流れとか広さとか、そういうものを藤村は象徴してというか、それで表現したんだと思いますけどね。
他の川の紀行文の中でもなにか比較しながら表現したりしておりますか。
いや、一通り作品に全部当たってそういう検討をしておりませんけれども、色々なところで引用と言いますか、川の風景というものは出しておりますよね。
千曲川から始まるとやっぱり流れの速さとか、水のエネルギッシュなとか非常に印象的なんですよね。そういうところから見ると、ちょっと隅田川はかわいそうですよね。ある面ではちょっと表現が出来にくい。同じように木曽というのは場所によっては非常にエネルギッシュで。意外に木曽川と千曲川というのは区別しにくいというのはあると思うんですよね。
特に上流の方はそうかと思います。オランダから来た河川の専門技師が千曲川を見て「日本の川は滝だ」と言ったそうですね。それほど激しく、狭くて、流れが激しいとか。中国のような大河とかね、非常にこう違うところがあると。
そういう千曲川みたいなですね、エネルギッシュな川でね、非常に厳しい自然の中にある川というのは、文学と言いますか、取り上げやすいんですか。どうなんでしょうか。文学としてね、こういうところが取り上げやすい。というのも、隅田川もけっこう色んな文学取り上げていてね。それは違う作風と読むんですか。それとも物が与えた違いなんですかね。例えば文学と川というような感じで見ると。
いつから詩歌を詠むような人間の生活のなかに、どのような人間がその川の周辺に住み着いたかによるんでしょうね。千曲川については藤村以前に、そんなにたくさん詩歌はないんじゃないですか。千曲川について。
そうですね。
千曲川の詩歌というと藤村のこれしか我々は思い浮かばない。隅田川も淀川も最上川もたくさんある。揚子江・黄河だったら限りもないと。千曲川は・・・。
藤村だからということなんですかね。
すいません、ちょっと。面白かったですけど、最初に千曲川のスケッチというかたちで、藤村が小説の勉強をしたようなかたちで、千曲川のスケッチというかたちで非常に面白いことと、それからこれ、年代がひとつも入ってないんですね。何年。何月というのはあるんですけれど、これはどういうことなんでしょうか。
あの、ひとつひとつ調べるとここのところが何月というのはあるんです。
時代を消してるんですよね。季節を表に出している。
だからこれは意図的に構成したものなんですよね。
これは本当のスケッチのスケッチはないんですよね。破棄しちゃったんですよね。どこかに残ってませんか。全集に・・・。
無いんです。
どんなかたちで書いていたかも誰も分からない?%義塾で一緒にいたような人たちは藤村が何かちょこちょこと書いていたのを見たことないんですかね。
書いてる姿を見た者はいても、そのものはないんです。
それを四季の流れの中で人生で照らし合わせながらというかたちですか?
でも我々は明治34年から38年まででしたっけ、32年から38年ね。その間の・・・。
書いている33年から37年ぐらいの間。
その辺のこのあたりの情景は非常に良くでている。いちいちこの中に何年と書いてなくても。毒消し女が薬を売りに来てとかね。昨日の日本経済新聞かな、今朝のかな、最近無くなってしまった俳句の季語というので「毒消し売り」というのがありました。夏の初めの頃でしたかね、毒消し売りは。この「小諸なる古城のほとり」では、今この辺では中学校の生徒は習いますか。
教科書からは消えちゃってるんですよね。小諸ではね、無くしてはいけないということで、暗誦しろというふうにもやっています。
これはもう、この地域の義務でしょう。
それから千曲川スケッチはね。学校で備えまして、読ませるようにしています。
作文の練習にね、お手本にね。これは歴史的に、民俗学的に研究した人というのはいませんか、「千曲川のスケッチ」は。
ちょっと私は分かりません。
そうですか。それは何かをやればいいのにな。人物が何人出る、動物が何匹出るとか。
どなたかね、名前を忘れましたがそういうふうに研究している人はいるんですね。
「千曲川のスケッチにおける民俗学的研究」、「千曲川の流域のこの地域の明治後期の風俗・民俗」、「河川利用の研究」と、これも千曲川のスケッチを通して見る。信州大学の学生の修士論文にピッタリだ。
島崎藤村が小諸義塾の英語教師として、小諸に来たのは明治32年でした。当時日本では、製糸・綿紡績を中心とした産業革命が進行し、また馬耕の普及によって農業革命が進展しています。さらに、鉄道と馬車を軸とした近代における交通革命が同時進行していた時代でした。
信越線が何年。
信越本線の全通が明治26年です。
全通って上野から長野まで?
上野から直江津まで。長野・上田まで開通したのが21年5月。さらに軽井沢まで開通したのが12月。それから碓氷峠の開削に時間かかりまして明治26年に直江津・上野の間が全通しました。
それにしても早いもんですね。
東海道の全通より早いんですよね。何故早いのかと言うと、中山道鉄道の資材運搬線として建設されました。直江津を起点としたので、最初は信越本線じゃなくて直江津線と呼んでいました。
そういうことも・・・この中に汽車は出てきますか。
藤村が、小諸から信越本線に乗って飯山に行ったのは明治37年。豊野駅で下車してそこから歩いて千曲川の蟹沢港まで行っております。
面白いじゃないですか。「千曲川のスケッチ」における明治末期の日清・日露の間の上田地域、小諸地域と。
明治末期は産業革命・農業革命によって、日本の経済社会が大きな変革を遂げた時代です。例えば明治29年にですね、綿花の輸入が自由化されました。日本における綿花は消滅してしまいます。綿花栽培に変わるものは何かというと、養蚕でした。
綿が無くなって絹に変わる。この地域でですか。それまでは綿だったんですか。
小諸あたりは高冷地のため綿花はできないんです。長野盆地においては、表作が綿花で、その裏作が菜種なんです。菜種の油を絞って、昔は燈油として江戸へ売ったわけですね。絞った油かすを肥料にして綿花を作っていました。
完全なリサイクルなんですね。この今の「小諸なる古城のほとり」は、今は何年生ぐらいに教えてるんですかね。小学校4〜5年ぐらいかな。
高学年ですね。教えているというか、正式なあれではありませんけどね。
文部省の教科書とか検定とは関係無しに?
関係なし。
国語の先生が配ればいいだけの話でしょう。どうってことない。ただみたいなもんです。紙一枚でこれだけの時間が流れるから。国語の先生はちゃんとやってるでしょうね。 そういうところが非常に心配なんです。どこの地域に行っても、良いものがありながら国語の先生はただ教科書の解説書を読んでいる。国語の教科書はやらないで、やったことにして他のことをやりゃいいんですよ。どうして日教組はそういうことを言わないの。これなんかは非常に調子は良いんだから、意味なんて分からなくたっていいから。我々だって初めは分からなかったね。「し藉くによしなし」なんて、なんだかなと。「はつかに青し」なんてのもね。
そうですよね。暗誦させるというのは大事ですよね。
これは歌になっていましたね。あれは誰の作曲ですかね。
弘田龍太郎です。
弘田龍太郎。今も歌いますか。
小諸ではね。藤村記念館で毎年藤村忌というのを8月22日にやっています。その時には市内の小中学校の代表が一校ずつ出てきて歌を歌ったり、合唱団もいくつか呼びますので、そういう皆さんに「千曲川旅情の歌」を歌ってもらったり「椰子の実」を歌ってもらったりしているんですね。そういうところでは歌ってますね。
藤村以降はどうなんですか。千曲川を題材にした。
さっきの千曲川を題材にした小説というのは幾つか紹介されておりましたよね。
あんまりその、やらないですよね。中山道でこう来れば千曲川にぶつかるわけでしょう。昔から色んな人がここを通ったんですよね。浅間の煙なんてのは色々あって。
東北、北海道の日本海側の諸大名は奥州道中をあまり通行しません。中山道を通って、北国街道から出雲崎に出ました。それからは船で故国に帰りました。
日本海側の方ね。
中山道・北国街道を行く大名達は信濃追分宿に泊まります。そこで飯盛女から、追分節を教わるわけです。教わった追分節を元唄にして、越後追分、秋田追分、津軽追分、松前追分などをつくられました。北国街道というのは追分節の伝播する文化の道でもありました。また佐渡でとれた金・銀が春と秋に、北国街道・中山道経由で江戸へ送られていました。
千曲川の旅情の歌はさっきの漢詩の方の川に沿った色んな歌の種類で言いますと、どれにあたりますか。隠逸でもないし、舟行でもないしね。送辞でもないし、登高遠望でもないし。
述懐と言いましょうか。
はこべ繁縷なんて漢詩に出て来ますか。
辺塞詩。国境沿いの戦場を歌った詩に辺塞詩というのがあるんですけれど、そこに類似の言葉が出てくるのですけども。
やっぱりあれだな。本草学で使う漢字かもしれない。この「しろがねのふすま衾の岡辺」なんて暫く分からなかったな。
中山道はどこで千曲川を渡りますか。
信濃国佐久郡塩名田宿で、千曲川を渡りました。この塩名田の渡しは、昔の景観がよく残されています。
塩名田。そのあたりには宿はあるのですか?
ええ、塩名田は中山道六十九次の正式な宿場で、本陣が2軒、脇本陣・問屋が各々1軒、旅籠が7軒ありました。千曲川の対岸には、御馬寄という間宿がありました。
そこへ行くとかなりいろんなものが出てくる。あとはだから千曲川旅情の歌で、藤村で行って、あとぽんと行って軽井沢文学になっちゃう。ぽんと飛んで戸隠もちょっとありますね。津村信夫とかね、川端康成。川端康成は戸隠に来るのかな。「少女が少年のように美しい。少年が少女のように美しい」、うまいことを言うなと思って。
川端の場合は柏原駅から戸隠中社まで歩いてきています。その際、久山家の娘に案内してもらっています。
上山田温泉には文学者なんかは来なかったんですか。
田山花袋や、志賀直哉が戸倉温泉を訪れ、志賀は「豊年虫」などの作品を残しています。戸倉温泉を開業した坂井量之助という人は地元を代表する文化人でした。
それでは丁度、市川先生にお話を移して。では市川館長、お話を続けてお願いします。
先ほどから千曲川が話題になっておりますが。千曲川は、どういう特徴があるのかと言うと、千曲川の延長が214Kmという話がありましたが、千曲川を信越国境で仕切るのは明治29年の河川法以後ですね。それまでは十日町盆地を通過して、魚野川と合流するまでが千曲川でした。幕末の「北越雪譜」の著者である、鈴木牧之は、千隈河と書いています。そういうことで千曲川はかつて260Kmありました。他の日本の川とどう違うかといいますと、利根川流域は沼田盆地と関東平野という二つの平坦地しかない。木曽川では木曽谷と濃尾平野。結局二つしか平地が無いのです。ところが千曲川には佐久、上田、長野、飯山、十日町と五つ盆地があります。
色々と盆地を細かく数えているじゃないですか。
千曲川最上流の盆地が佐久盆地で地元では佐久平と呼んでいます。今日皆さんが降りられた佐久平駅というのは地形的には佐久盆地ではありません。あれよりもっと南の地域が千曲川沖積扇状地です。この盆地はどういう特徴があるかというと、秩父山地から千曲川が流れてきます。その川が持ってくる古生層を母岩とした土壌は日本で最高の土壌だと東大の農学部三井進午先生が言っておられます。
その辺の盆地の土になりますかね。
佐久盆地の野沢、中込、臼田などの地域です。そこで、ここでは「畝取り」という生産力の高い水田地帯です。一畝から一俵とれるので1反歩から10俵とれることになります。この高い生産力を基盤にして、長野県では一番多くの地主層が形成されたところです。地主層達が集まって作った銀行が十九銀行。この十九銀行が諏訪の片倉をはじめとする製糸業の金融を担当したわけです。このようにして日本最大の製糸業を支えたのが、佐久平の地主層でした。その一人が、神津猛で、島崎藤村のパトロンでした。
神津牧場というのは。
神津牧場とは明治20年に志賀村の豪農神津太郎が、群馬県の物見山の官有林約500町の払い下げを受けて、開設したジャージー種の酪農牧場です。ここで生産されたバターは、現在でも缶に入っています。市販されているバターはマーガリンが20%くらい入っています。だから紙の容器に入れても形は崩れませんね。神津牧場のバターはすぐ溶けてしまいます。だから缶に入っています。新宿の中村屋で神津バターを買って頂ければ味が分かります。佐久盆地は、米の生産力が非常に高かったので、豪農達は酒造業にも進出しました。
佐久平というのは大名領ですか。
岩村田藩、小諸藩・田野口藩の三つの藩がありました。 上田盆地はどういう特徴があるかというと、ほとんどが段丘面です。その段丘面は塩沢平と、染ヶ丘の段丘に分かれています。ここは全面的に条里制遺構水田です。条里制遺構ということは大和朝廷の指示に基づいて1反歩、当時は360坪ですが、区画整理をしています。古代の8世紀から10世紀にかけて行なった土木事業ですね。信州で条里制が一番発展したのは国府が置かれた上田です。早くから稲作の文化が開けたからです。 中世になっても塩田北条氏が信濃国の守護になり、塩田平に根拠を置いています。塩田平では鎌倉時代から水田で米麦二毛作が始まります。信州で最初に始まったのが上田です。農業生産力が非常に高かったことが上田が古代に中心性があったと考えられます。 長野盆地ですが、長野盆地は屋代のあたりから、千曲川が急に緩やかになります。河川勾配が900〜1,000分の1になります。蛇行すると。地形的に自然堤防や後背低地をつくります。生産力が高いのは、土地が肥えているからです。この肥えた耕地が水害によって削られてしまう。これを川欠けと言います。逆に起返りといって、今まで河床だったところが耕地にされます。 川欠けと起返しは常にありますから個人が持っていると非常に危険です。そこで集落ごとに部落共有地にして割替えするわけです。持ち分によって、あるいは平等に割る場合もありますが。日本で一番地割慣行地が多かったのは、信濃川水系と木曽川水系です。越後平野では昭和43年にこの制度が無くなりました。今でも残っているのは長野と飯山の両盆地です。 多くの大学でも地割慣行地を調べるには長野盆地の千曲川沿岸でやって参ります。農学部のみではなく、川島武宣先生のように法社会学の先生も調査研究にみえています。
いわばこっちのローテーションですか。
ローテーションではなく、川欠けで共有地が減っても残った土地を分割して使っています。一種の保険制度で危険を分散しています。千曲工事事務所が管理しているような国有地まで一部が地割慣行地になっています。かつて長野盆地の千曲川の沖積地では、主として、綿花や菜種を作っていました。菜の花畑を黄金島といっておりました。菜種から、油をしぼって江戸へ送っていました。上信国境の鳥居峠を油峠といっていました。種油を運んだ大笹街道は油街道、オイルロードでした。
長野地域あたりでは菜種はいつ頃から始めました。江戸後期。油。
江戸中期からです。そして綿花の栽培も同時代からでした。
先程おっしゃった二毛作で。
面白いことに千曲川はエジプトナイル川と同じでですね、耕地が水害で流れてしまうと土地を測量してから分割しなければなりません。そこでエジプトでは土地を測る幾何学が発達しました。千曲川沿岸では和算研究が農地の再分割のため盛んでした。長野市の眞島と牛島の境界は善光寺の本堂と、保基谷山を結んだ線が基線にされています。千曲川の沖積土壌は深い所で200〜300mあります。長野盆地は非常に土地が肥えています。そこで昔は綿や菜種を作っていましたが、今は長芋やリンゴ、桃などを作っています。日本のナスには長ナスと丸ナスがありますね。信濃川水系では越後平野に丸ナスが多いのですが。長野盆地でも長ナスが多く作られています。小布施茄子、川中島茄子は東京でも知られています。
茄子というと案外、土地土地の特徴がありますね。
庄内平野には民田茄子という小さな丸ナスが作られていますが、漬け物としては最高のナスですね。
あれはもう天下の傑作ですよね。あれに匹敵するものはこっちにありますか。
信州には民田ナスに相当する小さなナスはないです。京都のもぎ茄子は民田ナスと同じですが。このような伝統作物は千曲川が氾濫する常襲水害地にいくつかあります。
氾濫することで土地が豊かになると。
洪水は天然の客土なのです。上流から土を持ってきて客土するので、丸ナスを連作しても忌地になりません。第二次世界大戦前まで小布施茄子の苗は東京の近郊に送られ、作られていました。それが何故作らなくなったのか。それは長ナスに比べて収穫量が少ないからです。また収穫期間が短いからです。ところが、長野盆地、飯山盆地では水害の常襲地帯なんですが、一方洪水のない年は土地生産性が高いのです。
十日町盆地に6、7段の海岸段丘が発達しています。積雪が多いので水田化が進んでいます。新潟県でうまい米ができるのは六日町と十日町の両盆地ですね。
その様にして千曲川の沿岸には五つの盆地があって、みんな違う河川の自然条件を持っており、しかも開発が進んでいます。前にお話しましたが、千曲川の沖積地が広がる長野、飯山両盆地に地割慣行地が残存しているのは、河川敷や自然堤防まで耕地化が進み、常襲水害地であることを意味します。
この水害は天然の客土であるため堤外地の生産力を高めているわけです。
次に申し上げたいことは、千曲川の通船です。千曲川通船が航行した終点が上田です。上田の河川勾配は190分の1できついのでほとんど利用されていません。河川勾配が300分の1以下でないと、舟運は困難でした。この長野の盆地の場合は、900分の1から1,000分の1です。ところが飯山盆地に行きますと、3,600分の1という緩勾配になります。このような勾配ですから、ここでは通船が盛んでした。千曲川の水運で一番大きな舟は75石積み、これは重量11.25トンになります。現在の大型トラックに相当する荷を積んだ帆船が往来していました。
千曲川通船が、鉄道交通が開通するまで行なわれていました。そこで島崎藤村が明治37年、飯山にやって参りますが、小諸から信越本線に乗り、豊野で下車します。豊野駅から蟹沢港まで歩いて通船に乗りました。大正10年に飯山鉄道が開通しても通船がその後も続けられる。それはどういうことかといいますと、冬は除雪体制不十分ですから鉄道は不通になりました。ところが船の場合は千曲川が凍ってないので運行できたわけです。除雪体制が確立される戦後まで船が併用されていました。
この通船が西大滝という信越国境にダムがありますが、ここが千曲川通船の終点です。このあたりに滝という地名が七つあります。信越国境の「滝」はフォールじゃなくて早瀬です。それが飯山市の西大滝から十日町の間は船が通れません。その間の交通は牛や馬を使いました。そして十日町とは六日町から下流は新潟まで船が航行していました。
この千曲川で注目すべきことは、木材の管流しがよく行なわれていたことですね。善光寺の建築材は、宝暦4年の場合、南佐久の千曲川の沿岸から桂を伐って運びました。千曲川の流域には檜がないので桂を伐って流しました。長野まで千曲川を落合まで流送して、それから犀川、裾花川を溯り木留神社から大八車で善光寺まで運びました。
筏流し管流しは、夏は行わないのは、夏行うと、集中豪雨で一気に新潟まで流失してしまう。そこで冬やるんですが、川に木材を組んでダムを造るんですね。川に。ダムを壊して一気に流すという方法をとっています。
その場合、天竜川、木曽川、利根川では、くれき榑木流しと言って江戸、大阪、京都、名古屋の都会で使った板葺きの屋根材を流送していますした。この榑木は平安時代から送られています。ところが千曲川は日本海側に出るので、榑木を流すことは行われていません千曲川の中流、下流また信濃川では、水運が広範に使われていました。特に河川勾配は飯山盆地においては3,600分の1平均、部分的には5,000分の1。越後平野では長岡から7,000分の1という緩勾配ですから、長岡から新潟の間は戦後まで蒸気船が通行していました。
千曲川、信濃川で注目すべきことは、サケやマスの漁業だと思います。平安時代の「延喜式」を見ますと、サケの三大産地国は東北ではなくて、越後、越中、信濃の三国です。そこでは楚割鮭と言って、鮭の天日乾燥したもの、あるいは氷頭といって鮭の頭、筋子、背腸、鮭の血の塩辛など調として越後、越中、信濃の国から送られています。そういう点で、古代においては信濃の国はサケの三大生産国だと。それから武田信玄が信州を征服したときに鮭川を指定して、10本のサケを獲ったら4本は税として貢納させております。
4本は何?
10本の水揚げがあれば4本は税金にして取ると、税率は4割になります。なお、甲州では富士川には鮭は溯ってきませんから、貴重な食品でした。麦は越後では作れない。川中島合戦は、麦をどちらがとるかという戦いでした。当時は信濃国は越後国より米の生産量が多かったですが、その米をどちらが取るかの戦いでありました。千曲川は、普段はおとなしい川ですが、ひとたび荒れると、大きな水害をもたらしてきました。にもかかわらず、千曲川の流域には、平地林がほとんどないのです。平地林が無いことは農地開発が進んでいることを示しています。犀川水系の上流地域には平地林が多く残されています。
はい、どうもありがとうございました。そろそろ時間も迫って参りましたが、五味さん、なにかありますか。
そうですね、古代から変わらず、非常に豊かだったというのが分かりました。いつでしたか別所温泉に行きましたら、朝鮮人参を毎年作っていると。これを作ると非常に土地が痩せるんですよね。だから毎年なんて作れない。土地が痩せちゃうんですよ。でもここは作れるんですね。
薬用人参の栽培は最初の年は耕起して肥料を入れて寝かせておきます。次の年に種を蒔いてから収穫するのに6年から7年かかります。収穫の後50年間は人参の栽培できません。色々微量要素を吸収してしまいますので、他の作物はいいですが、薬用人参の耕作はできません。そこで薬用人参を作らない家の農地を借りて作るわけです。人参と書くと、これは薬用人参です。農林省の統計では人参と表記されていました。なお、食用ニンジンは胡らふく蘿蔔と書かれています。
時々川は洪水があるとその流域が豊かになる。でもそれは大昔でしょ。
現在でも洪水によって堤外地には天然の客土が行われています。
農業形態が昔と同じでいいかというのは。今は肥料から何からという世界でやっているんです。それは色んな意味で良いか悪いかというのは。
千曲川においては上田から飯山にかけていわゆる内務省堤防が大正7年から昭和16年にかけて造られました。霞堤ではなくて連続堤のため、堤内地の水害が減少しました。明治5年の地租改正、内務省堤防の完成、戦後の農地改革といったことなどを経て地割慣行地も減ったわけです。今残っているのは長野盆地と飯山盆地ということでのみになりました。
過疎化の問題はここではどうですか?
千曲川が流れている盆地内ではありません。
やはり割替えもやるような慣行が続くというのは、まさにそれがない訳ですね。
地割慣行には三つの形態があります。つら面割りといって構成員が平等に割ります。学校の先生でも5年経てば、面割りの権限を得て、農地の耕作権が与えられます。次に株割りと言って、持ち分権によって共有地の耕作権が与えられます。もう一つ江戸時代には、高割りといい明治以降は地価割りといっております。所有している本田畑の地価に比例して共有地の耕作権を与えています。
長野の盆地、上田盆地とかいったのは一つの文化圏にならないんですか。
先程もお話ししたように山麓に、上田盆地は侵食盆地で段丘地形が発達しています。長野盆地は山麓に扇状地地形が発達していますが、千曲川の沿岸は沖積層が堆積していますが、その厚さが200〜300mに及んでいます。
そうすると文化も変ってくる。
条件が違うから逆に一つの文化圏が形成されやすいとは考えられないんですか。千曲川が一つと考えるか、区分されるのか。
千曲川には、五つ盆地があり自然条件が大きく違います。そこでその流域には地域性の異なる河川文化が発達しています。
こちらの文化があまり全国例にないと。利根川の方へ入って行きますとね。それは上田だけなんですか。群馬県は入って来ますよね。それを越えるのが鳥井峠でしょう。上田には非常に篤農家の人たちが多いわけでしょう。
日本一と言われている群馬県の嬬恋キャベツは昭和初期に信州上田の青果商人の指導によって始められております。
そういうものが千曲川から利根川に入ると。千曲川の中ではひとつの文化圏はなくて、流域を越えたところで繋がっていくということになると面白いなと思う。
先ほどありましたように、塩尻というところがひとつの分岐点になるように感じますけれど。
その通りですね。というのは海岸から内陸えの塩の搬入路のターミナルという意味です。松本の南にある塩尻と上田の塩尻は有名です。信越国境の栄村にも塩尻があるんです。その塩尻は新潟に入ってくる塩と、直江津から入ってくる塩との接点ですね。
日本海側の塩の方が上等なんでしたっけ。
ですからいわゆる、日本海沿岸では、揚げ浜式塩田で塩が作られていますが、太平洋沿岸と瀬戸内地方の入浜式塩田とは製法が違います。太平洋側の方が、質が良かったようです。
でも上田のあたりは割合百姓一揆が激しかったですね。上田なんとか争議とか。それは豊かでも。
上田地方では江戸中期以降日本一の蚕種製造が発展するなど、商品経済が発展しました。その反面百姓一揆が起きました。「百姓一揆と夕立は青木村からやってくる」という俚言があるくらいです。蚕がかかりやすい微粒子病の菌を発見するためには顕微鏡を使いましたが明治初期、日本に入った顕微鏡の6割が、上田を中心にする東信地方にあったといわれています。
 
島崎藤村 (1872-1943)  
筑摩県第八大区五小区馬籠村(現長野県木曽郡山口村馬籠。2005年の合併後、岐阜県中津川市馬籠)生まれ。本名春樹。1881年上京。91年明治学院を卒業。同校在学中にキリスト教の洗礼をうけた。1893年には、北村透谷らによる「文学界」の創刊に参加。当初は、劇詩を書いたが、やがて明治時代の代表的浪漫詩集「若菜集」を刊行、新体詩人としての名声を高めた。以後、「一葉舟(ひとはぶね)」、「夏草」、「落梅集」の詩集を世におくりだした。1899年に教師として信州の小諸義塾に赴任した頃から散文を志すようになり、のちに「千曲川のスケッチ」としてまとめられる写生文を書いている。同時に小説執筆にもとりかかり、被差別部落出身の主人公、瀬川丑松(うしまつ)の苦悩と告白をえがいた「破戒」を自費出版し、最初の本格的な自然主義の小説として激賞され、作家としての地位を確立した。その後自伝的な小説「春」「嵐」などを発表。また、幕末維新期の歴史と木曽の自然を背景にしながら、父正樹をモデルにした大作「夜明け前」を完成させた。さらに「東方の門」の連載をはじめるが、未完のまま脳溢血で死去した。  
小諸なる古城のほとり
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて淡雪流る
   あたゝかき光はあれど 野に満つる香も知らず
   浅くのみ春は霞みて 麦の色はづかに青し
   旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ
暮れゆけば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざようふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
黄昏
つと立ちよれば垣根には 露草の花さきにけり
さまよひくれば夕雲や これぞこひしき門辺なる
   瓦の屋根に烏啼き 烏帰りて日は暮れぬ
   おとづれもせず去(い)にもせで 蛍と共にこゝをあちこち
拷A
枝うちかはす梅と梅 梅の葉かげにそのむかし
鶏は鶏とし並び食ひ われは君とし遊びてき
   空風吹けば雲離れ 別れいざよふ西東
   青葉は枝に契るとも 緑は長くとゞまらじ
水去り帰る手をのべて 誰れか流れをとゞむべき
行くにまかせよ嗚呼さらば また相見んと願ひしか
   遠く別れてかぞふれば かさねて長き秋の夢
   願ひはあれど陶磁(すゑもの)の くだけて時を傷みけり
わが髪長く生ひいでゝ 額の汗を覆ふとも
甲斐なく珠(たま)を抱きては 罪多かりし草枕
   雲に浮びて立ちかへり 都の夏にきて見れば
   むかしながらのみどり葉は 蔭いや深くなれるかな
わかれを思ひ逢瀬をば 君とし今やかたらふに
二人すわりし青草は 熱き涙にぬれにけり

罪なれば、物のあはれを こゝろなき身にも知るなり
罪なれば酒をふくみて 夢に酔(ゑ)ひ夢に泣くなり
   罪なれば親をも捨てゝ 世の鞭(むち)を忍び負ふなり
   罪なれば宿を逐(お)はれて 花園に別れ行くなり
罪なれば刃に伏して 赤き血に流れ去るなり
罪なれば手に手をとりて 死の門(かど)にかけり入るなり
   罪なれば滅び砕けて 常闇の地獄のなやみ
   嗚呼二人抱きこがれつ 恋の火にもゆるたましひ
胸より胸に
吾胸の底のこゝには 言ひがたき秘密住めり
身をあげて活ける牲とは 君ならで誰かしらまし
   もしやわれ鳥にありせは 君の住む窓に飛びかひ
   羽を振りて昼は終日 深き音に鳴かましものを
もしやわれ梭にありせば 君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を その糸に織らましものを
   もしやわれ草にありせば 野辺に萌え君に踏まれて
   かつ靡きかつは微笑み  その足に触れましものを
わがなげき衾に溢れ わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより はや床は濡れてたゞよふ
   口唇に言葉ありとも このこゝろ何か写さん
   たゞ熱き胸より胸の 琴にこそ伝ふべきなれ
椰子の実
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
旧(もと)の樹は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば 滾(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々 いづれの日にか国に帰らん
千曲川旅情のうた
昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)  明日のみを思ひわづらふ
   いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
   河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を静かに思へ 百年(ももとせ)もきのふのごとし
   千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
   たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ  
 
アメリカ文学と川

私は、ちょうど10年前、東大を定年いたしまして、昨年の3月には日本女子大学を2度目の定年をいたしまして、第一線を退いているので、参考になるお話ができるかどうかちょっと自信がないんですけれど、どうぞよろしくお願いいたします。それから、お手元にお配りしてあります資料ですけれど、ほとんど英文なんです。ただ、これはお話は翻訳でいたしますけれど、翻訳が間違っている可能性がある、そういうことで、終わった後、私の話は大体英語に沿っていたしますので、間違っているじゃないかというようなことがあったら、英語のほうでご理解いただきたいと思っております。
そういうことで、お手元に要旨というんでしょうかレジュメをお渡ししてございますけれど、お話は大体5つぐらいのトピックを考えております。第1はマーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」。あるいは、「ハックルベリー・フィンの冒険」について、多分、20世紀の英語圏の最大の詩人と言っていいと思いますけれど、T.S.エリオットという詩人が非常にすぐれた序文を書いている、そういうことを中心に、レジュメに最後にありますけれど、川というものを神話的なレベルで考えてみたいということが第1でございます。
第2は、マーク・トウェインという人は、もちろん「ハックルベリー・フィンの冒険」その他で有名ですけれど、ノンフィクションで「ミシシッピー川での生活」と訳して書きましたけれど、"Life on the Mississippi"。二、三種類の翻訳がありまして、「ミシシッピーの人びと」、あるいは文字どおり「ミシシッピ河上の生活」といろいろありますけれど。
ここでは、ここにちょっと書いてありますけれど、1つは、川というものが社交の場というんでしょうか、あるいは情報源であったという、そういう面。それから、これはよく指摘されることですけれど、川とか世界は一冊の書物であると、そういうことが言われますけれど、マーク・トウェイン自身も、もちろん現代の批評の理論など全く知らずに、ミシシッピー川は一冊の書物である。それは読めば読むほど、ロマンスというんでしょうかロマンチックな面が消えて、恐ろしい現実があらわれてくる、そういうことを言っているところがございます。
それからちょっと戻りますけれど、資料の1頁のところではT.S.エリオットが、ミシシッピー川あるいは川というものは偉大な川だということを言っているんですけれど、日本では川というものを神というふうにとらえることがあるのかどうか。来るときに見てまいりましたら、水神というんでしょうか水の神というのはあるんですけれど、見ましたら、1つは川を守る神様ということで、川そのものではない。それからもう1つは火事を防ぐ、そういう火の用心の神様というのが出ておりまして、川そのものがいわゆるゴッドというようなとらえ方があるかどうか、お聞きしたいと思ってます。
そしてさらに、日本ですと利根川が坂東太郎、それから筑紫次郎、四国三郎というふうに、これは神様じゃないんですね。そういう取り上げ方がされている。それに対して、多分、山のほうは神社のご神体というようなことがあるんじゃないかと思いますけれど、西欧では川そのものが神というふうになっている、そんなお話をしたいと思っております。
それから3番目は、やはり20世紀の川というものをお話ししたほうがよろしいんじゃないかということで、有名なウィリアム・フォークナー。彼はやはりミシシッピー州出身ですから、いろいろなところで川が出てくるんですけれど、その中の「野性の棕櫚」。文字どおりの"The Wild Palms"となっておりますけれど、これは実は出版社がつけたタイトルで、作者自身のタイトルとは違っているらしいんです。そして、全く関係のない2つの物語を組み合わせて1つの小説にしている、非常に実験的な小説なんですけれど、その中にやはり川が、ことに洪水の川が描かれている。
そして、そこで私が受けた感じは、人間はそういう川の洪水にいくら抵抗しても、これはa losing game、負けが決まっているゲームである、そういうとらえ方をしていて、あまり参考にならないんじゃないかという気もいたします。
さらに彼、フォークナーの中では川というのは、これは要するに時間のメタファーになっていて、絶えず流れているけれどとらえることができない、人間は抵抗することのできない何かというようなとらえ方をしている、そういうことをお話ししたいと思っております。
それから4番目には、これは文学ではないんですけれど、実は私の頭の隅っこのところに、1993年ですからもう12年前ぐらいになりますけれど、アメリカ、ミシシッピーは大変な洪水になっている。それで資料にございますけれど、「朝日新聞」にも大きく取り上げてありますし、「Newsweek」という週刊雑誌、そこでも数頁にわたって取り上げている。そしてこれを読むと、やはり500年に1度といわれるぐらいの洪水であって、そういう洪水に対して、これはやっぱりお手上げであるというような、これはもちろん記者の見方ですけれど、印象を受ける、そんなもの。これは多分、時間がないと思いますので飛ばすつもりですけれど、ご参考までということでコピーを取ってきてございます。
そして、この1から4まではほとんど全部、川は恐ろしい存在である、人間の抵抗などはもうどうしようもないんだという感じが非常に強い、そういう面が出ているわけですけれど、その一方では、アメリカには自然ないしはその中心にある川、これは文明に傷ついた、ことに若者がそこへ行ってそして人間として立ち直る、いわゆる癒しの空間、そういう伝統がありまして、その1つの例として、これも有名なヘミングウェイの"Big Two-Hearted River"。これも普通は「大きな二つの心臓の川」と、何だか心臓の川でいいのかどうか妙なタイトルになっていますけれど、これにちょっと触れてみたいと思っております。
ただ、これは2つの解釈がありまして、1つは第一次大戦で、肉体的でなくて精神的に傷を負った兵士がアメリカへ戻ってくる。そして日常生活にとけ込むことができない、そういう青年がミシガン州の奥地の川へ行ってマス釣りをする。そして最後のあたりは非常にアンビバレントな、あいまいな表現になっていて、一部の批評家は、これである救いはあったんだというふうに解釈していますし、その一方では、川、湿地帯が出てくるんですけれど、何だか不気味な世界として描かれている。そういうことで、やっぱり自然の中でも救われていないんだという解釈をする、この両方がありますけれど、ここでは一応、自然の中で救われるという、そういうものの例として取り上げてございます。
それから次にノーマン・マクリーン。これは正確にはマクレインという発音のほうが正しいと思いますけれど、映画化された"A River Runs Through It"。ロバート・レッドフォードという、彼は俳優ですけれど、彼が監督をする。そして、若い女の子に非常に人気があるらしいんですけれど、ブラッド・ピットという俳優が主人公をやって、そして日本でも評判になった作品です。たまたまこれは私が翻訳していて、ちょっと言いにくいんですけれど、よく売れていた。ここにちょっと書いてございますけれど、これはフライフィッシングの話なんですけれど、モンタナの山奥の渓谷でフライフィッシングをやっている。夕刻になると自然と人間、すべてが一体になっていく。そして、その中に一筋の川が流れているような印象を受けると。つまり、自然のエッセンスみたいなものと人間が一体化するというような、そして、それによって煩わしい人生から救われる、そんなものですけれど、癒しの空間という面での例として取り上げたいと思っております。
そして最後、締めくくりがこういうことでよろしいのかどうかということですけれど、現在は、日本だけでなくてアメリカでも自然破壊というようなことが進んでいて、環境保護、あるいは自然保護ということがあって、それを中心にしまして「ネイチャーライティング」と、これは、ただ自然を客観的に描写するんじゃなくて、自然と人間の相関関係とか、あるいは共生、そういうことが言われるんですけれど、そういう傾向の文学作品が非常に多く書かれている、研究されている。そしてそれを読みますと、これはそれだけじゃないんですけれど、これは国土交通省の方々の前ではちょっと言いにくいんですけれど、ダムをつくるとか、あるいは河口堰をつくるとか、そういったことは長い目で見ると、これは自然破壊につながるんじゃないか、自然というのは自然のままにしておくのが一番自然じゃないか、そういう主張をしている傾向の作品なんですね。大体、環境保護運動と連携していると言えば見当がつくと思いますけれど、そういうものが最近では文学作品の中でかなり目立ってきている。
そんなことで、21世紀にかけてのアメリカ文学というものをお話ししたいと思っているわけです。
これは全体ですけれど、ただ、今日はミシシッピー川を中心にお話ししたいと思っていますので、ミシシッピー川、もちろんご存じだと思いますけれど、ちょっと蛇足めいたことをつけ加えますと、この川は、アメリカ大陸中央を流れる世界最大の川。その流域は、この数字は僕なんか言われても良くはわからないんですけれど、324万8,000平方Kmmだと、かなり大きい。これでもよくわからない。アメリカ合衆国全土の約3分の1が流域になっているということなんです。
それでもいま一つピンとこないのでいろんなものを調べますと、それからマーク・トウェーン自身が100年以上前にそういうことを言っているんですけれど、ソビエトとノルウェー、北欧、これを除いた全ヨーロッパが流域の中に入ってしまう。フランスの6倍、それからイギリスの10倍、日本は出ていないんですけど計算しますと、多分8倍くらいの広さが流域になっている。
そして、東のほうは5大湖のあたりから南に流れていますし、西のほうはロッキー山脈に大陸分水嶺という、東へ行くか西へ行くかという大山脈がありますけれど、そのあたりは逆に南から北のほうへ上がっていってカナダの国境を東へ行って、それからまた南に下って、これは大体ミズーリ川なんですけれど、ミシシッピー川の本体と合流する。それだけで数千Kmになっている、そんな巨大な川なんです。
そして、これもご存じの方はいらっしゃると思いますけれど、ミシシッピーという言葉の語源、これはアメリカインディアンと言うのはいけないらしくて、現在ではネイティブアメリカンと言いますけれど、アルゴンキン部族の言葉で「ミッシ」というのは大きなという意味らしいんですね。それから「シッピ」というのは川、そういうふうになっております。それから、アメリカ南部のかつての黒人奴隷などはオール'マンリバー、おやじの川と言っている。あるいはマーク・トウェーンなどは、これは普通の表現のようですが、the Father of Waters、水の親玉というような感じで使っている。ともかくアメリカ最大の川ということでございます。
そして、これは単に物理的に、あるいは地理的に巨大な存在でなくて、南北戦争まで、そして現代では鉄道や、さらに高速道路が普及していますからそうではなくなっていますけれど、あるいは航空路が普及しておりますけれど、かつては文字どおり交通の要路として、白人による開拓の上で計り知れない役割を果たしてきている。
下流はもちろんですけれど、かなり上流まで数千Kmにわたって、かつては――かつてはというのは南北戦争前、ということは19世紀の中ごろまでですけれど――3,000隻ほどの蒸気船が定期的に往来していました。そして、乗客あるいは生活物質、これの輸送に当たっていた。つまりは、文字どおりアメリカの開拓民にとっての死活にかかわる生活の大動脈であったということがあるようです。
そういうことで、現在ではそういう役割は失われていますし、それから実際、僕は1度か2度しか見ていないんですけれど、ダムができたりいろいろして大して大きな川じゃないんですね。中心のほうに日本の川くらいの幅が流れていて、ただ、河川敷はその数倍の幅があって、そこに堤防があるわけです。そしてどうやら洪水のときには、そこまで少なくとも水が来る。そういうことなので大した川じゃないんですけれど、アメリカ人にとっては非常に大きな意味を持っていて、アメリカのミシシッピー川流域で育った作家ではない、日本ですと「ワインズバーグ・オハイオ」などで有名なシャーウッド・アンダソンなどという作家が、ミシシッピー川というのはアメリカ大陸のハート――これは文字どおり心臓と訳してもいいし、中央でもいいんですけれど――から流れてくる大動脈だと呼んでいます。
それから、これは1950年ですからもう半世紀ほど前になりますが、ビートジェネレーションという、文明社会を嫌ってアメリカじゅうを放浪して回った、そういう世代がありますけれど、その代表がジャック・ケルアックという作家で、アメリカ全土を車で3度か4度往復していて、その記録が「On The Road」と、日本では「路上」などと訳されています。彼は、たしか出身はマサチューセッツで、そしてニューヨークで育っているんですけれど、ミシシッピー川の土手に立ちますとものすごく感動して、わが愛するミシシッピーよというふうに、非常にロマンチックに呼びかけている。そういうところがあるわけです。
そういう点で、やっぱり非常に心のふるさとみたいな川である。と同時に、一番最初に申しましたけれど、ミシシッピー川はある一定の期間をおいて繰り返し氾濫をしている。そういうところはマーク・トウェインの"Adventures of Huckleberry Finn"「ハックルベリー・フィンの冒険」、この中にあらわれている、あるいは"Life on the Mississippi"で見事に描かれているわけです。そしてそこで、洪水のときに丸太小屋、あるいは堂々とした2階建ての家、あるいは家財道具全部を積み込んだ平底の船、蒸気船、あるいは長大な筏、そういうものが押し流されてくる。
そして、この後で言いますけれど、ミシシッピー川というのはアメリカの社会の縮図であって、しかもネガティブな面が川にあった。つまり、一種の治外法権というんでしょうか、無法地帯でもあったらしいのです。一言で言えば、蒸気船の上では賭博が常に行われている、それからもう1つは売春が行われているわけですね。そういったことは、さすがに少年向きの物語には出てこないんですけれど、川が増水するといろんなものが流れてくる。それを見ると、明らかにそういう社会の一番恥部と言っていいような部分が川にあった、そういうことが出てくるわけです。
そして、これはもちろん19世紀中ごろのマーク・トウェインだけじゃなくて、もう少し古いところで「白鯨」="Moby-Dick"の作者であるハーマン・メルビルという人がいますけれど、彼には"The Confidence Man"、普通は「信用詐欺師」なんて訳されていますけれど、要するに詐欺師ですね、そういう作品がある。ミシシッピー川の蒸気船の上で善良な人々を賭博に誘って金を巻き上げていく、そういうことで人間がいかに愚かであるかということを風刺的に描いているんですけれど、それを見ても明らかにミシシッピー川、その上の蒸気船で――日本でも、そういう変なところは川沿いにできるということはあるんじゃないかと思いますけれど、行われている。そういうものがあるということなんです。
要するに川というのは、ことにミシシッピー川は恐ろしい危険な存在であると同時に、人間にとって救いの二面性があるということでございます。
そしてそういう二面性を、結局は、一番最初に言いましたT.S.エリオットは、ほんとうに西欧の教養を身につけた、知識人中の知識人と言っていいような詩人だと思うんですが、そういう人が「ハックルベリー・フィンの冒険」を読んでものすごく感激して、そして世界有数の作品であると、そういう序文を書いているわけです。
エリオットという詩人、これはもう皆さんご存じかもしれませんけれど、もともとはアメリカに生まれている。そして文化伝統の浅いアメリカ、これに幻滅をしましてイギリスに移って、最後はイギリスの市民になっている。西洋の文化伝統をほんとうの意味で身につけた、知識人と言っていいと思いますけれど、そしてその限りでは、ミシシッピー川あるいは「ハックルベリー・フィンの冒険」などとは全く縁がないような感じがするんですけれど、実は彼はセントルイスの名門に生まれて、少年時代、ミシシッピー川のほとりで過ごしているわけです。家は、今、名門と言いましたけれど、教養のある家庭だったのです。エリオット家というのは、多分、植民地でも一番最初にアメリカにやってきた、そういう古い、由緒のある家柄で、おじいさんの代かなにかにセントルイスへ移って、そこでワシントン大学という、私立で非常にレベルの高い大学を創設しているんですけれど、そういう名門に生まれている。
「ハックルベリー・フィンの冒険」、これは子供向けのものでいろいろ出ていますので、お読みだと思いますけれど、要するに学校教育はつまらない、大自然の中で伸び伸びと暮らすほうが少年にとって文字どおり自然である、そういうことを言っている小説。そして、彼は学校など行っていませんから、これは一人称で書かれているんですけれど、学校文法などを無視したひどい英語でしゃべっているわけですね。つまり、過去形はdidを使わずdoneを使って、「I done it」というような言い方をするわけです。そういうことなものですから、エリオット家のご両親というのは、子供に読ませるには望ましくないということで読ませなかったらしいんですね。これは、余計なことですけれど、アメリカの大統領などで少年時代に読んで一番感銘した本は何かといえば、90%以上が「ハックルベリー・フィンの冒険」であると答えるわけですね。そういう小説をエリオットは禁止されていたということがあるんです。
一方で女性のほうは、これは当然おわかりだと思いますけれど、少女時代に最も感銘を受けたのが「若草物語」。オルコットの"Little women"。この2つが、アメリカの少年少女が必ず読む小説。
ところが、エリオットは読まされなかった。それが60代になって読んで、今言ったように感激して、すばらしい序文を書いているんです。
それと同じころ。序文を書いたのが1950年なんですが、その7年前ですか、実は資料に"Four Quartets"、「4つの四重奏曲」、あるいは「4つの四重奏」――1944年と書いていますけど1年間違っていまして、1943年が正しいんです。直していただきたいと思います。そういう7年くらいの差で出ていますから、どうもエリオットの代表作の1つである"Four Quartets"=「4つの四重奏曲」、これは「ハックルベリー・フィンの冒険」を読み、少年時代のミシシッピー川の生活を思い出して、そして書いたと思われるわけです。
「4つの四重奏曲」ですから4つの部分から成り立っているんですけれど、第3部に"The Dry Salvages"。発音は、サルヴェイジズと後ろのほうにアクセントを置くというふうにエリオット自身が、資料にありますように注をつけている。もともとはドライとは乾いたではなくて、フランス語のトロワというんでしょうか3つのということらしいんです。サルヴェイジズも、ソヴァージュというのは野蛮人という意味でいいんでしょうか。
3人の野蛮人ということで、危険な岩という意味だったらしいんです。それが、アメリカ人はフランス語をよく知らないものですから、発音だけでドライと。サルヴェイジも、サルベージ船なんていうときには前にアクセントを置くんですけれど、ここの土地の名前ではサルヴェイジズと後ろにアクセントを置くとなっております。
その出だしのところ、これは英語で読みませんけれど、翻訳しますと、これはミシシッピー川にまず間違いないと思いますけれど、言っていますのは、神々について多くのことは知っていないが、この川は強力な褐色の神であると思う。不機嫌で飼いならすことはできない。なだめすかすこともできない。手に負えない存在。そして、ある程度までじっと我慢している。人間の商業活動には役に立つ――これは先ほど言ったように開拓などの生活の大動脈だということだと思いますが――役に立つことは立つが、信頼できない。裏切ることもある。そして、橋を架けようとすると厄介な存在だ。そして、橋を架けるという難問を解決すると、人間によってこの褐色の神は忘れられてしまう。しかし、川はいつまでも執念深くみずからの季節と――これは雨期になると洪水を起こすということだと思いますが――怒りを持つ破壊的な存在。人間たちが忘れたく思うものを思い起こさせる存在、つまり、洪水とかそういうことだと思いますけど。機械の崇拝者たちによって尊敬されることも、なだめられることもない。ただ待ちかまえ、じっと人間を見つめ、そしてまた待ちかまえる、そういうものが川だと言っているわけです。
そういうことでこれを見ますと、橋を架けて、やれやれと思って、そして川のことを忘れると洪水で仕返しをする、非常に恐ろしい存在というふうにとらえているわけです。
そういうことで、川というのは、もちろん一方では洪水の後、肥沃な土地を残していくということで文明の生みの親である、そういう面はエリオットももちろん認めていますけれど、機械文明によって自然を征服したり、あるいは手なずけたりして、大丈夫だと過信した人間どもに常に警告を発する、破滅をもたらす、報復をする、そういう強力な褐色な神、こういう形であらわれてくるわけです。これが第1なんです。
そして次、「ミシシッピー川での生活」ということですけれど、これも細かいことを言いますと、マーク・トウェインにとっては非常に重要な川であった。彼は少年時代を過ごした、川での体験が非常な意味をもっていて、「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」などの少年の古典を残したわけですけれど、それ以上に、金もうけのために水先案内、パイロットをやっている。ただし、ここにありますけれど、南北戦争が起こったために、徒弟の時代を入れて4年しかなかったんですけれど、その短い期間に、これは次の下線を引いてあるところを飛び飛びに訳していきますけれど、この4年間の短い厳しい訓練期間中に、小説や伝記や歴史にあらわれるすべての異なった人間のタイプに出会った、そういうことを言っている。
つまり、先ほどもちょっと言いましたけれど、ミシシッピー川の蒸気船というのはアメリカの社会の縮図であったわけです。そして、そこで働いている間にありとあらゆるタイプの人間に接する機会を持ったということ。そして、現在ではほとんどそういうことはなくなっていると思いますけれど、やはり19世紀では、パイロットをやることによって人間社会を知ることができたということになります。
ちょっと急いだものですから飛ばしていまして、2頁のところでT.S.エリオットの「ハックルベリー・フィンの冒険」の序文の一部に線を引いています。これは一言でいいますと、エリオットが川をなぜ神のようなものだと言うかということですけれど、それは、始まりも終わりもない存在である。水源の地点では、川は川でない。資料の地図を見たらわかりますけれど、右のほうにはオハイオ川、左のほうにはミズーリ川、そのほかも100に近い川が合流して最終的にはミシシッピー川になるわけですけれど、その川のどこが一番最初の源であるか、これは言えない。さらに、ここが水源であると言っても、その時点ではまだ川ではない、そういう存在である。
それからもう1つは、ニューオーリンズの先のほうでデルタ地帯をつくってメキシコ湾に流れ込むわけですけれど、どこまでが川で、どこから先が海であるか、よくわからない存在になっている。そして常に動いている。それはちょうど、時間がどこから始まっているかわからない、そして時間の終点がどこであるかわからない、しかし、途中は常に動いている。そういうことで、時間とか神というものだとエリオットなどは言っているわけです。
こういうことで、これは河川局のどなたかに伺いたいんですけれど、川と海との境というのは明確にあるんでしょうか。私は新潟の佐渡出身なのですが、信濃川の河口に佐渡汽船というのがあるんです。船着き場は明らかに川だと思うんです。それからずっと下っていく。そして海岸線らしきものがあるんですけれど、そこから突堤というんでしょうか、ずっと両方に突き出していて、その最先端に灯台みたいなものがあるわけですね。そしてそこを越えたときに船長さんが、これから河口を出て外海に出ますという。そうすると、そこまで川なのかと思いますけれど、多分、上から見ると僕は、もうそこは海じゃないかと思うんですよね。あるいは、東京でも隅田川ですね。ずっと下っていくとお台場とか、あるいは天王洲というんですか、あのあたりは細くて川みたいですけれど、ある意味では海みたいな感じでもある。これは何かちゃんとした区別があるんでしょうか。
管理している上で、河川区域の境というのは決めております。
あるんですか。ただ、文学的に言いますと、詩人はどこまでが川で、どこからが海であるかわからない。これはよくあるんですね。言葉とは常にそうで、我々はほっぺたとあごというのはちゃんとわかっているんですけれど、どこまでがほおでどこからがあごであるか、わからないんですよね。
それはそうですね。頭と顔の境目というのは、この辺ですか?
髪の毛なんかがあるところはわかるんですけど、ほおとあご。こういうことは、英語なんかを教えていて、学生はものすごく単語の厳格な意味の違いを言うものですから、言葉というのは境目はわからない。ほおとあごの違い、どこが境かというと、ここら辺だと言いますけれど。そういうことがあって、川というのも、一体どこまで川なのか。ことに信濃川の河口というのはどこなんですか。
この河川局は川だけであって、海は関係ないんですか?
いいえ。海は別個に海岸という観点から、河川局が管理している海岸と、港湾、漁港の中、それから後ろが農業地のところだと農林水産省が持っている海岸というのがありますが、長さとしては河川局が管理している海岸が一番長いという状況です。
川の両わきには海岸がありますね。それから先に出ている突堤の中は、一見中からいくと川みたいですけれど、これはもう川じゃないんですね。
ダブっている所もあります。
ダブっていると言えばそれが一番いいですけどね。
ほんとですか?
河川は河川の観点から、どこまで管理しなきゃいけないのか考えられているものですから、そこを河川の区域として決めています。合わせて海岸であるところもあります。
そうなんですか。いや、よくわかりますけど、エリオットは、多分、どこまでが川でどこから海であるかわからない、それがまさに神であると言っているんだと思いますけれど。そういうことがございます。それで、大分時間を取りましたけれど、マーク・トウェインのほうへ戻ります。資料3のあたりを見てもらえば結構なんですが、例えばW章の"The Boys' Ambition"。「少年の夢」というのがいいと思いますけれど、パイロットになるというのが最大の夢だったんですね。それは1つには給料がものすごく高くて、当時、1月1,800ドルの給料だったらしいです。
すごいですね。
それは僕はわかりませんけれど、貨幣価値はもちろん違いますが、黒人奴隷、これには一応給料を払っているんですね、それの1年間の給料が、大人の一番働く奴隷で10ドルだったらしいんです。白人でしたら給料はもっと高いと思いますけど、1,800ドルというのは…。
年給で?
1,800ドル? いや、月給です。
月給ですか。
そうです。それくらいのものである。ただし、大変な責任があったんですね。乗客の生命を扱う、それから積み荷がある、そういうことで船長もパイロットには何も言えない。そして、一番高いところに立って指示するわけですけど、それがマーク・トウェインみたいな脚光を浴びることが好きな男の子にとっては、ものすごく魅力的であったということがあるんです。
そういうことでなったわけですけれど、その一方で、今言いました少年の夢というところがありまして、その2番目のところですね。出だしを見ますと"The great Mississippi, the majestic, the magnificent Mississippi"。これは全部mを並べて、アリタレイションというんでしょうか、頭韻をそろえているんですけれど、このmajesticという形容詞がものすごく多い。
それで、ちょっと飛ばしながら訳します。
偉大なミシシッピー、堂々たる、雄大なミシシッピー川は燦然と輝く日の光に輝きながら、1マイルもある広々とした川幅を持って悠然と流れていく。向こう岸には深い森が見える。中略して、やがて、はるか遠くの川の曲がり角の上に黒っぽい煙がかすかに見えてくる。その瞬間、人一倍すぐれた視力を持った、声のよく通ることで有名な荷馬車引きの黒人が、ここにありますが、"s-t-e-a-m-boat acomin'!"。日本語でいえば「見―えーてーきたぞー、蒸気船がー」というふうに叫ぶ。その声であたりの光景が一変する。町の酔っぱらいが動き出す。店員が目を開く。そして、家という家、店という店から人々が飛び出してくる。あっという間に死んだ町が生き返り、動き出す。
こういうことで、先ほど言いましたけれど、当時の開拓地にあってはミシシッピーの船着き場が、唯一の新しい情報が流れ込んでくるところであった。そして、蒸気船が着いた30分ぐらい、町は火事場騒ぎみたいになる。そして、船がまた上流へ行ってしまうと死んだようになってしまう。そういう世界であったということが1つなんです。
これ、何日に1回ぐらい。
それは多分、1日に1回だと思います。
1日に1回。
いや。もっと少ないでしょうか。
もっと少ないね。それじゃなきゃ、これほど騒がない。
だから、少なくとも1日に1回あると思うんです。それは、幾つかの会社がありますから、次から次へと来るんだと思いますけれど、大変なことだったらしいんですよね。
そういうことで、そこにはもちろんいかがわしい連中も降りてきたり、女性でまたいかがわしい人がワッと来たりして、それを子供たちは眺めていろんな教育を受けていく、そういうことだっただろうと思うんです。
そういう面があると同時に、次の裏側にあります9章あたりが一番僕はすばらしいと思うんです。
"Now when I had mastered the language of this water and had come to know every trifling feature that bordered the great river as familiarly as I knew the letters of the alphabet, I had made a valuable acquisition"
というふうに、非常にわかりやすい英語で書いてあると思いますけれど、念のために訳しておきますと、「今や、私はこの川の水面の言葉をマスターし、この大きな川に関する細かな特徴の1つ1つを、まるでアルファベットの文字を覚えるように知ることになった。そして、1つの貴重なものを得た。しかし同時に、あるものを失ってしまった。生涯取り返すことのできないあるものを失った。つまり、この雄大なマジェスティックな川から優美さと、美しさと、詩的なものが1つ残らず消え去ってしまった。私はいまだに、蒸気船生活が私にとって新しい体験であったころ目にした日没を覚えている」と、非常にすばらしい夕日の描写があるんです。どうもミシシッピーの西の夕焼けというのはいろんな人が書いていますけれど、ちょうどマニラの夕焼けみたいに…。
マニラ湾のですか?
ええ。あのあたりと同じように、みんな描くんですね。
見たことないですね。
それが売り物で、現在も蒸気船が上下していますけれど、夕暮れに行くらしいんですが、それを描いてみせるわけです。
でも、何でevery trifling featureがわかったら魅力がなくなたんですか。
つまり、例えば川の面にえくぼみたいな美しい渦がある。乗客たちはすごくきれいだと言うんですけど、そこには流木が沈んでいる。
ああ、そういうことですね。
夕焼けは、これはあしたは嵐が起こる前兆だと。
ああ、そういうことですか。
そういうことで、美しさでなくて、あしたどうしたらいいか、そういうことになるということらしいんです。
そうですか。実際的になったんですね。
だから、そういう点でロマンスが消えて、実際的な知恵とか情報だけになってしまったということのようなんです。
でも、そういうことがわかっても、なお美しいと言うんじゃないかな。
まあ、そうです。マーク・トウェインは実は非常に神経質なところがあって、これが生涯、一種の負い目というんですか、オブセッションになっているんです。その背景には、ここでは書いていませんけれど、自分の落ち度だけではないんですが、自分の落ち度だと思われるような事故が起ったりして。
パイロットとして?
そうです。そこで弟を失っているという事件もあるわけです。
ああ、そうですか。
これは客観的に見ると彼の落ち度ではないと思うんです。ところが、本人は一種の自罰反応というんでしょうか、何か悪いことがあったら、あんたが悪かったんじゃなくて、こちらが悪かったんだというふうに責任をしょい込むと、そういうことがあるものですから、ものすごく神経質なんですね。そして最後、彼は晩年、虚無思想にとりつかれるんですけれど、その源は、どうもパイロット時代の体験、それがオブセッションとして残っているんじゃないかと。
しかも、昼間だったらまだいいんですけれど、夜、真っ暗やみでも、あるちょっとした明かりでここには流木がある、ここには中州がある、そういうことを全部頭に入れて船長に命令を下していたらしいんです。しかもその中州が、これは河川局の方は当然わかると思いますけど、ああいう大きい川は毎日のように中州の位置が変わる、それから流木の位置が変わる。それを、お互いにパイロットは情報を交換して頭の中に入れる。そして、真っ暗やみの中でどうしてそれがわかるかと思うんですけれど、それを避けて航行する、それを要求されていたと。だから、1,800ドルは安くないということらしいんですけれどね。
なるほど。
そういうことで、結局、最後のところで、そうだ、ロマンスと川の美しさが川から完全になくなってしまったというのです。そういうことで、逆に言えば、これは川だけでなくて、マーク・トウェインにとっては社会というものの恐ろしさを、川の体験を通して身につけたということだろうと思うんです。
そういうことで、一番最初に申しましたけれど、マーク・トウェイン、それからT.S.エリオット、その2人が描き出すミシシッピー川というのはどう見ても非常に恐ろしい危険な川であった、そういうイメージが強いわけです。当時、この時代ですから護岸工事をやるとか流木を取り除くとか、そんなことは全くしない時代の話なんですけれど、そういうことになっております。
もう時間があまりありませんので、フォークナーの「野性の棕櫚」に移ります。この小説というのは文体そのものが1頁1つの文章になっていたり、奇妙な小説で、ある場面を抜き出すということはできない小説なんです。ただし、洪水が出ていることは間違いないんですが。ここでちょっと取り上げていますのはほとんど参考にならないものなんですけれど、どう言ったらいいんでしょう……。川というもの、これを背景にして2人の囚人が妊娠した、川の中に取り残された女性を救い出す、それだけの物語と言ってもいいようなものなんですけれど、その川の描写が何とも魅力的になっているということがございます。
はしょって結論だけ言いますと、ミシシッピー川、セントルイスあたりの下流と言っていいか、あるいは中流ぐらいなんですけれど、そのあたりではもう激流となって押し寄せてくる、そういうことじゃないんですね。ここの「Newsweek」のTrouble Watersもそうですけれど、一種の巨大な水たまり、あるいは湖水みたいになっているらしいんです。そして、水は、繰り返しあらわれる。motionless、動きを伴わない、それでいながら流れている、常に動いている。そして、時々刻々にですね、水かさが増してきて、それこそ10mぐらいの高さに上がってくる。その水が流れているようで流れていない、そんなものになってくる。それをフォークナーは「the wild bosom」と。bosomというのは胸なんですね。「the wild bosom of the Father of Waters」。水の王者の野性的な胸に人間が抱かれていると。
あるいは、液体であるということを強調して、それが巨大で、そして見たところは動きがないわけですから穏やかである。荒涼として、そして次々と時間とともに高くなってくる固まりのようなものとして描かれている。これは何となくわかるんですね。大きな水たまりがあって、それは流れているようで流れていない。そして時間とともに上がってくる。そして荒涼としている。そういう水に対して、人間は征服することは不可能であると。完全に人間の運命を決定して、complete finalityなんて書いていますけれども、決定的な結末をもたらす宿命、doomだとか……。
何行あたりですか。
いや。これはまとめてあるんです。実はそういう点では、形容詞を並べたほうが感じが伝わってくるんですが、そういうことでdoomということも随分、これはフォークナーが好きな言葉なんですけれど、要するに宿命とか運命とか時間、動かないようで常に動いている。そして表情を持たない、expressionless。洪水の水の表面を見たらexpressionless、表情が全くないというのも何となくわかるような気がする。それからstagnant、よどんでいるという言葉もよく使う。そしてquiet、静かであり、calm、穏やかである、そういうもの、これがフォークナーの洪水の描写になっているわけです。
それに対して、堤防に残された人間というのは、これも何度も書かれるんですけれど、アリのような、antsのような存在で、そして無力である。ただむなしい怒りに狂っている。対岸の堤防は、これは川があって堤防まで水が押し寄せてきて、乗り越えて外側にも水は広がっているわけです。そうしますと、対岸の堤防は1本の髪の毛にしか見えない、そういうことを言う。その髪の毛の上をアリのような人間が土嚢を持って、すべりながらおりていったり。そういう描写を繰り返し、繰り返しするものですから、私なんかはミシシッピーの洪水というのは見たことありませんけれど、音がしない、不気味に水が迫ってくる。
ひたひたひたって。
そうでしょうね。そして、明らかに決定的な破滅をもたらす、液体でありながら、ある固さというより固まりというんでしょうか、そういうものを持ったとらえどころのない存在、そういう形でとらえているようです。
そしてフォークナーの人々が非常に宿命的になっているというのは、新聞を見て、字の読める囚人の1人が見だしを読んでいくわけです。そして、あすまで堤防はもちそうだと新聞記事にあると、そうすると、もう1人が、それは今夜決壊するということだというふうに言う。それぐらいに悟っているといえば悟っているわけですけれど。公式の報道では、堤防はあしたまでもちますと言うのですが、読者は、ほんとうのところは今夜決壊するということだというふうに読みかえている、そんなことを書いているわけです。
フォークナーというのはもともと、この時代、人間の時間とか川などへの抵抗には限界があるということを常に言っているわけですけれど、そういう川として描かれているということでございます。そうしますと、せっかく洪水に対して何とか抑えようという努力をしている方々には、それはむなしいんだということを文学者が盛んに言っているというのは、何だか私居心地が悪いですけれど。
いやいや。いいんじゃないですか。
文学者は、多分そういうとらえ方をしている、これは現実なんですね。そして、普通の人にもそういうものが、なるほどそうかなと思われるところがあるんじゃないかという気もいたします。そういうことで、ただ、私がそう思っているということじゃございませんので、誤解しないでいただきたいと思います。
あと5分ぐらいであれですが、後はヘミングウェイとマクリーンのものですけれど、これは時間がないのでまとめてきたもの、1頁ぐらいを読み上げて終わりにしたいと思います。しかも資料なしなんですが。
アメリカ文学では、普通、自然とか川というのはエマーソンとか、あるいはソローというような人の伝統がありまして、神聖な、sacredな世界とみなされているわけです。こちらのほうが多分メーンストリートだと思うんです、アメリカの場合ですと。つまり、自然というのは……。現実じゃないんですね、これは理念としての自然というのは神聖で汚れのない、そしてそこで人間が生まれ変わる、そういう世界だというふうに言われている。それに対して、マーク・トウェインあたりがリアリストとして、実際にそこで生活してみると、エマーソンが言うような、そんなきれい事でないということがわかってくる。ただし、繰り返し何度も言いますけれど、底流としてはアメリカの自然、ことに水のある川、これは救いの場という、そういう伝統がずっとある。
ヘミングウェイの、これは"In Our Time"「われらの時代」。1925年ですけれど、その中で一人の青年が一次大戦に参加する。帰ってくるが、社会にとけ込めない。そういう青年がミシガン州の奥の森の中の川でマス釣りをして、やはり精神のバランスを取り戻す取り戻そうとする物語、こう言っておけば間違いないんですけれど、最初に言ったようにあいまいなところがあって、ほんとうに救われたのか、なお救われていないのか議論が分かれるわけですけれど、川でのマス釣りというのが大きな意味を持ちます。
それからもう1つが「マクリーンの川」です。ここでも、人生の物語は書物より川に似ているというふうに、川というものと書物というものと、そこから何かを読み取っていくというような面があります。マクリーンという人はイギリスの詩の専門家ですから、川、これを書物として読み取っていく、そういうメタファーを非常によく使うんですけれど、その彼が最後の場面で語り手、マクリーン――大学の先生ですけれど、老人になっています。
夏の間、モンタナ州のカナダとの国境に近いところの、ほとんど北極圏と言っていいところで、日暮れが迫ってもなお日が残っている。ただ涼しくなっていく。そこでただ1人フライフィッシングをやっている。これは翻訳のエッセンスを読み上げますけれど、そういったとき、おわかりかと思いますが、夕暮れ、白夜で日は明るい。ただ空気は冷え込んでくる。そして自然の中で自分はたった1人。そして川でフライフィッシングをやっている。そういったとき、極北の北極圏のような薄明かりの中で、宇宙に存在する森羅万象が次第に色を失って、ある1つの存在に変わっていく。そして最後にすべての存在、自分を含めたすべての存在が溶解し、融合して、1つの究極の存在になり、そしてその中に一筋の川がそれを貫いて流れいるのを意識する。その川は世界の大洪水によって出現し、時間の基盤から岩を越え、流れていく。岩の幾つかは今なお――これも実際は何であるかよくわからないんですが――いまだに時間を超えた永遠の雨だれの跡をとどめている。そして今の私は、そういった水の世界にとりつかれているんだと、非常に印象的な文章で終わっているわけですともかく、川の神秘的な面が強調されています。
映画の「A River Runs Through It」ではこういう主観的なものは、ものすごくきれいなモンタナの――本当にモンタナ州かどうかわかりませんけれど、渓谷でロケしているんですけれど、そういう主観的なものを観衆に感じさせることは難しいということで、これはロバート・レッドフォードが非常にきれいな英語で、ナレーションとして重ねているんです。この最後の場面というのは研究者がよく引用する部分ですけれど、それを英語でかぶせていって終わっている。見た人は、自分がどうなっているかわかりませんけれど、川の流れ、その中に1人いる老人、それと自分を重ねて何か救われたという、そういう印象を…。
日本ではその映画は何という題ですか。
「リバー・ランズ・スルー・イット」なんです。カタカナです。これは集英社というところですけど、映画の前に本を出しちゃったものですから、ほんとうは「A River Runs Through It」という形で売りたかったらしいんですけれど、もうしょうがなくて「マクリーンの川」として出しちゃったんです。今の映画というのはほとんどカタカナになっていておもしろくないんですけれど。しかも、「リバー・ランズ・スルー・イット」で、冠詞が落ちているんです。最初は「ア」、リバー・ランズ・スルー・イットなんですけれど。
ほんとうは?
ほんとはそうなんですけど、映画は「リバー・ランズ・スルー・イット」、そういうふうになっている。
どう違いますか、「A」がついていると。
僕なんかの感じとすると「The」のほうがいいような気もするんですけどね。
そうですね。
ところが、1本のというふうに言っているんですね。
それから、最終的には、もう申さなくてもいいかもしれませんけれど、現在ではネイチャーライティングというものがありまして、これも非常にいろんな人が書いていますけど、基本的には、これは資料がないんですけれど、ノンフィクションであります。そして、非常に幅があるものです。ダム建設その他の意義を認めて、そして川がおとなしくなった、そう言う人もいますけれど、私が読んだ限りでは――これはもちろん私が読んだだけですけれど、やはりダム建設とか、ああいったことは、長い目で見れば自然破壊につながるんじゃないかというような立場で書いている。それがやっぱり文学者、あるいは文学愛好者には読まれている、そういう現実があるわけです。
ただし、じゃあ、そういう氾濫を起こす、川の現実はどうするかということは書いていないんですけれど、そういう人たちのタイムスパンは長く、グランドキャニオンか何かを持ってきて、数億年の単位で物を考えているんです。グランドキャニオンが数億年かけてああいうものをつくったとか、あるいはミシシッピー川の肥沃な土地は、大体30年ぐらいに1度大洪水を起こすんでしょうか、それを数万年かけて、そしてアメリカの中央の平野ができてきたんだとか、そういう、何と言うんでしょうか、大きなタイムスパンで自然をとらえようとしている、そういうところがある。
あまり参考にならないかと思いますけど、以上で、非常に急ぎましたし、用意してきたものの半分も言っていないんですけれど、きょうの報告にかえさせていただきます。どうも失礼いたしました。
ありがとうございました。終わりのほうの、ミシシッピーの1993年ですか。
はい。そうです。
これの洪水の話は、これはもう。
お読みいただければと思います。それから、実際見ますと、日本の「朝日新聞」では100年に1度となっていますけれど、どうも「Newsweek」では500年に1度と。
そのぐらいの規模だと。
規模であらわれているし、それから堤防も30フィート、約10m、これは500年に1度を想定してつくっている。しかし、どうも水が超えそうだということで1フィート高くした。それでも危ないということで、さらにまた1フィート足したと、そんなことも書いています。
本来、何フィートでしたっけ?
30フィート。30フィートというのは10m足らずですよね。
そうですね。
それくらいの高さで、しかも、最初はクレストということがありますから、波頭を立てて押し寄せてくるわけです。それがある程度オーバーしてしまうと、もう巨大な水たまりになって、そして1週間、2週間かけて少しずつ水面が上がってくると、そういうことだろうと思うんですね。これも新聞記者ですから、どうすべきであるとか、いいとか悪いとか、そういうことは言わずに事実を述べているんです。ちょっと気になったのは、デモイン川とミシシッピー川の真ん中あたり、このあたりが一番ひどい被害を受けるらしいんです。これは洪水のたびに被害を受けるらしいんですけれど。
デモインって、ミズーリの間ですか。
いえいえ。
ミシシッピー。
イリノイ州というのがありまして、セントルイス、そのちょっと上のほうでデモインと……。
ああ。ミシシッピーの間ね。
そういう間が一番被害を受けやすいらしいんですけれど、そこが何といっても一番肥沃な土地であって、農民たちは水が引けばすぐそこで農業を始める。そして30年後にまたひどい目に遭う、そういうことの繰り返しをしているということを言っていますけれど、これはやむを得ないんでしょうね。高台のほうは水害には安全であるけれど、土地はやせている。そういう点で、洪水というものがあるプラスを残していっているということもちょっと言っているようです。ただ、日本の洪水でこれだけの大きさで、しかも1カ月、2カ月にわたって水が引かない、引かないというより、排水ができないわけですね。そして、フォークナーが描いている1927年の洪水も、何となくこの規模だったんじゃないかと、文章の感じから言えると思うんです。
■懇談
ミシシッピーは確かにおっしゃるとおり、アメリカでは唯一というか、川だと思いますし、洪水は当然、1カ月あるいは2カ月かかるという。ただ、洪水がそういう長い期間にわたって続くというのは、日本の川以外は大体そうなんですね。例えば、同じ島国でもフィリピンの川なんかは、これはどうしてなのかよく考えてみないといけないですけど、利根川と同じぐらいの流域面積の川でも、やっぱり10日とか20日間ぐらい、ずっと洪水が続きますので。
フィリピンで?
はい。
ヨーロッパはすごいですよね。
ヨーロッパは明らかに。
ナイルなんかはまさにそうですけど、セーヌにしても、小さなあんな川でも1カ月ぐらい続きますよね。多分、日本だけが非常に特異なんです。
一遍に流れちゃう。
特異な川で。逆に言うと、それだけいろんな問題が一番先鋭的に出ますので、日本の川というのは、そういう意味では、世界の人から見れば、何というか箱庭的なおもしろさを感じるのではないかなと思います。アメリカ文学とかいう視点で、アメリカは、建国されて300年にも足りていないですよね。そういうところで川をどう見るかという、ハックルベリー・フィンのそういう見方も、多分、歴史的な背景のない中でパッと向き合った人たちの物の見方という意味では、ある意味では非常におもしろいなと思って、今、聞かせていただいておったんです。日本が抱えている歴史、あるいは日本の文化、文学というものでとらえられている川を今の時点でどう考えて、それをどう再生というか、生み出していくという、そういう視点で物を見たとき、少し別のニュアンスかなという、そんな感じで聞かせていただいておりました。
私ももちろん、川に対していろいろ対策はしていると思いますけれど、住民から見ればもうしょうがないんだという気持ちを文学者は描いているんじゃないかということなんです。何もしてないんじゃないと思います。
いや。ミシシッピーも、これはアメリカ工兵隊がみずから直営というのか、直轄というのか、管理している川でして。
工兵隊ですか。
そうです。工兵隊です。コア・オブ・エンジニア。 corpsというのはフランスのコールですね。
そうですね。Troubled Waterの真ん中の。
センターの、中心という意味の。
真ん中にあるUS army corps of engineersですね。
彼らが直轄で管理して、いまだに直轄で管理しているわけですけれど、多分ものすごい、いろんな意味での投資がなされている川で、だからこそ、いろんな洪水が起こったときにflood wayといいますか、起こったりいろいろしておるんですけれども、ものすごい、一番人間の手の加わっている川の1つだろうと思います。
そうですか。
はい。
それにもかかわらず、こういうことが起こってくるわけですか。
当然です。それはもう、人間が制御できるような代物ではありませんので、川というのは。
大きいだけにですね。
はい。
アメリカの工兵隊がミシシッピー管理をやるようになったのはいつからなんですか。
工兵隊がつくられてすぐですね。ですからものすごい古いと思います。
そうですか。このマーク・トウェインの時代ですか? 南北戦争の……。
南北戦争のころはもうあるんじゃないでしょうか。工兵隊の設立は何年か、それは調べればすぐわかると思います。(注:設立は1802年。河川や道路の調査計画を開始したのは1824年。)
大体、ミシシッピー流域は、南北戦争でいえば南軍の川。じゃあ、両方にまたがるわけですね。
両方です。そうです。
うん? 両方で封鎖したのですか?
多分、北軍のほうでしょうかね。いずれにせよ、長期戦。
北軍のほうで河上交通を封鎖した。
そうです。
なるほど。それはそうですね。南のほうに兵糧が行かないように。
航路をですね。
そうです。
航路を封鎖した。
なるほど、工兵隊ですか。
corps of engineers。
今もあるんですか、その工兵隊。
あります。今も管理していますし、フランスとのつながりはものすごく強いです。
何で? もともとルイジアナあたりとか。
Ponts et Chaussees土木学校とかああいうシステム。
Ponts et Chausseesね。
はい。一番先につくられたPonts et Chausseesです、王立ですから。それとの関係がずっと深いみたいですね。
土木技術はフランスからですか、アメリカでも。
舟運ですから、やっぱり。そういう関係でそっちの技術が入っているんだと思います。
日本でも、古市公威でしたっけ。あれはフランスに。
あれは、そうですね、フランス。あれもEcole des ponds et Chausseesですね。
でも、フランスは何でそんなになったかな。フランスは、せいぜいセーヌ川とかロワール川ぐらいしかない。こんな巨大な川はない。
ですが、よく似たもんですね。
まあ、そうですね、管理については。
感じから言いますと、川の感じは。
大小違いますね。
ヨーロッパですと国にまたがっているということは問題ないんですか。アメリカですと、州にまたがってるところはありますけれど。
いや。ですから、今はやっぱりtrans boundary(注:国境を越えて)、それは大問題。
大問題でしょうね。
はい。河川の管理としては。
ダニューブ川とかライン川。
ええ。
そうでしょう。ラインはそうですね。今ダニューブが、ヨーロッパ統合に向けて新しく入りましたですね、東欧諸国が。これはやっぱり大問題ですね。
なるほど。樋口先生、どうぞ。
日本と大分違うなという感じ。
そうですね。
繊細な風景と。上流のほうへ行くと、日本の川と似てくるんでしょうか。
ええ。上流でフライフィッシングやっている川は、日本の中流ぐらいの大きな川なんですね。
ですからあの映画を見えると、すごい親近感を持って見ることができますけど、こういう川を見るとスケールが全く違うなという印象を持ちますけど。
水源というのはたどれないんですか。
多分そうだと思いますけど。
あっちもある、こっちもあるから。
幾つもあって。
どの川が支流であるかということは、大変なんじゃないでしょうか。
ラインなんかだと、一応ここが水源だというのがありますよね。ラインとかドナウは。
ドナウとかね。
ああいうのはないわけですね。
ないというか、考えられないと。
考えられない。
でも、一応、ミネソタあたりがミシシッピー川といったんですね。
ええ。ただ、ミシシッピー川は上流のほうはそういうことですけど、本流もまたミシシッピーといってますから。
もちろんそうですね。
ただ、ずっとたどっていけば、ミシシッピー川の本流はここだというのは、多分決めていると思います。日本の利根川だって、それはいっぱいあるわけですけど、ここだと言っているだけです。
それは黄河だって。
どこでもそう。どの川でもそうです。
ただ、アメリカの場合ですとほんとうに広いというんでしょうか。つまり河口は、アメリカ合衆国が細長い長方形としますと、真ん中あたりから対角線で西の一番上まで行っているんですね。最初、モンタナのあれは、ミシシッピー川の上流であるとは思わなかったんですね。流れる方向も北へ向かっているわけですから。
あ、そうですね。1度北へ行っているから。
北へ行って、右へ行って、また下って。
それは信濃川でも、千曲で西北へ流れて、それから東北へ向きを変えていますし、それは……。
山に遮られていくんですか。
でしょうね。つまり、大陸分水嶺になります。このマクレーンという作家も、これはどこにもあるんですけれど、ちょっと変な話ですけどおしっこをして、こちらはオレゴンへ行く、こっちはメキシコ側へ行く、そういう話を書いてあるわけですね。そのあたりから流れ出すわけですから。
日本だと、この研究会でも何遍も出てきたんですが、川はあちこちの歌枕になって、「万葉」「古今」「新古今」なんていうけれども、ミシシッピーは。
ないと思いますね。
そこがちょっと、歴史の乏しいところですね。
先生がおっしゃるようにアメリカ自体が歴史が乏しいし、文化は乏しいと、そこにいくんですね。
乏しいし、短いですから。
ええ。
そうそう。
乏しいというと語弊があるから。
それは、でも、セーヌ川もやっぱり歌枕じゃないですね、あれは。ラインは歌枕ですかね。
母なるとか父なるとか、そのような言い方はあるわけですね。
ミシシッピーについては?
ミシシッピーもそうなんです。ケルアックなんていう人は全く東部の人間ですけれど、そして、多分、彼が見たミシシッピーというのは非常に貧弱な川だったと思うんです。ところが感激しているわけですよね。
なぜ貧弱なんですか。水が少ないときだから?
そうです。だから私などは、何でこんな小さな川と思っちゃったんですけれど。
ミシシッピーのイメージはファザーですか、マザーですか。
ファザー。英語文では、the Father of Watersと言っていますね。
何でファザーなんですかね。
そうですね。母なる川という感じではないと思います。
母なる大地であって、父なる川ですか?
このFather of Watersというのは普通辞書に出ています。
それはミシシッピーに限らず。
限らずだと思います。
それは変ですね。
イギリスだってそうですかね。
どうでしょうね。
フランス語はラ・セーヌだし。
ラ・セーヌだし、男性名詞の川もある。
男性と女性、両方ありますね。
男性名詞のロワール川もあるんですね。
両方ありますね。
「谷間の百合」のほうは男性名詞のル・ロワール。
ラインは父じゃないですか、母ですか、ライン川は。
ドイツ語はどっちですか、冠詞は。
どっちですかね。
どっちでつけます?
あれ、冠詞で決まるのかな。
でしょうね。
日本は坂東太郎だとかいうと男性ですね。
男性ですね。
男の子ですね。
神様じゃないんですね。
暴れ川は男性なんじゃないですか。
神様じゃないですね。
神ではないんじゃないですか。
いや。ただ、神でもあるんじゃないですか。竜神。
九頭竜川なんていうのはね。
川を竜で表現しますから、それは僕は神になっているんだと思いますけど、日本でも。
竜神信仰はあるでしょうね。
碓氷峠のところが利根川の最上流だと思いますけど、鈴木大拙か何かの石碑があって、山深くして水清しというのがありますけれど、そこは水神と言っていますね。それは水の神様といっても、むしろわき水に対する水神という。
いや。あと、水神はそうですけど、竜神って。
竜のイメージは川なんですよね。
水の神で一番思い出すのは貴船なんですね。貴船川。あの神様は、淀川水系をさかのぼってきて貴船に至って、ここに住もうとお思いになったと書かれていますよね。
ああ、そうですか。
ですから、それは入り込んできた神で、途中の神とトラブルを起こしたとは書いてないから。
そのものが神じゃないのですね。
あれは水源を守っている神なんです、おそらく。山は神格で海も神格なんですが、川は境界領域で、山から発するがゆえに清らかで禊ぎをする場所になると思うんですが。神にまみえるときは、だから、川で禊ぎをして清らかになって会うんでしょうね。ただもう1つ別に、橋なんかの工事をするとき人柱を立てるという伝統がありましたね。これは明らかに川の神に身をささげているわけで、弟橘媛(おとたちばなひめ)が荒ぶる海に身をささげて海を鎮めたのと同じパターンですね。だから民間信仰では、川が神であるというのは別の流れとしてあったんだと思うんです。今でも西日本中心に、例えば立ち小便を川に向かってするときに……。
罰が当たりますね。
罰が当たるとか、「川の神こらえなされ」という呪文を必ず唱えよという習慣がありますから、やっぱり神格としての神も、別の流れとしてはあったと思います。
島根県の簸(ひ)川なんていうのは、あれはそれ自体が神様みたいな。
あれは須佐之男がさかのぼっていくんですね。そこに翁といますね、手摩乳(てなづち)、脚摩乳(あしなづち)が。あれは、でも、川の神でしょうかね。どうなんでしょうか。
あれは翁のほうが川の神。
そうですかね。2人の間にできたのが稲の神ですね、姫が。
稲田姫ですね。
櫛稲田姫ですからね。そういうところがあるかもしれませんね。
神話では、一般的な言い方として、山の神に対して川の神という言い方があります。それは、文字で書かれたのを見ると中国の影響なんでしょうけど、河伯なんていうふうな書き方してますから。そういうのとまた違うと思うんですけど、平城京あたりまで踏まえてのことなんだと思うんですけど、広瀬の神様がやっぱり川の神として祀られていますね。今、話の出ていた須佐之男なんか、これはいろんな要素が入ってきているのであれですが、しかし一般的には、やっぱり川の神としてのイメージもあるし、それは大体蛇体神としてのイメージで考えられていますよね。 僕がむしろさっきお話を伺っていて気になったのは、おやじの川というふうにおっしゃった、あれがどんなレベルから言われているのかということなんですけど、さっきおっしゃった川の性のとらえ方からだけなんですか?
オール'マンリバーというような言い方で。
オールドマンですね。
ole、オールという発音。
ole、それはオールドのことですね。
そうです。おやじの川と。
あれを聞いていておもしろいなと思ったんですけど、日本では演歌にある「おやじの海」というとらえ方がありますけど。おやじの川って初めて聞いたものですから、どこからそういうような言い方をしてくるようになったのか。
随分違いますね。
そうですね。そして、フォークナーの"The Wild Palms"も2つ、全く関係ない話を章ごとに組み合わせているんですけれど、一方はThe Wild Palmsで、もう1つはThe Old Manで、ミシシッピーのことなんです。
このパームというのは手のひらのこと?
いいえ、棕櫚(シュロ)。「野性の棕櫚」です。
インディアンはどういうふうにとらえていたんでしょう。
さあ、そこまでは調べていませんが。
もう1つ、日本の川の神様で女性神を考えているらしいと思われるのは、福井県の和紙をつくる、あそこの由来譚が。
どこですか?
川上御前というのが何とか姫というふうに言われていますね。そのくらいしか、僕は日本の川で川の神が女性神だというのを知りませんけど。あとはやっぱり日本でも、多分、男に考えていたんじゃないかと思うんですね。
川は?
はい。
そうですかね。
ただ、神話に出てくる罔象女(みずはのめ)大神というのが、性がどっちなのかなというのはちょっとわかりませんけどね。
あれは女性じゃないんですかね。
女(め)というから、多分、女性だと思うんですけど。
海の神も女性ですね。宗像三女神とか住吉三女神。あ、底筒男(とこつつのお)という言い方もあるか。男性神もいますね。山の神が女性だというのは、あれはどこから来ているんですか。
どんどん変わりますからね。男が女になったり、女が今度は子供になったり。
あ、そうですね。変わりますからね。
もう次々変わるから。
山の神にはオコゼを供えるというでしょう。山の神は醜女なので、オコゼを供えて、あなたよりもっと醜いものがこの世にあると。お慰めするという言い方ありますよね。だから、わりと伝承としては古いんじゃないですか。それから、こんなところで言うのは何ですけど、前をまくってお慰めするという言い方あるでしょう、山の神。男がね。
あ、そうですか。男が?
醜男が前をまくってお慰めする、ごらんいただいてという、そういう伝承ありますから。
三輪山なんか、ああいうのは男でしょう。
大物主ですからね、あれは男性神です。
で、蛇になって女を襲うんだから。
アメリカ文学の中にはインディアンの神話はどれぐらい入っているんですかね。マーク・トウェインとかヘミングウェイ、フォークナーぐらいなら。
ほとんど入っていないんだろうと思います。
もっとたっぷりいると。
ええ。これ、現代になってから入ってくるわけです。20世紀になって。それまでは、申しわけないんですけれども、無視されていたわけです。
それは相当強引ですね。要するに植民地文化ということですね。
そうです。つまり、白人の文化なんです。
そうですね。
それはやっぱり征服するほうの立場ですからね。
ええ。それが20世紀の。
メキシコあたりなんか、もうひどいもんですもんね。全部破壊して、破壊したものを使って教会つくったりしてますからね。
そうそう。
アメリカでは、結局、60年代のああいう動きの後で反省して、彼らの権利を。
ヨーロッパの連中はめちゃくちゃしてますよ、これは。
それはそうですよ。
ひどいもんだ。
しかし、それでいながら、ミシシッピーという名前だけはインディアンからいただいているということなんですけど。
そうですね。ミズーリですよね。
そうです。ほとんどそうなんですね。それから、ギリシア神話をちょっと見てきましたら、呉茂一先生の古い本ですけど、「ギリシア神話」では、一般に河川というのは自然をおそれ、崇拝する原始人の心理からして神格化されがちなもので、ギリシアでも河川は大小それぞれ対応する権威を与えられて神として祀られ、時には祭祀や社殿をさえ供えることがあったと。犠牲を捧げ、供え物を供えて、都市ごとに祀るのが通例となっていたと。
男女の別の話。
ええ。これで見ますと、ただし、系譜から言うと定説のように、これらの河川の神々はオケアノスの息子の川ポタモスはギリシア語で男性名詞なので、息子と書いていますから、やはり娘という感じが強いんじゃないかと思うんです。
オケアノスがOCEANになるわけ。
はい。とされていたが、神話伝説の実際ではあまり関係なく、男女は、そういうふうに書いて。
やっぱりね。
ええ。そして、やはり非常に多くの川の神が、それぞれの川に神様がいたというような説明をなさっているようです。
生産に関係するときは女性神ととらえる傾向があるんじゃないですかね。またぎなんかは、だから、山は生産を与えてくれるものだから女性神ととらえて、さっきの和紙のお話でも、やっぱり和紙を生み出す元としての水ですから、女性神を考えてらっしゃる。
生産に結びつくと、なるほどね。
女性神で。大物主のような意味合いは生産ではないですからね。あれはとんがっている、天に近い、屹立する象徴としての神ですから。
そうか。ははあ。なるほど大変ですね、これは、河川局も。日本じゅうの川を男女と、こう分けていったらおもしろいかもしれない。男川、女川、両方合わして男女(みなの)川と。
おもしろいですね。それやってみたら、けっこう男川と女川が出てくるかもしれませんね。
そうですね。
河川の改修なんていうときには、何かこういうふうに……。例えば、建物をやるときは地鎮祭みたいなのをやりますよね。ああいうのはやるんですか?
やるとおっしゃいますと?
いいや。だから地鎮祭みたいな、川鎮めの。
水鎮祭かな。
水を鎮めるような、お祭りみたいな。
水鎮めの。
工事そのもので業者が共通してやるというのはありますね。川の工事であろうが、トンネルを掘ろうが。
やっぱり神主さんが来てこうやって?
ええ。工事のときはやっていますし、終われば終わったで、また。
水分り(みくまり)神社なんて、男ですか、女ですか。
ああ、水分り神社。おもしろい。
水分りね。いかにも女性みたいだけど。下が田んぼになるわけでしょう。
あれは出産の神を兼ねてますよね。
そうですね。
やっぱり女性神。
分る(くまる)ですかね。みこもると言いますしね。
でも、水を配るが水分りになったんじゃないですか。
それがさらに、こもるになった。
そう?
子供を守るって。
子守の神様。
子守の神に変化したのね。
ああ、そうですか。
ですから女性神のようなイメージですね。
ほんとうは水分と書くんですね。
水分ですよね。
これはみんな樋口さんの本で知ったことだけど。
日本人が思っているのは、川はやっぱり女性ですかね。女性のイメージですかね、日本人は。
そうですね。
今の現在人、どうですかね。
母なる川ですから。
母なる川ですね。
それは案外、西洋から与えられたイメージかもしれないですね。
アメリカのミシシッピーはやっぱり男性のイメージが強い。ただし、フォークナーの水の描写は、これはいろいろあるんですけど女性なんですね。
水は本来女性的なものなのであって。
液体で、やわらかくて。
温かくて。
そうです。忍耐力があるとかそういう。
上流ですと、やっぱり癒しの場になったり何かするから女性的な感じしますけど、下流部に行ってはんらんしたり何かをするとやっぱり男性的なイメージと。
ものすごいですよ。
何かそういう。
竜神に変わるか。
ええ。どこかでヒュッとこう。
上流は逆に、それは土石流とか出ますから。そっちのほうがずっと荒々しいイメージ。
だから、それをどういうイメージを抱くかで変わってくるんじゃないかな。
いや。川もものすごい……。
ええ。だから、女性のとらえ方にもよるわけですね。
伊丹のわきを流れているのは何川でしたっけ。
猪名川でございます。
猪名川か。あそこにちなんでの神話で、「住吉神代記」に出てくるのは女性の神様が争う話ですね。川の神様、女性神。
「老子」の場合は玄牝(げんぴん)で、女性ですね。
そう。女性ですよね。
コクシンシセツね。
幾ら使っても尽きないという。
それから安曇川水系では思古淵(しこぶち)の神というのがいっぱい祀られていますね。淵の神、思古淵という。醜は強いという意味だと思うんですが、醜女の醜で、醜いと書いて。
淵は?
淵は深いところです。思古淵の神って、いっぱい安曇川水系にありますね。最大のあそこの神です。
安曇川水系ってどこですか?
安曇川水系って、琵琶湖の北の安曇川に流れ込む。
そうですか。そうか。
安い曇。
至るところに思古淵の神って。
ああ、そうですね。安い曇だ。
はい。あれは何なんでしょうね。あれは淵の神ですから水神だと思うんですが。ほかの神を押しのけて、あそこはほぼあれ一色というぐらい。
あそこへ集まったんじゃないですか。
それはお醜様というのとかかわりありますか?
ええ。思古淵の思古とお醜様は同じ系統でしょうね。はんらんする川かもしれませんね、醜ですから、強力な。
カッパをお醜様って。
カッパのことをお醜様って言うんですか。
はい。
醜の益荒男の醜です。
カッパの神様のことをお醜様って言うところもあるんです。
醜女の醜。
だろうとは思うんですけど、それで今伺っていて。
何だかいろいろと一遍に出てきちゃいましたね。  ミシシッピーはこうやって各流域にわたって氾濫すると、それの修復費とか何かは各州が分担して? フェデラル・ガバーメントが半分ぐらい持つ? 日本では県と国とですね。
私が行ったときに、ミシシッピーで州の知事の名前で工事をやっているところがありました。
州、ステートですか。
ステートです。ですから、ちょっと分担しているんじゃないですかね。ちょっとそれはシステムは僕はよくわかりません。
洪水のたびに分担しなおすんじゃ、あれですね。
それはないでしょう。ルールがちゃんと。
大体ルールはあるから。
そうですね。これでも知事が来ていますし、大統領も来ているわけです。だから、やっぱり全国的なものでもあるんじゃないでしょうか。
大水害のときはエマージェンシーを何か宣言をして、そうした場合はフィーマか何かそういうのが出てきてというシステムで。ただ、それが終わった後の災害復旧をどうするかというのは、別の何か体系があるんだと思いましたね、多分。
ということは、州ごとということですか。
1993年で少し制度が変わっているんです。
これでですか?
ええ。
これで不備だったんですね。
前は基本は工兵隊が持って、ローカルは地方でやっていたのが、もう少し流域全部で見る必要があるという「ゴアレポート」というのが出て、それから、予防から何からけっこう余計に国が口を出すようになっているところがありますけれども。それでも、基本的には役割分担の世界で書いてありますね。
この93年の大洪水って、ルイジアナ州のほうには洪水は広がらないのですか? 上のほうであふれちゃって、下は普通なのですか?
むしろ下のほうが被害が大きいんじゃないかと思いますが。
それはそうですね。ルイジアナのあたりまで?
ええ。そうだと。ただし、下のほうはむしろ護岸工事がしっかりしているというようなことがちょっと書いてあったと思いますけれど。
上でこれだけ広いところにあふれてしまえば、下は案外行かないで済むのではないですか?
ええ。ところがこれで見ますと、どうも中流あたりが一番被害を受けている感じがあるんですね。
でしょう。下流はむしろ。
むしろ護岸工事をちゃんとやっているので流れていく。
そうか。
その中間は四方八方から合流するわけですから、大変なんだろうと思うんです。
事務局からお伺いしたいんですけど、さっき、ネイチャーライティングの話でダムのお話がよく出てくるんですが、ダムはダムでわかりやすいんですけど、ダム以外の話というのは、ネイチャーライティングの中では、川はどうあったほうがいいとかいうのは。
そういう何か系統だったものではなくて、非常に感覚的なもので、ここでもそうだと思いますけれど、象徴として扱っていると思うんです。
ほとんどダムの話でございますか?
どこどこのダムがけしからんとか、そういうのじゃない。
そういうことじゃないんです。もう少し一般的に。
じゃ、ちょっとインパクトは薄いじゃない。
ええ。
俳句みたいな感じ? 「奥の細道」みたいな感じ?
もちろん特定の川を描いていて、そこにダム工事というのはあるんだと思いますけど、それだけを攻撃しているということでなくて、やはり要するに、人工的に制御するというようなことに反対している、そういう一般論に近いんじゃないかと思うんです。
そうだと思うんですが、ダム以外で川の使い方をもうちょっとこう……。
それは、それぞれの作品によって違うと思いますので。日本で考えられるようなことは、そしてその扱っている川にあれば、当然あがってくると思うんです。
でも、まだほんとうの傑作なんて、そんなにないんでしょう、ネイチャーライティングは。
そうですね。第一級のクラシックというのはないと思います。
ないでしょう。僕も何か研究発表を聞いたことがあったけど、あまりおもしろくなかったですね。
そうですね。ま、そういうところはあるんですけど。ただし、数が多くなったということと、それから英文科の先生がそちらのほうに目を向けていると、そういう傾向が強いということなんです。それがあと20年くらいたちますと、総決算で傑作があるのかないのか、そういうことが出てくると思います。
日本ではないですか、ネイチャーライティングみたいなのは。今。立松和平とかさだまさしとか。
そうですね、今、日本ではむしろ宮沢賢治とかああいう人たちに目を向けているんです。
それは結構ですね。宮沢賢治は、それは偉いから。
ええ。ああいうところをアメリカの理論で解釈しようという、そういう傾向が強いと思います。
宮沢賢治は単にネイチャーライティングなんていうものじゃないな。
それは全然違う。
ネイチャーライティングと言わなくてもいいんですけどね。
もったいない。
宮沢賢治が怒るな。
怒る、怒る。それは斎藤茂吉だってネイチャーライティングだし、芭蕉もその系だし。
そうですね。
もっとさかのぼれば「万葉集」も、柿本人麻呂なんていうのは。
はい。ただ、アメリカなんかの場合ですと自然と人間は完全に対立するものとしてとらえている。
それはそう。
それが日本の場合ですと自然の中の一部としての人間ということで、向こうの学者は日本のそういう見方を紹介する。そういうことで、日本の研究者から見れば当たり前のことを言ってるじゃないかという面もあるんです。
当たり前のことね。今度のインドネシア洪水でも何十万死んだ、あれはああいうものだと、あの地域にしてはあきらめているんですかね。やっぱりあきらめもあるんでしょうね。あれはヨーロッパやアメリカとは違うでしょうね。インドネシアの、スマトラの先あたりとか。
いや。あきらめているかどうかわかりませんけど、この前、私はスリランカへあの後行ったんですが、茫然自失してますね。
茫然自失ですか。そうですか。
ですから、立ち直れる、その……。
気力を失った。
失っておられるんです。
そうですか。
現地の人たちからは、日本はそういう災害を受けて立ち直った経験をいっぱい持っているだろう、そういうのをぜひ伝えてほしいと。
ぜひ伝えるといったって、何を伝えればいい。
ですから今度、奥尻で被害を受けて、そこから立ち上がった実際の漁民の方と、それから奥尻の町の方とが現地に行って現地の人と話をするような、そういうことをやろうといって、今、若い連中、ユースの連中がそういう取り組みをしてますけれども。だから、あきらめているとか何とかいうけど、やっぱりあれは、太平洋でチリ津波が起こって日本人が被害を受けて人命を失いましたね。あのときは太平洋でそういうシステムをつくりましたけど、インド洋ですからなかったんですね。当然、あそこはプレートがもぐり込んで。
それはこれからつくらなきゃいけないですね。
はい。だから、あそこもつくっておけばよかった。そうしたらこんなに命をなくすことは絶対なかったはずなんですね。
そうですね。何時間かあったんだから、スリランカなんか。
もうものすごい時間はあったんです。同じスリランカでも、インド洋に面しているところから裏へ回り込むまで数時間かかってますから。
そう。あれがまたすごいですね、回り込んで。
ですから、あれは人命は、少なくとも救えましたですね。
そうですね。スリランカの表側、東側に来たところで、まだ西側は逃げられたでしょう。
うん。それは逃げられるでしょうし。ですからそれは、警報システムがちゃんとあれば。アチェのところは別にしましてですね。
でも、このマーク・トウェインやフォークナーみたいに、人間は自然と対立し、自然は時々人間を逆に逆襲するというとらえ方は、この太平洋沿岸には、インド洋沿岸にはそんなにないんじゃないですか?
ちょっとわかりません。
人間は時々海にのまれるものだと。
ああいう災害の記憶が全くないんじゃないですか。
そうか。ないから、あんなのは。
ないからやっぱり。
生まれてないと。
津波というのはね。
ええ。
全くないこともないようなんですけどね。
ああ、そうですか。
でも、あれこそ何百年に1回でしょう、こんなのはね。こちらは150年に1回と書いてある。
ただ、あれは同じところが壊れるのは数千年、数万年に1回ですけど、いっぱい壊れるところありますから、もぐり込んでいるところが。もうちょっと頻度はあるんでしょうね。
もし記憶があればね。何かそういうふうなものがもうちょっとあってもいいと思いますけどね。
そうか。そうすると、茫然自失する以外ないか。
ほんとに茫然自失で。
でも、そこに奥尻の漁民が行っても役に立たないんじゃないかな。
ちょっと行ってみないとわからない。
あまり文化が違いすぎて。
そうかもわかりません。ただ、現地からそういう声があるというので、若い連中が一生懸命今、取り組んでますので。
宮村さん、何か。
いや、もう聞くだけに回ってますけど。きょうはミシシッピー川の話を聞いたですが、アメリカにはほかにそういう川を取り上げる……。
ええ、もちろんあります。
例えばコロンビア川というのは母なる川ということで。
コロンビア川というのがあるのですか。
ええ。
うん。コロラド川が父なる川ですね。
コロラドが、あ、そうですか。
同じアメリカの中でも、しかも南と北であって流れ方が全然違うので。
多くの川を取り上げていますけれど、その中で問題は、むしろ川下りとか冒険物語としてとらえられていることが多いものですから、きょうは取り上げていないわけです。小さな船で上流から河口まで下る、その間で土地の住民との交流とか、そういうタイプの小説というんでしょうか、ノンフィクションは非常に多いんですね。
ハドソン川は?
ハドソン川はあまり聞かないですね。
そうですか。
それからネイチャーライティングですけれど、いろんなグループがあるんです。そして、一番大きいのはいわゆる環境保護団体の、改革を求めるパンフレットがありますね、こういうものを大学の英文科のネイチャーライティングを研究しているあるいは書いている人たちは批判的なんです。それは文学ではないと。そうではなくて、例えばソローがいつも中心になるわけですけど、150年前、自然に対するものを言っている。それは言っているのは直接の何かを言っているんじゃなくて、むしろある特定の状況を変革するための主張でなくて、人間の意識を変える、そういうところにウエートがあると。それがほんとうのネイチャーライティングだというような言い方があります。
それはアメリカの中でですか?
アメリカの主流がそうなんです。ですから、環境団体で過激なものありますね、どこどこのダムはけしからんとか。そういうものと一線を画している。
そうですか。
それは両方あるんです。それじゃだめだという先生と。
環境と。
それは文学で、対照的なものであって、意味はないと。もっと100年単位で物を言わなきゃいけないと、そういうグループが出ていって、私の受けた感じでは後者のほうが多いものですから、どこどこのダムを廃止せよとかそういう形では出てこないという感じです。
ソロー、ウォールデンの後継になるのですね。
戻れという、そうなんです。
じゃ、安心しました。というわけでもないか。
ダムは、それはだれでもつくりたくてつくっているわけではなくて。それはやむを得ず、プラスとマイナスを考えてつくっているだけの話で。
ええ。それはわかっていますけれど、そういうグループの人たちは、やっぱりターゲットになるんですね、どうしても。
ですから、アメリカでネイチャーライティングでダムを壊そうという人は、さっき話が出たサンフランシスコとかロスに水を持っていっている、あの上流の大ダムを彼らが壊すというのは、それはそれで私はちゃんとした決心だと思いますけどね。
ですから、ロス、サンフランシスコがひからびてもいいと言うんですか。
そうそう。なくなっていいという決心をするなら。
そこまで言うならね。
うん。それなら本気の。
それは実際そうなので、そういう主張をする人たちは、主張しながら、実は文明の恩恵に。
そうですよ。そんなこと書くのは、電気つけて書いてるんでしょう。パソコンで書いてるんでしょう。
そうです。
木の葉っぱに筆で書いてるのならまだしも。
だから、そういう批判は当然あるんですけどね。
それで電話かけて、ファクスで原稿送っててね。それでシアーズか何かで買ったワイシャツなんか着てね。
そうです、そうです。
■「歴史・文化のかわづくり」について
クリップどめにしております資料−2でご説明をさせていただきます。
本懇談会でございますが、文学・芸術などを題材といたしまして、日本人がどのような思いを抱きながら川と接してきたのか、川と日本文化や風土との関わりはどうであったかなどを探り、歴史と風土の観点から見た望ましい川とは何かを考察することを目的に、議論をしてきていただきました。
これまで9回にわたって懇談を行ってまいりまして、特に平成15年5月には報告書を取りまとめ、今後の川づくりのための調査・計画に当たってのよすがを示していただいております。
この報告書をはじめ、本懇談会の活動につきましては実際に現地で活用されるように、国土交通省や都道府県の河川の担当者に広く伝えておるところでございます。
また、お手元の一番後ろのほうにつけております、「歴史・文化に根ざした郷土の川づくりのための調査の手引き書」というのは、これはまだ実際に河川の担当者のほうに配布はいたしておりませんが、これから配布をしようということで考えているものでございまして、歴史と文化を生かしたまちづくりのための調査方法、そのデータの整理の方法、活用の考え方などをまとめたものでございまして、こういったものを実際の現場のほうに配布をして進めてまいりたいと思っているところでございます。
資料−2に戻りまして、こうした中、国土交通省といたしましては、成熟社会を目指す我が国において、都市や地域における貴重な水辺空間を歴史・文化の香りあるものにすることが重要と認識しておりまして、歴史・文化を今後の国土形成、河川管理の底流にしていきたいと考えてございます。
そのため、昨年度いただいた報告書の内容を生かし、具体的に歴史・文化の香り高い国土を形成していくために、どのような視点からどのような方策や工夫を行っていけばよいのかということにつきまして、本懇談会におきまして提言をいただきたいと考えてございます。
例えばということで、視点として考えられることといたしまして、川に関する歴史・文化を知ってもらうには、いかにすればよいか。歴史・文化が身近に感じられる水辺空間づくりは、いかにあるべきか。歴史・文化の香りが将来にわたって育まれるような雰囲気を醸成するには、いかにすればよいかなを考えておりまして、どういったことにつきまして具体的に方策や工夫を行っていけばよいのかということについて、お伺いしたいと考えてございます。
次の頁でございますけれども、今回、ご提言をお願いしたいということでお諮りをいたしまして、ことしの春、具体的な内容を提案させていただきまして、夏前までに提言を取りまとめるというような形で進めさせていただきたいと思っております。
そうすると、そこまできてこの懇談会というのは終わり。
いえ。そうではございません。
あ、そうですか。まだ。
また、外国文学と川との関係ということで、また。
ガンジス川もあるし。
諸外国の川との比較において、我が国をもう1度考えてみるということにつきましては、引き続き取り組ませていただきたいと思っております。
次の頁でございますけれども、例えばということで、今後の川づくりにつきまして考えられることということで、イメージしていただけることができるようなものということでペーパーをつくってございます。
左のほうに基本的な視点ということで、先ほど申しました3つの視点が書いてございます。知ってもらうということにつきましては、歴史・文化の関わりがある川のほとりの歴史的建造物や句碑、治水施設、文学や歴史的事件、地域の伝承、伝統行事などの存在をさらに知ってもらう。よく知られてないものについても、さらに掘り起こし、より豊かな情報としてお知らせしていく。
それから水辺空間づくりにつきましては、地域の歴史・風土を反映した川の姿や文学・芸術の背景となった景観などを考えたトータルデザインされた川づくりを行っていく。歴史や文化に関する素材をつなぎ、歩きながら楽しく学ぶことができるよう動線を確保するとともに、余暇活動・学習活動の場を提供する。
それから、将来にわたっての雰囲気の醸成ということにつきましては、水辺空間や、川と人との関わりを大切にする。あるいは、歴史・文化のかわづくりの取り組みが将来に引き継がれ、後世から見ても良好なものとなるよう、人々の活動の場や必要な情報の整備・提供を行い、歴史・文化の橋渡しの担い手となる人の育成やネットワークづくりを手助けしていくというようなことを例示として今、考えてございますけれども、こういったことにつきまして、具体的に各先生の方からご意見、ご提言をいただきたいと思っております。
右側のほうでございますが、実現するためにとりあえず考えられる方策としまして、川に関する歴史・文化の再発見でございますとか、歴史・文化の案内役の充実など知ってもらうための工夫ですとか、川の博物館などの有機的連携と充実、それから歴史・文化がトータルデザインされた水辺空間づくりなどを考えてございます。
イメージをしていただくために、さらに次の4頁目以降でございますけれども、歴史・文化の雰囲気をうまく生かしながら散策路を整備したり、あるいは伝統行事も復活させるなどの取り組みを行っております。栃木県栃木市の巴波川の絵など……。
巴波川(うずまがわ)?
はい。
珍しい名前。
江戸時代に日光東照宮の物資輸送のためのいろいろな集散地としまして蔵が多く建てられまして、そういった歴史的景観を生かしたまちづくりが行われているような例でございます。 それから次の頁でございますが、松江市の松江城の周りのお堀でございますが、堀川でございます。昔、城下を守るということに加えまして、物資の輸送とか生活用水などにつきまして古くから生活に結びついてきた堀川でございますが、水質が悪くなってきたということで、水質浄化事業によりまして堀を甦らせる。
この浄化作用も国土交通省ですか。
ちょっと工夫がありまして。普通は中に水を川へはく、洪水のときに水に浸からないようにはくんですけど、逆流できるように、日ごろ使ってないときに大きい川の水をここへぐるっと回しまして。グルグルと回してやると堀の水がみんなきれいになって、そうすると船とか船の周りの石垣から何から、全部周りの家並みもみんなきれいになっていってるんですね。そういうのを実験的にやって、結構うまくいったという例です。
うまくいったんですね。前は汚かったですね。
ええ。
船に乗って回るなんていう感じは全然なかったですね。そうですか。これも国土交通省の島根県事務所がやった仕事ですか。
そうですね。出雲工事事務所でございます。
ああ、そうですか。松江市でもなく、島根県でもなく。
ただ、役割分担してまして、お堀の中は市か県がおやりになって。
ああ、そういうことになって、イニシアチブは。
先ほどの水をグルグルと回すほうはこちらがやってというような、連携をしています。
はい。
次の頁でございますが、歴史的な建造物保存の例ということで、荒川と荒川の放水路を隔てているところの岩淵水門という、明治43年につくられた水門があるわけでございますが、これは地盤沈下で操作に支障が生じたり、また計画的に合わなくなっているということで、昭和48年に、それの下流側に新しい水門を建設いたしまして古い水門はその役目を終えたんですけれども、現地のほうに保存いたしまして、公園などと一体となりました地域に親しまれる構造物として残している例でございます。
それから次の頁でございますが、長崎県の本明川。1839年に建設された眼鏡橋が、石橋でございますけれども、あったわけでございますが、1957年の水害で、その石橋が洪水をせき止めるということで大きな被害が出ました。それの災害復旧ということで、爆破してしまうということも考えられたわけでございますけれども、川のほとりに移設保存して、現在は地元の方々などに親しまれている施設となっているという例でございます。
それから次の頁ですが、京都の鴨川の納涼床でございます。川の中に橋げたがせり出しているような形になっているわけでございますが、歴史的・文化的な経過を含めまして、例外的に設置を認めるということでございます。
例外的なんですか、あれは。ほんとうは法律違反なのですか?
法律違反というか、許可を可からしめればいいということなので、許可の基準としては一般的にはあまりこういうものは、やはり阻害物になりますのでしておりませんが、厳密にどこまで問題かというのを検討しております。
このためにこの委員会をやっているわけでね。あれがなくなったら鴨川でなくなる。大いに奨励してください、むしろ。
ええ。
反対側にも何か。去年かおととし、出雲歌舞伎で舞台をつくるだけでも大変だったようですね。おたく河川局と、それから京都の消防署だか警察署だかと。仮設の仮舞台をつくってそこで出雲阿国歌舞伎をやって、こちら側の先斗町のほうのお茶屋から眺めたという、あれは非常におもしろかったんですけど、あれはもう大変な苦労をしたらしい。
河川区域の中に能舞台があるところもあるんですよ。
そうですか。つくってしまえばいいんですね。文化と歴史の保存とか言えばいいんですね。
どうしたらできないかじゃなくて、どうしたらできるかをぜひやりたいと思ってますので。
京都のこの床のこれ、材質が今全部鉄骨になってますよね。あれは木に戻すべきですよね。
せっかくあれ許してるんだから。直されたら。
続きまして9頁からでございますけれども。A3版で折り込みになってございますが、川の博物館・資料館のリストがございまして、約200ほどのものがあるのではないかと。これは、これから歴史・文化といろいろ関わりを深めるための拠点として活用していけるとともに、また、ネットワーク化によりましてさらに歴史・文化を伝えていくような場として活用できるのではないかと考えてございます。
A3版の後ろの頁でございますが、13頁でございます。多少、円グラフで分類をしてございまして、右のほうからでございますが、河川の事務所やポンプ場などのスペースを有効活用しているもの、それから国が建物を別途建設しているもの、それから国と自治体が協力して設置したもの、都道府県が設置したもの、市町村が設置したものなど、いろいろございます。また、用途につきましても、その下でございますが、川・水をテーマにしたもの、魚をテーマにしたもの、ダムをテーマにしたもの、砂防をテーマにしたものなどがございます。
14頁からでございますが、上のほうに河川事務所やポンプ場などのスペースを有効利用した例が2カ所ほどございます。北上川と豊川でございます。国が別棟の建屋を設置した施設ということで、九州・筑後川の例、それから白川の例がございます。
九州・白川は何県ですか。
熊本の市内を流れています。
あ、熊本市内ですね。
安蘇の外輪山の中の水を集めて、ちょうど熊本を通りまして有明海へ。次の頁でございますが、国が自治体と協力して設置した荒川の知水資料館、それから都道府県が設置した例ということで千葉県立関宿城博物館、それから市町村が設置した例としまして相模川のふれあい科学館、それから北九州市立の水環境館などがございます。こういったものをこれからいかに有効活用していくかということにつきましても、ご議論いただければと思います。
それから最後の頁でございますけれども、これまで歴史・文化のいろいろご議論いただいた内容につきましてはホーム頁のほうに記載してございます。左の下に出ておりますのは、実際のホーム頁の画面の例でございます。右側でございますが、現在、公開している情報、歴史・風土に根ざしたこの懇談会の議事録でございますとか、先ほどの報告書、それからいただきました和歌と祭りにつきましてのリスト、それから歴史的建造物のリスト、広報活動の事例や河川伝統技術などが掲載されてございます。
本年度追加といたしまして、先ほどごらんいただきました調査のための手引きでございますとか、和歌、祭りなどのリストの追加、それから川にまつわる歴史・文化をつくった人々とか、川の博物館の現在見ていただいているようなリストなどをさらに充実させていきたいと思ってございます。以上でございます。
どうもありがとうございました。これについても皆様からご意見をいただくということになっておりますが、いかがでございますか。これ言い出すといろいろ……。
去年の秋ころだったかな。入間川流域に関係して、5つ、6つの近隣の市町村の、主として市立の博物館なんかが連合して、入間川の歴史と文化みたいな展示会をやったんですね。これは行ってみましたけど、全部見ませんでしたが、いい企画だったと思うんです。そこで見てる限り、それとてもよかったんですけど、それを現場、実際の川で見るというときにどうなのかというのがちょっと心配なんですね。そこの展示でもって、昔このあたりに何々があったとか、何々が住んでいたとかというのはそこでわかるんですけど、これが実際の入間川のその場所のところにそういうプレートが写真入りであれば、多分、歩いている人も楽しいでしょうし、私なんかは自転車で、サイクリングロードをなるべく使っていくんですけど、それもやっぱり役に立つと思うんですね。 前に大和川だかどこかでそういう、そこの場所の説明なんかのプレートがあって、これはいいことだなと思ったことがあるんですが、そういうのはまだ、川に関してはあまりよくないんじゃないですかね。
ええ。今、少しやろうとしているのが、博物館という幾つかの例があるんですけど、ミュージアムというか、川全部が博物館になるようなことをどうしたらいいかと。ただ、そのときでも、ちょっと分厚い資料だけはこういうところへ寄らないと見えないんですけど、さっき動線とかありましたように、現地に行くとそこに、知りたいことが出ていると。ただ、あまり看板だらけになるといけないので。我々がやっているところで、おっしゃったように、箱物の中に入ればというよりは、川全部が博物館だということを何とかうまくつくりだしていきたいなと思っておりますので、まさにおっしゃられるようなことを目指したいと思っています。
大きい看板を立てるとだめだから。
感じのいい何か案内と。
それと、この間の祭りとか歌枕以来、いろいろきょうも出てましたが、こういう資料、博物館の一覧表なんかが出てきてとてもいいことだ思うんですが、ここのところくださる「リバーフロント」にそういうのがいっぱい載っていて助かるんですけど、あれが市販されるというか、一般の人に広く見られる、知られるという手だてが取られているかどうかですね。ちょっと町の本屋さんでそういう雑誌を見たことないんですけど。それむだだと思うんですね。
2種類ありまして、「フロント」というカラーのものと。「リバーフロント」という白黒の、少し何十頁かのものと。
いろいろデータが随分入ってて、役に立つはずですよ、あれ。
たくさんちゃんと自分で取っておけばね。
そんな感じがしたんですけど。ですから、多分、皆さんの内部的なあれがあるかもしれませんけれど、どんどんそういうのも一般の人に。
雑誌「フロント」のほうには、そのたびに毎号どこか日本の川を1つ取り上げて、なかなかいい写真とエッセイをつけてありますね。あれを全部まとめて日本の百名川とか、そういうのはできないの。
リバーフロント整備センターと相談してみます。
今までもう随分……。もう50を超えているでしょう、あそこで挙がった川は。
ぜひそんな工夫をと思います。あと、ちょっとそういうお話が出たついでで恐縮なんですが、10回近くこの会も話が出ている、それ自身も少しお話をつけ加えていただくなりして、まとめたもので何か、世の中のどこか出版社で請け負っていただけるようであれば、少し企画をさせていただいてもよろしいのかどうか。特に委員の先生方も、できましたら少しお助けいただいて、こういう文化とか歴史とかを見て川を見ていくということを、世の中にいろんな発信をさせていただければと思っております。大体方向性がよろしければ、またご相談をしたいと思います。
そうですね。魅力的な本にしないとね。国土交通省と見えるような感じじゃなくてね。何かいい写真や絵が入っていて、歌もあり、絵もあり、それから西欧も、きょうのミシシッピーとかセーヌ川とか、ダニューブとかラインとかボルガとか、黄河、揚子江、ガンジス川、その辺のことも、いわば比較河川文明論で挙がっていて、そうなったらすごいですね。ほんとうは世界水フォーラムでそういうのをちゃんと出してくれるといいですが。
今、それを考えていまして。まず、とりあえずアジアの川、アジアの水をやろうということで、ちょっとまだ作業がおくれております。
これでよろしいですか。要望で2点です。1つは、どうも歴史・文化のかわづくりといったときに、ともすれば化粧をするような形で物を考えがちなんだけど、そうではなしに、基本的に川のあり方そのものを変えるというか。例えば、前、この委員会で飛鳥川をみんなで視察に行ったときに、こんな飛鳥川をつくっていてほんとうにいいのというふうに皆さん方感じられたというか、おっしゃったわけですよね。万葉の、日本の国家が生まれた土地に流れる川の整備のあり方として、あんな川があるはずがないので。
だから、歴史・文化のかわづくりというのを全国の川すべてに考えるというのは、それはそれでものすごく大事だけど、やっぱりそういう基本的な川づくりそのものの根本からつくりなおすという、そういう川を1つか2つやると。それで、まさにそういうハード以外の、歴史とか文化とか文学とか万葉学とかそういう先生方が一緒に入っていただいて、そういうことを根本から考え直して、それでなおかつ治水の機能もまた任せられるような、例えばトンネル河川で下を通すとかというのもあり得るだろうし、そういうことをやる、そういう事例を1つか2つ要るんじゃないかなというのが1つ。
もう1つは、歴史・文化のかわづくりというと、常に過去ばかり見てしまうけれども、かならずしもそうでなくて、新しい川の文化を生み出す。例えばことし、世界レガッタが長良川で開かれようとしていますよね。世界レガッタはアジアで初めてなんですね。あれはもともとヨーロッパでしかなかったのを、アジアで初めて開く、で、長良川で開くわけですけど、ああいうのこそまさに新しい日本の川の文化をつくっていく、そういう機会なので、そういうものにもっともっと積極的にね。川の文化をつくり出すんだという視点でいろんなことをもっとやられたらどうかと僕は思うんだけど、非常に腰が引けているように感じてまして。
 こういうときに、歴史・文化のかわづくりといったとき、もちろん過去も大事だけど、将来に向けて新たな文化をつくっていくんだという、それもちゃちなものをつくるんでなしに、世界に通用するね。できればそれは長良川に毎年世界レガッタが来るという、世界レガッタのウィンブルドンにするとかそういう気宇壮大な、新たな文化をつくるんだという視点もね。過去だけでなくて、将来を見つめたのも要るんじゃないかなというふうに思います。
ちょっと言い訳しますと、A3の左側の一番下はそのつもりで設けたはずだったんですけど、だんだん直しているうちに雰囲気とか、関わりを大切とか、ちょっと趣旨がずれてしまっているんです。もともと、「将来にわたって歴史・文化の」、これ雰囲気じゃなくて、育まれるようなことは何ができるんだろうかって。おそらくそれはハードもちょっと考えないといけないし、おそらくそこには人が相当関わっていないといけないのでということの両方書いていたつもりが、雰囲気と大切という、ちょっと腰が引けたと、今おっしゃられたように、なってしまったのかもしれません。そういうふうにぜひしておかないといけないなと思っております。
だから、新しい川の文化の創造というか、その視点もものすごく大事で、そこも落としてしまうと、何か後ろ向きばかりになってしまうと思う。
今、尾田さんがおっしゃられたことは、ほんとうに我が意を得たという感じで賛成なんですね。過去ばかり見て、それを補修して価値を高めるということはもちろんしてほしいし、大事だと思いますけど、一番大事なのは河川局が新しい文化をつくっていくということなので、これができるようになったらとても強いですよね。 私、かねてから空想的なアイデアがあって、これはあくまで童話として聞いていただきたいんですが、キャッチフレーズは1000年河川をつくろうというんです。それは、1年に1個――数字はあくまで象徴ですよ、あまりまともに取らんといてほしいんですが、1年に1メーターしか河川をきちんとしない、その1メーターに1億円をかける。ただし、それは1000年続ける。もちろん貨幣価値は変わるだろうから、国土交通省の予算の1万分の1を毎年投下すると決めてもいいんですが。それで最高の技術と…。
どこか1つの川について。
いや。それはモデル的に5つぐらい選んでもいいですし、野原の川でもいいし、町中でもいいんでしょうけど。そこを歩けば癒され、励まされるような、あ、こんな川とのかかわりがあったのかということを、1年に1メーターずつつくっていく。それはもちろん、担当者が変わっていったらちぐはぐになったらいけないから、10年計画ぐらいは業者にいろいろアイデアを出させて、こういう技術でこういう発想でするという、いわば連句、連歌の発想ですね。前の人がやった1メーターに私はこうする。
だから、既にある川に手を加えていくわけですね。
それでもいいし、新しいモデルをつくってもいいでしょうから、それはいろんなパターンを考えたらいいでしょうが。
それじゃ、じゃあ、尾田さんおっしゃる飛鳥川あたりで、まず。
そうそう、そういうふうに。そこを歩けば……。
あれは1メーターじゃ足りないかもしれない。
いや、それ1000年で1Kmの河川ができる。数字はあくまでモデルですよ。ただし1000年間は、1度触ったものは手をつけないという。そうすると、200年前はこんな技術だったのかとか、このあたりは日本が疲れていた時代だなとか、ここに来ると元気だなとか、これはひいおばあちゃんが生まれた年の川だとか。
1メーターごとに年代が入っていくわけだな。
そこに来ればいろんな人がやってきて、河川局はこうだったのかという、そういう川をつくる。
あのころの河川局長はだれだったとかね。
今、伊勢神宮があれだけ20年に1回遷宮をやっているのは、あれ技術の伝承ということがあるわけで、とにかく今の河川局で、ほんとうに偉そうなこと言いますが、一番大事なことはチープな川じゃなくて、すごいという川づくりのモデルを見せながら技術を高めていくという、それがやっぱり強いと思うんですよ。日本の川は絵にならないとよく画家が言いますけど、そうであってはやっぱりちょっとつらいので、絵になる川という、何かわからないけどここはすごいという空間を、河川局が1000年かけてつくる。そういう1000年河川という、そういう提案。これに近いものができないだろうかというのが私のかねての考えだったんですが、今、尾田さんの言ってくださったことはほぼ同じことだと思うんです。ありがとうございました。
いえいえ。こちらこそ。
まず飛鳥川と鴨川ぐらいを選んでいきますか。隅田川はもうどうせだめだ。
佐保川も入れてほしいんです。
佐保川、まあね、そうなってくれば。
佐保川入れますね。
やっぱりひどいですよ。何であれが世界遺産の地域の川なのかなって。
そうか。そう言い出すと…。50本の川で1億円を分けるんじゃ。まあ、でも、そうやってどれかの川をとにかくモデルとして、この環境問題から歴史・文化の問題から含めてつくり直していく、あるいは新しくつくっていくというのはいいですね。で、国土交通省実験事業ということで。文化実験事業という。そこから甦ってくる。今度自民党が書きかえようとしている憲法の前文も、伝統と歴史と文化だっけ。まさにこれですな。中曾根案ね。
ちょっと事務局からでございますけど、私ども、文学とか歴史にほど遠い感性の人間が、パタパタと我々相談して書いているので、委員の方々の観点からだとこういうふうにやるんじゃないかといういろんなご意見を、ぜひいただければと思っています。これはほんとうに私ども、何もないとイメージがということで書いたものだけでございます。よろしくお願いします。
 
フランス文化と川のかかわり

きょうはわざわざ京都においでいただきましてありがとうございました。京都でこういう研究会をやるというのは今回が初めてですね。今まで千曲川に行ったり東北の方に行ったりもいたしましたけれども、きょうは京都でということで、まず山田登世子先生に「印象派のセーヌ今昔」ということでお話をいただいて、その後の永山先生のお話はなくなるわけですか。その分はどうなるんですか。
その分圧縮になるという形でございます。
そうですか。ちょっといろいろと皆さん急なご欠席があったりしましてがらんとしておりますが。では、時間はたっぷりありますので、山田先生からセーヌ川の話を。これはやっぱり前から、一度セーヌ川やライン川のお話も聞かなきゃということになっておりまして、前回はマーク・トウェインその他を中心としたミシシッピ川のお話を聞いたんです。きょうはセーヌ川で。そのうちインドの川でしたか、そういう話も伺うということになっておりまして、だんだん日本の河川だけじゃなくて、比較河川学になってきました。そのためにセーヌ川は非常に大事な意味を持ちますので、どうぞよろしく。では、山田先生、どうぞよろしくお願いいたします。そうか。山田先生は「リゾート世紀末」、こういう本も出してらっしゃるんですね。私、存じ上げませんで。
何かだまされたみたいですね。芳賀先生が、セーヌについて何でもいいから話せというふうに。
ええ、何でもいいんです。
フランスに4大河川がありますけど、どの川でもと言ったらあれですけど、リヨンのローヌ川に1度だけ20年前ぐらいに行ったきりで、セーヌしか知りませんので。セーヌも特によくは知らないんですけれども、そこにつけましたけれども、「リゾート世紀末」という本を随分前に書いておりまして。リゾートといったら本当は南仏コート・ダジュールの方なんですけれども、あそこを個人研究しようと思ったらもうすごいお金がかかりますから、北の方の。一番後ろに大きい地図がついてありますけど、セーヌ川といっても、セーヌといったらすぐパリ、セーヌという感じなんですけど、長い大きい河川で、それを水色にでもカラーで塗ればよかったんですけれども、パリから北西にずっとたどっていって、ル・アーヴという港で英仏海峡に到達するんです。川を全部めぐったわけでは、もちろんありませんけれど。 私が特に興味を持った河川セーヌは、パリのセーヌではなくてその近郊です。パリのセーヌ川は風景としてかなり、今バトームーシュという遊覧船でしょっちゅう。私ももちろん乗りましたけれど。
僕はまだ乗ったことはないですよ。あれは観光客が乗るものだと思って。
いや、観光客として私はるんるんと。
ああ、そうですか。るんるんと。
結構楽しいです。2回ぐらい乗ったことがありますけれど。性懲りもなく。それは川というよりパリ市内観光なんですね。それを過ぎたところは今だれも観光客が行かない場所なんです。RERという交通手段と河川、あるいは河川の観光化とか河川の浄化とか、そういうことと大変大きくリゾートも。要するに、19世紀に鉄道網が発達したからリゾートが。簡単に言えばそういうことなんですけれど。 パリ近郊、ここが行きにくいんですね。RERがあって今は何とか行けますけれど。例えば、ブージヴァルというところとシャトゥーというところとアルジャントゥイユというところがある。そういうふうに、そこに1つ行こうと思ったら結構大変なんです。それで、何回か機会を分けて私は、シャトゥーといって、それがこんな小さいところを言ったら大変見にくいんですけれど。私大変な方向音痴でして、さっき先生はホテルセントノームのことをおっしゃいましたけども、ホテルセントノームにたどり着くのにきょう一番緊張しました。
京都駅から。
はい。至近距離で迷うんです。
50mぐらいですか。
ロンドンに行くつもりだったのがパリにいたとか、そういうことはないんですけど、至近距離で、学内で迷っている。まさに右と左がわからないという典型的で、ここにたどり着いたときは、きょうはもうやったぜとか思ってほっとしていますけれど。 そういう私がパリから、これは車を運転すれば陸続きで行けるんですけれど、大変行きにくいところが散在していますけれど、たまたまそこが船に乗ればずっとセーヌ川沿いなんですね。
何ていうところですか。
シャトゥー。ルノワールに「シャトゥーの船遊び」というのがあるその絵を忘れてしまったんですけど。
この地図だとどの辺ですか。
もう1つあります。めくっていただきますと、どなたかが振ってくださった手書きの数字の4頁。それは私の本につくった略図なんですけれど、モーパッサンの時代。19世紀、20世紀、戦前までずっと船で水上交通として本当に利用されていたんです。これは各駅の名前でもあるんですけど。
川をずっとたどっていってください。すると、S字型、M型に蛇行していってますけれど、一番近くにパリ市内から続いて行けるところはグランド・ジャット島です。スーラが「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。それからさらにそれを右上とかいうと怒られますが、南西に上りますとアニエールというところがあります。これもスーラが「アニエールの水浴」と。そして、ざっと川をM字型にめぐりますと、アルジャントゥイユ。これはモネが「アルジャントゥイユの橋」をかいた。それからずっと左下に行った、蛇行した川の一番南です。ブージヴァル。それからそのすぐ上にラ・グルヌイエールというところがあります。それからそれをもうちょっと北に上ったところがシャトゥーというところになります。
ここに全部まとめて行ったのではなくて、たまたま。車がないとまとめては行けないんですね。2000年に1度行きまして、それからその前に1度また行きまして、別々に見たんですけれど、印象派を利用してというかゆかりの地ということで町おこしをやっているんです。ですから、きょうのお話もご参考になるのではないかと思って。まさしくたまたま行ったんですけれど。印象派といったら全部ここら辺をかいているんです。ちょうど今見ていただいている地図のところにモネのかいた「サンラザール駅」という小さい絵がありますけれど、当時はサンラザール駅から乗って、今も当時も25分だそうです。
今も当時も。
ええ。スピードが同じなんですって。
昔は、モネのときはこれは蒸気機関車で煙がもわっと上がっているわけですね。
そうですね。
今は電車でしょう。
もちろんそうです。
それでもスピードは同じですか。
はい、歴史書に書いてあるんです。つい最近出た世紀末のハイテクを追究した歴史家の本ですけども。私も同じコースをサンラザール駅から行きたいなと思いつつ果たせないままです。 サンラザール駅から、印象派の人たちは外交派ですから、きっと絵の具を持って出かけていって草の上で昼食をとる。
そのころからこの今と同じ汽車の線路で走っているわけですか。モネの時代から。
それは大変複雑です。まず、今ちょうど名前も西部鉄道と同じ西部鉄道というんですけれど、国営化に全部整備されるのは大変複雑な経路をたどっています。年表はしっかり頭の中に入っていませんけれど、西部鉄道、東部鉄道、7大鉄道会社があって、それが民営化と反対で逆に。いろいろそれは大変複雑なんです。逆に統一されてなかったから各鉄道会社が競っていろいろ開発したんです。たまたま全部西部鉄道。西部鉄道がセーヌ川のこの川沿いに行くからで、その西部鉄道に乗り込む駅がパリでいえばサンラザール駅。
私がたまたま行きましたところがシャトゥーというところ。何が情報源だったかというと、パリに行くと一番熱心に読むフランス語はレストランのメニューです。あれほど真剣に読むものはなくて、あの熱意で本を読んだらどんなに頭に入るだろうと思うんですけど。もう一つは、日本でいいますと「ぴあ」に当たる「パリスコープ」というのがあるんです。例えば行事が、今週のイベントとかが毎週水曜日に出るんですけど、パリへ行ったらまずそれを買うんです。それで、眺めてみます。
何かで知ったんですけれど、シャトゥーというところはモーパッサンの小説のほとんど舞台にしているところですから。モーパッサンはすごいボートマンだったの。だから、シャトゥーというところは自分に大変覚えがありまして、そこにレストランを、元モーパッサンたちボートマンたちがたまり場にしているところが、シャトゥー市の町おこし計画で復元されてレストランになったという知らせが何かに書いてあったんです。それはパリの近郊までずっと地下鉄で行って、一番最寄りのここら辺でいいだろうというところからタクシーで行きました。
それが12頁。これはルノワールの大変有名な「船遊びの昼食」。ボートマンたちの昼食です。これの拡大図が次の頁になります。これがまさしくシャトゥーというところにあったんです。もちろん1880年代にかいたルノワールの大変有名な絵で、オルセー美術展があったときにもこの絵のことを話させていただいた覚えがあるんですが、印象派というのは登場人物は全部自分の仲間をかくんです。それで、この名画の人物はほとんど全部わかっていて、向かって一番左手にいる人がフルネーズというこのレストランの所有者です。そのすぐ下にいるのがアリーヌ。ルノワールの妻となる人です。
アリーヌ。
ええ。
このレストランのオーナーが何ていうんですって。
フルネーズという。このレストランをフルネーズというんです。オーナーの名前なんです。それから、次は名前も固有名詞も調べていったら全部もうわかっていると思いますけど、全部は私も名前を覚えてないんですけど、次に端っこに見える女の人は女優です。それから、右手にランニング一つでいる人、これは画家のカイユボットです。だけど、これは全部仲間内の。印象派というのはモデルたちがみんな自分の友達ですから。これは全く復元されてレストランになっているということを聞きつけて行ったんですけど、12月でした。ですから、ちょっと川の感覚が川辺のという感じではなかったんですけど。 その頁を繰っていただいて14頁。これは同じレストランフルネーズの一番端っこに座った、将来ルノワールの妻になるアリーヌをモデルにかいた絵です。その次の頁を繰っていただいて15頁。これが現在復元された同じ建物なんです。ここがレストランになってて、ここにタクシーで乗り込んだんです。ただ、残念ながらこのテラス席はもう満席で、思い立ってすぐでして日にちがありませんでしたから、その下で。
このテラスは2階ですね。
2階です。
川の向かって左側の、15頁のレストランのね。
ええ。同じ位置に建てるんですよ。全く当時の建物を復元しているんです。これはモーパッサンたちボートマンたちがたまり場にしたんです。
おいしいんですか。
おいしかったです。さすがやっぱりフランス料理。
何料理ですか。
もちろんフランス料理。
いやいや、でも、肉が専門とか魚が専門とか。
魚がおいしいんじゃないじゃないですか。
セーヌ川の魚は余り食べる気もしないですね。
聞いたことないですね。
アユがいるわけじゃないし、イワナがいるわけじゃないし。
魚っていないです。
とっても泥臭くて食べられないですね。
そうでしょうね。
スズとか銅とか何かを飲み込んでいるかもしれない。
汚染されているのでは有名ですね。でも、風景としては、12月でもまだ川辺の感覚はありました。ただ、寒くてさすがにテラスに出る気もしなかったです。12月でしたから。ただ、こういう建物が復元されてレストランにしているというシャトゥー市。そのシャトゥー市というのがどれぐらいの人口の規模のどんな市かというと、きちっと数字できょうまでに調べてくる暇がなかったんですけど、大したところじゃないですよね。
そうでしょうね。人口5万ぐらいかな。
そんなにいないと思います。
3万ぐらいかな。
だから、頑張っているなと思ったんです。
頑張ってますね。頑張っているとちゃんとお客も来るとね。
そうです。観光客が来ますね。
京都だって、ヨシヒサの白川の宿とかああいうのをちゃんと本当はやればいいんですけどね。枕の下を水が流れる。ああいう宿をきちんと復元してちゃんとしたお水を通して。
そしたらゆかりの人は行きますよね。
うん。ただ、今はそうじゃなくなっちゃったでしょう。水の上に出っ張ってた部分がなくなっているじゃないですか。
たしかこの近くに。
幾らでもあるのにそういうところをむだにしている。早速これは河川局、都市局と。
本当にそう思います。
きょうこの会に京都市の人はだれもいないんですか。京都市役所とか。
いないです。
やる気さえあれば幾らでも。
今は鴨川で夏の床ですね。今もうそろそろ準備して出していますけれども、あれがこれかな。まさにテラスですな。
そうですね。
だから、あれをこれのつもりでやればいいんで。それで、床開きにはちゃんとどこかのおもしろい詩人とか小説家とか俳人とか、そういう人を招いて鴨川の床開きをそれぞれの店がやればいいんですね。毎年決まってね。
いいですよね。
それくらいのことを考えるといいですね。我々が行ったんじゃぱっとしないから、もうちょっと。
芸能人でも。
芸能人、そこまで行かなくてもいいですけど。吉本興業ですか、そこまで行かなくても。
義経ですか。
義経、そうかな。
ただ、思ったのは、印象派を目いっぱい利用しているんですよね。印象派って、日本人にはもう印象派展がない土地がないぐらいですし。ここに行くまでの。帰りは近くでRERの駅があることを発見して。
RERというのは要するにあれは何ですかね。中央線ですね。
郊外線ですね。
郊外線ね。パリの真ん中を東から西に向かってだあっと抜けて走っている。
地下鉄から続いて、速いですしね。それで、歩いたときに見つけたんですけれど、印象派の散歩道というステッカーが、その写真を撮ってくればよかったんですけど。そこをかいているその場にその絵の複製があって、それが何点かありました。だから、フランスってやっぱりそういうところはぬかりないんですよね。
そうね。商売熱心ですからね。
そうです。
それから、それしか商売がないしね。
そうです。それで、さすがフランスというか、しっかり国家がやるんですね。
そうですね。だから、もうちょっと日本も恥も外聞もなくそういうことをやればいいのに、建設省、国土交通省で幾らでもできるじゃないですか。
全く私もそう思います。
いろんなところに何とか言うからというので、ちゃんと特定の決まったいいデザインのプレートをちゃんと立てて、余り邪魔にならないいい工夫をしてね、石にはめるんでもいいしね。京都なんかそれをやり出したらもう至るところ石だらけになって、交通妨害になるかもしれないぐらい。
私が見たのは石じゃなくて永久性がないんですって。木のキャンバスを。
京都では、比叡山に登っていくとてっぺんに印象派の庭園があって、ゴッホの絵の複製が置いてあって、その後ろにゴッホがかいたような木が植わってたり、モネがあって、そこに蓮があったりとかするんです。
では、全くそれは同じ。
いや、でもそれは本当にちょこまかっとした庭の中にそういうものをつくってあって、それで客寄せをやっているのはあります。比叡山のてっぺん。とんでもないとこに変なものをつくってね。
でも、何でも利用できるものは利用した方がいいですよ。
ええ。まあでも、比叡山のてっぺんで印象派に利用しても、今度はあほかと言われるので。もっと京都の町の中で、ヨシイさんもあるし、宇田荻邨でもいろんないい画家がたくさんかいているわけですしね。それから小倉百人一首があるわけだし。小倉百人一首は今度ようやく始めました。百人一首記念館をつくって、全部が全部といかなくても、百人一首にゆかりの土地に1首歌碑を立てていくというのを京都商工会議所が今始めているようです。百人一首めぐりですね。久保田さんにはご相談ないですか。
ええ。何かパンフレットはもらいました。
ああ、そうですか。僕はまだパンフレットを見てないんですけど。あっ、もらったかな。何でそういうことをやらないのかな。
そうです。
ね。だから、まだまだパリに学ぶべきことはありますね。
フランスのスペシャル。それは先生もおっしゃったように、それしかやることがないんですね。そのかわり風景を大事にしますね。ただ、印象派がスペシャルなのは、印象派で観光バスがばんばん出ているところ、さっきの一番後ろの地図のジベルニーですね。
ジベルニー、そうですね。
モネの睡蓮の池がある。それはもう観光バスに乗って1時間ぐらいで。
パリから。
そうです。去年初めて行ってきました。
16頁の地図でいくと、右側のヴェルノンというところですよね。
そうですね。
僕はヴェルノンまで汽車で行って、そこからタクシーでジベルニーに行きました。
私どもは観光バスで行きました。
専ら日本人でしょう。
いえいえ、各国。ちょうど今ごろでしたから、花のバラの季節ですごい人でした。
モネのあの屋敷なんていらしたんですか。
一番行きやすくて有名で。
汽車で行くとサンラザール駅から1時間ぐらいでヴェルノンというところでおりて、そこでタクシーを拾って10分ぐらいかな。
えっ。ストレートで。
バスがあるんですか。
それはもう幾らでも出てます。ジベルニー半日観光ということで。バスも満員ですし、着いたら花より人が多いというぐらい人が多いです。
まあ今はね。
そこもよく行くんですけれど、あとはばらばらに点在してますから、印象派めぐりといったって。
そうね。いいですね。
いいんですけれど、セーヌ川で船を出してくれたら、こんな季節なんか、印象派が好きな人はいっぱいいますから、乗るんじゃないかと思うんですが、それはやってないんです。
やってないと。ああ、そこまでまだ知恵は回りかねているんですね。
そうですね。採算がとれるかどうかわからないです。
でも、日本人相手にして日本の旅行社がツアーでやればもうわんさか来ますよ。
そうですよねえ。
もう50、60のあのおば様たちが、金があって暇があってどうしようもなくてというおば様たちが幾らでも行く。毎週50人ぐらいずつ船に乗るんじゃないですか。
先生、フランスにかけ合って知恵を授けて。
そうね。日本人向けの印象派ツアーというのを。
そしたら、ちょうどジベルニーを終点にしたら。
そう。そこに飽きたら、今度は南に行ってゴッホの跡をめぐるとかね。
そうです、そうです。
それからブルターニュへ行ってゴーガンとかね。
そう一挙にはやってませんけど、ホテルに印象派の散歩道といって、いろいろ。OHPがあればよかったですね。
はい、じゃ、回して。
はい、回してください。こういうふうに現地に絵が立っているんです。
絵と今のあれとを並べてこうあるんですね。
そうなんです。ただ、一つ一つが場所は連続しては行けないです。
うまくやっているね。
車があればいいです。さすがフランス。
うまくやっているね。
季節がいいと歩いていて気持ちいいですし。
それから、ついでにそのときに私が撮りました私の下手な素人写真があるんですけど。
では、次のポイントに移らせていただきます。それは2000年以前なんですけれど、2000年に朝日新聞に一番最初の記事を書きましたけど、「1900年展」というのが2000年にオルセー美術館でありました。これに行きたくて行った余りの日程でやったことなんですけども、このお話を聞いた途端に、この「1900年展」に自分が行ってこの記事を書いたことを思い出しました。
そのときに、またパリスコープです。パリへ行ったらぴあみたいなんです。今度また別のものを発見したんです。それがブージヴァルというところなんですけど、ブージヴァルというところは、お渡しした資料の6頁。どなたも一度はごらんになったことがあるのではないかと思います。3点絵がありますけれど、同じ場所です。モネとルノワールは友人同士ですから、同じ場所に2人できっと出かけて、そこがそのころ大変な行楽地だったんです。中之島みたいな島があります。これはちょうど丸いから、丸いチーズでキャマンベールという一番ポピュラーなチーズがありますから、キャマンベールと呼び名をされてた。この絵はよく見るんですけども、印象派といったらこの絵というほどよく見るんですけれど、次の7頁で、同じ場所をちょっと違う角度からかいたルノワール。
それで、印象派というと水と光、セーヌの水という感じで、それまでの肖像画とかいうのと違って外交派と言われて、手法のことは非常に言われるんですけど、かかれた場所がどんな場所だったのかというのは結構研究されてないんです。あんまり詳しくかいているところはないです。
たまたま私はモーパッサンを読んでおります。モーパッサンの小説の舞台と印象派がかいたところはほぼ重なり合っているんです。モーパッサンに「ポールの恋人」という小説がありまして、それを読んでいると、こんなこと言っていいのかな、レズビアンの話で、自分の恋人は女性なんですけど、本当はもう一人の女性が好きだったというのを知って、絶望してセーヌへ飛び込むというちょっとした短編があります。その舞台になっているところがブージヴァルで、ここにかかれています。
ここは行きたいと思ってたんですけれど、ついに行くことはできなかったんです。ただ、これに関連して6頁の左側の絵です。印象派を見ててもこういう資料はあんまり上がってこない。これは何かというと西部鉄道の宣伝のポスターです。毎木曜日にダンスというキャッチで、ダンスする女が描かれている。グルヌイエールといいます。グルヌイエというのはフランス語でカエルという意味。カエル娘というんです。ここは水浴場で有名だったんです。しかも毎木曜日のフレンチカンカンでも有名でした。
ここに絵の隅にかかれていますけど、これは水浴場兼キャフェなんです。大変いかがわしいところです。いかがわしい様子をモーパッサンがありありと描きました。どういう女たちが集まるかというと、こういう女たちが集まってくると。そういうことは意外と知られてなくて、結局娼婦たちがいっぱい集まってきたとこなんですね。今の感覚でいえば別に娼婦というわけじゃないですけど、臨海副都心という感じです。お台場という感じ。つまり。
あそこは娼婦がいるんですか。
娼婦はいない。でも、なんかヌーディーファッションのギャルたちがいっぱい大好きなとこですけどね。見ていて、娼婦でない人たちもたくさん来る一番ポピュラーな、パリから近い、陽気がいいときには大抵女が外に連れていってほしいと思うような行楽地であり歓楽地だったんです、ここブージヴァルは。ということが追究しているうちにわかってきて、西部鉄道のポスターのカラーがあります。思わしくない。いかにいかがわしかったかということですよね。それで、すごいにぎわってたんです。だから、清らかなセーヌという感じでは全然ないです。
印象派とは風俗画家たちであって、自分もみずからその風俗の中の一人となって、さっきのボートマンたちの昼食というのも風俗画なんです。そこにグルヌイエールというのに興味を持ってまして、2000年に行ったときに、また部屋にあったパリスコープでグルヌイエール美術館というのを発見したんです。えっ、そんなのがあるんだと思ったら、小さい。またこれも観光局の方、河川局の方、お役人の方々に申し上げたいんですけど、パリ市もフランスも、国家、官公庁がとにかくこういうことを熱心にやりますよね。グルヌイエール美術館というのは、シャトゥーという小さい町が町おこしのためにつくっている美術館らしいんです。
ここに行ってきたのをお話の最後にしたいんですけれど。方向音痴で、京都駅をおりてからセントノームホテルにたどり着くのに苦労するような私が、こんなわけもわからないグルヌイエールという住所は極めて簡単なんです。パリからタクシーに乗ったって、こんなの簡単過ぎて知っている人が少ないんですよね。しかも、小さい美術館ですから、ルーブルは月曜日以外は毎日やってますけれど、火、水、金と週に3日で、しかも午後2時から5時までしかやってない。
それで、気がついたとき私が帰るその日しか残ってなくて、5時にシャルル・ドゴール空港を立つエールフランスだったんです。2時から5時までしかあいてなくて、行き方もよくわからない美術館なんて、そんなの普通の人は行かないですけど、無謀にも私は行ってみようと決意しまして、どこへ行ったんだと、どうやってたどり着いたんだかももう報告できませんけれど、近郊までバスで行って、とにかく2時にスタンバイしてそこへ着いて1時間見て帰ってこようという計画で、ほうほうのていでたどり着いたのがこの美術館なんですけれど、この美術館の大きいポスターがないのですが、こういう小さい美術館。これも回しますけども、そんなところまでちゃんと。だから、美術館の館長さんもフランクな方でしたけど、そんなので食べていけるわけがないですよね。
それで、グルヌイエール友の会というのがあって、友の会の会員になったら入場料もいろいろ安いよとか言われて、ついうかうかと。それはユーロになる前でして、100フランか何か払って、写真もあるかないかの時代ですから、当時の絵がいろいろありまして参考にはなりました。それぐらいグルヌイエールというのは有名なところだったんです。
そこがもう1つ売りにしているところは、その美術館の後ろがまさしく田舎のセーヌ。いわゆるセーヌじゃなくて、自分がこうやってずっと追究してやっているのは田舎のセーヌと勝手に呼んでますけど、それは4月のこと。その美術館といっても、小さい教会の一角なんです。それの裏手に見えた。ああ、でも、印象派ってこれをかいたんだという、セーヌ川の下手な写真ですけれど、4枚ほど撮りましたから終わりにごらんください。
そこが偉いところだなと思ったのは、再び6頁の絵に戻りますけれど、キャマンベールと呼び名をされたこの島です。これは埋まってしまって今はないんです。それをこの友の会とシャトゥー市の町おこしの形でまた復元したんです。2時にそこにたどり着いて5時の飛行機でしたから、当然復元した場所までは行けませんでしたけれど、復元した様子をかいた、こっちが復元されているんですね。残念ながら川の中ではないけど、向こうの人はこういう努力を本当によくやってますよね。
なるほどね、キャマンベールね。
ええ。それを新たに復元しているんです。
これはもう大したお金はかからなくてできますね。
そうです。
人の個人のポケットマネーでできるぐらいで、30万円あればできるような。
だから、ある意味、やるというのが偉いですよね。
そう、偉い。とにかくやってね。
そしたら私のような者まで集まっていって、ふらふらと100フラン払って。それで、どういうのを出しているかというと、 100フランを払ったわけですけど、友の会というのがこういう会誌を年に4回。
へえ、年に4回。
グルヌイエールの友の会ということで、これは当時のこの絵なんかを見ると大変迫力がありまして、いかにいかがわしいところだったか、私、印象派のイメージが変わりました。それと中に、これが全く同じところをかいているんです。ジュールベルヌばっかり有名ですけれど、もう一人アルベールロビダというSF作家があって、どんなに歓楽地だったかということがよくわかる。こういう絵がたくさん収納、展示されているところです。
そのころの観光用チラシみたいなものですか。
そのころの観光用チラシじゃなくて、アルベールロビダは画家であり作家です。
ちゃんとした絵なんですか。
そうです。ちゃんとした絵です。
真ん中にキャマンベールがあってね。
そうです。グルヌイエールがあります。
ああ、なるほど。あのあやしげな女のおしりとおっぱいをかいている。
そうです。いかにもあやしげですね。
こうやって泳いでいるのを見て、ああ、あいつとこう男が選ぶんでしょう。いかにもそういう感じですよ。
そうですね。選ばせるために泳いでいるんですね。
そうそう。吉原では格子越しに座っていたけれども、こっちは水の中を泳いでいて。
祇園、吉原という軽い感じですよね。
水中吉原という。
そうそう、そうです。
それで、島でちょっとどこか木陰に行けばいいんでしょう。
そうです、そうです。それと印象派がちっとも結びつけて考えられてないですよね。
なるほどね。それはそうだね。そういうことがなきゃ、印象派の絵のあの何だかわけわかんない魅力はないかもしれませんね。
そうですよ。
ただきれいな風景をかいたりじゃなくてね。
そうです。
雌のヒキガエルがいっぱいいるんですね。
そうです、そうです。グルヌイエールってメスのヒキガエルですよね。完璧にそうです。あとはちょっと笑っちゃうんですけど、友の会ってたくさんありますよね。
はははは。それの友の会というのはまたおかしいね。吉原友の会とか。
そういう方々が、シャトゥー市がちゃんとそれにお金を幾ばくか出して。あなたも来てくれとか言われたんですけど、何で私が。これは100フランを出した領収証です。こういう当時の服装をして集まって楽しむと。
あっ、当時の服装で。いや、恥ずかしいですよ。
そういうのをみんな好きだなあという感じもありますけれど、でも、シャトゥー市がちゃんとそういうのを盛り立てて。
でも、今の水の中のあの水着じゃないんですね。もうちょっと。
先生は、それ言い過ぎですね。先生は余りに私に吹き込まれてしまって想像が飛んでしまって。だけど、楽しみつつ町おこしをやるということで。
でも、これはこんな泳げるぐらいこの辺は水はきれいだったんですかね。
もちろんそうですよ。
もちろんきれいと。
もちろんそうだと思います。
でも、パリの下水はあれはどこかでセーヌ川にみんな流していたそうですよ。19世紀の後半まで。
そうです。そういう意味で衛生学的に美しくは決してないです。決してないですけれど。
決してない。こんなこと言ったらもう大腸菌90%というのは。
でも先生、すごいトレンディーだったんです。当時の船を出して船遊びをした。
それはにおいなんかした方がいいんですよ。
モーパッサンなんかそれは気違いのように泳いでますよ。  ちょっと話は飛びますけど、名古屋の英傑行列がついこの間あったような気が。
えっ、名古屋の何が。
英傑行列。
英傑。
徳川と豊臣と。先生方は名古屋は全然御存じないから。
いや、僕は岡崎は知ってますよ。
名古屋まつりというのがあって、たしかあれは郷土の英雄を。必ずその当時の扮装をして。今、金のしゃちほこを万博でおろして。当時の扮装をして往時をしのぶというのを素人がやるわけですよね。やる気さえあれば、シャトゥー市という大した市でもないところがこれだけのことをやっている。印象派をどんどんもっと。私が行った最後が2000年ですから、もっとどんどん生気が出ていると思う。だから、やる気さえあれば、水というのはやっぱり魅力的ですから。
そうですね。
セーヌなんか汚染されていてまだちっともきれいな川ではないですけれど、風景としてはやっぱり季節がいいといいですよね。
そうですね。ポプラ並木があり、柳があり。
そうです。だから、お話を聞いたときに、文学でどう書かれているというよりも、そういう私が実際に見聞した町おこしの制度のお話をするのがいいのかなと思って、話をうろうろいたしましたけれど、つたない話で。これで100フラン払ったかいがあったのかもしれません。
はははは。100フランでね。100フランですね。100ユーロじゃないでしょう。
今はもうユーロにかわってしまって。ユーロじゃない。
100ユーロだったら高いよね。
100ユーロだったら高いです。会員なんかならないです。
100フランというと1ユーロにもならない。
1ユーロが、えっと、頭が混乱しますね。
1ユーロが今140円ぐらいですね。
そうです。
すると、昔の100フランというのはどれぐらいですか。
100フランで2000円です。
でも、2000円しますね。
でも、ちゃんと2000円を取るというのが偉いですよね。
ええ、そうですね。それで、ちゃんと年に4回出すというのは相当大変です。
そう、大変。そして外国に送ってくるわけですから。
ほう、偉いね。
偉いですよね。
うそ偽りなくちゃんと送ってくると。
そうです、そうです。
きょうの午後の伏見でもちゃんとこういうのをやればいいんですね。
だから、そういうことを考え出したら。
現に、今風の漫画風のイラストマップ、あれはだめだね。ちゃんとこういう昔の絵を復元したり、古い写真を復元したりして。今はすぐイラストマップで何かあの漫画みたいな、若者とか子供がこんなんしている絵がいっぱいあって道がかいてあるんですけど、あれはだめだな。
そうですか。当時の印象派と同時代で違う人がかいた同じ風景というのはめったに、やっぱりこういうとこまで行かないと手に入らないですね。そういう意味では。
印象派と同時代の人でしょう。
全く同時代です。
印象派の同時代のその風俗をもっとじかにかいているわけですね。
そうです。絵画としてでなくかいてます。まあでも、ここまで同じ装束をしてあらわれれると、そこまで行くと好きものだなという感じもしますけど。
でも、伏見あたりでやってもいいし。
でも、上手な町おこしですよね。
川を使っての町おこし。またそこがちょうど印象派が重なっていて、モーパッサンもいて。ね。
ええ、そうです。日本人って印象派が大好きですから、ルイ・ヴィトンのバッグばっかり売ってなくて、印象派も日本人に売ったら大受けしますよね。逆に、京都はまた全く逆の意味で、京都ってフランス人が好きですよね。だから、そういうふうにしたら今度フランス人が来て。日本人ほど詰めかけないけど。
そうですよ。日本にもフランス人がたくさん来たりするように。
そう思います。
イタリアでもね。
まとまりのないお話でしたけど。
今、これで終わりですね。どうもありがとうございました。
■懇談
山田先生、もう少しお話しすることはありますか。
はい。この資料を持っているのは私ぐらいだと思います。そんな艱難辛苦を乗り越えて、グルヌイエール友の会まで行った人って。訪れている人は私ひとりです。
そうでしょう。
何かないと行かない。そこは行きにくいところです。
そうですね。では、今度だれか車を運転するやつに頼んで一緒にこちらがガソリン代と一晩泊まりぐらい出してやって、それで一緒に回るといいんですな。では、今度この研究会は一度パリでやらないかな。京都なんてしみったれてばっかりいないで。パリでやると言うと坪内 さんもちゃんと来るよ。
確かにフランス流、うまいですよね。
そうですね。なるほど今この河川局で考えた、ミシシッピはちょっと我々のお手本にならないでしょう。ドナウ川もだめでしょう。とにかくライン川もそうおもしろくないね。あんなローレライぐらいじゃ。それよりやっぱりセーヌですな。
規模が小さいところがいいです。
小さいし、それから都市から都市へと抜けていって。
印象派というイメージがありますけど、点在しているんですかね。
点在してまして。ゴッホなんか。
セーヌの方ね。だから、日本でだったらどの川をそういうふうに一つのモデルにできますかね。日本国内で。この文学や絵画と結びつけて、いわばこのセーヌ川のまねをやってみるなら。やっぱり鴨川かな。
そうですね。鴨川ですね。
木曽川とか最上川とか北上川といったらそこまでいかないですね。
首都を流れる川。
淀川もできないことはないですね。でも、やっぱり歌で言うとやっぱり古典からいえば鴨川ですね。それか保津川か。
ええ、そうですね。
嵐山の。
たくさんありますからね。
奈良は。
この前の行った。
ああ、飛鳥川か。
ちょっと小さいですね。
ちょっと小さいですね。水がないですね。やっぱり鴨川ですね。
鴨川ですよね。
桂川もあわせて。鴨川と。
桂川と、そうそう。
大堰川の方も。
それから、清滝川もあわせてね。今、保津川下りがあるぐらいでもったいないですね。それから、鴨川の渡月橋のちょっと上の水がたまっている、あそこで水の前でお能をやったり、それから和太鼓をたたく会があったり。それから、今、鵜飼もやっていますね。
ああ、そうですか。
それで、何か1000円ぐらい払って、ちゃんと。1000じゃなかったかな。2000円ぐらいかな。本当にアユをとっているかどうかよく見えませんけれどもね。あれは鵜がもぐって。ああいうところはもうちょっと上手にできる。その指導をするといいんじゃないですか。河川局は。せっかくこれ10何回も研究会をやっているわけですから。
ぜひ。
鴨川を選定して、鴨川は河川局の管轄でしょう。一級河川で。
一応、管理は京都府が管理しております。ただ、厳密に言いますと、国の財産管理を京都府に権限委譲しているということになります。
鴨川の河川敷を何かやるときにも非常にうるさいですね、あれ。あれはおととしかな、出雲の阿国の歌舞伎が始まって400年というので、2003年、鴨川の四条大橋のちょっと上のところの東側の土手に舞台をつくって、そこで出雲阿国の歌舞伎をやって、それをこちらの川の西側の床の方から見たんですけどね、あの舞台をつくるだけでも大変だったようです。許可が、河川局から消防署から。
光田さん、あれ、そうですね。
そうでしたね。大変でしたね。
大変だったと言ってましたね。
我々が悩めばいいんでしょうけれども、一般的にはそういう許可をするとなるとちょっと違ったほかの役所の了解もすることに。
そんなことをお役所はすぐに言うんです。もしも悪い宣伝になるのであれば許可しなければいいじゃない。
例えば事業費とか、社会実験というような形でもう少し弾力的にいろいろやってみようということでいろいろ取り組んでいるところです。
じゃ、国土交通省は鴨川を特別指定して、鴨川特区でやってくださいよ。いろんな文化的行事をやるならば特区として簡単な紙1枚をファクスで送れば許可を出すと。それぐらいはやってもらわなきゃ。鴨川なら危険は全然ないです。3日前から大雨があったらすぐに撤収すればいいんだから。あんなの溺れようにも溺れられないですよ。ひざまでも水がない。
決して後ろ向きではなくて前向きにやろうとしておりますので。
前向きにやってこの夏からでも。京都新聞にでかでかと鴨川特区と、第1頁の1面をかざって、鴨川自由開放区と。
常設的な舞台をつくっておくといいかもしれないですね。
三条と四条の間かな。
そうでしょうね。
三条、四条、五条の間ですね。
その間でしょうね。
昔からやっぱりあれは河原でいろんな芝居が始まったのは、大体四条の上と下。
昔はあの床が川の中にできてましたでしょう。ですから、ああいうものを一つ。
もっと突き出してね。
つけて。
今、あの何というんでしたでしょうかね。
あれは何川でしたかね。
ミハラギじゃなしに。
あの下鴨神社から流れてくる川ですね。
ああ、そうそう。
あそこに出てますけど。
高瀬川じゃなくてね。
あの内側にあるやつ。
きょうはそれをいろいろと計画して、今からちょっと電話して京都府の人を呼んで。本当に。
今、大阪では少し実験的に、ちょっと違うセンスなんですけれども、どちらかというと。
いや、でも今は印象派の。
こういう文化的な感じで。
そうですね。
今、心斎橋のところでやってらっしゃるのが、その今のお話ですか。
そうですね。全然意図は違うんですけれども、ある種やっぱり人と川とのかかわりみたいなものをいろんな格好でやろうとしていることでは同じだと思います。許可の体系といいますか、そういう許可の扱いの工夫も含めて実験的にやっているという意味ではそういうのもあります。
ああ、そうですか。それはぜひ鴨川でもやってくださいよ。京都府と、それから京都市の商工会議所、それから京都文化博物館、ああいうところが連携して。
祇園祭のときなんかはわざとあの水の中をじゃぶじゃぶと神輿が渡っていくようなイメージで。祇園祭のときに鴨川全面開放と。何をやったっていい。河川敷も水の中も構わない。それで、そういうイベントもやって。
先生のお話を聞いていると、どこが管轄権があるのかというのは大変大きいですね。
大きいですよ。
セーヌ川のどこまでがパリ市になっているかというのが、いろいろあるでしょうけれども、それがもう最大ですね。
セーヌ川はどうなっているんでしょうかね。あれも国管理ですか、それともそれぞれの市が管理ですか。
それは国ですが、ちょっと国とほかの機関が入った流域委員会というのをつくって、最近では淀川の流域委員会という、似たような名前の、あれとは全然違うんですけれども。そこで決めるようにはしております。基本的には国が。フランスはどちらかというと中央集権の国になります。
そうですね。かえってその方が柔軟なのかもしれません。
そうですよ、話が早いです。
話が早いかもしれない。だから、この辺はブージヴァル市とかシャトゥー市がするのではないんですかね。
いや、シャトゥー市がやっている。
この河川の管理は。
河川の管理はどうかしら。だけど、河川脇に立っているところをいろいろいじっている。河川は違うと思いますね。
セーヌ川は洪水、水の調整とか、沿岸に堤防をつけるとか、それは国ですか。
フランスは国だと思います。済みません、多分そうだと思います。
何省ですか、フランスは。
環境保全省。
ああ、環境省。
いや、環境省と違って、我々が行ったり来たりしている間柄なんですけれども。2年に1回行ったり来たりして、両方で共同でいろんな勉強会をしておりますが。
ああ、そうですか。今のポンセ・ショセは今もあるんでしょう。橋梁と道路の学校、専門学校、その技師の養成学校、エコール・デ・ポンセ・ショセ。ある日本国内で選んでしまって、そこを文化行事の舞台に選定する、そういうことを急遽やったらどうですか。鴨川を特別扱いにして。無許可とはいかないけど、簡単に。それで、鴨川をもっと河川の文化史と実験室として。古今、紀貫之の歌にも鴨川は出てきますよね、夏の夕方、鴨川で。
みそぎの。
源氏物語の中にも出てきます。
出てきますね。
鴨の葵祭の。
夏、鴨川でとれた魚をいただく、魚を食べるんですけど。
鴨川でとれた魚というのはつまりアユですか。
アユとかゴリとか。
ああ、そうか。とにかく下鴨、上賀茂神社の、あの賀茂の祭りがあるから、幾らでも古典に出てきますよね。枕草子もわんさと出てくるし。
セーヌになくて日本の河川にあるのは魚ですね。
そうですね。
それはもう絶対有利ですね。
フランスはあんまり川魚は食べないんですか。
そうやね。
おいしくないですね。
スズキとかいないんでしょうか。
いない。
いないですね。
よっぽど上流に行けば、山の中に行けば、マスが。害のある魚なんて、口にしないと思う。2匹食べたら、もうそれで病気になっちゃうから。
ラインはそんなに汚いですか。
汚いよ、そんなもの。
日本のアユに当たるような魚は向こうの川にはあんまりいないんですか。1年に1度ああいう香り高いような魚は。
いない。
マスなんかは。
マスでしょうね。シューベルトの歌のあのマス。
でも、やっぱり上の方ですかね。
ずっと上の方でしょう。シューベルトの時代はまだね、産業革命以前の。だから、スイスの山の中にでも行けばそれは何かいるでしょう。イワナみたいなのがいるかもしれない。日本はスイスみたいであって、そしてこれだけ工業化しているんだから、非常に特殊なんですね。
思い出しました、先生。モーパッサンをやっていますと、そのセイレーンのピクニックで、定番コースは魚フライを食べるんです。
クラゲ。
違う。魚のフライ。必ずそれを食べないと気が済まない。魚フライ屋の絵が。これ。これは全部屋台の魚フライ。
これはフライですか。
屋台。
屋台が出て。
これを食べないと気が済まない。
これは何かカエルじゃないですか。
その次の頁のこれも魚フライなんです。
ああ、そう。魚のフライ。
思い出しました。モーパッサンの小説を読んでいると必ずデートコースにこの魚フライが。だけど、おいしかったとは書いてないですよね。その当時は何か食べる魚があったんですね。
あったのかな。
それは現地で採っているんですか。
もちろんそうです。
どの魚かな。フライで食べる。小魚でしょうか。そのまま揚げるのか。
そうです。そのまま揚げる。
で、骨ごと食べるのかな。
宇治川のハヤみたいなもんでしょうか。
そんなにおいしくないですね。
今でも三十石船では投網を打って、とったハヤをフライにしてくれますけれども。きょうはないんですか、そのメニュー。三十石船に乗りますか、きょう、投網を打って。
ああ、そうですか。
これぐらいのハヤをいっぱいとって。
ハヤですか。
寒バヤですね。ハヤですね。
ハヤならフライだな。
フライにしてくれます。
清滝川あたりのあのアユはうまかったですね。
ああ、あそこはいいですね。
清滝川と保津川の合流するあたりの山の斜面に昔小屋があって、そこの小屋に行って、日文研の連中と一緒に行って、5時間ぐらいうろうろして、アユを次々、1人10匹ぐらいずつ食べて、ビール飲んで、1人1万円ぐらいなんです。
平野屋の、あれ先代が。
何か掘っ立て小屋みたいでした。
平野屋という大きなアユ料理のお見せがあるでしょう。
あそこの人が隠し小屋としてあそこにつくっていたんです。
ああ、そうか。で、アユがなくなるとそこのおじいさんがつってきて、また焼いてくれる。
だから、我々がふらっと行ってもやってくれるわけではないんです。話を通しておかないと。
あれはもうなくなったんですね。
そうらしいですね。残念ですね。見晴らしもよかったし。
そうですね、見晴らしもいいし、本当に風通しもよくて。
愛宕山の下あたりにあるのが平野屋ですか。
そうでしょう。
あそこのアユというのはやっぱりそこでとれた分ですか。
清滝川です。
保津川の方よりは清滝川です。  それから、八瀬からずっと福井の方へ抜ける鯖街道ですか。何というんですか。あの街道をかなり奥まで入っていくと比良山荘というのがたしか。
坊村というところに比良山荘がございますね。
行ったことないけど。
京都大学の先生方が御用達だったので樋口先生御存じないですか。
そこは今も。
今も盛んにやっています。あそこは安曇川のアユですから。
安曇川ですか。
はい。
あの辺では比良山荘のあたりは川はこっち側に流れているんですか。
琵琶湖に流れます。
ああ、琵琶湖にですか。そうですか。人口140万の大都市で、先端産業をこれだけ抱えていて、学校がこれだけ京都市内周辺だけで50大学があって、そこで東に鴨川、西に清滝川と保津川、ああいう清流が流れていて上流域にアユもいるというようなそんな都市は世界にないですよ。パリもない。ペキンなんて水もない。ソウルもない。モスクワもない。ニューヨークはもちろんない。パリもない。ロンドンは全くだめだし。フィレンツェもあるのは全くそんなきれいな川じゃないし。観光は主に国土交通省でしょう。
はい。部署は違いますが。
全省を挙げてとにかく京都を、まあ京都だけじゃ悪いから奈良とかね。それなら日本国民、文句言わないし。
それはやっぱり各地に。
だけど、各地と言うからだめなんで、まず当面これから10年間は京都、奈良集中する。それがうまくいったら広島でもやる、青森でもやる、札幌でもやる。
試験的にというのではいいと思います。都市再生本部というのがありまして、それのプロジェクトというので、琵琶湖・淀川都市再生プロジェクトというのが始まって、去年からやっています。それは、総理みずから相当関心を持っていまして。
予算は幾らですか。
それは今は検討調査費だけですので一応終わったんですけれども、そこにメニューをいっぱい書いてありまして。川沿いというか、川のところで歴史とか文化が育まれたものを何とか元に戻せないかというのを、観光、ビジット・ジャパンみたいな形の中で、外国から来ている方が単に歴史的建造物とかいうだけじゃなくて、少し周りの自然だとか、いろいろな風景だとかいろいろあわせて見に来ているというのが大分あるらしくてですね。総理も堤防の上を歩くと気持ちがいいとか言っていました。
京都大学から今、立命館に行かれた土岐先生という方がおられますが、あの方は京都の文化財を地震の災害から防ぐ、特に燃えてしまったら取り返しがつかないということで、防火用水を確保するために、琵琶湖疎水などから引っ張ってきて清水あたりの文化財を守ろうということでいろんなところをやろうという先生の提案をかなりいろんなところへお話に行って、皆さん感激をされておられました。米軍でも第二次世界大戦のときに文化財保護のために爆撃しなかったようなところですし。
今、京都市としては、京都市の古都保存法ですか、あれを特別に京都に向けて、京都に特別の国家予算をつけてくれというのを3年ぐらい前ですか。
それでちょっとそのお話をしましたのは、先ほど芳賀先生がおっしゃるようなお話を土岐先生からもお聞きして、京都の話をと。
そうそう。だめよ、日本全国なんて。特殊化してやって、うまく成果を挙げて、それから広げればいいのでね。10年ではないなら、5年は短いな。7年。ちょっとそういうことでやってくれないと、京都は今のまんまだと文化も悪くなるから。
鴨川は随分アシみたいなのが繁って、昔のきれいな石を清流が流れている感じじゃなくなってきましたね。
そうですか。
金沢の浅野川ですか、ああいう川みたいになってきて。
どの辺で。
いや、もう至るところ。
そうですか。
うっそうと中州に何か。
中州はね。
草が繁っていますね。
上賀茂に住んでいますけれども、その前のところに中州があって。
上賀茂もいっぱいそうです。植物園のあたりも中州は全部背丈以上の草が生えて。
背丈以上までいかないけれども。まあ中州があってもいいんじゃないですか。
それはいいんですが。
水が少ないからどうしてもできちゃうし。
川が大水が出ても流れないんですよ。
そうね。
きれいな清流が戻るという感じじゃなくて。
ときどき少し洪水になるぐらいだと一遍に海に流していいんですけどね。
そうするときれいになるんですけどね。
1年に1回洪水をやるという。
河川清掃。そういうのもやっております。全然別な観点ですが、山あいのダムの下の川ぐらいですと、アユがコケを食べるんですけれども、なかなか流れの変動がないと汚れが出るというか、きれいなコケが生えてないものですから、フラッシュ操作といって、ダムの水をボンッと流して、石をごろごろときれいにして。
回転させて。
ええ、回転させまして。やっています。
それもやるのはそれぞれの場所の河川の事務所なんですか。
ええ、そうでもありますが、ただ共通してどういうふうなことが価値観なのかとか、どういうふうにやっていくべきかみたいなのは、少し号令的でないと進まない場合がありますので。
そうですね。  日本全国でアユのいる川というのは登録するといいですね。
それはアユ前線みたいなのを、桜前線じゃないんですが、出しておりましたので、全部アユの溯上をつかんでいると思います。
どの川にアユがいるか。
ベースとして多分押さえてあって、そういう情報を知っていると思います。
宇治川はアユはいますかね。
案外とっていますよ。
宇治川でやっていますか。
鴨川も上ってきますから。
鴨川も上ってくる。
ですから、もうそれは。
ああ、そうか。宇治川を通ってくる。
稚アユを放流しているはずです、琵琶湖で。
鴨川はかなり上流に行かないといけないという。
四条と三条の間でも釣っていますでしょう。
アユを。
はい。料理やへ行くと今釣ってきたというのを食べさせてくれますよ。本当に釣っています。四条の橋のところで。
あれはアユを釣っているの。
そうです。
このあたりでもよくしょっちゅう釣りをやっている人がいるのはアユなんですか。
いやいや、おとりアユもきちっと販売していますから、それはアユです。
きょうのパリのお話を、セーヌ川の話を聞くと、もうちょっと日本は川を活用、まだまだ経済的に活用、文化的に活用できるのでは、ということですよね。あしたからでもできる。そんな難しいことじゃない。地元にそのNGOだか何か、NPOだか何かそういうのができて、河川をおもしろくやって、その文化史を掘り起こして客を入れる。それを国土交通省はバックアップして。地方自治体と一緒にバックアップする。国土交通省は地方自治体をその方向に向けて促進する。やれと、おまえのところは何でやらないのと。そのぐらいやってくれないかな。
思いというか、センスは全くそういうふうな方向でやろうとして、この委員会も含めてお願いしているところだと思いますので。それから、先ほど次長が申し上げましたように、いろいろ社会実験ということでやってみて、いろんなご意見の方がいることは事実なんです。ただ、現実のものが見えないと今はよくわからないので、とりあえずどこかで決めようという、そういうやり方をやり始めているんです。
いろいろな取り組みがたくさん始まって、始まってというか前からあるのも含めてですけれども。それに対して、国土交通省の方でも、歴史と文化という点について、どっちかというと、しばらく置いておかれたというわけではないんだけれども、治水の安全度だとか、特に環境という大きな流れが来ているわけですので。歴史文化というものを河川管理の中でどうとらえていくかと。そういうようなことを私どもも勉強しつつ一番やっているのは自治体ベースで、これはもう地域の方々と一緒になってどうしたらいいかというのを取り組んでいくわけです。 なかなか、本省に行くとかたいことを言っているという話があると、とまってしまうということもあるので、一番大もとの方でもしっかりと勉強したいと思っています。 その構造特区にしても社会実験にしてもやはり公共団体がまずどういう形で考えるかというのが必要なので。
鴨川の場合はどっちですか、京都市がいいんですか、京都府がいいんですか。
河川については府が基本的な権限主体になっています。
鴨川をそうやって活用するようになれば、鴨川の多くの山も高野川も東山もみんな関連して、それの環境保全という形で、すぐにつながる。何だ、早く何かやってしまわないとね。
来年から。この秋からとは言わないけど、来年から。京都府鴨川特別特区、鴨川特区。鴨川特区で、鴨川は非常に文化史的に、最もいろんなものを背負い込んで持っている川なんだから。利根川以上に。それが京都の町の中には、もう全く世界でユニークなんだからね。どこを探したってないです。皆、中南米あたりも探してみたって、北米を探してみたって。カナダあたりにきれいな川はあるかもしれないけれども、そこに人口140万で、大学が50あって、先端産業がこれだけ集まっていて、これだけの川を持って、山を持ってというのはないですね。
だから、今ちょっと電話して、京都府の人だれか。本当にちょっとね、初めから京都府の人を呼んでおけばよかった。
大阪はいろんなことを今やっていますけれども。東京は都知事がいろいろやろうといってやっています。
市の方が動きやすいんだよな。
地域が沈滞しているところは地域起こしの起爆剤として非常に熱心に取り組むところがある一方で、昔からの伝統というか、歴史とか風土を保全していこうというところが強いところは、保全系に近いような土地になるというのは一般的にあるみたいです。
私、きょう午後ちょっと失礼するので、ぜひお聞きおきしていただきたいのですが。きょういらっしゃる三栖の閘門のところに、太閤がつくったという水路があるんですよ。そこが公園になっていまして、いいところなんですが、そこにケヤキの並木がありまして、これはとてもいい並木なんです。もう100年を超えている。それに3000を超えるヤドリギがついておりましてね。フランス人を案内すると感嘆の声を上げるんです。ヤドリギというのはフランスではクリスマスの飾りとして親しまれているので。すばらしい日本一のヤドリギだと私は思っていたんですが。2年前に、京都府か市かわからないんですが、完全にヤドリギだけを削るように撤去してしまいましてね。恐らく何百万かかけたんだろうと思いますが。知り合いのフランス人にそれを聞くと、何て野蛮なことをするんだというふうに随分なげいていたことがあります。あれはまだこれから復活すると思うんです。削ったところから出てくるヤドリギが。あれはですから、これから何十年かかけてもう一度ヤドリギ3000本を復活させると。
地元の人はそのヤドリギのことは、おもしろさはわかっていたんですか。
いや、それは不気味だと思ったのかもしれませんね。地元の人が、あれはちょっと気持ち悪いから削ってくれという要望が上がって、やったのかもしれないですが。あれは私、天然記念物にしたいぐらいの景観だったんですよ。ちょっと残念なので。
万葉集でも「ホヨ」で出てますけれども。
はい。そうなんですが、あのあたりはこのごろマンションがふえて、新興の住民はああいうものは不気味だと思うんでしょうね。ケヤキが落葉すると緑の丸い玉があらわれて、そこにいっぱいきれいな実がついているんですが、それが冬でも何か怖いという気持ちか何かで。
木の葉っぱが落ちるのが嫌だから倒せとか言うでしょう。
ああ、汚れるから。
掃除が大変だから。
きょういらっしゃれば復活が少し始まっているかもしれません。ただ、今は葉っぱが繁っていますからわからないでしょうけれどもね。
それはどこですか。
三栖の閘門って、きょういらっしゃる予定になっていますが。そうでしたね、三栖の閘門。あれの上流に公園になっていまして、太閤がつくったという水路があるんですよ。三栖の閘門のちょうど北側です。そこに水路に沿って並木がありまして。はい。これで見ますと、伏見港広場というところに面した並木なんです。高さ30メーターぐらいのケヤキとかエノキとかの並木が続いていまして、そこに、あれは並木が60本ぐらいあるかな。1つの木に六、七十のヤドリギがついていましたから。全部で約3000と私は踏んだんですが。
そうですか。
そんな見事なヤドリギの林というのは、日本であそこだけにしかなかったと思う。
すごいね。
はい。天然記念物に指定してもらおうかという矢先に完全になくなって。また芽は復活していると思います、一部。
それは地元に、市民の景観保存の運動というのはあるんですか。市民に。
きょうは案内するとかいう人がいるんじゃ。
まだここへ来ておりません。
現地の方に参りましたら案内してもらうことになっています。
では、そのヤドリギのこともぜひ。
今度は削らないように。地元の要望があったんでしょうけれども。
きょうは山田さんの写真で私は思ったんですけれども、15頁の先ほどのレストランのところですか。これを見て、セーヌ川は100年以上たっても、全然ここのところは変わっていないと。河川改修はやっていないということでしょうか。
そうですね。
そうでしょうね。堤防みたいなのは昔もあったんでしょうか。こんな程度だったんでしょうか。
先生、何頁ですか。ああ。いえ、堤防ができたのは第一次世界大戦の直前か1920年とかです。
洪水か何かがあった後ですか。
そうです。洪水があって。
それだけ上がったという。
これは建物は昔のままですか。
昔のまま復元したんです。老朽化していたので。
補強して復元したと。
そうです。復元技術は、ヨーロッパのイタリアとフランスはそれはすごいですよ。同じ材料、イタリアなんかすごいですよね。500年前の瓦を同じのを持ってくる。これはだって、先生、19世紀、100年ぐらいしかたっていないですから、割と簡単です。全く同じで建っております。
堤防が拡幅されていると位置も変わっているんですか。
先生がおっしゃったのは、ここの堤防ですか、木の下。この堤防はいつどのように整備されたかわかりませんね。でも、ボートマンたちがここに船をつけたわけですから、ずっと。
日本の河川だとかなり改修して変わっているところが多いですね。
そうですね。
そういうところに違いがあるんでしょうね。そういうところがちょっと。鴨川は余り変わってないけど。
鴨川も変わっていないですね。珍しいですね。
そういうところを重点的に、幾つかタイプに分けて、その中で変わってないところ、変わったところでやり方は違うでしょうね。
鴨川は本当の昔の川は先ほどおっしゃったような感じで。人工的に削った人工的な川ということになります。
でも、まあ同じ。高野川と賀茂川が下鴨、出町柳で合流して。
そこから下はほとんど人工河川。
そうですね。殊に堤防はね。あの堤防は今我々が見るといいなと思いますけども、前はもっと自然で京阪電車が表を走っていた。
京阪も人工的なものではあるんですが。道路で川端通りになっているよりはあれの方がいいという方も。鴨川は川底が極めて人工的にずっと削って削って整えて、せせらぎを、薄く水が流れるようにして。あれは普通の自然の川ではああいうことは普通はならないですね。
それはやったのはいつですか。
わかりませんが、あそこまで丁寧なのは多分戦後だろうとは思います。
鴨川が最後の洪水になったのはいつですか。戦後もありましたか。昭和20何年ですか。
丸太町の不動産屋までウナギが泳いできたという、それは昭和10年ぐらいじゃなかったですかね。八瀬に住んでいる人が八瀬の高野川のところを牛小屋が流れてきて、牛が小屋の丸太の上で鳴いていたのを記憶していると言うていましたから、それが昭和10年代ですね、たしか。最後の大洪水じゃないでしょうか。
掘り込んでいるんですか、鴨川は。
ええ、そうです。基本的には掘り込んでいる。川からすると、結構、中流・上流の川ですから。普通ですと、れきが大きくてざらざらなるような川だろうと思うんですけれども。
大きなれきが全くないですね、鴨川は。
本当はれきはあるんです。
(手を肩幅ほどにひろげて)こんなものはないでしょう、もう。
ああ、そんなものはないと思います。
大抵、手のひらに乗るような石しか、あの川にはないですよ。
ずっと上流に来て谷川になっているところにはあるでしょうけれども。
うちのすぐ前のところなんかには、川底には全部ブロックみたいな四角い石がずっと敷きつめてあって。
今はさっきの四条、三条、五条のあたりの、川の中のアベックがいっぱいいるところも、石ではありますけれども、つくったものですし。
鴨川の石というのは随分何か人気があるらしいですね。頼山陽も拾っていたという話が伝わっていますが。ですから、今コンクリートで固めてあるものに昔のいい鴨川の石が埋められているみたいで、雨降りのときはとてもきれいな石がいっぱいありますよ。ああいうのはみんな埋められているから残ったので、そうでないものはみんな家に持ち帰ったんだろうと思います。いや、本当です。ああいうきれいなものは川に一つも残ってませんから。
ああ、中にね。
今、だから、石垣に埋められているものが昔の鴨川の石を博物館のように。あれをうまく活用するとまたおもしろいと思うんですね。昔の鴨川の石はこんなきれいな石だったというふうに。
あの堤防を今のようにきちんと整備したのは、あれは1950年代ですか、60年代ですか。今の京阪を地下に入れる前。前にもう堤防修理をやったの。
そのときはいろいろ地元の先生方にも反対する人がいたようですね。鴨川の天然の、まさに柳、桜を織りまぜた堤防を壊して、それをコンクリートや石で固めるのは反対だと。崩れるところは崩れて、別に破れたってそれでいいんだと。
そうですか。
それを特に強力に発言したのが生田耕作先生。京大の。
では、そんなに昔ではないですね。
そんなに昔ではない。
昭和40年ぐらいですか。
そのぐらいですね。随分強力な反対を。
京阪電車が。
埋めるよりもっと前に、鴨川の土手を国土交通省が整備したんです。
でも、あの土手に生えていた木は随分古い木だったですが。
今はそれ以後です。
ああ、そうですか。
今、あそこの柳や桜は皆若いです。
それはあの京阪電車を。
北に行けばね、あの古い今出川よりももっと北に行けば、高野川沿いの桜なんか、あれは相当古い。あれは50年ぐらいたっているような。
はい。
丸太町から下あたりの桜は皆若い。大木はない。
京阪を地下に入れるときに、あれは改修しましたね、切り倒して。
ええ。
それはそんなに昔ではないですが。
でも、あれうまいこと柳、桜、それぞれ、桜もいろんな種類を取り混ぜて植えてありますね。
マイクは特別要らないとは思いますけれども。きょうはできましたら、たくさんさっきもお話が出ていましたけれども、こんなふうにしたらどうだ、あんなふうにしたらどうだという話をなるべくたくさんいただいた方がありがたいと思っております。ただ、一応報告書というか、提言する、それから少し体系立てた整理をするということで、若干「論点メモ」というのをお手元に渡していただいていますが、それをさっとだけお話をさせていただきます。
1枚目、「川と歴史・文化」というのですけれども、川というのがどういうふうな意味で歴史文化のことかどうかということで、歴史と文化というのが、人とのかかわりという時代のことでもあるとは思うんですけれども、やはり人とのかかわりがあるから歴史や文化があるんだろうと思いますのと、そこに@からありますように、一体人は川とどういうふうにつき合ってきたかということで。
1つは恵を受けてきた。それから、水害とかそういうおそれの対象であった。3つ目は舟運だとかで産業の動脈だったり、場合によったらある時代は情報の導入口であったり、心の癒しとかやすらぎとか、あとは遊ぶという場であったり、楽しんだり遊んだりする場であったり、自然を育み、つなげる空間ということで、地域社会のある種健全な自然度を保つ、現代社会は特にそうでありますが、川のところだけぐらいが依然として残っていると。7番目には空間としての広がりということで、空間であったがゆえに戦場になったり、いろんな場面がそこで行われたりということがあったと思います。
あと、ちょっと下に若干書いておりますのは、川は自然物ということで、単なる「もの」というだけでなくて、特に東洋文化なのかもしれませんが、一つは心境とか人生とかいろんなものを川に写すような精神的かかわりでとらえられていることも多くて、川に人格を与えている場合もあると。
人格だけじゃなくて神格を与えると。でしょう。
神格も人格も。
人格以前に神様がある。
それから、2枚目でございますが、「現状と課題」ということで、これで言えているかどうかわかりませんが、2つに分けています。1つは川にかかわるもの。もう1つは社会的なトレンドというか、最近の状況をまとめていっております。
川に関することでありますが、@は高度成長に代表されますように、少し前までは社会面からも、どちらかというと単一機能といいますか、例えば洪水対策であったり、産業の育成であったり、場合によって環境なんかも環境だけを見つめるということがあったり、そういう単一的な目的達成みたいな概念だったかと思うんですが、その分、他の面も合わせた総合的な価値が失われてきたところであります。人とのかかわりが薄れ、歴史・文化も育まれにくくなっているかと思います。
川そのものが単調になって、自然性も失われるなど、川そのものの魅力が薄れた。それから、川の原点であります、水があって川でありますので、これが清廉でなくなった。それから、構造そのものが人が近づきにくいものになっていないか。川に背を向けるような都市空間、町の方も、川の方の状況も関係すると思いますが、背を向けたようなあり方に変わってきた。結果、人々の関心が薄れた。
Aはちょっと違うあれでありますが、川が歴史・文化とかのいろんな素材を持っているにもかかわらず、余り今までは余り知られるようにはなってきていない。
B、川とのかかわりの希薄が招く問題ということで、1つは、自然環境の面でも、生活環境でも、地域ぐるみで自分たちの川ということが薄れてきているのではないかと。そういうところが、いろんなところへ、自然環境の保全であろうが、いろんなものも悪くなっていないかと。1つ次の点で、防災の面で昨年いろいろ災害がありましたが、自助・共助・公助というふうに防災のことを分けますと、自助・共助みたいなことがやっぱり大事であるということを再認識したのが昨年の災害でしたが、やはりそういうことを。
昨年はまたすごかったからな。
緊急じゃないときから川とつき合っている格好がないと、何かこういうふうにちゃんとなったなということはなかなか難しいのではないか。
それから、これは行政的なあれでありますが、いろんな川の事業みたいなものですけれども、いろんなものを理解してもらうという点でも、日ごろからの川への関心というのは大事ではないかと思っております。
次の頁でありますが、これは社会的に見て最近の川利用というか、最近のものを並べて見ております。1つはこれは少し前から言っていることですが、物質的に豊かになったということで、真の豊かさといいますか、やすらぎとか潤いとか、そういうものに対する欲求が出てきます。2番目は余暇の過ごし方で、最近、私どももそうでありますが、どこか非常に身構えて出かけるというのではなくて、身近な風習を、歴史とか自然とかを触れるというふうな過ごし方というのが、これは相当ふえております。
3つ目は、観光地におきましては、先ほどもちょっと出ておりましたが、何か観光の従来のものから何か刺激といいますか、そんなものを質のよい格好で触れられるというようなものに対する欲求が高まってきております。
それから、まちづくりでありますが、これまで過去の全国総合開発計画なんかでも、東京にあるような機能というか、都市にあるような機能が、田舎でもみんな同じようなことがあるというのが幸せであるというような指向性があったかと思いますが、今は個性のある地域づくりというか、個性あるまちを目指すと、そういうようなことが出てきているのではないかと。
それと、これは憲法論議の話はあれですけれども、歴史と文化というものを大切にする国民性というようなことも議論が高まっていると。
それから、ボランティアですとか、市民団体とか、地域でのいろんな活動に加わりたいという人たちがふえているという状況にあります。
次の頁でございますが、ではどのような川、それからどのような川と人との関係にしていったらいいんだろうかということで、メモってきております。
1つは歴史・文化の貯蔵庫としての川ということがあるのではないだろうかと。川は人とのかかわりがあって、川そのものが歴史・文化を育む母体となり題材となってきたと。川にまつわる情報を知ってもらい、川そのものに歴史・文化が貯蔵され残ていくようにすると。そのために、川にまつわる歴史・文化の情報・データを掘り起こして、それから知ってもらい、それを継承すると。それも単に情報・データではなくて、川そのものを歴史・文化が香りを増していけば、それがうまく貯蔵庫として文化そのものが築いていけるかと思いますし、周りの関連したものともそれによってつながっていけないだろうかと思っています。
2つ目は歴史・文化を感じやすいものとするということですけれども、人々がそういう歴史・文化に感じやすいようにするというのは、町と川、川の中の動線、人が歩いていって、どういうふうに触れて感じるかという動線をつなぐ。それから、川そのものを魅力ある空間にすると。それから、川の現地で歴史・文化の情報に触れやすくすると。また、どこに行けば何があるかを知ることができるようにすると。
3つ目でありますが、文化が育まれやすいようにするということで、歴史が出ておりますが、歴史・文化が育まれやすいようにするということであります。1つはどういう川がいいかということでありますが、やはり川にまつわるといいますか、歴史文化ということを考えますと、川そのものは、川らしい川であるということが大事なのではないと思います。自然的に見ても例えば川の瀬や淵があったりだとか、その他いろいろありますが、川らしい川というのを川そのものがらしいということが大事なんじゃないかと。さらに、清流、流れそのもの、自然環境を大切にすると。2つ目は人とのかかわりというのをふやしていく必要があります。人が近づきやすい、活動しやすくすると。それから、3つ目、個性豊かな川にすると。どこもかしこも同じじゃなくて、この川はこういう個性を、それにその川を生かした町の方もこういう個性をというようなものになっていくようにしたらどうかと。4つ目、川を舞台とした文化的な活動が行われやすくするというような方向性で進めるべきではないかと。
大きな4番になりますが、今ずっと過去の歴史をつないでいったり、それから正しく歴史や文化がこれからも育まれるようなものとしての話がありますが、そういういろんなことをやるのに、あんまり人を育てるというとちょっとおこがましいかもしれませんが育つように配慮していくべきではないかということで、具体的な話はできませんが、そういう人を育てていくと、いろんなことをうまくやっていくために人が育つようにするというようなことを考えました。
具体策が次の頁からでございますが、具体策というか、アイデア的なものが書いてありますので、さっとだけ申し上げますが。
1つは川の歴史でありますが、川にかかわる歴史・文化の素材をきちんと調査・収集、整理、蓄積というのをしておく必要があるだろうと。それから、2番目は川そのものを歴史・文化の貯蔵庫にするという先ほどの話で、歴史・文化に身近に触れられるよう配慮した空間に整備・保全、それから歴史・文化の資料を川の博物館などに蓄積というようなことを具体的にする。(3)でありますが、川そのものを歴史・文化・自然のミュージアムにする。川の博物館とか結構あるのではございますが、川という素材がずっと歴史・文化もそうでありますし、自然も何か川そのものが博物館であるというようなことをしていくべきではないかということであります。このために、先ほど繰り返し的なものがありますが、散策路となる人の動線を調査し、途切れているものをつなぐ。散策路上などにセンスがよく風情がある案内標識を設置。これは簡単な情報をそこで知り得る。川の博物館等をビジターセンターとして活用して、散策の拠点となって、詳細な情報はここで知る。それから、どこにどのような歴史・文化の素材があるかを知れる。さまざまな人々のニーズに合わせた複数のガイドブックも作成・提供、それから人のガイドですが、どこへ行きましても、いいガイドをしていただいていますと、非常に豊かに仕事ができますので、ガイドのそういう仕組みをつくって、地域で案内役を募って、登録・検収などの体制をとっていこうかと。それから、各ビジターセンターでありますが、それも個別のビジターセンターではなくて、少し大きなネットワークを図って、琵琶湖であれば琵琶湖全体でのネットワークで展開するというようなことをするのではないかと。
(2)になりますが。これは番号が(1)(2)(3)の後、また(2)になって変で済みません。歴史・文化を身近に感じられる水辺にするということで、1つは歴史の、これは過去の歴史・文化を身近に感じられる水辺の空間といいますか、ハードそのものをどんなふうにするかということを並べております。1つは地域の歴史・風土を反映した川の姿や文学・芸術の背景となった景観等を考えた、そういう点をトータルデザインされた川というものにしていこうと。それから2番目は、川全体を歴史・文化の博物館とみなしという、先ほどのミュージアムでありますが、自然のアンケートとともに歴史や文化を感じることのできる空間の形成。それから、もう1つはフットパスの整備。それから次の頁ですが、過去の治水施設なんかも川の施設も歴史的遺産として保全活用する。それから、歴史・文化を醸し出す水辺に必要な工作物や樹木の設置等の積極的な支援。
それから(3)は、今取り組みしておけば、これからその空間、川が歴史・文化がそこで育まれていくためには今どういう川でしていこうかというものであります。川らしい川にするというので、先ほどのようなことの確保をしようと。それから、人が近づきやすい川の構造、障害物の排除とか、人の動線の確保、川とまちを総合化した計画を進める。一部、幾つか都でやっておりますが、合わせた計画、川は川だけ、町は町だけということでない計画で進める。川の維持管理へのNPOなどの参画を進める。実際かかわって、人々が川と町とをつなぐとか、川への関心を持っているのか、どのような活動ができるかということからすると、川のそういう具体的な行動に参画すると、護岸は川を舞台として文化的な活動が行われやすくするため、使用許可等を点検して、必要な見直しや円滑な使用のためのマニュアルなども整備してはどうか。川のにぎわいが高まるよう、必要な使用許可等も点検・見直しをしてはどうか。
それから(4)、人が育つようにするということで、歴史・文化の橋渡しの担い手となる人の育成。それから、人のネットワークづくりということで、ちょっと中身がこの辺、うまく書けておりませんが、かかわります方々の募集・登録だとか、ネットワーク、データベース等々をしていってはどうかということで。
ちょっと先生方の前であれでございますが、私どもの稚拙な頭でさっとたたき台として、こういう点でどうかなと思って書いてあります。先ほど冒頭申し上げましたように、ぜひこういうことをしたらどうかということをきょういただけましたら、次回までにそれも入れて、少し提言の案にしまして、次回にお披露目させていただければと思います。
大変要領よくまとまっているんじゃないでしょうか。宮村さんいかがですか。
よくまっていると思うんですが、いろんなことを言った方がいいということで、ちょっとつけ加えさせてください。日本語の特徴みたいなものが表現として出てくるようなものがいいと思います。川の場合、自然というと、瀬や淵ということで終わっちゃうんですけれども、瀬や淵じゃ、日本の川らしさかどうかもよくわからない。で、日本の国土というのは地球上で一番新しいということで言うと、滝というのがあるんですね。意外に大事で日本的なんですよ。
あちこちにありますものね。
そういう意味では、国土の中の滝という、これは文学的なこともあるでしょうし、我々の工学的な方に聞くと、どのくらい水の音が違うかということで川の特性がとれるんですね。水力の多い川とそうでない川とか。洪水のときはどのくらい出るかとか。とらえ方によって、滝が一番文化的、あるいは自然的、あるいは工学的な。ただ、都市の中にあるかどうかというのは結構難しいんですが、取りようによって、滝というのは上から落ちるだけが滝じゃなくて、華厳の滝みたいな滝もあれば、あるいはせせらぎも広い意味で。そうすると、何となく、日本の川の一つの代表の。
水音だね。
表現としては、そう、水の音ですね。表現としては、この瀬・淵のところに滝も入れられると少し広がるかなと。
その点ではいかがですか。久保田先生。
清滝なんていうのは、小さな滝の連続みたいなものですよね。それで非常に水の文学というのは昔からありますし。もちろん、大きな滝はまたそれこそ神様ですからね。
そう。那智の滝、華厳の滝もそうでしょうし。滝そのものが神様だというのが。
那智の滝はやっぱり神になるんじゃないでしょうか。
神様でしょう。
神であり、また仏であるんでしょうね。
神様です。
神様ですか、本来は。
注連(しめ)があります。神様です。
神仏混淆で。
昔は本当に山伏なんかがみんな修行していて。
今でもやっぱり滝の下で、この水のすごいところでこうやって浴びながらね。あれは大体修験道系ですか、滝の下で。別に修験道でなくてもいいのか。そうか。あれは神道ですね。滝の水を浴びながら。
今の修験道は仏教の一派だと思いますけれども。昔はあれは本当に混淆じゃないですか。
混淆ですよね。
むしろ原始的な山岳信仰と仏教が習合したんですよね。
芳賀委員長 高野山でも羽黒山でもね。やっぱり川の持つ、聖なるものとしての川というのは強調してもいいかもしれませんね。物語がある、歴史があるというだけじゃなくて、もっとさらにさかのぼると聖なるもの。それは日本の河川に限らず、中国の川だって、やっぱり神様、そこから龍が飛び出したりするんです。それから、ナイル川だってまあそうでしょう。聖なる川でしょう。それからガンジス川でもそうだし。川には聖なるものが宿っていて、つまりそこから人間は生命を賜り、人間の生命を維持していくと。死ねばそこに流されていくと。
洪水なんかだと、龍神、川の神の怒りというふうに昔はとらえたわけですね。
そうですね、確かに。淵も瀬も、それから和歌だけ考えても滝もあるし、瀬もあるし、それから淵もある。
それから、大堰川の井堰も、堰ですね、あれなんか本当によく。
そうですね。堰というのはやっぱりあれも昔からあるでしょう。
大堰の「堰」が大体「堰」なんですね。
つちへんのね。
農家の稲作が始まったぐらいからだろうと思いますけれども。
そうですか。そこから水をとって、やっぱり水をとるという。あれはやっぱり音を立てるし、水がきれいになるし。
それね、この間、月半ば学会で盛岡に行ったんですけど、それでバスでずっと回ったんですが。水沢の近くに石手堰(いわてい)神社というのがあって、石の手の堰(せきのい)と書くんですけれども。石手堰(いわてい)神社というんですけど、式内社だと言うんですけれども。今はもう祭神はそれらしい神様になっているんですけれども、どう見たってあれは北上川、川の神様を祭っている神社だと思います。今は鄙びているんですけれども。あれは東北の河川の人たちにどういうふうに皆さんとらえられているかもしれませんけれども、そんなのもまだありますね。
そうでしょう。そこはじかに北上川ですか。支流じゃなくて。
北上川、本流で。その脇に。
水沢という名前からして。
だから、あの堰というのは何でつけているのかなと思うけれども。今、祭神だという神様から見たら当てはまらない名前なんですけれども、神社の名前の方が古いと思いますけれども。それにしても、まあ式内社だというところ信じてあれしてみれば、その当時に川の堰を特に大事にしていたというのがわかりますけれどもね。
一関の関所の関と、水の川の堰は何か意味が似ているようですね。どっちもとめるという。
とめるという点ではそうですね。
漢字は違うけれども。
意味的には何かつながっているんですかね。
6頁のところの具体策のところの(2)のところですね。歴史・文化の貯蔵庫とするとあって、ミュージアムにするとあって、下の方に(1)(2)(3)となっていて(2)になっていますが、(4)ですね。この(4)のところも何か、川全体を歴史・文化が身近に感じられる水辺にするということがありますが。こういうところが、日本の歴史・文化というのを、スタティックな、既にもうあるものと見ている視点があって、ちょっと抵抗を感じるんですけれどもね。
昔の1000年でつくられてきたものは、それは大事だと思いますし、ちょっとあれですが、後ろの(3)番というか、次の頁も(3)なんですが、これからの歴史・文化が育まれるという空間としてはどうしていったらいいだろうという、この2つをするのかなと思うんです。多分、過去のやつを大事にしていればこれからのやつも育みやすいというか、大事にするような。
貯蔵庫と言わないで、貯水池と。
これは言葉が若干。
貯蔵庫だとそこで終わりという感じですね。
歴史・文化というのは書物上とか何とかではなくて、大きなフィールドそのものが何かですね、川というのがうまくできないかなという感じがします。
自然という言葉は一切出てこないんですけれども、それでいいんですか。
多分、前の方に少し出させていただきましたようにしたように、一般の方が例えば川へ行って何かしようとする分には、自然と歴史とか文学というのはそんなに区別はあんまりないだろうと思いますので。それも全部一緒だろうと思います。
いや、よくわからないですけど。例えば、その(3)のところは「歴史・文化・自然のミュージアムにする」という。
済みません、これはまだ提言書的によく整理されておりませんので、どちらかといいますと、ペーパーでございますので。
川は鴨川ぐらいの規模になるとかなり大きくて、上に大空間が開けてきて、それから山が近い、その川から山を眺める、上流の山を眺める。あれがいいんですね。目の前の水が流れていくところだけじゃなくて。それはやっぱり風景が、川がつくり出している風景、それ自体が文化財なんです。東山でも北山でも。鴨川自身のあれなんか、四条大橋のあたりの、私のその上賀茂あたりでも。北山あたりの、こちらに叡山が見えて、大文字のあの山もあって、北山があって、愛宕山が向こうに見えて。そこに夏になると送り火がたかれる。その全体が、いわば京都で言えば町全体が博物館。だから、特別扱いしてくれと言っているんです。きょうはそれをちょっと懇請しよう。 奈良は奈良でいいけど、まず京都はとにかく観光客が来るところだから。1つ目玉を決めて、選定しちゃって、京都ならだれも文句のつけようがないじゃない。それで、こういうことを全部まず京都でやってみようと。北上川もある、信濃川もある、筑後川あるけれども、京都で都市の川、河川と山を中心とした自然景観がそのまま、千何百年、歴史以前からそのままある。その原形が一応守られている。幸いなことに。
京都は特別な代表としてということはあるんですが。できれば、もう少しそんなに高度な文化の遺産がなくても、ほかの例えばあそこでもそうだなというのがちょっと欲しいところなんです。
ほかを二、三認めたら、四、五になり、きりがないから。というのは、この5年間は京都でやってもいい。完全に特化して、そこに何十億かかける。
モデル的にはそういうこともあり得ると思いますけれども。
実験都市として。古都保全法の1項か2項ぐらい、あそこに追加条項を加えるといい。
鴨川の写真というのは、大体古いものから集まっているんですか。
明治のころからありますね。写真機ができて以来。あれは日文研のシラハタ君がかなり集めていていますね。
随分ありますね。外国の方のおみやげように撮った。いっぱい撮られていますね。
絵はがきのようなものもね。それが何千枚か集まっています。それからほかにも絵もあるわけだし。いろんな京都の画家たちが書いた、明治以後だけでも随分あるし。それ以前にさかのぼればもっとあります。それから、歌にいけば、源氏から古今集から。万葉集にはないですけど。古今から。古今は紀貫之に幾つもある。清滝川の歌もあるし、鴨川の歌もあるし。どれもいい歌ですよ。それから、枕草子にもいっぱい出てくるし。あれを読めば、何とこの鴨川というのは大事か。鴨川というか、清滝川も京都の川というのは大事かと。日本人と川の関係を最も美しい言葉で語っているのはあの辺です。あれを超えるものはそれ以降もないぐらい。 枕草子の中に2行ぐらいで、牛車に乗って川を渡ると、月の光で川の水が水晶のように割れる。まるでドビュッシーじゃない。本当に。たった2行ぐらいで。あれはどの川だとわからないけど、多分鴨川あたりかもしれませんし。あるいは、京都の中には幾筋も川があったから。あんなのね、あの1行を引けばいいわけです。それから、紀貫之の歌も、清滝川と鴨川の歌、鴨川で夕涼みをするという歌。紀貫之が何か上司たちと、上の役人たちと一緒に。この間何かそういう公演をやったんです。それでにわかに一生懸命集めて。久保田さんの本まで挙げているひまがなかったけれども。
JR東海でかなり京都の宣伝をしてまして、年に二、三回ですか、パンフレットを出すんですよ。それで、何か歌枕のことを4回か何かそのぐらい書けと言われて。最初、向こうから割り当ててきたんですけれどもね。清滝を最初取り上げろというので、それが多分6月に出るんだと思うんですけれども。
これから出るんですか。
それまでは京都の町中のことをスギモトさんがずっと連載してらして、それの後なんですが。
町中をスギモトさんが書いてね。スギモト何タロウだっけ。
秀太郎さん。
こっちはよそ者ですから、そのたびに勉強しないといけないんですけどね。
いや、だって、あなたは古今集をやっていればよそ者じゃないじゃない。古今集は京都じゃない。新古今も皆京都じゃない。
まあ本当に歌枕が多いところだから。
それはそうだ。
だから、これを伺っていて思ったんですけれども。僕なんかは割と、こういう古くから、都市じゃなくて、地方、田舎の場合を考えてみるんですけれども、例えば自分の村に人々が使っていた川が流れている。そこの場所が、その川をきれいに整備しちゃうと、もうかつて使っていた場所がみんななくなっちゃうわけです。例えば洗濯をする場所、それを僕の田舎では川戸場(こうどば)と言ったんですけれども。それは野菜などを洗う場所と、汚れ物を洗う場所と、場所を変えて。あんな川戸場(こうどば)なんて言葉だって。
川戸場(こうどば)ってどういう字ですか。
多分川の戸の場所ということだろうと思うんです。
いい言葉ですな。
ですね。そう思うんですけれども。
いつかテレビでやっていたのは、琵琶湖に流れ込む。
やってましたね。
あれはそういうのを今もやっていますけど。
今もまだやっていますか。
ええ。
九頭竜川の越前大野。あそこもよかったな。それでその洗い場にちゃんと神棚も祭ってあってね。ああ、越前大野もあれも特区だ。気に入ったところを特区にして。あそこは九頭竜川の水がちょっと減ってきて、昔ほど水か町中を通る洗い場にあふれてないですね。あれは上でダムをつくっちゃったからでしょう。やっぱり国土交通省のせいだな。九頭竜ダムのせいかな。
琵琶湖なんか、コイか何か泳いでいましたね。
いましたね。あれきれいでね。今はヨシ原というか、ヨシをあそこで刈り取っているところでしょう。あれはどの辺ですかね。東岸のかなり北の方ですか。
東岸ですかね。
近江八幡のあたりですか。
あれは近江八幡のいわゆる財閥の方がいっぱい出た。
ああ、そう。
そうなんです。外村繁とか。
ああ、ワコールの。
外村繁というのは作家ですよ。
ああ、そうか。
ああいう人です。五個荘町ですね、大体。
あの辺も特区にしてくださいよ。何かそういう。特別の方は表に言わなくてもいいからさ。何か国土交通省、黙ってこの予算をあそこに。何でこんな予算が来たのかと思うようなのをやってくださいよ。それぐらいのことできるじゃない。河川局とあれば。
文化庁の文化的景観になったんじゃないかな。
ああ、そうですか。文化庁と環境省と一緒にやって。どうせ文化庁や環境省はお金がないんだから。国土交通省はたんまりお金を持っているんだから。国家予算の3分の1ぐらいを握っているんだろう。
今度景観法では文化的景観も一緒にやるということになって。
そうですか。当然だね。
文化庁と一緒に。
文化抜きの景観というのはあり得ないものね。
それで僕が言いたかったのは、そういう消えていくんですけれども、これでこう見ていくというと、見て、ああこうだったのかというのを知るような形でというのが大体受け取れるんですけれども。そうじゃなくて、やっぱり川だから水に触れる、それがやっぱりどこかに生かされてほしいと思うんですね。
触れるようにとか、そういうことは可能だと思うんですけれども。ちょっと気になるのは、例えは先ほどの洗い場みたいな感じで、実際使うという行動はなくなっているわけですね。やっぱり家で蛇口の水道で洗濯機でと。それはあんまり、一部はあってもいいんですけれども。
見てという、それだけじゃなくて、やっぱり体で触って覚えるというのが。そこから割と親しみがわいてくる。水に浸って、石ころにしてみたってそうじゃないですか。親がそれをしてやらないと、子供ができません。
そういう体験をしろということを言うわけですか。
そういうふうなのをやるにはどうしたらいいか。子供たちが実際に触れて楽しむ、実感できるところを。
それは今すごくPTAがうるさいでしょう。危ないと。縄が引いてなかったら、おぼれるともうすぐに、最後は国土交通省の責任になったりして。
この間冊子をもらったのを見ると、どこかあちこちの学校がいろんなことをやっている、あれはいいと思うんですけれども。
やり始めたんですか。
あれは小学校どまりですよ。一番大事な成長期の中学生のあたりがないんです。だから、続かないんです。
それから高校生なんかもね。
一番人間の危ない時期の。
小学生のときは、僕らはそうですね、いとこで年上の、こっちが小学校3年のころ、もう中学5年生になる、必ず一緒に行って、きょうはここが深いから、あっちへ行くなと。そうやってね。それと年上の十五、六がそれとなく守ってくれたんです。我々は安心して、小学生は一日中遊んでいた。
遊び方をみんな教えてくれるんですよね。
そうです。ああいう兄貴分がいてね。縦で組をつくればいいんだな。今、せっかく中学と高校の連携の学校がなっているから、ちょっと文部省にも言ってくださいよ。
だから、人づくりというのか、人も集めるのだって、やっぱりその辺を考えないと。
そういうことも入れましょう。国土交通省も環境省もみんなここにからんでくるというような。文化庁はもちろんのことね。それから各地域の県庁、市役所、それからNPO、ああいうのが、一番下の組織がNPOで、NPOと地元の学校の連携ですね。そういう人たちが川は危ないとばっかり言ってないで、ちょっと危ない目に遭わせるぐらいのことをやるといい。そうすると子供が自分で身を守るようになるでしょう。ずるっと足がすべって、急に深いところになってがぶがぶになって、水が上に行っちゃって、空が上にあるなんていうような、ああいう経験をしなきゃ。
水ガキとか川ガキとかいうような、そういう活動をやっているところは大分、ちょこちょこと出てはいると思います。
例えば石を投げてはねさせるあの遊び、今の子はどれぐらいできますかね。
東京都心でもやってはいて、荒川でもしょっちゅう見かけましたけど。
それから琵琶湖なんかではもちろんできますよね。川じゃ川幅もあるんじゃないですか。
そうですね。
歴史・文化というと、治水とか災害とか防災訓練とかそういうのが入ってこないようなニュアンスでとらえていますが、防災訓練も文化だと思うんですけどね。これからそういう災害が非常にふえてくるわけで、こういうことを身をもって知るとか、そういうものを。
身をもって知るか。
そういうことを何か入れてもいいと思うんですけどね。歴史の中に洪水の歴史とか災害の歴史とか入っているんでしょうけれども。
どこまで水が来て、さっきどこかの古本屋でウナギが泳いできたとか、ああいうことね。
災害とか水防活動とか。
水防訓練とか、非常に熱心にやっているところと、そうでないところが。
そういうことをやると川に親しみが帰ってくるんですよね。どこの堤防が、どの辺が破れやすいとか。堤防が崩れかけたときに、本当にどういう手当てをするか。まず緊急措置として何をやるか。ときどき消防署が中心になってやっているんですかね。
やっているんですね。年に1回ぐらい。
出水期を前にやっております。
もうちょっと地域の人が総出で出てくるぐらいの、そういうものにしていかないと。
僕のところは信濃川で子供のころ結構危ないときがしょっちゅうあったんですけれども、それはやっぱり川の音を聞いて、あるいは川の水量、流れを見て、子供ながらに何となくわかっていた。
もちろん。ところが、去年の夏の五十嵐川なんかの洪水のときに、三条の人たち、いい大人が、どれだけ水が来たから家が危ないというのが、それが感覚でとらえられないんですね。河川局関係の皆さんがみんな一生懸命やってくださっているからみんな任せておく。それがやっぱり一番危ないんじゃないかと思いますね。
洪水、それから出水の歴史を伝える、それからそれに対する防水訓練、その歴史・文化、それもずっと歴史があるわけだから、そういう体験をさせること、それから川のおもしろさも体験させる。幼稚園から小・中・高まで通してやる。それから、川におけるその自然というのも、その風景で、風景として守ると。河川局だからって、川から眺められる、まちとか周辺の山の風景とかそれも非常に大事だと。それも一緒に守るようにする。それから、その値打ちを教える。 やっぱりセーヌ川は聖なるものなんて感じちゃいないですね、フランスはね。
キリスト教は泉の方ですね。
川までいかないですね。
いかないですね。もう1つは最上川でも鴨川でもセーヌでも、名前というのが大変大事ですね。名前ですべてあらわれている。セーヌがセーヌという名前でなかったら。
そうですね。ロワーヌ川はロワーヌ川。ああ、そうか。川の名前を守る。
表現されている川と。そう思います。
それは山の名前も同じですね。
さっきセーヌ川で女性が泳いでいるという、あれはやっぱり折口信夫のいう「水の女」の姿をずっと引きずっていますね。
ローレライに出たのなんか大変神秘的で。今で言う臨海副都心で。
あのグルヌイエールの女たち、あれは現世の俗世のローレライね。
水の精って、女性なんでしょう。
オンディーヌ。
オンディーヌ。それは水の精がたくさん泳いでいる絵というのが何かあったと思うんですけどね。
ありますね。いっぱいありますよ。
あれのいわば現代版みたいなものですね。
ベックリーンにもありましたね。
ベックリーン。
資料的なものはむしろ、1900年だからそうでしょうけど、音楽ですね。
デルボーにもありましたね。若いころのデルボーの絵で。ニンフがたくさん。
たくさんありますね。
ああいう女性を日本の古代語でいえばククリヒメ(菊理姫)ですね。
そうですね。
この前佐伯順子さんの淀川の川沿いに遊女がたくさんいたという、そういう話をされてましたね。
それが観音様だかに行って。
江口の。
江口の。化身になっていますが。
普賢菩薩。
そういう文化もありますね。
ありますね。そういうこともいいですね。「若竹や 橋本の遊女 ありやなし」、蕪村のね。清滝は芭蕉の俳句もありましたね。
「清滝や 波に散りこむ青松葉」。
前にどこかで書いてらっしゃいましたね。
そうですかね。自分で書いて忘れてた。
蕪村にも鴨川の句もあるし、大堰川の句もあるし。芭蕉にもありますね。床の夕涼みの俳句がね。芭蕉が京都に来て。
「薄柿着たる」ですね。
そうそう「薄柿」。あれいいね。いろいろありますね。僕はちょっと失礼します。あとは樋口さん、ここのそばにいるから。僕はまた後で懇親会のときに戻ってきますから。では、山田先生、きょうは本当にありがとうございます。失礼します。これからまだこういうのをなさって、今の提案をめぐって。それでもう、伏見の方に行くんですか。
しばらく審議をお願いしまして。
樋口さん、お願いいたします。
ほかに何かご意見ございませんか。
きょうは人数も少なくて非常にくつろいでいるから。
私の思いつきですが。
どうぞ。
女性を人材として活用して。ここでも寂しいですよね。私しかいなくて。女性って、川とか風景が好きですね。聖なる者なり遊女なりとされているのもそうですけれども。まず、女性の方がひまがあるんですね。NPOでも私の友人の娘がたくさんいます。外国の川でもいっぱい行っています。女性を活用してください。山よりは川の方が体力的に。女性の感性はきっと役に立つことがあると思います。
事件の被害になることを考えると、女性が安心して川を。
ええ。山はちょっと怖いですね。
我々が気づかないことを出してくださるかもしれない。
ガストン・バシュラールという哲学者が「水と夢」というのは一番女性的なんですって。イシとかそういうものに比べて。大事なところが大変ありますから。女性をどうかご活用ください。
それは何か考えておられますか。この委員の中にも入っていましたっけ。
グッドアイデアだと思います。
若い女性が安心してひとりで川の散歩ができるように、どうするか。
かなり川の町と一緒になったような景観みたいなのは大分改善されてきていまして、テレビドラマなんかだとかなりの場面が、半分以上が川のところで撮っているのなんかもありまして。東京ですと、荒川とか隅田川とかよく使ったり。昔はそんなことはなかったのに、最近物すごく多いですね。
川は多いですね、テレビに。東京ですと確かに隅田川だし、京都のものだと鴨川がよく。私、京都のサスペンスなんかよく見るんですけれども、必ず鴨川の、さっき話題に出ていたんですか、石を飛ぶところが出ますよね。
今の言葉で言えばいやし系なんですね。やっぱり男性より女性の方がいやしが好きなんですよね。水と女って、大変絵になるというか。フィーリングがソフトですから、ぜひぜひ女性の人材をご活用ください。
水と文学をやっているけど、映画の話なんかもね。
小津さんはやっていますね。成瀬さんが同じ世代でしょう。ことしは成瀬さんの100年。荒川が一番出てくる。多分、昭和20年代、30年代の一番川をとって。しばらくなくて、金八先生で帰ってきた。
なるほど。
寅さんも出てたね。
ええ。
ちょっと思いついたことなんですけれども、フランスは4大河川がありますけれども、女性名詞、男性名詞で言うとセーヌは女性で、あとは全部男性です。だから、セーヌが一番やさしい川だと思います。日本って、そういう性別はないんですね。
一応、坂東太郎ですか、昔の言い方だと男ですね。
そうですね。
昔は男ですけれども、でもシラキヨ川なんていうのもありますからね、昔は。あれは何でしょう。あれは女性ではないでしょうな。
文法が既に違うんです。不思議ですよね、それって。
荒々しい川。男性になっちゃうんですかね。
洪水のときに。
イメージがあるからですかね。母なる川と。
日本の場合はやっぱり急流ですから、イメージとしては。
急流、山国だからですかね。
多分、川を管理している人との相違点、本当に違う実感なんでしょうね。
そうでしょうね。
ほとんどの都市で川が危なくてしようがないと。危ないというのは流されるじゃなくて、怖い場所。安心な川って、具体的に治安の意味での安心というのが。それを言われると相当つらいですね。どうしたらいいかわからない。
安心がなくなって退屈だからじゃないでしょうか。
川幅が広いところなんか怖いんですかね。
そうですね。
川が怖いんでしょう。川が怖いらしいですね。そういうときに地域でどう考えるか。治安のためにライトをつけるという話が結構出ています。それはちょっとね。でも、つけたところがありますよね。
隅田川のテラスなんかはライトがついているところがありますね。全体かどうかわかりませんが。
アシダ川はついたんですかね。
全然話は変わりますけれども、鴨川の近くの版画でタナカナオコさんという。
鴨川だけかいている方、京都の方ですね。タナカナオコさん。
川の絵画展というのかね、昔の絵も含めて、今たまたまウエノで、若い現代の人のを。その方がいつもかいているのをちょっと聞いたら、川を好んで川だけに絞っているんですとお話だったので。
特に鴨川に絞って書いているんですか。
出ている作品は。非常におもしろいですよ。何か古いのから新しいのまで、川の版画の絵画展をやっていると、そういうのに興味のある人は。
荒川の絵画展というのか、あれを皆さん結構熱心にご参加されていますよね。東京の荒川のところで絵画を皆、五月みどりさんとか、ああいう人たちも皆。あと相撲取りの何とかさんとか。そういう方まで、一般の人も応募が非常に多いです。  それと、女性の話は東北なんかでも、「おんな川会議」というのがあります。
おもしろいですね。
熊本にもあります。
熊本にもあるんですか。都市部じゃなくて、結構地方でも女性の方が川に関心を持って、皆、少し語り合おうとか、何かしようという動きが出ています。
民族学というと絶対男文化・女文化ということで出てきますよね。そんな難しいことを言わずに、女性をどうぞ。
ウエルカムなんですけれども。
きっと男性が持っていない視点とかフィーリングで気がつくことがきっとあると思います。
水商売の話が出てましたね。
きょうの私の報告は本当にそうですね。祇園というのはそういう場所ですね。そういう意味では。鴨川の。  
 
水の歴史

人類の祖先と水
今から約200万年前、私たち人間の祖先は、生活の場を水辺に求めて集まったと想像されています。川や湖などの水辺は、かりにも、ずっと後になってからおこなわれるようになった農耕にもよい場所でした。水と人間の歴史の始まりを見てみましょう。
水辺での生活の始まり
約200万年前、私たち人間の祖先は、水辺に集まり、そこで食べ物をとり、生活に石を利用し、家を建て暮らしたと想像されています。
川や湖などの水辺に住むと、飲み水がすぐ手に入るだけでなく、そこへ水を飲みに集まってくる動物のかりをおこなうこともできました。
水辺は、もうじゅうがいて危険も多いので、最初は人も、森の中に住んでいました。しかし石器や住居をつくるようになり、集団で暮らすようになると、便利な水辺へと近づいていったのです。
水に乗って遠くへ
今から約20-10万年前、アフリカに出現した新人(いまの人間と同じ種類の人)は、アフリカ大陸をはなれて、ヨーロッパやアジアへと旅立っていったという学説が現在では有力です。
新人は水辺で網をつくって魚をとり、やがて、いかだや小舟をつくるようになりました。その舟で海原へとこぎ出し、それまで人がわたれなかった海をこえて、オーストラリアまで行き着きました。人はこうして、水に乗ってはるか遠くにまで移動するようになっていったのです。  
縄文時代
約7万年前、東南アジアの中で現在のインドネシア、マレーシアあたりは地続きで、「スンダランド」と呼ばれていました。この「スンダランド」の人びとが、丸木ぶねに乗って日本列島へとう着し、沖縄で発見された湊川人や縄文人になった日本人の祖先だと考えられています。
縄文時代は、土器をつくり始めた約1万2000年前から、田んぼで稲をつくるようになる約2500年-2300年前くらいまでといわれています。
縄文時代には、丸木ぶねによる交通・運ぱんが盛んになり、豊かな文化が花開きました。水によってもたらされた縄文文化とはどのようなものだったのか、見ていきましょう。
水辺からふねに乗って海へ
約1万年前、日本列島は暖かくしめった空気に包まれていました。方ぼうに広葉樹林ができて豊かな実りにめぐまれる中、私たち日本人の祖先である縄文人達は、森の近くの水辺から、生活の場を広げていきました。
縄文人達は、丸木ぶねをつくって水の上を行き来し、漁をしただけでなく、行き着いた先の人びとと、もののやり取りをおこなっていました。約1万2000年前(縄文時代の初のものと思われる丸木ぶねをつくるためのおのが、鹿児島県の栫ノ原遺跡から出ています。
水がもたらした豊かな生活
舟で運ばれてくる品物
青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、縄文時代の半ば、約5000年前ごろ、全国各地から運ばれてきた、さまざまなものが集まる場所であったことがわかっています。ここで取り引きされる品物は、新潟県のひすい、千葉県や岩手県のこはく、長野県や北海道の黒曜石、そしてはるか遠く、奄美諸島や沖縄のタカラガイやイモガイなど。縄文時代がいかに豊かであったかが想像できます。
縄文人の食べ物
A.貝の干物 / 愛知県豊川の河口には、貝づか(貝のからが捨てられたごみ捨て場)がたくさん残っています。縄文時代の後期、約4000年-3000年前、ここは貝の干物の特産地だったようです。貝の干物は、とってきた貝を浜辺に並べ、その上に火をたき、貝の口を開かせたら、身を取り出して、天日干しにしてつくっていたといわれています。
B.大型の魚 / 石川県の真脇遺跡、千葉県の神門(ごうと)遺跡などでは、浜辺に魚の解体場のようなあとが発見されています。縄文時代には小型の魚の漁がおこなわれていただけでなく、イルカや大型魚類を集団でつかまえて、浜辺で解体(かいたい)し、分配していたと考えられています。
C.のり / 縄文人達が、海でとったのりなどの海そうも食べていたことが、はいせつ物の化石の調査からわかっています。
D.塩 / 縄文時代の後期に海水から塩をつくったとされる場所のあとも見つかっています。海水を土器でにつめて塩を採っていたため、時間も手間もかかりました。そのため塩はこの時代、きっと貴重な品物だったことでしょう。
E.水でにたドングリ / この時代、そのままではあくが強くて食べられないドングリ、クリ、トチノミなどを、土器に入れて水でにて、あくぬき※をして食べるようになりました。大量の水をためてそこにドングリなどをひたしてにる、きょ大なあくぬき用の場所をつくっている集落もありました。
※あくぬきとは・・・野菜や果物のしぶみ・えぐみをぬくこと。  
弥生時代
これまで、弥生時代の始まりは紀元前4世紀-3世紀ごろとされてきましたが、最新の説では、水田稲作が始まったのは500年以上早まり、弥生時代のスタートは紀元前10世紀ごろとされています。
縄文時代後期から始まった稲作(稲づくり)が、弥生時代には本格的になります。水田での米の収穫は、弥生人の生活を豊かにしましたが、同時に水と豊かな土地をめぐる戦いが始まることにもなりました。
水田と井戸のある暮らし
弥生時代、日本列島は海面が下がった結果、海岸線が後退(こうたい)し、方ぼうの海沿(ぞ)いにちょうどよいぬま地や干潟ができていました。水田をつくるのにはうってつけの場所です。人びとは、そこに水田をつくり、近くの高台にムラをつくって暮らしました。
水田での稲作が始まると、そのための水を手に入れるため、また、おいしい水を飲むために、井戸がつくられ始めました。東京都の馬場遺跡ではわき水をためておく共同水場のあとが発くつされています。水場の底には砂利や竹をしきつめて、水をきれいにしようとしていました。ここでは水場から水田まで水を引いた水路も見つかっています。また、奈良県にある唐古遺跡からは現在の井戸の原型となるほりぬき井戸(地下深くまでほった井戸)のあとも見つかっています。
台風や洪水などの自然災害は育てた稲をいためつけます。弥生時代の人びとのその被害を防ぐ技術はとぼしいものでした。神にいのりをささげるしかなく、春は豊作を願い、秋は収穫を祝うようになりました。
水をめぐる争い
縄文時代とちがい、弥生時代にはムラ対ムラの戦いが起こりました。弥生時代の遺跡からは、武器で傷を受けた人の骨などが見つかっています。争いの主なきっかけとなるのは、水田をつくるのによい土地と水源でした。水と農地をめぐる戦いは、やがて地域の勢力争いへと発展していきます。豊かな土地と水源を持てば、ますます豊かになり、強いムラと弱いムラの差は開いていき、身分のちがいが生まれてきました。
「炊飯の始まり」
収穫した米は、焼いたりむしたりして食べていましたが、さらに、弥生時代には今と同じように炊飯も始まったとされています。
弥生時代の土器で、底を丸くしたり、うすくしたりして、熱が伝わりやすい形にしたものが見つかりました。これは、土器を炊飯に使うための工夫だと考えられています。  
古墳時代・飛鳥時代
古墳時代は、3世紀-7世紀の、日本のあちこちで盛んに古墳(=墓)がつくられていた時代です。飛鳥時代は古墳時代の後半から始まり、飛鳥文化が花開いた時代を指します。聖徳太子が活躍したのもこの時期です。
弥生時代のムラ対ムラの戦いで勝ったムラは、どんどん大きくなっていき、ムラからクニになっていきました。そして古墳時代には、周囲のクニを従える大きな国、ヤマト王権が誕生します。
この時代、水を自分達の手に入れて便利に使えるようにすること(治水)は、ヤマト王権の役割にもなっていきました。あちこちでおこなわれた治水工事により、人びとの暮らしが安定し、ヤマト王権は力を持つようになっていきます。
治水工事
弥生時代の人びとは水害に対する技術を十分に持っていませんでした。しかし、広くなったクニの土地を守っていくためには、豪族などクニのリーダーが水を自分達の手に入れて便利に使えるようにする「治水」をおこない、稲の収穫を安定させ、クニの人びとを従える必要があります。そのため、川や湖で治水工事がおこなわれるようになりました。
記録に残っている我が国最初の工事は、323年におこなわれた、堤防「茨田堤(まんだのつつみ)」の築造です。今の大阪府淀川につくられ、工事を手がけたのは朝鮮半島の百済の国から来た、秦氏でした。
その後も、全国各地で治水工事がおこなわれ、堤防やため池がつくられました。そうして、洪水や水不足から人びとの暮らしが守られ、水田が増えていきました。
水軍の登場
戦いが多かった古墳時代は、水の上も戦いの場になりました。水軍を持っていた地方の豪族も少なくありませんでした。水軍とは、船に乗って水の上で戦う軍隊です。
ヤマト王権は水軍を、朝鮮半島の国に差(さ)し向けました。継体天皇(けいたいてんのう)の時代(507年-531年)には、物部氏(もののべし)が500隻もの水軍を率いて、百済に向かったことが伝えられています。
「酢がつくられはじめた」
酢づくりは、4世紀ごろ、中国から伝わりました。つくり方は、蒸した米、こうじ、水を大きなつぼに入れて、日当たりのよい庭に並べて自然醗酵させるもので、いまでも鹿児島県の「福山黒酢(ふくやまくろず)」は、この方法でつくられています。酢は、奈良時代には「苦水」とよばれます。  
奈良時代
710年、ヤマト王権は、奈良に都を移しました。これが平城京です。この時代、農民の生活は苦しいものでした。そうした中、行基という僧は、生活が苦しい人びとを救いたいという思いから、治水と人びとの救済をおこないます。行基は、朝廷からうとまれるほど人気になりました。奈良時代の人びと、特に貧しい農民にとって、水を治めることは大きな関心事だったのです。
治水する僧、行基
弥生時代から水田はどんどん増えていましたが、水はけの悪い土地や、逆に水が届かない土地も多くありました。しかも農民は飛鳥時代に始まった重い税に苦しんでいました。
奈良時代の僧の行基は、治水と仏教の伝道をしながら、広く世の人びとを救うことを目指していました。この時代、僧は朝廷の決まりに従わなければならなかったため、行基は厳しいとがめを受けます。
しかし、行基をしたって多くの農民が頻繁に集まりました。農民達は、行基の教えを聞き、行基と共に橋や堤防をつくりました。貧しい農民にとって、宗教と治水は、どちらも大きな救いとなったのです。
行基は関西地方で貯水池、水路、ほりの築造を手がけ、また温泉も数多く発見したといわれています。
朝廷からうとまれていた行基でしたが、こうした功績が認められ、東大寺の大仏づくりでは、朝廷にたのまれて力を貸すことになりました。
水がもたらす喜び
人びとの飲み水用の井戸は、わき水や清らかな川の流れがある場所につくられました。そこは集落の中心となり、きれいな水を求めて女達が集い、井戸ばた会議に花をさかせました。「万葉集」(現存する日本で一番古い和歌集)にもその様子が書かれています。
飲み水のあるところには人が集まり、そこへ物売りが来たり、あるいは物ぶつ交換がおこなわれる場になりました。大和の国では、井戸の周りで市が立ちます。水場は、重い税に苦しむ農民や、貧しい人びとに、喜びをもたらす空間だったのです。
「入浴の習慣が始まる」
日本に入浴の習慣を最初にもたらしたのは仏教でした。奈良の東大寺では、745年から大仏がつくられ始めました。これに関わっていた、多くの僧の身と心をきれいに洗い流す場所が必要になり、初めて寺に「湯屋」と呼ばれる風呂がつくられました。
入浴は体をきれいにし、血行をよくします。仏教の「入浴は七病を除き、七福を得る」という教えをもとにして、寺の参拝客を増やそうという考えもありました。寺は人びとを無料で風呂に入れたのです。
やがて、湯屋ではせまくなり、寺の境内に大湯屋とよばれた大浴場がつくられました。この大湯屋を使った人びとは、お礼の金を置くようになり、それが入浴料となっていったのです。  
平安時代
平安時代は、794年奈良から京都の平安京へ都が移ってから鎌倉幕府が樹立されるまでの約400年間を指します。
農民の暮らしはやはり貧しく、日照りや洪水などによってききんが起きると、税が納められず苦しんでいました。一方、都はきらびやかでした。地下水が豊富な京都では、貴族が屋しきの中に水を取り入れて、その美しさを競(きそ)い合っていました。
水の美しさを楽しむ寝殿造
平安京は、水が豊かな場所だったので、貴族の屋しきの中には暑い夏にすずむため、あるいは遊びのためだけにつくられた水場がありました。こうした水場をつくる伝統(でんとう)は、室町時代まで残っていました。
貴族の屋しきは寝殿造と呼ばれるもので、寝殿という大きな建物を中心にして、その両側に、渡り廊下や屋根つきの橋をはさんで、小さな建物がありました。寝殿の南の庭には池がつくられます。庭にしいた石の上を、泉からあふれた水が流れていたり、渡り廊下の下に小川を流してあったり、水が存分に取り入れられ、庭に一番大切なのは美しい水だとされていました。池に面して建っている「釣殿」と呼ばれる建物がつくられて、池をながめて楽しめるようになっていました。
空海の治水
空海(弘法大師)は仏教の教えに従い、人びとを苦しみから救済するために、数多くの土木工事、特に治水工事を手がけました。
四国の讃岐平野には、当時も今も日本最大のため池「満濃池(まんのういけ)」がありましたが、その堤防が3年もこわれたままで、人びとは大変困っていました。そこで、空海が821年、満濃池(まんのういけ)の工事を始め、数か月で堤防を完成させたといわれています。
また、空海は唐(中国)から井戸ほりの技術を持ち帰り、人びとに教え広めました。全国のあちこちに、「弘法大師がほった井戸」の伝説が残されています。
「おいしい水で豆腐作りが始まる」
豆腐作りは、平安時代の末に中国から伝わったといわれています。豆腐は約80-90%が水でできているので、おいしい水でつくることが、おいしい豆腐をつくる条件になります。京都は、おいしい水に大変めぐまれていましたので、京都の水でつくられる豆腐は、京都を代表する食べ物となりました。  
鎌倉時代
平安時代の半ば、力の強い豪族が武器を持ち、武士の起こりとなります。1192年には鎌倉に武士による幕府がつくられ、鎌倉時代に入りました。水の豊かな都とちがって、鎌倉は水資源のとぼしい山あいの土地でした。文化も、京のはなやかさから質素で合理的、女性的から男性的な文化に変わります。貴重な水も、合理的に管理されるようになっていきました。
水運の発展
鎌倉時代に入ると、漁師が自分の漁船で魚などを運び、売って回るようになりました。このように商品をのせて売りまわる船を「廻船」といいます。水の上で働いたり、商売をする者が増えたため、ルールづくりが始まり、その決まりは「廻船式目」と名付けられました(書き記されたのは室町時代とされています)。「廻船式目」は海上交通の法律として長く参考にされた、完成度の高いものでした。
こうして水上交通などは活発になり、鎌倉の海岸は船でにぎわいました。しかし、鎌倉の海岸は船が岩などに乗り上げてしまうことが多かったため、港はおきにある和賀江(わがえ)島につくられました。
井戸と橋の建設
水にめぐまれなかった鎌倉では、水がわき出る井戸は貴重な水源でした。水争いを防ぐため、井戸は寺社によって守られ、今でも使われているものがあります。また、川の支流が多い鎌倉では治水工事や橋の建設もしばしばおこなわれました。江戸時代には、徳川光圀が鎌倉の中でも特に水の味のよい10の井戸を「鎌倉十井」と選定しました。
「台所に流し(水場)をつくる」
鎌倉時代から食生活は大きく変わります。これまでの貴族達の贅沢な食生活は改められ、質素倹約をモットーに精進料理が完成していきました。食材が質素になった分、料理はどんどん手がこんでいきます。これまでは、「生」「干す」「焼く」「あくをぬく」程度だったものが、「につける」「あえる」「蒸す」など、いろいろな調理方法が生まれました。そのため、かまどのそばに水が必要になり、この時代から、流し(水場)が、家の台所の中につくられるようになりました。  
室町・安土桃山時代
1333年に鎌倉幕府がほろんでから、1603年に江戸幕府が成立するまで、日本は長らく不安定な政情下にありました。室町時代の武将達は金のかかる戦に備えて、農地をうるおし治水をおこなって、豊かな領地を築こうとしました。
これまで人びとは、水は集落の中心にある井戸などでくんでいましたが、室町時代になると、かなりの地域で水路がつくられ、住居の近くまで水を引くようになりました。安土桃山時代には、大阪城を築城する時に下水道も整備されました。
武将による治水と日本初の下水道
水害から領民を守り、収穫高を上げて豊かな領地にするために、武士は治水をおこないました。領民にとって治水をおこなう領主は、水害から家族や財産や田畑を守ってくれる人であり、尊敬の的になりました。
例えば、熊本城主、加藤清正は多くの治水工事をおこない、武将でありながら、土木の神様として祭られています。
また、甲斐(今の山梨県)の武将、武田信玄の治水工事には信玄のさまざまなアイデアがいかされ、領民達も進んで工事に協力しました。
1583年には豊臣秀吉が大阪城築城にともなう街づくりの一環として下水道をつくりました。この「太閤下水」は、今も大阪市中央区で利用されています。
名水を愛した茶人、千利休
鎌倉時代に始まった茶道は、室町時代になると武家を始め庶民にまで広がっていきます。安土桃山時代には、千利休が、茶室と茶道具をさらに発展させ、茶会と点前(てまえ)の形式を完成させました。
利休は、古くから名水の地として知られる京都郊外と、天王山のふもと、山崎にも、茶室を築いています。利休は、「山崎の名水」を愛し、この地で茶の世界をつくりあげました。
「武田信玄のトイレ」
武田信玄のトイレは六畳の畳敷きで、大変立派なものでした。せまいと外からおそわれるかもしれないという理由もあって広くしたようです。またこのトイレは、といを伝わせてふろの残り湯を流す、水洗式でした。この時代に水洗式のトイレは、とてもめずらしいものでした。  
江戸時代
戦の続く時代がようやく終わり、1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年に江戸幕府が開かれ、江戸時代になりました。江戸時代はかつてない平和な時代となり、戦に使われなくなったお金は、治水工事や上水道づくりなど国の整備と、生活を楽しむことに向けられます。そんな余裕から、「おいしい水が飲みたい」と、水を買って飲む人びとも現れました。
江戸時代前半の治水
江戸時代の米の総収穫高の増加は、目を見はるものがあります。1600年の米の総収穫量に対し、江戸末期の1850年の総収穫量は倍以上になりました。これを可能にしたのが、「治水」、そして干潟を干拓した新田開発と農業技術の改良です。
まず、江戸時代の前半に、利根川のような大きな河川の流れを変える工事や、をつくる工事などが次つぎとおこなわれました。
上水道の整備
江戸時代には、水路や上水道の整備がおこなわれました。江戸の町では、幕府を開くにあたり神田川の流れを調整し、これを発展させる形で神田上水ができました。
江戸幕府ができて50年後には、多摩川から江戸に水を引く玉川上水の工事が始まります。この玉川上水と神田上水で、江戸の町に水がめぐるようになりました。市中をめぐる配水管(はいすいかん)の総延長は150Kmにもおよび、当時、給水面積、給水人口共に世界最大の給水システムでした。「水道の水で産湯につかる」というのが江戸っ子のほこりだったのです。
水源にめぐまれなかった関東平野には、玉川上水の他、野止用水が引かれ、新田集落ができました。
江戸以外でも、赤穂水道、福山水道、桑名御用水、高松水道、水戸笠原水道など、多くの上水道が整備されました。
森林の保護
新潟県の三面川では、産卵のために川をのぼるサケやマスを、川の中につくった囲いに導いて自然産卵させ、増やしていました。産卵する魚や生まれた稚魚を守るため、三面川の河口近くの山に入ることや、木を切り出すことが禁止され、藩が積極的に木を植え、森林を保護していました。
サケの産卵場所は水がきれいで、川底が細かい砂利のところです。山を管理して、山の土が川に流れこまないようにすると、川がどろ水でにごるのを防げます。木ぎが川につくる日かげは、サケの稚魚のえさとなる虫が多く、産卵する魚や稚魚を直射日光から守る役割もあります。森林が魚を守る「魚つき林」という考え方が、江戸時代にすでに生まれていたものと考えられます。
「飲料水を売る商売が始まる」
江戸時代の半ば、おいしい淀川の水をわかした湯でお茶を飲みたいと、はるばる大坂から小船を出して、川の水をくみに行く人が少なくありませんでした。そのうち質のよい川の水を売る者が現れて、商売になっていきます。
江戸でも、上水道が届かなかった地域はもちろん、上水道があったところでも、上水からくみとった水を売り歩く水屋から水を買っていた庶民がたくさんいました。家を留守にしても水代の小銭を置いておけば、台所の水がめに上水を入れていってくれるサービスもあり、安かったのです。
水屋とは別に、砂糖などで味つけした冷水を「ひゃーっこいーひゃーっこいー」と売り歩く水売りもいました。  
近代
明治時代になり江戸幕府がおこなってきた鎖国が終わり、日本と世界がつながると、おう米からさまざまな技術を持った人びとがやって来ました。ポンプを使う近代水道や近代運河をつくる技術が伝わり、日本は大きく変化していきました。一方、コレラなどの伝染病の流行も始まりましたが、この伝染病がきっかけとなって、日本に近代水道が整備されました。
近代上下水道整備
江戸時代の終わりに開国した日本は、お染された水を飲むことにより感染する、コレラなどの伝染病になやまされることになりました。
明治政府は初め、患者を他の人から隔離し、消毒もおこなうことでコレラを減らそうとしましたが、流行はやまず、上水道を整備することを決めました。
日本で最初に近代上水道を引いたのは横浜です。水道を引いた成果は著しく、水道が増えていくと共に、コレラの発病が激減しました。
また、ポンプで圧力をかけられた近代水道の水流は消火能力が高く、防災の面からも、上水道は大変期待されるものでした。
1890年(明治23年)に「水道条例」が制定されました。消火栓の設置が義務付けられ、水道の経営は地方自治体に任されるようになりました。
近代下水道もコレラの流行がきっかけとなってつくられ始めましたが、上水道より後回しにされ、1922年(大正11年)にやっと、日本初の下水処理場が運転を始めることになりました。
近代運河の開発
外国人技師の力を借りて、運河の建設も進められました。運河が通れば船でものをたくさん運ぶことができます。
例えば、1890年(明治23年)には、利根運河が完成します。利根川の中流と、東京まで流れる江戸川をつなぐ運河で、これができたことにより、輸送力がぐんと高まりました。
明治30年代になると、運河を使った交通や貨物輸送は、鉄道に取って代わられることとなり、運河はだんだん使われなくなっていきました。  
現代
水は、どの時代でも人の生活に欠かせないものです。現代に入ると、工業を発展させようとするあまり、きれいな水の大切さを忘れ、水をお染してしまいました。しかし、汚れた水によってもたらされた被害は大きく、この反省から、日本では法律を制定し、きれいな水を守ることに取り組むようになりました。世界では国連を中心に、国境をこえて、地球の水や環境を守ろうと、将来に向けたさまざまな取り組みをおこなうようになりました。
環境基本法
日本の四大公害病のうち「水俣病」「新潟水俣病」「イタイイタイ病」は水がお染されたことで起こった悲劇でした。このため、1967年(昭和42年)に公害対策基本法が制定されました。その後公害だけでなく、国をこえた地球規模(きぼ)の環境問題が増えてきました。このような大規模かつ複雑になった環境問題に取り組むために、1993年(平成5年)に公害対策基本法をはいしし、環境基本法が制定されました。環境基本法は、環境に優しい社会をつくり、日本だけではなく、地球の環境を守ることにより、将来の人達に自然環境を引きつぐことを目的としています。そこには過去の経験や反省から、国や企業だけではなく、私たち国民一人一人がそれぞれ責任を持たなければならないということが書いてあります。また、この法律で6月5日を「環境の日」と定めています。
現代の水についてのいろいろな取り組み
現代では法律だけではなく、水や水を育む環境を守るさまざまな取り組みがされています。ここでは、いくつかご紹介しましょう。
京都議定書
いま、地球の温暖化が問題になっています。温暖化が進むと、水不足による干ばつや大雨、洪水などの現象が発生しやすくなります。また、海水が膨張したり、氷河が解け出すことにより海面が上昇するため、生活に大きな影響が出ると考えられています。
地球の温暖化を食い止めるためには、世界の国ぐにが協力しあわなければならない、という考えから、1992年(平成4年)、国連において「気候変動枠組条約」が決まり、1995年(平成7年)から毎年話し合いがおこなわれています。温暖化を進めてしまう二酸化炭素などのガス(温室効果ガス)を大量に出している国の多くは先進国であるため、この条約では、先進国が特に努力してガスを減らすべきであるとしています。
第3回の会議は1997年(平成9年)、京都で開かれ、先進国が出す温室効果ガスをどこまで減らすかという目標を定めた「京都議定書」をつくりました。日本では1990年(平成2年)に比べて2008年(平成20年)-2012年(平成24年)の間に温室効果ガスを6%削減することを約束しています。
国連「命のための水・国際の10年」2005−2015
国連では、2000年(平成12年)にニューヨークで開さいされた国連ミレニアム・サミットで、21世紀の国際社会の目標として、ミレニアム開発目標を定めました。この中では、安全な飲み水を利用できずにいる人びとの数を、2015年(平成27年)までに半分に減らすことを目標の1つに定めています。また、みんなが水の大切さを知り、どの国のだれもが、安全な水を使えるようになることを考え、進めるために、2005年(平成17年)-2015年(平成27年)までの10年間を「命のための水・国際の10年」としています。
国や自治体、企業がおこなっている森や林を守る活動
企業でも森や林を守るという意識が高まってきました。こうしたなかで国や自治体が制定した次のような制度を利用して森や林を守る活動に取り組む企業も増えてきました。
国 / 林野庁が1992年(平成4年)に制定した「法人の森林」制度で、すでにある森林を利用する「分収育林」制度と新たに森林をつくる「分収造林」制度があります。2005年(平成17年)までに全国420か所で157法人が1,944ヘクタールの国有林で森や林を守る活動を進めています。
自治体 / 鳥取県の「とっとり共生の森」制度など、全国の自治体で展開が始まっている制度があります。これは、自治体が企業と地元の森林所有者との間を仲立ちして森林保全活動をサポートしていく制度です。
雨水利用
日本では1980年代から、利用されていない雨水を水資源として生かす試みが進められてきました。雨水をトイレや掃除、園芸用の水として利用するだけでなく、非常用の水としてためておいたり、雨水をためることで洪水の被害を軽くしたりすることもできるのです。
特に、東京都墨田区では早くから雨水利用に取り組みました。1982年(昭和57年)には両国国技館での雨水利用を開始し、今では墨田区が新しく施設をつくるときには雨水利用システムを取り入れることになっています。  
   

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。